目次
山本五十六
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
作品後記
参考引用文献
解説(村松剛)
第一章
今私の手もとに、古ぼけた一枚の記念写真がある。
山本《やまもと》五十《いそ》六《ろく》が大佐当時、兵学校の同期生二十数人と一緒に撮ったもので、時代は大正の末か昭和の初め、場所はどこかの水交社の玄関らしい。
堀悌吉《ほりていきち》、塩沢幸一、吉《よし》田《だ》善《ぜん》吾《ご》、嶋《しま》田《だ》繁《しげ》太《た》郎《ろう》ら、のちに山本と共に帝国海軍の枢要《すうよう》な地位に就き日本の運命を左右する立場に立つ幾人かの提督たちの壮年の顔が見える。
不敵な豪傑風の笑みを浮べている者もあれば、鬼瓦《おにがわら》みたいないかつい顔の大男もいる。そのころの風習で半数が鼻の下に髭《ひげ》をたくわえていて、皆なかなか立派な海のつわものどもであるが、中で山本は、髭も無いし、一番小さく、妙にやさしげに乃《ない》至《し》は淋《さび》しげに撮れている。戦争中よく新聞に出た、「聯合《れんごう》艦隊司令長官山本五十六大将」の写真は、写す方、公表する側で何らかの配慮をしたのか、見る者にあまりそういう印象を与えなかったが、この写真の山本は、はっきり小《こ》柄《がら》で、背をまるめ加減に少し憂鬱《ゆううつ》そうな顔をして写っている。
彼の風貌《ふうぼう》を知らない人々を集めて来て、この二十余人の中から一人、後年真珠湾攻撃を立案し実行した艦隊長官をあててごらんなさいと言っても、正しく山本を指す人はとてもいないだろうという気がする。
事実、山本五十六は、小さな人であった。
昭和十八年の四月十八日、彼がラバウルの飛行場から死出の旅にたつ時、初めてその姿を眼《ま》のあたりに見た陸攻二番機の主操縦員、長身の林浩飛行兵曹《へいそう》は、
「長官、俺《おれ》の半分くらいしかない人だな」
と思ったそうである。
背丈は五尺二寸五分、体重は十五、六貫程度、骨組みも華奢《きゃしゃ》な方であったらしく、彼と親しかったある料亭《りょうてい》の女将《おかみ》は、指など女性ピアニストのような指をしていたと語っている。
もっとも山本は手の指が八本しか無かった。昔、日本海海戦の時、少尉《しょうい》候補生として乗組んでいた軍艦「日進」にロシヤの砲弾が命中して、彼の左手の中指と人差指を、根元から持って行ってしまった――ということになっている。
「巨弾一発轟然《がうぜん》として残れる前部八吋《インチ》左砲に命中、毒烟濛々《どくえんもうもう》として艦の前半を蔽《おほ》ひ大風に吹き飛ばされし如《ごと》き心地して思はず二三歩よろめけば首に掛けたる記録板は飛んで影を失ひ左手二本指はポッキと折れて皮を以《もっ》て僅《わづ》かにつながる」
と山本自身書き残しているくらいだから、長い間そう信じられていたが、実際はどうも「日進」主砲の摧ュ《とうはつ》によるものであったらしい。摧ュとは、連続射撃で熱し切った砲身の鉄材が波をかぶってもろくなり、火薬のガスの圧力に耐えかねて自爆をおこすことで、こちらが事実とすれば彼は乗艦の事故によって手指を失ったのである。
新橋の花柳界《かりゅうかい》では、女どもが彼のことを「八十銭」と呼んでいた。
当時、芸《げい》妓《ぎ》のマニキュア代が両手で一円で、
「山本さんなら、八十銭ね」
という意味であった。
山本の身体《からだ》には、手指のほかにも、その時のすさまじい傷痕《きずあと》が残っていた。
しかし山本が小男で指が八本だったから、それで特にどうということは無い。この写真でも、彼の顔は理智《りち》的によく引締っていて、決して貧弱ではない。一見猛将の面影《おもかげ》が無いからといって彼が聯合艦隊の長官に不向きだったなどとは言えない。
ただ、この一枚の記念写真を眺《なが》めていると、あの時代を識《し》る者には考えても由《よし》なき、さまざまな思いが湧《わ》いて来るのは事実であろう。
山本が海軍次官の時、軍務局長をつとめた井上成美提督は、戦後の海軍側責任者の種々の記録を検討して、ある人に「あの上等兵曹(某大将のこと)の言ひしことなど、まことに噴飯に耐へず」と手紙をよこしたというくらい口の悪い人で、海軍には同じ大将でも一等大将と二等大将とがあったと言っている。
海軍兵学校三十二期は、一クラスから、塩沢、吉田、山本、嶋田と四人の大将を出した珍しい期であるが、井上の説にしたがえば、山本以外は、全部一等大将としては落第ということになる。
吉田善吾は山本の前任の聯合艦隊司令長官で、吉田が大臣になって海軍省へ帰って来るのと入れかわりに、山本は艦隊へ出て行った。
山本は、吉田になら米《よ》内光政《ないみつまさ》や自分の後事を託せると思っていたらしいが、彼の期待に反して、吉田はあまり長くは海相の職に留《とど》まらなかった。
嶋田繁太郎は、東条内閣の成立以後、開戦の時も、山本が戦死した時も、昭和十九年の七月サイパンが陥《お》ちて東条がいやいや内閣を投げ出す寸前まで、東条の言うなりになって、東条の副官とかげ口をたたかれた海軍大臣であった。
山本五十六はやはり、ある時機に中央へ帰るべき人ではなかったであろうか。彼がもし艦隊を去って海軍大臣の職についていたら、日本の運命は変ったのではあるまいか。
もっとも山本が、大臣になったら、アメリカの戦闘機乗りの手を煩《わずら》わすまでもなく、それよりずっと前に、日本人の刺《し》客《かく》が彼を殺していたかも知れない。
こういう話は、あとでもっと詳しく書かねばなるまいが、山本の閲歴を中心に、前の戦争の歴史を見ていると、「もしもあの時」という思いに度々突きあたる。
「歴史上の必然と偶然の問題は、いくら話しても種は尽きない」という書き出しの、「必然と偶然」と題する随筆の中で、小泉信三《こいずみしんぞう》は、「歴史上の『若しも《・・・》』 ifs ということについて」、これを「興味本位に取り扱うことは勿《もち》論《ろん》禁物であるが、しかしまた、それは十分考察に値する問題であることも思うべき」だと言っている。
小泉は、学者文人の中で個人的に山本を識《し》っていた少数の人の一人であった。「必然と偶然」は山本のことを扱ったものではないが、私は、山本五十六をめぐるたくさんの「もしも」の中の、ごく小さな一つの「もしも」からこの物語を始めようと思う。
それは、彼が聯合艦隊司令長官に親補されたちょうどその日におこった――正確に言うと、おこらなかった。
反町《そりまち》栄一という人の名は、知っている人が少なくないであろう。
山本と同じ長岡《ながおか》中学の出身で、山本より五つ年下だが、郷里長岡での古い友人である。
当時長岡中学に、坂牧善辰《さかまきよきたつ》という、昔夏《なつ》目《め》漱石《そうせき》と東大英文科で同級だった校長がいて、反町が五年生の時、ある石油会社の重役の子を落第させたことからこの校長に圧迫がかかり、山から坑夫を連れて来て脅しが加えられたりしたことがあった。その時、反町は在校生有志の頭株になって校長を護《まも》る運動を起し、坂牧の意志を通し抜かせたのを、すでに海軍に入っていた山本が、聞いて、たいへん喜んだ手紙をよこした。
漱石は坂牧善辰をモデルにしてのちに「野《の》分《わき》」を書いている。越《えち》後《ご》の町の中学教師として石油会社の役員の暴慢を罵《ののし》る「白井道也」という「野分」の主人公は坂牧の人柄《ひとがら》を彷彿《ほうふつ》とさせると言われているが、このことがあって以来山本は反町としたしくなった。
反町栄一の著わした「人間山本五十六」という上下二冊の本は、山本の家系、出生、生い立ちから詳細を極めたもので、郷党の人の、あばたもすべてえくぼ式、都合の悪いことはあまり書いてないという難を除けば、他に得がたい資料で、誰《だれ》もこの本を無視して山本五十六を書くことは出来ない。反町は現在も長岡に住んでいて、山本五十六の崇拝者であり、研究家である。
昭和十四年八月三十日の朝、この反町が、所用があって羽《う》越《えつ》本線新発田《しばた》の駅から上りの急行に乗りこむと、二等車の中に陸軍中将の軍服を着た石原莞《いしわらかん》爾《じ》が坐《すわ》っていた。
反町は、石原莞爾を前から識っていたので、
「やあ、これは石原閣下、どちらへ?」
と聞くと、石原は、十六師団長に補せられることになって今から東京へ行くが、東京へ出て陛下に拝謁したら自分はこの戦争(日華事変)をこれ以上つづけてはならないと、陛下にもそれから秩父宮《ちちぶのみや》殿下や高松宮殿下にも意見を申し上げるつもりなのだと答えた。
「自分のまわりに乗っているのは、みんな私服の憲兵と特高だがね、このまま日支事変をつづけていたら日本は亡《ほろ》んでしまうよ」
とも言った。
石原はそれから、
「実は山本次官にも会いたいと思っている。海軍で戦争をやめさせることの出来る人は、山本さんしかいない。九月三日に訪ねて行きたいが、あなたからあとで電話で一つ連絡をとっておいてくれないか」
と反町に頼んだ。
石原は山本に、前々から一応の面識はあった。ある時陸海軍首脳の懇親会で、二人はたまたま隣り合った席に坐り、石原が並みいる陸軍のお偉方《えらがた》の方を顎《あご》でしゃくって、
「陸軍もああいう連中がやってるんじゃ駄目《だめ》なんだ」
と言うと、山本が言下に、
「そういう事をいう奴《やつ》がいるから陸軍は駄目なんだ」
と言った、さすがの石原莞爾が閉口して黙りこんでしまった、という話が伝えられている。
この頃《ころ》日華事変はすでに三年目に入って、いわゆる泥沼《どろぬま》の様相を呈し始めている時であった。石原が当時、陸軍部内で異端視されていたことは、人の知る通りである。
石原は熱烈な日蓮宗《にちれんしゅう》の信者で、仏滅ののちほぼ二千五百年、西暦二〇〇〇年ごろに、今の言葉で言えば世界国家のような統一世界が実現し、それに至る過程において前代《ぜんだい》未《み》聞《もん》の人類大闘争が起るという、一種独特の予言者的史観をいだいていた。
彼は、「五族協和」の一種の理想国家を満《まん》洲《しゅう》に作ろうとして満洲事変を企画した人であり、山本のものの考え方とはへだたりがあったかも知れないが、日華事変の勃発《ぼっぱつ》に際してはすぐ不拡大方針の主張をしているし、人類の最終戦争までもうみだりに兵を動かしてはならぬ、事変は出来るだけ早く解決して米英と今早急な対決は避けるべきだというその主張には、山本も共鳴し得るところが少なくなかったであろう。
それより三年半前の、二・二六事件の時、軍事参議官の荒《あら》木《き》貞《さだ》夫《お》が、事を起した青年将校たちを叛乱軍《はんらんぐん》として処分するのは好ましくないという意見で、
「彼らの間から叛徒が出たとあっては、陸軍全体の威信にかかわる」
と、戒厳司令官の香《か》椎浩平《しいこうへい》に強談判《こわだんぱん》に及んだ際、参謀本部の一部長であった石原が、傍《かたわ》らからいきなり立ち上って、
「あなたはどなたですか」
と、荒木に食ってかかったという逸話が残っている。
荒木は、初めぽかんとしてあっけに取られた様子であったが、すぐ、
「俺《おれ》は荒木大将だ。貴様は何者だ? 貴様の顔は上官を侮辱しておる顔だ。事と次第によっては許さんぞ」
と言って怒り出した。
それに対し石原は、
「軍人が天皇陛下の兵を私《わたくし》に動かし、皇軍の武器を勝手に使って人を殺すなどということは、断じて許されません。そのような大罪を犯した者を厳重に処罰するのが、なぜ軍の威信にかかわりますか。陸軍の恥だから彼らに叛徒の名をつけるななどとは以ての外で、大将だと仰有《おっしゃ》るが、かように愚かな陸軍大将が日本にいるとは自分には信じられません」
と言い返した。
この話は、中山正男の書いたものの中に出て来る。
石原莞爾が陸軍部内で異端視されたのは、当然であったと言えよう。
憲兵と特高が聞き耳を立てているというから、反町は小声で、
「閣下はいつまで東京に御滞在ですか? それじゃあ、山本さんには私からすぐ伝えておきます」
と、山本五十六へ連絡をとることを約し、それから長岡まで、車中約一時間半の間、あとは雑談になって、長岡駅で石原莞爾と別れた。
反町の用事というのは、長岡の一つ次の宮《みや》内《うち》駅から大分山の奥へ入った古志《こし》郡《ぐん》竹沢という村の小学校で講演をすることであった。
竹沢村へ着いて、午後三時から講演をはじめ、それがおわって、灯《ひ》ともしごろ、反町が山の上の旧家で関係者一同と手《て》打《うち》蕎麦《そば》の馳《ち》走《そう》になっていると、
「講師の先生へ急報だ」
と言って、村役場の男が、息せき切って上って来た。
今ラジオのニュースを聞いていたら、山本海軍次官が聯合艦隊の司令長官になんなすったそうだ、さっき宮中で親補式が済んだとこだそうだという報《しら》せであった。
みんなは、わッといって立ち上った。
「列席の村長以下、一同思わず万歳を三唱した」
と、反町栄一は書き、
「明月や満目の山河どよむばかり」
と、その時の非常な喜びを述べている。
彼はそれから急遽《きゅうきょ》山を下り、車で長岡の家へ帰り着くと早速東京へ電話を申込んだ。
電話が通じて、反町が、
「山本さん、おめでとうございます」
と言うと、山本は、
「おウ、ありがとう」
と答えた。
電話で話しているうちに、反町は突然の喜びごとで忘れかけていた石原莞爾の依頼を思い出した。
「そりゃそうと山本さん、わしは今朝汽車の中で偶然、石原莞爾閣下にお逢《あ》いしてなあ」
と、話を切り出すと、
「そりゃ残念だな。僕はあした発《た》って艦隊へ行かねばならんので、お会い出来んがなあ。君から今度、石原さんによろしく言ってくれよ」
と、山本は言った。
山本五十六の聯合艦隊司令長官発令が、もう四五日おくれていたら、石原莞爾の望んだ会見は或《あるい》は実現していたであろう。実現したら、日華事変の前途と日本の将来とに何か変った動きがおこったかどうか、それは分らない。
ともかくしかし、小さな一つの可能性はこうして消え、山本は海へ出て、その後その死までついに石原莞爾に会うことは無かった。
この日午後五時半、山本五十六は、宮中での聯合《れんごう》艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官親補式を了《お》えて、海軍省の赤煉《あかれん》瓦《が》の建物へ帰って来た。
当時の新聞は、
「波さわぐ洋上へ
六年ぶりの出陣
沈黙の威圧、山本提督」
と題して、彼の第一声を伝えている。
「純白の服に包んだ逞《たくま》しい身体、感激と決意に引締つた頼もしい面構《つらがま》へ、堂々たる足どり。中将は省内に入つて記者団と会見した。日頃は嗜《たしな》まないビールを、この日ばかりはぐつと一息、うまさうに飲んでさて提督としての第一声――。
色々と問題はあつたが自分としては出来るだけの努力をした。別に感想はない。この度身に余る重任を拝して恐懼《きょうく》に堪へないが、微力に鞭《むち》うつて御奉公するつもりだ。聯合艦隊司令長官と云《い》へば武人としてこれ以上の名誉はない。この意味で自分の決意も決つてゐる」
真っ白な歯を出して笑っている山本の写真が添えてあり、記事はこの前後もっと長いが、そのころの新聞としてはまずこの程度以上のことは書けなかったであろう。
広田、林、近《この》衛《え》、平沼と、四代の内閣にわたって、次官としての山本は、海軍省詰めの新聞記者たちに至極受けがよかった。
「君たちが何を聞いても、俺はイエスかノーかだけは必ず答える。ただし信義は守れ」
と言って、新聞記者に相当突っこんだことまで話して聞かせた。
のちには、首相官邸詰めの記者までが、海軍省に廻《まわ》って山本次官に会っておかないと大事な点を掴《つか》みにくいという風になっていた。
政治的な嘘《うそ》をつかず、はっきりしていて、
「俺ア、あんな奴はきらいだ」
とか、
「そんなことを言う奴は、バカだよ君。陸軍の誰《だれ》だい? ここへ呼んで来い」
とか、妙に伝法な口をきくこともあったという。
「近衛公をどう思いますか」
と、一人の新聞記者が質問したことがある。
山本は、
「うん」
と言って黙っていたが、重ねて聞かれると、
「君、人間なんて、花柳界での遊び方を見りゃ大体分るじゃないか」
と言った。
黒潮会は、日本最古の記者クラブであった。各省記者クラブの中でも腕ききの連中の集まるところで、緒《お》方竹虎《がたたけとら》、伊《い》藤正徳《とうまさのり》、細川隆元《ほそかわたかもと》などみなある時期黒潮会に籍をおいている。山本は省内のこのクラブにも気軽に顔を出して、新聞記者と将棋をさし、雑談をし、深夜でも霊南坂《れいなんざか》の次官官舎で少しもいやがらずに彼らに会い、ウイスキーや葉巻でもてなして、記者が帰る時には必ず自分で玄関へ送って出た。
もっとも「深夜でも」というのは、山本はしばしば深夜まで留守で、勤務時間のおわったあと、何処《どこ》へ消えるのかさっぱり行《ゆく》衛《え》がつかめなかったからでもある。
どんな風に「色々と問題があった」のか、どのように「出来るだけの努力をした」か、「別に感想はない」どころか、山本には感想が大ありのはずなのを、海軍担当の新聞記者たちはよく承知していたが、それをはっきり記事にすることは出来なかったのである。
「イソロクは、あれでなかなかスタイリストだよ」
と評する者もあったが、人間的に魅力があり、ニュース・ソースとしても大切で、「イソロク、イソロク」と言って親しんだ山本が洋上へ去るのを、彼らはみな惜しんだ。
聯合艦隊からは、その前日吉田善吾中将を送って新長官の山本を迎えるために、司令部の先任副官藤《ふじ》田《た》元成《もとしげ》中佐が上京して来ていた。吉田と藤田とは旗艦「長《なが》門《と》」を出てから東京への車中、二人とも私服であったが、勘づいた新聞記者たちが吉田に大臣就任の抱負や感想を語らせようと夜汽車に押し寄せて来、それをかわすのに藤田は一晩中苦労したそうである。
二十九日の朝七時十分、海軍省副官実松譲《さねまつゆずる》少佐の出迎えを受けて東京駅に着き、大臣官邸に赴くと、待っていた米内光政が風呂《ふろ》がわいているから入れと言い、吉田が風呂に入っている間に次官の山本も顔を出し、それから米内吉田山本の三人は一緒に朝粥《あさがゆ》を食って話をした。
藤田元成は山本五十六が航空母艦「赤《あか》城《ぎ》」の艦長時代砲術科の分隊長として同じ「赤城」に乗っていて、この時が初対面ではなかったが、これ以後約三カ月半にわたって儀礼人事関係の副官としてしたしく山本に接することになる。
次の日親補式に臨む山本を藤田が次官官舎へ迎えに行くと、礼子夫人は軽井沢滞在中で留守とのことで、山本は女中に送られて出て来た。
宮中への車には私服の憲兵が同乗し、坂下門のところまでついて来、式がすんで退出して来るとまた同じ場所で待っていて山本の車に乗りこもうとした。
親補式を了《お》えて正式に聯合艦隊司令長官になった山本は、
「俺はもう次官じゃないんだから、憲兵は要らんな。遠慮してもらえ」
と藤田に命じ、その憲兵を原隊へ追い返してしまった。
陸軍の憲兵が、護衛であると同時にスパイの役をしていたのは、当時海軍省では誰でも知っていたことである。
翌八月三十一日、出発の日は偶然山本の二十一回目の結婚記念日にあたっていたが、夫人は不在であった。朝一人で家を出、海軍省に登庁してから藤田中佐を伴《ともな》って省の自動車で数カ所挨拶《あいさつ》まわりをすませると、東京駅へ向った。
午後一時少し前、白い第二種軍装の左胸に勲一等瑞宝《ずいほう》章を飾った山本は、東京駅長に先導されて見送りの顕官将星、近親者、新聞記者、それに、彼が深夜まで行衛不明の原因を成していた新橋の女性たちが立ち並ぶ中を、貴賓階段からプラットフォームへ上って来た。
当時の東京駅は、今に較《くら》べるとずっと規模が小さくて、プラットフォームは四面しか無く、その四番フォームの外側の八番線に、一時発の神《こう》戸《べ》行各等特別急行「かもめ」が入っていた。「かもめ」は、朝の「つばめ」と並んで、京浜と阪神とを結ぶそのころの花形列車であった。通常編成では展望車がついていないが、この日の「かもめ」は山本のために展望車を一輌《りょう》増結していた。
山本は、のちにずいぶん有名になったあのきれいな挙手の礼で、見送りの人々に正しくこたえながら最後尾の一等車の方へ、駅長のうしろから歩いて行く。展望車のステップの前には絨緞《じゅうたん》が敷いてある。
彼はしかし、こういう儀式張ったことがあまり好きでなかったらしい。
山本の人物評を求められた知友後輩は、大抵まず、
「容態ぶることの大きらいな人」
と答えている。
米内光政は、ひと言、
「茶目ですな」
と評している。
かねて、賭《か》け事《ごと》が三度の飯より好きであった。
高《たか》木《ぎ》惣吉《そうきち》の書いたものによると、
「人には無くて七癖という下世話もある。聖人君子でない山本提督のこと、これはまたこのぐらい賭けごと、勝負ごとの好きな人も珍しかった。(中略)将棋、囲碁、麻雀《マージャン》、玉突き、トランプ、ルーレット等々なんでもござれ、宴会などでは盃《さかずき》を乾《ほ》さない無聊《ぶりょう》を消すために、水を湿すと一、二、三等の文字が浮ぶ紙上の競馬の勧進元になって、よく若い連中とか、席に侍る美人たちに五十銭を賭けさせたものであった」
酒も飲めないのに、新橋、築《つき》地《じ》の二、三特定の場所へ、堀悌吉と二人、「金魚のうんこのように連なって」よく遊びに行っていた。
女どもと花を引いたり、麻雀をしたりするのが、目的の大部分であったということになっているが、必ずしもそれでは収まらず、数年前から、「遊び」が遊びの限界を越えていたことは、当時身近な少数の友人以外は承知していなかった。夫人の礼子がそれを知っていたかどうかは、よく分らない。
見送りの新橋の女性たちと視線が合うと、山本の顔に何とも言えぬ照れくさそうな表情が浮んだそうである。
「感激と決意に引締つた頼もしい面構へ」が、実は眼《め》のところで、そっと照れて笑っているのが、彼女らにはよく分った。
山本が口癖の、
「俺が八十銭だって、出るところへ出りゃ偉いんだぞ」
と、そう言っているようにも見えた。
副官をしたがえて彼が展望車のデッキに立つと、ベルが鳴り始めた。
午後一時定時、大勢の視線を一身に集める中を、山本の乗った「かもめ」は静かに動き出した。
山本は海軍の別れの作法通り、軍帽を脱いでそれをゆっくりとまるく振った。フォームでは何処《どこ》の誰とも分らぬ日蓮《にちれん》の行者が三人、列車の見えなくなるまで団扇《うちわ》太《だい》鼓《こ》を叩《たた》いて送っているのが人眼を惹《ひ》いた。
その後開戦までの二年三カ月の間に、彼は艦隊から出張のかたちでは何度も東京へ出て来ている。しかし、自分の住む町として、勤務地としての東京は、この時が最後になった。
山本は数えで五十六、明治十七年に彼が生れた時の、父貞吉《さだよし》と同じ齢《とし》であった。
八月末の真昼の太陽に輝いている、有楽町、新橋あたりの町なみを、山本は展望車のソファから感慨深げに眺《なが》めていた。
「かもめ」は途中、横浜、沼津、静岡の順に停車して、名古屋のあたりで日が暮れる。
車中にはまたしても憲兵らしい私服の男の姿がちらちら見えていたが、横浜で下りて行ったようで、代って横浜から次々の各停車駅には山本を歓送するため大勢の人々が待っていた。横浜では煙草《たばこ》が、沼津では小田《おだ》原《わら》名産のかまぼこが、たくさんの差入品が展望車の中に積みこまれた。その度に、山本は立ち上って誰とでも気さくに話をし、挨拶《あいさつ》をした。
しかし、列車が動き出して副官と二人きりになると、彼の表情は暗くなり、敢《あ》えてそれを崩そうともかくそうともしなかった。
国のことか、家庭のことか、女のことか、多分そのどれもが彼の心にかぶさっていただろうと思われる。
実はこの日「かもめ」の普通一等車の方に、人眼を忍んで一人の女性が乗りこんでいたのだが、副官の藤田元成は直接そのことには触れず、
「東京駅を発《た》つ時もまことに飄然《ひょうぜん》とした感じであったし、長官の心中は淋《さび》しかったのではなかろうか」
と語っている。
途中、名古屋から大阪の新聞記者が車中談を求めて乗って来た。
山本は、軍服を白い麻の背広に着かえていたが、
「独ソ不侵略条約の締結などを見ると、日本人の道義観念ではちょっと割切れぬものがありませんか」
と、記者が、平沼内閣総辞職の――、したがって海軍大臣と次官更迭《こうてつ》の原因となった問題について質《ただ》すと、
「政治問題について語ることは出来ないが、原則論からいえばだね、だまされてもかまわぬ、正道を行くというのが道義外交で、人間としては実に堂々たる立派な態度だ、しかし政治家としてはまたちがった立場があるだろうじゃないか」
と、含みのある答えをしている。
また当時、男は丸刈りにしろ、女のパーマネント・ウェーブはいけないと、巷間《こうかん》やかましく言われていた非常時下の生活刷新問題について聞くと、
「あんなものは、問題にならないよ。わしは面倒だから昔から五分刈りにしているが、丸刈りだろうが長髪だろうが、そんなことが生活刷新に何の影響があるのかね。海軍の航空隊の軍人は大てい髪をわけている。頭をぶっつけたりした時に、毛がある方が怪我《けが》が少なくてすむからな。だらしない奴《やつ》は、丸刈りにしたってやっぱりだらしないよ。要するにどっちでもいいじゃないか。パーマネントだって同じだ。あれは、経済上の関係もあってやっていることだろう。パーマネントもいいし、日本髪もまたよかろうよ。問題にするほどのことじゃない」
と言い、そこへ列車ボーイが食事の用意が出来たと知らせに来たので、
「では、これで失敬するよ」
と言って、藤田副官といっしょに食堂車の方へ立って行った。
「かもめ」は午後九時二十分の大阪到着で、山本は同行の女性と副官と三人で、その晩新大阪ホテルに泊った。
聯合艦隊は、この時、司令長官の更迭によって連合演習を中止し、紀州の和歌之《わかの》浦《うら》に入港していた。
当時の聯合艦隊は文字通り世界第三位の大艦隊であって、大阪、神戸の場合は、港が小さ過ぎて、一艦隊が神戸なら二艦隊は大阪という風に、分れて入港しなくてはならなかったが、和歌之浦へはそれが全部一時に入ることが出来た。
翌九月一日の朝、山本は見送って来た女と難《なん》波《ば》の改札口で別れて、南海電車で和歌之浦へ向った。
南海の特急には、長官のための特別車が一輌連結されて、特別車には、山本と藤田副官と南海電鉄の秘書課長が一人乗っているだけであった。
難波の駅に、南海の社長の寺田甚吉《じんきち》が見送りに出て、
「山本さん、ずいぶんお疲れでしょう。白浜に宿を用意しておきましたから、艦隊へ着かれたら今夜はそちらでお休みになったらどうです」
とすすめた。
特別車の中の金襴《きんらん》のテーブル掛けでおおわれた机を眺めながら、山本は、
「どうも、やんごとなき人のようだね」
と照れていたそうである。
和歌之浦へ着くと、桟橋《さんばし》に長官艇が待機している。これは、長官専用の小さな内火艇である。
晴れた暑い日であった。
山本が艇内の小室へ入ると、緊張で頬《ほお》を紅潮させているチャージの若い中尉《ちゅうい》の号令で、長官艇はすぐ桟橋を離れた。
沖には、約七、八十隻《せき》の聯合艦隊の艨艟《もうどう》が、明るい紀州の海を圧して静かに碇泊《ていはく》していた。
旗艦は「長門」で、「長門」は開戦後に「大和《やまと》」が就役するまで、この時からずっと山本五十六坐乗《ざじょう》の聯合艦隊旗艦をつとめる。
「長門」の艦上では、舷門《げんもん》から見てデッキの内側に麾下《きか》各艦隊各戦隊の司令官と幕僚、外側に聯合艦隊司令部の幕僚、その二つの列と反対方向に、福留繁《ふくどめしげる》艦長以下「長門」乗組の士官たちが居並んで、新長官の乗った内火艇が近づいて来るのを待っていた。
吉田善吾が海軍大臣になって「長門」を下りたあと、艦内では「あとは誰か」というのが、噂《うわさ》の種であった。
時の第二艦隊司令長官は豊《とよ》田《だ》副《そえ》武《む》で、普通二艦隊の長官が聯合艦隊へ上るのが慣例になっていたが、それが次官の山本五十六と決った時、
「ほう、これは大した人がやって来るぞ」
と、多くの者が言い合ったという。
艇が「長門」へ横づけになると、山本はひらりと舷梯《げんてい》に飛び移った。海軍のお偉方がランチから本艦に移乗する時、舷門の信号兵がパイプを吹くのは、昔英国海軍あたりでもっこに乗せて吊《つ》り上げた、その合図の名《な》残《ごり》の儀礼だと言われている。つまり司令官や幕僚長はたいていビヤ樽《だる》のように肥《ふと》っていて自分でラッタルを上りにくかったからであるが、山本はこういう身のこなしが軽く、それに、どちらかと言えばせっかちであった。
山本の足が舷梯にかかると同時に、それまで長官艇にひるがえっていた中将旗が下げられ、「長門」のマストに長官旗が上って旗艦の軍楽隊が定められた長官礼式の奏楽を始める。舷門を入った山本は出迎えの一同に挙手の礼を返しながら、長官ハッチから後部の司令長官公室に入った。
其処《そこ》で彼は、司令部各幕僚、各艦隊指揮官の伺《し》候《こう》を受けた。
着任の儀式は比較的簡単なもので、それでおしまいである。儀式がすむと、ようやく山本はほっとしたように機《き》嫌《げん》がよくなって、しゃべり出した。
「おい、長官というのはいいね。もてるね。海軍次官なんてものは君、高等小使だからな」
と、副官に言ったりした。
次官が高等小使かどうかは別として、海軍次官時代、殊《こと》にこの数カ月間は、山本にとって仕事の上で苦しいこと、うっとうしいことの連続であった。
海軍が三国同盟に強硬に反対しているその元兇《げんきょう》は彼と見られ、右翼につけねらわれて、山本には生命の危険があった。
六年ぶりに洋上に出て、個人としての山本はほんとうにほっとしていたにちがいない。もしそういう表現をするなら、心も晴々として、黒潮の香りを胸いっぱいに吸いこんだにちがいない。
「副官、もう用事無いんだろ? 行こうか」
と言い出し、その晩は寺田甚吉のすすめにしたがって、藤田中佐と一緒に白浜温泉へ行って泊っているが、それから約二週間あとの九月十五日、笹川良一《ささがわりょういち》にあてた手紙の中には、
「艦隊は其《その》後《ご》引続き、豊《ぶん》後《ご》水道の一角に於《おい》て、陸岸とは郵便物の接受の外全く絶縁して日夜訓練に従事罷在候《まかりありさうらふ》。本年度の訓練も愈々《いよいよ》終末に近づき実力殆《ほとん》ど向上の極点に達し居るの感有之《これあり》、如斯《かくのごとき》有為の艦隊を継承せしは誠に心強き限りなると共に、責務の愈々重大なるを痛感し、兢々蹇々《きょうきょうけんけん》なほ足らざるを虞《おそ》るゝ次第に御座候
若《も》し夫《そ》れ世上の俗事に就ては、一日三回のニュースと二日おきの新聞により僅《わづ》かにその一端を窺《うかが》ふのみにて、夫れすらあの世からなる寝言をきくが如き心地致され候
今や一切を脱却して専心軍事に精進神身共に引きしまるを覚え申候」
という言葉が見える。
笹川良一は国粋同盟の総裁で、右翼人士の中でたった一人、珍しく山本五十六を尊敬し、紋付袴《はかま》姿で、
「先生、先生」
と、よく海軍省へ山本を訪ねて来て、刺《し》客《かく》が襲って来た場合はどうすれば一番いいかなどということも、彼に教えた人物である。
白浜には二た晩滞在した。
その最初の日、彼が艦隊へ着任した九月一日の夕刻、山本は白浜の温泉宿で、ドイツ軍がポーランドに進撃を開始したというニュースを聞いた。
山本が、白浜から「長門」へ帰って来た九月三日の、日本時問で午後七時十五分に、英国はドイツに対して宣戦を布告した。フランスが六時間おくれて参戦した。
彼は九月四日に嶋田繁太郎あてに出した手紙の中で、
「ヨーロッパで起りつつある大変動に鑑《かんが》みて、独、伊との関係を考えると慄然《りつぜん》とせざるを得ない」
と言っている。
欧洲《おうしゅう》で第二次世界大戦の火の手が挙《あが》ったのが、山本の聯合艦隊司令長官着任と日を同じくしているのは、山本の運命を暗示しているようにも見える。
九月五日、山本は、
「本職図ラズモ大命ヲ拝シ聯合艦隊司令長官ノ重責ニ任ズルニ当リ」云々《うんぬん》という、全聯合艦隊将兵への訓示を発表した。
それの最後は、
「欧洲ノ情勢ハ再ビ世界的大動乱ノ兆《キザシ》、歴然タルモノアリ。コノ間ニ於《オ》ケル帝国海軍ノ使命ハ一層、重且《カツ》大ナルヲ覚エズンバアラズ。麾下一同、益々《マスマス》自重自愛、日夜訓練ニ努メ、艦隊ノ威力ヲ最高度ニ維持《ヰヂ》シ、以テ国防ノ重荷ニ任ジ、聖旨ニ応《コタ》へ奉《タテマツ》ランコトヲ期スベシ」
となっている。
幕僚の書いた草案に朱筆を加えた程度のものかと思われるが、当時の日本で、彼のような立場の者が公式の発言をする時は、何を言うかより何を言わないかの方がむつかしかったであろう。よく読むと、加藤友三郎の唱えた「不戦海軍論」の思想が、喉元《のどもと》まで出かかっているようなところが感ぜられないでもない。
艦隊司令部の幕僚の職に在ったある人の話では、
「じかにその声を聞く者には、ずしりと胸にこたえる響きがありました」ということである。
聯合艦隊にはしかし、ヨーロッパの動乱で何か動揺の徴《きざし》が見えるというようなことは、少しも無かった。
成立したばかりの阿部内閣も、九月四日の日に、
「今次欧洲戦争勃発《ぼっぱつ》に際しては帝国は之《これ》に介入せず専《もっぱ》ら支那《しな》事変の解決に邁進《まいしん》せんとす」
という声明を出している。
艦隊の日課は平常通りで、山本の毎日も、次官時代とは打って変ったのびのびしたものになった。
戦技演習でもなければ、聯合艦隊司令長官などというものは、割に閑《ひま》である。山本は、
「おい、一戦やろうか」
と、幕僚を相手に将棋をさしたり、私室でせっせと手紙を書いたり頼まれた書を書いたりしていた。
もともと越後の大飯食いではあったが、潮風のせいで、食欲も頓《とみ》に旺盛《おうせい》になった。
聯合艦隊司令部の食事は、朝は各自勝手に、和食、それから、欲しい人は前の晩従兵にコーヒーとかオートミールとかを註文しておく。しかし、「オートミールでいくさが出来るか」と言って、大抵の人はやはり、味噌《みそ》汁《しる》に飯であった。
昼が洋式のフルコースで、スープから始まってデザートに終る、銀の食器、フィンガー・ボールの正式のディナーである。
この時、十二時五分から三十分間、司令長官の食事中軍楽隊が後甲板で音楽を演奏する。
軍楽隊の日課訓練を兼ねてではあるが、「軍艦マーチ」などという武張ったものはあまりやらない。「春雨」とか「越《えち》後獅子《ごじし》」「元禄《げんろく》花見おどり」、外国のポピュラー・ミュージックのようなものを演じて聞かせる。山本は、「支那の夜」がたいへんすきだったということである。
司令部以外の乗組員は、早目に昼食をすませて後甲板へこれを聞きに行くのが、楽しみでもあり、聯合艦隊旗艦乗組の一つの余禄でもあった。もっともこれは、艦が碇泊《ていはく》中だけの話である。
夜は、また和食。
鯛《たい》の塩焼とか、茶碗《ちゃわん》蒸《む》しとか、刺身とか、司令部の烹炊所《ほうすいじょ》には傭人《ようにん》の腕《うで》利《き》きの料理人がいて、なかなかの御馳《ごち》走《そう》であった。ただし、海軍では士官は食費を自分で払うことになっていたから、テーブルの末席につらなる若年の司令部暗号長などは、相当ふところにこたえたそうである。
昼と夜の食事の時には、長官を中心にして原則として全員が揃《そろ》う。司令長官公室の、会議用の長方形の大きなテーブルに、白いテーブル・クロスがかけられて食卓に変る。
「長門」のような戦艦の司令長官公室は、チーク材を使った、少し古風な客船の一等サロンの如きしつらえで、世界のどこの港へ入ってどんな賓客を迎えても一応羞《は》ずかしくないだけのことはしてあった。
食卓では、中央正面に長官が坐《すわ》り、その向いに参謀長が坐る。山本が着任した時の、聯合艦隊参謀長は高橋《たかはし》伊《い》望《ぼう》少将であった。
あとは、先任参謀以下各幕僚、副官、暗号長、気象長、艦隊機関長、艦隊主計長、艦隊軍医長、法務長、それから「長門」の艦長が時々同席する。
山本は無口であったが、気むずかしくはなく、いつもにこにこしていた。そしてよく食った。
前任の吉田善吾の食卓に、干いわしが出るなどということはあまり無かったが、山本は土佐のうるめいわしが好物で、美味《うま》い美味いと言って、艦隊が宿《すく》毛《も》湾に入るとたくさん買いこませておき、頭からガリガリ何尾でも食い、みんなにもすすめた。
吉田は、緻《ち》密《みつ》な神経質な人ですじの通らないことはきらい、しかも酒を飲まないから発散するところがないだけに何でも気になりつい考えすごす方で、幕僚の起案した書類にも、一々朱筆を入れるし、信号文のテニヲハまで訂正し、参謀にでもがみがみ叱言《こごと》を言っていたそうで、すでにこの頃《ころ》から多少ノイローゼの徴候があったのではないかと思われる。
寒い季節に艦隊が別府へ入港し、みながふぐで一杯やるのを楽しみにしていても、吉田は軍医長に「大丈夫か?」と聞き、それでもなおなかなかふぐを食おうとしなかった。
当時聯合艦隊の砲術参謀は藤田元成と同期の藤間良《とうまりょう》中佐、その前任がやはり同期の川井《かわい》巌《いわお》中佐で、藤田副官はクラス・メイトの幕僚からよく、
「吉田長官とうまくやれるのは貴様だけだよ。貴様行って御機《ごき》嫌《げん》とって来てくれ」
と言われていた。
吉田長官と反対に参謀長の高橋少将は大酒飲みで、葱《ねぎ》の白いのが好物で、コックに命じて生葱に味噌を出させて始終酒を飲んでいる。出港時のブリッジでもぷんぷん酒の匂《にお》いをさせていた。双方おもてにこそ出さないが、吉田と高橋とはあまり馬が合わなかった。
退艦の時、吉田善吾は自分の肖像写真を記念にといって一同に配ったが、必ずしも有難《ありがた》く思った者ばかりではなかったであろうし、吉田が山本に代って一番嬉《うれ》しかったのは、参謀長の高橋伊望少将だったろうという説がある。
藤田副官が傍《そば》から観察していると、山本にはひどく剛《ごう》毅《き》なところとひどく気楽なところがあるようであった。福岡生れの藤田元成は、何となく「こりゃ大分ちがうわい。おそろしか長官ばい」と思ったそうである。
山本が白浜温泉から帰って来ると、間もなく艦隊は和歌之浦を出港して、中止中の連合演習をつづけることになった。
聯合艦隊の出港というのは、ひと仕事であった。
八十杯からの大小艦艇を、聯合艦隊命令一つで整然とさばいて出して行かねばならない。聯合艦隊の航海参謀は、相当の切れ者でないとつとまらなかった。
各艦機関科や揚錨《ようびょう》機関係が早くから準備をしている中で、やがて、「出港十五分前、航海当番配置ニツケ」の令がかかると、艦首《ホール》や艦橋《ブリッジ》の空気があわただしくなって来る。
「第二戦隊一番艦、錨《イカリ》ヲ揚ゲテイマス」
というような報告が入って来る。
「出港用意」の喇《らっ》叭《ぱ》が鳴る。
潜水艦部隊が、一番先に出て行く。潜水艦は、入港の時は一等しんがりで、出港の時は最初に出て警戒配備につく。
そのころには長官は艦橋に上って来て、双眼鏡を手に、自分でも見ているが、航海科の伝令が一々各艦各戦隊の動きを大声で報告する。
「第四戦隊が出港します」
「『高《たか》雄《お》』『愛宕《あたご》』『鳥海《ちょうかい》』『摩耶《まや》』出ます」
「つづいて『伊勢』出ます。『日向《ひゅうが》』『扶《ふ》桑《そう》』出ます」
「『赤城』『加賀』『蒼龍《そうりゅう》』『飛龍』、第一第二航空戦隊順番号出港します」
藤田元成の六期下で、航空参謀兼後任副官をつとめていた河本広中は、
「聯合艦隊の長官がいいなと思うのは、出港の時ですよ」
と言っているが、一斉《いっせい》に動きを見せ始めたこの大艦隊が、ことごとく自分の部下だと思うことは、特別な感慨であったにちがいない。
諷《ふう》刺画《しが》の将軍のように、威厳を保って、少々胸を反らせてみたくなっても不思議はないが、山本五十六にはそういうところが殆《ほとん》ど無かった。
「長門」乗組の若手士官の間では、
「今度の長官は威張らないね」
「持てはやされることが嫌《きら》いらしいから、戦争でもあって凱旋《がいせん》なんて場面になったら、長官はどんな顔をするのかな」
というような話も交わされていたということである。
ただ、この山本が、少しのちに、郷里の反町栄一に向ってだけは、
「旧長岡藩から、長岡中学校から、長岡社から、大日本の聯合艦隊司令長官が出たことを君は胸においてくれるだろうね」
と言っている。反町の本にそう書いてある。
長岡社というのは、山本も昔世話になった郷土の育英機関であるが、これはまた、ずいぶん俗臭のある言い草に見えるがどうであろうか。
山本は、もっと別の意味では充分俗臭のある人であったが、立身出世主義、早く大臣大将になりたくてウズウズしていた人間という匂《にお》いは、彼の晩年の言動をどう突っついてみても他《ほか》には出て来ない。
この言葉は、私たちのいだいている山本五十六のイメージとぴったり重ならないような気がする。
もっとも、反町栄一は、竹沢村の山の上で山本艦隊へ行くの報を聞いた時の手記でも、
「長岡人士の七十年来の願望が実現した喜びに満身の血が熱しうずいて来る」
「世の中が変った。長岡が変った。日本が変った」
「月が明るい。山本閣下が司令長官だ。長岡が急に明るくなった。日本が明るくなるのだ」
と、手放しの感激ぶりであるから、果して山本がこの通りの調子でものを言ったかどうかは分らない。
「長岡藩からも、とうとう聯合艦隊の司令長官が出たじゃないか。君、覚えておいてくれよ」
という程度の、ニュアンスの少しちがった話であったかも知れない。
それにしても、いくら気のおけぬ郷里の友人にとはいえ彼がこういうことを言ったというのは、ちょっと不思議な気がするが、反町の手記にも長岡、長岡と度々出て来るように、これは、長岡というものをよほど特殊に考えないと解釈がつかないのではないであろうか。
ここで、長岡の歴史を詳述する余裕は無いが、長岡藩は明治戊《ぼ》辰《しん》の役《えき》で朝敵にまわった藩である。
昔長岡から知事、陸海軍の将官が出ることはきわめて稀《まれ》であった。
海軍に薩州閥《さっしゅうばつ》が強かったことはよく知られている通りで、井上成美なども兵学校に入りたてのころ、教官から出身地を聞かれ、
「なに、宮城県? それじゃお前、まあ少佐で首だな」
と言われたものだそうである。
昭和期に入ってからはさすがにそんな因習も無くなり、逆に、弊害があるというので鹿《か》児《ご》島《しま》県出身者を人事局長のポストにつけない処置が採られることになったのだが、山本は元々長岡藩の貧乏士族の負けん気の強い倅《せがれ》で、彼の父、長兄、次兄は戊辰のいくさに加わり、三人とも傷を負うて長い間東北へ流離の旅をつづけている。
古い「長岡人士」にとって、長岡は長州人の長州、薩摩人の薩摩とはまた別の、一種格別のものであったように思われる。長岡に現存の、山本をよく識《し》っている人は、反町栄一と橋本禅巌という禅僧と山本と同年の遠山運平という友人と、三人きりになっているが、遠山運平の祖父など、西南の役の時、
「今度は戊辰のいくさの仇《かたき》を討つんだ」
と言い置いて出陣したという。
昔、父や兄が朝敵の汚名を蒙《こうむ》って長く苦しんだという意識がどの程度山本にあったか分らないが、反町栄一がそうであるように、山本もまた、郷里長岡のこととなると、どうも少し異常なほどの感情を露出する傾向はあったらしい。
それはしかし、余談である。
新しく山本五十六を長官にいただいた聯合艦隊は、潮の上に何十本もの航跡を残して、和歌之浦を出て行った。
山本の、聯合艦隊司令長官としての生活が、こうして始まった。
第二章
ここで、聯合艦隊のことはしばらくそのままにしておいて、話を五年ほど前に戻《もど》さなくてはならない。
山本五十六の乗った「長《なが》門《と》」が和歌之《わかの》浦《うら》を出て行った時からちょうど満五年前の、昭和九年九月七日、当時少将で軍令部出仕兼海軍省出仕のポストにいた彼は、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の、海軍側首席代表に任命された。
山本が海軍部内で急に頭角をあらわして来たのは、この時からである。日本国内ではもとより、アメリカや英国やドイツの政府、海軍上層部で、その名を知られるようになったのもほぼこの時期からであった。
反町《そりまち》の著書によると、昭和二、三年ごろ、「文藝春秋《ぶんげいしゅんじゅう》」の六号記事に山本のゴシップめいたものが出ていて、それが世間に彼の名のあらわれた最初だろうということだが、この記事は今さがしても見つからない。もっとも、この時(昭和九年)より三十年も前に一度、田《た》山《やま》花《か》袋《たい》が山本のことを文章にしたことがあった。博文館発行の「日露戦争実記」というものに、花袋の筆で、
「去る五月二十七日の大海戦に名誉なる戦傷を受け、横《よこ》須賀《すか》海軍病院に目下入院静養中なる海軍少《せう》尉《ゐ》候補生高野五十六氏は」云《うん》々《ぬん》
とあるのがそれで、これはしかし話が別であろう。
私が見いだしたのは、同じ「文藝春秋」昭和九年十月号の、「山本五十六」と題する、似顔絵入りの「一頁《ページ》人物評論」で、筆者は匿《とく》名《めい》で、こんなことが書いてある。
「ロンドンの軍縮予備会商に海軍首席帝国代表として山本五十六少将が派遣されると決つたとき、
『ウム、あれならよからう』
彼を識《し》るものは、みなさういつて期待をかけてゐる口吻《こうふん》だつた。松平大使の舵《かぢ》とりにはもつてこいの嵌《はま》り役《やく》だ、いや舵をとるどころか、ことと次第によつては、大使なんか構はず自分でやつてのけかねない肚《はら》と実行力とをもつ頼もしい男である。(中略)
彼は(それから四年前、昭和五年の)ロンドン会議には左《さ》近《こん》司《じ》政三中将の下で次席専門委員として働いた体験の持主だ。海軍部内にあれほどの衝動を与へ、国内的にも非常な物議を捲《ま》き起す因《いん》となつたロンドン条約で、苦杯を舐《な》めた経験者でもある。だから当時のいきさつはもとより、松平大使の人となりに至るまでよく知りぬいてゐる彼である。殊《こと》に最近は第一航空戦隊司令官から軍縮対策研究委員となり、軍縮問題の調査研究を専門にやつてきた軍縮通のナムバア・ワンである。
帝国政府の軍縮対策は鐚《びた》一文まからぬワシントン条約廃棄通告といふ背水の陣、総トン数主義に基く軍備権の平等を獲得することに態度をはつきりと決めてかかつてゐる。この根本精神を関係列国に徹底せしめようといふのが山本少将の主たる役目だと見てよからう。米国大使館附《づき》武官時代につんだ修業で口のはうも確かで抜かりがない。(中略)
(日露戦争で)実戦に臨み死線を越えたほどあつてくそ度胸が据《すわ》つてゐる。ぶつきら棒のお世辞なしだから人づきはとても悪い。が、咬《か》みしめると、するめのやうに味がでる男だ」
この人物評論で見ると、山本は何か「鐚一文まからぬ」非常に積極的な態度で勇ましくロンドンへ乗りこんで行ったように感ぜられるが、事実はそうではなかった。
彼はこの時のロンドン行きを、何度も辞退している。
行くと決ってからは、「これでも国家の興廃を双肩にになふ意気と覚悟」で、会議に「全精神を傾倒」する気持になったらしいが、それは当時「文藝春秋」の一般読者が、「一頁人物評論」を見て想像した「意気と覚悟」とは少しちがっていたかも知れない。
「これでも国家の興廃を双肩にになふ」云々は、さきの「人眼を忍んで『かもめ』に乗りこんでいた一人の女性」にあてた手紙の中に見える文言であるが、その手紙はあとで披《ひ》露《ろう》するとして、そのころの部内には、明治維新以来僅々《きんきん》六、七十年で世界第三位の海軍にのし上ったという慢心が、次第に瀰《び》漫《まん》して来ていた。陸軍ほどではないにしても、
「米英何するものぞ」
というような空気が、一部にあった。
山本はそうはなれなかった。
彼は、大正八年、少佐の時以後、アメリカ駐在が二度、ヨーロッパに出張したことが二度の経験を持っている。
アメリカの実力とアメリカ人の国民性については、特によく承知していたし、彼はアメリカが好きでもあった。
ワシントン駐在の海軍武官当時、郷里の恩師渡部与《あたえ》にあてたポトマック河畔の桜の絵はがきに、彼は、
「当地昨今吉野桜の満開、故国の美を凌《しの》ぐに足るもの有之候《これありさうらう》。大和魂《やまとだましひ》また我国の一手独専にあらざるを諷《ふう》するに似たり。中央魏《ぎ》然《ぜん》たるはワシントン記念塔」
と書いている。
また、同じころ、彼の後任補佐官であった三和《みわ》義勇《よしたけ》少佐が、
「英語の勉強をするのに、誰《だれ》かアメリカの偉人伝でも読みたいと思いますが、武官、誰の伝記がいいと思いますか?」
と聞いたのに、山本は、
「そりゃ、リンカーンだ。僕《ぼく》はリンカーンが好きだね。米国人といわず、人間として偉い男だと思うよ。読むなら、リンカーン伝を読みたまえ。カール・サンドバーグという人の書いたいい本がある」
と、答えている。
行くとすればこれが三度目のヨーロッパで、軍縮の使としては二度目のロンドン行きであったが、山本は、部内一般のある種の空気と、自分の考えとの間に溝《みぞ》があり、「背水の陣」の「根本精神」を「関係列国に徹底せしめ」るのに自分は適任でないと、何度も躊躇《ちゅうちょ》したらしい。
しかし結局ほかに人が無かった。
松平駐英大使と親しいというのも、一つの条件であった。相手国側が、昭和五年のロンドン会議以来、山本を高く買っているのも別の一つの条件であった。
そして山本は、首席代表の任命を受諾した。
任命されてから二週間後、九月二十日午後三時横浜出帆の郵船北米航路日枝《ひえ》丸《まる》で彼は日本を離れたが、その前日、海軍大臣官邸で山本の送別会が催されている。時の海軍大臣は大角岑《おおすみみね》生《お》大将で、井上成美《いのうえしげよし》に言わせるとこれがまた典型的な二等大将だったということになるのだが、この会には野村吉三郎も出ているし、海軍の長老連がたくさん列席した。
その席で、少将の山本五十六はこういう発言をしている。
「自分は、第一次のロンドン軍縮会議の時、財部《たからべ》大将、左近司中将のお供をして参りましたが、この時、請訓々々でロンドン・東京間に要した電報代が、合計百万円ちかくかかっております。今度自分は、訓令はいただいて行きますが、その範囲内では、向うから請訓をしないつもりですから、さよう御承知下さい。帰って来て、詳細御報告致しますから、私のやったことが良かったか悪かったかは、その上でご判断願いたいと思います」
少将といえば、艦隊や航空隊へ行けば神様かも知れないが、中央の上層部では未《ま》だ若輩である。山本の挨拶《あいさつ》は、かなり思い切った挨拶であった。
ただし、この話の中の「百万円」という数字は、必ずしも正確でないかも知れない。当時、ロンドン・東京間の電報料金は、一語が一円三十八銭で、至急報にするとその倍であるが、それにしても百万円は少し多すぎるような気もする。
同行は、海軍省官房の書記官で山本の友人であった榎本重治《えのもとしげはる》、副官役の光延《みつのぶ》東洋少佐、海軍省嘱託の溝《みぞ》田《た》主一の三人、ほかに、彼らの荷物、タイプライター、暗号機などを持った海軍一等兵曹《へいそう》の横川晃が、別途、九月十六日横浜出帆の郵船筥崎丸《はこざきまる》で、スエズ経由ロンドンに向っていた。この四人のうち光延東洋は、戦争中イタリヤ駐在武官でローマにいたが、バドリオ政権が出来てムッソリーニが殺される数カ月前、オーストリー国境に近いメラーノという町へ避難していた海軍武官室から、ヴェニスに避難中の日本大使館に連絡に出て来、さらに中部イタリヤのドイツ軍基地へ連絡に行く途中、パルチザンに狙《そ》撃《げき》されて死んだ。あとの三人は今も健在である。
溝田は、通称をジョージ・溝田といい、九つの時両親に連れられてアメリカへ渡り、加州のスタンフォード大学の法科を出るまで二十年近くアメリカで暮した、福岡生れの人で、
「日本の海軍は、溝田のおかげで、戦前も戦後もずいぶん得をした」と言われた、有能な通訳官であった。
後日の話になるが、昭和十六年十二月の開戦と同時に、溝田主一は海軍を首同然の扱いとなって、隠栖《いんせい》させられた。
アメリカと戦争すれば必ず日本が負けると言っていた溝田を部内に留めておくことは、当時の事情が許さなかったのであろう。アメリカが開戦と同時に、少しでも日本の国情を知っているものをかり集め、日本語教育に力を入れ始めたのと事がちょうど反対である。
ただ海軍省の上層部には、いつか溝田の必要な時が来ることを予見していた者があったらしく、彼の許《もと》には戦争中の四年間、黙って毎月、きちんきちんと俸給が届けられていた。そして、遺憾ながらその予見通り、溝田は海軍の終戦処理に大きな働きをすることになった。
溝田主一は、現在大洋漁業の嘱託をしていて、やはり大洋漁業に「ずいぶん得を」させている存在らしい。
山本は、榎本重治に、
「君は将棋の相手に要るけど、今度の会議は、ほんとは溝田一人連れて行きゃいいんだ」
と言っていた。
横川晃は水雷学校の出身で英語も暗号も得意ではなかったが、たまたま軍務局一課別室という軍縮問題担当の部屋で下働きをしていて、山本たちの供に選ばれた。
海軍には国際会議の際各鎮守《ちんじゅ》府《ふ》から交替で優秀な下士官を一人、「外務省事務嘱託」の肩書を与えて海外に派遣する慣習があったが、それでも横川のロンドン行きは世間の眼《め》に珍しくうつったらしく、当時の新聞は、
「軍縮代表の随員に選ばれた一等兵曹」
「横川兵曹緊張の檜舞台《ひのきぶたい》へ
身につかぬ背広姿も軽ろやか」
などと写真入りで大きく書き立てている。
「身につくつかぬ」よりも、各種のマークをはずした下士官の白服を着ていると船内でしばしばボーイとまちがえられるので、横川はずっと背広で通すことにし、筥崎丸の航海中に髪も伸ばした。
この横川兵曹を別として、山本ら一行四人が出立の日には、東京駅頭にも横浜の波止場《はとば》にも、山本を牽制《けんせい》するつもりか、それとも何か勘ちがいをしているのか、妙な見送り人がたくさん出ていた。
ある者は、船室まで入りこんで来て山本を起立させ、奉書紙に書いたものを拡《ひろ》げて、激越な調子で何か読み上げたりした。山本は苦り切った顔をしていたそうである。
日枝丸のシアトル入港の前日、彼は船中から、同期の堀悌吉《ほりていきち》に鎮海要港部あてで、
「明日米国に上陸する 出発の際は電報多謝(中略)東京駅や横浜で何とか同盟とか聯合《れんごう》会とかのとても落つかぬ連中が決議文とか宣言書とかを読んで行を壮《○○○》にしたのは不愉快だつた あんなのが憂国の志士とは誠にあぶない心細い次第だ(下略)」
とうっぷんをぶちまけたような手紙を書いている。
シアトルの町で、山本は光延にトランプのカードとポーカー・チップスを買って来させ、
「グレート・ノーザン」鉄道の大陸横断列車に乗りこむと、早速御開帳に及ぶことになった。溝田は出来るが、光延少佐と榎本重治とはやり方を知らない。一回だけ練習させて、
「あとは現金だぞ」
と、やり始めると、シカゴへ着くまでポーカーとブリッジと賭《か》け将棋のやりづめで、黒人の列車ボーイがあきれた顔をしていたそうである。
ブリッジでも、山本はプレーが早く、読みが早かった。相手がためらってちらりと考えると、もう手の内を読まれているという風があったという。
シカゴで三泊、着いたのが土曜日で、山本は北郊のエヴァンストンへ、アイオワ大学とノースウェスタン大学のフットボール・ゲームを見に行ったりしている。彼はこういうことも好きであった。
シカゴからニューヨークへ、「ニューヨーク・セントラル」の車中でも、途中バッファロを通過してもナイヤガラ見物は割愛で、四人はカードばかりやっていた。ニューヨークでは、アスター・ホテルに泊った。この時、ホテル宿泊の世話から、英船「ベレンガリヤ」号乗船の手続まで、一行の面倒を見たのはニューヨーク在勤の海軍監督官桜井忠武大佐で、この人は「肉弾」を書いた陸軍の桜井忠温《さくらいただよし》の弟である。桜井忠武は機関学校の出身で、前の第一次ロンドン軍縮会議の時山本とともに全権委員随員をつとめ、山本の推輓《すいばん》でこの時ニューヨークに在ってアメリカ航空界の実情を調べる仕事をしていた。また、のちに航空母艦「飛龍《ひりゅう》」でミッドウェー海戦に戦死する山口《やまぐち》多《た》聞《もん》が、在米武官としてワシントンにいて、打合せのためニューヨークへ出て来、十月十日山本の出発をハドソン河畔に見送った。
「ベレンガリヤ」号が、サザンプトンの港へ入る前の日、山本が船で催した「さよなら晩《ばん》餐《さん》会」のメニューが残っている。一九三四年十月十五日の日《ひ》附《づけ》入りで、
「Dinner d'Adieu」
として、
「Clam Suimono」「Prawm Tempura」「Suki Yaki」「Shitashimono」「Fresh Fruit」の品書きとともに、
「Rear Admiral Yamamoto and Guests」
と印刷してある。
たまたま「ベレンガリヤ」に乗船していた前駐日チェッコスロバキヤ公使ら数人を招いて、山本が主人役になって一等の別室で開いたパーティであるが、これは大西洋航路の客船で日本食のディナーが出た、よほど珍しい例であろう。デザートにはシカゴの日系人からもらった粉末茶を使って、緑茶のアイスクリームが供された。
どうして蛤《はまぐり》の「Suimono」や海老《えび》の「Tempura」が出来るのか、フランス人の料理長を呼んで聞いてみると、彼はニューヨークの日本人クラブで一週間勉強して来たと言い、もっと何でも出せると、鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》から奈良《なら》漬《づけ》まで手品のように取出してみせて、一同を喜ばせた。
翌十月十六日、今から考えるとずいぶん長い旅であるが、東京を出てから二十七日目の午後四時、船はサザンプトンに入港し、一行四人はボート・トレインで夜になってロンドンへ着き、グロヴナー・ハウスに投宿した。
ロンドンには外国の使臣が来た時泊っていいとされているホテルが四つあり、グロヴナー・ハウスはその一つで、日本の代表団が毎度愛用した宿である。現在でも格式の高い古風な建物は昔のままで、狭い駐車場があるが、ロールス・ロイス以外でなら乗りつけない方が無難だというような、ご大層なところである。日本の代表団の部屋はいつも五階――日本流乃《ない》至《し》アメリカ流にいうと六階であった。
翌朝、溝田主一がベルを押すと、顔《かお》馴染《なじ》みのボーイが入って来て、
「Good morning, Mr.Mizota.I'm very glad to see you,sir. 」
と、よく覚えていた。そして、
「Same breakfast, sir? 」
と聞くので溝田が不審に思っていると、ちゃんと、前来た時と同じハーフ・グレープフルーツ、黒パン、つめたいミルクを入れたアメリカ風の薄いコーヒーという溝田の好きな朝飯が運ばれて来た。
こういうのは英国のお国柄《くにがら》でもあるが、山本五十六一行を迎える英国朝野の空気は、決してつめたいものではなかったようである。グロヴナー・ハウスのポーチの上には、慣例によって日の丸の旗が上っていた。
その日、山本五十六は、松平大使と初協議を行なってから、連れ立って、英国の外務大臣、海軍大臣のところへ挨拶に行った。翌十月十八日には、アーンリ・チャトフィールド軍令部長を訪問した。
これは、いずれも、単なる儀礼的訪問であったと思われる。山本の正式の仕事は、それから五日後、十月二十三日、ダウニング街十番の英国首相官邸で開かれたイギリス側との初会合、同じく二十四日、アメリカ代表部の宿舎ホテル・クラリッジスで開かれた米国側との初会合を以《もっ》て始まった。
会議は原則として、日英、日米、英米という風に、二国方式で進められる手《て》筈《はず》になっていた。
ただし、昭和九年のこの軍縮予備交渉が、山本一行のロンドン到着をまって初めて会議の幕を切って落したように書いている本があるが、それは誤りである。
その前に、第一次交渉と呼ばれるものが開かれている。
サイモン英外相の名で、日本、米国、フランス、イタリヤの四カ国にこの会議の招請が発せられたのは、その年の五月で、日本側はすぐ、それに応ずる旨《むね》の回答を発し、六月から七月にかけて第一次の交渉を行わせている。
代表は大使の松平恒雄《まつだいらつねお》で、専門委員が大使館付武官の岡新《おかあらた》であった。そのほか、本国から岩下という大佐が急遽《きゅうきょ》ロンドンに派遣された。
ところが、イギリスとアメリカの間に大きな意見の食いちがいがあることがあきらかになって、七月中旬に交渉は、日英米三国諒解《りょうかい》の下に一旦《いったん》打ち切られることになった。
日本の新しい提案を携えた山本五十六がロンドンに着いた時は、したがって会議は休会中で、十月二十三日から開かれたものは、軍縮予備会議のいわゆる第二次交渉である。
この会議でそれでは日本は何を主張し、山本はどんな努力をしたのかということになるが、これが、相当複雑な、わずらわしい問題であって、簡単に説明することが出来ない。
その後十一年で日本海軍そのものが滅亡し、対米英六割も七割も、私たちにとってもはや関係の無い過去の話になってしまったのであるから、煩《はん》瑣《さ》な軍縮会議の経過などは、こんにちどうでもいいことかも知れない。
だが、山本五十六のものの考え方、このあとの彼の行動、心の陰翳《いんえい》を理解するためには、厄介《やっかい》なロンドン予備交渉と、その背景になった問題とを素通りして行くわけには行かない。それは、何らかの意味でのちの真珠湾にもミッドウェーにも微妙につながっている。記述が煩雑になるのを、読者はしばらく我慢していただきたい。
海軍軍縮の問題が、すべて大正十、十一年のワシントン会議にさかのぼることは、ここで言うまでもあるまい。
このワシントン会議で、主力艦に関する英米日、五・五・三の海軍比率が決定したことは、広く知られている通りであり、それにハーバート・ヤードリが「ブラック・チェンバ」という本で素《す》ッ破《ぱ》抜いた通り、当時の日本の外交暗号電報が全部アメリカ側に読まれていたという付録のついていたことも、こんにちでは周知の事実である。
しかし、五・五・三対米英六割というその比率で日本の海軍は一つにまとまって満足し我慢出来たかというと、決してそうではなかった。それは海軍部内に意見の対立を生み、やがて条約派と艦隊派と呼ばれる二つの派閥を発生させる、そもそものもとになった。
この問題に関しては国立国会図書館の角田順の書いた「日本海軍三代の歴史」が委細を尽しているが、「日本海軍三代の歴史」その他の資料、現存する関係者の話などを綜合《そうごう》してその間の事情の概略を述べれば、アメリカ側が日本の外交電報を解読してつとに承知していた通り、ワシントン会議に帝国全権として臨んだ海相の加藤友三郎は初めから対米英六割の軍縮案を呑《の》む肚《はら》であった。
当時アメリカを仮想敵国とした八・八艦隊(正式には八・八・八艦隊)建設の計画が着々成果をおさめつつあって、その中心人物は加藤友三郎自身であったが、この計画のため大正十年度に海軍費は日本の国家予算の三分の一を占めるようになり、やがて総軍事費が総予算の六割にまで膨張する計算となって、経済上国民の負担能力の限界という壁に突きあたっていた。
加藤は自ら推し進めて来た八・八艦隊の建設を放棄せざるを得なくなり、その決心を固めてワシントンに到着すると、すぐ駐米大使の幣原喜重郎《しではらきじゅうろう》に向って、
「八・八艦隊ナンか出来ることではないから何かチャンスがあったら止《や》めたいと思っていたのだ。この点では原《はら》(敬《たかし》)首相ともよく話し合って来た」
と言っている。
八・八艦隊というのは対米七割を目標とした海軍であり、これを以て米国を制することは不可能としても、アメリカの艦隊が西太平洋に進攻して来た場合日本がこれと互角の戦いをするに要する最少限の海軍力であると――少なくとも一般にはそう唱道されていた。
したがって八・八艦隊を葬《ほうむ》って対米英六割の軍縮案を呑む決心をするとすれば、その前提である「仮想敵国はアメリカ」という想定をも葬ってしまわねばならない。
加藤友三郎は、会議に出向く時にはこの点についてもすでにはっきりした考えを持っていたようで、重要案件が大体片づいたあとワシントンで口述した海軍省あての伝言の中では、
「国防ハ軍人ノ専有物ニ非《アラ》ズ戦争モ亦《マタ》軍人ノミニテ為《ナ》シ得ベキモノニ在ラズ国家総動員シテ之《コレ》ニ当ルニ非ザレバ目的ヲ達シ難《ガタ》シ……平タク言ヘバ金ガ無ケレバ戦争ガ出来ヌト云《イ》フコトナリ……仮リニ軍備ハ米国ニ拮抗《キッカウ》スルノ力アリト仮定スルモ日露戦役ノ時ノ如キ少数ノ金デハ戦争ハ出来ズ 然《シカ》ラバ其ノ金ハ何処《イヅコ》ヨリ之ヲ得ベシヤト云フニ 米国以外ニ日本ノ外債ニ応ジ得ル国ハ見当ラズ 而《シカ》シテ其ノ米国ガ敵デアルトスレバ此《コ》ノ途《ミチ》ハ塞《フサ》ガル……結論トシテ日米戦争ハ不可能トイフコトニナル……┿《ココ》ニ於《オイ》テ日本ハ米国トノ戦争ヲ避ケルヲ必要トス……斯《カ》ク考フレバ国防ハ国力ニ相応スル武力ヲ整フルト同時ニ国力ヲ涵養《カンヤウ》シ一方外交手段ニ依《ヨ》リ戦争ヲ避クルコトガ目下ノ時勢ニ於テ国防ノ本義ナリト信ズ」
と、日米不戦論、不戦海軍の思想を述べており、軍縮条約締結後の帝国海軍の機構のありようとしても、
「文官大臣制度ハ早晩出現スベシ 之ニ応ズル準備ヲ為シ置クベシ 英国流ニ近キモノニスベシ」
と、シビリアン・コントロールの進歩的意見を披《ひ》瀝《れき》している。
これは角田順が指摘しているように、ステーツマンとして脱皮した加藤友三郎の一つの識見を示すものであったと言えよう。加藤のこの「海軍省あて口述」をワシントンで筆記したのが、当時中佐の随員堀悌吉であった。堀や堀の親友の山本五十六、彼らの先輩にあたる谷口尚《たにぐちなお》真《み》、岡《おか》田《だ》啓介《けいすけ》、左近司政三、山梨《やまなし》勝《かつ》之《の》進《しん》、米内光政、後輩にあたる古賀《こが》峯一《みねいち》、井上成美などは皆海軍の人脈の上で加藤友三郎の系統に属する人々である。
堀悌吉は、ワシントン会議は日本を国際的にも経済的にも救ったと言っているし、古賀峯一も、あれを以て日本が英米の六割で抑えられていると思うべきではない、国力からいっても国土の広さからいっても、むしろ英国と米国とが日本の六分の十で我慢していると考えて然るべきだという意見を持っていた。
こういう考え方は、当然、一部の人々の眼《め》に英米の顔色をうかがっている卑屈な、まことに歯がゆい弱腰と映った。
中でもワシントン会議に海軍専門委員として列席し対米七割を主張しつづけた加《か》藤寛治《とうひろはる》提督は、帰国後「満腔《まんこう》の不満をぶちまけ」るようになり、それが海軍の少壮将校はもとより国民の多くに強くアピールすることになった。
強気で勇ましくはあるが現実味を欠いたそういう所論が、どうして一部の人々に非常の人気を博したか、「日本海軍三代の歴史」の中で角田は、
「仮想敵国は米国、その為《ため》の所要兵力は八・八・八艦隊と明け暮れ唱え続け叩《たた》きこまれ続けて来た大勢は到底一朝にこれを転換し得ぬものだったのであろうか」
と書いているが、それ以上に、ひろく国民の、日本人としてのセンチメントにふれるところがあったようにも思われる。
軍艦「土佐《とさ》」は常備排水量三万九千九百噸《トン》、当時世界最強の戦艦の一つになるべき船であったが、ワシントン条約で廃棄処分が決定し、実艦防禦《ぼうぎょ》実験に使われたあと大正十四年の二月、宿《すく》毛《も》湾の南でキングストン弁を開いて水深三百五十尋《ひろ》の海底に自沈させられた。
「土佐」は三菱長崎《みつびしながさき》造船所で進水の時、艦首の薬玉《くすだま》が割れなかったという不吉な逸話を持つ軍艦であった。廃艦の運命を荷ない運用術の練習艦「富士」に曳航《えいこう》されて、軍艦旗をかかげないこの巨艦が長崎を出て行く時には、造船所の職員工員たちが皆泣いて見送ったものだそうである。
「土佐」を使っての防禦実験で得られた資料は、のちに「大和」「武蔵《むさし》」の建造にあますところなく利用されたと言われているけれども、いわば日本人の血と汗とで生み出したこのような巨大な戦艦を英米の圧迫と上層部の弱腰とによってむざむざ海底に廃棄してしまうのかと考えると、一部の人たちの国民感情として、それは我慢の出来ないことであったであろう。
加藤寛治は間もなく軍令部次長の地位に就き、その下に末次信正《すえつぐのぶまさ》が坐《すわ》り、一方加藤友三郎は大正十二年の夏に亡《な》くなって、部内から「沢庵《たくあん》の重しがとれ」てしまうと、対米強硬論を唱える加藤(寛)末次一派のいわゆる艦隊派と加藤友三郎の流れを汲《く》むいわゆる条約派との対立は一層はっきりして来、前者の勢力が次第に後者を駆逐していくことになる。
山本五十六の言う「負けるに決った」対米戦争に日本が突入する遠因はすでにこのころにあったわけであるが、ことに、ワシントン会議から八年後、昭和五年のロンドン軍縮会議で、補助艦艇にいたるまで対米英六割の制限を課せられると、国論は沸騰《ふっとう》し、世界の一等国としての屈辱であり、国防上極めて不安であり、これではならぬという強硬論が海軍の部内においても部外においても、さらに勢いを得て来たのは、当然の成り行きであった。
ただし、海軍部内の強硬派を当時から積極的に対米開戦を夢みていた人々と見るなら、それはまちがいである。どんな強硬派でも、昭和十年ごろまでの海軍で、アメリカに戦争をしかけてほんとうに勝てると考えるほど勇ましく無知な人物は、そういなかった。昭和八年の十一月に聯合艦隊司令長官となった末次信正提督など、しきりに米英打倒論を唱えて若手の人気に投じていたが、たとえばもし陛下から御下問があったとしたら、いくら末次といえども「アメリカと戦争になった場合には必ずアメリカを屈伏させて御覧に入れます」とは奉答出来なかったろうと思われる。
昭和五年のロンドン会議時代、軍務局長のポストにいた堀悌吉は、世間の声につられて、部内の者が「無敵艦隊」という言葉を口にするのをきらい、
「スペインの誇った無敵艦隊は、英国海軍にしてやられたじゃないか。そんな思い上った考えを、世間はともかくとして、海軍士官自身が持つようなことでは将来が危《あや》ぶまれる」
とよく言っていたそうで、事実、海軍の責任ある立場の軍人で、当時「無敵艦隊」とか「無敵海軍」とかいう言葉をみだりに用いる者はいなかった。
「無敵艦隊」とは景気づけの形容語であって、のちに海軍の要路者が、自ら、「もしかしたらほんとうに無敵なのではあるまいか」と思い始め、歌謡曲の作者と一緒に「無敵の艨艟《もうどう》」などと唱え出した時、帝国海軍は滅びの支度を始めなくてはならなかったのである。
日本の海軍が実質上守勢の海軍であることは誰しも内心認めていた事実であって、軍令部でも海軍省でも艦隊でも、当時責任ある人々の会議の席では、「六割海軍」とか「七割海軍」とかいって、もっぱら数学に立脚した議論が闘わされていた。
その認識は、条約派にも艦隊派にもひとしく存在したと考えられる。ただ強硬論者には感情面を抜きにしても、強硬論者としての主張と論理とがあった。それは聴かなくてはならない。
戦時における洋上の力関係は、保有兵力Nの自乗に正比例する。静的状態での10対6は、運動を加味すると100対36になる。アメリカに進攻して勝てるとは思わないが、優勢のアメリカ艦隊が日本へ攻めて来た場合、洋上にこれを邀撃《ようげき》して敗れないためには、少なくとも100対49の――、つまり対米七割の海軍兵力が必要であり、そうでなければ国防の責任を負いかねるというのが強硬派の言い分であった。
したがって、彼らの間には、軍縮会議はもうこりごり、条約でしばられるのは真ッ平という空気が強く存在していた。
終戦時大本営海軍部参謀の職にあった、艦隊派の一方の旗頭《はたがしら》と目される石川信吾少将の話を聞いてみると、ワシントン会議での六割制限は主力艦に関してだけのことであった、向うが大きな三角形でもこちらが小型の四角形なら、何とか打つ手が考えられる、しかし、昭和五年のロンドン条約で補助艦艇にまで六割の枠《わく》をはめられてしまうと、日本の海軍は同じ三角形で、アメリカに対し相似的に小さくならざるを得ない、対米七割というのは、アメリカの軍事専門誌も、日本近海における日米決戦の勝敗の岐《わか》れ目《め》として挙げている数字であり、どうしても守らねばならぬ線であったと言っている。
この人たちは、戦前、戦中、戦後を通じ、山本に対し終始極めて批判的である。山本五十六は、誰にも親しまれ、敬愛された人物のように、一般に考えられているかも知れないが、事実は必ずしもそうでない。彼には部内にかなり敵が多かったし、今でも敵は決して少なくない。旧海軍の軍人がみんな、「故山本五十六元帥《げんすい》」を偶像視し鑽仰《さんぎょう》していると思うのは、一種の空想に過ぎまい。
それでは、山本五十六自身は、条約の問題をどんな風に考えていたか?
大正十、十一年のワシントン会議以後、無制限建艦競争に突入するまでの十五年間に、日本は都合六回の国際軍縮会議に参加している。
ワシントンから始まって昭和二年のジュネーブ三国海軍軍縮会議、昭和五年のロンドン軍縮会議、昭和七年から八年にかけて国際聯《れん》盟《めい》主催で開かれたジュネーブ軍縮会議、昭和九年の予備交渉、昭和十年のロンドン軍縮本会議――、このうち山本が直接タッチしたのは、昭和五年のロンドン会議と、九年の予備交渉の二つであるが、昭和五年のロンドン行き以来、彼は軍縮問題についてかなり突っこんだ勉強をした。
それに山本は、アメリカ駐在二度の経験から、
「デトロイトの自動車工業と、テキサスの油田を見ただけでも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日本の国力で到底やり抜けるものではない」
と、よく言っていた。
六割と七割とわずか十パーセントの差で部内に深刻な対立が生じているが、強硬派の主張する対米七割比率論を以てすればアメリカに対して日本の国防の安泰を期し得るかと言えば、山本や堀や井上成美の考えではそんなことはあり得ないのであった。
日本が米国と開戦してもし日米両艦隊が全力を挙げて会戦することになれば、十割艦隊からは七割艦隊に攻撃が集中するのに反し、七割艦隊からの攻撃は十割艦隊に向って分散され、殊に相手の開戦後の造船能力や工業力を加味すると、たとい七割乃《ない》至《し》それを上廻《うわまわ》る海軍力を保有していてもそれは次第に六割、五割、四割と顛落《てんらく》して行って、時間の経過とともにやがてゼロに達して終る、したがって七割の海軍を持っていたところで結局日米不戦の方針は堅持せざるを得ないというのが、 の方程式に対する彼らの見方であった。
日本に不利な条約を結ぶことは好ましくない。しかし、無条約状態に入ることはそれ以上に好ましくない。国際間の交渉は妥協であり、出来るだけ日本に有利な線で妥協点を見《み》出《いだ》して軍縮条約だけは存続させなくてはならぬというのが、山本の根本的な考えであったと思われる。
ロンドンへ発《た》つ直前、反町栄一が長岡から上京して、青山の家へ祝いを述べに行った時、夕食の席で山本は、
「僕は、河《かわ》井《い》継《つぐ》之《の》助《すけ》先生が、小千谷《おじや》談判で天下の和平を談笑の間に決しようとされた、あの精神で行って来るつもりだ」
という意味のことを、反町に話している。
河井継之助の名は勝海舟《かつかいしゅう》ほど知られていないから、これは解説を要すると思うが、河井は、謂《い》わば長岡藩の勝海舟であった。
慶応四年の四月、西郷隆盛《さいごうたかもり》と勝海舟と会見の結果、江戸城の無血開城と徳川慶喜《とくがわよしのぶ》の水戸謹慎とが決定し、そのあと官軍は、敗走する佐幕派を追うて会《あい》津《づ》攻めにかかる前に、先ず越《えち》後路《ごじ》へ、長岡藩の攻略に向った。
長岡藩総督の地位にあった河井継之助は、麻裃《あさがみしも》の礼装で、供を一人だけ連れて官軍の本営の置かれていた小千谷の慈《じ》眼《げん》寺《じ》を訪れ、監軍の岩村精一郎に会見を申し入れ、長岡藩の立場を説いて、局外に立って官軍と会津との調停の労をとりたいと思うから、どうか藉《か》すにしばらくの時日を以てしてほしいということを、穏やかに、恭順の意を表しながら話した。しかし、岩村監軍は、それをきき入れようとせず、
「言を左右にして戦機を延ばし、その間に戦備を調えるつもりであろう。降《くだ》るか戦うか、返答は一つだ」
と言って、席を蹴《け》って立ってしまった。
そのため、長岡藩はとうとう決戦を強《し》いられることになり、やがて河井は重傷を負うて起《た》つことが出来なくなる、代って山本帯刀《やまもとたてわき》が長岡藩総司令官になったが、その帯刀も官軍に捕えられ、降伏を肯《がえ》んぜず斬《き》られる、ということになった。
山本五十六の実の祖父、高野秀右衛門貞通も、やはりこの時七十七歳の高齢で敵陣に斬りこんで死んでいる。
山本の父貞吉の日記には、
「父上様御死《し》骸《がい》を求めて得ず御《お》遺《のこ》しおかれし御歯を以て長福寺に葬《はうむ》り候事《さうらふこと》
金二両と紋付綿入を和尚《をしやう》につかはす」
というような記述が見える。
山本帯刀は、系譜上五十六の養祖父である。
山本家は代々長岡藩の家老職であったが、帯刀が死んで、維新の際御家廃絶となり、明治十六年になって許された時には跡が絶えていた。他家に嫁《か》していた帯刀の長女ワ《たま》治《じ》が便宜上当主となって家名を再興したが、それから三十一年後の大正四年五月、少佐の時に、高野貞吉の末子であった五十六は望まれてこの山本家の相続人となったのである。
帯刀は、斬られた時が二十三歳、明治十七年生れの五十六はむろん、養祖父帯刀を見たことは無い。しかし前にも書いた通り、父が傷を負い、養祖父が斬られ、祖父が戦死した戊《ぼ》辰《しん》の役《えき》は、山本五十六にとって、単なる歴史物語ではなかったのであった。
彼は河井継之助を尊敬していた。
「河井先生の小千谷行きの時、西軍に一人の西郷がいたら、長岡藩を賊軍の汚名から免《まぬか》れさせ、長岡を兵火から救うことが出来たろうに」
と、しばしば人に語っていたそうである。
彼が、「河井継之助先生の精神で行って来る」と言うのには、これだけの意味と含みとがあったのだが、結果から見ると、山本は河井継之助が小千谷談判で敗れたように、結局ロンドンで敗れたのであった。
相手国に敗れたというより、むしろ「一人の西郷」のいない部内の強硬派と、優柔不断の人々に敗れたのであるが、山本が河井の名を持ち出して河井と同じ結果に終ったことは、何か、彼ののちの運命をも象徴する不吉なめぐり合せのように感じられる。
ワシントン条約は、一九三六年(昭和十一年)に有効期限が満了することになっていた。
その二年前に加盟の一国が廃棄通告を出すと、この条約は昭和十一年末を以て自動的に廃棄になる。
ロンドン条約の方も、五カ年の期限つきで、やはり一九三五年(昭和十年)に切れる。ただ、その一年前に参加各国は会議を開いて、あとの軍縮問題について協議する約束であった。
英国が、昭和九年の、ロンドン予備交渉の開催を提議したのはそのためで、日、英、米、仏、伊の五カ国で、条約の切れたあとの新しい海軍軍縮協定への地固めをしようという趣旨からである。
もっとも五カ国といっても、フランスとイタリヤは、海軍国として日英米三国と格段のひらきがあって、特に重視すべき交渉相手ではなかった。
当時日本の国内事情は、ワシントン、ロンドン両条約をそのままの形で今後とも認めることは到底出来ないという空気が支配的で、日本政府の肚《はら》は、ワシントン条約の廃棄にほぼ決っていた。しかし、ワシントン条約廃棄を以て、ただちに無条約状態に入ってよろしいと考えていたわけではないらしい。
現在私たちが見ることの出来る「帝国代表ニ与フル訓令」とか、「海軍々縮予備交渉ニ対スル帝国政府方針」とかいう当時の文書から二、三抜書きをしてみると、
「大正十一年華《クワ》府《フ》ニ於《オイ》テ調印セラレタル海軍々備制限ニ関スル条約ハ帝国々防上之《コレ》ガ存続ヲ不利トシ且《カツ》海軍々備制限ニ関スル帝国ノ根本方針ニ鑑《カンガ》ミ本年末日迄ニ之ガ廃止通告ヲナスコトトス」
と言っている一方、
「我方ニ於テハ之ガ廃止ヲ為《ナ》スモ海軍々備縮少ニ関スル協定ヲ為サザルコトヲ欲スルニハ非《アラ》ズシテ」
とか、
「帝国ハ出来得ル限リ友好的且効果的ニ予備交渉ヲ行ハムト欲シ廃止通告ハ之ヲ差控へ居ル実情ニシテ此ノ際関係国間ノ合意ニ依《ヨ》リ今年中ニ之ガ廃止通告ノ手続ヲ為シ次《ツイ》デ各国協力シテ新条約ノ成立ニ努ムルノ形式ヲ採ルニ於テハ輿《ヨ》論《ロン》ノ緩和ニ資スルノ効果尠《スクナ》カラザルベキコトヲ適宜関係国代表ニ説明セラレ局面ヲ右ニ導ク様努力相成《アヒナリ》度《タ》シ」
とか言っている。
要するに、五・五・三のワシントン条約はもうやめにしてもらいたいが、日本が先頭に立ってそれを言い出して、一人国際間の悪い子になるのも困るということである。
廃棄通告は、なるべく各国共同の形で出して、あとに感情的なしこりを残さないように、そしてもう少し日本に有利な新しい軍縮案をいっしょに考えて欲しいということである。表現はいかめしいが、内容はそう過激なものではなかった。
訓令には、
「右交渉ニ依リ関係国民ノ輿論ヲ無用ニ刺《シ》戟《ゲキ》激化セシムルヲ避クルト同時ニ」
とか、
「帝国々防ノ安固ヲ期スルニ足ル新協定ヲ遂グルノ素地ヲ作リ将来成ルベク国民負担ノ緩和ヲ図リ」
とか、国の内外に眼《め》を配って、いささかおっかなびっくりのところも感じられなくはない。
当時の首相は岡田啓介で、外務大臣が広《ひろ》田《た》弘《こう》毅《き》、海軍大臣は前述の通り大角岑生、軍令部総長は伏見宮博恭《ふしみのみやひろやす》王であった。
伏見宮は、軍令部総長として如何《いか》にも有能とは言いかねる存在であったらしい。大体宮様というのはよほどの人材でないかぎり、よく言えば純真、悪く言えば下々のことが何も分らない、海軍部内でも多くは困り者で、伏見総長宮もお育ちの本質から言って、取巻きや煽動者《せんどうしゃ》の言うことをすぐ信じおだてに乗る傾向が多分にあり、握った権力をおもちゃにして面白《おもしろ》がっているようなところがあったようである。
「ああいう方を軍令部総長に据《す》えた人事が大体まちがっている。伏見宮様はぺこぺこして近よる人がお好きで、御機《ごき》嫌《げん》を取結ばない人間は嫌《きら》われた」
と言っている人もある。
そのために、山本は留守中親友の寝首をかかれるようなことになるのだが、それは少しあとの話で、さて、日本がワシントン条約を廃棄して、新しく取りつけようとした軍縮協定とはどういうものであったかというと、それは不脅威不侵略の原則の確立、その不脅威不侵略の方式は、各国の保有兵力量の共通最大限を規定したい――、つまり、日英米、或《あるい》は仏《ふつ》伊《い》とも、海軍兵力をどの程度まで持っていいかという共通の限界を定めて、その線は各国平等にしてほしい、そのかわり、それを出来るだけ低いところに引いて、攻撃的兵器は廃棄し、防禦《ぼうぎょ》的兵器の充実にお互い力を入れようということであった。
そのために、日本政府は、山本に航空母艦の全廃を主張させている。また、会議のかけひきとしては、代表が主力艦の全廃まで持ち出すことを認めている。
これは相当思い切った提案である。
英国と米国とがこの案をそのまま呑《の》むとは、山本にはとても信じられなかったであろう。
また、海空軍はいずれ、空海軍になる時が来ると思っていた彼にとって、主力艦の全廃はかけひきで航空母艦の全廃は本気だという東京の考え方は、ちと変なものに感じられたであろう。しかし代表になった以上は、彼は日本国の使いであって、政府訓令の線を大きく逸脱した取引をすることは許されなかった。
ロンドンにおける山本五十六の立場は、開戦直前のワシントンにおける野村吉三郎の立場に、少し似ている。
山本は、訓令の線に副《そ》うて何とか英米との間に妥協点を見出し新条約締結の基礎作りをしたいと、その努力をしたのであった。
会合は、十月下旬以降何回となく重ねられた。
英国側は、マクドナルド首相以下、サイモン外相、モンセル海相、チャトフィールド軍令部長、リットル軍令部次長、クレーギー外務省参事官らが、衝にあたっていた。クレーギーは、この時から三年後に大使になって日本へ来るサー・ロバート・クレーギーである。
アメリカ側の代表は、ノーマン・デヴィス大使とスタンドレー軍令部長であった。
相手側は、いずれも大臣または大使と軍令部長の大将という組合せで臨んで来ている。日本は、大使の松平はいいとして、それに配する海軍首席代表の山本は少将であった。会議中、十一月十五日付を以て中将に進級したが、それでもなお相手に較《くら》べて格が劣る。
しかし軍人としての位は下でも、山本の手腕は、というより彼のシンセリティは、昭和五年、財部《たからべ》、左《さ》近《こん》司《じ》の随員としてロンドンに来た時からすでに相手国側に高く買われていた。
この時(昭和五年)、同じく大蔵省からの随員として会議に加わった賀屋《かや》興宣《おきのり》は、
「議論がどんなに激しくなっても、我意を張るところがなく、調子のいいことは言わない。いつ論じあっても、後味《あとあじ》の悪いことが無かった」
と、山本のことを語っているが、相手国の全権や代表が受けた感じも多分同じであったと思われる。
彼は、日本の新聞記者に、嘘《うそ》、おざなりを言わなかったように、外国人に対しても嘘とおざなりは言わなかった。日本人はいつも、あいまいな微笑をうかべていて心の中と言うこととがまるでちがう、うかつに信用が出来ないという、彼らの固定観念をくつがえすに足る存在であったようである。それがあった故《ゆえ》に、少将の山本は、英米の大物と互角にわたりあうことが出来たのであった。
英国側と、また米国側と、その都度の議論応答の概要は記録が残っているが、あまり細々したことは書いても仕方があるまい。
山本は、プツン、プツンとしたしゃべり方ではあるが、ゆずるべきはゆずり突っこむべきところは遠慮会釈《えしゃく》なく突っこみ、榎本重治《えのもとしげはる》が傍《そば》で聞いていて胸がすくようだったと言っている。英語は自分でもかなりの程度に出来た。カクテル・パーティなどでは何も不自由はなかったそうである。しかし大切な問題は必ず溝田主一を介して、日本語で論じた。
「通訳に話させていると、時間が倍とれてその間相手の顔色を見ながら考えていられるから得だよ」
と山本は言っていた。
相手国側にも、通訳官はいた。ことに、アメリカ代表団にはユージン・ドウマンという、家へ帰ると寝ころんで漢文の本を読んでいるという男がついていた。
溝田主一がこの前の年の冬、程《ほど》ヶ谷《や》のゴルフ場でプレイをしたあと寒さにふるえながら風呂《ふろ》に飛びこむと、アメリカ人らしい男が一人湯につかっていた。
「It was cold, wasn't it?」
と溝田が話しかけると、アメリカ人は、
「サムカッタネエ」
と言った。
ロンドンに来て会議に出てみたら、その男がテーブルの向う側に坐《すわ》っていて、それがドウマンであった。
ユージン・ドウマンは今年(一九六九年)の一月郷里のコネティカット州リッチフィールドで亡《な》くなったが、父親は宣教師で、大阪で生れ暁星《ぎょうせい》を出て、自然に日本語で発想の出来る、溝田とは好敵手の名通訳であった。したがって言語がこの会議の障害になる心配はまったく無かった。
ある日の記録では、山本は、米国側が、
「ワシントン会議当時、五・五・三でよかったものが、どうして日本は、今それでは困ると言い出すのか?」
と質問するのに、航空機の発達や艦船の洋上補給技術の進歩などを詳細に挙げて、時代が変り海洋の距離が縮まったことを説き、現在では、日本近海においてすらこの比率では兵術的均衡が取れなくなったからだということを答えている。
またある日は、
「均等海軍勢力、必ずしも安全の均等とは言えない」
として、五対三は決して日本に対する脅威にはならないはずだとアメリカ側が言うのに対し、山本は、
「米国の五の勢力が、日本の三の勢力に対して脅威でないというなら、日本の五の勢力が、米国の五の勢力に対して脅威になるはずが無いではないか」
と言いかえしている。
これらはしかしみな、虚々実々、目的は出来るだけ有利な新協定への道つくりであって、一々の応酬《おうしゅう》が山本個人の考えと同じものであったかどうかは自《おの》ずから別であろう。
山本がアメリカ在勤武官時代、その後任補佐官をつとめた三和《みわ》義勇《よしたけ》の名は、前にも出したが、三和は山本が最も可愛《かわい》がった部下の一人で、海軍兵学校四十八期、生え抜きの航空屋であった。
この年、ロンドンのグロヴナー・ハウスから三和にあてた山本の手紙が二通残っている。その一通は、
「米軍令部長とのブリッジ(彼は米海軍名代の強手のよし)の成績第一回彼-17吾《われ》+55第二回彼+4吾-10」
と、勝負の成績などをしたためた短いもので、省略するが、もう一通は、山本の考えをよく示した手紙と思えるので全文引用してみると、
「 山本五十六
三和少佐殿
十月五日附《づけ》貴《き》翰《かん》拝受
其後手紙をかくひまがないわけにては無之《これなき》も過分の重任に際しなかなか筆とる気分も出《い》で兼ね失礼致居候《いたしをりさうらふ》
会議は予定の如く微力非《ひ》才《さい》を以而《もって》且《かつ》帝国の国力を以てしてはなかなか彼《かれ》等《ら》を説得する処迄《ところまで》は行かず前途頗《すこぶ》る多難と被察《さっせられ》候
ただ吾人の若輩を以てして英の三相や米の代表並に両国軍令部長等が腹では癪《しゃく》にさはりながら表面はおとなしく愚説を傾聴し居るは如何《いか》にしても帝国の国力が華府当時とは雲泥《うんでい》の差あるによるとひそかに自ら驚く次第にて日東の新興無敵の帝国は此際いやが上にも自重し真に国運の進展に精進すべきのときと痛感致居候
大戦前の独国が更に五年乃《ない》至《し》十年の隠忍をなさば今日欧洲《おうしゅう》に比肩すべき国家なかりしならむと想像せらるる前轍《ぜんてつ》に鑑《かんが》み吾人は今日こそ冷静自重実力の向上蓄積に努力すべく今次会議は遂《つい》に成功せずとするも英米を叩頭《こうとう》せしむるの日必しも遠からざるが如く被感《かんぜられ》候
海軍としては何はともあれ航空の躍進こそ急務中の急務なり折角御自重御努力のほど願上居候
満洲飛行は先《ま》づ先づ及第の由《よし》慶賀に不堪《たへず》候此《この》手紙は軍令部宛《あて》にて間違なしと存じ同部宛発信併《あは》せて御栄転を予祝致候奥様によろしく 出発の際大阪新桟橋《さんばし》よりの祝電は貴兄よりのものなりしか文字不明もし然《しか》らば┿《ここ》に乍延引《えんいんながら》御礼申上候」
日附は、昭和九年十一月十日になっている。
この手紙の中で山本が、「愚説」と言っているのは、どういう意味であろうか? 単に自説を卑下しての「愚説」であろうか。おそらくそうではあるまい。彼は、東京の訓令にもとづいて、自分がしゃべらされている「帝国政府の根本方針」そのものを「愚説」と言いたかったので、現存の山本の友人たちも、明らかにこれはそう読めると言っている。
ただこの手紙で見ると、山本は、日本の将来に未《ま》だずいぶんバラ色の夢を持っていた。ただし、「自重」という言葉が何度も使われているように、それは第一次大戦でのドイツの轍を踏まないという条件つきであった。
兵力の共通最大限度規定という日本案は、英米とも、なかなかこれを受け容《い》れようとはしなかった。ただ、英国と米国との間には、日本案に対する対し方に微妙なちがいがあった。
日本に対し、終始、好意的妥協的な態度を見せていたのは英国であり、比較的冷淡で、非妥協的だったのはアメリカである。
しかしそのアメリカの、ノーマン・デヴィス代表も、
「自分がヒューズに劣るか、日本の山本が加藤に優《まさ》るのか知らぬが、ワシントンでは、アメリカが頭から抑えたものを、今度は山本が逆に自分を抑えにかかって来た」
と言って、山本の鋭鋒《えいほう》には、ひそかに舌を巻いていたそうである。
「加藤」は、むろんワシントン会議の帝国全権加藤友三郎のことである。ヒューズは、国務長官としてワシントン会議の議長をつとめたチャールス・E・ヒューズである。
大体、日本とちがって、アメリカやイギリスは、問題の一貫した会議には、その度毎《ごと》に人を変えることをあまりしなかった。ノーマン・デヴィスは、十四年前、大正九年のワシントン日米通信会議の時から、すでに山本の存在に注目していた節があって、当時国務次官の彼が幣原《しではら》大使の補佐の一中佐であった山本を、
「あれは誰か?」
と幣原に聞き、
「日本海軍に、なかなかの奴《やつ》がいるな」
と洩《も》らしたという話が伝えられている。
英国外務省のロバート・クレーギーも、やはり山本に深く信を措《お》いていた外国人の一人であった。
クレーギーは、昭和十二年の九月、駐日大使になって東京へ着くと、公式に外務大臣を訪問するより前に個人的に海軍次官の山本五十六を訪ね、そのことで物議をかもした。これはまた、山本が、英米の走《そう》狗《く》だと中傷を受ける一つの原因にもなった。
英国側が、参事官のクレーギーをふくめて、総体に日本に対し好意的であったのにはしかし、それなりの理由がある。英国の要路には、二つの考え方が存在した。
ワシントン条約はそのままの形で認めていいと思っている一派と、伝統ある世界一の海軍国英国が、ワシントンで新興のアメリカに追いつかれてしまった、この調子でいくと、そのうちいつか追い越されてしまうかも知れないと、それを憂《うれ》えている一派とがあって、あとの方がどちらかと言えば主流であったらしい。
十月三十日の日英二国会談で、サイモン外務大臣は日本側に対し、
「日本がワシントン条約の廃棄通告を出すと、他の国も条約を失うことになり、それは無制限の建艦競争を惹起《じゃっき》するおそれ濃厚で、極めて遺憾である」
と言ったあと、
「アメリカは現在、資源財力ともに豊富で、大統領は、ワシントン条約が廃止されたら、巨額の建艦費を支出する決意がある由に聞いているが、アメリカ人の気質としては、その事無きを保しがたい。英国としては、アメリカと建艦競争をするのはまことに好まないところで、憂慮している次第だ」
と、牽制《けんせい》かたがた本音らしいものを吐いている。
そして、日本が「ナショナル・プレステージ」という言葉を持ち出すのに対し、英国はしばしば「バルネラビリティ」という言葉を持ち出して議論をした。
「ナショナル・プレステージ」とは、国の威信のことである。世界三大海軍国のうち、日本だけが六割の劣勢に留めておかれるのは、国家威信の問題だということである。
「ナショナル・プレステージ」を殊《こと》の外重く見る英国としては、日本のその言い分を無視することは出来なかった。
「『ナショナル・プレステージ』の問題はよくよく了解し得る」
と、英国代表は答えている。
ただ、各国は国情によって「バルネラビリティ」を異にする、それを考えてもらいたい、日本案によると、英国のように「バルネラビリティ」の大なる国も、その小なる国も、同一限度の保有兵力となる場合があるが、これで「バルネラビリティ」の大なる国の不安をどうして除き得るかというのが、英国側の疑義であり主張であった。
「バルネラビリティ」vulneravility という英語を、溝田は「脆弱性《ぜいじゃくせい》」と訳したそうだが、それだけではちょっと通りが悪いかも知れない。
「バルネラビリティ」が大きいと英国側が言うのは、アキレスの踵《かかと》がたくさんありすぎることである。守備範囲が広すぎて、どこからでも刺されやすいという意味である。
山本自身は、この言葉を生でよく理解出来たろう。何故《なぜ》なら、vulneravility というのは、ブリッジの勝負の時始終使われる言葉であったから。
――一方、アメリカ側には、日本を単独でワシントン条約廃棄の通告を出さざるを得ない羽目に追いこむことを、望んでいる節が見受けられた。
そうすれば、軍縮不成功の責任はすべて日本に負わせることが出来る。無条約時代、無制限建艦競争となれば、苦しいのは日本と英国で、アメリカはそんなにつらいことはない。山本はこれを見抜いており、アメリカのその手に乗ってはならぬと思っていたようであった。
山本としては、結局、比較的好意ある態度を見せている英国側を頼って、何とか三国間の妥協点を見《み》出《いだ》すことに努めるよりほか無かったであろう。
山本のロンドン滞在はしかし、決して毎日重苦しい、四角四面なものではなかった。
会議には、予備交渉という性質上からも、いくらかインフォーマルな雰《ふん》囲気《いき》があったし、アメリカ側が比較的冷淡だといっても、また意見が衝突し喧《けん》嘩《か》別れになる場合があっても、会談の空気はいつも和やかで友好的であったということである。
彼は、相手国主催のカクテル・パーティや晩餐会《ばんさんかい》にも進んで出席したし、ロンドンの町へ出て上等のスネーク・ウッドのステッキを買ったり、アメリカの軍令部長や英国の軍令部長とブリッジをやって、英国のチャトフィールド大将から二十ポンドまき上げたり、結構ロンドン滞在を楽しんでいるところもあった。
十一月のある土曜日、ロンドン西北郊チェッカーズの英国首相別邸へ、マクドナルドから午餐に招かれたこともある。
チェッカーズの別邸は広大な敷地の中の古城のような建物で、着て行く服が問題になり、松平がモーニングで行こうというのを、岡武官が週末にそれじゃおかしい、笑われるかも知れないと反対し、折衷案でみんな縞《しま》のズボンに黒い上衣《うわぎ》を着、晩秋の美しい紅葉の中をロンドンから三十八マイル、車を駆ってチェッカーズに着いてみると、マクドナルドはゴルフ・ウェアの半ズボン姿で待っていた。
マクドナルド首相は、夫人を亡《な》くして、娘のメアリーがホステス役をつとめていた。
マクドナルドは、山本よりずっと年上であったが、態度や話しぶりはまことに懇切で、山本とは意気投合するところさえあるように見えたと、榎本重治は語っている。
ロイド・ジョージの自宅に招かれたこともあった。ロイド・ジョージは眼《め》を悪くしていたが、英国史上初めての「民衆出身総理」で言動の粗野なことには定評のあったこの元宰相は、山本提督、あなたの顔を見ることが出来ないのが残念だからせめて手で撫《な》でさせてくれと言い出し、山本は、ジョージが熊《くま》の手のような毛だらけの手で、自分の顔を撫でまわすのをじっとそのままにさせていた。
山本一行の事務所は、ポートマン・スクエアの日本大使館内に在った。
大使館事務所の四階では、代表団より少しおくれて十一月三日にロンドンに着いた横川一等兵曹《へいそう》が機密書類と暗号機を守っていつも留守番をしていた。横川は、夜は事務室のとなりの部屋でベッドの下にナイフをしのばせて寝た。
いきなり国際会議の檜舞台《ひのきぶたい》へ連れて来られた下士官の横川晃は未だ二十八歳、友達はなし、生れたばかりの長女のことを思ってホームシックにかかり、体重は減るし、次第に顔色は冴《さ》えず、半病人みたいになって来た。
光延東洋が心配して、
「もっと暢気《のんき》にかまえろ。そうオドオドするな。ぬかない《・・・・》からいけないんだろう」
と言って、横川を日本人相手の然《しか》るべき場所へ案内してやり、それで神経衰弱気味の兵曹はやっと落着きを取戻《とりもど》した。
山本たちは、会談や公式の招宴がすむと、この事務所へ帰って来る。それから内《うち》輪《わ》の打合せなどをすませて、宿舎のグロヴナー・ハウスへ引上げる。
相当疲れているはずなのだが、ホテルへ帰ると山本は、
「さあ、それではちょっと始めるか」
といって、榎本、光延、溝田の三人に召集をかけ、毎晩おそくまでポーカーとブリッジであった。午前三時までは絶対離してくれない。弱くて負けてばかりいる光延少佐などは、一ポンド紙幣を一枚卓の上に置いて、
「これだけ負けたら私は寝ますよ」
と、初めから逃げ腰であったという。
日本からは、連日たくさんの手紙が来る。小学生からまで、
「山本さんは、お国のためにがんばっていますか」
というような手紙が来る。
山本はそれに一々返事を書く。
賭《か》け事《ごと》に忙しいから、宵《よい》のうちは書けない。深夜か夜明けに、手紙を書いて書類を調べる。
一体、山本五十六はどうしてあんなに手紙を書いたのだろうと言う人がある。
山本は孤独で、戦前も戦中も、心の中は常に淋《さび》しかったのだろうという説もあり、やはり一種の人気取りではなかったのかという説もあるが、とにかく、小学生の手紙にでも必ず返事を書く。
朝になって、溝田や榎本が、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいて、何か思いついたことが出来パジャマ姿のまま山本の部屋へ行ってみると、山本はすでにブラック・スーツに着替え、会議に出かける支度をしてやはり手紙を書いていた。
いつ寝るのか分らなかった。
「俺《おれ》は軍人だから、食いだめ、寝だめが出来るんだ」
と言っていたが、睡眠時間は連日四時間くらいで平気であったらしい。
十二月に入ってある朝のこと、榎本重治が、
「ゆうベ、堀さんの夢を見たよ」
何気なく言うと、山本は急に眼を見据《みす》え、
「なに? ほんとか。堀がやられたな」
と言って顔色を変え、一種凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》になった。
榎本は、もしかしたら山本も前の晩同じ堀の夢を見たのだろうとこの時のことを書いているが、それにしても、ものの考え方の合理的な山本が夢見の吉凶を信じるというのは、おかしな話である。
ただ、彼のような図抜けて勝負事に強い人の中なぞに、時々、夢でもうつつでも、不意に近しい人の動静をはっきり察してしまう者がいないことはない。
たとえば志賀《しが》直《なお》哉《や》がそうである。志賀は一切の迷信を信じない人だが、自分では若い時から、
「ああ、今、この電車に誰《だれ》が乗って来る」
という風に、はっきり思いあててしまうことが時々あったと言っている。
堀悌吉のことは、東京を離れて以来ずっと山本の心にかかっていたのであるが、榎本の夢の話だけで、彼がそんなにすさまじく顔色を変えたというなら、山本はやはりはっきり、この時友人の運命を見たのかと考えざるを得ない気がする。
堀悌吉は、山本と海軍兵学校同期で、その海兵三十二期のクラスヘッドであり、山本が最も信頼し敬愛していた友人であった。
山本の遺《のこ》したたくさんの書簡の中でも、彼が心の奥の奥まで打ち明けていると見えるものは、堀悌吉ら二、三の友人あての手紙と、特定の一、二の女性あての手紙だけである。
榎本重治の言によれば、「長岡の、がむしゃらな田舎武士の山本を、あすこまで飼い馴《な》らし洗煉《せんれん》させたのは、結局堀の力だった」。
堀は、山本より一年早く中将に進級したが、考え方は山本と同じで、当時強硬派から山本以上に睨《にら》まれていた。
そのころ、いわゆる艦隊派の面々は、親玉の加《か》藤寛治《とうひろはる》大将を取り巻いて赤坂の「お鯉《こい》」という料亭《りょうてい》に集まり、条約存続派のグループを片っぱしからやっつけることを策していた。中には、相当どぎつい手段まで考えている者もあったという。
角田順の記述をかりれば「八方美人主義の大角が(昭和)八年一月海相に就任すると共に」、加藤寛治、末次信正《すえつぐのぶまさ》、高橋三吉らの一派に迎合したこの大臣のもとで、山梨勝之進を皮切りとして谷口尚《たにぐちなお》真《み》、左近司政三、寺島健ら加藤友三郎正統派の将官たちが次々に失脚していったが、つづいて堀悌吉が彼らの槍《やり》玉《だま》に上り、この年(昭和九年)十二月十日突然待命を仰《おお》せ付けられ、十五日付で予備役に編入されたのである。
山本は、東京を発《た》つ前、堀のことを大臣にも頼み、嶋《しま》田《だ》繁《しげ》太《た》郎《ろう》を介して、軍令部総長の伏見宮にも頼んで来た。
伏見宮の返事は、自分は人事問題には関与しないからということであったそうであるが、結局宮は軍令部内の強硬派に焚《た》きつけられ、堀に関する中傷を真《ま》に受け、人事に口を入れて堀を首にしてしまった。
堀に対する中傷とは、上海《シャンハイ》事変の際、第三戦隊司令官として卑怯《ひきょう》の振舞があったということであった。その内容は、今詳しくは分らない。
ただ、上陸部隊援護のため、中支沿岸の敵砲台に艦砲射撃を加える時、堀は、砲台の付近に一般住民が未《ま》だ少しいるのを認めて砲撃開始を猶《ゆう》予《よ》させたことがある。
また、戦後のことであるが、朝鮮事変がおこって、日本赤十字社が国連軍のための供血運動を始めた折、堀は、
「赤十字が、どうして供血を国連軍将兵だけに限るんだ。北鮮や中共の将兵にもやったらいいじゃないか。差別するのは赤十字の精神に反するだろう」
と言っている。
これらを考えると、当時、堀悌吉の受けた中傷というのがどんなものであったか、およそ察せられるように思われる。
ロンドンの山本は、間もなく軍務局長の吉田善吾からの報《しら》せで榎本の夢がやはり凶であったことを知らされた。
山本はすぐ堀にあてて手紙を書いた。
「十二月九日
五十六
堀兄《けい》
吉田よりの第一信に依《よ》り君の運命を承知し爾《じ》来怏々《らいあうあう》の念に不堪《たへず》 出発前相当の直言を総長にも大臣にも申述べ大体安心して出発せるに事┿《ここ》に到《いた》りしは誠に心外に不堪坂野の件等を併《あは》せ考ふるに海軍の前途は真に寒心の至《いたり》なり
如此《かくのごとき》人事が行はるる今日の海軍に対し之《これ》が救済の為《ため》努力するも到底六《むづ》かしと思はる 矢張山梨《やまなし》さんが言はれし如《ごと》く海軍自体の慢心に斃《たふ》るるの悲境に一旦《いったん》陥りたる後立直すの外なきにあらざるやを思はしむ
爾来会商に対する張合も抜け身を殺しても海軍の為などといふ意気込はなくなつてしまつた
ただあまりひどい喧嘩《けんくわ》わかれとなつては日本全体に気の毒だと思へばこそ少しでも体裁よくあとをにごそふと考へて居る位に過ぎない
夫《そ》れで事態を混乱させてやらふと少し策動を試みよふとすればあぶながつてとめる 大体蔭《かげ》で大きな強いことをいふが自分で乗り出してやつて見るだけの気骨もない連中だけだからただびくして居るに過ぎないのも已《や》むを得ないがもともと再三固辞したのを引出して置きながら注文もあつたものではない
此手紙の届く迄には引上げて居るかも知れぬが思ふことを話す人もないのは誠にただ寂しい
けふ迄とう手紙を書く気にもなれなかつた御諒察《ごりやうさつ》を乞《こ》ふ
向寒御自愛をただ祈るのみ 」
「坂野の件」というのは、軍事普及部委員長(のちの報道部長)坂野常善《つねよし》少将が、この年の六月、些《さ》細《さい》なことから大角海相の怒りにふれて解職になった事件を指している。
坂野常善は山本と同じ明治十七年の生れで、兵学校は堀、山本より一期下の三十三期、彼らと考えを同じゅうする提督であった。のちの話だが、昭和二十年三月十日の東京大空襲のあと、彼は山本としたしかった古川敏子という女性を訪ねて、
「今下町の様子を見て来たが、こうなるのは分り切ったことだった。天罰だよ、一部の人間が思い上ったための天罰だよ」
と語ったそうである。
坂野は高齢だが、健在で、
「満洲事変のころまでの海軍は陸軍とは明らかにちがっていたが、しまいには段々陸軍と同じことになってしまった」
と言い、軍縮条約の問題についても、
「わずか何パーセントかのものが認められないと、もう日本が負けたように言っていきり立つ。すべてのナショナル・レソーセスということは考えないで、戦争することだけを考えている。それは間違いだと私などは思っていたが」
と言っている。
事件は六月一日、陸軍の宇《う》垣一成《がきかずしげ》が総理大臣かつぎ出しの運動にのって朝鮮総督の現職のまま東京へ出て来るという日におこった。報知新聞の古い海軍記者で黒潮会の当番幹事だった鈴木憲一の回想によれば、その日鈴木は坂野に呼ばれ、近頃《ちかごろ》海軍は宇垣内閣に反対しているのかとよく人に聞かれて甚《はなは》だ迷惑している、海軍は別に反対ではないのだからそれを書いてくれと言われた。鈴木はよりによって今そんなことを書けば必ず平地に波《は》瀾《らん》をおこしてあとで問題になるからと坂野に忠告したそうである。しかし是非とのことで、鈴木は模範原稿なるものを書き上げ、それがもとになって、あたかも海軍の宇垣支持を匂《にお》わすような記事が各紙に出た。
ちょうど東郷平八郎元帥《げんすい》が重態で、大臣の大角岑生は東郷の家へ見舞いに行っていたが、その記事を読むと非常に怒って、人事局の課長を呼びつけ、
「すぐ予備《よび》役《えき》の書類を作って持って来い」
と言い出した。
この時大角に呼びつけられた海軍省人事局の第一課長は、敗戦の年第二艦隊司令長官として「大和」特攻出撃の指揮をとり、徳《とく》之《の》島《しま》西方で乗艦と運命を共にする伊藤整一である。
伊藤はあとで、
「あの時はとてももう、何か言う余地なんか無かった」
と話していたそうであるが、ともかくそれではあまりにひどいと、一応は大臣をいさめたらしい。伊藤の諫言《かんげん》がきいたのかどうか分らないが、坂野少将はすぐには予備役にならなかった。しかし軍事普及部の坂野の部下で、加藤寛治の信頼のあつかった関根群平大佐などは、黒潮会へ顔を出して露骨に坂野の首切りのジェスチャをしてみせたりしたそうである。
宇垣一成は陸軍の大物、政界の黒幕的存在であったが、陸軍部内からも海軍の強硬派からも反感を持たれていた。加藤寛治大将はもっとも宇垣を嫌《きら》っていた。
その晩坂野が事情を話しに高輪《たかなわ》の大角の私邸を訪ねると、とにかく軍事参議官の加藤大将の気にさわるようなことを言うのがよくないと、それが大角海相の意見のすべてであったという。
条約派の一人で、かつ宇垣と同郷だった坂野は、故意に宇垣の提灯《ちょうちん》を持ったものと見なされ、「海軍部内に反宇垣熱があるということは全然あり得べからざること」との白紙声明が却《かえ》って海軍軍人の政治不干与の原則を破るものとして、委員長の職を解かれ謹慎させられることになった。
原田熊雄述の「西園《さいおん》寺《じ》公と政局」の中に、
「(坂野の解職は)極めて異様な感じを世人に与えて、海軍の統制を頗《すこぶ》る疑わせるに至った」
と記してある。
坂野のもとには上層部からの使いが来て、
「なるべく人《ひと》眼《め》につかぬところで暫《しばら》くそっとしていてもらいたい。そのうちいいようにするから」
との伝言があったが、坂野がそれを堀に話すと、堀悌吉は、
「そんなこと、あてになるもんか」
と言った。
そして馬《ば》公《こう》要港部の司令官に内定していたのを、十二月の定期異動の時、突然堀悌吉と共に予備役に編入されてしまったのである。
アメリカにいた山口多聞は同情して、のちに太平洋艦隊の司令長官になったリチャードソン提督の夫人が、
「坂野を首にするようでは日本の海軍ももう駄目《だめ》だ」
と言ったということを手紙に書いてよこした。
これが「坂野の件」のあらましであるが、堀というもっとも親しい友人の上に同時に同じ運命がふりかかって来て、山本は非常に憤慨もし、悲しみもしたらしい。
「海軍の大《おお》馬鹿《ばか》人事だ」
と言い、
「巡洋艦戦隊の一隊と一人の堀悌吉と、海軍にとってどっちが大切なんだ」
と言い、また手紙に書いた通り、
「仕事をする気力も張合いも無くなってしまった」
と言って、傍《そば》で見ていられないほどの落胆ぶりであったという。
やられたと聞けば、事情はよく分っていた。
「あいつら、よくも堀を首にしやがって」という、艦隊派の人々に対する憎しみと恨みとは、これ以後終生山本の心から消えることはなかったように思われる。
のちのハワイ空襲部隊の司令長官南《な》雲《ぐも》忠一はこの時堀を首にする側に廻《まわ》った一人である。ロンドン条約反対の意見書に、南雲は末次信正らと共に名を連ねている。これは、読者に、あとまで憶《おぼ》えておいていただきたい事の一つである。
しかしこういう海軍のお家騒動の本質は、果して単なる用兵思想や軍縮条約についての考え方の相違からだけ生れたものなのか? この点に関しては、現存の某元海軍中将が次のように語っているのが一つの参考となるであろう。
「これは私の想像に過ぎないことをお断りしておきますが、ああいう空気が出て来たのには、やはり地位や名誉や軍人恩給の問題がからんでいたと思います。海軍大将ともなると、女中の二三人も使って出入りは海軍省の車で何不自由の無い生活が出来るのですが、一旦予備役に編入されたらとたんにそれがガタッと来ます。元帥は終生ですが大将の定年はたしか六十五歳で、六十五になればどんな優秀な人でも退役しなくてはならない。定年間ぎわになって悟りはひらけていないし自我は強いという人は、どうしてもバタバタしはじめるわけで、実業界のように蓄積のある人はあまりおりませんでしたから、つい一日でも長く現役にとどまりたいと思うのは人情でして、そうなると必然的に子分の若干もほしくなるし、子分を使って色々運動もさせる、相手方の者どもは早く蹴《け》落《おと》してしまいたい――結局下剋上《げこくじょう》というか、陸軍と同じようなことが起って来るのです。私はその点から軍人恩給の問題をもう少し考え直してみたらどうかと意見を出したこともありましたが、日本のような貧乏国ではと言われて通りませんでした」
さてロンドンでの会議の方は、十一月、十二月と進み、英国側には交渉不調を防止し、何らかの方法で局面を打開したいという真剣な様子が見えて、
「量的制限が不可能なら、建艦競争だけでも緩和するために、単艦の噸《トン》数や、備砲の口径を制限する、質的制限の協定を結びたい」
という風な申出までしているが、アメリカ側は相変らず冷淡で、ロンドン条約の修正、ワシントン条約の原則的存続という線を少しもゆずらず、十二月に入ると、クリスマスを口実に一旦帰国すると言い出した。
山本は、一度散会するにしても再会の期日を約しておいた方がいい、明年三月までという期限つきの休会にしてはどうかと申入れ、自分も一度帰って又ロンドンへ来るつもりであったが、アメリカは漫然再会を約しても意味があるまいと言って言葉を濁し、十二月二十日には、デヴィス大使スタンドレー軍令部長以下全員ロンドンを発《た》って、本国へ引揚げてしまった。
そのあとは、日本と英国との非公式な交渉がつづくことになったのであるが、そのころのある時期、英国の譲歩案に日本案をかませ、それを英国を介してアメリカに諒承《りょうしょう》させれば、何とか妥協の道がつくのではないかというところまで来たことがある。
壮行会での言明通り、めったに本国に請訓をしなかった山本は、それやこれやで十二月の十一日と二十五日に、二度東京へ請訓電を発している。
ところがその間に、東京の空気の方は微妙に変って来つつあった。
軍令部一部一課あたりのほんとうの責任者は、決していい加減なことを考えてはいなかったというが、少壮の強硬派や、予備役の連中、まわりの一般の者が、わいわいがやがやと一種の空気を作り上げてしまい、山本にまかせておいて、妙な言《げん》質《ち》でも取られて、来年の本会議でニッチもサッチも行かなくなったらどうするのだというような声が高くなり、それが反映して、山本の請訓電報に対する東京の回答はかなり冷淡なものになった。
「休会になったあとまで、あんまり余計なことをするな」
という意味が、電文の言外に匂《にお》わせてあった。
それでも山本は、ロンドンで正月を迎えて尚《なお》ねばった。
英国側も、やはり非常にねばり強かったようである。
次の昭和十年の本会議には、山本に代って永《なが》野《の》修《おさ》身《み》がロンドンに出向いたが、随行した人々の話を聞いてみても、永野と山本では役者がまるでちがっていて、この時には英米とももう匙《さじ》を投げており、会議は形式的なものに終り、結局山本がねばりにねばった昭和九年十月以降の三カ月間が、世界海軍軍縮の――、言いかえれば、無条約時代、無制限建艦競争に突入するか否《いな》かのヤマになったのである。
昭和十年の一月中旬、英国側との非公式会談もこれで打ち切りと決ったその翌日、チャトフィールド軍令部長は、ひそかに溝田主一に電話をかけて来た。
「山本中将に、もう一度だけ会わせてくれ」
というのであった。
「ただし、これは外部には極秘だから、君はついて来ては困る」
と、チャトフィールドは言った。
それで、次の日、それまで一度も山本の傍《そば》を離れたことのなかった溝田は、朝からニッカーボッカーズをはいて、ゴルフ姿で、全権の車に乗って実際にゴルフに出かけてしまった。
溝田はそれから三十数年経《た》った今でも、シニア杯のゴルフでハーフ三十台のスコアを記録するくらいのすぐれたプレイヤーであるが、山本は左手の指が二本無いから、竹刀《しない》を握ってもうまく力が入らないと言っていたくらいで、ゴルフは出来ない。
ホテルのロビーには、日本の新聞特派員や英米の記者たちが大勢張っていたが、通訳の溝田と全権の自動車が出て行くのを見て、きょうはもう何もないと、安心して散って行った。
山本はそのあと、一人、タクシーを拾ってこっそりチャトフィールドに会いに行ったのである。
この時、山本とチャトフィールドの間でどんな話が交わされたかは、今では分らない。しかし、まとまらないものは結局まとまらなかった。
山本一行は一月二十八日、三カ月間住みなれたグロヴナー・ハウスを出、松平大使らに送られてロンドンのヴィクトリア・ステーションを発ち、シベリヤ経由で帰国の途につくことになった。
現在グロヴナー・ハウスに、宿帳というかこの日チェック・アウトした人名の記録が残っている。山本の泊った部屋も、多少模様替えをされただけでそのまま残っている。それはパーク・レインに面する五四五・六・七と三間つづきの豪華なスイーツで、一日の部屋代は四ポンド・四シリングであった。
西欧の国の使節なら夫人と共に泊るところであろうが、単身出張の山本はこの部屋に副官格の光延少佐と同居していた。すぐとなりの五五五号室が榎本重治の部屋で、少しはなれた五五〇号室が溝田主一の部屋であった。
この記録を見て、ちょっと興味を惹《ひ》かれるのは、山本たちの出発の直前に MR.De Poor という人が近くの五三八号室から六階(七階)の六三四号室に部屋替えをしていることである。
話が飛ぶが、航空自衛隊の一佐桜井忠成《さくらいただしげ》が昭和三十七、八年ごろ大使館附《づき》武官としてワシントンに駐在中、アメリカの軍人から「ある日本人の在米中の活躍」と題して出版された本を見せられたことがあった。それは桜井忠成一佐の父、すなわち三十年前にニューヨークで山本五十六の世話をした桜井忠武海軍監督官の滞米中の日々の行動を、米国の諜報《ちょうほう》部《ぶ》が克明に観察した記録であった。当時軍縮会議の日本全権団にも各国の諜報機関の眼が光っていたであろうことは想像にかたくないところで、すぐあとに書くドイツのラウマーなどは明らかにそういう人物であるが、推理小説的臆測《おくそく》を働かすなら、この MR.De Poor や溝田のことをよく覚えていたグロヴナー・ハウスのボーイなども、或《あるい》は何国かのすじの何者かであったかも知れないのである。
この度のヨーロッパ旅行では、山本はパリにも、大好きなモナコにも寄らなかった。ただ、途中ベルリンに一泊した。
それは、駐独大使の武者小《むしゃのこう》路《じ》公共《きんとも》の要請があったからである。武者小路大使の要請というより、事実はナチスの領袖《りょうしゅう》の要請であった。
武者小路公共は武者小路実篤《さねあつ》の兄で、この時のことを含めた山本五十六回想記を、戦後に書いている。
この随想は、デテイルに多少の誤りがあるがたいへん面白《おもしろ》いもので、それを基にしてしるすと、この年はヒットラーが政権を握ってからちょうど二年目、のちにドイツの外務大臣になったリッベントロップは未《ま》だ無冠の、葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》商人上りの一ナチ党員で、しかし党内には相当睨《にら》みの利《き》く大物的存在であったらしい。
リッベントロップは、チャトフィールドやノーマン・デヴィスとは別の観点から、ロンドンに来ている山本五十六に眼をつけていた。
ロンドンで軍縮予備交渉が進められている間に、リッベントロップは、海軍大臣のレーダーと相談して、日本への帰途、山本をベルリンに立寄らせヒットラーに会わせることを画策した。彼は、秘書のラウマーという男をロンドンに派遣し会議の様子をさぐらせると共に、山本にじか談判に及ばせ、帰国の途、是非ベルリンに寄るよう、そしてヒットラーに会ってもらいたいという申し入れをさせた。
山本はどうも、あまり気が進まなかったようである。
米《よ》内光政《ないみつまさ》がドイツを信用しなかったように、山本も、ドイツ、少なくともナチ政権下のドイツには、強い不信の念をいだいていた。
だからこそ、リッベントロップは余計に山本をベルリンに立寄らせる必要を感じていたにちがいない。
ラウマーを使ってのじか談判とは別に交渉の仲立ちにされたのはベルリンの日本大使館で、武者小路はその後ドイツ側と度々折衝の末、山本一行出発の前日、ロンドンの日本大使館へ電話をかけて来た。
初め松平と話し、それから山本を呼出して、
「やはり、リッペンとレーダーに会ってもらおう。ヒットラーは、君の意見もあるし、僕《ぼく》も会わぬ方がよいと思うから、ほんの儀礼的訪問を、前いった両人にだけしてくれないか」
とそうすすめた。
山本は承知し、次の日、オランダ経由の列車でベルリンのフリードリッヒ・シュトラッセ駅に着いたのである。
武者小路は、
「彼は駅に着いた時もニコニコしてはいるが、殆《ほとん》どものを言わない。リッペンに会わせ、レーダーに紹介したが、その応対はテキパキして相手に好意を持たせるが、自分から進んで話題を見《み》出《いだ》そうとは決してしない。確かにこの点は米内に似ている。然《しか》し米内よりは余程鋭角の感じがした」
と書いている。
ここでこそ山本は、ナチスに言質を取られそうなことは口をつぐんで一切言うまいと思っていたにちがいない。
のちに詳しく書くが、この時の日独海軍の親善会談にもかかわらず、山本は次官の時三国同盟に猛烈な反対をした。しかし山本の反対にもかかわらず、日独伊三国同盟は成立し、日本はやがてドイツの為《ため》に火中の栗《くり》を拾って崩壊への道を歩むことになった。この時のリッベントロップの思惑《おもわく》は、功を奏しなかったというべきだろうか結局功を奏したというべきなのであろうか?
