私記キスカ撤退
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年六月十日刊
(C) Hiroyuki Agawa 2000
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目  次
私記キスカ撤退
アッツ紀行
二十八年目の真珠湾
海軍の伝統と気風について
わたしの海軍時代
暗 号 と 私
山本聯合艦隊司令長官閣下
青い眼の長門艦長
東郷元帥の功罪
広瀬武夫余話
小泉さんと海軍
余命と無常感
「あゝ同期の桜」に寄せる
海軍の伝統と気風について
文庫版のためのあとがき
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私記キスカ撤退
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私記キスカ撤退

キスカ島の無血撤収作戦については、すでに幾人もの人が書いている。伊藤正徳はむろんその著作の中で触れているし、作家の筆になるものとしては、戸川幸夫氏の「霧のキスカ撤退」という作品がある。元聯合艦隊参謀・千早正隆氏の「太平洋海戦最大の奇蹟」は、同氏の著書「|呪《のろ》われた阿波丸」の中に収められて広く読まれ、これをもとにして昭和四十年には、東宝が三船敏郎主演の「キスカ」という映画を製作した。
東京12チャンネル(現・テレビ東京)のテレビ番組「私の昭和史」でも、当時巡洋艦・|阿武隈《あぶくま》の副長であった斎藤弥吉氏と在キスカ海軍部隊(第五十一根拠地隊)の主計長だった小林亨氏をゲストに、三国一朗が聞き手になって取り上げたことがある。
また公式の記録としては、「『ケ』号作戦第二期(第二次)戦闘詳報」というものが残っているし、この戦闘詳報その他|厖大《ぼうだい》な資料をもとにして防衛庁戦史室が著わした「戦史叢書北東方面海軍作戦」は、六百八十ページに及ぶもっとも詳細な公刊戦史である。
キスカの話は、対照的なアッツの悲惨と二つ並べて多くの人がすでによく知っているはずであり、一般には真相もほぼ究めつくされたと見られているのに、ここで私が|敢《あえ》て屋上屋を架すことになった一つの理由は、第五艦隊(北方方面艦隊)司令部からの言い分が未だ必ずしも正確に伝えられていない、それは五艦隊旗艦の重巡・|那智《なち》がのちにマニラ湾で壮烈な最期を遂げ、これについて証言の出来る司令部職員がこんにちほとんど残っていないからで、そのため撤収作戦を実行した第一水雷戦隊の武勲だけが世間に喧伝され、その上級司令部であった五艦隊側の立場や苦心は不当に無視されている傾きがあると感じたためである。
また、この作戦に関係した人々の談話や手記を諸方から集めてみたところ、元陸軍北海守備隊司令官・峯木十一郎少将の私稿をはじめとして、これが思いもかけぬ量のものになって来、それらの中にはたくさんの、まだ世に出ていない興味あるエピソードが散在していたこと、それから、特に断るほどの事柄でもないが、機会があって一昨年私がアッツを訪れ、文筆家としてはおそらく戦後初めて、アッツ、キスカの両島をこの眼で見て来たことも、別の一つの動機であった。
しかし公開未公開のこれだけの材料にもとづいて、キスカの物語を順を追うてしるして行くとすれば、読者にとって|煩瑣《はんさ》に過ぎるものになるかと思われるので、西部アリューシャンの攻略からアッツ玉砕までの北方作戦の大体の経過は周知の事実として、出来るだけ省略することにし、これまで知られていなかった挿話や自分に特に興味のある場面だけをクローズ・アップして書き進めてみたいと思う。
髭の木村
ソ連領カムチャツカに近い日本の最北端、|占守《シユムシユ》島とそのすぐ南の|幌筵《ホロムシロ》島との間の幌筵海峡は、潮流がはげしくふだんでもうねりの大きい難所である。海水が大河のような勢いで流れており、いつも|時化《しけ》の状態で、戦前のことだが、島に棲んでいる大きな|羆《ひぐま》が海峡を泳ぎ渡ろうとしていて泳ぎ切れなくなり、駆逐艦のデッキに這い上って来て兵隊を驚かせたという話があった。狭い海峡を南北に吹き抜ける風を、船乗りたちは「ノズル」と呼んで恐れており、特に冬期は、風速十五メートル以下ならそよ風の部類だと言われていた。この強い風とはげしい潮流の向きが逆になると、海に三角波が立ちさわぎ、小型船は航行不能になる。したがって|碇泊《ていはく》中の艦内士官室での食事なども、|椀《わん》に入れた汁ものやきれいごとの料理はひっくりかえってこぼれてしまうから、カレーライスや親子丼の出ることが多かった。
この幌筵海峡の一角、占守島の片岡湾に在泊中の那智から、第一水雷戦隊旗艦軽巡・阿武隈あてに、「シチヨシカ』シカ、セサ、ラ」という信号が来たのは、アッツ島守備隊の玉砕から三週間近くたった昭和十八年六月のある日(多分十七日)のことであった。「シチヨシカ」は「司令長官より司令官へ」、「セサ」は「先任参謀」、「ラ」は「来艦せよ」の略語である。
命によって一水戦先任参謀の有近六次中佐が、司令官・木村昌福少将の供をして内火艇で阿武隈をはなれると、波はボートを|呑《の》みこみそうな勢いでぶつかって来た。
馴れた|操舵《そうだ》手とバウメンが上手に内火艇を那智に達着させ、揺れる|舷梯《げんてい》を二人が登って行くと、長官室ではすでに五艦隊司令長官の河瀬四郎中将が、左右に参謀長・大和田昇少将と先任参謀・高塚忠夫大佐をしたがえて、テーブルについて待っていた。
早速、大和田少将が話の口火を切った。
「このたび、ご承知の通り、アッツ島の玉砕でキスカ島は完全に孤立し、これ以上海軍は同島確保の自信なく、この際、思い切ってこれを放棄し守備隊全員を急速撤収することに中央の方針が決って、実施命令が当艦隊にまいりました。それで当艦隊としては、この計画実施を第一水雷戦隊司令官に指命されることになりましたので、打ち合せのためご来艦を願った次第であります」
木村司令官は河瀬長官の方を向いて軽く頭を下げた。
河瀬中将は、
「木村君、ご苦労だが願います。これは容易ならざる作戦で、敵の重囲の中から全員を秘密裡に|無疵《むきず》で引揚げるには激戦死地に飛びこむ以上の苦心と忍耐が要るが、どうか最後のご奉公のつもりで善謀善処、好機をとらえてこれを決行していただきたい」
と言い、作戦は一水戦司令官に一任するが、使用兵力等で何か希望があれば、私の方でどんな世話もするし命令も出そうという意味のことを言った。
この時の情景は、戦後亡くなった有近六次氏が「奇蹟作戦キスカの撤収」と題する手記に書きのこしている。
その中で河瀬司令長官の「最後のご奉公のつもりで」という一言は、もし有近氏の記憶にまちがいがないとすれば、長官が思わず洩らしたいささか失敬な本音であったにちがいない。
「木村昌福なんて、平時ならそろそろ首のころなんだが」
という思いは、海軍上層部の多くの者が持っていたはずであったから。
木村少将は海軍兵学校四十一期、大正二年の卒業で、真珠湾攻撃の南雲機動艦隊参謀長・草鹿龍之介中将のクラスであるが、江田島の卒業成績はビリから数えた方が早かった。古い義済会員名簿を見ると、小西干比古提督をトップに、中原義正、松永貞市、保科善四郎氏ら名高い将官たちの名前がずらりと並んでいる中で、木村提督の席次は百十八人中の百七番目である。中央では全然認められておらず、鎮守府の警備艦乗りのようなドサ回りばかりさせられていて、いわゆる|赤煉瓦《あかれんが》(東京の海軍省、軍令郎)で勤務したことは一度もなかった。将官になる前、大佐当時すでに、彼より下のクラスの小柳富次氏(四十二期)や中沢佑氏(四十三期)の方が、軍令承行令上の先任者になっていた。要するにあとの烏に相当先立たれて、出世はずいぶんおくれていた。
木村少将の、人の目につくたった一つの特徴は、背中からでも見えるほど長い立派な|口髭《くちひげ》であった。煙草を|喫《す》わないので、彼は手持ち無沙汰な両手でいつもその髭をしごいていたし、味噌汁など飲む時は|箸《はし》でひょいと髭を持ち上げてすすっていた。「髭の木村」としてだけ、彼の名は部内に広く知られていた。木曾の副長だった緒方友兄氏は、「中肉中背、いがぐり頭のまことに|村夫子然《そんぷうしぜん》とした人だった」と言っている。
河瀬中将の言葉に対して、木村司令官は別にいやな顔も困ったような顔もせず、ただ一と言、
「承知しました」と答えた。
有近先任参謀は傍で、「これはえらいことになって来たぞ」と思いながら聞いていた。
数日前、南方から転勤して来たばかりの木村司令官とちがい、有近中佐は「アリューシャンの主」と言われていた人である。司令官にはまだ諸般の事情がよくのみこめていないだろうが、水雷戦隊をもってキスカに突入し守備隊を一挙撤収するということになれば、厄介な問題が山ほどあって、とてもそう簡単に行きはしない。成功率はかなり低いと思わねばならないし、撤収艦隊の側に大きな被害の出ることも予想しなくてはなるまい。
「大体こんな作戦は、艦隊司令部で部隊編成を定めて、作戦命令で出してくれた方がやりやすいんだがな」
と、彼は考えたそうである。
ただ、神戸一中出身の多芸な秀才である有近中佐は、多芸でも秀才でもない木村少将の不言実行、沈着温厚、長者型の風格を尊敬していた。同じ水雷屋として十数年来の知り合いだが、その間、彼は木村少将の怒声を一度も聞いたことがない。男ばかりの長い殺風景な洋上生活で、これはなかなか出来ることではなかった。
前任の第一水雷戦隊司令官・森友一少将は、木村少将の一期下の兵学校四十二期、やはり木村氏より一と足早く出世してしまった方だが、この両者は性格的によほどちがっていた。森少将は水雷の方では大家であったけれども、非常に神経質なやかまし屋で、部下がちょっとミスをやるとたちまち、
「何だ、このヤマセン」
と怒鳴りつける。「ヤマセン」というのは山船頭の意味で、これは海軍の軍人にとってたいへんな侮辱である。
この森少将が急に脳溢血でたおれ、阿武隈で大湊まで送り還された時、その地で新司令官として乗艦して来たのが、鋭いところやピリピリしたところの少しも無い木村昌福少将であったが、もし森司令官が健康でそのまま一水戦に在任していたら、キスカ撤収作戦の様相はおそらく変ったものになったであろう。木村少将は鋭いところこそなかったが、前任地の南方戦線では、一部に「あれはなかなかのサムライだ」との声があった。
のちの話になるが、阿武隈の主計長だった市川浩之助大尉が、三年間の北洋勤務をおえて昭和十九年の六月、鹿島航空隊の主計長に転出する時、司令官のところへ|挨拶《あいさつ》に行くと、木村少将は、
「市川、この三年間よく辛抱したな。お前には記念にわしの書をやろう」と言い、
「ありがとうございます。それではのちほどいただきに上ります」と答える市川主計長に、
「いや、今すぐ書くからここにおれ。わしは字は下手くそだが魂をこめて書く。書くところを見ていてもらわんといかんよ」
と、司令官用の大きな机の上に紙をひろげてそこへ馬乗りに乗っかってしまった。それから筆にたっぷり墨汁をしませて、「うむ、うむ」と掛け声かけながら木村少将が書き上げたのが、
濃霧覆天暗  濃霧天ヲ|覆《おお》ヒテ暗ク
怱忙不貸時  |怱忙《そうぼう》時ヲ貸サズ
傷心征戍士  傷心|征戍《せいじゆ》ノ士
独恃百神慈  独リ百神ノ慈ヲ|恃《たの》ム
という、「キスカ島撤収作戦に題す」の漢詩であった。
そのころにはキスカの成功で、木村少将の名が急に高くなっていたはずであるが、この詩にはそういう気負ったところが少しもなく、むしろ何か暗い淋しげなおもむきが感じられる。
木村司令官が「承知しました」と、河瀬司令長官の要望をあっさり引き受けてしまったあと、従兵が紅茶を配って来、しばらく沈黙がつづいたが、やがて五艦隊先任参謀の高塚大佐が、
「一水戦が計画立案される場合の参考資料の一部としまして」
と前置きしながら、引揚人員は海軍が約二千五百名、陸軍が約二千七百名、合計約五千二百人を予定してほしいということ、その他細目に関していろいろ述べはじめた。その中でもっとも注目すべきは燃料問題であった。
「|今《こん》作戦に使用し得る燃料は、当隊として約一万トンの貯量がありますから、その中でまかなっていただきたい。帝国海軍の油の現状から、出来得れば千トンでもご節約を願いたいと思いますので、特にこの点、ご研究ご考慮を希望します」
と高塚参謀は言った。つまり、やり直しはあんまりきかないということである。
打合せを終って阿武隈に帰って来た木村司令官は、有近先任参謀に、
「とにかく至急計画を|樹《た》ててくれ。まず連れて行く|艦《ふね》は何にするか、何を連れて行くにしても俺は先頭艦に乗って黙って立っているから、あとは先任参謀に一切まかせる」と言い、「しかし一つだけ注意しておくが、責任は俺がとるから決してあせるなよ。じっくり落着いて計画し充分訓練してから出かけることにしよう。霧の利用出来る期間はまだ二カ月もあるんだから」とも言った。
立案を|委《ゆだ》ねられた有近中佐の望みは、聯合艦隊から駆逐艦を少なくとも四隻、出来れば六隻融通してもらいたいということ、特にうち一隻は電探を装備した新鋭の島風を指定してもらいたいこと、それから一水戦気象班に気象専門の士官を一名増員してほしいということであった。
日本にくらべてレーダーのすぐれているアメリカ封鎖艦隊の眼をかすめ、守備隊を収容に無事キスカヘ入るためには、この季節、北太平洋に特有の濃霧に頼るよりほかに方法はなかったのである。
木村少将は中央では認められていなくても、駆逐艦乗りや阿武隈の乗員たちの間では評判のいい提督であった。阿武隈主計長の市川大尉をはじめ多くの者が、そのころ「髭の木村」のまねをして髭をのばしはじめた。「ケ」号作戦(撤収作戦)のことを、彼らは冗談に「毛号作戦」と言っていた。
間もなく先任参謀の希望していた気象専門の若い予備士官が、
「自分は、『貴様、これから幌筵の一水戦へ行って霧と戦争するんだぞ』と言われてまいりました」と言って、阿武隈に着任して来た。
この士官の名前は、有近中佐の手記では「山本少尉」となっているが、これはどうも戦後有近氏が手記を書く時多少小説仕立てにしたためか思いちがいをしたためらしく、実際は第一期兵科予備学生の橋本恭一少尉がその人である。ただし、橋本少尉は根っからの気象専門の学徒士官ではなかった。一期の予備学生の中に気象班に配属された者が十四名あって、そのうち十三人までは中央気象台付属気象技術官養成所の出身者だったが、橋本少尉だけは九大地球物理学科の卒業生であった。
これらの若い気象将校たちは、橋本少尉がサイパンで戦死したのをはじめ、終戦時までにほとんど戦没してしまい、生き残っているのは、現在気象庁の予報官をしている竹永一雄氏一人である。
竹永少尉は、橋本恭一少尉が第一水雷戦隊司令部に着任した時、たまたま五艦隊の気象長として旗艦那智に乗っていた。気象関係の二人の同期生は、この時幌筵で偶然の再会をしたわけであった。
竹永少尉も、もしその後五艦隊司令部付のまま比島へ赴いていたら、多分生きては還らなかったろうが、昭和十九年の三月、陸上の北東方面艦隊司令部付兼第五気象隊付の転勤命令を受けて那智を下りたために助かった。そうしてこの竹永一雄氏と、当時五艦隊司令部の通信参謀だった橋本重房氏だけが、こんにち五艦隊側から見た「ケ」号作戦について語り得るわずかな生存者なのである。
北方の気象
竹永少尉が大湊で多摩に乗艦したのは、アッツ島玉砕の三カ月前、昭和十八年二月のひどい吹雪の日であった。
那智がドック入りをしているので、そのころ多摩が第五艦隊の旗艦になっていたが、北千島から帰って来たばかりの巡洋艦多摩は、まっ白い巨大な氷のかたまりのように見えたという。
艦隊気象長は半井亀次郎という年とった技師で、彼はその助手として下働きをさせられるものとばかり思っていたところ、半井技師にはすでに転勤命令が出ていて数日中に退艦、あとは彼自身が艦隊の気象長になるのだと聞かされ、竹永少尉は当惑した。艦内の様子も皆目分らず、気象の実務にも経験の浅い者が、少尉の身分で気象についての全責任を負わされ幕僚の役をさせられるのかと思うと、たまらなく不安な気持になった。
半井技師は、
「気象の主務参謀は、通信参謀の橋本中佐ですが、相当きつい人だから覚悟しておきなさいよ」
と注意してくれた。
半井氏に連れられて、司令長官はじめ各参謀に挨拶まわりをすると、
「北方洋上では、気象の利用なくして作戦は成り立たない。しっかりやってくれ給え」
と励ましてくれる幕僚もいたが、
「海上の気象については、俺たちの方がヴェテランだ。予報はこちらで考えるから、お前は天気図だけ書いておればよろしい」
と言う人もあった。
橋本通信参謀は、
「いいか。五艦隊にあたらぬものが三つある。第一が気象長の天気予報、第二は多摩の大砲、三番目は司令部の予定だ」
と頭ごなしの叱りつけるような調子で言って、竹永少尉をびっくりさせた。
間もなく多摩は北千島さして大湊を出港し、彼は毎日天気図の等圧線を書くことになったが、艦はゆれるし不安で気持は極度に緊張しているし、なかなかきれいに行かない。そばで柴田という一等兵曹が、見るに見かねて線を描き入れる手伝いをしてくれるが、消しゴムで消しては描き、描いては消し、出来上ったものは、我ながら毎度まことにきたない代物であった。
見せに行くと、主務参謀の橋本中佐が、
「何だ、この下手糞な天気図は。それに、等圧線があちこちでこんな風に|尖《と》がらしてあるのはどういうわけだ?」
と詰問した。
「これは、ペターセンの本を読んで、その理論にしたがって書いているのであります」
竹永少尉は答えた。
「ペターセン」というのは、スヴェール・ペターセンといってシカゴ大学教授のノールウェー系アメリカ人、この人が日米開戦の少し前に米国で出版した「Weather Analisis and Forecasting」と題する著書は、気象の解析方法に革命をおこしたと言われている本で、こんにちでもなお、予報官仲間の天気図解析の基礎教科書になっている。
竹永少尉は海軍に入る前、これを読んで自分なりの勉強をして来た。それによれば、正確な予報を出すのに、これまでのようなまんまるい等圧線では駄目で、前線のところで等圧線を尖がらす必要がある。
そのことを説明してみたが、本職の海軍兵科将校にとって、気象はいわば副業で、誰もそんな新しい理論は知らないし、理解もしてもらえない。
「これじゃ、兵学校で習ったこととちがう。こんなものは敵性の天気図だ」
と大声で一喝され、以後等圧線を尖がらすことはまかりならぬと宣告されてしまった。
なるほど、前任の半井技師が残した天気図を見ると、消しゴムなどは使わず、烏口で墨入れをして、コンパンスできれいな同心円が描いてある。見た目には実に美しく見事なものであった。
ところが大湊出港後二日目、ウルップ島沖合で、艦はオホーツク海南部を通過した発達した低気圧の中に入り、多摩の艦橋の風速計が瞬間風速五十八メートルを記録するという大時化に遭遇した。低気圧の後面を強い寒冷前線が通過すると、風向が瞬時にして南から北西に変り、その経過は全くの教科書通りであった。
それで、幌筵海峡に入泊後、竹永少尉はこの荒天に関する報告を提出することを求められた。彼が勇気を出して、あの風向急変を説明するためにはペターセンの理論通り等圧線を尖がらさなくてはならないということを再び力説してみると、事実が証明していたために、新しい等圧線の描き方はやっと解禁になった。
その上、貴様流の天気図作成法の解説書を作ってみろということになり、彼がペターセンの本の抜き書きのようなパンフレットを書き上げ「新しい天気図の見方」と題をつけて各方面に配布すると、意外に大きな反響があった。
北方艦隊は、霧と荒天を利用し、潜水艦や輸送船を使ってアッツ島キスカ島に兵器弾薬食糧の補給をつづけている時であった。そのころ竹永少尉の出す予報はまた、不思議によくあたった。
「さすがに新しい学問をして来たやつの予報はちがう」
と、幕僚や士官室士官次室の同僚の彼に接する態度も好意的になって来た。
物資輸送の作戦が非常にうまく行って、先任参謀から、
「金鵄勲章ものだぞ」
と|讃《ほ》められたこともある。彼自身も、ざまを見ろという気持もあり、少しずつ天狗になりかかっていた。
しかし、彼の予報が事毎に適中したのは、実はこの時期が最初にして最後であった。
現在気象庁では日本に一台という大型コンピューターを使い、二つの気象衛星からのデータも駆使して、なお且つあたらないあたらないと叱られているのに、考えてみれば資料不足のあのころ、そんなにいつまでもあたる予報が出せるものではない、極端に言えば、気象長だの予報官だのの仕事は、競馬の予想屋がやっていることと大差はなかったと、竹永一雄氏は当時を回想して言っている。
五艦隊の旗艦は、多摩から、修理を|了《お》えて帰って来た元の那智に戻り、彼は那智の艦内で気象長としての仕事をつづけていたが、四月に入って、急に数日間の東京出張を命ぜられた。
海軍気象部と中央気象台へ行って、北千島から西部アリューシャンにかけての気象関係資料を徹底的に調べて来いということであった。
これにはしかし、キスカ或はアッツ徹退作戦のふくみは未だ無かったものと思われる。
竹永氏は小田急沿線梅ヶ丘の山賀守治大佐の留守宅に泊めてもらって、連日眼のまわるような忙しさで資料あつめにかかった。ここは彼が学生時代下宿をしていた家で、山賀大佐はやはり海軍の気象屋、当時第四気象隊長としてサイパンに出ていた。
中央気象台や海軍の気象部だけでなく、陸軍気象部にも出向いて、過去十年間の、五、六、七、三カ月の天気図をすべて見せてもらい、その写しを作り、山のような資料カードも作り上げた。毎晩ほとんど徹夜であった。この作業をやっているうちに、北方気象の特性、ことに霧の発生する場合のパターンが大体分って来た。
その結果竹永少尉が編み出したのが、幌筵を基点とするプラス2のセオリーである。つまり、キスカ、アッツ方面の天候は、幌筵から二日おくれで必ず幌筵と同じ状況になるという法則であった。
日本内地で朝かかる霧はいわゆる放射霧で、北方の霧とは全然性質がちがう。千島やアリューシャンの霧は、海霧、又は移流霧といって、あたたかい南風にふくまれた水蒸気が北の海面で冷却されて生れるものだ。それが発生するには、低気圧がベーリング海に入って、西アリューシャンが南高北低の気圧配置になり、太平洋南部の高気圧から南風が吹きこんで来ることが条件であった。
したがって、ベーリング海に張り出して来る低気圧を事前にオホーツク海でキャッチすれば、幌筵にいつ霧が発生するかの予想が立ち、幌筵が霧になればプラス2のセオリーでそれから二日後にキスカ方面が霧になる。
竹永少尉は、集めた資料と自分が発見したこの理論とを土産に、張り切って幌筵の那智へ帰って来た。
キスカの生活
飛行機の上から眺めるアリューシャン列島の島々は、|処々《しよしよ》にクレーターのような大きな沼があり、平地は一面の凍土帯で、夏にはそれが浅い緑の色を見せているが、ちょっと月面の光景を思わせるまことに荒涼としたものである。
現在アラスカのアンカレッジから、リーヴ・アリューシャン・エアウェイズという会社の古ぼけたDC6が週二回、わずかな客と貨物とを載せて、コールド・べイ、アダック、アムチトカ、シェミヤと列島の上を飛石づたいにアッツまで飛んでいる。朝早くアンカレッジを出るとタ方アッツに到着する。交通機関はこれ以外何もない。
私が訪れた九月初めのアッツ島は、山かげに白く雪が見え、野には昔、守備隊の兵士たちが「アッツ桜」と名づけた草花が咲き、浜に立つと霧の中から聞えてくるのは|鴎《かもめ》の鳴声だけという淋しいところであった。島は靴が沈みこむツンドラと深い|茨《いばら》のしげみにおおわれていて、樹木らしい高い樹木は一本もない。キスカは今、完全な無人島になっているので定期便は寄らないが、アッツ行きの飛行機がアムチトカを出てしばらくすると、右手前方にキスカの島影が見えてくる。
リーヴ・アリューシャン航空は、ボブ・リーヴというアラスカ男の|創《はじ》めた小さな同族会社のような航空会社で、ジャニース・リーヴというスチュワーデスが乗っているから聞いて見ると、それがボブ・リーヴの娘だったり、従業員はみんな人なつこく親切で、私の乗ったダグラスの機長は私たちのためにキスカ島の上をわざわざ、何度も何度も低く旋回し、丘を|舐《な》めるようにして上昇してくれた。よその大会社の旅客機がこんなことをしたら、パイロットは|譴責《けんせき》ものであろうが、おかげで私はキスカの様子をよく眺めることが出来、その時の印象をあとで思い返してみてやはりアッツとそっくりの風土だという気がした。
夏は霧、冬は雪と暴風で、戦前海軍の持っていたアリューシャン列島の気象表によると、年間を通じて快晴の日は十五日程度しかない。特に一月は、過去二十三年間の統計で、雪の日が平均二十九日、快晴は〇・一日――一月に青空を見るのは十年に一回ということになっている。
キスカ島約六千の陸海軍将兵は、こういう土地で昭和十七年の冬を越した。海軍の第五十一根拠地隊は、舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊を基幹とする部隊で、司令官は秋山勝三少将、陸軍の北海守備隊司令官は峯木十一郎少将で、アッツで全滅した山崎大佐の部隊は、この峯木少将の北海守備隊の支隊にあたる。
将兵の生活はしかし、必ずしもそれほど陰惨なものではなかったらしい。寒さは内地で想像するほどはきびしくなかったし、島全体が滅菌した冷蔵庫のようなものだから、伝染病などはまず発生しない。食糧も末期まで、ある程度のゆとりがあって極端な状態には陥らなかったので、南のガダルカナルやブーゲンビルでおこったようなことは、ここではおこらなかった。
峯木司令官は、昭和十七年の十一月、キスカに着いてみると、整列して迎えてくれる陸軍の将校以下全員、栄養もよく元気|溌溂《はつらつ》としているので、まことに心丈夫に感じたと言っている。
司令官の初度巡視の時、まわりをアンペラでかこい、扉に南京錠をかけた粗末な小屋をさして、案内の大隊長が、
「これは金庫であります。現在七十数万円現金が入っておりますが、用途がないので少しも減りません」と言うので、
「盗難のおそれはないか?」と峯木少将が聞くと、
「盗んでも使えませんから、盗むやつはおりません」
大隊長はそう答えた。
「今使えなくとも、盗んでおいて将来使おうという気をおこす者はおらんか?」
かさねて聞くと、
「こう毎日爆撃を受けて、いつ死ぬかわからぬ身で、そんな大それたことを考える者はありません」と大隊長は言った。
十七年の六月七日、日本軍がこの島を無血占領して、平穏無事だったのはたった三日だけ、安易な考えでいた日本側に対し、米軍の反撃は意外に早く強力で、それ以後B17、B24、B25、P38などを使っての空襲が毎日のようにつづいていた。もっとも、気象条件が攻撃側にとって悪いため、少くとも陸上ではそれほど|甚大《じんだい》な被害が出ることはなかった。艦船乗員の被害の方が大きかったのは、あとでも書くが、南方とちがって海を泳がされたら十分と命がもたないからである。
占領後、公式の名称ではないが、日本はアッツ島を熱田島、キスカを鳴神島と名づけ、島の山や川にもそれぞれ日本名をつけていた。海軍部隊の主力は鳴神湾の海岸近くに陣取り、陸軍は主として、そこから峠一つ越えた西の七夕湾地区に陣取り、守備隊員たちは慰安施設の一つもないところで、それなりに何かのなぐさみを見出して毎日を送っていた。島での日常については、五十一根主計長・小林亨大尉が丹念な日記を書き残しているし、同じく五十一根の軍医長だった小林新一郎大尉は、戦後「霧の孤島――キスカ戦記――」という本を出している。
これらの資料や多くの人々の手記、談話によると、彼らは|とど《ヽヽ》や|せいうち《ヽヽヽヽ》の|牙《きば》でパイプなどの細工物を作ったり、撃墜したボーイングの破片でメダルをこしらえたり、狐の子や|鷲《わし》の|雛《ひな》をつかまえて飼ってみたりして、孤島での暮しの味気なさをわずかにまぎらせていた。
アメリカ人が以前、養殖の目的で放し飼いにしていた狐がたくさんいたが、それの子供はどうしても人間になつかなかったと書いている人もあるし、峯木少将のように、よくなついて、出かける時には犬の子みたいにうしろからついて来たと言っている人もある。しかし峯木司令官が飼っていた狐はそのうち姿が見えなくなり、これは元の巣へ帰ったのではなく、多分、誰かの腹中におさまってしまったらしいということであった。
鳴神湾、七夕湾の海底は、|かれい《ヽヽヽ》や|鱈《たら》の宝庫であった。地曳網と釣とは、守備隊員の生活の大切な一部であり、楽しみでもあった、島の小川、小沼には小魚がいっぱいいた。秋になると川をさかのぼって来る鮭が、手づかみでいくらでも獲れた。しまいに兵士たちは鮭にあきて、身を捨て|筋子《すじこ》だけ煮て食っていたそうである。
季節には人をあまり恐れぬ雁や鴨がたくさんいて、猟銃でこれも獲れた。雁の肉はことのほかの美味であった。|生雲丹《なまうに》もうまかった。峯木少将の当番兵など、朝ちょっと浜へ出かけて取って来ては、司令官の食卓に生雲丹を出したという。
ツンドラはたっぷり水気をふくんでいて、少し掘ると清流がこんこんと|湧《わ》き出し、それをパイプで引いて豪勢な風呂をたてることも出来た。ただし燃料は不足がちであった。立木というものが全然ないところだから、浜辺に打ち上げられる流木もなく、湾内に|擱坐《かくざ》した「ぼるねお丸」の|船艙《せんそう》から石炭を引き上げたり、冬は寝ている時間をなるべく長くしたりして、守備隊員たちは燃料の節減をはからなくてはならなかった。
一度、大本営の視察団がやって来て、ツンドラを乾燥して燃料に使えないかという話になり、視察団のある陸軍主計官はしめった草を一と晩がかりで|煖炉《だんろ》の上で念入りにかわかし、火にくべて、
「どうだ、よく燃えるじゃないか」
と、得意になっていた。
しかしツンドラを燃して出る熱量とそれを乾燥するに要する熱量とどちらが大きいか、あまり賢い主計官とは思えないが、こういうところが中央と現地の者との感覚のちがいで、陸軍の守備隊は当然ながらこの名案(?)を無視した。
やがて長い冬が過ぎて、キスカの島に春のきざしが見えるころになった。キスカ島の四月は、一年中で気象状況の一番安定している時で、まだ雪の日もかなりあるが、霧は少く、月のうち二日か三日は快晴にめぐまれる。四月に入ると、米軍機の爆撃は一段とはげしくなって来た。
島の北端に標高千三百三十メートルの、キスカ富士乃至鳴神富士と名づけられた山があり、曇り日でもその頂きはたいてい雲の上に出ていた。アメリカの爆撃機はこのキスカ富士を目標に進入して来る。朝起きて、キスカ富士が頂上まで雲に包まれているような日だと、守備隊員たちは、「きょうはいいお天気だなあ」と言い合った。
米軍爆撃機編隊の中の一機を撃墜して戦死者が出ると、それから三日間ぐらい、残りが連日仲間の|弔《とむらい》合戦にやって来て、爆撃をし花束を投下して行く。味方の人命を尊重することにかけて彼らは徹底しており、海上に落された飛行機の|搭乗《とうじよう》員は、自動SOS発信機、食糧、薬品、釣ばり、七つ道具の|揃《そろ》ったゴム・ボートでしばらく漂流しておれば必ず救助隊がやって来る。日本軍は死体は収容したことがあるが、アメリカ人のパイロットを捕虜にしたことはついに一度もなかったという。
五十一根司令部付の近藤敏直少尉は、「アメリカも敵ながらあっぱれなものだ」と思っていた。撃墜した飛行機の中から女の手紙が出てきたことがあって、書き手はコディアック島の米軍慰安所の慰安婦らしいが、読んでみると内容は日本の国防婦人会の慰問文と同様で、彼らもまた全国民一丸になって戦争していると、近藤少尉は感じたそうである。
