阿刀田 高
霧のレクイエム
目 次
病 葉
港 町
転 落
車 窓
不 在
地 図
海 路
秋 冷
病《わくら》 葉《ば》
洋子は夜半すぎに目をさまし、カーテンを細く開けて窓の外を見た。東京にはめずらしく濃い霧が白くたちこめている。街灯がぼんやりと光の輪を広げていた。まるで絵本の挿《さ》し絵みたいな風景……。
「霧が好き」
パジャマの襟をあわせながらつぶやいた。
塀のかげにだれかが立っている……。
はっきりとは姿が見えない。見まちがいかしら。人間ではないのかもしれない。たとえば木の影。霧の夜にはそんな不確かなイメージがあって好ましい。
それがそのまま夢の中に移った。
仁科《にしな》洋子。三十一歳。井《い》の頭《かしら》公園に近いマンションに一人で暮らしている。新築の2LDK。リビングルームが広めに作られている。中間色を使った内装が美しい。
このマンションを入手したのは、ほんの二週間前。ひとめ見たときから気に入ったが、住んでみてますます好きになった。間取りも、外の景色も、押入れの造りまでもが洋子の趣味に適《かな》っている。住居と住む人のあいだにも相性がある。なんによらず洋子は、相性のようなものを信ずるほうだった。好きなものは初めから好き。厭《いや》なものは初めから厭。嫌いなものが少しずつ好きになったりはしない。好きなものがだんだん嫌いになることも少ない。
――一生ここに住もう――
両親はすでにないし、あまり親しくもない兄が仙台にいるだけだ。マンションに何日か住んでみて、そのことを堅く心に決めた。
新しく購入したセミダブルのベッドも、ほどよい堅さでここちよい。夢の中にも霧がたちこめていた。まっ白い、ねばりつくような濃い霧……。そのむこうに黒い人影が立っている。
――だれかしら――
右腕を伸ばし、指をピストルの形にしてその人影を撃《う》った。
轟音《ごうおん》が響き、音が霧に吸いこまれていくのがわかった。肩に激しい衝撃を感じた。黒い影がゆっくりと倒れた。
黒いコートの男だと思ったが、その実、大きな鼠《ねずみ》らしい。いや、やっぱり人間なのかもしれない。
目を開けると、右腕のあちこちに奇妙な現実感が感じられる。毛布から手を出してピストルの形を作ってみた。天井の片すみを狙った。
「バーン」
子どもみたいに声をあげて叫んでみた。
ピストルなんて撃ったことはもちろん、実物を見たこともない。ゆっくりと記憶をたどってみた。
――でも本当にそうなのかしら――
仁科洋子はベッドの中で指をピストルの形に保ったまま首を傾げた。不思議なほどちかしい感触が、体の中に潜んでいる。それがかすかに感じられる。
たとえば、生まれて来る前の、過去の世界で……。脳味噌は、そんな記憶を心のどこかに隠しているのかもしれない。これも洋子が好んで描く想像の一つである。
――昔、だれかを撃ったのかしら――
指のあたりに意識が残っている。そんな気がする。
「ミャー」
と、ベッドの下でアミイが鳴いた。洋子が目ざめているのに気づいたのだろう。声の調子がいつもとちがっている。なにかを訴えている。尻尾《しつぽ》を立て、鳴きながらキッチンのほうへ歩いて行く。そして、また戻って来て洋子を見あげる。
「どうしたの?」
アミイは、ごく平凡な日本猫。顔と背中にぶちがある。模様四割、白毛六割。背中のぶちは、下半身を包むように広がっているので、腰布団と名づけて呼んでいる。器量もスタイルもわるくない。
時計を見ると八時をまわっている。勤めに出ていたころの習慣がまだ残っているらしく、そう遅くまでは眠っていられない。
洋子は二ヵ月前まで製薬会社の研究所に勤めていた。厭《いや》な上司がいて、やめてしまった。男性ならこうはいかない。今の世の中では女性のほうがかえって自由に生きられるんじゃないかしら。
もちろん薬剤師の免状を持っている。この資格は、川崎の薬屋さんに貸してあって毎月なにほどかの収入になる。ほかに獣医の資格……。
――私って勉強が嫌いじゃないから――
大学の雰囲気が好きだった。どうせ一人で生きることになるだろうと、少女のころから漠然とした予測があって、生きるための技術を身につけた。父はそれだけを洋子に残して死んでしまった。あ、それからもう一つ、小さな貸しアパート。これは三鷹にある。贅沢《ぜいたく》をしなければ、なんとか暮らしていけるだろう。今は週に二度だけ知人の経営する犬猫病院へ行っている。月曜日と木曜日。
今日は土曜日。つまり休日。洗濯物が少し溜《たま》っている。
「どうしたのよォ」
ベッドを降りるとアミイがまとわりつく。
キッチンへ向かいながらカーテンをつぎつぎに開けた。朝の日射しが転げるようにさしこむ。みごとな晴天。どの季節の太陽もすばらしいが、秋の光はとくに美しい。
――昨夜が霧だったから――
霧のあとはどうしてよく晴れるのかな。昔、理科の授業で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。ただ霧と靄《もや》とのちがいだけはしっかりと覚えている。一キロより遠くまで風景が見えるのが靄、見えないのが霧……。理科は洋子の得意な学科だった。
