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日本人はなぜ無宗教なのか
阿満利麿
目 次
第一章[#「第一章」はゴシック体] 「無宗教」の中身
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1 「創唱宗教」と「自然宗教」
2 「無宗教」という名の宗教心
3 クリスマスは宗教行事ではないのか
4 地鎮祭は「宗教」にあらず
5 「宗教」は怖い?
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 「無宗教」の歴史
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1 神仏とともに生きた時代
2 儒教の登場
3 「憂き世」から「浮き世」へ
4 「浮き世」の人生観と宗教心
5 「葬式仏教」の役割
6 「葬式仏教」の受容
7 イエの仏教
8 儒学者たちの仏教排斥論
9 なぜ死者を「ホトケ」というのか
10 「自然宗教」という回路
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 痩せた宗教観
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1 神話から出発した日本の近代
2 「宗教」という造語の陰に
3 「創唱宗教」の分断
4 「天皇崇拝」のはじまり
5 「国民教化運動」の挫折
6 さまざまな「神道非宗教論」
7 浄土真宗の「神道非宗教論」
8 「自然宗教」の分断
9 痩せた宗教観
10 豊かな宗教観の試み
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 日常主義と宗教
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1 「サガ長し」
2 柳田国男の尋常志向
3 「悪」はどうする
4 「平衡化」
5 日常主義
6 日常主義と妥協する仏教
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 墓のない村
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1 ウヤガムに生きる
2 和紙の村の信心
3 「回心」
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引用文献
あとがき
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第一章[#「第一章」はゴシック体] 「無宗教」の中身
1 「創唱宗教」と「自然宗教」
日本人のなかには「無宗教」を標榜する人が少なくない。しかし本当に宗教を否定したり、考え抜いた上での無神論者はきわめて少ない。そのことをよく示しているのが日本人の「宗教心」についての調査である。
調査にはいろいろあるがどれを見ても、だいたい全体の七割が「無宗教だ」と答えている。だが、不思議なことにその七割の七五%が「宗教心は大切だ」とも答えているのだ。つまり、「個人的には無宗教だが、宗教心は大切だと思う」という人が、全体の過半数を占めていることになる。この現象はいったいなにを意味しているのであろうか。私の見るところ、この回答にこそ「無宗教」の秘密が隠されているように思われる。
つまり、日本人の多くが「無宗教だ」というときには、「特定の宗派の信者ではない」という意味なのであり、キリスト教徒などがいう「無神論者」ということではない。
だいたい日本人の多くはこれからのべるように、むしろ宗教心は豊かなのである。ただ、その宗教心を「特定の宗派」に限定されることに抵抗があるのだ。なぜ抵抗があるのかはこれからゆっくり説明をくわえてゆくつもりだが、たとえば、新聞などで墓地の広告がでるとき、ほとんどが「宗派を問わない」ことをうたい文句にしている。まるで墓をつくり墓に詣でることが宗教ではないかのような扱いなのである。墓参がれっきとした宗教心のあらわれであることはいうまでもない。
「無宗教」の葬儀ということも、形式的に特定の宗派の儀式を採用しないということが多くの場合であり、参列者に無神論を強いるものではない。献花をしたり、故人の好きな音楽を流したり、故人の好きな詩の一節を朗読するのも、「無宗教」流の宗教儀式なのであり、参列者のあるものは、死とは大地に帰ることだとか、肉体を構成する元素がまた別の組み合わせ方になったのだとか、それぞれに人間存在の不思議を解釈し、そこになんらかの意味づけを行っているのである。そうした人生についての諦観や意味づけの試みこそ、広い意味での宗教心の発動なのであり、儀式は「無宗教」であっても、参列者は結構宗教的気分にひたっているのである。ただくりかえすが、特定の既成宗教の枠にはめられるのはいやだというまでなのである。
「無宗教」や「無神論者」という言葉が、どれだけ無造作に使用されているかのよい見本がある。それは、ある本を読んでいて発見したのだが、村祭りに欠かせぬ人物として、村人から絶大な支持を得ている神主が、こともあろうに、「無神論者」を自認しているのである。
その神主は、「神仏に敬虔であるから神主業を努めているのではなく、むらがそれを必要とするから、また、私のなかでも家系や地縁が断ち切れない重みがあるから、これも役目と心得てそうしている」といったあと、「無神論者である私のような立場の者が祭祀役が務まるのも、また日本のむらの祭りではなかろうか」と結んでいる(神崎宣武『いなか神主奮戦記』)。
私は、神主を兼業としている、この著者に共感するところが多く、この本も楽しんで読んだ。だが、日本人の信仰はとても宗教とはいえないという視点や、自らを「無神論者」と規定して疑うところがないという点には、率直な感想といえばそうなのだが、やはりいささか驚いた。
もっとも、その著者の視点こそ、大方の日本人の宗教についての考え方が映し出されているというべきであり、キリスト教をモデルとするかぎり、日本の村祭りやそれを司祭する神主業は、とても宗教とは受けとれないほど、日本人の宗教心は、「融通」と「曖昧さ」に満ちているということなのであろう。
要するに、この著者の意見をふくめて、「特定の宗派」を基準にしている限り、とりわけキリスト教やイスラム教を念頭におく限り、日本人の宗教心を正確に理解することはほとんど不可能だということなのである。
この点、私はかねてから、「自然宗教」と「|創唱《そうしよう》宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。教祖と教典、それに教団の三者によって成り立っている宗教といいかえてよい。代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して「自然宗教」とは、文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や教典、教団をもたない。「自然宗教」というと、しばしば大自然を信仰対象とする宗教と誤解されがちだが、そうではない。あくまでも「創唱宗教」に比べての用語であり、その発生が自然的で特定の教祖によるものではないということである。あくまでも自然に発生し、無意識に先祖たちによって受け継がれ、今に続いてきた宗教のことである。
宗教をめぐるさまざまな混乱や誤解は、「創唱宗教」と「自然宗教」の区別を採用しないところから生じているように思われる。古い話になるが、日本で海外旅行が自由化されはじめた頃、どのガイドブックにも、つぎのような注意書があった。外国人に「あなたの宗教はなにか」と質問されたら、「無宗教」と答えてはならない。なぜなら、外国人、とくに欧米人にとって「無宗教だ」ということは、人間であることをみずから否定することになるから。できれば、「仏教徒」とか「神道」と答えるほうがよい、と。アドバイスにしたがって、「仏教徒」と答えたところ、「仏教とはどのような宗教か」と質問されてしどろもどろになった人も少なくなかった。「無宗教」でもいかず、かといって「仏教徒」といっても立ち往生するといった困った状況が生まれていたのである。
そのころ、「無宗教」が「創唱宗教」の否定ではなく、むしろ「自然宗教」の信奉を意味するとわかっていたら、海外にでかける日本人ももう少し胸を張って旅行できたろうに、と今となれば同情する。だが、この話を一昔前の笑い話としてすますことができないのが現在の状況でもある。我々の宗教心の認識は一向に改善されてはいないのである。
というのも、海外に留学する機会が一昔前に比べて断然多い最近の学生の場合も、似たような経験を繰り返しているからである。
私のゼミに所属しているある学生は、アメリカの地方の大学へ短期留学をしたところ、「あなたの宗教はなにか」と質問され、「無宗教」と答えたばかりに、留学期間中、そのようなことでは立派な人間になることはできない、と公私にわたって議論の対象になってすっかり考え込んでしまった、という。そして帰国後、まっさきに私のゼミを訪ねてきて、日本人の宗教意識とはなにか、という問題を卒業論文のテーマとするにいたったのである。
ほかにも、海外旅行のなかで現地の人に「あなたはなにを信じていますか」と質問されて返答に窮したり、日本文化や日本の歴史についての質問をうけて答えられなかったことがきっかけになって、私の講義やゼミに入ってくる学生はあとを断たない。
いずれにせよ、「無宗教」という言葉ですますことができるのは、この日本列島のなかでの、いわば内部了解に属することであり、ほかの文化伝統のなかで生活している人には通用しない考え方であることをあらためて認識せねばならないであろう。大切なことは、「無宗教」という言葉にとらわれることなく、その言葉が指し示している現実を正確に理解することからはじめることではないか。その上で、なぜ日本人の多くがその宗教心を「無宗教」という表現にとどめておいて平気なのかを問わねばならないであろう。こうした課題に取り組む手がかりが、私のいう「創唱宗教」と「自然宗教」という宗教の捉え方なのである。
2 「無宗教」という名の宗教心
「無宗教」とはいうが実際は「自然宗教」の優越、それが日本人の宗教心の内容だとのべたが、具体的にはどのようなことなのか。
たとえば、初詣を思い起こしてほしい。日頃、神社に足を運ぶこともしない多くの若者も、正月の元旦だけは初詣にでかける。若者だけではない、中年も年寄りも神社に出かける。どこの神社が参詣者数においてトップになるか、そのお賽銭のあがり具合はどうかといったことがマスコミを賑わす。初詣に出かける人々のどの程度がはっきりした信仰心に基づいているのか、それは心もとない。正月自体がすっかり長期休暇の一つになってしまって久しいから、初詣もその休暇中のちょっとしたイベントにしかすぎないのかもしれない。しかしともかくも、一九九六年の元旦には、八千万を超える人々が社殿に詣でたのである。
どうしてこのように多くの人々が初詣に出かけるのか。それこそ、日本人の多くが「自然宗教」の「信者」である証拠なのである。「自然宗教」という言葉がなじみがないからだれも自分たちが「信者」であるとは思ってもみていないが、私の宗教の定義からすれば、初詣をする人はれっきとした「自然宗教」の「信者」ということになる。
もう一つ例をあげよう。それは、お盆のときに多数の人々が故郷に帰ることだ。最近は時差帰郷がすすんできたから、前ほど混雑はひどくないが、それにしても交通事情の悪いなかで苦行まがいの我慢を重ねて、ともかくも故郷をめざす。いったいそれほどまでしてどうして故郷に帰らねばならないのか。ここにもまた「自然宗教」の「信者」なるがゆえの苦行があったといわねばならない。もちろん、この場合も、帰郷する人々にはそうした思いはまったくないだろう。だが、まぎれもなくお盆は「自然宗教」の重要な行事なのである。
では「自然宗教」とはなにか。ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守にたいする敬虔な心が、そうなのである。そこでは、人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることでご先祖になることが信じられているし、そのご先祖は、やがて村の神様ともなり、ときには孫子ともなって生まれ変わることもできる。あるいは、人は死んでも遠くへはゆかず、近くの山に住み、子孫やゆかりの人々を草葉の陰から見ているのであり、盆や正月に子孫を訪ねることもできる、と信じられているのだ。お盆に帰省するのも、もともとこうした先祖たちと交歓するためなのである。
春秋の彼岸のときに墓参を習わしとする日本人も少なくない。その墓参の際に、墓に水をかけるのも大切な儀礼なのだが、日本人以外に墓に水をかけるという習慣をもっている民族はほとんどいない。
どうして日本人は墓参の折りに水を墓石にかけるのか。柳田国男によると、墓にかける水は、もともと墓の住人(?)が生まれたときに産湯として使用した井戸の水でなければならなかった。どうして産湯に使った水でなければならないのか。それは、亡き人にその水を示すことによって、あなたは死んでも決して故郷から遠いところへはいってはいない、いやあなたにゆかりのある人々の近くにいるのだ、ということを教えるためなのである。
どうしてそのような面倒な手続きが必要なのか。思うに仏教が民衆の生活のすみずみにまで入ってきて、人は死ねば極楽という現世からはるかに隔たったところへゆくという教えが広まってきたことと関係があるのであろう。日本の民衆のなかには、極楽へ生まれることは歓迎しても、ゆかりの人々や土地から離れることには抵抗があったのだ。そのために、墓参に際しては、必ず水をかけるようになったのではないか。墓が民衆に普及するのは、一八世紀頃からであるから、大昔からの風習とはいえない。
このように見てくると、読者の多くも、自分たちが「自然宗教」の「信者」であることに反対はされないであろう。さらにいえば、初詣やお盆、春秋の彼岸はいずれも重要な年中行事であることからもわかるように、日本人は年々歳々同じ行事を繰り返しながら、いつしか「自然宗教」に同化されているともいえる。「自然宗教」は、「創唱宗教」のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段をもっているといえるのであり、人々もそうした年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができたのである。そこでは、とりたてて特別の教義、つまり「創唱宗教」を選択する必要はなかった。ここに「創唱宗教」という意味での宗教には無関心で、「無宗教」を標榜してなんら疑わない理由がある。
3 クリスマスは宗教行事ではないのか
我々が容易に「無宗教」を口にする原因の一つに、風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」ではないという思いこみがあるようだ。それは、宗教といえば必ず教祖や教団がなければならないという思いこみと軌を一にしている現象といえよう。
たとえば、クリスマスはれっきとしたキリスト教の行事であるし、葬式仏教もまがうことのない日本仏教である。あとで問題にする地鎮祭といった習慣も、民間信仰や神道に属する宗教的行事であることに変わりはない。にもかかわらず、こうした行事は宗教とは見なされないことが多い。クリスマスは年末の風物詩の一つであり、仏教徒や神道の信者を自称している家庭でも堂々とクリスマスが祝われている。仏式で行われる葬儀に、信仰の相違を理由に参加しない人はまれであろう。同じように神道式の結婚式に信仰を理由に参加を拒む人も少ない。特定の信仰を持っている人、つまり特定の「創唱宗教」の信者も、こうした行事を宗教プロパーのものとは見なしていないのが普通であろう。また、こうした行事に参加しているというだけでは、キリスト教徒であるとか、仏教徒であるとはいいがたいであろう。
どうして風俗習慣となってしまった宗教は「宗教」ではないのか。このような思いこみはどうして生じたのか、宗教といえば「創唱宗教」に限定されて「自然宗教」は「宗教」と見なされないのはなぜか、それは近代日本の歴史に深くかかわる問題なのであり、のちにあらためてふれることにしたい。ここでは、もっぱらこうした思いこみのためにどのような混乱が生じているかを紹介しておこう。
一昨年(一九九四年)、岐阜県の東白川村を訪ねたときのこと、村の人々が異口同音に自分たちは「無宗教」だと強調するのにであって驚いたことがある。この地域は明治維新のとき、徹底的に廃仏毀釈を断行した地域である。仏教寺院を破壊して僧侶を還俗させたり追放したりして、村をあげて神道となった。今も村役場の正面には、四つ割りになった、南無阿弥陀仏の文字を刻んだ大きな石碑が記念に置かれている。寺のない村として研究者にはよく知られた地域である。
それにしても、仏教の代わりに信仰することになった神道を「宗教」とは見なさず、立派な神棚を祭っているにもかかわらず、自分たちは「無宗教」だと公言してはばからないのは奇異というしかない。加えて、土地の人からは神道は宗教ではありませんから、と念を押されもした。神道が宗教ではないという詭弁は、のちにふれるように明治政府の苦心の発明なのだが、「国家神道」が崩壊して久しいにもかかわらず、まだこの表現が生きていたのである。人が死ねば神道式で送り、神道祭祀によっていわゆる成仏を祈る。そして一年の節目には氏神を祭り、有名大社の神々を尊崇してやまない。にもかかわらず自分たちは「無宗教」だという。
ここで神道と「自然宗教」との関係をはっきりさせる必要があろう。私の考えでは、神道は「自然宗教」を基盤にして生まれた宗教であり、「自然宗教」そのものではない。もっといえば、神道は天皇を中核とする宮廷信仰が中心であり、一説によれば、九世紀頃から明確な姿を見せるともいわれている。いずれにせよ、「自然宗教」のなかで培われてきた神観念などが、当時の先進文明国である中国の思想などによって再構成されたものが、神道なのである。そこでは、明確な教祖にあたる人物の名前は残っていないが、明らかに人為が加わっていることが推測される。この意味では、神道は「創唱宗教」と「自然宗教」との中間にある宗教といえよう。
さらに念のためにいっておけば、「自然宗教」も古今不変の宗教意識などではなく、時代とともにその内容が変化してきたことはいうまでもない。同様に、神道も歴史的変遷を遂げて今日にいたっている。にもかかわらず、神道といえば、昔から変わらない宗教だというイメージが強いが、それは近代日本に特有のイデオロギー操作によって生まれた新しい誤解なのである。
4 地鎮祭は「宗教」にあらず
さて、もとは宗教に起源があるとしても、ひとたび習慣や風俗となってしまったものはもはや宗教とは見なさないという風潮は、憲法にいう「政教分離」の理解を危うくする傾向も生みだしている。
たとえば、献穀祭もその一つである。献穀祭とは、地方自治体が毎年秋に皇居で行われる|新嘗祭《にいなめさい》のために新穀を提供する行事であるが、問題はその際公費で神道儀礼が執行される点にある。神道という宗教に公金を支出してその儀礼を排他的に執行することは、憲法に定められた「政教分離」の原則に違反するのではないか、という疑いが生じて、公費をもって神道式の儀礼を執行することの是非が、裁判で争われることになった。訴えに対して裁判所は、この儀式には一部神道の儀式が用いられているが、それは習俗、先例の踏襲であり、宗教活動とは見なすことはできないとして、「政教分離」の原則には違反しない、と結論を下した(一九九三年一〇月)。裁判所は、宗教であっても習俗となっている部分は、宗教とは見なさないという立場をとっているのだ。
その先例は、一九六五年三重県津市が市の体育館の建設に際して神道式の地鎮祭を執行したことをめぐって起こされた「津地鎮祭違憲訴訟」の判決にある。この訴訟は、地方裁判所からはじまって最高裁判所まで、一二年の長期にわたった。違憲の訴えに対して、第一審は、つぎのようにのべている。地鎮祭は外見上神道の宗教行事に属することは否定できないが、その実態を見れば「習俗的行事」であり、神道の布教、宣伝を目的とする宗教活動とはいえないから、「政教分離」に違反するとはいえない、と。ここでは明らかに宗教と習俗の区別が意識して使い分けられており、憲法で保証している宗教には習俗部分はふくまれていないと結論したのである。
第二審は、津市の起工式は単なる社会的儀礼や習俗的行事ということはできず、神社神道に固有の宗教儀式ととらえるべきであり、憲法が禁止している宗教的活動とは、特定の宗教の布教や教化といった積極的行為だけではなく、祝典、儀式、行事をふくむ、「およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅する」として、「政教分離」の適用を厳格にするよう求めた。
しかし、最高裁は、高裁の判決を破棄して第一審の判決を支持することになった。最高裁はつぎのようにのべている。神道式の起工式は、神社神道に固有の儀礼ではあっても「それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない」から、憲法が禁止している宗教活動とは見なすことはできない。地鎮祭は、宗教と関わり合いをもつものであることは否定できないが、「社会の一般的慣習に従った(世俗的)儀礼」だ、と(津地鎮祭違憲訴訟を守る会編『最高裁と神々』)。
宗教が生活のなかに深く分け入って習慣となったとき、日本ではそれはもはや宗教ではなくなってしまうのだ。この現象を奇妙とも不思議とも考えない裁判官はどのような知的伝統に育ったのであろうか。
さらにいえば、この一連の裁判で端なくも露呈されたのは、裁判官たちの日本人一般の宗教意識への侮蔑、偏見であった。彼らはいう。日本人の宗教意識は、神仏を同時にあわせて信じる「雑居的」でレベルの低いものであり、「信教の自由」や「政教分離」の原則に反応するだけの敏感さをもっていない、と。
かつて靖国神社の国家護持法案が議論されたとき、自民党の代議士たちは、憲法がいう「信教の自由」の対象となる神観念は、キリスト教にいう神であって、日本人のいう神々は、その対象ではないといった。私の言葉でいえば、日本の知的エリートや政治家が宗教の名前で思い起こすのは「創唱宗教」、とりわけキリスト教であって、日本人の生活のすみずみにまで浸透している「自然宗教」は頭から視野に入っていなかったのである。
こうした、宗教を習俗の部分とそうでない部分に分断する論法は、昭和天皇の「大喪の礼」のときにもさかんに用いられたことは記憶に新しいであろう。
天皇の葬儀は、国家の儀式と皇室の私的な儀式の二つの部分から成り立っていた。どうしてそのような二部構成になっていたのか。それは皇室の行う儀礼が神道式であったために、もしそれを国家の儀式としてとりおこなうならば、憲法違反になることは明白であったからである。だがこのような配慮がなされたにもかかわらず、実際の儀礼執行では両者を区別することはむつかしかった。竹下首相をはじめ三権の長ら一万人の参列者は、国家の葬儀に先立って行われる皇室の私的な神道儀礼の段階から着席していなくてはならず、結果的に国家公務員らが皇室の神道式儀礼にも参加したことになったからである。
こうした事態に対して、昭和天皇の葬儀には憲法違反の疑いが濃厚だと主張した人々がいる一方、神道式儀礼を皇室の私的な儀礼にとどめたことは、厳粛であるべき葬儀から宗教性を奪うだけで「魂を失うもの」(黛敏郎)であったとして、次のように主張した人々がいる。つまり、憲法が規定している宗教活動とは布教活動などを指すだけであり、儀式はそのうちにはふくまれないのだから、皇室の神道式儀礼はそのまま国家儀礼とするべきだ、と。ここでも、儀式は宗教にはふくまれないとする詭弁が一定の力をもって登場していたのである。
こうした議論は、その後の天皇即位の儀礼、とくに「大嘗祭」をめぐって繰り返されたが、宗教的色彩のきわめて濃厚な皇室儀礼が、国事行為として行われることに歯止めはかからなかった。
いずれにせよ、宗教を教義や布教といった目立つ部分と、習慣や風俗あるいは儀礼や儀式という目立たない部分に二分し、習慣や儀式をとりたてて宗教とは見なさないという風潮は、現在もなお続いている。
その顕著な例は、テレビのニュースのなかで、季節ネタとして神道の祭りがなんのためらいもなく放映されることであろう。というのも、電波という公共的手段のなかでは、思想信条に関する報道は慎重であるべきだからである。もし特定の宗教教団の行事や儀礼をなんの必然性もなくニュースとして放送したとしたら、放送局がその教団と特別な関係にあると見なされてもしょうがないであろうし、なによりも公共的な電波を私物化したといわれても抗弁できないであろう。にもかかわらず、祭礼のニュースが放送され続けているのは、祭礼は宗教ではなく習俗、風俗の類と考えられているというしかない。
ついでにいっておけば、マスコミなどが事故死に関して「死者の冥福を祈る」という表現を常套語にしているのも、配慮の足りないことというしかない。なぜならば、宗教のなかには生者が死者の幸福を祈るまでもなく、死者はすでに神や仏によって完全な存在となっていると説いているものもあるからである。せめて「死者を悼む」という程度の表現にとどめておけないものか。
宗教を「創唱宗教」に限定しすぎて、多くの日本人にとって空気のようになっている「自然宗教」を宗教と認識することが難しいという状況は、宗教文化を習俗と教義に分けるという奇妙な論理をも生みだしているのである。しかもやっかいなことは、こうした区別に疑問をいだく人がきわめて少ないということだ。
5 「宗教」は怖い?
