「僕の血を吸わないでA ピーマン戦争」
阿智太郎
第一章 動き出した執行者なのよ
1
「金子《きんこ》さん」
「吉沢《よしざわ》くん」
「金子さん」
「吉沢君」
「金子さん」
「吉沢君」
「金子さん」
「吉沢君」
ここは深夜の公園。
月の光を浴びて神秘的にきらめく噴水《ふんすい》の脇《わき》の、恋を語るにはいささか無理《むり》があるんじゃないかっていう象《ゾウ》さんの形のベンチ。
それでも恋する男女にとって場所など些細《ささい》な問題だった。
たとえ二人を照らすのが点滅《てんめつ》する壊《こわ》れかけの電灯だとしても、足下に煙草《タバコ》の吸殻《すいがら》だの犬のウ○コだの空缶だのが転《ころ》がっていようとも、二人の熱烈《ねつれつ》モードに突入しさえすればそこは天国なのである。
「金子《きんこ》さん」
「吉沢《よしざわ》君」
相手の瞳《ひとみ》に映る自分の姿が見えんばかりの距離で、二人は手を取り合い名前を連呼しあった。
馬鹿《ばか》のように。
しかしここでそんなヤジを飛ばせば馬に蹴《け》られることだろう。
「金子さん」
「吉沢君」
「金子さん」
「吉沢君」
かれこれ十数分前からこれの繰り返しである。
一体何回相手の名前を口にしているのだろうか?
正解は三百六十八である。
何のことはない。数えている暇《ひま》な奴《やつ》が近くの茂みの中にいたのだった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
少女は真っ赤になった頬《ほお》を押さえた。
小柄《こがら》な体を黒いローブで覆《おお》い、目に覆い被《かぶ》さるようなストレートの銀髪《ぎんぱつ》が月光に反射して輝いている。うっすらと開かれた薄い唇《くちびる》から覗《のぞ》くのは、小振りながらしっかりと尖《とが》った二本の犬歯《けんし》。
知っている人は知っているだろうけど知らない人は全然《ぜんぜん》知らないだろうから説明しよう。
彼女の名前はジル。
血統書は持ち合わせていないが正真正銘《しょうしんしょうめい》の吸血鬼《きゅうけつき》である。
ジルは頬を熱くしながら一組のカップルを観覧し続けた。
観覧である。またの名を覗きともいう。
「金子さん」
「吉沢君」
それまで名前を呼び続けあっていた二人が不意《ふい》にその口を閉じる。
食い入るように相手を見つめてから、どちらからということなく目を閉じた。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
ジルは好奇心まんまんで脳細胞の中の火山を噴火《ふんか》させる。脳細胞が個体数としてどのくらいあるのか知らないがおそらく天文学的な数の火山が爆発したであろう。
なんてったってジルの目の前ではまさに今、愛でディープでドンジャラホイが行われようとしているのだから。
ジルはゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。
そしてお約束通り目の前の二人は接合する。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
高鳴る心臓の乱調を押さえつつジルは息を荒くした。
思えばこんな光景にお目にかかったことは百年以上生きている彼女の人生においても初めてのような気がする。
当然こんな心になったのも。
いや以前の彼女ならたとえこの光景を目にしてもこんな心境にはならなかったであろう。
彼女の頭には空想という名のパラダイスが浮かび上がっていた。
ベンチに座る一組の男女。
バックが埴輪《はにわ》と土偶《どぐう》、食い倒れ人形だとかベンチが酒樽《さかだる》だとか空にモスラが飛んでるとか、そういう細《こま》かい部分は放っておこう。とにかくお互いに見つめあって恋愛モード百パーセントに突入しているのだ。
当然言うまでもなく一人はジル本人。
そしてもう一人は…………垂《た》れ目《め》のいかにも情けない顔をした青年。
彼の名は花丸森写歩朗《はなまるしんじゃぶろう》。
二月程前、吸血鬼狩《きゅうけつきが》りに追われていたジルをかくまい、時にはエネルギーの補給に自ら進んで協力した大変|奇特《きとく》な高校三年生である。
結局ジルは相変わらず居候兼《いそうろうけん》家政婦のようなことをしながら花丸宅に住んでいるのだった。
もう………駄目《だめ》。
あまりにも激しい唇《くちびる》と唇の大相撲を前に耐えられなくなったジルは大地を蹴《け》った。
魔法《まほう》でも見ているかのようにジルの体がフワリと浮かび上がる。
もっとも熱中しているお二人さんは気が付きもしなかった。
「はぁ」
ジルはため息を吐《は》き出した。
思えば、森写歩朗とはいわゆる男と女の進展というものが全くないように思われる。
「このままじゃいけないわ」
ジルは拳《こぶし》を固めた。
既《すで》に眼下には豆粒《まめつぶ》のようになった町並みが広がっている。
「ふふふふふ」
ちょっと不気味《ぶきみ》な笑みを浮かべてジルは大きくなったお月様にお祈りをした。
「どうか今月中に森写歩朗《しんじゃぶろう》と小指一本分でもいいから進展が見られますように」
お月様は何も答えてはくれなかった。
「ふふふふ」
ジルは恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を押さえながら夜の町を飛び続けた。
2
「ひぃぃぃっくしょん」
マンションとは名ばかりの古ぼけたアパートの八階。
居間でプレステをやっていた森写歩朗は激しくくしゃみをかました。
鼻の下をこすりしみじみと呟《つぶや》く。
「やっぱ秋の夜に半袖《はんそで》ってのがまずかったかなぁ」
相変わらずのんぽりとした表情、エアインチョコレートのヌーボー君のような顔を持つ、愛と青春という壮大かつ遠大な単語とは無縁《むえん》すぎて涙が出てしまう高校三年生、花丸《はなまる》森写歩朗である。
相変わらずおかしな名前に変化はなかった。
十一月初めの夜十時、世の普通科高校三年生ならば受験勉強に勤《いそ》しむべき時間なのかもしれないが森写歩朗がやるわきゃねぇえってもんだ。
十一月の段階で進路のしの字にペンすら入れていない。
「しゃむいしゃむい」
ゲームに熱中して汗《あせ》ばんできたため脱ぎ捨てた上着を引き寄せると軽く羽織《はお》る。
「さてと」
心機一転《しんきいってん》森写歩朗はコントローラーにかじりついた。
「う〜〜〜ん。どうすればベルゼブブが倒せるんだろうか? あまり長く見ていたくないボスキャラだしなぁ」
彼が珍《めずら》しく思案《しあん》するそんなおり、鍵《かぎ》をかけずに閉じてあった窓ガラスがガラガラと開かれた。
八階である。
こんな所から入ってこられるのは改造人間か宇宙人か吸血鬼《きゅうけつき》か忍者《にんじゃ》ハッタリ君ぐらいであろう。
森写歩朗は明け放たれた窓を見もせず口を開いた。
「お帰り。ジル」
窓から入ってきた人物は目をぱちくりさせた。
よれよれの派手《はで》な背広によれよれのネクタイ。酒で真っ赤になった無責任そうな顔。
傍若無人《ぼうじゃくぶじん》一代男、花丸|辰太郎《たつたろう》は不可解そうな顔で尋《たず》ねた。
「ジルさんはいつもこんなところから帰ってくるのか?」
「と、父さん!」
口をパクパクさせる森写歩朗《しんじゃぶろう》。
思わぬカウンターパンチをくらった気分だが、なんとか切れかけのスタミナで持ちこたえると森写歩朗は息の漏《も》れるような声で、
「な、なんでそんな所から帰ってくんの?」
「荷物持って階段登るのがきついんだよ」
荷物持って階段登るよりも荷物持って壁《かべ》よじ登る方が肉体的|疲労度《ひろうど》は大きいんじゃないかしら? とも思う森写歩朗だったがあえて口にはしなかった。
父親の真っ赤な顔色からうかがえることが一つあるからである。
彼は今|無敵《むてき》の酔拳《すいけん》2モードに入ってるのだ。
辰太郎《たつたろう》な何事もなかったかのように、腰につながれ窓の外に垂《た》れ下がっているロープをたくりあげた。
「お土産《みやげ》だ」
等身大カーネルサンダースとケロチャン人形が辰太郎に続いてこんばんはする。よく街頭に立ってるあれである。
「ペコちゃん人形は昨日拾ってきたからこれでコレクションは揃《そろ》った」
森写歩朗は嘆息した。
これを謝りつつ返却しに行くのは他《ほか》ならぬ自分の仕事だなと悟《さと》ったからである。
「で、ジルさんは?」
「え、ああ」
吸血《きゅうけつ》という名の食事をしにいっているとは口が裂《さ》けてもいえない。
「ちょっとコンビニへ買い物に……」
「なんだそうか。ちくしょーせっかく今日こそ二人でこの幻《まぼろし》の名酒、『馬の洗水《あらいみず》』を飲み明かそうと思ったのに」
懐《ふところ》から一升瓶《いっしょうびん》を取り出すと辰太郎《たつたろう》はデンとばかしに脇《わき》に放り投げた。
「じゃあジルさんが帰ってきたら伝えてくれないか? 留守《るす》を頼むって」
「また仕事なの?」
「ああ」
辰太郎はこう見えても英語べらべらの無敵ツアーコンダクターなのである。
「俺《おれ》、英語しか話せねえのになんかどっかの島国のガイドしろって言われちまったんだ」
「英語じゃないの?」
「スンチカラマリ語とかいう言語らしい」
聞いたこともない言語だった。
「行ったことは?」
「当然ない!」
不思議な自信で胸を張る父親。
「大丈夫かよ」
「安心しろ。そのために今日『本屋たらいまわしツアー』に参加してその島のガイドブックを千八百六十円(消費税込み)で購入してきたんだからな」
ツアコンが前日に現地のガイドブックを購入する。
ひどいツアコンがいたもんだがそれを黙認《もくにん》する会社もとんでもないものである。
「まあなせばなる。案《あん》ずるより産《う》んじまうが易《やす》し。猿《さる》も木から落ちる」
最後の諺《ことわざ》は違うような気がするが。
「なんとかなるだろ。一応挨拶《いちおうあいさつ》だけは覚えてきたんだ」
辰太郎は何やら腰を前後に揺《ゆ》らしながら、鼓膜《こまく》に響く胴間声《どうまごえ》で、
「パンナコッタナタデココナッツタピオカ」
「何か一昔前にブームが去ったトロピカルデザートの名前を羅列《られつ》しているだけのように思うんだけど」
「一応、そのスンチカラマリ語で初めましてって意味らしいんだがな」
「その腰の動きが重要なのか?」
「これで多少意味が変わってくるらしい」
世の中にはまだまだ知られていない変わった言語体系を持つ国があるんだなぁとしみじみと思った。
「とにかく明日朝一番で名古屋空港まで行かなきゃなんねえからなぁ。さっさと眠らないと」
いそいそとソファーに枕《まくら》やらタオルケットやらを用意する辰太郎《たつたろう》。
「一月くらい留守《るす》にするがまぁジルさんと仲良くやってくれや。孫の顔を楽しみにしてるよ」
冗談《じょうだん》とも本気ともとれぬことをのたまうと辰太郎はゴロリと横になった。
「一カ月か」
間髪《かんはつ》おかずに響き出す鼾《いびき》のソロの中、どうかその一カ月、平穏《へいおん》無事に過ごせるようにと祈る森写歩朗《しんじゃぶろう》だった。
3
「森写歩朗! 森写歩朗!」
ジルに揺り起こされた森写歩朗はうっすらと目を見開いた。
「う〜〜〜〜ん」
「朝だよ森写歩朗。朝なんだってば」
「夜明けのこない夜はないさ」
森写歩朗はどこかで聞いたことのあるような歌のフレーズを口にして寝返りを打った。
だるい、眠い、寒いの三拍子である。
森写歩朗はかけ蒲団《ふとん》を引き上げようと手を伸《の》ばした。
馴染《なじ》みの布団の感触《かんしょく》が手に走る。
「森写歩朗ってば」
「ん……ん」
うっすらと目を開くが馴染みの自室の天井《てんじょう》を見つめただけでまた眠りの世界へいざなわれてしまう。
「もう!」
不機嫌《ふきげん》そうなジルの声が聞こえる。大方頬《おおかたほお》でもふくらましていることだろう。
「学校|遅《おく》れちゃうよ」
学校遅れちゃうか。それは大変だなぁ。
他人事《たにんごと》のように心中で呟《つぶや》く。
遅れちゃったら遅刻だもんなぁ。遅刻って事は出席日数危なくなっちゃうもんな。確か一時限目は数学だったけや。先週やった実力テストが返ってくるんだ。あんなもの返してくれなくてもこっちは一向《いっこう》にかまわないんだけどなぁ。ど〜〜せ三十点行ってるか行ってないかだろうし。そういえば数学の先生なんか言ってたなぁこの前。え〜〜〜と。確か、君は出席日数が危ないからこれ以上欠席すると卒業が危なくなるよ。もっとも成績も問題があるが出席日数だけは後で挽回《ばんかい》出来ないからなぁ。待てよ、お前成績の方、挽回出来るのかぁ? 出来ないような気がするなぁ。じゃあいいや、お前、もう学校来なくても。来年また一緒《いっしょ》に勉強しようか。古老って呼ばれるようになるぞ。兄貴《あにき》とか大先輩《だいせんぱい》とか…………。
「いやだぁぁぁぁぁぁぁ」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は飛び上がった。
「僕はそれだけはいやなんだ」
「どうしたの?」
キョトンとするジルに一応《いちおう》朝の挨拶《あいさつ》を交わすと森写歩朗はクローゼットへ駆《か》けより中から学生服を取り出した。
朝日に滅法《めっぽう》弱いジルの体質のため部屋のカーテンというカーテンはきっちりと閉められているが、その隙間《すきま》から漏《も》れる日の光はお天道様《てんとうさま》ががんばっている証拠《しょうこ》である。
時計を見る。
午前八時三十分。
「どっひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
森写歩朗は大げさに驚いた。
三十八秒後、森写歩朗は制服に着替えて朝食のパンをくわえてジルの作った弁当を持って玄関で慌《あわ》ただしく靴を履《は》いている。
朝寝坊というトレーナーに厳《きび》しく鍛《きた》え抜かれた彼だから出来る大技《おおわざ》である。
「森写歩朗!」
ずっと取り残されていたジルが森写歩朗の袖《そで》を掴《つか》む。
「何だよジル。僕今、見て分かるようにとっても忙《いそが》しいんだ」
「あのね、あのね、森写歩朗」
「父さんのことか? 父さんは一月くらいどっかの島国へ行ってくるって言ってたぞ」
「違う。ダディのことじゃなくて」
「開けポンキッキーズのムックは、僕は昔から毛虫だと思ってたがあれは雪男らしいぞ」
「誰《だれ》もそんなこと聞いてないって」
「帰ってきてからじゃ駄目《だめ》か?」
「あのね」
ジルはこの一言が言いたかった。
私をデートへ連れてって。
しかしあまりにもストレートすぎて顔が熱くなってしまう。
ただでさえ朝は調子が悪い。言った矢先|卒倒《そっとう》してしまうかもしれない。
それならば夜森写歩朗が帰ってきてから言えばいいのだがそれでは遅《おそ》すぎる。
男はデートのために綿密《めんみつ》かつ巧妙《こうみょう》な計画をたてるそうだ。
そのはずだ、そうに決まってる。週刊誌に書いてあったのだから。
だから最低一週間の猶予《ゆうよ》は与えてあげなくてはならない。
「あのねあのね」
ジルは心の中で数回シミュレートしてから、よし自信がついたなと大きく息を吸い込んだ。
しかし森写歩朗《しんじゃぶろう》の顔に目をやると口から出てくるのはかすれた声だけで、
「私をね」
「ああ」
「デ、デ、デ」
「デ?」
「デ、デ、デ、……デンジャラスプレイスオマットサンナンテコッタイ! って知ってる?」
「何それ?」
ジルは何も答えられなかった。
自分でも何を言ってんのか分かんなかったからである。
「つまりね」
ジルは頭を垂《た》れた。
覇気《はき》というものが体の中に感じられない。
まいっちまう状態だった。
そうだ!
別にデートと言わなくてもいいじゃないか。
デートというから妙に緊張《きんちょう》してしまうのだ。
どっか遊びにつれてってとかそういうことを言えばいいのだ。
ジルは心の中で芽を出した勇気の花を大切に育てた。
勇気の芽はやがて立派《りっぱ》に花をつける。
「あのね、来週あたりどっかへ遊びに連れてってほしいんだけど」
言った。
言ってしまった。
自分でも百点満点をつけたくなるほどアッサリと言えた。
が……………。
目の前はドア。
ドアと自分の間に肝心《かんじん》の人物が見当たらない。
ジルは目をぱちくりさせそれが目の錯覚《さっかく》でもなんでもないことを確信した。
虚空《こくう》に手を伸《の》ばして森写歩朗が突然《とつぜん》透明人間になってしまったという可能性を確かめるが、手は何の抵抗《ていこう》も受けずに空《くう》を掴《つか》む。透明人間ではない。
三秒ほどたった後、ジルはそこに森写歩朗がいないということを理解した。
代わりに受話用のメモ用紙が一枚、下駄箱《げたばこ》の上に乗っていた。
手に取る。
『ちこくするとこまるからいく。じゃあね』
ちったあ漢字使えよ!
そんなツッコミを入れる気にもなれないほど、ジルはつよい怒《いか》りを覚えた。
「馬鹿《ばか》! 森写歩朗《しんじゃぶろう》!」
早朝ながらこの時の波動で森写歩朗宅のガラスに小さなヒビが入ったことを記録しておく。
4
時が過ぎて行くのは早いもの。
楽しい楽しい放課後がやってきた。
籠《かご》の中の小鳥が小さな羽根を精一杯に広げて空へとはばたく瞬間《しゅんかん》。
数少ない演劇部員、飯波《いいなみ》高校二年、歩くコケチッシュガール大売出し、三石秋子《みついしあきこ》はいつものとおり腐《くさ》った部室で本を読んでいた。
題名は『シーフードワールド』、ごく普通のオカルトファンタジー小説である。
「はぁ」
三石はうっとりとした目で虚空《こくう》を見つめるとため息を吐《は》き出した。
「いいなぁ」
例にもれず目には星なんか浮かんじゃっている。
「私も半魚人の恋人が欲しい」
欲しいか? 普通。
「あ、三石ちゃん」
ドアが開かれ目の覚めるような美人が顔を出す。
彼女の名前は倉地香《くらちかおり》。
自他共にこれでもかってくらい認めまくる美少女で、プライドがチョモランマのように高くてタカビーで世界で一番自分が偉《えら》いと思ってて、男は自分の言うことならなんでも聞くって思ってて…………まあそういう少女である。
彼女は森写歩朗に自分の価値を分からせるためだけに、森写歩朗について逐一《ちくいち》調べ上げて、さらに演劇部なんてマイナーすぎて表彰されてしまうような部に入ったのだ。
そしてそれだけでは飽《あ》きたらず森写歩朗相手に毎日自分の美しさをアピールしているなかなか根性《こんじょう》入ったお嬢《じょう》さんである。
「トーマス来てる?」
トーマスというのは倉地が森写歩朗につけた仇名《あだな》である。語源はよく分からないが……。
「花丸先輩《はなまるせんぱい》まだ来てないですよ」
「そう。やっぱり補修ね」
倉地《くらち》はコクコクと頷《いなず》いた。
「数学の実力テスト悪かったから」
「相変わらず詳《くわ》しいですねぇ」
三石《みついし》は疲《つか》れのこもった声で言った。
「でも補修って平均点の半分以下の人なんでしょ」
「そうよ。今回の数学は確か平均点が五十点くらいだったから二十五点くらいとれないと補修になるのよ」
「花丸先輩《はなまるせんぱい》。とれなかったんですか?」
「あいつがとれるわけないでしょ。とれるほうが不思議よ。あいつが数学で平均点とったら私あいつと結婚してやってもいいわ」
「あまりそういうこと軽々しく言わないほうがいいですよ。また花丸先輩が訳の分からない連中に襲《おそ》われることになるかもしれないから」
飯波《いいなみ》高校に存在する倉地ファンクラブの結束力、そして機動力は尋常《じんじょう》でないものがあるのだった。
「参考までに聞きたいんですけど花丸先輩どのくらいだったんですか?」
「あまり人のテスト結果言うの好きじゃないんだけどね」
だったら調べるなよと言いたいのを三石はぐっと飲み込んだ。
「平均点の半分で赤点。赤点の半分で青点。青点の半分で黄色点」
ということは平均点の半分の二十五で赤点。その半分の十二くらいで青点。その半分の六点が黄色点。
「まさか黄色点ってことはないでしょうね」
倉地はひどく緩慢《かんまん》な動作で首を横に振った。
「かわいそうにね。あいつの場合何倍しても平均点いかないのよ」
その言葉が点数の所に丸が一つという偉業《いぎょう》だということに三石は間もなく気がついた。
「すごい」
比較的優等生の三石はそう呟《つぶや》くことしか出来なかった。
5
時と場所が変わってこちらは悪名高きマニラ空港。
南海の島国への直航便は当然ながら存在しないため、やむをえずこうやって乗《の》り継《つ》ぎを繰り返しているのだった。名古屋空港。成田空港。マニラ空港。あとどっかの島の空港を経由してやっと目的地のスンチカラマリ島へ到着する。
無敵ツアーコンダクター花丸辰太郎《はなまるたつたろう》は二十人からなるツアー客一個|師団《しだん》をひきつれ次なる飛行機の出発時刻を待っていた。
すでに二十人分のボーディングパスが鞄の中には放り込まれている。
「ぷは」
日本からはるばる運んできた二ダースのビールもそろそろ終わりに近づいていた。
もちろん一人で飲み干したのである。
「しかし、まぁこうやって飛行機を待つ時間ってのは慣れるもんじゃねえんだよなぁ」
こんなことなら成田空港出る時にテトリンとかなんとかいうオモチャ買ってくればよかった。
辰太郎《たつたろう》は大きく息を吐《は》き出した。
まだ出発時刻までは一時間ほど時間がある。三十分前から搭乗《とうじょう》出来るとしてもまるまる二十分以上は時間があった。
仕方がない。
辰太郎は立ち上がった。
お客さんを退屈《たいくつ》させないのがツアーコンダクターの仕事である。時間があるのならば、落語なり水芸なり腹踊りなりして場を盛り上げなくてはならないのだ。
「ツアーコンダクターさん」
マジックで腹に目、鼻、口をかき始めた辰太郎は、背後《はいご》からの可愛《かわい》らしい声に振り返った。
そこにはツアー参加者の証《あかし》であるネームを胸につけた二十歳前後のなかなか可愛らしい女性が微笑《ほほえ》んでいた。
辰太郎は女性のネームを一瞥《いちべつ》した。
『鈴木《すずき》奈緒《なお》』
思わずなおちゃん、と呼びたくなるところだがそれは控えなければならない。
辰太郎は残り少ないプロ意識で抑制した。
「どうかしましたか鈴木さん?」
努《つと》めて慇懃《いんぎん》に話しかける。
「あの質問なんですけど」
「はい」
「現地ではカメラのフィルムは買えるでしょうか?」
辰太郎はよく知らなかった。
なんてたって彼も初めてなのである。
ツアコンなんて看板《カンバン》背負ってるが、正直言って島についての知識量といえば目の前の女性のほうがはるかに上そうだった。
「あはははは」
辰太郎は適当に笑った。
そしてもっともらしく言った。
「光景ってね、カメラで撮《と》るものじゃないと思いますよ」
「え?」
「フィルムならここにあるじゃないですか?」
鈴木《すずき》の頭を指さす。
辰太郎《たつたろう》のいわんとしていることが分かったのだろう。鈴木は顔を綻《ほころ》ばした。
「そうですね」
決してスンチカラマリ島について何も知らないがゆえの言動ということには気が付かない。
「鈴木さんは社会人かな?」
話題を変えるため辰太郎は鈴木の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「いえ、こう見えても女子大生なんですよ」
屈託《くったく》のない笑顔を見せる鈴木。
へえ。
辰太郎は思った。
感じよい娘《こ》やん。
年が年ならそのまま口説《くど》き落としたくなる。
「私ね、昔からの夢だったんです」
鈴木は目の中にキラキラと光るお星様をだいたい三十くらい出現させた。
「スンチカラマリ島のパラパッパの遺跡《いせき》を訪ねることが。ツアーコンダクターさんはもう何回も見ていらっしゃるんでしょ?」
「いや、私も楽しみですよ」
なんせ初めてだからなぁ、とはさすがに言えない。
「やっぱ、素晴《すば》らしいですか?」
「そりゃ。まあね。その言葉に出来ないくらい」
物は言いようである。
「楽しみ」
鈴木の目の中からはみ出るんじゃないかってくらい星を広げている。
辰太郎は微笑《ほほえ》ましいものを感じた。
なんやかんやいってもお客さんの笑顔がツアコンにとって最高の報酬《ほうしゅう》なのである。
二番目は現地の地酒《じざけ》かな?
「見せてあげますよ」
辰太郎は歯切れのいい声で言った。
「どんなことがあっても、あなたにその遺跡を案内してあげますよ」
「ありがとうございます」
鈴木はまだよく知らなかった。
辰太郎《たつたろう》の言葉が嘘《うそ》でもなければおざなりでもないことを。
「しかし、一体《いったい》どんな島なんだろ」
辰太郎は空港のトイレの便座《べんざ》に腰を下ろしつつガイドブックを開いた。
『南海に浮かぶ孤島《ことう》。大自然と青い海に囲まれているスンチカラマリ島………つらつらつら』
まあ大体のところは理解した。
島国というわりには比較的発展している島らしく工業も盛んらしい。
古代カラチンタ文明の遺跡《いせき》というなんとも眉唾《まゆつば》な観光名所を全面に押し立てている。
名物料理はドジョウ鍋《なべ》。
ホテルでのリンボーダンスショーは世界的に有名。
おみやげとして椰子の葉を編んだ靴下が有名である。
「なんだかな〜〜〜」
辰太郎はこめかみをポリポリと掻《か》いた。
なんとなくツアー参加客を集めるのに会社が苦労した理由が分かったような気がした。
もしかしたらお客様苦情対策に俺《おれ》をよこしたんじゃねえか?
スンチカラマリ島が一端《いっぱし》の観光地であることを祈りつつ息を吐《は》き出す。
さてと、そろそろ行くか。
事後処理をしようとトイレットペーパーに手を伸《の》ばした辰太郎は手が空《くう》を切る感触《かんしょく》を覚えた。
「な…な」
案《あん》の定《じょう》トイレットペーパーが見当たらない。
「OH! MY! GOD!」
辰太郎は頬《ほお》を両手で押さえるとまるでムンクの叫びのような形相《ぎょうそう》で一声を上げた。
「紙がないではないか!!!」
紙がなくてはトイレから出て行くわけにもいかない。
非常に困った。
鞄を持ってはきているがその中にティッシュが入ってるほどおまめちゃんな人間ではない。
辰太郎は手にしていたガイドブックを見下ろした。
これで確かに用は足せる、用は足せるがしかし………。
「痛そうだな」
辰太郎はぽつりと呟《つぶや》いた。
「相当もみほぐさなきゃ駄目《だめ》だな」
などと呟く辰太郎のもとへ天の紙様がやってきた。
落下してくる聖《せい》なる紙。
それはまるで一羽の平和を司《つかさど》る鳩《ハト》のように辰太郎の手の中へ。
「ド―――ゾ。使ッテクダサイ」
外国人特有のカタカナの日本語である。
辰太郎《たつたろう》は隣《となり》の個室に向けて手を合わせた。
「義理を忘れたら人間ではない」
辰太郎は虚空《こくう》に向けてそう叫ぶと、隣の個室から出てきた人物に土下座《どげざ》すらせんばかりに頭を下げた。
その男、年は二十代後半といったくらいであろうか?
なにやら長い棒でも入っているような包みを手にしていることを除けば普通の旅行者である。
「気ニシナクテモイイヨ」
男は鷹揚《おうよう》に手を振った。
豪奢《ごうしゃ》な金髪《きんぱつ》を後ろでしばったかなりの男前である。
「アナタニッポンノ人デスカ?」
男は興味しんしん丸の目つきで辰太郎を見つめた。
「ああ」
「ジツハ、私コレカラ仕事でニッポン行キマス。ズットセブ島デバケイション取ッテマシタガ急ニ」
「なんてこったい!」
辰太郎《たつたろう》はやるせない気持ちのたくさん詰まったパンチをトイレの扉《ドア》へ打ち込んだ。
「俺《おれ》がいれば案内してあげれたのに」
「ソノ気持チダケデトッテモ嬉《うれ》シイデス」
「義理を忘れたら日本では生きていけないことになってるんだ。法律で」
「ソウダッタンデスカ」
男は感心したようにポケットからメモ用紙を取り出すと何やら書き込んでいる。
「こんな所で知り合ったのも何かの縁《えん》だ。ちなみに日本のどこへ行くんだい?」
「長野《ながの》県ノ飯波《いいなみ》トイウ所」
「なんてこったい! パート2!」
辰太郎はこんなことってあるかい信じられないぜって気持ちがたくさん詰まったキックをトイレの扉へ浴びせかけた。
崩《くず》れた扉の脇《わき》で辰太郎は親指の爪《つめ》を噛《か》んだ。
「俺が住んでる所じゃないか」
「ソウナンデスカ」
さすがに男も驚いたらしく目を丸くしている。
「こりゃますますほったらかしにしておくわけにはいかねえぜ」
辰太郎は一秒くらいほんのちょっぴりじっくり考えるとポンと手を打った。
「よかったら日本で俺の家へ寄ってくれないか? 息子《むすこ》がいるはずだ。俺言っておくからよ」
「気ニシナクテモイイデス」
「いや!」
辰太郎は男にずぃぃぃってばかしに近寄ると、凶々《まがまが》しい光を放つ眼光ビームで男を射貫《いぬ》いた。
「義理を忘れたらおしまいなんだよ」
あまりもの高出力の眼光ビームに、男は怯《おび》えの混じった目を向けながら小刻《こきざ》みに首を縦に動かす。
辰太郎は男の手からペンとメモ用紙をひったくると何やらサラサラと書き連ねる。
「何か困ったことがあったらぜひ訪ねてくれや。なぁ。こいつわたせばあいつも分かるから」
それから辰太郎は目を細めると、
「ちなみに、日本語読めるかい?」
「エエマア。難シイ漢字意外ハ」
「それなら問題ないだろう」
ひとしきり書き連ねるとメモ帳をパタンと閉じて男にわたす。
「お、自己紹介が遅《おく》れちまったな」
辰太郎はトイレを出てから洗ってもいない手を無造作《むぞうさ》に突き出した。
「花丸辰太郎《はなまるたつたろう》。ツアコンやってる。よろしくな」
男も同じく洗ってもいない手を突き出した。
「ミルカ・ベル・モンドー、ト言イマス」
「へえ」
二つの洗ってない手が絡《から》み合って和《なご》やかな雰囲気を醸《かも》し出した。
「ぜひ寄ってくれよ。な?」
「エエ、機会ガアリマシタラ」
「ところでまあこんなこと聞くのも野暮《やぼ》だがどんな仕事してるんだ?」
男、いやミルカ・ベル・モンドーは意味ありげに唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
そして言った。
「狩人《かりうど》ヲシテイマス」
第二章 メガトン級の憂鬱
1
「ふ〜〜〜」
風呂《ふろ》上がりのコーヒー牛乳。
「まいったまいった」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は自室のベッドに腰を下ろすとそう吐《は》き出した。
何がまいったのか説明すると、それだけで原稿用紙がうまっちまうくらいまいっているのである。
例えばまいってしまう要因その1。
連日の補修がかなりつらいのだ。もっとも補修の時間中何をしているのかといえば、数学教師の頭蓋骨《ずがいこつ》の中身をあれこれ想像しているだけなのだが。
本来なら自由を満喫《まんきつ》するはずの放課後、行きたくもない教室へ行って聞きたくもない宇宙人の方程式(森写歩朗《しんじゃぶろう》感)を聞いてせっかくの自由にあふれた時間をまるまるつぶされるという苦痛は耐え難いものだった。
補修が終わると、とぼとぼと家路につくしかないのだが、そこにまいってしまう要因パート2があるのだ。
なぜだかその理由はさっぱ分からないが、最近どうもジルが不機嫌《ふきげん》なのだ。
そして最大級にまいってしまう要因パート3。
森写歩朗は床《ゆか》に広げられた恥《は》ずかしい衣装《いしょう》に目を落とした。
三日前の倉地《くらち》の話が思い浮かぶ。
森写歩朗は頭を抱えた。
「とまぁそういうわけで」
補修教室から森写歩朗を拉致《らち》してきた倉地|香《かおり》は、部室の部長席に腰を下ろすともったいをつけるように話し始めた。
「そうなっちゃったわけなのよ」
「はぁ」
「だから頼んだわよ」
森写歩朗はそう呟《つぶや》くことした出来なかった。
何がどうなったかさっぱり分からなかったからである。
いやそれは別に森写歩朗一人にいえることではなかった。
「倉地|先輩《せんぱい》。どういうことなんですか?」
三石《みついし》もよく分からないといった波動をその可愛《かわい》らしい瞳《ひとみ》から発している。
倉地は部室|唯一《ゆいいつ》の窓から見える夕焼け空を見上げながら、
「理不尽《りふじん》なんだけどね」
それから付け加えるように、
「やりたくないんだけどね」
さらに付け加えるように、
「決まっちゃったことなんだけどね」
「だからなんなんですか?」
森写歩朗の質問に倉地は目の前で指をビシッと立てて一言。
「演劇部三年生。最後のお仕事よ」
基本的に演劇部を初めとする文科系の部活は、日の目を浴びる舞台《ぶたい》というものが運動部に比べて極端に少ない。
演劇部は文化祭、そして演劇コンクールと年間で晴れ舞台は二回。
コンクールが終わった後はそれこそ卒業を待つ隠居《いんきょ》老人となり、縁側《えんがわ》で茶をすするしか道はないはずである。
はずではあるが……。
「今日ね、片町《かたまち》先生から聞いたんだけど」
倉地《くらち》はこの潰《つぶ》れかけ演劇部の顧問である古典教師の名前を上げた。
「特別|要請《ようせい》があったらしいわよ」
「特別要請?」
異口同音でその言葉を口にする二人。
「そう、飯波《いいなみ》高校史上初にして県大会へ進んだ優秀なる演劇部の劇を、ぜひ一目みたいと出動要請がかかったらしいわよ」
つまり飯波高校演劇部|開闢《かいびゃく》五年目にして初めて競争率三倍の県大会へと進んだ優秀と思われている部の、面白いかどうかなんて分かんない劇をものの話にちょっと見てみんべや、と気紛《きまぐ》れから思った学校があるということだった。
「う………」
実際|傍迷惑《はためいわく》な話である。
前回の悪夢《あくむ》が蘇《よみがえ》った。
ついでに笑いものになる自分の姿も脳裏《のうり》に浮かび上がった。
発表までの日数はめちゃ短い。
まだセリフは完全に忘れてはいないが非常に抵抗《ていこう》を感じるのは事実である。
市民ホールだって!!!