その晩は、日本大使館で、山本一行のために内輪だけの晩餐会《ばんさんかい》が催された。
山本はやはり極めて無口であった。ところが、何かのはずみでブリッジ、ポーカー、勝負事の話が出ると、急に別人のようになって大いにしゃべり出した。
ルーレットについては、山本の必勝法は我慢と根気以外に何も無いということであった。
資金を一と晩に二倍にも三倍にもしようと思うからやられてしまう。確実に二十パーセント増しをはかって、根気よくそれをつづけなくては駄目《だめ》だというのであった。
溝田主一はこの山本システムを拳々服膺《けんけんふくよう》して、翌年永野修身の供でロンドンへ行ったかえり、モナコに一週間滞在し、ホテル代から食費船賃全部払って五百円残すという成績をあげた。
ベルリンで一泊ののち、一行はポーランドからソ聯《れん》領へ入り、モスクワを通ってシベリヤ鉄道で故国へ向ったが、長いシベリヤの汽車旅の間じゅう、山本はやはり飽きもせず、榎本、光延、溝田の三人を相手に毎日毎晩ポーカーとブリッジばかりやっていた。
酷寒の季節で、列車は駅毎《ごと》に車輌《しゃりょう》の検査をしたり凍《い》てついた床下の氷を叩《たた》き落したりして長い間停車し、長時間の遅れを出していた。在ノボシビルスク日本領事館の小柳雪生領事は、妻の信子に海苔《のり》巻《まき》寿司《ずし》をたくさん作らせ館員と麻雀《マージャン》をしながら待っていたが、やがて列車が着いたという報《しら》せがあって夫婦で駅へかけつけてみると、山本たちが車室の中でカードとポーカー・チップスをいっぱいに拡《ひろ》げて合戦《かっせん》の最中であった。山本は立ち上って、
「御苦労さまです」
と言い、冬のシベリヤで差入れてもらった巻寿司をたいへん喜んだそうである。
十一
満洲《まんしゅう》領に入ると、各地に歓迎の人々が待っていた。
山本は一行と共に、二月七日満洲里《マンチューリ》からハルビンへ向い、朝鮮経由で、二月十二日の午後、五カ月ぶりに淡雪の降っている東京へ帰って来た。
東京駅頭には、海軍大臣の大角岑《おおすみみね》生《お》、外務大臣の広《ひろ》田《た》弘《こう》毅《き》ら大勢の顕官が迎えに出ていた。山本と大角とはしかし、あんまりすっきりした顔で挨拶《あいさつ》を交わせなかったはずである。プラットフォームにはまた、例の新橋の女性たちや、昔山本がハーヴァード大学で一緒に勉強した友人たちも来ていた。この連中の前を通る時、彼は偉い人に気づかれないように、素早くペロッと舌を出して見せた。
それから、駅長の先導で、地下道を抜けて東京駅の表車寄せに出、記帳参内のため自動車に乗ったが、駅前から丸ビル、和田《わだ》倉門《くらもん》の方角へかけて東京市民が人垣《ひとがき》をつくって歓迎に出ているのを見ると、一旦《いったん》乗った車から下り、ふりしきる雪をかぶりながら、二重橋まで歩いて行った。
この話は、山本が物事にこまかく気のつく、心のやさしい誠意の人だったからとも解釈出来るし、一種のスタンド・プレイとも解釈出来るが、そのどちらか一方に無理に割り切ってしまう必要も無いであろう。
二日後の二月十四日の朝、海軍大臣官邸で、伏見軍令部総長宮臨席の下に、大角海相に対する公式の帰国報告会が行われた。その午後、山本は軍事参議官会議でも同様の報告を行なった。
天皇には、二月十九日付で復命書を奉呈した。
その写しは、敗戦のどさくさの際に、宮中でも海軍省でも、焼けたか焼いてしまったかして見あたらなくなっていたのを、のちに旧陸軍の参謀本部の書類の山の中から発見された。
「復命書
謹ミテ昭和十年海軍軍縮会議ノ予備交渉ニ関シ昨年十月以降ノ経過ニ就キ奏上致シマス
臣 五十六」
という書き出しで、本文はずいぶん長いから、経過説明に関するものは全部省略し、最後の部分だけを引用しておこう。
「本予備交渉ニ於《オ》キマシテハ各国代表共ニ終始友好的ナル雰《フン》囲気《ヰキ》ノ裡《ウチ》ニ腹蔵ナク率直ナル意見ノ交換ヲ行ヒ何《ナン》等《ラ》カ協定ノ基礎ヲ発見スル様真《ヤウシン》摯《シ》ナル努力ヲ致シタノデ御座リマシテ或《ア》ル二国ガ提携シテ他ノ一国ヲ圧迫スルトカ或《アルイ》ハ之《コレ》ヲ疎外スルトカノ如《ゴト》キコトハ全然見受ケラレナカツタノデ御座リマス
特ニ英国側ハ招請国タル関係モアツタ為《タメ》トハ存ジマスルガ軍縮協定ノ成立ヲ熱望シ交渉ヲ円滑ニ進行セシムル如ク終始最モ熱心ニ斡旋《アッセン》致シタノデ御座リマス
而《シカ》シテ英米共ニ我方ノ主張ヲ最モ大ナル関心ヲ以《モッ》テ聴取致シマシタノデ我方ト致シマシテハ充分ニ帝国政府ノ根本方針ヲ闡明《センメイ》シ得タノデ御座リマスルガ各国共ニ其ノ立場ヲ異ニ致シテ居《ヲ》リマスノデ未《イマ》ダ各国意見ノ一致ヲ見ルニ至ラナカツタノデ御座リマス
英米側ヲシテ帝国政府ノ主張ヲ容認セシムルニ至ラナカツタコトハ誠ニ遺憾ニ存ズル次第デ御座リマシテ之ガ貫徹ニハ更ニ今後一層ノ努力ニ俟《マ》ツノ要アルモノト信ズルノデ御座リマス
謹ミテ奏上ヲ終リマス
昭和十年二月十九日」
そして、この最後の部分が山本の一番言いたかったことではないかと思われる。
もと海軍の軍人で、現在この問題の研究に携っているある人は、
「復命書には、言葉になっていない大きな含みがある」
と言っているが、英国と米国が一緒になって、日本を圧迫し疎外するというような事実は、決して無かったというのは、当時の国内一般の風潮、無責任な臆測《おくそく》に対する強い抗議であった。
ロンドン行きの五カ月間に山本五十六の名は頓《とみ》に高くなったが、海軍の上層部の空気は、帰国した山本に対しつめたかった。海軍大臣の大角などは、山本の言い分を真面目《まじめ》に聞いてやろうとさえしなかった。
山本がロンドンに発つ時与えられた訓令に関しては、陛下より岡田総理に、
「軍部の要求もあることであるから、或はその辺で落付けるよりほか仕方があるまい。しかしながらワシントン条約の廃棄は、できるだけ列国を刺《し》戟《げき》しないようにしてやってもらいたい」
との御言葉があったという。
山本は、無条約状態に入ることは極力避けねばなりませぬ、そのためには今後とも根強い努力が必要で、堀悌吉を首にしてしまったような、何が何でも軍縮条約をぶちこわしてしまおうとするような、一部の勇み足に動かされてはなりませぬと、陛下に対し、じかに訴えるような思いでこの復命書を書いたのではなかったであろうか。
第三章
山本一行とともにロンドンに滞在していた横川一等兵曹《へいそう》は、代表団よりちょうど一カ月おくれて三月の十二日に横浜へ帰って来た。彼は一行とは別にロンドンからパリへ出、パリで山本たちに頼まれた色々の買物をすませ、マルセーユからスエズまわりの郵船香取丸に乗船したのであった。
横川晃がパリの伴《ばん》野《の》商会で購入した品物の明細書を見ると、光延少佐用として口紅三ダース、山本光延両名分として香水大十箇《こ》、小三十箇、ほかにコティの白粉《おしろい》三十三箇などと記してある。
帰国時の心得として彼は光延から、
「軍縮問題に関する話はしてはいけない。荷物については自分の物以外、税関で一切口をきくな」
という覚書を渡されていた。
横川はその後兵曹長から特務少尉《しょうい》、特務中尉と昇進し、海軍大尉として終戦を迎え、現在横浜の金沢文庫の近くで小さな化粧品店を営んでいるが、商売柄《しょうばいがら》、山本さんたちはあの時どんな色の口紅やどんな香水をあれほど自分に買いこませたのだったかと、おぼろになった記憶を興味を以《もっ》てたどってみることがあるそうである。フランス製の香水や紅白粉の日本での値うちは今とは格段のちがいがあった。光延東洋は嶋田繁太郎夫人の妹婿《いもうとむこ》にあたるなかなかの美青年士官であったが、あの人たちはあれだけ多量の化粧品類をどんな女に配ったのだろうと考えるそうである。
しかし彼の印象によると、なまめかしい土産物を気前よくたくさん買い入れ毎日勝負事ばかりしていたにしては、ロンドンでの山本はいつも独りぼっちのような淋《さび》しそうな顔をしていたという。再び東京の軍務局勤務になった横川の眼《め》にうつった山本中将も、やはり同じであった。
事実、帰朝後の山本は海軍省内の、周囲に書棚《しょだな》のぎっしり並んだ薄暗い一室で憂鬱《ゆううつ》な顔をしてくすぶっていた。
職名は海軍省出仕兼軍令部出仕であったが、仕事は何も無かった。おそらく、彼の生涯《しょうがい》で最も閑《ひま》な一時期であったろう。
この年(昭和十年)のうちに、山本は四度も長岡へ帰省している。長い時は二週間も長岡に滞在した。仕事が与えられていたら、もともとせっかちで活動的な現役海軍中将の山本が、こんな暢気《のんき》なことをしていられるわけは無いのであった。
部内の強硬派の間には、勢いに乗じて、この機会に山本五十六も首にしてしまえという動きがあったらしいが、山本自身もこの頃《ころ》、度々海軍を辞めることを考えたようである。
長岡悠久山《ゆうきゅうざん》堅正寺の橋本禅巌《ぜんがん》禅師は、山本のことを、
「机をはさんで対座していると、机の上に五臓六《ろっ》腑《ぷ》ずんとさらけ出して、要るなら持って行けというような感じがあった」
と言い、
「しかし、ある意味では、正体のつかめない人間、ふざける時にはいくらでもふざけるし、一方質実剛健、愛《あい》想無《そな》しで、底の知れないという、長岡人の典型のような男で、突然ひょいとあんな人物は出て来るものではない。長岡藩が、三百年かかって最後に作り出した人間であろう」
とも言っているが、この頃、この和尚《おしょう》が山本と話していると、山本の言葉のはしばしに、ロンドン軍縮予備交渉に関して、海軍の上層部に対する強い不満がチラッ、チラッとあらわれたそうである。
第一次のロンドンでもジュネーブでも国際会議の全権や代表にはいつもすぐれた人が出て行くにもかかわらず、帰って来ると例外なく傷をつけられる。わずかなことが訓令違反に問われて失脚させられる。山本も同じ立場におかれているようで、もともと行くのを渋っていた山本に対し、同情し義憤を感じている人も部内に少なくなかったが、どうすることも出来なかった。
堀悌吉を首にし、自分を冷遇している海軍に、山本の方でもこれ以上留《とど》まってつとめる気持を失いかけていた。
親しい仲間に、
「俺《おれ》は、海軍やめたら、モナコへ行って博《ばく》打《ち》うちになるんだ」
と言ったりした。
山本流の二十パーセント方式で行くと、毎日二十パーセント増とは望めなくても、一年二年の間には相当の金がたまる計算になる。海軍の練習艦隊の遠洋航海は、二年か三年に一度、ヨーロッパへ出向く。モナコで博打うちになって儲《もう》けた金で、ヨーロッパへ来る若い少尉候補生たちを一手に引構えて盛大にもてなしてやろうというので、彼は半分本気であった。
山本の退役《たいえき》の志を極力慰撫《いぶ》したのは、堀悌吉である。
「貴様が今やめたら、一体海軍はどうなるんだ」
と言って、堀は山本をいさめた。
山本が、海軍を辞めたいという気持を撤回したのは、この年のいつ頃《ごろ》かはっきりしないが、彼は人一倍郷里の長岡を愛しており、度々の長岡行きは、彼の憂心を慰めるものであったろうと思われる。
帰朝後山本が最初に長岡へ帰省したのは、四月の十三日であった。
両親はすでに亡《な》くなり、長岡にはこの頃、兄の季八と姉の嘉寿子《かずこ》とがいて、「五十さ」「五十さ」といって喜んで山本を迎えた。
もっとも五つ齢上《としうえ》の兄の季八は、家では、少なくとも山本が軍服を着ていない時は、必ず自分が上座に坐《すわ》って威張っていた。
高野季八は長岡で歯医者を開業していたが、ある時橋本禅巌が歯科医の集まりに碧巌録《へきがんろく》の講義をしに行き、季八のことを、
「山本五十六提督のお兄さん」といって人に紹介したら、季八は、
「オジ(弟)はオジで、わしはわしじゃ」
と機《き》嫌《げん》が悪かったそうである。
嘉寿子は、元長岡藩士で学校教員の高橋牛三郎に嫁《とつ》いだが、小さい時から山本が可愛《かわい》がってもらった、山本にとってはたった一人の姉であった。山本とは齢《とし》が十八ちがっていて、母親の峰が死んでからは、愛情の上で彼の母がわりの人であったようである。
帰郷した翌日、山本は母校阪之上小学校の求めで生徒たちに講演をした。反町栄一の書いたものによると、山本は壇上に上ると、先《ま》ず声高に、自分が在学したころの校長先生以下恩師の名を呼び、恭《うやうや》しく頭を下げて、
「山本は先生方の御教育のお蔭様《かげさま》を以《もっ》て国家の為《ため》重責を果して只今《ただいま》母校に帰って参りましたことを、謹みて諸先生に感謝し御報告申上げます」
と言ってから、生徒たちの方に向って講演をはじめたそうである。
これは、ほんとうにこの通りだとすれば、少し芝居がかっている。そして、芝居がかっているといえば、この時母校で講演をするのに、山本は海軍通常礼装を着用して行っている。小学校の生徒に話を聞かせるのに礼装をして行くというのは、海軍の作法にはあまり無いことであった。それは、私たち文士が講演旅行にタキシードを着て行くようなもので、少しへんなのである。
旧海軍軍人の中で山本に批判的な人々は、こんなことも、よくは言わない。
山本五十六のはったりではないか、はったりでないとしても、山本は、長岡の事となるとどうも異常になったと言う。
「山本さんは、なぜあんなにまで郷土のために尽したのだろう? あけすけに言えば、海軍の職権を以て郷土に尽したのではないか」
通常礼装の件は、山本が山本家と高野家の墓所へ帰朝帰郷の墓参をし、そのままの姿で阪之上小学校の壇上へ上ったのだとすれば、解釈がつかないことは無いが、彼がいくらか海軍の職権を利用して郷土人士のために尽したと思われる例は、確かに存在する。
ある時、前にも書いた郷土の育英機関長岡社の出身で、東大法科を出た青年が、卒業成績が悪く就職口が無くて困っていた。家が貧しくて勤め口が見つからないと生計に差支《さしつか》えるということを聞いた山本は、一肌《ひとはだ》脱いで、ある会社の社長のところへ、この男を採ってやれと何度も頼みに行った。会社の方では、調べてみると、やはり大学の成績が如何《いか》にも思わしくない。なかなか応じないでいると、山本は何度でも言って来る。六度目かに、ついに社長の方が折れてその青年を採用したということがあった。
これは、本人はじめ長岡の人々にとっては、感激すべき逸話ということになるかも知れないが、あたり前に考えれば、美談かどうか疑問であろう。殊《こと》に、その会社がもし海軍の兵器の発註《はっちゅう》を受ける会社であったとしたら、なおのことであるが、今はその会社名も成績不良の東大生の名前も分らない。
山本はしかし、この時の長岡滞在を非常に楽しんだ。
長岡は、深い雪が消えて、梅、桃、桜、皆一時に咲き出すいい季節であった。
彼は、長岡へ帰って来ると、「らあすけ」とか、「そうしたりゃあね」とか、長岡弁丸出しで、
「小母《おば》さんおるか? 東京から高利貸しが来たといってくれ」
などと言って、古い知り合いの家へズカズカ入って行ったり、
「君の将棋は長生橋の杭《くい》だ、打てば打つほど手が下る」
と、鼻歌でからかいながら青年団長と将棋をさしたり、そんなことばかりしていた。
お供はたいてい、反町栄一であった。
反町を連れて新潟《にいがた》へ出てみると、白山《はくさん》神社の祭礼で、焼団《やきだん》子《ご》の屋台店が出ている。婆《ばあ》さんが団扇《うちわ》で炭火をあおぐと、団子の焼ける香ばしい匂《にお》いがする。
山本は、
「反町君、この団子は僕《ぼく》等《ら》の子供の時と同じだね。食べたいね」
と言い、婆さんが奥の床几《しょうぎ》に掛けて食えというのを諾《き》かず、
「おらァ、子供の時から焼団子は立ってばかり食ったんだからのう。立って食う方がうまいがでのう」
と、立ったまま、団子を十五串《くし》も平らげてしまったりした。
白山公園の入口には、豆屋が豌豆《えんどう》を煎《い》っている。豆の焼ける匂いがする。それも反町に買わせ、
「君、うしろから自動車が来ないか、注意していてくれ」
と反町に頼んで、新潟古町《ふるまち》の通りを、豆を高く抛《ほう》り上げては口を開いてパッと受けとめ、拠り上げてはパッと口に入れしながら歩いて見せた。
山本は、この年五十一歳である。昔ハーヴァード大学で一緒だった森村勇の言葉を藉《か》りれば、山本にはずいぶん「childish」なところがあったようである。
団子といえば、悠久山の茶店で売っている三色団子も、山本の好物であった。
現在長岡駅のある場所は、もと長岡城の本《ほん》丸址《まるあと》で、明治時代には公園になっており、昔は其処《そこ》で、小豆ときな粉と胡麻《ごま》の名物三色団子がひさがれていたが、山本の生家は貧乏で、少年の高野五十六は、年に一度、この三色団子を食うことが出来たか出来なかったかという状態であった。
子供のころよだれを流す思いで眺《なが》めていた団子を、海軍の将官になってから、彼は仇《かたき》を討つようなつもりでやたらと食ったらしい。それに、郷里の食い物は、山本には、菜びたしでも水饅頭《みずまんじゅう》でも皆美味であったにちがいない。水饅頭というのは、白い、しわだらけの、当時は塩あんの饅頭で、これを、夏、雪にお《・・》から下ろして来た雪を盥《たらい》に張って、雪どけ水に浸してふやかして食うのである。
加治《かじ》川《がわ》の堤は、ちょうど花のさかりであった。新発田《しばた》の友人に頼んで舟を用意しておいてもらった山本一行は、堤の桜と未だ白く雪をかぶった山々の景とを賞《め》でながら、一日、加治川下りの舟遊びをしたが、途中、下から三、四艘《そう》、同じ花見舟が発動機船に曳航《えいこう》されて上って来るのに行き逢《あ》った。
すると山本は、二人の船頭に力一杯舟を漕《こ》げと註文し、勢いつけて辷《すべ》り出した下り舟が、発動機船の波をかぶって揺れはじめた頃合いを見計らって、つかつか進み出ると、舟のへさきに両手を突いてパッと逆立ちをして見せた。
これは山本の得意の芸であった。この時から十六年前、郵船諏訪《すわ》丸《まる》で、初めて渡米する時も、一等のサロンで、この逆立ちをやっている。
横浜を出帆して三、四日経《た》つと、船では恒例の演芸会が開かれるが、こういう場合、日本人の中にはなかなか人前で芸を披《ひ》露《ろう》して見せようという者がなく、外人船客の独擅場《どくせんじょう》で催しが終ろうとしかけていた時、若い少佐の山本が進み出て、ゆっくりローリングをしている船のサロンの手すりで逆立ちをして見せた。
ただの逆立ちではない。やり損うと下のデッキの鉄板が待ち受けている。ついでに彼は、この時、船のボーイから大皿《おおざら》を二枚かりうけ、両掌《りょうて》に皿をぴったりくっつけて縦横十文字に振りまわし、手に皿をつけたままとんぼ返りをするという曲芸も披露したそうであるが、とにかく逆立ちは得意で、何かというと、危険な場所で逆立ちして見せる癖があった。
花見舟の客の方は、逆立ちの主が山本だか誰《だれ》だか知りはしない。行き逢う舟から、ただその妙技にやんやの喝采《かっさい》がおこった。
こんなことをして、約二週間、新潟県下を遊んで歩いていた山本は、四月二十八日一旦《いったん》東京へ帰ったが、五月二十六日には又長岡へ帰省している。この時の滞在は約一週間であった。
それから、七月三十一日にもちょっと帰って来た。十一月二十一日にも、又帰って来た。
十一月帰省の時には、長岡にちょうどある大臣が来ていて、大臣の側近が山本を大臣に会わせようと、料亭《りょうてい》から何度も誘いをかけて来た。
山本はしかし、今長岡市青年会の若い人たちと話をしているところで立てないからと称し、如何《いか》にしても大臣に会いに行こうとしなかったそうである。
山本は少し、世をすねたような気持になりかけていたのかも知れない。度々の帰省も、
「実は東京に勤務しておるのが寂しくて寂しくてならなかった」からであった。
これは、この年の五月一日、呉《くれ》の水交社から彼が河合《かわい》千代子《ちよこ》という女性にあてた手紙の中にしるしている言葉で、私が前に、「かもめ」にこっそり乗りこんでいた一女人と書いたのはこの人のことである。
ずいぶん長い手紙だが、一部を引用すれば、
「この三四年が夢の間に過去つた事を思ひ更に今後十年二十年三十年と先の事を想像すると人生などといふものは真にはかなき幻にすぎず斯《か》く感じくれば功名も富貴も恋愛も憎《ぞう》悪《お》もすべて之《これ》朝露の短かきに似たりと思はれ無常を感ぜぬわけには参りませぬ
あなたは孤独だから寂しいと云《い》はれます 世の羇《き》絆《はん》につながれて死ぬに死なれず苦しむ人の多き世に天涯《てんがい》の孤児は却《かへ》つて神の寵《ちょう》児《じ》ならずやと云はれぬ事もないでせう こんな事を考へると何も彼《か》もつまらなくなつて来ます 理《り》窟《くつ》は理窟としてとにかくあなたにかりにもなつかしく思はれ信頼してもらへる私は現実においてまことに幸福です 只僕《ただぼく》はこの妹にして恋人たるあなたにとつてあまりに貧弱なる事を心から寂しく思つて居《を》ります
僕は寂しいよといふ言葉は決してあなたや先生の真似《まね》ではなく実は自分を省みて自分をあなたの対象物として客観的に見て心から発する自分を嘲《あざ》ける言葉です
あなたのあでやかに匂《にほ》ふ姿を見るほど内心寂しさに耐へぬのです どうぞ悪く思はんで下さい
倫敦《ロンドン》へゆくときは これでも国家の興廃を双肩にになふ意気と覚悟をもつてをりましたし又あなたとの急速なる交渉の発展に対する興奮もありまして 血の燃ゆる思ひもしましたが 倫敦において全精神を傾倒した会議も 日を経るにしたがひ 世俗の一般はともかく海軍部内の人々すら これに対してあまりに無関心を装ふを見るとき 自分はただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして 誠に不愉快でもあり また自分のつまらなさも自覚し実は東京に勤務してをるのが寂しくて寂しくて且《かつ》不愉快でたまらないのです
実はあなたの力になつてそれで孤独のあなたをなぐさめてあげたいと思つて居《を》つた自分がかへつてあなたの懐《ふとこ》ろに飛びこみたい気持なのですが 自分も一個の男子として そんな弱い姿を見られるのは恥づかしくもあり 又あなたの信頼にそむく次第でもあると思つてただ寂しさを感じるのです
こんな自分の気持は ただあなたにだけ今こうしてはじめて書くのですが どうぞ誰《だれ》にも話をなさらないでおいて下さいねー」
河合千代子は、当時新橋野島家《や》の丸子姐《ねえ》さんという人のところから出ていた芸《げい》妓《ぎ》で、芸名を梅龍《うめりゅう》といった。
梅龍と山本との仲は、昭和九年山本がロンドンへ発《た》つ直前、急に深くなったのであるが、山本はそれ以後その死の時まで、この人に対してはまるで若者のようなみずみずしい気持をいだきつづけた。
しかし、山本五十六にこういう女がいたという事は、戦前戦中はもとより、戦後も約十年間一般にはまったく知られていなかった。
それを素《す》っ破《ぱ》抜いたのは、昭和二十九年四月十八日号の「週刊朝日」である。
ある方面から、沼津八幡町の料亭「せせらぎ」の女将《おかみ》河合千代子という人が、昔、山本五十六の思われ人で、山本の恋文をたくさん持っており、それを公表する意志があるらしいという事を聞きこんで、「週刊朝日」の記者とカメラマンとは沼津へ彼女を訪ねて行った。
千代子は快く彼らを迎え、手紙の束を出して見せ、達筆すぎて若い記者に読めないところは、自分で声を出して読んで聞かせ、自分の境遇についても語って聞かせた。
この時の千代子の談話と、山本の手紙とが、特集記事として、
「『提督の恋』といえば誰しもネルソンとハミルトン夫人のことを思うだろう。ところが山本元帥《げんすい》にもそれに似た一つの秘めたる恋物語があったとは誰が想像したろう。これは決して暴《ばく》露《ろ》記事ではない。軍神ともいわれた人も、やはり人間だったという、一つの人間記録としてここに掲げるわけである」
という前書きつきで、四月十八日号の「週刊朝日」のトップを飾った。
堀悌吉はこの時未《ま》だ健在で、発表の寸前にこれを知り、さる筋を通して、
「出すのをやめてもらえないか」
と朝日に差止めを望んで来たが、新聞社の輪転機はもう廻《まわ》りはじめたあとで、堀が、
「まあ、嘘《うそ》じゃないんだし、仕方がないだろう」
と言って、あきらめたという説もあり、非常に憤慨していたという説もある。少しのちになって気持が落ちついてからは、
「世間じゃ色々言うけど、結局山本はあれで一つ偉くなったじゃないか」
と堀は言っていたそうだが、この記事に対する反響は、ともかく大きなものがあった。投書が朝日に殺到した。
甚《はなは》だけしからん事のように言って来るのは、比較的若い層の読者に多く、中には、自分も戦争中海軍に取られていたが、肉親に葉書一枚出すにもまことにきつい制限があった、山本元帥などは前線から綿々と恋人に長い手紙を自由に書き送ったりして、結構なものだというような非難もあった。
それに対し、山本五十六にこういう人のいた事をよしとし、むしろ喜んでいる投書は、比較的年輩の読者に多かった。河合千代子個人に対しても、同情や共感と共に非難が殺到した。多分反響があまり大き過ぎたのにこりたのであろうが、彼女はそれ以後、めったに報道関係者の取材には応じなくなってしまった。
河合千代子の事は、しかしながら少し書きにくい。千代子はもう六十五歳、割烹《かっぽう》「せせらぎ」を失敗してからある人の正妻になり、現在では沼津の牛臥《うしぶせ》海岸で「せせらぎ荘」という旅宿を営んで静かに暮している。
それから、千代子の事を書けば山本の家庭の事情にもふれざるを得ない。これはもっと書きにくい。未亡人の礼子は健在であり、子女もむろん健在である。
だが、彼の家庭のことや彼の女性関係を扱わずに、山本五十六という人を一人の人間として描き出そうと思うのは、少し無理な相談であろう。私はあらかじめ、筆の過ぎるところと筆の足りないところと双方の場合があり得る事を断わっておかねばならない。
若い頃から山本の女性関係は、千代子のほかにもあった。それは、船乗りという職業柄《がら》を考えれば当然の事である。聯合《れんごう》艦隊参謀の中で、山本に最も目をかけられ、山本が戦死した時その遺《い》骸《がい》の収容に行った渡辺安次は、山本にすべてを托《たく》して安らかにという意味で自身「安山」という俳号をつけているほど彼に私淑した人で、
「山本さんに女があったというなら、私など五十人ぐらい女があった」
と言って彼をかばうが、それは、渡辺安次に「五十人」女があった計算程度には、山本にも女関係があったということである。山本五十六はしかし、次から次へという風な漁色家ではなかった。笹川良一は、
「女に関してはまことに純情、私が大学の優等生なら、山本五十六は小学校の一年生だった」
と言っている。
笹川は、私生活についても、山本とかなりあけひろげな話をした事があるらしい。
「女の二人や三人いないようでは、部下が統率出来ないでしょう」
と笹川良一が言うと、山本は、
「君は一体、何人ぐらいいるんだ?」
と聞き返して来た。
そして、東京、大阪、九州――日本中各地にいるという笹川の自慢話を聞くと、愛情の配分はどうするのだと山本は質問した。
笹川が、
「そりゃあ、九州へ行ったら、ほかの女の事はすべて忘れて、九州の女にだけ愛情をそそぐんです。その場その場で、パッパッと切りかえるんですよ」
と答えると、手を叩《たた》いて喜んでいたそうである。
いくら手を叩いて喜んでみても、山本自身はそんな器用なことが出来る人ではなかった。彼は、どちらかと言えば惑溺《わくでき》する性格である。一つのものに溺《おぼ》れるたちであった。
河合千代子の梅龍は、新橋から出ていたが、新橋の土地ッ子ではない。明治三十七年名古屋の生れ、父親は株屋で、女学校を出て娘時代は何不自由無い暮しをしていたが、大正十二年東京の鎧橋《よろいばし》のたもとで大震災にあい、父の店が倒産して両親とともに名古屋へ帰り、一家心中をしようという話まであった末に、明治銀行の頭取の生《い》駒《こま》という人の世話になることになった。
それから二年して母親が亡くなり、次の年に父親が亡くなり、再び上京して烏森《からすもり》に家を借りて暮しているうち、今度は盛岡《もりおか》の馬持ちと関係が出来た。その男はなかなかの美男子であったそうだが、千代子も美しい女で男関係が絶えず、髪を切ってやるとか硫酸をかけるとか脅かされ、色々ゴタゴタの挙句に睡眠剤を飲んで自殺をはかった。
それが助かってから、新橋へあらわれて芸妓志願をした。千代子が二十八の年で、昭和七年の十二月である。山本と深くなったのが昭和九年の夏と考えると、それより約一年半前である。
三十に手のとどく齢《とし》で、いきなり天下の新橋から出たいなどと、少しどうかしてやしないかというので、最初は誰にも相手にされなかったらしいが、何と言われても彼女は、
「お願いします」
の一点張りで、とうとう一念通して、間もなく野島家の梅龍を名のる事になった。
だから梅龍は、芸事はそれほど出来なかった。とても、名妓の列に入れられるような妓《こ》ではなかった。ただ、額の広い、面長《おもなが》の色っぽい女で、芸妓というよりお職の花魁《おいらん》のような風《ふ》情《ぜい》があり、その色っぽさで、すぐ一部に嬌名《きょうめい》をうたわれるようになったらしい。
賢い人で、普段は行儀もよく、「わたし馬《ば》鹿《か》だから、何ンにも分らない」などと言っているが、酔うとがらりと人が変り、座敷から帰って来て、
「取ってえも、取ってえも」
と、名古屋弁で朋輩《ほうばい》にみな着物を脱がさせてしまうのが癖で、手がつけられなかったという。
梅龍が、「おかあさん」と呼んでいた野島家の丸子は、井上馨《いのうえかおる》の妾《しょう》だった人である。その関係もあり、彼女が少し有名病だったせいもあり、色っぽい梅龍には政界財界の誰彼との間に色んな噂《うわさ》が立ち、やがて決った人も出来た。
横山大観なども「子供のようにして」梅龍を可愛がった一人で、さきの山本の手紙に「先生」とあったのは大観のことである
新橋に出た次の年(昭和八年)の夏、築《つき》地《じ》「錦水《きんすい》」の宴席で彼女は初めて山本を見た。この時山本は航空本部技術部長の少将で、白い夏背広を着ていた。
吸物椀《すいものわん》の蓋《ふた》が取れずに山本が難渋しているの見た梅龍が、
「取って差上げましょうか」
と言って、ふと見ると、相手の左手の指が二本無かった。梅龍はハッとしたそうである。
山本はしかし、梅龍の方をじろりと見て、
「自分の事は自分でする」
と言って、彼女の手をかりようとはしなかった。
山本は梅龍の印象に残ったが、それは必ずしも好もしい印象ではなかったらしい。
それから約一年後、昭和九年の夏、山本が軍令部出仕兼海軍省出仕で、ロンドンへ行くか行かないかという話が起っていた時であるが、ある夜、彼女は「蜂龍《はちりゅう》」の宴席で再び山本少将を見かけた。今度は軍服を着ていた。
「いつぞやは失礼しました」
と、千代子の梅龍は、昨年夏の吸物椀の一件を持ち出したが、山本はやはり、
「さあ、知らんな。女なんて一々覚えてないから知らん」
と、極めてぶっきら棒な返事しかしなかった。
「憎らしいからわたしはよく覚えてるんです」
彼女が言うと、傍《そば》から吉田善吾が、
「こういう男なんだから、梅ちゃん、気にしなくてもいいんだよ」
ととりなしてくれたという。
その数日後に、千代子はつづけて又山本と吉田のいる席へ出た。
山本の隣に坐《すわ》っていた吉田が、何かの話から、
「梅龍、お前チーズは好きか?」
と聞き、彼女が、
「大好きよ」
と答えると、何をどう思ったか、傍から山本五十六が突然、
「じゃあ、御馳《ごち》走《そう》してやろう。あすの昼帝国ホテルへ来いよ」
と言い出した。
吉田善吾が、
「この男が、こんな事を言うのは、珍しいんだ。行け、行け」
とけしかけた。
それで梅龍は、翌日、帝国ホテルのグリルで山本と初めて食事を共にした。
それから一二回淡い逢《おう》瀬《せ》をかさねたあと、千代子はある晩帝劇で山本の手を握りながら恋愛映画を見ていて、今夜このままあなたと別れるのはいやだと言い出した。映画が終ると、知っている待合があるからと彼を三十間《さんじつけん》堀《ぼり》の中村家《や》へ連れて行き、
「ここで待ってて下さい。お約束がすんだら帰って来るわ」
と言い置いて、自分は座敷へ出て行った。
中村家は元由緒《ゆいしょ》のある古い船宿で、そこの娘が前にちょっと名前を出した古川敏子である。敏子が髪結から帰って部屋をのぞいてみると、いがぐり頭の男がぽつんと坐っており、
「あら、新聞に写真の出ていた山本五十六少将じゃないかしら」
と思ったそうである。
帝国ホテルの食事や帝劇の映画は、夏といっても七月か八月か九月の初めかはっきりしないが、「帝劇五十年史」という本を見ると、この年八月三十日から、「ある夜の出来事」と「若きハイデルベルヒ」と二本の洋画が封切られている。二人が見たのは或《あるい》はこれであったかも知れない。
山本が気持の上で千代子と一層したしくなり、古川敏子や千代子の友だちの菊太郎、菊《きく》弥《や》という芸妓たちとしたしくなったのは、この晩からであった。
しかし、自分は軍人で金も無いし、垣《かき》を越えたらたいへんなことになるから、妹としてあなたとつき合いたいと、それからも千代子にしきりに言っていたそうである。
やがて、
「わたしもう、妹としておつき合い出来なくなりました。どうかあなたの手で島田の元結《もとゆい》切ってちょうだい」
と言い出したのは千代子の方で、山本が手紙の中に「妹にして恋人たるあなた」とか「あなたとの急速なる交渉の発展に対する興奮もありまして」とか書いているのは、そういう事情からである。
それは彼がロンドンへ発《た》つ直前で、それからの二人の関係はもはや単なる浮《うわ》気《き》とは思えないものとなり、山本は「血の燃ゆる思ひ」で、千代子に横浜へ見送ってもらって日枝《ひえ》丸《まる》に乗ったのであった。
山本が新橋の花柳界で遊ぶ事を覚えたのは、この時が初めてというわけではなかった。彼は、花柳界の女たちになかなか人気があった。当時この土地から出ていたある女性の言葉をかりれば、
「あれだけ海軍さんがいても、みんな山本さんにお熱だったのよ」
という事である。今の新橋こすが《・・・》の先代、丹羽《にわ》みちなども、新橋で最も古く山本を識《し》った芸妓の一人である。
ただその間《かん》、彼に特定の人が出来たことは、一度も無かった。
先代小寿賀《こすが》の丹羽みちの話によれば、山本は、取っつきは悪いし、口数は少ないし、米内光政のような美丈夫ではなし、女からちょっと見て、一向魅力のある男ではなかった。ただ少し深くつき合うと、何とも言えぬ面白《おもしろ》い味が出て来たという。
それというのが、一旦《いったん》心を許せば、山本はほんとうはふざけ屋で、米内のいう「茶目」で、大きな赤ん坊のようなところがあって、話もいくらでも面白い話をして聞かせたからである。
海軍省の前で、タクシーをつかまえ、
「銀座」
と言って手袋をはめた左手を出す。霞《かすみ》ヶ関《せき》から銀座まで五十銭なら、当時悪い客ではない。ところが、銀座で降りる時に、山本は三十銭しか渡さない。運転手が文句を言うと、
「馬鹿言え。俺《おれ》はこれだ」
と、指の三本しか無い左手を出して見せる。
こういう時は、むろん平服である。
堀悌吉と、やはり平服で芳町《よしちょう》へ遊びに行っている時、堀が、
「山本、たいへんだ」
と言い出した。
相手の不見《みず》転芸《てんげい》妓《ぎ》が、
「わたしのお父さん、海軍大学校へつとめてる」
と言っている。それはたいへんだというので、二人でこっそり調べてみると、当の父親は海軍大学校の便所掃除の小父《おじ》さんであった。
山本は、こういう話をぼそッとして聞かせる。
その頃、新橋の大姐《おおねえ》さんたちは、
「あたしァ、新聞屋さんはどうも気に入らないよ」
とみんな言っていた。新聞記者だけでなく、小説家も批評家もみんなひっくるめて「新聞屋さん」である。「新聞屋」は、社会的地位は堅気の人より一段低いものとされているのに、話が面白おかしいので、若い妓《こ》が喜んでしまってなかなか帰って来ないからである。
山本は「新聞屋さん」ではないが、みな、面白くて、山本の座敷へ出る事を好むようになり、段々「お熱」になって行ったのであった。
山本はそれに、大小の宴席よりも芸妓家の玄関脇《わき》の小部屋あたりで、卯《う》の花《はな》、ひじき、鮭《さけ》の茶漬《ちゃづけ》、そんな物を食って花など引いている方が好きらしかった。
彼が大佐当時のある日、小寿賀の丹羽みちが、
「芸妓家のお茶漬食べにいらっしゃいよ」
というと、山本はのこのこやって来、それ以来、堀と三人で始終、茶漬や昼寝を目当てに小寿賀の家へ遊びに来ていた。
沓下《くつした》に穴があいていることがよくあった。お洒落《しゃれ》の癖に、彼のズボン下は、いつもそんなにきれいではなかった。女たちは、彼の沓下につぎをあてズボン下を洗濯《せんたく》し、次に来るまでに乾かしてアイロンをあてておいてやる。こういう事は、彼女らの母性本能を刺《し》戟《げき》したであろう。
中村家の古川敏子はそれから三十幾年経た今でも、昔の美しさを残したたいへん豊満な女性であるが、その頃土地で、「とし子姉さん」と呼ばれていて、一説によると敏子も山本に相当「お熱だった」一人であった。しかし「お熱」でも「お熱」でなくても、敏子には彼女が「主人」と呼んでいる佐野直吉という人がいた。佐野直吉絨緞《じゅうたん》商である。
現在山形県の産業の一つになっている支那《しな》絨緞は佐野が中国から技術を導入したもので、当時彼は北京《ペキン》に佐野洋行という店を持っていた。
昭和五年の一月、志賀《しが》直《なお》哉《や》と里《さと》見《み》`《とん》が満洲旅行のついでに北京へまわって来た時、新聞でそれを知った佐野は支那服を着て二人の作家を宿へ訪ねて行った。それ以来、彼は日本へ帰って来ると志賀や里見の家へしたしく出入りをするようになった。
志賀直哉には五人の女の子と一人の男の子があって、男の子の名を、佐野と同じく直吉という。志賀直吉は現在岩波書店に勤めているが、その頃は未《ま》だ小学校に上ったか上らぬかの子供で、佐野絨緞商が来ている時、志賀直哉が、持ち前の鋭い声で、
「直吉ッ」
と男の子の名を呼ぶと、佐野がビクッとする。
それが面白いので、佐野がやって来ると、志賀はわざと大きな声を出して、
「直吉ッ」
「直吉ッ」
と、息子を呼んだり叱《しか》ったりした。
それから間もなく、佐野直吉に孫が生れた。佐野は自分の孫に「直哉」という名をつけ、これは志賀さんの名前を貰《もら》ったのではない、自分の名の「直吉」にタスキをかけただけだと言っていた。
志賀直哉も里見`も、花は引く。佐野直吉も好きである。山本五十六はというと、古川敏子の表現によれば、「お花と来たら、そりゃ死ぬほど好きなの」であった。山本はよく中村家へやって来て、佐野直吉や敏子の母親を相手に、八八《はちはち》や賭《か》け将棋ばかりやっていた。
山本五十六と二人のこの白樺《しらかば》派《は》の作家とは、一度も一緒に花を引いた事、会った事は無かったが、そういう縁で、戦後里見`は佐野直吉から聞いた話をもとに、山本と梅龍をモデルにして、「いろをとこ」という短篇《たんぺん》を書いた。
「いろをとこ」の中には、山本の名も千代子とか梅龍とかいう名も出て来ない。読めばしかし、戦死の模様や国葬の事が書いてあるから、山本がモデルだという事はすぐ分る。そしてこれは、山本五十六が小説のモデルになったおそらく唯一《ゆいいつ》の例である。
山本の死後、彼の伝記や伝記的文学作品は、数多く世に出たが、純然たる小説のモデルとして彼を扱った人は他《ほか》にいなかった。
「いろをとこ」が書かれたのは、昭和二十二年の七月である。もしこの作品を以《もっ》て、山本五十六にそういう女性がいた事を公《おおやけ》にしたものと見るなら、里見`は「週刊朝日」に七年先んじたわけであった。
この年(昭和十年)の九月、山本が千代子にあてた手紙には、こんな事が書いてある。
「ゆうべ夢をみました どうしてこんな夢をみたか自分でも不思議に思ひます 一緒に南欧のニースの海岸をドライブした夢をみました これが実際だつたらどんなに喜ばしいだらうと思ひました」
書くまでもないが、ニースはモナコの隣である。
これは、当年の山本の心境をずいぶん率直にあらわした夢であり、手紙であろう。
海軍を辞めてしまうか否《いな》か、辞めてほんとにモナコへでも行ってしまうか、鬱々《うつうつ》たる思いでいた彼を最もよく慰めたものは、郷里長岡の風物と、河合千代子の存在とであった。
千代子あての彼の手紙の中にはこのほか、
「百万猛兵猶可破《なほやぶるべく》、一双繊手竟難防《つひにふせぎがたし》、あゝあ」
とか、
「昨晩よんだ本の中の句」として、「男は天下を動かし、女は其の男を動かす」
とかいう言葉も見える。
長岡での山本は文字通り清遊で、花見の舟遊びとか白山神社の祭礼とか、清遊の模様は反町栄一が「人間山本五十六」の中にもっともヴィヴィッドに書き残しているが、東京へ帰る時にはかねて打合せがしてあって、途中水上《みなかみ》温泉あたりで清遊に非《あら》ざる相手が待ち受けている事もあった。
多分、五月二十六日に帰省して、六月一日の朝九時十六分発の汽車で、長岡を発った時の事であるが、山本は上越線水上駅で、東京から来た堀悌吉、河合千代子、古川敏子らと落ち合った。
こういう連中と一緒になると、山本はこの上もなく楽しそうであった。敏子が、
「やめてエ。危ない」
と叫ぶのを面白がって、利根《とね》川《がわ》の川原をどんどん沖へ出て行き、切り立った岩の上で逆立ちをして見せる。
温泉宿で飼っている猿《さる》に向って、何も持っていないのに、南京豆《ナンキンまめ》を食う恰好《かっこう》をしてからかってみせる。猿が飛びついて来て、さすがの山本も驚いて怯《ひる》んだそうである。
麻雀《マージャン》と花札とでみんなは夜明かしをして遊んだ。
山本は、しまい湯が好きであった。夜十二時を過ぎてから、麻雀を抜け、
「ちょっと」
と言って立ち上る。
「そら、行くよ、行くよ」
と言って見ていると、手拭《てぬぐい》をぶら下げて、女中や番頭ばかり入っているしまい湯につかりに行く。
これは一つには、日露戦争の砲弾の破片が百二十幾つも入った下半身のすさまじい傷あとを、彼が人に見せるのを嫌《きら》ったからで、
「俺《おれ》は銭湯へ行くと、ヤクザに見られるよ」と言っていたそうであるが、入ると、風呂《ふろ》は女みたいに長くて、一時間くらい混浴の女中や番頭と馬鹿話をして帰って来る。
兵学校同期の退役少将片山登も加えて、この連中はその前にも時々こういう温泉行きの小旅行を企て、熱海の樋《ひ》口《ぐち》で二た晩ぶっつづけ、二十五荘《チャン》の麻雀をやったりした事もあった。
片山登は少々俗っぽい好人物だったそうだが、堀とは別の意味で山本の親友であって、山本はいつも片山をからかっていいおもちゃにしていた。二人で下駄《げた》をぬいで、東京の市電が走って来る前を駈《か》け抜ける。段々間隔をちぢめて、電車の来る直前を間一髪危うく走り抜けた方が勝である。山本と片山とがやり合っているのを聞いていると、さながら漫才のようであったという。
山本と深くなってからの梅龍は、彼にだけは実によく尽した。彼女には、男同士双方承知の旦《だん》那《な》があって、土地で「ダイヤモンドのお茶漬」と言われ、取るとこから、取るものだけは「ザブザブと」実に遠慮会釈《えしゃく》なく取ったらしいが、一方気前もよくて、出す方もどしどし出した。
山本はそんなに自由に金は使えないし、実際使いもしなかったらしい。当時妓籍にあり、傍《そば》から見ていて、
「男としてあれでよく耐えられるな」
と、不思議な気がしたと言っている女性もある。
古川敏子が昔の思い出話をしながら、
「梅ちゃん、あんたは心と身体《からだ》とを上手に使いわけたわね」
とからかうのを、年老いた千代子が笑ってうなずいている、そういう光景を私は見たことがある。
千代子はあでやかで、頭もよく、字も上手であった。しかし、前に書いた通りなにぶん当時新橋の名《めい》妓《ぎ》というわけではない。名古屋にいた頃《ころ》から先の素姓《すじょう》もあまりはっきりしない。せっかくあてがった旦那から、金が素通りして山本のところへ行くのだから、土地の女将《おかみ》連中は決してよくは言わない。真偽とりまぜて色々悪い評判もある。
そういう女性に、山本五十六は、齢《よわい》知命に達してどうしてそれ程まで夢中になってしまったのか。個人の情念に関する事柄《ことがら》は他から正確に判断はしにくいが、結局「痘瘡《とうそう》と恋愛とは年とってからかかると重くなる」という格言でも思いうかべるか、山本の家庭の事情を想像してみるかよりほかはあるまい。
山本の妻の礼子については、開戦後の事だが、堀悌吉が、
「山本の細君は日本一だよ。山本が日本一なのに、それより強いんだからあれはほんとの日本一だよ」
と言った事があった。山本の戦死後は、礼子に「女元帥」という綽名《あだな》がついた。子供に甘く心のやさしい人であったが、一方字などはこれまた極めて達筆の男まさりで、非常に太っ腹のところがあったらしい。
山下源太郎大将は礼子の母親と従兄妹《いとこ》で、したがって山本の家と山下大将の家とは、親《しん》戚《せき》づき合いである。のちに山本の世話で日本放送協会に入った深沢素彦は、山下の長男一郎と大学同級で、家族同様にして始終山下家へ遊びに行っていたが、深沢が見聞きした話では、山下の妻の徳子が山本の家へ行っていると、夕方、山本が帰って来る。
「やあ、小母さん来てたの」
と、山本は出されている林《りん》檎《ご》を、手を使わずにナイフとフォークだけでむく芸当などして見せて、それから着更《きが》えに別室へ立って行くが、礼子は知らん顔をしている。
「礼ちゃん、あんた、行って旦《だん》那《な》さまの着更えぐらい手伝って上げなさいよ」
と、徳子が言っても、
「あら、そう?」
と、彼女はけろりとしているという風であった。
山下夫人の徳子は、
「あすこの家じゃ、女中の給料、五十六さんが自分で渡してるんだってよ。礼ちゃんは一体、何をしてるんだろうね。暢気《のんき》だね」
と言っていたそうである。
反対に山本は何にでもよく気がつく。部下の夫人たちにでも、どうかすると誤解を受けはしまいかと思われるほどよく気を使って、外国へ行けば香水やコティの白粉《おしろい》や口紅を土産に買って来る。部下が新居へ引っ越せば、奥さんの方がかねて欲しい欲しいと思って眺《なが》めていたコーヒー・セットを、ちゃんと知っていて祝いに持って行ってやる。
山本にすれば妻の気のきかないのが甚《はなは》だ不満であったかも知れないし、礼子にしてみればなぜ自分のやり方がそんなに夫の気に入らないのか、よく理解が出来なかったかも知れない。
彼女はある時、
「わたしは、一度も主人と一緒に散歩というものをした事がないのよ」
と、悲しげに人に語った事があるそうである。
結婚の事情を詳しく見ると、その点、山本も勝手であった。
山本夫人の里は、会《あい》津《づ》若松の農家を兼ねた牛乳屋で、夫人の戸籍上の名前はレイ、父三橋康守母亀久の三女である。堀悌吉から話が出て、山本がこの三橋レイと東山温泉で見合をした前後、彼が長岡の家兄に宛《あ》てた手紙の中には、
「本人は大正二年会津高等女学校卒業後女中代《がはり》として母を輔《たす》け現業に従事東京を見たる事なし 身体頑健《ぐわんけん》困苦欠乏に堪《た》ふとの事
私儀嘗《かつ》て牧野家より一二縁談あり 又鈴木前次官其他部内先輩より時々勧告も有之候《これありさうら》へ共過日御許容を得る迄《まで》 妻帯の決心を致せしこと無之且《か》つ先方は多く所謂《いはゆる》栄達の人々のみにて無産興家しかも明日あるを期し難き身には到底つり合はざるもののみに有之候へ共 前記のものなればやゝつり合ふかと被存《ぞんぜられ》候に付一見の上差支《さしつかへ》なければ取極《とりきめ》度存居《たくぞんじをり》候次第に御座候
右御通知旁《かたがた》最後の御同意を得度申上候」
とか、
「先方は最も質朴《しつぼく》の家風らしく当人は丈《た》ケ五尺一寸許《ばか》り躰格《たいかく》極めて頑健の女なれば大抵の困苦には可堪《たふべき》ものと認め整婚に同意致候次第に御座候」
とか、まるで身体頑健で大抵の困苦に堪えそうなところだけが礼子の取り得《え》で、専らそれが気に入ったような言い方をしている。
「牧野家」とあるのは、長岡の旧藩主牧野子《し》爵《しゃく》家《け》の事で、「鈴木前次官」というのは鈴木貫太郎である。
こういう方面から、それまでに、所謂いいところの娘の話を何度か持って来られたにもかかわらず、山本は一度も話を進めてみようとはしなかったらしい。
それは一つには、彼が海軍の乏しい俸給《ほうきゅう》の中から、長年家に仕送りをしたり、身内の者や恩師の娘の学費を出したりしていて、家庭を持つだけの経済的なゆとりがなかなか生じなかったからでもあった。
彼が継いだ山本家は、長岡の名家ではあるが、相続した全財産が系図一枚と麻裃一揃《あさがみしもひとそろ》いであったと言われているくらいで、「無産興家」と彼が手紙の中に書いている通り、山本を経済的に圧迫こそすれ霑《うるお》しはしなかった。
結婚の決意を固める直前にも、彼は兄に宛てて、
「何《いづ》れにせよ其節は二三百金拝借を御無心可致《いたすべく》候に付此《こ》の儀また何卒御許被下度《なにとぞおゆるしくだされたく》」
と窮状を訴えている。
もっとも礼子の里の三橋家はただの牛乳屋というのとは少しちがっていた。
明治二十四年に六十一で亡《な》くなった広沢安《ひろさわやす》任《とう》という会津藩士がある。会津ではよく知られた人物で、維新前には熱心に開国論を唱え松平容保《まつだいらかたもり》を援《たす》けて公武周旋に奔走し、のち藩主が斗《と》南《なみ》の不毛の地に移封されると、英国人を雇って其処《そこ》に牧場をおこして成功した。いわば日本の洋式牧畜業の元祖みたいな人である。
礼子の父親の三橋康守は、この広沢安任の影響を受けた会津藩の士族で、自らも当時一般に賎業《せんぎょう》と見られていた牧畜を志し、朝鮮に渡って約十年間朝鮮の牧畜開発に従事し、日本で初めてだか二番目だかの英国式の種牛を輸入したりしている。
視野の広い気宇《きう》の大きな人物で、漢学の素養もあり、子供たちには仁義礼智《ち》信の順で名前をつけた。礼子は三番目だから「礼」であり、その弟の三橋智が現在若松の鶴《つる》ケ城の濠《ほり》のそばで家畜医院を営んでいる。礼子の太ッ腹な性格は、おそらく父親のそれを受けついだものであろう。
堀悌吉はどこからこの縁談を持って来たかというと、前述の通り礼子の母親の三橋亀久は山下源太郎と従兄妹である。山下源太郎夫人と四《し》竈幸輔《かまこうすけ》夫人とは、姉妹であった。四竈幸輔はのちに中将になったが、山梨勝之進らと同期の、当時大佐で、堀はこの四竈と親しくしていた。
話は四竈幸輔から堀悌吉に行き、堀から山本に伝えられた。最も親しい友人の堀が持って来てくれた縁談だからというので、山本は最初に心を動かしたらしい節がある。
礼子の手紙の字が立派だったので、それが気に入ったのだという説もあるし、見合のあと、夏、列車の中でうたたねをしている山本を、礼子がずっと煽《あお》ぎ通してくれた、山本がそれに感じたのだという説もあるが、もっと注意すべき点は、彼女が会津若松の人だったという事ではないであろうか。
若松は、明治戊《ぼ》辰《しん》の役《えき》の時山本の父貞吉、長兄譲、次兄登の三人が、戦って傷を負うた土地であり、養祖父の山本帯刀が斬《き》られた土地であった。
見合に行った時も、山本は若松郊外飯寺《にいでら》村にある帯刀ら「無縁戦士之墓」に詣《もう》で、会津平野で討死した長岡藩将兵を合《ごう》祀《し》する市内の阿弥陀寺《あみだじ》という寺に詣でている。
相手が長岡と縁の浅からぬ若松の人だというのは、多分にお国想《くにおも》いの山本のセンチメントにふれるところがあったと想像して差し支えあるまい。
しかし、「所謂栄達の人々」を避けるのはよいとして、候補者が、「身体頑健困苦欠乏に堪ふ」「東京を見たる事なし」の若松の人間だからというので、「明日あるを期し難き身に」「ややつり合」い、それで万事うまく行くだろうと本気で考えたとすれば、いくら昔風の軍人の結婚でも、夫婦生活というものに対し山本は少し浅慮であったというそしりを免《まぬか》れまい。
ただしこれらの表現は、山本が照れ屋であり、逆にある意味では気取り屋であったことを考えると、必ずしも額面通りには受け取れないかも知れない。山本の長男義正が昭和四十一年五月号の「文藝春秋」に「父・山本五十六への訣別《けつべつ》」と題して発表した文章の中で、結婚前父の母に書き送った手紙を披《ひ》露《ろう》しているが、それには、
「一筆申上げ候。暑さ日増しに烈《はげ》しく相成り候処《ところ》、皆々様には益々《ますます》御機《ごき》嫌麗《げんうるは》しく御起居あそばされ候御様子、慶賀の至りに存じ奉り上げ候。
さてこの度は皆々様の御尽力をもつて、諸事順当にとり運びしこと、しあはせの次第と悦《よろこ》び居《を》り候。御母上様より御許《おゆるし》をも頂き候ことなれば、以後は他人と思はず、種々申上ぐ可く候につき、そなたよりも何事も御遠慮なく御申し開きこれあり度く候(下略)」
と、やさしい言葉が述べてある。
「諸事順当にとり運」んで、式は四竈幸輔夫婦媒酌《ばいしゃく》の下に、大正七年八月三十一日東京芝の水交社で挙げられた。礼子は二十二歳、山本は少佐の四年目で三十四歳、かなり晩婚であった。
新居は赤坂区青山高樹町《たかぎちょう》、堀悌吉と同じ町内に構えられた。
山本五十六と礼子との間にはその後十四年間に四人の子供が生れた。大正十一年の十月長男義正が生れ、大正十四年五月長女澄子が生れ、昭和四年五月に次女正子が、昭和七年十一月に次男忠夫が生れた。
子供の四人も出来ると、妻の座が次第に重くなって来るのはどこの家庭でも同じ事で、気性の強い礼子は一旦《いったん》言い出したらめったに後へ引かなくなり、夫婦喧《げん》嘩《か》が始まると山本はすぐ蒲《ふ》団《とん》をひっかぶって寝てしまったそうである。
彼は礼子を人前に出すことをあまり好まなかったようで、部下の細君から、
「奥さまお元気ですか」
と聞かれると、
「あんな松の木みたいなもの、大丈夫だよ」
と答えたり、艦内の居室に部下の将校が細君の写真を飾っているのを見て、
「お前は恋女房《こいにょうぼう》でいいなあ。俺《おれ》はもう匙《さじ》を投げたよ」
と言ったりした。
実際は礼子夫人は割に病身で、あまり「大丈夫」ではなく、こういう露悪的な言葉もやはり全部を額面通りに受け取るわけにはいかないであろう。
「父・山本五十六への訣別」の中で山本義正が、
「私達《たち》の家庭は冬の陽《ひ》だまりの中にあるように、いつも静かで暖かかった。父は表面は何くわぬ顔をして、裏で私たちのことに十分気を配ってくれていた」
と書いているのは、おそらく子供の立場から見ての真実である。だが、長い年月の間、何の溝《みぞ》も生ぜず波《は》瀾《らん》も起らず、倦怠《けんたい》も訪れないような夫婦関係があったら、それはその方がむしろ例外であると言えよう。
こういう時期、結婚後十五六年目になって、不意に山本五十六の前に立ちあらわれて来たのが河合千代子の梅龍であった。
第四章
山本夫婦の間にそのころもし何らかの溝《みぞ》が生じていたとすれば、原因は山本の経歴にもその一半を求めなくてはなるまい。山本と礼子とは、結婚後の大切な時期をあまりに長く別れて暮した。むつみ合おうにも理解し合おうにも、それに充分な時間が恵まれていなかったように見える。
結婚わずか八カ月後の大正八年四月五日付で、山本五十六は米国駐在を命ぜられ、五月二十日に、郵船諏訪《すわ》丸《まる》で単身赴任の途についた。船の演芸会の晩、一等サロンの手すりの上で彼が逆立ちをして見せたのは、この時の事である。それから大正十年の七月帰朝するまで約二年間、山本は国外に在って、営んだばかりの家庭を留守にした。
その後も山本の職務上、夫婦は度々別居生活を強《し》いられている。大正十二年七月には、軍事参議官井出謙治大将の供で、九カ月にわたる欧米視察の旅に出た。
大正十五年の正月から昭和三年の三月帰朝までの二年間は、大使館付武官として再びアメリカで暮した。この時も妻子を同伴していない。
こう見て来ると、彼はその結婚生活初めの十年のうち、ほぼ半分は独りで外国で暮しているのである。
武官当時山本は、後任補佐官の三和《みわ》義勇《よしたけ》に、
「人間も、淋《さび》しさをそばに置いて、じっと眺《なが》められるようにならなきゃ、一人前じゃないね」
と話した事があった。
またある時、アメリカ海軍の高官の夫人が、「家族を国に置いて来て、淋しくはないか?」
と聞くのに対し、
「それは、淋しい。淋しいが、これもお国のためで、仕方が無い」
と答えて、ひどくそのアメリカ婦人を感心させた事がある。たいていの日本人が、
「いや、淋しくありません。大いにアメリカ生活をエンジョイしています」
と答える中で、山本が珍しくも率直な返答をしたので、
「わたしはキャプテン山本を尊敬する。キャプテン山本こそほんとうの紳士だ」
と、その女はいやに感心してしまったらしいのだが、実際山本は淋しかったであろう。
彼が二度目のアメリカ駐在から帰って巡洋艦「五十鈴《いすず》」の艦長をつとめていた時、航海長の近藤為次郎少佐が、
「艦長、アメリカであちらの方の処理はどうされていたんですか?」
とたずねると、山本は、
「なに、避妊具を使えば手袋をして握手するのと同じくらいに割り切ってる国民だからな、別に困りやしないよ」
と答えたそうであるが、船と鉄道だけのこの時代にアメリカからヨーロッパへ渡った日本人旅行者の多くがあんなにまで「パリ、パリ」と言ったのは、其処《そこ》で彼らが性的に解放されたことが一つの大きな原因で、ワシントンやボストンはパリほどその意味で自由な町ではなかったはずである。
ロシヤにおける広瀬武夫のような艶聞《えんぶん》は山本に関して伝えられていないし、当時のアメリカはこんにちと遠さの感覚がまるでちがう。「別に困りやしない」だけの才覚は持っていたにしても、それで淋しさをまぎらしてしまうというわけにはいかなかったであろう。
一方礼子の方も留守宅を守ってずいぶんと淋しい思いを重ねたにちがいない。帰国すれば夫は家に居つくかといえば、艦隊勤務というものがあるから、やはりそうばかりは行かない。淋しさに耐えるために、彼女がおいおい「女元帥《おんなげんすい》」的強さを身につけて行ったとしても、それは多分に自然の事であった。
こういう状況は、海軍士官の家庭として必ずしも異数のものとは言えないけれども、山本の場合、少し極端であったように見える。
半ば偶然であろうが、彼は進級も、中佐から中将までことごとく外国で進級した。マサチューセッツ州ケンブリッジで中佐になり、欧米視察旅行中大佐になり、ロンドンへの途で少将になり、またロンドンで中将になった。礼子は赤飯を炊《た》いて夫の進級を祝おうにも、いつも夫はそばにいなかった。
こういう変則的な生活が、夫婦の同化、理解、成熟に、少なくともいい影響をもたらしたとは考えられない。
ある時、礼子の母親の亀久が会津から出て来て、
「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変らずでさぞお困りでしょう」
と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどくと、山本はこれを読んで下さいと、紙に、
「見る人の心々にまかせおきて雲井にすめる秋の夜の月」
という和歌を一首書いて渡した。
古歌だそうだが、自分の心境を示すのに山本もずいぶん古風で俗な手を使ったものではある。
山本の夫婦仲について此処《ここ》でこれ以上の穿《せん》鑿《さく》をするのはやめたい。ただ新たに千代子という人を得て、五十を過ぎた彼が若者のように「血を燃やし」はじめた事だけは、事実である。
ロンドンの軍縮会議予備交渉から帰って以来ずっと閑職に就かされていた山本五十六は、昭和十年十二月二日の異動で、海軍航空本部長に補せられた。
海軍航空本部は、「海軍航空に関する一般事項を掌《つかさど》る中央機関」となっていて、海軍をやめてしまおうかと思っていた山本は、これでようやく中央の要職に返り咲いたわけであった。
個人としての山本は、この年ほんとに予備役になって、千代子と一緒に外国へでも行ってしまった方が、或《あるい》は幸福であったかも知れない。そうすれば、今時分、南仏ニースかカンヌあたりに、昔少し名を知られた海軍の中将で、日本人旅行者の面倒をよく見る博《ばく》打《ち》好きの名物爺《じい》さんがいるという風な事になっていたかも分らないが、これはしてみても始まらない空想である。
山本は、新しい航空本部長のポストを非常に喜んだらしく、何年でもやりたいと言っていた。
それというのが、彼は当時から、航空に関しては強い情熱をいだいていて、海空軍はいずれ空海軍になる時が来ると思っていたからであった。
山本はしかし、もともと鉄砲屋である。
海軍兵科将校の教育は、兵学校を卒業して遠洋航海をすませ、しばらく艦隊の実務につかせると、そのあと、海軍砲術学校とか、航海学校、水雷学校、通信学校など、各術科学校に入れて再教育をする。それから数年実務につかせて、又再教育をする。その術科学校のすじ《・・》によって、鉄砲屋とか水雷屋とか通信屋とか、各々専門が分れて来る。
山本は、明治四十一年に海軍砲術学校普通科学生を畢《お》え、四十四年に海軍砲術学校高等科学生教程を卒業している。いわば生え抜きの鉄砲屋であったが、その山本の眼《め》を強く空へ向け直させたのは、大正八年から十年にかけてと、大正十五年から昭和三年にかけてと、二度のアメリカ在勤であった。
第一回の米国生活を終って、大正十年の七月帰朝した時、山本はすでに航空軍備の将来性について、かなり徹底した考えを持つようになっていたらしい。
間もなく海軍大学校の教官になると、中佐の山本は、当時として少し奇抜過ぎるほどの意見を学生たちに講述して聞かせた。講義のノートが残っているわけではないから詳細は分らないが、その骨子は、「石油無くして海軍無し」ということと、「飛行機の将来性は、一般の人が考えているよりずっと大きい。航空軍備に対して眼を開け」ということであった。
山本のこの考えは、何処《どこ》から来たか?
高木惣吉《そうきち》は、その著「山本五十六と米内光政」の中で、
「若い時代から衒《てら》うことの嫌《きら》いであったこの人は、なにを読み、なにを勉強するか他人に見せなかったので、その航空第一主義の思想も起源は明瞭《めいりょう》でない。併《しか》し第一次大戦以後、米海軍では『制空権下の艦隊決戦』という標語とも思想ともつかぬ言葉がひろがり、一九二四年(大正十三年)にはミッチェル将軍の『航空国防《ウイングド・ディフェンス》』が著われて軍事評論界に波《は》瀾《らん》を呼び、大正末期には、米海軍の航空本位の海戦思想が一般に紹介されていた位であるから、おそらくは駐在時代に米陸海軍の兵学思想に示唆《しさ》をうけるところがあったのではなかろうか」
と書いている。
この第一回のアメリカ在勤の時、山本の身分は駐在員、語学将校であった。ハーヴァード大学の、外国人留学生に英語を教えるイングリッシュEというクラスに籍を置いて、自由な勉強をしていた。よく勉強もしたが、よく遊びもしたらしい。
第一次大戦後の、我が国が好況の波に見舞われている時で、ハーヴァードだけでも日本人留学生が七十人からおり、山本に関する色んな逸話が伝えられているが、それは後にゆずるとして、彼がメキシコの石油を見に行った話だけを書いておこう。
海軍士官が他国に在勤して、石油資源と航空界の実情とに注目するのは、当然の事のようであるが、大正の中期にそれは必ずしも当然ではなかった。
飛行機に関しては、敵味方が空で石を投げ合って闘ったというようなお伽話《とぎばなし》的状態から、艦隊の燃料に関しては、日露海戦の絵に見るような黒煙濛々専《もうもうもっぱ》ら石炭依存の状況から、ようやく抜け出たか出ないかという時である。山本が早くこの二つの物に注目したのは、やはり卓見というべきであろう。
彼は、石油に関してアメリカ国内であれこれ研究したり視察したりした末、メキシコへ行ってみたくなった。出張旅行を願い出たが、経費が無いという理由で許可が下りない。山本は持ち前の負けん気を出し、
「自費ならいいだろう」
というわけで、手持ちのドルと、大使館の加来美智雄《かくみちお》という参事官が好意で用立ててくれた若干の金とを持って、ひとりメキシコへ出かけて行った。
メキシコの日本大使館に、陸軍の駐在武官で山田健三という人がいた。山本と同じ新潟県の出身で、山本の兄とは日露戦争の時戦友であった事が分り、親しみを感じて色々話し合ってみると、山田は金の事でひどく困っている様子であった。
反町の「山本五十六伝」には、「当時山田健三少佐は元気爽快《そうかい》、天馬空を行くが如《ごと》き活動の結果、経済的に全然行きづまり」と書いてあるが、要するにメキシコで賭《と》博《ばく》に凝りすぎて、帰朝命令が出ているのに帰国の旅費をすってしまい、弱っていたのである。山本は元来世話焼きの上に、博《ばく》打《ち》の事なら人一倍理解がある方で、同情して、自分の持っている金の大半を山田の帰国旅費として与えてしまった。
そのため、貧乏旅行が一層の貧乏旅行になり、食うや食わずで油田を見て歩くはめになり、メキシコの官憲に怪しまれて、ワシントンの日本大使館にメキシコ政府筋から、
「日本の海軍中佐山本五十六と名のる人物が、石油視察と称して国内各地を旅行しているが、町の第三流のホテルの、最下等の屋根裏部屋に泊り、ホテルの食事は一切とらず、パンと水とバナナばかり食っている。身《み》許《もと》は確かか?」
という問合せが舞い込んだりしたが、旅としては意義のあった旅で、東海岸のタンピコから郷里の兄高野季八にあてた手紙では、
「石油視察のためタンピコ市に参り候《さうらふ》。一日一井の産額五百余石と云《い》ふ井戸あり、噴出十三年継続と云ふもあり一石の原油一円転出税一円と云ふ相場なり。越《えち》後《ご》あたりでは本当とは受取れぬ話に候」云々《うんぬん》
と、率直な驚きを表明している。
その次、大正十二年、井出謙治の供で欧米視察に出た時にも、帰途彼はテキサスの油田を見学した。
山本が早くから石油に興味を持ったのは、一つには、彼の郷里の越後が日本で数少ない石油の産地で、子供の頃《ころ》から石油という物に親しみがあったからでもある。彼の少年時代、長岡にはランプ用の石油を作る町工場が何百軒とあって毎日のように火事が起り、古い長岡の人にとって、いい意味でも悪い意味でも石油というものは骨身にしみているところがあった。そしてこれは石油だけの話であるが、二年の米国駐在と九カ月の欧米旅行とは、色々な意味で、彼に眼のうろこが落ちる思いをさせたように思われる。
もともと山本は、頑《がん》固《こ》な独善的な国家主義者ではなかった。彼の父高野貞吉の残した克明な日記には、
「曇、日曜、五十六耶蘇《やそ》へ行く」
とか、
「晴、大暑、ニューエル氏新潟移住に付蔵《ざ》王迄《おうまで》見送る」
とかいう記述が、数年間にわたりところどころにあって、彼が少年時代、長岡で米人宣教師ニューエル某の教会に通った事があるのを示しているし、海軍兵学校時代、彼の下宿の机の上にはいつもバイブルが置いてあって、その事で友人と言い争いをしたりしている。
信者にはならなかったが、後年まで、キリストの教えの影は彼の心のどこかにさしていたろうと思われるし、田舎の貧乏士族の息子にしては、西洋の文物に接した時機も早かった。
しかし、彼が常に国際的視野で日本の現状を見るという習慣を身につけ、
「当地(ワシントン)昨今吉野桜の満開、故国の美を凌《しの》ぐに足るもの有之《これあり》候。大和魂《やまとだましひ》また我国の一手独専にあらざるを諷《ふう》するに似たり」
とか、
「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、日本の国力で、アメリカ相手の戦争も、建艦競争も、やり抜けるものではない」
とかいう冷静合理的なものの考え方をなし得るようになり、かつ、世界が今石炭と鉄の時代から次第に石油と軽金属(乃《ない》至《し》航空機)の時代に移り始めている事を、身《み》肌《はだ》で感じ取るようになったのは、やはり二年の米国駐在、九カ月の欧米旅行の結果であったと考えられる。
ついでながら、山本が初めてモナコに遊んだのも、井出大将と一緒のこの欧米視察旅行の時であった。
あまり勝ちすぎるので、カジノのマネージャーがしまいに山本の入場を拒絶したとか、そういう客は、モンテ・カルロの賭場《とば》の歴史始まって以来二人目だとかいう伝説が残っているが、真偽のほどは確かでない。
ただ、彼がルーレットでずいぶん稼《かせ》いだ事だけは事実のようである。彼は井出に向って、
「私を二年ばかり、ヨーロッパで遊ばせておいてくれれば、戦艦の一隻《せき》や二隻分の金は作ってみせるんですが」
と言ったりした。
のちにロンドンへ行く時にも海軍省の裏庭で、昼飯のあと、彼の歌の先生であった主計少将の武井大助ら仲のいい連中五、六人を前に、
「君たち、一万円ずつ出して、僕《ぼく》に預けないか。モナコで十倍にして持って帰って来てやるんだがな」
などと言った。誰《だれ》もまともに相手にはならなかったが山本は真顔だったそうである。
新橋の女性たちにも、やはり、金を預けたら十倍にして持って帰ってやると言っている。
この旅行(大正十二年の欧米視察)で、山本の訪れた国は、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリー、イタリヤ、アメリカ合衆国、それにモナコを加えて七カ国であった。
ドイツは、第一次大戦後のすさまじいインフレ時代で、山本が郷里に出した絵はがきには、四十五万マルクの切手が貼《は》ってある。またこの年、彼がロンドン滞在中に関東大震災の報が届いた。ロンドン在留の日本人一同、大いに驚き騒ぐ中で、山本は実業家連中に向って、「大丈夫だよ。日本は必ず、前以上に復興するよ。今のうちに、東株でも買占めておけばいい」
と言って、至極泰然自若としていたという。
山本の初《はつ》児《ご》義正はこの時生後十一カ月目であった。彼は、
「今年より主として坊の記念に日記をしるす」
として、その年の正月からしばらく、親《おや》馬《ば》鹿《か》ぶりをまる出しにした日記をつけているし、自分の左手の指が二本足りないのをいつも気にしていたので、後天的傷害が遺伝するはずはないのに、子供が生れたと聞いて家へ帰って来るなり、
「赤ん坊の指は五本揃《そろ》っていますか?」
と産《さん》婆《ば》に聞いたという話も伝わっている。
旅行中、東京に残して来た妻と赤児のことは絶えず気にかかっていたはずであるが、大震災の報を聞いた山本は、妻子のことを心配しているような態度もやはり見せたがらなかった。
井出謙治大将と一緒の欧米旅行から帰国するとまもなく、大正十三年九月一日付で霞《かすみ》ヶ浦《うら》海軍航空隊付を命ぜられ、それから三カ月後には同航空隊の副長兼教頭になった。
これは、山本自身の希望によるものであったと言われている。
鉄砲屋の山本五十六は、この時初めて現実に海軍の航空部門と接触を持ったのであり、そして以後、主として航空の畑を歩くことになるのであるが、彼はすでに大佐で、飛行機の勉強を新たに始めるのに、あまり早い方であったとは言えない。
もっとも、霞ヶ浦航空隊が開設され、イギリスのセンピル飛行団によって教育が開始されたのが大正十年で、海軍航空そのものも、未《ま》だ搖籃《ようらん》期《き》にあった。
当時霞ヶ浦には、大西滝治郎がいたし、三和義勇もいた。
三和はこのあと、山本が米国在勤武官の時その後任補佐官、山本が第一航空戦隊司令官で「赤《あか》城《ぎ》」に乗っていた時「赤城」の飛行隊長、開戦直前から約一年間は聯合《れんごう》艦隊の航空参謀として、度々山本五十六と生活を共にし、彼の死後、暇を見ては、「山本元帥《げんすい》の想《おも》ひ出《で》」と題する手記を、大判のノートにせっせと書き溜《た》めた。のちに第一航空艦隊参謀長として、中部太平洋のテニヤンに転出してからも、これを書きつづけていたが、昭和十九年の六月、テニヤンの運命が迫ったのを知り、内地へ帰る飛行便に托《たく》して「意味深重な」という書きかけの一句が最後になったままのノートを、妻の永枝に届けさせた。それから間もなく三和はテニヤンで戦死した。
このノートの中で、三和義勇は山本との最初の出会いの模様を次のように書いている。
「何日か忘れて仕舞つたが、日曜日の夕食后《ご》、私達《たち》は其《そ》の前日午後からの休みを利用して東京に遊びに行き、暮方上野を出る常《じやう》磐線《ばんせん》で土浦《つちうら》指して帰つて来た。連れは同僚小十人も居《を》つた。列車は横にずらりと並ぶ旧式の二等車で、私達以外には左前隅《すみ》に一人の壮年の方が乗つて居られた丈《だ》けで誰も居ない。我々は之《これ》を幸ひに列車の中を傍若無人に談論して居た。フト此《こ》の壮年(と見ゆる)紳士を見ると、始終私達の方を注視して居られる。服装及持つて居られた大型のスーツケースは洋行帰りを思はしめるものがあるが頭髪は短く、眼《め》、口等何となく軍人だナと直観せらるる人だつた。汽車が土浦に着いた。私達はドヤドヤと降りて隊から来てゐる定期自動車便に乗らうとしたら、件《くだん》の人はツカツカと来られて、之は霞《かす》空《くう》の定期かと尋ねられたので、ソウですと答へたら黙つて乗り込まれた。誰れか知らず、大方出張にでも来られた少佐位の人だらうと思つて居た所、実は此の人が新しく隊附《たいつき》で来られた山本大佐だと判《わか》つた」
しかし、たとい山本が名を名のったとしても、彼の名前は、未だ部内にそれほど知れわたってはいなかった。
霞ヶ浦航空隊には、「飛行機に縁の無いそんな人が、いきなり航空隊の頭株にやって来て、一体何をするつもりなんだ」というような、反撥《はんぱつ》気分がかなりあったようである。
三和義勇も、彼自身の言葉にしたがえば、当時、
「血気盛で小生意気な、若さが持つ元気を除いては、何処《どこ》から見ても優秀な青年将校であつたとは今の今でも考へられぬ」という、飛行学生教程を畢《お》えたばかりの若い中尉《ちゅうい》であった。
三和中尉は、間もなく内務主任の松永少佐から、副長付の甲板《こうはん》士官として推薦されたが、「もうすぐ操縦教官になろうとしているものを、甲板士官なんて、真平《まっぴら》御《ご》免《めん》」
と、頑として承知しなかった。
「それなら、貴様直接山本大佐のところへ行ってそう言え」
と、松永から言われ、三和は、多分肩をいからせるような心持でじか談判の断わりを述ベに行ったのであるが、山本に会ってみると、妙にその気《き》魄《はく》に押されて言葉が出なくなってしまった。
結局、山本に機先を制せられ、甲板士官の役を引受けさせられただけでなく、
「懸命の努力をいたします」
と誓って引下って来ることになり、
「参りました」
と松永に報告すると、松永が、
「それ見ろ」
と言って笑ったそうである。
それから、三和は日々山本に接し、山本のやる事を見、話す事を聞き、やがてこの上もなく山本五十六が好きになってしまうのである。
三和義勇は、部下の中でも特に山本の知遇を得た人の一人であるが、他の飛行将校たちも、概《おおむ》ね三和と同じような経過をたどって、初め反撥していた山本に次第に心服して行くようになった。
飛行機乗りのことで、多くが戦歿《せんぼつ》して、現存するその頃の霞空隊員はもう数が少ないが、その少数の一人、桑原虎《くわばらとら》雄《お》も、山本について、
「ふだん、口数が少なく、ろくにものを言わないのに、部下を惹《ひ》きつける不思議な魅力を持った人であった」
と語っている。桑原は海軍兵学校で山本より五期下、山本が副長時代霞ヶ浦航空隊の飛行隊長で、現在新明和工業の顧問をしている人である。
海軍の航空は未だ草創期にあったとはいえ、日本全体の水準から見ればかなり高度の技術を持っていた。高々度用の酸素マスクの研究をしていたのも海軍だけで、槙有恒《まきありつね》などヒマラヤ登山の参考にするため、当時霞ヶ浦に山本を訪ねてマスクを見せてもらったりしている。
山本はしかし、実際のところ、飛行機に関しては素人《しろうと》であったから、自ら望んで来たこの配置でみっちりと実地の空の勉強をしたらしい。
桑原の話では、夕食後十時ごろまでは、士官宿舎で若い士官連中を相手に、玉を突いたり将棋をさしたりブリッジをしたりして遊んでいる。遊びながら、彼《かれ》等《ら》の話を聞いている。
それからみんなは風呂《ふろ》へ入って寝るのであるが、山本はそれから自分の勉強を始めた。月のうち半分は隊に泊りこんでいて、十二時前に山本の居室の灯《ひ》が消えているのを見る事は無かったと、桑原は言っている。
この事はあまり世に知られていないが、飛行機操縦の訓練も、山本は自分でやった。一般の飛行将校がそろそろ自分で操縦桿《かん》を握るのをやめる年ごろになって、毎日数時間ずつ操縦練習を行い、練習機の単独がやれるまでになった。
また、霞ヶ浦航空隊の帝都訪問飛行という、当時としての「壮挙」の時にも、山本は編隊の一番機に自ら乗りこんで飛んだし、シールとバイキングという水陸両用機二機で樺太《からふと》往復飛行を行なった時にも、霞ヶ浦大湊《おおみなと》間の第一次コースの指揮官を自ら買って出た。
霞ヶ浦に、当時本多伊吉という機関大尉の分隊長がいた。本多は海軍機関学校二十七期、山本とは生涯《しょうがい》に三度同年同月同日の発令で同じ場所に勤務するという奇縁を持った人であるが、当時海軍機の機体は木製布張り、発動機は小馬力でプロペラも木製、センピル飛行団の指導で寿命を二百時間に制限されていた。英空軍の方針を踏襲して、飛行時間二百時間に達すると相当良好な状態でも廃棄処分にすることに決まっていたのである。
本多大尉はこの程度の使用時数で廃棄するのは、戦力維持上も国費節約の上からも如何《いか》にも勿体《もったい》ないと考え、飛行機の延命策を研究し、倍の四百時間でも大丈夫、やがて六百時間でも大丈夫となり、中には千時間に近い寿命を持つものも出来て来た。
延命対策を実施するにあたっては、百時間をオーバーする毎《ごと》に副長の山本と整備長とに報告することにしていたが、ある時本多は山本から、
「君が不安を感じるくらい寿命ののびた飛行機が出現したら、真っ先に僕が搭乗《とうじょう》してみよう」
と言って励まされた。
この寿命延長でおこった事故は結局皆《かい》無《む》であったという。
しかし一方、しめるべきところは山本はずいぶんしめ上げたようである。その頃《ころ》の海軍の飛行機乗りたちの気風は、勘偏重、一種職人風の名人気質《かたぎ》と、明日の命が知れないという一種のやくざ気質とが裏おもてをなしていて、下士官兵でも長髪族が大勢いる、遅刻脱営は日常の事という風な、甚《はなは》だルーズなところがあった。
山本はこれの改革に手をつけ、また隊務会報や研究会の席上で、飛行将校は頭が粗雑だと、海軍の花形を自認し気負っている連中を半分馬鹿《ばか》扱いにして、からかったり叱《しか》ったりした。
「飛行機乗りは、高空に上ると、生理的に頭が粗くなるんだから仕方がありませんです」
と言って突っかかって来た分隊長には、
「それは事実だ。だから平素から頭を緻《ち》密《みつ》にして周到な準備をしておかなくちゃならんのじゃないか。今のままでは、とても将来の海軍航空は持って行けないぞ」
とたしなめた。
彼は、単に霞ヶ浦航空隊の軍規風紀を建て直そうと思っただけでなく、合理的な方法を軽く見、勘だけにたよって見事な飛び方をして見せようという、一種の名人気質、それと表裏をなすやくざ気質が、海軍航空の将来にマイナスである事を憂《うれ》えて、その気風を是正したかったのであろうと思われる。
山本の霞ヶ浦時代にはまた、こんな事もあった。
ある時、年少の練習生二人の乗った水上機が一機、霞ヶ浦の湖上に不時着水をやった。すぐ救難隊が用意され、特務少尉一名下士官兵数名が救難艇で現場に急行して、遭難機にロープを取るのに成功し、曳航《えいこう》しながら水上隊へ帰って来る事になったが、季節は真冬で、名物の筑《つく》波《ば》おろしは寒く、風浪《ふうろう》は烈《はげ》しく、重量の軽い水上機はともすれば水から浮き上って転覆しそうになる。なかなかの難作業であった。
救難隊の指揮官以下数人は、それぞれ遭難機の翼やフロートの上に乗り移って、飛行機のくつがえるのを防ぎながら、だましだまし曳航をつづけていたが、そのうち不意に一陣の突風が来て、機はあっという間にひっくりかえり、二名の搭乗員と数名の救難隊員とがそのまま行方不明になってしまった。
隊ではその日から、副長の山本五十六大佐指揮の下に、捜索作業が始められた。捜索隊は朝四時に本部前に整列して、それから日没まで、連日遭難者の遺体を湖上にもとめて歩くのである。
救難隊員の死体の方は二、三日するうちに全部見つかったが、二人の搭乗員練習生だけが、どうしても上って来ない。山本は、毎朝四時になると、寒風の中を必ず出て来て黙って捜索隊の出発を見ている。寒さは寒し、生存の望みはもう無いし、五日目になって甲板士官の三和義勇が、そろそろこの辺で捜索打切りにしてはどうでしょうと申し出てみたが、山本は、何カ月かかってもやるといって承知しなかった。
「太平洋のまん中じゃあるまいし、たかがこの湖の中だ。五日や十日で打切るようで部下が率いて行けるか」
それで捜索は続行され、やがて日曜日が来た。
日曜の朝、殉職した練習生たちと同期の練習生一同から、きょうは休みだから、他分隊の者の援助を借りず、自分たちの手だけで思う存分の捜索をしてみたいと思うから、それを許してくれという申出があった。
許可になり、彼らが捜索に出発する時、山本は例になく口をひらき、
「きょうは必ず見つかるから、一生懸命やって、お前達の戦友の遺《い》骸《がい》をお前達の手で収容してやれ」
という訓示を与えた。山本の言葉の調子は甚だ断定的であったという。すると、午前十時ごろ、捜索隊から、
「二名共発見、捜索終り」
という報告が本部に届いて来た。
一種の「副長美談」であるが、私がこの話を持ち出すのは、山本が練習生たちの申出を聞いて、「きょうは必ず見つかる」と、自信をもって言いあてた事が不思議に思えるからである。
これを、彼が賭《か》け事《ごと》に人並はずれて強かった事、ロンドンのグロヴナー・ハウスに滞在中、榎本重治のふともらした夢の話だけで「堀がやられたな」と形相《ぎょうそう》を変えた事、そしてそれがあたっていた事などと結びつけて考えてみると、山本にはどうも、超心理学でいう予知の能力とか遠感とかが、人より発達していたのではないかという気がする。
三和の遺《のこ》したノートには、このほか色んな事が書いてある。
「水風呂と茄子《なす》の辛《から》煮《に》」という話もある。
夏が来て、いわゆる「浦チョン」の三和が、夏休みをもらったが、金も無く行くところも無く、相変らず航空隊住まいをしていると、ある日山本が、
「甲板士官は何処へも行かんのか?――それでは僕の家へ避暑に来ないか。ちょうど家族も皆いない」
と、彼を土浦の、神龍寺という寺の境内にあった自分の家へ引っ張って行った。
松林の中で、多少は涼しいかも知れないが、「避暑」とはどういう意味かと三和が思っていると、家へ着くなり、山本が、裸になれと言う。主客とも猿又《さるまた》一枚になったところで、山本はこれから特別の避暑法をやると称し、
「水風呂がこしらえてあるから、あれに入って身体《からだ》を拭《ふ》かずにこの廊下に寝るんだ。涼しいぜ。僕が模範を示すから」
と、水風呂へ飛びこんだ。三和も真似《まね》をして入った。それから上って来て、誰《だれ》もいない家の戸障子、みなあけはなして、日《ひ》蔭《かげ》になった板廊下に寝そべっていると、なるほど涼しい。
やがて昼飯時になり、いつの間にか茶の間に昼飯の用意がしてあったが、菜《さい》はというと、茄子の煮付だけである。
「この茄子は僕が煮たんだ。少々辛いかも知れんぞ。しかし暑い時は辛いものを食った方が、暑さを忘れていい」
と山本に言われて、三和が箸《はし》をつけてみると、辛いの辛くないのといって、醤油《しょうゆ》だけでは足らず、これでもかこれでもかと塩を一と握りも入れて煮こんだような珍菜で、これまたなるほど、その辛さに耐えるだけで暑さの方は忘れてしまいそうであった。
食後には、井戸で冷やした大きな西瓜《すいか》が出た。二つに割って、一人が半分ずつ取り、それに葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》と砂糖をたっぷり叩《たた》きこんで食うのだが、茄子の辛さを消すためには、少々の甘さでは足りない。
「副長は、ずいぶん甘いのがお好きですね」
と三和が言うと、山本は、
「フフン」
と笑っているだけで、先刻の茄子が辛過ぎたなどとは、一と言も言わない。三和も痩《や》せ我慢で、辛かったとは一と言も言わなかった。
それから夕方になって、鰻飯《うなぎめし》を食って別れるまで、山本は三和に色んな話をして聞かせた。
「副長は、酒は始めからやられんのですか?」
と三和が聞くと、山本は、
「いや、中尉の時までは飲んだ事はあった。練習艦に乗組んでいた時、候補生乗艦の為《ため》江《え》田《た》島《じま》へ入った夜、ちょうどクラスの者が兵学校の教官をしていたので、其処《そこ》を訪問し、振舞酒に酔って、帰る途中溝《みぞ》の中に落ちて寝てしまった事があった。それで、所詮《しょせん》自分は酒に強くないと気がついたから、それからはやめた」
と言った。
山本はまた、自分の郷里の事から、養祖父山本帯刀や河《かわ》井《い》継《つぐ》之《の》助《すけ》の話を、若い三和にして聞かせた。
河井継之助の言葉として、「出る時は(出て官途に就く時は)人に委《まか》せ、退《ひ》く時は自ら決せよ」というのが気に入っていて、信条としたいような口ぶりであったという。
三和義勇の書いたこれらの挿《そう》話《わ》は、山本の死後間もなく、水交社の雑誌「水交社記事」の「故山本元帥追悼号」に、かなりの頁《ページ》を割いて発表された。「追悼号」に並んだ三十幾つの追悼文、大半が紋切型で面白《おもしろ》くもおかしくもない中に、三和の文章は、当時として出色のものである。
しかし、「水交社記事」の活字と三和のノートの原本とを照らし合せてみると、山本が酒をやめた事情に関して、前者には溝に落ちた一件が抜けている。
「イヤ中尉の時までは飲んだ事もあったが、所詮自分は酒に強くないと気がついたからそれからは止《や》めた」
と、ただこうなっている。
「聖将山本五十六」が、昔振舞酒に酔い、島の溝川へ落ちて寝込んでしまった事があるというのは、いくら「聖将」自身の告白でも具合が悪いというので、誰かが削ったにちがいない。
此処《ここ》で三和の手記のテクスト・クリティクをするつもりはないが、文献学的な言い方をすれば、それ以後諸本は、戦後にいたるまですべて「水交社記事」の三和の文章を踏襲した。この場合は、問題が山本の酒に酔ったか酔わないかというような事であるから、どちらでもいいが、もっとクリティカルな場面での山本の発言にまで同じような手心が加えられると、山本五十六像は歪《ゆが》んで来るのではないであろうか。
実はそういう例が戦争中に一つあって、山本の書簡に、何人《なんぴと》かの恣意《しい》による削除が加えられたものが公《おおやけ》にされ、それがアメリカ側の山本五十六観に非常な歪みを与えた事があった。
しかし、この話ものちにゆずる事にしたい。
山本は、霞ヶ浦に一年三カ月いてから、大正十四年の十二月、再び大使館付武官としてアメリカへ出かける事になった。
発令は十二月一日であったが、出発は翌大正十五年の一月二十一日になった。霞ヶ浦航空隊では、山本の転勤を惜しんで、彼の乗った天洋丸が横浜を出帆すると、隊員たちが編隊を組んでその上空に飛来し、爆撃演習を行なって元の副長に別れを告げた。
こういう事は、異例であった。山本より海兵十一期下の高木惣吉は、当時大尉で測量艦の航海長をつとめていたが、どこからともなく今度の在米武官の山本大佐は大物だそうだという根拠のあまりはっきりしない噂《うわさ》が耳に入って来、五十六という変った名前が印象的で、このころ初めて山本の名を憶《おぼ》えたという。
「おそらく霞ヶ浦航空隊副長としての名声が、航空隊の士官たちから、その頃《ころ》になってだんだんに拡《ひろ》がったのかもしれない」
と、高木は書いている。
山本は、海軍の航空部門にすでにしっかり自分自身を植えつけていたと見ていいであろう。
山本のこの度のアメリカ在勤中、同じく駐在を命ぜられてアメリカへやって来た人に、当時少佐の伊藤整一がいた。伊藤の身分は、山本がこの前アメリカに来ていた時のそれと同じであったから、その駐在地について相談した時、山本は日本語を使う機会の最も少ない所を選べと言い、出来れば大学の寄宿舎に入って、アメリカの学生と起居を共にする事をすすめた。
その結果、伊藤はニュー・へブンのエール大学に入る事になり、練習艦隊がニューヨークへやって来た時も、目と鼻の先のニュー・へブンからニューヨークへ「日本語を使いに」出て来るのを禁じられてしまった。
山本はまた、伊藤整一に、駐在員がアメリカへ来て三度三度きちんと飯を食おうなどと思うのは、以《もつ》ての外の贅沢《ぜいたく》だと言い、出来るだけ倹約をして、その金でアメリカ各地を旅行して歩けと言った。
伊藤がアメリカへ着いたのは昭和二年の七月で、このあたり話が少し前後するが、山本が松平恒雄《まつだいらつねお》を識《し》ったのも、彼の在米武官時代であった。松平は駐米大使で、大正十五年の十二月大正天皇が崩御になり、英国留学中の秩父宮雍仁《ちちぶのみややすひと》親王がアメリカ経由で帰国する時、宮を大使館に迎えた。当時松平には未《ま》だはたち《・・・》前の節子という娘がいて、その折ワシントンで秩父宮に会った松平節子が、のちの秩父宮妃の勢津子である。
松平恒雄はしかし、旧会津藩主松平容保《まつだいらかたもり》の四男で、古いことを言えば朝敵の一族であった。
「朝敵」という観念はこの時分未だ完全には消滅していなかった。会津の方でも薩長《さつちよう》、殊《こと》に長州閥に対する反感は相当なもので、旧士族の間では、当時はおろかこんにちなお「官軍」という言葉を使わない。古い人になると官軍のことを逆に賊軍と呼ぶそうだが、一般には「東軍」「西軍」と言っている。
長岡出身の山本は、会津の娘の節子にしたしみを感じたのか、フレンド・スクールにかよっていた彼女をごみごみした中華料理屋に連れて行って御馳《ごち》走《そう》したりしたこともあったらしい。
ワシントンに着いた秩父宮は、大使官邸滞在の予定を幾日か延ばされた由《よし》で、下世話な表現をすればこの時節子を見染められたということになろうが、この結婚には「朝敵の娘のくせに」とか「平民の娘が」とか、ずいぶんそねみねたみの中傷があったと伝えられている。松平恒雄には爵位《しゃくい》が無く、直宮《じきみや》の結婚は有爵者の娘に限られていた。それで節子は一旦《いったん》叔父の松平保男子爵の籍に入り、これから三年後の昭和三年九月に雍仁親王と正式に結ばれたのである。
昭和三十六年に出た「松平恒雄追想録」という本に、松平未亡人の信子と岩崎《いわさき》小弥太《こやた》未亡人の孝子との対談が収められていて、その中に山本の思い出が出て来る。
松平信子は、
「大使館などに居《お》りました頃」
と言っているだけで駐米大使時代のことか駐英大使時代のことか明らかでないが、多分ワシントンでの話であろう。
松平大使は煙草《たばこ》をのまないので、大使官邸の接待用の煙草には関心が無かった。一応「コロナコロナ」という葉巻の高級品が置いてあるが、しめってはいけないし乾燥しすぎてもいけない、手入れがなかなかむつかしい。それを気にして、
「ここの家の人はタバコに無関心で見ちゃいられない。タバコどうしてありますか?」
と始終やってくるのが、葉巻好きの山本五十六であった。箱から一本々々取出して、
「ああ、これ駄目《だめ》」
「これも駄目」
と、どんどん自分のポケットに詰めこんでしまう。
「なんです、それは」
信子が言うと、
「新しいのを買っとかなくちゃ駄目ですよ」
と山本は言うのだが、ほかの煙草のみの客の話では、官邸の葉巻はそれほど「駄目」になっているわけではなかったそうである。
開戦時の外務大臣東郷茂徳《とうごうしげのり》も、当時書記官としてワシントンにいた。武官の後任補佐官は山本親《ちか》雄《お》であった。
山本親雄は、武官の山本が、何でも「賭《か》けなきゃ、やらん」というのに驚いた。ボーリングが得意で、山本親雄ら武官室の連中三人をボーリング場へ連れて行き、
「賭けよう」
と言う。
「僕が負けたら君たち三人に金時計を一つずつ買ってやる。そのかわり君たちが負けたら、僕に金時計を買え」
結局三人連合軍の方が負けて、金時計を一個山本に捲《ま》き上げられた。
山本五十六の説によると、ギャンブルというのは、右か左かという場合、十ドル札なり十円札なり一枚置いて自分の言動に責任を持つことであり、若い大尉時代、堀悌吉とやった大きな賭の清算が、未だついていないと言っていたという。
それは大正初年のこと、伊勢湾で標的艦の「壱岐《いき》」を巡洋戦艦「金剛」「比《ひ》叡《えい》」の艦砲で撃ち沈める実験が行われ、堀が沈むと言い、山本が沈まないと言い、それではと、三千円の金が賭けられた。三千円は、当時立派な家作が一軒買えるくらいの、大きい、無茶な賭け金であるが、「壱岐」は沈み、山本は負けた。
堀は笑って、
「そんなもの、取らないよ」
と言ったが、山本は承知せず、金は三十二期のクラス会に寄附されることになり、山本は大佐になってからも未だ、その金を月賦で払い込んでいたらしい。
前任の武官は、長谷川清であった。長谷川は山本への申し継ぎをすませると間もなく、ハバナ見物をしてから日本へ帰ることになったが、長谷川の発《た》つ時、山本は、
「僕も一緒に行って来る」
と言い出した。
補佐官の山本親雄がびっくりして、
「武官、着任の挨拶《あいさつ》がすんだと思ったら、早速御旅行ですか」
と言うと、山本五十六は、
「うん、ルーレットでちょっと稼《かせ》いで来るんだ」
と答え、長谷川には、
「心配するな。君の宿賃ぐらい稼いであげるよ」
と言い、二人で、ニューヨークから船でキューバ旅行に出かけてしまった。
何日かして山本は、ルーレットのミニアチュアと、ハバナ名産の葉巻を山ほど持って、ワシントンに帰って来た。
「ハバナのカジノで、一晩でこれだけ稼いだんだ。僕の在勤中の接待用に使いたまえ」
と言って、葉巻を山本親雄に渡した。
しかしいくら好きでも、武官室の部下の若い士官たちからあんまり取り立てるのは悪いと思っていたらしく、彼らが支払った小切手を、半年ぐらいあとで、
「オイ、こんなにたまってるんだぜ。君、困るだろ?」
と眼《め》の前で全部破ってくれたりすることもあったという。
それから約一年して、山本親雄が日本へ帰ることになり、交替で後任補佐官としてワシントンに着任したのが、三和義勇であった。
三和が英語の勉強をするのに、誰《だれ》かアメリカの偉人伝でも読みたいがと、山本に相談を持ちかけて、リンカーンの伝記をすすめられたのはこの時のことである。
「読んだかい?」
と聞かれ、三和が、
「読みました」
と答えると、山本は、
「どうだ、リンカーンは偉いだろう。大統領の中では、人間としては彼が一番だ。僕はこの前此処《ここ》に来てる時、その伝記を四、五冊読んで、彼を敬服するようになった」
と、自分がリンカーンを尊敬する所以《ゆえん》を詳しく話して聞かせた。
三和はその時の山本との問答を、熱っぽい筆致で、のちに妻になる婚約者の永枝に書き送っている。「水交社記事」とちがって、こういうものには作為が加えられていない。日付もはっきりしていて、昭和二年七月二十五日となっている。
この問答録の中で、注目される点の一つは、山本が、
「貧乏のドン底に生れた、――ケンタッキーの彼の生れた家の写真があったろう? あんな家は、日本にも余り無いくらいだ――、そんな家に生れた彼が」
と、貧家の出のリンカーンが、その暗殺される日まで努力し奮闘した目標を、「奴《ど》隷《れい》の解放、女性の解放、つまり人類の自由のためだ」と言っている事である。
それからもう一つは、
「意志の人は徹頭徹尾自らを信ずる。時には神すらも信ぜぬ。だから時々過ちをする。リンカーンにも、そんなところはたくさんある。しかしそれは、彼を傷つけるものではない。人は神ではない。人間らしい誤をするところに、人間味がある。それが却《かえ》って人らしい『なつかしみ』を起させて、心服を招くのだ。彼にはこの人間味が充分ある。これが無くては、人の上には立てないヨ。これがあるから人の人らしい誤を許し、同情し助け合う事が出来るのだ」
と言っている事であろう。
此処には、どうも、アメリカ人宣教師ニューエル某の教会に通った少年高野五十六の面《おも》影《かげ》が残っているように思われるが、果してどうであろうか。
在米武官当時の山本に関しては、このほか逸話がたくさん残されているが、とても一々は書き切れない。
現在極洋捕《ほ》鯨《げい》の会長をしている法華津《ほけつ》孝太が、外務省の官補としてワシントンに着任し、マサチューセッツ・アヴェニュの武官事務所に挨拶《あいさつ》に行くと、山本はいきなり、
「オイ、君は博《ばく》打《ち》をやるか?」
と聞いた。
法華津は学校出たての真面目《まじめ》な青年で、未だ賭け事なぞしたことがない。面食らいながら、
「いいえ」
と答えると、山本は、
「ふむ、そうか。男で博打をしないようなのはロクなものじゃないな」
と言って、若い法華津の度《ど》胆《ぎも》をぬいた。法華津孝太はあまりいい気持がしなかっただろうが、それから発奮し、アメリカ在勤三カ年の間にポーカー、ブリッジはもとよりバカラ、ルーレットの類《たぐい》まで「大いに勉強して」、山本が海軍次官になるころにはそのお相手が充分つとまるようになったと「山本五十六の想い出」と題する短文の中に記している。
もっとも彼は、将棋なら少々自信があった。着任数日後に松平大使の招宴があって、法華津が末席に列《つら》なっていると、食後山本が今度は、
「君、将棋はさすか?」
と聞く。
さしますと答えると早速一番となり、山本はいきなり中飛車に振って遮《しゃ》二無二《にむに》攻めて来、マゴマゴしているうちにころりとやられてしまった。法華津も頭は明晰《めいせき》な方で、様子をよく見ていると山本の将棋はどうも攻め一方でいささか無理すじのきらいがあるように思われる。二番目は用心してかかって法華津の勝となった。そのあと立て続けに三番勝ったら、山本は口惜《くや》しかったのか、以後法華津孝太とは将棋をさそうと言わなくなったそうである。戦争の始まる前、アメリカがもし日本海軍の主将の性格をもう少し突っこんで調べていたら、山本なら開戦の時いきなりハワイを突いて来るかも知れないということは充分察しられただろうと、法華津は言っている。
秋が来て、社交シーズンが始まると、ワシントンでは、大統領のレセプションが催される。三和は山本に連れられて、初めてホワイト・ハウスの大統領夫妻の前に出た。もっとも、レセプションといっても、長い行列を作って大統領夫妻の前へ行って、「How do you do? 」とか何とか言って、握手して帰って来るだけの事である。
時の合衆国大統領は、三十代目のカルビン・クーリッジであった。フーバーの前で、フランクリン・ルーズベルトの前の前である。
レセプションから帰って来ると、山本は藪《やぶ》から棒《ぼう》に
「おい、クーリッジのネクタイの色は、何色だったか?」
と、三和に質問した。
三和は、大統領がモーニングを着ていた事は記憶にあるが、ネクタイの色までは分らない。
「気がつきませんでした」
と言うと、山本が笑いながら、
「別にネクタイが何色だって関《かま》わないが、臆《おく》せず落ちついて応対せよというんだ。そうしたら、一瞬の間でもネクタイの色ぐらいは分る。この国じゃ、大統領といったところで、ただの人間で、ミスター・クーリッジでいいんだからね。しかし、モーニングを着ていた事だけが分っても、初回としてはよろしい」
と言った。
ここでもう一度、三和義勇の「山本元帥の想ひ出」から引用をしよう。
「この頃《ころ》から武官は、米国航空の事については犀《さい》利《り》な眼で注視して居《を》られた。当時大西洋横断飛行といふ事が米国航空界の大問題であつたが、遂《つひ》にリンドバーグが之《これ》に成功し、続いてバードが、最《さい》后《ご》で不時着水したけれども、事実上はこれを成し遂げた。遺憾乍《なが》ら我航空界は、まだ之と比《ひ》肩《けん》する迄《まで》には立ち到《いた》つて居らぬ。武官は之等《ら》の飛行を研究して意見を出せと言はれたので、あれやこれや、調べ且《か》つ考へて居る間に、フト気がついた事は、洋上長距離飛行上、計器飛行、天測航法等が絶対必要な事で、米国は既に之に着目して、立派な計器(当時として)も使用して居れば、又バードの飛行では機上天測を実用して居る。之に反し我国では、海軍の航空でさへ、まだセンピル飛行団から教はつた、あの勘偏重教育の域を脱して居ない。私達《たち》は其《そ》の前年、鳳翔《ほうしょう》で着艦訓練をしたが、其の時でもまだまだ計器は当てにならぬ、勘を養はねばならぬと教はつて居た。一〇年式艦上戦闘機4B型で、着艦速力五四節《ノット》と示され、一生懸命に計器を之に合せて着艦した或《あ》る下士官が、降りて来るや否《いな》や、今のは一節早いと教官に注意されたので、『チヤンと計器に合せて来ました』と答えたら、『何の計器があてになるか、乃公《おれ》の勘の方が確かだ』とてなぐられた事がある。其の頃では、笑ひ事ではなかつた。其処《そこ》で私は、我海軍航空も須《すべから》く勘飛行を脱却して計器飛行を尊重する様進めねば行詰る、それにはこれこれの対策を執らねばならぬと言ふ意味で一文を草して武官に差出した。武官は一読されて、『其の通りだ、僕《ぼく》も全然同意だ。一寸《ちょっと》貸せ、少しなほしてやる』とて、結論の所を、注意を喚起する為《ため》にか大分激しい論法になほされた。其の筆の跡を見ると、計器飛行其のもの及び之を我海軍航空に早く採り入れねばならぬ事については、武官の方が私よりも遥《はる》かに明確に認識されて居るのが解《わか》つた。之は月報として所要の向に送られた」――。
リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行に成功したのは、一九二七年(昭和二年)、山本が武官としてワシントンに着任した翌年の五月である。バードの飛行も、同じ一九二七年の六月である。
山本はしかし、山本親雄にも三和にも、仕事に精を出せというようなことはあまり言わなかったらしい。
「成績を上げようと思って、こせこせスパイのような真似《まね》をして情報なんか集めんでよろしい」
と言い、東京から何か調査して報告書を出せという電報が入っても、
「こんな下らんこと、ほっとけ、ほっとけ」
と言って、無視させた。
そして自分は、アメリカ海軍の「カード・シャーク」と異名のある大佐と、ブリッジの勝負に熱を上げたりしていた。
山本親雄の話では、コーヒー・ショップへ入ってコーヒーを飲む時など、うんと砂糖を入れ、
「値段が同じなら、出来るだけアメリカの物資を使ってやるんだ」
と、妙な子供っぽい敵愾心《てきがいしん》も燃やしていたそうである。
山本は、アメリカでこういう生活をし、こういう時代の動きをじかに見、このような考えをいだいて、昭和三年の三月日本へ帰って来た。
帰国後短期間軍令部出仕の職にあってから巡洋艦「五十鈴《いすず》」の艦長になり、十二月、航空母艦「赤《あか》城《ぎ》」の艦長に変った。アメリカ在勤武官をつとめた大佐が当時練習艦になっていた軽巡「五十鈴」の艦長というのは、ちょっとエリート・コースをはずされたように見えるが、これは彼の陸上勤務が長かったため、大艦「赤城」へ行く前にしばらく海に馴《な》れさせる目的からであった。
しかし航海長の近藤為次郎少佐が見ていると、横風の強い日木《き》更《さら》津《づ》沖で各艦一斉投錨《いっせいとうびょう》、双錨泊というような時、山本の操艦ぶりは専門の航海屋はだしのシャープなところがあった。
そのころ「五十鈴」はいつも横須賀にいて、朝出て晩には帰って来る。たまに館山《たてやま》沖に一と晩か二た晩仮泊するくらいで、操艦の稽《けい》古《こ》にはちょうどいい。戦艦「山城《やましろ》」が射撃艦で、その標的を曳航《えいこう》するのが「五十鈴」の主な仕事であった。したがって勤務は割に暇で、近藤為次郎は艦橋で山本とよく馬鹿《ばか》話《ばなし》をした。
近藤は深川の生れで、府立三中時代、芥川《あくたがわ》龍之介《りゆうのすけ》と首席を争っていたが、
「江戸の商人気質《かたぎ》がつよいから、深川あたりの者は海軍なんか入ったって駄目《だめ》なんですよ」
と自分で言っている通り、あまり軍人向きでない人物であった。ちなみに中学の時の芥川の綽《あだ》名《な》は「スケルトン」だったという。
近藤の兄の友人で同じく府立三中から、海軍兵学校を出た新井清という人がいた。メリヤス問屋の息子で、やはり「オッチニ、オッチニはあまり好きじゃない」、もともとはよく出来るのだが、「海軍のことはズベってばかり」いる。美男子で金使いが荒く、鎮守《ちんじゆ》府《ふ》の司令長官が眼《め》をつけていた芸《げい》妓《ぎ》を横取りしたりして、少佐の時軍縮で首になってしまった。
浜吉といういなせな年《とし》増《ま》芸者がこの新井清に夢中になり、段々入れ上げて来て、
「何サ、海軍やめたってうちへ来て暮してりやいいじゃないの」
というわけで、新井は退役後細君と別れ、浜吉に養われていたが、浜吉の方は座敷があるから夜がおそく、やがてお定りの痴話《ちわ》喧《げん》嘩《か》がはじまる、浜吉の母親とも折合いが悪くなり、とうとう芸妓の家を追い出され、しばらく炭屋商売をやっていたが、その後杳《よう》として消息が知れなくなった。近藤航海長が山本にこの話をすると、山本は、
「知ってるよ。俺《おれ》は新井が羨《うらや》ましいよ。海軍なんかにいるより、俺も新井のようになってみたいよ」
と、言った。
軍艦の艦長は、士官室へ入って来て部下が碁将棋麻雀《マージヤン》などやっていると、たいていいやな顔をするものだそうである。それで若い士官たちの方でも、艦長の姿を見ればそっと逃げ出してしまう。山本はしかしちっともいやな顔をせず、クスクス笑ったりして勝負を眺《なが》めているので、部下はたいへん気楽であったという。
山本が麻雀を覚えたのは、この「五十鈴」の艦長時代であったらしい。近藤少佐たちが遊んでいるのを見て、どういう風にやるんだと一応説明を聞くと、
「よし分った、やろう」
と、たちまち満貫《まんがん》をねらって来、ちびちび点稼《てんかせ》ぎの連中をみんな負かしてしまった。そして、
「こんなもの半分運だ。つまらないよ。ブリッジを教えてやる」
と、士官連にアメリカ仕込みのブリッジを伝授したが、
「何だ、お前たちみたいな勘の悪い奴《やつ》らにゃ無理だ。やめる」
そう言って、部下を相手の麻雀やブリッジにはあまり熱を入れなかった。近藤に、
「僕はアメリカ海軍の誰《だれ》にいくら貸しがあるんだぜ」
などと自慢していたそうである。
これ以後の山本の経歴を略記すると、「赤城」に移って一年足らず艦長をつとめたあと、海軍省軍務局勤務になり、間もなく昭和五年のロンドン軍縮会議全権委員随員として、財《たから》部彪《べたけし》、左近司政三らと共にロンドン行き。
少将になって帰って来て、海軍航空本部技術部長。この技術部長の椅子《いす》に、山本は約三年いた。この三年間に、海軍の航空は飛躍的な発展を遂げたと言われている。
余談になるが、山本が航空本部技術部長をつとめていた時、昭和六年の二月十八日、元軍令部長の山下源太郎が六十八歳で亡《な》くなった。
前に書いたように、山下源太郎は礼子の母親の従兄《いとこ》であり、山下夫人の徳子は山本の仲《なこ》人《うど》の四《し》竃幸輔《かまこうすけ》夫人と姉妹で、山本は山下家とはたいへん近しい関係にあった。役所の帰りよく山下の家へやって来、
「コレ、いるか?」
と親指を突き出してみせる。
「コレ」は文久三年生れ、謹厳そのものの海軍大将軍事参議官で、山下の娘が、
「いるわよ」
と言うと、かしこまって源太郎の前へ出、博打の話などはおくびにも出さず、手を突いて挨拶《あいさつ》をするが、それから早々に勝手元へ引きさがって来、
「小母さん、飯食わしてくれよ」
「鮭《さけ》とお新《しん》香《こ》しかないけど」
「ああ、いいよ」
という調子で、軍服の腕まくりをし、自分でぬか味噌《みそ》の中へ手を突っこんで、
「あったあった」
古漬《ふるづけ》で茶漬を食って行くというような付き合いをしていた。
「おいもさん」という綽名で山下家へ入りびたりだった山下の息子の友人深沢素彦は、父親が戸山学校長をつとめた古い陸軍の軍人で、父からよく、
「山本か、いやあれは海軍でも最近にない図抜けた奴で、そのうち偉くなるよ」
と聞かされていたが、一体山本のどこがそんなに偉いのかさっぱり分らなかった。ただ、変っているというなら確かに変っている。父親でも「山下の小父さん」でも、自分でぬか味噌をかきまわしたり、胸に勲二等瑞宝章《ずいほうしよう》をぶらさげてうつ伏せにうたた寝をしている姿など、深沢は見たことがなく、どうしてもこれが軍人、海軍の少将だという感じがしなかったという。
そんな風で、山本は山下源太郎よりも、徳子の方に親しみを感じていたらしいのだが、山下は死ぬ前、永わずらいで、意識朦朧《もうろう》となってから片時も徳子を離さなかった。
山本は毎日見舞いに行っていたが、これは何とかしなくては徳子が参ってしまうと、ある晩徳子に、彼女の普段着の大島絣《おおしまがすり》と帯とを出させ、自分でそれを着て山下の枕頭《ちんとう》に坐《すわ》った。山下は時々眼をあけるが、意識が明瞭《めいりよう》でないので、大島絣が山本の女装とは気がつかない。徳子がいるのだと思って、安心して又寝入ってしまう。そうして彼は、徳子に休養をとらせる事に成功した――。
航空本部技術部長のあと、山本は昭和八年の十月、第一航空戦隊司令官になる。旗艦は「赤城」で、再び「赤城」で勤務をする。四十代の終りから数え年五十にかけての時期で、航空に関しても軍事学一般に関しても実によく勉強したらしい。
ある時「赤城」に赤《せき》痢《り》患者が出て、佐世保《させぼ》に隔離になり、第一航空戦隊の司令部が一時「龍驤《りゆうじよう》」に移されたことがある。「龍驤」の艦長は桑原虎《くわばらとら》雄《お》であった。
司令官室と艦長寝室との間に共用のバスルームがあって、夜半急に腹の痛くなった桑原がノックもせずに飛びこんだら、山本が西洋便器の上に腰かけて本を読んでいた。あとで見たら「孫《そん》子《し》」であったという。
しかし山本のは、真面目《まじめ》一方、勉強一方というのと少しちがって、いつも何処《どこ》かに茶目っぽいところがあり、息抜きの穴があけてあった。
昭和五年十二月、山本の航本技術部長発令と同日付を以て航空本部技術部部員兼軍需局員のポストについた本多伊吉は、朝早く出勤して山本の机の上に横文字の本が置いてあるのを見つけ、
「相変らず勉強しておられるな」
と、ちょっとひらいてみると、英語の猥本《わいほん》であった。
第一航空戦隊の司令官時代、「赤城」を見学に来たある部外の人が、艦の上空、二機の戦闘機が組んずほぐれつ空中戦の訓練をしているのを仰いで、
「実にうまいもんだなあ」
と感嘆の声を発すると、山本は急に渋い顔になった。そして、
「君、あれを遊び事のように思って見てもらっては困るよ。ああやって急降下をやると、肺の中に出血して、命が縮むんだ。あの訓練は、三十歳過ぎたらやれない。実際、人の子を預かっていてあんな事をやらせるのは忍びないんだが、国の為《ため》でやむを得ずやらせているんだよ」
と言ったという。
この第一航空戦隊司令官を八カ月つとめてから、山本は再び陸《おか》へ上って、軍令部出仕兼海軍省出仕になった。
それが昭和九年の六月で、それから間もなくロンドン軍縮予備交渉の帝国代表を命ぜられ、ロンドンに行って、翌十年の二月に帰って来るまでの経緯は、既に書いた通りである。たいへん廻《まわ》り道になったけれども、これが、もともと鉄砲屋の山本五十六が海軍航空本部長の要職につくようになるまでの背景である。
航空本部長になった時、山本の頭の中ではもう、航空機が海上の主兵たり得るか否《いな》かという事は、議論の余地の無いものになっていた。今後、洋上決戦の主役は、飛行機と、空母中心の機動部隊とであって、その事は、疑う余地のない、いわば一種自明の公理のようにしか山本には思えなかったらしい。
しかし、日本海軍の上層部が大勢としてその考えに順《したが》いつつあったかというと、事情は逆であった。
大部分の提督たちは、大艦巨砲主義、戦艦中心の聯合《れんごう》艦隊といった古典的なイメージを、まだまだ頭から捨て去る事が出来なかった。彼らにとって、飛行機はどこまでも補助兵器であった。山本の如《ごと》き考えを押し進めて行けば、海空軍は空海軍になって、戦艦は無用の長物になってしまう。そういう事は、日本海海戦以来の帝国海軍の輝かしい伝統に対する、一種の冒涜《ぼうとく》のようにすら感ぜられた。
ロンドンから帰って来た山本は、伊藤正徳に向って、
「マクドナルドと二人で話したが、さすがに偉い政治家だと思った。親切なおやじの話を聞いているような気がした。しかし、来年は先《ま》ず絶望だ。次善の策を考える外はない」
と語ったそうであるが、無条約時代、無制限建艦競争の時代は目前に迫って来つつあった。その時に備えて、「大和《やまと》」「武蔵《むさし》」以下、日本独自の極秘の建艦計画が進められつつあった。
日本が、この途方もない大戦艦の建造を思い立った動機は、二つあったようである。
「陸奥《むつ》」「長《なが》門《と》」の主砲より一とまわり大きい十八吋《インチ》砲を造って試射してみたところ、破壊力が異常に大きい。この十八吋砲を積める戦艦が造れないだろうかというのがその一である。満載排水量七万二千噸《トン》の「大和」「武蔵」は、大き過ぎてパナマ運河が通れない、建艦競争になって、アメリカがこれと同型の戦艦を保有しようとすれば、艦が太平洋に釘《くぎ》づけになるのを覚悟するか、太平、大西両洋に同型の艦を浮べるか、どちらかより道は無い、これの建造によって、日本海軍はアメリカに対し一歩有利な立場に立てるというのがその二である。
海軍艦政本部が、軍令部から、帝国海軍第三次補充計画の一つとしてこの新戦艦の研究を要求されたのは、昭和九年、山本がロンドンに着いたか着かぬかの十月のことであった。
彼が航空本部長になった時は、研究の結果に基づいて、実際にこの超々弩級《どきゆう》戦艦の建造を決意するか否かで、部内の意見の調整が行われている時であった。
山本は大反対であった。彼は、「大和」「武蔵」の建造に要する金と資材とを以《もつ》てすれば、どの程度海軍航空の充実が出来るか、それによって帝国海軍の実力がどの程度向上するかという事を、一々数字を挙げて説いてみせたが、なかなか建造論者を納得させる事が出来ない。
積極的建造賛成論の筆頭は、時の海軍艦政本部長、中村良三大将であった。それからそれと並んで、末次信正大将である。末次は艦隊派の一方の旗がしらで、山本が最も虫の好かない先輩の一人であった。
中村は、山本の航空主兵説に反対である。山本と中村とは、「大和」「武蔵」の建造をめぐって度々激しい口論になり、海軍大臣の大角が伏見宮を仲裁役にかつぎ出さなくてはならなくなったりした。
山本の論《ろん》旨《し》は、
「そんな巨艦を造ったって、不沈という事はあり得ない。将来の飛行機の攻撃力は非常に増大し、砲戦が行われるより前に、空からの攻撃で撃破されるから、今後の戦闘には大戦艦は無用の長物になる」
というのであったが、証拠を出してみろと言われれば、世界の海戦史で飛行機に沈められた戦艦は、未だ一隻《せき》も無い。山本の所論は、今でこそ当然至極のものに見えるかも知れないが、当時は少しも当然でない。一部の人には、過激で非現実的な書生論のように思われたらしかった。
結論が出たこんにちでは、戦艦中心の大艦巨砲思想こそ、時代に即さない非現実的な感傷論であったという事になるが、それは感情に基づく面が多分にあっただけに、根強くて、開戦後も消え去る事はなかった。
この人々が、部内に「世界の三馬鹿《ばか》、万《ばん》里《り》の長城、ピラミッド、戦艦大和」という耳語が行われているのを知り、いやでも現実に眼をさまさざるを得なくなったのは、これよりずっとずっと後で、山本も死んで、その頃《ころ》にはすべてがもう手遅れだったのである。日本海軍が戦艦部隊を支援兵力にはっきり格下げしたのは、敗戦のようやく一年前であった。
「大和」「武蔵」の設計担当の責任者は、日本造船界の権威、平賀譲、福田啓二の二人であった。
山本は福田造船少将の部屋へ入って来て、
「どうも、水を差すようですまんですがね、君たちは一生懸命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も、空軍が大事で、大艦巨砲は要らなくなると思う」
と、福田の肩に手をかけて言ったりした。
福田は山本の人柄《ひとがら》にはかねてから感心していたらしく、
「ああいう人には女が惚《ほ》れるよ」
と言っていたが、この時は山本の言葉通り正《まさ》しく「一生懸命やっている」最中でもあり、世界一のものを作ってみせるのだという技術者としての誇りもあり、
「いや、そんな事はありません。私たちは絶対とは言えないまでも、極めて沈みにくい船を造ってみせます。それだけの可能性を考えて設計しているのですから」
と、蜂《はち》の巣《す》甲鈑《こうはん》のことなども持ち出して反論した。蜂の巣甲鈑(honeycomb armorplate)というのは蜂の巣状の穴をあけたアーマーで、高々度からの爆弾がこれにひっかかって貫通しにくく、重量の方は軽くてすむことになる。「大和」「武蔵」ではボイラー・ルームの上に直径十八センチの穴を百八十箇《こ》あけた厚さ三十八センチの蜂の巣甲鈑が使われることになっていた。山本はそれを聞かされると、
「うむ、しかし……」
と、不服そうに黙ってしまったという。
桑原虎雄は、この時、昔山本が勤めた霞《かすみ》ヶ浦《うら》航空隊の副長兼教頭のポストにいた。桑原や大西滝治郎ら飛行将校だけは、山本の説の熱心な支持者であった。彼らは、未来の聨合艦隊は雲の上に在りと思っていた。乏しい航空予算で、一年分の燃料を前半期に全部使い果してしまうような猛訓練をつづけているのに、何を今さら、莫大《ばくだい》な金をつぎこんで戦艦の建造などするのだろうと思っていた。
何回目かの高等技術会議だか最高首脳会議だかのあと、東京へ来ていた桑原虎雄が、航空本部の山本の部屋をのぞいて、
「本部長、会議はどうでした?」
と聞くと、山本は、
「いやァ、駄目《だめ》だよ。僕《ぼく》のような力の足りない者じゃ、残念ながら駄目だった。『大和』も『武蔵』も造る事に決ったよ」
と、憮《ぶ》然《ぜん》として答えた。それから、
「年寄りは、座敷作ったら、床の間は必ず要るものと決めてかかってるんだから、若い者は対抗出来ないよ」
とも言った。
この話は、二隻の建艦が正式に決定した昭和十一年七月の事であろうと思われる。山本は、その建造に職を賭《と》して反対するつもりであったというが、結局は彼の意見は通らなかった。
「大和」と「武蔵」は山本の予言通り、それから八年乃《ない》至《し》九年後、その十八吋九門の巨砲に殆《ほとん》ど有効な火を吹かせないままで、アメリカの飛行機に沈められるのであるが、その非運の竜骨《キール》が秘密裡《り》に呉《くれ》海軍工廠《こうしよう》と三菱長崎《みつびしながさき》造船所とに据《す》えられたのは、これから間もなくの事であった。
第五章
この「大和《やまと》」「武蔵《むさし》」の建造が正式決定を見た時よりも約五カ月前、山本五十六が海軍航空本部長に補せられて三月目の昭和十一年二月二十六日早暁《そうぎよう》、いわゆる二・二六事件が勃発《ぼつぱつ》した。
内大臣斎藤実《さいとうまこと》、大蔵大臣高橋是清《たかはしこれきよ》、陸軍教育総監渡辺錠太郎の三人が叛乱軍《はんらんぐん》の襲撃を受けて即死し、侍従長の鈴木貫太郎が重傷を負うた。
総理大臣の岡《おか》田《だ》啓介《けいすけ》は、首相官邸で寝ていたところを襲われたが、義弟の松尾伝蔵が身替りとなって射殺され、岡田は女中部屋にかくまわれていて、翌日午後無事官邸から救出された。松尾伝蔵は岡田が総理になった日から、何かの折には自分が義兄の身替りになって撃たれようと覚悟を定め、髯《ひげ》や髪の恰好《かつこう》など出来るだけ岡田に似せて岡田の身辺に起居していた人である。前内大臣の牧《まき》野《の》伸顕《のぶあき》も、湯河《ゆが》原《わら》に静養中を襲われたが、孫娘に手を引かれて山の中へのがれ、助かった。この孫娘はのちに麻《あそ》生《う》太賀《たが》吉《きち》に嫁いだ吉《よし》田《だ》茂《しげる》の次女の和子である。
これらの事はよく知られている通りであり、事件そのものは四日で平定したが、これ以後、陸軍の政治支配力が著しく強化されたのも、すでに広く世に認められている事実であろう。
二・二六事件の首謀者は、日本の国粋的改革、第二の維《い》新《しん》を夢みた、陸軍の一と握りの青年将校たちであった。彼らにそれを夢みさせた背後の者も、主として一部右翼勢力と陸軍の上層部の中にいた。
それでは、海軍の方は、この事件に関して全く中立で、関与するところがなかったかというと、必ずしもそうではない。襲撃された侍従長の鈴木と首相の岡田と内大臣の斎藤実とが、三人とも日本海軍の長老であるという点は別としても、部内にはこの動乱の数日間、少なくとも二つの動きがあったように見える。
その一つは、無論、陸軍の蹶《けつ》起《き》将校たちに同調して立ち上ろうという、若い一部の海軍士官の動向であった。
事件直後、航空本部の山本のところにもかなりの人数の青年士官たちが、
「陸軍はこの大事を決行しました。われわれも黙ってはおられません」
と言い寄って来た。
山本は、珍しく大声を出して、彼らを追い返したそうである。
その二つは、これと反対に、場合によって海軍が自身の兵力を以《もつ》て陸軍を叩《たた》こうという動きであった。
二月二十六日から一両日間の陸軍首脳の動静というものは、川島陸相が叛乱軍の蹶起趣意書を全軍に伝達する、叛乱部隊幹部と会見した軍事参議官たちが、彼らの挙兵に賞讃《しようさん》の言葉を送るという風で、青年将校たちの「国家改造」の夢は今にも実現しそうに見えた。古川敏子や昔ハーヴァードで一緒だった森村勇は、のちに山本が、
「あの時は、陸軍の出方によっては、海軍は陸軍と一戦交えるのを辞さないつもりだった」
と言ったのを聞いている。
ただしこれは、山本が自分で乗り出して、何かするというような意味ではなかったであろう。
海軍部内のこの相反する二つの動きは、いずれも結局表面に出る事なくしておさまり、山本自身も、この事件に際して何も表立った行動は示さなかった。航空本部長というのは、こういう場合、何か行動を起したり指示を与えたりするような立場ではなかった。
山本は、二十五日の晩からたまたま海軍省内に泊りこんでいて、役所で事件の発生を知ったのだが、反町栄一《そりまちえいいち》の本によると、彼の具体的にやった事は、先輩の鈴木貫太郎の身を案じて、すぐ軍医を自動車で鈴木邸へ送りこみ、同時に電話で東大の近藤博士という外科医を頼んで、この人にも鈴木邸へ急行してもらった。その程度の個人的活躍だけに留《とど》まったようである。
この近藤博士というのは、反町の本に、「帝大外科の第一人者近藤博士」とあるのみで、誰《だれ》の事かはっきりしない。反町式表現法では、山本に関連のあるものは、何でも飛び切り上等になったり第一人者になったりするので何とも言えないが、もし事実とすれば、現在の東大石川外科の初代教授、近藤次繁《こんどうつぐしげ》の事ではないかという気がする。しかし、頼んだ山本も、往診を受けた鈴木も、その近藤次繁も、皆死んでしまった今では、確かな事は分らない。
鈴木貫太郎の家には、その朝六時、すでに日本医科大学学長の塩田広重博士が駈《か》けつけていた。鈴木はそれから飯田橋の日本医大付属病院に移され、其処《そこ》で塩田博士の執刀で手術を受けた。近藤次繁は、塩田にとって教室の系統はちがうが先生すじに近い人である。だから山本が「近藤博士」に鈴木邸へ急行してもらったという事と、塩田広重が鈴木の主治医であったという事の間には、或《あるい》は何か関係があったかも知れない。
いずれにしても山本は、前々からその「近藤博士」を識《し》っていたのであろうし、医者がいくら重なってもいい、万全の措置をとりたい、事件の性格からも、今此処《ここ》で鈴木さんを死なせてなるものかという強い思いが、山本の心の中に働いていたのではないかと思われる。
塩田広重の書いたものによると、叛乱軍の軍曹《ぐんそう》は、鈴木貫太郎が、
「俺《おれ》が鈴木だ、話を聞くから、静かに」
というのに、
「閣下、ひまがありませんから撃ちます」
と一言答えて拳銃《けんじゆう》の引金を引き、つづいて三人の部下が鈴木の身体《からだ》に弾を撃ちこんだという。
志賀《しが》直《なお》哉《や》の随筆「鈴木貫太郎」によれば、さらにその上止《とど》めをさそうとする者があった。それを夫人が、
「老人だから、それだけはやめてもらいたい」
と押しとどめ、それで闖入者《ちんにゆうしや》たちはそのまま引き上げて行った。
しばらくすると、鈴木は熊《くま》に襲われた旅人みたいに、
「もう逃げたかい?」
と言って身を起したそうである。
どの一発でも命取りになるところであったが、それが不思議に、みな急所をはずれたり骨ですべってうしろへ廻《まわ》ったりして、鈴木を殺さなかった。
塩田は手術の結果、そういうピストルの弾を三つまで摘出したが、翌日になってどうももう一発足りないらしいと気がつき、精細に診察してみると、鈴木の陰嚢《いんのう》がボールのようにふくれ上っていた。エックス線で診ると、四発目の弾丸は鈴木の下腹部の骨盤の上に留まって、内出血で皮膚が著しくふくれているのが分った。塩田広重はそこで、「鉛玉、金の玉をば通しかね」という駄句《だく》をものした。
こうして一命取りとめた鈴木貫太郎は、これから九年後に、総理大臣として、戦争を終結に持ちこむ人になるわけである。
鈴木はとぼけるのが上手であったらしく、終戦内閣の時でも閣議の席上都合の悪い話は耳が遠くて全然聞えないふりをしていた由《よし》で、侍従長時代海軍部内の対英米強硬論や日本の右傾化にどの程度強い反対意見を持っていたかはよく分らない。しかし網野菊が彼の身内の人からじかに耳にした話では、対米戦争が始まった直後家族の者に向って、
「日本はこの戦争に勝っても負けても、三等国に下る」
と言っていたそうである。
戦況のもっともいい時で、これを網野から聞いて異様な感じを受けたと、志賀直哉は「鈴木貫太郎」の中に書いている。
また、鈴木終戦内閣の農商大臣をつとめた石黒忠篤《いしぐろただあつ》の三男光三が、戦争中父親に連れられて鈴木の家を訪問したことがあった。それは、光三の姉の元子の仲人《なこうど》が鈴木だったというような関係もあって、予備学生として海軍に入り少尉《しようい》に任官してから挨拶《あいさつ》に連れて行かれたのである。石黒光三は鈴木大将と何の話をしたかはすっかり忘れてしまったが、辞去して門を出るなり父忠篤が耳元に口を寄せて、
「俺はネ、あの人がこの戦争をおさめる人だと思うよ」
と言ったのがひどく印象的で頭に残っているという。
山本は先輩の中で鈴木を尊敬していた。しかし事件に際して、いくら腹を立て先輩の身を案じてみても、立場上何も格別の働きは出来なかったのであるが、当時横《よこ》須賀《すか》に、山本と志を同じゅうする二人の海軍の将官がおった。
それは、横須賀鎮守《ちんじゆ》府《ふ》司令長官の米内光政と鎮守府参謀長の井上成美《しげよし》とで、この人々はこれより少しのちに、海軍省で、米内の大臣、山本の次官、井上の軍務局長という縦に一本の組合せとなり、陸軍や右翼の横車に頑強《がんきよう》な抵抗を試み、帝国海軍を一つにひっさげた形で、日独伊三国同盟の締結に徹底的に反対するのである。
黒潮会の新聞記者たちは、彼らの事を「海軍左派」と呼び、艦隊派の側に立つ記者でもこの三人が「海軍切っての名トリオ」であることは認めないわけにいかなかった。
戦後、横須賀長井の田舎へ隠棲《いんせい》した井上成美が、「思い出の記」と題し、彼の兵学校三十七期のクラス内限り、「部外秘」として発表した当時の記録がある。山本五十六から少し離れるけれども、私は此処《ここ》で、その井上の記録に基づいて、二・二六事件前後の横須賀における「海軍左派」の動静の概略を書いておこうと思う。
不穏の空気がある事は、無論前々から、誰《だれ》にも感ぜられていた。当時流布《るふ》された「怪文書」や「怪情報」を洗い出したら、おそらく際限が無いであろう。
仮にその一、二を挙げれば、次のようなものである。
「 岡田内閣の正体
反国家性自由主義売国《ばいこく》奴《ど》の
跳梁《てうりやう》を断《だん》乎《こ》排撃せよ
皇国団結の基礎は君臣一如《いちによ》の大道である。炳《へい》として輝く大道を紊《みだ》るもの曰《いは》く君側の奸《かん》臣《しん》にして牧野鈴木を繞《めぐ》る元老重臣ブロックである(中略)
元来牧野はフリーメーソンの一味僕党《ぼくたう》にして今や虎視《こし》眈々《たんたん》祖国を窺《うかが》ふ国際聯盟《れんめい》の水先案内となり袞龍《こんりよう》の袖《そで》にかくれ擅《ほしいまま》に岡田内閣を操縦しその野望を遂行せんとしてゐる。(中略)
岡田内閣の反国家的存在たる正体を指摘し皇国の逆叛者に対し同志の奮起を促すものである。
陸海軍青年将校有志
逆賊岡田床次《とこなみ》を征討せよ、皇国の大義潰《くわい》滅《めつ》に瀕《ひん》す              」
この文書は、海軍省法務局思想係の受付印を捺《お》されて残っていて、日付を見ると昭和九年十月二十五日、二・二六事件の一年四カ月前になっている。
次の檄文《げきぶん》は、事件発生より、ちょうど一年前のものである。
「 全皇軍青年将校ニ檄ス
断呼トシテ昭和ノ入《イル》鹿《カ》ヲ撃滅セヨ
時将《マサ》ニ至リツツ時愈々《イヨイヨ》熟シツツアリ、諸官ハ徒《イタヅ》ラニ眠レル大陸ノ獅子《シシ》ト終ル勿《ナカ》レ、軍服ノ聖衣ヲ身ニ纏《マト》ヘル諸官ノ部下ノ家庭ヲ視《ミ》ヨ、田畑ヲ売リ姉妹ヲ売リ木ノ実ヲ喰《ク》ヒ疲弊困憊《コンパイ》其ノ極ニ達セリ、且《カ》ツテ除隊営門ヲ出《イヅ》ル彼等ノ希望ニ満チタル溌剌《ハツラツ》タル姿モ今ハ全クシヨウスイシ切ツテ居ルコトハナイカ? 想起セヨ、必然不可避的第二維新ハ既ニシテ第二期戦ニ入リタルモ我等ノ陸海軍同志ハ今尚《ナホ》獄中ニ呻吟《シンギン》シツツアル、(中略)
起《タ》テ、而《シカ》シテ熱シタル維新ノ戦闘ヲ開始セヨ、視ヨ、国会ニ藩居スル昭和入鹿ノ部下奴《メ》! 其ノ国賊ニ等シキ奸策《カンサク》ヲ、行動ヲ、自利自《ジ》慾《ヨク》ニ飢ヘタル猿《サル》ノ如キ野望ヲ、口ニ兵農両善ヲ叫ヒ実行ニ軍民離間ヲ策セル自由主義亡者ノ群ヲ!(中略)
行ケ、同志ト結束シテ進軍セヨ、御英明極リナキ御宝算未《イマ》ダ御若キ大聖帝ヲ擁立シテ唯《タダ》一路金色ノ鵄《シ》鳥《テウ》ノ導ク昭和維新ノ戦線目指シテ
皇紀二千五百九十五年二月
軍民聯合潜兵隊」
これらを見れば、不穏な空気の中核に在った者が、陸軍の青年将校だけでなかった事は明らかである。
「御英明極リナキ御宝算未ダ御若キ大聖帝ヲ擁立シテ」などというのは、一体どういうつもりか、「君側の奸」を除けば天皇がほんとうに彼らの蹶起に賛成されると思ったのか、まさか当時満二歳にならない皇太子をかつぎ出すという意味ではなかったであろう。
二・二六事件の際陛下のとられた態度は非常にはっきりしたものであった。当時の侍従武官長本庄繁《ほんじようしげる》の書いたものに、
「陛下には陸軍当路の行動部隊に対する鎮圧の手段実施の進捗《しんちよく》せざるに焦慮あらせられ、武官長に対し、朕《ちん》自ら近《この》衛《ゑ》師団を率ゐこれが鎮圧に当らんと仰せられ、真に恐懼《きようく》に堪へざるものあり」
とある。
本庄大将は女婿《じよせい》の山口一太郎大尉が事件に間接に関与していて、苦しい立場にあった。二十八日の午後陸相の川島義之《かわしまよしゆき》大将と陸軍省調査局長の山下奉文《やましたともゆき》少将が武官府に彼を訪ねて来て、
「行動将校一同は大臣官邸で自《じ》刃《じん》して罪をお詫《わ》びし、下士以下は原隊に復帰させる。ついては勅使を賜《たま》わって彼らに死出の光栄を与えていただきたい。それ以外に解決の方法はない。第一師団長も、部下の兵を以《もつ》て部下の兵を討つに耐えぬと言っている」
という申入れをし、本庄が「おそらく不可能であろうが」と、躊躇《ちゆうちよ》しながら御政務室に入って伝奏すると、
「陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為《な》すべく、斯《かく》の如《ごと》きものに勅使など以ての外なりと仰せられ、又師団長が積極的に出づる能《あた》はずとするは自らの責任を解せざるものなりと、未《いま》だ嘗《かつ》て拝せざる御気《みけ》色《しき》にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙《かうむ》る」
本庄大将は「返す言葉もなく退下」して来るという有様で、「御英明極リナキ御宝算未ダ御若キ大聖帝」の考えは、叛乱軍の若手将校たちの考えと全く相《あい》容《い》れないものであった。しかしこういう空想と独断が動かしがたい信念に変り、信念がさらにバランスを欠いた夢を生むのは、何もこの時代のこの人々にかぎったことではない。
引用した怪文書の字使いや語法は、すべて原文のままで、思想的にクレイジーになった人間の書く文章は、いつでも調子がよく似ている。ただ始末の悪いのは、彼らの自由に出来る武器が、密輸入のフィリッピン製のピストルや火《か》焔瓶《えんびん》や角材の程度ではなかったという事であろう。
井上成美は、横須賀鎮守府の参謀長になる前、戦艦「比《ひ》叡《えい》」の艦長を勤め、その前は海軍省軍務局第一課長のポストにいたが、軍務局一課長の時、すでに、戦車を一台海軍省に常駐させるという措置を取っている。万一の時これで海軍は自衛するのだとは言えないから、市民に対する軍事思想普及宣伝用という、苦肉の名目であった。
「比叡」の艦長当時は、陸上料亭《りようてい》での「青年士官有志の会合」に、「比叡」乗組士官が出席する事を禁止した。
「井上成美なんかに、戦艦の艦長が勤まるもんか」
というような悪口が聞えて来たが、井上は部下に常に次のように説いていた。
「軍人が平素でも刀剣を帯びる事を許されており、吾々《われわれ》またその服装を誇りとしておるのは、一朝事ある時、その武器で人を斬《き》り、国を守るという極めて国家的な職分を果すからである。然《しか》しその一朝事ある時であるかどうかは、国家の意志が之《これ》を決する。即《すなわ》ち『戦争』と国の意志が決定し、『さあ、やれ』と統帥権《とうすいけん》の発動があってはじめて軍人が敵人を殺し、敵物を破壊する事を許されるのである。然るに軍人が手近に武器を保有しておるのを奇貨とし、統帥権の発動もないのに勝手に之を以て人を殺すような不法な事をすれば、名誉ある軍人は忽《たちま》ち殺人の大罪人と化し、神聖な武器は殺人の兇《きょう》器《き》となる事をさとれ」
至極あたり前な論旨であるが、一部の青年士官たちに、これらの事は総じて甚《はなは》だ受けがよくなかった。
井上が横鎮の参謀長になってみると、参謀長官舎の正門が、横須賀海軍工廠《こうしよう》の総務部長、山下知彦大佐の官舎の門と向き合っていた。山下大佐の家には、週に一回ぐらい、若い海軍士官が大勢集まって、何かしきりに討論をしている様子であった。山下は井上に、
「若い人たちの教育だ」
などと言っているが、どうも東京方面から諸種の情報を集めて来て、それを彼らに吹きこんでいるらしい。青年士官たちは、帰りには必ず井上の門の前に並んで、井上の官舎の方に向って立小便をして行った。
「その頃、山下塾《じゆく》の如き私塾は、外にも相当あったのではないかと思う」
と、井上は書いている。また、
「言論界の人たちは、国家よりも自分の金もうけが第一らしく、何か右翼迎合の調子が強く、正々堂々中正の論をなすもの極めて稀《まれ》な情況であった」
とも書いている。
井上がこうして、鎮守府参謀長として海軍部内、部外の様子を見ていると、雲行きはますますよくない。海軍士官同士でも、深い知り合いでなければ、お互い、こいつ艦隊派かな、条約派かなと、さぐり合いばかりやっていて、なかなか打ちとけて話も出来ないような空気であった。
井上は、事が起った場合、横須賀から兵力を差し向けて海軍省が守れるだけの準備は、どうしてもしておかねばならぬと考えるようになった。陸軍の方は、どう動くにせよ東京に豊富な兵力を擁しているが、海軍は東京に実施部隊を持たないからである。彼は長官の米内の承諾を得て、
一、特別陸戦隊一ヶ大隊を編成し、顔合せと訓練を行わせておく。
二、砲術学校から掌砲兵二十人、いつでも鎮守府に集まれるよう手《て》筈《はず》をしてもらう。これはいざの時、海軍省へ派遣して、官房の走り使いや省内の守備にあたらせる為《ため》である。
三、軽巡「那珂《なか》」の艦長に、昼夜雨雪を問わず、いつでも芝浦へ急航出来るよう研究方内命しておく。
これだけの処置を取る事にした。
真の目的は、長官の米内と自分と先任参謀しか知らなかったと、井上は書いているが、軍艦「那珂」を準備させたのは、陸戦隊を東京へ輸送するのに鉄道は陸軍の妨害を受けるおそれがあったのと、もう一つ、宮中が危険になった時、天皇を「那珂」へ移そうという含みからであった。
横須賀鎮守府司令長官の米内光政は、昼あんどんという綽《あだ》名《な》の人であった。のちに海軍大臣になってからは、金魚大臣という綽名もあった。見かけだけで、使いものにならぬという意味である。
茫洋《ぼうよう》とした人物で、とにかく山本や井上のような切れ者でなかった事は確かだが、それだけに器量は一とまわり大きかったと評する人もある。
海軍省副官として一時期大臣の米内に毎日のように接した松永敬介は、
「忍耐強い人で、議会の雛壇《ひなだん》に坐《すわ》ると二時間でも三時間でも、まったく姿勢を崩さなかったし、艦隊の会議などでも一と言もしゃべらないで終ることがあったが、米内さんはほんとうはずいぶん神経質で、黙ったままよく額のところをピリピリさせていた」
と言っている。
緒《お》方竹虎《がたたけとら》や小泉信三の書いたものを見ても、米内が単に昼あんどんそのものの凡器であったとは考えられない。
昭和十年の暮か、十一年一月のある日曜日、横須賀鎮守府の先任副官が、参謀長の井上に断わりなしに、大勢の若い士官を長官官舎に案内して、米内に会わせてしまった事があった。
米内は押し出しも立派だし、さすがに貫禄《かんろく》もあり、こういう場合には極端に無口な方で、青年将校たちは押されたのか拍子抜けがしたのか、別に不穏な言動も見せず、すぐ引き退《さが》って行ったが、これが他の軍港地あたりに、
「米内さんに面接して大いに気勢を上げ、米内さんまたこれを激励した」
という風に誤り伝えられるおそれは、充分にあった。
井上成美はそれを憂《うれ》え、事の真相を横須賀鎮守府参謀長名で、すぐ各鎮守府各要港部あてに電報しておいた。
ほどなく、横須賀の「魚勝」で、新春恒例の在横須賀陸海軍首脳者の懇親会が開かれた。「魚勝」は「フィッシュ」と呼ばれ、「パイン」の「小松」と並んで長年海軍士官たちに親しまれて来た海軍料亭である。
芸者が入り大分酒がまわった頃《ころ》、陸軍の横須賀憲兵隊長、林という少佐が、井上の前へやって来て、
「この間、若い士官連中が米内長官と会談したあと、貴公はあんな電報を打つなんて、あんまり神経質だな」
と言い出した。
井上の参謀長名で出した電報の内容が、すぐ憲兵隊に洩《も》れていたらしい。鎮守府司令部の中にスパイがいるとは、まことに油断もならぬ世の中であったと、井上は書いている。
林はそれから井上に向って、しきりに「貴公、貴公」と言う。
井上は段々不愉快になって来、
「おい。君は少佐だろう? 私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに、貴公とは何事だ。海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って、後甲板でくだをまいていても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼するんだ。海軍には無礼講は無い。君のような人間とは一緒に酒は飲まん」
と言って、プイと席を立ってしまった。
そして彼が別室で茶漬《ちやづけ》を食っていると、間もなく、芸者が三、四人、
「参謀長、たいへんよ」
と、どやどや入って来た。
「荒木さんと柴山さんが、憲兵隊長とけんかしてます」
「どっちが勝ってるかね」
と井上が聞くと、
「憲兵隊長がやられてるけど、ほっといていいかしら」
「そんなら、ほっとけ、ほっとけ」
と井上は言った。
その時には、広間の方で、憲兵隊長の林某は、海軍の荒木、柴山《しばやま》二人の少将に、さんざんなぐられているところであった。
荒木は、横須賀防備戦隊司令官をしていた荒木貞亮《さだあき》、柴山は横須賀鎮守府の人事部長柴山昌《まさ》生《き》で、二人とも山本より三期下の兵学校三十五期、これから間もなく予備役になって、荒木は実業界に入り、柴山は男爵《だんしやく》だったので貴族院議員になったが、今は共に故人である。
しかし横須賀の憲兵隊長ぐらいなぐってみても、実はもう仕方が無かったわけで、それから約一カ月半後、井上は早朝、副官の電話で叩《たた》き起される事になった。
「参謀長。新聞記者の情報ですが、陸軍は今《こん》暁《ぎよう》、大変な事をやりました。一部は首相官邸を襲って――」
と、其処《そこ》まで聞いた井上は、
「よし。あとは鎮守府で聞く。一刻を争う。幕僚全部をすぐ出勤させろ」
と命じ、自分も急いで支度を始めた。
井上が鎮守府に顔を出した時には、すでに幕僚全員が揃《そろ》っていた。
それから、砲術参謀が急遽《きゆうきよ》自動車で東京へ実情実視に出かけて行く。掌砲兵二十名海軍省派遣警急呼集。特別陸戦隊用意。「那珂」急速出港準備。
次々に手が打たれ、九時近くになった頃、それまで公《く》郷《ごう》の長官官舎で電話報告を聞いていた米内光政から、
「そろそろ俺《おれ》も出て行った方がいいか?」
という、如何《いか》にも米内らしい、のんびりした電話がかかって来た。
そして間もなく米内長官も姿を見せ、横須賀鎮守府の司令部一同は、いわば和戦両様の構えで四日間の籠城《ろうじよう》になるのであるが、巡洋艦「那珂」の出港に関しては、軍令部から、警備派兵は手続きが要る、横鎮が勝手に軍艦を出してはいかん、手続きがすむまで待てと言って来、特別陸戦隊が「那珂」に乗って東京へ向ったのはその日の午後になった。井上は相当不満だったようである。
陸戦隊の指揮官は、井上と同期の佐藤正四郎大佐で、佐藤は事件が収まるまで朱鞘《しゆざや》の大刀を背負い、海軍を代表して東京で非常の活躍をし、山本五十六もこれをのちのちまで喜んでいたという。
佐藤正四郎の下で陸戦隊の中隊長をつとめたのは今井秋次郎大尉であった。今井は、姓はちがうが松永敬介の実弟である。松永は海軍省で、弟の部隊が到着するのを首を長くして待っていた。
事件勃発《ぼつぱつ》と同時に、陸軍から憲兵隊の手で海軍を護《まも》ろうかと言って来たが、「自分の手で護ります」と、それは断わってある。
弟たちの部隊が着く前に夜になって、もし叛乱軍《はんらんぐん》が攻めて来たら、門の前に海軍省の自動車を一列に並べ、ヘッド・ライトをともして敵の眼《め》を惑乱させろと松永は命令を下した。
海軍省の運転手たちは軍人ではない。ヘッド・ライトをつければそれを狙《ねら》い撃ちされるというので、この命令に彼らは参ったそうである。
聯合艦隊は、この時土佐沖での演習を終って宿《すく》毛《も》に入港中であったが、命をうけて急遽第一艦隊は東京湾へ、第二艦隊は大阪湾へ警備のため入った。第一艦隊の各艦は主砲をひそかに、占領された議事堂に向けていた。陸軍の出方によって、もし決断が下されたら、議事堂は三発で吹き飛んだろうと、この時の聯合艦隊司令長官高橋三吉は語っている。
海軍が陸軍に対し、砲火を浴びせるような羽目にならずに事件が終ったのは、あたり前に考えれば不幸中の幸い、まことに結構な事であったが、陸軍の動向が途中で逆転せず、大勢がもっと蹶起部隊に同調する動きを示し、「軍事内閣の樹立」「国家改造」への道を進み出し、其処で陸海相討つ事になったとしたら、昭和十一年以後の日本の歴史はどう変ったか、これも興味のある一つの「もしも」にはちがいない。
さて、此処《ここ》で話を山本五十六のいる海軍航空本部に戻《もど》すことにするが、航空本部というのは、もと艦政本部から分れて独立した部で、歴代の本部長は、ややもすると艦政本部に対して遠慮があって、言いたい事も充分には言わないという傾きが見えた。
艦政本部の方から言わせれば、お前たち、飛行機、飛行機というけれども、雨が降れば飛べない、波が高いと出られない、あれじゃしようがない、戦争の役には立たないじゃないかという頭が未《ま》だ多分に残っているし、航空本部の方にすれば、軍艦をたくさん造る手間でもう少し航空の方にも金をまわしてもらいたい、予算さえあればもっといくらでもやってみせると思っている。その主張の兼ね合いで、どうしても航空本部の方が弱かったのである。
しかし、山本五十六が航空本部長になると、彼ばかりは態度が極めて傲岸《ごうがん》積極的で、少しも艦政本部を憚《はばか》る様子が無かったという。
山本はまた、歴代本部長がともすると内心そう考えたように、航空本部長の椅子《いす》を、昇進のための一つのステップとは考えていなかった。
実際には、山本はまる一年しか航空本部長を勤めなかったのだが、前章にも書いた通り、
