阿部牧郎
ビル街の裸族
1
午後六時にパーティははじまった。
東京・港区のPホテルの大ホールは、自由に歩きまわれないほど混雑していた。人いきれとざわめきで、後方では司会者の声がききとりにくいほどだ。遅刻した出席者が、まだつぎつぎにホールへ入ってくる。
相原|邦夫《くにお》の目分量《めぶんりよう》では、出席者は三千名をくだらなかった。来賓《らいひん》リボンを胸につけた財界人や政治家が、ところどころで人々にかこまれている。財界人は著名な食品メーカー、飲料メーカーの社長が多い。食品商社など中堅企業の経営者も目についた。
圧倒的に多いのは、フランチャイズ・チェーン「日本オールデイズ」傘下《さんか》のコンビニエンス・ストアのオーナーとその家族たちである。彼らの大多数は、こうした晴れがましい場所に不馴れだった。オーナーどうし、交際のある者もすくない。不安そうに場内を見まわしたり、家族と小声で話しあったりしている。一部の者は会場のすみにあつまって、顔をかくすようにして立っていた。反対に、何組かの家族はステージのそばにしゃしゃり出て、司会のテレビ俳優や、ゲストの女性歌手などを無遠慮《ぶえんりよ》に見物する。
司会のテレビ俳優は、クイズ番組などでよく顔を知られた人物だった。ステージに立っただけで、三千名の視線を自分にひきよせてしまう。人なつこい笑顔で彼は開会のスピーチをした。やわらかなバリトンが、やがて場内のざわめきを圧倒して人々の耳にとどくようになった。
「オールデイズのお店が東京で目につきだしたのは、昭和四十年代の末から五十年代のはじめにかけてでありました。あっというまにそれは東京、いや関東一円にひろがりました。一年三百六十五日、一日も休まず二十四時間営業をする食品雑貨の簡易デパート。オールデイズのコンビニエンス・ストアは、まさに時代の要求する店舗《てんぽ》だったのです――」
加盟店が三千にたっしたことを記念するパーティだった。
ステージのそばには「日本オールデイズ」本部の幹部社員が整列している。社長の佐藤裕一以下、五十代、四十代の男ばかりだ。会社が若いから、重役たちも若い。
司会者に紹介されて、まず大手スーパー南陽堂の社長南田陽介がステージに立った。
南陽堂は「日本オールデイズ」の親会社である。南田はアメリカに普及したコンビニエンス・ストアがやがて日本でも隆盛するものと見て、「日本オールデイズ」を創設した。社長には、自社の常務だった佐藤裕一を起用した。南田の見通しは的中した。「日本オールデイズ」は巨大チェーンに成長したのだ。
「大型小売業と中小零細小売業は共存共栄できる。これがわれわれの信念であり、創業の精神でありました。そして、十四年目にして三千あまりのお店に加入いただくことができたのであります。われわれの考えが、かくも多数の加盟店オーナーのかたがたの賛同をいただいて、この上なく光栄に存じます」
場内がどよめいた。彼らの息が一つになって生臭《なまぐさ》い風と化したように相原は感じた。
どよめいたのは、加盟店のオーナーや家族たちだった。彼らのおよそ半数が、南田の演説に反撥《はんぱつ》した。冷笑、反感、嫌悪《けんお》、自嘲《じちよう》が彼らの表情にあらわれていた。
相原は目をふせた。「日本オールデイズ」本部にたいして批判的なオーナーが数多くいることはわかっていた。いま見ると、その数は予想以上だった。会場へ顔を出すひまもなく仕事に追われているオーナーやその家族はいったいどんな思いなのか。考えるまでもないことだった。
南田の演説はまだつづいている。目をふせたまま相原は立ちつくした。スーツの襟《えり》の社員バッジにオーナーたちの冷たい視線が注がれているようだ。相原は舌打ちした。自分の勤務する会社にプライドをもてないサラリーマンほどみじめな人間はいない。
紫色と黒のまじりあった人影が、相原の視界のなかにあらわれた。シックなスーツを着た女だった。それは近づいてきて、相原のまえで停まった。
「しばらくですね。相原さん、すこしおやせになったのかしら。あのころよりシャープな感じになられたみたい」
内藤|典子《のりこ》が正面から相原をみつめていた。
ほほえんでいる。好意的な笑顔ではない。さげすんだような表情である。
「なつかしいな。先日着任のご挨拶にうかがったとき、あなたはお留守だった。近いうち、またお訪ねしようと思っていました」
スピーチをきく人々のじゃまにならないよう、相原は声をひそめた。
「着任のご挨拶だなんて、気らくなものね。父のことはもうおわすれなのね」
典子の顔から微笑が消えた。
つぶらな目に非難の色があらわれる。利口《りこう》そうな、ひきしまった顔立ちだった。相原の胸のうちを甘い電流が走った。あのころよりも典子はさらに美しくなっている。
「とんでもない。お父さんの告別式には出席しました。式場にいれてもらえなかったけど、典子さんの姿は遠くから見ましたよ。お母さんや友弘《ともひろ》くんの近況をきいてるんです。お二人とも、お元気ですか」
「元気なわけがないわ。みんなくたくたよ。オールデイズに年貢《ねんぐ》を取立てられて、生命をちぢめているんだから。よく知っているくせに、白々《しらじら》しい質問をしないでください」
「弱ったな。そんなにお店の状態、よくないんですか。ぼくにお手伝いできることがあれば、いってください。なんでもやります」
「冗談じゃないわ。うちは五年後の契約更改でオールデイズと手を切ることだけを生甲斐《いきがい》にしているの。それだけが夢なの。手伝いなんか要《い》らないわ。うちに近づかないで」
いうだけいって典子は背を向けた。優雅な脚をおどらせて去っていった。
相変らず鼻っ柱のつよい女だ。しかも美しい。あのころよりも美しくなった――。苦笑《にがわら》いして相原は見送った。会社がこんなに憎まれていなかったら、ぜひデートにさそってみたい女である。
もう六年もまえになる。相原は日本オールデイズに入社して五年目。新米《しんまい》のFC《フィールド・カウンセラー》だった。
FCはオールデイズの加盟店の相談係である。一人六店から八店を担当する。週二、三度ずつ担当店を訪問し、経営上の相談に乗ったり、苦情や注文を本部にとりついだりする。役に立つ情報を流しもする。
相原は目黒、港両区の担当だった。内藤典子の父親の英一の店は目黒にあった。
内藤英一は妻といっしょに店を切り盛りしていた。パートやバイトの従業員を三、四名使っていた。たまに典子が店に手伝いに出ていた。典子は一流私立大学の英文科の学生だった。店で働いて、バイト料を小遣いにあてていたらしい。
新米FCの相原は、内藤ショップを訪問して、カウンターの内側に立っている典子を見ると、胸がおどったものだった。内藤ショップを訪問するのがたのしみだった。だが、典子に会うのはせいぜい月に一、二度だった。父親か母親がいつもそばにいた。食事にさそうひまもなかった。
二年間、目黒、港区を担当したあと、相原は転勤した。典子と会うチャンスはなくなった。いまから三年まえ、典子の父の英一が車の排気ガスを吸って自殺したのを知った。相原は葬儀に出かけた。焼香する気だったが、受付で入場を拒《こば》まれてしまった。
内藤ショップと日本オールデイズの関係はひどく悪化していた。くわしい事情はきいていない。だいたい見当はついている。経営難で内藤英一は自殺をとげた。父親がそこまで追いこまれたのは、オールデイズ本部の加盟店|搾取《さくしゆ》のせいだと典子たちは考えている。
南田陽介のスピーチが終った。どこか荒々しい拍手がわいた。南田は笑《え》みを顔にあふれさせ、胸を張ってステージをおりた。
大部分のオーナーとその家族はそっぽを向いている。拍手しているのは財界人などの来賓と、食品メーカーや商社などの出入《でいり》業者ばかりだった。相原邦夫ら日本オールデイズの社員はもちろん拍手している。役員のほか営業関係の部課長約二百名が、このパーティに顔を出していた。喝采《かつさい》がそうした内輪《うちわ》の人々によるものであることに、南田が気づいていないわけはない。彼は演技していた。
日本オールデイズ社長の佐藤裕一がつぎにステージへのぼった。みるからに精悍《せいかん》な、顔も体つきも角張った男である。年齢は四十七、八だった。年間総売上高六千億円の大企業をひきいる人物には見えない若手だ。
「日本の商店街は、スーパーなど大型店によってほぼ制圧されました。どこの地方でも、小売店はここ十年ばかりのあいだに、気息奄々《きそくえんえん》の状態に追いこまれてしまいました。そのなかで、わが日本オールデイズと手をたずさえてくださったお店だけが、今日、人もうらやむ繁栄をつづけております。きょう、全国で三千あまりのお店が、われわれのもとへ――」
佐藤の太いバリトンが、後段のほうでは耳に入らなかった。
オーナーや家族が喚声をあげていた。賛同ではなく、ブーイングだった。口をとがらせたり、歪《ゆが》めたりして人々は非難の声をあげている。相原邦夫は人混みのなかに内藤典子の姿をさがした。
中央のテーブルのそばに典子は立っていた。付近の男たちのなかから爪先立《つまさきだ》つようにして佐藤裕一のほうをみつめている。こわばった表情だった。目がキラキラ光っている。はげしい憎悪が目にあらわれているのだ。
しばらく相原は典子に見惚れていた。怒りにかられると、かえって冷静に、青白く冴《さ》えわたる顔だった。だが、典子は笑うと別人のように愛らしく、人なつこい感じになる。典子の笑顔と向かいあうと、それだけで相原は胸が甘くふるえたものだった。彼女の顔が、胸に溶けこんでくるようだった。
「どう思う相原。おれ、ショックをうけたぜ。おれたちがこんなに憎まれていたとは思わなかった。少々のことは覚悟していたが、まさかこれほどとはな」
同期生の坂本が話しかけてきた。
佐藤社長と似たような角張った顔の男である。
「おれもそうだ。おれの担当地区でわが社は日本一評判がわるいのだろうと思っていたよ。ところが、よそでもそうらしいな」
「来年から契約更改がはじまるってのに、難しいことになるぜ。もう日本オールデイズとは契約しないっていう店が続出する。つなぎとめるのにキリキリ舞いさせられるぞ」
「たぶんな。どの程度つなぎとめられるか、トップにも成算は立たないんじゃないか。三千店突破などといってよろこんでいられるのは、いまのうちだけかもしれん」
相原邦夫も坂本も、現在、ディストリクト・マネージャーをしている。十人のFCを部下にもっていた。相原の担当は目黒、港の両区。ほんの一ヵ月まえに着任した。坂本は江東および墨田区だった。それぞれ百店近くの加盟店のめんどうを見ていることになる。
「この調子だと、すくなくとも加盟店からはおれたちに嫁のきてはないな。加盟店の娘を必死になって口説《くど》いても、絶対に親につぶされる。オールデイズの社員といっしょになるなら勘当《かんどう》だといって」
「親だけじゃない。加盟店の連合会あたりからも圧力がかかるかもしれん。この縁談には絶対反対だといって――」
加盟店の娘。そのことばをきいたとき、相原は心臓がひきつった。
坂本の顔をうかがった。内藤典子のことをいわれたと思った。だが、坂本に他意《たい》はなかったようだ。腕組みし、眉をひそめて人々を見ている。考えてみると、典子にたいする相原の感情を、坂本が知るはずはなかった。
社長の佐藤裕一のスピーチが終った。来賓の財界人の音頭で乾盃になる。
三千名の人々が、ビールを注《つ》いだグラスを手に財界人の祝辞をきいた。そのあと、三千のグラスから三千の口へビールが注がれる。
相原はビールを飲みほした。冷たい液がのどから胃に流れ落ちた。ほっと息をついた。会場の受付や挨拶まわりで、けっこういそがしかったのだ。
すみの扉から一人の中年男が会場へ入ってきた。日本オールデイズの総務課長だった。うろたえた表情である。人であふれかえるホールを見わたして、彼は絶望的に眉をひそめた。人波を突っ切るのも気がひけるのだろう。壁にそって彼はステージのほうへ歩きだした。カニのような横歩きである。
ステージにはつぎの来賓がのぼってスピーチしていた。人々はビールやウイスキーの水割りを手に、そちらをみつめている。飲み物がまわっただけ、会場はなごやかになっていた。クリーム色の服のコンパニオンがいそがしく動きはじめている。
総務課長はステージのそばの重役の一人に近づいた。総務担当の役員だった。
小腰《こごし》をかがめて課長は役員に耳打ちする。重大事件の発生した面持《おももち》である。役員は眉をひそめた。課長になにか質問している。
「どうかしたのかな。林のおじさん、顔色を変えてご注進にきたぜ」
坂本も彼らの様子に気づいていた。林というのは総務課長の姓である。
「たいしたことじゃないさ。あのおじさんにかかると、なんでも重大事件になるんだ」
相原は笑ってビールを飲んだ。
林は相原の大学の先輩である。物事をおおげさにいうくせがあった。重大な秘密を打ちあけるような面持で、箸《はし》のころがったようなことを話す。
「そういえばそうだな。おれがいつかズル休みしたのがバレたとき、鬼の首をとったみたいにうちの部長へ報告しやがった」
だが、事態はそうバカにしたものでもないらしかった。
担当役員はこわばった面持で佐藤社長へ近づいた。なにか耳打ちする。満足げにスピーチをきいていた社長の角張った顔が歪んだ。みるみる赤くなった。
二言三言、佐藤社長は担当役員に話しかけた。林課長が呼ばれて、あらためてなにか説明している。佐藤社長、担当役員、林課長の三人は近くの扉をあけて、あたふたと姿を消した。扉がしまった。
「やはりなにか事件のようだな。うちの保有株が値下りでもしたのかな」
「どうせ雲の上のことだろう。おれたちには関係ないさ。たまにはゆっくりパーティ料理をごちそうになろうじゃないの」
相原は坂本といいかわした。
曲りなりにもパーティは進行している。さっきから空腹を意識していた。
来賓の祝辞がいちおう終った。司会のテレビ俳優がステージに立った。
「各界名士のみなさまから、心暖まるおことばをいただきました。このへんでお食事の時間にしたいと思います。みなさま、お酒とお料理をご自由にお楽しみになりながら、ゆっくりご歓談ください」
かすかな歓声が湧いた。ホールを覆《おお》う人波が揺れはじめた。
オーナーとその家族が、料理のならんでいる長テーブルへ殺到した。料理をとって自分の皿へ盛りつけてゆく。ローストビーフ、カツ、ストロガノフ、コールミート。高価そうなものからみるみる料理がなくなってゆく。加盟店の主婦たちの活躍が目立った。
これはパパのぶん。これは坊やのぶん。これは私――。主婦たちは目まぐるしく料理をとって家族へ分配した。見栄《みえ》も張らず、なにかの腹いせのように料理を奪いあった。どのテーブルからも、たちまち料理が消えてなくなった。ズラリとならんだ大皿には、つけあわせの野菜や、ピクルスの切れ端や、茹《ゆ》で卵の破片だけになってしまった。
ゆっくりテーブルへ近づいた来賓や出入業者は、料理にありつくことができない。苦笑したり、とまどったりして、表面はさりげなく談笑をつづける。パーティでこんな目に遭《あ》ったのは、はじめてなのだろう。
「食い物がねえんだから、おそれいるよ。オールデイズ自慢の需要予測はどうなったのかね。金にならないものは品切れしても、いっこうかまわんというわけか」
「要するにケチなだけさ。パーティの恰好《かつこう》がつく程度に料理をならべたんだ。みんなに充分たべてもらおうなんて気持はさらさらないんだよ。この会社らしいや」
相原の近くで二人の男が悪口をいっている。業界紙の記者のようだ。
そばに相原がいるのに気づくと、彼らは工合わるそうに離れていった。どうせ小新聞の連中である。正面切って日本オールデイズの悪口は書けないにきまっている。だが、相原はいまの話で顔が赤くなった。
パーティの恰好がつく程度に料理をならべたという推測は当っている。充分にたべてもらおうという気がない――相原たちの会社にはたしかにそんな体質があった。過剰なほど合理的で自己中心なのだ。
しかし、記者たちの観察も不充分だった。料理の用意はたしかに不足だった。が、出席者たちの食欲が常識では考えられないほど旺盛だったことも事実である。加盟店のオーナーとその家族たちが、意地汚ないほど料理をあさった。まずしい食生活をしている階層でもないのに、ガツガツと食物を攻撃した。
わずかでもモトをとってやる。いまとらなくては、とるチャンスがない。人々の胸のうちにはそんな思惑《おもわく》があった。いつも収奪されているという意識が、なりふりかまわぬ食欲につながったのだ。自分たちの会社が加盟店からどれだけ憎しみを買っているか――。あらためて相原は思い知らされた。
「仕様がねえな。中華レストランで五目そばでも食ってこようか」
馴染《なじ》みの加盟店のオーナーと話していた坂本が、もどってきて声をかけた。
五目そばに相原も反対ではなかった。坂本といっしょに出口へ向かおうとした。待っていたように一人の若い社員が、人混みをぬけだして相原たちのまえに立った。
「いそいでロビーへ集合してください。大事件が発生したようです。ただし、極秘にねがいます。外部の人に気づかれないように」
声をひそめて若い社員は伝達した。
「大事件だって。なにが起ったんだ」
反射的に相原は訊《き》いた。
さっき林総務課長からなにか知らされて、佐藤社長と役員の一人があわてて外へ出ていった。やはりただごとではなかったのだ。
「わかりません。ロビーで説明があるはずです。そっと会場からぬけだしてください」
若い社員は二人を離れて、べつのディストリクト・マネージャーへ声をかけにゆく。
受付にいた四、五名の若い社員が、会場にいる先輩たちへ急を告げにまわっていた。
とるものもとりあえず、相原は坂本とともに会場を出た。ロビーへいってみる。すみのほうに同僚たちがもう三十名以上あつまっている。林総務課長と総務担当役員が、彼らに向かいあうように立っていた。
しばらく待たされた。会場から出てきた社員が百二、三十名になった。総務担当重役は一同をうながして自分のまわりに集合させる。人垣のなかで彼は口をひらいた。
「重大事件が発生しました。一時間まえ、うちの本社に男の声で電話が入りました。オールデイズの一部の加盟店の商品に毒物をいれた、といってきたのです。数年まえに頻発《ひんぱつ》した食品メーカー脅迫事件と似たような手口です――」
中間管理職の社員たちはどよめいた。相原は背中に冷たい風を感じた。
重役は説明をつづけた。どこのなんという加盟店の商品に毒をいれたか、商品の種類はなになのか、犯人は具体的なことをいわなかった。なんのためにそんなまねをしたのか、目的は金なのかも明らかにしなかった。毒をいれたとだけ告げて電話を切った。
電話に応待したのは総務課長である。彼はパーティを営業関係の社員にまかせ、本社オフィスで残業していた。パーティ開始時刻を見計らったようにその電話は入った。
「いたずらじゃないんですか。金を要求していないのなら」
「でなければ、同業者のいやがらせじゃないですかね。パーティにけちをつけるためには有効な手段ですからね」
二人のディストリクト・マネージャーが質問した。
一同の気持を代弁する発言だった。
「私もそれを疑いました。しかし、万一のことがあります。都内の加盟店千五百店に緊急のファックスをいれました。本社にあるファックスを総動員して、大車輪で問合せたわけです。陳列《ちんれつ》してある商品に異状はないか、至急チェックせよといって――」
日本オールデイズ本社には約三十台のファクシミリがある。残業中の社員を総動員して、総務課長は問合せを行った。もちろん電話連絡もつづけた。異状を発見した場合だけ返信してほしい。そう伝達しておいた。
三十分後に最初の反応があった。杉並区内の加盟店から、毒入り商品発見、といってきたのである。
「商品はファースト・フード。お握りです。パックごしに注射器で毒物を混入したらしい。不良品のシールが貼ってありました」
「シールが。すると、犯人は本気で人を殺す意志はないんですね」
「現在のところ、そのようです。不幸中のさいわいというべきでしょうか。しかし、予断はゆるしません。相手の狙いがわからないだけに、今後なにが出てくるか」
「警察には通報したんですか」
「その点で社長のご決断をあおぎました。この一件がおおやけになると、オールデイズの加盟店のお客が激減するおそれがある。加盟店もわれわれも大きな損害をうけます。しかし、通報をおこたって、万一《まんいち》人命にかかわるような事態になっては、オールデイズのイメージダウンは測り知れないものになります。すぐ警察へ連絡するように、社長からご指示をいただきました」
総務課長の林は、案外手ぎわよく事件に対応していた。
相原は林を見直していた。こういう男はふだん小心にみえても、異常事態に直面すると度胸がきまるのかもしれない。
杉並区内の加盟店で発見された毒入りお握りは、ただちに警察へもちこまれた。いま毒物検査が行われているという。
問題の店のオーナー夫婦はいまパーティに出席中である。店番のバイトの学生が連絡をうけて店内をチェックし、毒入り商品をみつけだした。オーナー夫婦にはいまからこっそり事情を告げて、店へ送りかえす手筈《てはず》になっているという。
あつまった部課長クラスの社員から、さらにいくつか質問がとんだ。担当役員と総務課長が代る代る応答した。いまへたにさわぎ立ててはパーティが台なしになる。たぶんそれが犯人の思うつぼだ。混乱を回避するために最善の努力をしよう。あつまった百二、三十名の管理職はそう申しあわせた。
毒入り商品発見の報せはその後とどいていなかった。杉並区内の一店だけで、事件は終るのかもしれない。ひとまず解散ということになった。相原たちは、会場の大ホールへもどろうとした。
ホテルのフロントデスクのほうから、一人の若い社員が走ってきた。興奮した表情である。相原たちは足をとめて、その社員を見守った。
「毒入りのお握りがまた見つかりました。こんどは渋谷区内です。初台《はつだい》×丁目――」
総務担当重役にその社員は報告した。全員にきこえるような声だった。
「初台だって。なんという店だ」
相原の二年先輩の男が訊いた。渋谷・新宿担当のディストリクト・マネージャーだ。
店の名を若い社員が告げた。担当のマネージャーは顔をしかめた。営業成績のよい店だという。その店のオーナーもパーティに出席している。担当マネージャーはオーナーを呼びに会場へとんでいった。
相原たちは会場へもどった。ステージでは来賓の一人が挨拶を終えたところだった。
話に耳をかたむけているのは、ステージの近くの人々だけだった。オーナーとその家族は、皿にとった料理を半分程度かたづけたところである。酔った赤い顔が殖《ふ》えている。ボーイやコンパニオンが人垣をかきわけて、あわただしく酒を運んでいる。
「さすが大物だな。あの二人、蚊に食われたほどの顔もしていないぜ」
坂本がステージの左のほうをあごでしゃくってみせた。
社長の佐藤裕一が、親会社の社長南田陽介とならんで立っている。十名ばかりの来賓にかこまれて、二人は談笑していた。
南田陽介は高い声で笑う。佐藤から当然事件のことをきいているはずだが、おくびにも出さない。ひっきりなしに水割りのタンブラーを口に運ぶのが、苛立《いらだ》っている証拠なのかもしれない。酔った様子もなかった。
佐藤裕一のほうはさらに沈着である。つぎの来賓のスピーチと、そばにいる人々の話に等分の注意をふりわけている。南田にあわせて笑ったと思うと、ステージにいる来賓へ拍手を送ったりする。あさぐろい顔から笑みが噴《ふ》きこぼれそうだ。
「常人の神経じゃないんだよ。いや、神経がないのかもしれないぜ」
そうこたえたとき、相原は背中をたたかれてふりかえった。
相原は顔がこわばった。さっきロビーへ報告にきた若い社員が立っていた。
「相原さん、すぐきてください」
若い社員はささやいて、壁ぎわへ相原をつれていった。
「どうした。また毒入りお握りが出たのか。まさかおれのテリトリーでは――」
「お気の毒だけど、当りなんです。目黒の本町×丁目の内藤ショップ。たったいま報告が入りました」
「内藤ショップ――。ほんとうか。それで、お握りを食ったお客がいたのか」
訊きながら相原は目で内藤典子の姿をさがした。
紫と黒のまじった優雅なスーツが、人波に揉《も》まれている。典子は水割りのタンブラーを手に、他店のオーナーたちと談笑していた。これを機会にまた典子と話ができる。相原は不謹慎なよろこびにかられた。
内藤ショップでも、毒入りお握りはショーケースのなかにおいてあった。不良品のシールが貼られていた。売上記録を分析したかぎりでは、毒入りお握りがほかにあって、それが売れたという痕跡《こんせき》はない。人命が失われたりする心配はまずないだろうということだ。
若い社員とわかれて、相原は内藤典子に近づいた。オーナーたちと談笑中の肩をそっと突いて人垣から脱《ぬ》けださせた。さきに立って相原は会場の横手の廊下へ出た。
「典子さん、きょうは一人ですね。ご家族はいっしょじゃないんでしょう」
典子の顔を相原はのぞきこんだ。
廊下はしずかである。用待ちのボーイがところどころ立っているだけだ。典子の体からやさしい化粧品の香りが立ちのぼった。
「一人よ私。それがどうかしたの」
「すぐお宅へかえりましょう。お送りします。厄介《やつかい》な事件が起ったんです」
「事件――。どういうこと。店に強盗でも入ったの。母や弟は――」
「いえ、それほどの緊急事態でもありません。車のなかでご説明します。さ、いそいでください。バッグはクロークですか」
典子の腕をとって、相原は会場の受付のほうへつれていった。
日本オールデイズの社員が数名、そのあたりで待機していた。みんなけわしい表情をしている。彼らを見て、典子は事態の深刻さに気がついたようだった。
クロークでバッグをうけとって、典子は受付のそばへもどってきた。相原は内藤ショップの電話番号をきいて、自分の名刺にメモした。受付の若い社員に名刺をわたした。今後担当区域の店で毒入り商品が発見されたら、連絡してもらうことにする。
引出物の袋をもって、相原は典子をうながした。二人はホテルの玄関を出た。客待ちのタクシーへ乗りこんだ。
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「毒入りお握り――。どういうこと。グリコ森永事件が再発したの」
説明をきいて典子は相原を見あげた。
車窓の外を街の灯《ひ》が賑《にぎ》やかに後方へ流れてゆく。華やかな街の灯が、相原には急によそよそしく映《うつ》った。午後七時すぎである。働き者の東京都民も、大部分がもうくつろいでいるはずだ。自分たちだけが、貧乏くじをひかされたような気がする。
「わかりません。いまのところ犯人はなにも要求していないんです。加盟店のショーケースに毒入り商品をおいた、とうちの本部へ電話してきた。どこの加盟店かはいっさいいわなかったそうです」
「どうしてうちが狙われたのかしら。毒入りお握りがみつかったのは、うちだけなの」
運転手の耳をはばかって、典子は声をひそめている。
内輪の人間あつかいで相原と話していた。典子との距離が急に小さくなったようで、相原は胸が甘くしびれた。
「内藤ショップは三軒目です。杉並と渋谷で一店ずつ被害をうけました。内藤ショップがとくに狙われたのではないようです」
「では、狙われたのはファースト・フードのメーカーかしら。とくにお握りの工場。毒をいれられたのはお握りだけだとすると」
「犯人はうちの本部に電話をよこしたんです。お握りメーカーを脅《おど》してはいない。その点がグリコ森永事件とちがいます」
「そうか。日本オールデイズの本部が狙われたのね。メーカーでなくて、販売店チェーンの本部が狙われたんだ。ありそうなことだわ。オールデイズの血も涙もないやりかたを恨んでいる人はたくさんいるんだから」
張りのある声で典子は断定した。犯人を声援したいような面持である。
相原は苦笑《にがわら》いした。二人のあいだには高くて厚い壁がある。相原が日本オールデイズの社員であるかぎり、この壁を破壊する方法はないのかもしれない。
タクシーは目黒区に入った。JRの駅のそばを通って、商店街の近くで停まる。バス通りに面して、内藤ショップがあった。
赤、緑、青、白などの色を組みあわせた四角い標識が、建物の中央に掲げられている。オールデイズの標識である。同じ配色の、幅五十センチばかりの帯が、建物の軒《のき》にそって水平に流れていた。闇のなかに短い虹《にじ》がうかんでいるようにみえる。
中央の標識と軒にそった短い虹には、二十四時間、あかりがともっていた。夜になると、そのあざやかな彩色は、周辺のさまざまな電飾《でんしよく》のなかで際立《きわだ》って目についた。深夜にはまわりの電飾が消えて、オールデイズの虹の標識だけが暗い街角にかがやいた。
学生、独身の男女の会社員、水商売の男女、深夜労働者。それらの人々が虹のあかりにさそわれて買物にやってくる。誘蛾灯《ゆうがとう》にむらがる蛾や黄金虫《こがねむし》のようなものだ。ファースト・フード、インスタント食品、菓子スナック類、飲物、缶詰、加工食品、乳製品。雑誌など買ってゆく者もいる。
コンビニエンス・ストアは住宅街の近くで二十四時間営業している。スーパーよりはずっと小型だが、立地条件と営業時間の特徴を生かして、独自の客層をもっている。多様な品ぞろえ、セルフサービス、もコンビニエンス・ストアの特徴である。商品の供給が迅速《じんそく》で、品切れがない。週刊誌などニュース性の強い商品は、一般の書店よりも早く売り場に顔を出す。その代り、各商品の価格はかならずしも安くない。ここ十数年、東京、大阪をはじめとする大都市では、いたるところでこの種の店が目につくようになった。
「日本オールデイズ」が先鞭《せんべん》をつけて、傘下《さんか》のコンビニエンス・ストアをつぎつぎに殖やしていった。いまでは、大小さまざまなコンビニエンス・チェーンが出現して、それぞれ勢力を競《きそ》いあっている。
虹のイルミネーションはかがやいているが、内藤ショップは表戸《おもてど》をしめていた。
年中無休、二十四時間営業がオールデイズ加盟店の売り物である。用意がないので、「準備中」などの標示板は扉にさがっていなかった。三人づれの若者が、休業だと知って、怒ったような顔で去っていった。
横手の路地にパトカーが停まっている。警官が二人立っていた。裏口から典子は店へ入る。相原もあとにつづいた。
典子の母が青い顔でスナック売り場に立っていた。台帳を手に商品をチェックしている。刑事らしい男がつきそっていた。パートの主婦とバイトの学生が、おびえた表情で典子を迎えた。刑事らしいもう一人の男が奥から出てきて、典子を出迎えた。
人がいないわけではないのに、内藤ショップは無気味にしずまりかえっている。店舗というものは、客ではない人間が何人いても活気づかないもののようだ。
「かえってくれたの、典子。大変だったのよ。まさか、うちの店に毒入りお握りだなんて。お客さまが召《め》しあがっていたら、どうしようと思うと、私、胃が痛くって」
典子の母が胃のあたりを手でおさえて、顔をしかめた。
「大丈夫。お握り弁当は今夜八つ売れたけど、不良品のシールは貼ってありませんでした。貼ってあるやつだけが残ったんです」
バイト学生が報告した。
午後三時から彼はレジに立った。五時にお握り弁当、シャケ弁当、カツ弁当などのきょう二度目の配達があった。お握り弁当は八コ入荷した。
ファースト・フードは夕刻になると羽が生《は》えて売れてゆく。六時すぎ、オールデイズ本部からの連絡で商品チェックをしたとき、お握り弁当は一コしか売り場に残っていなかった。その一コに「不良品」のシールが貼ってあった。入荷した八コはぜんぶ売れた。記録をしらべても、そうなっている。毒入りのお握り弁当は外部からもちこまれたのだ。
「どんなやつが毒入り弁当をおいていったのかしら。あなたがた、心当りはないの」
母と従業員たちに典子は声をかけた。刑事たちを無視している。
「全然。レジでいそがしくて、人の顔なんか見ているひまはありませんでした」
「私もそう。きょうはよく混んだんです。給料日が近づいて、レストランで食べるのをやめた人が多いんじゃないかしら」
学生とパートの主婦がこたえた。
店が混んでくると、二人はレジに釘づけになる。一人が客の買ってゆく商品の値札を読み、一人がその数字を端末機《たんまつき》へ打ちこんでゆく。レジに行列ができると、売り場の様子に注意をはらうひまはなかった。
典子の母は、五時に近くのマーケットへ夕食の材料を買いに出かけた。あとは台所で働いた。店の様子はまったくわからない。毒入りお握り弁当が発見されてから、事件が発生したのを知った。
典子の弟の友弘は、きょうは休日である。房総のほうへ魚釣りに出かけた。まだ帰宅していない。事件のことは知らないはずだ。
友弘は典子よりも三つ年下である。一昨年、私立大学の工学部を卒業した。就職せず家業を手伝っている。大黒柱の父をうしなってから、内藤ショップは母親と典子がたすけあって切り盛りしてきた。
典子は日本オールデイズのパーティに出席するため、午後五時に家を出た。弁当類がメーカーから配達されたのと、ちょうど入れ代りの恰好だった。
弁当類が陳列ケースにおさめられたとき、毒入り商品はおかれていなかった。それが発見されたのは午後七時すこしまえである。
オールデイズ本部からの通報で、内藤ショップでは六時半に商品チェックがはじまった。学生と、パートの主婦と、典子の母の三人でそれをやった。店はしめてあった。つまり犯人は、お握り弁当のとどいた午後五時から、六時半までに店へきて毒入り商品をおいて立ち去ったことになる。その間、内藤家の者は一人も店に出ていない。母が出てきたのは六時半からである。犯人を目撃するチャンスのあったのは、学生とパートの主婦の二人きりだった。
「犯人は最初杉並の加盟店へ毒入りのお握りをおきました。二番目が渋谷の加盟店、三番目がここです。そのあと犯人は電話でオールデイズ本部に犯行を通知しました。時間は五時半前後でした。だから、犯人がここへきたのは五時から五時半のあいだなんです」
相原は説明してやった。
おどろいた顔で典子はふりかえった。刑事たちが話をききに近づいてくる。
「杉並、渋谷、目黒と犯人は車で南下してきたのか。つぎの品川あたりがヤバいな」
「いや、目黒で終りだよ。犯人はここを出てまもなくオールデイズ本部に通報している。電話したあとで、新しく毒入りお握りをおきにゆくとは考えられない。加盟店にもう刑事が配置されているかもしれないのに」
「目黒で終ってもらいたいね。このうえ事件が拡大しては、たまったものじゃない。それこそグリモリ事件の二の舞だ」
刑事たちが話しあった。
目黒で終り、という意見には、相原も賛成だった。犯人の身になってみればわかる。通報したあとは、オールデイズの加盟店に近づくのもいやであるはずだ。
「毒入りお握りには、ほんとうに毒物が入っていたんですか。ただの脅しではなかったんですか」
内藤典子が刑事たちに訊いた。
刑事たちはかぶりをふった。内藤ショップで発見されたお握り弁当は、鑑識車が回収した。すぐに検査の結果が出た。青酸化合物がお握りには注入してあった。
「杉並、渋谷のオールデイズ・ストアにおいてあった毒入りお握りにも、やはり青酸化合物が仕込んであったようです。つまり、犯人は同一人物である可能性が高い」
「仕込んであったというのは、注射器をつかったということですか。パックの上から注射器で青酸カリをお握りに注射した」
「たぶんそんなことじゃないかと思います。だが、犯人は店頭でそれをやったわけじゃない。毒入りのお握り弁当をもってきて、そっとおいていった」