それほど大きくないホールだがそれなりに席数もある。
他校の演劇部相手に見せるのはまだいい。多少|恥《は》ずかしいことをしても彼らも一度はわたった修羅《しゅら》の道、その苦労を分かち合える。
しかし相手が素人《しろうと》となると話はまったく別だ。
容赦《ようしゃ》なく笑いものにされる。
その笑いに同情という文字はない。
「まいったなぁ」
森写歩朗《しんじゃぶろう》がゴロリとベッドに横になって目を閉じた。
ガラガラガラガラ。
自室の窓が開かれる音が耳に飛び込んできた。
目を開けて確かめる必要もない。
ジルが帰ってきたのだ。
いくらなんでも父アゲインってことはないだろう。
順調にいってれば父|辰太郎《たつたろう》は今頃《いまごろ》どっかの孤島《ことう》でツアー客相手に酒を飲んで暴《あば》れているはずである。
「ただいま」
心なしか素《そ》っ気《け》ない口調でジルが帰宅を告げた。
「お帰り。早かったな」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は立ち上がると陰陰滅滅《いんいんめつめつ》とした心うちでも吐《は》き出してすっきりしようと、
「あのさジル」
しかしジルは無言でスタスタと部屋を通りすぎて行ってしまった。
「つれないなぁ」
よく意味も分かっていないがとりあえずそう呟《つぶや》いてみる。
プルルプルルルルル、プルルルルルルルルルルルルルルル。
なんとも推《お》し量《はか》ったようなタイミングで電話が鳴りだし、森写歩朗はよいこらと立ち上がった。
「もしもし。花丸《はなまる》です」
森写歩朗は受話器をとると当社比1・5パーセント増しのよそいきの声で応じた。
『おう、森写歩朗か? お前の親友だが』
受話器から黒縁眼鏡《くろぶちめがね》かけて恰幅《かっぷく》がよく、そいでもってちょっぴりオタク入ってるような声が聞こえる。
「なんだ。西尾《にしお》か」
合唱部所属、森写歩朗の悪友だが倉地《くらち》ファンクラブからいわれのない攻撃を受けたりした時なんかに救ってくれる頼りになる男である。
『なんだとはなんだよ。ど〜〜せお前のところなんかにかけてくる女なんていないだろうに』
「で、何の用事?」
『おお、実はな』
受話器の向こうで西尾は声を潜《ひそ》めた。
『映画のチケットが二人分あるんだが買わないか?』
「チケット?」
『ああ、今月中ナイト劇場ならいつでも使える。千五百円でどうだ?』
「どうしたんだよ。映画のチケットなんて」
『まあ、いろいろあって俺《おれ》のところにまわってきちまったんだがな。どうも俺はこの手《テ》の映画って好きになれないんだ』
「遠慮《えんりょ》しとくよ」
『頼むよ。今月この千五百円がなければ俺は天竜川《てんりゅうがわ》に浮かぶことになりそうなんだ』
西尾の冗談《じょうだん》を聞いている暇《ひま》はなかった。
『この前助けてやったろ』
冗談を聞いている暇はなかったがさすがに西尾には恩義《おんぎ》がある。倉地ファンクラブから命を守ってくれた手前あまりそっけない態度もとれない。
「分かった」
森写歩朗《しんじゃぶろう》はしばし沈思《ちんし》した結果|承諾《しょうだく》の返事を返した。
「買うよ」
『ありがとよ森写歩朗。ペアだから。女の子でも誘《さそ》っていけよ。いや〜〜〜。お前は俺《おれ》の命の恩人《おんじん》だよ』
西尾《にしお》はひとしきり感謝感激雨と霰《あられ》の言葉を連発させると一方的に電話を切った。
「ペアねえ」
脳味噌のデータベースを散策《さんさく》するが誘うような女の子はいない。
倉地《くらち》の顔が頭に思い浮かんだが問答無用で消え去った。
三石《みついし》の顔が頭に思い浮かんだが数秒|思案《しあん》した後サヨナラした。
「まぁせっかくだしな」
森写歩朗は裸足《はだし》の足をぺたりぺたりさせながら居間へと向かった。
ジルがソファーに座りテレビを見ていた。
「ご飯はすんだのか?」
森写歩朗の問いにジルは無言で首を振った。
「そうか………」
森写歩朗はジルの脇《わき》へ腰を下ろすと世間話でもするかのように口を開いた。
「なぁ、ジル」
「何?」
「今度映画行かないか?」
さらりと言い放った森写歩朗の言葉。
しかしそれはジルのくすぶっていた火薬の導火線に火をつけなおかつ爆発させたのだった。
「森写歩朗………」
目を大きく潤《うる》ませるジル。
その中にはどこかで見たような星がいくつか輝いていた。
「いや、いやならいいんだけど」
なんとなく近寄りがたいものを感じて立ち上がる森写歩朗。
ジルは押し倒さんばかりの勢いで迫《せま》り寄ると、
「絶対行く。なにがなんでも行く。世界が滅亡《めつぼう》しても海面の高さが二、三メートル高くなっても富士山が爆発して第三次世界大戦が起こっても、とにかくとにかく絶対|誰《だれ》がなんと言おうと行く」
「そ、それじゃ……土曜の夜にでも行くか。駅前の映画館」
「森写歩朗!」
ジルは森写歩朗《しんじゃぶろう》にヒシと抱きついた。
いままでどうしてあんなに腹立たしいものを感じていたのか自分でも不思議に思える。
はてさて森写歩朗はというと、密着しすぎるほど密着したジルの冷たい感触《かんしょく》に薄れいく意識を必死に自我というロープで縛《しば》りつけながら、ある一つの新事実の発覚に驚いていた。
よっぽど映画が好きなんだなぁ。
鈍感《どんかん》コンテスト1位に燦然《さんぜん》と輝く彼の隙間《すきま》だらけの脳味噌に、それ以上のことを推測することは不可能だった。
2
「最近小耳に挟《はさ》んだんだけどな」
西尾《にしお》が眼鏡《めがね》の縁《ふち》を光らせ尋《たず》ねたのは、森写歩朗が校舎裏でジル特製スペシャルデラックススーパーコンボ愛|居候《いそうろう》弁当をひたすら頬張《ほおば》っているときだった。
西尾はいまいましそうにコンビニのパンをぱくつきながら横目で森写歩朗を見た。
「何だよ」
森写歩朗はあくまで弁当を食べるという行為に魂《たましい》をかけている。
というのも量も質もなんだかしらないが今日に限ってスーパーコンボサイズになっているのだった。残して帰るわけにはいかず森写歩朗はただ箸《はし》を動かすだけ。
西尾はもう一度森写歩朗の弁当を覗《のぞ》き込み、そこにきれいに並べられるタコさんウインナーとかカニさんウインナーとかハートの卵焼きとか、とてもじゃないが森写歩朗が自分で作ったらちょっとお前こっちの毛はいってねえか? って尋ねたくなるようなゴージャスな弁当を確認すると、少しだけ確信のこもった声で言った。
「お前、同棲《どうせい》してるって噂《うわさ》が」
森写歩朗はそれまで頬張っていた米粒を全《すべ》て噴《ふ》き出した。
米粒が軌跡《きせき》を描いて落下してゆく。
「な、なにを根拠《こんきょ》にそのようなことをおっしゃるざんすんか?」
思いっきり動揺《どうよう》している森写歩朗。
西尾は疑り深い目を向けた。
「馬鹿《ばか》言わないでくれよ。そんなことあるわけが」
「しかしなぁ、最近のお前の行動を見てると不可解《ふかかい》な点が多すぎる」
西尾は三本の指を立てる。
「その一」
西尾はどこぞかの探偵《たんてい》が何かを糾弾《きゅうだん》するような声を上げた。
「服がちゃんと洗濯《せんたく》されている」
「いいじゃないか、んなこと」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は背中を冷《ひ》や汗《あせ》で湿《しめ》らせつつもうそぶった。
「最近、清潔って言葉に目覚めたのさ」
「その二、弁当が」
「最近料理にこっちゃってさ」
必死にフォローを入れ続ける森写歩朗。涙ぐましい姿である。
「それみんなお前が作ったのか?」
「もちろんさ。朝早く起きて竹輪《ちくわ》を天ぷらにして」
「ふ〜〜〜〜〜ん」
西尾《にしお》はまだまだ疑り深い目を向けている。
森写歩朗はあと一ポイントガードでこの勝負逃げ切れるため気を引き締めてかまえた。
「それからなぁ」
「なんだ」
緊迫《きんぱく》した状況が産まれる。
西尾のPKが決まるのか?
森写歩朗のガードがそれをうわまるのか?
「お前んところの大家《おおや》さん」
「あのばあさんがどうしたんだよ」
「スーパーで言い触《ふ》らしてたぞ」
森写歩朗はその場でひっころんだ。
竹輪の天ぷらをぶちまけて。
「なんだって〜〜〜〜〜〜〜」
防ぎようのないPKだった。
完膚《かんぷ》なきまでにゴールに打ち込まれしまう。
「昨日、俺《おれ》、お前の家チケット売りに行こうと思って前原《まえはら》町へ行ったんだよ」
「来なかったじゃないか」
「行こうと思ったらちょっとやばい奴《やつ》につけられててよ」
それが倉地《くらち》ファンクラブの一員であることは説明を聞くまでもない。
「………」
「そしたら、スーパーでどこかで見た顔が座を組んでまぁでっかな声で話してるじゃないか」
「………うん」
「まああのシーラカンスのような顔を久しぶりに間近で見るのも悪くないと思ってなぁ。近寄ったら偶然《ぐうぜん》耳にどこかで聞いたような話が聞こえてきてだな。それで」
やられた。
森写歩朗は思った。
かなりそう思った。
「まぁお前にかぎってというのもあったが………本当なのか?」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は嘆息した。
ここであくまで見苦しい言い訳をくりかえせばまた話がよけいこじれる。
目の前の悪友は……信用に値《あたい》する人物……のような気がしないでもない。
当然|吸血鬼《きゅうけつき》だなんだと細部まで説明する必要はないだろうが、このままとぼけるには限度があるような気がした。
「……ああ」
押し殺した声で森写歩朗は首を縦に振った。
「……そうか」
西尾《にしお》はしみじみと呟《つぶや》くと手にしていた菓子パンを齧《かじ》った。
「お前も苦労してるんだな」
「へ?」
なんで同棲《どうせい》することが苦労することなのだろうか?
まあ経験者に街頭インタビューすれば多少苦労したという感想のほうが多いだろうか。
「なぁ、カンパ集めてやろうか?」
目をぱちくりさせる森写歩朗。
十数秒ばか目をぱちくりさせた森写歩朗はおずおずと西尾に尋《たず》ねた。
「何を言ってるんだ?」
「だってお前」
西尾は人好きのする黒縁眼鏡《くろぶちめがね》を軽く押し上げてから言った。
「高利貸しの金融業者に押し入って店員を刺し殺したのに一円も奪《うば》えずに逃走して、もう人生いいやって隅田川《すみだがわ》に入水《じゅすい》自殺しようとしてたところをお前が助けて家へ連れ帰ってきた、アメリカ大使館で働く親戚《しんせき》がいるというブラジル育ちのロシア人と同棲してて、さらに最近彼女が妊娠《にんしん》したんだろ?」
「……なに……それ?」
「だって、あの大家《おおや》のばあさんが」
森写歩朗は主婦のネットワークというものの信憑性《しんぴょうせい》のなさを改めて痛感した。
「少し違ってるか?」
邪気《じゃき》のない表情を向ける西尾に森写歩朗は心の中で呟いた。
信じるほうも信じるほうだぞ!
3
「最近ふっと疑問に思ってることがあるんだけど」
倉地《くらち》が口を開いた。
「なんですか?」
三石《みついし》はかわいらしいお弁当を膝《ひざ》の上で広げつつ首を上げる。
「ねぇ。三石ちゃん。正直に言ってくれる?」
倉地は妙《みょう》な凄味《すごみ》すら感じさせる優《やさ》しい口調で話しかける。
「だからなんですか?」
「トーマスに弁当作ってきたりなんかしてないわよね」
三石は口にくわえていたタコさんウインナーを噴《ふ》き出した。
タコさんは部室内部を放物線を描いて落下してゆくと黒いゴミ袋にスポンと入る。
「何言ってるんですか? 先輩《せんぱい》」
三石は半《なか》ば笑いのこもった声で言った。
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「それもそうよね」
倉地はなおも不可解《ふかかい》そうな顔つきでサンドイッチを持つ手を止めている。
「何かあったんですか?」
「最近ね、トーマスの奴《やつ》が弁当持ってきてるのよ」
「それがおかしいことなんですか?」
「あいつの家庭知ってるでしょ。父子家庭なのよ」
「花丸先輩《はなまるせんぱい》が料理作ってるかもしれないじゃないですか」
「ここにあいつの調理実習の成績があるんだけど」
「そんなのまで持ってるんですか!!」
倉地はトーマスの生態と書かれたノートを広げた。
「どう考えても真面《まとも》に弁当作れる成績じゃないのよね」
「別に深く考えなくてもいいじゃないですか」
「そうはいかないわ」
倉地は何やら拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
「もし万が一にも、あいつに弁当を作ってるような女子生徒がいたら見つけださなきゃいけないのよ」
「どうしてです?」
「人生の間違いを教えてあげるためよ」
三石は無言で軽く首を振った。
さすがに森写歩朗のことが気の毒に思われてきたのだった。
「あんな馬鹿《ばか》好きになったら人生の汚点《おてん》になるわ」
「花丸先輩だっていいところあるじゃないですか」
「へ〜〜〜〜どんな」
三石《みついし》は押し黙《だま》った。
思い浮かばなかったのだ。
「例えば………」
「例えば?」
「………元気じゃないですか」
「それだけ?」
「優《やさ》しいし」
「ふむふむ」
続きが出てこない。
それから三石は思い出したかのように顔を華《はな》やかにして言った。
「花丸先輩《はなまるせんぱい》、台本書くのとってもうまいじゃないですか!」
「ま、それだけかな」
なんとも残酷《ざんこく》に倉地《くらち》は言い放った。
「馬鹿《ばか》で優柔不断《ゆうじゅうふだん》で鈍感《どんかん》で運動|音痴《おんち》で劣等生《れっとうせい》でほとんど人間的長所が見当たらない男だけど、唯一《ゆいいつ》台本書けることだけが救いよね」
「そこまで言いますか」
「言えるわよ。ハッキリ」
倉地はまるで人権宣言をするかのように、
「トーマスに惚《ほ》れる女なんているわけがない!」
「呼んだ?」
これまた絶妙《ぜつみょう》なタイミングで現れる森写歩朗《しんじゃぶろう》。
でっかい空《から》の弁当箱を抱えて。
「今、花丸先輩の噂《うわさ》してたんですよ」
「へ〜どんな」
「あんたの長所は台本を書けることだけだなって話してたのよ」
二人が認める長所が実は自分のものでないという事実が無性《むしょう》に悲しく感じられる森写歩朗だった。
「ところで連絡って何? 急に放送入ったから来たんだけど」
「発表のことに関してなんだけどね」
「ああ」
気分が途端《とたん》に重くなる。
「もしかして向こう側が都合《つごう》が悪くなったとかっていう話かな?」
可能性の薄さを知りながらもおずおずと尋《たず》ねた。
「そんなことあるわけないじゃない」
「やっぱり可能性は薄かったか」
「あんた喜びなさいよ」
「何を?」
「私がちょっと桜下《さくらした》先生|説得《せっとく》してね」
倉地《くらち》は豪奢《ごうしゃ》な髪《かみ》をハラリとかき上げた。
「あんたの補修。延期にしてもらったわ」
「へ?」
「だから、私が、あんたの数学担当の先生を説得して、補修を延期してもらったの。練習のために」
説得?
隣《となり》で三石《みついし》が無言でクエスチョンマークを浮かべていた。
誘惑《ゆうわく》の間違いじゃないかしら。
う〜〜ん。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は頭の中に天秤《てんびん》を置いた。
片方には演劇の練習。
もう片方には数学の補修。
どっちもどっちなのである。
「と、言うわけだから今日からやるわよ。みっちりとね」
「なんてったってもうすぐですからね。先輩《せんぱい》。頑張《がんば》りましょ」
倉地と三石ががっしりと手を組んで熱血している。それに加わる気にはなれなかった。
「それからさ。前から気にはなってたんだけど」
倉地は森写歩朗の手にぶら下がる弁当箱に目を向けた。
そしてどこかで見たような鋭《するど》い目を向けて尋《たず》ねた。
「それ、誰《だれ》が作ってるの?」
「へ?」
倉地の凶々《まがまが》しい目から放たれる眼光はとてもとても鋭く、森写歩朗の弁当箱がチリチリと音をたてて焦《こ》げた。
それでも先程|西尾《にしお》に切り込まれているためそれほど狼狽《ろうばい》せずにすむ。
「当然僕だよ」
いけしゃあしゃあ。
少々引きつった笑顔ながら森写歩朗は嘘《うそ》をつくことに成功した。
「最近料理に目覚めちゃってさ」
「あの竹輪《ちくわ》の磯辺揚《いそべあ》げも大根の煮《に》つけもゴボウのこぶ巻もハート形の卵焼きもあんたが作ってるの?」
「……えらい詳《くわ》しいね」
「さらにタコさんとかカニさんとかがキャピキャピしてるウインナーもあんたが作ってるの?」
「……そうさ」
倉地《くらち》の眼光に負けじと気合《きあ》いを入れ直した森写歩朗《しんじゃぶろう》は公言した。
「僕が作ってるんだよ」
「じゃあ今度合宿の時楽しみにしてるわ」
反射的に倉地に顔を向ける森写歩朗。
「合宿?」
「そう合宿。土曜日にね。本番日曜日だからうだうだしてられないわよ。もう合宿所の使用許可は担当の先生を心を込めて説得《せっとく》してとったから」
「夕飯|花丸先輩《はなまるせんぱい》の手料理ですか。わぁ楽しみ」
三石《みついし》が華《はな》やいだ声を上げる。
今さら出来ないとは言えない森写歩朗。
森写歩朗は部室の汚れた天井《てんじょう》を見上げつつ思った。
あの時と同じようなレールを走り出してしまったのかもしれん。
4
夜。
ジルは食事をするために比較的人通りが少ない街路樹《がいろじゅ》の下をとぼとぼと歩いていた。
ジルの食事というのはそれこそまあ説明するまでもなく吸血《きゅうけつ》という行為なのだが、これがなかなか難しいのだ。
これはと思う標的《ひょうてき》がなかなかいないのだった。
根本的に男の血液よりは女の血液のほうがいい。
これは別に吸血鬼でなくとも容易《ようい》に想像がつく。いわゆる摂理《せつり》である。
さらに言えばやはり新鮮なもののほうがいいのだ。鮮度を逃すとエグ味になり苦《にが》みが産まれてくる。かといって新鮮すぎても困る。
お飲み頃《ごろ》表示は大体十六歳あたりから二十五歳くらいであろうか?
さらに、究極《きゅうきょく》の味を求めるならある一つの条件が必要なのだ。
それは……処女。
何故《なぜ》だか分からない。何故だか分からないがやはり経験者と未経験者では多少味に違いが出るらしいのだ。
経験者の血液に比べて未経験者の血液はまったりとしていてなおかつ口当たりがよくさらには後味《あとあじ》が最高なのだそうである。
吸血鬼《きゅうけつき》でもなければ味なんて分からないだろう。
そこまで苦労して処女を探さなくとも、文句《もんく》さえ言わなければたとえ動物の血液でだって栄養補給は出来るのだが……。
どうせならおいしいの飲みたいじゃない、とまあ至極《しごく》一般的な欲求によりジルの苦労が始まるのだった。
それでも冬の近い今、比較的早くに日が暮れるため、至高《しこう》の味である女子高生!! とか新人OL!! とかと出くわしやすいのだ。
ジルは部活帰りの女子高生!! を狙《ねら》うため飯波《いいなみ》高校の近くの街路樹《がいろじゅ》に身を潜《ひそ》めていた。
脇《わき》の茂みへ連れ込んでしまえば女の子二人分の質量くらい、いとも簡単に包み込んでしまう。後はゆっくりと味わうだけ。
ジルは森写歩朗《しんじゃぶろう》からもらった腕時計に目を落とした。
午後九時。
ジルは足下に転《ころ》がるビニール袋を見下ろした。
スーパー矢崎《やざき》、と書かれたビニール袋には野菜やら卵やらがぎっしり詰まっている。
こんなものぶら下げて血を吸う吸血鬼なんて私くらいかしら?
ジルはそれを情けなくも思ったがまた誇《ほこ》らしくも思った。
なんだか新妻さんみたいじゃない。
頬《ほお》が熱くなるのを冷《ひ》やすため頭を強く振った。
それから通りに目を向ける。
さすがにこの時間になると人通りもめっきり少なくなる。八時|頃《ごろ》までは三々五々していた高校生らもすっかり姿を消している。
たまに歩いてくるのは頼まれても血を吸いたくない酔《よ》っ払《ぱら》いの親父《おやじ》さん達。彼らこそ日本を支えているお父さん達なのだが、ちょっとその油ののっていそうな血液には抵抗《ていこう》を感じた。
場所が悪い。
ジルはそう判断した。
小さな繁華街《はんかがい》の路地《ろじ》に場所を変えよう。
最高級の味は味わえないかもしれないがそこそこのものはあるだろう。
ジルが足下のビニール袋を持ち上げた時、唐突《とうとつ》にそれは飛んできた。
放物線を描いてジルの足下に転がり落ちる。
何気なくジルをそれを拾い上げた。
拾い上げる前からそれが何かは分かっていた。
神秘を感じさせるその姿態《したい》。
匂《にお》い光線が鼻をくすぐる。
セロリだったのだ。
ここで一つ断りを入れておこう。
伝説からいえば吸血鬼《きゅうけつき》はニンニクや十字架《じゅうじか》、聖水《せいすい》に弱いとされている。
鏡《かがみ》に写らないとかカメラに写らないとかとんでもないことも言われている。
が、それは全《すべ》てデマなのである。
十字架を見てもど〜〜ってことないし、手に握《にぎ》ったところで焼《や》け爛《ただ》れるとかそんな馬鹿《ばか》なことはない。
極限までガスバーナーで熱した鉄の十字架を握ったらそりゃ火傷《やけど》はするだろうが、それは別に吸血鬼に限ったわけではない。
鏡の前に立てば姿はくっきりはっきり投影されるしカメラだってOK。
日光に弱いのは確かだが、朝日を浴びた途端《とたん》灰になってさよならってことはない。
長時間浴び続けることは危険だが。
なまじ嗅覚《きゅうかく》が優《すぐ》れているせいかある種の匂《にお》いにアレルギー反応を起こすのは確かだ。
だが、別にニンニクに限った話ではないのだ。
匂いは個体によって千差万別《せんさばんべつ》である。
ジルは不可解《ふかかい》そうにセロリを見つめていた。
別にセロリが珍《めずら》しいわけではない。
ただ闇夜《やみよ》に自分のところへ飛んでくるセロリが珍しかっただけなのだ。
しばらくセロリを見つめていたが鼻に軽く近づけて鮮度を確かめると、どうやらまだいけるなということで自分の袋に投げ込んだ。
さほど驚いた表情は見せない。というのもこれは二日前から続いている現象なのである。
ジルが街《まち》へ出る度にどこからか何かが飛んでくるのだった。
最初はニンニクだった。
その次は納豆《なっとう》だったような気がする。
それからタマネギ、ナガネギ、ニンジン、トマト、キュウリと続いて今回がセロリである。
最初は警戒していたが、飛んでくる物全てがまだまだ新鮮であることを確認してからは、こうやってビニール袋持参で食事へ出かけることにしているのだった。
なんかしらないけどラッキー。
森写歩朗《しんじゃぶろう》に感化されたのかけっこうお気軽なジルだった。
5
「ただいま」
夜、十時。森写歩朗は長い戦いを終え帰宅した。
連日のハードな練習で体がフラフラになってしまう。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は郵便受に入っていた広告に目を落としつつキッチンへと向かった。
「あれ、父さんからだ」
何やら一枚の絵葉書が届いている。
スルメがのたうちまわるような嘘《うそ》っぽい遺跡《いせき》の写真の絵葉書である。
文面は短かった。
『森写歩朗そしてジルさんへ
スンチカラマリ島はいいところだ。どうも今カーニバルの最中らしく連日花火が鳴って盛大でいいぞ。軍隊のパレードもあってなかなか見物《みもの》だ。え〜〜〜と、何か書かなくちゃいけない事があったんだが忘れちまった。土産《みやげ》を待っててくれ』
父親らしいいい加減《かげん》な文章だった。
森写歩朗は広告をまとめて右手に持つとキッチンの敷居《しきい》をまたいだ。
「ただいまジル」
ジルの姿はないが別段《べつだん》不思議とも思わない。この時間なら彼女が食事に行っているのも頷《うなず》ける。
先日高校生の血がいけるのだとか物騒《ぶっそう》な話をしていた。
居候《いそうろう》させる際僕の血を吸わないでと懇願《こんがん》してそれを条約として掲《かか》げているので、ジルに吸血《きゅうけつ》を迫《せま》られることはない。
それでもジルが外で誰《だれ》かの首にストロー突《つ》き刺《さ》してチューチューやってる光景は想像だけでも恐《おそ》ろしいものである。
森写歩朗はジルによって作られた料理をテーブルの上に確認しそれに取りかかることとした。
しばらくお待ち下さい。
「よわった」
食事を終えた森写歩朗は息を吐《は》き出した。
ジルの手料理の乗っていた皿がテーブルには並んでいる。
かなりおいしかった。
食事をしないはずのジルがなぜこんなにまで料理の腕を高めたか知らないが、森写歩朗が一朝|一夕《いっせき》で作り上げられるとは思えなかった。
なし崩《くず》し的にさせられた約束が脳裏《のうり》に濃度《のうど》7で浮かび上がってこすっても落ちない。
「まぁ。なんとかなるかもしれないじゃないか」
森写歩朗は唇《くちびる》の周りを舐《な》めた。
最高級の料理の味が舌で味わえた。
最高級の料理人は味さえ覚えていればどんな料理も復元《ふくげん》出来る。
どっかのマンガで読んだ誰《だれ》かの台詞《せりふ》を思い出し森写歩朗《しんじゃぶろう》は立ち上がった。
「よし」
なにかろくでもない決心を固めて。
残念なことに森写歩朗は最高級の料理人ではなかった。
根本的に料理人ではないのだ。
頭に旗がついてたなびいちゃうくらいの素人《しろうと》。
オムレツ作れば床《ゆか》に落とし顔に落とし流しに落とし最後に天井《てんじょう》に張り付けるってお約束をやってしまう男。
煮物《にもの》をすれば爆発させるって芸当が出来る男なのだ。
結論。
台所はすごいことになった。
すごいことになった台所で森写歩朗は半《なか》ばべそかきながら手にしたフライパンを見下ろした。
そこにはかつて卵であった炭が固まっている。
「駄目《だめ》だな」
森写歩朗はあっさりと言い放った。
「僕には才能がない」
とすると土曜の合宿をしのぐ方法を考えなければならない。
頭の中にいくつかの方法を箇条《かじょう》書きにしてみた。
@逃げる。
Aその場からいなくなる。
B腹痛のフリをする。
C合宿所に火を放つ。
D踊《おど》ってごまかす。
E笑ってごまかす。
F味沢風《あじさわふう》に俺《おれ》に料理を作ってほしかったら五十万円払えと言う。
Gこんな所で料理が作れるか! って海原風《かいばらふう》に暴《あば》れる。
H宇宙人に助けを求める。
どれもこれも呆《あき》れるくらいろくでもないアイデアである。
@〜Gまでどれを選んでも倉地《くらち》にボコボコにされるのは明らかだ。
とすると残るはHだが残念ながら森写歩朗《しんじゃぶろう》に宇宙人の友人はいなかった。
吸血鬼《きゅうけつき》の知り合いならいるのだが。
そこで森写歩朗はスカスカの脳味噌に電球を光らせた。
「そうだよ」
新たな選択肢《せんたくし》の出現に歓喜《かんき》する森写歩朗。
I吸血鬼に助けを求める。
てっとり早い話ジルに料理を作ってもらえば問題ないじゃないか。
ただしどうやって倉地達にみられないようにジルに料理を作らせるかが新たな問題となってくる。
しかしこの新たな選択肢の登場に森写歩朗の脳味噌は喜びスリーセブンで連チャンモードに突入してベーシックな問題に気がつかない。
そんな時にそのチャイムは鳴った。
運命を左右するってほどでもないけどこの物語に深く関《かか》わる登場人物の手がチャイムを押したのだ。
今、そいつはやってきたのだった。
第三章 暑い所からやってきた男
1
ピンポ〜〜〜〜ン。
歓喜《かんき》にうちひしがれ一人飛び跳《は》ねている森写歩朗《しんじゃぶろう》はそのドアチャイムの音に首を傾《かし》げた。
この時間、この家を訪問する人物というのが思い浮かばなかったからである。
大家《おおや》のばあさんか? と一瞬《いっしゅん》顔をしかめるが、すぐにその考えをバズーカで打ち崩《くず》した。
すでにあのシーラカンスの婆《ばあ》さまは冬眠《とうみん》の時間に入っているはずである。
そのまま永眠してくれればありがたいのだが確実にお天道様《てんとうさま》の光で解凍《かいとう》される冬眠だ。
それじゃ誰《だれ》だろう。
あれこれと考えを重ねつつ玄関へと向かった。
「はいはいはい、どなたですか?」
鍵《かぎ》を開け扉《ドア》を開く。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は無言で目の前に立つ男を見つめた。
男はかなり長身だった。
そして金髪《きんぱつ》だった。
なかなかの男前である。
そして手には野菜やら何やらで一杯《いっぱい》になった手提《てさ》げビニール袋をさげていた。
シラタキの入った半透明の袋。牛肉のパック。生卵。豆腐《とうふ》などが垣間《かいま》見える。
すき焼きの道具である。
すき焼きの道具。
すき焼き!!
森写歩朗は弾《はじ》かれたように居間へ戻《もど》るとそこに山と積まれる父親のガラクタを掘り起こした。
そして目当ての物を発見した。
「作っておいてよかった」
そう吐《は》き出すと再び玄関へと飛び出して行く。
不可解《ふかかい》そうな顔をした男の前で森写歩朗は手にした球状の物体から垂《た》れ下がる紐《ひも》を思い切り引いた。
『ゴールインおめでとう!!!』
そう書かれた垂れ幕が割れた薬玉《くすだま》から垂れ下がる。
「おめでとう!」
ぽかんとする男の前で森写歩朗は精一杯の拍手《はくしゅ》を送った。
精一杯の拍手は三十秒ほど続いた。
その後、森写歩朗は手を止めるとまじまじと男の顔を見つめてそして尋《たず》ねた。
「ところで、どなたですか?」
男は疲《つか》れはてた表情で首をカクンと落とした。
男がここまで来るのに費《つい》やした労力は推《お》して知るべしである。
辰太郎《たつたろう》が作った花丸《はなまる》ウォークラリーに参加していたのである。
この花丸ウォークラリー。駅から出発してあちらこちらに書かれている指示通り進めば森写歩朗宅にたどりつけるという代物《しろもの》なのである。
しかし、その指示の中には妙《みょう》なものが含《ふく》まれていた。
●電柱に登れ!
とか、
●留吉《とめきち》さんに神の言葉を聞け!
とか、
●スーパーですき焼きの材料を買え!
全《すべ》ての行程《こうてい》をクリアしたときには大抵《たいてい》の人が疲労《ひろう》とアホらしさに言葉を失うと噂《うわさ》される伝説のゲーム、それが花丸《はなまる》ウォークラリーなのだ。
全《すべ》ての苦労は男の悲壮《ひそう》なまでの顔に表れてはいたのだが森写歩朗《しんじゃぶろう》にそれを理解することは不可能だった。
男はおもむろに黒の背広のポケットから一冊の手帳を取りだし、ペラペラとめくり始めた。
そしてお目当てのページを見つけると森写歩朗に突きつける。
森写歩朗は手帳を受け取りその乱雑な文字の羅列《られつ》に目を落とした。
そこにはミミズが這《つ》いつくばって腹筋してるような文字でこう書かれていた。
『森写歩朗へ
この人は旅先で俺《おれ》の命を救ってくれた恩人《おんじん》だ。よろしく頼む』
見間違うはずもなく父親の字だった。
筆跡鑑定《ひっせきかんてい》も陽性と出る。
よろしくって何をよろしくするんだよ?
ほとほと父親のいい加減《かげん》さが頭にくる森写歩朗であった。
目の前の男は森写歩朗の一挙一動を見守っている。
森写歩朗はへらへらと笑みを浮かべそして考えた。
何か言わなきゃなぁ。でもそんなどっかの島国の言葉なんて知らないし。
そう、森写歩朗は目の前の人物をてっきりスンチカラマリ島の人間だと勘違《かんちが》いしたのである。
相手が日本語が出来ることも知らず、森写歩朗は脳味噌のデータバンクを漁《あさ》った。
模索《もさく》する内にかすかな記憶が蘇《よみがえ》る。
非常に変わった挨拶《あいさつ》のためしょーもないことに脳味噌が覚えていたのだった。
幾分恥《いくぶんは》ずかしいという気持ちもあったが決心を固めると森写歩朗は軽く腰を揺《ゆ》らしつつ、
「パンナコッタナタデココナッツタピオカ」
沈黙《ちんもく》が訪れた。
それはそこに居合わせる者を凍《こお》りつかせるほど強烈《きょうれつ》に寒い沈黙だった。
腰の振りが足りないと思った森写歩朗はさらに激しく腰を揺らしつつ、
「パンナコッタナタデココナッツタピオカ」
何ヲシテイルンダ?