「無宗教」だという人のなかには、宗教が恐ろしいから宗教に近づかないようにしているという人も少なくない。宗教にともかくも関心をもたないようにする、それが「無宗教」を標榜させているのである。
なぜ宗教は恐ろしいのであろうか。たとえば、マスコミを賑わしてきた事件を思い起こすまでもなく、人の弱みにつけこんで、しばしばあり金や財産のすべてを巻き上げるから、ということもあろう。あるいは、教団という特別な世界に連れてゆかれて普通の生活ができなくなるという心配から、また、教祖と称する人物に自由に操られるという恐怖もあろう。要するに、宗教とは常識でおしはかることができない得体の知れない世界だから、できるだけ近づかないようにするということになろうか。
もちろんここでいう宗教は、ほとんどが「自然宗教」というよりも「創唱宗教」に属する。特定の教祖や教義、教団が怖いのである。ご先祖や氏神が怖いということはない。一度特定の教団にからめとられると、自由を失ってしまうのではないか、と過剰なまでに自己防衛するのである。ここにも、日本人の「創唱宗教」ぎらいがはっきりとあらわれている。
ところで、こうした「創唱宗教」への恐怖心や警戒感は、ある意味では正常な反応だといえる。なぜなら、「創唱宗教」の本質は、日常普通の生活とは異なる考え方に立脚点があるからだ。日常の普通の生活を持続させている考え方をもっとも重要だと考えている人にとっては、宗教は理解を超えた、ときに危険な考え方だと映る。
たとえば、東京銀座で銀ブラを楽しんでいる最中に突如、強力なスピーカーで「あなたがた罪人は悔い改めよ」と説教されることがある。だが、通行人の大方は自分たちが「罪人」だとは思わない。むしろスピーカーの主に常識のないいいぐさだと侮蔑の視線を投げかけるのがおちであろう。もちろん、キリスト教のすべてがこのような強圧的な説教をしているわけではないが、人間はすべて「罪人」だという考え方をもっていることはたしかである。それは、日常の生活にどっぷりと浸かっている人にはとても認めがたい教えと映るであろう。
街頭をゆく人々にスピーカーから流れるメッセージは、「創唱宗教」の論理と通常の生活を支えている論理が本来異なっているということを示す際だった例ということができるし、それゆえにそのメッセージに強い警戒心をいだくことにもなる。
宗教、とりわけ「創唱宗教」は、人生のさまざまな矛盾や不条理を根本的に解決しようとしている。そのためにさまざまな教えが説かれているのであるが、当然のことながら、そうした教えはこうした矛盾や不条理についての自覚を前提にする。人生に対してさしたる疑問がなければ、ましてや人生の矛盾や不条理への血の出るような悲しみ、苦しみがなければ、「創唱宗教」の門は開かれないであろう。人生に対する懐疑や否定が「創唱宗教」への通路なのである。日常生活を維持してゆけないという苦しみや壁が、「創唱宗教」のはじまりとなる。
だから、「創唱宗教」への恐怖心とは、厳密にいえば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるをえない営みへのおそれといえるのではないか。あるいは、おぼろげに見えている人生の深淵を、あらためて正面からのぞき込まねばならなくなることへのおそれといいかえてもよい。
ともかく、喜びも苦しみも悲しみもほどほどに生きているのだから、それ以上に人生をかきまわさないでほしいし、そうしたおそれがあるものには近づきたくない、それが「創唱宗教」への警戒心ともなり、ときに「無宗教」を標榜させているのであろう。「無宗教」が実は自己防衛の一つの表現だというゆえんなのである。
要するに、「無宗教」を標榜するということは、人生の深淵をのぞき見ることなく生きてゆきたいという、楽観的人生観への希望の表明ということにもなろうか。そして「自然宗教」には、「創唱宗教」入信にみられる決断や明白な回心といったシンドサはつきまとわない。年々歳々の行事を繰り返すことでいつしかこころの平安が得られてきたのである。
宗教集団がもつ独特の排他性もまた、宗教に対する警戒心を強める原因といえるのではないか。
たとえば、教団や特定の宗派に属さない者が、なにかの事情でそれらの儀式に参加を余儀なくされた時、いいようのない違和感と疎外感を味わう羽目に陥ることも少なくない。信者によっては安らぎと落ち着きをもたらす教会の賛美歌も、信者でない者にはせいぜい音楽として受け入れることができるというだけで、祈祷や聖書朗読になると、参会者と信仰を同じくしていないということが言葉ではいいあらわせない圧迫感をもたらす。ことは、教会だけではなく、宗教儀礼には共通して見られる現象であり、一般に特定の宗教的空間では、異分子は居心地の悪いものである。それは国歌斉唱の儀礼にまきこまれざるをえない異邦人の心境にも通じるであろう。
神道行事や地域の民俗行事の見学に出かけることが多い私も、地域の人から神様に拝礼してほしいとか、神様のお下がりものだからみんなで食べましょうとか、御神酒を一緒に飲みましょうと誘われると、毎度のことながら一瞬動揺するし、氏子でもない者が見学をしていて悪いとも思う。
いずれにしても、信者でない者にとって、「創唱宗教」にせよ「自然宗教」にせよ、宗教集団のなかにふみいることはなかなか難しいことであり、宗教集団に属している人は、特別な人なのだという思いをもちがちとなる。それが、いっそう宗教に対する警戒心を生むことにもなるといえよう。
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第二章[#「第二章」はゴシック体] 「無宗教」の歴史
1 神仏とともに生きた時代
ここでいう「無宗教」とは、「創唱宗教」に対する無関心という意味であることをもう一度確認しておこう。「無宗教」だからといって宗教心がないわけではないし、ましてや欧米人がいう「無神論者」というわけではない。あくまでも「創唱宗教」に対して無関心だということであり、多くの場合、熱心な「自然宗教」の信奉者であることはすでに見た通りである。
では、どのようにして「創唱宗教」に対する関心を失っていったのであろうか。話は、日常生活のすべてが神仏とともに営まれていた中世にさかのぼる。
中世の定義は難しいが、さしあたり三つのことが信じられていた時代だといって間違いはないだろう。一つは、神仏の存在が文字通り信じられていたこと。第二は、仏教とともにもたらされたインド人の世界観である六道輪廻、つまりあらゆる生き物は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天、の六つの世界を経巡り続けるということを信じていたこと。前世や来世の存在と生まれ変わりが信じられていたのである。そして第三に、死後、地獄や餓鬼、畜生といった世界に落ちないように、死後の世界の救済が切実に求められていたこと、この三者が一体となって信じられていた時代が日本の中世なのである。
中世の代表的な宗教家・親鸞を例にとってみよう。親鸞が当時革命的な念仏思想を説いていた法然の弟子になったのは、死後地獄に堕ちないようにするにはどうしたらよいのか、という悩みからであった。
当時の多くの人々が出家して僧侶になった理由の一つは、六道輪廻の恐怖から逃れるためであった。それには仏になるのが最上の解決方法であった。仏とは、最高の知恵を身につけることによって二度と六道を輪廻することがない存在にほかならない。そして出家して僧侶となることは、その仏になる道をひた走ることを意味した。
だが、仏になるための修行をどうしてもやり通すことができないという深刻な問題が自覚されはじめる。煩悩、つまり自分で自分をコントロールしきれない、根の深い欲望が真正面から問題とされるようになってきた。親鸞の悩みはまさに自分のなかに深く巣くう煩悩の克服に無力であるところにあった。そうした悩みのなかでは、いかにいわばカリキュラム通りの修行を重ねてもなんの効果もなく徒労感だけが残る。
親鸞が具体的にどのような欲望にさいなまれたのかは、定かではない。だが、このままでは死後は地獄に堕ちるしかないというせっぱ詰まった思いにとりつかれていたことだけは確かである。その苦しみを解決するために、京都の町中の六角堂にこもった。観音のお告げを受けるためである。
当時は、人々は解決が容易ではない問題にぶつかると、しばしば霊験あらたかな神仏のお告げを求めて社寺にこもることが習わしなのであった。そこで人々は、夢のなかで神仏のお告げに出会うことができたのである。夢は、中世人にとっては、神仏に出会うための不可欠の通路なのであった。神仏は、夢を通して人々にその意志をあらわすと、信じられていた。
親鸞の場合も六角堂にこもり始めて九五日目の暁に、観音のお告げを受けることができた。そのお告げをきっかけに、親鸞は、死後の救済を与えてくれる人として法然を訪ねるのである。
|熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》という名だたる関東武者が、出家して法然の弟子になったのも、親鸞と同じく死後の救済を求めてのことであった。熊谷は源氏と平家が一ノ谷で戦ったとき、自分の子供と同じ年であった平敦盛をやむをえず討った。そのエピソードによって、今では歌舞伎でも有名な存在となっている。その熊谷は、武士として人の命を奪ってきただけに、死後地獄に堕ちるのではないかという、深刻な恐怖感に襲われていたのである。
法然の有力な弟子に武士が多かったのも、熊谷直実と事情が共通していたからにほかならない。法然が関東で当局から取り調べを受けることになった弟子たちに、自分たちはもっぱら死後の救済を求めて法然の門に入っただけでそれ以外のことはなにも知らないと答えよと教えているのも、当時の人々の関心がどこにあったかをよく示しているといえよう。
当時の代表的な説話集である『今昔物語集』や『沙石集』をみても、神仏の救済を求める感動的な説話にはことかかない。人の命を奪うことなどなんとも思わぬ悪党が、通りがかりにたまたま坊さんが阿弥陀仏はどのような悪人でも救うと説いているのに出会って、突如出家してしまい、阿弥陀仏のいるという西方極楽を目指してまっしぐらに旅を続けるという説話もその一つであろう。
六道輪廻の苦しみから解放されたい! そのための有益な方法ならばその実践には惜しむところはない。それが中世人の大方の生き方なのであった。そこでは宗教に無関心な生活などありえなかった。
では、このような中世人の生活からどうして宗教色が失われてゆくことになったのであろうか。
2 儒教の登場
死後どのようにして地獄の苦しみから逃れることができるかという強い関心は、室町時代に入っても衰えることはなかった。室町幕府を開いた足利尊氏もまた、湊川の戦いで新田義貞を破り楠木正成を戦死させ、光明天皇をあらたに擁立するといった絶頂期においてさえ、つぎのような内容の願文を清水寺に奉納している。
この世は夢のようなものだ。この私に道心を与えてください。後生を助けてください。早く遁世をしたいものです。どうか道心をお与えください。この世での果報と引き替えに後生の救いをお与えください、と(高柳光寿『足利尊氏』)。
しかしながら、こうした神仏への敬虔な信仰が、やがてすがたをかえはじめる。
南北朝時代と室町時代の武家の家訓を調べた研究によると、神仏を尊崇することを強くすすめる武家たちの家訓に、このころから、儒教の徳目があらたに加わってくるようになる。はじめは、仁義礼智信という徳目を守ることが神仏への信仰とならんで強調されているけれども、やがて、神仏がこの世に姿をあらわすのも、儒教の教え、つまり仁義礼智信を人々に実践させるためであり、一度として、仏の前で手を合わせたり神社の社殿にぬかずくことをしていなくても、こうした儒教の教えを守っているかぎり、神仏もその人間を救うのだと教えるようになってくる。だから神仏をいわば名指しで頼むのは、死後極楽に生まれるようにと祈るときだけであり、平生は、儒教が理想とする道徳を実践していれば十分だという主張になったのである(柏原祐泉「武家家訓における儒仏受容の過程」)。
死後、地獄に堕ちないための神仏への信心がこの世での生活の目標であった時代に比べると、この儒教の教えを第一とする生き方は、現世中心に大きく変化したということになろう。
つまり、仁義礼智信という人間関係の理想的なありようを追求することが人生の価値を決めることになったのであり、神仏を頼むという生き方はいわばつけたりになった、といってもよい。あるいは、宗教は個人の私的な頼み事となってしまったということである。
儒教は、もともと士太夫とよばれた中国社会の支配階級に属する人々の政治哲学であり、彼らの処世術からはじまった。したがって、儒教でははじめから、現実社会における人間の生き方、身の処し方に関心が集中することになり、死後の救済は、ほとんど関心の埒外となる。このような儒教が日本でも勢いをもちはじめたということは、それだけ人々の関心が現世中心になりだしたということにほかならない。
さらにいえば、中世も時代を経て、生産力が次第に上昇をはじめ、人々が現実生活に自信をもちはじめるようになるにしたがい、あるべき主従関係、夫婦関係、親子関係、朋友関係など、人間のあり方や生き方が新たに求められ、全体として社会の新秩序が求められるようになってきた。そしてそうした変化のなかでは、死後の救済祈願は、片隅に追い込まれる一方となってきたのである。
結論だけをいえば、儒教が専門家の間をこえて武家社会や豪商・豪農クラスに広がり始めたことが、「無宗教」、つまり特定の宗派に無関心となる歴史のはじまりでもあるのだ。
こうした傾向をいっそう助長したのが、これからのべる近世の「浮き世」意識であろう。
3 「憂き世」から「浮き世」へ
古代の歌集の中で「無常」という言葉やそれと同じ内容を示す言葉がどれくらい含まれているかを調べた調査がある。
『古事記』や『日本書紀』の歌謡では皆無だが、『万葉集』では一・四〇%、『古今集』では二三・一七%、『新古今集』では三三・一四%となる(森龍吉『親鸞その思想史』)。『万葉集』には五世紀から八世紀半ばの歌が収められているから、このころから「無常」という観念が日本人の間に広がりはじめたことが分かる。そして一〇世紀から一三世紀には、西日本の先進地域を中心に「無常」がすっかり定着したといえよう。
仏教が教える「無常」は、「諸行無常」という言葉が示すように、あらゆる存在は生じたり滅んだりするものであり、永遠であることができない、という意味である。そのこと自体、なにも仏教をまたなくとも明白な事実なのだが、仏教の面目は、こうした「無常」の世界を「苦」とみて、その「苦」からの脱却を教えたことにある。
あらゆるものは変化し、そのすがたを永遠にとどめることはできない。愛する人も、いつかは老いさらばえて死んでゆく。栄華の限りを尽くした豪邸も、天変地異や戦争の前にはひとたまりもない。私の生き甲斐をささえるものは、すべて消滅してゆく。いや、その私がもっともはかない存在なのではないか。
このようにひとたび「無常」の観念を手にすると、人生が「苦」と映じてしまうのは当然であろう。こうして、人生をつらいことの多い「憂き世」とみる考え方が広まることになった。「憂き世」は、「無常」が外来語であるのに対して純然たる日本語なのである。日本人は、「無常」という外来語を、「憂き世」というヤマト言葉におきかえて受容したといえる。
「無常」という漢字は、また「はかない」とも読まれた。「はか」とは、もとは田の区画、稲株の間という空間を示す言葉であり、のちにその区画に稲を植えたり、また刈り取るのに要する時間をも意味した。今でも仕事がはかどることを「はかがゆく」という。唐木順三によると、社会や歴史を動かす中心領域もまた「はか」と意識され、その「はか」からはずれている、あるいは、ずれているという感覚が「はかない」という言葉のはじまりであったという(『無常』)。
したがって、男性中心の貴族社会に生きる女性がまず自らを「はかない」存在と認めるようになったのは当然であろう。そして時代とともに、こうした社会や歴史の主流についてゆけない、あるいは疑問をもつ男性たちも自らを「はかない」存在だと自覚しはじめる。
日本の中世は、こうした「無常」の感覚を底流とする「憂き世」や「はかない」自己を、どのように克服するかが課題となった時代でもあった。
「無常」の克服には、二つの道があった。第一は、「無常」や「六道輪廻」からの脱却を教える仏教に帰依する道である。これにもさらに、二つの方法が模索された。一つは出家して自らの力によって「仏」となることであり、他は、現世のあらゆる存在から超越する阿弥陀仏に依拠する道であった。後者は、いうまでもなく法然によってはじめて明らかにされた道である。
「無常」を克服する第二の道は、人生が「無常」という事実のなかにあることは否定しないが、いたずらにそれをつらいものと見るだけではなく、いっそのこと「無常」そのものを楽しむという道である。
現世はたしかに夢幻のようにはかないし、頼りになるものはない。だが、四季折々の風景は美しく、人を恋し慈しむ情もまた十分な生き甲斐を与えてくれるではないか。人生は「無常」で、世は「憂き世」であっても、人生にはそれを十分に享楽できる要素も少なくない。それならば、人生を楽しんでどこが不都合というのか。
たしかに、死後の世界は気にはなろう。だが、阿弥陀仏は、念仏を唱えるものはすべて浄土にむかえとって仏にするというではないか。それならば、なにをくよくよしているのか。人生を大いに楽しめばどうだ。
このようにして、「憂き世」は、いつのまにか「浮き世」に変化をはじめることになった。「浮き世」とは、しっかりした根っこをもたない、文字通り浮き漂う世界であり、またそれにもかかわらず、気持ちが浮き浮きするような楽しい世界でもある。少なくとも「憂き世」のような深刻な苦しみから表面的には解放されているのが、「浮き世」なのであった。
一五一八年に編集された当時の流行歌の類を集めた『閑吟集』は、こうした「浮き世」の最初の宣言書といえる。そのなかには、人生いかにあるべきかとまじめくさってあれこれ思案するなど野暮の骨頂、この世は一期の夢だ、思うように生きようではないか、と歌われている。
このような享楽的人生観が可能となるのも、経済的な裏付けがあってのことであることはいうまでもない。日本列島の先進地域では、一六、七世紀になると新田の開発などが進み、人々はこの世の生活に自信をもちはじめたのである。
4 「浮き世」の人生観と宗教心
井原西鶴は、このような「浮き世」の人生観の完成者にほかならない。
西鶴は一六四二(寛永一九)年の生まれだから一七世紀いっぱいにかけて活躍した人物である。彼の人生観の要点は、ほぼ二つに要約されよう。第一は、それまでの刹那的、無計画的な享楽を否定して計画的に人生を楽しむことを主張したこと。第二は、「浮き世」での実在感覚を数量に求めたこと、である。
まず第一の、計画的に人生を享楽する考え方は、『日本永代蔵』に登場する。西鶴はいう。人は一三歳までは、わきまえもないのでしようがないが、それから二四、五歳までの間は、みっちりと親の指図を受けねばならない。そしてそのあとは、ひたすら稼ぎに稼いで、一生暮らしてゆけるだけの家産を築き、四五になって「遊楽」の生活に入るのが人生の目的なのだ、と。
そのためには、健康に気を配り、信用を得るために努力もしなければならない、また神仏もあがめよ、とこまごまと注意をうながしている。要は、人生の目標が四五歳からの「遊楽」に置かれているという点だ。「遊楽」をめざして人生設計がつくられていること、それが西鶴の人生論の著しい特徴といえる。
たしかに神仏をあがめよ、ともいう。しかし、神仏を頼む心は、中世のように生涯をつきうごかすほどに激しくはない。すでに見たように、信心といっても、この世の営みのほんの片隅に追いやられた信心でしかない。西鶴のいう神仏への信心も、その域をでないことはいうまでもない。
そのことを明確にいいきっているのは、西鶴と同時代の豪商たちである。たとえば、博多の豪商の一人は、死後の安楽を神仏に願うことは五〇歳以後のことにせよ、と遺言しているし、河内の酒造業者も、同じことをのべている。
西鶴の人生論の第二の特色は、世間を生きてゆく上で実感されるのは、数字で示されているものに限るという点にある。数量化されたもの、あるいは、数字で示すことができるものだけが信じられる、といいなおしてもよい。そのことを鋭く指摘したのは松田修である。松田修は、「『好色一代男』への道」という論文のなかでほぼつぎのようにのべている。
たとえば、西鶴は、妻に先立たれたとき、その初七日に追善のために一人で一日に四千の俳句を詠んだ。一句をほぼ三六秒で詠むという離れ業を演じたことになるが、その後にも一昼夜に二万三五〇〇句を詠んで「二万翁」の異名をとった。つまり、西鶴は自らの存在を二万という数字によって表現したのであり、世間もまたその数字において、西鶴という人物を実感したのである。
また、彼の代表作『好色一代男』でも、主人公がちぎった女性の数を三七四二人、男性が七二五人と冒頭に記している。「性」も数量化によって実感されるようになったということだろう。
そもそも、「一代男」という題名自体に、一代限りの男という数字的限定がなされているし、またそのことによって子孫を頼むという永続性が放棄され、主人公が計画的に刹那的快楽を追求する存在であることが、明確に表現されている。
およそ、近世の近世たるゆえんは、時間意識が加速されはじめた点にある。一日も一二刻であったが、その一刻が上中下に三分され、さらに一点から四点まで細分された。このような時間感覚のなかで、奉公も中世のように終身ではなく、一〇年が最長となったという。
このように見てくると、すべてを数量ではかるという今日の我々に親しい思考方法が、このころから生まれてきたことが分かる。すべてを数ではかるということは、数量化できないものは視野に入らないということでもあろう。もっといえば、数量化できるものだけが信じられるということであり、数量化できないものには無関心になる、といってもよい。数字に置き換えられるものにのみリアリティーを感じる精神においては、神仏の存在もうすれてゆく。
中世においては、地獄は、文字通りのっぴきならない恐怖心とともに、その存在が信じられていた。だが、近世にはいると、地獄もまた、この世のあり方の一面を象徴するものにすぎなくなり、所詮は、人間の心のありようを示す物語の一つとなってしまった。
近世中頃には成立したという落語の「地獄八景|亡者戯《もうじやのたわむれ》」は、そのことをよくあらわしている。この落語では、地獄は物見遊山の場、現代風にいえばツアーの場になっており、亡者たちも、閻魔の前で芸を披露して極楽行きを強要したり、鬼どもに特技をもって渡り合うなど大活躍をする。
このような傾向は浄瑠璃などに先例があり、「|摂州合邦辻《せつしゆうがつぽうがつじ》」では、来世を頼むには念仏だけでは不十分であり、閻魔や鬼どもにも賽銭を出して、近づきになっておく方が安心だと聴衆に説く。そして、金さえ出しておけば、|無間《むげん》地獄に堕ちても、地獄の釜で燗をした酒が飲め、焦熱地獄では焼き魚を賞味し、三途川では船遊びなどにも興じることができる、と洒落とも冗談ともつかぬことがらを次々と紹介する。
ところで、中世のように現世を六道の一つとして位置づけ、あるいは過去と未来のはざまにあるとする三世の考え方を放棄しはじめると、この世はあたかも水面に浮く水草のような様相を呈してくる。現世をどのような時間軸によって納得するかが不明になってきたのである。
前世も後世もあるのかもしれないし、ないのかもしれない。どのみちその証明が難しいのであれば、前世や後世にこだわることをやめて、ともかくも死ぬまでは、この世を楽しむのが次善の選択というものではないか。このような考え方のなかでは、人々は、この世とそこに生きている自己に、「絶対的な実在感」(橋本峰雄『「うき世」の思想』)をもつことはできなくなる。この世も人間も、文字通りふわふわと浮き漂っている存在というしかない。
自己とはなにか、人間とはどのような存在なのか、と問うてみても、あるところから茫漠としてきてわけがわからなくなってくる。所詮は、人間どこからきてどこへ消えてゆくのか、分からない。
創唱宗教は、もともとこうした曖昧な人生に根本的な意味を与えてくれるものなのだが、根本的で絶対確実なものに不信を抱くのが「浮き世」の感覚なのだから、そうした教義が不人気となるのも、やむをえないことになろう。
不安なのだが、絶対確実と称するものも信じられないとなると、ただただ、浮き漂うしかない。一定の教義で身を固めている立場からすれば、このような曖昧な生き方は、不信の徒というしかない存在かもしれない。だが、このような不信の徒とみえる人間でも、その本人の気持ちからすれば、決して絶対的な宗教否定論者ではない。むしろ、不安をかかえたままでいるという点では、機会があればいつでも宗教的世界に入ることができるという意味で、宗教的存在だといったほうがよいであろう。
要するに、「浮き世」の宗教心は、絶対的な救済を求める方向には進まないが、だからといって、完全な「無神論」の信奉者にもならない。もし、創唱宗教を信じるかと迫られれば、「無宗教」と答えるしかないが、人生の底流にある不安を自覚している点では、宗教的世界に容易に共鳴することができる宗教性に富んだ存在なのである。
それゆえに、日本人の間では、一遍上人や良寛和尚、あるいは松尾芭蕉、下っては種田山頭火といった、旅に生き、旅に死んだ漂泊の僧や俳人が人気を博し続けていることにもなる。多くの人々は、彼らがどのような思想や教義をもっていたかには、さして興味を示さない。人々の関心は、もっぱら漂泊という生活形態にあるのである。「憂き世」のしがらみから自由になって、夢の世を夢のように生き切ることに憧れているのだ。「浮き世」にふさわしい生き方なのであろう。
5 「葬式仏教」の役割
この世を楽しむといっても、やはり、死後のことがまったく気にかからないというわけではなかった。そしてその危惧をなんとなく解消してくれるのが「葬式仏教」ではなかったか。
ここで「葬式仏教」が、「浮き世」の生き方や「無宗教」を標榜して不思議とは思わないという風潮を陰で支える、思いもかけない大きな役割を果たしていることを明らかにしておこう。
「葬式仏教」とは、日本に固有の仏教のあり方をさしており、日本文化のユニークな産物といえる。タイやヴェトナム、中国や朝鮮半島など、仏教が今も生きている地方で、「葬式仏教」といってもほとんど意味は通じないであろう。それほどに「葬式仏教」とは、日本仏教に固有のことなのである。
では、「葬式仏教」とはどのようなものなのか。まず、僧侶によって死者に戒名や法名がつけられる。法名という呼び方は、教義上戒律を必要としない浄土真宗の教団で使用される。戒名(法名)は、おしなべて「釈〇〇」と記されるが、その「釈」は、釈迦の「釈」に由来しており、仏弟子になったことを示す。もとは、生きているうちに仏教徒になった証として与えられるものであることはいうまでもない。
つぎに、葬送が仏教儀礼で行われ、そのあと死者のための法要や年忌が、僧侶を招いて行われる。具体的にいえば、初夜、|二七日《ふたなのか》、三七日、四七日など一週間おきの法要があって、中陰つまり四九日が行われる。このあと百ケ日、一周忌などがあって、普通は三三回忌で終了する。
ついでにいっておけば、中陰は、インドのしきたりであるが、百ケ日や一周忌、三周忌は、中国で成立した。そして、七回忌や一三回忌、一七回忌、二五回忌、三三回忌は、日本で生まれた。五〇回忌や百回忌といった長期に及ぶ年回法要は、おそらく浄土真宗の影響で生まれたといってよいであろう。法事は、意外にも国際的な由来をもっているのである。
さらに、毎年故人の死んだ月日に僧侶を招いて読経をしてもらう(祥月命日という)ほかに、毎月故人の亡くなった日にも僧侶を招く(月忌法要)。そして春秋の彼岸をはじめ、盆や祥月命日には墓参をする。そのときも、僧侶に読経を頼む。家に仏壇があって位牌があることは、いうまでもない。旦那寺には、代々の故人が過去帳に記載されており、住職はその過去帳を繰っては、誰それの何回忌がまわってきました、と子孫に知らせる。それにしたがって法要が営まれる。これが「葬式仏教」の具体的なすがたなのである。
6 「葬式仏教」の受容
ところで、仏教は、もともと死者祭祀に関心を示すことがなかった宗教である。開祖のゴータマ・ブッダは、自分が死んでも、葬式は在家の信者に任せて弟子たちは修行に励むように、教えている。インドでは、七世紀後半にいたるまで、仏教徒の葬式は、火葬場で簡単な経文を読み上げるだけであったという。
その仏教が、死者祭祀に深くかかわるようになってくるのは、「孝」という価値を重んじる中国に入ってからのことである。生前に親に「孝」を尽くすのみならず、亡き親に対しても「孝」を尽くす。加えて、中国では、この世でどのような善行を実践したか、その善行の分量が死後の幸、不幸を決めるとも信じられていた。そこで、子は亡き親の死後の幸福を願って、亡き親にかわってこの世で善行を積むのに余念がないことになる。
善行のなかでも、もっとも効果のあるものが、死者のために仏へ供養することであった。五世紀にはじまるという竜門の石窟のなかに、「亡夫、亡父母、亡子、七世父母のために」という文字を刻んだ仏像がすでに奉納されているのも、こうした考え方によるものであろう。一一世紀になると、さきに紹介したように、四九日、百ケ日、一周忌、三周忌という法事の形式が完成するし、亡き人のための写経、造像、起塔なども、慣習として中国社会にすっかり定着するようになる。
このように、日本に伝来した仏教には、すでに中国で発達した死者祭祀儀礼がふくまれていた。その死者祭祀の儀礼を、日本では、豪族たちがまず彼らの先祖祭祀に利用することになった(有賀喜左衛門「ホトケという言葉について」)。
豪族たちにとって、先祖は、一族のまとまりを維持してゆくために不可欠のシンボルである。有賀によれば、その先祖にも、「出自の先祖」と「歴代の先祖」の二種があった。
「出自の先祖」とは、一族の出所であり、天皇家でいえば、アマテラスのような神、一般的にいえば、氏の神であり、「歴代の先祖」とは、歴代の現実の先祖、天皇家でいえば、神武天皇(この天皇の歴史的存在は疑われているが)である。「歴代の先祖」は、普通墳墓に祭られている。これに対して「出自の先祖」は、氏のカミとして聖地で祭られている。
豪族たちが仏教の儀礼を採用したのは、「歴代の先祖」の祭祀においてであった。なぜ、「歴代の先祖」の祭祀において、仏教が必要とされたのか。それは、「歴代の先祖」とはいえ、現実に生きていた人間であり、そのかぎりにおいて「|死穢《しえ》」を免れることができない存在であったからだ。
「死穢」、死のケガレとはなにか。その答えを見いだすことは簡単ではない。もともとは、死への恐怖や遺体の損壊から、死をケガレとする意識が生み出されてきたのであろう。だが、死者の扱いや死の観念は、文化や時代、地域によってずいぶん異なる。