「典子さん、ファースト・フードの仕入れ先は浦部《うらべ》食品でしたね。毒入りのお握り弁当も、やはり浦部の製品だったんですか」
典子と刑事たちの話のあいだへ、相原は割りこんでいった。
東京の西半分の区域にあるオールデイズ加盟店は、ファースト・フードをすべて浦部食品から供給される。日に三度、同社の配送車が各種の弁当や、調理済みの材料などを配達してまわるのである。
浦部の弁当類は、よそのコンビニエンス・ストアでは売っていない。一般の弁当店でもあつかっていない。もし毒入りお握りが浦部製品だとすると、犯人は青酸カリを注入するにあたって、オールデイズのどこかの店でお握り弁当を買ったことになる。
「どうなのかしら。パックのラベルを見ればすぐわかるんですけど」
若い刑事の顔を典子はみつめた。
すぐに刑事はレジの電話機へ近づいた。本部に問いあわせる。打てばひびくように返事がきた。発見された毒入りお握り弁当は、三つとも浦部食品の製品だった。
「どこかの加盟店で、お握り弁当を三つ買ったやつがいる。そいつが犯人なんだ。いそいでしらべてもらわなくては」
代って相原邦夫が電話機へ走った。
銀座本社を呼びだした。総務課員が応答した。総務部がオールデイズ本社内の対策本部になっているらしい。
いまのアイデアを相原は伝えた。ついでに新しい情報をもとめた。内藤ショップ以後、毒入りお握りが見つかったという報告はとどいていない。三千店突破記念パーティは、あと三十分程度で、波乱もなく終了するだろうという話だった。
「営業を再開しても大丈夫だと思います。妙《みよう》な人物が出没しないか、よく注意して営業するよう内藤ショップへお伝えください」
「再開するかしないかは、こちらのお店の判断にまかせるよ。でも、いまはまだ商売をやる気にはなれないんじゃないの」
相原は受話器をおいた。対策本部のお節介《せつかい》をわずらわしく思った。
「やっぱり、毒入りお握りを犯人がおいたのは、ここが最後のようです。新しい被害店は出ていません」
典子と刑事たちに相原は報告した。
「失礼ですが、あなたは」
中年の刑事が訊いた。さっきから不審に思っていたらしい。
相原は名刺を刑事に手わたし、内藤ショップとの関係を説明した。
「オールデイズのかただったんですか。私はまた、お嬢さんのフィアンセかと思った。いっしょに入ってこられたから」
刑事にいわれて、相原は苦笑《にがわら》いした。もしそうだったら、いうことはないのだが。
「フィアンセだなんて、冗談じゃないわ。オールデイズの社員のかたは私、だめなんです。まちがっても好きになんかならないわ」
典子はそっぽを向いた。刑事たちは気を呑《の》まれて、顔を見あわせていた。
「典子、油を売ってないで、すこし手伝ってよ。腰が痛くなった。商品チェックはやはり若い人がやってくれなくては」
典子の母が売り場から声をかけた。つらそうに腰をのばしている。分厚い商品台帳が、そばの陳列ケースのうえにおいてあった。
「もういいわ、お母さん。毒が仕込まれたのはお握り弁当だけなんだって。あとの商品には異状がないはずよ」
「毒入り商品には不良品のラベルが貼ってあったんです。お客さんが万一毒入り商品を手にとったとしても、ラベルを見てすぐケースにもどすと思いますよ」
相原もそばから声をかけた。
典子の母は相原の声がきこえないふりをした。娘に向かって、話しかけた。
「でも、調べてみないとわからないよ。私は安心できない。あんたがやらないなら、私、朝までかかっても検査するからね」
母親はまた商品台帳を手にもった。
典子の母はまだ五十二、三のはずだ。働き者である。平均三千アイテムといわれるオールデイズ・ストアの陳列商品をすべてチェックする気でいる。
「いいんです。どうぞ休んでください。あとはぼくがやりますから」
相原は典子の母へ申し出た。
台帳をうけとり、調査をはじめた。内藤典子の家族との信頼関係を、なんとか回復しなければならない。典子にたいする感情は別として、仕事のうえで必要なことだ。
典子の母は礼もいわずにそこを離れた。奥の扉をあけて姿を消した。
典子が近づいてきた。相原の仕事ぶりをしばらくみつめた。だまってきびすを返した。レジのカウンターのなかへ入って、売上げの記録をしらべはじめる。
「典子さん、ぼくらどうしましょうか。店をあけないのなら、無駄だから帰ったほうがいいんじゃないですか」
バイトの学生が訊いた。彼なりに人件費のことを考えている。
「そうね。そうしてもらおうかしら。店をあける場合は、家族でやってみるわ」
すこし思案して典子はいった。学生とパートの主婦は、了承してかえっていった。
これ以上毒入り商品は出ないだろうとみて、刑事たちもひきあげていった。パトカーのサイレンの音が闇に吸いこまれた。
相原は内藤典子と二人きりになった。
店は約五十坪ある。加盟店のうちでは大型のほうだ。それでもほかに人がいなくなると、せまい空間に二人きりでとじこめられた気分だった。相原は息苦しくなった。カウンターの内部にいる典子とは十メートルも離れている。それでも彼女のちょっとした動作が手にとるように伝わってくる。
典子が端末機のキーをたたく。じっと画面に見入る。ため息をつく。うなずく。小さく舌打ちする。典子のほうを見ているわけでもないのに、彼女のすることが一々わかる。相原は胸が苦しくなった。朝までこうしていてもいい。相原は思った。
「頭にくるなあ、こんなことで手をとられて。へたをすると、今夜だけで二十万近く売上げ減になるわ」
典子がつぶやいた。大声で話しかけられたように相原は感じた。
オールデイズ傘下のコンビニエンス・ストアの売上高は日に四十万円から五十万円が標準である。五十万円あれば経営はらくだが、四十万円では苦しい。
内藤ショップは三年前、オーナーの内藤英一が経営難を苦に自殺してしまった。いまはある程度の利益を出しているが、儲《もう》かって仕方がないという状態ではない。売上高は日に四十四、五万円というところである。二十万円の売上げ減はたしかに大きな損失のはずだ。
「店をあけたらどうですか。毒入り商品は九十九パーセント大丈夫です。売上げダウンをすこしでも食いとめなくては」
相原は典子に話しかけた。声を出すと、息苦しさが消える。
「でも、お母さんがああいっているし。やはり完全にチェックしたいわ。ぜんぶ終るまであとどのくらいかかるかしら」
「三時間ぐらいでしょうね。深夜営業には間にあうだろうけど」
「これが済んだら私もやるわ。お母さんも呼んでくる。二時間で済ませなくては」
典子はきょう深夜勤だという。
午前零時に手伝いの学生がやってくる。その学生と交代で朝まで店番をするのだ。零時までに営業を再開できればよいと、典子は考えているらしい。
午後九時になった。典子も商品台帳を手にチェック作業をはじめた。相原にとっては、典子と二人きりのたのしい時間だった。が、九時半をすぎると、彼女の母が店へ出てきて作業に加わった。
「相原さん、どう思いますかこの事件。犯人はどんな人間なのかしら」
典子が話しかけてきた。彼女は加工食品のチェックをつづけている。
「まず考えられるのは商売|敵《がたき》ですね。うちの記念すべきパーティを、ライバルが妨害しようとした。フレンドマートとかパーソンとかコンビニ店のチェーンがここ数年、ずいぶん殖えましたから」
「ライバル・チェーンね。それから」
「弁当メーカーの浦部食品に恨みを抱いてる者のしわざかもしれません。浦部の製品に毒をいれて、売上げをダウンさせようとした」
「その発想でいくと、犯人は内藤ショップを恨んでいる人間かもしれないわね。うちと、杉並、渋谷の三つのお店を恨んでいる――」
「それはないでしょう。三店を同時に恨むなんて。狙いは一店で、あとの二店はカモフラージュだということもありうるけど」
「うちに罪がなくても、逆恨《さかうら》みされることってあるのよね。万引した主婦を警察にひきわたしたことがあるの。そしたら無言電話や、うちの名を使った出前の注文なんかでものすごくなやまされた。犯人はその主婦のご主人だったわ、微罪だから説諭《せつゆ》処分で済んだようだけど――」
「恨まれてるのはオールデイズの本部よ。きまってるわ。やりかたがあんまり阿漕《あこ》ぎだもの。うちのお父さんみたいに二進《につち》も三進《さつち》もいかなくなった人が、本部の反省をもとめるためにやったんじゃないの」
典子の母がふりかえって毒づいた。インスタント食品の売り場に彼女は立っている。
相原は苦笑した。典子もはっきり物をいうほうだが、母親はそれ以上だ。典子の気性《きしよう》はたぶんに母親ゆずりである。
「たしかに本部とうまくいっていないお店はあります。でも、本部が相手なら、直接いやがらせをすると思いますよ。爆弾を仕掛けるとか、社長を誘拐するとか。よそのお店を巻きこんだりはしないと思います」
「そうよ。同じチェーンの仲間なんだもの。めいわくはかけないようにするわ。近所のライバル店なら、話はべつだけど」
典子は相原の肩をもってくれた。
「そうかねえ。私はチェーン店が革命をおこしたとしか思えないよ。本部のいうとおり身を粉《こ》にして働いても、借金が殖えるだけなんだから。だれだって怒りますよ。なにかやってやろう――」
電話のベルが鳴った。典子が受話器をとりにいった。母親の話のさえぎられたのが、相原にはありがたかった。
「ええ、まだチェックをつづけています。万一のことがあると大変ですから」
典子が話している。相手はオールデイズ本部のようだった。
「そんなこといっても――。もし犠牲者が出たらどうするんですか。困るのはうちなんですよ。本部が責任をとってくれるんですか」
典子の声が高くなった。
いいかげんに検査をやめて店をあけろ。本部はそういっているらしい。
コンビニエンス・ストアは本部の管理下におかれている。一般の小売店とちがって自由に店をあけたりしめたりできない。共同経営の建前だから、そうなる。
傘下の店が早じまいして売上げ減になると、本部も収入減になる。各店の粗利益《あらりえき》の45パーセントを、ノウハウ料として本部が吸収する仕組みになっているからだ。二十四時間営業の看板に傷がつくことにもなる。ほかの店への影響も大きい。だから本部は容赦《ようしや》なく傘下の店の尻をたたくわけである。
「おたくのディストリクト・マネージャーがきているんですよ。ええ、相原さんです。彼もまだ店をひらけとはいっていません。こっちの事情をよくご存知だから」
典子は受話器を相原のほうへ突きだした。
相原は代って電話に出た。営業部長の声が受話器にひびいた。
「いまお嬢さんがいわれたとおりです。万全を期して商品チェックをやっています」
相原は無愛想に報告した。
「もう大丈夫だよ。それに、毒入り製品には不良品のシールが貼ってある。消費者が口にいれる心配はない」
「しかし、お店の立場ではそうもいっていられないと思います。仕方ないです」
「早く店をあけないと、犯人が味をしめる。何度も仕掛けてくるようになるかもしれん。それに、さわぎが大きくなるほどマスコミがよろこぶ。そっちへも取材がいくだろう。うちとしては、いやがらせに微動だにしない姿勢をとる必要があるんだ」
本部にはマスコミの取材が殺到しているらしい。
犯人の狙いはなにか。オールデイズ本部には狙われる理由がなにかあるのか。犯人はあれ以後なにもいってこないのか。世間の関心のたねはいくらでもあるのだ。
「できるだけ早く店をあけるようにします。私がずっと様子をみていますから、まかせておいてください」
適当にごまかして電話を切った。いまは内藤ショップの肩をもたざるを得ない。
「どうでも店をあけろっていうんだろう。本部のいいそうなことだよ。なんでも売上げ。金儲けのことしか頭にないんだから」
母親がまた毒づいた。日本オールデイズにたいする憎しみで凝《こ》り固まっている。
数分後に新聞社から電話が入った。典子が応答した。毒入りお握り発見までの状況を、根掘り葉掘り訊かれた。
終ると、つぎの新聞社から電話が入った。テレビ局からは連絡がなかった。最初、毒入りお握りの発見された杉並のストアへカメラが駈けつけたらしい。
内藤ショップにとっては、テレビの取材をまぬがれたのは幸運だった。ニュースで店の模様を放映されたら、とんだ逆宣伝になる。あの店は危険だ、と利用者に思われて、当分売上げダウンになる。
べつの新聞社から記者がやってきた。カメラマンがフラッシュを焚《た》いた。典子が電話に出ていたので、母親が記者の相手をした。きょうのいきさつを彼女は話し、日本オールデイズ本部の非《ひ》を鳴らしはじめた。
相原は居心地がわるかった。新聞記者にあれこれ訊かれても返事に困る。彼は店をぬけだした。オールデイズの虹の標識の下に立って、記者が立ち去るのを待った。
一台の白い車が、通りの中央部を離れて店のまえへ近づいてきた。歩道に横づけして停まった。店の横手の駐車場へ入る気配はない。運転席の男が店のなかをうかがっている。買物にきた客なのだろう。
運転席にいるのは、若い男のようだった。やがて彼は駐車場へ目をやった。新聞社の社旗を立てた車が停まっている。
あわてて彼は車を発進させた。相原のまえを通って、道路の中央部へ出ようとする。
「友弘くんじゃないか。どうしたんだ」
気がついて、相原はさけんだ。
街灯のあかりで、運転席の男の顔がみえた。内藤典子の弟の友弘である。怒ったような、こわばった表情だった。
友弘はちらとこちらを見た。闇のなかで目が光った。相原を識別したかどうか、よくわからない。表情に変りはなかった。
友弘の車は道路の中央へ出た。東のほうへ走りだした。
タクシーが通りかかった。とっさに相原は手をあげた。乗りこんで友弘の車を追わせる。二百メートル東の信号が赤になったので、すぐに追いつくことができた。
異常な気配《けはい》だったわりに友弘はいそがなかった。一キロばかりゆっくりと走った。喫茶店の駐車場へ車を停めてそこへ入った。タクシーをおりて相原はあとを追った。
友弘は出入口のそばの席に腰をおろしたところだった。タバコを出してくわえる。火をつけてから、近づいてゆく相原に目をとめた。警戒的な表情になった。どこかで見た顔だが思い出せない。そんな様子である。
さっき声をかけたのが相原だったとは気づいていないようだ。まさか尾行されたとは思っていないのだろう。
「しばらくですね。日本オールデイズの相原です。先日はどうも」
友弘のまえで、相原は一礼した。
目黒地区のディストリクト・マネージャーに就任して、内藤ショップへ挨拶にいった。一ヵ月ばかりまえのことである。そのとき友弘と顔をあわせた。
友弘は思いだした。無愛想な表情になる。そっぽを向いて煙を吐きだした。
同席してもいいですか。相原は訊いた。友弘はこたえない。愛想よい笑顔をつくって、相原は強引《ごういん》に腰をおろした。
女の子が注文をききにくる。二人とも熱いコーヒーをたのんだ。さりげなく相原は、友弘を観察した。房総方面へ朝から釣りに出かけたという話だった。そのわりに日焼けしていない。髪に汐風《しおかぜ》の気配もなかった。
「いやな事件が起ったんです。もうご存知でしょうけど――」
相原は切りだして友弘をみつめた。
さっきの彼の行動がどうにも腑《ふ》に落ちない。追及しないと気が済まなかった。
「さっきカーラジオでききました。毒入りお握りなんて、どういうつもりなんだろう」
「われわれにもまったく見当がつかないんです。記念パーティにけちをつけるのが目的だろうとは思うんですが」
「チェーンの販売店のしわざかもしれませんよ。おたくの会社、評判わるいからな。恨んでいる人間が大勢いると思うんだ」
友弘は母親と同じようなことをいった。
冷笑して、コーヒーカップを手にとった。
相原は愛想のよい表情を変えなかった。腹のなかは怒りで熱くなっていた。たしかに日本オールデイズには、批判されても仕方のない点が数多くある。それでも自分の会社を非難されては、おもしろくない。日本のサラリーマンなら、みんなそうだ。
「そんなにうちは評判がわるいかな。うちの傘下に入ったことをよろこんでくれているお店も、たくさんあるんですよ」
「すくなくとも、うちは後悔しています。ものすごく後悔している。二進《につち》も三進《さつち》もいかなくなって、父親が死んでしまったんだからな。おたくの口車に乗せられて、コンビニ店なんかはじめたのがわるかったんだ」
「口車に乗せたわけではありません。あの時分、私は開発部にいたから、事情はだいたい知っています。そのうち、ゆっくりご説明しましょう」
「要《い》らないね。事情を教わっても、おやじはかえってこないんだから。ともかくうちは、年季があけてオールデイズと手を切ることだけが生甲斐なんです」
とりつくしまもなかった。内藤ショップと友好関係を回復するための努力は、当分控えたほうがよさそうである。
姿勢を変えて相原は攻撃に出た。
「ところで、こんなところでなぜお茶なんか飲んでいるんですか。お店が大変なんだから、早く帰ってあげればいいのに」
「そのうち帰るよ。コーヒーが飲みたくなったから、寄っただけです」
友弘は目をふせた。不自然なほど深く味わってコーヒーを飲んだ。
「じつは私、さっきまでお店にいたんです。商品のチェックをお手伝いしていました。友弘さんはきょう、魚釣りだったそうですね」
「ああ。鴨川のほうまでいってました。くたびれた。朝早かったから」
「どうでしたか、釣れましたか」
「小型のサバが三本。お目あての鯛《たい》は一尾だけ。ガソリン代も出ませんでした」
「お一人ですか。どなたか連れがおられたんですか」
「一人ですよ。友達はみんな会社だし、釣りに女の子をつれていくわけにもいかないのでね。でも、それがどうかしたんですか」
「いいえ。訊いてみただけです。私も釣りが好きなもので、なにか参考にならないかと思って――」
相原もコーヒーをすすった。
カップをおいて友弘にほほえみかけた。友弘は目をそらせた。
「さっき、一度店へ帰ろうとしましたね。途中でやめて、あなたはここへきた。どうしてなんです。新聞記者に会いたくなかったんですか」
友弘の顔に動揺の色があらわれた。
すぐにそれは怒りに変った。彼は赤くなった。目をつりあげて相原を睨《にら》みつける。
「あんた、おれを尾行したのか。いったい何のまねなんだ。だれにたのまれて、そんなことをした――」
友弘は口ごもった。大声が出そうになるのを懸命にこらえている。
「たのまれたわけじゃない。偶然、内藤ショップのまえにいたんです。あんたがかえってきた。またすぐに出かけた。様子があまり変なので、どうしたのかと思って」
「うるせえ。よけいなお世話だ。おれが家へかえろうと、外へ出ようとおれの勝手だろう。犬みたいに嗅《か》ぎまわりやがって。どういうつもりなんだ」
しだいに友弘の声は高くなった。終りのほうは、店内の人々の好奇の視線にさらされるほどだった。
友弘は立ちあがった。声を荒げたばかりにひっこみがつかなくなった。
「まさかあんた、毒入りお握りの犯人がおれだと思っているんじゃないだろうな。冗談じゃないぞ。自分の店へそんなものをおくバカがどこにいるんだ。第一、おれが店へ入っていったら、みんなが気がつく。こっそり毒お握りをおけるわけがないだろう」
ツラも見たくねえよ、あんたなんか。捨《すて》台詞《ぜりふ》で友弘は喫茶店を出ていった。
仕方なく相原も席を立った。勘定をすませておもてへ出た。
友弘の車が動きだした。駐車場から通りへ出て、乱暴なスピードで走りだした。内藤ショップとは反対の方角である。
相原は内藤ショップのほうへ歩きだした。しばらくいって、後方からくるタクシーをつかまえた。
内藤ショップへもどった。新聞記者たちがひきあげるところだった。相原は店内へ入り、商品チェックを再開した。友弘のことは、典子に話さなかった。
3
相原邦夫は大学を出て、すぐに大手スーパー南陽堂へ入社した。もう十年もまえのことになった。
製造業に代って流通業が脚光をあびはじめたころだった。
流通業の将来性に期待をかけて、相原は南陽堂へ履歴書を送った。スーパーは流通の要《かなめ》である。おびただしい商品の競争の場でもある。相原は商戦の現場へ身をおいて、自分をきたえてゆくつもりだった。
入社して二ヵ月間、研修をうけた。終ると、意外な辞令を手わたされた。子会社の日本オールデイズへ出向を命ぜられたのだ。
日本オールデイズは創立四年目だった。
順調な成長過程にあったが、まだ規模は小さく、社名も知られていなかった。
日本オールデイズの名で新入社員を募集しても、いい人材はあつまらない。一流企業の南陽堂の名で人材をあつめ、日本オールデイズにふりわけよう。南陽堂の社長、南田陽介はそう考えた。五十名の大卒社員を採用し、三十名を日本オールデイズに出向させた。こんな場合、優秀な人間を本社に残すのが常識だが、南田は逆に成績のよい者三十名をオールデイズに出したのである。
「まるで詐欺《さぎ》じゃないか。日本オールデイズなんて、きいたこともない」
相原たちは憤慨したものだった。
坂本などは、辞表を出すといっていきまいていた。相原がなだめて思いとどまらせたものだ。
だが、オールデイズにきてみると、仕事はおもしろかった。業績もよかった。流通産業のなかでも、いちばん成長性に富んだ業態であることがわかってきた。
社長の佐藤裕一がタフで、きわめて有能だった。先頭に立って、機関車のように社員たちをひっぱって走った。つられて相原たちも動きだした。不平不満をわすれて、仕事にのめりこんでいった。
日本オールデイズの発足当時、南田陽介は南陽堂の直営システムでコンビニエンス・ストアを各地に設置してゆく計画だった。大型スーパー南陽堂を全国各ブロックの中心におく。周辺に中型スーパーを配置する。さらにコンビニエンス・ストアをおく。
大型スーパーは事実上のデパートである。高級品、大型製品も数多くおいてある。
中型のスーパーは、主婦の日常の買物の場所となる。食料品、日用品を大量仕入れで安く、数多く供給するのが特徴である。
コンビニエンス・ストアは住宅地の近くにあるのと、長時間営業が売り物である。日本オールデイズは最初、午前七時から午後十一時までの営業を看板にスタートした。調理の必要な生鮮食料品のたぐいはほとんど売り場におかない。ファースト・フード、インスタント食品、スナック類、加工食品、酒、飲料、雑貨などが売り場におかれる。品ぞろえは豊富だが、値段はさほど安くない。学生など独身者がおもな顧客層である。
狙いをつけた地区の人々のショッピング行動を、すべて南陽堂の系列企業で吸収してしまう――南田陽介の構想だった。南陽堂の大型店、中型店、コンビニ店の勢ぞろいした地区の人々は、必要に応じてそのどこかへ足を運べば、すべて用が足りることになる。
南田は、子会社日本オールデイズを設立した。腹心の佐藤裕一を社長に据えて、直営店システムでコンビニエンス・ストアを各地に配置していこうとした。
たちまち壁にぶつかった。出店コストが年々高くなる。適当な場所に土地を見つけて買収し、店舗を建ててゆくのは困難だった。
各都市の零細商店を保護するため、大型店規制法が制定された。チェーンストアの出店は、さまざまな点で規制された。一つ店を出すためには、おそろしく多様な手つづきと忍耐づよい交渉が必要となった。苦労してコンビニエンス・ストアを開店しても、十年、二十年をかけないと、投下資金が回収できない。
南田陽介と佐藤裕一は必死で策をめぐらせた。街の小売店と共同でコンビニエンス・ストアを経営する手法をあみだした。
小売店は土地、建物を提供する。それまでの商売をやめて、店舗をコンビニエンス・ストアにつくり変えるのである。日本オールデイズの統一イメージのもとに店舗はデザインされる。消費者は虹の断片のような標識を見て、二十四時間営業のコンビニ店が近くにできたことを知るのである。
店舗の改装、経営指導、商品の供給、広告宣伝などは日本オールデイズが行う。三千品目もの商品を数個ずつでも配達できるシステムをもっているのが、オールデイズの強味である。加盟店が午前中に注文した商品は、かならず午後配達される。日持ちのしないファースト・フードを安心して扱うことができる。
利益の配分は日本オールデイズが45パーセント、加盟店が55パーセントの割合で行われる。売上高から仕入高を差引いた粗利益《あらりえき》が、この割合で分けられるのだ。ただし加盟店は人件費、商品のロスなどによる損金、事務費、交際費などを、自店の取り分のなかから引落さなければならない。
日に五十万円の売上げがあれば、一ヵ月千五百万円である。商品の仕入高が九百万円とすれば、粗利益は六百万円になる。
その55パーセント、三百三十万円が加盟店の収入になる。人件費などを差引いても、月収二百万円は堅い。大型店に押されて先行きの見通しの立たぬ小売店にとって、夢のような再生計画であった。
日本オールデイズに出向後、相原は開発部へ配属された。各地の目ぼしい商店をオールデイズの傘下に組みいれるのが仕事だった。
朝、開発部員は課ごとに担当地区の地図をひろげて会議をひらく。チェーン加盟を呼びかける相手をピックアップする。
住宅地のそばにあること。なにかの商店であること。経営があまり順調ではないこと。土地建物を保有していること。なるべく若者の多い土地柄であること。それらの点にもとづいて選択が行われる。
候補店がきまる。開発部員は二人一組になって出かけてゆく。原則としてベテランと新人がペアになる。店舗の写真、仕入れ、配送のシステムの説明書、供給される商品リストなどを資料として持参する。アメリカのコンビニエンス・ストアの事例が多い。
二人の部員は目をつけた商店を訪問する。
「コンビニエンス・ストアの共同経営者を募集しております。この地区ではおたくさまが最高の経営能力をおもちだと判断して、おすすめにまいりました」
ベテランの開発部員は、巧妙なお世辞で商店主の自尊心をくすぐる。
若い開発部員は資料の入った鞄をもって、神妙な顔でうしろに控える。
訪問する相手は食料品店、酒店、菓子店など飲食物関係の店が多かった。コンビニエンス・ストアで販売される商品は大部分が飲食物だから、当然そうなる。米穀店、パン店、果物店なども勧誘の対象となる。
近くに大型店が進出して経営が苦しくなった書店、家具店、薬粧店なども、開発部員に狙われた。ひろい土地、大きな建物をもつ店が多い。かんたんにコンビニエンス・ストアへの改装が行われる。
「コンビニエンス・ストア――。なんだそれは。日本オールデイズなんて、おれ、きいたこともないぞ」
相原邦夫の新入社員時代は、ほとんどの商店主がこんな調子だった。
いそがしそうに彼らは店頭で働いていた。
いかがわしい商品のセールスマンであるかのように相原たちはあつかわれた。話をきいてもらうために、一時間も二時間も待たされることが、めずらしくなかった。
「コンビニエンス・ストアというのは、要するに小型スーパーなんだろう。無理だよ。うちにはとても、そんな事業をやる力はない」
「ですから、日本オールデイズが経営をお手伝いするわけです。あなたには土地、建物をお貸しいただいて、オーナーになっていただきます。もちろんお店の経営の全権はオーナーのものです。従業員を何人使おうと、給料をどれだけ出されようと自由です。しかし、午前七時から午後十一時までという営業時間はまもっていただきます。これが日本オールデイズの特徴でありますので」
「おたくの会社は、どんなふうに加盟店をたすけてくれるのかな」
「まず商品の供給です。三千品目の商品を、ビール一ケース、酒二本の単位から配達します。迅速《じんそく》ですよ。午前中に注文いただけば、午後六時までに入荷させます」
「そんな小口でも届けてくれるのか。すごいなあ。でも、口さきだけじゃないの。この車の渋滞の多い東京で、実行できるのかね」
「きちんと契約書を作成します。それから私どもは広告宣伝を実施します。オールデイズの標識の出たお店では、早朝から夜おそくまで気がるに買物ができる――そんなイメージをお客さまに定着させます」
「仕入れる商品の選択とか、税務対策とか、いろんな問題が出てくる。そんな場合、相談に乗ってもらえるんだろうか」
「専門のカウンセラーが週に何度か、加盟店を訪問します。経営上のあらゆる問題について、遠慮なくご相談ください。ノウハウの蓄積が私どもにはありますので」
「話をきくと、わるくなさそうだな。しかし、加盟するとなると、立上りに相当の費用を出さなくてはならないんだろう」
「お店の改装資金は銀行ローンでまかなっていただきます。私どもが保証いたしますので、ローンはまちがいなくおります。商品の仕入れ代金は、売上げからまかなってゆきます。発足までにオーナーに投資していただくのは、わずか二百五十万円。加盟の権利金のようなものです」
商店主の気持はしだいに加盟へかたむいてくる。
家族会議をくりかえす。資料などの請求が頻繁《ひんぱん》になる。ころあいを見て開発部員はすでに営業中のオールデイズ加盟店へ商店主を案内する。相原邦夫の新入社員時代、東京都下の加盟店数はおよそ五十だった。
「飛躍的に売上げが伸びました。営業時間が長いので、いそがしいですが、張合いがあります。無我夢中でやっていますよ」
加盟店のオーナーは昂奮している。商店主の刺戟《しげき》になる話をする。
開店六ヵ月以内の加盟店へ、オーナー候補者をつれてゆくのがコツだった。オーナーはまだ経営上のさまざまな問題にぶつかっていない。張り切って新しい事業に邁進《まいしん》している。じっさい売上げは伸びているし、店内も客で賑《にぎ》わっている。
オーナー候補者は納得《なつとく》して自宅へもどる。加盟の意志を開発部員に伝える。ニュースはすぐに本部へ報告される。
オーナー候補者は数日後、日本オールデイズ本社へ招待される。銀座の一流ビルに、オールデイズはオフィスをかまえている。これだけの事務所をかまえているのだから、ちゃんとした会社なのだろう。オーナー候補者は安心する。開発担当の役員があらわれて、丁重《ていちよう》にオーナー候補者へ挨拶する。食事や酒の接待になることも多い。
やがて、加盟店契約がかわされ、二百五十万円が本部へ支払われる。店舗の改装工事がはじまる。晴れてオーナーとなった商店主は、日本オールデイズへ研修に出向く。ここで二ヵ月ばかりコンビニエンス・ストアの実務を習い、工事終了とともに自宅へもどる。品揃えが済み、近所にチラシが撒《ま》かれる。めでたく開店ということになる。
目黒の内藤酒店を相原邦夫が訪問したのは、入社して半年たったころだった。
まだ相原は先輩社員の助手だった。鞄をもって、先輩のうしろに立っていた。
内藤酒店は、店主の英一のほか、店員が三名いた。軽トラック二台を使って配達とご用ききをしていた。かなり広い範囲の住宅街が内藤酒店の商圏だった。
店頭での商《あきな》いはあまり多くなかったようだ。英一の妻が店番をしていた。彼女が買物に出たり、炊事《すいじ》をはじめると、英一と三人の店員が交代で店番をつとめた。
「コンビニエンス・ストア――。なんなのよそれ。そんなわけのわからない話、きいてるひまはないわ」
英一の妻――典子の母親は無愛想だった。
商人は世間にたいして頭が低いぶん、仕入先に高圧的になりがちである。典子の母親はその典型だった。
「主人は外まわりに出てるわ。もう一時間ぐらいで帰るだろうけど。でも、あんたたちの話をきくひまがあるかどうかわからないよ」
先輩社員と相原は、店主の帰りを待たせてもらうことにした。
小さな事務所が奥にあった。二人は椅子に腰をおろした。待たされることは、無意味ではない。店がどんな状態にあるか、よくわかるからである。
店のお客はすくなかった。若者が二人、冷えた缶ビールを六本買っていった。近所の主婦が酢《す》と味の素を買った。中年の男が贈答用のワインを買った。一時間のうち、店頭の客はそれだけだった。
注文の電話がときおり入った。浅ましいほど愛想よく、英一の妻は注文をうけた。配達がおそいという苦情もあった。泣きそうな声で英一の妻は詫《わ》びをいった。
「なにしてるんだろう、あの子。また公園で草野球を見てるんじゃないの」
彼女は独り言をいった。店員のかえりがおそく、いらいらしている。
原付き自転車で店員が一人かえってきた。中学を出て一、二年の少年だった。汗をかいて、上気した顔で店へ入ってくる。
「おかえりなさい。暑かったでしょ。さ、これをお飲みなさいな」
冷えたコーラを英一の妻は手わたした。
追従笑《ついしようわら》いをうかべている。少年はむっと怒ったような顔でコーラを飲んだ。
「一休みしたら××さんのお宅にビールを一ケースたのむよ。それから××さんには日本酒を一本。はい、伝票はこれ」
英一の妻は伝票をデスクにおいた。
少年はこたえない。椅子にかけたまま漫画雑誌をとってひらいた。ふくれ面である。
英一の妻はなにかいおうとして、思いとどまった。ちょうど電話が鳴った。問屋からの電話のようだった。
また電話が鳴った。こんどは催促のようだった。英一の妻は少年に声をかける。
「コージくん。××さんのお宅、いそぐんだって。早くいってきて。本は仕事が終ったらゆっくり読めるんだから」
少年は生返事《なまへんじ》をした。目はまだ雑誌に向けたままである。
「さ、コージくん、たのむわ。これ以上おそくなると、お得意さまを失ってしまう。早くして。品物はそこに出してあるから」
「――――」
「さ、いそいで。早くして頂戴《ちようだい》。いまほかにだれもいないんだからさ」
ゆっくりと少年は立ちあがった。ふくれ面でビールのケースをかかえあげる。
原付き自転車の荷台に載せる。英一の妻が日本酒と伝票をとどけてやる。無表情のまま、少年は走り去った。
「大変ですなあ。最近はどこのお店でも、店員さまは神さまですから」
先輩の開発部員が声をかけた。
「そうなのよ。とくに中卒の子がすくないから。あんな気のきかない子でも、おだてて使わなくてはならないのよねえ」
「いまの子、家はどこなんです。東京の子ですか」
「岩手なの。知合いにたのんで、きてもらったのよ。でも、だめね。一日中ふくれ面でうろうろしてるわ。むかしは東北地方の子供はよく働いたものだけど」
軽トラックが店のまえに停まった。配達にいっていた内藤酒店の車だった。
従業員が二人おりてきた。二十歳前後の若者だった。英一の妻はまたお世辞をいって二人にコーラを飲ませる。
すぐに二人はビールや日本酒のケースをトラックに積みはじめた。ウイスキーや調味料も積みこんだ。伝票をもって運転席に乗りこみ、出発した。
「いまの二人は熱心ですね。あの年齢になると、責任感が湧いてくるんでしょうな」
「でもないのよ。気まぐれでね。きょうはなにかいいことがあったんだろうか。ヤル気を出しているみたい」
先輩と内藤英一の妻が話しあった。
電話が鳴った。受話器をとって、英一の妻は顔をくもらせた。詫びをいいはじめた。電話の相手に向かって頭をさげる。
いまの二人の軽トラックが、付近の住宅の門前においてあった自転車をはねとばしたらしい。新品の自転車がこわれてしまった。あの二人の乱暴運転はきょうにはじまったことではない。そんな抗議だったらしい。
「申しわけございません。お得意さまにそんなごめいわくをおかけして。主人がもどりましたら、すぐお詫びにうかがいます。ええ、あの二人にはよく申しきかせて――」
二人の店員が殊勝《しゆしよう》だったわけがわかった。
電話が終ると、英一の妻はため息をついた。相原たちはなぐさめのことばもなかった。
内藤英一が軽トラックを運転してかえってきた。灰色の頭髪の、上品な人物だった。酒店のおやじよりも、学校の教師かなにかにみえる。顔色は健康そうだった。
二人の店員の不始末をきいて、内藤はなさけなさそうに苦笑いした。夕刻までにあやまりにいくよ。舌打ちしてつぶやいた。
「ああ、オールデイズのかたですか。コンビニエンス・ストアに興味はあるが、私はやる気はありませんよ。こう見えても祖父の代からの酒屋で、近所にお得意さまが多い。酒屋をやめるわけにはいかんのです」