「航空本部長なら、いつまででもやっていたい」
と彼が言うのを、多くの人が聞いている。
それというのも一つには、この前山本が技術部長として航空本部にいた昭和五年の暮から約三年間、心魂傾けて播《ま》いた種を、彼は今、本部長として、自分の手で刈り取る時に遭遇していたからである。
技術部長時代の後半、松山茂航空本部長という名伯楽《めいはくらく》を得て、彼が思う存分に腕をふるった成果が、すぐれた国産の海軍機という形で、彼の前に現われて来つつあった。
海軍機の呼称法について、ここで少し説明をしておく必要があるかと思うが、海軍の飛行機に、「銀河」とか「天山《てんざん》」とか「紫電」というニックネームがつけられるようになったのは、大体日米開戦後の現象であって、この当時はすべて、実用機として採用した年を冠して、九四式水偵《すいてい》とか九七式艦攻とかいう風に呼んでいた。
年といっても神武紀元が基準だから、九四水偵は皇紀二五九四年、すなわち昭和九年に制式採用になった水上偵察機、九七式艦攻は、昭和十二年採用の艦上攻撃機ということになる。
高名な零戦は、正式には零式艦上戦闘機で、その呼び名は、皇紀二六〇〇年(昭和十五年)に実用機として登場した戦闘機という意味である。
一方、試作機の方は、昭和何年度の試験期にあらわれた飛行機という意味で、七試水偵とか、九試艦攻とかいう風に呼ばれた。七試の水偵が、昭和九年、皇紀二五九四年に制式採用されて、九四式水偵になる。少しややこしい。
山本が航空本部長の時、彼の前に第一線機として続々姿をあらわしつつあったのは、彼の技術部長時代手がけた七試、八試あたりの飛行機であった。
海軍の航空は、初めフランスが手本で、次にイギリス、第一次大戦後はドイツからも学んだ。
外国に少し注目すべき飛行機が生れると、すぐそれを購入し、徹底的に分解して研究する。外国の航空機メーカーから、いつも一機だけでなしに少しまとめて買ってもらいたいと、皮肉を言われた事もある。日本人はコッピヤーだ、猿《さる》真似《まね》人種だと悪口を言われても仕方のないところがあった。
昭和の初年まではそういう時代だったが、山本が航空本部の技術部長になると、彼は、もう日本も一本立ちになって、すべてを国産で、独自の飛行機を創《つく》り出さなくてはならない時だと言い出した。
誰《だれ》しもそうならなくてはいけないとは考えていたが、すでにその時代に入ったと山本が判断し決意したのは、海軍一般の考えよりもかなり早目であったという。
それには無論、前述のような、将来の海軍の主力が戦艦から飛行機に移るという考えが、裏打ちになっていた。
技術部長時代の山本の着想に基づく海軍機の中で、最も注目すべきものは、昭和八年度の八試特偵と呼ばれる、双発長距離陸上機であろう。
これが、翌昭和九年に手直しをされて、九試中型陸上攻撃機となり、山本が航空本部長時代、二・二六事件の昭和十一年に、九六式陸攻として正式に量産に入る。いわゆる中攻で、もっと分りやすく言えば、海軍渡洋爆撃隊として世界を驚かしたあの飛行機である。
何故《なぜ》山本が、こういう陸上用の大型機――名称は中型攻撃機であるが、そのころの海軍機一般のスケールから考えれば、ずいぶんな大型であったし、又、海軍には七試大型攻撃機(のちの九五式陸上攻撃機)という失敗作を除いて、大型機と呼ばれるものは当時無かった――に着目したかというと、日米開戦となって、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西へ進攻して来た場合、劣勢の帝国海軍としては、日本近海でこれを邀《むか》え撃つまでに、何とか相手の勢力を互角か互角以下のところまで落しておきたい、着実に、いわゆる漸減《ぜんげん》作戦がとりたい。
それには、頼るべき武器は潜水艦と飛行機しか無いが、空母搭載《とうさい》の小型機では、索敵距離も攻撃距離も、先《ま》ず互いに似たようなもので、必ずしも確実に一方的にアメリカ艦隊を叩《たた》けるとは限らない。
そこで、委任統治領として日本が保有している南洋群島の島々を、不沈の航空母艦と見て、この、島の陸上基地から陸上基地へ、急速に移動し、長駆アメリカ艦隊を先制発見し、先制攻撃をかけ得る、足の長い、性能のいい飛行機が、どうしても要るという事になって来たのである。
八試特偵――九試中攻、すなわち九六陸攻の設計製作にあたったのは三菱《みつびし》で、その主務者は本庄季《すえ》郎《お》技師、それに久保富夫、日《くさ》下部《かべ》信彦《のぶひこ》、加藤定彦、尾田弘志、福永説二、高橋《たかはし》巳治《みじ》郎《ろう》らの各技師が関係し、協力した。
彼らは、ユンカース系その他の外国技術と資料とを参考にし、それに彼ら独自の理想主義的設計を調和させて、我が国軍用機では初めての双発引込脚と、洗煉《せんれん》された全金属製モノコック構造の細い胴体とを持つ、美しい国産機を作り上げる事に成功した。
九六陸攻で、日本の飛行機は初めて世界の水準に達し、或《あ》る面ではそれを抜いたと言われている。
この陸上攻撃機の訓練の必要上生れたのが、のちに有名になる木《き》更《さら》津《づ》と鹿《かの》屋《や》の両飛行場であった。
日華事変が起ると、木更津海軍航空隊、鹿屋海軍航空隊を合した第一聯合航空隊はすぐ台湾に進出し、昭和十二年の八月十四日、台北と高《たか》雄《お》の二つの基地から暴風雨の東支那海を大編隊を組んで渡って、中国の広徳、杭州《こうしゆう》の両飛行場に薄暮攻撃を加えた。以後三日間の連続攻撃で、中華民国空軍は、立ち直り難《がた》いほどの打撃を受けた。
これが九六式陸攻の初陣《ういじん》で、有名な、事変初頭の海軍の渡洋爆撃である。世界の専門家は、日本海軍がいつの間にか、優秀な自動操縦装置と無線帰投装置とを備えたこんな飛行機を、こんなにたくさん、純国産で作り出していた事、それを使いこなして、ひどい低気圧の中を往復二千キロの渡洋爆撃行に成功した事に、大きな驚きを示した。
「プリンス・オヴ・ウェールズ」が、日本の海軍航空部隊に沈められる下地は、この時にもはや固まっていたと言ってよいであろう。
大体海軍大学校などといっても、将棋の駒《こま》を動かすことだけに熱中していて、駒を作る方は少しも考えない、山本はその点がちがっていた、彼の頭には早くから国家総力戦という考えがあって、のちに聯合艦隊司令長官になった山本は、結局自分の手で開発した飛行機をひっさげて大東亜戦争に臨んだのだと、本多伊吉は言っている。
この渡洋爆撃の成功は、山本が航空本部長の職を離れてからの事であったが、彼は、陸軍の始めた「支那事変」そのものについては苦々しく思いながらも、九六式陸攻の活躍ぶりには、思わず会心の笑みを浮べたというところではなかったかと思われる。
九六式陸攻は、次の一式陸上攻撃機にバトンを渡して生産を中止されるまでに、三菱で六百三十六機、そのあと中島で四百十二機、合計千四十八機が製作された。
零戦や一式陸攻は、いずれも十二試の飛行機で、山本の航空本部長時代よりあとのものになる。
航空本部長としての山本は、月に一、二回は必ず、名古屋の三菱重工業の工場へ出かけて行った。
当時三菱が、飛行機に関して日本で一番大きな生産能力を持っていたのであるが、それでも海軍の希望する数字より、それは低かった。
山本は、隘《あい》路《ろ》は何処《どこ》にあるか、不足している資材は何か、調べてはすぐ山本流にテキパキした手を打った。
日本の航空機工業はその後、目ざましい躍進ぶりを示して、戦争中のある時期には、生産機数において世界の二位を争うほどになったが、其処《そこ》までいたる過程において山本五十六に引きずられたような場面が、かなりあったのである。
で、そういう場合によくある例として、一体、財界実業界方面から、山本個人に何か反対給付のようなものがなされなかったかどうか、考えてみる読者もあるかも知れないが、そういう事は多分、無かった。山本は、その方面には恬淡《てんたん》な人であった。普通にいって、彼は権勢欲からも物質欲からも遠かった。
ただ、これは飛行機の事と離れるが、戦後、現在の八《や》幡《はた》製鉄が、戦争中山本さんに世話になった礼にといって、鉄鋼を何噸《トン》かずつ、何回かにわたって定期的に公定価格で未亡人に提供していた事があるらしい。
敗戦後の窮乏時代、鉄の公定価格と実際のマーケット・プライスとの間には、噸あたりかなりの開きがあって、その差額を生計の足しとして御自由にという含みであった。
八幡製鉄の社内では、この事実は今でも機密扱いになっているそうだが、事情を知る者には、むしろ佳話として伝えられている。山本が死んで、日本海軍が滅んだあとの礼子未亡人という者は、八幡にとって、どう見ても全く利用価値の無い一女性に過ぎなかった。
山本と財界とのつながりは、しかし、三菱や八幡に限られたものではなかった。
これからは、国防上、飛行機の価値がますます高くなって来る、彼の懸命の努力によって人も追々《おいおい》それを認めて来ている、そうなればいずれ生産上の大きな要求が出て来るにちがいない。三菱と中島くらいで到底足りはしない。技術者を養成し、航空機工業の裾《すそ》野《の》を拡《ひろ》げておくためには、どうしても三井、住友、日立などの大会社にもその方面に乗り出して来てもらわねばならぬというので、山本はある時、南条三井、小倉住友、小平《おだいら》日立の三社長に集まってもらい、海軍航空の現況を説明し、協力を訴える決心をした。
三人とも日本財界の有力者だから、失礼でないかたちでお眼にかかれるようアレンジをしろと、彼は副官に命じたが、副官の方では、今をときめく山本五十六中将で、航空本部長の部屋にでも集まってもらえばいいだろうと軽く考えて、電話をしかけたら、山本が、
「おい、待て」
と言った。
「こっちから物を頼むんだぜ。それも、発註《はつちゆう》するんじゃなくて、わけを話して理解してもらう立場なんだ。そんなやり方じゃあいけない」
副官をそうたしなめて、結局、芝の水交社に席が設けられる事になり、山本は其処で、某日この三人の財界人たちと会った。
南条金雄は、梅龍の千代子と浅からぬ関係にあった人で、それが原因ではあるまいが、山本の話を聞いて、少し言葉を濁し、帰って相談してから返事をしたいと言った。住友の小倉正恒《まさつね》も同じことを言った。
日立の小平浪平《なみへい》だけがその席で、
「一切をいとわず、御奉公いたしましょう」
と答えた。
「ただし、条件をつけるわけではないが」
と前置きをして、小平は、
「われわれの方では今、技術者の不足に悩まされている。非常時だ非常時だといって、技術者がどんどん召集されたり徴用されたりして、連れて行かれてしまう、日立としては飛行機は初めての仕事であるし、やるとすれば、あの者たちを何とか還《かえ》してほしいと考えるのだが」
と言った。
山本は即座に承知し、全部とは約束出来ないが出来るだけの事はしてみると言い、事実、すぐに然《しか》るべき処置を講じたという事である。
日立製作所は、この時の山本五十六との約束にしたがって、千葉に工場用地を準備し、のちにその航空機関連部門を、別会社の「日立航空機」として独立させ、練習機が主体ではあったが、終戦時までに相当数のエンジンと機体とを生産した。
航空本部長の職に在った間、山本は、三菱、中島の工場へ繁々《しげしげ》と足を運ぶ一方、暇を見ては横須賀航空隊や元の古巣の霞ヶ浦航空隊へも出かけて行った。
机上プランのころから自分が手がけた九六式陸攻とか、のちに片翼帰還の樫村《かしむら》機で有名になった九六式艦上戦闘機とか、色々な第一線機が新しく並んでいるのに同乗し、性能や乗り心地を自ら試してみるためであった。吉田善吾などは、聯合艦隊の司令長官になってからも飛行機には決して乗らなかったほどで、当時の海軍首脳で山本五十六くらい飛行時間の多かった人は、ちょっとあるまいと言われている。
反面、事故があると、その都度艦隊や各航空隊から、飛行機の性能の悪さとか不備の点とかについて航空本部長の山本のところへ、遠慮ない、きつい苦情を言って来る。山本はそれを一身におさめ、一方では艦政本部あたりの古い偉方《えらがた》に肘《ひじ》を張って対抗しているわけで、やり甲斐《がい》もあったが、つらい仕事でもあったらしい。
彼が本部長時代、機関大佐で、航空本部技術部第一課長を勤めていた中村止《なかむらとどむ》の話によれば、実施部隊からあまりに不平不満が殺到して、やり切れなくなると、山本は何も言わず、ふッと堀悌吉のところへ、出かけて行ったそうである。
堀はこの時分もう海軍をやめていたのだから、山本はただ、この友人に、人に言えない心の中を訴えたかったのであろう。
実際、軍用機の事故はその頃実に多かった。
新聞に、海と陸とで墜落の競争をしているなどと、悪口を書かれた。きょう大村で落ちる、あすは呉《くれ》で落ちる、一日おいて又追浜《おつぱま》で落ちるという風であった。
これは、それより前、山本が第一航空戦隊司令官として空母「赤城」に乗っていた頃《ころ》の話であるが、新しく麾下《きか》の航空戦隊に着任した飛行科士官が、司令官公室へ挨拶《あいさつ》に入って来ると、山本はテーブルの前に貼《は》り出した殉職者の氏名一覧表を示して、
「海軍航空隊が徹底的に強くなるためには、恐らく犠牲者の名前が、この部屋いっぱいに貼り出されるくらいにならねばならんだろう。諸君もその覚悟でやってくれ。きょうは先ず、教官指導の下に宙返りを五、六遍やって来い。司令官への着任の挨拶はそのあとで受ける」
と言ったりした。そのくせ山本は、殉職者の名前を書きこんだ手帖《てちよう》をこっそり出して眺《なが》めて、よく涙を浮べている事があったという。
何が事故の原因かという事では、色んな角度から検討がなされ、対策が講じられていたが、搭乗員《とうじよういん》の適性問題もみなが頭を悩ましている事の一つであった。
飛行予科練習生でも、飛行科予備学生でも、採用する時、学術試験や身体検査のあと、相当厳密な適性検査を行なって篩《ふるい》にかけるのだが、それでも、半年も経《た》ってから駄目《だめ》と決る者がたくさん出て来る。
駄目と決って飛行科からはずされるだけなら、不経済とか本人の不名誉とかで済むからいいが、そういう者が、不適格を申し渡される前に事故を起す。一人なり二人なり殉職者が出、予算は乏しいのに高価な飛行機が失われる。
東大の心理学教室に依頼して、実験心理学による適性検査もやっているが、それに基づいて採用した者が、初めはいいが、あと必ずしも伸びない。実験心理学は成長性については分らないのではないかという意見が出たりして、何とかしょっぱなに人間を選《え》り分《わ》けるすべは無いかというのが、航空関係者全体の大きな課題になっていた。
その頃大西滝治郎が、山本の下で航空本部の教育部長を勤めていた。大西は兵学校四十期、桑原虎雄の三期下、山本の八期下で、大佐であった。
大西は山本に兄事していたが、戦争末期には特攻隊育ての親と言われる立場になり、次第に狂気じみた徹底抗戦論者となって、
「自分などは、棺を覆《おお》うて定まらず、百年ののち知己を得ないかも知れない」
とか、
「前途有為の若者を大勢死なせて、俺《おれ》のような奴《やつ》は無《む》間《けん》地《じ》獄《ごく》に堕《お》ちるべきだが、地獄でも入れてくれんかも知れん」
とか、そういう突きつめた言葉を口走るような心境になっていたらしく、自分の主張が容《い》れられず、無条件降伏が決ったあと、昭和二十年の八月十六日未明、
「特攻隊の英霊に曰《まう》す。善く戦ひたり、深謝す」云々《うんぬん》
という遺書を残し、軍刀で割腹して自害を遂げた人である。
この大西から、ある日霞ヶ浦航空隊の副長をしている桑原のところへ、電話がかかって来た。搭乗員の適性問題では、大西も最も頭を痛めている人間の一人であった。電話の要旨は、
「自分の家内の父親が、順天堂中学の校長で、その教え子に、水野という少し変った青年がいる。大学は歴史科を出て、卒業論文が『太《ふと》占《まに》について』とかいうのだが、普通の八《はつ》卦見《けみ》とはちょっとちがう。子供の時から手相骨相の研究ばかりやっていて、新聞で海軍の飛行機がこの頃よく落ちるという事を読み、あれは乗る人間の銓衡《せんこう》方法を間違っているのじゃないかと言っているそうだ。生意気な事をいう奴だと思って、実はこの間会ってみたのだが、その時この水野という男は、飛行機の操縦が上手にやれるというような人は、手相骨相にどこか変ったところがある筈で、それを十《じつ》把《ぱ》一とからげに採用するからいけないのだという意見を述べた。海軍は、決して十把一からげに搭乗員を採用していないつもりだが、それでは君が見て彼らの適性不適性が分るかと聞くと、分ると思うと、まことに自信ありげな答えである。桑原さんあてに紹介状を書いて霞ヶ浦へ行かせるから、ひやかしのつもりでもいい、一度よく話を聞いて、みんなの手相でも見させてみたらどうか」
というのであった。
桑原自身、藁《わら》でもつかみたい心理状態になっている時であるから、承知して待っていると、約束の日に水野義《よし》人《と》という二十四、五の青年が、大西の添え状を持って航空隊へ訪ねて来た。
ちょうど昼休みで、飛行服を着た連中が、飛行場の方から続々帰って来る。
副長の桑原は、それでは昼食後、教官教員百二十何名、全部ここへ呼ぶから、手相でも骨相でも思う通りに見て、彼らの飛行機乗りとしての適格性を、甲乙丙の三段階に分けてもらいたいと申し渡し、自分たちの方では、教官教員全員の名簿を用意しておくことにした。
その名簿には、彼ら一人々々の技倆《ぎりよう》が、長年月にわたって記録、採点してあった。
やがて、副長命令でみんなが集まって来ると、水野は、一人あたり五秒か六秒、じッと見てから、次々、甲、乙、丙をつけて行った。それを、桑原が副官といっしょに名簿の記録と突き合せてみると、驚くべき事に適中率は八十三パーセントを示した。
午後は、練習生たちを集めて同じように観相を行わせたが、やはり八十七パーセントがあたっていた。
桑原たちは驚異を感じた。
何カ月も、何年もかかって、彼らが甲とか乙とか判別したものを、この、飛行機に何の関係もない若い男が、たった五秒か六秒で、八十パーセント以上の確実性を以《もつ》て同じ判断を下してしまう。ひやかしのつもりでいた人々は、真剣にならざるを得なかった。聞いてみると、水野義人は未《ま》だどこへも就職しておらず、自由の身だということで、その晩は霞ヶ浦へ泊めて士官連中と色々漫談をした。
花本清登という大尉が縁談に迷っていたので、そのことを伏せて、水野に手相を見せてみると、水野は、
「あなたは結婚問題で迷っているんじゃありませんか? やっぱり初めのに決めた方がいいですよ」
と言った。「初めの」というのが、花本大尉としては心を惹《ひ》かれている人のことで、あとのは、義理のからんだ話だったのである。
水野はまた、
「もう一年くらいすると、いくさが始まるんじゃないでしようかネ」
というようなことも言った。
桑原虎雄は、
「いや。始まるとしても、あと一年なんてことはないだろう」
と反論したが、これが昭和十一年の夏で、それから一年後にいわゆる支那事変が始まったのは事実である。
水野の予言が事実となったあと、桑原が、
「なぜあの時、ああいうことを言ったのか?」
と訊《たず》ねると、彼は、
「昔、子供の時、手相骨相に興味を持ち始めた頃、東京で死相の出ている人間がたくさん眼《め》についた。大阪へ行くと眼につかないので不思議に思っていると、関東大震災というかたちでそれがあらわれて来た。今度の場合は、東京の町に、ここ一、二年のうちに後家になるという、いわゆる後家相をした婦人がひどく眼につく。これは天変地異ではあるまい、いくさが始まって夫を喪《うしな》うのだろうと判断したのだ」
と答えたという。
事変の初めに、東京を中心に編成された第一〇一師団が、上海《シヤンハイ》戦線で戦って多くの戦死者を出したのは、これもやはり事実である。
水野が帰ったあと、桑原は早速大西滝治郎に電話をかけた。
「オイ、あれは決して馬鹿《ばか》にしたもんじゃないよ。何とかあの男の手相骨相学を搭乗員採用の参考になし得るよう、こちらでも研究してみたいし、本人にももう少し深く研究させてみたいと思うが、海軍の航空隊なら何処《どこ》へでも自由に出入り出来るように、航空本部の嘱託《しよくたく》というかたちででも雇ってもらえんかね」
桑原が電話でそう言うと、大西は自分が取りもった人間の事であるから、無論賛成であった。
そこで副長の桑原は、灸《きゆう》とか鍼《はり》とかを喩《たと》えに持ち出し、一見非科学的な古い方法のようではあるが、応用統計学として、結果的に六十パーセント以上適中するものならば、「参考トスルハ可ナラン」というような事を書いて、霞ヶ浦海軍航空隊司令の名で、上申書として提出した。
大西滝治郎が、それを持って各方面説いてまわる役目である。海軍省の人事局、軍務局あたりへ出かけて行って、水野義人の嘱託採用について色々言ってみるけれども、どこの部局でも、
「大西さん、いやしくも海軍がネェ、人相見というのは、どうもネ……」
と、ニヤニヤされるだけであった。
桑原虎雄は、「人事局、軍務局の理屈暮しの連中なので」と言っているが、「理屈暮しの連中」にしてみれば、航空の人々もとうとう頭へ来たのかという思いであったろう。
とにかく、全然相手にしてもらえないというので、桑原が、
「山本さんには話したか?」
と聞くと、大西は、
「未だです」
と答えた。
それで、桑原大西の両人は、或《あ》る日揃《そろ》って航空本部長の部屋へ山本を訪ね、
「どうか笑わずに聞いてほしいのですが、実は」
と、水野の件を切り出し、詳しく事情を話してその嘱託採用の斡旋方《あつせんかた》を依頼した。山本はにこにこして聞いていたそうだが、二人の話が終ると、
「よし。それじゃ、俺が会おう。その青年を呼んで来い」
と言った。
水野義人が、すぐ電話で呼び寄せられる事になった。
一方、山本は、軍令部、海軍省の人事局、軍務局、航空本部の各部各課など、あちこちへ電話をかけて、二十人ばかりの人を航空本部長の部屋へ呼び集めた。
水野がやって来ると、山本は最初に、
「一体、手相骨相を観《み》るというのは、どういう事かね?」
と質問した。
それは霞ヶ浦航空隊で桑原さんに申し上げた通り、一種の応用統計学だと水野は答えた。うさぎ耳をした人は注意深く気がやさしいとか、顎《あご》の骨の張った人はどうだとか、昔村の人が村の人を見て歩いて、経験から統計的に割り出したもので、百発百中ではないが、決してフィフティ・フィフティではない、観る時はそれに勘も働かせますと、水野は言った。
観相法というものはしかし、プラトン、アリストテレスの時代からあったそうであるから、水野が「昔村の人が」と言うのは、必ずしも江戸時代の日本の村の話や何かとは限らないかも知れない。
「そうか」
と、山本は言った。
「それでは君、此処に二十人ばかり人がいるが、この中で、誰《だれ》と誰とが飛行将校か分るか?」
水野は、集まった海軍士官たちの顔をじっと眺《なが》めまわしていたが、やがて、
「あなたそうでしょう」
「あなたもそうでしょう」
と、二人の将校を指した。
それが、星一男と三和義勇であった。星は兵学校四十六期、源田実《げんだみのる》や三和義勇の先輩である。二人とも、当時海軍の最もすぐれた戦闘機パイロットであった。三和だけ頭をかいて笑っていたが、みなは思わず顔を見合せた。
「ほかにいないか?」
と聞くと、
「ほかにはもうありません」
と水野が言う。
その時、列席者の中から一人、人事局の田口太郎という少佐が、誰か忘れてやしませんかというわけで、
「私も飛行機乗りだがね」
と、名乗り出た。
水野は、それでは手を拝見したいと、田口少佐の手相を眺めた上で、
「あなたは、飛行機乗りかも知れませんが、あまりお上手の方ではありません」
と言った。
みんなは、もう一度顔を見合せた。それから、揃って声をあげて笑い出した。
田口は海軍大学校出の飛行艇パイロットであった。頭脳は優秀だったが操縦に関してはどうも勘が鈍くて時々飛行艇をぶっつけて壊し、今に大《おお》怪我《けが》をするぞと言われていた男で、それで昨年十月海軍省に転勤させられて来たのである。
山本は、みんなの顔を見まわして、
「どうだ? 誰か人相を見てほしい者があったらついでに見てもらえよ」
と言ったが、一同ややたじたじの気味で希望する者が無い。
「草《くさ》鹿《か》君、君やってもらえ」
山本は航空本部総務部一課長の草鹿龍之介《りゆうのすけ》大佐を指名した。
水野は草鹿の骨相をしばらく眺めてから、
「ハア、あなたは重役ですね」
と言った。
草鹿龍之介は住友の大番頭だった草鹿丁《ちよ》卯《う》次《じ》郎《ろう》の息子で、ビールはたてつけ大ジョッキに三杯、靴《くつ》の紐《ひも》が自分で結べないという肥満漢である。
「重役とはどういう意味だ? 金持のことか」
山本が聞くと、
「そうですね。それもありますが、私の言うのはあなたは押しの一手の人だということです」
皆が又わっと笑う。
「物事を組織するのが得意で、大胆で、大切なことは人に委《まか》せて知らん顔をしてる人です」
「もっと何か無いか?」
草鹿が聞くと、
「あなた大怪我をしましたね」
と、水野が言った。
「いや、そんなことは無いよ」
「それじゃ、これから大怪我をなさるかも知れないから気をつけられた方がいいでしょう」
これは草鹿龍之介の性格と、のちにミッドウェー海戦で重傷を負う運命とを言いあてているように見える。
もう一人、木田達彦という少佐が手相を見てもらった。
「あなたは他人の姓をついでいるでしょう?」
と水野は言った。
「何だ、ほんとか? 君は養子か?」
草鹿が聞くと、
「いやア、私実は養子なんです」
と、木田少佐は苦笑いをした。
「もういいだろう」
山本がそう言い、一同不服なく、水野の採用はその場で決定した。
間もなく水野は、海軍航空本部嘱託という正式の辞令をもらい、それからは、霞ヶ浦航空隊での、練習生、予備学生の採用試験の都度立会って、応募者の手相骨相を見る事になった。
水野は山本の手相も見たが、山本の特徴は、俗に天下線と称する太閤秀吉《たいこうひでよし》の持っていたのと同じ線が、中指のつけ根まではっきり一直線に伸びていて、途中で職業を変らずに最高位まで行く人の相だというのが、彼の説明であった。
海軍が水野の観相術を利用した方法は、飛行機乗りの銓衡《せんこう》にあたって、学術甲、体格甲で、水野が甲をつければ、それを最も優先させるというやり方であった。したがって、戦争中一部で、海軍航空隊に人相見が出入りしていると、あたかも迷信が横行しているかの如くに取《とり》沙汰《ざた》されたのは、必ずしもあたっていたとは言えないようである。
水野はその後段々に忙しくなり、戦争中は助手を二人連れて、出張出張で航空隊から航空隊へと飛び歩き、しまいには謄写版《とうしやばん》のインクで取った手相まで見させられ、総計二十三万数千人の飛行適不適を判断した。
昭和十六年には、桑原虎雄に、
「戦争は、今年中に始まります」
と予言した。
「それで、どんな具合に進むかね?」
と、もうすっかり水野を信用している桑原は聞いた。
「初めは順調に行きます。あとの事は分りませんが……」
「どうして?」
「書類を持って廊下を歩いている軍令部の人たちの顔の相を見ると、どうもよくありません。先行きが心配です」
それから四年後、昭和二十年の七月、軍需省に出仕、軍需省監理官になっていた中将の桑原は、又水野に質問した。
「君、戦争は今後どうなると思う?」
「来月中に終りますよ」
と、水野は答えた。
「何だって?」
桑原はびっくりして、その理由をただした。
「最近、特攻基地を一とまわりして来ましたが、特攻隊の若い士官下士官で、死相をしている人が極めて少なくなりました。これは、戦争が終る徴候でしょう」
水野義人は、戦後司法省の嘱託として府中刑務所に勤務し、犯罪人の人相の研究をしていたが、間もなく進駐軍司令部の鶴《つる》の一と声で免職になり、現在は銀座の小松ストアの相談役として、店員の採用や配置に関し、助言をする仕事をやっている。戦争中水野が、飛行適だけれども事故を起す性《たち》だと言った人の名前には、マークをして金庫にしまっておいたが、その三分の二が事故で死んだという。
私は、水野義人の観相の術がどの程度純粋な応用統計学で、どの程度超心理学的要素をふくみ、更にその上、催眠術や手品の部分があったのか無かったのか、これを確言する事は出来ない。それに、それを追究するのはこの物語の役目ではなさそうである。
ただ、山本五十六の水野に対した対し方に、私は興味を覚える。それは一つには、山本が大層部下思いであった事の証左であり、もう一つには彼が、普通科学的、合理的と考えられている以上のものをも割に直観的にすぐ信じた、少なくとも無視しなかったという事の証左のように思えるからである。
第六章
二・二六事件のあと成立した広田内閣に、大角岑《おおすみみね》生《お》にかわって海軍大臣として迎えられたのは、帝国全権としてロンドン会議からの脱退を宣言し、事件解決の直後、英国から帰朝したばかりの永《なが》野《の》修《おさ》身《み》であった。
永野の次官は長谷川清が勤めていたが、事件の余波もようやくおさまり、その年十二月の定期異動で、長谷川が第三艦隊の長官に出て行く事になった時、永野は後任の海軍次官として、航空本部長の山本五十六に白羽の矢を立てた。
交渉してみるとしかし、山本は言下にその申出を断わった。永野修身は少し色をなし、
「去年、僕《ぼく》が軍縮の全権を拝命して随員を頼んだ時も、君は一蹴《いつしゆう》した。今度次官になってくれというと、又断わる。一体君は僕が嫌《きら》いなのか?」
と、詰問した。
去年軍縮の全権云々《うんぬん》というのは、ロンドン軍縮予備交渉につづく昭和十年のロンドン軍縮本会議に永野が全権として赴く時、山本に随員として今一度の英国行きを頼んで断わられた、その事を指している。
こう言われては、海軍のしきたりから言っても、山本は引受けないわけに行かなかった。
反町栄一《そりまちえいいち》の山本伝には、山本が、
「永野大将は尊敬する先輩である。今ここでお断わりすると誤解を生ずるおそれがあるので」
と言ったと書いてあるが、これは、作り話でなければ単なる修辞というものであろう。
山本が永野を「尊敬」している様子は、あまり無かった。のちに、永野を軍令部総長に据《す》えようかという話が起って、果して永野で、部内外に受けるかどうかが論議された時、山本は、
「永野さんは、天才でもないのに自分で天才だと思いこんでる人だからね、一般には受けるだろ」
と、ずいぶん手厳しい批評をしているし、「山本五十六と米《よ》内《ない》光政《みつまさ》」の中で、高《たか》木《ぎ》惣吉《そうきち》も、
「永野海相は勇猛な秀才には違いなかったが、衝動的断行肌《はだ》の人で、山本次官とは性格的にかけ離れたところがあった」
と書いている。
それに海軍大臣としての永野は、山本に次官就任を交渉するほんの一、二週間前、陸軍の横車の一つである「日独防共協定」なるものを――、積極的に賛成はしなかったにしても、黙って呑《の》んで、締結させてしまっていた。
海軍には、政治に携わる者は部内で大臣一人だけ、大臣の政治的決定は必ずこれに従うという伝統が、比較的ではあるがよく守られていて、それが陸軍とよほど違っていたところであり、山本もその点は折り目正しい方であった。したがって、永野海相がどんな態度をとろうと、航空本部長として表立ってとやかく言うべき筋合いではないけれども、次官になれと言われれば、やはりこの辺のところは、甚《はなは》だ気に食わないと思わざるを得なかったであろう。
二・二六事件は、蹶《けつ》起《き》部隊を叛《はん》徒《と》として鎮圧し、首謀者を軍法会議にかけ、非常の事態を収拾して粛軍を断行したかに見えたが、事実は決してそうでなかった。
一と口に言えば、これを界《さかい》として、陸軍部内の所謂《いわゆる》皇道派が追われ、統制派が主導権を握り、軍の政治的発言力が頓《とみ》に強化されただけの事であった。死刑の宣告を受けた十七名をはじめ、蹶起部隊の青年将校らは、むしろ政治的な道具に使われた観すらあって、統制派を主体とする陸軍に、下剋上《げこくじよう》の風潮が一層甚だしくなり、いざという時は、
「遺憾ながら陸軍はこの内閣に、陸軍大臣を出せない」
と、伝家のダンビラを抜いて駄々《だだ》をこねさえすればすべてが通るという好ましくない慣習が、次第に出来上って来る。それはこれよりのち、度々の政変劇に、度々その最大の素因となる。
陸軍の要求を呑んで組織された広《ひろ》田《た》弘《こう》毅《き》内閣の、「国策の基準」の大綱は、
「外交国防相《あひ》俟《ま》つて、東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展するにあり」
というので、これは、一国の内閣首班が平時に口にする国是として、著しく侵略的匂《にお》いの露骨なものであった。
何年でもやっていたいと思っていた航空本部長の地位をなげうって、こういう情勢下で永野修身の政治的女房役《にようぼうやく》になる事は、有難《ありがた》くない話にちがいなかったが、結局山本は永野の懇請を受けて、昭和十一年十二月一日付、
「任海軍次官」
という、正式の内閣辞令を貰《もら》う事になった。新橋の芸《げい》妓《ぎ》たちが、
「山本さん、おめでとう」
と、祝いを述べると、山本は、
「何がめでたいか。折角今まで、日本の航空を育てようと一生懸命やって来たものを急に変えられて、軍人が政務の方に移されて何がめでたいものか」
と言って、本気で怒った。
祝いを述べに長岡《ながおか》から上京して来た反町栄一に対しても、
「少しもめでたくはないのだ」
と言っている。
当時二六新報の社長だった松本賛吉は、鳴《めい》弦楼《げんろう》の号で「柔道名試合物語」などの著書のある人であるが、前々から長谷川清を識《し》っていた。
対支問題が急を告げている時で、彼は二六新報からも特派記者を三人北支中支方面に派遣したいと思い、派遣費用の一部を海軍の機密費から出してもらおうと、その無心をするつもりでたまたまこの日海軍省へやって来た。次官更迭《こうてつ》のことは承知していて、長谷川に山本を紹介してもらうつもりだったのだが、
「長谷川前次官はさっき見えられましたが、今どこの部屋へ行っておられるか分りません」
と秘書官が言う。
それではと直接山本への面会を求めると、あっさり次官室へ通された。のちにはずいぶんしたしくなったが、この時が松本鳴弦楼の山本との初対面である。
まず型通り、
「今回はおめでとうございます」
と挨拶《あいさつ》を述べると、山本は凄《すご》味《み》のある眼をぎょろつかせて、
「やあ」
と言っただけでにこりともしなかった。
松本の新聞記者としての長年の経験では、どんな役人でも軍人でも、こういう時、特に新聞社の社長あたりには、
「いや、どうも。なにぶんよろしく」
ぐらいのことは言って笑顔を見せるのが定《じょう》石《せき》であるが、山本はおそろしく無愛想で、
「感想など格別ない」
「命令だからなったんだ」
としか言わなかった。
「ところで新任早々、このような話はどうかと思いますが」
と、松本が機密費の一件を切り出すと、
「それが何か海軍と関係があるのかね?」
山本はそう言って松本の説明を要求し、
「君の話は漠然《ばくぜん》と国策を論じているだけで、海軍がそれに援助を与うべき理由がさっぱり納得ゆかん」
とにべもなかった。
「しかしまあ、そうやかましいことを言わずに、新次官就任第一日の吉例として承知していただくというわけには参りませんか」
松本が押してみると、山本は、
「吉例? そんなものは吉例じゃなくて悪例だ」
と言う。
松本賛吉はとうとう旗を捲《ま》いて引下ることにしたが、海軍省の建物を出ながら、どうもえらく馬力のド強いのが新次官になって来たなと思ったそうである。
こうして、渋々海軍次官の椅子《いす》に坐《すわ》り、これより、広田、林、近《この》衛《え》(第一次)、平沼の四内閣にまたがる山本五十六の、二年九カ月間の苦闘が始まる事になった。
事務引継ぎは、海軍省内の次官室で、面会人を避けてひっそりと行われた。
前次官の長谷川清は、海軍省先任副官の田《た》結穣《ゆいみのる》に、
「君は古くから山本を識っているんだし、事務的な事は、俺《おれ》のかわりに全部見せてやってくれ」
と言って、大体の事を委《まか》せた。
山本は、田結から二時間ばかりにわたって、新聞雑誌関係者の親しくすべき人物の名前とか、次官の接触すべき外務省、陸軍省の人の人名簿とか、聞かされたり見せられたり、詳しく申し継ぎを受けた。しかしそれは、純事務的に運ばれ、部内人事に関して、互いに何か思っていても、耳打ちしあうというような事は、一切無かったという。
田結穣はそれを終ってから、聯合《れんごう》艦隊へ戦艦「日向《ひゆうが》」の艦長として出て行き、田結の代りに海軍省先任副官として着任したのは、田結の三期下の近藤泰一郎であった。
海軍省の副官は、大佐の先任副官が一人、B副官と呼ばれる中佐の次席副官が一人、その下に副官兼秘書官の少佐が二人と、計四人いるのが普通であったが、田結も近藤も、副官兼秘書官の吉《よし》井《い》道教《みちのり》、松永敬介も、この勤務の前かあとに英国駐在をしていて、色分けをするなら、彼らは皆穏健派であり、条約派に近い人々であった。
山本が次官に就任して間もなく、高松宮宣《のぶ》仁《ひと》親王が、軍令部参謀として霞《かすみ》ヶ関《せき》の赤煉《あかれん》瓦《が》の建物に着任して来る事になった。高松宮は、その十一月二十六日に海軍大学校を卒業したばかりの若い少佐であった。
近藤先任副官は、宮の御着任の日時など関係方面に問合せ、当日は一同海軍省の正面玄関に出てお迎えするよう、万端準備をすすめていたが、その事が耳に入ると、普段あまり部下を叱《しか》った事のない山本が近藤を呼んで、
「オイ、宮様は宮様として着任されるのか、海軍少佐として着任されるのか、どっちなんだ? 少佐なら少佐らしく着任してもらったらいいだろう」
と、珍しく叱《こ》言《ごと》を言った。
それで、近藤泰一郎の計画していた事は取り消しになり、高松宮は、誰《だれ》にも出迎えなど受けずに一少佐として軍令部に着任して来た。着任後、山本はあらためて、親王殿下に対する礼をとり、高松宮の部屋へ自分の方から挨拶に出向いたそうである。
間もなく年が明けて、昭和十二年の一月になると、政友会と民政党と二つの政党が、軍部批判の態度をはっきりさせ始めた。
これより何年か前、政友会総務の森恪《もりかく》がゴルフ場で近《この》衛《え》文麿《ふみまろ》に会って、
「陸軍の一部の者が『今の陛下は凡庸で困る』と言っているそうだが、その意味は、つまり陸軍の言うことをおききにならないからだろうと思う。実に以《もつ》ての外のことだ」
と憤慨していたという話が「西園《さいおん》寺《じ》公と政局」の中に出て来るが、多少とも気骨のある政党人としてはもはや黙ってはいられないという空気が、二・二六事件を契機として盛り上って来たものであろう。
休会あけの第七十議会の第一日目に、政友会の浜田国松は、のちに「ハラ切り問答」として有名になった軍非難の質問演説を行なった。
「軍部は近年みずから誇称して、我国政治の推進力は我《われ》等《ら》にあり、乃公《だいこう》出でずんば蒼《そう》生《せい》を如何《いかん》せんの概《おもむき》がある。五・一五事件然《しか》り、二・二六事件然り、軍部の一角より時々放送せらるる独裁政治意見然り、議会制度調査会における陸相懇談会の経緯然り、満洲協和会に関する関東軍司令官の声明書然り。要するに独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々《とうとう》として軍の底を流れ、時に文武恪循《かくじゆん》の堤防を破壊せんとする危険あることは、国民の均《ひと》しく顰蹙《ひんしゆく》する所である」
というのが前置きで、相当はげしいものであった。
そして、答弁に立った寺内陸相との間に、軍を侮辱した言辞があるとか無いとかの応酬の末、浜田は三度目に登壇すると、
「速記録を調べて僕《ぼく》が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ」
と、寺内に詰めよった。
陸軍は硬化し、陸軍大臣の寺内寿一《てらうちひさいち》は、政党の反省を求めるためと称して、閣議で議会の解散を主張した。
これは、陸軍の横車に楯《たて》つく者があるなら、もう一度選挙をやって出直して来いという事で、誰が見てもずいぶん無茶な話であったが、その頃《ころ》の陸軍部内にあっては、当の寺内すら、一箇《こ》のロボットに過ぎなかったとも言われている。木場浩介編の「野村吉三郎」という本には、それを示す次のような挿《そう》話《わ》が書いてある。
「陸相に就任間のない寺内を追って新聞記者の一団が陸軍省へやって来たら、奥へ消えようとする陸相とすれ違いに現われた軍事課長の武藤章《むとうあきら》(後・中将)が、軍の声明書の如《ごと》きものを記者団に手交した。それを見た寺内が引返して、『何だね?』と武藤と記者達《たち》の顔を半々に眺めながら訊《たず》ねた。その時、武藤は『ああ、これはまだ大臣にお見せしてなかったですね』と、平然といい放ちながら手にした一枚の印刷物を寺内陸相に渡したというのだ。この一シーンこそ当時の陸軍の偽らぬ実相であった。仮初《かりそめ》にも陸軍が天下に向けて公にする声明書を下僚輩が独断でつくりあげ、大臣の眼《め》にも触れさせず勝手に発表して恬然《てんぜん》として省るところなかったのだから、まことに怖《おそ》るべき時代であったといわねばなるまい」
この武藤章などが、ロボットの背後の最も有力な影武者として、この頃から頭角をあらわして来た一人であるが、陸軍の方から言わせれば、永野海軍大臣の背後にもやはり影武者がいると見えたかも知れない。
山本五十六は、なり立ての海軍次官ではあったが、永野を強力にバック・アップして、陸軍の解散論に正面から反対した。永野自身は、必ずしもそれほど強腰ではなかったように思われる。
海軍の反対と、前田鉄道、島田農林、小川商工ら政党出身閣僚の反対とによって、議会の解散は避けられたが、陸軍はソッポを向き、「ハラ切り問答」から数日を出ずして、一月二十三日広田弘毅内閣は瓦《が》解《かい》してしまった。
永野が強腰でなかったろうというのは、彼はこの時、政治的な工作を弄《ろう》して陸軍と政党の間の調停を計ろうとし、政友、民政の両党総裁を訪ねて、見事失敗した事実があるからである。そしてこれが永野の次の内閣に留任出来なくなった最大の原因であった。
広田のあと大命は宇《う》垣一成《がきかずしげ》に降下したが、陸軍はこれにも「全軍の総意」と称して、ソッポを向いた。その為《ため》に宇垣内閣は流産した。
宇垣内閣流産の経緯を詳述するのは避けるが、組閣本部を訪れて、宇垣に後任陸相推薦の困難な情勢を説き、大命拝辞をすすめた杉《すぎ》山元《やまはじめ》、建川美次《たてかわよしつぐ》、それに前陸相の寺内寿一など、陸軍の系譜の上からは皆宇垣の子分すじで、これを以てしても、当時佐官級の中堅幹部が如何《いか》に陸軍の実権を握っていたかが分るという。
前後十日間のもたもたの末に、結局陸軍大将林銑十郎《はやしせんじゆうろう》が後継内閣の首班になったが、この時、海軍人事に興味を持っている者でもおやと驚くぐらいの手《て》際《ぎわ》のよさで、不意に米内光政が海軍大臣として登場して来た。
米内は、横須賀鎮守府司令長官から聯合艦隊司令長官に転出して未だ日が浅く、
「長官をやめて一軍属になるのは全く有難くない」
と言って、横須賀から東京へ出て来、彼と交替に永野がお手盛で聯合艦隊司令長官に出て行ったが、米内かつぎ出しを最も強く主張したのは、次官の山本五十六であった。
山本は、次官として軍政面に携わるようになった以上、自己の政治的責任、海軍の政治的な使命についても、考えないわけには行かなかった。海軍の政治的使命とは、このまま行けば道は戦争から破滅へと通じているだけで、事実上もう、陸軍の横暴をチェック出来るものは海軍しかないという自覚である。それには、末次信正《すえつぐのぶまさ》大将ら部内の強硬派陸軍同調派を、場合によっては首切っても海軍を一本に立てなおすより他《ほか》はなく、そしてそれには、米内以外に人は無いと、山本は考えた。
海軍は、陸軍に比して所帯が小さく、比較的よくまとまっていたとは言うものの、陸軍の風潮に影響されるところが無かったわけでは決してない。緒《お》方竹虎《がたたけとら》は、米内の事を書いた「一軍人の生涯《しようがい》」の中で、
「山本五十六が永野の下に海軍次官に起用されたことは、正に海軍立直しのキッカケを造るものであった」
と言っているが、永野の置土産の山本次官の上に、米内光政が大臣として坐って、海軍はこれ以後、初めて見事な統制の下に置かれることになったのである。
もめにもめて成立したにも拘《かかわ》らず、林銑十郎の内閣は、二月二日の組閣から五月三十一日の総辞職まで四カ月足らずの、極めて短命であった。
そのあとに、近衛文麿が初めて総理大臣として登場して来る。緒方竹虎によれば、「第一次近衛内閣は『国内的には社会正義、国際的には国際正義』という旗印をたて、二・二六事件以来国内に鬱屈《うつくつ》した一切の相剋《そうこく》摩擦を無くするのだと標榜《ひようぼう》して乗出して来た。その近衛の態度たる極めて高踏的で、内閣総理大臣になるのは、政治の責任をとるのではなくて、いわば経験を豊富にして、他日元老としての献替に資せようとして居るものとしか、一般の眼には映じなかった。これは西園寺の近衛教育の方針であったと想像されるし、近衛の門地が近衛にかく思わせたとしても、当時としては必ずしも不自然ではなかった」のである。
米内、山本の海軍は、この内閣に留任した。第一次近衛内閣の成立後間もなく、郷里の長岡で、山本の兄の高野季八が亡《な》くなった。
山本の父の高野貞吉は、高野家の長女に養子に来た人で、譲、登、丈三、留吉と四人の男の子を生んだのち、妻に先立たれ、その妹の峰と再婚してもうけたのが、嘉寿子《かずこ》、季八、五十六の三人であった。
末っ子の五十六は、長兄の譲や次兄の登とは、三十以上も年のひらきがあり、丈三、留吉らとも、それほど親密ではなかったようで、彼が心から愛していたのは、この兄の季八と姉の嘉寿子の二人であった。両親はずっと前、大正二年に亡くなっていたし、季八の死後、郷里には、山本のほんとうの肉親はもう姉の嘉寿子しかいない事になった。
季八の病中、長岡の中沢三郎というかかりの医者が、町内青年団の旗の字を書いてほしいと山本に頼んだ時、山本は、
「書くとも書くとも。高野の兄貴の病気さえなおしてくれれば、何百枚でも書いてやる」
と言っていたそうだが、死去の報を聞いて長岡へ帰って来ると、季八の好きだった草花を、いっぱい棺の中へ投げ入れて、長い間棺のそばで泣いていた。山本は、こういう場合、割によく泣く方であったらしい。のちに書くが、彼は戦死した部下の棺の前で号泣した事もある。
さて、季八が亡くなったのが、六月二十五日で、六月二十七日の夜行で山本が帰京すると、それから旬日を出でずして、いわゆる支那事変が勃発《ぼつぱつ》した。
当時の米内光政の手記には、次のように書いてある。
「昭和十二年七月七日、蘆溝橋《ろこうきよう》事件突発す。九日、閣議において陸軍大臣より種々意見を開陳して出兵を提議す。海軍大臣はこれに反対し、成るべく事件を拡大せず、速かに局地的にこれが解決を図るべきを主張す。
十一日、五相会議において陸軍大臣は具体案による出兵を提議す。
五相会議においては諸般の情勢を考慮し、出兵に同意を表せざりしも、陸軍大臣は五千五百の天津軍と、平津地方における我居留民を見殺しにするに忍びずとて、強《た》つて出兵を懇請したるにより、渋々ながら之《これ》に同意せり。(中略)
陸軍大臣は出兵の声明のみにて問題は直ちに解決すべしと思考したるが如《ごと》きも、海軍大臣は諸般の情勢を観察し、陸軍の出兵は全面的対支作戦の動機となるべきを懸《け》念《ねん》し、再三和平解決の促進を要望せり」
それで、現地の相手側が折れて出たことなども幸いして、一時、内地からの出兵は見合せという五相会議の申合せが成立し、事件は和平解決の方向へ動き出した事があった。しかし、「軍」の真意は、結局解決を望んでいなかった。その「軍」とは何かといえば、甚だ得体の知れない何物かであって、緒方が書いているように、「満洲事変以来培《つちか》はれた下剋上の勢ひである」とでも言うよりほかはないであろう。
人にあまり愚痴を言った事のない米内が、このころ、五相会議から帰って来ると、
「五相会議なんか、駄目だ。五相会議で折角決めても、外務省と陸軍との間にやっと話合いがついても、あとから電話がかかって来て、『省へ帰ってみたら、参謀本部の連中がみんな憤慨しており、陸軍の方針はすでに決定しているという事なので、先ほどの話合いは、全部水に流していただきたい』と言うんじゃあ、どうにもならない」
と、山本次官や近藤先任副官をつかまえて、珍しくぶつぶつ不平を言った。
米内はまた、近藤泰一郎に、
「君、揚《よう》子《す》江《こう》の水は、一本の棒ぐいでは食いとめられはせんよ」
とも言った。
広田内閣の寺内がロボットであったように、近衛内閣の杉山陸相も「軍」という奇妙な存在の前には、やはりロボットであったようである。
事変解決のために、近衛は、宮崎滔天《みやざきとうてん》の長男宮崎龍介《りゆうすけ》を蒋介石《しようかいせき》のところへ派遣する事を考え、杉山陸軍大臣の同意も得て、実行に移そうとした事があったが、宮崎が神《こう》戸《べ》で上海行の船に乗ろうとすると、憲兵が、何人《なんぴと》からの指令とも告げず、突然宮崎を逮捕して、その渡華を阻止したという話が、「一軍人の生涯」の中に書いてある。
そうして、七月下旬には、名前こそ事変だが、ようやく全面的な日華戦争の様相がはっきりして来た。
山本は、事変をきっかけに禁煙をすると言い出した。
彼は、酒は飲まないがコーヒーと煙草《たばこ》は好物で、チェリーをそれまで一日にずいぶんな本数吹かしていた。
ある時、中村家の古川敏子と堀悌吉《ほりていきち》と三人で、朝から上野へ帝展を見に行ってのかえり、東京会館のプルニエに寄ると、昼の食事は未《ま》だ出来ないとのことで、山本は立てつづけにコーヒーだけ三杯飲み、
「コーヒーのあとの煙草のうまさは無いね」
と、チェリーをさも美味《うま》そうに喫《す》っていたが、話しながらしきりに首をチョッ、チョッと振るくせが気になって、敏子が、
「山本さん、どうしたの? それ」
と聞くと、山本は、
「煙草の喫《の》みすぎだね」
と答えたという。
だから、かねて何かの機会に禁煙しようと心掛けていたのかも知れないが、とにかく、事変突発後まもなく煙草を断った。表向きは、
「蒋介石が参るまで」
と称していたが、武井大助ら親しい友人には、
「陸軍の馬鹿《ばか》が又始めた。俺《おれ》は腹が立ってしようがないから、これが片づくまで禁煙する。そのかわり、片づいたらけつから煙が出るほど喫んでやる」
と言って、英国土産の上等の葉巻なども、みんな人に頒《わ》けてしまった。その前年に帰朝し、駐英大使を吉田茂と交替して宮内大臣になっていた松平恒雄《まつだいらつねお》が、葉巻のいいのを進呈しようと言った時にも、山本は、
「事変が片づくまで預かっておいて下さい」
と、辞退した。
しかし、当時の新聞を丹念に読んでみても、海軍が事変の拡大にそんなに不賛成だったという事は、少しも分らない。それを匂《にお》わせたような記事すら、見《み》出《いだ》す事は出来ない。「関東軍重大決意」などと、大見出しの隅《すみ》の方に、時たま、「海軍首脳善後策協議」というような小さな記事が出ているだけで、こんにちの眼《め》でそれを読んでみても、米内や山本の考えは少しも分らない。
これは、この時だけの事ではなく、日独伊三国同盟の時も、対米英開戦の時も、われわれ一般の国民は、
「海軍は反対だそうだ」
という、確度のはっきりしない町の噂《うわさ》を耳にするだけで、米内や山本のような人たちの考え方や発言内容を知って、自分の判断の材料にするという道は、閉ざされていたのであった。
これより三年ほどのちであるが、山本は笹《ささ》川良一宛《がわりよういちあて》の手紙の中に、
「貴見の通《とほり》天下の実相は新聞其他の言論紙上に於而《おいて》何《なん》等《ら》知るに由《よし》なく国家の危機之より大なるはなしと存居候《ぞんじをりさうらふ》」(昭和十五年十月九日付)
と書いている。
人々が海軍の考え方や「天下の実相」に関して、聾桟敷《つんぼさじき》に置かれていることを考慮してか、山本は前にも書いた通り、新聞記者に向っては、ずいぶん何でもあけすけに話して聞かせた。当時、黒潮会に属する同盟通信の政治部記者だった松元堅太郎は、
「山本さんにとっては、よほどの事以外、軍の機密などというものは存在しないらしかった。ざっくばらんというか、デモクラチックと言うならデモクラチック過ぎるくらいデモクラチックで、私たちの方でこんな事しゃべっていいのかなと思うような事まで、平気でパッと話してくれた」
と語っている。
航空本部長時代にも、一度、洩《も》らすべきでない事項を新聞記者に洩らしたといって非難された事があったが、山本は、
「何が、あんな事が秘密なもんか」
と言って取り合わなかった。
だから、黒潮会の記者たちは、何でもよく知っていたのだが、いつもそれは宝の持ちぐされだったようである。
もっとも、松元堅太郎は、海軍省詰の新聞記者の中で少し特別な方ではあった。昭和八年に東大の文学部を出て時事新報に入社したのだが、その時、同じ大学から同じ時事新報に入った塩沢総《しおざわすぶる》という友人がいた。
塩沢総は山本と同期の塩沢幸一の長男で、塩沢の郷里の家は、信州の養命酒の本舗である。総はのちに、新聞記者をやめて、信州で養命酒の家業を継ぐ事になるが、それはさておき、この時海軍少将の息子の塩沢が海軍省詰にならなかったのに、松元堅太郎はいきなり海軍担当を仰せつけられた。海軍に関して特別な知識は何も無く、とまどっていると、塩沢幸一が、息子の友人だというので同情して、彼に自分の同期生たちをみんな紹介してくれた。
そうして、松元堅太郎は少将時代の山本五十六を識《し》り、のちには一身上の事まで山本に世話を焼いてもらうようになったのである。
昭和十二年の春に時事新報がつぶれて、彼は同盟通信に移ったが、彼の取って来るニュースは、だから黒潮会の中でいつも一段光っていたらしい。
松元は、ロンドンから帰って来た山本が、
「ワシントン条約やロンドン条約を破棄してしまうのは、実に残念だよ。五・五・三なんて、それでいいんだよ。あれは、向うを制限する条約なんだから、あれでいいんだよ、君」
と言うのも聞いているし、横須賀に、鎮守府司令長官時代の米内を訪ねて、米内から、ロシヤに駐在中の話や、米内の好きなプーシキンなどロシヤ文学の話を聞いたあと、突然米内が、
「日本の国民は、未だ一度も戦争に負けた事の無い国民だからネ、もし負けると、相当な混乱を起すのじゃないかと、それが非常に心配だ」
と、珍しい敗戦論を口にするのを耳にしたりしている。断わっておくが、これは昭和十、十一年頃《ごろ》の話である。
松元の取ったこんな談話も、やはり宝の持ちぐされで活字にはならなかったが、当時読売新聞の政治部長をしていた安藤覚《あんどうかく》が、この松元に目をつけ、彼は間もなく、同盟から読売へ引抜かれた。
読売新聞に移った松元は、同じ政治部でも海軍省詰から内閣担当に変えられた。これには政治部長の安藤のふくみがあった。
米内は、山本を非常に信頼していた。昔、米内が大《たい》尉《い》、山本も大尉の頃、同じ海軍砲術学校の教官として、同じ下宿の飯を食い、食後の腹ごなしに手裏剣の練習をし合った古い仲で、互いに気心もよく分っていた。
溝田主一が、ある時何かの用で大臣の米内に面接したあと、
「どうも、大切なお時間を取らせまして」
と挨拶《あいさつ》すると、米内は、
「どういたしまして。山本といういい女房《にようぼう》がいますから、私はいつも暇です」
と答えたという。
米内は、閣議から帰って来ると、まるで自分の方が部下であるかのように、逐一山本に詳しい報告をした。
山本は、
「みんな此処《ここ》と此処だけで(と、頭と口を指し)、此処(腹)の無い奴《やつ》ばかりだが、うちの大臣は、頭はあんまり良くなくても、腹は出来とるからな」
などと、遠慮の無い事を言っているが、公式の場所では、決して大臣の前で椅子《いす》に坐《すわ》らない。時には米内の方できまりが悪くなるほど、直立不動の姿勢で、米内の報告を聞いている。しかし、公式の大臣と次官という場所をはなれると、二人はすぐ仲のいい友人になった。
当時少佐で副官兼大臣秘書官だった松永敬介は、この二人を眺めて、いつも、
「米内さんは斧《おの》のような人だが、山本次官は槍《やり》だ」
と思っていたという。
松永は又山本の事を、
「部下の一人々々の心理を読む独得の鋭いカンを持っていたように思う。決してガミガミ部下を叱《しか》る人ではなかったが、われわれは心の中をちゃんと見抜かれているような気がして、常に威圧感を受けていた。ちょっと接すれば、並の人物ではないということは誰《だれ》にでもすぐ分る。あんな剃刀《かみそり》みたいな人には仕えにくいだろうとよく言われたが、宴席などでは酒を飲まないのに酔っ払い以上のことをやって見せるし、仕えにくいという感じは少しも無かった。ただ陸軍の連中とか自分のライバルに対しては、今で言うドライなところ、ちょっと残酷なところが山本さんにはあったようだ」
とも言っている。
ともかくこういう次第だから、読売の政治部としては松元を使って山本に接近させておけば、農林関係でも、鉄道や内務関係でも、海軍大臣から次官経由という他社に知られぬルートで、いいニュースが早くつかめる。
それで、読売に入った松元堅太郎は、謂《い》わば海軍次官担当の内閣記者という妙な立場に立たされた。
海軍の次官官舎は赤坂霊南坂町の十七番地にあった。昔、英国海軍から日本海軍へ、何かの教官として来ていた英人の為《ため》に建てた古風な西洋館で、その頃は官舎の内にも外にも未だ護衛の巡査はついていなかった。
次官担当といっても、終始山本にくっついているわけではないから、松元は時間つぶしに銀座の酒場なぞで一杯飲んで社へ帰って来ると、政治部長の安藤がよく、
「オイ、きょうの閣議で、一つ分らないことがあるんだ。ちょっと霊南坂のオミクジを引いて来てくれ」
と、註文《ちゆうもん》を出す。
すると松元は、社の車で「オミクジ」を引きに、霊南坂の十七番地へ出かけて行くのである。
山本はしかし、宵《よい》のうちに官舎に戻《もど》っている事はめったになかった。帰館は大抵一時頃で、この時刻になると女中ももう寝ている。山本が、自分用の鍵《かぎ》を持っていて、勝手に官舎の玄関をあけて入り、女中の入ったあとの風呂《ふろ》に入るというのは、新聞記者の間でもっぱらの噂であった。
松元が車廻《くるままわ》しに自動車を駐《と》め、待ちくたぶれて居《い》睡《ねむ》りをしていると、帰って来た山本が、外からコツコツ窓を叩《たた》いて、
「お前だと思った。まあ入れよ」
と彼は官舎の中へ招じ入れ、質問に応じて、
「それはこうだ」
とか、
「その事は、きょうの閣議には出てないぞ。米内さん言わないもの」
とか、松元の望んでいる情報を教えてくれるのが常であった。
そうして松元は、新聞記者として必要な時々の話の他《ほか》にも、ずいぶん色んな話を山本から聞かせてもらった。
山本が聯合艦隊の長官になり、松元が読売をやめてからのことであるが、彼は、空襲の悲惨についても山本から話を聞かされた。
「日本の都市は、木と紙で出来た燃えやすい都市だからね。陸軍が強がりを言っているけど、戦争になって大規模の空襲をうけたら、とても生易しい事じゃすみやしない。海軍の飛行機が海に落ちて、水の上にガソリンが燃え広がって火の海になるところを見ると、あれは地獄だよ。水の上でも、君、それだよ」
と、山本は心をこめた口調で話したという。
「海軍の作戦というのは、一つの島を取ったら、その島に一週間以内くらいに手早く飛行場を完成して、航空隊を前進させ、それで次の海域の制空権制海権を握るという風に、今後はなって行くと思うが、今の日本の工業力で、そんな事が出来ると思うかね?」
とも言った。
これは、戦争中、ガダルカナル以後反撃に転じた米軍が、日本進攻に用いた正《まさ》にその方法であった。
「かつて、北海道の開拓に、土木工事を機械化しようという話が起った事があるが、大正の不況で、結局人力の方が安いというので発展しなかった。日本はこの時、一つのチャンスを逸した。海軍は今、土木機械の開発研究なぞ始めているけど、そんな小規模な事じゃ駄目《だめ》なんで、これは海軍だけの問題じゃないんだよ」
と、山本は言った。
日本陸軍ほど、一種徹底した精神主義を持して、科学技術や、機械化、近代化を軽んじた軍隊は他にあまり例が無く、仙台《せんだい》市で道路の舗装に陸軍が反対し、反対の理由は「馬の蹄《ひづめ》がいたみやすい」というのであったという話が残っているが、当時山本の座談の中にも、陸軍に対する反感は露骨に出ていたと、松元堅太郎は言っている。
これは松元の話ではないが、陸海合同の何かの会議の時、山本の隣に坐っていた一人の陸軍の将官が立上って、長広舌を振い始めると山本はその将軍の椅子を、黙ってうしろへずらした。いたずらで故意にしたのかどうか分らないが、しゃべり終った陸軍の将官は、着席しようとして、ドスンと尻《しり》もちをついてしまった。
山本は、笑いもしないかわり、失礼ともすまんとも一と言も言わず、振り向きもせず、ただ知らん顔をしていたそうである。
高木惣吉の本には、次官時代の山本が、同じく陸軍次官をしていた東条英機《とうじようひでき》を揶揄《やゆ》した話が書いてある。
東条はその当時から能弁で、何にでも一家言を立てたい方であったらしく、ある日の次官会議で、談たまたま航空の事に及ぶと、滔《とう》々《とう》と陸軍新鋭機の性能を述べ立てて列席の一同を煙《けむ》にまいた。東条の話を、一段落すむまで黙って聞いていた山本は、不意に、
「ホホウ。えらいね。君のとこの飛行機も、飛んだか。それはえらい」
と、にこりともせずに言った。「海の荒鷲《あらわし》陸のにわとり」というのは、必ずしも海軍軍人の自慢とばかり言えないところがあって、笑わないのは山本と東条だけで、各省次官連は爆笑したそうである。
山本は、おしゃべりは嫌《きら》いであった。彼自身は、米内に劣らぬほど無口で、だが気ムズカシ屋かというと、決してそうではなかった。他省の東大出の次官などが、ブン屋は恐ろしいと言って、表面鄭重《ていちよう》に、腹で馬鹿にしているという例が往々あったのに、山本は新聞記者に心からやさしく、取材に積極的に協力し、黒潮会であれ程評判のよかった人は、他になかったろうとは、当時の関係者の多くが、口を揃《そろ》えて言うところである。
新旧次官交替の際、恒例で、海軍側が黒潮会の記者三十人ぐらいを招いて宴会が行われるが、山本の時その準備を命ぜられた副官の吉井道教少佐は、雅《が》叙園《じよえん》に席を設けたものの、酒の飲めない山本五十六が、如何《いか》にして三十数人の新聞記者をさばくか、心配していた。しかし山本は、宴たけなわになると、一人で皿廻《さらまわ》しをやったり、逆立ちをしたり、部屋の隅《すみ》から隅まで、卵を口で吹いてころがして行く芸当をして見せたり、サービスこれ努め、前任の長谷川清が帰ったあとも居残り、最後の一人の酔っぱらい記者が立つまで附《つ》き合って、その一夜の宴を、賑《にぎ》やかな楽しいものにしたという事である。
黒潮会には当番の幹事がいて、その幹事が毎日、次官室にやって来、次官の予定を聞き、その日の次官会見を申込む。その帰りに、わざと秘書官室を抜けて行く幹事もいた。横《よこ》眼《め》でちらりと、黒板の予定表を見て行くのである。黒板には、報道関係に見られたくないような事も時には記入してあるし、副官連中には彼らがどうも厄介者《やつかいもの》のような感じがあって、吉井道教は、幹事の一人に文句を言った事があったが、あとで山本から、新聞記者というのはそういうものではないと、たしなめられた。
裏から見れば、山本は、新聞記者を味方に引入れる事において極めて巧みであったと言えよう。それは、巧んでの巧みではなかったかも知れないが、次官稼業《かぎよう》も板について来るにつけ、彼が一と言、
「これは此処限りだよ」
と言えば、黒潮会でそれを破る者は無かったそうである。
その頃、米内、山本の下で、海軍省軍務局長を勤めていたのは、豊田副《そえ》武《む》であった。豊田は戦争中、山本が死に、次の古賀峯一が死んだあと、三代目の聯合艦隊司令長官になり、最後の軍令部総長を勤める人である。非常な陸軍嫌いで、よく「馬《ま》糞《ぐそ》」とか「けだもの」とか言って陸軍の事を罵《ののし》っていた。この豊田副武が転出したあと、山本にとって二代目の軍務局長となったのが井上成美《いのうえしげよし》であった。
井上成美の事はすでに何度も書いたが、のちに海軍切っての名軍務局長と評された人物で、「海軍左派」というなら、彼は米内、山本以上の左派であったかも知れない。
これより四年ばかり前、井上が大佐で軍務局第一課長の時、軍令部長から、軍令部令及び省部互渉規程改正の案が出された事があった。
その内容を簡単に言えば、軍令部の権限を陸軍の参謀本部なみにうんと拡充して、あれも軍令部によこせ、これも軍令部によこせという、海軍大臣に反旗を翻《ひるがえ》すようなものであった。
時の軍令部長は伏見宮博恭《ふしみのみやひろやす》王で、軍令部次長が高橋三吉中将であったが、この要求は、艦隊派の黒幕、加《か》藤寛治《とうひろはる》大将が、高橋と気脈を通じて、伏見宮を焚《た》きつけて持出したものだと言われている。
井上は、あらゆる資料を集め、海軍の統制保持上かような改正案は認められないと、理路整然とした反対意見をまとめ上げて、強硬にこれに反対した。論理的には井上の所論に逆らう事が出来ないので、軍令部の南《な》雲《ぐも》忠一など、伏見宮邸で園遊会が催された時、酒気を帯びて井上のそばに来、
「井上の馬鹿! 貴様なんか殺すのは、何でもないんだぞ。短刀で脇腹《わきばら》をざくッとやれば、貴様なんかそれっきりだ」
と脅迫したりした。
南雲忠一と山本五十六とは、深い相互信頼の上に立ってのちにあの、真珠湾の奇襲を敢行したように一般には思われているかも知れないが、加藤友三郎、山梨、米内、井上の線上に在る山本と、加藤寛治、末次信正に近いすじの南雲とは、立場も考え方も全くちがう提督であった。
この時井上は、遺書をしたためた上で、改正案反対を唱えつづけたが、何カ月か経《た》って、とうとう軍務局長の寺島健が中に立ち、
「こんな馬鹿な案によって、制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉《ま》げてこの案に同意してくれないか」
と、懇願的に承知をさせようとかかって来た。井上はそれでも承知せず、
「私は、自分で正しくないと思う事には、どうしても同意出来ません。自分にもし取《とり》柄《え》があるとすれば、それは正しい事を枉げないという点だけで、海軍は、又正しい事の通る所でした。それで私は、今日まで気持よく御奉公して来ましたし、当局が私を優遇してくれたのも、それを認められたからだと信じています。この案に同意しろというのは、従って私に節操を捨てろというのと同じで、どうしても通したければ、第一課長を更迭《こうてつ》して、私の替りに、この案に判を捺《お》すような人を持って来たらよいと思います。そんな不正が通る海軍になったと言われるなら、私はそのような海軍にはおりたくありません」
と言って、辞任する気で家へ帰ってしまった。
井上成美とは、そういう人であった。
井上は首にはならなかったが、横須賀鎮守府付に左《さ》遷《せん》され、そして軍令部の望んだ改正案は結局通ったのである。
軍令部令及び省部互渉規程改正というのは、どの程度の重要問題であったか、局外者にはよく呑《の》みこめないところもあるが、時の海軍省先任副官で、井上と同期の岩村清一は、井上に向ってプライベイトに、
「こういう事で、軍令部の力が強くなって、一方で、国の大事に慎重にブレーキをかけなくてはならぬ立場の大臣の力が弱くなると、戦争をおこす危険が増すなあ」
と言って、悲痛な顔をしていたというから、井上が職を賭《と》すだけの重さはあったのであろう。
そして、歴史は繰返すというが、日独伊三国同盟の時にも、対米英開戦の時にも、海軍部内ではこれと似たような争いがおこり、職のみでなく命を賭して闘った人がいたにもかかわらず、結果的には、いつも無理が通って、なしくずしに道理は引っこんでしまったのであった。
昭和十二年九月二十日、この井上成美少将が、豊田副武に替って軍務局長として着任した。
米内、山本の海軍は、井上新軍務局長を得て、非常にすっきりと、強力な線に整ったが、この頃《ころ》、日華事変の方はもう、華北から華中、華南へとひろがり、手のつけられない様相を呈していた。
山本はしかし、へこたれてはいなかった。
「どんな困難な問題にぶつかっても、苦悩の色を見せず、ケロリとしていた」
と松永敬介は言っているし、山本の下に、軍令部出仕、海軍省出仕、官房調査課員、軍務局勤務という長い肩書で働いていた高木惣吉は、次官時代の山本が、
「智《ち》謀《ぼう》、健康とも、まさにその頂点とも見えた」
と書いている。
この高木調査課員が、ある時、議会の政府委員室で、山本から、
「オイ、君は知ってるだろうが、由来、暮夜ひそかに権門を叩《たた》くような奴に、ロクな者がいると思うか」
と、憤慨《ふんがい》の口吻《こうふん》で話しかけられたことがあった。
山本は、末次信正のことを言っているらしかった。
末次が、「暮夜ひそかに権門を叩」いたかどうかは詳《つまび》らかでないが、当時、近衛首相と末次大将とが妙に意気投合して、末次の内閣参議に列するという話が進んでいるところだったのである。
内閣参議制度は、近衛の考え出したものということになっていて、緒方竹虎は、これについて、
「威容を張ることの好きないわゆる関白好みが、偶々《たまたま》策士に乗ぜられたとしか考えられない」
と言っている。
参議に予定されていたのは、宇垣一成、荒《あら》木《き》貞《さだ》夫《お》、末次信正、安保《あぼ》清種《きよかず》、ほかに町田忠治、松岡洋右《まつおかようすけ》、郷誠《ごうせい》之《の》助《すけ》、池田成彬《いけだなりあきら》といった顔ぶれで、中でも末次大将は陛下の思召《おぼしめし》の特に悪い人物であった。原田熊雄の「西園寺公と政局」の中に、末次が支那を領土的に取ってしまうということをしきりに言っているとか、末次の率いているような右翼には陸軍ですら愛《あい》想《そ》をつかし始めたとか、松岡が何か言い出せば末次はいつも必ずそれを弁護するか共鳴する性《たち》だとかいうような話がたくさん出て来る。
陛下が末次についてよく御承知で、
「色々評判があるが、どうか」
と近衛にたずねられたという話も出ている。
しかし参議制度の発足にあたって、海軍から末次信正を採るということは、近衛と末次との間で早目に話がついてしまい、米内海相は総理から事後相談のかたちでこれを打ちあけられた。
「少しも異議はありません」
と、米内は答えた。
「ただし」と、彼は言った。「海軍では、大臣以外、現役の軍人は、次官といえども政治に携わる事を一切許しておりません。今度無任所大臣にも似た内閣参議に就任する以上、末次大将は当然予備役に編入することになります」
これは近衛の予期しないところであった。末次自身も予期していなかったかも知れない。近衛は意外な顔をしたが、米内は結論だけただこう言って、ゆずらなかった。
予備役に編入されるということは、軍人が軍人としての機能を停止されることである。
艦隊派の一方の巨頭末次信正を、この時敢《あ》えて予備にしてしまったことで、米内、山本の海軍省首脳は、部内に政治法《はつ》度《と》の無言のきつい禁令を布《し》いたかたちになった。
近衛は、気の毒に思ったらしく、それから何カ月かして、末次信正を馬場《ばば》 一《えいいち》の後任の内相に取立てた。
この時山本は、
「万一末次が閣内に入って排英の強硬な主張でもしたら、真先に海軍大臣が『そんな軽率な、国家の現状や国際環境も顧みないで、この上イギリスとやるとか何とかいうことは以《もつ》ての外のことであって、甚《はなは》だ慎重を欠き、国家に忠誠なる所以《ゆえん》ではない』と言って、海軍は絶対に反対する。その時は内閣がこわれるかも知れない」
と言っていたそうである。
高木惣吉は末次大将について、
「若い時は素晴らしい人だったが、政治的野心を持ち始めてから崩れ、下につめたく上に迎合するようになった」
と評している。
ある時、海軍部内の対立を何とかうまくまとめたいというので、藤山愛一郎らが仲に立ち、一席設けて米内を末次に会わせたことがあった。
食後記念の寄せ書をすることになり、末次は色紙に「断」と一字書いた。米内がそれを見て、
「これは断わるという意味なのか、断《だん》乎《こ》やるという意味なのか、どちらですか?」
と皮肉を言った。
末次信正の内相就任決定は、正確にいうと昭和十二年の十二月十三日で、この日、南京《ナンキン》が陥落して「南京城中山門《ちゆうざんもん》に翻る日章旗」という号外が出、日本中が騒然としていた――、そして末次は新聞記者を前にして、
「おれの『内務大臣』は可笑《おか》しいかね?」
などと、内閣参議から内相へ転身の弁を述べていた――、ちょうどその日の夕刊に、第三艦隊(のちの支那方面艦隊)報道部午後一時発表の次のような記事が、「上海《シヤンハイ》特電」として小さく出た。
「十一日夕支那軍汽船にて南京を脱出上流に向ひたりとの報によりこれが追撃爆撃に向ひたる海軍航空隊は、スタンダード会社汽船三隻《せき》を誤認し爆撃を加へ該汽船及び傍《そば》にありたる米艦一隻を沈没せしむるの不祥事を惹起《じやつき》せり。右の事件はアメリカ海軍に対し誠に遺憾千万のことにして長谷川長官は之《これ》に関する一切の責任をとるため直に適当の措置を講じつつあり」
組み方が小さいため、注目する人は少なかったかも知れないが、この「米艦一隻」がアメリカ海軍の砲艦「パネー」で、これが事変勃発以後、日米間最初の難問題となった「パネー号事件」の発端である。
この事件に対する日本海軍の姿勢には、第三艦隊報道部発表の措辞を見ても、如何《いか》にも「まずい事を起してしまった」という狼狽《ろうばい》の色が見え、「アメリカと事を構えたくない」という様子が非常にはっきりしていた。
日本海軍の軍艦一隻は、すぐ南京から溯《そ》江《こう》して、米艦船の遭難者の救助にあたっている。また軍務局長の井上成美少将は外務次官を訪ねて、
「海軍としては、出来るならぜひアメリカの大統領と英国皇帝ジョージ五世に対して親電を出していただきたい」
という申入れをしている。「英国皇帝に」というのは、これとほとんど時を同じくして、陸軍が南京の上流蕪湖《ぶこ》で英艦「レディ・バード」に対する砲撃事件を起していたからである。こういう海軍上層部の態度は、ある種の人々の眼《め》には、あまり快く映らなかったであろう。
溝田主一はこの時経済使節団の一行と共に欧米を旅行中であったが、帰国して東京駅に着くと、榎本重治《えのもとしげはる》が迎えに出ていて、
「家に帰りたいだろうけど、山本さんから是非ということだからちょっと海軍省へ寄ってくれ」
と連れて行かれ、結局山本の書いた海軍航空隊の在り方についてのパンフレットを徹夜で英訳させられた。
そしてそれから間もなく、
「アメリカや英国の艦船が揚子江の国際水路に頑《がん》張《ば》っている以上、こういう問題は又起るかも知れない。言葉の上で誤解があっては困る。二三カ月でいいから」
という山本の強い要請で、上海に派遣されることになった。
山本が、
「ついては君、何か条件があるか」
と聞くので、溝田は、
「二つあります」
と答えた。
「第一は、もし問題が起った場合、交渉相手は向うの高官で、こちらが虹口《ホンキュー》の木賃宿に泊っていたのでは対等の話し合いは出来ないから、ちゃんとしたホテルに泊らせてほしい。第二は用の無い時に仕事があるような顔をして机に坐《すわ》っているのは私は大きらいです。自由行動を許してもらいたい」
「自由行動」というのはゴルフのことである。
山本は、
「君が毎日ゴルフをしていられるようなら、こんな結構なことはないんだ。若い士官が文句をつけたりしたら山本がいいと言ってるんだと言え」
と、溝田の条件を二つとも了承した。
上海ではたまたま、ロンドン行きの時一緒だった光延東洋が渉外部長のポストにいて、二人はパネー号事件の解決に現地で陰の働きをしたのであるが、旗艦「出雲《いずも》」の艦長がやはり軍縮予備交渉の時ロンドンにいた岡新で、岡や外務省から来ている岡崎勝男と共に溝田はゴルフの方も結構楽しんだらしい。
当時の駐米大使は、その後米国で客死し、遺《い》骸《がい》が巡洋艦「アストリア」号で日本へ送られて来た斎藤博であった。斎藤はアメリカ人の間に評判のよかった大使で、山本五十六とは同じ長岡の出身、旧知の間柄《あいだがら》で、山本の気持をよく承知している人であった。彼は、アメリカのラジオを通じて、この事件に関し日本側の非を率直に認め、アメリカ国民に謝した。
山本も次官として、
「海軍は、ただ頭を下げる」
と、率直な言明をし、責任者である第二聯《れん》合《ごう》航空隊司令官三竝《みつなみ》貞三少将もすぐ更迭してしまった。それは、海軍がそういう処置をとれば、陸軍の方でも「レディ・バード」号砲撃事件の責任者、野戦重砲兵第十三聯隊長の橋本欣《はしもときん》五《ご》郎《ろう》大佐をやめさせるだろう、それで何とか国際上の儀礼が立つようにしたいという考えからであったが、陸軍は橋本をやめさせなかった。
橋本欣五郎は大日本青年党という右翼団体の統領におさまっていた人物で、常々、
「出征軍人は生命を国家のために投げ出している。銃後の連中は財産を奉還しろ」
などと説いて歩いていた。
山本は、
「橋本なんか早く弾にあたらないかと思うけど、なかなかあたらないもんだ」
と言っていたそうである。
この時、アメリカの大統領は、すでにフランクリン・ルーズベルトで、国務長官はハルである。日本の外務大臣は広田弘毅であった。
米国側は一時非常に硬化し、東京の米国大使館に、「天皇に直接かけあえ」という訓令が来ていたという話もあるが、結局日本の誠意が認められたというかたちで、約二週間後にパネー号事件は解決を見た。
事件落着と同時に、山本が次官談の形式で公表した文章は、次のようなものである。
「『パネー号』事件は本日米国大使より外務大臣に致せる回答を以て一段落を告げたる次第なるが右は事件発生以来各種誤解宣伝の渦中《くわちゆう》に於《おい》て米国政府並《ならび》に其《そ》の国民が公正明察克《よ》く事件の実相と我方の誠意とを正解したるに依《よ》るものにして事件の責任者たる帝国海軍として洵《まこと》に欣快に堪へず、又本事件発生以来我国民が終始冷静にして理解ある態度を持したる事に対し深甚なる謝意を表するものなり、今後我海軍は愈々《いよいよ》自重自戒以て此種《このしゆ》事件の根絶に万全を期するは勿論《もちろん》なるが一方更にこの機会において支那事変を繞《めぐ》りて帝国と第三国との間に介在する各種の誤解疑念を一掃し進んで理解と親善とに至らしめ以て禍《わざはひ》を転じて福となすことに対し我国民一致の協力を切望して巳《や》まざる次第なり」
これは、この当時として可能な範囲で、山本の考え方をはっきり打出した文章のように思われる。
山本は、国際公法に関しては相当に明るかったし、かつ、厳格な考えを持っていた。
繁忙な次官の事務の間に、航空部隊からの報告書類中、
「敵ノ兵舎ラシキモノヲ発見、爆撃ヲ加ヘ」云々《うんぬん》とあるのを見とがめて、
「こんなアヤフヤなことはいかん。ラシキというのは、いけない。こういうことは、無差別爆撃になる恐れがあるから注意しなくちゃならん」
と言ったこともあった。
ある土曜日の晩、友人の海軍教授、榎本重治と将棋を始め、乱戦状態で到底勝負がつきそうもない形勢になって来た時、榎本が時計を見て、
「こりや、もう駄目《だめ》ですよ。お互い、詰まないよ。私の方が駒《こま》が多いから、大成会の規約では私の勝ですよ」
と言うと、山本は一心不乱に榎本の玉《ぎよく》をにらみながら、顔も上げず、
「詰まないことがあるもんか。俺《おれ》は大成会の規則でやると約束した覚えはない」
と言って、いっかなやめようとせず、暫《しばら》くすると、盛んに歩《ふ》を成らせてかかって来た。大成会というのは、今の将棋連盟の前身の将棋大成会のことである。
十時頃《ごろ》から始めて、その時にはもう十二時を過ぎており、榎本がうんざりしながら、それでも更に応戦約一時間の末、重ねて、
「とても駄目ですよ」
と言うと、山本は、
「そんなら、負けたと言え。勝負はどうしてもつける。相手の戦意を喪失させるのが、戦争の目的だ。敵兵を殺したり捕虜にしただけで役に立つもんか。国際法の根本もそこにあるんだ」
と、聞入れない。
榎本重治は、「戦時国際法規綱要」「軍艦外務令解説」などを編纂《へんさん》し、その事で海軍に奉職している人だから、
「あなたが国際法とは、驚いたネ」
そう言ってからかうと、
「馬鹿にするな。国際法ぐらい分らなくて海軍士官が務まるか。俺はこれでも、海軍大学校の軍政教官で国際法を講義したこともあるんだぞ」
ときめつけた。
山本のこの言葉は事実である。彼は、最初の米国駐在を終えて帰朝し、巡洋艦「北上《きたかみ》」の副長をへて、大正十年の十二月海軍大学校の教官になった時、地味で、人がいやがって引受けない軍政学を、大切な事だからと進んで担当し、国際法を講じたことがあった。
将棋の話のついでに、高木惣吉の本に出ている山本の将棋に関する逸話を一つ書けば、山本がある時、軍令部総長伏見宮の将棋の相手を仰《おお》せつかったことがある。
伏見宮は、碁、将棋の好きな宮様で、誰か手頃な相手の噂《うわさ》を聞くと、すぐお相手がかかって来るのだが、勝って悪《あ》し、あまり負けつづけても悪しという、厄介《やつかい》なおつき合いであった。それで伏見宮は、自分で将棋はよほどの腕前だと思っていたらしい。山本五十六が強いそうだという評判を聞いて、早速山本が呼ばれることになった。
山本は、世辞も並べずに三番ストレートで勝抜いてしまった。伏見宮は口惜《くや》しがり、次の日もう一度来いとのお声がかかったが、二日目も山本は、三番勝抜いた。
三日目には、山本より兵学校一期下の奥名清信という伏見宮のお附《つき》武官が、
「山本さん、ちっとは考えてやって下さいよ」
と耳打ちをしたが、山本は構わず、更に三番ストレートで勝抜いた。お附武官としては最適任の人物であった奥名は、山本の帰る時、
「あなたという人は……」
と、甚だ怨《うら》めしげであったという。
これは、山本の剛直を示すものでもあろうが、同時に、堀悌吉を首にし、艦隊派の連中にかつがれている伏見宮に山本が相当反感を持っていた証左のように思われる。
第七章
南京《ナンキン》が陥落し、パネー号事件が落着し、再び年が明けて昭和十三年になるが、この昭和十三年は、歴史年表にあらわれた項目を年初から次々拾ってみるだけでも、如何《いか》にも日本の右旋回の傾向が一段とはっきりして来た年であった。
二月一日には、大内兵衛《おおうちひようえ》、有沢広《ありさわひろ》巳《み》、脇村《わきむら》義太《ぎた》郎《ろう》ら、東大経済学部の教授グループをはじめとする、四百余名の「人民戦線派」の検挙が行われているし、二月十七日には、防共護国団という右翼団体員数百人が、「挙国一党」「天業翼賛」というようなスローガンを掲げて、政友会、民政党の両本部を占拠し、籠城《ろうじよう》の気構えを示して気勢を挙げた。
三月三日には、小石川の江戸川アパートで、七十四歳になる社会大衆党の党首安部《あべ》磯《いそ》雄《お》が、暴漢に襲われて重い傷を負うている。たまたま同じその日、衆議院では、国家総動員法案委員会の席上、答弁に立った陸軍省軍務局課員佐藤賢了《さとうけんりよう》中佐が、議員に向って、
「黙れ」
と、怒鳴るという、いわゆる「黙れ事件」をおこした。
これは、佐藤が、
「諸君、私は確信するのでありますが、(大震災の如《ごと》き)かかる非常の場合におきまして、国民の頼むは何であるかというと、議会と政府、立法と行政との関係というような問題ではなくして、何か強力な力、強い力によって敏活機敏に処理されるという事であります。そうして又、その非常の時に当って我が日本国民の伝統精神というものは何《なん》等《ら》か我等も一枚買って出たい、御用に立ちたいという気持であります。しかし、それを個々別々に各個の行動、各個の独断専行では有難《ありがた》くないから陸軍省の命令をくれんか、政府の命令をくれんかという即《すなわ》ち我等の行動が、自分の行動が真に国家の御用に立つという行動であるという満足の下に忠誠心が発揮したいのじゃないかと思います。即ちこの国民の心理を捕えなければならぬ、この国民の忠誠心を一つも無《む》駄《だ》なく政府が公然と公認をし、公然とこれに任務を与えて、そうしてこの全国民の精神力、物質力、これ等を一《いち》途《ず》の目標に向って邁進《まいしん》せしむるという所の組織が必要なんではないか、それが即ちこの総動員法というものに依《よ》って――」
という風に、法案の説明をしているのに対し、
「委員長、あれは何者ですか?」
とか、
「討論はいかぬ、討論は許されませぬ」
「止《や》めた方が穏やかだ」
というような野次《やじ》や批判が飛び、佐藤が怒って、
「黙れ」
と叱咤《しった》し、委員側からも、
「黙れとは何です、説明を承ります。黙れというのは、どういう意味ですか? 誰《だれ》に向って言ったか? その意味を承りとうございます」
といきり立つ者があって、大《だい》波《は》瀾《らん》をおこした事件であった。
大体、議場の空気というものは、今も昔も一種いやなものであるらしく、海軍省軍務局の良識派の中にも、
「議員さんは、議会の外ではジェントルメンだが、一歩あの中に入ると、まるでちがった人間になって、赤い絨緞《じゆうたん》の上で下らないことを言い合う」
と顔をしかめている者が大勢いたし、山本五十六も、
「あんな馬鹿《ばか》な者を、国民の税金で飼っているのかと思うと、まったくいやになってしまう」
と、代議士の悪口を言っていたことがあるそうだが、海軍にはいくら何でも、国民の代表とされている人々を相手に説明や答弁に立って、佐藤賢了のように高飛車かつ独断的な論理で自己主張をする人はなかった。
相手も相手かも知れないが、佐藤の如き粗雑な議論を根底にして、「乃公《だいこう》出《い》でずんば蒼《そう》生《せい》を如何《いかん》せん」などと思い上っていられたのでは、日本の陸軍も、豊田副武あたりから、「馬《ま》糞《ぐそ》、馬糞」と生理的に毛《け》嫌《ぎら》いされても仕方がなかったというべきであろう。
この国家総動員法というのは、佐藤の表現を藉《か》りれば、「国民の忠誠心を一つも無駄なく政府が公然と公認し」、「御用に立ちたい」、「陸軍省の命令をくれんか、政府の命令をくれんかという」、「全国民の精神力、物質力」を一つにまとめてやろうという親心《・・》から発したもので、陸軍の指導で企画院が立案し、戦時体制上必要となった場合、勅令一つで何時でも、国民の経済から教育、研究、言論、出版、集会、労働争議などの自由と権利とを、すべて政府の統制下におけるようにしようという立法であった。
佐藤賢了の「黙れ」に関しては、翌日、陸軍大臣の杉山元が、遺憾の意を表明して一応けりがつき、法案は、それから三週間後の三月二十四日を以《もつ》て成立した。
一方、陸軍が三カ月で片づくと誇称していた事変は、年が明けても片づく様子は全く見えず、一月十六日には、
「爾後《じご》国民政府を相手とせず」
という近衛声明が発表され、どう収拾していいのか、もはや見当もつかぬ状態に落ちこみつつあった。
実は、昭和十二年の十二月、南京陥落の直後と、昭和十三年の五、六月、内閣改造が行われて広田、杉山が退陣し、新たに外務大臣として宇垣一成が、陸軍大臣として板垣征《いたがきせい》四《し》郎《ろう》が入閣した時と、二度、日本が日華事変の和平解決を求むべき機会が訪れたようであるが、どちらの場合にも、一つは陸軍自身の身勝手の故《ゆえ》に、一つは首相の近衛が持ち前の優柔不断の故に、思い切った措置は何も取られず、機会は徒《いたず》らに見送られ、失われてしまった。
こういう事態を迎えると、多くの人が次第に、考えるより行動する方が楽だと思うようになり、今はもう考える時ではなく、行動すべき時だと思うようになって来るらしい。緒方竹虎は、
「狂人走れば不狂人走る。日華事変の相当進展したころからは、意外な人までも戦争是認の理由を見《み》出《いだ》そうとして汲々《きゅうきゅう》たる有様であった」
と書いている。
要職を帯びてその流れの中に立ちながら、しかも流れに流されず、醒《さ》めて動かないでいるのは、相当難かしいことであったと思われるが、米内、山本及び彼等の周辺の幾人かの海軍軍人は、その稀《まれ》な、少数の人々に属していたと考えていいであろう。
二六新報の松本賛吉が、ある時近衛文麿の弟で近衛内閣の大蔵大臣秘書官をしていた水《み》谷《や》川《がわ》忠麿と、蔵相官邸で四方山話《よもやまばなし》をしていると、水谷川が、
「現在の日本には実に人材が乏しいね」
と言い出した。
次官就任の日に初めて会って以来、次第に山本を尊敬するようになっていた松本は、それは政界に限って言えばそうだろうが、ほかの分野には相当な人物がいると思う、世間では未《ま》だあまり問題にしていないかも知れないがと前置きして、山本五十六の名を挙げた。
すると水谷川忠麿が、
「そうですか。いや、実はあの人のことはうちの長兄なども、『人物だという評判がある』と言っていて、一度誰かによく聞いてみたいと思っていたんだが、どういうところが傑出していますか」
と膝《ひざ》を乗り出して来た。
松本はちょっと考えてから次のような意味のことを答えた。
「一と言で言えば、山本次官という人はお上手者でない。実際一種の変人ではないかと思われるくらいぶっきら棒で無愛想で、むろん軍人は無愛想でいいのだけれども、あの人のは群を抜いて徹底している。私が接した政治家財界人軍人官僚の中から、自分の考えていることを誰にも遠慮せず、歯に衣《きぬ》を着せずにずばりと言ってのける人物を求めれば、財界の郷誠之助氏と海軍の山本五十六中将の二人だが、郷氏の方は家柄《いえがら》や経歴から見て、世間に遠慮しなくてすむような境遇に育ったのだから、その点を多少割引して見なければなるまい。ところが山本次官となると、そういう割引なしで、――ほかにも優れた点はたくさんあろうがとにかくお上手者でない。荻生徂《おぎゆうそ》徠《らい》の言葉に『人物とは一癖ある者の謂《いい》なり』というのがあるそうだが、その意味ではたしかに一癖あって、よほどの人間でないとあのようには出来まいと思われる珍しい存在だ。聡明《そうめい》な才人、温厚な長者、人あたりのいい人、こういう程度の人物ではこんにちの時局はとても乗り切って行けまいと思うが、もし山本氏を政界に迎えれば往年の原敬《はらたかし》をしのぐくらいの手腕を発揮しそうな気がする」
その数日後、松本賛吉は山本に会って水谷川忠麿にこういう話をしたと言い、
「近衛公もあなたの人物に着目しているそうで、やがて閣下も政界へ乗り出さねばならんことになるでしょうな」
「某海軍大将なども政界進出の機をねらっているということですし」
とちょっと打診をしてみた。山本は、
「ふうん」
「ふうん」
と気のない調子で聞いていたが、やがて、
「軍人が政界へ出たって、その知恵なんかタカが知れてるよ」
吐き出すような調子で、
「政治家になった軍人なんてろくなことは出来ん。自《うぬ》惚《ぼ》れてる奴《やつ》ほど無能なんだ」
そう言ってさっさと話を片づけてしまった。
「お上手者」でない山本や米内は、時流に妥協せず、陸軍や右翼に対して批判的であり、部内の強硬派に対しても極めて批判的であった。
英語でよく用いられる表現に、「Mind your own business!」というのがあって、「自分の頭の蠅《はえ》を追え」と訳してもいいし、「余計なお節介をやく勿《なか》れ」と訳してもいいだろうが、日本の陸軍が屡々《しばしば》、自分の頭上の蠅を忘れて、他人の姿勢を正すのに忙しかったのに反し、海軍の彼らは、時世に批判的であるに際して、先《ま》ず自分のところの「ビジネス」から始めた。
米内、山本の両首脳が、一部の強硬論者を抑え、海軍を見事な統制の下においたことは、先に書いた通りである。末次信正の内閣参議就任、予備役編入の時にも、山本五十六は、
「あれは、末次大将を屋根の上に追い上げて、うしろから梯《はし》子《ご》をはずしてしまったようなものだ」
と言って、いたずらっぽく笑っていたそうである。ただ、これが一歩進めて、対陸軍、対政界上層部の問題ということになると、なかなかそう簡単ではなかった。
簡単でないのは当然だが、海軍が、「mind one's own business」という点で、あまりに折り目正しく、陸軍や近衛を論破し、説き伏せ、時に策略を用いてもこちらへねじ向けさせるというような、えげつなさ、がむしゃらさを、ちっとも持ち合せていなかったのは、事実である。それを非難するのは、海軍が陸軍のようでなかったといって非難することになって、自己撞着《どうちやく》の面が出て来るが、あとになって考えれば、やはり私たち国民として、海軍に対し、批判も不満も、残念な思いも残るところであろう。
世間には「無知な陸軍弱い海軍」という蔭《かげ》口《ぐち》があった。「弱い」という意味の取りようは色々あろうが、米内光政は常々、
「人を冒さず人に冒されず」
と言っていたそうで、副官時代それをよく耳にした松永敬介は、
「そこが海軍のいいところでもあり悪いところでもあった」
と語っている。
とにかく「海軍左派」の人たちは、批判的という点では、近衛に対しても非常に批判的であった。
近衛文麿は、学歴や、五摂家の一という門地の高さに加えて、年齢から「青年宰相」などと呼ばれ、何か新鮮な期待が持てそうな印象を一般に与えていたが、海軍の彼らは、近衛にそういうイリュージョンを持たず、信を措《お》かぬ点で共通していた。
戦争に負けて、近衛が死んでのちのことではあるが、学究肌《はだ》の高木惣吉元少将が、敢《あ》えて、
「薄志弱行の近衛公」
と書き、井上成美元大将は、
「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った」
と酷評をしている。
「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っこんでしまう。相手と相手を噛《か》み合せておいて、自分の責任は回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍に一と言ノーと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押しつけられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれに違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処《そこ》に到《いた》る種を蒔《ま》いたのは、みな近衛公であった」
とも、井上は言っている。
山本も、その点、近衛に対する不満は同じであった。
この年、五月の内閣改造で、宇垣一成が外務大臣に就任したあと、宇垣の次官を誰にすべきかが、デッド・ロックに逢着《ほうちやく》したかたちになって、七月になってもそれが決らずもめていたことがある。そのうち、白鳥敏夫の呼び声が高くなり、宇垣は近衛首相に、白鳥の外務次官起用について詢《はか》った。
白鳥は、「豪傑肌《はだ》の外交官」とか、「霞ヶ関の革新男」とか言われ、満洲《まんしゆう》国の建設とか、日本の国際聯盟《れんめい》脱退、日独防共協定締結という場面には、必ず乗り出して来て積極的な態度を見せる枢軸派の外務官僚であった。近衛は、この白鳥が、陸軍にはよくても海軍にどうであろうかというので、原田熊雄を使者に立て、米内、山本の意向を打診して来た。
米内は、例の如く、黙って首を振っているだけであったそうだが、山本次官は原田に率直に答えた。
「海軍が部外の人事に容喙《ようかい》するなんかということは、海軍の伝統が許さない。白鳥が海軍次官にでもなるというのなら、あくまで反対するけれども、外務次官になろうと大臣になろうと、それは海軍がとやかく言うべき筋合いのことではない。特に自分の如き次官が先に立って部外の人事をかれこれ言うように思われては甚だ困る。ただ自分は偶然な機会から白鳥のある素行上のことを知っている。それが彼の監督下にあった者との関係でなければ大したこととは思わないけれども、監督下の者を相手にしたという事実は官紀上許すべからざることだと思う。しかし総理や外務大臣が政治上の必要からどうしても白鳥を次官にされるというならば、いやしくも帝国海軍としてはそれに対して邪魔をするとか悪口を言うとか、白鳥の欠点をあばくとかいうようなことは絶対にしない。仕事の上で協力もするし、たとい意見がちがった場合にも堂々とたたかい、感情を交えてかれこれ思うようなことは自分は一切しない。但《ただ》し、折角のおたずねであるから一言つけ加えさせてもらえば、総理としてはまことに御寛大な処置だと思う」
電話で原田の報告を聞いた近衛は笑っていたそうだが、これは、山本五十六の近衛に対するひどい皮肉である。そして、山本のこの一と言で、白鳥の外務次官就任は、沙汰《さた》やみになった。白鳥敏夫は、そのかわり、それから二カ月ほどのちに、大使としてイタリヤへ転出して行った。
白鳥敏夫を外務次官にもっとも強く推《お》していたのは六月に陸軍大臣になったばかりの板垣征四郎であった。
板垣は山本のことを、日本の採ろうとしている枢軸寄り新外交路線に対する一番大きな障害、困った存在と考えていたらしく、子分の某、板垣の情報係と自称する男を使って、ある時期しきりに山本に接近させ、彼の意向や動静をさぐらせようとした。某は一週間ぶっ通しで朝早くから次官官舎へかよいつづけたりしたが、山本はこの男に、いくら何でも帰って親分の板垣に報告しにくいような情報をわざと話してやり、遠慮会釈《えしやく》なしに陸軍の悪口を並べ立てた。閉口した某が、
「それでは板垣閣下の人物についても、ひとつ忌《き》憚《たん》のない批評をしていただきたい」
と言うと、山本は、
「ほかのことはよく分らんが、頭がよくないということだけは事実だ」
と答えた。
これは松本鳴弦楼が山本から直接聞いた話で、
「お世辞を言ったってはじまらんから、仕方がないだろう。頭のよしあしだけが人間のすべてでもあるまいから、それでいいじゃないか」
と、山本は澄ましていたそうである。
何と言ってもしかし、これら外務次官の人選問題や、国家総動員法案や、政党と右翼の抗争などは、海軍にとって「own business」とは未《いま》だ言いかねる問題であった。
沿岸封鎖や渡洋爆撃行などで、戦いの一角に加わりながらも、日華事変そのものすら、海軍にとっては、自分たちの本務の仕事ではないというところがあった。
時世の右旋回、陸軍の下剋上《げこくじよう》、その無軌道の結果が、初めて切実な火の粉となって、海軍自身の上に降りかかって来るのは、日独伊三国同盟問題というかたちにおいてである。何故《なぜ》なら、当時の世界情勢下で、ドイツ、イタリヤと軍事同盟を結ぶか否かは、海軍として、英米との戦争を覚悟するか否《いな》かにかかわって来るからであった。対英米、殊《こと》にアメリカとの戦争となれば、殆《ほとん》どすべての責任は海軍の上にかぶさって来よう。これはもはや、批判や皮肉ですませておける問題ではなかった。
井上成美は、「思い出の記」の中で、
「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の二年間は、その時間と精力の大半を三国同盟に費やした感がある」
と書いているが、「感」としては、井上にしろ山本にしろ、正《まさ》にその通りの感であったにちがいない。
しかし、調べてみると、実際に彼らが、日夜、この問題に頭を悩まし、遺書をしたためて事にあたらねばならぬような立場に追いこまれたのは、少なくとも昭和十四年の初頭以降のようである。米内の海相在任、山本の次官在任、井上の軍務局長在任の、後半それぞれ約八カ月間にあたる。
もっとも、それ以前の昭和十三年中のある時期に、三国同盟問題は、もう少し漠然《ばくぜん》としたかたちで、初めて海軍に持ちこまれて来たらしい。正確にいつであったかは、はっきりしないけれど、これが陸軍の陰謀、乃《ない》至《し》はドイツの陰謀に乗せられた日本陸軍の策謀であったことは、今では疑うことは出来まい。
戦後、東京裁判の法廷における大島浩の供述によれば、軍事同盟らしき問題が、最初に両国の間で話題にのぼったのは、昭和十三年の正月であった。
のちの駐独大使で、当時ベルリンの日本大使館付武官であった大島陸軍中将は、昭和十三年の初頭、年賀を兼ねて、オーデル河畔ゾンネンブルクの別荘にリッベントロップ外相を訪ね、そこでリッベントロップから、ドイツと日本との間を、何か条約で更に接近させる道はないだろうかと、相談を持ちかけられている。
ロンドン軍縮予備交渉から帰国する山本五十六を、無冠のリッベントロップが強《し》いてベルリンに立ち寄らせ、ヒットラーに会わせようと試みた時から、ちょうど三年後であった。
その時の大島とリッベントロップとの話し合いの内容が、六、七月頃《ごろ》になって、東京とベルリンと双方で、それぞれもう少し具体的なかたちを備えはじめた。
参謀本部と、出先の大島武官とは、交渉の末、七月下旬、ベルリンにいる大島の部下の笠原《かさはら》陸軍少将を帰国させることにした。
表向きは、軍中央の意見を求めるためと、リッベントロップが機密の漏洩《ろうえい》を惧《おそ》れて特に人の派遣を望んだためとされているが、笠原幸雄は宇垣一成の義弟にあたり、参謀本部と大島とがしめし合せの末に、笠原の派遣で宇垣外相を動かし、政府を引きずり、ドイツとの新たな軍事同盟の下ごしらえをするためのものであったと思われる。
そのころ、米内、山本の下で、海軍省副官兼秘書官として働いていた実松譲は、ある時、ドイツから帰朝して間もなくと聞く参謀本部第二部の笠原という少将が、分厚い鞄《かばん》をたずさえて、海軍省に次官を訪ねて来、山本と二人で大臣室へ入って行くのを見た。実松が三国同盟問題を意識したのは、この時が最初であったという。
「笠原少将持参ノ協定案ニ対シテハ陸海軍共其《ソ》ノ趣旨ニ同意ナリ、左ノ条件ヲ以《モツ》テ之《コレ》ヲ採択スルコトニ意見ノ一致ヲ見タリ」云々《うんぬん》という大島武官あての陸軍省からの電報が出されたのが八月二十九日となっているので、それは多分昭和十三年の八月下旬のことであったろう。山本五十六にとっても、三国同盟問題を意識するようになったのは、ほぼこの時期からであった。
その後、九月三十日、宇垣外相が近衛内閣から退陣し、近衛が兼摂の外務大臣となり、十月八日には、日独間にこの問題を進める上で障害となっていた東郷茂徳《とうごうしげのり》大使が、ベルリンからモスコーへ移され、後任大使に陸軍武官の大島浩が昇格し、十月二十九日、有田八郎が新たに専任の外務大臣に親任されるというような人事の動きが見られるが、これらの殆どすべては、陸軍の意向にそうて行われたものであった。
ベルリンで大島が大使になると、間もなく、陸軍大臣から五相会議を要求し、「大島・リッベントロップ案」なるものの審議を求めて来た。
「案」は、防共協定の強化延長のような、ソ聯《れん》を対象として、英米仏は対象とするかのようなしないかのような、未だあいまいな形のものであったらしいが、これ以後、山本は米内や井上と共に、いやでも応でもこの問題に首を突っこまざるを得なくなるのである。
ただし、首を突っこむといっても、海軍部内に限って言えば、これより山本が聯合艦隊司令長官になって海軍省を出て行くまでの長いうっとうしい日々の間に、米内、山本、井上の三人が集まって、この問題で相談をしたなどということは、ほんの一度か二度あっただけであるという。
「三人の間で、結論はいつでも一致しているので、議論はしたことが無かった」
と、井上成美は語っている。
それは要するに、ドイツと軍事同盟を結んで何の利ありや、ということであった。アメリカが最も忌《い》み嫌《きら》っている国と手をつないで、得をするのは向うだけ、日本は対米戦争の危険が増大するだけで、どんないいことも考えられない。そして、海軍として今アメリカと戦端を開くことは、固くこれを避けねばならぬ状態であった。
山本は、よく、
「これじゃあ、戦争になる、これじゃあアメリカと戦争になる」
と言っていたそうである。
大臣の米内は、気質的にもドイツが嫌いであった。
彼は小泉信三に、
「ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いです。私はドイツにもいましたが、とうとうドイツ語を覚えませんでした」
と話したことがある。彼はまた、二年半のドイツ駐在中の経験と研究とから、ドイツと結ぶことは、何処《どこ》の国にとっても頗《すこぶ》る危険だと信ずるようになり、ヒットラーの「マイン・カンプ」を読んで、ドイツが昔ながらの強気一点ばり、時の勢いと自己の実力とを深く省みることなく、ヒットラーの一代でいわゆる欧洲《おうしゆう》の新秩序なるものを樹立しようとしている危なっかしさを、しみじみ感じ取ったという。ヒットラーのドイツを嫌っていた米内は、むろんナチス張り共産党張りの統制も嫌いであった。
第七十四帝国議会の海軍予算分科委員会(昭和十四年二月八日)で、社会大衆党の水谷長三郎の質問に対し、米内は、
「軍備は必要の最小限度にとどむべきでありまして、出来ないことを要求するものではないと思います。軍備ばかりが充分に出来ましても、その他のことが死んでしまっては国は亡《ほろ》びると思います。また統制と申しましても、その統制にも限度があります。私の考えるところでは、生産分配の統制まではよいとしても、消費まで統制するということは好ましくないと思います。統制もそこまで及んでは重大な問題をひき起します。勿論《もちろん》諸般の改革はこの際必要でありますが、その改革はレボリューション(革命)で行かず、あくまでエボリューション(改革)で行くべきであると信じます」
という趣旨の答弁をした。この時米内の答弁を聞いていた議会の新聞記者席には一瞬感動の空気が流れたと言われている。
英国海軍に学び、育った日本の海軍としては、米内に限らず、総じて、こうした合理的な足の地についた考え方が本すじであったが、陸軍はその点ちがっていた。
陸軍のドイツびいき、ドイツかぶれの伝統は、これまた古いもので、不思議なことに、第一次世界大戦で、日本が連合国側に立ち、ドイツを敵にまわしていた時でさえ、日本陸軍の一部軍人は、半ば公然と、ドイツの、つまり敵国の肩を持つ言動を示していたのであった。
ある者はドイツ軍人の武勇を賞讃《しようさん》し、ある者は日独同盟説を唱えて、日本の対独宣戦を失態であったと言い、松山の俘《ふ》虜《りよ》収容所長の陸軍将校は、ドイツ軍の捷報《しようほう》つたわる毎《ごと》に、俘虜のドイツ将兵らと祝盃《しゆくはい》をあげ、これらの事実はそのまま連合国側に聞えて、英国や米国の日本に対する不信、疑惑を招いた。
当時日英同盟にもとづく英国側の要請で、第二特務艦隊が地中海に派遣されることになり艦隊首脳部の送別晩餐《ばんさん》会が催された時にも、時の総理大臣寺内正毅《てらうちまさたけ》陸軍大将は乗組士官たちの前にあらわれて、
「この度の戦争は連合軍側の旗色が悪く、結局ドイツの勝利に帰する公算が大きい」
と、海軍の派兵に内心不同意のような口ぶりであったという。
高木惣吉は、マキャベリズムの本家のプロシャがお手本なのだから、陸軍の陰謀好きは仕方がないと言っているが、ナチスの時代が来て、ヒットラーの軍隊のきらびやかな制服と、単純明快なスタンド・プレイとを見せつけられれば、日本陸軍の軍人の心が、一層ドイツに傾いたのは或《あるい》は当然であったかも知れない。
しかし、海軍の中にも、むろん枢軸派の軍人がいないわけではなかった。井上のすぐ下の軍務局第一課長岡敬純《おかたかずみ》、主務局員神重徳《かみしげのり》などは、その急先鋒《きゆうせんぽう》で、局長と課長以下とが、意見が正反対なのだから、井上は如何《いか》にもやりにくかったにちがいない。井上成美は、当時自分らの傾けた努力を戦後に省みて、それが少しも建設的な努力ではなく、ただ、陸軍の全軍一致の強力で無謀な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する消極的な防禦《ぼうぎよ》にだけ終始したことを、嘆いている。
神中佐は、のち敗戦の年、軍令部に在って「大和」の特攻出撃を立案する人であるが、井上と議論をしては負けて局員室に帰り、ひどく口惜《くや》しがって、
「局長は椅子《いす》に坐《すわ》っていて、こっちは立って議論するんだから、どうしても言いまかされるんだ」
と言っていると聞き、井上はある時、神中佐が書類を持って説明に入って来たのをつかまえ、
「神君、君はこう言っているそうだが、私が海軍大学校の教官で、君が大学校の学生の時は、私が立って、君の方が坐っていたのに、やっぱり議論では君が負けてたじゃないか。とにかくきょうは僕《ぼく》が立って聞くから、君、其処《そこ》へ坐って議論してみろ」
と、からかったりした。
海軍の首脳部は、こんな風にしてでも、これらの人々が陸軍の中堅将校のような勝手な真似《まね》をするのだけは、何とか抑えていたのであった。
四囲のこういう情況の下ではあったが、山本五十六の日常は、必ずしも未だそれほどせっぱつまった険しいものではなかった。ただ、次官の仕事は、いつも多忙である。そして山本には、生来几帳面《きちようめん》で、かつかなりせっかちなところがあった。
山本次官が、海軍省の正面階段を上って行くのを見ると、短《たん》躯《く》、いっぱいに股《また》をひらいて、まっしぐらにタタッと、舞台の堀《ほり》部《べ》安《やす》兵《べ》衛《え》がたすきがけで高田《たかだの》馬場《ばば》へ急ぐような風《ふ》情《ぜい》があったという。
この当時の山本を知っているある中佐が、のちに求められて、映画で山本五十六役を演ずる俳優に演技をつけた。彼は、俳優にこう註文《ちゆうもん》した。
「あまりどっしりと、椅子に落ちついているようではいけない。山本元帥《げんすい》のイメージには、いつでもすぐ飛び出せる腰の軽い人という感じも加わっていなくては困る」
「眼《め》は、適当に動かした方がいい。顎《あご》はぐっと引いて、ただし、視線が一カ所にじっと集中していることのないように」
その元中佐は、またこうも言っている。
「永野修身は、ヌーボーであった。山本五十六には、永野修身のように、時々、汽車に乗りおくれるなどということは決して無かった。山本は永野を眺《なが》めていれば、さぞ充分にいらいらしたにちがいない」と。
山本は、忙しくなって来ると、立ったままで機械のように机上の書類に判を捺《お》しはじめる。書類は全部一度副官のところを通り、松永敬介の話では「ハンコ捺しだけで毎日肩が痛くなった」そうで、次官に見せるにも価《あたい》しないようなものは除いてしまうのだが、それでも厖大《ぼうだい》な量である。隣の部屋で音を聞いていて、秘書官の実松譲は、
「また始まったな」
と思う。
未決の籠《かご》から既決の籠へ、機械仕掛けのように書類が飛びこんで来る。実松は、多少皮肉のつもりで、
「次官、ずいぶん盲判《めくらばん》を捺されますなあ」
と言ったことがあったが、山本は、
「ああ。俺《おれ》ァ盲判だ」
と、平気な顔をしていた。
ところが、実松秘書官が注意して見ていると、盲判の山の中で、壺《つぼ》だけはちゃんとおさえてある。必要なものは幾つか、取り出して、然《しか》るべき手がきちんと加えてある。
不思議な気がしたが、要するに山本は、書類を書いた人間の名前だけ見ながら、盲判を捺しているらしかった。書類の内容よりも、省内の人々の能力やものの考え方や、そういうことの方を先に心得ていて、起案者の名によって、何を言おうとしているのか、それが信用出来ることなのかどうか判断し、書類をはねたりはねなかったりしているらしかった。
よしあしは別として、これは如何《いか》にも山本流であった。
山本はまた、毎日たくさん来る手紙に、丹念に返事を書いた。それも必ず墨で書いた。
秘書官が書類を下げに行くと、きっと墨書きの、出すべき手紙が何通かまじっている。中には、
「河合千代子様 御礼 山本五十六」
などというのもある。
日華事変が始まってから、海軍省は原則として日曜も出勤ということになり、日曜日にはよく、千代子の梅龍から、使いに持たせてケーキとか鮨《すし》とか、朱塗りの二重弁当とか、陣中見舞の差入れがとどく。すぐ会えない時は、それに対する礼手紙である。
実松が山本の返書の丹念さを感心してみせると、
「君、しかし、手紙は人に面会するかわりに来るんだろ。面会人があったら、五分や十分の時間は、どうしても取られるよ。わざわざ手紙をよこしたんだから、五分か十分さけば、返事は書いてやれる。何でもないじゃないか」
と、山本は言った。
朝も早かった。陸軍では、大臣官邸で事務を執る慣例があり、その他の官庁でも、局長以上になると、十時前にはなかなか顔を出さないのが例であったが、山本五十六は、定められた出勤時刻にはきちんと出て来た。間もなく、大臣の米内が出て来る。それから二人は大臣室に入って、米内は坐り、山本は立ったままで、長い間、その日の打ち合せをする。
近藤泰一郎や実松譲ら副官連中は、したがって、毎日山本より三十分は早く出勤していなくてはならなかった。
山本はそのかわり、夕方の退庁時刻の方もきちんと守ってさっさと何処《どこ》へかいなくなり、秘書官にも決して行先を告げなかった。聞いても、
「それは言えぬさ」
と、澄ましていた。
それから、深夜霊南坂の官舎で新聞記者につかまるまでの間が、山本の純粋にプライベイトな時間だったのであろう。しかし、日華事変が拡大し、三国同盟問題など起って来ると、次官の所在がそれでは困るという場合も、度々生じた。
実松譲は、山本を送った自動車の運転手を呼んで、
「銀座のどこどこで下りられました」
というのを確かめ、その周辺の心あたりを探すというようなことも、幾度か試みたが、山本は雲雀《ひばり》と同じやり方で、下りた近まわりにいるなどということは決してなかった。しっぽをつかまれないように、充分注意を払っていたもののようである。
たまたまうまく居どころを突きとめて、次官の眼にだけは入れておきたいというような急ぎの電報など持って行くと、
「出て行ってからまで、仕事やらせる奴あるかァ。そんなものは、秘書官でやっとくんだ」
と、あまり機《き》嫌《げん》がよくなかったという。
時には、ひょっこり水交社で将棋をさしていたり、大臣官邸の二階で軍服のまま寝こんでいたりということも、ありはしたろうが、退庁後彼が行《ゆく》衛《え》不明になる時の、主な行先はやはり、千代子に関係のある場所であったと思われる。
山本はそのころ、銀座三十間堀《さんじつけんぼり》の中村家のことを、「古巣」とか中村寺《ちゆうそんじ》とか呼んでいて、千代子との逢《おう》瀬《せ》は、もっぱらこの古巣で重ねられたらしいが、副官連の中に其所《そこ》まで承知している者はいなかった。
それに、千代子と外へ食事に行ったり、展覧会を見に行ったりする時は、山本は必ず堀悌吉とか吉田善吾とかを誘い、女の方にも敏子か誰かを誘わせ、一対一、乃《ない》至《し》二対二の、露骨なかたちにならぬように気を配っていた。
それだけ注意していたにもかかわらず、彼が中村家あたりへ忍んで出入りするところを、いつか誰かが見とがめていたらしく、かねて山本五十六次官のやり方をあきたらなく思っていた過激派の若い連中ではないかと察せられるが、ある時何人かの海軍将校が山本に面会を求めて、面と向って、彼の素行に関し苦言を呈したことがあった。
山本はしかし、
「君たちは、屁《へ》も糞《くそ》もせんのか? 君たちが屁《へ》もせず、糞《くそ》もせず、女も抱かんというのなら、話をきいてやろう」
と、恬然《てんぜん》として取り合うところが無かったそうである。
パネー号事件では、
「海軍は、ただ頭を下げる」
と言った山本が、自分のこの問題に関しては、「頭を下げる」とも「以後、注意しよう」とも、一と言も口にしなかったということである。
当然、山本の風評は、部内一部にあまり香《かん》ばしくなかったにちがいない。
千代子は、昭和十三年の暮に、前に書いた通り、山本との関係を承知の上で金を出してくれる人があって、野島家を出、中村家の裏に「梅野島」という家作を一軒持って自前になった。
それからは、山本の足が、中村家よりも梅野島の方へ向くことになるが、彼は中村家の古川敏子ともウマが合って、その後も従前通りよく花を引いたり麻雀《マージャン》をしたりして一緒に遊んでいた。
ある時、敏子や千代子を混えての長麻雀の果てに、女二人が、もう打ちやめにして髪結いさんに行かなくてはと言い出すと、
「金出すから、髪結いに此処《ここ》へ来てもらえよ」
と、山本がやめさせたがらず、結局席へ髪結いを呼んで、髪を結わせながら麻雀のつづきになったことがある。
山本は冗談のように、
「あァあ、俺も、海軍やめたら、あんまか髪結いの亭主《ていしゆ》になって、そうすりゃ、毎日花ばかり引いて遊んでいられるかな」
と言った。
彼が、ロンドン軍縮予備交渉から帰って間もなくのころ、
「俺は、海軍やめたら、モナコへ行ってばくち打ちになるんだ」
と言った話や芸者の浜吉に養われていた新井清を羨《うらや》ましいと言った話は、前に書いた。
開戦後、麾下《きか》の海軍航空部隊が、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オヴ・ウェールズ」を撃沈した時にも、彼が似たようなことを言うのは、のちに書く。
「髪結いの亭主」云々は、勝負事の間の、気のおけぬ女たち相手の無責任な馬鹿話のようではあるが、山本の心の何処かには、軍人としてとことんの栄達なぞ望むより、いつか海軍を退き、煩《わずら》わしいことからすべて解放されて、自由無《ぶ》頼《らい》の身になってみたいという思いが、時々影をさしたのではないかという気がする。
読売新聞の取締役をしていた品川主《しながわかず》計《え》が、戦後のことだが、山本五十六というのはどういう人だったかと元海軍のある将官に聞いたら、その将官は、山本に好意を持っていなかったのかも知れないが、
「ああ、あれは海軍のヤクザみたいな男です」
と答えたそうである。
山本が次官になってから三度《たび》年が明けて、昭和十四年。海軍では新年、大臣官邸に酒肴《しゆこう》を用意し、陸海軍軍人、その他各方面関係者の年賀を受けるのが慣例になっていた。昭和十四年の正月二日か三日のひる、年始客で賑《にぎ》わっている霞ヶ関の海軍大臣官邸に、大佐で予備《よび》役《えき》になって、その頃《ころ》貴族院議員をつとめていた公爵《こうしやく》の一条実孝《いちじようさねたか》が、
「おおい、山本。貴様、水が油になる話を知っとるか」
と、大層な意気ごみで、山本の名を呼びながら乗りこんで来たことがあった。
「実は、富士山の裾《すそ》野《の》の水なんだが、これから油が取れるというので、一度見に行って来ようと思っている」
一条は本気で何か信じている様子であったが、聞いてみると巫子《みこ》を使って巫子の言う通りに井戸を掘るのだとかいうことで、祝宴の席ではあり、並みいる人たちは、
「ははあ、そういうことなら、村山貯水池がそっくり重油の貯蔵庫になるわけですな」
などと、適当に聞き流していた。
ところが、どうしたことか、それから何カ月かして山本が突然この話を蒸し返し、
「おい、どうも、ほんとに水から油が取れるらしいぞ」
と言い出した。
秘書官の実松が、
「まさか、次官、いくら何でもそんな馬鹿な」
と言っても、
「君たちのような浅薄な科学知識では、分らないんだ」
と、諾《き》かなかった。
町の発明家と称する男を連れて来て、海軍省で実験をやらせてみると言い張る。
どうやら又、航空本部の大西滝治郎あたりに焚《た》きつけられたことらしく、大西さんの話も、人相見ぐらいまでは結構だが、水から油が取れては只事《ただごと》ではなくなって来ると、副官連中はみな渋い顔をしていた。
それに、そういう魔術をやって見せる町の科学者の噂《うわさ》は、前にも聞いたことがある。どんな風にインチキをするのか知らないが、とにかくインチキとよりほかに、考えようはあるまい。山本次官ともあろう人が、そんなことで町の詐欺師《さぎし》にかかったとあっては厄介《やっかい》な話になるというので、実松は八方奔走し、近藤泰一郎のあとに来た一宮義之《いちのみやよしゆき》先任副官にも少し諫《いさ》めてもらう、軍需局長の氏家長明にもたしなめてもらう、軍需局の第二課長は、海軍の油の最高責任者だから、この人にも少し言ってもらうと、色々手を打ったが、山本はやっぱり、
「君たちのような、浅薄な科学知識では」
の一点張りで、実験は行われることになった。
航空本部教育部長の大西が一枚も二枚もかんでいる証拠に、話が決ると、大西は実松秘書官のところへ、本省の自動車を出せと言って来た。
実松は、癪《しやく》にさわって仕方がないでいる時で、即座にその申出を断わった。
「出せ」
「いや、出しません」
「何故《なぜ》出さん」
「何故でも、そういうことに、海軍省の車は出せません」
二人が押問答をしているのを、隣室で聞いていた山本が、
「おい、秘書官」
と、実松を呼んで、
「君の言うことは分った。しかし自動車は出してやれ」
と言った。
次官の指図ということになれば、仕方がない。しかし、海軍省の車として使われるのはお断わりだというつもりで、実松は錨《いかり》のマークを取らせ、町のタグ・ナンバーをつけて、やっと車を出すことにした。これは、宴会などで、新橋あたりへ乗りつける時に、ちょいちょい用いる手である。それから、「科学者」を水交社に泊めるか泊めないかでも、海軍省先任副官の許可が要るとか要らないとか、何しろ副官連中はつむじを曲げているから散々もめた末に、結局、町の発明家は次官の賓客《ひんきやく》あつかいで、芝の水交社に部屋をとってもらい、海軍省の自動車をあてがってもらって、某日、関係者多数の見守る中で、いよいよその、富士の裾野の水から油が取れる実験を、やってみせることになった。
場所は初め、大臣官邸でという話だったのを、実松秘書官が、「それだけは止《や》めていただきたい」と言い張ったため、航空本部の地下に共済組合の診療所がある、其処《そこ》を使うこととし、実験は、数日間にわたって、或は徹夜になることもあり得るということであったが、徹夜なら山本は平気である。みんなのために、夜食の鮨《すし》など大きな鮨桶《おけ》に山盛り用意させて、熱心なものであった。
しかし山本は、この水から油の奇《き》蹟《せき》のような話を、ほんとうに、副官たちに口で言うほど頭から信じこんでいたのかというと、そうでもないらしい。何故なら彼は、実験をやると決める何日か前に、横須賀鎮守府の軍需部総務課長をしていた石川信吾大佐のところへ、大西滝治郎を使いに出して、何年か前石川が関係した同様の奇妙な実験に関し、事情を聞かせているからである。
「何でも徹底的にやらないと気のすまない石川が、あの時実験を途中で抛《ほう》棄《き》したと聞くが、それは何故か? トリックを見極めたからか? と山本さんが言っているが、その点どうなんだ」
と、大西に聞かれて、石川は、
「そりゃ、どこで騙《だま》されたのか分らないが、とにかく騙されてると思ったから、やめたんです。だけど、嘘《うそ》とは思うが、私も立会った森田貫一も、どこが嘘かは、とうとう分らなかった」
と答えた。
石川信吾は、兵学校四十二期で、近藤泰一郎と同じクラスであるが、これより数年前、彼が軍令部の軍備担当の参謀の時、ある民間の科学者が水を石油に変える方法を発明したという話が、石川のもとに持ちこまれて来た。
疑わしいとは思ったが、一応、友人の森田貫一を立会わせて、その実験をやらせてみた。森田は機関学校二十三期、石川や近藤の兵学校四十二期と同じ大正三年組の機関科将校で、その方面は専門家である。
ところが、半日ほどして専門家のはずの森田が、
「おい、石川。アルキメデスの法則はぶちこわされたぞ」
と興奮して帰って来た。
何でも、色々手順があって、水を詰めたガラス瓶《びん》を、最後の処理で密封したまま湯《ゆ》煎《せん》にしていると、中の物質量に変化が起るはずのないものが、突然ぽっかり浮き上って、その時中身が油になっているというのであった。
そんなわけはない、何処かでごまかされているのだろうと言ってみるが、森田は、ごまかされてはいない、もしごまかしだとしたら何処でごまかされたか、自分には全く見当がつかないと言う。
真偽不明のまま、実験は軍令部から山口県徳山の海軍燃料廠《しよう》に移され、燃料廠の石油技師立会いの下でも、重ねて行われたが、徳山からの報告によると、成功する時もあり不成功に終る時もあり、不成功の場合は、実験者が必ず癲癇《てんかん》の発作をおこして倒れるということであった。
石川は、そんなもの馬鹿《ばか》げている、トリックだという証拠は無いが、とにかく追っ払ってしまえというので、それで実験はそれきり抛棄されたのであった。
大西から石川信吾のこの話を聞くと、山本は、
「よし。それじゃあ、今度はひとつ、海軍省で徹底的にやってみる。その時には、石川にも出て来て、立ち会うように言え」
と言った。
山本は、疑わしいとは思いながら、嘘なら嘘で何とかその化けの皮をはがして見せてやると、そのことの方にむきになったのではないかという気もする。初めから手品ときめつけていたのでは、実験会そのものを成立させにくいので、副官連中に、
「君たちのような、浅薄な科学知識では」
と、きついことを言っていたようにも受け取れるのである。
しかし、半信半疑のあとの半分はというと、やはり信じたのであろう。水野義人の観相術の話の時にも書いたが、山本五十六には、普通に科学的、合理的と考えられている以上のものも、信じようとする心的傾向がかなり強かった。
世界の定説では、ルーレットに必勝法というものは無いとされている。山本はそれを、あると言い張っていた。あれは、高等数学だ、自分の二割増しシステムで、私利私欲をまじえずに冷静にやれば、必ず勝てると、主張した。もっとも、誰《だれ》でも勝てるとは言わない。自分なら勝って見せるということである。そして事実、山本はモナコで何度も大勝した。
彼が信じたものは、しっかり数学的な基礎に立った上での、自己に恵まれた一種超心理学的な能力であったと思われる。しかし、「私欲」を持たずにやれば、ルーレットの時、それが何時《いつ》までも山本に幸いするように働いたかどうか、のちの真珠湾の成功にもミッドウェーの失敗にもつながる問題であるが、この水から油の話も、彼は勝負師的感覚で、そういうことも無いとは言い切れないと、心惹《ひ》かれる思いになったのではないであろうか。
それからもう一つは、山本の石油というものに対する強い執念である。
読売新聞の内閣担当記者、松元堅太郎は、この時にはもう、霊南坂のオミクジを引きに行く仕事をやめて、太平洋石油という会社に転職していた。松元の伯父で元富山県の知事をしていた白上佑吉の子分に、メキシコの国籍を持ち、メキシコの油田の試掘権を持っているTという男があって、メキシコの石油を日本人の手で開発しようという話が起り、松元は伯父の命で海軍との中に立って話を取り持ち、やがて自身も、新聞社をやめてその仕事に移ったのであった。
その時、山本は、
「よし。メキシコの石油は、俺の恋人だから、徹底的に応援してやる」
と、松元に約束した。
そして、昭和十四年の初め、丸の内の工業倶楽部《クラブ》で開かれた太平洋石油の創立総会にも、陸軍の東条次官と並んで出席し、東条英機のあとを受けて挨拶に立つと、
「今、東条陸軍次官が、海外に進出して大いに儲《もう》ける話で結構だと申されたが、石油事業というのは、そんなに儲かる仕事ではありません。此処に日本石油の橋本社長も見えておりますが、自分は長岡の出身だから、よく知っているのですが、日本石油などは、一と儲けをたくらんでは亡《ほろ》んだ、幾多犠牲者の屍《しかばね》の上にようやく築かれた会社であります。太平洋石油も、これは、国のためにどうしても必要な事業だから、儲けは度外視するという覚悟で進んで頂かなくてはなりません」
と、述べて、日本石油の社長と東条にいやな顔をさせた。
ただし、松元に向っては、
「おい。しっかりやれよ。石油の獲得がうまく行けば、日本は資源に対する恐怖が薄らぐから、それだけ戦争の危険が遠のくんだ」
と、石油問題の重要性について語ったという。
在米武官時代、更に言えば少年時代から、石油に関心があり、殊にこの時期、石油と聞けば藁《わら》でもつかみたい程の思いのあった山本五十六としては、大西滝治郎あたりから、水から油が取れる発明があるそうだと持ちかけられれば、三分でも四分でも、信じたい気持をおこしたのに、無理はなかったかも知れない。
航空本部の地下での実験会は、海軍省、軍令部、航空本部等の技術者たち、大勢集めて始められ、初日目、二日目と町の発明家の実験が進められたが、水はなかなか油にならなかった。二日目の晩、今度はいよいよ出来るそうだというので、一同が待っていると、約束の時刻に発明家がやって来ない。仲間の助手の「科学者」に連絡させてみると、本人は、途中で立小便をしていたところに、石が飛んで来て頭にぶつかり、癲癇をおこし、吐血して引っくりかえっているということである。
立会っていた石川信吾は、それを聞くと少し興奮して、
「山本さん、これは嘘ですよ」
と言った。
「前に、徳山でも同じことをやったんです。石があたったなどというのは嘘で、血は実際に吐くらしいが、医者に聞いてみると、稀《まれ》にそういうことの出来る奴《やつ》がいるんだそうです。うまく騙せなくなると、癲癇だといって倒れてしまうんで、詐欺なんだから、実験はもうやめられたらどうですか」
山本はしかし、
「いや、続ける」
と言って、首を横に振った。
「トリックならトリックで、何処でごまかすのか、どうしても、ごまかしを突きとめるまで徹底的にやる」
そして、実験に使うガラスの瓶を全部持って来させて、克明にそれのスケッチを取らせた。
薬局で水薬を入れてくれるあのガラス瓶で、ガラスに小さな気《き》泡《ほう》がたくさん入っている。その気泡の入り具合を、スケッチして一本々々記録させたのである。
発明家の癲癇の発作なるものは間もなくおさまり、実験は、三日目の晩、徹夜になった。真夜中が過ぎて、みんなが疲れ果て、次第に睡《ねむ》気《け》を催して来たころ、水を入れて密封し装置の中で湯煎にされていた薬瓶が、突然、アルキメデスの原理を突き破って、浮き上った。瓶の内容物は石油になっていた。
しかし、浮き上ったガラス瓶と、先に水を密封して渡したガラス瓶と、気泡の入り具合を記録にもとづいて照らし合せてみると、果してちがっていた。つまり、瓶が変っていた。要するに手のこんだすりかえの手品で、「科学者」たちは、早速その場から警察へ突き出され、実験会は解散ということになった。
実松ら副官連中は、
「それ見たことか」
と思う一方、ほっとしたが、海軍省内、それからしばらくこの話で持ちきりであった。
何しろ、山本五十六は、やると言い出したら、とことんまでやってやり遂げなくては承知しないところのある男だという点では、みんなが感心していたが、他方、
「山本次官も、街の発明家を水交社に泊めて、三日がかり、夜食の用意までして、手品の種明かしをするのは、いくら何でも少し稚気が過ぎはしないか。山本さんは感情の強い人で、嫌いとなったら徹底的に嫌い、二・二六事件あたりから以後、陸軍の連中など、面《つら》を見るのもいやだという態度で毛嫌いしているが、個人としてはともかく、次官の立場で、それでは済まないのではないだろうか。陸海軍の関係がうまく行かないと言っても、上層部がこう接触を望まないのでは、軍務局の中佐、少佐クラスがいくらやきもきしても、どうにもなりはしない。水から油を取る実験をやる手間で、陸軍とも、もう少し密接な連絡を保ち、陸軍のやり方が悪いなら悪いで、あの度胸と徹底した押しとを少しはそちらへ向けて、支那事変に関してだって、もっと陸軍を説得し、抑える努力を試みてもらえないものか」
というような批判も、出て来たようである。
なお、これは少し余談になるし実験会の話のついでに書くにしては長くなりすぎるが、山本が海軍次官として支援を惜しまなかった太平洋石油に関しても、実は「幻の油田」とでも言うべきまことに奇妙な話が伝えられている。太平洋石油もこの水から油の手品と同様、山本がペテンにひっかかったのではないかという風説である。
昭和四十一年七月号の「オール読物」に、梶山季之《かじやまとしゆき》が「甘い廃坑」と題する小説を発表した。多少とも事情を知っている者が読めば内容は太平洋石油のことだとすぐ分るような小説である。
一応フィクションの形をとってはいるが、「王子製紙をつくり上げた藤原金次郎」は当時一千万円の資金を集めて太平洋石油の社長に就任した藤原銀次郎、「海軍省軍務局長山本五十雄」が次官の山本五十六であることは明白で、したがって作中の「日墨石油」は太平洋石油、一世の成功者で山師である「越智《おち》登」は白上佑吉の子分のT、浜村海軍武官は戦後マノクワリで戦犯として処刑された浜中大佐がモデルだと考えざるを得ない。
「越智」はまず女をあてがってメキシコ駐在の「浜村武官」を籠絡《ろうらく》し、それから仲間を使って廃坑のパイプに夜半ひそかに穴をあけ、原油を流しこんでおく。翌日バルブを開くと中にたまっていたガスの圧力でそれが勢いよく噴出するという仕掛けで、「越智」はこれでまんまと視察団の眼《め》をあざむき、日本の海軍と財界とから巨額の金をだまし取るという話である。
その時から二十六七年後、メキシコ・シティでの「越智」の叙勲祝賀の宴に突然あらわれた一世の老人「仲代敬四郎」は、昔このペテンに一枚加わりパイプに原油を流しこんだ「仲間」の一人で、「越智」から充分の頒《わ》け前《まえ》をもらえず今は落魄《らくはく》の身の「仲代」が、日本からの旅行者「芳賀」に「越智」の山師である所以《ゆえん》を綿々と訴える場面が中心になっている。「仲代」はその数日後、成功者、現在メキシコの権力者である「越智」の手で誇大《こだい》妄想狂《もうそうきよう》として精神病院に送りこまれてしまうが、「芳賀」は色んな状況から段々「仲代」の話を真実らしいと思うようになる――。「芳賀」は大体作者自身と見ていいようなもので、梶山季之は作品のあとがきに、
「この“甘い廃坑”は、メキシコで日系人から教えられ、日本に帰って関係者の話を聞き、それを素材にして書いた小説だが、越智登は私の好みにかなった知能犯罪者タイプである。
大戦のさなか、帝国海軍をペテンにかけたというだけでも、私には興味深いのだ」
と記しているが、事実とすれば梶山ならずとも興味深く感ぜずにはいられまい。
しかし松元堅太郎は、藤原銀次郎や山本五十六がTにだまされたというようなことは決してなかったという。Tは政商で色々クセのある人物ではあったが、石油事業というのは油が出るまでは盲《めくら》で掘るので関係者が山師扱いされるのは常のことであり、それに仲間同士の悪口、足の引っ張り合いは中南米在住日系人の特色で、通りすがりの旅行者はしばしば彼らの一方的な話に惑わされる。当時太平洋石油は、しごく合理的な経営をし科学的な試掘をつづけていた。もし石油が出たらTの取り分も大きかったろうが、試験の段階では彼はそんなに儲けていないはずで、藤原銀次郎も百本掘って一本あたればいいくらいに言っていた。やがて成功を見ないうちに戦争になり、メキシコは日本の敵国となって、試掘中の油田はメキシコ政府に没収され太平洋石油の帳簿上の財産は帝国石油に引継がれたと、松元は説明している。
だが、現在教育大学の地質学の教授をしている橋本亘《はしもとわたる》の話は、少しまたニュアンスがちがう。橋本は当時青年技師として太平洋石油に入りメキシコへ行っていた。
「われわれにも今だにほんとうのことは分らないので、東京にいた事務関係の人たちに分らないのは無理もありませんが、だまされていたことだけは事実です」
と橋本は言う。
Tが売り物にして日本に話を持ちこんで来たのは、ベラクルス州のタミスモロンという所の油田で、タミスモロンは曾《かつ》て山本が視察に行って驚異を感じたタンピコ油田地帯の一部にふくまれており、この地方のことに関してはJ・M・ミューアというアメリカ人の地質学者がアメリカ石油協会から出版した「Geology of the Tampico Region」と題する権威のある文献があって、ミューアはその中で、
「タミスモロン地区においては、ドライ・ホールであってもトゥールの先をわずかに濡《ぬ》らす程度であっても、その井戸を一年しめておけば井戸は油で一杯になる」
と書いている。いつとはなしに石油がしみ出して来るので、これは埋蔵量の大きな有望な油田という意味ではなく、むしろその逆である。
橋本亘はメキシコへ行ってミューアの本を読み、古い井戸掘りたちがみんな、
「あすこは前はカラ井戸だった」
と噂《うわさ》しているのを耳にして甚《はなは》だへんに思った。もっともカラ井戸であるとしても、タミスモロンの油田は正確には梶山の小説の題名のような「廃坑」ではなかった。廃坑にするには非常に厄介《やっかい》な手続きが要るので、表向きちゃんと生きているのだが、そのうちカリフォルニヤ大学を出た日系二世の藤岡道夫という技術者がどうもこれはおかしいと言い出し、技師一同で試油をさせてもらいたいと申出てみると、相手は言を左右にしてなかなかそれに応じない。
試油というのは、井戸をあけて溜《た》まっていた石油を汲《く》み出し、そのあとがどうなるか油の量を試験してみることである。色々もめた末、ついにタミスモロン一号井の試油が行われることになり、口をあけるとガスと油が初めは勢いよく噴出して来たが、用意のタンクに九十バレル程度取り終ったあとは忽《たちま》ちチョロチョロの状態になってしまった。やはりミューアの書いている通りだ、井戸掘りたちの噂はほんとうだったというので、橋本らはたいへん憤慨し、試油の結果を詳しく手紙で日本に報告した。
やがて此処も駄目《だめ》、あすこも駄目と段々悪い見当がついて来るが、この苦しい時期に多額の資金を投じて日本が国外で始めた事業をそのまま見殺しには出来ない、「私生児だって生れた子供は育てなくちゃならんじゃないか」と言って、橋本は念入りな鉱区一覧表を作製し、片っぱしから調査にかかろうとしたが、それがTの逆鱗《げきりん》にふれた。
日本では、若い技師たちが現地で仲間割れをしてつまらぬ喧《けん》嘩《か》をしているという噂が拡《ひろ》まり、彼らは油田地帯からシャット・アウトされるようになり、滞在期間の更新も認めてもらえず、役に立たぬ青二才の技師たちは帰れということで、橋本は開戦の年の一月に日本へ帰って来たのである。
ここまでだと、話は梶山季之の小説通り、帝国海軍や藤原銀次郎がメキシコの日系人のペテンにまんまとひっかかったということになるであろう。
しかし橋本が不思議に思ったのは、会社の上層部は彼らの書面での報告も読んでいるはずなのに、会社の危機、このスケールの大きな外貨の無駄使いをいくら指摘してみても何の反応も示さないことであった。橋本は父親が藤原銀次郎としたしかった関係で太平洋石油に引抜かれた人で、帰国後藤原のところへ個人的に挨拶《あいさつ》に行くと、
「君たちずいぶんひどい目にあったね。だけどいいんだよ、あれは石油を掘ってりゃいいんだよ。君たちは若いから怒るのは無理もないけど、色んなことがあるんでね」
と、藤原が謎《なぞ》のようなことを言った。
橋本はその後仕事で海軍省の軍需局へ何回か足を運ぶ機会があって、ある時太平洋石油の話が出、そのインチキ性について彼が語ると、石油の問題についてはよほど真剣になっていいはずの軍需局の局員たちが、「フフン」といってただ笑っているだけであった。
大体タミスモロンの油田というのは、ガルフ・サイドに在る。つまり日本から見てメキシコの裏側に在る。たとい石油が出たとしても、一旦《いつたん》アメリカにパナマ運河を封鎖されたら、到底日本へ持って来るわけには行かない。そこを承知で海軍や藤原銀次郎らは何故これに眼をつけ莫大《ばくだい》な金をそそぎこんだのか。誰《だれ》が見ても、太平洋石油がまともな石油会社らしくない会社であったことは明らかで、橋本は当時メキシコで読んだ英字新聞に、
「日本がベラクルス州の石油の出ないところに大きな鉱区を買取った。アメリカとの戦争にそなえて飛行場を造るつもりらしい」
という記事があったのを記憶しているそうである。
「これは私の臆測《おくそく》に過ぎませんが」と前置きをして、橋本亘教授は藤原銀次郎も山本五十六もペテンを承知でだまされていたのではないかと思うと言っている。
石油掘りには運不運がずいぶんあって、山師的な面がつきまとうのは事実であるが、日本のような貧弱な国でも井戸のあたる率はもう少し高い。タミスモロンの鉱区は現在誰も顧みる人が無いらしく、生きているという噂は一つも聞えて来ない。
「実に不思議な話で、今でも真相は私には分りません。何か一段高いところで秘密の高等戦術を考えながらやったことだとしか思えないのです」
太平洋石油という会社は何であったか、山本五十六が太平洋石油についてどんなことを考え、どの程度のことを知っていたのか、それはむろん私にも分らないままである。
ただこれと似通った別の奇妙な話を一つ記憶している人がいる。それは山本が米国在勤武官の時若い外務官補で、
「男でバクチをしないような奴はロクなもんじゃないな」
と言われて驚いた極洋捕《ほ》鯨《げい》の法華津《ほけつ》孝太である。
法華津の父親は法華津孝治といい、日本人のゴム会社として当時最大の南亜公司《コンス》の経営者で、マレー半島に五千エーカーのゴム園を持っていた。昭和十年代の初めに南亜公司は、シンガポールの港へ入る手前右手の小さな無人島を買い取った。
法華津孝治は、
「あそこに白《はく》堊《あ》の別荘を建てて、出入りの船にあれが日本人の金持の別荘だと噂させてやるんだ」
と言っていたが、その金は実際は海軍から出ていた。法華津の別荘が建つはずの島は、開戦と同時に英国に没収されてしまったが、その近辺で真水の湧《わ》く唯一《ゆいいつ》の無人島で、日本の海軍はどうもこの島を潜水艦用の秘密の補給基地にするつもりがあったらしいということである。
山本の性格には、先に引いた海軍部内の批判の声にもうかがえるように、気さくで礼儀正しい一面とともに、非常に感情的で傲岸《ごうがん》不《ふ》遜《そん》な面が、確かにあったようで、自分でもその点、多少心にはしていたと思われる節も無いではない。
ある時、中村家の敏子に色紙をねだられて、山本が、
「直ニシテ温」
と書くのを、傍《そば》から堀悌吉が見ていて、笑いながら、
「あれはね、山本の自戒だよ」
と言ったことがあった。
山本はその頃《ころ》、書を頼まれると、
「一忍可以支百勇一静可以制百動」(一忍以《モツ》テ百勇ヲ支フベク、一静以テ百動ヲ制スベシ)
という、河井継之助の格言をしたためることも、よくあった。
海軍省の山本の部屋にはまた、北野元峰禅師の筆になる、
「百戦百勝不如一忍」(百戦百勝ハ一忍ニ如《シ》カズ)
という一幅が掲げてあった。
これらは、自戒というよりむしろ、この時世に処して、山本の自ら恃《じ》するところであったかとも思われる。
山本の感情がはげしかったことを示す例としては、戦死した南郷大尉の家へ弔問に行って、彼が号泣した話もある。かつて山本の部下だった南郷茂章《なんごうもちふみ》という大尉は「海鷲三羽烏《うみわしさんばがらす》」の一人と言われた名パイロットであり、名指揮官であったが、昭和十三年の七月十八日、中華民国江西省南昌《なんしよう》の上空で戦死した。
その時、東京の玉川上《かみ》野毛《のげ》の自宅で、山本の弔問を受けた父親の南郷次郎が、のちにその折のことを書いた文章がある。
「折にふれ時につれてしみじみ思い起す、それは今から一年前の夏の事、自分の長男茂章が南昌で戦死した時のことである。
長男は嘗《かつ》て山本五十六中将に率いられた航空戦隊に勤務し、日夜山本中将の偉容に接して中将に私淑し、上官として真に心から敬服して居《お》った。(中略)
間もなく長男は戦死した。山本次官は早速弔問された。自分は山本中将に対し、長男生前の懇切なる指導の恩を謝し、軍人としてその職責を完遂せるを心より満足する旨《むね》を述べた。これは、自分の衷心より出《いで》たる言葉であった。
ジッと伏目勝ちに聞いて居られた山本次官は、只《ただ》一語も発せず、化石したかの如く微動もされなかったが、忽然《こつぜん》体を崩し小児そのままの姿勢で弔問の群衆のさ中であるに拘《かかわ》らず、大声で慟哭《どうこく》し、遂に床上に倒れられた。
自分は呆然《ぼうぜん》なす術《すべ》を知らず、驚き怪しみ深く心打たれつつ見守って居た。
稍々《やや》暫《しばら》くして山本中将は起き上られたが、再び激しく慟哭して倒れられた。傍に在る人々に助け起され、ようやく神気鎮《しず》まるを待って辞去されたのであった。(後略)」
父親の次郎は、予備役の海軍少将で、山本とあまり肌《はだ》の合わない艦隊派の一人であったが、息子の茂章は山本がよほど可愛《かわい》がった部下であったらしく、山本は、
「感状授与の南郷君を詠《よ》める」
と題して、
「さき匂《にほ》ふ花の中にも一きはに馨《かをり》ぞたかき華《はな》の益《ます》良男《らを》」
という歌を作ったりもしている。
それから、南郷次郎の文章は必ずしも達意の文章とは言いがたいし、何といっても冷静な第三者の眼《め》で捉《とら》えられたものではないから、どれだけその場の情景を正確に写しているか、疑問が無いこともない。
しかし、それらを割引して考えても、此処《ここ》に描かれた山本の姿は少し異様である。五十も半ばの、地位も高い一人の軍人が、戦死した部下の悔みに行って、二度もひっくりかえって子供のように泣くものであろうか?
