阿川佐和子
走って、ころんで、さあ大変
目 次
不良ラーメン
災 難 自 慢
再  会
似て非なる
とちりビール
門 限 酒
睡 魔 駅 弁
お 似 合 い
バカにされまいぞ
天 邪 鬼
オン・マイ・チーク
風 邪 便 り
憂 え る 巳
平成エヒメミカン
青春の日曜日
時計はめぐる
新幹線個室考
旅する紙袋
気配りオバサン
警 戒 教 育
フ テ エ 女
禁断の笑い
エイプリル・フール
立ち見コンサート
カワイコ遊び
更 新 暦
メダカ日記
子 供 嫌 い
見つけて三癖
ハ ゲ 予 言
バラを一輪
声わずらい
夏 の 酷
コーチの意地
さ ら ば 夏
続メダカ日記
バンコク記
唐がらしと人生
悲 し い 病
親  友
期待に応えて
赤い自転車
誕 生 日
変 身 願 望
父 娘 国 境
人 知 れ ず
祖母の遺言
サンタのサイン
師走の決断
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不良ラーメン
あまりにもお腹がすいたので、ふと目にとまったラーメン屋さんに入ることにした。以前、新橋のこの店の前を通りかかったとき、長い行列ができていた。きっとおいしいに違いない。一度試してみたいと思いつつ、この道を歩くときにかぎって、「ねえ、ちょいと、ラーメン食べていこうよ」とはいかにも誘いにくい人間と一緒なので、なかなかチャンスに恵まれなかった。
一人で入る勇気はない。恥じらう歳《とし》はとうに過ぎたというのに、いまだに一人で食べ物屋に入ることに抵抗がある。
しかし、今日のところは花より団子、羞恥《しゆうち》心より空腹感が先に立つ。昼のピークが過ぎていたためか、幸い店内にお客はまばらだし、思い切ってのれんをくぐることにした。
「いらっしゃい」
と、店の奥から元気のいい声が響いた途端、身がすくみ、入り口にいちばん近い席をとる。
威勢のいいおねえさんがやって来て、水の入ったコップを差し出しながら、
「はい、なんにしましょう」
「えーっと」と壁に掛かったメニューを見上げると、「焼豚」という文字が目に入った。そこで、
「ショーチュー」
ひと声発したら、すかさず「ハッ?」と問い返され、自分でもどこかおかしいなとは感じたが、もう一度、
「ショー、チュー!」
大きな声で叫んでから気がついた。
「あ、いえいえ、あれよ、その……」
「チャーシューですかぁ?」
そう応《こた》えたおねえさんの、怪訝《けげん》そうな目。私が、真っ昼間からひとり、ラーメン屋で焼酎《しようちゆう》をあおる女に映ったのだろうか。そう思うと、ますます身の縮む思いがした。
ラーメン屋ですら、なかなか一人では入れない小心者が、ラーメン屋の前で、ずいぶん大胆な行動をとった思い出がある。
もう二十年近く昔になるが、当時、中学生だった私は、友達にくっついて、学校の帰りに赤坂のTBSまでやってきた。その頃、若者のアイドルといえば、タイガース、テンプターズ、スパイダースといった和製グループサウンズで、誰がどのグループの誰を好きかということが、その人間の信頼性につながるほど、彼らは重要な存在だった。憧《あこが》れの歌手がテレビ局やスタジオに来るという情報を掴《つか》むと、たちまち放課後の行き先が決まったものである。
が、正直なところ、私はどうしてもこのグループサウンズというものに興味が湧《わ》かなかった。しかし、興味がないと言うと、「まあ、アガワさんって、気取ってる」と仲間外れにされる危険性がある。そこで、このようにときどき、今で言う、オッカケに参加する必要があった。いわば、私にとっては「おつきあい」だったのである。
もちろん寄り道は校則違反だし、親にも内緒にして来ている。セーラー服姿のまま慣れぬ大人の街に来て、日が暮れる頃になると、自分が相当の不良になったような気がしてドキドキした。
テレビ局の裏門でしばらく待っていると、突然、誰かの叫び声がした。
「あ、ショーケンが出てきた!」
その声を合図に「キャーア」と黄色い声を挙げながら、オッカケ軍団が一斉に走り出す。何事かと思いつつ、私も一緒に「キャーア」と走り出す。見ると、前方を派手なミリタリー調スーツの男たちが走っている。
こう言うのもナンですが、私は徒競走は得意だった。みるみる皆を追い越して、憧れの君どもに近づくと、彼らがラーメン屋に入るのをしっかりと見届けたのである。
「ほら、いるいる。ここから見える」
ラーメン屋の引き戸は、上半分が曇りガラスだったが、下半分は透き通っていて、かがむと店内を覗《のぞ》くことができた。
「あー、ほんとだ。マツザキがこっち向いて笑ったあ」
「キャーア」
思い切り走ったせいだろうか。そんなに好きでもなかったはずなのに、いつのまにか熱狂的なファンになったかのような興奮を覚えている。店の前に居座って、何度も中を覗き込み、手を振ったり、名前を呼んだりした。通行人の目もなんのその。店の人たちにまで笑われながら、しばらく騒いだ後、騒ぎ疲れて退散した。
それから数日後、期末試験を目前に控えた或《あ》る日の夜遅く、父が突然、
「おい、ラーメン食いにいかないか」
と言い出した。
父が夜中に突如思いついて、「出掛けよう」と言い出すのには、子供の頃から慣れていた。「この時間なら道がすいているから」といって家族中、叩《たた》き起こされ、父の運転する車で旅行に出たことが何度あっただろう。
「でも、あたし、試験勉強しなきゃ」
「いいじゃないか、そんなに長い時間かかるわけじゃない。赤坂に『すすき野』っていう、うまいラーメン屋があるんだそうだ。行ってみようじゃないか」
『すすき野』と聞いて、ドキッとした。
「なんだ、おまえ知ってんのか」
「いえ、ぜんぜん」
とうとう強引に連れ出され、保護者とともに、不良現場の検証に赴《おもむ》くことになってしまった。
「いらっしゃい」
威勢のいい声で迎えられる。
「ほう、こりゃうまそうだ」と父は上機嫌。「あら、なににしようかしら」と母もニコニコ。そして私は、なるべく店の人に気づかれないようそっと席につき、持ってきた物理の教科書で顔をおおい、勉強するふりをした。
「そんなに寸暇を惜しんでまで勉強しなきゃならんかねえ」
父の表情が少し曇る。
「だって……」と口ごもるこちらの気持ちを親の知るよしもなし。
食べ終わって席を立ったとき、「毎度どうも」と店の人が私に向かって笑いかけたのは、単なる社交辞令だろうか、それとも意味があってのことだったか。
その後、ひょんなことからTBSで仕事をするようになり、毎日のように『すすき野』ラーメン店の前を通るけれど、一度も一人で中に入ったことがない。もしかして私の不良の実態を覚えている店員さんがまだいるかもしれない。
「昔っからオッカケってのは、いたねえ。よくウチの前でねばってたもんだよ。親の顔が見てみたいと思ってたら、ちゃんと親ァ連れてきたのがいたからね。驚いちゃった」
想像すると、足早に店先を通り過ぎてしまうのである。
災 難 自 慢
我が友、ミッポちゃんが泣きそうな声で電話をかけてきた。
「盗難に遭っちゃったのよ。公衆電話にバッグを置き忘れて、三分後に取りに戻ったときはもう、お財布と化粧袋が抜き取られてた。現金六万円と銀行のキャッシュカード三枚、免許証、診察券でしょ。それに化粧道具一式……どうしよう」
あまりのショックにその日の夜は、悪夢のおまけまでついたそうで、
「なんであんな恐ろしい夢を見るのかしら。私が殺人犯になってるの。自殺まで考えて崖の上に立つんだけど、木が邪魔で飛び降りにくいのよ。起きたら汗ビッショリ。きっと、私の人生を予見しているんだわ」
ここまで落ち込まれると慰めの言葉も浮かばず、そういえば、私はなんの夢を見たかと考えてみる。
「そうそう、私はね、耳が痒《かゆ》くて、掃除してみたらゴッソリ取れて、まだまだ取れて、あら、きりなく取れてどうしたのかしらって思っている夢」
その落差にミッポちゃんはさらなるショックを受けたとみえ、私相手では到底、元気回復は望めないと悟ったか、力なく電話を切った。
ある友達の家では、誰かが「痛い!」と叫ぶと、とたんに家族が飛んでくるという。
「どれどれ、痛みを取ってあげよう」
そう言って、痛いと訴えている箇所とは異なるところを、思い切りツネる。ツネられた方は、そりゃ、驚く。
「痛いっ、なにすんのよ!」
「ほら、さっきの痛みは消えたでしょ」
最近、この家族はとても我慢強くなって、安易に「痛い、辛《つら》い」と言わなくなったそうである。
確かに自分が抱えている以上の痛みや悩みが目の前に出現すれば、「あたしの悩みなんてたいしたことはない」と気が軽くなるものだ。世の中にはもっと悲しい話がある。嘆き悲しんでいる人はたくさんいるのですよ、ミッポちゃん。
翌日の日曜日、銀行からお金を引き出すこともできず、ただ静かに自分のアパートで蟄居《ちつきよ》している傷心ミッポのところへ、改めて慰めの電話をかけることにした。
テレビの仕事のために訪れたフランスで、私はスリに遭った。パリのホテルにチェック・インしてまもなく、さあ、これから街に繰り出しましょうと意気込んでホテルの玄関を出た途端、ものの三メートルも行かない場所で、ハッと気がついたら数人の女子供に取り囲まれていた。ジリジリと私の身体に擦《す》り寄って来て、
「アン・フラン、アン・フラン」
と手を差し出す。どうやら「一フランちょうだい」と言っているらしい。見ればその女性は、十一月の寒空の下、みすぼらしい恰好《かつこう》をして幼い乳飲み子を胸に抱き、なんとも悲しそうな顔をしている。
「ちょっと、そう言われてもですね。参ったなあ。かわいそうではあるけれど」
通じるわけもない日本語でブツブツ呟《つぶや》きながら、どうしたものかと戸惑った。すると、横を通りかかったフランス人女性が突然、私に向かって叫ぶではないか。
「アタンシオン!」
フランス語はほとんどわからない私でも、アタンシオンが英語のアテンションであり、すなわち、「気をつけなさい」という意味だということぐらい、三秒ほどの時差をもってすれば理解できる。
「なに、そうか、しまった」
慌ててもがき始めたが、私の袖《そで》を引っ張る力は相当に強かった。少しずつ足を横にずらしながら、なんとかホテルの玄関に辿《たど》り着き、中へ滑り込む。早速、肩からぶらさげていたバッグの中身を点検すると、はたして、みごとにお札入れだけが抜かれていたから驚いた。
たぶん、私がいたいけな赤ん坊に気を取られている間に、下からもぐってバッグに手を突っ込んだ者がいたに違いない。
被害額は約十万円ほど。その旅行のために用意したおこづかいのほぼ全額が一瞬にして消えた。
なんてこった。せっかくの花のパリで、落ち込み、食欲がなくなって、ため息ばかりが漏れた。忘れよう。怪我をしたわけではないんだし、パスポートも無事だった。きっと今頃は、憎きスリ一家もごちそうを食べていることだろう。暖かいセーターを買ったかもしれない。今夜は怖いボスになぐられずにすむ。もしかすると彼らだって、何もスリになりたくてなったわけではない、あのミュージカルの「オリバー!」に出てくるような、気の毒な少年少女かもしれない。そう空想することで、我が身を慰めた。
「で、お金は戻ってきたの?」とミッポちゃんが電話口で訊《たず》ねる。
「戻ってくるわけないじゃない。結局、パリで買ったものといえば、絵はがき三枚だけだったんだから」
「ふーん」
と感心されると、どことなく誇らしい気持ちになっている自分に気づく。
災難に遭遇しているのは決してあなただけではない。「私なんてねえ」と自分の被害のほうが、よりひどいものだということを強調し、にもかかわらず、私はそれを克服し、今じゃ、笑いながら話せるほど立ち直っているんだからね。と、だんだん話しぶりが慰めではなくなって、むしろ自慢に近くなる。実際、今回の事件以来、彼女のところへは「私なんてねえ」経験談が数多く集まったらしく、
「いろんな話を聞いたわ。二回も盗難にあったって人もいるのね。後輩をいっぱいひき連れて、『よし、今夜は俺がおごるよ』ってお財布を探したら、なくなっていたとか、それからね……」
共稼ぎの夫婦がゴミ収集日に、
「今日はあなた、捨ててきて。台所にまとめてあるから」と妻。
夫は「はいよ」と返事をし、言われた通り、台所に置かれていた紙袋三つをぶら下げてそのまま出勤した。妻がひとあし遅れて家を出ようとしたら、セカンドバッグを突っ込んでおいたはずの紙袋が見当たらない。慌てて夫の会社に電話をすると、
「えっ、ゴミの袋って二つだったの? 俺、三つとも捨ててきちゃった」
清掃局に連絡をしたが、すでに現金も銀行の通帳もハンコも、灰になった後だったという。
この話に刺激され、私はさらに過去にさかのぼって財布|すられ《ヽヽヽ》事件を二つも披露した。
「私なんてねえ……」
すると、ミッポちゃんは「ふーん」と唸《うな》り、納得したように言った。
「少し元気になってきたみたい。だって、みんなずいぶん不注意だってことがわかったもの。それに比べりゃ、私はかなりだらしなくない方だわね」
こういう慰め効果もあるもんだ。
再  会
その人は、私が店に入ったとたん、こちらに気がついて手を振った。
「やあ」
会社の同僚ふたりと会食中らしく、お箸《はし》を片手にニコニコと笑っている。
「あっ、お久しぶりです」
答えながら、私は自分が動揺していることがわかった。
「よく来るの、この店」
「いえ、まあ、ときどき」
彼らの斜め向かいに席を取ると、同伴の女友達が、興味|津々《しんしん》の目で私に訊ねる。
「だーれ、あの人」
私は限りなく小さな声で答えた。
「むかしむかし、そのむかし、結婚しようかなと思ったことのある人」
彼女はフーンとしたり顔で頷《うなず》くと、あたかも壁に掛かっているメニューを見るようなふりをして、ゆっくりと後ろを振り返った。我が再会の君は、これといったショックを受けている様子もなく、楽しそうに笑う背中が揺れていた。
未練があるわけではない。成るべくして成った結果である。過大評価するつもりもない。それほど悲劇的な別れではなかったはずだ。しかし、一度は「この人のもとへ」などと頭をかすめた人間に、思わぬところで出会ったのだから、これはやはりドラマである。
これから食事をいただくのだとは思いつつ、私は鞄《かばん》の中から口紅を取り出し、そっと塗った。友達がそれを見て、「もう、おそい」と囁《ささや》いた。
表参道の駅の階段を上がりかけたところで、男性に呼びとめられたことがある。私と擦《す》れ違いぎわにその人は突如、大声を発した。
「やあ、こないだはどうも」
どうもと言われても、瞬時に思い当たらない。さて、どなただったろう。
「ああ、どうも」
取りあえず、返事をしてから考えることにした。
もともと記憶に関して自信があるほうではない。ないと公言していると、なおさら記憶力というものは低下するらしく、この頃は、以前にもましてひどくなってきた。
人の名前なんて、そうそう覚えられるものではないと頭から決めつける癖は、父親譲りである。
子供の頃、父とスーパーマーケットで買い物をしていたら、正面からひとりのご婦人が近づいてこられた。
「まあまあ、阿川さん。ご機嫌よう」
父はとっさに身がまえて、実に機嫌のよさそうな顔で応えた。
「おー、これは、これは。やあー」
「奥様もお元気でいらっしゃいまして?」
「はあ、おかげさまで」
話が弾んでいるところをみると、よく存じ上げている方らしい。会話の仲間に入れてもらえず手持ち無沙汰《ぶさた》になった私は、ご婦人がちょっと横を向いておられるすきを狙《ねら》って父の袖をひっぱった。
「だれ? どこの人?」
父は私の質問が聞こえないらしい。私はしつこく袖をひっぱった。が、さらに返事がない。あきらめていると、ご婦人が立ち去った後、父は叫んだ。
「聞くなよ。思い出せないんだから」
こういう父をひどいなあと笑えなくなってしまった。
表参道の男の人は、私の答えが曖昧《あいまい》なのをみて、なんとか思い出させようと必死である。
しかし、「あなた、後藤さんのお友達でしょ」とか、「ほら、例の木村君のパーティーで会ったじゃないですか」などと具体的な話になればなるほど、こちらの頭の中は真っ白になっていく。しかたなく、半分思い出したようなふりをして、「あー、そうかぁ、そうでしたねえ」と調子を合わせて別れたが、どうしても釈然としなかった。
いったい私はそのパーティーとやらでどういう会話を交わし、なにをしたのだろう。その楽しかったであろう思い出を、私がまったく覚えていないと知ったときのその人のショックはいかほどのものだろう。
それから二週間後、一通の手紙が仕事場に届いた。
「先日は、表参道の駅で失礼しました。なかなか思い出して下さらないので変に思い、よく考え直してみましたら、人違いでした。あなたにとてもよく似た女性を知っていたものですから。謝ろうと思っていたところ、テレビに出ておられる姿を発見し、お便りしました」
『舞踏会の手帖』という古い映画がある。未亡人クリスチーヌが、社交界にデビューした時の手帖を見つけ、そこに名を記しておいた踊りのパートナーを訪ねて旅に出る。ある者は神父に、ある者はいなか町の町長に、そしてある者はその後の人生を過《あやま》って、今は昔の面影もない。女は失望するばかりであった。とうとう最後のひとりに望みを託し、いよいよ対面というシーンになる。美しい湖に面したバルコニー。大きな噴水のわきに、物憂げに腰かける男のシルエットは、まさに、
「あの方だわ」
女は胸をときめかせ、近づいていくと、
「父は亡くなりました」
思い描いていたのと瓜《うり》二つの若い男がこう答えたとき、私は感動するというより、むしろ恐ろしいと思った。
よくそんな大胆なことをするもんだ。これが息子だったからよかったようなもので、本人だったら果たしてハッピーエンドと言えるのであろうか。
「まあ、お懐かしゅうございます」
「おお、君は……」
再会を喜びあった次の瞬間には、お互い心の中で呟くであろう。
「なんだか、ずいぶん老けちゃったわね、この男。クシャクシャじゃないの」
「昔はきれいだったけど、こういうタイプの女は太るもんだ。ウエストなんてどこへいっちゃったんだい、まったく」
友達との食事を終えて席を立ち、再会の君の横を通るとき、
「じゃ、お先に」
挨拶をすると、
「君はまだ、結婚してないの」
突然、問いかけられた。
「ええ、おかげさまで」
「僕、もう三人、子供がいるんだよ」
そう言って、お財布の中から写真を取り出した。
「わあ、かわいい」とここで気を許し、笑ったのがいけなかった。彼は私をじっと見つめ、静かに言った。
「ずいぶん、シワが増えたねえ」
だから、会いたくなかったのである。
似て非なる
雑誌の仕事で作家の橋治さんにお会いした。この仕事は数年前から「作家にインタビュー」というページで連載しているものだが、担当編集の方に「次号は橋治さんに決まりました」と報告されたとき、私はちょっと勘違いをして、橋本治さんの顔が頭に浮かんでしまった。
「えっ、たしか、前にもインタビューを申し込んで、とても人見知りだから勘弁してくださいってご返事がきませんでしたっけ」
「えー、そんなことありました? 人見知りっていう感じじゃないけどなあ。昔、映画監督でいらしたんだし……」
「あら、橋本さんって映画監督だったの?」
「ハ・シ・モ・ト? いやだあ、橋さんですよ」
という話は、橋さんには内緒にしてある。
でもなんとなく間違えたくなるようなお名前ではないですか。もっとも、橋さんにはすでに一度、お会いしているので、この言い訳はあまり効きそうにない。
まだ私が両親の家に住んでいた頃、ひょっこり我が家に見えたことがある。突然のことだったので、お化粧もせず、ジーパンにヨレヨレのシャツ姿のままお茶を運んでいくと、父と話していた客人は、ふとこちらを振り返り、訊ねられた。
「テレビに出ているお嬢さんは、この方の妹さんですか」
どう冷静に考えても、これは「テレビで見る、とりすました顔と、この無粋な女とは、とても同一人物に見えない」ということだろうし、しかも「妹」ときたからにゃ、「テレビのほうが若い」となり、しかるに「実物は老けておる」と解釈できる。
ああ、もうこの歳になると、洗い顔で人様の前に出てはいけないんだわ。深く胸に突きささった言葉の主が橋治さんだとは、その直後、台所に退散し母に聞いてはじめて知った。内容のほうが鮮明で、どなたの台詞《せりふ》だったかをとんと忘れていたけれど、そうだ、今度お会いしたらこの話から始めてみよう。
いまさら気取っても始まらないのはわかっているのに、五年ぶりとなれば一応よそいきのイイ顔を見せたいと思うのは女の性《さが》だろうか。シワが寄り過ぎない程度に微笑《ほほえ》んで、
「どうも、ご無沙汰しております。いつぞやは……」
と、おもむろに例の話を持ち出そうと思ったその矢先、橋さんは声を潜めておっしゃった。
「妹さんですかっていう僕の台詞、なかなかいい褒《ほ》め言葉だったでしょ」
監督さんという職業を経験した方は、こんな風に女の気持ちをアフターケアなさるのがお上手らしい。いかに撮影現場で罵《ののし》ろうが怒鳴ろうが、最後にヒョコッと「さっきのは全部、君のための褒め言葉だったんだよ」なんて囁いておけば、落ち込んだ女優さんでも、「あら、そうだったのね」と納得し、翌日からはまた元気よく撮影に復帰できることだろう。
なんだかよくわからないけれど、私の場合も、もしかして、あれは褒め言葉だったのかなと思えるような気がしてきた。
で、私の方は、失言をうまく転換させる能力を持ち合わせていないから、「治違い」の一件はやっぱり隠しておくことにした。でも実際、こういう勘違いはよくある。
友達の友達(だから、私は知らない人)が、年配の方々がお集まりのある席で、「わたくしの祖母は近親|相姦《そうかん》で亡くなりました」と発言して大騒ぎになったという話を聞いたことがある。もちろんこれは失言で、本当は「心筋|梗塞《こうそく》」と言うつもりだったらしいが、後悔先に立たず。
その後どういう顛末《てんまつ》になったかは知らないけれど、言った本人はさぞ冷汗をかいたことだろう。
この話を聞いて以来、私の頭の中で心筋梗塞と近親相姦が同じ抽斗《ひきだし》にはいってしまった。
片方を取り出そうとすると、必ずもう片方もついてくる。頭の二文字の母音が似ているのと、三文字目の母音が同じであるという、これだけの共通点で、意味の上では何ら関連のない二つの言葉が、周りの反対を押し切って突然、結婚してしまったようなもんで、切り離そうと焦れば焦るほど、両者の結びつきは強くなる。
おかげで私は、心筋梗塞という言葉を使おうとする度に、一瞬、頭で唱えてからでないと声に出せなくなった。
昔、家族|揃《そろ》って中華料理を食べに出掛けたときのこと、注文し過ぎて料理がだいぶ残ってしまった。もったいないけれど、これ以上とてもお腹《なか》に入らない。
「しまった。タ○パ○○スを持ってくるんだったね」
ストレートに使うには、やや憚《はばか》られるような言葉ゆえに、一部伏せ字にさせていただきますが、このときばかりは、なぜかサラリと口から出てしまった。
私の放言にまず反応したのは、隣に座っていた母である。口をあんぐり開け、目を見開き、あきれかえって声も出ないといった表情。ハテと私も直ちに自分の過ちに気づいたけれど、もう取り返しがつかない。
幸い同席していた父や弟ども男達は食べることに夢中で気づいていない様子だったので、話題が他へ移るまでしばらく静かにして、なんとか事なきを得たが、もう少し大きな声を出していたら大変なことになっていただろう。
ちなみに私は「タッパウェア」と言いたかったのである。
この親にしてこの子ありとは、よく言ったもので、こういう失態癖は明らかに遺伝によるところが大きいと思っている。
二十年ほど昔、父は講演先の宿で色紙にサインして欲しいと頼まれたそうである。そういうのは苦手です、勘弁してくださいと逃げ回り、他の講師の方々が一通りサインし終わるまで、旅館の中をウロウロしながら身を隠していたという。
が、とうとう見つかって逃げられなくなった。父は観念し、色紙を手にペンだか筆だかをとって、書き始めたひと文字目が、
「あ」
アッと思ったときは時すでに遅く、本当は「いろはにほへと」と書くはずの予定がここで完全に狂ってしまった。
しかたなく、父は「あ」のうしろに「い・う・え・お」とつなげてみる。が、色紙はなお半端に余白を残しているため、さらにしかたなく、「か・き・く・け・こ」と書き加え、最後に自分の名前をつけて相手の方にお渡ししたそうな。
「信じらんなーい。恥っずかしーい。とても小説家とは思えない」
と娘が父親を罵倒《ばとう》したせいか、
「うるさい、『あいうえお』も『いろは』も似たようなもんだ」
と反論しながら、父は次第にこの話に触れたがらなくなってしまった。いまやこの件に関しては、母の記憶もあいまいになり、かといって本人に聞けば機嫌が悪くなるだろうから、どこの土地でのできごとだったかを確かめる術《すべ》がない。
しかし、その色紙はいまだに日本のどこかに残っているはずである。
とちりビール
またしても自分のドジを披露するのは、はなはだ心苦しいが、「こういう失敗はアータ、公の前にちゃんと曝《さら》しておいたほうが、のちのちのためになるものよ」と、友達にもっともらしい説得をされたので、この際、勇気を奮い起こしてミソギをすませることに決めた。
実は番組の本番で、映画『座頭市』の撮影中に起こった事故に関連するニュースコメントを読んでいて、真剣で首を刺され死亡した役者さんの名前の前に「殺陣師」とあったのを、「サツジンシ」と読んでしまった。コマーシャルになったとたん、プロデューサーが血相を変えて飛んでくるなり早口で叫んだ。
「タテシ、読みまちがい、訂正!」
そこで初めて気づいたメインキャスターの秋元秀雄氏は「なに、どこ間違えたの? なんて読んだって」と、我がミスを追及なさる。頭にカーッと血がのぼる。司会の小島|一慶《イツケイ》さんは、いかにも「マズイ」という表情。
「はい、コマーシャル明け、五秒前です。四、三、二……」
「えー、ただいまのニュースの中で、殺陣師のことをわたくしが、サツジンシと読んでしまいました。お詫《わ》びして訂正いたします。失礼しました」
ガァッハと秋元氏はひと笑いしてから、「国語力を疑われますな」と付け加えられた。
こういうときに限ってゲストの数が多いときている。しかも、その日はアメリカ、イギリス、西ドイツの外国人記者の方々にお集まりいただいて、日本の政治の腐敗ぶりに苦言を呈していただこうという企画である。もちろん、みなさんめっぽう日本語がお上手。その教養たかき外国のお客様の前で、日本人たる私が日本語を読めないという醜態を演じてしまったのだから、もう、穴があったら入りたいとは、まさにこういう気持ちだろうと思った。
おそるおそる目をあげると、BBC放送のデビッド・パワーズ氏が、いともやるせない表情で私を見つめ、なぐさめてくださった。
「日本語はむつかしいですねえ」
それから三十分あまり、スタジオでは実に有意義な、中身の濃い討論会が繰り広げられたにもかかわらず、私は自分のミスによる興奮が冷めやらぬまま、最後まで、どの方のお話もまったく頭に入ってこなかった。
言い訳を言わせていただければ、私は決してタテシという言葉を知らなかったわけではない。
が、これを漢字で書くとなると、イメージとして「立」という字面《じづら》が頭に浮かび、そこに殺陣師ときたからにゃ、「どうも立師の正式名称はサツジンシというらしい」と思ったわけである。
「そういうことはあるよ。ずっと思い込んでいて疑うことなくきてしまったってことは」
番組終了後、スタッフルームに戻ってから、秋元さんが笑いながらおっしゃった。ガンと怒鳴られるのも怖いけれど、こういうのも妙に悲しく、我が身が情けなく、なおさら落ち込むものである。
「いや、ホント、僕も昔、ラジオでね」
と、続いてなぐさめの言葉をかけてくださるのは一慶さん。
「牽引車《けんいんしや》のことをケンビキグルマと言ったことがあるんだ」
「あたしもね。つい最近まで、烏と鳥って違うこと知らなくて。烏山のことをトリヤマって言ってたの」
と、今度はベテランタイムキーパーの高濱さん。
「そりゃ、ひどい。なに、四十すぎるまで気がつかなかったわけ」
「俺なんかさあ」
とつぎつぎに、出てくるわ、出てくるわ。なんとか私を元気づけようという皆様の思いやりを、涙なくして語れましょうか。中には、私のそばにきて、耳打ちをしたディレクター氏もいた。
「あれさ、タテシって読むこと知らなかったの、僕だけかと思ってた。黙っててよかった」
今までにも数多くドジを繰り返してきたけれど、中でも思い出深いのは、やはりニュースのコメントに「今日、北海道の釧路湿原で大自然をバックにユニークな音楽会が開かれました」とあった中の「釧路湿原」を「釧路温泉」と読んでしまったこと。我々の使っている原稿は手書きのものだが、その湿の字が、じつに温と似ていたのである。
釧路に温泉があったかどうかを考えればわかるかもしれないし、だいいち釧路ときたら湿原と続くのが常識人の感覚だといわれれば二の句もつげないが、とにかくそのときはまったく疑問を持つことなく、じつにシャアシャアと読んでしまった。あまりのシャアシャアさ加減に、誰もにわかにはこの失敗に気づかなかったようだったが、唯一、隣に座っていた鈴木順アナウンサーだけは、聞き逃さなかった。隙《すき》を見て私の肘《ひじ》をつつく。
「なーに?」と小声で問い返すと、
「湿原、湿原」と鈴木氏。
「なんか失言しました?」
「ちがうよ。釧路温泉じゃなくて、釧路湿原なの」
昔は番組中に失敗すると、あとでスタッフ全員に「とちりビール」をついで回ったものである。スタッフルームに戻って大瓶を抱え、ひとりひとりの紙コップにつぎながら、「どうも、今日は失礼しました」「いやまあ、明日から気をつけて」なんて具合にビールに流してもらう。
この儀式はそもそも、「とちり蕎麦《そば》」の話を耳にしたことから始まった。映画やテレビドラマで撮り直しというものがまだ容易ではない時代、だれか一人のミスのために役者さん全員を招集し直して、また初めから撮影しなければならない。そのドジの張本人が、お詫びの印《しるし》に全員に蕎麦をふるまったという。
「だから、失敗すると蕎麦をとって、みんなに謝る習慣があるんだよ」
私のようにしょっちゅうドジを繰り返していては、とても蕎麦ではお金が続かないし、幸いなことに、我々の番組が終わる深夜には蕎麦の出前はない。ならば、みんなが毎晩飲むビールを「おつぎすること」で誠意を表明しよう。
と、この安易な謝罪方式がいつのまにか「とちりビール」と命名されていた。もっともこれを命名したのは私であり、実行していたのは、もっぱら私ひとりだった。
門 限 酒
最近|凝《こ》っているお酒がある。
トルコのお土産に頂戴《ちようだい》した「ラクー」という名前のリキュールで、果実を原料とした蒸留酒にアニス(ういきょう)の香りを加えた、いわばヨーロッパ系焼酎。液は透明で、見た目はウオツカやジンと似ているが、グラスの中で水と接触したとたんに白く濁るところが特徴である。その濁り方が、なんともエキゾチックでいい。次第に白く変化していく魔法の液を観察しながら、静かにグラスを口に近づけると、強烈なアニスの香りが鼻を突く。甘い、いや、辛いかな、とにかく強いねえと言いながら喉《のど》の奥に流し込む。胃が適度に刺激され、元気になる感じがする。
摩訶《まか》不思議な味わいのこのお酒、トルコに限らず、地中海沿岸の国々にはたいていあるらしい。アラブ諸国ではシシカバブを食べるとき欠かせないそうだし、ギリシャでは、ウゾーと呼ばれ、昔、よく飲んだよと話してくれる人もいた。
私がこのお酒を知ったのは、十年近く前、フランスに行ったときである。通訳をしてくれたフランス人の青年がレストランで食前酒として飲んでいたもので、珍しそうに覗き込んだら、「ちょっと嘗《な》めてみますか?」と勧められた。そのときは、漢方薬でも飲んでいるような印象だったが、以後、何度か試すうちにだんだんと好きになり、しまいには忘れられない味になった。
フランスではこのお酒を「ペルノー」と覚えたが、どうもそれは商品名らしい。「世界の名酒事典」を調べてみたら、アニスの香りの入っている蒸留酒というのは、各国各社、ずいぶんたくさんの銘柄がある。
久しく忘れていた味に再会したのはつい先日、番組が終わり、スタッフ全員が部屋に集まって、「お疲れさま」と乾杯をするときに、プロデューサー氏がそうそうと、酒瓶を持ち出した。
「隣の番組からもらったんだけど、誰か飲まない? 一本二百円なんだって」
栓を抜き、匂いをかいでみると、まさにあのお酒。
「あ、私、そのお酒、好きなんです」
物知り顔で説明し、飲み仲間を増やそうとしたのだが、おおかたの人間が一口嘗めると、「やっぱり僕はウイスキーにしとく」と拒絶なさる。こんなおいしいお酒を嫌いとは、残念だわぁと、口では言っておきながら、内心うれしい。独り占めできる。と、調子に乗って飲んだ挙げ句、
「けっこう酔っ払ってるねえ」
「いえいえ、そんな酔ってないっす」
と上機嫌で帰宅したのが午前三時。
翌朝、起きてみたら、なぜかバッグは玄関に、上着は廊下の隅に落ちていた。
生まれて初めてお酒というものを口にしたときのことを覚えている。まだ幼稚園に通っている頃だった。ある晩、父が小さなグラスにウイスキーを注ぎ、二歳年上の兄に向かい、「おい、ちょっと嘗めてみるか」と勧めた。兄は少しだけ嘗めてから、これ以上は一滴たりとも入れませぬと、グラスの縁をしっかと唇ではさんだ。私もすぐさま父のもとにいき、「佐和子も」と叫ぶ。普通の親なら「お前はやめておきなさい」と制するところだろうが、父は「そうか、そうか」と喜んで娘にもためさせた。あのとき、母はなにをしていたのだろう。
しばらくすると兄は「なんだか気持ち悪い」と言って寝込んでしまったが、私はいたって元気に、はしゃぎまくった。それ以来、兄はお酒がダメで、妹は強いとの判定が下り、我が家で父の晩酌相手をするのは、もっぱら娘の役割となった。
確かに嫌いではないし、弱いほうでもなさそうだ。かといって、「どれくらいイケるんですか」ときかれると、どう答えたものか悩む。
男性諸氏は自分の酒量をわきまえておられるらしく、私はボトル一本が限度ですとか、日本酒だと五合までは立っていられるが、それを越えると倒れるなどと、こと細かに描写なさる方が多いけれど、どうしてあんなふうに飲んだ量を覚えていられるのか不思議でならない。こっちは、「あら、もうだめです。いえ、ほんと」などと社交にいそがしく、ふと気がついたらベロンベロンというわけで、量を計って飲むなんて器用なことはできない。
いちばんお酒を飲んでいたのは、コンパが全盛だった大学生の頃かもしれない。私の学生時代には、男子も女子も二級のウイスキーか日本酒を飲んでいた。今のようなシャレたカフェバーなんてなかったから、渋谷や新宿の雑居ビルの中にある薄暗い雰囲気のスナックや焼き鳥屋で飲むことが多かった。いい機嫌に酔っ払いながらも門限が気になって、ちょこちょこと時計を盗み見ては、帰るタイミングを見計らう、その辛さ。
「そろそろ帰らなくちゃ」
「あと十五分ぐらい、いいじゃない」
「そうはいかないのよ。ウチ、うるさいんだから」
「十時になったら送っていくよ」
「でも……」と抵抗する声が、酔っ払っているから強くない。
かくして、馬車がカボチャに戻る瀬戸際にようやく家に帰り着く。当時の私には、午前様になるなんてとんでもないことだった。あたりは寝静まり、庭の木々までが不良娘をあざ笑うかのようにセセラ、セセラとそよいで見える。駅から走ったせいで、酔いはすっかり醒《さ》め、胸が苦しい。
ここで玄関のベルを押せば、母を起こすだけでなく、父に気づかれてしまうだろう。と、幸い、二階の電気がついている。弟の部屋めがけて石を投げ、「おい、おーい」と静かに怒鳴る。
「何やってんの、そんなとこで」
救いの神が窓から顔を出す。