コンビニエンス・ストアを内藤は知っていた。食料品関係の業界雑誌をよく読んでいるらしい。
「もちろん酒屋をおやめになる必要はありません。コンビニエンス・ストアに酒類をおけばいいんです。祖先伝来の免許を十二分にご利用いただけますよ」
「店員もバイトで済みます。養成する必要はありません。現在の店員さんよりも、ずっと使いやすいと思いますよ」
先輩につづいて相原もいってみた。
内藤英一は記帳の手をとめて、二人をみつめた。
「そうか。酒屋はつづけられるのか。ご先祖にたいして、申しわけが立つな」
「店員がバイト学生で済むなら、たすかるわ。ご機嫌をとって、衣食住の世話までさせられるのはもういやになった。なんですか、そのコンビニ――とかいうのは」
内藤夫婦は関心のある表情になった。開発部員の腕の見せどころである。
あらためて事務所に二人は腰をすえた。内藤夫婦にたいして、先輩社員は熱弁をふるった。相原もときおり口をはさんだ。説得にすこしは貢献できるようになっている。
だが、相原はいつもほど交渉に熱中できなかった。店番に出てきた典子に気をとられていた。
典子は高校生だった。相原たちが内藤夫婦と話しはじめてまもなく、学校からかえってきた。母にいわれて店へ出てきたのだ。
典子は赤いセーターと黒のスカートを身につけていた。酒店の地味な売り場が、大きな花が咲いたように明るくなった。典子は目が大きく、長い髪をしている。客に応待する声がさわやかに店にひびいた。こんな美しい女の子と六本木へあそびにいったら、どんなにすばらしいだろう。ときおり相原は、典子に目を向けないではいられなかった。
「スーパーみたいなものだとすると、店も大きくなるわね。なんといっても、店員を使う苦労のなくなるのがありがたいわ。お父さん、この話、真剣に考えてみましょうよ」
典子の母親がさきに乗り気になった。
父親の英一は煮え切らなかった。オールデイズ・チェーンに加盟しても、酒類は販売できる。だが、コンビニエンス・ストアである以上、内藤酒店の看板はおろさねばならない。その点にこだわっていた。
「そこまでご先祖にこだわることはないのではありませんか。失礼ですが、小売店の将来はけっして明るくありません。近くに中型スーパーが進出してくる噂もあります」
「このままお店を存続なさるのも結構ですが、かたちは変っても大きく発展なさるほうがご先祖もおよろこびではないでしょうか。コンビニエンス・ストアになれば、こちらは商店街一の規模になります」
先輩社員と相原は熱心に説いた。
新米なりに相原は懸命だった。内藤酒店がオールデイズ・チェーンに加盟すれば、なにかとここを訪問することが多くなる。あの美しい女子高校生と親しくなれるかもしれない。そんな思惑《おもわく》があった。
こうして話しただけで、その日の目的は達成した。夕刻、相原たちはそこを辞去した。
あくる日からは日参だった。店が比較的ひまな午後二時ごろ、先輩社員と相原は内藤酒店をたずねた。さまざまな資料をとどけて、説得にあたった。試算をくりかえした。
「品ぞろえ、価格設定、集客など、複雑な仕事はぜんぶ私たちがやります。加盟店は商品の発注とレジさえしっかりやっていただけば良いんです。いまのお店の経営よりもずっとかんたんですよ」
「アルバイトやパートの募集なども、私たちがお世話いたしますよ。従業員の使いかたについても、ノウハウの蓄積があります。もちろん加盟店へお伝えしてゆきます」
自分のいっていることに相原は自信はなかった。どんなノウハウがあるのか。具体的に説明しろ。そう突っこまれたら、しどろもどろになるはずだった。この話題のときはこんなふうに説明しろ。新入社員の研修で教わったことを、そのまま話しているだけである。
仕事にたいする疑問はなかった。加盟店はかならず繁栄する。そう信じていた。衰退する小売店は、コンビニ店化によって復活する。自分たちの仕事には大きな社会的意義がある。われわれは小売業界の救世主なのだ。朝礼のとき、佐藤裕一社長のいった話が、耳の奥にしみついていた。
典子の父親、内藤英一は石橋をたたいてわたる性格だった。提出される資料を慎重に読み、さまざまな角度から質問してきた。
コンビニエンス・ストアはお客のセルフサービスシステムである。当然、万引などが発生する。その損害はどう処理するのか。加盟店がすべてかぶらねばならないのか。
経営が万一赤字になればどうするのか。資金援助などをしてもらえるのか。
生鮮食料品、ファースト・フードなどの売れ残りはどうするのか。ゴミ処理して、仕入代金は加盟店がもたねばならないのか。
オールデイズから供給される商品の仕入高に納得《なつとく》のいかない場合は、商品をよそから仕入れてもかまわないのか。それがゆるされずまったくオールデイズに縛られていかなければならないのか。
内藤英一は一々くわしい試算をつけて、それらの質問を出してきた。うかつに答えられない質問もある。オールデイズ側の弱味をついた質問もあった。先輩社員と相原は何度か即答できないまま質問を本社へもちかえって、上司の指示をあおいだ。
内藤酒店に攻撃をかけはじめて、二週間が経過した。本社の開発部長が苛立《いらだ》ってきた。
「いつまで手間どっているんだ。そろそろ奥の手を使ってみろ」
先輩課員に部長は命じた。奥の手とはなんのことか、相原には見当もつかなかった。
開発部内で打合せが行われた。その日、先輩部員と相原は内藤酒店を訪問しなかった。
代りにほかの部員が二人、内藤酒店のすぐ近所にあるパン店を訪問した。オールデイズへの加盟を勧誘したのだ。
パン店は内藤酒店にくらべて店の規模が小さかった。売上高も何分の一である。オールデイズが内藤酒店を標的にしていることに変りはない。パン店のほうは陽動作戦に利用されたのだ。
三日ばかり、相原たちは内藤酒店を訪問しなかった。パン店の主人が、チェーン加盟に興味をみせはじめた。そうなってから、相原は先輩社員とともに内藤酒店を訪問した。
もう十二月だった。贈答品用のウイスキーやワインのセットが店頭に積んであった。午後六時である。街灯や商店のイルミネーションがあかるくなりはじめていた。
内藤夫婦はめずらしく事務所に顔をそろえていた。様子がおかしい。二人とも、顔色がわるく苛立っていた。相原たちを見て、めいわくそうな顔になった。
コージという少年店員が外からかえってきた。女子用の通学鞄を机においた。
「××さん、荷物をとりにきたいといってますけど――」
頭をかいて、コージはいった。怒られることを予期しているようだった。
「荷物――。そんなものはあとで送ってやる。二度とうちへ顔を出すな。ぐずぐずしていると、警察を呼ぶぞ」
「そうだよ。給料の残りもちゃんと払ったんだからね。早く消えろっていっておいで。荷物は親もとへ送りかえしてやるって」
夫婦が代る代ることばを投げつけた。コージはふくれて店を出ていった。
「こんどというこんどはあきれてしまったよ。大事にしてやったつもりなのに。人情なんて通用しない世の中になったなあ」
内藤英一が大きなため息をついた。力なく事情を話してくれた。
五時すぎ、学校がえりの典子が近くの私鉄の駅を出た。小型トラックがそばに停まった。店の車だった。
「乗りなさいよ。いっしょに帰ろう」
最年長の店員が運転席から声をかけた。内藤家に寝泊りしている若者だった。
疑念もなく典子は助手席に乗った。車は走りだした。しばらくして、自宅とはちがう方角に折れた。
「済みません。お得意さんにわすれものをしてしまったので」
店員は息苦しそうに弁解した。
納得《なつとく》して典子は、トラックに揺られた。夕闇が濃くなっていた。
とんでもないお得意さんだった。モーテルに店員はトラックを乗りいれたのだ。一階がガレージ、二階が個室という造りである。ガレージは一台分ずつ仕切られ、シャッターがおりるようになっていた。
トラックのなかで店員は典子を抱きしめにきた。遮二無二《しやにむに》、キスをもとめた。
店員の口もとに典子は噛《か》みついた。血だらけになって扉をあけ、トラックからおりた。ガレージの外へ逃げだした。店員は追ってきたが、新聞配達のバイクが通りかかったので、ひきかえしていった。
夢中で走って表通りへでた。モーテルなどがあるだけ、そのあたりは人通りがすくない。新聞配達の少年に出会わなければ、どうなっていたか、わからない。
タクシーで典子はかえってきた。父母に事情を報告したあと、部屋で寝こんでしまった。
まもなくその店員から、コージという少年に電話が入った。典子の鞄をあずかっている。喫茶店にいるから、とりにきてくれ。そういってきたのだ。クビは覚悟している。給料を精算してほしい。店員はつけ加えた。
警察へ突きだしてしまおう。典子の母はいい張った。内藤英一がなだめて、コージに店員の給料をもたせてやった。警察に典子がしつこく調べられてはかわいそうだ。外聞もわるい。英一はそう判断した。
大切にしていた店員に裏切られて、内藤夫婦は衝撃をうけた。人を使うことに、しみじみ嫌気がさしていた。先輩社員と相原はそこへきあわせたのである。内藤英一にすれば、だれかに愚痴《ぐち》をきいてもらわずにはいられない心境だったのだろう。
「大変でしたね。まったく人使いのむずかしい時代になった。でも、お嬢さんがご無事でなによりでした。ほんとうによかった」
先輩社員は如才《じよさい》なく内藤夫婦をいたわった。
相原も典子の無事を祝った。他人事ではなかった。店員に典子が犯される――考えただけで、胸のなかがまっ黒になる。
「このさい、と申しては火事ドロめくのですが、私どものチェーンへ加盟する決心をしていただけないでしょうか。人使いのなやみは確実に解消します」
先輩社員が切りだした。
コンビニエンス・ストアの従業員は学生とパートの主婦で充分つとまる。募集しやすい。不都合ならすぐクビにできる。入れ代えがきく。衣食住の世話など、考える必要がない。
「そこよ、お父さん。オールデイズに入りましょうよ。私もう店員には懲《こ》り懲《ご》り。典子も年齢《とし》ごろだし、考えてみると、いままでこんな事件のなかったほうが奇蹟なのよ」
典子の母親がそばからあおった。苛立たしげに彼女は夫の横顔をみつめる。
「たしかに人使いはらくになるだろう。でも、コンビニ店をやっていけるかどうか、もう一つ自信がないんだ。家族の全面的な協力があれば、なんとかなるだろうが」
内藤英一はあくまで慎重だった。税理士にも相談しているらしい。
「お気持がまだ固まっていないとなると、内藤さん、申しあげにくいのですが、一つお伝えしたいことがあります。お気をわるくなさらないできいてください」
先輩社員が奥の手を出した。慎重なことばづかいで説明をはじめた。
目黒区のこの一帯は有望な商圏である。日本オールデイズはなんとしても、ここに拠点をつくりたい考えである。
内藤酒店がまっさきに候補にあがった。約三週間にわたって勧誘につとめた。だが、応じてもらえない。会社側はしびれをきらして、べつの店を勧誘するよう指示してきた。
すでに開発部のべつのチームの者が、この商店街のある店へオールデイズ・チェーンへ加盟するよう働きかけを開始している。そちらの店は乗り気である。早急《さつきゆう》に決断していただけないと、私たちはそちらのお店と手を組むことになるだろう。
「すぐ近所にオールデイズのコンビニ店が出現するわけです。そちらには酒販の免許はありません。しかしジュース、清涼飲料、調味料、缶詰、インスタントコーヒーなどが売り場にならびます。こちらのご商売にもかなり影響が出るだろうと思われますが」
先輩社員はよどみなく話した。
内藤英一の顔に怒りと苦痛の色がうかんだ。青ざめている。
「脅《おど》すんですか、あなたがたは。いうことをきかないと店をつぶすといいたいんだ」
「いえ、つぶすなんて。こちらには酒販の免許がおありです。しかも、配達サービスが特色です。コンビニエンス・ストアができても、痛くも痒《かゆ》くもないと認識しております」
先輩社員は冷ややかに話した。
内藤酒店はたしかに各家庭への配達サービスを売り物にしている。だが、そのために店員管理で苦労している。その痛いところを先輩社員はついていた。
「あなた、決心なさいよ。近所に大型店ができたら、なにかとやりにくいわ。うちが大型店になりましょうよ。店員をつなぎとめる苦労もなくなるんだし――」
典子の母がつめ寄った。典子の事件がからんで、彼女は強硬になった。
「よし、今夜最後の家族会議をやろう。さっきもいったとおり、コンビニエンス・ストアは家族の全面的協力によって成り立つんだ。みんなの決心をたしかめておきたい」
内藤英一はやっと決断に近づいた。
あしたご返事します。あしたまで待ってください。相原たちに内藤は告げた。成功を確信して相原たちは帰途についた。
あくる日の午前九時、日本オールデイズの本社へ内藤英一から電話が入った。
加盟を承諾する。すぐ手つづきをとりたい。夕刻に来店ねがいたい。彼はそういってきた。承諾して先輩社員は電話を切った。
相原は典子の顔が目にうかんだ。達成のよろこびは二重になった。
4
二ヵ月後、内藤ショップは開店した。
相原邦夫は開店一週間目の土曜日、様子を見にいった。
加盟店がオープンしてしまえば、開発部員はもうそこと縁が切れる。加盟店の世話はFC《フィールド・カウンセラー》がひきつぐことになっている。
それでも相原は出かけていった。曲りなりにも自分の手がけた加盟店の様子は、やはり気がかりである。もちろん典子にも会いたかった。土曜日だから、午後には彼女は学校からかえるはずだった。
内藤ショップを訪問するチャンスは、もうほとんどないだろう。典子をデートにさそうのは無理としても、なにか口をきいて印象だけは残しておきたい。彼女が大学へ入ったら、積極的に近づくつもりである。
午後三時ごろ、相原は内藤ショップへ着いた。オールデイズの標識を揚げた建物が、祝開店の花輪にかこまれていた。
日本オールデイズ、親会社の南陽堂、さまざまな食品メーカー、酒造会社、食品商社などからの花輪だった。駐車場に数台の乗用車と自転車がならんでいる。ビニールの買物袋をさげた若者がなかから出てきた。
店には十名以上の客が入っていた。午後としては上できだった。半数が主婦である。コンビニエンス・ストアに彼女らは縁がないはずだが、物珍しくて見物にきたらしい。
「大したものはおいてないわね。やっぱり若い人向きの店なんだ」
「そのわりに安くないわ。営業時間が長いぶん、がっちりしている。このお弁当が三百五十円だなんて、ゆるせないわ」
「でも、いまの学生生活は便利よねえ。お金があればなんでも手に入るんだから。冷蔵庫が必需品だというの、よくわかるわ」
小声で話しながら、主婦たちは商品を見てまわっている。彼女らの籠のなかには、サービス品の洗剤が入っているだけだった。
レジのカウンターでは、典子の母が端末機を操作していた。そばにFCが立って、指導している。開店直後の加盟店には、二週間ばかり、FCは毎日顔を出すきまりである。
レジ係は買物をすませた客の勘定にあたって、端末機の商品のバーコードをまず押す。そのあと、客の顔を見て、二つのキーを押さなければならない。
第一は男をしめすブルーのキーか、女を示すピンクのキーのどちらかである。買物客の性別のデータをとるわけだ。
第二は年齢別キーである。十二歳以下、十三歳〜十八歳、十九歳〜二十九歳、三十歳〜四十九歳、五十歳以上。その五グループに客を仕分けして、該当するキーを押さねばならない。するとはじめてレジが作動する。
二つのキーを押すことによって、購入者についてのデータが商品ごとにターミナルコントローラーへ蓄積されてゆく。POS(販売時点情報管理)システムというやつである。もしオーナーが一日の時間別、客層別、商品別などのデータを知りたければ、ターミナルコントローラーに直結したディスプレーのスイッチを押せばよい。そのデータを見て、適切な仕入れを行うのである。
この端末機はオンラインで日本オールデイズ本社の商品部につながっている。ファースト・フードなどの工場や、食品商社とも連絡されている。刻々と送りこまれるデータを見て、需要予測をしたり、製造・仕入れの計画を立てたりできる仕組みである。市場の小さな変化にも、すばやく対応できるのが、オールデイズ・チェーンの強味なのだ。
「厄介《やつかい》なものですねえ。このキーを押したあとでないと、計算ができないんだから」
典子の母は汗をふいている。近眼になりそうなほど熱心に端末機の画面を睨《にら》んでいた。
「いえ、奥さん、そのうちPOSシステムに感謝するようになりますよ。このおかげで無駄のない仕入れと販売ができるんだから」
FCが笑って説明した。相原よりも三つ年上の男である。
パートの主婦がうしろに立って、典子の母の指の動きをみつめている。
バイト学生がカウンターのなかで、客のもってきた商品の値札を読みあげたり、ビニール袋へ商品をいれてやったりしている。端末機の使いかたをとうにおぼえてしまったらしい。機械に目もくれなかった。
相原はFCと典子の母へ挨拶した。典子の姿のないのが残念だった。事務所へいってみる。内藤英一が伝票や書類を見ながら、電卓のキーを叩いていた。
「こんにちは。ご盛業のようですね」
相原は事務所へ入った。
一坪半の事務所である。スチールデスクが一つのほか、来客用の椅子が二つ、デコラ貼りのテーブルが一つおいてあった。
「相原くん、なんだねこれは。こんなもの、私はきいていなかったぞ」
内藤はいきなり声を荒くした。二枚の書類をさしだした。
どちらも日本オールデイズからの請求書だった。一枚には店内レイアウト料七十万円、看板料八十万円。計百五十万円となっている。すぐ支払うよう指示してあった。
もう一枚にはハンドラベラー、ホッチキスなどの文具類、開店案内のチラシ、従業員用制服、買物籠、買物袋、傘立てなどの部品類の金額が書いてあった。こちらも計百五十万円也。即時支払いが困難な場合は、貸付金として本部に記録されると説明がある。
「二百五十万円で加盟できる。開店資金は考えなくともよい。きみたちはそういったじゃないか。それなのに、なんだこれは。正味五百五十万かかるってことじゃないか」
内藤は口もとをふるわせた。温厚だが、短気な人物のようだった。
相原はひそかに舌打ちした。まずいところへきてしまった。請求書にたいする苦情は、FCが処理する習慣である。代りに矢表《やおもて》に立ったことになる。
「二百五十万円は加盟料なんです。お払いいただくと、加盟したことになります」
「詭弁《きべん》だよ。なんて汚い商売をきみたちはやるんだ。レイアウト料だの看板料だの、きょうまで話にも出なかったぞ」
「済みません。悪気があってのことじゃないんです。レイアウト料や看板料は加盟店側にご負担いただくのが業界の慣例です。契約書にもそのように書いてあります」
「契約書だって。あんな状態で、こまかな点まで目がとどくわけがないだろう。汚いよ、オールデイズはまったく汚い」
相原はだまりこんだ。
ああいわれたら、こう答えろ。研修で教わったとおりに話している。しかし、汚いといわれては返事のしようがない。
契約は日本オールデイズの本社で行われた。小さな文字で埋まった契約書が、内藤英一に手わたされた。内藤は応接室で、一時間もかかって目を通した。読みもせずに判を捺《お》す商店主の多いなかでは異例だった。
契約書を家へとどけてほしい。ゆっくり検討する。それまで内藤はいい張っていた。だが、オールデイズ本社は拒否した。
契約書はオールデイズ本社の蓄積したノウハウに関する事項がたくさん盛りこまれている。機密保持のため、たとえ社長でも契約書は外部もちだしが禁止されていた。加盟契約をかわそうとする商店主は、オールデイズ本社でそれを読むより仕方がないのである。
「失敗したよ。弁護士か会計士に同席してもらうべきだった。本部の応接室で目を通しても、ろくに頭へ入るわけがないんだ」
内藤はやがて、呻《うめ》くようにつぶやいた。
新米社員の相原へ怒りをぶっつけてみても仕方がない。そう考えたようだ。
「申しわけありません。けっしてごまかす気ではないんです。契約書にはあまりに機密事項が多いものですから」
「改装費で千五百万のローンを背負ったうえに、また三百万か。加盟料と合わせて二千万円以上の投資だぞ。もとがとれるかどうか」
「口はばったいいいかたですが、私どももショーケース、冷設備工事、冷凍冷蔵庫、レジスター、電子レンジなどを提供させていただいております。ほかに商品代金の立替えもあります。現金のご用意が五百万円あまりで開店できたことを評価してください」
「しかし、ローンにもオールデイズからの借入金にも、金利ってものがついてくる。開店をダシに、銀行とオールデイズはボロ儲《もう》けをするんだ。おまけに商品の売上代金はその日のうちに本部へ納入することになっている。オールデイズにはまったくリスクがない」
「いじめないでくださいよオーナー。お客さんがたくさん入って売上げがあがれば、すべて解決するんです。事実、お客さんは多いじゃありませんか。借入金なんて、あっというまに返済できると思いますよ」
一生懸命、相原は話した。
内藤英一はしだいに怒りがおさまってきた様子だった。なんといっても店にはたくさん客が入っている。開店以来、毎日五十万円以上の売上げを記録しているのだ。
この調子がつづけば、ローンの返済など三、四年で済んでしまう。神経質な内藤も、これ以上は不機嫌になれなかった。
足音がした。ふりかえると、典子が事務所の出入口に立っていた。セーラー服に鞄をもっている。いま帰ったところらしい。紺色の服に、白い顔があざやかに映《うつ》った。
「お父さん、三千円ちょうだい。コンサートの切符を買うの。それにレコードも」
まじめな面持《おももち》で典子は要求した。相原のほうは見ないようにしている。
「またか。仕様のないやつだな。コンサートだなんて、うろうろするなよ。またこのあいだのような目に遭うぞ」
内藤は説教しながら相好《そうごう》をくずしていた。
財布から金を出して手わたした。なんの感動もなく典子はうけとった。
「店がいそがしいんだ。たまには手伝いなさい。お母さんがくたびれている」
「いやあ。これから私、受験勉強で地獄の季節なのよ。手伝ってる時間なんかないわ。お父さんは私が変な大学へいってもいいの」
「よくないさ。ちゃんとしたところへ入ってもらいたいよ。でも、たまにはいいだろう。店の仕事も気晴しになるぞ」
「いや。第一私、オールデイズの制服なんか似合わないわ。いかにも従業員という感じでプライドがゆるさない。ああいうものに甘んじている女にはなりたくないの」
典子をモーテルへつれこもうとした店員の気持が、相原はわかるような気がした。
ひどく気位《きぐらい》の高い娘である。表情が美しく張りつめている。抱き寄せて、組みふせて、服をぬがせてしまいたい衝動にかられる。
そのまま典子は姿を消した。彼女と口をきくチャンスを相原はつかめなかった。
「困った娘だよ。大学で勉強して、将来は教授になるなんていっている。親としては平凡でらくな道を歩かせてやりたいんだが」
典子は高校二年生だった。有名私大の英文科へ入りたがっている。
しばらく内藤は娘の話をした。オールデイズ本部からの請求書のことは、二度と口に出さなかった。
相原邦夫と内藤ショップの一度目の縁はそれで切れた。
もう訪ねる用件もなかった。目黒のその商店街へ足を向ける機会がないまま、歳月が流れた。相原は仕事をおぼえて、一人前の開発部員になった。板橋・北方面の担当になって、ほうぼうの商店の説得にとびまわった。
会議などで、各地区のディストリクト・マネージャーやFCと同席することがある。目黒区の担当者に会うと、相原はさりげなく内藤ショップの消息を訊いた。
経営状態はまずまず。ローンや借入金の返済も順調だという。典子は有名私大の英文科へ入った。めったに店の手伝いはしない。外国へいったり、演劇関係のサークルへ入ったり、いそがしく暮しているようだった。
入社して四年間、相原邦夫は開発部に所属した。五年目に営業部へ移り、FC《フィールド・カウンセラー》になった。
目黒区の担当になった。希望地区の申請がすんなり通ったのである。内藤ショップをふくめて八軒の加盟店の世話をすることにきまった。
日本オールデイズの加盟店は年々、すさまじい勢いで殖《ふ》えつづけていた。都内だけで七百五十店、神奈川、埼玉、千葉など近県をふくめると千二百店になろうとしていた。どこへいっても虹の切れ端のようなオールデイズの標識が目につくようになった。
コンビニエンス・チェーンのライバルもつぎつぎに登場した。関西系のパーソン、同じ関東のフレンドマートなどが、着実に地盤を固めてきている。同じ商店街の百メートルと離れない場所にオールデイズ、フレンドマートがほぼ同時に開店するという事例も、めずらしくなかった。双方のチェーンから加盟をすすめられた雑貨店が、双方に義理がからんで身動きできなくなり、店をたたんで夜逃げする事件も発生した。
FCになった相原邦夫は、まっさきに内藤ショップへ挨拶に出向いた。
今後は週に二、三度訪問することになる。伝票を回収したり、経営資料をとどけたり、トラブルの相談に乗ったりしなければならない。典子と顔を合わすチャンスも、きっと多いはずだ。
典子はどうしているのだろう。大学三年生になったはずだ。恋人はいるのか。ひょっとするとまだ空き家かもしれない。ともかく、まだ婚約などせずにいてほしいものだ。期待と不安を交錯させながら、久しぶりで彼は目黒のその商店街でタクシーをおりた。
おどろいて周囲を見回した。風景がひどく変っている。高層マンションが三つも新しく建っていた。通りにならんでいた商店がほとんど姿を消し、カーディーラーのショールーム、ファミリーレストラン、ビデオショップ、フライドチキンのチェーン店などがならんでいる。
虹の標識をかかげた内藤ショップは、以前は商店街一の大型店だった。いまはむしろ小型のほうだ。だが、ライバルのコンビニエンス・ショップはまだ出店していない。内藤ショップのために、相原は安堵《あんど》の息をついた。
午前十時すぎだった。店内に客は一人か二人だった。レジの端末機のまえにオーナーの内藤英一が腰かけている。伝票を起していた。きょうの仕入れの発注用のものだった。
「しばらくです。おぼえておいでですか。以前、開発部にいた相原です――」
近づいて相原は挨拶した。FCの名刺を出して、内藤に手わたした。
「あんたか。あのころはまだ坊やだったのに、すっかり大人になったなあ。そりゃそうだよな。オールデイズで五年もメシを食えば、相当したたかな者になるだろう」
内藤英一は顔をあげて、まぶしそうに相原をみつめた。
顔色がわるい。頬が削《そ》げて、目じりや口もとにしわが刻《きざ》まれている。髪も白くなっていた。内藤はひどく年齢《とし》とっていた。
訪問するまえに、相原は内藤ショップの最近の売上状態を調べてきた。日商平均四十二、三万円。順調ときいていたわりに、売上高はすくない。かろうじてやっていける程度の金額だった。
「このへんも様子が変りましたね。マンションが殖えたので、びっくりしました」
「以前は学生向きのアパートなどが多かったんだが、すっかり様子が変っちまったよ。マンションの住民は、コンビニ店のお客にならない。くるのは子供ばかりさ」
「近所にいろんなお店があったのに、なくなりましたね。チェーンのレストランや車関係の店が殖えた」
「みんなつぶれたのさ。うちができたおかげでね。お菓子屋、豆腐屋、八百屋、漬物屋、パン屋、雑貨屋。みんなうちにお客をとられてしまった。一時はいやがらせや脅迫が多くて、まいったよ」
内藤英一は笑った。すさんだ翳《かげ》が貼りついたような笑顔である。
「仕方ないですね。時代の流れなんです」
相原はつぶやいた。ほうぼうで同じような話をきかされてきている。
内藤ショップは店のまえに立小便をされたり、汚物をぶちまけられたりした。無言電話や、いたずら出前でなやまされた。二年まえあたりから、さわぎはおちついてきた。だが、並行して売上げも落ちてきた。
「小売店はいずれ大型店に食われる。生き残りの道はコンビニ化しかない。あんたたちはそうすすめた。その考えにおれも賛成だった。だから、オールデイズへ入ったんだ。近所に恨まれても仕方がないと思った」
「――――」
「恨まれても憎まれても、こっちが繁栄すればどうってことはないさ。先見の明を誇っていられる。ところが、全然儲からないときた。まいったぜ。本部に吸いあげられるロイヤリティが高すぎるんだ。いくら売上げをあげても、粗利の45パーセントをだまってもっていかれるんだから」
「そのお話はほうぼうでききます。でも、やりかたしだいで改善されるはずです。およばずながら、ぼくがお手伝いします。一度ゆっくりお話をうかがわせてください」
誠意をこめて相原はいった。
入社五年。加盟店の経営のいろんな事例を見てきた。多少は知識がついた。実状をすっかりさらけだしてくれるなら、多少は役に立つアドバイスをする自信がある。
相原のことばをきいて、内藤英一は冷笑をうかべた。FCなんかになにがわかるか。そう顔に書いてある。前任のFCが、あまり仕事熱心でなかったのだろう。
「みなさんお元気ですか。奥さんは店にお出にならないんですか」
相原は質問した。いきなり典子の消息を訊く勇気はなかった。
「家内は寝ているよ。働き疲れで、年に何度も風邪をひくようになっちまった。営業時間が長すぎるんだ。この私もいつぶっ倒れるかわからない状態だよ」
「いまお一人なんですか。パートやバイトは入っていないんですか」
「一人ずつ使っている。午後三時からきてもらうことにしているんだ。朝七時から出てもらうと、人件費倒れになっちまう」
「それは大変だ。オーナーと奥さんの二人で切り盛りされては、体がもちませんよ。典子さんや友弘くんがお手伝いすることはないんですか」
典子の消息を訊くきっかけができた。
オールデイズに加盟するさい、経営には家族の協力が不可欠だと内藤英一は強調していた。パートの主婦や学生にたよると人件費がかさむことを見越していたのだ。
家族会議で内藤は子供たちの協力をとりつけたはずだった。あれはどうなったのか。
「子供なんかあてにはできないよ。コンビニ店に変るとき、二人とも協力するような話だったが、いざはじめてみるとさっぱりさ。典子はマスコミ志望だというし、友弘のやつはサッカーばかりやっている。店のことなんか他人事なんだ」
若者は若者の生活でいっぱいである。親の仕事にかかわりあっているひまはない。
相原自身、おぼえのあることだった。生家は神戸で海産物の小さな問屋をやっている。相原は次男である。家業をつぐ立場ではなかった。それをいいことに、親の仕事をろくに手伝ったためしがない。
高校時代から大学のころにかけて、実家が倒産しかけたことがあった。長兄は親に協力して、懸命に働いていた。相原のほうは知らん顔で、仲間とヨットに乗ったり、バイトしてハワイへあそびにいったりしたものだ。
典子と友弘はいま同じ気持でいるらしい。苦労は親の領域。快楽は若者の領分。すべての若者同様、青春を謳歌する権利だけを握りしめている。
「多少、効率は落ちても、もう一人か二人、パートか学生を殖やされてはいかがでしょう。健康第一です。オーナーや奥さまが万一倒れるようなことがあったら――」
「そんなおためごかしはけっこう。もし本気で心配してくれるなら、45パーセントのロイヤリティを、せめて1パーセントでも軽減してもらいたいね。もともとうちが免許をもっている酒の売上げについてもロイヤリティをとるんだから、ひどすぎるよ。人のふんどしで相撲をとるにもほどがある」
若者が二人、籠《かご》をもってレジへやってきた。二人で二千五百円見当の売上げである。
内藤は端末機を操作した。二人の買った弁当や野菜、スナック類を袋にいれる。
カウンターの下に紙屑やビニール袋が散らかっていた。掃除がゆきとどいていない。床に泥もついている。客のだれかが吐きだしたガムのカスもあった。
相原は上衣をぬいで棚においた。掃除機をもってきてゴミを吸いとった。バケツに水を汲み、モップで床を拭いた。オールデイズの店は清潔でなければならない。
「やあ、わるいな。天下のFCに掃除なんかさせて。でも変な指導をされるよりいいや」
内藤英一はいやみをいった。機嫌がよくなったのはたしかである。
人影が奥の扉をあけて入ってきた。典子だった。あわてて相原は掃除に力をいれる。典子は紺のスカートにピンクのブラウスである。センスのいい靴をはいていた。一分《いちぶ》の隙もない女子学生である。高校時代とちがって、肩まで髪を垂らしていた。
登校するところらしい。典子は鞄をもっていた。近所のガソリンスタンドのチケットを彼女は父親からもらった。相原のほうへ、不審そうな目を向ける。
「新任のFCの相原さんだ。知っているだろう。むかしは開発部員だった――」
内藤英一が紹介した。
よろしく。相原は会釈《えしやく》した。典子の表情がやわらいだ。
「お顔、おぼえています。うちがまだ酒屋だったころ、よくおいでになりましたね」
「典子さんはまだ高校生でした。お父さんにときどき小遣いをもらいにこられた。いまはすっかり大人になられましたね」
相原は上気した。モップをおいて、父娘のほうへ近づいた。
「小遣いをもらいにくるのは、いまも同じですよ。全然成長がない。親が苦労しているのに、手伝おうともしないんだ」
「先週手伝ったわよ。土曜の午後ずっとレジをやったわ。不毛の労働。あれじゃよほどバイト料をもらわないと合わない」
「娘や息子に店を手伝わせると、パートやバイトよりずっと高くつくんだからな。全然合理化にならないから、参りますよ」
うれしそうに内藤は愚痴をいった。
子供の要求に応じられる父親の満足感が顔ににじんでいる。
「これから何年かお世話になるんですね。相原さん、あまり父をいじめないでください」
「いじめるだなんて。ぼくはオーナーの手足になるつもりですよ」
「前任のFCのかたは恐《こわ》かったわ。父は怒られてばかりだった。父のほうがわるかったのかもしれないけど」
「ほんとうですか。どんなトラブルがあったんです」
「たいしたことじゃない。ちょっと意見が食いちがっただけさ」
内藤が話をさえぎった。ふれてほしくない事柄があるようだった。
「ではいってきます。相原さん、ほんとうによろしくおねがいします」
ほほえんで典子は一礼した。
跳《は》ねるような足どりで店を出ていった。さわやかな香りのする微風が、彼女のほうからこちらへ吹き寄せる。
クリーム色のアウディが、横合《よこあい》の駐車場から表通りへ出ていった。典子の車だった。
「まったくねえ。贅沢《ぜいたく》することだけおぼえやがって。親が甘いんだねえ。あの調子じゃ将来どうなるんだか」
他人事のように内藤はつぶやいた。表情はうれしそうだった。
目黒区内のアパートに相原邦夫は引越した。FCは担当の加盟店の様子に四六時中目を光らせていなければならない。同じ区に住むほうがなにかと便利である。
できれば内藤ショップのそばに住みたかった。だが、適当なアパートがなかった。三キロばかり離れた住宅街のアパートに彼は入居した。近くにはオールデイズの、別の加盟店がある。ときおりそこで買物をして、相原は一人暮しをつづけた。
日本オールデイズのFCは、当時、総数約二百名だった。毎週火曜日、親会社である南陽堂へ集合して会議をひらく。南陽堂の本社ビルは芝にあった。その地下ホールへ二百名が出勤してゆくのである。
オールデイズ社長の佐藤裕一が、気の弱い社員をふるえあがらせるような、激烈なはっぱをかける。各地区のディストリクト・マネージャーがそれぞれ一週間のできごとを報告する。情報が交換される。ケース・スタディがくりかえされる。
