TITLE : アメリカが嫌いですか
アメリカが嫌いですか   阿川 尚之
アメリカが嫌いですか・目次
アメリカとの出合い
カンザス・シティーの摩天楼
もろ人こぞりて
我が友ベーコン
ハワイの雪景色
霧のサンフランシスコ
バーナゲートの海岸にて
ルームメート求む
スクール・オブ・フライング・サーカス
北帰行
自立の心意気
アフタヌーン・ディライト
ジョージタウンの春
普通のアメリカ人
ハロウィーンの夜に
ロイヤーと弁護士
チャリティーの経済学
主は来ませり
グラマシー・パークの秘密
提督はタクシー運転手
ミラビト家の婚礼
洞窟の民、森の民、砂漠の民
健さんは日本人
キルバーグ家三代
英語が話せますか
もう一つの保守主義
夢を見る権利
アリゾナの高い空
ベッツィーと三枚のアメリカの絵
本当の船乗り
アラビアの七面鳥
アメリカが開戦を決意した日
アトキソン家の子供たち
過ぎ越しの祭り
黄色いリボン
ヴァージニア便り
あとがき
アメリカが嫌いですか
アメリカとの出合い
カンザス・シティーの摩天楼
初めて私がアメリカを意識したのは、いつだろう。戦後七、八年のあいだアメリカをたいへん嫌っていた父は、米軍のジープへ唾を吐きかけるよう、赤ん坊の私に教えたというが、無論記憶にない。自分でも唾を吐きかけて、進駐軍の車に急停車されたことがあるそうだが、それを息子にまで押しつけるところが、父らしい。
父のアメリカ嫌いは、原爆と関係があったようだ。アメリカは父の友人を何人も海の底へ沈めたうえに、故郷広島へ原爆を落とし、親しい人々の命を奪った。その中には、戦争が終われば父と結婚したかもしれない、一人の女性がいた。この女性が原爆で死ななければ、父は母と結婚せず、私の存在はなかったかもしれない。アメリカは私の運命を、生まれる前から左右していたかのようである。
私は昭和二十六年(一九五一年)の四月に生まれた。日本はまだアメリカの占領下にあった。母は、私が生まれたほんの数日後、広尾にある日赤産院の大部屋で、マッカーサー元帥離日の実況放送をラジオで聴いた。私の生まれるわずか六年前まで、日本はアメリカと戦っていた。六年という時間を、今の私はそれほど長く感じない。実際、戦争を生きぬいた当時の日本人にとって、敗戦はつい最近の出来事であったろう。しかし戦後六年たって生まれた私にとって、昭和二十年以前の出来事は、徳川時代の事件と同じ位、大昔に感じられる。
この時代、アメリカとどのようにかかわったかで、多くの日本人がその後の対米感情を決定したように思われる。石原慎太郎は、GIに殴られて以来、反米を脱しきれないらしい。石川好は、故郷大島で接した米兵と、カリフォルニアへ移り住んだ兄からの便りで、アメリカのイメージを作り上げた。米国の主要財界人と友人づきあいをしているソニーの盛田昭夫会長でさえ、初めてアメリカへ渡り、背の高いアメリカ人と交渉する時、負けまい負けまいと思って自然に姿勢がよくなったと語っている。戦後ながい間、日本人は親米派も反米派も、どこか背伸びをし、肩に力を入れて、アメリカと対していた。
私の対米観形成にとって幸いなことに、父はその後アメリカに対する見方を変え、親米派に転じた。海軍大尉として中国から広島へ帰ってきた父は、原爆で死んだと思っていた父母との再会を短篇に書き、志賀直哉に認められて、作家として出発した。私が物心つくころには、いくつか作品を発表し、売れないながら物書きとして認められていた。この若い作家に目をつけたロックフェラー財団の招きで、一九五〇年代のアメリカへ初めて渡った。かの地で一年近く生活し、ヨーロッパをまわって帰国してから、父の米国観は変わったようである。もともと左翼ではなかったから、思想的な転向といった大げさなものではない。ただアメリカがすっかり気に入って、帰ってきたのであった。かぶれやすい体質で、志賀直哉と海軍の後は、アメリカにかぶれた。後年、私が大人になってからの話だが、父はあるところでスピーチをして、私のことに言及し、「何にでもすぐかぶれる人間でございまして」と言ったが、もしそうなら、それは遺伝というものであろう。
帰国後、父は小さなルノーを買って運転しはじめた。踏み切りにさしかかるたび、妻と子供に、「レフト・チェック」「レフト・クリア」「ライト・チェック」「ライト・クリア」と復唱させた。きっとアメリカで運転を習った時に教わったのだろう。おんぼろフォードで大陸横断をした時、夫婦で声をかけあっていたに違いない。日本へ帰り、東京の狭い道で、小さなルノーの中で、同じことをした。子供はわけもわからず、親にならった。今になって思い出すと、恥ずかしくて顔が赤くなるようだが、その時は家族全員一所懸命であった。それ位、アメリカにかぶれていた。
一年間広島の伯父伯母の家で留守番をしていた、当時四歳の私と二歳の妹は、帰国した両親から、いやというほどアメリカの話を聴かされた。アメリカの冷蔵庫がいかに大きくて立派か。何車線もあるフリーウェーを、いかに車がスムーズに走っているか。モントレーの海岸がどんなに美しいところか、アメリカの家がどれほど大きくて、どの家の庭でも、芝生の上でスプリンクラーが規則正しく、水を飛ばしているか。両親がアメリカから持ち帰った荷物の中に、このスプリンクラー、自動散水器があり、ホースの先へ取りつけられ、公団住宅の猫の額ほどの庭で場違いに首を振っていたのを思い出す。
父は人を集めては、海外で自分の撮してきた八ミリの映画を見せた。今の八ミリビデオではなく、本当の映画である。アメリカ編は中でも大きなリールの長編で、フィルムを巻き戻すのにずいぶん時間がかかった。この大長編を、志賀直哉も広津和郎も、各社の編集者も、むりやり見せられた。お疲れさま。他に、コダックのスライドがかなりの数あった。私は映画とスライドの上演にほぼ欠かさずつきあったから、しまいにはその内容をすらすら暗記して、そらで言えるようになった。シカゴの高架鉄道、カリフォルニアの農場、ロスアンジェルスのフリーウェー、ユニオン・パシフィックの列車、ニューヨークの摩天楼。その中に時々現われる両親は若く、ことに母はまだ二十代で、大男や大女のアメリカ人にはさまれ、いつも少し頼りなげに立っていた。映像はいつしか私の脳裏に焼きつき、暗記した説明とともに、まるで自分が体験したような親しみあるものとなっていった。
両親はアメリカから、スプリンクラーの他にも色々珍しい物を持ち帰った。当時なかなか手に入らなかった、プラスティックで出来た貨物列車のおもちゃ。ディーゼル・エレクトリックの機関車とカブースと呼ばれる最後尾の車掌車は、日本では見たことのない形をしていた。消防士の耐熱服を模した真っ黄色の雨合羽と、うしろにつばのついたヘルメット。私は台風の日、このレインコートとヘルメットを身につけ、勇んで学校へ向かったものだ。バンドエイドという、赤い糸を引くと薄い紙の中から魔法のように姿を現わす、ばんそうこ。怪我をすると、母がこのバンドエイドの両端を横に引き、ガーゼの部分を傷口にあて、粘着テープの部分でしっかりとめて貼ってくれた。子供が片手で楽に持てる、ポータブルのタイプライター。父の目を盗んででたらめに打つと、活字がぽんぽんはねあがり、紙の上に字を印した。時々何本もの活字が同時にはねあがると、からまって打てなくなった。アルファベット順に言葉と絵と説明が並ぶ、子供の辞書。FISHという欄には、ひどく面妖な魚が描かれていて、アメリカ人は魚の絵が描けないのだという父の説を、子供心に信じた。この本も、その他の絵本も、アメリカの本は一種独特のいい匂いがした。日本の本にはない匂いであった。目をつぶっていても、アメリカの本は区別できた。本に限らず、アメリカの物には何でも、石けん臭い、つるつるに磨いたような、共通の匂いがあったように思う。今でもアメリカの空港や、駅や、バスターミナルで、ふと昔なつかしい、あの匂いに巡り合うことがある。しかしその匂いは、喧騒と、悪臭と、人いきれに、すぐかき消されてしまうのである。
アメリカのみやげには、いく枚かのレコードもあった。まだLPが珍しい時で、それほど数もなかったから、一枚一枚のレコード・ジャケットをよく覚えている。プレスリーのGIブルースというレコード。エルビスが陸軍の制服を着て、横向きの顔を心もちこちらに向けた大きな写真であった。ミュージカル、マイ・フェア・レディーのオリジナル・キャスト版。花売り娘のイライザを糸で操るヒギンズ教授、その教授をさらに操る神様の絵がおもしろかった。ミュージカル、オクラホマの映画版レコードのジャケットは、カウボーイの格好をした青年が、かざりのついた馬車に恋人を乗せ、笑いながら走っている写真をあしらっていた。これらのレコードを、父が大枚をはたいて買ったフィリップスのステレオで、繰り返し繰り返し聴いた。そして意味も物語の筋もわからないのに、メロディーと歌詞をあらかた覚えてしまった。今でもマイ・フェア・レディーやオクラホマの序曲を聴くと、レコード針が回転するレコードにうまく乗って、音が出はじめるあの瞬間を思い出す。オクラホマは、戦争中の初演とは思えないほど、底抜けに明るいミュージカルであった。
「オー・ホワット・ア・ビューティフル・モーニング、エヴリシング・イズ・ゴーイング・マイ・ウェイ」
四〇年代、五〇年代のアメリカの楽観的な空気が、どの歌からも伝わってきた。同じミュージカルの中で、都会から村へ帰ってきた男が、
「カンザス・シティーじゃ全てが最新さ、ビルは七階もあって、天にも届く高ささ」
とうたうのは、考えてみれば、アメリカを語る父そのものであった。
帰国後父のもとへ、時々アメリカの知人が訪ねてきた。大きなアメ車に乗ってやってきたカーンさん、汽車の好きな長身の青年ニルソンさん、フォルクスワーゲンの後部座席のそのまた後ろの隙間にすわるのを許してくれた日系のKさん、日本語がうまくて多少気難しい外交官のMさん、もの静かないかにも学者といった風のF博士、父の作品を翻訳してくれたやはり日系のM先生とその夫人。M夫妻にはジミーとジョニーという二人の白人のもらい子があって、団地の仲間と一緒に野球をして遊んだ記憶がある。彼らが両親とは違う肌の色をしているのを、私も私の友達も、特に意識した記憶がない。世の中は安保条約の改定をめぐって騒がしく、小学校に入ったばかりのわれわれ子供たちも、肩を組んで「安保反対、安保反対」とシュプレヒコールを上げて遊んでいた。しかし、私の意識の中で、政治運動の対象である抽象的なアメリカと、身近なアメリカ人とのあいだには、何の関係もなかった。
幼稚園から小学校に上がった年、わが家にテレビが入った。スーパーマンの時間になると子供が隣家へ出かけ、食事にも帰って来ないのに閉口した父が、しぶしぶ買ったものだった。テレビからは、「ハイウェー・パトロール」、「サーフサイド・シックス」、「ローハイド」、「ボナンザ」、「名犬リンチンチン」、「パパは何でも知っている」、「うちのママは世界一」といった、当時のハリウッド製白黒テレビドラマが、次々に目と耳へ飛び込んできた。画面に現われる大きな家や庭、格好のいい自動車、電気仕掛けで閉まるガレージなどは、豊かさそのものであった。色が付いていないだけに、かえって想像力をかきたてたのかもしれない。アメリカはまさに夢の世界であった。両親は帰国後、車を買ったり、スプリンクラーを庭に置いたりして、一度見た夢を少しずつ日本で実現しようとしていたのだろう。アメリカが夢であった時代、アメリカへ簡単に行けなかった時代、アメリカの生活水準へ少しでも近づくのが多くの日本人にとって目標であった時代。そんな時代に私は育った。そうしたアメリカは、日本人にとって、今よりもむしろ近い存在であったようにも思える。彼我の間で、住宅の広さ以外の生活水準にさほど差がなくなった今日、物質的な意味で、アメリカはもはや夢でなくなってしまった。夢からさめた恋人たちのように、アメリカと日本は、あの頃よりもやや遠く、お互いを見ているかのようである。
こうして私は、両親から夢の国アメリカのことを、繰り返し繰り返し聞いて育った。父と母はアメリカが好きであったし、わが家を訪れるアメリカ人も知性の高い立派な人が多かったから、私がアメリカに憧れ、親しみを持つのは、当然であった。父に連れられて時々訪れた羽田には、B29を改造したパンアメリカンのボーイング・ストラトクルーザーや、日本航空のダグラスDC6B、DC7C、エールフランスのロッキード・スーパー・コンステレーションといった、アメリカ製のレシプロ大型旅客機が翼を並べていた。大きな飛行機が翼を震わせ、プスプスと音をたてながらプロペラを回しはじめるのは、何度見ても力強く頼もしかった。しばらく後には、パンナムがボーイング707、日航がDC8と、相次いでジェット旅客機を導入し、その格好のいい後退翼、屹立した垂直尾翼に見惚れた。また横浜の港へ行けば、ブルーのファネルに大きな金の鷲のマークを付けた、アメリカン・プレジデント・ラインズの二本煙突の姉妹客船、プレジデント・クリーブランドとプレジデント・ウィルソンが、よく停泊していた。夜、大きな客船が、光の城の様な巨体を静かに岸壁から離してハワイへ向け出港するのは、美しかった。いつか自分もこれらの飛行機や船に乗りたい、乗ってアメリカへ行きたい。いったいアメリカへ行くのと、飛行機や船に乗るのと、どちらが本当の目的かは判然としなかったが、乗り物好きの少年は、空港で港で、はるかなアメリカに向けて、見果てぬ夢を見ていたのである。
もろ人こぞりて
昭和三十九年(一九六四年)、東京オリンピックが開かれた年、私は中学へ入った。その前年わが一家が引っ越した新宿のアパートは、国立競技場に近く、屋上から聖火台がよく見えた。開会式の日には、望遠鏡とソニーのマイクロテレビを持って屋上へ上がり、最後の聖火ランナー坂井選手が、トーチの火を聖火台に点し、ぼっと炎が上がるのを、この目で確かめた。
中学進学が私にとって大きな出来事であったように、オリンピックは日本にとってまことに大きな事件であった。開会式の前日までに、新幹線と首都高速道路が完成し、東京の街は見違えるほど美しくなった。町中の空気が、ぴりっと張りつめていた。競技が始まって日の丸が上がるたびに、国民は誇らしさで胸を一杯にした。女子バレーボールで日本チームが優勝した時、明治二十七年(一八九四年)生まれの祖母は、「日本万歳、日本万歳」とテレビの前で絶叫したものである。あの時日本人は、戦後初めて、国を挙げての緊張感と愛国心を経験した。国民は真珠湾攻撃が成功した時のような高揚した気分を、味わった。あの十月のような全国民的興奮を、日本人はその後味わっていないと、私は思う。
オリンピックは日本人に自信を与えた。オリンピック後の日本は、明るい気分に満ちていた。閉会式の夜のある光景を、私は今でもよく覚えている。出先の知り合いの家で閉会式の実況中継を見た後、私は千駄ケ谷の駅から我が家に向かって歩いていた。途中、国立競技場から新宿御苑に停めてあるバスへ戻る、外人観光客の一群と一緒になった。気がつくと、閉会式をテレビで見たばかりの人々が、たくさん表に出ている。彼らは、外人さんに手を振り、握手を求める。外人観光客もにこにこしながら、それに応える。互いに声をかけあい、笑みを交わし、送るほうも送られるほうも、みな興奮していた。オリンピックを開いてこうして集えば、異なった国どうし仲よくなれる。国と国との間の争いも解決できる。奇妙な楽観的気分が、あたりを覆っていた。
閉会式の夜のあの明るく楽観的な気分は、私自身のものでもあった。進学校として知られる麻布中学へ入り、高校から大学へ進んで、好きな分野の勉強をしようと考えていた。考古学者になって、シュリーマンやE・H・カーのように古代の遺蹟を発掘しようか、それとも大森実のような特派員になって、ワシントンから記事を送ろうか。いろんな夢を見ていたけれど、十三歳の少年は、いくら体が大きくて生意気を言っても、所詮子供である。ある放課後、こわい体操の教師が、大学に合格した高校三年生を一人前の大人として扱って、祝いの言葉をかけていた。学校の文化祭でフォークダンスを一緒に踊り、言葉を交わしたきれいな高校生のお姉さんが、自分は十八だといった。十八になれば、あんな素敵な人と対等に口がきける。男も女も、十八歳という年齢が、立派で魅力的に見えた。十八になれば車の免許もとれる。早く十八になりたい。それだけが、当面の目標であった。
一生のうちには、まさかと思うことがある。オリンピックの翌年、五月のある朝、目がさめると、体中がぶくぶくにむくんでいた。頭の後ろを親指で押すと、ゆっくりとへこむ。ひどくだるい。時々世話になっていた荻窪の衛生病院へ担ぎこまれ、即刻入院させられた。診断はネフローゼ、つまり重度の腎臓病である。全てはあっと言う間に起こり、決められ、私自身は事の重大さを、よく理解していなかったようである。中学二年の少年にとって、一番大切なのは、陸上部の練習と、中間試験の準備である。何日か学校を休むことになって、私はそればかり気にしていた。しばらくして、それほど簡単に病院を出られそうにないとわかると、私は退院予定日を一ヵ月後と決めた。その頃上野でツタンカーメン展が開かれていて、考古学に興味があった私は、ぜひ見たいと思っていた。誰かが買ってきてくれた展示品の写真集のページを繰りながら、展覧会の終わるまでには元気になって、上野に出かけるのだと決めた。そのツタンカーメン展が終わってもまだベッドから動けない状態が続くと、私は退院の予定をたてるのを、やめた。
病気は一進一退を繰り返した。最初は絶対安静でベッドから一歩も動けなかった。時々起き上がって、隣のベッドとの間のカーテンを閉め、しびんに小便をとり、ガラスの計量ビンにためる。無塩の食事は、いくら栄養士さんが工夫してくれても、うまくない。病室の中と、病室の窓から見える荻窪の街の一角が、世界の全てであった。病院の横の空き地で、犬を放して遊ぶ同世代の少女を、じっと見ていたりした。たまに中学の同級生が見舞いに来てくれると、彼らは会うたびに成長しているようで、うらやましかった。小学校で同級だった女の子が、二人連れ立って見舞いに来てくれたことがある。おおかた親に言われて、仕方なく来たのだろう。せまい病室で話題もなく、所在なげに立っていた。まぶしいほど健康で、すっかり女性らしくなった彼女たちの前で、寝たきりの私は、どうしていいかわからなかった。本や新聞を読み、知識だけは身についたが、次第に世の中からとり残される気がした。友人も社会も、皆駆け足で私の横を走り抜けていった。
ベッドから動けない不自由な病院生活にも、規則正しい日課があり、生活のリズムがある。入院が長引き、次第に病院の主《ぬし》的存在となるにつれ、私は衛生病院での生活に、一種の心地よさを感じるようになった。もちろん両親が私に入院費用の心配をさせなかったせいもある。父は妾を囲うより大変だと、冗談半分で言っていたらしい。しかしそれにも増して、キリスト教に支えられたこの病院の医療と看護が、難病の少年の体だけでなく、心をも癒してくれたのだと思う。
東京衛生病院は、セブンスデー・アドベンチストという、プロテスタントの教会に属している。この教会は、十九世紀半ば、エレン・G・ホワイトというアメリカの婦人を中心とする人々が興した。聖書、特に旧約聖書の教えに忠実たらんとする、新教の中で戒律の厳しい、ストイックな教派の一つである。旧約聖書、創世記は、神が六日間で天地を創造し、七日目に休んだと記している。この記述に厳密に従えば、安息日は日曜ではなく、金曜日の日没から土曜日の日没までとなる。従って、この教会の信者は、土曜日仕事を休み、教会で礼拝をする。旧約聖書は、豚や鱗のない魚介類を食べるのを禁じている。そこで、セブンスデーの人々は、決して豚肉や貝類を食べない。天地創造が六日間で行なわれたことを文字どおり信じ、進化論を否定する。安息日や戒律の面では、ユダヤ教の教えに近い。しかし一方で、神の子イエス・キリストの誕生と蘇りを信じ、またキリストの再臨がすぐそこに迫っていると考え、人生は全てそのための準備であるとされる。
衛生病院で働く医師も看護婦も、ほとんどがこの教会の信者であった。彼らは、戒律を守り、医療の仕事に献身的に携わり、祈りをささげ、賛美歌をうたう、静かで生真面目な人たちである。多くは子弟を教団付属の学校へ通わせ、家族全員が、信仰を中心とした地味な生活を送っている。盛り場で酒を飲んだり、騒いだりしない。肉を食べない、煙草も吸わない。それでいて宗教的にこり固まったようなところはなく、いつも笑顔を絶やさず、穏やかで落ち着いている。病院の中も、イエス・キリストの姿と教えに満ちていた。飾ってある絵には、ひげを蓄えた西洋人のイエスが、病人の枕べに立っている姿が描かれていたし、置いてある雑誌や本も、キリストの教えを説いたものばかり。毎日正午になると、病院の二階の集会室で、入院患者のための礼拝が行なわれた。その模様は館内に放送で流され、病室でもイヤホーンで聞けた。金曜日の日没時には、看護学校の学生が各病棟で賛美歌をうたった。土曜日の朝には、病院の隣に立つ教会で安息日の礼拝が行なわれ、その模様も各病室に放送された。私の病気を診てくれたI先生やK先生が、説教をした。安息日の昼には、入院患者にも祝いの膳が出された。時折、牧師が病室をまわり、病人に声をかけていった。
病院の人たちは、決してキリスト教を私に押しつけようとはしなかった。しかし、彼らの信仰心は篤く、静かな自信に溢れていて、もし私が少しでも、キリスト教に興味を示せば、喜んで教えてくれた。看護婦の中には、食事を運んできてくれる時、一緒に祈りましょうと言う人がいた。私の病気が早く治って元気になりますようにと、食前の祈りをささげてもらうのに、少しも異存はなかったが、イエスの復活や、再臨、進化論の否定など、セブンスデーの教義はにわかに信じ難かった。体が悪くても口は年齢以上によく回ったから、自分より少し年上の看護学校の生徒をつかまえては、生意気に論争を試みた。
「一体どうして神様は、二万年前でも、二百年前でもなく、千九百六十五年前に、日本でも中国でもイギリスでもなく、ユダヤの国に、一人子イエスを送られたの。どうしてイエス様が、唯一神の子だとわかるの」
彼女たちは、すこしも気を悪くせず、それは聖書にそう書いてあるからであって、旧約の預言が成就したのだから、何も不思議はないと説明した。
「聖書は人間が書いたものではなく、神が預言者を通じてその考えを述べられたものだから、絶対に正しいのよ」
この教団の教えによれば、ホワイト夫人もまた、預言者の一人なのだそうだ。
「もしもイエス様が神の子でなければ、私たちの信仰はむなしいものになってしまうわ。私たちは、みなイエス様の復活が本当に起こったと信じ、イエス様の再来を待ち望んでいるのだから」
よく私の病室で話していってくれた、目のくりっとした美人の看護学生は、真剣な顔をして、私に反論した。相変わらず釈然としなかったが、神を信ずるのが、理屈ではないということは、わかったように思った。自分ではなかなかキリスト教の教えを受け入れにくかったけれど、尊敬するI先生やK先生が信じている神様は、きっとどこかにいるのだろうと思った。
衛生病院は又、一種バタ臭いところでもあった。アメリカの教団が経営している病院だから、全てアメリカ風で、他の病院とは趣が違った。医師は皆短く白い上っ張りを着ていた。丁度その頃テレビで放映されていたベン・ケーシーというドラマに出てくる、アメリカの医者が着ているのと同じである。他の病院の医師が着用している、裾の長い白衣――あれはきっとドイツから渡来したものだろう――より数段格好がよかった。食事も、一般のメニューとは別に、外人食とよばれる特別食がある。私は食事制限がきつくて食べられなかったが、患者がそれを希望すると、カテッジチーズとか、ジェロとか、アメリカ風なものが出た。毎日三時から五時までの面会時間が終わると、日本語の放送と並んで、
「アテンション・プリーズ、ヴィジティング・アワーズ・アー・ナウ・オーヴァー」
と、英語の放送が流された。
病院長のJ先生や、看護婦長のミスEは、アメリカの教団本部から派遣されてきた人たちであった。みな、知的で、物静かで、やさしかった。ミスEには、英語を教えてもらった。身長が二メートル近くある大きな人で、ベッドの傍らに立つと、見上げるようだった。戦争中フィリピンで家族と一緒に日本軍の捕虜になった経験があったが、少しも恨まず、日本陸軍の将校はよくしてくれたと言っていた。
セブンスデー・アドベンチストは、正しい信仰にとって、心と体と両方の健康が大事であると考えていて、医療を布教の大きな柱にしている。カリフォルニアには、ロマリンダという一流の医学校を持っていて、そこで学んだ医師が世界中で医療に当たっている。後年、ソロモン群島に出かけた父が、現地でセブンスデーの医者に世話になったこともある。健康食の開発にも熱心で、病院では小麦からとった蛋白質、グルテンを患者に食べさせていた。コーンフレークスを開発したのも、もともとはこの教団のメンバーであったケロッグ医師である。禁煙運動にも熱心で、衛生病院でも「五日で煙草をやめられる」という謳い文句で、信者以外の人を対象に(信者は間違っても、煙草など吸わない)、始終セミナーを開いていた。私がいまだにほとんど酒を飲まず、肉、特に豚を食べず、煙草を毛嫌いするのは、どうも衛生病院の影響があるらしい。
大昔書かれた聖書の教えを忠実に守り、進化論さえ信じない教理上の頑固さ、いかにもアメリカ風で、合理的科学的な医療や病院経営の仕方、その両方がセブンスデー教団の特色であった。入院当時は、それがややちぐはぐであるように思い、不思議と感じた。しかし後にアメリカへ渡り、キリスト教やユダヤ教の各宗派の熱心な信者が、社会のあらゆる方面で、医者、弁護士、ビジネスマン、役人、その他色々な職業について活躍しているのを知った。セブンスデー・アドベンチストは必ずしも特殊でなかった。アメリカは、意外なほど宗教的な国である。その宗教的側面と高度に発達した近代国家としての側面が、矛盾せずに共存しているのを、私は衛生病院で知らないうちに学んだのかもしれない。大変な病気を背負いこんだために、私は物質的、現世的なアメリカに触れる機会をとりあえず失い、精神的、宗教的アメリカに浸ったのである。アメリカを経済面、技術面、物質面だけでとらえる見方に、今でも反発を覚えるのは、衛生病院での経験があるからのように思う。
病気が少しずつよくなるにつれ、私は段々キリスト教の教えに親しみを感じはじめた。しかし、だからといって信者になる決心はつかなかった。同じ病室には、時々アメリカ人の宣教師が患者として入り、彼らは病院の人よりもっと積極的に私を入信させようとした。聖書の通信講座に入れとすすめてくれたMさんは、やさしい宣教師で、夫人とともに、私が元気になってからもキリスト教の集まりに誘ってくれたが、一度も出かけなかった。同じく病室をともにしたもう一人のアメリカ人宣教師Gさんは、もっと積極的な人であった。退院後のある日、蜜柑を手土産に私を見舞いにやってきて、私にその場でキリスト教徒になれと迫った。
「信仰は決心なのです。あなたはジャンプしなければいけない。無信仰の岸から、信仰の岸へ、思いきって川を飛びこえれば、信者になれる。さあ、飛びなさい」
流暢な日本語で、やや性急に迫られたけれど、川を飛びこえることは出来なかった。その場では信者になれないと言うと、彼は、いかにも仕方ないといった風に、肩をすくめて帰っていった。
この時以来、私はキリスト教徒になりそこなっている。結婚式は考えたすえ、衛生病院の教会で挙げた。それ以外、当面はクリスマスの時だけ教会におもむき、聖夜の雰囲気にひたる一キリスト教ファンにとどまっている。
「もろ人こぞりて、むかえまつれ。久しく待ちにし、主は来ませり」
衛生病院で何度も聞いたクリスマスのキャロルを耳にすると、真剣に神様のことを考えた、あの時代を思い出す。
アメリカ人の宣教師に決断を迫られた時、何でもいいから信者になりますと答えていたら、私は今ごろキリスト教徒になっていただろうか。一体神を信じる、何かを信じるというのは、どういうことなのだろう。私は神様と直接向かい合うのをずっと延期しているような、いつかは自分の態度をはっきりさせねばならないような、そんな気がしている。後にアメリカに渡った時にも、私は至る所で神様の問題に出くわした。「あなたはクリスチャンか」とたずねられる度に、私は「それについては色々ありまして、そうであるような、そうでないような」と、あいまいな返事をしてしまう。宗教だけでなく、アメリカという国では、何かを強く信じていないと、一人前と認められないところがある。そもそもアメリカ人となるためには、アメリカという国の理念に対する信仰を告白せねばならない。市民権を授与する儀式は、教会の洗礼にそっくりである。アメリカは、何かを信じる人たちの集まった国である。
七歳になる私の息子と彼のアメリカ人の級友が、私の運転する車の後部席で、ある時こんな会話を交わしていた。
「君の家族は何を信じているんだい」
「信じるって、どういうこと」
「神様のことだよ、神様。うちはエピスコパルさ。きみんちは」
息子は、なんと答えていいかわからなくて、
「ねえうちは何を信じているの」
と運転席の私にたずねた。私は、はっきりとした答えを息子に与えられなかった。
衛生病院を退院して以来、神様は私の宿題になっている。
我が友ベーコン
病院の生活にも、四季がある。冬はスチームの入る音がコンコンと病室に響き、春になると窓から入る風が甘く暖かい。夏の午後は長くけだるく、日が落ちて病室の暗くなるのが早まると、秋が来たのがわかる。
ある春の朝、隣のベッドに大柄なアメリカ人が入った。新しい患者が、同室に入って来るときは、いつも少し緊張した。どんな人が隣人になるかによって、私の生活が相当変わる。大らかで楽しい人ならば、私の気分ものびのびした。神経質で病状の重い人が来れば、何週間かこちらも息をつめて暮らさねばならない。せっかく仲よくなった人も、長くて二週間もすれば退院してしまう。学校や職場へ帰れるのを羨ましく思うと同時に、この次はどんな人かと、不安に思った。
この大柄なアメリカ人は、ベーコンさんと言った。あごひげをはやしたその顔の真ん中に、白人にしては丸い鼻が、ちょこんと乗っていた。心臓の病気だそうで、肩で息をし、点滴のビンを片手で高くかかげ、針を腕にさしたまま病室に入ってきた。私に紹介されると、片言の日本語で、「ワタシハ、ウィルバー・ベーコンデス」と挨拶した。そして相変わらず点滴のビンを持ちながら、せわしなく自分の荷物を片付けはじめた。豚を嫌う衛生病院に、突然ベーコンの脂身が闖入したような気がして、おかしかった。
患者のほとんどが一、二週間で退院していくのに、ベーコンさんと私は、同じ病室で三ヵ月一緒に暮らした。ルームメートになってすぐ、この人が無類の話し好きだとわかった。二人ともほとんど病室を離れられない病状であったから、退屈しきっていた。ベーコンさんは、病室を訪れるアメリカ人の医師や看護婦長をつかまえては、機関銃のようにしゃべっていたが、彼らは他の仕事もあるから、そのうちいなくなる。どこにも逃げ隠れしない私は、彼にとって絶好の話し相手であった。
話し相手と言っても、私が英語を理解できたわけではない。入院したのは中学二年の時で、まだアメリカへ行ったこともなかった。病気になるまで、カーツさんというアメリカ人の教師の家へ英語を習いにいっていたが、中学の英語の教科書を一緒に読み、身振り手振りで簡単な話をする程度であった。ただ入院以来、いつか英語を話せるようになりたいと思って、NHKのラジオとテレビの英会話番組だけは欠かさず見て聴いていた。松本亨、田崎清忠、国弘正雄といったこれら番組の講師は、私の英語の大恩人である。しかしそれでも、長いあいだ学校へ行っていない私の英語の力は、ごくごく限られていた。総婦長のEさんが時々英語で話しかけてくれたが、ろくに返事も出来なかった。
ベーコンさんは、私の英語力不足など、全く意に介さなかった。壁に向かって独り言を言うより、生身の人間に向かって話したほうが、いくぶんともましだったのだろうか。最初の日から三ヵ月後に退院するまで、朝から晩まで話し続けた。心臓の重病を患っている人とは思えないほど、精力的であった。そもそもアメリカ人には、よくしゃべる人が多い。しゃべっていないと不安なのではないかと思う。彼らが一番我慢できないのは、なかなか口を開かない日本人と向き合い、だまって見つめ合うことである。耐えられないから、つい話しはじめる。日本人の側は、おとなしくうなずいて聴いている。会合が終わると、自分ばかりしゃべって、日本人が何を言いたいか、まるでわからなかったのに気がつく。後年、日本人とアメリカ人の間の話し合いに何度も立ち合って、話し好きのベーコンさんをよく思い出した。
私の英語力が足りなかったため、ベーコンさんの話は、細かいところまでわからなかった。霞がかかったように、記憶が不確かである。それでも何とか、ベーコンさんがアメリカの国際援助機関AIDの職員として、各国で働いた経験の持ち主であるとわかった。彼は病室にスライド・プロジェクターを持ちこみ、世界中で撮った写真を見せてくれた。スーダンのピラミッド、韓国の寺院、ヴェトナムの町、アフガニスタンの仏像、テネシーの山並み。アメリカの家族の写真もあった。家の裏庭にしつらえた大きなタンクのプールで遊ぶ、彼の息子と娘。奥さんは韓国の人で、ベーコンさんは彼女と別れて日本へやってきたのである。
「東洋に憧れて韓国の女性と結婚したのに、彼女はアメリカの女よりアメリカ的だったんだ」
ベーコンさんは、いつもそう言って嘆いていた。
離婚がきっかけとなったのかどうか、アジアで勤務するうち東洋美術に引かれたベーコンさんは、役所を辞めて日本へ留学し、日本語を勉強して日本の大学で日本美術を学ぶという、壮大な計画を立てた。息子や娘の年齢からして、当時もう四十代の半ばを越えていたであろう。スライドの中には京都の庭園を写したのもたくさんあって、私よりずっと日本の美術に詳しかった。家族と別れ、東京で日本語学校に入り、猛烈な勉強をしはじめて程なく、寄生虫によって心臓の弁が異常を来たす、昔アフリカでとりつかれた難病が再発したのである。
東洋美術に限らず、ベーコンさんはおそろしく博識な人であった。スライド・プロジェクターに加え、彼は病室にオープン・リールの大きなステレオ・テープ・レコーダーを持ちこみ、色々な曲を聞かせてくれた。聞かせるだけでなく、やれハイドンの交響曲の構成だ、ロジャーズ、ハマースタインの二人が作ったミュージカルの歴史だと、解説もしてくれた。病室で、私はサウンド・オブ・ミュージックを初めて聞いた。子供の時なれ親しんだオクラホマも、この二人が作詞作曲した作品だと、教えてもらった。またある時は、トーマス・マンの小説、「ベニスに死す」の一節を読んで聞かせてくれた。全くわからないと言っても、いやいいんだと、一所懸命聞かせてくれた。ベッドの上に起き上がって、ひげをいじりながら、声を出して本を読む、白い患者用の上っ張りを着たベーコンさんの姿を、思いだす。
一九六〇年代の後半、退屈で静かな衛生病院の病室の外で、世界はめまぐるしく動いていた。アメリカではヴェトナム戦争の泥沼化と共に国内が騒然とし、キング牧師と、ロバート・ケネディーが続いて暗殺された。キング暗殺の朝、かたい顔をした総婦長のEさんが病室に報せにきてくれたのを覚えている。世界で大事件が起こるたびに、ベーコンさんは興奮してEさんや私に、自らの説をまくしたてた。世界の出来事が自分には関係ないと思っていた私にとって、ベーコンさんの元気は、全く驚くべきものであった。この病室からでも、世界のために何かできそうな勢いであった。体は病気でも、精神は並みの若者よりずっと元気で、エネルギーが体中から溢れ出ていた。
私の隣に入院した何人かの教会関係のアメリカ人と違い、ベーコンさんはキリスト教に熱心でなかった。私と同じように、彼はアメリカ人医師や総婦長のEさんと、時々キリスト教上の論争をしていた。ある時、ベーコンさんは言った。
「復活とか、永遠の命とか言うけど、我々は決して死なないんだ。死んで土に還って、植物の栄養になって、動物に食べられて、永遠に宇宙の元素として回り回っていくのだから。死ぬことはないんだ」
東洋の思想に憧れたこのアメリカ人の死生観は、むしろ仏教やヒンズー教に近いものだったのかも知れない。
ベーコンさんの入院生活も長かったが、ようやく点滴の針を抜く時が来た。
「これが外れたら、ケニアに住むマサイ族の勝利の踊りを踊ってやるよ」
と言って楽しみにしていたのに、点滴のビンから解放されたら踊ってくれず、がっかりした。自由に動けるようになったベーコンさんは、医師から許可をもらって近所へ散歩にでかけ、本屋でアメリカ詩の本を見つけて買ってきてくれた。ポーやロングフェローなど、代表的な米国詩人の詩を並べ、訳と解説をつけた教科書風のものだった。今でも私は時々この詩集を引っ張りだして読む。中学生には長くて難しすぎる詩が多かったが、エミリー・ディキンスンの詩だけは、短くてわかりやすかった。
「もし私が一つの魂を癒すことが出来るなら、私は無駄に生きてはいない」
後に聴いたサイモンとガーファンクルの「ダングリング・カンヴァセーション」という歌に、
「君は君のエミリー・ディキンスンを読み、私は私のロバート・フロストを読む」
という一節があって、この孤独な女性詩人の詩を思い出した。
長い同室生活が終わって、ベーコンさんが退院する日がやってきた。季節は移り変わって、夏が近かった。彼は記念に、二人で何度も映して見た、コダックのスライド・プロジェクターを、私にくれた。荷物をまとめ、着替えをすますと、私のベッドへやってきて、
「アイ・ウィル・ミス・ユー」
と、私の額にいきなりキスをした。大男に生まれて初めてキスをされた恥ずかしさと、友が去る淋しさとが重なり、私はきまりが悪かった。同時に、なるほどこういう場面で「ミス」という動詞が使えるのかと感心し、一つ英語の用法を覚えた気がした。こうして、私の入院生活でもっとも仲のよいルームメートは、衛生病院を去っていった。
ベーコンさんは、退院後も夏の暑いさかり、時々見舞いにきてくれた。面会時間に果物をかかえてやってくると、私のベッドの傍らにすわって、相変わらずよくしゃべった。友人のこと、旅行のこと、勉強のこと、世界のこと。私は彼が入院中と同じように、黙って聞いていればよかった。
ベーコンさんは、日本の大学で日本美術を学ぶ当初の計画を断念し、夏の終わりにアメリカへ帰っていった。彼は帰国後も始終手紙をくれた。カリフォルニア州立大学バークレー校の博士課程へ入って、東洋美術の勉強を再開した。勉強の合間にヨセミテやモントレーなど、北カリフォルニアの野山を歩いた。バークレーのインターナショナル・ハウスで、自分と趣味をともにする女性と出合った。その女性との結婚を決めた。楽しい結婚式だった。博士課程を終わって、ある短大に職を見つけた。決まって、エアログラムとよばれる航空便箋にぎっしりと字を書き、それを折り畳んで糊付けして送ってきた。手紙の書き方も、入院中の話し方そのままで、あれも話したい、これも話したいという気持が溢れていた。いつかカリフォルニアへ来たら、ここも見せてやる、あそこにも連れていってやる。いつもそう書いてきた。私もつたない英語で、必死に返事を書いた。
ベーコンさんは、二年後、新しい細君と息子のピーターを伴って、日本へやってきた。退院して何とか動きまわれるようになっていた私は、羽田まで迎えに出かけた。久しぶりで再会したベーコンさんは、長旅にひどく疲れていて、六本木の国際文化会館へ着いて食事をすると、眠りたいと言った。私は彼に勧められ、元気いっぱいだった息子のピーターと、東京タワーへ出かけた。ピーターは私より二つほど年下で、二人の間には特に共通の思い出も話題もなかったから、あまり話がはずまなかった。私がベーコンさんに会ったのは、この時が最後である。
翌春、しばらく便りが途絶えた後、ベーコン夫人から手紙が届いた。私は家の前のガレージの日溜りに腰をかけ、手紙の封を切った。夫人から手紙をもらうのは初めてだったので、変だなと思った。
「主人は亡くなりました。持病の心臓病が悪化して、手術をしたのですが、うまく行きませんでした。手術室に入って麻酔をかけられるまで、主人は元気で希望を失いませんでした。健康が回復したらすることを、色々と話していました。ただ入院中ナオユキが隣にいてくれないのが、残念だと、繰り返し言っていました。あなたは主人のそばにいなくても、彼の励みになっていたのです。
主人は亡くなりましたが、主人が大切に思っていた友人であるあなたと、今後も便りを続けたいと思います。彼と過ごした時間のそれほど長くない私は、主人をよく知っているあなたと、いつか彼のことをゆっくりと語りたいからです」
こうして、唯一のアメリカ人の友は、この世を去った。ベーコンさんは私より三十年近く年上であったが、年齢の差が気になったことは、一度もなかった。彼は私が生活をともにし、本当に親しくなった、初めてのアメリカ人であった。また私の先生でもあった。三ヵ月の共同生活は、私にとって寺子屋のようなもので、アメリカのこと、世界のことを教わった。ふりかえって考えると、あの三ヵ月間のべつまくなしに英語を聞かされたため、十代にアメリカで暮らした経験がない割りには、比較的自然に英語が話せるようになったのだと思う。
いつかアメリカへ行く機会があったら、ベーコンさんを訪ねよう。私は長い間そう思っていた。彼の死は、私の夢を虚しいものとした。広いアメリカに住むたった一人の友人が、もういない。春の日溜りの中で、私はとても淋しく思った。
ハワイの雪景色
入院と退院を繰り返し、自宅で療養を続け、ようやく麻布中学へ復学した時、発病から四年の歳月が経っていた。かつての同級生は高校三年生になっている。中学二年の春に発病した私は、本来その学年に戻るはずだったが、それではあまりかわいそうだと、三年への復学が許された。だから私は中学二年をやっていない。翌年高校を受ける時には、ワットというあだ名のヤカン頭の先生が、私の目の前で、中学二年の成績を適当に作り、内申書を書いてくれた。
「君は国語は得意だから九十二点、数学は苦手だが、えいおまけで八十三点」
これは明らかな公文書偽造である。旧制中学の名残りを多分に残した麻布学園は、変に融通の利くところがあった。もしあの内申書が無効だったら、私の学歴は中学中退である。
こうして復学した私は、まるで浦島太郎であった。学校の温情により三年の遅れですんだといっても、中学三年と高校三年の差は大きい。かつての級友は病気で寝ている間に、私が憧れた十八という年齢になっている。校庭で会っても、まだ病み上がりでひょろひょろとした私とは、同じ年齢だとはいえ身体、知識の両面で差が有りすぎて、あまり親しめなかった。一方、新しいクラスメートは、三歳も年下で、私の妹より若い。身体的年齢と、学籍上の年齢のあいだで、私は最初まごついた。かつての級友たちに話を合わせようとすると、背伸びをせねばならないし、新しい級友たちに合わせようとすると、三歳余計に年を取っているのが邪魔に思われる。何だかどちらのグループにも属さない、そんな気がした。やがて年下の連中と仲よくなり、年齢差もさほど気にならなくなったが、自分がどのグループに属しているかよくわからない感じは、いまだにある。日本では、何年に学校を出たかが、一生ついて回る。病気をして三年遅れ、私は一度その集団から外れてしまった。自分が「みんな」から少し離れたところにいる、「みんな」と一緒に走っていないという意識は、その後アメリカで暮らし、一層強くなった。
麻布に復学したのは、一九六〇年代最後の年である。世の中はひどく騒がしかった。大統領が民主党のジョンソンから共和党のニクソンに代わったアメリカは、相変わらずヴェトナムで悪戦苦闘を続けていた。世界中でヴェトナム戦争に反対する学生が街頭に出て、警官隊と衝突していた。日本でもベ平連の運動が盛んであり、東大を始めとする大学紛争の勢いも、止まるところを知らなかった。学生運動は、高校や中学にも飛び火し、麻布の校庭でも時々学生の集会が開かれた。かつての級友の中に革命家がいて、運動の意義を熱心に説いたが、私は少しも共感を覚えなかった。若い時マルクス主義に染まらない奴はハートがないと言うそうだが、私は進歩的思想に魅力を感じたことがない。病気をして世の中から離れていたために、かぶれなかったのかもしれない。ヘルメットをかぶってマスクで顔を隠し、隊伍を組んでデモをするあの集団的自己陶酔が、いやだった。「ヴェトナムに平和を」という、誰も反対できないスローガンをかかげ、反米を唱えるのにも、うさんくささを感じた。友人たちがみな進歩的な雑誌を読んでいる時、私は創刊されたばかりの「諸君!」を読んでいた。復学の準備に勉強を見てくれた東大生が、「世界」とか「朝日ジャーナル」とか、もう少しちゃんとしたものを読んだらどうかと私に意見をしたほど、私の保守反動傾向は度し難かった。
その冬、麻布の校庭で、校長吊るし上げ事件というのがおこった。校長が一部の生徒に囲まれて、動きが取れなくなったのである。学校側は全学集会を約束させられ、騒然とした雰囲気になった。学校側を糾弾するクラス決議を記した看板が、次々校庭に立てられた。わがクラスでも、この動きに同調する輩がいたが、私は自分の年齢差をフルに利用し、「学園に秩序を」という正反対の決議を通してしまった。全学集会では、壇上でスト派を糾弾する演説をぶって、前に陣取ったヘルメット姿の学生から猛烈なやじを浴びた。麻布生なら誰でも必ず鍛えられた安楽《あんらく》という有名な体育の教師が、その時は中風で多少体が不自由になっていたが、私の手を握って喜んでくれた。不思議なことに、あれだけ騒いだ学園紛争で一体何が争点だったのか、記憶がない。麻布のみならず、日本中が熱病にかかっていたとしか思えない。私は独特の調子で演説をぶち、訳のわからない主張をして暴れる新左翼の連中や、アメリカを悪く言い文化大革命の中国を礼賛する進歩的文化人に対し、むやみに腹を立てていたが、ああいう元気な左翼がいなくなった今、多少の淋しさも覚えるのである。
翌年の春、私は慶応義塾高等学校へ入学した。麻布にいれば、そのまま高校へ進めたのだが、慶応にいた友人のすすめで、受験した。身体の弱い私が大学を受けずにすむ、多少家に近い、そして学園紛争に揺れる麻布の将来に不安を感じたのが、慶応に変わった理由である。麻布の先生も自信をなくしていて、君は慶応へ行ったほうがいいかもしれない、入学試験に落ちたら麻布へ戻りなさいと、快く内申書を書いてくれた。
こうして入った慶応だが、最初はあまりなじめなかった。校風が麻布と違うのである。麻布では勉強の出来る生徒が尊敬されたが、慶応では勉強をする者は蔑まれた。麻布では右も左も向きになって政治を論じたが、慶応高校生は非政治的で、関心はもっぱらいかに格好よく装い、スポーツに汗を流し、流行に遅れず、女の子にもてるかであった。病み上がりの私にとって、これほど苦手なことはない。歴史や政治の話なら、年齢以上に出来たが、誰も相手にしてくれない。目のつり上がった麻布の左翼学生も気に入らなかったが、軽佻浮薄な慶応ボーイたちとも親しくなれず、私は孤独を感じていた。
学校の掲示板に、ハワイ・ホノルル市プナホウ高校夏期留学の要項が貼りだされたのは、このころである。以前からアメリカへ行ってみたいと思っていた私は、教務課で更に詳細をたずねた。プナホウはホノルルの私立高校で、ハワイの有力者の子弟が通う学校である。この学校と慶応高校の間で、二年前から夏期交換留学制度が発足した。試験があって、それに受かった三十一人の生徒が、六週間プナホウの夏期講座で学び、ホスト・ファミリーと呼ぶ現地の家庭で生活する。慶応三高校の生徒の他に、沼津の女子校から数名、タヒチとミクロネシアの生徒が若干名参加する。大体そんなことがわかった。
高校生がアメリカへ留学するには、アメリカン・フィールド・サービス、通称AFSと呼ばれる有名なプログラムがある。毎年試験に受かった全国の精鋭が、全米各地へ散らばり、家庭へ入って、一年間地元の高校で学ぶ。外務省をはじめ、国際的な分野で活躍している人には、このプログラムの出身者が多い。中学に入ったころ、AFSでアメリカへ留学した女子学生の体験記を読んで、自分もいつか選抜試験に挑戦してみたいと思っていた。しかし病気をして、一年アメリカで暮らす自信がなかったので、結局受験しなかった。夏だけの留学なら、行けるかもしれない。父に話すと、私以上に乗り気であった。
「そりゃあいい、行け行け、ハワイならTさんもいるし」
五〇年代半ば、父と母はロックフェラー財団からアメリカへ招請された。横浜で客船プレジデント・クリーブランドに乗りこみ、一週間後に到着したのがハワイであった。戦争が終わってまだ十年、初めての洋行に緊張していた両親は、日系の人々に暖かくもてなされ、すっかりハワイが好きになった。だから息子にも、ハワイ行きを熱心にすすめたのである。
今でこそハワイに出かけるのは、九州へ行くのと変わらず、アメリカでホーム・ステイをする旅行も数多くある。しかしたった二十年前であるのに、高校生が一夏ハワイへ行くのは、送る側にとっても迎える側にとっても、それなりに珍しかった。私たちのハワイ到着が、ホノルルの新聞に小さく載ったほどである。その二年前、最初の交換留学生たちがハワイへ着いた時は、三段抜き写真入りの扱いであったそうだ。そして、この慶応とプナホウのあいだの夏期交換プログラムは、普通の夏期海外研修とは違い、その誕生までに、いささかの由来があった。
このプログラムの生みの親、慶応義塾大学法学部名誉教授清岡暎一先生は、福沢諭吉の孫で、「福翁自伝」を英文に訳した人である。若い時アメリカへ留学し、オハイオ出身の日系人を妻に迎えた。敬虔なクリスチャンで、塾の国際交流に熱心であった。ハワイ大学と縁が深く、戦後、高校をはじめ塾付属各校の英語の先生を毎年数人ずつ同大学へ留学させ、実地の英語を身につけさせた。そのプログラムが縁となり、プナホウで教えていたオーストリア出身のラムラー先生という人に出合った。清岡先生はこの人と、若者が異文化を体験することの重要性について、話し合った。ラムラー先生は、ニュールンベルグ裁判で通訳をつとめた経験の持ち主である。二人ともアメリカをよく知る枢軸国の国民として、戦争を体験した。また二人とも、言語の専門家である。若いうちに異なる文化と言葉に触れれば、人種的偏見を抱くのを免れ、異文化の受容が容易となるであろう。そうした経験を持つ人が増えれば、戦争も防げるだろう。感受性がもっとも強いのは、高校生の年代である。ハワイと日本の高校生を夏のあいだ互いに送り込んで、異文化にどっぷりつからせよう。二人はこう考えると、両国で根回しに奔走し、その結果正式にパン・パシフィック・プログラムという名の留学プログラムが発足したのは、一九六九年であった。それ以来ほぼ四半世紀近く、日本側では沼津や長崎の学生も加わり、またハワイ側ではプナホウ以外の全島の高校から学生が参加して、毎夏交換留学が続いている。日本の高校生がプナホウで、ハワイの高校生が慶応か沼津の学校で、数週間を過ごすのである。
私がこのプログラムに参加すると決めた時、父は海軍の遠洋航海についてしきりに言った。帝国海軍では明治以来、兵学校を出た少尉候補生が必ず遠洋航海に出て、若いうちに外国を見る機会を得た。海軍が比較的柔軟な物の考え方をし、陸軍のようにこり固まらなかったのは、遠洋航海によるところが大きいというのが、父の説である。これは清岡先生やラムラー先生の考えと共通する。「プナホウは、海軍の遠洋航海みたようなものだ。だから行ってこい」何でも海軍と関連づけて考えると、父は話がわかりやすいらしかった。さらに言えば、福沢先生自身が咸臨丸で太平洋を越え、アメリカを自分の目で見た最初の日本人の一人である。サンフランシスコで写真館に入り、そこにいた娘と撮った記念写真が残っている。若い諭吉にとって、アメリカに直接触れた影響は大きかったであろう。独立自尊という諭吉の考え方や、その後の彼の生き方には、頭で考えただけでない、アメリカ原体験の影響が見え隠れする。諭吉の孫である清岡先生は、プナホウ留学のプログラムを創設するにあたり、諭吉の考え方をどこかで受け継いでいたに違いない。因縁めくけれど、プナホウ側で受け入れに力のあったデイモン理事の曾祖父は、捕鯨船に救助されてハワイへたどりついた土佐の少年、ジョン万次郎を世話した宣教師であった。たった六週間の夏期留学であるが、プナホウ・プログラム誕生の背景に、これだけの歴史と思想があった。
もちろん当時の私は、このプログラムの背景など、何も知らない。親にすすめられ、いささか他動的に選抜試験を受け、三十一名の一人に選ばれると、すぐに夏が来た。就航して間もない日本航空のボーイング747へ羽田から乗りこむと、七時間後にはホノルル空港へ到着し、花の匂いのする、東京とはまるで異なる空気を胸に吸いこんでいた。私にとってあこがれのアメリカであり、もっと興奮してしかるべきであったが、病院を出てから六週間も家を離れるのは初めてで、元気いっぱいの他の高校生と一緒にやっていけるかと心配の方が先に立った。
空港から学校のバスでプナホウのキャンパスへ連れていかれ、日本人の生徒は世話になる家族に一人一人引き渡された。私を迎えにきたのは、スタイナー氏という弁護士と、まだ五歳の息子ジョニー君であった。ジョニーに「ハロー」と挨拶したが、ちらっと横目で見るだけで、相手にしてもらえなかった。学校から、車で高速道路に入り、ダイアモンド・ヘッドの向こう側、カハラという海沿いの住宅地にあるスタイナー家へ走る。アウカイ・アヴェニューという、海から二本目の通りにある家に着くと、大柄で太い声のスタイナー夫人が迎えてくれた。ジョニーにはジミーという十四歳の兄と、スージーという十歳の姉がいた。みなあまり愛想がよくなく、子供たちは私を放っておいて、勝手にテレビを見ていた。夫人に促されて、スージーが私を近くの公園へ連れていってくれた。天気が変わりやすく、海に面した公園まで来ると、ぽつぽつと雨が降りだした。夏のハワイの雨は、濡れてもすぐに乾くのだが、腎臓病をやった私は雨に濡れてはいけないという固定観念があって、スージーを引っ張ってすぐ家に帰ってきてしまった。長い飛行機の旅で疲れていた。その上何だか愛想の悪い子供たちで、心細かった。それなのに何とその晩スタイナー夫妻は、外に出かけるという。夕食は子供たちと、マクドナルドへ連れていかれた。信じられないことだが、一九七一年には、日本にマクドナルドがまだなかった。英語式発音で「クダヌル」へ連れていくと言われても、何のことか、わからない。ようやっとハンバーガーを食べさせる店だと理解したので、何が欲しいか聞かれると、ただ「ハンバーガー」と答えた。ミセス・スタイナーが、「それだけ、フレンチ・フライは」とすすめてくれたが、それがまた何だかわからない。何かフランス風の揚げ物だろうと思ったから、要らないと答えた。出てきたのは、ひどくうすっぺらい、小さなハンバーグを、丸パンにはさんだものである。申し訳なさそうに、薄切りのピックルスが一つはさんであった。ジミーたちは、ビッグ・マクとかクォーター・パウンダーとか、おいしそうな物を食べている。しかし、今更もっと欲しいとは言い出せない。その晩は不安と緊張と空腹で、こわい夢を見た。今になって思うと、あれはアメリカに着いたその日に得た、最初の教訓であった。アメリカで何か欲しいものがあったら、はっきりそう言わねばならないのである。
こうして六週間の私のハワイ生活が始まった。前半はスタイナー家、後半は歯科医のジョージ家に寄宿し、毎日プナホウへ通って、語学とアメリカ文化の講義を受けた。午後はフィールド・トリップと称して、色々なところへ見学に出かけた。プログラムの半ばには、ハワイ島の寄宿学校で十日間の合宿をした。私は、目を大きく見開き、一つとして見逃すまいとして、毎日を過ごした。今でもあの六週間の一瞬一瞬を、まるでたった今の出来事のように、思い出せる。スタイナー家の朝、ベッドの中でまどろみながら聞いた、山鳩の鳴声。初めて口にしたグアバジュースの味。コーヒーカップを片手に、アロハシャツを身に付け、愛車ムスタングで出勤するミスター・スタイナー。プナホウの図書館の前で言葉をかわした、アメリカ風に本を小脇に抱えていた中国系の美しい少女。彼女の長い髪にあたった陽の光。午後プナホウのキャンパスにさっと雨が降り、すぐに上がった後の小さな虹の煌めき。ホノルル美術館の開けっぱなしの回廊にかかっていた、ホイッスラーの絵。ミクロネシアの女学生が、日本人の男の子を好きになって、みんなを呼び出し、求愛の歌をうたって聞かせた午後。ジョージさんに連れていかれたステート・フェアと呼ばれる州の祭りで、家族とはぐれたイノウエ上院議員をみかけ、戦争で右手を失ったセネターと左手で握手したこと。ハワイ島カムエラの寮で、冷たい空気に震えながら見上げた天の川。ほのかな好意を抱いた女子高生が、私の親友と仲よくなって、二人で寮を出ていった夜。その時々の光の具合、体の調子、空気の匂い、周囲の音が、鮮明によみがえってくる。
高校生が三十人、一夏ハワイで暮らして、楽しくないわけがない。はたから見れば、金銭的に恵まれた、どら息子、どら娘のお遊びに見えたかもしれない。しかし私も含め、この年参加した仲間たちは、今から思うと微笑ましいほど、真剣に遊び、語り、恋をし、学んでいた。そして私たちは、完全にハワイにかぶれてしまった。たった六週間しかいないのに、自分たちをハワイの人間だと思いはじめていた。清岡教授やラムラー先生のねらいが、若者による異文化のトータルな受容にあったとすれば、大成功だったといえよう。ある者は、タヒチからやって来た娘と恋をして、その後一年間、タヒチ・タヒチとうわごとのように繰り返した。ある者はハワイに残ると言い出し、翌年本当にプナホウへ正規に留学してしまった。ある者は十年間、腕時計のハワイ時間を元へ戻さなかった。ある女子高生はタヒチの友達と仲よくなって大学でフランス語を学び、今はフランス人のホテル経営者と結婚してタヒチに住んでいる。またある者はミクロネシアから来ていた学生を訪ねて、トラック島まで出かけていった。ある者は六週間八ミリのカメラを回し続け、私たちの夏の貴重な記録を残した。
六週間が終わりに近づくと、みなひどく悲しがった。最後の小グループ授業の時、私の目の前で、ある女の子が大粒の涙をこぼしはじめた。先生も言葉がつまり、私たちを促すと、何も言わずに外へ出た。肩を組んでキャンパスの芝生をじっと見つめながら、この景色を絶対に忘れまいと決めていた。ホノルル空港を発つ時には、男の子も女の子もみなわんわん泣いて、他の観光客に不思議がられた。
あれから二十年たって、どうしてあれほどかぶれてしまったのか、不思議な気がする。みな若かった。みな何も知らなかった。一九七一年の夏、日米間では、ふたつのニクソン・ショックが両国関係を揺すぶり、雫石では全日空の飛行機が落ちて、たくさんの人が死んだ。しかし、私たちは、それら現実の世界から遠いところで、夢を見ていた。どんな夢も、いつかは覚める。この経験をただの夢で終わらせたくない。またアメリカへ来よう、アメリカに来てこの国のことをもっと知ろうと、六週間が終わるころ、私は心に決めていた。自分の将来についてこれほどはっきりと考えたのは、いつも病気に怯えていた私にとって、初めてであった。ハワイに六週間いるうちに、病気で縮こまっていた私の中の、何かがほころびて溶けた。アメリカへ再び帰ってきたい。プナホウで見た夢は、私に新しい目標と希望と、それを実現する力を与えてくれた。
ハワイ島の高原で、ミクロネシアの学生たちと一緒に読まされた、ロバート・フロストの詩がある。ニューイングランドの冬、雪に覆われた深い森の中で、橇を止めてしばし物思いにふける。
The woods are lovely, dark and deep.