装備も、米軍のものはすべて頑丈に出来ていた。|墜《お》としたB24やP38の座席のまわりの鉄板を、三百メートルの距離から小銃で撃ってみたが、はねかえって一つも貫通しない。燃料タンクは特殊なゴムのようなもので作られていて、これは撃ち抜けるけれども、穴がすぐ自動的にふさがって油は一滴も洩れない。南方での戦訓にかんがみ、小銃でもっと敵機を墜とせと、陸軍は中央から指令して来たが、そんなことは出来る相談ではなかった。
一方、日本軍の物資は、補給が思うようにいかないため、次第に欠乏して来つつあった。南高地の対空砲台を守っていた書上麻三・海軍兵曹長の話では、高角砲の砲身の|螺旋《らせん》がすりきれて、そのころには弾がまっすぐ飛ばなくなっていたという。
食糧の方も、生鮮食品が底をつき、みんな野菜のかわりに|野芹《のぜり》やあざみ、たんぽぽ、海藻類などを煮て食うようになった。酒も煙草もなくなった。酒は我慢出来たが、煙草|喫《の》みにとって煙草のないのはどうにも我慢がならず、へんな草を干して巻いて吸ったり、たまに潜水艦が入ると、何とでも交換するからと、潜水艦乗員に煙草をねだりに行ったりした。
もっとも海軍と陸軍とでは、食糧事情にいくらか差があったようである。陸軍部隊では|粥《かゆ》食が多くなり、副食物には|野鼠《のねずみ》や|とど《ヽヽ》の肉まで食っていたが、海軍の方はそこまでしなくてすんだらしい。当時十七歳だった芝田耕・一等水兵でも、|とど《ヽヽ》の肉ばかりはくさくて食う気になれなかったと言っている。
平素仲の悪い陸海軍が、この島では互いに仲よく暮していたし、陸軍の憲兵将校は、何も事件がないのでずっと|漁撈《ぎよろう》班長の役をしていたくらいであったが、この問題ではやはり争いがおこり、食糧泥棒なども出たらしい。陸軍穂積部隊の隊長・穂積少佐が、
「海軍へ行ったら、水兵がりんごを食っていた。陸軍でも食わせろ」
と森という主計少尉に命じ、
「残念ながら出来ません」と断られて、
「ある物を食わせるのなら兵にでも出来る。ない物を食わすのが将校の役目だ」
と言ったという話を、穂積部隊の第二中隊長だった林友三氏(当時中尉)が書いている。
こちらの弱味につけこんで、アメリカが本格的反攻に出て来る日が近いということは、誰もが感じていた。もともとわずかな機数の水上機は、すでにほとんどが失われていた。南で手一杯の軍令部作戦部は、北で航空消耗戦に巻きこまれることを恐れ、初めから、「キスカは取っても飛行機は出せない」という方針だったのである。
芝田一等水兵は、「アメリカが来るなら早く来い。食べ物がなくなって餓え死するのだけはいやだ」と毎日思っていた。来るとすれば米軍は、アメリカ本土に遠いアッツよりも、当然近いキスカに上陸して来るだろうと思われた。
しかし昭和十八年の五月十二日、アメリカはこの予想を完全に裏切り、キスカを飛びこしていきなりアッツを突いて来たのである。それからのアッツ守備隊の運命は周知の通りだが、最初、応急派兵をしてアッツ島を死守すると称していた大本営は、一週間もしないうちに態度を変え、この島の放棄を決定してしまった。
となりのキスカで、いても立ってもいられない思いの峯木陸軍少将は、速やかな増援実施方を要請する強硬な電報を何度も打たせた。主任参謀が、「少々強すぎはしませんか」と心配したほど激越な言葉まで使った。そのため、彼はのちに東京で、東條陸軍大臣、富永陸軍次官の二人に、
「アッツの山崎大佐からは、何ら救援の請求がなかったにもかかわらず、司令官から執拗に兵力増援を求めて来たのは、指揮官としてけしからん処置だ」
と叱られ、
「小官の不徳の致すところです」と、頭を下げて引き下って来ることになる。
海軍の秋山司令官は、
「一度でいいから、日の丸をつけた飛行機をアッツの上に飛ばしてやりたい」と言っていた。
近藤敏直少尉の回想によれば、秋山司令官の悲願が実行に移されたのは、アッツ玉砕の直前、多分、五月二十八日のことであった。アッツの電報はすべてキスカを経由するから、司令官付の近藤少尉は一通々々みな眼を通していたが、
「友軍機只今直上通過 皇軍ノ士気百倍セリ ワレ明朝○六〇〇ヲ期シ 全員敵ニ最後ノ戦ヒヲイドミ玉砕セントス 願ハクバ玉砕後ノ状況ヲ必ズ友軍機上ヨリ確カメラレタシ」
との電文を、胸のせまる思いで読んだという。
これは公式の記録には残っていないようだが、事実とすればおそらく、もと特設水上機母艦・君川丸の搭載していた観測機で、キスカに残されていたなけなしの一機が激励飛行をおこなったものと思われる。
だが、実質的な効果はむろんなにもなかった。アッツ島の陸軍山崎部隊は、五月二十九日、のちに捕虜になっていることが判明した二十数名を除いて全員玉砕をとげた。五艦隊参謀・江本弘少佐が率いる少数の海軍部隊も、陸軍と運命を共にした。
アッツ失陥のあと、キスカ島守備隊将兵の胸の中に残ったものは、絶望感だけであった。それは、遅かれ早かれ自分たちも同じことになる、どうせもう救われようはないのだという思いと同時に、西も東も敵に抑えられてキスカの戦略的価値は完全に失われ、戦闘部隊として存在する意味がなくなった、もしかしたら自分らは敵にも見捨てられるだろうという、二重の絶望感であった。
島にはすみれ、ルピナス、黒百合など美しい草花が咲きはじめた。岩ひばりの姿を見かけることもあった。彼らはしかし、前の年の夏のような気持でそれを眺めることは出来なかった。
そのころ、誰からともなく「ケ号作戦」という言葉がひそかにささやかれるようになった。その正確な内容は、一部の海軍士官しか知らなかったが、噂は七夕湾地区の陸軍部隊にも伝わって来た。どうやら五艦隊がキスカ撤収作戦の準備をしているらしい。なぜなら「ケ」号という呼称は、半年前、ガダルカナル撤収作戦の時にも使われたことがある。峯木少将は海軍側に確かめてみた。そしてそれが事実であることを知った。
突入中止
キスカ撤退にもっとも熱心だったのは、古賀聯合艦隊司令長官であったと言われている。「北東方面海軍作戦」に載っている元聯合艦隊航海参謀・土肥一夫中佐の回想によれば、古賀峯一大将は山本長官戦死のあと、トラックの武蔵に着任してすぐ、
「キスカ、アッツをどうするか」
と言い出し、長官の意を体した藤井茂・政務参謀も、土肥中佐に向って、
「君たちが撤退をやらなければいけない」と言ったそうである。
アッツがやられるより前の十八年四月末、すでに古賀大将は戦線縮小の必要を感じていたらしい。
アッツが玉砕すると、聯合艦隊司令部は六月上旬、小池伊逸参謀を幌筵に派遣して、キスカ撤退の催促をした。
「『ケ』号作戦」はしかし、のちに有名になった水上部隊をもっての一挙撤収だけをさすものではない。五月末以降、伊七潜、伊二一潜、伊九潜、その他多くの伊号潜水艦が「ケ」号作戦の名のもとに、在キスカ部隊の引揚輸送に従事している。が、これでは一航海に七、八十人程度しか収揚出来ないし、沈められる潜水艦が続出して、犠牲は大きく効果は少ないため中止になり、それのかわりとして有近先任参謀が立案を命じられたのが、「『ケ』号第二期作戦」の計画であった。
東京から帰って来た竹永一雄少尉は、その間相変らず天気図を書く仕事をつづけていた。那智は「那智ホテル」と呼ばれ、艦内はゆったりとして煖房も完備しており、真冬にシャツ一枚でビールを傾けることが出来るほどで、居住性は悪くなかったけれど、若年の竹永少尉には寝台の割り当てがない。通路にハンモックを釣って水兵といっしょに寝るのだが、彼の場合、起床ラッパで起きて巡検ラッパで釣床に入るという生活は不可能であった。
普通艦船の当直勤務は、四直六時間交替であるが、一日四回、六時間おきに天気図を書いて出さねばならぬ竹永少尉には交替者がいない。下士官一名、兵二名の部下は与えられていたが、彼らに委せておくわけにはいかないから、天気図作成と食事時間との間を縫って仮眠の場所をさがして歩くのが一と苦労であった。
それに、那智のような一万|噸《トン》クラスの重巡でも、気象室の設備は全然無い。やむをえず弾薬庫の入口のマンホールの上に、長さ三メートル幅一メートルほどのスペースを見つけて、そこを仮の気象室にしていたが、一日に何度も兵隊が弾薬庫に出入りするので、机を据え置きに出来ず、しばしば壁の鉄板をテーブル代りに使わねばならなかった。
那智が錨を入れている幌筵海峡は、前述の通り、北千島一般の平均より三、四十パーセントましの強い風が吹く。風が強いと神経がたかぶって来る。
それだけの苦労をして仕事をやっているにもかかわらず、竹永少尉の予報はそのころから段々あたらなくなって来た。
天気予報は、あたっても特別な場合以外誰もほめてくれないが、あたらないと、
「なぜこんな予報を出した」と、こっぴどく叱られる。一時よかった参謀や士官次室の若手士官たちの風当りが悪くなり、役は兵学校出のケプガン(ガンルーム―士官次室の室長)から何度もなぐられた。
通信参謀の橋本中佐は、なぐりはしないが、酒も飲まず芸者遊びもやらないという真面目一方の人で、彼の出す天気図をいつも|素面《しらふ》で睨んでいてひどく意地の悪い怒り方をする。
先任参謀の高塚大佐が同情してくれ、
「君、大分いじめられているようだが、今度新しい航海参謀が来るから、君をその下へ移そう」
と言い出し、一時彼は新着任の航海参謀の下で働くことになって、
「このごろ生れ変ったみたいに元気になったな」と言われるほど生気を取戻した。しかしこの航海参謀・江本弘少佐は、それから間もなくアッツヘ行って、陸軍部隊とともに玉砕した。
アッツが玉砕し、キスカの撤収が課題になりはじめると、気象長としての竹永少尉の役目は一層重いものになって来た。叱られ叱られしながら、それでも二十二歳の少尉が北方部隊を一人で背負っているほどの気概で、さらに彼は研究をつづけた。
自分で内火艇を指揮して、幌筵海峡碇泊中の輸送船や特殊任務を帯びた船をめぐり歩き、船員がキスカ方面往復輸送の実際経験から得た気象の資料を集めてみると、東京で調べたのとはまたちがったデータが出て来る。特に農林省の船だった快鳳丸、水産講習所の俊鶻丸などは、役に立つ資料を豊富に持っていた。それによると、西部アリューシャンの霧は、北海道の霧とも北千島の霧とも性質がちがっているらしかった。
六月のはじめには、那智の水上機で占守島北端の|別飛沼《べつとぬま》へ飛び、沼のほとりに住んでいる別所次郎蔵という人を訪ねてその話も聞いた。
別所氏は郡司成忠大尉とともに日本人として初めてこの島で越冬した人の息子で、室蘭の農学校を出、父親の遺志をついで夫人と二人の子供とともに漁をしながらここに常住している人であった。
別所氏の霧に関する話も参考になったが、六月の占守島は雪がとけ、全島紫や赤の草花の咲き乱れるお花畑で、空からは阿頼度島の千島富士や遠くカムチャツカの連山が見え、その眺めが実に印象的であったという。
やがてキスカ守備隊の一挙撤収をやることが決り、同期の橋本恭一少尉が一水戦に着任して来るのだが、橋本少尉の専攻は地球物理学で、気象、特に北方の気象についてはあまり詳しくないし、北海道厚岸の第五気象隊から橋本少尉とともに臨時に派遣されて来た気象隊長・石原参謀は、どちらかと言えば素人であった。
今度の撤収作戦には、誰もが覚悟していた通り、むつかしい問題は山ほどあったが、如何に正確に霧の予報を出すかがやはり最大の難問で、その責任の大半は依然として竹永少尉の肩にかかっていた。
それに、霧については別の面からもう一つ厄介な問題があって、霧がかからなくては救出艦隊は出て行けないけれども、作戦に申分ないほどの濃霧となれば、今度は航法上に大きな不安が生じるのである。
艦隊は幌筵を出たら、米軍機の哨戒圈を避けていったん南に|迂回《うかい》し、仮にZ点と名づけた地点で北東に変針する予定だが、このZ点まで幌筵から正味三日を要する。その三日間には、風波潮流の影響で推定艦位に相当の誤差が出ると思わねばならなかった。
一水戦先任参謀の有近中佐は阿武隈の艦長や航海長にも集まってもらい、テーブルの上に作戦地図をひろげて、
「私の考えでは、このZ点まで来たと思ったときに、仮に針路を二十五度に変針してしばらく航行してみるのであります。そしてキスカ島に近づき、キスカから放送するラジオ・ビーコンの電波を方位測定して、これを真方位二十五度に聞えるように艦位を修正する、すなわちラジオ・ビーコンを正しく艦首方位に聞きながら二十五度に航行すれば、本艦はいやがおうでもキスカ島に向首することになります」
と、木村司令官に説明した。
しかし、いつまでも針路二十五度で進んでいれば、しまいに阿武隈はキスカの島に衝突する。ラジオ・ビーコンは方位は示してくれるが距離は示さない。どこでもう一度変針すれば、アメリカ艦隊の眼をかすめて一番うまくキスカ湾に入れるか、その時だけちょっと霧が晴れてくれればいいが、そんな奇蹟のようなことは望めないとすると、また別の知恵を出さなくてはならなかった。
そのほか、現地の守備隊と事前にどんな打合せをしておいたらもっとも短時分に五千二百名の者を乗艦させることが出来るか、|大発《だいはつ》は何杯持って行くか、暗号はどうするか――、暗号の問題は、今回にかぎり海軍特定の暗号書によることにして、一般暗号書の使用を禁止し、陸軍側が連絡事項を打電する必要が生じた場合は海軍に依頼することに決った。こうして厄介な事柄もどうやら一つずつ片づき、七月初めには「ケ」号第二期作戦の計画がようやくかたまってきた。
聯合艦隊司令部に頼んであった増援の駆逐艦・風雲、秋雲、夕雲、薄雲の四隻も到着した。これは、一と月ほど前、山本五十六長官の遺骨を乗せた武蔵が木更津沖に入港した時、木更津から横須賀までその遺骨を運んだ駆逐隊で、秋雲の相馬正平中佐はじめ、四隻の四人の艦長がみんな海兵五十期、有近先任参謀のクラス、彼らは、
「オウ、何だ、貴様こんなところでこんなことをしていたのか。よし、航海のことなら俺たちにまかせておけ。やってやる」
と口々に言った。
新鋭の島風も、七月一日には幌筵泊地に到着した。
主力となる阿武隈、木曾の二隻は、三本煙突の古い二等巡洋艦で、中の一本の煙突は白ペンキで偽装された。二本煙突の駆逐艦には、もう一本にせの煙突が建てられた。こうしておけば、霧の中遠くからだと、アメリカの巡洋艦、駆逐艦に似て見えるからである。
阿武隈と木曾の後甲板には、陸軍の高射砲も一門ずつ据えつけられた。これは「ないよりまし」といった程度のものであったが、思わぬことであとで役に立った。
それより少し前、竹永少尉は二隻の呂号潜水艦が幌筵泊地に入港して来てさかんに試験運転をしているのを目撃し、何の目的に使うのだろうと思っていたら、高塚先任参謀から、
「あの潜水艦二隻と独航船五隻をお前に与えるから、気象観測用としてただちに適当な配置につけろ」
と命じられた。
独航船というのは七、八十噸程度の徴用漁船、潜水艦は六月五日付で北方部隊に編入された呂一〇四潜と呂一〇五潜であった。
急遽竹永少尉が作り上げた配備計画にもとづいて、潜水艦はアッツに近い東経一七〇度北緯五八度付近の哨戒海域に、独航船はカムチャツカ南方の東経一五八度線に沿って三百マイル間隔に出て行くことになった。
各艦各船に、七名の気象兵を一人ずつ配乗させ、気象通報の方式はカナ文字一字乃至三字でやるというごく簡単なものにした。
しかし、数日後ぼつぼつ通報が入って来はじめて間もなく、独航船は、
「ワレ敵潜水艦ノ攻撃ヲウケツツアリ。救援タノム」
の電報を最後に、次々と消息を絶っていった。カナ文字一字の電報でも、電波を出すとすぐアメリカの潜水艦に見つかってしまうのである。
生き残ったのは、|昭《あき》丸という、もと蟹漁船の観測船だけであった。
昭丸は、電報を打つと危いというので気象観測の方は適当にサボって、カムチャツカ半島の南の海でもっぱら本業の蟹漁にいそしんでいた。
竹永少尉は、キスカ撤収作戦終了後も当分この昭丸を気象観測船に使ったが、やはりちっとも観測報告を打電して来ない。そのお詫びのつもりか、昭丸の乗組員はいつもたっぷり蟹を土産に持って幌筵へ帰って来た。おかげで竹永少尉たちは、蟹だけは北海の|美味《うま》いやつをたらふく食べることが出来たそうである。
五艦隊旗艦・那智、一水戦旗艦・阿武隈の艦上では、|頻々《ひんぴん》と打合せ会がひらかれていた。議論に夢中になっているうちに、霧が深くなったり|時化《しけ》がひどくなったりして、駆逐艦長の中には帰るに帰られず、旗艦に一夜の宿を頼む者もあった。何しろ暗夜霧の中で、内火艇のエンジンが故障でもしたら自分の艦の方角も分らなくなり、たちまち外洋に流し出されてしまうからである。
ただし那智自体は、燃料を食いすぎるという理由で、作戦に全面的には加わらないことに決った。
乗組の将兵の中には、南方で艦を沈められて何度も泳いだという|古強者《ふるつわもの》も少くなかったが、今度ばかりはそうはいかなかった。アメリカの艦隊か飛行機に発見されて戦闘が発生し、乗艦が沈められたらそれが最後で、北の海で泳いで助かることは絶対に考えられない。そのため、かえって覚悟が定まったと言っている人もある。
遺書をしたためている者もあった。木曾の主計長・岡村治信大尉も死を覚悟し、遺書を書くことを考えたが、彼はふと、開戦初頭ウェーキ島攻略作戦の折の妙な経験を思い出してやめにした。その時、岡村主計中尉(当時)は、ウェーキに赴く四隻の駆逐艦・|追風《おいて》、|朝凪《あさなぎ》、夕凪、|疾風《はやて》の乗員たちの遺書をとりまとめ、軍事郵便で発送することにしていたが、どうしたのか、疾風の分が来ただけであとの三隻のは手元にとどかず、それだけ送っておいたところ、この作戦で疾風は沈没、全員戦死の悲運に見舞われた。
「それを思い出すと、遺書は死支度を急ぐというか、死をさそい出すような気がして、どうしても書く気になれなかった」
と、岡村治信氏は語っている。
木村司令官は、
「一番肝心なのはチーム・ワークだから、一応も二応もよく|摺《す》り合せをやっておいてくれ」と言っていたが、その「摺り合せ」も終り、準備を完了した救出艦隊は、霧のかかる予報を得て、七月七日十九時三十分、幌筵を出港した。
霧の状態はきわめてよかった。つまり濃霧であった。各艦は前の|艦《ふね》が|曳航《えいこう》している霧中標的の立てる白波と、前艦艦尾の探照灯の光だけを頼りに、ゆっくり進んでいった。むろん厳重な無線封鎖がおこなわれていた。
しかし、那智よりも阿武隈の方が艦内の空気が和やかだったのか、緊張の中にも、若い士官たちは何か笑う種を見つけては屈託なげによく笑った。海軍にはへんな隠語がたくさんあって、「ゼットユー」と言えば「ZU」で「図々しいヤツ」の意味、「ブルーム」はすなわち|箒《ほうき》で、女性の|撫《な》で切り、「ビーシー」は航海日誌にいつも、「Blue and Cloudy」と書く「馬鹿」といった調子だが、「エヌる」もその一つで、「ノロケル」のかしら文字をとった海軍隠語である。
阿武隈の士官室ではエヌった者はミルク三杯という罰則が出来たが、その規則をつくった砲術長の志摩亥吉郎少佐が一番にエヌり出し、ミルクを奮発させられた。
水雷長の石田捨雄大尉は、時々狂歌を作った。警戒配備に入った艦内では、電波管制、灯火管制のほかに音響管制も実施する。時ならぬ大きな音を立てると敵襲とまちがえられるおそれがあるからであった。ところが海が時化ているのに、ドアをきちんとしめない者がいて、ローリング、ピッチングのつど、どえらい音がする。石田水雷長は「ドアを正しくしめよ」という貼り紙のかわりに、
「このドアがばたんとしまるそのたびに夢やぶらるる人ありと知れ」
と書いて私室の外に貼り出した。
こうして救出艦隊がZ点に到達したころ、――七月十日の午後七時、第五艦隊旗艦・那智も、北方部隊の主隊である巡洋艦・摩耶、多摩、駆逐艦・野風、波風の四隻を率い、水雷戦隊の支援に任じるという名目で幌筵を出撃した。こういうのはしかし、正直なところ、私には何のことかよく分らない。ただZ点近くまで進出して帰って来たらしいが、貴重な油を使い、ほんものの作戦部隊に三日おくれて出ていって、果して何かの役に立つのかどうか。開戦時聯合艦隊旗艦・長門がいわゆる柱島艦隊の全艦艇を率いて、機動部隊の支援と称し、瀬戸内海の泊地を出、小笠原列島の線まで行って何もせずに帰って来たのとよく似ている。露骨に言えば、勲章が目あてで行動の実績を作り上げるためだったとしか思えないが、それはそれとして、一水戦のキスカ突入予定日は、主隊出撃の翌日、七月十一日であった。五艦隊司令部は出撃直前の十日○六〇〇と一二〇〇に、
「十日夕刻から霧が濃くなり、十一日は霧または霧雨、十二日は霧少くなる」
という予報を出した。
これに反し、水雷戦隊司令部の判断は、
「キスカ方面の気圧上昇、高気圧発達、待機海面付近低気圧通過して気圧上昇、途中及びキスカ島とも霧なし」
というのであった。
これ以後、両司令部の判断はしばしば食いちがうことになるのであるが、それは判断のちがいというより、後方の司令部が「もう少し辛抱してそのまま進んで行けば、霧は必ずかかるはずだ」と言っているのに対して、実施部隊の方が「そんなことを言ったって、現にこの通り霧が無いんだから」と反撥している、そのように受け取った方がいいのかも知れない。
しかし、突入予定日に、少くとも待機海面で霧が薄らいで来たのは事実である。五艦隊の予報はまたはずれたということになるのだが、橋本中佐や竹永少尉としては、これでも、長い間の研究をもとにあらん限りの智恵をふりしぼる思いで出している予報であった。
日本側の北方気象の観測所は幌筵が最西端で、それ以西のデータはソ連の気象暗号電報を解読して取っていた。
ソ連は海軍がルナ(波)という名称の乱数暗号、国境警備隊が別の換字暗号を使って気象通報をやっていた。それはハバロフスク、チタ、イルクーツク、ウラジヴォストークの各放送系にかけられ、電波のことだから幌筵でも厚岸でも自由に傍受出来るが、そのままでは読むことが出来ない。
通信参謀の橋本重房中佐は、昭和十一年ごろからカムチャツカ方面の警備などやって、北方問題に関心や知識が深く、且つ軍令部特務班で通信諜報の勉強もした人で、ソ連の気象暗号解続はこの人の功績に負うところが大きかった。
だが、いくら苦心の末の予報でも、それがはずれて霧が出なければどうにもならない。
木村艦隊は突入予定を延期し、少しキスカに近づいてみては反転するという行動を連日くり返していたが、状況はよくなりそうもなかった。
朝雲駆逐艦長・柴山一雄中佐の話では、ある日など針路を北にキスカヘ向けて航行していると、あるところから突然、海上に一線を画したような霧一つない青|海原《うなばら》が見えて来、澄み切った青空の下へ艦隊はほうり出されてしまったという。
旗艦・阿武隈の艦影が肉眼ではっきりと見えた。敵の飛行機にでも見つかったら百年目である。阿武隈の|檣頭《しようとう》には「百八十度一斉回頭」のあざやかな斉動旗が上り、それが下りると同時に各艦はくるりと向きを変えて薄い霧の中へ大急ぎで逃げこんだ。
人々の心には焦りが出てきた。ある駆逐艦長は、「本日突入ヲ至当ト認ム」と、焦る心をそのままあらわしたような信号を旗艦に送ってよこしたりした。
燃料その他の関係から、十五日は、行くか帰るかを決めるほとんどぎりぎりの線であった。
木村少将は、十五日の朝、阿武隈の艦橋で、
「帰ろう」
と言い出した。有近先任参謀が、
「帰るんですか? いいんですか?」
問い返すと、木村司令官は、
「帰ればまた来られるさ」と答えた。
これは阿武隈の副長だった斎藤弥吉中佐の回想である。斎藤中佐は黙っていたが、内心では「それでいいのかな」と、やはり木村少将に批判的な疑問をいだいたという。
有近参謀の手記では、このところが少しちがう。
「司令官、残念ですが帰って下さい」
有近先任参謀が進言して断を求め、
「よし、帰ろう。帰ればまた来ることが出来るからな」
と、木村司令官がそれに同意したことになっている。
斎藤弥吉中佐も海軍兵学校五十期で、有近参謀のクラスであるが、有近氏の書きのこしていることと斎藤氏の記憶とどちらが正しいか、ここは微妙なところで速断はしがたい。
公刊戦史は、「水雷部隊指揮官は突入行動を中止し、幌筵帰投を決心し」と述べているだけである。私個人は、斎藤副長の話が真相で、「帰ろう」と最初に言い出したのはおそらく木村少将の方だったと思うが(理由はあとでしるす)、有近中佐が何らかの目的でそのへんを「メイキング」したという積極的証拠もないし、二十八年の歳月の間に、斎藤氏の記憶に混乱が生じなかったという証拠もない。
何しろその当時の雰囲気としては、引き返せば上からも下からも卑怯者と思われるに決っていたから、決心をするにあたっては、勇と怯との複雑な心理的葛藤があったであろう。
木村艦隊に一人だけ、陸軍の将校が乗っていた。それは撤収作戦打ち合せのため、「西南の役の時に熊本城を脱け出した谷村計介の心境」で、六月中旬、キスカを潜水艦で脱出し、幌筵へ来ていた北海守備隊の参謀・藤井一美中佐であった。藤井参謀はそのまま幌筵に残っている気にはどうしてもなれず、特に頼んで木曾に乗せてもらい、今回の出撃に同行していたのである。
作戦中止を知った時、藤井中佐は一瞬ホッとすると同時に、峯木少将はじめキスカにとどまっている戦友たちのことを思うとくやしさがこみ上げて来て、
「なぜ行かないんだ。完璧な撤収なぞ、初めから望むべくもないことじゃないか。アッツの玉砕を考えれば、敵の艦隊に出会ったって構わんじゃないか。なぜみすみす帰るのか」と、海軍の司令官を非難したい気持になったと語っている。
こういう思いは、ひとり陸軍の藤井参謀や阿武隈の斎藤副長だけのものではなかった。周囲には無言の抵抗と圧力とがあった。斎藤弥吉氏は、
「前の司令官ならきっと突っこんだだろう。神経質な森少将が指揮官だったら、あの際とても周囲の無言の圧力を無視出来なかっただろう」
と言っている。
七月十五日九時五分、一水戦司令官・木村少将はついに、|麾下《きか》の各艦あて、
「突入航路上並ニ鳴神島付近天候好転シツツアリ 利用スベキ海霧発生ノ見込ナシ 今ヨリ反転幌筵ニ帰投再挙ヲ計ラントス」
という信号を出した。
艦隊が幌筵泊地へ帰還すると、果して五艦隊司令部あたりから非難の声が聞こえて来た。
「戦争じゃないか。少しぐらいの危険があるのはあたり前だ」
「燃料が|逼迫《ひつぱく》していることぐらい分っていそうなもんだ」
というような批判は、聯合艦隊司令部や大本営海軍部にもあった。
橋本重房氏はこんにちでも、
「キスカの連中があとで、第一次の時はこんないい霧なのにどうして来てくれないのかと恨みましたと言っていた。途中で一旦晴れたからといって、逃げ腰にならずに突っ込んでいけば成功したかも知れないのだ」
と述べている。
こういう批判の根底には、実はこの年三月下旬のアッツ島沖海戦の時のあまりよくない記憶が横たわっていた。
アッツ島沖海戦というのは、那智、摩耶、多摩、阿武隈以下の日本艦隊と、ソールトレイク・シティ、リッチモンド以下の米国艦隊とがアッツの西方で会敵して砲魚雷戦をかわした北方海域での唯一の日米海戦であるが、第一水雷戦隊の行動は、全戦闘期間を通じていちじるしく不活発で、逃げたと言われても仕方のないようなものであったらしい。
この折、一水戦司令官は森友一少将、先任参謀は有近六次中佐、海戦後大湊での研究会の席上、有近中佐は、
「追撃態勢で突撃の好機がなかったことと、燃料を節約して時機を待っていたためだ」
と説明したが、参会者の大部分から批判を受けたという。
「有近なんか、あれは平時の参謀だ。有近六さんロクでなし」という悪口もあった。
それで、第一次撤収作戦が失敗に終ると、中央でも五艦隊司令部でも、多くの者が、
「一水戦がまたやったか」という気持になったのである。
実際は、一水戦がこの時引返して来たために、キスカの撤収はあとで「奇蹟」とうたわれる成功を収めることになるのだが、それは結果論と言えば結果論であろう。
木村司令官はしかし、こういう批判が耳に入るのか入らないのか、平気な顔をして、毎日阿武隈の舷側から釣糸を垂れ、かれいや鱈を釣っていた。
「前の森司令官なら突っこんだだろう」という斎藤弥吉氏の想像が、アッツ島沖海戦の汚名をすすぐためにもとの意味合いをふくんでいると考えると、木村司令官が悠々としていられたのは、一つにはアッツ島沖海戦に関して彼が局外者だったからかも知れない。
ある日、木曾の艦長・川井巌大佐が、ノックをして司令官室へ入ってみると、木村少将は有近先任参謀と口合戦をまじえながら碁を打っていた。川井大佐は艦隊の知恵袋と言われ、吉田善吾長官の時代に聯合艦隊の参謀をつとめた俊才で、何か話したいことがあったらしいのだが、しばらく黙って二人の碁を眺めていたあと、急に「帰ります」と言い出した。
「オイ、何か用事があったんだろ? へんだな。|暫《しばら》く待っておれよ。今すぐセサ(先任参謀)を片付けて相手をするから」
と木村司令官が髭をひねりながら笑顔で引き止めるのを、
「いえ、用事はすみました。安心しましたから、もう何も申し上げることはなくなりました」
と、川井大佐は言って、木曾へ帰っていってしまった。
命なりけり
撤収作戦打ち合せのため、陸軍の藤井中佐とともに幌筵へ派遣されていたのは、五十一根の参謀・安並正俊海軍中佐であった。
安並中佐はキスカを出る時、|鬼《おに》|和布《わかめ》を土産に持って来た。鬼和布はキスカ方面の海に密生している幅三、四十センチ、長さ何十メートルもある化け物のような海草で、名前は和布だが昆布の一種であるらしい。先の方のやわらかい部分を切って酢につけて食うとなかなか美味い。深い海底から水面に達するほどの背丈でこれが一面に生えているところは、少々の風が吹いても海が油を流したように見えた。そのかわり、復水器の海水注入口を鬼和布にふさがれて立往生する船もあったという。
この安並中佐もまた、有近中佐と同じクラス、今次の作戦には海兵五十期がずいぶん大勢活躍しているのであるが、現地のキスカでは、安並参謀のもたらした取り決め事項にしたがって、七月十一日以降、全員が毎日浜へ集合し、救出艦隊の入って来るのを待つことになっていた。
各隊は艦隊入港予定時刻十六時の一時間前に所定の海岸に到着して待機する。それぞれ赤や黄や緑の目印の旗を立て、どの隊がどの大発に乗ってどの艦に収容されるかという、こまかいことまで入念に定めてあった。
ただし、予定時刻後二時間を経過しても艦影を認めない時は、その日の入港はないものとして、もとの配置へ復帰する。特令のあるまで毎日これをくり返す。
軍医長・小林新一郎大尉の五十一根本部医務隊は、海軍関係患者輸送の責任を負うて、一番艇で旗艦・阿武隈に乗ることになっていた。しかし小林大尉は、今、敵前で部下に気のゆるみが出ては困ると思ったので、作戦の概略を発表し準備を命ずる時、なるべく事務的な口調で話した。成功率はあまり高くないこと、いつ敵を迎えて陸上戦闘に移行してもよいだけの心構えが必要であることなども、つけ加えた。
それでも、これを聞く医務隊下士官兵たちの顔がパッと明るくなるのを、小林軍医大尉は見逃すことが出来なかったという。
その日から壕掘りは中止になり、機密書類の焼却がはじまった。
陸軍の峯木司令官は、撤退する以上は一兵でも残していくようなことがあっては申し訳が立たないと思い、各隊の隊長に部下の掌握を確実にするよう厳重な命令を出し、もし一名でも取り残しのあった場合は、自分はその捜索にあたって乗艦はしないと申し渡した。
「これはおどしでもハッタリでもなく、その時は甘んじて北海の|俊寛《しゆんかん》になろうと、堅く心にきめていた」
と、峯木十一郎氏は書いている。
集結地点に近い海軍部隊とちがって、西の七夕湾地区にいる陸軍は、水をふくんだツンドラ道を峠越しに出て行くのがたいへんだったが、初日の七月十一日には、どの隊もどの隊も非常な張り切りようで海岸へ集まって来た。
峯木部隊の炊事当番は、
「アメリカ兵に舐めさせてたまるもんかい」と、砂糖の袋を土にあけてしまい、それで陸軍は復帰後司令官用の砂糖にも困ることになったが、二日目にもまだ、将兵の胸にはいきいきとした希望があった。しかし三日目、四日目と同じむなしい行動をくり返しているうちに、やがて、「あんなこと言っていたって、結局来やしないんだ」というあきらめの気持の方が強くなって来、陸兵の中には五艦隊のことを、「コカンタイ」だと言い出す者もあった。