会議は午前中で終ることもあり、夕刻までつづくこともあった。相原がFCになって最初の会議は、夕方までつづいた。FCたちは疲れきって、六時にやっと解放された。
目黒区の先任のFCは千葉直久といった。相原の三年先輩である。千葉は開発部門の経験がない。入社以来ずっとFCをやってきた男である。
昼のうちに相原は千葉直久に声をかけておいた。会議のあと、いっしょに赤提灯《あかちようちん》へ入った。内藤ショップについて、くわしい話をきくためである。引継ぎで担当店のおおよその内状はきいていたが、内藤ショップとトラブルがあったという話はきいていない。
「あのおやじはくせ者だぜ。オールデイズの裏をかくことばかり考えやがる。目黒区内でいちばん早くキャッシュ・アンド・キャリーで仕入れをしたのは内藤のおやじなんだ」
ビールを飲みながら千葉は教えてくれた。
オールデイズの加盟店は本部の品ぞろえした商品だけを販売するきまりである。価格設定も本部が行う。加盟店が仕入値をたたいたり、利ザヤを厚くすることはできない。
これでは利益が限定される。内藤英一はキャッシュ・アンド・キャリー(現金問屋)で勝手に商品を仕入れ、売り場に出したのだ。
加盟店は売上金をその日のうちに本部へ全額送金するきまりになっている。翌月の十日、売上げから仕入高をひいた粗利益の55パーセントが本部から還元されてくる。
キャッシュ・アンド・キャリーで仕入れた商品の売上げは加盟店のレジスターを通らない。加盟店の売上げになっても、オールデイズの収入にはならない。こんなものが殖えては、日本オールデイズの存亡にかかわることになる。FCは経営指導と同時に、加盟店のオーナーのこうした不正行為を取締るのも業務のうちだった。
「あのおやじ、現金問屋へ走ったのか。やりそうなことだな。二言目にはロイヤリティが高いと文句をいいますよ。従業員をやとう余裕がないといってボヤいています」
「文句の多いのにかぎって、なんの工夫もしないんだ。だいたい、娘や息子を箱入りに育てすぎたんだよ。娘と息子を店で働かせてみろ。たちまちあそこは黒字になるよ」
「どうやって不正仕入れを摘発したんですか。品物を一つ一つチェックしましたか」
「そう。スナックと雑貨に不正品があった。うちの品ぞろえじゃない商品は現物を見ればすぐ見当がつくんだ。だが、有名ブランドの投げ売り品もある。こいつは売上げと残高を照合しないと、ちょっとわからない」
「めんどうだな。何回摘発したんですか」
「ことしに入って三回。三回目には契約どおり百万円のペナルティをとった。さすがにこたえて、おとなしくなったようだが、油断すると、またやらかすだろうよ」
父をいじめないで。典子のことばを相原は思いだした。苦笑した。
ものはいいようである。契約違反をやったのは内藤英一のほうなのだ。
前任のFCに、内藤も典子も不信感を抱いている口ぶりだった。一種の逆恨《さかうら》みである。オールデイズのシステムのきびしさ。加盟店側のエゴイズム。双方がかさなりあって、両者の関係はこじれている。
FCとしての活動を相原ははじめた。
いま目黒区で売れている商品はなにか。どんな銘柄か。価格はどの程度か。売れる時間帯は。購買層は。関東各地の加盟店から送られてくる情報で、毎日のように資料ができる。新製品の紹介などの資料もある。
それらを相原は加盟店へとどける。有益と思われる情報を口頭で伝える。加盟店から相談をもちかけられれば、いっしょに考える。会社への要望事項の中継役になる。
月水金の三日、相原は朝六時半に起きた。ねむい目をこすりながら、自転車で担当区域を一巡する。七時になってもオープンしない加盟店があると、本社営業本部のスタッフへすぐに電話をいれる。本部スタッフは当番制で電話係をひきうけるのだ。
「もしもし。いまお客さまから苦情がありました。せっかく買物にいったのに、戸があいていないそうです。オールデイズの信用にかかわります。すぐ営業をはじめてください」
スタッフは加盟店へ電話をいれる。
着任一ヵ月で、相原は三度内藤ショップをたたき起すことになった。
内藤夫婦は睡眠不足で疲れきっている。朝、眠いのはよくわかる。だが、同情して手をぬくわけにはいかない。
開店のおくれを見逃したのがバレると、FCの責任になる。査定にひびくし、たびかさなると左遷《させん》されてしまう。
加盟店の開店時間をFCがきちんとチェックしているかどうか、ディストリクト・マネージャーがいつも監視していた。月に何度か、抜き打ちに朝担当区域を車で巡回する。サボっているFCは槍玉《やりだま》にあげられる。
週に二、三度、相原は内藤ショップを訪問した。冷たく迎えられたが、それも仕事のうちだ。典子に会うのがたのしみだった。
いつも相原は売り場の掃除を買って出た。モップで床を拭きながら、要所要所で足をとめて売り場の商品をチェックした。現金問屋からきた品物は見馴れない銘柄だったり、包装が粗末だったりするので見当がつく。
着任して三ヵ月たった。ある日、相原は内藤ショップの売り場で、オールデイズの手を通さないスナック類を発見した。いつものように店内を掃除しているときだった。
「やはりあった。不正仕入れだ」
してやったり、という気はなかった。相原は困惑《こんわく》してしまった。
レジへ相原は目をやった。カウンターの内側には典子の母がすわっている。涼しい顔で計算業務をしていた。
典子の家族と喧嘩はしたくない。だが、ほうっておくわけにもいかない。相原は問題のスナック類を二、三もってレジへいった。
「奥さん、うちの品ぞろえでないものがまじっていました。なにかのまちがいでしょう。すぐ撤去してください。本部には報告しないでおきますから」
「知りませんよ私は。仕入れはオーナーがやったんだから。あとで話しておきます」
「すぐ撤去してください。本部に知れるとまたペナルティですよ。たびかさなると、契約解除にまで発展するかもしれない」
「オーナーの留守中に勝手に商品をかたづけたりしたら、叱られるわ。かえってくるまで待ってよ。夕刻にはかえるはずだから」
内藤英一は所用で外出していた。現金問屋へ出かけたのかもしれない。
「ではぼくが撤去します。それならご主人に叱られないでしょう。いいですね、それで」
相原は段ボールをもって、スナック売り場へいった。
問題の商品をつぎつぎに段ボールへ投げこんだ。けっこう量が多い。売り場に出ているものだけで二万円以上はあった。相原は段ボールをもって店の外へ出た。
「どうするのよ、それ。まさか捨てないでしょうね。モトがかかっているのに」
典子の母が追いかけて出てきた。
昂奮で青ざめている。みにくい女だった。典子の母にはみえない。
「規則では押収《おうしゆう》することになっています。でもこれを会社へもってかえったら、不正仕入れの件を報告せざるを得なくなる。おいていくから、自家消費してください」
「自家消費――。うちでたべろっていうの。無理よ、こんなにたくさん」
「不正仕入れをするからこうなるんです。たべてください。絶対に店には出さないで」
念を押して相原は内藤ショップを去った。
親切な処理をしたのだ。感謝されるはずだと思っていた。
三日後相原は内藤ショップに立寄った。
店へ入るなり、相原は胸がドキドキしてきた。典子が店番をしている。なにかバイト料をかせぐ必要が生じたのだろう。
相原は典子に挨拶した。資料を手わたし、伝票を回収した。一、二分典子と話した。これという話題がなくて困惑する。七、八名の若者がショッピングにきていた。典子が目あての者もいるのかもしれない。
相原は店の掃除をはじめようとした。
「やめてください。掃除はあとで私がやりますから」
高い声で典子が制止した。
相原は掃除機をもったまま典子をみつめた。とめられた理由がわからない。
「天下のFCに掃除なんかさせてはいけないって父にいわれたわ。もったいないって」
「妙なことをいいますね。いやみですか」
「ちがうわ。ともかくやめてください。私がやれっていわれているの」
「どうしてですか急に。はっきり理由をいってください」
「じゃ、いうわ。相原さん、掃除のふりをして、ショーケースの商品をしらべるんでしょう。よそのルートから品物が入っていないかどうか、検査するんでしょう。やめてよ、そんなの。陰険《いんけん》で不愉快だわ」
相原は顔が熱くなった。
なぜこんないわれかたをしなければならないのか。相手が典子であるだけに、だまってひきさがるわけにはいかない。
「ことを荒立てないよう、気を遣《つか》ってそうしているんです。お客さんの手前もありますからね。目立つほうがいいんだったら、摘発係を五、六名派遣しましょうか。店中をひっくりかえして不正を糾明《きゆうめい》してもいい」
「――――」
「それに陰険とはなんですか。契約をやぶって、こっそりよそのルートから品物をいれるのは陰険じゃないんですか。あなたのお父さんは違法行為をやっているんですよ。なるべく穏便《おんびん》に済ませようとして、見て見ないふりをしているのに――」
「違法っていうけど、契約はオールデイズに都合《つごう》のいいことばかりじゃないの。父なんかオーナーとかいっておだてられて、搾取《さくしゆ》されてるだけよ。朝から晩まで働いて、ロイヤリティを吸いあげられるだけ。契約をまもっても、借金が殖えるだけよ」
「わかりました。契約をまもる意志がないということですね。仕方がない。本部に報告します。内藤ショップはオールデイズ・チェーンから脱退の意向だって」
騎虎《きこ》の勢いだった。相原は掃除をやめた。本部へ電話をいれるつもりだった。
典子と喧嘩別れになるのは残念である。だが、公私混同はできない。それに腹立ちをおさえて喧嘩別れを避けたとしても、典子と仲よくなれる見込みはなかった。
もういいや。相原は思った。このあたりで未練を断ち切って別の恋人をさがそう。
「いいんですね。一方的に脱退となると、ローンを即座に清算してもらったうえ、違約金を八百万円ぐらいとられるんですよ」
受話器をもって相原は典子に声をかけた。
釦《ボタン》をおして本社を呼びだした。ディストリクト・マネージャーにつないでもらう。
典子がいそぎ足で奥の扉のなかへ消えた。
ディストリクト・マネージャーは不在だった。秘書係の女の子と相原はとりとめない話をした。
典子の弟の友弘が奥の扉をあけて出てきた。友弘は高校三年である。眠っているところを起されたような顔だった。
「待ってくれって姉さんがいってるよ。本社に電話しないでくれって」
相原に友弘は告げた。自分の伝えていることの意味がわかっていないようだ。
「姉さんがそういったのか。電話しないでほしいって」
おどろいて相原は訊《き》いた。受話器をおさえて扉のほうへ目をやった。
「済みませんでした。いいすぎましたといってこいって。おれ、たのまれたんだ」
扉のそばから典子の顔が覗《のぞ》いた。
典子は舌を出した。中学生のように可憐《かれん》にみえた。相原はいっぺんに明るい気分になった。受話器をおき、掃除を再開した。
その日、内藤ショップのショーケースには不正仕入れの商品は発見されなかった。
「なにもなかったでしょう。もう父も不正仕入れなんかしないと思います。あんなことをすれば、オールデイズを批判する資格がなくなるわ。じつは私、恥ずかしかったの」
「ほっとしました。典子さんと敵どうしになりたくなかった。横道に外《はず》れないようにお父さんを監視してください。たのみますよ」
「それはお約束できないわ。私、基本的にオールデイズがわるいと思っているもの。相原さんの味方にはなれない」
「味方でなくてもいい。ともかくお父さんの暴走をとめてくださいよ。それがお店のためなんだから」
典子と一歩親しくなったような気がした。
以後は無事に月日が流れた。配送の車がおくれたり、配達された商品の員数《いんずう》が合わなかったり、小さなトラブルは生じたが、内藤ショップと大きな対立はなかった。
典子は月に二、三度の割合で店に出ていた。運がよければ月に二度、わるくとも一度は、相原は彼女と顔をあわせることができた。
だが、どちらも業務で多忙だった。ゆっくり話をするひまもなかった。
ときおり近所の喫茶店でいっしょにコーヒーを飲むのが関の山だった。それも典子がレジを離れて一息つくときだけだった。三十分もくつろぐ時間がなかった。
典子は熱心に学校の話をした。勤勉にゼミに出席して、教授のおぼえもいいらしい。演劇サークルからは籍をぬいていた。
「女には演出家になる道がないんだもの。女優なんて、要するにあやつり人形。一生をかける仕事とは思えないわ」
典子らしい意見だった。
こんな女と結婚したら、夫は大変だろう。ひそかに相原は考えた。だが、そんな否定的な分別《ふんべつ》はさておいて、想いはつのった。一人になると、いつも典子の顔が脳裡にうかんで消えなかった。
相原は典子にデートを申しこみたかった。
だが、じっさいに顔をあわせると、気後《きおく》れがさきに立った。
特定の恋人はいないと典子はいっている。何人かの男友達がいるということである。資産家の息子や、将来性ゆたかな秀才や、医学部の学生などに彼女はとりかこまれているらしい。彼らと争って、典子の愛情をかちとる自信が相原にはなかった。
FCに転出して一年あまりがすぎた。内藤ショップの売上げは、相変らず日に四十二、三万の線上にあった。
人件費を切りつめないと黒字にならない。内藤夫妻は休むまもなく働いていた。疲れた、疲れたと呪文のように愚痴をいった。
夫妻ともまだ四十代である。過労に耐える体力はあった。眠い、つらいと不平をいいながら、倒れるようなことはなかった。
四月になった。典子は四年生になった。教授の世話で、ある学術書の出版社に就職が内定したという話だった。
相原は焦燥《しようそう》にかられた。典子が手のとどかぬ遠いところへいってしまいそうな気がした。いや、相原のほうが遠くへ転勤させられるかもしれない。特定の加盟店との癒着《ゆちやく》をふせぐため、FCは原則として二年ごとに担当区域が変ることになっている。
ついに相原は決心した。一流オーケストラのコンサートの切符を二枚買った。
ポケットにいれて内藤ショップを訪問した。だが、典子が店に出ている日になかなかぶつからなかった。切符をわたすチャンスがないまま、十日近くたってしまった。
相原は午前九時まえに内藤ショップを訪問した。店へ入らず、物陰で待ちぶせした。通学の支度をして典子が出てきた。クリーム色のアウディのそばで彼は切符を手わたした。
「つきあってください。ブラームスの第一シンフォニーが目玉なんです。つぎの土曜日、夕刻六時から」
典子はちらと切符を見た。すぐに相原へ返してよこした。
「だめなの。土曜日、先約があるわ。映画へいくことになっているの」
典子は車の扉をあけた。
「相原さん、非常識よ。土曜日っていえば、あさってじゃないの。一ヵ月まえにさそわれても、いけるかどうかわからないのに」
扉がしまった。車は発進した。典子はふりかえりもしなかった。
女に対して相原は押しのつよいほうではなかった。気落ちしてしまった。
最低一ヵ月まえにさそわないのは非常識だ――取巻きがそれだけ多いということだろう。やはり相原の手には負えない相手だ。
会社の同僚である女子社員をさそってブラームスを聴きにいった。二度と典子にデートを申しいれる気はなかった。
年末、相原は転勤になった。本社の商品部へいくことになった。品ぞろえを担当するセクションである。通常よりやや早くFCから足を洗って、企画力をみがくことになった。エリートコースに乗ったわけだ。
以後はずっと商品部勤務だった。売れる商品をさがしたり、考えだしたりしてきた。メーカーを育てたり、縁を切ったりした。世の中の動きにあわせて、さまざまな商品を加盟店へ送りつづけた。
その間、加盟店は殖えつづけた。年に約五百店というすさまじい勢いだった。厖大《ぼうだい》な量の情報が商品部には入ってくる。食生活の面から、相原たちは日本の社会の移り変りを見てきた。生鮮食料品は、手間の点で独身者たちから敬遠される。インスタント食品は、味の画一性から最近は伸びなやみ状態である。
ファースト・フードが大きく伸びていた。手間がかからず、味は手づくりに近い。そこがうけている。主婦の共働きが常識になって、この傾向に拍車がかかった。
三年まえ、相原は内藤英一が排気ガス自殺をとげたことを知らされた。
経営不振がつづいた。オールデイズと深刻なトラブルがあったらしい。耐えきれずに彼は死んだ。内藤ショップは危機に立った。
相原は内藤英一の葬儀に出向いた。場所は目黒区内の寺だった。内藤ショップはふだんと同じように営業していた。「忌中」の貼紙もなかった。不幸のあったことを、店もオールデイズ本部も懸命にかくしていた。
相原は葬儀の会場へいった。受付で香典を出すと、係の男から突っ返された。焼香も拒否された。内藤家の親戚の男である。英一の自殺はすべてオールデイズの搾取《さくしゆ》のせい、とその男は考えていた。
オーナーを失って、内藤ショップは身売りか存続かの岐路《きろ》に立った。未亡人だけでとても店はやっていけない。しかも、返済すべき債務が五千万円近くもある。
営業のつづけられない加盟店は、オールデイズに身売りするのがふつうである。本社や銀行への債務をそれで清算する。加盟店は以後オールデイズの直営店となる。オーナーやその家族は店と縁が切れることになる。
内藤ショップでは家族会議のすえ、店を存続させることになったらしい。
「これでオールデイズに乗っとられたりしたら、お父さんの霊がうかばれないわ。私、会社をやめて店をやる。かならず黒字経営にしてみせるんだから」
典子の発言がすべてを決めたようだ。
大学生の弟も、卒業後、店をやることになった。内藤ショップは従来どおり営業をはじめた。経営状態はいくぶん改善されたという話である。典子と友弘ががんばったのだ。
日本オールデイズの加盟店は三千を突破した。時期を合せるように、相原はふたたび営業部へ異動になった。
こんどは課長待遇のディストリクト・マネージャーに任じられた。担当は希望どおり目黒、港の両区となった。十名のFCが相原のもとで働いている。
着任早々、毒入りのお握り弁当事件にぶつかった。前途は多難のようだ。
5
電話のベルの音で相原邦夫は目がさめた。そばのサイドボードに電話機がある。
ノコギリの音のように不快なベルだった。鼓膜がふるえる。音につれて、頭蓋骨へヒビ割れが入るような気がした。
安眠している地の底から這いあがるような思いで、相原は上体を起した。受話器をとりながら時計を見る。午前六時半だ。
「もしもし、相原くんですか。総務課長の林です。緊急事態が発生しました」
相原は急速に眠りからさめた。
加盟店数三千突破記念パーティの翌日である。また毒入り弁当事件が発生したのか。
「佐藤社長が急死されました。けさの午前一時。事情は追ってご説明します。本社ホールへ集合してください。いますぐです」
管理職を非常招集しているらしい。事務的な口調で林は電話を切った。
佐藤裕一社長が死んだ――相原はバネ仕掛けのようにベッドから離れた。
眠気どころではない。大いそぎで身支度をととのえた。
配達された朝刊をポケットにいれて、部屋をとびだした。武蔵野市内のマンションに相原は住んでいる。2DKの住居である。
通りでタクシーをひろった。銀座へ向かう。朝刊をひらいてみた。佐藤社長の死亡記事はまだ出ていない。
きのうまであれほど元気だったのに。心臓発作なのだろうか。脳出血か。パーティで演説していた彼の姿が目にうかんだ。
社業は順調である。曲りなりにも昨夜のパーティも盛会だった。だが、社長ともなれば、人知れぬ心労やストレスがあるのだろう。
まったく人の運命はわからない。絶頂から奈落《ならく》の底へまっしぐらだ。どんな場合でも、人間、健康に気をつけなければ。
そんな感慨にひとしきり相原はふけった。つぎにサラリーマンらしい思案をめぐらせた。次期社長はだれなのだろう。佐藤社長の片腕だった都築《つづき》専務か。それとも親会社の南陽堂から新社長が派遣されてくるのか。
相原自身のポストに変動があるとは思われなかった。トップ交代の余波が、課長クラスにおよぶのはまださきのことだ。それに相原は目黒、港両区のディストリクト・マネージャーに着任したばかりである。ますます影響をうける度合は小さい。
東の空が赤く焼けていた。まだ夜の気配をただよわせた高速道路を、タクシーは順調に走った。銀座のオールデイズ本社へ着いたのは、午前七時十五分だった。こんなに早い出勤は入社以来はじめてである。
二人の管理職がほとんど同時に玄関へタクシーを乗りつけた。
三人いっしょにビルへ入った。がらんとした建物のなかに、足音がひびいた。
「どうしたんだろう。きのうはピンピンしていたのに」
「どうなのかな。加盟店の反撥《はんぱつ》をうけて、ショックだったんじゃないのかな。あれで神経の細い面もある人だったから」
だれも正確な情報はもっていない。不安な面持《おももち》でエレベーターに乗った。
三階ホールには五、六十名の部課長があつまっていた。林総務課長がくそまじめな面持で正面に立っている。都築良平専務が、ステージ横の椅子に腰かけていた。
都築は五十三歳。灰色の髪で、眼鏡をかけている。一見温厚だが、決断が早く、実行力もある。私心のない人物で、社員の信望は厚かった。
都築は目をとじ、腕組みしていた。表情に苦悩があふれている。急な事態をどううけとめ、どう乗り切るか、まだ見通しが立っていないようだった。
七時半まで待ち時間がつづいた。集合した部課長は百名近くなった。
都築専務がステージに立った。マイクのまえで彼は直立不動の姿勢をとった。
「大変残念なニュースをお伝えしなければなりません。佐藤裕一社長が急死されました。けさの午前一時。場所は自宅のあるマンションのエレベーターのなかであります」
麹町《こうじまち》にある高級マンションに佐藤社長は住んでいた。
昨夜、パーティは九時に終った。一部の来賓とともに佐藤社長は銀座へ出た。上機嫌で三軒のクラブを飲み歩いた。
十二時半ごろ、社長用車で麹町へかえった。マンションの玄関で運転手と別れた。エレベーターで八階の自宅へ向かう途中死亡した。死体が発見されたのは午前三時だった。
「社長がお住いのマンションにはエレベーターが二台あります。社長が亡くなられたほうのは、八階に停止したままでした。電源が切られていたのです。そのため発見がおくれました。犯人は電源を切ったあと、逃走したものと思われます――」
犯人だって。じゃ社長は殺されたのか。急病ではなかったのか。
およそ百名の部課長はざわめいて顔を見合わせた。すぐに静寂がもどった。息をつめて一同は都築専務に注目する。
「諸君のご推察のとおりです。佐藤社長は殺害されました。エレベーターに乗りあわせた犯人に、刃物で刺されたのです。傷は胸に二ヵ所、腹に一ヵ所。胸の一つは心臓にたっしておりました」
佐藤社長はほとんど即死だったらしい。
エレベーターは血の海だった。真夜中にマンションを巡回した警備員が、一台のエレベーターが八階に停まったままなのに気づいた。電源をいれ、死体を発見した。
警察はすでに捜査を開始している。犯人を見かけた者がいないか、マンション住民、付近の住民にたいする聞込み捜査を実行中だ。いまのところ目撃者は出ていない。
あわせて佐藤社長の家族や、オールデイズ関係者からの事情聴取が行われている。報《しら》せをきいて、都築専務はすぐ事件現場へ駈けつけた。事件について説明をきいたあと、二時間にわたって事情聴取された。ほとんど眠っていないらしかった。
部課長たちは茫然としていた。毒入りお握りのこともある。会社は悪霊《あくりよう》にでもとりつかれたのか。相原邦夫はそう思った。
佐藤社長の死をいたむ感情はさほどでもなかった。会社へ入って四、五年たつまでは、社長にときおり声をかけられた。忘年会などへ社長が乗りこんできて、若い社員たちと親しく話しあったこともあった。だが、会社が大きくなってからは、ろくに顔を合わせるチャンスもなかった。会議などで、公式発言を耳にしただけである。悲しみの念が濃《こ》くないのも、仕方のないことだった。
「犯人が何者なのか、手がかりはあるんでしょうか。きのうの毒入り弁当事件との関連を警察はどうみているんですか」
一人の部長が質問した。みんなの知りたがっていることだった。
「警察はまだなに一つ情報を公開してくれません。捜査の必要上、仕方のないことだと思います。したがって、われわれもまだ五里霧中《ごりむちゆう》の状態です」
「専務はどのように考えておられますか」
「わかりません。きのうの事件は、同業者によるいやがらせだと解釈していました。だが、社長が生命を狙《ねら》われたとなると、そんな生やさしいことではないかもしれない。いまいったように、まったく五里霧中です」
答えて専務はステージからおりた。全身の力がぬけたように、椅子に腰をおろした。
林総務課長が代ってステージに立った。会釈《えしやく》してから、話しはじめた。
「きのうの事件もからんで、マスコミから取材が殺到すると思います。うかつに応待すると、なにを書かれるか、わかりません。社員個人でマスコミ関係者と話をしないこと。取材はすべて広報室を通して行うこと。それぞれの部門で徹底してください」
社長が亡くなっても日本オールデイズは揺るぎもしない。みなさんで極力、社員の動揺をおさえてください。
淡々《たんたん》とした口調で林はつけ加えた。大きな目で一同を見まわした。おちついている。ピンチに強い男のようだ。
臨時ミーティングはそれで解散になった。ミーティングに間に合わなかった管理職のため、午前九時からもう一度説明会が行われることになった。
相原はみんなにまじってホールを出た。営業部のオフィスへかえった。
「いつかこんなことになると思っていたよ。きのうのパーティを見たか。うちの会社を恨んでる人間はおそろしく多いんだから」
声をひそめて話しかけてきたディストリクト・マネージャーがいた。
相原はこたえなかった。その男のいうとおりだと思う。だが、口に出したくない事柄だった。
午前八時すぎだった。相原は席についてデスクワークをした。
意識が仕事に集中しない。いろんなことを考えてしまう。やはりショックをうけているのだ。個人的な情はないにしても、社長が殺害されたという事実は、サラリーマンにとってやはり大事件だった。
社員が一人、二人と出勤してくる。みんな朝刊を手にして、周囲をうかがう面持である。大声でお早うをいう者はいない。
毒入りお握り事件はすでに昨夜テレビのニュースで報道された。朝刊にも大きな記事が出ている。みんな電車のなかでむさぼり読んだのだろう。
佐藤裕一社長が死んだことは、みんな会社へ着いてから知った。エレベーター待ちの時間に同僚や上司から教わった者もいる。エレベーターのなかで知った者もいる。なにも知らずにオフィスへ入ってきた者は、席についてから、同僚に教わった。
あちらでもこちらでも、社員たちがひたいを寄せあっていた。小声で噂が流れた。女子社員はほとんど席にいない。更衣室やトイレで情報交換しているのだろう。
午前九時になった。営業部員は全員、フロアのすみに集合した。
営業部長が事件の大要を説明する。社員たちは凍《こお》りついたような姿勢で話をきいた。
「社長は亡くなられたが、わが社の経営は万全である。みなさんは冷静に、いつもと同じように業務にはげんでください」
マスコミへの対応などについて注意したあと、部長はしめくくった。
ほっとした面持で一同は席についた。
電話のベルが鳴る。打合せや商談の声がきこえる。オフィスはいつものように動きだした。社長が死んでも、企業組織は巨大な機械のように稼動するものだ。
相原の課は十四名の大世帯である。相原の下にFC《フィールド・カウンセラー》が十名。女子課員は三名だった。
FCたちときょうの打合せをした。三十分ばかりで済んだ。資料や書類をかかえて、FCたちはつぎつぎにオフィスを出ていった。それぞれの加盟店を訪問する。通常のコンサルタント業務のほか、きょうはきのうからの事件の説明をしなければならない。みんな気の重い表情だった。
FCの本山紀夫が出かけようとしていた。相原は彼を呼びとめた。来客用のテーブルをはさんで、腰をおろした。
本山紀夫は入社三年目。生えぬきのFCである。内藤ショップなど八つの加盟店の面倒をみていた。小柄だが、タフな若者である。
内藤ショップはきのう、毒入りお握り事件の舞台になった。あの時間、本山は業務を終えて帰宅していた。いきさつをくわしく説明しておかねばならない。
きのうの模様を相原は話した。首をかしげながら、本山はきいていた。
「犯人はどうして内藤ショップに毒入り弁当をおいたんでしょうか。あの店になにか恨みでももっているんですかね」
「わからないよ。たんに道順のせいだったかもしれない。杉並、渋谷、目黒の順番で南下した。各区で一店ずつえらんだ」
「どうして各区一店ずつなのかな。杉並なら杉並で三店に毒入り弁当をおくほうが、能率的だと思うんですけど」
「広範囲に毒入り弁当をバラまけることをアピールしたんじゃないかな。憶測にすぎないけどね。ほんとうのところは、犯人でないとわからないよ」
最近、内藤ショップでなにか変ったことはなかったか。相原は訊《き》いてみた。
本山は首をかしげた。とくに気づいた点はなさそうである。内藤ショップはむかしからFCに冷たい店だった。いまも本山は、訪問するたびにいやな思いをするらしい。
「母親も、娘も息子も愛想がわるいですよ。父親が自殺したのは、すべてうちの会社のせいだと思っているんですからね。小売業者に特有の発想ですよ。自分の非は棚にあげて、すべて企業のせいにする。企業性悪説なんです、あの人たちは」
本山は口をとがらせた。
きのうのきょうである。気はすすまないが、まっさきに内藤ショップを訪問する予定を本山は立てていた。
「息子の内藤友弘だけど、最近なにか変った様子はなかったか。じつはきのう、あの男の挙動がおかしかったんだ」
昨夜の彼の様子を相原は説明した。
本山はだまって相原をみつめた。なにを相原が問題にしているのかわからないようだ。
「きのう彼は鴨川へ釣りにいったといっている。だが、つれはいない。一人なんだ。彼が釣りにいったことを証明する者はいない」
「なるほど。でも、なぜ彼のアリバイが必要なんです。もしかすると相原課長、友弘が毒入りお握りの犯人だと――」
「あり得ない話じゃないよ。彼はオールデイズに恨みを抱いている。毒入り弁当をおいてオールデイズを揺さぶろうとしてもふしぎじゃない。事件がマスコミの話題になると、オールデイズのお客が減るにきまっているからな」
ましてきのうは記念すべきパーティの日だった。さわぎを起してパーティを混乱させる効果もある。
相原がそう説明すると、本山は狼狽《ろうばい》した表情になった。背すじをのばした。
「まさか彼が。いくらなんでも――。もし彼が犯人だとしたら、自分の店に毒入り弁当をおくようなまねをするでしょうか。自分の店の売上げを減らす行為ですよ」
「疑いのかかるのを避けるため、わざと自分の店に毒入り弁当をおいたのかもしれないよ。姉の典子がパーティに出席したのも、同じ狙いだと解釈できる。パーティを妨害する気がなかったふりをしたんだ」
「内藤友弘が杉並や渋谷の店へ毒入り弁当をおきにいったとして、目撃者はいるんですか。だとすると、話はかんたんだけど」
「同業だから、杉並や渋谷の店に友弘は顔を知られているはずだよ。本人は弁当をおきにいかなかったと思う。だれか代りの人間をやったんだ」
「本気で課長、友弘を疑っているんですか。おどろいたなあ。はっきりした根拠もないのに、いいんですか、そんな話をして」
「たしかに根拠はないな。きのうの彼の様子がおかしかったというだけなんだから」
相原は苦笑した。だが、昨夜の友弘の暗い表情が脳裡から去らない。
内藤ショップへいったら、なにか変った点がないか注意して観察してほしい。釣りの模様などをそれとなく友弘に訊いてみてもよい。相原はそう指示した。
本山はうなずいた。ふっと恐怖の表情になった。身を乗りだして、小声で訊いた。
「友弘がもし毒入り弁当の犯人だとすると、社長殺害事件にも関係しているかもしれませんね。恐いな。殺《や》ったのは彼なんですか」
「そこまではおれもいえないよ。まさかとは思う。でも、妙に気になるんだ。あの一家の怨念をよく知っているだけにね」
本山は緊張した面持でオフィスを出ていった。
相原は席にもどった。仕事が山積している。しばらくデスクワークをつづけた。
十一時半ごろ、意外な電話が入った。
「目黒の内藤ショップからです」
交換手が告げたのだ。本山が内藤ショップからかけてきたのだろうと相原は思った。
「――相原さんですか。内藤典子です」
澄んだ声が相原の心臓にひびいた。電話で典子と話すのは、はじめてである。
「いいお声ですね、典子さん。電話を通すと、ひときわ響きが美しい」
とっさに相原は賞讃した。管理職になると、軽口をたたく余裕ができる。
典子は乗ってこなかった。こわばった口調で話した。
「さっきまで本山さんがきていらしたの。気になることをいっていたので、お電話したんです。相原さん、ゆうべうちのそばで友弘に会ったんですって。ほんとうですか」
「ほんとうです。近くの喫茶店でいっしょにお茶を飲みました。それがなにか」
「おかしいわ。友弘はそんなこといっていなかった。夜中までかえってこなかったのよ。午前二時ごろまで」
「二時ごろまで――。でも、若いんだから、そんなことがあってもふしぎではないでしょう。どうかしたんですか」
相原は自分の声が急に弱くなるのを意識した。
佐藤社長が殺害されたのは午前一時前後だった。その時間彼は家にいなかったのだ。
「ご相談したいことがあるの。相原さん、時間をつくっていただけませんか」
「いいですよ。よろこんで。いつ、どこでお会いしましょうか」
「私、いまから御社《おんしや》へうかがいます。どこかでお食事しながら――」
「わかりました。お待ちします。で、友弘くんはどうしているんですか」
「お会いしてからお話しします。いまここではいいにくいので」
店のレジから電話しているらしい。
お客がそばにいるのだろう。典子の母親がきき耳を立てているのかもしれない。母親にはきかせたくない話のはずだ。
相原は受話器をおいた。友弘を疑った自分のカンが当ったらしいのにおどろいた。
ついで胸のときめきをおぼえた。典子とデートしたい、せめて食事したいと、数年まえは痛切に念じたものだった。
それが実現した。相原の努力なしに、チャンスが向うからやってきたのだ。
正午すこしまえ、受付から連絡があった。内藤典子がやってきたのだ。
上衣をきて相原は受付に出た。典子がかすかに笑って会釈をした。
コーヒーブラウンのスーツに紺のブラウスを着ている。スカートはゆったりしていた。おだやかで上品な装《よそお》いである。
顔色がわるかった。疲れた表情である。病的な典子も美しかった。受付にいるオールデイズでえりぬきのかわいい二人のギャルが、典子のそばでは色あせてみえた。
二人は外へ出た。初夏の日ざしが、建ちならぶシックなビルに注いでいる。街路樹の緑があざやかである。
典子と肩をならべて、相原は口笛でも吹きたい気分だった。典子の沈んだ横顔を見て、心をひきしめた。まったく恋愛感情というやつはしたたかである。社長が死んでも、好きな女といっしょなら心は日本晴れだ。
付近のレストランへ入った。昼食のためにしては贅沢《ぜいたく》な店だった。二階のすみの席に腰をおろした。スパゲティと魚のフライをたべることにする。ビールの小瓶を二本たのんだ。典子はまかせきっていた。
「本山さんには話さなかったけど、じつは友弘が警察に呼ばれたの。九時ごろ刑事がきてつれていったわ。任意同行だって」
「ほんとうですか。で、容疑は何なんですか。毒入りお握りの――」