緒方竹虎は、「毛ほどの芝居気もない山本」と言っている。山本五十六に、ほんとに、芝居気が「毛ほど」も無かったかどうかは別として、上野毛の南郷の家で泣いて倒れたのが、彼の見てくれの芝居であったとは思えない。よほど山本は、情に激する人間だったという気がするのである。
彼はまた、南郷茂章のような直接の部下でなくとも、日華事変で戦死した一般下士官兵の、東京市内の遺族のところへは、公式に海軍次官としてでなく、いわばお忍びのかたちで、秘書官にも告げず、焼香に出かけることがしばしばあったらしい。
「五十鈴《いすず》」の艦長時代、「赤城」の艦長時代にも、彼はよく海軍病院へ部下の水兵を見舞いに行った。
「普通、軍医長が行って来て報告するだけで、こんなことをする艦長はいないんです。情の深い人だなあと思いました」
と近藤為次郎は語っている。
ところで、これより前、第一次近衛内閣は、昭和十四年の新年早々に総辞職をしていた。近衛挂冠《けいかん》の理由は、表向きには閣内の意見不一致ということであった。
外務大臣の有田八郎は、その前年、就任後間もなく、十一月十一日の五相会議で、陸軍から出されている日独間の新たな協定問題に関して発言を求め、
「自分の承知するところでは、本協定の性質は防共協定の延長であり、ソ聯を対象とするが、英仏を対象とするものでないとのことであるが、さよう諒解《りようかい》して差支《さしつか》えありませんか」
と、一番の問題点に念を押したことがあった。
各大臣異存なく、板垣陸相も異論は無いということで、その旨《むね》、ベルリンの大島大使に電報が出されたが、大島からの返電には、
「十一日の五相会議決定中、英仏等は対象にならずという点は、自分が武官時代陸軍より接受した電報と相違すること大なりと認められ」云々《うんぬん》という強い反対意見が記してあった。すると間もなく、異論の無かったはずの板垣が、五相会議の席上で、
「さきの五相会議の決定意見は、ソ聯を主とするも、従としては英仏をも対象とする主旨だ」
と、みんなが唖《あ》然《ぜん》とせざるを得ないようなことを言い出した。このあたりが、「閣内の意見不一致」と言われる具体的内容であると思われるが、実際は、たとい閣内で意見が一致しても、外にこれを受けつけない勢力があったという方が正しいであろう。
ベルリンの大島は、外務省から訓令が行っても、自分たちの策謀の線に副《そ》わないものは、握りつぶして、一切ドイツ側に取次がなかったと言われている。ドイツとの国交に対する基本方針を樹《た》て、その実行を命ずるのは、外務大臣でも陸軍大臣でも総理でもなく、参謀本部の一部と気脈を通じた出先の大使であって、大島が旨を奉じないからとて、さてこれを更迭《こうてつ》することも出来かねるという、そういう状態になっていたらしい。
このような有様に、もともと無責任であきっぽい近衛文麿はすっかりいや気がさし、「閣内不一致」を理由に、内閣を投げ出してしまったのであった。
近衛のあとを受けて、一月五日に、平沼《ひらぬま》騏《き》一郎《いちろう》内閣が成立した。米内海軍、板垣陸軍、有田外務の三大臣のほか、数名の閣僚が留任になった。米内が残って、次官の山本も残った。軍務局長の井上もそのままで、海軍の顔ぶれは、平沼内閣になっても変らなかった。
米内光政の手記によると、
「一月五日、平沼内閣初閣議。一月十日、日独伊防共協定強化問題初めて五相会議の議題となる」
とある。
この「初めて」というのは、平沼内閣になって初めてという意味か、いわゆる三国同盟問題として正式に五相会議の議題となったのは、この時が初めてだという意味か、よく分らない。
一月十九日には、有田外相からこの問題に関して、次のような妥協案が提出された。
「一、ソ聯を主たる対象とするも、状況により英仏等をも対象とすることあるべし。
二、武力援助は、ソ聯対象のときは、これを行ふこと勿論《もちろん》なるも、英仏等対象のときは、これを行ふや否《いな》や、その程度は一に状況に依《よ》る。
三、外部に対しては、防共協定の延長なりと説明すること。
(但《ただ》し、二、三は秘密事項)」
ずいぶん奥歯にもののはさまったような文案であるが、米内や有田としては、このへんが譲りうる最大限度で、要するにこの線でもし条約を結んだら、ドイツがソ聯と戦争を始めた時、日本は武力援助を約束する、しかし、ドイツが英国、フランスと戦端をひらいた場合は、援助するかも知れないし、もしかしたらしないかも知れないということである。そして、「英仏等」と言って、「アメリカ」という言葉は、注意深く避けてあった。
米内や山本としては、こんな妥協案に賛成するのは、甚だ不本意かつ不満足であったと思われるが、一方、リッベントロップや、大島や、陸軍参謀本部や、或《あるい》はイタリヤのチアノ外相、白鳥大使にしてみれば、やっぱり、このような煮え切らない案では不満だったにちがいない。
そのため、これ以後、八月下旬挂冠までの平沼内閣時代、この問題をめぐって、七十何回の五相会議が繰返され、巷《ちまた》には江戸時代のように、「平沼が一斗の米を買いかねて今日も五升買い明日も五升買い」という落首が行われたりすることになるのであるが、その間、山本が米内を援《たす》け、米内が有田を支持して、根気よくつづけた努力は、この日独伊軍事同盟を、何とかして実質的に防共協定の線で食いとめるということであった。言葉をかえれば、英米との戦争に捲《ま》きこまれるような約束は、条約の上で厳格に避けておこうということであった。
しかし、日本の海軍は、口に言わないだけで、実際はアメリカを第一の仮想敵国として、艦隊の訓練も専《もつぱ》らその趣旨でやっているし、厖大《ぼうだい》な海軍予算もその趣旨の下に取っている。金をもらう時だけアメリカが仮想敵で、ほんとうに危機が近づいたら、米英と戦争は出来ませんというのか、そんな海軍は腰抜け海軍ではないかという論理を、右翼や一部の陸軍の軍人が用い出したとしても、それをおかしいというわけにも行かないところがあった。
最も頑《がん》固《こ》な腰抜けは山本五十六で、爾後《じご》、山本の身辺に、右翼の脅迫やいやがらせが次第に頻繁《ひんぱん》になって来る。
敗戦の時、日本の陸海軍は、今から考えると惜しい厖大な量の記録文書を自らの手で焼いてしまったが、その時燃されなかった、或は燃し切れなかった書類のうち、戦争裁判の書証として米軍に押えられたものを別として、どさくさの間に誰《だれ》にともなく運び去られ、散《さん》佚《いつ》した文書も、ある程度あった。そういう散佚文書の中の一つに、「日独伊軍事同盟締結要請運動綴《つづり》」という珍しいものがある。
これはもと、海軍省法務局に保管されていた書類で、「要請運動」をした側ではなく、された側の記録である。
つまり、右翼が海軍に日独伊三国同盟の締結を迫り、如何《いか》なる手段で米内や山本を脅迫したかという、当時の関係書類綴である。
何故《なぜ》か山本五十六は、米国在勤が長かった割には、アメリカ人の間に知己が少なかった。その点、野村吉三郎とはちがっていた。それで、戦後日本に進駐して来た米軍関係者の中には、山本の性格や経歴、ものの考え方を、正確につかんでいる者は殆《ほとん》どいなかった。山本五十六といえば、真珠湾攻撃の元兇《げんきよう》であり、日本の軍人の中でも最右翼に列する一人だと簡単に考えられていた。その山本が、三国同盟に反対で右翼につけ狙《ねら》われたことがあるとか、対米英開戦に強硬に反対したとかいうことを聞かされて、彼らはみな、一時奇異の感をいだいたらしい。
しかし、この「日独伊軍事同盟締結要請運動綴」を読めば、それが誇張でもなく、戦争が終ったあとでの仮構でもないことがよく分る。
SM情報とか、SO情報とか、BS情報とかいう、各方面からの情報がたくさん綴《と》じこんであって、SMとかSOとかは、海軍が使っていた情報提供者、すなわちスパイMの、或はスパイOの情報ということではないかと思われるが、山本が次官会議で、
「新秩序、新秩序というが、一体新秩序とは何か」
と反問したとて憤激している革新派の代議士がいるとか、現在の海軍の態度は、主として山本次官の主張提案によるものだとして、
「山本次官ノ私行即《スナハ》チ同次官ノ二号ガ新橋ノ芸者『梅龍』ナルヲ以《モツ》テ同方面ヨリ得タル資料ヲ以テ問題化シ山本次官ヲ社会的ニ葬《ハウム》ルベシ」
と、大日本生産党系の団体が協議しているとか、海相次官に対し、一人一殺主義のテロを敢行しようとしているのは「芝区居住不良少年上リ」某ほか数名、五、六年の刑を覚悟の上で、売名的にやるつもりらしいとか、昭和十四年の春から夏にかけて、それが益々《ますます》物騒な調子になって来る。某所にダイナマイトが集められたとか、
「特ニ山本次官ニ対スル排斥《ハイセキ》運動ハ熾《シ》烈《レツ》ニシテ『飽迄《アクマデ》自省スルニ非《ア》ラザレバ爆破爆撃ニ依《ヨ》リテモ之《コレ》ヲ除去スベシ』ト云《イ》フ如《ゴト》キ言動ヲ為《ナ》スモノアリト」
とかいう情報も見える。
これら「情報」のほかに、直接海軍省に持ちこまれた「宣言」とか「要請」とか「辞職勧告」とかいう名の脅迫状も、この「要請運動綴」の中に収められている。「斬奸状《ざんかんじよう》」というのもある。
当時、軍令部出仕で、のちに開戦の時海軍次官を勤めた沢本頼《さわもとより》雄《お》が、
「山本さん、大分脅迫状が来るそうですね」
と言うと、山本は、
「来る。はなはだしいのは明日にもぶち殺すようなことを言って来る。しかし、僕《ぼく》が殺されたって、海軍の考えは変りはしない。次の次官だって同じことを言うだろう。五人、十人、次官が変っても、海軍の主張はちっとも変りはしない」
と答えたという。
これはしかし、山本がそう信じていたというよりは、もう少し政治的な含みのある発言であろう。事実は、これより二代あとの海軍大臣、二代あとの海軍次官の時、海軍は態度を変えて、「同じことを言」わなくなり、三国同盟の締結に賛成してしまったのであるから、山本は、そうはなってほしくないという意味で、沢本にこういうことを言ったのではないであろうか。
「宣言」とか「要請」とかは、きまって大きな奉書紙に墨で書いてあった。それを持って来るのは、紺がすりに袴《はかま》を着けて、茨城《いばらき》県から出て来た農業某《なにがし》、著述業某というような人たちである。その論旨も、大抵きまったものであった。たとえば、「宣言」には、
「神眼ヲ濶《ヒラ》イテ悟リ霊耳ヲ欹《ソバ》タテテ聴ケ。昭《セウ》々耿々《セウカウカウ》天ニ声アリ『英国討タサルベカラズ』」
というような書出しで、「県会議員有志」とか、「愛国婦人会茨城支部」「いはらき新聞社」などのほか、「愛郷塾《じゅく》」「勤皇まことむすび」等々、「打倒英国茨城県民大会主催県下十三団体」の署名がある。奉書紙の片すみに、実松秘書官の赤インクの書きこみがあって、
「大臣ニ面接ヲ執拗《シツエウ》ニ要望セルモ実松代理応接ス、数件質問ヲナセシ処《トコロ》、何ニモ知ラズ、徒《イタズ》ラニ悲憤ノ言ヲ洩《モラ》セリ」云々
と書いてある。
幕末に、捕えられた尊王攘夷《そんのうじようい》の志士が、尊王とはどういうことかと質問を受けて、「尊い王様ということだ」と答えたという話を思い出させるような話である。
「日独伊軍事同盟ハ、皇国日本ノ至上使命ト現前世界ノ客観情勢ガ要求スル必《ヒツ》須《ス》緊急ノ国策タリ」
という「要請」は、軍務局長の井上成美が、一人で見て腹を立てて握りつぶしてしまった形跡があり、赤鉛筆の傍線がグイグイ引いてあり、井上の手で、
「何故カ?」とか、「論理成ツテ居ラズ、盲《メクラ》千人ノ類《タグヒ》」とか、「極メテ失敬ナ言ナリ」とか書きこんである。
此処《ここ》では、そういう脅迫状の類の中から、山本に対する「辞職勧告」の一文だけを引用しておこう。
「今次戦争ガ日英戦争ヲ通ジテナサルベキ 皇道的世界新秩序建設ノ聖戦タルコトノ真義ヨリシテ対英国交断絶ト日独伊軍事同盟締結ハ現前日本必須緊急ノ国策タルニ拘《カカハラ》ズ英国ニ依存スル現代幕府的支配勢力ハ彼等《ラ》ニ利益ナル現状ノ維持ノタメニ之ヲ頑強《グワンキヤウ》ニ阻止シツツアリ 貴官ハソノ親英派勢力ノ前衛トシテ米内海軍大臣ト相結ビ事毎《コトゴト》ニ 皇国体ノママナル維新的国策ノ遂行ヲ阻害シ赫々《カクカク》タル 皇国海軍ヲシテ重臣財閥ノ私兵タラシムルノ危険ニ導キツツアリ 貴官ガ去ル五月十七日英国大使館ノ晩餐会《バンサンクワイ》ニ於《オイ》テ日英親善ノ酒盃《シユハイ》ヲ挙ゲタル翌日鼓《コ》浪嶼《ラウシヨ》ニ於テ英米仏三国干渉ノ侮辱ヲ受ケタル事実ノ如キハ即《スナハ》チ幾万ノ戦死者ノ英霊ト前線将兵ノ労苦ヲ遺忘セル海軍次官ノ頭上ニ降《クダ》サレタル天警ナリシガ貴官頑迷ナホ悟ル処ナキガ如シ矣 我等ハ 皇民タルノ任務ニ基キ 皇国日本防護ノ為《タ》メ貴官ノ即時辞職ヲ厳粛ニ勧告ス
昭和十四年七月十四日
聖戦貫徹同盟
海軍次官山本五十六閣下 」
「聖戦貫徹同盟」「維新公論社」の某と、茨城県「紫山塾」の某と、二名の名刺が添附してあり、海軍罫《けい》紙《し》に実松秘書官の字で、この二人がさらに口頭、
「山本次官が辞職しなければ、聖戦貫徹同盟は全国に呼びかけて、次官の立場を窮境《きゆうきよう》におとしいれるつもりだし、その他の手段も敢《あ》えて用いるつもりだから、その覚悟でいろ」
と、脅《おど》し足して帰ったということが書いてある。
大臣室、次官室の手前で、いつもこの連中に面接し、米内や山本に取次ぐか否かを決める玄関番の役は、副官兼秘書官の実松らであった。
山本は気に食わない人間が来るとちょっと何処かにかくれて知らん顔をしていることもあったそうだが、副官秘書官が取次げば、会わないとは言わない。しかし、会わせて良いことは一つも無いから、向うが、会わせろと長い間ねばるのを、こちらもねばって、何とか追返すのが秘書官の役目になっていた。
山本が英国大使館主催の映画の会に出たのが怪《け》しからんといって、実松は長い間からまれたこともある。
「辞職勧告」にも、「五月十七日英国大使館ノ晩餐会」云々《うんぬん》とあるが、山本はクレーギー英国大使と旧知の間柄《あいだがら》であったせいもあって、そういう会にはよく招かれたし、彼の方でも気軽によく出かけて行ったらしい。映画の会なるものには、高松宮も出席していた。
実松がちょっとそのことを匂《にお》わせると、忽《たちま》ち、
「畏《おそ》れ多くも、金枝玉葉の御身のことまで持出して、自らの非を蔽《おお》いかくす気か」
と、怒鳴りつけられたそうである。
彼らは、やって来ては秘書官を起立させ、奉書の紙を拡《ひろ》げて、
「ヨツテ天ニ代リテ山本五十六ヲ誅《チウ》スルモノナリ」
というような弾劾状《だんがいじよう》とか脅迫状とかを読上げ、一と言いい返せば、千言万言浴びせかけられるから、副官たちは何と言われようと一切のれんに腕押し、「承っておきます」と、玄関番に徹する覚悟が必要であったという。
それでも、
「弱虫。海軍の弱虫。貴様たちの日本精神は、何処にあるか」
などと、口ぎたなく罵《ののし》られ罵られ、容易なことでは引上げてもらえない。やっと追返して自分の机に戻《もど》ってみると、処置に困るほど書類の山が出来上っている。
秘書官の宿舎は、海軍省構内の大アンテナの下にあったが、実松は毎晩枕許《まくらもと》に刀を置いて寝ていた。いくら玄関番でも、こんないやな役目は一日も早く御免を蒙《こうむ》りたいと思いつづけていた。
この頃《ころ》山本本人はどうしていたかというと、少なくとも表面的には、まことに暢《のん》気《き》なものであった。
いよいよ物騒なのがやって来るという情報が入ると、背広を着てタクシーを拾って、さっさと渋谷区松濤《しようとう》の榎本重治の家へ避難する。
榎本家には、堀悌吉ら気心の知れたのが二、三人待っていて、秘書官が海軍省で右翼から、
「天ニ代リテ山本五十六ヲ誅スルモノナリ」
を聞かされているころ、豪胆というのか気楽というのか、山本は、
「日清《につしん》談判破裂して
品川乗り出す東艦《あずまかん》」
などと、昔の壮士節を大声で歌いながら、麻雀《マージヤン》の牌《パイ》を振っているという仕組みになっていた。
右翼の攻勢が烈《はげ》しくなり始めてから、山本は、土曜、日曜にはほとんど欠かさず榎本の家へ身を避けて、勝手に戸《と》棚《だな》から着更《きが》えを出し、麻雀をして遊ぶようになった。それは一つには、千代子との逢《おう》瀬《せ》が不自由になったからであるが、山本次官の隠れ場所が松濤の榎本邸であることは、副官連中にだけ承知させてあったようである。
山本の身辺の、厳重な警戒が必要になって来た。
しかしこれを、憲兵隊に頼むわけにはいかない。
「海軍に憲兵が無いのは、海軍の弱点だ」
と、山本自身言っていたことがあるそうだが、海軍に対しても軍事警察の権を握っているのは陸軍の憲兵であって、その憲兵が屡々《しばしば》陸軍側のスパイ役を勤めることは明らかな事実であり、いざという場合、彼らは暗殺者の側に立つ可能性があった。
陸軍からは、海軍の大臣、次官更迭《こうてつ》の場合とか、その他折ある毎《ごと》に、憲兵を護衛につけてはどうかと申入れて来るから、これは必ず断われということが、秘書官の申継ぎ事項の中に書いてある。
実松は、霊南坂の次官官舎を、あらためて一度検分した上、赤坂表町署に署長を訪ねて、ひそかに次官の警護を依頼し、あとで山本の許可を取ろうとしたら、山本から、
「馬鹿《ばか》ア。余計なこと、するな」
と怒鳴りつけられた。
本人の一喝《いつかつ》で、警察による山本の身辺の護衛は一旦《いつたん》取りやめになったが、結局、次官官舎の周辺に常時警備の巡査が立つことになる。
各省とも大臣は特別警護の対象になっているが、次官はそれに該当しない。しかし今度の場合は特別で、表町署から警備係長が出向いて夫人に官舎の中を見せてもらい、玄関脇《わき》の書生部屋に警官を一人置かせてもらおうと話していると、そこへ山本が外から帰って来、
「まことに有難《ありがた》い話だが、現役の次官の自分としては困るから」
と、やはり断わられた。
それで警察としてはやむを得ず、次官官舎の向いの霊南坂教会に一と部屋を借り、そこへ入った巡査が官舎の門番と連絡を取り、山本が出かけるとか帰って来るとかいう時には、外にいる数人の巡査でそれとなく道の要所々々を見張って歩くようになった。
いやがっていた憲兵も、そのうちとうとうつくことになった。
「俺の首に十万円かかっているそうだよ」
と、山本は人ごとのような口ぶりで古川敏子に話したりした。
ある時、佐野直吉が盲腸の手術をして九段坂病院に入院しているのを、山本が見舞いに寄って、敏子に、
「ちょっと下を見てごらん」
と、二階の窓から、病院のおもてに、私服の憲兵が二人ぶらぶらしているのをゆびさし教えたこともあった。敏子が、
「護衛ですか?」
と聞くと、山本は、
「なに。羊の皮をかぶった狼《おおかみ》だ」
と言って笑っていたそうである。
海軍省全体としても、万一の場合の籠城《ろうじよう》の準備が、二・二六事件当時の記録を参考にして進められつつあった。
横須賀からは陸戦隊一箇《こ》分隊がひそかに上京して、海軍省の守りにつき、秘書官室と、陸戦隊の当直員が拳銃《けんじゆう》武装で常時待機している部屋との間には、非常用のブザーが取付けられ、構内、自家発電、自家給水の用意もととのえられた。海軍省のあちこちで、冗談ともつかず、
「次官の車にだけは、同乗するなよ」
という言葉がささやかれていたのも、このころのことである。
山本は、一層千代子に逢《あ》いにくくなり、時には一と月以上も「梅野島」へ無沙汰《ぶさた》で、そのかわり、次官官舎から夜半の二時、三時に、
「白頭山《はくとうさん》ぶしが大分上達したから、二、三節聞いてくれよ」
などと言って、よく電話をかけ、電話で歌を聞かせたりしていたらしい。
古川敏子の表現によれば、
「それで、暫くぶりで逢うと、オイ、肥《ふと》ったか痩《や》せたか、ちょっとおんぶして量ってやろうって、すぐ、梅ちゃんをおんぶするんです。ずいぶん甘くって、そりゃ、癪《しやく》にさわるくらい甘かったんですよ。声は呂《りよ》でね、白頭山ぶしも、低い声で、渋くてなかなか上手でした。『しばし美人の膝枕《ひざまくら》』なんて、あれ、自分のつもりで大好きだったんです」
ということになる。
山本は、どうも何かというと女をおぶう癖があったらしく、海軍がよく使っていた料亭《りようてい》「山口」の女将《おかみ》を、おんぶして聖《せい》路加《ろか》病院に入院させたという話もあるし、郷里で姉の嘉寿子をおんぶしたという話もあるし、当の中村家の敏子自身も、一度山本におんぶされたことがあった。
ある時敏子が、近ごろ肥って来て困っていると訴えると、山本は、
「どれどれ、どのくらいある?」
と、早速背を向けた。
敏子がつい負われると、山本はそのまま表の通りへ走り出した。びっくりして、
「いやよ、いやよ、山本さん。人が見て何か言ったらどうするの?」
と、山本の背中で羞《は》ずかしがったが、山本は、
「なに、急病人だ、急病人だと言えば、平気さ」
と、出雲橋のほとりまで走って行きそうな恰好《かつこう》をして見せた。
こういう話には段々尾《お》鰭《ひれ》がつく傾向があって、山本はこの時海軍中将の軍服を着ていたとか、出雲橋のたもとまで走って出て、通行人にほんとに、
「急病人です、どこかに痩せる病院はありませんか?」
と聞いたとかいう伝説も出来ているが、山本は平服で、二、三歩表へ踏出しただけで中村家の中へ引返したというのが事実のようである。
概して山本五十六という人は、上に悪く下によかったと言われているが、こういう面では奇癖があり、かつ、気さくなもので、新規開店の待合の軒灯用とマッチ用に、字を書いてやったこともあった。
待合というのは、この年、新橋の先代小寿《こす》賀《が》の丹羽《にわ》みちが、築地本願寺の向いに始めた「和光」である。
マッチ用の字は、小さな和紙に、墨で「和光」と書いたのと、所番地電話番号を書いたのとを、それぞれ三通りずつこしらえて、どれでもいいのを使ってくれと丹羽みちに渡した。みちがそれをマッチ屋へ持って行くと、マッチ屋が感心して、
「こりゃあ大層いい字だが、この人、うちの仕事をしてくれないかな」
と言った。
この「和光」の女将、元の新橋小寿賀、丹羽みちは、自ら「海軍省木戸御免」と称し、桜と錨《いかり》のマークを見ないと寝つきが悪いという海軍芸者で、海軍の連中の面倒は実によく見た人であった。山本の次官時代にも、おやつの差入れを持って、よく海軍省に乗りこみ、山本から、
「オイ、あんまり大きな声出すな。宮さんがいるんだ」
と言われたりしたこともあった。山本とは男同士のような付合いであったと、自分では言っている。
彼女は、一時、山本のマッチの字なぞよりもっと珍しい物も所蔵していた。それは、山本が大佐で航空母艦「赤城」の艦長時代、丹念に筆写した「壇《だん》之《の》浦《うら》夜合戦記」であった。
海軍の洋上勤務で、副長以下の一般士官には、士官室や士官次室の同僚がいるし、司令官には幕僚たちがついているが、艦長、特に大きな軍艦の艦長というものは、奉《たてまつ》られる一方の一種孤独な存在であって、食事も一人きりでとらなくてはならない。むやみにデッキを出歩けば、兵員たちの作業の邪魔になり、嫌《きら》われる。
昭和三年の暮から十カ月間、その艦長の職に在った間、山本は「赤城」の艦長室で「壇之浦夜合戦記」を、習字のつもりでせっせと書写し立派な写本を作り上げた。しかし、軍令部出仕兼海軍省出仕に補せられて艦から上ると、この秘本の処置に困ったらしく、小寿賀に、
「これ、お前にやろうか」
と言出した。
「それじゃあ、書き人知らずで、大事にしまっとくわね」
と言って、小寿賀はそれを貰《もら》った。
それから何年か経《た》って、山本が少将になり、中将になり、次官になったころ、山本とは全く関係の無いある酒宴の席で、「壇之浦夜合戦記」の話が出、一人の客が、名高いものだそうだが未《ま》だ読んだことがないというので、小寿賀のみちがつい、
「それなら、わたし、とてもいいのを持ってるわよ」
と言うと、
「何だ、持って来て、見せろ、見せろ」
ということになった。
貸すと返って来なくなるから、決して持帰らない、此処《ここ》で読むという約束で、彼女はそれを座敷に持って来、約束に従って一人が朗読を始めた。
そのうち、客の一人で、石川島造船所の社長をしていた松村菊《きく》勇《お》が、
「どれどれ。そのあと、俺が読もう」
と、朗読を交替した。
松村は、山本より九年ばかり先輩の兵学校出身で、中将で予備役になり、石川島へ入った人である。
みちは、山本のことなど一と言も話さなかったのに、松村菊勇は、読んでいるうち、ハッと、これが誰《だれ》の字であるか察してしまったらしい。急に言葉の調子を変え、
「必ず還《かえ》すから、この本ちょっと貸せ」
と言出した。
こうして「書き人知らず」の「壇之浦夜合戦記」は、みちの許《もと》から持去られ、そのあと、彼女が何度催促しても還してもらえず、借りて行った松村は昭和十六年の四月に亡《な》くなり、みちは口惜《くや》しがってずいぶん調べたが、ついに行方が分らなくなってしまった。
山本五十六の遺墨遺品の中でも、少々風変りなこの品物は、戦災で焼かれなかったら、今でも日本の何処《どこ》かに現存しているはずである。
山本は大《たい》尉《い》時代、堀悌吉といっしょに湯河《ゆが》原《わら》へ遊びに行き、蜜《み》柑《かん》を一度に四十七箇食って、盲腸炎になったことがあった。その時、手術を受けるのに、彼が麻酔をかけないでやってほしいと主張し、あとで、何故《なぜ》そんなことをしたのかと聞く人に、
「切腹する時、どのくらい痛いか、試してみたんだ」
と言ったという話がある。真偽不明の逸話であるが、ありそうなことではある。
子供のころ、学校友達の母親が、
「五十六さん、おみしゃん《・・・・・》は何でもようお上りだが、この鉛筆は、いくら五十さんでも食べられまいがのう」
と言ったら、山本がいきなり鉛筆を取って、黙ってがりがり食出したという話もある。
造兵中将で艦政本部の第一部長であった谷村豊太郎は、海軍省の将官食堂で、次官の山本に、火のついたマッチの軸を、十銭白銅の穴に火を消さずにうまく通せるかどうかという賭《かけ》をいどんだことがあった。山本はすぐ乗って来たが、何度やっても谷村が勝って山本が負ける。これにはちょっとした種があって、十銭玉に穴の少し大きいのと少し小さいのとがあるので、谷村はいつも、穴の大きい方をポケットに入れていて、小さいのを山本に与えていたのである。山本はそれを知らないから、ひどく口惜しがり、しつこく練習した末に、ついに、谷村も出来ない、穴の小さい方の十銭玉に火のついたマッチを通すことに成功してしまった。谷村豊太郎が顔負けして、種明かしをすると、山本は口をへの字に結んで、「甘《あま》酸《ず》っぱい顔」をして谷村をにらみつけたという話を、谷村が書いている。
また、米内光政の談話によれば、普通の人は、自動車に乗って、七十キロから八十キロまでのスピードでは、平気な顔をしているが、時速百キロを越すと恐怖心を起す。船では、二十四ノット以上は気味が悪い。火山の噴火口でも、絶壁のふち一メートル以内に近づけば、手足が固くなり、恐怖心が起る。軍艦のマスト登りでも同様である。山本はそれが、一向に平気であった。艦船勤務をしている時、彼は熟練した水兵と少しも変りなく、平気でマストに登って行ったと。
負けん気とか、恐怖心が薄いとかいうこととは少しちがうかも知れないが、議会における山本次官の答弁も、一種ためらうところの無い、水際《みずぎわ》立《だ》ったもので、大体作戦に関する質問は、
「軍事上の機密に属しますので」
と逃げるのが当時の常識であったが、山本は決して逃げを打たず、いつも正面から、ずばりと答えていたと、これは高木惣吉の話である。
右翼につけ狙《ねら》われて、身辺が危険になって来ても、彼はあまり恐ろしいという感じを持たず、対策として姑《こ》息《そく》な手段を弄《ろう》することをしなかったらしい。
秘書官が取次げば、必ず彼らに会った。右翼の脅《おど》しが金で解決する例は、当時も屡々見られたことのようであるが、実松譲の話では、山本は彼らに、一度も、一銭の金も与えたことはなかったそうである。
アメリカ大使館の裏の次官官舎と、霞ヶ関の海軍省との間も、毎日平気で歩いて通っていた。
「艦政本部の谷村が、護身用だといって、こんな物を作ってくれた」
と、催涙剤だかくしゃみ剤だかを、歯磨《はみがき》のチューブのようなものに詰めこんだ物を、面《おも》白《しろ》いおもちゃみたいに人に見せていたこともある。
笹川良一が、
「誰が来ても、立合い負けをしてはいけませんよ。自分の命を狙いに来た殺し屋だと思ったら、応接室に通して、自分で家なり部屋なりの鍵《かぎ》をしめなさい。そうすると、相手は手出しが出来なくなるものです」
と忠告を与えると、しばらくして山本は、電話で、
「あの通りやったら、うまくいったよ」
と、笹川に報告して来たりした。
笹川良一が、ある時、中国へ行くことになり、支那方面艦隊司令長官への紹介状を山本に頼んで、翌日秘書官の実松のところまで受け取りに行ってみると、名刺の裏に、「この男は大した人物ではないが、蒋介石《しようかいせき》の寝首でもかかせるには役に立つかも知れないので御紹介する」という意味のことが書いてあり、笹川は、
「うわア、こんな立派な紹介状は、未だもろたことがない」
と、喜んで帰って来たという話もある。
長岡から上京した反町栄一を連れて、山本は神田へんの店を、ぶらぶらひやかして歩いたりもしている。
それは、同期の塩沢幸一が、神田の骨董《こつとう》屋《や》で山本の書を見つけ、存外いい値がついているので、何だ、こんなもの高いじゃないかと言うと、骨董屋が、いえ、書は大したものじゃあありませんが、表装に金がかかっているのでと答えたという、その話が気に入って、見に行こうというのであった。
ある土曜日の午後、桜井忠武夫人の多賀子が、銀座でばったり山本に出逢ったことがあった。山本はカンカン帽に浴衣《ゆかた》がけで、下駄《げた》をカラコロ鳴らせながらステッキを突いて暢《のん》気《き》に歩いていたそうである。
しかし、はた目に気楽に見えるほど、山本の心の内は、そう駘蕩《たいとう》と気楽であったわけではないであろう。
昭和十四年の五月ごろから、山本は死を覚悟したらしく、鼠《ねずみ》が物を引くように、毎日少しずつ身のまわりの物を引いて行って、やがて次官室に、山本の私物がほとんど無くなってしまった。山本次官は、毎日新しい下帯をして来るそうだとも言われていた。
事実、彼が次のような遺書をしたためて、海軍省の次官室金庫に納めていたのが、その死後に見《み》出《いだ》されている。
「  述 志
一死君国に報ずるは素《もと》より武人の本懐のみ。豈《あに》戦場と銃後とを問はむや。
勇戦奮闘戦場の華と散らんは易《やす》し。
誰か至誠一貫俗論を排し斃《たふ》れて已《や》むの難《かた》きを知らむ。
高遠なる哉《かな》君恩、悠久《いうきう》なるかな皇国。
思はざる可《べ》からず君国百年の計。
一身の栄辱生死、豈論ずる閑《ひま》あらんや。
語に曰《いは》く、
丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。
此身滅す可し、此志奪ふ可からず。
昭和十四年五月三十一日
於海軍次官々舎
山本五十六 華《か》押《おう》」
山本の遺書は、のちに戦争中書いたものでも、共通して、何か歌うような、一と調子高いところがあって、それが気にならないではないが、彼の思いはよく分る。武井大助には、
「俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃあ、それでもいいよ」
と言っていたという。
だが、ほんとうのところ、こうして山本の命を狙っているのは、何者が何のためにであったかということになると、それは、はっきりしている部分もあるし、はっきりしない部分もある。
実際に海軍省に暴れこんで来たり、暴れこんで来そうになった者は、「右翼」の「沖仲仕」であったり、「芝区居住不良少年上リ」であったり、「数件質問ヲナセシ処《トコロ》、何ニモ知ラズ」の「茨城県農業」であったりで、彼らの多くについては、名前も経歴も判明していたし、中には検挙された者もあった。たとえば、「聖戦貫徹同盟」の某などは、海軍省法務局の調べで、学歴は高等小学校一年まで、大正末期に飲食店で飲食中、店主と口論の末、傷害致死罪を犯し、懲役刑に服し、出獄後、関東軍の特務機関に入り、甘粕正彦《あまかすまさひこ》と識《しり》合《あ》い、のちに神兵隊事件に関係したとか、色々分っているが、この人たちが自分らの力だけで、山本を此処まで追いつめるほどの働きをなし得たかというと、そうは考えられない。
彼らの背後には、やはり陸軍がいた。果して、背後にいたのが、陸軍だけかどうか、そのあたりから先が、漠然《ばくぜん》として来るところであるが、陸軍が介在したことだけは、確かである。
山本に対する「辞職勧告」にも明らかなように、日独伊三国同盟を結べという運動と、排英運動とは、表裏をなしていて、天皇から、
「排英運動を何とか取締ることは出来ぬか?」
との御下問があったのに対し、平沼首相は、「取締りにくい」旨《むね》答えているし、「取締りにくい」理由として、内務大臣の木戸幸一が、
「実は、陸軍が金を出し、憲兵が先に立ってやるんで、とても歯が立たない」
と言ったということが、記録に残っている。
陛下は陸軍の専横に強い不満を持っておられたし、いわゆる右翼もお嫌いであった。厚生大臣を勤めていたころの木戸が、原田熊雄に、
「どうも今の陛下は科学者としての素質が多過ぎるので、右翼の思想なんかについて同情がない。そうしていかにもオルソドックスで困る」
と洩《も》らしたことがある。原田はそれを聞いてひどく意外に感じ、
「陛下はやはり今のやうな態度でいらつしやり、また今のやうな建前でおいでになるのが、国家として最も望ましいことであり、また陛下の御態度としては然《しか》るべきことと自分は思つてゐる。陛下が徒《いたづ》らに右翼に同情されたり、或《あるい》は左翼にどうといふことは無論望むべきでない。元来右翼といふものの内容は何にもない。ただ感情で尊王攘夷《そんのうじやうい》みたやうな忠君愛国とか、排外的ななに《・・》だけで、何にもそこに内容の見るべきものがない。一定の職業もなく、何等の見識もなく、ただ徒らに感情によつて他を排擠《はいせい》することをのみ考へてゐる。しかもその標榜《へうぼう》するところは『自分ぐらゐ忠臣はない。自分ぐらゐ皇室を思ふ者はない』と言つて、徒らに自分の存在を誇つてゐるだけで、何にも認むべき内容がないのが今日の現状である」
と日記に記したが、その欄外に西園寺公望の手で「以下同感の至り」と書きこみがある。
むろん山本五十六も、右翼は嫌いであった。そのころ、こういう右翼の手先と見られる芝浦の沖仲仕が、ダイナマイトをたくさん持っていて警察につかまり、隅《すみ》田《だ》川《がわ》の土手で山本を殺《や》るつもりだったと自供したというので、海軍側で取調べに乗出すと、すでに陸軍の手がまわっていて、詳しいことは分らなくされてしまったというようなこともあった。それでも山本は、記者会見の席で、
「三国同盟問題では、海軍はこれ以上、一歩もゆずらないからね。いずれそのうち政変だろうから、君たちもテントでも張ってた方がいいぞ」
なぞと、表面は、ずいぶん強気というか、暢気そうな口ぶりでものを言っていたようである。
これより少し前、昭和十四年の四月、山本は長岡へ最後の帰省をした。新潟海軍地方人事部の開庁式と、海洋少年団長岡支部の発会式とに、兼ねて、海軍大臣代理として出席するためであった。
海洋少年団の支部発会式は、長岡公会堂の裏の広場で行われた。公会堂のある場所は、七十年前、賊軍の名を負うた長岡藩の旧城址《じようし》であった。
姉の高橋嘉寿子は、山本が海軍大臣の名代として、軍楽隊の奏楽に迎えられて、その城址へ入って行くのを、
「五十さのあの姿を、お父さんやお母さんや、せめて季八さんに、一と目見せたかった」
と、涙を浮べて眺《なが》めていた。
母校の長岡中学では、求められて講演をした。講演の中で山本は、
「只今《ただいま》校長先生の仰有《おつしや》った通り、目下日本は未曾有《みぞう》の国難に際会し、従って政府、国民ともに、口を開けば非常時と堅忍持久とで終始しております。しかしながら、私の考えでは、今、日本の上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきってしまって、それで良いかということを考えると甚《はなは》だ疑問があります。
ゴムをいっぱいに引っぱり、伸ばし切ってしまったら、再びゴムの用をなしませぬ。国家としても緊張するのは大切だが、その半面には弾力性を持つ余裕が無ければならぬと、私は考えるのであります」
という趣旨のことを言っている。
この前年、東京の一ツ橋会館で、長岡中学の同窓会があって、話を頼まれた時には、彼は政局にも戦局にも一と言もふれず、南洋の魚の話をした。長岡中学の、伝統のある「和同会」という校友会が、「長岡中学校学徒報国団」と名前を改めた時には、
「長岡も和同会をつぶす様の長中根性では当分特異傑出の人物到底飛び出す間《ま》敷《じく》」
という手紙を、同郷同級の友人目黒真澄に書いている。
「非常時」や「新秩序」や「国民精神総動員」に、山本はいい加減うんざりしていたのであろう。
山本の生家には風呂《ふろ》が無かったから、
「帰って来たぞや」
と、郷里の古い友人、浴場経営の梛《なぎ》野《の》透の家に上りこんで、三助に、
「山本さん、もう風呂落すいのう」と言われ、落し湯の貰《もら》い風呂などして、ごろりと横になり、皆と馬鹿話をしている、そんなことが山本には、一番楽しいらしかった。
反町栄一が、山本さんは強い強いと言いなさるが、ブリッジはどのくらいに強いのかと聞くと、あまり自慢をしたことのない山本が、上機嫌《じようきげん》で、
「そうねえ、世界一といいたいが、まあ、東洋一はまちがいないね」
と言ったりした。
これが最後の帰省になるとは思っていなかったろうが、結果的には、滞在三日、昭和十四年の四月十三日午後十一時三十五分発の上野行急行で長岡駅を発《た》った時が、彼にとって、愛する長岡の見おさめになった。
平沼内閣は三国同盟問題に関して、七十数回に及ぶ会議を重ねたが、依然として結論を出すことは出来なかった。米内山本の海軍が、その締結にどうしても賛成しなかった。
八月八日、「対欧策、五相会議開かる。『新情勢』を中心に検討」という当時の大見出しの新聞記事は、例によって、読んでも何がどう検討されたのか少しも分らないが、この五相会議では、劈頭《へきとう》板垣陸相から所見の披《ひ》瀝《れき》があり、無留保の軍事同盟を早急に締結すべきだという強い主張がなされたようである。
それに対し、各大臣がそれぞれ意見を述べた中に、大蔵大臣の石渡荘太郎《いしわたりそうたろう》から、
「一体、この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が、英仏米ソ四国を相手に戦争する場合のあることを考えねばなりませんが、その際戦争は、八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、われわれの腹を決める上に、海軍大臣の御意見を聞きたいが、日独伊の海軍と英仏米ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか? その点どうですか」
と、質問が出た。
海軍大臣の米内光政は、平素あまりに無口すぎて、一部から頼りなく思われていた。総理は陸軍大臣とは始終食事を共にして話し合っているが、海軍大臣はその席に加わらない。或《あるい》は加えてもらえない。そのため陸軍では課長クラスの者まで知っているようなことを、海軍では高松宮ですら御承知でない場合がある。これは大臣が無能なため海軍が陸軍に馬鹿にされているのだという不満が、海軍部内にかなり強かった。金魚大臣などという蔭口《かげぐち》の行われた所以《ゆえん》である。金魚大臣の米内はしかし、この時語尾を濁さず、ためらうことなく、非常にはっきりと答えた。
「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うに廻《まわ》して戦争をするように建造されておりません。独伊の海軍に至っては、問題になりません」
それから二週間後の八月二十一日、米内は星ヶ岡茶寮で板垣と会って、「日独伊防共強化問題」について個人的に意見を交換した。米内は陸軍大臣とのこの「最後の私的会見」での問答を、「後日のため」と称して、詳しく書残している。緒方竹虎は、戦後、米内のその手記の全文を雑誌に発表し、のちに「一軍人の生涯《しようがい》」の中に収めた。
相当長いもので、最後の数行だけを引用すれば、
「独伊と結びて何の利益かある。(中略)結局において馬鹿を見るは日本許《ばか》りといふ結論となるべし。自分としては、現在以上に協定を強化することには不賛成なるも、陸軍の播《ま》いた種を何とか処理せねばならぬといふ経緯があるならば、従来通りソ聯《れん》を相手とするに止《とど》むべく、英国までも相手にする考へならば、自分は『職を賭《と》しても』これを阻止すべし。陸軍大臣は独伊につき如何《いか》なる特殊性を認め、これを如何に我国に利用せんとするものなりや。先《ま》づその所見を伺ひたし。
陸軍大臣の右に対する答弁は要領を得ず、議論はただ循環するのみにして、遂《つひ》に意見の一致を見ること能《あた》はず、空《むな》しく五時間余を押問答に終れるのみ」
となっている。
これを雑誌で読んだ平沼内閣当時の外務大臣有田八郎は、この陸海軍大臣の星ヶ岡茶寮会議は、昭和十四年の八月のものではあるまいと言って、緒方に反駁《はんばく》の一書を呈した。
「十四年八月といえば、山雨到《いた》らんとして風楼に満つる時であって、あんな悠長《ゆうちよう》な話が数時間にわたって交換されるような空気ではなく」これは、日独伊問題の提起された初期、すなわち昭和十三年の八月における二人の問答にちがいない、「米内君が年次を思い違いしていたか、或は手記を書くとき瞬間的に錯覚に陥っていたのではなかろうかと思います」というのが、有田の主張であった。
それに対し緒方は、問答の内容如何《いかん》にかかわらず、これはやはり、昭和十四年八月のことと見るほかはないと言張った。
当時の新聞をあたってみると、八月二十一日に陸海軍大臣が二人で懇談をしたという記事は、昭和十三年にも、昭和十四年にも出ていない。
ところが、米内の手記をよく読むと、一つ、
「最近英国の政府筋においては、張鼓峯《ちやうこほう》事件を左《さ》程《ほど》シーリアスに考へ居《を》らざりしも、金融界においては事件当初よりこれを重視し」云々《うんぬん》
という条があるのに気づく。張鼓峯事件が起ったのは、昭和十三年の七月で、会談が昭和十四年八月のものならば、張鼓峯事件よりも、十四年五月に起ったノモンハン事件の方を話題にしそうな気がする。有田の緒方にあてた手紙の言葉通り、「大した問題でもありませんが」、どうも有田八郎の主張の方に、分《ぶ》がありそうに私には思える。
しかし、米内はその手記で、はっきり昭和十四年と書いているので、一応米内の記述と緒方の言い分とを信ずるとすれば、この「五時間余」の「押問答」は、昭和十四年の八月二十一日、午後六時から十一時半まで行われたのであった。
そして、会談を終り、米内と板垣とが、それぞれ官邸に帰って床につき、二、三時間眠ったか眠らないかの時、ドイツ国立放送局は、突然音楽の放送を中断して、臨時ニュースを全世界に流し始めた。
「目下、ソヴィエト政府とドイツ政府と両国の代表が、重大問題で会見中であります」
というのであった。
それから数時間後、ベルリン時間で、同じ八月二十一日の午後十時三十分、ナチス・ドイツの政府は、ラジオを通じて、「独ソ不侵略条約」の締結決定を発表した。
日本政府は、混乱に陥った。謂《い》わば、何が何やら分らなくなった。頼りに思っていたドイツに裏切られた。ドイツの言い分としては、いつまで経《た》っても煮え切らない日本を、これ以上待っているわけにはいかないというのであった。
三国同盟問題は一旦棚《いつたんたな》上《あ》げになり、平沼内閣は、八月二十八日、
「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」
という言葉を残して、総辞職した。
米内は先の手記の中に、
「平沼首相はその挂冠《けいくわん》に当り、時の内大臣に対し、海軍の主張は終始一貫して時勢を見るに誤りなかりしと告白したる由《よし》なるも、それは後の祭なり」
と書いている。
米内の後任の海軍大臣には、山本の同期で、聯合艦隊司令長官の吉田善吾中将が決った。
山本は、吉田の下で、次官に留《とど》まってもいいと言っていたが、次官のポストもやはり住山徳太郎と交替になった。
住山中将は柳宗悦《やなぎむねよし》と同級の学習院出身で、長く侍従武官をつとめ、天皇の思召《おぼしめし》も厚かった人で、
「しかし、こういう非常の場合に、住山君で大丈夫ですか」
と、武井大助が山本に聞くと、
「ああいう温厚な紳士を持って来ても、海軍の態度は変らないということを、陸軍の連中に見せてやるんだ」
と、山本は言った。
しかし、住山次官が決る前、自分が留任してもいいという意向を山本がちょっと見せたのは、三年前次官就任の際、
「軍人が政務の方に移されて、何がめでたいか」
と言って怒ったのと、少し様子が変っている。むつかしい危険な立場であったにも拘《かかわ》らず、山本は海軍次官としての仕事に、一種の使命感と、興味とをいだき始めていたのではないであろうか。
ずっとのち、ある人が米内に、山本元帥《げんすい》は政治に興味を持っていたろうかと聞いたら、米内がちょっと考えてから、
「持っていたと思います」
と答えたことがある。
昔、山本五十六が米国駐在武官の時、最初の補佐官であった山本親雄が、武官事務所での雑談の折、
「軍人は政治にかかわらずというのが御勅諭の精神ですから、自分は政治のことには、あんまり関心を払わないことにしています。新聞も政治面はあまり読みません」
と言って、武官の山本から、
「馬鹿者。政治にかかわらずというのは、知らんでいいということじゃない。そんな心掛けでどうするか」
と叱《しか》りつけられたことがあった。
部内には、いっそ山本を米内のあとの大臣にしてはという声が、かなりあったようであるが、米内は首を縦に振らなかった。
武井大助が、
「どうして後任に、山本さんを持って来ないんですか」
と言うと、米内は、
「吉田でも、同じ考えでやるよ」
と答えてから、やはりちょっと思案して、
「山本を無理に持って来ると、殺される恐れがあるからねえ」
と言った。
米内は、山本をこのまま中央に留めて、万一にもその悲惨を味わうのは忍びなかったのであろう。
このころのある日、山本が大臣室に入って来た時、居あわせた男のことを、
「あれは、紹介しなかったが、有名な占者《うらない》だよ。その後またやって来て、君の顔に剣難の相があらわれている、気をつけなくてはいけないと言っていた」
と、米内が山本に言ったというのは、広く伝えられている話であるが、この「有名な占者」は、誰《だれ》のこととも分らず、これは、山本が人相見だの水から油が取れる話だのに、案外興味を示すことを知っていて、彼を洋上に逃がすことを彼自身に納得さすために、米内が考えついたフィクションではなかろうかという説もある。
鳴弦楼松本賛吉は、その日朝早く海軍省を訪れた。次官室内の書棚《しよだな》やテーブルの上はすっかり片づき、山本は机の抽《ひき》出《だ》しをあけて中の物を整理しながら事務引継ぎに来る住山新次官を待っているところであったが、松本が、
「今度はいよいよ海上ですな」
と言うと、
「うん。いよいよ海だ」
と、見るからにすがすがしい顔をしていたそうである。
独ソ不可侵条約という、この度のヒットラーの放《はな》れ業《わざ》が話題になり、
「独裁者という奴《やつ》はこれだからいけません。ドイツ国民も今度はあいた口がふさがらぬほど驚いたでしょうな」
松本がそう言うと、
「そりゃあ、ドイツ国民も驚いたろうが、一番驚いたのは日本の陸軍だろうよ」
と、山本は皮肉そうな笑いを口もとに浮べた。それから、
「今度ここに来る人は、僕《ぼく》とちがって実に温厚な君子人で海軍の聖人といわれている人だから、君たちもこれからはあんまり次官室を荒しに来ちゃいかんぞ」
と言って、大きな声で笑った。
だが松本は、山本が海軍大臣の職につかねばならぬ時がきっと来るだろうと思っていたので、
「あなたはしかし、いずれまたここへ帰って来ることになるんじゃないですか」
とさぐりを入れてみると、
「いや、来ん。もうここへは帰って来ない、帰って来ない」
と、山本は自分自身に言い聞かせるような調子で繰返した。
こうして、山本五十六は海軍次官の職を離れ、吉田善吾の後任の、聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に補せられることになったのである。
第八章
この物語の初めに私は、山本五十六中将を新しく司令長官として迎えた聯合《れんごう》艦隊が、和《わ》歌之《かの》浦《うら》を出て行くところまで書いて、そのまま長い寄り道をつづけていたが、今、筆をもう一度其処《そこ》へ戻《もど》す時が来た。
八月三十一日、東京駅へ見送りに出た実松譲ら海軍省の副官たちは、山本の乗った「かもめ」が、何事もなく動き出した時、「正直の話、ほんとうにホッとした」という。しかし旗艦「長門」の長官室におさまって、山本にも同様の感慨はあったにちがいない。
其処には、海軍省の中庭に面した次官室の、薄暗いよどんだ空気のかわりに、まぶしい海の光がさしこんでいた。
日華事変の三年目で、そろそろ物資不足、食糧不足が目立ち始めた東京とちがい、長官のための贅沢《ぜいたく》な食事が待っていた。空気は美《う》味《ま》かった。彼の動静を窺《うかが》い、生命を狙《ねら》っていた右翼の眼《め》のかわりに、今、山本を見守っているのは、麾下《きか》四万の海軍将兵のみであった。
前に記したように、山本は、
「おい、長官というのはいいね。もてるね。海軍次官なんてものは、高等小使だからな」
と、副官の藤田中佐に言ったりした。
だが、聯合艦隊の将兵四万が、皆、「大した人物がやって来た」と、山本を信頼の念をもって仰いでいたかというと、必ずしもそうではない。
航空戦隊の荒《あら》武《む》者《しや》どもの中には、ヒットラー張りの勇ましいのが好きなのがたくさんいて、山本が霞《かすみ》ヶ浦《うら》航空隊の副長時代、「赤《あか》城《ぎ》」の艦長時代などに、未《ま》だ一人前になっていなかった若い飛行機乗り、或《あるい》は、すれちがって彼に接する機会を持たなかった飛行機乗りの或《あ》る者は、新任の司令長官に対し、かなり懐疑的であったようである。
「赤城」の飛行隊長淵《ふち》田美津雄《だみつお》少佐などは、荒武者中の荒武者で、持ち前の奈良弁で、
「山本五十六いうのは、妙にイギリス、アメリカ好きで、弱いらしいぜ。腰抜けとちがうか」
と公言していた。
当時の聯合艦隊は、泊地を抜錨《ばつびよう》すると、広い太平洋を東西南北、自由に疾駆して訓練に励めるかというと、そうはいかない。世界第三位の艦隊に、実は、常に油の不安が影を射《さ》していた。使用出来る燃料の量は限られており、無駄使いは許されず、艦隊の演習場は、ほとんど日本近海の太平洋岸に限定されていたのである。
それも、射撃訓練は宿《すく》毛《も》又は足摺岬《あしずりみさき》の沖、紀伊水道から伊勢湾にかけては何、冬の魚雷発射訓練は瀬戸内海の柱島《はしらじま》という風に、その種別と場所も概《おおむ》ね決っていて、たとえば、別府湾を出て横須賀へ向うのに、燃料を無駄にしないよう、昼間訓練、薄暮訓練、夜間訓練、払暁《ふつぎよう》訓練と、一連のはげしい演習が、入港の直前まで続くのであった。
これが帝国海軍のいわゆる「月月火水木金金」の猛訓練であるが、それは事情によって、日曜とか祭日とかのきまり《・・・》を無視したという意味であって、休みが与えられなかったという意味ではない。
大体、四週間以上陸に上らずに訓練を続けていると、不測の事故が発生しやすくなるということは、統計で分っている。下らないことで、喧《けん》嘩《か》が起り、事故が起る。
したがって聯合艦隊の訓練は、ほぼ四週間を目安として、母港の呉《くれ》や佐世保《させぼ》、或は別府の港などへ入り、休養、息抜きをするように計画してあった。
数千乃至《ないし》数万の男の、一カ月間の鬱《うつ》気《き》を吐かせるのであるから、辺《へん》鄙《ぴ》な港では都合が悪い。対象になる人間の数が少ないと、陸の上で又不測の事故が起る。それで別府なぞは、艦隊の休養地として、最も望ましいところとされていた。
何週間もの洋上生活で、陸の灯《ひ》が恋しくなって来るのは、参謀や司令官も同様で、艦が横須賀へ入ると、彼らは、東京の、或は鎌倉《かまくら》、逗子《ずし》、葉山あたりの家庭へ帰って行く。他の港の場合だと、あらかじめ打合せて、細君を呼寄せておく人もある。呉や佐世保の「海軍御用」の旅館には、一と部屋一と部屋が、如《い》何《か》にも新婚の小家庭の趣にしつらえてあるところが、よくあった。
山本も、「長門」が入港すると、きっと陸の旅館で泊った。横須賀入港、上京の場合は、芝の水交社に泊ることが多かった。水交社以後の行動については、臆測《おくそく》のかぎりでないが、彼は青山南町の自宅へ帰るよりも、忍んで千代子に逢《あ》っている時間の方が長かったようである。
当時新橋の小梅と名のる芸《げい》妓《ぎ》は、電鉄関係のある有名な財界人の妾《しよう》であったが、芝神谷《かみや》町《ちよう》に一軒家を持っていたのを、ある時、都合で空けることになった。
梅龍の千代子は、小梅から、
「あんた、山本さんと逢うのに、ちょうどいいじゃないの」
と言ってこの家を見せられ、その気になり、山本が聯合艦隊司令長官に出てから一年ほどのち、彼女は「梅野島」を営みながら神谷町に別宅を持つことになった。小梅が家主の借家であったが、それ以後は、山本上京の折に、二人はしばしば此処《ここ》で逢っていたらしい。
山本が次官に就任した時、前任長谷川清に命ぜられて、事務的な申継ぎ事項を詳しく山本に伝え、終って海軍省先任副官から戦艦「日向《ひゆうが》」の艦長に出て行った田《た》結《ゆい》大佐は、その後昇進して少将になり、重巡「加古《かこ》」「古《ふる》鷹《たか》」を主力とする第六戦隊の司令官になっていたが、山本が聯合艦隊にやって来て、山本の直接の指揮下に入ることになった。田結穣《みのる》が語る昭和十四、五年ごろの聯合艦隊は、極めて緊張した空気に包まれ、訓練も平時のそれではなく、実戦そのもののきびしい訓練が行われていたという。
山本が着任して、特にそうなったというのではないが、たとえば、艦隊の夜間出入港は非常にむつかしい危険な作業であって、もし「陛下の艦」を傷つけるようなことがあれば、場合によっては切腹ものだから、種々の色の識別用の灯火を点じ、無線電話で各艦連絡を取りながら慎重に行うのが平時の常識であるのを、戦争になったら色灯もともせない、微勢力の電波の輻射《ふくしや》も不可ということで、暗夜、完全に全艦隊が明りを消して、黙って各自旗艦のあとにつづくというような訓練が始っていた。
最も神経を使うのが出港の場合で、何千噸《トン》何万噸の大きな物に、惰力が生じるまでは、暗がりでは操作が中々むつかしく、見えなくとも、ある距離で処置をしないと、何かという時、機械力ではどうにもならぬ限界がある。航海科の立場としては、何を好んでこれほど危険なことをという気持もあったが、灯の合図も電波の合図も無しに、無理にもやれと言われれば、やがて、見えないものも見えるようになって来たということである。
対米英戦争に突入する前の日本海軍の練度が、「よくもまあ、此処まで来た」という感じがあったというのは、ひとり田結穣や、或は一般に海軍軍人だけの感想ではなかったであろう。
「それでいて、良識ある海軍士官の中に、戦争を望んでいる者は、一人としてありませんでした」
と、田結は言っている。
淵田美津雄少佐の乗っている航空母艦「赤城」の上でも、急速着艦の訓練とか、初めは皆が、「いくら何でも、そんな荒いこと」とびっくりした、上手下手、技倆《ぎりよう》にお構いなしの、搭乗員《とうじよういん》総員夜間発着艦訓練とか、相当なはげしいことが、司令部の命令で行われていた。
「赤城」の艦長は草鹿龍之介、「赤城」の属する第一航空戦隊の司令官は小沢治三郎で、淵田美津雄はその下、彼らよりずっと若く、源田実と同じ兵学校五十二期、最も油の乗って張切っている齢《とし》ごろであった。
淵田は、夜間攻撃の精度を上げることに夢中になっていて、軍医に、
「俺《おれ》の眼くり抜いて、虎《とら》の眼と入替えること出来んか?」
と、半分本気で聞いたこともあった。
夜間の攻撃訓練が始まると、攻撃隊の飛行機を、守備軍は探照灯で捕《ほ》捉《そく》して、高角砲に照準させ、射撃させるのが、レーダーやミサイルの無い当時のやり方であるが、探照灯の光に眩惑《げんわく》されて、屡々《しばしば》飛行機の墜落事故が起る。
そのため、一時期探照灯は中止になったが、淵田は、
「何言うとるか。戦争の練習やないか。探照灯つけてくれ。俺はやってやる」
と言って、サングラスをかけ、まぶしい光の中を強行通過する訓練を始め、やがて彼と彼の仲間とは、次第にそれに馴《な》れて来た。
山本が司令長官になって一カ月後の、昭和十四年十月、日向灘《ひゆうがなだ》で、第百二十三作業と称する演習が行われることになった。志布志《しぶし》にいる戦艦部隊が、有明湾を出て九州東岸を佐《さ》伯《えき》へ向って北上するのを、航空部隊が捕《ほ》捉《そく》して、途中夜間、空からの攻撃をかける訓練であった。
淵田少佐の率いる雷撃機二十七機は、山本五十六坐乗《ざじよう》の旗艦「長門」が、探照灯を照射し、高角砲の弾幕を張りながら必死に逃げようとするのを、執拗《しつよう》に捉《とら》えて離さず、暗夜、放った訓練用の魚雷を、全部命中させた。
「長門」の戦闘艦橋で見ていた山本は、航空参謀に、
「あれは誰だ?」
と訊《たず》ね、演習終了後、第一航空戦隊司令官、小沢治三郎あてに、
「第一二三作業見事ナリ」
という電報を出した。
山本はこの時、初めて淵田という少佐の存在に注目した。
淵田美津雄の方でも、賞《ほ》められて嬉《うれ》しかったからか、それは知らないが、
「腰抜けや思うとったら、ちょっとちがうぜ。今度の長官、案外やるやないか」
というわけで、このころから次第に、山本五十六に対する認識を改めて行ったようである。
もっとも淵田のような気風の荒い飛行機乗りは、当時、果して田結の言う「良識ある海軍士官」の部類に入っていたかどうか、いささか疑問であろう。それに、いくさと聞いて、若い武人が一向勇躍奮起せず、皆一様に顔を曇らせるようでも、軍隊としては困ったであろう。
ただ山本は、若い士官たちに、よくこう言っていたそうである。
「人間の性格などは、女を口説く時の口説き方を見れば分る。艦隊が入港して、君たちがメーター上げて遊びに行く時のやり方を見ていると、二た通りしか無いね。『おい、今夜俺と、どうだ?』といきなり持ちかければ、どんな不見《みず》転《てん》だって、一応、いやよぐらいのことは言ってみせるさ。すると君たちは、『何を、こいつ』と、暴力的になるか、『お前駄目《だめ》か、それじゃ、次、お前、どうだ?』とやるか、どちらかの手しか知りゃしない。西洋人を観察していると、決してそんなものじゃあないぞ。これと目星をつけた女がいたら、カクテルに誘い、ディナーに誘い、ダンスに誘い、朝に一城、夕に一城を抜いて、最後に上手に、しかもたっぷり目的を達してしまう。目的を達するという意味からは、その方がずっと賢いじゃないか。もし戦争が起ったら、そういう連中が相手だぞ。よく考えとけよ」
十月下旬、「長門」は横須賀に入港した。
郷里からは、反町栄一ら大勢が上京して来、長岡中学校同窓会と長岡社の合同主催で、山本の聯合艦隊司令長官栄転と、同じ長岡出身の小原直《おはらなおし》の内務大臣就任とを祝う盛大な会が、九段の軍人会館で催され、山本は上京してこれに出席した。山本はこの時、「多数同窓諸士に御面謁を得」たること、並びに「多数人士長岡より御上京被下候事《くだされさうらふこと》」について、非常に喜び、かつ感激した手紙を、反町栄一に書き送っている。
越えて十一月六日には、郷土の人たち十四人ばかりが、横須賀へ聯合艦隊旗艦「長門」を訪問した。
山本は乗組員の中から、わざわざ長岡出身の下田一郎という少尉《しようい》を選んで、逸見《へみ》の波止《はと》場《ば》までランチで迎えに出し、一行に長官公室で、昼のフル・コースのディナーを供し、食後自身で案内に立って、
「ここがわしの戦《いくさ》する所だよ」
と、司令塔なども案内してまわり、甲板で記念写真を撮らせ、そのあと、用があるからと、見学団といっしょの横須賀線に乗って東京へ出た。
祝賀会への礼心としても、まことに至れり尽せりの行届いたことで、山本は、まったく、人並みはずれた郷里思いの人であったという気がする。
この、昭和十四年秋の横須賀入港時かどうか、少し不確かだが、昔、ハーヴァード大学のイングリッシュEのクラスでいっしょだった友人たちも、横須賀在泊の「長門」に、山本を訪ねたことがあった。
慶応出で実業界で働いている小熊信一郎とか、森村勇とかいう人たちで、山本とは、二十年前ボストンのトルコ風呂で、ギリシャ人の髭《ひげ》の三助に、いっしょに身体《からだ》を流させ、寝る前、ベッドの上で花を引いたというような間柄《あいだがら》であった。「長岡より御上京」の郷里の人たちとちがって、この連中は、「長門」を見学しても、「光栄に感激」したりする気はあんまり無く、山本五十六をからかってやろうというのが、目的の半ばである。
「一度われわれも、聯合艦隊なるものを見物に行きたいね」
と言うと、山本が、
「ああ、来いよ」
と言った。
「それじゃあ、芸者を連れて行くけど、いいですか」
と、森村が聞いたら、山本がそれも、
「いいよ」
と言うので、「長門」へ、大勢芸者連れで乗りこんで、山本がどんな顔をするか、見ようというのであった。
森村勇は、つい最近まで全日空の社長をつとめていた人であるが、当時大日本航空の監事で、
「太平洋横断空の旅に新記録
紐育《ニユーヨーク》・東京六日間
森村氏日米連絡を完成」
などと、その一と月ばかり前に、空路アメリカから帰って来て、世間に話題をまいていた。
この「太平洋横断空の旅」は、ニューヨークから大陸横断のダグラスでサンフランシスコへ、それからチャイナ・クリッパーで、ホノルル、ミッドウェー、ウェーキ経由グアムに着き、グアム島とサイパン島との間には航空路が無いので、一と晩かかって船で渡り、サイパンから横浜へ日航の定期便で飛ぶというもので、当時、サイパン・横浜間には、海軍の九七式大艇と同じ、川西の四発大型飛行艇が、大日本航空の定期便として就航していた。
これが、「新記録」でも六日要したわけであるが、山本は、総じてこういうことをやってのける人間が好きであった。
小熊信一郎は、父親が日《にち》魯《ろ》漁業の基礎を作った人で、彼自身もその関係で財界に働いていたが、非常なきかん気者で、酒席で、パッと天井に吸いついたりするのが最も得意であった。ハーヴァード留学時代、山本と小熊の、将棋の七十五番勝負というのは、彼らの仲間うちでは名高い話になっている。
ある日、山本に立てつづけに五番負けた小熊が、口惜《くや》しがって、
「将棋も、五番や七番指したくらいで、ほんとの腕は分らないな」
と言うと、山本が、
「じゃあ、何番指せば分るんだ」
と開き直った。
売り言葉に買い言葉で、倒れるまで指してみなければ分らない、よし、それでは日を改めて、どちらかが倒れるまで指そうということになり、間もなく、山本から小熊信一郎のところへ、墨でしたためた挑戦状《ちようせんじよう》がとどいた。
「一、来《きた》る土曜日午後九時より勝負開始の事
一、勝負中は両便の外絶対に席を動かざる事
一、食事は座右のパンをかじり乍《なが》ら勝負を続ける事」
とあって、当日山本は、果物やサンドイッチをたくさん詰めた紙袋を持って、小熊の下宿へあらわれると、鞄《かばん》から、グラフ用紙に百回までの成績記入欄を作ったものを取出し、一番三十分として、五十時間、二昼夜指し通す覚悟と見えた。
森村勇らは、「座右」に食糧を補給する係で、その晩はいい加減なところで引揚げたが、翌朝、カフェテリヤへ朝食を食いに行くのに、小熊の下宿の下を通って、
「未《ま》だやってるかな?」
と見上げると、未だやっているらしい。
夕方になって、食べ物を差入れに行ってみると、未だやっている。友人たちは、まわりで勝手にポーカーや八八をして遊び出したが、七時になり八時になり、まる一昼夜経《た》っても、未だ二人はやめなかった。
しかしそのころ山本と小熊の将棋は次第に粗雑になって来、一回が十五分くらいで片がつき、やがてどちらからともなく、
「オイ、あっちの方が面白《おもしろ》そうだなあ」
と言い出したのが、ちょうど十一時で、始めてから正味二十六時間後、結局双方倒れないままの七十五番で打切りとなり、二人とも花札の仲間入りをしてしまった。
小熊は、八八の手がつかなくて下りている間に、ちょっと仰向けになったら、それきり死んだように寝こんでしまったそうである。
また、話はちがうが、そのころ森村勇は、寄宿先が便利な場所にありすぎて、皆の寄合い部屋にされ勉強が出来なくて困るので、ドアに、
「土曜日曜以外、訪客お断わり」
と貼《は》り紙《がみ》を出しておいたら、山本が来て、
「何だ、馬鹿《ばか》な、こんなもの」
と、一と晩で破られてしまったことがあるそうである。
これが山本の少佐から中佐、大正八年から十年にかけての米国駐在員時代のことであるが、その後、日本へ帰ってからも、山本とこの人たちとのつき合いは、ずっとつづいていた。
小泉信三が、山本と個人的交わりの生じたのも、小熊信一郎を介してであった。山本が次官のころ、慶応の塾長《じゆくちよう》をしていた小泉が、塾からの献金を持って海軍省を訪ねて行くと、礼に出て来たのが山本で、慶応出身者の話か何かから小熊の名が出、山本が、
「ああ、あの野郎ですか」
と愉快そうな顔をし、そのあと小熊信一郎、藤山愛一郎をまじえて四人で「金《かね》田《た》中《なか》」で飯を食ったのが、最初であった。
森村勇らは、ハーヴァード大学に学んだ実業家たちを中心にして、山伏会という会を作っていた。みんなが何か一つ、しょっている《・・・・・・》ものがあるというのが、会名の由来であり、会員の資格であった。
山本は会員ではなかったが、招かれて、屡《しば》々《しば》山伏会に出席した。そして、出て来ると、アメリカで将棋の七十五番勝負を争った勢いで、小熊や森村たち相手に、何かにつけて、
「どうだ、やれるか?」
「やれるとも」
と、負けん気と強情の張合いをしたらしい。
それは、食後、デザートの果物もすんでから、牛乳一クォート(約五合分)飲んでみろとか、飯に盃洗《はいせん》の水をぶっかけて食ってみろとか、そういう類《たぐ》いのことであった。
山本は他処《よそ》でも、
「腹の中へ入れば、みんないっしょだ」
と言って、天ぷらも刺身も、よくまとめて平らげていたというから、平気であったかも知れないが、
「これ、食えるか?」
と、彼が苺《いちご》クリームに刺身とわさびを入れ、醤油《しようゆ》をかけて掻《か》きまわして、小熊に突きつけ、小熊がそれを食うのを見ていて、芸者が「うッ」と言って逃げ出したこともあったそうである。
谷村豊太郎は、「山本五十六閑話」と題する随筆の中で、
「山本さんはいつも、プスンとして無口だったが、何か言えば必ずエゲツナイことを言った」
と書いているが、えげつない点では、小熊信一郎や森村勇の方もかなりのもので、彼らは、「長門」を訪問するについて、あらかじめ、
「よしよし、おいで」
「ああ、お前もおいで」
と、新橋の芸妓たちの中から、見学希望者を十人あまり集めておいた。軍艦の上で、聯合艦隊の司令長官が芸者に囲まれてじゃれつかれたら、さぞ困るだろうというのが、狙《ねら》いであった。
それで、男四、五人に対し、新橋芸妓十人ばかり、総勢十四、五人の見学団が出来上り、某日、横須賀駅に下りてみると、其処で彼らは、ひょっこり山本五十六といっしょになった。山本は、何かの用で駅まで出て来たのか、東京からの朝帰りで偶然同じ電車に乗っていたのか、
「オウ。ちょうどよかった。さあ行こう」
ということで、山本に導かれて一行が、逸見の波止場の門を通ると、其処から先は、全く海軍一色の世界で、空気が少し変って来る。
芸者を連れて門を入って来たのが、聯合艦隊司令長官と分ると、衛兵詰所から、
「気ヲツケエ」
と、はげしい気合の号令がかかる。
桟橋《さんばし》には、長官艇チャージの若い中尉が、固くなって挙手の礼で迎えている。長官艇には、黒ラシャの敷物が敷いてあり、敷物のふちは黄色で、其処に山本五十六提督の位を示す桜のマークが二つついている。
一同が、教えられた作法通り、乗り移ると、チャージの中尉のきびきびした指揮で、艇はすぐ水を蹴《け》って走り出した。
「あら、山ちゃん」
などと呼んでいた女どもは、気押《けお》されて、次第に口数が少なくなって来た。
山本はしかし、一向態度が変らず、まさか酒席の如《ごと》き振舞いはしないが、芸者たちと離れて歩きたがったり、避けて坐《すわ》ろうとしたりという、迷惑そうなそぶりは少しも無く、極く自然に、愉快そうに談笑していて、「どうも、こんなこと、初めてのようではなかった」そうである。
「長門」に着くと、やがて、残っている幕僚たちも列席して、昼の食事になった。
司令部の通常の昼食の献立は、スープに始まって、魚と肉の料理が一皿《さら》ずつ、それに、サラダ、果物、コーヒーとなっているが、客があると、これに何かもう一品つく。それから、宴会となると、初めに前菜が運ばれて、シャンパン、白赤の葡《ぶ》萄酒《どうしゆ》と、ビール、日本酒のグラスが、銘々六つくらいずつ並ぶのが例であった。
食事の用意が整うと、従兵が、後甲板に待機している軍楽隊の楽長に、
「只今《ただいま》長官を迎えに行きます」
と声をかけておいてから、長官の私室へ走る。
それで、司令長官が長官私室のドアをあけるのとほぼ同時に、楽長の指揮棒が振り下ろされ、長官が廊下を食堂まで歩いて来る間、まず行進曲が一曲奏《かな》でられる。
こうして、森村、小熊、新橋芸妓らの一行は、「長門」で、軍楽隊の奏楽《そうがく》裡《り》に、山本と昼食を共にした。食事は、小熊信一郎の記憶によれば、「なかなか美味《うま》かった」ということであるが、「長門」の司令長官公室で、少々機《き》鋒《ほう》をくじかれた芸妓が十人あまり、山本五十六を囲んで、神妙にナイフやフォークを使っているのは、ちょっと変った風景であったろう。
この時一行に加えられなかった梅龍は、早速対抗意識を発揮し、まず、
「敏子さん、一度『長門』へ行ってみない?」
と、古川敏子に誘いをかけておいてから、敏子の妹や、別に朋輩《ほうばい》芸妓十人あまりをかき集め、何日かして、揃《そろ》ってまた横須賀へ乗りこんで行った。
それで、戦艦「長門」は、立てつづけに、新橋のいわゆるきれいどころを客に迎えることになり、のちには話に段々尾《お》鰭《ひれ》がついて、山本が、聯合艦隊の旗艦に芸者を大勢連れこみ、飲めや歌えの、あるまじき大騒ぎをしたという風に伝えられているらしいが、実際はそれほどの事ではなかったようである。
梅龍の千代子は、「長門」が入港すれば、一人ででも必ず一度は横須賀へ山本を訪ねた。山本の下着類や沓下《くつした》、副官や副官夫人への贈物まで用意して来、長官室の洋服箪《ようふくだん》笥《す》の中やベッドまわりをせっせと片づけた。
山本が藤田中佐の細君に、
「奥さん、鮭《さけ》上げようか。北海道のだから美《お》味《い》しいよ」
と、箪笥の軍服の間からゴソゴソ塩鮭の包みを取り出すのを千代子が見て、
「まあ。そんなとこに鮭なんか入れて」
と怒っていたこともあったという。
海軍の教育年度は十一月に終る。訓練中亡《な》くなった者の慰霊祭を洋上で行い、母港へ帰って解散になる。その年度末を以《もつ》て呉鎮守府の副官に転勤の決った藤田元成が夫人同伴で挨拶に行くと、山本は、
「奥さん、あんたも呉へ行くか? 子供が無いなら行った方がいいかな。鎮守府て煩《うるさ》いところだよ。まあしかし行きなさい、行きなさい。その方がよかろう」
と言った。
情があって、三カ月半身近に勤務している間、藤田は山本から叱られたということはほとんど無かったが、一度だけ注意を受けたのを印象深く記憶にとどめているという。
それはその秋、徳山沖に入港中の艦隊から列車で上京の折、山本と藤田を乗せて三田《みた》尻《じり》駅へ向う自動車がちょっとした事故を起した時のことである。
徳山燃料廠《しよう》から迎えに来た車で、老練な運転手が運転していたが、どうしたはずみか田舎道であッという間に路《ろ》肩《かた》から田圃《たんぼ》の中へ突っこみ大きく傾いた。二人とも怪我《けが》は無かったが、山本は藤田に、
「自分の身体《からだ》じゃないからな。陛下の身体だからな。注意しろよ」
と、それだけ言ったそうである。
教育年度が終るのと時を同じくして、定期異動の発表がある。副官も変ったし、この年(昭和十四年)十一月の定期異動の前後に、聯合艦隊司令部の陣容はほぼ一新された。参謀長の高橋伊望少将、先任参謀の河野千万城《ちまき》大佐ら、吉田長官時代からの幕僚が退任し、参謀長福留繁《ふくとめしげる》、先任参謀黒島亀《かめ》人《と》、戦務参謀渡辺安次らの顔ぶれが着任した。
福留繁少将は、「長門」艦長から、聯合艦隊司令部へ上った。
聯合艦隊司令部における狭義の幕僚――いわゆる「縄《なわ》を吊《つ》った」人の定数は、参謀長、先任参謀、砲術参謀、航海参謀、水雷参謀、通信参謀、航空甲参謀、航空乙参謀、戦務参謀、機関参謀の計十人で、参謀長だけを別格とし、他の九人には、階級の如何《いかん》にかかわらぬ同等の発言権が与えられていた。
そのうち、福留参謀長が、開戦八カ月前の十六年四月、軍令部第一部長に転じ、後任として伊藤整一少将が四カ月勤めたあと、八月、宇垣纏《うがきまとめ》少将が着任したのと、開戦直前、三和《みわ》義勇《よしたけ》大佐が航空甲参謀として、藤井茂中佐が政務参謀としてそれぞれ加わったのと、三、四の異動を除けば、大体においてここに、開戦時の山本チームの中核が出来上ったわけである。
もっとも山本のチームと言っても、裁量の権限を握っているのは海軍省人事局であって、これは山本自身の人選によったものではない。政務参謀のポストは、山本の時初めて置かれ、渉外参謀とも呼ばれた。
この新しい陣容で、昭和十五年の元旦《がんたん》を洋上に迎えた山本五十六は、
「日《ひ》の本《もと》の海の護《まもり》の長《をさ》として
けふの朝日をあふぐかしこさ」
という歌を作った。
次官時代と境遇が変ったせいか、艦隊へ出てから、山本の作る歌の数は段々多くなり、これより戦争中にかけて、数の上ではかなりの歌を詠《よ》んでいる。
戦時中、殊《こと》に彼の戦死後、山本の短歌はまるで国民の修養の糧《かて》でもあるかのような大層な取扱いを受けて、信時潔《のぶとききよし》の作曲で譜がついたりし、あたかも彼が一人前の歌人であるかに扱われたことがあるので、この機会に山本の歌について少し書いておくが、彼自身の作歌の動機は、茶目ッ気の多いもっと暢《のん》気《き》なものであったと思われる。
米内光政が、
「例の和歌なども、山本は勝負事でもやるようなつもりで、負けない気になって作るのです」
と言っているのは、やはり山本をよく識《し》る人の言葉であろう。
「よしッ、一時間で何首作れる?」などと、どちらかというと、西鶴《さいかく》の大《おお》矢《や》数《かず》に近い趣があった。上手かと言えば、義理にも上手とは言いがたい。
ずっとのちの話だが、「鬼がわら」という綽《あだ》名《な》のあった小沢治三郎中将が、
「長官は前線へ向う部下によく万葉ばりの和歌を書いて贈っておられるようですが、あれはあんまり感心しませんな。あなたの郷里の越後には良寛のような立派な歌人がいるんだから、もう少し勉強していい歌を作られなくてはいけません」
と、面《おもて》を冒して山本に文句を言ったことがある。
青年時代からの山本が作った歌をたどってみると、明治三十八年七月、日露戦争で戦傷を負うて、横須賀の海軍病院に入院中詠んだ、
「とどめましハンカチーフの血痕《けつこん》は
己《おの》が真《まこと》のしるしなりけり」
同じく明治四十三年一月一日、軍艦「宗《そう》谷《や》」の自室から、郷里の父親に書き送った、
「わがものと思へば広し四畳半
あくび大の字勝手放題」
などというのは論外としても、大正八年、最初のアメリカ駐在時代、「ワシントンの夜景を眺《なが》めて」と題する、
「今《こ》宵《よひ》しも月影清く冴《さ》えにけり
故郷《ふるさと》遠く偲《しの》べとてしか」
というのと、「大正九年二月米国にて」と題する、
「吹雪する外《と》の面《も》さびしくながめつつ
故郷遠く君をしぞ思ふ」
という三首がある。
歌としては、これまたまことに幼稚でセンチメンタルな歌であるが、あとの一首の「君をしぞ思ふ」は誰《だれ》のことか、大正九年といえば、彼が千代子を識る十数年も前で、少し問題になるところであろう。
これはしかし、歌の話そのものでないので、後にゆずる。
将官になってからの彼は、さすがにもう、こんな幼稚な歌は作らなくなった。「日の本の海の護の長として」の新年詠草などは、一応の体は成している。武《たけ》井《い》大助撰《せん》の「山本五十六詠歌十題」の中にも入っている。つまり、ましな方である。
武井大助は、山本の仲のいい友人であると同時に、歌の先生であった。山本は武井のことを、からかい半分、いつも「武井歌《うた》之《の》守《かみ》」と呼んでいた。
武井大助が山本を識ったのは、山本の最初のアメリカ駐在時代、武井がコロンビヤ大学の政治科を卒業して間もなくのころで古いが、この時にはすでに海軍主計中将で、海軍省の経理局長を勤めていた。佐佐木信綱の門下で、「戴剣《たいけん》歌人」とも呼ばれ、戦後宮中御歌会始の召人《めしゆど》にも選ばれているし、こちらはほんものの歌詠みである。
山本が未《ま》だ少将で、航空本部の技術部長時代、軍務局長であった堀悌吉と紀州を旅して、武井のもとへ、新宮《しんぐう》から歌信をとどけて来たことがあった。
見ると、
「若竹の下にたかむな生ひ出でぬ
南《みんなみ》紀伊の冬あたたかし」
と、いつになく上手な玄人《くろうと》っぽい歌がしたためてあった。
東京へ帰って来た山本に、武井が、
「手紙もらったけどね、あれは盗作でしょう?」
と言うと、山本は、
「オイ、やっぱり分るのかなあ」
と、堀と顔を見合せたそうである。
「そりゃあ分るよ」
将棋では飛車落ちでも山本に敵《かな》わない武井大助は、笑いながら言った。
「将棋なら、僕《ぼく》の手の内をすっかり読まれてしまうのと同じで、歌ならこっちが上だもの、山本さんの手の内ぐらい分るさ」
それから問いつめて泥《どろ》を吐かせてみると、堀の友人で山本とも交際のある「心の花」の古い歌人、石榑《いしくれ》千《ち》亦《また》が今度の旅に同行している。新宮の宿で、この歌人が次々歌になった歌を作るのを見ていて、山本は、
「石榑さん。海軍には『申シウケ』という言葉があるんですがね、拙《まず》いのを一首、申しうけさせてもらえませんかな」
と、「若竹」の歌をもらいうけ、武井をからかうつもりで便りを出したのだということであった。
またある時、武井が山本に贈った歌に、「光直《ただ》射《さ》す時は来向ふ」とあるのを見て、山本は「来向ふ」という語法に大いに感心したらしいが、あとで万葉集の中から、柿本人麿《かきのもとのひとまろ》の「御《み》猟《かり》立たしし時は来向ふ」を見つけると、
「何だ、君と僕のちがいは、要するに君の方が少し色んな字句を余計知っているだけのことじゃないか」
と言ったという話もある。
山本の短歌に対する認識と素養とは、先ずその程度の気楽なものであった。
だから、まさかに盗作は世に出さなかったが、戦争中山本聯合艦隊司令長官の作歌として、ものものしく公《おおやけ》にされた短歌の中には、方々から一部「申シウケ」をした本歌取りみたいなものがずいぶんある。
昭和十六年の秋、伊勢神宮に詣《もう》でての、
「千万《ちよろず》の軍《いくさ》なりとも言挙《ことあげ》せず
取りて来ぬべく思ひ定めたり」
とか、昭和十七年十二月八日、開戦一周年目の、
「ひととせをかへりみすれば亡《な》き友の
数へがたくもなりにけるかな」
とかいう歌は、それぞれ、万葉の高橋虫麻《たかはしのむしま》呂《ろ》の歌、或《あるい》は良寛和尚《おしょう》の歌と甚《はなは》だよく似ている。
特に傾倒した歌人とか歌書とかいうものも、山本には無かった。ただ、聯合艦隊へ出る時、万葉集は携えて行った。この万葉集はのちに、渡辺安次の手で遺品として東京へ持ち帰られたが、集中いたるところに、丸や棒が書いてあったそうである。「明治天皇御集《ぎょしゅう》」も、かなりよく読んでいたらしい。
何しろ凝り性であったから、もっと生きていたら、山本の歌も或はもう少しほんものになったかも知れないと、武井大助は言っている。
山本がこうして、「長門」の艦上で、「日の本の海の護の長」の歌を詠んでいるころ、中央では、阿部《あべ》信行《のぶゆき》の内閣が、組閣後四カ月にして、早くも崩れつつあった。
年末から開始された政党の倒閣運動が効を奏して、国民の眼《め》には何がその理由ということもはっきりしないままに、一月十四日、阿部内閣は総辞職し、あとには近衛公とか陸軍の荒木貞夫大将、或は畑俊六《はたしゅんろく》大将という呼び声があったにもかかわらず、大命は突然米内光政に降下した。
「一軍人の生涯」の中で緒方竹虎は、その間の事情を、
「米内の奏薦は殆《ほとん》ど全く湯浅内大臣一人の意志に出たと思はれる。若《も》しその外に湯浅にヒントを与へたものありとすれば、それは陛下の思召《おぼしめし》であつた。阿部内閣崩壊前のことであるが、陛下はあるとき湯浅に対し『次は米内にしてはどうか』といはれた。陛下は平常立憲的に非常に厳格で、陛下御自身後継内閣の選定についてイニシアチブを取られるといふことは全くの異例であるが、陛下は謂《い》はば御性格から陰謀的な日独伊同盟を御好きにならず、平沼内閣で問題が紛糾した際、不眠症で一時葉山に静養されたこともあつた位で、自然何とかして、日独伊同盟を未然に防止したいお気持のあつたことは蔽《おほ》へない」
と述べている。
緒方によれば、この米内内閣が、湯浅倉平にとってもう、「智慧《ちえ》の出し納め」、「ファッショ防遏《ぼうあつ》最後の切札」というものであった。
だが、当の米内は、総理大臣になろうという野心も無かったかわりその用意も無く、手足になって働く人が誰もいないので、原田熊雄の肝《きも》いりで、ようやく石渡元蔵相と広瀬元厚相とが、組閣参謀としてつくことになった。
昭和二十八年から二十九年にかけて出版された歴史学研究会編「太平洋戦争史」の記述を藉《か》りれば、「米内の登場はいちじるしく親英米派重臣的な性格を帯びており、陸軍と革新派とはこれに対立し、近衛も自分をさしおいて岡田、湯浅らが奔走したことに不快の念を抱いた。しかし組閣にあたっては天皇が陸相に協力を命じた結果、畑が留任し」組閣は一応順調に進んだのである。海軍大臣の吉田も留任した。
山本は米内には将来どうしても軍令部総長として働いてもらいたい、したがって総理かつぎ出しの運動は出来るだけ阻止したい考えで、原田熊雄と前からそういう話をしていたが、それがこんな結果になってしまったので、原田は余儀ない事情をしたためて山本に手紙を出したと、「西園寺公と政局」の中に述べている。
米内はこの時、慣例にしたがって現役を退いた。
海軍から米内光政を失うことは惜しむとしても、彼の総理大臣就任で、日本の前途に明るいものを見ることを最も強く望んだ人の一人は、山本五十六であったろう。
事実、米内の首相在任中、三国同盟問題は決して蒸し返されなかったし、蒸し返されても、到底米内がこれを認めなかった。総動員法の問題や、統制の問題についても、米内は首相として、ずいぶん含みのある発言をしている。
当時の新聞を見ると、記者会見で戦時経済統制について質問を受けた米内首相が、
「統制経済についてはやるべきことはやって行く。ただ統制をやった効果よりもそれによって生れる逆効果の方が多いとなれば考えなければならぬ」
と答えたということが出ており、これは平沼内閣時代海軍大臣としての彼の議会答弁とも照応するもので、一貫した米内の考え方であった。
それだけに彼は、陸軍にとって、甚《はなは》だ「好ましからざる人物」であった。
のちに米内は、
「私では三国同盟もやらず、国内改革も実行しないからというので倒閣ということになったのです」
と語っているが、陸軍部内や右翼の一部には、この内閣に対する烈《はげ》しい不満が初めからくすぶっていて、内閣参議の中でも、末次信正、松《まつ》井《い》石《いわ》根《ね》、松岡洋右の三人が、米内の留任要請をしりぞけて辞職してしまったし、内閣は出発にあたって、長つづきしそうもない影を負わされていた。
畑陸軍大臣の留任を求める時にも、米内の意を体した石渡荘太郎が、陸軍省に電話をかけ、組閣本部である水交社へ、畑の来訪を希望すると、軍務局長か誰か、声の主は分らないが、
「総理大臣がこちらへ挨拶《あいさつ》に見えるものと思って、先程から待っている」
という返事であつた。石渡はムッとし、
「一体陸軍はこういうことを言っているが、どうされますか。陸軍の方から大命降下した人のところへ来るのが当然じゃないですか」
と米内と相談してから、重ねて畑に来てもらいたい、こちらからは伺わないと電話で言うと、暫《しばら》く待たされたあとで、ようやく、
「それではお伺いします」
という返事があった。その時米内は、
「愚図《ぐず》愚図言ったら畑を電話口に呼んで下さい、私が出る」
と、さすがに不愉快そうな面持《おももち》を見せた、倒閣運動は、米内内閣成立のその日から始まっていたということを、緒方がその著書の中に書いている。
陸軍の一部右翼の一部では、米内内閣の出現を「また重臣の陰謀だ」と言い、陛下の陸軍大臣に対しての「新内閣に協力するように」との御言葉についても、「けしからん」と言って内大臣を恨んでいる若手将校たちが大勢いて、阿部信行前首相ですら、
「こんにちのように、まるで二つの国――陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは到底政治はうまく行くわけがない。自分もやはり陸軍出身であって、前々から何とか陸軍部内のこの異常な状態を多少でも直したいと思っていたけれども、これほど深いものとは感じておらなかった。まことに自分の認識不足を恥じざるを得ない」
としきりに歎《なげ》いていたということである。
このころ松本賛吉は、いつか水谷《みや》川忠麿《がわただまろ》と話したことを思い出し、米内内閣成立の模様、米内が大いに奮闘しているが内閣の前途はなかなか多難らしいという報告とともに、山本の政界出馬を期待するような手紙を「長門」あてに書き送った。
当時実際、政界の一部には「山本五十六内閣待望」の声があったと言われているが、山本は松本の手紙に対し、二月十八日付で、
「貴《き》翰難有《かんありがたく》拝見仕候《つかまつりさうらふ》 海上勤務半歳 海軍は矢張り海上第一まだやるべき仕事海上に山の如《ごと》し、所詮《しょせん》海軍々人などは海上の技術者たるべく柄《がら》になき政事などは真平《まっぴら》と存じ居《お》り候」
という返書をしたためた。
そして、成立半歳後、昭和十五年の七月、米内内閣が総辞職し、第二次近衛内閣が出来ると、露骨に、待っていたかのように、再び日独伊三国同盟の問題が表面に立ちあらわれて来、それより二カ月後の九月二十七日、この軍事同盟は、まことにあっさりと成立してしまうのである。
もっともその前に、海軍大臣の吉田善吾は辞職した。
吉田は、第二次近衛内閣にも留任したが、陸軍や部内外の革新派からの突き上げと、同期の山本五十六あたりからのきびしい註文《ちゅうもん》との板ばさみになって、こんにちでいう強度のノイローゼにかかっていた。秘書官が書類を持って大臣室に入って行くと、それを読む吉田の手はブルブル震えていたという。間もなく入院静養ということになり、三国同盟締結の三週間前に大臣をやめてしまった。吉田の途中退陣と、松岡外務大臣、東条陸軍大臣の登場とは、第二次近衛内閣の人事で注目されてよい三つのことであろう。
このころ、山本は艦隊から、あらためてドイツとの同盟問題に関する意見書を提出している。
「日米戦争は世界の一大兇事《きょうじ》にして帝国としては聖戦数年の後更《さら》に強敵を新たに得ることは誠に国家の危機なり、日米両国相傷《きずつ》きたる後に於《おい》てソ聯《れん》又は独国進出して世界制《せい》覇《は》を画す場合何国がよく之《これ》を防禦《ぼうぎょ》し得るや。独国勝利を得たる場合に於て帝国は友邦なりとして好意を求めんとするも、不幸にして我国も傷き居たりとせば其《そ》の術《すべ》もなく、友邦は強大なる実力の存する場合に於てのみ之を求め得べきのみ。帝国が尊重せられ、交りを求めんとする者相次ぐは我海軍を中心とする実力儼存《げんそん》するに依《よ》らざるべくんば非《あら》ず。よつて日米正面衝突を廻避《くわいひ》するため両国とも万般の策をめぐらすを要す可《べ》く、帝国としては絶対に日独同盟を締結す可からざるものなり」
この意見書は、内容だけが記録に残っていてその提出先は不明であるが、大臣の吉田はむろん読んだにちがいない。吉田は、読めば同感であったろうが、デンマーク全土を、僅《わず》か三時間半でその保護下に置いてしまうようなドイツの離れ技を見せられていた当時の人々の耳に、こういう意見は概して、通りがよくなかった。
吉田善吾のあと、海相の地位に就いたのは及川《おいかわ》古志《こし》郎《ろう》大将である。
及川は、支那《しな》学の素養にかけてはなかなかのものと言われ、中国の大人《たいじん》の風があり、人《ひと》柄《がら》も温厚で聞えていた。しかし、この非常の場合に、人格の温厚と支那学の素養とだけで海軍大臣が勤まるものではなかった。温厚なだけに、及川は、噛《か》みつきそうな犬のそばは、そっとよけて通りたい人であった。一体海軍の上層部には何事も出来るだけ上手に円満にという気風が強かったが、中でも及川古志郎は特別八方美人であったとは、多くの人が指摘するところである。
「相手が日本陸軍という、陸軍第一、国家第二の存在であるのに、誰が及川を大臣に持って来たのか、不謹慎極まる人事であった。あの定見の無い無能ぶりを、陸軍が承知していて、近衛あたりに推薦したとしか考えられない」
と、井上成美は、歯に衣《きぬ》きせず、及川を罵《ののし》っている。
井上によれば、彼は二等大将中の二等大将で、「米内、山本に較《くら》べて、粗末な大将と立派な大将とこうもちがうかという好例になります。ほんとに、実に役立たずの大臣でした」ということである。
陸軍との協調を求めるためには、こういう人格温厚な人を大臣に据《す》える必要があったのかも知れないし、近衛も及川が人と人の間に立ってうまく意見を調整してくれるのを喜んでいたそうだが、米内は、
「残念なことに、陸軍と海軍の間がうまく行っている時は、日本の政治は、たいてい堕落している」
と言っていた。
及川の下で海軍次官を勤めたのは、豊田貞次郎であった。豊田も常識的な意味では人格円満な提督であった。面識のあった池島信平は「立派な人だったよ」と言っている。しかしこういう非常の場合の海軍の責任者としての功罪ということになると話は自《おの》ずから別であろう。彼は山本とちがって、早くから次官、大臣になりたい気持の強かった人で、のちに第三次近衛内閣の時、志を遂げて外務大臣に就任しているが、昭和十三年、山本が次官当時は、佐世保《させぼ》鎮守《ちんじゅ》府《ふ》の司令長官であった。
ある時次官の山本が、
「オイ、こういう手紙が来ているから、参考のために見とけよ」
と、佐世保の豊田からの書簡を、軍務局長の井上に見せたことがある。それには、私が親補職の地位にあるために次官になることをいやがるなどとは、どうかお思いにならないでいただきたいという意味のことが書いてあった。鎮守府司令長官は親補職であるが、次官は親補職ではない。
井上が読みおわると、山本は、
「豊田貞次郎というのはこういう男だ。覚えとけ」
と言った。
緒方竹虎は、「失はれた政治」と題する近衛文麿の手記の一節――、
「抑《そもそ》も三国条約締結については、海軍が容易に賛成すまいと思つてゐたのである。(中略)然《しか》るに及川大将が海相となるや、直《ただち》に海軍は三国同盟に賛成したのである。余は海軍の余りにあつさりした賛成振りに不審を抱き、豊田海軍次官を招いてその事情を尋ねた。次官曰《いは》く、海軍としては実は腹の中では三国同盟に反対である。然しながら海軍がこれ以上反対することは、最早や国内の政治情勢が許さない。故《ゆゑ》に已《や》むを得ず賛成する。海軍が賛成するのは政治上の理由からであつて、軍事上の立場から見れば、まだ米国を向ふに廻《まは》して戦ふだけの確信はない」
というところを引き、いろんな太平洋戦争前の回想録を読んで、これほどなさけない問答はないと言っている。緒方が「なさけない」と感じたのは、むろん豊田貞次郎に対してだけではなかったであろうが。
吉田が退いて及川が大臣になり、住山が退いて豊田が次官になったのは、昭和十五年の九月五日及び六日で、就任後、条約調印までの三週間の間に、及川は海軍大臣の名で東京に海軍首脳会議を招集した。
これは、海軍として、三国同盟に対する最終的態度を決定するためのものであった。実際はしかし、賛成の膳《ぜん》立《だ》てが、あらかじめ出来上っていたのだと思われる。
聯合艦隊の旗艦は、この時瀬戸内海の柱島泊地にいた。山本は、会議に出席のため柱島から上京した。
彼の考えでは、この同盟は日米戦争を招来する公算が極めて大きい、日本は一体、アメリカと戦争する用意が出来たのか、自分が次官の時から僅《わず》か一年で、対米戦争に必要な軍備が整う筈《はず》はないだろうというので、山本は鞄《かばん》に資料もたくさん用意して、東京へ出て来た。
会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第二次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任をとることは到底出来ないから、同盟条約締結に賛成ねがいたいということを述べた。列席の伏見軍令部総長宮以下、各軍事参議官、艦隊及び各鎮守府長官の中から、一人も発言する者が無かった。
山本は立ち上った。
「私は大臣に対しては、絶対に服従するものであります。大臣の処置に対して異論をはさむ考えは毛頭ありません。ただし、ただ一点、心配に堪えぬところがありますので、それをお訊《たず》ねしたい。昨年八月まで、私が次官を勤めておった当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力圏内の資材でまかなわれることになっておりました。今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせていただき、聯合艦隊の長官として安心して任務の遂行をいたしたいと存ずる次第であります」
及川古志郎は山本のこの問いに、一と言も答えず、
「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい」
と、同じことを繰返した。
すると、先任軍事参議官の大角岑生大将が、先《ま》ず、
「私は賛成します」
と口火を切り、それで、ばたばたと一同賛成というかたちになってしまった。
山本は憤慨した。階級からいっても、兵学校卒業の年次から言っても、及川は山本より上であったが、会議のあとで彼は山本からとっちめられ、「事情やむを得ないものがあるので、勘弁してくれ」とあやまったけれども、山本が、「勘弁ですむか」と言い、かなり緊張した場面になったということである。これより二カ月半のちに、当時支那方面艦隊司令長官であった同期の嶋田繁太郎あての書簡の中でも、山本は、
「日独伊軍事同盟前後の事情、其後の物動計画の実情等を見ると、現政府のやり方はすべて前後不順なり、今更《いまさら》米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹《せつ》那《な》主義にてうかうかと行動するにも似たり」
と怒っている。
この手紙の中には、また、
「過日ある人の仲介にて近衛公が是非会ひ度《たし》との由《よし》なりしも、再三辞退せしが余りしつこき故《ゆゑ》、大臣の諒解《りゃうかい》を得て二時間ばかり面会せり」
という一節があるが、これも、海軍首脳会議で上京したこの時のことで、山本は荻窪荻《おぎくぼてき》外荘《がいそう》の自邸に近衛を訪問し、近衛から、日米戦が起った場合海軍の見通しについて、質問を受けた。
「それは、是非やれと言われれば、初め半年や一年は、ずいぶん暴れて御覧に入れます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟が出来たのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」
と彼は答えた。
三国同盟については、近衛から、海軍があまりあっさり賛成したので、不思議に思っていたが、あとで次官に話を聞くと、物動方面なかなか容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したものの、国防上は憂慮すべき状態だということで、実は少なからず失望した次第である、海軍は海軍の立場をよく考えて意見を樹《た》ててもらわねば困る、国内政治問題の如きは、首相の自分が、別に考慮して如何《いか》様《よう》にも善処すべき次第であった、というような話があった。
嶋田への手紙の中で、山本は、
「随分人を馬鹿にしたる如き口吻《こうふん》にて不平を言はれたり、是《これ》等《ら》の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、誠に陛下に対し奉《たてまつ》り申訳なき事なりとの感を深く致候《いたしさうらふ》、御参考迄《まで》」
と書いている。
山本は近衛も嫌《きら》いであったが、実は嶋田繁太郎も嫌いだった。
「あんな奴《やつ》を、巧言令色と言うんだ」
と言って、信用していなかった。
嶋田がのちに東条の内閣に入閣し、東条の副官といわれるような海軍大臣になることを見通していたわけでもないであろうが、同じクラスメートでも、嶋田に対する手紙は、堀に対する手紙などとまるでちがい、釘《くぎ》でもさしておくような調子が見える。
こうして山本は腹を立てたまま、柱島泊地の「長門」へ帰って来たが、聯合艦隊の司令長官として、それではもう、日米戦争が起っても自分は知らぬと言うわけにはいかなかった。
もっとも仮定の問題としては、これより開戦まで、山本が言うべきであったこと、或は取るべきであった道などに、また幾つかの ifs が考えられないではない。
その一つは、職制上その立場でないとしても、山本が三国同盟に、聯合艦隊司令長官の職を賭《と》して、あくまで反対することであった。山本がもし次官または大臣の地位に在ったら、彼が職よりも、命を賭して反対したであろうことは、ほぼ間違いない。不承々々彼が引っこんだのは、政治に関与する者は海軍大臣一人、その統制には必ず服するという、彼自身も曾《かつ》て一役買ってきびしく姿勢を正した、海軍のよき伝統を紊《みだ》すことを恐れたからだと思われる。
この点では、「海軍左派」は、少し折り目の正し過ぎるところがあった。それは、天皇の政治に対する折り目正しさとも似通うものがあって、むつかしい問題であるが、そのためにむごい目にあった人々の眼《め》から見れば、いい意味にばかりは受け取れないであろう。
米内は、内閣を組織する時予備《よび》役《えき》に編入され、半年で首相の地位を離れると、そのあとは、海軍省にあらわれても、海軍大将としての公の発言は一切しようとしなかったという。原田熊雄に対しても、そのころ、
「自分はもうほとんど世の中と隔絶したような生活をしている」
と洩《も》らしている。武井大助は、
「平常の場合ならそれでもいいが、時が時なのだから、米内さんにも、もっと言ってもらいたかった。こういうのは、結局、われわれ自由教育を受けた者と、少年時代から兵学校の特殊教育を受けた者とのちがいであろう」
と言っているが、少年時代からの特殊教育を考えるなら、陸軍の軍人は、もっと年少の時から幼年学校の特殊教育を受けている。それだけでは解釈がつかないことかも知れない。
山本がもし、海軍の伝統を無視して陸軍とは逆の下剋上《げこくじょう》、不服従をやったら、何が起ったであろうか?