「玄関、開けてよ」
「まったくしょうがねえなあ」
これで安心。玄関から直接、自分の部屋に潜り込んでしまえば、帰宅時間はバレなくてすむ。なにしろ現行犯がいちばんまずい。それを、意地悪な弟は、ドタドタと大音響で階段を降りてきて、ドアを開けるなり大きな声で、
「酒クセー。どこで飲んできたの」
「ちょっと、静かにしてよ!」
手で口を塞《ふさ》ぎ、うつむき加減にまた小声で怒鳴る。
「なに、コソコソしてんのさ」と大声。
「シーッ! 父さんが起きちゃうじゃないの」
「もう、起きてるよ」
「へっ?」
顔を上げると扉の陰に、不機嫌そうなパジャマの巨体が腕を組んで立っていた。
「お早いお帰りで」
睡 魔 駅 弁
仕事で仙台へ行った帰り、新幹線に乗ってひとり密かに駅弁の紐《ひも》をといた。乗車する前に仙台駅の構内で買った「鮭はらこめし」である。私は何カ月も前からこの駅弁を食べるのを楽しみにしていた。
「〇〇会社の研修会で、おしゃべりをしていただきたい」
という依頼を受けたとき、
「おしゃべりって、つまりそれは、いわゆるコーエンっていうような?」
「まあ、そんなもんで」
「そりゃ、できません。とても人様の為になるような話は持ち合わせておりませんから」
「いやいや、難しい話は不要です。どうか気楽な気持ちで。場所はちょっと遠いのですが、仙台でして」
「センダイ!?」と聞いた途端、断固固辞の決意がぐらついた。頭にあの駅弁の、鮭が跳びはねる蓋《ふた》の絵が浮かんだからである。
今一度、あの味に出会いたい。
数年前、初めて仙台を訪れたとき、帰りに食事をする時間がなくなって、
「こうなったら駅弁で済ませましょうか」
なかばあきらめの心境で買った「はらこめし」の予想外のおいしさに、すっかり魅了されてしまった。
醤油だしで炊き込んだご飯のうえに、三センチ角ほどの鮭の切り身と大粒のイクラがたっぷり散らしてある。隅に、奈良漬がひと切れとふき味噌が少々添えられ、箸休めにちょうどよい。ご飯の間に割り箸を差し込むとき、イクラの粒を破裂させないよう気をつけないと、ピュッと汁が飛んで服を汚す恐れがある(現に汚した)けれど、あとは味、量ともにバランスがよく、なかなかの逸品である。
テレビ局にお弁当はつきものだ。スタッフの仕事内容や時間の使い方がまちまちで、みんなが一堂に会して「いただきます」と言う機会が少ない。かといって、外へ食べに出る余裕もないとなれば、仕出し屋さんにお弁当を注文するのが手っ取り早い。
そうは言っても、毎晩同じメニューではあきてしまうので、日替わりにする。たとえば月曜日はトンカツ、火曜日は中華弁当、水曜日を幕の内、木曜日に洋風弁当といった具合。はじめはバラエティーにとんでいて、おいしいと思うのだけれど、お弁当生活に慣れるにつれ、どのメニューも同じような味になってくる。
「今日のお弁当、揚げ物ばっかり。えっ、お隣の番組はちらし寿司なの?」
隣のものはよく見える。不思議なことにあちらも同じことを考えるらしく、
「そっちは豪華だねえ。交換しませんか」
交渉が成立すれば、お互いにめでたい。たいして味が変わるわけではないが、人の食べ物をブン捕ったという動物本能的満足感が食欲をそそるのだろうか。
考えてみれば、私は幼稚園の時代から今に至るまで、ずっとお弁当離れができないままである。給食や菓子パンで昼食を済ませていた時代もあるけれど、しばらくするとまたあの味が懐かしくなって、大学や卒業後のアルバイト先にも、せっせとお弁当を作って通っていた。特別凝ったものを作るわけではない。たとい前の晩のおかずの残りでも、白いご飯と一緒に箱の中に詰め込むと、いきいきとよみがえるような気がする。私には「お弁当」という言葉自体が、食欲のもとになっているのかもしれない。
子供の頃は母が、兄や私のためにお弁当を作ってくれた。
母のもっとも得意とするのは「鰹節弁当」である。弁当箱の中に炊きたてのご飯を薄く敷き、その上に醤油に絡めた鰹節を薄くのせ、海苔をかぶせ、その上にまたご飯、鰹節、海苔、ご飯、鰹節、海苔と、何回か繰り返し、最後は海苔でしめくくる。鰹節のなかにわさびを混ぜて、ぴりっと辛みのきいたものにすることもあった。
このお弁当を作るときは、よく私が鰹節を削る役を言いつけられた。何層にも重ねて鰹節を敷くので、もう充分な量だろうと思っても、たいがい足りなくなる。
「まだぁー。あとどれくらいいるの?」
と鰹節削り器を両の足に抱えながら、何度も母に訊ねたものである。
その時分になると、いつも父が台所を覗きにきた。
「おっ、鰹節めしか」
ヒイヒイ泣きそうな声を発し、
「俺も死ぬまでに一度でいいから、こんな弁当を食ってみたい」
「あら、この間、召し上がったじゃないですか」
母が反論すると、
「いや、食わせてもらったことがない。おまえ達はいいなあ。しかし俺のことは気にしなくていい。後回しでいいんです」
母はしかたなく、もうひとり分のお重を棚から出し、私はまた、せっせと追加分の鰹節削りに精を出す。
新幹線のなかで「はらこめし」を食べ終わったら、トロトロと心地よい眠気に襲われはじめた。仙台から上野までの二時間を利用して原稿書きや翌日のインタビューの準備をしようと、たくさん資料を抱えてきたにもかかわらず、机のうえに書類を広げて十行も読み進まないうちに、両の瞼《まぶた》が視界を徐々に狭《せば》めてくる。
学生時代からそうだった。お弁当の時間が終わり、午後の授業が始まるとまもなく、とてつもなく眠くなり、先生の声が遠退《とおの》いていく。突然、隣席の友達から肘を突かれ、ハッと目覚めると、先生の顔が近づいてくる気配。慌てて教科書を机の上に立てる。汗でヨレヨレになったページはすでに解説が終わっているらしい。頭を乗せていた手の甲がしびれ、焦点はぼやけ、にわかには自分が今、なにをすべきかの判断がつかない。
コンコンと窓を叩く音がした。誰が私に合図をしたのだろう。
薄目を開くと、列車が止まっている。
「ああ、大宮かぁ」
ゆっくり車内に目を移すと、向こうから車掌さんがニコニコしながら近づいてきた。どうも私に用事らしい。起きたばかりだとは気づかれないように、こちらも笑みを返す。すると、車掌さん、
「終点ですよ、上野ですよ、お客さん」
へっ。にわかには何をすべきか……。書類を鞄に突っ込み、上着をつかんで、ゴミをまとめて立ち上がろうとすると、
「私が捨てておきましょう」と車掌さん。
「いえ、そんな」
すでに車内には乗客が誰もいない。これを幸運というのでしょうか。
「はらこめしはうまいですから、眠くなりますよ、ハハ。じゃ、お気をつけて」
はあ、どうもとお辞儀をして列車を降りたが、とても車掌さんの顔を振り返ることはできなかった。
お 似 合 い
花屋さんに行って、アンセリウムという花を買った。ハワイなどでよく目にするドクダミの親分みたいな花。蝋細工《ろうざいく》のようで毒々しく、余り好みではないとつねづね思っていたのだが、
「この暑さだからねえ、たいていの花はすぐしおれちゃうよ。でも、これはけっこうもちがいいの」
と、店のおねえさんが勧めてくれたので、試しに買ってみたのである。
「じゃ、この葉っぱをおまけにつけてあげようね。ぐっとシャレるよ」
なるほど、椰子の葉に似た大きな葉っぱを添えてセロファンに包むと、ドピンクのおばけ花は、南の島からやってきた水着姿の混血ボンドガールみたいで、なかなか色っぽい。眺めているうちに、無性にカレーが食べたくなった。
家へ着き、手持ちの中ではいちばん大きなガラスの花瓶に花を差し、食卓に飾ってみると、やはり、どう考えても今夜の献立はカレーである。この花には、鰺《あじ》の干物も納豆も、お味噌汁も似合わない。
ほんとうはひとり暮らしにカレーは禁物である。作るとなると、まさか一人前だけというわけにはいかないから、家族一緒に暮らしていたときの癖で、つい四、五人分の量になってしまう。残った分は冷凍すればよいと友達は言うけれど、そのためにはまず、冷凍庫に入っているものを食べてしまわなければ、カレーの入る余地がない。結局、冷凍にせず、温め直しては食べ、温めては食べを繰り返し、数日間は、ひたすらカレーとともに過ごす運命となる。
カレーという料理を作ること自体は好きである。長時間かけて煮込むから、出来上がるまでに何度もチョッカイを出したくなり、それがまた楽しい。
「そうそう、リンゴが一かけ、残ってたはず」
「なすが一本。これも合うわよね」
こうして冷蔵庫の残飯整理ができて気持ちがいいし、何かを新しく加えるごとに味見をし、複雑怪奇な味になればなるほど、「こんなおいしいカレーを作るなんて、あたしゃ、天才ではないか」とひとり悦に入る。
が、困ったことに出来上がった頃にはすっかりお腹がいっぱいで、改めて食卓でいただくほどの元気は失《う》せている。
その晩、せっかくセッティングしておいたカレー用のお皿は、そのまま棚に戻されて、食卓には、南国の花だけが、寂しそうな様子で待ちぼうけをくっていた。
「お似合いよ。とってもお似合い」
そのご婦人は、目の前に並ぶふたりをさもいとおしそうに見つめ、目を細くして微笑んだ。
ご婦人というのは、ふたりの共通の知り合いである。そしてふたりとは、私と、私のお見合い相手のこと。
十年近く前、
「なんだか、もうお決まりになったカップルに見えちゃうわ」
というご婦人の言葉を、どう受け止めたものか戸惑った。冗談じゃないと強く否定するのはカドが立つだろうし、といって、「あら、そうですか」とむやみに喜んだ顔をしては、そういう意思ありとみなされてしまう。
なにしろ、まだ会って三十分も経過していないのである。似合うか似合わないかは、これから判断することだ。今の段階で感想を申し上げるわけにはいかない。ここがお見合いのむずかしいところで、ある程度お互いの素性を知った上でお近づきしてみましょうという、半計画的な出会いだから、そう簡単に燃えるものではない。
と言いつつ、隣の男性がどんな反応を示しているかは一応、気にかかる。顔色を窺《うかが》おうと思ったら、テキはその前に、
「いや、どうも」
うれしいのかうれしくないのか、曖昧《あいまい》な返事をすると、婦人に向かって軽く会釈をし、
「じゃ、ふたりで食事に出掛けてきます。行きましょうか」
颯爽《さつそう》と私をエスコートしてくださった。
他人の目というものはおうおうにして確かである。自分には見えないところを冷静に判断することができるのだろう。洋服だって自分の好みと、似合う似合わないは必ずしも一致しないではないか。特別、理想のタイプというわけじゃないけれど、似合いのカップルと言われて悪い気はしない。こんどこそ、うまくいくんじゃないかしら。
しかし、まてよ。初めは似合っていないと批評されておいて、長年、寄り添ううちに馴染《なじ》んでいくほうが、楽しみがあっていいかもしれない。ふたりだけの食事の席で、私はあれやこれやと考え、迷い、くたびれた。そして、ふと頭に浮かんだ小話をしてみた。
「本当の話なんですけどね。知り合いの男性がゴルフコースを回ってたんですって。そうしたら、ついていたキャディーさんが臨時の人らしくって、あんまりゴルフのことわからなかったんですね。クラブを振り上げようとすると、すぐ前に立つ。『危ないよ。もっと後ろにいてちょうだい』って頼むと、五十メートルくらい後ろに下がる。クラブを取り替えようとするたびに、いちいち大声を出して呼び寄せなきゃならない。困ったもんだと思いつつ、またしばらく進んでから、はるか向こうの旗を睨《にら》んで、キャディーさんに聞いたんですって。
『ここからあのホールまで、どのくらいあるかねえ』
そうしたら、そのキャディーさんは答えたそうです。
『そうさねえ、お客さんの足だったら、二、三分で着くんでねえかい』」
ここまで話し終わると、私は相手の顔色を窺《うかが》った。
反応がない。話し方が下手だったのかしら。私は、昔の植木等のごとく、「およびでない」と言ってその場から姿を消したくなった。すると、彼はやおら憤慨した様子で叫んだ。
「それは君、ひどいキャディーだね。だいいちそんなキャディーを置いておくゴルフ場もどうかと思うなあ。それ、どこのコースなの? 責任問題だよ」
いや、そういうつもりで話したわけではないんですが、と説明を加えれば加えるほどこじれる。
「不愉快なことってありますねえ。僕も以前にね、ゴルフ場じゃないけれど、あるレストランで」
彼の正義感はさらに盛り上がった。
そんなに私の表情は、笑い話に似合わぬものだったのだろうか。
「お似合いカップル誕生」への道は、かくして険しかった。
バカにされまいぞ
テレビを見ていたら、あるトーク番組のゲストとして高見恭子さんが出ていらした。高見さんは作家の高見順氏のお嬢さんである。面識はないけれど、同じ作家の娘としては一方的に親しみを感じる。
「何かと父親のことを引き合いに出されませんか。そういうときどうしてます?」なんて具合に意見の交換をし、頷《うなず》き合ってみたいと思う。そのせいか、雑誌やテレビに登場しておられるのを見つけると、つい目を止めてしまうのである。
もっとも高見さんの場合は、若いうちからモデルやタレントとして親の影を引きずらずに独自の才能を発揮しておられるし、いつ見ても「元気|溌剌《はつらつ》」といった印象の方だから、あんまりそういう悩みはないかもしれない。
それはそれでまた、「偉いなあ」と畏敬《いけい》の念をもって、自らを励ます材料にもなるからよいのである。
その日の話題はファッションだった。彼女は「どんな服でも自分のものとして着こなしてしまうことが大事」と言い、その秘訣として、
「高価なブランドもののスーツを買ったときは、一晩、その服を着て寝る」のだそうだ。
高いものだからと思って恐る恐る着ていると、いつまでたっても自分の身につかない。一度、「おまえは私のものなんだ」と言い聞かせ、主従関係を明らかにすれば、気楽に着こなせるようになるとおっしゃる。
「そうしないと、服にバカにされます」
かつて私は織物の仕事で身をたてようかと思ったことがある。当時は結婚至上主義で、「結婚し、子供を産んで家庭を守るのが女の一番の幸せであり、それが自分には合っている」と考えていた。
今でもそう思っていないわけではないけれど、大幅に計算が狂った。状況が変われば考え方も修正せざるをえないから、「結婚だけがすべてじゃないさ」と自分に言い聞かせているわけで、それはそれなりに人生も楽しいのであるが、こんなことになろうとは、家族も友達も自分自身も、想像だにしていなかった。
「亭主に滅私奉公なんて、そんな気力はないけれど、子供だけは産んでみたいのよね」
まだ結婚したいと思っているかという仕事仲間の質問に、こう答えたことがある。最近は適齢期を越えても独身を通している女性が増え、私自身、「売れ残り」とか「オールドミス」などと後ろ指を差されていやな思いをしたことはないが、三十を越えた女を前にしてこういう話題になると、さすがにみんな台詞《せりふ》を選ぶものらしい。どうも遠慮がちな空気が漂うのがおもしろい。
と、仲間のひとりが深く納得したかのように頷いた。
「そうか、佐和子さんがそんなに子供を欲しがっているとは知らなかった。よし、みんな、協力しようじゃないか。ジャンケンして、|負けた《ヽヽヽ》ヤツが父親だ」
なんだったかしら。そう、織物をやっていたという話である。大学を卒業し、どうせ三、四年のうちには結婚すると思い込んでいた私は、その期間を使って、腰掛け仕事のために会社に就職するより、手に職をつけて結婚後も楽しみながら続けられるような仕事を見つけるほうが利口だと考えた。そこで、子供の頃から好きだった編み物や、さらに機織《はたお》りの仕事に憧れて、その修業に励んだのである。
志は大きかったのだが、現実は甘くなかった。実際に織物の先生のところに内弟子として通い始めると、朝から晩まで機織り機に向かい、糸を洗い、染め、紡《つむ》ぎ、お稽古《けいこ》に来る人たちの世話をする毎日が続いた。展示会が近づくと、夜遅く家に帰ってから自分の作品を織らなければならないので、ほとんど徹夜に近い状態が数日続くこともあった。
鶴の恩返しや眠りの森の美女の物語のような優雅で夢|溢《あふ》れることばかりではなかった。肩は凝り、腰は痛くなって、目がマクマクする作業の連続なのである。
それだけの重労働を繰り返しながら、修業の身ではほとんど収入がないも同然。辛うじて展示会で得た収益を次の材料費に回すのが精一杯だった。
それでも好きで選んだ道だからと、娘の身体や結婚を心配する親の反対を押さえながら、半分意地になって続けたが、結局、挫折したわけで、あまり自慢できる話ではない。
あの頃一緒に「頑張ろうね」と励まし合った仲間のひとりから、数日前に葉書が届いた。今や彼女は各地で展示会を催すほどに実力をつけているらしい。志半ばにして敗れたものと、初心を貫いた者との違いを示されているようで、なにか後ろめたさのようなものを感じる。
修業中に一反だけ着物を織ったことがある。絹の着尺《きじやく》は織物の修業の段階で言えば、さしずめ上級コースの下のようなもので、それまで扱ってきた木綿やウールとは勝手が違い、ちょっと誇らしい気持ちになる。
繊細な絹糸は、少しでも手がかさついているだけで引っかかるし、神経を集中させていないとすぐに絡まってしまう。細心の注意を払いつつ、自分でデザインし、染め、経糸《たていと》を機にかける。その瞬間も感慨深いが、更に緯糸《よこいと》を一本ずつ差し入れて、おさを引き、パタコッコン、パタコッコンと織るリズムが出てきたときは、これはもう、本物の織り職人になったような気分がして興奮する。
しばらく調子よく織っていると、経糸が切れることがある。そういうときは一度織り機から降りて、切れた糸を繋《つな》ぎ合わせなければならない。が、何回もこのようなトラブルを繰り返しているうちに、だんだんと機にかけてある経糸全体の張り具合が狂い始め、リズミカルに織ることができなくなる。はじめの感慨はどこへやら。どうにもこうにも泣きたい思いである。
「先生、ぜんぜん織れなくなっちゃったんですが」
織物の師匠にお伺いをたてた。すると、先生はおだやかな口調でおっしゃった。
「あんまりビクビクしながら織っているから、糸にバカにされているんです。糸があなたをバカにしようかなと思う前に緯糸を入れてごらんなさい。切れなくなるから」
なるほどその忠告以後は、めっきり経糸の切れる回数は減ったものだった。
その着物は今、母が着てくれている。
天《あまの》 邪《じや》 鬼《く》
原稿の締め切りが迫ってくると、いつにもまして限りなく眠くなる。寝ても寝ても目が開かず、ようやく起き上がって机に向かうが、今度は腕を枕に寝はじめる。そんな恰好で熟睡してしまうから、首はヒン曲がり腕はしびれ、頬《ほお》にはセーターの柄が写り、机の上には汗の跡が残る。ハッと突然、目が覚めて、「どうしよう」と叫んでみても、もう遅い。
朝寝て、昼寝て、夜に寝て、ときどき起きてうたた寝し。
こういう経験は誰にもあるのでしょうか。友達に聞いたら、「学生時代はあったけど」と答えていたが、これはつまり、「まさかこの歳になってまでは、ないわよ」という意味がこめられている。
確かに中学、高校時代は定期試験が近づくたびに、友達同士、互いの進行状況を探り合い、
「ねえ、どこまでやった?」
「世界史の年表を作っただけ」
「やだあ。あたしなんか、まだ教科書も読んでないのに」
焦って、よし、今夜こそは徹夜しようと意気込むのだが、翌朝になると、
「寝ちゃった」
真っ青になったのは私だけではなかったような気がする。
高校一年の地理の試験範囲に、各国国名と首都名を暗記しろという先生からのお達しがあった。主要国はいいけれど、中東あたりになると、なにがどこやらわけがわからない。家で暗記していると、たちまち眠くなる。そこで、授業中に隣の席の友達とヒソヒソ声で問題を出し合うことにした。すると、
「ずるいー。私にも問題出してみて」
後ろの席から泣きそうな声がする。
「じゃあね、ヨルダンの首都は?」
「わかんない」
「アンマンです」
後から加わった友達は即座に頭にたたき込もうと、
「ヨルダン、アンマン。ヨルダン、アンマン」
「じゃ、次ね。ヒルダンの首都は?」
「知らないわよぉ、どこ、どこ」
「ニクマン」
なにしろ彼女は焦っているので、冷静な判断ができない。与えられた情報を疑うことなく、ひたすら素直に吸収しようと必死である。
「ヒルダン、ニクマン。ヒルダン、ニクマン」
意地の悪い我々出題者が笑いをこらえている横で、彼女はひとり呪文《じゆもん》のように唱え続けていた。
試験の直前になると眠気に襲われるだけでなく、奇妙なことをしたくなる。
資料を探しているうちに、ふと目についた小説を読み出したら明け方になっていたり、まず環境整備をしようと、机の上のかたづけをするつもりが、そのうちに部屋じゅうの掃除を始めたりと、色々ある。
私の場合、机に向かって教科書を読んでいるうちに、まゆ毛をいじる癖があった。指で毛並みを揃えたりひっぱったりよじったり、しまいには鏡と鋏《はさみ》と毛抜きを持ち出して、教科書そっちのけで本格的に形を揃える作業に没頭しはじめる。
その話をしたら、
「私はまゆ毛じゃなくてまつ毛だったわ」
と言った人がいた。なるほど気持ちとしては通じるものがあるけれど、しかし、まつ毛を抜いたらなかなか生えないでしょうと訊ねると、
「そうなのよ。だからね」
指さす彼女の目には、上下とも、もはやショボショボ程度にしかまつ毛が生えていなかった。受験戦争の後遺症のなかでも、これはだいぶ変わったケースであろうと思われる。
この方のご主人も大変ユニークで、家事いっさいが不得手。しかし、奥さんが出産で入院してしまったときだけは仕方なく、生まれてはじめて台所に立たれたそうだ。
数日して病院に顔を出したご主人|曰《いわ》く、
「おい、あのドレッシング、変わった味だねえ」
「ドレッシング?」
なんのことかと彼女が問いただすと、
「あの、流しにおいてあったヤツ」
「流し?」
「黄色いビンに入った、ほら、ママレモンっていうさあ」
話がそれました。
つまり私が言わんとしているのは、さしあたりしなければならないことがあるときに限って、他のことをしたくなるものだということである。
今、こんなことをやっている場合じゃないと自分を戒めて、当面の仕事をすませてからと思っても、晴れて時間ができたときには、すっかり関心がなくなっているから不思議だ。
人間は元来、天邪鬼《あまのじやく》にできているのだろうか。
父の書斎の前にお手洗いがある。原稿の締め切り間際になると扉を開け閉《た》てする音が父のイライラのもとになるから、家人はおちおちお手洗いにも行けない。ことに母が入るときを父は敏感に察知するらしく、
「おい、おーい」
と大声で呼びたてる。そして、お手洗いの扉の前に立ちはだかり、
「また、便所かい。お前はよく行くねえ。俺が行こうと思うと必ず入ってる」
「俺が○○、必ず○○」シリーズというのは、父の常套《じようとう》句であって、無限に応用される。たとえば、
「俺が電話をかけると必ず話し中だ」
とか、
「俺が信号にさしかかると必ず赤になる」
とか、
「俺が拾うタクシーは必ず運転手が感じ悪い」
など、挙げればきりがない。
そんなわけで母はいつも強迫観念にとらわれながらお手洗いに向かう。
ある日、母がお手洗いに入ろうとして扉を開けたが、急に用事を思い出したので、入らずにそのまま扉を閉めた。その音を聞きつけた父は、急に自分ももよおして、「またお前、便所かい。俺が行こうとすると必ず……」と書斎を出たが、母が入っていない。とたんに、「行く気が失せた」そうである。天邪鬼も生理本能まで冒されては、重症である。
オン・マイ・チーク
久しぶりに末の弟と一緒に外で食事をすることにした。
弟はふたりいるが、年が離れた下の弟はまだ高校二年である。
この子が赤ん坊の頃は、大学生だった私が連れて歩くたびに母親と見間違えられた。間違えられて悪い気はせず、
「ほう、かわいいねえ」
見知らぬ人に声をかけられても、
「あら、どうも。ほら、おじさんがかわいいって。バイバイは? バイバーイ」
街中でよく見かける母親を真似、余裕たっぷりに答えてみせることもできた。
その弟が、もう高二である。いまや、
「もしかして、僕のほうが先かもね」
気を遣って結婚という言葉を使わずに、姉をおびやかす年頃になった。
弟と待ち合わせをした渋谷・宇田川町の交番前は若い人たちでごった返していた。そこここに男女のグループがたむろして、ある者は地面に座り込み、ある者はガードレールにもたれかかり、ひたすらおしゃべりをしている。これからどこかへ繰り出そうという気配もない。ただ、こうして集まっていることが楽しいのだろうか。
弟より先に着いた私は、交番の前のベンチに座って、この見慣れぬ現代若者風俗をしばし観察することにした。
「すいません」
ふいに背中から、か細い男の声がする。なにかと思って振り返ると、目の前に若い男性の顔があった。
「すいません、あのー、トランザムってディスコ、どこにあるか知ってます?」
態度も言葉遣いも特に礼を失したところはない。が、本気で道を訊《たず》ねている風でもなさそうだ。交番が目の前にあるというのに、他人にわざわざ声をかけて道を訊《き》くこと自体、不自然ではないか。
私は交番を指差すと、その若者に向かって言った。
「ここ、交番」
若者はハァと曖昧《あいまい》な返事をすると、そのまま交番を通り過ぎて、去っていった。
ちょうどそこへ弟が現われたので、さっそく今の一件を報告する。
「ねえ、あたし、ナンパされちゃった」
「まさか。なんて声かけられたの?」
「道を訊かれた」
「じゃ、ナンパじゃないじゃない」
「いや、あれは、だんぜんナンパよ」
「で、なんて答えたの?」
そこで私は、その若者にとったのと同じ態度をしてみせると、弟は笑った。
「そんな低い声でかわいげない反応をされちゃ、逃げちゃうのも無理ないよ」
そんなもんであろうか。
ナンパされたとき、女は心理の奥底で、迷惑という気持ちと同時に、かすかな安堵《あんど》感を覚えているものかもしれない。やーね、いやらしいと口では言いながら、どこかで、女としての魅力を測ろうとしている。
中学時代の友人に、街を歩くと必ず声をかけられ、タクシーに乗ればいつも運転手さんと仲良くなり(彼女と同乗して無愛想な運転手さんに出くわしたことがない)、一日一緒にいるだけで、もしかして世の中には親切な人しか存在しないのではないか、と錯覚をおこしてしまいたくなるような女の子(当時は)がいた。
ただ、本当のことを言えば、密《ひそ》かに「なにさ」と思っている。なにさ、なんで彼女ばっかり注目を浴びるの。なにさ、どうせ私は添え物よ。しかし実際、彼女と「バイバイ」と別れた途端、急にあたりが静かになり、不親切な人間が出現しはじめるから、いやでも彼女の魅力を認めざるを得ない。
こういう人を「花のような女」と呼ぶのだろう。花のような女は、自分に対する周りのアクション、チャチャに対しても、花のように対応する。少々しつこくても、多少迷惑に思っても、ヒラリィ、ヒラリとみごとにかわし、相手に不快な印象を与えない。そこらへんがまた、次なるチャチャにつながるのだろうか。
初めての海外旅行で訪れたハワイの海岸でアメリカ人男性に声をかけられたことがある。ひとりで泳いでいたら、いつのまにか隣に大男が近づいてきていた。どこからきた、観光旅行かなどと、色々質問されるところまではなんとか理解できるけれど、それに対する答えの構文を頭のなかで作成中に波がくる。顔を上げる。水を飲む。咳《せき》をする。また波がくるといった具合でなかなか忙しい。しかたなく、得意のジャパニーズ・スマイルを発揮して対処するのだが、
「オー、そっちは波がきついからこちらへきなさい」
と、手を差し伸べてぐいぐい引き寄せて下さる。見れば、その腕のモジャモジャと毛深いこと。仰天して、
「オー、アイム・オーケー・オーケー」
必死で泳ぐ。こうなると、平泳ぎだろうが犬かきだろうが、知ったことではない。何でもいいから早く岸に辿《たど》り着こう。
「マイ・フレンド・イズ・ウェイティング」
とっさに浮かんだ構文を何度もヒステリックに繰り返しながら、本当は純粋に親切なだけだったかもしれない毛むくじゃらの腕から逃れた。
ハワイでは、ディスコでナンパされたこともある。こちらは本当にナンパだった。連れていってくれた日系人の友達が気軽に「ハーイ」と挨拶を交わしているから、知り合いなのかと思ってダンスの誘いに応じたら、ぜんぜん見知らぬ関係であることがあとでわかった。
長身の彼は腰をかがめてなにやら囁《ささや》く。音楽が騒々しいのと英語力の問題で、私は「ワット?」「ワット?」と数回叫んだあと、どうやら彼は、ふたりだけで他の店に踊りに行こうと誘っているらしいことがわかった。慌てた私は、またしても、
「マイ・フレンド・イズ・ウェイティング」である。一貫して、それしか言わない私に、とうとう彼は「オーケー」と言い、私をもとの席に連れ戻してくれた。そして、最後のお別れに、
「メイ・アイ・キス・ユー?」
さて、このような場合、なんと答えるのが適当であろう。きっぱり「ノー」と断るべきか。いや、それも大人気《おとなげ》ない。でも、「イエス」と言ったらどうなる。そこで私は早口に、語気強く、こう答えた。
「オン・マイ・チーク、オン・マイ・チーク」
帰国後、この話を友達にすると、彼女は鼻で笑って言いおった。
「ふふん、本当はオン・マイ・リップ、オン・マイ・リップって言ったんでしょ」
彼女は私がナンパされたことをやっかんでいるにちがいない。
風 邪 便 り
めずらしく本格的に寝込むほどの風邪をひいてしまった。今回のはとてもスピーディな感じで、喉《のど》の奥がイガイガッとして「あ、やられたかな」と思ってから三十八度二分の熱が出るまで丸一日かからなかった(といっても、風邪ってこんなものだったろうか。久しくかかっていないと忘れてしまう)。
しだいに頭痛がし始め、鼻水とくしゃみと咳《せき》と涙が止まらなくなり、身体の節々が痛くなって目の周りがぼやけてくる。
こういうときに、「だいぶ具合が悪そうだね。目が潤んでるよ」などとやさしい言葉をかけられて、「いえ、大丈夫です」とあっさり答える人間と、「大丈夫じゃない。もうだめ」と鼻水をすすり、上向き加減に口で息をしながら答える二種類がいると思うけれど、私の場合は後者に決まっている。
夕方頃から順調に症状は悪化し、深夜十一時五十分に始まる番組の本番直前には、ティッシュの箱を抱えていないと、ろくに口もきけない状態になっていた。
こりゃまずい、最後までもつかしらと心配になったが、だいたいこういうことは案ずるより産むが易《やす》しで、なんとかなってしまうものである。それがまたホッとひと安心であり、同時に少し残念だったりするから、人の心って複雑です。
その夜は早々に引き揚げて、家に着くなり、取り入れた風邪対策の処方あれこれを試しにかかった。まず部屋をできるだけ暖かくして湿度を高くする。濡れタオルを部屋のあちこちにぶら下げ、バスタブにお湯を張る。よく石鹸《せつけん》で手を洗う。手のひらというのは考えている以上にバイ菌が多いのだそうだ。
それから丹念にうがいをし、ついでに鼻のうがいもする。これはちょっと苦しいけれど効果がある。手で水をすくい、鼻から吸うのだが、奥まで水が届いた瞬間は、ちょうどプールで水を飲んでしまったときと同じく、ツーンとして猛烈に痛い。しかし、この痛みが消えると、いとも爽《さわ》やかな世界が広がる。
そして足湯。桶《おけ》に、これ以上は火傷《やけど》すると思われるほどアツアツのお湯を貯め、そこにくるぶしまでつけること約五分。途中でお湯が冷めてきたらまた熱湯をそそぐ。五分たったら足を桶から出し、よく拭《ふ》いて、もう一度同じことを繰り返す。汗が出るほどに身体が暖まったら即、布団に入って寝る。というものなのだが、根気がなくて最後までできないし、まだやり残した処方せん、レモンを絞って飲むとか、卵酒を飲むとか、いろいろ忙しくてなかなか布団に入れない。
それでもできる限りのことをやって寝たつもりだったのに、翌朝は更に悪化。熱を測ってみたら、これはもう、胸をはって「病気です」と自慢できる体温になっていた。
「もしもし、阿川ですけどね。明日の予定、キャンセル。ひどい風邪をひいちゃって、とても無理だわ」
檀ふみさんに電話をする。こちらの予測では、彼女があのコーヒーのコマーシャルのような愛想のいい声で、「まあ、それは大変。ゆっくり寝ていたほうがいいわ」と慰めてくれるものと期待したが、当てははずれた。
「あら、あたしも風邪なの。もう三週間も経つのにちっともよくならなくて」
思いもかけぬガラガラ声。くやしいから、こっちも蚊《か》の鳴くほどの声で、「今から病院へ行ってくる」と告げると、
「あ、ほんと。じゃ、あたしの症状も聞いてきて。まず初日に胃が痛くて吐き気。二日目から普通の風邪になって、あとは咳。これはなんですかって。でも四週間で治るらしいから、どっちにしろあと一週間なの。あなたはこれから四週間の苦しみよ。じゃね、お大事に。ごめんくださーい」
最後の台詞《せりふ》だけはていねいだけれど、全体的には、あまり同情の気配が感じられない。まあでも、前回、彼女と電話で話したときは、この連載を引き受けることになり、とても毎週締め切りを守る自信がない、考えただけで心配で、夜中にうなされていると、泣きごとを言ったら、週刊誌の連載に関して先輩であるふみさんは、いとも軽やかな声で、
「あら、かわいそう。でも週に一回、幸せにもなれるのよ。原稿を渡した直後のほんの一瞬だけど」
と楽観的な見解を示してくれたから、心やさしいところもある。
ついでに彼女は、「もし万が一、あなたが書けない状況に陥った場合は、一度くらいなら代わってあげてもいいわ。あなたの名前で女優、檀ふみはすばらしいっていう内容のものを書いておくから」と力強い励ましの言葉も付け加えてくれた。だから、やっぱり自力で頑張ることにする。
ふみさんとの電話を終え、ヨロヨロ立ち上がると、そこら中の暖かそうな衣類を手当たりしだい身にまとい、いざ病院へと向かう。
初めて訪ねるお医者様には、なんとなく不安がつきまとうものである。待合室にはBGMが流れ、看護婦さん達の笑い声が響き渡って、取りあえず暗い印象がないのはいいのだけれど、どちらもややボリュームが大きすぎて、弱った身体にはちょっとこたえる。
看護婦さんが元気なら、先生は更に威勢がよく、まるで魚屋のおかみさんのようにイキのいい若い女医さんだった。
「あらぁ、あなたも。まったくすごい流行《はや》り方だわ、このインフルエンザ」
ははあ、インフルエンザですか。
「じゃ、まず熱冷ましの座薬。入れ方わかる?」
わからないと言ったらどうなるのかと想像し、慌てて、
「わかります、わかります。でも今ここで?」
「いやだ、お手洗いでよ。入れたら、点滴しましょう」
あっというまにベッドに寝かされ、私は生まれて初めての点滴体験をすることになった。
点滴なんて、手術を必要とするような重病患者しかしないものかと思っていたら、昨今はそうでもないらしい。血液中に直接、栄養分や薬を投入するので、飲む薬の倍は効果があるという。
一時間ほどウトウトして、「そろそろお終《しま》いですよ」という看護婦さんの声に身体を起こす。驚いたことに頭痛は治まり、喉の痛みも和らいでいた。まさにポパイにほうれん草、吸血鬼に美女の効力である。
こんなに効くとは思わなかった。四週間もかからずに治るかもしれない。大いに元気を取り戻し、看護婦さんにお礼を言って病院を後にする。と、ここまではよかったのだが、調子に乗って油断したら、翌々日からまた、症状がぶり返し始めた。
今後、何があっても点滴さえあれば大丈夫かと、百人の友を得た気分だったけれど、甘かったか。
憂 え る 巳《み》
正月休みを利用して、久しぶりに横浜の親の家へ帰った。普段から、週末にはなるべく家族に顔を見せるよう心がけているつもりだが、ここ数週間、風邪をひいたおかげで帰る機会を逸していた。