「それがよくわからないの。きのう一日の行動を説明してほしいっていってたわ。朝、家を出てから夜帰るまでの」
「きのう一日のか。まさか社長の事件には関係がないと思うけど」
相原は考えこんだ。
典子がじっと相原をみつめる。不安をみなぎらせた目だった。典子のこんな心細い表情を、相原ははじめて見た。
「きのう相原さんがお会いになったときの弟の様子、どうだったんですか。なにか変った点がありましたか」
「友弘くんは一度お店へかえってきたんです。九時半ごろだったかな。新聞社がきていた。それを見てまたお店を離れた」
一キロばかり離れた喫茶店へついていったときの模様を相原は話した。
典子の表情がけわしくなった。
「どうして相原さん、あとをつけたりしたんです。弟が毒入りお握りの犯人だと思っているんですか」
「いや、はっきり疑ったわけではありません。ただ、友弘くんが人目をはばかる様子だったので、変だなと思ったんです。会って事情を訊いてみたくなって」
「やはり疑っているんだわ。でなければ、事情を訊いてみる気なんか起らないでしょう。失礼だわ。なぜ疑うの。弟が自分の店にケチをつけるようなことをすると思うの」
「でも、ふだんの言動からして、ある程度疑われても仕方がないんじゃないかな。内藤ショップは全員が反オールデイズなんだから。われわれを困らせるためにやった可能性がないとはいえませんよ」
典子は目を大きくした。気負《きお》いこんで反論しようとする。
手をあげて相原は制止した。ちょうどビールがとどいた。ボーイが二人のグラスにゆっくりとビールを注いだ。
「議論はよしましょう。こうしている場合じゃない。友弘くんのピンチなんだ。そのことを話しあいましょうよ」
グラスを相原はもちあげた。
典子もうなずいてグラスをもった。すこし照れて、グラスを合わせにくる。
「警察はどうして友弘くんに目をつけたのかな。オールデイズに悪感情をもっている人間は残念ながらたくさんいる。そのなかからなぜ友弘くんをよりによって」
「私もそれがふしぎなの。ねえ相原さん、もしかすると、オールデイズが友弘の名を出したんじゃないの。過激な加盟店の名をリストアップしろと警察にいわれて」
「それはないでしょう。加盟店をかばいこそすれ、売るようなまねはしませんよ。よほど容疑が濃い場合はべつにして」
「そうかしら。相原さんはご存知なくとも、上のほうは内藤ショップをマークしているんじゃないんですか。きっとそうだわ」
「おかしいですね。内藤ショップにはマークされるほどやましい点があるんですか。外部仕入れもレジスターの不正もないと、担当の本山くんからきいていますがね。よそのチェーンへの身売りでも考えているんですか」
「いいえそんな。やましい点だなんて。ただ、弟が警察にマークされた理由がどうしてもわからないので」
料理が運ばれてきた。
だまって二人はたべはじめた。それぞれ思案をこらしている。
「友弘くんはきのう釣りにいったんでしたね。収穫はどうでしたか」
白《しら》ばくれて相原は訊いてみた。
小サバが三尾、鯛が一尾釣れたと友弘はいっていた。ほんとうなのかどうか。
「たいしたことはなかったみたい。でも何尾か冷蔵庫に入っていたわ。鯛が一尾あった」
友弘は嘘をついていなかった。
それでも、相原は奇妙な気がした。釣りのことはほとんど知らない。だが、鯛とサバが同じ場所で釣れたりするものだろうか。
「杉並の加盟店に問題のお握りがおかれたのは、午後四時ごろです。友弘くんはその時分どこにいたのかな。証明できれば、お握り事件にはアリバイが成立するんだが」
「鴨川から都内へかえる途中だったんじゃないかしら。でも、友弘のアリバイなんか問題じゃないわ。毒入りお握りはうちにもおいてあったのよ。友弘がいないあいだに。だから彼がお握りをおいてまわった人間でないことははっきりしています」
「なるほど、共犯がいたわけか。いや、もし友弘くんが事件に関係していれば、の話だけれど――」
「一度うちへ帰ってきて、なぜあの子は喫茶店へなんかいったんだろうか。一キロさきの喫茶店へいくなんてきいたこともないわ」
典子は目を宙に向けてつぶやいた。
スパゲティを半分たべただけでフォークをおいた。魚のフライには手をつけていない。
「新聞記者に会いたくなかったんでしょう。コーヒーを飲みながら、記者が帰るのを待つ気だったんじゃないのかな」
「では、どうしてそのままいなくなったんだろう。相原さんといっしょに店へかえってくればよかったのに」
「ぼくといっしょなのがいやだったんじゃないのかな。友弘くんは、反オールデイズ感情のかたまりだったから」
知らず知らず相原は、典子を安心させるようにつとめていた。
「まさかあの子、佐藤社長の事件のほうで疑われているんじゃないでしょうね。冗談じゃないわ。あの子がそんなことをするはずがない。第一、オールデイズの社長を殺して、うちになんのメリットがあるの」
典子は激しい口調でいった。勢いよくコップの水を飲みほした。
相原はうなずいてみせた。
友弘が日本オールデイズを恨んでいるのはたしかである。父親の自殺は、オールデイズの搾取のせいだと思っている。佐藤社長を、オールデイズの象徴として憎むことも、あり得ないことではない。
だが、それだけで佐藤社長を殺害するとは思えない。社長が死んでも企業は残る。内藤ショップと日本オールデイズの関係になんの変化も起りえない。子供にでもわかることだった。
友弘ももう二十四歳である。「親の仇討ち」に凝り固まって、大それた殺人事件をひきおこすなど、とても考えられなかった。
「参考人として事情を訊かれただけですよ。お父さんのことで、友弘くんがオールデイズを恨んでいるという情報が警察の耳に入ったんだ。きっとそんなところですよ」
「だれがそんなことをいったのかしら。まさか相原さんや本山さんでは」
「ばかなことをいわないでください。きのうのきょうですよ。警察と話すひまなんかあるわけがない。警察はいま、すこしでも事件に関係のありそうな人間とみると、片端《かたはし》から事情聴取しているんです。友弘くんは大勢のなかの一人にすぎない。大丈夫ですよ」
情報があまりに足りない。実《み》のある結論の出るわけがなかった。
食事が終った。コーヒーを飲んでしまうと午後一時まえだった。
「友弘くんはすぐ帰ってきますよ。あまり心配しないでください。これから八方手をつくして情報をあつめます。なにかわかったらすぐご連絡しますから」
二人はレストランを出た。おもて通りで相原はタクシーをとめた。
「いっしょに食事できて倖《しあわ》せでした。こんどはコンサートにでもおさそいしたいです」
「さそうなら本気でさそってくださいね。口さきだけなら、ごめんです」
そういって典子はタクシーに乗った。何秒か相原は気を呑《の》まれていた。
タクシーが動きだした。ふりかえって手をふりながら典子は去っていった。
相原はオフィスへもどった。こんな大事な相談を典子がもちかけてくれた。信じられないくらいだった。困ったとき、頼れる人間が彼女にはいないらしい。これはチャンスなのかもしれない。
席について相原は手帖を繰《く》った。大学時代の同級生である川添《かわぞえ》の電話番号をさがした。川添は新聞社に勤務している。社会部所属。たしか警視庁詰めだった。事件に直接関係しているかどうかわからないが、情報源になってくれるかもしれない。
新聞社へ電話してみた。川添はやはり警視庁の記者クラブにいるらしい。すぐに相原はそちらへ電話をいれた。
「相原か。ちょうどいいや。電話してみようと思っていたんだ」
川添の声がきこえた。
昨夜は泊り当番だった。午前三時半にオールデイズ社長の殺害事件のニュースが入った。たたき起されて現場へ飛んだ。あとは捜査本部に詰めて、記事の材料をとった。事情聴取に応じるため捜査本部へ出向いた都築専務にもインタビューしたらしい。
夕刊の記事を送り終った。警視庁へ帰って仮眠をとったあとだという。睡眠不足とは思えない、張りのある声だった。
捜査の状況はどうなのか。社長殺害の容疑者はうかんだのか。毒入りお握り事件との関連をどう見るか。相原は訊いてみた。
「なんだ。取材するのはおまえなのか。こっちがしようと思っていたのに」
川添は笑った。向うも情報に飢えているようだった。
捜査の進行状況は、警察発表がないとわからない。有力な容疑者もまだうかんでいないようだ。三、四人の男が捜査本部に呼ばれて事情聴取されている。約三十名の刑事が動員されて、佐藤裕一社長の身辺を公私にわたって調べてまわっている。川添はそう語った。
「毒入りお握りのほうは、捜査本部ではほとんど話題になっていないね。殺人事件の捜査本部だから、お握り事件はあつかっていないんだ。二つの事件の関係がはっきりすれば、ここであつかうことになるだろうが」
杉並、渋谷、目黒の各署がそれぞれ独自にお握り事件の捜査をやった。
毒入り弁当の発見された三つのオールデイズ加盟店へ、所轄署がそれぞれ刑事を派遣した。きょうも捜査がつづけられている。
だが、毒入りお握りをたべて死んだ者は出ていない。犯人が巨額の金を脅《おど》しとろうとしたわけでもない。捜査はどうしてもお座なりになる。社長殺害事件の捜査本部とちがって、三署とも気勢があがっていない。新聞社のほうも、毒入りお握りのほうは、犯人の出かた待ちの状態だという。
「じつは、うちの加盟店のオーナーが一人、捜査本部へ呼ばれているんだ。内藤友弘という若い男だがね。その男の店できのう毒入りお握りが発見された。その件について事情聴取されているんだと思っていたが――」
「そりゃちがうね、捜査本部へ呼ばれた以上、殺人事件との関連で調べられているよ。その男、社長を殺す動機はあるのか」
「ないとはいえない。しかし、うちの社長を恨んでいる人間は、お恥ずかしい話だがゴマンといるんだ。なぜ内藤友弘がマークされたのか、その理由が知りたいんだが」
「おもしろそうだな。親しいデカに当ってみるよ。しかし、佐藤裕一という男はそんなに評判がわるかったのか。となると、捜査は難航するな。相当長びきそうだ」
日本オールデイズの内部事情について、いくつか川添は質問してきた。
社の名誉が傷つかない範囲で相原はこたえた。社長が殺されるなんて、企業にとっては最大のスキャンダルである。全国にそれが報道されつつある現在、社の名誉など配慮しても無意味だという気もした。
それでも相原は注意深く話した。社の不名誉は社員の不名誉だという感覚が、胸のうちにしみついている。やっぱりおれはオールデイズの社員なのだ。あらためて相原は認識した。顔に苦笑《にがわら》いがうかんでいた。
午後四時ごろ川添から電話が入った。
「例の内藤友弘の一件だが、なんとか事情がわかったよ。飲み友達のデカがそっと教えてくれた。絶対に口外《こうがい》してくれるなよ。飲み友達にめいわくがかかるといけない」
まえおきして川添は語りはじめた。
声をひそめている。情報を外部に提供しているのを同僚に知られては困るのだろう。
殺された佐藤裕一社長のデスクから、一通の手紙が発見された。脅迫状だった。日付は約一ヵ月まえ。差出人の名は、怪人百面相となっていた。
「日本オールデイズの搾取に多くの加盟店が苦しんでいる。利益の45パーセントを無条件でピンはねするとは、江戸時代の悪代官に匹敵《ひつてき》する暴挙である。それがもとで、みずからの生命を断った者が何人も出た。
われわれは死者の無念をひきつぐ者である。自殺者たちになり代って要求する。現行のロイヤリティ45パーセントをただちに30パーセントにあらためよ。技術的に多少の時日を要する場合は、そのむねを新聞紙上に公表せよ。期限は一ヵ月とする。もし貴殿がこの要求に応じなければ、われわれは攻撃を開始する。重大な結果を招くことになるので、覚悟していてもらいたい」
脅迫状は以上のような内容だった。
ワープロで手紙は書いてあった。大量流通品で、特定が不可能な機種である。
佐藤社長はこの手紙を都築良平専務に見せた。ばかなやつがいる。苦笑いしていた。
いちおう警察にとどけるべきでしょう。都築は進言した。佐藤はかぶりをふった。事件が表沙汰になるのはまずい。オールデイズの加盟店管理がうまくいっていない印象を世間にあたえてしまう。無視しよう。そういって佐藤は手紙をひきだしへしまった。佐藤が死ぬまで、その手紙は他人の目にふれることがなかった。
死者の無念……という箇所が、捜査本都のヒントになった。内藤英一以外にも、自殺したオーナーは四名いる。それぞれの遺族を呼んで事情聴取をすることになった。遺族たちは昨夜のアリバイを追及された。
ほかの三人の自殺者の遺族には、それぞれ確固としたアリバイがあった。内藤友弘だけがあいまいな供述をした。佐藤社長が殺された時刻は、愛車の白いカペラを運転して湾岸道路を走りまわっていたというのだ。そのことを証明する方法はなかった。
「友弘にはアリバイがない。ただし、犯行を裏づける証拠もない。彼の供述はいちおう筋が通っていた。捜査本部はとりあえず彼を帰宅させることにした。もう自宅へ着いたころらしいよ。もちろん友弘の容疑は完全に晴れたわけじゃない。これからいろいろと身辺を調査されることになるだろうよ」
どうだ、質のいい情報だろう。銀座で接待される価値は充分あるとおれは思うぜ。
川添は恩に着せた。まったく、もつべきものは友達だった。近いうち酒場へ招待する約束をして相原は受話器をおいた。
一時間後、内藤典子から電話が入った。友弘がぶじ帰宅したことの報告だった。
典子の声は生き生きしていた。友弘がシロと認定されたのだと思っている。
「友弘に疑いのかかるような文面で社長に脅迫状がきていたらしいんです。ワープロで書いてあったらしいわ。残念ながら友弘はワープロができないの。そのことがわかって、文句なく帰してもらったらしいわ」
友弘の笑い声が、典子の声のうしろからきこえてきた。
母親と談笑しているらしい。呑気《のんき》なものだった。これからボロが出るかもしれないのに、高をくくっているようだ。
6
佐藤裕一社長が殺害されてから、一週間が経過した。
都築良平専務が社長代行に就任した。
親会社の南陽堂から、当面新社長は派遣されないらしい。都築に日本オールデイズをまかせてみて、とくに不都合がなければ、そのまま社長に起用すればよい。南陽堂社長の南田陽介はそう考えているらしかった。
社長が代った。日本オールデイズの経営方針に今後どんな変化があらわれるのか。
世間は都築良平に注目していた。とくに加盟店がそうだった。粗利益《あらりえき》の45パーセントというロイヤリティに、オーナーたちは苦しみぬいてきた。
日本オールデイズは来年、創立十五周年を迎える。創立直後チェーンに入った加盟店は、来年で第一期の契約を終える。再契約してさらに十五年オールデイズにとどまるか、他のチェーンに鞍替《くらが》えするか、いっそ商売替えするか、契約更改を控えたオーナーたちはそれぞれ思惑《おもわく》で胸をふくらませている。
ロイヤリティがいまのままの高率では、経営が苦しすぎる。粗利益の35パーセント、あるいはそれ以下で済むよそのチェーンに鞍替えするほうが身のためだろう。そう考えているオーナーが圧倒的に多かった。
ほかのチェーンにくらべて、日本オールデイズには経験の蓄積がある。情報|蒐集力《しゆうしゆうりよく》も群をぬいている。
品ぞろえがたしかだった。よく売れる、いい商品を供給する。しかも配達は迅速《じんそく》、正確である。ビール一ケース、酒二本、弁当五つというような小口の配達にも応じる。
宣伝もうまい。統一イメージがすっかり定着した。経営指導もよそのチェーンよりしっかりしている。
ロイヤリティがべらぼうであること、加盟店のしめつけが強すぎることを除けば、日本オールデイズの評判はわるくなかった。
しかし、加盟店にとって、なによりの問題はロイヤリティにある。二十四時間営業で一日の休みもなく働いても、利益があがらない。赤字の月もめずらしくない。これではたまらない。品ぞろえや配達、知名度などに物足りない点はあっても、ロイヤリティの安いほかのチェーンに移るほうが得策と思われるのだ。
契約更改に応じる加盟店にたいして、よほどの優遇措置を打ち出さないかぎり、第一回の契約期間を終えた加盟店はなだれを打ってオールデイズから脱退するはずだ。
そんな意味で日本オールデイズは流通業界の注目をあつめていた。おりもおり、佐藤裕一が殺害された。社長代行の都築良平がどんな方針を発表するか、オーナーたちはもちろん、相原邦夫ら社員も固唾《かたず》をのんで社長室を見守っている。
「佐藤社長は強硬方針を唱《とな》えていたらしいな。日本オールデイズはあらゆる面で他の追随をゆるさない。ロイヤリティの高いのはあたりまえだとつねづねいっていた。第二期契約に応じる加盟店には、40パーセントのロイヤリティを提示する肚《はら》だったらしいぜ」
「たった5パーセント引きか。それじゃほとんどの店があまり楽にならないよ。かなりの店が脱退するだろうな」
「しかし、よそのチェーンも、ロイヤリティが安いなりに問題が多いらしいぜ。××チェーンの店なんか、このあいだ、くさった弁当が大量に配達されたそうだ。交通渋滞で配送車が動けずにいるうち、弁当の魚がダメになったわけだな」
「××チェーンは放射能で汚染した牛肉を買いこんだという噂だぜ。貧《ひん》すりゃ鈍《どん》すということだな。ロイヤリティが安すぎるのも、考えものということさ」
社員たちはそんな噂をしていた。
新契約店のロイヤリティをどのラインに設定するか。都築代行を中心にして、役員たちの協議が連日つづいていた。
さまざまな数字にもとづいて経理部門は試算に追われている。新ロイヤリティが高すぎても、低すぎても日本オールデイズの経営は揺らいでしまう。都築代行はもっとも困難な時期に経営責任を負ったことになる。
殺害事件の捜査は、予想どおり難航しているようだった。
相原邦夫はときおり、新聞記者の川添へ電話をいれてその後の様子をたずねた。
刑事たちは黙々と聞込み捜査をつづけているという。佐藤を恨んでいる加盟店のオーナーがあまりに多くて、捜査本部は困惑していた。彼のもとへとどいた脅迫状は、多くのオーナーの気持を代弁している。
佐藤は女性関係でもタフだった。愛人が二人いる。一人には銀座で、一人には赤坂でクラブを経営させていた。
事件の夜、佐藤はパーティのあと客をつれて二つの店をまわった。そのあとで犯人におそわれた。週に二日は出張を口実にして、順番に二人の愛人の家へ泊る習慣だった。
「案外、プライベートの方面から犯人が出るかもしれないぞ。愛人に男がいて、三角関係がもつれたとか」
「それだったら、みっともない話だな。わが社のイメージダウンはさらに深刻になる。来年の契約更改が思いやられるよ」
川添とそんな話をかわした。
毒入りお握り事件のほうは、もう話題にもなっていない。事件直後、オールデイズ・チェーンぜんたいの売上げは三割かた減ったが、すぐにもとへもどった。殺人事件の犯人があがれば、お握り事件の犯人も自然にうかびあがる。捜査本部もマスコミも、そう信じているようだった。
その午後、川添から電話が入った。めずらしく切迫した口調だった。
「千葉直久という社員がおまえの会社にいるだろう。横浜支店の課長だそうだが」
「ああ、いるよ。たしか三年先輩のはずだ。千葉さんがどうかしたのか」
相原は、眼鏡をかけた千葉直久の実直そうな顔を思いうかべていた。
横浜支店で千葉はディストリクト・マネージャーをしている。一年まえにFCから昇格した。まずまずの評価をうけている。
六年まえまで、千葉は目黒区担当のFCだった。内藤ショップの内情などをよく知っていた。相原は彼の後任のFCだった。内藤ショップについて情報をもらったことがある。
内藤英一にたいして千葉は批判的だった。オールデイズの裏をかくことばかり考えている男だと評していた。週一度のFC合同ミーティングで、相原は千葉と顔を合わせている。だが、ここ数年、いっしょに飲んだことはない。
「知らなかったのか。捜索願が出たんだよ。一週間まえから行方がわからないらしい。そうか、会社では発表されていないんだ」
「捜索願――。ほんとうか。一週間まえというと、例の事件の日じゃないか」
「あのときから姿を消したらしいぞ。佐藤裕一殺しとの関連を調べに捜査本部が動きだした。例によってまだ内密だがね」
千葉直久について話がききたい。いまからそちらへゆく。川添はいって電話を切った。
相原は苦笑いした。いつも情報をもらっている借りがある。できるだけ取材に協力しなければならないだろう。
三十分後、川添はやってきた。敏捷《びんしよう》な身のこなしの、小柄な男である。
午後三時半だった。相原は応接室へ川添を通した。
営業部のフロアは五階にある。応接室の窓からは銀座の街なみが見わたされた。
街路樹があざやかな若葉色をしている。お洒落《しやれ》な女たちが歩道をぶらついていた。車が混んでいる。白服の出前持ちが自転車に乗って、車の渋滞を縫って走り去った。
ビジネス街の風景のなかに、そろそろ歓楽街の風景が侵入してきた。久しぶりで一杯やりたい。学生時代の友人に会うと気がゆるむせいだろう、相原はネオンが恋しくなった。
「千葉さんについてくわしいデータが要《い》るんだろう。人事課長にきてもらおうか」
相原は申し出た。
千葉直久のことをあまり知らない。川添の役に立てないかもしれない。
「いや、公式的な話はいつでも取材できる。内輪話《うちわばなし》がききたいんだよ。千葉という男は、社内的に不遇だったのか」
「エリートというほどではなかった。しかし、冷遇されてもいなかったよ。三十五、六で横浜の課長ならまずまずの線だ」
「人柄はどうなんだ。女とかバクチとか、品行に問題のある男かね」
「それはない。堅物《かたぶつ》だよ。融通《ゆうずう》がきかないくらいのおじさんだ。女といっしょに蒸発したり、借金で首がまわらなくなったりするなんて、考えられないね」
さらにいくつか川添は質問した。
できるだけ誠実に相原はこたえた。仕事がつらくて失踪したくなることは相原にもある。他人事とは思えない。
「佐藤社長にとくにいじめられたことはないかな。満座のなかで恥をかかされたとか」
「FC会議でいつも顔をあわせるけど、彼が社長に怒鳴られたことはないと思うよ。だいたい課長クラスが社長に私怨を抱くなんて、まずありえない。社長は雲の上にいる。口をきくこともめったにないんだから」
相原にいわれて、川添はがっかりした表情になった。
千葉直久はなにかで社長を恨むようになった。社長を殺して失踪した――そんなシナリオを頭に描いていたらしい。
千葉は横浜のマンションに住んでいる。家族は地元署へ捜索願を出した。川添の社の横浜支局の記者が、その情報をキャッチした。
失踪した千葉直久が日本オールデイズの社員だと知って、支局の記者は川添に連絡してきたのだ。ひょっとすると、佐藤裕一殺害事件と関係があるのではないか。他の新聞社はまだ千葉直久に注目していない。勇躍して、川添は取材にきたわけである。
川添は千葉直久の家族に会って、失踪当日の模様をききだしてきた。
あの日の朝、出勤まえの千葉へ、どこからか電話が入った。仕事関係の相手からのようだった。
「午後七時――。だめだよ、もっと早くなんとかならないのか。午後五時ごろまでに」
そんなことを千葉はいっていた。
話しあいがつづいた。午後十一時、カンダ。そんな声がきこえた。電話が終った。
「今夜はおそくなる。たぶん午前様だ」
家族にいって千葉は家を出た。それきり帰ってこないのだ。
千葉直久は三千店突破記念パーティに出席した。相原は彼に気づかなかったが、彼を会場で見たという証言はいくつもある。毒入りお握り事件のことも知っていたわけだ。
パーティのあと、千葉は午後十一時にだれかと会ったらしい。場所は神田のようだ。
「共犯者に彼は会った。綿密な打合せのあと出動した。佐藤裕一の億ションのそばで待ちぶせした。犯行ののち姿を消した。こう推理したんだが、当ってないかね」
「当ってないだろうな。動機がない。それに一家の大黒柱たる者が、人を殺して、妻子を捨ててズラかったりするかね。おれは一人者だけど、そんなことは考えられない」
「おまえもわりに気らくな人間だな。このせまい日本でズラかったとしても、人殺しがのうのうと生きていけるわけがないだろう。千葉はもう死んでいるよ。ブンヤの見かたからすれば、それが常識さ」
「自殺したというのか。いやな解釈だな。でも、そのとおりかもしれない。一週間行方不明となればな」
相原はため息をついた。
千葉が佐藤社長を殺したとは思えない。だが、死んでいる可能性は高い。サラリーマンが一週間も雲がくれするなんて、よくよくのことだからだ。
「動機の件だが、たとえば使い込みの事実などはないかね。それなら話がわかりやすくなる。千葉は自殺を決意した。ことのついでに世のため人のため佐藤裕一を殺した」
「よせよ。まるで劇画じゃないか。ブンヤはスクープほしさにいろんなシナリオをでっちあげるんだな。夢見る種族なんだ」
相原は部屋のすみにある受話器をとった。林総務課長につないでもらった。
林は相原にとって大学の先輩である。遠慮なしにものがいえる。
「ある加盟店からきいたんですが、横浜支店の千葉さんが行方不明だそうですね。原因はなんですか。女ですか、使い込みですか」
「もう噂になっているのか。まいったよ。時期が時期だけに、じつにまずい」
林課長は苦虫を噛みつぶした声だった。
昨日から、失踪の理由を内偵している。使い込みの形跡も、女関係のスキャンダルもいまのところ発見されていない。謎の失踪と呼ぶしかないという。
「ここだけの話なんだが、金銭に関していえば事情は逆なんだ。千葉くんの机のひきだしから預金通帳がみつかった。残高をきいておどろくな。千二百万円だぜ」
「千二百万――。ほんとうですか。なんだって彼はまた」
「しかも、この預金のことを家族は知らなかった。彼はヘソ繰っていたんだ。サラリーマンとしては史上最大のヘソ繰りだろうな」
昨年の暮から二百万、三百万という工合に入金がはじまっている。
払出しは一度もない。貯《た》めるいっぽうである。いかにもまじめ男の通帳だという。
「たまげたなあ。千葉さんはどうやってそんな大金をかせいだんだろう。株ですかね」
「まともな手段ではないと思うね。失踪にもたぶんこの金がからんでいる。おれのカンでは、彼はもうこの世にいないんじゃないか。消されたんだ、きっと」
あっさり林は断定した。千葉直久は加害者なのか被害者なのか、相原はわからなくなった。
佐藤社長殺害事件と、千葉直久の失踪を結びつける材料はないか、相原は訊いてみた。林総務課長は、捜査本部と会社との連絡窓口をつとめている。社内では事件にいちばん近いところにいた。
「ちょっと考えられないなあ。営業部門の課長は、社長とめったに口をきくチャンスがないだろう。殺意が湧くわけはないよ。警察も彼はマークしていない」
礼をいって相原は受話器をおいた。
いまきいた話を、川添に伝えてやる。武士は相見互《あいみたが》いだ。
「千二百万――。そりゃなにかあるなあ。よし、千葉の身辺を洗ってみよう。彼は社長命令でダーティな仕事にたずさわって、巨額の報酬を得ていた。そのもつれで、社長を殺した。たぶんそんなところだぜ」
相変らず川添は独断的推理に走った。
せかせかした足どりで社へかえっていった。
ほとんどいれちがいに受付の女の子がやってきた。来客だという。女の子の出した名刺をみると、内藤典子と書いてあった。
相原は心臓が甘くふるえた。すぐ応接室へ通すように命じた。トイレへ入って頭髪とネクタイを点検する。余裕ある笑みをうかべて応接室へ入っていった。
典子は白地の、渋い花模様のあるゆったりした服を着ていた。会釈《えしやく》する顔が、女子学生のころのように若々しかった。
目が紅《あか》く、腫《は》れぼったい。疲れと焦燥《しようそう》が顔に出ている。不健康であるほうが、少女っぽい感じになる女だった。
「ごめんなさい。おいそがしいところを、とつぜん――」
「いや、大歓迎です。でも、できれば夕方にきてほしかったな。食事をして、気のきいた酒場へご案内したいのに」
「いいえ。また店へかえらなくてはならないんです。二十四時間営業になってから、慢性的に人手不足で――」
日本オールデイズの加盟店は、五年ばかりまえから、ほとんどの店が二十四時間営業となった。
会社から指令したわけではない。他チェーンが二十四時間営業制をとったので、対抗上一店、二店とそうなっていった。いまでは95パーセントの店が三百六十五日、二十四時間営業である。内藤ショップも、父英一の死後そのシステムに踏みきった。
電話で相原はコーヒーの出前を注文した。
正面から典子をみつめた。用件を話すよう無言でうながした。
「困ってしまいました。また友弘が警察へ呼ばれたんです。二時ごろ、刑事が二人店へきて、友弘をつれていきました」
典子は表情を歪《ゆが》めた。なにか肉体的な苦痛をこらえるような表情だった。
「どういうわけです。友弘くんは逮捕されたんですか」
「いいえ、任意出頭です。でも、こんどは前回よりもずっときびしい雰囲気でした」
刑事たちは佐藤裕一殺害事件の捜査本部から派遣されてきた。
友弘は事務所で経理事務をやっていた。レジにいる典子に挨拶して、刑事たちは事務所へ入った。事情聴取をはじめた。
十五分ばかり経過した。刑事の一人が典子を呼びにきた。事務所へいってみると、友弘が蒼白な顔で笑いかけてきた。
「弟さんから、さらにくわしい話をきかなければならなくなりました。同意を得たので、いまから捜査本部へ同行してもらいます」
「こんどはちょっと長びくかもしれません。お姉さんもそのつもりでいてください。着替えなど必要なものは、あとでとどけていただきます」
刑事たちは代る代る宣告した。
典子は衝撃をうけた。どういうことなのか説明してほしい。刑事たちと友弘の双方へ、大きな声で要求した。
「弟さんは前回の事情聴取で嘘をついていたんです。事件の日、朝から千葉県の鴨川方面へ釣りにいったという話でしたね。じつはいっていなかった。弟さんが釣りをしたという岩場は、あの日は高波で人が寄りつけなかったんです。地元の人の証言でわかった」
「恰好《かつこう》をつけるためかどうか、浦安あたりまでドライブしましたね。市場で鯛《たい》とサバを買った。昼まえ、モーテルへ入った。三時ごろ出て都内へかえった――」
警察を甘くみるんじゃないよ。あんたの話の裏どりをしたんだ。一週間もあれば、たいてい化けの皮が剥《は》がれる。
中年の刑事が冷やかにことばを吐いた。友弘はうつむいて、肩をすぼめた。
「ほんとうなの、いまの話。友弘、どうして嘘《うそ》なんかついたの」
典子はさけんだ。
全身から血の気がひく思いだった。あの晩の友弘の挙動が不審だった――相原邦夫からきいた話を思いだした。
「事件の時刻には湾岸道路をドライブしていたという話でしたな。その話の化けの皮はまだ剥《は》がれていない。しかし、こうなったらあらためて話をきかせてもらわなければ」
刑事たちにうながされて友弘は立った。姉に向かって、懸命にほほえんだ。
「心配しなくていいよ。おれ、なにもやっていない。警察は商売で疑っているんだ」
友弘は裏口から出ていった。
刑事が左右から彼をはさんでつきそった。任意出頭とは字義だけのことだった。逮捕と変りない消えかただった。
「――そいつは厄介《やつかい》だな。友弘くんは嘘をついていたのか。バレた以上、こんどは徹底的に追及されるだろうな」
相原邦夫は深刻な気分になった。友弘があやしいというカンは当っていたのだ。
熱いコーヒーが運ばれてきた。とりあえず相原は典子にすすめた。
窓の下の車道を救急車が走り去った。厚い窓《まど》硝子《ガラス》にさえぎられて、サイレンはきこえない。温室のように応接室はしずかである。
「私にも嘘をついていたなんて――釣りにいくといって、あの日、弟はなにをしていたのかしら。まさか――」
「友弘くんをつれにきた刑事たちがなにを考えているか、いってみましょうか。友弘くんはあの日、午後三時ごろ浦安のモーテルを出た。女の子といっしょに杉並の加盟店へいった。そこで女の子を店内に入らせて、毒入り弁当を売り場におかせた――」
「モーテルへ入るまえ、お握り弁当を買った。部屋で毒物を注入した。それをもって杉並へ向かったというわけ」
「刑事はお握りのことはいわなかったんですね。買った店を特定できていないんだ。いや、ひょっとすると友弘くんは、内藤ショップの売り場からお握り弁当を三つもって、朝、出かけたんじゃないですか」
お握り弁当三コが売れたと端末機《たんまつき》に記録させる。料金として、自分の金をレジスターへおさめる。これでお握り弁当は、お客に売れたように体裁《ていさい》がととのう。
バイト学生が店番をしていた。だが、早朝は客に起されるまで、レジスターのうしろで仮眠をとっている。友弘がなにをやったか、知らない可能性が大きい。
「いやだ。やっぱりあの子が毒入り弁当事件の犯人なのかしら。カモフラージュのためにうちの店にも毒入り弁当をおいたのね。でも、なんだってそんなまねを――」
「オールデイズのロイヤリティを値下げさせるためです。事件の一ヵ月まえ、彼は佐藤社長へ脅迫状を送った。ロイヤリティを粗利益の30パーセントに値下げしないと、重大な事件が起る、という意味のね」
「脅迫状って、ワープロで書いてあったんでしょう。友弘はワープロができないのよ」
「そんなの、だれかにたのめばいい。モーテルへいっしょにいった女の子が書いたんじゃないかな」
「だれなのかしら、その女の子って。友弘ったら、ガールフレンドがいるなんて一度もいったことがないわ。まったくあの子、なにを考えているのか」
典子はひたいに手をあてた。
うつむいて、目をとじた。懸命にショックと戦っている。どうして、といったものの、弟の気持はわかりすぎるほどわかる。全加盟店の利益のため彼は決起したのだ。
「罪になるのかしら。ねえ、弟は刑務所にいれられるの。脅迫罪かなにかで」
「たぶんね。でも、これはまだ想像ですよ。彼がやったとはまだきまっていない。元気を出してください」
まだ典子はうつむいて動かない。
髪になかば覆《おお》われた首のあたりが、かがやくほど白かった。女の香りとぬくもりがそこから立ちのぼる。
相原は身ぶるいが出た。手をのばして典子を抱きよせたくなる。かろうじてその衝動をおさえた。テーブルごしに典子のひざをみつめて、ため息をついた。
「考えてみると、わが社にとってこの件の処理は非常にむずかしいですよ。裁判になったら、うちは世論の袋叩きになる。逆に友弘くんはヒーローになるかもしれない。ひょっとすると、彼は罪を問われず、万事うやむやに処理されるかもしれませんよ」
相原はつぶやいた。かならずしも典子にたいする気休めだけではなかった。
内藤友弘の脅迫行為をめぐって裁判が行われるとする。
日本オールデイズの非情な加盟店管理の実状があかるみに出る。それだけでも、会社にとって大きなマイナスである。さらに加盟店オーナー四名の自殺が公表されたら、ダメージは決定的である。
オールデイズは残酷な会社だ。あそこの店では買わないようにしよう。消費者がいいあわせて加盟店に寄りつかなくなる。新規加盟の勧誘も、契約更改も、これまでよりもずっとむずかしくなるだろう。
友弘のほうは世間に支持されるだろう。オールデイズに彼は金を要求していない。私利私欲のための脅迫ではなかった。全加盟店のための決起行動だった。
まして彼の父は経営難で自殺している。友弘はこんどの行動で、世間に損害をあたえたわけでもない。おおかたの同情を買う条件はそろっていた。事件を闇に葬《ほうむ》るほうがオールデイズにとっては得策なのである。
「ほんとう。そんなことができるの」
「なんとかできると思いますよ。それよりも問題は、佐藤社長が殺害された時刻になにをしていたか、友弘くんが説明していないことだ。彼にはアリバイがない。湾岸道路を走りまわっていただなんて、おかしいですよ。この点は突かれるでしょうね」