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
森は気高く、暗く、奥深い。
しかし、私はここに止まるまい、
果たすべき約束あるがゆえに、
そして行く手はまだ遠きがゆえに。
みんなで詩を読んだあと外へ出ると、そこはさんさんと陽の光が溢れ、雪のニューイングランドとは似ても似つかぬ景色であった。いつか、ここから遠く離れた、全く異なるアメリカを見にいく機会があるだろうか。そこはどんなところであろうか。目の前の景色と、詩の中の景色との対照にいささかとまどいながら、私はまだ見ぬアメリカ本土に、思いをめぐらせた。
霧のサンフランシスコ
飛行機が着陸態勢に入るため、翼を傾けたのを体で感じて、私は眠りから覚めた。いつの間にかまどろんでいたらしい。ハワイを飛び発って、すでに五時間近く経っている。着陸の準備のために、スチュワーデスが慌ただしく通路を行き来する。夜が明けて、窓から淡い光が差し込んでいた。通路側の席から身を乗り出して外をのぞくと、カリフォルニアのたおやかな山々が、霞をたなびかせている。初めて目にした、アメリカ本土の大地である。ユナイテッド航空のジャンボは、ゆっくりと降下を続け、脚を出し、さらに速度をゆるめると、カリフォルニアの朝の光の中を、サンフランシスコ国際空港に着陸した。
私は慶応義塾大学の法学部政治学科に進み、神谷不二教授が指導する国際政治のゼミで勉強していた。アメリカはニクソン政権の時代で、キッシンジャー博士が華やかに活躍していた。米ソ間のデタントということが論じられた。世界は相変わらず二つの超大国を中心に動いていたが、ニクソン訪中以来、中国が少しずつ国際社会に姿を現わしていた。日米間の経済摩擦も、起こりはじめていた。国際政治の勉強を通じて、私たちは激しく動く世界を理解しようとしていたのだが、三田の山の上の、小さな汚い教室で我々が議論しても、世界の大勢にこれっぽっちも影響がないのが、なんだかおかしくて、むなしかった。アメリカでは、キッシンジャーやブレジンスキーのように、学者も実際の政治や外交に参画できるらしい。霞を食って生きているような慶応の教授の多くと比較して、羨ましく思った。
紛争が終わり平穏さを取り戻した大学の生活は、学校を出た後何をするかについて、思い悩まねば、楽しいところであった。友人と喫茶店で、何時間も他愛のない話をした。大学というこの奇妙なモラトリアム期間が終わったら、みな従容として会社という現実の世界に入るのを、当然としていた。私は、自分の将来をまだはっきり考えていない。大分元気になったとは言え、サラリーマンとしてバリバリやる自信はない。大学に残って研究者になるつもりだが、大学の先生になるほど勉強が好きかどうか、わからない。何か大きな志がある訳でもなく、このまま何もしないと、年月はすぐに経っていってしまいそうであった。
将来何をするにしても、いつかアメリカへ行きたい。そのためには英語の力をつけておく必要がある。ずぼらなくせに、英語の勉強だけは熱心で、大学の授業の後、会話の学校へまめに通った。神田神保町にある英国系の英語学校で、BBCのテープを繰り返し聞き、一所懸命イギリス英語の発音を真似た。毎夏ハワイの高校生受け入れを、慶応高校の学生たちと手伝った。英検やTOEFLといった、英語の検定試験を受け、多少成績がよくて、気をよくした。アメリカへ行く準備は、少しずつ整っていた。
アメリカへ渡る機会は、大学三年(一九七五年)の春のある日、思いがけなく私の前に姿を現わした。三田の掲示板に、米国ジョージタウン大学留学生募集という、告知が貼りだされたのである。米国の首都ワシントンにあるジョージタウン大学外交学部と塾のあいだで、交換留学制度が発足する。授業料、生活費、往復の旅費が文部省の外廓団体から出る。派遣される学生は一名。希望者は大学の国際センターに申し込みの上、いついつ南校舎何番教室で試験を受けること。ただで一年アメリカへ行けるという、うまい話である。おもしろそうだ、試験を受けてみよう。私はそれほど深く考えもせず、三田の山の片隅、イサム・ノグチの彫刻が飾ってある国際センターへ、すぐ申し込みに行った。
試験当日、会場にあてられた大教室に入ると、六十人ほどの学生が静かに着席して待っている。みな真面目そうな男女である。私の仲間には内部進学者が多くて、彼らはちっとも勉強しなかったが、外から受けて入った学生には、勉強熱心なのがいる。この試験会場には、どの授業でも最前列にすわり、細かい字で熱心にノートを取る、そんなのばかりが集まっていた。高校生の時AFSでアイオワに留学した、英語の達者な同じゼミの女子学生もいた。これはかなう訳がない。慶応高校から無試験で大学へ進み、この手の試験にからきし自信のない私は、すぐにあきらめた。答案用紙が配られ、英文読解の問題に適当な解答を書くと、時間前にさっさと提出した。それほど簡単にはアメリカへ行けないものだなあと、妙な感心をしながら教室を出た。三田の山の上は、春の日差しが明るくて、すがすがしかった。
数日後、国際センターから電話があった。ジョージタウンへ行く学生に選ばれたのは、私であった。AFSの女子学生は次点で、メリーランド大学へ行くという。真面目そうな割に、外部から来た学生はそれほど英語が出来ないらしい。多少得意な気がした。同時に私は、初めて真剣に留学について考えはじめた。すでに病気で三年遅れている。一年留学すれば、四年遅れることになり、普通の就職はできない。特に就職したいわけではなかったが、就職できなくなるのも困る。思いあぐねて、神谷不二先生の所へ相談に行くと、
「まあ、乗りかかった船と言うじゃないですか。行ってらっしゃい。大学院に残るのなら、行って決して損はない。大いに勉強していらっしゃい」
そうか、乗りかかった船か。先生はうまいことを言うものだ。あまり思いつめずに、留学してみよう。気持がふっきれると、私は初めてワシントンの地図を引っ張りだし、ポトマック川の畔にあるジョージタウン大学の位置を確かめた。留学が楽しみになってきた。
その夏は、ハワイ留学以来の友人や、ゼミの仲間と、一緒に遊んだ。湘南へ出かけて泳いだ帰り、鎌倉の神社の境内で子供たちが浴衣姿で漫画映画を観ているのに紛れこみ、こういう風景はしばらく見られないなと、感傷的になった。船の好きな私のため、横浜の波止場までドライブに連れていってくれた友人が、車の中で荒井由実の「瞳を閉じて」を聴かせてくれた。何だか一足先に、私だけ大学を卒業するような気がした。
つきあっていた女の子とは、別れた。彼女は泣いて、私の気持は落ちこんだ。その子とは別に、ハワイ留学以来憧れていたのに相手にしてもらえない人がいて、無理やり会ってもらった。気持の整理をして、アメリカへ発ちたかった。先生や親戚に、挨拶をしてまわった。八十を過ぎて体が弱っていた母方の祖母は、淋しそうな顔をした。その春、京都まで墓参りに連れていって、よかったと思った。二人で訪れた、円通寺や法然院の庭が思い出された。
出発の夜、羽田には大勢の友達が送りにきてくれた。誰かが日の丸の旗を持ってきて、みながそれに一言ずつ書いた。まるで出征兵士であった。エンジンの故障で出発が遅れたのに、ゼミの友人が三人、いつまでもジャンボの搭乗口近くに立って、見送ってくれた。友というのは、いいものだと思った。
文部省から貰った正規料金の切符は、経路選択が出来たので、私はまずハワイへ寄った。高校生のとき世話になったジョージ家に転がりこんだ。プナホウを訪れると、高校の後輩たちが四年前の私たちと同じように、勉強していた。あの夏以来仲のよいコックスという先生が、餞別にペーパーバックの英語の辞書をくれた。この辞書は留学中ぼろぼろになるまで使った。両親が最初にハワイを訪れて以来世話になっている、日系人のTさんを訪れると、植木を世話する手を休め、日本式に餞別を包んで私に渡すと、
「勉強せんでもいいから、友達をたくさん作っていらっしゃい」
としきりに言った。Tさんは、日系人で初めてハーバード・ビジネス・スクールに学んだ人である。勉強ばかりしていた自分の学生時代を振り返っての言葉であったのだろう。
こうしてのんびりハワイの知人や友人と会っている間に、アメリカ本土へ発つ日が来た。空港までは、やはり四年前プナホウで世話になったアップショーという先生が、送ってくれた。彼は奥さんと別れたばかりで気落ちしていたのに、精一杯陽気に振る舞い、搭乗口へ向かうバスに乗りこんだ私を、大きく手を振って見送ってくれた。ハワイの人は、相変わらず親切であった。出来ればこのままずっとここにいたい、私はそう思った。
知り合いの姿が視界から消えると、私は急に一人ぼっちになった。周囲を見まわしても、本土へ帰るアメリカ人の観光客がほとんどで、先程まで見かけた日本人の姿はない。搭乗の案内も早口の英語で、聞き取りにくかった。考えてみれば、これまでのアメリカ体験は、常に友人や、先生や、知り合いと一緒であった。私はただ与えられる経験を、素直に消化していれば済んだ。アメリカで本当に一人きりになったのは、これが初めてである。これからは全部自分でやらねばならない。楽しそうに騒ぐ家族連れを見ながら、私はそう思って緊張した。白人のスチュワーデスが、身につけたムームーにまるでそぐわぬスピードで、てきぱき食事を配りはじめた。プラスティックの食器に載せられた、一輪のハイビスカスの花が、後にしてきたハワイを偲ばせた。時々流される機内放送の英語を、聞き取ろう聞き取ろうと努力しているうちに、私は疲れて眠りこんでしまった。
サンフランシスコの空港へ着き、飛行機を出ると、夏だというのに空気が冷たくて驚いた。地上で飛行機の腹から荷物を降ろしている黒人の青年は、ジャンパーを着て働いている。サンフランシスコでは、夏寒く冬暖かいのを、私は全く知らなかった。移民官にパスポートと東京のアメリカ大使館でもらった学生ビザと、ジョージタウンから送られてきたI―20という書類を見せると、簡単に入国審査は終わった。
「ジョージタウンへ行くのかい」
係官は私の行く学校を知っていた。少し元気が出た。
税関を検査なしで通過し、外へ出ると、そこは誰も知人のいない、右も左もわからない、見知らぬ世界である。バークレーというところまで行かねばならない。方々でたずねても、行き方がよく理解できない。どうも途中で乗り換えねばならないらしい。全てがおぼろげに、わかったようでわからないようで、はっきりしない。英語は多少出来るつもりだったのに、まるで役に立たない。どうも聞くほうの理解力と、教えるほうの親切度と、両方問題があるようであった。その後、ワシントンでもニューヨークでも、相手が何を言っているのかまるで聞き取れないという経験を、数限りなくした。質問が出来ても、答えがわからない。本で勉強したのでは、街の英語はとうてい歯が立たないのである。バスの運転手や、地下鉄の車掌が言っていることを満足に理解できるようになるまでには、何年もかかった。
何とかダウンタウン行きのバスに乗って、空港を離れる。バスはフリーウェーに入り、スピードを上げて走りだした。丘の上に白い家が、マッチ箱のように立ち並ぶ。「サンフランシスコは、それはきれいな町よ」と母に聞かされていたが、それほど美しいとも思えなかった。バスは、フリーウェーを下りて、ダウンタウンへ入っていった。日本の町と違い、人影が少ない。歩いているのは、貧しそうな老人ばかりである。日曜でオフィスが閉まっているせいかもしれないが、ひどくさびしい光景であった。
ベイ・ブリッジのたもとにあるバスターミナルに着き、荷物を引きずって、バークレー行きのバス乗り場を探す。サンフランシスコの夏の朝の空気は冷たく、外へ出るたびに薄着の私は震えた。ようやく見つけて乗りこんだバスは、ターミナルを出ると長い長いベイ・ブリッジを渡って、対岸のオークランドへ向けて走りだした。ピーター・ポール・アンド・マリーの歌で、この橋については知っていた。途中の島をはさみ、走っても走ってもまだ終わらない、本当に長い橋であった。遠くにゴールデンゲート・ブリッジが望まれる。橋を渡りきると、バスは次々停留所に停まり始め、私は不安になった。隣にすわった若者に、インターナショナル・ハウスへ行きたいのだがとたずねると、心配するな、自分も同じ所で下りるからと言ってくれ、ほっとした。バスは落ち着いたたたずまいの町へ入り、そこがバークレーであった。いくつ目かの停留所で若者と一緒にバスを下り、少し歩くと、目指す建物があった。若者は一緒に歩きながら、何だか意味不明なことを、一人でつぶやいている。いったい彼は何を言っているのだろう。その時はっと思いあたった。この男性は麻薬でラリッているのである。時は一九七〇年代の半ば。昼日中、麻薬をやっている人が歩いていても、バークレーという町ではさほどおかしくなかった。
インターナショナル・ハウスは、カリフォルニア大学へやってくる各国の学者や学生が宿を借りるところである。落ちついた美しい建物であった。中へ入ると緑に囲まれたパティオが目に入った。受付で名乗ると、私のために部屋が用意してあった。共用のあけっぴろげのシャワーで、やや戸惑いながら裸になり、勢いよく吹き出すシャワーの湯で旅の汚れを流すと、私は寝巻に着かえて、ベッドに入った。小さな部屋であった。緊張と寝不定で疲れ切っていた私はそのまますぐに眠りにつき、夜まで一度も起きなかった。
目が覚めると、すでに夜の八時を過ぎていた。ベーコン夫人から、起きたら連絡してくれとのメッセージが届いている。荻窪の病院で三ヵ月をともに過ごしたベーコンさんが亡くなった後、夫人から、アメリカへ来る機会があったら是非立ち寄ってくれ、故人の思い出を一緒に語りたいからと、何度か手紙で言われていた。アメリカ留学が決まった時、私はそれを思い出して、ベーコン夫人へ手紙を出し、バークレーに立ち寄ることにした。生きていれば私の留学を一番喜んでくれたであろうベーコンさんの、墓参りのような気持があった。
電話をすると、ベーコン夫人はすぐにインターナショナル・ハウスへ来てくれて、二人は外へ食事に出た。人気のない日曜日の夜のバークレーの町を、車で走り、ようやくまだ開けているコーヒー・ショップを見つけ、おそい夕食をとった。東京と比べると、いやホノルルと比べても、道が広くて、暗くて、人影がない。コーヒー・ショップの中も、閑散としていた。
ベーコン夫人と私は、もっぱら亡くなったベーコンさんの話をした。もっとも、それ以外、この中年の婦人と私の間に、共通の話題はない。日本での入院生活のあとアメリカへ帰ったベーコンさんは、ここバークレーで東洋美術の勉強を続けた。そのころ彼は、インターナショナル・ハウスで働いていた彼女と知り合い、結婚したのである。共通の趣味と関心を持ち、落ちついて話の出来るすばらしい女性に巡り合ったと、ベーコンさんが手紙に書いてきたのを覚えている。ベーコン氏自身がとめどなく話のつきない、疲れを知らない人だったので、彼が恋に落ちた女性も、きっと知的で洗練されていて、話題の豊富な女性だろうと思っていた。亡くなる前に夫婦で東京へやってきた時、一度会っていたが、その時は夫君とばかり話していて、印象がなかった。しかし、こうして目の前にすわっている女性は、中年と言うよりは初老に近い、ずいぶんとくたびれた、これといって特徴のない人物だった。
ひとわたり故人の思い出を交換し終わると、会話は途切れがちになった。ベーコンさんとなら、言っていることがわからなくても、何時間でも話が続いた。目が、手が、肩が、頭が、全身が私に話しかけてきた。一体あのベーコンさんが、どうしてこの人と恋に落ち、結婚したのだろう。私は腑に落ちなかった。私の目の前にすわっている人は、恋愛などにはまるで縁がなく、段々年をとって化石のように堅くなっていくタイプの女性に見える。その女性が、どういうわけか求愛され、祝福されて結婚し、一年後に夫は黄泉《よ み》の国へ旅立ってしまった。今の彼女にとって、亡くなった夫と暮らした短い時間が、人生の全てなのだろう。ベーコン夫人であったという以外、彼女は私に何も話すことがなかった。未亡人という言葉がこれほど似合う人に、私は会ったことがない。私はベーコンさんが生きていてくれたらどんなによかっただろうと、残念に思った。
ベーコン夫人と会って二時間で、私のバークレー訪問の目的は、十二分に達成されたのだが、わたしはこの町に二泊することになっていた。翌日彼女は、時間をやりくりして、大学を案内してくれた。映画「卒業」に出てくる、美しいキャンパスである。初めて見るアメリカの大学であった。ジョージタウンのキャンパスもこんなかしらと思った。夜は、ベイ・ブリッジを渡って、車でサンフランシスコの町へ案内してくれた。ロンバルディ・ストリートの曲がりくねった坂道を通り、中華街を歩き、ケーブルカーに乗り、ゴールデンゲート・ブリッジを望み、アルカトラス島を眺めた。霧が出てきて、空気が冷たい。全ては観光案内どおりのサンフランシスコであった。いたる所で、「サンフランシスコは恋人たちの町」と書いたバッジを売っていた。冷たい霧が丘を包むと、恋人たちは身を寄せ合う。確かにそんな雰囲気の町である。その町を、大学生の私は、初老の夫人と、とぼとぼ歩いていた。若い男女の二人連れが、羨ましかった。
私たちは最後にフィッシャーマンズ・ワーフに立ち寄り、食事をすることにした。海沿いにいくつもシーフードのレストランがある。ベーコン夫人は、一軒一軒表に出ているメニューを見て、ここは高い、他にしましょうと、ぶつぶつ言いながら、なかなか入らない。五軒程、そうやって検分すると、しまいにレストランは高すぎるという結論に達し、波止場に並ぶ立ち食いのカウンターですませることになった。この人はお金に困っているのだろうか、それとも単に吝嗇なのだろうか。私は疲れと空腹で、次第に言葉が少なくなった。二人は気持の弾まぬままに、再びベイ・ブリッジを渡り、バークレーへ戻ってきた。
翌日の朝早く、私は空港でベーコン夫人と別れた。また是非いらっしゃい、ええ是非。しかし私は、この人とまた会うことは多分ないだろうと思っていた。彼女が嫌いだったわけでもなんでもない。ただ、彼女と私の間には、あまりにも共通点がなさ過ぎた。唯一、二人をつなぐベーコンさんについていくら話しても、彼が生き返りはしない。ベーコンさんのことは、それぞれが心の中で大切にしておくのがよいだろう。そして、私はいつか、愛する人を見つけてこの町へ来よう。
こうして私は、アメリカ本土で初めて土を踏んだ町を後にした。
バーナゲートの海岸にて
サンフランシスコから乗ったのは、TWAのワシントン直行便であった。機種はボーイング720。もう今は見かけない、707を少し小さくした、四発のジェット旅客機である。私は窓側に席を取り、食い入るように外を観ていた。天気がよくて、アメリカ大陸の地形が手に取るように見えた。カリフォルニアの山と平原がロッキーの峨々とした山脈に代わり、中西部の大平原がやがて東部の森に変化していった。それにしてもなんと大きな国であろう。途中どこにも着陸せず、ジェット機で五時間飛び続け、ようやくワシントンはダレス国際空港に到着した。
ジョン・フォスター・ダレス国際空港は、冷戦の歴史を学んだ者にはなつかしい、アイゼンハワー政権の国務長官の名を冠した空港である。飛行機がエプロンの真ん中まで進んで、エンジンを停めると、モービル・ラウンジと呼ぶ芋虫のお化けのような乗り物が飛行機に近づき、ドアをつないで乗客を移乗させる。乗客を乗せた芋虫は、ゆっくりと飛行機を離れ、ターミナルまで走り、客を下ろす。今日では敷地の真ん中に、飛行機が直接横づけする変哲のない普通のサテライト・ターミナルが建って、ダレス空港もあまり他の空港と変わりがなくなってしまった。芋虫は主にメイン・ターミナルとサテライト・ターミナルの連絡用に使われている。しかし一九七五年の八月、私がダレスに着いた時は、飛行機とターミナルを直接結ぶこの芋虫システムが、まだ頑張っていた。
高度一万メートルの上空からダレス空港に降りたち、飛行機のドアが再び開くと、湿気の多いワシントンの生暖かい空気が流れこんできた。五時間前、サンフランシスコの冷たい空気に震えていたのが、嘘のようである。モービル・ラウンジに乗りこみ、珍しさにきょろきょろしているうちに、ターミナルに着いた。扉が開いて、人の流れに身を任せながら外へ出ると、麻の背広の上下を着てネクタイを締めた一際大柄な紳士が、大きな紙を頭上にかかげて立っていた。「ワシントンへようこそ、ミスター・アガワ」。私を迎えに出てくれた、マルキン博士であった。博士は私を見つけると、あいさつもそこそこ、バッゲージ・エリアに私を連れていき、すでに回りはじめているコンベヤー・ベルトから荷物を取るのを手早く手伝ってくれた。「一つずつ握りを持って一緒に運ぼう、どちらか一人が持つより、ずっと軽くなるから」と言って、スーツケースのハンドルをつかむと、さっさと駐車場に向かって歩きはじめた。この間ほんの五分。おそろしく無駄のない人であった。
ドクター・マルキンと会うのは、これが初めてである。東京を発つ前、知り合いの家で出合ったハーバードの学生マーサが、「ワシントンに留学するのなら、パパに迎えにきてもらうといいわ」と言って、両親に手紙を書いてくれた。それでわざわざ空港まで来てくれたのである。娘に言われて、見ず知らずの日本人を出迎えに空港まで出向くなんて、なんて親切なんだろう。私はたいへん有り難く思った。
マルキン先生は、私と荷物を車に乗せると、一路北へ向かって走りだした。もちろんその時の私は、どちらに向かってどこを走っているのか、まるでわかっていない。ただ、空港の周りの空間の広さに、感嘆していた。広い真っすぐな道路の両側に、森が続く。ほとんど家がない。今日ダレス空港の周囲は、ずいぶん建物が増え、発展している。しかし、ほんの十七年前には、一面の森で、何もない所に一筋空港へ向かう高速道路が伸びていた。その高速道路を、私はマルキン先生の車に乗せられ、ワシントンの北郊、ベセスダという町へ向かって、走った。
マルキン家は、林の中の静かな住宅地にあった。鳥がさえずるのと、時折ワシントンのもう一つの空港、ナショナル・エアポートへ降りるボーイング727が、ゆっくりと頭上を横切る以外、何も音がしない。それにしても、何と大きな家だろう。高い木が、周りをぐるりと囲んでいる。隣の家は、はるかかなた、木立の向こうである。玄関の前には芝生が拡がり、反対側にも広い庭がある。手入れが行き届いた家の中は、ひっそりと静まりかえって、人の気配がない。夫人と息子のピーターは、夏の別荘へ出かけて留守だった。煖炉の上に、東京で会ったマーサの写真と、スペースシャトルの大きな模型が飾ってある。
「ここが、とりあえず君の部屋だ。シャワーにでも入って、支度ができたら降りてきたまえ」
台所の横の階段を昇り、二階へ案内すると、マルキン先生はこう言って、私のかばんを床に下ろした。大きな平屋の、ここだけが階上である。部屋の天井は屋根の勾配に沿って斜めに落ちていて、なるほどこれが屋根裏部屋かと思った。屋根裏といっても、中は広い。一角にバスルームがあり、アメリカ式の厚くて大きなバスタオルが置いてある。ツインのベッドには、マーサが作ったという、パッチワークのカバーがかかっている。屋根を切り取って作った二つの出窓から、家の前の芝生と、高い木々と、道路を隔てた隣家がよく見えた。ここはマーサの部屋だという。マーサと彼女の友人の写真が、壁にいくつも貼ってあった。
シャワーを浴びてさっぱりして、下へ降りていくと、マルキン先生は何か飲むかいと私にたずねた。酒は飲まないが、何か甘くないものが欲しいとこたえると、じゃあこれを飲みたまえと言って、棚から一つビンを取り出した。冷蔵庫から氷を手でつかんで大きなコップに入れ、ビンの栓をひねって開けてコップに注ぐと、ライムの切れ端を落として、私に渡した。トニック・ウォーターという飲み物だという。ヘアトニックを連想して気味が悪かったが、口にしてみると、甘苦い味がさっぱりしてうまかった。先生自身はワイングラスを手につかみ、二人は庭のポーチに出て、いすに腰かけた。外は陽が大分傾いて、暑さがやわらぎ、凌ぎやすくなっていた。
「それで君は何が専門だい」
先生は、チーズを勧めながら、私にたずねた。
「国際関係論です」
「国際関係論というと、米ソ関係とか、軍縮とかかい」
「そうですね、冷戦の歴史も、核戦略も、少し勉強しました。ICBMとかMIRVとか」
「MIRVなんて知っているのか。あれはなかなか難しくてね」
先生はミサイルの打ち上げ速度や、多核弾頭ミサイルやら、タイタンロケットの構造やら、何気なく説明してくれる。専門的な話題をわかりやすく説明して、無駄がない。頭の回転が速い。まるでチェスの対局をしているようであった。
「この間、マイクと話していたら、宇宙から地球を見ると……」
「マイクって誰ですか」
「マイケル・コリンズだよ。知っているだろう、アポロ11号に乗組んで月へ飛んだ」
この人は宇宙飛行士とも、知り合いらしい。東京でマーサから、「うちのパパは、NASAのスペースシャトル計画の長官なの」と聞いてはいたが、何をする人か、ピンと来ていなかった。知らないうちに、私はアメリカの宇宙開発計画の第一人者と、ワシントン到着早々、向かいあって話していたのである。ロケットに詳しいのは、当たり前であった。
マルキン博士は、鉄鋼の町、オハイオ州ヤングスタウンの、貧しいユダヤ人移民の家に生まれた。高校へ通う学資も、製鉄所で働いて、自分で稼いだ。少しでも多く金を稼ごうと、ある時三食分の弁当をもって三交替ぶっ続けで働き、疲労のあまり倒れたそうだ。戦争が始まり、海兵隊に入って、硫黄島上陸作戦に参加した。まだ十九歳であった。その時の経験を、先生は語らない。
「ジャスト・オーフル(ひどかった)」
と言うだけである。
除隊して、GIビルという軍隊経験者のための奨学金をえて、エール大学へ進んだ。製鉄所で働いたと同じ勢いで、物理学に取り組み、二年で学部を終え、それから三年で博士号を取得した。ニューヨークからやってきた医学生ジョスリンを見初め、彼女にボーイフレンドがいたにもかかわらず、強引に口説き落とし、結婚した。のちにマルキン夫人に聞いたところだと、他人とデートしていてもなんでも、かまわずついてきたのだそうだ。この人は、努力すれば不可能なことはないと思っているらしかった。
大学を出て以来、マルキン先生は核物理学、宇宙工学の道を歩んだ。スタンフォード大学のサイクロトロン設計に参画し、宇宙の実験室スペースラブ計画にも携わった。GEに勤めて核ミサイルの設計をし、国防省に勤めたこともある。娘のマーサによると、家族にも話せない仕事をしていた時期があるそうだ。だから、軍事関係の仕事を離れ、スペースシャトル計画の責任者に任命されて、ほっとしているらしかった。
貧しい家に生まれて金がなくても、能力があって努力すれば、必ず成功する。筋道を立てて、冷静に計画を練れば、人生はうまくいく。マルキン先生は、その大きな体を、自らの成功で裏打ちした自信で、みなぎらせている、ただならぬ人物であった。
その夜、博士と私とは、ジョージタウンの町へ出て、ネーサンというイタリア料理の店で食事をした。ウィスコンシン・アヴェニューとMストリートの角にある、ワシントンで初めて食事をしたこの店は、浮き沈みの激しいワシントンのレストランの世界にあって、十七年後の今日も変わらぬ店構えで、商いを続けている。私は食事をしながら、ジョージタウンの町を行き交う人の流れに、目を奪われていた。サンフランシスコの光景と比較して、夏の空気の暑苦しさといい、人々の陽気さといい、ずっと東京の繁華街に近いように思えて、この町に好感がもてた。明るい気分は、目の前にすわっている、話題のつきない、上機嫌の博士が発するものだったかもしれない。初めての町なのに、不安に感じなかった。ワシントン生活も、悪くないかもしれない。緊張がほぐれ、私は少し快活になった。
帰り道、博士は程近いジョージタウン大学へ車を向け、構内を案内してくれた。しばらくして駐車場のような所に迷いこんでしまった。高さも形も異なる建物が、雑然と並んでいた。バークレーと比べ、あまり美しくない。私が考えていることを察したか、先生は、
「ホッジポッジ(ごった煮)みたいな大学だなあ。いいかい、ナオ、我が家じゃ、アメリカに大学は二つしかないって言ってるんだ。家内と私の通ったエールと、マーサが在籍するハーバードとね」
こう言うと、先生はハンドルを握ったまま私の方を見て、にやりとした。これからジョージタウンへ行こうという私には、あんまりな言葉だったが、そう言われればそんなものかとも、思った。
マルキン先生は、終始上機嫌であった。いつもこんな風なのか、それとも私を気にいってくれたのか。ともかく、このおそろしく頭が切れて元気のよい先生は、今のところワシントンで、唯一の知人である。マルキン家の大きな家に戻り、二階にあがると、私は安心して、ベッドに入った。あおむけになると、目の上で、天井が斜めにかしいでいて、それを見ながら、やがて私はぐっすりと寝入った。
翌日、寝坊をして遅く起きると、マルキン先生はもう出かけたあとだった。マリアという、エルサルバドルから来た家政婦が、家の中をきれいにしていた。昨日にもまして、広く感じられる家の中は、ひっそりと静まり返っている。午後になって身支度をすませ、先生に言われたとおり、表通りまで歩いて、ワシントン行きのバスに乗った。と言ってもすぐに乗れたわけではない。まずバス停を探す。日本のバス停留所を想像していると、いくら探しても見つからない。美観を考慮してか、目立たないサインが一つぽつんと立っているだけである。乗る場所がわかっても、バスが来ない。この国では郊外の住人はみな自分の車で動きまわるから、昼日中バスに乗るのは、老人や貧しい人が多い。乗客も少なく、一時間に何本も来ない。ようやっと来ても、料金の払い方がよくわからず、まごまごする。黒人の運転手にたずねても、何を言っているのか、わからない。
「このバスはワシントンのインディペンデンス・アヴェニューまで、行きますか」
と質問出来ても、答えが理解できない。まごまごしていると、運転手はドアを閉めて、走り去ってしまう。こうして一台、バスに乗り損ねた。黒人の多いワシントンで、彼らの言っていることが満足にわかるようになるまでには、あとあとずいぶん時間がかかった。
ようやくめざすバスに乗りこみ、ワシントンへ向けて走りだす。バスは郊外の広々とした住宅地から、やがてワシントンの町中へ入っていく。乗客に何度もたずねながら、なんとか航空宇宙局、NASAの建物を見つけ、バスを降りる。オフィスで待ち受けていたマルキン先生は、私に休む暇も与えず、地下の駐車場まで歩いて、車に乗りこんだ。金曜日の午後、道路が混む前にワシントンを抜け出し、奥さんの待つ、ニュージャージーの海岸にある夏の別荘まで、走るのである。
マルキン先生の運転する車は、黒人の姿が目立つごみごみしたワシントンの東北区を通り、やがて高速道路に入ると、北へ向けて快調に走りはじめた。アメリカでこんな長い車の旅は、初めてである。ボルティモア、デラウェア、フィラデルフィアと、世界地理で習った地名が、高速道路の標示板に次々現われる。この道を真っすぐ行くと、ニューヨークへ出るらしい。まだ見ぬ摩天楼を、私は想像した。途中サスケハナ川という、大きな川を渡った。これがサスケハナという名の元か。ペリー提督が日本を訪れた時、座乗した黒船の名前である。子供向けに易しく書かれたペルリ来航記の挿し絵に、この船が描かれていた。錦絵に「さすけはな」と仮名で書かれていた。ヨーロッパから新大陸に人が渡るはるか前の太古から、この川が流れていて、その川と付近に住むインディアンの種族の名が、日本の歴史とかかわりをもったのを、何だか不思議に感じた。
高速道路を途中でおりて、右に折れ、海岸へ向けて田舎の道を走る。周囲は平らで広くて、人の姿をほとんど見かけない。日本と比べて信じられないほど空間が広いというと、マルキン先生は笑って、
「この辺りは、アメリカでいちばん建てこんでいるところなんだよ。中西部へ出かけてご覧。とうもろこし畑以外、何にもないから。マイルズンド・マイルザブ・ナッシングさ」
なるほど、マイルズ・アンド・マイルズ・オブ・ナッシングと言うのか。この表現は、覚えておこう。前日飛行機の窓から見た、とてつもなく広大な大地のことを思いだしながら、私はそう思った。
周りが砂地となり、松のような低い灌木がふえ、海岸が近くなったらしい。すっかり暮れて、辺りが暗くなった頃、ようやく目的地バーナゲートに到着した。ワシントンから約四時間のドライブであった。ガレージの奥から、小柄な婦人が顔を出した。マーサのお母さん、ジョスリンである。ようこそ、彼女はそう言って、私を迎えた。後から出てきたのは、マーサの弟ピーターに違いない。数年前、交通事故で片目をなくし、黒い眼帯をしている。家のなかに招き入れられて、質問攻めにあった。疲れてはいないか、日本からの飛行はどうだった。マーサは元気か、彼女の日本語はどうか。マルキン小母さんは、精神科医である。人の心を診るのが仕事である。のどは乾いていないか。タオルは要らないか。着替えは十分あるか。寒くはないか。あとでわかったのだが、彼女はニューヨーク、ブルックリン生まれの、元祖ジューイッシュ・マザーでもあった。子供の心配ばかりしている母親を、英語でジューイッシュ・マザーと呼ぶほど、ユダヤ人の母親には、心配性で、子供につくすタイプが多い。日本の教育ママと似ているところがある。マーサを日本へ送って心配ばかりしていたマルキン夫人は、代わりに日本からやって来た私のジューイッシュ・マザーとなって、面倒をみてくれたがっているらしかった。
翌日の夜、浜辺でマルキン夫妻の友人たちが集まって、ビーチパーティーを開いた。南北に長く続く砂州を、大西洋の波が洗っている。日が落ちるころ、三々五々、人が集まってきた。飲み物を片手に、立ちながら話をする人。もってきた椅子に腰かける人。傍らでバーベキューの肉を焼く人。立ち昇る煙が、海からの風に吹き飛ばされて、灌木の向こうに消えていく。氷を詰めたプラスティックのクーラーに、ビールやコカコーラをたくさん冷やし、大きな黒いコンロで炭を起こし、ハンバーグやチキンをじゅうじゅうと焼く。アメリカ人は浜辺でも、公園でも、自分の家の庭でも、バーベキューをするのが本当に好きである。開拓時代、野良で牧場で、森で湖で、肉を焼いて食事をした経験を、反復しているのであろうか。肉を焼くのは、男の仕事と決まっている。肉の焼き具合を注意深く確かめる男の姿は、真剣で、優しく、しかも威厳に満ちている。失われてしまった家長としての権威を、わずかに儀式を通じて表現しているような趣がある。バーベキューという行為には、単に焼肉を食す以上の意味があるらしい。
集まって来た人々は、マルキン夫妻がフィラデルフィアに住んでいたころの友人である。この人たちと会うため、夫妻は遠いワシントンから、わざわざニュージャージーの浜辺まで、夏の休暇を過ごしにやって来る。話題は、共通の知人の消息、子供たちの進学、就職、結婚。
「アンディーは、今度プリンストンへ入学ですって」
「まあ、あの坊やが、もうそんなに大きくなって」
「妹のシンディーも、もう九年生ですもの」
「私たちが、齢をとるのも、無理はないわね」
「四十になった時は、ショックだったけど、五十になる時は、もう平気よ」
この人たちは、毎年夏、こうやってこの浜辺に集まり、少しずつ齢を重ねていく。私と何の縁もないこの人たちに、生活があり過去がある。当たり前のことが、不思議に思えた。
若い人たちが集まって、ギターにあわせて歌をうたいだした。ピーター・ポール・アンド・マリーのフォークソングなど、よく知っている曲が多い。私も輪に入って、うたいはじめた。「パフ」、「五百マイル」、「花はどこへいった」、「スカボローフェア」、「イェスタデイ」。周りで、大人たちが、だまって聞いている。すっかり暗くなった夜の浜辺に、波が大きく打ち寄せては、返している。遠くで、バーナゲートの灯台が、間隔をおいて、暗い海に光を放っている。数日前太平洋を見ていた私が、今日は大西洋の浜辺に腰を下ろし、歌をうたっている。ハワイやサンフランシスコで見た海の向こう岸は日本であったが、この海は日本とつながっていない。突然、本当に突然、まわりが皆白人で、私だけがたった一人日本人であることを意識した。誰も口に出さないけれど、それは痛いほど明らかであった。私だけがこの場所に属していない。誰も私を除者にしようとしていないのに、みんなと同じ歌をうたっているのに、私はたまらなく孤独であった。海からの風は相変わらず強く、日本はとても遠かった。
ルームメート求む
アパラチア山脈に降った雨は、峰から沢へと東に下り、やがて一つになってポトマックの流れとなる。川は湾曲し、滝となり、次第にその幅を増し、ほどなく海の潮と出合って、チェサピーク湾に注ぎこむ。十七世紀初頭この川を遡ってきたイギリス人の植民者たちは、河岸にいくつかの集落を作った。川の南、ネックと呼ばれる一帯では、プランテーションで煙草を栽培する、ヴァージニアの大地主が栄え、北には、ボルティモア卿を中心とする英国のカソリック教徒が住みついて、新大陸唯一の旧教徒植民地、メリーランドを築いた。現在のコロンビア特別区の北西部、ポトマック川が大きく湾曲する少し手前の川の北側に、ジョージタウンの港町が誕生したのは十八世紀半ばである。この町はアメリカ合衆国が独立し、首都ワシントンが付近の沼沢地に誕生するずっと以前から、英国へ煙草を積み出す基地として栄えていた。
英国からの独立を宣言した十三の植民地代表によって、フィラデルフィアで採択された合衆国憲法が、各州の批准を受けて正式に発効した一七八九年、ジョージタウンの港の背後にある小高い丘の上に、小さな学校が建てられた。ジョージタウン大学の誕生である。このアメリカ最古のカソリックの大学は、その後二百年間、ポトマック川を見下ろす高台の上で、主にカソリックの家庭の子女に大学教育を施し続け、今日に至っている。
映画エクソシストやセント・エルモズ・ファイアの舞台ともなった、ジョージタウンのキャンパスは、アメリカの大学としてはそれほど大きくない。私の卒業以来、新しい建物が数多く建てられ、様子が大分変わっているが、それでもここで大学生活を送った者にはなつかしい、独特のたたずまいを多分に残している。正門を入ると、正面には、創立者ジョン・キャロルの銅像がある。キャロルは、独立宣言にメリーランド代表として署名した、ボルティモアの司教であった。学生たちの間では、処女でない女子新入生が正門を入ってくると、僧服をまとったジョン・キャロルが立ち上がるという言い伝えがあった。もっとも七〇年代後半には、処女が入ってくると立ち上がるのだとする、異説も唱えられていた。左手には、十九世紀半ばに建設された、ものものしいヒーリー・ビルディングが辺りを睥睨し、その入り口にはメリーランドへ植民者たちを最初に運んだ船に積んであったという、おもちゃのような大砲が二門置かれている。屋根の上には、川の向こう岸からもよく見える、ヒーリー・タワーと呼ばれる高い時計台がそびえているが、この時計には針がなかった。何度付けても、学生が登って取ってしまうので、大学が付けるのをあきらめたという話であった。ヒーリー・ビルディングの前に拡がる芝生の広場は、春になると木陰で教科書を拡げ、フリズビーを投げ、陽なたぼっこをしながらおしゃべりをする学生で、溢れる。ヒーリーの裏手のオールド・ノースという建物は、創立以来の古い校舎で、中庭に面したこの建物のバルコニーから、初代大統領のワシントンと、独立戦争で植民地側を援けたフランスの将軍ラファイエットが、二人並んで卒業生に訓示を垂れたという。同じく中庭に面した小さな礼拝堂ダールグレン・チャペルは、卒業式のあと、大学で知合った何組もの男女が結婚式を挙げるところである。礼拝堂の裏手から、緩やかなスロープを下りると、白い十字架が並ぶ小さな墓地が谷間にあって、この大学に住み、教え、老いて死んだ、イエズス会の僧職者が何人も、ひっそりと眠っている。
ワシントンへ戻った私は、早速大学へ出かけ、様々な手続きをしなければならなかった。新学年を迎えた大学のあわただしさは、日本でもアメリカでも変わらない。まだ新年度の行動の型が定まらない学生や教師が、大勢キャンパスを右往左往している。学生の多くが大学の寮に住むため、あちこちで引っ越し風景が見られるのが、慶応で見慣れた新学年の混沌と違う。電話機や小型の冷蔵庫をかかえて芝生を横切る者、長椅子を二人がかりで入り口から運びこむ者、寮の窓から首を出し荷物を運ぶ手順を指示する者。特に一年生は申し合わせたように、ステーション・ワゴンにいっぱい荷物を積んで、マサチューセッツ、イリノイ、オハイオ、ジョージアなど、ずいぶん遠いところから、両親とやってくる。ジーパンに開襟シャツというラフな格好をした父親が、重い荷物をせっせと寮の部屋へ運びこみ、母親があれはあるかこれは大丈夫かと心配する。引っ越しが全て終わると、親はいかにも名残り惜しそうに、息子や娘の方は、「わかったよ、心配ないよ、大丈夫だよ」と言いながら、抱き合って最後のキスを交わす。空になったステーション・ワゴンがキャンパスを去っていく。大学の寮へ送り届け、その入り口で息子や娘と別れる瞬間は、アメリカ人の親にとって、子供がもう自分たちの手の届かない、独立した人格になったのを実感する時であるようだ。大学時代は言うに及ばず、就職してからも母親に起こしてもらい、朝飯を作らせ、洗濯もさせる日本の我が友人たちのことを、独立心の強いアメリカ人大学生と比較して、留学中よく思い出した。
私はまずレジストレーションと呼ばれる、一連の登録手続きをしなければならない。バスケットボールの試合が行なわれる体育館に机がたくさん並べられ、アルバイトの学生が配置につき、そのあいだを歩きまわって次々必要な手続きを済ませる。毎春、日本の学校や企業で行なわれる、身体検査によく似た光景である。当然のことながら、全て英語でやらねばならない。私は、東京から持参した入学許可書を握りしめ、渡された説明書とにらめっこしながら、番号のついた机から机へと動きまわる。授業料の払い込みと編入許可を確認し、写真を撮り、学生証を発行してもらい、学生健康保険に加入し、学生食堂の給食定期券を購入する。決して円滑に事が運ばない。あっちへ行き、こっちでたずね、もう一度やり直し。体育館の中は人いきれで冷房も効かず、汗が吹き出す。英語のあまり出来ない日本から来た留学生だからと言って、誰も助けてくれない。大学には留学生の相談にのる国際センターがあったが、ビザの面倒を見るぐらいで、大した助けにはならなかった。そもそもジョージタウンはヨーロッパ、中南米、イラン、アジアからの留学生が多い学校で、私は何百人の中の一人に過ぎない。高校時代ハワイで六週間過ごした時の暖かいもてなしが頭のどこかに残っていた私は、この混沌と喧騒のなかで、やや途方にくれていた。
登録の最後は、履修科目の選択である。留学中、私はスペシャル・スチューデントという身分を与えられると、日本を発つ前に聞いていた。どんな特別待遇をしてくれるのかと期待していたら、スペシャル・スチューデントというのは聴講生という意味だと、登録の手続きをする過程で知らされた。科目の履修も、寮に入る順番も、自動的に最後にまわされる。予め郵便で送っておいた各学生の履修希望カードを、コンピューターが機械的に振り分け、高学年から順々に、各教科の定員が一杯になるまで選んでいくのだが、スペシャル・スチューデントは順位が最後だから、なかなか番がまわってこない。従って、興味のある科目はなかなかとれず、とれる科目は朝早い時間であったり、人気のない先生であったりする。私はあまり満足の出来ない履修科目のリストを手に、汗をふきふき体育館を出た。諸々の登録手続きに、およそ二時間もかかっていた。
レジストレーションの過程は、ひどく官僚的であったが、私を受け入れてくれたスクール・オブ・フォーリン・サービスの面々は、みな親切であった。スクール・オブ・フォーリン・サービス、略してSFSは、ジョージタウンの学部の一つである。第一次世界大戦終了後、ウッドロー・ウィルソン大統領の理想に基づいて誕生した国際連盟への加入を、米国議会自身が否決したため、米国は戦後の国際政治から実質的に身を引いてしまった。SFSは、孤立主義に転じたアメリカの将来を憂えたウォルシュという神父が、外交官など国際的な分野を目指す人材を育成するため、一九一九年に設立した、アメリカ最古の国際関係論専門学校である。慶応との交換留学プログラムは、この学部が相手であった。挨拶に出向くと、ディーン、つまり学部長のクロー博士が、私を部屋に招き入れて、歓迎してくれた。
「困ったことや、わからないことがあれば、何でも相談しなさい。いつでも力になるから」
ラスク国務長官の特別補佐官として働いた経歴を持つディーン・クローは、当時まだ四十歳になっていなかっただろう。長身でたくましく、よく日に焼けた端正な容貌の持ち主であった。押し出しがあり、格好がいいので、「フォーリン・サービス・スクールの王子様」というあだ名がついていた。学者というよりはビジネスマンのようなこの学部長は、慶応大学の学部長とはまるで違った印象を与えた。アメリカの大学の学長や学部長は、人事や予算につき大きな権限を持ち、財団や卒業生や企業から寄付を募り、学校を発展拡大するのが仕事である。世の中のことがわからぬ学者馬鹿では、とうていつとまらず、むしろ経営者としての資質が要求される。ディーン・クローはその期待にこたえ、この十五年間でスクール・オブ・フォーリン・サービスをハーバードやプリンストンとならぶ、全米有数の学部大学に育てあげた。彼は今でも、この学校の主として、君臨している。
ディーンの下には、アシスタント・ディーンと呼ばれる、学事指導を専門に行なう先生がいる。履修科目の選定などについて、面会を求めるといつでも時間を割いて、相談にのってくれた。コンピューターが選んだ科目に不満があったり、単位の取得に特別の計らいを望む時など、学生はまずアシスタント・ディーンに、自分の要求を述べる。規則では許されない希望でも、正当な理由があって、主張に筋が通っていれば、許可が下りる。アシスタント・ディーンがうんと言わなければ、ディーンに面会を求め、主張を繰り返すのも可能である。私はアシスタント・ディーンのガードナーという先生に会い、「もし可能なら二年ここで勉強し、ジョージタウンからも学位が欲しい、そのためには慶応で取得した単位を全て認めてほしい、病気で遅れているから二年以上はここにいられない、その後は慶応の大学院へ進みたい」と、かなり虫のよい要求をした。昔海兵隊員として日本に駐在したこともあるというディーン・ガードナーは、つるつるの禿げ頭を少し傾けながら、私の話を辛抱強く聞き、「それならまずこれこれの科目をとりなさい、慶応の単位は出来るだけ認めてあげよう」と、私の要求をほぼ受け入れて、いくつか貴重な助言をしてくれた。アメリカでは、学校でも会社でも、一度駄目だと言われてもあきらめないで主張をすると、駄目でなくなり、道が開ける場合がある。大学院生でなければ履修を許されない授業をどうしても取りたくて、初日の授業に出席し、教授を捕まえて「私はこの授業をどうしても履修する必要があり、日米関係の今後のためにも履修を許されるべきである」などとまくしたてると、意外に許可が下りるなどという経験を、何度かした。要求を通すためには、自分の希望を、的確に、筋道を立て、遠慮せずに述べねばならない。日本で、みんなと違うことは、わがままとされて許されないが、アメリカでは、自分がみんなといかに違うかを述べないと、物事が動かない。そんな感想をもった。
こうしてようやく学校での手続きを済ませると、次は住むところを決めねばならない。マルキン家の居心地はよかったが、いつまでも世話になるわけにはいかない。学生寮に入るのを期待してワシントンへやってきたのだが、スペシャル・スチューデントは寮割り当ての順番も最下位であったから、まず望みがなかった。キャンパスに住めない学生は、ジョージタウンやその周辺の住宅地に、共同でアパートを借りて住む。英語がうまくなるためには、アメリカ人のルームメートと一緒に暮らすのが一番だ。私はそう聞いていたので、留学生用のアパートにすぐには入らず、ヒーリーの地下にあるオフ・キャンパス・ハウジングのオフィスへ出向き、色々探した。しかしほとんどのアメリカ人学生は、すでにルームメートを見つけ、生活を始めている。九月に入って探したのでは、遅いのである。一人、日本語を勉強している学生が日本人のルームメートを求めていると聞いて、マルキン夫妻と見にいったが、ヒッピーが住むような汚い部屋で、私より先にマルキン夫人が断ってしまった。いつまで探していても、適当なルームメートが見つかるあてはない。夫妻の勧めもあって、私は大学の国際センターが世話してくれた、留学生用のアパートにひとまず入ることに決めた。
ジョージタウンの目抜き通り、ウィスコンシン・アヴェニューをずっと北へ上がっていくと、丁度ナショナル・カテドラルという大きな聖公会の寺院の前で、日本や英国など、各国大使館が並ぶマサチューセッツ・アヴェニューと交差する。その角にアルバン・タワーズという古色蒼然としたアパートメント・ハウスがある。ここにはかつて帝国陸軍と海軍の駐在武官事務所が、大使館と別にあり、開戦の時までFBIの私服が、日本の武官の行動を昼夜監視していたという。この古い建物を、寮の不足に悩むジョージタウン大学が購入し、学生に貸していた。各国からやってきた留学生の多くも、ここに部屋をあてがわれていた。マルキン先生に送られて、一階の受付で手続きを済ませ、ホテル形式の二人部屋に入って一人になると、ひどく心細かった。古い据え付け型のクーラーが、ものすごい音を立てて懸命に部屋を冷やしている。ドアもベッドも洗面所の蛇口も、全てが骨董品に近い。何度も何度もペンキをぬった部屋は、古い建物独特の匂いがした。