「世の中と隔絶したような生活」をしていた米内光政は、三国同盟条約調印の報《しら》せを聞くと、自分が海軍大臣であったころのことを顧み、
「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイヤガラ瀑《ばく》布《ふ》の一、二町上《かみ》手《て》で、流れに逆らって船を漕《こ》いでいたようなもので、今から見ると無駄《むだ》な努力であった」
と言って嘆息した。
緒方がそれを聞いて、それにしても、米内、山本の海軍がつづいていたら、徹頭徹尾反対し抜いたかと訊ねると、米内は、
「無論反対しました」
と答えてから、暫《しばら》く考えて、
「でも、殺されたでしょうね」
と、如何《いか》にも感慨に堪えぬ風があったという。
三国軍事同盟反対の意向をいだいていたのは、もとより、海軍ばかりでなく、米内、山本ばかりではなかった。
興《おき》津《つ》の坐《ざ》漁荘《ぎょそう》で三国同盟成立の報を聞いた西園寺公望は、側近の女たちに向って、
「これで、もうお前たちさえも、畳の上で死ぬことは出来なくなるだろう」
と言ったまま、床の上に終日瞑目《めいもく》して語らなかったというし、それより前、枢密院《すうみついん》の本会議にこの条約が諮詢《しじゅん》された時、顧問官の石井菊次郎は、
「ドイツ国或《あるい》はその前身たるプロシャ国と同盟を結んだ国で、その同盟により利益を受けたもののないことは顕著な事実である。のみならず、これがため不慮の災難を蒙《こうむ》り、ついに社稷《しゃしょく》を失うに至った国すらある。ドイツ宰相ビスマルクはかつて、国際同盟には一人の騎馬武者と一匹の驢馬《ろば》とを要する、そうしてドイツは常に騎馬武者でなければならぬといった」
と、警告を発しているが、結局流れを阻止する力にはなり得ず、誰も驢馬の眼をさますことは出来なかったのである。
同盟条約調印から約二週間後、山本は原田熊雄と一緒に食事をしながら、
「実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する。そうして『長門』の艦上で討死《うちじに》するだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらいまる焼にされて、非常なみじめな目に会うだろう。結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八ツ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえない」
と、非常な決心の様子で語った。
ソヴィエトとの不可侵条約というのは、この頃から膳《ぜん》立《だ》てがすすめられていて、翌昭和十六年の四月にモスコーにおいて松岡外相の手で調印された日ソ中立条約のことで、大戦の末期ソ聯はこれを破って参戦したのであった。
もし山本が、司令長官を退《ひ》くといって、敢《あ》えて同盟に反対し通したら、結果したものは、或は二・二六事件以上の国内革命であったかも知れない。
国内革命だけでは亡国にならない、対米戦争よりはましだというのが、山本五十六の持論であったが、それでも彼は、殺されたかも知れない。
しかし、或はまた、一部の人の思う壺《つぼ》で、山本の辞表はあっさり受理され、彼は中将で予備役になり、嵐《あらし》は彼の頭上を通り抜けて行ったかも知れない。いずれにしてもこれは、初めに書いた通り仮定の問題である。
実際には山本は、聯合艦隊司令長官の職を辞さなかったのであり、辞さないとすれば、頓《とみ》に現実味を帯びて来た日米戦争の場合、如何に戦うかということを、真剣に考えなくてはならなかった。
もし始まれば、尋常一様の手段で勝ち味も、早期講和の見込みもある戦争ではなかった。
山本の頭の中に、開戦劈頭《へきとう》ハワイを襲うという構想がきざして来るにあたっては、それだけの背景があったことを承知しておかなくてはならない。
山本五十六が、いつごろからハワイを考えるようになったかは、よく分らない。ハワイ作戦の草案が、艦隊から中央に提出された時期、軍令部が渋りに渋った末、正式にそれを認めた時期については、或《あ》る程度はっきりしているが、謂《い》わば一つのヒントとして、山本の頭の中にいつそれが生れたかとなると、あまりはっきりしない。
福留繁は、昭和十五年の四、五月ごろだろうと言っているが、そうとすれば、三国同盟の成立前で、未《ま》だ米内内閣の時である。
実はこれよりずっと古く、昭和二、三年ごろ、草鹿龍之介が真珠湾を飛行機で叩《たた》くという案を一度文書にしたことがあった。
草鹿は当時海大を出たばかりの少佐で、霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官を勤めていた。担当は航空戦術であったが、何を講義していいか自分でもよく分らず、色々勝手な理屈を並べ立てて、学生から、
「草鹿教官のは航空戦術ではなくて航空哲学ですな」
とひやかされたりしていた。
そのうち彼よりずっと先輩の永野修身、寺島健らお偉方《えらがた》が十人ばかり、一週間の予定で霞ヶ浦へ航空の実地講習を受けに来ることになり、指導官を命ぜられた草鹿がこの人々に何を話そうかと考えて執筆したのがその文書である。
第一次世界大戦のあと、飛行機がそろそろいくさの主兵になる時が来つつあるように思われる。いざの時には日本は飛行機を南洋の委任統治地とうまく噛《か》み合せて使わなくてはならない。西岸サン・ディエゴにいるアメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して日本海海戦のような艦隊決戦をいどむというのが帝国海軍の対米戦略の基本であるが、相手がもし出て来なかった場合はどうするか? その時には向うのもっとも痛いところ、ハワイを叩いて出て来ざるを得ないようにする必要がある。そしてハワイ真珠湾軍港を叩けるものは飛行機よりほかに無いというのがその骨子であった。
これは、草鹿が露骨に「米国」と書いているところを誰《だれ》かが「○国」と直して、三十部だけ印刷に附され部内に配布された。
山本は米国在勤を終って帰朝後、多分草鹿少佐のこの文書を見たはずである。開戦劈頭に真珠湾を襲うというプランではなかったが、見たとすれば山本の頭のすみに一つの面白《おもしろ》い着想として残ったであろうし、それが十何年後にあらためて芽を吹いたということは充分考えられる。
だが山本の真珠湾奇襲計画は、もう少し具体的なかたちにととのってから初めてそれを示された聯合艦隊の幕僚たちが、みな唖《あ》然《ぜん》とし、ほとんど全員で反対したほどの異常な作戦構想であった。
この型破りのプランを語るにあたっては、その前に日本海軍の従来からの尋常な対アメリカ作戦計画について書いておく必要があるであろう。
軍令部では、陸軍の参謀本部とも打合せの上、毎年四月一日をもって、翌年三月三十一日までの「年度作戦計画」なるものを書き上げ、軍機書類として、天皇の裁可を受けて大臣や各艦隊長官に示す慣《なら》わしになっていた。
それは要するに、これから一年の間にいくさが起ったら、海軍はどんな風に戦いを進めるかという、戦争の青写真である。
作成にあたるのは、軍令部一部一課の十人ばかりの参謀で、責任の重い仕事ではあるが、例年、大体前の年度のを踏襲して、それに少しずつ新しい着想を加えて行くというようになっていた。
仮想敵国は、アメリカ合衆国、ソ聯邦、中華民国の三つである。
ただし、対支作戦計画というものは、毎年一頁《ページ》分ぐらいしか書いてなかった。海軍の分担すべき分野が少ないのと、軍閥乱立して近代国家としてまとまりのつかない中国を戦略的に重視しておらず、戦争となれば鎧袖《がいしゅう》一触のつもりがあったためとであろう。日華事変以後、軍令部はその認識を改めねばならなかったが――。
ソ聯が相手の場合も、日本としては大戦争であるが、比重は陸軍にあって、海軍の負担はそれほど重くない。
問題はやはり対米作戦で、そのオーソドックスな作戦計画の極《ご》く概要だけを記しておけば、先ず海軍の全力を挙げてフィリッピンを攻略する、合衆国艦隊は必ずや反撃救援に出て来るから、次にマーシャル、マリアナ、カロリン、パラオ等、南洋委任統治領の諸群島を基地に、潜水艦と飛行機で来襲アメリカ艦隊の勢力漸減《ぜんげん》をはかり、最後に日本近海で、こちらと互角か互角以下に落ちた敵に決戦をいどんでこれを撃滅するというもので、前に書いた通り、明治三十八年遠来のバルチック艦隊を対馬《つしま》沖に迎えて全滅させた日本海の海戦と、大体において同じ思想であった。
年々計画には多少の変化が見られたが、其《そ》処《こ》にハワイという文字が記されていたことは、一度もなかった。日本海軍の方から、ハワイの線に出撃するというのは、考え得べからざることであった。
長期戦、国家総力戦になった場合のことも、具体的には考えられていなかった。総力戦研究所というものはあったが、これは教育機関である。
また、彼我《ひが》の艦隊勢力を互角に持って行くための、不沈の航空母艦、潜水母艦として、大きな利用価値を認めている内南洋の島々も実際には、軍事基地としての整備は極めて不充分であった。
昭和十一、二年の交、東京在勤のアメリカの海軍武官が、南洋委任統治領の島へ旅行を願い出たのを、日本海軍が言を左右にしてどうしても許可しなかったことがある。理由は内南洋に構築中の軍事施設を見られるのがいやだったからではなく、しっかりした軍事施設が何も出来ていないのを見られるのがいやで、何かありそうに思わせておきたいためであったという話である。
そういう風で、軍令部の対米作戦計画というのは、ずいぶん苦しいものであった。作文としての辻褄《つじつま》は合っているが、実際に戦争が起った場合、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そうすらすら行くとは誰にも信じられないようなものであった。海軍大学校卒業式の際、天皇の行幸を仰いでの御《ご》前兵《ぜんへい》棋《き》などでは、アメリカの艦船がボロボロ沈むようになっており、あれではまるで紙芝居ではないか、陛下を馬鹿《ばか》にしていると、憤慨する者も多かったが、「御前兵棋とはこういうものだから」と達観している人もまた少なくなかったという。
山本は、軍令部海軍大学校あたりの対米作戦に関するこうした型通りの兵術思想には、強い疑問と反対意見とをいだいていた。
「五《ご》峯録《ほうろく》」という、未だ世に出ていない文書がある。
これは戦争が終って七年後に、堀悌吉が山本の書簡、覚書、古賀峯一の堀あての手紙などを取りまとめ、将来資料として世間に示さねばならぬ時が来るかも知れないと考え、甲冊乙冊と二部だけ作成して残したものであった。
山本五十六の「五」と古賀峯一の「峯」をとっての「五峯録」で、堀は莫逆《ばくぎゃく》の友であった山本の、ほんとうのことをいつか人に知ってもらいたいと思い、これを作ったのであるが、山本も古賀も相当猛烈なことを言っている部分があって、不用意に世に出せば人を傷つけるおそれがあったのと、昭和二十七年ごろの状況ではどんな風に真意をまげた利用の仕方をされるか分らないと思ったのと両方であろう、保管人を二人定めてそのまま誰にも見せずに置いておいた。
この「五峯録」に堀の書いた解説風の「添記」がついている。
それによると海大における対米作戦の図上演習も軍令部の作戦計画も、前記の通りの、「一、日本のフィリッピン攻略、二、アメリカ大艦隊比島奪回へ出撃、三、マリアナ列島線における漸減作戦、四、両国艦隊の大海戦、米艦隊撃滅」という決りきった経過をたどる一種の観念遊戯、敵の行動を一つの約束事と考える虫のいい形式主義に堕してしまっていたという。
「此の種の形式主義は一般に波及して恰《あたか》も兵術の正統派であるが如《ごと》き観を呈するやうになり、之《これ》によりて兵術思想の統一を行ふべしと主張し苟《いやしく》も少しでも之に外れて新規軸を求むる者あらば忽《たちま》ち兵術に疎《うと》き異端者として取り扱はれるが如き、独善横行の社会と(海軍は)なり了《をは》つた」
「かかる環境の下に養はれる軍事思想は勢ひ政治的色彩を帯びるに至り」「動々《やや》もすれば落ち着いて考へる努力を惜み、しかも人前で大きな強いことを言ふやうな風潮が一般を支配し始めて居たのである」
と堀は書いている。
その例証として彼が見聞した三つの事例が挙げてあるが、うち二つを簡単に引用すれば、ある年海軍大学校かどこかで対米戦図上演習が行われ、あとの研究会の席上一人の士官から、
「敵がフィリッピン救援に来ない場合も考えられるし、直《ただ》ちに本土に迫って来るという場合も考えられるのだから、こんな風に対比島作戦の研究にばかり多くの力を尽すことは一考を要するのではないか。ちがった場合の研究も必要なのではないか」
そういう趣旨の発言があった。すると演習指導部員として来合せていた軍令部のある参謀が、
「比島攻略は帝国海軍既定の作戦方針であって、陸軍方面とも合同して研究中のものである。それを否認するような論議を聞くのは甚《はなは》だ遺憾である。抑《そもそ》も兵術思想を統一するのが演習の一目的であるということを無視してはならぬ」
ときめつけたという。
またある年の図上演習では、与えられた燃料の現在量と接敵予定時刻とをにらみ合せながら進んでいた某部隊が、「行動敏速を欠く」という批判を受けた。燃料のことなぞあまり考えていては充分の――つまり都合のいい演習が出来ないというのであった。図演にあたっては青軍赤軍各隊の航跡図を見て成果を判定するのであるが、計算上この艦隊は燃料を費《つか》い果して立往生という事態も時に発生する。そうすると「洋上補給したるものと認む」との特別想定が与えられてまた動き出す。いよいよ具合が悪くなると、最後まで突きつめることはなされずに、「演習中止」で万事が解決されてしまうのが通例であった。
戦争中山本がトラック島の「武蔵」から堀あてに出した手紙の中に、
「敵には困らぬが味方には困る」
という一行があるが、実際こういう「味方」に山本は閉口していたであろう。
堀は、
「元来対米戦争といふ様な事は軽々に口にすべきものではない。どうかすると国運を賭《と》してもやるべきだと大言壮語するものもあるが、抑も国運を賭すると云《い》ふ様な言葉は矢《や》鱈《たら》に使ふべきものではない。賭すると云ふのは興亡何《いづ》れかを賭すると云ふことであつて、其の国の滅亡の場合をも賭けてあるのである」「言葉の真の意味を思へば、左様のことは考へるべきことでもなく、又口にすべきことでもない。東洋の新秩序とか共栄圏の建設とか云つた、雲をつかむ様な観念から出発して、国運を賭せられてはたまつたものではない」
と「添記」の中に書いている。
しかしそうかといって、軍令部には形式主義の独善主義者ばかりが集まっていたわけではなく、まして「国運を賭して」アメリカと戦争しようと思っていた人ばかりいたわけではない。
それに、対米といい、対ソ、対支といい、これはすべて対一国作戦の計画で、アメリカならアメリカ一国だけとの、戦争の構想である。
日華事変勃発《ぼっぱつ》後は、やむを得ずそれが対二国作戦計画に変った。対米・支、または対ソ・支で、対ソ対中国二国作戦の場合、海軍は、海軍航空部隊の全力を満洲へ移すというのが、軍令部一部一課の腹案であった。
ところが、内外の情勢から、昭和十三年には、対英作戦も「年度作戦計画」の中に入れなくてはならなくなって来た。シンゴラ、コタバルの上陸作戦を支援して、マレー半島を攻略するとか、英国東洋艦隊を如何に撃滅するかとか、それでもむろん、構想は対英一国、せいぜい対英・支二国作戦の構想であった。
昭和十四年度になると、それが、日米戦争又は日英戦争が起ったら、自然対米英支三国作戦になるという可能性が強くなって来る。
対米一国でも、辻褄《つじつま》を合わせるのに苦しんでいるのに、日本としては到底そんな作戦をやるべきものではない。ということは、この情勢下で、アメリカと戦端を開くことは出来ない。米内が大臣の時はっきり言っている通り、日本の海軍はそういう風に建造されていないのであり、勝てる見込みはないのであった。
しかし、戦争はこちらからばかり始めるものとはかぎらなかった。攻撃を受けて立たねばならなくなった時、「直《タダ》チニ降参スル」とは言えないから、机上プランとしてだけでも、対三国作戦の手を考えておかなくてはならない。ところが、そこまで来ると、オランダが敵に廻《まわ》ることが、充分考えられる。ソ聯も黙してはいないかも知れない。
そうしたら一体どうするのか? 兵力の分散だけでも一大問題で、航空隊を満洲へ移すどころの沙汰《さた》ではなくなって来る。
要するに、対五国同時作戦など、言うべくして行い得ざる戦いであり、突きつめて見て行けば見て行くほど、結局めぐりめぐって、アメリカと戦争することは出来ないという、同じ結論が出て来るのであった。
軍政系統の人に較《くら》べて、軍令部系統の海軍軍人は、とかく好戦的であったように言われており、それがあたっている面は勿論《もちろん》あるが、一部一課あたりで実際に作戦計画を樹《た》てる責任を取ってみれば、とてもある限度を越えて勇ましくなれるわけのものではなかった。
及川古志郎も豊田貞次郎も、三国同盟には賛成しても、おそらく、アメリカと戦争になってよろしいという決断など持っていなかった、ただ、勇気に乏しくて、国内の政治的摩擦のみを恐れ、見《み》透《とお》しが甘かっただけかも知れない。
聯合艦隊司令部には、参謀の懸章を吊《つ》らずに、参謀と同等の職務を執る者が二人いた。
それは気象長と暗号長で、昭和十四年の暮から十六年の十月まで、山本司令部の暗号長を勤めたのは、高橋義雄である。高橋は当時大《たい》尉《い》で、聯合艦隊司令部の食事が上等すぎて月々の食費が大尉の月給袋に少しこたえたと、前に私が書いたのはこの人の話である。
司令長官公室で山本といっしょに飯を食う者の中で、一番若い高橋は、「長門」の艦側《かんがわ》の士官からは、話しかけるのに最も気安い存在であったらしく、
「おい、高橋大尉。長官今、何処《どこ》にいる?」
と、よく質問を受けた。
それというのが訓練航海中、
「配置ニツケ」
は、いつかかるか分らない。かかったら忽《たちま》ち、艦内は蜘蛛《くも》の子を散らしたようになって、誰も彼もが物凄《ものすご》い勢いで自身の配置へ飛び出さなくてはならない。
十九時なら十九時から夜戦訓練を行うということは、司令部は承知しているが、同じ「長門」でも、艦の乗員にはあらかじめ知らせることはしないのであった。
司令長官が私室でくつろいで将棋でもさしているようなら大丈夫だが、ぶらぶら艦橋の方角へ歩いていたりすると危ない。それで、若い高橋をつかまえては、さぐりを入れるのである。
号令がかかると、各部防水隔壁が閉じられる、夜間だと灯火管制がしかれる、実戦そのままだから、空気が非常に殺気立って来る。現存の「長門」乗組員で、当時高角砲分隊所属の一等水兵であった浅沼信一郎という人は、背の低い男が一人、暗がりの中を、ポケット・ハンドをしてのっしのっし歩いて来るのにいきなり突きあたり、
「気ィつけろ、この野郎」
と怒鳴って、振り向いて、それが司令長官であることを知って、しまったと思ったが、山本は全く我関せず、何も言わず、怒鳴った兵の方を見返ろうともせず、何か深く考えている様子で、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて同じようにのっしのっしと艦橋の方へ歩み去って行くのが、非常に印象的であったと言っている。
「長門」の戦闘艦橋に上るには、小さなエレベーターがあったが、山本は、このエレベーターを使うことはほとんどなかった。長官がリフトを使えば、ほかの者がリフト以上の速力で駈《か》け登らねばならない。山本が戦闘艦橋で配置についた時には、
「各部配置ヨシ」
が言えるようになっていなくてはならない。中でも、砲術長はまっ先に駈け上っていなくてはならない。この人々にリフトを使用させようということのようであった。
こうした一連の演習が終って、泊地に入ると、聯合艦隊では必ず研究会が開かれた。
旗艦の後甲板に総天幕を張り、各艦各戦隊から、司令官、幕僚、艦長以下、関係者が大勢集まって来る。「長門」の両舷の繋船桁《けいせんこう》には、内火艇がいっぱい舫《もや》って、これが洋上の作戦会議の風景であった。
暗号長の高橋義雄は兵学校五十九期で、約百三十人のクラスであるが、クラスのうち七十人あまりが艦隊にいる。
駆逐艦乗組の水虫くさい同期生たちは、自分の船にはラムネ製造機なぞ積んでないので、研究会もさることながら、演習が終れば「長門」へ行って、高橋に冷やしラムネをたかるのを楽しみにしていた。一本二銭か三銭の安いものではあるが、毎たび、何十人も押しかけて来て勝手に飲まれると、少々また月給袋に響いて来る。
それでも仕方がないから、従兵に、
「俺《おれ》のラムネ代、いくらだ?」
と、高橋が払おうとしたら、
「いいえ、あれは結構です。司令部からいただいております」
と従兵が答えた。
山本が、食卓の向うでニヤニヤしていた。高橋が始終ラムネをたかられるのを見ていて、山本が払ってくれたらしかったという。
研究会では、階級の上下を問わず、口角泡《あわ》を飛ばして激論の戦わされるのが常で、たとえば砲術科の方では、あんな飛行機全部撃ちおとしたというし、飛行科の方では、あんな対空射撃で一機も墜《お》ちているものかと食ってかかるという風であったが、山本は中央に坐《すわ》って黙って聞いているだけで、ほとんど発言しなかった。
ただ、飛行機を撃墜したかどうかは水掛け論としても、雷撃機による主力艦攻撃訓練では、炸薬《さくやく》こそ詰めてないが、本物の魚雷を投下する。深度が調整してあるので、目標の艦底を走り抜けはするが、魚雷が命中したかどうかは、はっきり答が出る。
前の百二十三作業でもそうであるが、昭和十五年のある時の戦技演習で、如何に回避しても戦艦が飛行機にやられるのを見ていて、山本は「フーム」とうなり、研究会のあとで、参謀長の福留に、ぽつんと、
「あれで、真珠湾をやれないかな?」
と、洩《も》らしたことがあった。
また別の研究会のあとで、やはり福留参謀長や、当時第一航空戦隊司令官であった小沢治三郎少将に、
「今までの、半分潜水艦にたよった軍令部の漸減邀撃《ぜんげんようげき》作戦というのは、どうも少し危なくないか。迎えて討つという戦法、成功するとは思えないぞ」
と言ったこともあった。
戦争になったら、長駆して最初にハワイのアメリカ太平洋艦隊を叩《たた》くという構想は、こうして、昭和十五年のある時期から、少しずつ山本の頭の中で熟して行ったもののようである。
この昭和十五年という年は、西暦で一九四〇年、神《じん》武《む》天皇即位紀元二千六百年にあたっていた。
色んな記念行事が行われた。
その中で、十月十一日、横浜沖に行われた特別観艦式は、聯合艦隊が国民の前に公式にその姿を見せた最後であった。
山本は「紀元二千六百年特別観艦式指揮官」を仰せつけられ、この日の朝、お召艦「比《ひ》叡《えい》」に天皇を迎えた。巡洋艦「高雄」が先導艦、同じく「加古」「古鷹《ふるたか》」が供奉《ぐぶ》艦《かん》となって、陛下は山本の奏上を聞きながら、先ず登舷礼式でお召艦を迎える「長門」を先頭に、五列に並んで東京湾を圧する聯合艦隊の艨艟《もうどう》を閲せられた。
皇太子や各内親王たちも参列した。観艦式の模様は、横浜の野毛山公園や、商社の建物の屋上、外国公館や外国商館の窓からも、よく眺《なが》めることが出来た。
この観艦式に参列した海軍艦艇の総噸《トン》数は五十九万六千六十噸、飛行機五百二十七機、そしてそのほとんどすべてがこれより一年二カ月後に始まった戦争のために喪《うしな》われ、世界第三位の聯合艦隊は滅んでしまう。ちなみに昭和四十三年十一月三日、東京湾での海上自衛隊観艦式に加わった艦艇の噸数は約五万四千噸、飛行機四十七機で、右の数字の十分の一を少し下廻っている。
「比叡」が観艦式場の艦列の中を波を立てて進んでいる時、小沢治三郎少将の指揮する海軍航空隊の、攻撃機、爆撃機、戦闘機、水上偵察《ていさつ》機《き》、飛行艇の各編隊が次々に艦隊の上に飛来し、御召艦の左舷上空で機首を下げて敬礼すると、西へ針路を取り、東京の上を通過して姿を消した。
よく晴れた秋の日で、朝日新聞は、観艦式拝観の印象を語る吉川英《よしかわえい》治《じ》の言葉を引いて、「武装した芸術」という記事を書いた。四年十一カ月後、東京湾のほとんど同じ場所で、米戦艦「ミズーリ」号上に、日本の無条件降伏の調印式が行われることになるとは、拝観者の誰《だれ》も想像することは出来なかった。
その晩、山本は珍しく青山の自宅に帰ったらしい。
家族は彼の突然の帰宅を予期せず、門が締っていて、あかなかった。昼、特別観艦式の指揮官であった山本は、夜、自分の家へ、こそ泥《どろ》のように塀《へい》を乗り越えて入りこんだという伝説がある。
それから一カ月後の十一月十日及び十一日、宮城二重橋前の広場で、紀元二千六百年記念の式典と奉祝会が催され、両陛下が出られ、文武百官、各界の代表が参列し、東京音楽学校の男女生徒四百人が、陸海軍軍楽隊の伴奏で「紀元二千六百年頌歌《しょうか》」を斉唱《せいしょう》するという、当時の盛儀であったが、山本は招きを受けたのにこれに出席しなかった。
理由を聞かれて彼は、
「日本は今支那と戦争中で、自分が蒋介石なら、この日、持っている飛行機の全力を挙げて東京の二重橋前を空襲し、集まっている日本中の重要人物を皆殺しにしてしまうだろう。それを考えたからお招きを拝辞して、二日間洋上で空を睨《にら》んでいたんだ」
と答えた。
聯合艦隊の司令長官が、二千六百年祝賀の盛典に出席しないというのは、かなり角《かど》の立つ話で、こう説明すれば辻褄《つじつま》は合うが、山本がもし生きていたら、ちょっと、「あれは、額面通り受け取ってよいのですか?」と訊《たず》ねてみたいところである。
嶋田繁太郎はこの時副官の藤田元成に、
「山本は可哀《かわい》そうだね」
と言ったそうで、嶋田の感覚ではそれにちがいあるまいが、ほんとうに山本は「可哀そう」だったのかどうか。
山本が、日本肇国《ちょうこく》の神話や、紀元二千六百年を祝うこと自体に、特に否定的な見解をいだいていたとは考えられないけれども、神がかりは彼はきらいであった。
某元海軍中将は、直接山本のことと関係はないが、次のように言っている。
「軍備拡張でも、それが自由に行われたら、日本とアメリカとどちらが得をするか、数字の上ですぐ答の出る問題ですが、惟神《かんながら》の道でこり固まっている人々だけは別で、これは、どんな数字を見せても一切受けつけないのですから、どうしようもありませんでした」
この中将は、「自分は敗戦後責任を感じて、一切の公《おおやけ》の活動を断ち、如何《いか》なる団体にも加わらず、謹慎の生活を送っているので、名を出すことはやめてほしい」という希望なので、名前を書けないが、また次のようにつづける。
「建艦競争でも、対米英作戦の問題でも、総人口がいくらで男が何千万人、そのうち工業に振り向けられる人間が何パーセント、水兵として徴募出来る者は最大限いくら、軍艦一隻《せき》に必要な乗員は何人と、数字から割り出せば、無理に軍艦を造ってみても、動かす燃料が無く、乗せる水兵がいない、船は軍港に繋《つな》いでおかなくてはならないという結果が出て来るので、そんな馬鹿な軍備はあるべからずと、私どもは思いますが、当時そういうことを言えばすぐ、『西洋かぶれ』といって大きな声で叱《しか》られました。どんな不合理なことも、惟神のあれでは話がちがって来るわけで、国民の歴史教育というのも、難かしいものだと思ったものです。そして、同じ海軍部内でも、神がかりに同調出来ない良識派の方は、つい大声を出すのがきらいで、概して沈黙を守っているという風がありました」
山本は、「唯《タダ》一路金色《コンジキ》ノ鵄《シ》鳥《テウ》ノ導ク昭和維新ノ戦線目指シテ」というてい《・・》の人種には、さんざんな思いを味わわされたあとであり、歴史学とか神話とかの問題でなくとも、とにかく上下こぞって、「紀元は二千六百年」で浮かれていること自体が気に入らなかったのかも知れない。
米内内閣倒閣のスローガンの一つには、
「海軍出身の総理大臣の下で、二千六百年の祝典を挙げさせてはならぬ」
というのもあった。
これも、恐らく山本の耳に入っていたであろう。
また、この年の紀元節に、麾下《きか》の全艦隊の将兵四万人を、四日間に分けて、橿原《かしはら》神宮及び畝傍《うねび》、桃山の陵に参拝させるため、聯合艦隊を大阪湾へ入れる時、事前に大阪へ調査打合せに行った渡辺戦務参謀から、
「大阪で海軍の評判が意外に悪く、長官が次官時代には次官弾劾《だんがい》の演説会なども行われたことがあるようです」
という報告を聞くと、山本は機《き》嫌《げん》が悪くなり、
「そんなら、大阪へは入らん」
と言い出した。西宮《にしのみや》沖へ入れるという。西宮は兵庫《ひょうご》県であって、大阪ではない。
大阪の府と市とは、怒ったり弱ったりで、すでに四万人分の土産物を用意しているからなどと苦情を言って来たが、山本は、土産がくれたければ西宮へ持って来たらいいだろうと言って、頑《がん》として諾《き》かなかった。
山本五十六弾劾演説会は、必ずしも大阪府当局や市当局の責任ではあるまいと思われるが、こういうところは、如何にも山本の傲岸《ごうがん》な一面であった。
そのかわり西宮市や兵庫県側は大喜びで、「長門」の甲板上には、灘《なだ》や西宮の銘酒がたくさん持ちこまれ、四斗《しと》樽《だる》の山が出来たという。
宮城前の紀元二千六百年式典にも、山本はやはり、何かでつむじを曲げて欠席したのではないかという気がするのである。
紀元二千六百年祝賀式から数日後、昭和十五年十一月十五日付を以《もっ》て、山本五十六は大将に進級した。
この日、彼のクラスの吉田善吾、嶋田繁太郎の二人も大将に進み、三人の新しい海軍大将が生れた。
一等大将とか二等大将とかいっても、とにかく海軍軍人として、これは最高の栄達を遂げたことである。
本人にとってはむろん喜びであろうが、それより山本の場合、この日のあることを、三十年間ひそかに女らしい思いで待ち望んでいた人があった。
山本の異性関係について、私は今まで梅龍の河合千代子のことしか触れなかったが、実は、山本を識《し》って最も長く、山本に対する思慕の情において、他の誰《だれ》よりも純粋だったのではないかと思われるもう一人の女性が、九州にいた。
この人は、スーツケースに一杯持っていた山本の手紙も空襲で全部焼いてしまい、戦後は人の噂《うわさ》にのぼることを極力避け、九州のある町の陋屋《ろうおく》に病んで、毎年、山本の死んだ日に死にたいと念じながら暮していたが、昭和四十三年秋、山本の命日とはかけはなれた十一月十一日の朝、昔の海軍関係者の誰にも知られることなくひっそりと息を引きとった。
本人の希望通り、生前世間の表面に出たことは一度も無く、元海軍報道部長の松島慶三が、
「太平洋の巨鷲《きょしゅう》 山本五十六」と題する読物の中で、僅《わず》かにそれらしい女を登場させたことがあるが、松島が遠慮したのか知らなかったのか、その記事の九割方は事実と相違している。
したがって、私がこれを書くことも好ましいことではないかも知れないが、彼女はかつて病床で私に山本の話をしてくれる時、淋《さび》しそうに笑って、
「ある維新の志士が言ったそうですが、人間のこういうことも、六十を過ぎたらもういいんですって」
と言った。
それを私の勝手に解釈させてもらって敢《あ》えて名を出せば、その女性は長崎県諫早《いさはや》の生れで、通称鶴島《つるしま》正子、本名をツルと言い、山本の周囲のほんの一と握りの人々にだけ、昔から「山本五十六の初恋人」として知られていた人である。
正子と山本とが初めて出逢《であ》ったのは、正子が佐世保の料亭《りょうてい》「宝家」の抱えで、姉の梅千代といっしょに、小太郎という名でおしゃく《・・・・》に出てから間もなく、山本が、大正元年十二月一日付で佐世保鎮守府予備艦隊参謀に補せられてからすぐのことであったらしい。
山本は大尉の四年目で二十八歳、未《ま》だ独身、鶴島正子は山本と十六ちがいの十二歳であった。
山本の方は、初恋にしては少し晩《おそ》すぎるような気もするが、正子の方は文字通りの雛《すう》妓《ぎ》で、未だまったくの子供であった。
それでも彼女は、美人で、おませで、茶目で、海軍士官たちから「スモール・ジョン」といって可愛《かわい》がられていた。海軍には、たとえば新橋のことを「ニュー・ブリッジ」というような英語の隠語がたくさんあって、これは明治時代、艦内号令詞その他の海軍用語が英国海軍に習った通りの英語で行われていた名残《なごり》だが、「スモール・ジョン」もそのたぐいで、つまり「小太郎」の洒落《しゃれ》である。
宴席で顔を合わせたのが最初で、小太郎は、指の二本足りない山本の左手に白手袋をはめて、
「ア、姉さん、入らんとよ」
とふざけて、宝家の娘のおはるに叱られたり、互いに追い追い打ちとけ、それから山本は、よく彼女をその朋輩《ほうばい》といっしょにいろは《・・・》という佐世保の大きな料亭に呼んで、小太郎たちには踊らせ、自分は寝ころんでそれを眺めているという風な遊びをするようになった。
正子はまた、山本におんぶされて、よく菓子や果物を買いに連れて行ってもらったりした。山本が女をおぶう癖は、どうもこのあたりから始まっているらしい。
この利発な娘は、山本が好きで、山本にどこか普通の海軍士官とちがうところのあるのを感じて、きっと将来大将になる人だと信じていたが、この当時は、正子の齢《とし》から言っても、二人の間に特別な関係は無かった。
宝家の主《あるじ》は姓を土肥といい、土肥に二人の娘があって、名をとみとはるといった。とみもはるも、小太郎よりほんの少し齢上である。土肥は、小太郎の正子が気に入っていて、のちに彼女を養女分にした。
宝家の土肥の一家はみんな山本に好意を寄せていて、後年まで親交があり、土肥が亡《な》くなって東京の池上本門《いけがみほんもん》寺《じ》に葬《ほうむ》られる時、山本が墓石の字を書いたと伝えられている。しかしこの墓は無縁になってしまったらしく、今では本門寺境内の墓所に見あたらない。
土肥の二人娘のうち、妹のおはるは、大正五年、芸事の修業のために東京へ出て来て、魚河岸の近くに下宿した。
それは、花柳《はなやぎ》流の踊りをみっちり習って、その道の師匠になろうというつもりであったが、おはるには心臓の病気があって、身動きのはげしい踊りの修業は無理だと言われ、それで長唄《ながうた》の方に転向し、杵《きね》屋《や》佐《さ》吉《きち》の門に入ってやがて杵屋和千代という名取りになる。のちに新橋の新吉小川という家からよし奴《やっこ》の名で芸妓に出たりして、東京に住みつくことになるが、大正五年上京の折、おはるは妹分の正子を連れて出て来た。
そのころ山本は海軍大学校の甲種学生で、築《つき》地《じ》本願寺地中《じちゅう》の敬覚寺《きょうかくじ》という寺の二階に、古賀峯一といっしょに下宿して、築地にあった海大に通っていた。
敬覚寺の住職の息子は、そのころ金沢の四高の生徒で、休暇で帰って来ると、山本によく勉強を見てもらっていたそうである。その後、住職が亡くなり、跡をついだ息子の住職も亡くなり、四高生だった人の未亡人が女住職になって、この寺は今練馬の谷原町《やわらちょう》にある。
当時、山本は少佐になっていたが、未だ独身であった。
佐世保の宝家のおはるが小太郎を連れて東京へ出て来、日本橋の魚河岸に住んでいると聞くと、山本はすぐ訪ねて行き、それから暇があると、帝劇とか上野の展覧会とか、よく二人を連れ出して遊んでくれるようになった。
ある時、吉原見物をさせてやろうと山本がいうので、正子とおはるがついて行くと、山本は廓《くるわ》の中の一軒の大きな店にずかずかと入って行き、いきなり、
「御主人に面会したい」
と言い出した。
二人が何をするのかと見ていると、あらわれた妓楼の主に、山本は真面目《まじめ》くさった顔で、
「田舎から娘を二人連れて出て来たのだが、お宅で抱えてもらえないだろうか」
と相談を持ちかけた。
おはると正子がきゃっと言って逃げ出すと、彼も、
「おいおい、逃げちゃ困る、逃げちゃ困るよ」
と呼ばわりながら、逃げ出して来たという。
鶴島正子も杵屋和千代のおはるも、山本五十六と言われて、印象深く、先ず思い出すのは、彼の賭《か》け好きとこういういたずらとであった。
宝家の主人は佐世保の検番を受けもって働いていたが、暴力団に殺す殺さぬと脅《おど》される事件に捲《ま》きこまれて、商売にいや気がさし、やがて宝家を廃業して東京へ出、おはるともども一家で東京に暮すようになるが、そのころ、みんなで山本と四谷の三《み》河《かわ》屋《や》という肉屋へ牛鍋《ぎゅうなべ》を食いに行っての帰り、濠端《ほりばた》を歩いていると、向うから来る夫婦者に、山本が、
「やあ、こんにちは」
と声をかけ、知っている人かと思って聞いてみると、それが全くの見識らぬ人であったりした。
おはるは、山本が大佐時代に松野重雄という男と結婚し、銀座の松坂屋の裏に「長唄教授、杵屋和千代」の看板を出したが、山本が初めて此処《ここ》を訪ねて来た時、彼女は留守であった。
重雄が出て、
「どなた様で?」
と言うと、山本はいきなり上りこんで来、パッと逆立ちをし、逆立ちをしたまま部屋の中を一とまわりして、屁《へ》を一つひってから、
「これでも海軍大佐だ」
と言って、初対面の和千代の亭主《ていしゅ》にあいた口がふさがらないような思いをさせた。
こういう話には、少しケレン味というか、いや味なところが感じられないでもない。
「だが、どういうものか、わざとらしいところはちっとも無かった。ふざけるならふざける、質朴《しつぼく》なら質朴で、人間多少それをてらうところが出るものだが、山本さんには、不思議にそれが無かった」
と、松野重雄は言っている。人の憶《おも》い出《で》話だけでは何とも言い難《がた》い。好意的に解釈すれば、山本には敬覚寺の息子と同じ、昔の高等学校生徒のようなところが、のちのちまであったのかも知れない。
正子がはるに連れられて東京へ出て来たのも、やはり芸事の修業のためで、おはるは、このままいっしょに東京で暮そうといってすすめたが、正子は、
「姉さん、うちはやっパ、田舎の方がよか」
と言って、在京一年足らずで、一人また佐世保へ帰ってしまった。それから間もなく、彼女は、同じ小太郎の名で一本になった。
正子はもう、子供っぽい「スモール・ジョン」ではなくなった。大正初年「文芸倶楽部《クラブ》」か何かの表紙に、彼女の写真が出たことがある。
今の週刊誌が歌手や女優の写真をたくさん載せるように、当時の娯楽読物雑誌であった「文芸倶楽部」などは、毎号表紙やグラビヤ頁《ページ》に各地の花柳界《かりゅうかい》の女の写真をたくさん載せていた。小太郎の写真には、「九州一の名花」というような説明が入っていた。
ある時――というのは、大正七年に山本が結婚するより少し前ではないかと思われるが、正子が佐世保の夜店で買物をしていると、傍《そば》にバスが来てとまり、下りて来た人をふと見ると、山本五十六であった。
「あら」
と、正子は声をかけた。
それから彼女と山本との間が急に近くなった。
山本は雑誌の写真を見ていて、小太郎と花を引きながら、
「ようッ、九州一」
とよくひやかしたという。
アメリカへ発《た》つ前にも、二人は武《たけ》雄《お》温泉で別れを惜しんだりしている。前にあげた山本の、「大正九年二月米国にて」と前書きのある、
「吹雪する外《と》の面《も》さびしくながめつつ
故郷《ふるさと》遠く君をしぞ思ふ」
は、おそらく鶴島正子のことであろう。
その後、山本と正子とは、三年、五年、時には十年近く逢わぬこともあったが、文通だけは常につづけていた。
正子は芸妓でありながら、ずっと一人で通し、何も出来ぬ自分が、ただ山本を慕うために生れて来たのではないかと思うくらい、何《な》故《ぜ》あの時、夜店の角で声を掛けたかと悔むくらい、彼が大尉の時から大将になるまで、三十年にわたって彼を恋いつづけた。
山本の方も、旅先、寄港地から、必ず正子に手紙と品物とを届けたし、正子からの頼みごとは、何でも諾《き》いてやっていたらしい。
彼が次官で、三国同盟問題でその身辺が最も危険であったころにも、彼は護衛の憲兵に尾行されながら、百貨店へ正子の物を買いに行ったりしている。ただ、少なくとも晩年は、山本はこの人より千代子の方に、はるかに心を傾けていた。貞女型の正子より、堀悌吉が、「山本も、港の行きずりの女ならともかく、どうしてあんな」と言っていた悪女型の千代子の方が、面白《おもしろ》かったのであろう。
正子の願いが叶《かな》って、山本が大将になってから間もなく、昭和十五年の暮「長門」は別府に入港した。
そのころ正子は四十歳、佐世保に「東郷」という小待合を持って、その家の女将《おかみ》になっていた。
山本に逢うために、彼女は佐世保から別府へ出かけて行った。
山本は、初め幕僚たちもまじえて、愉快そうに遊んでいたが、佐《さ》伯《えき》からの連絡電話が一つかかって来ると、飛行機のことか何か、急にむっつり考えこみ、翌朝暗いうちに眼《め》をさました正子が、
「今、何時ごろかしら?」
と聞いても、
「知らないよ。僕《ぼく》は時計じゃないんだからね」
と、甚《はなは》だ機《き》嫌《げん》が悪かったという。
佐伯は海軍航空隊のあったところであり、時期から見ても、真珠湾に関する何かのことが山本の頭を領していたのではないかと考えられる。
正子がその次、山本に逢《あ》ったのは、翌昭和十六年二月、聯合艦隊が佐世保に入った時であった。
おはるや正子たちの間では、黙って茶目をするという意味で、「山本さんのダマ茶目」と言っていたが、この時の山本は上機嫌で、さかんにダマ茶目を発揮したらしい。
三好屋という蒲焼《かばやき》屋《や》で鰻《うなぎ》を食べて、「東郷」へ帰るまで四、五丁の間、彼は腰を折り、足をひらいて、チョコチョコ、チョコチョコ、映画のチャップリンの歩き方を真似《まね》して歩き通して見せた。
佐世保の町には、艦隊の入港で下士官や水兵があふれていた。町角で一人の兵曹《へいそう》が、
「オイ、オイ。長官だぞ、あれ」
と、小声で言っている。
もう一人の兵曹が、
「ちがうちゃ。長官があげな恰好《かっこう》ばするわけ、なか」
と言っている。
正子は、笑いをこらえて、満足な気持でそれを聞いていた。
「東郷」は、通りから少し奥まった所にある小さな家で、女中も二、三人しか使っていなかったが、艦隊の佐世保入港中、四、五日の間、正子は山本の身辺は一切人に手をふれさせず、十二歳から好きだったこの男の面倒を見つくして、彼女の生涯《しょうがい》での最も幸福な短い時間を味わったのであった。
第九章
昭和十六年の初頭、山本がいよいよ私案としての真珠湾強襲の構想を固めたころ、一方で彼の心の隅《すみ》には、いくらかまた、退任隠栖《いんせい》の志がきざし始めていた。
その八月が来ると、彼は司令長官在任満二年になる。明治以降歴代の聯合《れんごう》艦隊司令長官のうち、二年以上この激職に留《とど》まった者はほとんどいない。東郷平八郎《とうごうへいはちろう》から吉《よし》田《だ》善《ぜん》吾《ご》まで、早い人は数カ月、最も長い者でも二年三カ月で、あとと交替して行っている。
年が明けて、山本がそろそろ自分の御《お》役《やく》御《ご》免《めん》の日のことを考えるようになったのは、ごく自然の成り行きで、ただ、時節柄《がら》その実現が早急にはなかなか難かしいかも知れないと、彼は思っていたようである。
昭和十六年一月二十三日彼が徳島県小松島気付で軍艦「高《たか》雄《お》」の古賀《こが》峯一《みねいち》第二艦隊司令長官に出した手紙は、彼の遺《のこ》した書簡の中でも重要なものの一つであるが、その中で、彼は海軍人事の面からの戦争回避策と自分の進退問題とにふれて、次のように述べている。
「(前略)
一、昨年八月か九月三国同盟予示の後離京帰艦の際非常に不安を感じ及川《おひかは》氏に将来の見通《みとほし》如何《いかん》と問ひたるに或《あるい》は独の為《ため》火中の栗《くり》を拾ふの危険なしとせざるも米国はなかなか起《た》つ間《ま》敷《じく》大抵大丈夫と思ふとの事なりき。殿下も亦《また》かつて『此《か》くなる上はやる処《ところ》までやるもやむを得まじ』との意味の事を申されし様記憶し之《これ》ではとても危険なりと感じ此上《このうへ》は一日も早く米《よ》内《ない》氏を起用の外なしと感じ夫《そ》れには先以《まづもっ》て艦隊長官に起用の順序を捷径《せふけい》と考へ其時及川氏に敢而《あへて》進言せし次第也《なり》。及川氏も其後の小生や貴兄等の考をきき追々危険を感じ来《きた》れるにあらずやと思はるる点あり(中略)、どうも次官は策動が過ぎるから早目にかへた方がよからんと思ふが(濠洲《がうしう》公使はどうかねとの事也き)同時に軍令部ももつとしつかりするの要あり、強化策として一部長に福留《ふくとめ》を呉《く》れぬかとの事なりき。
依《よっ》て小生より、
三国同盟締結以前と違ひ今日に於《おい》ては参戦の危険を確実に防止するには余程の決心を要す一の部長交替位で又次官更迭《かうてつ》位では不徹底と思考す。
先づ軍令部に於ては米内氏を総長とするか又は次長に吉田或は古賀を据《す》ゑ(何《いづ》れも無理の人事なるも)福留をして輔佐せしむる事とし次官を井上として上下相呼応する程度の強化にあらざれば効果なかるべし依てかかる難事を敢行して既倒を支えむとの大転換ならば艦隊としては忍び難《がた》きをも犠牲として人事の移動に敢《あへ》て反対せざるべしと話せし事あり之に対し及川氏は可とも不可とも言ふ処なかりき。
二、右とは全然関係なく昨年十一月末及川氏より急ぐ事ではないがGF長官の後任は誰《だれ》がよきか意見きき度《たし》との事なりしに依り之には種々の関係あり充分考慮して答ふべしと即答を避け昨年十二月廿五《にじふご》日頃以書面《ごろしょめんをもって》左記要旨の事を返答せり。
『既に意見を開陳せる通又殿下は御同意なかりしも自分は四月の編成換の際米内大将起用を矢張第一案と信ずかくし置けば十六年中又は十七年には殿下も米内にと言はれはせぬか。米内氏起用の事なしとして考慮すれば常識上嶋《しま》田《だ》両豊田古賀の四氏を一応数ふべく併《しか》し其内両豊田は先づ除外して可なりと思考す。
(中略)要するに急遽《きふきょ》米内大将起用を第一案とし其の実現困難の場合即《すなは》ち小生の後任の意味にては古賀嶋田両氏の外なし。
尚《なほ》一方当分殿下更迭の事なければ古賀氏次長は乍御苦《ごくろうなが》労《ら》最適と信ずる次第也。
小生自身について率直に言へば既に米内氏を極力推薦し居る次第なれば1Fに残るも退陣するも何《なん》等《ら》異存なき真情なり併し又同時に重任なればとて怖《おそ》れて之を回避するにもあらず仮令《たとへ》ば古賀氏一年陸上の後GFに転出の如《ごと》き場合要すれば三年継続も亦《また》敢て辞する次第にてはなし。
而《しか》して国際関係及国内事情より場合に依りては参戦もやむなしとの大勢ならば2F長官及GF参謀長共変更は困る』
(中略)誠に御気の毒ながら吉田挫《ざ》折《せつ》の後上層部に誰を求むべきか米内、古賀、井上等の蹶《けっ》起《き》なくしてはとても六《むつ》かしかるべし夫《それ》でも参戦といふときは真に已《や》むを得ざる場合とあきらめ敢然起つの外なかるべく候《さうらふ》其場合でも一日も遅くし一日でも永く戦備促進に邁進《まいしん》せざるべからずと存居《ぞんじをり》候。
右の如く及川氏は2F長官GF参謀長をかへるには重大なる条件ある事は万々承知の筈《はず》なるも重ねて書面にて進言可致《いたすべく》候  敬具」
GF、1F、2Fは、それぞれ、「聯合艦隊」「第一艦隊」「第二艦隊」の略語である。「両豊田」は、豊田貞次郎と豊田副《そえ》武《む》である。「かくし置けば十六年中又は十七年には殿下も米内にと言はれはせぬか」というのは、昭和七年以来九年間軍令部総長の椅子《いす》に坐《すわ》ったきりの伏見宮《ふしみのみや》が、何とか辞任の気を起して、あとを米内光政《みつまさ》にと言い出しはせぬかという意味である。
これは、私信ではあるが、かなり公的な意味を持つ手紙であった。
「福留を呉れぬか」に関しては、人事局長の中原義正がその話を持って艦隊へやって来た時、山本は、
「大臣は参戦すべからずという確固たる意見を持って、これを実現するために省部をかためようという意図なのか、それとも今の陣容では何となく物足りないから福留をよこせという漫然たる意向なのか、どっちなんだ? その点について君に何かことづけがあったか」
とズケズケ質問したらしい。
中原は、
「国際情勢については大臣も色々御心配の様子ですが、どの程度堅い御決心か、別に御伝言などはありませんでした」
と答えた。
それで山本は及川海相宛《あて》の次のような伝言を中原人事局長に托《たく》した。
「対米関係が今日の如くなるは昨年秋より分りきつたる事なり。併し其後真剣なる軍備計画並《ならび》に之が実行上物動方面と照し合せ此際海軍はふみ止《とどま》るを要す。其為に省部に信頼するに足る幕僚を要すとの見地よりの御注文ならば大臣の御意《ごい》嚮《かう》は充分尊重すべきものと信ず。併し大勢は早や too late にして結局行く処まで行く公算大なりと言ふ如き事なれば聯合艦隊長官としては最信頼する長官参謀長等は現在の儘《まま》にて極力実力の向上を図り一戦の覚悟をかためざるべからず。今此両官を交代する事はあとの人々の力量等は別として自分の精神上にも動揺なき能《あた》はず、又艦隊将兵の上にも好ましからざる影響は免《まぬか》れ難《がた》きにより現状の儘を望む」
古賀になら穏やかに書けばそれで充分意思は疎《そ》通《つう》するが、及川には生易しい言い方ではとても分るまいからといった調子である。
また、古賀宛の手紙で半ば公然と、場合によって洋上三年にわたっても構わないと言っているにもかかわらず、彼個人としての「真情」は、どちらかと言えば、「退陣」の方に傾き始めていたのではないであろうか。
その頃上京した反町《そりまち》栄一に、彼は芝の水交社で、
「僕《ぼく》が海軍に奉職して、今年で三十六年になった。一緒に兵学校に入った二百余人のうち、今現役で残っている者は、塩沢、吉田、嶋田と僕の四人になってしまった。この秋には、僕も後進に道を譲って海軍を退くことになるだろうが、そうしたら、長岡《ながおか》の玉蔵院の僕の生れた家に帰って、父や祖先の書残した書物を読んだり、裏の畑の土いじりや、栗の木柿《かき》の木の手入をしたり、町の青年たちと仲よしになって暮したいね。よろしく頼むよ」
という意味のことを言っているし、同じく郷里の風呂屋《ふろや》の友達、梛野透《なぎのとおる》には、
「(前略)小生も今年一年海上を死守し、幸《さいはひ》に事なければ海軍の御奉公も先《ま》づまづ用済みに付、悠々《いういう》故山に清遊時に炉辺に怪腕を揮《ふる》ふの機会も可有之《これあるべく》、夫れ迄《まで》に充分腕を研《みが》き置く様連中に御申聞被下度《おもうしきかせくだされたく》、又本年中に万一日米開戦の場合には『流石《さすが》は五十《いそ》サンダテガニ』と言はるる丈《だ》けの事はして御覧に入れ度《たき》ものと覚悟致居《をり》候、(中略)艦隊は只今《ただいま》所属軍港にて後期出動の準備中にて月末は又茫々《ばうばう》たる洋上へ突進可致《いたすべく》候」(四月十四日付)
と書き送っている。
少しあと(八月十一日付)の榎本重治《えのもとしげはる》宛、
「貴《き》翰《かん》拝受暑中(といつても今日《十一日》ハ又東京二十度仙台十五度とかいよ米ハ駄目《だめ》か)御健康慶賀の至ニ候 一昨日吉田善氏艦隊視察ニ来艦半日遊び行けるも軍参などハもう何もわからぬと申居候
指切りか投了か困つたものに候 艦隊ハ某日を期限として起ち上る準備ニ着手尤《もっと》も小生ハ夫《それ》迄ニて解傭《かいよう》となるへきもかきまわして後任共ニ迷惑をかける前轍《ぜんてつ》を踏まぬ様にと物心両方面に精々注意致すつもりに候 年度一通りの作業もここ両三日にておわり世が世ならハ母港に返へしてやり度《たき》十万の若人達《たち》を擁して豊《ぶん》後《ご》水道の一隅《いちぐう》に待機とは一寸《ちょっと》なさけなき世の中とかこち申し居候 本日第一艦隊を被免部下直率に(一字不明)なれば昼寝でもすべえかといふ次第に候」
という手紙もある。
山本にこういう風に書かせたり言わせたりしたものは、一つには、長く見ない故郷への思慕の情であろうが、もう一つはやはり、聯合艦隊の長官は通常二年までという海軍の不文の慣行であった。
ただ、その秋、二年と少々で艦隊を去るとしても、それがすぐ彼の長岡隠栖につながり得るものかどうか、あとに海軍大臣の椅子《いす》が廻《まわ》って来ることになりはせぬかということが、山本の頭に全く浮ばなかった筈はあるまい。
「上下相呼応する」、「不戦海軍」の強化となれば、軍政系統では、「次官井上」の上に当然「大臣山本」が考えられなくてはならぬが、古賀あての手紙の中でも、彼はこのことには一と言も触れていない。
東京で、堀悌吉《ほりていきち》を中心に、岡《おか》田《だ》啓介《けいすけ》、米内光政、山梨勝《やまなしかつ》之《の》進《しん》らがバックになって、山本を中央に戻《もど》そうという運動が始められたことがあり、この年の秋、第三次近《この》衛《え》内閣が東条内閣に変ったころ、この運動は或《あ》る程度表面化したようであるが、東条内閣の海相になった嶋《しま》田《だ》繁《しげ》太《た》郎《ろう》は、自身の地位を脅《おび》やかされるのを嫌《きら》ってか、
「今、聯合艦隊の長官には、山本以外に人が無い」
の一点張りで、ついに承知しなかった。
この時も山本は、大臣なり他の中央の要職なりを自ら求めるような言動は、少しも見せていない。
触れず求めないのは東洋的清風であるかも知れないが、あとから考えれば、如何《いか》にも惜しいことであった。
武井大助は、昭和十六年秋までにもし山本の中央復帰が実現していたら、十二月の開戦は、少なくとも先へ延ばされ、山本が腰抜けとか親英米とか言われて時を稼《かせ》いでいるうちに、ドイツの頽勢《たいせい》がはっきりして来、日本は世界動乱に処して、おそらくもっと有利な道をたどり得ただろうと言っている。
古賀宛の手紙の中にある「四月の編成換の際」、福留繁《ふくとめしげる》は、及川の求め通り、聯合艦隊参謀長から軍令部第一部長に転じた。伏見宮博恭《ひろやす》王は、軍令部総長を辞して静養ということになった。しかし、それ以上、山本の提言した戦争回避の強行人事は行われなかった。
伏見宮のあとには、米内の現役復帰でなく、永《なが》野《の》修《おさ》身《み》の軍令部総長が実現した。
山本が、
「永野さんは、天才でもないのに自分で天才だと思っている人だから、一般には受けるだろ」
と言ったのは、この時のことである。
井上成美は、この前年、沢本頼《さわもとより》雄《お》の次官着任まで、短期間海軍次官代理を勤めたことがあり、大臣の及川《おいかわ》古志《こし》郎《ろう》から、
「おい、宮様が総長辞めたいと言われるんだが、どうしよう」
と相談を持ちかけられて、
「辞めてもらったらいいじゃないですか。大体宮様というのはよほどの事がないかぎり、下の者の持って来る案にノーとは言わないようなしつけを受けておられる。この非常の時にそれではなりません。辞めて頂くのが海軍のためでもあり宮様のためでもあります」
と答え、あとを先任順で永野修身にという話には、
「しかし、永野さん不可《いけ》なかったら、二、三カ月ですぐ首にすることですよ」
と進言している。
伏見宮が退いて、それを惜しんだ人は、海軍にあまりいなかったであろう。
博恭王はもともと、陸軍の下風に立っていた海軍を、山本権《やまもとごん》兵衛《べえ》が海軍の海軍として独立させたのを崩すまいとして、谷口尚《たにぐちなお》真《み》のあと、陸軍の閑院《かんいん》参謀総長宮に対応させる意味で置かれた軍令部総長であった。
二人の皇族総長については、次のような話も伝えられている。
さきに書いた「年度作戦計画」を、両総長から毎年三月末、陛下に奏上するのであるが、陸軍の閑院宮は、耄碌《もうろく》していて、特別に参謀本部の作戦部長が介添役でついて入室することになっていた。それでも宮は紙を二枚一緒にめくって読み上げたりし、天皇から、
「きょうの奏上は、よく分らないところがあったね」
などと言われていた。
対英戦が年度作戦計画の中に入って来た年のこと、文面に、ただ、
「シンゴラ、コタバルに上陸し」
とあるのを、閑院宮はそのまま読んでいて、天皇に、
「ちょっと待て。シンゴラ、コタバルは、シャム領ではないか。それでは、他国の中立を侵すことになりはせぬか?」
と注意された。
それに対し、閑院宮が何かヘマなことを答えたらしく、陛下は珍しく御立腹で、大声を出され、
「故《ゆえ》なくして他国の中立を侵すことはならぬ。その作戦計画は考え直せ」
とお叱《しか》りがあった。
陸軍の作戦部長は、青くなって退出して来、海軍側に耳打ちをしたが、伏見宮は、
「あ、よしよし」
一人で次の奏上に入って行くと、適当にごまかして辻褄《つじつま》を合わせてしまったらしく、それでも翌日、再び両総長同道で、
「あれは、実は事前に、外務省を通じて、シャム(泰《タイ》)国の諒解《りょうかい》を取りつける予定になっております」
と説明し、漸《ようや》く裁可を得たということである。
しかし伏見宮が永野に変って変りばえがしたかというと、それは疑問であろう。
「明治百年史叢書《そうしょ》」の一部として最近出版された「杉山メモ」の中には、開戦一カ月前の十一月三日、杉山元参謀総長が永野軍令部総長と列立、作戦計画に関して陛下に奏上、御下問奏答の要旨が載っているが、その中に、
「オ上 海軍ノ日次ハ何日カ
永野 八日ト予定シテ居リマス
オ上 八日ハ月曜日デハナイカ
永野 休ミノ翌日ノ疲レタ日ガ良イト思ヒマス」
という一節がある。
あらためて書くにもあたらないが、東京とハワイの間には日《ひ》附《づけ》変更線が走っていて開戦予定日の十二月八日月曜日は、ハワイ時間では七日の日曜日にあたる。永野修身はそれを知らなかったか乃《ない》至《し》は上っていて勘ちがいをしたのであった。
この話は早速、
「休みの翌日のアメリカの兵隊がぐったりしている日がよいと思いまして、八日の月曜日を選びました」
と言ったという風に部内に伝わり、永野は「ぐったり大将」という綽《あだ》名《な》をつけられた。
もっとも、現在防衛庁戦史室の手で刊行中の「戦史叢書」、「ハワイ作戦」の巻には、開戦直前の十二月二日、永野が再び「武力発動時機ヲ十二月八日ニ予定シタル主ナル理由」について上奏した内容が記載してあって、これはちゃんとしたものである。
「陸海軍航空第一撃ノ実施ヲ容易ニシ且《カツ》効果アラシメマス為《タメ》ニハ夜半ヨリ日出頃迄《ごろまで》月ノアリマスル月齢二十日附近ノ月夜ヲ適当ト致シマス
又海軍機動部隊ノ布哇《ハワイ》空襲ニハ米艦船ノ真珠湾在泊比較的多ク且ソノ休養日タル日曜日ヲ有利ト致シマスノデ布哇方面ノ日曜日ニシテ月齢十九日タル十二月八日ヲ選定シタ次第デ御座イマス
勿論《モチロン》八日ハ東洋ニ於《オ》キマシテ月曜日トナリマスガ機動部隊ノ奇襲ニ重点ヲ置キマシタ次第デ御座イマス」
ただし最後の二行ほどは言わでもがなのことで、「勿論」などとあるのは、永野が一と月前の失敗に閉口し切っていた証拠であろう。
日本の陸海軍の作戦の枢機には、こういう暢《のん》気《き》な人物が坐《すわ》っていたのであった。
これより先、古賀峯一への手紙にもある通り、山本は戦争の危険を考え、艦隊の強化策として、自分が第一艦隊の長官に退《さが》り、米内光政を現役に復して聯合艦隊司令長官に来てもらうということを、本気で検討していた。
郷里から「長《なが》門《と》」を訪ねて来た遠山運平が、アメリカと戦争が起ったら日本海海戦のようにうまくやる方法は無いものですかと質問するのに、彼は、
「敵が一ッ時《とき》に一緒に出て来てくれればええども、中々一ッ時に出て来んで、そうは行かん」
と、長岡弁で答えている。小熊信一郎にも、やはりこのころ、
「今度戦争になったら、もう戦艦なんか持ってのこのこ出て行けるような戦《いくさ》じゃないんで、これからの聯合艦隊長官は、瀬戸内海あたりに頑《がん》張《ば》って、全般をにらんでいなくちゃならんと思うが、俺《おれ》にはそんなまどろっこしい事はとても出来ないから、米内さんに長官に来てもらって、もしかの時は、俺は前線へ出て暴れるんだ」
と言っている。
昭和十六年の二月、井上成美が航空本部長として、航空戦技を見に「長門」へやって来た時にも、彼は、
「この間豊田が来て、色々しゃべって行ったが、何だ、あれが次官かと思うような世間話ばかりだったよ。井上君、僕はこう考えるんだが、どうだろう?」
と、米内聯合艦隊、山本一艦隊の構想を話した。
これに対し井上は、
「それは少し疑問がありますね。何故《なぜ》といって、それでは現役の海軍大将十何人、全部ロクでなしという刻印を捺《お》すことになりますよ。私が大臣なら、そういう人事はやりません」
と反対した。山本は、
「そうか。そういう考えもあるか」
と、やや不満そうに見えたという。結局この構想は実らず、山本がひそかに心の隅《すみ》にあたためていた退任の願いもなかなか叶《かな》えられず、彼が聯合艦隊司令長官のまま、開戦の日に向ってじりじり時は刻まれて行くことになるのである。
この年の四月十七日、当時第一高等学校の校長であった安倍《あべ》能成《よししげ》をはじめ、十二人ばかりの学者グループが、横《よこ》須賀《すか》の軍港、航空隊、入港中の聯合艦隊旗艦「長門」と、一巡、海軍の見学をして歩いたことがあった。
安倍のほか、松下正寿《まつしたまさとし》、大《おお》河内《こうち》一《かず》男《お》、当時朝日の論説委員であった関口泰《せきぐちたい》、経済学の本《ほん》位《い》田祥《でんよし》男《お》、行政法の田中二郎、植物学の服部《はっとり》静《しず》夫《お》、政治学の矢部《やべ》貞《てい》治《じ》、元日本放送協会会長の永田清といった人々で、大河内前東大総長あたりが最も若い助教授クラス、大河内は記念撮影で最後列に写っている。
案内役は海軍省の官房調査課長高《たか》木《ぎ》惣吉《そうきち》大佐で、高木の部下の課員と、海軍教授の榎本重治が同行した。
一、二の例外はあるが、大体において、反戦的な、自由主義的な考え方の教授グループで、これは海軍が官房調査課を通して、自由主義知識人と接触を保とうとしていた一つのあらわれである。調査課の諮《し》問《もん》機関のようなかたちで、海軍には「思想懇談会」「外交懇談会」「政治懇談会」というような会があり、目的は二重三重に糊塗《こと》してあったが、実際は対米戦争回避、乃《ない》至《し》戦争の場合の早期講和の方法探求であった。もっとも高木の話によると、初めからそれほどはっきりした目的でブレーンを作ったわけではないらしい。陸軍に較《くら》べて海軍は世帯が小さく、伝統的に政治力に乏しい。今後陸軍の暴走をチェックして行くには、海軍だけが孤立していたのでは駄目《だめ》で、海軍プラス国民の広い層の力が必要だから、何とか一般国民との結びつきをもっと強めたいが、それには日本の現状で、大新聞を通すか、財界、知識人のルートを通す以外に方法が無い。
そこで財界の方は池田成彬《いけだなりあきら》、郷誠《ごうせい》之《の》助《すけ》の二人を仲介にして意見を聞く催しをやり、知識人の方は各分野三十五、六名の学者たちに時々集まってもらって、意見の交換をし、海軍が何を考え、どんな事に困り、国民からどんな支援を求めているかということを知ってもらうようにしようというのが最初の意図であったようである。
ところが高木が中心になって海軍のブレーン作りの仕事を一応軌道に乗せ終ったころには、戦争が切迫して来、やがて開戦となり、学者たちの意見は「これは何とか早くまとめてしまわなければ日本は大変なことになる」と、大体同じその方向に焦点が合っていた。
西《にし》田幾多《だきた》郎《ろう》なども、
「日本の文化レベルで欧米の国とほんとに戦争が出来ると思うのかね」
と言っていたそうだが、それで自然、早期講和の方法探求がブレーンの学者グループに期待されることになったのである。「長門」見学に出かけた十二人の知識人も、皆何かのかたちでこれら「懇談会」に関係のある人たちであった。
この日山本長官は不在ということで、事実、一行が「長門」に着いた時、山本は不在であったが、一時間ばかり艦内をまわって後甲板へ戻《もど》って来ると、
「ちょうど今、長官、陸上からお帰りになりました」
という報告があり、高木は早速挨拶《あいさつ》に出向き、将官ハッチの近くで、案内して来た一同を山本に紹介した。
すると山本は急に顔を曇らせ、高木に向って、
「何故俺《おれ》の方に、前以《もっ》て知らせとかんのか。折角の機会だから、粗末なものでも艦《ふね》のおひるを差上げるんだったのに、惜しいことをした」
と言い、高木大佐から、昼食は横須賀の水交社で鎮守《ちんじゅ》府《ふ》司令官の塩沢大将に招待を受けていると聞くと、
「駄目だ。養命酒のとこなんか、駄目だ」
と、甚《はなは》だ不服そうであったという。
それで一行は、山本とほんの挨拶をかわしただけで「長門」を下りたが、この時山本五十六の招待を受けられるようにしておいたら、この人々によき憶《おも》い出を残し得たであろうにと、高木惣吉は戦後それを非常に残念がって、著書の中に書いている。
年齢からいうと、安倍能成だけが一同の中で山本より一つ年上、ほかは皆山本より若い人たちであった。物力と勇気だけに魅力を感じる軍人世界では、海軍報道部あたりですら、知識人は臆病《おくびょう》なくせにとかく煩《うるさ》い存在として、毛《け》嫌《ぎら》いする傾向があったが、その点「山本という人は、軍服は同じでも役者が全然ちがっていた」とも、高木は書いている。
もっとも山本が、
「駄目だ。養命酒のとこなんか、駄目だ」
と言ったのは、彼の持ち前の世話好きと淋《さび》しがりで、客が大勢、クラスの塩沢幸一の方へ行ってしまうのが不服だったということもあるかも知れない。
高木はこの時久々ぶりに山本に会ったわけで、山本は海軍でいわゆる「潮ッ気」がたっぷりしみこみ、赤銅色《しゃくどういろ》に陽《ひ》やけして、健康そうに見えたが、ただ、次官時代と較べるとずいぶん腹が出て肥《ふと》っていたという。
聯合艦隊司令部には、従兵が約十人いた。
古い海軍の軍人は従兵のことをボーイと呼び、長官によってはボーイの人選が煩く、鎮守府人事部に特別の交渉をさせる人もあったが、山本はその点構わない方で、
「誰《だれ》でもええ」
と言っていた。
聯合艦隊が佐《さ》伯《えき》湾に入り、宮崎神宮参拝の上陸が許された時、宮崎の旅館の女中が、禿《はげ》頭《あたま》の黒島先任参謀を長官と思いこんで応待しているので、渡辺安次があわてて、
「ちがうちがう、こっちだこっちだ」
と注意したことがあったが、山本はその時も、
「どっちだっていいんだよ」
と笑っていた。
時の司令部従兵長は、一等兵曹《へいそう》の近江《おうみ》兵治郎という人である。
近江は、もと「長門」の高角砲分隊員であったが、酒保の経験があったため酒保長に引っぱり出され、さらに昭和十五年の五月、「長門」の副長から話があって、従兵長として聯合艦隊司令部へ籍を移されることになり、それ以後十人の従兵を宰領して、昭和十八年に山本が亡《な》くなるまで足かけ四年間、山本とその幕僚たちの身辺の面倒を見た。
彼は昭和七年の徴兵で、「長門」の高角砲分隊にいれば、縦の者を横にもせずに威張っていられる古参の下士官であったが、司令部へ移ってからは、始終幕僚会合がある、外部からの来客がある、入港すれば芸者がやって来るという風で、昼食、カクテル、夕飯と、レストランの準備に、ボーイ長としてこまねずみの如《ごと》く走りまわらねばならなくなった。
そのかわり、物資は豊富であった。もっと後の話であるが、戦争がはげしくなって、艦隊にも物が欠乏して来、艦長がこっそり、
「おい、司令部の飲み残しがあったら、三分の一ぐらいでいいが、ウイスキーを廻《まわ》してくれんか」
と、近江に言いに来るようになってからでも、聯合艦隊司令部の台所には、大抵の品物が揃《そろ》っていた。
艦長あたりからそんな風に言われると、近江はやはり、封を切らない赤い「ジョニー・ウォーカー」の一本くらいは、届けないわけにいかなかったという。
近江兵曹たちは、日ごろ、
「司令部の幕僚に来たら、二カ月で一貫目、三カ月で二貫目は肥らせてみせる」
と言っていた。
艦内にはベイカリーがあって、パン、洋菓子、デザートのプディングなどを焼いていたし、各地で名産の届け物もあり、甘党の山本は、甘い物に不自由することはなかった。
近《この》衛《え》文麿《ふみまろ》と会った時、山本は近衛から、政治上のアドヴァイスを求められて、
「政治のことは知りませんが、ただ一言申し上げたいのは、先般部下の将兵を、休暇でそれぞれの家庭へ帰したところ、戻《もど》って来ての話に、何処《どこ》でも食物の不足しているのには、一驚を喫しました」
と、生活物資供給の改善方を要望しているが、昭和十六年といえば、日本中の家庭で、もう、食糧不足が毎日の深刻な話題になり始めていたころで、山本もこの物資豊富の聯合艦隊司令部にいては、今さら「一驚を喫する」程度には、感覚がずれていたかとも思われる。
山本が肥ったのはしかし、美食のせいばかりではなかった。もう一つの原因は、明らかに運動不足であった。
山本はかねてから、
「運動をしなければ健康が保てないようでは、海軍士官の資格なし」
と言っていた。
駆逐艦や潜水艦に長い間乗組まされたら、とても充分な運動など、出来るものではない、運動不足くらいで、身体《からだ》をこわすことのないよう、平素から鍛練をしておけ、それから、運動不足の状態で健康を保持し、心身柔軟に保つには、気分転換が何よりで、右巻きになっていた頭を、ちょっと左巻きに変えてやることだ――と、これは彼の勝負事好きの一つのエクスキュースでもあって、従兵長の近江兵曹に、出入港時の艦橋で、
「おい、兵棋図盤どうした?」
兵棋図盤というのは将棋盤のことで――、よくそう聞いていたそうである。
しかし、気分転換の将棋ではむろんのこと、逆立ちや体操や、いくら大戦艦のデッキでも、デッキの散歩ぐらいで脂肪のついて来るのは防ぎようもなく、彼が肥って来たのは、必ずしも彼の健康の上々を示すものではなかったようである。
山本五十六が駐米武官当時の、初代補佐官だった山本親《ちか》雄《お》は、昭和十二年から十四年まで、軍令部の一部一課にいて、例の「年度作戦計画」を書く仕事をしていたが、昭和十六年初夏には、水上機母艦「千《ち》歳《とせ》」の艦長として、洋上に在った。
六月のある日、宿《すく》毛《も》湾の「長門」艦上に、聯合艦隊司令部主催で開かれた対米戦図上演習へ、「千歳」艦長の山本大佐が出席してみると、司令部の対米戦のやり方は、フィリッピン攻略にちっとも航空母艦を使わない。小型練習空母の「鳳翔《ほうしょう》」を一隻《せき》さいているくらいのもので、彼が軍令部にいて作戦主任として常に考えていた「先ず全力を挙げて比島を攻略する」という構想とは、どうも勝手がちがっている。不審にかつ不安に思った山本親雄は、航空参謀の佐々木《ささき》彰《あきら》を呼んで、
「君、フィリッピンに新しい空母を一隻も出さないのは、どういうわけかね? フィリッピン攻略に、最初に失敗したら、非常に危険だと思うが、航空母艦は何処《どこ》かに、取っときでしまっておくつもりなのか」
と質問した。
すると佐々木中佐が、へんな顔をして、
「ちょっと」
と、山本親雄を別室へ誘い、声をひそめて、
「どうも、これはあなただから申し上げるんだが、『赤《あか》城《ぎ》』『加賀《かが》』以下、航空母艦は実は六隻とも、開戦劈頭《へきとう》ハワイへ向けることになっていて、そのためフィリッピンへまわせないんです」
と言った。
山本「千歳」艦長は、曾《かつ》て夢にも考えたことの無かった話で、これには驚いた。
「へえ――、それはまた、ずいぶんな冒険だが、誰の発案だ?」
「むろん、山本長官です」
「それで、君たち、賛成したのか」
「いや。初め、幕僚はほとんど全員反対でしたが、長官がどうしてもやると言われるんで……」
と、佐々木航空参謀は答えた。
山本親雄は、「山本さんらしい大博《おおばく》打《ち》だな」と思ったが、色々話を聞いてみると、フィリッピン方面は、零戦の航続距離が延びて来たので、台湾南部から出す零戦で見込みがつくらしく、いざとなったら空母部隊はすべて真珠湾攻撃に振り向けるよう、目下、第十一航空艦隊参謀長の大西滝治郎らに、鋭意研究を進めさせているところだということであった。
山本親雄は、佐々木から、
「但《ただ》し、これは極秘中の極秘ですから」
と念を押されて、複雑な気持で、「千歳」へ帰って行った。
しかし、戦後「呪《のろ》われた阿波《あわ》丸《まる》」を書いた千《ち》早正隆《はやまさたか》の話によると、昭和十六年の中ごろには、部内にも部外にも、ハワイ奇襲の山本構想を薄々知った者は、かなりの数に上るようになっていた。ただ、海軍では、軍令部と人事局とが最も口の固いところで、却《かえ》って赤《あか》煉《れん》瓦《が》の中に、全く勘づかないでいる人がいたという。
千早は、昭和十五年の暮から十六年の九月まで、高射長として「長門」に乗っていたが、司令部暗号長の高橋義雄大《たい》尉《い》が同期で、ある時幕僚室にぶらりと遊びに行くと、
「北太平洋の図面を引いてやがる。ははあと思いました」
ということである。
アメリカ側にも、日本の真珠湾奇襲があり得ることを警告した人は、何人もいた。それは、単に想像に基づいたものではなかったようで、ジョセフ・グルー駐日米国大使は、早く昭和十六年の初めに、
「小官ノ同僚、駐日ペルー公使ノ談ニ依《ヨ》レバ、日本側ヲ含ム多クノ方面ヨリ、日本ハ米国ト事ヲ構フ場合、真珠湾ニ対スル奇襲攻撃ヲ計画中ナリトノコトヲ耳ニセリト。同公使ハ、計画ハ奇想天外ノ如ク見ユルモ、アマリ多クノ方面ヨリ伝ヘラレ来タルヲ以テ、トモカクオ知ラセストノコトナリキ」
という機密電報を、国務省あてに打っている。
この電報の日付は、昭和十六年一月二十八日と推定されている。
山本が、海軍罫《けい》紙《し》九枚に、「戦備ニ関スル意見」という一書をしたため、海軍大臣の及川古志郎に送って、その中で初めて公式に、ハワイ攻撃の構想を示したのが、この年の一月七日であった。
「国際関係ノ確固タル見《ミ》透《トホ》シハ何人《ナンピト》ニモ付キ兼ヌル所ナレドモ海軍殊ニ聯合艦隊トシテハ対米英必戦ヲ覚悟シテ戦備ニ訓練ニ将《ハタ》又《マタ》作戦計画ニ真剣ニ邁進《マイシン》スベキ時期ニ入レルハ勿論ナリトス
依テ┿《ココ》ニ小官ノ抱懐シ居《ヲ》ル信念ヲ概述シ敢《アヘ》テ高慮ヲ煩《ワヅラ》ハサント欲ス(客年十一月下旬、一応口頭進言セルトコロト概《オホム》ネ重複ス)」
という書出しで、したがって「初めて」といっても文書のかたちになったのはこれが初めてということになる。前年の十一月横須賀在泊中、山本は海軍省へ出向いて大臣の及川と何度か懇談し、すでにほぼ同じ内容の意見を伝えていた。
この意見書は欄外に「大臣一人限御含ミ迄《マデ》、誰ニモ示サズ焼却ノコト」と朱書が入っていたが、藤井政務参謀が一通控を保管していて、それが戦後に残った。「戦備」「訓練」「作戦方針」等四項目に分れているが、その第四項で、彼は、「開戦劈頭ニ於テ採ルヘキ作戦計画」を詳しく述べている。
第一、第二航空戦隊の全航空兵力を以て、月明の夜か黎明《れいめい》時《じ》に、「全滅ヲ期シ」て、真珠湾の米国艦隊に強襲をかけること。水雷戦隊(駆逐艦部隊)を、やられた味方航空母艦の乗員救助にあたらせること。潜水戦隊には、出来れば真珠湾口で、出て来る敵艦を撃沈させて港を閉塞《へいそく》させること等、かなり悲壮なもので、山本は、
「勝敗ヲ第一日ニ於テ決スルノ覚悟」
と書き、聯合艦隊長官には他の人に来てもらって、自分は、
「航空艦隊司令長官ヲ拝命シテ攻撃部隊ヲ直率セシメラレンコトヲ切望スルモノナリ」
と書いている。
これの中には、
「併《シカ》シナガラ実際問題トシテ日米英開戦ノ場合ヲ考察スルニ全艦隊ヲ以テスル接敵、展開、砲魚雷戦、全軍突撃等ノ華々シキ場面ハ戦争ノ全期ヲ通ジ遂《ツヒ》ニ実現ノ機会ヲ見ザル場合等モ生ズベク」
という一節もある。
日本海大海戦のようなことが起ると思っていてはいけないということである。
開戦後、真珠湾の成功、マレー沖での「プリンス・オヴ・ウェールズ」「レパルス」の撃沈を見てののち、高松宮は、
「ハワイもマレー海戦も、結局山本長官の言った通りになったネ」
と、軍令部第一部長の福留繁に話されたそうであるが、あとから「戦争ノ全期」を通観すれば、これまた山本の言った通りになったのであった。
この意見書の提出と同時に、彼は書簡箋《しょかんせん》三枚に筆で、真珠湾攻撃計画の概要をしるし、第十一航空艦隊参謀長の大西滝治郎に渡して検討立案を求めた。
日付を追うてその経緯を見れば、山本の構想が文書になってから三週間目に、少なくとも東京のアメリカ大使館は、真珠湾奇襲計画をかぎつけてしまったということになる。しかし、このグルー大使の警告に対して、アメリカの政府、海軍の首脳は、あまり真剣な興味を示さなかった。「現代史資料」に収められている一九四一年二月一日付スターク作戦部長より太平洋艦隊司令長官宛《あて》の、「日本が真珠湾を攻撃する流言について」と題する電報で、スタークは、
「米海軍情報部としては、この流言は信じられないものと考える」
と言っている。このような貴重な情報に対して何故彼らがそんなに冷淡であったかは、こんにちでも依然一つの謎《なぞ》であろう。
山本から内命を受けた大西滝治郎は、自身としては、この奇抜すぎる作戦に、賛成を致しかねる気持もあったらしいが、ともかく第十一航空艦隊先任参謀の前田孝成《こうせい》にこれを見せ、それから第一航空戦隊参謀の源田実《げんだみのる》中佐を鹿《かの》屋《や》に招いて山本からの手紙を示し、研究方を依頼した。
大西の第十一航空艦隊は、鹿屋に基地を置く陸上部隊であり、第一航空戦隊は、「赤城」「加賀」を主軸とする海上部隊で、源田はこの時「加賀」に乗っていた。英国駐在から帰って未《ま》だ間もないころであったが、あまり急進的な航空優先論を吐くので、海軍大学校時代「気違い源田」と言われていた人である。
そしてこの源田中佐が、大西のために、したがって山本のために、最初のハワイ攻撃の草案を書き上げたのであった。
それには奇襲作戦に第一、第二航空戦隊の主力航空母艦を全部投入すること、戦果を確実徹底的にするため往復反復攻撃を行うこと、出発基地は小《お》笠原《がさわら》の父島《ちちじま》か北海道の厚岸《あつけし》とすることなどの構想が盛られていた。
この源田案を基にした大西レポートが山本に提出されたのが四月初めで、山本はこれに若干手を加え、大西に命じて軍令部に持って行かせたが、内容は未だそれほど詳細具体的なものではなかったようである。
一方聯合艦隊においても、源田、大西のそれと並行して独自のハワイ作戦研究が行われていた。
長官と幕僚たちとの雑談の席で、山本から、
「ハワイ空襲と同時にハワイ攻略をやれないだろうか」
という話が出たこともあったという。
それは、米海軍軍人の何分の一かがハワイにいるが、海軍士官の養成には長い年月がかかるから、これを一網打尽に捕虜にしてしまえば、いくらアメリカでも海軍勢力の回復が困難になるだろうというのであった。
聯合艦隊司令部には、四つの予備研究グループが設けられ、先任参謀の黒島亀人大佐が最も熱心に想を練って、司令部としての戦策を作り上げる作業に取りかかった。
黒島は、聯合艦隊の幕僚の中で、最も風変りな人物であった。想を得て私室にこもったら、舷窓《げんそう》のめくら蓋《ぶた》を閉じ、「長門」には冷房が無いから、素裸で机に向い、昼とも夜とも知らず、憑《つ》かれたように仕事をする。部屋に香を焚《た》いて、口つきの「朝日」を、火をつけては揉《も》み消し、また火をつけては揉み消し、頭の中にはただ、作戦の構想しか無いらしく見えた。
黒島参謀は、用が出来ると、平気でぶら金で艦内を歩くそうだとか、一度も司令長官と一緒に飯を食ったことが無いそうだとか、書類が山と積み上げてあっても一切見ないそうだとか、色々伝説がひろまっていた。
従兵たちは、彼のことを、「黒島変人参謀」と呼んでいた。日常のことに関しては全く幼稚で、ぼけているように見えるので、「ポケ」とも呼んでいた。
寝衣《ねまき》など、いくら垢《あか》だらけになっていても、従兵が替えなければ替えないので、彼の身の廻《まわ》りを見ていたある従兵が、自腹を切って、呉《くれ》で寝衣を三枚買って渡したこともあった。
ある人の批評によれば、
「ハワイ奇襲をふくむ、第一次作戦計画は、数字を踏まえてやったら、とてもああは出来るものではない。あれはみな、黒島のアブノーマルな頭の中から引き出され、強引に書き上げられたものだった」
という。
四月末、黒島亀人は、山本の命をうけて、自分の書き上げた真珠湾攻撃に関する聯合艦隊戦策を説明しに、上京した。
この時軍令部の第一部長は福留繁少将、第一課長が富岡定俊《とみおかさだとし》大佐、航空主務参謀が三代《みよし》辰吉《たつきち》中佐であったが、彼らはこぞってこの案に反対した。
その次、八月七日、黒島大佐が水雷参謀の有馬中佐を伴《ともな》って再びこの問題を協議しに上京した時も、作戦部の強い態度は変らず、黒島と富岡の間には激論が展開された。
富岡定俊によれば、軍令部の作戦部が聯合艦隊をコントロールしてはならぬということは、常にみなで自戒していたというが、陸軍との関係を調整して兵力の割りふりを決めたり、必要な資材兵器の供給をはかったりするのは、中央の役目であり、それに、開戦の場合、まず一定期間内に、ジャワまで進出して南方の油田地帯を確保する使命を彼らは負わされていて、黒島や或は山本のように、真珠湾一本槍《いっぽんやり》でものを考えることは出来なかったのである。
そして、彼らが聯合艦隊の案にサインを渋った最大の理由の一つは、作戦があまりに投機的でリスクが大きく、たとい奇襲に成功したとしても、その日のその時刻に果して真珠湾に相手の艦隊がいるかどうかは、全くのあなたまかせではないかという点にあった。
黒島は山本の意向を体してこれに反駁《はんばく》し、ハワイ攻撃のどうしてもやらねばならぬ所以《ゆえん》を力説した。
山本の意向というのは要するに、アメリカと戦争を始めてもとても勝ち目などありはしない、それをしも押してやるというなら、まず劈頭《へきとう》に敵の主力を屠《ほふ》って彼我《ひが》の勢力のバランスを破り、充分のハンディキャップをつける以外に作戦の施しようは無い、「対米作戦を行うためには真珠湾強襲をやらねばならぬし、真珠湾強襲がやれぬなら対米作戦は行えない」というのであった。
さきの「戦備ニ関スル意見」の中には、
「之ガ成功ハ容易ニアラザルベキモ関係将兵上下一体真ニ必死奉公ノ覚悟堅カラバ冀《ネガハ》クバ成功ヲ天祐《テンイウ》ニ期シ得ベシ」
という言葉が見える。
とにかく黒島は、例年十一月乃《ない》至《し》十二月に行われる海軍大学校での図上演習を九月に繰り上げ、その時特別室を設けてこの案を検討してほしいと要望し、一課長の富岡は、それだけは考慮すると約束した。
この時より少し前になるが、山本も昭和十六年の七月のある日、艦隊から出京した。
それは、日本軍の南部仏印進駐が決定し、海軍大臣の及川より、山本と、第二艦隊長官の古賀峯一の二人を東京へ呼んで、事情の説明披《ひ》露《ろう》が行われることになったためであった。場所は、海軍省の裏の海軍大臣官邸で、軍令部総長の永野修身、航空本部長の井上成美らが同席した。
二・二六事件以後、日本が戦争に向って歩を進めた過程の中で、海が不意に深くなるように、戦争への傾斜が段を成して急に深まった場面が幾つか数えられるが、南部仏印進駐は、その大きなステップの一つであった。
山本は最初に、井上航空本部長に向って、
「井上君、航空軍備はどうなんだ?」
と聞いた。
井上は、
「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」
と答えた。
井上航空本部長は、日米不戦論者としては山本以上に強硬であった。彼はこの年の正月、次期軍備計画案「○《マル》五《ゴ》計画」に関して軍令部の説明を聞き、「明治の頭で昭和の軍備を行わんとするもの」と感じ、「新軍備計画論」と題する長文の建白書を草して一月三十日付で海軍大臣宛に提出している。
その中には、
「帝国ハ其《ソ》ノ国力ニ於テ英米ト飽ク迄《マデ》建艦競争ヲ行ハントスレバ遂ニ彼ニ屈服スルノ外ナキハ乍残念明瞭《ザンネンナガラメイレウ》ナル事実ナレバ到方《イタシカタ》ナシ」
とか、
「帝国ガ米国ト交戦スル場合其ノ戦争ノ形態ヲ考察スルニ帝国ハ米国ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能ニシテ又是非共然《シカ》アルベキモ又一方日本ガ米国ヲ破リ彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ 其ノ理由ハ極メテ明白簡単ニシテ(中略)米国ノ対日作戦ハ日本ガ米本国ヨリ遠大距離ニ占位シ在ルノ一事アル為米ノ吾《ワレ》ニ対スル作戦ガ吾ノ米本国ニ対スル作戦ノ困難ナルト同様ノ共通点アルモ他ノ情況ハ日ノ米ニ対スルト大イニ趣ヲ異ニシ (一)日本国全土ノ占領モ可能 (二)首都ノ占領モ可能 (三)作戦軍ノ殲滅《センメツ》モ可能ナリ」
とか、きつい言葉が見える。
「新軍備計画論」の要旨は、アメリカと戦争して負けるのがいやなら航空軍備の徹底的拡充をはかりなさい、それなしに現況のままで対米戦に突入したら、帝国陸海軍は全滅し、日本全土がアメリカに占領されるようなことが起りますよというのであって、結果がまさしくその通りになってしまった戦後では、この程度の作文は誰《だれ》にでも書けようが、当時の空気の中でこれだけはっきりものを言うにはよほどの明察と勇気とが必要であったと思われる。
戦史叢書「ハワイ作戦」にはこの建白書の概略が載っており、井上の示した考えは軍令部の当事者の用兵思想とはあまりに大きな差違があって、結局誰にも受け入れられなかったと記してある。そして、開戦四カ月前井上成美中将が第四艦隊司令長官として洋上に出されたのは、この建白書がたたって左《さ》遷《せん》されたのだと言われている。
井上の発言のあと古賀峯一は、
「大体こんな重大なことを、艦隊長官に相談もせずに勝手に決めて、戦争になったからさあやれと言われても、やれるものではありませんよ」
と、大臣に食ってかかった。
古賀はまた、永野に向って、
「政府のこの取りきめに対し、軍令当局はどう考えておられますか?」
と質問した。
永野は、
「まあ、政府がそう決めたんだから、それでいいじゃないか」
と曖昧《あいまい》な返事しかしなかった。
この時といい、三国同盟締結の時といい、煩《うるさ》い連中はなるべく敬遠しておいて、既成の事実がほぼ出来上ってから東京へ呼び、無理矢理因果をふくめてしまうというのが、及川古志郎の手であったように見える。
官邸での食事もすんで解散になったあと、山本はプンプン怒って航空本部長の部屋へ入って来、
「永野さん、駄目《だめ》だ」
と言い、
「もう、しょうない。何か、オイ、甘い物無いか」
と、井上にチョコレートを出させ、一と口かじって、
「何だ。これ、あんまり上等じゃないな」
とおそろしく機《き》嫌《げん》が悪かったそうである。
二十六日には、仏印の「共同防衛」に関して、日本政府とフランス政府との間に、完全に意見の一致を見たということが発表された。
ヨーロッパでのフランスの弱い立場に乗じて、日本は仏印北部へは、すでに一年前に進駐していたが、七月二十九日、ヴィシーで「日仏共同防衛議定書」が正式に調印され、その日のうちに、日本の陸海軍部隊は仏領インドシナ南部――こんにちの南ヴェトナムの地に進駐を開始した。
日本の南方進出に神経質になっていたアメリカは、手早い反応を見せ、しっぺがえしのように、日本の在米資産の凍結を行い、八月一日には、広範囲な対日輸出禁止措置を取った。それは、綿と食料品だけを除外し、石油をふくむ一切の物資を、今後日本向けに積み出させないというものであった。
アメリカから石油が来なくなったら、我が国は四カ月以内に、南方の資源を求めて立ち上るか、屈伏するかしかあるまいというのは、液体燃料の貯蔵量、生産量、そして消費量から割り出された、当時内緒の、しかしかなり一般的な考え方であった。海軍は、いや応なしに、戦争の気構えを固めなくてはならなくなって来た。
八月の初め、軍令部一部一課長の富岡定俊は、課員一同に、戦争の準備を始めることを示達した。
航空主務参謀の三代中佐が、
「しかし、対米戦争には、全然自信が持てませんよ」
と言うと、富岡は色をなし、
「何を言うか。戦争は自信があるからやる、自信が無いからやらぬというものじゃない。戦争をやるかやらぬかは、政府の決めることだ。政府がさあ戦争だと言った時に、自信が無いから準備しませんでしたで、われわれの責任が果せると思うか。ベストを尽して戦う用意をしろ」
と言った。
艦隊でも、実戦そのままの激しい訓練が、さらにつづけられていた。そして、ハワイ空襲に関するかぎり、「実戦そのまま」ということが、もう一段細かな具体的なかたちを取りはじめた。
このころ、航空母艦「赤城」は、横須賀にいたが、「赤城」の飛行機隊は、訓練のため鹿児《かご》島《しま》に進出中であった。そのほんとうの意味は限られた少数の者しか知らなかったが、桜島を前にひかえた鹿児島港の地勢水勢が、パール・ハーバーによく似ていたのである。
その春まで「赤城」の飛行隊長をしていた淵《ふち》田美津雄《だみつお》少佐は、第三航空戦隊の参謀に転じて勤務中、八月になって突然、もう一度「赤城」の飛行隊長に戻《もど》れという妙な転勤命令を受け取った。
淵田は、間もなく進級の時機で、中佐の飛行隊長というのは前例が無い。何か格下げをされたようで、しかし左遷される覚えはなく、奇妙な気持で九七艦攻を飛ばせて鹿児島へ赴任してみると、鴨池《かもいけ》の基地に、のちに真珠湾の雷撃隊長になった村《むら》田《た》重治《しげはる》大尉が迎えていて、
「淵田さん。源田参謀が言うとったよ。今度は大飛行隊長主義だって。こりゃ、何かあるんですよ、きっと」
と、慰め顔に言った。その「何か」は、間もなく分る時が来た。
ある日淵田は、兵学校同期の源田実から、参謀長草鹿龍之介《くさかりゅうのすけ》の部屋へ呼ばれ、真珠湾攻撃計画の概要を打ち明けられた。山本司令長官から、
「攻撃隊は、誰に率いて行かせるつもりか?」
と質問を受けた源田が、
「私のクラスの淵田に行かせようと思います」
と答えると、山本が、
「オウ」
と会心の笑みを浮べたという話も告げられた。
淵田美津雄も、初めはこの奇襲作戦に反対をしたというが、不賛成は不賛成としても、これは荒武者淵田の血を沸かせるに足る話であったにちがいない。ただ、源田実が昭和四十二年十二月号の雑誌「現代」に発表した開戦秘話によると、目的をあかさずに攻撃隊の訓練をするのが一番むつかしかったという。
真珠湾では停泊中の軍艦を目標にすることになるので、訓練計画の中に停泊艦攻撃を組み入れると、ベテラン揃いの搭乗員《とうじょういん》たちは、
「俺たちを馬鹿《ばか》にするない」
とむくれたそうである。
淵田少佐は、自分の所属する「赤城」だけでなく、四月に編成された第一航空艦隊の、全空母の搭乗員を訓練する任務を負わされた。
それから、彼の指揮の下に、鹿児島湾一帯をパール・ハーバーに見立てての、寧日ない飛行訓練が始まった。
雷撃隊は、鴨池を離陸後、鹿児島市の北方に、高度二千メートルで集結し、針路を南にとって、一機ずつ、鹿児島港口に向け四十メートルまで降下せよ、海岸線を過ぎたら、高度をさらに二十メートルまで下げて魚雷を発射し、右旋回で急上昇する――というのが命令であった。
村田重治は、すべての飛行作業を背面飛行でやって見せることが出来るという、曲芸師のようなパイロットで、彼が先《ま》ず模範を示し、すでに練りに練り上げられた第一航空艦隊の操縦員たちが、これにつづき、来る日も来る日も、この危険な魚雷投下訓練が行われるようになった。
鹿児島の甲突《こうつき》川の河口、海に近い塩屋というところに、女郎屋街があった。この塩屋の女郎屋町が想定上のオアフ島ヒッカム飛行場で、湾内のブイがフォード島である。雷撃機は、搭乗員の顔の見える高度まで、女郎屋の上すれすれに下りて来て、海中のブイへ向って突っこんで行く。もう駄目かと思うところで、ヒラリと急上昇する。
廓《くるわ》の女たちは、前の晩自分が敵娼《あいかた》をつとめた男どもが、朝、いいところを見せようと、低空飛行で挨拶《あいさつ》に来るのだと思っていた。彼女らは軒から顔を出して、よく飛行機にハンカチを振っていた。
鹿児島市民の中には、海軍機が毎日々々、桜島めがけて海へ突っこんで行くこの異様な低空訓練を、不審に、珍しいものに見た人もいたし、塩屋の女たちと同様に考えて、
「海軍さァは、こんごろ、たるんじょいやッど」
と、非難の言葉を口にする者もあったということである。
そのころ、アメリカ太平洋艦隊の主力は、すでに真珠湾において聯合《れんごう》艦隊以上の出《すい》師《し》準備をととのえ、臨戦態勢に入っていた。その意図の一つは、明らかに日本に対する威迫と見えた。
山本は、
「向うがハワイに大艦隊を持って来て、日本に手がとどくぞと言ってることは、逆に見れば、こちらからも手がとどくことだからな。アメリカは、脅迫のつもりで、噛《か》みつかれやすいところへ出て来てるんだ。どうも少し安心し過ぎてるようだね」
と言い、戦争の場合、最初にハワイを襲うという考えを、一層固める様子であった。
軍令部にも、麾下《きか》の艦隊にも、強い反対意見があることは承知していて、時には焦《いら》立《だ》つらしく、
「オイ、あんまりとやかく言うなら、もうやめようじゃないか」
と、戦務参謀の渡辺に洩《も》らすこともあったが、その「やめよう」は聯合艦隊の司令長官を辞めようという意味で、ハワイへ行くのをやめるということではなかった。
軍令部の譲歩で、海軍大学校での図上演習だけは、黒島先任参謀の要望通り、九月十一日から十日間にわたって行われることになった。
従兵長の近江兵治郎は、鞄持《かばんも》ちで、山本について上京した。彼は、かねて司令部の副官から、
「下士官兵で知ってるのは、お前だけだぞ。絶対に口外してはならんぞ」
と言われていて、八月の末には休暇をもらい、郷里の秋田に帰省し、墓参りをすませ、病気の母親にも何も言うことは出来ず、ひそかに別れを告げて、出陣の覚悟を定めて戻って来ていた。
十日間の図上演習のうち、九月十六、十七日の二日がハワイ作戦特別図上演習にあてられ、目黒の海軍大学校には一般の図上演習会や研究会と切り離した特別室が設けられた。特別室への出入りは厳重に制限され、選ばれた約三十人の人々のみで、青軍日本赤軍アメリカの二た手に分れ、ハワイ攻防の机上のたたかいが繰返された。
開戦日は十一月十六日で、戦果は主力艦四隻撃沈、一隻大破、空母二隻撃沈、一隻大破、飛行機撃墜百八十機、ほかに巡洋艦六隻を撃沈破と判定された。
一方青軍の被害も大きかった。第一日に航空母艦二隻が沈み二隻が小破、飛行機百二十七機を失うと出ている。
しかし結果の如何《いかん》にかかわらず、依然として聯合艦隊司令部は強腰であり、軍令部は慎重で、実際にハワイへ行く機動艦隊の首脳部は消極的であったという。
会議のあと、黒島大佐は憮《ぶ》然《ぜん》とした面持《おももち》で、源田中佐に、
「軍議は戦わずですよ」
と言った。
反対論者の中に面と向って山本に強くはっきりそれを言い切れる人は少なかったが、第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介と第十一航空艦隊参謀長の大西滝治郎だけが例外であった。
草鹿は山本を尊敬していたが、
「麻雀《マージャン》とかポーカーとか、あんなものは大きらい。勝負事の時は呼ばれもしないが行きもしない。人はよく山本さんのところへ字を書いてくれと頼みに行っていたが、何だかオベッカ使ってるようで、自分は一度も頼んだことはなかった」
という硬骨漢で、
「真珠湾攻撃は敵のうちふところに飛びこむようなもの。国家の興廃をかける大戦争の第一戦に、そんな投機的作戦は採るべきではない」
と、強い反対意見を持していた。
彼は大西滝治郎とも度々議論を闘わし、段々大西を自分の考えの方へ引き寄せ、その結果海軍大学校での図上演習が終るころには、大西もはっきりした反対意見をいだくようになって来た。
九月末鹿屋基地で開かれた第一航空艦隊、第十一航空艦隊首脳部の打合せ会の席上、大西参謀長は、
「日米戦では武力で相手を屈服させることは不可能である。城下の盟を結ばせハドソン河で観艦式を行うことが出来ない状況で対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリッピンをやっても何処《どこ》をやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺《し》戟《げき》する作戦だけは避けるべきだ」
と所見を述べた。
南雲忠一長官以下、反対はほとんど全員が反対であったが、これほど明確に反対の理由を説明した人はほかに無かった。
元来大西はたいへんガムシャラな男であった。演習に出た飛行機が雨にあって引返して来ると、
「雨だろうが雪だろうが、とにかく頭を前へ向けて飛んどれ」
と怒り出す。
「あんな人、参謀長じゃなくて乱暴長だ」
と言われていた。
英語の「スタッフ・オフィサー」と「タフ・オフィサー」にうまく呼応しているが、この打合せの会合に列席した第一航空艦隊航空乙参謀の吉岡忠一は、ハワイ作戦計画のそもそもの立案者であり名うての「乱暴長」である大西滝治郎が、この時こういう意見を述べたのを卓見と思い、たいへん感銘を受けたと言っている。
結局両航空艦隊司令長官の連名で、「ハワイ奇襲作戦は思いとどまっていただきたい」という意見具申をすることになり、十月三日草鹿龍之介と大西滝治郎の二人が山口県室積《むろづみ》沖の「陸奥《むつ》」に山本を訪れた。聯合艦隊の旗艦はこの時「長門」から一時的に「陸奥」に変っていた。
山本は二人の参謀長が勢いこんでしゃべるのを黙ってしまいまで聞いた上で、
「だけど南方作戦中、東からアメリカの艦隊に本土の空襲をやられたらどうするんだ? 南方の資源地帯さえ手に入れば、東京大阪が焦土になってもいいと言うのか。とにかく僕《ぼく》が聯合艦隊の司令長官であるかぎり、ハワイ奇襲はどうしてもやる決心だから、色々無理や困難はあろうが、やるという積極的な考えで準備をすすめてもらいたい」
と言い、
「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといって、そう投機的投機的と言うなよ」
と、軽くいなすようなことを言った。
話しているうちに大西は少しずつ軟化し、やがて草鹿をなだめる恰好《かっこう》になって来たが、草鹿龍之介はそれでも諾《き》かなかった。
しかし二人が退艦する時、山本は舷門《げんもん》のところまで異例の見送りに出て来、草鹿の肩を叩《たた》いて、
「草鹿君、君の言うことはよく分った。だが真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対論を唱《とな》えずに、僕の信念の実現に努力してくれたまえ。作戦実施のために君の要望することは何でも必ず実現させるように努力するから」
と、真情をおもてにあらわして言い、とうとう草鹿も折れて、
「分りました。今後反対論は一切申し上げません。長官のお考えの実現に努めます」
と答えることになった。
伝えられるこの光景は、昔霞《かすみ》ヶ浦《うら》航空隊で若い中尉の三和《みわ》義勇《よしたけ》が、「甲板士官なんて真っ平ごめん」と言いながら、副長の山本の前へ出ると途端にその言いなりになって、「懸命の努力を致します」と誓って帰って来たのと、事の軽重はちがうがよく似ている。
もし真珠湾攻撃抜きで日本が戦争に入ったら、有利な早期講和の道が選べたかどうか、それほど甘いものではなかったかも知れないけれども、「乱暴長」大西滝治郎や硬骨漠草鹿龍之介の反対意見は、こんにちから見ても一応合理的な冷静な意見であろう。それが「僕の固い信念」という一と言、異例の舷門見送りでもろく崩れてしまったのは、日本的武人の性格とともに山本の人を惹《ひ》きつける不思議な力について考えさせられるものがある。
越えて十月九日からは、「長門」に戻《もど》った聯合艦隊旗艦の上で五日間にわたる図上演習が行われた。
麾下の各艦隊が戦備をおえて内海西部に集合して来たので、各級指揮官を集め作戦計画を徹底させるのが目的であって、指揮官たちの中にはこの時初めてハワイ攻撃の構想を聞く者もあった。
山本は、
「異論もあろうが、私が長官であるかぎりハワイ奇襲作戦は必ずやる。やるかぎりは実施部隊の要望する航空母艦兵力の実現には全力をつくす」
と言明し、図上演習が終って黒島首席参謀が上京する時には、
「ハワイ作戦を空母全力を以《もっ》て実施する決心は少しも変らない。自分は職を賭《と》しても断行するつもりだ」
と軍令部に伝えさせた。
軍令部でも総長の永野修身が、
「山本がそれほどまで自信を持っていうんなら、やらせてみようじゃないか」
と言い、伊藤整一次長、福留繁第一部長以下みなこれにしたがい、以後部内にハワイ行反対を唱える者はほとんどいなくなったのである。
しかし、山本は戦争前夜の闘将として、もはやハワイ空襲の熱だけにうかされていたのかというと、実は彼の心中その逆に近かったことを立証する手紙がある。
それは彼が「ハワイ作戦はどうしてもやる」と五十人を越す各級指揮官に「長門」の上で言明した図上演習中の十月十一日付、堀悌吉にあてて書いたもので、
「(前略)
一、留守宅の件適当に御指導を乞《こ》ふ。
二、大勢は既《すで》に最悪の場合に陥りたりと認む。山梨さんではないが之《これ》が天なり命なりとはなさけなき次第なるも今更誰が善いの悪いのと言つた処《ところ》で始らぬ話也《なり》。
独使至尊憂社稷《しゃしょく》の現状に於ては最後の聖断のみ残され居《を》るも夫《そ》れにしても今後の国内は六《むつ》かしかるべし。
三、個人としての意見と正確に正反対の決意を固め其《そ》の方向に一途邁進《まいしん》の外なき現在の立場は誠に変なもの也。之も命といふものか。
四、年度初頭より凡失により重大事故頻発《ひんぱつ》にてやりきれず。祈御自愛」
「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め」というような言葉は、彼は他の人には決して言わなかった。山本は苦しく、ほんとうに「やりきれ」ない思いであったであろう。ある意味で、一番ハワイに行きたくなかったのは、山本五十六自身であった。
これより前、九月十二日、山本は秘《ひ》密《みつ》裡《り》に、東京で首相の近衛文麿ともう一度会見している。
アメリカ合衆国を代表してルーズベルト大統領、日本を代表して近衛首相の二者が、ホノルルで落ち合って、両首脳じきじきの話合いで行詰った日米関係を打開しようという、結局実現しなかった日米ホノルル会談の構想なるものが、当時ある程度熟しかけていて、山本はこれの随員に予定されており、話はその問題が中心になったようであるが、近衛から、
「万一交渉がまとまらなかった場合、海軍の見通しはどうですか?」
と、前と同じ質問を受けて、山本の方も、
「それは、是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかしそれから先のことは、全く保証出来ません」
と、前回と同じことを答え、
「もし戦争になったら、私は飛行機にも乗ります、潜水艦にも乗ります、太平洋を縦横に飛びまわって決死の戦《いくさ》をするつもりです。総理もどうか、生やさしく考えられず、死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。そして、たとい会談が決裂することになっても、尻《しり》をまくったりせず、一抹《いちまつ》の余韻を残しておいて下さい。外交にラスト・ウォードは無いと言いますから」
と付け加えた。
海軍省経理局長の武井大助は、昭和十四年ごろ、風見章《かざみあきら》が上海《シャンハイ》で手に入れて来た英文の、日本の戦力に関する研究書を読んで、驚いて山本に見せたことがあった。
それは、あるロシヤ系の軍事評論家がニューヨークで出版した「When Japan Goes to War 」という本で、日本の軍需工場の所在地、その規模、名称、工員数まで、詳細を極めており、経理局として知らないことがたくさんあり、結論として、日本が対米戦争に立ち上ったら、国力の持続の限界は一年半、最後の半年は、第一次大戦末期のドイツと似た状況になるだろうと書いてあった。
山本は武井から、本の要旨の説明を受けて、
「僕の研究と同じだよ。日本は一年半しか持たないよ」
と言った。
山本のところには雑誌「ライフ」も送られて来ていて、注目すべき記事があると彼は赤線を引いてポイと雑誌を幕僚室に投げこんでいたそうで、近衛に対する返答は、こういう「研究」が根拠になっていたわけであるが、井上成美は、
「あの一言は、失敬ながら山本さんの黒星です」
と言っている。
「ああいう言い方をすれば、軍事に関して素《しろ》人《うと》で、優柔不断の近衛公が、とにかく一年半は持つと、曖昧《あいまい》な気持になるのは、分り切ったことでした。海軍の見通し如何《いかん》と聞かれて、何故《なぜ》山本さんは、海軍は対米戦争をやれません、やれば負けます、それで長官の資格が無いと言われるなら、私は辞めますと、そう言い切らなかったか。聯合艦隊四万の部下の手前、戦えないということは、さぞ言いにくかったにちがいないが、その情は捨てて、敢《あ》えてはっきり言うべきでした」と。
伊《い》藤正徳《とうまさのり》は、直接山本自身を指してではないが、その著「連合艦隊の最後」の中で、
「海軍は唯《た》だ正直一《いち》途《ず》に、対米戦争不賛成と言えばよかった。憐《あわ》れむ可《べ》し、一言『ノー』の勇気を欠いて無謀の戦争に引《ひき》摺《ず》られ、百戦功なくして遂《つい》に全滅の非運に会う。ああ、大艦隊はもはや再び還《かえ》らない」
と、例の美文調で慷慨《こうがい》している。
同じく伊藤正徳の本に出ている話で、高木惣吉も詳しく書いているが、明治三十三年北《ほく》清《しん》事変の時、山県有朋《やまがたありとも》内閣の下で、陸軍が厦《アモ》門《イ》出兵を画策し、先に上奏御裁可を得、台湾から兵力を出航させたあとで、時の海軍大臣山本権《ごん》兵衛《べえ》の諒解《りょうかい》を取りつけようとしたことがあった。
山本は真ッ向から反対し、桂《かつら》陸相大山参謀総長との間で、取り消せ、取り消せないともめた末、とうとう、
「海軍は、素姓の怪しい武装員を乗せた船が、海上を彷徨《ほうこう》しているのを認めた場合、海賊船としてこれを撃沈することがある。平素海賊船の取締りを厳しく命令している以上、大臣としてこれを咎《とが》める言葉はない。このへんのところは、篤《とく》と御承知の上で行動されたらよかろう」
と言って立ち上ってしまい、驚いた首相と陸相が山本を引きとめ、大山総長は宮中に伺《し》候《こう》して、先の允裁《いんさい》取消しを願わざるを得なくなり、問題は一日で解決したという。
同じ山本だが、五十六は其処《そこ》までは言い切らなかった。
彼が何故《なぜ》、「一年や一年半は、存分に暴れて御覧に入れる」というようなことを近衛に言ったのか、井上はそれを部下への思いやりと取っているが、やはり、鍛えに鍛えた力を、一度は実戦で試してみたいという、軍人特有の心理が、多少とも山本の心の中に働いたのではないであろうか。そして、長い間、「腰抜け」と罵《ののし》られて来たことへの反撥《はんぱつ》、郷党の人や、女たちに、「さすがは五十サンダテガニ」と思わせてみたいという心理が、働いたのではないであろうか。
もっともそれは、「やれと言うんなら、ずいぶんやって見せてやるがなァ」というようなむしろ山本の一種 childish な面のあらわれで、彼が戦争を望むようになったということではなかったであろう。
先の十月十一日付、堀悌吉宛の手紙の中にも、「現状に於ては最後の聖断のみ残され居るも」という言葉があるが、それから一週間後、第三次近衛内閣が総辞職し、東条内閣が出来て、嶋田繁太郎が海軍大臣に就任すると、山本は嶋田に長い手紙、(十月二十四日付)を書き、
「大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものなれば此《これ》を避け、此の際隠忍自戒臥《ぐわ》薪嘗胆《しんしゃうたん》すべきは勿論《もちろん》なるもそれには非常の勇気と力とを要し、今日の事態にまで追込まれたる日本が果して左様に転機し得べきか申すも畏《かしこ》き事ながらただ残されたるは尊き 聖断の一途のみと恐懼《きょうく》する次第に御《ご》座《ざ》候《さうらふ》」
と言っている。
山本は、陛下が終戦の時に示されたような非常の決断を、ひそかに期待していたように思われるのである。
豊田貞次郎が、四月の内閣改造で商工大臣になったあと、第二次、第三次近衛内閣から東条内閣へかけて、海軍次官はずっと沢本頼雄が勤めていたが、このころ沢本が、さし迫った時局問題で海軍畑の重臣の助言を求めようと、米内光政、岡田啓介の二人を訪問したことがあった。
当時、日本はこのままではジリ貧になるというジリ貧説が、開戦肯定論として盛んに行われていた。沢本のメモによると、この時米内は、
「ジリ貧という問題のみにて万事を決すべきにあらず、他に各種の状況を考うるを要す、特に時について考えざるべからず、欧洲情勢その他の関係もあり、時が解決する問題も多分に存す。過早に戦争に入るは大いに警戒を要す。
陸軍のいうことは全く当てにならず。閣議に列したる期間、幾回か立証せること、しばしば、この感を深くせり。大臣の明言せることも忽《たちま》ち変更せらるる例多し」
との意見を述べた。
高木惣吉の説では、日本陸軍というのはヤマタノオロチみたいなもので、どこが本当の頭かよく分らず、頭を二つや三つ、つぶしてみてもどうにもならなかったということである。
岡田は、
「ジリ貧ジリ貧というが、ジリ貧はドカ貧に優ること数等だ。陸軍は油は一年しかもたんとかにて、追っては海軍に油をもらいに来る恐れがあり、若い者が戦《いくさ》を急ぐのは無理も無いが、この際戦争に入るのは、慎《つつし》むを要する。国内問題は決心一つで、どうでもやれる。外国関係にてヘマをやると、国家百年の患《わずら》いとなる」
と言った。
しかし、この岡田啓介の談話にもうかがえるように、このころには海軍部内でも、ことに少壮の士官たちの間で、もはや開戦に踏切るべき時だという空気は、かなり濃くなっていた。
因《ちな》みに、当時日本が平時状態で必要とした石油の量は、年間海軍が二百万トン、陸軍が五十万トン、民需が百万トン、年間合計三百五十万トンで、こんにち私たちが輸入して使っている一億二千万トン(昭和四十三年度)の原油の、三十五分の一の燃料間題が、日米の和戦を決する直接の鍵《かぎ》になったのであった。
富岡定俊は戦後、
「海軍は油で戦争するようなもので、一生懸命になって油を貯《た》めこみ、開戦直前には貯蔵量が五百五十万トンになっていた。これが無ければ戦争は出来ない、いやでも応でもアメリカの言うことを諾《き》くより仕方がなかったのだが、結果的には苦心して貯めたこの五百五十万トンの石油が却《かえ》ってわざわいになったとも言える」
と言っている。
十月二十四日付、嶋田繁太郎あての長い手紙の中で、山本はまた次のように書いた。
「大勢に押されて立上らざるを得ずとすれば、艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局桶狭《をけはざ》間《ま》とひよどり越《ごえ》と川中島とを併《あは》せ行うの已《や》むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候(中略)一部には主将たる小生の性格竝《ならび》に力量などにも相当不安をいだき居る人々もあるらしく、此の国家の超非常時に個人の事など考うる余地も無之《これなく》且《か》つ元々小生自身も大艦隊長官として適任とも自任せず(中略)以上は結局小生技倆《ぎりゃう》不熟の為安全蕩々《たうたう》たる正攻的順次作戦に自信なき窮余の策に過ぎざるを以て他に適当の担当者有らば欣然《きんぜん》退却躊《ちう》躇《ちょ》せざる心境に御座候」
しかし、山本を「欣然退却」させようという人は、この時機にもういはしなかった。軍令部がハワイ作戦をほぼ聯合艦隊側の要望通り正式に認めたのは、この手紙の書かれた五日前、十月の十九日であった。
ところで、真珠湾攻撃には、爆撃よりも雷撃を主とした方がずっと効果が大きいことは明らかだが、ここに一つ技術的な難問題があって、真珠湾の水深が十二メートルしか無い。
日本海軍の魚雷には、機密保持上「第二空気」と呼称する酸素を推進薬とし、航跡を見えにくくした九四式魚雷などもあり、列国海軍の魚雷より一段進んでいたが、いくら優秀な魚雷でも重さ一噸《トン》もあるものを高速の飛行機から投下すると、深度が安定せず、一旦《いったん》五十メートルから時には百メートルも沈みこむ。太平洋の真ん中で艦隊決戦に使うならそれでよいが、浅い港の中だと魚雷が海底に突きささって用をなさなくなる。この点を何とか早急に解決する必要があった。
渡辺安次や実松譲《さねまつゆずる》と兵学校同期の愛甲文《あいこうふみ》雄《お》中佐は、二年ほど前からマニラ、シンガポール、香港《ホンコン》、ウラジオストック、真珠湾などの水深を調べ、水深十二メートルから二十メートルまでのそれら港湾内でも使える浅海用魚雷の研究指導にたずさわっていたが、十六年の一月、軍令部の三代参謀が愛甲のところへやって来、真珠湾攻撃の計画があることを打明けて、彼の研究している浅海魚雷の有効率を百パーセントに上げるようにという要望をした。愛甲中佐はこの時航空本部の魚雷主務部員であった。
彼は海軍航空廠《しょう》にいる同期の片岡政市とともに、魚雷に水平用ジャイロを増設し、尾部に魚のひれのような雷道安定《あんてい》舵《だ》を取りつけることを考案した。魚雷のどてッ腹にひれをつけるなどというのは従来の常識を破るもので色々反対もあったが、いいか悪いか実験は鹿児島で行われることになり、飛行総隊長の淵田美津雄は、鹿児島湾内の水深十二メートルのところに目印の旗を立て、自分の隊から、技倆《ぎりょう》上中下の三人のパイロットを選び出し、安定舵を取りつけた魚雷を雷撃機に抱かせて、次々発射させてみた。
浅深度発射法といって、雷撃機は高度を五メートルまで下げる。雷撃機として使われている海軍の九七式艦上攻撃機には、精密高度計がついているが、普通五メートルきざみの高度調整は必要が無く、目盛りは十メートル単位になっていた。それで、高度五メートルを維持するためには勘にたよる他《ほか》なく、搭乗員たちは今にもプロペラが海水を叩《たた》くかと、何度も思ったという。
結果は、三本のうち二本が、所定通りの深度を保って十二メートルの海中を無事走り抜け、技倆の一番劣る一人の落した魚雷だけが、海底に突っこんで、ブクブク泡《あわ》を吹き出した。
淵田は、
「昔一ノ谷の戦の時、源氏の大将義経《よしつね》は、ひよどり越の難所に、馬六頭追い落して、そのうち三頭が無事麓《ふもと》に下り立つのを見て、二分の一の成功で、ものどもつづけと、坂落しに平家の屋《や》形《かた》へ攻め込んだやないか。今、わしら、三分の二、成功した。大丈夫や、これならやれる」
と、部下のパイロットたちに言った。
雷道安定舵を取りつける魚雷の改造工事は、特急作業として長崎の三菱《みつびし》兵器製作所に発註《はっちゅう》されたが、最初の十本が出来上ったのが十月下旬で、残りの九十本分は機動艦隊の出撃に間に合わず、航空母艦「加賀」と数隻《せき》の駆逐艦とを佐世保に待たせて、千《ち》島《しま》の集結地まで航海中に整備を了《お》えるというぎりぎり一杯の話になった。
この浅海面用の航空魚雷は、先に述べた九四式酸素魚雷とは別で、二〇四キロの炸薬《さくやく》と四二ノットのスピードとを持つ九一式魚雷改二と呼ばれるものである。
魚雷攻撃には極度の近迫発射が要求され、訓練中雷撃機が近寄りすぎて目標艦のデッキにじかに魚雷を投げこむようなこともあったという。
ある日、淵田美津雄中佐は、これまでの鹿児島湾その他での訓練の成果について、
「どうや、長官、満足や言うてるか?」
と、聯合艦隊の佐々木航空参謀に質問した。
佐々木は、
「いや、実は未《ま》だやや不安らしい口吻《くちぶり》がある。この間も、攻撃の間合いが延びすぎる、もっと間をつめるように言っとけと言っておられたよ」
と答えた。
海軍でも、特に飛行科の士官の間には、相手が誰《だれ》であろうと自分の意見はズケズケ申し立てるという気風が強かったというが、淵田はそれを聞くと、
「そらいかん。司令長官に一抹《いちまつ》の不安が残ってたら、出て行く者《もん》かて気持悪い。よっしゃ、俺《おれ》、『長門』へ行って、直接長官と話して来る」
と言い、旗艦「長門」へ乗りこんで、山本に面会を求め、
「聞くところによると、攻撃隊について、長官には未だ一抹の不安がおありとのことですが、それではもう一度艦隊命令を出して、演習をやらせて下さい。航空母艦六隻全部使ってやっていただきたい。佐伯湾をパール・ハーバーと仮定して、こちらは足摺岬《あしずりみさき》あたりから接敵運動を開始し、最後の仕上げに佐伯を叩いて見せます」
と要求した。
出撃を間近に控えた、あわただしい時であったが、山本は、
「よし、やってやろう」
と言い、この最後の特別演習は、十一月三日の夜半すぎに発動され、四日早暁《そうぎょう》、実戦通り日出三十分前に、母艦群から第一次攻撃隊が発進し水平爆撃隊、降下爆撃隊、雷撃隊、制空隊の四群に分れて佐伯湾に殺到し、定められた行動を採ったあと母艦に帰投、演習は三日間にわたり概《おおむ》ね成功裡に終了した。
あとで淵田が、
「長官、満足してくれましたか?」
と駄目《だめ》を押すと、山本は、
「よろしい、満足した。君ならやれる」
と言って、彼を励ました。
このころには開戦はもはやほとんど避けがたいものとなり、開戦予定日も十二月八日と決っていた。聯合艦隊参謀長の宇垣纏《うがきまとめ》少将が「戦藻録《せんそうろく》」と題して書き残した日誌には、十一月三日明治節を迎えて、
「満艦飾仰ぎに来るか鯵《あぢ》の群」
という俳句とともに、
「陸軍との協定日取も八乃《ない》至《し》十日と決定の通知に接す。万事オーケー、皆死ね、みな死ね、国の為《ため》俺も死ぬ」
と記してある。
永野軍令部総長が陛下に「ぐったり」の奏上をしたのもこの日であった。
聯合艦隊特別訓練二日日の十一月五日には、
「山本聯合艦隊司令長官ニ命令
一、帝国ハ自存自衛ノ為十二月上旬米国、英国及蘭国ニ対シ開戦ヲ予期シ諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス
二、聯合艦隊司令長官ハ所要ノ作戦準備ヲ実施スベシ
三、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム」
との、永野軍令部総長の奉勅命令「大海令第一号」が出され、それに準拠して山本は同日付で、
「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」
という厖大《ぼうだい》詳細な「機密聯合艦隊命令作第一号」を発した。
ただし、文書の上では「昭和十六年十一月五日佐伯湾旗艦長門」となっているが、この「聯合艦隊命令作第一号」に最後の修正が加えられて各実施部隊に配布の手続きがとられたのは、十一月八日東京においてであった。
山本は十一月六日、宇垣参謀長以下の幕僚を従えて、打合せのため大分から飛行機で上京し、十一日まで滞在している。
松本鳴弦楼はすでに二六新報を辞めていたが、ある日首相官邸詰めの友人の新聞記者から、
「君、レンゴウカンタイが東京へ来ているネ、君会ったかネ?」
と電話で言われ、驚いて海軍省へ山本をさがしに出かけて行った。
顔《かお》見識《みし》りの受付に、
「これが此処《ここ》へ見えてるということですが……」
と拇指《おやゆび》を突き出して小声で言うと、受付もあたりを憚《はばか》りながら、
「ああ、見えてます。ついさっき見えられました」
と小声で答えた。
それで名刺を給仕に持たせてやると、意外にもすぐ会うという返事で、松本賛吉が応接間に通されてわくわくしながら待っていると、間もなく靴音《くつおと》が聞え、
「やあ」
と山本が気軽に入って来た。
「どうしてまた、僕が此処へ来てるということを知ったかネ?」
と山本は言った。
ずいぶん肥《ふと》って陽《ひ》にやけたなと、松本は思ったそうである。思いがけぬ面会がかなって、聞いてみたいことはいくらでもあった。少し落着きを取戻《とりもど》したところで、まず、
「ところで閣下、今度の対米一件はどういうことになりますか?」
と切り出したが、
「どうかね? 一体どういうことになりますかな、今度の問題は」
山本は言い、
「そうそう、たびたび手紙をありがとう」
と、質問をはぐらかしてしまった。
去る九月十二日の近衛との会談について水を向けると、
「近衛さんの趣味だな、あれは」
と無造作な返事で、山本長官の沈黙が千鈞《せんきん》の重みがあるというような世辞を松本が言うと、「いや、今の日本の海軍では、何人《なんぴと》が長官になっても沈黙だね。責任ある者は沈黙するんだ」
と、山本は答えた。
話はそれでも段々核心にふれて来た。
「対米英戦に対する長官としての自信如何《いかん》」という松本の問いに対して、山本は、
「自信アリ、と言っても、なにぶん戦争には相手があるんだからな」
と言い、
「むろん昨年からそれに対する万全な準備はしておいた。それはしておいたのだ。けれども、それはあくまでこちらの心構えの問題で、準備が出来たからといって有頂天になってはならんのだ。相手があるという一事を、あくまで忘れてはならんのだよ」
そう補足し、
「よく分りました。それでは切に閣下の御健闘御自愛を祈ります」
と言う松本に、
「ありがとう」
と一と言答えて立ち上った。
聯合艦隊作戦命令第一号の発令、つづけて第二号「第一開戦配備」の発令、陸軍大学校における陸軍との作戦協定調印等上京中の要務を終った山本は、十一月十一日の午後横須賀航空隊から輸送機で岩国経由「長門」へ帰って来た。
そして翌々日の十一月十三日、南遣艦隊を除く各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを岩国海軍航空隊に参集させ、作戦命令の説明と打合せとを行い、開戦概定期日は十二月八日であること、機動艦隊主力は千島列島択《エト》捉《ロフ》島の単冠《ヒトカップ》湾に集結ののち、十一月下旬同湾を抜錨《ばつびょう》し北方航路をとってハワイに向うべきことなどを示した。
「但《ただ》し」
と山本は付け加えた。
「目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、出動部隊に引揚を命ずるから、その命令を受けた時は、たとい攻撃隊の母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」
すると、先ず、機動部隊の司令長官南雲忠一中将が、
「出て行ってから帰って来るんですか? そりゃァ無理ですよ。士気にも関するし、そんなことは、実際問題としてとても出来ませんよ」
と反対し、二、三の指揮官のこれに同調する者があって、中にはそれではまるで、出かかった小便をとめるようなものだという意見も出た。
これに対し、山本は顔色をあらためて、
「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今《ただいま》から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」
と言った。言葉を返す者は、一人もいなかったということである。
またこの日、会議に先だって山本が述べた訓辞が、たいへん感動的なものであったと伝えられている。その内容はこんにち残っていないが、「全軍将兵ハ本職ト生死ヲ共ニセヨ」と彼が言ったのは多分この時のことであろう。
航空本部長から第四艦隊司令長官に変った井上成美中将は、聯合艦隊の作戦会議に顔を出すのはこれが初めてであった。一同勝栗《かちぐり》とするめで祝杯をあげ、記念撮影をして解散になったあと、井上が岩国航空隊司令の部屋へ入ってみると、岩国の深川という料亭《りょうてい》で開かれる夜の慰労会までの時間を持て扱いかねたように、山本が一人ぽつねんとソファに坐っていた。
「山本さん」
と、井上は声をかけた。
「とんでもないことになりましたね。長谷川(清)さんは、大変なことになるぞ、工業力は十倍だぞと言っておられましたよ。だけど、大臣はどういうんですかね。発《た》つ時、岩国へ行って来ますと言って、大臣にも挨拶《あいさつ》をしたんですが、嶋田さんと来たら、ニコニコして、ちっとも困ったような様子じゃありませんでしたよ」
井上がそういうと、
「そうだろ。嶋ハンはオメデタイんだ」
と、山本は悲痛な顔をして見せた。
しかし、井上の知るかぎり、山本が戦争反対を匂《にお》わす言葉を口にしたのは、これが最後であった。陛下の胸中はよく分っているとはいえ、すでに「聖断」が下ったのであって、少なくとも公《おおやけ》にはこの日以後、山本は一切の反戦論を口に出さなくなったと言われている。
その翌日、十一月十四日の午後、郵船北米航路の龍《たつ》田《た》丸《まる》が横浜へ帰って来た。龍田丸には、カリフォルニヤからの日系移民の引揚者七百数十人をふくむ、各地からの邦人引揚者が大勢乗っていたが、その中に、駐英海軍武官の近藤泰一郎少将もいた。
近藤は、山本が次官時代、海軍省先任副官で高松宮着任奉迎の問題で山本に叱られた人である。
横浜へは、松永敬介が迎えに出ていた。松永も、前に書いた通り山本次官の下で副官兼秘書官を勤めた人で、そのあと、やはり英国駐在を命ぜられてロンドンで暮した経験を持っている。松永は中心性網膜炎という眼病をわずらっていて、ロンドンにいる時それが一時悪化したことがあった。山本が心配して、
「かかるなら英国一の医者にかかれ」
と多額の金を送って来てくれたという。
中心性網膜炎が原因ではなかったが、松永は在勤一年ほどで昭和十四年の十月に帰国していた。
それで彼には、近藤泰一郎がどんな考えを抱いて帰って来るか、充分想像出来たし、一方、海軍省内の最近の空気もよく分っていた。
松永は近藤に、御前会議もすんで、事はもう大体決ってしまっている、省内の空気はこんな風で、海軍省で任務報告をやる時は、そのつもりでやるようにと、忠告した。
近藤はロンドンにいて、ドイツ空軍の爆撃をずいぶん受けたが、日本で思っているほど英国は参っていない。爆撃だけで英国が音《ね》を上げるとは、到底思えない。英国を屈伏させるには、やはり英本土への上陸作戦が必要だが、ドイツにその力は無いように見える。英国商船のドイツ潜水艦に撃沈されて消耗して行く数字を見ていても、最近はそれが上昇カーブをたどらず、むしろ減って行く傾向にある。もし英国が間もなく参るという希望的観測を基にして、日本が政策を決定したら、必ず間違いがおこると近藤は考え、度々ロンドンから本省へ電報を打った。しかし同じ海軍武官でも、ベルリンの武官から出ている電報は、全くニュアンスがちがっていた。
海軍省や軍令部の責任者は、少なくとも双方の情報を、同じウエイトで秤《はかり》にかけて判断しなくてはならない筈《はず》だが、彼らはもう、ベルリン電を八十パーセント信用するとすれば、ロンドンからの武官電は二十パーセントしか信じないという風になっていた。
しまいには、東京から近藤のもとへ言づてがあって、あまり同じ調子の電報ばかりよこすなと言って来た。近藤は、考えを同じゅうする陸軍の武官と二人で、憤慨したものであった。
やがて帰朝命令が出て、彼がアメリカまわりで帰国の途につく時、ポルトガルのリスボンで、ニューヨーク行のチャイナ・クリッパー機に乗りつぐのに約一週間の待ち時間があり、近藤は欧洲各地の駐在海軍武官に声をかけて、リスボンに集まってもらい、情報の交換と、世界情勢についての討論を行なった。その時も、ベルリン駐在武官の横井忠雄やローマ駐在の光延《みつのぶ》東洋の言うことは、近藤の考えとはずいぶん調子がちがっていたという。
近藤は松永の話を聞いてがっかりした様子であったが、
「とにかく言うだけのことは言う」
と言った。
だが、「言う」機会すらすぐには与えられなかった。
普通、在外武官が三年近くも勤務して、少将に進級して帰って来れば、築地あたりで一席慰労の宴が開かれ、海軍省では早速その人の帰朝報告を中心に、活溌《かっぱつ》な質疑応答の会が催されるのが慣例であるのに、近藤は一向、何もしてもらえなかった。クラスの者が、見るに見かねて一と晩すき焼で御馳《ごち》走《そう》をしてくれたそうである。
四、五日して、やっとお義理のように、大臣室で近藤の任務報告会が開かれることになった。
嶋田海軍大臣、沢本次官、永野軍令部総長、伊藤次長以下の前で、近藤は約一時間にわたって、ロンドン爆撃の目撃談や、ロンドンの市民生活の模様、軍事上の問題についても数字を挙げ、詳しく話し、結論として、英国はなかなか参らない、それを充分含んだ上で帝国海軍としての方針をお樹《た》て願いたいと言ったが、満座シーンとしていて、誰一人質問する者が無かった。報告会がすんで、近藤が軍令部次長の部屋に入ってみると、伊藤整一中将が、ソファに黙然とかけて、頭をかかえこんでいた。
しばらくして伊藤は、
「君の話、聞いたよ。あの通りかネェ」
と、浮かぬ顔をしてただ一と言、そう言った。
そのころ、ハワイ攻撃に参加する各艦艇は、すでに可燃物、私物、装飾品類の積下ろしや、兵器弾薬、食糧の最後の積込みを終り、陸上基地で訓練にはげんでいた飛行機隊も母艦に収容を終っていた。北を通るので飛行機の補助翼、方向舵《だ》、昇降舵はすべて耐寒グリースに塗り変えられた。
原則として副長以下は、艦隊が何処《どこ》へ向うのか誰も知らなかった。防寒服と防暑服とを一緒に渡されて、兵隊たちは、
「一体俺《おれ》たちゃ、北へ行くのか南へ行くのか、どっちなんだ?」
と不審がった。
やがて各艦はそれぞれ単艦で、ひそかに単冠湾に向けて集結を開始した。
出撃の前日十一月十七日、長官坐乗の「長門」は佐伯に廻航《かいこう》され、山本は機動部隊旗艦「赤城」艦上での南雲長官以下の壮行の会に列した。
宇垣纏の「戦藻録」には、
「飛行甲板にて、山本長官挨拶を述べらる。切々、主将の言、肺《はい》腑《ふ》を衝《つ》く。将士の面上、一種の凄《すご》味《み》あるも、一般に落付《おちつき》あり」
と記してある。
祝杯をあげる時、山本はぶっきら棒に、
「征途を祝し、成功を祈る」
と言っただけであったが、その顔つきは悲痛に、むしろ沈鬱《ちんうつ》に見えたという。
「赤城」が佐伯湾を出たのは十一月十八日の朝九時であった。全艦船は、出港と同時に、完全な無線封鎖を実施した。情報や命令の受領は、東京第一放送通信系だけに頼ることとし、「赤城」もこれ以後、聯合艦隊司令部や陸上との、自分の方からの接触を一切断った。
十九日昼過ぎ、針路北五十度東で、東京のはるか南を通過し、それより三日後の二十二日朝、「赤城」は単冠湾に入った。
南千島の国後《クナシリ》島のすぐとなりの、細長い島が択捉島で、島のちょうどまん中、南側のところにあるのが、単冠湾である。湾から西に見える山は単冠山で、単冠山は裾《すそ》まで真白に雪をかぶっていた。
「赤城」より先に到着していた艦もあり、あとから入って来て定めの地点に投錨《とうびょう》する艦もあったが、浅海面魚雷をたくさん積み一日おくれで入港して来た「加賀」を最後に、機動部隊の主力が全部揃《そろ》った。
択捉島の小さな漁村では、その前に、外部との一切の交通、通信連絡が断ち切られていた。
「赤城」の飛行長であった増田正吾は、湾内水黒く、折々雪まじりの寒雨が降り来って、蕎麦《そば》屋の二階にひそかに集まる赤穂浪《あこうろう》士《し》のような気持がしたと、日記の中に書きのこしている。
第十章
河合《かわい》千代子《ちよこ》は、そのころなかなか手に入りにくくなっていた寝台券がやっと取れたので、山本とかねての約束通り、二十五日の晩十時十分東京駅発の下関行急行に乗って山本に会いに宮島へ向った。
宮島口の駅に背広姿の山本が迎えに出ていて、二人は連絡船で厳島《いつくしま》へ渡り岩惣《いわそう》に投宿した。