男、ミルカ・ベル・モンドーは困惑《こんわく》気味にヒョコヒョコ腰を揺らす青年を見つめた。
それはかなり滑稽《こっけい》な光景であったが笑う気にはなれなかった。
モシカシタラコレガ神秘ノ国、日本ニオケル客ニ対スル伝説ナノカモシレナイ!
故郷イギリスで読み漁った日本関連の文書には書かれていないことだがこれこそ隠《かく》された伝統なのではないだろうかと、これまたくだらない誤解をするモンドー。
コチラモコレニ答エナケレバイケナイニ違イナイ!
日本愛好者であるモンドーはすかさず腰を振った。
「パンナコッタナタデココナッツタピオカ!」
異様《いよう》だった。
玄関で二人の男が腰を振りながら妙《みょう》なことを口にしている光景は、夢に出てくるほど異様で恐《おそ》ろしいものだった。
しかもどちらとも自分の間違いに気が付いてはいなかった。
さらに厄介《やっかい》にも両者ともこれで通じ合ったなんて自己|陶酔的《とうすいてき》な達成感を感じていたのだった。
「初メマシテ!」
カタカナの日本語で挨拶《あいさつ》をするモンドー。
「なんだ………日本語出来るんですか?」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げ、と同時に安堵《あんど》のため息を吐《は》き出す。
「よかった」
それから直立不動の体勢をとるとハッキリとした口調で言った。
「父を救っていただきありがとうございました。あんな父でも僕の唯一《ゆいいつ》の肉親。死ぬよりは生きてるほうが多少|嬉《うれ》しい」
「………イエ私ハ大シタコトハシテマセン」
モンドーにしてみればそれは事実だった。ただトイレットペーパーを放り投げただけである。
そんなモンドーを見て森写歩朗《しんじゃぶろう》はなんて謙虚《けんきょ》な人なんだろ〜ととち狂《くる》ったことを考えていた。
「タダ困ッタコトガアッタラココヲ訪ネルヨウ言ワレテイタノデ」
「何か困ってるんですか?」
「泊《と》マル所ガナインデス」
森写歩朗は玄関の天井《てんじょう》を見上げしばし考えた。
ジルがいる関係上むやみに家へどうぞとは言えない。
しかしここでほったらかしにしておくのも非人間的なことに思われた。
森写歩朗はお人好しだった。
「どうぞ」
ジルについては後で考えよう。
なんともいい加減《かげん》なことを決め込むと森写歩朗はモンドーにそう言った。
「OH! アリガトウゴザマス」
両手をギュッと握《にぎ》られる森写歩朗。
「私、ミルカ・ベル・モンドート言イマス。モンドート呼ンデクダサイ」
「僕は森写歩朗。森写歩朗って呼んでください」
二人は握手《あくしゅ》をギュッと交わした。
この時の森写歩朗には目の前の人物が何のために日本のこの前原《まえはら》町に来たのか知る由《よし》もなかった。
彼の頭の中で形成されているモンドーのプロフィールはこんなんである。
モンドーさん。
父親の命の恩人《おんじん》。
日本語が話せるスンチカラマリ島の人。
2
「ジル〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
間延《まの》びした声で囁《ささや》かれる自分の名前をジルの高性能な耳はキャッチした。
「森写歩朗?」
ジルは空中で静止すると声の聞こえてきたマンションの入り口へ目を向けた。少し茂みとなっている門の脇《わき》で手を振っている間抜け顔が見える。
ジルの視力をもってすれば暗闇《くらやみ》だろうがなんだろうが全く関係ない。
何やら手招きしている森写歩朗を確認したジルは余計《よけい》なおばさま達に目撃《もくげき》されないようマンションの陰《かげ》となる壁《かべ》にそってゆっくりと降下した。
着地したジルのもとへひょこひょこやってくる森写歩朗。
「どうしたの森写歩朗」
「それがな」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は首の後ろをポリポリと掻《か》きながら、
「少し厄介《やっかい》なことになった」
と端的《たんてき》に伝えた。
「厄介なこと?」
さすがに端的すぎて用をえない。
「父さんの命の恩人《おんじん》がやってきてしばらく泊《と》めることになった」
「????」
まだまだ困惑《こんわく》気味のジル。
森写歩朗は説明をスコップで掘り下げた。
「父さんが旅先で命を助けてもらったスンチカラマリ島の人が、なんか詳《くわ》しくは知らないけどスーパーで野菜を買い漁《あさ》って路銀《ろぎん》を使い果たして仕方なしに家へ来たらしい」
「ふ〜〜〜〜ん」
スーパーで野菜を買い漁ってという点に妙《みょう》なキナ臭《くさ》さを感じたが、それはさほど深刻《しんこく》な疑問へとは発展しない。
「野菜を買い漁って破産した人もいれば野菜を放り投げてくれる人もいるのね」
世の中はなんて変わってるのかしらってジルは手にしていた袋を持ち上げて見せた。
「最近、野菜とかが夜歩いてると飛んでくるのよ」
「そうか、不思議なこともあるもんだな」
さほど不思議そうな顔もしないで森写歩朗はこくこくと頷《うなず》いた。そ〜ゆ〜奴《やつ》なのだ。
「とにかく、そのスンチカラマリ島の人には君はごく普通のホームステイしてる外人だって話をしてあるから、くれぐれも窓から入ってきたり家の中で妙な力見せたりしないように。ちなみに日本語ぺらぺらだから下手《へた》なことも言わないように」
「了解《りょうかい》。じゃあ玄関から入ってくればいいのね」
「ああ、その場合近所のおばさま達に見られるかもしれないという可能性が生まれてくるが」
森写歩朗は渋面《じゅうめん》を見せた。
「ジルについてはもう知られているようだから別にいいか」
かなり間違った把握《はあく》のされ方をしているが。
「この間|偶然《ぐうぜん》近所のおばさんに会ってね」
ジルが不可解《ふかかい》そうに小首を傾《かし》げた。
「ロシアは恋しくありませんかって」
「気にしちゃいけないよ、ジル。それから訂正するだけ無駄《むだ》だから適当に頭下げておいたほうがいい。詳しく説明すればまた新たな混乱を産むから」
「ところで森写歩朗。明日《あした》なんだけど」
森写歩朗《しんじゃぶろう》にズイッと顔を近寄らせたジルが目を輝かせて言った。
「そうそう明日《あした》のことね」
ジルとの映画の約束なんかすっかりすっぽり抜け落ちている森写歩朗なジルを拝《おが》む体勢を取ると、
「悪いけど合宿所に飯《メシ》作りにきてくれないか?」
ジルの笑顔が凍《こお》りついた。
「………どういうこと?」
「いや、実はさ、あれなんだよ。明日部活で合宿するんだけどさ。そのなし崩《くず》し的に飯作らなきゃいかんようになってだ」
「森写歩朗?」
無気味なほどの笑顔でジルは森写歩朗の顔を覗《のぞ》き込んだ。
森写歩朗はその時点で、土曜日の夜に予定されているジルにとっては今世紀最大のイベントを思い出すべきであった。
「土曜日。何か忘れてない?」
無気味さを感じさせる猫《ネコ》なで声で尋《たず》ねられた森写歩朗はあごをしゃくった。
「土曜日……何かあったかな?」
十八秒ほど考えた。
ジルは真剣《しんけん》な顔で森写歩朗の顔を見つめている。
「え〜〜と………」
「………」
「そうか!」
森写歩朗はポンと手を打った。
途端《とたん》に菩薩《ぼさつ》のような安堵《あんど》の息を吐《は》き出すジルだったが。
「ギャラガンガーのビデオ予約をしておかなくちゃいかんのだ。見れないから」
その刹那《せつな》に起こったことを森写歩朗はよく覚えていない。
ただ気が付くと壁《かべ》に叩《たた》き付けられて隣《となり》の窓ガラスが滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に割れてて目の前に恐《おそ》ろしい顔をした大家《おおや》の婆様《ばばさま》が鬼《オニ》のように屹立《きつりつ》していた。
シーラカンスが冬眠《とうみん》から覚めたようだ。
まだ太陽は出ていないのに。
「花丸《はなまる》さん!!」
弁償金《べんしょうきん》は五千円だった。
痛い出費《しゅっぴ》だった。
押しつぶされたカエルの気持ちが分かるような痛みを抱えつつ森写歩朗は自宅へと足を進めた。
「ふ〜〜〜ん。土曜日。何かあったかな」
まだ思い出せない。呆《あき》れるほどの記憶力のなさである。
または忘却《ぼうきゃく》速度が普通の人間よりも速いのではないのだろうか?
どちらにしても損な脳味噌である。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は台所へと足を運ぶとテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》した。
「ドウカシマシタカ? 森写歩朗クン」
「モンドーさん」
頭を上げると可愛《かわい》らしい熊《クマ》さんパジャマを着たモンドーが不思議そうに自分を見下ろしていた。持参らしい。
「ちょっとね」
軽く息を吐《は》き出してから森写歩朗は、
「モンドーさんこそどうしたんですか? こんな夜中に」
「アノ、何カ食ベル物アリマセンカ?」
「え? ああ。ちょっと待ってください」
森写歩朗は冷蔵庫を開けた。
めぼしいものは見当たらないが野菜だけは豊富に詰まっている。
野菜|炒《いた》めでも作ろうかなとも思ったが、台所がすごいことになるのが関《せき》の山《やま》だなとそれは断念《だんねん》した。
この材料で自分が出来るメニュー、それは野菜サラダ。
「サラダでもいいですか?」
モンドーが頷《うなず》くのを確認してから森写歩朗は野菜を抱えるようにしてキッチンへと足を向けた。
なにやら皿にごちゃごちゃと盛られた野菜なんだか屑《くず》なんだか分からない料理をモンドーの目の前に置く。
「どうぞ?」
モンドーはモンドーでこれがきっと日本の伝統的盛り付け方だと思っているから、感激しながらフォークを動かした。
見る間に空《から》になって行くボールを前に森写歩朗は何気なく呟《つぶや》いた。
「野菜。好きなんですね?」
「エエ」
「ホームステイしてる外人の子ってピーマンが大嫌《だいきら》いなんです。だから僕も最近ピーマンは食べてないなぁ」
そこでモンドーはふと手を止めると何事か考え始めた。
「ピーマン……デスカ」
それから一言。
「ピーマンハマダ試シテナカッタナ」
「すいませんね。明日《あした》はもっとましなもん。そうだ缶詰めでもあったかな」
立ち上がりかけた森写歩朗《しんじゃぶろう》は全身に苦痛を感じて顔をしかめた。
「いててててててて」
「大丈夫デスカ?」
「ええ」
「何カアッタンデスカ?」
「はは、ちょっと女の子にね」
モンドーはニヤリとばかしに笑みを浮かべた。
「ソーユーコトデスカ」
「あの、何か誤解してません?」
「男ト女ノ間ニハ暗クテ深イ耳ノ穴」
「あの」
「私モイロイロアリマシタ」
遠い目をして語り始めるモンドー。
「浮気ガ原因デ殺サレカケタコトモヨクアリマス。デートヲスッポカシテ訴《うった》エラレタコトモ」
「ハードな人生ですね」
森写歩朗は相槌《あいづち》をうちつつ目の前の梅こぶ茶をすすった。
そして梅こぶ茶をダラ〜〜〜と吐《は》き出した。
思い出したのだ。
やっとこさ腐《くさ》った脳味噌がその答えをはじき出したのだ。
土曜日・映画・ジル・喜んでた・西尾《にしお》・千五百円・もらった・買った・燃えた・打った・走った・ホームラン!
さまざまな言葉が脳裏《のうり》をところ狭《せま》しとかけ巡《めぐ》る。後半は意味不明だったが。
森写歩朗は勢いよく立ち上がると蒼白《そうはく》な顔で叫んだ。
「しまったぁ!!」
3
『そりゃお前が悪い』
電話の向こうで人生を悟《さと》った大先輩《だいせんぱい》のような口調で西尾は言った。
『最低という看板《カンバン》を背負って石清水《いわしみず》にお参りにいってもその罪《つみ》は消えないだろう』
少々意味不明だがその言葉は森写歩朗の心臓を貫《つらぬ》きいずこかへと去っていった。
『悪いがお前に渡したチケットの期日は土曜までだ。今日はもう無理《むり》だから何としてでも明日《あした》行かないとおじゃんになるぞ』
チケットの有効期限を尋《たず》ねるために電話をかけたのだった。
チケットを見ればいいことなのだが気が動転《どうてん》して頭の中でパレードが始まっている森写歩朗《しんじゃぶろう》はそんな常識的なことにも気が付いていない。
『しかし問題はお前が傷つけた乙女心《おとめごころ》をどう癒《いや》すかってことだな』
グサグサグサグサグサ。
罪悪感から今にも卒倒《そっとう》しそうになるのだがなけなしの根性《こんじょう》を駆使《くし》してなんとか持ちこたえる。
あぁ、どうして僕はこう馬鹿《ばか》なんだろうか?
森写歩朗は自虐的《じぎゃくてき》にそう思った。
前テレビで狂牛病の牛の脳味噌というのを見た。
無数の穴が開いたまるでスポンジのような脳味噌だった。
きっと僕の脳味噌は生まれつき狂牛病なのだろう。
脳味噌の重さを計る測定器があったならば全国高校生平均の半分程度かもしれない。
「明日なんとか行くって言っても駄目《だめ》かな?」
『お前は本当に女心を分かっていないなぁ』
受話器の向こうから呆《あき》れたような声が響いた。
「どうしよう」
『よし、俺《おれ》が日本古来から伝わる徹底的《てっていてき》な打開策を伝授《でんじゅ》してやろう。これは浮気した父ちゃんも許してもらえるという画期的《かっきてき》なものだが限度は三回までという諸刃《もろは》の剣《けん》だ』
どうして日本古来から伝わって画期的なのだろうか?
日本語的に少々間違いが見られるが気にしている場合ではない。
「教えてくれ! 西尾《にしお》!」
受話器の向こうからボソリとした声が響いた。
『五百円』
「…………」
『五百円』
「分かったよ。五百円だろうが五千円だろうが払うさ」
半《なか》ばやけくそのように怒鳴《どな》りつける。
『よし、それじゃ教えるぞ』
西尾はもったいをつけるように間《ま》を置くとおごそかに言った。
『土下座《どげざ》しろ』
森写歩朗は無言で受話器を叩《たた》き付けた。
腹立たしい気持ちで一杯《いっぱい》だった。
ジルは森写歩朗《しんじゃぶろう》の住む前原《まえはら》町|唯一《ゆいいつ》の銭湯《せんとう》、マツシマの湯の煙突《えんとつ》の先っぽに腰を下ろし辺《あた》りを眺望《ちょうぼう》していた。
眼下にはすっかり息を潜《ひそ》めた家々が並んでいる。
深夜であるため明かりすらまばらであるが闇《やみ》に慣れたジルの目に不都合《ふつごう》はない。
「はぁ」
ため息を吐《は》き出す。
既《すで》にその心に怒《いか》りという感情はなかった。
あるのはコップ一杯《いっぱい》のむなしさと、おちょこ二杯分の寂《さび》しさと、ヤクルト一本分の悲しさ。
「はぁ」
再び重いため息を吐《は》き出す。
森写歩朗が映画の約束を忘れていたことに対する怒りよりも、忘れ去られていたという事実のほうがはるかに心の痛手《いたで》となった。
森写歩朗にとってはジルが心待ちにして胸を高鳴らせていた出来事もどうでもよかったのかもしれない。
森写歩朗にとって私はどういう存在なんだろうか?
ただの同居人?
ジルは強く首を振った。
そんなことない! 森写歩朗は私を助けに来てくれた。私を助けるために命の危険まで冒《おか》して。
自分自身に言い聞かせるように心の中でそう繰り返すが……。
ジルの心は晴れなかった。
ジルには分かっていたからだった。
森写歩朗の放っておけばいつの間にか下流まで流されてエンドレスになってしまう木の葉のような性格。
そして世界お人好しコンテストで金メダルを狙《ねら》える人の良さ。
前回確かに森写歩朗はジルを助けるため、はるかに強大な力を持った敵に勇敢《ゆうかん》(?)に立ち向かった。
勝負には負けたが結果的にはジルを救うこととなった。
しかしそれはジルを救うための行為ではなかったのかもしれない。
捕えられ命を奪《うば》われそうにある吸血鬼《きゅうけつき》を救うための行為だったのかもしれない。
捕えられたのがジルではなくてもおそらく彼は、全国レベルよりはるかに高い水準にある良心の赴《おもむ》くまま救出に向かったはずである。
ジルではないのだ。
ジルだから来たのではないのだ。
そう思うとやるせない気持ちで一杯《いっぱい》だった。
現に森写歩朗《しんじゃぶろう》はいまだに首筋を許してはいないではないか。
ジルと同じ一族になることを拒《こば》み続けているでないか。
それは、森写歩朗にとって私は……少なくとも全《すべ》てを犠牲《ぎせい》にしても抱きしめていたい存在ではない証拠《しょうこ》ではないだろうか?
井丸屋《いまるや》のタコヤキはおいしいんだろうか?
もし私が出ていったとしてもそれほどの悲しみは感じてくれないのだろうか?
ほうれん草はあく抜きしなくちゃ体に悪いのかしら?
女とか異性とかそういう目で自分を見てもらうことは不可能なのだろうか?
梅カスタード入り鯛焼《たいや》きってどんな味がするのかしら?
本当に様々な疑問が頭を飛び交う。
ジルは頭を抱え込んだ。
いっそ森写歩朗の元を離れればこんな苦しみからは解放されるかもしれない。
しかし森写歩朗の元を離れることは出来ない。
また独《ひと》りぼっちになってしまうから。
寂寥感《せきりょうかん》は耐え難い、自分自身で死を選びたくなるほど苦痛である。
空を見上げると月が自分を見下ろしている。
「映画………」
ジルは誰《だれ》も聞いてくれない言葉をお月様に向けて呟《つぶや》いた。
「ものすごく楽しみだったのに」
やはり返事はない。
「一緒《いっしょ》にお出かけ出来るから嬉《うれ》しかったのに」
そいでもってその後公園であ〜〜〜んなことやこ〜〜〜んなことをって不純な考えには発展しない。
あくまで純粋な情景なのだ。
「ジル〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
なんて呼ばれることもなくなってしまうだろう。森写歩朗の元を離れたら。
「ジル〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
そう、こんな風に情けないようでいて優《やさ》しさがこもった声で。
「ジル〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
引きつったカエルが絞《しぼ》り出すような声で。
「ジル〜〜〜〜〜〜」
「え???????」
ジルは何処《いずこ》より聞こえてくる森写歩朗の声に体をビクンと震《ふる》わせた。
「ジル〜〜〜〜」
「嘘《うそ》!」
あたりをキョロキョロ見渡すがここは煙突《えんとつ》の上、普通の人間である森写歩朗《しんじゃぶろう》が空中にいるはずもなく。
必然的にジルは煙突を見下ろした。
ほんの三メートルほど下に森写歩朗がいた。
泣きそうな笑顔とともに。
彼は筋金入りのお人好しという看板《カンバン》のほかに筋金入りの高所|恐怖症《きょうふしょう》という看板も背中に背負っているのだ。
こんな高い所で平気でいられるはずがない。
「森写歩朗………」
ジルは話しかける言葉も思い浮かばずただ森写歩朗の情けない顔を見下ろしていた。
「ちょっと待ってくれ。今そっちへ行くから」
ひたすら震《ふる》える手で円柱形の外壁《そとかべ》にコの字の鉄棒を埋《う》めこんだだけの梯子《はしご》をのぼる森写歩朗。
顔面は蒼白《そうはく》。
冷《ひ》や汗《あせ》が二リットルくらい確認出来た。
それでも気の遠くなるような『ちょっと』を費《つい》やし煙突の縁《ふち》に手をかけた森写歩朗はそこで大きく息を吐《は》き出し、それからジルの顔を見上げた。
そして額《ひたい》を煙突の脇《わき》に擦《こす》りつけんばかりの勢いで、
「ごめん!!!!」
実に潔《いさぎよ》い態度だった。
下手《へた》に言い訳をせず、男らしく謝る。
もっともこの潔い態度の真相《しんそう》は案外《あんがい》単純なもので、あれこれと言い訳を考え頭の中で何度も復唱していたのだが、煙突をのぼっている間に恐怖で全《すべ》て忘れてしまっていたのだ。
「映画のことは忘れていたわけじゃないんだ」
森写歩朗は顔を上げると一言一言区切るようにして言った。
「ただ思い出せなかっただけなんだ」
大差はないように思われるが気にしちゃいけない。
「約束通り映画へは明日《あした》行こう。夜中まで練習やるわけじゃないから映画には間に合う」
「………本当?」
「ああ」
「嘘ついたら?」
「嘘ついたら逆立《さかだ》ちして鰻《ウナギ》の丸呑《まるの》みをしてもいい」
その情景も見れるなら見てみたいと思うジルであったが、森写歩朗の真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しに少し胸が熱くなるのを感じていた。
高所|恐怖症《きょうふしょう》で高い所にいるだけで小錦《こにしき》の首締めを体験したかのような苦痛を味わう森写歩朗《しんじゃぶろう》が、自分に謝罪するために命をかけてのぼってきてくれたではないか。誇張《こちょう》でもなんでもなく命をかけてきてくれたのだ。
ただ謝るという行為のためだけに。
「いいわ」
ジルはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「許してあげる」
「よかった」
安堵《あんど》の息を吐《は》き出す森写歩朗。
「本当にごめんな」
「いいよもう」
ジルは手を伸《の》ばすと森写歩朗を掴《つか》み上げ人間離れした力でぐぃぃっとばかしに持ち上げた。
二人仲良く煙突《えんとつ》の縁《ふち》に腰を下ろしつつ町並みを見下ろす。
多少青白い顔をしているものの森写歩朗はひんやりとした空気に身をまかせていた。
これで和《なご》やかに時が過ぎれば感動的なのだがやはりここは森写歩朗である。
「しかし知らなかったよ」
おもむろに森写歩朗が口を開く。
「何が?」
不思議そうに顔を覗《のぞ》きこむジルに森写歩朗は馬鹿《ばか》百パーセントの笑顔を向けた。
さらによしときゃいいのにこう言ったのだった。
「ジル。そんなに映画が好きだったんだね」
ジルの表情が鬼《オニ》のそれへと変化した。
森写歩朗は煙突から突き落とされた。
無論《むろん》ジルに空中で拾われたがその恐怖は尋常《じんじょう》ではなかっただろう。
朝まで震《ふる》え続ける一夜となってしまった。
第四章 地獄の合宿、そしてデートへ!
1
森写歩朗《しんじゃぶろう》は無言で時計を見た。
現在六時三十分。日没《にちぼつ》までには後わずか。
任務|遂行《すいこう》のためにはどうしても八時までにはジル工作員に現地入りしてもらわねばならない。
もしこれが倉地《くらち》、三石《みついし》の両名に知られたら僕の明日《あした》は南極物語。
待てよ……どうしてジルのことを隠《かく》さなきゃいかんのだ?
別に言っちゃってもいいんじゃないか? 適当に父さんの知り合いとか言って……。
いや、やっぱまずいな。クラスの連中に知られたら吊《つ》るし上げられてしまう。
しかも三石ちゃんはオカルトマニアの血液が濃いじゃないか。万が一なんてことになったら後が厄介《やっかい》。
ここはやはりしらぬぞんぜぬ嘘《うそ》八百を並べたてて場を流すしかないだろう。
問題はジル工作員が無事合宿所の台所へたどり着けるかということだろう。
手筈《てはず》は整えたつもりだ。裏口の窓は開けておいた。言われた材料も合宿所の冷蔵庫に入っている。後は調理人が来てぱぱっと作ってそれで終わりだ。
森写歩朗は親指の爪を噛《か》んだ。
しかしなんだこの予感は。黒絵の具でべったりと塗《ぬ》りつぶしたような悪い予感がする。
いい予感は外《はず》れるくせに悪い予感は当たってしまう森写歩朗はとめどもなく溢《あふ》れてくる不安を抑《おさ》えられずにいた。
一体どこで僕の完璧《かんぺき》な計算が崩《くず》れるというのだ。一体どこで。
「トーマス。あんたの出番《でばん》よ」
「へい」
恥《は》ずかしい衣装《いしょう》を身に着けた森写歩朗は倉地の言葉に反射的にパイプ椅子《いす》から立ち上がるとクラブ練習室の中央へと向かっていった。
「吸血鬼《きゅうけつき》に生きる権利などない! 何故《なぜ》なら蚊《カ》にさされると痒《かゆ》いからだ!!」
恥ずかしいセリフをしゃべりつつ森写歩朗は心の片隅《かたすみ》で祈った。
ジル! 頼んだからな!!!
「しょうもない厄介事ばっかり巻き込んで」
空が暗くなってきたのを確認してからジルは森写歩朗《しんじゃぶろう》宅を出た。
普段《ふだん》の格好《かっこう》では目立ち過ぎるため今回は森写歩朗から借りた黒めのジャージに身を包みコートを羽織《はお》っての出動となる。
一応《いちおう》まだ夕焼けが残っている今、肌《はだ》をさらさない方がいいのだ。
『僕の代わりに料理を作ってほしい』
昨夜、落下の恐怖《きょうふ》で震《ふる》える森写歩朗をおぶっての家路、森写歩朗が背中で吐《は》き出した言葉だった。
とりあえず説明は聞いた。
一応|納得《なっとく》した。
『でも私が料理作ってるところを見られたらおしまいなんでしょ』
『僕が料理を作っている姿は決して覗《のぞ》かないでくださいって固く言っておく』
『もし万が一見られたらどうするの?』
『先日助けていただいたツルですって東の空へ飛んでいけばいい』
日本の昔話を知らないジルにはチンプンカンプンの話だった。
『とにかく用意はしておく。後はジルが来て料理を作ってくれればそれでOK。夜になったら映画に行こう。学校からなら映画館まで歩いて三十分程度だから』
そんなの知らないわって一時はそっぽを向いたジルだが、さすがに森写歩朗の危険《ピンチ》を放っておくわけにもいかずこうやって夕焼けの町を歩いているのだった。
「学校へねぇ」
空を飛んでならば何度か行ったことがあるが徒歩で向かうのは初めてだった。
まあちっとやそっとで疲労《ひろう》するような軟弱《なんじゃく》な肉体でもないが、こうちんたらちんたら歩くのは苦痛に感じる。
それでも今晩の映画のことを頭に思い浮かべると足取りも軽くなってくるのだった。
「楽しみ」
ジルは半《なか》ば踊《おど》るような足取りで薄暗《うすぐら》い通りを駆《か》け抜けていった。
数分前から自分をつけているスーツ姿の男の存在にも気が付かずに。
男はゆっくりと獲物《えもの》への距離を縮めていた。
男にはもう後がなかった。
正確に言うと路銀《ろぎん》の残高が限りなく|0《ゼロ》に近かったのだ。
三円。
一円玉が三枚。
他《ほか》には何もない。
居候《いそうろう》し始めた家で金銭を借りることも不可能ではないように思われたがプライドがそれを許さなかった。
したがって唯一《ゆいいつ》手元に残っていた小銭で先程購入した最後の武器に全《すべ》てをかけるしかないのだ。
この最終兵器は近所のスーパーで五百円で買った。
この武器に思うような効果があるかは分からなかった。
男には効果があると信じるしか出来なかった。
これで失敗したならば任務|遂行《すいこう》出来ませんでした、と公言しつつ尻尾《しっぽ》巻いて帰らなければならない。
男は電柱の陰《かげ》から獲物《えもの》を窺《うかが》い見ながらふと思った。
こんなことなら脱サラしないほうが良かったのかもしれない。
半年前、形容しがたい退屈《たいくつ》さに我慢《がまん》出来なくなり脱サラし公共職業安定所へ足を運んだ数日後、ドクター・アラキとかいう東洋系の老人から連絡が入りめでたく就職が決まったのだった。
仕事の内容を聞きなんだか恐《こわ》くなって研修が終わると有給|休暇《きゅうか》を取りセブ島へ遊びに行ったのだが。
さすがに向こうも頭にきたらしくセブ島に一本の電話。
この仕事に成功しなければクビだからな!
成功|報酬《ほうしゅう》の高さにも目がくらみひょこひょこやってきたがこうも苦労するとは。
しかし、これ以上|被害者《ひがいしゃ》を出すわけにはいかない。
男にも人並みの使命感はあった。
男は決意を固めるとラップを外《はず》しその武器を獲物に向けて背後《はいご》から投げつけた。
最終兵器は放物線を描いて獲物に向かっていった。
2
八時三十分。
森写歩朗《しんじゃぶろう》が現在いるのは合宿所の裏口。
女子二名は汗《あせ》ばんだ体を洗うためシャワールームへと向かった。
この時間にちょちょちょと夕飯を作ってしまうのがベストなのだが。
そうもいかないところが悲しいところ。
肝心《かんじん》のコックが到着しないのだった。
これは困った。
手も足も出ないと言うのはこのことだろう。
神様に懇願《こんがん》しても状況の改善は期待出来ない。
おかしい。
森写歩朗は神経質そうに貧乏揺《びんぼうゆ》すりを始めた。
計画ではジルは八時までには到着するはずである。
しかし、来ていないのだ。
もう暗くなっているから飛んでくるかもしれないと東のお空、西のお空と目を向けるのだが、カラスの貫太郎《かんたろう》も見えない。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は大いに困っていた。
このままでは自分で料理を作る羽目《はめ》になってしまうではないか!
そんなことになったら………。
かつて自分の家の台所で引き起こした惨状《さんじょう》が目に浮かんだ。
かなり恐《おそ》ろしかった。
台所の惨状も恐ろしいがその後にひかえる倉地《くらち》のアイアンクローも恐ろしかった。
最近久しく味わってないがだからって懐《なつ》かしいものではない。
ジル!!
森写歩朗は懇願《こんがん》した。
頼むから早く来てくれ!!
「森写歩朗」
唐突《とうとつ》に背後《はいご》から声をかけられた森写歩朗は飛び上がった。
そして背後を振り向き、喜びがつまりまくって溢《あふ》れている声で叫んだ。
「ジル!!!!!」
森写歩朗はジルの手を取ると涙を流して感謝した。
「来てくれたんだね!」
「森写歩朗」
ジルは力なく微笑《ほほえ》んだ。
森写歩朗はその時初めてジルの顔色がいつも以上に青白くその表情が弱々しいものであることに気がついた。
「どうしたんだ? ジル」
「なんでもな……い…」
なんでもなくなかった。
その証拠《しょうこ》にジルは森写歩朗の前で景気よくぶっ倒れた。
遅《おく》れてやってきた助《すけ》っ人《と》は到着した途端《とたん》にその力を使い果たしたかのごとく倒れてしまったのだ。
「ジル〜〜〜〜!!!!」
慌《あわ》ただしく物事が経過した。
シャワーを終えて出てきた倉地達をなんとかごまかして近所のコンビニへ買い物に行かせたのが十分ほど前。
それからジルを森写歩朗《しんじゃぶろう》が使う薄暗《うすぐら》い蒲団《ふとん》部屋へ運んだりといろいろと苦労があったのだが、特筆すべきことではないので省略する。
今ジルは蒲団部屋に横になっているのだった。
ジルは夢を見ていた。
暗い街道《かいどう》をジルは歩いていた。
古ぼけたガス灯の光に照らされた赤レンガ敷きの通路がテラテラと光沢《こうたく》を放ちジルの足音がこつこつと響いた。
遠くの街灯の下に人影を発見したジルは足を止めると目をこらした。
情けない顔の青年が手を振っている。
「森写歩朗!」
ジルは駆け出した。
満面の笑みと共に。
森写歩朗の胸に飛び込もうとするまさにその瞬間《しゅんかん》。
森写歩朗の姿が忽然《こつぜん》と消えた。
街灯も消えた。
何もかもが消えた。
闇《やみ》を見通すその目でさえ何も見えない。
「森写歩朗? 森写歩朗?」
暗闇の中|無我夢中《むがむちゅう》で手を振り回すジル。
その手に固い感触《かんしょく》が当たった。
「森写歩朗」
ひしと抱きついたジルの目の前でそいつの姿は浮かび上がった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ジルは叫び声を上げた。
そこには人間大の最悪なるものが屹立《きつりつ》していたからである。
ピーマンだった。
説明しよう。
ジルを初めとする吸血鬼《きゅうけつき》はその嗅覚《きゅうかく》の鋭《するど》さからそれぞれ何かしら苦手《にがて》な匂《にお》いというものが存在するのだ。
もちろん伝説通りニンイクが嫌《きら》いな奴《やつ》もいるだろう。
また別の吸血鬼は納豆《なっとう》の香《かお》りが苦手ということもありえる。
そしてジルは……ピーマンが苦手だったのだ!!。
「きゃあ」
ジルは飛び起きた。
荒い息を吐《は》き出す。
ひとしきり呼吸を落ち着かせるとあらためて辺《あた》りを見渡した。
ジルの目ならば暗闇《くらやみ》など関係ない。
うず高く積まれた蒲団《ふとん》の脇《わき》に自分がいるのを確認する。
「起きたか? ジル」
カーテンで仕切られただけの部屋へ森写歩朗《しんじゃぶろう》が顔を出す。
電灯も弱めにしてあるのが彼なりの優《やさ》しさだった。
「森写歩朗」
「一体どうしたんだよ。真《ま》っ青《さお》な顔して」
ジルは話すべきか話さないべきか迷った。
道を歩いていたら後ろからピーマンが飛んできたと。
逃げても逃げてもピーマンが飛んできたと。
何かとてつもない陰謀《いんぼう》を感じると。
ブラックウイナー?