風邪を極端に嫌う父は、誰かがひと言でも「喉が痛い」とか「寒気がする」などと呟《つぶや》こうものなら、とたんに手で口をふさぎ、もう片方の手を使って懸命に自分の周辺の空気をかき混ぜ、まるで目の前に毒ガスを撒《ま》き散らす醜《みにく》いおばけが出現したかのような、恐怖に満ちた形相をしてみせる。
「そんなに娘を嫌わなくてもいいじゃないの。感じ悪いなあ」
あまりに露骨な父の態度に文句を言ったことがある。父はソロソロと後ずさりをしながら、相変わらず口に手を当てたまま答えた。
「お前を嫌いなわけじゃない。お前にくっついているビールスが嫌いなんです」
「嫌いな食べ物はあるかな」
小学校入学時の身体検査で、お医者様に訊ねられた。答えの内容いかんによっては入学できなくなるかもしれないと心配だった私は、自分の秘密を打ち明けたくなかった。が、当時はとても正直者だったから、「ん、どうだい?」という二度目の催促に観念し、小声で真実を伝えることにした。
「あのー、しいたけが……」
お医者様は大きな身体をゆさぶりながら、カッカッと気持ちよさそうに笑い、私の裸の背中を思い切り強くたたくと、
「よーし、それくらいなら大丈夫だ。合格」
周りの様子を窺《うかが》ってみると、同じ質問に幾つもの食べ物を並べ立てている子がいる。
「にんじん、ピーマン、おねぎ」
「お肉が嫌い」
「トマト、なす、セロリ、たけのこ、ごぼう」
なあーんだ。私なんて好き嫌いがないほうなんじゃない。これなら学校に入っても困ることはなさそうだ。ホッとひと安心したが、実際には給食でしいたけの出る回数が六年間を通じて思いのほか多かった。ベロンと大きな茶色いかたまりがお皿の上に載っている度に、目をつぶり、鼻をつまんで一気に飲み込んだものである。
しかし、その訓練が功を奏したのか、大人になるにつれて嫌いの程度は弱まっていった。細かく刻んであれば大丈夫という段階から始まり、生しいたけの天ぷらはおいしいぞ。バター炒《いた》めもいける。そして今では、「干しいたけを甘辛く煮てかたまりで出されるときだけは、やや躊躇《ちゆうちよ》する」にまで進歩した。
かくして食べ物における好き嫌いは私の場合「干しいたけの甘辛煮」を除き、これといって思い当たるものがないほど解消された。
食べ物に限らない。何に対してもそれほど好き嫌いの激しいたちではないと思っている。春夏秋冬、いずれの季節もそれぞれに好きだし、山も海もどちらもいい。似合わない色はあっても嫌いな色は特になし。「枕が高いと寝られない」とか「カラオケは苦手」とか「痩《や》せてる男は好きじゃない」なんてわがままは言わない。
痩せていようが太っていようが、健康であれば気になりません。以前は、自分の背が低いので、生まれてくる子供のことを考えて、「お付き合いするなら背の高い人に限る」と心に決めていたけれど、今やもう、その条件さえ取り払った。
これほど単純で寛容な心の持ち主が、なぜいつまでも縁遠いのだろう。
「不思議でならないわ」
フッと漏らしたひと言に、すかさず友達から反論あり。
「どこが不思議なの。そういうのこそ、一番たちが悪いのよ」
女は歳をとると、物言いが独断的になっていけない。
「好き嫌いがはっきりしているほうが結婚は早いのよ。ターゲットが絞りやすいでしょうが」
そういえば、東京から離れるのはいやだと言っていたあの人は、転勤のない職業の亭主を見つけた。お見合いは嫌いだと断言していた彼女も見事に大恋愛をし、親の反対を押し切って、今はご両親ともダンナとも仲良く暮らしている。
私のように年の数ほどお見合いを経験したあげく、「やっぱりお見合いって好きじゃない」と気づいても、遅すぎるのである。
「ほらね。アータみたいに、あれもこれもいいって言うのは、あれもこれもいやだって言うのと同じことなわけ。寛容なんじゃなくて優柔不断なのよ。もっと主張をはっきりすべきよ」
確かに私には優柔不断なところがある。
先日も仕事の上司から苦言を呈された。
「君は人に質問するとき、語尾をうやむやにする傾向があるね。一度言い出したことは、責任を持って最後まではっきりと発音しないと、テレビの画面を見ている人には印象がよくないよ」
そうなんです。声を発したはいいけれど、途中でだんだん自信がなくなって、最後の言葉がか細くなってしまうのは、私の悪い癖である。これぞ優柔不断のなせるわざ。
昔から女は「好き嫌いでしかものを判断しないからダメだ」と男どもに非難され続けてきたけれど、好き嫌いさえはっきりしない女は物事を判断しようにも、すべてが曖昧|模糊《もこ》として、いつまでたっても何も明らかには見えて来ないのではないか。
よし、年頭の誓いを立てることにしよう。
「今年こそ、ちょっぴり自信を持って、好き嫌いを明確にすること」
「大丈夫よ。あなたは充分好き嫌いがはっきりしているわ。寝ることが好き。食べることが好き。片付けるのは嫌いで整理整頓も嫌い。いくら巳《み》年だからって、とぐろ巻いて我が身を憂えてばかりいないで、少しは手伝ってちょうだい」
そう言って、卯《うさぎ》年の母はピョンピョコ家中を跳び回り、ちょっと立ち止まっては何やら呟く。
「私なんか、好き嫌いを主張することすら許されずに、一生、家事に追われる身の上なんだわ」
一方、父は、娘のではない風邪のビールスをどこからともなく背負い込んで、世にも哀れな顔をしている。このぶんでは、新年のマージャンのお誘いはさすがに断るのだろうと思いきや、
「いや、風邪をひきましてね。嫌われるんじゃないかと……、そうですか。よろしいですか。じゃ、すぐに伺います」
受話器を置くなり、キャッキャと叫ぶ、現金な申《さる》であった。
平成エヒメミカン
なにか起こりそうな予感がしていて、充分それに対応する時間があってもなお、驚くときは驚くものである。
あの柱の陰に友達が隠れている。脅《おど》かそうというつもりだな。わかっているのに、「ワッ」とやられりゃ、いちおう「ギャッ」と声を発してしまうから不思議だ。
「大げさねえ、知ってたくせに」
「知ってたって、そんな大声出されればびっくりしますよ」
「そっちのほうが大声じゃないの。脅かした私のほうが驚いちゃった」
感情の表し方は人によってまちまちだろうが、ひとりの人間のなかでも一律ではないようだ。
私の感情は、驚くに始まって、原稿が書けなくて悲しいとか、テーマが見つからなくて辛いとか、胃が痛い、締め切りが迫っていてあせるなど、自分を悲観的な方向に追込むことに関してとくに積極的に反応する、というか、大げさになるきらいがある。
しかし、この大げさな性格を人様からの好意に対して発揮できるかといえば、これがダメである。大脳の隅から「わざとらしいぞ、おまえ」というかすかな囁きが聞こえてきて断念してしまう。
何かをプレゼントされたり褒められたりしたときに、「まあ、うれしーい」と可愛らしく肩をすくめていたら、私の人生ももうちょっと違ったものになっていたかもしれない。
新しい元号が発表されたとき、周囲の反応は様々だった。「いいですねえ、なかなかいい」と感嘆の声を漏らしていた人もいれば、軽いという人、露骨によくないという人もいた。
ああいうものは、初めて出会うときのシチュエーションによっても左右されるのではないだろうか。
テレビ画面に官房長官の姿が映し出され、なにやら周りの人を叱りつけている。さてこれから新元号の発表という緊張の瞬間に、裏方のもめごとなどを知りたくないなあ、と、ここでまず気をそがれる。
まもなく長官は、ガラスの入った大きな額ぶちを身体の横に立てかけて、
「新元号は、平成」
額の中には初めて目にする元号が墨で書かれてあった。
この披露の仕方といったら、まさに水戸黄門の印籠《いんろう》を、カクさんだかスケさんだかが「控えー、控えー」と言って差し出すときの趣があった。
だが、実際に提示している長官は、背広姿でごく事務的な表情だったから、どこか重々しさに欠け、ちぐはぐな気持ちになった。
一方、元号そのものについては、新しいというより、むしろ遠い昔を偲《しの》ぶような二文字に映ったが、これはたぶん、平安京、平城京、平家などの文字が連想されるせいだろう。
ついでに感想を加えると、この元号はどうも発音がしにくい。先輩アナウンサーに伺ったところ、「母音が二つ重なる言葉は、頭の母音に合わせて音をのばす」というのが原則だそうで、つまり平成は「ヘイセイ」ではなく「ヘーセー」と発音する。となると、どこにも口をすぼめる部分がなく、なんだか締まりが悪いのである。
もっとも以前、私がテレビの仕事を始めたばかりの頃、「緊張をほぐし、自然な笑みを浮かべるための方法」を教えていただいたが、それは、「本番直前に、エヒメミカンと三回唱える」というものだった。
この言葉にはエとイの母音が多く含まれているので、唇が横に開かれる回数が多い。その余韻を口元に残したままにしておけば、自然に顔がほころぶというわけだ。
なるほどこれは便利とばかり、本番ギリギリまで三度ならず何度も繰り返す。テレビカメラのランプがついたとたん、危うく「エヒメミカン」と挨拶しそうになったこともあるけれど、おかげで「睨《にら》みつけるような顔ではなくなった」と評価され、辛うじて効果はあったようだ。
平成も、母音のエを二回繰り返すことになるから、笑顔作りには役立ちそうである。
「一日三回、平成エヒメミカン」、「仕事の前に、平成エヒメミカン」なんて標語を流行《はや》らせたら、世の中、にこやかな人が増えていいかもしれない。
まあ、あれやこれやと勝手なことを言うのはたやすいけれど、お決めになった方々の気持ちになれば、さぞたいへんだったことだろうから、これ以上ケチをつけるのはやめにしましょう。一年もすれば、なんとなく馴染んで「いい元号じゃないの、心が和むわ」なんて語り合っているかもしれない。
考えてみれば昭和だって、初めて出会った時はみんな、さぞや馴染まなかっただろうと思われるもの。
日本上空のお天道様も、裕仁陛下のご逝去を悲しんでか、地上の騒がしさに刺激されたのか、平成元年を迎えたとたん、天気が崩れ始め、東京では四十日ぶりの雨になった。
こういうことも、書き残しておかないとすぐに忘れてしまうだろう。何十年後かに、貴重な歴史の生き証人としてインタビューを受けないとも限らない。
「えー、本日はもう数少なくなった昭和生まれの方々にお集まり願って、当時の思い出を語っていただこうと思います。まず、こちらのおばあちゃん。おいくつですか」
「はい、阿川佐和子と申しますです」
「いや、あのー、お佐和さんは平成元年一月七日のことをよく覚えておられるそうで」
「はいはい、あの日は雨でしてね、あ、次の日から雨だったか。いや、あれま。どうだったでしょうかね。まあ、そんなわけでわたしゃ、テレビに出てたんですわ、当時はですね」
「元号が平成に変わったとき、どんなお気持ちでしたか」
「どんな気持ちってアンタ、はあ、変わったんですかって感じで。とうとう昭和時代には結婚できなかったって友達と話してね。平成に期待したんだけど、ダメだったね」
こんな答え方をして周りの顰蹙《ひんしゆく》を買わないためにも、この歴史的瞬間の印象を心にきちっと刻み込んでおかなければならない。が、今はまだ、はっきりとした感想がまとまらないのである。
もっと驚くだろうと予測していても、いざという時、意外に驚かないことがある。
青春の日曜日
ときどき、休みの日には何をしているのかと聞かれることがある。
「そうですねえ、原稿を書いたり、部屋を片付けたりしなきゃいけないなあと思いながら、ボーッとしてます」
ウィークデイは番組が終わって家に帰るのが午前の二時、三時。寝つきは極めて良いほうだからその点は心配ないのだけれど、それでもなんのかのと用をすませて、ベッドに入るのが四時頃になってしまう。必然、起床時間は十時過ぎ。実際に行動を開始するのはほとんど昼近くからということになる。
テレビの仕事を始めた当初は、週末くらい、普通の生活サイクルに戻したほうが身体のためにいいのではないかと思い、土、日曜日の夜だけはなるべく十二時前に寝るよう努力した。が、そうすると、二種類の生活サイクルの境目に時差ぼけのようなものが生じ、かえってリズムが狂う。そんなわけで今では一年中、番組のあるなしにかかわらず、完全に夜中型人間になってしまった。
こういう生活を五年続けていても特に身体が弱くなった様子はないので、リズムさえ安定していれば、健康に害はないのだろう。
ただ、どうも一日が短く感じてならないことが問題だ。朝、寝床から出て動き始めると、まもなく日が暮れる。「早起きは三文の得」という言葉が頭に浮かんでくるせいか、とても損をしたような気がする。
平日はまだいい。自分と同じようにズレた人間がまわりにウヨウヨしているから、それほどの孤立感はなくてすむ。が、休みの日になると、朝起きて、さて今日は何をしようかなと考えながら部屋の中をうろついているうちに、「あら、もう夕方だ」。
日が暮れた後というのは、感覚的にはどうしたって一日の終盤戦の趣があるから、何時間、何をしたとしても、「残り時間の有効利用」みたいなもので、結局、最後までグダグダと過ごし、また明け方近くに床に入る。
よく友達から叱られる。
「たまには映画を観るとか美術館へ行くとかして感性を刺激しないと、気持ちのカサカサした人間になっちゃうよ」
まったく彼女の言うとおりだ。少し外の空気を入れないと、呼吸困難になってしまう恐れがある。と思っていた矢先、北海道の倉本聰さんからお電話をいただいた。
「僕のところの塾生たちが今度、東京で発表会をやるんだけど、よかったら観にきてください。招待状を送ります」
倉本さんにはじめてお会いしたのは私が中学の三年のときである。父の原作の小説がテレビ化されたときの脚本家が倉本さんだった。連続ドラマの終了後、我が家で打ち上げをしようということになり、芦田伸介さん、十朱幸代さん、三國一朗さん、寺尾聰さんといった俳優さんが続々とつめかけてくださった。こんなこと、めったにあるわけじゃない。下足番として働かせるからという口実で二、三人友達まで呼んで、華麗な夜をミーハーに徹して楽しんだ。そのパーティーの途中、玄関に出ると倉本さんが立っていらっしゃる。
「佐和子ちゃん、これなんだ。ひっひっひ」
見ると、いつのまに引き抜いたのか、ウチの表札が握られている。
「あっ、やだ」
「器用でしょ」
とギョロッとした目を少しだけ細め、得意げに笑っている倉本さんを見て、変わった人だなあと思ったものである。
その後、交流が重なるにつれ、倉本さんが大の雷嫌いだということを知った父は、軽井沢で激しい雷のなっている最中に、やはり軽井沢に避暑にいらしていた倉本さんの家に電話をかけた。
「もしもし、倉本さんのお宅ですか。こちらは、カミナリですが」
恐怖の稲妻に脅かされ、そうでなくとも精神状態が不安定でいらしただろう倉本さんのところに「カミナリ」と名乗るものからの電話である。
「やめてください、かんべんしてください。お願いしますよ」
その数年後、倉本さんは北海道に移っていかれた。あちらでは雷が少ないのだろうか。
土曜日。富良野塾の記録『谷は眠っていた』は、下北沢の本多劇場で上演されていた。
倉本さんが北海道の富良野に創設した、役者や脚本家志望の若者のための学校の生活記録を劇化したものである。小さな舞台には、一枚の薄手の幕といくつかのライトがぶらさがっているだけ。登場する二十数人の若者達もジーパンとお揃いの白いティーシャツ姿というシンプルな演出になっていた。
ストーリーは、なにもない谷に若者が集まって、自分達の力で稽古場を建設し、畑を耕し、人参を売りながら、演劇の勉強をし、卒業していくというもの。時には恋をし、喧嘩をし、涙を流しながら逞《たくま》しく成長していく青春のドラマである。
二十三のシーンで構成され、それぞれが独立した小劇としての力を持っている。スローモーションで喜びを表現し、虻《あぶ》や蚊を打つ手拍子の音で怒りをぶつけ、早口言葉の競演、居眠りの表情など、ストーリーのみならず、この舞台に賭《か》ける塾生ひとりひとりの意気込みが伝わってくる。
そして、その熱気を感傷におとしめないためのちょっとしたユーモアも盛り込まれているところが素敵だと思った。
ラストは、塾を卒業していく者と留まる者の別れのシーンである。誰が主役でもなく端役《はやく》でもない。出演者のそれぞれが、本当に自分の数年間をふりかえって涙しているように見えた。突如、懐かしい言葉が心をよぎる。
「青春っていいなあ」
久しぶりに新鮮な感動を味わったような気がした。
時間が経つにつれ、果たして自分があの年頃には何をやっていただろうかと、あの若者達の生き方と比べ合わせて考え始めていた。もっと怠惰だったなあ。何も行動しなかった。やるべきことはたくさんあったはずなのに。しかし、もう間に合わないことが多すぎる。
「なんでお前はそう、いつも暗く考えるんだよお」という台詞《せりふ》があったっけ。でも、青春は二度と戻ってこない。
気分が暗くなると、睡魔に襲われるたちである。
「先週の日曜日はなにしてたの?」
「一日中、青春について考えながら、寝てた」
時計はめぐる
時計をなくした。
実際、このところのなくし物の多いのには我ながらあきれてしまう。一カ月ほど前に気に入っていた口紅をなくし、久々の雨の日に傘をどこかに置き忘れ、身を引き締めなければ大失敗につながる恐れがあると思って注意していたにもかかわらず、三度目である。
なくしたのは、私にとって思い出深いロレックスの時計。
「ええー、ロレックスぅ!?」
と、ここで皆が一斉に驚きの表情を見せ、自分の仕事を放り出して懸命に捜索に加わってくれた。
「それはショックねえ。高価なものなんでしょ」
「うん。去年の秋にシンガポールで買ったんだけど、四千円したの」
答えたとたんに、
「なんだ、そうなの」
ただちに捜索の手を止め、さっさと仕事に戻ってしまう、その変わり身の早さかな。
四千円だってりっぱな時計です。にせ物にしては正確で、ときどき秒針が目盛りとずれる以外は、忠実に時を刻んでくれたものだった。だいいち、だまされて買ったわけではない。ちゃんと本物でないことを知らされたうえで購入したのである。
「ニセモノ時計、イリマセンカ」
シンガポール市の目抜き通りであるオーチャード・ストリートを歩いていると、観光客なら必ずといっていいほど、この声に呼び止められる。無視していればしつこくされることはないけれど、一寸《ちよつと》でも興味のある顔をすると、そこはホレ、敵もプロだからして見逃すわけがない。
「グッチ、カルチエ、タクサンアリマス。安イデス」
片言の日本語を交えて、懸命に引き留めるこのオニイサンの仕事は、なんとか客を自分達の店まで連れていくことにある。
「コッチ、コッチ」というオニイサンの手招きに導かれ、なにやら怪しげなビルの裏に辿り着くと、そこには小さなカセットテープ屋さんがある。手招きは、さらにその店の奥のドアを開けても続けられ、中へ入れと誘う。
こういう、いかにも「悪へのご招待」といった誘惑の場面に遭遇することは、長い人生に何回もあることではないだろう。そう思うと、なんとなくスリリングな気分になる。
「ちょっと、大丈夫かしら。二度と出てこられないなんてことはないでしょうねえ」
いちおう歯止めになるような台詞をひと言吐いてみるが、同行者の誰ひとりとして「やめよう。危険だ」とか、はたまた「大丈夫に決まってるじゃない」などと、リーダー的な決断を下してくれない。しかたなく、そのままズルズルとドアの前まで歩を進め、恐る恐る中を覗く。
と、驚いたことに部屋の中は一転して、まさにデパートの催し物会場のごときにぎにぎしさ。すでに他の外人客数人が、ワゴンに並ぶブランド物の時計群を夢中であさっている最中であった。
「これ、いくら?」
「トクベツ安クシテ八千円。二ツ一緒ナラモット安クスル」
「高い、高い。どうせすぐ壊れるんでしょ」
「壊レナイ。中身、日本製ヨ。丈夫ネ」
どうやら日本製の安い時計をデザインだけ作り直して売っているらしい。ブランド物に興味はないほうだが、これならシャレになる。ちょっとしたみやげ話にいいじゃないのと、なんとか半額まで値切ってロレックスを手に入れた。
「僕は時計を持ち歩かない主義なんです」
その男性は私に時刻を訊ねた後、自分のシャツの袖をたくし上げて、こう言った。
「へえ、不安になったりしませんか」
「ぜーんぜん。だって今はどこへいっても時計があふれている時代でしょ。不便はないですよ。どうしても時計が見当たらないときは公衆電話で時刻を聞くことだってできる」
そういえば私の友達にもいる。時計を持っている分、イライラが増してしまうから持たない。何度時計を見たって、遅刻するときはするんだからと、彼女は豪快に笑っていた。
私にはそんな芸当はできない。秒針を睨《にら》みながら人をかき分け、走り、転げ、息せき切って目的地に到着することが、私の長年の悪い習慣であり、一種の快感にもなっている。
もしこれで時計を持たずに生活したら、ますます時間にルーズになり、「ほら、おまえはこんなに遅れているんだよ」と頻繁に注意を与えてくれる支えを失ってしまう。
そのためには、私の時計はアナログでなければならない。
あと十五分と言われて頭に浮かぶのは十五という数字ではなく、九十度の角度、円の四分の一である。これだけの面積を自分がどう利用できるかという計り方で時間を把握する。他の時間との関係を暗算しなければわからないデジタルでは、どうしても時間の観念がつかめない。
たしかに街に時計があふれ、部屋を見渡しただけでも、あらゆる電化製品にデジタル時計がくっついているけれど、これでは私の望んでいる時計の機能を完全には果たしてくれない。
そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
中島みゆき作の「時代」という歌が気に入り、ことあるごとに口ずさむようになったのは最近のことである。「しまった」と悔やみ、「どうしよう」と嘆いても、この歌を歌っているうちに「まあ、いいか」と心がおだやかになれる。
「見つかった? 例の時計」
「ないの。ずいぶんあちこち捜したんだけど。もうたぶん出てこないだろうなあ。日がたっちゃってるし。あきらめたわ」
めぐるめぐるよ時代はめぐる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ
と、ここまできて言いにくいんですが、さっき、ベッドを掃除したら、布団の陰に落ちていた、私のロレックスが。
新幹線個室考
このところ京都へ行く仕事が続いて、四週間に三回も新幹線に乗ってしまった。私の仕事は通勤先が定まっていないので、毎日同じ場所に通うわけではないのだけれど、不思議に重なることがある。
何カ月も関西に行っていない時期があるかと思えば、急に関西の仕事がたて続けに舞い込んできたり、銀座に来るなんて久しぶりだなあと思っていると、三日連続、銀座方面へ出かける用事ができたりする。
「ちょうど先週の日曜日にも別の仕事で京都へ行ったんですよ。再来週も京都で仕事があるし。そのときじゃ、だめでしょうか」
「はあ、どうしても今週中でないと次号に間に合わなくて。急な話で申し訳ないけど」
「でもぉ」
とゴネるその理由《わけ》は、恐怖の原稿締め切りが三つも迫ってきているからで、今週末こそはじっと部屋にこもって書くぞと、心に誓ったばかりなのである。
たいした量じゃあるまいし、さっさと書いちまいなさいと言われれば反論の余地はなく、「まあ、あいていることはあいているんですが」と少しだけ弱気の姿勢を示した途端、先方さんは急に明るい声で、「では、こういうのはどうでしょう」と妙案を出してきた。
「新幹線の個室なら、行き帰りに原稿が書けるじゃないですか。さっそく手配します」
もしや、テキは私が携帯用ワープロを買ったことを知っているのだろうか。まだ携帯用としての機能を駆使するチャンスにめぐまれていない。一度、出先でカッコよく使いこなしてみたいものだと、内心、ひそかに願っていたことを、見抜かれたに違いない。おかげで私の心はズルリと動く。
「個室はいいですよお。三時間、じっくり原稿書きに没頭してください」
かくして私は、その週末、東京駅九時三十六分発のひかり三〇三号に乗り込んだ。
個室のある二階建て新車両は、今のところJR東海が持っているだけで数はまだ少ないという。一列車につき一車両で個室が八つ。一人部屋から四人部屋まで四種類ある。いずれも一階に並び、二階は、私が乗ったひかり三〇三号の場合はグリーン車だったが、食堂車になっている列車もあるらしい。
二階建てといっても普通車両に対して、半地下と中二階くらいのレベルにあたるので、個室はホームよりずっと低い位置になる。窓の外には、ホームを行き交う人の足元ばかりが見え、ちょうどプールに浮かびながら、外の景色を眺めているような気分である。
当然のことながらとっていただいたのは一人部屋だった。入り口を入って正面、窓の下いっぱいに机が広がり、椅子《いす》はゆったりしたリクライニング。横には電話、目覚まし時計、ラジオ、室内灯のスイッチが三つに非常用スイッチがついている。便所と書かれたこの小さい玉は、
「なんですか」
「それは、当車両のお手洗いが満室になると点灯するようになっております」
と、車掌さん。そして、
「これが部屋の鍵《かぎ》です。使い捨てですので、下車の際、お持ち帰りください」
渡されたのは、新幹線の絵が描かれたカード式の鍵である。
「まあ、もったいない。使い終わったらオレンジカードになるとか、テレホンカードになるとかすれば楽しいのにね」
修学旅行の高校生がはしゃいでバスガイドさんたちに戯れるときの、あの心理で冗談を言ったら、
「なってません」
職務に忠実な車掌さんをからかうものではなかった。
さて、いよいよ発車。
「じゃ、どうぞ、ごゆっくり」
それにしても、ばかに部屋が暗くなったり明るくなったり忙しい。昔の銀座線のようだ。こんなにたくさんトンネルがあったかしらと思ったら、原因はトンネルではなく、部屋の位置が低すぎて、線路に壁面が迫っている箇所で外光がさえぎられていたのである。
明るい暗い現象が終わると、まもなく海が見えてくる頃だと思い、外を眺めやる。が、車窓からは空しか見えない。椅子から立ち上がってようやく町並みの向こうに海を見渡し、座る。「わ、橋だ」と思って立つ。が、手遅れ。また、座る。
そうだ、そろそろ富士山だ。と再度、立ち上がったが、考えてみると、この窓は南向き。つまり、個室の窓から富士山を見ることはできないのである。では帰りにと思ったが、この車両は行き帰りとも向きが変わらないことに気づいた。
富士山を見るというのは、東海道新幹線を利用する際の、ひとつの象徴的行事なので、これがないのはつまらない。そう思ったのは、ほんの一週間前のこと。快晴の日に乗って、数日前に降った雪が五合目あたりまで真っ白にかぶさる見事な富士山の雄姿を拝むことができたからである。
富士山というと日本国の代表、文部省推薦、お風呂屋さんの壁なんかを連想して、新鮮な印象がなかったのだけれど、この日ばかりは格別に感動した。この山肌や色、凜《りん》として繊細な形。まわりに高い山がないぶん、いかにもひとりで生きてますといったけなげな逞《たくま》しさを感じる。さすが日本一の山といわれるだけのことはあると見直したところだったのに。無念。
しかし、なんといってもこの個室は静かなのがいい。人が行き来するたびに落ち着かない思いをする必要はないし、ドアを開け閉めする音や風にわずらわされる心配がない。音楽を聴きながらワープロを打つのも、なかなか粋であります。
しばらく机に向かっているうちに、うつらうつらといい気分になってきた。ちょっとだけ目をつむりましょうかね。よし、名古屋を過ぎたら頑張ろう。
と、ハッと気づいたら列車は止まっていて、ホームからおばさんが私を見下ろして笑っている。まるで水族館の魚を覗《のぞ》くような表情。ほらほら、こっちの魚が餌《えさ》食べてるよ。となりは群れをなしてる。あっ、そのとなりは寝てるわ。
慌ててカーテンをひいたけれど、もう遅い。列車はすでに名古屋駅を出て、おばさんの笑い顔はゆっくりと視界から消えていった。
「次の停車駅は京都です。あと四十六分で到着いたします」
個室の利用法は二つに一つだということが、よくわかった。景色を見たいとか、食堂車を覗こうなどと余計な浮気心をおこさずに、カーテンを閉め切って、眠るか、さもなくば仕事に没頭するに限る。
旅する紙袋
「あの人のことが忘れられない。どうすればいいの。教えて」
女友達から電話があった。
どうすればいいのって言われても、忘れりゃいいんであって、こんな簡単なことはない。と、冷たく言い放つわけにもいかないから、「困ったわねえ」と答える。
この「困ったわねえ」の裏には、「そういつまでも元気がないのは困ったことだ」という純粋なる同情とともに、話が先に進まなくて私が「困って」いるという意味も含まれる。
失恋した直後はもっとひどかった。用件を伝えようにも上の空だし、あえて明るい話を持ち出すと、「みんな幸せそうでいいなあ」と力のないため息をつく。暇にしているからいけないのよ、ジャンジャン人に会いなさいと助言すれば、「身体が動かない」。
仕方がないからしばらく放って置きましょうと音信不通にしておいて、半年経ったのでもう大丈夫だろうと思いきや、この有様である。
「いや、一度は元気になったのよ。でも、アイツの姿を見かけちゃったもんだから」
「それで、私と会う約束も放って途中で家へ帰ったってわけ」
「だから、ゴメンって言ってるじゃない。ねえ、どうしたら忘れられるの。教えてよ」
学生時代の友人同士のあいだで、「忘れる」ことを、「アガワる」と言っている。
「あたし、先週、うっかりアガワっちゃって、子供の父兄会、パスしたの」とか、
「ちょっと、アガワらないでよ。持ってくるって約束したのに」といった具合に使うんだそうな。
まったく人を侮辱していると怒りたいけれど、当たらずとも遠からずで、全面的に否定できないところが悲しい。自慢じゃないが、記憶力のないことに関しては、絶大なる自信がある。だからといって創作力や応用力が備わっているかといえば、そちらのほうにも自信がないから、さらに悲しい。
子供のころは、少なくとも今よりはましだったような気がする。学校の試験は一応通過してきたし、なんとか合格点をとっていたのだから、それなりに必要なことはちゃんと暗記できたのであろう。もっとも何を暗記したかと思い返すに、何も覚えてはいないところを見ると、単に機械的に頭に詰め込んでいただけでほとんど蓄積されていないので、これらすべてを総合して記憶力と呼ぶのなら、昔からなかったことになる。
世の中には記憶力がメチャクチャ良いという人がいる。中にはオールマイティに優れている人もいるけれど、たいていは人によってそれぞれ得意な分野があるようだ。
昔、お見合いをした相手の人が、
「僕、電話番号というものは一度聞いたら二度と忘れないんだ。君の番号、言ってみて」
と、エラそうに人の不得意とすることを自慢してみせるので、くやしまぎれに思い切り早口で、「045の9レロレロレロ……」とまくしたててやったら、以来一度もかかってこなかった。
番号を聞き取れなかったか、さもなければ「かわいくない女」と思って憤慨したに違いない。もちろん、その縁談はつぶれた。
友達にも記憶力のすぐれた人がいる。卒業して十数年たつというのに、いまだにクラスの名簿順に全生徒名を挙げられる人とか、「去年のクリスマスってなにしてたっけ」と聞くと、
「去年はねえ、あたしは教会のミサにいったんだけど、あなたは番組の忘年会があるっていって、出かけたのよ」
「よく、人のことまで覚えてるわねえ」
「だってその翌日、あたしが、『クリスマス・イブに仕事の忘年会をするなんて珍しいわね』って言ったら、あなたが『でも、誰も欠席しなかったよ。けっこうみんな暇なのよ』って言ってたじゃない。おととしはおたくにケーキ食べに行ったのよね。あなたがパーティーで貰《もら》ってきたから食べに来ないかって。ホラ、六本木のケーキ屋さんのさあ」
私は彼女のことを「歩くカレンダー」と呼んでいる。
老化現象を防ぐには、思い出すという努力を怠らないことが大切なのだそうである。どうしても出てこない言葉や人の名前があったら、「アー、イー、ウー」と五十音の順に唱えていって、ピンとくるまでひとりで考える。途中であきらめると……例えば「あの女優さんの名前が出てこない。まあ、いいや」と断念したとたんに、頭の中の「女優」という抽斗《ひきだし》がすべて消滅してしまうんだそうだ。ことに老化現象の兆候は、遠い過去よりも近い過去の記憶から薄れるという。
・今朝は何を食べましたか。
・昨日の夜は何をしていましたか。
・今さっき、何をしようと思ったんですか。
出かける前に生ゴミを捨てようと思い、紙袋に詰めてガムテープで口をふさぎ、それを持って玄関を出た。郵便受けを覗くと、
「まあ、めずらしい人から手紙が来てる」
バッグと紙袋を肘に持ちかえて、手紙の封を切り、文面を読みながら通りに出る。
「あら、こんな時間だ。急がなくっちゃ」
と、つい軟弱に手を挙げてタクシーを拾い、乗り込み、ドアが閉まり、発車してから「しまった」。
生ゴミの袋が腕にぶらさがったままである。臭《にお》うかなと不安に思いながら、そのまま赤坂のTBSに着いてしまった。
車を降りて、まずいなあと思っているところへドカドカッと番組のスタッフが数人、テレビ局の玄関に現れた。客人を送り出すところらしい。見ると、民社党書記長の大内啓伍氏である。
時はまさに塚本委員長辞任の発表があった日の夕方。今後の政局についてインタビューをお願いし、ちょうど「今、ビデオの収録が終わったところだよ」とスタッフ。ハイヤーに乗り込む氏に向かって、一同ご挨拶。私も紙袋を後ろ手に「ありがとうございました」。
すると、ごていねいな書記長は、車の窓から私に向かって手を差し伸べる。慌てた私、左手で紙袋を背中に押しつけて、右手を差し出す。と、書記長は握手をしながら、おっしゃった。
「あまり、くさ……で、くださいよ」
一瞬、ギクッとする。なに、くさい!? さては臭ったか。おそるおそる、「は?」と聞き返すと、書記長、「あまり、(番組で)くささんでくださいよ」。
紙袋はそのあと、TBSのゴミ箱にこっそり捨てておいた。
気配りオバサン
菊池桃子さんがホステス役を務めているラジオ番組に、ゲストとして招かれた。
「なんで佐和子さんが桃子ちゃんの番組に?」
いかにも理解しかねるといった様子で人の顔を睨みつけるのは、我が番組の若きAD(アシスタント・ディレクター)連である。「僕らのかわいいアイドルに、そこのオバンよ、何をする」といった敵意のまなざしを感じる。
「いいじゃないの、なんか文句ある?」
「いえ、別に文句なんて言ってません。ただ、どうしてかなあと不思議に思ったから」
理由はちゃんとある。なんでも桃子さんは今年二十歳で短大を卒業するのだそうで、これを機に、社会人の先輩女性とおしゃべりがしたいという本人の要望で特集が組まれ、しばらくシリーズでやっている。そのひとりとして、私も呼ばれることになったと。
「はあ、社会人の先輩……ですかぁ。先輩っていっても色々だからなあ」
「なに、あたしじゃ、役に立たないと言いたいわけ」
「いえ、決してそんな。理想的な人選ですよ。こんな素晴らしい人選、聞いたことない。なっ、そうだよね」
と、周りの仲間に同意を求め、急にお世辞を使い始める。おかしいなと思ったら、連中はニヤニヤしながら、
「これに、桃子ちゃんのサインをもらってきていただけるとうれしいなーなんて思ったりして」
色紙を二枚、差し出した。
ラジオには、過去に二、三回出たことがあるが、同じマス・メディアでもテレビとはずいぶん勝手がちがう。
まず、ラジオのスタジオは概してせまい。防音壁に囲まれた独房のような部屋の中で、唯一、外界との接触の手立ては、一本のマイクである。黙っていれば何も伝わらない。こちらから能動的に語りかけないかぎり、外とのコミュニケーションはとれないので、そのぶん、テレビ以上にサービス精神が必要となってくる。