陸軍工兵隊の上等兵だった関根欣幸氏は、「衰えたからだで行軍するのが苦しく、もうこのまま死んだ方がましだと思ったこともある。万一米軍の方が先にやって来たら、闘う体力は残っていないから、ゴボウ剣を研いで、各分隊ごとに刺しちがえて死ぬ覚悟だった」と言う。
いよいよ作戦中止と決った七月十五日、五十一根主計長の小林亨大尉は、日記に、
「『ケ』号行動作戦一時中止せられた。5F(第五艦隊)の作戦に思ひきや、|斯《か》くの如き結果にならうとは。再興せらるとは思へども、あてになることでなし。
二二〇〇頃又いつもの砲撃一〇分間七夕湾方向に聞ゆ。
鳴神も何ものぞみも消えはてて唯果てざるは命なりけり」
と記した。
七月十七日の日記には、
「一日中自殺の方法につき考ふ。自殺するにも出来るだけ安きにつかんとする人の心のあはれさよ。願はくば敵の一日も早く上り来るを」
とある。
糧食はもはや、主食が九月末、副食が八月末までの手持ちしか残っていなかった。「北東方面海軍作戦」は公刊戦史としての性質上、感情をまじえた書き方はなるべく避けているようだが、この部分にはやはり、
「第一次作戦が不成功に終ったことが、キスカ島現地の隊員に与えた影響は深刻なものがあった。(中略)キスカ島守備隊の人々には、一水戦の行動を批判するよりも、がっかりしたというのが実感であったろう」
といった記述が見える。
幌筵の五艦隊旗艦・那智では、竹永気象長が叱られっぱなしに叱られていた。
天気予報というものは、ある目的をもって――、例えばあした自分は釣に行くんだがとか子供の遠足があるとか、そんなことを考えながら出すと不思議にあたらないものだそうである。
しかし、予報があたらないために叱られるのはまだしも、
「なぜ霧が出ない、なぜ低気圧が張り出して来ない」と言って叱られる。いくら叱られても、出ないものは出ない。
なぜ思うように霧がかからないのかというと、普通北緯三十度付近にあるはずの高気圧が北へ上りすぎて四十二度あたりにとどまっており、日本内地は梅雨の季節なのにちっとも雨が降らない、いわゆるカラ梅雨で、気象図の上で十年に一度というかたちの特殊な年にあたっているからであった。この高気圧が北の低気圧を寄せつけないのである。
それをみんなから、まるで気象長の責任のように言われる。第一次の作戦中止から第二次の始るまでの間、竹永少尉はキスカの小林亨大尉とはまた別の、地獄の責苦を味わわされた。
砲術長からもなぐられたし、自分より階級の下の少尉候補生たちに、飛行甲板へ呼び出されて吊し上げをくったこともあった。お返しに彼の方でも、
「軍艦・那智にあたらぬものが三つあるウ。第一番が気象長の天気予報」
と浪曲の節回しでうなっている兵学校出たての候補生を、思いきりなぐりたおしたりもした。
通信参謀からは、短刀を見せられて、腹を切れと言わんばかりのことを言われた。要するにお前の予報は下手糞で役に立たん、キスカ島五千名の皇軍将兵の運命に責任をとれということであった。
乗組員の彼を見る眼つきが変って来、誰も話しかけてくれないし、話しかけても相手にしてくれない。日頃仲のいい歯科少尉とも口論がはじまり、「あたらん、あたらん」と言われて箸箱を投げつけて怒ったこともあった。
気象室から艦橋へ行く途中に、紀州の那智神社の御分身を祀った小さな神棚があり、これまでろくに意識したこともなかったのに、その前を通る度、頭を下げて祈るようになった。
精神状態が少し変になって来、一日中霧のことばかり考えているので、風呂に入る時間も無ければ入る気にもなれない。ものもらいで片眼はろくに見えなくなるし、全身に発疹が出来て身体がひどく衰弱して来た。これはあとで、身体中にしらみがわいているせいだと分った。度々彼も自殺を考えた。
艦内で高塚先任参謀だけがただ一人、彼のよき理解者であったが高塚大佐は高塚大佐で思い悩むところも多かったらしく、十八時の天気図を届けに行くと、いつももう酔っぱらっていた。
竹永少尉は、ラ・クンパルシータなど、好きでたくさん買いこんで来ていたタンゴのレコードを、士官次室の蓄音機にかけては、わずかに自分を慰めることにした。
これは思わぬ効果があって、ラ・クンパルシータのメロディが人々の心を和らげたのか、――或はやがて天候が少し悪くなる、つまりよくなる気配が見えはじめたせいもあるかも知れないが、次室の空気だけはそれでも多少おだやかになって来たそうである。
一方、聯合艦隊司令部は、第一水雷戦隊のとった今回の措置、第五艦隊の作戦指導に強い不満をいだき、参謀副長の小林謙五少将を幌筵に派遣することにした。小林少将は大本営海軍参謀・岡田貞外茂少佐らとともに七月十九日、飛行機で幌筵に着いて、二十日、五艦隊の司令部と打合せをおこなった。
岡田貞外茂少佐は、アッツで亡くなった江本弘参謀と兵学校同期、二・二六事件の時の首相岡田啓介大将の長男で、彼らの出張が五艦隊に対する督戦の意味を持っていたことは、公刊戦史もこれを認めている。
河瀬司令長官をはじめ、第五艦隊の司令部には一水戦を非難する空気が強く、参謀長・大和田少将などは、撤収の成功したあとですら、軍令部において、
「第一次の際は水雷戦隊に胆なし」
と、はっきり木村は臆病だと言わんばかりの陳述をしているが、その五艦隊もまた、聯合艦隊並びに大本営から|叱《しか》られたのである。
救出艦隊の責任者・木村昌福少将としては、これだけの騒ぎをよそに釣ばかりしているわけにはいかず、作戦再興の計画はむろんすすめられつつあった。撤収作戦はただしこれが最後であった。理由の第一は霧の問題で第二は油、第一次が不成功に終って木村艦隊が幌筵に帰投した直後、一水戦の常石機関参謀は、五艦隊の機関参謀から、
「燃料は那智からも一水戦に補給するが、在泊艦船からかき集めても四千トンしかないので、撤収作戦は今度だけである。今度を逃がせばいつやれるか分らない」
と|釘《くぎ》をさされた。
機関科関係では、この作戦にもう一人、影武者のような人物がいた。それは五艦隊の艦隊機関長・長嶺公固大佐で、大正九年機関学校をトップで卒業し、中尉の時に米国へ留学を命ぜられてMIT(マサチューセッツ工科大学)に学んだ。アメリカの百万長者の未亡人に惚れられ、ねんごろな仲になって、二年のところを三年MITにとどまり、当時の在米武官・永野修身大佐から、
「お前始末をちゃんとつけて、帰る時には日本へ帰れよ」
と言われて帰国したという、変った経歴の人であった。
小柄なおとなしい感じの機関長だったが、この人が多摩艦長、兵学校四十八期の神重徳大佐とコレス――、同じ大正九年卒業の別科同期生、橋本通信参謀は神大佐が江田島の教官をしていたころの兵学校生徒でいわば教え子、そういう関係で長嶺大佐は橋本中佐に特に眼をかけてくれ、昔ののろけを聞かせたり、
「ツサ(通信参謀)、お前一人だからな。しっかりやれよ」
と言ったりして、それとなく励ましを与えてくれた。
「叱ってばかりいたが、竹永少尉の不眠不休の研究努力と、長嶺さんの平素からのバック・アップが一番大きな力になった」
と、橋本重房氏は語っている。
アリューシャンの霧の最盛期は、すでに過ぎ去ろうとしていた。七月下旬になると海水の温度が上って、霧はかかりにくくなる。八月に入ったら望みはもうほとんどなかった。
二回目も失敗したら、キスカは見殺しにするより仕方がない。木村少将はしかし、これだけ追いつめられた立場に立たされながら、あまり焦ったり悩んだりはしなかったらしい。
そういう司令官を見て、木曾艦長の川井大佐のように、言いかけたことも言わず安心して帰って行く人もあったし、水雷戦隊の各級指揮官はおおむね木村少将を支持していた。
一時は「帰っていいのかな」と疑問をいだいたとしても、みんな「結局あれでよかったのだ、焦ったら成功しない、無理をしてはならん」という意見に落着いていった。一水戦で第一次の突入中止を遺憾とした者は、|五月雨《さみだれ》駆逐艦長だけであった。
先任参謀・有近中佐などは、五艦隊司令部や中央の批判が心外で、|忿懣《ふんまん》やる方ない心境であったという。実際に現場を踏んで来た人々には、「何とか言ったって、五艦隊司令部はいつも後方で指揮しているだけじゃないか」という不満と反感とがあった。
「あの時もう三時間待ってみれば」という批判に対して、有近中佐は面あてのように、
「ただ死ねと言われるんなら別ですがね」
と言い返したそうである。
上からは叱られ、下からは反感のこもった眼で見られ、いささか腹に据えかねた五艦隊司令部は、「よし、そんなことを言うんなら、今度は俺たちが引っ張って行ってやる」という気持になった。第二次作戦の部隊編成等をさだめた「機密北方部隊命令作第二〇号」の第三項に、彼らは、
「キスカ突入の決定は、前回は一水戦司令官に一任されたが、今回は第五艦隊司令長官がこれを決定する」
と書き入れた。
司令長官・河瀬四郎中将が、参謀長、先任参謀、通信参謀らを帯同し、軽巡・多摩に乗ってついて行くという計画であった。これは一水戦にとってはあまり名誉なことでない上に、多摩が直接木村艦隊を指揮するのは、Z日(突入予定日)マイナス一日の二十二時までとなっていた。
そのため、水雷戦隊側の不満が爆発した。
「それなら長官は、なぜキスカ突入まで直接指揮をとらないのか。自分は前の晩二十二時に突入を命じて帰って行って、そのあと霧が晴れたら、行くか帰るか、いったい誰の責任で決めるのか」というので、阿武隈での作戦会議は非常にエキサイトしたということである。
これについて、河瀬長官はじめ五艦隊側には五艦隊側の言い分があった。
まず、那智を出さないのは燃料問題を別としても、この虎の子の重巡洋艦を万一沈めたら、帝国海軍全体の戦力にとって非常に大きなマイナスになる。幕僚も全員戦死というようなことがあっては困るから、三人しか連れて行かない。それから、多摩が最後まで行動を共にしない理由は、一水戦の各艦だけでもキスカの泊地で相当の混乱が予想されるのに、多摩まで入らなくてもいいだろうというのと、もし敵艦隊に遭遇したら、多摩が偽電を発して相手をひきつけ、一水戦を黙って突入させるための囮になる覚悟だというのであった。
多摩同行のことに関しては、有近六次氏は戦後、手記の中で、これは一水戦から出した要望によるものであったと書いた。すなわち、阿武隈艦上での会議で、有近先任参謀が声の調子をあらため、
「今度はキスカ突入当日の朝、突入を決定するまで、艦隊長官が軍艦・多摩にでもお乗りなって同行していただきたいのであります。これは今まで日本海軍の作戦行動に見られなかった形式でありますが、その目的とするところは、最高指揮官同行による士気の振作と、撤収部隊がいかなる状況のもとでいかなる行動をするかを、長官によく見ていただきたいがためであります」
と言って、それが認められたというのであるが、「北東方面海軍作戦」は、「そのような事実はない」として否定している。
公刊戦史だから誤りがいっさいないということは言えないけれども、ここはやはり「北東方面海軍作戦」の執筆者、戦史|編纂《へんさん》官・坂本金美氏(元海軍少佐、海兵六十一期)の判断の方が正しいであろう。
有近中佐の人柄については、同期の秋雲駆逐艦長・相馬正平氏が、
「極めて明朗快活、多くの芸を身につけたクラスの人気者で、文才にもたけ、軍人よりも芸能関係がむしろ向いていたのではないかと思う」
と言っている。
「奇蹟作戦キスカの撤収」は貴重な記録にはちがいないが、多少、「文才」にまかせた読みもの風のところがあり、前の、司令官と先任参謀とどちらがまず「帰ろう」と言い出したかをもふくめて、有近氏がどうもかなり作りごとをした形跡がうかがわれる。
しかし単なる情景描写や会話のはしばしとちがって、多摩の同行を提案したのが誰か、第一次の時、最初に突入中止を口にしたのは誰か、これは戦史の上の大切なポイントであろう。
「北東方面海軍作戦」の記述や阿武隈副長・斎藤弥吉氏の回想にあやまりがないとするなら、キスカ撤収作戦の一方の立役者であった有近六次氏は、戦後、手記の中で大事な問題にいくつか嘘をついている。なぜであろうか?
これとは別のことがらであるが、「奇蹟作戦キスカの撤収」に、実は、筆者の有近氏が自分で「嘘を言った」と告白している部分がある。それは、艦隊がキスカに近づいてから鳴神湾へ突入するのに、東(表)から行くか西(裏)まわりの航路をとるかが作戦会議で問題になった時のことであった。
東から入るのが順路であり、西まわりの方は航程が長い上、海図に「精測未済」、波紋や|渦流《かりゆう》があって「避航スルヲ可トス」と書いてある。だが、安全な常用航路では敵艦隊と遭遇する算が大きかった。
どうしても西まわりをとるべきだと考えた有近中佐は、「すまないけど嘘を言わしてもらう」と覚悟して、
「私は昨年通ったことがありますが、少し気味が悪いだけで大したことはありませんでした」
と木村少将にいつわりを言い、そちらを選ぶよう進言したという。
有近氏に虚言癖があったとは思わないが、氏は手記を書く時もう一度、「すまないけど嘘を言わしてもらう」覚悟で、自分の敬愛する木村提督をかばったのだろうというのが、私の想像である。
有近氏も木村昌福氏も戦後亡くなって、こんにちでは確かめるすべがないが、突入するまぎわになって、臆病風にとりつかれたように「帰る」と言い出し、帰ってみたら案の定非難|囂々《ごうごう》で、今度は司令長官が多摩に乗って督戦隊よろしくついてくるというのでは、木村少将があんまりデクノボウに見えると有近氏は考えたのではないか。
それから、これとは全くうらはらの想像になるけれども、ものを書く時には誰しも多少自己を誇示したい気持にとらわれる。有近氏もまた、結果的には成功した作戦の「あれもこれも実は俺がやったんだ」と、誇ってみたい誘惑にかられなかったとは言えないかも知れない。
もっとも橋本重房氏は、
「私は十四日の突入中止を最初に言い出したのはやはり有近先任参謀だと思う。その進言をすぐ受け入れたのは、木村さんが人がいいからだ」
と、私の推察とは逆の意見を述べている。
霧の中の艦隊
第一次の作戦中止から一週間後の七月二十二日の朝、竹永少尉は天気図に等圧線を書き入れながら、久しぶりに「おや、これは」と眼を見張った。
オホーツク海に七四四ミリの発達した低気圧があらわれ、時速約三十キロでゆっくり東へ進んでいる。このままだとこの低気圧は二十五日ごろベーリング海に入り、西部アリューシャンは南高北低、理想型の気圧配置になって、キスカは南寄りの風に変り、ほぼ確実に霧の発生が予察された。夕刻には、幌筵海峡にも濃霧が来襲し、視界は五百メートル以下となった。再びありそうもない好機であった。
「全作戦支援」を名目とする河瀬司令長官坐乗の多摩をふくめて、作戦部隊は急遽出港準備をととのえ、同日二十時十分幌筵を出撃した。
巡洋艦・多摩、阿武隈、木曾、第十駆逐隊(夕雲、風雲、秋雲)、第九駆逐隊(朝雲、薄雲)及び駆逐艦・響、第二十一駆逐隊(若葉、初霜)及び駆逐艦・長波、駆逐艦・島風、駆逐艦・五月雨、補給船・日本丸及び補給任務にあたる海防艦・|国後《くなしり》の十六隻で、出港後、針路を百八十度にとり速力十四・五ノットで霧の中を南下した。
陸軍の藤井一美参謀は、小さな袋に入れた縫いぐるみの虎を持って、再び木曾に乗っていた。この虎は、幌筵の北方軍参謀・田熊中佐が、
「北白川宮大妃殿下からいただいた品だが、虎は千里行って千里帰るというから持って行け」
と言って藤井中佐にくれたものであった。
翌日も終日濃霧であった。
駆逐艦・響の艦長・森卓次少佐は、航海長に一時間ごとの気温と海水温度とを計らせ、その温度差から何とか独自に霧の予想を出そうと努力していた。第一次の時から何回も試みて、一定の温度差になると霧が発生するということがつかめてきたので、旗艦・阿武隈にあてて絶えずそれを報告した。
報告通りの霧になると、森艦長は航海長らとともに、「あたった、あたった」と大喜びをした。
キスカでは五十一根主計長の小林大尉が、
「『ケ』号作戦の結末のつくまでこの記事を書くことをやめる」
として、艦隊が幌筵を出た二十二日かぎり、日記をつけるのをよしてしまった。昨年舞鶴を出る前から、一日も欠かさずにつづけてきた日記であったが、もう一度あの焦慮と絶望感とを書きつづける気には、小林主計長はなれなかったのであろう。艦隊は無線封止をしているため、直前までキスカではその行動が分らないのであった。
救出艦隊はほぼ予定通りに航海をつづけたが、途中危いことがやはり何度かおこった。
二十三日から二十四日にかけて、補給船・日本丸、海防艦・国後、駆逐艦・長波、それに司令長官の乗った多摩までが、霧ではぐれてしまった。多摩や長波もさることながら、日本丸がいなくなっては、燃料の補給が出来ない。
そのため二十六日の突入予定は延期されることになったが、この時、陸軍が阿武隈と木曾に積んだ、「ないよりまし」の高射砲が思わぬ役に立った。阿武隈と木曾が後甲板でその試射をやってみたら、音を聞きつけて日本丸が合同してきたのである。多摩、長波とも合同することが出来た。
二十五日には艦隊の近くに敵の潜水艦があらわれた。視界不良で見えはしないが、阿武隈、朝雲、響三隻の無線班が、感度の大きな四千二百三十五キロサイクルの「NERK」の電波をキャッチした。
「NERK」はアメリカ海軍のもっとも一般的な「共符」であった。「共符」(共通呼出符号)というのは、「俺だ、俺だ」と呼んでいる者があるが、あとにつづく暗号電報を翻訳してみないと「俺」が誰だが分らない、その「俺」にあたる、発信者秘匿を目的とするコール・サインであるが、こんな時洋上で、四千二百三十五KCを使って電報を打っている「NERK」は潜水艦に決っている。しかし幸い、艦隊はこの潜水艦に発見されないですんだ。
二十六日には、視界二百メートルの濃霧の中から、はぐれていた国後が突然姿をあらわし、回避する間もなく阿武隈の右舷中央に衝突した。この混乱で、後続の駆逐艦・初霜、若葉、長波の三隻も三重衝突をおこした。
が、またしても幸いなことに、被害は各艦とも比較的軽微であった。若葉だけが同行不能となり、修理のため幌筵へ自力で帰っていった。若葉は二十一駆逐隊の司令駆逐艦であったから、駆逐隊司令は島風に移乗した。初霜は補給隊の護衛艦となり、キスカヘは突入せず、本隊が補給隊解列後幌筵へ帰った。
二十七日夜、キスカの第五十一根拠地隊司令官・秋山勝三少将は、こちらは弾薬の残りも少く戦力の維持が困難になって来ているのに反し、敵の行動は日を追うて積極的であるというような状況を述べて、
「(前略)万一今次ノ行動中止セラルルガ如キ事アリテハ次回行動迄甚ダ困難ナル事態トナリ又再興決行モ益々困難トナルベシ 天候ヲ見定メ好機ヲ逸スルコトナク敢行セラレンコトヲ希望ス」
と、「何としても今度は来てほしい」というふくみの電報を打った。これは幌筵経由で|大湊《おおみなと》の放送系にかけられて艦隊にとどいたものだろうと思われる。
この間、多摩と一水戦との間の信号や電話のやりとりは『ケ』号作戦第二期(第二次)戦闘詳報」に全部記録されているが、それを読むと五艦隊司令部と水雷戦隊司令部との間には、やはり感情的なしこりが残っており、片方が「さあやれ、さあやれ」と言うのに、片方が「そう焦りなさんな」と言っているような印象を受ける。
東進中の低気圧は、予想通り二十三日午後六時にはカムチャツカ東岸に達したが、予想出来なかったのはスピードがそのへんから五十キロに上ったことであった。
そのためキスカは、突入予定日の七月二十六日より一日乃至一日半早く霧になり、肝腎の二十六日には、低気圧が通り過ぎ西部アリューシャンを高気圧がすっぽりおおって、島は晴れ上ってしまった。
第一次の時とよく似た状況で、艦隊はまたしても突入を延期せざるを得なくなった。
多摩の上で、高塚先任参謀は困りはててウイスキーばかり飲んでいる。大和田参謀長は頭に血が昇っている。河瀬司令長官は、
「どうしたらええかなあ、どうしたらええかなあ」
と呟きながら、動物園の熊のように、後甲板をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、歩きまわっていた。
だが、幸いにも、七月二十七日、オホーツク海に再び七二五ミリの低気圧があらわれ、時速四十五キロで東へ進みはじめた。
二十七日、現地キスカの気象は北北西の風、風力六、薄曇、気圧七六四・四ミリ、気温摂氏十度、視程八(二十キロ以上)というあまり好もしくない状態だったが、幌筵は終日濃霧であった。
一番苦手の主務参謀・橋本中佐は多摩に乗って出かけてしまい、竹永少尉は幌筵の那智に残ってのびのびした気持でデータを睨んでいたが、今度こそは自分の編み出したプラス2の法則が適用出来ると思った。これなら二日おくれで、キスカはきっと濃霧になる。
○三〇〇、〇九〇〇、一五〇〇、二一〇〇と、一日四回、彼は自信をもって予報電報を発信した。
艦隊の待機海面ではしかし、二十八日の朝、霧が薄らいで太陽が見えて来た。そのため天測が実施出来て、艦位を確認することに成功したが、気象状況としては|香《かんば》しくなく、河瀬中将は判断に迷い、多摩の艦橋で沈思黙考をつづけていた。
幌筵からの気象電報を見ている橋本通信参謀は、昔の教官、多摩艦長の神大佐に、
「長官は迷っておられるようですが、行けば必ず霧になります。絶対やるべきです」
と進言した。
旗艦の艦長は参謀長の命を受け、幕僚の輔佐として勤務すべしという一条がある。神艦長はこれをたてに、
「通信参謀の言う通り、突っこむべきだと判断します。ぐずぐずしていたら時機を失しますよ」
と、司令長官に強い督促をおこなった。神大佐は敗戦の年の四月、総隊司令部参謀として大和の特攻出撃を立案し強行させた、いい意味でも悪い意味でもきわめて積極果敢な人であった。
神艦長の進言で、ついに突入が決定した。
キスカでは主計長・小林亨大尉が、この日から、一週間ブランクにしていた日記を再びつけはじめた。
十七時、補給隊を解列し、キスカをさして艦隊が進んでいくうち、霧と小雨とをたっぷりふくんだ低気圧が張り出して来、二十八日夜には濃霧となった。多摩に乗っていた第五気象隊長の石原英男中佐は、大和田参謀長と抱きあって喜んだそうである。
低気圧の中心はコマンドルスキー島まで出て来ており、高気圧は南下して、キスカの気圧は下がりはじめ、二十八日夜には現地も霧になった。
キスカの風力計が急に故障して、風向が分らなくなったが、これだけデータの揃った天気図を見ていれば、気象関係の人なら誰でも、あしたキスカ方面の天候がどうなるかは言いあてることが出来る。竹永少尉ももう、百パーセントまちがいなしという確信を持った。苦しかった彼の役目も、これで終ったようなものであった。
七月二十九日早朝、木村少将は第五艦隊司令長官にあてて、
「本日ノ天佑ワレニ在リト信ズ 適宜反転サレタシ」
という信号を送らせた。
多摩は、
「成功ヲ祈ル」
と答えて次第に西へ遠ざかって行った。
一本棒になった水雷戦隊が、速力を上げながら、キスカをさして、波を蹴立てて突き進んで行く姿は、多摩の上から眺めていてさすがに頼もしかったという。
またしても延期々々で、望みを失いかけていたキスカの守備隊員たちも、前日からの霧を見て、今度こそは大丈夫なのではないかという気持になっていた。
二十九日、キスカが打った最後の気象電報は、
「キスカ、風向風力不明、霧、気圧七五四・二ミリ、気温摂氏十一度、雲量雲高不明、視程一」
というものであった。視程一は、軍艦の艦橋に立って艦首が見えないという、最悪の――、この場合は最良の状態である。二日前に八で二十キ口以上の展望がひらけていたのが、視界五十メートル以下になった。
日本時間をそのまま使っているので、朝九時ごろ、昼飯を本部士官室で食っていた軍医長・小林新一郎大尉は、五十一根通信長の名和大尉が扉を荒々しくあけて飛びこんで来、副長に向って、
「ナニナニ四です」
と叫ぶのを聞いた。
入港予定時刻をくり上げる場合は、二時間繰上げが「ヤ」、三時間が「ハ」、四時間の場合「ユ」という風に略語で知らせてほしいということが、五十一根司令部からあらかじめ艦隊側に申し入れてあった。敵に感づかれないように、呼出符号も何もつけず、「ユ、ユ、ユ」と連送するのである。「ナニナニ四」と小林軍医長が聞いたのは、もしかすると「略語『ユ』です」と名和大尉が言ったのであったかも知れない。
副長もしかし意味をつかみかねたらしく、
「何だ、それは?」
と聞き返した。
「入港四時間くり上げであります」
と名和通信長は答えた。
飯を食っていた士官たちは総立ちになった。十六時の予定だったものが十二時になった。あと三時間しかない。みなは一斉に士官室を飛び出した。
兵隊の中には、|外套《がいとう》や上着のポケットにあれもこれもと、あわてて私物をつめこんでいる者もあったが、
「よせ、おい。あんまり欲をかくと神様のお気にさわるぞ」
と誰かがとめた。
海軍部隊はそれでもまだよかった。遠い七夕湾地区の陸軍峯木部隊は、支度をして鳴神湾まで出て来るのにもう、ぎりぎり一杯の時間しかなかった。
木村艦隊は二十ノットに増速し、キスカをさして急行しつつあった。
キスカ湾外は依然として深い霧だった。
秋雲駆逐艦長・相馬中佐は、
「南無や八幡|大菩薩《だいぼさつ》。まことに勝手なお願いですが、ちょっとの間だけ霧を晴らさせたまえ」と祈ったという。その願いが|叶《かな》えられたかのように、十一時五分、霧が少し薄くなって、艦隊はキスカ島南端を視認することが出来た。
ほんとうは有近先任参謀も通ったことのない危険な西航路へ、艦隊はまわりこんだ。とろりと|凪《な》いだ海面に、波紋や|渦《うず》があって気味が悪かった。
阿武隈の艦橋では、見張員の、
「異状ナシ」
という声や、測深員の、
「水深六十メーター、変化ナシ」
「|面舵《おもかじ》、しずかにとれ」
と、航海長の声がするだけで、木村司令官は終始無言であった。時間のたつのがひどくおそく感じられた。
島の岸をわずかに一|浬《カイリ》はなし、霧の中を慎重に進んでいた艦隊は、十三時、キスカ富士の北を迂回してようやく目ざす鳴神湾に近づいた。その時、阿武隈の艦首にいた第一分隊の見張が、「左舷前方、敵艦」と叫んだ。
艦橋からは見えにくいが、下の見張にはよく見えるらしい。まちがいない、巡洋艦らしいというので、「魚雷戦用意」が下令され、阿武隈は|咄嵯《とつさ》に魚雷四本を発射した。発射後、秒時計の「三分」指示と同時に命中の|轟音《ごうおん》がおこったが、そのあとは何事もなく、海は再び静まりかえってしまった。
鳴神湾外に小キスカ島という軍艦に似たかたちの島があって、これを誤認したものであった。
キスカ島旧航空隊あとの海岸に集結待機していた守備隊員たちは、霧の中に上る大きな水柱を見、轟音を聞いて、さては海戦がはじまったかと、首をすくめる思いであったという。阿武隈の水雷長・石田大尉は、あとでまた、
「一番が敵だ敵だとわめき立てあっと打ち出す二十万円」
という狂歌を作った。当時、魚雷一発は約五万円と言われていたのである。
海岸では合図の探照灯を照射していた。根拠地隊電探係(聴音班?)の、「艦隊の感度あり」という報告も、伝令によって伝えられた。
見張が拡声器を使って、
「艦隊が入港します。艦隊見えました」
と言い出しだのは、それから間もなくであった。
松ヶ崎の鼻をまわって、霧の中から、阿武隈、木曾以下のぼんやりとしたなつかしい艦影が見えて来た。
陸軍の穂積少佐が、
「あア、軍艦だ、ほんとうに軍艦だ」
と独り言のように叫んだ。
峯木十一郎氏はその手記に、
「霧の中ではあるし、あの時はさながら夢を見ているような心地であった」
と書いている。
|艦《ふね》の方からは、うっすらと白い砂浜が見え、鎌倉の海岸でも眺めているような感じだったという。
「第一次隊乗艇急ゲ」
の命令で、キスカの陸海軍将兵が大発に乗って浜をはなれるころには、湾外の警戒についた島風その他の駆逐艦を除いて、一水戦の各艦は次々所定の位置に|錨《いかり》を入れつつあった。
阿武隈の艦橋で、前甲板からの「錨よろし」の報告を聞きながら、各艦の投錨状況を見ていた木村少将が、両手で有近中佐の肩を叩いて、
「先任参謀、よかったナ」
と一と言いった。
木村司令官の眼には、涙がうかんでいた。
舷側から、
「ご苦労さま」と呼びかける乗組員たちに、
「待ったぞ、待ったぞ」とか、
「ありがとう、ありがとう」と答えながら、守備隊員たちは|縄梯子《なわばしご》をつたって乗りこんで来た。
阿武隈艦長の渋谷紫郎大佐は、涙で両|頬《ほお》をいっぱいに濡らして、それを眺めていた。|簀巻《すま》きにされて吊り上げられる要担患者もあった。
余計な私物はもとより、小銃機銃等は乗艦前すべて海中に投棄するよう命ぜられた。兵器は命より大切に扱わねばならぬと教育されて来た陸軍の兵隊にとって、これには、かなり強い心理的抵抗があったらしい。事前に峯木部隊の参謀が海軍側を訪れて、小銃だけは持って帰らせたいと何度か交渉をしたが、海軍はこれを拒否した。
しかし内地帰還後、状況報告のため陸軍省に出頭した峯木少将は、やはり富永陸軍次官から、
「皇室の御紋章のついた銃を捨てて帰るとは以てのほかである。特に現地の陸海軍部隊が、勝手にそんな協定をしたことは甚だけしからん」
とひどい叱責を受けた。アッツの救援要請電報のことで峯木氏が叱られたのもこの時のことである。もっとも、駆逐艦・秋雲のように、せっかく持ってきた物はよろしいと、陸兵の小銃の持ちこみを許した艦も少数あった。
作業の邪魔にならないよう、収容された者は皆、係がすぐ下甲板へ誘導した。海軍の秋山少将は阿武隈に乗艦した。陸軍の峯木少将はなかなかやってこないので、藤井参謀が心配していたが、最後の大発で木曾に到着し、
「おう、お前来ていたか。よかった、よかった」
と、藤井中佐の肩を|叩《たた》いた。
各隊、行動はきわめて迅速であった。
十四時二十分には「出港用意」の|喇叭《ラツパ》が鳴り出した。用のなくなった大発は、船底に穴をあけて全部湾内に沈められた。
|投錨《とうびよう》後五十五分で五千二百名の収揚を完了した救出艦隊は、木曾と第九駆逐隊と響が十四時二十五分、阿武隈と第十駆逐隊とが十四時三十五分、錨を上げて鳴神湾を出港した。
余談になるが、高気圧が北へ上りすぎて日本がカラ梅雨の年は、概して台風の発生が多い年だそうである。ちょうどこの日、内地では長崎に台風が上陸していた。だが、戦争中天気予報気象通報は新聞にでなかったしラジオでも放送しなかったから、一部気象関係者と長崎地方の人以外、誰もこのことは知らなかった。
栄光と幻影
帰途も、敵艦隊との遭遇をおそれて同じ西まわりの航路がとられた。霧は相変らず深かったが、小林軍医大尉が阿武隈の士官室を出てデッキに上ってみると、雲の中からキスカ富士がぽっかり頭を出していた。小林軍医長は万感胸に迫る思いでしばらくそれを眺めていたという。
艦隊がアッツ島の沖を通過する時には、「万歳、万歳」という英霊の声を聞いたという人が、五十一根の近藤敏直少尉、工兵部隊の関根欣幸陸軍上等兵ほか何人もいる。穂積大隊の林友三陸軍中尉は、
「アッツ島の英霊の声だといって、上甲板で騒いでいるのは知っていたが、疲れきっていて出て行けなかった」
と語っている。
これが何であったかは分らない。アッツやキスカの海にたくさん|棲息《せいそく》している|とど《ヽヽ》、|せいうち《ヽヽヽヽ》の鳴声は、時にエンジンの音のようにも人の叫び声のようにも聞えるが、それが聞えて来たにしては、一水戦の行動図でみるかぎり、艦隊の位置はアッツの岸から離れすぎていた。おそらくは、異常な心理状態にあった人々の幻聴であったろう。
阿武隈は秋山司令官以下千二百名のキスカ守備隊員を乗せていた。その寝食の面倒を見るのは主計長の役目であったが、便乗者たちには、横になるのがやっとといった程度のスペースしか与えることが出来なかった。
市川主計長は、前もってデッキに仮設便所をいくつもこしらえておき、配食の方も自ら|烹炊《ほうすい》所へ行って主計兵の手伝いをした。戦闘配食で、|悠長《ゆうちよう》なことはしていられないから、炊きたての飯を片っぱしから握り飯にするのである。一週間以上バスに入っていない市川大尉は、消毒した新しい軍手をはめて主計兵たちといっしょに熱い握り飯をつくった。あとで、