ジルの頭にここ一月とんと現れなかったその言葉が浮かび上がった。
やり方としては多少|馬鹿《ばか》らしいがそれ以外にこんなことをする連中は考えられない。
「そうだ料理作らなくちゃ」
ジルは立ち上がり、そして目眩《めまい》を覚えて膝《ひざ》をついた。
まだ頭がクラクラする。
吸血鬼《きゅうけつき》であるジルが普通のアルコールにまいることはないがある意味|二日酔《ふつかよ》いの感覚に似ているのかもしれない。
「いいから寝てなよ」
「でも料理」
「なんとかするさ」
根拠《こんきょ》のない台詞《せりふ》だった。
実際言った本人が一番自信がなかった。
しかし森写歩朗は青白い顔をさらに青くしているジルに料理をさせるほど悪党ではなかった。
「まぁ。なんとかするよ」
森写歩朗は力なく笑った。
「気分悪いんだろ」
「少し」
「そうか。映画。また今度にするか」
そこで森写歩朗《しんじゃぶろう》は蒲団《ふとん》部屋の脇《わき》に置いてあった紙袋を手にとった。
「これ、使わないと思うけど一応《いちおう》わたしておくよ」
ジルはその紙袋を手に取り何かしらとその口を開け覗《のぞ》き込んだ。
何やら薄いブルーの布地が垣間《かいま》見える。
ジルをそれを取りだし、そして、滂沱《ぼうだ》した。
感動の涙だった。
ジルの手の中にあるのは女性服だったのである。
それこそ美的感覚|音痴《おんち》を絵に描いて国立美術館に展示したような森写歩朗が選んだ服だからセンスとか流行とかは期待してはならなかった。
実際|倉地《くらち》が見れば吐《は》いて捨てるかもしれない。
しかし森写歩朗は彼なりに一生|懸命《けんめい》選んだのだった。
なけなしの小遣《こづか》いを使い果たしたのだ。
一限目と二限目を自主休業とし二時間も洋服店の女性服コーナーで試行錯誤《しこうさくご》を繰り返した結果なのだ。
たとえ少しぐらい時代|遅《おく》れでも、色合いが悪くても、不恰好《ぶかっこう》でもこれに勝《まさ》るプレゼントがあるだろうか。
ジルは感動の涙を流し続けた。
「ありがとう。森写歩朗《しんじゃぶろう》」
「僕ちょっと流行のこととか分からないけど。よかったら使って」
照《て》れ臭《くさ》そうに鼻の頭を掻《か》く森写歩朗。
「まぁ今日は仕方ないけど。また映画のチケット買うよ」
「いや!」
ジルは断固として拒否《きょひ》した。
「今日映画行く」
手の中の柔《やわら》かい肌触《はだざわ》りがその決心をさらに固くするパルスを送っている。
「大丈夫か?」
「大丈夫。もう少し休めば」
「本当に無理《むり》しないほうがいいぞ」
「大丈夫!」
月さえ落としかねないジルの迫力《はくりょく》に森写歩朗はたじろいだ。
「じゃあ様子を見てってことだな」
森写歩朗は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「台所だよ。これから料理作らなきゃな」
「待って」
憔悴《しょうすい》した森写歩朗をジルは呼び止めた。
「ものずごく簡単でそれでもそこそこおいしい料理の作り方教える。紙と鉛筆持ってる?」
「ペットボトルのコーラそれから乾き物が少し。花丸先輩《はなまるせんぱい》から頼まれた甘納豆《あまなっとう》。………変わった物好きなんですね」
可愛《かわい》らしくメモを見ているのは三石《みついし》。
「あいつの小さい頃《ころ》住んでた家の近くに甘納豆の小さな工場があってね。そこで毎日のようにおやつとしてもらってたらしいわよ」
「相変わらず詳《くわ》しいですね。倉地《くらち》先輩」
三石は買い物|籠《かご》をレジ前の台に置きつつそう言った。
「当然よ。私はあいつに屈辱《くつじょく》という二文字を味わったのよ。あいつが私の魅力《みりょく》に気が付くまで徹底的《てっていてき》に調教してあげるんだから」
ピッピとスキャナの音が規則的に続く中、コンビニの明るい電灯に向かって拳《こぶし》を振り上げる倉地。
私には真似《まね》出来ないわ。
三石《みついし》はそう思った。
と同時に疑問も覚える。
倉地《くらち》をそこまで動かすのはなんなんだろうか?
チョモランマを通り越して最近|成層圏《せいそうけん》へ到達したというプライドなのか?
ちなみにこのプライドは確実に高度を上げ計算では三年後月に到達とのことである。人類の新たな一歩が開けるかもしれない。
しかしプライドだけで森写歩朗《しんじゃぶろう》の靴のサイズから嗜好《しこう》まで調べ上げ演劇部へ入り、さらに毎日森写歩朗に見せるためだけにベストコーディネートを決めてくるなんて出来るのだろうか?
プライドだけでないとしたら?
プライドだけでないとしたら倉地の深層心理の弁当箱には何が入っているのだろう?
「先輩《せんぱい》」
夜とはいえ街灯《がいとう》がかなり明るい帰り道。
三石は含《ふく》むところがあるようにその可愛《かわい》らしい顔にコケチッシュな笑みを浮かべた。
「先輩の苦労が実るかもしれませんよ」
「どういうことよ」
「へへ」
三石は小悪魔的《こあくまてき》に受け流す。
「説明して」
小悪魔も大悪魔にはかなわなかった。
「あのですね」
三石は倉地の耳もとに口を寄せると何やらゴニョゴニョ。
「ココキタザワの洋服?」
「そうなんです」
「あの駅前のブティック?」
「あの袋は間違いなくそうでしたね」
「トーマスが女性服なんて………どういうつもりよ」
「そんなの決まってるじゃないですか」
三石は目尻《めじり》をさげると肘《ひじ》で倉地を突く。
「誰《だれ》かさんにプレゼントするんですよ」
倉地は足を止めた。
倉地の頭の中には一人の女子生徒の姿しか映らなかった。
と〜〜〜ぜん! 自分の姿である。
「どうやら花丸《はなまる》先輩もやっと倉地先輩の魅力《みりょく》に気がついたってわけですね」
「……まあ。くれるって言うならもらっておくけど。きっとろくでもないやつよ」
「でもあの花丸先輩《はなまるせんぱい》がですよ。さすが倉地《くらち》先輩ですね。どうします? 花丸先輩本気になっちゃってたら」
「馬鹿《ばか》言わないでよ!」
倉地は三石《みついし》を一喝《いっかつ》するとツカツカと歩き出した。
普段《ふだん》の倉地らしからぬ態度に三石は一人|背後《はいご》でほくそ笑んだ。
「花丸先輩。もうご飯作っちゃってますかね」
「さぁ。まだなんじゃない。きっと今頃《いまごろ》四苦八苦して料理作ってる筈《はず》よ」
倉地の言葉は、九九パーセントくらい当たっていた。
唯一《ゆいいつ》違っていた一パーセント。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は四苦八苦して台所を片付けていたのである。
どうしてこんなことになったんだろうか?
森写歩朗は半分燃えてしまったノートの切《き》れ端《はし》に目を落とした。
ジルから教わった簡単に出来てなおかつうまいという料理の作り方が森写歩朗の芸術的な文字で書かれている。
またの名を超象形《ちょうしょうけい》文字とも呼ばれる。
確かにとても簡単そうだった。
これなら僕にでも出来る。
台所で鍋《なべ》を火にかけるまでそう思っていた。
何が間違っていたのだろう。
森写歩朗は冷静に考えた。
当然今後同じ失敗を繰り返さないためである。
しかし今この場をどうすべきか?
反省するより打開策を考えよう。
森写歩朗はかろうじて料理と呼べる皿の上の物体に目を移した。
う〜〜〜〜〜ん。
自分で見ても恐《おそ》ろしいのだ。
他人が見たらもっと恐ろしいだろう。
恐る恐る香《かお》りを嗅《か》ぐ。
う〜〜〜む。
自分で嗅いでも臭《くさ》いのだ。
他人が嗅いだらもっと臭いだろう。
勇猛果敢《ゆうもうかかん》にスプーンで一口。
う〜〜〜〜〜ん。
自分で食べてもまずいのだ。
他人が食べたらどえらいまずいだろう。
判定人は静かに目をつぶるとおごそかに呟《つぶや》いた。
「失格!」
一人で遊んでいる場合ではない。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は打開策を考えようとスカスカの脳味噌を回転させた。
カラカラカラ。
非常によい音がなったが、音ばかりで肝心《かんじん》のアイデアが浮かんでこない。
倉地《くらち》、三石《みついし》はもうすぐ帰ってくるだろう。
この惨状《さんじょう》。そしてこの食べ物とも産業|廃棄物《はいきぶつ》ともつかぬ物体を見てどう思うだろうか?
食べてどう思うだろうか?
いや根本的にこんな物を口に入れるとは思えない。
う〜〜〜む。
困惑《こんわく》の連続である。
どうしよう。
森写歩朗は考えに考え抜いた。
歌うとか踊《おど》るとか宇宙人を呼び出すとか様々なろくでもないアイデアが浮かんでくるのだが今回はそれらをいちいちピックアップしている暇《ひま》はない。
森写歩朗はしばし沈思《ちんし》してから意を決したように呟いた。
「逃げよう」
3
「ふ〜〜〜む」
倉地は困惑気味に目の前に並べられた料理の数々を眺めた。
「ちゃんと出来てるじゃない」
「すごいですよ」
三石もひたすら感心している。
日本|手拭《てぬぐ》いを泥棒巻《どろぼうま》きにして逃げ出そうとしている森写歩朗の元へ復活したジルがやってきて、パッパと作り上げたという事実も知らず二人は料理を前に悩み続けていた。
「問題は味……ですけど」
「それにしてもトーマス何考えてんのかしら」
倉地は料理の脇《わき》に添《そ》えられていたメモ用紙を摘《つま》み上げた。
『歯ブラシを忘れたので家にとりに行く。夜中までには帰る』
「歯ブラシなんかコンビニでいくらでも買えるのに」
「まぁ、あの花丸先輩《はなまるせんぱい》のことですから………何かしら自分の歯ブラシに執着《しゅうちゃく》があるんじゃないですか?」
『追伸《ついしん》 ごはんは食べちゃってて。僕は家で食べてくるから』
「もしかしてよっぽど自分の料理に自信がないんじゃないの?」
倉地《くらち》は疑り深そうに目の前の料理を眺めた。
見た目は良い。香《かお》りも良い。問題は味だ。
「誰《だれ》か毒見《どくみ》してくれる人いないかしらね」
「私にしろなんて言わないでくださいよ!」
三石《みついし》がすかさず辞退《じたい》する。
「う〜〜ん」
ほかほかと湯気を立てる料理を前に倉地は腕を組んだ。
これを放っておくのはもったいない気もするが、食べるには東京タワーから飛び降りるくらいの勇気がいる。
「誰か毒見してくれる人がひょっこりと顔出さないかしら」
「ちわ〜〜す」
タイミングを推《お》し量《はか》ったように窓から声が聞こえる。
三石が素早《すばや》く窓を開ける。
「ども」
そこには黒い縁《ふち》の眼鏡《めがね》をかけた男が防寒のジャケットのすそを縮《ちぢ》こませつつ立っていた。
「西尾《にしお》先輩じゃないですか? どうしたんですかこんな夜に」
「合唱部はもうすぐ『慰問《いもん》コンサート98君の瞳《ひとみ》に何が映る八時間連続|懐《なつ》メロオンパレード』っていう奴《やつ》をやんなきゃいけなくてね。毎晩九時|頃《ごろ》まで練習しなくちゃいけないんだ」
やる方もやる方だが聞く方にもかなりの根性《こんじょう》がいると思われるコンサートだ。
「ところで森写歩朗《しんじゃぶろう》いる?」
西尾の問いには答えず倉地は窓から顔を突き出すとその端正《たんせい》な顔を西尾に近づけた。
「いいところに来たわね」
「へっ?」
「料理が余ってるの。食べてかない?」
三石は何も臆《おく》す所なく平気で嘘《うそ》をつく倉地の横顔を見つめつつ、この先輩の将来に何か恐《おそ》ろしいものを感じていた。
正直言って夕食はおいしかった。
どえらいうまかった。
三石《みついし》、倉地《くらち》、そして予期せずご馳走を戴《いただ》くこととなった森写歩朗《しんじゃぶろう》の悪友|西尾克起《にしおかつおき》は、え〜〜〜嘘《うそ》ぉぉぉぉ。これ森写歩朗が作ったのぉぉぉ。信じられねえよ〜〜〜てなことを絶えず口にしつつ夕食を平らげた。
「ふ〜〜〜」
三石が息を吐《は》き出した。
「これは驚きましたね」
正直な感想である。
「出汁《だしじる》の取り方。野菜の切り方。そえられた箸置《はしおき》のカエルさんのデザインまで素人《しろうと》とは思えないです」
もっともらしい顔でそう吐き出す。
「しかしまぁ、森写歩朗がね」
歯の隙間《すきま》を爪楊枝《つまようじ》なんぞでホジホジしつつ西尾。
「前回は台本書いたっていうし。今回は料理ね。信じられないな」
一人|蒼白《そうはく》な顔をして箸を握《にぎ》り締《し》めているのは倉地だった。
「ねえ彼女どうしちゃったの?」
西尾の問いに三石は少し複雑そうな表情をしてみせた。
「倉地|先輩《せんぱい》の頭の中ではね、花丸《はなまる》先輩て多分ベストオブ馬鹿《ばか》だったんですよ」
「ふむふむ」
「さらにベストオブ役立たず。ベストオブ美的感覚|音痴《おんち》。ベストオブ鈍感朴念仁《どんかんぼくねんじん》。ベストオブ頓馬《とんま》、間抜け、おたんこなす、お前の母チャンデベソ。その他モロモロのグランプリ受賞してたんです」
「それはすごい」
「その中のいくつかのタイトルを剥奪《はくだつ》しなきゃならないから悩んでるんじゃないかと思います」
「ふ〜〜〜む。大人《おとな》の世界て大変だね」
大して意味があるとは思えない言葉を吐き出してから西尾は立ち上がった。
「それじゃご馳走様。俺《おれ》帰るわ」
「いいんですか? 花丸先輩もうすぐ帰ってくると思いますよ」
「いや。あの映画十時からだからしばらくは帰ってこないはずだぞ」
「映画?」
倉地の眉《まゆ》がピキ〜〜〜ンと動いた。
必殺仕事人のかんざし屋が手の中の針を一回転させる時の雰囲気《ふんいき》にそれは似ていた。
「映画ってどういうことよ?」
「え……だから森写歩朗が」
「トーマスは家へ歯ブラシ取りに行ったのよ」
西尾《にしお》はしばし目をぱちくりさせた。
そして悟《さと》った。
少しばかしまずいのではないかと。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は出かけてると言われたからてっきり倉地達《くらちたち》も周知《しゅうち》と思っていたのだが。
森写歩朗は秘密にしたかったらしい。
はてさてどうしたもんだろうか?
西尾は数秒考えてから脳味噌の国際会議で結論を生み出した。
え? 僕何か言ったかな? おうもうこんな時間だ。早く帰らなければトト様とカカ様が心配しちゃうよ。それじゃね大作戦。
簡単に言うと、すっとぼける大作戦!
西尾はわざとらしく腕時計に目を落とした。
「おぉ。もうこんな時間か。早く帰らなければトト様とカカ様が心配しちゃうよ。それじゃね」
演劇部員の前で猿芝居《さるしばい》はすべきではなかった。
首筋を倉地によってむんずと掴《つか》まれた西尾は手足をじたばたさせた。
「正直に言ってくれるかな? 西尾クン」
声こそ溶かしキャラメルでからめたポップコーンのように甘《あま》いが一皮向けば鷹《タカ》の爪《つめ》が現れるのは必至《ひっし》。
これは誤魔化《ごまか》すは不可能かも。
待てよ。
西尾の脳裏《のうり》の中で何かが閃《ひらめ》いた。
世の中映画に行くことを隠《かく》したがる人間はまずいない。いや成人指定の映画だとかいうならば話は変わるが。
何を森写歩朗が秘密にしたがるか?
それはおそらく女の子と行くことであろう。
それならば話は早い。
「いや、さ。森写歩朗の奴《やつ》に映画のチケットを売ってやったんだよ。その金をまだもらってないからもらおうと思ってね。それだけさ」
「映画のチケット?」
西尾は緩《ゆる》まった倉地の手から逃れると、
「そうそう。うちの部長から売りつけられてさ。俺《おれ》も行く気がしなかったからあいつに売った。それだけさ。ははぁ合宿最中に抜け出すのがバツ悪かったからあいつ嘘《うそ》ついてたんだな」
それから西尾は人好きのする笑顔を向けて手を振った。
「じゃあね。おやすみ」
風のように去っていく西尾《にしお》。
「映画ですか」
「ちょっと待ってよ」
いまだ怪訝《けげん》そうな顔で空《くう》を見つめる倉地《くらち》。
「どうしたんですか?」
「今あいつ部長から売りつけられたって言ったわね」
「はい。合唱部の部長っていうと、確か宮下先輩《みやしたせんぱい》。ちょっとおじさんぽく見える人ですね」
合唱部部長、宮下|政則《まさのり》は老《ふ》け顔で有名なのだ。ゆえに彼を知る者からは親父《おやじ》と呼ばれる存在である。
そして何を隠《かく》そう倉地ファンクラブの会長を務めているのだ。
「一週間ほど前、あいつからね」
「あいつ?」
「宮下親父よ」
「宮下先輩がどうしたんですか?」
「映画に誘《さそ》われたのよ。ナイトタイムのチケットで」
「で、どう返事したんですか?」
「そのチケットを床《ゆか》に落として踏《ふ》みつけてやったわ」
何もそこまでしなくても。三石《みついし》は宮下が気の毒に思えた。
「可哀《かわい》そうに」
「問題はそんなことじゃないの。あの時のチケット」
「多分そのチケットを売りつけたんですね」
「あのチケット。ペア指定席だったの」
涼《すず》しい沈黙《ちんもく》が流れた。
「あの〜〜〜、先輩が何考えてるか大体分かりますけどね。まさかそれはないんじゃないですか。あの花丸《はなまる》先輩ですよ。ペアチケット手に入れても一人で見てるって可能性もあるし」
「三石ちゃん!」
れっぱくした声が響いた。
「さっき言ってたココキタザワの服まだあるか調べて」
「へ?」
「早く!」
三石は二階へ向けて駆《か》け出した。
服はなかった。
五分後、花丸|森写歩朗捜索隊《しんじゃぶろうそうさくたい》は飯波《いいなみ》高校を出発した。
隊長の名前は倉地|香《かおり》。
副隊長の名前は三石秋子《みついしあきこ》。
4
森写歩朗《しんじゃぶろう》は後悔《こうかい》していた。
後悔のほぞをかみちぎっていた。
学校から映画館までの道程をえっちらおっちら歩いてきたところだった。
隣《となり》で森写歩朗からプレゼントされた服を着込み御満悦《ごまんえつ》の表情のジルの存在を感じつつ、あぁやっぱりジルは映画が好きなんだぁなんていまだにとち狂《くる》ったことを考えていた時、悲劇は起こった。
いやそれは突発的《とっぱつてき》、偶発的《ぐうはつてき》なものではなく起こるべきとされていたものだった。
悲劇は駅前の映画館に掲《かか》げられる巨大ポスターの形をしていた。
そのポスターを一瞥《いちべつ》した時、森写歩朗の怒濤《どとう》の後悔が始まったのだった。
どうして自分はチケットをよく確かめなかったのだろうか?
自分を殴《なぐ》りつけたくなる衝動《しょうどう》にかられるのも仕方がない。
近くに川があったならば彼はおそらく飛び込んでいただろう。
森写歩朗は顔を上げるともう一度そのポスターを見上げた。
森写歩朗は再び頭を抱え込んだ。
流れるような朱《しゅ》の色で描かれたタイトルが容赦《ようしゃ》なしに森写歩朗の脳裏《のうり》に刻《きざ》まれている。
『吸血鬼《きゅうけつき》のはらわた』
ちょっと待ってくれよ!! ってな心境である。
よく考えなくともそれが笑って見られるコメディーとは思えない。
血も凍《こお》って血管注射出来なくなる類《たぐい》の映画だということは安易《あんい》に予想出来る。
何もよりによってこんなホラー映画、しかも題名が『吸血鬼のはらわた』である。
考えてみよう。たとえばここに竹内友子《たけうちともこ》という女性がいたとしよう。
友子さんは男の人に誘《さそ》われてルンルン気分で映画館へ向かう。
そしてポスターを見上げる。
『竹内友子のはらわた』
いい気分であるわけがない。
相手の男をバッグに潜《ひそ》めてあったペーパーナイフで刺しても警察は何も言えないぞ。
吸血鬼なんてそこいらに転《ころ》がっているものでもないから、ジルはまるで自分のことのように思うのではないだろうか?
気分を悪くしているのではないか?
森写歩朗は恐《おそ》る恐るジルを横目で見た。
不思議なことにジルは目をキラキラと光らせている。
「ねえ森写歩朗《しんじゃぶろう》?」
その無垢《むく》な瞳を向けられて森写歩朗は数歩|後退《あとずさ》った。
「これって恐《こわ》い映画なの?」
「……多分」
「そう。楽しみね」
男女が映画に行くときは恐いものに限る。
そんな雑誌の記事を思い出しジルはなんだか分からないけど胸が熱くなるのを覚えていた。
森写歩朗は森写歩朗でジルがどうやらタイトルについては気にしていないということに気が付き安堵《あんど》のため息を吐《は》き出す。
「入ろうよ」
「ああ」
ジルに手を引かれるようにして森写歩朗は入り口へと足を進めた。
そんな微笑《ほほえ》ましい光景をタクシーの中から厚さ数センチの鉄板でも貫《つらぬ》くのではないかと思われる眼光で睨《にら》み付ける少女の姿があった。
「花丸先輩《はなまるせんぱい》でしたよね」
歩道の脇《わき》に停車したタクシーはまるで身を潜《ひそ》めるかのごとくエンジンを切っている。
「花丸先輩でしたよね」
三石《みついし》は窓にへばりつく倉地《くらち》にもう一度話しかけた。
やはり返事は返ってこない。
「倉地先輩?」
三石は倉地の顔を覗《のぞ》き込み、見なかったことにした。
鬼《オニ》の形相《ぎょうそう》などそうそう見たいものではない。
記憶に残しておいても夜眠る時ちらついて恐《おそ》ろしいだけだ。
器用《きよう》な三石は記憶から先程見た恐ろしい形相を削除《さくじょ》した。
倉地は困惑《こんわく》していた。
言い表しようのない怒《いか》りが体を渦巻《うずま》いている。
倉地は自分の魅力《みりょく》を分からせるという壮大《そうだい》な目的のためにこれまで血の滲《にじ》むような苦労をしてきた(血が滲んだのはたいてい森写歩朗の方だったが)。
雨の日も風の日も雪の日も。
霰《あられ》が降って皆で珍《めずら》しがってる日も。
台風が来て大雨|洪水《こうずい》注意報で学校が早引きになった日も。
近所の零細《れいさい》動物園から猿《サル》が逃げたと大騒《おおさわ》ぎになった日も。
倉地《くらち》は森写歩朗《しんじゃぶろう》に人間的美的感覚を身に付けさせる(つまり倉地にへいこらすること)そのためだけに励み続けたのだった。
当然森写歩朗が最初に恋心を抱くのは自分であるはずだ。いや自分じゃなきゃいかん。それじゃなきゃこれまでの学園生活が無意味となってしまう。
トーマスは私に惚《ほ》れなければいけない。
トーマスは私のことを好きにならなければいけない。
とまあ至極《しごく》理不尽《りふじん》な理屈《りくつ》を並べる倉地。
倉地が抱いているこの憤《いきどお》りはカインドオブ嫉妬《ジェラシー》なのだった。
「あの。お客さん。降りるんですか? それともどっか行くんですか?」
迷惑《めいわく》そうな運転手に倉地は凶眼《きょうがん》と称《しょう》される鋭《するど》い視線を向けた。
哀《あわ》れな運転手は寿命が六年も縮《ちぢ》まってしまった。
「降りるわ」
端的《たんてき》にそう呟《つぶや》くとドアを壊《こわ》す勢いで押し開け出て行く倉地。
「すいません。運転手さん」
三石は料金メーターを確認すると呆然《ぼうぜん》とするタクシードライバーに千円札を二枚わたした。
「お釣《つ》りはいりませんから」
三石はそう告《つ》げると鬼《オニ》のよ〜〜なオーラをまき撒《ち》らす倉地の後ろを慌《あわ》ただしく追いかけていった。
明日の三面記事を危惧《きぐ》しながら。
「ここか」
前原《まえはら》町駅に降り立ったその男は抑揚《よくよう》のない口調でそう呟いた。
ゆっくりと左右を見わたすと止めていた足を動かし始める。
「お、お客さん!」
駅員が男の後を慌てて追いかけてきた。
そして手にしていたウォークマンを突きつけて言った。
「席に忘れていましたよ」
男は無言でそのウォークマンを受け取るとまた歩き出した。
「なんだよ。お礼ぐらい言えばいいのによ」
まだ若い駅員はそう毒づいた。
男は繁華街《はんかがい》に姿を消していった。
第五章 命くれない?
1
はてさて森写歩朗《しんじゃぶろう》が映画館に足を踏《ふ》み入れた日、ところ変わって南海の孤島《ことう》、スンチカラマリ島。
無敵ツアーコンダクター、花丸辰太郎《はなまるたつたろう》は森を駆《か》けていた。引《ひ》き摺《ず》られるようにしてやっぱり引き摺られている女性と共に。
彼女の名前は鈴木《すずき》奈緒《なお》。遺跡《いせき》を見ることを楽しみにこの島へやってきた哀《あわ》れな女子大生である。
何が哀れであるかを説明すると。
彼女は辰太郎と約束を交わしてしまったのである。
辰太郎はこう言った。
『何があってもあなたにその遺跡を見せてあげますよ』
それはおざなりの口約束ではなかった。
火山が爆発しようが宇宙人が攻めてこようが裏庭でポチがワンと鳴こうが辰太郎は奈緒を連れて行くつもりだった。
そして事実その通りになった。
「ちくしょう。何が通行止めだよ。観光地のくせにお客様に対する心構えってのがなってねえんだ」
「ツアーコンダクターさん」
奈緒がかなきり声を上げる。
「あの、方向あってるんですか?」
「大丈夫だ」
自信をたっぷりとパンに塗《ぬ》ってわたす辰太郎。
「こうやって地図も磁石《じしゃく》もある」
奈緒は辰太郎の手に握られている地図と磁石に目を向けた。
手の中に握られた地図はお約束にも世界地図だった。
ちなみに磁石はU字磁石だった。
砂鉄をとる以外にあまり使い道がなさそうだった。
奈緒はかなり不安になった。しかしもっと不安なことはあたりで銃声や爆撃の音が響いているという恐《おそ》ろしい事実だった。
ズガガガガガガガガガガガ!
ドッゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォン!
何かが起きている。
この状況で元気に笑っていられるなど奈緒《なお》には不可能だった。
「なははははは」
だが一人だけそれが可能な人物がいた。
辰太郎《たつたろう》である。
「お客様に満足してもらうのがツアーコンダクターの務めであります!」
一人|同間声《どうまごえ》を響かせながら突き進む辰太郎。
「たとえ全《すべ》ての道路が工事で通行止めになろうとも、俺《おれ》は負けません!」
本当に道路工事かしら?
奈緒は頭の中で自問した。
道路工事で銃は使わないと思うわ。
道路工事で滞在日数が減ったりしないわ。
道路工事で軍隊が出動したりなんかしないわ。
まるで奈緒の予想を裏付けるように目の前の木が爆発した。
爆風で吹き飛ばされる二人。
奈緒を抱きかかえるようにして辰太郎は勾配《こうばい》の激しい丘を転《ころ》げ落ちていった。
「くそぉぉぉ俺に何の恨《うら》みがあるってんだ!」
辰太郎はむっくりと起き上がると憎々《にくにく》しげに吐《は》き捨てた。
「そこまでして俺達に遺跡《いせき》を見せたくないってことかよ」
「………もういいです。ツアーコンダクターさん。帰りましょうよ」
泣きそうな顔でそう叫ぶ奈緒。
「もういいだって」
辰太郎は凄味《すごみ》を帯びた顔を向けた。
そして早口にまくしたてた。
「簡単にもういいなんて言うな。お前は見たいんだろ。見たいんだろ。どうして我慢《がまん》する。見たいんなら見に行こうじゃないか。俺が連れてってやる。人間もういいなんていってたら人生そのものがもういいになっちまう。やりたいならやれ! やりたくないならやるな! 所詮《しょせん》人間なんて欲求の生き物なんだ。好きなことをやるために産まれてきたんだよ。ただ人に迷惑《めいわく》をかけることだけは俺が許さないがな」
それからスクッと立ち上がると言った。
「ちょっと待ってろ。あのミリタリーごっこやってる奴《やつ》ら怒鳴《どな》りつけて大人《おとな》しくさせて来るからな」
奈緒《なお》の制止を聞かず辰太郎《たつたろう》は飛び出していった。
ミリタリーごっこで実弾って使うのかしら?
奈緒は呆然《ぼうぜん》とした頭でそう思った。
二時間後、辰太郎は帰ってきた。
二人の男を引っ張って。
片方は年のこう六十前後、もう片方は四十前後。
共通していることは二人ともボロボロになっていることである。
辰太郎は二人を奈緒の前に放り投げると、
「確か鈴木《すずき》さん、スンチカラマリ語少し出来るって言ってましたよね」
「……はい」
状況に困惑《こんわく》しつつ頷《うなず》く。
「通訳してくれないかな」
それからの出来事を奈緒はよく覚えていない。
朦朧《もうろう》とする頭でなんとか通訳し、辰太郎に内容を伝え辰太郎の言葉をスンチカラマリ語に変えて……を繰り返した。
国家情報だとか税率引き下げとか宗教解放だとか主義主張とか確固弾圧《かっこだんあつ》とか訳の分からない
言葉が並んだがよく覚えていない。
とにかくその二人の男は奈緒《なお》の目の前で手を握《にぎ》り合うと何処《いずこ》へと去っていった。
「さてと」
首をコキコキと鳴らして辰太郎《たつたろう》は満足そうに立ち上がった。
「それじゃ、遺跡《いせき》見に行こうか」
それから山路を上り続けて三時間三十八分。
いい加減《かげん》空が暗くなる頃《ころ》、その遺跡は現れた。
辰太郎に担《かつ》ぎ上げられ標高三千八百メートルの遺跡の頂点、イカの頭の部分に来た時、それまで緩慢《かんまん》としか回転していなかった奈緒の脳味噌がやっと動き出した。
それは壮大《そうだい》な眺めだった。
「なかなかのもんじゃないか」
辰太郎が感服《かんぷく》したかのように呟《つぶや》く。
「もっとインチキ臭《くさ》いような気がしてたが」
「紀元前三千年前、スンチカラマリ島に到着したスンチカラマリ人の祖先は無事海を渡れたことを海の神に感謝し海の神の巨大な石像を作り上げた。それ以来この石像はスンチカラマリ島を見下ろし続けている」
「来てよかったろ」
辰太郎が屈託《くったく》のない笑顔を向けた。
奈緒は満面の笑みでそれに答えた。
「ありがとう。ツアーコンダクターさん」
胸に飛び込んでくる奈緒を辰太郎は少々複雑な顔で見下ろしていた。
お客様の夢を守るのもツアーコンダクターの仕事なんだよな。
心の中でそう呟くと辰太郎は右足に込める力を強くした。
グリグリと足の裏で踏《ふ》みつける。
先程見つけた、紀元前三千年前に作られたはずのイカの石像に何故《なぜ》か埋《う》まっていたコーラの空缶を隠《かく》すために。
ツアーコンダクターをやってるとこういうことはよくあることなのである。
2
暗い映画館。
しかも恐怖《ホラー》映画とくれば男女が行う行為は相場が決まっている。
女の子がキャ―――。
男の子が女の子の手を握《にぎ》り安心させる。
とまあこんな感じだろう。
しかし………肝心《かんじん》の女の子はこの手《テ》の映画にそれほど恐怖《きょうふ》を感じていなかった。
件《くだん》の男の子はこの手の映画が大嫌《だいきら》いだった。
キャ――と悲鳴《ひめい》すら上げないものの背中に冷たい汗をかいていることに間違いはなかった。
こりゃあしばらく夜トイレ行けなくなっちゃうぞ。
凄惨《せいさん》な光景を前に森写歩朗《しんじゃぶろう》はゴクリと唾《つば》を飲み干した。
蛇《ヘビ》に睨《にら》まれたカエルのように体は硬直《こうちょく》している。
こんなもの見るんじゃなかった。
スクリーンは血でゲチョグチャでスプラッタしている。
あまりホラー映画に強くない質の森写歩朗は失神寸前《しっしんすんぜん》だった。
ホラー映画で骨まで凍《こお》らされた影響なのか尿意《にょうい》を覚える森写歩朗。
客がびっちりと詰まっている中、多少気を使いながら森写歩朗は椅子《いす》を離れた。
生まれた「おしっこ行きたい! おしっこ行きたい」っていう欲求が、「恐《こわ》い恐い動けないよ〜〜」の束縛《そくばく》に打ち勝ったのだった。
ある意味|僥倖《しあわせ》である。
森写歩朗はこそこそとホールを出た。
「ふう」
女子トイレの洗面台の前で可愛《かわい》らしいため息を吐《は》き出す三石《みついし》。
「映画面白そうなんだけどな」
残念なことにそれを堪能《たんのう》している余裕《よゆう》は彼女にはなかった。
今にも野獣《やじゅう》となって映画館中のアベックに襲《おそ》いかからんばかりの倉地《くらち》をなだめてすかして誤魔化《ごまか》してなんとか席につけたのも三石なくしてはなしえない芸当だった。
その結果|疲労感《ひろうかん》だけが残った。
暗い館内、誰《だれ》が誰だか分かんないということだけが幸運である。
もし分かったら、間違いなく倉地は飛びかかっているだろう。
「それにしても花丸先輩《はなまるせんぱい》どこであんな外人の娘《こ》と知り合ったんだろ?」
森写歩朗の父親がツアーコンダクターをしているという記憶が蘇《よみがえ》る。
大方《おおかた》つながりはそこなのだろうと三石は想像した。
いくらなんでも恋人ってことはないでしょ。花丸先輩にかぎって。
とまあ森写歩朗が聞けば自信|喪失《そうしつ》するようなことを思いつつトイレを出る。
花丸先輩!
男子トイレから出てきた知り合いの姿に三石は思わず身を隠《かく》した。
陰《かげ》から知り合いに覗《のぞ》かれているのも知らず森写歩朗は何やらホールの扉《ドア》の前で中に入るのを躊躇《ちゅうちょ》している。
やがて意を決したように自分で自分の心臓のあたりを景気よくポンと叩《たた》くと勇猛果敢《ゆうもうかかん》にホールに飛び込んでいった。
どうやら森写歩朗《しんじゃぶろう》がこの映画を見るのをいやがっているということが理解出来る。
「アタシも行こう」
三石《みついし》は誰《だれ》にというわけもなくそう呟《つぶや》くと上映館内へ足を進めた。
暗い上演館内へ足を踏《ふ》み入れ自分の席へ向かおうと幾分《いくぶん》慣れてきた目でその席を見やった時、三石は首を傾《かし》げた。
おやっ?