「なによ、あんた。朝から騒いで」
アミイはご主人に知らせたいことがあるらしい。洋子の様子をうかがいながら「ミャー、ミャー」と鳴く。そして行きつ戻りつしている。
「あら、大成功じゃないの」
キッチンに入ったとたんにアミイの騒ぐ理由がわかった。
壁ぞいのすみに黒いものが転がっている。尻尾を長く伸ばして死んでいる。アミイは首の毛を逆立て、近づこうともしない。
「これが鼠よ。あんた駄目ねえ。猫のくせに」
死骸《しがい》のそばに押してやると、アミイはうしろに跳んで逃げる。体を低くして身がまえる。
新築のマンションは、その前までなにが建っていたのだろうか。引越して来て鼠がいるらしいと気がついた。油断をしていると、文字通り鼠算の適用となる。近ごろの猫はまるっきり頼りにならない。鼠捕りの能力は本能ではなく学習に属するものらしい。
洋子は製薬会社の研究所で、ずっと殺鼠《さつそ》剤や殺虫剤の研究を担当していた。動物たちは嗅覚《きゆうかく》や味覚が鋭い。あやしいものには近づかない。そのあたりに苦心がある。まだ開発中の薬をドーナツの中に入れておいたら、みごと古鼠がひっかかった。尻尾の長いのは年をくっている証拠である。
「チャコなんかものすごく上手だったわよ、鼠捕りが」
チャコは洋子が子どものころに家で飼っていた黒猫である。モットーは自給自足の経済。わが家のみならず向こう三軒両隣の鼠まで捕って食べていた。
そんな猫のことなどアミイは知るはずもない。比較されるのはさぞかし迷惑なことだろう。だが洋子はことごとにそれを言う。
「鼠がネ、電線を伝ってたことがあったの。チャコは下からそれを見つけてキッとにらんだら、それだけで鼠がポトンと落ちて来たのよ。すごいんだから」
あれはまったく鍛錬を積んだ武芸者のような技だった。
「まあ、いいわよね。鼠なんか食べられたら不潔でかなわないもの」
昔の人はよく許していたものだ。
洋子はビニール袋を二枚重ね、キッチンのすみに転がっている鼠の死骸を中に入れた。目を開けたまま死んでいる。まなざしはあどけない。
――かわいそう――
とは思わない。鼠は有害動物だから……。
こうした判断の背後に矛盾が含まれていることは、洋子自身よく知っている。獣医学を勉強すれば、厭でもその疑問に直面してしまう。なぜ犬や猫はペットとして人間にかわいがられるのか。なぜ鼠や蛇は迫害されなければいけないのか。キリスト教の教えによれば……たしか牛や豚は人間に食べられるためにこの世に生を受けたのだとか。
――みんな人間の身勝手――
動物のほうに理由のあることではない。
――でも、それでいいのよ――
洋子は自分でも不思議に思うほど達観している。アミイをかわいがるのは、アミイが自分にとって好ましい存在だから。つまり感覚的に好きだから。かわいいから。鼠を憎むのは、感覚的に好きになれないから。厭だから……。動物だけじゃない。人間についても、同じような区分がある。好きな人と嫌いな人と。
――私って冷たいのかしら――
嫌いな人を見て、
――この人、死んでくれないかな――
と、そう思う瞬間がなくもない。むしろ、しばしばあると言ったほうがいいくらい……。
案外、世間の人はみんなそう思っているのかもしれない。ただ、そのことをあからさまにしては抵抗が大きすぎる。人間性を疑われる。自分が生きにくくなる。みんな口を鎖《とざ》して善意の仮面をかぶっているのだろう。
鼠の死骸は、さらに頑丈な袋に入れ、ビニール・テープでしっかりと閉じて、ごみバケツに捨てた。
ステレオのスウィッチを入れる。ビートルズの曲。
――やっぱり天才ね。ほかにこんな人たち、いないもの――
つくづくそう思う。
窓を開けた。風と光と、それから少し黄ばんだ公園の風景が飛びこんで来る。本当にこのマンションはすばらしい。トーストとコーヒーの朝食を用意していると、電話のベルが鳴った。
「はい」
洋子は受話器を取って答えた。
「もし、もし。仁科さん? 二宮です」
声で春美とわかった。
洋子には友だちが少ない。人と親しくつきあうのは、楽しいときもあるが、わずらわしいことも多い。その中では二宮春美が一番親しい友人だろう。
「早いわね」
「早いほうが家にいるだろうと思って。起きてたんでしょう」
「もちろん。でも今、朝御飯」
「いいわね。相変らず優雅で。どう、新居のぐあいは?」
春美は結婚して、今は二児の母親。昔は結構とんでいる女≠セったけれど、このごろはすっかり月並になってしまった。
「最高。こんなに気分にピッタリする家って、ないんじゃないかしら」
「へーえ、いいわね。じゃあ、軽井沢なんかいいのかしら」
春美は軽井沢に小さな別荘を持っている。敷地も狭く、山小屋程度の造りだが、場所はわるくない。旧軽井沢から碓氷峠の見晴台へ行く途中。洋子は紅葉の季節にいつもそこを借りて二、三日滞在していた。
「ええ。でも、やっぱり行きたいわね」
目の中に赤と黄と緑の三色が映る。木の匂《にお》いまでもが薫って来る。