しばらくして同室へ引っ越してきたのは、英国サセックス大学からの留学生、ナイジェルである。きれいなイギリス英語を話す、もの静かな若者であった。彼が引っ越してきた日の夜、彼と彼の仲間のイギリス人留学生三人と、近くのピザの店へ、夕食に出かけた。アメリカはワシントンの真ん中で、私はイギリス人四人に囲まれてすわっている。パトリック、ダイアン、トマス、ナイジェル。彼らは、道を通るアメリカ人を静かに眺めながら、まるで午後のティーを楽しむような手つきで、ピザを口に運ぶ。アメリカの大学の程度は大したことがない、我々は本国では一年生だがジョージタウンでは三年生の課程をとっている、アメリカの大学生はみんな子供みたいだ――彼らは、旧植民地アメリカを、やや軽く見ているようであった。東京で英国系の英語学校に通い、ケンブリッジ大学の英語検定試験を受けた私は、彼らのイギリスなまりと、アメリカに対する偏見をおもしろく思った。しかしアメリカへ留学した早々、イギリス人と同室となり、イギリス英語で生活するのも、考えてみれば妙なものである。アメリカに留学すると言うは易く、実際のアメリカに触れるのは、思ったよりずっと難しいことが、段々わかりはじめていた。
いつも静かに本を読んでいるナイジェルは、ルームメートとして申し分なかったのだが、彼は二週間後、別に住むところを見つけて、アルバン・タワーズを去っていった。昔病院で、せっかく仲よくなった隣のベッドの患者が退院していく、そんな感じを久方ぶりに抱いた。国際センターの世話で次に入ってきたのは、アフリカはマリ共和国の農務省の役人である。おそらく本国では、相当のエリートなのであろう。漆黒の肌と澄んだ目が印象的な好人物であった。部屋の中は、黒人独特の甘い匂いで満たされた。彼が黒人であるのは、それほど気にならなかったが、フランス語が得意で英語が出来ないのには、弱った。会話が続かないのである。語学だけではない。私はアフリカについて何も知らなかった。お国にチンブクツーという町があるだろうというと、マリ君は喜んでにっこり頷いたが、それ以上話が続かない。彼は国からもってきた農業開発のパンフレットを見せてくれたが、それを見て話の種が増える訳でもない。この人と住んでいたら、私が英語を教えねばならない。何のためにアメリカまで留学したのか、わからなくなる。どうしても、アメリカ人のルームメートを見つけよう。にこにこと私に微笑みかける、このアフリカの政府高官と一緒の小さな部屋で、私はそう考えはじめていた。
日本でもアメリカでも、大学生はキャンパスのあちこちに貼り紙をして、情報を交換する。「車売りたし」「学生クリスチャン同盟会員募集」「カリフォルニアまで同乗者求む、ガソリン代折半」。なかでも多いのは、「ルームメート求む」の貼り紙で、学期の変わり目や夏だけでなく、春夏秋冬、人が動くたびに、新しく貼りだされる。紙の下には短冊のように切れ目が入っていて、その一つ一つに電話番号が書いてある。メモを取らなくても、短冊を一つちぎり取っておけば、後で電話をかけられる。多くの大学生は一人でアパートを借りるほど金に余裕がないから、数人でアパートや家を借りて住む。何かの理由でその一人が動くと、残った者は共同で紙を貼り出し、新しい同居者を募集する。応募者があると皆で面接し、全員が合格と判定すれば、早速引っ越してくる。大学の周辺には、こうして学生同士が取引を行なう、独自の借家、借り部屋マーケットが存在する。九月も半ばになって、それほど望みは持てなかったが、多少はまだ人の動きがあるかもしれない。私は根気よく、毎日掲示板を見て、「ルームメート求む」の貼り紙を探すことにした。同時に、誰かルームメートを探していないかと、会う人毎にたずねはじめた。犬も歩けば棒に当たると言う。運がよければ、そのうちアメリカ人のルームメートが見つかるだろう。気楽に気長に構えるつもりであった。
ルームメートを探しはじめて、ほんの二日目である。エレベーターの前で、洗濯物の入ったバスケットを抱えた大柄な若者と一緒になった。アルバン・タワーズは地下にコイン・ランドリーがあって、彼はそこへ洗濯をしにいくところであった。アメリカ人は目が合うと、大概簡単に会釈を交わす。
「ハーイ」
「ハーイ・ハウワーユー」
そうだ、この若者にも聞いてみよう。
「ねえ、ちょっと聞くけど、この辺でルームメートを探している人知らない」
若者は、突然の質問に、ちょっと驚いたような表情をみせ、しばらく黙って何事か思案すると、
「いや、それは僕かもしれない」
そう言って、その場に洗濯かごを置き、話しはじめた。何でも彼のルームメートが、キャンパスの寮に空きが出たという報せを受け取り、アルバン・タワーズを出ていきたがっている。ただし、十ヵ月の賃貸契約にサインしてしまったので、誰か後釜を見つけないと引っ越せない。学校の寮に入るのなら、すぐに返事をしなければならないので困っている。概ねそんな話であった。
「洗濯をしてくるから、とりあえず三十分後に、僕らのアパートへ来いよ」
こう言うと、若者はエレベーターに乗って、地下へ下りていった。もしかすると、彼のルームメートになれるかもしれない。かすかな期待が湧いてきた。
三十分後、約束どおり、私は同じ階の若者の部屋を訪れた。私とマリ君の住む小さなホテル風のツイン・ルームとは、比較にならないほど立派であった。玄関から真っすぐ入ったところに、大きな居間があり、ソファーと旧式の白黒テレビが置いてある。居間の隣に、食堂と台所もある。ベッドルームは、共用のバスルームをはさんで二つ。それぞれツイン・ベッドが置かれている。居間の外には、小さなポーチがあって、客が一人泊まれるほどの広さがある。このアパートに、先ほど会ったSFSの二年生マーク、ランゲージ・スクールで日本語を専攻するジム、同じランゲージ・スクールでロシア語を勉強するトム、そして医学部を目指すサムが住んでいる。キャンパスの寮に移りたがっているのは、最後のサムであった。みんなに紹介されて、それとなく面接を受ける。マークはガールフレンドのジェーンと、ソファーでいちゃつきながら、それでも親切に色々教えてくれた。このアパートなら、居心地がよさそうだ。私は、三人の面接に合格するのを祈って、彼らの部屋を出た。
翌日、マークから連絡があった。彼と、ジム、トムの三人は、私が移ってくるのに異存がない。特にジムは日本語の練習が出来るので喜んでいる。後は、サムと家賃の交渉をしたまえ。その夜、サムと私は、別の場所で落ち合って、家賃の交渉をした。奨学金だけが頼りの私は、それほど高い家賃を払う余裕がない。サムは早くキャンパスに移りたがっている。少し安く言っても、うんと言うかもしれない。
「月百ドルでどうだろう」
私がこう切りだすと、サムは顔を真っ赤にして、
「冗談じゃあない。あのアパートは今、月百二十ドル払っているんだよ。それじゃあ、僕の持ち出しになってしまう。めちゃくちゃ言うなよ」
「いや、それ以上は払えない。とにかく金がないんだから」
激しいやりとりがあって、結局百十ドルで話がまとまった。最後までサムは、
「ユー・アー・キリング・ミー、おまえのおかげで散々だ」
と、ぶつぶつ文句を言っていた。本当に彼が百二十ドル払っているのを知っていたので、私は何だか少し悪いことをしたような気がした。サムは怒っていた。もう口を利いてくれないだろう。家賃で得したかわりに、みんなにいやな奴だと思われるかもしれない。ところが数日後、キャンパスでサムに出合うと、彼はニコニコして私に「ハーイ」と声をかけてくるではないか。意外な気がすると同時に、アメリカ人とどんなに激しい交渉をしても、フェアである以上は感情的なしこりは残らないのだと、わかった。あとでマルキン先生にこの話をすると、「よくやった。おまえも一人前の交渉をして勝ったんだ」と、誉められた。アメリカ人と本格的な交渉をしたのは、これが生まれて初めてであった。
こうして私は、アメリカ人学生、マーク、ジム、トムの住む部屋へ移り住んだ。私は奥のベッドルームで、マークと起居をともにすることになった。アメリカでは、大学時代のよきルームメートが一生の友となる。マークとは、今でも親交が続いている。ワシントン到着以来、めまぐるしい日々が続いたが、これでようやっと落ちついて勉強が出来る。九月も半ばを過ぎ、気がつかぬ内に、少しずつ秋の気配がしはじめていた。古いエアコンを、ものすごい音をたてながらかけずともよくなり、部屋のなかはいつも静かであった。
スクール・オブ・フライング・サーカス
留学という言葉は、一体誰が発明したのであろうか。留まって学ぶと書くのだから、一つところに腰を落ちつけて、学問をする意味であろう。しかし学校へ通わなくても勉強は出来る。本を読まずとも知識はつく。海外留学と称して、せっかく珍しい外国へ来たのだ。何もしないでぶらぶら歩きまわっているほうが、よほど刺激になるかもしれない。本を読むより人に会って話を聞くほうが、ずっと身につくかもしれない。しかしジョージタウンへ留学生としてやってきた私には、残念ながらそんな風に考える知恵も余裕もなかった。自分は将来学者を目指している。この機会を活かして出来るかぎり勉強しよう。そのためにはたくさん本を読もう。今になってふりかえってみれば、授業の内容などあらかた忘れて覚えていない。もっと遊んでおけばよかった、もっと友人と時を過ごすべきだったと後悔するが、当時の私はごく生真面目な世間知らずの青二才で、学校の勉強にひたすら闘志を燃やしていた。
最初の秋学期は、五科目履修した。米国史、アメリカ外交史、ヨーロッパ外交史、マクロ経済学、そして英作文。一般のアメリカ人学生と同じ科目数である。初めての留学で、冒険だったが、できれば二年間でジョージタウンからも学位を取りたいと、欲張った。手に負えなくなれば、あとで減らせばいい。出来るだけやってみよう。とりあえずはブックストアへ、教科書を買いにいこう。
図書館の地下にある大学のブックストアは、テキストを求める学生でごったがえしていた。通路の両側にうんざりするほど本が積んであって、しかも全て英語である。アメリカの大学で教科書が英語であっても、何の不思議もないのだが、山と積まれた英語の本を目の前にして、初めてこれはえらいことだぞという気がしてきた。通路を行ったり来たりして、自分の選択した教授の指定した本を一つずつ拾っていくと、あっという間に両腕がいっぱいになる。果たしてこんなに英語の本が読めるだろうか。私は不安になりはじめた。
ジョージタウン留学中にとった授業のなかで、おそらくもっとも後々役に立ったのは、エクスポジトリー・ライティングというコースである。新入生で作文の力がやや足りない者が取るのを義務づけられていた、英作文の時間である。何もシェークスピアやジョイスが理解できなくてもよい。芸術的な文章を書く必要もない。エクスポジトリー、つまりはっきりとわかりやすい文章を書くように指導する。大学生だからといって文章が書けるわけではないと割り切り、作文のいろはから教える。国文学や英文学は教えても、作文の指導など少しもしてくれない日本の大学と比べ、いかにも合理的であった。留学生である私は、外国人のための英語の授業を取ってもよかったのだが、出来ればアメリカ人学生と一緒にこのコースを受けてみたかった。
授業初日、指定された小教室に出かけ、プロフェッサー・カラダチというひげの先生に、日本から来た留学生である旨を告げた。教授は頭をひねって、
「うーん、もしかすると君にはちょっと無理かもしれないなあ。とりあえず書いたものを見てみよう」
と、私の能力に疑問を呈した。短い文章を書いて渡し、次の授業に出ると、カラダチ先生は、
「なんとかやっていけるだろう。残りたまえ」
と言ってくれた。こうして私は一年生の学生に交じり、カラダチ式文章法の特訓を開始した。
一週三回、図書館の一階にある小教室に八人程の学生が集まり、カラダチ先生の講義を受ける。毎回宿題が出て、必ず何か書かされる。先生は提出した作文に沢山朱を入れ、次の授業で返してくれる。指導は徹底して実際的、論理的、単純、明快。まずいかにセンテンスを書くか。受動態ではなく、能動態で書け。短い文章を書け。主語と動詞を離すな。コンマとピリオド、コロンとセミコロンを区別せよ。次はパラグラフの書き方。パラグラフ最初のセンテンスで要点をまとめ、最後のセンテンスで要点をまとめ、途中で考えを補足せよ。一つのパラグラフに二つのアイディアを詰めこむな。センテンスからセンテンスに、考えが流れるようにせよ。考えが飛ぶと読みにくい。主語を揃えろ。時制を揃えろ。能動態から受動態に移るな。当たり前のことを、繰り返し繰り返し、言われ、書かされ、直っていないと注意される。英語を母国語としない私は、十七年後の今日でも、百パーセント満足のいく英語を書けない。その後、ロー・スクールでも、法律事務所でも、英語の文章を書くたびに、四苦八苦している。しかしなんとかアメリカ人に交じって四苦八苦できるようになったのは、カラダチ先生のおかげだと思う。彼は授業中何度も言った。
「書きたいことははっきりしているのだが書けないというのは嘘だ。書けないのは、考えがまとまっていないからなのだ」
文と節を何度も書いて練習した後、初めてまとまった文章を書かされた。短篇小説を読んで、評を書けと言われた。与えられたのは、ユダヤ人の作家、フィリップ・ロスの「コンヴァージョン・オブ・ザ・ジューズ」という作品である。
ユダヤ教の教えに疑問を抱くオジーという少年が、ヘブライ学校でことごとくラバイ(牧師)にたてつく。ある日、いつものように言い合いをしている最中、ラバイの手が誤ってオジーの鼻に当たり、血が流れる。少年は逆上し、夢中で階段をかけのぼり、シナゴーグ(ユダヤ教会)の屋根に立つ。日が傾いて辺りは次第に暗くなる。はるか下の地上で、おろおろする母親やラバイに向かい、少年はひざまずくよう命じる。そして、暮れなずむ空を背景に、叫ぶ。
「神は、性交なしで子供を作ることだって出来るって言ってよ。決して神様のことで、僕をぶたないって約束して」
皆がひざまずいたまま、少年に約束すると、しばしの沈黙のあと、残照を受けて黄色く光る、消防士が拡げたネットの中へ、少年は飛び降りていく。まるで殉教者のように。
カラダチ先生は、この作品で、光と闇がどのような効果を出しているかについて、評しなさいと言った。神が天地創造の最初に「光あれ」と言われたことへの、少年の感動。安息日に母親がつける、ろうそくの光。暗いシナゴーグで行なわれる冬の日の授業。屋根の上に登った少年が、次第に闇の中に溶けていって、やがて声だけとなる。地上に拡げた救助用の網が、天使の環のように光る。私は何度もこの短い作品を読み返し、光という一つの鍵を使うと、小説が全く新しい意味と味わいをもって読めることに、新鮮な感動を覚えた。
カラダチ先生のエクスポジトリー・ライティングと比べると、マクロ経済とアメリカ史の授業は、それほどおもしろくなかった。マクロ経済は慶応でやったのと同じで、程度もあまり高くない。トライヨンという先生は、ハーバード出の優秀な研究者だそうだが、いかにも学者然としていて、教え方が下手だった。宿題として出されたガルブレイスの本を読みそこない、その本の内容を問うた期末試験の問題に「本を買わずに貯めた金を、ニューヨークで消費した場合の乗数効果」などと、わけのわからぬ解答を書いたら、Aをくれた。アメリカの先生はユーモアを解するなと思った。
アメリカ史のジョンソンという教授も、あまり授業がうまくなかった。この先生は、授業中、学生に手を挙げさせ、意見を言わせるのが好きであった。クラス・パーティシペーションといって、教室でいかに積極的に発言するかが、成績上考慮されるという。それで、まわりの一年生は、みなしきりに意見を述べた。中には、延々と長広舌をふるう学生もいた。英語だから、何を言っているか全てわかったわけではないが、それほど内容があるとは、思えなかった。大学一年生の米国史に対する「意見」を聞くより、私はじっくりと教授の講義を聞きたかった。それにしても、アメリカ人は、どうしてこんなによくしゃべるのだろう。話していないと不安なのかしらん。彼らは貪欲に質問し意見を述べ、納得しないと簡単に引き下がらない。どんな問題にでも何かしらの意見をもっている。たとえそれが下らない意見でも、意見がないのに比べれば、数段ましであるらしかった。教授が質問はないかとたずねても、ひっそりとして誰も手を挙げず、たまに率先して質問する学生がいると、変わり者とみなされる慶応の授業の雰囲気と比較して、ずいぶん違うなと感心した。
授業はそれほど面白くなかったが、大学一年生用の米国史の教科書は、よくまとまっていて、図表も多く、私にはわかりやすかった。何より試験がこわかったから、辞書を引き引き、一所懸命読んだ。今でも保存してあるこの古い教科書には、あちこち鉛筆で単語の意味が書きこんであり、要所要所に線が引かれ、悪戦苦闘のあとがうかがわれる。しかし教科書以上に、教授のすすめたビデオ版アメリカ史から、私は多くを学んだ。アリステア・クックという高名なジャーナリストが監修し、自らナレーターをつとめた全部で十巻ほどのビデオテープを、図書館の一階にある視聴覚室で、私は前後二回、通して見た。新大陸に人が渡り、植民地を築き、やがて東部十三州は一つになって、英国から独立をかちとる。東部の海岸沿いの植民地に飽き足らぬ、ダニエル・ブーンを初めとする持たざる者たちは、アパラチアの山脈を越えて、初めて内陸部へ入植する。やがてケンタッキーの森を開拓した植民者の間から、新しい指導者リンカーンが現われる。一方白人の進出に伴い、インディアンは祖先の地を追われ、カロライナのチェロキーたちは、おびただしい犠牲者を出しながら、「涙の道」を歩いてオクラホマへ移住していく。カリフォルニアで発見された金を求めて、何万もの開拓者が幌馬車に一切合財を積みこみ、西へ西へと旅を続ける。奴隷制度と経済上の対立から、北部と南部の対立が深まり、ついに分裂に至り、第一次大戦以前でもっとも犠牲者の多い南北戦争を戦う。こうした歴史的事実を、アリステア・クックは当時の絵や写真を用い、古戦場や史蹟を訪れ、文献から引用しながら、淡々と語る。幌馬車で何ヵ月もかかって西海岸にたどりついた男の日記を、カリフォルニアのレッドウッドを背景に彼が読む場面を、私は今でも覚えている。
「三月十二日、カリフォルニアに到着する。三月十三日、一日休息する。三月十四日、野良に出る」
授業のうちで、私が一番興味があったのは、アメリカ外交史とヨーロッパ外交史であった。日本を発つ前、ゼミの神谷不二教授から、外交史をしっかり勉強してらっしゃいと言われていた。私はその助言を忠実に守ろうと思った。歴史は好きだったし、慶応には本格的な欧米の外交史の授業がなかった。どちらの授業もおもしろくて、留学中しばらくは、日本へ帰ったら本気でアメリカ外交史の研究家になろうと思ったほどである。アメリカ外交史の先生はダイベル教授といって、国際関係専門大学院フレッチャーでドクターをとったばかりの、まだ若い先生であった。彼は独立革命時代、建国の父たちがヨーロッパ列国間のバランス・オブ・パワーをいかに注意深く観察し、利用して、独立をかちとったかを、詳しく説明して、一年間の授業を始めた。一方、ヨーロッパ外交史の先生はヒルディーという古参教授である。彼はウェストファーリア条約後のヨーロッパの秩序から授業を始め、十九世紀初頭、ナポレオン没落後のウィーン会議でメッテルニッヒが打ちたてた、新しいバランス・オブ・パワーに話を進めた。やや神経質で、細かい点にこだわるダイベル教授と、ユーモアに溢れ、大きな流れを説明するのがうまいヒルディー教授――二人の教授は個性も教え方も異なったが、どちらも観念的な話はせず、ひたすら淡々と歴史の流れを追っていった。新大陸と旧大陸の外交史は、どこかで密接に結びついていた。どうやら鍵はバランス・オブ・パワーという概念らしく、外交史の授業は知的刺激に富んでいた。
こうして毎日授業に出席し、ノートを取っていたが、最大の心配は試験であった。各科目とも中間試験と期末試験がある。試験は授業と課題図書の両方から出題される。読まねばならぬ本はどれも厚くて、与えられたページを読みこなすだけでも、大変である。それに私は英語で試験を受けた経験がない。果たして読むにたえる答案が書けるだろうか。第一質問の意味がわかるだろうか。できればジョージタウンを卒業したいなどと言っているが、まともな成績が取れなければ、不可能である。最初の試験は、ヒルディー教授のヨーロッパ外交史であった。小論文形式で、三つ質問が出た。ブルーブックと呼ばれる、表が青い色をした答案用紙に、エッセイを書かされる。何か書いて提出したが、自信はなかった。数日後、授業で答案が返された。意外にもBプラスがついていた。先生のコメントが、赤でたくさん書きこまれていた。私のつたない英語の文章を読んでくれたのを有難いと思い、これならなんとかなりそうだとも思った。後に受けたロー・スクールの試験と比べれば、学部の試験はのんびりしたものだったが、何事も初めての経験には、緊張感が伴う。中間試験を突破して、なんとかアメリカの大学の授業についていけるとわかった日の嬉しさは、格別であった。
ようやく最初の中間試験を突破したものの、慣れない英語で講義を受け本を読む私は、かなり頑張らないと授業についていけなかった。朝起きると、ジョージタウン・ユニヴァーシティー・トランスポーテーション・システム、頭文字をとって、GUTS(ガッツ)と呼ばれる、キャンパスと学校周辺の主な学生アパートを結ぶバスに乗って大学へ出かけ、授業に出る。授業と授業のあいだは、図書館で予習をする。昼と夜は大学のカフェテリアで食べる。夕食のあとも図書館で二、三時間さらに予習する。あるいはアパートに帰って、本を読む。九月の末、父がカナダへ取材にやってきて、アガワ渓谷という、わが一家の姓と同名の地へ汽車に乗りにいくのにつきあった時も、私は親父とろくに話もせず、景色も見ず、教科書ばかり読んでいた。感謝祭の休みにルームメートのマークの家へ招かれた時にも、ニューヨークへ走るバスの中で、日が暮れて字が見えなくなるまで、教科書を読んでいた。私は落ちこぼれるのをおそれて勉強していたが、周りのアメリカ人学生もよく勉強していた。もちろんその量は人によって、学部によって、まちまちである。ジョージタウンの町に毎晩繰りだして、遊んでばかりいる連中もいた。しかし彼らは少数派に属する。図書館はいつも夜遅くまで灯が点り、学生の姿が絶えない。夜十時、閉館時間になると、四階から五階から、学生がぞろぞろと出口に向かい、その中のいく人かは午前三時まで開いている、玄関横のピアス・リーディング・ルームへ移って、勉強を続ける。試験の前、この部屋は二十四時間開いていた。日曜の朝も、図書館が開くのを表でいらいらしながら待つ者が、必ず何人かいる。少し出遅れると、席が取れなくてうろうろすることも、度々あった。学生の生活は、図書館を中心に動いていた。三階のあの隅に行けば、誰に会える、昼を食べにいく時は、ロビーで集合といった風に、図書館は勉強の場所であるだけでなく、社交の場所、待ち合わせの場所でもあった。また、時には何もせず、一人で考えに耽る場所でもあった。私は本を読むのに疲れると、南に面した四階の隅のソファーに腰を下ろし、ポトマック川の流れと、対岸に位置するナショナル空港へ分刻みで降りていくジェット機を、ぼんやりと眺めるのが好きであった。
こうしてよく勉強する周囲のアメリカ人学生を見ると、大学は学問をするところだったのだという、当たり前のことに、気がついた。日本の大学、少なくとも慶応の文科系の学部で、本当に勉強に打ちこむ者は、少なかった。内部進学者はもともと勉強しなかったし、外部から受験を経て入ってきた学生も、ようやく大学にたどりついて、一休みしているように見受けられた。大学は社会に出る前、のんびりと物を考えるところであり、がつがつと勉強するところではなかった。しかし大多数のアメリカ人学生は、何も学問が好きで、勉強をしているのではない。学者になろうとして、夜遅くまで、机に向かっているわけでもない。彼らがガリ勉するのには、もっと実際的な理由があった。卒業後、医学部、法学部、ビジネス・スクールなどの大学院課程へ進むにしても、銀行や政府へ就職するにしても、大学四年間の成績がたいへんものを言う。日本のように、いい大学でそこそこの成績を取っていれば、就職はほぼ大丈夫というわけにはいかない。そしてアメリカの大学の成績は、何を学んだかよりも、課題図書、試験、レポートと、することを山のようにかかえて、いかにプレッシャーに耐えるかを見る手段であるらしかった。アメリカのエリートがエリートとして成功するためには、まず競争に勝たねばならない。そのための技術を教えるのが、ビジネス・スクールでありロー・スクールである。そこで身につけた、プレッシャーに耐え、競争に勝つ技術を手にして、彼らは企業で、政府で、法律事務所で、死ぬまで競争し続ける。英語でラット・レースと呼ぶこの競争が本格的に始まるのが、大学の学部である。いい大学に入ると、小学校以来のむき出しの競争はひとまず終わり、その後の人生についてかなり勝負のついた感のある日本と対照的である。勉強だけではない。スポーツも、奉仕活動も、遊びでも、恋愛でも、とにかく勝つこと。アメリカのエリートにとって、大学の学部は、人生という終わりのない競争の、初めての本格的な勝負の場であるらしかった。
ある教授によれば、ジョージタウンでも六〇年代は、これほどではなかった。学生はヴェトナム戦争反対を叫び、ストを行ない、ポトマック川にかかる橋を肩を組んで渡った。警察隊と学生がもみ合った。催涙ガスの匂いがキャンパスに充満した。過激派もそうでない者も、何のために大学で学ぶのか、人生の目的は何なのかと、真剣に語り合った。それが時代の風潮でもあった。しかし私がジョージタウンへやってきた一九七五年までに、そのような雰囲気はすっかりどこかへ消えていた。学生は脇目も振らず、疑問も呈さず、勉強していた。彼らのエネルギーは、革命よりも、就職や進学など、もっとずっと現世的なことに振り向けられた。
この傾向がもっとも著しかったのが、フォーリン・サービス・スクールである。SFSの学生は、ジョージタウンの中でも一番ガリ勉で、その多くが外交官やロー・スクールを目指す、エリート予備軍であった。政治的にも保守的な学生が多く、共和党支持の政治集会が学内で度々開かれた。彼らは詩を読むよりも、核戦略に関する論文を好み、愛について語るよりも、キッシンジャー外交を論じるのが好きだった。考えてみれば、二十歳そこそこの若者たちが、国際政治について知ったかぶりをするのは、どこか滑稽である。しかし本人たちは大真面目であったし、それがワシントンにあるこの学校の気風でもあった。妙に大人びて、上昇指向の強いSFSの学生は、伝統的なリベラルアーツを教えるジョージタウン・カレッジなど、他学部の学生から見ても、少々異質に映ったかもしれない。誰がつけたかスクール・オブ・フォーリン・サービスには、スクール・オブ・フライング・サーカスというあだ名があった。自信満々、飛行眼鏡をつけ、宙返り、急降下、錐揉みと、曲芸飛行を続ける、エネルギッシュで若い飛行機野郎たち。彼らはいかにうまく飛行機を操るかに夢中で、なぜ飛ぶかについてはあまり考えない。SFSの学生には、確かにそんなイメージがあった。そしてそのイメージは、後年出合ったアメリカの若いエリートの多くに、どこか共通するものでもあった。
卒業後十五年が経った。八〇年代を生きぬき、九〇年代に入りようやく不惑の年を迎えようとしている、かつての学友たちは、いまどこでどうして暮らしているだろうか。
北帰行
アメリカへ行けばアメリカがわかるというのは、嘘である。アメリカへ行けばアメリカ人と知り合えるというのも、嘘である。その証拠に、これだけ多くの日本人が米国を訪れ、住み、働いているのに、日米間の誤解は少しも減らない。アメリカへ日本人が渡れば渡るほど、彼らは自分たちだけで固まり、アメリカを見ずに、アメリカ人を知らずに、帰ってきてしまうのではないか。そんな気がする。
私自身、ジョージタウンへ留学して、アメリカ人と知り合うのが存外難しいと感じた。アメリカ人のルームメートを探すのがこれほど大変だとは思わなかったし、授業が始まってからも、友人を作るのはそう簡単でなかった。教室へ行っても、講義が終われば、皆散っていってしまう。図書館では、誰も知らない、話しかけない。ついこの間まで、慶応のキャンパスを歩いていれば、次々に友人とぶつかり、教室へたどりつくのに苦労するほどだったのと比べると、大きな変化である。アメリカ人の学生が不親切であったわけではない。むしろみな、たいへんに親切であった。質問をすれば、丁寧に教えてくれたし、目が合うと、かわいい一年生の女子学生が、「ハーイ」と笑顔で声をかけてくれた。問題はむしろこちらにあったのである。英語がよくわからない。異文化に二六時中囲まれて、常に緊張している。きっと私の顔は引きつって、態度物腰は不自然で、とても話しかけたくなるような相手ではなかったろうと思う。
一番孤独に感じたのは、食事の時間である。学期の始まりに、予めミール・プランと呼ばれる給食定期券を購入すると、キャンパスのカフェテリアで一週間決められた回数の食事が出来る。一日三回同じ場所での食事では、味気ないし、食べ過ぎて太ってしまうから、私は一日二回、日曜日をのぞく週十二回のミール・プランを購入した。朝は簡単にアパートですませ、昼と夜を学校で食べる。図書館の先、テニスコートの横のニューサウスという建物に、ポトマックの流れを望む見晴らしのよい学生専用食堂があった。食事時になると、入り口にならび、ミール・プランのチェックを受け、盆の上にナイフ、フォーク、スプーンをそろえ、順番に好きなものを取っていく。食べ放題で量は申し分なかったけれど、お世辞にもうまいとは言えなかった。一通り皿を載せ、飲み物とサラダをそろえると、さあ今度はすわる場所を決めねばならない。広いカフェテリアを見まわしても、知っている人は誰もいない。仕方ないから、一人で隅の方にすわり、ぼそぼそと食べはじめる。楽しそうな会話が周りで弾んでいるが、私には関係ない。
実は一緒に食事をしようと思えば、いつでも加われるグループが一つあった。日本から来た留学生のグループである。日本人留学生の数は今ほど多くないものの、当時もジョージタウンには、語学学校へ英語を勉強に来ている人、大学院に在籍している人、慶応以外の大学から交換留学生としてやって来た人などが、何十人かいた。彼らはいつも固まって、一緒に食事をし、酒を飲み、ドライブに出かけ、スポーツをして遊んでいた。またその周りには、日本語を練習したいアメリカ人の学生がいた。この人たちと一緒にいれば、淋しい思いをする必要はない。しかし、普通のアメリカ人と知り合う機会は減るであろう。淋しさをこらえ、私はカフェテリアで、努めてこのグループと一緒にすわらないようにした。この仲間には、ハウスメートのジムも加わっていたから、彼らからわざわざ離れてすわるのは、時に不自然であった。付き合いの悪い奴だと思われただろう。それでも私は、出来るかぎり連中から距離を置いた。日本人とではなく、アメリカ人の友人を作りたいという気持が強かったからである。また、群れから離れていたいという、私の偏屈な性格もあったように思う。友人がいなくて淋しいのに、群れには加わりたくない。私は矛盾した願望を抱き、一人で黙々と日々を送っていた。
インディアン・サマーと呼ばれる夏のような暑さが、何回か涼しい空気と入れ替わり立ち替わり、十月に入るとワシントンはすっかり涼しくなった。そして秋が深まるにつれて、私にもようやく何人かの友人ができた。もちろん始終顔を合わしていたのは、同じアパートに住むマーク、トム、ジムの三人である。朝起きて、同じ洗面所を使い、夜は二つの寝室で寝む。しかし四人は取る授業も食事も行動もばらばらで、決して大変親しい友人というふうではなかった。たまたま四人集まって、アパートを共同使用しているという感じが強かった。同室のマークは勉強家で、一日の大半を図書館で過ごし、朝早く自転車でアパートを出ると、夜遅くまで帰ってこなかった。自転車を引いて帰ってくると、汗を拭き、牛乳をコップに注いで一気に飲み、また机に向かって勉強を続けた。そして週末には高校時代からのガールフレンド、ジェーンが学ぶ、ヴァージニア州の古都ウイリアムズバーグにあるウイリアム・アンド・マリー大学へ、宿題を山のようにかかえて出かけていった。だから最初の二ヵ月ほどは、マークとあまり話をした記憶がない。彼は体も声も大きく、エネルギッシュで、三人の中で一番アメリカの若者らしい青年であった。
ロシア語専攻のトムは、マークと対照的に出来るかぎりアパートで過ごす、静かな青年であった。テーブルにロシア語の教科書を拡げ、いつもぐにゃぐにゃ独り言を言いながら、予習復習に余念がなかった。トムは高校生の時からロシア語を勉強していて、かなりの水準に達しているらしかった。一度レニングラードでソ連海軍の水兵と仲よくなり、彼の弟と偽って原子力潜水艦に潜り込み、ばれなかったのが自慢であった。「うそつけ」と信用しなかったら、水兵から貰ったソ連海軍の水兵服を出してきて見せてくれた。トムはこつこつロシア語を勉強するのと同じ丹念さで、食事も自分で作り、家の中を清潔にしていた。だから台所にマークや我々の皿が洗わぬまま放り出してあると、機嫌が悪かった。夜我々がアパートに帰ってくると、よく冷蔵庫にトムのメモが、磁石でとめて貼りだしてあった。
「使った皿は、必ず水で流しておいてくれ給え。そうしないと食物がこびりついて、後で流すのが大変だ」
「皿洗いの当番は、必ず守るように。ぼくは君等の召使ではない」
口で言わないで、こうやって文章にして伝えるのが、私には珍しかった。これが内向的なトムの性格によるものか、アメリカ人一般がこんなことをするのかは、わからない。ただ、ハウスメート相互の権利と義務は、日本の友人関係と比べ、よほどはっきりしていた。ケロッグのコーンフレークス、ジュース、牛乳、パンには、みな名前が書いてあって、勝手に他人のものを使ったりはしない。掃除当番と皿洗いの当番が決まっている。他の三人にかかってきた電話は、きちんとメモをとって置いておく。食事も別々、社交も別々、四人の関係は、よくも悪しくも事務的で、ドライで、いつも一緒にいるからといってべたべたしなかった。アメリカでは恋人でもない男女学生が、同じ家に二人で住むことさえある。お互いの生活に干渉しなければ、それほど不自然ではないのであろう。アメリカ人と暮らすというのは、なるほどこういうことかと思った。
日本語を専攻するジムは、他の三人ほど勉強をしなかった。日本語が比較的うまくて、あまり予習や復習をせずにすむらしかった。夜になるとアパートで、テレビの前に陣取る。勉強を続ける三人に遠慮して、なるべく小さな音で、当時流行っていたコメディー、「メリー・タイラー・モア・ショー」など人気番組にチャンネルを合わせる。ポテトチップスをかじりながら、声を殺して一人で笑い転げていた。ジムはあまりアメリカ人の友人とつきあわない。日本語を練習するため、もっぱら日本人留学生の仲間と一緒にいた。一般のアメリカ人学生とはちょっと異なる雰囲気があって、日本人とつきあう方が楽しいようにも見受けられた。日本語を勉強する一部のアメリカ人男性には、一つの型がある。多少気弱で、アメリカ流のむき出しの競争についていけないタイプ。なにかの拍子に日本の古い伝統に触れ、その静けさ、落ちつきに、長い間求めていた心の平安を見いだすタイプ。攻撃的なアメリカ人女性に魅力を感じず、あるいは相手にしてもらえず、日本女性に出合って初めて男として遇してもらったタイプ。ある時二人っきりでジムと話していたとき、高校生の頃気が弱くて皆に軽蔑されていた経験を語ってくれた。女の子にもてたためしがなく、友達が少なかった。ある土曜日ニュージャージーの家で一人でテレビを見ていたら、ニューヨークの日本語放送が入ってきた。その内容に引きつけられ、それから毎週欠かさず、一人でじっと日本語放送を見るようになった。いつの間にか日本語をかなり覚えていた。そして大学でも、日本語を勉強すると決めたのだと、しみじみ話してくれた。ジムはマークのように、勉強も女性もスポーツもばりばりやる青年ではない。二人は同じ高校の出身である。その縁でハウスメートにもなっている。しかしその性格も、野心も、まるで異なる。この二人を見て、同じアメリカの若者でも、色々なのだなあと思った。
SFSのディーンのオフィスで、編入生歓迎のレセプションがあり、そこで知り合ったのがジェリーという青年である。ジェリーはヴァーモント大学からSFSの三年に編入してきたばかりで、私と同様友人がなかった。向こうから声をかけてきて、その後キャンパスで会うたびに、言葉を交わすようになった。いかにも育ちの良さそうな、穏やかな人柄で、いつもカーキ色のコットンパンツに、緑色のラコステのポロシャツを着ていた。ジョージタウンでは、一部の学生の間で、カーキのズボンにトップサイダーという革の突っ掛けを裸足ではき、ラコステのシャツを着るのが流行っていた。彼らの多くは私立高校の出身者である。大学進学を目指す私立高校をプレップ・スクールといい、その出身者をプレッピーと呼ぶのは、映画ラブストーリー(邦題・ある愛の詩)で見て知っていた。ジョージタウンへやってきて、なるほどジェリーのようなのをプレッピーというのだと、思った。公立高校出身者のわがハウスメートたち、マーク、ジム、トムとは、明らかに感じが違う。慶応大学で、内部進学者と外部から受験で入った学生の間に存在する雰囲気の差に、似ている。プレッピーたちは、たいていスポーツも得意である。ジェリーもテニスが大層うまかった。アングロサクソンの伝統か、アメリカのエリートは、勉強とともにスポーツが出来なくてはならない。どちらかだけでは、上に立てない。青白い秀才は尊敬されないのである。
ジェリーの父親は、後にレーガン大統領からネパール大使に任命された、ニューヨークの有力証券会社の社長であった。エンパイヤ・ビルディングからそう遠くない、マンハッタンはアッパー・イースト・サイドの一角にあるタウンハウスに住んでいた。一度招かれて泊めてもらった。東京ならさしずめ大手町のビルの谷間といった、摩天楼のど真ん中に個人の家があるのにびっくりした。鰻の寝床のような家は五階建てで、ぐるぐると階段を昇っていくと、両親の部屋、ジェリーの部屋、ジェリーの妹たちの部屋、そして客間が次々に現われる。一階の奥には噴水と彫刻の置いてある小さな庭があって、四方は壁に囲まれている。見上げると隣のビルが、高く高く聳えたっていた。
何もかも恵まれたジェリーなのに、どういうわけかあまり勉強が出来なかった。一緒に取ったマクロ経済のごく初歩的なところがわからない。グラフを書いて説明してやったら、なんでそんなことが理解できるのかと、感心しきった顔をするので、こちらがきまり悪かった。勉強だけでなく、することが全てちぐはぐである。テニスはうまいのに、世の中を渡っていく才覚が欠けている。SFSに入れたのも、父親の力によるものらしかった。計画をきちんと立てられない。要領よく話せない。ドライブをすれば道に迷う。妹には馬鹿にされる。すぐ忘れ物をする。根気が続かない。そんな彼が、右も左もわからない留学生の私を同類と思ったのだろうか、何かにつけて親切にしてくれた。自分の下宿に呼んで簡単な食事を作ってくれたり(メニューは出来損ないのサラダとパンだけだったが)、一緒にドライブへ出かけたり、彼の一家が応援しているバックレー上院議員に会わせてくれたり。好意を体一杯で表わして、まるで子供のように一所懸命私に話をするジェリーの姿を、今でもなつかしく思い出す。彼は結局ジョージタウンの勉強についていけなくて、翌年古巣のヴァーモント大学へ戻っていった。卒業後もバックレー上院議員の選挙運動を手伝ったり、テニスのコーチをしたり、運送会社に勤めたり、職業を転々とした。一番最近は彼自身が学んだマサチューセッツの全寮制私立高校の舎監をしていた。後に私がニューヨークの法律事務所で実習をしていた時、少々足が悪くて片足を引きずるジージーという可憐な女性を連れて会いにやってきた。ジェリーとジージーはその後結婚した。子供も出来て幸せに暮らしているという手紙を貰ってから、もう五年ほど音信がない。あの好人物のジェリーが、世の中の荒波に押し潰されないで元気でやっているだろうかと、時々心配になる。
ジェリーと対照的に、頭の回転が速く、口から先に生まれたのではないかと思わせるのは、キャロルという小柄な黒人の女子学生であった。彼女とは、カフェテリアで知り合った。例によって一人で食事をしていたら、隣にひどく会話の弾む、楽しそうなグループがいる。何気なく聞き耳を立てると、中心になっているのは、一人の黒人女性で、これがキャロルであった。周りの女子学生はキャロルの話を聞いて、ただただ笑い転げている。そのうち、私の姿が目に入ったと見えて、キャロルは私に話しかけてきた。仲間に入らないかという。返事もしないうちにすっかり彼女のペースに巻きこまれ、気がつくと彼女が次々と矢のように浴びせてくる質問に、必死になって答えていた。こうして私に、生まれて初めて黒人の友達ができた。
キャロルはオハイオの出身であった。少しチェロキー・インディアンの血が入っているせいか、肌はそれほど黒くない。高校生の時一年留学した、トルコの大ファンであった。そのトルコで日本の人気が高いから、日本にも親しい感じを持っているのだと、話してくれた。この留学がきっかけで中近東に興味を抱いたのだろう。大学ではアラビア語を専攻していた。アラビア語の発音がいかに難しいか、ある音をきちんと発音しようとすると、唾が飛んで困る、アラビア語のみみずが這ったような字をどうやって覚えるかなどといった話を、身振り手振りを交えてしては、皆を笑わせた。機関銃のように口が回るという特技を活かし、アルバイトでツア・モービルというワシントンの定期観光バスのガイドをしていた。議事堂や、リンカーン記念堂の説明の台詞を早口でまくしたてながら、田舎から出てきた観光客の行動を微に入り細に入り描写して、周りの仲間を喜ばせた。
ジョージタウンのキャンパスで黒人の姿は珍しくなかったが、黒人と白人の学生のあいだには、なんとはなしに見えない壁があった。考えてみれば一九六四年に公民権法が成立し、南部諸州においてバス、列車、駅、レストランなどの白人専用公共施設が黒人に完全に開放されてから、まだ十年しか経っていなかった。アラバマやテネシーなどからやってきた学生たちは、黒人を完全に隔離した環境で育ってきたのである。カフェテリアで知り合った、ジョージア出身の育ちのよさそうなある学生は、軽い南部なまりで話している途中、声をひそめて私に囁いたものである。
「君、黒人の知能が劣っていることは、科学的に証明されているんだよ。誰も言わないけれどね」
黒人学生の多くはあまり白人と交わらず、自分たちだけで固まる傾向があった。六〇年代に東部の有名大学へやってきた黒人学生たちと比べれば、緊張はやわらいでいたかもしれない。しかし七〇年代のキャンパスでも、彼らが同化しているようには決して見えなかった。二十年後の今日でも、事態はそれほど変わっていない。六〇年代以降奨学金を得て大学へ進学した黒人の中から、多くの優秀な黒人指導者が輩出しているのも確かである。パウエル統合参謀本部議長や、トマス最高裁判事は、この時代の産物である。しかし黒人に言わせれば、アメリカは依然として彼らを社会の一員として完全に受け入れていない。反対に白人に言わせれば、いくら教育や職業上の機会を与えても、黒人の多くはそれを自分のものにしようとしない。どちらの言い分が正しいにしても、黒人問題はアメリカという国の大きな悩みである。
そんな中で、キャロルは白人学生と溶け合い、ごく自然に振る舞う、少数の黒人学生の一人であった。それは彼女の明るい、誰にでも好かれる性格によるところが大きかったろう。彼女が人並み外れたすぐれた頭脳を持っているのも、少し話せばすぐわかったから、差別する理由は何もなかった。しかしそれでもなお、彼女の皮膚が黒いというだけで、私には多少つきあいをためらう気持があったように思う。キャロルがワシントンを案内してやると何度も申し出てくれたのに、なぜか私は断った。この数年前、奈良の春日大社で出合った黒人の男性観光客が、握手するために手を差し伸べてきた時、一瞬ためらった、あの時の気持と似たものが、心のどこかにあった。偏見というのは、説明のしようがない、こういった感情を言うのであろう。
キャロルと本当に親しくなったのは、五年後の春、日本から出張中、ジョージタウンの街でばったり彼女に再会してからである。キャロルはジョージタウンの大学院で修士号を取得し、外交官試験に合格して待命中であった。私がその秋から家内とともにロー・スクールへ留学するというと、ぜひ連絡しろ、奥さんの面倒は引き受けたと言ってくれた。この好意に甘え、生まれて初めてアメリカに住んだ私の家内は、最初もっぱらキャロルの世話になった。法律の勉強で全く時間の取れない私に代わって、キャロルは家内を色々なところへ案内してくれた。黒人街の美容室だの、マーケットだの、普通あまり日本人が行かない場所にも連れていってもらった。黒人風の表現なども、教わってきた。家内は彼女がすっかり気に入り、今に至るまで黒人びいきである。人種や国籍に対する好意や悪感情などというものは、最初に出合った人の印象で、簡単に決まってしまうものであるらしい。
キャロルはその後、チュニジアのアメリカ大使館に、文化アタッシェとして赴任していった。仲間が集まって、盛大な歓送会が開かれた。時々ワシントンへ帰ってきて、大使館の警護にあたる海兵隊員が、彼女のことを現地人だと思って中に入れまいとするので困ると、笑って話していた。その後戦乱のベイルート勤務となり、最後はヘリコプターで脱出して帰ってきた。ずいぶんおそろしい体験だったらしい。ベイルートでの体験を語る時だけは、彼女の顔から笑顔が消えた。キャロルはパリ勤務を最後に国務省を辞め、イギリス人の男性と結婚して、今はワシントンに住んでいる。
十一月の感謝祭の休みには、マークの家へ招待された。同室で暮らしながらそれほど親しく感じていなかったので、この申し出は意外だった。マークは笑って、「ルームメートを感謝祭に家へ招待するのは、アメリカの伝統さ」と言った。休暇前の授業が全て終わった午後、マークと私はヒーリー・ビルの前で、大学の生協がチャーターしたニューヨーク行きのバスに乗りこんだ。キャンパスを出て旅をするのは、久しぶりであった。すりガラスの外を、冬枯れの景色が駈けぬけていった。マークは例によって教科書を一杯かかえこんで、バスに乗りこむとすぐ勉強を始めた。家に着いたらなるべくのんびり出来るように、なるたけ期末試験の準備をすませてしまおうという魂胆である。私もつられて教科書を開き、二人は日が落ちて暗くなるまで、一心に本を読み続けた。途中、ニュージャージー・ターンパイクという有料道路に入る。サイモンとガーファンクルの「アメリカ」という歌を思い出した。
「恋人になって、ぼくらの運命を一つにしようよ。かばんの中にささやかな財産をつめて。たばこを一箱と、ミセス・ワグナーのパイもあるさ。ニュージャージー・ターンパイクをバスに乗って、ぼくらはみんなアメリカを探しにやってきたのさ」
バスがニューヨークに近づくと、高速道路はひどく渋滞して、なかなか前へ進まなかった。感謝祭は丁度日本のお盆のような休みで、全国で帰省ラッシュがおこるのである。それでもようやくマンハッタンへ抜けるリンカーントンネルにたどりついた。トンネルに入る直前、ニュージャージー側から、生まれて初めてマンハッタンの摩天楼を見た。ハドソン川の川面から直接屹立する高いビルが、暮れなずむ空に浮き上がって一つに連なるシルエットは、一種異様な力を感じさせた。トンネルをいったん抜けて、マンハッタンのターミナルでニュージャージー行きのバスに乗り換える。勤め帰りの人で混雑したこのバスは、再びトンネルを抜けると、北西に向かって走った。大分行って人家も疎らになった頃、周りに何もない鉄道線路のそばで、マークは運転手にバスを止めさせ、私と一緒に降りた。冬の夜の空気が冷たかった。白い息を吐きながら、鉄道線路の上をしばらく歩き、緩やかな土手を下っていくと、電灯のついたさほど大きくない家が湖の畔にあり、そこがマークの家であった。マークの両親、弟二人、妹、そしてマークのお祖母さんが、一斉に中から出てきた。家に帰ってきた息子と、遠い国からやってきたその友人を迎えるために。
それから三日間、私はマークの家の客人として過ごした。マークの家は貧しくはないが、質素でつましかった。祖先は十七世紀にイギリスからやってきてニュージャージーに住みついた、今時めずらしい純粋ワスプの家柄である。すぐ近くのお祖母さんの家は、植民地時代の火かき棒やら年代物の家具で一杯で、まるで博物館のようであった。近くの丘に登ればマンハッタンの摩天楼が地平線にかすんで見える、パーシピニーというこの町は、喧騒に満ちたニューヨークとはまるで別天地のように静かであった。翌日は感謝祭の礼拝に、マークの家族とともに列席し、その後生まれて初めて七面鳥を食べた。マークとジェーンがあちこち案内をしてくれた。これが独立戦争の時ワシントン将軍が冬の間住んだ家、これがぼくらの高校。高校のグラウンドでは丁度アメリカンフットボールの試合をやっていて、応援団がブラスバンドに合わせ、エールの交換をやっていた。
"Eat them up, eat them up, lah, lah, lah!"
No you won't, no you won't, ha, ha, ha!"