あくびをしようがお尻を掻《か》こうがわからないのはいいが、その仕種《しぐさ》をあえて伝えたいと思うなら言葉や音で表現しなければならない。
初めてラジオスタジオを訪れたのは、まだ私がこの業界で仕事を始めてまもない頃、久米宏さんがパーソナリティをしていらした番組に呼ばれた時である。
「百の質問」というコーナーで、メトロノームの音をバックに弾丸のような勢いで飛んでくる久米氏の質問に答えろというのだけれど、場慣れしていない私には、マイク越しに見える久米氏の口元のみごとな動きに圧倒され、頭が回らない。ひとつ質問されるたびに「アー、ウー」と答えにもならない音を発するばかりだった。
「あなたは何色が好きですか」
「最近、読んだ本で面白かったものは」
「あなたは自分を毛深いと思いますか」
毛深いだろうか。いや、毛深いところとそうでないところがある。どちらとも言えない。
「えーと、こういうところは濃いんですけど」
と眉毛を指差す。すると、久米氏は驚いたような声を出し、
「ほう、そういうところですか」
「あ、でも小さい頃は、ここも濃くて悩みました」
と、鼻の下を撫《な》でる。
「ふんふん、そこも、濃いですか」
「腕とか足にはあまり生えないんですけどね」
「なるほど。阿川さんは、腕や足は濃くないが、こういうところは人一倍、濃いと。おわかりいただけたでしょうか。そういうことだそうです」
しまった、そうか。これでは聴取者の誤解を招くのかなと気づいたときは、もう次の質問へ移っていて、訂正もできない。
おかげで、そのとき番組を聞いていらした方々に、私は妙なところが毛深い女という印象を与えてしまったようである。
桃子さんは久米さんのように意地が悪くなかったし、私のほうもあれ以来の教訓が身についたから、その点に関しては失敗の心配はない。ただ逆に、へたをすると私のほうが意地悪オバサンの役を演じる恐れがある。
アチラは成人したばかりでホワンとしたかわいらしさが人気のアイドルタレント。対する私は、十歳以上も年上。これだけで充分、「いじめ」の匂いがするではないの。
そういう先入観のもとで、ちょっとでも先輩ぶった発言をしようものなら、「ほれ、見たことか。年増のいじめだ」と言われかねない。かといって、「あたしもよくわかんなーい」なんて若づくりを装えば、「カマトト」と一喝されるだけである。
はて、どういう態度で出たものか。
日本人は、対する相手によって自分の呼称が変わると、大学の言語学の授業で習った覚えがある。英語では、「アイ」と「ユー」の関係が、大人同士、主従、親子、男女のいずれの関係であろうと固定されている。多少の敬語がつくことはあっても、「自分」はあくまでも「アイ」で、「相手」は、必ず「ユー」となる。
ところが日本語の場合は、自分の子供と話をするとき「パパはね」という人が、同僚とお酒を飲むときは「俺」になり、上司に対してなら「わたくし」で、見知らぬ子供に道を教えるときは「おじさんがね」となるだろう。
なるほど、日本人が相手の顔を見てから自分の立場を決めるという、自己主張のはっきりしない気質は、こういう言語上の問題も影響しているのかと、教授の講義に納得したものだ。
「お見合い、たくさんなさったんですか? あたしも一度してみたいなあ」
目をクリクリさせながら、真剣に問う桃子さんに向かって、「じゃ、やってみればぁ」と、同世代の友達に対するようなドスのきいた調子で答えるわけにはいかない。
「私も含めてこれから社会に出ようとする人たちに、何かアドバイスを」
村の長老じゃあるまいし、そんなことわかんないよと思うけれど、いちおう恰好をつけなければ、桃子さんも困るだろう。
と、あれやこれや考えて、先輩女性として恥ずかしくないよう、慎重に対応した一時間であった。
そして、収録が終わったとたんに、まるで軽薄なミーチャン、ハーチャンに転じる。ワンパック六百円のいちごを「差し入れです」と前に押し出しつつ、
「実はお願いがありましてね。この色紙にサインをいただけますでしょうか」
オバサンというのも、これでなかなか気を遣うものである。
警 戒 教 育
テレビの幼児番組を見ていたら、歌のおにいさんがまじめな顔をしてこんなことを言った。
「みんな、知らないおじさんやおばさんに声をかけられてもついて行っちゃいけないよ。幼稚園や学校の行き帰りには、よーく気をつけるようにしようね」
連続して起きている幼児|誘拐《ゆうかい》事件の波紋が、こんなところにまで及んでいる。親や学校が気をつけるだけではなく、マス・メディアを利用して子供に直接訴えかけ、注意を促す。なるほど、いい手かもしれないと思った。
誘拐魔というのは時代を問わず存在するものらしいが、昔はもう少し犯人の目的がはっきりしていたような気がする。子供をさらった後、電話をかけてきて親に身代金を要求する。交渉がうまくいかなかったり、何かのはずみで子供を殺すことはあっても、目的はあくまでもお金だった。それなのに、最近の誘拐魔は何のために子供をさらっていくのかよくわからないケースが多い。
恨みか、嫉妬《しつと》か、精神異常か。ひょっとして最初から殺すことを考えていたのではないかと疑いたくなるほど、その殺し方は残忍で非人間的である。冗談じゃない。人の命をなんだと思っている。我が子のいない立場にあってさえこれほどの憤りを覚えるのだから、これで一児や二児の母親だったら、怒りと恐怖が混ざりあってノイローゼになっているかもしれない。
「あたし、この子を幼稚園に通わせないことに決めました」
「おい、そりゃ極端だろ。いくら心配だからって、それじゃこの子がかわいそうだよ」
と亭主が諭《さと》す。
「殺されたらもっとかわいそうです」
「じゃ、おまえ、なにかい。一日中こいつを家の中に監禁するつもりかい」
「そんなことしないわ。出かけるときはヒモをつけて、いつもそばにいさせるの」
「おまえに用事があるときはどうするんだ」
「あなたがヒモを持つの」
私ならやりかねない。しかし、あんまりヒステリックな母親だと思われたくはないし、だいいちこれでは子供が自立できなくなる。
と、理性を取り戻し、結局、数日後に子供を解放し、毎日、命の縮む思いをしながら忍耐強く帰りを待ちわびることになるだろう。つくづく母親とは強靭《きようじん》な精神の持ち主でなければ務まらないものだと思う。
私が小さいときに、吉展《よしのぶ》ちゃん誘拐事件というのがあった。あの頃、子供達は家庭や学校で徹底的に「知らない人を見たら誘拐魔と思え」教育を受けた。
全校一丸となって誘拐事件に対処しようという空気のなかで、ときどき地区別子供集会が開かれ、同じ通学路を利用する子供がひとところに集まり、顔見知りになっておく。近所に住む上・下級生と仲良くなって、一緒に登下校するようにしなさいと先生に言い聞かされた。
当時、私はきまじめな子供で、先生から言われたことは忠実に守るほうだったけれど、こと「探検」とか「知らない道の開拓」などに関しては、まるで前後の見境がなくなってしまうところがあった。
開拓した道で一度だけ怖い目にあったことがある。
実際、その道は普段通う通園路よりずっと近道だったし、人通りが少ないぶん、草花が生え、カマキリやバッタがたくさんいて、探検にはもってこいだった。
「大丈夫よ、気をつければ」
仲良しのイッコちゃんを誘い、二人して草むらに突入していった。しばらく進むと、突然、草かげからへんなオジサンが現れた。ボソボソ何か言っているのだが、よく聞き取れない。気味が悪くなって、「はやくいこ」とその場を去ろうとした瞬間、急にオジサンがイッコちゃんの背中に覆いかぶさった。
「おんぶしてぇ」
こりゃ、たいへんだ。イッコちゃんを救わなくてはならない。
「どいて、はなして」
懸命になってオジサンの腕を引っ張り、肩を押していると、今度は私の背中に乗っかってくるではないか。
「やだ。やめてよお」
もがいてももがいても、大きなズータイはビクともしない。イッコちゃんが一生懸命オジサンをはがしにかかる。息は苦しく、涙は溢《あふ》れ、膝《ひざ》は痛い。「ギャー」と大声をあげた勢いでなんとか不気味なオジサンから身体を抜き、一目散に走って逃げ帰った。
母からたいそう叱られたのち、病院に連れていかれた覚えがある。お医者さんは母に「異常はないようです」と言われたようだが、当時の私には、何が「異常ない」のか、さっぱり理解できなかった。
早いうちに恐怖の体験をしたおかげで、見知らぬ人に対する警戒心は人一倍強くなった。
小学校四年の時のある雨の朝、住んでいたマンションの入り口で、黒塗りの車に乗った紳士に声をかけられた。その方が同じマンションの別の階に住む、お金持ちの社長さんだということはうすうす知っていた。毎朝、運転手つきの車に乗って出かけていくところを何度も見たことがある。が、いつも気難しい顔なので、口をきいたことはなかった。
その怖い紳士がいつになくにこやかに、車の窓から私を手招きしている。
「こんなどしゃぶりじゃ、たいへんだろう。学校まで乗っていきなさい」
一瞬迷った。送ってもらえばたしかに濡れないですむ。でも、待てよ。これは誘拐魔の罠《わな》に違いない。そうだ、この一見、やさしそうな運転手もグルなんだ。私はキッと紳士を睨み返し、「大丈夫ですから」と言ってどんどん歩き始めた。
「いや、心配しないでいい。送ってあげよう」
再度、紳士は声をかけて下さったが、私はかたくなにお断りした。すると紳士は「そう」と言って、運転手に車を出すよう命じた。
今考えれば、あの親切な紳士のお誘いは受けておくべきだったと後悔している。しかし幼い頃に身につけた習慣はそうたやすく変わらないものだ。実際、この年になってもまだ、見知らぬ人から「あのー」と声をかけられると反射的にその人をキッと睨みつけ、「なに」と答える癖がある。
この「なに」は、恐怖に満ちた弱々しい声ではなく、相手を恐怖におちいらせるだけの威圧感溢れる「なに」だと、人は言う。そして、その話をするたびに、
「ちょっと、教育が行き届きすぎたかしら」
と、母は少しだけため息をつく。
フ テ エ 女《あま》
出ている番組が二月の末に千回目を迎えた。
「千回っていったら、ちょっとばかりおめでたいことだよ。日頃お世話になってるゲストの方々にもお集まりいただいて、ささやかなパーティーをやろうじゃないの」
こうしてスタッフの中から千回記念委員なるものが指名され、綿密な計画を立てた上、いつも使っているスタジオを会場にして、数百人のお客様を招いての、番組としては最大級に属する立食パーティーが催されることとなった。
司会役は小島|一慶《イツケイ》さんと私。といっても、スピーチは極力少なくしようという主旨だったので、これといって仕事はない。ただ、いらした方々に、「どうも、ごぶさたしております」とか、「わざわざお越しいただいて」なんてご挨拶をし、旧交を温め、あとはもっぱら出店のおでん、天ぷら、ローストビーフに目を光らせ、口を動かしていればよいという、主催者側としては実に気楽な会だった。
「で、番組はこれで何年になるんですか」
と、あるゲスト。
「五年と六カ月です。早いもんです。私も老けましたでしょ」
こういう社交辞令的謙遜の言葉というのは、我ながら意味ないなと思うのだけれど、つい口から出てしまう。すると言われた方も、なにか反応しなくちゃならないと思われるらしく、まずさしあたりは語気強く、「いやいや」と否定なさる。が、それに続く適当な言葉が浮かんでこないので、もう一度「いやいやいや」と否定句を繰り返しながら次第に声が小さくなり、最後に双方、力なく微笑む。
こういう会話を三名様ほど繰り返すと、さすがに空しい気分になり、そんなとき、私は五年半という歳月の重みを感じるのである。
五年半前の九月、織物の修業中だった私のもとに、知り合いのTBSプロデューサーから電話があった。
「いやあ、お元気ですか? 実は僕、朝の番組から深夜の情報番組に移ることになってね」
この方には、それより少し前、私が素人レポーターとして二週間だけテレビに出演したときにお世話になった。
「でー、ちょっと相談がありまして」
その日の夕方、仕事の帰りに赤坂のTBSに伺って、新番組のアシスタントの話を聞かされた。
「私がですか? 無茶な。政治も経済もチンプンカンプンで、とてもお役に立つとは思えませんけど」
すると、プロデューサー氏はおっしゃった。
「いやいや。とにかく六カ月だけ、やってみて下さい」
このときの「いやいや」は、役に立つか立たないか熟慮している暇はない。なんでもいいから、スタジオに座っていてちょうだいといった、少しばかり投げやりな言い方に聞こえた。
それから二週間後、昭和五十八年の十月四日に「情報デスクTODAY」がスタートした。
制作側の意図はさておき、いいかげんなのはこの私で、なにしろアナウンサーの修業もせずに生番組でニュースを読み、わけのわからぬ業界用語が飛び交うスタジオの中央に座って、ただ黙り、ときどき思い出したように頷いてみせる。口を開けば失敗し、訂正しながら失敗をした。
それでも本人、なにがいけないかの自覚がなく、まわりの方々を相当にイライラさせたようだ。とうとう、いやみ半分、冗談半分に「フテエ女《あま》」とあだ名がつけられたほどである。
「いったい、こいつはなんなんだ」と一番情けなく思っていらしたのは、たぶん番組のボス、秋元秀雄氏だったにちがいない。それでもはじめのうちは「素人だから」と大目に見て下さっていたが、さすがに一年経ち、二年経っても向上の見られない私に、ある日、怒りが爆発した。
日本列島に台風が近づいてきている。天気予報担当の私に、秋元さんが訊ねられた。
「おい、佐和子ちゃん、台風は上陸しそうなのかい」
もし上陸の危険性があるのなら、番組でひとこと触れたほうがいいとボスは判断なさった。が、その問いに対し、私は、
「なんか、まだわかんないみたいです。さっき電話で気象協会の人に伺ったら、言えないって」
「わかんないってことがあるか。わかんなくてもわかんないなりの情報があるはずだ。それじゃ、取材になっとらん。ちゃんと納得のいく答えが言えるようになるまで、この部屋に帰ってくるな」
ドカーンときた。驚いたのなんのって。身内以外の人間に、こんな大声で怒鳴られたことはない。周りのスタッフもただ黙ったきりソッポを向いている。しかたなく、スタッフルームを出て、隣の部屋で半泣きになりながら、もう一度気象協会に電話で取材をした。
「いや、そう言われても、まだ確実なことは発表できないんですよ」
「そんな、困るんです。可能性だけでもいくつか挙げてもらわないと、私、部屋に戻れないんです。あと二十分で番組が始まっちゃうんで、なんとか」
人間、怒鳴られると意外な力が湧くものである。こんなにしつこく食い下がって取材をしたのは、はじめてのことだった。
本番五分前、びくびくしながら部屋に戻り「わかんない」よりは少しだけましな台風情報を秋元さんに報告すると、氏は、化粧の崩れた私の顔を覗き込み、ぷっと吹き出された。
千回記念パーティーも終わりに近づいた頃、秋元さんのご挨拶となったのだが、来賓の方々へのお礼を述べたあと、氏はちょっとした企《たくら》みを披露なさった。
「五年半の間、この扱いにくい私をうまく操縦して、番組を支えてきた二人の貴重なるスタッフに感謝の気持ちを送りたい」
そして、チーフプロデューサーの市橋氏と構成作家の和泉氏を壇上に呼び寄せ、隠しもっていた花束を贈呈なさった。
こういうシーンはウチワの人間にとってはけっこう感動的で、胸に込み上げてくるものがある。今にも涙が溢れてくる、くる、くるぞ……と、隣を見ると、一慶さんがすでに、ポロポロ涙を流していらした。
「またか」
以前、番組中にも、同じ経験をしたことがある。悲しいテーマをとりあげた日、私の目が潤む直前に、隣の一慶さんに先を越されていた。涙は先に流したものの勝ちである。あとを追おうとしても、なかなか出るものではない。
我が涙腺は堅く閉じられたまま、声の詰まった一慶さんのかわりに、マイクに向かってパーティーの進行を引き受けていた。これでまた、「フテエ女」と呼ばれてしまう。
禁断の笑い
電車の中で本を読んでいて、笑いが止まらなくなった。
この本はくれぐれも電車の中では読まないようにと人から忠告されていたにもかかわらず、その禁を破ったら、はたしてバチがあたったらしい。
最初のうちは鼻で静かに吹き出す程度の笑いだったが、一行読み進むごとに、だんだん鼻息は荒く、肩の振動も激しくなってくる。ときどき声が漏れるようになると、これはもう、本格的な爆笑の段階に入っていて、頭の片隅では「ヤバイ」と感じながら、どうにも押さえることができない。
コンコンとわざとらしい咳を作ってごまかそうとするのだが、あまり効果はなく、本から目を離し、やぶ睨みのような目つきでおそるおそるあたりを見渡すと、幸い他の乗客に気づかれている気配はない。と、安心した途端に我慢していた笑いが一気に吹き出した。
突如、隣に座っている人の身体を肘で突いて、「ちょっと、ちょっと、おもしろいんですよ。ここ読んでみてくださいよ」なんて声をかけたら、コイツ、頭がおかしいんじゃないだろうかと思われるに決まっている。結局、この可笑《おか》しさを心の内に秘め、電車を降りて誰か知り合いに出会うまでは、ひとりで抱えていなければならない。
禁断の笑いというのは、それなりの苦痛が伴うから、なおさら膨らむのだろうか。
「女はなんで笑うときにいちいち手で口を塞《ふさ》ぐのかねえ。あんなことやるの、日本人だけじゃない?」
我がボス、秋元秀雄氏が怪訝《けげん》な顔で言われた。
なるほど街頭インタビューなんかをして女性にマイクを向けると、左手で口を塞ぎ、右手を「いやいや」と振って、コロコロと笑いながら恥ずかしそうに答える人が多い。なかには笑わなくても、なにか話すときは必ず口に手を当てるのが癖になっている人もいる。
「君もやってんの?」
「いえいえ、そんな」と答えながら、つい左手が口に近づいている。
と、まあ私の場合は口だけでなく、笑うときはシワが増えないよう、目尻にも手を当てなければならないから、忙しい。
さて話を戻して、女はなぜ笑うとき口に手を当てるかと改めて考えてみた。
そういえば、歌舞伎や文楽の振り付けでも、笑いを表現するときは、袖口を口元に持っていく。ときには扇子などで口を隠すこともある。
ものの本によれば、
「手で口をおおうという動作は、『しまった』という精神的動揺を示す、或《あるい》は『口をきくな』『静かに』という意味を持つ国が多い。『くさいぞ』というサインに使う国もある。それらは文化に関係なく、無意識的なしぐさといえよう。
文化と係わりがあるものとしては、日本、アメリカ、フィリピン、オーストラリアで『笑いを押さえる』ために示し、メキシコでは『恥ずかしい』時に使う。もっとも、この場合、アメリカ、オーストラリアでは、軽蔑《けいべつ》的な笑いの意味を持ち、反対に日本では『お上品』と捉《とら》える。すなわち、日本人女性が上品なつもりでこのしぐさをすると、アメリカ人やオーストラリア人は、そしり笑いをされたと解釈する可能性があるわけだ」
とあった。
数年前、エチオピアに取材に行った。エチオピアは海抜二千数百メートルという高原地帯にあるため、空気が薄い。そのために「酸素ボンベを持っていったほうがいい」とか、「到着してすぐ走り出してはいけない。肺が慣れるまで、なるべく静かにしていなさい」「ホテルのプールにも、すぐに飛び込んではいけないと注意書きがしてある(これは本当だった)」など、あれこれと脅かされて旅立ったのだが、実際は普段の生活に支障をきたすほどのことはなかった。
ただ、奇妙なことに、現地で会うエチオピアの人たちは、話すとき、言葉の最後にスウーッと息を吸うのである。
「ハウ・ドゥー・ユー・ドゥー。スウーッ」という調子で、会う人だれもが同じ反応をする。ははあ、さすがに空気の薄い国だけあってこまめに息を吸うんだなあと合点《がてん》した。が、あとで、さる人に伺ったところ、
「あれは、エチオピア人のマナーなんですよ。自分の息が人にかからないようにするためのね」
ほう、なるほどと感心したが、これが日本人の場合は口に手を当てるということになるんではなかろうか。咳やくしゃみをするときと同様に、「ハッハッハ」と思い切り息を吐き出して笑うとき、他人様の迷惑にならないよう、手を当てるのが淑女のたしなみというものよと、教えられてきた。
なぜ笑うとき、口に手を当てるかの、もうひとつの見解。
そもそも日本人は笑うことを下賤《げせん》な感情としてきた歴史がある。昔の侍は「片頬三年」といって、三年に一回、片方の頬がちょっと歪《ゆが》むくらいに笑う程度だったそうな。高貴なお方、知識と教養のある方は、やたらとへらへらするものではない、不真面目であるといった風潮があったようだ。
で、つい、笑ってしまった場合は、「あら、いけない。隠さなきゃ」という判断が働いて口に手を当ててしまう。特に社会的しきたりに縛られやすい女性に、この思想が根強く残ったと考えられる。
「それで結局、電車の中で何の本を読んだの」
面白い話があってねと持ちかけるだけで、まだ何も内容をしゃべっていないうちから笑い出す友人がいる。
「やだ、はやく言いなさいよ」
「清水義範の『永遠のジャック&ベティ』って本」
「え、聞いたことない」と答えながら、彼女はすでに笑っている。なんとおめでたい人かと呆《あき》れつつ、つられてこちらも笑いがこみ上げてくる。
箸が転げようが、スプーンが落ちようが、何を見ても可笑しいというのは年齢の問題ではないらしい。まともな姿勢を保っていられないほど可笑しくて、とうとう床を転げ回って、ヒーヒーと泣き笑いになる。そのとき、手が口の上に当てられることがあったとしても、それは「上品さ」とは程遠く、もはや何の役にも立っていない。下品な笑い声は高らかに部屋の外まで響き渡っているのだ。
大口を開けて笑うことの許されない時代に生まれなくて、本当によかった。
エイプリル・フール
今年のエイプリル・フールは土曜日だった。
朝、母が電話をしてきて、娘が最も引っ掛かりやすく、最も過敏に反応すると知っているネタを持ち出した。
「○子ちゃんが結婚するんですってよ」
これに対し私が、
「うっそぉ、なんで急に決まったの?」
と、予想以上の驚きを示したため、娘を哀れに思ったのか、母はすぐさま、
「うそうそ。今日は四月一日でしょ」
と白状し、この四月バカはあっけなく終わる。
母のおかげで今日が何の日であるかを自覚できたので楽しみにして家を出たが、そういう時に限って何も起こらない。ラジオ番組の録音をすませ、夕方は雑誌のインタビューの仕事をした。それだけでも合計六人くらいの人間に会ったのに、誰からも嘘《うそ》をつかれなかった。
十数年前の四月一日。
渋谷から田町《たまち》行きのバスに乗ろうとして、ワンマンカーの料金ボックスに十円玉を四つ入れた。すると、じっと私の様子を観察していた運転手さんが、低い声で呟いた。
「足りないよ」
「はあ?」
「足りないの。あと、三十円」
このオジサン、突然なにを言い出したのだろう。いままで、ずっとバスは四十円で乗ってきたのである。なんだってあと、三十円も払わなければならないのだ。
そこで、ハタと思い出した。
「ハハーン、今日は四月一日じゃないの」
急に、この一見、無愛想だがシャレのわかる運転手さんに親しみが湧く。私はニマッとした笑みを浮かべると、ちょっと甘えた調子で、招き猫のように手を前後に振って囁《ささや》いた。
「やーだ。ジョーダン言っちゃって」
ところが運転手さんは、これっぽっちも笑わない。それどころか、ますます怖い目つきでこちらを睨む。私は、ちょっと不安になり、他の乗客のほうへ救いの眼差しを向けた。が、そちらもまったく知らん顔という様子。シーンと沈黙の時が流れ、白け鳥が飛んでいる。
しかたなく、釈然としないまま請求額の三十円をプラスチックのボックスに入れ、席に座った。
「今日、変なバスに乗ってねえ」
あとで、友達にこの一件の報告をしたところ、彼女は呆《あき》れかえったという顔で奇声を発した。
「あなた、今日からバス料金が値上げされたこと知らなかったの?」
バスでの教訓以来、四月一日の人様の言動については特に懐疑の心を以て接してきたつもりだが、どうもここ数年、おもしろい嘘を耳にしない。「よし、かかってこい」と構えると裏切られるものなのか。人に引っ掛けられなければ、自分も引っ掛けようという気が起こらないから、毎年、四月の初日は何事もなく暮れていく。
子供の頃は、四月一日が来るのを楽しみにしていたものだった。朝起きると真っ先に台所へ行って母をだます。が、たいていすぐに見破られ、「つまんないの」と退散。続いて、兄をたたき起こしにかかる。
「おにいちゃん、たいへん。家が火事だあ」
「げ、なに!」と飛び起きればしめたもの。やった、やったと叫んで家中を跳びはねる。
なんと無邪気だったことか。
私の素直な性格は友達の間でも定評があり、中学二年の春休みに、こんな連絡がクラスメートから手紙で回ってきた。
「今度の始業式の大掃除では、名簿の一番から五番までがトイレ掃除と決まりましたので、その五人は、タワシ、ゴム手袋、ゴム長靴、雑巾《ぞうきん》、エプロン、三角巾を忘れないように」
新学期が始まって始業式が終了すると、さっそく私は、持ってきた掃除道具を抱えてお手洗いへ向かった。が、後ろから誰もついてくる気配がない。おかしいぞ。異様な空気を感じ、振り向くと、十数人の詐欺師どもがお手洗いのドアの外でクスクス、ケッケと笑い転げていた。
思えばあの手紙は四月一日付けだったような気がする。
大人になるにつれ、嘘をつき、嘘をつかれる機会は増えてくる。
「嘘をついてはいけません。しかし、四月一日だけは特別に許されます」というエイプリル・フールの鉄則は幻想でしかなくなった。
「実はあれ、嘘だったの」と白状しても、嘘慣れしている現代人は驚かない。つまんない、やめようかというわけで、エイプリル・フールの影は、次第に薄くなってしまったのだろうか。
「やっぱり女のほうが本質的に嘘つきだよ」
四月一日の夜、懐かしい友達と集まって、千鳥ヶ淵の夜桜を見に行った帰り、タクシーのなかで、酔っぱらいがひとり叫んだ。
「あーら、そうかしら。男だってしょっちゅう嘘ついて女をだましているぞぉ」
答える私も、少し呂律《ろれつ》が回らない。
「男の嘘は、女を傷つけまいと気遣うあまり出てくるものなんだ。それを女はしつこく糾弾して、なんでアナタはそんな嘘をついたの、どうして本当のことを言ってくれなかったのってさあ。本当のことなんか言ってごらんよ。もっと騒ぎになるんだぜ」
「へたな嘘、つくほうがいけないんじゃないの。ねぇ」
と、隣を見ると、もうひとりの酔っぱらいは岩のように重くなっている。
「だいたい男っていうのは、お酒を飲むと愚痴っぽくなるか寝るかなんだから、始末に負えない」
「いや、とにかく女は嘘つきです」
「お客さん、お取り込み中ですが着きました」
「あっ、どうも」とメーターを見ると、千九百九十円とある。
お財布から千円札を二枚出し、
「お釣りはけっこうです」
酔っぱらうと気が大きくなって(と自慢できるほどの額ではない)、この台詞《せりふ》を吐きたくなるものだ。と、運転手さん、
「いや、お釣りって言われても。まだ、足りないんですが」
「えっ?」と驚いたが、直ぐに気づき、またしても招き猫の手を出した。
「やだあ」
すると、運転手さんは真面目な顔で答えた。
「エイプリル・フールじゃないですよ。これに消費税がかかるから。悪いね」
立ち見コンサート
浦安のNKホールでサディスティック・ミカ・バンドのコンサートがあるけど行きませんかと誘われたので、「うん、行く行く」とすぐ乗った。
生来の怠け者である私がめずらしくその話に乗った理由はいくつかあって、まず、誘ってくれた若きアシスタント・ディレクター、アキラ君のガールフレンドと会ってみたいという小姑《こじゆうと》根性。もう一つは、浦安の豪華ホテル群の見物、そして、たまには生演奏に触れてわが感性を刺激し、心を豊かにしなければいけないという純粋なる向上心からである。
「でも、佐和子さん、サディスティック・ミカ・バンドってどういうグループかわかってます?」
「わかってるわよ、あの『帰って来たヨッパライ』を歌ってた加藤和彦が結成したバンドでしょ」
「まあ、そこまで遡《さかのぼ》れば、そういうことだけど。大丈夫かなあ」
「なにが」
「ああいう音楽を理解できるかなあと思って」
要するに、若者の音楽にはついていけないんじゃないかと心配しているのですか、いや、そういうわけじゃないけど、と口論しているうちに、当日。
天気は上々。アキラ君がレンタカーのカローラを運転し、助手席にガールフレンドのケイコちゃんを乗せて現れた。
「君は佐和子さんと後ろの席に座りなさい。色々お話ししたいんだろ」
仕事場ではいつも上司にドヤされて小さくなっているアキラ君も、恋人の前ではぐっと威厳に満ちていて、なんだか一家の主面《あるじづら》をしているから可笑《おか》しい。
「誰が見ても、お邪魔虫って感じね」
遠慮がちな態度を示すと、「いえ、そんなことないです。もう二人でいるの、飽きちゃってるんです」とかなんとか、一生懸命、私に気をつかわせまいと努力する。同じ巳年《みどし》だが、同い年ではないケイコちゃんはけなげで可愛い。
予定より早く、都心から三十分ほどで浦安に着いたので、コンサートが始まるまでの小一時間、第一ホテルの中庭で管弦楽の生演奏を聴きながら、軽くカクテルを飲み、しばらくホテル鑑賞に耽《ふけ》る。我々と同じように宿泊を目的としない休日ブラブラ見学隊の家族連れやカップルが多く、しかし何となくみんなのんびりと過ごしている雰囲気で、なんだか外国に来たみたいである。ホテルの建て方自体が豪華で広々しているし、周辺に植えられている並木がヤシだというのも、いかにもリゾート地っぽくていい。
と、お邪魔虫であるハンディキャップを乗り越えて、優雅な気分に浸り始めたところで、ホールに入場。
このミカ・バンドの場合、アイドル歌手を狙《ねら》ってくるほどの大騒ぎはないけれど、かといってダークスーツ族は見当たらない。レースのドレスからジーパン、超ミニスカートまで雑多に混じり合い、さしずめ六本木と代官山、青山あたりを歩いている人種がそのまま移動してきたような感がある。なかには、ギンギラ銀の鋲《びよう》がたくさん打ってある派手な白いジャケット姿で、赤ん坊を抱いた若い男性がいて、こういうお父さんに連れられて、小さい頃からロックのコンサートを聴いて育つと、どんな人間に成長するんだろうと、興味が湧いた。
いよいよステージが始まる。と、驚くべきことが起こった。ここなら舞台がよく見えて、いい席だわと満足したのも束の間、幕が上がった途端に、観客がどっと立ち上がったのである。一瞬にして目の前が真っ暗になった。なに、冗談でしょと文句を言う声も大歓声に埋もれて聞こえない。みな、リズムに合わせ、身体を左右に動かし、手拍子を打ち、アッという間に音楽に陶酔してしまった様子である。誰一人座る気配がないので、仕方なく私も腰を上げる。が、百五十センチの背丈では、立ったところで何も見えやしない。
なんてこった。四千円も払ってはるばる浦安まで来たのに、ステージは何も見えませんでしたじゃ、あまりに情けないじゃないですか。くやしまぎれに席を離れて通路に出てみたが、今度は前方に立っている座席案内係に遮《さえぎ》られ、相変わらず誰が歌っているのかわからない。
アンコールで拍手喝采、観客が立ち上がるっていうのならわかるけれど、たまにスローな曲のときに座る以外は、ちゃんと指定された席があるにもかかわらず、二時間ずっと立ち詰めのコンサートなんて、初めて経験した。
「やだなあ、佐和子さんたら、コンサートの間中、キョロキョロあたりを見回しちゃって、落ち着かないんだもんね」
「だって、あんまりびっくりしたんで、よく観察しておこうと思って」
「最近のコンサートは最初から立つっていうのが常識なんですよ。まあ、クラシックなんかは別だろうけど」
帰りにシェラトンホテルの中華レストランで食事をしながら、「若者たちの意見」を拝聴することにした。
「コンサートの出来を評価するとか、そういうことじゃないんですね。自然に身体が反応する。無意識でそうなっちゃうんじゃないかしら」とケイコちゃん。
「そう、あの曲好きだなと思えば、身体を動かしたくなるから立つ。疲れたら適当に座ればいいんだから」とアキラ君。
フーン、時代は変わったものだと、ひそかに思う。かつて舞台というものを「よそいき」の催し物として珍重していた人々は、ひたすら静かに演奏を見守っていた。それから後、アメリカなどの影響で、音楽に合わせて手拍子を打ち、演奏者と一体感を持つようになる。もっとも手の打ち方には二種類あり、リズムの頭で手を打って、後は揉《も》み手《で》をしかねない世代と、アフタービートに馴染《なじ》んでいる世代とに分けられたものだ。
もちろん、私はアフタービート世代であり、新しいリズム感が身についているほうだと自負していた。しかし、この期《ご》に及んでは、アフタービートで共感なんていうのではすでに古いらしい。普段、ウォークマンやラジオ、CDで馴染み、「原体験」した音楽を、今日は|ラッチー《ヽヽヽヽ》なことにナマだっていうんだから、大いに利用して、身体中で「追体験」しようじゃないのということらしい。すなわち、彼らにとってコンサートホール自体がディスコなのである。
「でも、あの雰囲気の中じゃ座りたくたって、それが許される自由がない。なんか変だわよ。よし、来週の週刊文春に書くネタができたぞ」
すると、若者ふたり、ちょっと顔を見合わせてから、
「それは……、書かないほうがいいと思う」
「なんで」
「だって、自分がトシだってこと認めるようなもんですよ」
カワイコ遊び
毎日、仕事を終えて早朝三時ごろに帰宅すると、まず、玄関の下駄箱の上に置いてあるぬいぐるみ達に「ただいま」の挨拶をする。こういうふうに書くと妙に少女趣味っぽくていやらしいだろうか。一人暮らしの女が狭いアパートの一室で、ぬいぐるみ相手に「クマコちゃん、元気ぃー? 寂しかったでしょう」なんてひとり言を言っている図というのは、想像するだに気持ちが悪い。
自己弁護するわけじゃないが、私の場合、そういうつもりはない。彼らの存在をチラッと横目で確認し、気分がいいときは「よしよし」と頭を撫で、そのいたく平和な表情にしばし安らぎを見いだす程度なのだけれど、やっぱり気持ち悪いかしら。
玄関に鎮座ましますぬいぐるみとは、セサミストリートに登場するカエルの腕人形(下から腕を入れて表情を操作できる指人形のようなもの)、手編みの仔馬、くまのプーさんの三匹。
いずれもそれぞれに思い出深い品で、やや間の抜けた顔のカエルが仔馬とプーを両脇《りようわき》にしっかりと抱えている姿なんぞは、あまり頼りにはならないけれど、これでもなんとかお家を守りましたぜと報告しそうな様子で、なけなしの母性愛をくすぐられるのである。
子供の頃、私はぬいぐるみとか人形というものにそれほど興味を示さなかった。それでも、やはり女の子だから、いくつかは持っていた。なかでも一番|洒落《しやれ》ていたのが、どなたか外国のお客様に頂いたフランス製の着せ替え人形。髪はカールのかかった金髪で、レースのワンピースの上に黒いフードつきマントを羽織っていた。青い目はほどほどにパッチリとして、表情はどこか憂いを保ちながら気品があり、しかも、膝と肘をコキッと曲げられたのだから、今から三十年ほど前の当時としては、「さすが外国製品は違う」といった印象だった。
その人形を相手にピアノの下で一人遊びをしたことがある。五、六歳の頃だったと思うが、自分でもめずらしく「女らしいことをしているな」という自覚があった。「まあ、あなた、お元気」「その服、ステキよ」などと気取った調子で人形に台詞《せりふ》をつけ、小声で会話をしていた。フッと人の気配を感じて目を上げると、出掛けていたはずの母がいつの間に帰ってきたのか、部屋の入り口に立ってケッケと笑っているではないか。