「じゃあね、来週の前半。急でわるいけど」
「本当にいいの?」
「ええ、どうぞ。毎度のことじゃない。遠慮しないで。どうせウィークデイは私たち行けないもの。でも、来週の終りから再来週にかけては、ほかの人に頼まれちゃって……」
「じゃあ、そうするわ。ありがとう」
頭の中ですばやく計画を立てた。アミイを連れて二泊三日の旅。アミイは旅慣れている。二、三時間くらいならバスケットの中でおとなしくしている。
秋たけなわの軽井沢を散策している自分の姿が脳裏に映った。
――なにかよいことが起きるわ――
突然そんな予感に襲われ、それがわけもなく確かなことのように感じられる。
――軽井沢へは絶対に行かなければならない――
と思った。
「もう本当にいたずらで困るの」
電話の声がしかめっつらを作っている。春美の話題はもっぱら子どものことだ。洋子はどう相槌《あいづち》を打っていいかわからない。はっきり言って子どもはあまり好きじゃない。ましてほとんど知らない子どものことなんか……。
「ええ」
「幼稚園のうちはまだいいけど、なんだかおつむのほうはたいしたことなさそうだし」
「そんなことないんじゃない」
アミイが長電話に不服があるみたいに「ニャー」と鳴く。やきもちをやいているのだ。
「あら、猫ちゃん、元気?」
「うん。新しい家に移って、もう慣れたみたい」
「猫は家につき、犬は人につくって言うけれどね」
「アミイは人間ぽいから、わりと適応性があるみたいね。でも、わがままに育ててるから、態度がわるいの」
「ペットは飼い主より先に死ぬからいいわよ。どんなに甘やかして育ててもサ。うちの主人が言うのよ。人間の子は親が死んだあとも自力で生きていかなきゃいけないから、ペットとちがう。きつく育てなきゃ駄目だって」
話はまた子育てに戻る。
「じゃあ、夕方にでも鍵《かぎ》を借りに行きますから」
と洋子が電話を切りかけると、
「ええ、そうして。あ、そう、突然だけど、あなた、結婚しない? いいかたがいるんだけど」
と、鉾先《ほこさき》が変った。案外これが目的で春美は電話をかけてよこしたのかもしれない。
「いらないわ」
声がとげとげしくなる。結婚を否定しているわけではないが、少なくとも春美の世話になって相手を見つけようとは思わない。
「なぜ」
と聞かれても困ってしまう。
「方角がわるい」などと言ったら、笑われてしまうだろうし……。
方角はともかく、大きな決断をする前には、あらかじめ前兆のようなものが心の中にふくらんで来る。ほかの人のことはわからない。洋子はいつもそうだった。それを信じている。信じていれば、よいことが起きる。ちがうかしら。
ガタン。
頭の上で床に腰をおろすような音が響いた。すぐ上の部屋から……。三日前に入居者があった。時折、あらあらしい音が落ちて来る。わるい兆候ではないのかしら。
「じゃあ、またあとで。鍵を取りに行くわ」
話題を変えた。
「何時ごろ?」
「五時くらいかしら」
「家にいなかったら牛乳箱の中を見て。紙に包んでびんの中へ入れとく」
「わかった。お願いするわ」
「さよなら」
受話器を置いた。
トーストを片手に持ったまま本棚から列車時刻表を抜いた。時刻表の隣には文庫本が四、五冊。その隣にはこのところ愛読している星占いの本がさしこんである。洋子は、さそり座の女。星占いによれば転居はとてもよいことです≠セった。これは当たったらしい。旅行もたしかわるくないはずである。恋愛は……今年から来年にかけて。忍耐が必要でしょう≠ニ記してあった。
――馬鹿《ばか》らしい――
とも思う。たかが五百円か千円の本で、複雑な運勢がわかるはずもない。
だが、ここにも相性がある。一生続くことかどうかわからない。体験的に言って、ある一時期、ある星占いの示唆《しさ》と、自分の運勢とが、とてもよく一致するときがある。狂いだしたら、もうまったく当てにならない。
「あなた、科学者のはしくれのくせして、占いなんか信じてるのね」
と春美は笑うけれど、科学で説明できないことはたくさんある。それに……この種の神秘性は洋子の好みにとてもよく適っている。
――どこかに強大な宇宙の意志のようなものがあって、それが一人一人の人間を動かしている。ちょうどゲームの駒《こま》を動かすみたいに――
それが、サッと垣間見えるときがある……。星占いが好きなのはロマンチックだから。
――きれいな星空が見られるかしら――
東京に空がないかどうかはともかく、星空がないのは本当だ。何年も美しい星空を見たことがない。
時刻表を開いて軽井沢行きの最終列車を調べた。二十一時一分上野発。その前が二十時ちょうどの出発。月曜日の夜に出かけて水曜日、遅く帰って来よう。問題は猫のアミイだが、勤務が終ってから連れに帰っても間にあうだろう。
「なーに?」
アミイが上を見あげると、またドーンと音が上から響いて来る。棚の上のこけしが倒れた。
「どういう人なのかしら」
洋子も眉《まゆ》をしかめて天井をにらんだ。真上の部屋は六〇七号室。表札には、たしか鈴木≠ニ記してあった。このマンションは上下にもろい構造になっているのかもしれない。それにしてもやけに荒々しい足音が落ちて来る。