「早稲田を倒せ、早稲田を倒せ、早稲田をたおおせ、おう」
「慶応たーおーせー、おう」
とやりあう神宮の応援合戦と、リズムは違うけれども、同じ熱気がこもっていた。マークとジェーンはなつかしそうに母校の後輩たちを見やっていた。
夜、彼らの高校時代の友人たちと、飲みに出かけた。彼らははしゃいで楽しそうに話していたが、私は共通の話題が一つもなくて、所在なかった。そのうちバンドが入って、皆踊りはじめる。気がつくと私と女の子一人だけが、テーブルに残っていた。こういう時は誘わねばならないのだろうか。私はダンスが苦手である。さんざん迷ったあげく、思いきって声をかけた。
「一緒に踊りませんか」
「ノー」
あろうことか、申し込んだのに断られたのである。私は狼狽して、耳がつぶれそうなほど大きなロックの音量に負けぬよう声を張り上げ、たずねた。
「ホワイ」
「私、足を捻挫して踊れないの」
彼女はにっこり微笑んで、そう言った。
みんなと別れたその帰り、マークはまずジェーンを家まで送り届けにいった。彼女の家の前まで来ると、二人は車から降り、抱きあって、接吻を始めた。私は車の反対側で待つ。がたがたと震えるほど寒く、いい加減にしろと言いたかったが、二人は容易に体を離そうとしなかった。仕方なく私は空を見上げ、一面の冬の星空を眺めていた。
感謝祭が終わると、本格的な冬がきた。日が傾くのが速くなり、東京に比べ寒さも厳しかった。アメリカ人の友人も少しずつ増え、ジョージタウンの生活にも大分なれたけれど、寒さに体を縮こめると、気持も萎縮しそうであった。夢中で過ごしていたから、特段ホームシックにはならなかったが、日本の友人たちに会いたいと、時々思った。そんな頃、京都出身のゼミの友人Kから手紙が届いた。
「阿川、生きてるか。元気出せ。一つ歌を書いてやる」
ぶっきらぼうな手紙の最後に、北帰行の歌詞が書いてあった。
「窓は夜露にぬれて、
都すでに遠のく。
北へ帰る旅人ひとり、
涙流れてやまず」
戦前、三高の学生であった作者が、満州へ向かって京都を去る時に作った詩だと、Kは手紙の最後に記していた。私は、キャンパスへの往復、朝な夕なに、この歌を一人で口ずさみながら、Kやその他の友人を思った。
自立の心意気
クリスマスの休暇は、ニューヨーク郊外に住む、父の友人の家で過ごした。マンハッタンへ時々出かけては、体の芯まで凍るような寒さの中を、一人であちこち歩きまわった。O・ヘンリーの短篇の主人公がドアからふっと顔を出してもおかしくなさそうな、蔦の絡むグリニッジ・ビレッジの古い建物、麻雀の牌をかきまわす音がどこからか聞こえてくる中華街の雑踏、ジェラート、カサーティ、カプチーノとおいしい菓子や飲み物が次々運ばれてくるリトル・イタリーのカフェ、セントラルパークを見下ろすオフィスビルの谷間でプレッツェルや焼き栗を売るミッドタウンの屋台、五番街に並ぶサックスやKLMのクリスマスを祝う飾りつけ、スウェーデンの客船クングスホルムをわざわざ見に出かけたハドソン川沿いの船客ターミナル、落書だらけの車体を震わせるようにして猛スピードで駈けぬけるレキシントン・アヴェニューの地下鉄急行、道端に停めた車の中でお互いの体をまさぐりあう男女――ニューヨークは人間の物欲、性欲、食欲、優れたもの愚劣なもの、美しきもの醜きもの、本物と擬い物、清潔さと不潔さ、混沌と秩序、その他もろもろのエネルギーが渦巻いていて、私を圧倒した。この大都会を好きになったのか、嫌いになったのか、よくわからないまま、ワシントンへ戻ってきた。
刺激の多いニューヨークに比べると、大学のキャンパスは静かなものであった。ワシントンの冬は厳しくて、何度かポトマック川の水が凍りついた。日が落ちるのが早く、すぐ暗くなった。一度大雪が降って、ジョージタウンの建物がすっかり白く覆われた。降り積もった雪は、音を消し、不思議な静けさが町を包んだ。学生たちはスキーや橇を持ち出し、ジョージタウンの目抜き通りウィスコンシン・アヴェニューを滑って楽しんだ。今でもジョージタウンの土産物屋で、この時の写真を売っている。あの時、あの冬、私はこの町で暮らしていた。
新しい学期が始まった。外交史の授業は、春学期も続いた。ダイベル教授のアメリカ外交史も、ヒルディー先生のヨーロッパ外交史も、引き続きおもしろかった。難解でよくわからない国際関係の理論と比べ、外交史は具体的で、わかりやすかった。現在の国際情勢を考える上でも、参考になりそうな事件や教訓に満ちていた。悲しいことに、あれほど熱心に授業に出て一所懸命ノートを取ったのに、授業の内容は大半忘れてしまった。しかし特に印象に残った話は、断片的に今でも覚えている。たとえば、米西戦争に勝った合衆国が、キューバにおけるマラリア退治を、休戦条件の一つとしてスペインに突きつけたという話は、戦後占領下の日本でDDTを撒き散らしたアメリカ軍を思い起こさせて、印象に残った。二百年の歴史を通して、アメリカ人は外から入ってくる病原菌にひどく神経質である。戦後長い間、アメリカへ入るためには、結核患者ではないという証明が必要であった。病気だけではない。モンロー宣言、外国政府代理人登録法、ジョージ・ケナンの封じこめ政策に至るまで、アメリカは旧世界の邪悪な影響を断ち切るために、心を砕いてきた。また時には積極的に海を越え、海の向こうで病原菌を撲滅し、アメリカの理想を広めようとした。医学を布教の武器としてアジアやアフリカへ渡った宣教師たち、国際連盟を提唱したウィルソン大統領、そしてベルリンへでかけていったケネディー大統領が、例として思い浮かぶ。しかし病原菌が手に負えず、自らの理想を国の外で実現できないとなると、アメリカは荷物をたたんでさっさと内へ閉じこもる。そしてたちの悪い病原菌に自分たちが冒されたのではないかと、時にはヒステリックなほどの反応を示す。ボルシェヴィキ革命後の移民労働者に対する迫害、真珠湾攻撃をきっかけにした日系人強制収容、第二次大戦後のマッカーシー旋風は、その例である。
アメリカ外交史は、建国以来合衆国が、外の世界をどうとらえ、どうつきあったかの記録である。外とつきあうのがしんどくなると、内にこもってしまうところは、不思議と日本に似ている。本来辺境に位置していて、他国とそれほどつきあわずともすんでいたのに、気がつくと大きな力を持っていた。外の世界に影響を与えないではいられず、国際社会の中での自らの役割について悩むところも、現在の日本と通ずる。しかし一方で、理想や原則にこだわるところは、似ていない。慶応の国際関係論の授業で、神谷教授は、「法律的倫理的アプローチをとるのが、アメリカ外交の欠点だ」とのケナンの言葉を引いて、冷戦に関する講義を始めた。しかし米国の外交史を学ぶと、法律的倫理的側面をなくしたら、アメリカ外交はアメリカのものではなくなってしまうようにも思えた。私は結局外交史の専門家にならなかったけれど、アメリカの外交史で学んだ内容は、後に勉強したアメリカの法律の考え方と、どこかで明白につながっていた。
一方ヨーロッパ外交史の方では、副読本で読まされたサー・ハロルド・ニコルソンの「ウィーン会議」という本が、たいへんおもしろかった。この本は、ナポレオン没落後のヨーロッパで、いかに新しい国際関係の秩序が確立されたかを、史実を追ってていねいに記述している。ロシア遠征が失敗に終わったあと、塁々たる屍を後に残し、身分を隠して雪の中をパリへ駈け戻る孤独な将軍ナポレオン・ボナパルトの描写や、ウィーン会議で列国代表の席次を無視し上席へ割りこもうとするロシア代表の記述は、実に生き生きとしていて、小説よりおもしろかった。いつかこんな歴史書が書けるのなら、学者も悪くないかなと思った。
二つの外交史の授業に加えて、春学期は米国史後半、国際経済、米国政治概論を履修した。米国史の授業では、十九世紀のアメリカで一世を風靡した、ホレーショ・アルジャーという作家の話が、印象に残っている。アルジャーは、貧しい境遇に生まれながら、自らの努力と天の恵んだ好運で立身出世を成し遂げる少年の話を、好んで描いた。そして百を越える彼の作品は、当時のアメリカでたいへん広く読まれたのだそうだ。たまたま子供のころ、年長の従兄がアルジャーの作品の訳本を、私に与えてくれていた。貧しいが勤勉で信仰心の厚い少年が、ふとした機会に富豪の紳士に認められ、とんとん拍子に富と地位を手に入れるという話の筋を、覚えていた。アルジャーの作品、アルジャーの描いた作中人物が、いかにアメリカ人の成功に対する願望と、成功を信じる楽天的な性格を表わしているか、ホレーショ・アルジャーはアメリカ史における最大のテーマをとらえたのだと、ブラウンという女性教授は、時に目をつぶり、朗々とうたうように講義した。考えてみると、フランクリンの自伝にせよ、足長小父さんにせよ、アメリカは成功物語の国である。主人公はいつも明るく挫けず、夢を失わない。いつか成功することを、信じて疑わない。そしてこの国で成功して大金持ちになるのは、根本的に善なのである。人生を斜に構えて見るようなシニカルな態度は、アメリカ人にそぐわない。その後、社会に出て様々なアメリカ人とつきあい、彼らの成功に対する飽くなき情熱、執念と、楽観的な物の見方に触れるたびに、ホレーショ・アルジャーを語るブラウン教授の講義を思い出した。
アメリカ国民とアメリカという国家の成り立ちについて、同じように印象的な観察をしたのは、米国政治概論を教えた、ダグラス教授であった。口をへの字に曲げ、全く笑わないこの先生は、最初の授業で、学生の前をゆっくり行ったり来たりしながら、アメリカの政治を理解する上で三つ、重要なポイントがあると言った。そのうち二つが何だったか思い出せないのだが、一つは「プレンティー」ということだった。この言葉はどう訳せばいいだろう。たくさんというよりも、豊かというよりも、さらに強い、有り余るという感じだろうか。ダグラス教授によれば、アメリカの民主主義、アメリカの政治制度は、このプレンティーを大前提にしているという。自由と平等を保障していたのは、西へ行けば無尽蔵な土地があり富があるという、物質的、空間的なプレンティフルネスであった。成功の機会が限りなくある国では、持たざる者が持てる者を革命によって倒す必要はない。平等とは、成功する機会を均等に分け与えることであり、限られたパンを同じ分量に分けることではない。自由は、自分が住んでいるところが息苦しくなった時、そこを去り、新たな土地へ移って得るものである。自由を抑圧している支配階級を倒して、あるいは宗教的諦念によって得るものではない。「草枕」の中で漱石は、「唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう」と言った。しかしアメリカ人は、一つところにいられなくなったら去る。そもそも彼らは人でなしのいない国を夢見て父祖の国を去り、アメリカへやってきたのである。人でなしのいない国を求めて、彼らは依然旅を続けている。
今日のアメリカは、かつての圧倒的な力を失った。経済的には日本の脅威を感じている。何につけてもプレンティーが保障されなくなった時、アメリカ人の政治的な考え方も変わるだろうか。しかし、落ち目のアメリカと言われながら、アメリカの国土は相変わらずとてつもなく巨大である。住宅は大きく、道路の幅は広い。ソフトドリンクやアイスクリームを買うと、その量の多さに圧倒される。冷房、暖房、水道、電気、ガソリンは湯水のように使う。よくも悪しくも、この国はいまでもプレンティーの国である。
春学期のうちに、私は一つ大きな決心をしなければならなかった。ジョージタウンにもう一年残るかどうかである。ようやく英語での授業にも慣れつつあった。秋学期の成績も悪くなかった。ジョージタウンは慶応で取得した単位を全て認めてくれ、この分なら二年でこの学校を卒業できそうであった。せっかく調子も出てきたし、出来ればジョージタウンと慶応と両方から学位を取りたい。幸い慶応からは、二年留学しても、一年の遅れですませてくれそうだとの意向が伝わってきていた。どうせ一年遅れるのなら、学位を取って帰ったほうがいいだろう。私はそう考えた。
問題は学費である。一年目は文部省から全額奨学金が支給されたが、二年目からは自費となる。アメリカの大学の授業料は高い。父に頼めば出してくれるが、できれば自分の力でやりたかった。どこからか奨学金は出ないだろうか。私は色々なところに当たって歩いた。横浜のロータリー・クラブの有力者であった友人の父君に手紙を書いたら、早速親切にジョージタウンのロータリー・クラブ会長へ手紙を書いてくれた。ただどうも住所がおかしい。よく見ると、同じジョージタウンでも、マレーシアのジョージタウンであった。イギリス国王ジョージの名をつけた町が世界にいくつもあることを、この時初めて知った。
最後に訪れたのは、各国留学生の面倒をみる大学の国際センターである。ハイバーグという、バイキングの親方のようなひげのディレクターがいて、ビザの手続きなど、きわめて事務的に留学生の相談に乗ってくれる、外国人学生に出る奨学金はないものかとたずねると、ハイバーグ氏はいつものようにそっけなく、私をじろじろと観察しながら、
「大学にも金がなくてね、親から仕送りを受けられる外国人学生に出す奨学金なんてないよ」
と、ぶっきらぼうに答えた。彼はいつ会っても、目が落ちつかず、ぜいぜいと荒い息をしていて、あまり好きになれない男であった。なんだか物乞いをしているようで、いやな気がした。とてもとりつくしまがない、帰ろうとしたとき、ハイバーグ氏は、突然私にたずねた。
「ところで君はいくつかね」
「この四月で、二十五です」
「じゃあ、エマンシペーテド・マイナーということで、なんとかいけるかもしれないなあ。君は成績はいいから、それでやってみるか」
説明を聞くと、エマンシペーテド・マイナーというのは親からすでに自立した学生の呼称である。親に一定以上の所得があると、奨学金をもらう資格はないのだが、年齢、学年にかかわらず、親から独立しているとみなされれば、学生自身の所得だけが考慮の対象になる。ハイバーグ氏は私の年齢からして、親から独立し、まだ大学でうろうろしている青年と考えたのかもしれない。確かにこの一年だけをとってみれば、私は自分が獲得した奨学金だけで、ほぼ暮らしを立てていた。だがそれ以外の稼ぎがあるかといえば、皆無である。親から独立したいというのは気持の上だけで、親の援助がなければ、二年も留学生活を続けられないのは明らかであった。
しかし、先方がエマンシペーテド・マイナーと認めようと言っている以上、私に異存があるはずがない。ハイバーグ氏の指示に従い、所定の申請書に記入して大学へ提出したら、なんと千ドルの奨学金がおりた。もちろん千ドルではとても足りず、結局不足分は親父に頼った。しかし千ドルを自分の力で用立てたので、私はもう一年、大手を振って留学を続けられるように思った。この国では、自立したいという心意気が、まず評価される。いつまでも親に頼っているのは、格好が悪い。周りの学友たちの多くも、働きながら学んだり、奨学金を受け取ったり、たくましく生活していた。私も知らないうちに、彼らの影響を受けていた。ホレーショ・アルジャーの作中人物のような気もしてきた。エマンシペーテド・マイナーという言葉を、私は何度も噛みしめた。
アフタヌーン・ディライト
水仙が莟をふくらませ、ワシントンにほんの少し春の気配が感じられるようになったころ、ゼミの友人Mから長い手紙が届いた。大学最後の年だから、アメリカ見物をしようと思う。ついてはおまえもつきあえ。Kも行く。一緒に旅行をしよう、アメリカを案内してまわれという、半ば強制的な内容であった。人の都合も考えず、なんと身勝手なことか。日本の古い友人たちは、アメリカの新しい友だちと比べ、遠慮がなかった。お互い自分を曝けだし、ずけずけと心の中へ入りこむのを許し合わないと、友人ではないようなところがあった。日本の友人とアメリカの友人とで、親しさに差があったのかもしれない。しかしどんなに親しくなっても、アメリカ人は決して他人を入れない部分を、心の中に持っているように思う。大学時代の友も、それ以後親しくなった友も、同じである。きっと夫婦の間でも、そうなのだろう。私はしばらく日本を離れ、日本流の友達づきあいから解放されてほっとしていたが、同時に心のどこかで日本風の友人関係がなつかしかったのかもしれない。だから、Mのやつ勝手だと文句を言いながら、彼らと一緒に東海岸から西海岸へ出て、一度日本へ戻るのも悪くないと思った。それにこの八ヵ月あまり、アメリカについて色々勉強したけれど、本当のアメリカはまだほとんど見ていない。ワシントン以外では、ニューヨークを訪れたぐらいで、他の場所を知らない。私は仕方ないから同行してやると、Mに返事を書いた。
五月になって、最後の期末試験が終わると、大学は長い夏休みに入った。九ヵ月近く住み慣れたアルバン・タワーのアパートを引き払い、九月の再会を約束してマークとジムに別れを告げると、私はトムと彼の両親と一緒に、ステーション・ワゴンへ乗りこんだ。MとKがニューヨークに着くまで、うちで泊まっていけという、親切な申し出を受けたのである。トムは相変わらずぶっきらぼうであったが、親切だった。車の後にいっぱい荷物を積みこみ、私たちは一路コネティカットへ向かって走った。ワシントンは桜が散ってすでにツツジの季節なのに、北へ上るにつれ、木々は葉を出したばかり。緑が淡く、まだ春が浅い。高速道路の脇で、ドッグウッド、はなみずきの花が美しく咲いていた。考えてみると、この何ヵ月か試験の準備に追われ、ワシントンに春が来たのを、十分楽しんでいなかった。学校を忘れ、私は初めて落ち着いた気持で周りを眺めた。朝ワシントンを出て、コネティカット州ハートフォードのトムの家に着いた時には、もう夕方になっていた。
トムの家には、三日ほど厄介になった。物音一つしない、静かな家であった。トムは両親の家に帰っても、誰と遊びに出かけるわけでもなく、一人で静かに本を読んでいた。私が何も言わないと、昼飯も出なかった。この家では、誰も昼食をとらないのかしらん。腹が減ってたまらないので、何か食べるものはないかとトムにたずねると、パンとピーナッツバターを出してくれた。
「いつでも勝手にやり給え。冷蔵庫の中のものは、何でも取り出していい。ヘルプ・ユアセルフ」
アメリカ人がこう言ったら、彼らは本気なのだから、遠慮する必要はない。勧めてくれるまで待っていたら、飢え死にしてしまう。「ヘルプ・ユアセルフ」。この言葉ほど、アメリカ人の基本的生活態度を表わしているものはないと思う。
ぶっきらぼうなトムが、時々思い出したように、私を車に乗せて外へ出かけた。彼の通った高校や、植民地時代から続く渡し船を見せてくれた。どこへ行っても人が少なく、静かな町であった。ある時は近くのマクドナルドを訪れた。トムは夏のアルバイト先を探していた。夏中働いて、学資を稼ぐのである。アメリカの大学の夏休みが長いのは、何も遊ぶためだけではない。両親の家で生活費の心配をせずに暮らし、四ヵ月近くみっちり働けば、かなりの貯金ができる。トムのように特に困っていない学生でも、夏は働いて学資を稼ぐのが当たり前であるようであった。親からの独立の程度は、自分の自由になる金の額に比例する。アメリカの若者は、ひどく急いで親からの独立をしたがっているように思われた。エマンシペーテド・マイナーという言葉が、また脳裏に浮かんだ。
数日後、トムにニューヘイブンの駅まで送られ、私は電車でニューヨークへ向かった。マンハッタンへの通勤客が乗るこの電車は途中で故障し、大幅に遅れた。MとKがケネディー空港に到着する時間が迫っている。グランド・セントラル・ステーションからバスに乗り換え、いらいらしながら空港へたどりつき、TWAのターミナルへ駆けつけると、ちょうどMとKが飛行機から降りて、こちらへ歩いてくるところであった。
二人を見つけた時に受けた文化ショックを、どう表現したらよいだろう。まあ何と二人は日本的であったろう。彼らの歩き方、服装、ボストンバッグ。彼らの目つき、くしゃみのしかた。そして彼らの口から魔法のように飛び出る日本語。まるで私の知っている日本の全てを、そっくりそのままニューヨークへ運んできたようであった。二人は周囲の風景とは全く異質で、まるで火星人が立っているようである。しかし彼ら自身は、自分たちが異質であるのを、微塵も意識していなかった。私に出合うとほっとした様子で、煙草に火をつけ一服すると、
「サンフランシスコからMさんの所へ電話をしても、おまえから連絡がないという。ちゃんと居所をはっきりしておかなきゃ、だめじゃないか」
と会うなり、文句を言った。トムの家へ転がりこんだまま、私は連絡先にしておいたニューヨークのMさんへ、電話をかけそこなっていた。ニューヨークの喧騒の中で、彼らの文句を聞きながら、私はもう半分日本へ戻ったような気がした。
MとKがひどく異質に見えたのは、私自身が日本人であるのを、少し忘れかけていたためだと思う。アメリカに長い間住んでいる日本人は、態度物腰、立ち居ふるまい、着ているものまでが、どことなくアメリカ風になってくる。特に年齢が低いほど、その傾向が強い。私はもうすでに二十代半ばとなり、日本人としての性格はすっかり固まっていたはずである。しかしこの十ヵ月間、アメリカに慣れよう、アメリカを吸収しようと、懸命に努力していたため、いつのまにか驚くほどアメリカに染まっていた。ちょっとした仕草さえ、気がつかぬうちにアメリカの友人の真似をしていたらしい。よく考えてみれば、MとKに出合った時私が驚いたのは、二人の日本人の態度物腰ではなく、彼らを通してみた私自身の変わり方であったかもしれない。MとKから見れば、私は鼻持ちならぬほどアメリカにかぶれたと見えたろう。Mは彼独特の皮肉っぽい調子で、時々それをからかったが、私がいないと右も左もわからなかったので、多少は我慢していた。その後十数年たち、私も経験を積んで、日本人といる時は日本人らしく、アメリカ人といる時はアメリカ風にふるまうことが、自然に出来るようになった。しかし今でもアメリカでしばらく過ごしたあと、帰りの飛行機に乗るため空港へおもむき、待合室で日本人旅行客の集団に出合うと、突然MとKを迎えた時の記憶がよみがえる。その度に私は大きく深呼吸をし、頭のなかのギアを入れ替え、日本人集団の中へ入っていく。その瞬間、私は日本へ帰ってくる。
こうして私たち三人のアメリカ旅行が始まった。MとKは東京で、グレイハウンド・バスのパスを買っていた。一ヵ月間、アメリカとカナダのバスが乗り放題であった。私は奨学金と一緒にもらった帰りの飛行機の切符を書き替え、アメリカ大陸をいくつかの区間に分けて飛んだ。飛行機で飛べないところは、他の二人と一緒にバスを使った。財布の中身に余裕がなかったので、行く先々で友人の家に泊めてもらった。知り合いのいない町では、安ホテルを探した。ジョージタウンの友人たちは、どこでも気軽に私たち三人を泊めてくれた。旅人に宿を提供するのは、アメリカの伝統の一つである。決して特別なもてなしはしない。客のためのベッドがなければ、居間のソファーや寝袋で寝かしてくれる。それほど深いつきあいでなくても、アメリカ人は人を泊める。見知らぬ人でも友人の紹介さえあれば大丈夫である。宿を貸すのに鷹揚であるのは、家が広いせいもあるが、それだけではない。アメリカ社会は日本と比べ、人と人との関係が薄いという。アメリカ人は日本人ほど人を信用せず、お互い訴えてばかりいるという。しかし彼らの人の泊め方を見ると、日本とは異なる信用の基準があるように見える。いったんその基準をパスすれば、気軽に宿を与え食事を提供する。この国の人々はみな一度は旅人であった。いやもしかすると、今でも旅を続けているのかもしれない。記憶で遡れるよりもはるか昔に定住した私たち日本人にははかり知れない、旅人同士の掟のようなものを、旅行中何度も感じた。
私たちは、アメリカ中を気ままに歩きまわった。ニューヨークから北へボストン、ニューハンプシャー、南へ下ってコネティカット、ニュージャージー、ワシントンと、東海岸で数日過ごした。そしてワシントンから、インディアナポリス、カンザス・シティー、デンバー、ソルトレーク・シティーと西へ向かって旅をし、北へ転じてイェロー・ストーン国立公園、モンタナから、カナダのカルガリーへ出た。バンフからジャスパーまで車で走り、汽車とバスを乗りついで、ヴァンクーバーで西海岸に到達した。若くて時間がなければできない、大旅行である。多くの町を訪れ、変わった景色を見た。さまざまな人に出合った。ずいぶん無茶もした。
ボストンでは、ハーバードにマーサ・マルキンのルームメートをたずね、一緒に野球の試合を見にいった。泊まったユースホステルで、冷蔵庫に入れておいたハムを盗まれた。ニューハンプシャーでは大学の友人カールの家に泊めてもらった。森に囲まれ、湖に面した、美しい家であった。自動ピアノが置いてあって、楽譜を差し込むとひとりでに鳴りだし、その音が静かな湖水をわたって響いた。コネティカットで泊めてもらった友人キャシーの家では、夜通しカランカランと鐘が鳴るような音がした。すぐ前のマリーナに停泊したヨットのロープが、風で帆柱に当たる音であった。ワシントンでは、夕食を食べに入ったレストランのウェートレスが、日本人である私たちに興味を示し、隣にすわりこんで質問を始めた。食事を終わったあともつきあわされ、私たちの泊まっているホテルまでやってきて、午前三時まで話しこんだ。カンタという好奇心のかたまりのようなインド人のこの女の子は、私たちに日本のことを質問し続けた。インディアナポリスでは、サルベーション・アーミーで黒人の浮浪者と同じ部屋で一緒に寝た。ホテル代をけちり、一番安いところで泊まったのである。手洗いへ立つと、闇の中で無気力な目がじっと私のあとを追った。子供のころから歌で名前を覚えたカンザス・シティーは、思ったよりずっと都会的な美しい町であった。中西部はひたすら平らだと聞いていたが、この町にはなだらかな丘が多かった。
デンバーでは、ジョージタウンの友人マイクの家にしばらくやっかいになった。マイクにはモニカという可愛い妹がいて、私を空港まで迎えにきてくれた。あとからバスで着いたMは、その後旅の間中、モニカ、モニカとうるさかった。マイクは自分のおんぼろフォードを運転して、あちこち案内してくれた。アクセルをいっぱいに踏み、高速道路を飛ばした。ヴォリュームをいっぱいにあげたカーラジオからは、その夏流行っていた「アフタヌーン・ディライト」という、カントリー・ポップスの曲が繰り返し流れた。今でもこの軽快な曲がラジオから流れるたび、マイクの猛スピードの運転、ロッキーの山並み、モニカの愛くるしい横顔、広く大きなコロラドの空、牧場から逃げだして道を走り、渋滞を引き起こした放れ馬、あの夏の高原の空気が、まるでたった今のように思い出される。金はなかったが、世界は平和で、私たちは若く、何も心配がなかった。夏休みの午後は歌の文句のとおり、「ディライト」そのものであった。
デンバーから飛行機でロッキーの峨々とした山並みを越え、深い谷の中へ下りていくと、ソルトレーク・シティーに着く。モルモン教の総本山がある、清潔で静かな中都市である。気のせいか、多少まっこうくさい雰囲気が漂っている。サローヤンの自伝的短篇集、「マイ・ネーム・イズ・アラム」に、この町が出てくる。主人公アラムが、初めて故郷カリフォルニアを離れ、バスでニューヨークへ向かう。一人旅が不安で仕方ない。ソルトレーク・シティーまで来たところで、一人の背の高い伝道師に出合う。
「君を救ってあげよう」
「どうやって」
「簡単さ、信じればいい」
「でも、何を」
「全てさ、左、右、北、東、南、西、上も下も、周りも、中も外も、見えるもの、見えないもの、善も悪も、何もかも」
「それだけ」
「そうさ、それだけ」
「じゃあ、いいよ、信じるよ」
「おめでとう、これで君は私が救った、五十七人目の人になった」
伝道師には巡り合わなかったが、私たちは代わりに、日米混血のキャシーという女性に出合った。先に着いていた私が、バスターミナルへMとKを迎えにいくと、バスから一緒に下りてきたのである。西洋人の顔をしているのに関西弁で話す、きれいな女の子であった。彼女は一人で旅をしていた。家は奈良、秋篠寺の近くだという。四人でモルモン教の寺院を見学した。ターミナルへ戻って、イェロー・ストーン公園行きのバスが発車する直前、彼女は一緒に南のラスベガスへ行こうと言い出した。
「ねえ、みんなでラスベガスへ行こ。楽しいよ。行こ行こ」
私の気持は動いたのだが、偏屈なMがどうしてもイェロー・ストーンへ行くのだと言い張り、北へ向かうバスに乗りこんだ。
「東京に帰ったら、連絡してくれよ、また会おう」
後で彼女が、残念そうな顔でうなずき、私たちを見送った。
イェロー・ストーンからカナダへの長いバス旅行の途中、モンタナの小さな町のバスストップで、戦争後アメリカ兵に嫁いだ日本婦人に出合った。日本人をなつかしがって、ぜひうちへ来いとすすめられたが、ふんぎりがつかず、そのまま旅を続けた。たった五分しか言葉を交わさなかった。こんな山の中で何十年も暮らしたら、私でも日本と日本人がなつかしくなるだろうなと思った。ヴァンクーバーでは、慶応の先輩にばったり出合った。彼は対岸ヴィクトリアの家庭に寄宿していた。フェリーでヴィクトリアへ渡り、その家に転がりこんだ。夕食に出た食べ物の味に、なんだか覚えがあるなと思ったら、この一家はセブンスデーの信者であった。肉のような形をしたのは、昔衛生病院で毎日食べたグルテンという植物性蛋白質であった。セブンスデーの病院をよく知っているというと、みな静かににこりとした。当然この家は禁煙で、MとKは外に出て、一家が飼っているドーベルマンに怯えながら、隠れて煙草を吸っていた。
私たちはヴィクトリアからまた船に乗り、シアトルへ出てカリフォルニアを見て歩くつもりであった。ところが再入国に必要な書類を準備していなかったために、私だけ合衆国へ入れないと言われた。MとKは、私の手落ちをなじったが、どうにもならない。しかたなく、ひとりで一足先に帰国することにした。ヴァンクーバーへ戻り、シアトルへ向かうMとKをバスターミナルへ送って、一人になった私は、港を散歩した。フェアウィンドという客船が停泊していた。湾の中にモーターボート用のガソリンスタンドがあった。時々水上飛行機がエンジンの音を響かせて飛び立っていった。飛行機が離水すると、静寂が港を包んだ。さんざん陸のかたまりを見たあとの、海はよかった。この海の向こうは日本である。冒険旅行にも疲れた。明日は東京である。日本がいつにも増して、なつかしく思えた。
ジョージタウンの春
一九七六年の夏の終わり、私は日本からワシントンへ帰ってきた。一夏を日本で過ごし、新しい気分で、あと一年ジョージタウンで勉強するつもりだったのに、すっかり元気をなくし、心が鬱屈して仕方がなかった。
理由はいくつかあった。その一つは、再会した日本の友人たちとうまくいかなかったことである。親よりも、兄弟よりも、何人かの親しい友人に会いたくて日本へ帰ったのに、彼らと私の間に微妙な気持のずれがあった。久しぶりで会って話をしても、以前の様な調子がでない。なぜなのか、初め私にはよくわからなかった。そのうちの一人が私に言った。
「おまえ、なんだか話し方が変だぜ、人が変わっちまったみたいだ」
私の話しかたが、ひどく攻撃的だと言うのである。両親にもそう言われた。妹は、サシスセソやダヂヅデドの発音まで変だと言った。
「外人みたい。本当にかぶれやすいんだから」
自分では気づかなかったが、留学一年目、英語を身につけようと努力しているうちに、どうも私の日本語が少々おかしくなっているようであった。アメリカ人と話す時には、自分の考えをはっきりと表現せねばならない。それをそのまま日本語にすると、ひどく攻撃的に響く。人を非難しているようにさえ聞こえるらしい。たった十ヵ月で、自分の話し方がそんなに変わるものだろうかと思ったが、誰もが指摘するからには、どうも本当らしい。私の話し方のせいで、あれほどなつかしく思った日本の友との間に溝ができてしまった。そう思うと、私はさびしかった。そして十ヵ月で変わったのは、もしかしたら話し方だけではないかもしれないと思った。
友人たちとの間の距離は、彼らが大学最後の夏休みを過ごしていたために、余計感じた。皆忙しく就職口を探して走りまわっていた。何人かは、すでに内定をもらっていた。商社、銀行、保険会社、メーカー。いったん就職する会社が決まると、彼らはまるでさなぎが羽化して蝶になるような変身を遂げる。昨日まで親の脛をかじり、遊び惚けるだけの存在だったのが、就職が決まったとたん、出撃の朝の神風特攻隊パイロットのような、悟りと諦めとがいり交じった顔になる。学者になろうとお互いに励まし合っていたある友人は、私を食事に誘って、あるメーカーに就職を決めたと告げた。なぜ大学院へ進むのをあきらめて、就職に切り替えたかを、まるでカソリックの信者が懺悔するような調子で話した。私自身は就職を考えていなかったが、こうして日本の友がみな一足先に社会へ出ていってしまうとなると、一人だけとり残されるような気がしはじめた。
この夏、異性とのつきあいもうまくいかなかった。アメリカには惹かれる人がいなかった。だから日本に帰って何人かの女性と会うのを楽しみにしていたのに、実際には何もかもちぐはぐであった。私に好意をもってくれる人には、こちらがその気持になれず、私が好意をもっている人は、向こうにその気がなかった。私は自分でいやになるほど、異性の前では不自然で、わがままで、そのくせ求めるところが多かったから、相手も困ったろう。時間さえあればもっとゆっくりつきあって、理解しあえたかもしれない。しかし私はアメリカへ帰らねばならず、心が落ち着かなかった。その上、同年代の日本人の女性は、心のどこかでもう結婚を意識していた。自分の将来も決まらないのに、結婚など考える余裕も能力も、私にはなかった。
気分が拘泥したまま帰ってきたジョージタウンの秋の学期は、これまた色々とうまくいかないことが多かった。二年目は、ヒーリー・ビルディングの隣、コプリーという寮に部屋をもらっていた。学期の初日、キャンパスを歩いていると、チャーリーという友人に出合った。彼もコプリーへ入ることになっていて、ルームメートを探している、一緒の部屋にしないかと誘われて、気軽に承諾し、早速チャーリーの部屋へ荷物を運びこんだ。チャーリーも私も、知らなかったのだが、許可なく勝手に寮の中で部屋を変え、ルームメートを選ぶのは、厳しく禁止されていた。大学側にしてみれば、学生が勝手に部屋を選びだしたら、収拾がつかなくなる。チャーリーと私は規則に従って、処罰された。それぞれ寮の舎監に呼び出され、コプリーの古い集会室の掃除を命じられた。私はこれまで優等生のふりをしてきて、学校で罰を受けるという経験がなかったから、この措置は心理的にこたえた。恥ずかしいという気持が強かった。しかし私に対する処分は、別に掲示板に貼りだされるわけでもなく、人の噂にのぼるわけでもなかった。私という個人と大学という組織のあいだで約束があり、それを破った結果、罰せられる。別に恥ずかしいと思ったり、恐縮する必要はない。恐縮しようにも、恐縮する相手がどこにもいなかった。肉体労働をして、自分のしたことを内省する。それが処罰の意図するところであるらしい。汗をかきかき、ほこりのたまった集会室を一人で黙々と掃除しながら、心のどこかで、みんなに御免なさいと言っても始まらない処罰の厳しさと、同時に私個人に科される処分のすがすがしさを、新鮮に感じていた。
チャーリーは静かな若者で、ルームメートとして何も文句がなかった。ところが、私たちの隣の部屋に不良学生が入り、さんざん悩まされた。毎晩のように、ブルース・スプリングフィールドのレコードを、遅くまで、大きな音でかける。大人数で集まり、ビールを飲みながらがやがやとうるさい。時々女を連れこみ、ことに及ぶと、その声が壁を伝わって聞こえてくる。うるさくて眠れない、勉強が出来ないと、私たちが文句を言いにいくと、却って挑戦的になり、レコードの音量を上げたりした。一度、ビールの空きビンを、窓に投げつけられた。どうして彼らを寮から追い出すことができなかったのか、よく覚えていない。しかし大学へ文句を言っても、舎監に訴えても、なかなか事態は改善されなかった。同じ階に住む他の学生たちが色々心配してくれてもだめだった。毎日毎日、隣とのいさかいで、気が滅入った。コプリーを住みかにしたことを、悔やんだ。新学期が始まる前、コプリーから少し離れたところに、ヘンリー・ヴィレッジとよばれる新しいアパート形式の寮が完成し、前年のルームメートのマークから、そこで一緒の部屋に住まないかと誘われたのを、断っていた。コプリーに比べ家賃が高いからというのが、理由である。親の脛をなるべくかじりたくない、少しでも安いところに住もうと思った。しかし高いといっても、せいぜい月に二十ドルの差である。隣室とのけんかに疲れきって、マークの申し出を受ければよかったと後悔したが、おそかった。
夏時間が終わり、時計の針を一時間戻すと、日の落ちるのが急に早くなる。秋が深まり、空気が次第に冷たくなるころ、悪いしらせが届いた。慶応大学の教授会で私の卒業の件が取り上げられ、留学中の単位を一切認めないと決まったというのである。夏に帰国した時、単位さえ認められれば一年の遅れですむと言われ、私はその可能性にかけてもう一年の留学を決めていた。ところが何でも左翼運動で逮捕され服役中二年遅れた人がいて、この学生に特別措置を認めない以上、留学で二年遅れた阿川にも一年で卒業を許すわけにはいかない。教授会はこう決定を下したという。
「こうなったからには、慶応に帰って二年やるのは無駄だ。いったん中退して、ジョージタウンを卒業してから、大学院へ戻っていらっしゃい。学部を出ていないことは、決してハンディーにはならないでしょう」
神谷不二先生は、ていねいな手紙をくれて、こう慰めて下さった。無論この事態は、誰のせいでもない。単位を認めてもらえない可能性があるのは、最初から承知していた。しかしそれでも、慶応の単位を全て認めてくれたジョージタウンの大学当局とくらべ、慶応の教授会はいかにも融通がきかなかった。日本の大学を出ないとどんな不利益があるかという実利的な心配は、別にしなかったが、慶応を卒業できないという現実は、相当心理的にこたえた。私は慶応が好きであった。組織への執着が薄い私が、慶応という学校には愛着を感じていた。慶応は友であり、師であり、憧れの女性であった。福沢先生の肖像画であり、独立自尊の額であった。春の陽に照らされるうろこ壁の演説館、水溜まりにうつる赤煉瓦の図書館、三田の大銀杏、日吉の桜、そして神宮に響く「若き血」の歌声であった。その慶応と縁を切らねばならない。そして慶応と縁が切れると、自分が日本からさらに遠くなってしまうように思えて、私はひどく落ちこんだ。寒い異国の地で、日本の学校からも見放され、恋人もなく、将来のあてもなく、すっかり途方にくれた。私はもうじき二十六歳になろうとしていた。
この年の冬は、それまでになく寒さが厳しかった。日中気温が氷点を越えない日が何日も続き、ポトマック川がすっかり凍結してしまった。人が歩いて川を渡っても、氷はびくともしなかった。キャンパスのあちこちで、溶けきらずに残った雪がそのまま凍りつき、学生は転ばないように、そろそろと歩いていた。私は、もっぱら図書館で時間を過ごした。慶応を中退し、ジョージタウンを卒業できなければ、どこからも大学卒業の免状がもらえないという切羽つまった気持があった。授業は四年になっても、少しも楽にならなかった。セミナー形式の授業が増え、いくつかペーパーを書かねばならなかった。試験は一度受ければ終わりだが、ペーパーをきちんと書くためには、大量の資料を読まねばならない。特にアメリカ外交史のセミナーで書かされた、真珠湾攻撃に至る米国の対日経済封鎖についての長い論文が重荷となった。調べても調べても、資料は膨大にあり、どこから手をつけていいかわからない。朝起きると、今日もまた一日調べものをしなければならないのを真っ先に思い出し、気がふさいだ。プレッシャーをはねのけるため、シャワーに入って大声で叫んだりもした。友達の電動タイプライターを借りてきて、夜遅くまでタイプを打った。
図書館で時を過ごしたのは、勉強のためだけではなかったように思う。勉強はたいへんであったけれど、やりようはいくらでもあった。何もいつも図書館にいる必要はなかった。私はペーパーや試験を口実に、本の中に逃げこんでいたのである。実際図書館にいても、何もせずにぼうっとしている時が多かった。留学一年目と比べると、それほど学問に熱中できなかった。こんな風ではとても学者などなれそうもないと、自分で思った。疲れると一階の雑誌閲覧室へ下りていって、古いライフの写真を見て過ごした。大陸への侵略を重ね、天皇ヒロヒトを神と崇めるジャップの国日本の特集の隣に、電気掃除機や冷蔵庫の宣伝が載っていた。三〇年代のアメリカ国民が、今日と基本的には少しも変わらないライフスタイルを謳歌していたのが、古いライフを見ると、よくわかった。日米開戦の過程を調べていたから、なんと無謀な戦争をしたものかと、改めて思った。またある時は、日本の本が置いてある一角へいって、万葉集の歌を拾い読みしたりもした。飛鳥や奈良の風景が、なつかしかった。こうして書物に頭をつっこんでいるあいだは、すこし落ちついた気持になれた。ワシントンでいったい何をしているのか、つきつめて思い悩む必要がなかった。思えばあれは私の冬眠であったかもしれない。物事がうまく運ばず、心が屈する時には、逆らわず、じっとしているほうがよい。待っていれば、そのうち事態のほうが動きはじめる。それは長い間病気で寝て体得した、私の生き方の知恵でもあった。私はこうして、冬が去るのを、ジョージタウンの図書館でじっと待っていた。
ともすれば自分の貝殻のなかにひきこもりがちな私を、外に引っ張りだしてくれたのは、ジョージタウンの友人たちである。ルームメートのチャーリーは熱心なカソリック教徒で、時々私を真夜中のミサに連れていった。暗くひんやりしたチャペルの中で、数人の男女が手をつなぎ、輪になり、頭をたれて、しばし黙祷する。普段のべつまくなしに話しているアメリカ人が、何も言わない、何も主張しない。沈黙がこんなに雄弁であるのを、私は初めて知った。隣室の騒音に悩まされている私とチャーリーにとって、真夜中のこの時間は、ほっとする一時であった。感謝祭の休日は、ワシントン郊外にあるチャーリーの両親の農場で過ごした。全米からチャーリーの兄弟姉妹が集まって、にぎやかであった。物静かなチャーリーによく似た彼のお父さんは、ロイヤーをやめて農場を経営しているという。時々ダレス空港へ降りるジェット旅客機が頭上を横切る以外、何も物音のしない、静かで平和な場所であった。夜、道路から家の玄関までまっすぐ続く長い私道の両側で、牛が黒い小山の様に、そこここで丸くうずくまり、眠っていた。今でもダレス空港への着陸寸前、感謝祭の休日を過ごしたあの農場によく似た農場を飛行機の窓から見つけるたびに、チャーリーと彼の家族はどうしているだろうと思う。チャーリーは卒業後カソリックの福祉団体に入ったというが、その後長い間消息を聞いていない。
前年のルームメートのマークとその仲間たちとも、相変わらずつきあいが続いた。チャーリーと対照的にエネルギッシュでじっとしていることのないマークの性格を反映して、彼の仲間はみな元気がよかった。アメリカの大学生活は、授業と図書館とカフェテリアを中心に動いている。同じ授業を取り、図書館の特定の場所で勉強し、食事時間になるとぞろぞろと一緒に食堂へ向かう仲間が、いつしか自然に出来上がる。私はもっぱら、マークとその友人たちと一緒に行動していた。週末にはジョージタウンの街へ繰りだして、アイスクリームをかじりながら歩いた。時々、仲間の誕生日パーティーを開いた。一緒にバスケットの試合を見にもでかけた。数年後全米にその名が轟くジョージタウンのバスケットボールチームはまだ無名で、もっぱら大学のジムで試合をやっていた。長身のトンプソン・コーチが、白いタオルを肩にかけ、興奮しながらコートのわきを行ったり来たりする。接戦になるとマークたちは立ち上がって、「ホイヤ・セクサ、ホイヤ・セクサ」と、今に至るまで意味が不明な、ジョージタウンの応援歌を声を張り上げてうたう。「慶応、慶応」と大声を上げる、慶早戦の情景と変わりなかった。百年前から続いているこの掛け声のために、「ホイヤ」はジョージタウンのニックネームとなっている。インターミッションに、マークの仲間の一人が大きな横断幕をさっと拡げたことがある。「ハッピー・バースデー・キャシー」。自分のガールフレンドの誕生日を、観客全員に祝わせようという、見上げた度胸であった。「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」。学生たちは笑いながら、彼の思惑どおり祝いの歌をうたった。女の子はそばで嬉しそうに、にこにこしていた。みんな若かった。
ワシントンの春は、駆け足でやってくる。水仙が地面から顔を出し、ある日突然冬の寒気がゆるむと、あとは一息である。芝生がみるみる青くなり、桜が咲く。マグノリアが、リンゴの花が、ドッグウッドの花が咲き競う。キャンパスの芝生で、学生が日光浴をし、フットボールやフリズビーを投げて遊ぶ。春学期は急速に終わりに近づいていた。冬中悩まされたアメリカ外交史のペーパーをようやく書き終えて提出すると、私は初めて、これで卒業できると思った。重い荷物が、肩から外れたように感じた。試験とペーパーが全て終わると、私はこれまでになく楽な気分になった。冬のあいだ鬱病になっていた時と、事態が変わったわけではない。勉強にはもうあきあきし、学者になる気持は急速に衰えはじめた。まわりの、たくましい自立精神旺盛なアメリカ人を見ていると、日本に戻って三十になるまで親の脛をかじるのは、いやだと思った。かといって将来なにをするか、方針があったわけではない。ただ、二年の留学を終えて、私は自分に新しい力がついたのを感じた。将来どんな道を選ぼうとも、大きくまちがいはしないだろう。別に理由があったわけではないのに、その安心感は強かった。もしかしたら、ただ春になって浮かれていただけかもしれない。ただ軽い鬱病が治ったというだけだったかもしれない。でもそれだけではない、二年間一人でアメリカに暮らして得たものが、何かあった。アメリカへやってきてよかったと、私は思った。
卒業式の数日前、私はカメラを担いで、ジョージタウンの街を一人で歩いた。大学生活を過ごしたこの街並みを、記録に撮っておこうと思ったのである。さまざまな形と色の家が、大学の正門からウィスコンシン・アヴェニューに向かって並んでいた。煉瓦をピンクやイェローに塗った家。大きな出窓のある家。よく手入れされた庭のある家。昔ケネディー上院議員がジャクリーヌ夫人と大統領に選ばれる前に住んだ、背の高い家。そのはす向かいに立つ、冬のさなかケネディー議員を取材する記者たちにコーヒーをふるまい感謝された住人の家と、壁に打ちつけられた記念の額。煉瓦をしきつめた歩道をゆっくりと歩きながら、この町並みの美しさを、私は静かに楽しんだ。そして二年近くこの町で過ごしながら、こうしてジョージタウンの町をゆっくり歩いたことが一度もなかったのに気づいた。ワシントンを離れて日本へ帰ったら、この大学町がなつかしくなるだろうなと思った。
卒業式の前後には、めまぐるしく色々な行事があった。卒業記念写真、卒業記念のピクニック、パーティー、ファイ・ベータ・カッパという、優等生の全国組織入会の儀式。学校のチャペルでは、卒業生の男女が何組か結婚式をあげ、卒業と同時に夫婦となった。スクール・オブ・フォーリン・サービス独自の式では、私のアメリカ外交史のペーパーが最優秀賞を受け、メダルをもらった。日本人が英語で論文を書いて賞を受けたというので喜んだディーンは、日本大使館に電話をしたらしい。大使館からわざわざ人が来て、私はカシオの腕時計をもらった。突然のことで逆上した私は、舞台のうえで大使館の人にお辞儀をし、相手もお辞儀をかえした。満場がわいた。
卒業式の朝、コプリー寮の前の芝生で行なわれた卒業記念のミサでは、ケリーという神父が説教をした。
「あなたがたに今日伝えたいことがあります」
壇上から、神父の声がキャンパスに響いた。
「それは、ニューズ・イズ・グッド、報せはとてもよい、ということです。あなた方が卒業後何をするにしても、ニューズ・イズ・グッド。あなたがたがこうして卒業するのは、とてもよく、これからすることも、とても喜ぶべきものであるのです」
神父のうたうような説教を聞きながら、私は彼の言いたいことがよくわかるように思った。ジョージタウンへ来てよかった。学者にならず、名を残さずとも、よかった。私はほっとした気持で、周囲の友人たちを見まわした。賛美歌がうたわれ、学長や教授たちが、厳かに退場していった。
その午後、私は黒のガウンを身につけ、キャップをかぶり、卒業式にのぞんだ。連邦議会の議決にしたがい、学長が卒業生全員をジョージタウンの息子、娘たちと宣言し、私たちは正式に卒業をした。マルキン夫妻が親代わりに式に来てくれ、お祝いのディナーをごちそうしてくれた。ジョージタウンを卒業して得たのは、大きな卒業証書と、記念の写真集と、BSFS(外交学士)という学位だけである。学位は何も将来を約束してくれはしなかったが、それでも私は嬉しかった。ひとつのことをやり遂げて、日本へ帰れる。何よりもアメリカで暮らして、体も心もたくましく元気になったのが嬉しかった。これから何が起こっても大丈夫だという奇妙な楽観に、私は包まれていた。こうして一九七七年の夏、私はワシントンを離れ、日本への帰国の途についた。
普通のアメリカ人
ハロウィーンの夜に
一九八七年、三年ぶりでワシントンへ戻った私たち家族が、川向こうヴァージニアの借家へ移り住んだのは、丁度ハロウィーンの日であった。ハロウィーンはアメリカの年中行事の一つである。オール・セインツ・デー、つまり万聖節の前夜祭をこう呼ぶ。本来は死者の魂を慰める中世ヨーロッパの祭りであるが、新大陸に渡っていつしか宗教色が薄れ、ハロウィーンは楽しい子供の行事となった。子供たちは思い思いの装いをこらし、お化けや魔女に扮して、家々の門をたたいて回る。「トリック・オア・トリート、トリック・オア・トリート」お菓子を下さい。くれなければいたずらをするよ。
ハロウィーンの夜には、どの家でもキャンディーやチョコレートをたくさん用意して待っている。荷物を置くと、私たちも日が暮れる前に買物へ出かけ、夜に備えることとした。近所のショッピング・センターへ車を走らせる間、何人かのお化けとすれ違う。信号で止まって目が合うと、にんまり笑って気味が悪い。スーパーのレジ係は銀粉をまぶした、魅力的なお化けである。売場をうさぎのぬいぐるみが走り抜ける。
店の片隅にハロウィーン・コーナーが設けられ、キャンディー、ヌガー、お面、かぼちゃのランタン、顔に塗る絵具など、この夜必要な物をことごとく並べてある。お化けが登場するまでもうほとんど時間がないというのに、けっこうな数の客が必需品を買い求めていた。大きな袋に百も二百も詰めたキャンディーが次々と売れていく。ハロウィーンはずいぶんと商売になるようだ。お面やランタンやその他小道具は、ほとんど香港、台湾、韓国製である。この祭りが何かをおそらくは知らないアジアの労働者たちの手で、おびただしい数の品物が作られ、船積みされ、この夜アメリカの子供の手に届く。
日が暮れて、我が家でもキャンディーを用意して待つが、誰も来ない。外で人が動く気配もない。待ちくたびれた頃、最初の一組が玄関のベルを鳴らした。扉を開くと口に髭を描いた可愛い猫が二匹立っている。「トリック・オア・トリート」。独特の節回しで二人が唱える。「よくいらっしゃいました、さあお菓子だよ」私と家内は彼女たちに気前よくキャンディーを与え、ついでに我が家の四歳になる男の子を一緒に連れ歩いてくれるように頼んだ。息子は女の子二人の後をついて回り、覚え立てのトリック・オア・トリートを連発して、一時間後、スーパーで買い与えたかぼちゃのバケツを菓子や果物で一杯にして帰ってきた。母親は息子について歩いて、近所へ引っ越しの挨拶をすませた。
最初の一組が訪れた後、わが家のベルはひっきりなしに鳴り出した。扉を開けると、大きな子、小さな子、大勢でやってくる子、一人の子、元気な子、心細そうな子、白人、黒人、インド人、ラテン系、ドイツ人、中国人――子供たちは誠に多様である。あり余るほど用意したつもりのキャンディーとチョコレートが、またたく間にはけて、途中から一人一個ずつに切り換えた。
楽しいはずのハロウィーンにも、問題がないわけではない。その日終日、ラジオは地域の病院が菓子類のレントゲン検査を無料で行なうと放送していた。何年か前、子供の受けとったキャンディーの中から針が見つかるという事件が続発した。最近は聞かないものの、親は神経質にならざるを得ない。どこかに誰か心の病んだ人がいる。訪れる子供たちも、よく見ると背後に親が立ってそれとなく見守っている。中には親子全員がお化けに扮してやってきた一家があった。フランケンシュタインのお父さんは、思わず息をのむほど真に迫ってこわかった。スーパーのレジのわきや、広告のちらしに「行方知れず」の子供の顔写真が貼りだされるこの国では、ハロウィーンの夜に子供を外へ出すにも、それなりのリスクがある。
色々な問題をはらんでいるにせよ、我が近在のハロウィーンは静かな楽しい夜であった。隣人たちは異国から移り住んできた私たち一家に、控え目ながら暖かく親切であった。そこには新聞やテレビのニュースで報じられる、殺伐とした、おどろおどろしいアメリカとは異なる、ごく平凡で堅実なアメリカがある。ワシントンの中心街から車でわずか二十分の所に、退屈なほど静かなアメリカの住宅地がある。ある友人によれば、針事件で一時すたれたハロウィーンが、近頃また盛んになってきたという。子供ばかりか大人まで仮装して楽しむ陽気なお祭りになった。翌日も職場で学校で、ハロウィーンの話題がつきない。化け物に扮した警官が交通整理をしていたとか、近所のおばさんが愛犬に恐竜の仮装をさせて歩いていたとか、他愛がない。
ハロウィーンの盛衰は、アメリカ社会の安定度を示す一つのバロメーターかもしれない。十数年前私が初めてこの国へ来たころと比べ、アメリカはずいぶん落ち着きを取り戻したように思う。長い冬がくる前、人々はこの祭りを生活の一つの区切りとする。それが年中行事というものであり、生活の余裕であろう。子供たちはハロウィーンの思い出とともに育ち、やがて自分の子供と一緒に同じ祭りを祝う。政治や経済がどうあろうと、アメリカ人がハロウィーンを陽気に盛大に祝い続ける限り、アメリカは大丈夫――別に根拠もなく、そんなふうに思った。
ハロウィーンが終わると感謝祭があり、その後にクリスマスが続く。木々の葉はすっかり落ち、冬が近い。
ロイヤーと弁護士
私はアメリカ合衆国ニューヨーク州及びコロンビア特別区の「ロイヤー」だが、「弁護士」ではない。厳密に言うと、「弁護士」は日本の弁護士法に定義された法律上の言葉である。だから私が「弁護士」を名乗ると、法律違反になる。それに対し「ロイヤー」は、法律の仕事に携わる人を広く指す普通名詞である。従って「弁護士」は「ロイヤー」だが、「ロイヤー」が「弁護士」であるとは言えない。
ニューヨーク州のバー・イグザム、つまり司法試験に合格して、私は「アトーニー・アンド・カウンセラー・アット・ロー」という資格を得た。資格上の呼称という意味で、「弁護士」にあたるのは、むしろこちらであろう。ただし、日本では司法試験に合格し司法研修所を修了した時点で、「裁判官」、「検察官」、「弁護士」のいずれかの途を選択することになっている。ニューヨーク州では、バー・イグザムに合格すれば全員「アトーニー・アンド・カウンセラー・アット・ロー」である。裁判官や検察官は、通常この資格を持つ者の中から選ばれる。他州でもほぼ同様のシステムである。日米で制度が異なるのだから、結局日本の「弁護士」にそっくりそのままあたる者は、アメリカにはいない。
「弁護士」と「ロイヤー」という二つの言葉を説明しようとして、話がややこしくなった。一般には同じようなものと思われているし、まあそれでいいのだろう。依頼を受けて顧客のために法律業務を行なう一定の有資格者が、日本で「弁護士」、アメリカで「ロイヤー」。この文章でも、以下その慣行に従うこととするが、両者は結局同じものかといえば、どうもそうでない。
弁護士もロイヤーも法律の専門家である。法律を手段として社会に貢献しようとする。弁護士法の第一条は、
「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」
と定めている。アメリカ法曹協会の弁護士倫理規定(コード・オブ・プロフェッショナル・リスポンシビリティー、略してCPR)前文は、ロイヤーが民主主義と社会正義の前提たる「法による統治」の担い手として、大きな責任を負うとしている。弁護士とロイヤーの社会的使命は、こうして両者の所信表明を見る限り変わらない。しかしその現われ方にはずいぶん差があるように思う。
ロー・スクールに留学中、ニューヨークで日本人の弁護士に会っておやっと思ったのは「先生」という呼び名である。勿論法律のエキスパートである弁護士に尊敬をこめて「先生」と呼びかけるのは、それなりの礼儀だろう。生半可の努力で、落とすことを目的としているとしか思えぬあのむつかしい司法試験に合格するはずがない。銀座のバーで誰でも先生になれるのとはわけが違う。ただ、雑談の場でも弁護士の先生方がお互い先生と呼び合うのを、私は奇異に感じた。「先生今度の週末ゴルフなさいますか」「先生のハンディいくつでしたっけ」――。先生よしなよと思うのは、私ぐらいのものであろうか。
もっとも、ロイヤーも多少それと似たことをする。アメリカではロイヤーに正式の書簡を送る時、名前のあとに「エスクワイヤー」という称号をつけるのが慣習になっている。ミスター・ジョン・スミスと書く代わりに、ジョン・スミス・エスクワイヤー、あるいは短くジョン・スミス・エスクと書く。バー・イグザムに合格すると、「エスク」のついた手紙が届くようになる。新ロイヤーにとっては嬉しいことだが、一般のアメリカ人でも、この慣習を知っている人は少ない。もっぱらロイヤー同士が手紙のやりとりにこれを用いる。日本の弁護士が「先生」と呼び合うのを笑えない。「エスクワイヤー」というのは、何でも元々イギリスの最下級貴族の称号だそうだ。昔ロイヤーが先生として少しは尊敬された時代の名残りだろう。
ただし、書面で尊称を用いても、尊称をつけて呼びかけることはしない。医者をドクターと呼ぶが、それにあたるものは、ロイヤーの世界にはない。せいぜいミスター、ミズをつけて呼ぶくらいだが、これも事務所による。私が一時籍を置いたニューヨークのS法律事務所では、ロイヤー以外の者、たとえば秘書がロイヤーを呼ぶ時、ミスター、ミズをつけるという不文律があった。初対面でもすぐにファースト・ネームで呼び合うのが普通のアメリカでは、これはかなりフォーマルな部類に属する。自分の秘書から「ミスター・アガワ」と呼ばれると、ひどく堅苦しい気がした。「なるべくファースト・ネームで呼んでくれ」と頼むと、彼女は私を「ナオ」と呼ぶようになったが、そばにパートナーが立っている時は、す早く「ミスター・アガワ」に切り換えた。逆にロイヤー同士は、どんなに年が上でもファースト・ネームを使うように勧められる。しかし企業でいえば重役にあたる最も長老格のパートナーから「ジャックと呼んでくれたまえ」と言われても、若いロイヤーがそう気楽に「こんちはジャック、元気?」と言えるものではない。固くなって「はい、わかりました、ミスター・スチーブンソン」と答えた一年生ロイヤーがいたそうだ。
呼び方の如何にかかわらず、ロー・ファーム(弁護士事務所)の内部でロイヤーは威張って暮している。ロイヤーとノン・ロイヤーの間には明確な壁がある。両者は服装まで違う。ロイヤー、特にニューヨーク・ロイヤーが決まってピン・ストライプの上下に白いシャツといういでたちなのは、一つにはノン・ロイヤーと間違えられない為ではないかと思う。洒落たブレザーにコーデュロイのズボンなどはいてくれば、タイピストか校閲係と思われてしまう。女性ロイヤーもなるべく地味で控え目な服を着る。胸の大きく開いたセクシーなドレスを着てくるのは、決まって若い秘書嬢である。S事務所では食堂さえ別であった。食事時になると、ロイヤーは左のドアから、ノン・ロイヤーは右のドアから、別々のダイニング・ルームに入る。共通の食堂を用いる事務所でも、注意して見ていると両者は決して同じテーブルにつかない。どんなにロイヤーのテーブルが混んでいても、後から食堂に入ってきたロイヤーはノン・ロイヤーのテーブルにつこうとしない。あいたテーブルに一人ですわって、別の新しいロイヤーの島を作る。ああこれが士官と兵隊の区別というものかと、感心した。人種、性別、階級、出自による差別のなくなった今日のアメリカでは、資格を持っているかどうか、プロフェッショナルかどうかだけが、唯一厳然たる人間分類の目安である。ロー・ファームの内部で、ロイヤーは一番「先生」らしくふるまう。左のドアから食堂へ入るたびに、彼らはそのことを意識している。
オフィスで若いロイヤーや秘書を顎で使うパートナーが、クライヤントつまり顧客の前では態度が一変する。アメリカのロイヤーがクライヤントに対する態度をひと言で表わせば、「お客様は神様」、それに尽きるだろう。ワシントンのA法律事務所で実習をした時、私の仕事を監督してくれていたロイヤーに、日本のクライヤントから電話がかかってきた。担当重役がカリフォルニアまで出向くから西海岸のどこかで会ってくれないか。彼は心底気落ちした様子で、「クライヤントが全てさ」、そう私に言うと、予定していた家族とのロンドン行きをあきらめて、カリフォルニアへ飛んで行った。日本でならこんなことは別段珍しくないが、アメリカでは離婚の原因になりかねない。実際別居や離婚をするロイヤーは多い。