自分の席、前から四列目の中央、倉地の隣《となり》に何故《なぜ》か一人の人影が……。
「おかしいなぁ」
確かに自分の席は四列目の中央。
しかし空席が見受けられるのは三列目の中央。
どうらや三石が席を立っている間に空席に座った輩《やから》が存在するらしい。
先程までぎっちり埋《う》まっていた三列目に空席が見られることからどうやらそこに座っていた人物が一列間違えたのだろう。
その刹那《せつな》三石は全《すべ》て理解した。
先程|間抜《まぬ》け面《づら》をトイレの前でぶら下げていた先輩《せんぱい》の姿を思い出したのだった。
森写歩朗らしい間違いをおかしてくれたのだ。
やってくれたか。
賞賛《しょうさん》したくもなる瞬間《しゅんかん》だった。
つまりは森写歩朗はおそらく本人は気が付いていないだろうが倉地《くらち》の隣《となり》に座りそして倉地自身も隣は三石だと思っているのだろう。
倉地がこのことに気が付いたら森写歩朗の運命はいかに?
想像しただけても血の惨劇《さんげき》があるのではと心配する三石。
「待てよ」
三石は体の中でオカルトマニアの血液と共存する興味シンシン丸の血が騒《さわ》いだ。
あの一つの空席の隣には先程森写歩朗が連れていたゲージンの女の子がいる。
隣まで行けば横顔が拝《おが》めるかもしれない。
好奇心を押さえることは純粋な高校二年生の女子には不可能だった。
三石は何気ない足取りでその空席へと足を進めた。
3
「しかし、大丈夫でしょうか?」
ダラッハー・スッグルナック。ブラックウイナー配属四年、いい加減《かげん》転職を考えている慢性胃潰瘍《まんせいいかいよう》男は所長席にふんぞり返るドクター・アラキに声をかけた。
「何がだ?」
「ジルコニア討伐《とうばつ》に向かわせたモンドーのことですよ。彼は実習終わった次の日から有給|休暇《きゅうか》とってセブ島で遊びほおけていた奴なんですよ。分かりやすく言えば今回が実践《じっせん》初仕事。あのクラレンスを撃退したジャパン在住のジルコニアに勝てるかどうか」
「なぜ私が彼を無理矢理《むりやり》引っ張ってきたのか知っているかね?」
ドクター・アラキは意味ありげに唇《くちびる》を動かした。
「さぁよく分からないんですよ」
「それはな」
ドクター・アラキはギブスをうっとうしそうにずらしつつテーブルの葉巻をとった。
そしてそれをくわえると今度はライターをポケットから取り出す。
カチカチと音を鳴らすがどうやらガス切れらしい。
いらだった彼はライターを床《ゆか》に叩《たた》き付けた。
「所長」
「なんだ?」
「カルシウム、足りないんじゃないですか?」
スッグルナックの意見を無視したアラキは葉巻を噴《ふ》き出すと何事もなかったかのように目を戻《もど》した。
「何故《なぜ》私が脱サラし凡庸《ぼんよう》に生きていたモンドーに目を向けたか教えてやろう」
「ぜひ教えてください」
「それは、彼の体に流れる吸血鬼狩人《きゅうけつきかりうど》としての血だよ」
「狩人の血」
「彼の実父はその生涯に千五百六十三人もの吸血鬼を滅《めっ》した超優秀《ちょうゆうしゅう》な狩人だったのだ」
「それはすごいですね」
「しかも今回の目標ジルコニアの父親、フロイデットを倒したのも彼、ミミカキ・ベル・モンドー神父《しんぷ》だった」
「神父さんだったんですか」
「朝は人々のために祈り夜は一人|鞭《むち》を持って吸血鬼|狩《が》りに飛び出して行く素晴らしい人材だった」
「ある意味|恐《こわ》い神父さんですね」
そこでスッグルナックは怪訝《けげん》そうに顔をしかめた。
「ちょっと待ってください。今、夜、吸血鬼狩《きゅうけつきが》りに飛び出してゆくとおっしゃいましたね」
「ああそうだ」
「鞭《むち》一本で」
「そうだ」
「そりゃあ無理《むり》でしょう〜〜〜」
スッグルナックぴらぴらと手を振った。
「クラレンスのような吸血鬼、もしくは重装備した狩人《かりうど》ならともかく生身《なまみ》の人間が鞭で戦うなんて」
「ミミカキはそれが出来る数少ない人材だった」
アラキは遠い目をして言った。
「思えば彼と私はただの同僚《どうりょう》という言葉では語り尽くせない仲だったのかもしれないな。科学技術部で働いていた私はよく彼と酒場《さかば》で語り合ったものだ」
「鞭一本で夜の吸血鬼に勝つ………信用できませんね」
「君もあの場面を見るまでは信用出来ないだろう。彼がその力を解放した時、その鞭は鉄をも切りさいたのだ」
「本当ですか?」
「疑り深い男だな」
アラキは机の引き出しから一枚の写真を取り出すとそれをスッグルナックの手渡した。
「なんですかこの写真」
スッグルナックが写真をのぞき込むと二人の男が肩を組んでいる姿があった。
二人の背後《はいご》には切断された自由の女神があった。
あんぐり。
「昔ニューヨークへ行った時の写真だ」
「………嘘《うそ》でしょ」
「本当なんだよ。これが」
アラキは事もなげに答えた。
「残念ながら急性|盲腸炎《もうちょうえん》でぽっくりいってしまったが、幸運なことに彼の血は息子《むすこ》に受け継《つ》がれた」
「でも息子さんはブラックウイナーには入らなかったんでしょ」
「殺されたのだよ。吸血鬼に。復讐《ふくしゅう》かそれとも将来を危惧《きぐ》してか」
「可哀想《かわいそう》に」
「しかしさらに幸運なことにミミカキは酒場の女に一人子供を産ませていたのだ。それがミルカ・ベル・モンドー」
「ふむふむ」
「おそらく彼ならば見事、ジルコニアを抹殺《まっさつ》してくれるであろう」
「しかし心配ですね。実習の最中の成績はさんざんでしたよ。所長の命令通り鞭《むち》を持たせましたが自分の体に巻き付けて遊んでいました」
「しかし最終的には落ち着いたのであろう。あの武器に」
「はい。なんでも本人がかなりのサムライマニアで学生時代近所の日系ブラジル人に剣道を習っていたと」
「ふむ」
「ジャパンの歴史上の偉大な人物で殺し屋やってた人がいたんですよ。必殺なんとか人とかいう題名で伝記にもなってるらしいですがね。彼は実は吸血鬼狩《きゅうけつきが》りの名家であるモンドー一族の血を引いているんだと嘘《うそ》こいたら非常に感心してましたよ」
「何事も思い込みが大切だからな。覚醒《かくせい》というものは思い込みから生まれるのだ。彼の力が覚醒すればジルコニアなど蠅《ハエ》みたいなものだ」
「しかし心配ですね」
「念《ねん》のためもう一人の狩人《かりうど》を送ったではないか」
「え……ああ。マイブのことですか?」
スッグルナックは顔をしかめた。
「あまり彼に期待しない方がいいんじゃないですか」
「どういう意味だ」
「私なんだか悪い予感がするんですよ」
「悪い予感?」
「前回だって電池切れでしょ。なんかとんでもないおちゃらかで今回も失敗するような気がしてならないんです」
「ふふ、心配するな。前回のような失敗は二度と繰り返さない」
ドクター・アラキは確信に満ちた笑顔を向けた。
ぐふぐふ笑うアラキを前にやっぱ今回失敗したら転職しようと思うスッグルナックだった。
4
三石《みついし》はまるで当然とでもいうような足取りで先程まで森写歩朗《しんじゃぶろう》が座っていたと思われる席へ向かうと腰を下ろした。
ひたすらさりげなく、さりげなく隣《となり》へ目を向ける。
映画のスクリーンの照り返しによって見える横顔は、ドキッ!!!!ってするほど可愛《かわい》らしく見えた。
うわぁぁぁぁぁ。
暗い映画館、肌《はだ》の色、髪《かみ》の色など明瞭《めいりょう》に確認出来るわけではないがそれでも隣《となり》の少女の可愛《かわい》らしさは十分に分かった。
さて、問題はこの女の子が花丸先輩《はなまるせんぱい》とどういう関係だってことよね。
シャーロックホームズ風に悠然《ゆうぜん》とその謎《なぞ》を頭の中で反芻《はんすう》する。
十中八九父親の関係だろうが服までプレゼントしたようだ。実はもう小指三本分ほど深い仲なのかもしれない。
三石《みついし》の頭に森写歩朗《しんじゃぶろう》のぼやけた顔が浮かび上がった。
そしてその隣にこの謎の権現《ごんげん》であるゲージン。
思案《しあん》の三秒。
釣《つ》り合いは取れなかった。
ま、考えるまでもないか。
どちらにせよ映画が終われば怒《いか》り狂《くる》った倉地《くらち》が飛びかかってくるだろう。
そして真相《しんそう》がハッキリするはずだ。
わざわざここであれこれ考える必要もない。
せっかくお金払って入った映画館だ。しっかり見ておこう。
三石がそう思い直しスクリーンに目を向けた瞬間《しゅんかん》、彼女は右手にひんやりとした感触《かんしょく》を覚えた。
沈思《ちんし》するまでもない。一瞬でそのひんやりとした感触の正体《しょうたい》は判断出来る。
コンニャクだった。
というオチではない。
隣のゲージンの手なのである。
正確に状況分析すると隣のゲージンの女の子が三石の手を握《にぎ》ったということである。
当然彼女は三石のことを森写歩朗だと思っているのだろう。
この事実に三石は驚愕《きょうがく》した。
人生生まれてからこれほど驚愕したのは、小学生の時ハチに刺された掌《てのひら》がポンポンに腫《は》れ上がったのを目《ま》の当《あた》りにしたとき以来だろうか?
このまま私の右手はハチミミズになってしまうのではと子供心に恐怖《きょうふ》したことを思い出し三石は少し懐《なつ》かしい気持ちになった。
が、そんな昔を思い出して懐かしがっている時じゃないと首をブンブンと振った。
相変わらずしっかりと右手は握られている。
妙《みょう》に冷たい手だとは思ったが問題はそんなことではない。
意味もなく手を握り締める人がいるとは考えにくい。
とすればこの行為はどう考えてもあれだった。
もしかして………。
三石《みついし》は頭の中で節つけるように言った。
深いのかな?
初めは映画の一部だと思っていた。
スクリーンを割るように縦線が入ったのは。
続いてフィルムの傷、映写機の故障、そんな可能性を思い浮かべた。
しかしそれがどちらも違っていることはすぐに分かった。
真っ二つに断ち切られたスクリーンをぶちやぶって長身の人影が飛び出してきたのだった。
スプラッタの映像を体に受けた男の姿はひどく恐《おそ》ろしく見えた。
男は日本刀のような武器を振り上げると叫んだ。
「ジルコニア!」
それはほぼ反射的だった。
冗談《じょうだん》や道楽《どうらく》でこんなことをする奴《やつ》はいない。こんなことをする連中は。
ブラックウイナー。
森写歩朗《しんじゃぶろう》の頭にあの情けなくも恐ろしかった戦いの記憶が蘇《よみがえ》る。
生と死の間の平均台をジルと二人で仲良くわたったあの記憶だ。
逃げなきゃ!
森写歩朗は迅速《じんそく》に行動を開始した。
すかさず隣《となり》の手を握《にぎ》り締《し》めると思い切り引っ張ったのだった。
「逃げるぞ!!!」
森写歩朗はジルの手(本人はそう思っている)を握り締めたままホールを飛び出していった。
ジルは反射的に握り締めていた手に力を込めた。
何もスクリーンなんか割って劇的に登場しなくてもいいのにそれでもやってきた男は数時間前、自分にピーマンをぶつけて追いかけ回していた奴だった。
ジルの目にはハッキリと見えた。
男のポケットというポケットにはピーマンが詰め込まれていることを。
脅威《きょうい》だった。
近寄っただけでもこちらは戦闘《せんとう》不能となる可能性大有りである。
「逃げるわ!」
鋭《するど》くそう叫ぶと、ジルは森写歩朗(本人はそう思っている)の手を握り締めたまま反対側の扉《ドア》から飛び出していった。
ちなみにスクリーンは次の日新しい物へと交換された。
めでたしめでたし。
5
めでたくない人々も幾人《いくにん》かいた。
その中の一人、宮下政則《みやしたまさのり》。
せっかく商店街の福引きで当てたナイトタイムの映画のペアチケット。
勇猛果敢《ゆうもうかかん》に倉地《くらち》に飛び込んでいったが想像通り蹴《け》り倒された。
予想していたとはいえショックだった。
倉地ファンクラブを結成して早くも二年と六カ月が経《た》っている。
クラブ長として恥《は》じぬよう倉地を心の底から崇拝《すうはい》し頼まれればハイヒールで踏《ふ》まれてもいいとさえ思っていたのに。
「ちくしょ〜〜〜〜〜〜」
本来なら倉地と来るはずだった映画館の前で缶しるこを手に宮下は叫んだ。
「傷心《しょうしん》を癒《いや》そうとここで倉地さんと一緒《いっしょ》に映画見ることを想像しようとやってきたのによけい空《むな》しいだけじゃねえか!」
さらに追《お》い討《お》ちをかけるように秋の夜風がピュ〜〜。
「よけいみじめじゃねえかチクショ!!!」
ああ、今頃《いまごろ》、倉地さんは何をしているんだろうか?
俺《おれ》の映画の誘《さそ》い断って、一体何を。
そこで宮下の眼球は飛び出した。
映画館のポスターに当たって跳《は》ね返ってくる眼球を見事にキャッチすると宮下は今《いま》し方《がた》目の前を駆《か》け抜けていった一組のカップルに目を向けた。
すでにそれは背中だけの存在となっているが見間違うはずもなかった。
俺の誘いを断った倉地さんは……なぜか映画館から飛び出してきた。
しかも、この世で一番|憎《にく》き男に手を引っ張られて。
宮下の心の中で風が吹いた。
やがてそこに灼熱《しゃくねつ》の炎《ほのお》が生まれる。
「ふふ」
狂人《きょうじん》じみた笑みを宮下は浮かべた。
「やはり生かしておくべきではなかったよ。森写歩朗《しんじゃぶろう》君」
近寄りがたいものを感じるのか傍若無人《ぼうじゃくぶじん》の酔《よ》っ払《ぱら》いの皆様も避《さ》けて通ってゆく。
宮下は近くの電話ボックスに飛び込むと素早《すばや》く硬貨《コイン》を放り込み倉地ファンクラブ連絡網を発動した。
「暗殺《あんさつ》部隊を組織しろ!!!」
映画館|脇《わき》の電柱の陰《かげ》。
そこに一人の男が立っていた。
薄暗《うすぐら》い中、その全容を現さず闇《やみ》をまとったという印象が強い。
男はサングラス越しに電話ボックスを見つめていた。
電話ボックスにはいっちゃった宮下《みやした》がわめいている姿がある。
男は抑揚《よくよう》のない口調で呟《つぶや》いた。
「接触者が増えてしまったようですね」
男はその聡明《そうめい》な頭脳で計算した。
ジルコニアを目撃《もくげき》した者、強く接触した者。ちょっと接触した者。間接的に接触した者。
かなりの人数に上りそうだった。
それら全《すべ》てを処理しなくとも彼の仕事に支障《ししょう》はないだろう。
しかし、男はかなりの完璧《かんぺき》主義者だった。
お馬鹿《ばか》なくらいに。
男はゆっくりと陰から足を踏《ふ》み出した。
電話ボックスでわめく宮下に向けてである。
シ―――――――。
男の鋭《するど》い聴力が足下に響く音に反応する。
男は足下を見下ろした。
可愛《かわい》らしい子犬が自分の足におしっこを引っかけて、そして去っていった。
完璧主義者の男は何事もなかったかのごとく首を上げると辺《あた》りを見渡した。
「コインランドリーはどこだ?」
ジル(と思っている)の手を引き森写歩朗《しんじゃぶろう》は走り続けた。
とにかく早く安全な所へ、安全な所へ。
道行く酔《よ》っ払《ぱら》いに好奇の目で見られようが、揶揄《やゆ》の言葉をかけられようが森写歩朗は走り続けた。
十分ほど馬鹿《ばか》になって走り続けた森写歩朗は繁華街《はんかがい》の外《はず》れの公園の電灯の下で大きく息を吐《は》き出した。
後ろから追ってくる気配《けはい》はない。
森写歩朗は安堵《あんど》の息を吐き出すとそこで初めて自分が手を引っ張ってきたジル(と思ってる)に顔を向けた。
「危なかったな」
空白の三秒。
森写歩朗はそのままの表情で凍《こお》りついていた。
最初は目の錯覚《さっかく》だと思った。
しかし電灯の下、相手の顔を確認できるほどの光量はある。
例にもれずとりあえず目を擦《こす》ってみるが目の前の光景は変わらなかった。
ジル……いつから変身の術を覚えたんだ。
そんな馬鹿《ばか》なことを考え始める始末《しまつ》。
ひとしきり考えた後|森写歩朗《しんじゃぶろう》はもう一度なめるように目の前の人物を見た。
見れば見るほどソックリだった。
地球上には同じ顔をした人間は三人いるという。
もしかして自分は倉地《くらち》と同じ顔をした二人のうちの一人を偶然《ぐうぜん》に連れて来てしまったのではないか。
しかしさすがに時間が経《た》つにつれてパニクッていた脳味噌も正常に作動し始める。
もしかして倉地さん?
普通の人間が一瞬《いっしゅん》で気が付くことを森写歩朗は全国の皆さんの期待通り三十秒も費《つい》やした。
そこで森写歩朗は上目遣《うわめづか》いに倉地を見つめ、唇《くちびる》のはしっこの方に引きつった笑みを浮かべ、おずおずと、本当におずおずと切り出した。
「なんで倉地さんがこんな所にいるの?」
ここでいつもの倉地だったら間違いなくこう行動していただろう。
「それはね?」
妙《みょう》に優《やさ》しい猫《ネコ》なで声で。
「トーマスという大馬鹿者《おおばかもの》にね」
さらに優しい猫なで声で。
「連れて来られたからよ!!!」
で多分森写歩朗は倉地のアイアンクローで頭の形が変わったはずだ。
ひょうたんのように。
しかし倉地はそれをしなかった。
正確にいうと出来なかったのである。
倉地は頭が灼熱《しゃくねつ》するのを感じていた。
手を握《にぎ》られた瞬間から、いや自分の手を引っ張っているのが森写歩朗だと知った途端《とたん》脳味噌どぉぉかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん。
今まで感じたことのない感覚だった。
頭が灼熱して何を言っていいのかさっぱり分からない。
ただ口をパクパクさせるだけで。
「ねえ倉地さん」
ぐぃぃぃって森写歩朗《しんじゃぶろう》に顔を近づけられ倉地《くらち》の頬《ほお》はピンク色に染まった。
トーマス。
森写歩朗はほとほと困っていた。
肝心《かんじん》のジルはどこにいるのだろうか?
すぐに捜《さが》しに向かいたいところだが、このまま倉地をほったらかしにしておくわけにもいかない。
どうするべきだろうか?
森写歩朗がさほど有能ではない脳味噌を回転させている最中。
彼は殺気《さっき》というものを感じた。
森写歩朗にしては上出来だった。
振り返ると奴《やつ》がいた。
ナイフを手にしたどこかで見たような顔が。
倉地ファンクラブ会長、宮下政則《みやしたまさのり》だった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
森写歩朗は喉《のど》の奥から呻《うめ》き声とも悲鳴《ひめい》ともつかぬかすれた音を吐《は》き出した。
宮下のナイフの一閃《いっせん》をかわしたのは奇跡《きせき》としか言いようがなかった。
「冗談《じょうだん》でしょ」
残念なことに宮下《みやした》の目に冗談の文字は見えなかった。
冗談という文字の代わりに本気という文字ならいくらでも発見できたが。
「倉地《くらち》さん。安心してください。あなたに乱暴を働こうと画策《かくさく》した森写歩朗《しんじゃぶろう》は我ら倉地ファンクラブが全力をもってぶち殺しますから」
わらわらとサケの産卵みたく姿を現す狂《くる》った集団。
共通していえることは皆手に武器を持っていることとその目がイッちゃっていることだった。
逃げるが勝ち。
それ以外に助かる方法は見つからなかった。
森写歩朗は逃げ出した。
常識的行動である。
森写歩朗が狂った集団から逃げ出している頃《ころ》。
ジルはジルでやはり困った状況に陥《おちい》ってしまっていた。
困ったわ。
ジルはほとほと困り果てた心情でそう呟《つぶや》いた。
森写歩朗とばかり思い連れてきた人物が全くの別人だった。
そのことに気が付いた時はさすがに驚愕《きょうがく》したがそれまでである。
問題は気が付くのが遅《おそ》すぎたというところにあった。
かなり遅かった。
ジルは無言で辺《あた》りを見渡した。
質《たち》が悪いことにやはりどう見てもビルの屋上だった。
せめて、空へ飛び出す前に気が付くべきだった。
血も凍《こお》るような空中|浮遊《ふゆう》を味わってきたはずなのに、その少女は目をキラキラと輝かせてジルを見つめている。
これは夢よ、ってウインク一つで誤魔化《ごまか》せることが出来る人種とは到底《とうてい》思えない。
ジルの予想通り、目の前の少女、三石《みついし》はオカルトマニアの血濃い高校二年生だった。
どうしようかしら?
極めて真剣《しんけん》に考える。
納得《なっとく》のいく、この事態を好転させるアイデアは生まれてこなかった。
史上最悪の難産らしい。
かといってこのまま思案《しあん》し続け朝を待ったところでどうにもならない。
ジルは開口一番こう言った。
「これは夢よ」
とりあえずウインクもしてみた。
意味のないことはすぐに分かった。
「あなたは……」
三石《みついし》は上気した頬《ほお》をあらわに叫んだ。
「レインボーマンですか? それともスーパーガール? もしかしてロケットお姉様」
脳味噌に重りがのっかるのが自分でも感じられる。
ジルはこめかみを押さえた。
こんな頭痛は何十年ぶりだろうか?
しかし、久しぶりの頭痛を堪能《たんのう》している時ではない。
「あのね」
「それとも地球を探査しにやってきた宇宙人。もしかしてアメリカの研究所から逃げてきた超能力者?」
駄目《だめ》だな。
ジルの少なくとも森写歩朗《しんじゃぶろう》よりは数倍|聡明《そうめい》な頭脳がそう結論を叩《たた》き出した。
この場を解決する方法は一つしかない。
死人に口なし。
そんな言葉がジルの脳裏《のうり》を過《よぎ》ったが慌《あわ》てて頭を強く振る。
とんでもないことを考えついた自分が恐《おそ》ろしくなりジルは軽く自分の額《ひたい》をこづいた。
「ねえ、教えてくださいよ。は! もしかして宇宙警察から追われている銀河《ぎんが》指名手配犯さんですか? 安心してください。私がかくまってあげますから? そうか、銀河警察の追手《おって》から避《さ》けるために花丸先輩《はなまるせんぱい》の所に逃げ込んでいたんですね。え!! もしかして花丸先輩も宇宙人」
部分的には当たっていないこともなくはない。
呆《あき》れる一方、女子高校生の想像力というものに感心するジル。
「花丸先輩が宇宙人だとすると………え〜〜〜〜宇宙人の頭って大したことないじゃないですか。待って、もしかして無理《むり》に馬鹿《ばか》を演じていたとしたら。どうしよう。もしかして地球を征服《せいふく》しようと考えてるんですか?」
このまま飛び去ってしまいたい気分だったが目の前の少女がこれから先、あの夜のことは変わった思い出ぐらいと受け取りなんら変わらぬ日常生活を送るとは到底《とうてい》考えられなかった。
「それとももしかしてひょっとして妖怪《ようかい》さんですか? で、さっき追いかけてきたのが妖怪|退治《たいじ》の人」
駄目だった。
これ以上|尋問《じんもん》されるのは精神が耐えられない。
説得《せっとく》を試みようとしたがそれが成功する確率が坊主《ぼうず》のはげ頭の産毛《うぶげ》よりも微々《びび》たるものだということはた易《やす》く想像出来る。
それにブラックウイナーに追われている今こんな所で掛け合い漫談《まんだん》をしている暇《ひま》もない。
「じゃあそういうことで、サヨナラ」
ジルはすちゃって右手を上げると走り出した。
逃亡《とうぼう》である。
「待ってくださ〜〜い! 待って〜〜〜〜〜〜」
後ろから追いかけてくる気配《けはい》。
「待ってられますか」
ジルは床《ゆか》を軽く蹴《け》ると空へと飛び立った。
「待ってくださ〜〜〜〜ぃ。ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
そんな叫びが小さくなって行く中ジルは心の中でしみじみと呟《つぶや》いた。
これからは他人の手を引っ張る時は相手を確認してからにしよう。
同じ失敗は二度としないようにしようとする生真面目《きまじめ》なジルだった。
「行っちゃった」
呆然《ぼうぜん》とそう呟く。
「でも諦《あきら》めませんよ」
「よけいなものを見られてしまいましたね」
不意《ふい》に背後《はいご》から声をかけられた三石《みついし》は反射的に振り返った。
長身の黒いタキシード。そして濃いサングラスをかけた細身の男が無表情な顔付きで突っ立っていた。
気配は感じなかった。
もしかして伊賀《いが》の出なの!
なんてことを三石は考えた。
「知らない方がいいことは世の中には意外《いがい》と多いんですよ」
男は氷のような冷たさを連想させる抑揚《よくよう》のない口調でそう言った。
「蓮根《レンコン》の穴の数とか、サボテンと刺《とげ》の数とかね」
近寄ってくる男に三石は言い表せない恐怖《きょうふ》を感じて後退《あとずさ》った。
「……あなたは誰《だれ》なんですか!」
「マイブと言います」
男はあっさりと白状した。
「ブラックウイナーという秘密機関で極秘《ごくひ》に吸血鬼《きゅうけつき》を狩《か》るという世間には知られてはならない仕事をしています」
その割にはペラペラと喋《しゃべ》る奴《やつ》である。
「吸血鬼は人類|滅亡《めつぼう》の引き金となる悪《あ》しき血族。排除しなくてはなりません」
「……吸血鬼《きゅうけつき》!!!!!!」
三石《みついし》は驚きの声を上げた。
「……さっきのお姉様は吸血鬼だったのね」
崇拝《すうはい》。陶酔《とうすい》。高揚《こうよう》。感激。雨あられ。ケロンパス。
そんな文字が彼女の顔には描かれていた。
「当然、あなたにも知られては困ることなのです」
男はその細い腕を音もなく前に突き出すと三石の首を掴《つか》みそのまま持ち上げた。
考えられない腕力だった。
酸欠で顔を真赤にする三石の前に男はポケットから取り出したある物を突きつけた。
ウォークマンだった。
「奇麗《きれい》に忘れてください」
男は慣れた手付きで三石の耳にそれを装着《そうちゃく》するとスイッチを入れたのだった。
チャンチャカチャンチャカ♪♪
イヤホンからの音|漏《も》れが微《かす》かに空気を震《ふる》わせていた。
ぐったりとする三石から手を離すと男は辺《あた》りを見渡し、そして言った。
「コインランドリーはどこだ?」
第六章 追って追われて追い殺されて
1
逃亡者《とうぼうしゃ》が生まれた。
ブラックイウイナーと呼ばれる狂《くる》った吸血鬼狩《きゅうけつきが》り組織に追われる吸血鬼少女、ジルコニア。
倉地《くらち》ファンクラブという狂った倉地|崇拝《すうはい》の組織に追われる普通の高校生、花丸森写歩朗《はなまるしんじゃぶろう》。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は自宅のテーブルにつくと大きく息を吐《は》き出した。
その向かい側でも大きく息を吐き出している少女の存在がある。
「はぁぁぁぁぁぁ」
「はぁぁぁぁぁぁ」
森写歩朗とジルはレベル的には同じ程度のため息を吐き出した。
時間は既《すで》に午前四時。
「まずいことになったよ」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は頭《こうべ》を垂《た》れた。
「まずいことになっちゃった」
ジルも頭を垂れた。
「まずいなぁ」
「屋上だもんね」
森写歩朗は上目遣《うわめづか》いにジルを見やった。
「とにかくまだこの場所は知られてないようだから、明日《あす》の朝、いや朝は無理《むり》か。明日の夜にでもこの町を出た方がいいんじゃないか?」
「そんなのいや! 私森写歩朗と一緒《いっしょ》にいる」
断固として首を振るジルに森写歩朗は精気のない笑顔で答えた。
「僕も一緒にいくよ」
「え?」
「僕もね、命を狙《ねら》われてるんだ」
「……」
ジルは言葉を失った。
ジルのような吸血鬼《きゅうけつき》ならともかく普通〜〜〜の人間である森写歩朗が命を狙われるなんて状況に陥《おちい》ることがあるのだろうか?
しかし、一緒に旅に出てくれるといえば、これはある意味メチャクチャ嬉《うれ》しいことには違いない。
共に旅をする。
もしかしたらそのうちに森写歩朗の心がふらふらとなびいて吸血鬼になる道を選択してくれるかもしれない。
ジルと永遠の人生を歩むことを決心してくれるかもしれない。
そうなったら………。
バラ色の人生である。
先程まで極限まで落ち込んでいたジルの心は瞬時《しゅんじ》にして極限まで上り詰めた。
「明日の夜、二人で旅に出よう」
「うん!」
ジルは弾《はず》んだ声を上げた。
「ところでジル。さっきから言ってる屋上って何?」
「実はね」
ジルは立ち上がり森写歩朗に耳を近寄らせるとゴニョゴニョゴニョ。
屋上……とか三石《みついし》……とか飛んじゃった……とかそんな致命的《ちめいてき》な単語が並ぶ。
「ふむふむ」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は全《すべ》ての話を聞いた後、神妙《しんみょう》な顔付きで腕を組みふんふんと首を縦に動かした。
そして言った。
「やっぱ旅に出るしかないな」
最後の手段だった。
2
朝が来た。
十一月二日、晴天|吉日《きちじつ》の朝である。
森写歩朗は自宅のベランダから眼下に日曜ジョギングのおじさん達を見下ろし、
「この町とも今日までか」
なんて呟《つぶや》いている。
「先立つ物は少なくとも、ほとぼりがさめるまではなんとか保《も》つだろう」
ジルはすでに森写歩朗の部屋のクローゼットで眠りについている。
夜の出発時間を楽しみにしながら。
「何ヲシテイルンデスカ? 森写歩朗クン」
カタカナ日本語に森写歩朗は振り向いた。
「モンドーさん。どこに行ってたんですか?」
「少シ仕事デ長引イテシマッテネ。結局朝帰リニナッテシマッタ」
モンドーは疲《つか》れはてたようにソファーに腰を下ろした。
何やらモンドーの体中のポケットに詰め込まれている緑色の物に森写歩朗は目をぱちくりとさせた。
「あの、モンドーさん。一つ聞いてもいいですか?」
「何デスカ?」
「どうしてそんなにたくさんピーマンを持ってるんですか?」
実に素朴《そぼく》な疑問だった
「ハハコレノコトデスカ」
モンドーはピーマンを摘《つま》み出す。
「コレガ今回の商売道具ダカラデスヨ」
「そうなんですか」
ここで初めて森写歩朗はモンドーの仕事を理解した。
多国籍料理店のコックさんに違いない。
「ところでモンドーさん」
森写歩朗はモンドーに生涯でこれほど真面目《まじめ》な顔はしたことがないって表情で詰め寄った。
「実は、僕とホームステイしている娘《こ》、しばらく旅行に出ることになったんです」
「ヘエ、急ナンデスネ」
「だから鍵《かぎ》わたしておくのでこの部屋好きに使ってください。予定だとあと一週間くらいで父さん帰ってくるから」
モンドーはその端正《たんせい》な顔を険《けわ》しく変化させた。
その瞳《ひとみ》には人生を悟《さと》ったような色が現れていた。
「……何カ訳アリノヨウダネ」
「え?」
「隠《かく》シテモ分カルモノデス」
「……」
モンドーは森写歩朗《しんじゃぶろう》を見下ろしつつ長い息を吐《は》き出した。
「ホームステイシテイル娘《こ》ガ命ヲ狙《ねら》ワレテイルンデスネ?」
「な、なんで知ってるんですかぁぁぁぁぁ」
森写歩朗が驚愕《きょうがく》した。
もしかして目の前のこの外人は人の心が読めるサイキックの人なのではと思った。
「ヤハリ、アノ話ハ本当デシタカ」
森写歩朗の驚きの花火を了解《りょうかい》と受け取ったモンドーはしみじみと言った。
「ロシアカラ亡命《ぼうめい》シテキタ国際的宝石密売組織ノ娘サンガ秘密|抹消《まっしょう》ノタメ組織ノ刺客《しかく》ニ命ヲ狙ワレテイルト」
また新しい話が出来上がっているのか。
森写歩朗は舌打《したう》ちしたが、その反面おばさま達の類《たぐい》まれなる想像力に舌を巻いた。
「私ニ任セテクダサイ!」
モンドーは細い腕で胸を叩《たた》いてみせた。
「三日間オ世話ニナッタ恩《おん》ハ三年ハ忘レテハナラナイノガジャパンノ掟《おきて》ダト聞キマス。コノ掟ニサカラウト国立競技場デハラキリダソウデスネ」
何か誤解があるぞ。
「私モ協力シマス。ソノ娘サンヲ守ルノヲ」
思いっきり盛り上がってるモンドーにブレーキをかけることは森写歩朗には不可能だった。
それに誤解とはいえジルが狙われていることを認識し守ってくれると言っている。
ある意味これは頼れるかもしれない。
およそ強そうには見えないがそれは自分にも言えること。
一本の矢は簡単に折れるが。
二本の矢もやっぱり折れるけど。
それが三本になっても多分折れるだろう。
しかし仲間が多いに越したことはない。
「ありがとう」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は感謝感激のこもった笑顔で深く頭を下げた。
目の前の人物がジルを狙《ねら》っている張本人《ちょうほんにん》だということに気が付かなければ、もう片方は自分が守ると豪語《ごうご》しているのが狙いの吸血鬼《きゅうけつき》だということに気が付いていない。
ここまで状況がそろえば気が付きそうなものだが、まあそれは二人とも馬鹿《ばか》だから仕方がなかった。
二人の馬鹿は固く手を握《にぎ》りあった。
3
ピンポーン。
ドアチャイムが鳴った。
ピンポ〜〜ン! ピンポ〜〜〜ン! ピンポ〜〜〜〜〜ン!!!