――わざとやっているんじゃないのかしら――
そんな気配さえある。そう言えば、昨日の夕方、どこかの奥さんが管理人室の前で「ちょっと変った人みたい」とつぶやいていた。あれは六〇七号室のことらしかった。
――よりによって、そんな人がすぐ上の部屋に来るなんて――
洋子としては、ここが百パーセント満足のいく住居だと思っていたのに……。アミイもひんぱんに視線を上に送っている。
「あ、いけない」
今日はごみの日。一階の屋外にマンションのごみ置き場がある。火木土の九時までに出すように言われている。洋子はビニール袋に家中のごみを詰めこみ、
「よいしょ」
と運び出した。「よいしょ」と言うのは老化現象の始めなんだとか。厭だわ。
「アミイ、遊びに行ってらっしゃい。ガール・フレンドできたの?」
このマンションは、小さなペットなら飼ってよいことになっている。ベランダに面した壁にはペットが出入りできるように、ばねつきの狭いドアまで作りつけてある。こんなマンションはめずらしい。アミイはすぐにこの出入口の利用法を覚えた。賢い猫なのよ。
そこからベランダに出て、どこへ遊びに行くのかしら。外に遊びに出て行っても、洋子が帰る時間を計って戻って来る。ペット・フードで満足しているし……ほとんど手間はかからない。かわいがりたいときにかわいがってやればそれでいい。
――こんな夫ならいいわね――
四六時中ベタベタしているのは、わずらわしい。自由がなくなってしまう。
一階までごみ袋を運び、エレベーターに乗り込むと、
「待った」
低い声が聞こえ、男が走り込んできた。
「おはようございます」
洋子が声をかけたが、男は目の端でチラッと見ただけ。髭《ひげ》がのびている。頬骨《ほおぼね》が張り出し、鼻が鉤《かぎ》を作っている。黄ばんだ目の色が、あまりよい感じではない。キクンと洋子の胸が鳴った。
エレベーターはすぐに動き出し、まず五階で止まった。洋子が外に出る。
「ふっ」
男は背後で笑ったのではあるまいか。
ドアが閉じるのを待って洋子は振り返り、表示盤を見た。エレベーターはすぐ上の階で止まった。
洋子が部屋のドアを開けたとき、すぐ頭の上でガタンとドアが閉じたように聞こえた。
――あの人なのかしら、六〇七号室――
どうもそうらしい。天井を見つめながらリビングルームのソファに腰をおろした。動悸《どうき》が弾んでいる。深呼吸をしてから、たったいま見た顔を思い出してみた。
はっきりと見たわけではない。だからイメージは鮮明とは言えない。とにかく厭な感じだった。ねっとりとねばりつくような視線だった。ぶしつけな目つきだった。二人だけでエレベーターの中にいるのが、ひどく息苦しかった。衣服を脱がされ、裸を見られているような感じさえした。
――変ね――
ちょっと猫背で、背が高い。目鼻のあたりの特徴だけがよく残っている。
「そんなはずないでしょ」
独りつぶやきながら立ち上がってバスルームに入った。シャワーの温度をたしかめ、お湯を流したまま衣服を脱いだ。
顔を上に向け、土砂降りの雨を受けるように全身にお湯を注いだ。髪を洗い、愛用の香水と同じ匂いの石けんで体を洗った。バスタオルで髪を拭《ぬぐ》いながら鏡の前に立つ。
わるいプロポーションではない。細身の体にまるく豊満な乳房が突き出している。ウエストはくっきりとくびれている。両の掌で乳房を持ちあげた。柔かい質量感が好ましい。
「ナルシストちゃんね」
と鏡の中の自分につぶやいてみた。
でも、ナルシストでない人なんているのかしら。洋子は自分の容姿が嫌いではない。欲を言えばきりがないけれど、まあまあの器量。五段階評価で四くらいはもらえるだろう。五に近い四ではないかしら。
バスタオルの端で濡《ぬ》れた恥毛を拭った。
――あの男――
エレベーターで見た顔がちらつく。目鼻立ちを覚えているのがいまわしい。
――前に一度見た顔だから――
それを否定するように首を振った。
仁科洋子はドライヤーを使いながら記憶をたぐった。
――もう六年たつんだわ――
もっと古い出来事のような気がする。自分に起きたことでありながら、現実感のとぼしいところがある。恐ろしすぎて、本当のこととは思いたくなかった。忘れようと努力もした。
まだ薬学科の学生だったころ……。油壺に近いホテル。ホテルと言ってもモルタル造りの二階屋。ベランダのすぐ脇《わき》に夾竹桃《きようちくとう》の喬木《きようぼく》が立っていた。
海には秋の気配が漂い始めていた。海水浴場から少し離れているので宿泊客の数も少ない。砂利道が白く延び、その道にもめったに人影を見ない。時折、褐色の土ぼこりが立っている。車が通り去ったあとなのだろう。そんな風景だけが、はっきりと目の奥に残っている。
クラスメートの映子と一緒に行ったのだが、彼女は一日だけ金沢文庫に住む親戚《しんせき》の家へ行かなければいけない。
「ごめんなさいね。顔だけ出せばいいのよ」
「うん。ごゆっくり」