ロー・スクールに留学中、たくさんのロイヤーと知り合い、よくしてもらった。食事やパーティーにも招んでもらった。大して親しくもないのに、子供が生まれた時祝いをくれたロイヤーがいた。有難かったが、好意のかなりの部分は明らかにポテンシャル・クライヤントとしてのソニー、つまり当時の私の勤め先に向けられたものであった。後にロー・ファームの内側に入って、「クライヤント・ディベロップメント」――顧客開拓――はロイヤーの立派な仕事のうちと知った。ロイヤーが一寸したみやげをもって、クライヤントに挨拶してまわるのも珍しくない。日本だと顧客が弁護士にお歳暮を贈ることはあっても、顧客が弁護士からお中元をもらうことは滅多にないだろう。ある友人のロイヤーに言わせれば、
「事務所にとっていいロイヤーは二種類しかいない。仕事が出来るか、客を連れてくるか、どちらかさ」
お客様は神様で、ロイヤーが「先生」たりえないのは、ロイヤー間、ロー・ファーム間の競争の激しさを考えれば当然のことでもある。アメリカには約六十五万人のロイヤーがいるという。この人たちが食べていくためには、ただすわって客が来るのを待っているわけにはいかない。少しでもよいサービスを提供して客を呼ぼうとロイヤー同士しのぎを削ること、自動車のディーラーと変わらない。その努力を怠れば客が来なくなって、廃業する外に途がない。客がなければ、いくら社会正義、人権の擁護と力んでも始まらない。ロイヤーの仕事は完全なビジネスである。一つのサービス産業になっている。そうであればこそ「離婚がお安く出来ます」とロー・ファームがテレビ・コマーシャルを流しても、驚くにあたらない。アメリカでもバーガー前最高裁長官を初めとする伝統派は、ロイヤーが広告をするのを嫌うが、CPRですら、「クライヤントが十分な情報を基にロイヤーを選ぶのに資するように、品位をもって」広告することを認めている。もちろんどのような宣伝広告なら許されるのか、線を引くのは難しい。数年前「評決」という映画の中で、ポール・ニューマン扮する落ちぶれたロイヤーが、交通事故に遭って死んだ人の葬式に出かけていっては遺族にそっと名刺を手渡してくるというシーンがあった。似たようなことは、きっとしょっちゅう行なわれているに違いない。ユニオン・カーバイド社がボパールで大きな事故を起こした後には、アメリカのロイヤーが大挙してインドに飛んだという。
ロイヤーの仕事がビジネスであるなら、当然経済学で言う「規模の経済」ということがある。百人二百人という数のロイヤーをかかえる大事務所は、証券法、独禁法、税法といった分野の法律に関し、高度で綜合的なサービスを提供する。例えばニューヨークの株式市場で新株を発行しようとすれば、それに伴うありとあらゆる法律上のチェック、書類の作成を、普通これら大手ファームの一つが請け負う。あらかじめ定められた期日に間に合うよう、パートナーの指揮下、若いロイヤーが次から次へ部厚い契約書を作成し、税法、独禁法上の検討を行なう。タイピストがわき目もふらずワード・プロセッサーのキーボードをたたき、メッセンジャーがクライヤントと事務所、事務所と印刷所の間を往復する。校閲者が契約書に誤りがないか何度も確かめ、セクレタリーがひっきりなしにかかってくる電話をさばく。こうした案件が十も二十も同時進行し、事務所中を人が走りまわっている。ワード・プロセッシング・ルームには何十台ものワープロが並び、週七日一日三交代で人が詰めている。法律事務所というよりは工場といった趣きがある。こういうのを「インダストリアライズド・ロー・プラクティス」、つまり産業化された法律業務というのだと、ある友人ロイヤーが言った。
アメリカ最大、すなわち世界最大のロー・ファームは、ベーカー・アンド・マッケンジーという事務所である。世界中の主要都市にオフィスがあり、全部で八百人以上ロイヤーをかかえている。アメリカにはロイヤーの数が二百人以上の事務所が約五十、百人以上の事務所が約二百あるという。もっともこのような大ロー・ファームはニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ロスアンジェルス等いくつかの都市に集中している。「ナショナル・ロー・ジャーナル」という業界誌の調査によれば、ノース・ダコタ、サウス・ダコタ、ワイオミングという三つの州では、各々最大の事務所に、十五人しかロイヤーがいないそうだ。日本の法律事務所の規模は、ワイオミング州並みということであろうか。一方、ロー・ファームにも企業の法務部にも属さない一匹狼のロイヤー(ソール・プラクティショナーと呼ばれる)もアメリカには多く、全ロイヤー人口の約半数を占めるという。七十万人近いロイヤーがいれば、その中には巨万の富を築き社会的尊敬を受ける大事務所のパートナーもいようし、少々いかがわしいことまでしてその日その日の糊口をしのぐロイヤーもいるだろうし、一様でない。共通の資格を有しているというだけの理由で、この人たちをみな同じに考えては、無理が生じる。
このように、ロイヤーの数は弁護士のそれと比べて圧倒的に多い。百人を越えるロー・ファームが数多く存在するのに対して、弁護士事務所はみな規模が小さい。ロイヤー間ロー・ファーム間の競争が激しく、ロイヤーの仕事がビジネス化しているのに対し、弁護士は主として訴訟を手がける高度な専門職である。ロイヤーの中には何十万ドルも稼ぐパートナーからその日暮らしの者までいるのに対し、弁護士の質、収入にはそれ程の差がない、等々。現象面での両者の比較はまだ色々可能である。その背景には両国の司法制度、資格制度の違いがある。アメリカには五十一の法体系があり、しかも判例法の国だから、それだけロイヤーを多く必要とする。また日本ではアメリカのロイヤーが行なう法律業務のかなりの部分を、弁護士以外の者が荷っているとの指摘がある。税理士、公認会計士、弁理士、司法書士、さらに各企業の法務担当者の数を合計すれば、人口三百人あたりロイヤー一人、人口七千人あたり弁護士一人という数に表われているような極端な差はないという説もある。そもそもアメリカ各州のバー・イグザムは、最低資格試験に近いものである。なりたいものはみなロイヤーにさせて、あとは競争を通じて淘汰する。日本の司法試験は、ごく少数の本当に実力のある者だけを厳選するプロセスである。そこに違いがある。
しかし経済的制度的な理由だけでは、ロイヤーと弁護士の違いを説明できないように思う。弁護士が「先生」である国と、クライヤントこそが「神様」である国の間には、もう少し根元的な考え方の差がありそうだ。法とは何か。紛争を解決し正義を実現するとは何を意味するのか。そこでロイヤーなり弁護士なりが果たす役割は何か。
アメリカにおける紛争解決の型をアドヴァーサリー・システムと呼ぶ。裁判がその典型だが、それだけではない。議会や行政手続、場合によっては企業や学校でもこれが用いられる。日本語では、一応当事者主義と訳されている。数年前米国議会に提出された包括通商法案の中で、日本が「アドヴァーサリアル・トレード」を行なう国と規定された。新聞はこれを「敵対貿易」と訳し、外務省が「阻害貿易」と修正して、話題になった。外務省の指摘通り、アドヴァーサリーという言葉に敵という意味はない。財務長官や国務長官をつとめたジェームズ・ベーカー氏が、かつてレーガン政権下のホワイトハウスにいたころ、「自分のアドヴァーサリーを決してエネミーにするな」と言ったと、何かの雑誌で読んだことがあるが、「敵を敵にするな」では意味をなすまい。アドヴァーサリーとは自分と立場を異にする者、自分と相対する者と言えば多少わかり易くなろうか。しかし対立すること自体を嫌う日本人にとって、「アドヴァーサリアル・トレード」に従事する国と呼ばれただけで大事件であり、ショックは大きいらしかった。
アドヴァーサリーという言葉の語感はともかく、アドヴァーサリー・システムは次のように機能する。Aが傷害事件で逮捕され、起訴される。検察はAがBを傷つけたと主張し、証人を立て、証拠を提出してこれを証明しようとする。被告Aのロイヤーは犯人はAでないと主張し、同じくこれを証人と証拠で証明しようとする。真実は一つしかないはずだが、双方のロイヤーは全く逆の主張を行なう。検察側はAがやったと言い、被告側はAはやっていないと言う。陪審員は双方の主張を判事の指示に従ってよく聴き、疑いなく犯人はAだと確信すれば「有罪」、Aが犯人であることに少しでも疑念があれば「無罪」の評決を下す。この過程は民事裁判でもほぼ同様である。
昔世界史で、ギリシャにソフィストという人々がいたと教えられた。ロー・スクールへ行って、何だロイヤーはソフィストかと思った。ソフィストはソクラテスに絶対的真実をないがしろにしたとおこられ、世界史の教科書では悪者扱いされている。金で雇われれば客のためにどんな主張でもする、調子のよいやつと思われている。確かにロイヤーはそうした一面を持っている。しかしアドヴァーサリー・システムにおいてロイヤーがクライヤントのためにありとあらゆる理屈をこねるのは、何も絶対的真実をないがしろにしているからではない。真実が何かは人間の浅知恵ではわからない。Aが本当に犯人かどうかは、神のみぞ知ることである。そうであれば、異なる主張を真向からぶつけ合い、対立を通じて真実に少しでも近づくのがベストだと、アドヴァーサリー・システムは考える。このことはソフィストを嫌ったソクラテス先生も否定しなかったから、対話という方法が生まれた。ロー・スクールの学生は今でも「ソクラテス・メソッド」という方法でしごかれる。昔やはり思想史でヘーゲルの「弁証法」という言葉を教わった。何のことかさっぱり理解できなかったが、ロー・スクールに行って「アウフヘーベン」するというのは「アドヴァーサリー・システム」や「ソクラテス・メソッド」と同じことと納得した。
アドヴァーサリー・システムが真実を発見するための有効な方法であるには、いくつか前提がある。第一に、当事者同士真の意味で対立し、お互いの主張を尽さねばならない。「お前が盗んだ」「いやおれは盗んでない」と双方が言い張らなくてはいけない。ロバート・レッドフォード扮するロイヤーが主人公の「夜霧のマンハッタン」という映画があった。その一シーンで、法廷にところ狭しと並べられた盗品の電気製品の山を前に、被告のロイヤーがこれは皆被告が贈り物として受け取ったのだと言い張る、あれである。何が真実かを、協力し合って探すという態度は、ここでは生まれない。むしろこのシステムの主旨に反するとして、退けられるであろう。ところで人間みながみな、言い張るのが得意なわけではない。口のうまい方ばかりいつも勝ってしまっては困るから、ここにロイヤーというプロの言い張り屋が登場して、ありとあらゆる方法でクライヤントの主張を代弁する。CPRがそのキャノン(原則)七で、「ロイヤーは法律の許す範囲で顧客の利益を最大限に代弁すべし」と定めたのは、「ロイヤーはとことん言い張りなさい、それがお前の役目だよ」ということであろう。
注意すべきは、アドヴァーサリー・システムを通じて真実を発見する過程において、ロイヤー自身は真実が何かについて判断する立場にないことである。真実はこうだと異なった主張を提示するのがロイヤー、真実はこれだと決めるのは陪審員であり、両者の役割が厳然と分れているのがこのシステムの大きな特徴である。前者はプロだが後者は素人だ。日本人は人を死刑に処するかどうかを素人の判断に任せていいものかと思うが、アドヴァーサリー・システムでは逆にそんな大事なことをプロだけに判断させてはならないと考える。所詮真実は不可知なのだから、プロが議論を尽した上で素人が判断を下す。だからロイヤーは通常陪審員に選ばれない。アメリカの裁判所の前に立っている正義の女神が目隠しをして秤を持った姿なのは、その意味である。これ程ロイヤーが多くプロフェッショナルがもてはやされるアメリカで、プロに対する根本的な不信があることは、覚えておいてよい。
今一つの前提は、手続きがはっきりしていることである。お互い言い張るには、ゲームのルールがしっかりしていて、その運用を公平かつ公正に行なわねばならない。そうでなければアドヴァーサリー・システムはただのけんかになってしまう。逆に言えばこのシステムは私闘にとって代わった紛争処理の方法である。ルールの運用がフェアに行なわれなければ、人々はまたリンチや決闘で片をつけようとするだろう。アメリカで手続法が重んじられ、デュー・プロセスということが言われるのは、この為である。そして複雑な手続法はとても素人の手に負えないから、ここでまたロイヤーが登場する。民事訴訟法、刑事訴訟法や証拠法のルールに精通し、手続き上の不備を理由に相手側の主張を徹底的にたたくのは、ロイヤーの重要な仕事であり義務である。
アドヴァーサリー・システムのルールの中には、ロイヤー自身の行動規範、つまりCPRも含まれる。CPRはしばしばロイヤーの倫理規定と訳されるが、道徳にはあまり関係がない。裁判というゲームに出場するロイヤーという名のプレーヤーが守るべき、共通ルールといった方がよかろう。コンフリクト・オブ・インタレスト(利益相反)に関するルールと、守秘義務に関するルールは、その中で最も基本的なものである。クライヤントの利益を代弁するにあたって、自分自身の利害、他の第三者の利害を考慮に入れれば、クライヤントに代わって精一杯言い張ることはしにくくなるだろう。ロイヤーが顧客の秘密を決して明かさないという保証がなければ、クライヤントは全てを語ってくれないから、これまた有効に言い張ることが難しくなる。どちらもアドヴァーサリー・システムが機能するためには不可欠の条件だが、道徳的な価値観とは関係がない。
すでに述べたようにキャノン七は、クライヤントの利益を熱心に代弁することがロイヤーの義務であると定めている。但しあくまでも法律の許す範囲で行なわねばならない。どこでこの線を引くか、実際には難しい。リンカーン大統領はやはりロイヤーであった。ある刑事事件で被告の弁護人に任命された。裁判の途中検事の論告が始まると、法廷の隅に立って身じろぎ一つしなくなった。リンカーンは非常な長身であった。その大男が彫刻のようにただつっ立っている。一体何をしているのかと、陪審員はいぶかった。気もそぞろになって検事の言っていることが耳に入らなくなった。そしてリンカーンの作戦通り被告は無罪となった。証拠法の授業で聞いた話である。日本人の感覚だと奇策を弄したように思えるが、CPRに照らして特にルール違反ではない。リンカーンでさえクライヤントのためにこの位のことはした。
もし自分の弁護する刑事事件の被告が、証言台に立って偽証を行なったら、ロイヤーはどうすればよいか。問題は今少し深刻である。言うまでもなくロイヤーが被告に偽証を行なうよう勧めれば、CPR違反となる。しかし被告が勝手に、あるいは偽証をしてはならないとのアドバイスに反して、証言台で嘘をついたら、ロイヤーはどうすべきであろうか。仮りに十八丁目とP通りの角で強盗事件が発生したとしよう。事件は夜中の十二時に起きた。容疑者Aが逮捕され、ロイヤーが弁護人に任命される。Aはロイヤーに、自分は犯人ではない、ただし当夜十一時五十五分に自分は十八丁目とP通りの角にいたと述べる。裁判で検察側は二人の証人を立てる。証人Xは確かに犯人はAだと証言する。証人Yは十一時五十五分に十八丁目とP通りの角でAを見たと証言する。被告Aはロイヤーのアドバイスに逆らって自ら証言に立ち、自分は犯人ではない、自分はその夜十一時五十五分、十八丁目とP通りの角にはいなかったと述べる。さあロイヤーはどうするか。
被告の証言の一部が真実に反することを知っているのは、ロイヤーただ一人である。真実を明らかにすることが裁判の目的であるなら、ロイヤーは被告が嘘をついていることを裁判官に報らせる義務があるだろう。しかし一方でロイヤーは被告に対し忠実義務を負っている。被告の利益を第一に考える義務がある。また守秘義務を負っている。ロイヤーが絶対に他言をしないと信じたから、被告は本当のことを彼に話したのではなかったか。偽証を裁判官に明かせば、ロイヤーは自らのクライヤントを裏切ることになる。被告はもう二度とロイヤーを信用しないだろう。クライヤントから全ての事実を包み隠さず聞き出すことが出来なければ、ロイヤーは十分機能しえない。自分の反対にさからってもし被告が偽証を行なったら――とある論者は言う――ロイヤーはそのまま弁護を続けなさい。そして被告の証言を全面的に支持する論陣を張りなさい。忠実義務と守秘義務を負っている限り、ロイヤーはそれ以外の行動を取りようがないではないか。(フリードマン「偽証・ロイヤーの三重苦」より)
アドヴァーサリー・システムについては佐藤欣子氏が、その著書「取引の社会」の中で検察官の立場から批判を加えておられる。氏は当事者主義のよってきたるところに理解を示しながら、「形式的ないしは手続上の事実に終始する刑事司法の下に蔓延するシニシズム」にとまどいを隠さない。氏によれば、日本の刑事司法においては「実体的真実主義」が根本的な原理とされるという。裁判の目的はできる限りこの「実体的真実」に近づくことにあるから、「訴訟関係人はすべて、弁護人、被告人も含めて、この目的の実現のため、裁判所に協力することが前提」とされる。日本人にとって「公正な裁判」とは「客観的事実にもとづいた裁判」を意味する。「土俵際の打っちゃりばかりが物を言う様」な、当事者のせめぎあいで結果が左右されるアメリカの裁判は、手続きに則った「フェア・トライアル」でありえても、「公正な裁判」ではありえない。アメリカの刑事裁判をみて日本人は「木の葉が沈んで石が浮かぶ」との感慨をもつが、アメリカ人は「沈んだものが石であり、浮かんだものが木の葉である」と答えるだろう――。佐藤氏はそう書いておられる。「取引の社会」に引かれているアメリカの刑事訴訟の事例を読むと、真実は、正義はどこへ行ってしまったのかと思わざるをえない。
アドヴァーサリー・システムに対しては、アメリカでも批判がある。当事者の利益ばかりを優先させて、真実の究明がおろそかになっていないか。刑事裁判以外の場、たとえば民事訴訟や行政、立法の場においては、当事者の利益よりも公共の福祉をもっと優先すべきではないか。第一級のロイヤーを雇える大企業の利益のみ実現される結果とならないか。「しかし」とワシントンの著名なロイヤー、エーブ・クラッシュ氏は言う。「一体何をもって『公共の福祉』というのか」世の中が正しいとすることは、時代と共に変わる。「一九五〇年代に、マッカーシー旋風の犠牲になった人々を代表するロイヤーが、いかに少なかったことか」クライヤントの思想信条とロイヤーのそれを同一視してはならない。「一旦引き受けたなら、自らの思想信条に関らずクライヤントの立場を最大限代弁するのが、ロイヤーのつとめだ」(クラッシュ「忠実義務と公共の福祉は両立するか」)クラッシュ氏の属するアーノルド・ポーター事務所の創始者の一人サーマン・アーノルドは、マッカーシー事件のころゴルフ場で知り合いのセネターに、
「君のところはこのごろ共産主義者とホモの弁護ばかりしてるそうじゃないか」
といやみを言われた。アーノルドが答えていわく、
「ええ、何かお役に立てますか」
同事務所の伝説になっている話である。
こうした考え方は個人の尊厳を徹底的に尊重するという、アメリカ民主主義の根本原則に由来している。つまるところ真実の発見は裁判の目的の一つでしかない。個々人の生まれながらの権利、憲法上の権利が、場合によっては真実の発見に優先する。極悪非道の殺人犯でさえ裁判で有罪が確定されるまでは、ルールに従って自分の無罪を主張する権利があり、そのためにロイヤーの助けを得る権利がある。ロイヤーは、たとい被告と自分以外の全ての人間が、被告をしばり首にすることを望んだとしても、被告の無罪をかちとるため最大の努力をつくす義務がある。(フリードマン「フランケル判事の『真実を求めて』に反論して」)
アドヴァーサリー・システムには長所も欠点もあろう。しかし当事者主義の方がよいか、実体的真実主義が優れているか、抽象的に比較しても、意味がない。佐藤氏が指摘しているように、それぞれのシステムは「深くその社会に根ざしている」からである。一見したところ、アメリカの刑事司法はカオスそのものである。それに反し、日本の刑事司法は、犯罪の防止と裁判の公正さという点で、世界に類を見ない成功を収めているように思われる。敵意と対立に満ち、取引次第で有罪が無罪になるアメリカの裁判に比して、何十倍も清潔で能率的で、しかも公平であるようにみえる。しかし、だからといって、日本風の実体的真実主義をアメリカに移植すればうまくいくというものではあるまい。そもそも司法制度がどうあろうと、アメリカは日本よりずっとラフでタフな社会である。警察ものの人気テレビ・ドラマに「ヒル・ストリート・ブルース」というのがあった。その冒頭、毎回警察官の打ち合わせが終わって散会する直前に、古参の刑事が「みんなちょっと待ちな、外の世界は危険で一杯だ、気をつけるんだぜ」と言っていたのを思い出す。
日本の刑事裁判では、一旦検察が起訴を決定した場合、その九十九パーセントが有罪判決で終わるという。しかし万に一つ、被告以外の訴訟関係者がみんなで真実だと合意した結果が、実はそうでなかったら、どうなるのだろうか。知り合いの弁護士によれば、日本の裁判では被告が裁判官に改悛の情を示すかどうかが、判決の内容をかなり左右するという。新聞で裁判の記事を読み、判決文に「被告は十分に反省しており云々」との表現をみつけるたび、ああこの国の裁判官は、真実をさし示し、情状を酌量してくれる一段高い存在なのだなと思う。裁判官も先生、検察官も先生、そして自分の弁護士も先生という情況で、被告がつっぱって自己を主張しつづけるのは、ずいぶん難しかろう。裁判に限らず、日本では周囲に抗い、時代に抗って物を言うのが難しい。井上成美のように、頑として自説を曲げない人物は好かれない。しかしいつも「先生」たちが正しく、「多数説」が正しかったわけではないことを、歴史は証明している。「私」の意見を公の利益に従属させる国で、ふだん秩序はよく保たれるとしても、一たび全体が間違った方向へ走り出した時、「私」がてんでんばらばらの国より、ブレーキがかかりにくいように思う。
弁護士が先生である国と、お客様がロイヤーの神様である国とでは、彼らの果たす役割がずいぶんと異なる。その背後には別々の司法制度があり、歴史がある。そして何より正義や公正の概念、その実現方法に関する考え方の、微妙な、しかし根本的な違いがある。弁護士とロイヤーの主要な活動舞台は法廷であるから、両者の役割の差異は裁判、特に刑事裁判での場合顕著である。
しかし紛争は裁判だけに限られるものではない。家庭で、企業で、政府で、議会で、小さないさかいが、大きなもめごとが、毎日のように起こり、やがて解決されていく。そこでどのような解決方法を人々が公正と感じるかは、法律以前に人々の価値観の問題であろう。そして裁判を通じた法的手段による解決も、社会が抱く正義や公正の概念を投影しているに違いない。
世の中はますます複雑になり、もめごとは国家の枠を越えて多発するようになっている。日本人とアメリカ人の間の離婚訴訟、日米企業間の裁判等、少しも珍しくなくなった。通商摩擦の記事が毎日新聞紙上を賑わし、日米で数多くの識者が問題の解決方法、日米間の理解増進を論じているが、果して彼らは同じことを語っているのだろうかと思うことがある。確かに「公正な貿易」、「問題の解決」、「摩擦の解消」と、使っている言葉は同じだが、その意味も同じであろうか。そこには「弁護士」を「ロイヤー」、「ロイヤー」を「弁護士」へ性急に訳すのと同様の危険があるように思う。日米間に紛争が生ずると、いつも日本側はそもそも問題がなかったと言う。あるいはもはやないと主張する。それを認めろと迫る。アメリカ側は問題があることを先ず認識しようと言う。一方は、ともかく合意することを合意せんとし、他方はまず合意の方法について合意しようとする。問題をなくすことが解決なのか、問題を定義することが解決なのか。両者はどこかですれ違っているというのが私の印象である。
アメリカにはロイヤーがたくさんい過ぎる、アメリカはあまりに訴訟好きな国だと非難するのは易しい。どんな主張をするのも自由な国アメリカでは、彼ら自身、訴訟の多発にうんざりしているから、人々はよろこんでその意見に耳を傾けるだろう。しかしアメリカとうまくつきあっていくためには、どうしてアメリカがそんな風であるかを、一歩進んで考える必要があろう。その上で日本は、もう少し上手にアメリカとけんかをする方法を身につける必要がある。
チャリティーの経済学
四年に一度のオリンピックが終わると、同じく四年に一度のアメリカ大統領選挙がやってくる。ソウル・オリンピックのあと、ブッシュ副大統領がデュカキス知事に勝って三期連続の共和党政権を実現させてから、再びほぼ四年の月日が流れた。バルセロナ・オリンピックのあと一九九二年の大統領選挙では、クリントン候補がブッシュ大統領を破り、十二年ぶりで民主党政権が誕生した。
前回も今回も、税金は大統領選挙の大きな争点であった。一九八八年、ブッシュ候補は決して増税をしないと公約して当選した。デュカキス候補も税金を引き上げるとは言わなかったが、八年間レーガン政権が福祉予算を大幅に削ったのを非難し、民主党政権は福祉プログラムを充実させると約束した。財政赤字のもとで、増税をしない限り福祉の充実は不可能だから、デュカキス候補は増税をめざすものと受けとめられ、大統領に選ばれなかった。
前回の大統領選挙で、税金はブッシュ勝利の大きな要因であったと思う。それまでの八年間、福祉や教育予算は確かに大幅に削られた。リベラル派は、そのために貧しい若者が大学へ進めなくなった、ホームレスが増えたと、レーガン政権を非難した。共和党は金持ちを優遇し、貧しい人を見捨てると、訴えた。にもかかわらず、ブッシュが勝った。国民の過半数は、多少の増税を我慢して、貧しい人々に救いの手を差し伸べようとはしなかった。史上最長といわれた好況のなかで、豊かなアメリカは貧しきアメリカを見捨てたようにさえ見えた。
あれから四年の間に、世界はめまぐるしく変化した。四年前、誰がソ連や東欧の崩壊、湾岸戦争の劇的勝利、そして今回の不況長期化を予測したであろう。にもかかわらず、大統領選挙の争点は、意外なほど変わっていない。税金について言えば、今回も民主党のクリントン候補は、ある程度の増税によってアメリカ経済を再建しようと訴えた。それに対しブッシュ大統領は、任期中公約を破って増税に踏み切ったのを誤りと認め、むしろ大幅な減税による経済の活性化を主張した。いったいどちらがアメリカ経済の再建に役立つのか、経済音痴の私にはわからない。しかし国民にとって、税金はただの経済問題ではない。アメリカの大統領選挙において、税金をめぐる論争は、政府の役割をどう考えるかという政治思想をめぐる争いなのである。
レーガン政権の末期から、一九九一年の夏まで、私たち家族はワシントンに住んだ。その間二人の息子が、私立の小学校に通った。子供をアメリカの学校に入れるのは、初めての経験であり、見ること聞くこと、すべてが珍しかった。なかでも印象深かったのは、学校の行事へ父兄がきわめて熱心に参加することである。実に盛りだくさんの行事があった。ブック・フェアでは父兄が子供の本を売り、収益を学校に寄付する。買った本を学校の図書室へ寄贈してもよい。古物市では父兄の寄付した古着や古本、古いおもちゃを外部に売り、売り上げをまた学校に寄付する。遠足の時運転手兼付き添いをつとめるのはお父さん、図書室で貸し出し係として働くのはお母さんである。休日に子供の学校へ出かけて、ペンキ塗りに精出す親もいる。
労力の提供だけが参加の方法ではない。忙しくて暇のない親は、お金を寄付してもいい。年末には「アニュアル・ギビング」と銘打って、寄付金を募る手紙が親の手もとに届く。「学校の財政を助けるために、ぜひあなたのお金を」と、寄付委員会の父兄が訴える。寄付の金額が千ドルをこえると「リーダーシップ・ファンド」、五百ドル以上は、スクールカラーにちなんで「グリーン・アンド・ホワイト・ファンド」、五百ドル未満は「スクール・フレンド」と区分けして、翌春寄付者の名前が発表される。ある年には、八十七パーセントの父兄が、平均四七一ドルの寄付をし、総計十三万ドルを集めた。
こうした父兄の奉仕活動や寄付によって、この学校は授業料の不足分を補い、子供によりよい教育を施すことができる。父兄は結局自分の子供のためを思って一所懸命なのだが、それだけではない。毎年四月には「オークション」と呼ばれる行事が催される。父兄や、父兄の呼びかけに応じた地域の企業が提供した様々な景品を、競売にかける。ボルティモア・オリオールズの試合の切符、自分の所属するテニスクラブのコート一面二時間分、父兄有志によるディナー・パーティー出張サービス、コロラドの別荘二泊三日など、ありとあらゆる景品の一覧表が、立派な小冊子にまとめられて、あらかじめ配られる。そして競売で集まった金は、この学校の奨学制度の元資となる。比較的裕福な家庭の子供が通うこの学校で、全生徒の十二パーセントがなんらかの学資援助を受けているという。生徒の十人に一人は、オークションその他の手段で集めた個人や団体の篤志に支えられ、この学校で学んでいる。
息子たちの通った学校は小学校三年で一応終了し、同じ教会の敷地にある上級学校につながっている。小学校四年から高校三年までの生徒に一貫教育を施すこの学校で、数年前、日本語と日本の歴史文化を教える計画がもちあがった。委員会が結成され、知り合いのロイヤーから協力を頼まれた。知らぬ間にずいぶん働かされて、日本語講座開設にこぎつけた。翌年には、日本歴史と文化の授業が始まり、神奈川の私立高校との交換プログラムも軌道に乗った。委員会のメンバーはやはり父兄が中心で、様々な形で労力を提供する。しかし委員会の最大の仕事は、この計画を実現するために必要な資金集めで、手分けして各方面に寄付を申し込んだ。日本人の感覚からすると、やや厚かましく思えるほど熱心な運動が功を奏し、何人かの父兄、ワシントンの財団、そして日本企業からも寄付があって、プログラムはスタートした。集まった金は、二つの講座を受け持つ先生の給料にあてられる。また交換留学の旅費援助にも使われる。プログラムに参加する学生の親が、全て日本までの旅費を負担できるわけではないからである。
ワシントンにいる間、私はもうひとつ、国立アメリカ美術館の資金集めに関係した。イサム・ノグチの彫刻を同美術館の中庭へ常設展示する計画を、私の勤める法律事務所が援助することになり、日本企業からの寄付集めに駆りだされたのである。計画のほうは結局あまりうまくいかなかったが、打ち合せに何度も美術館を訪れるうちに、館長と親しくなった。彼女が自ら館内を案内してくれて、ジョンソン、カティリン、カサット、ライダーといった、今まで知らなかったアメリカの画家の絵に触れる機会を得た。
こうして私は、ワシントンにいる間、二つの学校と一つの美術館で、奉仕活動や寄付集めに参加した。こうした活動は、何もアメリカだけのものではない。日本でも出身校への寄付を求められるし、赤い羽根募金やNHK歳末助け合い運動もある。家庭の主婦を中心に、ボランティア運動も盛んである。それでは一般にチャリティーと呼ばれるアメリカのこの種の活動は、日本のそれといったい何が違うのだろうか。
一つには奉仕活動や募金活動の数が圧倒的に多く、きわめて日常的なことである。アメリカで暮らした人なら誰でも、教会、病院、出身大学、地域団体、慈善団体、子供の通う幼稚園、学校、交響楽団、美術館、教育放送、ありとあらゆる団体から毎日のように寄付の依頼を受けた経験があるだろう。それぞれ立派な目標のために寄付を募っていて、趣旨には賛同するが、借金をかかえて余裕のない私たちとしては、そう簡単に財布の紐がゆるまなかった。それでもこれだけ依頼が来るところからみると、どこかで誰かが金を出しているらしい。実際チャリティーに金を出すのは、金持ちばかりではない。ごく普通の家庭からも寄付が集まる。大学時代の私の友人は、卒業後しばらくすると、みな母校に寄付を送りはじめた。無論、功成り、名を遂げた人がチャリティーに協力するのは、ロックフェラーやカーネギー以来、この国の伝統である。喜劇俳優ジェリー・ルイスが、筋萎縮症の子供のために私財を投じて運動しているのは、有名な話だし、同じく喜劇俳優として人気の高いビル・コスビーが、黒人大学教育のため二百万ドルを提供したというのも、話題になった。チャリティーに自然に金が出るのは、教会で献金をする風習と、どこかでつながっている。中世のヨーロッパには、所得の一割を教会に差し出す、タイディングという慣習があった。アメリカ人の意識のなかには、まだこの慣習が死なずに残っているようにみえる。
もちろん金を出すだけが、チャリティーの手段ではない。むしろ時間に余裕があれば、教会や地域や学校のため、何らかの奉仕活動に精を出すのが、よき市民たる一つの条件になっている。私の所属する法律事務所でも、コミュニティー、出身校の同窓会、法曹協会などの活動への貢献度が、ロイヤー評価の一つの物差しになる。働くしか能がないというタイプは、必ずしも評価されない。私自身、日本語教育やイサム・ノグチのプログラムを手伝っているうち、関係者の間で私に対するある信用が築かれつつあるのを感じた。お金が万能のアメリカ社会で、金では得られない何かがある。
アメリカのチャリティーのいま一つの特徴は、それが大変騒々しく、陽気に、そして市場経済の原則に則って行なわれることである。前述のオークションなど、その典型であろう。あれが欲しいこれが欲しいという各人の欲望をむき出しにして、ワイワイガヤガヤやっているうちに、金が集まる、人助けになる。アメリカには、コマーシャル抜きで質の高い番組を流す、公共放送局がある。テレビはPBS、ラジオはNPRがもっともよく知られている。これらの局は、毎年春と秋の二回、資金集めのキャンペーンを行なう。この期間中は通常番組を削って、二六時中「子供によい番組を見せ続けるために、あなたもぜひ寄付を」と、アナウンサーが呼びかける。背後では視聴者の有志が三十人ほど、臨時に配置された電話機にはりつき、電話がかかってくるのを待つ。アメリカらしく、クレジット・カードの番号を言えば寄付が出来る。時々一時間以内に千ドル集まったら自分も千ドル寄付しようなどという仁が現われ、アナウンサーはますます声を張り上げる。
「さあ、ドクター・マイケルズの申し出た千ドルをかちとるために、あと十六分しかありません。ちょっと電話の音が途絶えているようです。あと二百五十ドル。もう一息。今こそあなたのダイアルを回してください。電話番号は、二〇二・八八五・八八五五です」
各個人の可処分所得や可処分時間は限られているから、寄付や奉仕を求める団体は、常に同様の他団体と激しい競争をしている。PBSはNPRと、ハーバードはエールと、ジョージタウン大学病院は、ジョージ・ワシントン大学病院と、チャリティーのマーケットで張り合っている。首尾よく寄付集めに成功すれば、より充実した教育プログラムや新しい講座が可能となる。金が集まらねば閉鎖する学校もあり、所蔵美術品を売りに出す美術館もある。だからアメリカの大学総長、オペラやシンフォニーのディレクター、美術館、博物館長は、何より寄付金集めのうまい、セールスマン的資質を要求される。
この国のチャリティーは、大きな政府を好まないというアメリカ人の気風と、どこかでつながっているように思われる。政府は国防、治安維持といった最小限の役割さえ果たせばよい。多額の税金をとって、福祉や教育、芸術といった、生活のプラス・アルファの分野にまで関与するのは、期待しない。むしろ嫌う。国民の生きがいなどに、政府は口を出してほしくない。その代わり、だれにも強制されることなく、個人が自ら貢献できる身近な分野を選び、金や労力を提供する。言うまでもなく、チャリティーへの寄付金は税金から控除される。似たような制度は日本の所得税法にもあるが、はなはだ利用しにくい。アメリカでは領収書を添付すれば、控除はたいてい認められる。そもそもチャリティーを奨励するために設けられた制度ではないというが、結果としてアメリカ人はごく日常的に活用している。そして控除を申告するたびに、プラス・アルファは政府に任せず、自分たちで面倒をみるという意思表示をしているようでもある。
日本では、アメリカ人の貯蓄性向が低く、消費をしすぎたため、輸入が増え、貿易赤字や財政赤字が拡大し、アメリカ経済をだめにしているという意見が強い。しかしチャリティーに労力や金を提供するのも、消費の一形態である。経済統計上、チャリティーへの家計支出や、労力提供がどのように取り扱われるのか、私は知らない。しかし労力の提供をも含めた日米両国民のチャリティー性向、つまり他人のために奉仕し、金を使う度合いを数字に表わしたら、どんな結果が出るだろう。それはGNPなどとは別に社会の豊かさを測る、もう一つの尺度として使えないだろうか。
今回の大統領選挙は、結局クリントン候補の勝利に終わった。ブッシュ大統領敗北の原因の一つは、任期中公約を破って増税に踏み切ったことにある。過ちは二度繰り返さない、むしろ減税でアメリカ経済の再建をはかろうという、新しい公約を国民に信じてもらえれば、ブッシュ再選の可能性はあると、共和党びいきの私は思っていたが、だめであった。しかし国民の政府に対する趣味、嗜好は、それほど短期間で変わるものではない。クリントン新大統領も、あまり増税に頼るわけにはいくまい。かつてレーガン大統領は、連邦政府の支出削減におおなたをふるい、共和党は貧しいアメリカを見捨てたと非難されるたびに、
「アメリカ国民よ、政府のプログラムに頼らず、もっとチャリティーを通じて貧しい人々を助けようではないか」
と訴えた。ブッシュ大統領も、前回の選挙運動中、サウザンド・ポインツ・オブ・ライト、つまり個人の点す千の松明《たいまつ》が、世の中を明るくすると、しきりに言った。巨額の財政赤字を前政権から引き継ぐ新大統領が、福祉プログラムを大幅に拡充できないとすれば、やはり国民のチャリティーに訴えねばならないだろう。もちろんチャリティーですべての問題が解決するわけではない。自らの窮状をアメリカ流の率直さでうまく表現できない社会の最貧層には、チャリティーの恩恵がなかなか及ばないという、もっともな指摘がある。またチャリティーが豊かなアメリカ国民の自己満足、自己正当化に終わっている面もあるだろう。だが、それでもなお、金儲けを是認する資本主義国アメリカで、チャリティーの伝統が脈々と生きていること、人々の奉仕や寄付によって、住みにくいアメリカ社会がいくぶんなりとも潤いのあるものになっているのも、確かなのである。
主は来ませり
ある年、クリスマスの翌日、ニューヨーク・タイムズにこんな広告が掲載された。
「クリスマスまで、あとたった三百六十五日です」
アメリカに数ある祭日の中でも、クリスマスは特別盛大に祝われる。感謝祭も、復活祭も、独立記念日でさえ、降誕祭にはかなわない。
ニューヨークでは、ロックフェラー・センターにあるスケート・リンクの背後に、巨大なツリーが立ち、五番街のデパートや航空会社のオフィスは、毎年趣向を凝らした美しい飾りつけをして、人を集める。パーク・アヴェニューの中央分離帯に立ち並ぶ枯れ木には、北から南へイリュミネーションが施され、一条の光の帯となる。光の帯がグランド・セントラル・ステーションで途ぎれた、その真上のビルの窓には、特別な照明がなされ、くっきりと光の十字架が浮き上がる。
ワシントンではホワイトハウスの裏に、巨大なナショナル・クリスマスツリーが立てられ、テレビカメラの前で大統領夫妻が点灯する。私たちが住む郊外の住宅地でも、豆電球をつけた枯れ木がキラキラと光り輝き、トナカイの引く橇に乗るサンタクロースが、芝生の上で照明に浮かび上がる。角々にクリスマスツリーを売る市が立ち、ツリーを積んだステーション・ワゴンが道を行きかう。オフィスでも隣近所でも、「メリー・クリスマス」の挨拶が交わされ、人々は贈り物を交換しあう。普段いがみあっている人たちが、この時だけ善人となる。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う祭りである。この日救い主はベツレヘムの宿屋の厩で生まれた――神の子イエスの誕生は、その復活と並び、クリスチャンにとって最も意味深い出来事である。それからほぼ二千年の時が流れ、クリスマスツリーやらサンタクロースやら、本来の信仰にはあまり関係のなさそうな要素が加わり、降誕祭は世界中で宗教を越えた楽しい年中行事となった。
アメリカでも、クリスマスはもはやクリスチャンだけの祭りではない。しかし誰もが無条件で祝うわけではない。この季節、クリスマスカードを贈りあうのが習慣となっているが、受け取る人がクリスチャンでない場合を考えて、「メリー・クリスマス」と書くより、「シーズンズ・グリーティングズ」とするほうが、無難である。
このことに特別こだわるのは、ユダヤの人たちである。ユダヤ教の教義に従えば、イエスは多くの預言者の一人に過ぎない。その誕生日をことさら盛大に祝う理由はないのである。その上、イエス自身がユダヤ人であったにもかかわらず、ヨーロッパの歴史を通じ、ユダヤ人はキリストを殺した民として、迫害され続けた。クリスマスはこの迫害の記憶とも無縁でない。
ユダヤ人は、降誕祭を祝う代わりに、「ハヌカ」と呼ばれる自分たち独自の祭りを祝う。紀元前二世紀、マカベウスという英雄が、エルサレムの神殿をギリシャ人から取り戻した。ハヌカはもともと、この故事を讃える祭りだそうである。その時、神殿の燭台にさす油が一日分しか残っていなかったのに、灯は八日間燃え続けたという奇跡にちなみ、ハヌカの祭りでは、「メノラ」と呼ばれる八つ叉の燭台に、一日一つずつあかりを点していく。
ハヌカは、ユダヤの祭りの中で、それほど重要ではない。ユダヤ人の友人によれば、この時期周りの子供達が、サンタクロース、クリスマスツリー、クリスマス・プレゼントと浮かれて楽しんでいるのに、ユダヤ人の子供たちだけが取り残されてしまう。そこでユダヤの暦上、丁度クリスマスの時期と重なるハヌカの祭りが、以前よりも盛大に祝われるようになったのだという。
ユダヤ人は、クリスマスカードの代わりに、友人、家族同士、メノラの絵をあしらい、「ハッピー・ハヌカ」と記したカードを交換しあう。夜、住宅地を散歩すると、クリスマスツリーやリース(果物や木の実をあしらったドアの飾り)に混じって、窓ごしにメノラを飾る家がある。「うちはユダヤ人です、クリスマスは祝いません」と宣言しているのである。
ニューヨークの郊外に、スカースデールという町がある。日本から来た駐在員も多く住む、静かなベッドタウンである。一九五六年以来、クリスマスが近づくと、キリスト生誕の様子を人形で模した、クレシュと呼ばれる置物が、この町の公園に飾られてきた。飼葉桶の中に眠る幼子イエスと、それを取り囲むマリアとヨセフ、東方の三博士、羊飼、動物たち、福音書そのままの光景である。
スカースデールのクレシュは、いくつかの教会が町の評議会から許可を受けて、四半世紀にわたり公園に飾ってきたものである。申請は、かつて一度も拒否されたことがなかったが、一九八一年になって、四対三の投票結果により、初めて却下された。行き場を失ったクレシュは、仕方なく、あるレストランの敷地へ置かれた。評議会は翌年も申請を却下した。
年が明けて一九八三年の春、スカースデールの住民有志と七つの教会代表が、評議会を相手どって訴訟を起こした。原告は、評議会の決定が憲法の保障する表現の自由を侵害するものだと主張し、次のクリスマスには申請を認めるよう求めた。一方被告の評議会は、町の所有する公園へクレシュを置くのを認めれば、政教の分離を定めた憲法修正第一条に違反することとなる、従って許可を与えるわけにはいかない、と主張した。
この年の夏、ロー・スクールに留学中であった私は、ニューヨークの大手法律事務所で実習生として働いていたが、たまたまこの事務所が原告の弁護をつとめていて、公判を傍聴する機会を得た。私にとって、本物の裁判を見るのはこれが初めてである。原告被告双方の弁護人が展開する憲法論は、難しくて少しも理解できず、第一クレシュが何なのかも、実はよく知らなかったが、この国ではクリスマスまで裁判の種になるのかと感心した。また双方の弁護人がそろってユダヤ人であるのも、興味深かった。
仲間の噂によれば、評議会のメンバーにはユダヤ人が多く、クレシュが公園に飾れなくなった背景には、ユダヤ系住民の意向が強く反映されているということであった。にもかかわらず、住民代表のロイヤー二人もユダヤ人である。個人的には色々感慨があろうが、判事の前でクレシュ擁護派の主張を精一杯代弁し、ロイヤーとしての役割を忠実に果たしていた。
同年十二月八日、連邦地裁は、被告評議会の主張を全面的に認める判決を下した。クレシュは三たび公園へ飾られなかった。原告の住民教会代表は控訴し、翌年六月、連邦高裁は、原告の主張をほぼ認め、地裁の判決をくつがえす判断を示した。平たく言えば、評議会の決定は宗教色の薄まったクリスマスの祭り全体の中でとらえるべきである、クレシュを公園へ置くのを許しても、評議会はキリスト教のみに特別の支持を与えることにはならない、従って憲法に違反しないというのが判決の主旨である。この事件をさらに最高裁が取り上げ、同裁判所は四対四の同数で、意見を付すことなく高裁の判断を認めた。ようやく毎年安心して、クレシュを公園に飾れるようになった。
クレシュをめぐる裁判は、スカースデールの事件だけではない。高裁の判決が下る少し前、合衆国最高裁は、ロード・アイランド州、ポータケットという町の公園に飾られたクレシュは合憲との判決を、五対四の僅差で下している。このクレシュは、町当局自身が民間団体所有の公園へ飾ったものである。クレシュと一緒に、サンタクロース、トナカイ、橇、クリスマスツリーが飾られていた。
最高裁は一九八九年になって、クレシュを役場へ置くのは違憲であるという、新しい判断を示している。こちらのクレシュはオハイオ州ピッツバーグにある郡役場の正面階段に、カソリックの団体が許可を得て置いたもので、「いと高きところに、神の栄光あれ」という聖書の語句が記されていた。周りには、ポータケットのクレシュと異なり、何も他の飾りがなかった。最高裁はやはり五対四で、クレシュを置くのを許した郡の行為は憲法違反であるとした。
興味深いことに、最高裁は同じ判決の中で、すぐ近くにある別の役所の入口に、ピッツバーグ市がクリスマスツリーとともに立てたメノラは合憲であるとした。クリスマスツリーと一緒に置いたメノラは宗教色を失う、むしろ両者をともに飾ることにより、異なった伝統を認めるという非宗教的な役割を果たす、従って合憲である、と判決は述べている。
政府が飾るクレシュは、サンタクロースと一緒ならば合憲、聖書の言葉と一体ならば違憲、メノラをクリスマスツリーとともに飾れば合憲、それではメノラとクレシュをクリスマスツリーと一緒に飾ったら、最高裁は何と言うであろうか。
クリスマスが終わり、年が明けると、飾りつけが外され、町は寒々としたたたずまいに戻る。復活祭が近くなるまで、アメリカ東部の冬は厳しく長い。
グラマシー・パークの秘密
マンハッタン島を横から眺め、丁度ミッドタウンとダウンタウンの間で摩天楼のシルエットが低く平らになった辺りに、グラマシー・パークという小さな公園がある。周辺の喧騒をよそに、この一角だけは、落ち着いたたたずまいの住宅街である。アパートやタウンハウスが公園をぐるりと取り囲むこの公園には柵があって、鍵をもった付近の住人しか入れない。ニューヨーク広しといえども、鍵のかかった公園はここだけだという。
グラマシー・パークのアパートに住むMさんを訪ねたのは、私が交換留学生として初めてアメリカに渡った年の暮れだから、もうかれこれ十五年も前である。Mさんは父の古い友人であった。戦争中、軍の学校で日本語を学び、戦後外交官として東京へ赴任し、友人をたくさん作った。私が一歳になるかならないかの頃、彼に抱かれて写った写真がある。
Mさんは日本語が巧みで、日本文化に造詣の深い知識人であった。作家や詩人たちとの交流を通じて日本を学び、お返しにアメリカの事情を日本の友人へ伝えた。学者タイプの彼には、なかなか気難しいところもあり、いつまでも一人でいるのを心配した友人たちが縁談を世話しても、なかなか首を縦に振らなかった。ある時、容姿教養とも申し分のない女性を断り、理由を聞かれると、食事の時母親に給仕させ、自分は立たなかったのが気に入らない、と日本人のようなことを言った。サイゴンに駐在中、政府のヴェトナム政策に反対して国務省を辞め、ニューヨークへ戻り、私の訪れた頃には、日本のビジネスマンに英語を教えて生計を立てていた。
赤ん坊の時から知っている私の来訪は、Mさんにとって、甥が現われたようなものであったろう。静かに、しかし暖かく迎えてくれた。着いた晩は階下に住む年配の婦人の家で、近所の人たちと共に食事へ呼ばれた。どの人も独特の雰囲気を持っていて、グラマシー・パークのいわれについて語り、この辺はインテリの住むところだと皆誇らしげだった。
食事が終わってMさんのアパートへ戻ると、親父ほどの年の男性と二人きり、彼の部屋には塵一つ落ちていない。四方の壁には、ぎっしりと本が並んで、この人の知性を感じさせた。Mさんは机に向かって、しきりに何か考えごとをしている。私の所在なさそうな様子に気づいて、
「エレベーター・ボーイとドアマンにいくら祝儀をやろうか考えているんだ。やり過ぎてもいけないし、少な過ぎてもいけないし、毎年こんなことで悩むなんて、下らんよ」
クリスマスを数日後に控えた年の暮れ。一年に一度のプレゼントなのに、ずいぶん神経質な人だ、それともよほどお金に困っているのだろうか、と私は要らぬ想像をした。
翌朝目を覚ますと、Mさんは自ら朝食を作ってくれた。糊の効いたテーブルクロスの上に、糊の効いたナプキンが二セット置かれ、ハム・エッグを二人分作ると、彼はナイフとフォークで自分の分を舐めるようにきれいに食べた。その日は生まれて初めてグリニッジ・ビレッジを歩きまわり、ジャズのレコードを一枚買って、寒さに震えながら、Mさんのアパートへ帰ってきた。彼は茶を淹れてくれて、私の買ってきたレコードを一緒に聞いた。
Mさんは親切であったけれど、歳も違うし、男二人でいるのが気詰まりで、翌日別の友人の家へ居を移した。まだ若かった私には、彼と二人で過ごすクリスマスのニューヨークは、余りにも静か過ぎた。
Mさんと会ったのは、それが最後である。数年後、彼は水泳中の事故で急逝した。遺産は遺言に従って、誰も聞いたことのない、ある若い男の手に渡った。日本の友人たちは、彼のそういった面について、何も知らなかった。親父など、何回も同じ部屋で寝て、全く気がつかなかったという。この話を聞いて、私は驚くと同時に、グラマシー・パークのアパートを思い出し、何とはなしに納得するところがあった。
アメリカの社会生活は、徹底してカップルを単位に動いている。法律事務所のパーティーも、仕事上のディナーも、招待状は決まって、何々御夫妻様宛で届く。連れ合いの出馬を仰がねばならない。独身あるいは別居離婚手続き中であれば、代わりの異性を探して連れてくる。ともかく、常に男女のカップルでいないとならない。成年に達し、地位も財産もありながら、結婚歴も離婚歴もなく、異性と一緒にいないとなると、あいつホモじゃあないかと、すぐ疑われる。そう疑われるのがいやさに、あるいはホモであるのを隠すために、パーティーへ異性を同伴する人も多い。
ホモやレスビアンは、現代のアメリカでごくありふれた現象であるが、一方で同性愛を忌み嫌う人も多い。社会一般はその存在を認知していない。公式のパーティーへ同性愛の恋人を連れて行くのだけは、何でも自由なこの国でも、厳然たるタブーである。このことはおそらくこの国のキリスト教の伝統と無縁でない。形骸化したとはいえ、今でも約二十五州が、刑法で同性愛者の肉体関係を禁じている。同性愛にはどこか深い罪の色合がついてまわる。
しかしいくら男女関係が社会生活の基調だといっても、いくら同性愛に罪の意識が伴おうとも、みながみな異性とのつきあいがうまいわけではない。その上、独身の男同士、なんとはなしに飲みに行くという風習のないこの国である。ニューヨークの様な冷たい大都会のはざまで、つい同性に気持が動いても、必ずしも不自然ではなかろう。
「サタデー・ナイト・ライブ」という、ニューヨークから生中継で放送されるテレビの人気娯楽番組で、こんなコントをやっていた。みるからに風采の上がらない、ユダヤ人でホモのインタビューアーが、あこがれの美男俳優を前に胸をときめかせながら質問する。
「ヴァレンタイン・デーにカードを贈ってもいいかしら」
慌てた男優は、口実を作ってその場をそそくさと立ち去る。一人取り残されたインタビューアーは、がっかりして叫ぶ。
「愛されたいと思うのが、そんなにいけないっていうの」
何ごとも法律問題となるこの国では、ホモをめぐる裁判もたくさんある。同性愛者の存在を社会に認知させようとして積極的に活動している人たちを、ゲイ・アクティビストと呼ぶけれど、彼らが運動の一環として、ホモやレスビアンに対する差別行為を、裁判所に訴えるからである。一九八〇年には、同性愛者を除隊させるという海軍の規則は、憲法の保障する基本的人権を侵害しないという判決が、連邦高等裁判所から下されている。ホモがいては士気にかかわる、上官がホモでは戦は出来ない。よって海軍はホモの除隊に重大な利益を有している、それをくつがえすに足る強い権利を憲法は同性愛者に認めていないという国の主張を、高裁は認めた。
一九八六年には、同性愛者の肉体関係を禁ずるジョージア州の法律は、合衆国憲法に違反せずという判決を、最高裁が下した。成年が合意のうえ、自分の寝室で同性と肉体関係を結ぶことに、憲法上の基本的人権は見いだせない、そのような自由は米国の歴史と伝統に深く根づくものとは言えない、と多数意見は判じた。一方、反対意見は、たとえ多くの人が嫌う同性愛行為であろうと、自らの家で自らの行為を自由に選ぶのは、憲法の付与する最も基本的な権利の一つである、と論じた。ちなみに判決は五対四の僅差であった。
私の母校、ジョージタウン大学もゲイ・アクティビストから訴えられて、こちらは負けている。ホモの学生たちが一九七七年に「ゲイ・ピープル・オブ・ジョージタウン」という団体を結成し、学校の公認を要求した。ジョージタウンはカソリックの大学である。教義に照らして、これを拒否した。ゲイのグループは、人種、信条、宗教などとともに、同性愛を含む性的傾向を理由とした差別を禁じる、コロンビア特別区の法律に違反するとして、学校側を訴えた。一審では信教の自由を理由に、大学が勝訴。ところが二審ではカソリックの教義を曲げずとも、ホモの学生へ団体としての活動を許し、この法律を守ることは出来るとして、大学の敗訴となった。この間八年、弁護士費用は七十五万ドルにも及び、特別区政府は差別を理由に、大学への免税措置を拒否した。たまりかねた学校側は、このグループを公認するのが、同性愛を禁ずるカソリックの教義をいささかも曲げるものではないとの但し書きつきで、ゲイ・グループとの和解に踏み切った。
最近話題になったのは、ホモの男性二人が長年連れ添った場合には、家族とみなすべきだ、したがって連れ合いが死んだら、残された者は、未亡人と同じように従前の安い家賃で同じアパートに住み続ける権利がある、というニューヨーク州最高裁判所の判決である。原告の男性はパートナーと十年間同じアパートで暮らし、エイズにかかった恋人を最期まで看病した。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、家族の定義は、単に結婚しているか、異性同士の組み合わせであるかだけで決めるべきではない。関係の長さ、感情的金銭的なかかわりの深さ、日々の依存度といった要素を総合的に見て判断すべきである、としているそうだ。この判決はレント・コントロールと呼ばれる、借家の家賃を規制する法律に限って下されたものだが、ゲイの運動家たちは、画期的判決と、喜んでいるという。
裁判に訴えてまで、自分たちの存在を社会に認知させ、ホモの権利を確立しようとする同性愛者が片方にいれば、Mさんのように、同性愛者であるのをひたすら隠して生活する、いわば隠れホモもいる。テレビでゲイ・ライトを声高に主張する運動家の姿を見るたびに、私はやや暗く、清潔で、静まりかえった彼のアパートを思い出す。グラマシー・パークは隠れホモが秘密を守りながらひっそりと暮らすには、格好の場所であったように思われる。
提督はタクシー運転手
アメリカ人から気楽に話を聞きたかったら、タクシーの運転手に話しかけるのがよい。彼らも一日車を運転して飽きているから、喜んで応じてくれるだろう。あるいはバックミラーへ映る東洋人の顔に興味を持って、向こうから話しかけてくるかもしれない。
アメリカの各地で大勢のタクシー・ドライバーと話をした。この国には、あらゆる人種の運転手がいる。特にニューヨーク、ロスアンジェルス、ワシントンといった大都会には比較的最近アメリカへ移ってきた人が多い。道さえ覚えれば、英語があまり話せなくても仕事が出来るからであろう。彼らから、色々な話を聞かせてもらった。
ニューヨーク、マンハッタンのタクシー・ドライバーは、運転も荒いが、腕も確か。南北に走るアヴェニュー、東西に横切るストリートを、できる限りのスピードで、人と車の間を巧みにすり抜けていく。ニューヨークの歩行者は、信号が青でも赤でも渡るものと心得ているから、車の流れが途ぎれると、それとばかり横断しはじめる。タクシーの運ちゃんたちはクラクションを鳴らしながら、少しも速度をゆるめずに、歩行者の群れへ突っこんでいく。間一髪で人と車がすれ違う。
どんなに運転がうまくても、どんなに警笛を鳴らしても、昼間のマンハッタンは渋滞でなかなか車が前へ進まない、目的地へ着かない。ドライバーの苛々する背中に、「動かないね」と声をかけると、会話が始まる。今まで車を動かす機械に過ぎなかった男が、一個の人間に戻る。
ある運転手は、ごく最近ロシアからアメリカへ移ってきたばかりだと言った。たどたどしい英語しか話せない。ロシアでは修士号をもったエンジニアだったという。
「なぜ職を捨てて、国を出たの」
「あの国では、我々ユダヤ人に将来なんかないからさ」
「ゴルバチョフになって、よくなったんじゃないのかい」
「信用出来るもんか」
何年かして英語がうまくなったら、またエンジニアとして働きたいというこの大柄なユダヤ人は、マンハッタンの地理をまるで知らず、私がホテルまでの道を教えてやらねばならなかった。
ミッドタウンからダウンタウンまである時乗ったタクシーの運転手は、中年のブルガリア人であった。オーストリアを経由してアメリカへ亡命して、もう十数年になるという。
「アメリカは好きかい」
「勿論だとも」
「どうして。アメリカのどこがそんなにいいの」
「自由。君、自由だよ。ブルガリアには自由がない。アメリカでは何を言っても自由、何をやっても自由。このありがたさをアメリカ人はわかっちゃいないね」
突然、ガクンという衝撃があり、私たちの乗った車は後から追突された。ブルガリア氏は車を止めて、外に出、後の車の運転手と激しく言い争いを始める。
「なにやってるんだよ。おまえ、ちゃんと前見て運転してるのか。バンパーがこんなにへこんじゃったじゃないか」
この事故で、渋滞がますますひどくなり、警笛が周り中で鳴りはじめた。すっかりニューヨーカーに戻ってしまったブルガリア氏に料金を渡し、私は目的地までの数ブロックを、徒歩で行くことにした。
数年前、アメリカの法律事務所へ加わることを決心し、採用試験のためロスアンジェルスへ旅をした。ロスは広いから、どこへ行くにもタクシーに乗らねばならない。一日目、ポーランド人の運転手が、向こうから話しかけてきた。
「おまえは日本人か」
「そうだよ」
「それにしちゃ、英語がうまいじゃないか。何年この国にいる」
「これまで合計五年かな」
「そうかい、おれなんかもう二十年近くこの国にいるが、ちっともうまくならない。息子や娘は完璧な英語を話すけどね」
確かに彼の英語はなまりが強くて、聴きとりにくい。アメリカには英語をきちんと話せないアメリカ人が、いくらでもいる。
彼の悩みは、子供たちが英語ばかり話して、祖国ポーランドの言葉や文化を忘れかけていることだという。
「いくら口を酸っぱくして言い聞かせても、ポーランド語を勉強しようとしない。ポーランド語なんて格好悪いと思っているんだ。何年かして孫が生まれたら、英語ばっかりさ。孫とは英語で話さなきゃなんないさ。君も子供があるなら気をつけなよ」
二日目はアルメニア人だった。カリフォルニアにはアルメニア人が多い。作家のサローヤン、前知事のデュークメジヤン、何故かみな苗字の最後にヤンとつく。カリフォルニアの乾燥した気候が、アララト山の麓、祖先の地を思い起こさせるらしい。この州特産の干し葡萄は、彼らが作っているという。
「アルメニア人は州中部、フレズノのあたりに多いって聞いていたけど、ロスにも多いのかい」
「いや、今やアルメニア人が多いのは、断然ここだよ。数十万はいるかな。アルメニア語の新聞も三つは出ている」
ロスアンジェルスという、巨大なエネルギーを秘めたこの街で、はるかメソポタミアの北辺に位置した古代王国の民が、日本人、韓国人、ヴェトナム人、中国人、メキシコ人、そして黒人、白人と、軒を接して暮らしているのである。
このアルメニア君は、私がしばらくアメリカで暮らすつもりだと知ると、真面目な顔で忠告をしてくれた。
「いいかい、アメリカ人は親切だけど、最後は結局金さ。金のことしか考えちゃいないのさ。だから決して信用しちゃいけない。名誉を重んじるわれわれアルメニア人や日本人とは違うんだ。わかるだろ」
にわかには彼の言い分に同意しかねたが、日本の会社を辞めることで、思い屈していた私には、妙に気にかかる言葉であった。