とんでもないところを見られたと思った。とっさに人形を隠してみるが、後の祭り。取り繕うすべもない。人形遊びを敬遠するようになったのは、思えばあの事件以来のような気がする。
人形に限らず、敷物や家庭雑貨品を選ぶときも、なるべく絵柄のついていないもの、動物や人の顔などが描かれていないものを好んでいたのだが、最近、少し自分の好みが変わってきたような気がする。集める趣味のなかったぬいぐるみの数が増えているし、身の回りの品に表情のあるものを選ぶようになった。
どういう心境の変化だろう。もしかして、余生はひとりで過ごすことになるかもしれないという一抹の不安から、無意識のうちに、心のなぐさめになる仲間を作ろうとしているのだろうか。
『美人進化論』という本がある。時代とともに美人の基準は変わってきており、もし、平安時代の美女とされた人が現代に出現しても誰も見向きもしないだろうし、逆に、現代風美人を過去の一時代に連れていったところで、ブスと思われるかもしれない、というようなことが書かれていたが、そのなかに、欧米と日本とでは、本質的に美人に対する考え方が違うとあった。
つまり、欧米では、大人の魅力を持っていることが美人の条件であるのに対して、日本ではあくまでも「かわいらしさ」が重要になるという。
以前、バービー人形について取材した際、この論が立証されるような話を聞いた。
数十年前、アメリカからバービー人形が入ってきたとき、あまり売行きがかんばしくなかったそうである。そこで、日本の販売元は、バービーちゃんを改良し、和製バービーを作って発売した。目は切れ長で八等身、バスト豊かで腰はくびれ、超ハイヒールをはいた成熟女の元祖バービー嬢を、胸ペチャで、ウエストのくびれもなく、六等身、まさに少女マンガに出てくるような、瞳《ひとみ》に星が光るという、あの手の顔に作り替えて売り出したのである。はたして、爆発的な売行きになったという。
どうもこれは、人形を買う子供の好みだけの問題ではないようだ。前髪を降ろし、頼りなげな声を出す若い女の子が多いのも、日本人のメジャーな嗜好《しこう》に合うからではないだろうか。
さてここで、困惑するのはわれら女性である。「かわいい」が自分に対する最高の褒め言葉と理解して、そのように振るまうことに精力を費やしていた女が少しずつ年をとる。と、以前と全く同じ態度、言葉遣いをしているはずなのに、或る日突然、誰も「かわいい」と言ってくれなくなる。ところが、女にしてみれば、長年かけて目指していたものを「ちょっと待て。女は急に止まれない」から、そうそう生活態度を変換させるわけにはいかないでしょう。
で、いつまでも過去の栄光に執着して「いやん、わかんなーい」と続けていれば、即座に「いい年して、気持ち悪い」と顰蹙《ひんしゆく》を買うことになる。
「玄関のぬいぐるみもいいけれど、もう少し、動くものもいいかなあと思って」
と口を滑らせたら、
「まさか、ペットを飼うって言うんじゃないでしょうね」
と、両親が過敏に反応した。
「一人暮らしの女が犬猫を飼うって言い出したら、それこそおしまいだ」というのが父の持論であり、すなわち、もうこれで娘の結婚の望みは完全に断たれると信じているらしい。
親から反対されるまでもなく、犬や猫を責任持って飼う自信は今のところないけれど、メダカくらいならなんとか私の手にも負えるのではないか。以前、実家で飼っていた経験があるが、小さいながら動きは優雅で、特に子供が生まれたときの楽しさは格別のものがある。生まれる日が一日ずれるだけで、その成長ぶりに差が出て、長男、次男、三男とそれぞれに性格が違うようにも思えるから、観察していて飽きることがない。
数十匹のメダカにそれぞれ名前をつけ、水槽を相手に会話をする。外ではもはや発揮することのできなくなった子供っぽい声や言葉を使い、思う存分カワイコぶってみるもよし。お母さんぶってみるもよし。
一人遊びの醍醐味は、秘めたる自分の性格を表現することにある。ただし、人様の目には決して触れないよう、くれぐれも注意しなければならない。
更 新 暦
先日、免許証の更新に行った。
といっても、私の誕生日は十一月なので、更新期限はとうに過ぎているのだが、電話で問い合わせてみたところ、期限を過ぎて六カ月までは大丈夫だという。なんだ、そうかと安心したのが去年の暮れ。行かなきゃと思いつつ、月日は瞬く間に過ぎてゆき、とうとう督促状まで届いてしまったので、ようやく腰を上げた。
こんなに更新を延ばし延ばしにしておいたのも、差し当たりの必要がなかったからである。去年まではオンボロながら自分の車を持っていた。引っ越しを機に、近くに駐車場が見当たらなかったこともあり、愛車を手放したら免許証なんてものを目にする機会がほとんどなくなった。だからこそ、期限を忘れていたのである。
もっとも先日、貸しビデオ屋さんに行ったら、会員カードを作るので、
「身分を証明するものを出してください」
と請求され、
「期限は切れてるけれど……」
当然問題ないだろうと思って免許証を提示すると、
「ちょっとお預かりします」
店員は奥へ入って、数人の上司に尋ね回っている。ヒソヒソとなにやら相談し、首を傾《かし》げ、しばらくして私のもとに戻ってくると、
「他になんかないですか。身分を証明できるものは」
期限が切れた免許証では、アンタを信用致しかねると、そういうことですか。そんなバカな(でも、だらしない人間は信用できない、とは言えるかな)。ちょっとだけムッとした顔をしてみせてから、財布の中味を探しにかかったが、ない。なにも証明できるようなものがない。
学生時代は学生証というものがあった。企業に就職して、サラリーマンになれば社員証というものを持つのだろう。が、私のような「どこにも属さない族」は、何をもって身分を明らかにできるというのでしょう。
「じゃ、ビデオを返却するときに保険証をもってきてくれればいいですから」
なるほど。もし免許証を取得していなかったとしたら、私は常に健康保険証を携帯していないと、世間では認めてもらえないことになる。
というわけで、運転免許証ではなく、身分証明書を更新するために鮫洲《さめず》まで行ったのである。
鮫洲の試験場は人でごった返していた。しかし、手続きの手順システムはなかなかうまくできていて、建物に一歩入ると、目的に応じて、誰はどこに行けばいいか、ひと目でわかるような大きな案内表示(あまり美的感覚があるとは思えないけれど)が出ているから、迷ったり焦ったりせずにすむ。
たとえば、「普通免許証失効の方は一番へ」とあるので、わけもわからず一番の行列のお尻につくと、まもなく自分の番がまわってきて、ようやく「ああ、目の検査か」と納得。
終了すると、用紙に判を押してもらい、「次は○○番へ」と指示を受ける。で、用を済ませ、判をもらい、また別の窓口へ。まるで、一つずつ関門をくぐってはステップアップしてゴールを目指す、遊園地のスタンプゲームか、探検の国で遊んでいるような気分になる。
さて、肝心の写真室。なにしろ身分証明の決め手となる重要な要素だから、できる限り「いい顔」で撮られたい。そんなこちらの思いなど、写真係の女性に届いている気配はなく、
「はい、その椅子に座って。レンズの下のマークを見ててくださーい」
そのマークとは、電光の矢印が左右両側から中心に向かって流れているもの。赤く点滅しながら真ん中に動く矢印を見つめていると、どうしたって目が寄っちゃうんだけど、えっ、ちょっと、どうしよう、あっ、(カシャ)。
「はい、結構です。お次の方ぁ」
母は、私が二歳のときにアメリカで免許を取ろうとしたそうだ。「取った」のではなく「取ろうとした」というのには理由があって、教習途中で帰国することになり、取得まで至らなかったという。
アメリカの免許システムがどうなっているのか詳しくは知らないが、日本ほど厳しくなく、お金もかからないようだ。免許を取りたければ、教習所へ通ってもよし、通わなくても、身近で自動車を運転できる人に先生になってもらうこともできる。「練習中」というステッカーを車に貼《は》って、にわか教習員同乗の上、数日間、そこら辺を乗り回し、技術を身につけたら、試験場へ実地試験を受けに行く。
ただし、その前に基本的な交通法規などに関するペーパー試験だけは受けておかなければならないらしい。
母も、教習員たる父に助手席からさんざん怒鳴られ、叱られ、アホ、バカを連呼される前に、ペーパー試験を受けに試験場へ赴いた。英語が流暢《りゆうちよう》にしゃべれるというわけではなかったから、
「辞書を持ち込んでもいいですか」
と訊ねたら、
「シュア」
辞書を片手に問題に取り組んでいるうちに、周りには誰もいなくなった。と、窓口で試験官が「こっちへ来い」と手招きをしている。前に立つと、試験官は母の手から問題用紙を取り上げて、
「私が問題を読み上げるからそこで答えなさい。アー、ペラペラペラ?」
問題はすべて、イエス、ノーで答えるようになっていた。どうやら、この試験官、早く仕事を終えて家に帰りたかったらしい。
母はちょっと考えてから、
「イエス」
すると、試験官は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、
「イエース?」
母は慌てて、「オー、ノウ」。
試験官は安心したように微笑んで、
「オーケイ、ネックスト。ペラペラペラ?」母が「ノウ」。
「ノーウ?」
「アッ、イエス、イエス」
「オーケイ」
という要領で、母は無事、試験に合格することができたという話である。
帰国後、母は改めて教習所通いを始めたが、アメリカでのようなわけにはいかなかった。仮免に落ちて嘆いていた母の姿をよく覚えている。
鮫洲から帰って数日後、新しい免許証が郵送されてきた。案の定、顔写真の目が中央に寄っているではないの。思えば大学一年のときに取得してから、これが六枚目の免許証になる。更新するたびに、「次に更新するときは、さすがに名前が変わっているわよね、だって三年も先よ」と周りに吹聴したものだが、そんな台詞《せりふ》が冗談にも言えなくなって、久しい。
メダカ日記
とうとうメダカを飼い始めた。
先日、友人の運転する車に乗せてもらい、学芸大学のあたりを走っていたら、大きな字で「熱帯魚」と書かれた看板が目に入り、この店だ! と直感した。ここなら血筋の確かなメダカがたくさんいるに違いない。私はすかさず、「止めてっ」と叫び、後続車の迷惑もかえりみず、車を降りた。
狭い店の中はガラスの水槽だらけ。赤、青、黄色と、チューリップじゃないけれど、カラフルな魚がいっぱい泳いでいる。
「あのぉ」と店の奥に声をかけたら、「はいー」と出てきた若奥さん風の女性は物静かな人で、同じ魚を買おうというのでも、威勢のいい魚屋さんに入るのとはだいぶ雰囲気が違う。
「メダカはいますか」
こちらですと指し示された水槽の中には、おお、懐かしや。周りの魚達と比べればグッと地味だが、そのぶん和風の落ち着きを漂わせたメダカさんたちが、ワンサカおるわ、おるわ。
「なんでメダカにこだわるの。こっちのほうがきれいじゃない」
と、隣の水槽を指さして不思議がる友達を制し、
「いいの。あたしはメダカが好きなんです」
と答えつつ、なるほど赤青熱帯魚もたしかにきれいと、心揺れる。
が、なんたってお値段が違う。見た目はメダカとたいして変わらない「和製グッピー」とやらでさえ、ワン・ペアー、二千五百円。一匹数万円もするお魚様もいた。
結局、ガラスの水槽、電動|濾過《ろか》装置、餌、水藻《すいそう》、ジャリなど、飼うのに必要と思われるものはすべて取り揃え、総経費五千円を払ったが、そのうちのメダカ本体が一番安く、十匹で二百五十円だった。
かくして、メダカセットを抱え、家路につこうとしたら、その店のすぐ近所にまたしても熱帯魚屋を発見。どうやら学芸大学という街は、生き物の好きな人が多いらしい。
熱帯魚屋の奥さんにオスメス混ぜてもらったのはいいけれど、どっちがどちらか誰が生徒か先生か、とんとわからない。と思っていたら、買ってきた「小川のレストラン」(なんというネーミングだ)という餌の箱に区別の仕方が絵入りで紹介されていた。それによると、尻ビレで見分けるのがいちばんわかりやすいとある。
「尻ビレの大きいのがメスで、小さいのがオスなんだってね」
高校二年になる弟と電話でメダカ談義になる。何年か前に我が家で飼っていた時はこの弟がメダカ係だったから、世話に関しては思いのほか詳しい。
「僕は、平行四辺形の尻びれがオスで、三角形のがメスって覚えてたけど」
「ちょっと待って」
受話器を置いて水槽を見に行く。
「やっぱり大きいのがメスよ。形じゃよくわかんないなあ。それにしても、オスのほうがばかに太ってんの。肥満体質かしら」
「エサ、やりすぎてるんじゃないの」
「そうかなあ。それにね、二匹ほど、背中に傷みたいなのがあるんだけど、あれって病気じゃないよねえ」
「あんまり構い過ぎてもいけないんだよ。少し放って置いたほうがいいんだから」
こういう会話を続けていると、はじめての子育てに神経過敏になっている母親が、先輩母親に向かって、「うちの子、湿疹《しつしん》ができたみたいで」とか、「食欲がありすぎて心配なんですの」と育児相談をしているような気がしてくる。メダカごときでこの騒ぎだから、これが人間の子供だったらどうなることやら。こういうタイプの女が子供を産むと育児ノイローゼになりやすいのかもしれない。
小学生の頃、飼っていたメダカが水槽の中に卵を産みつけたことがある。発見者の私は狂喜して、
「すごい、すごい、早く孵《かえ》らないかな」
と言うと、母や兄が笑って、
「そりゃ、だめだ、孵らない」
と決めつける。憮然《ぶぜん》とした私が、
「なんでよ。卵を産んだんだから次は子供になるに決まってるじゃない」
と反論すると、母と兄はまた、笑って、
「だって、オスがいないんだもん」
そんなばかなことがあるもんか。お父さんがいなくたって、卵があるんだからと、いくら主張しても、
「佐和子はなんにもわかってない」
みんなにバカにされ、どうしても理解できずに、寂しい思いをした記憶がある。
思い返せばそれより更に昔、幼稚園に通っている頃は、ヒヨコを買ってもらった。ピーピーピーと、か細い声で鳴くまっ黄色のかたまりを飽きることなく眺めながら、こいつが早く大きくなって、りっぱなにわとりになったら、卵をたくさん産んで、またヒヨコがふえるかなあと限りない夢を描いた。夜になり、おやすみの挨拶をしに行くと、ヒヨコは静かに横になっていた。
「ねえねえ、ヒヨコが足をのばして寝てるよ」
母に報告すると、慌てて飛んできた。
「バカねえ、これは寝てるんじゃなくて死んじゃったのよ。佐和子はなんにもわかってないんだから」
たしかあのときも、そう言われた。
「とうとう卵が生まれたの」
飼い始めて四日目、朝、水槽を覗いたら、肥満メダカのお尻に透明のツブツブがたくさんぶらさがっていた。こんなに早くご懐妊なさるとは思っていなかっただけに嬉しい。さっそくメダカ専門家の弟に電話をすると、
「その卵を水藻に毎日産み落とすから、そのたびに親と分けなきゃだめだよ。放っておくと親が食べちゃうから。でも、あんまり早く分けると、無精卵ってこともあるしね」
「じゃ、いつ分けりゃいいのよ。オスがそのう、いつするわけさ?」
「そりゃ、わかんないけど。メスの後ろを追いかけてるでしょ。チャンスを狙ってるんだ」
なるほど、痩《や》せたのがしつこく子持ちメダカのお尻につきまとっている。
しかし、待てよ。確か尻ビレの小さい肥満体はオスだったはず。
「ねえ」と恐る恐る、「メダカってさ、オスが卵、産むんじゃないわよねえ」
弟はしばらく黙ってから、
「まさか。そんなことも知らないの。やだなあ」
高校生の弟に性教育をされるようではおしまいだ。
いえ、断じて知らなかったわけではありません。ただ、説明書によると、尻ビレが……と、もう一度、餌の箱の裏を読んでみて合点した。どうやらメス、オスを逆に理解していたらしい。
「生殖の常識を知らないだけかと思ったら、ねえさん、目も悪くなったんじゃないの」
子 供 嫌 い
「やっと生まれたの。見に来ない」
待望のメダカの卵が孵《かえ》った。喜びのあまり友達に電話をかけると、
「誰の?」
「何考えてんの。うちのメダカのよ」
「ばかばかしい、なんだ」
あきれたような声を出していた彼女も、実際に「うちの子」と対面したら、予想以上の愛らしさに感激していた。
「なまいきぃー。よくこんなに小さくて一人前に泳ぐものねえ」
生まれたばかりの子メダカは長さが五ミリほどで、透明な球に黒い大きな目玉をふたつと、糸屑《いとくず》のようなしっぽをつけただけの、一筆マンガ初級編のようなご面相である。
「でも考えてみると、メダカの母親も哀れよね。どれが我が子かの区別もままならないうちに、親子引き離されてさ」
友達が感慨深げに漏らすので、あら、それもいいじゃないのと異論を唱える。子離れ親離れは早いほうがいい。自立心が養われ、生存競争に強くなる。過保護、マザコン、反抗期、家庭内暴力なんて問題に悩むことなく、自由に育つことができる。そういう意味ではメダカ社会は人間より一歩進んだ哲学をもっているのではないかなどと思う。
世の中には子供好きの人間がいるかと思えば、徹底的な子供嫌いもいる。
だんだん歳を重ねるうちに、子供が嫌いだという人のいいぶんに頷けるようになってきたが、私自身は基本的に、「かわいい」が先行するので(なかにはニクタラシイ子もいるが)、大方の場合は好きである。
ところが、なぜか子供好きの人間のほうが、自分の子供には恵まれないきらいがある。恵まれないから好きになるのか、好きだから恵まれないことに敏感なのかわからないけれど、知り合いの夫婦二組の場合も、欲しい欲しいと言いながら、結局、子宝に恵まれないままあきらめてしまった。
「悪いこと言わないから、あなたもそろそろ結婚して、産めるうちに産んでおきなさい。もう、マルコウの限界でしょ」
そういって出産を勧める先輩女性の言葉には、実感がこもっているからズシンと胸に応える。しかし、だからといって、「はいはい、そうですね。じゃ」と明日、産むってわけにはいかないのが人間の性《さが》でして、それゆえに、ドンドン、ジャカスカ卵を産み落としては、育児の心配や世間体、経済的基盤などに縛られない気ままなメダカ女性世界を、ふとうらやましく思ったのかもしれない。
中学高校を共に過ごした仲間のうちで、子供好きの私と比べ、どう見ても幼い子供達の相手をするのが苦手と見えた人にかぎって早いうちに結婚し、子育てに専念しているのも不思議なことである。
そんななかでも、ハットと呼ばれていた(本名が服部だった)友達の場合は、高校を卒業し、短大入学後まもなく大恋愛の末、十歳ほど歳の離れた男性と結婚した。なにしろこっちは、ようやく大学受験から解放されて、いよいよカレッジライフを謳歌《おうか》しようという矢先の大ニュースである。
「あのハットがねえ」
みんなが彼女の行く末を心配したのには理由がある。ハットほどの子供嫌いはいなかったからだ。
学校の帰り道、道端で遊んでいる子供を見ると、にくたらしいと言ってそばへ近づいていき、ゴリラの顔をしてみせる。突然、恐ろしい形相が目の前に現れた子供は吃驚《びつくり》仰天して、「ギャア」と泣き出す。その残酷極まりないいたずらをハットは好んでよくやった。
親戚の赤ちゃんが自分の家に遊びに来ると、赤ん坊の親の前では、
「あたし、一人っ子だから、弟か妹が欲しくって」
いとおしそうにその赤子をあやしてみせる。親がその様子を見て安心し、「じゃ、ちょっと出かけてくる間、この子の面倒、見ててくれる?」
「もちろん、いいですよ、おばさま。いってらっしゃい」
返事だけはニコニコと、親が出かけたその途端、ハットは赤ん坊の頭を叩いたりつねったり、例によって赤子いじめに専念する、とハット自らの証言で明らかになった。その子供嫌いが結婚し、まもなく母親になろうというのだから、誰だって心配するのは無理もない。
「まさかあの人、自分の子供をロッカーに入れて殺したりしないでしょうね」
しかし、案ずるより産むが易しであった。その二年後、ハットは無事、男児を出産。慣れぬ手つきでミルクをやりながら、同級生の誰よりもはやく、幸せそうな母親第一号になったのである。
そして数年後、ハットは子供を連れて離婚。周りの友達がようやく、お見合いだ、恋愛だと、結婚話花盛りの時代に入った頃、ハットは母一人、子一人の決して楽ではない生活をはじめる。
と、同情したのも束の間で、今度は大金持ちの青年実業家と再婚。ここまでくるともう、芸能ニュースのよう。
「まったく、なんだって二度も結婚できちゃうわけ? まだ一度もできない我々はどうしてくれるのよ」
お金持ちの奥様になられてからは、友達との連絡も途絶えがちになり、風の便りに「新しいご主人との間に二人目の子が生まれたそうだ」という噂を耳にして、幸せにやっているのだろうと思っていた。その矢先のある晩、電話があり、
「突然ですが、若奥様がお亡くなりになりました」
死因はクモ膜下《まくか》出血。
ハットのお通夜には仲の良かった友人が数年ぶりに集まった。台所の隅で、まだ母親の死を知る力もない生まれたばかりの赤ん坊が、お手伝いさんの腕に抱かれ、スヤスヤと眠っていた。
「なんて目まぐるしい人生を送ったのかしら。結婚、出産、離婚、再婚、出産……。結局、何も追いつかなかったね」
お通夜の帰りは、喪服のクラス会となった。
「薄幸な人だった」とひとりが呟《つぶや》く。
「ハッコウ……って?」と私。
「あなたって本当に、小説家の娘とは思えないね。ものを知らなさすぎる」
「そういえば、アガワったら昔、面喰いって言葉も知らなくてさ。みんなでバカにして」と、もうひとり。
「そうそう、で、ハットが『それはね、麺類の好きな人のことよ』って教えたら、信じちゃって」
「ほんとに、アホなんだから」
思い出しているうちに笑いが止まらなくなる。笑い転げているうちに涙が出て、誰もが、笑っている振りをしながら、泣いていた。
見つけて三癖
テレビに出ている人間が、あまり強烈な癖を持っているのはよろしくないらしい。そう認識したのは、仕事をはじめてまもなくのことだった。
或る日、プロデューサー氏に呼ばれ、苦言を呈された。
「君ね、その表情癖は直したほうがいい」
なんのことかと思って訊ねると、私はしょっちゅう口元をグイッと噛《か》みしめる癖があるとおっしゃる。何か発言した後に、口を一文字に力強く閉じ、まるで重量挙げの選手がバーベルを持ち上げる直前のような顔をするので、見ているほうも力が入って疲れるという。これで、両の頬に鬼エクボでもできるというのなら、「かわいらしい」と評価を受けられるかもしれないが、私の場合はそんなものがない。そのうえ、噛みしめた後、ゴクンと唾《つば》を飲み込んだことがはっきりわかるほど喉《のど》が動くらしいので、「そりゃ、まあ、目障りなんだろう」と我ながら納得した。
しかし、指摘されるまでこの世に生を受けて三十数年、そんな癖を自分が持っているとはついぞ知らなかったし、他人から指摘されたこともなかったので、驚いた。
同じ頃、別の人には目つきについて注意された。
「どうも、君を画面で見ていると落ち着かないと思ったら、視線がいけないんだな。年中キョロキョロしている。関心が移ると、まず黒目だけが動いて、そのあとに首がついていく。しかもその黒目の動きが早いときているから目立つんだ」
「はあ、でもどうすりゃいいんでしょう」
「今度から黒目は常に白目の真ん中に固定させておくんだよ。見る場所を変えたくなったら、黒目と首を一緒にゆっくり動かすようにすればいい」
冗談じゃない。そんなことやったら、ムチウチになっちゃうじゃないのと思ったが、しかたなく仰せにしたがって、努力してみた。その成果があったか、珍癖は知らず知らずのうちに消えた。歯を食いしばる癖のほうも、わざと口をゆるく閉じ、唾を飲み込むときはなるべく奥歯に力をいれないようにしたところ、辛うじて直ったようである。
癖というのは、普段はそれほど気にならない程度の些細《ささい》なものでも、テレビのような小さな箱の中に納められると、妙に強調されるらしい。
いったいアナウンサーの方々は、自分の癖をなくすために特別の訓練を受けるのだろうかと先輩アナウンサーに伺ってみたところ、特に何もしないけれど、普段から自分自身で直す努力はしているとの答えだった。ビデオを見ながら目障りと思われるところを極力排除していったり、同僚にチェックしてもらったり、かなり厳しい人間改造を強いられるもののようだ。やはり、喋《しやべ》り方にしろ表情、動作にしろ、なるべく「癖のない人間」がアナウンサーとして良質なのだそうである。
「ただ不思議なのは、かけだしのときに上司から直せと言われた癖が、ベテランになると個性だって認められるようになるんだよ」
どうしても直らない癖は、周りからの批判に屈せず長年培っていれば、そのうち認知されることもあるらしい。
癖という字はやまいダレだから、もともとは病気という範疇《はんちゆう》に入れられるのだろうか。辞書で調べてみると、「かたよりのある好みや傾向が習慣化したもの。正常でなく曲がっていること」とあり、一般的に悪い意味で使われることが多いようである。しかし私の場合、歳を重ねるにつれて、だんだんと癖にたいして執着が強くなってきた。
たとえば食べ物の好みでも、子供の頃は香りがきつくてとても食べられないと敬遠していたセリ、みょうが、蕗《ふき》、牛蒡《ごぼう》、そして、中国野菜の香菜《シヤンツアイ》などをこよなく好み、今や、こういう癖のある野菜が存在しなかったら、食べる楽しみは半減するのではないかとさえ思うほどである。
小学校の時に、顔をクシャクシャ動かすのが癖の先生がいらした。その癖は、とくに緊張するといっそう出るらしく、廊下で擦《す》れ違うときに見かけるより、朝礼台に立ってなにか喋っておられる時のほうが激しくなった。あれはどんな気持ちになるものだろうかと、一度、真似して激しく瞬《まばた》きをしてみたことがある。しばらく続けているうちに頭がクラクラしてきたので、こんなにたいへんなことを四六時中続けている先生の気がしれないと思ったが、学校も卒業し、何年か経つと、妙にあの先生のことが懐かしく思い出されてならない。
変わった癖のある友達もいた。なんでも匂いを嗅《か》がないと気が済まない。一緒に旅行に出ると、宿に着いて荷物の整理をするたびに、いちいち自分の持ち物の匂いを嗅ぐ。へんな話だが、洗濯物もである。
「前世は犬だったんじゃないの」
いくらからかっても、悪びれる様子なく嗅ぎ続ける。食事中にいたっては、食べる前にすべてのお皿に鼻を近づけてチェックするので、傍《そば》で見ていると腐っているのではないかと心配になる。
「ちょっと、感じ悪いからやめてよ」
「あっ、この牛乳、おかしい」
日付を点検したところ、確かに彼女のいう通りだった。おかげでその場にいた者は皆、救われた。ただ一人、私だけはすでにその牛乳を、なんの疑問も持たずに飲んだ後だった。
こういう友達は何かと便利なので、変人扱いせず、大切にしたほうがいい。
以前、視聴者の方から葉書を頂いたことがある。
「いつも番組を見ています。この葉書を受け取った証拠にサインを送ってくれませんか。来週の〇曜日の本番中、机の上で組んでいる両の手の右を上にして、その次に左を上にしてください。それが僕に対するサインです」
変わったことを言ってくる人がいるものだと気にもとめていなかったのだが、それから数週間後にまた、同じ人から葉書が届いた。そこには、
「サインをありがとう」
とある。ぎくっとした。身に覚えのないことだが、「ありがとう」と言われているからには、要求通りにしたのだろう。友達に訊ねると、私はたびたび手を組み替える癖があるという。そのいずれかの時に、求められたサインと一致してしまったらしい。
またしても直さなければならない新しい癖が発覚してしまった。なにしろ、その葉書の最後には、「また、サインよろしく」と書かれていたのである。
ハ ゲ 予 言
最近、髪の毛の痛みが目立ちはじめ、枝毛、切れ毛くらいならまだいいが、パサパサする、こしがない、さらには抜け毛が増え、全体的に薄くなってきたような気がしてならない。
ほう、どれどれと、私の頭を上から覗き込んだ人が、
「おっ、ちょっと君、禿《は》げてきたんじゃない? ほら、ここ」
とんでもないことを口にするので、
「へんなこと言わないでくださいよ。つむじですって、これは」
一笑に付すはずの顔がゆがんでいる。
また別の日には、メイクさんに、
「阿川さんの髪って細くてやわらかーい」
と褒められて、
「あら、そうかしら」
と謙遜ついでに、
「昔はかたくて多くて、手入れがたいへんだったのよ。小さい頃なんか、まとめようと思うとピン留めが壊れちゃってね。人間の髪質って変わるもんなのね。また太くなったりするのかしら」
すると、そのメイクさん、さも何気なさそうに、
「いえ、もう太くなることはないです。これは老化現象ですから」
ということは、今後は更に細く、薄くなっていくのだろうか。
とたんに「ハゲ」という言葉が身近なものに感じられ、電車に乗っていても、毛髪関係の広告ばかりが目に入る。
「はげ、うす毛でお悩みの方、ぜひお電話を。漢方育毛剤研究所」
「叩けば生える。〇〇林」
「髪は女のいのちです。〇〇堂」
そういえば以前、番組でハゲを取り上げたことがある。そのときゲストにおいでくださった皮膚科のお医者様が、私の髪の毛を観察しておっしゃった。
「あなたは少し、梳毛《そもう》症の気がありますな。年をとると、だいぶ薄くなるタチかもしれない」
そんなことを軽く言われて、気になるではありませんか。慌てて、
「あら、私、小さい頃は人一倍髪の量が多くてかたくてウンヌン……」
「だいいち、私の父はハゲじゃないし、母も髪の毛は多いほうですけど」
もっとも考えてみると、父の兄である、亡くなった伯父はたしかにみごとなツルッパゲであったし、父方の祖父も、私が生まれる前に亡くなっているので会ったことはないが、写真で見る限りにおいては「禿げたおじいちゃん」だった。もしや、髪の毛というものは隔世遺伝するのであろうか。
「まあ、女性の場合はツルツルに禿げることはないから、安心してください」
お医者様は私をなぐさめてくださったが、もはや安心なんかできる心境ではなくなった。
たしか、小学校一、二年のときである。我が家にたくさんのお客様が見え、なかに妙な話し方をする男の人がいらした。声の上げ下げ、つまりイントネーションが普通ではないのである。たとえば私を呼ぶときに「さわこちゃん」のサにアクセントがつくはずが、その人はワにつける。「アガワさん」と言うときには、アではなくワを強調するというぐあいだった。外国の人かと思ってよく話を聞いてみると、明らかに日本語である。きっと東京の人ではないのだろう。
私は、母とその人が話しているところへ近づいていき、しばらく観察した後、大きな声で母に向かって訊ねた。
「この人、なに弁?」
すると、その客人は不思議なイントネーションのまま、とてもおっとりとした調子でのたまった。
「なんて失礼な子なんですか。僕は頭にきたぞぉ。よし、仕返しに予言をしてやろう。二十歳になったら、君はブクブクのおデブさんになっているだろう。僕を侮辱した罰です」
あまりにも妙ちくりんなしゃべり方だったので、それが私に対する憤りと呪いの言葉とは思えなかった。まして当時の私はチビだったうえに痩せていて、周りからは「もっとたくさん食べなさい」と叱られることのほうが多かった。太ることに対する恐怖など、これっぽっちも感じた経験がなかったのである。
しかし、どうやらいけないことをしでかしたらしいという思いだけは、心の奥に残り、その男の人の言葉が頭に焼きついて、いつまでも離れなかった。
それから数年後、小学校を卒業するころから、私は少しずつ太りはじめた。背は伸びないわりに、体重だけが順調に増えていった。中学、高校と学年が上がるごとに横幅が増えていき、チビというあだ名はいつのまにかチビデブ、ミルクタンクなどに変化していった。
体重計に乗るたびに、私は恐怖に襲われた。このままのペースで太り続けると、確実にハンプティダンプティのような体型になるだろう。
そして、あのときの記憶が蘇《よみがえ》る。
「ああ、あんな失礼なことを言わなければ、こんな悲しい思いはしなかっただろうに」
呪いの主は、北杜夫さんだった。
二十歳を過ぎた頃から、私は少しずつ痩せていった。特別ダイエットをしたり病気になったわけではなく、年頃の悩みやお見合いによる心労で(ウソじゃない)、少しずつ体重が減っていった。
高校以来の友達に会うと、決まって言われたものである。
「あなた、ずいぶん痩せたわね。あんなにコロンコロンしてたのに」
そのたびに私は心の中で叫んだ。
「呪いは解けた。罪はつぐなわれたのだ」
しかし、人間は所詮、罪深い動物である。いつまた、人を傷つけることがあるかわからない。「そんなつもりはなかったのよ。ごめんなさい」と弁明する余地もなく別れていった人が、どんなにたくさんいることだろう。
なかにはアバウトな人もいて、忘れてくれるかもしれないが、おおかたの人間は、自分が傷つけたことを忘れることはあっても、自分が傷ついたことは忘れないものだ。
「あの人ったら、ひどい」
そして、唱える。
「今に見てらっしゃい。そのうち、あいつはハゲる、ハゲろ、ハゲて!」
もしかして、私はあの皮膚科のお医者様の前で、とんでもなく無礼なことをしでかしてしまったのだろうか。
バラを一輪
父の日が過ぎた。今年は父のためになにもしなかった。
前日の土曜日に実家に電話をし、「父さんは?」と母に訊ねると、
「ことのほか、不機嫌」
「なんか原因があるの?」
「いろいろ蓄積しているみたい」
七十歳を間近に控え、父は以前にもましてブツブツ文句が増えてきた。交通渋滞、若者の喋り方、義理がらみの会合から電話のベルの鳴り方にいたるまで、あらゆることに腹が立つ。腹の立つ種が尽きないので、そのうち自分でも何に対して怒っているのかわからなくなるらしく、イライラだけが持続して、ますます機嫌が悪くなる。あげくの果てに家族に当たり散らすから、当たられたほうはたまったものじゃないけれど、性格の酷似している娘には、その気持ちが理解できないわけでもない。といって、それはしばし離れているから言えること。
たまった仕事もあることだし、今週は帰るのをやめておこうか。なまじ顔を合わせて口を開くと、ちょっとしたひと言がもとで大爆発が起きないとも限らない。
一カ月前の母の日がそうだった。
花束を抱えて実家に戻ると、父は留守。花を玄関に飾り、母と弟の三人で夕食を済ませ、さあ、そろそろ帰るわと腰を上げかけたところへ、玄関のチャイムが鳴った。
「おう、おまえ、来てたのか。ゆっくりしていきなさい」
「今、帰ろうと思ってたとこ」
「お、きれいな花じゃないか」
「これは母さんのだからね。母の日のプレゼントに買ってきたの」
ここらへんで父の表情の微妙な変化に気がつけば大事に至ることはないのだが、調子に乗って、そのままヘラヘラと冗談(のつもりで娘はいる)を言い続けていると、突如として雷が落ちる。ドーン。
「よくそれだけ父親をバカにできるもんだ」
なんか様子がおかしいかなと思う頃には、時すでに遅く、
「俺がくたくたになって帰ってきたというのに、おまえたちのその態度はなんだ。はなはだよろしくない」
父の目は一転して憎々しげにこちらを睨みつけ、唇の端が冷たく閉じられる。
「べつになにも……」
少しでも抵抗の姿勢を見せようものなら、父の唇はみるみる尖《とが》り始め、それはまるで何度押しても出てくるかたつむりの角である。
怒り心頭に発したあげく、書斎に引き上げた父の後ろ姿を見送って、家族一同、顔を見合わせる。
「なんかアンタ、父さんをバカにするようなこと、言った?」
「僕じゃない、ねえさんだよ」
ひょっとして、あの台詞《せりふ》、そういえばこの台詞が癇《かん》に触ったのかと、よみがえる会話のひとつひとつを分析していくうちに、思い当たる。