残された洋子は昼近くまで人気ない海辺を歩いた。サンダルを脱ぎ、波打ち際に足先を浸して貝を捜した。さくら貝は人魚の爪《つめ》……。拾った貝を海に戻し、菓子パンとインスタント・コーヒーで昼食をすませた。
一人で泳ぎに行ってもつまらない。午後の日射しは散歩には強すぎる。部屋にはカタカタと音をたてる旧式のクーラーがあって、音さえ気にしなければ快適である。ベッドに寝転がり、そのまま眠った。
目をさましたのは、物音のせいだったろうか。
――ちがう――
なにかがちがっていた。
すぐに情況をさとった。恐怖が全身を走り抜ける。声を出すこともできない。
男がベッドの脇に立っている。浅黒い下半身がむき出しになっていた。
男はくぐもった声でなにかを言い、洋子の上におおいかぶさって来た。
――殺されるかもしれない――
なにも考えることができない。考えたのは、ただ、ただ、
――こんなところで死んだらつまらない――
それだけだったんじゃないかしら。
ホテルの中はひっそりとして、声をあげても人が来てくれるかどうか。その前に殺されてしまうかもしれない。
「乱暴しないで」
震える声で願った。夏の衣裳《いしよう》は簡単に破かれた。
ずっと目を閉じていた。クーラーだけが、いつもの午後と同じようにカタカタと鳴っていた。
男の体が重くなった。だが、それも短い時間だったろう。
男は身を起こし、小走りに部屋を横切り、ベランダから夾竹桃の幹に移った。あとはバタンと裏木戸を閉じる音が聞こえた。洋子はベッドからよろけるように降りて、ベランダに続くガラス戸の鍵をしめた。カーテンを引いた。へなへなと腰から崩れた。
体が震えている。男に組み敷かれていたときよりも、かえって震えが激しい。さっきは震えるゆとりさえなかったのかもしれない。
――よかった――
とにかく殺されなかったのだから。だれも見ていなかったのだから……。
空気がなまぐさい。男の匂いが染みこんでいる。新しいワンピースと下着をかかえて、シャワールームに走った。
相変らず人の気配はない。シャワーのお湯に勢いのないのがもどかしい。石けんで何度も何度も体を洗った。それでも異質の汗の匂いがまとわりついている。
――どんな男だったろう――
目を閉じていた。ほとんどなにも見なかった。だが、部分的にははっきり覚えているところがある。目ざめた直後の夢の記憶みたいに、ひどく鮮明な部分がある。
年齢は……わからない。若くはなかった。しかし、四十は越えてはいなかっただろう。鼻がわし鼻だった。
――鼻の特徴だけで犯人をつかまえることができるかもしれない――
でも騒ぎたててみて、なにかいいことがあるのかしら。午後いっぱい洋子はそのことを思い続けた。次第にくやしさが募《つの》って来る。身震いをしたくなるほど激しい嫌悪感に襲われた。
――あんな男に……。殺してやりたい――
だが、どこか稀薄《きはく》な部分がある。激しい憎悪とはべつに、
――本当にあったことなのかしら――
と、まるごと否定してしまいたいような意識もあった。
昼さがりのひととき、風のように通り過ぎて行った魔の時間だった。だれも知らない。なかったと思えば、なかったことになる……。目を閉じると、黒い背景の中に男の顔がある。黄ばんだ、いやしい目の色と、く≠フ字に歪《ゆが》んだわし鼻がある。
映子は夕食前に帰って来た。
「無事だった?」
「ええ、まあ。クーラーがうるさいの。部屋を替えてもらいましょうよ」
翌日、なにごともなかったように海で遊んで、洋子は東京へ帰った。
エレベーターの中で六〇七号室に住む男を見たとき、洋子はとっさに六年前の出来事を思い出した。
――似ている――
今となっては、いまわしい男の顔もほとんど記憶から消えているというのに……。
わし鼻。黄色いまなざし、背かっこう……。そんなことよりも気配が似ている。肌で感ずる印象が似ている。
――盲目の人はこんな感覚を信ずるのね、きっと――
目で見たことだけが確実というわけではあるまい。盲目の人は、なにも見なくても、
――ああ、この人はいつか会った人――
と、的確に判断すると言うではないか。直接には声が手がかりになるだろうが、それだけではないような気もする。たとえば、人間全体が発する気配のようなもの。エレベーターの中で見たとたん、ほとんど忘れかけていたことを思い出したのは、どこかに共通なものがあったから。ちがうかしら。
突然、冷たいものが頭の中を走り抜けた。
恐怖に似ているが、恐怖とも少しちがう。恐怖の前ぶれなのかもしれない。
――忘れていたわ――
記憶の構造はよくわからない。頭によく残るものと、残りにくいものとがある。そのことは、油壺のホテルで男に襲われたあとも、忘れていた。もし犯人を捜すとなれば、とても大切なことなのに、洋子はそれを思い出せなかった。潜在意識が初めから犯人を捜すことを拒否していたのかしら。拒否するあまり大事な手がかりを洋子の脳味噌からかき消そうとしていたのかもしれない。
しばらくあとになって気がついた。男の手首に豆つぶほどの赤黒いあざがあった……。大きなほくろかもしれない。右の手か、左の手か、それもよくわからない。男が洋子の頭を押さえ、洋子が首を振って、ふりほどこうとしたとき、手首の骨のふくらみの脇にそれがあった。