「おかげで手がこんなにきれいになりました」
と、白くなった両手を木村司令官に見せたら、
「ひどいヤツだ」と、木村少将は笑ったそうである。
駆逐艦・秋雲は、大阪毎日新聞の記者とカメラマンと、二人の報道班員を収容していた。大毎の記者は、
「占領初期に、毎日と朝日でアッツ、キスカに記者とカメラマン派遣の話があって、行先は両社がジャンケンで決めたんですが、勝った朝日はアッツヘ行って玉砕し、負けた私たちはおかげで助かりました」と、相馬艦長に話した。
艦隊の速力は二十八ノットに上げられた。
その日の夕方、阿武隈は右舷正横にアメリカの浮上潜水艦を一隻発見した。距離は約二千メートルであったが、大型双眼鏡で見ると何だかのんびり浮いている。
「司令官。どういたしますか? 一発やりましょうか?」
有近先任参謀が伺いを立てたが、木村少将は、
「この際だ、頬かぶりでいけ。われわれは潜水艦を撃ちに来たんじゃない。無事に人をつれて帰ればそれでいいんだ。攻撃をしかけてもし敵の大部隊でもあらわれて来たら、厄介なことになる。さわらぬ神にたたりなし。毛を吹いて|疵《きず》を求めるな」と言ってそれを制止した。
木村艦隊の姿は、潜水艦の方でも見ていたはずだが、こちらが煙突を偽装していたおかげで味方の艦艇と思ったらしく、攻撃をしかけて来る様子も緊急の電報を発信する様子もなく、間もなく潜没して行ってしまった。
こうして第一水雷戦隊は七月三十一日午後から八月一日朝にかけて、全艦無事幌筵泊地に帰って来た。
キスカの将兵たちは、占守、幌筵の日本の島を見て初めて「助かった」という実感が湧いて来たらしく、
「ああ、木がある、木がある」
と、喜びの声をあげたということである。
第五十一根拠地隊司令官・秋山少将は、挨拶に那智を訪れた時、わざわざ竹永少尉を呼んで厚く礼を述べた。
現金なもので、キスカから帰って来た士官たちはもとより、それまでろくに口もきいてくれなかった那智のガンルームの連中までが、彼の手を握って、
「ありがとう、ありがとう」
「貴様よくやった、ほんとによくやった」
と、まるで竹永気象長が一人でこの作戦を成功させたようなことを言い出した。
幌筵に来ていた第五方面軍司令官、峯木少将の直属上官である樋口季一郎陸軍中将も、たいへんな喜びようで、橋本通信参謀を呼んで礼を言い、共に祝杯をあげた。
この樋口中将は、かつてハルビンの特務機関長として在勤中、ナチス・ドイツを追われシベリアを通って満州へのがれて来た約二万人のユダヤ人難民を保護し、その命を救った人である。昨年(昭和四十五年)亡くなった時、日本にいるユダヤ人たちがその遺徳をしのび、上智大学のソロモン博士は個人的な希望として、永く中将を記念するためにイスラエルに「ヒグチ」という町を作りたいと述べたことなど、新聞に大きく出たから記憶にとどめている読者もあろう。
樋口中将は橋本重房中佐に、
「秋田に私の懇意な、非常に美味い酒を造る酒造元がある。そこの醸造用の六尺樽へ梯子をかけて登って、新酒に首をつっこんで飲むのは、最高のもてなしとされている。この度の祝いと礼に、あなたに是非一度それをやってもらいたい」
と言った。
橋本中佐は飲めない口だし、その後秋田を訪れる折もなくてついにその機会を得なかったが、高塚先任参謀は、
「ツサがいたおかげで成功したよ。何か君に記念の品を上げたいが、これは俺がシャムの武官をしていて帰国する時、ワニットという向うの商工大臣が餞別にくれた物だ。取っておいてくれ」
と言って、銀のシガレット・ケースをくれた。名前入りの立派な品で、橋本氏は今でも大切にこれを保存している。
のちに軍令部へ報告に行った時にも、彼は聯合艦隊司令長官からとしてポンカンを一と箱、海軍大臣副官からウイスキーを一と箱贈られ、その労をねぎらわれた。
海軍の侍従武官は、
「陛下がキスカ撤収作戦のことでは非常に宸襟を悩まされて、成功したら夜半でも起して知らせるようにとおっしゃっておられたので、お休み中のところへお知らせ申し上げたら、『そうか、それはよかったネ』との御言葉がありました」
と、橋本中佐に話した。これを聞いた時はほんとに嬉しかったと、橋本重房氏は言っている。
陸軍の峯木司令官は、「ケ」号作戦のはじまるころから、キスカ島に咲き乱れている草花を、一種類ずつ手帖にはさんで押花にし、もし幸いに生きて還れたら母校にでも記念に寄付しようと思っていた。帰還後、幌筵へ侍従武官・坪島少将の御差遣があり、聖旨伝達式のあと、会食の際、陸大教官当時の同僚だった坪島少将にこの話をしたところ、
「それはたいへん珍重なものだから、母校より、是非陛下に献上してほしい」
と言われた。
たまたま高射砲隊の副官で、北海道帝大の醸造科を出たある中尉が、同じようにキスカの植物の標本を作って持って帰っていた。それは、峯木司令官のものよりずっと立派に整理してあったので、峯木少将はこの中尉に頼んで自分の分も整理してもらい、坪島侍従武官に託した。
後に、武官から、
「陛下の御覧に供したところ、植物にお詳しい陛下はたいへん御満足だった」旨の通知があったという。
竹永一雄氏は、終戦直後佐世保で恩師の藤原咲平博士に会った時、
「あの時は軍令部で、『あなたのところの養成所を出た竹永少尉が実によくやってくれました』とほめられたよ」
という話を聞かされた。
ガダルカナルの撤退以後、華々しいことの一つもなかった帝国海軍にとって、このキスカ撤退は、たしかに明るい大成功の作戦であった。こんにちでも人々がこれをしばしば話題にするのは不思議ではない。
しかしなぜこんな奇蹟のようなことがおこったかというと、その最大の原因は、実はアメリカ側のミスにあった。
七月二十六日の○時七分、戦艦をふくむ有力なアメリカ封鎖艦隊は、キスカの南西九十浬にレーダーで日本艦隊らしき目標を探知し、戦艦・ミシシッピー、ニュー・メキシコを先頭に約三十分の猛烈な砲戦を展開した。
巡洋艦・サンフランシスコ、サンタフェのレーダー係は、そんな目標は見えないと言って、艦長と砲術長に|叱責《しつせき》された。
ほんとうはサンフランシスコの電探員たちの方が正しかったので、それは奇妙な幻の日本艦隊であった。東のアムチトカの島影の反射がレーダー・スクリーンの上に出たのだろうという説もあるが、実体は何であったか、今もって分らないらしい。
いずれキスカに上陸作戦を実施するつもりで、島の周辺を|遊弋《ゆうよく》しながら時々艦砲射撃など加えていたアメリカ艦隊は、この一方的な戦闘のために補給の必要を生じ、一日だけ島の囲みをといて、南の方の補給地点に集合したのである。
それが七月二十九日であった。
木村司令官の「帰ればまた来られる」といった沈着な判断、それを輔佐しあるいは指導した五艦隊側、第一水雷戦隊側の各幕僚や河瀬司令長官はじめ、艦船部隊将兵の努力はむろん充分にたたえられてしかるべきである。気象関係者の功は特に大きい。これまで日本の戦史に、気象、特に予報を直接利用した作戦というものはほとんど無かった。だが、奇蹟中の奇蹟はやはり合衆国海軍のミスであって、この一事がなかったならば、撤収作戦があれほど見事な成功をおさめたかどうかは疑問である。山本五十六長官の言い草ではないが、「礼を言うならアメリカに言う」のが一番先であったかも知れない。
キスカ守備隊は、引揚げの時、軍用犬として飼っていたシェパードをはじめ数匹の犬を島に残してきた。
八月十三日、何も知らずにキスカ上陸作戦を開始した米軍は、過失によって百名以上の戦死傷者を出したりした末に、やっと島がもぬけのからであることを発見した。彼らはアメリカ人らしい言い方で、「われわれは幽霊と激戦をまじえた」、「いくら降伏勧告ビラをまいても、相手が犬では読めなかっただろう」などと書いているし、橋本重房氏は、戦後GHQに呼び出され、対ソ諜報問題とキスカ撤収作戦について事情聴取をされた時、米軍のキャプテン・ラッセルという人から、
「キスカでは君たちにうまくやられたよ。自分らは馬蹄勲章をもらった」
と言われたそうである。
ひどく面目を失ったとか、不名誉な思いをさせられたという意味のようだったと、橋本氏は理解し記憶している。話が横道へそれて重箱のすみをほじくるようなことになるけれども、この英語は、実はよく分らない。
「馬蹄勲章(horseshoe medal 或は horseshoe decoration)という言葉は、どんな辞書にも出ていないし、アメリカ人の知人をふくめて、誰もがそんな英語は聞いたことがないと言う。あちこちあたってみた末に、結局在日米軍府中基地の戦史に詳しい若い将校と溝田主一氏との推測が期せずして一致した。「horse-shit」という言葉を橋本氏が「horseshoe」と聞きちがえたのではないかというのである。
「horse-shit」は「馬糞」だが、馬糞にしても甚だ品の悪い言葉で、アメリカの若者などが、「馬鹿な目にあった」とか「チェッ、馬鹿なことを」とかいった意味合いで、よく、
「Oh,horse-shit!」
という表現をするという。
溝田主一氏は、加州スタンフォード大学を出て永年通訳官として海軍に奉職し、かつては米内光政大将、山本五十六元帥らとも近しく、日本の海軍は溝田のおかげで戦前も終戦処理の時もずいぶん得をしたと言われた人である。
溝田氏はさらに、東京のアメリカ商工会議所の常任理事、ウィリアム・ジャクソン氏に確かめてみてくれた。
戦争中アメリカ陸軍の少佐だったジャクソン氏の答は、
「やはり horse-shit 以外の言葉は考えられない。軍人なら何かの思いつきか冗談で、それに medal か decoration をつけて或は『馬糞勲章』と言ったということもあり得るかも知れない」
というのであった。
言葉の問題はさておき、当時米軍一般に、「いまいましいけど、キスカではまんまとしてやられた」という気持があったことは確かであろう。
そうして彼らはそれを隠そうとしなかったのだが、結局のところ、日本軍は島から逃げ出したのである。
彼我もし立場を異にしていたら、私たちの大本営報道部は、
「敵は我方の猛爆をおそれていち早く|遁走《とんそう》しあり。本十三日帝国陸海軍は同島を無血占領せり」
とか何とか発表したところではないであろうか?
駆逐艦・初霜の航海長だった坂牧平一氏は、
「キスカ撤収作戦は、そのころの日本の戦力を象徴するような消極的作戦の成功例の一つだと思う」
と言っている。そのことは、戦後、名物の髭もそりおとし、山口県|防府《ほうふ》市の製塩会社の社長におさまって、昔の武勲をいっさい語ろうとしなかった木村昌福提督がもっとも深く|弁《わきま》えていたように思われる。われわれ日本人がキスカ撤収の成功を、まるで鬼の首でも取ったように言い立てるのは、あまり感心したことではないような気がするのである。
朝雲駆逐艦長だった柴山一雄氏は、
「人は誰でも勢いに乗ずるとあやまりを犯す。どうしてこんな所へ兵力を進めたものか。下手をすればアッツの守備隊と同じように全員玉砕しかねないところであった。戦後二十六年、往時を回顧して幾多示唆に富むものが頭をかすめる」
と、感想を述べている。
柴山氏の問いに答えるのは必ずしも容易でないが、この感想を読んで、私は一昨年の自分のアッツ島行きのことを思い出した。
アッツ、キスカヘ行こうと思い立った私たち(カメラマンの渡部雄吉氏と雑誌「太陽」の編集者と私)は、在日米軍司令部へ交渉に何度も足を運んだが、そのたび、アメリカの軍人たちは、
「キスカは無人島で、アッツにも見るようなものは何もない。いったい何しにアッツヘ行くのか?」
と、極力思いとどまらせたいような口ぶりであった。
アッツ島の西百マイルは、もうソ連領コマンドルスキー諸島である。あまり「よせ、よせ」と言われるので、これはきっと秘密の大レーダー基地か何かがあって、外国人に見てもらいたくないのだろうと私は想像した。キスカは無人島だというが、アッツには当然水上機や快速艇などがいて、頼めばキスカヘ連れていってもらえるのではないかとも思った。
ところがアッツ島に着いてみたら、ほんとうに何もなかったのである。
飛行場にはターミナル・ビルディングのかわりに白ペンキ塗りの小屋が一つあるだけで、
「アッツ国際空港(むろん冗談)。
東経百七十三度北緯五十二度。
アメリカ合衆国の最西端。
人口、男三十六、女ゼロ」
と英語で書いてあった。
まさしくその通りで、ローランの中継ステーションに勤務する米国コースト・ガードの兵員が三十何人、米空軍の兵隊が四、五人いるだけ、飛行機はおろかモータ・ボート一隻ありはしなかった。
三日間、コースト・ガードの宿舎で厄介になりながら、私は持っていった「北東方面海軍作戦」を読んで、昔、日本の軍人たちも、私と同じく想像にもとづく誤った判断、幻想にとりつかれたのだろうなと思った。
当時の文書には、いろいろもっともらしいことが書いてあるが、結果的にはまったく役に立たなかったキスカやアッツを、なぜ日本軍が占領したかといえば、要するに一つは軍人の名誉欲、勲章の問題であったと私は推察する。そのころ南では、いたるところで派手な戦闘が行なわれていたが、北の部隊はまだ何もやっていない。ひとつアリューシャンにでも攻めこませて手柄をたてさせてやりたいということである。
二つには、西部アリューシャンにアメリカはきっと着々軍備を増強しつつあるだろう、いずれこの方面から日本本土をうかがいに来るにちがいないし、万一、対ソ開戦にでもなった場合、ここを取っておかないと厄介なことになるという、恐怖の幻影であった。
しかし、十七年六月の無血占領がそれを証明している通り、実際に攻略してみたら、こんにち同様、何の軍事施設もなく、人もろくに住んでいなかったのであった。
同じことはアメリカ側についても言えるかも知れない。
南方でフィリピンをやられてもソロモン群島をやられても、それはアメリカの土地ではなかったが、アッツとキスカだけは正真正銘の米国領であった。そこへ日本が|噛《か》みついて来た。アメリカ陸海軍の|面子《メンツ》にかけてもこれは奪い返さなくてはならぬというのがその一つ。もう一つは、やがて日本がここを根拠地にして、アリューシャン列島沿いに米本土へ攻めて来はしまいかという恐怖であったと、私は思う。
結果論として、あと二年アメリカがそっとしておきさえしたら、彼らは一兵も|喪《うしな》うことなしに二つ島を取り返せたのであった。
煩を避けたいと称しながら、ずいぶん煩雑な書き方になったが、イソップ風に言うなら、これがこの物語の結論である。
[#改ページ]
アッツ紀行

アメリカとの戦争が始まって二年目(昭和十七年)の五月、大本営はMI作戦AL作戦と呼ばれる二つの雄大な作戦計画を練り上げ、その実施にふみ切った。
MIはミッドウェーで、中部太平洋のミッドウェー島を攻略し、宿敵のアメリカ艦隊をおびき出して一挙にこれを殲滅、勝利の転機をつかもうというもの、ALはアリューシャンで、北方アリューシャン列島の要地を占領し、アラスカ方面からの敵の攻勢を封じようというものであった。
開戦以来半年、連戦連勝、向かうところ敵無しの|概《がい》があった帝国海軍は、この作戦に無傷の聯合艦隊のほとんど全勢力を投入した。攻撃部隊の規模はアメリカ太平洋艦隊のそれをはるかに上回り作戦が失敗に終わるなどとは誰も夢想すらしなかったが、結果は周知の通り、ミッドウェーでは暗号を解読して待伏せていた米軍にまんまと裏をかかれ、日本は虎の子の航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻を喪って敗退した。勝利の転機になるはずだった作戦は、日本にとって敗北の最初の転機となった。
ただ、第二義的なAL作戦の方だけはほぼ順調に進捗し、攻略部隊は六月、西部アリューシャンのアッツ、キスカの二島を占領することが出来た。MIで敗れた大本営にとって、ALの成功はわずかななぐさめであったと思われる。
陸軍部隊が主としてアッツ島の守備につき、海軍の舞鶴第三特別陸戦隊が主としてキスカ島の守備についた。
はじめアッツに上陸した陸軍の北海支隊は、八月末にキスカヘ移動して海軍の指揮下に入り、一旦この島をからにしたが、十月末には北千島要塞歩兵中隊を中心とする新しい部隊がアッツを再占領している。再占領といってもこれは、兵を引いたところにまた兵を入れただけの話で、戦争をしたわけではない。
アッツ、キスカの占領保持がほんとうはどんな意味を持っていたか、そのことはあとで書くが、こうして日本軍の将兵は、霧の多い陰鬱なアリューシャン西部の島できびしい冬を越すことになった。
その間約一年、アメリカは、奪われた島々に絶えず空襲や艦砲射撃を繰り返していたが、翌昭和十八年の五月、ツンドラの島にようやく春のきざしが見え始めるころ、突如本格的な奪回作戦に乗り出して来た。位置からいうと、アッツ島が西にあってキスカの方がアメリカ本土に近い。米軍はしかし、キスカを通りこしていきなりアッツを衝いて来た。
もともと補給のむずかしい北の離島で、持っていたわずかな飛行機もすでに全部消耗しつくしていた日本の守備隊は、本腰を入れたアメリカの反攻の前に到底敵ではあり得なかった。三週間にわたってよく苦しい抵抗をつづけたが、五月二十九日夜、部隊長・山崎保代大佐の、
「野戦病院収容中の傷病者はそれぞれ最後の覚悟を定め、処置するところあり。非戦闘員たる軍属は各自兵器を執り、陸海員とも一隊を編成、攻撃隊後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるやう覚悟せしめたり」
「従来の懇情を深謝するとともに閣下の健勝を祈念す」
「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」
という、北方軍司令部あての悲壮な電報を最後にして消息を絶ち、全員玉砕したものと認められた。
アッツが陥落すると、キスカは文字通り孤立無援の状態になり、大本営はキスカを放棄して守備部隊を内地へ引き上げさせる方針を決めた。
米軍は次にはキスカを陥とすつもりで海空から厳重な包囲監視をつづけており、これはきわめて困難な仕事であったが、同年七月二十九日、濃霧の中での撤収作戦が奇蹟的に成功して、キスカ島守備隊は幸運にも全員生きて日本へ帰って来た。
東京では情報皆無
以上が、昭和十七年の六月に始まって十八年の七月に幕を閉じた北方作戦の概略であるが、あれから二十六年、アッツ、キスカが現在どうなっているかは、知っている人がほとんどいない。
戦後二度、遺骨収集をかねた慰霊団がアッツ島へ渡ったことがあるけれども、詳しい報告は一般には伝えられなかったようであった。
それで私たちは、カメラとペンをたずさえて一度この古戦場を訪れてみようということになったのだが、何しろ事情がちっとも分らない。どこからどうやってアッツヘ行ったらいいのか、初めのうちはそれすら分らなかった。
根室から特別に飛行機か船でも出してもらえばほぼ二千キロ程度の距離だが、そんなことは不可能である。やっと、アラスカのアンカレッジからアッツ島通いの空の定期便が、週二回出ていることが判明したが、それ以上は東京でいくら奔走してみても何もつかめない。
とにかくIDカードと称する米軍発行の身分証明書が|要《い》るらしいというので在日米軍にかけ合いに行くと、
「一体何しにアッツやキスカヘ行くんだ? 宿泊施設も無いし、見るものなんか何も無い。何も無いという以上の詳しいことはここでも分らない」
おやめなさいと言わんばかりの口調であった。
アッツの西百マイルは、もうコマンドルスキー島というソ連領の島である。秘密の大レーダー基地でもあって、外国人にあまり見てもらいたくないのではあるまいかと想像したりした。
それでも無理矢理頼んでIDカードを出してもらい、私たちは防寒具を携えてとりあえずシアトル経由でアンカレッジヘ飛んだ。昭和四十四年九月初めのことである。
アンカレッジの空港には、ヨーロッパヘの往き還りに何度か降りたことがあるが、町へ出るのは初めて。郊外にポーテージ・グレーシアという美しい巨大な氷河などあり、日本では残暑の季節に、はや寒々とした如何にも北国のたたずまいであった。
日本レストラン「日光ガーデン」の経営者、二世のジョージ・木村氏は、日本人旅行者の面倒をよくみてくれる親切な人で、古くからのアラスカの住人だが、アリューシャン列島へは行ったことがない、アッツやキスカのことは何も知らないという。
ともかく木村氏のすすめで、市内のコースト・ガード(沿岸警備隊)の事務所を訪れ、そこでようやく少し様子が分って来た。
要するに東京で聞いていた通り、何も無いらしいのである。アッツ島にはコースト・ガードの兵隊が少数、南極の越冬隊のように一年交替で勤務しているだけ。キスカは完全な無人島だという。
しかしアラスカでは、小型飛行機が人々の手軽な足になっていて、どこでも簡単にチャーター出来ると私は聞いていた。アッツで飛行機をやとって無人島のキスカヘ行けないだろうかというと、アッツのコースト・ガードは飛行機も船も一つも持っていないと、まるで嘘のような話である。
それよりもアッツ島の兵舎に滞在するには、ジュノーの本部の許可を取る必要があるからと、係官はテキパキその処置をしてくれた。
翌日アッツ行の飛行機が出る。それまでの間に私たちは、アンカレッジのフォート・リチャードソン陸軍墓地を車で訪ねて行った。米軍の墓地の中には、アッツの戦没日本兵の墓があるのである。
その一郭には、当時アメリカ軍に協力して戦ったソ連軍、カナダ軍の将兵の墓と、敵であった日本軍人の墓とが同居していた。ソ連やカナダのは一人一人の墓石があって、「モイセーエフ、ソ連空軍大尉」とか「ジョン・カービン、カナダ空軍中尉」とかいう名前が彫ってあるが、日本のは一つの大理石のモニュメントに「タカハシ・ゴイチ」「クボ・ヒサハル」など十八人の姓名と、ほかに二百十七人の氏名不詳の兵士を葬ったと記してあるだけであった。碑の背後に木の角塔婆が一本立っていた。これは「日本仏教文化協会主催、遺族代表、慰霊参拝団」が残して行ったもので、薬師寺の橋本凝胤和尚の名が見えた。
あたりは白樺の森で、すでに木々は紅葉し草は枯れはじめていた。遠くに雪の山が見え、参詣する人の姿もない静かな場所であった。
無人島と化したキスカ
アンカレッジからアッツヘ飛んでいるのは、リーヴ・アリューシャン・エアウェイズという会社の飛行機である。「リーヴ」とは何の意味かと思っていたら、それはボブ・リーヴという人の個人会社なのであった。
次の日の朝、空港でアッツ行のDC6に乗りこむと、ジャニース・リーヴという名のスチュワーデスが乗っていた。あなたはリーヴ社長の何かにあたるのかと聞いてみたら、
「わたし娘です」
という。
前半分は貨物室で、うしろ半分の客席はほぼ満員。この飛行機が途中、コールド・べイ、アダック、アムチトカ、シェミヤと寄ってアリューシャン列島ぞいに、一日がかりでアッツまで行く。まずは鹿児島行の長距離普通急行という感じである。
飛行機がとまる度に、客は段々少なくなる。空から見ると、どの島も苔らしき薄い緑におおわれ、沼があちこちにあり、荒涼としていて、ちょっと月の表面のような眺めであった。
地下原爆実験で新聞を賑わせたアムチトカ島を出ると、間もなく飛行機はキスカの上を通過する。キスカヘは行けないのだから、せめて飛行機の窓からでもよく眺めておきたいと私たちは思っていた。
すると、まるでこちらのその気持を察したかのように、機長がわざわざ、
「自分は数年前に、日本人の遺族団体をアッツヘ輸送したことがある。要望があれば何でも遠慮せずに言ってくれ」
と申し出てくれた。実はこういう目的で旅行をしている、それではどうかなるべく低くキスカの上を飛んでほしいと私は頼んだ。
しばらくすると、スチュワーデスが私を呼びに来た。機長が操縦席に来いと言っているというのだ。行ってみると、レーダーに地図の通りのかたちにキスカがうつっており、肉眼でも前方にもう青黒い島影が見えていた。
機長は高度を下げ始めた。「何でも」と言ったってチャーター機ではないのだから、常よりいくらか低く島の上を飛んでもらえる程度のことだろうと思っていたら、彼はやがてキスカ島の上すれすれに舞い下り、緑色の無人の丘を、こちらがヒヤヒヤするくらい、這うように舐めるようにして上昇し、何度も何度も翼を傾けて旋回して見せてくれた。ほかの乗客はさぞびっくりしただろうと思う。
打ち捨てられた日本の輸送船の赤錆びたのが、あちらにもこちらにもいる。私は地図を片手に、「あれがキスカ富士だ。これは七夕湾だ。ここがきっと撤退部隊が迎えの|艦《ふね》に乗船した鳴神湾だ」と思いながら夢中で下を眺めていた。
帰りにはキスカ島は雲にかくれてほとんど見えなかったので、機長のこの異例の措置は私たちにとって千載一遇の貴重なことであったと言わなければならない。日本軍のものか米軍のものかは分らないが、朽ちた兵舎のあとも、機銃陣地も飛行場跡もよく見えた。
そのあとシェミチ島のシェミヤに降りると、それからアッツまではほんの一と飛びである。天候は悪化しつつあって、アッツヘ着けるかどうか不明ということであったが、現地時間の夕方七時三十分、飛行機は無事終点アッツに到着した。
アンカレッジから二千二百キロ、通しで乗っていた客は私たちのほかには米空軍の大佐が一人と、アメリカ人の若い娘が二人きりであった。娘たちはアッツヘ泊らずに、シェミヤ経由でそのまま翌日アンカレッジヘ引返す。ここまで来てみたくてただやって来たのだという。もの好きな人がいるものだと思った。もっとも向こうでも私たちのことをそう思っていたかも知れない。
飛行場にはコースト・ガードの人たちが大勢迎えに出ていた。彼らにとっては、郵便物も機械の部品も、りんごもじゃが芋も、すべて週二回のこの定期便で運ばれて来るのだから、飛行機の着く日は楽しみなのだ。
滑走路はよく舗装された立派なものだが、待合室(?)は白ペンキ塗りの掘立小屋である。その待合室に標札がかかげてあって、
「アッツ国際空港
東経百七十三度北緯五十二度
アメリカ合衆国の最西端。
人口、男三十六、女ゼロ」
と英語で書いてあった。「国際空港」はむろん冗談であろう。
私たちは隊長のマックナット大尉に案内されて、飛行場のすぐそばのコースト・ガードの庁舎に入った。コンクリート造りの白い三階建てで、沿岸警備隊のローラン(Long Range Navigation――船舶、航空機に地点を割り出させるための無線装置)の中継基地になっている。看板通り米空軍の軍人数人をふくめて約四十人の男と三匹の犬がここで暮らしているだけで、水上飛行機も船も無く、女はおろかアリュート族の住民なども一人もいない。ところがふと見ると、廊下の突きあたりの医務室に、片脚あげた半裸の金髪美人がにっこり笑って立っている。ギョッとした。南極越冬隊が持って行く例の人形かと思ったら、それはコダック・フィルムの宣伝用の、等身大のただの厚紙細工であった。
コースト・ガードは日本の海上保安庁にあたる。マックナット隊長は礼儀正しい無口な若い大尉さんであった。九月、アッツ島の日暮れは未だおそい。夕食までに少し島内をドライブしてみないかと隊長にさそわれ、私たちは彼の運転する車に乗った。
宿舎のすぐ前は、二十六年前に米軍の主力が上陸したマサッカル湾である。日本名で夕映半島と曙岬とにかこまれた、当時の旭湾である。
ここでは天気が二時間おきに変わる由で、海の上にすっかりもう霧がたちこめ、霧の中から鴎の鳴く声だけが、淋しく聞こえて来た。日本軍の地図に狐川と記してある川がマサッカル湾にそそいでおり、ちょうど鮭の産卵期で大きな奴がうようよ泳いでいる。川底には産卵を終った鮭の白っぽい死骸がいっぱい横たわっていた。丘の上の朽ち果てた米軍の昔のチャペルなど見せてもらって宿舎へ帰って来ると、夕飯の支度が出来ていた。
ハム・ステーキ、さつま芋の煮たの、人参、チーズ、オニオン、ライプ・オリーブという献立で、これを調理場から勝手に取って来て勝手にコーヒーを入れて食べる。大きな電気冷蔵庫の中のものも、勝手に食ってよろしい。まずいアメリカ料理だなどと言うのは贅沢で、ここで死んだ兵士たちに一度でもこんな豊富な御馳走を食べさせてやりたかったと思った。
渡辺雄吉カメラマンは醤油が無いと我慢出来ない方で、アンカレッジの日光ガーデンでビール瓶に醤油をつめてもらって、後生大事にかかえて来たが、食卓にはケチャップやウースター・ソースと並んでちゃんとキッコーマンの瓶が置いてあった。ただし規律はなかなか厳正で、自室でならいいが食堂での酒は禁じられている。
私たちは、昔の軍隊生活を思い出させる鉄の二段ベッドの部屋をあてがわれ、そこで持参のウイスキーを飲んで、アッツ島第一夜の眠りについた。
当時のままの激戦地
翌日は過去三カ月間一度もなかったという珍しい快晴であった。ちょうど日曜日で、コースト・ガードの連中はみんなチチャゴフ湾の方ヘハイキングに出かけるという。休日に弁当を持ってハイキングに行くのが、彼らのたった一つのリクリエーションなのであった。マックナット大尉はアッツ在任五カ月、ペンシルバニヤ州に家族がいるがあと七カ月しないと家には帰れないのだと言っていた。
世界地図で見るとアッツは豆粒のような小島だが、実際はずいぶん大きくて、とても一日や二日で島のすみずみまで見て歩くわけにはいかない。
彼らのトラックに同乗してチチャゴフ湾へ連れて行ってもらうことにした。現在コースト・ガードの庁舎と飛行場のあるマサッカル湾は島の南側、日本の守備隊が駐屯していたチチャゴフ湾(熱田湾)やホルツ湾(北海湾)は島の北側にある。したがって今日のハイキング・コースは、南から北へ、上陸米軍が攻めのぼった道、途中山崎部隊長らの玉砕地点雀ヶ丘、|後藤平《ごとうだいら》の激戦地を通って日本軍の本部陣営あとに到る順序になるのであった。当時の軍用地図を見ると、日本の将校はアッツ島の山河に「十勝岳」とか「臥牛山」「雁沼」など、ふるさと恋しげな名前をつけている。トラックは岩の露出した悪路をのろのろ進んで行った。荷台に乗ってふちにつかまっている手が、しびれるようにつめたい。遠く将軍山、天狗岳の山肌には雪がある。九月の初旬にこれでは、食糧の乏しい冬ごもりはさぞ苦しかったであろう。あれが臥牛山、これが虎山、下に見えるのが雁沼と、地図と首っ引きで眺めているうちに山裾の少し平らなところへ出て、運転手は車を止めた。
下りてみると、道ばたに柵で囲んだ小さな碑が建っていた。石にはめこんだ銅板に英語で、
「アッツ島の日本軍守備隊長山崎大佐は、第二次世界大戦中、一九四三年、この付近の戦闘で戦死した。地点、クレビス峠エンジニヤ・ヒル。
一九五〇年八月、第十七海軍区司令官の命により之を建つ」
と記してあった。
昭和十八年の五月二十九日、山崎部隊が最後の電報を打って突撃を敢行した場所であった。
その時山崎大佐の率いていた手兵はわずかに百五十名、地点もむろん推定で、詳しい状況は日本にもアメリ力にも分っていない。
あたりは一面の杉苔で、苔の間に桔梗のような紫の草花がたくさん咲いていた。かいでみるといい匂いがする。日本兵がアッツ桜と呼んでいた草も、いっぱい可憐な花をつけていた。
そこから少し離れた丘の上には、同じころ日本からの慰霊団が持って来て据えた石碑がある。
「戦没日本人の碑
昭和二十八年建之 日本国政府」
裏には「東京青山石勝刻」という文字が読めた。
数年前ラバウルヘ行った時にも、青山の「石勝」が作ったこれと同じような戦没者の碑を見た。私は青山の「石勝」の近くに住んでいたことがあるので、こんなところへ来て「石勝さん」にお眼にかかるのは、何だかへんな気持であった。
再びトラックに乗ってチチャゴフ湾へ向かう。左手の山の斜面には、あばたの如き穴が点々と見える。敵味方いずれのものか、機銃陣地の跡であった。右に大沼を見て後藤平の無人の原を行くうちに、やがて道が洪水で崩れたところへ出て車は進めなくなった。みんなは車を下りて歩き出した。
アッツ島には背の高い木らしい木は一本も無い。靴が沈みこむジクジクした湿地帯か、腰の高さまで草や潅木の生いしげった荒野か、そんなところばかりで、あと一と月もするとこれがすっかり雪におおわれてしまう。真冬には風速四十メートル以上の嵐が絶えず吹きすさび、マックナット大尉の話では、動物もたまに狐を見かけるくらいだということであった。要するに生きものの住むに適した土地ではないのである。