普段《ふだん》なら何も考えずに玄関の扉《ドア》を開けるのだが今はそんな時ではない。
ブラックウイナーではないか?
倉地《くらち》ファンクラブではないか?
扉を開けた途端《とたん》にナイフでグサッって可能性もないわけではない。
森写歩朗は表情を固くして魚眼《ぎょがん》レンズを覗《のぞ》いた。
そして顎《あご》を落とした。
ある意味ブラックウイナーよりも、倉地ファンクラブよりも質《たち》が悪い二人組が扉の前に立っていたからである。
「トーマス!! いるんでしょ。出てきなさいよ」
「花丸先輩《はなまるせんぱい》。今日、本番なんだから」
森写歩朗は右手をくわえるとオロオロ狼狽《ろうばい》した。
「トーマス!!!」
「はいぃぃぃぃ」
条件反射で返事を返してしまった森写歩朗は痛烈《つうれつ》に後悔《こうかい》した。
これで居留守《いるす》を決め込むという手段が絶たれてしまったのだ。
森写歩朗は人間どうしたらここまで嫌《いや》な顔ができるのかってくらい顔をしかめつつ鍵《かぎ》に手を伸《の》ばした。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
魚眼レンズは嘘《うそ》つかなかった。
目の前には倉地と三石《みついし》の顔。
「言いたいことは分かってるよ」
力なくそう吐《は》き出す。
「彼女のことだろ」
「彼女って誰《だれ》よ?」
「だから……映画館で」
「映画館? 何の話をしてるんですか?」
「は?」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は訳が分からないといった表情で二人の顔を見つめた。
「だって、三石《みついし》ちゃんなんか空飛んじゃって」
「何言ってるんですか? 花丸先輩《はなまるせんぱい》」
「もともと馬鹿《ばか》だったけどとうとう筋金入《すじがねい》りの馬鹿になったの?」
「だって……昨日《きのう》」
「昨日はあんたが歯ブラシ取りに行ってくるって出ていったまま帰ってこなかったじゃない」
「電話かけましたよ。どこに行ってたんですか?」
森写歩朗は困惑《こんわく》した。
これが噂《うわさ》のトワイライトゾ―――ンという奴《やつ》なのだろうか?
自分は知らない間に異次元にある平行世界に迷い込んでしまったのだろうか?
「あの、本当に何も知らないの」
「だから何のことよ。頭でもどっかにぶつけたんじゃないの」
冷たく言い放つ倉地《くらち》に森写歩朗は固く拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
いかなる理由で二人が都合《つごう》よく記憶を欠落しているかそれは計れない。
しかしこれだけは言える。
ラッキ!×100。
「そうか、知らないか。それなら別にいいんだ。別に」
普通の人間ならこの不可解《ふかかい》さに頭を悩ませるところだが、物事をよい方向よい方向へと強引《ごういん》に引っ張ってゆくお気楽主義者は素直に喜んだ。
「それじゃ」
バイバイなんぞ言って扉《ドア》を閉めようとする森写歩朗。
一足早く扉の隙間《すきま》に倉地の右足が突っ込まれていた。
「今日何の日か忘れたの?」
「今日?」
森写歩朗は首を傾《かし》げた。
何も思い浮かばない。しいて言うなら旅立ちの日だろうか?
「あのね」
倉地は扉の隙間から手を突っ込むと森写歩朗の耳を摘《つま》み上げた。
そしてその耳に向けて槍《やり》のような言葉を突き立てた。
「本番なのよ!!」
ぐわんぐわんする頭に手を当てつつ森写歩朗《しんじゃぶろう》は幾度《いくど》も頷《うなず》いた。
そうだった、どっかのホールでやるという本番が今日だったのだ。
だが、この状況下でのこのこと外へ出ていいはずがない。
「悪いけど、今日僕」
理由を考える数秒。
「肝臓《かんぞう》の調子がちょっと悪くて」
わざとらしく咳《せき》をしてみせた。
なぜ肝臓が悪くて咳をするのか自分でもよく分かっていない。
しかしやっぱり猿芝居《さるしばい》はすぐに見破られるものなのだ。
「本番の日は、例え熱が四十度を超《こ》えようが両足の骨がくだけようが死にかけていようが、這《は》ってでも舞台《ぶたい》に出るってのは常識よ」
「でも」
「飯波《いいなみ》市営ホールに十時集合、一時から本番」
「だから」
躊躇《ちゅうちょ》する森写歩朗の首に縄《なわ》がかけられたのはその時だった。
町のアウトドアショップで購入された丈夫な縄だった。
文字通り森写歩朗は玄関から引《ひ》き摺《ず》り出される。
「さ、行くわよ」
4
森写歩朗宅の台所。
シャリシャリシャリシャリ。
金髪碧眼《きんぱつへきがん》のゲージンが正座して日本刀を研《と》いでいる姿はなかなか結構貴重《けっこうきちょう》なものだった。
「ウム」
なんてもっともらしく頷いているモンドーの胸ポケットに無造作《むぞうさ》に突っ込まれていた携帯電話がピピピピなんて音をたてた。
「もしもし」(え〜〜〜ごです)
「私だが」
「え〜〜とどなたですか〜〜〜」
「この直通電話からかかってくることから予測できんのかお前は」
「え、ああ、アラキ部長ですね」
「そうだ」
「で、どういった御用件でしょうか?」
「私が電話をかけてくることから予測できんのか貴様《きさま》は」
「あまり頭がいい方じゃないんですよ。すいません」
「まあいいがな。仕事の方は順調に進んでいるか?」
「ええ、昨日《きのう》なんてもう少しってとこまで追いつめたんですよ。いや〜おしかった」
「結局失敗したってことか」
「しかしアラキ部長。いいところに電話をかけてきてくださいましたね。実はこちらの滞在費用が底をついているんですよ」
「十分な額はわたしたはずだろ。一体何に使ったのだ」
「野菜を買いました」
「………もう一回言ってくれないか」
「野菜ですよ。ご存じない?」
「まあ野菜を今回の任務においてどのように使用するのかそれはあえて尋《たず》ねないでおこう。そんなことよりも君がWHO日本支部を通じて請求したものなんだが」
「ええ、至急届けてもらうようお願いしました」
「何に使うんだ? こんなもの」
「吸血鬼《きゅうけつき》を始末《しまつ》する秘密兵器ですよ。多分今日あたり届くんじゃないですか」
「本当に必要なのか? こんなものが」
「そりゃあもう。敵を心理的に参らせるには効果てき面。世界でも有数の職人さんに発注してくれたそうですから素晴らしいものが届くと思いますよ」
「もういい。君と話していると頭が痛くなる」
「奇遇《きぐう》ですね。僕も部長と話してると気分が滅入《めい》ってくるんですよ」
「で、本題の仕事の方だが。君一人では心もとないと思い強力な助《すけ》っ人《と》を一人|派遣《はけん》した」
「助っ人ですか?」
「彼の名前はマイブ。ジルコニアを追っている以上いずれ出会うこととなるだろう」
「はむはむ」
「迅速に頼むよ。早ければ早いほど成功|報酬《ほうしゅう》ははずむよ」
「へめへめ」
「偉大な父上に負けないようにがんばってくれたまえ。君に力が覚醒《かくせい》さえすればジルコニアなど簡単に滅《ほろ》ぼせるはずだ」
「ほめほめ」
「健闘を祈る」
結局実際何が言いたかったかのかさっぱり分からない電話は一方的に途切《とぎ》れた。
父親か……。
モンドーは母子家庭だった。時々知らないおじちゃんがお土産《みやげ》を持ってきてくれるのが楽しみだった。
そのおじちゃんが父親だと知ったのは母が死ぬ直前だった。
ああ、やっぱり。
別に驚きもしなかった。
その父親が吸血鬼《きゅうけつき》を狩《か》りまくっていたとアラキから聞いた時にはさすがに驚いたが……。
確かに仕事しなきゃあかんと思う。
人類|滅亡《めつぼう》の危険を孕《はら》んだ吸血鬼をいつまでも知らんぷりしているわけにもいかないだろう。
しかし……。
モンドーは表情を固くすると窓から見えるお日様へ向けて固く拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
恩《おん》を忘れたら人間ではぬわぁぃ!。
今はマフィアに追われるロシア人のガードに全力を費《つい》やさなくては。
「森写歩朗《しんじゃぶろう》???」
そんな声が聞こえてきたのはモンドーが仁義《じんぎ》と恩義と任侠《にんきょう》という言葉について噛《か》み締めるように考えていた時だった。
その声は森写歩朗の部屋から聞こえてきた。
「森写歩朗クンハオ芝居《しばい》ノ発表ガアルトカデ女ノ子達ニ引《ひ》キ摺《ず》ラレテ行キマシタ。森写歩朗クンガ帰ッテクルマデ私ガアナタヲ宝石密売組織カラ守ッテアゲマス」
それから付け加えるように。
「ソウイエバオ話スルノハ初メテデシタネ。私ノコトハ聞イテイマスカ? ミルカ・ベル・モンドー。ココデ泊《ト》メテイタダイテイル者デス」
そういえば初めてだった。
森写歩朗から父親の命の恩人を泊めることになったという話は聞いていたが。
宝石密売組織?
新しい噂《うわさ》の出現に呆《あき》れたジルはカーテンを締め切って真っ暗くした部屋で嘆息した。
森写歩朗に対して怒《いか》りも覚えたが同時に心配もする。
命を狙《ねら》われていたと言ってたが、こんな時に出歩いて大丈夫だろうか。
「デスカラドォォォォォォント宝船ニ乗ッタ気分デイテ下サイ」
おそろしく不安だがまぁ誰《だれ》もいないよりは心強い。
ジルはねぐらとして愛用しているクローゼットからごそごそと這《は》い出した。
昨日の夜と全く同じ、森写歩朗からもらった服のままだった。
着替えている暇《ひま》もなかったし着替えたくもなかった。
プルプルプルプル。
唐突《とうとつ》に電話のなる音が聞こえて来る。
「ハイモシモシ」
モンドーが出ているのだろう。カタカナ日本語が耳をつく。
モンドー?
ジルは小首を傾《かし》げた。
どこかで聞いたことがある名前だった。
え〜〜〜とどこだったかしら?
開かない記憶の扉《とびら》をこじ開けようとするが早朝の不明瞭《ふめいりょう》な頭ではそれが不可能だった。
「森写歩朗《しんじゃぶろう》クンカラオ電話デスヨ」
モンドーの声にジルは机の上の日除《ひよ》けのサングラスをかけるとのこのこと部屋を出ていった。
電話を前に二人は目をぱちくりさせた。
昨日映画館でスクリーンから飛び出すという劇的な演出をしたピーマン男と目の前の男はよく似ていた。
実際ピーマンの不快な香《かお》りが漂《ただよ》ってきている。
モンドーにしても目の前の少女は自分が追っている吸血鬼《きゅけつき》、ジルコニアとよく似ていると目をパチクリする。
驚くほど似ていた。
状況が理解できたのは三十秒ほど経《た》ってからだった。
ジルがモンドーの名前を思い出したのも丁度《ちょうど》その時だった。
モンドー。
ベル・モンドー!
ジルの父親、正確にいえばジルを吸血鬼《きゅうけつき》にし、共に暮《く》らしていた老練《ろうれん》吸血鬼に止《とど》めを刺したブラックウイナーの男。
確か最後に名乗った名前がベル・モンドーだった。
ということは………。
ジルは軽く薄笑いを浮かべた。
これで誤魔化《ごまか》せるな〜〜って期待があったのも事実だったが。
やっぱりそれは不可能だった。
「ココデアッタガ一晩目! オ命|頂戴《ちょうだい》!」
モンドーはすっかり出来上がっていた。
手にしていた日本刀を抜くとそれを一閃《いっせん》させた。
かろうじて避《よ》けたジルの後ろで電話機が見事に真っ二つとなった。
ジルは前頭葉に力を込めた。
が、日中、そしてピーマンの香り、先日は血を吸っていない。
モンドーを弾《はじ》き飛ばすだけの力が絞《しぼ》り出せない。
ここで黙《だま》って待っていたとしたらジルはカボチャかナスビである。
ジルは逃げることにした。
森写歩朗《しんじゃぶろう》の部屋に飛び込んで扉《ドア》に鍵《かぎ》をかけてクローゼットに飛び込む。
息を殺す中、モンドーが扉をぶち壊《こわ》す音が響いた。
ジルは見つからないことを懇願《こんがん》しつつ両手を握《にぎ》り締《し》めた。
「ドコダ?」
モンドーはぎらぎらと光る目で辺《あた》りをぐるりと見渡した。
暗い室内、ベッドの脇《わき》に人影が見える。
「ソコカ!」
モンドーは上段に構えた刀を振り下ろすとその影を真っ二つに断ち切った。
切断された白い髭《ひげ》のおじさんがコロンと転《ころ》がる。
「カ、カーネルサン」
続いてクローゼットの脇の人影にも気がつき刀を振る。
ほっぺの大きな女の子が首を断ち切られた。
「ペ、ペコチャン」
続いて机の下にうずくまる人影をぶった切る。
「ケ、ケロチャン」
モンドーは日本の室内装飾の神秘を感じ取った。
それから改めて室内を見渡す。
人が隠《かく》れられそうな所はベッドの下かクローゼットしかない。
とりあえずベッドの下を覗《のぞ》き込んだモンドーはそこに古雑誌しかないことを確認すると、クローゼットへと目を向ける。
刀を両手で握《にぎ》り締《し》めそのきっさきをクローゼットへ垂直に向けた。
「ウリャ!」
渾身《こんしん》の力を込めて貫《つらぬ》く。
その途端扉《とたんとびら》が内側から強力な力で押し破られた。反動でモンドーは後ろにのけぞり倒れる。
頬《ほお》に傷をつけたジルが飛び出してくる。
モンドーの目の前でその傷は跡形《あとかた》もなく消え失せた。
ジルは覚悟《かくご》を決めたようにサングラスを押し上げた。
迫《せま》ってくる刀を紙一重で避《よ》けるとそのまま窓ガラスへと飛び込む。
バリィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィン。
容赦《ようしゃ》ない日差しがジルを痛めつけるが今はこれしかない。
大地に叩《たた》き付けられ、弱々しく起き上がるジルの姿をモンドーは窓から見下ろし舌打《したう》ちした。
ピンポ〜〜〜〜〜ン。
タイミングよくチャイムが鳴る。
「すいませ〜〜ん。寺谷《てらたに》運輸の者ですがー。お届けもので〜〜す。え〜〜と、ミルカ・ベル・モンドーさん」
「ハイハイハイ」
途端に表情を緩《ゆる》めて玄関へ向かうモンドー。
「住所がここになってましたから。いいんですよね」
「エエ」
「じゃあサインしてください」
「分カリマシタ」
「どうも〜〜。御利用ありがとうございました! またの御利用を」
モンドーは室内に帰るとその巨大な包みを開いた。
そしてほくそ笑んだ。
「届イタカ」
満足そうにそう呟《つぶや》く。
箱の中身が何なのか?
それはまだ秘密である。
5
おかしいなと思っていた。
不可解《ふかかい》だとも思っていた。
たぶん倉地《くらち》、三石《みついし》両名も奇妙《きみょう》だなぁという感覚は持っていたはずだ。
時間がないため小道具大道具ひっかついで飯波《いいなみ》市営ホールに到着した時。
なぜか三々五々する幼稚園児達。
その疑問は控室に到着した時やっと解明された。
「どうも、私飯波東幼稚園の園長、久保田《くぼた》と言います」
どうして幼稚園の園長先生が挨拶《あいさつ》なんかしに来るんだろう?
「今日はよろしくお願いします。子供達も皆楽しみにしてるんですよ」
子供達?
さすがにここまで不可解が並ぶとさすがに黙《だま》っていられない。
「あの、子供達って何を楽しみにしてるんですか?」
おずおずと三石が尋《たず》ねた。
「決まってるじゃないですか」
園長先生は事もなげに答える。
「高校生のお兄さんお姉さん方の素晴らしいお芝居《しばい》ですよ」
一同、点目《てんめ》である。
「じゃあよろしくお願いします。お話通り道具と衣装《いしょう》はこちらで用意しておきましたから」
園長が出ていった後三人は無言で顔を見合わせた。
「聞いてないよ」
「私だって聞いてないわよ」
「どこで情報が混乱したのかしら?」
「たぶん、あの馬鹿《ばか》顧問よ!」
倉地は吐《は》き捨てるようにそう言うと部屋の隅《すみ》、壁《かべ》から壁までわたらせた鉄製の棒にかけられた衣装を見て、
「これが道具と衣装?」
三石、森写歩朗《しんじゃぶろう》もそれに習う。
そこにはカメさんのきぐるみと漁師《りょうし》さんの衣装とそしてお姫様の豪華《ごうか》な衣装がぶら下がっていた。
この衣装を使って行うお芝居といえば。
「浦島太郎?」
満を持《じ》して三石《みついし》はその言葉を吐《は》き出した。
ジルは炎天下《えんてんか》の中、ふらつく足取りで進む。
恐《おそ》ろしく気分が悪い。
なんとか薄暗《うすぐら》い路地裏《ろじうら》にその身を埋《うず》めると大きく息を吐き出す。
日光を浴びた肌《はだ》はヒリヒリ痛みそして耐え難い不快感が襲《おそ》う。
鈍痛《どんつう》が関節を支配してゆくのが感じられる。
これ以上日光を浴びるのは清水《きよみず》の舞台《ぶたい》の手摺《てすり》でタップダンスを踊《おど》るくらい危険|窮《きわ》まりない行為だった。
ジルはしゃがみこむと荒い息を吐き出した。
こんなことなら日除《ひよ》けのジャケットかなにかをかぶってくるべきだった。
直射日光の及ぼす不快感を考えればまだ暑さは我慢《がまん》出来る。
体全体をすっぽりと覆《おお》うような服があれば幸いなのだが。
そんなもんだこんな路地に転《ころ》がっているはずもないのにジルはキョロキョロせずにはいられなかった。
『ショッピングタウン! ピア! 秋物大安売り!!』
そんな看板《かんばん》を背負ったウサギが目の前を通り過ぎて行くのがジルの目に映った。
両手|一杯《いっぱい》に風船を持ったウサギは子供達にそのつぶらな瞳《ひとみ》を向けては手を振っている。
ジルは無言でウサギのきぐるみを見つめ続けた。
その頭に浮かんでいたことをわざわざ説明する必要もないだろう。
っていうかあまりに馬鹿《ばか》らしくて説明する気にもなれん。
「さて、問題は、どうするかってことよね」
「幼稚園児達に『僕の血を吸わないで』を見せても分からないでしょう。いくらなんでも」「それじゃあこれをつかって浦島太郎やれって言うの?」
倉地《くらち》がとがめるような口調で三石《みついし》に言った。
「丁寧《ていねい》にわけをお話して辞退《じたい》させていただくというのもありますが」
「それは駄目《だめ》よ」
プライドの高い倉地が一も二もなく否定する。
「それじゃあこれで行くしかないと思いますよ。浦島太郎のストーリーなら知っているでしょ?」
「カメを助けた浦島太郎が助けたカメに誘拐《ゆうかい》されて竜宮城《りゅうぐうじょう》に監禁《かんきん》。さんざん玩具《オモチャ》にされたあげく最後は老化ガスの詰まった箱を渡されて放り出されるってひどい話でしょ」
「………倉地|先輩《せんぱい》。大体合ってるんですけどちょっと細部が」
「冗談《じょうだん》よ。浦島太郎くらい知ってるわ。でもカメをいじめる子供達とかタイやヒラメの舞踊《まいおど》りとか全然《ぜんぜん》全く人数足りないじゃない」
「きっと、そこは演出|意図《いと》ってことでごまかすしかないんじゃないですか? 後はアドリブでなんとかする。エチュードやると思えば一応《いちおう》やれなくはないと思うんですけど」
「幼稚園児相手に演出意図も何もないんじゃない」
倉地《くらち》は嘆息すると改めて衣装《いしょう》に目を向けた。
カメを指さす。
「で、誰《だれ》がこれ着るの」
倉地はこそこそと控室から抜けようとする森写歩朗《しんじゃぶろう》に気が付くとその首筋を思い切り掴《つか》み上げた。
「どこへ行こうとしているのかな? トーマス」
凄味《すごみ》をおびた声は森写歩朗を恐《こわ》がらせるには十分だった。
「いや、今回は演技力の未熟《みじゅく》な私めは照明の助《すけ》っ人《と》のほうへと回らせていただきます」
「トーマスあんたカメやりなさい」
「ええっ!」
「あんた雰囲気《ふんいき》カメみたいなところあるから」
僕のどのようなところがカメなのか今度機会があったらじっくりと話を聞かせてほしいと思う森写歩朗。
「さっさと着替えてきなさいよ」
カメのきぐるみを渡された森写歩朗は口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
「何か文句《もんく》あるの」
反発することも不可能だった。
「じゃあアタシ乙姫《おとひめ》様やりますね」
無謀《むぼう》にも手を上げる三石《みついし》。
「何言ってるのよ」
倉地は目を鋭《するど》くした。
「乙姫は私がやるの。あなたは浦島太郎」
「え〜〜〜〜」
不快感を露骨《ろこつ》に表す三石。
毎度のことながら命知らずの三石である。
「倉地|先輩《せんぱい》この間も男の子役やってはまってたじゃないですか。今回も浦島太郎しかありませんよ」
「前回おいしい役を出来たから今回は先輩に譲《ゆず》ってあげようという気持ちにならないの?」
二人はおたがいに険《けわ》しい顔を見せ合っている。
幼稚園児に見せる浦島太郎の乙姫《おとひめ》ごときで先輩《せんぱい》後輩の関係を崩《くず》すようなことわざわざせんともいいんやないか! って意見したいところだが森写歩朗《しんじゃぶろう》は自重した。
前回よけいなことを言い出したためによけいなことになっちゃったという教訓があるからである。
「分かったわ」
倉地《くらち》が息を吐《は》いた。
「こんなとこでもめてても仕方ないわ。こうなったらどちらがより乙姫に相応《ふさわ》しいか判断することにしましょう」
「いいですよ」
「乙姫の条件は何? トーマス」
いきなり振られた森写歩朗はこめかみに指を当てるとえ〜〜とえ〜〜とと思案《しあん》する。
「美人……」
そう言って森写歩朗は首を振った。
この条件では駄目《だめ》だ。きっとそれなりに自信持ってる二人だから。
「え〜〜〜〜〜〜と。え〜〜〜〜〜と」
それ以外の言葉が出てこない。
倉地と三石《みついし》は次の言葉を辛抱《しんぼう》強く待っている。
森写歩朗は渋面《しぶづら》をますますしかめてからやるせないように首を振りそして言った。
「なぁ、この際ジャンケンでもなんでもいいんじゃないかな。浦島太郎だっていい役だと思うよ。カメに比べれば。そうだよ。浦島太郎はいじめられていたカメを助けたそれはそれは素晴らしい人なんだよ。主人公だよ主人公。ある意味乙姫なんかよりもずぅぅぅっとおいしい役じゃないかな」
「だそうよ。役希望を変更したらどう三石ちゃん」
「先輩《せんぱい》のほうこそ」
駄目《だめ》だった。
二人は相変わらず確執《かくしつ》してる。
どうして女の子ってのは乙姫とかそういうのを執拗《しつよう》にやりたがるのだろうか?
乙姫をやりたがる男がいたらいたでそれは恐《おそ》ろしいものだが。
「このままじゃラチがあかないわね。視点を変えましょう」
倉地が指を立てる。
「どちらが乙姫に相応しいではなくどちらが浦島太郎に相応しいかを考えてそこから役を決めましょう」
「……いいですよ」
「よし」
倉地《くらち》は決心したかのように首を縦に振った。
「浦島太郎の条件は何?」
「それはカメを助けるくらい優《やさ》しい人柄を持ってるってことだよ」
今回も自信を持って答える森写歩朗《しんじゃぶろう》。
「そう、それじゃ」
森写歩朗は誰《だれ》もいなくなった控室で呆然《ぼうぜん》としていた。
自分の言動を痛切《つうせつ》に後悔《こうかい》したが、自分自身を責《せ》めても仕方ないだろう。
しかし誰が想像するだろうか?
いじめられているカメを探して二人でそれを傍観《ぼうかん》し、先に耐えられなくなって飛び出したほうを浦島太郎にするなんて役の決め方。
二人はいじめられているカメを捜《さが》しに飛び出していってしまった。
しかしいじめられているカメがごろごろしているとは思えない。
開始時刻まで後十五分。
二人が戻《もど》ってくる可能性は薄かった。
やっぱり二人は帰ってこなかった。
共謀《きょうぼう》してエスケープしたのではと疑いたくなる瞬間《しゅんかん》だった。
「そろそろお願いしま〜〜す」
そんな声が控室の外から聞こえて来る。
カメのきぐるみを着た森写歩朗は立ち上がった。
「やるしかないってことなのか」
カメはそうひとりごちた。
しかし、カメ一人で何が出来るのだろうか?
暗澹《あんたん》たる気持ちで思案《しあん》するカメだった。
幼稚園児の拍手《はくしゅ》の中、幕が開いた。
スポットライトを浴びて間抜けな顔をするカメが一匹|舞台《ぶたい》の中央に立っていた。
子供達は何事かと見守っている。
カメは突然《とつぜん》ヒョイと立ち上がると観客に向けて手を振った。
そしておもむろに前転した。
子供達はただ黙《だま》ってそれを見ていた。
やはり最近の子供は前転ごときでは誤魔化《ごまか》されないか!
森写歩朗は嘆《なげ》いた。
それならばと後転を披露《ひろう》してみた。
やはりうけなかった。
前転後転はれっきとした芸なのに。
拳《こぶし》を固めようが森写歩朗《しんじゃぶろう》の芸人論が通じるわけもなく、子供達はポカンとしている。
こんなことなら舞台《ぶたい》の上にしゃしゃり出るような馬鹿《ばか》な真似《まね》はせずさっさと蒸発すべきだった。
森写歩朗は後悔《こうかい》した。
思えば自分の人生、後悔ばかりしているような気がする。
よし、次は側転《そくてん》だ!
果敢《かかん》に側転に挑戦したカメは見事に失敗して舞台でひっころんだ。
その光景自体かなり面白かったのだが子供達はしら〜〜〜としている。
「皆《みんな》!」
止《や》めときゃいいのに森写歩朗は声を張り上げた。
「ご飯をよくカメよ!」
うけなかった。
「カメんライダー」
やるだけ無駄《むだ》だった。
南極物語のタロとジロの気分が初めて分かる森写歩朗。ひじょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜につらく冷たい空気がホール内部に充満する。
森写歩朗は凍死《とうし》を覚悟《かくご》した。
やはりカメ一人が舞台に立つなど無謀《むぼう》すぎたのだった。
先立つ不幸をお許しください。
カメはゆっくりとその目を閉じる。
そんな最中、ホール後部の重厚な出入り口が音をたてて開かれた。
一匹のウサギの登場だった。
森写歩朗は突然《とつぜん》自分に飛びついてきたウサギに目をぱちくりさせた。
しかし……これは願ってもない僥倖《ぎょうこう》だった。
カメはただのカメに過ぎないが、ここにウサギが加わることでなんと『ウサギをカメ』になるのだ。
居眠りしているウサギを追い越して行く非道なカメの話である。
いける!
「………歩朗」
歓喜《かんき》にうちひしがれる森写歩朗の耳に届くか弱い声。
「ん?」
「森写歩朗《しんじゃぶろう》」
眼下のウサギが手を伸《の》ばす。
「もしかして……」
再度ウサギから聞こえてくるか細い声で森写歩朗は確信した。
「ジル?」
ウサギはコクリと頷《うなず》いた。
森写歩朗は悩んだ。
なしてジルがウサギなんぞの格好《かっこう》をしてこんなとこにやってくるのだろう。
どういう条件がそろえばこのような事柄《ことがら》が生じるのであろうか?
残念ながらその答えは出てこなかった。
そしてさらに不可解《ふかかい》な現象は続いた。
ウサギの次には異様《いよう》な物体が追っつけ駆《か》けつけてきたのだった。
淡い緑の体。
そこから飛び出した手足。
手には日本刀が握《にぎ》られていた。
それはどこからどうみてもピーマンのきぐるみだった。
グリーンマントが眩《まぶ》しかった。
中央の辺《あた》りから端正《たんせい》な顔が飛び出している。
それがよけいアンバランスなものを感じさせた。
「吸血鬼《きゅうけつき》ジルコニア! ウサギニ変装ナドシテモ私ノ目ハ誤魔化《ごまか》セナイ!」
「あなたは!」
森写歩朗は驚きの声を上げると飛び込んできたピーマンに顔を向けた。
「ソノ声ハ、モシカシテ森写歩朗クンデスカ?」
ピーマンは不思議そうにカメをしげしげと見つめると。
「ドウシテソンナ格好《かっこう》ヲ」
それは森写歩朗の台詞《せりふ》だった。
「やっぱり、モンドーさんなんですか?」
きぐるみの中からくぐもった声で森写歩朗は尋《たず》ねた。
「森写歩朗クン。驚カナイデ聞イテホシイ。実ハ」
モンドーは焦《あせ》らすように唾《つば》を飲み込んでから、
「君ガマフィアニ追ワレテイルロシア人ダト思イ匿《かくま》ッテイタソノ少女ノ正体《しょうたい》ハ……ナント吸血鬼ダッタノダ」
森写歩朗は驚かなかった。
んなこととっくの昔から知っている。
問題はどうしてその吸血鬼《きゅうけつき》をモンドーが追いかけているか? それである。
「ソシテ私ハソンナ吸血鬼ヲ滅《ほろ》ボス狩人《かりうど》ナノダ」
「あんだって!!!」
後者の新事実に森写歩朗《しんじゃぶろう》は驚愕《きょうがく》した。
ってことは自分はブラックウイナーとは知らずにモンドーとジルを一つ屋根の下に住まわせていたというのか……。
「驚クノモ無理《むり》ハナイ」
モンドーはしみじみと吐《は》き出す。
「外見《がいけん》ハ普通ノ人間ト同ジ。君ガ気ガ付カナカッタノモ仕方ナイコトダ」
モンドーは改めて日本刀の柄《つか》を握《にぎ》り締《し》めた。
「安心シナサイ。私ガ倒シテアゲマスカラ」
先程まで退屈《たいくつ》そうな顔をしていた幼稚園児達が今は興味シンシンの表情でこの緊迫《きんぱく》した状況を見つめている。
「こういうわけなの」
ウサギからかすれた声が響いた。
「サア、ソノ吸血鬼カラ離レテ」
「あのさ、モンドーさん。落ち着いて話そうよ」
「催眠術《さいみんじゅつ》ニヤラレテシマッタナ」
モンドーは舌打《したう》ちすると舞台《ぶたい》に飛び上がる。
これも劇の一部だと誤解しているのだろう、助《すけ》っ人《と》照明係が素早《すばや》くそのピーマンにスポットを向けた。
「世界平和ノタメ、ソシテ人類|滅亡《めつぼう》ノ危機《きき》ヲ回避《かいひ》スルタメ、人々ヲ貧血《ひんけつ》カラ救ウタメ、私ハ日夜戦イ続ケル。例エコノ身ガ朽《く》チヨウトモ、私ノコノ熱イ魂《たましい》ハ必ズヤ吸血鬼ヲ滅ボシ世界ヲ繁栄ヘト導クノダ!」
日本刀を構えてのピーマンの長口上《ながこうじょう》に幼稚園児達は一斉《いっせい》に拍手《はくしゅ》を向けた。
「アリガトウ。アリガトウ」
その拍手に答えてからモンドーは刀をスチャっと森写歩朗らに向ける。
図式としては日本刀を持ったピーマンがウサギを抱きかかえたカメに刀《かたな》を向けるという非常に訳の分からないものとなっていた。
おそらくこれが絵になったなら実際の緊迫感とは裏腹《ウラハラ》に思わず笑っちゃうものとなるだろう。
「カツテコノ国デ活躍シタ吸血鬼狩人モンドナカムラ。偉大《いだい》ナ親戚《しんせき》ノ名ニ恥《は》ジヌヨウ、私ハ貴様《きさま》ヲ滅ボス」
説得《せっとく》は不可能だということはモンドーの尋常《じんじょう》でない気迫《きはく》から伝わってきた。
「ここはやっぱり」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は呟《つぶや》いた。
「パターンの踏襲《とうしゅう》ではあるけれども」
ジルもそれに続く。
「逃げるか」
「逃げましょう」
異口同音でそう言うとウサギを抱きかかえて駆《か》け出す森写歩朗。
「待て!」
切りつけようと踏み込んだモンドーの体が大きく弾《はじ》き飛ばされた。
「森写歩朗。もう打ち止めだから」
パチンコ屋の店員のようなことをのたまうジル。
あまり嬉《うれ》しい言葉ではなかった。
ジルのテレキネシスが打ち止めだというとここはもう自分の細腕に全《すべ》てがかかっているといっても過言ではない。
油断《ゆだん》すれば押しつぶそうと伸《の》しかかってくるプレッシャーの嵐《あらし》の中、森写歩朗は奥歯を噛《か》み締めた。
カメさんとウサギさんはホールを飛び出して行った。
「逃ガシマセンヨ」
ピーマンの手の中で日本刀がギラリと光り輝いた。
第七章 ピーマン戦争
1
『ピーマン・ウサギ・カメの珍事件』
CAST
遠山《とおやま》(三十六歳・主婦)
原田《はらだ》(三十三歳・主婦)
久保田《くぼた》(三十八歳・主婦)
カメ(爬虫類亀目《はちゅうるいかめもく》の動物)
ウサギ(兎科《うさぎか》の哺乳《ほにゅう》動物)
ピーマン(唐辛子《とうがらし》の甘味種《かんみしゅ》のうち大形の物)
倉地《くらち》(高校生・タカビー)
三石《みついし》(高校生・興味シンシン丸)
舞台《ぶたい》はとある商店街。買い物|籠《かご》片手に歩いている原田の肩を叩《たた》く遠山。
原田「あら遠山さんとこの奥さん」
遠山「こんにちは原田さん。最近めっきり寒くなりましたわね」
原田「そうそう、遠山さんとこの奥様。お聞きになりました? 久保田さんとこの奥様、二十万円も出して矯正《きょうせい》下着買ったそうですわ」
遠山「まあ」
原田「あの年で、身《み》の程《ほど》知らずというか、なんというか」
上手《かみて》から駆《か》け寄ってくる久保田。
久保田「遠山さんとこの奥さんと原田さんとこの奥さんじゃないですか」
遠山「あら久保田さんとこの奥さん」
久保田「お聞きになって。私今あっちで面白いものを見たんですの」
原田「なんですの」
久保田「ピーマンがウサギを抱えたカメを追いかけてましたの」
遠山・原田「…………はぁ」
久保田「たぶんペットショップと八百屋《やおや》さんの宣伝か何かじゃないかしら。面白くて見ていたんですけどすぐに路地《ろじ》に入ってしまって………あらいけない。子供を迎えにいかなくちゃ。それじゃあ遠山さんとこの奥様、原田さんとこの奥様。ご機嫌《きげん》よう」
久保田さんとこの奥様退場。
原田「どこかで頭でも打ったのかしら」
突如《とつじょ》あたりが騒《さわ》がしくなる。
上手《かみて》からウサギを抱えてカメが登場。
カメ「うっきょぉぉぉぉぉぉ」
そのまま二人の前を通り過ぎて下手《しもて》へと退場。
原田「何ですのあれ」
遠山「ウサギを抱えたカメでしたわ」
続いて日本刀を手にした巨大なピーマン上手から登場。
ピーマン「オ命チョウダイ!」
同じく通り過ぎて下手へ退場。
原田「なんですのあれ?」
遠山「ピーマンでしたわ」
下手から再び出てくるカメとウサギ、今度はそのすぐ後ろにピーマン。
盛大にひっ転《ころ》ぶカメ。
嗜虐《しぎゃく》の笑みを浮かべるピーマン。
ピーマン「ココマデノヨウダナ」
カメ「話を聞いてくれ」
ピーマン「問答無用!」
刀を振り上げるピーマン。
その時、音もなく飛び出してくる倉地《くらち》がピーマンの後頭部に飛び蹴《げ》りを食らわす。
続いて三石《みついし》登場。
三石「倉地|先輩《せんぱい》の負けですよ。先に飛び出したんですから」
倉地「チッ!」
三石「約束通り乙姫《おとひめ》は私がやりますからね」
倉地「分かったわよ」
三石「それにしても良かったですね。いじめられている亀《カメ》がいて」
倉地「さっさと帰るわよ!」
倉地、三石退場。
カメ「あいつらまだやってたのか」
カメ、ウサギを抱え直して上手《かみて》へ退場。
遠山「今晩のおかずはピーマンの挽肉《ひきにく》詰めにしようかしら」
原田「うちは野菜|炒《いた》めにしましょう」
和《なご》やかな雰囲気《ふんいき》の中、幕が下りる。
完
2
その日、町の人々は非常に変わった光景を目にした。
正午もとうにすぎ三時近い、夕食の買い物をする奥様方が三々五々し始めた町中を突っ走るウサギを抱えたカメと、そしてその後ろから巨大なピーマン。
それは滑稽《こっけい》でもあり、その反面|危機迫《ききせま》るものを奥様方に感じさせた。
ウサギやカメはともかく日本刀を持ったピーマンのほうは近寄りがたいものを感じる。
モーゼの十戒《じゅっかい》のように人の波が両脇《りょうわき》に分かれていくのを森写歩朗《しんじゃぶろう》はなんだか自分が神になったような気分で目にした。
がそんなことを考えているお気楽な場面ではないのだ。
知力にはとんと自信がない彼だがやっぱり体力にも自信がない。
軽いとはいえジルを抱えている今全力|疾走《しっそう》がそう長く続くはずもない。
チラっと背後《はいご》をみやりピーマンがまだ追いかけていることを知った森写歩朗は背筋が戦慄《せんりつ》するのを感じた。
それにしてもどうしてモンドーはあんな格好《かっこう》をしているのだろうか?