「でもまさか、社長を殺すなんて。それだけの理由がないわ。殺すくらいなら、毒入りお握りをおきにいったりしないと思う」
「そのとおりです。ではなぜ友弘くんはあの晩の行動をはっきりさせないんだろう。ぼくと喫茶店でしゃべったあと、お店へ帰らずにどこかへ消えたのか。午前二時に帰宅するまで、どこで何をしていたのか」
二人はだまりこんだ。
また典子はひたいに手をあてた。
「母になんと説明しようかなあ」
しぼりだすように典子はつぶやいた。
刑事が内藤ショップへやってきたとき、典子の母は買物に出ていた。友弘がつれだされてから帰ってきた。いきさつをきいて寝こんでしまったという。
「心配ない。警察の誤解だとでもいっておきなさい。ショックがおさまれば、すぐ元気になるでしょうよ」
こんどは完全に気休めだった。適当なことばが、相原にはなかった。
やがて午後五時である。典子は店へ帰らねばならない。相原のほうも、事務の仕事がまだたくさん残っていた。
「一人で大変でしょう。仕事が終ったら、様子を見にいきます。FCというのはこんなとき、加盟店のお役に立たなくては」
「相原さんはもうFCじゃないわ。大勢のFCのボスなのに」
「大差ないですよ。ともかく夜、うかがいます。なにかお手伝いできるはずだから」
エレベーターホールまで、相原は典子を送っていった。
エレベーターの扉がひらいたとき、相原は典子の背中を押した。掌に電流が走った。典子の体にさわったのは生れてはじめてである。エレベーターに乗る彼女の優雅な脚が、相原の目裏に灼《や》きついた。
オフィスへ相原はもどった。今夜典子に会えるのだ。そう思うと仕事に熱が入った。能率よく事務をかたづけていった。
内藤ショップ担当の本山が外回りから帰ってきた。きょうは同店へ寄らなかったらしい。夜、訪問することを、相原は本山にいわなかった。いっしょにいく、などといわれてはめいわくする。事件に関することだけは、一人で係わりあいたかった。
午後六時すぎ。相原はそろそろ仕事を切りあげる気になっていた。
電話が鳴った。彼は受話器をとった。佐藤社長殺害事件の捜査本部からである。相原は緊張して応待した。
「内藤友弘の供述の裏をとりたいんです。協力していただけますか」
相手は刑事だった。ことば使いはていねいだが、口調はぞんざいである。
友弘は事件の夜十時ごろ、自宅近くの喫茶店で相原と会ったといっている。まちがいありませんか。刑事は質問した。
「たしかに会いました。内藤ショップから千メートル程度離れた喫茶店です」
「名前はおぼえていますか、その店の」
「なんといったかなあ。わすれました。たしか日本名だったと思いますが」
「神田という店だそうです。まちがいありませんか、それで」
「そうです。神田です。まちがいなく神田という店でした」
話しながら相原は顔が冷めたくなった。
失踪した千葉直久。事件の夜おそく、彼はだれかと会う予定だった。午後十一時。神田。たしかそうだった。偶然にしては、極端すぎる偶然である。友弘はあの店で、千葉に会うつもりだったのではないか。
「あなたとは十四、五分話して店を出たといっています。店のまえでわかれて、彼はドライブに出かけた、と」
「そのとおりです。私はタクシーで内藤ショップへ帰りました」
「なぜ友弘に送らせなかったんですか。彼は車だったのに」
「立入った話をして、彼を怒らせてしまったんです。彼はさっさと店を出ていきました」
後半は上《うわ》の空《そら》だった。
昂奮で相原は頭がぐらぐらした。友弘と千葉直久につながりができた。千葉の失踪に友弘はなにか関係があるのではないか。
刑事はやがて礼をいって電話を切った。勢いよく相原は立って帰り支度をする。
会社のそばのすし屋で、夕食をとった。ビールを一本だけ飲んだ。タクシーで内藤ショップへ向かった。
例の喫茶店のまえを通った。「神田」の標識が出ている。まっすぐ相原は内藤ショップへ車を乗りつけた。
十人ぐらいの客が店に入っている。典子はレジにいた。客が二人順番待ちしている。
パートの主婦が一人、ショーケースに商品をならべていた。母親の姿はない。まだ床にふせているらしい。
典子の手の空《あ》く間を待って、相原はレジへ近づいた。彼女の耳へ顔をよせる。
「いっしょにきてください。例の喫茶店へいきます。重大なことがわかりかけている」
だまって典子は相原を見た。
気迫に圧《お》されたようにうなずいた。パートの主婦を呼んでレジをあずける。ユニホームを着替えるため、奥へ消えた。
「友弘くんの写真を一枚もってきてください。話がわかりやすいから」
相原は声をかけた。事務所で着替える典子の姿が目に入って、いそいで後退した。
典子の車で「神田」へ向かった。いま彼女の車はジェミニだった。
「学生時代はアウディだったのに。どうして国産に切り替えたの」
「あのころは上《うわ》っ調子《ちようし》だったの。生活というものを知らなかったのね。欲しいものがなんでも手に入ると思っていた」
「就職して考えが変ったのかな」
「いろいろとね。格調の高い図書を出している社だったけど、内実は格調どころじゃなかったわ。とくに偉い先生がたの実像にはがっかりしたの。パブなんかで話しかけてくるエッチなおじさんと大差なかった」
「よく家へかえる決心がついたね。きみは雲の上を飛ぶ人かと思っていた」
「父が死んで、弟が一人前になるまで、つなぎの役目が必要だったから。でも、高名な学術出版社の実状をつぶさに見たでしょ。企業もコンビニ店も似たようなものだとわかったの。たいして抵抗はなかったわ」
一キロの道のりのあいだ、多くの事柄を話した。典子とこんなに充実した会話をしたのは、はじめてである。
典子はむかしの典子ではなかった。誠意というものの価値がわかる女になっていた。
相原は勇気が湧いてきた。資産家の息子や雲の上のエリートでなくとも典子の愛を得られそうな気がする。彼女のため身を挺《てい》して働けば、すばらしい報《むく》いがあるはずだ。
二人は喫茶店「神田」へ入った。
席について支配人を呼んだ。コーヒーを注文してから、質問に入った。
「一週間まえの晩、この若者といっしょにお茶を飲んだんです。午後十時すぎでした。おぼえていますか」
相原は友弘の写真をさしだした。
支配人は目をこらした。すぐにうなずいた。顔をあげて相原を見た。
「おぼえています。お客さんとなにか口論していたのでは――」
「そう。向うは怒っていた。この若者、ときどきこの店へくるんですか」
「月に二、三度ですね。たいてい女性とごいっしょです」
「女の人と――。どんな人。きれいな人?」
典子が身を乗りだした。
「きれいなかたですよ。でも、服装なんかは地味です。ほとんど化粧もなさらないみたいで。年齢は二十二、三かな」
「その女性の名前とか、住所とか、わかりませんか」
「さあ、お名前は――。この近くに住んでおられるようなんですがね。何度か通りで出会ったことがあります」
「その女性がきたら、ぜひ電話してほしいと伝えてください。内藤の姉だといって。すみません。大事な用があるので」
典子は支配人に名刺を手わたした。緊張をまぎらわすように彼女はコーヒーを飲んだ。
「友弘くん――この写真の人――がいっしょにくるのはその女性だけですか。男性と会うことはありませんか」
相原が質問する番だった。コーヒーはもう飲みほしていた。
「ええ。たまにあります。このあいだの晩がそうですよ。一週間まえの」
「あの晩――。ぼくと会うまえに彼は一度ここへきたんですか」
「いいえ。あとです。お客さまがお出になったあと、写真のかたはまたもどってこられて――」
相原に怒声をあびせたあと、友弘はここを出て車で走り去った。相原は内藤ショップへもどった。
三十分ばかりたってから、友弘はもどってきた。一人の男が彼を待っていた。三十代後半ぐらいの、まじめそうな男だった。
「それだ。その男、千葉直久にちがいない。眼鏡をかけた、ずんぐりした男でしょう。脂《あぶら》がにじんだような顔をした――」
相原はあせった。他人の風貌を適確に描写するのはむずかしいことだ。
「そうです。グレーのスーツを着てらっしゃいました。ネクタイは、どうだったか。シャツはうすいピンク」
天井をにらんで支配人はいった。懸命に記憶をたどっている。
眼鏡の、ずんぐりした男。まず千葉にまちがいない。
友弘はあの日、女の子に手伝わせて三つの加盟店へ毒入り弁当をおかせた。夜、自宅の様子を見にいった。被害が出なかったか、心配だったのだろう。
そのあと「神田」へきた。午後十一時に千葉直久と待ちあわせる約束だった。
まだ時間は早い。ほかに行き場がないので、腰をおちつけて待つつもりだった。そこへ相原邦夫が姿をあらわしたのだ。
友弘の苛立《いらだ》っていたわけがわかった。相原はまったくの邪魔者だったのだ。
「眼鏡の男がさきにきていたんですね。二人の様子はどんなでした。親しそうでしたか」
「さあ。よくおぼえていません。とくに変ったことはなかったはずですが」
支配人は女の子を呼んだ。
友弘と千葉が使ったテーブルの係の女の子である。
二人のことを支配人は訊いた。友弘の写真を見せられて、女の子はその晩のことを思いだした。相原に向かって友弘は怒声を張りあげた。おかげで女の子の記憶に残った。
「とってもむずかしい顔で話しあっていましたよ。中年の人が怒っていました。若いほうの人は謝《あやま》っていたみたい。こちらのお客さんに怒鳴ったのと立場が反対でした」
「なるほど。中年の男はなにを怒っていたのかな。きみ、きこえなかった?」
「よくわかりません。時間がどうとかいってたと思うんですけど」
「時間か。なんのことなんだろう。友弘くんがおくれたのを怒っていたのかな」
相原は典子と顔を見あわせた。千葉はあの事件にからんでいたのだろうか。
あの晩、千葉は終始友弘にたいして高圧的だったらしい。三十分ばかりで二人は店を出た。千葉は友弘の車に同乗したようだ。
麹町のマンションで佐藤社長が殺されたのは午前一時である。二人がここから犯行に向かったとすれば、時間はぴったりだ。
まさか、そんなことが。相原は頭をふって不吉な考えを追い払った。
身内でもないのに、いつのまにか友弘のことを心配するようになった。典子に魅《ひ》かれているからだ。相原は苦笑いした。これで典子の愛を得られなかったら、とんだ一人相撲になってしまう。
もう質問することはなかった。礼をいって二人は「神田」を出た。
典子といっしょに相原は内藤ショップへかえった。母親はまだ寝こんでいる。お客が七、八人入っていた。
典子は事務所へ入った。あすの仕入れ計画を樹《た》てなければならない。
ショーケースに品切れが目立った。裏の倉庫から商品を出して補充する必要もある。コロッケとカツを揚げなければならない。レジも、パートの主婦一人では手が足りない。
「事務をやりなさい。店のほうはお手伝いしますから」
ハンガーに友弘のユニホームがあった。
上衣を相原は着替えた。店に出ようとする。典子に呼びとめられた。
「ありがとう、相原さん。なんといって感謝すればいいのか」
椅子に腰かけたまま、典子は上体をねじってこちらを見ていた。
目に涙がたまっている。相原はうろたえた。返事のしようもない。
「これまで私、失礼なことばかりいってきたのに。ごめんなさい。やっと私、わかったの。私にとって最高の男性は、いちばん誠実に私を愛してくれる男性だってこと――」
相原は頭が朦朧《もうろう》となった。いつのまにか相原は典子のすぐまえに立っていた。
上体をかがめた。顔を近づける。典子は顔をあおむけて、目をつぶった。
典子のあごの下を相原は指でささえる。さらに典子をあおむかせた。
くちづけする。かるくくちびるをひらいて典子は迎える。あっさりしたキスになった。かすかなバナナの香りがした。
相原は情熱にかられた。典子の腋《わき》に手をいれて立たせる。抱きしめた。典子の体が折れそうなほど力をこめる。
激しいキスになった。舌をからませてゆく。意外に典子は受身だった。すべて任せきったように体の力をぬいている。呼吸はみだれていた。相原はひざがふるえた。典子を抱きしめたまま、顔をあげて、せまい事務所を見まわした。これが現実の事件であることを、たしかめずにはいられない。
「恐いわ。私、一人なんだもの。相原さん、おねがいだから私をまもって」
「わかっている。なんとしてもきみと店をまもってあげる。心配するなよ」
パートの主婦の声が店のほうからきこえた。典子を呼んでいる。
大きな声で典子は返事をした。手ばやく髪をなおして、典子は出ていった。
ゆっくりと相原もあとにつづいた。事件のことをあれこれ推理しながら、店の手伝いをするつもりでいる。
7
予想どおり内藤友弘は、捜査本部のある麹町《こうじまち》署に留置されたままだった。
連日、きびしい取調べをうけているらしい。見かけよりも彼は意志が強固だった。三日間も黙秘をつづけた。
四日目にやっと、毒入りお握りを三ヵ所の加盟店においたことをみとめた。
警察の調べたとおり、事件の日、友弘は浦安のモーテルから女といっしょに杉並へ向かった。商店街のなかの小林ショップという加盟店のそばで車をとめた。同乗していた女に毒入り弁当をおきにいかせた。
ついで渋谷の前田ショップへ向かった。同じようにお握り弁当をおいた。最後は自分の店でそれをやった。
三つの毒入りお握り弁当は、相原邦夫の推理したとおり、友弘が朝、店のショーケースからもちだしたものだった。端末機に数字を、レジスターへ現金をいれたので、もちだしの痕跡が残らなかったのだ。
いっしょに行動した女性の名を、友弘は知らないといい張った。
六本木のディスコでその女と知りあった。向うが名前や住所を教えたがらないので、訊《き》きだせないまま交際している。水商売関係で働いている女のようだ。毒入りと知らずに彼女は弁当をくばった。彼女に罪はない。友弘はそう主張しているらしい。
千葉直久と知合いであることは、友弘はみとめた。事件の晩、落合ったことが「神田」の従業員の証言でわかったので、否認のしようがなかったようだ。千葉とはただの友人だと友弘は説明していた。彼がFCとして内藤ショップへ出入りしていたのが縁で、つきあっているといっている。
典子や母親のもとへも、刑事たちが聞込み捜査にきた。二人とも、ほとんどなにも答えられなかった。じっさい弟についての知識が彼女らにはとぼしかった。女のことも千葉直久のことも、はじめて知ったのだ。
毒入り弁当をくばったことはみとめたものの、佐藤社長あてに脅迫状を出したことは、友弘は否認しつづけた。
自分はワープロができない。つきあっている女にもできない。それに自分が脅迫状を書くとすれば、「死者の無念をひきつぐ」といった文句を使うはずがない。そう友弘は主張した。そんな文句を使ったら、脅迫者が自殺したオーナーの息子であることを宣伝するようなものではないか。じっさい捜査本部はその文面から友弘をマークして、内藤ショップに刑事を派遣したのである。
脅迫状については、じつは相原も同じような疑問を感じていた。「死者の無念――」の文句を最初きいたときから、友弘の文章にしてはおかしいと思っていたのだ。何者かが、友弘たちの犯行にさきがけて、佐藤社長に脅迫状を送った。友弘たちが弁当くばりをやることを、予知してでもいたようだ。
事件の夜十一時、友弘はふたたび「神田」へ車を乗りつけた。
待っていた千葉直久と話しあった。十一時半ごろ出ていった。その後二人はどうしたのか。刑事たちは友弘に説明をもとめた。
「千葉さんはホテルニューオータニに用事があるといっていました。車で送っていきましたよ。ぼくはそれから湾岸道路へドライブに出ました。昂奮していたので、帰っても眠れそうになかったから」
それしか友弘は話さなかった。
つれの女とは毒入りお握りをくばり終ったあと、すぐに別れた。夜の仕事があるので、彼女はいそがなければならなかった。
友弘はその女性を愛している。結婚するつもりでいる。だが、彼女は水商売で働いている。反対されるにきまっているので、母にも姉にもまだ紹介していない。
「脅迫状を出していないとすれば、なんのためにきみは毒入りお握りを加盟店においたのかね。ただ世間をさわがすためか」
「いいえ。佐藤社長へ反省をもとめるためです。あとで主旨を説明する手紙を出し、ロイヤリティ料の引下げを交渉するつもりでした」
「きみには仲間がいるんだろう。千葉もその一人らしいな。千葉がどこへいったか、ほんとうに知らんのかね」
「知りません。ホテルニューオータニの新館のそばで車をおりました」
「信じられないな。いっしょに麹町へいったんじゃないか。ホテルニューオータニから佐藤社長のマンションまで目と鼻のさきだ」
「社長を殺したりはしません。理由がない。ロイヤリティ料を値下げしてくれれば、ぼくらは充分なんです。殺しても仕様がない」
「では千葉がやったのかね。車をおりて彼は歩いて社長のマンションへいった」
「知りませんよ。本人にきいてください。ぼくは無関係です。人殺しなんか――」
そんな調子で取調べがつづいた。
友弘は疲れて、情緒不安定になっている。もうすぐ落ちるだろう。彼が佐藤社長の殺害犯人であるかどうかは五分五分《ごぶごぶ》である。彼の供述によって展望は一気にひらけるはずだ。千葉直久の消息もたぶん同時にあきらかになるにちがいない。
非公式談話だが、捜査一課長がそう話したということである。捜査に暗い見通しを抱く刑事はいないようだった。
新聞記者の川添をつうじて、そうした情報がすこしずつ相原の耳に入った。それを土産《みやげ》に相原は毎晩内藤ショップを訪問した。
深夜まで店を手伝った。友弘の代りをつとめた。手の空いたとき、事件のことを典子と語りあった。着替えなどの差入れに典子はもう三度も麹町署をたずねている。友弘との面会はまだゆるされていない。
典子の母は相原の顔を見ても、以前と同じようににこりともしない。相原が挨拶しても、そっぽを向いた。典子がとりなすのだが、態度は変らない。オールデイズにたいする恨みの念で、彼女は凝《こ》り固まっていた。
それでも、以前のように、喧嘩を売ってくることはなくなった。口のききかたに多少とも気をつけるようになっている。相原と典子が日々親しくなってゆくのに感づいたのかもしれない。典子はまだそのことでいやみをいわれたことはないようだった。
友弘が留置されて一週間が経過した。
いそがしい日だった。午前九時から会議。午後からは加盟店がしでかした不正経理のあとしまつに奔走しなければならない。
朝からの会議は十一時に終った。相原はオフィスでデスクワークをはじめた。待っていたようにFCの本山から電話が入った。内藤ショップの近くの公衆電話ボックスにいるという。
「びっくりしました。内藤ショップ、現在立入り禁止なんです。刑事が七、八名きて住居や事務所をしらべています」
「家宅捜査だな。そうか。友弘くんの口が固いんで、警察があせったんだろう」
相原はうなずいた。こんなことがあってもいいころだった。
「典子さんはどうしている。元気か」
「捜査に立会っているんだと思います。姿がみえません。店にはパートが二人います。開店許可のおりるのを待ってるみたいです」
「わかった。じゃまになるとわるいから、きみ、つぎの店へまわりなさい。それからパートの人に典子さんへの伝言をたのんでくれ。捜査が済みしだい電話してほしいって」
刑事たちとやりあう典子の姿が目にうかんだ。相原は苦痛をおぼえた。
最近典子はやせてきた。心労がひどいのだろう。事件が一段落したらハワイにでも静養に出してやりたい。心からそう思った。
電話を待って、相原は昼休みもずっと席にいた。出前のラーメンで昼食をとった。
それがよかった。一時すこしまえに電話が入った。典子の声は案外元気だった。
「大変だったな。本山からきいたよ。どうだった、無事に済んだか」
「お店のほうはそんなにひっかきまわされなかったわ。でも、住居と事務所はひどかった。とくに友弘の部屋は、もう徹底的――」
「なにが欲しかったのかな、サツは。友弘くんの交友関係でも知りたかったのか」
「そんなところね。手帖とか電話番号簿とか名刺とか押収していったわ。それから郵便物も。オールデイズ関係の書類もいろいろもっていった」
「ガールフレンドの身許《みもと》が割れるだろうな。千葉直久との関係もはっきりするかもしれない。しかし、友弘くんは、そのへんをどうしていい渋っているんだろう。なにか厄介《やつかい》な事情があるんだろうけど」
「それからもう一つ、大変なことがわかったの。友弘ったら、銀行から勝手にお金をひきだしていたのよ。裏の土地を担保にして」
典子はゆっくりした口調になった。
かえって動揺の激しさがわかった。友弘の個室にはキャビネットがある。刑事たちの指示で典子は鍵をあけた。
保険証書、預金通帳、株式の預り証などとともに銀行融資の書類が出てきた。ガレージに使っている土地が担保になっていた。
「金を借りていたのか。いくらぐらい」
「大きいのよ。千二百万円も。百万とか二百万とか、何回かにわけて引出している。担保の土地は時価一億円以上するから、貸出枠はまだまだ余裕があるんだけど」
「待ってくれ。千二百万といったな。たしか千葉さんの預金が千二百万だったぞ」
相原は衝撃をうけた。
偶然にしては金額が一致しすぎている。友弘の借りだした金は、千葉直久の預金口座へ移動したということではないか。
融資の書類を、典子にとりにいってもらった。内容をチェックした。昨年暮に二百万、それからほぼ一ヵ月ごとに三百万、百五十万、二百万、二百五十万、百万円の借入れとなっている。合計千二百万円だ。
相原はメモをとった。とりあえず電話を切った。すぐに総務部へ向かった。
林総務課長は来客数人と面談中だった。黒っぽい服をきた、目つきのわるい男たちだった。みんな髪が短い。パンチパーマの男もいる。一見して暴力団関係者とわかる連中だった。総務課長はああいう連中とも接触を保っておく必要があるらしい。
相原は目くばせして林を呼んだ。けげんな顔で林は立ってくる。千葉直久の机から出てきた預金通帳の入金明細を教えてほしい。声をひそめてたのみこんだ。
「入金明細――」
林は目を大きくして相原をみつめた。
もともと大きな目だ。眼球がぐるりと無気味に一回転した印象である。
「いいよ。メモはとってある。でも、どうしてきみ、そんなものを」
「毒入りお握り事件の内藤友弘が、銀行から千二百万円借りだしているんですよ。昨年の暮から二百万、三百万という工合にね。照合してみようと思って」
「なんだって。きみはつまり、千葉くんが内藤ショップから千二百万円を――」
「そうじゃないかと思うんです。たぶんそうです。千葉さんはなにか内藤友弘の弱味をつかんで、脅《おど》しをかけていたんだ」
林は沈黙した。むっとした面持《おももち》で自分の席へもどった。
机のひきだしからメモ帳をとりだして、もってきた。相原のメモと照合する。まちがいはなかった。友弘が銀行から借りだした金はそのつど千葉にわたっている。千葉はその金をそっくりヘソ繰っていた。
「毎日の売上金を銀行からオールデイズ本社へ送金するついでに、友弘は千葉さんの口座にも振り込んだんでしょう。たぶん架空名義の口座だろうな。千葉さんはそれを引出しては、自分の口座にいれていた」
「悪党にしては几帳面《きちようめん》だな。いや、千葉くんは元来が実直な男だ。どうして曲ってしまったのかな。人間は不可解だよ、まったく」
「しかし、友弘が脅される材料はなんだったんですか。どうもわからないな。千二百万円も脅しとられるなんて、よほど大きな弱みがあったはずなんですが」
相原はその場で考えこんだ。
典子、友弘、母親、死んだ父親。一家の顔が脳裡にうかんだ。脛《すね》に傷をもつ家族だとはとても思えない。
「われわれが考えても仕方がない。犯人さがしは警察にまかせておけばいいんだ。深入りするなよ。さあ仕事だ仕事だ」
林は来客のほうへかえっていった。
小太りの体がゴムまりのように弾《はず》む感じである。妙に林は元気そうだ。新社長の都築と、彼につながる役員たちに重用される見通しなのかもしれない。
加盟店の世話に追われるうち、夕刻になった。一息いれてから、相原は警視庁の記者クラブへ電話をいれてみた。
川添は席にいた。佐藤社長殺人事件の捜査本部へ顔を出してきたという。関連の原稿を書きはじめたところらしい。
「内藤ショップがガサ入れされたぞ。そうか、もう連絡があったのか。捜査になにか進展があったらしいよ。くわしいことはこっちまで洩れてきていないけど」
川添はやや閉口した口調だった。毎日のように相原が電話をいれるからだ。
「済まないな、めいわくをかけて。きょうはお返しにこっちが情報をやろう。例の横浜支店の千葉直久、あの男のヘソ繰った千二百万円は内藤ショップから出ていたんだ」
「なんだって。内藤ショップから。ほんとうか。おい、それどういうことなんだ」
「わからない。友弘しか事情を知らないんだ。友弘はいまごろ、その点を調べられているはずだよ。もう吐いたかもしれない」
「そうか。これはぐずぐずしていられないな。捜査本部へ逆もどりするか」
川添は電話を切りかけて、ふっと思いとどまった様子だった。
「ガサ入れに参加したデカにきいたんだが、内藤ショップの娘はすごい美人なんだってな。おまえ、知っているんだろう。うまくやっているのか」
「いや、べつに。古くから知合いであるにはちがいないけど」
相原は顔が熱くなった。直接顔をあわせていなくて幸いだった。
「ほうぼうに手を出すのもいいが、おまえもこのへんで身を固めたらどうだ。三十男の独身は、どこかバッチイ」
「ご心配なく。月に二度や三度はソープで体を洗っている。清潔なもんだ。自由を謳歌《おうか》してるんだから、ほっといてくれ」
「その内藤ショップの娘、いいと思うんだがなあ。美人でしっかり者だそうじゃないか。アイデアも豊富らしい。あの店のショーケースはすごいってデカが感心してたぞ」
「ショーケースが。なんのことかな」
「よくわからないけど、釦《ボタン》式で商品が入れ替るようになっているそうじゃないか。あれだったら一々並べ変える必要はない。じつに合理的だとデカがいっていた」
相原は一本の棒で、体をたてにつらぬかれたような気がした。
一瞬、視界が暗くなった。相原は濠《ほり》の底にいた。黒い水が上からどっと注がれてくる。水はさまざまな考えだった。感情でもあった。記憶もあった。それらに彼はおぼれそうになった。早く整理をつけなければならない。水から頭を出すのだ。
「どうした、急にだまりこんで。おれはこれからもう一度捜査本部へいってくる。なにかあったら、また連絡するからな」
川添が電話を切った。
相原はわれにかえった。濠に黒い水があふれて、彼は水面にうかんでいた。水から頭が出ている。彼はため息をついた。おれも甘い男だ。自嘲《じちよう》の笑いがこみあげてきた。
その夜、九時ごろ相原邦夫は内藤ショップを訪問した。
バイトの学生が二人レジに出ていた。客は五、六人である。
典子は事務所にいた。彼女を見て相原は声をあげた。
典子は着物姿だった。うす青い夏物の単衣《ひとえ》に赤い帯をしめている。素足で、赤い鼻緒の草履《ぞうり》をはいていた。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
典子はほほえんだ。こわばった表情をむりにやわらげたのがわかった。
「どうしたの、きょうは。店には出なくてもいいの」
「連日大変だったから、たまにお休みしようと思って。母はきょう静岡へいったの。おばあちゃんの法事なもので」
家のほうへあがってください。用意がしてあるんです。典子は腰をあげた。
さわやかな石鹸《せつけん》の香りを相原は感じた。典子の髪は湿っている。肌にすきとおった印象があった。入浴の直後のようだ。
相原は典子にたいする不信の念が、半分は消えてしまった。これでは甘すぎる。自分にいいきかせた。いっしょに住居へ入った。玄関へあがると、すぐに左手の部屋へ足を向けた。典子がうしろから呼んだ。相原はふりかえらなかった。
その部屋は大広間だった。十二畳ある。壁にワインカラーの厚いカーテンがひいてあった。相原はカーテンをあけた。横十メートルもある大きなショーケースがあらわれた。四段になっている。スナック、インスタント食品、菓子などがぎっしり陳列されてある。
いずれも有名メーカーの品物ではなかった。キャッシュ・オン・キャリーからきた低価格の商品ばかりである。むろんオールデイズの品ぞろえ以外の商品ばかりだ。
商品を相原は手にとってみた。有名メーカーの商品と大差のない値札が貼ってある。この価格なら利益率は高いはずだ。
「いつから――」
商品をもったまま相原は訊いた。
ふてくされた高校生のような顔で典子はそばに立っていた。
「三年まえ。友弘の代になってからです。あの子、自分で設計したの」
小声で典子はこたえた。友弘は大学で建築を専攻したのだ。
ショーケースの左右を相原はさがした。部屋の右の柱のそばに配電盤がある。ケースのふたをあけてみた。ケースは横に、二つに区分されている。下の小さな区分のほうに、釦が二つならんでいた。
これだな。相原は典子をふりむいた。
典子はうなずいた。待って。声をかけて彼女は店へ出ていった。バイトの学生たちに用をいいつけて事務所へ入らせる。ショーケースの秘密を知らせたくないのだろう。
「用意ができました。店へ出て、見ていてください」
典子がいって配電盤へ近づいた。
相原は店へもどった。スナック、インスタント食品、菓子などの売り場に黒いカーテンがひいてある。店の客が気づかぬうちに細工のできる仕掛けになっている。
かすかなモーター音がした。黒いカーテンの陰でなにかが動く気配があった。
相原はカーテンの端をあけてなかを見た。壁のなかへショーケースがこちらを向いたまま吸いこまれてゆく。壁はさっきの部屋と店の仕切りの役目をしていた。そこにショーケースと同サイズの穴があいているのだ。
三メートルばかりショーケースは後退した。ゆっくり回転をはじめた。やがて、裏返しになった。静止してからこちらへ出てくる。しばらくすると、売り場の品物がそっくり入れ替った。
相原はカーテンをあけた。一見さっきまでと同じショーケースが壁のまえにおかれ、商品が積みあげてある。売り場の光景にほとんど変化はない。だが、商品がそっくり入れ替っていた。いま売り場に展示されているのは、現金問屋から運ばれた安物ばかりだ。
「なるほどうまくできている。だが、残念ながら、ガサ入れの刑事には仕掛けを見やぶられてしまったわけか」
相原は大きなため息をついた。
典子がそばでショーケースを見ている。石鹸の香りが相原の鼻孔にしのびこんだ。
「配電盤のなかまで刑事は調べたの。すぐに変った釦があるのに気がついたわ」
「しかし、これだけの仕掛けをやるとなると、かなりの投資だろう。どの位かかった」
「よくわからないわ。百万、いえ百三十万くらいかしら。そんなものだったはずよ」
「現金問屋から品物をもってきても、百万も回収するのは大変だったろう。うちの品ぞろえはスケール・メリットを生かしている。仕入値は現金問屋と大差ないんだから」
典子はなにかいいたそうにした。
口をつぐんで店内を見まわした。
「いきましょう。せっかく用意したんだから。今夜は私、休みなのよ」
典子は相原の腕をとった。
二人は内藤家の住居へもどった。
さっきとは反対の方向にある応接室へ相原は案内された。
七、八人で利用できる部屋だった。こけおどしの装飾のない、シンプルな家具の配置である。古いスペインの街の画が掲げられていた。サイドボードに画集が詰まっている。
テーブルにスコッチのボトル、タンブラー、氷の容器などがおいてあった。典子は部屋を出て、料理をもってかえってきた。
キャビア、生ハム、グリーンサラダ、チーズなどが大皿に載っている。典子は相原の左手に、直角に向かいあって腰をおろした。
相原がオンザロックスをつくった。典子も同じものを飲むという。とりあえず乾盃した。相原の胸のうちから不信の念がほとんど拭《ぬぐ》い去られていた。
「内藤ショップはあんな仕掛けをつくって不正仕入れをやっていたんだな。端末機に入れない売上げをつくって利益率をあげてきた。FCがくると、ショーケースをひっくり返して、有名品の売り場に見せかけた。うちの本山もぼんやりしている。見やぶれなかったんだ」
「こんなことをはじめた弟の気持もわかってやってください。父はさんざん赤字になやんで、最後はレジの不正をやったの。それを当時のFCに見つかってしまって」
典子はタンブラーをもったまま、考え深い面持になった。
顔が冴《さ》えわたった。美しさに相原は息を呑んだ。魅かれるよりも、感動にかられた。
いくら働いても、粗利の45パーセントを本部に吸いあげられる。すこしも金が残らない。典子の父の英一は、疲れはてたすえ、レジスターに細工《さいく》して売上げ減をよそおう手口を考えだした。
適当な時期にレジの数字を999999と限度額いっぱいに打ちこむ。つぎに1を加えて一回転させる。ゼロになる。それまでの売上げが消えてしまう。そのぶん、当日の本部への送金がすくなくて済むわけだ。
典子の父の英一はしばしばこの手で息をついた。指定問屋以外の間屋から商品をとり、伝票操作でごまかすこともやった。天ぷら、カツ、コロッケ、焼飯など自家製品をこっそり売ったこともある。
学生時代、典子が父の仕事に冷淡だったのは、FCの目を盗んでやる不正行為を見ていたせいもあった。典子は父を軽蔑していた。コンビニエンス・ストアの娘であることを、恥ずかしくさえ思っていた。
不正仕入れがばれて、英一は何度か本部にペナルティを払わされた。まともにやってゆくより、かえって高くつく始末だった。そのうち、FCにレジの不正を見やぶられた。五百万円のペナルティを払うか、すべてを清算してオールデイズを脱退するか、二つに一つを英一はせまられた。なやんだすえ、英一は自殺してしまった。
「いきさつを知って、弟は意地になったのね。やられ放しではいない。やり返してやる。そういってさっきの装置をつくった」
「なるほど。月に一、二度あのショーケースにおく商品をファースト・フードにしたり、なま物にしたりすれば、売上げ記録のバランスもくずれずに済むからな。しかし、あの程度でどれだけ利益があがるんだ。せいぜい十万程度じゃないの」
「もっと。三十万はいくわ。いままでそうだったのよ」
「おかしいな。現金問屋の商品だって、そんなに安く買えるわけがないのに。なぜそんなに利益があがるんだ」
「仕入値が安いの。現金問屋価格の、そのまた半分ぐらいなのよ。だから――」
「どうして。どうしてそんなに安く入るんだ。考えられないよ」
いってから相原は思いあたった。息をのんで典子をみつめた。
「仲間がいるのか。そうだろう。大勢で共同仕入れをやるから安く入る。ほかにもこの仕掛けをもっている加盟店があるんだな」
相原は声が大きくなった。思ってもみなかったことだった。
「教えてくれ。仲間の店はどのくらいあるんだ。何軒で共同仕入れをやっているんだ」
「いいわ。どうせわかることなんだから。きょう、警察に資料をもっていかれたし――」
目黒区で二十店。典子はつぶやいた。相原は茫然となった。
「杉並、渋谷は十五店ずつ。合計五十店で共同仕入れをしているの。だから安く買えるのよ。ファースト・フードでもなんでも」
「五十店。五十店もあるのか。まるで反乱じゃないか。一軒一軒、友弘くんがあの装置をすすめてまわったのか」
「そうなんです。おかげでもちなおした店がたくさんあるの。友弘を救世主だっていう人もいるわ。もちろんお世辞だけど」
共同不正仕入れの五十店は、緊密なネットワークを組んでいる。
日本オールデイズのFCがいまどこにいるか、どこからどこへ移動中か、すべて電話とファクシミリで連絡がとられる。FCがくればその店はオールデイズから提供された製品を展示し、FCが去れば不正仕入れの安物を展示する。