苔の絨緞――と書けば美しく聞こえるかも知れないが、歩きにくい湿地を、私たちはコースト・ガードの連中といっしょにヨイショ、ヨイショと進んで行った。それでも私たちのは、弁当持って日米合同の平和なハイキングであるが、二十六年前、圧倒的に優勢な敵軍に向って、銃をかつぎ夜陰にまぎれ、この湿地に死の進撃をしなくてはならなかった人々の思いはどんなであったろう。
ところどころに、低い小さな木が万両のような赤い実をつけている。
深く掘った大きな穴の中に、建物の残骸らしく古い木のテーブルや椅子がたくさん散らかっているところがあった。場所から考えて、日本軍のどの部隊かの前進本部の跡ではないかと思われた。
島の南部に米軍が上陸したとの報を受けた山崎部隊長が、海岸の本営から一旦ここへ司令部を移し、このあたりで大部分の部下を失って南へ最後の突撃に出て行ったのかも知れない。
ケーブルのようなものが、半分地下に埋まって長く延びているところを見ると、海軍の江本少佐たちもここにいたかも知れない。通信能力は海軍の方がすぐれていたので、少数の海軍部隊はアッツで、主に無線通信を担当していたのであった。
ふだん仲の悪い陸海軍だが、アッツ、キスカでは小さな離島暮らしのゆえか、両者の関係がたいへんうまくいっていたと伝えられている。
元北方軍参謀・安藤尚志氏の「悲劇の島」と題する戦記によると、米軍上陸後、大本営はアッツヘの増援はあきらめたが、必ずしも島を完全に見殺しにするつもりはなかったらしい。潜水艦数隻で守備隊の人員をいくらかでも救出しようと試みた。ただ、収容出来る人数が限定されていて、誰を優先させるかが問題であった。山崎大佐はその時、至極あっさり、約百名の海軍部隊に先に帰ってもらおうと言い出した。海軍はそれを辞退した。
それで状況報告のため、陸軍から副官の沼田大尉、海軍から江本参謀、各一名ずつを重要書類を携えて撤退させることに決めたが、救援に向った潜水艦は消息を絶ち、この二人もついに還らなかったのである。
日本軍の遺品発見できず
前進本部跡(?)の古い材木は、長い年月雪にさらされたせいか白骨を思わせるような白い色をしていた。
そんなものを見て、二十分ばかり歩いて行くと、眼下に海の眺めが|展《ひら》けて来た。チチャゴフ湾であった。私たちは丘を下って、チチャゴフ湾の浜辺で昼飯を食うことにした。
湾内には錆びたブイのような物が二つ浮いている。砂浜には日本陸軍の舟艇が、甲板も錨鎖もぼろぼろになってうち捨ててあった。
近くに小川があって、せせらぎの音がしきりに聞こえる。行ってみると、ごろた石の浅瀬に背びれを出して無数の鮭がさかのぼっていた。南の狐川と同様、産卵を終って川底に死んでいるのもいる。死んだ鮭は全部目玉をえぐられていた。沖で鴎がねらっているのであった。
私たちはショベルをふるって何尾も鮭を叩き殺し、ナイフで身を切って、舟の残骸の鉄板の上で焼いた。昼飯はとれたての鮭と、持参の「メニュー七番」という箱づめの米国製航空糧食である。鮭の身はいやに白くて、あんまり|美味《うま》くなかった。
食後、マックナット大尉以下のコースト・ガードたちは、二た手に分れて一隊は西の北海岬の方へ、他の一隊は東の海岸へ行軍に出かけた。マックナット隊長は漁船の網につける青いガラス玉の漂着した奴を蒐集していて、それを拾って来るのが趣味なのだ。
私たちは落ち合う時間を定め、そこに残って日本軍の遺品遺跡をさがしてみることにした。手分けをしてそのへんを歩き回ってみたが、深い草の中に時々ふとい材木がころがっているだけで、何処に山崎部隊の本部があったのか、オヤと思うような物は何も見つからなかった。鉄条網があったり、洞穴の中に腐ったテント布があったり、そんな程度である。例の舟艇には弾痕がいっぱい残っていて、エンジン部分の何かの真鍮製キャップを取ってみると、8の数字の入った菱形のマークと、「SANPATI」というローマ字が刻してあった。「SANPATI」は多分「三八」だろう。
そのうち割れたビール瓶を一つと、大塚製薬のオロナミン・ドリンクの瓶を一つ、私たちは拾い上げた。戦前にオロナミン・ドリンクがあったはずはないから、こちらは北洋漁業の漁船の捨てたのが流れ着いたのであろう。事実、時化にあった日本の漁船がアッツヘ緊急避難で入って来ることはしばしばあるのだそうである。しかし瓶の方は、「キリンビール」と右書きにしてあるところからみて、当時の日本軍のものにちがいなかった。
近くの台地には、アッツのアリュート族の村落跡を示す碑があった。アリュート族はエスキモーの一種である。日本がこの島を攻撃した時、ここに小さな教会を中心にして二人の米人宣教師と三十七名のアリュート族とが住んでいた。アメリカ人の宣教師は日本軍の姿を認めるとその場で拳銃自殺をとげ、アリュート族住民はのちにキスカヘ移されたと言われている。
その日はそんなことで、午後コースト・ガードたちと合流していっしょにマサッカル湾岸の宿舎へ帰って来た。
コースト・ガードの連中は、ぶっきら棒だけれども親切ないい人たちであった。司厨長は太鼓腹をしたハワイ生まれの男で、前の晩、
「あしたは米の飯を炊いておいてやるからな」
と言っていたが、帰ってみると大鍋に山盛りの米飯が用意してあった。好意は謝するにあまりありだが、アメリカ式のポロポロ飯でとてもそんなにたくさん食べられない。
夜はマックナット大尉が私たちの部屋へ遊びに来る。部下にとっては隊長はやっぱりけむたいらしく、マックナット大尉がいなくなってから、今度は司厨長が缶ビールなどさげ、ちょっとウィンクをして入って来る。ほかの若い兵隊もやって来る。
しかし話もなくなってみんな行ってしまうと、することがないから、私はベッドに寝ころんで持って来た防衛庁戦史室編「戦史叢書」の一冊、「北東方面海軍作戦」をあちこち拾い読みした。
これは海軍の動きを中心にしたアッツ、キスカ作戦の厖大詳細な資料であるが、はるばる現地のアッツ島へ来てこの本を読んでいると、感じるのはやはり人間の愚かさ、戦争のむなしさであった。
なんでこんなところで苦しい生活をさせた挙句に、何千人もの兵隊を死なせなくてはならなかったのか。アッツ、キスカを占領するにはむろんそれなりに幾つかの理由があって、それがすべて誤りであったとは言えないが、私の理解する範囲で、大本営をゆり動かしこの作戦に踏み切らせた大きな原因は二つあったように思われる。一つは軍人の功名心で一つは恐怖の幻影である。
南ではハワイでもシンガポール、ジャワ、ソロモン群島方面でも仲間が大戦果を挙げているのに、北の部隊は陸海軍とも未だ何の手柄もたてていない。一つアリューシャンでもやってみようじゃないかということになったのだ。アッツ玉砕後の日本の新聞は、山崎大佐を神様扱いして、「山崎部隊長につづけ」とか「アッツ魂」とかいう記事を連日書きつづけたが、アッツにつづくとすれば日本人は全部死んでしまわなくてはならない。いくら戦争中とはいえ、狂気の沙汰というべきことであった。
もう一つの幻影の方は、アリューシャン列島西部は当時日本領だった北千島にもソ連の領土にも近い。アメリカはいずれ北から日本へ攻め寄せて来るのではないだろうか、それに対米英戦の最中に万一ソ連を敵に回すことになったらあの辺はどうなるかという怯えから発していた。
しかし上陸してみたら、実際は現在と同様、ろくな施設も無く、人間もほとんど住んでいなかったのであった。
似たようなことは、アメリカ側についても言えるだろう。南でどこを占領されてもそれは米国の土地ではなかったが、アリューシャン列島だけは正真正銘のアメリカ領である。そこへ日本が食いついて来た。アメリカ合衆国の名誉にかけても奪い返さなくてはならぬというのが一つと、今一つは、やはり日本軍がここからアメリカ本土へ迫って来はしまいかという、恐怖の幻想が彼らを支配したのだろうと推察される。結果論ではあるけれどもあと二年そっとしておきさえすれば、アメリカはアッツ、キスカをただで返してもらうことが出来た。それを敢て奪回作戦に乗り出して日本兵を皆殺しにし、彼らもまた深く傷ついたのである。
数年前に「アッツ島遺族会結成準備会」が著した「アッツ島」という薄い本があって、最初の頁に、
短きを何かなげかむ君がため
御国のために捨つる命は
と、部隊名氏名不詳の兵士が詠んだ短歌が載っている。それから巻末に全将兵の名簿がついていて、これを見ると全員玉砕と言われたアッツ島から、生きて帰った者が二十七人あったようである。この人たちはしかし、遺族の会合やキスカの連中の会などにも顔を出したがらないそうだ。その気持は分るが、私には何かあわれに思えてならない。
兵士はツンドラの下に眠る
アッツ滞在中、ウィーク・デイでもマックナット大尉は私たちのために、トラックを一台と案内役の兵隊を二人提供してくれた。
われわれはそれに乗って、島内あちこちを歩きまわった。東浦の飛行場跡の方へも行ってみた。
下駄ばきの水上機(それもろくにありはしなかったのだが)でなしに、本ものの戦闘機さえいてくれたらというのが、アッツ守備隊のはかない望みで、彼らは北海湾の東浦に陸上機用の飛行場をせっせと建設していた。大本営は戦闘機隊を一隊アッツヘ進出させることを一旦決定しておきながら、のちになってそれを取り消した。守備隊の失望と不満とは大きなものがあったと言われている。もっとも友軍戦闘機を迎えるための東浦飛行場がほぼ完成したのは、米軍上陸の数日前のことであった。
おそらくいつかブルドーザーで片づけたのだろうが、島には屑鉄を山と積み上げた場所がいくつもある。私たちはバタ屋かポンコツ屋よろしく、その山を掘り起こしてみたりもした。しかし出て来るのは米軍兵士の鉄兜、キャタピラー社製の発電機、ファイヤストーンの古タイヤ、一九四三年と年代の入ったコカコーラの空瓶、そんな物ばかりで不思議なくらい日本兵の持物は無かった。これは或は彼我の物量の差が如何に甚しかったかを物語っているのかも知れない。それにしても軽機関銃や小銃の二挺や三挺ころがっていてもよさそうなものなのに、塹壕や蛸壷の中などのぞいてみても、それも無かった。
ただし、アメリカが日本兵の遺体をまとめて埋葬したところが、島内どこかにあるのは確かである。何故かというと、遺族会が出した「アッツ島」に、「282 JAPANESE」と書いた十字架型の墓標に向って、慰霊団で来た老婦人が合掌している写真が載っているからだ。
コースト・ガードはそういうものは見たことがないと言う。彼らはそんなに古くからいるわけではないから無理もないが、何とかしてその場所を突きとめたかった。
いずれにしてもそれは、後藤平、雀ヶ丘あたりの激戦地の近くにちがいない。私たちは腰まであるいばら、時に胸まである草の中をかき分けて、まる一日探し歩いた。地図と写真とを突き合わせて、あの丘のあたりらしい、いやこっちの谷ではないかと、一キロ進むのに一時間もかかる苦しい行軍であった。銘々思い思いの方角ヘさまよい歩いているうち、やがて遠くから、
「オーイ、あったぞォ」
という渡部君の声が聞こえて来た。
急いで行ってみると、「69 JAPANESE」と記した墓標が草の上に倒れていた。少し離れて、「282 JAPANESE」も見つかった。慰霊団が来た時にはちゃんと立っていたものが、いつか風や雪で倒されて、それでコースト・ガードたちも所在を知らなかったらしい。
運転手兼案内役の二人の兵隊が、ショベルでそこを掘ってくれた。ちょっと掘ると水が湧き出して来る。さらに掘り進めると白い骨片が出て来、ついで大腿骨と思われる大きな褐色の骨が出て来た。泥水につかって腐った軍服のきれっぱしも出て来た。異様な匂いがした。
土中に埋まっていた位牌のような木の札も同時に掘り出された。水で洗ってみると、墨で書いた文字が「霊よ安ら」と、そこまでかすかに読める。これはしかし、戦の最中に戦友が記したものか戦後来た慰霊団が残して行ったものか分らなかった。
私たちは骨を近くの沼できれいに洗い、墓標を立て直して持っていたりんごとピースとを墓前に供えた。
コースト・ガードの兵隊が、
「どうしてそんなことをするのか?」
と聞いた。彼らには花以外の供物を墓に手向ける習慣がないのだ。
日本の風習を説明するとうなずいて聞いていたが、やがて二人で何か小声で相談し、そのへんをぶらぶら歩き出した。花を摘みに行ったのだ。手にいっぱいの草花を摘んで来ると、彼らは黙ってそれを墓標の前に捧げてくれた。
今後訪れる人のため、念のために記しておくと、その場所は大沼の手前、日曜日私たちがハイキングに行く時通った後藤平の下の道路から東へ、草むらの中を四、五百メートルほど入った、十勝岳の山麓である。米軍の地図で、JIM FISH VALLEYのSARANA NOSE 或は VANDERLAAN PEAK寄りのところである。
こうしてアッツ島にいること足かけ五日、気象状況の悪いこの島では飛行機は始終欠航するらしく、その朝(九月九日)も深い霧で、|発《た》てないかも知れないと思っていたが、リーヴ・アリューシャンのDC6は海面すれすれに辛うじて降りて来てくれた。
したしくなったコースト・ガードの人々に別れを告げ、私たちは遺骨を抱いてその飛行機でアッツ島をあとにした。そして雲に包まれたキスカ島の上を通過し、アムチトカ、アダック、コールド・ベイと、来た道を、夕刻にはアンカレッジヘ帰り着くことが出来た。
遺骨は帰国後厚生省に提出した。そのあとクリスマスのころに、マックナット大尉から渡部君のところにクリスマス・カードが届いたという。アッツは今深い深い雪におおわれていると書いてあったそうである。
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二十八年目の真珠湾

敗戦後十年目、一九五五年の暮に初めて私がハワイを訪れた時、真珠湾軍港は日本人の見学者を受付けなかった。それは合衆国海軍が、もう一度日本人にスパイされたり奇襲されたりするのを恐れていたからではあるまい。多分戦争の記憶が未だ少し生々しすぎたのである。
私が興味を持っているのを知って、
「どうしても見たければ、つてを求めて頼んでみて上げようか。運がよければ許可が下りるかも知れない」
と言ってくれる日系人の有力者もあったが、しいて見せてもらって、人々のある種の視線を意識させられるようでは、私の方もいやであった。真珠湾の陸のゲイト前までいっただけで私は引返して来た。
あれから十四年。
歳月というのは不思議な作用をするものだと思う。真珠湾は、今では誰でも自由に訪れることの出来る戦跡、極端にいえば、一種の観光地になった。
ワイキキに近いフィシャメンズ・ワーフの桟橋からは、毎日真珠湾遊覧の定期船が出ているし、アメリカ海軍も観光客のために、頻繁に見学用のランチを出している。
日本人旅行者が、写真機をぶら下げて乗っていれば、
「スパイ用のカメラかネ?」
ぐらいのいや味を言う爺さんはいるが、それ以上猜疑や憎しみの眼を向ける人はまずない。
ランチのもやい綱を取っている若い水兵たちは、あの十二月八日には未だ生れていなかった連中である。
昭和の初年ごろ、満州への旅行者がバスを列ねて戦跡めぐりに出かけた旅順と少し似て来た。
当時、人々は二〇三高地に立って日本軍将兵の屍の山がきずかれた光景をしのび、開戦劈頭日本海軍が奇襲し大戦果を挙げた旅順港口をはるかに望み、乃木大将とステッセル将軍が会見した水師営では、「きのふの敵はけふの友」という「旅順開城」の小学唱歌を思い出した。
むろん昔の旅順と今の真珠湾とでは、色んなことがずいぶんちがう。第一こちらは、古戦場とか観光地とかいっても、現に生きて活動しているよその国の軍港で、見学者には公開されていない場所もあるし、あの日ここで屍の山をきずいた三千七百人のほとんどすべてはアメリカ人であった。日本側は攻撃隊の搭乗員五十五名を喪ったにすぎない。
昔旅順の戦跡を見た人は、単純に父祖の武勲を思い日本軍の「武士道精神」を思うことが出来たかも知れないが、こんにち真珠湾に入る日本人は、アメリカ太平洋艦隊の主力をわずか数時間で全滅させたというちょっと痛快な気分とともに、敵の寝首をかいたあるうしろめたさ、結局は勝てるはずのないあんな戦争にどうして突入したのかという疑問等々、複雑な感慨にとらえられるのが常ではなかろうか。
しかし、とにもかくにも一九四一年十二月八日(ハワイ時間七日)朝の真珠湾が、一つの歴史の幕あけであり、現在日本の置かれている諸種の状況の発端であったことは疑えない。
見て何を感じるかはその人の自由だが、一度見ておくに値する場所であるとは言っていいであろう。
顎をはずしたノックス長官
あの日、湾内フォード島の南には七隻の戦艦が並んで錨を入れていた。日曜日の朝で、彼らはのんびりと未だ半分眠っていた。そこへ突然日本海軍の艦載機の大群がおそいかかり、たちまちにしてその四隻が撃沈され、あとの三隻が大きな被害を受けた。
機動艦隊の航空参謀だった源田実氏の書いたものを読むと、源田参謀が「赤城」の艦橋で雷撃隊長の村田重治少佐に、
「お前、ペンシルバニアの長官室の真下に魚雷をぶちこまないといかんぞ」
と冗談を言うのに、村田少佐は、
「ふーん。キンメル大将はもう起きて朝のコーヒーを飲んでるかも知れませんなあ。カップをこのくらい持ち上げたところを、グワーンとやりますか」
と答えて笑っていたという。
この「ペンシルバニア」は米太平洋艦隊の旗艦で、たまたま右の七隻とは別に、ドックに入っていたため実際は軽度の被害しかなかったが、こうしてアメリカの戦艦部隊は、開戦第一日にして行動不能におちいってしまった。急遽ワシントンから飛んで来た海軍長官のノックスは、あまりのひどい有様を見てショックで顎がはずれ、「ア、ア、ア」とばかり言っていたという伝説がある。
中でも戦艦「アリゾナ」の被害は大きかった。戦隊司令官、艦長以下千百七十七名の将兵がこの艦上で戦死した。艦は完全損失と認められ、浮揚して戦列に復帰させることもついに出来なかったので、戦後(一九六二年)アメリカはこれの残骸の上に白い記念館を建て「アリゾナ・メモリアル」として永く保存することにした。
真珠湾の一角にある海軍桟橋から三十分おきくらいに出ているボートに乗って、「アリゾナ・メモリアル」へ行ってみると、三万二千|噸《トン》の巨艦は、昔の面影をとどめて海中に静かに横たわっている。鉄の構造物に藻がいっぱい生え、きれいな南洋の魚がそのまわりを泳いでいるのが見える。
このあたりの水深は十二メートルほどしかないので、三番主砲塔などは赤銹びて半分水の上に顔を出しているが、水面下には収容されないままの遺体が白骨になって未だたくさん残っているそうだし、艦底の油タンクからは、三十年近く経った今でも、少しずつ重油がしみ出して来るという。指差されて見ればなるほど、油が虹色の縞を成して海面をただよっていた。
残骸の上の記念館には、「アリゾナ」の艦内から取り出された色んな記念品が飾ってあり、大理石の壁には戦没乗組員の氏名がきざんである。
しかし、一九六二年「アリゾナ・メモリアル」が出来て以来八年の間に、これを訪れた人はすでに百数十万人に達したということで、そのうちの何万人かは日本人旅行者にちがいない。真珠湾か、ああ、「アリゾナ」なら自分も見たという人が、読者の中にも少なくないだろう。
私たちは「アリゾナ・メモリアル」へも行ったし真珠湾内一周の船にも乗ったが、今ごろ写真と文章とであらためて真珠湾の紹介をするからには、一般の見学者と同じようなことだけしているわけにはいかなかった。
飛行許可おりる
実は私たちの考えていた計画は、飛行機に乗って、真珠湾の上をあの日海軍航空部隊が飛んだのと同じ飛び方をし、同じ角度でシャッターを切り、自分の眼とカメラとに当時の情景を再現してみることであった。
問題の許可が取れるかどうかだが、アメリカ海軍はこういうことには割にもの分りがいいはずである。「ケイン号の叛乱」とか「五月の七日間」とかいう映画を見ても、海軍の恥辱になりそうな内容のものに平気で協力している。対日感情も、十九年前、十四年前とはずいぶん変っただろう。
以前アメリカ人は、「リメンバー・パール・ハーバー」だの「真珠湾のだまし討ち」だのという言葉をよく口にしたが、現在米海軍発行の「真珠湾案内」を読んでみると、「日本の奇襲攻撃」(The Japanese surprise attack)とは書いてあるけれども、sneak attack(卑劣な攻撃)とかtreacherous attack(裏切り攻撃、だまし討ち)とかいう言葉は一つも使ってない。そこには彼我両国の国民感情に対する慎重な配慮がうかがえる。「われらの真珠湾攻撃」は、何とか成功するのではないかと、私は思っていた。
ただ、なにぶんにも相手は巨大な機構であり、生きている大海軍基地である。誰に連絡したらいいか、どこでどんな飛行機を借りるべきか、それをつかむだけでもなかなか容易なことではなかった。私たちのホノルル滞在の最初の二日間は、ほとんどその交渉のために費した感がある。
合衆国海軍はしかし、結果から言えば友好的で、たいへんよく協力してくれた。
海軍の小型機を一機提供してもらえないだろうかと頼んだら、さすがにそれは断られたが、パール・ハーバー基地広報部のトレバーマッコーネル中佐とペインという女の中尉さんが、あちこちテキパキ電話をする、われわれを連れてまわる。「関係者以外立入禁止」の建物の前で、黒人の衛兵がきびしい顔で敬礼をして、
「この人たちは何者であるか? 証明書は持っているか?」
と聞くのに、女ながらペイン中尉がキリッと答礼して何か二た言三言いうと、すぐオーケーになる。中へ入って要望事項を説明させられる。それから又別の部局へ行く。こうしてついに、ある条件つきながら、好きなように真珠湾の上を飛びまわって写真を撮ってよろしいという許可がもらえた。
条件とは、カメラを向けられては困る箇所が、一、二あるので、トレバーマッコーネル中佐が監督官としてわれわれの飛行機に同乗してその指示を与えるというのである。もちろんそれで結構、むしろ安心でいい。私たちは大いに機嫌がよくなり、ペイン中尉にキスしたいぐらいの気分になった。
かりに日米その立場を逆にして、帝国海軍健在であったとしたら、我海軍当局はアメリカの小説家に横須賀軍港上空、こんな物好きな飛行の許可を与えたかどうか、甚だ疑問であろう。
もっともあとで日本へ帰ってから人に聞かされた話では、私たちが空で取材中、アメリカ海軍はひそかに護衛の飛行機を一機飛ばして、われわれの行動を見守っていたという。ほんとうかどうか、もし事実とすればこれは監視というより、あんまり無茶なことをされて事故でも起されてはたいへんだということだったのではないかと思われる。
乗る飛行機に関しても、偶然まことに都合のいい人物が一人みつかった。それはウィルダーン氏という、小型チャーター機の会社の社長で、自身もパイロット、さきごろ日米合作映画「トラ、トラ、トラ!」に出演し、ゼロ戦の再製機を操縦して真珠湾の上を何度も飛び回った経験者である。
一機で一八三機ぶん
約束の日の午後、アロハ・シャツやレイをつけた人々で賑わうホノルル国際空港国内線発着所の一番はしっこで待っていると、五十年輩の大空灼けしたウィルダーン氏と、鞄をさげた軍服姿のトレバーマッコーネル中佐とが前後してあらわれた。
トレバーマッコーネル中佐(どうも発音しにくい名前だが)は、
「こんな経験はめったに出来ない。僕も楽しみだ」
とにこにこしていた。
飛行機は暗緑色に塗られた双発のビーチクラフトで、名前は「エグゼクティブ号」。この「エグゼクティブ」がきょう私の乗る九七艦攻であり、九九艦爆であり、零式艦上戦闘機である。
ウィルダーン氏は、
「これはあなたたちの飛行機だから(あなたたちが金を出して雇った飛行機だからの意)、何でも遠慮せずに註文してくれ。どんな飛び方でもする」
と言って、大きな太い手で私の手を握った。つまり「社長」ではなく雇われ運ちゃんの心構えである。こういう点は実にはっきりしたものだ。
ホノルル空港ととなり合せに、これも日米古戦場のヒッカム空軍基地がある。滑走路はヒッカムと国際空港と共用になっている。エンジンを始動して待っていると、米軍のC141が一機離陸して行った。そのあとすぐ、コントロール・タワーの出発許可が出、私たちは同じ滑走路を東へ向けて離陸した。下にホノルルの町やダイヤモンド・ヘッドが見えて来る。
二十八年前の十二月八日(七日)、南雲機動艦隊「赤城」「加賀」以下六隻の航空母艦はこのオアフ島の北方約二百浬で、第一次攻撃隊の百八十三機を発艦させている。「赤城」と「加賀」は当時、アメリカの「サラトガ」「レキシントン」と共に世界のビッグ・フォアと言われた大空母であった。
攻撃隊総指揮官は「赤城」の淵田美津雄中佐で、発進してから約一時間半、そろそろ島影が見えて来るはずだがと機上で眼をこらしていた淵田中佐が、雲の切れ間を通して最初に認めたのは、オアフ島最北端カフク岬の海岸線であった。
ホノルルヘの旅行者がよく夜のショウを見に行く裏オアフの「ポリネシア文化センター」――カフク岬はあのちょっと先にある。
私たちは徐々に高度を上げながら、まずカフク岬の真北の洋上に出ることにした。
オアフ島を一尾の鯛に見たてると、腹の下に抱いているのが真珠湾、背びれの突先にあるのがカフク岬で、胴のまん中あたりにホイラー飛行場、ホノルル市街は腹がわの尻っぽに近い方にある。したがって、カフク岬から真珠湾に入って来るということは、背後から忍び寄るかたちになる。
岸を八マイル離し、高度三千メートルに達したところで反転してカフク・ポイントさして南下しはじめると、いよいよハワイ空襲部隊とまったく同じ態勢で、磯波のリーフにくだける何とも言いようのない美しい光景が見えて来た。
雲の多い半晴の日で、昔のあの時とほぼ似よりの気象状況である。初め見えているのはこの岬だけだが、やがて海岸線が真下に近づくと、島の内陸部の赤土と緑の広々とした沃野が眼に映る。ウィルダーン氏の説明を聞くまでもなく、それはパイナップルと砂糖黍の畑であった。
淵田指揮官はここをカフク岬と確認してから、攻撃隊の針路を右(西)に変えた。日本時間(攻撃部隊はすべて日本時間で行動していた)で、十二月八日の午前三時ちょうどであったと記録されている。右へ変針したのは雲量や風の具合から見て、島の西まわりで真珠湾へ進入した方がいいと判断したからであった。
それから十九分後に、指揮官機の水木兵曹が、無電機のキイを叩いて有名な「ト連送」――「ト、ト、ト、ト」(全軍突撃セヨ)を発信、二十二分後に「トラ連送」――「トラ、トラ、トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を発信することになる。
私もウィルダーン氏に、右変針を下令(?)した。
当時アメリカはすでに初歩的なレーダーを持っていて、このカフク岬の近くの丘の上には、小さな移動レーダー・ステーションがあった。当直にあたっていた二人のアメリカ兵は、「少くとも五十機」の正体不明の飛行機の大群が、北からどんどんオアフ島に接近して来るのをレーダー・スクリーンの上に発見し、変に思って上官に電話で報告したが、味方機に決ってるから心配しなくていいということで取上げてもらえなかった。
われわれのビーチクラフトはレーダーに捉えられているかどうか知らないが、何しろ私は一機で三機種百八十三機分の真似をするのだから少し忙しい。最初に九九式艦上爆撃機になって、ホイラー飛行場に急降下爆撃を加える(?)ことにした。
ほんとうの急降下急上昇をやると、強いGがかかって眼の前がまっ暗になり頭が|冬瓜《とうがん》のように伸びる感じになるので、そこはウィルダーン氏が適当に加減してくれる。
それでも飛行機はガクンガクンとすさまじい揺れ方をし、前面の風防ガラスを霧のような雨が濡らしはじめた。雨雲を突き抜けて、あれがホイラーだと教えられた時には、その南の方に遠く、真珠湾ももう見えていた。
突っこんでみても、今、ホイラーは飛行機の姿もほとんど無い畑の中の閑散とした飛行場のようだが、当時はここにアメリカの戦闘機の大部隊がいた。日本の降下爆撃隊は、一挙にこれを壊滅させてしまった。それでほかの隊は当日、戦闘機の妨害をほとんど受けることなしに、自在勝手な行動をすることが出来たのである。
魚雷六本が骨折損
ホイラーをすませてもう一度カフク岬の上空へ引返し、今度は雷撃隊のやった通りをやってみることにする。雷撃隊の目標はむろん真珠湾の艦隊であった。
「ハワイ、マレー沖海戦」という映画を見た人は、日本の攻撃機が一機また一機、けわしい山のはざまを忍者のようにくぐり抜けて真珠湾に向う場面を記憶しているだろうと思う。あれはオアフ島の中でももっとも峻嶮なコリコリ・パスで、私たちのビーチクラフトはやがてあの峰の間に入った。峰の間というより一面の雲の中に突入した。
雲の中から時々、青黒い山肌がちらりと見える。下に見えるのではなくて、真横に見える。飛行機はまたガクガク揺れる。ちょっと操縦を誤ったら、たちまち山腹に激突しそうな感じであった。
ウィルダーン氏は島の地形に馴れているからいいが、いくら決死の覚悟とはいえ、生れて初めてのハワイで爆弾魚雷を抱いてよく平気でこんなところを飛び越したものである。
コリコリ峠を抜ければ雲が薄くなって、再び明るい海と美しい珊瑚礁、オアフ島西南端のバーバース・ポイント。澄んだ海の中に、リーフのかたちがはっきり分る。|睡《ね》むたげなハワイアンの調べが一番似つかわしい、まったくどうしてこんなところで戦争なんかしたんだろうというような気のする、のどかな眺めであった。
しかし、バーバース岬の鼻をまわってなだらかな海岸ぞいに少し東へ飛べば、すぐ真珠湾で、地図の通りのかたちに真珠湾が見えて来た。軍港はどこの国の軍港でもたいていそうだが、入口が挟く奥が広い。艦隊の碇泊に好都合で敵の攻め込むのに不都合なようなところが選んである。真珠湾は、解剖図で見る子宮のかたちにちょっと似ている。
湾内は外海とちがって、水の色が少しくすんでいた。フォード島の北がわに戦艦「ユタ」の残骸がある。私たちはまず「ユタ」をめがけて降下して行った。
海面から二十メートルぐらいまで舞い下り、ひらりとかわして上昇に移る。うしろを振りかえれば、放った浅海面用航空魚雷がツツーと水の中を走って見事に命中、「ユタ」は機材を木ッ端みじんに天に散乱させて一瞬のうちに黒煙に包まれ、「やった、やった、やった」――と言いたいところだが、実際は二十八年前に沈んだ「ユタ」の黒い鉄のかたまりが海の上にちらりと見えただけであった。
「ユタ」を撃沈したのは、航空母艦「蒼龍」の攻撃機で、魚雷計六本を命中させているが、「ユタ」はほんとうは当時、もう現役の戦艦ではなかった。アメリカはこの旧戦艦のデッキをコンクリートで補強して、爆撃機が実弾で爆撃演習をするための標的艦として使っていた。
あのころ世界一の技倆を誇った帝国海軍航空部隊の荒武者どもは、大物ばかりをねらって、「ユタ」のすぐ近くにいた軽巡「デトロイト」などには目もくれていないが、そういうわけで「ユタ」撃沈は、結果的には無駄骨折の気味があり、アメリカ海軍も「ユタ・メモリアル」は作っていない。その残骸はいまだにただの残骸である。真珠湾一周遊覧船の上からも、これはよく見える。
しかし私の印象からいうと、白いきれいな記念館をかぶせられた「アリゾナ」よりも、ただの鉄屑の「ユタ」の方が古戦場を感じさせるものがあった。それは立派な厨子におさまった国宝の仏さまより、野ざらしの石仏の方がよけい人間の営み、諸行無常のあわれさを思わせるようなものであろう。
「ユタ」を見た時、私は敗戦後何年間か、あちこちに残っていた日本海軍の艦艇のむくろを思い出した。呉の沖などを船で通ると、戦艦「伊勢」や航空母艦「天城」の変り果てた姿が海の上に眺められたものである。大きく傾いて、住む人は見捨てられた白骨だけで、あれはほんとにあわれを催す光景であった。その後スクラップにされたらしく、いつの間にか無くなってしまったが、日本人もああいう軍艦の一隻ぐらい、記念艦にして残しておいても悪くはなかったような気がする。戦勝艦の「三笠」だけ保存しているのは、少し片手落ちのような気がする。