岩惣は、紅葉谷公園の渓谷にそうて点々と離れ座敷のある風雅な古い旅館で、二人はせせらぎに掛けた赤い小橋の上手の小ぢんまりした一室に入り、其処《そこ》でひそかな一夜を過した。
女連れではあるし時機が時機で、山本は宿《やど》帳《ちょう》に現職本名を書かなかったらしい。新潟県の温泉場などには、
「長岡《ながおか》市坂之上町二丁目
山本長陵 五十二歳 船乗業」
というような宿帳が残っているそうだから、或《あるい》はそういう書き方をしたかも知れない。
「長陵」は山本が詩など作る時にちょいちょい使った長岡の土地にちなんだ号である。それで初めのうち、岩惣ではこの客に何も格別の注意を払わなかった。
しばらくして主人の岩村平助は紅葉谷を散歩している山本を見かけたが、顔かたちが、別府の旅館「なるみ」の主《あるじ》で以前岩惣の板前を長くつとめた高岸という男によく似ている。おまけに道案内の女中が、高岸の娘のゆき子であった。高岸は戦後亡《な》くなって、このゆき子が今別府「なるみ」の当主であるが、彼女はそのころ旅館業の見習い兼手伝いとして岩惣に預けられていた。
てっきり高岸親娘《おやこ》が歩いているのだと思いこんだ岩村平助は、
「やあ、よう来ましたのう。久しぶりじゃからゆっくりして行きなさいよ」
と声をかけてから、はッと気がつき、
「おい、俺《おれ》はたいへんなしくじりをした。ありゃ高岸じゃあない。海軍の山本五十六大将じゃ」
と赤くなって帳場へ帰って来た。
女将《おかみ》の静栄もようやく気がついたが、こういう時に聯合《れんごう》艦隊の司令長官がお忍びで厳島へ来ていることに異様な感じを受け、店に三十年近くいる古番頭と二人、
「これはきっと何かあるよ。極秘にしときましょうね」
と言い合った。
部屋へ挨拶に行ってみると、山本は千代子と差し向いで黙々と花を引いていたそうである。
ちょうどこの日(十一月二十六日)の朝、南《な》雲《ぐも》忠一の機動艦隊は、錨《いかり》を捲《ま》いて集結地の択捉《エトロフ》島を出て行った。
静かに波を切り始めた艦首に、錨鎖《びょうさ》洗いの放水を浴びながら、単冠《ヒトカップ》湾底の泥《どろ》をつけた錨が揚って来るのを、各艦の将兵は、或はこれが見収めの日本の土の色かも知れないと、感慨を以《もっ》て眺《なが》めていた。
機動部隊の編制は、空襲部隊が第一航空戦隊「赤城」、「加賀」、第二航空戦隊「蒼龍《そうりゅう》」、「飛龍」、第五航空戦隊「瑞鶴《ずいかく》」、「翔鶴《しょうかく》」の六隻《せき》の航空母艦、警戒隊が第一水雷戦隊の軽巡「阿武《あぶ》隈《くま》」に率いられる第十七駆逐隊の「谷風」、「浦風」、「浜風」、「磯風《いそかぜ》」、第十八駆逐隊の「不知火《しらぬい》」、「霞《かすみ》」、「霰《あられ》」、「陽炎《かげろう》」、「秋雲《あきぐも》」と九隻の駆逐艦、支援部隊が第三戦隊の「比《ひ》叡《えい》」、「霧島」二隻の戦艦と、第八戦隊「利根《とね》」、「筑《ちく》摩《ま》」二隻の重巡洋艦、補給部隊として第一補給隊の極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸、第二補給隊の東邦丸、東栄丸、日本丸の七隻の特務艦、そのほか哨戒隊《しょうかいたい》の第二潜水隊「伊《イ》十九」、「伊二十一」、「伊二十三」の潜水艦が三隻加わり、総勢三十一杯で第一警戒航行序列のいわゆる輪型陣を形成し、その先頭と後尾とはやがてほぼ名古屋から大阪までの距離にひろがった。
機動部隊の総指揮官は、南雲忠一中将で、旗艦は「赤城」であった。
ハワイに向うこの機動艦隊が、単冠出港後六日目、東経百八十度の日《ひ》附《づけ》変更線を通過した十二月一日、東京では午後二時から、宮中東一の間で東条内閣の全閣僚、原枢密院議長、永野軍令部総長、杉山参謀総長らが出席して、最後の御前会議が開かれた。
東条英機《とうじょうひでき》が議事進行を司り、総理大臣としての所信を述べ、永野修身が陸海軍の作戦部を代表して作戦上の説明を行い、原枢密院議長から数項目の質問があって、政府と統帥《とうすい》部《ぶ》とがそれに答え、こうして日本の、米英蘭三国に対する開戦が正式に決定した。席上、天皇からは全く御発言が無かったと伝えられている。
この日山本は、海軍大臣の召電で、瀬戸内海柱島《はしらじま》泊地の旗艦「長門」から岩国経由列車で東京へ向った。
翌二日、彼は打合せのため海軍省へ出向き、用事をすませたあと、武井経理局長の部屋へ顔を出した。
武井大助は、山本が「負けるに決った戦争する奴《やつ》があるもんか」と言うのを前に何度となく聞いているし、自身としても似よりの考えであるし、
「一体、山本さん、どうするつもりですか?」
と聞くと、
「鍵《かぎ》をしめろ」
と山本は言い、局長室の鍵を閉じさせて、
「僕《ぼく》は、あれだけ戦争に反対して、本来なら海軍辞めるべきなんだが、どうしても辞めるわけに行かなかった。こうなったら、一つの手は、とにかく南洋に潜水艦をうんとばらまいて、相手に蜂《はち》にたかられているような思いをさせることだ。蜂にブンブンやられたら、牛でも馬でも、参りはしないが閉口するだろう。アメリカは、例の通り世論の変り易《やす》い国だから、こんな熊《くま》ン蜂みたいなものと戦ってもしようがないという気持を、早く相手に起させるよりほかは無い」
そう言った。
この熊ン蜂理論はしかし、あとから見れば明らかに、日本の潜水艦戦力に関する山本の過大評価であった。
山本はさらに、
「それから結果を見たら、君は驚くかも知れないが、初めに、こちらも半分ぐらいやられる覚悟で、思い切ったことをやってみるより仕方が無いんだ」
と、真珠湾奇襲を匂《にお》わすようなことも言った。
この日、聯合艦隊の各部隊には、午後五時三十分、山本の名前で、
「新高山《ニイタカヤマ》ノボレ 一二〇八」
という電報が発せられた。
これが、「X日を十二月八日午前零時と定め、開戦」の意味であることは、周知の通りだが、一般に誤って解されているように、この短文そのものが暗号で、「ニ、イ、タ、カ、ヤ、マ、ノ、ボ、レ」とモールス符号が打たれたわけではない。機密保持を二重にするためと、電文を簡略化するために、艦隊では各作戦毎《ごと》の隠語書が作られるのが例で、「新高山ノボレ」も、開戦に関する隠語書の中の一つの隠語で、謂《い》わば電信略号の如《ごと》きものであった。各艦隊への通信に使われていたのは、主として五桁《けた》の数字の乱数暗号である。
これからのち、山本の戦死にいたるまで、暗号の問題は、かなり大きな蔭《かげ》の問題になって来るので、書き添えておけば、「D暗号」「呂《ロ》暗号」「波《ハ》暗号」など海軍の乱数暗号は、五十音順に約五万語から十万語の語彙《ごい》を収録した発信用暗号書と、同じだけの言葉を00000から99999まで数順に並べ直した受信用暗号書と、使用規定と乱数表の四冊から成っていた。乱数表というのは、全く無意味で無作為な五桁の数字を、何万と収めたものである。
発信用暗号書をひいて、「ニ」の欄に「新高山」という地名を見《み》出《いだ》し、それに対応する暗号符字が、仮に40404であったとすると、暗号員は使用規定にしたがって、乱数表の一定の頁《ページ》のある行の、ある五桁の乱数を選び、それが仮に56789であったとすれば、40404に56789を加えて、――但《ただ》し、実際の算術のように繰上げはしないので、96183という答を得る。この96183が、実際に暗号として打電される「新高山」である。「ノボレ」も「一二〇八」も、同様の操作で暗号化される。
「新高山ノボレ」をふくむ、あらゆる命令や情報は、海軍省構内にある東京通信隊の第一放送系の電波にのせられて、出先の艦隊に届けられていた。
無線通信のやり方は、普通、一局がコール・サインで相手の局を呼び、その出現応答を待って通信を開始し、相手が了解の符号を送って来て終了するのであるが、放送系というのは、ラジオの放送と同じく、中央局の一方的な電波出しっぱなしの方式である。
どのように高度の暗号を使っていても、電波を出せば、無線方位測定によって、その艦の所在地点は突きとめられる。コール・サインに関しても、これを隠す色々な方法が採られていたけれども、相手に悟られている可能性は大きかった。たとえ、呼出符号が相手に分っておらず、暗号が解かれておらず、ただ電波がとらえられて、発信艦船の位置が分明になっただけでも、その電波をオッシログラフにかければ、無線機の癖があって、「長門」の電波と「赤城」の電波とでは、かたちがちがう。
要するに、一と言口をきいたら、機動部隊の意図は曝《ばく》露《ろ》するわけで、南雲艦隊の各艦船は、無線機のキイを封印し、或は取りはずし、耳だけ聞える唖《おし》になって、ハワイに向っていたのである。頼りにするのは、東京通信隊の第一放送のみで、これはずいぶん不安なことであった。
万一の聞き逃し、受信不能を防ぐために、東京通信隊は、キロサイクルで、一万台、八千台、四千台と、三つの有効到達距離のちがう短波と、潜水艦が露頂潜航状態で受信し得る超長波と、四つの波を使って、同じ暗号電報を送信していた。
十二月二日の夜、機動部隊は、作戦緊急信の指定のある、東京からの短い数字電報を受信した。暗号士が、それを翻訳して文章に直し、受信用紙に、「新高山ノボレ 一二〇八」と書きこんで、暗号長に届けに行き、暗号長はそれを通信参謀に届けた。そして、南雲長官以下、賽《さい》がついに予定通り投げられたことを知った。
「赤城」の増田飛行長の残した日記には、この日の欄に、
「すべては決定した。右もなく、左もなく、悲しみもなく、また喜びもなし」
と記してある。
機動部隊がこの電報を了解したころ、山本は、三十間堀《さんじっけんぼり》の梅野島へ、こっそり千代子を訪ねて行った。
千代子の梅龍は留守で、抱えの妓《こ》が、
「山下さんのお邸《やしき》へいってらっしゃいます。堀さんが御一緒なのよ」
と告げた。
その夜、高輪《たかなわ》の山下亀三郎の家では、木戸幸一、原嘉道、堀悌吉らが招かれ、新橋の八重千代と梅龍とが侍《はべ》り、山澄という道具屋が入って、茶会席の集まりが催されていた。堀悌吉は、前日の十二月一日、浦賀船渠《ドック》の社長に就任したところで、多分その祝いの会であったと思われる。
山本は、山下の邸へ電話をかけて千代子を呼び出し、極秘で東京へ出て来ていること、堀に、今夜中に会いたいと伝えてくれということを言った。
梅龍から耳打ちをされた堀は、その晩八時ごろ、山本の指定した中村家へやって来た。山本は畳の上に横になっていたが、その面上に落胆の蔭《かげ》はおおうべくもなかったと、堀は語っている。
「どうした」
と、堀悌吉は声をかけた。
「とうとう決ったよ。あちらは、二十六日に飛んだそうだ」
山本は答えた。
「あちら」というのは、陸軍の最高指揮官寺《てら》内寿一《うちひさいち》大将のことであった。
「岡田さんなんか、ずいぶん言ったそうだがネ」
と、山本はまた言った。
「効果は無く、万事休すか?」
「うん。万事休すだ。もっとも、もし交渉がまとまったら、出動部隊をすぐ引返さすだけの手は打ってあるが、どうもね」
「それで、拝謁はいつだ?」
「あすだ。あさっての朝、飛行機で発《た》つ」
「よし。送って行こう」
「出発は、大臣官邸からだからね」
堀は三本指の山本をよく、
「オイ、鳥」
と呼んでいた。
「オイ、鳥。起きろ。商売々々」
と、寝ている山本を叩《たた》き起しては麻雀《マージャン》をした仲であったが、二人とも昔のようにふざけ合う気にはなれず、そのあと長い間、黙し勝ちに向い合っていた。
翌十二月三日、山本は参内して、天皇陛下に拝謁し、
「朕《チン》ココニ出《スイ》師《シ》ヲ命スルニ方《アタ》リ卿《ケイ》ニ委スルニ聯合艦隊統率ノ任ヲ以テス。惟《オモ》フニ聯合艦隊ノ責務ハ極メテ重大ニシテ、事ノ成敗ハ真ニ国家興廃ノカカル所ナリ」云々《うんぬん》
という勅語を賜《たま》わった。
そのあとで、山本が全艦隊に出した電報によると、彼は、
「謹ミテ大命ヲ奉ジ、聯合艦隊ノ将兵一同、粉骨砕身誓ツテ出師ノ目的ヲ貫徹シ、聖旨ニ応《コタ》へ奉《タテマツ》ル旨《ムネ》」
奉答したとなっている。
戦を好まなかった君主と、戦の非を最もよく知っていた臣下とが、儀式としてこういう言葉のやりとりをしている胸中は、互いに複雑なものがあったであろう。
この奉答文は、宇垣参謀長の起案したもので、前の日経理局長室に武井大助を訪ねた時、山本は、
「どう思う?」
と、その草案を武井に見せている。武井が一読して、
「私なら、こうは申しませんね」
と言うと、山本は、
「うん。俺も、こうは言えないよ」
と言ったという。武井の想像では、一応型通りのものを読み上げたあとで、山本は陛下に、もう少し自分のほんとうの気持のこもったことも申し述べたのではないかということである。
その晩、山本は何カ月ぶりかで、突然、青《あお》山南町《やまみなみちょう》の自宅へ帰った。妻の礼子も、四人の子供たちも、家にいて、驚いて彼の帰宅を迎えた。礼子は、よく肥《ふと》った立派な体格にも似ず病気勝ちで、この日も床に臥《ふ》せっていたが、すぐ起き出して来た。
家族は、珍しく六人揃《そろ》って夕食を共にし、その夜山本は、これも珍しく、妻のもとで泊った。
四日の朝は、九時から、海軍大臣官邸で、秘《ひそ》かに山本の壮行の会が開かれた。御差《ごさ》遣《けん》の侍従武官鮫島具重《さめじまともしげ》中将、高松宮殿下、伏見元《げん》帥《すい》宮御使細谷大佐、大臣、軍令部総長、省部関係者のほか、近親者代表として、堀悌吉が列席した。
堀は、あらかじめ次官の沢本頼雄の了解を得てやって来たのであるが、海軍は、一旦《いったん》予《よ》備《び》役《えき》に編入された者に対し、かなり閉鎖的でつめたいところがあり、中には堀をみとめて、
「堀さん、どうして?」
と異様な顔をする者もあった。
白布の上のグラスに、御下賜《ごかし》の葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》がつがれ、
「山本長官の壮途を祝しまして」
と、嶋田繁太郎の音頭で、一同が乾杯した。
飛行機で発つ予定が、都合で午後三時の特急に変更になったので、山本はそのあと、私服に着更《きが》えて、一人、梅野島の千代子のところへ出かけて行った。
中村家の敏子は前から山本に頼まれていた画《が》仙《せん》紙《し》を買いに鳩居堂《きゅうきょどう》へ行き、「呉局気付軍艦長門山本五十六様」と送り先を書いて、その帰り梅野島へ寄ってみると、思いがけず当の山本が千代子と差し向いで、おそ昼の茶漬《ちゃづけ》を食っていた。山本の買って与えた薔薇《ばら》の花が、花《か》瓶《びん》いっぱいにさしてあった。
其処《そこ》へ鳩居堂の使いが追いかけて来、郵便局でこんな漠然《ばくぜん》とした宛先《あてさき》じゃあ受付けられないと言ったという。敏子は、
「それじゃちょうどよかったわ」
と画仙紙の包みを渡し、しばらくして、女中にタクシーを拾わせて山本と一緒に外へ出た。
山本は、顔が目立たないように、マスクをし、片手に紫の縮緬《ちりめん》の風呂《ふろ》敷《しき》包みを、大事そうにかかえていた。敏子が持とうとすると、彼は、
「いや」
と言って、それを離さなかった。風呂敷の中には、勅語か御沙汰《ごさた》書《しょ》のような物が入っているらしく思われた。
そして山本は敏子と別れ、円タクで銀座から東京駅へ向った。
駅頭の見送り制限がきびしくなっていて、堀悌吉は一と足先に横浜駅へまわり、駅長事務室に頼みこんで、特に入場券を売ってもらい、プラットフォームへ出て、山本の乗った列車が入って来るのを待った。
下関行の特急「富士」が、定刻通り、三時二十六分、横浜のフォームに着くと、展望車のデッキに、山本が立っていた。一分の停車時間の間に、堀と山本とは短く言葉を交わした。
発車のベルは列車が着くとすぐ鳴り始め、堀が山本の手を握って、
「じゃ、元気で」
と言うと、山本は、
「ありがとう。――俺は、もう帰れんだろうな」
と答え、動き始めた列車のデッキから、
「千代子さん、どうかお大事に」
と言った。
この「千代子さん」は、病中の堀夫人のことである。
二年四カ月前、聯合艦隊司令長官に補せられて赴任する時に較《くら》べてまことに淋《さび》しい出立であった。
堀悌吉にとっては、これが、生涯《しょうがい》の友であった山本五十六の見おさめになった。
「富士」には偶然、長岡の風呂屋の友達、梛《なぎ》野《の》透の弟の厳《いつき》が乗っていた。梛野厳は、陸軍の軍医で、北支方面軍の軍医部長として北京《ペキン》へ赴任するところであった。列車が浜松を過ぎたころ、山本は梛野の寝台車へやって来、普段の調子で、長岡のことなど一時間あまり、世間話をしてから、
「それでは、明朝早いのでこれで失礼します」
と言って、自分の寝台の方へ帰って行った。梛野はその時、真珠湾のことも、開戦のことも知らず、北京へ着いてニュースを聞いて初めて、「ハハア」と思ったという。
「富士」の宮島口到着が、翌朝六時九分。柱島錨地《びょうち》にもよりの山陽線の駅は岩国だが、「富士」は岩国にとまらない。山本が宮島口で下りて岩国経由で「長門」へ帰ったか、広島から呉まわりで帰ったかは分らないけれども、宇垣纏の「戦藻録」には、
「十二月五日 金曜日 晴
午前八時半長官帰艦セラル」
とある。
山本から、陛下に拝謁した折の模様を聞かされて、宇垣参謀長は、
「上、陛下ニ於《オ》カセラレテモ、開戦已《ヤ》ムナキヲ御確認ニナリテヨリ、極メテ、明朗ニアラセラレ、本月一日ノ、最終御前会議ニ於テハ、直ニ決定御裁可アラセラレタリト漏レ承ハル。賢君ノ下、弱卒無シ」
と日記にしるした。
しかし天皇がそんなに「明朗ニアラセラレ」たかどうかは疑問である。防衛庁戦史室著の「ハワイ作戦」には、この最後の御前会議の前日夕刻、永野軍令部総長と嶋田海軍大臣に俄《にわ》かなお召しがあって、
「いよいよ矢を放つことになるね。矢を放つとなれば長期戦になると思うが、予定通りやるか?」
と海軍の所信を質《ただ》され、さらに、
「ドイツが戦争をやめるとどうなるか?」
と、聞かれたということが出ており、陛下がなお深い憂慮を抱いておられた様子がうかがえる。
嶋田海相はそれに対して、
「人も物もすべて準備は出来ております。大命降下をお待ちしております。(中略)今度の戦争は石にかじりついても勝たねばならぬと考えております」
と答え、
「ドイツをあまり頼りにしておりません。ドイツが手を引いてもどうにかやって行けると思います」
と説明をした。
「聖断を明日に控えて、陛下に御心配をかけてはまことに恐懼《きょうく》に堪えないのでこのように奉答した」
と嶋田繁太郎は言っているそうだが、ドイツを頼りにしないくらいなら三国同盟なぞ結ばなければよかったのであり、いい加減なことを言って天皇の心配をはぐらかしてしまうのは「恐懼に堪え」なくないのかということになる。山本が、クラスメイトでありながら嶋田のことを「巧言令色」と罵《ののし》る所以《ゆえん》であろう。
「賢君ノ下、弱卒無し」
と書いた宇垣の感覚も、
「残されたるは尊き 聖断の一途のみ」
と言い、ワシントンでの交渉が成立した場合はたとい攻撃隊の母艦発進後であっても引返して来いと言って、戦争回避の望みを最後まで捨て切れずにいた山本の感覚とはかなりのずれがあった。
昭和十六年二月六日附堀悌吉あての書簡の中には、山本が宇垣の聯合艦隊参謀長に不賛成を唱えている箇《か》所《しょ》がある。
「一月中旬頃の話、四月横須賀入港後古賀と近藤、福留と宇垣(福留一部長、アト伊藤整一アト宇垣)嶋田と豊田(嶋田横須賀アト豊田貞アト清水)交代の内相談及川よりあり」
と、例の人事異動の問題をしるした欄外に、
「宇垣の参謀長は当方同意せず」
という一行が見える。
この手紙は「五《ご》峯録《ほうろく》」の中におさめられている。
山本が人事に関するこういう構想をあちこちに訴えたのは、中央を強化して何とか戦争突入を避けたいと考えたからであるが、聯合艦隊参謀長から軍令部第一部長に転出させた福留繁についても、山本の友人たちの間には、
「どうも木乃伊《ミイラ》とりが木乃伊になってしまったらしい」
との声があったそうである。
状況はいよいよどたん場まで来てしまい、信頼すべき部下にも自分のものの考え方をとことんまで理解してくれている者は少なく、山本はさぞ淋しかったろうと思われる。
東京から「長門」に帰ったその日のうちに、彼は千代子にあてて手紙を書いた。
「此《こ》の度《たび》はたつた三日でしかもいろいろ忙しかつたのでゆつくり出来ず、それに一晩も泊れなかつたのは残念ですが、堪忍して下さい。それでも、毎日寸時宛《づつ》でも会へてよかつたと思ひます。出発の時は、折角心静かに落着いた気分で立ちたいと思つたのに、一緒に尾張町まで行くことも出来ず残念でした。(中略)薔薇《ばら》の花はもう咲ききりましたか。その一ひらが散る頃は嗟呼《ああ》。
どうかお大事に、みんなに宜敷《よろしく》。写真を早く送つてね。左様なら」
後半の数行などは、ずいぶん中学生の恋文のような文章であるが、山本はこの女人に、なりふり構わぬ自分の淋しみをむき出しにしたかったのであろう。
千島出港以来、針路を九十七度にとり、ほぼ真東に進んで来た南雲艦隊は、このころすでに、西経百六十五度、北緯四十三度附近で百四十五度に転針して、海図の上ではちょうど坂落しのかたちに、北からハワイへ迫りつつあった。
連日の濃霧で太陽を見ず、乗組員の身体《からだ》はみなじめじめ湿気《しけ》ていたが、十二月五日には、北太平洋の寒い暗い海域を去って、浪《なみ》も静かに、気温が次第に上って来た。
機動部隊の司令部にも、瀬戸内海にいる聯合艦隊司令部にも、東京の軍令部にも、この奇襲作戦に関して、心配の種は山ほど存在したが、その主なものの一つは天候の問題であった。予定航路である北太平洋の十二月は、過去十年間の統計で、荒天が二十四日、静穏な日が七日となっている。果して洋上の燃料補給を順調に行うチャンスがあるか否《いな》か、軍令部の富岡作戦課長などは、それを五分五分としか見ていなかった。
しかし幸運なことに、艦隊は偶然、東へ張り出して来るシベリヤの高気圧と一緒に東進することになり、十二月三日まではあまり風浪に悩まされることもなくて、山本は気象状況をにらみながら、
「天佑《てんゆう》高気圧だね」
と言っていた。
十二月六日、任務を果した第二補給隊の東邦丸、東栄丸、日本丸の三隻《せき》が、
「御成功ヲ祈ル」
の信号を残して、護衛の駆逐艦「霰」とともに、針路を西へ、帰途についた。
心配の第二は、他国の船に行きあうことであった。
洋上補給に難のある北方航路を敢《あ》えて選んだのは、一つには、オアフ島の米軍哨戒機《しょうかいき》が、島の北半分だけ哨戒飛行を実施しておらず、謂《い》わば網の口が開いていたからである。ハワイ作戦がアメリカ側に洩《も》れたと思われるこの年の初頭、アメリカはオアフの全周警戒を始めたが、何を思ったか、四、五月頃になって、北半分の警戒を解いてしまった。
よほど穿《うが》った見方をすれば、これは、日本艦隊を招き寄せるためにアメリカが仕掛けた罠《わな》であったということになるが、其処《そこ》まで考えるのは、或は行き過ぎかも知れない。
今一つの理由は、この航路が太平洋の一般商船航路に最も遠かったことである。
それでも軍令部は、発見されるチャンスをやはり五分五分と考えていた。もし発見されたら、奇襲の意図は潰《つい》え、場合によっては、攻撃部隊が守勢に立って、X日より前に、洋上の乱戦が起る可能性があった。
その場合に関しての山本の命令は、反撃を許すのを、攻撃を受けた当該部隊だけとし、それにつれて他部隊が自動的に戦闘状態に入ることは認めないという、相当厳格なものであった。
そして、たった一隻だけであるが、南雲艦隊は、十二月六日、第三国の行逢船《こうほうせん》を認めた。
機動部隊の司令部は、異常な緊張で、この商船の行動を見守っていた。もし何処《どこ》かへ、無電で機動部隊の動向を通報するような徴《きざし》を見せたら、この船はおそらく、二、三分後に海底へ消し去られてしまったにちがいない。
しかし船は、南雲部隊を演習中の艦隊とでも思ったのか、或は正《まさ》しくその意図を察知して、恐ろしくて電波が出せなかったのか、やがてそのまま、艦隊の視界から遠ざかって行った。
心配の第三は、X日の八日に、果してアメリカ艦隊の主力が、真珠湾に在泊していてくれるか、ということであった。
土曜から日曜にかけて、アメリカの艦隊は入港して休養を採るのが慣例になっているというだけが頼りで、これは全くのあなたまかせの問題であり、この作戦が投機的と批判されて来た一番の原因も其処《そこ》にあった。アメリカ艦隊に関する情報は、是非とも必要なもので、ホノルルの日本総領事館からの諜者報《ちょうじゃほう》が、日々、東京経由で南雲艦隊に届けられていた。
ホノルルにいた日本のスパイの中心人物は、森村正という外務書記生である。
森村は、本名を吉川猛夫といい、兵学校六十一期の海軍少尉《しょうい》で、病を得て海軍をやめ、郷里の松山でぶらぶら暮しているうちに、東京へ呼び出され、軍令部第三部(情報担当)の嘱託となり、この年の三月に、森村正と名前を変えて、郵船新《にっ》田《た》丸《まる》で、外務書記生としてハワイの総領事館へ「赴任」した人であった。
吉川の諜者活動については、彼自身の詳しい手記が公刊されているが、フィリッピン人の失業者をよそおって、将校集会所の皿洗《さらあら》いをやったり、日本人芸《げい》妓《ぎ》と島の遊覧飛行をして、上空から真珠湾をのぞいたり、砂《さ》糖黍《とうきび》畑にひそんだりして、苦心を重ね、その送って来る情報は、湾内における米艦の碇泊《ていはく》位置、碇泊方法にいたるまで、極めて正確なものであった。
東通第一放送系にかけられて来るこの森村情報のほか、機動艦隊の司令部は、ホノルルの民間放送も、常時直接傍受していた。
夕食後の広告放送の中などに、よく、
「Lost german police dog, with name Mayer ――」
とか、
「Chinese rug almost new ――」
とかいう、何でもない、新聞の三行広告のようなものが混じっていた。
この、メイヤーという名の迷い犬や、新品同様の中古支那《しな》絨緞《じゅうたん》は、みな、真珠湾に在る航空母艦や戦艦を意味しており、これは、ホノルル総領事の喜多《きた》長《なが》雄《お》が、人を介し、料金を払って、放送させているものであった。
十二月七日、第一補給隊の極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸が、往路における任務を果して分離した。
脚のおそいタンカーに歩調を合わせて航海して来た機動部隊の各艦が速力を上げ、二十四ノット即時待機二十八ノット二十分待機で針路を真南に、「艦内第一哨戒《しょうかい》配備、戦闘配食」となった時、東京経由で、ハワイからの情報がまた入って来た。それは、
「五日、ネバダ、オクラホマ入港、レキシントン及び重巡五隻出港、従ツテ只今《タダイマ》真珠湾在泊ノ艦艇ハ、主力艦八隻、重巡二隻。A地区、戦艦ペンシルバニヤ、アリゾナ、カリフォルニヤ、テネシー」云々《うんぬん》
というもので、これで当日、アメリカ太平洋艦隊の戦艦は、全部湾内に在ることが、ほぼ確実になった。
「即時待機」とか「二十分待機」とかいうのは、命令されたら即座に或は二十分以内にそのスピードが出せるよう機関を調整しておくことである。
ただ、「レキシントン」の出港で、航空母艦が一隻も在泊しないこともまた、確実になった。空母攻撃担当の搭乗員《とうじょういん》たちは、地《じ》団《だん》駄《だ》踏んで口惜《くや》しがったというが、それはともかくとして、何故《なぜ》アメリカの空母は、「レキシントン」「エンタープライズ」の二隻とも、週末の慣行を破ってこの時母港を留守にしたのか、単に偶然のいたずらであったか、疑えばこれも疑える問題である。
しかし、日本の海軍として、心配していたことは次々に一つずつ解消して行き、事が成ったあと、これは「天佑神助」という言葉で表現された。ほんとうに「天佑」であったか否《いな》かは、二重にも三重にも分析してみる必要がありそうに思われるが、山本の好きな勝負事でいえば、この時日本は、すべてについて《・・・》いたのであった。
聯合艦隊旗艦からは、
「皇国ノ興廃繋《カカ》リテ此《コノ》征戦ニ在リ。粉骨砕身各員其任ヲ完《マッタ》ウスベシ」
という長官訓示が、電送されて来た。
秋山真之《あきやまさねゆき》が起草し、東郷平八郎《とうごうへいはちろう》の名で出された日本海海戦の時の長官訓示に、一読して、よく似ている。
渡辺戦務参謀の話によると、参謀長の字垣纏が便所の中で考えたのだそうである。宇垣は、
「やっぱり、秋山さんの作った言葉しか出ないなあ」
と言っていたということである。
つづいて、機動部隊旗艦のマストに、DGの信号旗が上り、これは三十六年前「三《み》笠《かさ》」に上ったZ旗と同じ意味で、指揮官南雲中将の訓示は、
「皇国ノ興廃此一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」
と、日本海の時のまったくそのままであった。
南雲忠一は山形県米沢《よねざわ》の出身で、兵学校は山本より四年下の三十六期、もともとは水雷屋で、航空畑の経験は浅かった。第一航空艦隊司令長官として、ハワイ攻撃の機動部隊の総指揮を取るのは、ややその器量にあまるところがあったように思われる。
彼がかつて軍令部の課長の時、軍令部令改正の問題で、軍務局の井上成美と衝突し、
「井上の馬鹿《ばか》。貴様なんか、短刀で脇腹《わきばら》をざくっとやれば、それっきりだぞ」
と井上を脅迫した話は前に書いたが、沢本頼雄に向っても、彼は、
「貴様の顔は諸例則に見える」
と罵《ののし》ったことがあった。
この豪傑風は、しかし、一種のはったりで、ほんとうは南雲は性格的に弱い人であった。
彼が第一航空艦隊司令長官に補せられたのは、この年の四月で、それから八カ月後に、非常の大任を帯びてハワイ攻撃に出動することになり、積る心配事のために、彼は夜眠ることが出来ず、深夜度々部下を私室へ呼びつけ、些《さ》細《さい》な悩みを訴えては相談をした。神経衰弱の徴候があったようである。
淵田美津雄もその被害を被《こうむ》った一人で、夜半、伝令に、
「総隊長、司令長官がお呼びです」
と起されて、彼が「赤城」の薄暗い長官室に入って行き、
「何ですか?」
と聞くと、南雲は、うしろの駆逐艦からアメリカの潜水艦の追蹤《ついしょう》を受けている気配があると言って来ている、どうしたものだろうと、心配に堪えぬ様子であった。
寝入りばなを叩《たた》き起された淵田は、不機《ふき》嫌《げん》で、
「それならそれで、然《しか》るべき処置を取らせたらええやないか。参謀長に相談するんならともかく、飛行隊長呼びつけて、そんなこと聞くアホな長官があるか。駿馬《しゅんめ》も老いては駑馬《どば》かいな」
と、あとで悪口を言った。
参謀長の草鹿龍之介は、その著「聯合艦隊」の中で、南雲が、
「参謀長、君はどう思うかね。僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもう少し気を強くして、きっぱり断わればよかったと思うが、一体出るには出たがうまく行くかしら」
と言ったと書いている。
彼の鼻が高くなり、意気当るべからざるものがあるようになったのはもっと後のことで、この時の南雲中将は、「虎《とら》の尾を踏む心地して」、渋々恐る恐るの出陣であったと言われる所以《ゆえん》であろう。
だが、七日の晩には、南雲以下機動艦隊の将兵みな、大事を前にしての一種の落ち着きを取り戻《もど》した。
参謀連は航海中私室を使わず、「赤城」の艦橋下の搭乗員待機室に仮設ベッドを置きカーテンをひいて寝泊りしていた。その晩、参謀の其処にいることを知らずに入って来た下士官搭乗員が、
「出陣の時は下帯を新しいのにするというけど、俺《おれ》はナ、あしたきたない褌《ふんどし》をしめて行くつもりだ。敵の弾が臭いちゅうてよけよるじゃろう」
としゃべっているのを聞き、航海参謀の雀部利三郎中佐が吹き出したという話が「ハワイ作戦」に出ている。
これは、ハワイへ向う艦隊だけでなく、あらゆる艦船部隊においてそういう空気であった。
横須賀海軍航空隊から、台湾の第十一航空艦隊司令部へ臨時に出向いていた角《つの》田《だ》求《ひと》士《し》は、現在防衛庁戦史室の戦史編纂官《へんさんかん》で、戦史叢書《そうしょ》「ハワイ作戦」の執筆者であるが、昔、山本が「赤城」の艦長時代「赤城」に乗っていたことがあり、
「入学試験でも、オリンピックの試合でも、同じことでしょう。立ち上りの前は、一体これでほんとうに戦争が出来るのか、こうなったらどうする、あれはどう始末すると、南雲さんではないが、実際神経衰弱になりそうでしたが、前日には、もうジタバタしても仕方がないと、落ち着きました。その点、山本さんという人は、よほど神経が太かったらしく、終始、興奮したり苛《いら》立《だ》ったりする様子は無かったということです」
と言っている。
天候は曇りがちで、北東の風が強く、高速南下中の艦隊が、断雲の間から洩れて来る月光を浴び、空母群は十五度の傾斜で大きく揺れていた。燃料満載、過荷重の飛行機は、飛行甲板がかしぐ度に、つぶされそうにタイヤを歪《ゆが》めていた。ある艦爆の抱いた爆弾には、白墨で、
「対米戦第一弾」となぐり書きがしてあった。
東京からの最後の情報電報には、
「五日夕刻、ユタ及ビ水上機母艦入港。六日ノ在泊艦ハ戦艦九、軽巡三、水上機母艦三、駆逐艦十七。入渠《ニフキョ》中ノモノ軽巡四、駆逐艦二。重巡及ビ空母ハ全部出動シアリ。艦隊ニ異常ノ空気ヲ認メズ。本七日一三三〇乃《ナイ》至《シ》一四〇〇頃、オアフ島在留民ト電話連絡セルニ、平静ニシテ燈火《トウクワ》管制ヲナシヲラズ。大海(大本営海軍部)ハ必成ヲ確信ス」
とあった。
これの最後の一行は、戦争突入直前の将兵の心理を考慮して、富岡定俊が書き加えたものである。
その晩源田実は「赤城」の艦橋で、打ち合せに上って来た雷撃隊の村田重治をつかまえ、
「お前、ペンシルバニヤの長官室の真下に魚雷をぶちこまないといかんぞ」
と冗談を言った。
「ペンシルバニヤ」はアメリカ太平洋艦隊の旗艦である。
村田はそれを聞いて、
「ふーん。攻撃は夜明けだから、キンメル大将はもう起きてコーヒーを飲んでるかも知れませんなあ。カップをこのくらい持ち上げたところを、グワーンとやりますか」
と笑っていたと、源田は書いている。
「赤城」の第一次攻撃隊員整列がかかったのは、十二月八日の午前〇時四十分であった。
機動部隊は、東京時間のまま、時差修正を行わずに航海しているので、乗員の日常生活は、午前三時の起床、午前二時の起床という風に次第に狂って来ており、搭乗員たちは、時計の上で深夜の、赤飯、尾頭《おかしら》つき、勝栗《かちぐり》の添えられた朝食をすますと、
「これでもう、思い残すことは無いわな」
と言いながら、上へ上って行った。
「総飛行機発動」の令がかかり、飛行機が一《いっ》斉《せい》にプロペラをまわし始めた時には、ハワイ北方の洋上は、もう朝あけが近かった。
「発艦始メ」が、午前一時三十分。六隻《せき》の航空母艦は皆風に立ち、発艦指揮官の振る青燈にしたがって、それぞれの一番機が、輪止めをはずし、甲板にひれ伏す整備員に、強烈な後流と油の匂《にお》いとを叩きつけて、離艦して行った。
「赤城」の一番機は、第一波制空隊の指揮官板谷茂少佐の零戦で、板谷の零戦ばかりでなく、過荷重発艦のため、操縦員は皆、歯を食いしばり、飛行甲板を出はずれると、一度海へ落ちるかと思うほど沈みこんでから、上昇態勢に移った。艦に残る者どもは、帽を振り、涙をうかべながらその出発を見送った。
第一波攻撃隊の編制は、淵田中佐の率いる水平爆撃隊が四隊、九七式艦攻五十機。村田重治少佐の雷撃隊が四隊、同じく九七式艦攻四十機。高橋赫一《たかはしかくいち》少佐の率いる降下爆撃隊が二隊、九九式艦爆五十四機。板谷少佐の制空隊が六隊、零式艦戦四十五機。合計百八十九機で、そのうち事故や故障で出られなかった六機を除いた百八十三機が、六隻の空母から、十五分で離艦を完了した。
総指揮官淵田美津雄の乗機には、尾翼に黄と赤の識別模様がつけてあった。
離艦後三十分、百八十三機がみな編隊燈を消すころ、東の水平線に大きな太陽が昇って来た。全機は、がっしり編隊を組んで、約二百マイル南の真珠湾へ向って行った。
淵田中佐には、夏以来鹿児島湾でのあのはげしい訓練で、自分にも部下にも、技術上の心配はもう殆《ほとん》ど無かった。彼の関心事はむしろ、山本五十六からきびしく言われている攻撃開始時刻、――ワシントンで日本の最後通告がアメリカ政府に手交される筈《はず》の時刻から三十分後の三時三十分きっかり、一秒もたがえず第一弾を落してみたいということであった。
真珠湾上空に最初に達したのは、攻撃隊に先立って出された巡洋艦「筑摩」の水上偵察《ていさつ》機《き》である。母艦を離れて約一時間半、そろそろオアフの島影が見えるころだがと、淵田が眼《め》をこらしている時、淵田機の電信員水木徳信一等飛行兵曹《へいそう》は、「筑摩」の水偵からの報告を了解した。
それは真珠湾在泊の艦船、その碇泊隊形とともに「風向八〇度、風速一四メーター、雲量七、雲高一七〇〇メーター」などを告げる電報であった。淵田は間もなく雲の切れ間から真下に、白く磯波《いそなみ》の砕ける長い線を認めた。それがオアフ島北端のKahuku Pointであることを確認して彼は針路を右に変えた。
総隊長である彼に課せられた主要な任務の一つは、此処《ここ》で、奇襲か強襲かの決断を下すことで、相手が全く気づいておらず、奇襲が可能なら、先ず雷撃隊が高度十メートルまで舞い下りて、在泊のアメリカ艦隊に魚雷を放つ。もし相手が待ち構えていて、強襲の必要が生じた場合は、高橋赫一少佐の降下爆撃隊が先陣を承って、地上の飛行機や対空砲火を制圧してから、あとの隊が行動に移る。そういう約束になっている。
強襲の場合は、爆煙が湾内の艦隊を包みかくすおそれがあり、雷撃隊や水平爆撃隊の行動が困難になるので、出来ることなら奇襲が望ましかった。
奇襲か強襲かの合図は、淵田指揮官の信号拳銃《けんじゅう》が放つ信号弾で、奇襲なら信号弾一発、強襲なら信号弾二発と定められていた。
全軍を島の西海岸へ誘導しながら、彼は伝声管で、前席の操縦員松崎三男大尉に、
「松崎大尉。左の真珠湾の上を、よう見張っとれよ。敵の戦闘機があらわれるかも知れんぞ」
と呼びかけた。
真珠湾の上は晴で、軍港にはもやが立ちこめ、静かな日曜日の朝景色であった。
淵田自身も、双眼鏡を手にして三千メートル下の真珠湾を注視していたが、一つ、二つ、三つと、アメリカの戦艦の籠《かご》マストが映って来るだけで、艦隊にも地上にも、格別の警戒の動きは見えなかった。
淵田はニヤリとした。
「よし、奇襲で行く」
と、右手に拳銃を取り、高くかざして、信号弾一発、奇襲態勢の展開を下令した。三時九分であった。
各隊は、それまでの通常飛行隊形から、戦闘隊形に展開して、突撃命令を待つ位置へ移るはずであった。
村田少佐の雷撃隊は了解して、高度を下げ始めた。
高橋少佐の降下爆撃隊も了解して、高度を上げ始めた。これは、四千メートルまで上って、急降下する。
ところが、板谷少佐の率いる制空隊だけが、この信号弾を見落した。制空隊の零式艦戦は、足が早くて、他編隊の速度百三十五ノットに合わせて飛ぶのが苦しいので、警戒のためもあるが、左右にスイープし、前後にまわりこみながらついて来ていた。
たまたまこの時、戦闘機群は、高度で五百メートル、水平距離で何千メートルか、離れたところへ行ってしまっていた。
淵田美津雄は、
「何をボヤボヤしてよんねンやろな」
と思ったそうである。
彼は、制空隊の方へ拳銃を向ける心持で、もう一度信号弾一発を放った。信号弾の黒い煙が空を流れて行き、板谷隊はやっと展開命令を了解した。
その時、降下爆撃隊の高橋赫一少佐は――、淵田の表現によると、
「高橋の奴《やつ》は、ちょっとお脳が弱いねん」
ということになるが、突如これを、信号弾二発、強襲の合図と誤解してしまった。
われこそ先陣命ぜられたりと思った高橋は、所定の四千メートルまで昇り切らずに、急遽《きゅうきょ》、指揮下の艦爆五十数機を率いて、急降下態勢に入った。
雷撃隊の村田少佐は、少し狼狽《ろうばい》したようであった。降下爆撃隊に邪魔をされないうちにと思ったらしく、これも指揮下の艦上攻撃機群を率いて、急いで低空へ舞い下りて行くのが見えた。
淵田はやむを得ず、予定より五分早く、三時十九分に、後席の電信員を振りかえって、
「ト連送」を命じた。
「ト連送」は「全軍突撃セヨ」の略語で、水木兵曹が、電信機のキイを握り、「ト、ト、ト、ト、ト」と、連打し始めた。
こうして、日本時間の十二月八日午前三時二十五分、高橋少佐の降下爆撃隊がホイラー飛行場に投じた二五〇キロ陸用爆弾の第一発で、一方的なハワイの戦が開始された。
柱島泊地の旗艦「長門」では、七日の晩、山本は例の如く渡辺戦務参謀と将棋を楽しんでいた。
山本と渡辺の将棋は、たいてい山本が四番ぐらい立てつづけに勝って終りになるのであるが、時たま渡辺の方が三番も四番も勝抜くことがあり、そういう時は必ず低気圧が近づいている。山本は天候の変化に敏感なアレルギー体質であったのかも知れない。しかしこの晩は晴で、山本が勝ち、いつもより少し早目に将棋を切り上げると、それから山本も参謀たちも、風呂《ふろ》に入って、一旦《いったん》私室に引上げた。
二、三時間、眠った人もあり、眠れなかった人もあり、夜半すぎには、大部分の幕僚が、三々五々再び作戦室へ集まって来た。
当直参謀は、航空乙参謀の佐々木彰であった。
作戦室の四周の壁には、太平洋全域の大きな地図と、東南アジヤ各海域の海図が貼《は》りめぐらされ、机上にも、大きな地球儀と一緒に海図が拡《ひろ》げられて、小机の上に、作戦命令綴《つづり》や電報綴がきちんと揃《そろ》えてあった。
山本は、奥の大机の前に、折《おり》椅子《いす》に掛けてじっと眼をつぶっていた。
陸軍のコタバル上陸、ついでフィリッピンのバタン上陸成功の報が入ったあと、長い不安な時間がゆっくり経過した。
電報綴を繰る音や、鉛筆を走らせる音のほか、誰《だれ》も口をきく者は無く、作戦室の中は不気味な静かさであった。
向いの部屋が無電室で、そこからコードを引いて、作戦室の机の上にラジオの受信機を置き、直接無電が聞けるようにしてあったが、そのうち、先任参謀の黒島亀人が、小声で、
「そろそろ始まるころだが」
と言い、壁の海軍時計を見上げ、それがきっかけになって、部屋の中がちょっとざわめき出した時、司令部附《づき》通信士が、
「当直参謀、『ト連送』です」
と叫びながら、駈《か》けこんで来た。
佐々木中佐がそれを受け取って、
「お聞きの通りです。発信時刻三時十九分です」
と、司令長官に報告した。
山本は、大きく眼を見開き、口をへの字に結んで、黙って頷《うなず》いた。
参謀長の宇垣が、通信士に、
「それは、飛行機の電報を直接了解したのか?」
と質問した。
「長門」の無電室は、オアフ島の上空で、水木兵曹が連打した「ト、ト、ト」を、じかに受信していた。
「直接受信したとは、見事だぞ」
と宇垣が言うと、若い通信士は、嬉《うれ》しそうな顔で、一礼して走り去った。
そのあと、攻撃部隊からの、
「ワレ奇襲ニ成功ス」
「ワレ敵戦艦ヲ雷撃、効果甚大《ジンダイ》」
「ワレ『ヒッカム』飛行場ヲ攻撃、効果甚大」
というような報告が続々入って来、一方、作戦室のラジオにも、直接、アメリカ側の平文電報がたくさん入って来た。
宇垣纏の「戦藻録《せんそうろく》」によると、それは、
「SOS.――attacked by Jap bomber here――」とか、「Oahu attacked by Jap dive bombers from carrier――」とか、かなり途切れ途切れのものであったようだが、その中の、
「Jap ――this (is) the real thing.」というのを聞くと、山本が一瞬ニヤリとしたように見えた。
「戦藻録」には、
「敵側の周章狼狽《ろうばい》振りは全く言語に絶するものがある」と記してあり、ハワイの米軍は狼狽していたにはちがいないが、この平文電報の発信を、相手が狼狽のあまりのものと解するとすれば、それは少しちがうことになる。
日本海軍は、どんな危急の場合にも、どんな些《さ》細《さい》なことにも、平文の生電報を出すことを原則として禁止していたが、アメリカ海軍では、緊急の場合、平文発信の自由がかなり大幅に認められていた。
場合によって平文の使用を許したアメリカ軍の暗号が、ついに最後まで日本側に解読不可能で、律《りち》義《ぎ》に一切を暗号化していた日本の作戦電報が、のちに相当部分アメリカに解かれてしまったのは、ずいぶん皮肉なことである。
第一次攻撃隊にちょうど一時間おくれて、真珠湾の上空には、島崎重和少佐の率いる第二波攻撃隊の百七十機が襲いかかっていたが、これも戦果をおさめてやがて引揚げ、広島湾の朝が明けるころには、「長門」の作戦室に入って来る電報も、次第に数が少なくなって行った。
どんな角度から検討してみても、この奇襲作戦は大成功と思われ、幕僚一同浮き立つ思いを抑えかねている中に、山本一人は、まるで吐息でもつきそうな、深く沈んだ様子に見えたということである。
晴れた、静かな、暖かい日であった。
長官以下、その朝は揃《そろ》って朝食の卓につき、幕僚の間には笑い声も聞え、皆言葉数も自然に多くなっていたが、食事がすんで席を離れる時、山本は、
「政務参謀ちょっと」
と、藤井茂を呼び、
「君はよく分っていると思うが、中央では最後通牒《つうちょう》の手交時機と、攻撃開始時刻の間合いを三十分につめたと言うんだが、外務省の方の手《て》筈《はず》は大丈夫だろうねえ? 今までの電報では、攻撃部隊の方は、まちがいなくやっていると思う。しかし、何処《どこ》に手違いがあって、騙《だま》し討《う》ちということになっても、これは大問題だからね。急ぎはしないが、気にとめて、充分調査しておいてくれ給《たま》え」
と言った。
藤井は、
「大丈夫と思います。しかし尚《なお》、充分調査いたします」
と答えた。
午前八時には、柱島に残った部隊の、各指揮官、参謀長が「長門」へ集まって来、情況説明と戦果の判定が行われた。
それまでの電報を総合してみると、真珠湾在泊の戦艦は、全部やられているように見えた。しかし、一艦の被害を二機が視認してそれぞれ電報を打つと、二隻をやったように見える場合があり、幕僚たちは相談の末、この程度が妥当と思われる数字を出して、山本の判断を求めた。
山本は、
「少し低い目に見とけ」
と言って、幕僚の提出したものに手を加えさせ、判定の約六掛けで、それがその夜八時四十五分の、
「戦艦二隻轟沈《ごうちん》、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破。以上確実」
という大本営海軍部発表となった。
実際はこの時、アメリカの戦艦は四隻が沈み、三隻が大破し、一隻が中程度の被害を受けて、真珠湾在泊の太平洋艦隊の主力は全滅していた。
それで、十日後の十二月十八日に、大本営は、ハワイ海戦の戦果について追加発表を行なった。この当時の大本営海軍部の発表は、相手側が信を措《お》いた程の正確さを持っていたと言われている。
こんにちのNHK第一放送は、この日の朝、六時の臨時ニュースを皮切りに、
「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
という大本営陸海軍部の共同発表を、何度となく繰返していた。
十一時四十五分に、「宣戦の大詔」が発せられ、午後一時には、
「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並《ならび》に航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり」
以下四項目の、海軍からの最初の戦況発表が行われた。
内幸町《うちさいわいちょう》の放送局でこの日午前中ニュース放送のカバーをしていたのは、昭和二十年八月敗戦の玉音放送を担当して名高くなった現在NHK考査室長の館《たて》野《の》守《もり》男《お》である。館野の記憶によれば、この日のニュースでは聯合艦隊司令長官の名前は言っていない。大本営発表の中にも山本の名前は入っていない。しかし山本五十六が聯合艦隊の長官であることは、これまで別に秘密にされていたわけではないので、大多数の日本人が知っていた。帝国海軍の名と山本五十六の存在とが、これほどの重みをもって人々の胸に響いたことはかつて無かったであろう。
国民の極めて多くの部分が、異様の緊張と異様の感動とを覚えながら、ラジオのニュースを聞いた。
文学者たちも、そういうことから最も遠い立場にあると思われていた徳田秋声、高村光太郎、武者小《むしゃのこう》路《じ》実篤《さねあつ》、長《なが》与《よ》善郎《よしろう》、室《むろ》生《う》犀星《さいせい》、伊東静雄、伊藤整のような人々までが、当時、必ずしも何ものかの顔色をうかがったとは思えない筆致でその感動を告白している。
もっとも、永《なが》井荷《いか》風《ふう》の「断腸亨《だんちょうてい》日乗」を見ると、
「十二月初八。褥中《じょくちゅう》小説浮沈第一回起草。Y下《ほか》土州橋に至る。日米開戦の新聞号外出づ。
帰途銀座食堂にて食事中燈火《とうくわ》管制となり街頭商店の灯《ひ》追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。六本木行の電車に乗るに乗客押合ふが中に金切声を張上げて演説をなす愛国者あり。」
と、荷風は、完全にそっぽを向いていた様子が見え、同じく「断腸亭日乗」の十二月十一日には、
「(前略)浅草辺の景況いかがならむと午後に往《ゆ》きて見る。六区の人手平日と変りなくオペラ館楽屋の雑談亦《また》平日の如《ごと》く恐怖感激昂奮《こうふん》の気味更になし。余の如き神経家の眼《め》より見れば浅草の人々は尭舜《ぎょうしゅん》の民の如し(後略)」
とある。
八日の東京放送は、レコード音楽の時間に、べートーベンの交響曲「運命」を演奏し、荷風のような人には、聞いて耳を洗いたい思いのする言葉であったかも知れないが、「帝国海軍ついに立つ」、「帝国海軍ついに立つ」と、何度となく繰返した。
しかし、このレコードの選曲と、「ついに立つ」という表現とを見ると、日本放送協会の中に、対米戦に踏み切った海軍の苦衷《くちゅう》を、かなりよく弁《わきま》えていた人物がいたのではないかという気がしないでもない。
戦況が大体予定通り動いているのを見て、瀬戸内海にいた主力部隊は、呉《くれ》経由中央と結ばれていた直通の電話連絡を切り、八日正午、柱島泊地を出撃した。
旗艦「長門」につづく戦艦「陸奥《むつ》」、「扶《ふ》桑《そう》」、「山城《やましろ》」、「伊勢」、「日向《ひゅうが》」、航空母艦「鳳翔《ほうしょう》」、第四水雷戦隊の駆逐艦群以下約三十隻《せき》の艦隊は、夜に入って、豊《ぶん》後《ご》水道の東掃海水路を抜け、機動部隊の収容援護を目的として、南へ向った。
これはしかし、ちょっと奇怪な航海であった。
三十隻の大艦隊は、貴重な燃料を無為に費やして、小《お》笠原《がさわら》列島の線まで進出し、途中、「鳳翔」と三隻の駆逐艦がはぐれて一時行方不明になったり、アメリカの潜水艦と出あったり、危なっかしい思いをした末に、要するに何も格別のことはせず、六日目の十二月十三日朝、瀬戸内海の泊地へ帰って来た。
機動部隊の収容援護というのは名目で、事実は、体裁よく言って士気の問題、露骨に言えば勲章の問題だったようである。山本や山本の幕僚たちは、柱島にいても偉勲を立てたことになるが、一般の艦隊乗組員は、戦闘航海に参加せず、内海に腰を据《す》えていたというのでは、何の手《て》柄《がら》にもならない。誰がイニシアチブをとったかは別として、これは山本の部下思いが、情に溺《おぼ》れた一つの例であったように思われる。
この主力部隊が柱島を出たころ、南雲忠一の機動艦隊は、ハワイ攻撃を終って、すでに帰途についていた。
淵田美津雄に与えられていた任務は、東南アジヤの石油を確保するまで、六カ月間、アメリカの太平洋艦隊を真珠湾から出られないようにしろということで、彼は、自分の眼で総合した戦果を見届けなくてはならなかった。
第一波、第二波の攻撃隊が、ほとんど母艦へ帰って行ったあと、彼はオアフ島の上空に残って、単機、雲にかくれながら、行ったり来たり、下界の様子を眺《なが》めていた。
黒煙が天を焦《こ》がし、状況はつかみにくいが、はっきり沈没したのは、「アリゾナ」型が一隻くらいで、あとはなかなか沈まない。それに、水深が浅いので、浮いているのか沈座しているのかもよく分らない。
もし戦闘機に出あったら百年目だと淵田は思っていたが、舞い上って来る戦闘機は、ついに一機も無かった。
乗機の胴体後部に地上砲火による被弾があって、大穴があき、操縦索が一本三分の二ほど千切れていたが、彼は約三時間、真珠湾の上空で執拗《しつよう》にねばって、結局戦艦四隻撃沈、四隻大破と判断し、第二波攻撃隊の残った戦闘機を誘導して、最後に母艦「赤城」に帰投した。
同期の源田航空参謀や、先に帰った部下たちが駈《か》けよって来、口々に報告したり質問したりするのを聞いている間もなく、
「淵田隊長、上って来い」
と、艦橋からの命令が来た。
艦橋には南雲長官が待ちかねていて、戦果はどうか、戦闘機には出あったか、このあと敵の飛行機の反撃能力はあると思うかと、矢つぎ早の質問を彼に浴びせかけた。
淵田は「赤城」の飛行隊長で、報告は「赤城」の艦長にするのが順序だと思ったが、艦長の長谷川喜一が、
「あっちへ報告しろ、あっちへ」
と、眼顔で合図をしていた。
それで彼は、長官の南雲に向って、戦艦四隻撃沈、四隻大破乃《ない》至《し》大破以上、この八杯に限り、今後六カ月間は動けなくなったと思う。航空母艦を逸していることであるし、敵の反撃は当然あり得ると考えていただいた方がよろしいが、オアフの地上基地に関しては、格納庫が大火災でよく分らないけれども、三時間、舞い上って来る戦闘機が一機も無かったくらいで、そう大した力が残っているとは思えないと報告した。
南雲は、大満悦で、それからあとのことは、もうどうでもいいように見えた。
参謀長の草鹿龍之介が、
「総隊長、第二回攻撃を実施するとして、攻撃目標は何にするか?」
と淵田に聞いた。
「それは、敵の戦艦は、撃沈したといっても、浅い湾内に腰をつけているだけで、サルベージがすぐ揚げにかかると思います。工廠《こうしょう》はじめ、アメリカ軍の修理施設と、所在の重油タンクとを、次の目標にとらせていただきたい」
と、淵田は答えた。
この意見は、戦後日本に来た米海軍の関係者が、
「日本は何故《なぜ》あの時、ハワイの軍工場と、燃料タンクとを破壊しなかったのか? 真珠湾は離島の基地で、油や資材の補給には、大きな困難があった。それの被害を免《まぬか》れたために、アメリカはあとの立直りが非常に早くなった」
と言っているのと、符節を合している。
山本も、聯合艦隊の幕僚たちも、南雲艦隊自体も、最初は、ハワイ作戦に参加する航空母艦の半数はやられる覚悟であった。それが今、飛行機二十九機、搭乗員五十五名を失っただけで、艦隊としてはかすり傷も負っていない。
六隻の母艦を、坐礁《ざしょう》しないかぎりのオアフ島の周辺まで近づけて、攻撃を再開すれば、戦闘機は攻撃隊と母艦群の双方を一度に護《まも》ることが出来るし、アメリカ太平洋艦隊は、真実長期間動きがとれなくなって、作戦に渋滞を来たすにちがいない。
淵田中佐は、そういう意見具申もしたが、これに対しては、長官からも参謀長からも、はっきりした返答が無く、
「よし。御苦労だった。休んでおれ」
と言われて、彼は艦橋を下りた。
「飛龍」坐乗の第二航空戦隊司令官山口多聞少将からは、
「ワレ第二撃ノ準備完了」
という信号が送られて来た。
これは、「行きましょう」というそれとない催促である。
淵田も、当然第二回攻撃の命令は下るものと思い、その準備をすませ、士官室で牡丹《ぼた》餅《もち》を頬《ほお》張《ば》っていると、艦内高声令達器が、
「戦闘機ダケ残シ、他ノ飛行機ヲ格納庫ニ収容セヨ」
と言い始めた。
淵田が不審を感じてデッキへ出、旗を見てみると、艦隊の針路はすでに北を向いていた。
彼はまたしても、
「一体、何してよンねん」
と思ったと言っている。
「何故か」と言われれば、直接的には南雲と草鹿の性格によるものということになるであろう。
草鹿龍之介は、無刀流を使い禅をよくした。獅子《しし》が獲物に向う時は、全力をつくしてかかるが、一旦《いったん》たおしたら其処に心を留《とど》めず他へ転じるという「獅子翻擲《ほんてき》」なる禅語を好んでいた。
淵田美津雄は、
「草鹿さんの禅は、野狐《やこ》禅《ぜん》や」
と言って揶揄《やゆ》しているが、第一回の真珠湾攻撃が予想外の成果を収めて終った時、この
「獅子翻擲」という言葉は、草鹿参謀長の頭に浮んだであろう。
しかし、更に言えば、これは南雲忠一や草鹿龍之介個人の性格ばかりでなく、日本海軍そのものの性格でもあったように思われる。
もしかすると日本だけのことではないかも知れないが、海軍の軍人、殊に艦隊勤務に服している者には、無意識的にせよ、地上の戦争や重油タンク相手の戦争を嫌《きら》う傾向があり、入港の時以外、陸に近づくことを嫌う傾向があった。彼らの闘志は、ともすれば、合理的な比重を越えて敵の艦隊にのみ指向された。そして、宇垣纏がその言葉からのがれられなかったように、日本海海戦でロシヤの艦隊を全滅させた東郷平八郎の亡霊が、いつも彼らの前に立ちふさがっていた。
山本五十六も、必ずしもその例外ではなかったかも知れない。
と言うのは、聯合艦隊司令部からの第二回ハワイ攻撃発令案を結局山本が却《しりぞ》けているからである。
南雲部隊が帰途についたことを知った「長門」の司令部では、幕僚たちが侃々諤々《かんかんがくがく》の議論を始めていた。今、戦果は予期以上のものが上っており敵は混乱に陥っている。「獅子翻擲」で未練を残さず立ち去るのも一つの英断かも知れないが、もともと「全滅ヲ期シ」「勝敗ヲ第一日ニ於テ決スルノ覚悟」というほどの作戦だったのであるから、やはり追い撃ちをかけ戦果の拡大をはかるのが本筋で、航空参謀の佐々木彰中佐以外、幕僚たちはほとんど全員一致で、再攻撃の提案をすることになった。
山本はこれに対し、
「いや、待て。むろんそれをやれば満点だが、泥棒《どろぼう》だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に委《まか》せておこう」
と言い、
「やる者は言われなくたってやるサ。やらない者は遠くから尻《しり》を叩《たた》いたってやりゃしない。南雲はやらないだろ」
と言ったと伝えられているが、要するに聯合艦隊からの再攻撃下令案は採択されなかったのであった。
これは、山本に心服していた参謀たちが後日尊敬の念を以《もっ》て語っているように、彼が実戦場に臨んだ部下の心理を洞察《どうさつ》するに敏であったためということもむろん考えられる。「やる」というには、ハワイの陸上施設と所在不明で撃ちもらした二隻の航空母艦と、対象が二つあった。後者はたしかに危険な存在にちがいなかった。しかし「全滅ヲ期シテ」と考えていた山本が、今更これを恐れたはずはあるまい。ただ少なくとも前者――重油タンク相手の戦争に関しては、彼の心の中に意外に執着の薄い面があったのではないであろうか。
聯合艦隊司令部よりの電命は、それで、
「機動部隊ハ帰路情況ノ許ス限リ『ミッドウェー』島ヲ空襲シ、之《コレ》ガ再度使用ヲ不可能ナラシムル如《ゴト》ク徹底的破壊ニ努ムベシ」
というに留まったが、南雲艦隊は天候不良の故《ゆえ》を以てこの命令を無視してしまった。
ミッドウェーには、真珠湾攻撃部隊とは別箇のミッドウェー破壊隊、第七駆逐隊の「潮《うしお》」と「漣《さざなみ》」という二隻の駆逐艦が十一月二十八日館山《たてやま》を出港して攻撃に向っていたし、それ以上大がかりな兵力で「徹底的」に叩かねばならぬような目標が当時無かったのも事実であるが、この電報を見た南雲忠一長官は、
「相手の横綱を破った関取に、帰りにちょっと大根を買って来いというようなものだ」
と憤慨したという話を、吉田俊雄が書いている。「海軍式経営法」「軍艦物語」などの著作をあらわし、現在実業家としても活躍している吉田俊雄は、海軍兵学校五十九期、元軍令部の情報参謀だった人である。
尚《なお》南雲中将の機動艦隊のほかにハワイ作戦に参加したものとしては、七日夜までにオアフ島周辺の隠密配備についた先遣部隊の潜水艦群があり、そのうち「伊号第十六」以下五隻の潜水艦から放たれた五杯の特殊潜航艇は、敵味方双方の国で特に大きな反響を呼びおこした。戦死した九名の乗組員は二階級特進の栄誉を与えられ、翌年の三月六日にその氏名が海軍省から発表された。
この豆潜水艦のことに関しては、戦中、岩田豊雄の「海軍」と題する文学作品があり、戦後、ジャイロ・コンパスの故障で艇をオアフ島の岸に乗り上げ、最初の捕虜となった酒《さか》巻和《まきかず》男《お》の戦記があるが、山本は初め、収容が不可能だというので、ハワイでのこれの使用を容認しなかった。
それを、乗員たちのたっての希望で、艇の航続距離を増す工夫をし、収容のめどを立てた上で出すことになったが、結局五隻とも親潜水艦に帰って来ず、戦果もほとんど挙げ得なかった。
特殊潜航艇の正式名は甲標的、山本は内輪の者に「坊や」と称していたが、全艇未帰還の報を聞くと、痛心の様子で、
「航空部隊だけでこれだけ成果があると分っていたら、あれはやっぱり、出すんじゃなかったなア」
と言っていたそうである。
十二月九日、山本は四国の南を南下中の「長門」の上で、米英二国の対日宣戦布告を知った。
そしてこの日の午後、「伊六十五」潜水艦が、プロ・コンドル島とアナンバス島の中程の南支《みなみし》那《な》海《かい》を、速力十四ノットで北上中の英国の戦艦二隻を発見したという報《しら》せが、「長門」の司令部に入って来た。
作戦室は再び緊張した空気に包まれた。
英国が東洋に派遣したこの戦艦二隻が、シンガポールを基地にして行動中であることはかねて分っていたが、軍令部にも艦隊にも、少なくとも戦闘態勢にある洋上の戦艦に対しては、こちらも戦艦を出して戦わなくては決定的な結果は望めないという、従来通りの考えが根強く残っており、山本はそれを、
「相手が戦艦と張って来た手に、こちらも戦艦と張るのでは、持駒《もちごま》互角の将棋で、妙味は無いよ。日本は、アメリカとイギリス相手の将棋で、そんな贅沢《ぜいたく》が許されるもんか。歩《ふ》で王を食うことを考えなくちゃならないんだ」
と言って、基地航空部隊の兵力だけで、二隻に立ち向うことをはかっていた。
したがって、この二隻に対する戦いは、山本の大戦艦無用論、航空優先論を実証してみせる機会でもあった。
サイゴン周辺の飛行場からは、九六式陸攻と一式陸攻三十機の編隊が、魚雷が間に合わず、取《とり》敢《あ》えず五○○キロ爆弾を抱いて飛び立ったが、敵を発見し得ぬまま夜になって、この日の攻撃は取《とり》止《や》めになった。
翌十日の朝、「長門」以下の艦隊が小笠原の母島《ははじま》と北《きた》硫黄《いおう》島《じま》の間を通過するころ、南部仏印の基地から、再び八十四機の攻撃機隊が発進した。
見失った相手を発見し、攻撃をかけるまでには、充分時間があり、幕僚たちが「長門」の作戦室で勝手な戦果の予想を立てていると、山本が突然、航空甲参謀の三和義勇大佐の方を振り向いて、
「どうだい? レナウンもキング・ジョージ五世も両方撃沈出来るかね? 僕はレナウンはやれるが、キング・ジョージ五世の方は、まあ大破かと思うがナ」
と、この、航空生え抜きの古い部下を試すようなことを言った。
二隻の英国東洋艦隊の戦艦は、事実は「レパルス」と「プリンス・オヴ・ウェールズ」であったが、この時まで日本側は、これを、「レナウン」と「キング・ジョージ五世」と推定していた。
三和が、
「そりゃ、長官、両方ともやれますよ」
と答えると、山本は、
「よし、そんなら賭《か》けようか」
と乗り出して来た。それで、もし山本が負けたらビール十ダース、三和が負けたらビール一ダースという賭《かけ》が成立した。
艦載機とちがって、九六陸攻や一式陸攻の機内はゆとりがあり、総指揮官の宮内七三少佐以下、攻撃に向う搭乗員《とうじょういん》たちは、それぞれの機上で、缶詰《かんづめ》の赤飯、玉子焼、昆布《こぶ》巻《まき》、熱いさつま汁《じる》という食事で腹ごしらえをし、アナンバス島を右下に見て、更に南下をつづけていたが、あと三十分以内に敵発見の報が届かなければ、その日の行動可能の限界点に達するという所まで進出した時、陸攻の編隊に、
「敵主力艦見ユ。北緯四度、東経一○三度五五分。一一四五」
という先行索敵機からの電報が入った。
位置は、マレー半島のクワンタン沖で、攻撃機群がその上空に達したのは、午後一時四十分であった。
当時その雷撃隊の第一中隊先任小隊長であった須藤朔の書いたものによると、三隻の駆逐艦に囲まれて航行中の二隻の戦艦は迷彩のせいか、馬鹿に泥《どろ》くさく薄ぎたなく見え、須藤が雷撃のために「レパルス」へ突っこんで行くと、甲板で鉄兜《てつかぶと》をかぶって機銃を操作している英国人の、緊張した赤ら顔がはっきり見えたという。
命中した魚雷の水柱が、幾本も立ち昇り、須藤機が高度を上げて、船の姿が小さくなった時、「レパルス」は不意に、黒い煙を噴き出して、あっという間に海面から消え去った。
「長門」の作戦室では、「レパルス」轟沈《ごうちん》の報に、参謀たちが沸き立っていたが、それから三、四十分後、伝声管を通じて、
「又も戦艦一隻沈没」
という、暗号長新宮等《しんぐうひとし》大尉の、とてつもない奇声が響いて来た。これが、英国の誇った新鋭戦艦「プリンス・オヴ・ウェールズ」の最《さい》期《ご》であった。
真珠湾の時は、無口に、むしろ沈んだ様子に見えた山本が、この時は両頬《りょうほお》を紅潮させ、何とも嬉《うれ》しそうに、ニコニコ、顔をほころばせていたそうである。
しかし理《り》窟《くつ》からいうと、これは少し矛盾した話で、戦艦が真実無用の長物なら、それを沈めてもそんなに喜ぶにはあたらないし、もし喜ぶなら、四隻沈めた真珠湾の場合に、もっと喜んでいい筈だということになるが、山本は多分、自ら主張した作戦でありながら、ハワイでは、相手の寝首をかいたことが後味が悪く、今度の場合は洋上、正面からの取組みで、自分がその開発を手がけた陸上攻撃機が、年来の彼の航空優勢論を実証してみせてくれたことが、何より嬉しかったのであろう。そうして、戦艦無用、航空優先を唱えながら、戦艦が、それを保有する国の国力と栄光の象徴であるという思いから、彼自身もまた完全には脱却していなかったのであろう。
三和参謀が、
「長官、さあ、十ダースいただきますよ」
と催促すると、
「ああ、十ダースでも五十ダースでも出すよ。副官、よろしくやっといてくれ」
山本は言い、三和がまた、
「これは長官、男爵《だんしゃく》か元帥《げんすい》かということになって来ますね」
と言うと、
「俺《おれ》ァ、そんなものは要らないけどね。もし褒《ほう》美《び》をもらえるんなら、シンガポールあたりに土地を買って、僕に大きなバクチ場を経営させてくれないかナ。そうしたら、世界中の金を、ごっそり日本へ集めて来てやるんだがな」
と答えた。
これまでにも度々書いたが、山本はその方はよっぽど好きであったらしく、しかし、部内には、彼の賭け好きを快く思っていない者もおり、このあと戦争中、海軍省が発表禁止事項として指定したものの中に、
「聯合《れんごう》艦隊司令長官が勝負事に巧みなること」
という一項目があったということである。
こうして日本海軍が、戦艦に対する飛行機の優越を、三度にわたって世界に実証してみせてから間もなく、十二月二十一日の正午、山本が五年前、その建造に極力反対した戦艦「大和《やまと》」が、初めて柱島《はしらじま》泊地に、完成した姿をあらわした。
「大和」は、満載排水量七万二千八百トン、四十六サンチ三連装砲塔三基、最高速力二十七ノット、当時秘密に包まれてはいたが、字義通り世界一の戦艦であった。
「長門」や「陸奥」と並ぶと、巡洋艦と戦艦とが並んでいるように見えた。のちの話であるが、航走中の「大和」と「陸奥」とを発見したアメリカの哨戒機《しょうかいき》が、
「敵戦艦一隻、巡洋艦一隻見ユ」
という電報を打った例がある。
聯合艦隊司令部は、これから二カ月後に、将旗を「大和」へ移すことになるが、「大和」が柱島に入泊した次の次の日、南雲艦隊が豊後水道を抜けて、一カ月ぶりに日本へ帰って来た。
旗艦「赤城」が柱島泊地に錨《いかり》を降ろしたのは夜に入ってからであったが、宇垣以下の聯合艦隊幕僚は、祝いと謝辞とを述べに、「赤城」へ出向いて行った。
それを迎えて、草鹿参謀長の報告の意気込みは、大したもので、帰途ミッドウェー空襲の命令については、
「あんな時、そんなことが出来るもんか。命令を見て腹が立った」
と、現地の情況も分らず、戦争もしない者が、勝手なことを言って来るなと言わんばかりの口つきであったという。
母艦搭載《とうさい》機《き》の方は、豊後水道の入口で、大部分陸上へ帰すことになり、淵田美津雄も、九州の東海岸を一と飛び、午後には、なつかしい鹿児島の鴨池《かもいけ》の基地に帰っていた。
その晩、彼は仲間たちと、午前一時まで酒を飲んで騒いでいたが、その間に「長門」から電報が入り、山本長官がお待ちだから、明朝飛行機で岩国へ飛び、飛行機を岩国に置いて、内火艇で旗艦へ戻《もど》るようにということであった。
それで、十二月二十四日の朝、淵田は九七艦攻の操縦桿《そうじゅうかん》を村田重治に握らせ、二日酔のずきずきする頭を、寝ながらさまして、岩国へ着き、「赤城」に帰ってみると、山本が、東京から来訪中の永野軍令部総長と一緒に、もう来艦していた。
山本は、
「オウ、隊長、来たか」
と淵田を迎え、
「よくやったぞ」
と言って、彼に握手を求めた。
それから山本は、聯合艦隊司令長官として、機動部隊の各級指揮官に対し、訓示を行なった。
その訓示はしかし、淵田に対する態度とは打って変り、
「真の戦はこれからである。この奇襲の一戦に心驕《おご》るようでは、ほんとうの強兵とは言い難い。勝って兜《かぶと》の緒を締めよとは、正《まさ》にこの時のことで、諸子は決して凱旋《がいせん》したのではない。次の戦に備えるため、一時帰投したのであって、今後一層の戒心を望む」
という骨子のもので、随行の三和義勇は、傍《そば》で聞いていて、まるで指揮官たちが叱《しか》られているようであったと書き残している。
三和が、
「長官、あとの祝杯の時にでも、もう少しお褒《ほ》めになったらどうですか」
と、小声で忠告すると、山本は、
「フフン」
と言って、返事をしなかった。
山本は、情に溺《おぼ》れる性《たち》であるだけ、人に対する好《こう》悪《お》の感情が、ずいぶん烈《はげ》しかった。訓示を受ける総指揮官の南雲忠一は、かつて堀悌吉を首にするために動いた、いわゆる艦隊派の一味の者であった。この「フフン」には、南雲中将に対する山本の、積年の公怨《こうえん》私怨がこめられているように思われるが、果してどうであろうか。
山本の訓示のあと、軍令部総長の永野が挨《あい》拶《さつ》をし、記念撮影ののち、士官室で、勝栗《かちぐり》、するめ、冷酒で祝杯が挙げられた。
山本は淵田に、攻撃開始時刻のことで、質問をした。
淵田が、五分早くなった事情を説明すると、山本は、
「まあ、五分くらいなら仕方がないだろう」
と言った。
この時、アメリカ側はすでに、「treacherous, sneak attack 」と言って、真珠湾のだまし討ち、真珠湾を忘れるなということを、しきりに国の内外に宣伝し始めていた。
山本はそれを、あとあと死ぬまで苦にしつづけたようである。
山本がそれほど気に病んだ「真珠湾のだまし討ち」の情況が、それでは何故《なぜ》おこったかということになると、表面的には明らかに日本側の手落ちであるが、更に突っこんで行くと、こんにちでも解きがたい幾つかの謎《なぞ》があらわれて来る。そしてこれが、ハワイ作戦の成功は果して「天佑《てんゆう》」であったかという問題にからんで来る。
派米特命全権大使の来《くる》栖《す》三郎《さぶろう》が、チャイナ・クリッパー機定期便の香港《ホンコン》出発を、二日延期してもらって、あわただしく東京を発《た》ったのは、この年十一月五日の朝であった。
来栖の派遣は、日米交渉をまとめるためではなく、本気で交渉をつづけている野村吉三郎大使の袖《そで》を引っぱりに行ったのだという説があるが、彼の書いた「日米外交秘話」を読むと、とてもそうは受け取れない。少なくとも来栖自身にはそんなつもりは全く無かった。
ワシントンに着くと、来栖は野村を援《たす》けて、交渉妥結の真《しん》摯《し》な努力を始めた。
ルーズベルト大統領もハル国務長官も、初めのうちは極《ご》く友好的で、冗談も出、しかし友好的な雰《ふん》囲気《いき》の中にも、会談の席上、アメリカ側は、三国同盟問題が交渉上の一番の難点であること、日本が一方で三国同盟を保持しながら、他方日米間の協定を求めるのは、国務長官は理解するとしても国内の世論を納得させるのが困難であること、ナチスの運動は停止することを知らぬもので、やがてはアメリカもその目標になるであろうし、ヒットラーが勝利を収めた暁には、当然東亜に進出して来て日本を圧迫するであろうに、日本がそれを理解しないのは了解に苦しむということ、日米交渉開始後、日本軍の南部仏印進駐では、アメリカは冷水を浴びせられる思いをしたこと、が、最近の情報によると、再び日本に冷水を浴びせられそうな懸《け》念《ねん》があること、しかし友人の間には「ラスト・ウォード」は無いということ(これはルーズベルトの言葉である)などを述ベ、最後には、戦争回避のために大統領から天皇陛下に親電を出してもらうより他《ほか》ないという来栖の提案にも、賛成し、それを実行した。
この親電は、何人《なんぴと》かの手に阻《はば》まれて、天皇の許《もと》にそれが届いたのは、十二月八日の午前三時、淵田美津雄がオアフ島の上空で「ト連送」を命ずる十九分前であった。
直接その妨害をしたのは、陸軍参謀本部通信課の戸村盛雄という中佐であったと言われ、彼は大統領の親電をふくむすべての外国電報の配達を、この日、自動的に十時間遅らせることを指示していた。
こうして来栖の意図はついに空《むな》しくなったが、ルーズベルトやハルの指摘したポイント、ポイントは、山本が次官時代から、米内と共に一貫して主張しつづけたところと、ほとんど完全に一致しているのは、興味のあることであろう。
来栖に向って、
「君が遠いところをはるばる来たのだし、本来なら食事に招くとか、ゴルフに誘うとかすべきところだが、何分多忙で、ゴルフは時間を取りすぎるので、国務と両立しないことを見つけた」
などと言って、機《き》嫌《げん》のよかったハルは、十一月二十二日の会談を境にして、急によそよそしく、態度を硬化させた。
十一月二十六日のハル・ノートを、野村と来栖とが受け取る時には、その素振りは、もう問答無用、取りつく島もないというようなものであったと、来栖は書いている。
これは、ハルが何かを知り、何かを決意したためとしか思えない。
のちに名高くなったこのハル・ノートには、中国及び仏領印度支那《インドシナ》からの全面撤兵、汪兆《おうちょう》銘《めい》政権の否認、日独伊三国同盟の解消といった、当時の日本、特に日本陸軍として到底呑《の》めそうもない要求が含まれており、野村来栖の両大使はこれをこのまま本国政府に伝えることに難色を示し強く相手の再考を求めたが、ハルは少しも譲歩の色を示さなかったという。そしてこれが事実上アメリカ側の対日最後通告であった。
へンリー・スチムソン陸軍長官の日記によると、十一月二十七日の朝早くハルと電話で話した時、ハルは、
「I have washed my hands of it, it is in the hands of you and Knox, the Army and Navy.」
(自分はこのことからはもう手を洗った。あとは、君とノックス《海軍長官》の手中にある。陸軍と海軍の番だ)
と言ったという。
十四通に細分された、日本の対米最後通告の、長い暗号電報が、ワシントンの日本大使館に次から次へと届けられて来たのは、十二月六日(日本時間の七日)の夜から七日の朝へかけてであった。
十四通のほかに、この通告を送ることを予告したいわゆるパイロット・メッセージや、通告手交時機に関する電報も前後して到着した。
七日はしかし日曜日であった。休日も出勤ということになってはいるが、大使館員たちの出《で》揃《そろ》うのはいつもより遅かった。それでこれらの電報は、配達されることはされたが、大使館の郵便受けの中に空しく落ちているだけであった。
在米海軍武官補佐官として当時ワシントンにいた実松譲が、九時少し過ぎに事務所の入口まで来てみると、階段の上には数本の牛乳瓶《びん》と日曜の新聞の部厚い束とが置いてあり、人の気配は無くて、ドアの郵便受けから電報や手紙がはみ出しそうになっていた。
「大使館の奴《やつ》ら、たるんでるなあ」
と思いながら、実松は牛乳も新聞も電報も、みんな自分で大使館のと陸海軍武官室のとに仕分けをしてとどけたが、彼もこの日戦争が始まるとは知っていなかった。
海軍武官室では、格別の用事がなければ午後から皆でゴルフに出かけることにしていた。
新聞にざっと眼《め》を通してみたが、大した記事も出ておらず、東京へ報告すべき問題も無い。実松は食事のためにちょっと外出した。そして彼が戻《もど》って来た時、事務所の空気はもう変っていた。出て来た館員の手でパイロット・メッセージの翻訳《ほんやく》が終り、それを見ると最後通告の手交時機が、ワシントン時間の七日午後一時、東京時間の八日午前三時と指定してあった。パイロット・メッセージには、東郷外相から野村大使あて、
「申すまでもなきことながら、本件覚書を準備するに当りてはタイピスト等は絶対使用せざるやう機密保持には、此《こ》の上とも慎重に慎重を期せられたし」
との一文も添えてあった。
しかしタイピストを使わないとなると、大使館の主だった職員の中にタイプライターの打てる者はほとんどいない。奥村書記官がその数少ない一人であるが、とても本職のタイピストのようにはいかない。結《ゆう》城《き》書記官が居催促の恰好《かっこう》で机のそばで待っているが、奥村はあせればあせるほどタイプの打ちちがえをしたり、行を脱落させたりした。長い暗号電報の最後の部分の翻訳が終った時には指定の午後一時がもう近かった。
ハル国務長官には、書類の準備がととのわないので約束の時間を午後一時四十五分に延期してもらいたいという電話連絡がとられた。
ようやく浄書が出来上り、野村と来栖とがそれを携え自動車を飛ばして国務省に到着した時は、二時を五分まわっていた。ハルに会見出来たのは午後二時二十分であった。
ハル国務長官は部屋の大時計を見て、時刻を宣告し、三人の大使に椅子《いす》もすすめず渡された覚書を読み始めたが、やがて彼の手はブルブル震え出し、最後の頁《ページ》を読み終ると激情を押し殺した様子で、
「過去九カ月間の交渉を通じて自分は一と言の虚言も述べなかった。それは記録が証明するだろう。自分の公職生活五十年の間、自分は未《いま》だかつて、このような恥ずべき偽りと歪《わい》曲《きょく》とに満たされた文書を見たことが無い」
と言った。
野村、来栖の両大使は、無言のまま、ハルとつめたい握手を交わして、国務省を退出した。
真珠湾に対する日本の攻撃は、その五十五分前に始まっていた。
来栖の「日米外交秘話」や、野村吉三郎の伝記に描かれているこのハルの態度が、芝居であったとは、ちょっと考えられない。にもかかわらず、ハルはこの時、日本大使の持って来た最後通告の内容を、あらかじめ全部知っていたことが、のちに明らかにされている。
他国の暗号を解読することにかけては、アメリカは「ブラック・チェンバア」時代からの長いすぐれた伝統を持っていた。しかし日本の暗号の方も、もうワシントン軍縮会議当時のような幼稚なものではなくなり、複雑な乱数表や程度の高い機械暗号が使われるようになっていたが、それでもなお外務省の使用暗号は相手に盗読されている恐れがあるというので、日米関係の切迫に際し、主要国の日本大使館と外務省とには、海軍が開発した「九七式印字機」と称する新しい暗号機械が渡されることになった。
これは従来の機械暗号や「海軍呂《ロ》暗号」「波《ハ》暗号」などより更に高度のもので、海軍が使用したのは、「海軍J暗号」と呼ばれる「九七式邦文印字機」、外務省が使ったのは、「九七式欧文印字機」、片方は片仮名、片方はローマ字の暗号であった。
二冊制のアルファベット順暗号書で、たとえば「日本」という単語が、「KXLL」に変るというような暗号文を作成し、これをこの「印字機」にかけると、差した電子素子の配列によって、その都度機械的に、全くアト・ランダムな、破壊された(二重に暗号化された)ローマ字の羅《ら》列《れつ》があらわれて来る。「印字機」の大きさは、旧型のアンダーウッドのタイプライターを三つ並べたほどのものであった。無理に蓋《ふた》を取って盗み見しようとする者があれば、差した電子素子が、はねて飛び散るようになっていた。
原文の中に「日本」という言葉が五回使われそれに対応して暗号文の中に、仮に、「KXLL」が五回あらわれる、このことを暗号の方で「反覆」というが、反覆のそのまま出る暗号は必ず解読が可能である。しかし、「九七式印字機」で暗号化された電文には、反覆出現の確率は約二億分の一とされていた。
こんにちのようにコンピューターが発達していれば話は別であるが、当時の専門家の常識としてはまず解読不可能と考えていいものであった。アメリカの解読班はそれを解いてしまったのである。
どうして解いたか、詳しいことは戦後も長い間分らず、数百人の解読作業員と初期の真空管式電子計算機が動員されたとか、主務者は仕事を果したあとノイローゼで倒れ、のちに十万ドルの賞金を与えられたとか、断片的な風説が聞えて来るだけであったが、一九六七年になってデーヴィッド・カーンの「The Codebreakers」(暗号解読者たち)と題する本がニューヨークのマクミランから出版され、これまで謎《なぞ》とされていたことの多くがようやく明るみに出て来た。
カーンは一九三〇年生れのユダヤ系アメリカ人ジャーナリストで、少年のころから暗号に異常な興味を持っていた。ヤードリとちがって政府部内で直接解読の仕事にタッチしたことはないが、現在「アメリカ暗号協会」という同好者の団体の会長をつとめている。「The Codebreakers」は一部を省略し「暗号戦争」と題した翻訳が日本でもすでに出ている。
この本によれば「九七式欧文印字機」を使った日本の外交暗号解読の最大の功労者は、ウイリアム・フリードマンという人である。
アメリカ陸軍の「ブラック・チェンバア」は一九二九年、スチムソン国務長官の時代に、スチムソンの、
「紳士は他人の信書を読むものではない」
という意見で一度解散させられたが、間もなくS・I・S(Signal Inteligence Service)として再発足し、再発足の当初からこれに参画して第二のハーバート・ヤードリとなったのがフリードマンであった。
アメリカ側ではこの暗号のことをパープル(紫)と呼んでいた。パープルの解読には近代数学の精髄が利用され、解読術に有効なあらゆる武器が動員され、約一年半の「血のにじむような苦闘」の末に、彼らはついに一九四〇年(昭和十五年)の八月、紙と鉛筆、想像と推理だけで「九七式欧文印字機」の模造品第一号を作り上げることに成功したという。
フリードマンはそれから間もなく病に倒れ、陸軍病院の精神科に入院したが、三カ月半の静養でS・I・Sに復帰し、パープル模造一号機の完成から一年後、すなわち開戦の年の夏には、アメリカはこれによる日本の主要外交電報のすべてを読むことが出来るようになった。
デーヴィッド・カーンの著書に書かれているかぎりでは、ウイリアム・フリードマンとS・I・Sの暗号官たちは、全くの正攻法でパープル暗号を解いてしまったようである。そして事実その通りであったかも知れないのだが、われわれとしてはやはり其処《そこ》に多少の疑問を感じずにはいられない。
それは第一に、たとい彼らが如何《いか》に優秀な智《ち》能《のう》を結集したとしても、「九七式欧文印字機」の模造品が僅《わず》か一年半の間にほんとうに紙と鉛筆だけで作り上げられただろうかということである。カーンが、
「この模造品は、外観的にも実物にそっくり《・・・・・・・》であったし、機能にいたっては完全に同一だった」(Though the Americans never saw the 97-shiki O-bun In-ji-ki, their contraption bore a surprising physical resemblance to it, and of course exactly duplicated it cryptographically.)
と言っているのは、もしかしたら語るに落ちているのではないであろうか。
第二に、日本のこの外交暗号の基礎暗号書の表紙は紫色であったと言われているが、推理と計算の正攻法だけで解いたとすれば彼らはそれを見ていないはずである。アメリカがこれをパープル(紫)と呼んだのは単なる偶然の一致であったろうか。
それから第三に、カーンの著作は国家機密保持の見地から出版に問題があり、結局世には出たけれども原稿は米国防省の検閲を受けている。それは現在の対ソ対中国通信諜報《ちょうほう》作業にふれた部分がひっかかったのだという説もあるが、果してそれだけであろうか。
実は他国の暗号を読む一番の早道は、それを盗むことなのである。盗むといっても現物を取って来たのでは盗まれたことが分って、相手はすぐ暗号を変えてしまうから、悟られないように機械なり暗号書なりのコピーを取るので、これは誰も口にこそ出さないが国際情報戦の一種泥《どろ》仕《じ》合《あい》的常識であって、当時日本もアメリカもそんな方法は考えたことも試みたことも無かったと言えば、お互いに嘘《うそ》になろう。
ほんとに「The Americans never saw」であったのかどうか、デーヴィッド・カーンが、
「解読術に有効なあらゆる武器《・・・・・・》が動員された」
と書いているのは暗にそのことを匂《にお》わせているようにも思われる。
「九七式印字機」や基礎暗号書を出先公館に配布するには、外交特権を持ったクーリエ使を使うよりほかに方法は無かったが、長い船旅の間のちょっとした油断を誰《だれ》がねらっていたかも分らないし、機械の設計図のコピーが東京でスパイの手に入り、上海に持ち出されてアメリカへ渡ったというような想像もまた充分に可能である。
パープルを解いて出て来る情報を彼らはマジック情報と称したが、マジックの配布先は大統領、陸軍長官、海軍長官、国務長官、陸海軍作戦部長ら十人だけに限定されていた。そこから又いろんな臆測《おくそく》が生れて来ることになる。
戦後アメリカで出版された「The Final Secret of Pearl Harbor」という本は、「真珠湾の審判」と題する中野五郎の邦訳があるが、この本によると、アメリカの解読班が、パイロット・メッセージを入手したのは六日の朝で、十四通の本文全部を解読し終ったのが、米国東部標準時の、七日の、午前四時から六時の間であった。「真珠湾の審判」の著者は、ロバート・シオボールドという、当時アメリカ太平洋艦隊の水雷戦隊の司令官で、海軍少将である。
情報戦に備えてのアメリカの傍受電信隊は各所にあったが、日米交渉の外交電報を取っていたのは西岸ワシントン州シアトルの対岸、ベインブリッジ島の海軍無線電信所で、日本の最後通告も此処《ここ》が直接傍受して時を移さずテレタイプで首都のワシントンに送ったのに対し、日本大使館への電報は、今とちがって、アメリカの民間電報会社の手で配達されていた。遅速の差が生じるのは当然かも知れないが、それにしても、アメリカ側が電文を入手し、解読翻訳を完了したのはずいぶん早く、日本大使館側のそれは、あまりに遅かったという気がする。
暗号解読班の解いた電報は、刻々大統領に届けられ、ルーズベルトやハルは、ともかく真珠湾攻撃の始まる数時間乃《ない》至《し》十数時間前に、日本の最後通告の内容を知り、日本が戦争をしかけて来ることを知っていた。
また、日本放送協会の海外向け短波放送が開戦の直前、
「東の風、雨。東の風、雨」
と繰返したのも、それが対米開戦、米領各在外公館は暗号書を焼却せよという意味であることは、アメリカは「ウインド・メッセージ」という名で、読んで知っていた。
「ウインド・メッセージ」のことはカーンの本にも記されているし、日本が同様の方法で英領内の各公館に、暗号書焼却を命じた、
「ただいまニュースの途中でありますが、本日は特にここで気象通報をお知らせします。『西の風、晴。西の風、晴』」
という東京放送は、シオボールドの著書に、アメリカ政府の文書よりの引用として載せられている。
外交上の正式手続きとしての覚書手交が、攻撃開始後になったことは無論動かせない事実で、日本が卑怯《ひきょう》な裏切り行為の汚名を着せられるのは仕方がないが、アメリカ側がいつまでも、「真珠湾のだまし討ち」を言いつづけるとしたら、其処に多少、面《おも》映《は》ゆい点がありはしまいかと想像されるのである。
そして、これに関連する大きな謎の一つは、外務省の「九七式欧文印字機」による暗号電報が読めたアメリカが、海軍の暗号は解読出来なかったのか、日本の真珠湾攻撃を、アメリカは事前に、ほんとうに知らなかったのかということであろう。
アメリカ海軍の作戦情報部は十二月一日現在の、日本の航空母艦の所在地点を、「赤城」と「加賀」が九州南部、「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」の四隻が内海西部と判断していた。
これは多分、十一月下旬から聯合艦隊司令部が機動部隊の動静秘《ひ》匿《とく》のために実施した、欺《ぎ》瞞《まん》通信の効果があらわれたもので、日本の海軍暗号は、開戦時にはやはり、解読をされていなかったように見える。
空襲部隊の主体となる六隻の航空母艦が、皆日本近海にいては、ハワイ攻撃は成り立たないが、作戦情報部がたといそういう判断を下し、日本の海軍暗号がたとい解けていなかったとしても、もう一つ上の段階では、真珠湾が危険であることは、充分察知し得たはずである。
グルー駐日大使ばかりでなく、ノックス海軍長官や、スタークの前の海軍作戦部長リチャードソン大将や、日本のハワイ奇襲の可能性について警告を発した人は、何人もいたし、ホノルルの森村書記生――吉川猛夫のスパイ活動については、FBIがかねて監視をしており、彼が東京へ送った初期の情報電報は、読まれていて、真珠湾の在泊艦船の数やその碇泊《ていはく》位置に、日本が異常な興味を示していることも、ワシントンでは分っていた。
ホワイト・ハウスに入って来る諸種の情報を総合し、分析してみれば、ハワイには、厳重な警戒命令が発せられて当然であった。それなのに当時の海軍作戦部長スタークは、十一月二十七日、いよいよ事態が切迫して戦争警告(War Alarm)を出した時、日本が真珠湾に来るかも知れないということは、一言も言わなかった。
戦争の始まる前の晩、ホワイト・ハウスの書斎で政治顧問のハリー・ホプキンスと話していたルーズベルト大統領は、解読を終った、マジック情報による日本の最後通告が、十三節まで届けられて来ると、それを読んで顔を上げ、
「これは戦争だ」
と言ったが、ハワイの太平洋艦隊に警報を出そうという意志は、全く示さなかった。
翌朝、十四節全部の覚書に眼《め》を通したスタークは、部下がこの情報をハワイに転電しようとするのを、二度にわたって拒否したという。
スタークとハルゼーと、二人の海軍大将は、戦後、回想録の中で、大統領が「何らかの目的で」、通報を差しとめたのだと言っているそうである。
こうして、現地の司令長官キンメル大将は、ルーズベルトやハルやスタークの知っていたことを何も知らされず、七日(八日)の朝、アメリカの艦隊は、真珠湾内で、少しも警戒の色を見せずに眠っていた。
ただ、偶然かも知れないが、並んでいたのはどちらかといえば旧式の戦艦ばかりで、二隻の航空母艦は在泊していなかった。そしてその二隻の空母のうち一隻、「エンタープライズ」は、十一月の下旬すでに戦争の気構えで行動していたと見られる証拠がある。それは同艦の艦長G.D. Murray 大佐の名で「一九四一年十一月二十八日、洋上ニテ」出された「戦闘命令第一号」で、その第一項、第二項、第三項には次のように書いてある。
「一、『エンタープライズ』ハ目下臨戦態勢ノ下ニ作戦航海中ナリ。
二、昼夜ヲ問ワズ、本艦乗員ハ何時ニテモ即時行動ニ移リ得ル用意ヲナシ置クベシ。
三、敵性国潜水艦ト遭遇交戦ノ算アリ」
(1. The Enterprise is now operating under war condition.
2. At any time, day and night, we must be ready for instant action.
3. Hostile submarines may be encountered.)
また、偶然かもしれないが、オアフの北半分の哨戒線は「ここからおいでなさい」と言わんばかりにあけてあった。
「ラニカイ」というアメリカ砲艦の不思議な航海の話がある。
「ラニカイ」は、砲艦と言っても、二本マスト、八十五トンの帆船で、乗組員は米海軍の士官と水兵が六人、あとは、傭入《やといい》れのフィリッピン人十二人が、セイラー服を着せられて水兵に化けているだけで、米国の軍艦としては最小限度の要求をみたした船であった。
任務は、南支那海における日本艦隊の動静をさぐることとされ、この妙な砲艦は、十二月六日の夕刻、海南島《かいなんとう》と、こんにちの南ヴェトナム、ダナンの中間の指定された海域を漂泊するためにマニラ港を出た。
大統領の私的な内密の命令で、ほかにも同様、星条旗を揚げた帆船が二隻、南支那海の別の水域に出されるはずであったが、八日、日本の機動部隊が真珠湾を攻撃したことが分ると、「ラニカイ」には、すぐマニラへ帰るようにという指令が出た。
「ラニカイ」の仕事が、ほんとうに日本艦隊の動静察知であるなら、開戦後任務は一層重くなったはずで、これは明らかに囮船《おとりぶね》であった。つまり、日本に何とか「米国軍艦」に対する一撃を先に加えさせて、アメリカが「自衛のために立ち上る」端緒をこしらえるのが、その目的であったと思われる。
「ラニカイ」の艦長は、戦後少将になって、横須賀の基地司令官に来ていたケンプ・トレイという人で、この話は、彼が一九六二年(昭和三十七年)の九月、アメリカ海軍の雑誌に発表した。
トレイは、マニラへの帰投命令を受け取った時のことを、
「これで命が助かった。日本の真珠湾攻撃は、『ラニカイ』がなし得る何物よりも、大統領にとって満足なものであったろう」
と書いている。
当時のスチムソン陸軍長官は、十一月二十五日、ハル・ノートが日本側に渡される前日、ホワイト・ハウスで開かれたアメリカ政府の首脳会議で、
「如何にして、われわれがあまり大きな被害を受けずに、彼ら(日本人)を操って、最初の一発を発射させるか」
ということが討議されたと言っている。
また、松永敬介や増田正吾と同期で、開戦時海軍省軍務局員であった大前敏一の書いたものによると、英国の生産大臣で、アメリカと接触の深かったオリバー・リットルトンという人が、一九四四年に、
「日本は真珠湾でアメリカを攻撃するように刺《し》戟《げき》されたのである。アメリカがやむを得ず参戦したというのは、歴史の歪曲《わいきょく》である」
という発言をしているそうである。
アメリカの世論は、欧洲《おうしゅう》への参戦を好まず、議会には孤立主義の傾向が強かったが、ルーズベルト大統領としては、ヒットラーの勝利と狂態とを、あのまま座視するわけには行かなかったであろう。
名分が立てば、英国を援《たす》けて立ち上らねばならぬと思っていても、中立を侵犯したり、外交慣例を無視したりしての度々の挑発《ちょうはつ》にもかかわらず、ドイツはなかなかアメリカの手に乗って来なかった。しかし、ドイツがアメリカに発砲して来なくとも、三国同盟という、ある意味で好都合なものが存在し、もし日本を挑発して先に発砲させれば、ドイツは自動的にアメリカと交戦状態に入り、大統領は世論をまとめて欧洲へ進軍することが出来たのである。
要するにそれで、アメリカは日本の真珠湾攻撃をほんとうに知らなかったのかどうかということになるが、これについては現在でも必ずしも明確な結論は出ていない。
戦争中開かれた何回かの真珠湾査問会議や、戦後の米上下両院合同調査委員会の報告書では、真珠湾のことは、職務怠慢の故《ゆえ》を以《もっ》て、太平洋艦隊司令長官のキンメル大将、ハワイ地区陸軍指揮官のショート中将、及びスターク作戦部長に責任があるとしているが、これには多くの反論があり、米国の国内問題としても、今だに論争の種のように見える。
ただ、知っていたとしても、アメリカは、あれほどの被害を受けるとは思っていなかったであろう。それには、日本の航空戦力に対する非常な過小評価が因となっていた。
淵田美津雄は、
「ノックス長官が実情視察にハワイへ飛んで来て、あまりひどい有様なんで、ショックで顎《あご》がはずれ、ものが言えんようになって、『ア、ア、ア、ア』ばかり言うてたいうて、アメリカ海軍の奴《やつ》ら、今でもその真似《まね》してみせるよ」
と言っている。
井上成美は、
「日本の政治家も軍人も、アメリカの国力や国民の精神力、ことに女性の精神力をアンダーエスティメイトし、女が威張ってる国だからそのうち女どもが戦争はいやだと言い出すだろうなどという、まるで子供の漫画のようなことを考えて――」
と言うが、その点は、当時アメリカ人の多くもまた、
「日本人は出ッ歯で、つのぶち眼鏡をかけ、不可解な顔に馬鹿《ばか》笑《わら》いを浮べている、おかしな小男の集まりで、眼の構造が特殊なため、飛行機の操縦には適しない」
というような、やはり漫画の如きことを、本気で信じていたのであった。少なくとも、無知と侮《あなど》りとが互いの不幸を大きくしたということだけは言えるであろう。
淵田はのちのミッドウェーの海戦で脚を折り、飛行機に乗れなくなったために生き残って、戦後キリスト教の自称生臭《なまぐさ》牧師になり、一年の大半をアメリカで暮しているが、彼のあちらでの見聞によれば、アメリカの政府首脳が、日本の真珠湾奇襲を知っていたということは、今では知識層の間で常識になっているという。
シオボールド少将の著書も、その立場で書かれており、この本の序文で、ハルゼー提督は、キンメルとショートの二人を、「自分の力では絶対に自由にならぬある目的のために犠牲の山羊《やぎ》として、狼群《ろうぐん》の前に放《ほう》り出された」アメリカの偉大な殉教者だと言っている。
しかしシオボールドのような見方に対しては、中野五郎が訳書の「あとがき」にも書いている通り、アメリカ国内に逆の強い反論があり、日本でもこれに反対意見を表明する人が少なくない。
富岡定俊は、
「日本に最初に火《ひ》蓋《ぶた》を切らせたかったとしても、アメリカは何もそれをハワイで劇的にやってもらう必要は無かった。真珠湾攻撃の企図をアメリカが事前に知っていたというのは穿《うが》ち過ぎだ」
と言っている。高木惣吉もアメリカは知らなかったという立場であり、草鹿龍之介は、
「自分の前線での経験によれば、アメリカの人命救助に対する熱意は実にわれわれの想像以上のもので、何千人もの命を代償に、知っていてわざとハワイを撃たせたというようなことは考えられない」
と言っているが、特に傾聴すべきは国会図書館で現代史の研究をしている角田順の意見であろう。
角田博士によれば、この問題に結論が未だ出ていないのは事実であるが、事前にアメリカが知っていたという説を立てているのはシカゴを中心とする一部大学の歴史学者たちで、彼らはアメリカでは少数派、レビジョニストに属する。Roberta Wohlstetterという人がスタンフォード・ユニバーシティ・プレスから出した「Pearl Harbor : Warning and Decision」と題する本は、真珠湾に関する最も詳細な総決算的文献であるが、これを読んでみてもアメリカが知っていて日本を真珠湾へ誘致したことを立証するような記録は全く見当らない。
こんにち学界の大勢は「ノー」に傾いており、自分の意見としても「ノー」である。ただ真珠湾の責任を取らされた人々には、政府の首脳部は知っていたのに自分たちは情報を与えられず、囮《おとり》に使われ犠牲にされたのだという鬱憤《うっぷん》があって、どうしても観《み》方《かた》が偏《かたよ》りがちになる。そして、彼らの言い分をふくめ、「アメリカはほんとうは前もって知っていたのだ」という説は日本人の耳にある快い響きを与える。そのためアメリカでの少数意見があたかも多数意見であり学者や知識人の間で定説になりかかっているかのように伝わって来るのだが、それは警戒した方がいいのではないか、と。――
日本の真珠湾攻撃よりやがて満三十年、この問題はもう、当時の関係者の手から歴史学者の手へ移りつつある。「アメリカは事前に真珠湾を知らなかった」というのが今後は次第に定説化して行くことになるであろう。
万一、アメリカの国務省か海軍省の倉庫の奥深く眠ったままの未発表資料が世に出て、多数派歴史学者の考えをひっくりかえしてしまうようなことが起ったら、泉下の山本五十六は「だまし討ち」と言われるのを終始気にしつづけて死んだ自分を少しお人よしだったと思って苦笑せねばなるまいが、幾つかの疑点は残るとしても、結局そういう日は訪れて来ないかも知れない。
第十一章
開戦以来、「長《なが》門《と》」の山本五十六のもとには、日本全国から連日、夥《おびただ》しい数の手紙が舞いこんで来るようになった。
山本は、
「小生も部下や若人等の奮戦にて一躍花形となりし様子只々《ただただ》苦笑汗背に不耐《たへず》」
と書いているが、従兵長の近江兵治郎の話では、国内に真珠湾の興奮が一応おさまったと見えてからのちも、山本あてに届く手紙の束は、日々二十センチくらい厚みがあったという。
かつて彼を憎んだ老将軍や右翼の壮士から部下の家族、国民学校(小学校)の児童まで、単なる讃《さん》辞《じ》から山本の書を県下最優秀校への賞品にしたいと所望して来る田舎の中学校の虫のいい校長の手紙まで、実にさまざまで、これに対し山本は、愚直に一々、自分で毛筆で丁寧な返書をしたためていた。
したがって、山本五十六元帥《げんすい》の手紙を持っているという人の話は全国各地でしばしば耳にする。彼の書簡集でも編むことになれば、おそらくそれは厖大《ぼうだい》なものになるであろう。しかしその多くはありきたりの返書や礼手紙で、山本の直筆《じきひつ》という以外に大した価値は認められない。又、ありきたりでなくとも、佐《さ》世保《せぼ》の鶴島《つるしま》正子のように、スーツケース一杯戦災で皆焼いてしまった人もある。
現在記録を通して読み得るものと、原文の写しが私の手もとに在るものと併《あわ》せて、公私にわたり山本の真情をうかがえる書簡は結局そうたくさん無いが、その中から、開戦初期の二、三を選んで挙げれば、昭和十七年の新春に、緒《お》方竹虎《がたたけとら》が感謝の手紙を出したのに対し、山本は一月九日付で、
「元旦《がんたん》の御懇辞不堪恐縮候《きょうしゅくにたへずさうらふ》。敵の寝首をかきたりとて武士の自慢には不相《あひなら》成《ず》、かかれし方の恥辱だけと存候。切歯憤激の敵は、今に決然たる反撃に可転《てんずべく》、海に堂々の決戦か、我本土の空襲か、艦隊主力への強襲か、御批判はその上にて御願致度《いたしたく》存候。兎《と》に角《かく》敵の立直る迄《まで》に第一段作戦完遂、格構丈にても持久戦態勢迄漕《こぎ》附《つ》け度ものと祈念罷在《まかりあり》候。
銃後の御指導は宜敷《よろしく》願上候」
と書き送っている。
また、原田熊《くま》雄《お》あての昭和十六年十二月十九日付書簡には、
「開戦当初の戦果概《おほむ》ね順当なるは幸運尚《なほ》皇国を護《まも》るが如く被感《かんぜられ》候 此際自粛自戒奮励御奉公致度覚悟に御座候」
という一節がある。
「幸運尚皇国を護るが如く」とか、「格構丈にても持久戦態勢」とかいうのは、もしそのまま読み過さなければ、「オヤ」と思うに足る措辞であるが、当時、むろん公表はされなかった。
郷里の、姉の嘉寿子《かずこ》には、
「いよいよ戦ははじまりましたが、どうせ何十年も続くでせうから、あせつても仕方はありません。
世の中ではカラさわぎをしてがやして居る様子ですが、あれでは教育も修養も増産もあまりうまくは出来ぬでせう(中略)人が軍艦の三隻《せき》や五隻を沈めたとて、さわぐには当らないと思ひます」(十二月十八日付)
と、山本は書いている。
支那方面艦隊司令長官として上海《シャンハイ》にいた古賀峯一宛《あて》の手紙は次のようなものである。
「十二月十五日附貴《き》翰《かん》本二日拝受(呉に十万通ばかり書信たまり居《を》りとてもさばけぬ由《よし》)御祝詞御礼申上候
香港も予定に若干先立ち陥落不堪同慶《どうけいにたへず》候
香港陥《お》ちビルマをもう少したゝいたら蒋《しゃう》も大分弱るにあらずや何とかならぬものかと存居候
英米も日本を少し馬鹿にし過ぎたるも彼《かれ》等《ら》にすれば飼犬に一寸《ちょっと》手をかまれた位に考えことに米としてはそろ本格的対日作戦にとりかゝる本心らしく国内の軽薄なるさわぎは誠に外聞わるき事にて此様にては東京の一撃にて忽《たちま》ち縮み上るならむと心配に不堪候(中略)まだこんな事にては到底安心出来ずせめて布哇《ハワイ》にて空母の三隻位もせしめ置かばと残念に存居候
陸上接近の上海は知らず当方十二月十四日以来時々潜水艦に脅威《おど》さるゝ外例の水面とにらめつこにて一向正月らしくも無之《これなく》候寒冷御自愛祈上候
敬具
一月二日    五十六
古賀大兄
布哇攻撃は中央実施部隊(飛行家連にあらず)共に相当難色あり成功しても一支作戦に過ぎず大した事なし失敗すれば大変といふ言分なりし為《ため》当時は大分不愉快の思ひもせしが今では其《その》人たちが最得意で居つたり勝敗が決定した様の事を言ふので実は世間のからさわぎ以上部内幹部の技倆《ぎりゃう》識見等に対し寂莫《せきばく》を感ぜしめらるゝ次第にて候」
榎本重治には、
「徹夜で勝負をやろうといふのに一風《イーフォン》や半風で三百や五百貰《もら》ったとて何の何の安心してなるものか、之《これ》からは振り込まずに安上り専門でチビチビためていく事、人が何と云《い》はうとも何の何の」(十二月十一日付)
と書いている。
彼は、天下の声に和して自ら有頂天になることは出来なかったし、気持がそういう風に傾くことは極力自戒していたように見える。
もっともこのころ彼が作った妙な和歌が二首あって、その一つは、
「グラスラはほど遠けれどリダブリて
ジャストメイキの心地こそすれ」
という――、「グラスラ」は「グランド・スラム」で、ブリッジの勝負になぞらえた戯歌《ざれうた》である。
これは、東京の「ブリッジ・クラブ」が、
「雨風の師《し》走《はす》の空も雲晴れて
グランドスラムの心地よきかな」
という歌を贈ったのに対する返歌であった。
もう一首は、今どうしても見つけ出すことが出来ないが、ポーカーのゲームに擬したもので、何でも私の古い記憶では、相手が「ツー・ペア」でかかって来ようと、こちらは、「小粒なれどもフル・ハウス」という歌であった。
しかし、かりそめの内容通り、これは緒戦の勝ちの、その局面に限っての彼の快哉《かいさい》の叫びであって、此処《ここ》から山本の慢心を読み取ることは出来ないであろう。
十二月二十六日、重臣たちが宮中で御陪食ののち、千《ち》種《ぐさ》の間《ま》で天皇と歓談した折山本の話に花が咲き、若槻礼《わかつきれい》次《じ》郎《ろう》が、
「山本はなにぶん博《ばく》打《ち》が強うございますので」
と言うと、陛下が愉快そうに笑われたという話もある。
山本はだが、要路の人たちへの手紙では、必ずしも自分の心の底までを打ちあけてはいない。
彼が自己の裸の本心を見せるのは、堀悌吉や榎本重治あてのものを除くと、例によって、河合千代子初め二、三の女性に対する手紙だけであった。
司令部の従兵たちは、山本の身辺の機微に関しても、なかなか弁《わきま》えていて、近江兵治郎は、来信を選《よ》り分ける時、河合千代子からのものがあると、必ずそれを厚み二十センチの一番上に載せて届けるようにしていた。
「呉《くれ》局気付、軍艦『長門』、山本五十六様」
と、千代子の手跡が見えた日は、山本は、
「オウ、どうもありがとう」
と言って手紙の束を受取ったという。それの無い日は黙っているのだそうである。
十二月二十八日付の、千代子あての山本の書簡には、
「方々から手紙などが山の如《ごと》く来ますが、私はたつた一人の千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待つてをります。写真は未《ま》だでせうか」
という一節があり、越えて一月八日付の分は、
「三十日と元旦の手紙ありがたうございました。三十日のは一丈あるやうに書いてあつたから、正確に計つてみたら九尺二寸三分しかなかつた。あと七寸七分だけ書き足してもらふつもりで居つたところ、元旦のが来て、とても嬉《うれ》しかつた。クウクウだよ」
とある。
「クウクウ」というのは、開戦直前の十一月二十六日、東京から千代子をよんで、一緒に厳島《いつくしま》へ遊んだ折、寄って来た島の小《こ》鹿《じか》が、頭を撫《な》でられて鳴いた声だそうで、「長門」の司令長官私室で、女の手紙の丈《たけ》を物差しで計っている山本五十六の顔は、ある種の人々には不快感抜きで想像することが出来ぬかも知れないが、彼はきっと、口をへの字に結んで、いたずらっぽい渋面をつくっていたにちがいない。
青山の家族からの手紙は、そんなに繁々《しげしげ》とは来なかった。従兵たちは、
「長官の奥さんはつめたい」
と、憤慨していたというが、これは今に始まったことではなく、どちらがつめたかったのかも分らない。
山本親雄の話では、昔在米武官時代から、五十六は実に手まめによく手紙を書いていた、
「但《ただ》し、おうちにはお書きにならぬ」、大使館から外務省あての閉嚢《へいのう》郵便というものがあって、外交特権で内容をチェックされないので、みんなが家族へのちょっとした贈り物とか、私信を封入するのに利用していたが、ある時親雄が、
「武官も、奥様やお子様に、何か……」
とすすめたら、
「いや。そんな必要無い」
と、一言のもとにはねつけられたという。持ち前の照れ性のせいか何か分らないが、少なくとも表から見たところでは、彼は外《そと》の女子供に甘く、内に対しては甚《はなは》だきびしかった。
山本の幼な馴《な》染《じみ》で、上松蓊《しげる》という同郷の人がある。上松は南方熊楠《みなかたくまぐす》の弟子の生物学者で、齢《とし》は山本より九つばかり上、郷里を出て十六、七年ぶりに、下関に住んでいた小学校時代の恩師渡部与《あたえ》の家で偶然の再会をしてから、交わりが復した。その時、山本は未だ高野五十六で、痩身短《そうしんたん》躯《く》、不敵な面魂《つらだましい》が、狼《おおかみ》に浴衣《ゆかた》をかぶせたように見えたというが、この人が戦争中、「  南方熊楠」という一書を著して山本に贈ったことがあった。
山本は通読した上で上松に礼手紙を出したが、その中で、
「  の四字は細字ながら書品を落したる点惜しき事にて候」
と言っている。
山本は手紙はたくさん書いたけれども元来米内と同じく無口で、余計な説明を好まず、ちょっと言って通じなければ知らん顔をしてしまう方であった。「学界偉人」の四字が書品を落したというような神経は、分らない人にはいくら説明しても分ってもらえないといったもので、当時彼の身近にいた人、彼を崇拝していた人々の中に却《かえ》って山本のそういう一種繊細な神経を理解出来ない人があったように思われる。
安《やす》田《だ》靫彦《ゆきひこ》に、山本司令長官の肖像画制作を依頼しようという議が起って、同じく上松蓊の手紙でその噂《うわさ》を知った時にも、山本はやはり、
「安田画伯の肖像の事は今迄の所事実無根に候 尤《もっと》も高村画伯よりかつて半抗議的に質問せられしことは有之《これあり》候
何《いづ》れにせよ 肖像画などは銅像に次ぐ最も敬遠すべき俗悪事と心得居候」
という返事を書いた。
「高村画伯」は、長岡出身の高村真《たかむらしん》夫《ぷ》のことで、この話は「事実無根」ではなかったが、ただ安田靫彦は山本をじかに描くことが出来なかったので、のちに写真をもとにして、「十二月八日の山本元帥《げんすい》」と題する肖像画を完成し、昭和十九年の文部省戦時特別美術展に出品した。
安田靫彦の傑作の一つとされているこの絵は、戦後行方が分らなくなり、アメリカ海軍の手で持ち去られてワシントンにあるらしいと言われていたが、所在を確かめた者もないまま二十年が経過し、昭和四十一年になって、ある人が国内に秘蔵していることが明らかになった。
山本は、軍艦マーチ入りの、景気のいい「大本営発表」も、嫌《きら》いであったらしい。
昭和十七年の早春、幕僚休憩室で幕僚たちと四《よ》方山話《もやまばなし》の間、話題がたまたま軍艦行進曲入りの報道のことに及ぶと、山本は不快そうな顔をして、
「報道なんか、静かに真相を伝えれば、それで充分なんだ。太鼓を叩《たた》いて浮き立たせる必要は無いよ。公報や報道は、絶対嘘《うそ》を言っちゃならんので、嘘を言うようになったら、戦争は必ず負ける。報道部の考え方は、全然まちがっている。世論の指導とか、国民士気の振作とか、口はばったいことだよ」
と言った。
日比谷公園に軍艦行進曲の碑が建つことになって、その題字を求められた時にも、藤井参謀に相談した上で、一と晩考えて、断わりの手紙を書いている。
日本の海軍は、「サイレント・ネイビー」と呼ばれることを長い間誇りにして来たが、真珠湾以後は、相当に饒舌《じょうぜつ》な海軍になってしまった。歌舞伎座《かぶきざ》を一人であけられる役者は、世間に海軍報道部の平出英《ひらいでひで》夫《お》大佐だけと言われ、海軍に対する国民の人気もよかったし、戦局の方も、順調に、というよりほとんど一方的に動いていた。
一月十一日には、堀内豊秋中佐の指揮する日本の海軍史上最初の落《らっ》下《か》傘《さん》部隊が、セレベス島のメナドに降下して、此処《ここ》を占領した。マニラは一月二日に、シンガポールは二月十五日に陥落した。
ジャワの沖では、二月二十七日の午後一時、高木武雄少将麾下《きか》の第五戦隊「那智《なち》」、「羽《は》黒《ぐろ》」、「神通《じんつう》」、「那珂《なか》」の四隻《せき》の巡洋艦と、十四隻の駆逐艦が、巡洋艦五隻、駆逐艦十隻から成るほぼ同勢力の艦隊と会敵した。
この艦隊は、米、英、蘭《らん》、濠《ごう》四国の連合軍で、指揮官は、オランダ海軍のドールマン少将であった。
望遠鏡で望むと、一番艦にオランダの、二番艦に英国の軍艦旗が、三番艦には星条旗が、それぞれ大きく翻《ひるがえ》っているのがよく見えたという。
其処《そこ》は、北太平洋とちがって、まぶしい、明るい、波の無い海上であるが、三十二ノットの戦闘速力で航走していると、風速は台風をまともに受けているのと同じであった。
「那智」以下の第五戦隊は、昼間いっぱい、長時間にわたって、相手と撃ち合いをつづけ、連合国艦隊は駆逐艦二隻を喪《うしな》って潰乱《かいらん》状態となり、遁走《とんそう》を始めたが、日没後、高木艦隊もまた追撃をやめて北へ避退した。
そしてその晩、午前一時前から開始された夜戦で、日本の遠達酸素魚雷の攻撃が奏効し、まず先頭艦の「デロイテル」が、棒立ちになって海中に姿を消し、次に四番艦の同じくオランダの重巡「ジャワ」が沈没した。残った一部は翌三月一日、高橋《たかはし》伊《い》望《ぼう》中将の指揮する重巡「足柄《あしがら》」、「摩耶《まや》」以下の第三艦隊が捕《ほ》捉《そく》して、英国の巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦二隻を沈め、勝敗が決定した。
「デロイテル」坐乗の、オランダのドールマン提督は、「プリンス・オヴ・ウェールズ」のサー・トーマス・フィリップスと同じく、救助を拒絶してその乗艦と運命を共にした。日本艦隊には、被害が無かった。
これが、「スラバヤ沖海戦」で、このあと約一週間で、ジャワ島の連合国軍は降伏した。
経過を記せばこれだけであるが、当時「那智」の高角砲分隊長であった田中常治の書いた「ジャワ海の決戦」を読むと、昼間の魚雷戦で、「那智」の発射管の魚雷の塞《そく》止《し》栫sべん》が開かず、
「塞止條J《ひら》け」
「塞止條Jきませーん」
「塞止條Jけ、急げ」
「塞止條Jきませーん」
という躍起のやりとりや、それで面目を失った水雷長の堀江弘大尉が、夜戦の成功で、暗い艦橋を、
「魚雷命中、敵轟沈《ごうちん》」
「魚雷命中、敵轟沈」
と、叫ぶように、歌うように唱えながら、雀躍《こおど》りして一廻《ひとまわ》りしている姿とか、初めて戦場に臨んだ将兵の、緊張、解放、錯誤、あがりっぷりなどが、如実に描かれていて、興味深いものがある。
小泉信三の長男小泉信吉も、「那智」乗組みの主計科分隊士としてこの海戦に参加している。
信三の著「海軍主計大尉小泉信吉」によると、信吉は「那智」がこのあと修理のため佐世保入港中、戸《と》畑《ばた》の伯母安川幸子を訪問して海戦の模様を話して聞かせた。
幸子が、定めし恐ろしい気持もしたでしょうと訊《たず》ねると、時々デッキへ出て見物をしたが、それがどうも一向平気で、死に直面した気は少しもおこらず、これではいけないと思ってもそんな気になれなかった、ただ飛行機が頭の上に来ると気味が悪かったが、敵の弾は一つもあたらなかったと言ったという。
この時の第五戦隊司令官高木武雄少将は、のちに中将に進級して、馬《ば》公《こう》警備府司令長官になり、私事にわたるが、私が海軍予備学生として台湾の東港で最初の基礎教育を受けているころ、度々話をしに、私たちの学生隊へやって来た。
「あきらめましたよどうあきらめた、あきらめられぬとあきらめた」
などという妙な都々《どど》逸《いつ》を聞かせてくれたり、戦場でつくづく感じたことは、あがる、どうしてもあがる、あがると智慧《ちえ》は出ない、思考力、判断力がゼロに近くなる、先《ま》ず落ちつくことが肝要で、敵を見たら、水筒の水を一口飲め、それから睾丸《こうがん》が二つあるか、さぐってみろなどという話をしてくれたりした。
田中常治の著作に附した解説で、吉田俊雄は、
「米巡ヒューストンと英巡パースを撃沈するバタビヤ沖海戦を含めて、ここまでで前近代海戦が終った」
と書いているが、ともかくこれは一方的な勝利の戦《いくさ》であった。
堀悌吉が、部内の者の「無敵艦隊」という言葉を使うのをひどく嫌った話は前に記したが、ハワイ、マレー沖から、スラバヤ沖海戦、バタビヤ沖海戦と、こう一方的な勝負がつづいては、彼らは先輩の警告と、長い伝統とを破ってそれを口にするのをもう抑《おさ》えかね、世間もまたこれを怪しまなかった。だが、山本五十六には、総じてこういう手放しの得意ぶりが苦々しかったようである。
政務参謀の藤井茂は、
「第一段の作戦が余りに順調に進みすぎたので、却《かえ》って拍子抜けの気分が漂っていることは見のがせない。いつもは淡々として水のような、時には深い淵《ふち》を見るように静かな長官の日常に、時折焦慮の色が伺われるようになったのは、この頃《ころ》である」
「打つべき手が打たれていないもどかしさを、時折洩《も》らされる」
と言い、
「戦争を勝ち目に終局させることは、別に大きな苦心が必要だ。日露戦争だって、やっと勝ち目に終局したのだ」
と言っているが、山本の息のかかった幕僚たちにはほぼ共通した思いがあったであろう。
参謀長の宇垣纏も、「戦藻録」の昭和十七年一月八日の欄に、
「開戦以来一ケ月経過せり。(中略)皇軍の向ふ所敵無く、如何《いか》に偉勲を奏するも之に伴ふ国家経綸《けいりん》の大策なからずんば、死生を賭《と》するの業徒為に終らんのみ」
と書いている。
もっとも、「戦藻録」二巻に見られる宇垣は、思慮の深さという点では、少しどうかと思われるところもあり、山本に較《くら》べて、いい意味でも悪い意味でも勇み屋で、それを山本に抑えられていたように感ぜられないことはない。
尚《なお》、つけ加えれば、この時聯合艦隊四万の将士のうち、日露戦争の実戦の経験を持ち合せていた者は、山本がただ一人だけであった。
聯合艦隊の司令部は、この年の二月十二日に、新造の「大和」へ移った。艦齢二十三年の「長門」に比して、居住もずっと上等になり、幕僚たちは皆、新しい旗艦の暮しを喜んだという。
シンガポールが陥落したのは、これから三日後であった。
有限戦争と無限戦争という、戦争に対する二つの考え方がある。有限戦争というのは、どこかで工作を用い、妥協して和を求めるものであり、無限戦争というのは、相手の国民を徹底的に殺戮《さつりく》して、城下の盟を結ばせるまで戦うことである。
日本は、結果的に一種の無限戦争を逆に強《し》いられたかたちになったが、陸軍は識《し》らず、海軍の軍人で、アメリカを相手の無限戦争がやり抜けると思っていた者は、おそらく一人もいなかったであろう。
開戦の十カ月半前、山本が笹川良一《ささがわりょういち》に宛《あ》てた名高い書簡があって、
その全文は、
「拝啓益々《ますます》御清健此度《このたび》は浦波号にて南洋を御視察相成候由奉多謝候《よしたしやたてまつりさうらふ》 世上机上の空論を以《もっ》て国政を弄《もてあそ》ぶの際躬行《きゅうかう》以て自説に忠ならんとする真《しん》摯《し》なる御心掛には敬意を表し候 但《ただ》し海に山本在りとて御安心などは迷惑千万にて 小生は単に小敵たりとも侮《あなど》らず大敵たりとも懼《おそ》れずの聖諭を奉じて 日夜孜《し》々《し》実力の錬成に精進致し居るに過ぎず 恃《たの》む処は惨として驕《おご》らざる十万将兵の誠忠のみに有之候 併《しか》し日米開戦に至らば己が目ざすところ素《もと》よりグアム比律賓《フィリピン》に非《あら》ず 将《はた》 又 布哇《ハワイ》桑港《そうこう》に非ず 実に華《くわ》府《ふ》街頭白《はく》堊《あ》館上の盟ならざるべからず 当路の為政家果して此本腰の覚悟と自信ありや 祈御自重 草々不具」(昭和十六年一月二十四日付)
というもので、笹川が川西の飛行艇に乗って南洋群島を見てまわり、何か言って来たのに対する返書であるが、これが何故名高くなったかというと、戦争中「浦波号」を「○○号」と伏字にし、「当路の為政家果して此本腰の覚悟と自信ありや」という一行を削って、「国民士気の振作」のために、この書簡が公表されたからである。
これは、同盟通信を通じてアメリカへ伝わり、そのためアメリカは山本を、いずれ日本軍を率いてワシントンに乗り込んで来るつもりの、狂信的なウォー・モンガーとしか見なくなり、東条と同格の憎むべき敵将と考えるようになったが、事実は笹川に対する皮肉というより、むしろ、アメリカ相手の無限戦争は不可能なはずなのに、一体どんなかたちの戦争なり対米交渉なりをするつもりかという、山本の、近衛や及川古志郎に対する、強い不満の表白であった。
したがって、戦争が始まってから山本の頭の中に常に在ったものは、早期講和の問題であり、そのための有利な状況を作り出すことであった。
一つのチャンスは、シンガポール陥落の直後に訪れていたと思われる。
笹川良一は、前述の通り、日本の右翼の中でたった一人親英米の腰抜けとされていた山本をかばった人であった。山本の紹介状をもらって中国へ出かけた折、笹川は南京《ナンキン》で、総軍の参謀をしていた辻政信《つじまさのぶ》に威勢のいい話を聞かされたことがあった。辻が、汪《おう》政権の顧問役の、のちの大東亜大臣青木一男と口論になり、ぐずぐず言ったらぶった切ると軍刀をがちゃつかせたら、青木が青くなって逃げて行った、弱い奴だと、辻が笑っていたという話である。
「それで、その時青木は、武器は何を持っとったんや?」
と笹川は聞いた。
「で、青木が丸腰で、あんたの方は、何を持ってた?」
「軍刀とピストル持ってる人間が、丸腰の人間脅したら、相手が青うなって逃げて行くのはあたり前で、そりゃ、あんたの方がよっぽど弱虫やないか」
と、彼は辻に言った。
山本は笹川が笹川流の一種の是々非々で、誰《だれ》にでもこういう風に思ったことを言う点、それから、航空に強い関心を持っている点を買っていたらしい。
開戦三カ月前の九月のある日、柱島から上京の際、彼は笹川を芝の水交社に呼んで、開戦が避けがたい状況になって来たことを述ベ、海軍の軍楽隊が銀座と心斎橋を景気よく行進しているのを見たら、それが事の決定した時だと教え、
「そりゃ、初めの間は、蛸《たこ》が脚をひろげるように、思いきり手足をひろげて、勝って勝って勝ちまくってみせる。しかし、やれるのは、せいぜい一年半だからね。それまでにどうしても和平に持って行かなきゃならない。きっかけは、シンガポールが陥落した時だ。シンガポールが陥《お》ちると、ビルマ、インドが動揺する。インドの動揺は、英国にとっては、一番痛いところで、英国がインドを失うのは、老人が行《あん》火《か》を取られるようなものだ。しかし、そこを読んでしっかりした手を打ってくれる政治家が果しているかね。シンガポールは、半年後には陥せると思うが、その時は、頼むよ」
そう言い置いている。
それでは山本が個人として考えていた講和の条件とはどんなものであったかというと、のちに連合国側から出されたポツダム宣言ほどではないにしても、勝ち戦《いくさ》のさ中に、日本側から持ち出すそれとしては、かなり徹底したもののようであった。
山本が航空本部長時代、人相身の水野義人を彼に紹介した桑原虎《くわばらとら》雄《お》は、このころ、柱島の主力部隊直衛の小型空母、「瑞鳳《ずいほう》」「鳳翔《ほうしょう》」を率いる第四航空戦隊司令官で、少将であったが、シンガポール陥落後二カ月ばかりして、新設の青島《チンタオ》方面特別根拠地隊司令官に転勤することになり、一日、「大和」の山本のところへ挨拶《あいさつ》に行くと、
「まあ、話して行けよ」
と山本が言い、それで桑原は、その日長官室でしばらく山本と雑談をした。
桑原が、
「これから戦《いくさ》はどうなりますかね?」
と言うと、山本は、
「そうだねえ、もう暫《しばら》くはいいだろうけどねえ、それから先は大変だよ」
と答えた。
それで桑原少将が、
「山本さん、長官として言えることじゃないかも知れませんが、山本さんは講和については、一体どう考えておられるんです?」
と更に突っこんで聞くと、山本は、
「ウン」
と考えてから、
「それは、今が、政府として和を結ぶ唯一《ゆいいつ》の、絶好のチャンスじゃないのか。日本として、
それを切り出す以上は、領土拡張の気持が無いことをよく説いて、今まで占領した所を全部返してしまう、これだけの覚悟があれば、難かしいけど、休戦の成立の可能性はあるね。しかし、政府は有頂天になってしまっているからなア」
と、言ったという。
そうして事実、この一つの時機は、空《むな》しく早く、過ぎて行きつつあった。
山本が笹川良一をどの程度「しっかりした手を打ってくれる政治家」と思っていたかは分らないが、笹川は、東条の翼賛選挙に非推薦候補として立候補し、当選して衆議院議員になり、陸軍の要路に、山本の考えを説いて廻《まわ》ったりもしたが、反応は無かったということである。
講和の望みが無いとすれば、聯合艦隊の司令長官としては、次段の作戦に着手しなくてはならない。
前年十二月末、甥《おい》の高野気次郎宛の手紙に、山本は、
「第一段作戦即《すなは》ち比島香港《ホンコン》馬来《マライ》蘭印攻略迄《まで》は勿論《もちろん》何の事も無之《これなし》と存候へ共 事の成否は実其後の第二段作戦に在り充分覚悟と用意とを要する次第と存居候(中略)但し爾《じ》後《ご》の作戦は政戦両翼渾然《こんぜん》たる一致併進を要する次第にて 之が処理に果して人材可《これ》有《ある》之《べき》か」云々《うんぬん》
と書いているが、山本の幕僚たちが、第二段作戦の研究を命ぜられたのは、十七年の一月五日であった。
「戦藻録《せんそうろく》」には、
「一月五日 月曜日 晴 寒し」
として、
「第一段作戦は、大体三月中旬を以て一応進攻作戦に関する限り之を終らし得べし。以後如何《いか》なる手を延ばすや、濠洲《がうしう》に進むか、印度に進むか、布哇攻撃と出掛るや、乃至はソ聯《れん》の出様に備へ好機之を打倒するか、何れにせよ二月中位には計画樹立しあるを要し、之が為参謀連に研究せしむる事とせり」
とあり、これはまた、ずいぶん東西南北漠《ばく》然《ぜん》としたものである。シンガポールの陥落よりは前だが研究開始の時機としては遅く、あとの思案にしても、「これでは」という気がする。
開戦劈頭《へきとう》のハワイ作戦に関しては、早くから綿密周到な計画を樹《た》て、「全滅を期し」、「勝敗を第一日に於《おい》て決する覚悟」で、もし失敗したら、爾後の全作戦を放棄しようとまで考えていた山本として、その結果を見てののちでなくては、第二段作戦の構想を練る気にはなれなかったのかも知れない。堀悌吉の年始状に対する返書(一月十二日付)の中では、
「とにかく一風《イーフォン》囲めたらよいお正月と言つてよいのだろう どうせ先きは苦しくなるのだから今の内少しは朗《ほがらか》にするのがよさそうだ
飛行機が予想よりいたまないから今の内急速養成がよかろうと思つて取りかゝつて貰《もら》つた 追々に小艦艇や安い貨物船なども必要を痛感する様になるから準備が入ると思ふ
先月十三日以後は一月ぢつとして居る 相当退屈なものだね 面白《おもしろ》い本でもないかね」
と書いている。
宇垣の日誌の中の四つの作戦案のうち、新たにソ聯《れん》を敵に迎える案は少々論外として、第一の、濠洲《ごうしゅう》進攻策は、軍令部の作戦部が最も熱心に主張したプランであった。
軍令部の考えでは、連合軍の反攻は、必ず濠洲を基地として捲《ま》き上げて来る。その推定時機は、大体昭和十八年の春季以降で、その前に、ソロモン群島から、ニュー・カレドニヤ、フィージー、サモア島を攻略して、相手の空軍の濠洲への展開を妨げ、出来ればオーストラリヤを孤立させ、戦争から脱落させようという、いわゆるこれは、「米濠遮断案《しゃだんあん》」であった。
第二の印度洋進攻作戦は、聯合艦隊司令部が最初に主張したプランで、陸軍の五個師団くらいの兵力でセイロン島を攻略し、インドと英国とを動揺させ、英国の東洋艦隊を誘い出して撃滅し、コーカサスから中東へ出て来るドイツと打通しようというものであった。
これはしかし、陸軍が頭から反対した。
大東亜戦争は、海を知らぬ者の手で始められ、空を知らぬ者の手で戦われたと言われるが陸軍としては、大体南方の島嶼《とうしょ》作戦は、気乗りもしないし、よく研究したこともなかったのである。
彼らが最も闘志を秘めた、そして最も恐ろしかった敵は、ソ聯であって、南方攻略作戦の一段落とともに、費やした兵力の大半を満洲と中国へ引揚げようと思っている時に、新しく印度洋作戦に五個師団割くなどということは、参謀本部として、到底受け入れ得ざる話であった。
陸軍の反対でこのプランがつぶれたあと、聯合艦隊司令部は、第三の中部太平洋進攻案を採ることになった。
この時機に、東京を空襲し得る実力を持っている者は、アメリカの機動艦隊だけであった。
そして、帝都空襲ということは、日本中の都市が焼野原になったあとからではちょっと想像出来ないほどの、当時重い問題で、それは帝国海軍と、日本の国のプライドにかかわると思われていた。
ミッドウェーから、出来れば再びハワイを突き、同時にアリューシャン列島の要地を攻略して、日本の海と空との防衛圏を東に二千浬《かいり》拡大し、アメリカの太平洋艦隊を洋上に誘い出して、撃破するという、案としてはこれが一番雄大な案である。
それに、陸軍が「泥水《どろみず》すすり草を噛《か》み」という戦争に、気質的にしたしみを感じていたとすれば、海軍の軍人は、前にも書いた通り、どうしても、洋上の華々しい艦隊決戦というものに、一種の郷愁をいだく傾向があった。
こうして、常勝の日本海軍は、ミッドウェーの失敗に向って歩を進めて行くことになるのであるが、このころ南方の占領地域では、陸軍が早々と多くの不祥事件をひきおこしていた。
三月七日付古賀峯一宛の山本の手紙の後段に、
「戦闘一段落と共に香港をはじめ仏印新嘉《シンガポ》坡《ール》菲《ひ》島《とう》各方面陸州真面目《しんめんぼく》発揮の事実又は空気有之由《これあるよし》之より漸《やうや》く内部破壊作用実現するにあらずやと憂慮せらるゝ次第に後座候」