文化人類学の報告によれば、遺体から流れ出る体液や骨を食べることによって、死んだ人間の霊力を引き継ごうとする民族もいる。同じ日本でも、遺体を早々に遺棄して、もっぱらそのタマシイを祭るのに熱心な地域もある一方、屋敷の内部に、遺体を鄭重に埋葬してその記憶を伝えようとするところもある。肉親といえども、遺体には極力近づかないように神経を使った平安貴族がいるかと思えば、亡き肉親、夫や妻と、一晩添い寝をする庶民の習慣は、列島では珍しくはない。このように死をめぐる習俗はさまざまであるが、近年、日本における死のケガレの強調には、天皇の存在が深くかかわっているとする有力な仮説が出されている(高取正男『神道の成立』)。
それによると、神に仕える天皇は、神聖な存在であり、その神聖性を維持することに、天皇と貴族は腐心することになった。その際、神聖さを汚すおそれがあるものは、一切、とくに死は強く忌避されることになった。こうした神聖さを維持するための、極度の過敏さが、死穢感覚を強調する原因になったと、高取正男は主張している。
いずれにせよ、古代人にとって死者はケガレた存在であり、そのケガレをぬぐい去らない限り、カミにはなることができないと信じられていた。「歴代の先祖」は、先祖であっても墳墓で祭られているかぎり、「死穢」をまぬがれていないのであり、その「死穢」を克服してカミ、つまり「出自の先祖」に連なる存在となるために、新しく伝来した仏教が注目されたのである。
そこでは、仏教は高度な哲学体系をもった宗教というよりも、最新の呪術の体系として受容されたといってよい。
繰り返していえば、古代の豪族が「歴代の先祖」のために仏教を利用したのは、先祖の死のケガレをぬぐい去るためであった。言葉をかえれば、浄化といってよいだろう。死者の浄化のために仏教が利用されたのである。この死者の浄化という機能は、その後、仏教が一般社会に広まってゆく上で、重要な役割りを果たすことになる。
というのも、古代日本の「自然宗教」においては、死者の鎮魂慰霊の技術が未発達であったからである。つまり、不慮の死を遂げた人間、この世に恨みをいだいて死んだ人間は、いずれもこの世にはげしく祟る霊となると信じられており、その扱いに窮していたのが古代日本人であった。あらぶる死霊、祟る霊に無力であったがゆえに、彼らは、仏教のもつ浄化の機能に魅力を感じたといえる。
史書によると、百済からやってきたいわゆる渡来僧のなかに、「禅師」とか「呪禁師」とよばれる人たちがいるが、彼らは、不慮の死を遂げた横死者のあらぶる霊を鎮圧する特殊な呪術者であったといわれる。彼らの名がわざわざ記されているのは、当時の日本ではこうした横死者への鎮魂慰霊の技術が十分に発達していなかったためであろう。
いずれにせよ、死者のケガレをはらう上で、また横死者の祟る霊を鎮める上で、仏教が絶大な力を発揮すると信じられていたことが、後の「葬式仏教」の基盤となったといえる。
加えて、一三世紀の法然による専修念仏の登場も「葬式仏教」の成立の上で大きな意義があった。法然の念仏は、それまでの念仏とは異なり、死者の鎮魂慰霊の呪文ではなく、阿弥陀仏の救済原理を明らかにして、生きている人間の救済を対象とした。阿弥陀仏は、その人間が善人であろうが悪人であろうが、自分の名前を呼ぶものはすべて自分の国、西方極楽浄土にむかえとって仏とするという誓いをもっている。自らの力で仏になることができないという強い自覚をもった人々は、こぞって法然の念仏を信じた所以である。
このように、法然の念仏は、あくまでも生きている人間のためのものであり、一人一人が阿弥陀仏を信じるかどうかという決断の上で成立する宗教であって、死者の鎮魂慰霊のためのものではなかった。しかし、次第に、広大な阿弥陀仏の慈悲にすがって、死者の成仏も願うという風潮が生まれてくるようになった。
生前のあり方は不問に付して、死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだねるという、生きている人間のいわばおもいやりが、「葬式仏教」を支えることになったといえる。「葬式仏教」では、教義に対する各人の決断よりは、死者へのおもいやりが、重要だと考えられたのである。
7 イエの仏教
このようないくつかの条件が重なって、やがて「葬式仏教」とよばれる特異な日本仏教が、一五世紀頃から姿を見せ、一六、七世紀には沖縄や北海道をのぞく日本列島の各地に広く定着するようになる。
「葬式仏教」の成立は、村々がなによりも、経済的に豊かになりはじめることを前提にする。貧しいときには、村に職業的宗教家を常駐させることは不可能であり、葬式も村人たちの手で行われるのが普通であった。こうした形態は、一九六〇年代の高度成長期ころまで、「葬式講」とよばれる村人たちだけで構成される互助組織として残っていたほど、一般的な現象であった。ちなみに、神主も、それを職業とする人物が登場するのは、かなり新しいことであり、村人や町衆が順番にその役目を担うのが普通であった。
村々に経済的余裕が生まれてくると、それまで村々を経巡っていた僧侶や山伏、行人を定着させることができるようになり、彼らに堂を与えて住まわせ、葬式をはじめとする宗教行事を担当させるようになってくる。
だがそれだけでは、「葬式仏教」の成立にはまだ十分とはいえない。村々において「家」という意識が明瞭となり、人は死んでも、「家」の一員として祭られ続けるという信念が姿を見せてはじめて、「葬式仏教」成立の条件が整うことになる。
「家」は、家族とは全く異なる社会制度である。家族は自然発生的な集団であるが、「家」は、あくまでも特定の歴史的条件のもとで成立する制度なのであり、一四世紀から一六世紀にかけて成立したといわれる。「家」は、家業と家産をもつ「生活の拠点」であり、「社会的活動の一つの単位」であり、なによりも、「家」の永続が「家」を構成する人々の最大の願いであったところに、大きな特徴がある(尾藤正英『江戸時代とはなにか』)。
日本人とはなにかという問題を、終生、問い続けてきた柳田国男は、「家」永続の願いこそ、日本人のもっとも深い情念であると主張し続けてきた。その願いとは、「死んで自分の血を分けた者から祭られねば、死後の幸福は得られないという考え方」であり、それは、いつの時代とも限ることができないはるかな昔にはじまっており、「一つの種族の約束事」だとまでのべている(『明治大正史 世相篇』)。柳田にしては、珍しく歴史的検証を無視した、切迫した心情吐露になっているのが興味深いが、今はさしあたり、それほどまでに「家」意識というものが、近代に入ってからも日本人の心情の襞にしみこむものであったことを指摘するにとどめよう。
こうした「家」意識の発生をまって、あるいはそれと不可分の関係において、いわゆる|寺請檀家《てらうけだんか》制度というものが登場する。この制度こそが、「葬式仏教」を完成、定着させることになった。
この制度は、教科書風にいえば、江戸幕府のキリシタン禁制政策によって生まれ、現在の戸籍制度のような役割を担ったともいわれる。幕府の支配下におかれた民衆は、家ごとに一つの仏教寺院に所属させられ、キリシタンではないという証明を得た。また葬儀や法要はその寺によって営み、さらに婚姻や旅行、奉公の際には、寺から身分証明書の発行を受けねばならなかった。こうした点を見ると、この制度が幕府の民衆支配の末端組織であったことがよく分かるであろう。
だが、「葬式仏教」との関係でいうならば、この制度の重要な点は、田畑や家屋敷、つまり家産をもつ本百姓はもちろんだが、ろくに家産などもたない水呑と称された人々にまで、「家」意識を植え付けることになったということであろう。そして、彼らはその「家」意識にしたがって、彼らの祖先祭祀を仏教式でとりおこなうようになったのである(竹田聴州「近世社会と仏教」)。
人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に、「家」の永続を願い、家族が死ぬと、仏教式の葬送と法事を繰り返して、死者が「成仏」して「ご先祖」になり、永遠に「家」のメンバーであり続けることを期待したのである。
寺請檀家制度が全国的にゆきわたるのは、一七世紀後半といわれるから、まさしく、井原西鶴などに代表される「浮き世」の人生観が確立されてくる時期と重なる。つまり、「浮き世」でこの世を享楽できるのも、「葬式仏教」によって死後の安楽が保証されるようになったからなのである。
8 儒学者たちの仏教排斥論
死後の心配が解決されていたからこそ、こころおきなく現世の生き方を追求し、また現世を享楽することもできたのであるが、儒学者たちのはげしい仏教排斥論も、「葬式仏教」を前提とした議論であったことを付け加えておきたい。
わざわざ、儒学者の仏教排斥という耳慣れない問題を出したのも、彼らの仏教批判が、近代以後現代にいたる日本のインテリたちの「無宗教」に、深くかかわっていると考えられるからである。現代日本のインテリたちの多くが、宗教に無関心であることを表明してなんら疑うところがないのは、源をたどってゆくと、近世の儒学者の仏教排斥論にたどりつくということだ。というのも、江戸時代の知識人は、なによりも儒教的教養の保持者でなければならず、そのためには、仏教という宗教を否定したり無視することが絶対必要になったのである。
儒学者の仏教批判は、「排仏論」といわれるが、それが明確なすがたをとるのは、徳川幕府が朱子学という新しい儒教を、幕府公認の学問としてからである。その立役者は藤原|惺窩《せいか》や林羅山であるが、彼らは、一様に仏教を社会に役に立たない|穀潰《ごくつぶ》しの宗教であると非難した。
幕府の御用学者のほかにも、民間の伊藤仁斎や山崎|闇斎《あんさい》、|荻生徂徠《おぎゆうそらい》といった儒学者たちも、仏教を排撃することにおいては一致していたし、さらに国学者とよばれる人々も、仏教を排斥することにおいては、儒学者に勝るとも劣るものではなかった。
なぜそれほどまでに、彼らが仏教を排撃したか。一つには、当時の特権的地位にあった僧侶たちの、文字通りの堕落があったであろう。執着をおそれて私有を厳しく制限するのが出家者であるはずなのに、現実には金銀財宝を蓄え、綾錦を身にまとう僧侶を、彼らは痛烈に批判している。二つには、藤原惺窩や林羅山、山崎闇斎らが、もとは禅宗の僧侶であったということにもよる。朱子学が日本に伝わってきたのは、当時の最新の宗教であった禅宗の一部としてであり、禅宗の僧侶たちも、仏教の勉学とともに新しい儒教、朱子学の研究にも励んでいた。
藤原惺窩は、こうした状況のなかから、朱子学を独立させることに努めたのであり、それだけに禅宗に対しては、強い反発心を抱いたのも当然といえる。とくに、禅宗の出家主義は、世俗の政治や道徳のあり方に強い関心と方策を示す儒教の立場からすれば、現実の生活を無視する反世俗主義であるだけではなく、現実生活への関心を損なう、独りよがりで有害な教えと考えられたのである。
もちろん、禅宗の出家主義は、インドなどの出家主義とは異なり、最終的には修行を終えた後に世俗の生活に戻り、現実社会のために慈悲行を実践するという、積極的な目標をもつものであった。自分だけの救済や解脱を求めることは、大乗仏教では、もっとも否定される考え方であり、自己の救済をあとまわしにしてまず他人の幸福のために、慈悲を実践するのが、大乗仏教の理想であった。
儒学者たちの仏教批判は、こうした大乗仏教の理想、つまり菩薩道とよばれる考え方にほとんど言及することなく、もっぱら世間のさまざまな約束事や義務から逃れて出家してしまうというあり方や、自ら労働することなくしてパトロンによりかかる出家者の生き方、あるいは、現実生活になんら道徳的な指針を示すことができないという点に集中した。先に紹介した、穀潰しという言葉こそ、儒学者による仏教批判のポイントなのである。
ところで注目すべきことは、「葬式仏教」が儒学者の仏教批判の対象にはなっていないという点である。彼らは、出家という僧侶の生活形態を無力、有害だと断定したが、葬式や法事、墓地や仏壇の意味を、正面から批判ないし否定はしなかった。その理由の一つは、儒学者にとっての関心は、あくまでも現世での「修身斉家治国平天下」に尽きていて、死後に言及することは、儒学者にあるまじきことと考えられていた点にあろう。
なかには、「葬式仏教」の前提になる、死後の生や輪廻を激しく否定するものもいた。たとえば、熊沢蕃山は、僧侶が頭を丸めて人の道を捨てるのも、根本は輪廻をおそれての仕業であるが、儒教では輪廻という考えはなく、したがって出家する必要もないとのべ、また地獄極楽ということも、文明とともに力を失ってゆく考え方にしかすぎない、と批判している(『集義和書』)。
熊沢蕃山自身は、儒教式の作法によって葬送されたが、葬られた先は、鮭延寺という仏教寺院であった。林羅山は、自身はさすがに儒葬されたが、生前の養母や継母の葬儀は仏教式であったし、仏教徒であった亡父のためには、僧侶を招いて仏事を営んでいる。また、先だった長男の七回忌は、妻の意向を汲んで仏教式の法要を営まざるをえなかった。このような状況に対して、林羅山は、「聖人は俗にしたがう」と、儒教の儀式を貫徹できなかった苦衷をのべたという(石田一良「林羅山の思想」)。
儒学者たちが仏教、とくに禅宗を目の敵にすることができたのも、またそのような儒学者たちを民衆が受け入れて動揺しなかったのも、要するに、「葬式仏教」が存在していたからだといっても言い過ぎではないだろう。「葬式仏教」による死後の手厚い保護を前提にした上での、仏教排斥論なのであった。
9 なぜ死者を「ホトケ」というのか
おりしもこのころから、死者を「ホトケ」という風習が成立してくる。年回法要とならんで、死者を「ホトケ」ということこそ、「葬式仏教」の極致といえる。死者は祭れば「ホトケ」になるという信仰こそが、「浮き世」の享楽や儒教の道徳主義(道徳を守ってさえおれば人生は充実したものとなる)を可能としたのである。
ところで、なぜ死者を「ホトケ」というのか、という問題は、にわかには答えることがむつかしい。というのも、仏教では本来「仏」は「ブツ」と読まれてきたからである。「ブツ」は、「ブッダ」に由来することはいうまでもない。ブッダというインド語の意味は、「覚者」、「悟った人」である。決して「死者」を意味しない。このインドの「ブッダ」という音に中国人は「仏」という漢字を当てた。「仏」は中国語である。これに対して「ホトケ」という読み方は、日本語である。「仏」という漢字を中国音の「ブツ」ではなく、さらに「ホトケ」と読むようになったのはなぜか。いまだに結論はない。
ある辞典によれば、「ホト」は「仏」の古い中国語の読み方を日本語風に写したもので、「ケ」は「ゲ」の古形で目に見える形をいう。つまり「ホトケ」とは、仏の形、仏像をさすという(『岩波古語辞典』)。しかし、これが定説ではない。
この問題にはじめて本格的に取り組んだのは、柳田国男であった。柳田は、「ホトケ」とは、「ホトキ」という器物に食べ物をいれて祭る霊のことで、中世の盆の行事からはじまったとする(『先祖の話』)。しかし、「仏」を「ホトケ」と読むのは『日本書紀』にすでにあるから、柳田の説には無理があると指摘したのは、|有賀喜左衛門《あるがきざえもん》であった。
有賀によれば、「ホトケ」という表現は、死者を祭るとき、死者の霊魂を寄りつかせるために使われる木の枝が、「フトキ」と呼ばれていたことから転じたのではないかという。つまり、さきに紹介したように、豪族たちが先祖祭祀に仏教を採用し、先祖を「仏」とならしめたいと願うようになったとき、死者祭祀に使用するフトキがヒントになって、先祖(死者)を「ホトケ」と呼ぶようになったのではないか、と推測している(「ホトケという言葉について」)。
いずれにせよ、死者を「ホトケ」と称するのは、仏教本来の教えによるというよりも、仏教以前の日本の「自然宗教」の考え方が深くかかわっているといえよう。結論をいってしまえば、「ホトケ」とは、伝統的な「カミ」の一種なのである。
ところで、死者を「ホトケ」と呼ぶのが一般化するのは、仏教僧侶による葬送と法事が普通となる、近世になってからである。死者は生前に仏教に帰依していなくても、葬儀の際に、僧侶から引導を受けて戒名を授けられ、釈迦の弟子となれば、「仏」となることができる、と信じられるようになった。
さらに江戸時代の半ばころから、死骸そのものを「ホトケ」と呼ぶようになるが、これはさらに転用が進んだ例であろう。現代でもテレビの事件ものなどで遺体を「ホトケ」というのは、そうした用語法に基づいていることはいうまでもない。このような語法では、引導や戒名といった仏教の関与は、すっかりなくなっている。
人は死ねば「ホトケ」となる。その人がどのような人生を歩んでいたかは問われない。必要なことは仏教式の葬儀と年回法要を営むことにある。このように死後の安楽の保証が約束されているために、この世を生きている間にも、特別の宗教、創唱宗教を選びとる必要はなかった。本書のテーマに即していえば、だから多くの人々は、安心して「無宗教」を標榜しているのだ。
10 「自然宗教」という回路
そうなると、「葬式仏教」とはなにか、ということになろう。はたして、それは仏教なのであろうか。仏教は、生きている人間を対象に、「苦」の人生からの解脱を教える宗教ではなかったのか。それが死者を対象とすることに専念するとは、敗北ではないのか。
敗北とまではいわなくとも、「葬式仏教」は、仏教としては二義的な役割を果たしているにしかすぎないのではないか。僧侶たちは、死者のためにひたすら経を読み、人々も、死者の戒名が立派であるかどうか、その字数が少なくないかどうかといったことだけに心を痛める。「葬式仏教」のどこに、「覚者」を目指す仏教があるのか。
仏教を、「葬式仏教」にとどめておいて不思議と思わない心情とは、なんであろうか。人生には、苦しみや不条理や悔恨があとを断たない。どうかして安楽な人生を手に入れたいと願うのが人情である。しかし、そのために特別の教えを選択して、それに従うということには気乗りがしないのである。せっぱ詰まれば、気乗りがしないなどといってはおられないであろうが、それでも、創唱宗教はイヤなのである。死者のための仏教は認めても、生きている自分のために仏教の教えを選ぶことには、ためらいがあるのだ。どうしてなのであろうか。
それは一言でいえば、日本人の間に「自然宗教」が根強く生きているからだというしかない。「葬式仏教」とは、この「自然宗教」との妥協の産物なのである。「自然宗教」の先祖崇拝や霊魂観をそっくり認めた上で、仏教的色彩を施したのが「葬式仏教」にほかならない。「葬式仏教」とは、「自然宗教」に仏教の衣を着せたものなのだ。
このような形でしか日本に根をおろすことができなかった仏教について、評価はさまざまであろう。さきにものべたように、なによりも敗北だといわなくてはならないかもしれない。しかし、死者のあつかいや死後の世界に一定の見通しを与えることができた点は、簡単に否定はできないのではないか。
日本において、仏教が「葬式仏教」という形でしか浸透できなかったということは、表面的には仏教側の敗北のように見えても、実は、仏教の理想である慈悲行が貫徹されたといってもよいのではないか。死をめぐって不安に陥っている民衆に、安心の手をさしのべるということは、慈悲行の実践以外のなにものでもない。民衆の側も、自分たちの「自然宗教」の足らないところを補うものが、仏教、とくにその儀礼にあると考えたからこそ、仏教儀礼を受け入れたのである。ともかくも日本人の多くは、「葬式仏教」によって、死後に安心できるようになったのである。
もとより、日本の仏教は、「葬式仏教」がすべてではないこともいうまでもない。阿弥陀仏や釈迦仏などの仏や菩薩に、自己の解脱を願って帰依する伝統もまた「葬式仏教」とならんで久しい。本書では、こうした伝統には、最後に簡単にふれるだけなので心残りであるが、問題は、あくまでも「無宗教」という心理が成立し、力をもっている点の解明にある。
ここまで見てくると、「無宗教」とは、「自然宗教」と不可分の関係にある宗教意識であることが、ますます明らかになったといえよう。現代の日本人の多くが、「無宗教」だといってはばからないのは、近代以後の科学的精神のなせるところではなく、きわめて伝統的な「自然宗教」に原因がある現象なのである。
そのことをさらに追求する前に、「無宗教」を直接的に生み出した近代の歴史をふりかえっておこう。
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第三章[#「第三章」はゴシック体] 痩せた宗教観
1 神話から出発した日本の近代
明治維新以来、一九四五年の敗戦にいたる日本の近代史において、宗教は「創唱宗教」と「自然宗教」の別を問わず、わずかの例外をのぞいて終始政治(国家)に従属してきた。ことは、宗教だけではない。
たとえば教育にしても、文部省を出窓とする国家の強力な統制のもとに、一〇〇年以上を経過しようとしている。あるいは産業経済における国家の規制の強さは、今日の深刻な問題でもある。こうした規制、統制のはじまりは、いずれも近代の出発点にある。なにゆえに政治、つまり国家がこれほどまでに国民の生活のすみずみにまで、強い統制を加えねばならなかったのか。
それは一口でいうならば、ひたすら、強力な中央集権的「国民国家」をつくりあげる必要があったから、ということに尽きる。徳川幕府から明治維新政府へという変革は、現代からふりかえれば、フランス革命に端を発する「国民国家」の形成という、大きな歴史の潮流のなかのできごとであったことが分かる。
幕府が崩壊して維新政府が成立することにより、人々は、士農工商という身分から解放されて、新たに「国民」というあり方を選ぶように強制された。「国民」は、理念的にいえば「国家」の構成員であって、納税と兵役の義務を負うかわりに、国家の運営、つまり政治に参加する権利をもつ存在である。
もちろん、維新政府がただちにこうした「国民」の概念を理解したわけではないし、すべての人々に参政権を認めることなどなかった。むしろ、「大日本帝国憲法」でさえ、人々を「国民」とは規定せず、天皇に従属する「臣民」と定めていたのであるから、明治国家が理念通りの「国民国家」であったかどうかは議論の余地はあろう。だが、明治維新にはじまる日本国家が、「国民国家」を目指したことには変わりはない。
そこで、支配者たちの関心事の第一は、日本の「国民国家」をどのような性格のものにするか、つまり、当時の先進国家のいずれを選んでモデルとするか、ということであり、もう一つは、それまでの士農工商というあり方になじんできた人民を、いかにして「国民」に仕立て上げるか、であった。
モデルに関しては、プロシャを選んだということはよく知られているが、もっと重要なことは、それまで人々の間でほとんど忘れられていた、天皇をもちだしたということであろう。天皇を国家経営の中心に据えて、しかも日本国の主権者としたことである。その際の最大の課題は、天皇が日本国の絶対的支配者である正当性を、どのように人民に納得させるかにあった。
そのためにさまざまな、また大規模な国民教化が、幾たびも採用されることになった。その意味で、日本の近代国家は著しくイデオロギー的色彩の濃い国家となったのである。その中心にあったのが、天皇は神の子孫であるという、『古事記』や『日本書紀』に記述されている神話なのである。
つまり、アマテラスという天上界の神の子孫のみが、日本を支配する唯一の存在であり、天皇はその子孫にほかならないという、天皇家を支配者として正当化する神話にほかならない。
近代とは、かりに合理主義が尊重される時代であるとすると、日本は、その出発にあたって、あえて「神話」を国家原理として採用したことになる。もちろん、国民国家の建設が、いつも合理的な理念によるとは限らない。民族の発生を説明する「神話」や、それに近い伝承をもとに建国がなされることもある。日本が範としたプロシャも、遠くギリシャに国家の源流があることを、国家をあげて追求もしている。
フランス革命の自由、平等、博愛といった理念も、あるいはソビエト連邦のプロレタリアート独裁という理念も、今となれば一種のユートピアであり、一種の近代の「神話」ともいえなくもない。だが、現実の支配者である王(天皇)が神の子孫であるとまともに公言したのは、ユニークといえばユニーク、奇妙といえばこれほど奇妙なこともない。
日本は近代の出発に当たって、国家経営に「神話」という神秘をかかえこむことになった。その神秘性は、なにをおいても、人民に力尽くで教え込まなければならない性格のものなのであった。そのために、ともかくも国家権力による「教化」に次ぐ「教化」が繰り返された。
宗教もまた、こうした「神話」といかに折り合いをつけるか、あるいは、その「神話」を根拠とする政治体制の維持に、いかにすれば有益となるか、という、もっぱら政治、統治の観点から論じられることになった。宗教が自ら近代への道を切り開いたのではなく、天皇制国家という政治体制に巧妙に取り込まれてゆく過程で、「近代化」を強いられるという受け身が、日本の宗教近代史の特徴なのであった。
2 「宗教」という造語の陰に
「宗教」という言葉は、古くは仏教においても見られるが、それは今でいう宗旨の教えといった意味であり、現在の日本人が使う意味の「宗教」は、明治になってから翻訳語として生まれた。ただ、その成立のいきさつを見てみると、すでにそこには、政治の影響が強く及んでいることが分かる。
なによりも、翻訳語としての「宗教」という言葉は、キリシタンの取り扱いをめぐって生まれてきたといってもよい。キリシタンは、維新政府になってからも、徳川幕府と同じく禁制の対象であった。キリシタン禁制は維新政府が幕府の政策から引き継いだ唯一のものといってもよいが、維新政府がこの禁制を続行したのは、いうまでもなく、キリシタンが天皇の神聖を危うくするかもしれないという点にあった。
だが、維新政府が列強諸国との外交を確立しようとしたとき、このキリシタン禁止が大きな障害にもなってきた。そこで、政府は、キリシタン禁制の高札を撤去することにより、キリスト教の信仰や布教が自由になったかのように外国には説明し、一方国内的には、キリシタン禁制は周知のことであるから、あえて高札を立てておくにも及ばないから撤去したのだと、内外でまったく相反する姿勢を見せることになった。
しかし、そうした詭弁を維持してゆくことも、次第に難しくなり、キリスト教にどのような対策をもって臨む必要があるかを正面から論じることが、当時の政治家、官僚、思想家たちの課題となった。
こうした状況のなかで、キリスト教や仏教、神道をふくめて、それらを一つに扱う概念が要求されるようになり、宗旨という意味ではないところの「宗教」という用語が、登場し定着するようになった。一八七四(明治七)年ころからのことである(たとえば比較思想史研究会編『明治思想家の宗教観』など)。
重要なことは、この「宗教」が、キリスト教や仏教をはじめとする制度宗教、私の分類でいえば、「創唱宗教」を意味して、「自然宗教」をふくむ言葉ではなかったということであろう。日本人の多くが、「創唱宗教」の信者ではないという意味で「無宗教」と称するのも、こうしてみると、理由のあることなのであった。
「無宗教」を表明してはばからないと非難されるのも、その原因は、多くの日本人の宗教感覚にあるのではなく、「自然宗教」を排除してあやしまない知識人たちの宗教感覚にあったというべきであろう。時代が文明開化路線に終始しており、「自然宗教」は、「創唱宗教」に比べると、劣った宗教だと考えられていたといえばそれまでだが、自分たちの生活文化の伝統に忠実であれば、あるいは、彼らに「自然宗教」に対する共感や愛情があれば、もう少し現実的な造語がなされたであろう。
いずれにせよ、「自然宗教」を排除した造語である「宗教」が一般化するなかで、「自然宗教」は、まともに研究対象としてとりあげられることは少なく、ましてや、「自然宗教」が日本人の宗教意識の主流をなしているといった認識は、生まれなかった。
ただ一つの例外が、柳田国男らによる民俗学であった。柳田国男や折口信夫は、日本の知識人が捨ててかえりみなかった日本の「自然宗教」について、詳細な研究を積み重ねてきた。誤解をおそれずにいえば、彼らこそ、日本の「自然宗教」の「神学者」であったともいえる。もっとも、彼らもまた、その研究対象を「自然宗教」とはよばなかった。彼らの用語法にしたがえば、「民間信仰」であったり、「民間伝承」なのであった。
しかし、彼らの営みも、近代国家によって保護される「国家神道」と、怒濤のごとく押し寄せてくる西洋化という二つの潮流のなかで、どうすれば民衆の伝承を発掘し、その信仰を体系的に明らかにできるかという、苦しい営みを強いられてきた。そこには、神道を国是とする近代国家にやみくもに協賛する国粋主義者ではないか、という「誤解」もつきまとうことになった。
また、敗戦後は、マルクス主義に立脚する唯物史観から、民俗学は、階級の視点をもたない、怪しい「反動」の学だという「誤解」を久しく受けてきた。この意味から、日本の「自然宗教」の研究は、近年になってようやくひろく認められるようになったにすぎない。
3 「創唱宗教」の分断
キリシタン解禁にともなう、キリスト教の進出に際して、国家はどのように対処すればよいかが、廃仏毀釈に次いで、維新政府が当面した宗教政策の課題であった。それに対して意見を求められた一人に、井上毅がいる。井上毅は、のちに「大日本帝国憲法」や「教育勅語」の実質的な執筆者になることからも分かるように、明治国家の中枢にあって、その重要な政策の決定に関わってきた人物である。
今まで、井上毅は伊藤博文などのブレーンとなった高級官僚にすぎないという評価がなされていたが、私は、その評価はあたっていないと考えている。中江兆民がいったように、同時代のなかで、井上毅は、思想家に値する数少ない人物であったというべきであろう。
その井上毅が、太政官布告によってキリシタン禁制が解かれる一年前の一八七二年に、「外教制限意見案」という一文を当局に提出している。
「外教」とは、いうまでもなくキリスト教をさす。このなかで、井上毅はキリシタン禁止の法律があるにもかかわらず、キリスト教に帰依する日本人が増えていることに対して、三つの選択があることを示している。
第一は、すでにあるキリシタン禁制の法を厳格に適用すること、第二は、その信仰、布教の自由を全面的に許す、第三は、キリスト教を信者個々人が心のなかで信じることは許すが、布教活動などは認めない、というものであった。
第一のキリスト教の全面禁止は、すでに列強からはげしく非難されていることであり、続行は不可能である。また第二も、もしキリスト教に布教の自由を許すとすれば、日本は宣教上の美田であるが故に、たちまち四方八方から宣教師たちが押し寄せて、あげくは、各派のぶんどり合戦がはじまり、ひいては、流血の惨事を招くおそれがあるから、「信教の自由」は先進ヨーロッパの考えであるとはいえ、ここ一〇年や二〇年は採用しない方がよい。残るは、第三の方策だが、これが一番現実的だ、と井上は結論する。