戦艦・空母見当らず
さて、北から「ユタ」をねらったあと、私たちは今度はフォード島の南から七隻の戦艦群(のいた場所)をめざして舞い下りた。
当時アメリカ太平洋艦隊の戦艦は、「ネバダ」「アリゾナ」「テネシー」「ウエスト・バージニア」「メリーランド」「オクラホマ」「カリフォルニア」の順でここに並んでいた。日本の戦艦が「大和」「武蔵」「長門」「日向」という風に国の名前をつけているように、アメリカの戦艦は州の名をつけている。
今あるのはむろん「アリゾナ」だけだが、ビーチクラフトがグイグイ高度を下げ、「アリゾナ・メモリアル」とその向うのフォード島とが視野に大きく迫って来て、すれすれに「アリゾナ」の上を飛び越し、翼が海水を叩きそうな角度で急旋回するのは、甚だ迫真力があった。
「これで満足か?」
と、ウィルダーン氏が操縦桿を握ったままにやりとする。
私は満足だが、カメラマンというのはこういう場合ひどく貪欲なもので、同乗の渡部雄吉君は、
「すみません、もう一ペんやって下さい」
と言った。
ウィルダーン氏は大きくひとまわりして高度を取り、再び「アリゾナ」さして突っこんで行った。
「どうもありがとう。しかしもう一ペん」
第一次攻撃隊の水平爆撃隊員の中には、爆撃定針に入ってから、角度が気に入らんといって敵前で三回やり直しをした男がいるが、職人気質というのは同じものらしい。
それをすませたあとは、しばらく空から真珠湾の見学をすることになった。残念ながら入港中の戦艦航空母艦は一隻もおらず、岸壁に巡洋艦や駆逐艦、特務艦が数隻見えるだけ。ただ、港内の潜水艦基地に潜水艦がたくさんいた。司令塔のバカでかいのは原子力潜水艦で、
「あれが『クィーンフィッシュ』だ」
と、トレバーマッコーネル中佐が教えてくれる。
この監督官は、ドライ・ドックの一角を指してあすこにはレンズを向けないでくれと言っただけで、あとは終始まったく私たちの自由にさせてくれた。
引返して真珠湾口、狭い水道の上を海を舐めるようにして飛ぶ。浜名湖の海への出口に似ている。引潮で干潟が見えていた。ここは例の特殊潜航艇五隻が夜陰にまぎれて忍びこもうとしたところで、コリコリ峠以上に、よくまあこんな狭い入口を突破する気を起したものだという感じがする。事実湾内潜入に成功したのは二隻乃至三隻だけで、彼らの苦心にもかかわらず戦果はほとんど無かったようだし、親潜水艦に帰りついたものも一隻もなかった。捕獲された特殊潜航艇の一隻は、戦後アメリカから日本に返還になり、現在江田島の旧海軍兵学校の構内に飾ってある。
手持無沙汰の零戦
次にわれわれは高度を三千メートルに上げてもう一度バーバース岬の上に出た。水平爆撃隊はここからこの高度で真珠湾上に向ったのである。アメリカの戦艦の多くは、二隻ずつくっついて碇泊していたので、フォード島寄りの内がわの艦に対しては、雷撃隊の魚雷が使えなかった。「アリゾナ」を沈めたのも、水平爆撃隊の落した爆弾であった。
この位置で三千メートルまで上ると、真珠湾がパノラマのようによく見える。眼下をホノルル空港に下りる国際線のジェット機が過ぎて行く。
本来(?)なら、時間の経過からいって前方真珠湾の方角、黒煙が天を焦がしているころであった。淵田総指揮官は当日、やはりこの高度でこのあたりを往ったり来たり、煙をすかして眺めながら、最後まで戦果確認のために残っていた。
戦艦群の炎上する黒煙は一方、軍港の背後の小高い丘からもよく望むことが出来た。日系人一世の中には、日曜日の朝のピクニックに行った山の上で、
「見てみい、アメリカはやっぱり金持じゃのう。ほんものの軍艦を燃やして演習しよらあ」
と、感心して見ていた人があったそうである。
楽な水平飛行に移ったので、ウィルダーン氏が操縦席のすみからゴソゴソ何か取り出した。それは零戦搭乗員の飛行帽、飛行手袋、白いマフラー、伝声管などであった。彼が「トラ、トラ、トラ!」に出演した時の小道具で、このゼロが自分だと雑誌に載った写真を見せてくれた。
みんなで順々に飛行帽をかぶり、マフラーを巻いてみる。革の匂いがする。零戦乗りの装束で飛行眼鏡ごしに眺める真珠湾は、また格別の趣があった。
当時制空隊の零戦群は上空で敵戦闘機の反撃に備えていたが、刃向って来たのは四機だけで、その四機もほんの数分後には全部撃墜されてしまった。そのあと約一時間おくれで戦場に到達した百六十七機の第二次攻撃隊のうち、進藤三郎大尉のひきいる制空隊がまた少数のアメリカ機を撃ち落したらしいが、それ以外には相手が見つからず、あの朝オアフ島の制空権は完全に日本の手中にあって、令名高い零戦隊は何もすることが無かった。それで彼らは幾つかのグループに分れ、装備の二〇ミリ機銃で飛行場や地上軍事施設の銃撃をやって、他の隊の飛行機といっしょに母艦に引揚げた。ヒッカム空軍基地へ行くと、零戦の打ちこんだ弾のあとが今でもたくさん残っている。
私たちはウィルダーン氏のビーチクラフトを二時間契約でチャーターしていたが、時計を見ると、そろそろ「二十八年目の真珠湾攻撃」も終りにすべき時刻になっていた。
黒い煙を曳いて、国際空港を出たジェット旅客機がわれわれの横を上昇していく。今はあれで東京まで八時間だ。下の方をきれいな白い雲が流れている。海は青々と美しい。ウィルダーン氏は次第に高度を下げながら、ニミッツ・ハイウェイ、アロハ・タワー、ワイキキの浜、ダイヤモンド・ヘッド、米軍墓地があるパンチボールの丘など、しばらく空からの見物をさせてくれて間もなくホノルル空港に着陸した。
さきに書いたように、ヒッカム空軍基地はこのホノルル国際空港に隣接している。ヒッカムの西どなりが真珠湾軍港になる。
海軍から紹介してもらってヒッカムを訪れると、ジャスティスという名の若い空軍大尉が私たちを待っていた。
ヒッカムの基地にはファントムだのB52だのという飛行機は一機もないが、太平洋方面米空軍総司令部があって、その建物の中に入ると、壁面あちこちめちゃくちゃにえぐり取ったような生々しい傷あとが随所に見られ、正面玄関のドアをあけたところの鉄の階段にも、弾の打ち抜いた穴がいくつかあった。これらは、記念のためにわざと残してあるのだそうだ。
それから当時の建物としては、日本の空襲部隊が目標にしたと伝えられる高い給水塔があり、真珠湾との基地境に近くヒッカム将校クラブの建物がある。
ジャスティス大尉に案内してもらって、基地の中をぶらぶら歩いて行くと、木立の中に将校宿舎、スプリンクラーがくるくる水を撒いている緑の芝生のほとりにはたくさんの車が駐車していた。その中に時々日本のトヨタを見かける。
私たちは将校クラブで大尉といっしょに一杯飲むことにした。このクラブのすぐ前が、真珠湾口のあの狭い水道で、旗をかかげて入港して来る軍艦が近々とよく見える。一九四一年十二月七日(六日)の晩、ヒッカム将校クラブでは土曜日の大ダンス・パーティが開かれていたようだ。あしたの朝戦争がはじまるとは、誰も予期していなかったのだろう。
「ジャスティス大尉、あなたはその時いくつでしたか?」
と、カクテルを飲みながら私は質問した。
「十カ月の赤ん坊だった」
と大尉は答えた。
今さらながら、日米戦争も遠くなったなと私は思った。
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海軍の伝統と気風について

わたしの海軍時代
戦時中、大学生の多くが競って海軍を志願したのは、一種の国内亡命だったという説がある。陸軍の泥くささ、知性の欠如、粗暴と大言壮語、政治的横車には、二・二六事件のころから、みんな大概あいそをつかしていた。英語廃止などと言い出す陸軍主導型の隣組社会に対しても同様、いい加減うんざりしていた。
海軍はすこしちがうらしい。われわれに分相応の待遇を与えてくれて、そう無茶な扱いはしないらしい。五体満足なかぎりどうせ征かねばならぬが、それならせめて海軍で、学を志した者としての自覚と誇りを持って戦いたいというのが、予備学生制度、主計軍医技術の短期現役制度に人気のあった最大原因だと思う。
ただし、実際に入ってみれば、海軍もそれほど結構な組織ではなかった。戦局の悪化と物資の欠乏に正比例して、古きよき時代の伝統は急速に失われつつあった。第一、私ども臨時雇いの士官候補生(予備学生)教育に、海軍はあまり優秀な人材を配してくれなかった。教官の中には、至極単純に、自由主義思想を悪と考えている人もたくさんいた。
要するに、私の見た海軍は、自ら滅亡の道をたどりつつあった末期の海軍であるけれども、ふとした折、本来リベラルでのびのびしたよき伝統の残映のようなものに接する機会が無かったわけではない。こちこちの精神教育をしているようでいながら、どこか考え方にフレクシブルなところがあった。のちに知ったことだが、海軍には「アングル・バーじゃ駄目だ、フレクシブル・ワイヤーでなくちゃいかん」(鉄の角材は強そうに見えるけど大して役に立たぬ、一見くねくねして弱そうな鋼索の方が重量物を自在に動かす大きな働きをするの意)とか、「ユーモアを解せざる者は船乗りの資格無し」とかいう言い伝えがたくさんあったのである。
予備学生採用試験の面接で、「ここに六つの菓子がある。菓子に一切手を加えず、これを五匹の猿に平等に頒けるにはどうするか」と聞かれた学生がいる。高等数学の問題かと考えて「分りません」と答えたら、「分からなければ教えといてやるが、これをムツカシゴザルというんだ」と、試験官の中佐がニヤリとした。つまらぬ駄洒落だが、「コチコチは海軍士官に向かんよ」ということであったろうと思われる。
採用が決って、教育隊長のわれわれに対する訓辞第一声は、「ネイビーはスマートネスを以てモットーとする」であった。これもつまらぬ小事だが、敵性国語を口にするなと国是の如く言われていた時代、私たちにとってはかなりの驚きであり、救いでもあった。以後三年半の海軍生活の間、英語を使うなというような話は聞いたことが無い。代りにさんざん吹きこまれたのが、「陸式」とか「陸助」とかいった陸軍の体質を馬鹿にする言葉で、それは硬直した日本の今の社会全体を笑っているようにも見えた。私ども知識階級の卵にとって、当時、海軍はやはり一つの亡命先であったかも知れない。
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暗 号 と 私
台湾の南部、高雄州東港という所に、戦争中海軍の航空隊があった。大型飛行艇の基地だが、飛行艇群が南の前線へ出払ってしまって、航空隊の施設そのものは空家同然になっていた。大学高専を繰上げ卒業後、海軍を志願して採用された私どものクラス、第二期兵科予備学生約五百五十名が、昭和十七年の十月から此処で海軍の基礎教育を受けることになった。航空の方とは特に関係が無く、一般兵科の初級士官として必要な知識技能心構えを、半年間の速成で次から次へ叩きこまれるのである。その一つに暗号の講義があった。二人に一と組ずつ、呂暗号書の実物と使用規定、乱数表を貸与され、教官が取扱い法を詳しく説明した。全部赤表紙の軍極秘図書で、艦が沈んだ場合敵の手へ渡らないように、表紙に鉛が入れてあったり、使用規定が水溶性の青いインクで印刷してあったり、初めて知る珍しいことばかり、大変興味を持ち、熱心に此の講義を聞いた。しかし大勢の学生の中には、乱数の加減法や暗号文冒頭の組立て法が一遍でよく呑みこめない者もいるようであった。教官が、「誰か私の説明したことを、私の代りにもう一度説明出来る学生おるか」と言った。手を挙げ、指名を受けて、私は教壇の上へ進み出た。通信文を暗号化し、乱数を加えて実際の数字電報を作成して行く手順、暗号電文から乱数を引いて受信用暗号書の中の該当する字句を探し出す手順を、今教わった通り繰返し、「明快な説明でよろしい」と讃められて得意であったが、ちょっと不安な気がしたのを覚えている。暗号教室は、教室とも申しかねる航空隊のガラガラした木造バラックであった。隊内とはいえ、こんな高度の機密事項を外へ筒抜けの大声で喋っていいのかなと思った。
卒業期が近くなり、専修課程に陸戦、対空、機雷、通信のどれを選ぶかと聞かれた時、私はためらわず「通信」を志望した。司令部附の暗号士になって艦隊旗艦の空母か戦艦で勤務出来たら、海軍へ入った甲斐があるし、これがいやいやでなく働ける一番自分に向いた道だという風に考えていた。希望通り久里浜の通信学校へ行かせてもらうことになったが、その際「通信の特」の申し渡しを受けた。「特」とは何ですかと尋ねたら、「向うへ行けば分る」と言われた。
昭和十八年の四月、横須賀へ帰って来て、「特」は要するに「特信情報」の特だと分った。暗号は暗号だけれど、敵さんの暗号電報を傍受解読、解析推理する作業である。通信学校入校後最初の必読図書として、ハーバート・O・ヤードリの「ブラック・チェンバー」を指定され、単式換字の練習問題を二時間以内に解いて原文の英語を出せと、いきなり命じられた。そのあと練習問題は段々難しくなり、多表式のヴィジュネール・テーブル、ポルタ・テーブルまでやった。ある種のヴィジュネール・テーブルは、ヨーロッパで三百年間解読不可能とされていた暗号だそうだが、解き方のコツを教われば解けるし、解かないと教官の鉄拳が飛んで来るから、皆眠む気を振り払って必死であった。断っておくけれど、今の私には、あんな面倒なもの到底解けない。試してみた訳ではないが、解けないだろうという自信がある。
八月の末、少尉に任官して軍令部附を命ぜられ、特務班という部局で勤務することになった。暗号解読といえば、推理小説風の華やかな一面を想像する人があるようだが、華やかなことなぞ何も無い。「運、根、勘」とよく言われたが、運に見放されると、いくら根をつめて努力しても何の成果も出て来ない。アメリカのストリップ・サイファーと取組む連中に至っては、運も根も勘も一切用をなさなかった。又、仮に何かの成果が挙っても、殊勲が公けにされることは絶対無いし、親兄弟恩師、他の部局の上官にすら話すことは許されなかった。ただ、戦争末期の軍令部特務班は、士官の九割以上が私らのような学徒出身者で、機密のヴェールの内側には一種大学の研究室のような雰囲気があり、それが難儀な作業の救いになっていた。特に私の場合、重慶政府の軍事外交暗号担当のC班へ廻され、これは他の列強に較べ十年おくれの暗号で、よく読めた。したがって、気持の上で比較的楽な勤務であった。出先の中華民国漢口で敗戦の日を迎え、復員帰国してみたら、新聞が動静を伝える国民政府要人の中に、知った名前が幾つもあるのに気づいた。かつて私が、デスクの上で、暗号電報の発信者着信者として、毎日おつき合いしていた人たちの名前であった。
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山本聯合艦隊司令長官閣下
恩讐を絶して長い眠りについておられる長官を、突然お騒がせする非礼をお許し下さい。閣下の部下であった|眇《びよう》たる一大尉の私事を最初に申し上げなくてはなりませんが、長官が|南溟《なんめい》に於て戦死され、日本が長官の予想された通りの敗戦を迎えてのち、私は文筆を業とする身と相成り、此の三十年来、海軍をテーマにした作品をいくつか書いて参りました。閣下の伝記めいた長いものを世に出したことも有之、したがって長官御在世当時の御日常に関しては、公私両面にわたって相当詳しくなっているものと、自惚れておりました。
ところが最近、まんまと一つ、騙されていたことがあるのに気づきました。文筆家として恥ずるに足る話で、長官、よくも見事にお騙しになりましたなと言いたいところですが、これは専ら私の無知と迂闊の故でございまして、書面を以て閣下に恨み言を申し述べるつもりはありません。ただ、「遅まきながら、あの本、私も見つけ出して読みました」と、ちょっと御報告がしたいのです。
今から四十六年前、昭和五年の五月八日、閣下はモンテ・カルロのホテルから、パリの佐藤市郎中将(当時大佐)御夫妻あてに長い手紙をお書きになったのを御記憶でいらっしゃいましょうか。御芳翰の内容は、ほとんどがルーレットの戦果報告ですが、中に一ヶ所、
「あまりあわれになったから公園を一廻りしてホテルに帰り風呂に入って、The Memoirs of Dolly Mortonを午前三時迄に耽読終了しました」
との御記述があります。
閣下はこの時、第一次ロンドン軍縮会議の帰路モナコヘ立寄られたので、現在の私よりずっと若い少将でいらしたと承知いたします。私が偶然の機会から此の私信を拝見したのは、ちょうど『軍艦長門の生涯』と題する拙作長編執筆中で、長門は閣下と御縁の深い戦艦ですし、大いに興味をいだきました。隠していた身分が知れ、ホテルの従業員に「アミラル、アミラル」と言って敬意を表されること、あまり頻々とカジノヘ通うので、カジノでも顔を覚えられ、それにしては賭け方が小さくて少々きまりが悪いこと、長官が得意の二割増し方式でも、資金が乏しいためなかなか思うようにルーレットで稼げないことなど、いずれも面白く拝読しましたが、Dolly Mortonのところだけが、何のことかよく分らない。どういう本なのか分らない。
御手紙に、南北戦争当時の南方のプランテーショナーと北方のピューリタンとの相剋、ヴァージニヤ州の光景など、「誠にさもありしならむ」と思ったなどと、黒人問題に事寄せた読後感をしたためていらっしゃいますから、「アンクル・トムス・ケビン」のような小説だろうかと、ずいぶん調べましたけれど、さっぱり分りません。戦前ワシントンの国会図書館に勤務された坂西志保女史にも問合せてみましたが、知りませんねえと仰有る。仕方がないから、拙作の中では、対英米海軍比率六割か七割かで国論が二つに割れて大騒ぎをしていたころ、山本五十六少将がモナコで書いたこんな手紙が残っていると、事実のみ挙げてお茶を濁しておきました。
さて、私の『長門』が出版されて間も無く、かねて猥褻物何とかで起訴されておりました私と同業の野坂昭如という作家が、第一審法廷において有罪の判決を受けました。野坂の名前は御存知ありませんでしょうが、永井荷風はお読みになったことがおありと思います。野坂は荷風の秘作と言われる「四畳半襖の下張」を雑誌に掲載したかどで罪に問われたのでございます。新聞が裁判の模様を詳しく報じました。その中に大変行きとどいた解説記事があり、何気なく見ておりますと、アメリカで名高い obscene book の一つとして"The Memoirs of Dolly Morton"が挙げてある。あれッと思いました。
閣下は花柳界で、「だま茶目」――黙って茶目をするから「だま茶目」という綽名がおありだったそうでございますね。米内光政提督は、人に長官のお人柄を問われて、一と言「茶目ですな」と答えられたと聞き及びます。何だ、あれは山本さんのだま茶目だったのか。さんざん人に探させておいて、坂西さんに聞いても分らないはずだ、Dolly Mortonは要するにアメリカ版「襖の下張」じゃないか。それにしてもよくぬけぬけ、南方のプランテーショナーがどうだとかヴァージニヤの光景がどうだとか、秘本の読後感にもっともらしいことをお書きになったものだ、御書簡が佐藤御夫妻あてだから、奥さんの方に分らないように、御主人にだけ「あれ読んで面白かったよ」とお伝えになりたかったのであろうがと、感服仕りました。
早速方途を講じて、"The Memoirs of Dolly Morton"を手に入れ、一読してみましたところ、平易な英語で、此の種の本としては秀作で、長官が午前三時までかかって耽読なさっただけのことはございましたが、長官には、「貴様もうといな。今ごろ何を言ってるんだ」と笑われそうな気がいたします。
ついでながら、故佐藤市郎中将の|季《すえ》の弟にあたる佐藤栄作氏は、昨年鬼籍に入られました。坂西女史も亡くなり、閣下と志を同じゅうされた井上成美大将も、昨年の暮ついに亡くなられました。井上さんといえば、あの謹厳きわまる提督が、上海在勤中やはり、"The Power to Love"とかいう英語の秘本を、熱心に読んでおられたということを、追悼会の席上で聞き、井上さんの深い人間味はそういうところからも来ていたのかと思いました。
あの世のつれづれのおなぐさみに、御墓前へ"Dolly Morton"を供えに行きたいような気が致しますが、多磨墓地あたりで、obscene book を持ってうろうろするのもどうかと思われ、これは御遠慮申し上げます。長々と、つまらぬことを書き列ねました。お読み捨ての上、どうかまた安らかな眠りにおつき下さい。長官、さようなら。
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青い眼の長門艦長
昭和初年私が子供のころ、「少年倶楽部」附録の「物識りカルタ」に、
「む |陸奥《むつ》と|長門《ながと》は日本の誇り」
というのがあったけれど、事実、長門は姉妹艦陸奥と並んで、当時日本の海洋戦力を象徴する世界最強最速の戦艦であった。海戦思想の変革で結局は無用の長物に終るのだが、戦争中栄光の座を|大和《やまと》にゆずるまで長く聯合艦隊の旗艦をつとめ、対米開戦決定を告げる「新高山登レ」の歴史的電報を発信したのもこのフネである。
戦前派戦中派の人々には、何らかのかたちで記憶に残っている軍艦のはずだが、「日本の誇り」歴代三十三人の長門艦長のうち、最後の一人がアメリカ人であったことは知る人が少い。何故そんなことになったかというと、陸奥も大和も|武蔵《むさし》も、みんな沈んでしまったのに、長門は数々の海戦に参加しながら、日本の主力艦中たった一隻、不思議に命永らえて終戦を迎え、生き残ったばかりに、敗戦の翌年ビキニヘ連れて行かれ、洋上原爆実験の標的艦として沈められるからである。
私は先年、この戦艦の生涯を物語に仕立てたので、長門死出の航海を指揮した最後の艦長が W.J.Whipple という米海軍の大佐であることは知っていた。しかし、その人の経歴やビキニ以後の消息については何も分らず、多分もう故人だろうと考えていた。ところが、アメリカの知人から先ごろ思いがけぬ手紙が届いた。ウィップル退役海軍少将はカリフォルニヤの片田舎に健在である、しかも娘のマーガレットが大阪で日本の商事会社に勤めている、近く老夫婦が娘を訪ねて日本へ行く予定だから会ってみてはどうか――。
自分だけ会うのは惜しい気がした。数少い現存長門艦長在職者の一人に、横山隆一さんの岳父渋谷清見少将がいる。鎌倉へ電話をかけ、御一緒にどうでしょうと横山さんの意向を打診してみたが、
「おやじ元気だけどネ、脚が弱ってて、とてもそりゃ無理だよ」とのことであった。
かくて、大阪のマーガレットと何度か電話で打合せの上、ウィップル夫妻の来日上京を待って、予備学生出身の元大尉が、三十三代目の長門艦長アメリカ海軍の少将を、単独で表敬(?)訪問する仕儀になった。日本語の上手なマーガレットと、彼女の会社の英語の上手な青年が同席してくれたので助かった。
赤坂の山王ホテルで昼食を共にしながら何を語り合ったか、ビキニ原爆実験の摸様もふくめて、詳しく書けば長くなりすぎるし、作品に記したことの重複、少し専門的な話になりすぎる。それより、この人の風貌、家族構成が私には面白かった。ウォルター・ウィップル少将は禿頭のまわりにまっ白な髪を少し残して、地味で質素な背広を着た小柄の七十六翁、カリフォルニヤの|朴訥《ぼくとつ》な農夫といった感じだが、祖父曾祖父に幾人か提督がおり、夫人の家系も同様、海軍一家らしかった。一九二六年のアナポリス兵学校卒業、戦時中輸送船「ノーブル」「ジェネラル・マン」の艦長をつとめ、終戦後「米海軍対日技術調査団」の次席団員として日本駐留中、昭和二十一年二月、長門(a ship of U.S.Navy not in commission)の艦長に補せられ、ビキニ廻航の指揮を執ることになったと話した。
長門のエンジンに米国ウェスチングハウス社製の減速ギヤがついていて驚いたとか、当時長門は哀れな状態でボイラーが度々故障し、エニウェトック環礁経由ビキニヘの航海に通常八ノット、最高十二ノットしか出せなかったとかいう話も出たが、一体海軍の軍人は敵国(旧敵国)の海軍、人、艦船に奇妙なしたしみを示す万国共通の性癖がある。
「自分は少尉の時『ペンシルバニア』(米太平洋艦隊旗艦)大佐の時『長門』、好敵手だった日米両艦隊の旗艦乗組を経験しているのは自分だけだ」
と、この老少将もなつかしげな、かすかに誇らしげな顔をした。末娘のマーガレットが日本に興味を持ち、日本へ来て暮しているのや、ウィップル老夫人が日本人なぞ一人もいない加州の田舎で現在こつこつ日本語の勉強しているのも、そういうことと無関係ではなさそうに思えた。マーガレットは美しいたいへんチャーミングな未婚女性で、ただし別の興味をお持ちになる読者があるかも知れないから“念のため”つけ加えておくと、彼女合気道初段だそうである。
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東郷元帥の功罪
代々の編集責任者や旧海軍の方々の御努力によって、「東郷」が通巻百号を迎えることになりました。慶賀のいたりと存じます。毎月の文芸雑誌など、私は半年も経てばすべて始末してしまうのに、「東郷」だけはほとんど全巻揃いで、いつでも取出せるところに保存しております。読みかえしてみますと、面白い回顧録や貴重な研究が種々掲載されていて私どもにとってもまことによき資料です。本来ならここでは、百号記念のお祝いの言葉、お礼の言葉のみを申し述べるべきでしょうが、礼を失するのを承知で、私は少しく苦言を呈してみたいと思います。
それは、東郷平八郎という一人の提督の扱い方についてです。雑誌の性格上、東郷元帥に関する記事が多くなるのは自然の成り行きだと思いますが、それがどれもこれも東郷賛美の文章ばかりでは、読む方はしまいにうんざりして、「東郷さんが偉いのは、もうよく分ったよ」と言いたくなるのではないでしょうか。大体、笛を吹きすぎると相手は踊らなくなる、持ち上げよう持ち上げようとすれば逆の効果が生ずる。噺家が高座で笑えば客が白けるというのは、文章の道、芸の上でのもっとも初歩的な常識です。
日本近代史の上に東郷平八郎元帥が果した役割は、すでによく知られているところであり、日本海海戦での偉勲はもとより、例の「古人曰く勝って兜の緒を締めよ」という「聯合艦隊解散の辞」も、世界的にたいへん名高いものとなっております。時の米国大統領セオドール・ルーズベルトは、東郷長官の「聯合艦隊解散の辞」に深い感銘をうけ、大統領達号(General Order)に異例の掲載を命じてアメリカの全陸海軍将兵に示した上、コピーを英国王エドワード七世に送って一読をすすめたりしています。私たち日本人としては、誇らしい気持にならざるを得ません。
しかし、東郷さん――、少くとも晩年の東郷さんには、日本の誇りとは言いかねる別の面もありました。日本海軍のシンボル、生き神様、一種旭日のような存在になってしまった東郷元帥をかついで、自分たちの主張を押し通そうとした一群の人たちがおります。ロンドン軍縮会議、統帥権干犯問題で部内が紛糾した当時、高齢の東郷元帥は、此の人々の口うつしに近い強硬論を唱えて、重臣や海軍省の当局者を困らせました。
「西園寺公と政局」には、元老西園寺公望の言葉として、
「とにかくどうも東郷元帥にも困ったものだが」
との一行が見えます。
此のころを境にして、対英米協調派の提督たちが次々に海軍を追われ、こんにち流にいえばタカ派が部内に勢いを得て来て、サイレント・ネービーの「兜の緒」が怪しくなって行ったように見られます。その結果、大事にのぞんでのブレーキがきかなくなり、「海軍さえしっかりしていてくれれば」との識者の期待を裏切って、日本は無謀の戦争に突入することになりました。
ロンドン会議の際の海軍次官山梨勝之進提督は、海軍をやめたあと、ハト派退陣タカ派台頭の経緯について、
「海軍の人事は、一旦海軍大臣が腹を決めたら、どうにもならん、大角海相のうしろからプレッシャーがかかっている。具体的にいえば伏見宮殿下と東郷さんだ。東郷さんが海軍の最高人事に口出しをしたのを、私は東郷さんの晩節のために惜しむ」
と語ったと伝えられています。
過日亡くなられた井上成美大将は、
「海軍には一等大将と二等大将とがあった。二等大将の中には、私の眼から見て国賊と呼びたいような人が大勢いた」
と言い、
「それじゃ、井上は何等大将だ? 井上もあんなことは言わん方がいい」
との批判も私は耳にしておりましたが、
「ところで、井上さんの評価では、東郷元帥は一等大将に入りますか」
と若い者が聞くと、否定的な返事しかしなかったそうです。
私は、東郷さんの人となりや事績に関してそれほど詳しく知っている者ではありません。知らないだけに、事実をもっと知りたいと思います。西園寺、山梨、井上らの観方がまちがっているというなら、堂々とした反論を聞きたいのです。
対象によっては、「あまり傷つけるようなことは書くな」という配慮も必要かも知れませんが、東郷平八郎ほどの大物になると、そんなに簡単に傷ついたりはしません。それに歿後四十数年経って、東郷さんもそろそろ歴史の人物でしょう。歴史にふたをしてはいけないと思うなら、晩年の言動がどうであったにせよ、忠臣東郷としては、たとい自分に少々傷がついたとて、史実が赤裸々に解明されそれが後世へのいましめとなるなら、必ず泉下で喜ばれると私は信じています。
ひとり東郷さんのみならず「勝って兜の緒を締めよ」の「聯合艦隊解散の辞」をむなしくしてしまうような事態に立ち至ったすじ道はどうだったのか、「東郷」がこれを正しく解明する一つの場となって、一層の発展をとげられることを願ってやみません。
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広瀬武夫余話
大正十年の五月二十七日、戦艦長門は就役後初めての海軍記念日を洋上で迎えた。日露戦争対馬沖の海戦に、我が聯合艦隊が露国バルチック艦隊を全滅させた偉勲をしのんで、艦長より記念日の訓話があり、訓話のあと、艦長(初代長門艦長飯田延太郎大佐、のち中将)は乗組員一同に、一人の特務士官を紹介した。
「本艦掌機長の高橋特務中尉は、当時軍艦八雲の機関兵で、広瀬武夫中佐と共に旅順口閉塞の決死隊に参加され、軍神広瀬中佐の御最期を眼のあたり見た人である。本日はひとつ、その思い出を聞くことにしよう」
というのであった。
そのころ(大正中期)の日本海軍には、誰でも自由にものの言えるずいぶんリベラルな気風が存在したと言われるが、艦長の指名を受けて立ち上った高橋掌機長の話も、極めて率直なものであったらしい。
自分は第一回の閉塞隊にも参加したが、はっきり言って一回目は失敗だったこと、決死隊決死隊と、死を怖れぬ勇者のように呼ばれても、「人間、いざ死ぬかも知れんという時には、やっぱり一と晩寝ないで考えこむものだ。普通の人間に、ああいうことは、なかなか二度つづけてやれるものではない。実を言うと、二回目、自分は志願しなかった」こと。
これを、「戦陣訓」に見るような第二次大戦中のヒステリックな死生観と較べると、いちじるしいちがいを感ずる。決死隊にしても、日露の役の決死隊は昭和史の特攻隊とは別もので、生還の方途が充分残されていたし、日本海海戦の軍歌なども、
「海路一万五千余里
万苦を忍び東洋に
最後の勝敗決せんと
寄せこし敵こそ健気なれ」
と、まず敵艦隊を讃える詞で始るのである。日本は、軍人が死の恐怖を率直に語ることの出来た時代、大戦争に勝って、全将兵全国民、日本人ならみな従容として死につけるが如く言い立てたいくさには負けたのであった。
それはさて置き、
「第一閉塞隊千代丸の指揮官有馬良橘中佐(のち大将)が、やはり、同じ人を二回連続決死隊に出してはいかんという御意見であったと聞いている」
と、高橋掌機長はつづけた。