――多分、右手。左手かもしれないけど――
確信は持てないが、とにかくどちらかの手首に印があったのは、まちがいない。もう色も形も記憶は薄くなってしまったが、ないものを見たはずがない。
恐ろしいのは、そのことだ。六〇七号室の男は、どうかしら。もし赤黒い印を見つけたら……きっと恐怖が舞い戻って来る。新しい恐怖といったほうがよいかもしれない。
「厭っ」
洋子は小さく叫んだ。
もし、一つ上の階に住む男の手首に、赤黒いあざを見つけたら洋子はずいぶん驚くだろう。
――六年ぶりで憎い男にめぐりあうなんて――
そんな偶然はあるものだろうか。場所も油壺から東京の三鷹市に変っている。ほとんどありえない……。
――でも皆無とは言えないわ――
男はエレベーターの中でなにかを思い出すみたいにフッと笑っていた。とても厭な感じ、意味ありげな笑いだった。
――気づいたのかしら――
もしそうなら厄介なことになりかねない。
わるいのはむこうのほうだが、あんな男、なにをやりだすかわからない。すでに厭がらせが始まっているのかもしれない。洋子の反応をさぐろうとして。
赤黒いあざを見たいような、見たくないような……。
男の生活は、注意して調べたわけではないけれど、サラリーマンではないらしい。朝が遅い。留守のときも多いし、夜通し起きているようなときもある。天井の響きぐあいから見当がつく。
――なんであんな男がいるのかしら――
そう思ったのは、ここは安アパートではないのだから。
超高級と呼ぶほどではないにしても、マンションとしては上の中≠ゥ上の下≠ュらい。しかも新築。賃貸はなく、全部持ち主が買って住んでいるはずである。洋子自身は、父からもらった株券を売り、貯金をはたき、相当の借金をしてようやく入手したものだ。少なくとも十年や二十年、快適に暮らそうと思って、充分に吟味したうえで買った部屋である。そして、このうえなく気に入っている。簡単には引越すわけにはいかない。
「絶対に厭よ」
天井に向かってつぶやいた。
人相のわるい男が住むようなところじゃない。人相がわるいからといって、お金を持っていないわけではないけれど……。考えるだけで腹立たしい。
急に死んでくれないかしら――
そんなことまで考えてしまう。
昼近くに足音が消えた。耳を澄ましても、なにも聞こえない。
午後になって、だれかがドアを叩《たた》く。ドアチェーンをかけたままのぞくと、
「こんにちは」
黒い帽子が見えて、宮地昇が顔を出した。
この男はモラトリアム青年。大学を出たのにブラブラしている。演劇がやりたいらしい。目下のところは便利屋稼業。一人暮らしの洋子には重宝な存在である。
宮地昇の故郷は青森県の五所《ごしよ》川原《がわら》と聞いた。東北の人らしく無口で、朴訥《ぼくとつ》で、役に立つ。見かけよりずっと器用。たいていのことはなんとかこなす。洋子がこのマンションに引越してきた日に管理人から紹介してもらい、もう何度か仕事を頼んだ。棚を吊ってもらったり、アミイを預ってもらったり……。
――便利屋は天職なんじゃないかしら――
洋子はそう思いたくなってしまう。
「できましたよ。大道具をやっているやつに頼んで……」
荷物を運び入れる。壁のすきまにぴったり入る文庫本用の本箱。
「きれいね」
色あいも周囲の家具とよくあっている。家具屋に作らせたらずいぶん高く取られるだろう。それじゃあ文庫本をしまうのにはもったいない。
宮地は本箱の下にダンボールの断片をつめこんで揺れないようにする。
「どの本を入れるんですか」
「いいわよ。あとは自分でやるから」
「でも、ぐあいを見たいから」
「そう。じゃ、そのへんにあるのを入れて」
と洋子が指をさす。本箱は本を入れたほうが安定する。
「どんなことでもやるの?」
「はい、一応」
宮地はうしろ姿のまま答える。
「変った仕事もあるんでしょ」
「はあ」
「たとえば?」
「年寄りの話相手とか」
便利屋にはそんな仕事もあるらしい。新聞で読んだことがある。
「やるの、あなた。わりと無口の方でしょう」
「仕事だから」
「なにを話すの?」
「故郷の話とか……。むこうが話すのを聞いていればいいんです」
「ああ、そうか」
洋子は、この気まじめそうな青年をからかってみたくなった。
「あの……人なんか殺してくれないの」
「は?」
すぐには意味がのみこめなかったらしい。
「便利屋さんて、なんでもやってくれるんでしょ」
仁科洋子は鼻筋をトントンと指先で叩きながら宮地に尋ねた。この仕ぐさは機嫌のいいときのもの。ちょっと悪戯《いたずら》でもしてみようと思ったとき……。動作のくせはだれでも持っているけれど、意図的にそれをやるのは、たいていその人の長所と結びついている。それが心理学の原則らしい。洋子は鼻筋がまっすぐに伸びていて美しい。
「ええ、まあ」
「映画なんかでよくあるじゃない。殺し屋さんての」
「ああ、なんだ。今のところ、まだ……そこまでは営業を広げてないもんですから」