第三の方策とは、繰り返して紹介すれば、その「内想」は許すが、「外顕」は禁止するというものである。彼が禁止を必要と考えた内容は、聖書などの出版、説教などの布教活動、葬式をキリスト教式で行うことである。
別の表現によれば、統治と法律に反するような社会的に目立つ行為(「世治と律例に害するの外形を顕す」)は、禁止されるべきであるとものべている(『井上毅伝』史料篇第一)。
井上毅によれば、キリスト教の禁止を解くとしても、その信仰は、個人の心のなかにとどめておく場合にのみ許されるが、布教などの社会的行為は、全面的に禁止するというわけだが、この井上毅の考え方は、その後の日本人の宗教観を考える上で、きわめて重要な問題をはらんでいる。
それは、結論的にいえば、宗教とは「個人の私事」だという考え方であり、こうした考え方は、今日では、日本人の間に広く行きわたっている宗教観の原型になっているといえる。
このように、宗教を「内」(個人の内面)と、「外」(布教活動)に分けて、「内」の部分だけを宗教の正統と見なす考え方は、井上毅だけではなく、当時の知識人の間に共通した見方であった。
たとえば、山県有朋のブレーンでもあった思想家、西周は、信仰は個人の内面に宿るものであり、国家権力といえども、それを奪うことはできない、と力説する一方で、神の子孫である天皇を絶対君主と仰ぐ日本国家のあり方に背く宗教や、法律に反する宗教は、厳しく否定されねばならないとのべている。
彼によれば、国家は人民の「内心」の可否を問うことはできないが、法律によって人民の「外形」は制限できる。そして人民は、生まれてから死ぬまで、生涯にわたってその法律に従わねばならないのであり、宗教の場合も例外ではない。政府の許可なくして宗教施設を建てること、ならびにその施設以外で「宗門の儀式」を行うことは、「外形」に相当するから、法律の規制を受けるのは当然だというのである(「教門論」)。
この宗教を、「内」と「外」に分断して、宗教とは個人の内面に限るという考え方が、国家によってもっともはっきりした姿をとるのは、「大日本帝国憲法」第二八条の「信教の自由」の規定にほかならない。
第二八条は、次のようにのべている。「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」(原文は片仮名)。その意味は、つぎのようになろう。「信教の自由」は、「安寧秩序を妨げない」ことと、「臣民の義務に背かない」という、二つの条件を満たすときにのみ、保証される、と。
「安寧秩序」とは、文字上からいえば、社会の安泰と秩序を意味する。世間を騒がせないこと、とでもいおうか。
「臣民の義務に背く」とはなにか。ある研究者は、旧憲法が制定された段階では、納税や兵役の拒否、一夫一婦制を公然と乱すことを意味しており、「国家神道」の強制は、まだ含まれていなかったという(中島三千男「大日本帝国憲法第二八条「信仰自由」規定成立の前史」)。
問題は、この第二八条について、制定者の伊藤博文が解説を加えている点にある。それによれば、個人の内部における信教の自由は完全で、一つとして制限を受けることはないが、布教や礼拝という外部になると、法律や規則の制限を受けるのは当然である、と(『憲法義解』)。
この解説は、実際は井上毅が執筆しているといわれる。さきに見たように、井上毅は、宗教を統治上の観点から、「内」と「外」に分断した張本人である。ここでもまた、その井上毅の宗教論が見事に貫かれていることがよく分かるであろう。内心の自由は許すが、布教など社会に働きかける場合は、法律や規則で規制するというのである。宗教は「個人の私事」だという「常識」が、ここで明確に成立したことになる。
オウム事件の際、多くの人々が、宗教は社会の秩序を乱すものであってはならないと力説した。そうした考え方の背景には、こうした井上毅たち、明治の政治家による宗教の政治的解釈が存在していたのである。しかも、そうした政治的宗教論を一〇〇年の長きにわたって、特別に批判を加えることもなく受け入れてきたことが、この事件によってはしなくも露呈したというべきであろう。
いうまでもないことだが、宗教とは「創唱宗教」であれ「自然宗教」であれ、その信仰が個人の内面にとどまっているということはありえない。もちろん、その強弱は宗教によって異なるが、それぞれの教説を他の人々に広めようとすることこそ、宗教の生命なのである。
宗教は、「外」や「外形」に深くかかわることによってはじめて、真の宗教となるのであり、宗教が個人の内面にとどまると主張するのは、宗教の本質を知らない人のいうことか、あるいは、今までに紹介してきた、政治家たちの統治上の関心から生じた宗教観の受け売りにしかすぎないであろう。
4 「天皇崇拝」のはじまり
天皇を中心とする、強固な中央集権国家を目指した、日本の近代国家は、キリシタン解禁を契機に、統治上の関心から、宗教を「内」と「外」に分断し、国家によって認められるのは、「内」の部分にかぎるという「常識」をつくりあげることに成功した。この場合の宗教とは、私のいう「創唱宗教」であることはいうまでもない。
では、私のいう「自然宗教」は、近代国家によってどのような扱いを受けたのか、また、その扱いにどのような問題がふくまれていたのか、をこれから見ておこう。ここでいう「自然宗教」は、狭くは、祖先崇拝を中心とする民間信仰や、プロの神主の管轄を受けない村人らによる神祭りであり、広くは、開祖や主唱者を特別に立てない神々の信仰をふくむ。
私の考えによれば、今日の日本人が簡単に「無宗教」を標榜する大きな原因が、このような近代における「自然宗教」の、国家による変容のなかに隠されているように思われる。
では、近代における「自然宗教」の、国家による変容とはどのようなことを指すのであろうか。それを明らかにするために、まず、明治国家による「天皇崇拝」の動きをふりかえっておかねばならない。
さきに紹介したように、維新政府はそのよって立つ統治上の基盤を、「天皇崇拝」に求めた。それは、討幕運動のなかですでに明確な姿をあらわしていて、「尊皇攘夷」というスローガンになっていたことは、よく知られていよう。倒幕が成功して新しい政府が生まれると、神の子孫である天皇こそ、日本の支配者としてふさわしいという論法が、決定的な勢いを得て、「神国」としての国家経営が近代日本の目標となった。
だが現実には、肝心の天皇は、宮中深く女性と見まちがえるばかりの生活をしており、近代国家の君主としての訓練は、なに一つ身につけてはいなかったし、また、民衆の方も天皇の存在にはほとんど気がついておらず、無関心そのものであった。そこで、維新政府は、天皇の存在を人民に明らかにすること、さらに天皇が新しい日本の支配者であり、人民は天皇に絶対服従をしなければならないことを周知徹底させることに、エネルギーを集中することになる。
そのために、天皇を神聖視する理論が、あたかもキリスト教の神学のように作られ、さらに、それを人民に教育する手段が整備されることになった。それによれば、天皇はアマテラスという神の子孫であり、アマテラスを祭ることが天皇の最大の任務とされた。
なぜ天皇にとって、アマテラスの祭祀が最大の政治的行為になるのか。それは、アマテラスを祭る天皇を見たり知ったりすることにより、人民もそれぞれの祖先祭祀に励むようになり、神話時代に、祖先たちが天皇の恩恵を受けて暮らしていたことや天皇に忠誠を尽くしてきたことを思い起こして、新しい国家づくりに積極的に参加するようになる、と考えられたからである。天皇の祭祀は、新しい国民国家の形成にむけて人民を誘導できる、強力な手段になったといってよい。
そのために天皇は、歴史上一度として参拝したこともない伊勢神宮に、はじめて参拝するようになり、宮中からは一切の仏教色が閉め出されて、新たに神々が招かれ、天皇がその祭祀にいそしむようになる。
また、天皇を神聖視する教えを国民に広める布教師のような存在が設けられて、彼らが全国に派遣され、「天皇崇拝」が説かれることとなった。一八七二(明治五)年には教部省という役所が設けられ、全国の神主と僧侶の任命権を掌握し、彼らを動員して「天皇崇拝」の浸透をはかった。
この動きは、あたかも天皇を教祖とする新しい国教をつくるかのような印象を内外に与えた。さすがにそうした動きには、反対の声があがった。一つは、国家が宗教を人工的に作ることに反対する知識人たちの声であり、もう一つは、「天皇崇拝」を、神主たちと共同で、しかも神道式で示さねばならなくなった仏教側から出された、強い疑念や不満、抗議にほかならない。
維新政府は、できうることなら神道を国教にしたかったといってよい。天皇を支配体制の中心に据える国家経営を目指す以上、天皇を神聖な存在とし、天皇を絶対化する宗教、ないしは宗教に近いイデオロギーを、国家の力で保護、育成できるならば、民衆の支配は、よほど容易になるからである。この場合、政府の中枢にあった者が、天皇絶対化のイデオロギーとして援用しようとした神道の中身は、天皇を中心とする宮廷神道や、幕末から盛んになる平田篤胤などの国学者たちや水戸学の信奉者による国粋的な神国思想であった。
だが、こうした神道を国教とすることは、維新後、早い時期に大きな壁にぶつかることになる。それは、すでに繰り返し紹介している、列強によるキリスト教解禁の要請にかかわる。
英仏米などの列強は、日本国内においてキリスト教の布教が自由に行われる保証がなければ、幕末に結んだ、いわゆる不平等条約の改正には応じない、とせまったのである。もし、神道を国教とすれば、キリスト教の布教を阻害することは明らかである。列強の要求をのむ限り、神道の国教化はありえないし、いわゆる「信教の自由」を保証してキリスト教の布教を認めざるをえないのである。
この段階で、天皇を絶対化するための、神道を中心とする新たな国教づくりは、表面的には挫折することになる。だが、それはあくまでも対外的な配慮に基づいており、その後も、実質的に国教化を推進する道が、引き続き模索されることになる。それについては、あらためてのべてみたい。
5 「国民教化運動」の挫折
さて、神道をふくめて特定の宗教を国教とする動きには、支配者たちの間からも反対があった。たとえば、井上毅は、一八七一年から一年あまりの間、ヨーロッパに留学した経験をもとに、同じキリスト教でありながら、特定のセクトを国教化することで、どのような悲劇が生みだされてきたかに言及して、国家権力が特定の宗教にかかわることを強く否定した(「欧州模倣ヲ非トスル説」)。
また、井上毅は、教部省の推進した神官と僧侶を動員して「天皇崇拝」を勧める方法が頓挫したとき、天皇の祭政一致の行為をあたかも宗教のようにあつかい、しかもその宗教を国教あつかいとすることには、きわめて強い反対意見をのべている。そして、国家にとって大事なことは、特定の宗教を国教とするのではなく、統治の観点から、いかに宗教を籠絡して「治安の具」とするかにある、とものべている(「教導職廃止意見案」、史料篇第一所収)。
教部省による一大国民教化運動を、新たな国教づくりと受け止めて、はげしく批判した人物に、|島地黙雷《しまじもくらい》がいる。島地黙雷は、西本願寺の僧侶で、当時ヨーロッパに留学していた。
現代の本願寺教団の実状からは想像ができないかもしれないが、明治維新頃の本願寺教団は、維新政府と大変密接な関係を持っており、とりわけ、いまだ統治基盤が十分でない新政府に対して、巨額にのぼる財政支援を行ってきた。
たとえば、一八六八(明治元)年に東本願寺が維新政府に献金した総額は二万八千両にものぼり、単純換算でも現在の二億円をはるかにこえるという(『資料幕末維新の宗門と国家』)。また、西本願寺は、紙屑同然の太政官紙幣三万両を正貨と交換している(三島了忠『革正秘録光尊上人血涙記』)。こうした援助を見てみると、本願寺の財力が、維新政府を支えていたといっても過言ではないほどなのである。
とりわけ、西本願寺では、長州出身の僧侶が幕末維新期の教団改革の実権をにぎっており、彼らは木戸孝允、伊藤博文ら、維新政府の長州閥ときわめて深い関係をもっていた。その長州出身の有力僧侶の一人が、島地黙雷であった。
彼の欧州宗教事情調査旅行自体が、当時の政府高官なみの便宜をうけて実施されたことは、木戸たちの支援があったことを証明している。木戸たちも、当時のもっとも有力な既成教団の責任者をヨーロッパに派遣することにより、彼らに近代国家にふさわしい国家と宗教の関係を学ばせようとしていたといえる。
また、いささか余談になるが、西本願寺の当時の法主は、本願寺を東京に移して皇居の前に広大な寺域を占め、天皇と国家の安泰を願う、いわば近代の鎮護国家を実現しようとはかったこともあった。もしそれが実現しておれば、丸の内から日比谷にかけての現在の一等地が、ことごとく西本願寺の寺域にふくまれることになり、皇居鎮護を目的とする一大奇観の出現となっていたのである(三島前掲書)。
さて、ヨーロッパ留学中の島地は、現地の新聞で日本政府が新たな国教を作ろうとしていることを知った。その国教とは、教部省が音頭をとって実行しようとした、神仏合同による天皇崇拝の教化運動であった。ヨーロッパの宗教事情を肌で学習していた島地にとって、国家が宗教をつくることは、人為と神意を混同する暴挙と映った。ただちに筆を起こして一書を政府に送る。「三条教則批判建白書」である。
このなかで彼は、宗教と政治の区別こそが文明国の条件であり、国家が宗教をつくって人民に押しつけることは、即刻やめねばならないと主張した。
島地の政教分離論は、日本における最初の「信教の自由」論、つまり政治が宗教を造作してはならない、政治は宗教に干渉してはならないという意味での「信教の自由」論のはじまりとなる。
島地黙雷がフランスから建白書を出したのとほぼ時を同じくして、駐米代理公使、森有礼がワシントンから、教部省の国教づくりと見まがう政策について、厳しい批判を送ってきた。「日本における信教の自由について」という英文である。そのなかで森は、宗教とは他人に強要できるものではなく、「信教の自由」が人間の天賦の権利であることを力説している。
また、神仏合同という、宗派の意味を無視した教化運動の方法についても、仏教側からはもちろん、神道側からも強い批判が生まれてくるようになった。
さきの島地黙雷は、別の建白書のなかで、宗教とはそれを信じる人々の個々の事情に応じてこそ、生きたものとなるのであり、相互に矛盾した教えを、同時に説かれても混乱が生じるだけだ、と教部省の政治的効果だけをねらった運動を、否定した。
神道国教化を推進しようとしていた神道主義者たちからも、教部省の神仏合同方式は、批判をあびることになる。とくに、またのちにもう一度ふれるが、島地黙雷を代表とする仏教側の強い批判に対する反批判として、神道は、仏教やキリスト教と並べられるような宗教ではなく、国家的儀礼そのものであり、宗教のように個人の選択にまかせる筋合いのものではなく、きわめて公的な色彩を帯びた儀礼体系である、と主張した(たとえば日本最初の宗教雑誌『教義新聞』に出た「神道を以て宗教となすは皇室の瑕瑾たる事」)。
このように、教部省の国民教化運動は、期せずして仏教とキリスト教、そして神道主義者からもはげしい批判をあびることになった。そして、やがて教部省自体が解体されてゆくが、しかしそれは、政府が天皇崇拝を推進する「教化」を、あきらめたことを意味しない。むしろ、この後にこそ、その「教化」は巧妙な詭弁を積み重ねて、人民の間に深く浸透することになる。それが、「神道非宗教論」にほかならない。
しかも、「神道非宗教論」の深まりのなかで、「自然宗教」もまた、そのシステムの破壊を余儀なくされてゆくのであり、最終的には、「自然宗教」は、劣った宗教であり、あるいは習慣、風俗であって宗教ではないという「常識」が形成されてくることになる。
6 さまざまな「神道非宗教論」
天皇支配の正当化のために、天皇は日本をつくった神の子孫であるという論理を採用した維新政府にとって、天皇制を支えてゆくためには、どうしても天皇を絶対視する宗教、ないしは、宗教に近い「教化」手段が不可欠であった。そのために教部省という役所をつくり、神仏合同によって、神々や天皇の崇敬を説く「教化」運動を展開したが、たちまち、さきに紹介したような抵抗にあって頓挫することになった。だが、国家の中枢にいた人々は、「信教の自由」論に表面的には一歩譲ったように見せかけて、天皇を絶対視するイデオロギーの創出を中断することはなかった。
天皇を絶対視する神道を、「信教の自由」の見地からただちに国教化できないとすれば、その神道を宗教とは見なさなければよいのである。もし神道を宗教と見なさないということになれば、神道を国民に強制しても、「信教の自由」には一向に抵触しないことになる。
そうした論法の皮切りは、神道主義者からはじまる。たとえば、さきに日本最初の宗教雑誌『教義新聞』を紹介したが、そのなかで、教部省の誤りは、神道を宗教扱いした点にあるのであり、神道とは本来祭りの儀式のことであって、具体的には天皇が祖先を祭り、人民のために功労があった臣下の霊魂を慰める道のことだ、とのべている(明治七年八月「神道を以て宗教となすは皇室の瑕瑾たる事」)。
また、ある論者は、神道とは「天地の公道」であり、「世界の元気」あるいは「国家の元気」ともいう(西沢之助「神道は宗教にあらざるの論」)。「元気」とは、万物を生み育てるエネルギーといったほどの意味であろう。日本国が日本国である所以は、まさしくこの「元気」を、建国のはじめから国家の根本に据えているからであり、その神道を一介の宗教扱いとすることは、国家の根本を誤ることになるという。
あるいは、全国の大小の神社は、国家の祭祀を司る場所であり、じつに「国家精神の府」なのであり、それらこそ「真成の神祇道」であり、「宗教主義神道」や「祈祷卜相的神道」とは決定的に異なる点である。国家の興隆は、この「真成の神祇道」の実践以外にはないとも主張されている(「神官有志神祇官設置陳情書」)。
このように神道主義者は、神道が世間でいう普通の宗教をはるかに超えた、「大道」(丸山作楽)であることを力説するが、彼らの主張や建言が、直ちに現実の政策となったとはいえない。というのも、神道至上主義は、たしかに明治維新の原動力の一つとはなったが、政治機構のすべてを、「古代」に復帰させようとする時代錯誤を犯したために、早い時期に、政権の中枢から追放されてしまった。
この点、井上毅の神道非宗教論は、ことを「朝憲」と「教憲」に分けるという視点を明確にして、政策化への道を開いたといえよう。「朝憲」とは朝廷の掟、国家の掟の意味であり、「教憲」とはいわゆる宗教をさす。
井上毅は、つぎのようにいう。神道をもって宗教と考えるのは、近世に入ってから、わずかの国学者が言い出したことにすぎないのであり、もともと神道とは、祖先を崇敬し、その祭祀にしたがうことであって、それはあくまでも国家の掟、朝廷の掟に属する。このような神道の祭祀を、宗教がいう礼拝、祈念と同じものと考えるのはまちがいだ(「山県参議宗教処分意見案」)、と。
つまり、神道は「朝憲」であり、「教憲」ではないというのだ。国家の掟である以上、国家を構成する人民がそれに服するのは当然だということになろう。この立論では、神道に服することと「信教の自由」は、なんら抵触することにはならない。井上毅の論法は、神道非宗教論を政策として実行してゆく上で重要な論拠となった。
7 浄土真宗の「神道非宗教論」
ところで、この神道非宗教論の成立において、浄土真宗という仏教のセクトが大きな役割を果たしてきたことは、見逃すことができない。そのことを、一般社会に向かって早くに指摘したのは、神道主義者の|葦津珍彦《あしづうずひこ》であった。
葦津珍彦は、神道非宗教論の最強の推進者が、島地黙雷ら真宗の僧侶たちであったという(『国家神道とは何だったのか』)。
明治維新は、繰り返し述べているように、天皇を絶対化する神道論によって理論武装し、祭政一致と神仏分離を、もっとも重要な政策とした。「太政官」という政治の最高機関よりも、さらに上位に、「神祇官」という役職を置いたのも、あるいは、廃仏毀釈という仏教排斥を実行したのも、その理念を実践するためであった。
このように、祭政一致と神仏分離は、新生国家の既定路線なのであった。その路線によって痛手を受けた仏教教団が生き残るとしたら、その路線を肯定した上でのことになる。真宗の僧侶たちは、この路線を否定せずに、しかも「信教の自由」を認めて、さらに、真宗に固有の教義を維持してゆく方策を模索することになった。そのために工夫された論理が、神道非宗教論なのであった。
葦津珍彦によれば、島地黙雷が主張した「信教の自由」論や政教分離論は、幕末の勝安房や福沢諭吉、さらに明治三、四年頃には伊藤博文や井上馨などもすでによく知っており、島地黙雷は政府の開明官僚から、こうした考え方を学んでいたとする。ただ、島地黙雷の功績は、「信教の自由」という一般論を、日本の神仏政策に具体的に応用する上で、「卓抜な政略構想」(同上)を立てることができた点にあるとしている。
「卓抜な政略構想」の中身は、葦津珍彦によって十分には明らかにはされていないが、神道非宗教論が、井上毅など政府の中枢と神道主義者によって考案されたと、従来は、考えられがちであったなかで、葦津珍彦の指摘は、十分に刺激的であったといわねばならない。
では、島地黙雷らがどうして神道非宗教論を展開しえたのか。それを真宗の信仰に即して説明するためには、まず真宗において、「真俗二諦」とよばれる教えが説かれてきた歴史を振り返らねばならないであろう。
「真俗二諦」論の「諦」とは、真理のことであり、「真諦」は、宗教的真理といってよい。具体的には、阿弥陀仏の本願を信じて念仏するものは必ず浄土に生まれて仏になることができるという、法然によって発見され、親鸞に受け継がれた浄土真宗の教えのことである。「俗諦」とは、浄土真宗の信者が守らねばならない現世のきまり、世俗生活の真理であり、具体的には、世間の支配者に従い、世間の秩序を守り、道徳を遵守する生き方をさす。
浄土真宗において、このような教えが登場するのは、教団が強大になってからのことであり、教団防衛のために編み出された理論が「真俗二諦」なのであった。法然や親鸞の時代では、信者は、その信心をなんのはばかりもなく世間にあらわすことができた。だが、織田信長がその全国制覇の過程において、もっとも手を焼いたのが本願寺教団であったように、教団が強くなるにつれて、その信心が政治権力と衝突することになった。そこで、信心は個人の内面にとどめて、外面は現世の秩序に従うことが、要求されてきたのである。
こうした「真俗二諦」論は、徳川幕府の支配下ではいっそう強化され、封建的秩序を遵守する宗教として、浄土真宗はその勢力を温存することとなった。それは、明治維新以後も持続され、現世の秩序を守る忠良な臣民を生み出す宗教として、支配者たちにその存在をアピールしてきた。
この教義によれば、浄土真宗の信者とは、まず国家の要求する忠実な臣民となることであり、肝心の阿弥陀仏の本願を信じるという点は、二の次となってしまうおそれが生じてくる。宗教は決して現世の秩序の維持を目的とするためにあるのではない。時には、宗教的真理を守るために現世の秩序に背いたり、それを破ることもある。とりわけ、信心を同じくする者の連帯は大変強く、領主の支配権を容易に超えてゆく傾向が強かった。現に、真宗信者の信心は、信長をあれほどまでに悩ませたのであり、島津藩は、それゆえに浄土真宗を禁制とした。しかし、歴史を全体として見れば、真宗教団は最終的には国家権力の前に、屈し続けるのである。
このように「俗諦」の教義は、国家の方針や教化になによりも従順であることを信者に命ずるものであった。だが、維新以後の「俗諦」は、重要な局面をむかえることになる。というのも、明治の国家は、天皇を神の子孫とする神聖国家であり、国家に従順であるということは、このような天皇の神聖視を支える神道的要素をも受け入れることを意味することになるからであった。それは、神道にきわめて強い違和感を持ち続けてきた浄土真宗にとって、簡単には受け入れがたい状況となる(藤井健志「明治初期における真宗の神道観」)。
法然以来、神々を拝まないという「神祇不拝」は、専修念仏の基本的な立場である。専修念仏、つまり浄土宗や浄土真宗においては、阿弥陀仏を信じることだけが関心の中心を占めており、他の仏やまして、神々を信じる必要はまったくない。それゆえに、歴史上しばしば、専修念仏は、既成教団や公権力から激しく弾圧されてきた。
このような状況のなかで、世俗の権力が神道や既成仏教教団と深い関係を保っている以上、また教団が「俗諦」を教えとするようになった以上、専修念仏の信者たちは、阿弥陀仏以外の神仏との妥協をせまられることになった。こうして、阿弥陀仏以外の神仏を拝むことも、最終的には阿弥陀仏を信じることに通じるという、苦し紛れの「理論」が教団の上層部から生まれてくるようになった。
だが、家に仏壇をおいても、神棚はおかないという専修念仏の信者は、少なくはない。しかも、その仏壇も、他の日本人が先祖の位牌を中心にしているのに対して、阿弥陀仏のみを祭っている。この仏壇のありようも浄土真宗に特有のものといえる。
あるいは、正月に門松を立てないとか、盆の行事はしないとかという、独自の習慣をもっている。こうした専修念仏の信者のあり方について、信者以外から、「門徒もの知らず」という非難をこめた呼び方が生まれてくる。「門徒」とはいうまでもなく、専修念仏の信者、とくに浄土真宗の門徒を指す。「もの知らず」とは、世間で普通に信じられている民間信仰のしきたりに無頓着な者という意味である。
ともかくも、神道に対しては、特別な拒否反応を示すのが本願寺教団の特徴であった。そこで、「俗諦」を守るとしても、それが国家への忠誠とあわせて、神道への従属を意味するとすれば、真宗信者にとって重大な問題になる。繰り返すが、どのようにすれば国家への忠誠を尽くしながら、しかも、真宗の「神祇不拝」の伝統を守るかが問題なのであった。この点にこそ、浄土真宗という一つのセクトが、神道非宗教論を編み出してくる最大の理由があった。
この点、島地黙雷らがとった考え方は、神道は祖先を崇敬する道であり、それは宗教とはいえないという論法であった。彼によると、諸神とは、つまるところ、祖先や国家に功労のあった人々のことであり、それらの人々を祭るのは、その人々の恩徳を忘れないためであり、あるいは、功労者の偉業に倣うためである。したがって、神社に出向いて幣帛を捧げるのも、彼らに対する敬意の表現なのであり、そうすることによって、祖先の教えを守り、人間であることに恥じないようにするためである。祖先の恩に報い、その功労を褒め称えることが、神を敬う理由なのだ(「三条弁疑」)という。
さらに、神官という職は、祖先の祭祀を司ることに尽きているのであり、およそ宗教とは無関係である。だから、歴史を振り返って見ると明らかなように、昔から神道とは別に、人間の生き方や救済を目的とする儒教や仏教が存在してきたのである。ここにも、神道が宗教ではないことがはっきりと示されているではないか(「大教院分離建白書」)。さきにも紹介した井上毅が、神道を宗教とはみなさないとした理由も、島地黙雷と同じであったことを思い出してもらいたい。
また、南条神興という僧侶は、国家が天皇制の基礎として主張した神道は、世界と人間の理想的なあり方を示しているだけで、宗教とはいえないという。つまり、神道は人間社会の理想状況をのべるだけであって、その理想が崩れだしたときの教化の方法をもっておらず、それゆえに、仏教や儒教が必要になったのであり、この歴史こそ、神道が宗教ではないことをよく示している、というのだ。あるいは、教部省の「教化」運動をめぐって、真宗教団がその心得を僧侶たちに示しているが、そのなかで教団は、「敬神」とは国家に尽くすことであり、神道的儀礼は枝葉末節に属する、と主張している(藤井前掲論文)。
このように、真宗教団は、神道を宗教ではないと考えることによって、天皇を中心とする国家体制を全面的に受け入れることができ、またそれを積極的に支えてゆくことができるようになったのである。
では、浄土真宗は、現実の天皇制国家に全面的に協力をする一方、宗教としての自らの役割を、その後どのように展開することができたのであろうか。つまり、宗教的真理、「真諦」を現実社会のなかでどのように貫徹することができたのか、が問われねばならない。この点が究明されない以上、近代の浄土真宗は、神道を宗教ではないと論断するだけの宗教であったことになってしまうであろう。のちにもう一度振り返ってみたい。
8「自然宗教」の分断
日本人の信仰は雑多で曖昧だとは、よく耳にすることだが、果たしてそうであろうか。私の見るところ、「雑多」で「曖昧」になったのは、明治以後、「天皇崇拝」を中心とする「国家神道」が勢いを得てからのように思われる。
正確にいうと、「天皇崇拝」のシステム自身は、天皇を頂点とする一神教的な、新しい国教と見なしてもよいくらい、それなりの体系と一貫性をもっていたのであり、そのなかに組み込まれた人は、明快な「天皇崇拝」をもつことができた。しかし、その「天皇崇拝」のシステムが排除したり、破壊した領域に暮らす人々にとっては、従来の一貫した信仰生活がかえって分断されることになり、そこに、とまどいと「曖昧」さが生じることになったのであり、「雑多」という批判に対しても、それをくつがえすだけのエネルギーをもちあわすことができなくなってしまったのである。
では、「天皇崇拝」以前の、日本人の伝統的な信仰生活とはどのようなものであったのか。その好例は、民家における神仏の祭り方であろう。土間には、火のカミや水のカミが祭られており、敷居にも敷居のカミがいた。板間には、普通囲炉裏があって、その背後には仏壇や神棚があり、家の先祖や鎮守の神が祭られている。そして、座敷には、立派な神棚があって、伊勢神宮や八幡神社、春日神社、鹿島神宮といった有名大社のお札が祭られている。
土間のカミガミや、板間の先祖、鎮守の神は、一家の主婦が祭るが、座敷の神は一家の主人が祭ることになっていた。日本中の神々が集まるという神無月にも、土間のカミガミは出向くことはなかった。
土間の暮らしは、弥生時代以来の、掘立小屋の伝統が残っており、板間には、寝殿造りの暮らしの片鱗が残っている。また、座敷の暮らしには、室町時代以来の武家の書院造りの伝統が息づいている。日本の民家には、このような日本の長い歴史が集約されているというわけである。
問題は、土間と板間と座敷にそれぞれ祭られている、神仏の相互関係にある。結論だけをいえば、これら三者には、密接な相互関係がある。それは一言でいえば、身近なカミガミから、より遠く普遍的な神仏へ、という図式なのである。
日本人は、身近で親しみのあるカミから、そのカミを通じて、霊力の強い神仏に連なり、さらにもっと遠くの、しかしいっそう強力な霊威に服する、といった信仰の段階を組み合わせて暮らしてきたのである。むつかしくいえば、特殊と普遍の組み合わせということになろう(詳細は、拙著『法然の衝撃』、『国家主義を超える』参照)。
神と仏の関係も、同じである。神々には、この世のことを願い、仏たちには、神々の導きによって、あの世や来世のことを願うという暮らしをしてきた。そこには、神仏の間で一種の棲み分けがあったといってもよいだろう。