回転式の陳列ケースは、ふつう、母屋との仕切りの壁にしか取付けできない。売り場の一面しか、不正仕入れ商品に提供できないことになる。それでも装置をおけば、月々の利益率が大きく向上した。息子の学資や老人の入院費用がこれでまかなわれた例が多い。
特殊なショーケースの話を川添からきいたとき、たぶん不正仕入れだと見当がついた。だが、まさかこれほど大がかりに行われているとは思わなかった。
サラリーマンの立場としては、すぐ上に報告しなければならない。へたをするとディストリクト・マネージャーの責任になる。
あした報告して、対応策を幹部間で考える必要があるだろう。あぶないところだった。世の中、油断も隙もならない。
「千葉直久という男に、友弘はお金をせびりとられていたのね。千葉はこの不正仕入れのことをどこかでつかんだのよ。バラすといって友弘を脅した」
「そんなところだろうな。しかし、五十店も仲間がいるんだから、ほかのオーナーを脅してもいいのに。どうして友弘くんだけから金をせびったのかな」
「友弘が首謀者だからよ。もしかすると、千葉は五十店の正確なリストをもっていないんじゃない。いやなやつ。蛭《ひる》みたいに吸いついて、弱い者いじめをして」
オンザロックスを典子はあおった。
酔ってきたらしい。目もとがうるんできた。テーブルに肘《ひじ》をついて体をささえる。着物の袖がずり落ちて、肘から上があらわになった。肌がやわらかく湿っている。働いているときの腕とちがって淫《みだ》らな感じがした。
「ほんとうはね、私、むかし千葉にプロポーズされたことがあるの。彼がうちの担当のFCだったころ。私、学生だったわ」
「おれがこの地区のFCになる直前のことだな。そうか。そんなことがあったのか」
相原は当時の典子を思いだした。
一流私大の女子学生だった。アウディで颯爽《さつそう》と通学していた。資産家の息子や、各分野のエリートである取巻きが多かった。
千葉はしがないサラリーマンだった。若さと実直さが取得《とりえ》で、風采もあがらなかった。典子を見染めて、勇をふるってプロポーズした。当時の典子がどんな応待をしたか、話をきかなくとも見当がつく。
「そのことがあってから、彼、うちの店にひどく辛《つら》く当るようになったわ。小さなことを一々本社へ報告して。そのうち彼、転勤になった。父が本部に告げ口したせいだといってた」
典子は沈んだ声で話した。
ふっと顔をあげた。笑みをうかべたが、すぐにまたさびしそうな表情になった。
「友弘はどうなるの。刑務所へいくの」
「どうなるのかなあ。たいした罪にはならないと思うけど。まさか彼、殺人事件には関係していないだろう」
「私、しっかりしなくてはいけないわね。友弘はもう当てにならない。あいつの分もかせいでやらなくては」
「がんばれよ。おれ、力になるぞ。きみがやっとおれを認めてくれたから、生甲斐《いきがい》ができた。きみのためならなんでもする」
ふっと典子が立ちあがった。なにか用事ができたのかと相原は思った。
典子は近づいてきた。相原とならんでソファに腰をおろした。
抱きついてくる。二人はくちづけをかわした。もう何度もキスは経験している。呼吸が合ってきた。同じ速さで二人はたかぶっていった。
典子は着やせするたちらしい。外見はほっそりしているのに、抱きよせると、ゆたかな、なまなましい量感があった。起伏のはっきりした体である。
「夢をかなえてくれるんだね。きょうこそ、おれの十年の夢を――」
典子の耳へ息を吐きかけてやる。
典子はうなずいた。苦しそうに顔をしかめている。胸のふくらみが前後に動いた。
着物の袖口から相原は手をさしいれた。ふくらみに指がとどいた。
ふくらみは大きいほうだ。若々しくはずんでいる。先端は小粒で固かった。相原は指をこまかく動かしてみる。典子は両手をちぢめて息を吸いこんだ。呼吸のみだれをおさえようとする。かえって息づかいが耳についた。
左右の乳房を代る代る相原は可愛がった。典子は体の力をぬいてもたれかかってくる。
相原は腰をあげた。典子をソファに横たわらせた。ひざまずいて典子をみつめる。着物のうえから、右手で彼女のふとももをなでさすった。下から上へ、何度もくりかえした。しだいにふとももの内側へ移った。着物のすそがみだれて、ふとももの一部が覗いた。
相原は典子の裸身をながめたい欲望にかられた。何度となく思い描いた裸身である。電灯のもとへ横たわらせて、イメージが体にあふれるほどながめてみたい。
同時に相原は、着物をぬがせるのが惜しくもあった。単衣がみだれて、襟《えり》もとやすそから肌がこぼれている。端整な顔と、みだれた着物の対比がすばらしかった。美しくて、しかも淫らである。
どうしてよいか相原はわからなくなった。
横たわった典子の着物のすそを、ふともものあたりで左右にひらいた。手をすべりこませる。すべすべした双《ふた》つの円柱にふれた。そのまま、さかのぼった。双つの円柱が控え目に左右に離れる。急にはっきり別れた。
相原はあらためて典子の顔へくちづけにいった。同時に右手で典子の女をさぐっていた。あたたかいぬかるみに指がすべりこむ。小さな蛇となって動きはじめた。
典子は声をあげた。声はやさしくふるえていた。しばらく尾をひいて流れる。やがて、流れにことばが浮かんだ。愛を典子は告白していた。みだれきってしまわないと、告白のできない女だった。いま自分がどんなに幸福な状態であるか、訴えている。
典子の体が反《そ》ってきた。やがて、揺れはじめた。典子はことばを失った。声と喘《あえ》ぎだけになっている。思いきり反って、体をのばした。何秒か呻《うめ》いた。
相原はぐったりしている典子の帯をといた。着物をぬがせた。均整のとれた裸身が、黒の革貼りのソファに横たわった。
典子の脚をとって、正面を向いて腰かけさせる。ひざからふとももへ、相原はくちびるを這わせていった。舌をおどらせた。やがて、ふとももを左右にわける。相原の激しい好奇心がゆっくりとみたされていった。
あなたのもの。あなたのもの。典子はうわごとをいう。羞恥心は消えたようだ。
相原は典子の女にくちづけにいった。あたたかいぬかるみのなかへ、相原のくちびるがじわじわと沈んだ。安堵《あんど》の念にひたって、何秒か相原は目をつぶった。典子の心の奥底にやっとたどりついたという気がする。
すぐに相原の舌は魚になった。ぬかるみのなかを泳きだした。まわりの部分もなぞった。甘美な神経の網目をくぐって、魚は往《い》ったりきたりをくりかえした。
しばらくそうしていた。典子の両手が相原の頭髪をかきむしりはじめた。裸身のなかへ相原は包みこまれる。呻き声がきこえる。強く包まれたあと、相原は解放された。
典子は横向きにソファに載っている。両ひざを抱くようにして、丸くなっていた。思いきりみだれたあと、羞恥心がよみがえったらしい。上向きに張りだした美しい乳房をながめながら、相原は服をかなぐりすてた。
息のみだれがおさまったらしい。典子はこちらをみた。相原は突っ立っている。両手で典子は相原の腰を抱いた。ひきよせる。
相原の男性が、典子の顔のまえに突きだされた。この世でもっとも優雅で上品なものが、もっとも野蛮なものに対比される。
優雅な典子の顔が歪《ゆが》んだ。口のなかへ彼女は男性を迎えた。ゆっくりと前後に動きだした。典子は目をとじている。口がとがっていた。苦しげで、やさしい表情である。
息をつめて相原は典子の顔を見おろしている。夢ではないのだ。自分にいいきかせた。十年もあこがれつづけてきた女が、いま口をとがらせて淫らな奉仕をつづけている。その様子を見るだけで、入社以来のこれまでの苦労が報われた気分だった。
典子の表情がしだいに切迫してきた。
苦悶の色が濃くなった。奉仕することで典子もたかぶっている。陶酔して、あえいで、気をとりなおして舌を動かしてくる。
相原の体のなかで快感が盛りあがった。典子の表情を見おろしていると、快感は荒々しい性質をおびてきた。相原はもう、愛撫をたのしむ余裕がなくなった。
奉仕をうけながら、相原はテーブルをわきへどけた。典子の腕をつかんで、ソファからひきずりおろした。あおむけにおし倒す。両手を相原の首に巻きつけて典子は倒れた。
相原は典子のなかへ入っていった。二人はつながった。相原は動きだした。典子が声をあげる。白い裸身がしっかりと相原にまとわりつき、上下にうねりはじめた。
しばらくそうしていた。相原はときおり典子の顔に目をやった。まぎれもなくいま典子を抱いている。何度もたしかめずにはいられなかった。
典子は無我夢中だった。勢いよく下腹を相原の下腹へこすりつけてくる。草むらと草むらが一つになり、摩擦しあう。典子の腰の動きが、自尊心や、打算や、疑いや、不安や、よけいなものをすべて捨て去ったことをあらわしていた。典子はいま欲望のかたまりである。べつの人格になっている。
典子の声が呻《うめ》きに変った。何秒か、彼女の体はやわらかくなった。かまわずに相原は動きつづける。典子の体にまた硬さと弾力がもどった。ふたたび彼女は揺れはじめた。
典子の体が熱くなった。肌が溶けはじめた。相原の皮膚も同じように溶けはじめている。二人の体が一つに融合されてゆくのがわかった。おたがいの無数の細胞がまじりあって、新しい一つの肉体をつくりだしてゆく。
典子が相原を呼んだ。相原のほうも典子を呼びつづけた。一つになっているくせに、呼ばずにはいられない。
二人はしずかになった。抱きあったまま、ときのたつのにまかせた。
8
相原邦夫の報告によって、日本オールデイズの上層部は騒然となった。
ただちに十名のFCが、杉並、渋谷、目黒各区の加盟店へ派遣された。
きっちり五十店が回転式のショーケースを保有していた。うち四十三店はこの二年以内にそれをとりつけた。それら加盟店は、合計三億円以上の利益を、不正な共同仕入れによってあげた計算になる。そのぶん日本オールデイズの収入は減ったわけだ。
このまま年月がたてば、損害は雪だるま式に殖《ふ》えるところだった。内藤友弘が共同仕入れの新メンバー獲得に動いていたら、被害はさらにふくらんでいたはずである。
友弘は千葉直久にこの組織のことをかぎつけられ、口止料を脅《おど》しとられるようになった。以来彼はメンバーの勧誘をやめた。これ以上組織が大きくなると、秘密をまもれなくなる――そんな判断もあったらしい。
なによりも友弘は、千葉への対応で神経をすりへらした。組織づくりにはげむ意欲を削《そ》がれたようだ。その意味では、千葉はオールデイズの消極的な功労者だった。
反乱をおこした加盟店をどう処分するか。日本オールデイズの幹部社員は、この点で思いなやんでいた。
ただの契約違反ではなかった。オールデイズ側は、五十の加盟店を詐欺罪《さぎざい》で告発できる立場にあった。一罰百戒の意味もある。彼らをチェーンから脱退させ、法廷に立たせようという強硬意見の役員もいた。
だが、いかにも時期がわるい。毒入りお握り事件に社長の死がかさなって、日本オールデイズはいまマスコミの取材にさらされている。加盟店管理のきびしさが、世間にひろく知られてきている。
そこへ五十店の「反乱」のニュースが公表されたら、オールデイズの企業イメージはどん底まで失墜《しつつい》するだろう。領主の圧政に耐えかねた農民|一揆《いつき》。五十店の不正仕入れ事件にはそんな暗い印象がつきまとう。
「貸借を清算させてチェーンから追いだすと、また反響が大きい。契約違反のペナルティを払わせ、不当利得の一部を返却させる。その程度の処分で済ますしかないだろう」
社長代行の都築良平が、役員会で、この問題についての結論をのべた。
役員たちは歯ぎしりしてうなずいた。
「内藤ショップはどうしますか。首謀者であり、回転式ショーケースの開発者でもある。きわめて悪質です。ここだけは脱退させないと、示しがつかんでしょう」
役員の一人が声を荒げて発言した。
「いや、それがそうかんたんじゃないんだよ。きみ、説明してくれ」
都築は営業部長をうながした。
苦笑いして営業部長が説明をはじめた。
「ディストリクト・マネージャーの相原邦夫から内藤ショップの救済願が出ているんです。同店の前オーナーは経営難を苦に自殺をした。回転式ショーケースをつくった内藤友弘の心情にも汲《く》むべきものがある。今後責任をもって監督、管理するから、脱退だけは免除してほしいというわけです」
「責任をもって監督、管理だと。相原は目黒の担当なんだろう。こんどの事件がそもそもあいつの責任じゃないか。なにを太平楽《たいへいらく》をならべているんだ」
経理担当の役員が怒鳴った。制止して、営業部長が話をつづける。
「相原はまだ着任一ヵ月です。こんどの事件で責任を問うのは酷というものですよ。じつは、救済願にはほかの理由があります。相原は内藤ショップの娘と結婚するんです。問題を起したオーナーの友弘の姉です」
「なるほど、女房に店を手伝わせるのか。それなら監督、管理できるだろうな」
総務担当の役員が感心してうなずいた。役員たちは納得《なつとく》の面持になった。
「しかし、内藤友弘は殺人事件の容疑者なんだろう。うちの社長と社員を殺したかもしれない男なんだ。目下《もつか》取調べ中だが、たぶん起訴されるっていうじゃないか。そんな者をうちのチェーンにおいてもいいのか」
「友弘が起訴された場合は、もちろん彼をオーナーからはずすと相原はいっています。いいんじゃないですか。みとめてやれば相原もよろこぶ。共同不正仕入れの事実は、あの男がつかんできたことでもあるんだし」
営業部長の意見が通った。相原の不正発見の功績を、役員会はみとめざるを得なかったわけだ。
徹底した事なかれ主義で、日本オールデイズは一連の事件に対していた。首をちぢめて台風の通過を待っている。最良の時期に相原は救済願を出したことになった。
家宅捜査によって刑事たちの押収《おうしゆう》した書類のなかに、共同不正仕入れのメンバー、五十店のリストがあった。昨年暮から友弘が、横浜の銀行の架空名義の口座に合計千二百万円を振込んだ記録もとってあった。
これらを突きつけられて友弘は、不正仕入れの事実と、千葉直久に脅されていた事実をみとめざるを得なかった。
千葉とは彼のFC時代に知合った友人にすぎない。友弘はこれまでそう供述していた。金を脅しとられていたことは話さなかった。共同仕入れの一件をかくすために、千葉をかばってきたのだ。
千葉直久との関係について、友弘はすこしずつ説明をはじめた。もう彼について口をとざす必要はなくなっている。
七、八年まえまで、千葉はFCとして内藤ショップに出入りしていた。姉の典子にプロポーズして拒絶された。以来、千葉は内藤ショップにたいしていじわるをつづけた。
千葉の転勤で縁が切れた。彼のことなど長年思いだしもしなかった。ところが昨年の暮、千葉はとつぜん店にあらわれた。従業員がいないときだった。友弘は回転式のショーケースを動かして商品の入れ換え中だった。千葉はその模様をカメラにおさめた。
すでに千葉は、友弘やその仲間が現金問屋で二、三流品を大量に仕入れている事実をつかんでいた。回転式ショーケースに陳列されたそれらの違反商品を手にとって、千葉は値札を調べた。
「あの仕入れ価格と量からいって、あんたには相当たくさんの仲間がいるはずだ。おれの立場からすると、一軒一軒足を運んで回転式ショーケースを摘発しなくてはならないんだが、どうしたものかな」
見逃してほしいと懇願する友弘へ、千葉は取引をもちかけた。
応じないわけにはいかない。友弘は金を手わたした。それが最初だった。月一度ずつせびられて、合計千二百万円になった。
金額が一千万を越えたとき、友弘は肚《はら》をくくった。このままではしぼりつくされる。脅迫罪で千葉を訴えよう。ついでに、ことのしだいをマスコミにぶちまけてやる。
なぜ不正仕入れをやらなければならなかったか。その事情をおおやけにする。世論は加盟店の味方をするだろう。オールデイズは苛酷なロイヤリティを改正せざるを得なくなるはずだ。三千の加盟店が大よろこびする。
内藤ショップはチェーンから追いだされるだろう。融資残がかなりあるので、店や家を手放すことになるかもしれない。いまとなっては、それも仕方がなかった。死んだ父もわかってくれるだろう。
千葉に会って、友弘は絶縁を申しわたした。本社へ通報するならすればよい。脅迫罪で訴えてやる。刺し違えだ。
「わかった、今後はもう要求しない。だが、最後に一つ無理をきいてくれ。ロイヤリティの改正を要求して実力行使をするんだ。オールデイズをパニックにおとしいれる。うまくいくと、佐藤裕一の追放につながる」
商品に毒物をいれて加盟店の売り場におこう。もちろん毒物の入っていることが一目でわかるように、商品に不良品シールを貼る。
そうしておいてオールデイズやマスコミに商品配布のことを告げる。あわせて要求の手紙を出す。ロイヤリティを大幅に引下げよ。さもないと、毒入り商品の配布は永久につづけられるだろう。
「どうだ。絶対に効果はあるぞ、責任をとって佐藤は辞《や》めることになるだろう。あいつがいるかぎり、ロイヤリティの引下げはない。あいつはオールデイズのガンなんだ。実力行使は全加盟店のためになる」
友弘はその場では返事を保留した。
数日考えて、決心した。この話に乗ろう。父親の仇討ちにもなる。
めでたい記念パーティの日をえらんで実行した。最初の予定では、午後三時までに弁当の配布を終えて、パーティを中止に追いこむつもりだった。
ところが、いざとなると二の足をふんだ。共犯の女に制止されたせいもあった。二時間おくれて毒入り弁当をおいた。おかげでパーティ阻止は成らなかった。
夜おそく、約束どおり「神田」で千葉と落合った。実行がおくれたことを、彼は怒っていた。追い打ちをかけるべきだ。一週間以内にもう一度毒入り商品を撒《ま》けという。
「どうせなら金にするほうがいい。佐藤社長に十億円要求しよう。五億ずつ山分けだ。おまえの店もこれでらくになるぞ」
千葉はいいだした。友弘はこの男にかかわりあうのが恐ろしくなった。
彼の提案を友弘はことわった。車に乗せてニューオータニへ送っていった。そこで別れたきり会っていない。誓って嘘ではない。
内藤友弘のこの供述で、多くの事柄があきらかになった。佐藤社長の追放を唱《とな》えて友弘を動かした千葉直久の狙いが結局金だったことも、これではっきりした。
千葉の失踪事件をめぐる友弘の心証は、かえってわるくなった。友弘には千葉を殺すのに、十二分の動機があった。
「千二百万円もせびりとられたうえ、グリコ森永事件のまねまでさせられたんだ。腹が立って当然だよな。事件の夜、ニューオータニへ送ったというが、ほんとうかね。ニューオータニは、佐藤社長が殺された現場と目と鼻のさきだ。おまえ、無理に千葉と殺人事件を関係づけようとしているのではないのか」
「千葉というのは、まったくとんでもないやつだぜ。おまえが殺《や》っても、ちっともふしぎじゃない。早く吐いて、らくになるんだな。世間はおまえに同情してくれるよ」
「おまえの話はだいたい首尾一貫している。嘘はないみたいだな。しかし、それを証明する人間がいないと、嘘と同じことになる。どうだ、いっしょに弁当をくばった女の子をここへ呼ぼうじゃないか。その子にめいわくはかけんよ」
「かくしても、いずれわかることなんだ。その子を呼ぼう。なんという子かね。水商売だそうだが、店の名はなんというんだ」
女の話になると、友弘は口をつぐんだ。
おどされても、すかされても岩のようにかたくなになった。その女を心の底から大切にしているのがわかる。彼女のためなら拷問にも耐えぬくだろうと思われるほどだった。
失踪した千葉直久の身辺捜査がつづけられていた。
千葉は口数のすくない男だった。親しい同僚がほとんどいなかった。気のきかない難はあるが、まじめにコツコツと努力する男だった。酒はすこしやる。ギャンブルには縁がない。趣味は魚釣りだった。
三年ばかりまえから、彼はいっそう暗い人間になった。仕事にも身が入らない様子だった。ときおり欠勤するように変った。
原因は妻の不倫だった。千葉の妻はスキーが趣味の陽気な女で、実直な千葉とはいいとりあわせだといわれていたらしい。結婚して四、五年はうまくいっていたようだ。
だが、千葉の妻は夫をしだいに疎《うと》んじるようになった。口べたで無趣味なうえ、千葉は仕事がいそがしい。FCという立場上、いつも帰りがおそい。休日出勤もめずらしくなかった。
家族奉仕が足りないぶん、やさしいことばの一つも妻にかけてやればよいのに、それもできない。しかも本人は、妻の不満に気づかない。ますます失望させることになる。
妻は冬山で知りあったスキーコーチと、街でもつきあうようになった。二年ばかりそれがつづいた。ある晩、千葉は予定より早く出張からかえって、妻とスキーコーチが応接室で抱きあっている現場にぶつかった。千葉はビール瓶でコーチと妻を殴り、双方に重傷を負わせた。ことがことだけに、警察沙汰にはならなかった。
幼い子供がいるので、千葉は離婚を思いとどまった。ますます寡黙《かもく》になった。実直であることに絶望したらしい。株や商品相場に手を出して、なけなしの預金をすってしまった。友弘は絶好の獲物《えもの》だったわけである。
友弘の共犯者である女の身許《みもと》はいぜんとして不明だった。
異常なほど神経質に友弘は彼女の身許をかくした。家宅捜査にあたった刑事たちも、彼女についてはなに一つ情報をつかむことができなかった。電話番号表にも手帖にも、友弘はまったく手掛りを残していなかった。
相原邦夫のほうが、警察よりも早くその女の身許を確認することになった。
土曜日だった。相原は午後、内藤ショップへ出向いた。いつものように店へ出て、レジや商品の入荷を手伝った。典子は徹夜勤務明けである。自分の部屋で眠っていた。
午後四時ごろ、電話が入った。喫茶店「神田」の支配人からだった。
友弘の女友達がコーヒーを飲みにきたらしい。支配人は典子からの伝言を彼女に告げた。女はおどろいていたらしい。
コーヒーを飲み終えて、店を出ていった。どこへも電話はしなかった。気になって支配人はこちらへ連絡をくれたのだ。
「ありがとう。その女性、まだおたくのそばにいるんですね。服装は」
「コーヒーブラウンのスーツです。ええ、地味な服装です。髪は長い。肩まであります。体つきは中肉中背――」
中目黒の駅のほうへ女は向かった。まだ百メートルといっていないという。
相原は事務所で着替えをした。車のキーをもった。駐車場にある典子の車に乗った。中目黒のほうへ目いっぱい走らせる。
「神田」のまえを通った。歩道に目をやりながら、中目黒の駅まできた。それらしい姿はなかった。もう駅へ入ってしまったのか。
歩道に車を寄せて、相原は周囲を見まわした。それらしい女がふいに書店から出てきた。駅のほうへ歩いてゆく。
とっさに相原は車を発進させた。すぐ近くに中華レストランがあった。その駐車場に車をおいた。駅へ向かって走る。渋谷までの切符を買ってホームへ駈けあがった。
女はホームのうしろのほうに立っていた。
横顔の輪郭《りんかく》がはっきりしている。体つきは健康そうだった。肌はくすんでいる。美しいが、疲れたような、不健康な感じの女だった。やはり心労が大きいのだろう。
近づいて声をかけようと思った。だが、なんといえばよいのだろう。
友弘の名前を出せば、かえって警戒するだろう。支配人から伝言をきいたのに、彼女は典子へ電話しなかったのだ。
考えあぐねるうち、電車がホームへ入ってきた。彼女と同じ車輛に相原は乗った。
へたに声をかけると、かえって厄介《やつかい》な事態になる。さきに勤務先を確認しよう。水商売で働いているということだった。店がわかれば、いつでも接近できる。
電車は、二十人ばかりの乗客が立っている程度の混み工合だった。女は扉のそばに立っている。放心して外をながめていた。身動きもしない。これならあやしまれることもなかろう。相原は彼女に近づいた。
地味だが、良質のスーツを彼女は着ていた。バッグも時計も高級品のようだ。近づくと、肌に生気のないのがいっそうよくわかる。グレーの色素が沈んだような肌だ。
女は渋谷で電車をおりた。山手線の右回りに乗り換えた。相原は尾行をつづけた。新宿で女は電車をおりた。
雑踏《ざつとう》のなかで、見えかくれする女のうしろ姿を相原は追った。東口から歌舞伎町のほうへ歩いてゆく。あまりガラのよくない酒場につとめているのかもしれない。
せまい、雑然とした通りへ入った。特殊浴場があった。まだあかるいのにネオンをつけている。土曜日だからだろう。女はいそぎ足になった。特殊浴場の建物の、裏口からなかへ入っていった。
しばらく相原は茫然としていた。女友達が特殊浴場で働いていることを友弘は知っていたのかどうか。だまされていたのではないか。調査しなければならない。なにも知らないのなら、友弘は哀れすぎる。
公衆電話で相原は典子を呼びだした。ねむそうな声で典子は応答する。
手短かに事情を話した。駅のそばの中華レストランへ車をとりにゆくように告げた。友弘の女友達が特殊浴場へ入ったことは、話さずにおいた。男の分別《ふんべつ》というものだ。
相原はその特殊浴場へ入った。
「以前一度あそんだんだけど、女性の名前をわすれてしまった。写真ありますか」
受付で彼は申しいれた。
ホステスたちの写真を受付の女がみせてくれる。さっきの女の写真を彼はえらびだした。美紀という名になっている。
待合室にはもう三人の客がいた。一、二分後に相原は呼ばれた。廊下の出入口に美紀が立っている。ハイレグの水着姿だった。
ほほえんで美紀は一礼した。電車のなかで見たよりも元気そうな表情だった。
美紀に案内されて相原は個室へ入った。美紀の脚はふくらはぎが張って、バレリーナの脚のような生気をみなぎらせていた。
腰が細い。ヒップはほどよい大きさである。腰がくびれている。知らず知らず相原は典子と比較してしまう。典子は優雅ですばらしい。だが、肌をのぞいて若々しい美紀の肉体も、充分に魅力的だった。
美紀は湯かげんをみている。相原は手前のベッドルームで服をぬぎはじめた。
浴室とベッドルームがとなりあわせになっている。両者のあいだに仕切りはない。
ベッドルームは板の間だった。サイドボードや衣紋《えもん》かけ、鏡台がおいてある。みだれ籠のそばで相原は服をぬぎはじめた。
「きみ、目黒だろう。一度か二度、見かけたことがあるぞ」
相原は明るく声をかけた。
美紀が裸になるまえに、ただの客ではないことを教えておきたい。そのうえで彼女が水着をぬぐかぬがないかは、彼女自身がきめればよいことだ。相原はそう考えた。美紀が友弘の女であることにこだわりがある。
湯かげんを調節していた美紀のうしろ姿がふっと緊張した。
美紀はふりかえった。
「お客さんも目黒なんですか」
彼女は訊いた。笑みが消えている。
「×丁目の内藤ショップへときどきいくんだ。仕事の関係でね」
「そうですか。私もあのお店よく知っています。むかし近所に住んでたんです」
「むかし――。いつごろ」
「五年まえまで。いまは×丁目のほうに住んでいるんですけど」
美紀はわるびれない。くるものがきた、と覚悟をきめた気配がある。
相原は全裸になった。浴室へ入る。湯ぶねのそばの腰かけにすわった。美紀はうしろに立って、湯をかけてくれる。
「お客さん、警察のかたですか」
美紀は訊いた。身構えた声である。
「ちがう。友弘くんの姉さんの婚約者なんだ。日本オールデイズにつとめている。名前は相原邦夫――」
相原は腰をあげた。
湯に入った。胸までつかってから、美紀に笑いかけた。
「『神田』の支配人が電話をくれたんだ。車できみを追いかけたよ」
いきさつを相原は説明した。
美紀は納得《なつとく》して笑った。ベッドルームの椅子に腰かけて、彼女は会話に応じた。
「私の家、パン屋だったの。古い店だったのよ。でも、近所にオールデイズができて、つぶれちゃった。友弘さんは中学、高校の先輩。当時は口もきかなかったけど」
美紀は淀《よど》みなく話しはじめた。だれかにきいてもらいたかったのだろう。
パン屋が営業不振になって、美紀の父はガソリンスタンドに商売替えした。それも失敗して、家も土地も人手にわたった。
父はいま川崎で警備員をしている。母といっしょにアパート住いである。一人娘の美紀は高校を出て、アパレルの会社へつとめた。目黒でアパート暮しをした。近い将来、平凡な結婚をするつもりだった。
ある晩、会社のつきあいで酒を飲んだ。午前零時近く、目黒駅をおりた。人通りのない歩道をぶらぶら家路についた。
とつぜんワゴン車がそばに停まった。三人の男にひきずりこまれた。走る車のなかでおさえつけられ、代る代るおかされた。車が停まると、運転していた男も荷台へ乗りこんできて、美紀にのしかかってきた。
ワゴン車からほうりだされたのは、横浜の郊外だった。若い四人組だったという以外、加害者についてはなにもわからない。警察にとどけても仕方ないことだった。
「それで、妊娠しちゃったんですよね。ツイてないことに」
他人事のように美紀はいった。きいているのが、相原はつらくなった。
美紀は病院で堕胎手術をうけた。会社で働くのがいやになって、やめてしまった。
「なんというのかな、人生にがっかりしてしまった。夢がいっぺんに壊《こわ》れてしまって」
スナックバーで働くようになった。
ついで特殊浴場へ移った。どうせ水商売なら、という気持と、金を貯《た》めてスナックバーをやろうという気持の両方があった。
去年の夏、中目黒の近くで偶然顔見知りの友弘と出会った。はじめて口をきいた。月に二、三度、会うようになった。特殊浴場のことはもちろんかくしていた。二ヵ月ばかりして、男と女の関係になった。プロポーズされた。自分の家がコンビニエンス・ストアになったので、美紀の家が没落した――そのことを友弘は気に病んでいた。
特殊浴場を早くやめなければ。美紀はあせった。だが、同時に欲にかられた。なんといっても収入が多い。月に二百万円になる。まとまった貯金がほしい。一日のばしにして、美紀はひそかな商売をつづけた。
千葉直久は、以前からの馴染《なじ》み客だった。月に一、二度やってきた。千葉がどこかの会社の課長であること以外、美紀は彼についての知識がなかった。
ある晩、美紀が湯かげんを調節しているうちに、千葉は無断で美紀のバッグをあけた。写真が出てきた。友弘と二人、鎌倉へあそびにいったとき撮《と》ったものだった。
「この男、おれ知っているぞ。目黒の内藤ショップの若旦那じゃないか」
美紀はまっ青になった。
私の商売のこと、どうか秘密にして。土下座する以外に仕方がなかった。千葉は代償を要求した。
月に二、三度、千葉はただであそびにくるようになった。特殊浴場の入場料さえ、美紀に払わせた。美紀は店をやめる決心をした。だが、千葉に妨害された。
「もうすこしここにいて、おれをたのしませてくれ。絶対に秘密にしてやるからさ。おまえ、表と裏を使いわけているんだから、それなりに腹をくくらなくちゃ」
美紀はなりゆきにまかせることにきめた。
いつかは別れの日がくる。その思いを噛みしめて友弘に会った。知らず知らず愛撫がこまやかになった。
友弘のことで、千葉はときおり美紀をからかった。たよりない男だの、世間知らずだのと悪口をいった。
「内藤ショップなんて、ちっとも儲《もう》かっていないぞ。早晩《そうばん》つぶれるよ。あんなところへ嫁にいくのはよせ。ずっとおれの女でいろよ」
「そんなことないわ。オールデイズのピンハネがきついけど、仕入れをうまくやってるから儲かるんだって。グループで、うんと安く仕入れてるそうよ」
美紀はそのとき、どんなに重大なことを口走ったか、知らなかった。
最近までなにも気づかなかった。友弘が大金を千葉に脅しとられていたことなど、想像もできなかった。
湯につかったまま、相原は美紀の長い話をきき終った。
のぼせそうになった。勢いよく立って洗い場へ出る。特殊な椅子にすわらされた。美紀は背中に石鹸を塗りはじめる。
やがて、下腹部に手をのばしてきた。通常の客としての奉仕がはじまる。
「いいのかな。こんなことをしてもらって。きみが友弘くんと結婚したら、おれたちは義理のきょうだいになるんだぜ」
「ありえないわ、そんなこと。よけいな気をつかわずに愉《たの》しんで頂戴《ちようだい》」
ふっと美紀は愛撫をやめた。相原の体に手をおいたまま、考えこんだ。
「でもさあ、夢はもっといたほうがいいわね。お義兄《にい》さま、深い関係になるのはよしましょうね。フィンガーだけで愉しませてあげる。水着をぬがせないでね」
「わかった。きょうだい仁義でいこう。二人とも、友弘くんに義理を立てなくてはならない。かるくあそぶだけにしよう」
美紀は愛撫を再開した。
ピアニストのような指づかいで甘い神経の網目をさぐりにくる。相原は、悶えたくなるのを懸命におさえた。
「もっとお楽な姿勢がいいかしら。お義兄さま、ベッドへまいりません」
「いいよ。望むところだ。おれは心しずかにもてあそばれることにしよう」
美紀がタオルで体を拭《ふ》いてくれる。
相原は浴室からとなりの板の間へ出た。ベッドにあおむけになった。
しばらく雑談した。やがて美紀はベッドのそばにうずくまって、相原の男性に手をのばしてきた。男性に力がみなぎった。
「お義兄さまも男だから、これじゃやっぱり物足りないかしら。私、水着ぬごうか。手を出さないと約束してくれればそうする」
「約束するよ。おれは義理堅い男なんだ」
相原はいった。ほんとうに美紀と親戚になれたらいいだろうな、と思う。
美紀は水着をぬいだ。小型のモーターボートのように溌剌《はつらつ》とした裸身である。
こんどはベッドに腰をおろした。相原の腰と美紀の腰がふれあった。
美紀は手を動かしはじめた。同じリズムで乳房が揺れ動いた。
「弁当をおいてまわった日、私、友弘さんにぜんぶ話したわ。いっしょにモーテルへいったの。千葉にバラされるよりさきに、告白しようと思った。あまり苦しかったから」
千葉は、友弘に美紀の商売のことを告げ口せずにいたらしい。
ただであそべる女を手放したくなかったのだろう。友弘にたいする優越感を、大事にしたいせいもあったかもしれない。
「話したのか。それで、どうなった」
「友弘さん、メチャ怒ったわ。私もう踏んだり蹴ったり。すごかったわ。殺されるかと思った。でも――」
「でも、どうなった」
「赦《ゆる》す、っていってくれたの、最後に。ほんとよ。赦すっていってくれた。赦すって」
美紀は涙声になった。手の動きが大きく、あわただしく変った。
「そんなこといわれて、感激するよねえ。だれだって恩を返したくなるわ。そうでしょ。お義兄さまだってそうするでしょ」
美紀は相原の体へ顔をふせてきた。相原は友弘の代役であった。
9
佐藤裕一社長殺害事件は、世間の意表をつくかたちで解決した。
犯人は田丸健一という二十三歳の若者だった。所属の暴力団、花岡組の幹部につきそわれて彼は捜査本部へ自首した。昂然《こうぜん》と顔をあげて、田丸はカメラのフラッシュをあびた。目のくぼんだ、ひたいのせまい、土臭い顔立ちをしている。田丸は小柄だった。
文字どおりのちんぴらである田丸が、一流企業の社長である佐藤にどんな恨みを抱いたのか。女をめぐるトラブルではないのか。
新聞記者たちは、興味に胸をふくらませて発表の場へ駈けつけた。相原邦夫の友人である川添もその一人だった。
警視庁捜査一課長がいきさつを発表した。人物誤認による殺人だった。
佐藤社長の住んでいた高級マンションには、暴力団徳功会の会長、津坂照蔵が住んでいた。津坂は五十三歳。色が黒く、頑丈《がんじよう》な体格である。エネルギッシュな風貌をしていた。佐藤裕一と似た印象の人物だった。
花岡組と徳功会はともに覚醒剤の販売を大きな資金源にしている。マーケットの縄張りをめぐって以前から対立していた。
花岡組の若い衆である田丸は、功名心にかられて津坂襲撃を決意した。本人やつきそいの幹部の話では、だれにも相談せず、一人で計画、実行したということである。