と笑う。笑うと宮地は男のくせに片えくぼがくぼむ。表情がかわいらしいのはそのせいだろう。
「残念ねえ」
「あのう、殺したい人、いるんですか」
大まじめな顔で聞くから洋子としても答えにくい。
「だれでも一人や二人、いるんじゃない」
「そうですかあ。僕はいないけどなあ」
「意地のわるい演出家とか……ひどいのがいるでしょ」
「でも、勉強中ですから」
本箱に文庫本を納める作業は終りかけていた。
――この人は、本気で人を憎んだことがないのかもしれない――
もしかしたら本気で愛したことも……。
「このすぐ上の……六〇七号室。どんな人?」
洋子は話題を変えるような調子で尋ねてみた。
「知りません」
「鈴木さんとか言うの。ちょっと変な人みたい……」
宮地は本箱のすわりぐあいを確かめていたが、どうやらうまく納まったらしい。
「あの人かな」
「どの人?」
「引越して来た日、近所の子どもがなぐられたとか」
「どうして?」
「知らない。荷物にでも悪戯をしたんじゃないですか」
宮地は立ちあがり、帰り仕度にかかる。
「そう」
乱暴な人なんだ。きっと……。
「ほかになにかありますか」
「また用があったら電話をするわ。月曜から二、三日軽井沢に行って来ます。お代はこの前のでいいの?」
「結構です」
ペコンとお辞儀をして宮地は出て行った。
日曜日を洗濯と掃除ですごし、月曜日は勤務先のミナミ犬猫病院へ。この病院は年中無休である。だから職員に休暇を与えるため、臨時の職員を雇わなければいけない。仁科洋子は、その一人。頼まれて月曜と木曜だけ行っている。薬理にも明るいので、病院にとっては便利な存在だろう。
「毎日来てくれないかなあ」
院長に言われるが、しばらくは気ままな生活を続けていたい。なんとか食べるくらいできるんだし……。
午前中は入院中の犬と猫の処置。午後は、たいてい外来に出る。今日はエスカレーターに足をはさまれ、足の裏のパッドがはがれてしまったポメラニアン。ものすごい痛がりよう。麻酔をかけなければ、とても治療ができない。
――言っちゃあわるいけど、これ、飼い主の不注意よねえ――
少しだけ文句を言っておいた。
病院から家までは、ほんの一駅。五時半に仕事を終え、アミイをバスケットに入れて部屋を出た。
二十時発の特急に間にあった。アミイは本当におとなしい。バスケットの中で声もあげずに眠っている。
――JRさん、ごめんなさい――
規則違反だろうけど、アミイはだれにも迷惑をかけない。
軽井沢駅に降りると、急に冷気が体を包む。コートを持って来てよかった。
濃い霧が帯を作って流れている。駅を出た黒い人影が街灯の光を受けながら、白い夜の中に消えて行く。
ついこのあいだ東京でも霧の濃い夜があった。
――今年は霧が多いのかしら――
俳句では霧と言えば秋のものらしいが、海岸地方などではむしろ夏に霧が多い。煙突の立ち並ぶ町では冬がスモッグの季節である。霧が秋のものとされたのは、おそらく京都の気象がそうだから。京都が文化の中心だったから。そんなことを聞いた覚えがある。
タクシーで二手橋の近くまで。春美から借りた鍵でコテージのドアを開けた。プレファブ造り。断熱材をたくさん用いてあるらしいが、冬はやっぱり寒いとか。洋子は冬の軽井沢を知らない。
「着いたわよ」
アミイはバスケットから出て、ものめずらしそうに周囲をうかがう。初めて来たところではない。
――まるで覚えていないのかしら――
ヒーターで部屋を温め、布団に新しいシーツを敷いて眠った。このコテージの利用には慣れている。
洋子はぐっすりと眠った。
短い夢を見たが、目をさますと、なんの記憶も残っていない。
なにかしらよい夢だったみたい……。
世の中のことは、大別してよい≠ゥわるい≠ゥ、そのどちらかに区分できる。むかし、英語の時間に、意味のわからない形容詞が出てきたら、とりあえずよい≠ゥわるい≠ゥ、どちらかにきめて考えろ、と教えられた。
「アミイ、起きてたの。いいお天気みたいね」
カーテンを引き、雨戸を開けると、梢《こずえ》をぬけて高原のまばゆい光が射しこんで来る。
――十月七日――
昨夜は、薄闇《うすやみ》の町に着いたので、風景はほとんどなにも見えなかった。まだ紅葉の季節には少し早い。だが、こんな時期の軽井沢もわるくはない。なによりも人気のないのがよい。
空は晴朗。日射しは暖かい。よい一日になるだろう。
――来てよかった――
年に一度か二度、春美に頼んでこのコテージを借りる。ホテルもいいが、アミイが厄介だ。それに、たまには山小屋の不自由な生活も味わいがある。
――でも電気もガスもあるのよねえ――
都会に住み慣れた者には、この程度の不自由さがほどのよいところだろう。
家中に日射しと空気を入れ、自転車のほこりを払って町へ出た。荷台の籠《かご》にアミイを入れて。
ほとんどの店が閉まっている。それでもまったく人の気配がないわけではない。当然のことながら、この町で暮らしている人もいる。スーパーマーケットで今日と明日の食糧を仕入れた。