すさまじい活気に満ちたニューヨークやロスと比べれば、今私が住んでいるワシントンは、まだまだのんびりした中都会である。タクシーのドライバーも、ゆとりのある運転をする。東京やニューヨークでよく出合う、ストレスの塊のような運転手は見かけない。出張からワシントンへ帰ってくると、ほっとする。空港を出るとすぐに一面の緑だし、道もすいていて心が和む。
ある夜、やはり出張の帰路、ダレス空港からタクシーに乗ると、運転手が、
「キャンディーはいかがですか」
と言って振りむいた。アメリカでタクシーの運転手から物をもらったのは、これが最初で最後である。なまりはあるが、正確で礼儀正しい英語を話すこの人は、きくと元イラン海軍の提督だったという。ペルシャ湾沿いの海軍基地司令、艦隊司令などを歴任、米国の海軍大学にも留学し、西側各国の海軍に知己が多い。
「海上自衛隊のキャプテンA、御存じですか。頭のよい、非常な紳士でした。今はきっと偉くおなりでしょう」
革命後、多くのイラン人と同様、提督も米国へ亡命した。今イラクと戦っている(この時まだイラン・イラク戦争が続いていた)海軍の将兵には、昔の部下が大勢いるという。
「かれらはホメイニのために戦っているのではありません。海軍軍人として、祖国のために戦っているんです」
「シャーも悪かったが、シャーを見捨てたカーター大統領も策がなかったねえ」
「そうです。カーターはシャーを見捨てて、イランをあんな風にしてしまった。最後までマルコスを見捨てずハワイへ迎えたレーガン大統領とは大きな違いです。お陰で何十万というイラン国民が死んだ」
提督は、キッシンジャー博士やカークパトリック女史に呼ばれて、アメリカの対イラン政策につき意見を述べたという。
「アメリカが同盟国に対してグラグラした態度をみせてはいけない。バランス・オブ・パワーというのは、そういうものです」
日本の外交政策、軍事力、今後の中東情勢など、いろいろ話しているうちに、わが家へ着いた。
「ああ久し振りにこんな話をしました。あなたもアメリカで、ロイヤーとして活躍して下さい。またどこかでお目にかかりましょう」
話が楽しかったから、お代は要らない、いやそうはいかない、と無理やり料金を受け取ってもらった。小柄な提督は、会釈をして車に乗りこみ、一人のタクシー運転手に戻ると、向きを変えて闇の中へ消えていった。
ミラビト家の婚礼
夏の終わりのある土曜日、ワシントンから車で北へ六百キロ走り、ニューヨーク州シラキューズ郊外フルトンという町の教会にたどり着いたのは、結婚式の始まる午後三時丁度であった。角を曲がって裏手の駐車場へ車を停めると同時に、教会の鐘が鳴り響く。郊外と聞いていたこの町まで、シラキューズからさらに五十キロあるとは予想もせず、遅刻してしまった。アメリカの田舎ですぐ近くというのには、気をつけた方がよい。
肝心な時に限って、子供が手洗いへ行きたがる。用を済まさせ車の中で着替えて、家族揃って教会の中へ入った時には、既に式が始まっていた。厳粛な雰囲気に気を静めて辺りを見まわすと、田舎風に着飾った老若男女が集い、正面の壇上では新郎新婦が神父の前でかしこまっている。質素な聖堂で、花以外特に目立つ飾りつけがない。
「汝フランクリンは、汝の妻となるアン・マリーを、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、死が二人を分かつ時まで変わることなく愛することを誓いますか」
「誓います」
「汝アン・マリーは、汝の夫となるフランクリンを……」
愛を誓い、指輪を交換すると、新郎新婦は腕を組み合い、満面に笑みを浮かべて退場する。記念撮影の後、参列者が浴びせる米粒のシャワーをくぐりぬけ、表で待つ超特大キャデラックに乗り込んで、教会を去っていった。粗末な家の立ち並ぶ周囲の住宅地は、また気怠いほどの静寂に還った。
その夜はシラキューズのホテルで披露の宴が張られた。カクテルの後、招待者がテーブルに着き、バンドが演奏を始める。司会者が、
「紳士淑女の皆様方、ミスター・アンド・ミセス・フランクリン・スナイダーです。花嫁のリクエスト曲、オンリー・ユー、のメロディーにのって新夫婦が初めて踊ります」
と宣すると、花婿と花嫁が拍手に迎えられて入場、会場中央で踊りはじめる。続いて司会が両家を簡単に紹介し、花嫁のお祖父さんが乾杯の音頭をとると、後はひたすら飲んで食べて踊って夜は更ける。花嫁の母親がポーランド系なので、時々みんな輪になってポルカを踊る。足がもつれてお婆さんが一人ひっくりかえったが、元気に立ち上がって踊り続けた。五分に一回ほど、誰かがコップをスプーンでチンチン叩くと、皆が唱和して会場中でグラスが鳴りはじめる。これもポーランドの習慣で、花婿と花嫁はその度に立ち上がって口づけをしなければならない。
フランクが私の家内にダンスを申し込みにやってきた。特大のタキシードを身につけて、すっかり汗まみれである。
「いやあ、疲れきっちまったけど、今夜は最高さ」
フランク・スナイダーは、ロー・スクールの学生時代、一夏一緒にニューヨークの法律事務所で実習生として働いて以来の友人である。当時と比べ大分痩せたとはいえ、その大きな体と柔和な顔は、知り合った時から少しも変わっていない。地方ラジオ局のスポーツ・キャスターなど、色々な職業を経てロー・スクールへ進みロイヤーとなった。今はカリフォルニアに本拠をもつ、ある大手事務所のワシントン事務所で働いている。
人生経験豊富で話のうまいフランクは、私が今まで出合ったロイヤーの中でも最も魅力的な人物の一人である。ところがこれまで、これはという女性に何故か巡り合わなかった。人一倍ロマンチストで女性への憧れも強いのに、女性の前では雄弁な彼が気後れしてしまう。
大体アメリカ人の男女が、ハリウッド映画の主人公のように誰でも恋愛経験豊富と思うと、大間違いである。そうしたタイプも勿論いるが、いたって純情で異性に憧れながら恋人が出来ない者も多い。
初めて大学へ留学した時に知り合ったマイクは、スタンフォードのビジネス・スクールへ進み、そこである可憐な女子学生と出合った。スポーツにも勉強にも猛烈な闘志を燃やすこの青年、好きな女の子の前では舌がもつれて何も言えない。一目惚れした彼女に話しかける勇気もないのに、キャンパスのあちこちで彼女とぶつかる。ある時はカフェテリアで同じテーブルとなり、ある時は月夜のプールで偶然一緒になる。またある時は大学構内を自転車で走っていて彼女の後姿を見かけ、わざと逆まわりをして正面からすれ違い、それでも何も言えなかった。
こうした状態が何ヵ月か続いて、ようやく言葉を交わすようになり、彼女がロスアンジェルス出身とわかった。「次の週末は両親の家へ帰るの」「僕も用事でロスへ行くんだ」「あらそれなら寄ってよ」「うん、もしかしたらね」実は用事なんか何もなかったのだが、マイクは自分のおんぼろフォードを飛ばしてロスまで出かけ、彼女の家を訪ねると、二人で食事をし、ウィンドー・ショッピングをして歩いた。彼女を送った後、車の中で一夜を明かし、翌朝また運転して帰ってきた。
「それでおまえ、手も握らなかったのかい」
「うん」
「馬鹿だね、それは向こうも大いにおまえに気があるのさ」
「そうだろうか」
もうずいぶん前、カリフォルニアへ彼を訪ねた時、パロアルトの学生バーで何時間もこの話を聞かされた。
話をフランクに戻すと、そんな彼が一年ほど前、出張の帰途飛行機の中で、こちらも出張からワシントンへ戻る、ある女性の隣にすわった。これがアンである。彼女は最初フランクとその同僚が、なんて騒々しい、しかし愉快な人たちだろう、きっとインベストメント・バンカーに違いないと思ったそうだ。ワシントンまでの何時間か話は大いに弾み、食事か何かへ誘われたら承諾してもいいと思ったのに、何も声がかからない。しかたなくアンの方から誘ったら、いいよという返事が返ってきた。アンは「あの時なぜあなたから誘ってくれなかったの」と、今でもフランクを責める。フランクは、「同僚の前でまた振られるのを目撃されたくなかったんだ、飛行機を降りてからそっと言いだすつもりだったんだよ」と言い訳をしている。アンが声をかけてくれなければ、この結婚はなかったかもしれない。
披露宴の翌日、花嫁の実家で今一度、ポーランド語でポプラウィニーとよぶ野外パーティーがあった。是非立ち寄れと言われて、五十キロの道のりをまたフルトンへ戻る。前日の教会を通り過ぎ小さな市街地を抜けると、野原が開け、庭へテントを張ったミラビト家はすぐにみつかった。アメリカでは式と披露宴は、花嫁の故郷で花嫁の家が受け持つ。前日タキシードを着て何やかや気を配っていたアンのお父さんは、今日は開襟シャツ姿で忙しく立ち働いている。辺りは一面の緑で、子供たちの水泳用に掘った大きな池が水をたたえている。遥か向こうのあの林までがミラビト家の土地だと、誰かが教えてくれた。緑の真ん中に建つ、農家を改築した白い家で、アンは育った。冬、吹雪の去った後、雪に覆われた大地が、それはそれは美しいのだと、アンが教えてくれた。
ミラビト家は父方がシシリア系、母方がポーランド系である。どちらもカソリックだから大家族だ。兄弟姉妹、叔父叔母、伯父伯母、従兄弟に従姉妹、祖父に祖母、近在の友人、そしてスナイダー家の人間が加わると、とても名前を覚え切れない。誰も彼も気さくで親切で、遠くから来た私たちに色々な話をしてくれる。
「昔この家のじいさんが雑貨屋を開いたとき、わしは客の第一号だったんじゃ。さっきじいさんに聞いたら、よく覚えてたよ」
と今年九十四歳の元気なお年寄り。
「昔ポーランド系やイタリア系の人たちは馬鹿にされてねえ。私の家はイギリス系だったから、アンの伯父さんのところへ嫁にきた時には、お祝いもなかった。でもアンのおばあさんがよくしてくれましたよ。私もカソリックへ改宗しました。だから人種差別はしないつもりだけど、黒人にだけは、気をつけないとまだ差別心があるわね。努力はしているんだけど、もう年だから」
とアンの伯母さん。
この田舎の農場から、ミラビト家の子供たちはそれぞれ大学へ進み、全米各地で活躍している。アン自身スタンフォードのビジネス・スクールを出て、出版社へ勤めている。わずか三代ほど前、この町へ工場や農場の労働者としてやってきた移民の祖先から、こんなに子孫が生まれ栄えている。庭の大きな樫の木に、イタリアとポーランドの旗と同じ色の吹流しが、誇らしげに吊り下げられていた。
カプスカと呼ばれるポーランド風酢キャベツとイタリアン・ソーセージ、そしてアメリカ風のホットドッグとハンバーガーをほおばりながら、田園のパーティーはいつまでも続く。フランクがやってきて、
「この結婚式のこと、雑誌に書くんだって。おい、アンはとびきりのべっぴんだって書いといてくれよ」
にわか雨もすっかり上がり、陽がさしてきた。池のそばでたわわになった林檎がそろそろ色づきはじめている。秋が近い。
洞窟の民、森の民、砂漠の民
ワシントンの地下鉄は、速く新しく清潔で、東京の新しい地下鉄にまさるとも劣らない。アメリカでは例外の部類に入るこの効率よき都市交通システムに、日本人の目から見ると不思議なことが一つある。駅が暗いのである。
地上から長いエスカレーターに乗って駅へ降りていくと、まるで洞窟の中へ入っていくような気がする。うす暗がりの中、切符販売機がほのかに光っている。大きな丸いドームの下に伸びるホームも間接照明を使い、わざと暗くしてある。裏側から光を当てた広告と地下鉄の地図だけが明るくて、その近くでないと新聞も少々読みづらい。ホームに埋め込まれた電球が点滅を始めると、光の帯のような電車が入ってくる。ドアが開くと、車内から人と光が溢れだす。電車が走り去ると、駅はまた暗い静けさに戻る。
なぜワシントンの地下鉄の駅は、かくも暗いのか。石油ショックの頃ならともかく、アメリカ人に照明を消してエネルギーを節約しようというような発想はない。犯罪の発生を防ぐためホームをビデオカメラで監視するなど、色々な工夫を施したというのだから、むしろもっと明るくしてよさそうなものである。にもかかわらず駅を暗くするのは、この地下鉄を建設した人々の趣味としか思えない。
暗いのは地下鉄の駅ばかりではない。ニューヨークにあるグランド・セントラルやペンシルバニアといった鉄道の駅、特にホームは驚くほど暗いし、列車やグレイハウンドの長距離バスの車内も、すりガラスの窓でわざと暗くしてある。アメリカで借家を探している時、居間の天井に一つも電灯がついていないのに気がついた。それではどうするかというと、スタンドをいくつか買ってきて間接照明でほんのりと部屋を明るくする。引っ越した後数日間、私たち家族は一つだけ持参した卓上スタンドの光で夜を過ごし、心細い思いをした。
職場にも、人一倍暗いのが好きという人物が時々いる。ニューヨークの法律事務所で働いた時、昼間からブラインドを全部下ろしドアを閉め、電灯を消して部屋を真っ暗にして、デスクのスタンド一つで仕事をするロイヤーがいた。この人は少々極端としても、部屋の照明を消してスタンドで仕事をするロイヤーは少なくない。その方が神経を集中できるのだろうか。
多くのアメリカ人が間接照明を好み暗い場所を好むのは、彼らの祖先が洞窟や森に住んでいたことと関係があると、私は密かに思っている。昔世界史で習った、ラスコー洞窟の壁画を描いたクロマニヨン人、あれである。東部ではまだ多数を占めるヨーロッパ系のアメリカ人たちは、地中深く地下鉄の駅へ降りていく時、洞窟に住んでいた祖先の記憶を蘇らせてほっとするのに違いあるまい。
アメリカで長く続いている、「フリント・ストーンズ」という人気漫画テレビ番組がある。フリント・ストーンは火打石のこと。石器時代洞窟に住んでいた家族が主人公の他愛ない話だが、登場人物はみな現在のアメリカ人そのものであるところが、おかしいし妙にリアルである。これもまた、もしかしたらアメリカ人の祖先が洞窟の民であったのと、関係あるかもしれない。
北ヨーロッパの洞窟の住民は、やがて外へ出て森の狩人となる。ヘンゼルとグレーテル、白雪姫、眠れる森の美女、ロビンフッドと、ヨーロッパのおとぎばなしに出てくる森は、暗くて秘密に満ちていて、懐かしい。大体ヨーロッパの冬は暗くて長い。昼でも陽の光は弱々しく淡い。レンブラントやドラトゥールの絵があんなに暗いのも当然なのである。電気などという便利なものが発明されたとて、暗さに対する親しみはそう簡単に消えないだろう。
洞窟や森の暗さに慣れた白人の目は、ひょっとすると我々東洋人よりも闇に強いのかもしれない。英国に長く住んだ友人の話によれば、イギリス人の家庭を夜訪れると、手探りでないと歩けないほど、部屋の中が暗いそうである。逆に彼らは戸外で陽の光をひどくまぶしがる。サングラスなしで太陽へ向かって立てない。フットボールの選手が目の下に黒く隈を取るのは、陽の光が反射するのを防ぐためで、伊達でも何でもない。
ワシントンの地下鉄の駅が暗いのは、アメリカ人の祖先が洞窟や森の民だったからだという説を、ある時食事の席で披露したら、「ちょっと待て、我々の祖先は森なんぞに住んでいなかったぞ」とあるロイヤーが言いだした。彼はユダヤ人である。三千年、四千年の昔、自分たちの祖先はギラギラと光る太陽を背に、今の中近東地方を移動していた。その地に森なんかなかったというのが、彼の言い分である。
「でもユダヤ人だって、大昔は洞窟に住んでいたんじゃないかい。映画ジーザズ・クライスト・スーパースターの冒頭シーンは、洞窟の中で休むイエスとその弟子たちの場面だったし」
と反論を試みたが、はなはだ説得力に欠けると、自分でも思った。
この友人が言うように、北ヨーロッパ系の白人ばかりがアメリカ人ではない。遠い昔、祖先が洞窟や森に住んでいた金髪碧眼の持ち主など、最近ではむしろ少なくなりつつある。ラテン系、アジア系、ユダヤ人、黒人、みなそれぞれ異なる文化を携えてこの国へやって来た人たちである。アメリカの文化を北ヨーロッパ文化との結びつきだけで考えてはいけない。それはその通りなのだが、この国でこれまで力を持ってきたのは、北ヨーロッパの人である。アメリカのユダヤ人にも、アシュケナージと呼ばれるドイツや東欧出身者が多い。街や地下鉄の作り方に、彼らの趣味がいまだに色濃く反映されていても、それはそれで不思議はないと私は思う。
先日アリゾナ州フェニックスを訪れる機会があった。ワシントンから飛行機で約四時間、昼間の便で飛ぶと、東部の森がやがて延々と続く中西部の畑に変わり、その畑があるところでぷつりと切れると、茶褐色の砂漠が始まる。平らで広大な荒れ野が急に深く落ち込んで、深い峡谷を成していたり、頂上だけ平らな丘がいくつも連なっていたり、まるで月世界の上を飛んでいるような、奇怪で魅力のある光景である。
フェニックスの空港に降り立って最初に気がつくのは、立ち木が少ないことである。高速道路の路肩には、貧弱な灌木がちらほらと植えられている。周り中が土っぽく赤茶気ていて、ひたすら明るく、明暗のコントラストが強い。ひなたにでるとやけどをしそうなほど暑いのに、日陰に入るとひんやりと涼しい。日中暑くて、夜は寒く感じるほど冷える。およそ中間というものがない。この茶褐色の大地、強い光に満ちた渇いた気候は、テキサス州西部から南カリフォルニアへかけて、アメリカ南西部を覆っている。
ある東部出身の友人は、南西部にしばらく居て木々の緑を見ないと、落ち着かない気分になるという。生まれて初めてアリゾナへ出かけて何日か過ごし、私にもその気持がわかるような気がした。全てがあまりにも明るくて、どこか暗いところへ身を置きたい、そんな気分になるのである。
この容赦ないほどの明るさは、渇いた空気と土の色は、当然ながらそこに住む人の気質性格へ、影響を及ぼさずにはおるまい。過去百数十年、この地方へ、暗くて寒い北東部から大勢人が移り住んだ。洞窟の民、森の民は、穴から這い出たもぐらの様に、太陽の光をまぶしがりながら南西部に定住し、先住民インディオの文化、南のメキシコ文化、西から大量に押し寄せてくるアジア人の文化を摂取して、新しいアメリカ文化を築きつつある。まだ荒削りで、混沌として、東部の洗練された文物にかなうべくもないが、底知れないエネルギーと底抜けの明るさに満ちていることだけは、確かである。
私の働く法律事務所は、本拠がロスアンジェルスにある。ある金曜日、ロスのオフィスで秘書さんと立ち話をしていた。
「週末はどうするの」
「砂漠に行くのよ。街を離れて砂漠に行くの。ああ、とても待ちきれないわ」
彼女は砂漠へ出かけていくのを、東部の人ならば森の中の湖へ出かけるような、ごく当然といった調子で話した。彼女にとって、砂漠には精神のやすらぐ何かがあるに違いない。アメリカは東部しか知らない、高温多湿の日本という島国からきた私には、よくわからない心の安らぎであったが、先日アリゾナで吸い込まれそうなほどみごとな星空を見て、少しは理解出来るように思った。
洞窟の民、森の民は、砂漠の民になったのである。
荒ら野で呼ばわる者の声がする、
「主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ」
マルコによる福音書第一章第三節
健さんは日本人
七歳になる息子は、自分がアメリカ人だと思いこんでいる。ソウル・オリンピックの時は、もっぱらアメリカ・チームを応援した。私が留学中、ワシントンで生まれたので、確かに米国籍である。家族中で一人だけこの国のパスポートを持っているのが、自慢である。周りの友達がみなアメリカ人だから、いくらおまえは日本人でもあるのだと言い聞かせても、ピンと来ないらしい。このままこの国で育ったら、息子は間違いなくアメリカ人となるであろう。
技術的な意味でアメリカ人になるのは、それほど難しくない。領土内で生まれさえすれば、自動的に米国籍をくれるし、アメリカで生まれなくても、市民権の取得は可能である。また永住権さえ取れば、選挙で投票する以外、大抵なんでも出来る。政府で働けるし、政治献金も許される。永住権を取って商務省に勤め、ジャパン・バッシングに精を出すのさえ、不可能ではない。
この国で何年か暮らしていると、市民権を取らずとも、自分が何分の一かアメリカ人になったような気がしてくるのは、私だけであろうか。それは何も日本人であるのをやめるといった、大げさなことではない。能力主義のこの国では、きちんとした滞在資格があり、英語が話せ、一定の資格を持っていれば、希望する職業について、どこでも好きなところに住める。日本人だからといって、肩身の狭い思いをする必要はないし、差別も受けない。もし仮に住宅や職業上のことで差別を受けたなら法律万能の国である、ロイヤーを雇って訴えればよい。
誰かが言ったように、アメリカという国は、「理念の共和国」である。合衆国憲法の主旨にさえ賛同すれば、誰でも気持のうえではアメリカ人になれる。そういえば私がニューヨークで弁護士の資格を取った時、憲法を守ることを誓わされた。あの時私は何パーセントかアメリカ人になったのかもしれない。アメリカ人になるのは、どこかカソリックに入信するといった、趣がある。
アメリカ合衆国は、日本人を含め外から来た人に対して大変大らかな国であるが、歴史上いつも開かれた国であったかというと、そうではない。アイルランド人にしろ、ポーランド人にしろ、あとからやってきた移民は、いじめられ、差別されてきた。日本人も例外ではない。法律上はアメリカ人でも、一人前の市民として扱われない時代があったのである。
よく知られているように、戦時中多くの日系アメリカ人が、強制的に西海岸から立ち退かされ、全米の収容所へ送られた。彼らの多くはアメリカ人でありながら、日系であるというだけの理由で、合衆国憲法の保障する居住の自由、人身拘束からの自由を奪われたのである。
ほとんどの日系人は、命令に従い、秩序正しく黙々と西海岸を去った。しかし日系人であろうとアメリカ人はアメリカ人である。立ち退き命令は憲法違反であるとして、命令に従わず踏み留まり、逮捕され、収容所に送られ、起訴された日系米人がいた。名前をコレマツという。
コレマツ氏は連邦地裁で有罪判決を受けた後、連邦高裁から連邦最高裁判所まで上訴して戦ったが、勝つことが出来なかった。最高裁の多数意見は、被告の合衆国に対する忠誠については、疑う余地がない。一人種グループの自由を制限するようなことは、軽々に行なうべきではない。しかし日本を敵とする戦争という非常時において、サボタージュと諜報活動の危険を信じ、連邦議会の追認のもと、退去命令を発した軍の判断は尊重されねばならないとして、コレマツ氏の主張を退けた。
コレマツ対合衆国の事件は、人種を理由に合衆国市民の自由を奪う法律を合憲とした、最高裁唯一の判決として、歴史に残った。しかし強制収容という不幸な出来事の後、日系人はくじけることなく、時にアメリカ人よりもアメリカ人らしくふるまい、今日の地位と尊敬をこの国でかちとった。円の力に頼ってワイキキで遊び、ビバリー・ヒルズでアパートを買いあさる日本人は、彼らの苦労を知らない。そしてこのところ少しずつ見えだした、日本の経済力に対するアメリカ人の反感を一番心配しているのも、彼ら日系アメリカ人なのである。
健さんはハワイ出身の日系三世である。おじいさんの代に、九州からハワイへ渡ってきた。長男が家を建てる、という意味で、彼の名は「建」とされるはずだったのが、漢字で名前を書くのを頼まれた島の坊さんが間違えて「健」と書き、そのままとなった。
健さんのおじいさんは、ハワイで働いて金を貯めたら、九州へ戻るつもりだった。故郷の村で火事を出し、弁償の費用を稼ぎに海を渡ったのである。長い年月一所懸命働いて、ようやく借金を返し終えた時、子供はこの島で成人し、故郷の両親は既に他界して、九州へ帰る理由はなくなっていた。
おじいさんは、健さんがまだ少年だった頃に亡くなった。死の床で老人は息子と孫を枕元へ呼んだ。
「今までお前たちに言わなかったことがある。これまでわが家で子供が生まれるたび、わしはホノルルの日本総領事館へ出かけていって、出生を届けてきた。だからこれからはお前たちが子供を日本人として届けてくれ」
健さんのお父さんは驚いた。この地で生まれ育って、自分はアメリカ人だとばかり思っていたのが、知らぬ間に日本人として届けられていた。こればかりは遺言に従うわけにいかない。ある日お父さんは、健さんと彼の弟を連れ、ホノルルの日本総領事館を訪れ、日本の戸籍を抹消してくれと頼んだ。
総領事館の役人は怒った。
「お前たちは陛下の臣民でありたくないと言うのか」
健さんのお父さんが、自分たちはアメリカで生まれ、育ったのだから、アメリカ人として生きていきたいと説明しても、なかなかわかってくれようとしなかった。
何年かのち、日本軍がパール・ハーバーを攻撃し戦争が始まると、健さんは陸軍へ志願し、アメリカ人としてヨーロッパで戦った。入営の日、お父さんは健さんを呼んで言った。
「いいかい健、アメリカは私たち家族がこの国へ来てから、とてもよくしてくれた。私たちはこの国に恩がある。戦争で活躍して、恩返しをするよう、頑張りなさい。そして生きて帰っておいで」
次にお母さんが、健さんを呼んだ。
「戦争から帰ってきたら、いい日本人のお嫁さんをおもらい。おまえも日本人だから。でも、もしいい日本人のお嫁さんが見つからなかったら、きだてのいいハワイ人の娘さんをお探しなさい。ハワイの人たちは私が子供の時、育ててくれたよい人たちだから。
このことはおまえが成人してから言うつもりだったけれど、おまえが戦争へ行くと決まって、今言っておくことにしました。もしかするともう機会がないかもしれないから」
ヨーロッパ戦線から無事に戻ってきた健さんは、戦後初めて日本へ旅をし、おじいさんの生まれた九州の村を訪ねて、役場で戸籍を見せてもらった。すると確かにお父さんが要求したとおり、親子の戸籍は抹消してあったが、奇妙なことに健さんの戸籍だけ又有効とされていた。
「ちょっとばかり僕が有名になったものだから、誰かが僕を村の人間にし直したのかもしれない。もしかすると僕は今でも日本人なのさ」
健さんは日ごろ日本の外交政策に批判的である。私も面と向かって、サイゴン陥落のとき、日本政府がヴェトナム難民を一人も引き受けなかったと、お説教をうけた。日本人は義理や恩を忘れたのか、と怒られた。しかし、めったに日本語を話さない健さんが、実はチャンバラ映画が好きで、家ではどてらを着ているという。本当は駐日大使になりたいのだという説さえある。
一度駆け足で在日米軍基地を視察に訪れた以外、健さんはこの三十年間、日本を旅していない。現役のうちは、忙しいから駄目だというのが理由である。しかし、もしかすると今でも日本人であるこの人に、何も親日派になってくれなくてもいいから、今日の日本をじっくり見てもらいたいと、私は思う。近ごろ何かと難しい日米関係のために、そして老年にさしかかった健さん自身の心の旅路として。
数年前、ロー・スクール留学中、初めての日本人インターンとしてオフィスへ置いてもらい世話になった、健さんこと、ダニエル・K・イノウエ合衆国上院議員から、直接聞いた話と思い出である。
キルバーグ家三代
アメリカの首都ワシントンは、比較的小さな街である。議会、最高裁判所、ホワイトハウス、FBI、連邦準備銀行、国務省といった主要な官庁の建物は、東西四キロ南北二キロの四角の中へすっぽりと収まる。官庁街の北側には、法律事務所やロビーストの事務所が軒を接するオフィス街が広がり、南側には博物館、美術館、そして桜で有名なポトマック川の岸辺が続く。
この街で、議員や政府高官は、少しも珍しくない。ある日曜日、家の近くのグラウンドでジョギングをしていたら、どこかで見た顔の人が並んで走っていた。誰だか思い出せない。挨拶しようかと思って、気がついた。テレビでよく見る、対日強硬派の一人ダンフォース上院議員であった。
またある時は、スーパーマーケットで、ミース元司法長官をみかけた。奥さんと二人連れだった。アメリカ版黒い霧問題でマスコミに騒がれ、辞任に追い込まれたレーガン大統領の側近は、大きな買い物袋を両手でかかえた、ごく普通の老人であった。
これら大物、前大物、元大物に、ワシントンの住民はすっかりなれっことなっている。隣のテーブルで下院議長が食事をしていようが、国務長官が買い物をしていようが、知らんふり。プライバシーは尊重するという暗黙の了解がある。またいちいち騒いでいたら切りがない。外国の元首がパトカーに先導され、サイレンを鳴らして通り過ぎても、ゴルバチョフでもなければ、ワシントニアンは振り向きもしない。日本の首相来訪など、アリゾナ州知事の訪問と大差ない。
しかし大物に無関心だというのは、本当は無関心をよそおっているのである。周囲に議員、長官、大使、高官がうようよしているため、ひょっとすると自分も大物なのではないか、なれるのではないかと、錯覚する。これを称してポトマック・フィーバー、つまりポトマック熱にかかるというのだそうだ。だから少しでも要職に就くチャンスのある階層の人士は、大物の動向に極めて敏感だ。試しに名士が集まるので知られる、十七丁目の由緒正しい会員制のメトロポリタン・クラブへ昼食に出かけてごらんなさい。知らんふりをしながら、あそこにすわっているのは元国防長官の何某だ、あそこのテーブルは前高裁判事の何某だと、みなささやき合っている。
ウィリアム・キルバーグ氏は、そんな大物候補の一人である。コーネル大学からハーバード・ロー・スクールへ進み、飛級を繰り返した結果、まだ二十二歳の若さ(ふつうは二十五歳)で卒業した。間もなくホワイトハウス・フェローという有為の若者を連邦政府でインターンとして採用するプログラムに合格し、労働省で一年働いた。このプログラムからは、アマコスト現駐日大使やパウエル統合参謀本部議長も出ている。
ジョージ・シュルツ労働長官(当時)と後に駐日大使をつとめた次のジェームズ・ホッジソン長官に気に入られ、そのまま労働省に居残った。能力と偶然が重なり、二十六歳で、労働次官に任命された。一時長官職が空席で、臨時長官をつとめた。現在にいたるまで、合衆国史上最年少の次官だという。
ホワイトハウス・フェローの同期生に現在の妻君ボビーがいた。一目惚れした彼は、すでに恋人がいて嫌がる彼女を、持ち前の押しの強さで説得し、結婚にこぎつけた。ホワイトハウスの一室でシュルツ長官ほか大勢の仲間が見守るうちに、求婚したという。
それからほぼ二十年、ビルはある大手法律事務所の労働法のパートナーとなり、ボビーはブッシュ大統領の補佐官(国内利益団体担当)として活躍した。まだ二人共四十代前半の若さである。共和党の天下が続けば、将来ビルが労働長官、ボビーが議員か知事になるのも夢ではない。
ビルのおじいさんは、帝政ロシアからの移民であった。ウクライナはドニエプル川の近く、ザミコフという土地の貧しいユダヤ人農家出身である。名をシュロモといった。帝政ロシア治下のユダヤ人は、さんざんいじめられた。ポグロムといって、コサック騎兵が時々ユダヤ人の村を襲い、理由もなしに掠奪し、放火し、殺す。シュロモの父親も、そうして殺された。
たまりかねて、多くのユダヤ人が、新世界へ移り住んだ。シュロモの兄弟もアメリカへ渡ったが、長男である彼は土地を守るため、踏みとどまった。
やがて日露戦争が始まると、シュロモは兵隊に取られ、シベリアへ送られる。満州で日本軍と戦ってロシアが敗れると、勝手に故郷へ帰れと言われた。極東からウクライナの故郷の村まで、ほとんど徒歩で、数年かかってたどり着いた。
シュロモは、オデッサ出身のロニアという娘を妻としてめとり、長男が生まれる。アランと名づけた。幸せもつかの間、第一次世界大戦が始まり、シュロモは再び兵隊に取られ、バルカンで戦う。ドイツ軍に捕えられ、捕虜収容所へ送り込まれた。その間に、ロシアでは革命が起こり、休戦条約が結ばれる。ようやく釈放され、再び徒歩でウクライナへ帰ってきたのは、故郷を出て四年後の一九一九年のこと。出征中に長男は病気で死に、次男が生まれてもう四歳になっていた。
二度の出征とたび重なるユダヤ人迫害で、ほとほとロシアがいやになったシュロモは、今度こそ新世界へ渡る決心を固めた。家族三人は荷物をまとめ、トルコから、ベルギー、フランスを経て、イギリスのリバプールへ渡り、そこからキューナード汽船会社の客船の三等でアメリカへ船出した。
キルバーグ一家を乗せたアドゥーナ号がニューヨーク港外へ到着したのは、一九二一年一月のことである。当時五つだったビルのお父さん、ヤーシャは、デッキから自由の女神を見たこと、移民局の身体検査を受けるため、港内のエリス島で長い間待たされたこと、父親シュロモの肩にくい込んだ縄の跡を発疹と疑われ、強制送還をおそれたこと、移民局の係り官が、ヤーシャというロシア名をジャックと変えたことなどを今でもよく覚えている。
キルバーグ一家は、移民局の検査をパスすると、郷里のザミコフ出身者たちから歓迎を受けた。新世界のユダヤ人たちは、後からやってくる同郷のユダヤ人の面倒をよくみた。住むところを世話し、仕事を見つけ、墓を確保した。ユダヤの掟では、死んだらただちに埋葬せねばならない。新世界に渡ると、早速墓がいるのである。
一家は、とりあえずマンハッタン島ローアー・イーストサイドのアパートへ落ち着き、やがてシュロモの兄弟が住むブルックリンへ移って、新世界での生活を始めた。農民と兵隊の経験しかなかったシュロモよりは、オデッサの商家で育ったロニアの方が、新世界での商売の才覚にたけていたらしい。やがて家族は洗濯屋を開業し、ただ一人英語のわかる少年ジャックが、注文を取りに走りまわった。
働きながら学校へ通ったジャックは、工学士の資格まで取ったが、大恐慌のさなか、ユダヤ人の青年を採用してくれる会社などない。仕方なく家業を手伝ううちに、洗濯ものをトラックで一ヵ所へ運び、集中的に処理する手法が成功し、一家の暮らしはようやく楽になった。やがて第二次大戦が始まり、エンジニアの絶対数が不足すると、ジャックは海軍に呼ばれて、基礎工学の教官として働く。子供たちにはみな教育を受けさせ、息子はロイヤー、娘は教師となった。
ある冬の日の午後、ワシントン郊外のキルバーグ家の居間で、ビルとジャックの父子から一家の歴史を聞いた。ジャックはブルックリンなまりの強い英語で、思い出を一つ一つ語る。横からビルが補足する。
「じいさんは、とうとう一度もロシアへ帰らなかった。余程嫌ってたんだねえ」
「勿論アメリカに来てからだって、差別は受けたさ。現に私もなかなか就職できなかった。六〇年代まで、ユダヤ人は大会社や大法律事務所へは入り込めなかったものさ」
「けどねえ、ポグロムのような理由のない破壊や殺戮は、この国ではなかった。一所懸命働けば、報われる。その分だけこの国はよい国だよ」
そばでビルが相槌をうつ。となりの部屋では、キルバーグ家の子供たちと我が家の息子たちが、楽しそうに遊んでいる。
英語が話せますか
ある日我が家の郵便受けに、こんな手紙が入っていた。
「英語をアメリカ合衆国の国語として正式に採用すべきかどうか、あなたの意見を聞かせて下さい」
差し出し人は、U・S・イングリッシュという非営利団体である。元米国上院議員で言語学者のハヤカワ氏が名誉会長だという。憲法を改正して、英語を合衆国の正式な国語に定めようと呼びかけている。
アメリカ人が英語を話すというのは、当たり前のようであって、実はそうでない。英語が話せないアメリカ人は、いくらでもいる。たとえばアメリカへやってきたばかりの移民がそうである。彼らはイタリア系であろうと、中国系、日系であろうと、必死に英語を勉強して、アメリカ社会へ一日も早く溶けこもうとつとめるのが常であった。英語の出来ない一世が、貧しい生活の中で貯金をし、子供を学校へやる。苦学して大学を出た二世は、アメリカ人よりもアメリカ人らしくふるまって、成功をかちとる。三世はもはや祖国の言葉を知らず、一世と話が出来ない、というのは、日系米人に限らず、多くの移民の家庭で共通の経験である。
ところが最近の移民、特にヒスパニックと呼ばれるラテン・アメリカ系の人たちは、なかなか英語を話すようにならず、アメリカ社会に同化しない。大家族で人口増加率が高く、一つところに大勢で固まって住むから、同化の必要をそれほど感じないのかもしれない。また社会のメイン・ストリームから、長い間差別を受けてきて、同化したくてもさせてもらえなかったという事情もある。
彼らヒスパニックの人口が、近年急速に増加している。ニューヨークのプエルトリコ人、ワシントンのエルサルバドル人、マイアミのキューバ人、南西部のメキシコ人と、出身国、文化的歴史的背景は多様であるが、みなスペイン語を話す。そして大多数がカソリック教徒である。
ヒスパニックには、比較的最近アメリカへやってきた人が多い。戦乱や革命を避け、家族を養うため、親戚や知人を頼り、南から続々と人がやってくる。彼らの多くは密入国者で、国外追放になっても、国境のフェンスを文字通り乗り越え、川を渡り、何度でもアメリカへ入ってくる。余りに不法入国者が多いので、アメリカ議会は数年前、一定期日までに届ければ、合法的にアメリカへ留まるのを許すという法律を通してしまった。ちなみに四十時間英語を学ぶという条件がついているが、その程度ではなかなか話せるようにならない。
こうしてヒスパニック系の人々は、特定の大都市や地方で、言葉も文化も異なる一大勢力を築きつつある。ニューヨークの地下鉄やバスに乗ると、吊り広告の半分位はスペイン語である。読めないなりに言葉を追ってみると、「焼けるような」とか「痛み」とかあって、何のことはない、痔の薬の広告だったりする。テレビにはスペイン語のチャンネルがあって、メロドラマをやっている。何を言っているのかさっぱりわからないが、どことなく大袈裟で、感情的である。陸軍の人に聞いた話では、英語の出来ない新兵さんが問題になっているそうだ。英語で「前へ進め」と指示しても、動かない。仕方ないから、指揮官もラテン系ということになる。
ドロレス・ウィルソンは、テキサス州南西部メキシコ国境に近い小さな町、ユバルデで生まれた。結婚する前の彼女のフル・ネームは、マリア・デ・ロス・ドロレス・エスパダスといった。名前が示すように、メキシコ系である。姓のエスパダスは、スペイン語で剣、名のドロレスは痛み、悲しみを意味する。生まれた日がカソリックの暦の上で丁度「悲しみの聖母」の日に当たっていたので、母親がこの名をつけた。わが子イエス・キリストの最期を予感して悲しむサンタ・マリア。いかにもスペインの香りのする名前である。
ドロレスの父親は、コロンブスに続いて新大陸へ渡ったスペイン人の遠い子孫であった。青みがかった灰色の目をしていたという。母親は、大昔テキサスの南西部に住みついた土着の民の子孫である。インディオの血を濃く受けて、ドロレスもちょっと東洋風の顔立ちをしている。そもそもテキサスは十九世紀半ばまで、メキシコの一部であった。ドロレスの一族は、テキサスが合衆国の一部になる前から、何百年もその地で暮らしてきた。メキシコ系アメリカ人といっても、彼らがアメリカへ移り住んだわけではない。アメリカが彼らの方へやってきたのである。
両親は、生涯ほとんど英語を話さなかった。故郷ユバルデの町で、スペイン語を話すメキシコ系住民と、英語を話すアングロ系住民とは、住むところも教会も別、かつてはレストランも学校も別であった。ドロレスの父親の時代、メキシコ系住民は学校教育を受ける機会をほとんど与えられなかった。男はアングロの牧場や農場で働くか、その他の肉体労働で日銭を稼ぎ、女はアングロの家庭で、下女として働いた。セニョール・エスパダスも町の広場に面した雑貨屋で四十年間下男として働き、六人の子供を育てた。食べていくのがやっとの、貧しい暮らしであった。
そんなわけで、ドロレスの母国語はスペイン語である。子供の頃はそれしか話せなかった。ユバルデで生きていく限り、十分であったが、父親は子供に家庭教師を付けて、英語を学ばせた。食べるのがやっとの生活の中で、途方もなく大きな出費であったし、周囲にそんなことをする家庭はなかった。しかし聡明な父親は、英語を身につけないかぎり、子供たちがこの町の差別と偏見から抜け出せないのを、自らの苦労を通じてよく知っていた。父親はドロレスに繰り返し言った。
「アングロのやり方をよく見て、学べ。ただしアングロの文化はまねするな」
彼はほこり高きメキシカンであった。
娘は小学校二年生のとき、英語で授業をする公立学校への編入試験を受けた。町の教育委員長が直々に口頭試問を行う。普段口をきいたことのない、いかめしいアングロの紳士である。合格すればスペイン語の学校より程度の高い、英語の学校で義務教育が受けられる。アメリカ社会へ入り込めるかどうか、将来の全てがかかっていた。生涯あれほど緊張したことはないと、彼女は言う。頭のよいこの女性は、試験を無事にパスして、ごく普通のアメリカ人の道を歩みはじめた。同じアメリカの中とはいえ、それは異文化習得の過程であった。外国語として学んだためか、彼女の英語にはスペイン語なまりも、テキサスなまりもない。ただし今でも学校の響きがする。彼女の努力と勤勉の音がする。
高校を卒業してサン・アントニオの秘書養成学校を出たドロレスは、同市郊外の陸軍基地へ就職し、やがて友人の紹介でミネソタからやってきた若い兵隊トム・ウィルソンと知り合い、結婚する。古いアングロ・サクソン系の学者の家に生まれたトムと、メキシコ系のドロレスと、二人の背景はまるで異なっていた。花嫁の両親に会うためトムがユバルデを訪れた時、あのアングロは何を食べるのかと、ドロレスの母親に友人がたずねたという。三十数年後の今日、夫妻の家を訪れると、トムが祖先から受け継いだミネソタの堅牢な家具と、ドロレスが持参したメキシコの明るい装飾品が、不思議な調和を見せている。
この三十年間、夫は政府で実直に働き、妻は政府機関や法律事務所で秘書として働いてきた。子供のなかった夫妻は、ラテン系の子供を二人養子にして育てあげた。娘が難しい医学部へ進んだのが、ドロレスの自慢である。決して贅沢はしないが、静かで充実した暮らしである。
トムもドロレスも、ニューディールの時代をかすかに記憶する、熱心な民主党員である。昨今のアメリカが繁栄に浮かれ、物質主義的で貧しい人を顧みないと、慨嘆している。先の大統領選挙でも、あまり勝ち目はないと思いながらデュカキス候補に票を投じた。選挙のあと彼女は私にこう言った。
「デュカキスはギリシャ系でしょ。奥さんはユダヤ系でしょ。この国ではまだアングロ・サクソンでないと、なかなか大統領になれないのよ。ブッシュみたいにね」
この話をした数日後、今度は別の選挙のニュースが入ってきて、ドロレスは元気を取り戻した。故郷ユバルデの町で、史上初めてメキシコ系の候補が町長に選ばれたのだという。メキシコ系住民の投票率がいつも低いのに油断した、アングロ系住民の完敗であった。
かつては差別の対象でしかなかったメキシコ系ラテン系のアメリカ人が、着実に社会的政治的な力をつけつつある。ヒスパニックの文化が、ニューヨークで、フロリダで、テキサスや南カリフォルニアで、アメリカ文化に大きな影響を及ぼしつつある。果たしてU・S・イングリッシュが心配するように、スペイン語を話す彼らは、アメリカの中に別のアメリカを作り、この国の統一を危うくするだろうか。それともドロレスのように、米国社会の一員として、体制の中に組み込まれつつ、新しいアメリカを形づくっていくのだろうか。
ドロレスは、日米構造協議で日本でもすっかり名を知られるようになった、リン・ウィリアムズ米国通商代表次席の秘書を、最近までつとめていた。通産省や外務省のお役人を、その品のよい英語でさばいていたが、今は故郷ユバルデに近いテキサス州サンアントニオの町で、夫と二人、静かな引退生活を送っている。今回(一九九二年)の大統領選挙では、もちろんクリントン候補を応援した。
もう一つの保守主義
一九八〇年から十二年続いた共和党政権の業績を、後世評価する時に忘れてならないのは、レーガン、ブッシュの両大統領が、五人の合衆国最高裁判所判事を新たに任命した事実である。まずレーガン大統領が、史上初の女性最高裁判事オコナー、そしてスカリア、ケネディーの三判事を任命した。そして、ブッシュ大統領が、スーター、トマスの二判事を任命した。この結果、以前からのレンクィスト、ホワイト両判事とあわせ、最高裁判事九人中、保守派が七人を占める結果となった。これに加えレーガン大統領は、保守派のレンクィスト判事を最高裁長官にも任命している。
最高裁の保守派判事任命の過程は、決して平坦でなかった。レーガン大統領によるボーク高裁判事の指名は、妊娠中絶や人種の問題をめぐる全国的な論争に発展し、上院は結局同判事任命の承認を拒否した。またクラレンス・トマス判事とアニタ・ヒル女史の間で繰り広げられた、セクシュアル・ハラスメントの疑いをめぐる上院司法委員会公聴会は、全米の注目を集めた。米国の進歩派勢力は、あらゆる機会を通じて、保守派判事の任命を阻止しようと試みた。
進歩派の抵抗を押しきって、五人の保守派判事任命をかちとった米国の保守派勢力は、合衆国最高裁判所がこれまでよりも保守的な判決を下すのを期待している。しかしながら、七人の保守派判事は、法律に対する考え方において、必ずしも意見が一致していない。最近の判例を見ても、しばしば反対票を投じあい、お互いの見解を批判しあう。合衆国憲法をどう解釈するか、最高裁の役割をどう考えるかについて、彼らの意見は微妙に食い違っている。中絶や人種の問題について、保守派の思惑どおりの判決を下さない。しかし新しい判事がどのような判決を下そうと、いったん大統領が任命した判事は本人が死ぬか引退を決意するまで、まず辞めさせることが出来ない。それが憲法の定めた最高裁判事任命の仕組みである。
一九九二年の大統領選挙には、最高裁の将来もかかっていた。保守派はブッシュ大統領の再選により、さらに保守的判事の数を増やしたいと望んだ。進歩派は、中絶支持を表明したクリントン候補を大統領にして、最高裁の保守化傾向を防ぎたいと願い、大統領選挙を戦った。民主党の大統領が、次の最高裁判事にどのような人物を指名するか、またその機会がいつめぐってくるか、保守派も進歩派も注目している。十二年続いた、最高裁判事任命をめぐる保守派と進歩派の戦いは、今後も続きそうである。
アントニン・スカリアは、現在五十六歳、現最高裁判事九人の中で四番目に若い。彼はシシリア島出身の移民の子として、ニュージャージー州で生まれた。ジョージタウン大学からハーバード大学ロー・スクールへ進み、最優等で卒業し、大手法律事務所に就職する。その後連邦政府に転じ、ニクソン、フォード両政権の連邦通信委員会、司法省のロイヤーとして、頭角を現わす。さらにシカゴ、ヴァージニアと二つのロー・スクール教授をつとめ、連邦高裁判事を経て、最高裁判事へ任命された。熱心なカソリック教徒であり、モーリーン夫人との間に、九人の子供がある。
彼は、保守派進歩派を問わず、同僚から好かれる暖かい人柄で知られている。しかし判決において、同僚判事の考えが間違っていると信じる時は、左右を問わず、判決文の中で容赦せずに攻撃を加える。年齢からいっても、たぐい稀な知力からしても、スカリア判事は、今後長い間、最高裁の判決の方向を定める上で、重要な役割を果たすであろう。
そのスカリア判事に、一九九〇年五月十五日、合衆国最高裁判所の役割について、直接きく機会を与えられた。
――この国における最高裁判所の存在の大きさは、私のような外国人には、大変印象深く思えます。多くの人が、最高裁判事の任命に関心を払い、判事の名前を知っている。最高裁の判決が話題になる、なぜでしょうか。その事実と、最高裁という制度が、建国以来二百年うまく機能してきた事実との間に、何か関係があるでしょうか。
「さあ、特に関係はないでしょう。最高裁の存在が目立つのが、必ずしもその成功の尺度であるとは、思いません。むしろ逆だと私は、考えています。
アメリカ国民が、最高裁判事の名前をよく知っているというご指摘ですが、そんなことはないんじゃないでしょうか。最近行なわれたある世論調査の結果によれば、最高裁判事の名前を知っているアメリカ国民は、非常に少ない。最も有名なのは、オコナー判事ですが、彼女でも一割とか、そんなものです」
――しかし日本では、最高裁判事の知名度は、一パーセントにも達しないでしょう。
「いや、この国でもオコナー判事を除いた、我々の名前を知っている人は、ほんの二パーセント、三パーセントといったところでしょう。それでちっとも構わない。むしろその方がいいんです。私はアメリカのマスコミの取材には、なるべく応じないようにしています。世に知られることが、判事の役割ではありませんから。司法官の倫理綱領からすれば、判事はむしろ政治的注目をあびるのを避けるべきなのです。私の考えでは、最高裁が脚光をあびるのは、その成功を示すものではなく、むしろ失敗ととらえるべきでしょう。
確かに、最高裁の判決は、マスコミに大きく取り上げられます。新聞は紙面を、テレビは番組を埋めるために、ニュースを追いかけていますし、われわれはこうしてワシントンにいて、逃げ隠れできない。御承知のように、この国のメディアは話をおもしろくするため、なんでも大袈裟に書き立てる傾向があります。そうした環境から、最高裁も自由ではいられないのです。
アメリカ国民の日々の生活へ大きな影響を及ぼすのは、むしろ州の裁判所です。結婚、離婚、養子縁組、親権、契約、不法行為など、日常生活に深く関係する事柄は、みな主に州法上の問題ですから。連邦裁判所が扱うのは、連邦法と憲法上の問題にほとんど限られていて、国民の日常生活へ直接影響を及ぼすことは、むしろ少ない。
ただ、この国で最高裁の存在が大きいというのは、別の意味では正しいと思いますよ。合衆国最高裁は、連邦司法制度上、最終審査機関として、法による支配とは何かという問題にこたえる役割をになっています。法の支配というこの国の大原則に関し、最高裁は誠に大きな象徴的地位を有しており、司法制度存立の要であるわけです」
――それでは、なぜこの国の最高裁は過去二百年間、中断することなく、法による支配の象徴であり続けえたのでしょうか。なぜ武力も何も持たない一裁判所の憲法解釈に、政府も国民も従ってきたのでしょうか。なぜ、独裁者が現われて、最高裁判事に銃をつきつけ、判決を意のままにするというような事態がおこらなかったのでしょうか。他の国では、そういうことも、ままありますのに。
「おっしゃる通り、全く不思議な現象だと、私も思います。特に一七八九年、憲法が制定された当時、判事というのは、イギリス国王の手先と目されていて、人気がなかったのですから。
アメリカの司法制度が強力である背景には、いくつもの要因があるでしょう。植民地人が継承した、アングロ・サクソンの文化的歴史的な伝統、宗教的な要素。フランス人は、米国の裁判官が憲法上の理由で法律を無効にするのを、ほとんど信じ難いと思うようです。フランス人が、『ル・グーベルヌマン・ドゥ・クレルク』(司法官による統治)と言うとき、小役人による統治といった、見下したニュアンスがあるようです。フランスでは、裁判官が司法官僚であり、裁判官への任命は官僚機構のなかで出世の一段階に過ぎぬことと、関係がありましょう。
これに対し、アメリカでは、社会的に尊敬をあつめ、社会の各分野で成功した見識ある市民を、裁判官に任命するという伝統があります。司法制度が力を持っている背景には、裁判官一般への市民の尊敬があると思います」
――そう言えば、ドゥ・トックビルは、フランスのロイヤーはただの学者だけれども、アメリカのロイヤーは古代エジプトの神官に似ている、と書いていますね。
「もっとも、ロイヤーなら誰でも尊敬に値するかというと、これは疑わしい。法律の仕事の性格も、ずいぶん変わりましたからねえ。一般市民が、ロイヤーに好意を持っているとも言いにくい。みんな自分のロイヤーは頼りにするけれども、他のロイヤーは信用しないといったところがありますから。しかし判事は今でも、尊敬を受けていると言っていいでしょう」
――著作を読むと、「オリジナリズム」ということを、強調されていますね。憲法の解釈にあたっては、ファウンディング・ファザーズ(建国の父たち)の意図した憲法の本来の意味を、第一のよりどころにするという考え方ですが、「自分は正統性というものを重んじるゆえに、『オリジナリズム』を信奉する」と書いておられる。合衆国憲法の正統性は、最高裁判所が二百年間うまく機能してきたことと、無関係ではないと思うのですが。
「そうですね。歴史上、国は、征服者によってうちたてられたり、王様によって築かれたり、色々の形で作られてきたのでしょうが、アメリカ合衆国は契約によって建てられたという意味において、特殊です。人々の合意によって、法律文書によって作られた。一七八七年に、各州の代表がフィラデルフィアに集まって、四ヵ月間、この国の形について討論をし、憲法を採択したのは、実に意味のあることです。
人々が合意した法律文書で出来た国ですから、法による支配という大原則が、二百年間貫かれてきた。議会が法を制定し、大統領が法を執行し、裁判所が法を解釈する。建国の父たちが定めたこの仕組みを崩したら、この国の存立基盤は、なくなるのです。ですから法のもとの正義とは、この仕組みに忠実であることです。正義とは、過程であって、目的の正しさではない。
最高裁判事も、だからもともとの役割、つまり憲法をその本来の意味に沿って、忠実な解釈をすることに、徹すべきなのです。軽々に、自分の価値観に従って、憲法の新解釈を提供し、新たな法律を作りだすべきではない。」
スカリア判事の、オリジナリズムに関する考え方は、一九八八年のモリソン対オルソンという判決によく表われている。この判決で最高裁は、政府高官の刑事責任を追及するため、議会の要請により司法長官が裁判所を通じて任命する特別検察官の制度を合憲としたが、スカリア判事はただ一人反対票を投じた。その理由は、刑法に基づき犯罪を調査し起訴する権限は大統領が独占すると憲法が定めている。この権限を大統領から奪うのは、違憲である、というものである。
「法による統治とは、一般原則に基づく統治に他ならない。大統領の権限縮小を認めた本判決は、確固とした原則に則ったものではなく、従って法による裏付けがない。(中略)憲法上の問題をケース・バイ・ケースで片付けるのは、安易なやり方である。最高裁の判事が納得できるところで、いつも答えが出せるからである。しかし私は、(現在の判事の判断よりも)我々の制度を築いた賢人たちと、それを承認した人々の判断、その判断が正しいことを証した二百年の歴史を、むしろ重んじたい。好むと好まざるとにかかわらず、その判断は明確にこう規定している。行政権はもっぱら大統領に帰属すると」
――一般のアメリカ国民は、最高裁の役割を高く評価するあまり、様々な社会問題に関して、最高裁が積極的な価値判断をさし示すよう、判事に手紙を書いたり、最高裁の前でデモをしたり、特に最近そういう傾向が強く見られるようですが、それは「オリジナリズム」の観点からすれば、間違っているとお考えですか。
「いや、全く困ったことだと思います。最高裁の本来の役割を、破壊してしまうおそれさえある。最高裁の判事に陳情の手紙を書く人たちは、本気で私が彼らの意見に耳を傾け、判決を書くと思っているのでしょうか。彼らは、最高裁の役割を全くわかっていないと言わざるをえません。まあ、これも新聞テレビの影響が大なところがある。困ったことです。
第二次世界大戦後、ジュディシャル・アクティヴィズム(能動的司法主義)と呼ばれる考え方が、最高裁を支配したことが、何度かありました。最高裁の役割は、憲法の本来の意味を解釈するだけではない。国民の希求する価値観をくみとって、憲法がいかにあるべきかを、判決を通じて積極的に明らかにするべきであるというものです。この考え方は、間違っていると思います。
国民にその価値観を押しつけるのが、最高裁判事の仕事ではありません。もしそうだとしたら、我々九人は、哲学者の集まりになってしまう。国民の求めるところ、新しい価値観を敏感にくみあげるのは、憲法の仕組みからすれば、議会の仕事です。それを怠れば、選挙に勝てない。
最高裁はそのような役割を果たすようには、出来ていません。考えてもみて下さい。最高裁は、アメリカ合衆国の機関の中で、もっとも非民主的な組織です。大統領が、一度判事を任命したら、辞めさせることができないのですから。最高裁の判事は、国民に対し直接責を負わない。それでいいのです。国民の声に左右されず、静かに憲法解釈に専念すべきだからです。
法律を厳格に解釈すれば、時には国民が求めるところとは異なる、不人気な結論に達することもある。そう、それが私達最高裁判事の役目なのです。それが出来ないのならば、私がここへすわっている必要はない。悪法を変えるのは、議会の仕事であって、我々の役目ではありません。その時々で、国民が納得する判決を、世論に従って下すべきではないのです」
一九八九年のウェブスター対リプロダクティブ・ヘルス・サービス事件で、最高裁は、女性が人工中絶を行なう憲法上の権利があるかどうかについて、明確な答えを出すのを避けた。スカリア判事は、その反対意見の中で、これを批判し、激しい口調で次のように述べている。
「本当の問題は、本日の判決において最高裁が(中絶をめぐる憲法問題につき)もっと明確な判断を示すべきかどうかということである。私はそうするべきであると考える。通常判決の及ぶ範囲を最小限に留めるというのは、法の安定性を保つために、賢明である。しかし本日の判決は、それによって却って混乱を助長する結果になってしまった。
私は中絶の問題は政治問題であると考える。(人工中絶に憲法上の保護を与えた)ロー事件の判決をくつがえさないことにより、最高裁は、自らの役割について、国民に間違った考えを与えている。(このあいまいな判決の結果)我々のもとに、国民からたくさんの手紙が寄せられるであろう。通りはデモ隊で満ちるであろう。そして国民の声に一々従わずとも、法に則って判決を下せるよう、選挙によらない終身の身分保障という、非民主的特権を与えられた私たち最高裁判事が、国民の声に従うよう迫るであろう」
スカリア判事の憲法に忠実な法解釈は、また時に保守派らしからぬ意外な判決を生む。たとえば、一九八七年のアリゾナ対ヒックスという事件では、ピストルの音を聞いて容疑者のアパートに入った警察官が、そこにあった高価なステレオ装置を動かし、製品番号を控えて盗品と確認したのは、明白な容疑なしで家宅捜索を行なうのを禁じた、憲法修正第四条に違反するとする判決を、進歩派判事とともに著した。
「憲法は時に、多数のプライバシーを守るため、少数の犯罪行為を看過することがある。本判決の多数意見と少数意見の差は、その線をどこで引き、バランスをとるかである。我々は、憲法の文言に忠実な、伝統的解釈を選ぶ」
国旗を燃やすのを禁じた州法と連邦法は、表現の自由を保障した憲法修正第一条に違反するとした最近の判決でも、スカリア判事は進歩派の判事に加わって、保守派をがっかりさせている。
――最高裁が、国民の日常生活に直接かかわる事柄を審理することは、比較的少ないと、おっしゃいましたが、最高裁が、宗教、道徳といった、価値観に関する事件を扱う場合もありますね。たとえば、不倫によって生まれた子供に対する父親の権利とか、人工中絶の問題とか、その他の問題。こうした価値観に深くかかわる憲法問題では、判事はトラディション、伝統ということを、憲法解釈の重要なよりどころとされているようですが、判事のおっしゃる伝統とは何でしょうか、オリジナリズムの考え方とも、共通するものがあると思うのですが。
「憲法の条文のなかには、その意味するところが、比較的はっきりとした規定もあれば、あまりはっきりしていない規定もあります。たとえば、大統領が議会を通過した法案に対し拒否権を行使した場合、議会はその三分の二の多数をもって、大統領の承認を得ずとも、法律を制定することが出来るという、規定があります。このきまりは、年月が経ったから変わるというものではない。二十世紀に入ったから、二分の一でもいいじゃないか、と言うわけにはいきません。
一方、憲法は、デュー・プロセス(順法主義)ということを言います。『何人も法のデュー・プロセスなしに、生命、自由、財産を奪われること、あらざるべし』。しかしこのデュー・プロセスが何なのかは、定めていない。憲法を制定した建国の父たちも、時代によって、憲法に定めた内容が変化を遂げていくのを、予想していたと言えましょう。
さて、我々判事は、憲法の内容に変化が生じたのを、どうやって明らかに出来るのでしょうか。そこで、伝統が、大きな意味をもちます。世代から世代へ継承されていく伝統的価値観も、社会全体の考え方が変われば、おのずから変わる。伝統が、変わるのです。しかし伝統がいぜん保たれているのに、社会の価値観が変わった、あるいは変わるべきだと主張するのは、誤りです。
残念ながら、裁判官の中には、いや最高裁の私の同僚の中にも、この間違いをおかしている人がいます。合衆国四十九の州が、ある法律を無効にしたから、その法律に対する人々の考え、価値観は変わったのだ、と主張するのは、わかります。しかし、そのような証拠もなしに、法律はかく在るべきだと断定するのは、正しいこととは思えません。
たとえば死刑の問題です。憲法には、残酷かつ異常なる刑罰は、これを科すべからず、という規定があります。死刑反対論者は、死刑は残酷な刑罰だから、この規定に照らして違憲とすべきであると、主張します。しかし、憲法制定時、死刑が憲法の禁止する残酷な刑罰であるとは、考えられていなかった。しかも、各州は今でも死刑を廃止していない。つまり国民が死刑を残酷な刑罰と考えているという証拠は、いまだにないのです。にもかかわらず、ノン・オリジナリストの判事たちは、死刑は正しくない、よって違憲であると言いきる。これは、伝統を無視したでっちあげです。私にはほとんど信じ難いことです」