意味があるコスチュームとは思えなかった。
動きづらくて逆効果なんじゃないか?
カメをかぶって人のことはいえない森写歩朗はそう思った。
それにしてもきぐるみを着て走ることがこんなに暑いことだったとは………。
暑い?
森写歩朗は手の中のウサギに目を落とした。
森写歩朗以上にジルはこの暑さが体にこたえているはずだ。
ウサギを着たのも直射日光から肌《はだ》を守るためだろう。
これは日陰《ひかげ》へ飛び込んだ方がいい。
少なくともジルの本領発揮の夜までの時間。
「覚悟《かくご》!!!!!」
すぐ後ろでイッちゃった声が響いた。
森写歩朗は殺気《さっき》を感じて無意識に進路を九十度変化させた。
それは彼にしてはかなり上出来だった。
シュッ!
刀が空を切る音が響いた。
ここまで接近されていたとは。
焦燥感《しょうそうかん》を覚えて速度を上げようとした森写歩朗だが自分の体力メーターが限りなく底に近いことを痛感した。
足に感覚はなかった。
こんなことになるなら普段《ふだん》からジョギングをして体力をつけておくべきだった。
しかし彼を責《せ》めても仕方がない。
およそこの世のどこにピーマンに追いかけられる状況を想像する人間がいるだろうか?
もしここでピーマンに切り殺されて死んだとしたらBCGニュースで報道されてしまう。
森写歩朗の頭に架空《かくう》の報道番組ができあがった。
「今日の午後三時頃、長野《ながの》県、飯波《いいなみ》市の交差点付近で日本刀を持ったピーマンにカメとウサギが切り殺されるという事件が発生しました。目撃者《もくげきしゃ》の話によるとこのピーマンは一キロ程離れた場所から被害者《ひがいしゃ》であるカメとウサギを追いかけ続けていたとの話であります。ニンジンがウサギを刺し殺すという事件は数年程前から頻繁《ひんぱん》に発生しておりますが、ピーマンが加害者として登場するケースは極めて稀《まれ》であり関係者は頭を抱えています。警察は怨恨《えんこん》の線から捜査《そうさ》を進めています」
末代《まつだい》までの恥《はじ》じゃないか!
羞恥心《しゅうちしん》からコップ一杯《いっぱい》のガソリンが森写歩朗《しんじゃぶろう》の小さなエンジンに注ぎ込まれる。
赤信号に進路を阻《はば》まれた森写歩朗は近くの建物に逃げ込んだ。
ハナモモンチョ銀行。
その建物が何かもしらずに森写歩朗は飛び込んでしまった。
突然《とつぜん》飛び込んできたウサギを抱えたカメに銀行職員は表情を固くした。
ここがラーメン屋だったならば皆何事かと好奇の目で見ることだろう。
飲み屋だったらいい余興《よきょう》だ酒のつまみだと拍手《はくしゅ》が巻き起こるかもしれない。お捻《ひね》りが飛ぶかもしれない。
しかし、ここは銀行だったのだ。
わ〜〜〜カメだ!
わ〜〜いウサギさんよ〜〜。
なんてお気楽な連中が集まっている場所ではない。
銀行職員達は固唾《かたず》を飲んでカメとウサギを見守った。
心の中の可能性にまだ確信が持てなかったのだった。
その可能性は日本刀を握《にぎ》ったピーマンが飛び込んできた時、確信へと変化した。
「動クナ!!!」
ピーマンが叫んだ。
一斉《いっせい》に手を上げた銀行員達を見てモンドーはちょっとだけ驚き後退《あとずさ》った。
取《と》り敢《あ》えず息を整えてから標的《ひょうてき》を探す。
ヒョコヒョコと反対側の出口へ向かうカメの姿が。
「動クナ!!」
防犯ベルを押そうとしていた男子職員が慌《あわ》てて手を挙げて喚《わめ》いた。
「すいません!」
「イヤ、違ウンダ」
モンドーが手を振るが銀行員達の顔にあるのは恐《おろ》れ以外の何ものでもなかった。
モンドーはどうして自分が怯《おび》えられているか理解していない。
カメはまだのろい足取りで歩いている。
「待テ!」
モンドーは走り出すとカメまでの最短距離、カウンターの上へと飛び乗った。
「きゃぁぁぁぁぁ」
黄色い悲鳴《ひめい》が上がる。
受付の女性職員が恐怖《きょうふ》のために上げた叫び声だった。
「金なら用意します。だから職員には危害をくわえないでください!」
支店長の鏡《かがみ》、竹村《たけむら》が声を張り上げた。
「ハァ??」
モンドーは訳わかめの顔。
「一体何ヲ言ッテイル」
「きゃぁぁぁぁ」
さらに悲鳴が上がる。
その頃《ころ》になってやっとモンドーはこの事態を把握《はあく》した。
ソウイウコトカ?
モンドーは自分の知識がまた一つ増えたのを喜んだ。
日本人ハ一般的ニピーマンガ苦手《にがて》ナンダナ。
そこでハッと気が付き先程までカメ達がいた地点へと目を向けるとすでにそこはガラ〜〜ンとしていた。
「シマッタ!」
モンドーがカウンターを飛び越え反対側の扉《ドア》へと向かった時、両方の入り口からどやどやと飛び込んでくる数人の男達。
何故《なぜ》だか分からないが男達は警察官の格好《かっこう》をしていた。
「周《まわ》りはすでに包囲されている。観念《かんねん》しろ!」
何を言われているのかさっぱり分からないモンドー。
ピーマンは不可解《ふかかい》そうにその首を捻《ひね》った。
3
カメはウサギを下ろすと息を整えた。
心臓が破裂《はれつ》しそうなくらいバコバコいっている。
路地裏《ろじうら》、森写歩朗《しんじゃぶろう》は冷たくじめじめした壁《かべ》に背中をつけると腰を下ろした。
ウサギを隣《となり》へと置く。
森写歩朗《しんじゃぶろう》はゆっくりとカメのチャックを外すと頭だけを外へと出した。
久しぶりになんて健康的な運動をしてしまったのだろう、なんて達成感を満喫《まんきつ》していたところで状況は好転しない。
唯一《ゆいいつ》の救いは現在四時三十分。夕焼けこやけで日が暮れてってことだけなのだ。
ジル復活まで時間の問題だろう。
森写歩朗はジルのウサギのぬいぐるみの首を少々もたつく手つきながらも外《はず》した。
多少青白く幼顔ながら、それは美人と称しても百人中九十八人までがコクリと頷《うなず》く可愛《かわい》らしい顔が現れる。
森写歩朗はどぎまぎするのを感じた。
そういえば、こうやってまじまじとジルの顔を見つめたことって、なかったような気がする。
「守ってあげないと」
ごく自然にその言葉が口をつく。
力量からいえば守ってもらうと言ったほうが適切なのだが、珍《めずら》しく男らしいことを口にした森写歩朗にそんな訂正《ていせい》を入れるのは野暮《やぼ》というものだろう。
森写歩朗は大きく息を吐《は》き出すと冷たいコンクリートの外壁《がいへき》に背を預けた。
どうやら隣の建物は小料理屋か何からしく魚特有の生臭《なまぐさ》い香《かお》りが少し鼻をついた。
しかしそれはカビ臭さに比べれば本当に些細《ささい》なもので気にもならない。
「ここどこ?」
ジルがゆっくりと目を開く。
「商店街の外れ、どっちかっていうと飲み屋とか集まってる通りの路地《ろじ》」
「あいつは?」
「どうやら僕達を見失ったようだけど。体の調子……どう?」
「太陽が沈みかけてるから大分《だいぶ》よくなったけど」
「そうか、そりゃ良かった」
森写歩朗は安心したような声を上げた。
「でも夜になってもアタシ、戦えるかどうか分からない?」
ジルの意外《いがい》な言葉に森写歩朗は目をぱちくりさせた。
「どうして、だって相手はあのピーマンのぬいぐるみだよ」
前回戦った相手はジル以上に強大な力を持つ吸血鬼《きゅうけつき》だった。
それに比べるとまだモンドーはお買《か》い得《どく》のような気がする。
真夜中のジルが勝てない相手とは思えなかった。
「アタシね」
ジルは白状した。
「ピーマンの匂《にお》いも嫌《きら》いだけどピーマンの形もあんまし好きじゃないの」
森写歩朗《しんじゃぶろう》はシナチクが嫌いだった。
しかしシナチクのぬいぐるみを相手が着てきたからといってその場で悶絶《もんぜつ》するほどではない。
「………それが負ける原因なのか?」
森写歩朗の問いにジルは小刻《こきざ》みに首を横に振った。
「そんなことは些細《ささい》なことなの。本当の理由はね」
ジルは何か含《ふく》むところのあるように意味ありげな瞳《ひとみ》を向ける。
「ご飯食べてないの」
「……はあ?」
「昨日《きのう》から栄養補給してないの」
森写歩朗はやっと理解した。
ジルは血液の補給をしていないのだ。
血を吸《す》ってない吸血鬼《きゅうけつき》などガソリンの入っていない大型トラックと同じようなもの。
エネルギーが足りなければ意味がない。
「二、三日吸わなくても死ぬことはないけど。あんまし大きな力は使えないの」
ジルはごそごそとウサギのぬいぐるみを脱ぎ始めた。
森写歩朗からプレゼントされた服が現れる。
ジルは脱ぎ捨てたぬいぐるみの上に腰を下ろすと、そのポケットから何やら細長い物を取り出した。
凝視《ぎょうし》するまでもなかった。
これこそジルが吸血の際愛用している金属のストローなのである。
相手を吸血鬼にしてしまう成分を含んだ唾液を相手の体内に進入させないよう使用している代物《しろもの》だった。
もっともその吸血鬼|因子《いんし》は少なくとも十分間、相手に牙《きば》を食い込ませ続けなければ伝染しないらしい。
このストローも石橋《いしばし》を砕石機《さいせきき》で砕《くだ》いて渡れなくなっちゃった的安全係数を図って使用されているものなのだ。
「お腹すいた」
ジルはぽつりと呟《つぶや》いた。
その目には相手を震撼《しんかん》させるような猛獣《もうじゅう》を思わせる光ががすかに宿っていた。
同居生活長くても、やっぱ恐《こわ》いものは恐い。
「分かったよジル」
森写歩朗。血をちょうだい! って言われる前に迅速《じんそく》に森写歩朗は行動を開始した。
ジルの手を握《にぎ》ると熱い瞳で言う。
「僕がこれから血のおいしそうな人を連れてくるから」
ジルが止めるのも聞かず森写歩朗《しんじゃぶろう》は夕暮《ゆうぐ》れの町へと飛び出した。
「僕がこれから血のおいしそうな人を連れてくるから」
ジルにはそう断言してきてしまったが。
繁華街《はんかがい》、森写歩朗は薄暗《すうぐら》い中|幾分《いくぶん》人通りが増えてきた道路の脇《わき》で頭を抱え込んだ。
一体どうすればいいのだろうか?
女の人の血のほうがおいしいらしいから若くてピチピチした娘を連れていけばいいのだろう。
問題はどうやって連れていくかである。
『あの、血をくれませんか?』
薄気味《うすきみ》悪がられるのは目に見えている。
『そこの美しいお嬢《じょう》さん。君の美しい血液が僕には必要なんだ』
逃げられるか殴《なぐ》られるかのどちらかである。
しかも森写歩朗は今、頭以外は全《すべ》て亀《カメ》だったのだ。
案《あん》の定《じょう》、人々は近寄り難いものを感じて遠巻きに森写歩朗を避《さ》けて行く。
「すいません」
勇気を出して森写歩朗は角近くの自動販売機の前に立つ二十代後半だと思われる白衣《はくい》の女性に近寄った。
白衣ってところが少々気になったが、森写歩朗は勇気を搾《しぼ》り出すとおずおずと話しかける。
「あの……血を」
「ああ血ですか」
女性は不思議そうな顔もせず頷《うなず》いた。
「どうぞどうぞ」
「えっ」
森写歩朗は思わず聞きかえした。
「いいんですか?」
「ええ、問題ありませんよ。ただし二百ミリリットルだけね」
何ミリリットルだろうが血をくれるのなら万歳《バンザイ》である。
それにしてもこんなに簡単にいくとは。
案ずるより産《う》んじまうが易《やす》し。
そんな諺《ことわざ》を噛《か》み締めている森写歩朗は女性に手を引かれて近くに止められた白い車へと連れていかれたのだった。
血をもらいにいって血をとられてどうすんだよ!
森写歩朗《しんじゃぶろう》は献血車《けんけつしゃ》と書かれたその車から飛び出した。
毎度ながら自分の馬鹿《ばか》さ加減《かげん》には盛大な拍手《はくしゅ》を送りたくなってくる。
それでも収穫はあった。
森写歩朗は手の中の透明のパックを見下ろした。
中は真赤な液体で満たされてる。
かっぱらってきた自分の血液なのだ。
「一応《いちおう》、約束は守れるな」
森写歩朗は満足そうに頷《うなず》くとジルのいる路地《ろじ》へと向かって歩き始めた。
「カメ君」
後ろから声をかけられ森写歩朗は体をピクリとさせた。
先ほどの女性の声だったのだ。
ばれたか。
冷《ひ》や汗《あせ》がタラリと流れる。
慌《あわ》てて血の詰まったパックを首筋からカメのぬいぐるみの中へ放り込むと森写歩朗はギギギギギギって感じで振り返った。
「忘れ物ですよ」
引《ひ》き釣《つ》った森写歩朗の前にパック入りのトマトジュースが突き出された。
「ご協力ありがとうございました」
女性はコケチッシュな笑顔でそう言った。
自分を覆《おお》い隠《かく》すような人の気配《けはい》を感じたジルはうっすらと目を明けた。
ぼやけた視界《しかい》の中にぼやけた輪郭《りんかく》が見えた。
不快感は消えている。
ジルは本能的に太陽が沈んだことを悟《さと》った。
しかし腹が減っていることに変わりはない。
森写歩朗?
一瞬《いっしゅん》喜びの表情を見せたジルだが、すぐにその輪郭が人間のものではないことに気が付いたのだった。
不恰好《ぶかっこう》な輪郭。
それはジルの一番|嫌悪《けんお》する物体だった。
ジルの目が大きく開かれる。
「ヤット見ツケマシタヨ」
ピーマン、いやモンドーは淡々《たんたん》としてかえって凄味《すごみ》を感じさせる口調でそう呟《つぶや》いた。
ジルは薄暗《うすぐら》い路地、モンドーから避《さ》けるように走りだした。
力が出ない以上戦うわけにはいかない。
後ろから駆《か》けてくるモンドーの気配《けはい》が鋭《するど》い吸血鬼《きゅうけつき》の感覚にハッキリと響いてくる。
それでも太陽が出ていないため、先程までの押さえつけるような拘束感《こうそくかん》と嘔吐感《おうとかん》が嘘《うそ》のように消え失せている。
逃げられないわけではない。
なんとかこのまま人混みに紛《まぎ》れてしまえば!
ジルは路地の終わりを告《つ》げる建物の角を目にし、足に力を込めた。
ジルの予想とは反してそこは通りではなかった。
無節操《むせっそう》な区画整理の産物か、住宅産業の不景気の煽《あお》りだろうか?
何もない十二|畳《じょう》程の空き地がそこには開けていた。
そして厄介《やっかい》なことに四方を建物に囲まれている。
どのようにしてこの土地が生まれたのかは分からない。土地の状態からかつてはここに住宅があったのだろうが。
しかし今は見ての通りのガラ〜〜〜ンとした空間。
建物に囲まれている分だけ月明かりが入りにくくなっているが、あたりの建物から漏《も》れる光で視界《しかい》が悪くなるということはない。
これはジルにとって不利以外の何物でもなかった。
もし漆黒《しっこく》の闇《やみ》であったならばジル以外にあたりを見通せる者はいなかったろう。
逃げ場を失ったジルは精神を集中させた。
ジルの足下の小石がカタカタと音を鳴らして振動する。
かすかにジルの足下が大地を離れた……が。
ついに飛び立つことは出来なかった。
がっくりと膝《ひざ》を着くジルの前に立ちはだかるモンドー。
「観念《かんねん》シロ。吸血鬼!」
ジルは上目遣《うわめづか》いにモンドーをにらみ上げた。
吹き飛ばしてやろう。弾《はじ》き飛ばしてやろう。
駄目《だめ》だった。
恐怖《きょうふ》で精神集中出来ないということもあったがそれを差っ引いてもエネルギーが乏《とぼ》しすぎる。
辺《あた》りを見渡すがてっとり早くエネルギーの補給が可能な人物は………。
目の前のピーマンだけだった。
それだけは頼まれてもいやだなとジルは思った。
ピーマンが刀を振り上げる。
ジルが目を閉じる。
その直後ジルは横殴《よこなぐ》りに何かに突き飛ばされた。
ズバッ。
鈍《にぶ》い音が響いた。
ジルは打ちつけた腰の痛みも忘れて目を開いた。
カメがいた。
ジルは見てしまった。
カメの右腕が見事に切断されていることを。
傷口からしたたる真赤な液体!
それはぬいぐるみのカメの腕にベットリと付着していた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ジルは悲鳴《ひめい》を上げた。
これにはモンドーも驚いたらしく、真《ま》っ青《さお》な顔で口に手を当てた。
「森写歩朗《しんじゃぶろう》クン」
森写歩朗はなくなった右腕を見て目をぱちくりさせている。
切断されたカメの腕がコロンと足下に転《ころ》がっていた。
ぬいぐるみの腕に赤い染みが広がっているのがなまなましかった。
「スァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ」
モンドーはのけぞり咆哮《ほうこう》するとその場に崩《くず》れ落ちた。
「一宿一飯《いっしゅくいっぱん》ノ恩義《おんぎ》モ忘レテ私ハナンテコトヲシテシマッタンダ!!!!!!」
何を思ったのかモンドーは刀《かたな》を持ち直すと地面にあぐらをかいた。
そしてそのきっ先をピーマンの腹部へと向ける。
「ちょっとちょっとモンドーさん。何やってるんですか!」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は慌《あわ》てて駆《か》け寄った。
「止メナイデクレ。森写歩朗クン。私ハ責任ヲトッテコレカラハラキリヲスルノダ!」
森写歩朗は刀を持ったモンドーの手を必死になって押さえた。
「落ち着いてください! 落ち着いてくださいって」
「止メナイデクダサイ! 腕ヲ切断シテシマッタ償《つぐな》イニ」
「何も死ななくてもいいじゃないですか!」
「死ナセテクダサイ! 私ニハコレシカ」
「分かりました。そんなに責任を感じているなら頼みを聞いてくれませんか」
「頼ミ?」
「ええ」
森写歩朗はピーマンを覗《のぞ》き込むようにして。
「ジルを、彼女を傷つけないで欲しいんです」
「ソノ吸血鬼《きゅうけつき》ヲ野放《のばな》シニシロトイウノカ?」
「ええ」
不思議そうに見上げるモンドーの目に先ほどまでの狂《くる》った光は見られなかった。森写歩朗はこれでやっと会話出来る状態となったのを確信した。
「ジルはね、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(森写歩朗がジルはいつもストローを使っているとかまぁそういったことをペラペラと説明しています。ちょっと待ってね)〜〜〜〜〜〜っていう感じの吸血鬼なんだ。危険はないはずだよ」
モンドーは黙《だま》ってその話を聞いていた。
目を細めて大地に膝《ひざ》をつけたまま。
そして静かに頭《こうべ》を垂《た》れた。
「腕ヲ切断シテシマッタ罪《つみ》ガ、ソレデ癒《いや》サレルナラバ」
静かに息を吐《は》き出す。
「私ハ故郷ヘ帰ロウ。故郷デ野菜ヲ作ル」
「そうか、良かった」
安堵《あんど》の息を吐き出す森写歩朗にそれまで蒼白《そうはく》な顔で震《ふる》えていたジルがようやく復活したのか、弾《はじ》かれるように駆《か》け寄った。
「森写歩朗!」
切迫《せっぱく》したジルの様子に森写歩朗《しんじゃぶろう》は不思議そうに小首を傾《かし》げる。
「森写歩朗。早く病院に行かなくちゃ。アタシのために。森写歩朗〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
森写歩朗にすがりついて泣きじゃくるジルに森写歩朗はお得意《とくい》のお間抜けな口調で、
「なんで僕が病院にいかなきゃいかんの?」
「森写歩朗…………」
ジルは涙のこんもりとこもった目を向けた。
きっと、ショックで頭があんぱんまんになっちゃってるのね。
さらに瞳《ひとみ》を潤《うる》ませるジルの前で森写歩朗はさらに頭を傾げた。
「どうしたのジル?」
「いいから。病院へ行くわ」
強引《ごういん》に引っ張るジルの肩を森写歩朗は両手で掴《つか》んだ。
「ちょっと、落ち着いてくれよ」
「森写歩朗。あなた右手が切れちゃってるのよ。早く止血しないと出血多量で………………」
ジルの言葉がとぎれた。
ジルは自分の肩を掴んでいる森写歩朗の右手に気が付くと目をぱちくりさせた。
さらに二、三度目をぱちくりさせそれが錯覚《さっかく》でもなければ幻覚《げんかく》でもないことに気が付く。
ジルの後ろでモンドーが同じように目をしばたたかせていた。
さっき切り落とされたはずなのに、どうして手があるんだろう。
実に素朴《そぼく》な疑問である。
人間にそんなにすぐに生えてくる再生能力はないはずだ。
吸血鬼《きゅうけつき》だって腕一本を再生するにはかなりの吸血が必要となる。
その頃《ころ》になってジルは鼻をつく強烈《きょうれつ》な香《かお》りに気が付いた。
トマトの香りだった。
冷静になって鼻を鳴らすとこれだけの出血に対して森写歩朗の血液の匂《にお》いはほとんどない。
トマトの強烈は香りだけである。
「森写歩朗……手」
ジルは意味不明に小刻《こきざ》みに震《ふる》える指先で森写歩朗のトマトジュースに濡《ぬ》れた右腕を指さした。
「ああ、手」
森写歩朗は切断されたぬいぐるみの腕を見下ろすと、
「さっきさ、せっかく調達して来た血液のパックをさ、ぬいぐるみの中に入れちゃってたからそれを取ろうとしてゴソゴソやってたんだ」
つまり切断された時、カメの腕は空っぽだったということである。
「トマトジュースのパックが破れただけだったからな。いや〜〜〜〜運が良かった良かった」
森写歩朗は頭の後ろに手を回すとアハハと笑ってみせた。
「馬鹿《ばか》! 森写歩朗《しんじゃぶろう》の馬鹿!」
ジルは森写歩朗の胸をポカスカと叩《たた》いた。
「なんだよ。ジル」
「それだったら、それだって早く言ってよ」
「まあいいじゃないか。結果良ければ全《すべ》てよし」
そこでジルは何かに気が付いたようにハッと息を飲むと森写歩朗の手を強引《ごういん》に引っ張った。
「逃げるよ。森写歩朗!」
「え? どうして」
困惑《こんわく》する森写歩朗。
「モンドーさんはもう殺さないって約束してくれたじゃん」
「森写歩朗の馬鹿! どうしてそのピーマンがそんなこと言ったか分からないの?」
「カメのぬいぐるみの腕を切っちゃったから」
「どこの世界にぬいぐるみの腕を切っちゃったくらいで自殺しようとする人がいるのよ!!」
「ここにいたじゃないか」
「あなた大馬鹿よ。そいつはあんたの腕を切ったと思ったから、だから責任を感じてたのよ」
つまり今自分の右手が元気ハツラツオロナミンCしてることは見え見えだから、さっきの約束は反故《ほご》になってしまったということなのか?
森写歩朗はその事実に気が付くまでに三秒かかった。
三秒後、森写歩朗は駆《か》け出した。
目の前に刀《かたな》を突きつけられ、森写歩朗の逃亡《とうぼう》は早くも終わってしまったが。
ゴクリ。
森写歩朗は固い唾《つば》を飲み下した。
ゴクリ。
ジルもやはり固い唾を飲み下した。
立ちはだかったピーマンはさめざめと涙を流していた。
そしてダイナミックに叫んだ。
「私ハコンナコトをスルタメニ日本ヘ来タ訳デハナインダ!」
大きく剣《けん》を振り上げると大地へ剣を突き刺した。
なんじゃらほい!