「そうだ、わかった。母さんだけに、花を買ってきたってことが、そもそもいけなかったんだ」
中学一年の年の父の日、私は父に耳かきを贈った。何をプレゼントにしようかと思いあぐねて新宿の伊勢丹のなかを歩いていると、ガラスのショーケースのなかに見慣れぬものを発見した。
それは、長さが五センチほどのステンレス棒で、先のほうが四、五段の円盤状になっている。その円盤部分を耳の中に入れて回すと、耳あかが一気にたくさん取れる仕組みだと店員さんが説明してくれた。大小二本の新種耳かきがケースに入って、ひとつ三百円。これは手頃だと思い、プレゼント用に包装してもらう。
はたして、父はその耳かきを予想以上に気に入って、
「おまえ、これはいいものを見つけてくれた。なかなか洒落ている」
書斎の机の上に置き、ことあるごとに取り出しては耳をほじくっていた。
父がどんなに娘の贈った耳かきを気に入ってくれたかは、年月を経るほどに明らかになっていった。その後、父の誕生日やクリスマスなどに耳かきの数倍のお金をはたいてネクタイ、セーター、鉛筆削り、万年筆を贈ろうとも、その度に父の吐く台詞は決まっていたからだ。
「ありがとう、ありがとう。しかし、おまえが昔くれたあの耳かきはよかった。よく見つけたなあ。あれはいい」
私の心の中に、パラドックス的な二種類の感情が起こる。耳かきを贈ったことへの満足感と、またしても耳かきを越えるプレゼントにならなかった敗北感である。
「人に物を贈るときに気をつけていることはなんでしょう」
お中元の季節がやってきたせいか、ある雑誌社からこんな質問を受けた。ものを贈られてきちんとお礼状すら出せない人間に、贈答の心構えなど申し上げる資格はない。気の利いたことも言えぬまま、担当の方にお引き取り願ったが、あとでつくづく自分にはものを贈るマナーが欠如していると身にしみた。
世の中には上手にものを贈る人がいるものだ。タイミングも内容も実に当を得ていて、よくこんなに器用に相手を喜ばせることができるなと感心させられる。こういう人は贈られ上手でもあるに違いない。ものを受け取った瞬間に、世にも嬉しそうな顔をして、プレゼントを胸に抱きしめる。
そういえば、お伽噺《とぎばなし》に出てくる贈られ上手の末娘の話を思い出した。
父親が旅に出ることになり、三人の娘を呼び寄せて、それぞれに、
「みやげは何がいいかな」
と訊ねた。
一番上の娘は、
「お父様、あたしは大きな青い石の入った首かざりがいいわ」
二番目の娘は散々迷った末、
「じゃね、ええとええと、あたしは赤と金の糸で織った肩掛けが欲しいの」
三番目の娘がなにも言い出さないので、心配した父親はそばへ行ってもう一度訊ねた。
「末娘よ。なにか欲しいものはないのか。さあ、遠慮せずに言ってごらん」
すると、末の娘はようやく顔をあげ、
「お父様が無事に帰ってきてさえくだされば、それだけで私は幸せです。でも、そんなにおっしゃるのなら、私のためにバラを一輪、持ち帰ってくださいな」
この謙虚な末娘にあやかって、父もこう答えてくれればいいのに。
「お父様、お父様、こんどの父の日には何が欲しいですか」
「娘よ、それではバラを一輪」
たとい天地がひっくり返っても、我が家でこんな父娘《おやこ》の関係は望めそうにない。
声わずらい
女性誌の編集の方から原稿依頼の電話をいただいた。いかにもベテランという感じの落ち着いた、やさしい声の持ち主だった。
この人はきっと、しとやかな若奥様にちがいない。触るだけで折れてしまいそうな華奢《きやしや》な身体つきをして、
「ねえ、あなた。結婚後も仕事を続けていいかしら」
すると、寛大なご主人が、
「君の好きなようにしていいよ。しかし、無理をしちゃいけない。そんなに丈夫じゃないんだから、いいね」
なんてことで、夫の愛に包まれながらけなげに仕事をしています、そんな女性が瞼《まぶた》に浮かび、つい引き受けてしまった。
ところが不徳の致すところで、締切日がきても書けていない。
お詫《わ》びの電話をすると、若奥様はあせりの気配ひとつ窺《うかが》わせず、天女の声でおっしゃった。
「では、書けましたらわたくしの自宅へお電話をください。取りに伺います」
ようやく書き上げた原稿を手に近所の喫茶店でお会いすると、実物の若奥様は、声とはいささかイメージの違う人だった。確かにやさしそうではあったが、身なりはエレガンスというよりボーイッシュ。少し話をしてみたら、家の中にモノをため込まない主義という、サバサバした性格の方だとわかった。おまけに私と同い年だとおっしゃるので、
「じゃあ結婚は……?」
「いいえ、わたくし、独身です」
と、答えが返ってきたときは、おもわず笑いが込み上げる。なぜでしょう。
いったん認識を新たにしてしまうと、同じ声なのに、もはや夢見る若奥様風には聞こえないから不思議である。
「もしもし、阿川と申しますが、マキコさん、いらっしゃいますか」
中学に入ってまもなく、親しくなった友達の家にはじめて電話をしたところ、
「マキコですか? おりますけれど……」
と、電話口に出たお母さんの様子がなんとなくおかしい。私を信用していないような、娘と話させたくないような雰囲気なのである。変だなと思って待っていると、ようやく本人が出て、
「ウチのお母さんたらね、あなたの声を聞いて、男の子だと思ったらしいの。もう、ボーイフレンドができたのかって聞くのよ。笑っちゃった」
笑っていられますか。私はずっと自分がソプラノだと信じていたのである。
お母さんに間違われるくらいならいいけれど、もっと悲しい誤解を経験した友達がいる。
憧れのボーイフレンドのために音楽テープを作ってプレゼントにしようと思った彼女は、録音している最中に、誤って自分の声をテープに入れてしまった。気づかずに手渡すと、
「テープをありがとう。でも、男の声が入ってたぜ」
ハタと思い当たったが、まさかあれは私の声よとは言い出せず、そのまま黙っていたという。
「なんで本当のこと、言わなかったのよ。他に男がいると思われちゃ、悲しいじゃないの」
「だって、そのときは、好きな人に自分が男だと思われたことのほうがショックだったんですもの。言えなかった」
大学の教授に、スティーブ・マックィーンとよく似た声の先生がいらした。正確に言うと、テレビ映画にスティーブ・マックィーンが登場するとき、いつも日本語の吹き替えをする声優の声にそっくりだった。顔全体が似ておられるとは思わなかったが、声のほうは、太くてよく通り、いかにも男くさい。教壇に目を向けずに聞いていると、まさにマックィーンの講義を受けているような気分になった。
外国の俳優の吹き替え役を決めるとき、いちばんの基準になるのは顎《あご》の形だそうである。顔全体の作りや目鼻立ちは問題ではなく、顎の形さえそっくりであれば、声は似ているということらしい。
そういえば、あの教授の顎の形は、似ていたかしら。
決してまじめな学生とは言えなかった私がめずらしく、この講義だけはほとんど欠かさず出席し、熱心にノートをとったものである。
「この授業はラクショウよ」
自信を持って試験に臨んだが、成績はCだった。
声優に憧れた時期がある。
中学のときの文化祭で、放送部の部員がメリー・ポピンズの放送劇をやり、幼いマイケル少年役を演じた一年先輩の女の人の声がとても愛らしく、その影響で将来、アニメや洋画の吹き替えの仕事をしてみたいと思った。
声優なら顔や容姿を人前に曝《さら》さなくてすむから恥ずかしくないだろう。
といって、声優になるための勉強を始めたわけではない。もっぱらテレビの洋画や外国ドラマを見ては、ああ、この女優の声はワカメちゃんの声だとか、若山弦蔵さんの声ってやっぱりステキとか、殺人のシーンはむずかしそうだから、そういう仕事がきたらお断りしようなどと、勝手に空想していただけである。
そのうちに、声だけの仕事といえども基本的な役者の素養がなければつとまらない、地道な修業を積んでもなかなか一流になれないなどという話を聞いて、すっかりあきらめてしまった。
喋っている最中に聞こえてくる自分の声は嫌いではないのに、いったんテープに録音されてから耳に入る声は、まったく異質なものとして響いてくる。
「やだあ、あたしってこんないやらしい声じゃないはずよ」
「そう? いつもと変わりないけど」
人はなぜ、この違いに気づかないのだろう。きっと録音の仕方やテープ自体に問題があるのだ。と長い間、思い込んでいたが、そういうことではないらしい。
自分のだと思っている声は、口腔内で反響し骨を伝わってくる音が混ざっている。一方、他人が耳にする声は、空気だけを伝わって届くものだから、音質が違うのは当然なのだそうだ。
その聞き慣れない自分の声も、映像と一緒ならそれほど違和感がない。声だけ集中して聞いていないからであろう。実際、テレビとラジオを比べると、ラジオの自分の声のほうが、数段、ぞっとする。言い回し、間《ま》の取り方、発音と、どれをとっても好きなところが見当たらず、もう少し色っぽい声は出ないものかと思う。
これじゃ、声優になれたとしても、主演女優の役はとうてい回ってきそうにない。
夏 の 酷
「お元気ですか。今、私はシシリー島に来ています」
という、なぜかユーゴスラビア切手の貼られた絵葉書を受け取ったと思ったら、その翌日には、
「夜空は満天の星。東京へ帰るのがいやになるほどきれいです。夏休みを利用してフィジーにやって来ました」
イグアナがペタンと木の枝にはりついている写真の葉書が届き、続いて、
「今、家族で逗子に来てるのよ。あなた、来ない?」
という電話がかかった。
こう次々に優雅な夏の便りが届いたとき、人はふつう、どう反応するものであろう。「まあ、あの方、お元気そうでなによりだわ」と素直に他人の幸せを喜ぶべきか、「私のことを気にかけて葉書を下さるなんて、筆まめで優しい人なのね」と感謝すべきか。ところが、私といえば、ムラムラと嫉妬心が湧き起こり、
「どうせ、どこもメチャクチャに混んでいて疲れるだけよ。こういう時は、ガランと空《す》いた東京にいるのが一番の贅沢《ぜいたく》というものです」
と、声を張り上げて自分に言い聞かせるのだが、やはり少し寂しさが残る。
番組の一週間の夏休みも結局、どこへも出掛けないまま終わった。出掛けられない理由があったわけではないが、ついぐずぐずしているうちに過ぎてしまったのである。
休み明けの企画会議には、ズラリと日焼けした顔が並んでいた。引き締まった顔の真ん中で、目と歯だけが白く新鮮に輝いて、皆、休み前よりも生き生きとしている。相も変わらぬ生白い自分だけが、夏休みというリフレッシュ液に漬かり損なったような気がして、また寂しい。
子供の時、夏休みが楽しいと思えるのは八月の初めまでで、日にちが二桁《ふたけた》になった頃からしだいに不安に襲われ始めたものである。一日一ページと計画を立てていたはずのワークブックは予定が大幅にずれ込み、一日二ページ、いや、二ページ半などとノルマはどんどん増えていく。予定表だけを毎日書き換えては壁に張り出す私に、いつのまにか「企画庁長官」というあだ名がついていた。
溜《た》めに溜めた絵日記も、日毎に記憶が薄れ、書くことがなくなっていく。
「ねえ、八月二日って、晴れてたっけ、曇ってた?」
「さあ、忘れたわねえ」
と母が無関心な様子で答えるのに苛立《いらだ》って、
「やだ、ちゃんと思い出してよ」
「何言ってんの、自分が書き留めておかないのが悪いんでしょ」
叱られ、あちこちに八つ当たりをし、こんな苦しい思いをしなきゃならない夏休みは、もうごめんだと思った。
夏休みの苦しみのメインは、なんといっても工作であった。毎年、何か傑作を提出してみんなをアッと驚かせたいと密《ひそ》かに心躍るのは休みの直前ぐらいのもので、これも、八月の末ごろに慌てて手掛けることになる。
ある年、どうしてそんなものを思いついたのか、まったく記憶がないのだけれど、メロンの種を使って首飾りを作ることに決めた。到来物のメロンを家族が食べるときは厳しくチェックをして、種を無造作に捨てないよう言い置く。こうして集めたヌルヌルの種をよく洗い、充分に乾かしてから針と糸で繋《つな》げていくのだが、これが想像以上に難しい。種が小さくて、針がなかなか通らないのである。一度通ってもするりと脱けてしまったり、種が割れたりと、失敗を繰り返しながら、ようようにして一粒ずつ繋げ、なんとか形になるような長さまで到達してから、気がついた。
どうもひと夏の労作にしてはみすぼらしすぎる。豪華な首飾りのイメージとは程遠く、これでは単なる種のかたまりだ。しかし、いまさら予定を変更して、新しいものに挑戦する時間も知恵もない。
「どうしよう」
「いいよ、これで充分。りっぱ、りっぱ」
投げやりな家族の反応が不満で、
「そんな言い方しないでよ、ひどい」
「褒めたのに文句いうなよ」
きょうだい喧嘩《げんか》のタネになる。
休みが明けて、他の友達の作品と比べるにつけ、自分のネックレスのあまりに見劣りのする姿に、また新たな悲しみが胸にこみあげてくるのであった。
宿題の不出来に加え、夏休みが終わって情けなくなるもうひとつの要因に、周りの友達が皆、急に大きくなってしまうことがあった。中学の一、二年の頃は特に顕著で、四月に知り合った時点では同じくらいの背丈だったはずの友達が、一カ月振りに再会すると、ニョキニョキと夏草のように伸びていて、もはや「同志」ではなくなっていた。
一方、私は相変わらずチビのまま。どういうわけか私には、この歳に至るまで一度も伸び盛りというものがなかった。最も伸びた時で、ひと夏に二センチ程度である。きっと来年には、再来年にはと望みを先送りしているうちに、いつのまにか成長は止まった。
休み明けには身体検査があり、克明に結果が表れた。身長、体重など、ひととおりの検査をすませて教室へ戻ると、保健委員がクラス全体の統計をとることになっていた。各自、自分の検査結果の紙を机に広げて準備する。
「では、身長からいきます。百四十五センチ以上、百五十センチ未満の人、手を挙げてください」
私は真っ先に手を挙げた。挙げながら、周りを見渡すと……二人、三人、ああ、チビ仲間がまた減った。
「じゃ、次に百五十センチ以上、百五十五センチまでの人」
「百五十五以上、百六十まで」
こうして、自分がクラス全体の中で、体型的にどこらへんの位置に属するかを知ることができた。当時親しかった友達の岩ッチョ(岩田という名前の愛称)は、バスケット部に入っているだけあって、もともと私より背が高かったが、ひと夏のうちにその差はまた拡がったらしい。最後から二番目ぐらいのグループで手を挙げていた。
「では次に座高にいきます。まず……」
私は自分の検査用紙を睨みながら、該当する順番を待った。
「七十センチ以上七十五センチ未満」
まだである。身長では先頭を切ったのに、こちらでなかなか手を挙げられないのは恥ずかしい。
「続いて、八十センチから八十五センチまでの人」
ようやく私の番である。すばやく右手を挙げ、すかさず後ろを振り返った。と、驚いたことに、十センチ以上私より背の高い岩ッチョの手も、挙がっていたのである。
人の生きるペースはさまざまだが、夏休みほど、それを思い知らされる時はない。
コーチの意地
久しぶりに仕事仲間とテニスをした。あまり久しぶりすぎて、前回は誰とどこでやったか思い出せない。
大学時代はテニスの同好会に入っていたので、それこそ三日に二日の割合でラケットを持ち歩いていた。天気の怪しい日なども、テニスをすると決めたら、傘を持っては出なかった。ラケットと傘を同時に持ち歩くのは、本妻とおめかけさんを一緒につれて出掛けるようで、両者に対して失礼な気がしたからだ。雨が降ったらそのときのこと。どうせみんなで喫茶店にでも入って時間をつぶすことになるだろう。それとも誰か男の子が車で送ってくれるかしら。今思えば、ずいぶん軟弱な生活を送っていたものだ。
テニスを始めたのは大学に入ってからである。中学、高校ではずっと卓球部にいたのだけれど、同じ運動部でも、卓球にはバスケットやバレーのような華やかさはなく、いつも運動場の隅にある、いまにも倒れそうな古い卓球小屋にこもって細々と練習をしていた。ユニフォームは、濃紺のショートパンツに藍色《あいいろ》の上衣と、お世辞にも洒落た感じではなく、おまけに良いショットが打てたときの掛け声というものが、また冴《さ》えない。ラケットを握った手ともう片方の手でこぶしを作り、ドスの利いた声で「ヨィッサヨッシ」と叫ぶ。どうしてこんな言い方をするのか知らないが、まさにゴリラの胸叩きそのもの。とても可憐な少女のすることではないと思われた。
試合に行くと、大きな体育館の中は熱気と汗でムンムン。あちこちからヒステリックな「ヨィッサヨッシ」が聞こえ、たまに「ヨオッシー」という、女の声とは思えない低いうなり声も混ざる。
そのうえ、いくら苦しい練習を重ねても上達しない、試合は一回戦ですぐ負けるといった調子だったから、あまり卓球に対する愛着がわかなかった。そのくせ、家では「やれ練習だ、試合だといって帰りが遅くなるのはよろしくない。もう辞めなさい」と文句をつけられるのでつい意地になり、「大好きな卓球とその友達を失いたくない」なんて恰好をつけて続けさせてもらった。
大学に入った時点で、暗くて辛い、臭くて疲れる運動部はもうゴメンという気持ちがあったのだが、いつのまにかテニスを選んでいた。
猫も杓子《しやくし》もやりそうなスポーツじゃつまらないと、たいして期待もしていなかったのだが、始めてみたらなかなか面白い。卓球とは打って変わって、開放的で明るく(ウェアが白い)、しかも先輩男子が「そうだ、うまいぞ」と親切に教えてくれるから気分がいい。つい練習にも身が入り、少しずつ上達していくことがこんなに楽しいものかと熱中した。
「ところでさ、佐和子さんってテニス、上手なの?」
こういう質問は、とても困る。「ええ、上手なんです」と答えるほどの自信はないが、かといって「いやいや、ぜんぜん」と謙遜した様子を見せるのも、なんだかわざとらしい。そこで結局、
「そんなぁ」
とわけのわからない声を発してごまかす。しかし内心では、まだ披露したことのない学生時代の威力の片鱗《へんりん》を、仕事仲間の前で見せたら、はたしてどんな反応を示すだろうかと、密かに窺《うかが》っていないわけではない。
たとえば、バシッとストレート・ショットで決めたとする。
「うわぁ、佐和子さんって意外とスポーツウーマンだったんだ」
などと言われてごらんなさい。
ところが、そんな邪悪な心をもって赴くと、なかなかバシッとはいかないものである。
当日は、番組の若いスタッフ十数人が集まったが、そのほとんどがテニス歴が浅く、しかも私が最年長だった。今までは、テニスの上手な人が一人や二人いて打ってもらったり、教えを乞《こ》う立場に回ることが多かったのだが、そうもいかない。となると、急に「教えたい病」が起こり、コートの向こうまで響く大声で、あれやこれやとうるさくなる。
「まずね、ボールをよく見ること。ボールの毛が見えるまで、目を離さないようにするのがコツ。じゃ、やってみて」
最初は少し遠慮がちである。が、しばらくすると、一言追加したくなる。
「もっと早く構えなきゃ。ボールがネットを越えるより前にラケットを引いておかなきゃ」
そろそろうるさがられるかと思いつつ、まださらに、
「脇をしめて。肘《ひじ》を伸ばして。膝《ひざ》を曲げて。左肩を前に出して」
ここらへんまでくると相手は混乱し、まるでボールが返ってこなくなる。本人も、「さっきはもっと打てたのに」と首を傾《かし》げるのだが、厳しいコーチを前にしてとても言い出せず、従順にギクシャク運動を繰り返す哀れなピノキオ。
「じゃ、今言ったこと忘れずに、頑張ってちょうだい」
コーチは引き際が肝心である。
スポーツをすると、その人の性格がよく表れると言うけれど、我ながら、もし子供がいたら教育ママになるにちがいない。厳しい母親のもとで何度も泣きながら特訓を受けた子供は、土壇場になってすべてがゴッチャになり、きっと受験に失敗するであろう。
大宅映子さんがアメリカへいらしたときに、数々の有名デビス・カップ杯選手を育て上げた名コーチに会う機会を得たそうだ。
こんなチャンスはまたとない。せっかくだからと、大宅さんは、
「ちょっとだけで結構ですから、レッスンをお願いしたい」
と頼み込んだ。
「それがね、ぜんぜん注意してくれないの。それどころか、ひたすら私を褒めちぎるわけ。『すばらしい素質を持っている』とか、『きっとご両親のどちらかがスポーツ選手だったんだろう』とか。言われて悪い気はしないじゃない。ただ最後に一言だけ、『みごとだ。でも、ここをちょっと直せば、もっとすばらしくなる』って。本当にすばらしく打てたわよ」
人様に教えるのなら、これくらいスマートでなければいけない。アドバイスは量ではなく質なのだ。「あの一言で開眼した」なんてことがなきゃ、コーチの名がすたる。それまでは、たといヘロヘロになろうとも、生徒より先にバテるわけにはいかない。
意地を通したツケはしっかり回ってきた。
二日後の朝、身体中が痛くて起き上がれなかったのである。
さ ら ば 夏
秋というにはまだ、ほんの少し早いのに、このメランコリックな気分はいったいなんだろう。
「大丈夫だよ。君の場合は単純だから。ちょっと話せば原因はすぐ解明される」
人ごとだと思って、周りの人間は簡単に考える。
「たいがい君がため息をついているのは火曜日で、バカに愛想がいいと思うと水曜日なんだよね。毎週のことだからカレンダーがわりになって便利だけど」
水曜日がこの連載の締め切りなので、実際、その前と後とではコロリと機嫌がかわる。が、いくら単純な私の精神構造も、週刊文春だけに左右されているわけではないのであって、そう短絡されては困る。
何かに悩んだら、その理由として考えられることすべてを箇条書きにして並べてごらんなさい。そして、ひとつひとつを睨みつけ、解決のつくものから排除していく。そうすれば、手元には悩みの種が何も残っていないはずです。
昔から私はこの悩み解消法を利用している。右手の親指から折っていき、「まず、昨日の番組中にトチッたこと。でもあれは、プロデューサーに謝って、『気にするな』って言われたから済み。それから今朝の電話に無愛想な声を出して感じ悪い女だと思われなかったかしら。気になるけど、まあ、いいか。そして、このところ美味しいものを食べていない不満。よし、明日は津つ井≠フステーキ丼を食べに行こう……」という具合にひとつずつ分析していけば、たいして深刻な問題はないことがわかる。
しかし今回のウツは、水曜日を過ぎても指折り数えてもスカッとしない。よくよく考えてみたところ、どうも「暑い、辛い、耐えられない」という我慢の極致を経験しないまま秋を迎えそうだということが原因のような気がしてきた。
思えば、今年の夏はとても夏らしかった。ここ数年、異常気象に慣れ過ぎて、まともな季節を期待しなくなっていたものだから、なおさらそう感じるのだろうか。梅雨にはたっぷり雨が降り、梅雨が明けた途端にカッと暑くなり、少々台風と雷が多すぎたけれど、残暑もそれなりに続いて、そろそろ朝夕が涼しくなり始めるなんて、まことにもって懐かしき昔かたぎの夏である。
しかし昔ほど「暑かった」という実感がない。そりゃ、町中を歩きながら暑いと思うことはあるけれど、それほど長時間に及ぶことは少ない。辛ければ、最寄りのビルに入るとか、涼しい電車に乗るとかして、すぐに快適さを取り戻せる。むしろ冷房の完備された部屋にいる時間のほうが長いから、必ず長袖のジャケットを持ち歩く習慣がついているほどである。
高校時代、私は「阿川タオル」と呼ばれていた。汗かきなたちで、夏になると学校に毎日タオルを持って行ったからである。ハンカチなどでは間に合わず、授業中も休み時間も常に小さなタオルを手放さなかった。
「トマト」というあだ名もある。体育の授業が終わると、みごとに真っ赤な顔になるので、
「また、トマトがタオルを持ってる」
と、友達に笑われた。
ときどき暑さに耐え切れず、タオルを水につけてよく絞り、額の上に置くと、しばし天国の心地に浸ることができた。そんなふうに使った後のタオルだから、学校が引ける頃には、思う存分、ヨレヨレになっていた。
汚れきったタオルをしっかりと握りしめたまま、電車に乗る。と、そんな日に限って、兄のカッコいい友達に会う。
「こんにちは。暑いね。今、帰り?」
「あっ、はい。暑いですね」
と返事をしても、額の汗を拭《ふ》くことができない。こんな汚らしいタオルを持っていることがわかったら、「なんて不潔な女だ」と幻滅されてしまうだろう。鞄《かばん》の取っ手に巻きつけて(濡れているから中にしまうわけにもいかず)、ひたすら背中の後ろに隠し持つ。
「お兄さん、元気? クラスがかわってから会わないんだ」
「あ、はい。元気です」
汗が首筋をくすぐる。べたついた手のひらで拭《ぬぐ》ってから、電車の扇風機の風でかわかす。
突然、急ブレーキがかかり、オッと手が前に伸び、ついでに鞄とタオルを彼の腕に押しつけてしまう。ハッと二人の視線はタオルに向けられて、私は「もう、おしまいだ」と観念する。
その後、何度か彼とは帰りの電車が一緒になったが、タオルのことが忘れられず、二度と再び、口をきくことはできなかった。
もっと小さい頃、「ジョウロ」と呼ばれていた時代もある。朝、外に出かけるとき髪に留めたピンが、夕方には、汗で錆《さ》びている(ピンの品質も悪かった)。手の甲に噴き出す汗を、拭いても拭いてもきりがない。「この子は本当に汗かきなんだから。まるでジョウロみたい」といって母がつけた呼び名だった。
家に帰ると真っ先に水風呂を浴びるのがなによりの楽しみで、汗みどろの服をかなぐり捨てて風呂|桶《おけ》に飛び込んだ。水風呂で充分に身体を冷やしたあとは、冷たい麦茶を飲みながら、扇風機を上向きにする。足の下から風が入ってワンピースが風船のように膨らむ。ブンブン唸《うな》る涼風を独り占めにする快感は、いくら叱られてもやめられないほどのものだった。
我が家にクーラーがやってきたのは、私が小学校三年のときだったと記憶している。二階の父の書斎に設置され、あまりにも暑い夜は、子供も二階で寝ることを許された。
その日も書斎の隣室に兄と二人で寝ていると、夜中に突然、電話が鳴った。
「もしもし、はい。あ、そうですか。ありがとうございました」
書斎から父の声が聞こえた。兄と私は申し合わせたように布団から飛び起き、叫んだ。
「生まれたの? 男の子?」
九月二十七日、午前三時。父の机の上には原稿用紙が広げられ、子供の名前がたくさん書かれている。今日は歴史的な日だなと思った。
翌日、父に連れられて病院へ行ったときは、一転して涼しくなっていた。久しぶりに会った母は、私の顔を見るなり、
「あんた、なんて恰好してんの?」
夏服では寒く、慌てて羽織ったセーターの袖が短かすぎたため、下からブラウスの袖がはみ出している。自分がいないと服もきちんと着られないのかと母はあきれた様子だった。
弟が生まれ、秋が来た。
続メダカ日記
メダカが死んだ。五月に飼い始めて半年もたっていないのに、たて続けに四匹も死んでしまった。死因はいろいろで、まず一匹目は不慮の事故。水槽の蓋《ふた》をしばらく開けたままにしていたら、その間に飛び出したらしく(としか考えられない)、気がついたら床の上に落ちていた。二匹目と三匹目は、ある朝、水面に横たわり、もう一匹は蒸発。何度数えても数が合わないのだが、逃げた痕跡も死んだ様子もない。いったいどこへ消えてしまったのだろう。
こんなにたくさん死なせてしまうのは、世話の仕方に問題があるのだろうか。しかし、死んだ親メダカが遺した子供達は順調に大きくなっている。長男、次男、三男と、少しずつ大きさの違う稚魚は全部で二十数匹。その上さらに増えそうな気配があるくらいだ。
メダカの産卵期は五月だと聞いていたはずなのに、ウチのメスメダカは、九月の半ばを過ぎた今にいたっても、まだ、お腹に卵をぶら下げて泳いでいる。もしかして慢性の妊娠症ではないか。あんまり子供を産み過ぎたので、過労死したのかもしれない。
実際、お亡くなりになった四匹のうち、三匹までがメスである。メダカについて詳しい高校生の弟に電話で訊《たず》ねてみたところ、
「ちゃんとエサ、やってるの?」
「マアマア。でも、ちょっと太り過ぎみたいだったから、少なめにしてた」
「お腹すいてたんじゃないかなあ。だいたい、ねえさんはあんまりきちんと世話するほうじゃないから」
グサリとくるこの一言。実は私にはこの手の前科がある。
以前、家族一同で旅行に出掛けたとき、私一人が留守番役を引き受けたことがある。小学生だった弟は、その頃四匹のカメを飼っていた。誕生日に買ってもらったので、その日、一九八三年の五月一日から名前を取り、それぞれを、ハッちゃん、サンちゃん、ゴンちゃん、イッちゃんと呼んで可愛がっていた。留守をするにあたり、私に世話を頼んで出掛けたのだが、姉の私は「あいよ」と生返事をしたきり、たまにエサを与える程度であまり熱心に面倒をみてやらず、カメの入ったバケツを庭に出したままにしておいた。鶴は千年、カメは万年。しばらく放っておいたからって、そう簡単に死にゃしないだろう。
数日後、弟が帰宅してカメを見に行くと、ハッちゃんもサンちゃんもゴンちゃんもイッちゃんも、甲羅《こうら》に籠もったまま、いっこうに出てくる気配がない。
「おかしいねえ、冬眠するにはまだ早すぎるのにね」
多少、自責の念にかられ、不安がる弟をなだめすかしながら、四匹を転がしたりあちこち突いたりしたが、動かない。どうも四匹とも御臨終あそばしたらしい。そうと判明したとたん、
「ええー、ひどいよお」
弟はポロポロ涙をこぼして泣き始めた。
翌日、弟は庭の隅に穴を掘り、四匹のカメを埋葬すると、木切れにそれぞれの名前を書いて土にさした。
庭にうずくまる弟の背中に向かって、「ゴメンチャイ」と小声で謝ったが、このカメの甲羅日干し事件のことを、弟は忘れていないらしい。
先日、奥多摩にある東京都の水産試験場を訪れた。バイオ・テクノロジーの技術を応用した魚、いわゆるバイオ魚を番組で取り上げようということになり、取材に行ったのである。多摩川の源流に近い山の中にある試験場には、いくつもの水槽が並び、爽やかな水音が響く。そこではヤマメやニジマスを使ってバイオの実験をしている最中で、水槽の中には体長四、五十センチはありそうな、まるで錦鯉《にしきごい》のような巨大ヤマメがたくさん泳いでいた。
担当の米沢さんという若い男性にインタビューをする。
「なんでこんなに大きくなるんですか?」
「これはですね、バイオの技術を使って染色体を三組にすると不妊症のヤマメができるんです。ほら、種なしスイカと同じ原理ですよ」
「ほうほう」
「不妊症になったヤマメは、本来、子供のために取っておく栄養分をすべて自分の身体に回すことができる。だから寿命が長くなり、大きく成長できるわけです」
大きくなるのはいいけれど、なんだか味も大味になるんじゃないだろうか。
「いや、普通のより旨《うま》いです。僕、食べてみましたけど。だって栄養がみんな自分の肉に回るから、理屈からいっても旨いはずです」
米沢さんは自信に満ちた様子でニヤッと笑う。
「アユだってそうですよ。子持ちアユは珍重されるけど、あれは子が旨いんであって、身はまずい。メスは子供を産むと味が落ちるんです」
ここで私は深く頷いて、同行のディレクターを振り返る。
「ほら、やっぱりね。女は子供を産む前が、いいのですよ」
すると、ディレクターは「ん?」ととぼけ、米沢さんは「ん?」とニジマスがエサをくわえたような顔をなさった。
米沢魚博士の話でもうひとつ、おもしろかったのは、
「魚ってね、孵化《ふか》して生殖能力がつくまでの間は、自分がオスかメスかの区別がついてないんです。たとえばヤマメの場合は孵化してから三カ月の間に、自分でメスかオスかを選ぶんですよ」
まるで、外国で生まれた子供の国籍を決めるような話だ。
「だからそれまでに、たとえば男性ホルモンを溶かした水に、メスの染色体を持ったヤマメを泳がせておくと、そのうち『自分はオスなんだ』と思い込んで精子を持つ。にせオスになっちゃうんです」
メスパパが誕生するという、少々不気味な話だが、これは自然の中でも起こりうることで、環境によって突如、性転換をする魚もいるらしい。
もしかしてウチの子メダカどもも、まだ性を選んでいないのかしら。これから十分に環境を見きわめて、オスメスどちらが妥当かを決めるのだろうか。
「ウチのご主人は男っ気に欠けるから、みんなでオスになってあげようよ」
なんて相談しているかもしれない。
取材を終えて家に戻り改めて水槽を覗いてみると、メダカが急にけなげに見えてきた。
バンコク記
「ようこそおいでになりました」
流暢《りゆうちよう》な日本語でバンコク国際空港に出迎えてくださったチンさんは台湾系の中国人。週末四日間のタイ旅行中、ずっと私達(友人ユーコと私)の面倒をみてくださることになった方である。腕には、文字盤にルビーとダイアモンドの埋めこまれたゴールドロレックスをまき、その時計とお揃いの、金とルビーとダイアモンドの指輪をはめて、金色のベンツで現れた。その派手さとは対照的に、チンさんはとても腰が低い。人なつこそうな笑顔で何度もお辞儀をし、あちこち走り回って至れり尽くせりの歓迎ぶりである。
「バンコク、暑いでしょ。今、すぐ涼しくしますから」
自ら運転するベンツに我々を乗せて発車するや、冷房を最強にしてくださるから、「暑い」が一気に「寒い」に変わる。上着を羽織ってもまだ寒い。とうとう、「あのう、冷房を……」と声をかけると、
「あっ、寒いですか。ごめんなさい」
とても恐縮した様子で何度も「ごめんなさい」を繰り返したあと、
「もう、大丈夫です」
しかし依然として冷房のめもりは最強のまま、風の向きが下に変わっただけで、ちっとも大丈夫ではない。
そういえば当地を訪れる前に、バンコクについて詳しい方の説明を聞いたところによると、タイでは、冷房を目一杯に効かせることが最上級のもてなしとされているそうである。
せっかくの好意を無にしてはいけないと、チンさんに気づかれないように上着をこっそり膝にかけるのだが、それでも寒い。ウールのセーターを持ってくればよかったねと、隣のユーコに目くばせをする。
タイは日本と同様、左側通行だから、道路を走っていても違和感がない。が、なんとなく危なっかしいと感じるのはなぜだろう。まず、追越しをしたり右折しようとする車が強引なこと。またそれを阻止しようとする車がクラクションを激しく鳴らす。万一接触事故を起こした場合は、周りがどんなに渋滞していようとその場で喧嘩を始める。そして、そんなゴチャゴチャのすきまをぬって、バイクが器用に走り抜け、タイ独特の三輪車タクシー、サムロが猛スピードで現れる。
「タイでは、バイクはヘルメットかぶる法律ないですよ」
たしかに見渡す限り、ヘルメットをつけてオートバイに乗っているのは、おまわりさんくらいのものである。
その上、自動車の乗員数制限もないのだそうだ。
「乗れるなら、二十人乗っても違反にならないよ」
「よく、事故になりませんねえ」と訊ねると、チンさんはきっぱりと、
「多い、多い。とくにバイクの事故はいちばん多いです。でも、ヘルメット高いし、まだみんな買えないですよ」
チンさんの話で驚くことは、もう一つ、
「タイではね、女ばっかり生まれます」
とおっしゃる。そんな無茶苦茶なことがあるかと理由を訊ねると、
「たぶん気候や風土のせいでしょう」
何やらもっともらしい答えが返ってくる。
「だから男はみんな、たくさんガールフレンド持ってますよ。私も奥さん以外にガールフレンド十人います。ほんとよ。みんな、仕方ないよ」
タイの女性は男に捨てられないように身を粉《こ》にして尽くさなければならない。男が外から帰ってきたら、女は必ず主人の身体をマッサージすることになっているし、食事も口に運んであげるという。他のガールフレンドに対してやきもちを焼こうものなら、
「ハサミで切るんです」