伝統が憲法解釈において果たす役割について、スカリア判事の考え方がよくわかるのは、一九八九年の、マイケル対ジェラルド事件の判決である。カリフォルニア州法は、不倫の結果、夫以外の男を父として女性が生んだ子供の法律上の父親は、婚姻上の夫であると定めている。これは、人身拘束その他からの自由を保障する憲法に反するとして、人妻との間に女の子をもうけた男が、相手の女の夫を訴えた。これに対しスカリア判事は、不倫相手の男に親権があるという考え方は、アメリカ社会の歴史と伝統に根ざしたものとは言えない。伝統はむしろ結婚を単位とした家族の一体性と安定を重んじてきた。それは不義の子の誕生を嫌い、家庭に平安をもたらすことに意義を見いだす、慣習法の伝統から来ている。生物学上の父親に、親権を認めた州は一つもないとして、この主張を退けた。
――そうすると、アメリカ国民の伝統に対する考え方を代弁するのは、議会の役目ということになりますね。ある事柄、たとえば死刑について、国民の価値観が変わったなら、議会が新しい法を通して、それを表わす。議会もまた、憲法の内容を解釈し、変えていくということでしょうか。
「そう、議会は、最も重要で影響力のある、憲法の解釈者と言ってよいでしょう。議会は憲法に従って、法を制定する。それによって、憲法を具体化します。一方裁判所は、法を審査して、違憲であるかどうかを決める。提出される議案の中には、私が議員だったら賛成票を投じないものもあります。しかしもしそれが可決されて法になれば、あえて反対しないかもしれない。
最高裁がその違憲性について、はっきりとした見解を裁判を通じて出さないかぎり、多くの法律は、そのまま通用していきます。最高裁は、法律を審査する際、できる限り憲法上の問題を避けて通ります。そうしないと、議会は憲法の問題を裁判所に任せきりにしてしまうからです。従って最高裁が違憲だとして無効にする法律は、比較的少ない。法律が積み重なれば、それがまた一つの伝統となり、憲法解釈の基礎となります。そういう意味で、おっしゃるとおり、議会は憲法を解釈する重要な機関だと言えるでしょうね。
判事も議員も、憲法を守ることを誓って職につきます。判事も議員も、同じ社会の構成員です。社会の構成員がもはや信じなくなった憲法上の概念は、最高裁もあえて守護しようとはしなくなります。長い目でみれば、憲法の意味を形成していく仕事は、最高裁の独占するものではないのですよ」
――それでは、合衆国憲法という、この国の仕組みは、十分機能している、将来も機能するとお考えですか。
「ええ、勿論、そう思います。憲法の将来は、非常に明るいと思います。アメリカは、若い国だと言われますが、民主主義の実験としては、世界でもっとも長い経験を積んでいます。一七八七年にフィラデルフィアで憲法起草委員会が始めたこの実験は、二百年間うまく機能してきたのです。
私は、この憲法の成功の秘密は、その構造にあると思います。人権憲章の内容が重要でないと言うのでは、勿論ありません。しかし、どんな独裁国にだって、憲法はあって、人権を守ると書いてある。そう書いてあるということ自体、何の意味もないのです。
重要なのは、この国の政府の構造を定めた、憲法上の規定なのです。政府の権限を、立法、行政、司法の間で細かく分け、議会も二院制をとっている。上院と下院が同意しない場合には、議会と大統領が同意しない場合には、と細かく定めてあります。ヨーロッパ人の目から見ると、誠に非能率である。しかしこの非能率さが、権力の濫用を防いでいるのです。
ですから、この構造を変えれば、力の微妙なバランスも変化します。たとえば、憲法はもともと各州の議会が連邦上院議員を選出すると、定めていました。上院は、連邦政府が強大になるのを防ぐための、構造的な障壁とされたのです。ところが、一九一三年の憲法修正第十七条によって、連邦上院議員は、国民の直接選挙によって選ばれることとなりました。
この修正によって、今日の連邦政府は、ますます強大になっています。修正第十七条が間違いだったとは思いません。アメリカ国民が正式な手続きに則って、定めたのですから。私が言いたいのは、憲法の定めた構造がいかに重要であるかということです」
――現在日米間で行なわれている話し合いが、構造障壁交渉と呼ばれているのを、御存じですか。アメリカ側は、日本の構造こそが問題だと、やはり思っているようですね。今お話しになったことと、日米構造協議の間には、きっと深い関係があるに違いありません。
「(笑って)最高裁は、その問題には関与しないことにしますよ」
スカリア判事は、最高裁判所の自らの執務室で、およそ三十分間、他の人を交えず、私の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。この国で法律を仕事とする者にとって、最高裁判事と向かい合って憲法について語るのは、この上ない名誉である。
インタビューの途中、判事はコーヒーを私にすすめ、煙草を吸ってもいいですかといって、スパスパやりだした。最高裁判事がコーヒーをすすめるという気さくさと、アメリカで最も知性的な人が煙草を吸うちぐはぐさが、おもしろかった。(この国で煙草を吸うのは、教養のない証拠と取られがちである)
インタビューを終えて、憲法に基づいたアメリカ民主主義の将来に対する、スカリア判事の自信が心に残った。また民主主義を可能にするのは理念ではなく、国の仕組み、構造である、正義とは、目的の正しさではなく、過程であるという判事の言葉が、印象に残った。スカリア判事の保守主義は、アメリカが二百年続けてきた民主主義の経験が、これからもきっと有効であるという、楽観論である。しかしそれはシステムに対する楽観主義であって、システムを動かすアメリカ人に対する楽観論では必ずしもない。正統な保守主義者は、人間の本性については、常に悲観的なものである。必ず間違いをおかす人間をコントロールするには、システムをしっかり構築するしか、方法はない。建国の父たちのこの深い知恵を踏襲するという意味で、スカリア判事は真の保守主義者である。
夢を見る権利
土曜日の夕方、床屋のドアを押して入ろうとすると、中にいる小母さんが手を左右に振った。もう閉店だから駄目だと言っているらしい。なるほど入り口に「閉店五時半」と書いてある。時計の針は五時二十九分を指していた。どうしようかと、一瞬その場にたたずんでいると、眼鏡をかけた小柄な小父さんが奥から出てきて、しょうがないやってやるよ、こっちへ来いといった風に、手招きする。ほっとして椅子にすわると、小父さんは、慣れた手つきで仕事を始めた。
気持のよい初夏の午後で、日がまだ高い。客は私だけになった。仕事を終えた小母さんはもう一人の店の人と、待ち合い用のソファーに腰をおろして、おしゃべりを始めた。語尾を「ンニャー、ンミャー」とやわらかく伸ばす。この言葉はヴェトナム語に違いない。私の髪を刈っている小父さんが、時々手を休めずに合いの手を入れる。耳元で「何何ンニャー、何何ンミャー」。
「ヴェトナム語かい」とたずねると、胡麻塩頭を短く刈り上げた小父さんは、そうだと言ってにっこりした。「どこの町から来たの」「ユエだよ」その後二言三言英語で交わしたが、なまりが強くて何を言っているのかよくわからない。仕方がないから、目をつむり、また彼らの会話をきく。「何何ンニャー、何何ンミャー」
アメリカの床屋にしてはていねいな仕上げで、料金は七ドル。チップを一ドル加えて金を渡すと、小父さんはもう一度にっこり笑って、「サンキュー」と言った。
昔植民地だった国の食物や文化が、旧宗主国で目立つというのは、おもしろい現象である。ロンドンに行くとインド料理屋が目立つ。パリではヴェトナム料理屋、東京では韓国料理屋、アムステルダムではインドネシア料理屋。旧宗主国と旧植民地の間は、人の流れも絶えないらしい。ヨーロッパからアフリカ諸国へ飛ぼうと思ったら、今でも昔の宗主国経由が便利だ。オランダの客船にはインドネシア人、イギリスの客船にはインド人のクルーが乗っている。お互い憎み合い、いがみ合いながら、一度築かれた縁は、切っても切れないものであるらしい。
ヴェトナムがアメリカの植民地であったことは、一度もないけれど、ある時期、米国はヴェトナムだけでなくインドシナの各国へ、相当な肩入れをしていた。物心ともに、彼の地で相当な犠牲を払い、国内では人心の荒廃を招いたあげく、米軍撤退の後に残ったのは、帰ることのない若者の命と、おびただしい難民の群れであった。一体あの戦争は何であったのかという思いは、今でもアメリカ人の心に強い。普段は口に出さないものの、現在四十代半ばの人は、みな何らかの形で戦争体験を背負って生きている。ワシントン記念塔の近くにある、ヴェトナム・メモリアルでは、春夏秋冬、黒御影石の壁に刻まれた戦死者の名前を見つめ、無言で立ちつくす人の姿が、絶えない。
米軍撤退から二十年後の今日、インドシナ半島とのかつてのかかわりあいを思い起させるのは、インドシナ系米人の活躍である。着のみ着のままで逃げてきたヴェトナム人、ラオス人、カンボジア人が、各地で定住し、英語を学び、商売を始め、たくましく生活している。彼らの中には、幼い時にボートで逃げてきて、この国で教育を受け、ハーバード・ロー・スクールを卒業してロイヤーになった女性や、ウェストポイントを首席で卒業して、レーガン大統領から全国民へ紹介された人もいる。
もともと教育水準の高い、中産階級出身の亡命者が多いせいもあろうが、それにしてもたった十五年の間に、彼らはよくやっていると思う。その陰には、インドシナからの難民に教育の機会を与え、住居を用意し、就職を助けた、教会を中心とする各地のコミュニティーの目立たぬ支援があった。アメリカのヴェトナム介入に反対し、北ヴェトナムの言い分を全てそのまま信じた連中は、今日共産主義の失政のもとで喘ぐ南北ヴェトナム、カンボジア、ラオスの民と、アメリカへ逃げてその地歩を固めつつあるインドシナ人を比べて、何と言うのであろうか。それでもホー・チミン小父さんは偉かったのだろうか。
シーチャン・シブは、アメリカへ逃げてきたカンボジア難民の一人である。西側の民間援助団体ケアに勤務していた彼は、一九七五年四月、プノンペンがクメール・ルージュの手に落ちた日、わずか三十分の差で、最後の脱出ヘリコプターに乗り遅れてしまった。やり残した仕事をきちんと済ませてから、脱出しようとしたからである。クメール・ルージュの兵士たちとて同じカンボジア人である、話せばわかる、それほど悪いことにはなるまい、という判断もあった。彼らが歴史に例を見ない残虐な連中であるのを、不幸にして彼は認識していなかった。
プノンペンへ入城した共産軍の兵士たちは、シーチャンとその家族に銃をつきつけ、農村地帯へ強制移動させた。彼は、捕われるとすぐ眼鏡を捨てた。クメール・ルージュはインテリを目の敵としており、眼鏡はインテリのしるしであったからである。
シーチャンはまもなく強制収容所からの脱出を、決心した。ヘリコプターで彼が逃げなかったのをひどく怒った母親は、自分の結婚指輪を渡し、手を握って言った。
「私が信心してきた仏様の功徳が、あなたを守ってくれるでしょう。決して希望を失ってはいけない。さあ、お逃げなさい」
偽造した身分証明書を片手に、シーチャンは自転車をこいで、タイ国境を目指して走った。夜は道端のくさむらで寝た。三週間後、国境からわずか二十キロ手前で、農民の自警団に正体を見破られ、当局へ突き出された。
それから八ヵ月間、彼は国境近くの収容所で、毎日十八時間、肉体労働を強いられた。穴を掘り、草を刈り、道路を修復する。毎日仲間が消えていった。クメール・ルージュは彼らを棍棒で殴り殺した。鉄砲の弾が惜しいからである。シーチャンは口をきかず、何も考えなかった。殺された仲間のことを思わず、恐怖も感じなかった。恐怖心を抱くには、あまりにも疲れすぎていた。
一九七六年二月のある日、彼は近く政治犯が国境地帯から移されるという、見張りの会話を耳にした。内陸へ連れていかれたら、もう脱出は出来ない。翌日シーチャンは、材木を運ぶトラックの荷台から飛び降りて、ジャングルへ逃げ込んだ。二日の間、彼は竹の生い茂る中を、日の沈む方角へ這い進んだ。三日目、タイ領へ出て、官憲に逮捕された。タイの刑務所へ入れられたシーチャンは、ああこれで自分は自由になったと、心から思ったそうだ。
釈放されたシーチャンは、剃髪して一旦仏門に入り、仏の功徳を感謝し、母や家族の無事を祈った。彼の母、姉、弟、その他親族合計十五人が、クメール・ルージュに虐殺されたのを、たった一人生き残った妹から、後に知らされる。
その年の六月、米国への入国許可を得て、シーチャンはニューヨークへ着いた。最初はコネチカット州の果樹園で林檎をもぎ、食堂で皿を洗い、ハンバーガーを焼いた。この若いカンボジア人は、ミディアム・レアが何のことか、知らなかった。マンハッタンへ移った彼は、タクシーの運転手になって、三回強盗に襲われた。病院で働き、難民救済の仕事をし、奨学金を得てコロンビア大学で国際関係論の修士号を取得した。国連で働き、市民権を取り、テキサス出身の女性と出合い結婚した。国際教育研究所という機関で働きながら、ブッシュ大統領の選挙戦を手伝い、それがきっかけとなってワシントンから電話がかかり、彼が大統領補佐官代理としてホワイトハウス入りしたのは、タイへ脱出してから丁度十三年後の一九八九年二月十三日である。
「シーチャン、あなたはアメリカのどこが好きですか」
ホワイトハウスの隣、かつて野村・来栖両大使がハル国務長官を訪れたオールド・エギュゼキュティブ・オフィスの執務室で、私はシブ氏と向かいあっていた。背の高い、柔和な感じの人だが、眼鏡の奥の目は鋭い。しばらく考えて、彼はこう答えた。
「アメリカは、人に夢を見る権利を与えます。夢を実現する機会を与えてくれます。難民の私が、ホワイトハウスで大統領の補佐官として働くなどということは、他の国では考えられない。私がもしフランスへ亡命していたら、今でもきっとタクシーの運転手をしていたでしょう」
この忠実な共和党員は、週末ワシントン郊外で、カンボジア人の子供たちに母国語を教えているという。アメリカ人になっても、祖先の国の言葉と文化を忘れないように。
アリゾナの高い空
「ヘイロウ」電話の向こうで、アラン・デイ氏はこう答えた。「ローズバーグという町で高速道路をおりて、北へ三十マイル。里程標に六マイルと出てきたら、注意して道端の風車を探しなさい。石を投げたら届く距離にあるから、すぐわかる。ローズバーグから先、風車はこれ一個しかない。道の左側に牧場の入り口があって、さらに五マイル行くと、我が家だ。土曜日に待ってるよ」
デイさんは、サンドラ・デイ・オコナー最高裁判事の弟である。アリゾナ州ダンカンという町の近くで、レイジー・ビーという名前の牧場を経営している。レイジー・ビーは、オコナー判事が育った場所でもある。日本の女性雑誌に、アメリカ初の女性最高裁判事についての記事を頼まれ、インタビューを申し込んだら許可された。彼女がアリゾナの牧場で育ったのを知り、最高裁を訪れる前に、ふるさとの取材をすることになった。
一九九〇年一月末のある日、カメラマンのKさんと私は、アリゾナの州都フェニックスからツーソンへ飛び、そこから東南東へレンタカーで二百マイル(約三百二十キロ)走った。途中は灌木の生える乾いた荒野で、時々不思議な形をした岩山が現われる。トラック・ストップと呼ぶ長距離トラック運転手の休憩所で食べた、チキン・ヌードル・スープがうまかった。周りは男も女も、一人残らずカウボーイ・ハットにブーツのいでたちである。この道はカリフォルニア州ロスアンジェルスから、テキサス州エルパソの町まで、延々千マイル、砂漠の中を貫いている。カウボーイ姿の男女は、馬の代わりに巨大なトレーラー・トラックの運転席にまたがり、ハイウェーを東へ西へ駈け抜ける。
言われたとおり、ローズバーグで高速道路をおり、北へ折れて、この小さな町の市街地を後にすると、そこは文字どおり無人の荒野であった。なるほど里程標しか、目じるしがない。小一時間走ると、確かに右側に風車が現われた。反対側に左へ折れる道がある。無舗装の道を砂煙をたてて更に十五分走る。人家らしきものは何も見えない。時々車に驚いて、雀が茂みから飛び立つ。道を間違えたかと不安になりはじめたころ、大きなカーブを曲がったところで、忽然と牧場の本部が現われた。入り口の門には、アルファベットのBの字が横に寝た、レイジー・ビー(怠惰なビー)のマークが飾られている。カウボーイが二人、歩いている。風車が音をたてて、まわっている。映画「スター・ウォーズ」に出てくる惑星の植民地によく似た風景である。
一番奥の住宅とおぼしい建物に車を付けると、中からテンガロン・ハットに革のブーツ、ジーンズの上下といういでたちの大男が出てきて、「ようこそ」と私たちを出迎えた。電話の声の主、デイさんである。
ミスター・デイは、その日の午後中、日が暮れるまでレイジー・ビーを案内してくれた。牧場は面積が約九百平方キロ、一辺が三十キロの正方形の広さにほぼ等しい。デイ氏は、「あっちの山から、向こうの山までが、うちの土地さ」と説明してくれた。この広い地所に、人間が五家族、牛が三千五百頭、馬が五十頭住んでいる。広さの割に頭数が少ないのは、土地が乾き切っていて、草もまばらにしか生えないからである。カウボーイたちは、草から草へ、牛を追う。昔はテントを張って、泊まりがけの仕事だったそうだ。デイさんも幼い頃、父親や姉と一緒に、この遠征に加わった。
ミスター・デイは大きなトラックに我々を乗せ、道もない丘陵を走りまわる。石を跳ねとばし、灌木をこすり、トラックに乗っていると言うよりは、まるでロデオの馬にまたがって走っているようで、しっかりつかまっていないと、振り飛ばされそうである。しばらく行くと、水場に集まった牛が、一斉にこちらをふりむき、じっと我々を見つめた。彼らもよほど、退屈しているのだろう。我々も車を止めてしばらく休む。辺りは何も音がない。天と地が、とてつもなく広い。ジェット旅客機が、はるか上空を静かに横切っていく。
牧場の一角に、小屋があって、小さなセスナ機が置いてある。飛行機を買ってから、最初は見よう見真似で操縦を習ったという。乗りたいかとたずねられ、少々こわかったが、乗せてもらうことにした。三人でセスナを小屋から押して出し、勢いよくプロペラをまわすと、簡単に離陸した。眼下に、何もない荒野が、果てしなく続く。デイ家の庭で、奥さんが手を振っている。Kさんが身を乗り出すようにして、写真を撮る。時々失速警報器が鳴って、ひやひやする。山の峰が眼前に迫ると、バンクをとって飛行機は大きく旋回する。天地がまわる。
ミスター・デイはノース・ダコタにもう一つ牧場を持っていて、政府から預かった野生馬を管理している。セスナにとび乗り、五時間飛ぶと、着陸して馬の面倒をみる。一泊して翌日帰ってくると、今度はこちらの牧場で仕事だ。ミシシッピー川の向こうは飛ばない。「どうも空が混んでて、いけない」のだそうだ。ツーソンまでよく用足しに飛ぶ。ある時は馬がガラガラ蛇に噛まれ、隣町の獣医まで、血清を取りに飛んだ。おかげで馬は命をとりとめた。話が雄大すぎて、こちらの理解力を越える。
飛行機から降りると、Kさんはデイ家の撮影を始めた。何年か前に建て増した、居間のある一角の奥に、アドベと呼ぶ干し煉瓦で建てた古い母屋がある。部屋の壁に古い写真が飾ってある。子供の頃のオコナー判事の写真がある。手足の長い、がっしりした感じの少女である。姉弟の父親が若い頃の写真もある。カウボーイに囲まれて、まるで西部劇の一場面のような写真である。百年前、彼らのお祖父さんが移り住んだ頃、この地方にはまだアパッチ・インディアンがいて、騎兵隊と戦っていた。
オコナー判事とミスター・デイは、この家で育った。当時は電気も水道もなかった。時には何週間も遅れて届く、都会の新聞や雑誌を、一家は争うようにして読んだという。人の姿が稀なこの牧場を訪れた客人は、家族と食事をし、泊まっていった。
「姉は子供の時から、よく出来てねえ。ふりかえってみると、彼女がいつかこの牧場を出て、重要な仕事をするのを、彼女自身が、知っていたような気さえするんだ」と、ミスター・デイは言う。後年最高裁判事となる幼い少女は、この荒れた土地で、高い空と、広い大地に包まれるようにして育った。日が昇り、日が沈む。雲の形と、山の色が、刻々と変わる。厳しい環境の中で、命が始まり、命が終わる。
上級学校へ進むため、牧場を去った後も、オコナー判事は休暇毎にレイジー・ビーへ帰ってきた。最高裁判事となった今も、家族と毎年帰ってくる。電話もテレビもある今のレイジー・ビーは、彼女の子供時代とは比較にならない便利さだが、歯医者へ行くのに、ツーソンまで往復五百マイル(八〇〇キロ)を車で走るという牧場の生活は、都会の人間には想像もつかない。そんな土地から、一人の最高裁判事が生まれ、その判事は今でも、荒野の生活を愛し、なつかしんでいる。
庭でKさんが、デイ夫妻の写真を撮る背後で、日がみるみる傾き、あたりは薄暗くなった。煖炉で燃やす薪のこうばしい匂いが漂う。家の外には衛星放送のディッシュがあって、居間のテレビは、アリゾナ大学のフットボールの試合をやっている。いとまを告げるころ、外は真っ暗になり、遠くでコヨーテの鳴声がした。空は星でこぼれそうだ。この辺りはアメリカでもっとも空気の澄んだところで、近くの丘の上に、一部屋一個ずつ天体望遠鏡を備えたホテルを建てる計画があると、ミスター・デイが言っていた。やがてはレイジー・ビーにも、日本の観光客が訪れるようになるかもしれない。
レイジー・ビーを訪れた二日後の朝、Kさんと私は合衆国最高裁判所の入り口に立っていた。撮影機材を念入りに改められ、一般人立入禁止と記した神殿の奥のような一角にある、オコナー判事のオフィスへ通される。秘書がすわる入り口の大きな部屋で、撮影準備をして待つ。静寂が辺りを包む。
約束の十時半が来ると、突然、執務室の入り口にオコナー判事が立っていた。何も言葉を発せず、ただ私の顔をじっと見つめて、「あなたが阿川さん」と、目で問うている。すでにインタビューが始まっていた。
――この週末、レイジー・ビーへ行ってきました。
「まあ、あんな遠いところまで、それはそれは」
――弟さんに牧場を見せていただいて、牛も、馬も、風車も……。
「すてきなところでしょう。それはよかった」
――飛行機にまで乗せていただいて。
「まあ、飛行機に。こわくなかった」
――いいえ、全く。
「牧場の上空を飛んだのね」
――はい。弟さんの家の上を低空で旋回し、牛の上を飛び、山の方へ出て、峰と峰の間をくぐりぬけ、大変楽しい飛行でした。
「ジープかトラックには乗せてもらいましたか」
――はい。トラックに乗って牧場中走りました。牛の群れているところでは、牛がいっせいに私たちの方をふりむいて……。
「もちろん、もちろん」
――翌朝レイジー・ビーの門の写真を撮るため、六時に起きてまた牧場へ戻りました。雲を赤く染めながら、太陽が昇ってきて。
「いい写真が撮れましたか。私の大好きな門です。たしかあの門は、弟が牧場の百周年を記念して作ったんだわ」
――ちょうど門の背後に、ラウンド・マウンテンが見えますね。
「ええ、そう。弟がお話ししたかもしれないけれど、私たちの両親は、あの山の頂上に眠っているんです。あそこからは、牧場が一望のもとに見渡せるのよ」
――レイジー・ビーで育つというのは、どんな経験だったのですか。
「そうですね。あなた方には、想像もつかない経験だと思いますよ。牧場で起こる出来事には、家族全員が参加するんです。夫や父親が仕事に出かけて、妻と子供が家に残るというのではないの。そんな風にはことが運ばないのよ。私が子供のころには、いつも父と一緒に出かけて、風車を修理するといえば、みんなでそれを手伝い、送電線をチェックしたり、柵を立てたり、なんでもします。一緒に働くのは、牧場で働くカウボーイたち。小さな子供なんて一人もいなかったわ。
そして、誰かあなたたちのようなお客さんが牧場へやってくる時は、とても特別な出来事で、家族全員が外へ出て、迎えます。客は終日牧場で過ごし、時には泊まっていくことも。必ず食事を一緒にし、私たちは、お客さんを質問攻めにして。ですから街で会うよりも、よく知り合えたと思います。都市では、たくさん知り合いがいても、つきあいが表面的で、お互い本当にはよく知りませんものね」
――牧場から、いつか地平線の彼方へ出ていくという予感をお持ちでしたか。何年か前、ジョージタウン・ロー・スクールの卒業式で、リンカーン大統領の言葉を引用なさいましたね。
「私は、いつか必ずやってくる機会に、いつも備えていた」と。
「レイジー・ビーを出て将来別のところで自分の仕事を見つけねばならないということは、よくわかっていました。牧場の経営は男の仕事ですし、父の後継者としては弟がいましたから、たとえ望んだとしても女である私が、一生涯レイジー・ビーで過ごすというのは、ありえませんでした。そう、私の運命をよその場所で切り開いていくことは知っていたけれど、どこでなのかは、わかりませんでした」
――いつの日か、最高裁判事のような重要な仕事につくといった予感は。
「当時、法律の道へ進もうなどとは、考えたこともありませんでした。スタンフォード大学へ進んだ時、私は十六歳で、色々な教科を履修しましたけれど、どの方面へ進むかについては何も決心がありませんでした。授業はどれもおもしろくて、外国語も好きでしたし、歴史も、地学も好きでした。どの分野に焦点を定めるべきか、とても悩みました。
その頃、私がとても影響を受けた教授がいました。希望する学生のために、自宅を開放してセミナーを開いてくれたんです。人にはこの世界をよりよき場所にする能力が備わっていて、努力さえすれば、私たち一人一人が世界の発展に貢献できるのだという、強い信念を持っていました。この方がロイヤーでした。ソクラテス方式と呼ばれる、問答形式で授業を進めるロー・スクールの教授法など、ずいぶんと使われました。この教授の人柄と教え方にすっかり魅了されて、それで私はロー・スクールへ進もうと決心したんです。ただロー・スクールへ進んでも、まだ法律で身を立てるのかどうか、わかりませんでした。でも法律の勉強はとても好きでしたし、おもしろかった。
ところが、卒業したものの、なかなか仕事が見つからない。結局、郡検事の事務所で雇ってもらいました。郡検事も、すぐ上の上司もいい方で、仕事は楽しかったし責任も与えられました。この最初の仕事がおもしろかったので、私は今日まで民間の仕事より、政府の色々な仕事につくようになったのだと思います。一つの仕事が次の仕事につながり……いつも一所懸命やっていたら、私自身びっくりしたことに、ここにこうしているというわけです」
成績抜群であったオコナー判事は、テキサス州エルパソに住む母方の祖母の家から通った高校で二年飛級をして、スタンフォード大学へ進んだ。そして、同大学ロー・スクールを三番の成績で卒業する。同級生には、同じアリゾナ出身で後に最高裁長官となったウィリアム・レンクィストと、卒業後夫君となった、ジョン・ジェイ・オコナーがいた。
当時はどんなにロー・スクールの成績がよくても、大手の法律事務所はほとんど女性を採用しなかった。私の所属するカリフォルニアの大手事務所、ギブソン・ダン・クラッチャーが、彼女に秘書のポジションしか提示せず、後年同事務所出身の司法長官ウィリアム・フレンチ・スミスが、最高裁判事就任を要請しにいったという話は、有名である。
「ミスター・スミスはまた私にセクレタリーの仕事を与えに来たのかと思いました。今度はセクレタリー・オブ・ステートか何か」
ギブソン・ダンの百周年にゲスト・スピーカーとして招かれたオコナー判事は、こう言って満場をわかせた。
容易に職が見つからなかったオコナー夫人は、郡検事の事務所、夫の赴任先駐独米軍の民事弁護士、帰国後居を定めたアリゾナ州フェニックスで自ら開いた小さな法律事務所のパートナー、と三十歳前半まで目立たぬ経歴を重ねる。しかも二番目の息子が生まれると、仕事をやめて五年間ほぼ家事に専念した。
子育てが終わったオコナー夫人は、アリゾナ州政府司法長官の補佐として再就職を果たし、四年後、その力量を認められ、欠員となった州議会上院の議員となった。再選され、米国史上初の女性院内総務までつとめる。一時は州知事に推す声も高かったが、考えるところがあって、州地方裁判所の判事に転じた。やがて州高等裁判所の判事に任命され、二年後、保守派の女性最高裁判事候補を探していたレーガン政権の目にとまり、一九八一年、五十一歳で連邦最高裁判所判事に任命されたのである。
――最近、最高裁判事として史上初のお祖母さんにおなりになったそうですね。
「ええ、それはかわいいのよ。写真をお見せしましょう。コートニーという名前です。とても愛らしいでしょう。四ヵ月になったばかり。孫が出来たのは、わが家の一大事件でした」
――最高裁初のお祖母さん判事になられるためには、勿論、初のお母さん判事でもあられたわけですね。息子さんたちを育てるため、五年間仕事を中断して家事と育児に専念された時期があると聞いていますが。結婚して一人の主婦となったこと、三人の息子の母であったこと、そして祖母となられたことは仕事の上で、ハンディーだったのでしょうか。
「いいえ、とんでもない。仕事のために、家庭を持つのをあきらめようなどと思ったことは、一度もありませんでした。私の人生にとって、家族はとても重要なものですもの。もちろん、仕事と家庭を両立させるのは、楽ではありませんでした。自分自身の時間は限られていましたし。でもそれはそれでよかったのです。歳月が経つにつれて、時間のないのには慣れましたし、忙しくしていること、活動的であることが、好きですし。それに私は、エネルギーのレベルが幸いにして高いのです。
男の子たちは、学齢に達すると手がかからなくなりました。教育方針といえば、息子たちにいつも何かをやらせること。家に帰ってきて、ただボーッとテレビの前にすわっているなんてことがないように、学校の音楽プログラム、スポーツ・プログラム、その他いろいろ参加させました。
息子たちも、レイジー・ビーで私の弟とずいぶんと時を過ごしましたのよ。ナバホ・インディアンの古い言い伝えに、妻の兄弟が家族の規律を保つ役目を受け持つと、きっとうまくいくというのがあります。我が家では、たまたまその通りになって」
オコナー判事は、現在アメリカで注目されている女性の一人である。それは彼女が女性初の最高裁判事であるだけでなく、いくつかの重要な憲法上の問題、特に国論を二分している中絶の問題について、キャスティング・ボートを握っているからでもある。
アメリカ合衆国憲法の規定により、最高裁判事は大統領が議会の承認を得て任命する。任期は終身。従って、歴代の大統領は自分の任期中に最高裁判事の欠員が生じると、思想傾向の好ましい判事を新たに任命して、最高裁の判決の方向をある程度定めようとする。
六〇年代七〇年代の比較的リベラルな最高裁の一連の判決に批判的な米国の保守派は、レーガン政権時代オコナー判事を含め、三人の保守派を最高裁に送り込んだ。その結果、これまでの二人と合わせ、保守派が最高裁判事九人のうち、過半数を占めるにいたった。
一九八九年七月、最高裁はこの新しい勢力分布に沿う五対四の僅差で、公立病院が中絶を行なうのを禁じたミズーリ州の法律は合憲との判断を下した。この判決は、妊娠第二三半期(約六ヵ月)までは女性に中絶を行なう憲法上の権利を与えた、有名なロー対ウェードの判決をくつがえすものではなかったが、その憲法論に強く批判を加えた。
興味ぶかいことに、オコナー判事は、多数意見に従いこそしたものの、別に意見書を著し、中絶に憲法上の権利を認めたロー対ウェードの憲法解釈の正否をここで問う必要はないとした。アメリカ国民は、オコナー判事が、中絶に関しては他の保守派判事と多少違った考え方をしているとの印象を受けた。
一九八九年の判決は、中絶に関し各州政府へより大きな裁量をあたえたものでもある。その結果、州知事や州議会議員を選ぶ選挙では、これまでにも増してこの問題が大きな争点となっている。政治家は、女性の票を大きく左右する、中絶の問題を避けて通れない。
(最高裁は一九九二年六月にも、この問題をとりあげ、中絶の実施に制限を加えるペンシルバニア州の法律を合憲とした。しかしオコナー判事をはじめとする五人の判事は、スカリア判事ら四人の判事とたもとをわかち、ロー対ウェードの判決をくつがえすのを拒否した)
――日本の女性も社会の各方面で職業人としてがんばっていますが、歴史的、文化的な理由で、アメリカの女性ほどにはめざましい進出をとげていません。日本の女性がどうやってその地位を高めていくべきか、アドバイスをいただけますか。
「女性が各分野で職業人として活躍し、しかも結婚して家庭をもち、子供を育てていくのは、どこの国でも十分可能と思います。昔に比べて今は、我々みんな長生きしますしね。ですから、女性は昔より、ずっと機会に恵まれています。しばらく家庭で育児に専念してから、また労働市場へ復帰して、職業人としての経験を積む。今後は日本でも、そういう女性がますます増えると思います。日本女性も、これから社会で、男性と対等の活躍をするよう、がんばっていかれるんだと思います」
――日本の女性も法律分野には伝統的に進出しています。
「法律は女性が専門家としてやっていくのに、非常に向いているんです」
約束の二十分が過ぎ、インタビューを終えて立ち上がろうとすると、オコナー判事は、逆に私に質問を始めた。どこでロー・スクールへ行ったのか。どの法律事務所で働いているのか。どんな仕事をしているのか。
――銀行法、国際通商法、しかしまだロイヤーとしては新米ですから、なんでも与えられた仕事は、一所懸命やることにしています。
「そのとおり。それが私の仕事に対する方針です。なんでも自分のところへ来る仕事は一所懸命ベストをつくす、ってこと」
――ジョージタウンのスピーチで、確かこんなこともおっしゃいましたね。「どんなにつまらなく思える仕事でも、実は大変重要である。なぜなら、その仕事をきちんと仕上げるのは、あなたしかいないから」
「そう。そのとおり。全ての仕事が、とても、重要だっていうこと、日本の女性にきっと伝えて下さいな。縁の下の目立たない仕事でも、よい仕事をすれば、必ず結果に違いが出るのですから」
別れ際、レイジー・ビーを訪れたのが、すばらしい経験だったと、再び私が礼を述べると、判事は、独り言のように、ゆっくりと語った。
「レイジー・ビーにいた時、私は自分が自然の一部であるように感じました。旱魃や暑熱をもたらし、草木を枯らしてしまう大きな力の前に、とても無力であるように思いました。自然の力に大きく左右される牧場の生活は、自然から遠く隔たっている都市の生活、天候がどうであろうと室内にいれば生きていかれる状態とはまるで違います。あの溢れるような光の中では、そんなことはありえない。自然への依存は、人をして、神様、あるいは何かわからないが信仰の対象たるものへ、近しく感じさせるんです」
ベッツィーと三枚のアメリカの絵
美術品がところ狭しと置いてある美術館の倉庫は、劇場の楽屋に似ている。とりすまして展示室に陳列されていた絵が、ここでは隙間を置かずぎっしりと、本のように並べて棚にしまわれている。フォークアートの特別展に出品準備中のブリキの人形や、木彫りの看板が、まるで出番を待つ役者のように、あちこち散らばっている。
「確かここだったわ」
ベッツィーは手を伸ばすと、手品のように一枚の絵を棚から引き出した。先日私が展示室で見た、ライダーの「海岸風景」という作品である。画面の中央、朝もやの中を、犬を連れた二人の男が大またで歩いている。左手には錨を下ろした一隻の船、右手には海まで迫った丘と一軒の家。そして横に拡がる空と海。夜明け、船から戦利品を陸へ運ぶ海賊を描いた絵だという。海賊にしては、静かな平和な風景である。革の上に油絵具を一色だけ使って画いたこの絵は、どことなく日本の墨絵を思わせる。私は雑然とした倉庫の中で、しばらくこの絵と向かいあっていた。
アルバート・ピンカム・ライダーは、十九世紀アメリカの画家である。アメリカでも日本でも、よほど美術に詳しい人でなければ知らないこの画家が、この春ワシントンで時ならぬ話題となった。国立アメリカ美術館で催されたライダー展を見たダーマン予算局長が、ハーバード大学政治大学院卒業式の記念講演で、夜の荒海を行く船とその上にかかる月を描いた、ライダーの別の作品「月光」を取り上げたからである。
「海は荒く、船は波にもまれて今にも沈みそうである。しかし船の行方を照らす月は、希望を表わしている。これぞアメリカン・ロマンティシズムである。諸君、アメリカのロマンを再興しようではないか」
とダーマン氏は訴えた。彼が大学の卒業論文でライダーとメルヴィルを論じたのを、それまで誰も知らなかった。
数日後、今度は民主党のケリー上院議員が、議場でライダーを取り上げた。
「予算局長はライダーがお好きなようだが、今の共和党政権には、魔女を画いたもう一枚の絵こそ適わしいのではありませんか」
ライダーって誰。突然一人の画家をめぐって、政治論争が起き、そのためアメリカ美術館には、議会から政府から、大勢の人がライダーの絵を見におしかける騒ぎとなった。
ベッツィー・ブルーンは、ナショナル・ミュゼアム・オブ・アメリカン・アート(国立アメリカ美術館)の館長である。スミソニアンの一部をなすこのミュゼアムは、政府建築物としてはワシントンで四番目に古く、リンカーンが大統領就任の際舞踏会を開いた、元特許庁のがっしりとした建物に居をかまえている。十八世紀から二十世紀にわたるこの国の絵画や彫刻を豊富に所蔵する。アメリカ美術の研究と収集を議会から命じられたスミソニアン最古の美術館だが、知名度は低い。航空宇宙博物館や国立美術館のある一角から少し離れていて、ワシントンを訪れる観光客の足がここまでなかなかのびないからである。
一年前館長に就任したベッツィーは、この美術館の作品をもっと多くの人に見てもらいたいと思って、色々な工夫を始めた。正面入口の前には、巨大なカウボーイの像を置いて、人目を引く。日を決めてタクシーの運転手にサンドウィッチをふるまう。彼らがこの美術館のファンになって、観光客を案内してくるのを狙ったのである。運転手たちは、家族を連れて続々絵の鑑賞にやってきた。展示を充実させるため、活発な募金運動を始め、マスコミにもコンタクトした。先日は美術関係者を招いて、ニューヨークで初めて寄付金集めのディナーを催した。矢継早に特別展の企画を立てた。その一つ、ライダー展は、ダーマン予算局長とケリー上院議員のおかげで、大当りとなった。
ベッツィーはカンザス州の小さな町インディペンデンスで生まれた。大平原の真只中に位置する、何の変哲もない田舎町だそうだ。カンザス州立大学で、ヨーロッパ中世美術史を勉強したが、就職の機会がほとんどないので、アメリカ美術に転じた。カンザス州立大学で教え、同大学の美術館でキュレーター(学芸員)として働く。その間に結婚し、子供が出来る。ワシントンの国立アメリカ美術館でポストが空き、思いきって転身した。チーフ・キュレーターから、このたび館長に昇進した。
美術一筋の地味な経歴であるが、アメリカの美術館の館長は、ただの学者ではとてもつとまらない。知名度をいかに上げるか、入場者をいかに増やすか、寄付金をいかに集めるか。美術館を運営していくためには、事業家の才覚が必要なのである。このもの静かな女性の頭には、いつも新しいアイディアがつまっている。天性そうした資質が備わっていたのだろう。アメリカ美術館は彼女を館長に迎えてから、着実に入場者が増え、マスコミの注目を浴びている。
「最初ワシントンにやって来た時、私は何て田舎者なんだろうって思ったわ。周りはみんな東部のエリートばかりでしょう。でも積極的にその人たちに話をしなければいけないって決めたの。普段は忙しくて美術に無関心な政治家やロイヤーが、話してみるとアマチュアの画家だったり、かつて美術史を勉強した経験があったり。ふとしたきっかけでその興味がよびさまされると、彼らの思いがけない内面が表に出てくるの。予算局長のスピーチのようにね」
「もう一つ、おもしろい絵を見せてあげるわ」
ベッツィーは倉庫の片すみから、絵を引っ張り出した。ジョージ・カティリンという画家の、「ピジョンズ・エッグ・ヘッド(鳩の卵頭)、またの名を光、ワシントンへ行く」という奇妙な題名の作品である。画面の左半分には、羽根飾りを頭につけ正装したインディアンの酋長、鳩の卵頭氏が、背筋をきちんと伸ばして立っている。右肩にマントをかけ、左手には煙管《きせる》を握った酋長の顔は、いかめしく威厳に満ちている。背後にワシントンの議事堂が見える。画面の右側は、同じ酋長が洋風の軍服に身を固めた姿である。右手に扇子、左手に青いこうもり傘を握り、ふんぞり返って煙草をふかしている。一見すっかり洋式を身につけたようだが、よく見ると長くたらした髪、踵《かかと》の高い靴、腰のポケットにつっこんだ二本のウィスキーのビンと、ひどくちぐはぐな格好である。背景にはインディアンのテントが三つ並ぶ。
鳩の卵頭氏は実在の人物で、一八三〇年代、ミシシッピー川上流の部族から使節としてワシントンへやってきた。八ヵ月間合衆国の首都に滞在し、故郷へ帰った。その往きと帰り、セントルイスに立ち寄った時、法律家でインディアンの絵を多く残したカティリンが、写生をした。酋長は国へ帰って、首都ワシントンの大きな建物や、幅広い通りのことを仲間に語ってきかせたが、信じてもらえず、大うそつきだとして殺されてしまったという。アメリカという文明に接したため、自らの居場所を失い、ついには命をも落とした一人の男を、この絵はおかしく悲しく描いている。
「アメリカの画家は、ライダーでもカティリンでも、大なり小なり、一体自分たちは誰なのか、絵の中で問いかけているの。たとえばこの絵」
ベッツィーが最後に見せてくれたのは、「チョッキを着た男」と題された、ウィリアム・ジョンソンの作品である。白いシャツにベストを身につけた黒人の男が、椅子の背に手をのせて、大きく見開いた目で正面をみつめている。くちびるを強く結んだ意志的な黒い顔、白いワイシャツの下で盛り上がった筋肉、デフォルメされた黒い大きな手、赤い椅子。ゴッホの自画像を思わせる色合いの激しさと、プリミティブといってよい単純で力強い輪郭が、この黒人のポートレートに大きな存在感を与えている。
ジョンソンは、最初ごく正統的に絵を学び、ヨーロッパに渡って勉強を続けた。アメリカに帰って黒人としての自分にめざめ、故郷ノース・カロライナの黒人たちとその生活を、描き始めた。これまでの画風とはまるで異なる、平面的な絵を短い期間にたくさん描いた。彼の原始的で力強いタッチは、アメリカの黒人画家の中でも一きわ光っている。一九三〇年代、偏見と差別にも負けず創作を続けた彼は、やがてデンマーク出身の妻をがんで亡くし、発狂した。二十三年間精神病院で過ごし、一九六〇年に悲劇的な死を遂げた。
ベッツィーの目下の夢は、この美術館にイサム・ノグチの彫刻の庭を造ることである。四方を建物で囲まれた中庭には、樹齢百年を越える楡の木が二本ある。昼になると、周辺のオフィス街から人々が弁当を片手に、しばしの憩を求めて集まる。
「ここにノグチの彫刻を置いたら、すばらしいと思うのよ」
ベッツィーによれば、イサム・ノグチはアメリカの生んだ最も偉大な彫刻家である。日本人の父とアメリカ人の母をもったノグチは、彫刻を通じ、終生自らのアイデンティティーを追い求めた。アメリカと日本、東と西が融合し、それを乗り越えたのが、彼のやさしい石の彫刻である。アメリカ美術館として、彼の業績を称えたい、アメリカを越えたアメリカの芸術をこの美術館の中心に据えたい、とベッツィーはこの夢を実現するため、持ち前の行動力で寄付集めに奔走している。
「イサム・ノグチの庭が完成したら、日米親善のシンボルにもなると思うわ。彼の彫刻が見守る中で、日米間の協定が調印されるなんて、すばらしいじゃない」
ベッツィーの夢はふくらむ。
ワシントンに出かける機会があったら、是非アメリカ美術館にベッツィーを訪ねて下さい。絵を通じて、アメリカとは何かを考え続けている彼女が、きっとよろこんで案内してくれるだろう。ライダーやカティリンやジョンソンやノグチの作品の向こうに、もう一つのアメリカが見えるだろう。
本当の船乗り
夏の太陽が照りつける相模湾沖で、バーベキューが始まった。ヘリコプター甲板から、肉を焼く煙と匂いが立ちのぼっては、風に吹き飛ばされて消えていく。焼き上がったチキン、ロールパン、とうもろこしを皿に盛りつけ、林檎とクッキーとコーラも欲張って盆の上に載せると、空いている椅子をみつけてすわり込む。海の上の昼食は格別だ。
艦は、ゆっくりと、西へ航走している。右舷《みぎげん》に湘南海岸が、左舷《ひだりげん》には大島が見える。穏やかな海だが、ピッチングを繰り返す度に、水平線が上がっては下がる。ラジカセからロックの音楽が流れ、そこここで、恋人たちが、家族が、乗組員が、夏の午後を楽しんでいる。数日前、ワシントンから日本へ帰ってきたばかりなのに、またアメリカへとんぼ帰りをしたような気がするなあと、時差と寝不足でもうろうとした頭で考えた。今日は、米国海軍第七艦隊所属駆逐艦ファイフの、家族招待体験航海である。
日米両国の海軍に通じるKさんからアメリカの軍艦に乗らないかと誘われると、私はふたつ返事で承諾した。海軍とか軍艦とか聞くと、血沸き肉躍るのは、小さい時からの訓練による反射神経のなせるわざで、仕方がない。海上自衛隊の護衛艦には、ずいぶん乗せてもらったけれど、米国海軍艦艇で沖に出た経験は、まだない。この機会、逃すまじ。前の晩埼玉で仕事をすませたあと、二時間かかって横須賀にたどりつき、観音崎に程近いKさんの家に泊めてもらって、船出に備えた。明け方、とんびが岬の上を舞っている。その向こうに穏やかな東京湾の海が広がる。風なく、絶好の航海日和である。いざ出陣せん。
横須賀海軍基地の正面ゲートで私たちを迎えたのは、ファイフ艦長ケンプ海軍大佐の夫人アンである。彼女は送迎の車の手配やら、基地へ入る許可の取りつけやらで、忙しい。岸壁に着くと、すでにファイフは接岸中であった。ブリッジで指揮をとっている背の高い士官が、ケンプ大佐に違いあるまい。きびきびと動く軍艦の乗組員は、いつ見ても気持がよい。見られているほうも、結構視線を意識して働いている。海軍には、どこかナルシストの気がある。
接岸してケンプ大佐が降りてくると、奥さんと子供たちが駆けよった。なにしろパパはこの馬鹿でかい船の総大将だから、家族は誇らしげである。海軍士官にとって、艦長になるほど嬉しいことはないのだそうだ。
招待者と家族、友人その他大勢が乗りこむと、ファイフは再びもやいを放って、海に出た。Kさんの家を望み見て、観音崎を過ぎると、夏の太平洋が眼前に広がる。アンは誰かれとなく声をかけ、よきホステスぶりを発揮している。彼女は乗組員の奥さんたちを、みなよく知っている。夫たちが長い作戦行動に出ている間は、艦長の奥さんが部下の家族の面倒をあれこれと見るのだそうだ。
「それは楽でない時もあるわ。電話で相談に乗ってやったり、みんなで集まってパーティーを開いたり。まあ、ファイフ乗組員は、海でも陸でも、家族のようなものね。あら、キャシー、どう、怪我はもういいの」
キャプテン・ドウスは、ワシントン郊外アレキサンドリアに住む、退役海軍大佐である。今はある法律事務所で、事務長として働いている。母親は第一次大戦後、アメリカに渡ってきたオスマントルコの貴族の娘で、キャプテンはそのことをたいへん誇りにしている。成功したニューヨークのビジネスマンだった父親の反対を押し切り、アナポリスの兵学校へ進んで海軍士官になったのも、海軍がアメリカでもっとも貴族的なところだと思ったからだという。フェンシングで鍛えた長身の大佐は、いつも姿勢がよく、矍鑠《かくしやく》としていて、いまでも十分現役で通りそうである。
海と船が何よりも好きなこの海軍軍人は、二十年ほど前、横須賀を母港として以来、大の親日家でもある。当時キャプテン・ドウスは、第七艦隊の駆逐艦パーソンズの艦長をつとめていた。そのころから彼をよく知っているKさんによれば、キャプテンは艦を接岸させるのが、なみいる艦長の中でも飛び抜けてうまかったそうだ。ためらうことなく、ぐうっと船を自力で岸壁一杯に寄せ、もやいを取ると、あっという間に接岸したという。艦長だからといって、誰でも操艦がうまいわけではない。ちなみに艦の副長は、後年国防省日本課長をつとめ、現在は日米安全保障問題の専門家として活躍する、ジム・アワー氏である。ファイフの艦長ケンプ大佐は、当時はパーソンズで一番若い新任の少尉であった。
キャプテン・ドウスは日本で息子と一緒に剣道を習い、初段位を許された。道場の仲間と、よく飲みにも出かけた。海上自衛隊にたくさん友人を作った。
「ジャパニーズ・ネイビーは練度が高く、立派な指導者に恵まれていて、合同訓練をするのは、常に最高の経験だった」
キャプテンは、何人かの海上自衛隊のアドミラルについて、今でも尊敬と親しみの念をこめて語る。
パーソンズがある時マニラに入港すると、近くの桟橋にソビエトの貨物船が停泊していた。茶目っ気の多い艦長は、早速伝令を送った。
「ユウコウノシルシニ、シキュウ、ウォッカヲホンカンマデ、トドケラレタシ」すぐロシア側から返事があった。
「ベイソカンノユウコウヲネガウノナラバ、ホンセンヘウォッカヲノミニデカケラレタシ」
なにしろまだ七〇年代、冷戦真っ盛りの時代である。部下が止めるのもきかず、俺が責任を取るからと、茶目っ気だけでなく血の気も多いキャプテン・ドウスは、アワー副長をともない、多少緊張してソ連の船へ出かけていった。ウォッカのビンとグラスを置いたテーブルをはさんで、ロシア人の船長とアメリカ人の艦長は向かいあう。船長の隣には、通訳をつとめる共産党員の政治士官が、艦長の隣には、アワー副長がひかえる。
「合衆国海軍とソビエト連邦商船隊のために、乾杯」
アメリカ艦長がこう切りだすと、ロシア船長は、
「病苦が、飢饉が、戦争が、災害が、あなた方の国民を苦しめるように」
一瞬、この男は何ということを言うのかと、アメリカ側の表情がこわばった時、船長はにやりと笑ってこう続けた。
「あなた方がグラスに飲み残したウォッカの分量と同じだけ」
さあこうなったら、アメリカ国民のために飲み干さねばならない。艦長も船長も、グラスを次々空にした。そしていい加減飲んだ後、ドウス艦長は、ロシア船長にこう言った。
「貴船の二番もやいを放していただいても、よろしいでしょうか」
二番もやいというのは、船が出港するとき最後に外すもやいのことで、これを放したら、もう船は完全に陸から離れたことになる。艦長は船長に、もうこの辺で堅苦しいことはやめて、船乗り同士本音でやろうよと提案したのである。するとこれまで政治士官の通訳に任せて、一言も英語をしゃべらなかった船長が、前へ進み出てキャプテンの手を握り、にこりとすると、はっきりした英語でこう言った。
「艦長、あなたは本当の船乗りだ」
これほど海の好きなキャプテン・ドウスが、何年か前、思いきって海軍を辞めた。ある日ペンタゴンで会議を終え、駐車場へ出てくると、息子が二人待っていた。
「おまえたち、どうしたんだい」
「お父さん、今度海へ出たらね、母さんきっと耐えられないと思うよ。今まで何も言わずに我慢してきたし、この次も文句は言わないだろうけどね」
海軍士官の奥さんは、毎年六ヵ月から長ければ八ヵ月、夫が海へ出ている間、子供を育て、家を守らねばならない。艦長の妻ともなれば、乗組員の家族一人一人の心配もしなければならない。夫の船が戦地へ出る時には、万が一という場合もある。並大抵の苦労ではない。だから、奥さんのティナに言わせれば、偉大な海軍士官の陰に、偉大な海軍士官の妻ありである。
キャプテン・ドウスは考えた。ティナは何も言わないが、つらかったんだ。今後自分が唯一望むポストは、第六艦隊か第七艦隊の司令官だが、今の海軍で、昇進のチャンスは少ない。それならいっそ思いきって――。キャプテン・ドウスが辞表を提出したのは、夫妻の銀婚式の日であった。
「それでキャプテン・ケンプの接岸はどうだったかね」
ワシントンのすし屋でにぎりをつまみながら、キャプテン・ドウスは私に聞いた。
「あの新任少尉が艦長になるのだから、私も年をとったよ」
五月五日には、鯉のぼりをあげて、ドウス家で恒例となった子供の日の集まりがある。日米両国海軍の仲間が集まって、海の話にまた花が咲くだろう。
アラビアの七面鳥
秋が長けて木々の葉が落ちると、森の向こうに教会の塔が見えるようになる。日が短くなって冷い冬の風が肌をさすころ、人々は神様を思い出す。
秋から冬にかけて、この国では宗教的な行事が多い。十月の末、子供たちが思い思いの仮装をして、キャンディーを求め隣近所をねり歩くハロウィーン。十一月の第四木曜日には感謝祭があって、各家庭で七面鳥のごちそうを囲む。その昔新大陸に渡った人々が、土地のインディアンとともに最初の収穫を祝った故事を思い出しながら。十二月はクリスマス。家々は照明で飾られ、キャロルが街角に流れる。厳しい冬を乗り越え、寒さがようやくゆるむ頃、復活祭がやってきて春となる。
すでに述べたように、初めての感謝祭はルームメートのマークの家で祝った。朝、マークの家族と共に教会で礼拝に参加する。いつもはひょうきんなマークが、神妙な顔で祈りをささげていた。教会の入り口で牧師の見送りを受け、近在の人々と挨拶を交わしてから家に戻り、生まれて初めて七面鳥の丸焼きをごちそうになった。テーブルを家族が囲む。マークの両親、二人の弟、そして妹。近くに住むお祖母さんも一緒である。オーブンから取り出したばかりのターキーを切り分けるのは、お父さんの役目。脂の乗ったレッド・ミートと、白くあっさりした風味のホワイト・ミートと、どちらがいいかを言って皿を差し出し、盛りつけてもらう。クランベリー・ソースという野苺の一種から作るジャムや、スウィート・ポテトが付け合わせである。一通り食べ物が行き渡ると、席について又お祈りをする。皆目をつぶって、手をつないで、神に感謝をささげる。何度もターキーをお代わりした後、デザートにはお母さんとお祖母さんの焼いた、パンプキンパイ、ピーカンパイ、ミンツパイ――色々な種類のパイが待っている。満腹になると、午後はフットボールの試合をテレビで見ながら、おしゃべりをしてのんびり過ごす。外は陽が傾いて寒いが、家の中は、煖炉で薪が勢いよく燃えて、暖かい。
マークの家で初めてターキー・ディナーをごちそうになってから、今年(一九九〇年)で十五年になる。そのうち十回の冬をこの国で越した。感謝祭のたびに誰かがディナーに招いてくれて、七面鳥を食べそこなったことがない。日本人にあまりなじみのないターキーの肉は、なれるとさっぱりしていて、独特の風味がある。七面鳥やつけあわせのクランベリー・ソースをおいしいと思うようになったのは、かなりアメリカに染まった証拠かもしれない。仕事に追いまくられている日常から解放され、親しい友人の家でお祈りをして感謝祭の食卓を囲むのが、わが家でも年中行事の一つとなった。
今年の秋は、感謝祭の休暇に入る前、子供の学校で特別礼拝があった。ワシントンで一きわ高いナショナル・カテドラルの地下の礼拝堂で、付属小学校の生徒が植民地時代の収穫をテーマにした劇を披露した。とうもろこしの種をまき、太陽の光と雨を受けて実がなると、収穫して粉にひき、パンを焼いて食べる。芯はマットレスに使い、わら人形を作る。おいしいポップコーンも出来る。
「恵み深き、神を讃えよ」
うちの息子も歌をうたいながら、とうもろこしの種をまき、とり入れをするのに大いそがしである。
子供たちの劇が終わると、牧師が立ち上がって説教をした。
「あなたたちがこうして両親の下で楽しい感謝祭の休暇に入ろうとしている時、ここから遠い遠いアラビアの砂漠で、何十万人もの人が、家族から離れ、サンクス・ギビング・デーを迎えようとしています。その一人はあなた方の先輩で、私にこんな手紙を書いてきたのですよ」
牧師はこう言って、かつての教え子からの手紙を読みはじめた。
「お手紙、今日受け取りました。とても嬉しく読みました。九年間通った学校のことを、空気の冷たい静かな夜の砂漠で、よく思います。学校に通っていたころ、ふざけてばかりいて勉強しなかったのが、今になると心残りです。
優美な母校の聖堂から遠く離れたアラビアの砂漠には、独特の厳しい魅力があります。私が指揮する戦車隊の隊員たちは、元気な気のいい若者ばかりです。大多数はまだ二十歳にもなっていません。母校でともに学んだ級友たちがそうであったように、生きているのが楽しくてたまらないといったふうです。何人かの若者には、すぐれた知力も備わっています。彼らは日一日、ぐんぐんと成長していますが、戦いが始まったら、もう永遠に育つ機会がないかもしれません。時が来たら、不正と戦うため、何も持ちあわせていない彼ら若者たちは、大きな犠牲を払うのです。アメリカはこれ以上の献身を求めえないでしょう。
高校や大学では、宗教について深く考えませんでした。私はよく礼拝中、讃美歌集に落書きをしたりして、ふざけたものです。この一年ほどの間、私なりに神様のことを真剣に考えるようになりました。もし私のために祈って下さるなら、二十人の海兵隊員を率いて戦うという重責を私が果たせるよう、お祈り下さい。いざとなったら正義のために人を殺すおそろしさに耐えられるよう、祈って下さい。私が一人一人の若者を家族の下へ無事送り返せるように、祈って下さい。若者たちのために祈って下さい」
手紙を読み終わると、牧師は子供たちに砂漠の兵士たちへ手紙を書くようすすめた。何人かの父兄と先生が、ハンカチでそっと目頭をおさえた。
数日後、感謝祭の日、テレビのニュースはブッシュ大統領夫妻のサウジアラビア訪問を伝えた。大統領はカメラを持ってとり囲む兵士たちにまざって、プラスチックの食器から七面鳥を食べていた。同じ日、手紙を書いた息子の先輩と、彼の二十人の部下たちも、砂漠のどこかでターキーを食べたに違いない。
サウジアラビアのアメリカ人兵士たちは、まだ当分家に帰れそうもない。クリスマス・ディナーも砂漠でとることになるだろう。そして今年のクリスマスには、全米の教会やシナゴーグで人々が祈りをささげるであろう。
「神様、アメリカの若者たちをお守り下さい。無事に家へお返し下さい」
アメリカが開戦を決意した日
我、汝がパンと塩を口にせり
我、汝が水と酒を飲めり
汝死にたまひし時、我、汝が傍に在りけり
たまきはる汝が命、我がものたりき
ルドヤード・キプリング
一九九一年一月十一日の金曜日、私は何か強いビールスにでもあたったらしく、ひどく腹をこわして寝込んでしまった。土曜日も起き上がれず、終日床の中にいた。
体が弱って本も読めないので、二日ともラジオを聞いて過ごした。ラジオはちょうど湾岸危機に関する議会の討論を中継していた。国連決議に沿って一月十五日以降対イラク攻撃に踏み切る権限を大統領に与えるべきか、経済制裁を続けて紛争の平和的解決をさらに希求すべきか、上院でも下院でも、議員が次々に立って意見を述べた。
議員たちの声の調子は、真剣で沈痛であった。いつもは見られるスタンドプレイも党派間の争いもなかった。開戦支持派も反対派も、選挙民を代表して、重い一票を投じようとしていた。だれの心にも、戦争が始まったら死ななければならない、多くのアメリカの若者のことがあった。
「われわれは、反イラク連合を結成することに成功したけれども、いざ弾丸が飛び交いはじめたら、犠牲者の九〇パーセントはアメリカ人だということを、忘れてはなるまい。死ぬのは他国の息子たちや娘たちではないのだ。国防省が四万五千のボディーバッグを湾岸に送ったのが、どれだけ命が失われ血が流されねばならないかの十分な証拠である」――マサチューセッツ州選出ケネディー上院議員(民主党)
「もしサダム・フセインがこの討論を聞いているなら、間違いをおかさないよう警告したい。この国でこの議会で、われわれはわれわれの目的について団結していることを。手段についての見解の相違が、わが国の分裂を意味しないことを。私は今夜ほど、われわれのなすべきことについて、国民が団結したのを、見たことがない」――ミズーリ州選出ゲップハート下院議員(民主党)
「私は重い気持で当選後初めての演説をします。私は、子供たちと教育のことを、健康保険とエネルギー政策と環境問題について、初めての演説で語りたかった。生と死について、戦争に行くべきかどうか、アメリカの若者に遠い異国で戦い命をかけることを要請すべきかどうかについて、話さねばならないとは思わなかった」――ミネソタ州選出ウェルストーン上院議員(民主党)
「私は両親や、妻や、夫や、子供たちの目を見つめて、あなたたちの愛する人は、合衆国が譲ることの出来ない正義のために命を落としたのだ、他に取るべき道はなかったのだと、言い切れるだろうか。大統領閣下、私は今それが出来ないのです」――ジョージア州選出ナン上院議員(民主党)
「兄が戦死したという報せが母のもとに届いた日のことを、今でもよく覚えています。その日のことは、私の記憶に焼きついて消えない。その私が、湾岸にいるアメリカ人兵士の命が失われる可能性に直接つながる一票を喜んで投じるでしょうか。もちろん、そんなことはない。われわれの一人として、そんなことはしたくない。この票を投じるにあたっては、一人一人の議員が自らの良心に真剣に問うべきです。しかし、同時に、いまサダム・フセインを止めなかったら、フセインの野蛮な侵略をそのまま許したら、われわれ自身がフセインと同じように責められねばならないことを、考えるべきなのです」――ネバダ州選出ヴナノヴィッチ下院議員(共和党)
「憲法第一章第八条の規定に従って、私は大統領へ開戦の権限を与える決議に一票を投じます。この一票を投じることによって、戦争が起こるかもしれないこと、たくさんの善良な市民が命を落とすことになるかもしれないことを、よく承知しています。しかし、私は私の票により、平和がもたらされる可能性がより高くなるのを祈って、この票を投じるのです」――コネティカット州選出リーバーマン上院議員(民主党)
「私はこの一票を投ずるにあたり、まったく喜びを感じません。それどころか、この票を投じねばならぬことのおそろしさに、そうすることが神への冒涜ではないかとの畏れに、震えている。それでもあえて賛成票を投じるのは、ずっと後、私が年をとって引退したあと、孫娘が、あの時なぜだれもフセインを止めなかったの、と聞くのをおそれるからなのです」――ニューヨーク州選出アッカーマン下院議員(民主党)