凄味《すごみ》を感じさせるモンドーの行動に森写歩朗とジルは及び腰で怯《おび》えている。
そんな緊迫《きんぱく》した中でモンドーはガックリと膝《ひざ》をついた。
「私ニハ君ハ殺セナイ」
押し出すようにそう言う。
「私ハ吸血鬼《きゅうけつき》トハ腹ガ減レバ理性モ何モナク本能ヲ剥《む》キ出シニシテ襲《おそ》イカカル化物《ばけもの》ダト教エラレタ。人類|滅亡《めつぼう》ノ引キ金ヲ引クモノダト。トコロガドッコイナンジャラホイ。君ハ自分デソノコトヲ自覚シストローヲ使ッテイルラシイシ、第一、森写歩朗《しんじゃぶろう》君ノ腕が切断サレタト錯覚《さっかく》シタ時、ソノ赤イ液体ニハ目モクレナカッタ」
モンドーは顔を上げた。
「ヤ〜〜〜メタ!」
転職には慣れているモンドーの十八番の言葉だった。
「ヤ〜〜〜メタ。ヤ〜〜〜メタ」
モンドーは転職宣言を高らかとあげた。事実上|危機《ピンチ》が去ったこととなる。
またしても二人の偶然《ぐうぜん》と幸運のコンビプレーが危機を脱してしまった。
しばし呆気《あっけ》にとられるジルと森写歩朗だがどうやら助かったということに気が付き感涙《かんるい》した。
「コイツトモオ別レダ」
モンドーはどこかから取り出したブラックウイナー直通|携帯《けいたい》電話を大地に投げつけるとゲシゲシを踏《ふ》みつける。
全《すべ》てはこのまま平穏《へいおん》に幕を閉じるかと思われたのだが。
唐突《とうとつ》にその声は響いた。
「やはり私がやるしかありませんね」
事務的で冷淡《れいたん》な声だった。
声のした方向へ目を向ける。
唯一《ゆいいつ》の通路、路地《ろじ》から全身黒で決めた長身の男がゆっくりと歩いてくる姿が見えた。
濃いサングラスで目を覆《おお》い隠《かく》し、引き結んだ口元に感情は感じられない。
しかし確かに背は高いが体つきは背広の上からも分かるほど華奢《きゃしゃ》。手足もかなり細そうだ。
手には武器は見られない。
日本刀を持ったピーマンよりも脅威《きょうい》には思えなかった。
「誰《だれ》だろ?」
「ソウイエバ私ノ他《ほか》ニモウ一人、狩人《かりうど》ガ派遣《はけん》サレタトイウ話ガアッタヨウナナカッタヨウナ」
モンドーが囁《ささや》くように呟《つぶや》いた。
「遅《おそ》くなってしまいました」
男は淡々《たんたん》とした口調で呟くとそこで軽く一揖《いちゆう》して見せた。かえってその行為が冷たい印象、機械的な雰囲気に拍車《はくしゃ》をかける。
「初めまして。私、マイブという者です。すでに察《さっ》しておられるとは思いますが皆様の予想通り私は吸血鬼《きゅうけつき》を滅《ほろ》ぼすためにやってきました」
「やっぱし」
絶望のこもった声を森写歩朗は吐《は》き出した。
「なお、吸血鬼について深く知り過ぎた人物についてはその記憶を消去し、健全な日常生活を取り戻《もど》していただけるようにすることも仕事の一環《いっかん》であります」
マイブは軽くサングラスを押し上げた。
「吸血鬼《きゅうけつき》、ジルコニアはかなりの人物と接触しています。一部の記憶を消去してきましたが、肝心《かんじん》の人物をおろそかにするところでした」
マイブはビシッと指さした。当然その先には森写歩朗がいる。
「もしかしなくても僕のことかな?」
「ジルコニアを排除した後、あなたの記憶も消去して差し上げます。安心してください」
「ハハッ」
森写歩朗はジルに目を向けた。
「あんなこと言ってやがる」
ジルは厳《きび》しい顔付きでマイブを睨《にら》み付けている。
「安心シテクダサイ。今朝、朝日ノ中固ク握《にぎ》リ締《し》メタ約束通リ、私モ協力シマス」
さっきの敵は今の友。
日本刀を握るピーマンの実力を信用していいものか悩むところだが仲間はいないよりもいるほうがいい。
「つまりそれは僕達サイドで戦ってくれると」
「ソウイウコトデス」
「モンドーさん」
森写歩朗は感動であふれる瞳《ひとみ》をモンドーに向けた。
「森写歩朗君」
モンドーもまた熱い瞳で森写歩朗を見つめた。
二人はガッシリと手を握り締め合った。
傍目《はため》からみれば少々危ない光景だが、今二人はジルを守るって目的のため一致団結したのだ。
ピーマンとカメだけど。
「ソレデハ」
モンドーは直立するマイブへと鋭《するど》い目を向けた。
「昨日《きのう》ノ同志《どうし》ハ今日ノ敵。オ命チョウダイ!」
モンドーが刀を振り上げてマイブに突き進んで行く。
マイブは無造作《むぞうさ》に右手を振った。
頼もしい助《すけ》っ人《と》は一瞬《いっしゅん》にして倒れた。
あっという間の出来事だった。
マイブの右腕に弾《はじ》き飛ばされたモンドーは周囲を囲む建物の壁《かべ》に叩《たた》き付けられたのだった。
そしてそのままグッタリとする。
モンドーの手から離れた刀《かたな》が明かりに煌《きら》めきつつ落下し森写歩朗から二メートルほど離れた地点に突き刺さった。
ジル、そして森写歩朗《しんじゃぶろう》は唖然《あぜん》として見つめていた。
あまりにも呆気《あっけ》なさ過ぎた。
しかし細身とはいえ成人男性を一撃で弾《はじ》き飛ばすとは。
マイブという男の人間離れした力には開いた口が|O《オー》の字である。
「もしかして」
可能性が捨て切れないといった表情でジルが口を開いた。
「あなたは」
「綿密《めんみつ》かつ徹底《てってい》した推理の結果、あなたは今私に『もしかして吸血鬼《きゅうけつき》』と言いたいのでしょうが、残念ながら違います」
ジルの質問を悟《さと》ったマイブが口を開く。
が、吸血鬼ではないとしたらその力に説明をつけるのがちっとばかし難しい。
無表情で通路を塞《ふさ》ぐモンドーを前にジルと森写歩朗は固い表情で立ち尽くしてした。
ピピピピピピピピピピピ。
先ほどまでモンドーにげしげしと踏《ふ》みつけられていた携帯《けいたい》電話が音をたてたのはちょうどその時だった。
つい反射的に足下のそれを拾い上げてしまった森写歩朗は慣例的にそれを耳へと当てる。
通話ボタンを押す。
英語が聞こえてきた。
森写歩朗の脳味噌がショートするまでの時間、約0・00三秒。
『おい! モンドーか? 一体何をしているんだ? 定時連絡もせず。マイブとは会ったのか?』(え〜ごなんです)
「そのマイブとかなんとかいう奴《やつ》なら今私の前にいるわ」(こっちもえ〜〜ごね)
ジルがすかさず電話をひったくるとそう言った。
『お前は………誰《だれ》?』
「あんたらが狙《ねら》ってる吸血鬼。ジルコニアよ」
ジルはマイブをじっくりと見据《みす》えながら受話器に向かって言った。
突然《とつぜん》電話にジルコニアが出ていることに戸惑《とまど》ったのだろう、息をゴキュリゴキュリと飲む音が聞こえたがやがて、笑いを含《ふく》んだ下劣《げれつ》な声が返ってくる。
『貴様《きさま》が吸血鬼、ジルコニアなのか。こいつは滑稽《こっけい》だ。一応挨拶《いちおうあいさつ》をしておくよ。初めまして。私は特殊病原菌排除委員会ブラックウイナー所長、ドクター・アラキという者だ』
「これはご丁寧《ていねい》にありがとね」
『マイブが目の前にいるか。ならば貴様の命もここまでだな。マイブの力は見たのか? いや、貴様がまだ生きているということはまだ見ていないのだろう。見たらびっくりするぞ〜〜〜〜!ひっくり返っちゃうぞ〜〜〜! 覚悟《かくご》しとけよ〜〜〜〜!』
子供|染《じ》みた狂声《きょうせい》を上げるドクター・アラキ。
「さっき見せてもらったわよ。しっかりと。正直驚いてるわ。一体何物なのよ。このむっつりした奴《やつ》」
『それは自分の身で体感するのだな。吸血鬼《きゅうけつき》の行く先など地獄《じごく》と決まっておるが、それでも祈っていてやるよ。クラレンス捜索《そうさく》も順調に進んでおる。いずれ地獄で同窓会でもすることだな』
受話器から笑い声が響く。
ジルは受話器を地面に叩《たた》き付けた。
グシャッと音をたてて携帯《けいたい》はぶち壊《こわ》れる。
妙な白煙をたてる携帯を踏《ふ》みつけつつジルは森写歩朗《しんじゃぶろう》に目を向けた。
「ハッキリ言って逃げた方がよさそうよ」
「う〜〜ん。それは僕も同意見だけど」
森写歩朗はキョロキョロと辺《あた》りを見渡した。
「一体どこへ逃げるんでございます?」
それは解けない問題だった。
四方は壁《かべ》。
ジルは飛べない。
地面は当然土。
マイブは唯一《ゆいいつ》の通路に立ちはだかるようにして突っ立っている。
「穴を掘るってわけにはいかないだろうなぁ」
下らないことをのたまった森写歩朗はこめかみをぽりぽりと掻《か》いた。
それから何を思ったのか手を引っ込めるとゴソゴソと始める。
「何をしてるの?」
「ちょっと捜《さが》し物をしてるんだ」
ゴソゴソゴソ。
それまで沈黙《ちんもく》を続けていたマイブが軽く右手を動かす。
次の瞬間《しゅんかん》、マイブは駆《か》け出した。
ジルに向けてである。
ジルは回避《かいひ》を試みた。
が一瞬の間《ま》をおいて突き出された右腕がジルを弾《はじ》き飛ばしていた。
夜の吸血鬼でなかったら確実に肋骨《ろっこつ》の二、三本はいかれただろう。
内蔵|破裂《はれつ》していたかもしれない。
ジルは後ろへ弾きとばれた。
かろうじて両足に力を込めて背後《はいご》の壁への激突だけは免《まぬか》れたが、その衝撃《しょうげき》のため苦痛に顔を歪《ゆが》めて膝《ひざ》をつくと荒い息を吐《は》き出した。
強靱《きょうじん》な吸血鬼《きゅうけつき》の体でもその一撃を完全に耐えることは不可能であったらしい。
腹部にキリキリとした痛みが走る。
肋《あばら》にヒビが入ったらしい。
血液の補充が出来ていたならば数秒としないうちに回復するのだろうが、今はいわゆる貧血《ひんけつ》状態、回復も遅《おそ》い。
マイブは無表情のままうずくまるジルへと近寄って行く。
森写歩朗《しんじゃぶろう》は眼中にないって様子だ。
おろおろと狼狽《ろうばい》する森写歩朗、こんなことなら父親の秘蔵の武器コレクションから何かめぼしいものを拾ってきておくべきだったと後悔《こうかい》した。
そんな森写歩朗の目に地面に突き刺さったモンドーの刀《かたな》が映る。
考えている暇《にま》はなかった。
地面に突き刺さった日本刀を掴《つか》むとそれを持ち上げた。
ちなみにこの刀は勇者《ゆうしゃ》でなければ引き抜けないとかそういった特異性はないため森写歩朗でも簡単に引き抜ける。
刀を持つのは幼稚園の頃《ころ》のちゃんばらごっこ以来だったがあの頃使っていたプラスチック刀とは比べものにならない程重い。
それでも精一杯《せいいっぱい》振り上げて、ジルのもとへ到着しようとしているマイブに切りかかった。
カツ―――――ン。
なんだかいい音が鳴った。
確かに森写歩朗は剣技《けんぎ》など知らない。
腕力もそれほど強いほうではない。
しかしカツーンはないんじゃないか? カツーンは。
ジーンと痺《しび》れる掌《てのひら》はまるで固い金属をハンマーで殴《なぐ》ったかのようだった。
マイブはジルへ振り上げていた手を止めるとゆっくりとした動作で森写歩朗へと顔を向けた。
そしてゆっくり右手を突き出す。
「森写歩朗! 逃げて!」
恐怖《きょうふ》で硬直《こうちょく》した森写歩朗にジルの声は届いてはいなかった。
マイブは森写歩朗の胸に掌を近寄らせるとそのまま軽く突いた。
たったその一発で森写歩朗は弾《はじ》き飛ばされる。
偶然《ぐうぜん》というか運がいいというか、壁《かべ》でグッタリとするモンドに激突しダメージを殺す。
が、可哀想《かわいそう》なのはモンドー。再びギャッとカエルが潰《つぶ》れたような声を上げると白目を剥《む》いて意識を失った。
回復しかけていた意識の糸が再び打《ぶ》った切られたのだった。
マイブはジルに顔を向けると無表情なまま右足を振り上げ、そしてジルを蹴飛《けと》ばした。
ジルは海老《えび》ぞりになって弾《はじ》き飛ばされた。
弾き飛ばされたジルは背後《はいご》の建物の壁《かべ》をぶち破りそのまま暗い建物内部へと姿を消した。
そこは小料理屋なのだろう。和風の椅子《いす》やテーブル、カウンター、鮮魚を売り物とするのか巨大な水槽《すいそう》がうっすらと見える。
定休日であったことがジルにとっても、馴染《なじ》みの客達にとっても幸運だった。
カウンターに叩《たた》き付けらたジルはそこを突き破り奥の壁に激突した。
と、同時にジルの意識も似たようなことになった。
おいしそうは鮮魚が泳ぐ水槽を瞳《ひとみ》の端《はし》に映しつつジルの意識は薄れていった。
「ジル!!」
ぽっかりと開いた壁の穴に向かおうとする森写歩朗《しんじゃぶろう》はマイブに猫《ネコ》の子を掴《つか》むように捕えられた。
「離せこのやろ!」
森写歩朗はそれなりの腕力で抵抗《ていこう》するがマイブはおかまいなしに森写歩朗を釣《つ》り上げる。
じたばたする森写歩朗にマイブはポケットから取り出したウォークマンを装着《そうちゃく》する。
森写歩朗の両耳から耳をつんざけとばかりに音楽が流れ出した。
それは父|辰太郎《たつたろう》のカラオケのごとくひどいものだった。
あまりのひどさか、それとも副旋律《ふくせんりつ》に秘められた深層意識に働く超音波《ちょうおんぱ》のせいなのか?
脳味噌がすぅぅぅぅぅぅぅっと白くなってゆく感触《かんしょく》が広がる。
すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっと。
まるで深い海に落ちていく、そんな感触だった。
すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
森写歩朗の記憶から徐々《じょじょ》にあることがらが削除《さくじょ》されてゆく。
吸血鬼《きゅうけつき》に対する記憶が。
ジルコニアに対する記憶が。
森写歩朗はうつろな目付きでぶら下げられ続けた。
『モンドー。モンドー』(え〜ご)
どこか遠くから響く聞き覚えのある声に、モンドーは辺《あた》りをきょろきょろと見渡した。
お花畑だった。
『誰《だれ》ですか?』(こっちもえ〜ごね)
突然《とつぜん》モンドーの視界《しかい》に花嵐《はなあらし》が訪れる。そしてその後には唐突《とうとつ》に白い便器、そこに腰掛ける洒落《しゃれ》た親父《おやじ》さん。
『見忘れたか?』
『いつもお土産《みやげ》をもってきてくれたおじさん、もとい父上!』
『やっと思い出したか』
ミミカキ・ベル・モンドーは大きく息を吐《は》き出した。
『しかし、お前は一体何をしているんだ?』
『それはこっちの台詞《せりふ》ですよ。花畑に便器なんか持ち出して。英国《イギリス》のプライドがあるんですか?それに、確か父上は死んだはずでしょ。どうして。え、もしかして私は死んだんですか?』
『安心しろ。貴様《きさま》は死んでいない。私がちょっと車に乗って意識の狭間《はざま》の世界までドライブにやってきただけだ。ちなみにここに来るまでに八回もチケットを切られた。スピードは出すものではないな』
『話を脱線させないでください。何しにきたんですか!』
『馬鹿《ばか》な息子《むすこ》に気付かせるためさ』
ミミカキはその渋味《しぶみ》のある顔の中の目を細めた。
『吸血鬼《きゅうけつき》を倒すために弱点を必死になって探したり、相手の力が弱い昼間にしか行動しない馬鹿な息子にな』
『そんなこと言われても。私は鞭《むち》で鉄を切り裂《さ》くような化物《ばけもの》みたいなこと出来ませんよ』
『お前にはお前の武器があるじゃないか』
ミミカキは手の中に突如《とつじょ》として出現した鞭を一閃《いっせん》させる。
花畑の花が全《すべ》て弾《はじ》き飛ばされそこに現れた闇《やみ》。
ミミカキが指さした地点には、日本刀が突き刺さっていた。
『その武器を持ち、よく眺めてみろ。お前の能力。誠《まこと》の力が見えるはずだ』
モンドーはそれを手に取った。
モンドーの手の中でその剣《けん》は青白く光り輝いていた。
『父上』
感動のこもった声を吐き出す。
ミミカキはにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
『さあ、行け。息子よ。その力で敵を打ち倒すのだ!』
ミミカキは便器から腰を上げると虚空《こくう》へ向けて叫んだ。
『吸血鬼! ジルコニアを!』
モンドーは無言で父親の幻影《げんえい》を叩《たた》き切った。
ガァァァァァァァァッシャァァァァァァァァァァァァァアン!!!
激しい金属音と共に不明瞭《ふめいりょう》だった意識が色づいていくのが感じられた。
焦点《しょうてん》が重なっていく森写歩朗《しんじゃぶろう》の瞳《にとみ》にその光景は映った。
マイブの胸が大きく切り裂《さ》かれていた。
しかしその表情に苦悶《くもん》の色はない。
終始《しゅうし》変わらない無表情さだった。
マイブの切り裂《さ》かれた胸からはコードやら金属片やらスパークやらが見え隠《かく》れしている。
破壊《はかい》されたウォークマンが大地に音をたてて落下した。
「ロボット?」
マイブは首を上げると森写歩朗《しんじゃぶろう》から目をそらし右斜《みぎなな》めにサングラスを向けた。
ピーマンがいた。
グリーンマントだった。
「森写歩朗クン! 離レルンダ!」
モンドーはそう叫ぶと刀《かたな》を振り上げ、そして気合《きあ》い一発振り下ろす。
マイブが弾《はじ》き飛ばされる。
衝撃波《しょうげきは》だった。
「す、すごいじゃないですか!」
先程までただのピーマンだったモンドーは、今ではいかしてピーマンへと変貌《へんぼう》している。
「コレガ吸血鬼《きゅうけつき》ヲ滅《ほろ》ボシテキタ、ベル・モンドー一族ノ力ラシイ」
モンドーが憂《うれ》いを含《ふく》んだ瞳《ひとみ》で剣《けん》を見下ろした。
覚醒《かくせい》した力に苦悩する男。
立派《りっぱ》に絵になる姿だがそれがピーマンだと絵にならないどころか話にもならない。
パキ〜〜〜ン!
憂いを含んで一人たそがれていたモンドーの刀が音をたてて砕《くだ》け散った。
一瞬《いっしゅん》の出来事で理解に苦しむ光景だが、刀を打ち砕いて壁《かべ》にめりこむその物体を目にした時、それは簡単に納得《なっとく》出来た。
マイブの腕だった。
切断面には例に漏《も》れず金属。
「ロケットパンチだ」
森写歩朗が呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。
モンドー、森写歩朗は期せず同じことを考えた。
設計したのどんな奴《やつ》だろ?
「森写歩朗クン! ジル君ヲ連レテ逃ゲルゾ!」
「ええ」
ピーマンとカメは背後《はいご》の黒く穴を開けた壁へと飛び込んだ。
吸血鬼ならともかく、普通じゃないけど一応生身《いちおうなまみ》の人間の二人にその漆闇《しっこく》の中を見通すことなど出来ない。
機転《きてん》をきかしてモンドーがすぐに電灯のスイッチを入れた。
店内に明かりが点《とも》された。
カウンターにめりこむようにしてジルはぐったりとしている。
「ジル!」
慌《あわ》てて駆《か》け寄る森写歩朗《しんじゃぶろう》。
「……森写歩朗???」
ジルはうっすらと目を開けた。
「よかった」
「とにかく逃げるぞ!」
森写歩朗はぐったりとしたジルを抱え上げた。
そしてそのまま繁華街《はんかがい》の明かりが映る出口へと向かっていく。
木製の重厚な二重ドア。
森写歩朗が必死に足で開けようとするがそう簡単にはいかない。
鍵《かぎ》がかかっているし。
「森写歩朗クン。鍵ヲ開ケルンダ!」
しかしジルを抱えているため鍵を開ける手が出ない。
足は出るけど足じゃ鍵を開けるといった器用《きよう》な作業は出来ない。
「ドイテクダサイ」
モンドーが森写歩朗を突き飛ばすとその前へと躍《おど》り出る。
その手には菜《な》きり包丁《ほうちょう》が握《にぎ》られていた。
この場で調達してきたらしい。
「コイツデ叩《たた》キ切リマス」
モンドーが菜きり包丁を振り上げる、マイブが壁《かべ》の穴から姿を現しロケットパンチの片腕を持ち上げたのはちょうどその時だった。
「モンドーさん後ろ!」
森写歩朗のれっぱくした声が響く。
モンドーは反射的に後ろを振り返った。
超合金の腕が発射された直後だった。
モンドーは無我夢中《むがむちゅう》で菜切り包丁を振るった。
超合金の腕は三枚に下ろされた。
「ヤッタ!」
一瞬《いっしゅん》喜びの表情を見せるがそれは長くは続かなかった。
マイブの腕の切断面からジーと機械音を立てて突き出されたのは、細長い銃口だったからである。
「危ない!」
森写歩朗《しんじゃぶろう》とモンドーは慌《あわ》ててカウンター内部へ逃げ込む。
チュドドドドドドドドドド。
機関銃が掃射《そうしゃ》される音が鼓膜《こまく》に響く。
ガラスの割れる音、瀬戸物《せともの》が破壊《はかい》される音が響く。
森写歩朗ら一行の頭にガラスの破片などが降り注ぐ。
映画などでおなじみの光景だが実際はけっこう痛いから厄介《やっかい》だった。
カウンター内部、客に魚をさばくところをみせる趣向《しゅこう》なのだろう。簡単な厨房《ちゅうぼう》に森写歩朗、モンドー、ジルは仲良く逃げ込むと頭を低くして固唾《かたず》を飲んだ。
「機関銃がついていた」
「ウム」
「徳用二点セットだ」
ガチョ―――ン。ガチョ―――ン。
いやらしい足音が聞こえてくる。
このまま掃射を受ければ間違いなく蜂《ハチ》の巣《す》となるだろう。
おいしい蜂蜜《はちみつ》が取れるかもしれない。
しかし、足音は聞こえるが一向《いっこう》に銃を発射する気配《けはい》がない。
おそるおそるカウンターからひょっこと頭を出した森写歩朗は、ギチギチと機械的に首を左右に振るマイブの姿を見た。
モンドーの攻撃で感知システムに異常が発生したのか、機械的に首をキョロキョロさせている。
「ドウデスカ?」
小声でモンドーが言う。
森写歩朗は頭を引っ込めると同じく小声で、
「いや、なんか故障してるみたい」
「本当デスカ?」
モンドーは近くに転《ころ》がる茶碗《ちゃわん》を拾い上げるとカウンターの向こうへ放り投げた。
ズキュゥゥゥゥゥゥゥゥン。
茶碗は木葉微塵《こっぱみじん》に破壊される。
「シッカリト撃《う》タレテイルデハナイデスカ」
「どうも目に映る動く物には反応するみたいだ」
「ツマリココカラ出ルノハ不可能トイウコトデスカ」
「モンドーさん」
「君ノ言イタイコトハ分カッテイル。シカシ先程ココヘ飛ビ込ム時ニ包丁《ほうちょう》ハ手放シテシマッタノダヨ」
「ここは厨房《ちゅうぼう》ですよ。探せば他《ほか》にあるかもしれません」
「イツ相手ガ復活スルカモシレナイ。出来ルダケ迅速《じんそく》ニ探スンダ」
モンドーと森写歩朗《しんじゃぶろう》はあたりの引き戸を開けてみたりといろいろとするが、肝心《かんじん》の刃物は見当たらない。
「モンドーさん」
森写歩朗は熱い瞳《ひとみ》で言った。
「これでなんとかなりませんか?」
すりこぎを手渡されたモンドーはさすがに不機嫌《ふきげん》な顔を見せた。
「君ハ私ニコレヲ使ッテ何サセヨウト?」
ズキュ――ン!
銃声が響き、森写歩朗の頭上の壁《かべ》に弾痕《だんこん》が残る。感知システム修復が進んでいるらしい。
「まずいよぉ」
「時間ノ問題デスネ」
お互《たが》いに何かこの場を脱する画期的《かっきてき》なアイデアを待つが沈黙《ちんもく》しか生まれない。
ピーマンとカメは仲良く頭を抱えた。
「森写歩朗」
それまでモンドーと森写歩朗の間でぐったりとしていたジルが不意《ふい》に弱々しい声を上げる。
「となると、やっぱり方法はあれしかないわ」
ジルは確信を込めた様子で頷《うなず》いた。
「森写歩朗。血を吸わせて」
「へ…………」
「血を吸えばアタシの力が復活する。そうすれば」
確かに今は闇《やみ》の時刻。ジルの力が復活すれば勝算は高い。
少なくともモンドーとここでバカバカ漫才《まんざい》を続けているよりはよっぽどいい。
そのためには血液が必要となる。
血液…………。
森写歩朗は先程着ぐるみ内部へ投げ入れた血液パックを思い出した。
あれを取り出すことが出来れば。
あせあせと体をまさぐる。
「ちょっと待っててくれよ」
しかしジルは一人、線路を歩き始めた。
「無論《むろん》、貴方《あなた》が素直に血を吸わせてくれるとは思ってないわ」
そう言うと恥《は》ずかしそうに俯《うつむ》いてみせる。
「だから…………恒例《こうれい》のあれで」
「恒例の……あれ」
森写歩朗《しんじゃぶろう》はなんとなく展開が読めるような気がした。
案《あん》の定《じょう》、ジルは自らの服のボタンに手をかける。
やっぱりそいつか!
森写歩朗は顔を引きつらせた。
ジルは勢いよく自らの胸を森写歩朗に向けて曝《さら》け出した。
あまり大きくはないが形のよい思わず合掌《がっしょう》したくなるマショマロツインズが現れる。
恥《は》ずかしさのあまり目を閉じ、ジルは血液を待った。
森写歩朗の鼻血である。
これまで二回、森写歩朗はこの方法で血を放出しているのだ。
しかも大量の。
しかしいつまでたってもほとばしる血液はやってこなかった。
恐《おそ》る恐る目を開くと………。
森写歩朗はそっぽ向いて固く目を閉じていた。
その代わりに反対側にいたモンドーが首を伸《の》ばしてそのマショマロを見つめていた。
そして目を細めた。
いやらしい目ではなかった。
それは、正確に言うと、哀《あわ》れみの目付きだったのである。
森写歩朗《しんじゃぶろう》のように何も知らない純情が服着て歩いてるような男とは違って、これまでもダイナマイツな方々とよろしくやってきたモンドーにとっては、ジルのそれはお粗末《そまつ》なものだったのだ。
貧乳《ひんにゅう》。
ジルはけっこう気にしていた。
だから怒《いか》りゲージは倍増した。
ジルは激昂《げっこう》した。
かなり激昂した。
モンドーを殴《なぐ》り倒し、真っ赤となった顔を森写歩朗に向けた。
やっと目を開いた森写歩朗は、ジルの怒りが何故《なぜ》か自分に向けられていることを悟《さと》った。
消えていたはずのジルの力が瞳《ひとみ》に宿るのが見えた。
しかもその矛先《ほこさき》は自分だった。
「ひぃぃぃ」
マイブの存在も忘れて森写歩朗はカウンターを乗り越えて飛び出した。
当然頭に血が上っているジルも続いてカウンターの上に飛び上がる。
「待ちなさい!」
怒りで集中された神経が最後の力をはじき出したのはちょうどその時だった。
不可視《ふかし》の衝撃波《しょうげきは》が森写歩朗を背中から襲《おそ》う。
森写歩朗は背中に衝撃を感じて吹っ飛んだ。
機関銃を掃射《そうしゃ》しようと両手を持ち上げたマイブへそのまま突っ込んで行く。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
マイブも予期せぬ森写歩朗の突撃に思考回路《しこうかいろ》を一瞬《いっしゅん》混乱させたのだろう。銃に発射命令が到達するのにわずかな間《ま》が開いた。
ドッシャァァン。
マイブに激突した後二人はそのまま背後《はいご》のガラス張りの水槽《すいそう》へとぶちあたった。
マイブの超合金性《ちょうごうきんせい》の背中がガラスを突き破る。
大量の海水、そしてお魚が森写歩朗とマイブの上から降り注いだ。
ザッパァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァン。
非常にしょっぱかった。
「ペッペ」
塩辛《しおから》い唾《つば》を吐《は》き出す森写歩朗。
まわりではお魚さん達がピチピチと跳《は》ねている。
その後ろでマイブは静かに立ち上がるとカウンターに立つジルへその銃口を向けた。
ここまでか。
硬直《こうちょく》したジルは覚悟《かくご》した。
しかし………。
ピ――――ガ―――――ピンチョロ。
マイブの体の関節のあちらこちらから白煙が上がる。
さらに首を左右に動かしたり腕をしっちゃかめっちゃかに動かしたりと、不可解《ふかかい》な行動を始めたのだった。
さらに阿波踊《あわおど》りを始めたマイブは体をスパークさせてがっくりと膝《ひざ》をついた。
そして静止する。
呆気《あっけ》に取られる空気の中|森写歩朗《しんじゃぶろう》はポンと手を打った。
「分かった」
ジルとモンドーが森写歩朗に目を向ける。
森写歩朗は確信のこもった声で言った。
「こいつ、ショートしたんだ」
『カウントダウンを開始します』
静止したマイブの頭部から合成音声が発せられたのはジルと森写歩朗が一息ついた時だった。
パカッ!
音をたててマイブの頭部が真っ二つに割れる。
そして中からごちゃごちゃとした機械。
なんだか分からないがディスプレイに数字が現れていた。
『50・49・48・47・46』
しかもカウントダウンしている。
それが|0《ゼロ》になった時、何がおきるかは想像しなくても分かるような気がした。
『爆発まで、あと四十秒』
律儀《りちぎ》に秒読みをしてくれるところが泣かせる。
「うきょぉぉぉお」
森写歩朗は飛び上がった。
「どうしよどうしよどうしよ」
「どうしようって逃げるまでよ」
駆《か》け出そうとするジルだが見事にすっころぶ。
どうやら身動きすら取れないまでにエネルギーを使い果たしてしまったらしい。
森写歩朗《しんじゃぶろう》とマイブを同時に吹き飛ばしたことから考えればそれも頷《うなず》ける話だった。
「動けない」
悲鳴《ひめい》に近い声を上げるジル。
森写歩朗はそこでピチピチと跳《は》ねる魚達にまじって赤い物体を発見した。
それこそかなり前からごそごそ探していた森写歩朗の新鮮血液入りパックである。
森写歩朗はパックを掴《つか》むとそれをジルに手わたした。
「飲め!」
「これは?」
「いいから」
ジルはストローを取り出すとパックに突き刺した。
すがすがしい喉越《のどご》しと同時に体に力が満ちて行く。
基本的に男の血液はいけ好《す》かないはずのジルだが、その血液は素晴らしく感じた。
それが誰《だれ》の血液であるかは最初の一口で分かっていた。
森写歩朗。
ジルは音をたててその味を堪能《たんのう》した。
夜八時近く。
繁華街《はんかがい》を歩く人々は休業の看板《かんばん》を掲《かか》げた料理屋の屋根を突き破って空へ吹っ飛んでゆく男の影を目撃《もくげき》した。
男がはるか上空へ消えた後、どごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんって盛大な音とともに夜空に花火が咲いたのだった。
酔《よ》っ払《ぱら》いの皆様|拍手喝采《はくしゅかっさい》。
原因、その他は謎《なぞ》である。
翌日、料理屋経営者が店内の惨状《さんじょう》にムンクの叫びを発したことは言うまでもない。
終 章 ハッピーバースデー
「ふう」
森写歩朗《しんじゃぶろう》は自室の窓から外を見下ろしていた。
冷たい風が肌《はだ》に痛く感じる一歩手前。
今夜はさほど寒くない夜だがやはり八階ともなると話は変わる。
「何はともあれ、助かったことを神様に感謝しよう」
シャワーを浴びたから先ほどまでの潮臭《しおく》ささがなくなっている。
「森写歩朗」
ジルが背後《はいご》から近寄ってくる。
「モンドーさんは?」
「居間で眠ってる。明日《あした》イギリスに帰るって」
ジルはそう告《つ》げると森写歩朗の脇《わき》に立った。
時間は既《すで》に午前○時。
繁華街《はんかがい》から帰ってきたのが今からちょうど一時間前だった。
「あのマイブってロボットには一つだけ感謝してるんだ」
森写歩朗が口を開いた。
「どうして?」
不可解《ふかかい》そうに尋《たず》ねるジル。
「どうやら厄介《やっかい》な人達の記憶は全部消してくれたみたいだからさ」
倉地《くらち》、三石《みついし》、倉地ファンクラブ宮下《みやした》などなど。
「命を狙《ねら》われる心配はなくなったわけだ。お互《たが》いに」
ジルは森写歩朗の腕に手を回して心中で呟《つぶや》いた。
旅に出れなかったのは残念だったけれどね。
「さて、僕はもう寝るよ。明日学校あるけど休んじゃおうかな。どうせ行ったって分からんし」
そこで森写歩朗は言葉を止めた。
「なぁジル」
少しだけ強い口調で言う。
「今日は何日だっけ?」
「へ」
「今日は十一月何日だっけや?」
「え〜と……十二時過ぎてるから……十一月十五日……だけど」
ジルの答えに森写歩朗《しんじゃぶろう》はしばし呆然《ぼうぜん》としていたがやがて弾《はじ》かれたように笑い出した。
「あははは」
「どうしたの?」
不思議そうにジルは森写歩朗を見上げた。
「いや、芝居《しばい》のこととか、いろいろあってすっかり忘れてたんだけどさ」
森写歩朗は笑いを噛《か》み殺せない様子だった。
「だから何よ」
「実はさ」
森写歩朗はジルから目を逸《そ》らすと空《くう》を見上げつつ呟《つぶや》く。
「十一月十五日は僕の誕生日なんだ」
「森写歩朗の……誕生日?」
「そう。コロッと忘れてたよ」
森写歩朗はなおも笑い続けた。
「まあね。別にお祝いなんかもしてないけど。これで僕は花の十八歳になっちゃったってことさ。百年以上生きてるジルにとってはまだまだ子供みたいなもんなんだろうけどね」
「そうか。森写歩朗の誕生日なのか?」
ジルはその口元の小悪魔的《こあくまてき》な笑みを浮かべた。
「じゃあ誕生日プレゼントあげるね」
素早《すばや》く窓に足を掛け外へと飛び出すジル。
「ジル! どこ行くんだ……」
そう言いかけた森写歩朗《しんじゃぶろう》の唇《くちびる》はジルの唇によって塞《ふさ》がれた。
浮遊しつつ森写歩朗に唇を押しつけたジル。
夜、それは幻想的《げんそうてき》なシルエットとなって建物の白い壁《かべ》に影を映し出した。
それはまるで空から舞《ま》い降りた天使《エンゼル》と地上に住む若者との恋物語を描いた、美しい一枚の絵のようだった。
――その後
「ふふ。マイブは現代科学の粋《すい》を集めて製作された戦闘《せんとう》マシーン。前回の教訓をふまえて電池切れという馬鹿《ばか》なことが起きないよう完全体内発電にしてあるのだ」
一人、ジュネーブで笑い声を響かせるドクター・アラキはまだ知らなかった。
その戦闘マシーンが海水によるショートで敗北したことを。
「ぬははははははは」
スッグルナックは伝えるべきか迷っていた。
マイブの敗北と、先ほど入ってきたモンドーからの辞職届《じしょくとど》けについてを。
この報告が終わったら絶対に転職しちゃる。
決心を固めるスッグルナックだった。
マニラ空港発|成田《なりた》行きの飛行機の中。
狭《せま》いエコノミーの座席で新聞を広げた辰太郎《たつたろう》はその記事に目を丸くした。
スンチカラマリ島で勃発《ぼっぱつ》した内戦は先日、革命軍と政府軍との間に和平協定が結ばれて終結しました。その細《こま》かい内容については未発表ですが……
「なんてこったい。あそこ内戦やってたのか」
辰太郎は新聞から顔を上げるとしみじみと呟《つぶや》いたのだった。
「出くわさなくてよかったな」
あとがき
僕はピーマンが好きです。
ウサギも好きです。
でもカメのほうが好きです。
かといってカメやウサギを食べる訳じゃありません。
誤解しないでね。
さて、『僕の血を吸わないでA ピーマン戦争』。
近所のスーパーで何気なく野菜を見ていて思いついたサブタイトルです。
その時は、まだ『僕血@』を必死に直している途中でした。
実は当時、ジルの嫌《きら》いなものはセロリという設定でした。
このくだらない思いつきのため、急遽《きゅうきょ》セロリをピーマンに替えました。
理由はいたって簡単です。
セロリよりピーマンのぬいぐるみのほうが絶対|格好《かっこう》いいからです。
絶対|可愛《かわい》いからです。
絶対いかしてるからです。
どちらも似たり寄ったりという意見もありますが僕は気にしません。
それにビジュアルの問題もありました。
セロリのぬいぐるみを見て一目《ひとめ》でセロリと見分けるのは難しいでしょう。
しかしピーマンなら簡単です。
緑であの形してれば、全国|津々浦々《つつうらうら》、どこの幼稚園へ行ってもピーマンと指さしてくれるでしょう。
ちなみに本文中の倉地《くらち》の恐《おそ》ろしい台詞《セリフ》。
「本番の日は、例え熱が四十度を超《こ》えようが両足の骨がくだけようが死にかけていようが、這《は》ってでも舞台《ぶたい》に出るってのは常識よ」
これと同意味の言葉を高校時代に先輩《せんぱい》に言われたことがあります。
芸の道は厳《きび》しい。
常識です。
その中でも特に高校演劇は厳しい。
これもまた常識です。
イラストレーターの宮須弥さん。今回もありがとうございました。
年内に第三巻を出せるよう頑張ってます。
皆さん、またお会いしましょう。
やっぱりスイカに埋《うず》もれている阿智太郎より
おまけ
快く名前を貸してくれた人々へ二言。
勝手《かって》に使ってごめんなさい。
僕の癖《くせ》なんです。
発 行 一九九八年八月二十五日 初版発行
発行所 株式会社メディアワークス
[#誤字など]
14-7 心臓の乱調を押さえ
17-12 明け放たれた窓
18-11 辰太郎《たつたろう》な何事もなかった
18-11 ロープをたくりあげた。
22-8 間髪《かんはつ》おかずに
38-15 私コレカラ仕事でニッポン行キマス
でが平仮名
44-5 理由はさっぱ分からない
54-15 それをうわまるのか
55-6 ゴールに打ち込まれしまう
58-7 トーマスに弁当作ってきたり
〜たりは繰り返して使う
67-14 ジルをそれを拾い上げた
70-1 郵便受
郵便受け
93-2 日本古来から
古くから または 古来
93-4 日本古来から
古くから または 古来
110-2 部屋へ運んだり
〜たりは繰り返して使う
111-16 ピーマンが苦手だったのだ!!。
114-6 ジルをそれを取りだし
145-10 空缶
空き缶
152-7 スッグルナックぴらぴらと
153-2 それをスッグルナックの手渡した。
169-9 誤魔化《ごまか》せることが出来る
175-4 ブラックイウイナー
179-8 実に素朴《そぼく》な疑問だった
句点が無い
179-11 コレガ今回の商売道具
のが平仮名
189-15 言いたかったかのか
190-10 ぬわぁい!。
200-7 危険窮まりない
211-14 焦《あせ》らすように
焦《じ》らす
222-2 十戒《じゅっかい》
234-17 引《ひ》き釣《つ》った
252-3 一体何物
253-16 弾きとばれた
255-14 グッタリとするモンドに
256-7 叩《たた》き付けらた
258-13 探したり
〜たりは繰り返して使う
266-4 開けてみたり
〜たりは繰り返して使う