いずれにしても、身近な存在からはじまって、だんだんと見知らぬ、しかし霊威の強い神仏へと広がって行くという構造が、日本人の精神生活の大きな特徴であったといわねばならない。
このように、一家のなかに存在する神仏は、一見雑然と祭られているように見えるが、明らかに一つのシステムを構成していたといえる。そして、そうした特殊と普遍というシステムは、一つの家のなかだけではなく、一つの部落のなかの神仏のあり方にも貫徹していた。
こうした、特殊と普遍という組み合わせからできていた信仰のシステムが、大幅に変更を余儀なくされたのが、明治維新によって出現した「天皇崇拝」を中心とする「国家神道」の成立にほかならなかった。
明治維新は、何度も繰り返しているように、天皇中心の政治体制を作り上げることがねらいであり、神々の世界においても、天皇の祖先神であるアマテラスを唯一絶対的な神として、大規模な再編が行われるようになった。
そのために打ち出された政策が、「神仏判然令」、つまり廃仏毀釈であり、また「神社合祀令」なのであった。この結果、まず、神社から一切の仏教色が一掃され、その余波が、地方によっては仏教寺院の全面的破壊、僧侶の強制的還俗にまで進んだ。
この段階で、仏は神という手足を失うことになり、現世でどのように活動すればよいかが分からなくなった。神も、それまでは仏に任せていた、来世の保証という領域を引き受けねばならなくなった。しかし、伝来の分業が廃止された後の、このような課題は、神仏ともに、ついに今にいたるまで十分な解決を見るにいたってはいない。仏教の主流は、依然として「葬式仏教」の道をひた走っており、神々は、相変わらず、死穢の問題を解決できずに、死後の問題を棚上げにしたままである。
「神社合祀令」は、全国の神社を、「天皇崇拝」にとりこむものと、そうでないものとに、あらためて篩にかける政策であった。アマテラスを絶対神として、伊勢神宮を頂点とする神社組織が新たに設けられ、その組織には、中央政府によって任命された神官が、天皇の官僚として天下ってくることになった。世襲の神主は、国家の祭祀を私有するものとして廃止された。問題は、官僚としての神官を、全国の神社に配置するには、予算に限度があるため、神社の方を整理して、一地域に一つの神社を置くという、神社の統廃合を実施することになった点にある。
神社を政治的に統合整理することは、身近で親しい神々の否定につながった。今まで村の氏神として厚い信仰を得ていた神社が、突然他村に合併されるのである。合併後もはるかな道のりをたどって、その氏神に詣でることができるであろうか。身近な神々を失ったあとには、新たな「天皇崇拝」が強制する、見も知らぬよそよそしい神々が待っていた。
加えて、神々は、国家によって正統とされるものを除いて、多くが淫祠、つまり、いかがわしい神々というレッテルが貼られて、その信仰が禁止されてしまった。また、文明開化の名の下に、「迷信」や「祈祷」も排除されるようになってしまった。
要するに、身近で親しいカミガミや名もない神々が、信仰の対象からはずされることになった。日本人の信仰を支えていた特殊な部分、つまり、日本人の信仰の毛根の部分が排除されることになったのである。毛根を切られた木々がどうして順調に育つであろうか。日本人の精神生活は重大な危機を迎えたのだが、そのことに気づいた人は、きわめて少数であった。
「神社合祀令」によって、結果的に、全国の神社は、国家が直接経営する神社と、府県が経営する神社、それに村が維持する神社などに分類されるようになった。だが、明治の法令でいう神社だけでも、その数はおよそ一一万に達していたのだが、国家や府県、村が経営する神社の総数は、わずかに二千を下回るものであった。つまり、一〇万を優に超える神社が、明治の「天皇崇拝」のシステムから除外されてしまった。毛根を切られた木々のたとえでいえば、国家による施肥の恩恵に浴したのは、二千本にすぎないということになる。
こうして日本人は、長きにわたって維持してきた、特殊と普遍という組み合わせからなる信仰のシステムを放棄せざるをえなくなり、表面的に雑多と見えた信仰が、文字通りの「雑多」、「曖昧」になってしまったのである。
それだけではない。神々に対する信仰は、「祭祀」と「祈願」にも分離されてしまった。さきに紹介したように、井上毅は、神道とは宗教ではなく、国家の「祭祀」だと主張した。だが、神々への信仰は、それほど簡単に「祭祀」と「祈願」に分離できるものであろうか。
考えてもみてほしい。神社に参拝したとしよう。だれが、祈願もせずに、柏手を打つという儀礼だけをすることがあろうか。祈願があってはじめて、柏手という儀礼がともなうのだ。それを、神道とは柏手を打つという儀礼だけにとどめようというのだ。たしかに、祈願のない儀礼は、信仰に似て信仰にあらざる営みであり、その意味では、見事に「非宗教」が実現できたのかもしれない。しかし、神社信仰において、それは自殺行為であった。
その自殺行為を、明治の為政者たちは、「天皇崇拝」の名の下に実行したのである。また、神社関係者の大部分も、こうした政策を積極的に受け入れた。こうして、神道式の壮麗な国家行事が、神道という宗教から切り離されて国民生活に君臨することになった。
問題は、この似非宗教が、本当の宗教よりも力をふるったということであろう。国家は、この神道式の国家儀礼を、どのような信仰の持ち主に対しても、「非宗教」なるが故に、強制することができたのである。
神々の、「天皇崇拝」システムへの繰り込みの過程において生じた、他の重要な問題は、日本人の間で成立していた、一種の信教の自由論を抹殺してしまったことであろう。つまり、「敬神」と「祈願」の区別を曖昧にしてしまったことである。
「敬神」と「祈願」の区別に精力を費やしたのは、柳田国男であった。彼によれば、「敬神」とは、自分と関わりのない他の土地の神々に対する敬意を表現する言葉であり、人々が村を離れて旅行するようになり、見知らぬ神社に敬意を示す必要が生じるようになってから生まれたという。
「祈願」とは、そうした見知らぬ神々への敬意ではなく、各自が生まれながらに属している氏神に対する信仰のことである。したがって、「敬神」の対象になる神々に、「祈願」をこめるということはないということになる。
こうした区別は、互いに他人の信仰を認めあい、家々の異なる神々を敬い合うことを意味した。それは、立派な信教の自由の表明ともいえるであろう。日本人は、ヨーロッパに学ばなくとも、それくらいのことは、すでに自前で手にしていたのである。
いずれにせよ、神道を含めて日本の「自然宗教」は、明治政府の「天皇崇拝」のイデオロギーのもとで、そのシステムや約束事を大きく変更せざるをえない状況においこまれることになった。しかも、やっかいなことに、「創唱宗教」に見られる職業的宗教家が「自然宗教」には不在であったために、こうした危機的状況は、ほとんど自覚されることなく、現在にいたっているのである。そのわずかの例外が、いくども言及しているように、柳田国男や折口信夫といった民俗学者たちなのであった。
9 痩せた宗教観
すでにのべてきたように、天皇をもって一切の中心とする日本の近代国家のあり方は、「創唱宗教」においても、また「自然宗教」においても、極度の歪みや変質をもたらすことになった。
繰り返していえば、「創唱宗教」においては、信仰は個人の私事に閉じこめられ、社会的活動については、国家によって制限を受けるのは当然だとする「常識」が形成された。宗教を「内」と「外」に分けて怪しまない精神の誕生がそこにはある。
「自然宗教」においては、身近で親しいカミガミから有名大社の神々にいたる道筋が分断され、神々にも国家によって保護される神とそうではない神が区別され、国家の組織から排除された神々には、差別や弾圧が加えられた。とりわけ、神道では、アマテラスと系統を異にするオオクニヌシを祭神とする出雲神道や、新しく生まれた天理教などが、国家の祭祀をになう「国家神道」と峻別され、「教派神道」と名付けられて、政府の厳重な監督下におかれた。
国家の祭祀をになう「国家神道」が宗教ではないと強弁されたことは、すでに見た通りである。
加えて、欧米文化偏重の影響によって、キリスト教をモデルとする宗教観が、知識人の間でひろがり、その結果、日本人の生活に即した宗教論の展開が妨げられることになった。つまり、明確な教義と教会組織によって構成されているものだけが宗教であり、生活のなかで習慣、風俗となって生きている「自然宗教」的宗教心は、程度の低い宗教か、あるいは、宗教とは見なされないという風潮が広まることになった。
要するに、列強の植民地支配のおそれがあるなかで、急速に近代国家の体裁を整えなければならないと判断した為政者たちは、国民の生活のすみずみにまで、さまざまな干渉を加えるにいたった。あらゆる生活の局面に、国家の物差しがあてられるようになったといいかえてもよい。
こうした国家の維持発展だけを目的とする物差しが、生活の実態にそぐわないことはいうまでもないことであり、それなりの抵抗や改善がなされもしたが、こと宗教の世界に関しては、国家の枠組みを自らの力で超える営みは、少数の例外を除いて成功したとはいえない。むしろ、国家の物差しに、積極的に迎合する宗教家や地方の名望家(「自然宗教」の主要な担い手)が圧倒的に多かった。
このようななかで、多くの人々は、ことさらに宗教、とくに「創唱宗教」に積極的に近づこうとしなくなったのは、当たり前のことといえる。その上、廃仏毀釈の痛手を被ったとはいえ、「葬式仏教」は生きており、檀家制度も残存していたから、多くの日本人は、「葬式仏教」の世話になることによって、宗教の問題は解決したことにするという傾向が強くなった。
そして、宗教に関しては、「無宗教」を標榜し続けるようになったのである。「無宗教」は、近代日本の状況にあっては、明らかに身の安全を保障する言葉でもあったのだ。
その上、近代は科学の時代でもあった。科学的で合理的な世界の見方が強く支持され、宗教は、怪しげなものと見なされがちとなり、人々は、ますます「無宗教」を標榜することになった。
だが、人間が、どこから来てどこへ行くのか分からない存在である以上、しかも、その人生になんらかの意味を見いださない限り、人は生きて行くこともできない存在である以上、人間と人生に究極的な意味を与える智恵、つまり宗教は、どうしても必要となってくる。もちろん、その必要度は、人によって、環境によってずいぶんと異なるであろう。だが、人生を納得したいという願望だけは、どのような人間においても生きている。
そうした願望に、できるだけ多くの選択肢を与えることができる環境こそ、人生の豊かさを決めることになるのではないか。そのとき、「無宗教」を標榜するだけの選択しかないということは、あまりにも淋しい人生ではなかろうか。近代日本は、そのような淋しい選択を選んだ時代なのであった。
10 豊かな宗教観の試み
近代日本の歴史は、大勢からいえば、痩せた宗教観を生み出すにとどまった。その痩せた宗教観で、人生の深淵に立ち向かうのは、あまりにも無謀といわねばならないだろう。宗教といえば、オカルト集団しか連想することができないというのも、痩せた宗教観のなせるわざであろう。あるいは、宗教とは、苦しいときの神頼み、つまり商売繁盛や病気直し、受験祈願といった自分に都合のよい欲望追求の営みだと考えるのも、宗教観の貧困を物語っている。
宗教観が痩せているということは、人間についての見方が浅いということにもなる。人間について浅い見方しかできないと、人間の引き起こす深くて巨大な問題に、お手上げになってしまう。
幸い、日本の文化は、「浮き世」の人生観を生み出すだけではなく、人間の深淵についての考察も深めてきた。痩せた宗教観だけが、日本人の宗教観ではない。深く豊かな宗教観、人間観もまた、さまざまな流れとなって現代にいたっている。
その一つに、浄土真宗がある。だが、すでに見てきたように、浄土真宗(東西本願寺)は、神道非宗教論の有力な提案者となり、近代の天皇制国家を支持、追随することにかけては人後に落ちない教団であった。
阿弥陀仏だけを信じるという教義は、もともと神々との共存を認める点においては、消極的であった。近代になって天皇崇拝が国是となったとき、浄土真宗は、神である天皇の崇拝を、阿弥陀仏至上主義とどのように折り合いをつけるかに苦労して、天皇を中心とする新しい神道は、宗教ではないから崇拝しても、教義とは矛盾しないという詭弁を作り出した。それは、一見、浄土真宗の教義を守る営みのように見えて、実際は、痩せた宗教観に陥る結果となった。しかし、浄土真宗には、このような痩せた宗教観に追随する人々ばかりではなく、信心中心の生き方を選んだ人々も、少数だが存在していた。
文字通り少数ではあったが、「俗諦」(天皇崇拝)にとらわれることなく、政治権力に対して独立独歩のスタンスを保ち、「真諦」(信心)を第一として生きた人々がいた。その人々は、痩せた宗教観ではなく、豊かな宗教観を維持して生涯を終わった。このように、少数者であっても、豊かな宗教観に生きた人々の、糸のように細い、しかし確実な伝統もあった。
近代において、「真諦」(信心)中心主義を明確に標榜したのは、|清沢満之《きよざわまんし》(一八六三―一九〇三)である。
清沢満之は、名古屋の貧乏士族の家に生まれたが、その才能を惜しんだ真宗の僧侶のすすめで東本願寺の奨学金を得て、教団の留学生として東京大学を卒業した。大学ではフェノロサから主にヘーゲル哲学を学び、大学院では宗教哲学を専攻して、やがて日本で最初の宗教哲学者となった。彼は、栄達の道を捨てて東本願寺の僧侶となり、教団の改革とその信仰の近代化に生涯をかけた。
その主張は「精神主義」として知られる。「精神」とは、伝統的な言葉でいえば、「信心」ということであろう。
彼の真骨頂は、ヨーロッパ発の近代の諸概念を駆使して、阿弥陀仏の救済原理に近代的表現を与えたことにある。
清沢満之の「精神主義」のキー・ワードの一つに、「無限・有限」がある。「有限」な人間が「無限」に憧れるのは当たり前であり、その「無限」の極致が阿弥陀仏だと彼は考える。人間は「有限」であるがゆえに、どうしても確実な立脚点がなければ生きてゆけない。そして、その最終的な立脚点こそが、「絶対無限者」、つまり阿弥陀仏だと清沢満之は主張した。
「絶対無限者」を立脚点とする以上、現世の生き方の基準は、あくまでも「絶対無限者」の意志に随順するかどうかに尽きるのであり、現実の道徳、とくに「天皇崇拝」の有無が基準となることはない。
現実の道徳的観点からいかに善人と絶賛されても、あるいは、よき「臣民」と賞賛されても、清沢満之からいわせれば、そうした評価は、「有限」な人生を生きる上での、「完全な立脚点」とはなりえない。所詮は、道徳的価値、ましてや「天皇崇拝」は、「有限」の世界の範囲にとどまるものである。
「有限」の世界に属するものをもって、人生の最終的立脚地とすることは不可能なのであり、どうしても「有限」を超えた、「無限」の世界に根拠をもつものに依拠するのでなくては、「有限」な人生を生ききることはできない。それが清沢満之の信念であった。
このような信念からすれば、「天皇崇拝」は、ほとんど価値をもたない。宗教を説くことがときに道徳を破壊することにつながっても、それはやむをえないとも、清沢満之はのべている。人生の究極的立脚点は、「有限」の世界に存在しているのではなく、「無限」の世界にしかないのである。
清沢満之は、この「精神主義」をもって近代の課題に答えようとしたが、結核に冒されて一九〇三年、四〇歳をまたずに死去した。日露戦争勃発の一年前であった。その早逝によって清沢満之は、「精神主義」をもって、巨大な国家悪に対決せざるをえないという、のっぴきならない状況に追い込まれる経験はもたなかった。「精神主義」は、まだ真白のハンケチにとどまっていた。
そのいわば無垢な信心主義のゆえに、結果的に、現実の天皇制国家と正面衝突をせざるをえなかった人物がいる。高木顕明(一八六四―一九一四)である。
高木顕明は、清沢満之よりも一歳下で、同じ愛知県の出身であった。高木は清沢の「精神主義」を、直接継承する人物ではなかった。清沢の経営した信仰共同体「浩々洞」の同人ではなかった。両者に面識があったかどうか、あるいは高木が清沢満之の主宰する雑誌『精神界』を読んでいたかどうかも、今の研究段階では分からない。
だが、両者の信仰には、明らかに通底するものがある。それは、真宗の教えに徹底することによって得られるものといってしまえばそれまでだが、近代という時代苦を直視する営みによって生まれた強靭な信仰だという点で共通性がある。
ところで、この高木顕明を知る人は、東本願寺の一部の人や「大逆事件」に関心をもっている人を除いて、まずいないといってもよいであろう。
彼は、泉恵機の最新の研究によれば、愛知県春日井市の菓子屋に生まれたが、真宗大谷派の経営する学校に入り、一七歳ころまでに真宗大谷派の僧侶となっていた。そして、春日井市の大地主が経営する和歌山の炭鉱へ出かけては、そこで働く炭鉱労働者に真宗を布教する仕事に携わっていた。それが縁となったのかどうかは不明だが、高木顕明は、やがて和歌山の新宮にあった寺院の住職になった。
彼が赴任した寺院には、被差別部落の門徒が多く、彼はその人たちの苦しい生活に深く共感して、その解放を己の使命とした。また、日露戦争に対しては、明確な非戦論を主張した。あるいは、強固な廃娼論者でもあった。
高木顕明が、このような姿勢を貫いたのは、ひとえに阿弥陀仏の心を己が心とするという、宗教的信念による。阿弥陀仏の慈悲は、悪人善人、貧富、男女、老若を超えて平等に注がれるものである以上、阿弥陀仏の信奉者は、現実の差別に無関心ではおれないし、その差別の克服に身を捧げることになるのは当然だと、彼は考える。
このような宗教的信念から、彼は同時代の社会主義の主張に共感した。彼によれば、社会主義は、阿弥陀仏への信心が展開したものにほかならない。仏の本質は慈悲にあるのであり、その慈悲を体得して実践する、それが阿弥陀仏を信じるものの務めだと高木顕明はいう。
当時の新宮の仏教界では、この高木顕明の主張を支持するものは皆無であった。わずかのクリスチャンや社会主義者との交流が彼を支えた。
その交流が、彼を「大逆事件」に巻き込んだ。「大逆事件」は、幸徳秋水ら二四名を天皇暗殺の容疑で逮捕し、一九一一年全員に死刑の判決を下した事件である。この事件の詳細は、すでに多くの研究で明らかにされているので省略するが、社会主義運動や無政府主義の主張におびえた、山県有朋ら当局者による大規模なデッチあげ事件であり、暗黒裁判であったことだけは、今日でははっきりしている。
私がこの事件に関心をもった理由は、この事件で逮捕されたもののなかに、明白な仏教徒が四名もいた、という事実にある。なぜ仏教徒が四名もいたのか。そのことについては、すでに前著『国家主義を超える』においてのべたので省略するが、仏教の教えに忠実であったものが、結果的に国家権力と正面衝突するに及んだという事実の重さに私は強く惹かれる。
高木顕明は、その熱心な阿弥陀仏への信仰のゆえに捕らわれ、死刑こそ免れたが無期懲役の苦しみのなかで、ついに秋田の監獄で縊死するに及んだ。高木顕明における宗教的信念は、決して個人の私事、内面にとどまるものではなかった。国家が設けた「内」と「外」という枠を超えて溢れ出るだけの、強いエネルギーをもっていた。それが、宗教的信念というもののあり方なのである。
しかし、この事件以後、宗教的信念は、国家のつくった枠組みから一歩も出ることができなくなった。宗教家は、国家による分断に甘んじ続けることになった。
清沢満之の「精神主義」も、その弟子|暁烏敏《あけがらすはや》らによって、変質を被り、単なる心の平安を得る私的な技術となりさがった。とくに暁烏敏の主張は、天皇制国家にひたすら追随するばかりで、師の清沢満之のいのちであった信心至上主義は、すがたをひそめて、戦争協力と時勢順応を鼓吹する醜い宗教に成り下がった。
そして、東本願寺教団は、高木顕明が死刑の判決を受けるやいなや、ただちにその僧籍を剥奪し、天皇制国家への忠誠をあらためて誓う醜態を演じた。この段階で、宗教の「内」「外」分断が決定的になっただけではなく、真宗の教義自身、「真諦」中心主義が、「俗諦」主義に破れるという悲劇を迎えることになったのである。
ただ、今年(一九九六年)、東本願寺教団が、高木顕明の名誉回復を公言するにいたったことは付け加えておきたい。おそまきながら、東本願寺では、信心中心主義が甦ってきたのである。
痩せた宗教観を回復する試みは、近代の歴史を全体的に見れば、ついに敗北に終わったというしかないだろう。とくに、「大逆事件」以後、石川啄木が嘆いたように、時代は閉塞状態となり、「内」と「外」の分断を超える「創唱宗教」の試みは、潰え去った。いや、こうした分断は、確実に効果を収めて、宗教とは「個人の私事」だという観念がゆきわたり、仏教にかぎっていっても、その慈悲の教えは、個人の思いやりのなかに跼蹐して終わることになった。時代を動かす組織や制度に食い入って、慈悲の精神を実現しようとする試みはついに生まれずに今日にいたっている。
豊かに展開できるはずの宗教観が、「大逆事件」によって完全に痩せた宗教観に固定されたのであり、いまもって、その固定に気づく人はきわめてわずかなのである。こうした痩せた宗教観のもとでは、「無宗教」のかかえている問題もまた、十分に自覚されることもない。
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第四章[#「第四章」はゴシック体] 日常主義と宗教
1 「サガ流し」
一九三七(昭和一二)年に、柳田国男は「平凡と非凡」という題で講演を行った。そのなかで柳田は、自分の学問の目的が「平凡人の歴史」を明らかにすることにあるとのべている。彼がなぜとくに「平凡人」に焦点をあわせて話をしたか、それはこの講演が第二高等学校の学生という当時のエリートを対象に行われたことと密接な関係がある。というのも、柳田は、現在に必要な歴史は「平凡人」の歴史であり、「非凡な人」の歴史ではないという信念があり、エリートで将来「非凡な人」になる可能性が高い若者たちにこそ、「平凡人」の歴史の重要性をはっきりと理解してもらいたいと願っていたからなのである。
柳田は、かねて日本の歴史が英雄や、名のある人物を中心に叙述されていること、あるいは、権力者や有力者の手によって保存されてきた文書類にもっぱら依存する記述に、強い疑問を投げかけてきた。というのも、そうした歴史では、日本人の大部分を占める民衆の姿はほとんど知ることができないからなのであり、前代の民衆の歴史が分からなければ、現代の民衆が当面している課題を解決することもまた難しくなるからにほかならない。
たとえば、今までの歴史書では、江戸時代の民衆は、いつでも一揆と天災、飢饉に悩まされ続けているかのように見えるが、果たしてそうであったのであろうか。民衆の平凡な日常が記述されていなかったにすぎないのではないか。事実、文書ではなく代々にわたって伝えられてきた口碑は、民衆の日常生活がどんなに喜怒哀楽に満ちたものであったかを十分に明らかにしてくれる。
我々にとって、源頼朝の行実を詳しく学ぶことよりも、自分たちの祖父母の生活を知ることが大切なのではないのか。あるいは、源平の戦乱を知るよりは、我々の生活がいつどのようにして今のようになったのかを知ることの方が、はるかに重要ではないのか。つまりは、「平凡人」の生活を中心とする歴史を明らかにすることこそが、目下の急務だと、柳田はかねがね考えていたのである。
この講演で柳田は、維新以後の近代的と称される教育が、伝来の暮らしや慣習をとかく無視しがちであり、それらを往々にして平凡だと軽蔑する傾向が強いが、はたしてそのような軽蔑、無視だけで我々の生活は豊かになるのであろうか、と問題を投げかけている。
たしかに伝統的な暮らしを支配してきた「平凡」を尊重する考え方には、いわばドングリの背比べを良しとしたり、また、出る杭は打たれるといった多くの問題点があることも、柳田は十分に認めている。だが、だからといって群の力によって尋常な生活を守ろうとしてきた営みのすべてを否定してみても、その営み自体を作り守ってきたのは自分たちなのだから、結局は猿の尻笑いに終わるだけで、決して未来を作ることにはならない。そこで大切なことは、こうした平凡を良しとする生活を、冷静にまた客観的に省みることであり、伝来の生活が蓄えてきた知恵を改良することだ、と柳田は主張する。
こうした内省の試みが不十分だと、たとえば、同じ村の若者に対しても、群を抜く少数者には、「よく勉強して早く偉い人になれ」と励まし、それが成功するとまるで学校の功績であるかのように教師たちが誇りにし、また郷土の誉れであるといった過度の賛美が行われるが、反対に、群に残る多数の人間には事を起こさぬように過度に干渉するといった矛盾がいつまでも続くことになる、とも指摘している。
この講演が行われてから六〇年が経過したが、柳田が批判した、「よく勉強して早く偉い人になれ」という、「平凡を軽蔑する教育」は、ますます力を得て、今や、人生の最初から「平凡」を良しとする人は、きわめて少なくなってしまった。だいたい、「平凡」という価値を大切にするムラ共同体も、今日ではすっかり壊れてしまい、多くの日本人は都会に住み、また地方に生活していても、都会の生活様式をなによりも肯定する、都会化から免れることが難しい状況となっている。
だが、柳田が注目した、日本人の伝統を支えてきた「平凡」志向は、それほど簡単には消滅はしていない。群から抜きんでるために、学習塾に血道をあげる父兄がいる一方で、日本の公教育は、相変わらず生徒の同質化に熱心である。学習塾に熱心な父兄といっても、彼ら自体は、従順な組織人である場合が少なくはないのだ。そして、学校の同質化が極端になると、イジメにあわないために、できるだけ目立たないように気を配り、また寡黙を守るのに熱心な生徒が生まれもする。セルフ・スタートを重視するよりも、人の動きを見てから他人に合わせて行動する生徒が後を絶たない。それは、柳田が批判した「平凡」重視の悪い面ではあるが、なにごとにつけても人並みを重視する傾向は、依然として現在の日本社会に一般的といえよう。
私の見るところ、本書のテーマである「無宗教」の傾向、つまり「創唱宗教」に共感を示さないとか、あるいは、とりたてて宗教を論じることには気が進まないといった宗教嫌いは、日本文化がはぐくんできた、この「平凡」志向と密接な関係があると考えられる。
この点、つまり「無宗教」を標榜して怪しまないという風潮と、「平凡」志向の結びつきを考える上で、大変興味深い事例が、柳田によって、この講演会で紹介されている。それが信州の天竜川筋でかつて行われていた「サガ流し」とよばれる行事なのである。
サガには、「性」、「相」という漢字が当てられており、「生まれつきの性質」を意味するが、さらに、「もって生まれた運命」とか、「良いところと悪いところ」、さらに、「善悪」といった意味に使われてきた(『日本国語大辞典』)。では、「サガ流し」とはどのような行事なのか、柳田の文章を紹介しよう。
[#この行1字下げ]村が問題を避け事件を嫌う傾向は、今とても決して珍しいものでないが、以前はそれにもう少し強い動機が加わっていた。信州の天竜川筋には、正月一五日の鳥追い・むぐらもち追い・眠流しなどと同列に、サガ流しという行事があった。サガは昔から善悪と文字にも書いて、とにかく問題になるということを意味している。村人は平穏無事を好むあまりに、かつては善いことですらもなお平凡ならざるものを欲しなかったかと思われる。(『定本 柳田国男集』第二四巻、四三九頁。表記を一部変えた)
柳田にとって、この行事は強い関心を呼んだものと見えて、別の著作のなかでもつぎのようにのべている。内容は同じであるが、あえて引用してみよう。
[#この行1字下げ]サガは古くから善悪の文字などが宛てられて、よかれ悪しかれ物議の種、今でいえば問題になる事件とでもいうべきもので、これらを概括的に村の人が嫌って、極度の無為を願望したものと思われる。それを特に正月の七日目に、水のほとりでまた正月の飾りものを流すことによって、なし遂げ得るものと信じたとしたら、その根拠は果たして何にあったろうか。(『年中行事覚書』、定本一三巻、九〇頁)
二つの文章では、サガ流しの行事が正月の七日と一五日という違いはあるが、重要なことは、村から日常生活を維持してゆく上で不都合なことを、善悪ともに特定の日に村から追放してしまうことができると信じていた点にあろう。こうした行事はもとは日本の各地にあったのであろうが、私が直接耳にしたのは沖縄の宮古島においてであった。
宮古島群島の|大神島《おおがみじま》では、悪口を盥に集めて、三叉路とか死者を送る特定の道筋に捨てるトウタミニガイという行事がある。そのとき、悪口が身に降りかからないようにすると同時に、ほめ言葉も度が過ぎると、羨望の気持ちを引き起こして、結局は、ねたみや憎しみに変わるから、それからも身を守るために唱えごとをするという。
悪口だけではなく、度をすぎたほめ言葉も流すという点は、サガ流しと同じである。
柳田国男は、サガ流しに関連して、村人にとっての理想は、「どこまでも十人並み、世間並み」ということにあったのであり、前代の村人たちにとって、「慣習の力」こそが信頼の源泉であったことを、理解しなければならないとのべている。
平凡が慣習の力によってのみ支えられることは私も認めるが、今の私にとっては、その平凡尊重が、かつては善行にも及んでいて、いくら善いことであっても、世間並みを超えるような善行は、村人から拒否されていたという点に、強い関心をもつ。
2 柳田国男の尋常志向
日本の民衆の人生観や心のありようを、民衆の心の襞に分け入って取り出そうと試みた柳田国男の業績には、たしかに、柳田国男個人の考え方や好みが反映している面もあろう。たとえば、宗教に関しては、とくに浄土真宗に対する極端な忌避の心情は、のちにもふれるがそれなりの理由があってのことだが、彼個人の生い立ちや宗教観が反映しているといってよいであろう。また、先祖崇拝をことさらに強調するのも、柳田国男の個人的志向が反映している点もあろう。だが、民衆の精神世界に対する強い共感があればこそ、あれだけの膨大な実証的な考察も生まれたのであり、柳田国男の考察には、民衆の心が忠実に反映している場合が圧倒的に多いといっても間違いではない。
このようなことをわざわざいうのは、柳田国男の文章のなかには、先に紹介した日本の民衆の「平凡」志向が己のこととして随所に、しかも、印象深く記されているからである。つまり、柳田は、日本の民衆の心に深く根ざした「平凡」志向に、深く共鳴するところがあったのである。
その典型が『山の人生』にのべられているつぎのような一節である。