事件当夜、津坂照蔵は系列の土建会社の幹部たちの会合に出席した。終って銀座のクラブを三軒まわった。酔って帰宅の予定を変えた。大塚にある愛人宅へ車をまわし、そこで一夜をすごしたのである。
田丸健一は、高級マンションの内部にひそんで津坂のかえりを待った。
午前一時ごろ、マンションのまえに車が停まった。送ってきた男と大声で挨拶をかわして、津坂がマンションへ入ってきた。じつは佐藤裕一だった。上機嫌に酔って、彼はエレベーターに乗った。
田丸は三階で津坂の乗ったエレベーターを停めた。扉があくなり、短刀を構え佐藤に向かって突進した。護衛がいるものと田丸は信じていた。妨害される以前に、津坂をかたづけなければならなかった。
滅茶苦茶《めちやくちや》に彼は刺した。気がつくと、エレベーターは八階に停まっていた。
地階の釦《ボタン》を彼はおした。そのまま下降して地下一階へおりた。外へ出て、八階の釦をおしてエレベーターを上昇させる。八階へ着いたところで、そのエレベーターの電源を切った。すべて予習したとおりだった。殺害した相手だけが計画とちがっていた。
「残念としか申しあげようがない。暴力団どうしの次元の低い抗争のとばっちりをうけて、あたら有為《ゆうい》な経営者が生命を落された。暴力団の取締りに、われわれはいっそう心してかかる決意であります」
捜査一課長はそう話した。
「佐藤社長のもとへは、ロイヤリティの値下げを要求する脅迫状がとどいたということでした。この殺害事件は、脅迫状とまったく関係がないと判断されますか」
川添が大声で質問した。
うなずいて一課長をみつめる記者もいた。つまらん質問をするな、という顔の者もいた。一課長は後者であった。
「いま申しあげたとおりの経緯で犯人が名乗って出たわけであります。供述に不審な点はありません。われわれとしては、佐藤社長は誤認によって生命を落されたものと、固く信じております」
とりつくしまのない答弁だった。川添もそれ以上突っこんでゆく材料がなかった。
翌日の新聞はいっせいに佐藤社長殺害事件の解決を報じた。
誤認殺人のいきさつをどの新聞もくわしく説明していた。社説は判で捺《お》したように、暴力団取締りの強化を説《と》いていた。
高率のロイヤリティに苦しむオールデイズ・チェーンの加盟店の実状は、ほとんど記事にされなかった。殺人事件とコンビニエンス・ストアの現状は、完全に切り離されてしまった。後者は世間の関心の外へおし出された。日本オールデイズの経営陣にとって、事件はきわめて好都合な解決をみたのである。彼らは世間の監視になやまされることなく、契約更改店にたいする新しいロイヤリティの率を決定できることになった。
その三日後、日本オールデイズは都築良平が正式の社長に就任した。
あわせて役員の異動があった。佐藤前社長に重用された三人の役員が退任したり、監査役にまわったりした。代って都築の直系である三人が、副社長、専務に登用された。まるでなに一つ問題をかかえていないように、抵抗もなく新しい体制ができあがった。オールデイズの内包する問題がマスコミにとりあげられていれば、都築良平もこれほど早く正式の社長にはなれなかったはずである。
部課長の異動も多少あった。相原邦夫の身分に変動はなかった。失踪した千葉直久は休職あつかいになった。
総務課長の林が部長に昇格した。林は三十五歳。親会社の南陽堂から移籍してまだ二年である。破格の昇進であった。
「よかったですね先輩。なにかダーティな仕事にかかわるほうが、うちでは出世が早いみたいですね」
なにげなく相原は祝いをのべた。
林は赤くなった。大きな目をむいて相原を睨《にら》みつけた。ダーティといわれたのが気にさわったらしい。
南陽堂で林は、スーパー出店のための用地獲得業務を手がけていた。一見温厚な紳士のようだが、地あげ屋まがいの荒わざや、悪徳不動産屋なみの口さき三寸で実績をあげてきたらしい。暴力団にも顔がきくということである。
都築新社長以下の経営陣は、来年以降の契約更改に適用される新しいロイヤリティの率を発表した。粗利益の40パーセントである。
日本オールデイズ発足の年に傘下《さんか》に入った加盟店は来年、十五年におよぶ第一期の契約を終える。この間ロイヤリティは、粗利益の45パーセントであった。
つぎの十五年間、ひきつづきオールデイズ傘下にとどまる店とは、40パーセントのロイヤリティで契約しようというわけである。最初の十五年間よりは5パーセント軽減される。だが、一般の予想よりも、軽減される率ははるかに小さかった。
「えらく強気に出たな。これじゃ佐藤時代と同じじゃないか。加盟店の脱退があいつぐよ。せめて35パーセント、いや30パーセントでなければな」
「上は尻をたたくだけだからいいさ。困るのはわれわれだよ。あーあ、おれも失踪したくなった。こんな数字でどうやってお客をひきとめるんだ。どう仕様もないよ」
「いっそのこと、業界の事情がマスコミにクローズアップされればよかったんだ。そうすりゃトップももうすこし謙虚だったろうに。暴力団のちんぴらもバカなことをやってくれたもんだ。あれがなかったら、お握り騒動は大きくとりあげられていたはずだぜ」
社員たちは苦《にが》い顔で話しあった。
新しい経営陣は平然としている。サラリーマンは無理難題をいわれても、文句をいいながら結局難題をやりとげてしまう。そう高をくくっているらしい。
都築良平やその系列の役員たちは、前社長の仮借《かしやく》のない経営方針に批判的だといわれていた。自分たちが権力を握ってみると、考えが変るもののようだ。親会社の社長、南田陽介の睨《にら》みも効《き》いているのだろう。南田は子会社の社長に経営の全権を委譲する代り、業績が思わしくないと即座に社長を更迭《こうてつ》する。南陽堂傘下のさまざまな企業で、おびただしい前例があった。
内藤友弘の勾留期限があと数日で切れようというころ、警視庁捜査一課へ一通の封書が配達された。差出人は杉本しのぶ。あとでわかったことだが、美紀の本名だった。
封書には数葉の写真と録音テープが入っていた。写真はどれもポラロイドカメラで撮《と》ったもののようだ。手にとってみて、刑事たちは顔をしかめた。
しのぶ自身の写真があった。しのぶと友弘が半裸で身を寄せあっている写真もある。
つぎが問題だった。千葉直久が死んでいる。口から血を吐き、胸と畳をかきむしって、体をねじって息絶えていた。さらにもう一枚、切断された千葉の頭部、手足、胴体をならべた凄絶《せいぜつ》な写真があった。
女文字で写真の裏に説明があった。「杉本しのぶ」「内藤友弘と杉本しのぶ」はどうということもない。「ヒル、吸血鬼の干葉直久」「吸血鬼のバラバラ死体。ざまみろ」の文字は刑事たちの背すじを寒くさせた。
「久しぶりで凄いものをみたなあ。昨今の殺しは、じつに無邪気であかるい」
食事中の刑事は弁当に蓋《ふた》をした。
カセットデッキが用意された。刑事たちはあつまって耳をすませた。若い女の声が、さわやかにオフィスを流れた。
「刑事さんたち、ご苦労さまです。書くのが苦手《にがて》なので、テープを手紙にします。
私の経歴は、内藤友弘さんにきいてください。杉本しのぶ、二十二歳。職業は新宿のソープランド××のホステスです。
私と友弘さんが親しくなったいきさつとか、千葉直久との関係とかも友弘さんにきいてください。私のことを友弘さんはなんでも知っています。ぜんぶ、私は包みかくさず話しました。私の恋人ですから。
千葉直久は私が殺しました。そのことだけくわしくお話したいと思います。
六月×日。友弘さんは店がお休みでした。午前八時に私をアパートへ迎えにきてくれました。ドライブする約束でした。ほかにあぶない仕事も一つ、しなければならない日でした。
友弘さんの車で浦安のほうへいきました。アリバイ工作だといって、友弘さんは魚を買ったりしていました。私たちはモーテルへ入りました。昼すぎまでセックスしたり、眠ったりしました。
友弘さんは起きて、鞄《かばん》からお握り弁当を三つ出してきました。青酸カリを水にとかして、注射器にいれました。それをお握りに注射しました。不良品のラベルを貼って、お握りをだれもたべないようにしました。
オールデイズの社長を脅《おど》かすんだ。搾取《さくしゆ》をやめろといってやる。三千の加盟店のためだ。友弘さんは張りきっていました。千葉直久の口車に乗せられていたのです。
私は友弘さんに申しわけなくて仕方がありませんでした。友弘さんは私を愛してくれています。結婚するといってくれました。しかし、私はソープの女です。友弘さんには秘密にしています。秘密のまま嫁にいけと千葉にいわれましたが、私にはとてもできません。いいわすれていました。千葉はソープの客です。けちで、しつこい男でした。
そうやって千葉に乗せられている友弘さんを見ると、私は可哀想で仕方なくなりました。千葉は悪い男だ、毒入り弁当をくばるのはよそう。そういってしまったんです。
どうしておまえは千葉を知っているんだ。友弘さんに訊かれました。私は覚悟をきめて、なにからなにまでぜんぶ話しました。
私は捨てられても仕方がない。しかし、千葉のいうことなんか信じてはいけない。毒入り弁当は捨てよう。私はいったんです。
友弘さんはメチャ怒りました。私は打《ぶ》ったり蹴ったりされました。殺されるかと思ったほどです。死んでもいいと思いました。どうせ友弘さんと結婚できる身ではありません。生きてても死んでも同じことです。
友弘さんはやがてしずかになりました。私を抱きあげてくれました。二人で泣きました。赦《ゆる》す、と友弘さんはいってくれました。
男の気持がそんなにかんたんなものではないことはわかっています。そのときは赦してくれても、赦してもらえない日もくるはずです。それでも私は倖《しあわ》せでした。夢のようでした。彼のためなら、生命を捨てても惜しくないとそのとき思いました。
友弘さんは千葉のことを話してくれました。大金を脅しとられていたなんて、はじめて知りました。しかも、私が仕入れのことで口をすべらせたのが原因のようです。毒入り弁当をくばるのも、千葉と縁を切るための、やむにやまれぬ仕事だとわかりました。
私は彼にわるくてわるくて、じっとしていられませんでした。ずっとフェラチオしてあげました。二時間もです。おかげで出発がおくれました。あとできいたことですが、出発がおくれたおかげで、オールデイズのパーティは予定どおりはじまったそうですね。千葉がすごく怒ったらしいです。
杉並、渋谷、目黒で私たちはお弁当をくばりました。友弘さんが車のなかで待って、私が弁当をもっていくんです。弁当はバッグにいれたので、目につきません。かんたんでした。すこし買物もしました。
目黒の内藤ショップに入ったときだけは、顔があげられませんでした。みんなに見られているような気がしました。買物もしないで出てきました。お母さんかお姉さんに見つかるような気がしたんです。私の顔をおぼえているわけがないと思ったのですが、やはり心配でした。
弁当くばりが終ってから、私はお店へ出ました。もうソープ嬢なんかやめたかったのですが、いまへたに動くと警察にマークされるかもしれないと友弘さんにいわれたからです。あやしまれて、尾行がつくかもしれないときいて、ゾッとしました。
その晩、零時ごろ千葉がお店へきました。友弘さんに会って、報告をきいたそうです。途中まで車に乗せてもらって別れたといっていました。弁当くばりがおくれたので、パーティがぶじに終った。そういって千葉は怒っていました。友弘といっしょにもう一度弁当をくばれ。彼は命令しました。
ダニよりも蛭《ひる》よりもしつこいやつです。吸血鬼です。一生つきまとわれる。私は腹が立って、体がふるえました。
さびしいから、いっしょに寝よう。そういって千葉をアパートへつれて帰りました。モーテルで友弘さんからあずかった青酸カリがあったので、ビールに入れて飲ませました。千葉はすぐ死にました。女の名前を呼びましたが、奥さんなのかしら。
千葉の死体をひきずって、風呂場におきました。そのまま朝まで寝ました。恐くもなんともありませんでした。千葉を軽蔑していたから。
朝、肉切り包丁とノコギリをもってきました。半日がかりで解体しました。ビニールの袋につめて、箱にいれて、一箇ずつ私のバイクで運びました。夕方になってからです。お寺の墓地のすみに穴を掘って埋めました。三日がかりでした。××寺というお寺です。
友弘さんに報告しようとしたが、連絡がつきませんでした。オールデイズの相原さんの話では逮捕されているそうですね。私をかばって名前をふせているとききました。
友弘さん、ありがとう。もういいの私。全然後悔していません。赦す、といわれたままで、私、死にます。うちのパン屋がつぶれなかったら、私たちいい夫婦になれていたかもしれないのに、それを思うと残念です」
子供のころいった松島の海に浮かんで死にたい。しのぶはそうしめくくっていた。
宮城県警に問合せがいった。三十分後に返事があった。杉本しのぶの死体は、白い服をきたまま松島の青い透明な海にうかんでいた。溺死だった。
10
午後三時、内藤典子が日本オールデイズの本社へやってきた。
ブルーのスーツ、白のブラウスという服装である。髪が肩で波打っていた。
一分の隙《すき》もなく装《よそお》った典子は、清潔なビルの内部によく似合う。男に伍して高度な仕事をこなしていける女にみえる。
小売業などには惜しい。もっと知的な仕事をさせたい。ひそかに相原は考えた。
友弘はぶじに釈放された。事件の後遺症をいやすため、一ヵ月ばかりアメリカへいってくる予定である。友弘に早く結婚させたい。内藤ショップの経営を軌道に乗せて、友弘夫婦にまかせる。典子は語学を生かせる職業につかせてやりたかった。
「いらっしゃいませ。ただいま営業本部長を呼んできます。どうぞ――」
お得意を迎える笑顔で相原は出迎えた。
三階の応接室へ案内する。典子は照れくさそうに、バッグをかついで部屋へ入った。
相原はオフィスへ本部長を呼びにいった。
救済願が効いて、内藤ショップはオールデイズ・チェーンからの追放は免《まぬが》れた。ペナルティの額など、処分はまだ決定していない。が、土地建物を手放してすべてを清算させられる羽目にはおちいらずに済んだのである。典子の母は、相原をまるで神さまのようにあつかうようになった。
典子は、その件で営業本部長へ礼をいいにきたのだ。顔見せの意味もあった。本部長に相原は自分たちの仲人をたのんである。本部長は常務取締役でもあった。将来の社長候補だ。
本部長は書き物をしていた。気軽に腰をあげて応接室へやってくる。本部長と典子は初対面の挨拶をした。本部長は照れていた。
「ききしにまさる美しいかただな。仲人甲斐があります。相原くんも不潔な三十代独身が終って慶賀に耐えないね。私もこれで心おきなくきみをコキ使うことができる」
なごやかに三人で話しあった。挙式の日や会場の打合せをした。
二十分ばかりで本部長は出ていった。コーヒーの出前を相原はたのんだ。ソファにならんで腰かけて、二人は熱いコーヒーを飲んだ。
相原は妙に息苦しくなった。せまい応接室に二人きりでこもっているせいだ。典子の体がなまなましく意識されてくる。抱きよせたい衝動に相原はかられた。
「立派なビルね。まだ新しいわ。会社が若いからビルもそうなんだ」
典子は周囲を見まわした。
かすかに上気している。相原がなにを考えているのか、わかっているらしい。白い肌の香りを相原は感じた。
「冷たくて頑丈なコンクリートのなかにいると、人肌が恋しくなるよ。きみを裸にして抱きしめてみたい。人間に触れているって感じがすると思うんだ」
「そうね。その感覚はわかるわ。でも――」
「いますぐ抱きたいんだ、ここで」
「だめよ。だれかが入ってきたら、相原さん、おしまいよ。私、フィアンセにクビになられたら困る。出世してもらいたいのに」
「おれは平気さ。クビになったら内藤ショップを経営する。その気でがんばれば、チェーン店ができるよ」
相原は典子の肩へ腕をまわした。
抱きよせる。華奢《きやしや》な肩の感触が、久しぶりで出会ったようになつかしく感じられた。相原はかるく典子の頬へくちづけした。
「内藤ショップが頼りになればいいんだけど。逆にあなたの足をひっぱるんじゃないかと思って心配だわ」
「友弘くんがちゃんとやるさ。彼はバカじゃない。しっかりしている。結婚して責任を背負えば、人が変ると思うよ」
友弘は釈放されたあと、静岡県下の母親の実家へ静養にいっている。アメリカへゆく準備をしているはずだ。杉本しのぶを亡くした傷手からも、二、三ヵ月もすれば回復するにちがいない。
典子の肩を抱いたまま、相原は窓の外へ目をやった。典子の服をぬがせてしまいたい。筋向いのビルからこちらを見ている者がいないか、気にかかった。
向う側からの視線はなかった。なにげなく相原は地上を見た。一つの人影が目にとまった。
向う側の歩道を林総務課長、いや林総務部長が歩いている。両側に一人ずつ、見知らぬ男がつきそっていた。黒っぽい服をきた、いかがわしい感じの男たちである。林は肩を揺すって、昂然《こうぜん》と歩を運んでいた。社内にいるときの、愛想のよい彼とは別人のようだった。
「威勢がいいなあ、あの男。わが世の春だものな。なにをどう動かしたのか知れないけど、あっという間に部長になった」
相原は立って、窓辺に寄った。
新社長就任にともなう人事異動で林は部長に昇進した。林は南陽堂から日本オールデイズに移籍してまだ二年である。三十代で部長というのは、破格の抜擢《ばつてき》だった。格別に功績らしいものがあったわけではない。強《し》いていえば、こんどの事件で警察やマスコミへの対応がよかったことぐらいだろう。
林は南陽堂時代、大型店用の土地買収で辣腕《らつわん》をふるったという噂《うわさ》である。だとすれば、相原たちの知らない非合法なビジネスにも係わりあっていた可能性があった。抜擢の理由も、そのあたりにあるのかもしれない。一見小心者のようにみせて、裏でなにをしているのかわからない男である。
「あの人が総務部長。まだ若いのにね」
典子が立って、相原のそばへきた。さわやかな化粧品の香りが鼻孔にしのびこんだ。
林はつれの二人の男とともに筋向いの喫茶店へ姿を消した。
お洒落《しやれ》な服の女たち、地味なスーツの会社員たち、出前持ち、酒場勤めの男たちなどがいつものように通りをゆききしている。
「おれもがんばらなくてはいけないな。きみを重役夫人にする責任がある」
「そんなこと、気にしないで。でも、目標をもつほうが闘志につながるのなら、そう思っていてもらってもいいけど」
相原はきびすをかえして扉に近づいた。
内鍵をかける。椅子でバリケードをつくった。窓辺へもどって、ブラインドをおろした。典子を抱き寄せ、くちづけする。腕に力をこめた。典子は反《そ》りかえった。顔をしかめている。苦しそうな顔に、陶酔の色がひろがった。呼吸がみだれてきた。
「だめよ。だれか入ってくるわ。ねえ、やめて。危険すぎる」
「使用中のランプがついているから大丈夫さ。鍵もかかっている。平気だよ。さ、典子、きみの体にさわらせてくれ」
おれ、なんだか癪《しやく》にさわって仕方がないんだ。いらいらする。気晴しをさせてくれ。とんでもないことをやってみたいんだ。抱かせてくれ。一生の思い出になる。
ささやきながら、相原はスカートのうえから典子のふとももをさぐった。外側から内側へすすんだ。まんなかへ右掌が吸いついた。あらためてくちづけした。
典子は反りかえった。あえいでいる。相原の掌に、典子の女がおしつけられる。相原はやさしく掌を動かした。典子がかすかに声をあげる。体が揺れはじめた。
スカートのなかへ相原は手をすべりこませた。典子は逆らわない。窓枠に手をついてバランスを保《たも》っている。
相原はその場にしゃがんだ。典子の下着類を一気にひきおろした。すべすべする典子のふとももへ抱きついて、くちづけした。
「いいわ。私、ぬいでしまう」
典子は靴をぬいだ。下着類を脚からぬきとり、裸足《はだし》になった。
相原も上衣をぬぎ、ネクタイをとった。靴をぬぎ、ズボンもとった。やけくそな欲望にかられた。ぜんぶぬぎすてた。
「ああ、いい気分だ。空気が体にしみる。きみも裸になれ」
ためらう典子の体から、相原はすべての衣類を剥《は》ぎとった。
二人は抱きあった。あわただしくまさぐりあう。典子は濡れていた。体をねじり、揺すって快楽に耐える。ときおり崩れそうになる。歯を食いしばって声をおさえていた。
すすんで典子はうしろを向いた。テーブルに両手をついてヒップを突きだした。相原は両掌で典子のヒップをなでまわした。ざらざらする脂肪の感触がすばらしい。すべてが新鮮だった。コンクリートの壁の冷たく重苦しい圧力に逆らって、人間の肌がさかんに生気を発散させる。すべての細胞が、壁の圧力に負けまいとしてがんばっている。
相原は典子のなかへ入った。ゆっくりと動きだした。
「平気だよ。負けるもんか」
なんとなくつぶやいた。しだいに相原は動きを速くしていった。
新聞記者の川添がとつぜん訪ねてきたのは、その三日後の午後だった。相原は商品部門との打合せ会を終えたところだった。
応接室へ相原は川添を通した。先日典子とセックスをたのしんだ部屋である。典子の肌の香りやぬくもりが残っているようで、おちつかない気分だった。
「見てもらいたいものがあるんだ。おまえ、この連中に面識はないか」
上衣の内ポケットから、川添は一枚の写真をとりだした。
商店や民家の建てこんだ街角に十人の男があつまっている。なにかの記念写真だ。年輩の男も若い男もいる。彼らは五人ずつ前後列に別れ、前の五人はしゃがんでいた。
「これは林さんだ。うちの総務部長だよ。あとは知らない顔ばかりだけど」
後列のまんなかの男を相原は指した。
ほかにどこかで見た顔が二、三ある。何者なのか、思いだせない。
「オールデイズの総務部長――。すると、オールデイズは地あげに関係があるのか」
意外なことを川添は訊いた。新聞記者らしい目つきで相原をみつめる。
「うちと地あげ屋。あまり関係ないと思うけどね。林さんといっしょに写っているこの連中がそうなのか」
「地あげをやる暴力団さ。花岡組っていうんだ。前列の中央が花岡組の会長」
「きいたことのある名前だな。そうだ、花岡組といえば――」
「お察しのとおりさ。佐藤裕一社長を殺したちんぴらの所属していた暴力団だ。よく見ろよ。後列の右端にいるちんぴらに見おぼえがあるはずだぞ。例の田丸健一だよ。佐藤社長を刺した男」
「田丸。そうか。いわれてみればたしかにこの男だ。しかし、ずいぶん若いな。まるでガキじゃないか。かなり前の写真だなこれは」
「四年まえの写真だよ。田丸はまだ十九だった。正真正銘ガキだったわけだ」
満足そうに川添は笑った。タバコに火をつけて、説明をはじめた。
四年まえ、神奈川県のA市で南陽堂は大型スーパーの建設をはじめた。花岡組が南陽堂のダミーの会社をつくって、用地の買収にあたった。買収が完了したさい、関係者があつまって記念写真をとった。
前列中央にいる人相のわるい老人が花岡組の会長。左となりが同組の幹部である。会長の右どなりの男と後列中央の男が南陽堂の担当者だと川添はきかされていた。
四年まえ、林はまだ南陽堂の企画室に勤務していた。用地買収の担当だった。暴力団とのつきあいも必要だったのだろう。
「待ってくれ。林さんと田丸は面識があったのか。妙だなこれは」
相原は疑問に突きあたった。
思わず窓の外へ目をやった。暴力団員らしい男たちをひきつれた彼が、通りを歩いているような気がしたのだ。
「おれも妙だと思うんだ。南陽堂と花岡組がつながっているだけであやしい気がしたよ。まして林という男がオールデイズの部長だとなると、いろいろ匂ってくる」
「この写真、どこで手にいれたんだ。暴力団関係の資料が新聞社にあるのか」
「田丸健一の友達の木村守というちんぴらがもっていたんだ。田丸のとなりにいる若い男だよ。それが木村さ」
田丸のとなりに土くさい顔立ちの少年が立っている。当時十七歳だったという。
木村は田丸と同様、花岡組のちんぴらだった。二年まえに足を洗った。いまは川崎で自動車の修理工をしている。
川添は、田丸があやまって佐藤裕一社長を刺殺したいきさつに割り切れない思いを抱いていた。調べてみると、田丸の所属する花岡組と南陽堂のあいだに、ひそかな取引関係のあることがわかった。川添はそこで木村をさがしだして、花岡組のことや田丸のことを訊きだした。写真は木村がもっていたのを借りだしてきたのである。
「木村の話では、花岡組はかなり乱暴な地あげをやったらしいね。土地を手放さない商店に犬猫の死骸を投げこんだり、焚火でいぶしたり、一日中ドリルの音をさせたり、やりたいほうだいだったらしい。土地の手当てが済むと、南陽堂から大きな手数料が支払われる。花岡組のような地あげ屋が、最低五、六社は南陽堂の傘下《さんか》にいたようだ」
「林さんはその元締めをやっていたわけか。二年まえにうちへ派遣されてきた。加盟店が叛乱をおこしたら、鎮圧するのが任務なのかもしれない。危険な人脈を使って」
「そういうことだろうな。しかし、南陽堂側の狙いはそれだけではなかった。佐藤裕一社長を排除する目的もあった」
「佐藤社長を――。まさか。彼はオールデイズの大功労者だぞ。どうして彼を」
相原は途中でことばが出なくなった。
川添の推測は、けっして荒唐無稽《こうとうむけい》ではなかった。強気一点張り、押しつけ一点張りの佐藤の行きかたを本社筋がもてあましているとの噂は何度もきいている。加盟店から叛乱をおこされては大変なことになる。叛乱がなくとも、いまの管理方針が社会問題になる恐れは十二分にあった。
南田陽介ら南陽堂の幹部はそれを恐れていた。何度も佐藤に警告を発した。だが、佐藤は方針を変えなかった。現行の加盟店管理システムが最高のものだと彼は信じている。
「成長したといっても、日本オールデイズは南陽堂の子会社にすぎない。佐藤がじゃまになったら、南田陽介は佐藤をクビにすればいいはずなんだ。ところが、そうはいかない事情があった。たぶんあったんだ」
「佐藤社長は、さっきもいったとおり大功労者だ。それに彼はむかしから南田陽介の片腕だった。用地買収など、南陽堂のダーティな面を知りつくしている。クビにすると、なにをバラされるか――」
川添につられて相原は意見をいった。
途中で口をつぐんだ。見たくもない重大な風景が見えはじめている。
「すると川添、おまえは佐藤社長が殺されたのは誤認ではないというのか。田丸健一は、最初から社長と知っていて刺した――」
「証拠はないが、そう考えるほうが自然ではないかね。殺す相手をまちがえて刺したなんて、常識では考えられないよ。調べるにつれて疑いが濃厚になってくる」
「そうか。田丸は最初から佐藤社長を狙っていたのか。なんとかいう暴力団の会長が佐藤社長と同じマンションに住んでいるのを利用したんだ。きっとそうだ」
「徳功会という暴力団さ。もう調べたよ。会長の名は津坂照蔵。花岡組同様、地あげをおもな収入源にしている。縄張りをめぐって両者は対立関係にあったらしい」
手帖を出して川添は説明した。
いそいで相原もメモをとった。ますます事態が鮮明になってくる。たいした功績もないくせに林は部長に抜擢されたようにみえた。ほんとうは、南田陽介と南陽堂のために、とんでもない大仕事をやってのけていたのだ。
田丸健一は北海道の出身。四人きょうだいの長男だった。父は鉱山労働者だったが、鉱山が廃止されたため、函館へ出て土木関係の作業員になった。酒好きで、田丸が専門学校へ通っているとき脳溢血で倒れた。以来、寝たきりの生活をしている。
田丸は中学を出たあと、ホテルマン養成の専門学校へ入った。卒業後は都内のあるビジネスホテルへ就職した。だが、金銭上のまちがいをおこして退職。花岡組の経営していた地あげ会社へ入った。
函館の実家では、寝たきりの父親と、母と下の弟の三人が暮している。母はビルの掃除婦をしているらしい。田丸は一日も早く大金をつかみたい境遇にあった。
かつて田丸健一の仲間だった木村守から、川添はこれだけのことをききだしていた。さまざまな事情を綜合してみると、事件の真相はもう疑いようもなくはっきりしている。
「佐藤社長が殺されたおかげで、津坂会長は自分が花岡組に狙われていることを知ったはずだよな。それでだまっているのか。なにか報復に出たのか」
「そこまではわからない。花岡組から然《しか》るべく挨拶があったんじゃないかな。はねっ返りの若い者がやったことだとかなんとかいって。あの世界にはよくあることだから」
「田丸は大金と引きかえに鉄砲玉になった。金はどこから出るんだろう。南陽堂かな、それとも花岡組からか」
「花岡組からだろうな。南陽堂は地あげ料に殺人料を上乗せして、通常の取引に見せかけて花岡組へ支払いをする。そのなかから、花岡組の組長が田丸に殺人料を支払う。もちろん何割かをピンハネする」
「田丸はいま拘置所にいる。刑があけてからでないと、金が手に入らない。そんなバカな条件では鉄砲玉にはならなかっただろう。金の一部は函館の家族へもう送られたとみるべきだろうな。きっとそうだ」
夢中になって二人は話しあった。
警察に情報をもらして、金の流れを調べさせるべきだろう。田丸の家族は近いうち、羽ぶりがよくなるにちがいない。その金がどこから出たかを追及してゆけば、南陽堂の犯罪が立証できるにちがいない。
徳功会の会長は、毎晩のように外出する。酒場や賭場へ顔を出すのだ。
彼とまちがえたようにみせかけて、田丸は佐藤社長を襲撃する計画だった。佐藤社長の帰宅が確実におそくなるのは、日本オールデイズの三千店パーティの日である。この日佐藤をおそえば、誤認だという説明は成立しやすくなる。そのとおり彼は実行したのだ。
途中、毒入り弁当事件が起った。二つの事件が錯綜して捜査は混乱する。田丸の側にとっては、願ってもない展開となった。
「あの晩、佐藤社長の行動は、逐一《ちくいち》田丸のほうへ報告されていたのではないかな。社長はいま会場を出た、いま銀座のクラブへ入った、これから家へ帰る。そういうニュースが一々田丸の耳へ入っていた。用意周到に田丸は待つことができた」
「通報者は林部長というわけか。物騒《ぶつそう》な話だな。林はあの晩、ずっと社長のお伴《とも》をしたはずだ。手にとるように社長の動きがわかる」
急に相原は腰をあげた。
ちょっと待ってくれ。いい残して応接室を出た。事務部門のオフィスへ彼は入った。林は外出中のようだ。席にはいなかった。
相原は人事課長の肩をたたいた。合図してオフィスのすみの応接テーブルのまえにつれていった。声をひそめて訊いた。
「佐藤裕一社長は以前、平塚に住んでいたはずだな。麹町《こうじまち》の例の億ションへ引越したのはいつからだった」
「まだ一年たっていないよ。通勤に不便だということで引越されたんだ。まさか暴力団の会長が入居しているとは思わなかった」
「億ションはだれがさがしたんだ。佐藤社長が自分で見つけたのか」
「いや、たしか林部長の世話だった。そういうことは総務の役目だからな。いい住居があったと社長もよろこんでおられたんだが」
息をのんで相原は話をきいた。誤認殺人を、最初から林は計画していたのだ。
林は佐藤排除の特命をうけて、日本オールデイズへ乗りこんできたらしい。南陽堂社長の南田陽介から、とくべつの信頼を寄せられているようだ。
「林部長という人は、南田陽介氏の親戚だという話をきいたんだ。どうなんだ。ほんとうのことなのか」
相原はカマをかけた。林がふつうの社員だとは信じられなくなっている。
「噂になっているのか。おどろいたな。だれが嗅《か》ぎつけたんだろう」
人事課長は虚をつかれた表情になった。
絶対に他言してくれるな。念をおして彼は打ちあけた。林は南田陽介が愛人に生ませた娘を妻に迎えた。そのことは極秘にしている。日本オールデイズの内部で、秘密警察の役割をはたすためだという。
「この話、絶対内緒にしてくれよな。そんな含みがあって彼は部長になったんだ」
あらためて念をおす人事課長に礼をいって、相原は腰をあげた。
応接室へもどった。いま知ったことを川添に伝えた。
「ヤバい男だなあ。虫も殺さない顔をして。この男がすべて段取りをつけたのか」
あらためて川添は写真に見入った。
林は日本オールデイズに乗りこんできて、佐藤裕一社長の加盟店管理に多大な問題があることを知った。南田陽介の了解のもとに、佐藤排除の計画をすすめた。そう解釈するほうが、妥当なのだろう。
「恐ろしい男の傘下でおれは働いているんだな。度胆《どぎも》をぬかれたよ」
相原はため息をついた。自分が虫ケラのように小さな存在であることを思い知った。
「林という男は、将来の日本オールデイズの社長を約束されているんだろうな。おまえ、どうする。近づいてご機嫌をとるか」
「冗談じゃない。まっぴらだ。だいたい会社に秘密警察をおくなんて、とんでもない発想だよ。日本オールデイズをそんな暗い会社にはさせられない。なんとかしなくては」
相原は闘志にかられた。作戦を考えなければならなかった。
一ヵ月後、東京地裁の法廷で、田丸健一の殺人容疑にたいする公判がひらかれた。
初日は人定訊問と起訴状の朗読、罪状の認否だけが行われた。
徳功会会長と誤認して佐藤裕一社長を刺殺した――起訴状の内容を田丸はすなおにみとめた。情状酌量だけを期待しているようにみえた。問題なく裁判は進行しそうである。一ヵ月後に二度目の公判をひらきます。裁判長は宣告した。
たかが暴力団の内輪|揉《も》めの裁判である。マスコミは無関心だった。P新聞の川添以外、傍聴席に記者の姿はなかった。ほかは林以下二、三の日本オールデイズ社員、佐藤社長の遺族が顔を出しただけである。花岡組からは、幹部が一人若い衆をつれて出席した。
相原は顔を出さなかった。営業部員が公判に出席するなんて不自然である。へたに傍聴にいって林を警戒させてもいけない。
予定どおり一ヵ月後、二度目の公判がひらかれた。こんどは相原も出席した。林らに気づかれぬよう、開廷後こっそり傍聴席へ入って腰をおろした。
検察側の証人申請が行われた。名前を公表せずに証人を出廷させたい。検事は裁判長へ申請して許可をとった。
証人が出廷した。五十歳前後のがっしりした体つきの男だった。彼は法廷のまんなかに立った。被告の田丸健一は、裁判官にいわれるまま証人台へ立った。
「被告はこの人物と面識がありますか」
検事が証人を指して訊いた。
田丸はかぶりをふった。一度も会ったことはありません。はっきりとこたえた。
写真などで見たことはないか。検事はさらに訊いた。まったく知りません。田丸の返事は明瞭だった。
同じ質問を、検事は証人に向けて発した。田丸と会ったことはない。証人は答えた。
「証人は自分の名前と年齢、職業をここで公表してください」
検事に乞《こ》われて、証人は重い口調でこたえた。
「津坂照蔵。五十三歳です。徳功会の会長をしております」
人のすくない傍聴席がどよめいた。
前の席にいる林が蒼白になった。田丸がなにか口走って、裁判官に制止される。
「検事は、起訴状と内容の異る論告をしなければならないのを残念に思います。しかし、真実はすでに明らかであります。被告は津坂照蔵の顔をまったく知りませんでした。殺す相手の顔を知らずに、計画的な兇行におよぶ者がいるとは考えられません。被告は誤認して被害者をおそったわけではなかった。最初から佐藤裕一社長を兇行の対象としていたわけであります。その動機は――」
しずまりかえった法廷に、検事の声がひびきわたった。
傍聴席の最前列にいた川添がふりかえった。相原と視線が合った。二人はうなずきあった。
[#地付き](了)
この作品はフィクションであり、実在する個人、団体等にはまったく関係ありません。
本書は一九八九年三月に刊行されました。
底本 講談社文庫版(一九九二年五月刊)