という数行があるが、「真面目」とは掠奪《りゃくだつ》強姦《ごうかん》、戦後問題になったシンガポールにおける華僑《かきょう》の大量虐殺《ぎゃくさつ》などを指すものと思われる。「陸州」は陸軍である。目《め》糞《くそ》鼻糞を笑うのたぐいかも知れないが、海軍部内では陸軍のことをよく「陸助」とか「陸州」「陸式」という蔑称《べっしょう》で呼んでいた。
MI(ミッドウェー)、AL(アリューシャン)両作戦の、一応出来上った聯合艦隊側の構想を携えて、戦務参謀の渡辺安次が上京したのは、四月二日であった。
軍令部は、これに対して再び、非常に強い反対の意向を示した。反対の中心は、一部一課長の富岡定俊大佐と、課員の三代辰吉中佐とであった。
三代は一就《かずなり》と改名して戦後「MI作戦論争」と題する手記を残している。それによると彼は渡辺と兵学校海軍大学校ともに同期で、渡辺のことを「安兵衛」と呼んでいたが、二人の級友は、この時、立場を異にして激しい応酬を繰返した。
双方の主張に関しては「MI作戦論争」に詳しいが、細目は省略するとして、
「山本長官は、ミッドウェーを基地とする飛行哨戒《しょうかい》の効果の少ないことを、どの程度に理解されたのか。あの孤島での大きな消耗と補給難、これを続けるために他方面の航空兵力の減少とか、艦隊の作戦行動に及ぼす影響などを、はたしてよくよく勘案されたものだろうか」
と三代は書いている。
富岡もまた、
「ミッドウェーに関して、私は不《ふ》遜《そん》ながら、山本さんは大戦略構想を知らざるものと思った。第二段作戦は、先《ま》ず米濠遮断をやるべきだったと、今でも思っている」
と言っている。
富岡や三代に較《くら》べると、軍令部の反対といっても、伊藤軍令部次長や福留第一部長は、少し腰が弱かったようである。
それというのが、富岡や三代は、山本との個人的接触が浅かったのに対し、福留繁は、山本が昭和十四年に聯合艦隊に着任した時の「長門」の艦長であり、そのあと聯合艦隊司令部へ上って、参謀長として山本に仕えているし、伊藤整一は、山本が在米武官の時、駐在員としてアメリカへ行き、勉強の仕方まで教えられた仲であり、しかも、福留のあと宇垣の前に、短期間ではあるが、やはり聯合艦隊参謀長をつとめている。
三和義勇や渡辺安次が、山本の人間的魅力にすっかり取り憑《つ》かれていたように、伊藤も福留も、かつてのその人間的な接触のゆえに、つい、山本の主張に同情的な見方をする傾きがあったように見える。
作戦課の反対は、強硬であっただけでなく、理路も整然としていて、渡辺はタジタジの態《てい》であったが、やがて、
「長官の決裁された案を、作戦課の反対だけで引っ込めるわけには行かない。上層の意見も聞かなくちゃあ、帰れない」
と言い出し、それではというので、議論を福留第一部長の部屋へ持ちこむと、福留は渡辺の主張は全部聞き、三代の反対論は途中で遮《さえぎ》って、
「まあそう言わずに、折角の聯合艦隊の要望案なのだから、なるべくその要望を、研究してみようじゃないか」
そう言った。
そして、「研究」の結果をもとに、四月五日、軍令部の作戦室で、伊藤次長も出席して再び激論になった時、渡辺安次は中座して、呉《くれ》経由で「大和」へ電話をかけ、中央の空気を伝え、山本の意向を聞き、席へ帰って来ると、
「長官の御決意は固く、お考えは変りません」
と、列席の一同に伝えた。
福留少将は、次長の伊藤整一に向って、
「山本長官がそれほど仰有《おっしゃ》るのなら、お委《まか》せしましょうか」
と伺いを立てた。
伊藤は黙って頷《うなず》き、三代は急に涙が出て来て、顔を伏せてしまったという。永野軍令部総長には、異議が無かった。
ところで、その前日の四月四日は、山本の数え年五十九歳の誕生日にあたり、柱島の「大和」には、海軍省人事局の大野局員が、長官への勲一等加《か》綬《じゅ》の旭日《きょくじつ》大綬章と功二級の金《きん》鵄《し》勲章とを持って、訪れて来ていた。
山本は、
「こんなもの、貰《もら》っていいのかなあ」
と言い、金色に光る金鵄勲章を眺《なが》めて、
「羞《は》ずかしくて、こんなもの、つれやせん」
と言っていたそうである。
開戦以来、彼は自分の眼《め》では、未《ま》だ一度も敵の艦隊も飛行機も見たことがないので、これは必ずしも謙遜《けんそん》ではなかったであろう。
この日、山本は東京の堀悌吉に宛《あ》てて、
「前略
武井歌の守《かみ》 呉まで来ながら風邪にて来隊せず残念 同氏に頼んで次官室金庫に入れたものの内容は何でもないが 一つは昭和十六年一月七日認《したた》めたもので布哇作戦と聯合艦隊長官更迭《こうてつ》の事を及川に話して置いたのを覚書の様にして書いたもの
一つは昭和十四年五月頃《ごろ》憲兵につけられた時に書いたもの
一つは昭和十六年十二月八日認めたごく簡単なもの(家庭の事など何もない)
一つは金若干封入のもの
右を一の袋に入れ必要の場合堀中将に交付の事を依頼しあり
今日東京から使が勲章を持つて来て驚いた 第一線で働いたものは何と感じて居るだろう 慙《ざん》愧《き》に堪えぬといふ言葉があてはまるだろう まさか高松宮様の様に賞勲局総裁を呼んでおこるわけにも行かないだろうし
四月四日      山本五十六
堀兄                」
という手紙を書いている。
経理局長の武井大助が、呉まで出張して来たのに、風邪で熱を出し、「大和」へ来られなくなったので、山本はこの時右の袋を呉へ届け、武井に託して東京へ持ち帰ってもらい、海軍省の金庫に保管を依頼したのであった。
何気なく書いてあるが、この書簡の前段は、山本の一つの遺書、「述志」と見られるもので、「必要の場合」というのは、むろん自分が死んだ時という意味である。
その内容については、すでに触れた部分もあるが、あとは、彼の死後、次官の沢本頼雄の手で金庫が開かれて堀がそれを見る時まで、保留しておきたい。
上京中の渡辺戦務参謀は、その二、三日後、「大和」へ帰って来たが、山本の誕生日からちょうど二週間後の、四月十八日の昼過ぎ、東京は突然、アメリカの爆撃機の空襲を受けた。
「和光」の丹羽みちは、店のマッチの字を書いてもらったあと、一度、かねて腹にたまっていた梅龍の千代子のことで、山本にさんざんえげつないことを言い、それきり二年近く往《ゆ》き来《き》が絶えていたが、開戦後、いても立ってもいられない気持になり、「長門」へ手紙を出し、それでこの古い新橋芸妓《げいぎ》と山本との文通が復した。三月十一日付の彼女の手紙への返書で、山本は、
「(前略)商売が御繁昌なれば夫《そ》れで結構。かうなるとあまりいふ事も話す事もかく事もない筈《はず》だから之で左様なら。
と言つてもよいのだが一寸《ちょっと》心配なのは開戦わづか三月余だのに一度も空襲がないとて安心したり、山本さんに感謝したりして居る人が大分あるが夫れは大きな間違で敵の来ないのは山本さんなどのせいではない。全く敵のせいだから感謝するなら米国へしたらよい。若《も》し思ひきつて突込んで来れば東京などはとても防げるものではない。(中略)其時に見当違ひに海軍は何をしてるんかアーンなどと言つてもこちらは知らぬ顔 はせぬが困りまアす。まあ財産やいのちの半分位は出来たら郊外へでも置くのが安全。
第一段作戦といふのは小供の時間でもうそろそろ終り之から大人の時間となりますからこちらも居眠りからさめてそろやりますかね。(後略)
美つちやん             」
と書いているが、その「一寸心配な」ことが起ったのであった。
それは、ウイリアム・ハルゼー中将の率いる「エンタープライズ」と「ホーネット」の二隻《せき》の航空母艦、四隻の巡洋艦、八隻の駆逐艦から成るアメリカの機動部隊で、空襲を実施したのは、「ホーネット」搭載《とうさい》のB25十六機、指揮官は、陸軍中佐のジェームス・ドゥーリットルであった。
B25は、米国陸軍の双発中型爆撃機で、発艦は辛《かろ》うじて出来るが、航空母艦へ下りることは不可能なので、爆撃後中国大陸へのがれて、蒋介石《しょうかいせき》軍の手中にある飛行場へ着く予定になっていた。
空母に陸軍の軍人と、大きな陸軍の爆撃機を積んで空襲を行うという戦法は、少なくとも日本では誰《だれ》も想像し得なかったもので、アメリカの機動艦隊も、この時機には、戦争末期のような一方的傍若無人の行動をすることは出来ず、これは艦隊の安全を保して、遠距離の洋上から飛行機を放つための苦肉の策であった。
本州の東方洋上に出ていた哨戒艇の第二十三日東丸は、その朝六時三十分に、犬吠埼《いぬぼうざき》の東六百五十浬《かいり》にアメリカの航空母艦二隻がいることを発見して、無電を発しているが、この位置から艦載機が本土空襲に出ることは常識上不可能で、相手のこの後の行動を見守ることにしているうちに、日本は意表を衝《つ》かれた。
第二十三日東丸は、アメリカの巡洋艦「ナッシュビル」に沈められた。
ドゥーリットルの爆撃隊は、東京を去る六百六十八浬で「ホーネット」から発艦を始め、数群に分れて、東京のほか、川崎《かわさき》、横須賀、名古屋、四日市、神戸などを空襲した。「エンタープライズ」は機動艦隊自体の直衛にあたって、その艦載機は一機も日本へ向わなかった。艦隊は、B25十六機の発艦を了《お》えると同時に、東方へ避退を開始した。
機動艦隊司令長官のハルゼーは、悍《かん》馬《ば》の如き猛将で、戦争中、
「Kill Japs, kill Japs, kill more Japs!」(日本人を殺せ、日本人を殺せ、日本人をもっともっと殺せ)
と言った彼の言葉は有名であるが、米海軍の上級指揮官の中で、最も強く「山本のこん畜生」と思っていたのも、この人であったろう。
ハルゼーは、昔、セオドール・ルーズベルト大統領の時代に少尉《しょうい》で横浜に入ったことがあるし、その後も軍艦に乗って幾度か日本を訪れたことがあるらしく、日本政府から贈られた何かの勲章を持っていた。
その勲章を彼は、
「東京の空から奴《やつ》らに突っ返して来い」
と言ってドゥーリットル中佐に渡した。
空襲の前日、それはほかの米海軍将校たちの持っていた日本の勲章と一緒に、「ホーネット」の飛行甲板で五〇〇ポンド爆弾の尾部にくくりつけられ、翌十八日東京の何処《どこ》かに投下された。
ドゥーリットル爆撃隊の空襲の被害は、それほど大きなものではなく、日本側では、ドゥーリットルでなくてドゥ・ナッシングだったなどという地《じ》口《ぐち》も行われたが、その心理的効果は、決して小さくなかった。
永野修身が、軍令部の作戦室の大机のまわりを、
「これではならぬ、これではならぬ」
と呟《つぶや》きながら、ぐるぐる廻《まわ》っていたという話もあり、空襲後の四月二十九日、丹羽みちに宛《あ》てた手紙の中で、山本は、
「東京もたう空襲を受けまことに残念でした。勿論《もちろん》あんなのは本当の空襲などといふ丈《だ》けのものではないが今の東京の人達《たち》には丁度よい加減の実演だつたと思ひます」
と書いているが、実際は彼もまた、相当のショックを受けていたようである。
古賀峯一宛の書簡(五月二日付)の中では、
「先月十八日の空襲には相当自信ありて占めたりと思ひしところうまうまとしてやられたる形にて恐縮に候 大した事はなかりしとは言へ帝都の空を汚されて一機も撃墜し得ざりしとはなさけなき次第にて拙劣なる攻撃も巧妙なる防禦《ばうぎょ》にまさる事を如実に示されたるを遺憾とするもの」
と言っている。
ミッドウェー作戦は、軍令部がそれを呑《の》んだあとも、作戦発動の日時に関しては、未だ懸案中ということになっていたが、このことのために、それが早められた――少なくとも先へ延ばそうという議論が、姿を消してしまった。
ドゥーリットルの本土空襲のあった日の朝、南雲忠一の指揮する日本の機動部隊は、印度洋での作戦を了《お》えて、バシー海峡を、間もなく台湾の陸影が見えるところまで、帰って来ていた。
乗組の将兵が、故国の土を踏むのは、ちょうど三カ月ぶりであった。指揮官の器量がどうあろうと、真珠湾以来この四カ月半の、南雲艦隊の勇戦は、記紀に見える倭建《やまとたける》の物語のような、まことに目ざましいものがあったと言わねばなるまい。
その航程は五万浬に及び、南へ下ってはラバウル、ポート・ダーウィンを空襲し、中部太平洋へ出て、マーシャル群島来襲の敵機動部隊を追い、更に、遠く西へ印度洋に進出して、セイロン島のコロンボとツリンコマリを襲った。
常に、ほとんど一方的な勝利の戦《いくさ》であった。
四月九日、ツリンコマリ港外に、英国の航空母艦「ハーミス」を沈めた時などは、攻撃隊の指揮官江草隆繁大尉からの、
「突撃準備隊型作レ」
という無電が旗艦の「赤城」に入って来、「ハーミス」の電話が、
「『ハリケーン』出発セシヤ、『ハリケーン』出発セシヤ」
と、ツリンコマリ基地を呼んでいたのが途絶えて、
「全軍突撃セヨ」
つづいて、
「『ハーミス』左ニ傾斜」
「『ハーミス』沈没」
「残リ駆逐艦ヲヤレ」
「駆逐艦沈没」
「残リ北ニ上レ、大型商船ヲヤレ」
「大型商船沈没」
と、その間わずかに十五分であったという。
ただ、これらの作戦期間を通じて、淵田美津雄は、「果してこれでいいのか」ということを、屡々《しばしば》考えたと言っている。それは、自分たちの当面の、最大最強の敵であるアメリカ機動艦隊をさしおいて、牛刀を以《もっ》て鷄《にわとり》を割くような任務にばかり、奔命させられているのではないかという疑問であった。
彼らはまた、聯合艦隊司令部のあり方についても疑問を持っていた。
もし、全般作戦の指導上、中央と密接な連絡を取って広い視野で戦局を眺《なが》めていることが必要だというなら、司令部は、アメリカ太平洋艦隊の司令長官と司令部とがそうしているように、陸へ上ればいい。ほんとうに指揮官先頭を考えているのなら、山本長官以下、機動部隊と行動を共にすればいい。それを、陣頭指揮という東郷平八郎《とうごうへいはちろう》の亡霊に取《と》り憑《つ》かれて、柱島《はしらじま》泊地で、どっちつかずに世界一の戦艦「大和《やまと》」に腰を据《す》えているのでは、文字通りの遊兵ではないかというのであった。飛行機乗りの多くは「大和」以下の戦艦群を、「柱島艦隊」と、冷笑の思いで呼んでいた。
もっとも「亡霊に取り憑かれ」るといっても、それは海軍一般の空気がそうだったという意味で、山本自身は東郷にある種の反撥《はんぱつ》を感じていたらしい。東郷という人は、長年の間に、日本海軍にとって、何となく天日の如き存在となってしまい、日本海海戦でのその武勲は高く評価されねばならぬとしても、実際には困る面が多々あったようである。井上成美の一等大将と二等大将の区分では、東郷平八郎は一等大将に入っていない。
山本が次官時代の話であるが、女たちと徹夜麻雀《マージャン》のあと朝早く、中村家の古川敏子が、
「きょうはわたし、これから成《なり》田《た》さんにお詣《まい》りに行って来なくちゃ」
と言い出すと、何しに成田さんへ行くんだと山本が聞いた。
敏子は開運の願い事か何かあって、それを話すと、山本は、
「なんだ。それなら手近に東郷神社があるじゃないか。まわりの人にみんなやってもらって運がよくなりたいんなら東郷神社へ行けよ。東郷さんくらい運のいい人はいやしない」
と言った。
「まわりの人」というのは、多分日本海海戦の時の東郷の幕僚加藤友三郎や秋山真之《さねゆき》のことであろう。
鶴島正子は、昭和十三年の秋佐世保で料亭《りょうてい》「東郷」を始める時、名前をいただくのだからと東京へ出て来て、東郷元帥《げんすい》のお墓詣りをしたいと山本に言ったが、山本は、
「なんだ、人の墓なんか行って何になる。やめとけやめとけ」
と相手にしなかった。
「聖将東郷平八郎」に対して山本五十六や井上成美が一種の反感を持っていたのは、運がよかった悪かったよりも、ワシントン軍縮会議以後東郷が小《お》笠原長生《がさわらながなり》とか加《か》藤寛治《とうひろはる》とかいう取り巻きの連中に利用され、強硬派と同じ言動を見せることが多かったためである。
誠忠の士で、もともとは合理的な頭の持主だったのであるから、取り巻きがよかったら東郷さんもあんな風にならずもう少しフレキシブルな面を出せたろうにと、こんにちでも旧海軍軍人の中のある種の人々はそう言って残念がっている。
五・五・三の比率問題で下村正助中将が東郷元帥に諒解《りょうかい》を求めに行った折、
「ああいう船をスクラップにするなどということは絶対ならん」
と、東郷は軍令部あたりの勇ましい少壮将校と同じような反対意見をひどい権幕で述べ立てた。下村は、
「オイ、東郷さん大分いかれてるよ。年も年だけど、大きな世界情勢というものがつかめなくなっておられるんじゃないかな」
と言っていたそうである。
それはそれとして、ハワイ作戦の目的は、アメリカの艦隊を六カ月間真珠湾から出られないようにするということであったが、「大和」や「長門」の日本の主力部隊も、ミッドウェー作戦まで、まる六カ月間、ほとんど柱島の泊地を動かなかった。傷ついているかいないかだけの相違で、動かず、役に立たなかった点では、双方とも同じことであった。
「柱島で、毎日大砲撃つ稽《けい》古《こ》してる言うて、一体何に向ってその大砲撃つつもりやったんか」
と、淵田は言っている。
コロンボ、ツリンコマリの空襲を終って、バシー海峡を故国へ向いつつあった南雲艦隊は、本州東方に米空母出現、東京空襲の報を聞くと、命によって、全速力でその攻撃に向ったが、距離が遠すぎて間に合わず、ハルゼー艦隊は早く反転して東へ去り、それで南雲部隊の各艦は、戦闘態勢を解いて、それぞれの母港に帰投した。
疲れた艦隊には、乗員の入れ替えと充分の休養とが必要であったが、彼らは三カ月ぶりに日本へ帰って来て、初めてミッドウェー作戦の構想を聞かされ、間もなく、また東へ出撃しなくてはならないことを知らされた。
近藤信竹中将の指揮する重巡「愛宕《あたご》」以下の第二艦隊も、同様、南から帰って来て、初めてミッドウェー作戦について聞かされた。
発動の時機は既に決定していて、彼らには、作戦の延期を主張することも、作戦案を検討して疑義を糺《ただ》す余地も、ほとんど残されていなかった。
実際の戦争をして来た機動艦隊側には、多くの不満と不安とがあったと想像されるが、ただ今度の作戦では、宿敵であるアメリカ艦隊との洋上決戦が起る可能性が強く、ミッドウェー島の攻略よりも、どちらかと言えばその方が主眼で、そうとなれば、これは最も望む戦、そして、全勝無敵の南雲艦隊として、「鎧袖《がいしゅう》一触」の戦であると、大部分の者がそう信じて疑わなかったようである。
聯合艦隊司令部の肩を持つ人々は、この頃には、南雲中将以下、機動艦隊の将士の心が、もう驕《おご》りに驕っていたというし、機動艦隊側の人々は、聯合艦隊司令部の独断と驕慢《きょうまん》とが、既に度し難《がた》いものになっていたように言う。
五月一日から四日間、「大和」の艦上で、この作戦の図上演習が行われた。
連戦連勝の大艦隊の図演で、お偉方が綺羅《きら》星《ぼし》の如く集まって来た。現在海上自衛隊横須賀地方総監部の副総監藤平卓《ふじひらたくし》は、当時戦艦「山城《やましろ》」の分隊長で、毎日艦長の鞄持《かばんも》ちで内火艇に乗って「大和」へ通っていたが、彼の話では食事の時などどこもかしこも満員、中将の後任級は長官公室へ入れず士官室で飯を食っている、少将はガンルーム、大佐クラスはデッキで親子丼《おやこどんぶり》の立ち食いといった有様であったという。
藤平は「山城」の副長から、
「図上演習の内容はどんな上の人から聞かれても一切言っちゃならんぞ」
と厳命され、自分の艦へ帰ると鞄を金庫におさめて鍵《かぎ》をかけることにしていた。
そのくせ副長は、
「オイ、大体どんな構想になっとるか?」
と藤平に訊《たず》ねたりした。
統監兼審判長は、聯合艦隊参謀長の宇垣纏であった。アメリカの陸上機が日本の航空母艦群に爆撃を加える場面になり、統監部員の奥宮正武少佐が、爆撃命中率を決めるためにサイコロを振り、演習審判規則に従って、「命中弾九発」と査定すると、宇垣がそれを制して、
「待て。今の命中弾は、三分の一の三発とする」
と言ったという話が、奥宮と淵田の共著の戦記「ミッドウェー」に出ている。
そのため、沈没するはずの「赤城」が小破になり、それでも尚《なお》、「加賀」の沈没は決定的となったが、しばらくすると、沈んだ「加賀」も、もう一度浮き上って、次の作戦行動を開始したりした。
淵田美津雄は、
「この様な統裁振りには、さすが心臓の強い飛行将校達《たち》もあっけにとられるばかりであった」
と書いている。
一方、機動艦隊や攻略部隊の方でも、ある水上機隊は、
「六月中旬以降当隊宛《アテ》ノ郵便物ノ転送先ハ『ミッドウェー』トセラレタシ」
という、不用意な、作戦の不成功など考えたことも無いような事務電報を発信しているし、戦闘場面に突入する直前の、南雲長官の情況判断報告には、
「敵ハ戦意乏シキモ、我ガ攻略作戦進捗《シンチョク》セバ出動反撃ノ算アリ」
との一項目があった。敵が戦意に乏しいというのは、何を根拠にしての話か、アメリカは、烈《はげ》しい闘志を燃やして待ち構えていたのであって、要するに南雲忠一の鼻がむやみに高くなっていただけとしか考えられない。
山本五十六自身の気持が驕っていたということは、私は誰《だれ》からも聞かされたことがないし、それを示すような事実も見《み》出《いだ》すことが出来ないが、少なくとも客観的現象として、この時機には彼はもう、東郷と並ぶ日本海軍の英傑、作戦の神様になりかかっていた。
山本の主張することなら、仕方がないし、多分まちがいもないだろうという思いが、結局、軍令部作戦部をふくむ全海軍を支配したように思われる。
山本は実際は、ミッドウェー作戦に賛成していなかったという説がある。聯合艦隊水雷参謀の有《あり》馬《ま》高泰《たかやす》が、山本の死後、千早正隆に、
「長官は、ミッドウェーは、ほんとは反対だったんだ。これだけは覚えておいてくれ、千早君。自分たちが苦心して作り上げたミッドウェー作戦案を、長官自身の意志だと言い張ったのは、参謀たちだった」
と言ったことがあるという。
有馬参謀のこの言葉は一つの謎《なぞ》である。真珠湾の時には幕僚たちの反対意見を却《しりぞ》けてあれほど強硬に自分の考えを押し通した山本が、ほんとうにミッドウェー作戦に不賛成だったのなら、何故《なぜ》はっきりとそれを言わなかったか。部下への情に溺《おぼ》れるようになってしまったのか、それとも有馬がミッドウェー敗戦の山本の責任をかばい、幕僚の一員として自分らでそれをひっかぶろうとしたのか、有馬高泰は戦後病気で亡《な》くなり、こんにちでは確かめてみる術《すべ》が無い。
山本はミッドウェーの戦の終ったあと、作戦に関して弁解がましいことを一と言も口にしなかった。しかし朝日新聞の黒潮会記者であった杉本健は、
「仮に立場を変えて、他の者が聯合艦隊司令長官で、ミッドウェーの失敗をやったら、山本はさぞ、こっぴどい批判を浴びせたにちがいない」
と言っている。
「奉勅 軍令部総長永野修身
山本聯合艦隊司令長官ニ命令
一、聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ『ミツドウエイ』及『アリユーシヤン』西部要地ヲ攻略スヘシ。
一、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテコレヲ指示セシム 」
という、いわゆる「大海令」が出されたのは、昭和十七年五月五日、端《たん》午《ご》の節《せつ》の日であった。
陸軍は初め、この作戦には参加しないと言っていたが、のちに参加を申出《もうしい》で、一木支隊一個聯隊約三千人の陸兵が、ミッドウェー攻略に向うことになった。
「大海令」というのは、大本営海軍部命令、形式だけではあるが、天皇の勅を奉じて発せられる命令で、「ダイカイレイ」という言葉を聞くと、海軍士官は、電気にかけられたようになったものであるという。これは前述の通り、むろん開戦の時にも出ている。昭和十六年十一月五日、開戦の場合の作戦準備完整を命じたのが「大海令」第一号で、ミッドウェー作戦の「大海令」は、第十八号であった。
瀬戸内海は新緑の季節で、宇垣の「戦藻録《せんそうろく》」には、
「五月五日 火曜日 晴
征戦途上男の子の節句を迎ふ。鯉幟《こひのぼり》の影も見るに由《よし》なし。島影正に新緑酣《たけなは》なり。
日一日島影青く浮びけり」
とあるが、この日の夕刻、伊予《いよ》灘《なだ》で訓練射撃中の戦艦「日向《ひゅうが》」は、第五砲塔が爆発し、死者五十一名、重傷者十一名を出すという、ミッドウェー作戦の不吉を暗示するような事故を起した。
また、この日から二日後の五月七日、ラバウルを出て、ポート・モレスビー攻略に向いつつあった輸送船団護衛の空母「祥鳳《しょうほう》」は、アメリカ機動部隊艦載機の先制攻撃を受けて沈没した。「祥鳳」は、潜水母艦「剣崎《つるぎさき》」を改装した一万一千トンの小型空母であるが、戦争中アメリカ海軍が撃沈した最初の日本の航空母艦となった。
南雲艦隊の六隻《せき》の制式空母のうち、「瑞鶴《ずいかく》」「翔鶴《しょうかく》」の二隻は、この時この方面の海域に分派されて、第四艦隊司令長官井上成美中将の指揮下に入っていたが、翌五月八日、アメリカの航空母艦「レキシントン」「ヨークタウン」の二隻とわたり合い、「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」を大破した。
日本側も「翔鶴」が「ヨークタウン」と同程度と思われる被害を受けて、作戦行動が不能になった。しかし「瑞鶴」は無傷で、柱島で経過を見守っていた山本と彼の幕僚たちは、井上長官に、残存敵艦隊に対する追い撃ちをかけさせようと躍起になったようであるが、井上は「翔鶴」がやられると間もなく、モレスビー攻略も、追撃戦も共に中止してしまった。
これが「珊《さん》瑚《ご》海《かい》海戦」で、前の「スラバヤ沖海戦」「バタビヤ沖海戦」を以《もっ》て前近代海戦が終ったとすれば、珊瑚海の海戦は洋上、機動艦隊同士の近代海戦の始まりであったと言えよう。
ただ、聯合艦隊司令部では、井上成美の措置について、憤激する者が多かったという。井上が、軍政家としては定評がありながら、用兵家として色々批判のある所以《ゆえん》であるかも知れないが、高木惣吉は巷間《こうかん》伝えられるところとは別の見解を示している。高木はその著「太平洋海戦史」の中で「スラバヤ沖海戦」の昼戦の追撃中止を取り上げ、
「勝者が敗者と共に戦場を後に退却した史上の珍らしい一例である」
と書いた人であるが、この場合は事情がちがうという。充分な索敵が実施出来ず敵との距離が不明で、ジェスチャとしてがむしゃらに突っこんで行くなら別だが、第四艦隊のとった処置はやむを得ないものだった、それをあとあとまで、まるで井上の戦意不足か卑怯《ひきょう》の振舞いのように言い立ててケチをつけたのは、昔堀悌吉が呉淞《ウースン》砲撃問題でケチをつけられたのとよく似ている、要するに「新軍備計画論」で井上を中央から追い出した強硬派が、いい機会とばかりに彼を中傷したに過ぎないというのである。
もっとも、個々の事情を別にして言えば日本が徹底的な追撃戦を展開して戦果を拡大したという海戦は、他《ほか》にもほとんどその例が見あたらない。
ハワイの時もそうでなかったし、「スラバヤ沖海戦」の時もむろんそうでなかった。
これは単に指揮官個人の問題ではなく、よく言えばしつこくない、悪く言えば粘りの無い、私たち日本人の国民性のあらわれであったかも知れない。
五月五日の「大海令」が出て、各部隊は着々とミッドウェー及びアリューシャン行きの準備を始めた。山本も、この度は「大和」に乗って、支援部隊として出かけるつもりであった。
しかし、真珠湾の時に較《くら》べて、機密保持の面は、極めてルーズであったらしい。
呉《くれ》軍港は、出船入船で戦場のような様相を呈し、北へ向う航空母艦「隼鷹《じゅんよう》」「龍驤《りゅうじょう》」のランチは、半ば公然と、夥《おびただ》しい数の防寒被服を積みこんでは、岸と母艦との間を往復していたし、呉の床屋が、
「今度は、大分大けなことをやられるそうですのう」
と、海軍士官の頭を刈りながら言ったという話もある。田結穣《たゆいみのる》は、「噂《うわさ》の方が公文書よりも先に伝わって来る、へんな事だと思った」と言っている。
一方、ハワイのホノルルの町でも、五月の中旬には、日本の艦隊がミッドウェーに来るという噂が流れていた。
しかし、心の驕りというが、心の驕りと自信の深さと、よしあしの差は紙一重の点もあり、日本海軍の慢心がミッドウェーの失敗を招いたというのは、一面の真実に過ぎまい。アメリカ側から言えば、ミッドウェーの成功は再び暗号解読の勝利、情報綜合力《そうごうりょく》の圧倒的勝利ということになるであろう。
ハワイの米太平洋艦隊の司令部では、司令長官のチェスター・ニミッツ大将以下、日本のMI、AL作戦に関しては、早く察知していた。
デーヴィッド・カーンの著書には、失われた西太平洋の支配権を一挙に奪回するため、アメリカは強力な秘密兵器を準備していて、その秘密兵器はパール・ハーバーの海軍工廠《こうしょう》内第十四海軍区司令部の窓の無い細長い地下室にあったという意味のことが書いてある。それがジョセフ・ロシュフォート少佐を長とする米国海軍の暗号解読班であった。
日本側の記録によれば、軍令部は五月一日付で「呂《ロ》暗号」の使用規定、乱数表の全部を改変している。変えたばかりの無限乱数暗号がただちに解かれてしまうというのは、スパイを入れてコピイを盗《と》らない以上、暗号の常識として不可能と思われるが、ただ一つ、この年の一月に、機雷敷設の任務を帯びて濠洲《ごうしゅう》方面を行動中の「伊《イ》一二四」潜水艦が、帰途消息を絶つ事件が起っているのは、この問題を考える上で興味のあることであろう。
第六艦隊(潜水艦艦隊)の司令部でも聯合艦隊司令部でも、これを、約一カ月後に、行《ゆく》衛《え》不明になったものとして処理し、それ以上の心配は何もしなかったのであるが、事実は「伊一二四」潜は、一月二十日の夕刻、ポート・ダーウィン沖でアメリカの駆逐艦「エゾール」とオーストラリヤ海軍のコルヴェット艦三隻の包囲攻撃を受けて沈没したのであった。
現場は水深十五メートルの、澄明《ちょうめい》な、潮の流れも激しくない海で、アメリカ海軍はすぐ潜水母艦から潜水夫を入れて、「伊一二四」の残骸《ざんがい》を切り、艦内の重要書類を引き揚げさせた。その中に商船暗号書をふくむ海軍の暗号書が何種類かあった。
原物を手に入れて、しかも相手にその事を悟られていなければ、暗号は解くも解かぬもない話で、少なくともこれ以後海軍の暗号電報のかなりの部分がアメリカ側に読まれるようになったろうし、五月一日の改変後も解読の有力な手がかりとなり得たろうと想像される。
しかしカーンの本には、日本の第一段作戦があまりに急速に進展したので暗号書の配布が間に合わなくなり、五月一日改変の予定は六月一日に延期されたとある。そしてロシュフォート少佐の部隊を中心とする連合国の解読班は、ほとんど正攻法だけで日本海軍の主だった暗号電報の九十パーセントを読めるようになったと言っている。
いずれが真相であるかは分らないが、ともかく彼らが、中部太平洋において日本の大攻勢の時期が迫っていることを、五月の初めに暗号を読んで知ってしまったのは事実であろう。
ただ、作戦計画の全貌《ぜんぼう》が次第につかめて来てからも、電文の中の「AF」という地点符字が果してミッドウェーを指すものかどうかには、一抹《いちまつ》の不安があったらしい。万一「AF」がミッドウェー以外のところであった場合は、邀撃《ようげき》態勢に大きな錯誤を犯すことになるので、ロシュフォートの発案で彼らは、
「『ミツドウエー』島ハ蒸溜《ジョウリュウ》施設故障ノタメ真水ノ欠乏ヲ来《キタ》シツツアリ」
という平文電報を発信してみた。
日本海軍で敵信傍受の中枢になっていたのは、埼玉県の平林《へいりん》寺《じ》の近くにある、野中の大和田通信隊であったが、大和田通信隊はすぐ、この米軍の平文電報を捕え、「AF」に真水が欠乏しているそうだという暗号電報が、作戦参加の各部隊に出され、日本は特に、攻略部隊に水船を追加するという処置まで取って、「AF」がミッドウェーであることを、アメリカ側に確認させた。
山本が次官時代、水から油が取れるという怪しげな話にひっかかって、「発明家」にその実験をやらせた折、立ち会った石川信吾は、この時軍務局第二課長のポストにいたが、彼は「飛龍」艦長の加来《かく》止《とめ》男《お》大佐と兵学校同期で、五月のある日、加来が石川の娘の結婚式に上京して来た時、
「おい、ミッドウェーとは何だい? 勝って新聞賑わすだけで、負けたら大変なことになるぞ。東京じゃあ、みんな反対なんだ。貴様、何と思って出て行く?」
と不平を言った。
加来は、
「うん。今度はもう、貴様とも会えないかも知らんな。後事を頼むよ」
と、あまり気勢の上らぬ様子で、
「俺《おれ》も、この作戦は無理だし、無意味だと思ってる。しかし、山本さんが頑《がん》張《ば》るから、やむを得ないんだ」
と言った。石川が、
「どうしてそれを、長官に言わない? 航空母艦の艦長ともなったら、それくらいはっきり言って、山本さんを諫《いさ》めたらいいじゃないか」
とつづけると、加来はまた、
「とても言えやしない。言っても聞いてもらえるもんじゃあない」
そう言った。
その次の日、石川は新橋で、南雲忠一とも会食した。
「南雲さん、ミッドウェーとは、一体何ですか? 何故《なぜ》山本さんに言って、やめさせないんです?」
と、石川は同じ不満を述べた。南雲は、
「分ってるよ。しかしな、この前ハワイの時、俺は追い撃ちをかけなかった。そうしたら山本は、幕僚たちに、見ろ、南雲は豪傑面《ごうけつづら》をしているが、追い撃ちもかけずにショボショボ帰って来る、南雲じゃ駄目《だめ》なんだと、悪口を言った。今度反対したら、俺はきっと、卑怯《ひきょう》者《もの》と言われるだろう。それくらいなら、ミッドウェーへ行って死んで来てやるんだ」
と、山形訛《なま》りで答えた。
石川は、戦後、
「堀中将を首にした遺恨とはいえ、山本さんは、どうしてあんなに南雲長官をいじめなくてはならなかったのかと思う」
と言っている。
石川はまた、アメリカ側が真珠湾攻撃を、「相手の横面を張って激昂《げっこう》させただけの作戦」と評していることなど引合いに出し、山本は軍政家としては傑出していたが、用兵家としては、きんたま握りの幕僚ばかり可愛《かわい》がって、ハワイもミッドウェーも皆失敗で、一つも及第点はつけられないとも言っている。
石川信吾は、かつて加藤寛治を親玉に、南雲忠一たちと一緒になって、大いに軍縮条約反対の気勢をあげたいわゆる艦隊派の一味の人であった。彼の話は多少その点を考慮して聞く必要があるであろうし、南雲と山本の関係については、山本はそんなに度量の小さい人ではなかった、少なくとも開戦後はむしろ南雲をかばっていたという説もあるが、山本の死後、山本に眼《め》をかけられた参謀たちが、皆、作戦の中枢からはずされ、いくらか左《さ》遷《せん》状態に置かれるのは事実である。
出撃を二週間後にひかえた五月十三日の朝、「大和」は柱島を抜錨《ばつびょう》して、修理と補給のために、昼すぎ呉《くれ》へ入港した。
これから六日間の呉在泊中に、司令部の幕僚たちも、「大和」乗組の士官たちも、希望者はみな、呉へ細君を呼び寄せて、別れの幾夜かを過した。これは、入港時の慣例であって、別に不思議はないが、真珠湾出撃の直前には、こういうことは行われていない。
山本も東京の千代子に、出て来いといって、その日のうちに何度となく電話をかけた。
千代子は、三月の中旬から肋膜炎《ろくまくえん》を患《わずら》い、病状が重く、ドゥーリットルの東京空襲のころは、一時医者にも見はなされたほどで、未《ま》だ絶対安静の状態がつづいていたが、とうとう意を決し、死んでもいいというつもりで、その晩、抱きかかえられるようにして、下関行の夜汽車に乗せてもらった。
咳《せき》がひどく、列車の中で附《つき》添《そ》いの大井静一という医者に何度も注射をうってもらいながら、翌日の午後呉へ着くと、プラットフォームに、背広に眼鏡をかけマスクをした山本が待っていた。山本は、例によって彼女をおぶい、駅前に待たせてあった車のところまで連れ出した。
呉の吉川という旅館に入り、呼吸困難の千代子は、注射をつづけながら、此処《ここ》で山本と四晩を過したが、これがこの二人の、最後の出あいになった。
「この下に宇垣がいるんだよ」
と山本は言っていたが、人眼をはばかる様子も無く、痩《や》せ細った彼女を横抱きにして風呂《ふろ》へ入れたりしたそうである。
彼女が東京へ帰り、「大和」が柱島へ帰ったあと、山本は五月二十七日付で、
「あの身体《からだ》で精根を傾けて会ひに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだつたか。(中略)私の厄《やく》を皆ひき受けて戦つてくれてゐる千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は――万事を放擲《ほうてき》して世の中から逃れてたつた二人きりになりたいと思ひます。
二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上に全軍を指揮します。多分あまり面白《おもしろ》いことはないと思ひますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。
うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮しつ」
という手紙を書いている。
「記念日」というのは、海軍記念日のことだが、「これから峠だよ」は、何の意味か、はっきりしない。
しかし、少し前の珊瑚海の海戦の時には、古川敏子に、
「けふは東の方で、三翻《サンファン》にはならなくとも両翻《リャンファン》ぐらゐのことをやつてゐるはずです」
という気楽な手紙を出した山本が、五月二十七日のこの河合千代子あての手紙では、「私の厄を皆ひき受けて戦つてくれてゐる」とか、「多分あまり面白いことはないと思」うとか、妙に不吉に聞えることを言っているのは、不思議といえば不思議であった。
浦賀船渠《ドック》の社長の堀悌吉は、艦隊がミッドウェーに向けて出撃する前の晩、進水式で船が転覆する、いやな夢を見たと言っていたそうである。
また、五月二十五日、柱島の「大和」で、最後の局部的図上演習が行われた日の昼食に、傭人《ようにん》のコックが、鯛《たい》の味噌《みそ》焼《やき》を出した。
配食の指図をしていた従兵長の近江兵治郎は、思いなしか、その時、山本の眼つきが変ったように思ったという。
船乗りは一体にかつぎ屋であるが、近江は副官から、
「味噌をつけるといって、オイ、こういう時に味噌焼なんか出すもんじゃないぞ」
と叱《しか》られた。
「コックも私たちも、まったく気がつかなかったのだが、長官がもっと癇癪持《かんしゃくも》ちの人だったら、鯛の皿《さら》を投げつけられたかも知れない」
と近江兵治郎は言っている。
山本が千代子に手紙を書いた海軍記念日の、五月二十七日朝、南雲艦隊の本隊は広島湾を出撃した。
軽巡「長《なが》良《ら》」に率いられる第十戦隊の駆逐艦十二隻が、一本棒になって先頭に立ち、そのあとに第八戦隊の重巡「利根《とね》」「筑《ちく》摩《ま》」、第三戦隊第二小隊の戦艦「榛《はる》名《な》」「霧島」がつづき、「霧島」のうしろに、第一航空戦隊、第二航空戦隊の大型空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍《そうりゅう》」の四隻が、この順序で走っていた。
豊《ぶん》後《ご》水道を抜けると、艦隊は、航空母艦四杯を中心にした輪型陣に隊形をあらためた。
アリューシャン方面に向う第四航空戦隊の航空母艦「龍驤《りゅうじょう》」「隼鷹《じゅんよう》」及び重巡「高雄」「摩耶《まや》」と三隻の駆逐艦は、角田覚治少将の指揮下に、その前日の五月二十六日、大湊《おおみなと》を出た。
海軍特別陸戦隊二個大隊と、陸軍の一木支隊三千名を乗せた、ミッドウェー占領隊の輸送船十二隻は、第二水雷戦隊の軽巡「神通」以下十一隻の駆逐艦に護《まも》られて、五月二十八日、サイパンを出た。第二水雷戦隊の司令官は、田中頼三少将であった。
同じ日、グアムを出撃した栗《くり》田《た》健《たけ》男《お》中将の率いる第七戦隊「鈴《すず》谷《や》」「熊《くま》野《の》」「最《も》上《がみ》」「三《み》隈《くま》」の四隻の巡洋艦と駆逐艦二隻も、この部隊の直接掩《えん》護《ご》にあたった。
北方作戦全般の指揮にあたる第五艦隊司令長官細萱《ほそがや》戊子《ぼし》郎《ろう》中将も、この日重巡「那智《なち》」に乗って大湊を出た。
第二艦隊司令長官近藤信竹中将麾下《きか》の、重巡「愛宕」「鳥海」「妙高」「羽黒」、戦艦「比《ひ》叡《えい》」「金剛」、軽巡「由良《ゆら》」と駆逐艦七隻の第四水雷戦隊、及び航空母艦「瑞鳳」駆逐艦一隻の計十六杯は、南雲艦隊に二日おくれて、五月二十九日、広島湾を出撃した。この部隊は、ミッドウェー占領隊と合して一の攻略部隊となり、ミッドウェー島攻略の任務を果す予定であった。
山本五十六大将の直率する戦艦「大和」「長門」「陸奥《むつ》」の三隻と、その直衛にあたる軽巡「川内《せんだい》」及び駆逐艦八隻、航空母艦「鳳翔」及び駆逐艦一隻、第一艦隊司令長官高須四郎中将の指揮する戦艦「伊勢」「日向」「扶《ふ》桑《そう》」「山城」の四隻と、第九戦隊の軽巡「北上」「大井」及び駆逐艦十二隻は、二十九日、近藤部隊につづいて柱島泊地を出た。このうち、高須部隊は、途中、アリューシャン作戦支援に分派されることになっていた。
これは、聯合艦隊のほとんど全兵力で、六カ月前ハワイに向った艦隊の規模をはるかに上廻《うわまわ》り、アメリカ太平洋艦隊の全勢力よりはるかに優勢であった。
誰《だれ》も、この艦隊が負けるかも知れないなどと、想像することは出来なかったにちがいない。
ただ、堀悌吉の進水式の夢や、鯛の味噌焼の話は、結果を知ってあとで思い合せたこととしても、すべてが順目《じゅんめ》に、つい《・・》ていた真珠湾の時と較《くら》べて、この度はあらゆることが、裏目裏目と出、日本の大艦隊は事毎《ことごと》につい《・・》ていなかったように見受けられる。
「赤城」飛行隊長の淵田は、出撃の前から腹痛を訴えていたが、盲腸炎ときまり、航海中の艦内で手術を受け、戦闘にはついに参加することが出来なかった。
同期の源田航空参謀が、病室へ見舞いに来て、
「今度の作戦のことなんぞ、気に病むな。貴様が無理せんでも、鎧袖《がいしゅう》一触だ。それよりこの次の、米濠遮断《しゃだん》作戦に、また一つ、シドニー空襲を頼むよ」
となだめたというが、その源田実も、間もなく高熱を出し、肺炎を憂慮される状態で、艦隊がミッドウェー近くの海域に到達して、やっと起き出して来た時にも、未だ熱っぽい顔をしていた。
あとで書くが、総指揮官の山本五十六も、戦のさ中に、蛔虫《かいちゅう》が原因のひどい腹痛を起して苦しんでいる。
彼が千代子に、「多分あまり面白いことは無いと思ひます」と書いたその根拠は不明であるが、仮にこれを、勝負師の山本が、つき《・・》の去りかけているのを悟ったための言葉と考えれば、辻褄《つじつま》が合い過ぎるけれども一つの解釈にはなろう。
マーシャル群島の東の、ウォッジェ基地にいた、海軍の二式飛行艇は、五月三十一日の深夜、真珠湾の状況を偵察《ていさつ》する任務を与えられていた。
二式飛行艇は、九七式大艇の後裔《こうえい》で、川西《かわにし》が制作した、四発の、当時世界で最もすぐれた飛行艇であったが、ウォッジェ・ハワイ間の無着水往復は、航続距離の上で無理で、ハワイとミッドウェーの中間に、フレンチ・フリゲート礁《しょう》という無人の珊《さん》瑚《ご》礁《しょう》がある、此処《ここ》で味方の潜水艦と出あって、燃料の補給を受けた上、真珠湾へ飛ぶ予定であった。
ところが、補給の潜水艦がフレンチ・フリゲート礁を潜望鏡で覗《のぞ》いてみると、アメリカの水上艦艇が二隻と、飛行艇が二機いて、警戒厳重で、味方の大艇の着水は不可能と分り、それで偵察飛行は取りやめになった。
何故《なぜ》この真珠湾偵察が企てられたかというと、聯合艦隊司令部は、ミッドウェー攻略作戦を、相手はまったく察知していないもの、反撃のアメリカ艦隊が出て来るとすれば、真珠湾から出て来るものと判断していたため、パール・ハーバー在泊の艦隊の様子を知りたかったからである。実際はこの時、米海軍はすでに、保有の全兵力を真珠湾からミッドウェー島とその周辺に移し、万全の態勢をととのえて待っていたのだから、この偵察飛行が成功すれば、真珠湾がからっぽであることを見《み》出《いだ》して、少なくとも不審はいだけたはずで、これもつい《・・》ていなかったことの一つであった。
また、一般には小さなことと思われるかも知れないが、給油艦の「鳴《なる》門《と》」が、「大和」と会合出来ず、六月一日、悪天候の中で位置を知らせるために電波を出すという錯誤を冒しているし、「赤城」も変針を下令するために、六月三日、微勢力の電波を出している。こういうことは、十二月の真珠湾の時には、決して行われなかった。
南雲艦隊のミッドウェーでの戦闘については、淵田と奥宮の「ミッドウェー」がほぼ完《かん》璧《ぺき》な戦記であり、このほか、源田実も書いているし、伊《い》藤正徳《とうまさのり》も書いている。近くはウォルター・ロードの「Incredible Victory 」という厖大《ぼうだい》な記録文学作品が刊行され、ロードの日本での取材に協力した実松譲の訳で「逆転」と題する日本語版も出た。ここであらためて多くを記す必要はあるまいが、ミッドウェー島攻略日が六月七日、攻略支援のため機動艦隊がミッドウェー空襲を開始するのが、その二日前の六月五日と予定されていた。
作戦の目的の第一は、ミッドウェー島の攻略、第二は、それによって、ハワイにいる(はずの)アメリカ艦隊を誘出し、決戦を強《し》いることで、目的の大小からいうと、あとの方が大目的であるが、順序としてはこの順序で、一応はっきりしているようでもあるし、もしそのスケジュール通り事が運ばなかった場合、どちらを優先さすのか、少しあいまいなところもあった。そしてこのことが、失敗の原因の一つになったように思われる。
ミッドウェー島の北西三百四十浬《かいり》に達した南雲艦隊は、東京時間で六月五日の午前一時三十分、いつもの通り日出三十分前に、四隻の航空母艦から第一次攻撃隊の発艦を開始した。
飛行機の両翼に赤と緑の航空灯がつき、それが飛行甲板にたくさん重なりあって、美しい光景であったという。
淵田が病気で、総指揮は「飛龍」飛行隊長の友永丈市大尉、編制は、水平爆撃隊、降下爆撃隊、制空隊がそれぞれ三十六機ずつの、合計百八機であった。
しかしこの第一次攻撃隊は、発進直後から、相手の飛行艇につけられてしまった。攻撃隊がミッドウェー島にさしかかると、飛行艇は吊光弾《ちょうこうだん》を落して位置を知らせ、基地の邀撃《ようげき》戦闘機が舞い上って来た。
これに対し、菅波政治大尉の率いる零式艦戦の制空隊は、二機の損失で、グラマン戦闘機四十機以上を撃墜するという、信じられないほどの戦果を挙げ、爆撃隊に一切手を触れさせなかったが、島の飛行場は、飛行機が悉《ことごと》く退避してしまっていて藻抜《もぬ》けのからで、爆撃はあまり効果が上らなかった。
それで、友永大尉は、南雲長官あてに、
「第二次攻撃ノ要アリト認ム、〇四〇〇」
という電報を打って帰途についた。
この時、四隻の空母の上では、江草隆繁少佐の降下爆撃隊、村田重治少佐の雷撃隊、板谷茂少佐の制空隊が、アメリカ機動艦隊の出現に備えて、第二次攻撃隊として待機していたが、友永の電報を見て、航空母艦相手の攻撃機の雷装を、急いで陸用爆弾に取り替えることになった。
南雲忠一の情況判断報告には、
「敵ノ航空母艦ハ『ミッドウェー』附近ノ海面ニハ行動シアラズト推定ス」
とあったが、これは文字通り「推定」であるし、艦隊は定石として、その前、朝早く、一応戦艦「榛《はる》名《な》」から一機、巡洋艦「筑摩」と「利根」から二機ずつ、「赤城」と「加賀」から各々一機、計七機の索敵機を、ミッドウェー島をはさんで、扇型に出していた。
しかし、此処にも事が裏目に出た一つの例があって、結果的にアメリカの航空母艦群を発見する、その線上に出る「利根」の水上偵察機は、カタパルト故障のため、発進が三十分遅れた。
ミッドウェー海戦における索敵に関しては、防衛庁防衛研修所の秦郁彦《はたいくひこ》が昭和四十四年一月「海幹校評論」に発表した「ミッドウェーの索敵機」という詳細な論考があるが、それによるとこの水上偵察機の機長は甘利洋司という一等飛行兵曹《へいそう》であった。しかも甘利機は磁針偏差修正の算出を誤って、与えられた索敵線とはちがうところを飛ぶ。「その線上」と書いたが、実際は彼の飛ぶべき「線上」でないところを飛んで、怪我《けが》の功名でアメリカの艦隊を発見するのである。
秦は「戦闘は過失の連続であると言われる」と書いているが、予定通り飛んだ他の索敵機は視界内に敵を見ず、或《あるい》は見《み》出《いだ》すことに失敗し、三十分遅れた「利根」の四号機が誤った索敵線上を飛行して、
「敵ラシキモノ十隻見ユ。ミッドウェーヨリノ方位一〇度二四〇浬、針路一五〇度、速力二〇ノット」
という報告を出した時には、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の甲板では、第二次攻撃隊がすでに島を叩《たた》くための陸用の兵装を始めていた。
第一航空艦隊の司令部では「オヤ」と思い、一瞬ドキンとしたらしいが、先入観にとらわれて未《ま》だみんなが「まさか」と思っていたらしい。甘利機に対してはしかし、触接続行の命令が出された。
五十二分後、甘利兵曹の触接機は、
「敵ハソノ後方ニ空母ラシキモノ一隻ヲ伴《トモナ》ウ」
と打電して来た。
これは決定的な報告であった。いないはずの航空母艦がいた。
各母艦の上は騒然となり、陸用爆弾を積んで飛行甲板に並んでいた攻撃機は、急遽《きゅうきょ》格納庫へ下ろして、再び魚雷を装備させることになった。時間が切迫している時に、これは大変な作業で、エレベーターは、飛行機を載せ、「チャンチャンチャンチャン」と警鐘を鳴らしつつ、絶え間なく上ったり下ったりし、兵員たちは汗《あせ》水《み》漬《づく》になりながら、不平も言わず、二度目の兵装転換にかかったが、下ろした陸用爆弾は、弾庫へしまう余裕が無く、皆ごろごろ格納庫の隅《すみ》へころがして置かれた。これが、あとでことごとく誘爆することになる。
その間にも、各母艦では、第一次攻撃隊の収容、陸上基地から来襲の米軍機への応戦という仕事が待っていた。
病後の身体《からだ》を押してデッキへ出ていた淵田美津雄が、
「今何時ですか?」
と、「赤城」飛行長の増田正吾に聞くと、増田は腕時計を見て、
「七時十五分です。いやァ、全くきょうは一日が長いですなァ」
と言って、フーッと吐息をついたという。
それから五分後の、七時二十分、
「第二次攻撃隊準備出来次第発艦セヨ」
という命令が出た。
母艦は風に立ち始め、やっと雷装に切り替え終った攻撃機群は、すでにプロペラを廻し出し、あと五分あったら、全機アメリカの機動艦隊に向って発艦を了《お》え得るという時に、突然、上空から、真っ黒な敵の急降下爆撃機が三機、「赤城」をめがけて突っこんで来た。
三発の爆弾が命中し、やがて「赤城」は、猛烈な音を立てて、誘爆を起した。その時には、「赤城」から視界内にある「加賀」と「蒼龍」の二艦も、黒煙を上げ、一瞬にしてまったく同様の状態に陥りつつあった。
山本の乗った戦艦「大和」は、そのころ、「長門」「陸奥」以下の主力部隊を随えて、ミッドウェーの北西約八百浬《かいり》のところを東へ走っていた。
南雲艦隊との距離はほぼ五百浬で、「大和」の司令部では、南雲艦隊が、二度の兵装転換に、騒然と時間を空費していることを承知していなかった。
それで、「利根」の偵察機から、敵艦隊発見の報が入った時は、みんながこれを吉報と思った。
敵空母出現に備えて待機している南雲部隊の第二次攻撃隊が、そこで時を移さず発進すれば、成功は疑いなしと思われ、
「うむ。なかなかうまくやっている」
「あと、残敵の処分は、どうしますかな」
などと、幕僚たちは、緊張のうちにも、むしろ楽しげに話していた。
ただ山本は、前日来の腹痛で顔色がすぐれず、戦闘艦橋に在って、ほとんど口をきかなかったという。
「敵艦上機及ビ陸上機ノ攻撃ヲ受ケ、『加賀』『蒼龍』『赤城』大火災」
という電報が「大和」へ入ったのは、それから間もなくであった。
山本は、唇《くちびる》をきゅっと結んで、一と言、
「うむ」
と言っただけだそうであるが、幕僚たちは色を失った。
この電報の発信艦は「利根」で、発信者は第八戦隊司令官阿部《あべ》弘毅《ひろあき》少将であった。阿部は、南雲部隊の次席指揮官で、このことは、南雲中将の安否不明と、「赤城」の通信不能状態とを暗示していた。
聯合艦隊司令部のある参謀は、興奮して、
「今すぐ、魚雷を抱いて飛び出して行けば、刺しちがえでこざいます」
と山本に進言したが、三隻の航空母艦は、飛行甲板がめくれ上り、下からは火が吹き出して来、度々の誘爆が起って、すでに飛行機の発進出来る情況では無くなっていた。
ともかく、南雲艦隊を援《たす》けるために、「大和」は麾下《きか》の戦艦群を率いて、二十ノットに増速し、ミッドウェー指して急行し始めた。
北方の角田部隊の空母「龍驤」と「隼鷹」には、急速南下、本隊と合同するようにという命令が出された。
南雲司令長官、草鹿参謀長以下の機動部隊司令部の人々は、この時、火に包まれた艦橋の窓から脱出し、燃える「赤城」をあとに、巡洋艦「長良」へ将旗を移しつつあった。淵田美津雄が、艦橋から飛び下りて脚の骨を折ったのもこの時である。
無傷で残っている空母は、ミッドウェーの海域に「飛龍」が一隻だけ、「飛龍」は第二航空戦隊司令官山口多聞少将の旗艦で、艦長の加来止男大佐が操艦にあたっていた。この航空母艦を襲った米軍の飛行機は、延《のべ》百十五機に及んだが、「飛龍」は、二十六本の魚雷と七十発の爆弾とをみなかわして、生き残っていた。
山口多聞は、識見もすぐれ、勝負度胸もあり、当時海軍部内で極めて評判のよかった武将である。機動艦隊の総指揮は、この人にとらせてみたかったと、幾人もの人がのちにそう言っている。
兵学校は山本五十六の八期下であるが、山本とは旧知の間柄《あいだがら》で、山口に後《のち》添《ぞ》いの妻孝子を世話したのも山本であった。
孝子は旧姓四《し》竈《かま》、山本夫婦の媒酌人《ばいしゃくにん》をつとめた四竈幸輔《こうすけ》の姪《めい》にあたり、山本は彼女を少女のころから可愛《かわい》がっていて、女子大への進学をすすめたりもした。
そのころ、女子大といえば、婦道教育でやかましい日本女子大だけが名高かったが、山本は、
「女子大といっても、目白じゃないんだよ。安井さんの女子大の方だ」
と言って、西荻窪《にしおぎくぼ》の東京女子大学を推奨した。
山本が、アメリカ系の自由主義的な、当時あまり有名でもなかった東京女子大に、何故《なぜ》関心を持っていたかというと、四竈幸輔はシャムの公使館附《づき》武官当時、シャムの皇后女学校教育主任としてバンコックにいた安井てつと識《し》り合いになっている。それから現在この学校の国文科の教授をしている「薄田泣菫《すすきだきゅうきん》」の著者の松村緑は、四竈夫婦も識っているし、榎本重治夫人とは同じ岡山の出身で親戚《しんせき》すじにあたる。松村は東京女子大の初期の卒業生でたいへんな母校びいきであるから、親戚でしかも保証人だった榎本の細君には、いい学校だいい学校だとしきりに言っていたにちがいない。山本は榎本夫人の口を通してその校風を色々耳にし、四竈からは安井てつの人柄《ひとがら》を聞き、それで「安井さんの女子大」に孝子を托《たく》す気になったのであろう。
ミッドウェーに出かける時、山口多聞は妻の孝子に、一と言だけ、
「今度は敵が知ってる所へ行くから、帰って来られんかも知らんよ」
そう言った。
山口は、海軍に入って一日といえども後悔したことはなかったという、如何《いか》にもすっきりした海の武人で、山本とちがって酒もよく飲み、
「月雪花の時以外晩酌《ばんしゃく》はしない方が教育上よろしい」
と言いながら始終月雪花であった。彼の出陣の時の口調はまことに淡々たるものであったという。
僚艦三隻がやられたあと、山口少将は航空戦の指揮をとり、アメリカの機動部隊が「エンタープライズ」、「ホーネット」、「ヨークタウン」の三杯から成っていることを確認すると、第一次攻撃から帰って待機していた友永丈市に、十機の雷撃機と、六機の戦闘機を率いて攻撃に立たせた。友永の乗る艦攻は、左翼の燃料タンクが、朝の攻撃で打ち抜かれ、修理中で、未だガソリンが充分積めなかったが、彼は、
「もういいよ。右翼のタンクだけ、一杯つめてくれ」
と言い、部下が自分の搭乗機《とうじょうき》を使ってもらいたいと申し出るのも、
「いいよ、いいよ」
と断わって、片道分の燃料で「飛龍」を発進し、そのまま還《かえ》らなかった。
この攻撃隊は、「ヨークタウン」を大破し、「ヨークタウン」はそのあと、日本の「伊一六八」潜水艦の手で撃沈された。
尚《なお》、「ヨークタウン」がミッドウェーにあらわれていたことは、日本の艦隊には一つの驚きであったようである。
五月の珊《さん》瑚《ご》海《かい》海戦で傷ついた航空母艦「翔鶴」は、三カ月の予定で呉で修理中で、この作戦に参加しなかった。したがって、同じ海戦で同じ程度に傷ついた相手の「ヨークタウン」も、やはり修理には約三カ月を要するものと考えられていた。アメリカ海軍はそれを、真珠湾で、三日間の突貫工事でとにかく使えるようにし、ミッドウェーにまわしていたのであった。
友永の攻撃隊が、指揮官を喪《うしな》って帰って来た時、「飛龍」に残された飛行機は、戦闘機が六機、爆撃機が五機、雷撃機が四機だけになっていた。
もはや昼間の強襲は無理で、山口多聞は、薄暮以後夜にかけての決戦を決意し、その準備を始めた。長かった一日が暮れようとし、乗組員たちが、戦闘配食の大きな牡丹《ぼた》餅《もち》を食っている時、突然上の見張の少尉が、
「敵機上空ゥ。急降下に入る」
と、はらわたからしぼり出すような声を上げた。
「飛龍」は面舵《おもかじ》一杯に、一段目、二段目、三段目までの攻撃を回避したが、四段目から六段目までの急降下爆撃で、爆弾が命中し、飛行甲板はたちまち使用不能になり、艦内では誘爆が始まった。
消火作業がつづけられているうちに日は暮れ、やがて電源が切れて舵も利《き》かなくなり、艦は燃えながら次第に左へ傾斜しはじめた。
機関部との電話は未だかすかに通じていた。機関長の相宗邦造中佐から艦橋に、
「機械室の天井は灼熱《しゃくねつ》状態、機関部員は相次いで倒れつつあり」
という悲壮な電話報告がとどいて来た。
艦長の加来が、総員退去を命じたいと、司令官の山口に申し出で、山口は、
「やむを得まい」
と言って、それを認めた。
第十駆逐隊の「巻雲」「風雲」の二隻の駆逐艦が寄って来ていた。駆逐隊の司令は、のちに航空母艦「信濃《しなの》」の艦長になった阿部俊雄であった。
懐中電灯の信号で、駆逐艦経由、「長良」の南雲司令長官に、総員退去のやむなきに至ったことが告げられ、生存者は飛行甲板に集められて、副長の鹿《かの》江《え》隆中佐の人員点呼を受けた。
加来艦長は、駆逐艦がくれた乾麺麭《かんめんぽう》の缶《かん》の上に立ち、
「皆、最後までよく戦った。感謝に堪えない。戦の常とはいえ、この情況に立ち至ったことは、まことに遺憾であるが、戦争は未だ先が長い。皆は、生き残って、この体験を生かし、強い海軍を作ってもらいたい」
と訣別《けつべつ》の言葉を述べた。
つづいて山口多聞が、傾く甲板の上で、同じビスケットの缶に上り、
「艦長の話で、自分には何も言うことはない。日本の方に向って、陛下の万歳を三唱しよう」
と言い、一同は西へ向いて万歳を唱え、たった一人残った信号兵の吹くラッパで、軍艦旗が下ろされた。
山口と加来とは、互いに相手を立ち去らせようとして、ちょっと言い合っていたが、結局二人とも艦に残ることに決めたようであった。鹿江副長以下、各科の長も一緒に残りたいと申出たが、それは却《しりぞ》けられた。
ブレーカー(水樽《みずだる》)の水で、別盃《べっぱい》が交わされた。ミッドウェー作戦が月明を考慮して日を決められていたので、電灯は消えても、月が出て、飛行甲板は火《か》焔《えん》と両方で明るかった。
加来が、
「司令官、いい月ですなあ。月齢は二十一でしたかな」
と言うと、山口は、
「うん。いい月だなあ。一つ今夜は、月を賞《め》でながら語るか」
と言って、二人は、燃え残った艦橋へ上って行った。
下の金庫には、重要書類と相当額の金とが納めてあり、火の中を無理に取りに行こうと思えば、行けるかも知れない情況であったので、「飛龍」主計長の浅川正治《あさかわまさはる》が、
「どういたしますか」
と艦長に伺いを立てると、加来は、
「三《さん》途《ず》の川の渡し銭が要るから、まあ、それは残しとけよ」
と言った。
先任参謀の伊藤清六が、山口の後姿に向って、
「司令官、何か形見を」
と叫ぶと、山口は、
「オッ」
と答えて、かぶっていた、司令官識別用の夜光塗料のついた戦闘帽を投げてよこした。この帽子は、今、未亡人の孝子が保存している。
いよいよ「総員退去」の命令が出、怪我《けが》人《にん》、他艦から収容した者、司令部職員、「飛龍」乗組員の順で退艦が始まるころには、東の空がわずかに白んで来た。
敵のB17が、夜じゅう「飛龍」の上を旋回していて、時々爆弾を落した。それは一発も命中しなかったが、副長の鹿江中佐は歯ぎしりをしながら空を睨《にら》んでいた。
鹿江が軍艦旗を、伊藤先任参謀が少将旗を奉じ、「巻雲」と「風雲」に一同が移乗し終ったあと、駆逐隊司令の阿部俊雄は、
「何としても、司令官と艦長を連れ出して来い」
と言って、特別にボートを出させたが、「飛龍」の艦橋の窓から、二人は、
「帰れ、帰れ」
と手を振って、それを寄せつけなかった。
「風雲」の甲板から、二人の手を振っているのがよく見えたという。
山口から伊藤先任参謀へ、前以《まえもっ》ての言づてで、立ち去る前に、駆逐艦「巻雲」は、「飛龍」に、二本の魚雷を放った。一本が艦底を通過し、一本が命中した。「飛龍」はしかし、それからも未《ま》だしばらく沈まなかった。
ミッドウェーさして急航中の「大和」の上で、最後に「飛龍」もやられたことを知った時、山本はついに作戦の中止を決意し、幕僚に退却命令を書くことを命じた。
だが、頭が火のようになっている参謀たちは、なかなかそれを納得しなかった。
渡辺戦務参謀は、
「ミッドウェーの飛行場を、『大和』以下の艦砲で射撃して使用不能にし、陸戦隊を上げれば、占領は可能です。攻撃をさせていただきたい」
と主張したが、山本は、
「戦務。島に向って大砲撃つのは、海軍の戦法として、最も馬鹿《ばか》な方法とされているじゃないか。それは、君、将棋のさしすぎだよ」
と言った。
先任参謀の黒島は泣いていた。
「長官、『赤城』が未だ浮いております。これを、アメリカに曳《ひ》いて行かれて、見世物にされたら、何としますか。われわれの魚雷で『赤城』を沈めることは出来ません」
と、彼は泣きながら山本に食ってかかった。
ある者はまた、
「お上《かみ》に対して、申訳ない」
と言った。
「加賀」がその日午後四時二十五分、「蒼龍」が四時三十分、相ついで沈没したあとも、「赤城」と「飛龍」とは、沈まずに燃えつづけていた。山本は、
「お上には、自分からお詫《わ》びする」
と言い、
「僕《ぼく》の責任において処分しようか」
と言って、それで、彼にとって長い間縁の深かった航空母艦「赤城」は、駆逐艦「野《の》分《わき》」の手で沈められた。それは、「野分」が軍艦に向けて放った、最初の魚雷であった。
「『ミッドウェー』攻略ヲ中止ス。主隊ハ攻略部隊、第一機動艦隊ヲ集結、六月七日午前地点北緯三十三度、東経百七十度ニ至リ補給ス。(中略)占領部隊ハ西進、『ミッドウェー』飛行圏外ニ出ヅベシ」
という退却命令が出たのは、その晩、十一時五十五分であった。
大攻勢を目ざした圧倒的な大艦隊は、こうして破れ去った。ウォルター・ロードは次のように書いている。
「常識的には、どんな標準から見ても味方は完全に劣勢であった。敵は十一隻の戦艦を保有しているのに、味方には一隻の戦艦も無かった。八隻の味方巡洋艦に対して敵は二十三隻、空母の数は三対八であった。(中略)敵は立派な経験豊富な、そして連戦連勝の艦隊であった。
味方は疲れ切っていた。哨戒機《しょうかいき》の乗員は連日十五時間もの搭乗勤務で、睡眠は三時間程度しかとっていなかった。(中略)降下爆撃機のあるものは、急降下が出来なかった。魚雷の速力はのろく信頼性は低かったし、雷撃機の状態はもっと悪かった。それを以て味方は世界でもっともすぐれた艦載機群に対抗しなければならなかったのである。
(中略)勝てるはずはなかった。しかし味方は勝った。そして勝つことによって戦争の進路を変えた」
情報戦における完全な優位ということを考慮に入れても、アメリカ側から見ればロードの著書の題名通り、incredible――信じがたい驚くべき勝利であったであろう。海戦の結果が伝わると、アメリカの各新聞は全面ぶち抜きでこれを報道し、国民は勝利の報に熱狂したと言われている。
ちょうどニューヨークで、交換船「グリップスホルム」号に乗船し帰国の途につこうとしていた実松譲《さねまつゆずる》は、アメリカの船員や水兵たちが新聞を眺《なが》め嬉々《きき》として何か話し合っているので、不審に思って見てみると、それは炎上する「赤城」の写真などを大きく載せたミッドウェー大勝利の記事であったという。
一時四十分には、夜が明けた。
「大和」はそれから未だしばらく、敗残の機動部隊を収容するために、真東へ走っていたが、やがて三百十度に変針した。
急速航行中、マストには、はげしい風の鳴る音が聞えていたが、針路が北西に変ると同時に、速力も十四ノットに落され、「大和」の上は、不意に静かになった。
脂汗《あぶらあせ》を浮べながら腹の痛みをずっと我慢していた山本は、
「全部僕の責任だからね。南雲部隊の悪口を言っちゃいかんぞ」
と言い残して、長官私室へ去り、それから数日間、姿を見せなかった。
軍医長の診察で、結局蛔虫《かいちゅう》のせいと分り、虫下しを飲んでその腹痛はおさまり、六月十日、洋上で「長良」を横づけし、南雲長官、草鹿参謀長、源田航空参謀らを「大和」へ迎えた時には、山本も起き出して来たが、虫の治療にしては少し休養が長すぎたような気もする。
ミッドウェー作戦にかけた山本の思いは、これで勝って、早期講和の二回目のチャンスをつかむということにあったようであるが、結果がこのような裏目に出て、やはり相当こたえていたのであろう。
南雲、草鹿らは、自決しようとしたのを、皆に押しとどめられ、生きて帰ってきた。怪我をした草鹿は、もっこ《・・・》に乗せられて、「長良」から「大和」へ移された。憔悴《しょうすい》し切った南雲や草鹿の姿は、司令部従兵たちの眼《め》にも、如何《いか》にもあわれに見えたという。
北の方は、ほぼ順調に経過し、六月七日、キスカ島及びアッツ島を占領したが、ミッドウェー作戦部隊はこうして制式空母四隻と巡洋艦「三隈」を喪《うしな》い、六月十四日、柱島錨地《びょうち》に帰還した。
大本営は、六月十日、ミッドウェー作戦の戦果を、米空母二隻撃沈、我方の損害、航空母艦一隻喪失、一隻大破と発表した。山本の恐れていた、鳴物入りの嘘《うそ》の報道が始まったのは、この時からである。
敗戦の情報が洩《も》れるのを防ぐために、機動部隊生き残りの将兵は、九州の各基地に分けて皆缶詰めにされ、下士官兵は、家族との面会も許されないまま、やがて全員、南方へ転属させられた。
鹿江もしばらく佐《さ》伯《えき》の航空隊に缶詰めにされていたが、彼は「飛龍」生存者のうちの最先任で、間もなく海軍省教育局に転勤になると、聯合艦隊三和航空甲参謀を通じて、山本から、山口多聞少将と加来大佐の最後の模様を詳しく知りたいという申出があった。
鹿江隆は、詳細な報告を書き上げて、山本に提出した。
当時吉川英《よしかわえい》治《じ》が、軍令部の勅任待遇嘱託として、戦史の編纂《へんさん》にあたっていたが、吉川は一日、芝の水交社で、福留軍令部第一部長をまじえて鹿江と会い、話を聞き、鹿江が山本に出した報告の写しを貰《もら》い受け、それをもとにして、山口、加来両人の論功行賞のための長い文章を草した。
翌年四月二十四日の晩、報道部の平出英夫が、「提督の最《さい》期《ご》」と題して放送した講述の内容は、吉川英治の書いたものである。
それは、
「艦破るるも軍紀破れず」
とか、
「忽《たちま》ち見る、その左舷は急傾斜して洋中に没し、刹《せつ》那《な》に沈み行く艦橋には人なく、焔《ほのほ》なく、正《まさ》に中天一痕《いっこん》の月落ちて洋心へ神鎮《しづま》つたかのやうにしか思はれなかつた」
とか、如何《いか》にも吉川英治らしい調子のものであった。
実際には、「飛龍」の最後を目撃した者は、一人もいなかった。
第十二章
その後しばらく、戦局にはあまり大きな変化が見られなかった。
「大和」以下の戦艦群は、再び柱島《はしらじま》に根を下ろしてしまった。短い梅雨が明けて、夏が来た。この年の夏は、異常の猛暑で、七月初め以来、瀬戸内海に、ほとんど雨が降らなかった。
南半球の太平洋戦線では、海軍はビスマルク諸島からニューギニアに到《いた》る線を固め、さらに南へ出て、ブカ、ブーゲンビル、ショートランドからツラギ、ガダルカナルを攻略し、各所に新しく航空隊の前進基地を建設しつつあった。
その一つであるガダルカナル島ルンガ地区の飛行場が、ミッドウェー作戦からまる二カ月、設営隊の努力でほぼ完成し、あと一週間もしたら戦闘機の進出が可能となった八月七日の日、アメリカの海兵師団は、機動部隊の支援の下に、突如、ツラギ島と、ツラギに南接するガダルカナル島とに上陸して来た。
ラバウルにいた第八艦隊は、翌八月八日三川軍一中将の指揮下に、急遽《きゅうきょ》、旗艦「鳥海《ちょうかい》」以下重巡五隻《せき》、軽巡二隻、駆逐艦一隻で、敵の泊地にいわゆる殴りこみをかけるため、出撃した。
それは、日本海軍が長年訓練に訓練を重ねて来た夜戦の砲魚雷戦で、僅《わず》か三十五分間の戦いに、連合国の巡洋艦五隻、駆逐艦六隻の大半が沈み、三川艦隊は、ほとんど無傷のまま、素早くツラギを引揚げた。
海軍報道班員として「鳥海」に乗っていた丹羽《にわ》文《ふみ》雄《お》が「海戦」に描いたのはこの戦闘であり、これが「第一次ソロモン海戦」である。
米軍の上陸はしかし、中央が初め甘く考えたような、小手しらべ的なものでもなく、アメリカ側から言わせれば「突如」でもなく、第一回の殴りこみの成功で満足していいようなものでもなく、連合国の本格的な捲《ま》き返し作戦の始まりであった。
大体日本の陸軍はアメリカの歩兵部隊を頭から舐《な》めてかかっていた。白兵戦で突撃を受けると彼らは泣きわめいて逃げて行くそうだとか、そんな伝説ばかりを信じて、殊《こと》にアメリカ海兵隊というものに関しては全く認識を欠いていた。
のちに硫黄《いおう》島《とう》の戦いに名を挙げたU. S. Marine(アメリカ海兵隊)は、米軍の中でも実は最も勇猛をもって鳴る存在で、風呂《ふろ》へ入ってもタオルを使うような柔弱な真似《まね》は許さない、マリーンの兵隊は鉄条網で身体《からだ》をこするという冗談があるくらいである。
山本が次官時代副官兼秘書官をつとめた松永敬介は、この頃《ころ》第八根拠地隊の先任参謀としてラエ、サラモアの占領作戦にも参加し、ラバウル方面の前線で勤務していたが、ある日陸軍の参謀がアメリカ海兵師団というのは一体どういうものかと聞きに来た。
松永が一応の説明をすると、
「ははあ、要するにアメリカの陸戦隊ですか」
と、納得して帰って行ったが、それなら何程の事もあるまいとたかをくくって進撃に移った陸軍部隊は、松永の表現によると「キャッとも言わず」行《ゆく》衛《え》が分らなくなってしまったのである。
米軍の逆上陸から数日後、松永は第八根拠地隊の金沢正夫司令官から、
「あすこには海軍の見張所がある。暫《しばら》く辛抱して待て、必ず奪回に行くという報告球を落して来い」
と命ぜられ、陸上攻撃機三機を出してツラギとガダルカナルの上を飛び、準備した報告球を投下したが、戦況は金沢司令官の考えたようには進展しなかった。
事態の容易ならざることに気づいた聯合《れんごう》艦隊司令部は、第二艦隊、第三艦隊大部のラバウル進出を命じ、テニヤンにいた第十一航空艦隊司令部も、ラバウルに前進させ、自らも「大和」以下、内南洋のトラック島にその本拠を移すことになった。
「大和」は、護衛の駆逐艦と郵船の「春日《かすが》丸《まる》」(改装後空母「大鷹《たいよう》」)を伴い、八月十七日の昼すぎ、柱島を抜錨《ばつびょう》し、クダコ水道を抜け、佐《さ》田岬《だみさき》を左に見て、沖の島東方水路から外海に出、月の落ちた真っ暗な海を、厳重な対潜警戒をしながら南へ向った。
八月十八日の朝があけた時には、もう日本の島影は見えなかった。そして山本は、この時かぎり、日本へは帰らなかったわけである。
「大和」の柱島出港から三日後の八月二十日、横浜へは、実松譲中佐の乗った「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ」号の日米外交官交換船二隻が帰って来た。
交換地は、アフリカのポルトガル領モザンビックの港、ロレンソ・マルケスで、ミッドウェーの敗退から間もなく、野村、来《くる》栖《す》両大使以下千四百人の日本人引揚者を乗せたスウェーデン船の「グリップスホルム」号が、ニューヨークより、リオ・デ・ジャネイロ経由この地に向い、日本からグルー駐日大使以下米州引揚の外人たちを乗せて来た「浅間丸」と「コンテ・ヴェルデ」号の二隻と落ち会い、船客の交換をして、それぞれ帰国の途についていたものであった。
乗船者名簿には、両大使や実松中佐のほか、前田多門、坂西《さかにし》志保《しほ》、中野五郎、森恭三、荒《あら》垣秀《がきひで》雄《お》、平岡養一《ひらおかよういち》というような人々の名前も見える。山本が次官当時海軍省の副官兼秘書官として、もっぱら、右翼の、
「天ニ代リテ山本ヲ誅《チウ》スルモノナリ」
を聞かされていた実松の眼に、久しぶりの日本と日本海軍とは、少しへんなものに見えた。
彼は軍令部出仕になり、間もなく兼務教官として、海軍大学校でアメリカの軍事問題を講義することになったが、軍令部の連中は、彼がアメリカの造船能力や、ドイツ潜水艦の活動が近い将来下火になって来るだろうというような話をしても、少しも聞こうとせず、信用もしなかったし、彼が教えた海軍大学校の一期目の学生たちは、
「教官は、むやみにアメリカをほめますなあ」
と言い、かげで、
「あんな話、おかしくて聞けるか」
と言っていた。
もっとも、次の期からは、いくらか実松の話に耳を傾けるようになり、各戦線で苦杯を舐《な》めて帰って来た三期目の学生になると、
「いや、教官、アメリカはもっと強いですよ」
と言い出したということである。
こうした事情は、英国から帰った吉《よし》井《い》道教《みちのり》中佐についても、同様であった。
吉井も、山本の次官時代、副官兼秘書官をつとめた人であるが、昭和十四年の初めからロンドンに駐在していて、開戦の年の十一月、リバプールから英国船でベネズエラへ渡り、パナマ経由でリマへ出、辛《かろ》うじて照川丸という最後の貨物船をつかまえ、近藤泰一郎に一と月半おくれて、開戦後の十二月二十八日に帰国した。
航海中、ハワイのはるか南で開戦を知り、舷側《げんそく》の日の丸や煙突のマークを塗りつぶして、危ない思いをして帰って来た吉井は、緒戦の勝ちで、暢《のん》気《き》に浮かれている日本の空気に驚いたと言っている。
彼は、ロンドン滞在中、日本の新聞特派員たちが、東京へ記事を送っても、ドイツ空軍の空襲で町が三日も四日も燃えつづけているというようなことばかりが大きく扱われ、自分たちが考えていることは、少しも取り上げてもらえない、張り合いが無いと言っていた話なども引合いに出し、大臣の嶋《しま》田《だ》や総長の永野たちの前で、
「大体参るといっても、英国の参り方は、少しケタがちがっているように見受けます。一時、空襲でロンドンの地下鉄が使えなくなったことがありますが、一カ月もすると立派に修復し、プラットフォームには頑丈《がんじょう》な二段ベッドを入れ、避難者のために、ベッドの番号つきの前売り切符を売り出して、利用に供しております。一晩中、食糧を積んだ電車が走って、女子供に菓子や紅茶を売っています。御承知の通り、ロンドンの地下鉄は、非常に深く、これは絶対安全な避難所で、誰《だれ》も怯《おび》えたり泣き言を言ったりしている者はおらず、混乱もほとんど見られません。ホテルへ行けば、地下室で、軍人も一般市民も悠々《ゆうゆう》とダンスを楽しんでいるという風で、英国の力の衰えをあまり大きく評価することは、甚《はなは》だ危険と考えます」
というような任務報告を、一時間ばかりやったが、「また一人、西洋かぶれが帰って来た」というような顔をしている人もおり、永野修《おさ》身《み》などは、心地よさそうに居《い》睡《ねむ》りをしていた。
もっともそのうち、吉井の方でも段々日本の空気に馴《な》れて、何とも思わなくなってしまったという。
「大和」がトラックの春島《はるしま》第二錨地に入港したのは、八月二十八日の午後であった。
この、「大和」の航海中に、南東方面では第二次ソロモン海戦が起り、航空母艦「龍驤《りゅうじょう》」が沈み、一方、陸軍が精鋭をすぐってガダルカナル島に逆上陸させ、飛行場の奪回に向わせた部隊は、前述の通り全滅していた。
これは、三カ月前、ミッドウェー占領隊としてサイパンを出た、あの一木支隊の兵士たちであった。
ガダルカナルの戦いは、ようやく重大な、そして日本にとって極めて不都合な、長期消耗戦の様相を呈し始めていたのである。
これから二週間ばかりのちであるが、宇《う》垣《がき》は日録の中で、
「墜《おと》しても落しても持つて来る。困つたものなり」
と嘆じている。
しかし、トラックの泊地に落ち着いた「大和」の上での山本五十六の日常は、特に切迫したものというわけではなかった。
彼は、作戦指導のかたわら、朝夕また、頼まれた書を書いたり、手紙の返事を書いたりして暮すようになった。
内地からの手紙や小包も、少し日数はかかるが、きちんきちんと届けられて来た。
九月某日付の、丹羽みち宛《あて》の手紙に、彼は、
「九月十一日附《づけ》の御手紙は特別便で椰子《やし》の葉かげで拝見しました。お菓子ありがとう。ことしの東京いや日本全部が随分暑かつた様ですね。私達《たち》も大部分はそれを体験しましたが今は一寸《ちょっと》出かけて居《を》ります。(中略)次に家をたたんで南洋方面へでも出かけて見ようかとは如何《いか》にも丹羽式で今頃はとても矢も楯《たて》もたまらぬ気持でしようとお察しします。
併《しか》し一体あなたは此《こ》の戦争はどうなると思ひますか。(中略)戦地から帰つた人達は色々面白《おもしろ》さうの事を無責任に話すらしいが(中略)本当の事情や将来の見通の出来る人は今度内地に帰つて来らるゝ高橋伊望中将(昔の海軍省副官のノミ助さん)こそ信用が出来ますから豊田さんにでも引張つて来て貰つてゆつくり話を聞てご覧なさい、一応は夫《そ》れは良いねえと言ふでしようが相談にのつて呉《く》れますかと真面目《まじめ》にきり込んで御覧なさい、多分まあもう少し様子を見てからと言はるゝでしよう(中略)秋になつて雨が多い様で又米は々々と少々心配です ことしは豊作だから一人一日五合以上たべなければ困るといふ様に一つ願ひたいものですね、御機《ごき》嫌《げん》よふ、四十四なんかまだこれからですよ、あせらずにゆつくり 」
と書いている。
高橋伊望は、昭和十四年の九月、山本が聯《れん》合《ごう》艦隊に着任した時の参謀長である。
「和光」の丹羽みちは、商売の方も次第に思わしくなく、いっそ店をたたんで南方へでも出《で》稼《かせ》ぎに行ってみようか、そうすれば、また山本にも会えるかも知れないと、気楽なことを考えて、彼に相談の手紙を出した、これはその返事であるが、彼女は結局、榎本重治《えのもとしげはる》に山本の手紙を見せて思いを打ち明け、榎本から、
「小寿賀《こすが》、君は、日本がこの戦争に勝つと思っているのかい?」
と、しみじみした口調で言われて、やっと南方進出の計画を思いとどまった。
このころ――九月二十四日、ガダルカナルの戦闘指導を担当していた陸軍第十七軍派遣の大本営参謀、辻政信が、「大和」へ山本を訪ねて来た。
軍の階級からいうと、片方は中佐で、片方は大将であるが、辻は例の強気で、海軍の協力が不充分だと、山本に直訴するつもりであった。
辻はしかし、この時初めて見る「大和」の大きさには驚異を感じたようで、その著書「ガダルカナル」の中で、
「艙口《ハッチ》から艦内に入ると、大ホテルに入つたやうである。異るのは到る所に、鉄管が張り廻《めぐ》らされてゐる。この無数の鉄管は、そのどれもが有機的に一体となつて、七万噸《トン》の巨体を養つてゐるのであらう。無数の血管が人体を養つてゐるやうに、一本切れても出血しさうな気がする。人呼んで大和ホテルといふも宜《むべ》なる哉《かな》。迷子になつたら容易に出られさうもない」
と書いている。
「大和」の司令長官公室は、従来の戦艦の型を破って、艦の中央部艦首寄りに設けられていた。黒島先任参謀と宇垣参謀長に大体のことを話したあと、中央部の長官室に案内されて、彼は山本に会い、
「陣地を持ちこたえている将兵は、ガンジー以下に痩《や》せ細りました」
と、補給船団護送の問題で、陸軍のガ島奪回作戦への海軍の協力を要請した。
山本は、
「補給がつづかず、陸軍の兵隊を餓死させたとあっては、海軍として、申訳が立たない。承知しました。必要とあらば、この『大和』をガダルカナルへ横着けしてでも、掩《えん》護《ご》をしましょう」
と答え、両眼からハラハラと涙をこぼし、辻も思わず貰い泣きをしたというが、これはほんとうかどうか分らない。
山本は、情にもろい性ではあったが、「野分」の魚雷で「赤城」を沈めた時にも涙は見せていないし、宇垣の「戦藻録《せんそうろく》」には、この日、
「午後第十七軍参謀一名参謀本部員二名来訪南下の途中なり」
と、簡単に一行記してあるだけである。
辻は、
「このやうな将軍が果して陸軍に、幾人か在つたであらうか。海軍参謀になつて、この元帥《げんすい》(当時山本は、元帥ではない)の下で死にたいとさへ考へた」
と、たいへん感激のてい《・・》で書いているが、実をいうと、山本の方は、辻政信をあまり信用していなかった。辻が、戦況が思わしくなくなると、中央連絡などと称して逃げ出してはスタンド・プレイをやっているのを、苦々しげに、
「あんな者をのさばらせておくから駄目《だめ》なんだ」
と言っていたことがあるそうである。
山本が辻に約束したという、この「大和」ガダルカナル乗りつけの強行作戦は、結局実行されなかった。
それは、山本が辻を信用していなかったからというわけではなく、一説によると軍令部から奉勅命令で禁止されたともいうし、また一つには、艦隊の燃料消費量が一日一万噸に上り、呉の重油の在庫量は六十五万噸に減って、「大和」のような巨《おお》きな、そしてどうやら役立たずの船は、つとめて行動を遠慮しなくてはならぬ時機が、訪れて来ていたためであった。そういう時にしかし、聯合艦隊の司令長官が、大戦艦に立てこもって、動くが如《ごと》く動かぬが如き構えで、内南洋の泊地に居据《いす》わっていなくてはならなかったというのは、こんにちから考えると、少し奇妙なことではある。
ミッドウェーの敗戦の際、幕僚たちは、血を見せて長官の冷静な判断を曇らせるようなことがあってはならないというので、「大和」へは傷者を一切収容させなかった。「長良」から報告に来た南雲や草鹿たちも、すぐまた、「長良」へ還《かえ》している。だが、それならそれで、司令長官は、血なまぐさい状況を目視する可能性のあるところへは出て来なければいいわけで、やはり、戦艦が海軍の象徴であり、主力であり、中心であるという伝統的な思想は、いつも山本の片脚を引張っていたように思われる。
アメリカ海軍も、この点、必ずしもそれほど進んでいたわけではないが、ただ彼らは、幸か不幸か、真珠湾で一挙に多くの戦艦を喪《うしな》った。そしてそのあと、アメリカの、機動部隊中心への頭の切り替えは、非常に早かったのであった。
「大和」ではしかし、重油に不安を感じているようには、食糧の不安は感じていなかった。
辻政信は、山本と会見のあと、艦内で夕食の馳《ち》走《そう》になり、黒塗りの膳《ぜん》に、鯛《たい》の刺身、鯛の塩焼、冷えたビールという品々を出されて、思わず副官の福崎昇に、
「海軍は贅沢《ぜいたく》ですねえ」
といや味を言った。
福崎は笑いながら、小声で、
「長官があなたに、出来るだけの御馳走をしてやれと言われましたのでね」
と答えたというが、これは多分、福崎副官のつくろいの嘘《うそ》であろう。辻の供されたのは、司令部の日常の夕食であったはずである。
糧食艦の「間《ま》宮《みや》」や「伊良湖《いらこ》」がトラックに入ると、司令部従兵は、一番先に欲しい物を取りに行くことを許されていて、近江兵治郎の従兵長在任中、聯合《れんごう》艦隊司令部は、最後までその献立を崩さなかった。
「五月の七日間」という映画に、アメリカの地中海艦隊旗艦の上で、司令官がフランス風の美食を楽しんでいる場面があったが、こういうのは、一般に海軍というものの風習であり、ある意味で美点であると共に、一種スノッブ的貴族趣味の、妙なところでもあろう。
「大和」が未《ま》だ柱島にいたころ、「伊良湖」が、サイパンから砂糖を八十噸《トン》ばかり持って帰ったことがあって、主計長がそれを海軍関係にだけ配給しようとするのを、参謀長の宇垣が、町の子供たちに廻《まわ》してやれと言って、その措置を取らせたのは、一つの美談として伝えられているが、これが美談になるほどに、海軍は自分たちだけの閉鎖社会でスコッチ・ウイスキー、英国煙草《たばこ》、垢《あか》のつかない白いカラーという生活を、なかなか崩そうとしないところがあった。のちに将旗をラバウルへ移す時には、聯合艦隊司令部はたった二週間の滞在に、洋食の皿《さら》からナイフ、フォークまで前線へ運んで行っている。
山本も、貧乏士族の家に育ったくせに、泥《どろ》くさいこと、貧乏ったらしいことは、総じて嫌《きら》いであった。
俄《にわ》か雨《あめ》で連れが駈《か》け出すと、山本は、
「おい、ケチな真似《まね》はよせ」
と、きっと文句を言ったという。
昭和の初年、未だメロンが貴重品であったころ、ある人に、「ケチなことを言うな」と言って、メロンの半割りを、その人が、もうメロンの匂《にお》いが鼻について見るのもいやになったと言い出すほど食わせたという話もある。
トラックの「大和」で、直接山本の身のまわりの世話をしていたのは、小堀と藤井という二人の従兵であったが、この二人は死んでしまって、現存の、消息の分っている司令部従兵は、近江のほかには、松山茂雄という、当時の一等水兵が一人だけである。
松山は昭和十七年の呉《くれ》の徴兵で、「大和」乗組になるとすぐ、司令部へまわされた。彼の話では、幕僚の中には、古い褌《ふんどし》をなかなか捨てさせず、黄色いのをいつまででも洗濯《せんたく》させる人があったが、山本は自分でも洗わないかわり、従兵にも下帯《したおび》は決して洗わせず、毎日舷窓《げんそう》から、ポイポイ海へ捨てていたそうである。
松山は、そのころ色白の美少年で、ある司令部職員の私室へ入って靴《くつ》を磨《みが》いていたら、背後から抱きしめられていきなり、キスをされ、のがれようとすると、
「オイ、黙ってろよ」
と言われたこともあったという。
いくら「大和ホテル」でも、男ばかり暑いところで集団生活をしていれば、多少異常な状態になって来るのであろうが、山本には、その方の趣味は無かった。
「ただし、長官は、別の方は、なかなかお好きでした」
ということである。
トラックには、横《よこ》須賀《すか》の「小松」の出店があった。いわゆる「海軍レス」で、露骨に言えば慰安所であるが、もうすぐ六十というのに、従兵たちの話がほんとうとすれば山本は時々陸上の慰安所へも通って行ったらしい。
参謀長の宇垣は、猟銃を持っていて、折を見ては島へ鳥打ちに出かけた。山本は、いつも料理方にまわって、こちらは食う方専門であったそうである。
「愛染《あいぜん》かつら」とか「暖流」とかいう映画も、一週一回、聯合艦隊旗艦が封切で、順番に見ることが出来た。
ソロモン群島では、アメリカが「トウキョウ・エクスプレス」と呼び、日本が「鼠《ねずみ》輸送」「蟻《あり》輸送」と呼んだ苦しい補給戦がつづけられていたが、「大和」でのこうした比較的平静な日常の中で、十月七日、山本は久しぶりに、作戦の打合せのため来艦した井上成美《いのうえしげよし》と会った。
この日、兵学校の校長であった草鹿任一中将も、南東方面艦隊司令長官として、ラバウルへ転勤の途中、サイパンから飛行艇でトラックに着き、「大和」へやって来た。
草鹿任一は、草鹿龍之介の従兄《いとこ》で、兵学校は井上や、桑原虎《くわばらとら》雄《お》や、小沢治三郎と同じ三十七期である。
作戦会議のあと、各艦隊の幹部一同で、山本を囲んで夕食の時、草鹿が、
「ところで、私のあと、今度は兵学校長、誰《だれ》ですか?」
と山本に聞くと、山本が、
「それは、井上君に決ったよ」
と言った。
井上は、
「ほんとですか」
と嬉《うれ》しそうで、それから草鹿の発案で、
「それじゃあ、今夜此処《ここ》で申し継ぎをやろうじゃないか」
ということになり、草鹿任一と井上成美とは食後、山本の部屋へ行き、ウイスキーを飲みながら、申し継ぎと称して、三人で久々に話に興じた。
その時、草鹿が、戦争がすんだら、山本さんはどうしますかという話を持ち出すと、山本が、
「いやァ、俺《おれ》なんか、どうせギロチンか、セント・へレナ送りだよ」
と、冗談ともつかず、そう言ったということである。
余談であるが、このあと十月二十六日付で兵学校長が発令になって、江田《えた》島《じま》へ転勤した井上は、兵学校の教育が如何《いか》にもゆとりが無く、窮屈な感じで、生徒たちの眼《め》が狐《きつね》つきのように皆吊《つ》り上っているというので、「あれでは前科三犯の面構《つらがま》えじゃないか」、「秀才教育をするな」、「兵学校の教育を立身出世の目標にするな」ということを強調し、前線から帰った教官連中が生徒に戦争の話をするのを、一切禁じてしまった。
参考館に掲げてあった歴代海軍大将の写真も、
「あの中の半数は、自分が国賊と呼びたいような人たちだ。それを生徒に景仰させるわけにはいかない」
と言って、全部下ろさせた。
兵学校長時代の井上中将についてはこのほか色んな逸話が残っている。
当時日本では、敵性国語を使うなということがしきりに叫ばれていて、陸軍の聯隊などでカレーライスのことを「辛味入り汁《しる》かけ飯」と言わせたという、今の若い人には嘘《うそ》と思われそうな話もあるが、英語の教育は全国の各学校で次第に廃止削減の方向に向いつつあった。
その風潮は江田島にも及んで来、全教官の合同会議で、兵学校における英語教育の廃止と兵学校入学試験課目から英語をはずすことの是非が論ぜられたことがある。
陸軍士官学校では早く入試に英語を課さなくなってしまったので、ほかの成績は優秀だが英語が苦手だという生徒が兵学校を避けて陸士へ流れる、兵器資材の配分と同じく人的資源も陸海軍で奪い合いの時にそれが困るという実利的廃止論もあり、企画課長の小田《おだ》切《ぎり》政徳《まさのり》中佐が最後に全員の決を採ってみると、大多数の教官は廃止賛成の方に手を挙げた。
小田切は、
「御覧の通りでありますが、これを以《もっ》て本日の教官合同会議の決定といたしてよろしゅうございますか?」
と、校長に伺いを立てた。
するとそれまで黙って聞いていた井上が、非常にきつい口調で、
「よろしくない」
と言って立ち上った。
「よろしくない理由は只今《ただいま》から申し述べる。一体どこの国に他国語の一つや二つしゃべれない海軍兵科将校があるか。そのような海軍士官は海軍士官として世界に通用することは出来ない。好むと好まざるとにかかわらず、英語がこんにちにおいても尚《なお》、海事貿易上世界の公用語であることは明らかな事実であって、事実はこれを事実として認めざるを得ない。軍人を養成する学校であるから、戦争に直接役に立つことだけ教えておればいいというなら、すべからく砲術学校水雷学校等の術科学校を充実して海軍兵学校そのものは廃止すべきである。兵学校は特務士官の養成機関ではない。卒業してすぐ実務に役立つような教育は丁稚《でっち》教育であって、吾《ご》人《じん》は丁稚の養成を以て本校教育の眼目とするわけにはいかない。兵学校教育の目的は、識見と教養とを備えた真にジェントルメンライクの、将来何処《どこ》に出しても羞《は》ずかしくないだけの海軍将校の素地を養うにある。言いかえれば大木に成長すべきポテンシャルを持たしむるにある。優秀な生徒が陸軍へ流れるというなら流れても構わぬ。外国語一つ真剣にマスターする気の無いような人間は、帝国海軍の方でこれを必要としない。近時日本精神作興拝外思想排斥の運動の盛んなるはまことに結構なことであるが、これを主張する人々を冷静に観察してみると、島国根性の短見を脱していない者が多いのは遺憾であって、諸官は似て非なるかかる愛国者の浮薄なる言動に迷わされることなく、本校においては英語のみならず、今後も普通学の教育に一層の力を入れてもらわねばならない。たとい多数意見であろうとも、本職在任中英語教育の廃止というようなことは絶対にこれを行わせない方針であるから、左様承知をしておいてもらいたい」
兵学校の教官室ではそのあと、若手の武官教官たちの間に、
「何だ、校長は親米派か、国賊じゃないのか」
という喧々囂々《けんけんごうごう》の声が起ったということである。歴代海軍大将の半数を国賊だと罵《ののし》った井上は、当時の海軍上層部の一派からも国賊呼ばわりをされていた。
海軍省が兵学校生徒の精神訓育のためにと、平泉澄《ひらいずみきよし》を講師として派遣して来た時にも、彼は平泉の国粋思想に難色を示し、ただ平泉博士に傷をつけることをおそれて、教官たちだけにその講話を聞かせるという苦肉の措置をとった。
また、井上成美の校長在職中、ある日鈴木貫太郎が平服でぶらりと兵学校を訪れて来たことがある。
企画課長の小田切政徳は鈴木と井上の供をして校内を一巡したあと、二人が貴賓室に入って差し向いになると、部屋の隅《すみ》に腰をかけて聞き耳を立てていた。
鈴木大将は、長年家につとめていた女中が呉の実家に帰って家を新築し、是非見に来てほしいということで家内を連れて旅に出、自分だけはなつかしいので呉からちょっと兵学校へ足をのばしてみたのだと言っていたが、当時閑地にあったとはいえ、こういう重臣がこの時節に果してそれだけの目的で江田島へやって来たのだろうかと、小田切は興味を感じていたのであった。
すると、鈴木が、
「井上君、兵学校教育のほんとうの効果があらわれるのは二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」
と言うのが聞えて来、それに対して井上が我が意を得たように深く深くうなずいているのを見たという。
英語廃止の問題に関しては、高《たか》木《ぎ》惣吉《そうきち》が井上から、
「英語というのは、モールス符号と同じ国際間の符号みたいなものだ。英語をやめてしまえというのは、国際間に通用する符号を捨ててしまえというのと同じで、そんな馬鹿《ばか》な話があるもんか」
と言われたことがあるそうである。
井上のこの英断は次の校長、次の次の校長時代にも受けつがれ、入校して来た生徒は備品のC・O・D(コンサイス・オックスフォード英々辞典)を貸与されるのが例で、あの戦争中日本で最後まで英語教育にもっとも熱心だった学校は妙なことだが海軍兵学校であった。教師が生徒に戦争の話をしてはいけないという学校も、もしかしたら井上校長時代の兵学校だけであったかも知れない。
この井上成美が、戦争末期兵学校長から海軍次官に転じ、米《よ》内《ない》海相に終戦をもっとも強く進言する人になるのである。
江田島七十年の歴史のうち、兵学校出身兵科将校の陣没率は、日清日《にっしんにち》露《ろ》から第一次世界大戦を経て日華事変までが五パーセント、今度の戦争だけで九十五パーセントと言われているが、ミッドウェーの敗戦、ガダルカナルの敗戦で、このころには海軍でも将官や艦長クラスの佐官にかなりの戦死者が出ていた。司令官や艦長が乗艦と運命を共にするというのは英国の古い伝統にもとづく風習であって、有能な人材が一人でも多く欲しい時に、死ななくてすむ人が無理に死んでしまうということは、国家総力戦の建前からすればまことに無益な消耗であった。
高木惣吉が言っている通り、船は「大和」「武蔵《むさし》」でも四五年もあれば造れるが、大佐少将級の指揮官を育てるには少なくとも二十年はかかる。山本も、山口多聞や加来止男の死に感動はしながらも、必ずしもこれを好もしいこととは思っていなかったようで、草鹿任一、井上成美らと会食をした十月七日の宇垣参謀長の日誌(戦藻録)には、
「奮戦の後艦沈没するに際し、艦長の生還するを喜ばずと為《な》さば前途遼遠《れうゑん》の此《この》大戦を遂行する事を得ず、飛行機は落《らく》下《か》傘《さん》により出来る丈生還を奨励しあるに艦船は然《しか》らずといふ理なし」
と、艦長も生きて還《かえ》って来いという山本の内々の意向が記してある。
しかし彼らのこういうものの考え方は、新聞記事にも、放送にも、大本営発表にもなることはなかった。
軍隊でも世間でも人生僅《わず》か二十年とか、人間五十年、軍人半額とかいって、ただいさぎよい死だけがもてはやされていた。
これよりガダルカナル撤退が内定する十七年十二月までの間に、南では、「サヴォ島沖海戦」、「南太平洋海戦」、「第三次ソロモン海戦」と、数次にわたる激しい海空の戦闘が行われている。
互角に終った戦いもあり、どちらかが優位に立った戦いもあり、アメリカは、ドゥーリットル空襲に使った航空母艦「ホーネット」を喪《うしな》い、日本は、戦艦「比叡」「霧島」を喪ったが、一つ注目していいのは、ミッドウェーのころから日本が脅威を感じていたアメリカ軍のレーダーが、暗夜でも、無照射射撃で第一弾をいきなり命中させるほどの精度を示しはじめたことであろう。
「長官思《おもひ》に耽《ふけ》られ憂鬱《いううつ》の風あり」
と、宇垣が「戦藻録」に書いたのは、六月二十二日であったが、トラック在留の山本の頭には、めっきり白《しら》髪《が》が目立つようになった。長岡出身者の大勢いる新発田《しばた》の歩兵十六聯隊が、ガダルカナルで全滅しつつあることも、山本には苦しかったにちがいない。
郷里の反町栄一《そりまちえいいち》には、
「十月二十八日附《づけ》貴書拝受御祝辞御礼申上候但《さうらふただ》し郷党子弟の苦難を想見すれば一向に快心ならず(此項貴台限り)」
という手紙を書いている。
堀悌吉《ほりていきち》にも、
「こちらはなか手がかゝつて簡単には行かない 米があれ丈《だ》けの犠牲を払つて腰を据《す》えたものを一寸《ちょっと》やそつとであけ渡す筈《はず》がないはずと前から予想したのでこちらも余程の準備と覚悟がいると思つて意見も出したが皆土たん場迄《まで》は希望的楽観家だからしあわせ者揃《ぞろひ》のわけだ(後略)」(十月二日付)
と書き送っている。
十二月八日、開戦一周年の日には、推計された海軍の戦死者は、一万四千八百二柱となった。
十二月十二日には、天皇陛下の伊勢神宮御親拝ということがあった。天皇の心中は忖度《そんたく》する由《よし》が無いが、戦争を防ぐことが出来ず、ついにこういう事態になって来たことを告げに行かれたものと考えていいであろう。
山本は、年末あちこちへの手紙の中で、
「天皇陛下の伊勢神宮御親拝を拝聞しては真《まこと》に恐懼《きょうく》に不堪《たへず》頭髪一夜にして悉《ことごと》く白からざるの不忠を恥づるものに御座候」
と書いている。
もっとも、女たちへの手紙は、少し調子がちがっていて、同じく十二月、丹羽みち宛のものには、
「(前略)こちらへ来る人は皆私に元気でけつこうですと言ひます。果して私は元気でしようか
尤《もっと》も総理大臣や大蔵大臣や海軍大臣や商工大臣などがあれで元気なのなら私も元気なんでしよう(後略)」
とある。
当時の総理大臣は東条英機、大蔵大臣は賀《か》屋《や》興宣《おきのり》、海軍大臣は嶋《しま》田《だ》繁《しげ》太《た》郎《ろう》、商工大臣は岸信介《きしのぶすけ》であった。
こうして、やがてこの年が暮れた。
汗を拭《ぬぐ》いながら、かびくさい雑《ぞう》煮《に》餅《もち》で、山本は昭和十八年の新春を「大和」で祝った。
その日、コックの手ちがいか、従兵の不注意か、祝い膳《ぜん》の尾頭《おかしら》つきの魚が向きをさかさにつけられて、テーブルに出た。
山本は、
「ホウ、年が変ると、魚の向きも変るもんかな」
と、ちょっと皮肉を言っただけであったが、現在秋田木工の東京営業所長をしている従兵長の近江兵治郎は、ミッドウェーの折の鯛の味噌《みそ》焼《やき》と併《あわ》せて、今でも少し、このことを気に病んでいるようである。
山本が聯合艦隊の司令長官になってから、この正月で、すでに三年四カ月が経過した。日露戦争前の、常備艦隊司令長官と呼ばれた時代から都合三十八代の長官のうち、在職期間として、これは異例の新記録になってしまったが、それでもなお、彼に、交替の声はかかって来なかった。
幕僚たちには、決してそういう素振りを見せなかったが、山本は、少しばかりもう疲れていた。
彼の心には、死への親しみと、浮世、殊《こと》に千代子の住む東京への未練とが、半々に存在していたように思われる。それを証するような、たくさんの手紙がある。
「(前略)開戦以来一五〇〇〇人もなくしたので、
一とせをかへりみすれば亡《な》き友の
数へかたくもなりにける哉《かな》
と云《い》ふのを武《たけ》井《い》大人に見て貰《もら》つたら、これだけは、ほめられたが憫笑《びんせう》の至りといふ次第」
というのは昭和十八年一月二十八日付の堀悌吉宛《あて》のものであり、
「世界情勢も我作戦も追々かねて心配せし態勢と相成《あひなり》遺憾の次第に御座候
当方面も目下最悪の情況を呈し之《これ》が収拾には一段の惨状と非常の犠牲とを可生《しゃうずべき》も今更愚痴を申しても追つかず昔より選ぶべきは友なりとはよく申したるものにて候」
は、横須賀鎮守府司令長官に替った古賀《こが》峯《みね》一《いち》宛(一月六日付)、「選ぶべきは友なり」はむろん日独伊三国同盟のことである。
「小生も此《この》世《よ》にもあの世にも等分に知己や可愛《かはい》い部下が居ることとなり 往《い》つて歓迎をして貰ひ度《た》くもありもう少々此世の方で働き度もあり 心は二つ身は一つといふ処《ところ》にて候」
というのは、二月、城戸《きど》忠彦《ただひこ》宛の手紙の一節である。
城戸は、退役《たいえき》の海軍少将で、山本がアメリカの大使館附《づき》武官当時、造兵監督官としてニューヨークにいた人であった。
さかのぼって、昭和十七年十一月二十三日付堀悌吉宛の、
「東京は大分寒くなりし由羨《よしうらやま》しくもあり御自愛を祈る 当方一向に面白《おもしろ》からず 敵には困らぬが味方には困る 各長官幕僚共には概《おほむ》ね三代乃《ない》至《し》五代に仕へ《○○》たり」
というのは、前に一部引用したもの。
そのほか、
「又自分も何時《いつ》帰れるやら帰れぬやら分らないから適当に頼みます
山梨《やまなし》さんではないが『運命だよ君』とでもいふ処だろうもう到頭開戦一周年となつたがあれだけハンデキャップをつけて貰つたのも、追々すりへらされる様で心細い」(昭和十七年十一月三十日堀悌吉宛)
「八月十九日附貴信拝受 御礼
あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候 敬具
椰子《やし》の葉かげより」(十七年九月上松蓊《しげる》宛)
「長谷川氏の怪我 原田氏の病気等皆初耳に御座候
小生も大分敵もやつつけ部下も殺し候へば そろそろ年《ねん》貫《ぐ》の納め時と存候」(十七年十月内田信也宛)
この手紙を貰った元鉄道大臣の内田信也は、そのころ宮城県の知事をしていた。
「長谷川氏」、「原田氏」は、長谷川清と原田熊雄である。
原田熊雄宛の、十七年十二月末の書簡には、
「(前略)平時ならばあとがつかへると云はるべきに如何《いか》なることにてかとんと左様の噂《うはさ》もきかず、遂《つひ》に艦隊第一の古物といふ次第に候
依而《よって》古歌の真似《まね》をすれば、
荒潮の高鳴る海に四年経つ
京《みやこ》の風俗《てふり》忘らえにけり
といふところにて候呵々《かか》(後略)」
とある。
山本の書簡には、「呵々」という言葉は稀《まれ》にしか使われていない。其処《そこ》には、彼の自嘲《じちょう》と未練とが顔を出しているように感ぜられる。
古川敏子宛の手紙の中には「ホンコがしたい」というのもある。「ホンコ」は部下相手のお遊びの勝負ではなくちゃんと金を賭《か》けて麻雀《マージャン》や花札がしたいという意味だが、もうちょっと別の含みもあるらしい。
これらよりさらに前の手紙であるが、松元堅太郎宛の、
「宇宙の一小黒子たる地球上悠久《いうきう》に対する一閃光《せんくわう》にも比すべき此数年を非常時々々と喚叫する有様を天は何と見るべきか思へば浅《あさ》間《ま》敷《しき》限りといふべしなど思ふことも有之《これあり》候《さうらふ》」
というのもある。
自転車の稽《けい》古《こ》を始めたと、近況を伝えて来た丹羽みちには、
「顔にけがをしない限りに精々猛訓練をして下さい。(からだ中で一番丈夫の顔にけがをする様では手足はたまらぬから)」
などと書いてあとで、
「私も漸《やうや》く六十になりましたからもうどこへ行つても小僧あつかひされなくともよい筈《はず》ですが矢張りめつたの所へは危険で持つて行けないと見へて部下や外の長官は二、三代から五代目ですがわたしは居残りいや置わすれられてるらしいです、自分ではよほど不景気のつまらなさ相の顔をして居るつもりですが夫《そ》れでも東京の人からは『内地からメイツたあたまで行つても長官にお目にかかると晴々して帰ります』などゝ不届のことを云つてよこすのもあります。どうかと思ひますねえといふ所ダンベな」(十八年二月初)
と言っている。
榎本重治には「牌《パイ》を手にせざること久し」とか、このころ健康にも少し不安があったらしく、将棋が弱くならないから未《ま》だ少々は脈があるらしいが、八月以来少し足が脹《ふく》れたり手がしびれたりすると言って来ているし、古川敏子にも、手指が少ししびれる、筆を執っても手が震えると訴えて来ている。
真偽のほどは不明だが、山伏会の森村勇によると、こういう山本を慰めるために、千代子を飛行機でトラックに連れて行こうかという話が、起ったことがあったという。
千代子は、何かの時に山本をかくすつもりで、防空壕《ぼうくうごう》をかねて神谷町《かみやちょう》の家に六畳一と間の地下室を作り、留守番を置き、自分は相変らず「梅野島」の女主《おんなあるじ》として働いていたが、昭和十七年一杯で、商売をやめることになり、抱えていた五人の妓《おんな》には皆証文を巻いてやって、年が明けてからは、小女と二人、神谷町で暮すようになった。
トラックに進出以来、山本は一度も日本へ戻《もど》らなかったが、三和や渡辺ら幕僚たちは、時々要務を帯びて東京へ出張することがあった。そういう時、彼女は、神谷町の家で彼らをもてなし、更に、自腹を切って、築地あたりで賑《にぎ》やかに遊ばせたようである。
そういう部下の往き来や手紙のやりとりの間に、千代子をトラックへという風聞を、耳にしたのではないかと想像されるが、十八年の一月末に、山本は古川敏子に宛《あ》てて、
「新年お芽出《めで》度《たう》御座います。
元旦《ぐわんたん》の午前十一時の御手紙は大に感謝しますと共に何だかあんまり景気のよくなさ相の御正月らしく感じます(人がせつかく急がしい中で特別に手紙かいて上げたのに山本さんと来たら随分よと言はるゝ位景気がよければ結構です)
前便により如何《いかが》かと案じて居《を》りました佐野大人も大した事なく御全快のよし御喜申します。
其外皆様御元気何よりです。
こちらは汗だくで団子の様の餅《もち》でとにかく三《さん》ケ《が》日《にち》お雑煮を頂きましたから立派に六十歳になりました。
八月から傷病者見舞慰霊祭などで四回陸上へ行きました外は艦上に蟄居《ちっきょ》して居ります。此頃《このごろ》海軍省の人から『内地から前線へ行く人で長官の顔を見るとメイツた気分も晴々する由《よし》』と書いてありました。そんなことでよくいくさが出来ると思つて居ります、そんな不景気な内地ならもう一層のこと南洋に転籍して河合《かはひ》氏にでも来て貰《もら》つて朝から晩までパパイヤばかりたべて暮そうかしらむ。御馳《ごち》走様《そうさま》でした。左様なら」
という手紙を書いた。
しかし、はた目をはばかるということもあったであろうし、結局この、「河合氏」のトラック行きは、実現しなかった。
そして、昭和十八年の二月十一日、聯合艦隊司令部は、「大和」へ移ってからちょうど一年目に、トラックの泊地でまた「武蔵」に引越しをした。
司令部「武蔵」移転の少し前、二月一日に始まったガダルカナル島の撤退作戦は、二月七日夜の第三次撤収で、生き残った陸海軍の将兵一万三千人の引揚げを完了し、島は放棄された。
当時一般には知らされなかったが、八月の米軍上陸以来この半年間のガダルカナル戦の実情は、実に悲惨なものであった。ガダルカナル島は餓島と呼ばれ、救い出された陸兵たちは、栄養不良のために髭《ひげ》も爪《つめ》も髪の毛も伸びておらず、太いのはただ関節の部分だけで、裸の姿は尻《しり》の肉が落ちて肛門《こうもん》がまる見え、駆逐艦の上で始終下痢《げり》便《べん》を垂れ流していた。
「眠れる頬《ほお》に馬鹿と言い
砕けし額《ぬか》に馬鹿と呼ぶ。
涙は燃えて胸熱く
外に言うべき言葉なし。
さなり馬鹿なりアメリカの
へらへら弾丸にあたる汝《な》は
苦しき日々を耐えながら
苦しきままに斃《たお》れたる」
というのは元陸軍主計曹長《そうちょう》吉田嘉七の「ガダルカナル戦詩集」の一節であるが、彼らの苦戦は空《むな》しく、ソロモン群島南部の制海制空権は完全に米軍の手に帰し、山本が近衛に「一年か一年半」と言ったほぼその言葉通りに、これ以後、日本は明らかに守勢に立つことになった。
ただ、この撤退作戦の成功のかげで、一つ、海軍通信諜報《ちょうほう》班の偽電がちょっとした効果を挙げている。
米軍が緊急の場合、平文通信を許している習性を利用し、米軍のカタリナ哨戒機《しょうかいき》とガダルカナル基地の連絡不良のチャンスに乗じて、ラバウルのブナカナウ基地に在った第一聯合通信隊が、カタリナ哨戒機に化け、ガダルカナル米軍基地を呼び出した。米軍の基地は応答して来、そこで、
「Sighted. 2ac, 2b, 10d, lat. -, long.- ,course SEE.」
(敵艦見ユ。空母二、戦艦二、駆逐艦十。南緯何度、東経何度。針路東南東)
という偽の電報が発せられた。
この電報は、すぐヌーメアとホノルルに転電され、約二十分後に、ホノルルの米海軍放送系にかかって、全太平洋艦隊に放送された。ガダルカナル基地の米軍爆撃機は、全機拘束待機状態となり、彼らがだまされたと気づいた時には日本軍の撤退は終っていた。
撤収に従事した第三水雷戦隊と第十戦隊の司令官が、トラックに帰って来た時、山本は、
「よくやってくれた。実は、駆逐艦の半分ぐらいは、やられると覚悟していた」
と言ってねぎらったというが、彼が偽電作戦の成功に対して賞讃《しょうさん》の言葉を送ったという記録は、見あたらない。
この偽電作戦を実施した一聯通の伊藤春樹通信参謀は、
「こちらの手の内を見すかされるような余計な真似《まね》はするな」
と、あとで逆に上の方から叱《しか》られている。
自身がそのために死にいたる、暗号や通信諜報の問題を山本がかねてどの程度深く理解していたかは分らないが、少なくとも、それを非常に重んじたという風には考えられないようである。
この時から二カ月ばかりして、山本はトラック島泊地の「武蔵」から、約二週間の予定で、将旗をラバウルへ移すことになった。
彼が霞《かすみ》ヶ浦《うら》の副長時代から、直接間接に眼《め》をかけ、育てて来た海軍航空隊は、ソロモン方面の戦局の急迫と、母艦の喪失とで、陸上機艦上機をひっくるめてその精鋭の多くが、ラバウルの陸上基地に進出していた。
謂《い》わば子飼いの、このラバウル海軍航空隊を、現地に激励しようというのが、彼のこの度の行動の目的であったが、山本が自分で積極的にそのつもりになったかというと、必ずしもそうではなく、前線指揮官からの希望に引きずられた傾向が多分にあったように見える。
出発前日の四月二日の晩、山本は、留守番役で「武蔵」に残る藤井政務参謀に、
「オイ、君とは当分お別れだ。一戦やろう」
と将棋をいどみ、二勝一敗で彼が勝ったあと、藤井が、
「とうとう、長官、最前線へ出られることになりましたなァ」
と言うと、山本は、
「そのことだよ。近ごろ内地では、陣頭指揮ということが流行《はや》っているようだが、ほんとうを言うと、僕《ぼく》がラバウルへ行くのは、感心しないことだ。むしろ、柱島行きなら結構なんだがね。考えてみたまえ、味方の本陣が、段々敵の第一線に引き寄せられて行くという形勢は、大局上、芳《かんば》しいことじゃないよ。士気の鼓舞という意味では、むろん話は別だがね」
と答えている。
また、この日山本は、千代子に宛てて、それが最後になった手紙を書いた。
「三月廿七、八日のお手紙はお天気がわるく飛行機が飛ばなかったのでおくれて漸《やうや》く咋四月一日の夕方受とりました それと浴《ゆか》衣《た》や石鹸《せきけん》や目《め》刺《ざし》山口の煮豆などいろとどきました ありがたう
夫《そ》れから今度はあまり度々だからと思つて居たのに参謀長 藤井 渡辺 鹿岡《かのをか》 佐《さ》薙《なぎ》など沢山よんで貰《もら》つて本当に嬉《うれ》しく御礼を申します 皆んなもとても喜んで 入れかはり立かはり 神谷町のことや山口での話などをして呉《く》れて私も何だか一寸《ちょっと》家へかへつて千代子にあつた様の気持になりました
渡辺君はことに神谷町のうちの様子や千代子の健康のことやいろ親切にして貰つた事などを事精《くは》しく三時間も話して十二時過になりました さうして長官へは古い浴衣だのに私に新しいのをどうしても持つて行けといはれ又雨で靴下《くつした》をぐちやにしたら洗濯《せんたく》したり新しいのを沢山頂いたり大変度々御馳走になつたりして恐縮でしたと云ふから夫れは君が三年半も下で一生懸命働いて呉れて居るのを度々話してあるので能《よ》く知つて居《を》つて感謝して居るからだよと言つたらあんなに能く気のつく親切な方はありませんねといふてしんみりと感激して居りました
藤井君も押しかけで御馳走になり 夜おそく酔つた一杯機《き》嫌《げん》で上がり込んで いつ迄《まで》も御迷惑をかけ おまけに鹿岡と公務の事迄話しはじめたら いつの間にか 気をきかせて下へ行つて居られるなど とても気のつく人ですねと感心して居つたから 僕が天皇陛下の外に内心あたまの上がらぬのは あの人なんだが そのねうちはあるだらうと云ふと いやいくら言はれても致方《いたしかた》ありません 負けましたといつて 皆で陽気に笑ひました 本当に嬉しかつたよ(中略)梅駒《うめこま》さんも許可が下りて何よりでした あの家が其《その》まゝ立つて行けば気持がよいわけですね 私のからだは先日言つて上げた通り 血圧は三十代の人と同様とてもよいといふ事です 夫れから手がしびれるといふのは 右の薬指と小指のあたまがほんのわづかしびれる様でしたが 東京へは少し大げさにわざと云《い》つてやりましたので少し問題になつた様です(問題になるようにしたのです)しかし軍医長にヴイタミンBとCの混合液を四十本注射して貰つて もうすつかり能くなりました(表面はまだ少しいけない様に言つておきましたが)から本当は少しも心配しないで下さい 又此本当の事は誰にも言はないで何だか暑い処《ところ》で土も踏まないので少し弱つたらしい位に言つといて下さい 夫れから明日から一寸前線迄出かけて来ます 参謀長黒島参謀渡辺参謀等が一処です 夫れで二週間ばかり御ぶさたしますからそのつもりでね 私も千代子の様子を聞いたので勇ましく前進します 四月四日は誕生日です 愉快です 一寸やるのは
夫れではどうぞ御大事に 御きげんよふ
左様なら
四月二日
五十六
千代子様             」
この手紙には、少量の遺髪と、別紙にしたためた、
「おほろかに吾《われ》し思はばかくばかり
妹《いも》が夢のみ毎夜《よごと》に見むや」
という歌が一首、同封してあった。
「おほろかに吾し思はばかくばかり」というのは、万葉集を繰ってみると、
「おほろかに吾し思はばかくばかり
難《かた》き御《み》門《かど》を退《まか》り出《い》でめやも」
があって、多分此所《ここ》からの借用であるが、これは巻十一の「正《ただ》に心緒《おもひ》を述ぶ」作者不詳の一群の短歌の中の一つで、あまり有名な歌ではないから、真似にしても、山本は万葉集はずいぶんよく読んでいた。
手紙の中の「鹿岡」は、当時、海軍から情報局情報官兼総理大臣秘書官として出ていた鹿岡円平中佐、「佐薙」は元山本司令部の航空参謀で、このとき軍令部作戦部員であった佐薙毅《さだむ》中佐、「梅駒」は梅野島のあとを引きつぐことになった千代子の朋輩《ほうばい》の新橋芸《げい》妓《ぎ》である。
翌四月三日の朝、山本は随行の各幕僚、副官、艦隊軍医長、艦隊主計長、暗号長、気象長らと共に、右舷舷梯《げんてい》から長官艇に乗り移り、残留の司令部職員や乗組員たちに見送られて、「武蔵」を離れて行った。
夏島の水上基地から、飛行艇二機に分乗し、離水後「武蔵」の上を一と旋回して別れを告げ、針路を南にとり、その日の午後一時四十分、一行はラバウルに着いた。
草鹿任一、小沢治三郎、三川軍一ら、各艦隊の長官に迎えられて、山本は南東方面艦隊司令部の庁舎に入った。
間もなく、第八方面軍司令官の今村均《いまむらひとし》中将も、挨拶《あいさつ》にやって来た。今村と山本とは、大正の末年からの、古いブリッジのつき合いで、互いに、
「僕の方が強い」
と言い張っていた仲で、陸軍の軍人の中で山本が最も心を許していたのは、この人であったと思われる。
今村均は、ラバウルへ赴任の途中、前年の十一月二十一日、トラックの「大和」に山本を訪ねた時、山本が、
「今になって、お互いかくし立てはしていられない。海軍で、ゼロ戦一機が米軍機五機乃《ない》至《し》十機と太刀打ち出来ると言っていたのは、開戦当時のことで、ミッドウェーで優秀なパイロットをたくさん亡《な》くしてから、なかなかその補充がつかず、現在でも一対二とは言っているが、敵の補充率がこっちの三倍を上廻《うわまわ》っているので、日増しに力の懸隔が出来て、率直な話、難戦の域に入っているんだ」
と言ったのを、よく憶《おぼ》えているという。
半年ぶりに山本に会った草鹿任一の方は、山本の白《しろ》眼《め》がいやに黄色くどんより濁っているのを見て、まっ先に、
「ああ、こりや、大分疲労しておられるな」
と思ったそうである。
草鹿の司令部から少し離れたところに、ドイツ統治時代の総督の住んでいた通称官邸山という、標高三百メートルほどの山があった。山本は、夜は涼しいこの山のちょっとしたコテージに泊ることになった。
第十三章
ラバウル所在の各航空隊は、山本長官の来着を待って、その翌日から、ガダルカナル島総攻撃の「い」号作戦を実施する予定であったが、山本の誕生日の四月四日は、猛烈なスコールで、作戦発動は三日繰延べになった。
そして、四月七日から、ガダルカナル島と、その周辺の連合軍艦船とに対する、戦爆連合の、大がかりな空襲が始まった。七日、十一日、十二日、十四日と、断続四日間の総攻撃に、ブーゲンビル島方面の前進基地から発進したものを併《あわ》せて、延四百八十六機の戦闘機と、百十四機の艦上爆撃機、八十機の陸上攻撃機が参加した。
飛行機が出る時は、山本は必ず、白い二種軍装を着て、帽を振りながら、一機々々これを見送った。
見送りがすむと、南東方面艦隊司令部の草鹿の部屋へ帰って来る。それから、ソファにかけて、草鹿、小沢、宇垣と四人くらいで、作戦の打合せをしたり、雑談をしたり、将棋をさしたり、また病院へ傷病兵の慰問に出かけたり、山本はなかなかじっとしていなかった。
白眼の濁りも、一時的なものであったかと思われるくらい元気で、相変らず飯もよく食った。
ラバウルが自給農耕態勢に入るより、未《ま》だ大分前で、果物は豊富であったし、日本からも色んな品物が届いていた。海亀《うみがめ》の肉のすき焼なども試みられた。
草鹿任一の方が、熱帯性のひどい下痢《げり》つづきで、絶食に近い状態にあったが、山本は、
「そんなことを言ったって、そりゃお前、適当に食わにゃいかんよ」
と言って、朝、草鹿中将が馬に乗って官邸山のコテージを訪ねて行くと、
「おい、胡瓜《きゅうり》食わしてやろう」
と、自分でそのへんに生《な》っている胡瓜をつんで、すすめたりした。
草鹿は山本から「おいと言われりゃ、へいと言うような間柄《あいだがら》」で、
「山本さん、あんたねえ」
などと、何でも打ちあけて彼に話していた。
草鹿の語るところでは、古い海軍の者は少しぐらい階級の上下があっても、たいてい「あんた」とか「君」とかで、「閣下」だの「長官」などとはあまり呼ばなかった。
「あとでは陸軍の真似《まね》して『閣下』やなんて言い出したけど、『あんた』でええやないか」
と、草鹿は言っている。
草鹿任一はある日、小沢治三郎と共に、ラバウルにいる兵学校三十七期五人の小さなクラス会を開くことにした。
山本は、それを聞いて、
「俺《おれ》も入れてくれるんだろうな」
とジョニー・ウォーカーの黒瓶《くろびん》を一本さげて、その席へやって来た。
それというのが、明治四十二年、このクラスが兵学校を卒業して遠洋航海に出た時、山本は大《たい》尉《い》で、練習艦「宗《そう》谷《や》」の分隊長であったからで、やがて宴たけなわに、誰《だれ》かに皆で寄せ書を書こうではないかという話になり、
「それじゃあ、鈴木さんと古賀に出そうよ」
と山本が言い、彼は先《ま》ず自分で、鈴木貫太郎に宛《あ》てて、墨で、短い文句を書き、
「元宗谷分隊長 現聯合《れんごう》艦隊司令長官 山本五十六」
と、当時と今の官職氏名を書き入れた。
皆がそれにならって、当時の少尉候補生の階級と、現在の官職と名前とを書きこんだ。横須賀鎮守府の司令長官をしている古賀《こが》峯一《みねいち》宛の寄せ書も出来た。三十四年前のその遠洋航海の時、鈴木貫太郎は「宗谷」の艦長で、古賀は乗組の中尉であった。
「これが届いたら、鈴木さんきっと、神棚《かみだな》に上げて喜ばれるよ」
山本は言ったが、この寄せ書が二人のもとへ届いたのは、山本の死の直後になった。
山本はまた、幕僚控室で渡辺安次と将棋をさしながら、短波のラジオでアメリカの放送を聞いていて、開戦の通告がやはり真珠湾攻撃のあとになったらしいこと、アメリカの政府も国民も、それを怒っているらしいことを言っているのに耳をとめ、
「やっぱりそうかなあ。残念だなあ。君が先に死ぬか、僕《ぼく》が先に死ぬか分らんが、僕が先に死んだら、陛下に、聯合艦隊は決して、初めからそういう計画はしておりません、イン・タイムに持って行っているつもりでございましたと、そう申し上げてくれよ」
と、渡辺に言ったりした。
山本がこうして暮しているうちに、「い」号作戦は、一応の成功をおさめて終り、彼のラバウル滞在の日程も、残り少なくなって来た。
彼は、日程の最後に、ガダルカナルの戦線に最も近いショートランド島方面の基地を、日帰りで激励に行って来たいと言い出した。
この巡視計画は、四月十三日、山本長官自身の手で決裁され、その日の夕刻、同方面の根拠地隊、各航空戦隊、守備隊に宛てて、
「GF長官四月十八日左記ニ依《ヨ》リ『バラレ』『ショートランド』『ブイン』ヲ実視セラル。〇六〇〇中攻(戦闘機六機ヲ附ス)ニテ『ラバウル』発、〇八〇〇『バラレ』着、直チニ駆潜艇ニテ〇八四〇『ショートランド』着(中略)、一四〇〇中攻ニテ『ブイン』発、一五四〇『ラバウル』着。(中略)天候不良ノ際ハ一日延期」
という電報が出された。
ニューブリテン島のラバウルから、南東約三百キロほどのところに、ブーゲンビル島があり、この島の南端にブインの基地がある。ブインから飛行機で、ほんの五、六分南に飛ぶと、ショートランドという淡《あわ》路《じ》島《しま》ほどの島で、そのすぐ東にほとんど飛行場だけの小島バラレがある。
それから更に地図を南東にたどると、チョイセル島、ニュージョージヤ島、サンタ・イサベル島を経て、ガダルカナルの島がある。これらがいわゆるソロモン群島である。
この巡視計画にはしかし、不賛成を唱える人がかなりあった。第三艦隊長官の小沢治三郎が、先ず反対した。山本が諾《き》かないので、小沢は聯合艦隊の黒島先任参謀に、
「どうしてもやめないんなら、戦闘機六機なんかじゃ駄目《だめ》だ。俺のとこからいくらでも出すから、君、参謀長にそう言えよ」
と言ったが、参謀長の宇《う》垣《がき》はたまたまデング熱で寝ていて、小沢のその申出は、宇垣に伝わらなかった。
陸軍の今村中将は、それより二カ月前の二月十日、糧秣《りょうまつ》無しで長い間戦って来た部下の将兵を見舞うために、山本と同じように、海軍の中攻に乗せてもらって、ブインに飛んだことがある。その日、あと十分でブイン着陸という時に、不意にアメリカの戦闘機の三十機編隊があらわれた。
中攻の操縦員は海軍の上等兵曹《へいそう》で、
「退避します」
と、斜めうしろの席の今村に言うなり、雲の中へ突っこみ、しばらく雲中で旋回をつづけたあと、
「ちょっと出てみます」
と、非常に冷静な態度で雲の上へ出、うまく敵の戦闘機群をかわして、危機一髪ブインに下りた。
今村はその経験を話して、それとなく山本の自重を望んだが、山本は、今村の無事と下士官搭乗員《とうじょういん》の処置に満足した様子で、
「そりゃよかった」
と言ったが、やめるとは言わなかった。
ショートランドにいた第十一航空戦隊司令官の城島《じょうじま》高次少将は、四月十三日の電報を見ると、自分の幕僚たちに、
「こんな前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴《やつ》があるもんか。君たちに参考のために言っとくが、こんな馬鹿《ばか》なことをしちゃいかんぞ」
と言い、山本出発前日の十七日、ラバウルに帰って来て、
「長官、危険ですから、やめて下さい」
と、直接山本にそう言ったが、山本は、
「いや、もうあちこち通知したし、みんな用意して待ってるから、行って来るよ。あしたの朝出て、日帰りで夕方には帰って来るんだから、待ってろよ。晩飯でも一緒に食おうや」
と言って、やはり諾かなかった。
山本は、トラックでもラバウルでもずっと白服で通していたが、翌四月十八日の朝は、珍しく、第三種軍装と呼ばれる草色の新しい略服を着て宿舎から出て来た。
黒島亀人や渡辺安次はラバウルに残ることになり、参謀長の宇垣以下、山本に随行する八人の司令部職員と、見送りの小沢治三郎中将らは、三種軍装の山本と連れ立って車でラバウル東飛行場に向った。
戦闘指揮所の前には、七〇五航空隊所属の一式陸上攻撃機が二機、待っていた。一番機に山本と、高田軍医長、三和と交替した航空甲参謀の樋端《といばな》久利雄《くりお》、副官の福崎昇の四人が乗りこみ、二番機に、参謀長の宇垣と、北村主計長、友野気象長、通信参謀の今中薫《いまなかかおる》、航空乙参謀の室井捨治の五人が乗りこんだ。
一番機の機長兼主操縦員は小谷立飛行兵曹長、名前が「立」なので「リットルさん」と呼ばれていた人、二番機の機長は谷本一等飛行兵曹、主操縦員が林浩二等飛行兵曹。いずれも歴戦の、名搭乗員たちである。
二機の陸攻は、予定通り、六時きっかりに東飛行場を離陸した。あとを追うて、二〇四航空隊所属の零戦六機が、砂《さ》塵《じん》を捲《ま》いて飛び上り、すぐ三機ずつの編隊になって、山本たちの中攻の左右の護《まも》りについた。
それから一時間半後、飛行機は高度約二千でブーゲンビル島の西岸沿いに、濃いジャングルを下に見て飛んでおり、ブインもバラレも、もうすぐ其処《そこ》で、機長から、
「〇七四五バラレ着ノ予定」
と書いた紙片がうしろの席へ廻《まわ》されて来たその時、護衛の戦闘機が一機、急に増速して前へ進み出たと思うと、翼を振り、手で何かを指して合図をした。
見ると斜め右、高度にして五百メートルばかり下方に、アメリカのP38戦闘機が十数機、南へ向って飛んでいた。
二カ月前、今村均が敵機に出あったのと、ほぼ同じ場所であった。
気づいたP38の編隊は、反転して、全機すぐ増槽《ぞうそう》を捨て、はっきり空戦の気構えを見せながら、二隊に分れ、一隊は急上昇、他の一隊は前へ廻りこんで、一式陸攻二機の進路を扼《やく》する態勢を取った。
陸攻の一番機は、急いで高度を下げ、ジャングルの上すれすれに左へ急旋回して、目前にあるブインの基地に向い、のがれ始めたようであった。
P38は、零戦の反撃を全然回避せず、すきを見て、上空まうしろから、それに向って次々突撃して来た。
この時の状況は巷間《こうかん》さまざまに伝えられているけれども、こんにち日本側からこれについて生《なま》の証言の出来る人は、護衛零戦隊の生き残り柳谷謙治飛行兵長と陸攻二番機の主操縦員だった林浩二等飛行兵曹の二人だけで、殊《こと》に聯合艦隊司令部搭乗機の内部の模様を語り得る者は林しかいない。あとの二十余人の司令部職員並びに搭乗員は、みな故人になってしまった。
林浩は現在鹿児島県屋久《やく》島《しま》に健在で、魚屋商売のかたわら一湊《いっそう》の消防団長をつとめている。島ではよく知られたなかなかの人望家で、当時の「航空記録」も保存しているが、二十六年の歳月の間にその記憶に誤りが混入して来ている可能性はあろう。
宇垣纏《うがきまとめ》参謀長が「戦藻録《せんそうろく》」の中に残したこの日の記述は詳細なものであるが、重傷を負うて助かった宇垣がこれを書いたのは、満一年後の昭和十九年四月十八日であった。したがってこちらも必ずしもすべてが正確だとは言えないかも知れない。「戦藻録」と林浩の話との間には幾つか食い違いがあるが、両方を突き合せながらもう一度初めからおおよその経過をたどってみると、林兵曹が命令簿で十八日の自分の飛行プランを知ったのは前日四月十七日の晩であった。ただのブイン定期だと思っていると、小隊長の小谷立が入って来て、
「オイ、あしたはちゃんと飛行服を着て、服装をキチンとして出ろよ」
そう言った。
いつも防暑服の上にジャケットだけ着けて気楽に飛んでいた林兵曹は、
「何故《なぜ》ですか?」
と聞き返し、その時初めてリットルさんの小谷兵曹長から、山本長官以下聯合艦隊司令部のお偉方《えらがた》が乗るのだということを教えられた。
七〇五航空隊の一式陸攻群は、山の上のブナカナウの基地にいたので、司令部の乗機に選ばれた三二三号機と三二六号機とは、当日早暁《そうぎょう》ブナカナウを離陸して一旦《いったん》海辺の東飛行場まで下りて来た。そしてエンジンをとめてしばらく待機しているうちに山本長官の一行が到着した。高田軍医長と北村主計長だけが白の軍服で、あとは長官はじめみんな第三種軍装を着用していた。戦時規定の三種軍装以外で司令部職員が最前線の将兵に会うのは面《おも》白《しろ》くなかろうという参謀長の意見で、前の日そう取り決めたのだが、軍医長と主計長にはそれが通じていなかったのである。
山本もちょっと変に思ったようだが、今さらどうにもならず、一行は二た手に分れてすぐ飛行機に乗りこみ、一番機二番機、つづいて護衛戦闘機隊の順で定刻通り東飛行場をあとにした。
いい天気で視界も良好、快適な飛行日和《びより》であったという。宇垣参謀長は林主操縦員のすぐうしろの機長席に坐《すわ》っていたが、やがて心地よげに居眠りを始めた。
サブ(副操縦員)の席にいた機長兼偵察員《ていさついん》の谷本兵曹が、
「あと十五分でバラレに着きます」
とうしろへ告げに行った時も、宇垣は半分眠っていた。
二番機はたまたま無線の柱が、ビスでも取れたらしくフラッターをおこし、林兵曹は振り向いて、
「支柱がフラッターをおこしましたので、ちょっとおくれます」
と許可を求めたが、宇垣は、
「うん、うん」
と、やはりうとうとしながら答えた。
それから間もなく、護衛の零戦が一機、陸攻一番機のそばへ近寄って行ったと思うと、不意に一番機が機首を下げた。計器を見ると二四〇ノットぐらいまで増速したらしい。
「いやに高度下げて突っこんで行くんじゃなあ」