[#この行1字下げ]信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強いて日月星辰というがごとき壮麗にして物遠いところには心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、もっとも平凡なる不安を避けようとしていた結果、つとに祭りを申しつつしみ仕えたのは、主として山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである。(『定本 柳田国男集』第四巻、一七一頁。表記を一部変えた)
日本人の求める神々は、壮麗な教会や神殿を必要とはせず、暮らしに密着した神々であったというのだが、大切なことは、そのような神観念が生じるもとには、日本人の理想が「四季朝夕の尋常の幸福」にあったということなのである。「四季朝夕の尋常の幸福」、つまり今までのいい方でいえば、「平凡」の追求は、神々をも日常の暮らしのなかにとどまる存在に限定して、キリスト教や浄土真宗が説くような、強い超越性をもつ神や仏を、必要とはしなかったというのである。「平凡」志向は、宗教においても「平凡」を求めたのである。
面白いことに、引用した柳田国男の一文は、その後の柳田国男の著書『農村家族制度と慣習』のなかでそっくりそのまま、繰り返して使用されていることである(『定本 柳田国男集』第一五巻、三六一頁参照)。『山の人生』は、一九二五(大正一四)年に発表され、『農村家族制度と慣習』は、一九二七(昭和二)年から一九二八(昭和三)年にかけて執筆されている。まったく同じ文章を書くということは、柳田国男にあっては珍しいことだから、この一文は、それだけ彼の本心をよく吐露しているといってもよいであろう。
ことほどさように、柳田国男は日常平凡な尋常の暮らしを尊重したのであるが、それは同時に、日本の民衆の心の反映なのでもある。
柳田国男の尊重した神々が、「平凡」な暮らしに密着した「平凡」な神々であったことを、さらにくわしくのべたものに、「サン・セバスチャン」というエッセイがある。これは『孤猿随筆』に収められており、なかなか読みにくい文章ではあるが、柳田の「創唱宗教」嫌いがよく示されている。
エッセイの核心は、西洋でサン・セバスチャンという殉教者の絵画が好まれており、各地の美術館などによく展示されているが、そのわけはどこにあるのか、と問うところにある。
問題の絵画は、若い男性が樹木などに裸体で縛られた上に、腕や胸、腹に矢が刺さっており、そこから血が流れているというものである。柳田国男は、西洋人はどうしてこのような残酷な図柄が好きなのか、と問う。そして、矢が刺さり流血にいたっても、それを苦にしない忘我の境地に対する賛美が、そこには描かれているのではないかと推測する。
だが、柳田は、絵画のモチーフが肉体的苦痛にもめげない忘我の境地にあるとすれば、それは宗教の宣伝、具体的にはキリスト教の布教のためには有効かもしれないが、自分のような「静かに人生を味わいたいと考える」ものには、そのような境地がむしろ有害だということを、この絵画は教えているのだ、と答えているのである。
柳田によれば、宗教は尊いものではあるが、「四季朝夕の尋常の幸福」を抑圧するようなものならば、そのような宗教からは遠ざかる方がよい、というのである。ここには、宗教といえども日常の「平凡」な暮らしを妨げるものであってはならないという確固とした信念、あるいは、宗教観があるということだ。
こうした宗教観がもっとはっきりするのは、日本の念仏を二つに分類する柳田の視点であろう。彼によれば、日本人に親しい念仏も、詳しく見ると二つのタイプに分かれるという。第一は、死者の鎮魂慰霊のための念仏であり、もう一つは法然がはじめた専修念仏である。
死者のタマシイを鎮め、それを慰めるために唱えられる念仏は、日本に仏教が伝わってから比較的早い時期にすでにはじまっており、たとえば、一〇世紀の半ばに醍醐天皇が死去したとき、遺体が送られる道筋に念仏僧が配置されて念仏が手向けられ、また、遺体を収めた山陵には、その後も念仏を唱えるために沙弥が置かれたという。この時以来、貴族たちの葬送に念仏が用いられるようになったが、同じころ、空也上人が都の各所に放置された遺骸をあつめて火葬に付し、その鎮魂慰霊のために、「踊り念仏」を興行したこともよく知られている。
その後、いわゆる葬式仏教が普及して、念仏といえば、死者の慰霊のための呪言だということが一般にはひろまった。村々では、葬儀のときや死者の追善供養のために、念仏講とよばれるグループが「ご詠歌」や念仏を、もの悲しいメロディーにのせて手向けるのも、近年まではよく見られた風景であった。
柳田が評価するのは、もっぱらこの鎮魂慰霊の念仏である。というのも、日本人はこの念仏を知ることによってはじめて、死者をいたずらに恐怖する生活から解放され、供養すれば死者も恐れる必要がないということを、学ぶことになったからなのである。
死者に対する恐怖心からの解放ということについては、一言説明をしておく必要があろう。古代の日本人は仏教をうけいれるまでは、死後の世界について、明白な見通しをもってはいなかった。死は恐ろしいものであり、死者は多くの場合、現世に生きているものに祟りを及ぼす恐ろしいものと考えられていた。
さきにふれたように、仏教はもともとは死者祭祀となんらかかわりをもたない宗教であり、もっぱら自己の解脱をめざす宗教であったが、中国に入ってから、「孝」という考え方の影響を受けて、仏に対する供養を死者にも適用して、死者の安楽を願う風が広まった。また、阿弥陀仏の極楽浄土は、死者の行く国として信仰を集めるようになっていった。
いわば死者のあつかいに窮していた古代日本人にとって、こうした中国経由の仏教がもつ、死者祭祀の儀礼や死後の国のイメージは魅力的であり、仏教は、なによりもまず、死者の鎮魂慰霊の呪術、あるいは、死後の世界を保証する教えとして、普及することになったのである。
こうした意味で、仏教の鎮魂慰霊の技術、とくに念仏は、人々の日常生活の安定に大きく寄与したのであり、柳田国男が評価するのも、この点にほかならなかった。
だが、法然によってはじめられた「専修念仏」は、同じ念仏であっても、自己の救済を実現するものであり、死者の鎮魂慰霊を目的とするものではなかった。阿弥陀仏という仏が、わが名を唱えるものはいかなる人間であっても自分の浄土に招いて仏にするという、人間に対して結んだいわば契約を信じて念仏するのが、法然の念仏であり、そのほかの一切の救済手段を拒んで、ひたすら阿弥陀仏の約束に基づく念仏をもっぱら唱えるために、「専修」と呼ばれたのである。
柳田国男によると、それまでの念仏が死者という他者のための念仏であったのに比べると、法然とその門流の念仏は、自己の救済を第一とする点で、「自家用の念仏」というのがふさわしいと考えられた。柳田国男にいわせると、村にかかわる死者のすべてを鎮め慰めることによって、村の日常生活の安定を祈願するのが、村人のありようとしては理想的なのであり、自己一身の救済を第一に願うことは、いわばわがままな願いにほかならなかった。
加えて、「自家用の念仏」では、死者は阿弥陀仏の力によって仏になるのであるから、残された子孫や関係者が、死者のためになんらかの働きかけをすることは、まったく必要がないことになり、結果的に、盆や正月の魂迎えをはじめ、村々の生活のリズムをつくってきた年中行事や民間信仰に、冷淡とならざるをえなかった。いわば、「自然宗教」を紐帯とする村の結束を、「専修念仏」は破壊することになる。それはひいては、村の尋常で平凡な生活の破壊につながるのではないか、と柳田国男は案じたのである。
この柳田の「自家用の念仏」に対する非難、つまり、「自家用の念仏」は村の秩序や結束を乱したのではないかという非難が、歴史的にあたっているかどうかは検討を要する。というのも、本願寺教団が蓮如の指導の下で飛躍的に強大化して、「自家用の念仏」が日本各地で広がった戦国時代を思い浮かべてみても、「自家用の念仏」の普及は、あくまでも村単位で行われたからである。
そこでは、村の秩序や結束を、特定の個人がそこねるという分派行動があったのではない。「自家用の念仏」は、村々が中世の動乱を経て自ら新たに必要とすることになった、新しい村落共同体の結束にふさわしいものとして、村人たちによって村をあげて受容されたのである。そして、村々は、「自家用の念仏」を中心に、それまでの村の日常生活を支えていた生活のリズムを新たに再編成することに成功した。たとえば、本願寺教団の門徒たちにとってもっとも重要な「報恩講」(親鸞の忌日を記念する集団行事)も、それまでの年中行事であった秋の収穫祭の変形なのである。
このように、「自家用」といっても、今日の常識でいう、集団から切り離された「個人」の営みをただちに指すものではなかった。この点からいっても、柳田国男の「自家用の念仏」への懸念は、歴史的事実というよりも、柳田個人の浄土真宗嫌いに原因があるという方があたっているであろう。
それはともかく、いささか回り道になったが、柳田国男が死者の鎮魂慰霊の念仏を評価し、「自家用の念仏」を非難した真意は、宗教といえども、共同体の秩序を破壊するものは是認できないということであり、日常生活の維持を第一とする「平凡」が徹底して求められたということである。そして、その心情は、柳田個人を超えた、日本人にひろく見られるものなのであった。
3 「悪」はどうする
平凡や尋常な生活を尊重するといっても、現実生活では、ときに猛烈な悪行に襲われてその被害者になることもないとはいえないし、長い人生では、どのような非日常的なできごとに巻き込まれるかも分からない。こうした異常時に直面したとき、日本人はその不幸、不条理をどのように納得しようとしてきたのか。結論をいっておくと、その納得の仕方にも、「平凡」志向があるのであり、そのことがまた、「創唱宗教」に対して無関心となる「無宗教」の背景となっている。
不幸や不条理を日本人がどのように納得してきたか、そのヒントになるものが、やはり柳田国男のエッセイのなかにある。それは、彼の自叙伝ともいうべき『故郷七十年』におさめられている、田山花袋の小説『重右衛門の最後』について記した短文の感想である。
田山花袋は柳田国男の若い頃からの友人であり、柳田は田山にしばしば小説のタネを提供してやっていたともいう。柳田は田山らが属していた自然主義の文学には好意はもっておらず、田山の作品についても、ほとんど否定的であったが、ただ一つ『重右衛門の最後』については、晩年にいたるまで高い評価を与え続けた。もっとも、この作品のどの部分がどのような理由で優れているのかは記されていないから、柳田の高い評価を知るためには、この作品自体を熟読するしかない。
『重右衛門の最後』が発表されたのは、一九〇二(明治三五)年。そのあらすじはつぎの通りである。
東京生まれの青年が信州の友人をたずねる。青年が友人の村にはいると、村人総出の消火訓練にでくわす。このところ毎夜のように、放火がつづいているというのだ。だが、奇妙なことにすでにその犯人は分かっているという。その名は藤田重右衛門。そして火をつけてまわっているのは、彼の娘とも妻ともつかない小娘なのである。
重右衛門は生まれつき脱腸を患っており、小さいときから睾丸が大きくなって走ることもままならず、たえずいじめられて大きくなった。その上、両親の愛情にうすく、祖父母の溺愛のなかで育った。祖父が死ぬと、彼は我が身の不具を両親のせいだとして彼らをはげしく呪い、あげくのはては、彼らを家から追い出して、自分は放蕩の生活に入った。
家が抵当にとられると、それが悔しいといって、家々に放火するようになり、六年間獄につながれた。出所後、賭博現行犯でつかまり、再び獄中生活を送る。やがて、村に戻ってきた重右衛門は、手当たり次第に、家々に米を貸せと押し入り、村人もその巨体におそれをなして彼の言いなりになり、彼は好き放題の暮らしを手にするようになったのである。
あるとき、ふとしたことから重右衛門は、村人に反感を示して「何だ、この重右衛門一人、村で養ってゆけぬというのか。そんなけちくさい村だら片端から焼き払ってしまえ」と豪語して、いつのまにか同棲するようになった小娘を使って、放火をはじめるようになった。
村人は重右衛門が犯人であることは分かっているのだが、彼が実際に火をつけるのではないのでつかまえることもできず、かといって、実行犯の小娘は、おそろしく身が軽くてこれまたつかまえられずにいる。重右衛門は、火事に襲われた家に必ずあらわれて見舞い酒をたらふく飲んで帰る。村人の怒りは頂点に達して、あるとき、泥酔していた重右衛門を池に投げこんで溺死させた。
長野から検事や警察がくるが捜査は進展せず、重右衛門の遺体は小娘に引き渡される。彼女は、ただ一人その死骸を背負って小高い丘にのぼり、荼毘に付した。これで一件落着と村人たちが深い眠りに落ちたその夜、全村が火の海と化した。翌朝、灰燼のなかから、半焼けの小娘の死体が発見された。
青年は、池に浮かぶ重右衛門の遺体を前にして、いい知れない同情をいだく。というのも、青年は、彼の死に、人間の「自然」と「社会」のぶつかり合い、それに彼の「自然」の挫折を見たからであり、その挫折に熱い涙を注ぐことになる。
青年によれば、人間にとっての善とか幸福といっても、最終的にはその人間に備わっている「自然」を、そのままに生きるということに尽きる。もちろん、それでは相互に混乱が生じるから、一種の約束事が必要にはなる。だが、それはあくまでも次善の策でしかない。その次善の策の集積が「社会」なのだ。青年の言葉でいえば「歴史習慣」ということになる。
「社会」は人間にいわば第二の「自然」を強制し、人もそれに従おうとするが、時には本来の「自然」が「社会」の約束事をこえて発露することもある。「社会」は、その発露を「悪」と決めつけるが、問題はそのような決めつけだけで終わるのであろうか。
青年は、およそつぎのようにのべる。「六千年来の歴史、習慣」は、人間の荒々しい「自然」をよく改変して第二の「自然」、つまり社会の約束や慣習を作るのに成功してきた。人間は、社会の掟や習慣に従うことに何の疑問ももたない。しかし、重右衛門のような暴発が生じるということ自体、第二の「自然」、つまり社会の約束や慣習が不完全である証拠であろう。
人間の「自然」は、決して「六千年来の歴史、習慣」に屈服したのではない。いなむしろ、人間の「浅薄なる智と、薄弱なる意とを以て、いかなるところにまで自然を改良し得たりとするか」、まさにこの一点を思い知らしたのが、重右衛門の死なのではないか。その死は決して犬死なのではない。
[#この行1字下げ]「敗績して死ぬ! これは自然児の悲しい運命であるかもしれぬ。けれどこの敗績はあたかも武士の戦場に死するがごとく、無限の生命を有してはおるまいか、無限の悲壮を顕わしてはおるまいか、この人生に無限の反省を請求してはおるまいか」、自分は深く思い入った。しばらくしてから、「けれど、この自然児! このあわれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要をもって生まれ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分とのために尽くしておるのだ! 葬る人もなく、獣のように死んでしまっても、それでも重右衛門の一生は|徒爾《いたずら》ではない!」と心に叫んだ。
加えて重右衛門を溺死させるにいたった村人に対しても、青年は、それもまた、人間の「自然」だと考える。
[#この行1字下げ]けれど重右衛門に対する村人の最後の手段、これとて人間のいわゆる不正、不徳、進んでは罪悪と称すべきもののなかに加えられぬ心地するは、果たしてなにゆえであろうか。自然……これも村人の心底から露骨にあらわれた自然の発展だからではあるまいか。
この事件があって七年後、青年は、重右衛門とその少女の墓が村の寺のなかにつくられたこと、その墓に村人の香華が絶えぬことを聞かされて、「諸君、自然はついに自然に帰った!」と叫ぶ。これがこの小説の結びなのである。
柳田国男が、『重右衛門の最後』をどのように評価したのかは、さきに紹介したように、その直接の論評はない。だが、私の見るところつぎのようにいえるのではないだろうか。
一つは、人間の作り出す悪業は、それが個人のものであれ、集団のものであれ、結局は人間の「自然」、もっといえば「大自然」に属するものだという考え方である。もともと柳田には、人間の営みのすべてを、「大自然」の景観と見なす視点が顕著に見られる。それは、あたかも博物学者や生物学者が人間を自然の一部として扱うのにも似ている。そうした視点は、『海南小記』をはじめとする紀行文に、もっともよくあらわれている。その紀行文の行間には、人間に対する暖かい思いやりと同時に、人間の暮らしを地理の襞にはめこむという、遠望のきいた観察者の眼がゆきわたっている。
それは、現実の暮らしの喜怒哀楽を一切捨象して、人間を地球上の一生物として淡々と記録する眼であり、そこでは、人間の善悪は、その大小にかかわらず、そのまま肯定されてもいるのだ。
このような冷徹な眼は、善悪の問題のほかにも、精神や肉体の上で障害をもたざるをえない人々に対しても一貫して注がれている。たとえば、『山の人生』にはつぎのような一文がある。
[#この行1字下げ]昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、実は本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にして且つ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。(『定本 柳田国男集』第四巻、八六頁。表記を一部変えた)
あるいは『不幸なる芸術』では、つぎのようにもいう。
[#この行1字下げ]北陸処々の海岸地方では、村の白痴を大事にする風習が近い頃まであった……つまりは人間はそう無意味に、馬鹿になるものでないように思っていたのである。(『定本 柳田国男集』第七巻、二七七頁。表記を一部変えた)
あるいは、『山村生活の研究』のなかでは、山村生活調査項目に、わざわざ「異常人物」という一項が設けられていることはよく知られている。精神的に、あるいは肉体的に、いかに尋常ではなくともそれには必ずわけがある、とする柳田国男の考えが、そこにはうかがわれるのだが、そうした視点や考え方は、柳田国男個人のものというよりは、「日本人」のものともいえるのではないか。
日常生活をゆるがす善悪や、いわゆる正常や異常といった現象も、いつのまにやら「大自然」の景観のなかに溶け込み、消滅してゆくものだという思いが、「日本人」には親しい感慨であった。また今もそうだといえよう。
本居宣長は、人間世界に吹き荒れる悪業や不条理も、マガツヒノカミという悪神のしわざであり、その神が荒れ狂うときには、善神といえども手をこまねくしかない、とのべている。つまり人間世界の深淵をのぞきこんで、その克服に思いをいたすよりは、悪業や不条理に襲われたときには、ひたすらそれがおさまるまでじっと待つしかない、というのが大方の日本人の感慨なのである。悪業や不条理は、じっと待っておれば、過ぎ去るものだという楽観論こそ、平凡を第一義とする人生観の帰結といえよう。
かつて、中世という時代では、柳田国男や田山花袋が「自然」とよんだ人間のいわば本性は、「業」として自覚されていた。悪を単に「自然」と「社会」の軋轢、葛藤の産物と見るのではなく、人間の「自然」には、底知れない「業」が内包されていると実感できるだけの、鋭く深い感受性が、時代の精神となっていた。それゆえにこそ、法然や親鸞の宗教が誕生したのである。そこでは、悪や不条理は、漁師が嵐の過ぎ去るのをじっと待つようなものではなく、それとともに生き続けなければならない、人生と不可分のものだという実感があったのである。
平凡至上主義の人生観は、こうした悪の認識と切り離されたところで生まれた歴史的産物にほかならないことも、忘れてはならないであろう。
4 「平衡化」
悪はもちろん善であっても、村の日常生活をおびやかすおそれがあるものは、すべて時を定めて村外に流してしまうという感覚は、果たしてどのような心理に支えられているのであろうか。
その有力な手がかりの一つに、きだみのるの『気違い部落周游紀行』や『にっぽん部落』がある。きだの本名は、山田吉彦で一九七五年、八〇歳で亡くなった。ファーブルの『昆虫記』の翻訳やデュルケームなど、フランスの思想家を紹介する一方、パリ大学で社会学を学び、敗戦後は東京の西端にある小さな部落に住みついて、日本のムラについてのユニークな観察を続け、一連の『部落』ものを世に問うた。
『気違い部落周游紀行』は、一九四八年に刊行され、毎日出版文化賞を受けた。『にっぽん部落』は、一九六七年に岩波新書として出版されたが、内容は彼が住み着いた部落を素材にして、部落、つまりムラとはどのような集団であるのかをあざやかに浮かび上がらせている。
いずれも、三〇年以上も前の記録であって、今日の日本人の精神を問題にするには、いささか古いというそしりを免れないかもしれないが、実際はそうではない。
たしかに、きだが対象とした部落、ムラは、一九六〇年代の高度経済成長によって多くは滅びてしまったが、ムラを支配していた心理やものの考え方は、現在でも依然として、会社をはじめとするさまざまな組織のなかで生き続けている。
話を明確にするために、村と部落、ないしはムラとの違いを紹介しておこう。村は、行政のためにつくられた区分であり、部落は、昔から人々がひとまとまりとなって暮らしてきた生活の単位である。ほかの言葉でいえば、自然村が部落である。自然村、つまり部落には、固有の掟や保有地があり、部落の人々は、自分たちの生活集団をムラというが、ムラは行政のための村(ソン)とは区別されている。
明治のはじめには、こうしたムラが七万ほど存在していたという。きだが観察したのは、このムラなのである。再度いえば、ムラは、日本人が暮らして行く上でのもっとも基礎的な生活単位なのであった。
きだによると、部落(ムラ)にとってもっとも大切なことは、「なにごとにつけても一つにまとまる」(『にっぽん部落』)という点にある。だが、人間のことである。一つにまとまるといっても、いつでも意見が同じだということはありえない。したがって、意見や気持ちが異なるときにも、ムラを割るようなことがないように、さまざまな知恵や工夫がこらされることになる。つまり、ムラという集団の維持を第一にしながら、しかも個人の考えや感情を抑圧しすぎないような生活の知恵が発達している集団、それがムラだといってもよいだろう。
その知恵の一つに、きだのいう感情の「平衡化」がある。「平衡化」とはむつかしい言葉だが、要するにバランスをとるということだ。きだは、つぎのような例をあげて説明している。
部落のある人が何かで金をもうけて家族のために、白米を一俵も買ってきたとする。ほかのムラ人は、その人と喜びをともにするよりも、彼の手にした金が闇でもうけたものだとか、悪銭身につかずで、そんな金はすぐなくなるといって、かえってケチをつける。
あるいは、部落の誰かの父親が死んだとき、弔問にきたムラの人々は、形式的に悔やみはいうが、この家もいいことが続きすぎたから何かあると思っていたとか、人間いいことばかりは続かない、と陰口をたたく。
また、ある家の食べ物について、あそこじゃ食うものがなくて、いつもカボチャばかりだ、だから子供もまるで元気がない、と悪口をいうが、その当人自身もイモばかり食っている。
きだがいいたいことは、部落では、平等化が徹底しているということだ。単に物質について平等を要求するだけではなく、感情の面においても平等を求めているのである。他人の悲しみや不幸を喜び、他人の幸福にケチをつけることで、感情の平衡、つまりバランスをたもっているのだ。
物を平等に分配することに部落の人々がどんなに工夫をこらしているか、について、きだはつぎのように記している。
部落共有の雑木林を切って参加者に分配するとき、立木は枝と幹に分けて、幹も木の種類によって分類し、さらに火力がある木とそうでない木が区別される。それらが参加者分だけの束にしつらえられ、どの木も平等に加えられ、さらに目方をはかって同じにする。それでも、太い部分や燃えやすい木があるかないかの違いがあるから、最後はくじ引きできめる。
こうした平等を徹底するやりかたは、人間には自分の欲ばかりを主張する一面があるということを、部落の人が熟知しているからこそ、生まれたともいえるし、部落に暮らしている人々は、人間関係がいやになったからといって、部落から出て行くことは、ほとんど不可能だという事情が、よく分かっていることにもよろう。ムラとしてのまとまりがないと生きてゆけない以上、お互いに不満のタネが残らないように、人智のかぎりを尽くすということになる。
部落という集団を守るために、物質的平等を期する一方、感情の面でも、ムラ人それぞれの気持ちが極端に偏ることがないように工夫する。そうした「平衡化」、あるいは「平等化」が、サガ流しという行事を支えていたといえるであろう。
このような部落の人々の心理においては、個人の突出した考え方は、それがどんなに魅力的で優れたものであっても、本格的に受け入れられることはない。きだがあげている、人気があった寺の和尚が、その人気のゆえにムラから追放された話は、その好例ではなかろうか。
部落の寺で三代前に住職をしていた大観という和尚は、早朝の読経もかかさず、まことに部落の評判がよかった。とりわけこの和尚は、人間の生き方として、自分の性にあったことをするのが一番で、他人の無理な物まねはいけない、お互いに自分の性にあった生き方をしてゆけば必ず安心が得られるであろう、とムラ人に説いて聞かせていた。
この和尚は、博打が好きで貧乏寺を維持してゆくためにチョボイチを開き、また、若い者を連れて町に出かけて酒を飲ませ、ときに性のはけ口を求めさせたりもした。それを非難されたときも、和尚は人間にとって、性に従うのが唯一無二の善なのだ、と持説を繰り返したという。
大観和尚の考えは、世間で一般にいう善についての考え方と違っており、まさしく宗教的といってもよいであろう。つまり、宗教とは、とくに仏教においては世俗の生き方をどこかで断ち切る面があるからだ。和尚がそうした世俗と異なる宗教の世界を十分に説明したかどうかは、いささか心もとない。しかし、和尚の魅力は、明らかに普通の人の考え方と異なる点にあった。だが、それも、ムラを一つにまとめるために工夫されている、自発的な自己抑制のしきたりを破壊しそうだと見なされたとき、追放の憂き目を見ることになったのである。
悪はもちろん、善でも、大きすぎる善はムラに風波を立てるおそれがあるとして、ムラから追放されるような風土では、宗教も、ムラを割らない範囲でしか認められないということになるのも当然であろう。もっと積極的にいえば、日本人の宗教は、大方は、ムラを維持してゆくためのものであったということになる。
繰り返していえば、日本のムラにおいて、ムラを危うくするおそれのある考え方は、ムラには受け入れられなかったということは、まぎれもない事実であった。その事実の延長線上に、今日の日本人の多くも生きているのであり、その表現の一つが「無宗教」なのである。その「無宗教」を標榜してあやしまない精神の源を、さらに視点を変えて見てみよう。
5 日常主義
ムラの「和」や、まとまりを、なによりも第一とする考え方は、別のいい方をすれば、ムラの日常生活をなによりも尊重するということであろう。「和」やまとまりによって、日常生活の平穏が保証されるからこそ、「和」やまとまりが求められるのである。
さきに物質上の「平等化」や感情の「平衡化」というムラ社会の原理を紹介したが、それらも、日常生活の平穏を維持してゆくための手段であったといえる。こうした日常の平穏を第一とする考え方は、あらゆることがらを日常生活の便に合わせるという生き方を生み出してくる。万やむをえないときには、日常生活を犠牲にすることがあっても、それは最小限度にとどめておきたいという判断が、はたらくようになる。私は、このような日常生活をなによりも尊重する考え方を、日常主義と名付けておきたい。
もちろん、このような日常主義は、ムラの生活にゆとりができてから力をもつようになった考え方であることは、いうまでもない。それは、近世に入って近畿地方などの先進地域から一般化してきた現象といえる。
柳田国男が『日本の祭』のなかで紹介した、日本の祭りの変化もまた、この日常主義のあらわれなのである。日常主義は、近世以降、宗教という、本来ならば日常生活をなげうって没入しなければならない領域にまで浸透しはじめ、中世以来の神観念や祭りのあり方に著しい変化をもたらすことになった。柳田国男の『日本の祭』は、その意味で日本における「自然宗教」あるいは神道の「世俗化」を分析した論述ともいえる。
「世俗化」とは、私のいい方でいえば、宗教が日常主義に屈服してゆく過程ということができる。「無宗教」という精神は、この「世俗化」とも密接な関係がある。「宗教」が日常の考え方の枠内にとどまってゆく傾向こそ、「無宗教」の土壌なのである。とりたてて、「宗教」、「宗教」といわなくとも、日常の営みが充足できるからこそ、「無宗教」を標榜して怪しまないのである。
さて、『日本の祭』にのべられている、近世にはいってからの日本の祭りの変化には、三つのポイントがあるといってよいだろう。第一は、いわゆる氏子以外の見物人が祭りに参加しはじめたこと、第二は氏子自身の宗教心の変化であり、第三が神主を職業とする人々が出現したこと、この三つである。
第一の点についていえば、さらに二つのことが注目される。一つは、氏子以外の見物人が押し掛けるようになった結果、祭りが「祭礼」となったことであり、二つ目は、外部からの参加者のために「賽銭箱」が神社に登場したことである。神祭りは、神となんらかのつながりがある特定の人々によって執り行われるのが本来のすがたである。今でも、沖縄の島々で行われる数多くの祭りは、その土地に生まれ育った人々だけで行われるのが普通であり、血縁や地縁のない人間の参加はしばしば拒否される。
余談になるが、昨年(一九九五年)沖縄の宮古島の「ユークイ」という祭りを学生とともに調査にでかけたが、この祭りは土地の人間だけの祭りで、土地に関係のない人が来るのは困ると、ものの見事に断られた。こうした経験は、一九八四年に宮古島をはじめて訪れたときにも経験しており(詳しくは拙著『宗教の深層』を参照)、その後も再三祭りを見ることを拒否されてきたので、私は驚きはしなかったが、あらためて沖縄では、今も祭りが健在なのだと安心もした。この点、本土の祭りはほとんどが「祭礼」化しており、今風にいえばイベント化してしまって、見物人や研究者という外部の人間と祭りの主人公たちとの間に緊張関係はもはやない。
このように、祭りが「祭礼」化したことで、祭りの時間にも変化が生じてくる。祭りは、もと、夕方からはじまり、夜明けに終わるのが常であった。いや、もともと近代以前の時間は、日没からはじまり日没に終わるものなのであった。朝、目覚まし時計とともにはじまるような一日の感覚は、近代になってから生まれた、歴史の浅いものなのである。