私は思わず反射的に、
「どこを?」
と聞き返す。と、隣のユーコが、
「バカね、縁《えん》に決まってんじゃない。へんな質問しないでよ」
と囁《ささや》いた。
チンさんの話が、やや願望を含んだものとしても、たしかにこの国では男性のほうが大切にされているのは事実のようだ。
例えばレストランでビニール袋に入ったウェットティッシュが出る。店のウェイトレスは男性客に対して、ティッシュをわざわざビニール袋から出して「どうぞ」とサービスするのだが、我々二人の女性にはそんなことをしてくれない。ただ、ポイッと袋ごとテーブルの上に置くだけ。
たとえばジュースをどうぞと勧める場合も、まず男性陣に行き渡らせてから女性に回すといった具合である。ひがむつもりはないけれど、そういえば、かつて日本でもこんな光景がよく見かけられたものだった。今じゃ、めったにお目にかかれない男尊女卑の風習に、我ら現代日本女性としては少々戸惑った次第。
はじめてのバンコク訪問だったので、ひととおりの観光もしておいたほうがよかろうと、水上マーケットめぐりをすることにした。
朝早く、チャオ・プラヤ川のほとりにある船着き場から観光専用の細長い船に乗って運河を下ると、あたり一面、ヤシの木のジャングルに囲まれる。
「わお、まるでディズニーランドの冒険の国みたい」
と軽薄に叫ぶ女二人の、なんと発想の貧困なことか。しばらく進むと、運河の両側に家々が立ち並び、そこに住む人々の生活を覗くことが出来る。
「あ、あの人、髪の毛を洗ってる」
「見て見て、あっちで朝ごはん食べてる」
「あの子、泳いでるよ」
生活用水のすべてをこの運河の水でまかなっている様子は、見る側にとってはめずらしいことだけれど、見せ物のつもりでやっているわけじゃあるまいし、見られる方はたまったものではないだろう。モーターの音を鳴り響かせてひっきりなしに観光客の船が通り過ぎ、指をさされたり手を振ったりされるのは、いい迷惑だろうなあ。そう思いながらも手を振ると、ちゃんとにこやかに手を振り返してくれるから、タイの人は心が広い。
「ねえ」と隣の同胞に感想を求めると、彼女はもっぱら、近づいてくるバナナ売りの舟に気をとられている。
「あら、あのバナナおいしそうじゃない。昨日食べたのと、種類が違うみたいよ」
ユーコは無類のバナナ好きである。
「ねえ、あれ、バナナの木じゃない。いいわねえ、自分の家の庭にバナナの木が植わっていたら、しあわせでしょうね」
物売りの舟がひしめき合う水上マーケットを通り過ぎ、私達を乗せた船は再びチャオ・プラヤ川の河口に向かってスピードを上げた。川風が頬にあたって気持ちがいい。
唐がらしと人生
バンコクは今、ビルラッシュである。あちこちに建設中の区画があり、トラックやクレーン車が忙しそうに出入りしている。近代的なオフィスビルやホテル、デパートの立ち並ぶ様子は、日本の都会とたいして違いはないけれど、それら高層ビルの谷間にときどきタイならではの風景を見つけることができる。
「あれは屋台ね。果物、お菓子、椰子《やし》ジュース、なんでも売ってるね。あっちはもうすぐ新しいホテルが建つですよ」
当地でお世話になった中国人のチンさんは、ベンツを運転しながらガイドも忘れない。通過する建物や通りの説明から、買い物をするにはどこがいいか、さらにはタイの文化、歴史にいたるまで、こと細かに話してくださる。その上、合間にカセットテープで音楽を流し、
「これが今、タイでいちばん流行《はや》ってる歌よ」と、メロディーを口ずさみ、ときにそれを日本語に同時通訳して歌い、「あ、そうだ、今夜のレストラン、予約しておかないといけません」
胸ポケットから老眼鏡と手帳を取り出して、自動車電話の受話器を取り上げる。そのややこしい作業をする間も、決しておだやかとは言い難い運転を続けていらっしゃるわけで、乗せていただいている身としては、
「どうかチンさん、今のところはひとつ、運転に専念してください」と進言したいところだが、彼のせっかくの好意を思うとその勇気も湧かず、しばしスリルを楽しむ以外にない。
ふと、静かになったなと思って運転席に目をやると、はたしてチンさん、信号待ちの時間を利用して、どこから取り出してきたのか、小さな耳かき棒で耳掃除を始めている。
片時も無駄な時間は過ごすまい。するべきこと、やりたいことはいっぱいあるのだから、休んでいる暇はないのです。なんとバイタリティーに富んだ生き方だろう。チンさんの耳をかく後ろ姿を見ていると、人生について考えさせられる。
今回の旅行は、そもそも本場のタイ料理を食べたいという話から始まった。
トムヤムクン(辛くて酸《す》っぱい魚のスープ)、タイ風カレー、さつまあげと、いずれも唐がらしと複雑なスパイスが効いていて、一度とりこになるとやめられない。食欲がないときも、不思議にタイ料理だけは食べたいと感じるのは、我が家族全員に共通する意見で、もしかすると、ウチの祖先にはタイの血が混ざっているのではないかと思うくらいである。
チンさんに連れられていったタイ料理のレストランは、タイの王様の親戚が始めたという由緒正しい店だった。繁華街から少し離れたところにたつ、お屋敷風の二階屋で、なかなか趣がある。
「なにがいいですか。あんまり辛いのはやめましょうね」
チンさんは遠来の友に気を遣ってか、積極的に辛い料理をすすめたくないご様子。
「いえいえ、辛いの、大丈夫。好きです」
といくら言っても、結局、全体的には「中辛」程度のものばかりを注文なさったようで、少々不満が残る。しかし、さすがに味つけは本場ものだった。出てくるものそれぞれに独特の味わいがある。えびのソテーも、名物トムヤムクンも、鶏の、なんだか複雑な味の焼きものも、春雨サラダ風料理もみんなおいしかった。ご飯はタイ米で、民族衣装を着た女の子が素焼きの小さなつぼから、スプーンで各々のお皿につけてくれる。日本のお米より細長くサラサラしていて、味がある。
「このタレにご飯を混ぜて食べると最高よ」
「どれどれ」
同行者ユーコと私は興奮状態に陥っているから、チンさんのおしゃべりが頭に入ってこない。あさましくご飯のおかわりを注文すると、また女の子がつぼを抱えてやってくる。唯一覚えたタイ語を使い、「コップンカァー(ありがとう)」と言う。女の子がニコッと笑う。そのやりとりを三回繰り返したら、さすがにお腹がいっぱいになった。
チンさんの顔を見ながら料理と格闘しているうちに、タマちゃんのことを思い出した。
みんながそう呼んでいるから、私ももっぱらタマちゃんとしか呼んでいなかったので、本名はわからない。年の頃は、三十を少し越えたくらいだろうか。十年前に日本にやってきて、昼はタイ観光局に勤め、夜はタマちゃん一族で経営しているタイ料理のレストランで働いていた。
ハワイで初めてタイ料理というものに出会って以来、日本にもおいしいタイ料理屋さんはないものかと探していた私は、六本木にあるこの店を紹介されたときはひどく感激したものだ。次々に出てくるとびきり辛い料理を前にして、真っ赤な顔でタマちゃんに微笑みかける。
「お水、ください」
タマちゃんは上手な日本語で、
「どう、おいしいでしょう。これは妹が作ったのよ」
私の風呂上がり顔を眺め、「アナタも好きねえ」と言いたげな様子でケラケラと笑っていた。
数年の間、思い出してはこの店に顔を出し、タマちゃんとも仲良しになったと思っていたら、或る日突然、タマちゃんが切り出した。
「あたしね、カナダに行くことにした。あっちにタイ料理の店を開くの。もう下見してきたよ。いいところ」
アルバムをひろげ、下見旅行の写真をうれしそうに披露してくれる。
「へえ、じゃ、この店はどうなるの?」
「妹たちがやるから心配ないよ。私だけカナダに行く」
女一人で、そんな遠いところに住むなんて、万が一、事業に失敗したらどうするつもりなのか。いくら治安のいいカナダだって悪いやつはいるだろうに。しかし、タマちゃんの表情には不安のかけらも感じられない。祖国を遠く離れ、肉親とも別れて、着々と自分の人生を切り開いていこうとするタマちゃんの心のうちには、「怖い、自信がない、怠けたい」といった気持ちはいっさい存在しないようにみえる。
こういうエネルギーは一体どこから出てくるのだろう。島国温室根性のしみついた私には、とてもまねのできないバイタリティー。まるで火を噴くドラゴンのごときたくましい生命力。
もしかしてタイの人たちは、あのとびきり辛い料理をヒィヒィ食べながら脳に刺激を与え、精神を目覚めさせているのだろうか。唐がらしが辛いのは、人生の試練に耐え得る力を養うために違いない。
悲 し い 病
テレビの仕事をする人間にとって十月という月は、いわば新学期のようなもので、九月に入る頃から来年度の準備が慌ただしく始まり、来る者、去る者、消える番組の噂が囁かれるようになる。
これまでずっと、そうしたバタバタぶりを横目で見ながら、自分にはあまり関係のないことだと思ってきた。変化があるとすれば、スタジオのセットが新しくなったり、スタッフの一部に入れ替えがあったり、ギャラがちょびっとアップするくらいで、出ている番組本体にさほどの影響が及ぶような一大事ではない。
ところが今年になって突如、この季節の変わり目が他人ごとではなくなった。
「実は、六年続いた『情報デスクTODAY』が、九月いっぱいで終了することになりました」
会議の席で、番組のチーフ・プロデューサー氏から正式な発表があった瞬間に、「ええー!?」という驚きの声が漏れなかったのは、おおかたの噂をすでに誰もが耳にしていたからだけれど、それでも胸にズシンときた。
だいたいがセンチメンタルな気分に陥りやすいたちである。衝撃の発表をうつむきかげんに聞いているスタッフひとりひとりの顔を見回すうち、早くも目頭が熱くなってきた。
正直に言って、こういう身内の話は書きにくい。他人から見て、これほど「バッカじゃないの」と思うものはないからだ。当事者が興奮すればするほど、周りの人間はしらけてしまう。ちょうど自分の子供の写真を見せびらかして、「ね、かわいいでしょ」と感想を強要する親のごとし。「おもしろい話がありまして」と言いながら、自分から先にヘラヘラと笑い出す落語家のごとしである。
しかし、私の人生のなかで、これはちょっとした事件なのである。
大学を卒業し、就職もせず、専業主婦を目指していたはずの私にとって、この番組に出たことが、図らずも人生の大きな転機になってしまった。もし、この仕事を引き受けていなかったら、原稿を書くことは一生なかっただろうし、親から経済的に自立して、アパート暮らしを経験することもなかったろう。新聞の一面や外報面を真剣に読む機会もないまま過ごしていたと思う。
はたしてこうなったことが良かったのか、それとも普通に結婚して、育児に追われているほうが幸せだったのかはわからないけれど、それほど後悔はしていない。
と、ほら、こんな具合のコブシのきいた文章になってしまうことが嫌なのに、どうしてこうなってしまうのでしょう。
最終回まであと二週間というあたりから、スタッフの誰もがお互いに、あえて明るくやさしくふるまおうとしているように見えた。最後ぐらいは自分の穏やかなところをアピールしておかないと、のちのち、「ああ、昔、一緒に仕事をしたあの人ね。ひきつった顔しか思い出せないや」なんてことになってしまう。
もっとも、ボスの秋元秀雄さんはその頃から、番組が終わってスタッフルームに戻ってくるたびに私を呼び寄せ、本番中の私の言葉遣い、説明の仕方などについて厳しく注意して下さるようになった。
「いいかい、今日みたいに時間が足りなくなってきた場合は、ゲストにあんな質問の仕方をしちゃだめだ。ますます話が混乱するじゃないか」
「事柄を理解してないのが見え見えだな。言い回しが幼稚だ」
残り少なくなった日数内に、最低これだけはコイツに教え込んでおかないと、先々心配でならない。まったく困ったヤツだと言わんばかりのご様子。これが愛のムチだということはよくわかるから、またしてもジーンとくる。
「なに泣いてんの。泣いてる場合じゃないでしょ。わかったね」
ウンと無言で頷く様子は、どう見たって幼児そのもの。とても三十半ばの女のすることではない。
箸が転げても可笑《おか》しい年頃には、ちょっとしたことで気分が変わり、何を見ても涙が出てくる心境に陥ったものだった。
高校時代に所属していた卓球部で、部員から先生に対し、「合宿をしたいのですが」と申し出たことがある。
バスケット部もバレー部も、他の運動部は皆、夏休みを利用して毎年、合宿に出掛けているのに、卓球部だけはしたことがない。卒業するまでに一度、生徒だけで実現させたいね、という意見がまとまって、部長と書記の私が代表し、鬼オヤジと定評のある体育主任のところへ赴いた。
「あのう、私たち卓球部としては……」
もじもじオドオド切り出すと、
「だめだ。お前たちがもうちょっと成績を上げたら許してやる」
ガンと一言のもとにつぶされた。
ひどいよ、差別だ。先生なんて、私たちの気持ちをぜんぜん理解してくれないんだ。
ささやかな挫折が発端となって、世の中すべてが暗くなり、それからしばらくの間、憂鬱《ゆううつ》な日々が続いた。
深いため息ばかり出る。勉強はやる気がおこらない。自殺について考える。野の花を見て涙を流す。友達と肩を抱き合いながら、声をあげて泣く。
ずいぶん不気味なことをしていたものだ。何を深刻ぶっていたのだろうと思うけれど、とにかく悲しかったことだけは覚えている。
まさに「青春とはなんだ」の時代だった。自分をかわいそうだと哀れみ、不幸だと嘆く。理解してくれるのは友達だけ。その友達ともいずれ別れる時がくる。生きるっていったいなんだろう。ああ、悲しい。
九月二十九日、最終回の翌日に、六年間慣れ親しんだEスタジオで「番組お別れパーティー」が催された。大勢のお客様の前で、あまり見苦しい真似だけはすまいと思いながら、すでに開会の挨拶の段階から涙腺があやしくなっていた。
「昨日がお通夜で、今日が本葬ってとこだね」
小島|一慶《イツケイ》さんが、目をしばたたかせながら、冗談を言った。
「では出演者三人からご挨拶を」
司会者に促され、壇上へ上がる。手にはハンカチとティッシュを用意して、本当にお葬式みたい。
「六年間、ありがとうございました」
秋元さんも一慶さんも涙をふいている。その顔を見て、また涙が出る。なにを見ても悲しかった高校生のあの頃と、よく似ていた。
その日は朝の五時まで飲んで歌ってまた泣いて、起きてみたら、目と喉《のど》がはれていた。
親  友
ユーコから電話あり。
「ねえ、日曜日に映画、観に行こうよ。『フォエバー・フレンズ』始まったわよ。観たいって言ってたじゃない」
確かに「観たいね」と呟いた記憶はあるけれど、
「原稿の締め切りがあって、ちょっと……」
「いっつも原稿なんだから。どうせ家にいたって書けないって。ウジウジ言ってないで行こ行こ」
元来が出不精《でぶしよう》なタチである。出掛けるのが嫌いなわけではないが、休日がくまなく予定で埋まってしまうと苦しくなる。できれば一日時間を空けておきたい。まして、やらねばならない「宿題」を抱えているときは、ますます家に籠りがちになり、傍から「つきあいが悪い」と非難される。最近は非難されるどころか、誘われることも少なくなってきた。
「ほら、だから私なんか貴重な友達なのよ。大事にしておかないと、老後は誰からも相手にされずに人生の終焉《しゆうえん》を迎えることになるわよ。きっと新聞に載るんだね。『今日未明、一人暮らしの老婆がアパートで死んでいるのが発見されました。管理人の話によると、この老婆は極めて人づきあいが悪く、部屋を訪れる人はめったにいなかったということです。死後三カ月以上は経っており、死因は餓死とみられます』」
「わかったわよ、行きますよ。行きゃいいんでしょう」
「そういう態度がかわいくない。誘ってくださってうれしいわ、という感謝の気持ちがなきゃ」
「ありがとう、ありがとう。あー、ありがたや」
映画は女の友情を描いた物語であった。片やカリフォルニアの良家の令嬢ヒラリー、片やニューヨークの下町の貧しい母子家庭に育った歌手志願の娘CCという、育ちも性格もまったく異なる二人の少女がヒョンなことで知り合い、仲良くなる。二人は永遠の友情を誓い、離れ離れになってからも文通を続け、お互いの近況を報告し合う。その後、名門校を卒業し、弁護士の資格を獲得したヒラリーは、窮屈な自分の身の上に嫌気がさして或る日突然、家出をする。そして、キャバレー歌手として相変わらずの貧乏生活を続けている親友CCを訪ねる。ここで感激の再会。
どう見てもこの時点までは、美人でいかにも頭のよさそうなヒラリーと、生活のやつれを感じさせ、あちこちにお肉のついたCCとの間には差がついている。
「まあ、ヒラリー、きれいになったわね」とプヨプヨCCが歓声を上げたとしても、対するヒラリーとしては、
「あなたもよ。美しいわ、CC」
とはちょっと応えにくいだろうから、そういう台詞《せりふ》はない。
しかし、人の運命はわからない。そこは映画だけあって波瀾万丈もりだくさん。CCは大スターになり、ヒラリーは夫の浮気を目撃して離婚。喧嘩や仲直りを繰り返しながら、二人の絆《きずな》は確固たるものになっていく。
女に真の友情が成立するかという話になると決まって、
「そりゃ、不可能だね。女は嫉妬深いから、どっちかが抜きん出るとすぐに二人の仲は壊れる」
と断言する男性がいる。
嫉妬深いのは何も女に限った話ではない。にもかかわらず、一般的に女の友情が壊れやすいと思われているのはなぜだろう。
たとえば私にとって大事な友達がいたとする。彼女が結婚をしたとたん、どうしても疎遠になってしまう。それは、ひがんでいるわけではなく(と信じたい)、もはや夫のいる彼女を勝手に振り回すことはできないという気が働いて、電話一本するのも、いったい何時にかければ迷惑にならないかと、躊躇《ちゆうちよ》してしまうからである。
さらに彼女に子供が生まれ、最大関心事が育児へと移った場合、こちらはその辺の相談相手としては差し当たり役に立たないので、「たいへんねえ、よく頑張ってるわね」と、会話はついつい表面的になりがちである。
女はとかく、自分の現実的悩みをディテイルにまで及んで分かち合える友を求めようとするきらいがある。
こうして友達の再編成が行われ、関心事の種類によって育児組、子供の進学相談組、恋愛組、などが生まれていく。結婚せずに仕事をし、一人暮らしで気のおけない者同士のユーコと私は、いつのまにか肩寄せ合い、励まし慰め合って生きているわけである。
ユーコとの仲も、かれこれ二十年になろうとしている。といってもはじめからこれほど親密だったわけではなく、周りの皆さんがしだいに伴侶をみつけ、淘汰《とうた》されていったあげくに気がついてみたら二人が残っていた。
これだっていつまで続くものか。もしもユーコが先に結婚したら(と、こういうところでさり気なく友を立てる思いやりが大切である)、一挙に壊れてしまうかもしれない。結婚しないまでも、この微妙な年頃のわがまま女同士が、なにをきっかけに決別するか保証の限りでない。
しかし、万が一、目の前の大画面に映し出されているヒラリーとCCの二人のように、死ぬまで信頼し合える友でいられたなら、どんなにすばらしいことだろう。
場面はちょうど、不治の病に倒れ、死を目前にしてやけをおこしているヒラリーを、最期まで明るく過ごすよう親身になって励まし、叱りつけるCCの姿が現れて、物語はクライマックスにさしかかる。
「CC、私が死んだら、この子の面倒はあなたにみてもらいたいの」
映画館の階段を降りながら、二人ともまだ涙の後始末をしていた。
「あーあ」とため息をつき、少し沈黙して、私は呟いた。
「ああいうふうに死ぬのね……あたし」
すると、すかさずユーコが叫んだ。
「何言ってんの。あたしよ、死ぬのは。家柄はいいし、美人で聡明で、ヒラリーって、あたしそのものじゃないの」
「いいえ、ちがいます。あたしがヒラリー。あなたはCCでしょ」
すると、ユーコはしばし考えてから、
「そうね、やっぱりあなたに譲るわ」
急に素直になり、私に暖かい眼差しを向けた。
「死ぬのはバカらしいもん。あたしは逞《たくま》しく生き残って、あなたのお葬式を盛大にやってあげるわよ。任せなさい。だって親友じゃない」
期待に応えて
新しい番組『筑紫哲也NEWS23』が始まったら、さぞや一新されることが多いだろうと思っていたけれど、実際のところ、それほどのこともなかった。私の出番は曜日も時間も以前とほとんど変わらないから、生活パターンは今まで通り。その上、一緒に仕事をするスタッフの多くは前の番組からの継続組なので、いまさら気取ってみてもはじまらない。精神的には楽である。
ただ、番組のなかでの私自身の役割が変わった。
これまでは秋元秀雄さんと小島|一慶《イツケイ》さんに挟まれて、おおかたは聞き役に回り、「ウーン」、「ははあ」とうなりながら、さも理解したような顔をして頷《うなず》いていることがほとんどであった。たまに喋ることが多い日も、失敗をしたら、きっと両脇のお二人が救いの手を差し伸べてくださるに違いないと信じていた。そんな甘えの表情が現れていたせいか、番組における私の評価は、
「静かでおとなしい女性」
「冗談なんか言わない、まじめで控えめなタイプ」
なんていうもので、裏を返せば、「アホか、あいつは。何の役にも立ってないぜ」ということになるのだけれど、さすがに本人を前にしては言いにくいのか、
「いやいや、その頷き方がみごとです」
とか、
「黙っているところに存在感がある」
などと、なんだかよくわからない褒め方をされることが多かった。
「しかし、今度の番組ではそうはいかないよ。筑紫さんが自由に意見を述べられるように君が進行役を受け持つことになる。今こそ、君の真価が問われるときだと思いなさい」
プロデューサーのこの言葉は、脅迫以外のなにものでもないように思われた。
以前、本番中に余計な一言を発すると、
「黙ってりゃ、バカだってこと三年わからないのに」
と秋元さんがよくおっしゃった。言われるたびに身を縮めたものだが、今度、喋る量が増えたら、またたく間に程度が知れてしまう。なんと恐ろしいことでしょう。
二週間が経った。まだ「慣れました」とは言い難く、毎回必死の思いで格闘している感じである。いったいなにをどう気をつければ、いいイメージにつながるのかと、思案に暮れているうちに、そろそろ評判が伝わってきた。
「いや、驚きました。喋るようになったものですねえ」
「年相応の味が出てて、いいんじゃない」
年相応の味たるものは、最終的に「世話女房」という言葉でくくられた。
そう言われる理由は、喋る量が増えたせいだけではなく、出演者の構成にも原因があるらしい。以前は年上の男性二人に、女性一人というキャスティングだったから、三人並ぶと、お父さん、おにいさんの間に頼りなげな娘がいるという人間関係を連想させた。しかし、今度はメインキャスターの筑紫さんを囲んで、若い女性と男性が一人ずつ。そして小林繁さんに私というメンバーなので、どうしたって私は年上、姉さん、姉ゴと映る。その姉ゴがまた、けっこう喋るものだから、世話好き、しっかり女房とイメージはふくらんで、どちら様からも「世話女房タイプ」と思われるようになったらしい。
人は置かれた環境に合わせて自分の色を決めることがあるのだろうか。以前、小学校の図書室でアルバイトをしていた頃、六年生というものは実に頼もしく、しっかりして見えた。下級生の面倒をみる優しい表情、先生に仕事をまかされたときの自信に満ちた行動ぶり。半ズボンをはいていることが何かの間違いではないかと思われるほどの大きな身体と、声変わりをした声で近づかれると、年の差も忘れて、思わず「ステキ!」と叫びたくなるような男の子が何人もいた。
ところが同じ男の子が卒業した後に、中学生の制服を着て、新品の鞄をぶら下げて遊びに来ると、妙にかわいらしいのである。
最上級生として見るときと最下級生として見るときの差なのか、本人の意識の違いなのかわからないが、不思議なことだと思ったものだ。
慶応の幼稚舎出身である弟は、小学校一年に入学してから卒業するまでの六年間、担任の先生もクラスも替わらなかった。公立で育った姉の私はほとんど毎年のように先生も友達も入れ替わり、さらに転校まで経験しているので、それなりに新鮮で楽しかったけれど、今や再会する機会はほとんどない。が、その点、弟たちの先生とクラスの団結力たるや見事なもので、卒業して十五年以上経った現在でも、ときどき集まったり助け合ったりしている。
その担任の先生が弟の卒業時におっしゃったことがある。
「六年間、クラスが替わらなかったことは貴重なことです。しかし、同じ人間関係が長く続くと、自分の役割が決まってしまってなかなかそこから抜け出せなくなる。クラスで一番勉強ができるのは○○君、スポーツマンは××君、僕は道化役などと自他ともに認めて、それ以上になろうとしないのが難点です。今度君たちが中学に進学したら、なるべく早めに周りからよい評価を得るようにしなさい。一度評価されると、人間は期待に応えようと努力するものです」
貴重な先生の忠告を、弟自身がどう受け止めて、どう実践したかは怪しい限りだが、むしろ両親のほうがいたく感激したらしく、この話をよく聞かされた。
所変われば品変わり、居場所変われば人変わる。以前の「控えめ、まじめ、静か」という評判が消え去り、新番組における評価が「世話女房」となった今、その期待に応えようと、性格を変えつつある自分が、何より恐ろしい。
赤い自転車
「そんな歳から自転車に乗って、あんた大丈夫なの? よくよく気をつけてちょうだいよ」
自転車を買ったと報告すると、母はあまり嬉しそうな反応を示さなかった。車なら「買え買え」と娘をそそのかす父も、
「自転車か、危なっかしいねえ」
と疑わしげな声を出す始末である。
最初は私も買うつもりはなかった。近所の商店街を歩いていたら、自転車屋さんの店先で、油にまみれて修理に専念しているおじさんの姿が目に入った。
「誰だっけ、ほれ、落語家の、えーと、よく似ているなあ」
その名前を思い出すために立ち止まると、
「いらっしゃい」
おじさんはこちらを振り返り、仕事の手を休めて、ゆっくり近づいてきた。
そこまでされてから「別に買う気はないんです」とは言いづらく、つい、
「あー、この自転車、安いですねえ」
マジックインキで価格の記された小型自転車を指差すと、
「安いなんてもんじゃないよ。でも品は一流よ。言っちゃなんだけど、みんなこれ、ゼロからこの手で組み立ててるの。手ぇ抜いてないんだ」
おじさんは怒ったような口調で誇らしげに言う。しかし私は、そもそも自転車がどういう姿で店に入荷されてくるものなのか知らないので、「手ぇ抜いてない」と言われても、特別なことかどうかわからない。そこで、さしあたり、
「ふーん、そりゃすごい」
と答える。すると、おじさんはずいぶんと機嫌が良くなって、
「アンタが乗るの? じゃ、こっちの赤いのなんかどう? 断然、ラクだよ。アルミだから錆《さ》びないしね。一万八千円。消費税はいただきません」
どうも私は、こういう職人|気質《かたぎ》風の、一見無愛想で、そのくせ押しが強いタイプの人に弱い。いつのまにか買うことになっていた。
まあ、それでも、自分のものになるとうれしい。昔のようなごついイメージとは程遠く、スリムでシンプルで、なかなか洒落ている。ピカピカの赤い自転車にまたがってペダルを踏むと、まるで子供の頃に戻ったような気分になった。
以前、バイク・ジャーナリストの三好礼子さんにお会いして、バイクの何がおもしろいのかと伺ったところ、
「肌に風を直接受けられることの快感。そして、歩くときとは違った高さとスピードで世の中を見られる楽しさです」
とおっしゃった。バイクほどの迫力には欠けるかもしれないが、自転車にも同じような魅力がある。
見慣れた商店街を走り抜けることが新鮮に感じられ、少々の遠出も苦にならない。こっちの肉屋さん、あっちの豆腐屋さん、そっちのビデオ屋さんと、調子に乗って足を伸ばし、あっという間にカゴの中がいっぱいになった。
自転車の乗り方を覚えたのは、小学校二年か三年の時である。同じ団地内に住む、三つ年上のナガアキ君が教えてくれた。自転車の後ろを支え、私のペダルの踏み方を指示しながら前へ押してくれる。
「まっすぐだよ」
そんなこと言われたって、ハンドルがすぐ、ヨロヨロと動いてしまう。
「怖がらないで。足を地面から離しなよ」
「ちゃんと支えててよ」
「そうそう、もっと勢いつけて、そうだ」
というナガアキ君の声が、いつのまにか小さくなっている。ハタと不安に思って振り返ると、
「ほら、支えなくてもちゃんと乗れるようになってるじゃないか」
「けっ、ほんと?」
ナガアキ君は少女漫画に出てくるような美少年だった。目が大きく髪の毛が茶色がかっていて、これで無口なら魅惑の少年と言いたいところだったけれど、どちらかというとおしゃべりで、そんな秘密に満ちた表情は一度も見たことがなかった。たいていは兄とばかり遊んでいたが、自転車教習期間に限っては、毎日のように私につき合ってくれた。
ときどき、ナガアキ君は自転車に私を乗せ、自分は後ろの荷台にまたがってペダルを漕ぎ、団地の中をぐるぐる回った。スピードが出て、風が気持ち良く、ナガアキ君はいい人だなあと思ったものだ。
或る日、いつものように団地を回っていると、突然、角の出会い頭に向こうから来た自転車とぶつかった。たしか相手は新聞配達の人かなにかだったと思う。猛烈な勢いで自転車が砂利道に倒れ、放り出された。
双方とも怪我はたいしたことはなかったが、両親からひどく叱られた。
なにごとも深刻に受け止めるタチの私は半泣きになって母に謝ったが、ナガアキ君はニコニコ笑いながら、膝の絆創膏《ばんそうこう》をさすって、「ごめんなさい」と元気よく叫んで帰っていった。
末の弟は、私よりさらに本格的な自転車の事故に遭ったことがある。
小学校六年のとき、塾の帰り道に自動車にはねられた。一緒にいた弟の友達が興奮した声で電話をしてきた。
「もしもし、あ、トクガワですけど、今、阿川君が交通事故に遭って……」
運悪く一人で留守番をしていた私は、
「えっ、どこで? もしもし、弟は死んじゃったの?」
「いや、死んでないと思います。坂の途中で、車が急に曲がってきて、今、救急車を呼んでます。まだ来てないけど」
私はトクガワ君にお礼を言うと、受話器を置いた。
落ち着くんだ、と自分に言い聞かせる。母は連絡がつかないが、父の居場所はわかっている。私はすぐさま駅前のパチンコ店に電話をし、父に呼び出しをかけた。
ほどなく父から電話がかかってきた。
「なんだい、なんかあったのか」
父の声はジャンジャラというパチンコ屋の賑《にぎ》やかな音に紛れて聞きづらい。
「たいへんよ、アツが交通事故に遭った」
「それで怪我は? 死んだのか」
私は知りうる限りの情報を父に伝えた。
「よし、俺は病院に直行するから、お前は家で待機しててくれ」
母が事故のことを知ったのは、弟が病院での治療を済ませ、父に連れられて家へ戻ってからのことである。
「いいか、もう済んだことだからな。びっくりするなよ」
玄関に出迎えた父の大きな声に、母は却《かえ》って驚いたようだった。慌てて家の中に駆け込むと、包帯で頭をぐるぐる巻きにされ、ソファに横になっている弟の姿を見た途端、その場にうずくまってしまった。弟はなるべく頭を動かさないようにして呟いた。
「大丈夫? 母さん」
誕 生 日
誕生日というのは、それなりに感慨深いものである。来しかた行く末を案じるには絶好の機会だし、周りの人間の、自分に対する親しみの度合を再認識することもできる。裏をかえせば、「そうか、私って思っていたほど人望がなかったんだな」という現実に直面し、これからは心を入れ替えて他人に親切にしようなどと決意するきっかけにもなるだろう。
しかし、いずれにしても、本人としては、できるかぎり冷静にその日を迎えることが大切である。
中学時代、自分の誕生日が近づくと、妙に親し気ににじり寄ってきて、
「○月○日よ、来週の水曜日。お忘れなく。水曜日は私の誕生日です」
まるで選挙運動をしているような勢いで、クラス中に宣伝して回る友達もいたが、こういう人は概して周りから好かれていなかった。
それよりも、親しい仲間が密《ひそ》かに準備をし、
「おめでとう。これはみんなからのプレゼント」
「ええー、そんなぁ。やあ、うれしいなあ。私、すっかり忘れてた」
なんて、その日の主役はおおいに驚き、照れてみせる。こういうシチュエーションのほうが好ましい。が、本当のところ、当人が自分の誕生日を「すっかり忘れてる」なんてことはあまりない。パスポートや免許証の更新のように数カ月も経ってから、突然「しまった」と思い出すとか、いくらヒントを与えても、いったい今日が何の日であるかどうしても思い出せない結婚記念日(母は毎年、記憶喪失の父に向かってボヤいている)のようなことはない。少なくとも当日をはさんで前後二、三日のうちには、誕生日のことが何回か脳裏をかすめているはずである。
歳を重ねるにつれて、セレモニー自体は縮小されていくけれど、「今日が私の誕生日」という意識は、強くなる気がしてならない。
子供の頃の誕生日は必ずしも楽しいことばかりではなかった。プレゼントに何を買ってもらおうかと期待する一方で、何事もなく無事に過ぎればいいと心密かに願ったものである。短気な父は、その当時、日常とは違う特別な日になると決まって腹を立て、「出ていけっ」の騒ぎになることが多かった。たぶんそれは、家族が浮かれ、はしゃぎ過ぎることへの不快感の表れなのかもしれない。
私の八歳の誕生日に、家に友達を招待してパーティーを開くことにした。学校の友達や近所の遊び仲間など十人ほどに声をかけ、
「夕方四時、よかったら来てね」
「うん、わかった」
当日、母は朝から大忙しである。私の好物であるいちごのショートケーキを買いに行き、交換プレゼントの景品を用意し、サンドイッチを十数人分作り、部屋を飾り、娘のために走り回った。
ところが直前になって、急に来客予定者からのキャンセルが続出したのである。
「ごめんね。行けなくなっちゃった」
「ちょっと用事ができて……」
結局、来てくれたのはクラスメイトのスギウラさんと、同じ団地に住むイッコちゃんの二人だけ。いくら食べても減らないサンドイッチの山を前にして、二人とも口数が少なくなるばかりである。プレゼント交換をしても、ケーキにろうそくを灯しても、いっこうに盛り上がらず、パーティーは早々にお開きとなった。
さて、そのことを知った父が怒ったのなんの。
「そもそもこんなパーティーをやること自体がくだらん。子供のために親が振り回されたあげく、ろくなことはない。今後一切、誕生日パーティーをすることは禁止する」
というわけで、それ以来、我が家で自分の誕生日会を催したことはない。
テレビの仕事を始めて最初の誕生日は、本番中に祝っていただいた。
そろそろエンディングにさしかかろうという時になって、司会の鈴木順アナウンサーが突然、机の下から大きな花束を取り出した。
「実は今日は、阿川さんの誕生日なんです。おめでとうございます」
よくもまあ、公共の電波でこんな個人的なことが許されたものである。今、考えると恐縮千万だけれど、これもシロウトの私を早くスタジオの雰囲気に慣れさせようというスタッフの心暖かい演出だったのだろう。
「では阿川さん、一言どうぞ」
急に「ヒトコト」なんて言われて、カメラに向かって何を申し上げられることがあろう。が、目の前には「あと残り時間何秒」という苛酷《かこく》きわまりない指示が出ている。焦って口から出た台詞《せりふ》が、
「えー、三十代はじめての誕生日をこんな風に祝っていただけるとは思ってもいませんでした。ありがとうございます」
拍手の中で、ペコペコとお辞儀をしながら、番組は終了した。
スタジオを出るときにプロデューサー氏が苦笑いを浮かべながらおっしゃった。
「いいですか。テレビで嘘をついてはいけません。しかし、必要以上の真実を明かすこともありません」