と、林兵曹は思ったそうである。
「戦藻録」には、
「二番機は一番機の左斜後編隊見事にして翼端相触るるなきやを時に危《あやぶ》む位にして、一番機の指揮官席に在る長官の横姿も、中に移動する人の姿もありと認めらる。航空用図につき地物の説明を聞き乍《なが》ら気持よき飛行を味ふ」
とあるが、そのあと宇垣が居眠りをしているうちに、無線柱のフラッターでおくれがちになっていた二番機は、一層一番機から離れてしまった。
異常を感じて宇垣は眼《め》をさましたのであろう。
「何事? 一同の心に感じたる処、通路に在りし機長に(飛行兵曹長?)『如何《どう》したのか』と尋ねたるに『間違ひでせふ』と答へたり。斯《か》く云ふ事が大なる間違にて迂闊《うくわつ》千万なりしなり」(「戦藻録」)
メイン(主操縦員)の席で操縦桿《そうじゅうかん》を握っていた林の頭上を、突然赤い曳痕弾《えいこんだん》が流れた。同時に機長の谷本一曹が、
「敵機だア」
と叫んで林の肩を叩《たた》いた。
驚いてひょいと仰ぐと、天蓋《てんがい》の上方にP38の姿があった。それからはもう支柱のフラッターどころではない。林は事態の見境がつかなくなった。急降下、九十度以上の急速旋回をして、彼は密林の上すれすれに夢中で機を避退させ始めた。
そのころ一番機は、二番機の右約四キロのところを、すでに黒い煙と火を吐きながら速度も落ちて低く飛んでいた。宇垣は、通路に立ち上っている室井航空参謀に、
「長官機をよく見ておれ」
と命じ、操縦席に向っては、
「一番機につけろ、一番機につけろ」
と怒鳴った。
林は時に足だけ、時に手だけを使って、飛行機をすべらせたり急速旋回をしたり、懸命の避退運動をつづけていたが、これを聞いて一瞬ひやりとし、「困ったな」と思ったという。
敵機は二番機にはあまり向って来ないので、自分の方だけなら何とか逃げ切れそうなのだが、聯合艦隊参謀長の命令では仕方がない。言われた通り、出来るだけ一番機について行くことにした。
しかし何度目かの急転で一度僚機の姿を見失い、再び水平飛行に移った時、もはや空に長官機はおらず、濃い緑の密林から黒煙が高く立ち昇るのだけが見えた。
一番機を仕とめ終ったP38の群は、すぐ二番機におそいかかって来た。林兵曹は、ジャングルの上ではやられると判断し、機首を海へ向けた。エンジンは全開状態にあった。海岸線を五十メートルほど離し、プロペラが水を叩きそうになるくらい高度を下げた時、二番機は操縦装置か昇降舵《しょうこうだ》を撃ち抜かれたようで、急に自由を失ってそのまま海中に突っこんでしまった。
かしいで突入したらしく、片方のエンジンがパアッと吹き飛ぶのが見えた。林は瞬時意識を失ったが、気づいた時には自分の身体《からだ》が左の主翼のつけ根で水につかっており、飛行機は半分横倒しで尾部と右主翼だけを高く海上に突き出して燃えていた。
位置はブーゲンビル島の西南端モイラ岬《みさき》の少し北であった。林兵曹は岸をさして泳ぎ出した。
宇垣参謀長もこれに少しおくれて泳ぎ始めたらしい。彼は機上でP38の弾の幾つか命中するのを感じ、これが自分の最《さい》期《ご》かと覚悟を定めたが、乗機が海へ飛びこみ通路へ投げ出されると同時にまっ暗になった眼の前が、ふッと明るんで、驚いて眺《なが》めると水の上に浮び上っていた。
宇垣も林も、衝撃で操縦席の天蓋からほうり出されたもののようであるが、飛行機は炎々と燃えており、ほかの幕僚や乗員たちはどうなったのか全く分らなかった。
木箱が幾つも流れて来る。中で特に大きな鼠色《ねずみいろ》の要具箱にすがりつき、宇垣が足だけ使って泳いでいると、前方に飛行帽をかぶった搭乗員が一人元気に泳いでいるのが見えた。
「オーイ」
と宇垣は呼んだ。
陸岸からしきりに鉄砲の音がした。それは陸軍の守備兵が彼らを敵だと思って射殺するつもりで撃っていたのである。
「合図をしろ、合図をしろ」
宇垣は林に言った。
林兵曹は宇垣の声に気づいて振り向いたが、弾が飛んで来るので水に潜って避けながら、
「オーイ、オーイ」
と呼んで、そのまま岸の方へ泳いで行った。
潮が早く宇垣は横に流されるだけでなかなか岸へ近寄れなかったが、先に引き上げられた林の報《しら》せで、一人の兵隊が裸になって海へ飛びこんだ。十メートルほどのところまで近づいて来た兵隊は、
「ア、参謀だ、参謀だ」
と頓狂《とんきょう》な声をあげ、こうして宇垣も助け上げられた。
此処《ここ》が海軍陸戦隊の分遣隊のいるモイラ岬そのものであったか、或《あるい》はそれより北の別の場所であったか、林の記憶と宇垣の記述とはちがうのだが、陸軍の看護兵に応急手当を受けたという点だけは両者一致している。
宇垣の傷は重かったが、林兵曹の方は軽い打撲傷《だぼくしょう》と口をちょっと切った程度で大したことはなかった。それなのに陸軍の看護兵はまじまじと不思議そうに林の顔を見た。林も相手の顔を見、どこかで識《し》っている男だなと思った。全くの奇遇であったが、林が海軍に入る前九州の八《や》幡《はた》で電車の車掌をしていたころの同僚の車掌だったのである。林浩の記憶にしたがえば、昔電車の車掌だった看護兵に手当をしてもらってから、二人はトラックでモイラ岬へ送られた。
艦隊主計長の北村少将は、傷を負うて一人で泳いでいるところを海軍の大発に発見救助されて、直接モイラ岬へやって来た。北村は咽喉《のど》に穴があいていて、宇垣が、
「主計長」
と呼びかけても、
「しっかりせよ」
と言っても、「アーン」「アーン」としか返事が出来なかったそうである。
二番機に乗っていた者のうち助かったのは結局この三人だけであった。一時間ばかりのち、ブインの第一根拠地隊軍医長で宇垣とは同じ岡山県出身の田《た》淵《ぶち》義三郎少佐らが駆潜艇に乗って救援にやって来た。応急の処置をしてもらったあと、その駆潜艇で彼らはブインに着き、宇垣と北村は根拠地隊の病室に運びこまれたが、傷の浅かった下士官の林はその日のうちにラバウルへ送り還《かえ》されることになった。
夕刻ラバウル東飛行場に帰着すると、林はそのまま第八海軍病院に隔離された。治療の目的からではなく、情報が洩《も》れるのを防ぐためであった。しかし病院内で一応の状況聴取が行われたあと、格別のとがめは無かったということである。
彼が持っている「航空記録」を見ると、昭和十八年四月十八日、日曜日、三二六号機でRRF(ラバウル)よりRWP(ブイン)にいたる片道二時間の飛行が記録されて、あとは六月十五日の飛行再開まで空白になっている。
その間に林は、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将の名前で見舞金として金二十円を支給された。
ラバウルに残っていた黒島渡辺両参謀や草鹿任一長官らが、ブインからの電報と帰って来た護衛戦闘機搭乗員の報告によって山本の遭難を知ったのは、その日の昼ごろで、長官の生死は不明であった。
「  (発)共符
(着)大臣総長
機密第一八一四三〇番電
発 南東方面艦隊長官
甲第一報
聯合艦隊司令部ノ搭乗セル陸攻二機、直掩《チョクエン》戦闘機六機ハ本日〇七四〇頃《ゴロ》QBV上空附近ニ於《オイ》テ敵戦闘機十数機ト遭遇空戦、陸攻一番機(長官(A)軍医長(C)樋端参謀(E)副官(F)搭乗)ハ火ヲ吐キツツQBV西方一一浬《かいり》密林中ニ浅キ角度ニテ突入、二番機(参謀長(B)主計長、(D)気象長(G)通信参謀(H)室井参謀(I)搭乗)ハ『モイガ』ノ南方海上ニ不時着セリ、現在迄《マデ》ニ判明セル所ニ依《ヨ》レバ(B)(D)(何《イヅ》レモ負傷)ノミ救出セシメ、目下捜索救助手配中
(本電関係ハ爾後《ジゴ》甲情報ト呼称シ職名ハ括《クワ》弧《ッコ》内羅馬《ローマ》字ニテ表ハスコトトス)
という電報が発せられたのは午後二時三十分、電報番号の「一八一四三〇」は十八日十四時三十分の意味である。それから「共符」というのは、発信者名を秘《ひ》匿《とく》するための共通呼出符号のことで、たとえて言えば「JOAK」や「JOBK」に対する「NHK」がやや共符に近い。本文第一行目の「南東方面艦隊長官」がほんとうの発信者である。
この電報を海軍省構内の東京通信隊が受信したのが十七時八分、暗号訳了が十九時二十分で、扱いは「軍機」となっていた。文中の「モイガ」は「モイラ」の訳しちがえであろう。
当時航空本部部員で軍令部の副官を兼務していた相《さが》良《ら》辰《たつ》雄《お》の書いたものによると、退庁後で人影の無い大臣官房に、軍務局員浅田昌彦中佐が異常に緊張した面持《おももち》で入って来、残っていた先任副官の柳沢蔵之助大佐に一通の軍機電報を手渡した。それを読む柳沢副官の顔はみるみる深い憂愁にとざされ、やがて省内の空気があわただしくなって、嶋田海相、沢本海軍次官、永野軍令部総長、伊藤軍令部次長、福留第一部長ら海軍の首脳部が、夜半続々とひそかに登庁して来たという。
ラバウルでこの第一報を東京へ打つ手配をしたあと、戦務参謀の渡辺安次はすぐにも現地へ飛んで行くつもりであったが、飛行機の整備がおくれたのと烈《はげ》しいスコールが来たのとで、出発は翌日に延期された。
南東方面艦隊軍医長の大久保信大佐と共に十九日の朝八時すぎ陸攻でブインに着いた渡辺は、すぐ椰子《やし》林の中の士官寝室へ駈《か》けつけた。宇垣の怪我《けが》は右腕の橈骨《とうこつ》動脈切断複雑骨折というかなりの重傷であったが、剛《ごう》毅《き》な男で、化《か》膿《のう》止《ど》めの注射を打ってもらいながら、
「これで俺《おれ》のアールもなおるかな」
と、――「アール」というのは海軍士官ならたいてい誰《だれ》でも経験しているある種の病気の隠語だが、そんな冗談を言ったりしていたそうである。しかし渡辺の顔を見るとさすがの宇垣も眼に涙をいっぱいうかベ、軽便寝台の上から包帯だらけの姿で、
「長官、カモー岬のノーイースト四・五マイル。すぐ行け、すぐ行け」
と、それだけを言いつづけた。
ただし、宇垣の言葉の中の「カモー岬」というのは印度支那半島南端の地名で、ブーゲンビル島には「カモー岬」というところは無い。渡辺はそう記憶しているが、渡辺の記憶ちがいでなければ熱のある宇垣が「モイラ岬」のことを咄《とっ》嗟《さ》に言いちがえたのであろう。
渡辺参謀は九四式水上偵察《ていさつ》機《き》を出させ、それに乗って空から現場へ向った。一番機の突っこんだ場所は、焼けて密林の色が変っているのでよく分った。
彼は用意して来たゴムまりを割って、
「渡辺参りました。ハンカチを振って下さい」
と走り書きしたものを入れ、それを更に細長い網袋におさめて報告球を作ると、十五、六個現場に投下した。
地上からは何の返事も無かった。それでもなお彼は、樹《こ》立《だち》が深くて山本の振るハンカチが見えないのかも知れないなどと考えながら、水偵をジャングルの上低く何度も何度も旋回させた。飛び下りたいような気持であったと、渡辺は語っている。
やがてあきらめて海上へ出、待っていた掃海艇のそばへ水上偵察機を着水させた。かねて打合せの通り、両舷直約六十名の兵員を出してもらい、捜索隊を編成し、渡辺が指揮をとって端艇で小さな川の川口に上陸したのは、この日午後おそくなってからであった。
川は蛇《へび》のように曲りくねってブーゲンビルの密林の奥に通じていた。一行は食糧や衣類や医療品を積み、ボートで川を遡《さかのぼ》るつもりであったが、水が浅いのと倒木が水路を塞《ふさ》いでいるところがあるのとで、途中でボートを捨て、右岸と左岸の二隊に分れ、間もなくそれも前進困難になって、みんないっしょに川の中を歩いて上流に向った。
この川が何という川であったかは、誰も覚えている者がない。ブインの基地の背後には、タバゴ山というかなりの高山がそびえていて、そこに源を発するたくさんの川がモイラ岬の西北で海にそそいでいる。現在ブインのオーストラリヤ政庁支所の壁に貼《は》り出してある大きな地図で見ると、渡辺たちが遡った川はおそらくワマイ川であろうと思われる。海岸からワマイ川沿いに山本機のところまで、距離はそんなに遠くないのだが、なにぶん昼なお暗いとか千古斧《おの》を入れぬとかいう形容がそのままの深い密林の中で、しかもこの川は屈曲部が非常に多い。渡辺は川の幾つ目の屈折点より東へ何キロと、空からあらかじめ見当をつけておいたのだが、方角をまちがえたのであろう、蚊に食われながら夜ふけまで行軍をつづけてなお現場へ到達することが出来なかった。夜半すぎには全員へとへとになって、そのあたりに腰を下ろすなり寝こんでしまった。
捜索隊は陸路直接ブインからも出ていた。ブイン駐屯《ちゅうとん》の佐世保第六特別陸戦隊は、吉田雅維特務少尉を指揮官とする一隊を編成して、早く十八日午前中に捜索に出したが、その日と翌十九日いっぱいかかつて、やはり長官機を見つけることが出来なかった。
結局正式にこれを発見するのは、陸軍の浜砂斥候隊である。正式にという意味を説明しようとすると話がややこしくなるが、当時ブーゲンビル島には陸軍の第十七軍司令部があり、十七軍所属の各隊が島のあちこちに陣取っていた。その中に「明九〇一九部隊」と呼ばれる部隊があった。これは都城《みやこのじょう》の歩兵二十三聯隊で、聯隊長は浜之上俊秋大佐、聯隊砲中隊の中隊長が市川一郎大尉、同中隊第一小隊長が浜砂盈栄《はますなみつよし》という少尉であった。市川中隊長は士官学校五十一期、正規の陸軍将校で静岡県の人だが、浜砂小隊長以下はほとんど全員が九州出身者である。
浜砂は昭和十二年八月、日華事変が始まってすぐ召集を受け、戦地を転戦してすでに六年、その間に兵から少尉になっていた。市川大尉浜砂少尉らの聯隊砲中隊は、ブインの西約三十キロのアクという土民部落の近くに幕営してトロキナ岬に通じる軍用道路の建設作業に従事中であった。
十八日は日曜日で、中隊の者皆、武器被服の手入れということで休養していると、朝八時前突然空に爆音が聞え、はげしい機銃の掃射音が聞えた。空中戦には馴《な》れっこになっていたけれども、中隊長の市川大尉は、すぐ近くの望楼に登ってみた。籐《とう》や蔓《つる》で作った梯《はし》子《ご》をよじ登って、樹海の上にやっと青空を見たと思った瞬間、眼《め》の前をP38が一機、右から左へ超低空でかすめ飛んで行った。それを追うようにして味方の零戦が機銃を掃射しながら、たちまち二機とも姿を消した。ふと眼を転じると、南西約四キロのところに黒煙が上っている。煙の尾を曳《ひ》きながら逃げて行くP38が数機見える。市川大尉は、左腕にはめていた磁石の針を黒煙の方角に合せて固定し、対空監視哨《しょう》の望楼を下りて来た。
初め、墜《お》ちて黒煙を上げているのは敵機だと、誰もが思っていた。捜索隊が出ることになったが、それから先は、現存関係者の証言が必ずしも一致しない。
浜砂盈栄は、
「間もなく半キロほど先にあった聯隊本部から自分らの中隊に命令がとどいた。その命令を受けた中隊長の市川大尉が、『海軍の偉い人の乗っておる飛行機が落ちたそうだから、お前将校斥候一組編成して捜しに行け』と、口頭で自分に命令を伝えた。海軍の偉い人とはどんな人だろうと思ったが、自分はとりあえず、自分の小隊から久木元正美軍曹《ぐんそう》以下十人の下士官兵を選び出し、長以下十一名の斥候隊を組織して磁石一つをたよりにジャングルへ分け入ることにした。密林の中は、芭蕉《ばしょう》、棕《しゅ》梠《ろ》、籐かずら、そのほか名前も分らぬ熱帯樹がいっぱいに生《お》いしげり、昼でも薄暗く、それに山とか土手とか目標になるような物が何も見えないから、一旦《いったん》来た道を失ったら帰れなくなる。ナイフで木の皮をはいだり木の枝に物を吊《つる》したりして目印をつけながら進んで行った。そうして一日中ジャングルの中を捜し廻《まわ》ったが、飛行機を発見することは出来ず、日没近くなってアクの部隊へ帰って来た。翌日二度目の捜索行で現場にたどり着き、山本長官機と確認するまで、『海軍の偉い人』が誰かは知らなかった。われわれより先に墜落現場へ到達した者は一人もいないはずである」
と言っている。
これに反し、中隊長の市川一郎は、
「その日(十八日)浜砂斥候隊を出した覚えは無い。海軍の偉い人云々《うんぬん》もその時は未《ま》だ聞いていない」
と言う。
「望楼から下りて来た私は、敵機のつもりで、これの捜索を行おうと決心した。中隊の庶務係だった西野泰蔵軍曹が、『その任務はぜひ自分にやらせて下さい』と言うので、元気な兵数名をつけて西野軍曹を出した。数時間後、『たいへんな事です』と顔面蒼白《そうはく》になって帰って来た西野の報告によれば、捜索隊員は自分らの磁石の針を私(中隊長)の磁石に合せて、一列横隊で出発したのだが、とても一列横隊で進めるような状況ではなく、磁石の針の示す通り四キロ行けば現場に到達出来るというものでもなかった。曲りくねった川を渡り、倒木を迂《う》回《かい》し、磁石も信用出来なくなって、もう引返そうと思い始めた時、『道路に出ました。ジャングルの中が明るくなっています』と、奥の方で兵の声がした。道路と思ったのは、飛行機が浅い角度で密林を薙《な》ぎ倒した趾《あと》であった。敵機ではなく、味方海軍の大型機が墜ちて炎上していた。乗っていた者全員戦死だが、中に一人、大将の襟章《えりしょう》をつけた人がいる。左手の指が二本無くて、そこのところだけ白手袋がくけてあった。山本聯合艦隊司令長官だと気づいて、西野軍曹は驚愕《きょうがく》した。証拠に大将の襟章を片方剥《は》ぎ取り、一同捧《ささ》げ銃《つつ》の敬礼をしただけで、あとは取るものも取りあえずアクへ引返して来、襟章を見せながら私にそう報告した」
したがって、最初に山本機の遭難現場をさがしあてたのは西野軍曹の一隊、浜砂斥候隊を「正式」に捜索に出したのが翌十九日の朝であったという。
「当時軍規は未だ厳正で、浜砂少尉が中隊長の命令無しに当日勝手に墜落機をさがしに出かけたとは、ちょっと考えられない。それから、西野軍曹の報告で、十八日の晩には中隊の者全部が山本さんのことを知ってしまった。海軍側から、極秘にしてほしいという要請は来ていたかも知れないが、十九日の朝捜索に出かける時、浜砂斥候隊は『山本五十六大将らの遺体を収容に行くんだ』とはっきり承知していたはずである」と。
もっとも、市川大尉の聯隊砲中隊だけでなく、ほかの陸軍部隊からも捜索隊が出た可能性はある。密林の中の苦しい捜索行をみなが熱心に希望したのは、墜落した敵機を見つけると、コーンビーフ、チョコレートその他の食糧、拳銃《けんじゅう》その他の武器が手に入るからであった。
軍規は厳正だったかもしれないが、当時ブーゲンビル島の熱帯熱マラリヤはひどいもので、頭がおかしくなってドラム缶《かん》と相撲《すもう》を取ったりする兵隊もいた。聯隊砲中隊でも、マラリヤにやられていない者は稀《まれ》で、そういう暮しをしていた将兵が生きて帰って戦後長い年月経《た》ってからの証言にちがいが出て来るのはむしろ当然であろうが、浜砂少尉の記憶乃《ない》至《し》証言は市川大尉のそれとかなり食いちがうのである。
浜砂の語るところに従えば、翌十九日、彼らは「再び」、命令によってジャングルの中の難行軍を試みることになった。
十一時ごろ上空に一機の友軍機が飛来し、ちょっとひらけた場所を見つけて持参の日章旗を振っていると、空から通信筒が投下されて来た。墜落機の位置が記してあるのかと思ってあけてみたら、
「機体発見セシヤ? 生存者アラバ白布又ハ国旗ヲモツテ円ヲ描クゴトク振リ通知セヨ」
と紙に書いてあった。
この友軍機は、多分渡辺参謀の乗った九四式水偵であったろう。
浜砂隊はさらに密林の中をさがし歩き、夕暮近くなって半分あきらめかけていた時、一人の兵隊が、
「小隊長、ガソリンの匂《にお》いのするごとあります」
と言い出した。
鼻をくんくんやってみると、確かにかすかなガソリンの匂いがしている。一同それで元気を取り戻《もど》し、匂いのする方へ匂いのする方へと進んで行った。
間もなく前方に、何か土手のようなものが見えて来た。
「へんな物の見ゆる。あげなとこに土手は無いはずじゃ」
と言いながら近づいてみると、それが墜落した一式陸上攻撃機の大きな垂直尾翼であった。主翼がありプロペラがあり、ふとい胴体は日の丸のマークの少し前で折れて、其処《そこ》から操縦席にかけては焼けただれて姿をとどめていなかった。まわりに死体が散乱していた。
一人、草色の服を着、胸に略綬《りゃくじゅ》をつけ、白手袋をはめた左手で軍刀を握り、右手を軽くこれに添えて、飛行機の座席にベルトをしめたまま、林の中に放心したように坐《すわ》っている将官があった。わずかに首を垂れて、将官は何か考えごとでもしているような姿であったが、見ると死んでいた。そういう状態で投げ出されているのは、その将官が一人だけであった。
軍刀を握った左手の白手袋は、人差指と中指のところが糸でくけてある。ベタ金の階級章には桜が三つついていて大将だが、三本指の海軍大将――。「海軍のえれえ人というて、こりゃ山本さんじゃなかろかい」と、浜砂は初めて気がついたのだという。
山本の失われた左手の指については、長い間ロシヤの砲弾が命中したためだというのが定説になっていたが、事実はこの物語の初めに書いた通り、軍艦「日進」の八インチ主砲の摧ュ《とうはつ》によるものであったらしい。昭和十七年五月十五日の朝日新聞が、「近づく海軍記念日に贈る、山本司令長官の初陣《うひぢん》秘話」と題してこのことを大きく扱っている。話の提供者は山本と一緒に「日進」に乗っていた市川恵治という退役海軍将校で、
「いや、御本人の山本大将でさへいまでも敵弾とばかり思つてゐられるかも知れないよ」
と前置きして、摧ュの模様を詳しく語ったとある。
歩兵二十三聯隊は、昭和十七年五月には未だ大陸戦線にいた。西野軍曹が先か、浜砂少尉が先か、それは分らないけれども、彼らは多分朝日のこの記事を読んで、山本が傷痍《しょうい》軍人徽章《きしょう》第一号の持主であること、左手の指が二本無いことを知っていた、それですぐ山本大将と判断したのであろう。
浜砂少尉が遺体の胸のポケットをさぐって立派な手帳があるのを取出してみると、果して「山本五十六」の署名があり、中に明治天皇と昭憲皇太后《しょうけんこうたいごう》の歌がたくさん書き記してあった。
しかし死者を山本大将と確認しても、どういうものか「はあ」と思った程度で、誰もそれほど驚きはしなかった。それより、浜砂たちは落し紙にもひどく不自由している時で、山本の服のポケットからまっ白な塵紙《ちりがみ》の厚い束と白いきれいなハンカチが出て来たのがひどく印象的であった。
「海軍の司令長官ともなると、ええ紙使うとってじゃなあ」
と斥候兵たちは言った。
山本は黒い飛《ひ》行靴《こうぐつ》をきちんとはいていたが、帽子は何処《どこ》かへ飛んで無く、軽く眼をつぶって半白のいがぐり頭をむき出しにしたその風《ふう》貌《ぼう》が、小学校の読本で見た北条早雲《ほうじょうそううん》の挿《さし》絵《え》に似ていると浜砂は思ったという。
山本の遺体は攻撃機の胴体の左がわにあり、そのすぐそばに白服を着た年輩の軍医が仰向けに大の字になって死んでいた。これは艦隊軍医長の高田六郎少将である。その横にもう一体、それから飛行機の胴をはさんで反対側の右前方にボタンを全部はずして仰向けになった中佐参謀の死体があった。これは樋端《といばな》航空甲参謀であったと思われる。ほかに、焼けて折り重なるようになっている遺体が幾つかあった。
誰《だれ》の身体《からだ》にも未だ蛆《うじ》はわいていなかったが、それぞれ死顔が大分腫《は》れ上ってむくんでいる中で、山本だけがもっとも端麗な姿をしていた。
これは不思議なことだがどうも事実であったらしい。そのためのちに色んな臆説《おくせつ》伝説が生れて来ることになる。山本は生けるが如《ごと》くであったとか、いや実際生きていて機外に出てから自決をしたのだとか、眼をカッと見ひらいていたとか、どんな姿勢をしていたとかいう類《たぐ》いの見てきたような話で、それが戦後さらに色々なかたちに拡散し、アメリカ人の中などには逆に、撃墜された飛行機の中の人間がそんなにきれいな姿でいるわけはない、日本人が山本を神格化するための作り話だろうと言わんばかりの調子でものを書いている者もある。
しかし一番機遭難の現場をそのままの状況で目視した者は、いずれにしても十数人の陸軍将兵しかいない。浜砂たちはすぐまわりの木を切って、飛行機自体が切り拓《ひら》いた空地に遺体の仮安置所をこしらえ、山本以下十一体をすべて其処へ移してしまったという。遣《い》骸《がい》は芭蕉の葉でおおわれ、海軍食器に汲《く》んだ密林の中の湧《わ》き水が供えられた。焼け残った陸攻の後部胴体の中はがらんとして、床に瀬戸《せと》引《びき》の海軍食器だけが散らかっていた。
市川一郎中隊長は埼玉県所沢《ところざわ》市に健在である。西野泰蔵軍曹は亡《な》くなった。浜砂小隊長は現在、宮崎県西《さい》都《と》市大字《おおあざ》中尾という、九州電力一ツ瀬ダムの近くで小さな店屋を営んでいる。彼が当時聯隊本部を通じて聯合艦隊司令部に提出した報告とこんにち語るところ、それに市川元大尉の記憶に基く証言をつき合せたものが、多少の矛盾はあるけれども、一番真実に近いと考えなければなるまい。
ただし、あとで現場に到着した海軍側の捜索隊が、「(別図)遭難現場の状況」として海軍用箋《ようせん》にスケッチしたものが残っている。それを見ると、浜砂が言うように遺体を芭蕉の葉でおおったり仮安置所へ移したりした形跡はない。(陸軍側の証言または見取図によって海軍がこれを作ったとすれば別)山本らしき遺体(個人名は記してない)は、尻《しり》に座席のクッションをあて、両手で軍刀を握ったかたちで倒れている。機体やエンジンの状態は、これより二十三年後に私(著者)がブーゲンビル島を訪れ、打ち捨ててあった此の飛行機を発見した時の状態と全く同じで、正確なスケッチだと思われる。
歴史的(?)証言者の記憶に、細部食いちがいがあるのは残念だが、山本の死体に自決した様子は見あたらなかったと言われている。ただ、突入炎上したあと、一番機にもし生きていた者があったとすれば、それは艦隊軍医長の高田六郎少将である。発見された時高田は山本のすぐかたわらに倒れていた。そして高田の身体にはほとんど傷が無かった。軍医長という職掌柄《しょくしょうがら》、彼が山本長官の遺骸をそこなわずに残したいと思い、意識朦朧《もうろう》としたまま適宜の処置をすませて事切れたのだとしたら、山本の死姿がきれいだったのはよく納得出来るわけであるが、これはむろん一つの想像に過ぎない。
山本が握っていた軍刀は、当時在世の、新潟県新発田《しばた》の刀工天田貞吉という人の打ったもので、山本はこれを兄の季八からもらった。山本はほかにも刀を七、八本持っており、中には名刀と言われるものもあったようだが、特にこの新しい刀を身につけて前線へ出たのは、くれたのが亡くなった兄で、刀鍛《かたなか》冶《じ》の名前が亡父と同じ貞吉で、いつも三人一緒という気持からであったらしい。
幕僚の中には、浜砂たちがちょっと欲しいなと思うような洒落《しゃ》れた小型拳銃《けんじゅう》など持っていた者もあったが、山本は軍刀と手帳とハンカチ塵紙以外はほとんど何も所持していなかった。日帰りのつもりだったからであろう。
浜砂隊が一応遺体の取り片づけを終るころには、もう今帰らねばジャングルの中で日が暮れてしまうという時刻になっていた。飛行機の残骸も山本たちの遺骸も大部分の遺品もそのままにして、彼らがアクへ通じる本道まで抜け出してみると、ちょうど其処に疲れ果てた海軍の小部隊がぐったりとなって休んでいた。ブインの佐六特(佐世保第六特別陸戦隊)が出した捜索隊であった。
山本機発見の報を聞いて海軍の吉田少尉は非常に喜び、今夜は此処《ここ》で炊爨《すいさん》露営して明早《そう》暁《ぎょう》現場へ向いたいから案内してくれということであった。それで翌四月二十日の朝、浜砂たちは海軍部隊と合同して三たび密林の中へ分け入った。この時、海軍側の捜索隊長はおそらく浜砂斥候隊を、現場の正式第一発見者として受け取ったろうと思われる。
同じころ、川のほとりで眼《め》をさました渡辺参謀の一行も、再び長官機を求めて歩き始めたが、現場へはやはりなかなかたどりつけず、顔や手は蚊に食われて皆一面に腫《は》れ上り、苦しい行軍をつづけているうち、上空に飛来した連絡機が翼を大きくバンクさせて「機体発見、遺骸収容完了」の合図をした。
渡辺の捜索隊は集合地点の川口へ引返すことになった。
ブインから出た海軍側捜索隊は担架を用意して来ていた。浜砂隊は現場までの案内をし、遺体搬出の手助けをしてから、彼らと別れアクの部隊へ帰った。
部隊長からの要求があって、浜砂は二日間にわたる捜索行の、地点、時刻等詳細な報告書を作り、図面を添えて提出した。これは「明九〇一九」部隊から聯合艦隊司令部へとどけられ、しばらく後に彼は渡辺から、
「謹啓
陳者《のぶれば》過日の航空機事故者の捜索救出に際しては密林地帯中炎天下に在りて万苦を排して御協力を忝《かたじけな》ふし云々《うんぬん》」
という墨でしたためた礼状をもらった。
この手紙の最後には、
「尚《なほ》本件に関しては大本営より発表ある迄《まで》厳秘に附せられ居《を》り候間可然《しかるべく》了知の上機密漏洩《ろうえい》等の事なき様御配慮を得《え》度《たし》
敬具
聨合艦隊渡辺参謀
歩兵第二十三聯隊浜砂少尉殿 」
と念がおしてあって、「山本」という字は一つも書いてなかった。
なお、小さなことだがアク(Aku)という地名は現地の日本軍の間では当時「アコ」と呼ばれていた。それから、土民が捜索隊を現場へ案内したという通説があるが、市川の話によっても浜砂の話によってもこれは誤りである。捜索行の間土民の姿はまったく見かけなかったし、厚くたまった熱帯樹の落葉の間から水がジクジク滲《し》み出して来るような、道も何も無い湿地帯で、土民といえども平素往《ゆ》き来《き》するところではなかった。
遺体は全部収容されたが、飛行機の方は放棄された。それでこの一式陸攻三二三号機は、二十六年後の今もブーゲンビル島のジャングルの中に在る。機番号は消え、プロペラは苔《こけ》むし、胴に日の丸の赤い色だけをわずかにとどめて、熱帯の樹木におおわれて残っている。ポート・モレスビー、ラバウル経由の定期航空便でブインまで行き、アクかアクのとなりのココポという部落の土民の青年たちに頼めば、場所を知っていて陽気に日本の歌を歌いながら連れて行ってくれる。ただし、往時ほどたくさん蚊はいないし毒蛇《どくじゃ》や猛獣もいないが、あんまり楽な史《し》蹟《せき》めぐりというわけにはいかない。
ブインの佐六特の捜索隊がワマイ川の川口で山本ほか十名の遺骸を渡辺に引渡したのは、二十日の午後四時ごろであった。
迎えに来た第十五号掃海艇の前甲板に天幕を張って、十一の遺体はその下に並べられた。モイラ岬を廻《まわ》ってブインの桟橋までの航海中に、渡辺と大久保軍医大佐の二人だけがテントの中へ入って、一応の検《けん》屍《し》をすませた。
山本の下《か》顎《がく》部《ぶ》からこめかみへ抜けた弾のあとを見て、大久保大佐は、
「これだけで即死です」
と言った。
時計は七時四十五分でとまっていた。飛行機がジャングルに突入する前の、はっきり機上での戦死であった。
この時渡辺参謀は、山本の三種軍装の大将の襟章が片方失われているのに気づいたという。「大和ホテル」「武蔵御殿」と言われた聯合艦隊司令部から来て初めてメラネシヤ土民を眼にした渡辺は、「尻《しり》を見たらシッポが生えてそうな」感じがしたそうで、彼らが盗んで行ったのではないかと思ったらしいが、山本の遺体を見た原住民は一人もいない。市川の証言が正しければ、これは西野泰蔵軍曹が証拠に持ち去ったのである。
棺におさめた十一の遺骸はブインの第一根拠地隊の庁舎前にテントを張って、その中に安置され通夜が行われた。そして翌日、車で十五分ほど離れた佐六特の農場で荼磨sだび》に附せられた。
ブインで山本五十六の検屍をし、正式の死体検案書を作成したのは第一根拠地隊軍医長の田《た》淵《ぶち》少佐であった。
田淵は十八日の朝、きょうは山本長官がブインに来られる、着かれたら先《ま》ず病舎を訪問して傷病兵の慰問をされる予定だというので、病舎へ行って整理清掃の監督をしていると、根拠地隊の富田捨造先任参謀から、
「熱傷患者の治療の用意をしてすぐ本部へ来るように」
との伝言がとどいた。
おかしいな、何か事故でもあったのかなと思いながら庁舎へ帰ってみると、富田が、
「軍医長、実はえらいことが起った。長官機がやられたんだ。参謀長以下の二番機はモイラ岬の近くの海へ突っこんで、宇垣さんは救出されたらしい。すぐ行ってくれ」
と言い、それで田淵は若い軍医を一人と佐六特の兵隊数名を連れて、駆潜艇でモイラ岬へ向ったのである。
一方、佐世保第六特別陸戦隊の主計長新川正美大尉は、六特から捜索隊を出すにあたって、土民を案内に立てることを主張して却《しりぞ》けられていた。
新川主計大尉は宣《せん》撫《ぶ》主任という役を兼ねていて、現地の酋長《しゅうちょう》たちをよく知っており、ジャングルの中へ落ちた飛行機を見つけるには土民の助けを借りるのが一番早道だと思ったのだが、これは極秘事項だからということでやめになったのであった。
田淵義三郎は駆潜艇でモイラ岬へ着き、宇垣参謀長と北村主計長の応急手当をし、彼らをブインへ送り還《かえ》したあとも現地にとどまっていた。それは、もしかしたら一番機にも生存者があるかもしれない、水上偵察機が、
「長官機ノ遭難地点ハ、ワレ急降下ヲ以《モッ》テ之《コレ》ヲ示ス」
と言って来ており、海岸側へ救出されて来る者があったらその手当をしなくてはならぬと考えたからである。
しかし蛍《ほたる》の飛ぶのを見ながらわびしい気持で夜通し待っていても、捜索隊はなかなか現場へたどりつけないようだし生存者の見込みも無いらしいというので、彼は翌十九日ブインへ引返して来た。
そして二十日の夕刻、十一の遺骸が第一根拠地隊へ収容されて来るのを迎えたのだが、そのうち田淵が検屍をしたのは山本司令長官、高田軍医長、樋端航空甲参謀、福崎副官、小谷機長と、准士官《じゅんしかん》以上の五体だけであった。あとの下士官兵搭乗員《とうじょういん》六人は誰が検屍をしたのか分らない。
立会人は板垣征《いたがきせい》四《し》郎《ろう》の弟で第一根拠地隊司令官の板垣盛少将、南東方面艦隊軍医長の大久保信大佐、第八艦隊軍医長内野博大佐、聯合艦隊戦務参謀渡辺安次中佐の四人であった。山本以下の死屍を田淵少佐が検《あらた》めながら口述するのを、一根附《づき》の福原公明軍医中尉が記録し、それを池田という衛生兵曹長が浄書し各々五通の死体検案書と死体検案記録とが作られた。
それによると山本の身体には、左下顎角《かく》から右外《がい》眥《し》部へ抜ける小指頭大の機銃弾のあとと、左肩胛骨《けんこうこつ》の中央部に人差指頭大の射入口とがあって、後者は射管(弾の通った道)が前右上方に向いたまま出口が無く、盲管になっていた。渡辺も指を差し入れてさぐってみたが、弾には触れることが出来なかったという。シャツは左半分が血に染まっていた。服にはちょっと火のついたところと二三カ所L字型の裂け目とがあった。飛行靴の片方がわずかにいたんでいたが足に傷は無かった。顔にはすでに蛆が数匹這《は》いまわっていたけれども、未《ま》だずいぶんきれいで、新聞の写真で見る通りの山本長官であった。
この死体検案書並びに死体検案記録は、現在岡山県西大《さいだい》寺《じ》で外科医院を開業中の田淵義三郎が大切に保存している。
「死体検案書
一、氏名 山本五十六
二、出生年月日
三、所轄《ショカツ》官職 海軍大将
四、戦死傷死病死
自殺変死中毒等ノ別 戦死
五、傷病名 顔面貫通機銃創《キジュウソウ》背部盲管機銃創
六、発病年月日    昭和十八年四月十八日
七、死亡年月日時   昭和十八年四月十八日午前七時四十分
八、死亡ノ場所    「ソロモン」群島方面
右証明ス
昭和十八年四月二十日
海軍軍医少佐 田淵義三郎(印)」
「   死体検案記録
聯合艦隊司令長官海軍大将 山本五十六
右《ミギ》者《ハ》昭和十八年四月十八日午前七時四十分頃《ゴロ》『ソロモン』群島方面ニ於《オイ》テ搭乗機敵戦闘機ノ攻撃ヲ受ケ不時着即死同月二十日午後四時遺骸ヲ運搬シ来《キタ》レルヲ第十五号掃海艇上ニ於テ第一根拠地隊司令官海軍少将板垣盛聯合艦隊参謀海軍中佐渡辺安次南東方面艦隊軍医長海軍軍医大佐大久保信第八艦隊軍医長海軍軍医大佐内野博立会ノ上検案スルニ第三種軍装ヲ着用シ長袴《チャウコ》ノ左膝蓋《シツガイ》部《ブ》左大腿《ダイタイ》部《ブ》並ニ上衣背部ニ夫々《ソレゾレ》L字型ノ裂目アリ上衣左前下部ニ拇指《ボシ》圧痕大《アツコンダイ》二個ノ焼痕ヲ認ム航空靴ハ右側先端ニ破孔アルモ同足部ニ損傷ヲ認メス着用セル白手袋ニ血痕ノ附着ナシ『ワイシャツ』左半分ハ血ニ染ム
遺骸ハ一般ニ軽度膨化シ躯《ク》幹《カン》ニ尚死《シ》斑《ハン》ヲ認メ顔面ノミ既ニ腐敗現象ヲ伴フ身体ニ次ノ如キ創面アリ
(一)左肩胛骨略《ホボ》中央部ニ示指頭大ノ創面アリテ射管ハ内前上方ニ向フ
(二)左下顎角部ニ小指頭大ノ射入口右外眥部に拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム
右ニ依リ顔面貫通機銃創背部盲管機銃創ヲ被《カウム》リ貴要臓器ヲ損傷シ即死セルモノニシテ死後推定六十時間ヲ経過ス
昭和十八年四月二十日
第一根拠地隊軍医長海軍軍医少佐
田淵義三郎」
これは公文書であるから煩《はん》瑣《さ》なかわり詳細克明に事実を伝えているように見えるかも知れないが、よく読んでみると、これまで私が記したことと少しちがっている部分がある。どちらが誤りかというと、奇妙な話だが公式の死体検案記録の方が誤りなのであって、田淵義三郎自身がそのことを証言している。
検案記録には「第十五号掃海艇上ニ於テ(中略)検案スルニ」とあるが、田淵軍医長はこの時十五号掃海艇には乗っておらずブインで遺骸の到着を待っていたのであって、その場にいない者が検屍が出来るわけがない。それから「死後推定六十時間ヲ経過ス」は、初め「七十時間」と書いてあったのを「一字訂正」として印を捺《お》し、「七」を「六」にあらためてある。実際にこの死体検案記録がとられたのは山本の戦死から約七十二時間後で、これも「一字訂正」をしない前の方が多分正しいのである。つまり上からの命令で体裁をととのえるための作為がなされているのであって、「戦史に関して公式記録を頭から信用してかかることは非常に危険だ」と高木惣吉が言う、これはその顕著な一例であろう。
あとの人々についての検案書検案記録は省略するが、樋端航空甲参謀は頭蓋底骨折で、全身がすでに腐敗していた。福崎副官と小谷機長とは「全身第四度熱傷」、炭化していてほとんど人間のかたちをとどめておらず、飛行靴のネームなどからようやく誰《だれ》か見分けることが出来た。
不思議なのは高田軍医長で、彼の死体検案記録には、
「上半身熱傷並ニ頭部激突ノ跡ヲ確認シ得タリ依テ頭蓋底骨折ヲ惹起《ジャクキ》シ貴要臓器ノ損傷ニ因《ヨ》リ即死セルモノト認ム」
と記してあるが、これは山本の記録以上のフィクションで、
「どうしてこれで死んだのかと思うくらい、ほとんど完全に無傷でした」
と田淵義三郎は言っている。
田淵の口述にしたがってこれらの記録をとった軍医中尉の福原公明は、これより四五日前、い号作戦の戦傷者と一根の病舎にいる重病人とを後送かたがた、しばらく休養をして来いという軍医長の命令で、池田衛生兵曹長と二人ラバウルへ出張していた。
仕事をすませ三日遊んで、十八日の朝の飛行機で帰任する予定にしていたところ、
「十八日の便は偉い人が大勢乗られるから、お前たちは翌日に延ばせ」
と言われ、それで命が助かって十九日の朝ブインに帰って来、初めて長官機の遭難を聞いたのである。
福原は広島の出身で、中学のころから江田島の海軍兵学校へは何度も見学に行ったことがあった。参考館で見た日露戦争の勇士の血染めの軍服は、彼の印象に強く残っていた。山本の服もシャツも、焼いてしまえば灰になるだけで何だか惜しい気がする。出来れば歴史的な記念物として残して兵学校にでも届けたいと思い、かつ自分でもう一度背中の盲管の射管を確かめたく思って、陸戦隊の農場で火葬の前、かがみこんで山本の着衣を脱がそうとした。
すると、
「もうそれ以上さわるな」
といきなり大声でどなりつけられた。顔を上げてみると大男の渡辺戦務参謀が血相を変えて立っていた。
大将の襟章を一つ記念に残すことだけがやっと認められたが、これはその後何処《どこ》へ持ち去られてどうなったか分らないままである。
山本の火葬場は一つだけ別に穴が掘ってあった。道路をへだてて反対側に、あとの十人の火葬場が設けられていた。それぞれの穴の中に薪《まき》が積まれ、棺を置いた上にまた薪が積まれ、ガソリンをかけて火がつけられた。
なおこの時聯合艦隊の長官幕僚、機長の小谷立兵曹長とともに荼魔ノ附せられた下士官兵は、操縦員大崎明春飛行兵長、偵察員《ていさついん》田中実上等飛行兵曹、電信員畑信雄一等飛行兵曹、同じく上野光雄飛行兵長、攻撃員小林春政飛行兵長、整備員山田春雄上等整備兵曹の六人であった。
火葬場に来ていた一行は、火が充分にまわり切るのを見届けてから、番兵だけ残して一《いっ》旦《たん》ブインの根拠地隊に引揚げた。骨《こつ》上《あ》げは午後の三時ごろになった。
渡辺は未ださめ切っていない穴の中へ飛びこみ、パパイヤの枝を箸《はし》にして山本の骨を拾い始めた。偶然喉仏《のどぼとけ》が一番初めに見つかった。骨壺《こつつぼ》は無かったが、分厚い木で作った骨箱が用意してあって、底にパパイヤの葉を敷き、山本の骨はその上におさめられた。あとの十人のうち樋端参謀は渡辺の同期生であった。子供に持って帰ってやるのだからと思い、渡辺は樋端の骨も丹念に拾った。
骨上げのあと、穴は全部埋められて土饅頭《どまんじゅう》が築かれた。山本の土饅頭の墓のほとりには彼の好物であったパパイヤの木が二本植えられた。この墓はその後終戦時まで海軍部隊の手で大事に護《まも》られていたが、パパイヤの寿命は二十年足らずの由《よし》で、今ではブインを訪れてみてもそれが何処に在ったのかもう分らない。
連日、文字通り無我夢中で働いて来た渡辺中佐は、三種軍装の全身汗《あせ》水漬《みずく》で、ほとりの小川に靴をつけたら靴の鋲《びょう》がジュッと音を立てたと思ったというほどで、その晩基地の司令官がとっときのビールを振舞ってくれたのが、何ともいえず美味《うま》かったが、そのあと急に身体《からだ》の節々が痛み出した。椅子《いす》に坐っているのがつらくなり、それでも我慢して夕食を食っていると、ひどい寒気がおそって来た。密林の中で蚊に食われたためのデング熱であった。
ギプスをはめて寝かされていた宇垣参謀長は、山本の火葬には立会わなかったらしいが、
「俺が悪かった、俺のミスだった」
と、しきりに言っていて、渡辺はこの時、
「宇垣さんはきっといつか自決するつもりだな」
と思ったそうである。
これより二年四カ月のち、昭和二十年八月十五日、日本敗戦の日、第五航空艦隊司令長官の職に在った宇垣が、山本にもらった脇差《わきざし》一振りを手に、部下の彗星《すいせい》艦爆十一機をひきい、沖縄《おきなわ》へ最後の特攻攻撃をかけて還らなかったのは、広く知られている通りである。
渡辺は熱が高かったが、翌日それをおかし、宇垣参謀長、北村主計長、大久保軍医大佐、戦務参謀附で来た大笹《おおざさ》という主計兵曹《へいそう》ら一行と共に、十一の遺骨を守って飛行機でラバウルへ帰って来た。
山本が霞ヶ浦海軍航空隊の副長時代大尉の分隊長で、飛行機の寿命延長策を研究して激励を受けた本多伊吉大佐は、この当時南東方面艦隊兼第十一航空艦隊機関長としてラバウルにいたが、山本長官たちの遺骨が二十二日の午後ラバウルに着いた時の模様をはっきり憶《おぼ》えているという。
十一の遺骨は木箱におさめて白布で包まれ、職名階級氏名無しの、符号だけで区別してあった。
山本の戦死はラバウル所在各部隊にも極秘にされていて、当夜は司令部前の半地下室で限られた司令部職員のみの通夜《つや》が行われた。淡い電灯の下の霊前に蝋燭《ろうそく》が二本ともされ、二本のサイダー瓶《びん》に熱帯の美しい花がさして供えてあった。
骨になった山本は、翌四月二十三日、草鹿任一や本多伊吉らのひそやかな見送りを受けて、ラバウルから飛行艇でトラック島泊地の旗艦「武蔵」へ帰って行った。山本の遺骨の箱は、「武蔵」の長官室に安置された。渡辺戦務参謀はそのあとぶっ倒れて、それからまる十五日間起《た》つことが出来なかった。
第十四章
山本戦死の最初の衝撃からさめた時、ラバウルの南東方面艦隊でも聯合《れんごう》艦隊の司令部でも、責任者の頭にすぐ浮んだのは、暗号が読まれていたのではないかという疑いであった。
南東方面艦隊司令長官の草鹿任一は、山本の遭難の前にも、今村均を乗せた陸攻の経験をふくめて、二、三度、暗号が読まれ情報が洩《も》れているのではないかという不安を感じ、味方暗号担当の軍令部第四部に電報で注意を促したことがあったが、こういうのは担当者の自負と称すべきか、官僚的セクショナリズムと称すべきか、そんなことは絶対あり得ないというのが、軍令部からの草鹿に対する返答であった。
参謀長の宇垣も、山本と一緒にブインへ発《た》つ前、
「日本の暗号が解かれているなんて、そんなことあるもんか」
と言っていたという。
それでこの時も、疑問は大いに感じながら結局ほんとうの事は分らず、偶然の不運であったろうとして事は処理されてしまったが、戦後になってアメリカ側から明らかにされたのは、やはり、暗号解読による山本搭乗機《とうじょうき》の待ち伏せの成功という事実であった。
待ち伏せ攻撃を担当したのは、ガダルカナル島へンダーソン基地のアメリカ陸海軍海兵隊混成の航空部隊で、司令官はマーク・ミッチャー少将、P38隊の指揮をとったのは、ジョン・ミッチェルという少佐、山本の乗った一番機に直射を浴びせて撃墜したのは、P38十六機のうち、トーマス・ランフィヤー大《たい》尉《い》の飛行機であったということになっている。マーク・ミッチャーはドゥーリットル東京空襲の時の空母「ホーネット」の艦長で、少将に進級してから、ソロモン航空戦の立役者《たてやくしゃ》として名高くなった。
四月十七日の午後、ミッチャー少将は、ガダルカナル島の基地で、ニミッツからハルゼーを経由して来た一枚の最高機密電報を見たが、それには、日本の山本提督が翌十八日の朝、ラバウルを発ってバラレに着き、駆潜艇でカヒリ(カヒリはブインの海岸地区の地名であるが、日本側では総称してブインと呼んでいた)に赴くこと、バラレ着は九時四十五分(日本時間、七時四十五分)の予定であること、山本は時間に厳格な人で、この予定表通り行動するであろうこと、その他、山本の搭乗機の機種、護衛戦闘機の数まで、詳細な情報とともに、「あらゆる方法を尽してこれを討ちとれ」ということが記してあり、海軍長官フランク・ノックスの署名があった。
一説によると、ハワイにいたニミッツ大将は暗号解読によるこうした手段で敵将を殺すことをあまり快く思わず、判断を一旦《いったん》ワシントンに委《ゆだ》ねたと言われる。
ニミッツはハルゼーとは性格のちがう提督であった。ウイリアム・ハルゼーが大西滝治郎だとすればチェスター・ニミッツは米《よ》内《ない》に近かった。そこからこういう伝説が生れて来たのであろうが、いくら穏健理智《りち》的《てき》な軍人でも、食うか食われるかのいくさの最中にそう紳士的にばかりはなっていられまい。実際にニミッツが惧《おそ》れたのは、この作戦によってアメリカの暗号解読作業の手のうちを日本に見すかされることであった。それで初め賛否両論の間に立って彼は迷っていたが、日本側の疑念をはぐらかす適当な方法があり、かつ万一あとで暗号を変えられてもアメリカはそれに対応出来るという見通しが立ったので、決断を下した。
それに彼は、殺すのを惜しいと思うほど山本のことをよく知ってはいなかった。山本が三国同盟に命を張って反対していたこと、対米英戦争に関しても強硬な反対論者であったことをニミッツが知り、その真価を認めたのは、戦争が終ってからである。
命令を受けたマーク・ミッチャー少将は、すぐ作戦計画を練り、準備にとりかかった。
それではしかし、山本の巡視日程を書いた日本海軍のどの暗号電報が、如何《いか》にして解読されたかということになると、真珠湾、ミッドウェー同様、これまた長い間の謎《なぞ》であった。ニミッツの海戦史にも、暗号の解読によって情報を得、計画通り正確にこれを撃墜したとだけしか記してない。
へンダーソン基地のP38は、山本を仕とめた翌日から、如何にもそれが偶然であったかのように、暗号など全く関係が無かったかのように、用も無いのに編隊を組んで、十八日の朝と同じブーゲンビル島の空域を、何度も行動して見せた。逆にラバウルの南東方面艦隊司令部では、草鹿任一長官が前線視察に出かけるという嘘《うそ》の電報を暗号に組んで発信してみたりしたが、アメリカ側は何の反応も示さなかった。
戦後、この間題に取り組んだ旧海軍の関係者たちが得た結論は結局次のようなものである。
山本司令長官のブイン、ショートランド行きを記した電報は、調べてみると計六通出ている。そのうち一通は、山本の飛行機が着くはずだったバラレ所在の陸軍守備隊が、ブーゲンビル島の第十七軍司令部に、そのことを報告したものであった。
海軍側の責任者としては、やられたとすれば陸軍の暗号がやられたのではないかと思いたいところで、戦後ある人が、米海軍の情報関係の将校に、
「せめて、アーミーの暗号を読んだのか、ネイビーの暗号を読んだのか、それくらいは教えてくれてもよくはないか」
とただしたところ、相手は机の上に、黙って「N」と一字書いたという。それで、一番目の、陸軍守備隊の打った電報に対する嫌《けん》疑《ぎ》はまず消えてしまった。
次は、ラバウル東飛行場の基地指揮官が、バラレの基地指揮官あてに、陸攻二機零戦六機の出発を報《しら》せた、当日午前六時五分の電報である。
それから、山本長官搭乗機の機長が、飛行中、バラレの基地を呼んで、「○七四五着予定」を告げた電報である。
この二通は、簡単な航空暗号で出されているので、読もうと思えば読めたかも知れないが、前の日からの準備には間に合わない。
四通目は、さきに書いた、城島少将が見て怒ったという、四月十三日の長い、最も詳細な電報である。これは「呂《ロ》暗号」と同様の、五桁《けた》の乱数を使った「波《ハ》暗号」で出ている。そして「波暗号」の乱数表は、四月一日に変っている。
改変したばかりの無限乱数が、十日や二週間ですぐ解けてしまうというのは、前述の通り、現物を盗まない以上暗号の常識として不可能で、軍令部四部が、「絶対にそんなはずはない」と言い張るのは、必ずしも理が無いわけではないのであった。
五通目は、四月十六日に、聯合艦隊司令長官の名前で、東京の軍令部総長その他に宛《あ》てて出された「い」号作戦の戦闘概報である。これの末尾に、
「四月十八日『ショートランド』方面実視ノ後、四月十九日将旗ヲ『武蔵』ニ復帰ス」
という一行があった。この電報の使用暗号が何であったかは分らないが、聯合艦隊の長官名で出される戦闘概報にはもっとも程度の高い暗号を使うのが慣例になっている。
暗号が解かれたというと、日本海軍の暗号は、手もなく悉《ことごと》くアメリカに筒抜けであったように一般に解釈され勝ちであるが、――そして、そうでなかったと言い切ることは出来ないけれども、「彼らも必ずしもすべてを読み得ていたわけではない、その証拠は幾つか挙げることが出来る、一番手近な例は、この時から三カ月半後のキスカの無血撤退だ」という説がある。
昭和十八年の七月二十九日、キスカ島の海軍部隊が、霧にかくれて、全員無事撤収を終って半月後、米軍は、戦艦以下延《のべ》百隻《せき》に近い水上部隊を以《もっ》て、猛烈な艦砲射撃を加え、同士討ちで多くの戦死傷者を出したりしたあと、この島に上陸して来、数匹の犬以外、誰《だれ》も残っていないことを知った。「日本海軍の暗号を全部読んでいたものなら、こういうことは起らなかったはずだ」と。(暗号の専門家長田順行はこれを「愛国的」俗説として却《しりぞ》けているが、その詳細はここでは省略する)
乱数表を変えた「波暗号」その他の高度の暗号が読まれていなかったものとすれば、最も怪しいのは、最後に残る一通の電報になる。
ショートランド島から更に三百キロばかり南東に、サンタ・イサベル島のレカタという水上機基地があった。サンタ・イサベル島の南は、すぐもうガダルカナルで、此処《ここ》は、当時最前線中の最前線である。
レカタはショートランドの分遣隊であるが、すでに交通の自由は失われ、緊急書類は飛行
機から落し、糧食は潜水艦で運んでいる状況で、山本もむろん、レカタまで足をのばす予定は無かった。ラバウルの南東方面艦隊司令部からの、山本巡視日程を記した四月十三日の暗号電報を受け取った時、ショートランドの基地では、誰かが、
「レカタの奴《やつ》らにも、知らせてやろうじゃないか。レカタの連中も苦労しているから、長官が来ることを教えて、士気を上げてやろうや」
と言い出した。
別の誰かが、
「しかし、あすこは飛行機用の暗号書しか持ってないから、それで電報を打つより方法が無いが、いいのか」
と言った。
ショートランドからレカタへのその電報は、結局出たらしい。出されたとすれば、これは強度のずっと低い暗号によったもので、アメリカ側がすぐ解読しても不思議はなかった。
それに、日本軍の占領したソロモン群島の島々には、アメリカが二百五十組からのコースト・ウォッチャー(沿岸監視隊)と呼ばれる工作員を潜入させて、土民を組織し、情報の採集につとめていた。怪しい微勢力の電波が、島のあちこちから始終出ていることは、日本海軍も知っていた。ブーゲンビル島の東岸キエタには、佐六特の分遣隊があって、指揮官の兵曹長《へいそうちょう》が太郎、次郎と名づけた華僑《かきょう》のボーイを二人使い、土民の酋長《しゅうちょう》とも連絡を取りながら情報を得て暮していたが、この兵曹長は、
「日本海軍のナンバラ・ワンがブインにやって来る」
ということを、事前に逆に酋長から教えられたという。
土民や華僑や宣教師を使ったコースト・ウォッチャーの情報活動と、ショートランドからレカタへ打った六通目の味方電報とが、結果として山本を死に到《いた》らしめたのではないかというのが、日本側としてはこれまでせい一杯の推理だったのであるが、一昨年デーヴィッド・カーンの「The Codebreakers 」が出版されて、このすじだてを根底からひっくりかえしてしまった。
カーンの著書によれば、アメリカ太平洋艦隊司令部の無線諜報班《ちょうほうはん》は、コースト・ウォッチャーにも頼らず、末端部の電報にも目をくれず、もっともオーソドックスな「NTF(南東方面艦隊)機密第一三一七五五番電(十三日十七時五十五分発信)」を解いたのである。
「GF長官四月十八日左記ニ依リ『バラレ』『ショートランド』『ブイン』ヲ実視セラル云々《うんぬん》」
というあの長文の電報である。
カーンは、艦隊無線班がIBMカードにパンチされていた乱数表を用いて、四月一日に変ったばかりの新乱数の大部分を解明したと記しているだけで、作業の詳細はよく分らないけれど、彼らがこの電報を読んだことは、ほとんど疑う余地がない。ショートランドで「NTF機密第一三一七五五番電」を見て怒った城島高次が、結果的には危険を一番よく察知していたということになろう。
それから、ニミッツが日本側の疑念をはぐらかす適当な方法を見《み》出《いだ》したとさきに書いたのは、実は、「山本の前線巡視計画はコースト・ウォッチャーにキャッチされたのだ」と日本が思いこみそうな、そういう噂《うわさ》を日本軍の占領地区にわざと流すことであった。佐六特のキエタ分遣隊の兵曹長に、
「日本海軍のナンバラ・ワンがやって来る」
と話した酋長には、おそらく裏からの手がまわっていたのであろう。
しかしながら、日米戦の戦史には分らない部分がほかにもいっぱいある。僅《わず》か二十数年前のことなのにとも言えるし、戦争が終ってもう二十数年も経《た》ったのにとも言えるが、謎《なぞ》の幾つかは結局謎のままに終るかも知れない。生き残った関係者は次々鬼籍に入りつつあるし、公式の記録として残されたものだからといって頭から信用してかかっては危険だということは、前述の通り高木惣吉らの強く指摘するところである。
謎の中でも特に注目される一つは、誰が山本長官搭乗の陸攻三二三号機を撃ち落したのかという問題であるが、従来これはアメリカ陸軍航空部隊のトーマス・ランフィヤー・ジュニア大尉とされ、日米両側ともに疑念をさしはさむ者は一人も無かった。
その上ランフィヤーは「リーダーズ・ダイジェスト」の懸賞募集の体験記に応募して当選し、この一文は同誌日本版一九六七年の一月号に「私は山本五十六を撃墜した」という題で発表されて、アメリカ側から見た当日の戦闘の模様が一応明らかになった。
これを読めば、今まで山本機を邀撃《ようげき》したP38が或《あるい》は二十四機、或は十八機、十六機と言われていたのも、正しくは十六機であったと分る。十八機で出撃したのだが、中の二機は故障ですぐ引返してしまったのであった。
しかし、ランフィヤーが手記の中で、攻撃に移るや忽《たちま》ち零戦一機を撃墜し、さらにそのあとアメリカ戦闘機隊が数機のゼロを撃ち落したように書いている、これは誤りである。二〇四航空隊の六機の護衛戦闘機は、実際には一機もおとされなかった。遅れてブインの基地から救援攻撃に出た零戦隊との戦闘なら話は別になるかも知れないが、ランフィヤーの手記はそういうニュアンスでは書かれていない。護衛戦闘機の搭乗員は名前も全部判明していて、隊長が第一小隊一番機の森崎武中尉、二番機が辻野上豊光一等飛行兵曹、三番機杉田庄一飛行兵長、第二小隊一番機が日高義巳上等飛行兵曹、二番機岡崎靖二等飛行兵曹、三番機柳谷謙治飛行兵長の六人である。
このうち森崎、辻野上、杉田、日高、岡崎の五人は戦争が終るまでに亡《な》くなったが、柳谷だけはムンダ方面の戦闘で右手首切断の重傷を負い、病院船で呉《くれ》へ帰って来て生き残った。雑誌「丸」の主宰者高城肇《たかぎはじめ》が東京に現存の柳谷謙治飛行兵長をたずねあて、「六機の護衛戦闘機」という本を昨年(一九六八年)出版したが、これを読んでみても日本側の護衛戦闘機に被害の無かったことは明らかだと思われる。
護衛零戦隊の戦闘記録も残っていて、それは、
「〇五四〇ラバウル発。
〇七一五P38二十四機ト空戦ニ入ル。
〇七四五一機バラレ着、五機ブイン着。
一二〇〇ブイン上空集合。
一三五〇ラバウル着。
戦果撃墜六。内辻野上二機、杉田二機、日高、柳谷各一機。
味方護衛戦闘隊ノ被害ナシ」
となっている。
ただしこの戦闘記録は、「味方護衛戦闘隊ノ被害ナシ」という一項を除いて遣憾ながら間違いだらけで、ラバウル発の時刻、空戦に入った時刻は早過ぎるようだし、P38を二十四機としたのは誤認であるし、「戦果撃墜六」は特に大きな誤りである。
アメリカ側も味方の被害状況ははっきりしていて、P38十六機のうち落されたのは一機、レイモンド・ハイン中尉の搭乗機だけであった。
「l3th Fighter Command Detachment」「Subject : Fighter Interception」「Date : April 18, 1943」「Time : Take off 0725 - Return 1140」という米軍の公式記録が存在しているので、当日のP38戦闘機隊の編成だけ記しておけば、直接攻撃担当(Attacking Section)が、トーマス・G・ランフィヤー・ジュニア大尉、レックス・T・バーバー中尉、ベスビイ・F・ホームズ中尉、レイモンド・K・ハイン中尉の四機、掩《えん》護《ご》部隊(Cover)が、指揮官のジョン・W・ミッチェル少佐、ダグラス・S・カニング中尉らの十二機である。
しかしこういう公式文書のものものしさにもかかわらず、戦闘の模様や戦果を正確に伝達するのはよほどむつかしいことのようで、現在ブイン近辺の原住民たちが、
「ジャングルの中には日本の大きな飛行機が一つとアメリカの小さな飛行機が一つあるだけだ」
と言っていることの方が、日米両国の色んな記録よりもむしろ正確なように私には思われる。日本側が一機しか落していないものを六機撃墜と思いこみ、アメリカ側が一機も落していないものを何機か落したように思いこんだのは、戦場の心理としてやむを得ないかも知れないが、最近になって、彼我《ひが》の戦闘機の撃墜数などより、そもそも山本五十六搭乗の一式陸攻一番機を仕とめたのは誰かという疑問が一人のアメリカ人から提出された。
それはランフィヤーの体験記が「リーダーズ・ダイジェスト」の懸賞に当選してから間もなく、一九六七年春の「Popular Aviation」というアメリカの航空雑誌に米空軍のベスビイ・ホームズ中佐が発表した「Who Really Shot Down Yamamoto?」(誰がほんとうに《・・・・・》山本を撃ち落したか?)という小論文である。
ベスビイ・ホームズは、右の米側記録にある通り当時中尉で、ランフィヤーやハインと共にブーゲンビル島上空に直接山本機を迎え撃ったP38「ライトニング」の搭乗員であった。 彼は一機の「ベティ」(一式陸攻に対するアメリカ側の呼称)を自分が海中に撃墜したのを確認して帰途についたが、乗機に被弾があり燃料が足りなくなってラッセル島に不時着をしなくてはならなかった。それでガダルカナル島へンダーソン基地への帰還が仲間より数日おくれたが、帰ってみると二機の「ベティ」撃墜の殊勲者としてトーマス・ランフィヤー・ジュニアとレックス・バーバーの二人の名が、日本流に言えばすでに武勲上聞に達していた。
ホームズは自分が「ベティ」一機を海中に撃ち落したのを確認しているという。しかしそれでは「ベティ」が三機いたことになってしまう。二機しかいなかったのが事実ならば、ランフィヤー、バーバー、ホームズのうち誰か一人が嘘乃《うそない》至《し》まちがいの報告をしたと考えなければ計算が合わない。ホームズはへンダーソン基地で大いに憤慨し、一度は仲間と激論もしたらしい。
戦争が終ってから日本側の記録を見てみると、海中に落ちたのは宇垣参謀長の飛行機で、自分が山本機を撃墜したのでないことはあきらかになったが、それではほんとうに山本機を落したのは誰なのか――というのが彼の書いたものの趣旨である。
「眠った犬はそっとしておけ」という諺《ことわざ》にしたがって、自分は戦後二十数年間沈黙を守って来たが、最近山本提督戦死の時のことがまた各方面で取《とり》沙汰《ざた》されており、歴史学者の書いたものにも重大な誤りが見《み》出《いだ》されるので敢《あ》えて沈黙を破る気になったのだと、ベスビイ・ホームズ中佐は言っている。真相は要するに分らない。もう一人のレックス・バーバーが健在か、何か書いたものがあるか、それも分らない。
ただ、これについて一つ余話のようなものがある。
私事にわたるけれども、一九六七年の三月、私はヨーロッパからアメリカ経由で日本へ帰る途中、山本機を撃ち落したトーマス・ランフィヤー・ジュニアに会って話を聞きたいと思い、紹介してくれる人があってあらかじめ手紙を出しておいた。ちょうどベスビイ・ホームズの文章の載った「Popular Aviation」三四月合併号がアメリカの本屋の店頭に出たころだと思うが、その時はホームズの記事のことを知らなかった。
ランフィヤーは現在、加州サン・ディエゴの近くの La Jolla という町に住むビジネスマンで、始終仕事で東部との間を往き来している。ロサンゼルスに着いてみると、空港の日本航空カウンターに私あてのランフィヤーの返事が待っていた。
内容はたいへん好意的なもので、喜んで会うということ、火曜日にロサンゼルス経由でまたニューヨークへ向うので、月曜日の晩自宅へ電話をくれれば打合せが出来て好都合だということがしたためてあった。
運よくその日が指定の月曜日であったから、私はホテルから La Jolla へ電話をかけ、翌日午後六時にホテルで向うからの電話連絡を待つという約束をした。
ランフィヤーは夜の飛行機でロサンゼルスからニューヨークへ発《た》つので、夕刻以後は少し時間が空く、その間に何処《どこ》かで会おうというのであった。
それで火曜の夕方待っていると、六時ちょうどにランフィヤーから電話がかかって来たが、それは意外にも、
「急用でこちらを発てなくなったので、会えない」
という、La Jolla の自宅からの断わりと詫《わ》びの電話であった。私は彼の声だけ聞いて、甚《はなは》だ残念に思いながら日本へ帰って来たのであるが、それから間もなく「Popular Aviation」のホームズ中佐の記事をみつけ、ランフィヤーは何らかの理由で私に会いたくなかったのではあるまいかと、ちょっと不思議に思った。
そしてある時、山本の友人であり通訳であった溝《みぞ》田《た》主一にこの話をした。すると溝田が、
「僕《ぼく》も同じような経験をしている」
と言い出した。
溝田も、山本を殺したという男に一度会ってみたいと思い、四五年前アメリカへ渡った時、スタンフォード大学同窓のアメリカ人の友人と一緒にラ・ホイヤ(La Jolla はラ・ホイヤと発音するのだそうである)へドライブし、トーマス・ランフィヤーと三人でゴルフをすることになった。ランフィヤーはラ・ホイヤのゴルフ・クラブのメンバーで、必ず行くという約束であったが、待てど暮せどついにあらわれなかったというのである。
要するに溝田も私もどうやらランフィヤーにすっぽかされたらしいのだが、これだけの事実を以《もっ》て彼が山本機撃墜に関しまちがった報告をしているという証左にするわけにはむろんいかない。
その後溝田のもとへは、トーマス・ランフィヤー・ジュニアから手紙がとどいている。ゴルフの一件はちがったゴルフ場へ行って待っていたので会えなかった、たいへん失礼したということで、私の名前も挙げて、近いうち日本へ行って二人に会いたいと書いてある。
会って色々話を聞けば私たちが果してすっぽかされたのかどうか、すっぽかされたとしたら何ゆえか、ひいては山本機撃墜の真相まで察しのつくところがあるかも知れないが、今のところは、偶然とすれば奇妙なこの二つの偶然を、並べて記しておくことが出来るだけであろう。
トラックの「武蔵」には、四月二十五日の午後、古賀峯一大将が、後任長官として着任した。
山本の死は、部内にもかたく秘せられ、古賀の赴任は、横須賀鎮守府司令長官の南方視察というふれ《・・》出しで、壮行会の時にも、名札が「横鎮長官」のままであった。
古賀は、かつて河合千代子に、
「山本の将来を思って、辛《つら》いだろうが別れてやってくれ」
という話を持ちかけ、千代子に、
「古賀さんの言うこと、分らないじゃないけど、今どき新派悲劇は流行《はや》らないわよ」
と、あとで笑われたという堅人であったし、翌昭和十九年の三月、聯合艦隊司令部をひきいてパラオからフィリッピンのダバオへ向う途中、乗っていた二式大艇が嵐《あらし》にまきこまれ行《ゆく》衛《え》不明になって、あまり華々しいいくさもしないままに山本のあとを追うてしまったので、一般にはあまりパッとしない印象を与えているようだが、山本とは仲のいい古い友達でその志操も米内山本と全く同じであった。
「五《ご》峯録《ほうろく》」におさめられている堀悌吉あての手紙を見ると、古賀は聯合艦隊へ出てから山本以上の烈《はげ》しい言葉で中央の無策無定見を罵《ののし》っている。
「小生不相変《あひかはらず》にやつて居ます 遠い所に居ても山本兄の心情はよくわかつて居た積りなりしが目下心に泌《し》みてわかる様な気が致します、河馬《かば》男女《みなの》川《がは》の無方針無分別誠に残念に不堪候《たへずさうらふ》 二階の無知無気力亦《また》何をか云はんやです」(昭和十八年八月二十六日付)
「男女川は思惟《しい》能力を失ひたるに非《あら》ずやと思はれ候 河馬亦空中浮遊の情態衷心深憂に不堪《たへざる》もの有之《これあり》候 ずべ氏亦御《ご》覧之通《らんのとほり》、(中略)只々《ただただ》身命を抛《なげう》つて聖明に応《こた》えんと存ずるの外なし
去十五年破戸漢《ごろつき》と乞《こ》食《じき》と親類関係を結びムッシュー、ル、ミニストルになつて得意顔をし或は今日鉄社長で得意顔せる小ソロの売国屋(?)は論外とするもプランスを上に戴《いただ》き右の三軒長屋入りの責任者たる鮭頭《さけあたま》氏の如き奴《やつ》がまだ居るかと思ふと妙に存じます(中略)之は内輪の事にて申上ぐべき事でないと存候も自分でグランドケレルを作つて居ながら命のある限りやるなど云ふ責任感など薬にしたくもないこんな奴原が三軒長屋入りをしたかと思ふと何とも云へぬ心地致候 近く善五郎親分のあとに行くと云ふ話しもありあとで余り大きな顔させぬ様覚へて居て下さい
本紙一寸《ちょっと》思付いてかきました 必御火中被《くだ》下度《されたく》候」(十八年十一月十日付)
「二階」は軍令部のこと、「破戸漢」と「乞食」はむろんヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリヤの意味である。「河馬」「男女川」「ずべ氏」「鮭頭氏」、それから此処《ここ》に引用しなかった手紙に「長面君《ながづらくん》」などというのも出て来るが、これらが誰《だれ》をさすかは、当時の海軍上層部の写真でも取出して眺《なが》めれば大体想像がつこう。
古賀が聯合艦隊へ赴任の挨拶《あいさつ》に、鈴木貫太郎の家を訪れたら、山本の言った通りラバウルでの寄せ書が神棚《かみだな》に上げてあった。
古賀のところにも、同じような寄せ書がついたばかりであった。「五峯録」にはこれもおさめてあって、
「南東第一線に於て級会を開き候補生当時の追憶談に花を咲かせ申候
遥《はるか》に閣下の御健祥《ごけんしゃう》を奉祈上《いのりあげたてまつり》候
第三十七期生
名誉会員 山本五十六
草鹿任一
小沢治三郎
鮫島具重
武田哲郎
柳川教茂         」
と六人の署名があり、日付は四月十三日、山本の前線巡視計画がラバウルから電報で出されたその晩になっている。
その前、山本の誕生日の四月四日、古川敏子は古賀に招かれて、横須賀へ遊びに行ったことがあった。
鎮守府の庭に椿《つばき》と桜が満開で、敏子が、
「これ、押花にして、山本さんに送って上げようかしら」
と言うと、古賀が、
「そりゃ、押花より塩《しお》漬《づ》けにして送ってやったら、山本が食うよ」
と言った。
手が震えるとか、脚にむくみが出たとかいう手紙が来ていることを敏子が話すと、古賀は知っていて、
「うん、それを理由に、山本をもう日本へ帰した方がよくはないかと思って、嶋《しま》ハンに言ったんだが、あいつはグズで、なかなか事が運ばない」
と言っていたそうである。
それから一週間後、山本と昔の「宗谷」の候補生たちからの寄せ書が届いたと思ったら、忽《たちま》ちこういうことになるとは、古賀は想像もしていなかったであろう。
山本の戦死確認の電報が海軍省に入ったのは、四月二十日で、その事実は、古賀峯一、堀悌吉をふくむ、極く少数の人にしか知らされなかった。遺族が知ったのも、もっとのちであった。
その日、榎本重治は、省内の自分の部屋で仕事をしていたら、いきなり入って来た堀悌吉が、自分の右手で左手の指を二本握り、一と言、
「これが」
とつぶやくように言った。
榎本がハッとして、
「山本さんがどうかしたんですか?」
と聞くと、堀は両眼を閉じて、のけぞるような身ぶりをして見せ、多くを語らず、部屋を出て行ってしまったという。
「必要の場合」堀が受け取ることになっていた、次官室金庫の中の袋はそれから約一カ月後の五月十八日、沢本次官から堀に渡された。袋の中には、きれいな百円札で金が千六百円、それからこの物語では第七章に書いた、山本が次官時代の「述志」が一通、昭和十六年一月の、ハワイ作戦と聯合艦隊長官更迭《こうてつ》問題に関する覚書が一通、十二月八日、開戦の日にしたためた別の「述志」が一通入っていた。開戦の日の「述志」には、
「此度《このたび》は大詔を奉じて堂々の出陣なれば生死共に超然たることは難《かた》からざるべし
ただ此戦は未曾有《みぞう》の大戦にしていろいろ曲折もあるべく名を惜み己を潔くせむの私心ありてはとても此大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり
されば
大君の御《み》楯《たて》とたたに思ふ身は
名をも命も惜しまさらなむ」
とあった。
「武士《もののふ》は名をこそ惜しめ」というのが、日本の古来からの教えであるが、「名を惜み己を潔くせむの私心ありては」と山本が言っているのは、やはり余程思いつめての、一つの覚悟であったと思われる。
「あれは、山本さんが自分に言い聞かす思いで書いたんや。最高指揮官というものは、こっちにするかあっちにするか自分で決めんならん場合がしばしばある。それは当然やけども、その時こっち採って失敗して、後世あっちやればよかったのにと言われやせんか、そんなことチラとでも思うたらいかん。自分の名を惜しむ気持がちょっとでも出たらいかん。批判はいつでも結果論で、僕らかて『そんならお前《・・》やったらやれるか?』と言いたいことがようある」
と、草鹿任一は言っている。
ただ、山本の歌にいつも難癖をつけるようだが、「惜しまさらなむ」の「なむ」は、この場合、未然形につづいていて、これを文法通り解釈すれば、「みんな、名も命も惜しまないでもらいたい」という意味になる。前段の文意から推せば、山本は自身の覚悟を歌いたかったので、「惜しまずありなむ」のつもりだったのであろう。
一方、トラックの「武蔵」の、長官私室の抽斗《ひきだし》からは、
「征戦以来幾万の忠勇無双の将兵は命をまとに奮戦し護国の神となりましぬ
ああ我何の面目かありて見《まみ》えむ大君に将《はた》又逝《ゆ》きし戦友の父兄に告げむ言葉なし
身は鉄石に非らずとも堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本男子の血を見せむ
いざまてしばし若人ら死出の名残《なごり》の一戦を華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ
昭和十七年九月末述懐 山本五十六誌」
という、一通の、遺書と見られるものが出て来た。
これを読んで、参謀たちが胸を突かれる思いのしたことはよく分るし、山本の思いもよく分りはするが、この一文にはいささか、彼が麻雀《マージャン》や将棋の時好んで口ずさんでいた壮士節のような調子があって、山本は畢竟《ひっきょう》詩人の型からは遠い人であったように感じさせられる。詩人というなら、「戦藻録《せんそうろく》」にたくさん俳句を残している宇垣纏の方がずっと詩人であろう。
長官室の中には、堀悌吉から山本宛《あて》の手紙も一通残っていた。
「今朝早く浦賀に出掛けようとしてる処《ところ》に渡辺君が急にたつことになつたと聞いて往復の列車内で此の鉛筆書きの手紙を書く
今年は寒さが続いて雨量が少い為《ため》か桜が遅れて居て莟《つぼみ》はまだ固い しかし一別以来二回目の花盛りも十日位に迫つて来た 戦時下の世相に於《おい》ては何となく淋《さび》しいことだらう、君のあの変拍子も脚《かく》気《け》のせいだそうだが早く御《ご》平《へい》癒《ゆ》を祈つてる(略)御留守宅は無事だ 建て増しも略《ほ》ぼ出来たし旧《ふる》い部分のひどい処を修繕させて置く 義正君も四《し》竈《かま》に移つて元気に勉強して居る 大に頑張《ぐわんば》つて此の頃《ごろ》の一ケ月は過去の一年に相当すると述懐して居た うちの正も義正君の変り方に敬服してるやうだ(略)古賀君は非常に淋しがつて居て遇《あ》へば誰にも話せぬ話をして腹のふくれるのを緩和して居る。
国内一般状勢はよくわからぬが、議会も無事にすんで政界も一先づ安定した処だらう、勿論《もちろん》詳しいことは知らぬ、又知らうともしない(略)
東京空襲も早や一年となつた、盛に訓練をやつて居るが、一般に時局が如何《いか》に逼迫《ひっぱく》して居るかを充分に考へてるものも少いやうだ、色々前途を想像して居るが、あまり景気の良い構図も出来ない(略)
チンドン屋も街上から影を没すれば何となく淋しいけれども、ホントに真面目《まじめ》に考へる様になつたとすれば結構だ、楽観、焦慮、悲観、自棄……と云ふ風に移つて来ては大変だ
東京湾寄港取《とり》止《や》めからやがて一年になる、そろ御忙しいことと察してる 偏《ひと》へに自愛自重を惟《こ》れ祈る
列車も品川を通つてもう新橋につく、これで筆を擱《お》く
三月三十七日悌
五十六様              」
文中の「古賀君」は古賀峯一。「チンドン屋」は大本営報道部のことであろうか。「東京湾寄港取止め云々《うんぬん》」は、前の年の六月、ミッドウェー作戦がうまく行ったら艦隊は横須賀に入る予定で、堀も山本も再会を楽しみにしていた、そのことである。それから「一別以来二回目の花盛りも十日位に迫って来た」というのは、大した意味もなく書かれた文章だろうが、まるで山本の死を暗示しているように見える。
この書簡は日付から推しても、「渡辺君が急にたつことになったと聞いて」と書いてあるのを見ても、渡辺戦務参謀が千代子の手紙といっしょに四月一日にトラックの「武蔵」へ持ち帰ったものと思われる。しかし、山本が女の手紙に夢中になって友達の分を忘れたわけではあるまいが、なぜか披《ひら》かれていなかった。それで未開封のまま、のちに遺品とともに堀に返却された。
「武蔵」は山本以下の遺骨とこれら遺品類とを乗せて、五月十七日朝十時、トラック島春《はる》島錨地《しまびょうち》を出発した。そして五月二十一日東京湾に入り、木《き》更《さら》津《づ》沖にひそかに錨《いかり》を下ろした。従兵長の近江兵曹《へいそう》が、長い海軍生活で、最もしみじみとした航海は、山本の遺骨を護《まも》ってのこの四日間であったという。
田結穣《たゆいみのる》の一人息子田結保中尉も、甲板士官として「武蔵」に乗っていた。彼はのちに重巡「筑《ちく》摩《ま》」の分隊長でレイテ海戦に戦死をとげるが、この時家へ帰って来て、
「山本さんの遺骨に将棋盤が供えてありましたよ」
と話したそうである。
ただし一般の乗員には、トラック出港時にも山本の死は未《ま》だ伏せてあった。吉村昭《よしむらあきら》の「戦艦武蔵」によると、艦内にはしかし疑惑が生じ始めていた。長官室附近の通路が通行禁止になっているのをいぶかしむ者もおり、宇垣参謀長の包帯姿を見た者、白い遺骨箱を見た者が何人もおり、長官室のあたりから線香の匂《にお》いがして来ると言う者もあった。それで有馬馨《ありまかおる》艦長が古賀の許しを得た上で、航海中に副長の加藤憲吉大佐より山本長官戦死のことが総員に発表された。
なお「戦艦武蔵」には、山本の遺骨は長官室のとなりの作戦会議室の祭壇の上に安置されていたと書いてあるが、これは古賀新長官着任の時に長官室から移されたものではないかと想像される。
遺族のもとへ海軍省から山本戦死の報《しら》せがとどけられたのは、五月十八日であった。前の日堀悌吉は親戚《しんせき》代表として大臣の嶋田繁太郎に呼ばれ、
「あした遺族のところへ使いが行くが、一つ取り乱すことの無いように」
とふくめられたという。
堀がその時、
「これは、神谷町にも言っていいんだろうネ?」
と聞くと、嶋田が、
「いいだろう」
と答えた。
五月十九日、堀は三十間堀の中村家へやって来た。
すぐ梅龍に会わせてほしいという、その憔《しょう》悴《すい》した様子が只事《ただごと》でなく、中村家の敏子が、
「堀さん、何かあったんですか? もしや山本さんが……」
「どうしたの? 山本さんが倒れたの? それとも死んだの?」
畳みかけて聞くと、
「死んだんだ。しかしこのことは私が言うまで梅龍にも決して話さないでくれ」
と、堀は言った。
千代子はちょうど夏場所八日目の大《おお》相撲《ずもう》見物に両国へ行っていて、神谷町の家を留守にしていた。帰宅してみると、堀から電話で明朝九時に訪ねて行くという伝言があったと、小女が言う。何の話だろうと思って、翌日彼女が待っていると、色青ざめた堀が入って来、
「今から申上げることがあるから、心の準備をして下さい」
と、顔を強《こわ》張《ば》らせて前置きした上で、一と言、
「山本が戦死しました」
と言った。
千代子は気が遠くなりかけたが、辛《かろ》うじて耐えた。
一般国民への大本営発表は、翌五月二十一日、「武蔵」東京湾入港当日の午後に行われた。
「聯合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり
後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に聯合艦隊の指揮を執りつつあり」
というのが、その全文であった。
同じ日、情報局から、山本に、大勲位、功一級、正三位、元帥《げんすい》の称号、国葬を賜《たま》うという発表があった。海軍側からの要望には、もう一つ「男爵《だんしゃく》」がつけ加えてあったが、それは却下されたということである。
こえて五月二十三日、木更津沖の「武蔵」では、早暁から艦内大掃除のあと、艦内の告別式が行われ、山本の遺骨は、十一時三十分、迎えに来た駆逐艦「夕雲」に移されて、随伴の「秋雲」と共に横須賀へ向った。聯合艦隊旗艦「武蔵」は、総員登舷礼式《とうげんれいしき》でこれを見送った。
骨箱は、渡辺安次が捧《ささ》げ持った。
逸見《へみ》の桟橋《さんばし》には、嗣子《しし》義正、堀悌吉らが待っていて、横須賀駅から遺骨と一緒に特別列車に乗りこんだ。
堀は列車の中で副官代理の機関参謀磯《いそ》部《べ》太郎大佐から紙包みを一つ渡された。あけてみると、遺髪といっしょに、四月三日に山本がしたためた
「大君の御楯とちかふま心は
ととめおかまし命死ぬとも」
という歌《か》箋《せん》が出て来た。
横須賀線の沿道には、特別列車の通過を伝え聞いた人々の姿がたくさん見えた。それで沿線の人目のある間は、渡辺が窓へ骨箱を持していなくてはならなかったが、列車がトンネルへ入ると、堀が、待ちかねたように、
「おい、ちょっと、こっちへ貸せ」
と言い、骨は、順々に堀と義正の胸に抱かれた。
列車は、午後二時四十三分、勅使城《じょう》英一郎侍従武官、各宮家の使、礼子未亡人ら遺族、政府、軍関係者たち二百人ばかりが待つ、東京駅四番フォーム七番線に入った。歩廊には東条も嶋田も永野も立っていた。近衛文麿もいた。遺族の列の中の次女正子は、父の遺骨の箱が列車から下りて来るのを見て、ハンカチで顔をおおった。一旦供奉《ぐぶ》員室《いんしつ》に安置され、人々の礼拝を終ってから、遺骨は海軍省先任副官柳沢大佐の先導で自動車の序列を整《ととの》え、桜田門、海軍省前を通って芝の水交社へ運ばれた。祭壇は、山本にとって思い出の深い別館日本間にしつらえてあった。
佐世保の「東郷」の女将《おかみ》鶴島《つるしま》正子は、この年、二月から三月、四月と、大病を患《わずら》ってずっと床についていて、人生今は六十年というが、もし人間の継ぎ木が出来るものなら、弱い自分のあと二十年を山本に継ぎ木して、自分は死んで山本を八十まで生かしてあげたいなどと、そんなことを病床で考えていた。しかし五月に入ると、病気は少し快《よ》くなって、二十一日の日、久しぶりに山本に手紙を書き、それをポストに入れて帰って来てから間もなく、ラジオで大本営発表を聞いたという人が、彼の戦死を知らせて来た。彼女は、すぐ上京の決心をした。
東京に着いた二十三日の晩、正子は天沼《あまぬま》の片山登の家を訪ねて、夕食の馳《ち》走《そう》になった。
片山は、前にも書いたが山本の級友で、退役の少将で、山本がいつもからかっては面白《おもしろ》がっていた古い友人である。片山の家には、山本が旗艦のデッキで、双眼鏡を胸に下げて立っている大きな写真が飾ってあった。
片山は写真に向って、
「オイ、佐世保から来たんだよ」
と、正子が商売柄《がら》都合をつけて持って来た、もう一般ではなかなか手に入りにくくなっている菓子の折を供え、
「ほら、山本が笑ってますよ」
そう言って、彼女を慰めた。
正子は、山本とは、千代子よりも古く、礼子夫人よりも古い仲であったが、一番日《ひ》蔭《かげ》の人で、水交社へも青山の家へも、忍んで詣《まい》りに行かなくてはならなかった。
水交社の祭壇には、多くの供物にまじって、立派な葉巻の箱が一箱置いてあった。それは昔、山本がロンドンで一緒に働いた当時の駐英大使、この時の宮内大臣松平恒雄《まつだいらつねお》の供えたものであった。
松平はかつて、日華事変の始まったころ、それを山本に贈ろうとして、
「事変が片づくまで禁煙していますから、しばらく預かっておいて下さい」
と言われ、何年かのちに、
「そろそろカビくさくなって来たが」
と言ってやると、また、
「もうしばらく」
と言われ、それで封を切らずに残していた葉巻であった。山本が「ケツから煙《けむ》が出るほど」煙草《たばこ》を「喫《の》んでやる」時は、とうとう来ないで終った。
佐世保の宝家《たからや》の娘で、松野重雄と結婚した杵《きね》屋《や》和千代のおはるは、このころ青山南町の、山本の家からすぐのところに住んでおり、礼子夫人が、遺骨の着いた日から水交社へ詰めっきりなので、姉の瀬尾とみと一緒に、泊りこみで留守宅の手伝いをしていた。
ある日、ちょうど堀悌吉が青山へ打合せに来ている時、陸軍の参謀総長の使いが、供物を持ってやって来た。おはるがそれを霊前に供えようとすると、堀が、
「そんなもの、上げるな。山本喜んでないぞ。絶対上げるな」
と言ったという。
鶴島正子は、とみやはるの妹分にあたり、それを頼りに青山へも詣りに出かけたが、郷里の長岡から出て来たらしい男の人に、
「もしもし、あんたは誰《だれ》ですか? 故人とどんな関係の方ですか」
と、大きな声で咎《とが》めるように聞かれ、
「いいえ、わたし、何も関係ありまッせんけど、姉がこちらで御留守番をしているもんですから、ちょっとだけ」
そう答えて、逃げるようにして帰って来た。
正子は、持っている山本の手紙をまとめて東京へ送るようにと堀に言われたが、生返事をして、佐世保へ帰るとスーツケースに鍵《かぎ》をかけて隠してしまい、それを海軍側に渡さなかった。しかしその一山の手紙は、それから二年後にアメリカのB29が全部焼いてしまった。
国葬は、戦死の発表から十五日後に予定されていた。
その前に、水交社で山本の骨分けが行われた。
骨箱をあけると、底に敷いたパパイヤの葉が、未だ緑色をしていた。そして、初夏の陽気のせいか、骨が暖かいように感じられたという。
遺骨は、多磨《たま》墓地に納める分と、長岡へ持ち帰る分と、二つに分けられた。梅龍の千代子は自分も分骨を欲しいと思っていたが、こればかりはどうにもならなかった。遺髪と、蒲《ふ》団《とん》、枕《まくら》、財布、彼女が自分の普段着の残り布で作って届けた針刺し、これだけが神谷町へ遺品として還《かえ》って来た。五月二十四日、一般の焼香が許されると、彼女はすぐ水交社へ詣りに行った。山本と個人的には何の関係も無さそうな男の人たちが、次々に焼香をしながらみんな泣いていた。
その夜、渡辺安次中佐が神谷町の彼女の家へ弔問に来た。渡辺は、
「自分一人生きて帰って来て申訳ありません。この家の敷居が何十丈にも感じられます」
と、顔も上げ得ぬ様子で、千代子はかえって彼を気の毒に思ったという。
千代子のところには、山本の恩《おん》賜《し》の時計が置いてあったが、これは堀が、
「これだけは片づけさせてもらうよ」
と言って持って行った。
それから山本の手紙類も正子のと同様、海軍省の言いつけだからと、六月一日に堀が来て、四月二日付トラックの「武蔵」からの絶筆まで全部持ち去った。
これらの手紙は海軍省の金庫に暫《しばら》くしまってあったらしいが、のちに返却されて現在は千代子の手もとにある。
国葬の前に神谷町では、古川敏子や佐野直吉や「山口」の女将の白井くにや、主に新橋関係のしたしかった連中が集まって、
「魂はこっちだ、こっちだ」
と言いながら、内輪の告別式をした。
山本は手の切れるようなきれいな札が好きであった。遺品の中の新しい百円札を、堀悌吉が一枚ずつ紙に包んで、
「山本代理 堀」
と書き、
「これは、形見と言いたいが、山本のアラの口《くち》留《ど》め料ですよ」
と言って、縁のあった女たちに渡した。
千代子のもとには、その後東条首相の使いの某中佐が、幾度かそれとなく自決を迫りに来たという。
彼女は夜になると、鴨《かも》居《い》の紐《ひも》を吊《つる》すのによさそうなところを恐る恐る眺《なが》めたり、呉へ行く時附《つき》添《そ》ってくれた医者の大井静一に薬をほしいと頼んでみたりしたが、結局死ぬことは出来なかった。
もっとも大井の話では、薬を求められたのは事実だが、自決を迫られているというようなことは一度も耳にしなかったそうである。
「私は病気を治すのが商売で、それだけは諾《き》けない。お断わりします。これはあなたの心の問題だから、心の方で解決しなさい」
と言って、大井静一は千代子をなだめた。
国葬までの十数日間、水交社の方へは、未亡人の礼子をはじめ、子供たちや縁故者たちが、交わる交わる詰めていた。
山本の四人の遺児は、父親が骨になって帰って来るまで、こんなに長く、そのそばに一緒に暮したことは無かった。この時、長男の義正は成蹊《せいけい》高等学校の理科の二年生で、長女の澄子は山脇《やまわき》高女へ、次女の正子は女子科学塾へ通っていた。末《すえ》っ児《こ》の忠夫は、青南国民学校の五年生であった。義正は、父親の部下や部下の夫人らに、
「僕《ぼく》たちは、父のことをあんまり知らないんです。どうか色んなことを話して聞かせて下さい」
と言ったという。
山本の死は、海軍の軍人たちにも、多くの一般国民にも、深い悲しみと、戦争の前途に対する不安とを与えた。
岡麓《おかふもと》、斎藤《さいとう》茂《も》吉《きち》、土《つち》屋《や》文明《ぶんめい》、川田順、佐佐木信綱、会《あい》津八《づや》一《いち》ら、大勢の歌人が悲しみの歌を詠《よ》み、高村光太郎、佐藤春夫、室《むろ》生《う》犀星《さいせい》、大《おお》木《き》惇《あつ》夫《お》、西条八《さいじょうや》十《そ》ら、多くの詩人が彼を悼《いた》む詩を作った。これらの詩《しい》歌《か》の中ではしかし、山本と長岡中学同窓の御歌所寄人《よりゅうど》外山且正が詠んだ、
「その人を語るは外にありぬべし
老いたる友はよろぼひて泣く」
というのが、最も思いのこもったもののように、私には思える。
米内光政は、海軍省から「山本長官の戦死を確認せざるを得ない」という知らせを受けた時、のちに鈴木貫太郎内閣の海軍政務次官をつとめた政友会の綾《あや》部《べ》健太郎と話をしているところであったが、
「山本の気持としては、死場所を得たつもりで、それで満足だったかも知れない。しかし、日本としても海軍としても、死なせたくない人物を殺した」
と綾部に言って、眼《め》を閉じると、涙があふれ出して来るのを拭《ぬぐ》わなかったという。
山本が戦死して、これは日本はもう駄目《だめ》なのではないかと思ったということは、彼が次官当時の副官たちをはじめ多くの海軍関係者がそう言っている。高木惣吉はこの時舞鶴《まいづる》鎮守府参謀長の職に在ったが、京都帝国大学の学者たちに会う用があって舞鶴から京都へ出て来、市内を走っている自動車の中で山本戦死のニュースを聞いた。非常なショックで、咄《とっ》嗟《さ》に、
「これでもう、いくさなどとても出来るものではない」
と思い、
「山本さんのあと聯合艦隊の指揮のとれる人は、山口(多聞)さんか小沢(治三郎)さんしかいないが、山口さんは先にミッドウェーで亡《な》くなったし、海軍の機構は今もって年功序列の金しばりで、これはもうおしまいだ」
と、はっきり思ったそうである。
田結穣は支那方面艦隊の参謀長で上海《シャンハイ》にいた。
古賀峯一のあとに、病気のなおった吉《よし》田《だ》善《ぜん》吾《ご》が支那方面艦隊司令長官に来ていたが、吉田は、
「おい、参謀長。山本はどうやらもう死ぬつもりらしいぞ。この間の手紙に妙なことを書いて来ている。どうも死ぬつもりでいるらしいよ」
と言った。それから間もなく、吉田と田結の二人は山本遭難の報を耳にした。
山本が先の見通しの早いことをよく知っていた松永啓介は、山本の死を聞いて、
「自殺ではないにしても、これは自ら死期を定められたな」
と感じたという。
近藤泰一郎は、
「死ぬ気で、――少なくとも死んでもいいという気持で出て行かれたと思いますね。陸軍で言えば敵の歩兵の鉄砲玉がポンポン飛んで来るようなところへ、わざと出て行ったんですから」
と言っている。
藤《ふじ》田《た》元成《もとしげ》は航空隊司令として千葉県の館山《たてやま》にいた。彼は山本という敬愛する人物を喪《うしな》ったこと、聯合艦隊の司令長官ともあろう者が戦死したという事実、この二つにがっくりとなり、誰にも言えないままこの時から日本はもう駄目《だめ》だと思い始めた。
「おいもさん」の深沢素彦は、海外占領地向け放送のプロデューサーとして大相撲夏場所の取材に両国へ行っていたが、其処《そこ》で山本戦死の臨時ニュースを聞き、何とも言いようのない驚きと悲しみとを覚えた。
太平洋石油の松元堅太郎は、山本国葬の日、一晩中泣いていた。
アメリカ側からすれば、山本機撃墜の効果は、日本の国民、殊《こと》に日本海軍の軍人に与えた心理的ショック、ディスカレッジメントであったと言えるであろう。
財界人の中にはこの戦争の収束を山本にやってもらおうとひそかに考えていた人も幾人かあったらしいが、それもすべて空《むな》しくなった。国葬が終ってのちの話であるが、松本賛吉が東洋経済新報に石橋湛山《いしばしたんざん》を訪ねた時、石橋は、
「惜しい人だったねえ、山本さんは」
と言い、
「会ったことはなかったが、実は僕らとしては、あの人に戦後の時局収拾をしてもらってはどうかと思っていたんだ。つまり、あれだけの大戦果を挙げた山本さんが時局の収拾にあたれば、たとい国民の間に不平不満の声があっても、『これは山本五十六大将がやることだから』というので怺《こら》えてもらうことが出来るのじゃないか、そういう考えだった。山本さんは、戦前英米派などと言われた人だけに、戦後の世論をおさめて行くというような時には却《かえ》ってよかったのではないかと思ったんだが」
と、しみじみした口調で語ったという。
山本の国葬は、昭和十八年の六月五日、九年前に東郷平八郎の葬儀が行われたのと同じ日を選んで、日比谷《ひびや》公園内の斎場で執り行われた。
葬儀委員長は米内光政、司祭長は塩沢幸一で、司祭長と喪主の義正は、冠をかぶった神式の服装をし、未亡人の礼子も袿《けい》袴《こ》の姿であった。
この朝八時五十分、山本の柩《ひつぎ》は、白布に覆《おお》われて、「武蔵」乗組の水兵たちの手で、水交社正寝の間から、玄関前の黒い砲車に移された。
内藤清五の指揮する海軍軍楽隊が、儀礼曲「命を捨てて」を奏しながら先頭に立ち、葬列は水交社の坂を下りて右折し、神谷町の千代子の家のすぐ前から、虎《とら》の門《もん》、内幸町《うちさいわいちょう》へと、ゆっくり進んで行った。沿道の特別縁故者の席に、千代子が出ているのを、新聞社の写真班が勘づいていて、カメラにおさめようとするので、周囲の者は困ったということである。
列は、海軍大臣官邸の角を折れて、日比谷の斎場へ、九時五十分に到着した。
元帥刀は、渡辺安次が持っていた。大勲位の勲章は、三和《みわ》義勇《よしたけ》が持っていた。三和は、ラバウルにいたころからのデング熱のため、東京で入院中で、痩《や》せ細っていたが、
「俺《おれ》、出るぞ」
と言って、山本の国葬に加わり、捧《ささ》げた勲章の箱を祭壇に置き了《お》えるなり、わきへ退いて倒れてしまった。
斎場は、黒白の鯨幕《くじらまく》と白木の、簡素なしつらえであったが、斎殿に供えられた、イタリヤのムッソリーニ首相からの薔薇《ばら》の花束が色を添えていた。
諸兵指揮官は土肥《どい》原賢《はらけん》二《じ》陸軍大将で、約千五百人の参列者の中には、東条総理大臣はじめ、山本があまり「喜んでない」かも知れぬ人々が、大勢まじっていた。
勅使徳大寺侍従、皇后宮御使小出事務官、皇太后宮御使西邑事務官の拝礼につづいて、各皇族の自拝、代拝があり、そのあと、眼鏡をかけた二十二歳の喪主が、藁靴《わらぐつ》をはいて玉《たま》串《ぐし》を捧げる時、軍楽隊が「命を捨てて」の最初の八小節を早く奏し、弔銃三発の一斉射《いっせいしゃ》が行われた。
午後から、数万の一般市民が参拝した。それが終って、山本の骨は、軍で多磨墓地へ送られ、東郷平八郎の墓に隣接した墓所に納められた。
分骨は、こえて六月七日、郷里の長岡へ帰った。
姉の高橋《たかはし》嘉寿子《かずこ》は、もう七十八歳で、腰が少し曲っていた。彼女は、近親の人に助けられて、国葬の四日前の六月一日、風呂《ふろ》敷《しき》二つに、甘党で大食いであった弟が好物の、手製の粽《ちまき》や、長岡名物の水饅頭《みずまんじゅう》、衣がやなどをいっぱい包んで東京へ出て来ていたが、公《おおやけ》の行事がすみ、一週間ぶりに礼子や甥姪《おいめい》たちと一緒にくに《・・》へ帰って来ると、ほっとしたように、弟の骨を抱いて、
「五十サよ、これからはわたしが、いつまでもあんたの守りをして上げるからさァね」
と言った。
長岡の山本五十六の墓は、長興寺という禅寺の境内にある。橋本禅巌がつけた、
「大義院殿誠忠長陵大《だい》居士《こじ》」
という戒名と、
「昭和十八癸未年四月 戦死於南太平洋」
という文字とが刻んである。
墓は、方二間ほどの玉垣《たまがき》の中に、養祖父山《やま》本帯刀《もとたてわき》や山本家代々の墓と一緒で、帯刀の墓は、明治戊《ぼ》辰《しん》の役のあと、長岡藩が朝敵とされていた時代に建てられた質素なものであったから、五十六の分も、それと同じに、そして、米内らの主唱で、それより一寸《いっすん》低く、五分狭く作られた。その費用は当時の金で七十円で、戦死した日本の陸海軍将官の墓石としては、最も粗末なものであろうと言われている。
これより前、六月三日の朝、東京丸の内の日本倶楽部《クラブ》では、元法相の小原直《おはらなおし》、新潟県知事の土居章平、長岡市長松田耕平、長岡互尊社の理事長だった反町栄一らが集まって、山本元帥顕彰の記念事業をおこすことを協議していた。
その一つに「長岡市に山本神社を建立《こんりゅう》すること」というのがあり、国葬がすんだあと関係者は中央各方面と折衝打合せを始めた。
乃木《のぎ》神社東郷《とうごう》神社の例もあることであり、当時の空気としては、「山本神社」の出来るのに別段不思議はなかったが、米内光政と堀悌吉の二人がこの計画に強く反対した。
井上成美は、
「どんな偉功を樹《た》てた軍人といえども、これを神格化するなどは以《もっ》ての外のこと」
と言っているが、米内と堀とは山本が同じ考えの持主であったことを誰《だれ》よりもよく知っていたのであろう。
「山本は、そんなことは大嫌《だいきら》いです。神様なんかにされたら、一番困るのは山本自身です」
と言って、米内はこの件では絶対にゆずろうとしなかった。
それで話は沙汰《さた》やみになり、神社の建つはずだった長岡玉蔵院の山本の生家址《あと》は、今、子供たちや市民のための、記念の小公園になっている。
作品後記
昭和三十八年の確か十一月ごろだったと思う、朝日の出版局で出している読み物雑誌「文芸朝日」の編集部から、「ちょっと相談があるんだが、こっち方面へ出る折があったら寄ってくれ」と電話が掛って来た。日時を決めて朝日新聞社八階のアラスカへ訪ねて行くと、編集長はじめお偉《え》ら方《がた》が数人待っていて、話は「うちの雑誌に来年、ノンフィクションの連載をしてみる気はないか」というのであった。テーマとして実は二・二六事件を考えている、事件の関係者が未《ま》だ大勢現存だし、必要な資料を集めたりその人たちに会う段取りをつけたりするのは社の方でやって上げるが――。
折角のお申出だったが、私は二つの理由を挙げて辞退した。三《み》島《しま》由紀夫《ゆきお》さんは共感をいだいているようですが、二・二六事件の青年将校たちに僕は共感も同情も持っておりません。ああいうのは嫌《きら》いです。
「それともう一つ、僕は御承知の通り戦争中海軍でした。陸軍のことは聯隊《れんたい》内での日常、飯の食い方からしてよく分らない。生活のデテイルが分らなくては駄目《だめ》でしょう。ノンフィクションといっても、海軍の、例えば山本五十六さん書けというようなお話なら又別ですが、そりゃ僕には向きませんね」
お断りしたつもりだったら、
「オ」
と、相手方が身を乗り出した。
「山本五十六。なるほど、それ面白《おもしろ》い。そんならそっちやってみるか」
私は少しうろたえた。
「そっちやってみるかと仰有《おっしゃ》っても」
これは一つの例え話です、海軍のことなら生活のデテイルが多少分っているというだけで、山本五十六について何も知りませんし、書いてみたいと思ったこともありません。――言い訳をしたが、お偉ら方たちは、いや、それ面白そうだ、
「カッちゃん呼べ」
と言い出した。
呼ばれて上って来たのは、小金沢克誠さんという、海軍に関しておそろしく詳しい記者(編集部員)であった。一般の人が知らないような海軍士官の名前でも、
「ああ、石川信吾ね、兵学校四十二期」
とよく知っている。
「この人を担当にして上げるから、それは君、是非やってみ給《たま》え」
言われてその日のうちに承知したかどうか、多分確答を避けたと記憶するが、間もなく「文芸朝日」のスタッフが替り、私にとって東大国文科の先輩にあたる井沢淳さんが編集次長になった。新聞記者としてより映画評論の方で知られた人で、酒と映画が大好き、よく昼間から酒気を帯びており、かねて「おいコラ」と、会えば私に先輩風を吹かせていた。仕事のつながりが生じたので余計威張り出し、
「オイお前、ちゃんとやれよ。やれちゅうたらやるんだ。しっかりやらんと承知せんぞ。その代り、俺《おれ》がデスクに坐《すわ》ってて一切の面倒みてやる」
こうして、二・二六という瓢箪《ひょうたん》から駒《こま》が出たかたちで私は五十六伝連載の準備を始めることになった。
何処《どこ》へ行って誰《だれ》の話を聞くかは、次から次へ、ほとんど海軍通の小金沢克誠さんのお膳《ぜん》立《だ》てにしたがった。最初の取材旅行が三月二日(昭和三十九年)、山本の郷里の長岡《ながおか》行きで、反町《そりまち》栄一さんと、悠久山《ゆうきゅうざん》堅正寺の橋本禅巌老師、山本の古い友人遠山運平氏の三人にお眼《め》にかかった。
反町氏の著書「人間山本五十六」上下二巻は、元帥《げんすい》の生い立ちから終焉《しゅうえん》まで詳細を極めた貴重な実録であって、長岡へ出かける前、繰返し熟読しておいた。ただ、私流の難を言えば、この本には郷党の崇拝家らしいひいきのひき倒し、あばたもえくぼ、山本さんのやったことなら皆尊いといったところがある。反町さんにとって、山本元帥は今も神様らしかった。山本五十六は銅像肖像画の類《たぐい》を嫌《きら》い、軍人の神格化を嫌ったと聞いているが、反町氏の主宰する互尊社の庭には、小さな山本神社が祀《まつ》ってあった。
長時間、熱のこもった話を聞かせてもらい、山本の好物だった長岡名物水饅頭《みずまんじゅう》も御馳《ごち》走《そう》になり、市内あちこち由縁《ゆかり》の場所を見せてもらってありがたかったけれども、この厚意には報いられないかも知れない、私の書くものは反町さんを満足させないだろうなという気がした。
もっとも、山本五十六は軍人の銅像や神社を嫌ったと同じように、自分の生涯《しょうがい》を伝記や物語にされるのも嫌いだったらしい。この時から十数年後、私は高田利種氏(元軍務局次長、少将)に、
「昔、ある男が山本五十六伝を書いたといって、海軍省へ原稿持ちこんで来た。山本さんは、俺のことなんか書かれるの絶対にいやだと言っていたから、我々で手を廻《まわ》して、これは本にさせなかったんだが、その、山本さんの一番いやがってたことをやってのけたのが阿《あ》川弘之《がわひろゆき》という男だ」
と睨《にら》みつけられたことがある。
実際にはしかし、戦中戦後、反町栄一氏の著作をはじめとして、ずいぶんな数の山本伝が世に出ている。書く以上、誰に睨まれようとも、それらと少しは趣を異にしたものを書いてみたかった。
旧海軍の関係者にも色んなタイプがあって、「山本さんに女がいたのも、バクチが大好きだったのも周知の事柄《ことがら》で、船乗りに女遊びはつきものです。構うもんですか。そんなことで山本五十六の値打ちは下りも上りもしませんよ」と、ざっくばらんな話を聞かせてくれる人もいた。新橋芸《げい》妓《ぎ》の梅龍が山本晩年の愛人だったのはすでに公《おおやけ》にされている事実で、その分だけ夫婦仲がつめたかったのもどうやら事実のようである。暴露的に扱うつもりはないけれども、そのへんの機微も書きたい。しかし、書けば遺族の人たちは当然不愉快を感じられるだろう。本来なら、最初に未亡人や嗣子《しし》に会って御《ご》挨拶《あいさつ》をし協力を求めるべきなのだが、その点で執筆上の制肘《せいちゅう》を受けることを恐れて、遺族への接触は避けた。
小金沢氏の手びきで話を聞いた七十人近い人々の中で最も印象深かったのは、最後の海軍大将井上成美さんであった。横須賀長井の隠栖先《いんせいさき》を訪ねて行った。井上提督のことは、この作品の中でも他の場所でも度々書いているので繰返さないが、海軍のよき伝統を愛惜し、志を同じゅうする先輩として山本を敬愛しながら、よかったところはよかったとし、悪かったところは悪かったとして、峻厳《しゅんげん》過ぎるくらいはっきりした所信を述べられた。
「近《この》衛《え》に向って、是非やれと言われるなら一年や一年半は思う存分暴れてごらんに入れるなどと、あんなことを言ったのは、山本さんの黒星です。海軍はアメリカと戦争出来ません、やれば必ず負けます――、分り切ったことなんだから、何故《なぜ》そう言い切らなかったか。山本さんのために惜しみます」
と言い、
「如何《いか》に偉功を樹《た》てた軍人といえども、これを神様にするなど以《もっ》ての外のことです」
とも言われた。
それともう一人、第八章の終りに名前を出した鶴島正子さん、ほんの一部の人だけが「山本五十六の初恋人」として知っていた女性である。新橋の梅龍より古いそういう人がいることは前々から耳にしていたが、名前も住所も分らなかった。ようやく探りあてて、九州の諫早《いさはや》へ訪ねると、老いた正子さんは、バス通りに面した茅屋《ぼうおく》の、ガタピシするガラス扉《ど》をあけたすぐの畳敷きの上に、胃を病んで寝ていた。
わたし山本さんのことは話したくありません、お眼にかからないでおきたいと言うのを、取りなしてくれる人があって、ともかく枕元《まくらもと》に坐《すわ》らせてもらった。どうしてわたしの境遇を知ったのですかと不思議がられたが、そのうちそう無《む》闇《やみ》なことも書かないだろうと信用してくれたらしく、少しずつ口がほころび、やがて立ち入った話になって来て、山本と最初の出逢《であ》いから、長い詳しい物語を語り了《お》えた時、正子さんは、
「わたしこれで、二十三年間の胸のつかえが下りたような気がします」
と言って泣き出した。
「もうすぐ山本さんの命日ですから、あなた東京へ帰られたら、多磨墓地のお墓へ行って、佐世保《させぼ》の小太《こた》郎《ろう》(若いころの芸名)が、こうして落ちぶれて暮してますと告げて上げて下さい」
と頼まれた。
その役は果したけれども、彼女はそれから数年して亡《な》くなった。鶴島正子さんにかぎらず、どの一人にも皆会っておいてよかったと思っている。井上成美大将や聯合《れんごう》艦隊の幕僚から花柳界《かりゅうかい》の女性まで、話を聞かせてくれた人のうちおよそ二十人がもう故人である。
「文芸朝日」連載中(昭和三十九年十月〜昭和四十年九月)の題名は、「史伝山本五十六」であった。取材の途中から、私はこの仕事が面白くなった。調べれば調べるほど、軍神とも聖将ともウォーモンガーともちがう山本五十六のイメージがはっきりして来た。真珠湾攻撃の立役者として世界に名高い提督だが、志操は米《よ》内《ない》さんや井上さんと全く同じ、ある意味で一番ハワイへ行きたくなかったのは山本さんだったろうと思って、書きながら涙ぐむこともあった。大分長いものになりそうで、
「新聞社の文芸雑誌は、ちょっと成績が悪いとすぐ廃刊にする癖があるけど、大丈夫でしょうね」
井沢先輩に念を押したら、
「大丈夫。お前が連載やっとる間、やめたりせんから安心して書け」
と保証してくれたが、困ったことに、やがて私の心配があたってしまった。四分の三ほど進んだところで、井沢さんに「あと二カ月で廃刊に決った」と、具合悪そうに告げられ、不平を言っても仕方がないから、紙面をあけてもらって、しゃにむに二百枚ばかり書き上げ、八月号と九月終刊号に掲載して何とか完結させた。
史伝《・・》を取り「山本五十六」の題で、その年(昭和四十年)の末、新潮社より単行本として刊行したが、そういう次第で、私にはもう少し書きたいこと、調べてみたいことが残っていた。いい機会があれば、全面的に書き直しをして新版を出したかった。
文学的な評価を別にしても、世評はまちまちであった。反町栄一氏が「あれは実にけしからん男だ、けしからんことが書いてある」と憤慨しているという噂《うわさ》も聞えて来たし、某中将某々中将らの、「たいへん公正な見方がしてある、山本さんは全くあの通りの人だった」という便りや言づてももらった。
半ばは新版の準備、半ば野次《やじ》馬《うま》根性から、翌年の秋私は山本長官戦死の地、ブーゲンビル島のブインへ旅に出た。あんまり楽な海外旅行ではなかったけれど、幸い密林の中に山本機の残骸《ざんがい》を見つけ出し、飛行機の破片を記念に、ラバウルやガダルカナルの古戦場も見て帰って来ることが出来た。翌四十三年の春には英国へ行って、ロンドンにおける山本五十六の足跡をたずねた。ソロモン群島の山や川も、ロンドンのホテルの部屋、旧海軍省の建物(オールド・アドミラルティ)、ダウニング街十番の首相官邸内部も、この眼で見ればやはり、そうか成程と納得することが多かった。
たまたま此の時期、国の内外で山本元帥に関連のある新しい資料が次々世に出始めた。私の本が機縁になったのもあるが、それと全く無関係のものも多い。第二次世界大戦がようやく歴史の段階に入って、その経過と意味とを恩怨《おんえん》を越えた立場からあらためて見直そうという気運が生じていたように思われる。海外で出たものとしては、暗号問題を扱ったデーヴィッド・カーンの大著「The Codebreakers」、アメリカの空軍中佐元山本機邀撃《ようげき》隊員ベスビイ・ホームズの小論「Who Really Shot Down Yamamoto?」、作家ウォルター・ロードのミッドウェー戦記「Incredible Victory」、いずれも一九六七年(昭和四十二年)に活字になった。
国内では、海軍の法律顧問で山本の友人だった榎本重治《えのもとしげはる》教授に提供を受けた「五《ご》峯録《ほうろく》」と、ブインの根拠地隊軍医長元海軍軍医少佐田淵義三郎氏所持の「死体検案書」「死体検案記録」がもっとも大きい。また、梅龍の河合千代子さんに会う機会を得て、山本長官の書簡の実物をたくさん見せてもらい、思い出話を色々聞かせてもらった。書簡の中には、新版の時にも公表をはばからざるを得ないものがあった。
多くの人の好意で取材のノートはさらにふくらんだけれど、一方この作品をめぐって二つの刑事訴訟問題が起った。一つは淵《ふち》田美津《だみつ》雄《お》・奥宮正武共著の「ミッドウェー」から八十八カ所の無断引用があるとして、奥宮正武中佐に訴えられた。起訴され有罪の判決が下れば私は刑法上の罪人になるわけで、逐一調べてみると、こちらにも不備不手《ふて》際《ぎわ》があるが、奥宮氏の方にも誤解と独断があるように思えた。淵田美津雄氏に取材して引用の許可を得たと信じ、共著者の奥宮氏に何ら連絡せず、後記も添えなかったのは私の手落ちである。しかし、例えば二式飛行艇の形態や性能について記したようなことまで「ミッドウェー」の盗用だと言われては心外であった。私は台湾の東港航空隊という二式大艇の基地で半年暮したので、人の本を読まなくても此《こ》の飛行艇のことはよく知っていた。八十八カ所の無断引用というようなものではないはずですと、取材ノートや所持の文献類一切を検事に提出した。それ以上の経緯は書くにも及ぶまいし、書けば長くなる。結果だけ言えば和解が成立した。
今一つは、遺族に対する名誉毀《き》損《そん》の故《ゆえ》を以て山本未亡人に告訴された。何度も検事局に呼び出され、担当検事から「検事というのは和解をすすめる立場じゃないんだが、何とか和解したらどうですか」と言われ、その気が無いでもなかったけれど、条件がなかなかむつかしく、主張すべきところはこちらも主張し、ずいぶん長い間かかって、最終的には不起訴処分というかたちで落着した。
係争の途中、山本家の側で、遺族だけでなく故元帥の名誉を毀損した(法律上の解釈は私には分らない)と言っておられる、私のソロモン旅行を売名のためだと言っておられると聞かされたのは、山本さんに我流の愛情をいだいている自分として悲しかった。
ソロモン群島とロンドンでの見聞、新しく入手した資料をもとに、不備な点をあらため、遺族の主張も考慮しながら私は書き直しにかかった。一年費して約三百枚を加筆し、「新版山本五十六」の題名で昭和四十四年十一月、同じく新潮社から出版した。
本書に収めたのは、むろん新版が原型である。しかし、てにをはの直しを別にしても、文庫とか作品集とか版を改める度、加筆訂正の必要が起ってそっくりそのままではなくなって来る。
今回も、原稿を印刷所へ入れる直前、話したいことがあると、所沢に住む市川一郎さんという人の来訪を受けた。市川氏は山本長官機遭難当時ブインの近くに野営していた陸軍の聯隊砲中隊の中隊長で、氏の証言と従来山本機の第一発見者として知られている小隊長浜砂盈栄《はますなみつよし》氏の証言とは食いちがう部分がある。そのことを新たに書き足した。ほかにも、山本の国葬場面で、「小金井の多磨《たま》墓地」と書いているのを、丹念な校正担当者が気づいて、多磨霊園は小金井府中の両市にまたがっており、東郷山本両元帥の墓所があるあたりは府中市に属しますと注意してもらったような例を挙げ出したらきりが無い。作者としてあまり自慢出来ることではないし、古い版を求められた読者には相済まぬ次第だが、こういうものは結局、死ぬまで手を加えていなくてはならないのではないかと思う。
山本機撃墜のアメリカ側殊勲者(と伝えられる)トーマス・ランフィヤー氏は、新版刊行から数年後に、日本へやって来た。滞在中の東京のホテルを、溝《みぞ》田《た》主一氏と二人で訪ねた。
私は「Who Really Shot Down Yamamoto?」の内容が頭にあって、かなり突っこんだ質問をした。ランフィヤー氏は、
「君はあの時あの場所にいたのか。自分はいたんだ」
と言って怒り出した。しかし、怒ったからといって彼が嘘《うそ》を言っているという証拠にはならない。会ったあとも、彼に関する記述(第十四章の二)はそのままにしてある。
戦史には謎《なぞ》の部分がたくさんあって、時の経過と共にそれが解けて来る場合と一層深い謎になって行く場合とがあるらしい。
威張って書かせた井沢淳先輩は、去年亡くなった。二・二六事件を引き受けたくない言い訳に、ふと山本五十六の名を口にし、井沢さんたちから「何が何でもそれやれ」と言われなかったら、私は五十六伝を決して書かなかっただろう。未だ未だ不充分な点があるけれども、今ではこれを書き残せたことをありがたく思っている。
昭和五十二年十二月
阿川弘之
参考引用文献
資料談話提供者(アイウエオ順・敬称略)
愛甲文雄
秋岡純
浅川正治
浅沼信一郎
網野菊
飯沢匡
五十嵐竹雄
池島信平
石川信吾
石黒光三
伊藤春樹
井上成美
岩村静栄
薄井恭一
宇野 博
英国海軍省
英国首相官邸
榎本重治
近江兵治郎
大井静一
岡崎宏陽
小熊信一郎
小田切政徳
鹿江隆
草鹿任一
草鹿龍之介
Claridges(London)
Grosvenor House(London)
桑原虎雄
Alvin D. Coox
河本広中
小金沢克誠
後藤千代子
小柳信子
近藤泰一郎
近藤為次郎
在ブイン濠州政庁支所
坂野常善
笹川良一
里見 `
実松 譲
志賀直哉
品川主計
白川二三男
新川正美
杉本 健
反町栄一
高木惣吉
高野 務
高橋義雄
武井大助
竹田正夫
館野守男
田淵義三郎
田結 穣
團伊玖磨
千早正隆
角田求士
角田 順
角田秀雄
鶴島正子
寺田甚吉
遠山運平
富永謙吾
富岡定俊
内藤清五
中村 止
梛野 厳
丹羽みち
在ロンドン日本国大使館(1967)
野上素一
橋本禅巌
橋本 亘
秦郁彦
浜砂盈栄
林  浩
原田千里
Joseph Pita及びブイン、ココポ部落青年団一同
深沢素彦
福井静夫
福原公明
藤田士郎
藤田元成
藤平 卓
淵田美津雄
古川敏子
法華津孝太
堀内敬三
本多伊吉
Francis Paubake
松永敬介
松野重雄
松野はる
松村 緑
松元堅太郎
松本賛吉
松山茂雄
三国一朗
水城 肇
溝田主一
三和永枝
目賀田綱美
森村 勇
安岡正篤
山口孝子
山本親雄
横川 晃
吉井道教
吉岡忠一
吉田 清
吉田俊雄
Walter Lord  渡辺 勝
渡辺安次
ほかに氏名を公表しない約束のもとに資料談話の提供を受けた方数氏
参考引用文献(アイウエオ順)
朝日新聞縮刷版(自昭和十二年至十八年)
愛甲文雄著「魚雷と陶器」
市来崎慶一編「噫山本元帥」
今村均著「戦い終る」
伊藤正徳著「連合艦隊の最後」「連合艦隊の栄光」
岩田豊雄著「海軍」
井上成美私稿「思い出の記」
宇垣纏著「戦藻録」
Roberta Wohlstetter "Pearl Harbor:Warning and Decision"
大前敏一著「十二月七日の米秘密情報」(中央公論社版「実録太平洋戦争」第七巻)
緒方竹虎著「一軍人の生涯」
小沢提督伝刊行会編「提督小沢治三郎伝」
岡田大将記録編纂会編「岡田啓介」
酣燈社版「日本軍用機の全貌」
David Karn "The Codebreakers"
同日本語版秦郁彦・関野英夫共訳「暗号戦争」
梶山季之著「甘い廃坑」
海軍兵学校編「故山本元帥国葬ニ際シ校長講話」
木戸幸一著「木戸幸一日記」
木場浩介編「野村吉三郎」
来栖三郎著「日米外交秘話」(「実録太平洋戦争」第七巻)
草鹿龍之介著「聯合艦隊」
Col. C. V. Glines "Doolittle Raid"
源田実著「海軍航空隊始末記」「開戦秘話」「真珠湾奇襲までの秘十カ月」
小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」「必然と偶然」
酒巻和男著「特殊潜航艇発進す」(「実録太平洋戦争」第一巻)
相良辰雄著「山本長官戦死」(「実録太平洋戦争」第二巻)
里見`著「いろをとこ」
実松譲著「米内光政」「その日のワシントン」
実松譲編「現代史資料・太平洋戦争」
参謀本部編「杉山メモ」(原書房版「明治百年史叢書」)
坂野常善著「第二特務艦隊遠征記」
ロバート・A・シオボールド著中野五郎訳「真珠湾の審判」
塩田広重著「執刀六十年」
志賀直哉著「鈴木貫太郎」
「週刊朝日」昭和二十九年四月十八日号
須藤朔著「戦艦レパルスの最期」(「実録太平洋戦争」第一巻)
反町栄一著「人間山本五十六」
田中常治著「ジャワ海の決戦」(「実録太平洋戦争」第一巻)
田山花袋著「日露戦争実記」
武井大助著「山本元帥遺詠解説」
高城肇著「六機の護衛戦闘機」
高木惣吉著「太平洋海戦史」「聯合艦隊始末記」「山本五十六と米内光政」「私観太平洋戦争」
谷村豊太郎著「山本五十六閑話」
千早正隆著「呪われた阿波丸」
辻政信著「ガダルカナル」
角田順著「日本海軍三代の歴史」
富岡定俊著「大海令」(「実録太平洋戦争」第一巻)「開戦と終戦」
戸川幸夫著「悲しき太平洋」
富永謙吾著「大本営発表・海軍編」
夏目漱石著「野分」
中村菊男編「昭和海軍秘史」
中山正男著「花をたむけてねんごろに」
永井荷風著「断腸亭日乗」
日本国際政治学会編「太平洋戦争への道」
C・W・ニミッツ・E・B・ポッター共著実松譲・富永謙吾共訳「ニミッツの太平洋海戦史」
丹羽文雄著「海戦」
野沢正編「日本航空機総集」第一巻三菱編
原田熊雄述「西園寺公と政局」
林健太郎著「二つの大戦の谷間」(文藝春秋社版「大世界史」第二十二巻)
秦郁彦著「ミッドウェーの索敵機」
広瀬彦太編「堀悌吉君追悼録」「山本元帥前線よりの書簡」
淵田美津雄著「真珠湾上空六時間」(「実録太平洋戦争」第一巻)
淵田美津雄・奥宮正武共著「ミッドウェー」
福留繁著「開戦前夜の海軍作戦室」(「実録太平洋戦争」第七巻)「海軍の反省」
福井静夫著「日本の軍艦」
「文摯春秋」昭和九年十月号「一頁人物評論」
ゴードン・W・プランゲ著「トラトラトラ」
堀悌吉編「五峯録」
本庄繁著「天皇と二・二六事件」(集英社版「昭和戦争文学全集」別巻)
Lt. Col. Besby F. Holmes "Who Really Shot Down Yamamoto?"
防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書・ハワイ作戦」
法華津孝太著「山本五十六の想い出」
本多伊吉私稿「山本元帥と私」
増田正吾著「機動艦隊針路九十七度」(「実録太平洋戦争」第一巻)
松島慶三著「太平洋の巨鷲 山本五十六」
松平恒雄氏追憶会編「松平恒雄追想録」
松本鳴弦楼私稿「山本五十六夜話」
三代一就著「MI作戦論争」(「実録太平洋戦争」第二巻)
三和義勇著「山本元帥の想ひ出」
武者小路公共著「スフィンクス」
森拾三著「真珠湾雷撃行」(「実録太平洋戦争」第一巻)
サミュエル・E・モリソン著中野五郎訳「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史」
ハーバート・オー・ヤードリ著大阪毎日新聞社訳「ブラック・チェンバ」
山本義正著「父・山本五十六への訣別」
吉田俊雄著「実録太平洋戦争解説」「連合艦隊」
吉川猛夫著「真珠湾の日本間諜」(「実録太平洋戦争」第七巻)
吉村昭著「戦艦武蔵」
吉田嘉七著「ガダルカナル戦詩集」
吉松吉彦著「『い』号作戦と山本連合艦隊司令長官の戦死」
トーマス・ランフィヤー二世著「私は山本五十六を撃墜した」
歴史学研究会編「太平洋戦争史」
Walter Load "Incredible Victory"
同 日本語版実松譲訳「逆転」
渡辺幾治郎著「史伝山本元帥」
解説
村松 剛
戦争という巨大な劇は、その栄光と悲惨とのなかからさまざまな英雄《ヒーロー》を生み出す。
第二次世界大戦も、参戦国の双方に数々の英雄《ヒーロー》を生んだ。しかし日本についていえば、山本五十六ほどその名にふさわしい存在は、ほかになかったのではないか。
イギリスのBBCテレビが「大戦略《グランド・ストラテジー》」と題して、第二次世界大戦の実録を軍人や政治学者の解説つきで連続放映したことがある。評判の高かった番組で、ぼくはそのいくつかをたまたま見たのだが、そのなかに山本五十六の戦死と国葬の場面が出て来た。白い第二種軍装の山本五十六が、次々に飛び立って行く零戦に帽子を振る例のおなじみの画面があらわれ、それから国葬の葬列である。
「真珠湾攻撃の立案者《アーキテクト》であるこの提督の死に、日本の国民は悲嘆に沈んだ」
解説にあたった大学教授がそういっていたが、このことばに誇張はないであろう。日本人がうけた衝撃は、じっさい大きかった。
ぼくの手《て》許《もと》に、当時改造社から出ていた雑誌『文芸』がある。昭和十八年の雑誌は物資窮乏のために六十四ページ程度の薄っぺらなものだが、その七月号が、「山本元帥《げんすい》の英霊に捧《ささ》ぐ」特集号である。高村光太郎、野《の》口米《ぐちよね》次《じ》郎《ろう》、滝井孝作、土《つち》屋《や》文明《ぶんめい》が詩と歌とを寄せ、藤田徳太郎、丹羽《にわ》文《ふみ》雄《お》、火野《ひの》葦平《あしへい》が追悼《ついとう》の文を書いている。
彼は独り艦首に立つて、
天上の虹《にじ》を眺《なが》めた。
ああ、大洋の茫漠《ぼうばく》を呼吸し、
波《は》涛《とう》の起伏に心を清めた人、
彼は人生の律動に無限を読んだ。
彼は今白木の箱となつて帰つた……
整歩の儀仗兵《ぎじょうへい》、
『命を捨てて』の軍楽、
頭を垂れた眷族《けんぞく》友人、
粛々として彼を祭舎に送つた。
ああ、この時私は一羽の霊鳥、
天空高く南へ翔《か》けるのを見た、
…………
(野口米次郎、『国葬頌《こくそうしょう》』)
いっしょに掲載されている高村光太郎の詩も、『われらの死生』という題で、かなり調子の高いものである。こういう詩にあらわれている当時の雰《ふん》囲気《いき》は、若い世代の読者にはもう想像がしにくくなっているのかもしれない。筆者はそのころ中学生だったが、野口米次郎の詩にいう「命を捨ててますらをの……」の国葬の奏楽は、いまも生々しく耳に残っている。
山本五十六は日独同盟に反対し日米開戦に反対し、そのためにいつの時代にもいる気ちがいのような連中につけ狙《ねら》われ、ひとたび戦争がはじまってからは義務に殉じて死んだ。その進退の鮮やかさがいまも惜しまれ、海外にも多くのファンをもつゆえんだろう。しかしそういうことは、当時海外ではもちろん日本でも殆《ほとん》ど知られていなかった。
それでも山本元帥戦死の報がもたらした衝撃は、軍がときおり宣伝用につくり上げた「軍神」たちの場合とは、まったく異質だったように思う。一軍の総指揮官が戦場で命を落すということは、明治いらいなかったことである。
国民はこの提督の死に、自分たちの運命の予兆をひそかに感じていたのかもしれない。アッツ島守備隊の玉砕が報じられたのは、そのわずか一週間まえだった。
阿川弘之の『山本五十六』は、その提督の姿をえがいた名作であり、伝記文学として一級の作品である。
日本には、良質の伝記文学が少ない(功成り名遂《と》げた政治家や実業家が、側近に書かせた何々伝の類《たぐい》はしばしば目に触れるけれど、そういうのは論外だろう)。イギリスでは「伝記叢書《そうしょ》」といったものが出ていて、各種のすぐれた伝記を蒐《あつ》めている。その伝統が、日本にはないといっていいのである。世俗のことにかかわりたくないという隠者的身がまえが、日本の文学者には古くからあり、そのことがこの領域を貧困にして来た一因かと思われる。
阿川弘之の『山本五十六』は、はじめ朝日新聞社刊行の月刊誌『文芸朝日』に、昭和三十九年の秋から一年間連載された。それに手を加えて昭和四十年十一月に、本書のオリジナルである旧版の『山本五十六』が、新潮社から出ている。
執筆に当って、小説を書くという意識はまったくなかったと、著者が述懐するのをきいたことがある。つまりノン・フィクション、伝記、ということになるわけだが、しかしこの作品はいわゆる意味での軍人の伝記とは、その視点をまったく異《こと》にしているだろう。
戦争という叙事詩の英雄《ヒーロー》をえがくのに、著者はおよそ英雄《ヒーロー》らしからぬ側面に目を注ぐ。この伝記作品から浮んでくるのは、何よりもまず、「海軍やめたら、モナコへ行ってばくち打ちになるんだ」といったり、連合艦隊旗艦の司令長官室で芸者に恋文を書いたりする、おそろしく人間的な士官の姿である。
時代の新兵器を戦略にいちはやく採りいれ、これを機敏に活用した人びとが、史上名将といわれてきた人物だった。アレクサンダー大王のむかしから、ナポレオン、グーデリアンまで、例外はたぶんない。山本五十六も、航空母艦中心の機動戦略を最初に立案、実行したひととして、その系列にはいる。
しかし阿川氏が本書のなかで触れているように、海軍のなかにも山本五十六に批判的な人びとは少なくなかったし、いまもいないわけではない。ハワイ空襲の南《な》雲《ぐも》機動部隊の参謀長で、本書にもしばしば登場する草《くさ》鹿《か》龍之《りゅうの》介《すけ》氏は、生前おだやかな口調でだが山本型戦略への懐疑を表明していた。砲術の権威で「大和《やまと》」の初代砲術長を務めた黛《まゆずみ》治夫氏は、近著『海軍砲戦史談』のなかで、大艦巨砲主義の立場から山本元帥を批判している。
こういう戦略的争点を中心に、ないしは政治的視野から、ひとりの武将の像を組みあげてゆくみちも、むろん伝記作者としてはあり得たはずである。阿川氏の本書にも、その面が書かれていないわけではない。だがそれが一編の主軸とはいえないのであって、印象に鮮やかに残るのはむしろ芸者をおぶって駆け出したり、佐世保《させぼ》の町をチャップリンの真似《まね》をして歩いたりする茶目っ気の多い人間像の方である。
英雄《ヒーロー》をえがくのに、反英雄《アンチ・ヒーロー》的な叙述方法をもってしたことになる。そのことは「聖将」の人間像を明らかにふくらみのある、豊かなものにしたが、一方で関係者から不満の声の出ることは避けられなかった。ことに元帥の遺族からは抗議が出て、訴訟問題にまで発展した。
元帥の長子山本義正氏が、『山本五十六』(旧編)の出たあと『父・山本五十六』を刊行した背景には、元帥の像を修正したいという意図があったのだろうし、さらに忖度《そんたく》を逞《たくま》しくすれば、阿川・山本像の刺激が働いていたと思われる。ついでながら山本義正氏の『父・山本五十六』は、子息の目から見た記録として立派な文章である。
遺族からの抗議やそのほかの事情から、著者は旧編を絶版とし、新資料による約三百枚の補筆を加えて、昭和四十四年に『新版・山本五十六』を上梓《じょうし》した。それが本書である。三百枚は近ごろの出版界の常識では、ほぼ一冊の単行本の量にあたる。
この補筆によって、山本五十六の像は疑いもなく精密度と重量感を加えた。しかし一面で遺族への配慮などから、旧編の輪郭の鮮やかさがやや薄れたように感じられるのだが、これはどうだろうか。
巻末の表によると、資料談話提供者は、百人をこえている。百人以上の関係者に会ってはなしをきいた、ということである。参考引用文献は、百点以上にのぼる。
氏はまたこの間に、山本五十六の遭難機の残骸《ざんがい》をさがして、ブーゲンビル島の密林の奥深くまで行っているのである。山本五十六の搭乗機《とうじょうき》を見たのは、戦後では阿川弘之が日本人として最初だろう。
山本五十六の死にさいして、多数の詩人、歌人が哀悼《あいとう》のうたをつくった。「これらの詩《しい》歌《か》の中ではしかし、山本と長岡中学同窓の御歌所寄人《よりゅうど》外山且正が詠《よ》んだ、
『その人を語るは外にありぬべし
老いたる友はよろぼひて泣く』
というのが、最も思いのこもったもののように、私には思える」
著者は本書のおわりの方で、抑制のきいた文章でそう書いているが、この一文のもつ意味は重要である。元帥を声高に語ってきた人びとは多く、これからもそうだろう。しかし自分は、人間的な目をしか信じない。氏はこの歌に託して、そういっているように見える。
どのような英雄も、私生活の奥まで立ちいって見れば、所詮《しょせん》はただの男にすぎない。人間山本五十六をみつめようとする氏の方法は、すでに述べてきたように本来なら英雄像破壊の方に向いている。その反英雄《アンチ・ヒーロー》的な方法をもって、氏は英雄《ヒーロー》の像をえがいた。逆説的作業を可能にしたのは、全編をつらぬく深い愛情である。
阿川の『山本五十六』は、あれは阿川五十六だよと、三島由紀夫が冗談半分にいっていたのが思い出される。「あいつ、自分のことを書いているんだ……」自由主義者で泥臭《どろくさ》いことが嫌《きら》いで、博奕《ばくち》がむやみに好きな提督像に、著者自身の姿の投影を見出《みい》だすことは、たしかに容易である。そしてまさにそのことが、この作品を単なる伝記以上のものにしている。
阿川弘之は、戦争で死んだ人びとへの多くの鎮魂歌を書いてきた。長編『雲の墓標』は特攻隊員の手記の形をとった物語で、その末尾に著者は「展墓」と題する次のような詩を付している。
われ この日
真南風《まはえ》吹くこの岬山《さきやま》に上り来れり
あわれ はや
かえることなき
汝《なんじ》の墓に 額《ぬか》づくべく
……(中略)……
嗚呼《ああ》 そのいしぶみ
そのいしぶみによみがえる
かなしき日々はへなりたる哉《かな》
その日々の盃《さかずき》あげて語りたる
よきこと また崇《とうと》きこと
真南風吹き
海より吹き
わがたつ下に草はみだれ
その草の上に心みだれ
すべもなく 汝《な》が名は呼びつ 海に向いて
この詩には、作者の全文学のモティーフが示されているように思う。戦争中の阿川弘之は、予備学生出身の海軍士官だった。氏の最初の長編『春の城』も、近作『暗い波《は》濤《とう》』も、その青春の歌であると同時に、「いしぶみ」に刻んだ鎮魂歌である。そして『山本五十六』もまた、「いしぶみ」によみがえる日々と、「よきこと、また崇きこと」を、海に向って語った書であろう。
開戦に最後まで反対だったこの提督への鎮魂の歌を通じて、作者は自分の青春の情熱の原型とでもいうべきものを、語ろうとしているのである。過ぎ去って二度とはかえらない一つの時代への哀悼を、「いしぶみ」は切々と訴えかけている。
(昭和四十七年十二月、文芸評論家)