見物人が多数押し掛け、華やかな山車などが出ることになれば、祭りの時間も夜から昼間へと変わらざるをえない。こうして、祭りといっても、昼間に行われるものが増えるが、柳田国男によれば、それらは本来ならば「祭礼」というべきものなのである。もっとも、いくら「祭礼」になっても、夜中、限られた氏子だけで神をまつるところも少なくはない。祭りのもとの意味は、必ずしも失われたわけではないのだ。
賽銭箱といえば、神社のみならず寺院でもおいてあるところが少なくない。柳田国男によれば、この賽銭箱の登場こそ、日本の祭りの歴史のなかで、もっとも大きな変化のあらわれということになる。
柳田国男の考証は、賽銭という漢字の輸入語を使用する以前には、「ヌサ」という言葉が使われていたことからはじまる。「ヌサ」は美しい布帛のことで、中世では財貨としても用いられていた。その「ヌサ」を、氏子が旅などで、氏神ではないよその神社を通過するとき、その神に崇敬の気持ちをあらわすために手向けた。それが幣帛ではなくなって銭になったのが、賽銭のおこりである。
柳田国男によると、もともと日本人には、二種類の神があったという。一つは、昔から先祖代々祭ってきた、よく慣れ親しんだ神であり、もう一つが旅でもしない限り行き会うこともなかった見知らぬ神である。よく慣れ親しんでいる神には、決められた祭日以外に敬意をあらわすために供え物をあげる必要はないが、見知らぬ神には、見知らぬ故に、いっそう敬意を表する必要があり、それが賽銭という行為を生み出したというのである。
加えて、氏神に対しては共同の祈願をするのが常であったのに、賽銭をあげて拝む神に対しては、今まで思いもよらなかった個人の祈願をかけるようになる。柳田の表現を借りていえば、「神を試みる」という現象がはじまり、また「信仰の個人化」が勢いを得るようになってきたのである。
共同の祈願と個人の祈願との違いについて、いささか注釈をつけておくと、村の祭りでは、村全体の幸福が祈願されるのが常であり、個人の願いを祈ることはなかった。毎年四月に行われる出雲の美保神社の|青柴垣《あおふしがき》神事は、祭りの責任者に選ばれた|頭屋《とうや》神主とよばれる者が、あしかけ三年にわたるきびしい精進潔斎の日々を送ることで有名だが、その頭屋神主が祭りにおいて祈願することは、村全体の豊漁や豊作、安全、幸福であり、決して一身上の願い事ではない。
かりに氏子のなかで一身上のことを祈願するものがあらわれたときには、頭屋神主に、村祭りとは別に特別の参拝方式を依頼して行うという。しかし、それはあくまでも、公式の祭りとは異なるものと考えられている。
一九六〇年代の後半に、託宣をともなう出雲の神楽を取材したことがあったが、神懸かりした託太夫とよばれる人物が告げた内容も、村全体にかかわる災害の有無や、作柄の出来不出来であって、特定の個人に関する託宣はなかった。
もとへもどっていえば、要するに賽銭箱を設置するようになってから、日本人は神々に対して、個人の祈願をするようになったということであろう。共同の祈願から個人本位の祈願へという変化を象徴するものが、賽銭箱なのであった。
このような祈願の個人化は、お百度参りといった風習を生みだし、また、いつ神社に出かけても神々が常にいますかのような神観念を一般化させることにもなった。そして、参拝ということも、もとは祭りの庭で長時間神に伺候していることであったのに、一回限りの拝礼でこと足りるように考えられるようにもなった。このような信仰の個人化は、氏子自身の宗教心の変化の一例であるが、ほかにも、祭りにかかせぬ忌みこもりの衰弱も重要な変化としてあげられる。
さきに青柴垣神事にふれたが、伝統的な神祭りにおいては、厳重な忌みこもりこそ祭りの本体をなしていて、祭りに参加する者は、いずれもさまざまな禁忌を長期にわたって守ってきたのである。食べ物を制限し、毎日夏冬を問わず早朝に海水をあびたり、旅行や会合、夫婦の交わりを断ち、文字通り心身を神に仕えるのにふさわしいようにつくりかえる努力をした後に、はじめて神祭りを執行したのである。
このような忌みこもり、俗にいう精進潔斎は、しかしまた違反が生じやすくもあったために、その違反を解除するために、祓いという手だてが工夫されてもいた。祓いの代表はミソギであり、海川で|垢離《こり》をとって身を清めた。その祓いもまた簡略化されるようになった。それが、神社の入り口にある「手水鉢」である。
本来ならば、海水や川の水をもって身体を清めないと神に近づけなかった。それが神社の入口にある手水鉢で口を漱ぎ、手を洗うことで十分だとされたのは、大きな変化といえよう。氏子側からいうと、平常の生活をほとんど維持したまま、神に近づくことができるようになったのである。
伊勢神宮など有名大社は別にして神社に神主、神官という職業宗教家が常駐するようになったのは、新しい現象である。今でも神主がいないか、祭りのときだけほかの神社から神主がやってくるという地域は少なくない。そのようなところでは、村の住人のなかから神主を順番か、あるいは、くじ引きで選ぶのが習わしとなっている。
出雲の美保神社では、専門の神主が常駐している一方、さきに紹介したように、頭屋という村人から選ばれた神主が今も強い勢力を保っている。神事は、もと村人全員がかかわることであり、特定のプロにまかせるというのは、明らかに宗教心からいえば後退したというしかないであろう。水垢離をとるのを手水鉢ですませるのと同じ心理がはたらいているのである。
もっとも、多くの神社に神官を住まわせるようになったのは、明治のいわゆる国家神道に起因することはいうまでもない。国家神道では、神官はれっきとした官吏なのであった。
柳田国男が指摘した、日本の祭りの近世に入ってからの変化は、日常生活のリズムをできる限り変更することなく、しかも、今までの神祭りを継承しようとする、日常主義とでもいうべき精神に原因があるといってよいであろう。
だが、神祭りは、もともと日常の生活をいったん中止して村人全員が長期にわたる忌みこもりに参加するなど、日頃とは異なる生活をつくりだすことによって営まれるものであった。それが、日常生活のままで、あるいは、ほんの少し日常を変えることによって実践できるとするのであるから、宗教心という点では、あきらかに後退したというしかない。
そこでは、宗教的儀礼であっても、日常とさして変わらない状態で執行されるということになり、特別に宗教だとは意識しないことになる。こうした意識は、やがて「無宗教」を標榜する精神にかぎりなく近づいてくることになる。
6 日常主義と妥協する仏教
近世に入って、檀家制度のなかに組み込まれることになった仏教の各教団は、檀家である多数の民衆を相手にすることになり、もともと出家者やかぎられたパトロンを対象としてきた真言宗や天台宗、律宗、禅宗なども、民衆の教化を目指さざるをえなくなった。また、今まで民衆の間に深く浸透してきた浄土宗や浄土真宗、日蓮宗なども、あらためて民衆の要求に応じる教えを開発する必要にせまられた。
このような事情のなかで、近世の仏教はいちじるしく民衆の日常主義と妥協することになる。仏教のこのような妥協もまた、「無宗教」の風土を助長する結果となったといえよう。
民衆の日常主義と接した仏教側の代表は、鈴木|正三《しようさん》であろう。鈴木正三(一五七九―一六五五)は、曹洞宗の僧侶。もとは家康に仕えた武将で、四二歳のとき出家した。戦陣の経験があったためか、その禅風は烈しいものであったという。その鈴木の代表作に『万民徳用』がある。
万民徳用とは、文字通り、すべての人間に役立つということだが、鈴木の主張は、日々の生業を離れて仏教はないということであった。仏教は日常生活の助けとなってはじめて、その使命を全うすることになるといいかえてもよい。
たとえば、農業を営む者に対して鈴木正三は、農業が仏行そのものだと教える。仏教の修行をするのに、なにも寺院へわざわざ通う必要はない。かりに寺院へ通って仏像を拝み、読経をしたとしても、「我執」から解放されねば、所詮は輪廻を繰り返すだけのこと。一方、田や畑を耕していても、一鍬ごとに念仏し、一鎌ごとに我を忘れて農事に没頭すれば、やがては解脱に達することができるし、またその田畑も清浄となり、そこに成長する穀類も清浄となって、それを食べる人々の煩悩を消滅させることもできるのだ。
同じように、職人や商人においても、毎日の家業にいそしむことが仏教の実践にほかならない。毎日の家業の実践とは別に仏教があるというのは間違いだ、と繰り返し強調している。
仏教は、当初出家者を中心とする宗教であったが、釈迦の死後六百年ぐらい経つと、出家者だけを対象とするのではなく、むしろ在家の者を悟りに導く宗教へと大きく変容する。在家の者が仏になるということになれば、当然、在家の日常生活が肯定されることになる。日々従事する職業のなかで仏になる道が開かれるのである。鈴木正三の「世法則仏法」という主張も、このような大乗仏教の流れに位置づけられよう。
だが、鈴木正三の主張や、それを喜んで受け入れた民衆の仏教観には、重要な課題がふくまれていたのではないか。
というのは、大乗仏教が世俗の日常生活を重視したのも、あくまでも民衆が仏になるという点からであった。そして仏になるとは、単に日常生活を肯定し、世間的に充実した日常を送ることを意味しない。
つまり、仏教の論理は、日常生活を成り立たせている分別心とはまったく質を異にしているのであり、仏になるとは、日常生活の虚妄と無常の克服をふくんでいてはじめて、達成できるのである。
人間の日常の不条理や虚妄を見据えることが、仏教のはじまりにほかならないし、かりに、現世で仏になったとしても、現世のこのような不条理の克服が、仏の仕事なのである。日常生活の単なる全面的肯定は、決して仏教の教えるところではない。
鈴木正三は、仏教の修行の実践によって得られた心が、武勇の上で役にたつというが、煩悩の克服が果たして武勇、つまり殺人を容易にするためにあったのか。あるいは、仏教の修行によって得られた名聞利養を軽く見る心が、渡世身過ぎに役立つというが、仏教の邪欲の克服は、果たして生業、生計を容易にするためのものであったのであろうか。
ことほどさように、鈴木正三の主張は日常生活の維持と円滑化が目的となっているのであり、無我の実現はその手段とされている。たしかに無我の実現は、日常生活のなかで実践されるしかないであろう。そして、その実現のあかつきには、日常生活はいっそうスムースに営まれることになろう。
だが、無我の実現は、日常生活のかかえているさまざまな矛盾や不条理の克服に無縁であろうか。無我は、日常生活の単純な肯定ではないのだ。
このように見てみると、同じく近世の檀家制度のなかで、民衆との接点をさらに深めた浄土真宗の僧侶たちが、世間のいう善をいくら実践しても、それは浄土往生の原因にはならないし、そのような善人も宗教的には依然として悪人にほかならない(柏原祐泉「護法思想と庶民教化」)と、説いていることの方が、はるかに宗教心を鮮明にしているといえる。
近世の仏教は、民衆との接点をもつことになり、いきおい民衆に受け入れられるように、その教えをあらためていったのだが、私の見るところ、その多くは、民衆の日常主義を改変するように作用したとはいえないようだ。
つまり、宗教は、とくに「創唱宗教」は日常生活の矛盾、不条理から生まれているのであり、日常生活の単純な肯定を目的とはしていない。宗教には、とくに「創唱宗教」には、日常生活と鋭い緊張関係をもつ面がある。その緊張関係が見失われるとすれば、それは何度ものべているように、宗教心の後退というしかないのではないか。近世の仏教の大部分は、この意味でも、日常主義の範囲内にとどまったというのが実状ではなかろうか。
ところで、近世仏教における日常主義の優位は、仏教という領域にだけ限られた現象ではなく、すでに見たように、氏神の祭りの変化のなかにもあらわれていた。このほかにも、儒教の歴史を見てみても、日常主義の優位が目につく。
たとえば、伊藤仁斎という儒者は、それまでの中国直輸入の儒学に大胆な解釈を施して、日本に独自の儒教をあらたに確立した人物として知られているが、その伊藤仁斎の学問の特色は、なによりも日常生活の尊重にあった。
その詳細は、かつて別に論じたことがあるので(『国家主義を超える』)繰り返さないが、要点は、中国の儒学(朱子学)にあった、人間をふくめた万物を貫く超越的原理を問題とせず、人間とその生き方だけを問うという姿勢を明確にしたことにある。
伊藤仁斎は、人間を離れて真理というものが別に存在するわけではなく、真理も人間を別にして存在はしないのであり、その真理は世俗の生活のなかに満ちており、それゆえに日常卑近を離れて真理を追究することは、誤りのはなはだしいものだということになる。
このように見てくると、日常主義の優位は、神道だとか仏教だとか、あるいは儒教という個別の現象ではなく、一七世紀以来の日本社会に共通した現象であったといえる。
そしてもっといえば、日本の近世社会に明確な表現をとった日常主義の優位は、隣国中国においてすでに、一六世紀以来もっとあらわに登場してもいるのである。その大筋はたとえば、余英時の『中国近世の宗教倫理と商人精神』に詳しい。要するに一六世紀以来の圧倒的な商業の隆盛は、世俗の生業の追求がとりもなおさず真理に合致するという思想を展開させ、商売に没頭することがそのまま儒教の教える「聖賢」の生活にほかならないと主張するまでになった。
時をほぼ同じくして、中国と日本で日常主義が著しく優位に立つようになったことはなぜなのか、これからの興味ある研究課題といえよう。もちろん、中国の日常主義と日本のそれが直ちに等しいとはいえないが。
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第五章[#「第五章」はゴシック体] 墓のない村
「無宗教」を標榜しながら、墓参りに熱心な人々は少なくない。またさきに紹介したように、「無神論」を自認する神主と、その神主を受け入れて祭りを行う村人もいる。それは一見矛盾した行為のように思われるが、すでに何度も繰り返し強調しているように、「無宗教」、「無神論」というのは、日本の場合、「創唱宗教」に共感できない、違和感を覚えるということであり、論理を尽くして到達した宗教否定や神観念の拒否を意味はしない。
むしろ、「無宗教」、「無神論」者は、「自然宗教」の立場からいうと、「自然宗教」の積極的な「信者」であることが多い。だからこそ、「無宗教」を自認する人が墓参に熱心でもあるのだ。いうまでもなく、墓参はまぎれもなく「自然宗教」に属する宗教行為にほかならない。
さて私の知る限りでのことだが、日本列島には、このように明らかに宗教行為の対象として存在している墓を無用とするか、あってもさして重視しないことを伝統とする一群の人々がいる。一つは、浄土真宗の教えに忠実な人々であり、もう一つは、沖縄の宮古島にあって島の神を信仰している人々である。
前者は浄土真宗という特定の「創唱宗教」に属する人々であり、後者は宮古島の「自然宗教」に生きる人々である。
特定の「創唱宗教」を信じる人たちが墓地や墓参を重視しないのは、その教義のためであろうということは容易に予測できる。だが、「自然宗教」の信奉者であって墓地や墓参に無関心であることは、理解がむつかしいかもしれない。というのも、本土では、さきほどから繰り返しのべているように、「自然宗教」の信者は例外なくまず熱心な墓参の実行者なのであるから。墓地や墓参を否定してなおかつ熱心な「自然宗教」の信者であるとはどういうことか。この問題を追求してゆくと、本土の「無宗教」を標榜している人々の信じている「自然宗教」そのものが、じつは歴史的変遷を経たものであることが分かってくる。
いずれにせよ、「無宗教」が日本人の精神生活のなかでどのような位置にあるかをはっきりさせるためにも、墓を無用とする宗教心がどのようなものであるかを見ておこう。
1 ウヤガムに生きる
日本列島がどれくらいのひろがりをもっているかは、東京をはじめとする大都会だけで暮らしている人々には実感がむつかしいであろう。今話題にしている沖縄の宮古島は、鹿児島から直線距離にして、東京から鹿児島までの距離とほぼ同じ地点にある。つまり、東京と鹿児島と宮古島を結ぶ直線は、鹿児島が中点となる関係であり、そしていうまでもないが、東京と鹿児島の間が陸地であるのに比べて、鹿児島と宮古島の間は海である。日本列島には、広大な海が包含されているのだ。
その宮古島には、|伊良部島《いらぶじま》と|池間島《いけまじま》、|来間島《くりまじま》、それに|大神島《おおがみじま》の四島が付属している。その四島のなかで大神島は一番小さい。周囲三キロ、住民も今では二〇人ほど。島は低い円錐形をしているが、トンバルとよばれる遠見台に登ると、三六〇度海であり、南に宮古島の本島を望むほかは、海また海。
私が沖縄の島々を訪れるようになって一五年ほどの年月が経つが、なかでも宮古島は私がもっとも気に入った島である。そして宮古島を訪れたときは必ず大神島に渡る。なぜ宮古島なのか、そして大神島なのか。くわしいことはかつて記したことがあるので(拙著『宗教の深層』)それに譲るとして、本書のテーマに即していえば、ここには、日本の「自然宗教」がもっとも純粋に今も生きているからなのである。
宮古島の狩俣と島尻、それに大神の部落には、「祖神祭」という伝統的な祭儀がある。祖神はウヤガムと発音される。ウヤガムの祭りは、いずれの部落でも旧の一〇月から一二月にかけて、ウヤガムという特別に選ばれた女性たち(神女)によって行われるが、この祭りの期間は部落自体がきわめて閉鎖的になる。外部の人間が見物することや立ち入りは許されない。
ウヤガムだけではなく、琉球弧の島々の祭りは多くが外部の人には閉ざされている。それは、これらが共同体の祭りであるからだ。村人のための村人による祭りなのであって、柳田国男の表現を借りていえば、見物人の参加を認める「祭礼」ではないのだ。村とはなんのかかわりももたない観光客や研究者は、さまざまなタブーを守りもしないし、神に対する敬虔な心ももちあわせておらず、祭りにとっては要するに邪魔者にしかすぎない。
このような祭りの神聖さを保つ点では、大神島はとくに厳格である。狩俣や島尻が宮古島のなかの地続きの部落であるため部外者を閉め出すことがむつかしいのに比べると、大神は島であり、定期船の乗客をチェックすれば可能なのだ。現に島で祭りがはじまると、船長は村人以外の乗船を拒否してきたのである。
私も祭りの時期であることを知らずに学生と一緒に島に渡ったことがあった。本来なら、乗船の段階でストップになるはずであったが、たまたま船長と顔見知りになっていたから、島に渡らせてはもらえたのだが、島にある定期船の事務所にいわば「足止め」状態になってしまったことがある。私はそのことに文句をつける気はまったくなかった。反対に、大切な時期とは知らずに結果的に強引に島に渡ろうとしたことを反省していたし、船長たちの当惑に気づかなかった自分が恥ずかしかった。学生たちも祭りの厳格さがどういうものであるかを「足止め」から教えられた。このことがあってから、島に渡るときには前もって様子を必ず聞くようになった。
大神島の定期船の船長が、ある時、祭りの時に島に渡ってくる観光客や研究者を積極的に迎えるならば、収入も増えて経済的には好都合なのだが、祭りのことを思うとやはりそれはできないし、それで島が結果的にさびれて滅びるようなことになっても、それも仕方があるまい、と話したことが耳底に残っている。私が船長の立場なら、同じように考えたであろう。
いささか余談めいたが、こうしたエピソードから読者が「自然宗教」の雰囲気を少しでも理解して下さるならば幸いなのである。
というわけで、大神島では私の方から積極的にウヤガムのことを聞き出すことはしなかった。かわりに、学生たちに島の暮らしがどういうものであったのかを話してもらうことが多くなった。東京だけが日本だという偏見を打ち破るためにも、また日本文化の多様性を知るためにも、島の人の話は大変有意義なのであった。
だが、そうした話の端々にも、島の大切な神祭りのことが出てくる。また、大神島出身のある人から、島の生活ぶりを聞く機会が増えた。こうしたなかで期せずして話がしばしばウヤガムに及ぶこともあった。また私自身、かつて狩俣の祖神祭の一部を見る機会があったりして、この祭りについて一応のイメージはもつことができるようになった。
こうしたことから、大神島の「自然宗教」についていささかの紹介をしてみようと思い立ったのである。それにしても、島の祭り、とくに祖神祭については、島以外の人に口外してはならないという厳重な掟がある。これから紹介することがその掟に触れることになりはしないか、という心配がないではないが、ウヤガムの信仰に生きるすばらしさを紹介することは、大神島の大神の「教え」に照らしても許されると思う。なによりも、日本の「自然宗教」の深さがそこには語られているのだ。
さて、大神島には本土のような墓地はない。海岸沿いにわずかに二、三基の墓があることはある。しかし、その墓は本土の墓とはまるで違う。長方形のコンクリート製で、内部はたぶん大人が二三人ゆっくりできるくらいの広さがある。入り口に相当するところは漆喰で閉じられている。文字通り長方形の箱がボソッと置かれた感じである。
このような墓が作られるようになったのは、新しい。というのも、大神島だけではなく、一般に琉球弧の葬送は、最近まで風葬が普通なのであった。島の海岸沿いの洞窟などに遺体が安置され、自然に白骨化するのを待って、洗骨を施し、遺骨を|甕《かめ》に入れ直して、洞窟のなかに置いておく。人々がつぎに洞窟を訪れるのは新たに死者が出たときである。
それが本土の墓の影響が及び始めて、洗骨の儀礼を終えた遺骨の入った甕を洞窟から降ろしてきて海岸の便利な場所に移したのが、コンクリート製の墓のはじまりであった。甕を洞窟に置いておくか、近くに置いておくかの違いはあるが、甕に対する扱いは同じで、墓はつくっても本土のように墓参をすることはない。大神島のコンクリート製の墓にも、本土のような花立てや香炉は置かれていない。墓参はまだ習慣とはなっていない。いや、もっといえば、遺骨を拝む必要がないのだ。
というのも、琉球弧では、人は死ねば、カミになると信じられていたからである。遺体は風葬に付されて肉親からもかえりみられないが、そのタマシイの祭りは死の直後からていねいに行われてきた。人間にとってもっとも大切なものは、肉体ではなくタマシイであった。タマシイのない肉体は、文字通り、もぬけのカラであった。もぬけのカラにどうして執着する必要があろうか。
タマシイの祭祀といっても、昔は人が死ねば直ちにカミになったのであるから、祭祀の必要もなかったのであろう。死者のタマシイがカミとなるのに長い時間が必要になったのは、文明が進んでからのことになる。本土風にいえば、死者の成仏に手間暇がかかるようになるのが文明というものなのであろう。
もとは人は死ねばすぐカミとなったのが、やがて時間がかかるようになり、祭祀という手続きが必要になった。大神島では、ごく最近になって仏教の僧侶が葬送に立ち会うようになったが、まだ本土のような年回法要や墓参を必要とはしていない。
このような肉体よりもタマシイを重視する考え方は、琉球弧だけではなく、かつては本土においてもごく普通であった。人が死ねば、もぬけのカラは早く処理をして、なによりもタマシイの祭祀に取りかかる。そうした考え方をよく示しているのが、民俗学でいう「両墓制」である。地域によっては、遺体を捨てた所に立てる「埋墓」とタマシイを祭る「詣墓」という二つの墓をもつ。そして「埋墓」には詣でることもなく、もっぱら供養や祭祀をするのは「詣墓」の方なのだ。
このように一昔前の日本人は、遺体よりもタマシイの祭祀に熱心なのであった。遺体や遺骨にこだわるのは、一見ヒューマニズムの深まりのように思われるが、実際はヒューマニズムの証などではなく、タマシイについての信仰が衰弱した結果にほかならない。タマシイが信じられなくなったからこそ、遺骨にこだわるのである。
大神島では、本土では希薄になったタマシイの信仰がまだ十分に生きている。だからこそ、墓参や年回法要が習慣にならなくても平気なのだ。それに比べると、海山に散骨する趣味や墓地の購入に熱心な人々をふくめて、遺骨にこだわる本土の「自然宗教」の「信者」は、宗教としては衰弱の道に入っているというしかないであろう。
大神島の人々が、墓にこだわらないもう一つの理由は、おそらく死者祭祀よりも、もっと大切な神々の祭祀があるからではないか。というのも、島の家々には、先祖のカミのほかにも、ウヤガムのカミと火のカミ、それに個人個人の守護神(マウのカミという)、そして家のカミがいるからだ。なかでももっとも大切なカミがウヤガムである。
ウヤガムは「天から落ちてきた」カミであり、人間が死んでからなるカミとはまるで格が違うという。実際、ウヤガムの祭りと先祖のカミを祭るボンの日がぶつからないように格別の注意を払っているし、また、先祖を祭る二月の「一六日」は、ウヤガムの祭りの期間ではないのだ。
最近、たまたま島に立ち寄った島出身の人から、ウヤガムがどれほど自分の人生を支えてくれたかという話を聞く機会があり、ウヤガムのカミがどのようなカミであるのかが少しは想像できるようになった。なによりも、島の人々のウヤガムのカミに対する信仰の深さをかいま見ることができた。
その人は、島を出てから沖縄本島に渡り、そこで基地労働者として長年いかに過酷な生活を強いられてきたか、しかもそのなかでウヤガムのことは一日として忘れることはなかったと、涙ながらに話した。とりわけ私にとって印象的であったのは、ウヤガムに頼むことと自分ですることとの区別を、彼が自覚したというくだりであった。
小さいときからウヤガムに親しんできたその人は、ややもすれば何でもカミ任せで自分からは何もしないという傾向があったが、ある時、妻からそのことを叱責されて、ハッと気がつき、カミに依頼することと自分が実行しなければならないこととの区別がはっきりしたという。彼は島を離れてからも一日としてウヤガムのことは忘れたことはなかった。困ったことがあればウヤガムにお祈りもした。しかし、人間として日々努力をするという生き方をカミが援助してくれるのだということに思いいたるには、時間がかかった。
その人のウヤガムに対する信仰の変化は、むつかしくいえば、宗教と現実の生活の区別を知ったということであり、宗教は現実の生活を超越したところに根拠があるということに気づいたことを示す。宗教とはなにかをその人は覚ったのである。
この話を聞いたとき、私は近江商人のことを思い出した。近江商人が莫大な財産を形成できたのは、ひとえに熱心な浄土真宗の信仰があったからだといわれる。
つまり、彼らは、阿弥陀仏に頼むべきは、死後仏になるということであり、商売がうまくゆくようにということではないと自覚していたからこそ、商売には神頼みをせずに自分たちの経験やカンを生かす努力をしたのである。人間が努力するべき分野と阿弥陀仏に依存する分野をはっきりと区別できたことが、彼らの世俗生活における成功を招いたのである。
大神島出身のその人が、近江商人ほどに成功したかどうかは別にして、人間の努力に俟つべき世界とカミを俟つべき世界の区別を知ったことが、その後のその人の生活を、一変させたことだけは確かなのである。
ことあるごとに神頼みに忙しい、本土の「自然宗教」の「信者」たちの精神生活に比べると、大神島の人々の心は、はるかに伸びやかで明るい。それは、「自然宗教」がかもしだす、深い精神性に支えられている明るさであろう。
近江商人のことにふれたので、さらにふれておくと、阿弥陀仏とウヤガムのカミとの違いは、ウヤガムの恵みが島の血縁者に限られているのに対して、阿弥陀仏は地縁血縁、老若男女、貧富など一切の区別、差別を問わないという点にある。だが、信じる人間の側からいえば、絶対的帰依の対象であるという点では同じといえる。
だからこそ、島の人は、ことさらに「創唱宗教」をあらためて必要とはしないのである。宮古島でも、日蓮宗系統の新宗教の進出は著しいが、大神島の人は、「ニチレンいらず」を口にしてはばからない。
「ニチレン」だけではない、「ユタ」も不要、家々を守る呪具である「水字貝」(漢字の「水」に似た形をした貝殻)も不要という。ウヤガムのカミに対する深い信仰心が、「創唱宗教」のみならず、種々のおまじないをも否定している。浄土真宗の熱心な信者が、一切の「迷信」や「呪術」から解放されていることを思い出させるに十分な、信仰心の深まりがそこには見られる。
この大神島の人々が「無宗教」を標榜する。「無宗教」という言葉にだまされてはならないことが、このことからもよく理解されるであろう。「無宗教」とは、「創唱宗教」の信者ではないという程度の意味にしかすぎないのだ。
2 和紙の村の信心
その部落にはいわゆる墓地というものはどこにも見当たらない。またその部落の大部分の家が檀家となっている寺にも、墓地はない。
ある時、住職に墓地はどうしていますかと尋ねたところ、住職は、寺の門を入った右手にひっそりと立っている小さな一基の石碑の前に案内した。石碑には「南無阿弥陀仏」と彫られている。その石碑を指さして住職は、ここが納骨の場所です、といわれた。
説明によると、この石碑の背後の下にある石を動かすと地下に通じる穴があって、遺骨はそこからなかへ投げ入れるのだという。いってみれば、部落には共同の大きな墓が一つあるということになろうか。そして墓といっても、石碑の表面には名号があるだけで、それと注意をされないと、墓とは気づかないたたずまいなのである。
都会では、某の遺骨と某の遺骨を同時に一つの墓に埋葬すると喧嘩をしていけないとか、肉親であっても同じ墓にはいるのはまっぴらだとか、墓の入り方について、迷信や葛藤、争いが絶えない。
そうした、どこまでも個人本位の都会人の感覚からいえば、この部落の遺骨の処理方法はずいぶんと乱暴に映るかもしれない。擬人化していえば、なにしろ肉親でもない者同士が折り重なって朽ち果てるまでの長期間を共に過ごすことになるのであるから。だが、都会人が家の墓から個人の墓へという個別化の要求におされて、墓地を求めて狂奔している状況と比べてみると、この部落のいわば一墓主義は、大変合理的といえるし、私から見れば大変さっぱりしていて爽快でさえある。
どうしてこのようなことが可能となったのであろうか。
さて、その部落とは鳥取県青谷町の山根であり、寺というのは浄土真宗本願寺派に属する願正寺である。山根は昔から和紙の里として知られてきた。また、古くから浄土真宗の篤信者がつぎつぎと出る、信心の篤い村としても、有名であった。部落の精神的伝統となってきた浄土真宗の信心こそが、一墓主義を生み出したのである。
では、その信心とはどのようなものなのか。「無宗教」と対比される「宗教」、とくに多数の日本人には人気がない「創唱宗教」の一つの中身を知るためにも、その肝要な点を紹介しておこう。手がかりは、一九三〇年に亡くなった一人の篤信者、足利|源左《げんざ》という人物の行状にある。
源左という人物がひろく知られるようになったのは、民芸運動の創始者、柳宗悦の功績である。柳は、山根で和紙漉きを生業とする熱心な念仏者、足利源左の行実を集めて一九五〇年、『妙好人因幡の源左』を刊行した。