「それを、広瀬中佐は二度とも進んで志願された。自分も、志願しなかったにもかかわらず、結局再度決死隊に加えられ、明治三十七年三月二十七日の未明、次第に沈み行く福井丸から、杉野兵曹長の捜索をあきらめて広瀬指揮官がボートヘ移って来られる、同時に我々の手で沖へ漕ぎ出した。自分はストローク(整調)から二枚目を漕いでいた。敵の探照灯が照らす中で、指揮官が『キンタマ握れ、キンタマ。みなキンタマは二つあるか』と叱咤なさるが、とてもキンタマなぞ二つあったものじゃあない。広瀬指揮官の姿が消えたのは、その直後であった。自分の前を漕いでいた兵の身体に、血とひき肉のようなものが飛び散って、それが御最期であった」
この話を聞かせてくれたのは、大正十年度の古い長門乗組員白石嘉三という人で、よほど印象深かったらしく、五十年前艦上での一片の講話をヴィヴィッドに覚えていた。私はサンケイ新聞連載中(昭和四十七年)の『軍艦長門の生涯』と題する作品の中にこれを書くことにした。
ところが、念のため旅順口閉塞隊関係の記録を調べてみると、広瀬中佐のボートに乗っていた若い機関兵で高橋という名の者はいない。いくら探しても、それらしい人物が見出せない。そうなると、ヴィヴィッドな話だと思って聞いたその内容まで、どの程度正確なのか疑問が出て来る。高橋掌機長の記念日講話に関して、私は少し曖昧な書き方をしておいた。
この部分がサンケイ夕刊に載った翌日、東京杉並区井荻に住む小野キヨさんという御婦人から電話がかかって来た。
「『軍艦長門の生涯』にお書き下さいました高橋特務中尉の、私は娘でございます」
と言われ、びっくりした。
旅順口閉塞決死隊員の名簿に、「軍艦八雲汽缶掛一等機関兵小林吉太郎」と出ているのが、キヨさんの父親、のちの高橋中尉だと分った。小林機関兵は福島県相馬の生れ、決死隊から生きて帰って、日露戦争のあと同じ相馬の高橋家へ婿養子に入ったが、そのまま海軍に奉職し、やがて特務士官に昇進して、大正十年には高橋吉太郎の名前で長門掌機長をつとめていたのである。キヨさんの話によれば、私が白石嘉三氏から聞いたほぼその通りの経験をしている。不正確なのは私の調べ方であった。
吉太郎は妻チカとの間に五人の子をもうけ、長女が結婚して小野キヨ、末っ子が実、高橋実は兵学校(七十期)へ進み、昭和十九年マリアナ方面水域で伊号第四十三潜水艦乗組の中尉として戦死した。吉太郎自身も、第二次大戦中五十を過ぎて再召集を受け、四日市において大尉で終戦を迎えたが、敗戦のショックと末っ子を喪った悲しみとでろくに口もきかぬ年寄りになってしまい、昭和三十五年失意のうちに亡くなったと。
「先だって父の十三回忌をすませたところですが、母は今も相馬に健在でございます。この新聞を見せてやったら母がどんなに喜ぶかと思いまして」
小野キヨさんは話しているうちに電話口で泣き出した。広瀬武夫にまつわる日露戦争中の故事など、すべて遠い歴史物語のように感じていたが、父から娘へ語りつがれて日本人の血の中に未だ脈々と生きていると思ったら、聞きながら私も涙が出そうになって来た。
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小泉さんと海軍
昭和十七年の末、私が台湾で予備学生として海軍の基礎教育を受けていたころのある日、隊内のスピーカーから突然、
「慶応の卒業生に告げる。小泉塾長の御令息小泉主計中尉が戦死された。慶応出身の学生は夕食後ただちに講堂に集れ」
という声が流れ出して来た。声の主は慶応出の学生で、海軍では私たち予備士官の卵にこういう問題で一種の自治というか、自由を許していたのだが、私が小泉さんの名を強く意識したのはこの時が最初である。
むろんそれ以前にも慶応義塾の塾長としての、或は学者としての小泉さんの名前は知っていたと思うが、それは私の記憶の中では漠然としていて、この日のことだけが非常に印象深く残っている。
印象が強かったのは、自分らと似た境遇の若者がまた一人南方で戦死したということもあったが、それと同時に、慶応出の連中が軍隊に入ってからもひどく団結心が強いこと、彼らが「小泉塾長」に強い信頼と親愛の気持をいだいていることを知って驚いたからであった。
予備学生隊には全国各地の色んな大学専門学校の出身者が集っていたが、出身校の総長の子息が亡くなっても、たとい総長自身が亡くなっても、こういう反応を示す者は慶応以外に無さそうに思われた。
これは一つには慶応という学校の伝統の校風だと思うが、やはりもう一つは小泉さんの人格の故であったろう。
それから数年経って、戦争が終り私が小説家としてどうやら立って行けるようになったころ、新潮社出版部員で慶応出のS氏から私は、小泉信三先生には息子さんのことを書かれた世に出ない名著があるんですがねという話を聞かされ、ああ、あの時南方で戦死した主計中尉の令息のことなのだなと思った。
その本を見る機会は無かったが、このころ小泉さんが折々雑誌に発表される随想の類は私はよく読んだ。戦後の|滔々《とうとう》とした左向きの風潮に納得出来なかった私は、小泉さんの書かれるものを読んで胸のすっとするような思いを何度も味った。私は小泉さんのような皇室尊崇の気持は持てなかったが、掌をかえしたように天皇のことなどボロクソに言う傾向は苦々しくて、その点でもはっきり強い態度を持しておられるのが気持よかった。また小泉さんの書かれるものは、文章としても実に立派な文章であった。
中でももっとも私が感銘を受けたのは、昭和二十四年一月号の『心』に発表になった「米内光政」であった。あの狂乱の時代に終始さめていて、日独伊三国同盟に反対し対米開戦に反対し、最後に本土決戦に反対し無条件降伏を強硬に主張して、自分が終生を捧げた帝国海軍を自分の手で葬った米内光政という一人の提督を、小泉さんはこの一文の中で熱情をこめて描いていた。読んで私は涙を流した。
旧日本海軍にも馬鹿な軍人、始末の悪い事象はいくらでも存在していたが、小泉さんは海軍のよき面、特に米内提督に象徴されるようなよい点を愛しておられたことがよく分った。古くからのその思いは、令息が海軍士官として戦死されたことでむろん一層深められていたにちがいない。
私は自分の海軍での経験を土台にした『春の城』と題する長篇が本になった時、面識は無かったが小泉さんに一冊を呈上した。すると読後感をしたためた鄭重な礼手紙が届いた。小説の中にはマリアナ沖海戦で戦死する航空母艦乗組の若い予備学生出身の士官の話が出て来るのだが、小泉さんはその場面を読んでしばし巻をおおったという意味のことを手紙の中に書いて下さった。これは私の作品の出来栄えからいって、また小泉さんの文学に対する眼の高さからいって甚だ過分のことであった。謙遜ではなく今でも私は面映ゆい気がしている。小泉さんは日本の現代文学もよく読んでいて、「○○はあんなもの書いて羞しくないかねえ」などと、なかなかきびしかったそうだが、海軍をあつかった作品だといくらか点が甘くなられたのであろう。
それから十二三年して私が『山本五十六』を書き上げた時も、小泉さんは出版社の求めに応じて大層好意的な推薦文を書いて下さった。再び過分のことというべきであるが、私はまことにありがたく嬉しかった。その推薦文をいただいてから間もなく小泉さんは亡くなられた。
お眼にかかる機会はついに得なかったが、私としては信頼する学者思想家であり、同時に私が海軍ものを書いた時甘い点を下さる貴重な読者を失ったという嘆きが残っている。
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余命と無常感――八月十五日に思うこと――
八月十五日の敗戦が私にもたらしたものといえば、一番はっきりしているのは三十年か四十年かの余命である。
あのころ私たちは「人生わずか二十五年」などと称し、多少の悲愴感に酔いながら自分でもそのつもりで毎日暮らしていた。私は特攻隊員ではなかったから、どこでどうやって死ぬ羽目になるかそれはわからなかったが、いずれにしても死ぬ時が来るのはそう遠い将来のこととは思えなかった。
それが突然、「戦争はおわった。|くに《ヽヽ》へ帰って今後は勝手に生きのびなさい」ということになったのである。
ホッと息をつきたいようなありがたい話ではあったが、その時四十年の余命とリュックサックいっぱいの荷物といっしょに、私はどうも一種の無常感みたいなものをもらって帰って来たらしい。以来二十年間、余命がしばしば余生のような気がしてならない。これは私の帰りついた|くに《ヽヽ》が広島であったということとも多少関係があるかも知れないが、その点はよくわからない。
それに無常の感覚というのは、われわれ日本人の血の中に古くからひそんでいるもののようで、私の場合は敗戦、郷里の町の悲惨、戦後の人の変わり身の早さなどを見聞きしているうちに次第に表面に出て来たものであるかも知れない。
結果として、私は少しなまけ者になったようだ。自分のなまけぐせを戦争のせいにするのは、あまり感心したことではないが、学生時代、海軍士官時代の自分はもう少し勤勉な人間だったような気がする。
話は飛ぶが、私のところは系図の残っているような上等な家柄ではないけれども、かりに系図が残っているとしても、あれはいわゆる家を中心にした一本棒のもので、一人の人間の祖先の完全な展開図は得られない。
戦後出来た私の三人の子供の立ち場からいうと、彼らの父親は大東亜戦争に出、母親は東京で空襲を受け、彼らの父方の祖父は日露戦争に従軍している。その前はどんな動乱や飢饉や疫病を体験したか不明であるが、その祖父の父と母、そのまたそれぞれの父と母というふうにたどって行くと、彼らにとって直系の祖先となる人の数は元禄のころに五百人を越える計算になる。関ヶ原のいくさの時代までさかのぼると、おそらく数千人に達するであろう。
この何百何千人のうち一人でも若くして非業の死を遂げたものがあったら、彼らは絶対に存在しないのだということを考えて、私は不思議な気持になることがある。
彼らの父親である私自身でいえば、病気か落第で私の大学卒業年次があと一、二年ずれていたら、運命はどうなったかまったくわからない。同じ海軍でも飛行機の方へ行った確率が大きいだろう。一年おくれて飛行科へまわされていたら、私のあの特攻戦死者をもっとも多く出した『雲流るる果てに』のクラス、二年おくれていたら『あゝ同期の桜』のクラスに該当する。
今私が生きているについては、私自身の生きようとする意志や努力と関係のない、実にたくさんの要素がからんでいたのを私はいつも感じている。どこかの分岐点で一つとなりのレールに乗せられていたら、現在私はいないかも知れないし、そうすれば私の子供たちもいない。
人はよく戦死した者やその遺族のことを語るが、私は時おり前の戦争のために生まれて来なかった人間のことを考えてみることがある。
戦後生まれの若者たち、あるいは同世代の友人や自分の子供をながめていて、私は、
「お前、よう偶然にもそんな顔して元気にそこに生きて立っとるなあ」
というような気のすることもある。
武者小路さんなら、
「何ものかの大きな意志が君を殺さなかった。君は何ものかに見守られている。せいいっぱい生きたまえ」
と、そういうふうに言われるかも知れない。
しかし私の頭には「人身|享《ウ》ケガタシ」とか「無常ノ風一タビ吹キ来タリヌレバ」とかいうような思いの方がつい先に浮かんで来て、せっかく与えられた余命ながら、必らずしもせいいっぱい生きたいという気になれないのである。
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「あゝ同期の桜」に寄せる
――第十四期海軍飛行予備学生遺稿集「あゝ同期の桜」を読んで――
トラックの往来のはげしい国道すじを、自分で車を運転して走っている時、私はよく妙な空想をする。向うからまっ黒なダンプが砂利を山と積んで無茶苦茶な追い越しをしながら迫って来る。あれに自分の車ごと体あたりをして、その暴走を阻止するとしたらどうだろう、と。
ちょっとその心持ちになって、中心線をオーバーし、アクセルを踏みこんでスピードを上げてみる。その仮の|仕種《しぐさ》と想像だけで、たちまち私は強い恐怖にとらえられ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、俺にはとても駄目だ、そんなことは出来るものではない、いやだいやだと独りハンドルの上でぶつぶつ呟き出す。
これは自動車で旅をするたびに繰返す私のくせで、特攻隊で死んだ連中のことが今もって頭のすみから消えてしまわないせいであるらしい。
彼らの相手は、砂利トラックではなく、全身対空砲火のはりねずみになった軍艦であった。速度は自動車の五倍以上で、はらには爆薬をかかえていた。彼らは一体、どんな気持で突っこんで行っただろう?
『雲流るる果てに』の中であったと思う。十三期予備学生出身の特攻隊員たちが詠んだ川柳があって、
「痛からういや痛くないと議論なり」
「あわて者小便したいままでゆき」
という二句が私の記憶に残っているが、彼らは自分たちの思いを、つらい笑いではあるが笑いに託すすべも知っていた。戦場の心理は、戦争が終わって二十年も経ってから、国道の上で見る恐怖の白昼夢とはちがっている。
しかしそれを差し引いて考えても、特攻という戦法は、やはり人間の神経の耐え得る限界を越えたものであったと思う。
私自身は特攻隊員ではなかったが、私の白昼夢でいうなら、ダンプの前すれすれに横切って運転席に爆弾を投げつけて来いといわれたら、それはあるいは出来るかも知れない。それでも同じ激突と同じ死とが待っているかも知れぬが、それとこれとのちょっとの差は非常に大きな差であって、特攻隊は日清日露以来の決死隊とは、はっきり別のものである。
出て行っても出て行っても、落とされる。どうせ生還が望めないなら、いっそ効果的に飛行機ごと体あたりをしてみようという気を、戦争末期、使命感に燃えた少数の若い海兵出身者たちが起したのは、理解出来るし、ある程度讃美することも出来る。が、許せないと思うのは、それを誰にも彼にも押しつけて、海軍航空隊一般の戦法として採択し、普通の人間には耐え得ないことを、耐え得ないと告白すれば卑怯者として制裁を加えたその一事であって、これはもはや責任者の乱心、神というものが在るなら完全に神にそむくものであったというほかはあるまい。
帝国海軍の上層部には、日本はアメリカと戦争すべきでないこと、戦えば必ず負けることを明確に見通していた者がかなり大勢いた。山本五十六は「負けるに決まった戦争する馬鹿があるもんか」とよく人に言っていたという。|大勢《たいせい》に押されて立ち上がりながら、彼らは戦局が結局自分たちの見通しの通りになって行くのを、その眼でじっと見ていたはずである。その人たちの中に、特攻という戦法を、学徒出身士官や少年航空兵の上にまで半強制的に一般化してしまうのを、チェックしようとした人は一人もいなかったのであろうか?
開戦当初の真珠湾攻撃の特殊潜航艇五隻の使用に関して、山本長官は、生還の方途が残されていないというので、初めこれを認めなかった。隊員たちのたっての希望で、艇の航続距離を増し、親潜水艦に還って来られるだけの方法を講じさせてから、ようやくその出撃を認めたといわれている。山本五十六がもし生きて、聯合艦隊司令長官の職にとどまっていたら、彼は特攻戦法の無制限な採用を果たして容認したであろうか?
今度世に出た第十四期海軍飛行予備学生の遺稿集(毎日新聞社刊「あゝ同期の桜」)の中に、遺族の頁がある。
小泉勝という特攻隊員の母玉子、甥憲司の詩が載っている。
ぼくのおじさんは 大きいしゃしんにうつってる
いつもぼくがおがんだら なにかはなしそうだ
おぶつだんの上には いつも帽子が四つある
中学ぼうに白線ぼう 大学ぼうに海軍ぼう
おばあちゃんは大切そうに ときどきほこりをはらってる
[#地付き]小泉憲司  
勝が小さくなりました 小学二年の男の子
名まえは憲司と申します いつもペン画を書くときは
ちょうど勝とおなじです 私の心の光です
[#地付き]小泉玉子  
この母の嘆きを、私たちは如何に受けとめたらいいか。当時彼らの出撃に関して責任を負う立場にあってこんにち生き残った人々は、これを何と読むか。
しかし、彼らに必死の戦法を強制した者への不満と、彼らの死の価値の評価とは、自ずから別のものであらねばなるまい。
特攻隊員たちの中には、追いつめられて覚悟を定めながらも、自分たちの死が所詮は犬死に終るのではないかと憂えていた者が幾人もいた。
また戦後、いわゆる進歩派の学者や評論家の中に、同じことを言った者がたくさんいた。だが、特攻機で出て行く者が犬死を心配するのと、進歩派の学者が安全地帯に出てから「お前たちは犬死だった」と言うのとは話がまるでちがう。彼らの死が犬死であったとは、私には思えない。私があの一握りの人々の書くものを一切信用せず、唾棄したい気持を持ちつづけている大きな原因の一つはそこにある。
耐えうべかざるものに耐えて、彼らはよく戦ってくれた。
林尹夫(京大西洋史)は、死の一ヶ月前、昭和二十年六月の日記に次のように書いている。
「今年の秋は、さびしく冷く風が吹きすさび、のこるものは何もなくなろう。(中略)すべては崩壊する。日本に終末がくる」
結果はまさしくその通りになった。
それに、質の落ちた飛行機と質の悪い燃料とを与えられて、未熟な技倆で、目標にたどりつく前に、多くの者が空しく撃ち落とされてしまった。
にもかかわらず、彼らの非情な強制された死が、私たちの心に残したものは決して小さくない。
現在国民の中に、餓える者なく、靴をはかぬ者がないという平穏な状況も、ある意味で彼らの死を代償としてわれわれが得たものである。さきの、故人の甥、小学校二年生の孫を「私の心の光です」と歌っている老女の、淋しげな、だが静かなやすらぎのうかがえる暮らしも、彼らの死を代償としたものである。どうして彼らの死を犬死であったと言うことが出来ようか。
いろんな奴がいた。
同じ学徒出身といっても、性格も境遇もものの考え方も、みなちがっていた。
遺族や生き残った戦友の手記によると、脱走を試みた者もあったらしい。集団で死を強制されれば、発作的にしろ計画的にしろ、中に恥辱にまみれてもそこから逃げ出そうと思い出す人間があらわれるのは当然であるが、彼らの残した文章からは、そこまではうかがえない。当時彼らには、私信の中といえども、思ったことを書く自由は与えられていなかった。
同期生の編者が「まえがき」のおわりに、
「どうか白い行間をも、あわせ読んでいただきたい」
と言っているのは、至極もっともである。
だが、制限された表現の中からも、彼ら一人々々の面影はあざやかに浮かび上がって来る。まわりくどい文章はまわりくどいなりに、|稚《おさな》い表白は稚いなりに、自ずと彼らの姿を描き出している。
「暗い日が無限に続く予感のみする。その終末がもし死であったら、恐ろしい時代だ。我々はそれを切り開くべき使命を担う者なのだ。だが今の俺には、そのようなパッションも気力もない。どうでもなれという自己喪失」
「醜い姿を、醜い元気で忘れようというのか。今までのような俺の、たとえ微かではあるにせよ働いていた内的傾向は失われ、いわゆるパイロット気質に変移するのであろうか。この日記の運命はどうであろうか。滅びゆく者の淋しき、そして醜き告白として終ろうとするのであろうか」
[#地付き](前出、林尹夫)
というような、暗い内省的な文章を書き残している者もいるし、
「(鹿児島航空隊から)南の国の春は、常に愉しいものです。高等学校時代の、バラが咲き揃い、クローバーが萌え出た中に仰向けに寝て、青空の雲行きをあかずにながめた長閑な日を思います。
自分の生命が本当に燃えているのが今なら、生命が充実していたのはあの頃だったのです」
[#地付き](藤村東郎、東大法科)
というような手紙もある。
「もう空襲は興味が湧いて愉快です。――今や一大激戦地たる比島上空を、時々飛行機で飛び回る愉快さは格別です。――毎日火を吐いて落ちて行くグラマンを見たり、空中戦を見たり、実に愉快です」
[#地付き](清水英雄、日大経済)
と、むやみに愉快がってみせているのもいる。
そのいずれもが真実であった。
だが総じて感じるのは、学業が停止になって海兵団に入団する前後と、特攻隊に編入され出撃の運命がせまって来てからとでは、同じ人間でも書くものの調子がずいぶん変って来ているということである。
初め学生らしい、少し舌足らずの観念論をもてあそんでいた者が次第にそういうことは言わなくなり、最後にはみな、簡素な、純度の高い、人の心を打つ言葉を残して出て行っている。
「午後三時マデ待チマシタガ雨ノタメ出撃ハ明朝○七〇〇ト更リマシタ。今日一日戦友タチト、楽シク歌イ、語リ合ウコトガ出来マス」
[#地付き](麻生摂郎、早大商学部)
「父上、母上、卓也は明四月十三日特攻隊の一員たる栄を稟け出撃致します。
元気旺盛、闘志に燃えております。
御厚情を感謝し、御幸福を祈ります。
御身体を大切に、卓也は常にお側にあります」
[#地付き](安達卓也、東大法科)
「心静かな一日であった。家の者とは会わなかったが、懐しき人々とは存分語り合い、心楽しき時を過し得た。
今日去れば再び相会うことはできぬ身なれど、少しも悲しみや感傷に捉われることなく談笑のうちに別れることができたのは、我ながら不思議なくらいである。
俺にとっても自分が、ここ一週間のうちに死ぬ身であるという気は少しもせぬ。興奮や感傷もさらに起らぬ。
ただ静かにわが最後の一瞬を想像する時、すべてが夢の如き気がする。死する瞬間までかく心静かにおられるかどうかは自分にもわからぬが、案外易いことのように思われる」
「爆弾の破れ跡も月見にはよいが、雨には泣かされる。しかしこれもあと一、二日辛抱すれば、あとは天国で豪勢だろうゆえ、天女によい土産話ができると、大笑いになる」
「空母を含む機動部隊現わる。十二時半整列。
お父さん、お母さん、二十五年間誠に有難うございました。待望の機動部隊現われ、佳き日(天長節)を明日に控えた本日午後零時零分、必死必殺の攻撃をかけます」
[#地付き](市島保男、早大商学部)
「昨日今日と、隊の桜も満開です。この桜ほど美しい桜を、私はまだ見たことがありません」
[#地付き](須賀芳宗、立大経済)
「今日はまだ生きております。昨日父さんにも母さんにも、兄、姉にも見送って頂き、全く安らかな気持で出発できました。T子にもお逢いになった由(中略)皆何と感じられたか知りませんが、心から愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って、いつまでも交際して下さい。葬儀には、ぜひ呼んで下さい」
[#地付き](旗生良景、京大経済)
引用すればまだいくらもあるが「人ノマサニ死ナントスルヤ其ノ言ヤヨシ」という古語を思いうかべずにはいられない。
だが、青くさい書生論が、余計なものをふるい落として簡素な、深みのある言葉に変って行くのは、二十年、三十年の長い人生経験を要するのが常態であろう。彼らは強制された死によって、一年数ヶ月という短い歳月の間に、それを自分のものとした。彼らの残した言葉は美しいが、それは世の常にあらざる、いたましい美しさだと思わざるを得ない。
私の聞いているところでは、いよいよ明日特攻出撃という指名があると、やはり隊員たちは電気にかけられたようにコチンコチンになり、はげしい動揺を示すが、一晩眠って、出撃の朝には、たいていの者がもう、何ともいえぬふっ切れた、美しい顔になって出て行ったということである。
「只今より出発します。何も思い残すことはありません」
[#地付き](前出、旗生良景)
というのは、決して彼らの見てくれの強がりではなかったであろう。ある者は、
「聖書と讃美歌を飛行機につんで、つっこみます」
[#地付き](林市造、京大経済)
と言っている。ある者は、
「母上、南無阿弥陀仏を私も唱えますから、一緒にお唱え下さい」
[#地付き](山下久夫、関西大学法科)
と言っている。
立大出身の須賀芳宗が書き残しているように、昭和二十年の春の九州の桜は、ずいぶん長い間美しく咲いていたらしい。そしてその桜の季節が、沖縄への特攻作戦のもっともたけなわであった時期である。
出て行く者は、みな飛行機や飛行服に桜の枝をさしてもらって出て行ったという。日本の歴史に、これほどいたましい桜の花ざかりはなかったであろう。
この遺稿集を読んでもう一つ強く感じるのは、彼らが故郷の家、家族、とりわけ母への思慕の情のつよいことである。
「人生二十五年」という言葉がささやかれていた。
恋する人のことを書いている者もあるが、母親に対して呼びかけている者の方がずっと多い。
「父母が|頭《かしら》かき|撫《な》で|幸《さ》くあれて言ひし|言葉《けとば》ぜ忘れかねつる」
「父母が殿のしりへの|百代草《ももよぐさ》百代いでませ我が来たるまで」
時代はちがうが、万葉集の防人の歌に見られるものと思いは同じであった。
「一番心残りに思うのは、そんなことではありません。(中略)もう一つは――『もう一つ』は、はずかしいから書きません。いや、やっぱり――つまり、その『もう一つ』はですね、つまり、お母さんのそばにいてですね、もっといろいろ喜ばしたり、厄介をかけたりしたかった――ということ――こんなことを書くと、いつになったら大人になるのかと、我ながら、ちと、くすぐったいですが、まあ本当だからいいでしょう」
[#地付き](日野原孝治、東大美学)
「(面会の日)母は私の手を取って、凍傷をさすって下さった。私は入団以来初めて、この世界に安らかに憩い、生れたままの心になってそのあたたかさを懐しんだ」
[#地付き](前出、安達卓也)
「望郷の念は絶えず。針など持つ時は、家を出ずるの時、母上の針持ちて泣きし様など思い浮ばれて、耐え難し。不忠の臣なるやも知れず」
[#地付き](渡部庄次、慶大経済)
「昨夜の夢、母上に零戦を見学させ説明しているところ。また明君(甥)が母ちゃんに叱られてべそをかいているところ。(中略、このあと「煙草」「酒」についての感想を述べてから)“女”未知。しかしそれもよろし。永遠の恋人、わが母を熱愛すればこそ、母の如き典型的な女性を見出すことは不可能なりき」
[#地付き](鷲見敏郎、大阪商大)
「何か苦笑したい気持で先ほど『お母さん』とそっと呼んでみた。すでに飛行機を操り、しかも部下をかかえ死線を飛ばんとする私が、襟に桜まで一つ戴いている私が、急に今まで母の乳房に噛りついていた赤子のように思えて恥かしくなった」
[#地付き](田代満男、西南学院商科)
「しみじみと詩を吟ずれば、幼き頃の故郷の面影がなつかしく思い出されて、ひとしお母上のことが考えられる」
[#地付き](町田道教、九大農科)
彼らのうちどの程度か、もしかすると七割くらいが童貞のまま死んで行ったのではないかと想像されるのである。
出撃や出撃のための移動の途上、機会を得た者は、自分の家の上空を飛んで、それを両親への最後の別れにしている。
「エンジンは快調、ただ無我の境にて飛び続ける。川崎のわが家の上空をドンピシャリに過ぎ去る」
[#地付き](前出、市島保男)
「フト下ヲ見レバ相模川ナリ。フリカエレバチョット後ニ我ガ家ガ見エルナリ。空ヨリ永ノ別レヲ告ゲル」
[#地付き](佐藤光男、専大経済)
「ひょっとすると、博多の上をとおるかもしれないので、楽しみにしています。かげながらお別れしようと思って」
[#地付き](前出、林市造)
この遺稿集には名前を列ねていないが、同じ十四期で私の知っている例では、家が台湾に在って、交通が困難な状況になって来、入隊以来帰省の機会にも家族と面会の機会にも一度も恵まれぬまま、沖縄への出撃を最後の家路と考え、それを慰めにして死んで行った者もあった。
あれから二十一年経って、生き残った者はみなもううすぎたない中年男になってしまった。せめて彼らが、二十三から二十五歳の若々しい姿のまま私たちの心に生きていることを、よしと思いたい。
願わくば、彼らの霊の安からんことを。

海軍の伝統と気風について
『山本五十六』はひょうたんから駒
今日は海軍の名リーダーたちをテーマに話をしろとのことですが、そういうことを話せとおっしゃるのは、多分、私が海軍に在籍した経験を持っているのと、『山本五十六』とか『米内光政』とか、海軍軍人の伝記文学を書いているからでしょう。右の二人と並んで“条約派の三羽ガラス”といわれた井上成美大将にも関心があって、その評伝もいずれ書きたいと思っていますし……。
しかし、私の在籍した海軍は末期の帝国海軍です。戦局が悪化し始め、平常心は失われ、次第に狂気が支配するようになって、七十年来のよき伝統もだんだん影をひそめていくころの海軍に、兵科予備学生という、いわば臨時雇いの士官として三年半ばかりいただけなんです。
『山本五十六』を書いた動機にしましても、実は、ひょうたんから駒が出たようなことでしてね。
十何年か前、朝日新聞社から『文芸朝日』という月刊誌が出てたんですが、ある日、そこのスタッフに呼びつけられて行ってみると、これに連載をしないか、という。
「連載といっても小説じゃないんだ。君、二・二六事件のことをノンフィクションで書いてみないか。史料集めや取材の段取りはこちらでつけてやるから……」って。
だけど私は、二・二六事件の青年将校たちに全然共感も同情も持っていない。三島由紀夫さんと違って、ああいうのは嫌いです。それと、陸軍で生活したことがないからディテールがわからない。飯の食い方からしてわからない。「せっかくですが生活のディテールがわからなきゃ書けませんよ」と言って断ったんです。そして断る口実に、多少色をつけるつもりで、「たとえばまあ、山本五十六を書けとか、海軍の話なら別ですがネ……」と言ったら、「オ、山本五十六? それ、おもしろいな。そんなら、おまえそっちやってみろ」と相手が言い出した。
あわてましてね、「いやこれはたとえばなしであって、ぼくは山本さんのことなんかろくに知らないし……」と弁解したんだけど、「いや、それ、おもしろい、ぜひそれやれよ」と口説かれて、無理矢理、取材につれ出されることになったんです。初めはそれほど乗り気じゃなかったんですが、そうやって、取材をさせられているうちにだんだん自分でおもしろくなってきた。聞く話、聞く話、みんなおもしろいし、共感も持てる。だんだんのめり込んで行って、結局ああいうものを書き上げたわけです。
ところで、山本さんのことを調べていけば、どうしても“三羽ガラス”の他の二人、米内さんや井上さんにつながって来る。この二人に関してもいろいろ知るようになったのは自然の成りゆきですが、何しろそういう事情だから、明治、大正の海軍軍人については、私は大して知識がありません。海軍の名リーダーというテーマで話をするのはおこがましいんだが、まあ、自分の調べた範囲、体験の範囲内で、あれこれ少し申し上げてみようと思います。
幼いころからの陸軍嫌い
私は広島育ちで、小学校の同級生には軍人の子弟がずいぶんいましたが、私自身は多少文学少年の傾向があって、軍人になりたいという気持ちは全然持っておりませんでした。夜になると近くの歩兵十一連隊の淋しげな消灯ラッパが聞こえてくる。大きくなったら兵隊にとられて、ああいうとこで生活させられるのかと思うと、実にいやでしたね。
そして小学校五年生のとき、満州事変が起こる。その翌年、五・一五事件、中学四年のときに二・二六事件です。二・二六事件のときは学校の帰りにそのニュースを聞いて非常に憤慨し、家に帰って、「陸軍がまたやった。ああいうことは嫌いじゃ」と大声で言ったら、隣の部屋でおやじが陸軍の退役大佐と碁を打ってる。Mさんに聞こえたら悪い、大きな声出しなさんな、と母親にたしなめられたのを、今でもはっきり記憶しています。
五・一五事件は海軍の青年将校が中心になって起こした事件で、だから海軍も大きな口をきけた義理合いじゃないんだけど、ああいう一連の過激な政治運動の中心はやはり陸軍のほうにあったし、少なくともそれを厳しくコントロールできない体質が陸軍にあった。私はまだ中学生で思想と言えるようなもんじゃないんだけど、とにかくそういう陸軍の無知野蛮な体質が嫌いだった。
この間も沢地久枝さんの『妻たちの二・二六事件』を読んで、作品としてはなかなかの力作だと思いますが、二・二六の同調者を、どうしても好きになれない。三島由紀夫さんのやったことなんかも、よくわからない部分があるから論評する資格はないかもしれませんが、やはり、共感は持っていない。