「アメリカの男女がアラビアの砂漠に血を流すのを、合衆国よりもずっとこの戦争から得るところの大きい、中東の石油に依存する程度のずっと高い、ドイツと日本が、冷ややかに傍観し、戦費を負担しようとしないのは、破廉恥で許せないことであります。私は他国が黙って何もしないことについての私の気持を、どう表わせばよいのかわからない。アメリカの国民は、このことを決して忘れないでしょう」――ウェスト・ヴァージニア州選出バード上院議員(民主党)
「私は、レバノンに海兵隊を送る一票を投じたことを悔いている。それは三百人の海兵隊員が命を落としたからだけではなく、私が自信のないまま、確信のないまま、投票したからです。大統領に開戦の権限を与えるべきだと心から考える人は、賛成票を投じるのをためらうべきでない。しかし少しでも疑念がある人は、反対票を投じてほしい。そしていかに票を投じようとも、投票の後、われわれは共和党員、民主党員としてではなく、アメリカ国民として団結しよう。良心に従って熟慮の上で、国のために最善をつくさんと、この歴史的な日に票を投じたアメリカ国民として」――ワシントン州選出フォーリー下院議長(民主党)
「(大統領に開戦の権限を与えることに)大きなリスクが伴うことは疑問の余地がない。われわれの判断が間違っていた時のおそろしい結果を、過小評価すべきでない。開戦の権限を与える責任から、われわれは逃げられないし、逃げるべきでない。われわれは何千ものアメリカ人の命を危険にさらしているのです。その事実は、私たちの良心に重くのしかかっている。しかし、それにもかかわらず、大統領が求めている権限を与えて、平和にチャンスを与えようではないか」――ヴァージニア州選出ロブ上院議員(民主党)
「どれだけ犠牲者が出るかは、予測できません。しかし数字の裏には、それぞれ愛する人を持った人間がいる。われわれは若いアメリカ人男女に犠牲を払うことを要請する前に、戦いを避けるため、出来ることは全て行なう義務があります。そしてフセインの圧政と野心の犠牲となっているイラク民衆のためにも、われわれの圧倒的な軍事力が無差別に使われないように保障する義務を、人類のために負っている」――ハワイ州選出イノウエ上院議員(民主党)
「私はブッシュ大統領に、平和的解決のため出来ることは全てするべきだ、サウジの砂漠で若い兵士の目を見るとき、そこには彼の両親、彼の子供、彼の奥さんが見えると申し上げました。そしてバードンシェアリングについて言うなら、一度戦いが始まれば、何人のエジプト人が、アメリカ人が、サウジアラビア人が、英国人が死んだか、人々は数えはじめるでしょう」――カンザス州選出ドール上院議員(共和党)
三日にわたる長い討議の末、上院と下院が、大統領に開戦の権限を与える決議を採択したのは、土曜日の夜である。同じ夜、ようやく床を離れてテレビのスウィッチをひねると、クリスマスにサウジアラビアの前線を慰問してまわった、ボブ・ホープ一行の特別番組を放送していた。五ヵ月の間何の娯楽もなしに待機していたアメリカの兵士たちが、戦艦の上で、ダーランの基地で、何もない砂漠の真っ只中で、ショーを楽しんでいる。ボブ・ホープがマイクを片手に砂の上にすわった兵士たちにジョークを飛ばす、その間にも、文字通り砂丘を越えて、新しい部隊がショーを見るため、隊伍を組んで続々と到着する。手を打って笑い転げ、歌に拍手を送る兵士たちをテレビカメラが映しだす。どの顔も屈託がない。女性も多い。そしてどの顔も若い。無邪気に笑うこれらの若者が、もしかしたら一週間後には命を落としているかもしれないと思ったら、私は涙が止まらなくなってしまった。番組の最後に、「聖しこの夜」の曲が流れ、兵士たちが和した。
開戦を知ったのは、やはりラジオのニュースである。一月十六日水曜日の夜、地下鉄の駅まで家内に迎えにきてもらい、車のラジオをつけると、アナウンサーの声がただならぬ様子なので、戦争が始まったとすぐわかった。七時半ちょっと前だった。フィッツウォーター・ホワイトハウス報道官が開戦を発表したのが七時であったから、まだそれほど経っていなかった。胃が急に沈むような気がした。家に帰って、テレビに釘づけになった。CNNがバグダッドから音声だけの生中継をやっていた。爆撃の真っ最中に、おんどりが時を告げていると、レポーターが言った。ある年配以上のアメリカ人は、今でもいつどこで、ケネディー暗殺のニュースを最初に聞いたか、よく覚えているという。アメリカ人は、対イラク開戦のニュースをいつどこで聞いたか、やはりきっと忘れないだろう。テレビを見ながら、私はそんなことをとりとめもなく考えていた。
開戦以来、この国の空気は、きわめて重い。アメリカ国民は、戦局の推移を、毎日固唾を呑んで見守っている。イスラエルがスカッド・ミサイルでやられた、アメリカの戦闘機が撃墜され、捕虜になったパイロットがイラクのテレビに映しだされた、イラクがペルシャ湾に石油を放出しはじめた、という思わしくないニュースが流れるたび、事務所の同僚たちは大きくため息をついて、不安気である。緒戦の空爆が目覚ましい成果をあげた後も、高揚した空気は少しもなかった。ワシントンの町は静かで、人の動きが鈍い。車が急に売れなくなったという。売れるのはテレビとラジオと中東の地図だけで、レンタル・ビデオがちっとも流行らないとも聞いた。みんなテレビやラジオのニュースにかじりついている。地図を見て、爆撃が、戦いが起こった場所を確かめている。戦争の見通しがつくまで、投資活動も、レジャーも、大きな買物も、みんな後回しになっている。おかげで法律事務所も比較的静かである。不景気が戦争のせいでひどくなっているようにも感じられる。反戦派は、戦争に回す金があるなら福祉に回せと叫ぶ。
開戦の翌日、私の勤める法律事務所が入っているビルに、爆弾を仕掛けたという脅迫電話があった。普段だったら、爆弾騒ぎがあっても平気でオフィスに残って仕事を続けるロイヤーたちが、この日は緊張して全員退避した。幸い何事もなかったが、似たような爆弾騒ぎが、この前後ワシントンのオフィス街で、十件以上あったそうだ。人々は親イラク勢力によるテロが起こるのをおそれている。ワシントンではホワイトハウスを始め、政府の建物の警戒が厳しく、警官の姿が目につく。アラブ系のアメリカ人たちは、ちょうどパール・ハーバー後の日系米人のように、なんとも居心地の悪い思いをしている。
こうしてアメリカ中に、緊張感と不安感が溢れている。夫や息子や、あるいは母や娘が出征している家庭の不安と焦燥は言うまでもない。アメリカ人の多くが、この戦争にかかわっている友人や知人を一人や二人持っている。同僚ロイヤーの細君は、息子がこの五月に海兵隊へ入隊すると決まって、一晩眠れなかったという。私たちの隣人フレッドは、海軍の攻撃機の元パイロットで、戦争が長引けば現役復帰もありうると言っていた。家の仕事をよくする、あの優しいフレッドが、奥さんのイングリッドと一人息子のポールをおいて出征したら、戦争は私たちにとって、より身近に感じられるだろう。怯えた子供たちのために、各地の病院では、精神科医や心理学者がホットラインで相談にのっている。あちこちの教会では、祈りをささげる人が絶えない。あるニュース番組で、息子二人がサウジに、親戚がみなソ連軍との緊張の続くヴィルニウスにいるという、リトアニア系アメリカ人の婦人が懸命に祈る姿を映していた。
この戦争がいつどんな形で終わるか、わからない。思わぬ落し穴があるかもしれない。地上戦で大勢の兵士が死ぬかもしれない。あるいは心配したよりも、短期に少ない犠牲で終結するかもしれない。いずれにしても、緒戦の段階で、アメリカ国民はすでに深い心理的な体験をしてしまったように思われる。それは、好むと好まざるとにかかわらず、この世界がまだ危険な場所であり、アメリカ国民がその現実から逃避できないこと、アメリカ人が故国からはるか遠いところで再び死ななければならないということ、その選択をアメリカ人自ら、民主的な手続きを経て行なったということ、その選択がたとえようもなく重苦しく、痛みを伴うこと。
戦争はおそろしい。人が死ぬのはおそろしい。バグダッドからの戦争実況中継が茶の間でいながらにして見られるという現代のメディアが、戦争の恐怖を高めているのかもしれない。しかし家族や知り合いの安否を案じながら、テロの不安を感じながら、前線で銃後で戦争をくぐり抜けた人々の間には、奇妙な連帯感が生まれるように思われる。大統領は、開戦後、アメリカ国民が一つにまとまっていると述べた。それは、国民がこの戦争を一様に支持しているということでは必ずしもない。むしろそれは、大統領を支持する人も、そうでない人も、苦悩しながらこの五ヵ月待ちの期間を耐え、決断を下し、開戦以来、同時代人として痛みを分かちあっているという、親しみの感情であろう。連帯の感覚は、ミサイルの恐怖におののくイスラエルの市民、撃墜された英国、サウジ、イタリアのパイロットとその家族たち、さらには連合軍の空爆にさらされながら、フセインの恐怖政治のため何も言えないイラクの一般市民にまで及ぶだろう。このつらい期間をくぐり抜けたとき、アメリカの国民は、戦争中だれが心から痛みを分かちあってくれたか、いったいだれが一番頼り甲斐があったか、忘れないであろう。そして私の友人たちは、控えめに私に問うのである。いったい日本人は、今のアメリカ人の痛みをわかってくれているのだろうかと。
残念なことに、アメリカから見ていると、日本人は、アメリカの痛みをほとんど感じていないように見受けられる。開戦前も開戦後も、日本人はひたすら自分たちの身の安全ばかり考えている。ニューヨークで働いている知り合いの会社員は、東京の本社から指令が出て、ワシントンへ飛行機で来られなくなり、会合に間に合わなくなってしまった。飛行機にさえ乗せなければ、安全が確保できると考える本社の対応は、砂のなかに首をつっこむ駝鳥を思わせる。湾岸地域には、日本から軍隊だけでなく、医者も船員も、危険だからと言って出ていこうとしない。連合国がイラクの爆撃を始めると、アメリカはやりすぎだ、イラクが可哀相だという議論がおこる。いつまでアメリカは世界の警察官を気取るのだという人がいる。アメリカ人にしてみれば、この戦争を戦う理由の何分の一かは、日本の石油確保、日本の安全保障のためなのである。日本の経済が依存しきっている、国際秩序維持のためなのである。彼らがなんとも割り切れなく思うのは、不思議ではない。
アメリカ人がもっとも感情を害するのは、この戦争はブッシュがテキサスの石油資本のために起こしたのだとか、共和党が経済の不振から国民の目をそらすためにイラクを挑発したのだとかいう、無責任な議論である。大統領を支持する人も、支持しない人も、大統領がそれほど単純な理由で開戦を決意したとは思っていない。この戦争は侵略による他国の併合を許さないというアメリカの(いや大多数の国連加盟国の)原理原則と、その原則が今クウェートという場所で多くのアメリカ人の命を捨てるに足るほど重いものかという、苦悩に満ちた選択の結果なのである。日本人の多くが考えているように、世界は経済原則だけで動くものではない。アメリカは決して石油だけのために戦争に踏み切ったのではない。アメリカ人は、原則を断じて守る気概に欠ける、戦わずにすむのならサダムにおべっかを使うことも辞さない野党の党首がいる国の民を、よく理解できないでいる。
日本とアメリカは同盟国である。同盟関係というのは、お互いに助け合うべき間柄である。第一次大戦のとき、日本は同盟国イギリスのために、遠く地中海まで軍艦を送った。日英同盟を破棄し、ヒットラーのドイツと結んでどんなひどいめにあったか、繰り返すまでもない。戦後アメリカと同盟関係を結んだのは、世界でアメリカがもっとも頼りになる国であったからであり、その民主政体が当時の世界でもっともまともな国であったからである。反米、進歩的な知識人の反対にもかかわらず、その選択は正しかった。ソ連や中国と組んでいたら、あるいは非同盟を貫いていたら、今の日本はなかった。昔日ほどの圧倒的な国力はないものの、日本にとって、アメリカほど頼りになる国は、周囲を見渡してもいぜんとしてない。クウェートの戦争は日本からは遠い国の出来事であり、憲法上も国民感情からも、戦闘部隊を派遣できないのは仕方がない。しかし同盟国がたいへんな犠牲を払っているのに、金でも人でも、最小限のことしかしようとせず、自国民の安全だけを考え、痛みを分かちあおうとせず、無責任にアメリカの悪口だけいう同盟国があるだろうか。同盟国の大統領の発言と、中東の独裁者のプロパガンダを同等に取り扱う同盟国があるだろうか。
アメリカを批判するのはまったく自由である。しかし批判をするのならばその結果もよく理解せねばなるまい。軍隊を送らないのは一つの立場である。しかしクエーカー教徒が徴兵を拒否してその責任を負うように、戦わない立場にも義務が伴う。その結果を考えることなく、義務を負うことなく、アメリカに求めるばかりでは、同盟関係を維持するのは難しい。戦争が終わって、日米の交渉で、今度は日本の立場に理解を求めたとしても、アメリカ議会や国民が、まともに相手にするだろうか。痛みを分かつことをせず、原則のために立ち上がらず、物事を経済だけで考え、金だけで解決しようとする同盟国を、アメリカがいつまでも守ろうとするだろうか。皮肉なことに、戦争前のクウェートという国は、とかくそういう評判のある国であった。そのクウェートさえ侵略を受けて、連合国の一員として血を流して戦っている。
戦争が終わった時、日米同盟関係に修復しがたい大きな亀裂が入っているのに、日本人は気がつくかもしれない。感情がさめて別居を考える夫婦のような関係になるかもしれない。はたして日米が離婚を決意するところまでいくかどうか、私にはわからない。別れようったって、私のお金なしじゃあなたやっていけないでしょう、と開き直る日本人が、ワシントンに駐在する日本政府の役人をふくめ、このごろ増えてきたのも、なにやら険悪な夫婦関係を思わせる。
イラク軍のクウェート侵攻から戦争の始まるまで五ヵ月の間、何も行動を取らず、右往左往するばかりだった日本が、いまさら出来ることは限られているかもしれない。九十億ドルの戦費負担はけっこうだが、金だけが全てではない。もしこの戦争後の日米関係の深刻な冷却化を防ぎたいならば、もし数えて余りあるほどの同盟のメリットを引き続き享受したいのならば、たとえ軍隊が送れなくとも、今こそアメリカを心から支援すべきである。国民一人一人がアメリカ人と痛みを分かちあうべき時である。今こそはアメリカと日本の同盟関係を再確認するべき時である。もしそれをしないのなら、その結果を真剣に覚悟すべきである。
遠いクウェートの戦争は、それだけの重い選択を日本に迫っている。
アトキソン家の子供たち
十七丁目とHストリートの角にあるメトロポリタン・クラブの玄関を入り、ドアマンに客である旨を告げて奥を見回すと、ティムは既にロビーで待っていた。眼鏡の縁越しに私の姿を認めると、読みかけの新聞を脇へ置いてゆっくりと立ち上がる。長身を少し前かがみにして手を差し伸べ、私と握手すると、ほほえみながら、
「ハロー・ナオ、グッド・トゥー・シー・ユー」
と、一言静かに言った。
貴族のいないアメリカで、ティム・アトキソン氏ほど貴族的な人を私は知らない。背が高くいつも姿勢がよくて、立ち居ふるまいがのびやかである。英語の発音や抑揚は、英国式に近い。話を始める時は、本題にいきなり入らず、比喩や歴史上の譬を用いた前置がある。
「ワーテルローでウェリントン将軍がナポレオンを破った時――」
などと話が始まったら、そら来た、話がどこへ続くか、神経を集中して、ようく聞いていないといけない。話がうまく本題につながって、オチがつくと、自分も独特の調子で、軽く笑う。
「今回の仕事は、君、全くワーテルローですよ。ハッハッハッ」
服装の趣味は地味で、多少古い感じのものをきちんと着ている。ワシントンDC内の閑静な住宅地にある、よく手入れの行き届いた大きな古い家に住んでいる。私を昼食に誘う時は、ワシントンで最も格式の高い会員制のメトロポリタン・クラブと決まっている。まれにもう一つの由緒正しい社交クラブ、コスモス・クラブに呼ばれることがあり、アトキソン氏は無論両方の会員である。気障といえば気障だし、上品といえばこの上なく上品。何でも形式張るのを嫌う昨今のアメリカでは、ちょっと珍しいような人である。
いったいどうして、このように貴族的な雰囲気を持った人が生まれたのであろうか。階級制度のないこの国では、身分や家柄は関係がない。ボストンやフィラデルフィアといった東部の古い町には、今でも閉鎖的な旧家の集まりがあって、十七世紀以来の伝統を保っているそうだが、それは例外である。アトキソン家はアイルランド系のカソリック教徒だから、伝統的なアングロ・サクソン・プロテスタント、いわゆるWASPの家系でもない。
ティムのおじいさんはアラバマ州の出身であった。今でもアラバマやジョージアといった南東部の出身者には、いかにもジェントルマンといった感じの人が多い。父親はアナポリス海軍兵学校出身の海軍軍人であった。ティムは、父親の任地、ホノルルや上海で幼年期を過ごした。海軍というところは、英米日を問わず、格好をつけるところだから、父親の影響は大きかったろう。ティム自身、戦争中は海兵隊に短期間籍を置いて、日本語を勉強していた。
しかし、それにも増して彼のスタイルを形成したと思われるのは、学校である。ティムはエール大学ロー・スクール出身のロイヤーであるが、学部はハバフォードという小さなカレッジを卒業している。日本では知る人の少ない学校だが、リベラル・アーツ、教養課程をみっちりと教える名門校である。アメリカ東部には、ハーバードやコロンビアのような大きな綜合大学とは別に、大学院を持たず、小人数の学部生を一流の教授が指導するカレッジがいくつかある。もっとも有名なのがプリンストンであり、ウィリアムズ、スワスモア、新渡戸稲造やジョン万次郎が学んだアムハーストも名高い。これらの学校で将来のエリートは、ラテン語、ギリシャ語、数学や西欧史など、世の中ですぐには役立ちそうもない学問をしっかり身につけて、世の中へ出ていく。ティムはまた、ハバフォードを卒業したあと、ローズ・スカラーに選ばれ、オックスフォードで二年間学んでいる。ローズ・スカラーというのは、十九世紀末の英国の政治家セシル・ローズが設立した奨学制度によって、オックスフォードで学ぶ留学生のことである。その一人に選ばれるのは、アメリカの大学生にとって大きな名誉とされている。ティムはここで、彼の貴族的スタイルに磨きをかけたに違いない。
東部の名門大学で学ぶのは、アメリカのエリートとなるための必要条件であるが、必ずしも十分条件ではない。自他共に貴族然とした風格を身につけるためには、有名私立高校を出ねばならない。東部にはエクセター、グロートン、チョートといった全寮制の名門私立高校がいくつかあって、それぞれの伝統と有名大学への高い進学率を誇っている。これら進学校を、プレップ・スクールと呼び、その学生を指すプレッピーという言葉は、英語のスラングで「お坊ちゃん」を意味する。有名大学へは公立高校からでも成績さえよければ入れるが、プレッピーたちは良くも悪しくも、すでに独特の雰囲気を身につけて大学へ入ってくる。
ティムは首都ワシントンにある私立セント・アルバンズ高校の出身である。ホワイトハウスの西北、ワシントンの市街を見下ろす丘の上に、聖公会系の教会、ナショナル・カテドラルがある。同校はこの教会の付属高校で、全米有数の進学校として知られている。場所がら、生徒には有力政治家の子弟が多く、ブッシュ大統領の息子たちもここで学んだ。スポーツが盛んで、勉強がきつく、ついていけない生徒は容赦なく退校となる。ゴシック風の校舎の中、制服を着、ネクタイをしめてラテン語やフランス語を学ぶ十五、六の少年たちを見ていると、まるでイギリスのパブリック・スクールにいるような錯覚におちいる。今でもむちを持って校内を歩きまわる先生がいるそうである。
ティムはこの学校の誇り高き卒業生として、また父兄として、セント・アルバンズの教育プログラム充実に大変熱心である。実は私が度々メトロポリタン・クラブで昼食をごちそうになったのは、セント・アルバンズで日本語講座を設けるという話がもちあがり、旧知の彼から相談に与かったためである。彼の持ち前の粘り強さとリーダーシップのおかげで、日米の諸団体から寄付が集まり、ワシントン地域の他校にも開放された日本語講座が始まって、もうすでに二年になる。
「これからのアメリカのエリートは、日本語が出来ないといけない」
というのが、ホノルルで日本人の乳母おしげさんに育てられて以来の日本びいき、ティムの持論である。日本語講座と前後して、日本の歴史と文化を教える先生もみつかり、横浜の私立高校との交換留学プログラムも発足した。去年の夏には、ティムの末息子で、セント・アルバンズ最高学年委員長をつとめるジョナサンが、日本で四週間を過ごして帰ってきた。
さて、こうして名門私立高校を卒業し、名門大学を出て専門を身につけ、成功して地位と名声を得たとしても、民主主義の国アメリカでは、息子や娘にその地位を譲り渡すというわけにはいかない。我が子にしてやれるのは、何とかいい学校に入れて、自分と同じエリートコースへ乗せてやる位だが、子供には出来不出来がある。又そう簡単に親の言うことを聞くわけもなく、仲々うまくいかない。ティム・アトキソン氏について特筆すべきは、彼に子供が八人あって、その全員が極めて優秀であることである。
八人は全員がセント・アルバンズか、そのライバル校シドウェル・フレンズを出ている。長男のティモシー・ジュニアは、セント・アルバンズを首席で卒業した。ハーバード大学の学部からエールのロー・スクールを出て、ロイヤーとして活躍中である。政治家志望で、すでに一度コロラド州議会議員に立候補している。二男のクリスはMIT(マサチューセッツ工科大学)から人工知能の研究で博士号をとった。同校で教えながら、研究を続けている。三男のアンディーはエールで日本語と日本経済を学び、日本企業で実習した。スタンフォードへ進み経済学博士号を取得、今はシカゴ大学で国際経済学を教えている。四男のニコラスは父親の母校ハバフォードからスタンフォード・ビジネスへ進み、サンフランシスコの投資会社で働いている。五男のマークはエールで中国語とエンジニアリングを学び、アメリカの工作機械メーカーに就職して中国で働いた。さらに日本語を勉強して日本企業で一年働き、現在はMITで技術のわかるMBA(経営学修士)を目指して勉強中。六男のベンジャミンはハバフォードで医学部を目指して猛勉中である。唯一の娘、七番目のエリカはエールで化学を専攻している。そして末っ子のジョナサンは大学をプリンストンにしようかエールにしようか迷っている。
八人の子供を全員私立高校から私立大学へ進ませる財力も大したものだが、たとえ学費が払えたとしても、子供の教育がこれほどうまくいくのは稀である。アトキソン家のエリート養成の秘密は、優れた遺伝子にあるのか、それとも八人の子供を産んで育てて、なお心理分析者の資格を取り開業しているスーパー・ママ、ポーラ夫人の指導よろしきためか、いずれにせよ、子宝に恵まれて、お父さんのティムは、いたって幸せそうである。
アトキソン夫妻の寝室には、日本の友人の母上が揮毫した立派な書がかけてある。苦心して草書を解読すると、それは山上憶良の歌であった。
「白銀も黄金もたまも何せむに、まされる宝子にしかめやも」
過ぎ越しの祭り
金曜日の夕方、日が暮れてからバルーク・フェルナーのオフィスの前を通りかかると、すでに電気が消えて人影がない。安息日が始まったのだ。今頃彼は家に帰り、家族の人数と同じ数のろうそくを点して、サバスの祈りをささげているだろう。金曜日の日没から土曜日の日没まで、普段は忙しいロイヤーが、車に乗らない、テレビを見ない、買物もしない。
バルークは、戒律を厳格に守り、祭りごとを欠かさない、敬虔なユダヤ教徒である。シナゴーグ(ユダヤ教会)で教典を読み、歌をうたうカンター(信徒代表)をつとめている。カンターには、ユダヤの歴史と音楽、そしてトラ(ユダヤ教の教典)の教えに詳しい、学問のある人が選ばれる。だからユダヤ教とユダヤ人の歴史について聞くには、私の周囲でバルークほど適切な人物はいない。バルークも、自分の民族の歴史と宗教について語るのが大好きである。労働法の専門家で、普段は職場安全基準に関する労働省令などとにらめっこしているこのロイヤーが、ユダヤのこととなると、目を輝かせて時間が経つのを忘れる。大きな目を一層大きくして、手振り身振りを加えながら話す。途中で仕事の電話がかかってくると、とても残念そうに言う。「仕方ない、この続きは、また今度にしよう」
物心ついてから今日まで、私の出合ったアメリカ人には、驚くほどユダヤ人が多い。両親がアメリカから日本へ帰ってきてから、よく家に遊びにきたカーンさん、ネーサンスン先生。ユダヤの人は鼻が大きいと言うけれど、子供心にも、この人たちの鼻は高いと思った。
初めてワシントンへ留学した時、空港まで迎えにきてくれたマルキン博士(前出「バーナゲートの海岸にて」に詳述)。マルキン夫妻がユダヤ人であるのに、私は最初気がつかなかった。クリスマスのころマルキン家を訪れると、クリスマスカードの代わりに、同時期のユダヤの祭り、ハヌカのカードが置いてあるので、それとわかった。
マルキン一家の他にも、これまで私にはユダヤ人の友達が多かった。大学の友達、ロー・スクールの同級生、法律の仕事についてから知り合った、数えきれないほどのユダヤ人ロイヤーたち。バルークは、私が親しくなったユダヤ人の中で、もっとも伝統的な考え方をする一人である。西欧の歴史で、どうしてあれほどユダヤ人が迫害されたのか。それにもかかわらず、自分たちの伝統を守り抜き、優れた人物が輩出し続けたのはなぜか。アメリカでなぜこれほどユダヤ人が活躍しているのか。同じ法律事務所のなかで顔を合わせる度に、私が根掘り葉掘り聞くものだから、とうとう去年の過ぎ越しの祭りに、フェルナー家へ招待されることになった。
ユダヤ暦五七五〇年、ニッサンの月十四日、日が暮れるころ、川向こうアレキサンドリアのフェルナー家を訪ねる。奥さんのカレン、娘のサラ、シモナ、息子のマイケル、そしてカレンのお母さんが、私を迎えた。伝統派のユダヤ人にとって、過ぎ越しの祭りは一年中でもっとも大切な祭りである。行事は一週間にわたって続く。私が招かれたのはセイターといって、初日に行なわれる一番大事な晩餐の儀である。日本人には馴染みのうすいしきたりだが、イエス・キリストが十三人の弟子と共にした最後の晩餐がこのセイターにあたる。私を迎えたフェルナー家の人たちは、みんな嬉しそうで、少々興奮気味で、母親と娘たちは料理の支度に台所へ入ったり出たり。日本の大晦日のような雰囲気である。
やがて支度が整うと、一同席について儀式が始まる。ヘブライ文字で書かれた教典を手に、ワインを飲み、食物を口にし、祈り、歌をうたい、問答をし、手を叩き、またワインを飲む。うたう歌、飲む順序、食べる順番は、全て厳密に定まっている。そもそもセイターという言葉が、「決まり」を意味するのだそうだ。一々の動作行動に意味がある。たとえばテーブルの上に置かれた羊の骨は、エジプトを出る直前、最初の過ぎ越しの祭りにモーゼが犠牲に供え口にした羊を、わさびのサンドウィッチは、エジプトで過ごした日々の苦さと辛さを、ハローサックという甘い味噌の様なものをレタスに包んで食べるのは、エジプトでピラミッドの建築にこき使われたときこねた漆喰を、マッツァというイーストの入っていないパンは、エジプトを出るとき時間がなくてパンを焼けなかったのを、それぞれ思い出すためである。
こうして延々と続く儀式は、実は神が天地を創造し、アブラハムにカナンの地を与え、ユダヤ民族がエジプトで隷属の民となり、モーゼに率いられてエジプトを脱出し、神から十戒を授けられ民族として一人立ちするまでの歴史を、一晩で再現するものなのである。この日、アメリカで、エチオピアで、チュニジアで、ロシアで、イスラエルで、世界中のユダヤ人が、祖先の記憶をたどり、同じ歌をうたい、同じものを口にし、同じ民族の一員であることを再確認する。
「だから君、ユダヤ人は二千年近くのあいだ、自らの国が地上になくても、こうやって心の中に国を持ち続けたのだよ」とバルークは言う。
自らの国がなく、自らの政府を持たない民が、自分たちの宗教、文化、慣習を変えることなく、他民族の中で暮らしていくのは、容易でない。過ぎ越しの祭りでうたわれる歌の一つに、「来たる年、我らエルサレムで自由にならん」という一節があり、この文句だけが紀元前の国際語アラム語ではなく、ヘブライ語で書いてあるという。これはユダヤ人たちが、エジプトを逃げだすのを周りに悟られないため、ヘブライ語でうたった故事にちなんだのである。バビロンの虜囚であった時も、またローマによってパレスティナを追われた後も、彼らは来たる年、エルサレムへ戻ることを夢見ながら、異境でこの歌をうたい続けた。
バルークは生まれ育った国のよき市民であることと、よきユダヤ人であることは、矛盾しないという。ただし彼らは、周りの民に同化するのを、頑なに拒む。周囲の非ユダヤ人と協調し、異教徒に親切であろうとしながら、彼らへの同化をおそれる。なぜなら同化は究極的に民族の消滅を意味するからである。バルークは息子や娘に、出来ればユダヤ人と結婚して欲しいと思っている。
同化を拒むのは、周りの人間に「自分たちの方が優れている」と言っているのではない。ただ「あなた方とは違う」と言っているだけである。しかし、周りの人がそうはとらない場合がある。彼らがよき市民であろうとしても、周りがそれを許さないことがある。そこに緊張が生まれる。ユダヤ人迫害の歴史は、自分たちと異なり、同化を頑なに拒む人々への、非寛容の歴史でもある。
一体どうしてそこまで苦労して、ユダヤ人であることにこだわるのか。度重なる迫害を受けながら、どうして自分たちの原理原則を曲げようとしないのか。たとえばトラは六百十三の戒律をユダヤ人に課しているという。この忙しい世の中で一々戒律を守っていたらさぞかし不自由だろうと私たちは思うが、バルークはそれは違うという。
「われわれが戒律を守るのは、豚の肉は体に悪いとか、安息日に働かないのが健康にいいとか、いちいち理由があってではないんだ。食べたくても食べられない。テレビを見たくても見られない。それは戒律が神の命令であり、神の命令が絶対であるからなんだ。ユダヤ人にとって、人は神の奴隷であり、神は服従すべきものである。しかし一旦神への服従を認めれば、人と人との間に身分の上下も貴賤もない。人間は真に平等となる。そこから、人間の自由が生まれるんだよ。神への絶対の服従なくして、人間の真の自由はありえないと、ユダヤ人は考える。戒律はその意味で、われわれを縛るのではなく、われわれの心を解放するんだよ」
エジプトを逃れ、解放されたユダヤの民が神を誉め讃える歌を、一同が手を叩きながらうたって、過ぎ越しの祭りが終わったのは、すでに夜中の二時を過ぎたころだった。フェルナー家の一同に別れを告げ、人気《ひとけ》のない町を一人で我が家に向かって車で走りながら、私は考えた。
「もし日本人が祖国を失って流浪の民となったら、二千年もの間、祖先の記憶を保てるだろうか。少くとも、この次の正月は、もうちょっとまじめにやろう。アメリカに住む、よき日本人として」
黄色いリボン
ある朝、学校へ子供を送る途中、車を運転しながら耳にした、七歳になる息子とその友人マシューの会話。
マシュー「また戦争ごっこしようよ」
息子「いいよ」
マシュー「どの国をやっつけようか」
息子「やっぱりイラクだね」
マシュー「君日本になれよ」
息子「それは駄目だ」
マシュー「どうしてさ」
息子「だって憲法で決まってるんだ。戦争しちゃいけないって。お母さんが言ってた」
マシュー「しょうがないなあ。じゃ君もアメリカだ。スカッド・ミサイル来襲、パトリオット発射してくれたまえ」
息子「了解、パトリオット発射」
一九九一年前半、アメリカは湾岸戦争の話題一色であった。職場で、学校で、レストランで、パーティーで、人々は最新の情報を交換しあい、戦いの帰趨について意見を披露しあう。家へ帰れば、CNNのニュースに釘づけとなる。イラクに捕われたパイロットの映像に心を痛め、スカッドを打ち込まれたイスラエルやサウジアラビアの国民に同情する。イラク軍の暴虐に怒り、大統領の演説に耳をすまし、戦死者の報せに涙を流す。
多くのアメリカ人にとって、戦争はごく身近な出来事であった。夫や妻、息子や娘が湾岸へ派遣された家族でなくとも、知り合いや近隣の誰かが、この戦争に何らかの形でかかわっていた。息子の担任、スモーリー先生の義理の弟は、航空母艦ローズベルト乗り組みのパイロットとして、ペルシャ湾へ出動した。わが法律事務所、リヤド・オフィスのロイヤーたちも、スカッド・ミサイルが飛んで来るたびに、防空壕へ逃げ込んだ。在サウジ軍司令部のロイヤーと仲よくなり、軍のジープがラクダにぶつかった交通事故の損害賠償について、イスラム法上の相談に与かった。
去年横須賀海軍基地で会った、第七艦隊駆逐艦ファイフの艦長ケンプ大佐も、自艦を率いてペルシャ湾に出動したという。相模湾の沖、照りつける夏の日差しのもと、ヘリコプター甲板の上でバーベキューを頬張りながら、家族やガールフレンドと体験航海を楽しんでいた水兵たち。彼らもペルシャ湾で、緊張した日々を送っていたはずである。父親が指揮する艦の中を、誇らしげに歩き回っていた、ケンプ大佐の夫人と子供たちを思い出す。
戦争が始まって以来、星条旗を掲げる家が目立って増えた。中にはガレージの上を大きな国旗で覆った人もいた。アメリカ兵の無事な帰還を祈る黄色いリボンが、あちこちで目についた。人々は、CNNのニュースの冒頭に出る数字で、開戦以来何日過ぎたかを知り、ガソリンと株の値段を戦況の目安とし、ペンタゴンとリヤドからの記者会見で、一日の区切りをつけた。この国は、戦時下にあったのである。
今回の戦争で一躍英雄になったのは、アメリカの軍人たちである。ヴェトナム戦争後、彼らは長いあいだ日陰者のような扱いを受けてきた。インドシナから帰って来た将兵は、故郷で少しも尊敬されなかった。時代遅れの、他に能力のない、高価なおもちゃを玩ぶ余計者として扱われた。それが今回は違った。開戦に賛成した者も反対した人も、戦いが始まった後は、湾岸に出動した米軍兵士を心から支持したし、兵士たちの士気も高かった。湾岸戦争は、ヴェトナムの戦いと、大きく違っていた。
今度の戦争は、インドシナの戦争がアメリカ人にとっていかに癒しがたい傷として残っていたかを、改めて感じさせた。私の周囲にも、ヴェトナムで軍人として戦ったり働いた人が、大勢いる。マシューのお父さんも、そんな一人である。シュワルツコフ大将、パウエル統合参謀本部議長も、ヴェトナム従軍の経験者である。彼らは、丁度日本の戦中派のように、戦争の痛みを胸に秘めて、四半世紀を生きてきた。
アメリカが同盟国のため、よかれと思って介入したヴェトナムの戦争は、ひどくわかりにくい戦争であった。戦場に送られた兵士たちは、自分たちがなぜ命をかけているのか、満足のいく答えを与えられていなかった。徴兵で取られた兵士たちの多くは、まだ二十歳にもなっておらず、突然故郷から何千マイルも離れた国で、見えない敵と戦わねばならないことを、うまく理解できていなかった。
「愛想のよい村民たちに取り囲まれて、アメリカ兵が陽気に楽しくやっている。とその陰で、ヴェトナム人の少年が手榴弾をジープのガソリンタンクの注入口に突っ込む。走り出してしばらくして、信管を抜いた上に貼った手榴弾のテープが振動で剥がれると、ボーン、お陀仏さ。誰が敵かわからない。今にこにこしている小母さんや、小さな子供が、敵かもしれない。そりゃあ、ひどい戦争だったさ」
軍のロイヤーとしてサイゴンとダナンに駐屯した経験のある、同僚ウェーンは言う。
「ある補給ヘリコプターのパイロットが、退屈なもんだから低空で田んぼの上を飛んで、ヴェトナム人の農民を脅かして、遊んでた。ある時、低く飛びすぎて、お百姓の頭を引っ掛けた。首がチョン切れて即死さ。農民から通報があり、パイロットは逮捕された。軍法会議が開かれて、僕が検事として殺人罪で起訴したが、陪審員はごく軽い刑しか科さなかった」
ウェーンは、遠くを見つめるような表情で、ゆっくりと話す。
「あれは単なる事故だったって言うんだ。陪審員は、毎日ヴェトコンを殺せ、殺せと言われている兵隊たちさ。敵か味方かわからないヴェトナム人をちょっとした不注意でもう一人殺したのが、ヴェトコンを殺すのとどれほど違うのか。除隊間近のパイロットに、一生犯罪者の烙印を押すのが、彼らには納得いかなかったんだ。正義とは何か。人を殺すのが、ある時は義務であり命令であり、ある時は犯罪であるのは、なぜか。全てが混乱してた」
ヴェトナムで戦った兵士たちの混乱は、アメリカ国民全体の混乱となり、この国はしばらく自信を喪失した。マスコミは鬼の首でも取ったように、政府を攻撃し、軍を馬鹿にした。その中で、ヴェトナム帰りの職業軍人たちはじっと耐え、沈黙を守りながら有事に備えて訓練を怠らなかった。八〇年代に入って、レーガン大統領とワインバーガー国防長官は、民主党の国防費削減要求を頑として受け入れず、軍備の充実をはかった。その成果が、今回表われた。
「今度の戦争で戦っている兵士たちは、志願して軍に入った若者たちだ。徴兵で取られたヴェトナム戦争のGIたちより、年齢も上だし、訓練も行き届いている。敵も明白だし、戦争目的もはっきりしている。ワシントンの同意がなければ何も出来なかったウェストモーランド在ヴェトナム米軍司令官とは違って、シュワルツコフ司令官は、戦争遂行について全てを任されていた。対イラク戦争は勝つべくして勝ったんだと思うよ」
ウェーンはこう言っている。
クウェートに進攻した米軍兵士たちは、各地で解放者として迎えられた。リヤドにいる我が事務所のロイヤーたちも、アメリカ人であるというだけで、サウジの人々に暖かく遇されるという。イスラエルでも、パトリオット・ミサイル部隊は、大もてだ。投降したイラク軍の兵士さえもが、共和国護衛隊に背後から射殺されずに助かって、涙を流して喜んでいる。(ちなみに中東で今評判の悪いのは、戦争が始まると真っ先に逃げだした日本人と日本の企業だと、リヤドの同僚は言っている)
アメリカ人は、自らの価値観を単純に他国の民衆に押しつけられないことを、インドシナで学んだ。しかし個人の権利を尊重するのと同様、小国の独立も尊重すべきであり、それを侵す者に対しては武力を行使してでも断固たる措置を取るというこの国の原則は、今度の戦争で国際社会の尊敬を受けた。イラクの軍隊があれほどあっけなく壊滅したのは、決してハイテク軍備のせいだけではない。独裁者の恐怖政治のもと、無理矢理戦わされている軍隊と、自ら志願し個々人が納得して戦っている軍隊の士気の差に、彼ら自身が改めて気づいた。アメリカの理想主義がそのまま通じなくても、ヴェトナムの時のように、自分たちの理想をいちいち弁解する必要はないと感じている。
この戦争をワシントンで指揮したパウエル将軍は、ジャマイカ出身の貧しい移民の子供である。ニューヨークはブルックリンで生まれ、ユダヤ人の雑貨屋で小僧として働き、ユダヤ語を覚えた。ニューヨーク市立大学を卒業して陸軍に入り、若いころ南部で訓練を受けた時には、町でレストランにも入れてもらえなかったという。にもかかわらず、並みいるウェストポイント陸軍士官学校出身のエリートを押さえ、軍人としての最高位を極めた。この国では能力さえあれば、人種の差別なく機会が与えられ、それを活かせる。この戦争で勇敢に戦った若い黒人の中から、きっと第二、第三のパウエル将軍が誕生するだろう。
この週末、湾岸から最初の兵士たちが帰ってきた。白人、黒人、ヒスパニック、中国系、ヴェトナム系、日系の兵隊が、家族と再会できる喜びと、アメリカ人としての誇りを一杯に表わしながら、帰ってきた。それをテレビで見ながら、みな思っている。国内で問題は山積みだが、アメリカ人でいるのも、存外悪くないなあ、と。
兵士の帰還とともに、家々の黄色いリボンが外されている。かわって黄色い水仙が咲きはじめた。
ヴァージニア便り
「どちらにお住まい」
「マクレーンです」
「ああ、川向こうね」
ワシントンで働く人は、ポトマック川のこちらと、あちらと、どちらに住んでいるかを、挨拶代わりにたずね合う。こちら側はコロンビア特別区とメリーランド州で、あちら側はヴァージニア州。だから、川のどちら側か聞けば、住んでいる場所が大体わかるのである。
川はしばしば国や民族を分かち、両岸に住む人々の気質や性格まで変えてしまう。ポトマック川も例外でない。この川を渡ると、そこはもう南部である。二百年前、新しい共和国の首都をこの川岸の沼沢地に建てたのも、ここらが国の中間点だろうと、北と南が妥協したからである。建国以前から、保守的で優美な南部と、進歩的都会的な北部が、この辺りで分かれていた。南北戦争の時には、川をはさんで、北軍と南軍が対峙した。一時は川向こうに陣取った南軍が、首都ワシントンを脅かした。
高速道路が何本も川を横切り、地下鉄が川底を走り、ワシントンを中心に人々が忙しく両岸を行き来する今日でも、北と南の気質の違いは色濃く残っている。政治的には、メリーランド州とコロンビア特別区で民主党が強く、ヴァージニア州では共和党が強い。住民も、同じワシントンの郊外でありながら、川の北側では進歩的な医者やロイヤーが多く、南側ではペンタゴンがある関係で軍人が多い。人種的には、ユダヤ人が多いメリーランド、黒人の多い特別区に対し、南側ではユダヤ人が少なくて、かわりにヴェトナム人をはじめとするアジア系の住民が近年増えている。おおむね平らなメリーランド側と比べ、ヴァージニア側には丘が多い。そして川を渡って五マイルも南へ走り、気をつけて土地の人が話すのを聞くと、もうそこはやわらかく語尾を伸ばす、南部なまりの世界である。「ヨール、ティーキーア」と言うのは「ユー、オール、テイク・ケア」、つまり「みんな元気でやんなよ」の南部風の発音である。慣れないと、何を言っているのか、さっぱりわからない。
ワシントンで働く人々の多くは、全米各地や外国からやってきたよそ者である。彼らは不動産屋に案内され、あるいは知り合いの斡旋で、川のどちら側かに家を見つけて、移り住む。北と南の歴史的な気質の違いには本来何も縁がないはずなのに、住めば都と言うとおり、しばらくすると北がいい、いや南だ、と主張するようになる。
「川の北は、人が多くて落ち着かないね。川を渡ってヴァージニア側に帰ってくると、ほっとするよ」
とヴァージニアの住民は言い、
「橋を渡る時の交通渋滞は、考えただけで勘弁だわ、あんな文化のない田舎に、よく住む気になるわねえ」
と、メリーランドやDCの住民は言うのである。
三年半前、勤めていた日本の会社を辞めてワシントンへ戻ってきた時、私たち一家は一先ずヴァージニア側の郊外住宅地、マクレーンに家を借りた。ヴァージニア側にしたのは、知り合いに紹介された不動産屋の婦人ディーディーさんが、ヴァージニアの人だったという、それだけの理由である。
「いつも人を乗せて家を見て歩くから、こんな大きな車がいるの」
不動産業の免許を取ってまだ間もない、大学教授夫人ディーディーの大きなシボレーに乗せられて、ワシントンのホテルから川を渡り、ヴァージニア側の家を見て歩いた。東京から来たわれわれには、郊外の家はどれも大きくて立派に見えた。どの家にも、手入れの行き届いた芝生が広がっている。季節は秋で、背の高い木々の葉が、赤や黄色に色づいていた。
何軒か見た後借りることに決めたのは、サッカーが出来そうなほど広い庭が気に入った、一戸建だった。ホテルからスーツケースを運んで、家具も何もないがらんとした借家へ引っ越した。床の上に、友人から借りたマットレスとシーツを敷き、家族四人、電灯一つで最初の夜を過ごした。何日かすると、周りの高い木々から葉が落ち、庭が黄色の絨毯を敷きつめたようになった。荷物の整理と同時に落葉掃きをした。
借家暮らしはまずまず快適だったが、翌年子供がワシントンの私立小学校へ合格したのを機会に、もう少し都心に近い家を探すことにした。当時ワシントン周辺の不動産は値上がりが続いていて、借金をしても買ったほうがよいと思った。借家を探してくれたディーディーに頼み、春らしい春の一日、何軒か見て歩くことにした。
あちこちで花が咲き乱れ、人が大勢外へ出ていた。春は家が花に囲まれて美しく見えるから、不動産屋にとって稼ぎ時である。急に売家の看板が目立ちはじめる。オープンハウスといって、誰でも立ち寄った人に中を自由に見せる家もある。家を見て歩くのは、楽しい。色々な間取りがある。色々な大きさがある。古い家には味わいがあり、新しい家は便利そうである。それにしても、アメリカの家にはなぜこれほど浴室と便所が多いのだろう。個人主義の国アメリカでは、家族といえども浴室を共にしないのだろうか。ドアを閉めていきむ時、人は本当の個人になるのだろうか。
「この家は、ええとバスルームが三つ半、つまり浴室兼便所が三つと、客用トイレが一つ。ベッドルームは四つ。居間と、ポーチと、食卓のおける台所と、地下室があって値段は三十万ドル」
コンピューターの打ち出した詳細を確認しながら、ディーディーが説明してくれる。
こうして冷やかし気分で家を見て歩き、五軒目に出合ったのが今住んでいる家である。道路からせり上がった、丘の上に立つ小さな赤い煉瓦造りの家。屋根の勾配がきつい、ケープコッドというスタイルで、玄関をはさみ、右と左に窓が二つずつある。二階には屋根から突き出した出窓が、やはり左右対称に並ぶ。高い木が家の周りを囲み、気持のよい影を落としていた。丘の麓から見上げると、子供のころ繰り返し読んだヴァージニア・リー・バートンの絵本、「小さな家」にそっくりだ。五十段ある階段を昇って前へまわると、丘の頂に平らな庭が広がる。庭の真上に、空がぽっかり開いている。庭の向こうはまた斜面になっていて、隣家の屋根は林の向こうに隠れ、にわかには見えない。この庭で、春、木陰に椅子を置いて本を読んだら、さぞ気持よかろう。こうして私は、すぐには買うつもりのなかった家を一軒、借金して買ってしまった。
この家に引っ越してから、すでに三度冬を越した。湿気の多い夏の暑さがようやくやわらいで、秋が来ると、木々の葉が次第に色を変え、やがて家の周りは一面紅葉に覆われる。枯葉が次から次へ庭に落ちるのを、子供と一緒に箒で掃き集め、丘の麓に下ろし、道路沿いに山を作る。落葉を道路まで掃き下ろすのは、意外に重労働である。子供の橇にのせて滑り下ろすことを思いついた。落葉を積んだ橇が、ゆるゆると芝の上を滑って下りていく。木にぶつかると、枯葉の山が倒れて、辺りに散らばる。子供たちが手を打って喜ぶ。こうして溜まった落葉の山は、郡のトラックが集めて運んでいく。枯葉の集積所に春まで置かれた葉の成分は分解して、よい堆肥になる。落葉集めのトラックがいつやってくるか、誰も知らない。だから枯葉は落ちた端から、丘の下に下ろさねばならない。ぐらぐらする梯子に上り、樋に溜まった冷たい枯葉を手探りで取って捨てるのも、このころの仕事である。
木の葉がすっかり落ちて、林が裸になると、夏のあいだ見えなかった隣の家が、間近に見えるようになる。ナショナル空港に着陸するジェット旅客機が、林を横切ってゆっくり降下していくのも、よく見える。空気が冷たく、凍える夜、階段を昇りながら空を見上げると、木と木のあいだから月が明るく屋根を照らしている。
最初の雪が降った朝、丘は一面白く覆われ、子供たちが橇で滑り下りながら上げる歓声が聞こえる。積もったばかりの雪は、踏むと大きな足跡が残って気持よいが、溶けきらなかった雪が凍りつくと、階段を下りるのがちょっとした曲芸となる。手摺りにつかまり、家族一列になってそろそろと丘を下り、車のフロントガラスに張りついた氷をこすり取って、学校へ会社へ出かける。クリスマスが近づくと、葉の落ちた裸の木々に色とりどりの豆電球が点され、大きな樅の木が、階段の手摺りが、窓の桟が、闇の中で光る。年が明け、骨の髄まで凍てつくような寒い日と、寒さがゆるむ日とが、代わる代わる訪れ、やがて水仙が庭の片隅で目立たないように花を付けると、ようやく春が来る。
ワシントンの郊外が一年中で最も美しいのは、春である。冬のあいだ、固く縮こまっていた桜や、桃や、マグノリアの莟が、いっせいに膨らみ、花を咲かせる。芝生が見る見る青くなり、まるで魔法をかけられたように、若葉がするすると伸びはじめる。はなみずきの花が白とピンクの萼を開き、ツツジの花が生け垣を華やかに彩るころ、ワシントンの春はたけなわである。
春は、動物たちも活発である。朝は、家の周りの高い木を「タタタタタ」と突く、きつつきの音で目を覚ます。窓の桟に取りつけた鳥の餌箱には、真っ赤な色のカーディナルを始め、色々な鳥がやってくる。鳥の餌を狙って、りすが登って来る。餌箱に届かないのに、あきらめず前脚で窓ガラスを何度でもひっかいている。家の近くで何回か鹿も見た。一度は川の近くの公園で、産まれたばかりの子鹿と母鹿の二頭連れであった。テニスコートのすぐ近くまで来て、じっと立っていた。気がついた私たちも、息をひそめ、しばらく人間と鹿と向きあって立っていた。鹿は飽きたのか、しばらくするとくるりと向きを変え、林のなかに姿を消した。
ある年、我が家の煙突に、ラクーン(あらいぐま)の子供が入り込んで、出られなくなった。毎晩煖炉の傍で、ゴソゴソ音がする。キーキーと鳴声がする。最初は鳥が飛び込んだのかと思った。鳥ならそのうち出るだろうと待っていたが、一向に出ていかない。夜になると決まって音を立てる。寝静まった夜中、壁を隔てたすぐ傍で生き物が蠢いているのは、少々気味が悪い。いったい何がいるのだろう。
ラクーンが我が家の煙突へ入っていくのを見て報せてくれたのは、庭仕事をしていた隣家のジョンさんだった。大きなラクーンが屋根を登って、のっそりと煙突の中に姿を消したという。そもそもこの辺り、この動物は珍しくない。ある友人が朝目を覚ますと、ベッドの上を一匹悠然と乗り越えて行ったという。こいつが部屋のなかに入ってきたら、私たちの手には負えない。子供が噛みつかれたら、たいへんだ。知り合いのすすめで、職業別の電話帳を引き、煙突掃除屋を呼ぶことにした。「ヴィクトリア・チムニー・スウィーパー、煙突の掃除引き受けます」これだこれだ。ダイアルを回すと、留守番電話のテープから、歌声が聞こえてきた。
「チムチムニー、チムチムニー、チムチムチェリー」
なるほど、煙突掃除人が主人公の一人となる、映画「メリー・ポピンズ」の主題歌である。
「こちらヴィクトリア・チムニー・スウィーパーです。只今留守にしております。御用の方は、電話番号をお残し下さい。後ほどこちらからお電話します」
しばらくすると、煙突掃除屋から電話があった。
「あらいぐま、任せてください。当社は動物を傷つけずに捕まえるのが、得意です。遠くの森まで連れていって逃がしてあげますよ」
こうしてある浅い春の朝、マイクとその助手の二人の若者がやってきた。マイクは二十代の筋骨たくましい男性。助手君はイギリスはリバプールから休暇でやってきたという、口数の少ないアルバイトの学生。やはり煙突掃除は英国が本場なのだろうか。二人は車から長い梯子を下ろし、丘の上で組み立てると、屋根に立てかける。リバプール君が下で支え、マイクがてっぺんまで登ると、懐中電灯で煙突の中を覗き込む。今度は煖炉の中にもぐり込み、電灯を差し込んでごそごそやること数分。「いた、いた」マイクが灰にむせながら、後の助手君に叫んだ。マイクの示す方向をこわごわ覗き込むと、なるほど尻尾らしきものが、煖炉のすぐ上、煙突につながる通気孔の窪みにうずくまっている。
私にはわからないが、マイクによると、見つかったのはまだ子供のラクーンである。煙突から入って、出られなくなったらしい。隣人が目撃したのは、子供へ餌を運びにやってきた母親が、煙突に入るところだったのであろう。夜がさごそ音がしたのは、母親に会えて嬉しくて飛び跳ねていたのかもしれない。マイクは先ず発煙筒をたいて、いぶし出しにかかったが、出ない。手袋をはめてつかまえようとしたが、うまく行かない。
「これは、ヴェテランのボスに来てもらわないと、埒が明かない」
こう言うと、会社に電話をして、上司に応援を求めた。
二十分ほど雑談をして待っていると、ブザーが鳴った。ドアを開くと、シルクハットをかぶった男が立っていて、深々とお辞儀をする。
「お早ようございます。煙突掃除人でございます」
この道二十年という親方は、仕事に出る時は、いつもシルクハットをかぶるという。昔から、煙突掃除人は縁起のよいものと決まっていて、結婚式にもよく呼ばれるそうだ。そんな時は、シルクハットと燕尾服の正装となる。きっとお値段も高いのだろう。親方は、おもむろに帽子を机の上に置き、手袋をはめると、煖炉にもぐりこんで、ラクーンを手探りで探しはじめた。後ろでマイクとリバプール君が、息を殺して見守る。起き出して来た息子二人も、パジャマ姿で、見物だ。ガサガサゴソゴソ、ずいぶん時間が経ったと思うころ、親方はエイッと気合いを入れて、煖炉から頭を出した。右手に猫ほどの大きさの、ラクーンの子供をつかまえている。箱の中に入れると、注目をあびてきまり悪いのか、ふてくされ気味に背中を丸めてじっとしていた。親方は得意そうに、またシルクハットを頭に載せ、ラクーンの入った箱をかかえ、マイクとリバプール君を後に、先へ帰って行った。残された二人は、煙突の灰をかきだしにかかった。
丘の上に三年住んだ今年(一九九一年)の夏、私たちは東京へ帰る。不景気で、売っても損するし、ワシントンへ戻ってきたら、再びこの家へ住みたい。幸い借手もみつかった。小さな男の子が一人いる、大学教授夫妻だという。彼らがこの家を気にいってくれるといいと思う。高い木々、りす、鳥、そして森の中に潜んでいるラクーンや鹿に別れを告げて、私たちはヴァージニアを去る。
あとがき
ジョージタウン大学を卒業して日本へ戻った私は、一九七七年九月、縁があってソニーに就職した。ほぼ十年この会社に籍を置き、その間社員として、ジョージタウンのロー・スクールへ二度目の留学をした。この時の体験は、拙著『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)に詳しく書いた。ロー・スクールから帰ってきて一生奉公するつもりであったソニーを、心変わりがして一九八七年の六月に退社し、ワシントンの法律事務所に職を得た。私にとって三度目のワシントン生活であった。
本書は、会社に入る前と、会社を辞めたあとの、私のアメリカ体験をまとめたものである。第一部では、アメリカとの出合いと最初の留学について書いた。第二部では、一番最近のワシントン生活を題材として、月刊Asahiその他の雑誌に発表した文章を集め、加筆、再構成した。会社勤務の時代について書かなかったのに、特段の理由はない。強いて理屈をつければ、ここでは、私が純然たる個人として体験したアメリカだけを扱ったと言えるかもしれない。前半と後半には、その意味で共通点がある。会社員の目で見たアメリカについては、又別の機会に書いてみたい。
学者になるつもりであった私が、なぜソニーに就職したのかと、入社後しばらくよくたずねられた。そしてロー・スクールへの留学まで許してくれた会社をなぜ辞めたかと、十年後にはまたたびたびたずねられた。どちらの質問にも、一言では答えられない。理由は一つではないし、それほど単純明快でない。ただ、いずれの場合にも、決断を下した私の意識の中には、アメリカがあった。就職した時には、アメリカを離れ日本へ帰りたいと思った。会社を辞めた時には、アメリカへ戻りたいという気持が強かった。
ジョージタウンで二年間の勉強を終えた私は、アメリカという国を段々好きになりつつあった。しかし一方でこのままこの国へとどまると、日本との絆が薄くなり、根無し草になるのではとおそれていた。慶応大学を中退し、アメリカで一人ぼっちであった反動で、日本へ戻ってどこかへ属したいという気持もあった。ソニーは期待にこたえ、私にありあまるほどの帰属意識を与えてくれた。入社したての頃、ソニーという看板を背負って業界の会議へ出席し発言をする時、どんなに得意に思ったであろう。ソニーという呪文を唱えれば、個人では出来ないことが色々と可能になった。しかしロー・スクールへ留学し、再びアメリカの空気を吸ったあとでは、会社という組織に流れる濃密な空気が、息苦しく感じられた。なんとか会社に心と体を合わせようとつとめたが、駄目であった。アメリカへ帰りたい。アメリカへ戻って、自由な空気を吸いたい。その気持が押さえきれなくなり、少々体までこわして、退社を決意した。
ソニーを辞める時、ある先輩は、
「もう少し、みんなのために頑張って欲しかった」
と言った。その時私は、
「みんなを意識しなくてすめば、もう少し頑張れたのですが」
と、言いたかったが、よくわかってもらえないだろうと思って、口にしなかった。会社に入ったのは、みんなと一緒にやりたかったからであり、会社を辞めたのは、みんなから離れたかったからである。いったい会社とはなんなのだろう。退社を決意するまで、私はずっと思い悩んだ。そして会社と私の関係を考える時、いつも心に思い浮かぶのは、アメリカで出合った多くのたくましい個人の姿であった。彼らはそれぞれ一人ぼっちでやっている。みんなを意識せずに生きている。私もあの国へ帰って、一人になろう。
退社の意志を上司に告げるとすぐ、私はワシントンへ飛んだ。法律事務所で採用の面接を受けるためである。会社を辞めるには、大量のエネルギーが必要で、私は肉体的にも、心理的にも、くたくたであった。あれほど世話になったソニーを辞めることに、罪悪感を覚え、十三時間の飛行中、私の気持は屈したままであった。アメリカに帰りたいからと会社を辞めても、果たしてアメリカは私を受け入れてくれるだろうか。一人でやっていけるだろうか。もしかしたら、とんでもない誤りをおかしたのではないか。私は不安にかられた。思い屈したまま到着したワシントンで最初に出合ったアメリカ人は、黒人の入国審査官である。彼女は私のパスポートを見ると、
「あなたジョージタウンを出たの、いい学校ね。うらやましいわ」
と言った。彼女の声は明るくて、気さくで、暖かかった。日本の入国審査官だったら、決して見せない、一人の個人としての顔をもったアメリカ人が、そこにすわって、ほほえんでいた。その時なぜか私は、ああアメリカへ帰ってきたと思った。アメリカは変わっていない。私がソニーの人間であってもなくても、この国の人たちは気にしない。「どちらの阿川さんですか」などとたずねられることもない。どこにも属さない私という個人を、昔と同じように迎えてくれる。会社を離れて一人になっても、この国でなら私はなんとかやっていける。その感慨には何の根拠もなかったが、言いようのない安心感が私を包んだ。税関を出ると、日曜日の空港は人気が少なく、成田の喧騒が嘘のようであった。外は一面の雪景色である。知人の迎えの車を待つ間、空港の周りのすっかり雪に覆われた木々を見ながら、私はほっとして、冷たい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
あの朝から、五年の歳月が流れた。一九九一年の夏には、四年近く暮らしたワシントンを引き揚げ、再び東京へ戻ってきた。一九七五年以来、十七年のうち十年近くをアメリカで過ごした勘定になる。知らず知らずのあいだに、アメリカの空気とものの考え方が、体にしみこんでいる。アメリカの街を歩いていると、よく中国系のアメリカ人に間違えられ、中国語で話しかけられる。日本人だと言われる方がむしろ少ない。中国人の友人によれば、日本人にしては目つきが鋭くないのだそうである。喜んでいいのか、悲しむべきなのか、よくわからない。しばらく東京で働いていると、またアメリカの空気が吸いたくなってくる。
近ごろ、嫌米という言葉をよく聞く。日本人のアメリカに対する心情は、昔から複雑である。賛嘆が嫉妬とまじりあい、敬意が軽蔑をうちに含んでいる。アメリカの没落を憂う論調には、密かにそれを喜ぶふしがある。しかし多くの米国論からは、個人としてのアメリカ人の姿が見えてこない。アメリカのことを声高に論じる人々に、「あなたたちは普通のアメリカ人を何人知っていますか」と、聞きたくなることがある。「アメリカが嫌いですか」とたずねられたら、私はためらわずに「アメリカは大好きです」と答えるであろう。私がこの国の政治や経済を理解しているとは思わない。しかし、何人かのアメリカ人を本当の友人としてもっているとの、確信がある。アメリカが何かはわからないけれども、彼らについては、ほんの少し知っているつもりである。
そんなわけで、この本はアメリカを抽象的に論じたものではない。この本は、私が経験し、出合った、ごく限られた範囲のアメリカとアメリカ人を、敬意と親しみをこめて文章で描いたものである。読者が縁あってこの文章を読み、少しでもアメリカという国と、そこに住む人々を好きになってくだされば、私は嬉しく思う。大統領が変わっても、議員や官僚が交替しても、変わらぬアメリカがあるのを知って下されば、幸せに思う。
この本を書くにあたって、アメリカと日本の多くの友人が力を貸してくれた。いちいち名前を挙げないが、心からお礼を申し上げる。
著 者
一九九二年十一月
この作品は平成五年二月新潮社より刊行され、平成八年八月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
アメリカが嫌いですか
発行  2002年4月5日
著者  阿川 尚之
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861181-0 C0893
(C)Naoyuki Agawa 1993, Coded in Japan