「|妙好人《みようこうにん》」とは、仏教とくに浄土真宗の篤信者のことである。もとはインド語のプンダリーカ、すなわち「浄らかな白蓮華」を意味する言葉であるが、泥のなかに咲く蓮の花のように、欲望にまみれた人間世界のなかにあって清らかな信心の火をともしている人を意味する。
江戸時代後半から、浄土真宗の盛んな地域に、無学でその日の生活に追われてはいるが、きわめて深い信心を手にした人々に対する関心が強くなる。このような人々を「妙好人」とたたえて、その行実が「妙好人伝」として編まれるようになった。柳宗悦の『妙好人因幡の源左』はその近代版にほかならない(柳宗悦がどうして妙好人に興味をもつようになったかは、別に論じた[拙著『柳宗悦――美の菩薩』]のでそれに譲る)。
源左は一八四二(天保一三)年山根に生まれて、一九三〇(昭和五)年同じ山根で、八九歳の生涯を閉じた。農業と紙漉を生業とした。源左の生涯を決める一大事件が生じたのは一八歳のときであった。
その年の旧八月のある日、父は源左と共に朝稲刈りに出かけたが、午後には気分がすぐれないといって帰宅し、夜には死んだ。急死といってよいあわただしい最期であった。死ぬ前に、父親は源左に、自分が死んだら「親さま」を頼め、と遺言した。この遺言が源左の生涯を決めることになる。
この時以来源左は、二つの問題にぶつかることになった。一つは、死とはなにかということ、二つは、「親さま」とはなにものか、そして「親さま」はどこにいて、どのように頼りとすればよいのか、ということであった。
死のもたらす悲惨や不幸、恐怖、そしていったいなんのために生きているのかといった疑問は、浅深や持続の長短の違いはあっても誰しも経験することであろう。だが、「親さま」とはなにものか、という疑問は、浄土真宗の伝統が生きている土地に育った人に固有の疑問であり、浄土真宗に縁のない人には理解しがたい疑問であろう。
「親さま」とは、阿弥陀仏のことなのである。中世以来、法然や親鸞の浄土教が広まるなかで、人々は阿弥陀仏のことを、「親」と呼んできた。仏のことを今でも「ののさま」というが、「のの」とは中古以来、折口信夫によれば、母親を指す言葉であり、日本では一般に親といえば母親を意味することが圧倒的に多いといわれる。阿弥陀仏という普通の生活感覚ではほど遠い存在を、中世人は母親のイメージと重ねて理解してきたのであり、浄土真宗では、こうした伝統がきわめて濃厚に生きているのである。
源左も、父親の遺言した「親さま」が阿弥陀仏であることは知っていた。だが、阿弥陀仏がどのような存在であり、生きてゆく上でなぜ不可欠の存在となるのかは知る由もなかった。こうして源左は、まず手はじめに父親が通っていた村の浄土真宗の寺、願正寺の住職を訪ねて疑問を提出し、寺で開かれる説教などを熱心に聞くようになった。しかし、「親さま」とはなにかは、容易に理解は出来なかった。そうして一二年の年月が経ってしまった。
三〇歳になったとき、ついに源左は「親さま」とはなにか、そして「親さま」にすがるとはどのようなことなのかを体得するにいたった。浄土真宗の信心を手にすることができたのである。それはまぎれもない「回心」の体験であった。
「回心」とは、確固とした宗教的信仰を手にすることであり、日常的な生活に生きる自己に一度死んで、宗教的によみがえる経験といってもよい。信心が身に付いたということである。
源左の言葉によると、その「回心」は、突如やってきた。夏の朝早く、いつものように牛を追って裏山に草刈りに出かけた。草を刈り終わり、それを牛の背に負わせているとき、「フイッと分からしてもらった」という。
源左は、刈り取った草を牛に背負わすばかりでは、牛が辛かろうと思って、自分でも一把背負ってみたが、しんどくなってまた牛に背負わせたところ、「すとんと」楽になった。そのとき、阿弥陀仏の慈悲が分かるということは、これと同じことなのだと体得できたという。
源左は、父親の急死以来、「親さま」を頼むとはどういうことかを問い続けてきた。阿弥陀仏を頼むとは、阿弥陀仏の慈悲にすがるということだ。問題はどのようにすれば阿弥陀仏の慈悲にすがることができるのか、ということにある。もちろん、なぜ阿弥陀仏の慈悲が自分には必要なのかをはっきりさせておかねばなるまい。なぜなら、阿弥陀仏の慈悲を必要としない人間であるならば、「親さま」をいくら尋ねてもその答えは得られないのはいうまでもないからだ。
この点、源左の場合、はっきりしていた。父が死ぬとき、「自分が死んで淋しければ親をさがして親にすがれ」といった。父親が亡くなってみれば、世間は狭くなるし、淋しいやら悲しいやらで、源左は茫然自失してしまった。そうしたなかで、「親さま」を探そうと決心したのである。源左は、阿弥陀仏の慈悲がほしかったのである。
問題はその慈悲の手に入れ方にあった。普通にいえば、人間の側がともかくも神仏の気に入るような手段を尽くすこと、それが信仰というものに入るための第一の条件だと考えられやすい。「回心」に達する前の源左も、そのような常識に縛られていて、いつも自分の努力の仕方ばかりを問題にしていたといってよい。何事につけても善いことをしていれば、それと引き替えに阿弥陀仏の慈悲が身にあふれるようになって来るに違いないと考えて、阿弥陀仏の慈悲を受けるにふさわしい自分のあり方や生き方を懸命に求めてきたのが源左なのであった。
だが、そのような求め方では、阿弥陀仏の慈悲は分からなかったのである。なぜなら、阿弥陀仏は、自分の名前を呼ぶものはどのような人間であっても、その人間を自分の国に迎えて必ず仏にするという誓いをもった仏であり、阿弥陀仏の国に生まれるためには、阿弥陀仏の名前を呼ぶという行為、つまり念仏だけが条件であって、それ以外のどのような行為も、それがどのような善行であっても無意味だと教えているからである。
阿弥陀仏の慈悲が分かるためには、善行を積み重ねるということではなく、阿弥陀仏の誓いを信じて念仏するということに尽きる。だが、いくら念仏をしても、ただちに阿弥陀仏の慈悲が身に満ちるとは限らない。念仏を呪文のように唱えるだけでは、阿弥陀仏の慈悲は実感できない。念仏する身となっても、もう一段の展開が要求されてくるのである。
源左は父の死後、すでに一〇年以上も、浄土真宗の教えを聞いており、また念仏だけが大切だということはおそらく骨の髄にまで染み込んでいたであろう。それでも、慈悲が分かるとはいえなかったのである。それはどうしてなのか。一言でいえば、自己中心性から逃れることができなかった、あるいは自己中心性から逃れることができないのが人間だという自覚が十分に生まれてはいなかったということであろう。
つまり、阿弥陀仏の慈悲は、人間の考えをはるかに超えた広大なものであり、人間が自分を基準にして推し量れるようなものではない。にもかかわらず、人間はさまざまな条件を自ら作り出して、阿弥陀仏の慈悲を勝ちとろうとする。そして、自ら作り出した条件に自縄自縛となって阿弥陀仏の慈悲を矮小化してしまったり、手の届かないものにしてしまう。たとえば、念仏に回数の制限を設けて、一日に何万回となく唱えないとダメだとか、反対に一度だけ唱えれば十分だとか、いずれにしても人間の側で条件を作って広大な慈悲を見えなくしてしまっている。そのことに気がつく必要があったのだ。
たしかに、阿弥陀仏とはなにかを尋ねるのは、まさしく自分である。自らあらゆる手段を尽くして阿弥陀仏とはなにか、を問わねばならない。阿弥陀仏の慈悲がどのようにすれば分かるか、それは身を以て実験するしかない。自ら問わずして、また努力することなくして、どうして阿弥陀仏とはなにかが分かるであろうか。信心は、棚からぼた餅というわけにはゆかない。
しかし、あるとき、そうした問いや実験が無効であったということに気づくのである。阿弥陀仏が、そのような自分の力を頼りに慈悲を求める人間を憐れんで、そのような人間のために慈悲を注ぎ続けていることに気づくのである。阿弥陀仏は、何事につけてもいつも自分を基準にして物事を推し量ろうとする人間の自己中心性に対して限りない憐憫の情をいだいている存在だということが分かってくる。
こうなると、自分の料簡で阿弥陀仏の慈悲を推し量るのではなく、阿弥陀仏にすべてを任せてしまうということ以外に浄土真宗の信心はないということになる。阿弥陀仏にすべてを任せきったとき、阿弥陀仏の慈悲が全身にあふれてくるという事態が生じるのである。
草束を自分で背負っている限りは辛かったが、その草束を牛に背負わせると楽になったという、ごく普通の日常の経験が「回心」の契機になったということは、それだけ源左が阿弥陀仏の慈悲とはなにかを無意識の世界で追求し続けていた証拠だといえよう。時機が熟したということであろう。源左は、阿弥陀仏にすべてをまかせるということが阿弥陀仏を頼る方法だと了解したのである。
3 「回心」
「創唱宗教」を選びとるということは、「回心」を経験することである。「回心」を必要とすることこそ、「創唱宗教」が「自然宗教」と明確に異なる点といってもよいであろう。「自然宗教」の場合は、すでになんどものべているように、年中行事の繰り返しのなかで、いつのまにか土地や部落の神々を信じてその祭りに参加するようになり、また先祖を供養するようになる。そして、こうした行為に参加するにあたって特別の決心は必要ではない。
だが、「創唱宗教」の場合は、その教えを信じるかどうかという決断が不可欠であるし、そのためには「回心」がどうしても必要になる。その教えに文字通り全存在を託すことができてはじめて、「創唱宗教」の信者になったということになるからだ。
もっとも、この「回心」については、源左のようにきわめて明確で劇的な場合もあれば、もっとぼんやりとした、無意識に生じる場合もある。たとえば、生まれながらにして教団のメンバーとなり、教団の年中行事や宗教行事に長期にわたって参加するなかで、いつのまにか熱心な信者になっていったという場合である。このような人々は、はっきりといつどのようにして「回心」があったかは証言できないが、自分の精神生活をふりかえると、やはり昔と今とでは明確な違いが生じていると断言できるのである。
三〇年ばかりまえになろうか、私が青谷の山根村を尋ねたとき、ある老人が、「親鸞聖人が阿弥陀仏の本願は自分一人のためにあったとおっしゃったが、私もようやく最近になってその通りだと思うようになった」と話してくれたことがあった。この老人は、源左のように「フイッと分かる」という劇的な体験はもたなかったが、三〇年、四〇年と説教を聞き続けているうちに、真宗の根幹を会得してしまったのである。これもまた「回心」の一つの型なのである。
要するに「回心」について重要なことは、それが劇的であるかどうかではなく、その人がどのような問題を問い続けてきたか、ということであり、そしてその問題をどのように解決したか、さらにその解決によって新たにどのような人生を歩みはじめることになったか、ということにある。
このようなことを強調するのも、「創唱宗教」に入信するためには、特殊な神秘的経験を経なければならないという、強迫観念がゆきわたっているように思われるからである。「回心」という術語を使用しないまでも、なんらかの特殊な心理状態を経験することが、宗教に入る条件だと考えられやすいのだ。だが、はたしてそうであろうか。
私は、かつて真宗大谷派の学僧である|曽我量深《そがりようじん》の神秘的体験を、臨済宗のある老師に話したことがあった。曽我が経験した出来事とは、ほぼつぎのようなことである(詳細は拙著『宗教の深層』を参照)。
曽我はある時、阿弥陀仏の木像の前で念仏をしていると、眼前の木像が消えて菩薩があらわれ、その菩薩を拝んでいる自分の後ろにも第二の菩薩があらわれ、それを拝んでいる第二の自分があり、さらに第三、第四の菩薩と自分があり、それが無限に連続しているという不思議な経験をした。曽我はこの経験をふまえて、仏教が「衆生」のすべてを仏とするという誓いをもった宗教であることに関して、つぎのように解釈した。仏教でいう「衆生」の認識とは、単に沢山の人が存在しているということではなく、自分のなかに過去現在未来と無限の生命が流れているということではないか、と。
禅宗において老師というのは、覚った人ということだが、その老師は、この曽我の神秘的な経験について、菩薩が次々と登場するといった神秘的な部分には意味がないから無視するようにといったあとで、大切なことは、衆生を我がことと自覚したことが重要なのだと述べた。
宗教的実践は、意識を集中することが多いから、しばしば神秘的な経験を引き起こしやすい。禅の修行においても、坐禅のさなかにおいて生じる神秘的な現象について、それにとらわれてはならないと注意を喚起している。なにか神秘的な体験をすると、それで自分はもはや覚ったのだという錯覚が生まれやすい。その危険を、禅修行のカリキュラムは防ごうとしているのであろう。大切なことは神秘的体験ではなく、その段階でどのような仏教的真理を自覚しているかなのである。
源左の場合も、彼が「フイッと分かった」と述懐している点が重要なのではなく、他力とはどういうものかを彼が会得したことが大切なのである。もっといえば、この「回心」以後、彼の生活にどのような変化が生じたのか、彼がいわばどのように生まれ変わったのか、ということこそが重要なのである。
源左が「回心」によって新たに獲得した人生とは、どのようなものであったのか。信心を得ることによって生じた変化について、源左はいくつかの点をあげているが、私にとって重要だと思われるのは、世界中のことが皆本当になる、という述懐である(柳宗悦・衣笠一省編『妙好人因幡の源左』語録一四七)。
信心を得ると、一切のことが本当になる。たとえば、源左を仏という人がいるがそれも本当だし、源左を鬼という人がいるが、それも本当なのだ、と。なぜなら、源左は阿弥陀仏によって仏になると決まっている身だから、仏といってもよいだろうし、また、現実の源左は欲望にまみれる凡夫にほかならないのだから、鬼とよばれても不思議はない、ということになる。人間存在のあらゆる局面が、真実として受け止められてゆくようになったのだ。
人生を生きて行く上で、このような自覚、あるいは認識は重大な力を発揮することになろう。普通には、自分に都合のよいものだけが本当であり、不都合なものは無いことにしてすましがちである。あるいは、自分に都合のよいことだけが見えていて、不都合なことは現に目の前に存在していても、見えないことが多い。世界と自分のありようは、自分に都合のよいようにできあがっているのだ。
だが、源左にとっては、すべてが、自己の都合のよしあしにかかわらず、真実と映じる。真実である以上は、どの事態に対しても真正面から応対せずにはおられない。あるいは、どのような事態に出くわしても、その事態を真実として受け止めてゆくことになる。
すべてが本当だということは、すべてを受け入れることができるということでもある。しかしそれは、あるがままを無原則に認めるということではない。あらゆることがらに柔軟に対応できるということであろう。柔軟に対応できるとは、ものごとの道理に目が開かれているということでもある。
『歎異抄』の言葉でいえば、「|無碍《むげ》の一道」ということになろう。信心を得たものにとっては、阿弥陀仏の慈悲が身に満ちているが故に、人生のあらゆる事柄が障りとはならないということである。人生のどのような局面も、最終的には動じることなく、受容してゆくことができる。
源左は長い生涯において、いくつもの不幸を経験している。二人の息子は精神に異常をきたした。兄は二一歳のとき、水害で田を流してしまい、長女を亡くすという不幸のなかで発病した。彼の病はまもなく癒えたが、四九歳で源左に先立って亡くなってしまった。そのあとすぐに、京都で暮らしていた弟が発病した。彼の病は癒えることなく、その後、長く山根で彼が没するまで、源左は面倒をみた。こうした不幸を源左は、すべては因縁と了解し、阿弥陀仏の慈悲をいっそう深く味わうことができる機縁と受け止めたのである。
源左は、ほとんど立腹ということを経験したことがなかったという。もともとよく練れた人柄なのであったのだろう。だが、そこには明らかに信心の力が加わっている。というのも、源左によれば、人が立腹するのは、自分が人より優れているからだという自信に基づくのだが、自分には人に誇れるようなよい点はなにもない。およそ自分のなかにはものごとを辛抱し、ものごとに耐える力などはないのだ。しかし、このような源左を憐れんで阿弥陀仏が一切を辛抱し、忍耐してくださっているから、私は立腹する必要はない、と。
彼は困っている人によく力をかした。重い荷物を人に代わって背負い、年寄りを負ぶい、病人をいたわった。他人の田が痩せていると肥やしをやったり、畦に穴があいているとだまって塞いだ。税金が払えずに困っている人には、こっそり代わって納めたりもした。しかし、自らそうした行為を他人に話したり、ましてや自慢したことはなかった。
牛や生き物を、大切にした。どんな荒れ牛も、源左にかかるとおとなしくなったという。源左は、荒れ牛をまるで人間であるかのように応対し、一晩中さすってやり、阿弥陀仏の話をしたという。
彼はまことに勤勉そのものであり、朝は一時か二時には起きて仏壇の前で|正信偈《しようしんげ》を読み、草鞋の五六足も打ってから、夜が明ける前に牛を連れて草刈りに出かけた。どんなに寒い日にも火をとることはなく、「お慈悲の力はあたたかい」というのが口癖で、彼の挨拶には「寒い、暑い」はなかったという。
源左は、娯楽を楽しまず、酒やたばこもたしなまなかったが、人の荷物を背負うことと、人の肩を揉むこと、灸をすえることをなによりの楽しみとした。いずれも、仏教の話をするよい機会となるからであった。
彼はもともと徳行の人であり、一九歳の時に早くも地元の大庄屋の推薦によって、藩から表彰を受けている。その後も生涯に何度も表彰されているが、もって生まれた人徳に信心の力が加わって、まれにみる人格者となっていったのであろう。
だが、源左のことを、常人の及ばない優れた人間だと一方的に褒め称えることは、私の本意ではない。あるいは、信心を得ると、このようなすばらしい人格者になるのだということを力説するのが、私のねらいなのではない。また、信心を得ると、どのような不幸が襲ってきても、一向に動じることがない、ということを強調するつもりでもない。
そもそも、人の性格や生き方は、そんなに簡単に変化するものではない。人は焼かねば直らない、つまり人は死んで火葬に付されない限りは変わることがむつかしいという言いぐさは、ことの本質を十分に伝えているといわねばならないであろう。私がいいたいことは、およそ宗教は人格を転換するために存在しているのではない、ということなのだ。人格者になるために宗教を求めるのでもないし、人格者を養成するために宗教があるわけでもない。宗教を信じていなくとも、立派な人は多数存在するし、宗教を信じていても人格円満とはいいがたい人も少なくない。
また、不動心を得るのが宗教だともいうつもりはない。信心を得ても、悲しいことは悲しいのであり、喜びは喜びなのである。法然の時代にも、こうした点において誤解があったのであろうか、法然は、信心を得ることと感激とは異なると、つぎのように教えている。
信心を得ると、喜びの余り天にも地にも躍り上がるような気持ちになり、心は感動して身の毛が立ち、落涙に及ぶと考えることは、間違いだ。それは、単に歓喜の状態を示しているだけで、とても信心を得たということではない。信心とは、疑いが除かれたことをいうのだ、と(「往生大要抄」)。
疑いがはれて阿弥陀仏の本願が分かったときには、たしかに、喜びが身を包むであろう。だが、大仰な喜びに包まれなくとも、信心は手にすることもできる。感動の有無や動揺の有無が、信心の目安にはならない。もし、容易に不動心が得られるようならば、およそ宗教も不要なのではなかろうか。人間の心は、そんなに簡単にコントロールを許すものではない。
源左の場合、父を失うことによって、人生において本当に頼りにできるものはなにかという問いを手にした。その答えは、結局は、人間とその世界を超越した仏にあった。そのことが分かると、矛盾だらけの人生もまた、慈悲の実践場となりうるのである。「すべてが本当になる」という実感は、単なる道徳的訓練では達することができないのであり、その意味では、まさしく宗教のみが与えることができる世界であったといえよう。
八九歳を迎えて死の床に横たわっている源左に、長年の友人から使者が来た。その友人もまた死の床にあって、信心をしっかりとにぎって死にたいと考え、かねて評判の源左に教えを乞うてきたのである。その使者に、源左はつぎのように返事をした。
今更くわしいことを知る必要はあるまい。親さんはおまえを助けにかかっておられるのだ。このまま死んでゆきさえすれば、もう親のところだ。こっちは持ち前通りに死んでゆきさえすればよいのだ、と。
源左が念仏もろともに息をひきとったのは、一九三〇年二月二〇日の早朝であった。源左に使者をよこした友人もその翌日亡くなった。
山根村は、その後も現在にいたるまで、篤信の人々を生み出し続けている。こうした伝統を土地の人は、「土徳」とよんでいる。風土がそして土地が、生み育んできた、ゆるぎない信仰の伝統ということであろうか。
一九九五年の暮れ、その山根村から送られてきた一通のはがきを手にした。かねて懇意にしてもらっているSさんからであった。
Sさんは、若いとき柳宗悦と出会い、民芸の心をもって、昔からの和紙造りを工場生産に切り替える実験に成功した起業家であり、なによりも源左以来の信心の伝統を受け継ぐ篤信の人である。
私はSさんから、民芸とは何か、浄土真実の宗教とはなにかを、機会ある毎に教えてもらってきた。宗教が篤信の人に出会うことからはじまるとすれば、私はSさんと出会うことによって、まさしくそのようなはじまりを、手にすることができたといえる。
その年、Sさんは、三男を亡くされた。はがきは、ささやかな私の悔やみに対する礼状であったが、その文面には、「土徳」の二字があった。「堪え難い程の悲しみも、悦びに蘇る名人の生れた土徳、皆んな元気です」、と。はがきの裏には、源左の口癖であった、「ようこそようこそ」が記されていた。妙好人の風土は、今に伝承されているのである。東京だけが日本であると錯覚している人々に、日本は広いということを、私はあらためて訴えたいという気持ちになった。
ところで、「創唱宗教」の信者といっても、すべてが源左のような「回心」を経験しているとはかぎらない。むしろ、生まれながらにして教団に属し、教団の年中行事や宗教行事に繰り返し参加しているうちに、いつしか信仰を手にするようになったという人も少なくない。教団を経済的に支えているのは、こうした「回心」なき人々であろう。
宗教に関心をもっていても、「回心」を経験する人とそうでない人がいるということは、なにを意味しているのであろうか。
この問題にいち早く、また有力な回答を提出したのは、アメリカの心理学者であり宗教学者であるW・ジェームズである。ジェームズは、人間には二種類があるという。一つは「健全な心」の持ち主であり、他は「病める心」の持ち主である。前者は「一度生まれの人」ともいわれ、後者は「二度生まれの人」とも称される(『宗教的経験の諸相』)。
「健全な心」の持ち主は、人生や人間について、不完全であるとか不条理だとは考えない。むしろ反対に世界は、はじめから調和のある美しいものだと考えている。したがって神についても、厳しい審判者と見なすことはなく、この美しい世界に恵みを与える慈悲深い存在とみなす。彼は人生について、病的な悔恨とか危機感をいだくこともない。なによりも勇気と希望と信頼を信じ、疑惑や恐怖や心配を軽蔑する。人生の幸福は、人間として生まれたという事実にすでにそなわっているのであり、苦悩の果てにもう一度「回心」して生まれ変わるというような必要を認めない。それゆえに、「一度生まれの人」ともよばれる。
これに対して、「病める心」の持ち主は、人生の本質は不安や懐疑や悪にあると考える。世界と人生の無常や無意味に心を悩ませる人々でもある。人間として生まれたというだけでは、とうてい幸福には到達できないのであり、不条理な人生に思い悩んだ果てに、もう一度精神的に生まれ直すという経験がどうしても必要だと考えている。生物的な誕生のほかに、精神的な誕生を必要とするという意味から、「二度生まれの人」ともよばれるのである。
この分類からいえば、「回心」を必要としない人というのは、「健全な心」の持ち主ということになろう。そして「回心」を必要とするのは、「病める心」の持ち主である。「病める心」の持ち主が経験する、精神的な生まれ変わりが「回心」にほかならない。
もとより、現実の人間には、こうした二つの要素が入り交じっており、「回心」にも、さまざまな程度があるということになろう。「創唱宗教」に関わっても、「回心」を経験しなくてもすむ人もいれば、劇的な「回心」を経験する人もいる。
本書の主題に戻っていえば、日本人に「無宗教」を標榜して怪しまないという人々がかなりの数に達するということは、日本人には「健全な心」の持ち主が多いということになろうか。そして、「健全な心」の持ち主は、ジェームズ風にいえば、つぎのような説得だけで十分に安心を得ることもできる。
あなたがくよくよと悩んでいることは、とるに足らないことであり、ちょっとした病気なのです。あなたは、どうすれば明るく健やかで幸せになれるかと質問するが、あなたさえそう思えば、すでに明るく健やかで幸せなのです。問題はあなたがそのことに気づくことなのです、と。
多数の日本人に人気がある「創唱宗教」にも、こうしたタイプの教義が少なくない。深刻な「回心」を必要とする「創唱宗教」は、あまり好まれないのも、こうした「健全な心」が優越する風土だからであろう。
この点からいえば、源左の信仰を育んだ浄土真宗という宗教は、人間の悪や業を凝視するという点で特異といわねばならないが、その浄土真宗という宗教が、九州や中国、関西や北陸、尾張や三河、新潟といった地方に深く根をおろしていることも忘却してはならないであろう。
日本には決して、「一度生まれの心」の持ち主の宗教だけではなく、「二度生まれ」を必要とする人々の伝統もまた、それに劣らず強固なのである。ただ、東京の知識人たちがそのことに無知であるだけなのである。法然や親鸞以来、八〇〇年の長きにわたって伝承されてきた自国の宗教伝統に無知であってはばからないというのも、近代史の歪みなのであろう。知識人の常識とは無縁に、源左は今も日本の各地に存在しているのだ。日本人の宗教心の有力な可能性は、ここにも存在している。
「無宗教」を標榜する人々の伝統のほかにも、源左のような人々を生み出した伝統もまた、日本人の宗教心を形成しているということを私は紹介しておきたかった。
日本人の宗教心は、「無宗教」に終わるものではないし、また「無宗教」も子細に見てみると、豊かな内容に満ちていることも分かってくる。大切なことは、自分たちの歴史を正確に知るということであろう。自分たちの宗教心のあり方を、事実に即して正確に認識することなしに、日本人論も日本文化論も、またさまざまな国際比較論も成立はしない。
「無宗教」という以上は、日本における本格的な「無神論」の系譜も、尋ねる必要があることはいうまでもない。だが、本書ではあえてそれにはふれなかった。本書では、あくまでも日常生活のなかで、ごく普通に使用される「無宗教」という言葉の内容を確かめることに焦点を絞った。読者の了解を得られれば幸いである。
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あとがき
ある新聞が電車の不正乗車であるキセルについて特集を組んだところ、キセルが栄えるのは、日本人の多くは「無宗教」に近く、西欧のように、神の教えに照らして我が身の行いを律するという考えが欠けているからだという意見が寄せられた(一九九六年四月一日付朝日新聞)。
キセルの原因が「無宗教」にあるとは、おそれいるが、これほどでなくとも、キリスト教の浸透した西欧社会と比較して、日本人の精神生活を「無宗教」と決めつけて非難するのは、今でもときに知識人が好むところである。
民衆の側も、あなたの宗教は何かと質問されると、生まれたときは神社に詣で、結婚式はキリスト教の教会で、死ねば仏教寺院の世話になるといった生活を思い起こして、「無宗教」だと答えてしまう。
「宗教」という言葉は、明治になってから生まれた。その事情は本文に紹介したから繰り返さないが、「無宗教」という言葉は、「宗教」という言葉が広まるとさっそくに登場してくる。
たとえば、ハワイで発行されていた『同胞』という雑誌では、一九〇三年に「猿の人真似したる日本帝国と無宗教の日本国民」という論説が掲載されている。キリスト教社会のなかで生きる移民たちであればこそ、「無宗教」という言葉が重みをもったともいえるが、当時すでに「無宗教」は立派な日本語であったことがうかがわれる。
また、日本国内で一八九三年に出版された雑誌では、福沢諭吉が「無宗教家製造の本家」と記されている(『法話』五二号雑報)。
それにしても、このような事例を見ると、日本人は、かれこれ一〇〇年にわたって「無宗教」という言葉を愛用(?)してきたことになる。しかもその間、「無宗教」の中身を十分に吟味する試みはほとんどなかった。不思議といえば不思議、驚きといえばこれほどの驚きはない。
私は、宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとってもっとも基本的な営みだと理解している。このような大切な営みに対して、日本人が長年にわたって「無宗教」の一言ですましてきたということは、尋常なことではない。必ずや深い理由があるのだ。その理由を明らかにしない以上、日本人の精神生活は痩せ細り続けるように思われてならない。
本書では、「無宗教」という言葉が生まれてくる事情を、二つのレベルのちがった歴史をたずねることで明らかにしようとした。一つは、明治以来の近代史であり、もう一つは、もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史である。こうした複眼的な説明を必要とするほど、日本人の「無宗教」の根は深い。書き終えてあらためてそのことを実感する。
なお、第四章には、『国際学研究』第一三号に掲載した拙論「柳田国男における『悪』の認識」の一部を吸収した。また本書は、さきに刊行した拙著『国家主義を超える――近代日本の検証』の姉妹編といってよい。あわせてお読みいただければ幸いである。
おわりに、本書の題名やレイアウトに知恵をしぼっていただいた編集部の井崎正敏氏にお礼を申し上げたい。
一九九六年八月二六日
[#地付き]阿満利麿
阿満利麿(あま・としまろ)
一九三九年、京都市に生まれる。京都大学教育学部卒業後、NHKに入局。社会教養部チーフ・ディレクターを経て、現在、明治学院大学国際学部教授。主要研究テーマは日本思想史。とくに近代における宗教と政治の関係。主な著書に『日本人はなぜ無宗教なのか』、『宗教の深層』、『法然の衝撃――日本仏教のラディカル――』、『仏教を生きる』ほか。
本作品は一九九六年一〇月、ちくま新書として刊行された。