大体、軍隊の武器というのは、平たく言えば国民みんなが金を出しあって、買って預けてあるものです。たまたま人殺しの道具を預っているのをいいことに、それを使って、自分たち少数グループの政治信念を通すために人を殺す、その志が立派だと言って、これを賛美するなどということは間違っているし、絶対認めるわけにいかないと思っています。
臨時雇いの助っ人士官
それはともかく、後年、大学を出るとき、海軍を志願したのも、結局そんなことが原因ですよ。この海軍兵科予備学生という制度は、昭和十六年の後期に設けられた制度でして、それまで、法学部、経済学部の出身者には主計の二年現役士官、工学部は技術士官、医学部の出身者は軍医というように、海軍士官への道が開かれておりましたが、文学部、理学部の大部分、そして農学部の学生には海軍士官への道は閉ざされていた。そういう人たちを海軍の初級指揮官として採用してみようというのがこの制度で、私はその二期生ということになります。
この制度が生まれるについては、いろいろ経緯がありまして、一つは、中学のときから陸軍式の軍事教練をやって来てるんだから、学徒出身の指揮官を中心に、USマリーン――アメリカ海兵隊のような、海軍陸戦隊を強化しようというあれ。もう一つは、アメリカ相手の戦争になりそうな気配がだんだん濃厚になって来て、軍令部は若い兵科将校が足りないというので、千人、二千人という単位で、兵学校生徒の増員要求を出して来るんだが、海軍省はこれに反対なんです。
そんなにたくさん採用すると、将来同期生が少将、中将になっているのに一方少佐でクビにされたというようなのが出てくる。これは非常な弊害をともなう。一旦海軍士官として採用した以上、せめて名誉大佐まで行けるようにしておきたいが、それには一期五百人が限度だというんです。では、足りない分をどうするか。そこで今まで海軍士官への道を閉ざされていた文学部、理学部、農学部の学生に目をつけたのです。
一応の一般教養は身についているんだから、これに多少海軍の基礎教育をほどこせば初級指揮官として充分使えるのではないか。しかもこの連中なら、本職じゃないんだから大尉でお払い箱でも、中尉でお払い箱でも別に文句は言わないだろう……。こうして、私どものような臨時雇いの助っ人士官が大勢出来ることになった。
前にも言った通り、本職の軍人になろうという気持ちは、少年時代から一度も持ったことがなかったのですが、何しろ当時は徴兵検査に合格した以上、大学の門は兵営の門と直結していた時代ですから、私の場合、同じ行くなら陸軍より海軍のほうが、ずっとましだろうと思って志願したにすぎません。兵科予備学生の面接試問で試験官に、「お前はなぜ海軍を志願したか」と聞かれて、「はいっ、陸軍が嫌いだからであります」と答えたら、試験官がニヤッとしましたがネ、このあたりが当時みんなの平均的な気持ちだったと思います。
とにかくそういうわけで、昭和十七年九月二十五日、大学を半年間繰り上げで卒業し、九月三十日に佐世保に到着して海軍に入りました。そして終戦の翌年までの三年半を海軍で過ごしたわけです。その間むろんいやな経験もずいぶんしましたよ。ただ、末期の帝国海軍にも、よき伝統の残映のようなものはちらりちらり残っていて、わずか三年半の“臨時雇い”にも、海軍が陸軍の体質や当時の一般的な社会風潮とはいささか異なったものを持った社会であるということはすぐわかりました。
話が逆戻りしますが、選考試験の面接試問からしてそうでしたね。私が面接のとき受けた質問は、さきほどのなぜ海軍を志願したか(これが三番目の質問)というののほかに二つあって、第一問は「横浜――シアトル間はシーマイルで何マイルあるか」、第二問が「赤道を実在の帯と仮定してこれを三メートル長くすると、赤道は地表面からどれだけ浮き上がるか」
当時は今より多少頭が柔軟だったとみえ、なんとか当たらずといえども遠からずの返事をしたように思いますが、その後、同期の連中にどういう質問をされたか聞いてみると、ずいぶん変なことを聞かれたのもいる。予備学生ではなく、東大の船舶工学科を出て造船士官を志した人の話ですが、口述試問に「蟻の歩くスピードは何ノットか」と聞かれた。これなども、数字を挙げたところで大した点にはならないんでしょう。
「はい、蟻と申しましても、世界中に約四千種類の蟻がおります。それで、一例として日本に住むサムライアリのスピードをお答えしたいと存じますが、サムライアリは、その時々によって歩く速度がいちじるしく変化するため、それが平均何ノットであるか、未だ学界の定説が出ておりません。したがって、只今の御質問にはお答えが出来ません」
嘘でも何でも、このくらい人を食ったことが言えれば、よし、こいつ見どころがあるとなって、九十点以上くれるだろうと、これまた私たちの間での、後日の推察です。こういう頭のフレクシビリティ重視は、海軍が持っていた一つの体質であり、われわれ大学生が、陸軍と較べてはるかに魅力を感じる点でもありました。
英語廃止とは程遠く……
私ども、佐世保で入隊しまして、すぐ教育地の台湾へ連れて行かれたんですが、そこで教育隊長の第一声が、「ネイビーはスマートネスをもってモットーとする」でした。キザなような、これもつまらん話ですが、当時は敵性国語の廃止、英語を使うなということが、天の声、民の声としきりに言われていた時代ですからね、それに反発を感じていた私たちにすれば、アレ、海軍ってちょっと変わってやがるナと思いますよ。
ついでにつまらん話のつづきをすれば、海軍には士官同士でないと通じない、英語なまりの変な隠語がたくさんありまして、たとえば「あいつ、この間、Sとチングヘしけこんでストップして、ハートもナイス、ギヤもナイス、プレジューだったって手荒く喜んでやがったが、たちまちRになりやがって」というようなことを言う。チングはウェイチング、つまり待合です。Sは芸者、ストップは泊まる、ギヤは道具、プレジューは「プレンティ・オブ・ジュース」(訳は省略)、Rは淋病の頭文字で、梅毒をプラムと言います。
あるいはスモール・ハート・ウィング・ウィング、これは「小心翼々」、アフター・フィールド・マウンテンは「あとは野となれ、山となれ」といった調子で、これが英語かどうか知らんけど、とにかく英語廃止の国内風潮とはおよそ程遠く、海軍で英語を使っていかんなどという説教は一度も聞きませんでした。
もう少しまともな話をしますと、今日も残っていますが、兵学校に参考館という建物があって、日清戦争、日露戦争のころからの先輩の遺品などが飾ってあって、東郷平八郎元帥の遺髪も祀ってあったんですが、同時に敵国の将ネルソンの遺髪が祀ってあって、これは最後まで撤去されませんでした。
兵学校の生徒が始終聞かされた言葉に「アングルバーじゃだめだ、フレクシブルワイヤーでなくてはいけない」というのがあります。アングルバーとは、四角い鉄材、フレクシブルワイヤーは鋼索のことですが、要するにコチコチはいかん、たとえ弱そうに見えても身心ともに柔軟でフレクシブルでなければいけないという意味です。実際は、その教えを忘れてしまったのがたくさんいるんだけどね。
もう一つ、「准士官学生参考書」という教科書がありました。下士官が准士官、つまり兵曹長になるときには相当きびしい再教育が行なわれるのですが、この「准士官学生参考書」はそのためのもので、私たちに「予備学生参考書」なんか作ってくれなかったから、昭和十七年版のこれを使って勉強させられました。何が書いてあるかと言えば、東洋史、西洋史、国史のあらましはともかく、洋食、シナ料理、和食のテーブルマナー、カクテルパーティーでの諸作法……。
妙な話ですよ。ミッドウェーで負けたあとの昭和十七年版の参考書ですからね。ナイフ、フォーク、ナプキンの正しい使い方、カクテルのあと食堂へ入る前に、パートナーのご婦人のどちらの腕を軽くとるべきかなんてことを覚えたって、あの時代にそんな正式のディナーを食わせてくれるとこなんかありゃしない。ましてしゃれたパーティーなんぞやれるわけがない。スノビッシュと言えばあきれるばかりにスノビッシュなんだけど、これが良くも悪しくも海軍の、海軍士官の気風でした。当時の日本社会一般とは大分異なるんです。あるイミではひどく浮き上がっていた。陸軍とどうしてこうもちがったか、これについて、私は一応三つの理由を考えております。
陸海軍三つの違い
まず第一に、海軍と陸軍のお手本の違いです。陸軍が明治維新以後お手本にして来たのは、主として、コチコチ大好きのプロシアですが、海軍のお手本は終始一貫英国海軍、ユーモアやウイットを大事にし、柔軟性に欠けたコチコチを嫌う英国がお師匠さんなんです。
第二に、陸軍は原隊というものがあって、それは大体自分の生まれ故郷に在るんでしょう。つまり日本の土俗に根が生えている。海軍のほうは、よく言えばコスモポリタン、浮き草稼業ですよ。郷土のために奮戦なんてことはあんまり考えない。
そして第三の理由は、海外体験だと思います。日本人は島国根性が強く、井の中の蛙のところがあるというのは今でも言われることですが、今は若いOLでも農協のおじさん、おばさんでも簡単に海外へ出かけて行く。しかし、戦前の日本で海外へ行くことができたのは、ごく一部の特権階級か特殊な用務を持った人だけでした。
ところがその点、海軍は事情がちがっていて、兵学校なり、海軍機関学校なりを卒業して少尉候補生に任ぜられると、遠洋航海というものがあって、否でも応でも一度外国を見て来ることになる。はたち前後の感じやすい若い時代にその体験をみんながするというのは、非常に大きな意味があったと思います。
むろん反応はさまざまで、「西洋人は実にけしからん、世界中自分の植民地にしてやがって、いずれ奴らを討たねばならん時が来る」と、攘夷の志士みたいになって帰って来るのもいますし、すっかり西洋かぶれのハイカラ好きになって帰って来るのもいる。だが、一度でもこの体験をしていると、国内に極端なナショナリズムが台頭して、大和魂は世界一崇高な精神、日本は世界に|燦《さん》たる国、そういうことを人が言い出しても、どこかで「ウーム、しかしちょっと待てよ」という気持ちが働かざるをえない。
しかも、海軍では海外体験はエリート候補生だけのものではありませんでした。たとえば海軍工廠に日給の少年工で入った者でも、ある程度、学科優秀、技倆優秀と認められると、技手養成所というところに入れられて、当時の高等工業学校程度の教育を改めて受けるわけです。いつまでも町工場の職工なみじゃ、世界の一流国と対抗出来る軍艦なぞ造れっこないから……。そして、この技手養成所出身者の半数以上は海外へ出されているんです。
八、九年前、呉へ取材に行ってびっくりしたことがありましてね。言葉は広島弁丸出し、どう見ても田舎者のじいさんとしか見えない七、八十年輩の指の太い人たちが酒を飲みながら話しているのが、「アンたァ、あのころニューヨークでどこに下宿しとったかいのォ」「わしか? わしはマンハッタンのリバーサイド・ドライブにおった。あんた、一ぺん訪ねて来たことがあろうがい」とか「わしがフランスにおったころ、田舎の宿で食うクロワッサンとカフェ・オ・レが|美味《うも》うてのォ」というような話なんです。
この人たちは大正中期、呉海軍工廠において戦艦「長門」の建造に携わった職工の生き残りで、のち技手養成所を出て叩き上げの造船技師になった人たちです。軍艦造りの経験談を聞きに行ったんだから、一応の素性は知ってましたが、この話には驚いた。もっともこの制度も日華事変を境にして廃止になりましたが……。
豪傑ネコサンマ
ところで、テーマは海軍の名リーダーたちと指定されながらずいぶん長々と海軍の伝統や気風について述べてきましたが、これは海軍に名リーダーの名に値する優れた軍人がいたとして、それの育ったバック・グラウンドはどういうものであったか、海軍とはどんな社会であったかを、一応説明したかったからです。もう少し我慢して聞いて下さい。
名リーダーと呼ばれるほど著名な軍人ではありませんけど、有地十五郎という中将で予備役になった人がいます。山本五十六の一期後輩です。なかなかの豪傑で、大きな口ヒゲを生やしていて、アダ名を“ネコサンマ”と言いました。後ろから見るとネコが焦げたサンマをくわえているように見えるからです。
あるとき、この豪傑ネコサンマが艦長をやっているフネが、他艦の撃った演習用魚雷を見つけて回収し、たいへん感謝されたことがある。発光信号で「カンシャニタエズ」とか何とか言って来たのに対し、有地艦長はすぐ「オレイハスベカラクグタイテキナルベシ」と信号を送り返して、|薦被《こもかむり》を一つせしめた。こういうウイットは、海軍ではなかなか喜ばれたのです。
日華事変の始まった昭和十二年に、この有地十五郎と同期生の息子が兵学校から夏の休暇で家へ帰って来た。有地さんが「今度の夏休暇は何日だ」と聞くと、「事変が始まったので十日間に短縮されました」という返事で、彼は「そうかなあ。ちょうど日露戦争のころ、俺が兵学校の生徒だったけど、あの国運を賭した戦争のさ中にもかかわらず、丸々四十日間の夏休みをもらったぞ。こんな事変が起ったくらいで、休暇を十日に減らすような、そんな余裕のない海軍じゃ、もしアメリカと戦争にでもなったら負けだな」と言って嘆いたそうです。
それが海軍流の伝統的なものの見方だったんだけど、だんだんそうでなくなって行ったところに問題があるのでしょうね。もっともさっきも申しました通り、私どものいた末期の海軍にも、よき伝統の残映らしきものは確かに存在していた。
昭和五十六年に大蔵次官をやめた長岡実さんは、末期の中でも末期の主計科士官ですが、たしか長岡さんがいたころの海軍経理学校に東大の経済学部の教授が来て、この戦争は日本の負けだということを詳しくデータを挙げて講義して行った例があります。その教授は「こういうことが自由に発言できるのは、今の日本で海軍の学校だけだ」と言って喜んでたそうですが、憲兵隊に知れて大分問題になったと聞いていますがね……。
「マルクス・レーニン大いに結構」
私自身直接経験したことで言えば、私が軍令部付の少尉のころ、上官になかなかおもしろい人がいたな。昭和十八年の暮れ、十二月三十日の晩でしたが、当直で泊まりになって、これといった仕事もないので、もう一人の少尉とその中佐と三人で電気ゴタツにあたりながら雑談をしていると、中佐が水筒を取り出して来て、「これはとっておきのジョニーウォーカーだ、たくさんないが年越しだ、まあ飲め」と言って、それから「阿川少尉、きみは|くに《ヽヽ》はどこだ」と聞くんです。「広島です」「広島か。正月の休み、|くに《ヽヽ》へ帰らんのか」……。
そりゃ帰りたいけれど帰れない。というのが、三十一日の午後退庁して二日の朝までに東京へ帰って来られる日程を組めなければ帰省願いを出せない規定なんです。広島まで往復汽車でそれはとても無理だから、そのことを話したら、「フーン」とパイプ煙草をふかしながら考えていて、「どうだ? 君は明日から風邪をひくか」。まことに結構なお話だけど、私は帰れないものと諦めて、名古屋へ帰るクラスメートの元旦の当直を代わって引き受ける約束をしたばかりなので、またそれを言って辞退しかけたら、「そんなもの、風邪ひいて熱でも高けりゃしようがない」と言う。
「それでは特急券が取れたら、風邪をひかせていただきます」ということにして、電話をかけに立った。別の同期生のおやじが鉄道省関係だから、これこれであすの特急券一枚何とかならんか、頼むというわけなんだが、それを、庶務室の当直下士官たちに知られてはまずい。ドイツ語を使ったり、モールス符号を使ったりして、しどろもどろでやっとのみ込ませて帰って来たら、えらく叱られましてね。「君は諜報士官としては落第だな。ウソでも何でももう少し平然とやれるようにならなければダメだ」というんです。
「俺が在外武官をつとめたあと、シベリア経由で帰って来るとき、ウオツカを一升びんに二本持ってて、安東の税関でつかまった。『これは何ですか』と疑わしそうに聞くから、これは本省へ水質検査のために持ち帰る黒竜江と松花江の水だが、何ならひと口飲ませてやろうかと言ったら、結構ですと言って通してくれたよ。君のあんなやり方じゃダメだ」――。
さて、特急券のほうは、運よく大晦日の午後三時発の「ふじ」が取れたので、昼食のとき、「課長、風邪をひいて熱が高いので、本日早退させていただきます」と言いにいったら「うん」、それだけ。二、三日広島の家でのんびりして帰って来て「課長、風邪治りましたッ」と言ったら「オウ」、またそれだけでしたね。その中佐は「海軍にはもう少しましな人間もおるんだが、嶋ハン(嶋田繁太郎海軍大臣)がまるきり東條の副官だからどうにもならんよ」と、要するにもうダメだということをそれとなく言っていました。その後、空母瑞鳳の副長に出て、レイテ海戦で戦死しましたが……。
天皇さんに対する態度なんかも、海軍では読者のみなさんの想像以上に自由でしたよ。陛下の前へ出れば、そりゃ電気にかかったようにピシーッとするんだけど、ある中将の人で、部下が「陛下の……」と何だかいやに固くなって言い出すのを「何? だれ?」ととぼけといて、「ああ、なんだ、天チャンか」と言ったという逸話があるくらいです。私たちも平気で天チャンなんて言っていました。神様だなんて思ったことも思わされたこともありません。
マルクシズムに関しても同様です。昭和十三、十四年ごろ東大経済学部へ選科学生として行かされた主計科士官など、上官から「せっかく行くのだから、これまで海軍で学んだことと全く別のことを勉強して来い。マルクス・レーニン大いに結構、批判するにしても知らずに批判はできない。ただし、君たちが海軍に籍がある以上、実践活動には制約があるから、そのつもりで……」と言われたということです。
その海軍が、コミュニズムに縁遠く、陸軍の国家改造法案昭和維新の考え方が、ソ連のそれと甚だよく似ていたのは面白いことだと思いますね。
“条約派三羽ガラス”の考え方
こういう背景、土壌の中から、海軍正統の伝統を受け継いで、米内光政、山本五十六、井上成美ら、視野の広い、穏健な、さめた眼を持った提督たちが生まれて来ているのです。この人たちは、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜にまっすぐつながる人々です。
日独伊三国同盟という大難題に直面したときも、この三人は議論するということがほとんど無かったそうです。考え方がまったくといっていいくらいに一致していて、議論する必要がない。どういう考え方かと言えば、まず五・五・三のワシントン条約は決して日本にとって一方的に不利な条約じゃない、だからこれを破棄するのはまちがいだということ。ましていわんや、対米戦争なぞ、絶対やるべきものに非ず、アメリカと戦争して到底日本が勝てるわけがない。それで、対米戦争の危険が大きくなる日独伊三国同盟締結に、命がけで反対するのです。
しかし、いわゆる五・五・三のワシントン条約、ロンドン条約については、せめて米英の七割の艦隊を持っていなくては国防の責任を負いかねるという強硬論者の言い分にも、聞くべきものがないわけではありません。静止状態における一〇対六は、運動を加味すると二乗の一〇〇対三六になる。したがって、総トン数で七割、実戦力で四九パーセント、ほぼ五割の力は持っていないと西太平洋における国防を担当しかねるというもので、それなりの説得力はあります。
しかし米内さんら三人を中心とする“条約派”には、またそれに対する反論があって、軍備だけで国防を考えるのは誤りだ。その背景にある国力の差を考えなければいけない。アメリカの工業力は日本の二十倍、仮に対米七割の洋上勢力を保持していても、それは一旦戦争が始まれば、時間の経過とともに、次第に一〇〇対三〇になり、一〇〇対一〇に落ち込み、ついには一〇〇対○になって終わる。
アメリカがもし無理難題を言って来たら、日本はかみつくぞ、生やさしいことでは到底済ませないぞ、というだけの力は持っていなくちゃならないが、アメリカにこちらから戦争をしかけるというようなことは絶対考えてはいけない。それに五・五・三の比率も、日本が英米の六割で我慢させられていると思うべきじゃない。国土の広さからいって、英米のほうが日本の六分の一〇で我慢していると考えるべきだ。大ざっぱに言って、それが彼ら条約派の論理です。
アメリカと戦っても勝てないということは、この三人がそれぞれの言い方ではっきり言い残してますね。まず米内は、昭和十四年の五相会議の席上、当時の石渡荘太郎蔵相から「日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って我に勝算がありますか」と問われ、ひどくぶっきら捧なはっきりした調子で「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は米英を向こうに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍に至っては問題になりません」と答えています。
山本は開戦前の話ですが、「負けるに決まった戦争をする馬鹿があるもんか」と、よくプリプリ怒って人に言っていたそうです。しかしこの日米不戦論でもっとも強硬だったのは井上成美提督でしょう。
井上さんは海軍航空本部長時代の昭和十六年正月、「新軍備計画論」という極秘の建白書を大臣に提出しています。その建白書の中で、井上は海軍の次期軍備計画案を「明治の頭で昭和の軍備を行なわんとするもの」と批判し、「もし現状のままアメリカとの戦争に突入した場合、戦争のたどるべき形態」というのを箇条書にして述べています。それは、|籍《か》すに時をもってすれば、アメリカは日本に直接攻め込んできて、一、首都の占領が可能である。二、日本全土の占領が可能である。三、全作戦軍の殲滅が可能である。つまり、「いよいよアメリカと戦争の気構えのようだが、やったら結果は日本全国が米軍の占領下に置かれ、帝国陸海軍は全滅することになるけど、それでもいいのか」と言っているんです。
ほぼ井上の予言どおりの結論が出てしまった今日では中学生でも書ける作文でしょうが、比較的自由討議を重んじた海軍においても、当時これは度が過ぎるということになり、井上は開戦の四カ月前に第四艦隊司令長官として洋上へ左遷されてしまいます。そうして、彼ら少数派の意見は通らず、時流に押し流されてとうとういくさに突入してしまうのです。
三人三様の人間的魅力
ものの考え方ではまったくと言っていいくらい一致していた右の三人ですが、その性格、気質、人間的魅力ということになると、まったく三人三様でしてね。
米内光政という人は極端すぎるくらい無口な人だったようです。『米内光政』を書くとき、私は被爆直後の広島へ視察に行った人の話を聞かせてもらいましたが、それはもう悲惨なもので、その人も命からがら岩国から飛行機で帰って来て米内海軍大臣に復命したそうですが、「そのとき米内さん、何とおっしゃいましたか」と私が聞くと「『ご苦労だった』とそれだけでした」、「でも生々しい悲惨な有様を話されたんでしょう。米内さん、どんな顔をしてましたか」「どんな顔もしません」――。だから、書くこと無いんですよ。自分でも「僕はクラスの者から『グズ政』と言われていた。議論してもうまく言えないし、議論なんかしても始まらないと思っていたから、議論というものはしたことがなかった」と人に言ってたそうですがね。しかし、米内とはベルリンやワルシャワで世話になって以来の古い付き合いである前田稔中将なんか、「グズ政といっても本当のグズではなかった。土壇場では実にピシリと来て、そういうときには相手は頭も上げ得ないということになる」と言っています。
それから米内さんの大酒飲みは有名ですが、副官を務めた人の話では、いくら飲んでも言葉が早くも遅くもならない、そういう非常にさめた人だったと思います。
これに対して山本さんは酒は全然ダメなんだが、酒席は好きで、徳利に入れたお茶を芸者につがせながらお座敷競馬をやるとか、勝負事が大好き。将棋、碁、麻雀、玉突き、トランプ、ルーレットなんでもござれ。そしてルーレットに必勝法があって、自分の言う二割増しシステムで、冷静に粘り強くやれば必ず勝てるというような主張をしたり、真偽のほどは確かではありませんが、山本五十六があまり勝ちすぎるのでモンテカルロのカジノのドアマンが入場を拒否したというようなエピソードもありますし、やんちゃ坊主の茶目ですね。
戦後、ある海軍中将が山本の人柄を新聞記者に聞かれて「ああ、あれは海軍のやくざみたいな男だ」と言ったそうですが、やくざという言葉の取り様によってはなかなか適評かもしれません。人情もろい一方、少々無鉄砲……というようなところが確かにあったようです。
人の家で逆立ちをして屁を一つひって、「これでもおらあ海軍大佐だ」と言ったとか、タクシーを止めて「銀座」と言って手袋をしたまま左手を出し(五十銭という意味)、降りるとき三十銭しか渡さないので運転手が文句を言うと、手袋をはずして「馬鹿を言え、俺はこれだ」と言った(日露戦争で戦傷を受けて山本の左手は三本しか指がなかった)とか……。とにかくエピソードには事欠かない人です。
しかし、山本は同郷の河井継之助をリンカーンとともに非常に尊敬していて、書を頼まれるとよく河井の「一忍可以支百勇一静可以制百動」(一忍以テ百勇ヲ支ウベク一静以テ百動ヲ制スベシ)という言葉をしたためたそうですから、無鉄砲といっても、時流に煽られて自分から対米戦争をしかけようと考え出すような、阿呆な無鉄砲ではありませんでした。彼が一番避けたかったアメリカとのいくさに、聯合艦隊の司令長官として先頭に立たされたのは、歴史の皮肉で、河井継之助の運命とよく似ているような気がします。
バクチもせず、女遊びもせず、三角定規みたいにシャープな人と言われて、米内以上にエピソードの少ない井上さんについても、話せばいろいろありますけど、まとまらないながら、そろそろこのへんで終わりにさせてもらいましょうかね。
[#地付き]〈了〉

文庫版のためのあとがき
昨年(昭和六十二年)秋の人事異動で、海上自衛隊幹部の中に、旧海軍兵学校在籍者がとうとう一人もいなくなったと聞いている。旧軍の伝統とつながりの深かった自衛隊ですら、全く新しい時代に入ったのだから、一般の国民、特に若い人たちにとって、アメリカとのいくさのあれこれは、もはや遠い昔の関心薄き物語であろう。日本敗戦の年、ちょうど四十年前の日露戦争を、私どもは父祖の世代が経験した歴史上の出来事としか考えていなかったが、今や第二次世界大戦との間に、それ以上の時間的へだたりが生じてしまった。
このへだたりは、今後大きくなる一方で、縮まることはあり得ない。その、古い事柄ばかり扱った古い手記やエッセイを、こうして文庫にまとめてもらえたのは、作者としては嬉しくもあり、何を今さらと我ながら多少面映ゆくもある。私はしかし、昔の戦争のことなぞさっさと忘れてしまった方がいいとは思っていない。父は子に、祖父は孫に、あの戦争の話をあまりしたがらないのがここ数十年来日本の家庭一般の風潮だったが、明治の小学唱歌のように、吹雪の晩囲炉裏ばたで父親が、「過ぎしいくさの手柄を語る」というところがもう少しあってよさそうな気がする。「手柄」と言っても、実際は負けいくさに負けいくさがつづき、語りたがらなかった復員将兵の気持も尤もだけれど、その中で、キスカ撤収作戦の成功は、語るに足る数少ない後味のいい史実のはずである。
それに、文学としての古い新しいは中々微妙な問題であって、新しいものを描いて古くさい場合があるし、千年前のことを書いても場合によっては新しい。私が「囲炉裏のはたに縄なう父」に代って語り手役をつとめた何篇かに、もし多少の文学的価値が含まれているなら、この文庫もそう簡単には古くならないだろうと記して、世話になった方々ヘの感謝の言葉に代える。
昭和六十三年三月
[#地付き]阿 川 弘 之
手記談話提供者・文献資料一覧
「私記キスカ撤退」
手記談話提供者。元北海守備隊司令官・峯木十一郎氏、同参謀・藤井一美氏、第五艦隊通信参謀・橋本重房氏、同気象長・竹永一雄氏、「阿武隈」副長・斎藤弥吉氏、同主計長・市川浩之助氏、「木曾」副長・緒方友兄氏、同主計長・岡村治信氏、「朝雲」駆逐艦長・柴山一雄氏、「秋雲」駆逐艦長・相馬正平氏、「響」駆逐艦長・森卓次氏、同通信兵・石井仁行氏、「初霜」航海長・坂牧平一氏、「日本丸」機関兵・加藤政元氏、第五十一根拠地隊主計長・小林亨氏、同軍医長・小林新一郎氏、同隊付・近藤敏直氏、同書上麻三氏、同森勇氏、同芝田耕氏、北海守備隊付・生田清氏、同関根欣幸氏、同林友三氏、在キスカ海軍技師・神坂三郎氏、同従軍画家・高橋賢一郎氏、在日米軍府中基地広報部・宮城徹氏、大洋漁業嘱託・溝田主一氏、アメリカ商工会議所(東京)常任理事・ウイリアム・ジャクソン氏。
文献資料。防衛庁戦史室著「戦史叢書・北東方面海軍作戦」(昭和44年朝雲新聞社刊)、防衛庁戦史室蔵有近六次氏筆「奇蹟作戦キスカの撤収」、同室蔵「『ケ』号第二期(第二次)作戦戦闘詳報」、墨水会編「二年現役第五期海軍主計科士官戦記」(昭和45年墨水会刊・非売品)、小林新一郎氏著「霧の孤島」(昭和38年刊・非売品)、千早正隆氏著「呪われた阿波丸」(昭和36年文藝春秋刊)、福井静夫氏著「写真集 ・日本の軍艦」(昭和45年ベストセラーズ社刊) 、戸川幸夫氏著「霧のキスカ撤退」(昭和 40年6月文藝春秋社発行雑誌 「別冊文藝春秋」九十二号所載)、東京12チャンネル報道部編「証言・私の昭和史4 」(昭和44 年学藝書林刊)、「小林亨日記」。
「アッツ紀行」
談話提供協力者。アメリカ合衆国沿岸警備隊、アメリカ合衆国空軍、リーヴ・アリューシャン航空。
文献資料。防衛庁戦史室著「戦史叢書・北東方面海軍作戦」(前掲)、安藤尚志氏著「悲劇の島」。
「二十八年目の真珠湾」
談話提供協力者。アメリカ合衆国海軍真珠湾基地司令部、アメリカ合衆国第五空軍司令部、在日米軍司令部、元南雲艦隊飛行隊長・淵田美津雄氏。
文献資料。防衛庁戦史室著「戦史叢書・ハワイ作戦」(昭和42年朝雲新聞社刊)、源田実氏著「真珠湾奇襲までの十カ月」昭和42年12月講談社発行雑誌「現代」所載)。
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初出誌
私記キスカ撤退
日本軍艦戦記 文藝春秋臨時増刊/昭和四十五年十一月
アッツ紀行
太陽/昭和四十五年六月号
二十八年目の真珠湾
太陽/昭和四十五年三月号
わたしの海軍時代
写真でみる昭和の世相史/昭和五十六年五月刊
暗号と私
黄金虫/昭和六十年八月号
山本聯合艦隊司令長官閣下
野生時代/昭和五十一年1十月号
青い眼の長門艦長
新潮45+/昭和五十七年六月号
東郷元帥の功罪
東郷/昭和五十一年二月号
広瀬武夫余話
広瀬武夫全集 月報/昭和五十八年十二月刊
小泉さんと海軍
小泉信三全集 月報/昭和四十四年二月刊
余命と無常感
東京新聞/昭和四十四年二月二十八日付夕刊
「あゝ同期の桜」に寄せる
サンデー毎日/昭和四十一年十月九日号
海軍の伝統と気風について
プレジデント/昭和五十六年五月号
単行本
=私記キスカ撤退
昭和四十六年六月文藝春秋刊
=大ぼけ小ぼけ
昭和六十一年十月講談社刊
=桃の宿
昭和五十七年三月講談社刊
=阿川弘之自選作品
昭和五十三年六月新潮社刊
=連合艦隊の名リーダーたち
昭和五十七年十二月プレジデント社刊
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文春ウェブ文庫版
私記キスカ撤退
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 阿川弘之
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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(C) Hiroyuki Agawa 2000
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