ハハァ、なるほど。しかし、私は女だからといって年齢を隠したいとは考えていない。むしろはっきり公言しておくほうが、何かと楽である。
もっとも、その年齢暴露発言は、たちまちにして反響があった。
実は、それより何日か前、私のもとに視聴者からの葉書が届いていた。差出人は十七、八歳の男の子である。
「はじめまして。僕、アガワシャンのファンでーす。アガワシャンは幾つなんですか。TBSのアナウンサーなんですか。僕も学校を卒業したらTBSに入社したいと思っているので、それまで、きっと待っててくださいね。ばいばい」
各色マジックインキを使ったカラフルな葉書で、とても二十歳近い男の子の書いたものとは思えなかったけれど、それでもこれだけ自分に好意を示してくれると悪い気はしない。ニヤける口元を抑えつつ、こっそりバッグにしまっておいた。
ところが誕生日の数日後に同じ青年から再び手紙が届いた。今度は色見本のようにカラフルなものではなく、うって変わって地味でまじめな書き出しである。
「僕は愕然《がくぜん》としました。まさかアガワさんが三十歳とは思いませんでした。どうぞこれからも身体に気をつけてご活躍ください」
それ以来、その青年からは一通も手紙が届かない。
あれから六年が経った。今日で私は三十六歳になる。
変 身 願 望
数年ぶりにショートヘアにした。理由は単純で、このところあちこちで「ハゲたんじゃない?」「薄くなったみたい」とロクなことを言われないから、短くすれば頭の隅々まで栄養が行き届き、髪が元気を回復するのではないかと、ささやかな期待を抱いたわけである。
しかし、髪の毛を突然バッサリ切ると、必ず言われることがある。
「なぜ切ったの? ふられたんでしょ」
「さては、好きな男に切れって言われたな」
意味ありげな目つきでこういう質問をしてくるのは、不思議に男性陣と相場が決まっている。
私の体験では、男性は、女性の髪型の変化をあまり好まないようだ。髪型を変えるとたいてい男性は「前のほうがよかったのに」とケチをつけ、お世辞でも「あら、いいじゃないの」と褒めてくれるのはいつも女性である。
男性諸氏の多くはロングヘアがお好きと見える。共に仕事をするならすっきり短いのがいいけれど、連れて歩くとなると、さらさらと風にたなびくような長い髪をかきあげて、上目遣いで見つめてくれるような女性のほうに、ぐっと色気を感じるものらしい。
その点、今の若い女の子は本当に色っぽい。どの人を見てもシャンプーのコマーシャルからとび出してきたようなキラキラ輝く髪を背中まで垂らし、お洒落でお化粧上手なのには驚いてしまう。垢抜《あかぬ》けない女の子というのはいったいどこへ消えてしまったのだろう。私の学生時代には、「人はいいんだけど、センスが今一つ……」という女の子がゴロゴロいたものだ。
アイシャドーは、目の上を青くすればいいと思い込み、歌舞伎役者のような顔でキャンパスを歩いている人。美容院でパーマをかけたばかりだなと一目でわかるほどの、雷坊主のようなチリチリ頭をして、平然としている人。
「昨日、シャンプー切らしたんで石鹸で髪の毛を洗ったら、なんだかゴワゴワしちゃった」
「あたしもこの間、毛糸洗いの洗剤で洗ったけど、大丈夫だったわよ」
なんて会話は、今の女学生の間では、「信じらんなーい」ことでしょう。
女が髪型を変える理由は、恋の病に限ったことではない。単に気分を変えたいとか、飽きたからとか、流行っているから、面倒臭くなったからなど、まあ、洋服を着替えるときの感覚とそれほど差がないのではなかろうか。
映画『ローマの休日』の中に、オードリー・ヘップバーンが美容院に入って髪を短くするシーンがある。あれは本来、身を隠すことが目的ではあるけれど、切ったあとの王女の足取りは、決して重いものではなかった。むしろ実に軽やかで、変身した喜びに満ちていた。
そういえば、『麗《うるわ》しのサブリナ』でも、彼女は髪を切っている。恋する男に一人前の女として扱われず、傷心の思いでパリに留学する小娘サブリナはポニーテールだが、数年後、みごとに洗練されて戻ってきたときの、なんと上品なショートカットだったことか。あの見違えるほどに美しく変身したサブリナの姿は、いまだに目に焼きついて離れない。
小学校時代、私は腰まで届くほどのおさげ髪にしていた。
「生まれてから一度も切ったことがない」というのが自慢で、男の子に後ろから引っ張られたり、「あいつ、髪の毛が長いからその重みで背が伸びないんだぜ」とからかわれたりしても、切る気にはなれなかった。
毎朝、学校に行く時は、朝ごはんを食べている間に母が後ろに立って三つ編みを結《ゆ》ってくれた。ときには自分で結ってみることもあったが、どうしても母のようにはキュッと引き締まらず、夕方までにゆるんでしまう。
たまに出掛けるときは、背中に垂らしたままのこともあった。普段の三つ編みの癖が髪に残っていて、ちょうどカール人形の、ウェーブのかかった髪の毛みたいで、我ながらとても女らしいと思ったものだ。
私が髪を伸ばしていることに賛成しなかったのは、広島に住む伯母である。危険ではないかと心配だったらしい。学校の休みを利用して伯母の家に遊びに行くたびに、短い髪型がどんなにかわいらしいものかという話を、さり気なく、しつこくして私を説得しにかかる。が、私は断固として聞き入れようとしなかった。
あるとき伯母は、髪の長い女学生が電車の扉に髪の毛をはさまれて怪我をしたというニュースを耳にした。とたんに、「ほら、見なさい」と意を強くし、突然、裁《た》ち鋏《ばさみ》を持って私のあとを追いかけてきた。私は仰天して家じゅうを泣きながら逃げ回ったが、結局、十センチほど切られ、たいへんなショックを受けたのを覚えている。
しかしその数年後、小学校の五年生のときに、コロリと変節してしまう。テレビの歯磨きのコマーシャルに出てきたおねえさんがステキなショートカットで、「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、歯ァーが白い」という歌に合わせて、歯ブラシ片手にニコリと笑う、その笑顔に憧れて、急に髪を切りたくなった。
切ると決まれば話は早い。長年付き合ってきた髪の毛と別れた瞬間に抱いた感想は、
「軽い!」
であり、今までずいぶん重いものを背負っていたことへの驚きだった。悲しいという気持ちはまったく湧かなかった。
その後現在に至るまで、伸ばしたり切ったり伸ばしたり、何度、髪型を変えてきたことだろう。髪型を変えようと決心し、美容院へ向かうときの、あの心躍る気分が好きである。
「やーだ、あのサブリナ・カットにしてって頼んだのに」
美容院でいくら主張してみても、担当のY君は聞いてくれない。
「聞いてるじゃない。ちゃんとサブリナになってるよ。ほら、この前髪を少しだけ下ろしてみれば、そっくりだ」
「どこがそっくりなの。ぜんぜん似てない」
「そりゃ、顔が違うんだからある程度は仕方ないでしょう。大丈夫。いい感じになってるって。自信持って」
「そーお?」
と疑わし気な声を出しながら、だんだん自分の新しい顔に慣れてくる。
美容院を出て通りを歩く頃は、すっかりサブリナの足どりになっていた。
父《おや》 娘《こ》 国 境
ベルリンの壁が取り壊されたニュースをテレビでみていたら、涙が出てきた。画面に映る東ドイツ市民はどの顔も喜びに満ちている。
この日を待ち切れずに命を落としていった人々の家族は今、どんな気持ちでいるのだろう。
「息子よ、あと五年辛抱していれば、あんな無残な死に方をせずにすんだろうに」
老夫婦が肩を寄せ合って唇を噛み締めている姿が映し出されると、そんな呟きが聞こえてくるような気がするのである。
日本はよくこんな悲劇を迎えなかったものだとつくづく思う。各国首脳が集まって、
「ドイツだけじゃないでしょう。日本も分断するべきです」
「そうだ、そうだ」
そして、或る日突然、日本列島は大井川を境に西と東に分けられる。さらに東京二十三区のど真ん中に壁がそびえ立つ。
「ちょっと、そんな無茶な。渋谷におばあちゃんが一人で暮らしてるし、彼は中野に……」
「もう決められたことですから」
「こっちはどこの管轄になるんですか」
「ソ連です」
「そんなぁ、誰が勝手にそんなこと決めるわけ? とにかくあたしゃ、いやですからね。よし、乗り越えてやる」
「やめなさい。動くな。動くと撃つぞ」
今回の歴史的事件を通して、改めて戦争の傷跡の深さを考えさせられた。
十年近く前の春、父とふたりでヨーロッパを旅したことがある。イタリアのミラノで父が講演をするほかは、特に目的のない旅行だった。
講演までの空き時間を利用して、列車に乗ってスイスのロカルノまで行ってみようということになる。
途中、かわいらしい登山電車に乗り換えて、なるほどこれはいかにもスイスらしい景色になってきたと思う頃、電車が止まり、制服姿の係員が乗り込んできた。乗客一人一人の間を通り、まるで検札の要領で、パスポートを見て回る。
「ふーん、これが国境か」
意外に簡単な通関には驚いた。
ふと見上げると、先程まで見慣れていた陽気なイタリア人とはうって変わって、『アルプスの少女ハイジ』に出てくるような頬のポッと赤い、実直そうな係員の顔である。あたりは静まり返り、小鳥の声が響いていた。
私にとって、それが初めての陸路国境通過の経験となった。
ミラノに一泊した後、ヴェニス経由、TEE(欧州国際特急)に乗って一路オーストリアのインスブルックへ向かう。
適齢期も越えようとしている娘との、たぶんこれが最初で最後の父娘《おやこ》ふたりの旅になるかもしれない(と、当時は信じていた)。父がそう思って私を誘ってくれたとしたなら、娘としては、なまいきな口はきかないで、「はい、はい」と従順に過ごしましょう。少なくとも成田を立つまでは、そう思っていた。が、一日、二日と経つうちに、その決心は脆《もろ》くも崩れていくのである。
ホテルに戻ると、父はたちまちパジャマに着替え、脱いだ下着をこちらに放り投げる。
「おい、これ」
通訳するに、洗えという意味である。
「やだ、きったないなあ。なにも投げなくたっていいじゃないの」
殊勝な心掛けはどこへやら。
「誰のおかげでこんな贅沢旅行ができると思ってるんだ」
しかたなく、指でつまみ上げてバスタブに放り込む。足で踏み洗いしながら、「オトーチャンのおかげ、オトーチャンのおかげ」と小声で歌う深夜の洗濯女。
当人はさっさと高いびきをたてている。こちらはいびきがうるさくて眠れない。枕をかぶってみたり、耳に毛布を突っ込んでみたりしながら、ようやく寝入ったと思う頃、頭の上に人の影を感じて目が覚める。
「お前はホントによく寝るなあ。そろそろ起きていただけないでしょうかねえ。俺は腹が減って死にそうだ」
列車に乗れば席を決めたとたんに、
「おい、ちょっと先頭車両を見てくるから、お前、荷物の番をしててくれ」
その嬉しそうなことといったら、まるで乗り物好きの小学生である。おかげで私はどこにも移動できず。発車時刻が迫ってきて、気を揉んでいるところへようやく父が戻ってくる。
「心配するじゃないの」
と一言でも文句を言おうものなら、
「俺はちゃんと考えて行動しているんだから、余計な心配をすることはない。お前よりよほど時間に正確です」
そして窓際の席をとり、「あとで代わってやるから」と、小学生の顔に戻る。
「オトーチャンのおかげ、オトーチャンのおかげです」
インスブルックまでの道中、食堂車で食事をした。真っ白な詰《つ》め襟《えり》の上着を着たボーイさんはイタリア人らしく、揺れる車内を鼻唄まじりで楽しそうに歩き回る。コーヒーのおかわりを薦《すす》めてくれるので、「ちょっとだけ」という素振りをすると、深く頷いてから、本当に一滴だけたらして、行っちゃった。
なんじゃと驚いているところへ再びやってきて、ニカッとウィンクをして見せてから改めてコーヒーを注いでくれる。
「そうだ、このコーヒーカップをおみやげに持って帰ったらどう? 思い出になっていいじゃない」
TEEと赤く描き込まれたカップを持って父をそそのかすと、
「それはいい。そうだな」
めずらしく父娘の意見が一致した。
「お金を払うから、譲ってもらえないか」
すると、あんなにやんちゃだったボーイさんは、急に真面目な顔になり、
「会社のほうに聞いてもらえば別だが、車内で売ることはできない」
ピシャッと断られた。じゃ、あきらめようと、席を立とうとしたところ、彼は白いナプキンを我々のコーヒーカップの上にかぶせ、「持っていけ」と合図をする。両目を手で覆い、「我、関せず」というわけだ。
この無類に明るいイタリアンスピリットも、オーストリアに入ると不思議に消え去り、さらに国境を越えてドイツ領内に入ったとたん、あらゆるものが、厳格、清潔、頑丈、簡素といった印象に変わるのは、みごとであった。
一方、父娘のイヤミの応酬だけは何度国境を越えても変わることがなかった。
人 知 れ ず
金曜日、めずらしく高級フランス料理店へ行った。ここ数年ですっかり和食や東洋料理嗜好《しこう》になり、とんとフランス料理とはご無沙汰していたところだったが、仕事の関係で会食にご招待いただいた。めったにないことなので、当日はなるべくお腹をすかせ、朝から美容院へ行き、はきなれぬ高いヒールと新調のニットスーツに身を包み、準備万端整えて家を出た。
おかげで夕方までに足の裏と腰は痛み、お腹は空き過ぎて力がぬけ、晩餐《ばんさん》に対する期待は最高潮に達した。
約束の時間ぴったりにレストランの入り口に着くと、
「あら、もう来てらしてたのですか」
招いてくださった紳士はすでに到着し、私を出迎えようと待機していらした。
「コートをお預かり致しましょう。では、どうぞ、お席のほうへ」
店の人に促され、蝋燭《ろうそく》の灯されたテーブルに着席する。
女というものは先天的にお姫様願望が強いのではなかろうか。これほど丁重に扱われ、豪華な雰囲気に浸されると、だんだんと自分の口元、顎の先、手や足の先がとんがって、お気取り調に変わっていくのがよくわかる。
もっとも、私の場合、お姫様役を演じるのはその辺までで、席に着くなりさっそく出てきたオードブルをたいらげ、ワインのおかわりをし、続く料理をこれまた残さず、お皿にへばりついたソースまでパンに吸い込ませて口に入れ、「このバターがまた、おいしい」「こちらは当店オリジナルでして」「なるほど、なるほど」と感心し、もっぱら食欲を満たすことに専念する。ようやくメインディッシュの「黒鯛のソテー、野菜の千切り添え」をきれいにさらったかと思う頃、ちらりといやな予感がした。
「おかしいぞ」
以前にも一度経験がある。パリの三つ星レストランに招待されたときだった。その日のホストはやはり高貴な紳士とそのご子息。まるでどこかの国の王様と王子様に招かれたような華麗なるもてなしに、相対するは私ひとりである。イギリス留学中、休暇にパリに寄ったという王子様のジェントルマンぶりは父上に優るとも劣らぬものがあり、歳の違いさえ考慮に入れなければその胸に飛び込みたいほどの好青年だったが、ポーッとなればなるだけ、粗相があってはならぬ、話題を選ばなければと、目まぐるしく考える。その緊張がいけなかったのか。急にお腹がさしこんで、目の前の特別料理を見るのも辛くなり始めた。
結局、何度も「ちょっと失礼」を繰り返したあげく、その晩、印象に残ったのは、お手洗いの壁のアールデコ調の模様だけである。
あのパリの、悪夢のような感覚がまたもやよみがえったのだろうか。人様の話に集中できなくなり、妙に暑苦しくなる。おしゃべりに参加しないのは失礼だと思うから、なんとかにこやかに相槌《あいづち》だけでも打とうとするのだが、顔がひきつってしまう。店のざわめきが近づいたり遠ざかったり、蝋燭の光がチカチカと眩《まぶ》しくなる。
とうとうこれ以上はもう無理だなと観念し、「ちょっと失礼します」。
お手洗いを目指す足取りが、自分でもわかるほどフラフラとおぼつかない。それでもなんとか目的地まで到達し、さてバッグをどこに置こう。えい、迷っている余裕はないぞ、この際、床でいいや、と、床に置いたところまでは確かに記憶があるのだけれど……。
気がついたときは、便器を前にしてお手洗いの床に横たわっていた。
一言お断りをしておくと、そのお手洗いはとてもきれいで、掃除も行き届いていたから、ご想像いただくほど、悲惨な状況ではなかったと思う。
しばらくして目が覚めたときは夢うつつで、なぜあたしゃこんなところに転がっているのかなと一瞬、頭をひねった。まあ、それくらい朦朧《もうろう》としていたわけです。
しかし、のんびり寝ているわけにはいかない。みんなが心配するだろう。フラつく身体を起こし、よくよく手を洗い、お化粧を直し、テーブルに戻った。
こういうとき、紳士は、
「まあ、長かったですねえ」
なんてヤボなことはおっしゃらずに、
「あなたはいくらワインを飲んでも赤くならない」
と、婉曲《えんきよく》に私の顔色を窺ってくださる。
しかし、その優しさをもってしても、気分の悪さは治りきらず、その後出てきた、世にもおいしそうなチョコレートスフレもデミタスコーヒーも、一口とていただくことはできなかった。
翌朝、目が覚めて驚いた。前歯が痛い。はて、どこかにぶつけたのだろうか。髪の毛をとかすと頭にひとつコブができている。もしかして、と考えて顎に手をやると、ここにも打撲の跡がある。
さてはあのとき意識を失って、大音響と共に床に倒れたに違いない。とすると、私は生まれて初めて「失神」というものを経験したことになる。それがショックかといえばそうでもなく、むしろちょっとうれしい気分がした。
昔から「失神」に対しては、一種の憧れを抱いていた。最愛の人の訃報《ふほう》を耳にして、ショックのあまりその場にくずおれる若妻、不治の病であることを隠しながら世のため人のために働き通し、とうとう力尽きてバタンとなる淑女。
「おお、すごい熱だ。お医者様を」
と、男が抱きかかえる。
たいていその次のシーンでは、清潔なベッドの中で目が覚める。
「気がついたね」
「あら、あたしったら。どうしたの。ここはどこ?」
ところが私にはこういう場面がなかった。「あら、あたしったら」とは思ったが、何の返答もなかったし、抱きかかえてくれる人もいなかった。
しかしよく考えてみると、あのとき誰もお手洗いに入って来なかったことは、不幸中の幸いだった。もし私の倒れる瞬間、前歯を便器にぶつける瞬間を目撃されていたら、恥ずかしくて一生、その恩人の顔を正視できないだろう。私の空白の数分間を知っているのは、あの便器だけ。このほうがミステリアスでいい。
祖母の遺言
渋谷の東急文化村に行ってシャガール展を観た。特にシャガールが大好きというわけでもないけれど、まあ、秋だし、たまには芸術に親しんでみよう。それくらいの軽い気持ちで出掛けていった。
絵画をどう観ようと個人の自由だと思うのだが、実際に順路の表示に従って歩を進めていくと、どうも隣の人の鑑賞ぶりが気になっていけない。人が立ち止まれば自分も立ち止まったほうがいいような気がしてくるし、たまに流れに逆らって一つの絵に固執してみると、みんなが後ろを通り過ぎていき、審美眼に自信がなくなる。小心者の私はしばし時間をかけて会場の雰囲気に馴染んでからでないと、自分のペースをつかむことができない。
概して私の絵画を鑑賞する基準は、「もしいただけるというのなら、どれがいいかしら」とか、「この配色のマフラーがあったらかわいいだろうな」とか、「あの裸婦のお腹の丸みが気に入った」などと、まことにもって高尚という言葉とは無縁である。が、どんなきっかけであろうと心に残りさえすればいいのであって、その絵のおかげで一時の幸せを感じられたなら、シャガールさんだって、クレーさんだってお怒りにはならないだろうと信じている。
しかし、こういう亜流鑑賞法は、あまり他人と分かち合わないほうが賢明かもしれない。自分の受けた印象をその場ですぐに口にして失敗したことがある。
友達と出光美術館へ行ったときのこと。一枚の小さな絵の前で我々は立ち止まった。なにという理由はないが、洒落ていると思った。彼女もしばし足を止めているところをみると、私同様、気に入ったに違いない。お互いの感想を交換したくなり、小声で話しかけた。
「いいね、この絵」
「うん」
ここでやめておけばよかったのだが、私はもう一言、付け加えてしまった。
「でも……これって、どこが頭なんだろう」
「ん? アタマ?」
友達は不可解といった表情をする。
「だってこれ、猫でしょ。スネコって書いてあるじゃない」
理解を促すために、絵の横に貼ってある題名の札を指差すと、彼女は、「ブッ」と下品に噴き出して、そのまま床に座り込んだ。
なにもそんなに大げさに笑わなくてもいいと思う。「素描」のことを「スネコ」と読み間違えただけである。
シャガールの絵に「私のおばあちゃん」という作品がある。白いエプロン姿で頭にも白いスカーフをかぶり、椅子に座って本を読んでいる頬の赤いおばあちゃんの横顔は、とても愛らしい。その隣に鎮座ましますは、犬が一匹。きっとやさしいおばあちゃんになついているのだろう。ちょっと首を傾げ、いまにも尻尾《しつぽ》を振りそうな、うれしそうな表情がよく描かれている。シャガール二十七歳のときの作品である。
その絵を観ていて、祖母を思い出した。祖父母と一緒に同じ屋根の下で暮らした経験はないが、小さい頃は母の実家である渋谷の祖父母の家にちょくちょく預けられた。学校から帰ってくると、母がよそいきの着物に着替えながら、
「今夜は会があってお父さんと出かけるから、あんたたちは渋谷のおじいちゃんの家で御飯、食べてちょうだい」
夕方から、両親が迎えに来る夜九時ごろまでの数時間を祖父母の家で過ごすのは、なかなかスリルに満ちていた。なにしろその家は、頑丈で大きな日本家屋で、使っていない部屋がいくつもあり、探検にはもってこいだった。お手洗いに行ったついでに、そおっと、奥の薄暗い四畳半を覗きに行き、実はこういう部屋の隅に、四次元世界へ抜けられる道があるのではないかなどと空想したものである。
探検に飽きると炬燵《こたつ》に足を突っ込んで、祖母に絵を描いてもらって遊んだ。
祖母は絵が上手だった。よく絵本の挿し絵をさらさらっとちり紙に描き写してみせてくれた。祖父と結婚する前は京都で画塾に通い、本格的に日本画を勉強していたという。その祖母がどういう経緯で五人の子持ちの祖父のもとへ後妻として嫁ぐことになったのか知らないが、祖母にしてみれば、もし結婚していなければ一流の画家になっていたという自負があったのだろう。
「おばあちゃん、うまいんだねえ」
感心して言うと、祖母は照れるどころか当然という顔で、
「プロやさかい」
と答えたものである。
祖母はいつも不思議な自信に満ちていた。決して身なりや性格が派手だったわけではないし、少なくとも孫の目には、いつも着物を着た、小柄でおっとりしたおばあちゃんに映っていたけれど、ときどき発する一言や行動が、周りの人間をハッとさせた。
出掛けるときはいつも祖父と仲良く手をつなぎ、孫はその後ろをトボトボ歩くことになる。もしやこの二人、大恋愛だったのかなと、半ばうらやましくなるような後ろ姿であった。
私が生まれたとき、祖母は病院へ母を見舞いに来て、いわく、「ところであんた、なんて名前にしたんえ」
母が「佐和子よ」と答えると、
「ハーン、あたしの知ってる人にな、お佐和ばあさんっていう人、いはったえ」
なにも生まれたばかりの赤ん坊の名前からおばあさんを連想しなくてもいいのにねえと、後年、母が呆《あき》れて話していたけれど、祖母にしてみれば悪気はなかったのだろう。思ったことをすぐ口にしてしまう。血が繋《つな》がっていないのだから似ているわけはないのだが、そういう気持ちは私にもよくわかる。ただ、祖母の場合、しまった、失言したという意識が一切ないところがすごい。
祖父が亡くなった後、祖母は少しずつ身体が弱って、とうとう入院した。ちょうどその頃、私は、お見合い時代の後半にさしかかっていた。
「こないだのお見合い、どうやった?」
よほど私の結婚が心残りだったのだろう。お見舞いに行くと、祖母はしきりにその話をしたがった。そのたびに私は、
「バツッ。今回も残念でしたぁー」
すると、祖母はがっかりしたような情けなさそうな顔で微笑むのである。
そして或る日、
「あんたなぁ、あんまり選り好みしてると、いまにスカつかむえ」
祖母が亡くなって九年たった。孫娘はいまだにスカすらつかめていない。
サンタのサイン
金星食というものを初めて見た。
夕方、自転車を漕《こ》いでいて、ふと空を見上げたら、きれいな三日月(正確には四日月)が出ていた。と、その月の先端にキラリと光るものがくっついているではないか。なんだありゃ。月の近くに、あんなに明るい星があったっけ。
八百屋さんの店先、お風呂屋さんの前にいる人たちが皆、集まって月を見上げている。その光景はまるで、
「あ、鳥だ」
「いや、飛行機だ」
「ちがうわ、スーパーマンよ」
という、あのテレビドラマの日本版のようなどよめきだったので、これはやっぱりただ事ではないと思い、自転車を降りて、その人だかりに近づいた。
「なんですか、あれ」
「ありゃ、金星だよ。月を横切って……ああ、もう隠れちまったけど、またしばらくしたら、反対側から現れるさ」
いつの時代にも町内の識者というのはいるもので、その物知りオジサンが何か解説を加えるたびに、周りの女子供がいっせいに、「ふーん」と、お腹の底から納得し切った声を出す。この束の間の「人類、皆、兄弟」的光景は、なかなか心暖まるものだった。
翌日、朝刊を見たら、金星食の記事が載っていて、
「小学二年生の男の子が『ダイヤが月にひっかかったみたい』と興奮していた」
とあった。ロマンチックな表現をするもんだと感心したけれど、この子は金星食がなんであるか知った上で、こう答えたのだろうか。なぜ起こるかという原理を理解した前と後では、感想がずいぶん異なると思う。摩訶不思議な現象を目の当たりにしたときに、「えー、まさか。どうして」と感動し、人間はさまざまな空想をめぐらせることができる。しかし、そのタネを明かされたとたんに、表現力は乏しくなってしまう。
「ダイヤが月にひっかかったみたい」と興奮した小学二年生も、金星食について理科の時間に習った後だったら、きっと、「百年に二、三回というめずらしい現象を見られて、うれしかった」程度のコメントになっていたかもしれない。
いったい金星食も月食も虹も蜃気楼《しんきろう》も、その原理が解明されていない時代に初めて見た人々の感動の一言というのは、どんなだっただろう。
「ほら、ごらん。僕の君に対する思いが天に届いたんだ。月が僕たちを祝福して、あんなに美しいダイヤをプレゼントしてくれているじゃないか」
原理を知らなきゃ、
「まあ、ステキ。あたし、幸せよ」
と二人の愛はさらに盛り上がるけれど、「何言ってんの。あれは金星食じゃない。アンタ、知らないの? 無知ねえ」では、まとまるものもまとまらなくなる。
これだけ情報過多の時代に生まれ育った子供は、さぞや「不思議なもの」が少なくなっているだろうと思うのに、ことサンタクロースについては、意外に大きくなるまで信じているらしい。
ある人のうちでは、イブの夜、家族みんなでサンタさんの来るのを待つそうだ。
「まだかなあ」
子供はなんとか直接会ってみたいと願うから、なかなか寝床につこうとしない。
「ほんとねえ。でも、もう間もなくいらっしゃるんじゃないかしら」
親も子供に話を合わせて待っている。と、ちょっと子供が部屋から出ていった隙に、母親が大急ぎでテーブルの上にティーカップを並べる。お父さんの分、お母さんの分、子供の分、そして、もうひとつ用意して、なかに少しだけ紅茶を入れておき、いかにも飲み残しのように見せかけておく。
そこへ子供が戻ってくると、
「まあ、なにしてたの。今、サンタさんがいらしてたのに。一杯だけ紅茶を召し上がって帰ってしまわれたのよ」
「はい、これサンタさんからのプレゼントだよ。おまえによろしくって」
この話、微笑ましくて好きなのだけれど、親の身になってみると楽じゃない。毎年、同じようなことを繰り返すうちに子供だって薄々感じるようになるだろうから、手を替え品を替えて策を弄《ろう》さなければならない。もっとも子供としても「怪しいな」とは思うものの、「実は知っているんです」なんて告白してしまうと翌年からプレゼントが一つ減ることを承知している。で、ここは素直にだまされ続けているほうがよいと、子の心、親知らずということも考えられる。
私が小さい頃に我が家でサンタクロース・セレモニーがあったかどうか、いくら考えてもはっきりと思い出せない。小学校一、二年生の頃、朝起きたら枕元に不二家のお菓子入り銀のブーツが置いてあったという記憶はあるけれど、それがサンタクロースからのプレゼントだと、はたしてきちんと伝えられたかどうか。それに、テレビで、「昔、ある町に偉い人がいて、雪の降る晩に、貧しい人々の家の窓べに金貨を一枚ずつ置いていった。その人は『セント・ニコラス』と呼ばれていた。これがサンタクロースの由来である」とかなんとかいう影絵を見て、赤い衣装のサンタクロースが作り話であると、だいぶ早いうちから納得していた。
が、我が家でも末っ子となると、親の扱いが変わるもので、下の弟をだますのには、毎年、家族揃ってずいぶん苦労させられた。
ある年のクリスマスに、両親と末の弟の三人でハワイへ行ったことがある。当時、弟は小学校の一年生だった。父はさっそく弟に見つからないようにして買い物に行き、サンタさんのプレゼントを用意した。
朝、目が覚めた弟は、枕元にホノルルのデパートの紙袋を発見(ここで、まず変だと思ったと、のちの弟の証言である)。中を開けてみるとサンダーバードの人形とともに、ペラリと一枚の紙が出てきた。「ありぃ?」と思ってよく見ると、そこにはどうも見覚えのある字が書かれている。
「ねえ、ちょっとここに英語でサインしてみて」
父は息子が急になにを言い出したのか深く考えもせず、「ほいよ」とメモ用紙に自分のサインをしたそうだ。
弟が、父のサインと袋から出したクレジットカードの受取りをまじまじと見比べながら、
「似てるなあ。ヒロユキ・アガワって書いてある」
と、首を傾げている様子を見て、父はギクッとしたそうだ。
師走の決断
とうとうこの連載も今年最後の回を迎えることになった。
思えば去年の今頃は、毎晩、夜中にうなされた。原稿の締め切りが迫っていたからではない。この連載をお引き受けするかどうか決心がつきかねていた段階で、「ああ、どうしよう。書けない、間に合わない」と泣いている夢を見て、恐怖のあまり何度も目が覚めた。こんな怖い思いを一年間も続ける自信がない。でも、自信がないから書かないと言ったら、女がすたるだろうか。
悩みながら週末、横浜の親の家に戻ると、玄関に着くなり父が聞く。
「おい、どうした。引き受けることにしたか」
その頃、父は私の顔を見るたびに同じ質問をした。
「まだきちんとはご返事してないけど」
「週一回ってのは楽じゃないぜ。そりゃ、辛いぞ、おまえ」
そう言うわりには、妙にウキウキしている父の様子は、いったい何なのか。書いてみろ、そうすれば父親の苦労が身にしみるだろう、と言いたげにも見えるし、週刊誌の連載なんぞというたいそうな仕事の依頼が娘にあったことを喜んでいるふうにも受け取れる。
浮かぬ顔で父の横を通り抜け、洗面所へ手を洗いに行くと、隣室で父がまた、なにか叫んでいる。
「えー? なーに。聞こえない」
水道の水を止めて耳をすます。
「辛いと思うなら無理して引き受けなくてもいいんだぞ。おまえ自身の問題だ。好きなように判断しなさい」
タオルで手を拭きながらハッとした。このやりとり、この場面。確かに経験した覚えがある。
娘、帰宅。待ち構えたかのように父親、玄関で、「おい、どうだった」
「いえ、まだなんとも……」
娘、洗面所で手を洗う。と、父親、居間から叫ぶ。
「いやなら何も無理して付き合うことはない。おまえ自身の問題だ。好きなように判断しなさい」
まったく、そっくりではないか。あの遠い昔の、お見合いの日の夜と。
子供の頃、お寿司屋さんへ連れていってもらうと、特別大人びた気分がしたものだ。子供だてらにカウンターに座る。兄と私以外、店のお客は大人ばかりである。なかにはすでに出来上がっている紳士もいて、その頃、私は酔っ払いが怖くてしかたがなかったから、なるべくそちらの方向には目を向けないようにした。
「へい、なんにします」
カウンターのなかから威勢のいい声でおにいさんが叫ぶ。
「好きなものを頼んでいいよ」
父の許可が出ると、真っ先に注文するのは兄だった。
「じゃ、僕、まぐろ」
次は私の番である。目の前のガラスケースに並ぶ幾種類もの魚を睨んで、迷って、焦って、結局、
「じゃ、あたしも」
我は強いが気は小さい。決めかねるときは兄に従うのがいちばん間違いない。ようやく最後に、これだけはと思う大好物を頼んでみる。
「あのー、ウニ、ください」
「ほほう、お嬢ちゃん、さすがだねえ。高いもんを知ってるねえ」
高いから食べたいわけではないのだが、そう言われると、子供のくせに生意気だと思われたかと心配になり、母親の顔を覗く。
「いいけど、よく食べるわねえ」
兄と違うものを一つ主張しただけで、まわりから色々と言われるのが辛い。やっぱり人に倣《なら》っているほうが楽でいいと悟ったのは、その頃だったようである。
「だから、日本人は個性がないのです」
番組でパリ・ファッションを取り上げたとき、パリに住むファッション評論家の方がおっしゃった。
「パリの女性は、ファッションだけでなく、生き方でも意見でも、他人と同じというのは嫌いです」
海外からの厳しい批判を聞くたびに、まさに自分のことだと身の縮む思いがする。
謙虚なわけではない。優柔不断なだけである。他人に頼らず自分ひとりで決断しようという勇気が欠けている。
「好きなものは何ですか」という問いに、即座に答えられる人がうらやましい。
「あなたはズボンとスカートではどちらが好きですか」
師走《しわす》の町を歩きながら、その人は私に質問した。暮れも押し迫った日曜日、二度目のデートでのできごとだった。海外勤務なので、クリスマス休みの一時帰国を利用する以外、会うチャンスがないという。あたふたと話が進み、急遽《きゆうきよ》、お見合いの日取りが設定された。最初の日は気取ってドレッシーな恰好をしていったが、どうも借り着のようで落ち着かない。余裕がないので二日後にもう一度会いたいと言われ、「はい」と、か細く返事をしながら、頬が紅潮した。
こりゃ今度こそ、まとまるかもしれない。となれば、早く私のことを理解してもらった方がいい。そう思って、いつも着慣れたコールテンのズボンで出掛けていったところ、質問された。
「そうですねえ、圧倒的にズボンですね。スカートは似合わないんで」
「そうですか」
しばらく黙っていると、
「あなたは気取らないレストランと気取ったレストランとどちらが好きですか」
「そりゃ、気取らないほうがいいです」
「そうですか……休みの日はなにをしていますか」
「ゴロゴロしています」
「趣味はなんですか」
「寝ることです」
他力本願の「あたしも」でいるわけにはいかないと決意していた私は、めずらしくはっきりとした口調で答え、ついでに、東京に戻ったのは数年ぶりというその人を、気に入りのレストランに半ば強引に案内した。
家に戻ると、家族がいっせいに玄関に集まってきた。「どうだった?」
私は照れ笑いをしながら、
「さあ、どうだろね」
そして数日後、相手の返事が伝えられてきた。
「今回はご縁がなかったことに……」
趣味、考え方が異なるからだという。
そういえば、別れ際にその人は、
「色々、聞いてみるもんですねえ」
と言っていた。その言葉の裏に、「僕とまったく違うんだなあ」という意味が隠されていようとは、思いもよらなかった。
初出誌  週刊文春』平成一年一月五日号
〜平成二年二月八日号
単行本  平成二年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年七月十日刊