なにか目的があって来た旅ではない。ぼんやりと秋の散策を楽しめれば、それでよい。
――でも……なんだかめずらしいことが起こりそう――
そんな予感がある。めずらしさの内容はきめられない。二つに分ければ、きっとよい≠アとのほう……。
秋が来る前には、かならずその気配が漂う。気配が少しずつ濃くなって、やがて本当に秋がやって来る。同じように人生のふしめにも前ぶれがある……。なにかしら先に気配が現れる。
――ちがうかしら――
洋子は小さな動物みたいにいつもそんな気配をさぐっている。昼さがりにアミイを連れて旧軽井沢の別荘地を歩いた。
教会の脇を抜け、から松に囲まれた細道へ入った。湿った黒い土の道。その黒の色を、落葉が少しずつ侵し始めている。細い葉と広い葉が入り乱れている。
風に吹かれて、ひときわ大きい褐色の葉が洋子の足もとにすり寄ってきた。
つまみあげて、
「病葉《わくらば》」
と、つぶやいてみる。
秋が来て、自然の約束通りに朽ちるのが枯葉。季節はずれに枯れてしまうのが、病葉。
いつか春美が言っていた。
「あなたって、病的なとこ、あるじゃない。若いくせに」
「若いから病的になれるのよ」
枯れてはいないけれど、たしかに病的なところはあるようだ。洋子は自分でもそう思う。
アミイには首輪をつけ、鎖で繋《つな》いである。犬のように一緒に歩く。
――ああ、いい気持ち――
軽井沢には気に入りの風景がたくさんあるけれど、このあたりの散策は魂がしみじみと洗われるようで、楽しめる。どのコテージも瀟洒《しようしや》に作られている。自然の、素朴な味わいを残しながら垢《あか》ぬけている。ほどよい間隔で生い繁った木々の下を羊歯《しだ》類と落葉が埋めている。ほとんど塀というものがない。屋敷の境界線は、ただ土を盛りあげて区切ってあるだけ。
――まだ少し早いのね――
細道の両側が赤と黄と緑と、三つの色で囲まれ、上もおおわれて鮮やかなトンネルを作る。そんなときには町そのものが枯葉の香りで匂いたつ。一昨年はたしかそうだった。去年はもう冬枯れが始まっていた。ちょうどよい時期に訪ねるのはむつかしい。他人の別荘を借りるとなれば贅沢は言えない。
木立ちが切れて日射しの明るい一画に出た。
「ちょっと失礼」
よそ様の敷地を横切り、裏通りを戻った。ゆるい坂道を登った。橋を渡り、コンクリートの道から山道へと入った。三メートルほどの道幅が枯葉で深く埋めつくされ、どこまでも続いている。アミイの首輪をはずした。
アミイは陽だまりから草地の中へ入り、忍び足で様子をうかがっている。
カサッ。
足音が聞こえた。落葉を踏んでいる。洋子は身をねじって音の方角を見た。
喬木と落葉が間道の奥行きをおおい隠している。道はゆるい登り坂を作り、その先で屈曲しているらしい。
かすかな足音に続いて人影が一つ現れた。褐色のジャケット。黒いズボン……。
男は、まず落葉の中で足を止めているアミイに気づいた。手をさし出して、
「猫、猫」
と呼びかける。洋子は思わずほほえんでしまった。アミイは片足をあげたまま、
「ニャー」
と答える。アミイは飼い猫のわりには人見知りをする。様子のいい人にだけ愛想を示す。
飼い猫なら飼い主がいるはずだ、と男は思ったのかもしれない。人影を捜すように視線を伸ばしたとき、洋子と目があった。
「やあ」
と男も笑いながら近づいて来る。浅黒い顔。タートルネックのセーター。ほどよい身長……。いくつかの印象がとりとめもなく洋子の目に映った。よい≠ニわるい≠ニに分ければよい≠ノ属する。とてもよい≠ゥもしれない。
――知った人かしら――
すぐに思い浮かぶ人はいない。むこうだけが洋子を知っているのだろうか。黒いスエードの靴が落葉の上で止まった。
「なにかおかしいですか」
と尋ねる。男は洋子の笑い顔を見たらしい。
「はい」
男の顔をゆっくりと見つめて答えた。
「どうして」
「猫、猫≠チてお呼びになるから。普通はそんなふうに言わないんじゃないですか」
「ああ、そうか。でも、名前を知らないから」
「アミイって言うんです」
「えーと、友だちかな。軍隊じゃないよね、まさか」
「ええ」
「男友だち?」
洋子の顔をのぞきこむ。この男のまなざしは少しまぶしい。人を魅《ひ》きつけるものがあるみたい。
「雄です」
洋子はアミイのほうへ歩み寄り、抱きあげた。
「いい顔をしている」
男は、洋子の腕の中のアミイを見てつぶやく。洋子は猫の喉をなでながらはすかいに男の様子を観察した。観察というより、これまでに得た印象を頭の中でまとめあげていたのかもしれない。
――あなたもいい顔をしているわよ――
年齢は……多分三十五、六歳。都会的な感じ。なにをする人かわからない。サラリーマンではないみたい。色が浅黒いので精悍《せいかん》な印象を与えるが、まなざしはむしろ甘い。目が大きいせいかもしれない。声の響きもわるくない。洋子には好きな声と嫌いな声とがある。恋人には声の美しい人がいい。
「ただの日本猫」
「それが案外いいんじゃないですか」
「ええ……」
どう思い返してみても知った人ではない。
「この道、どこへ行くんですか」
顎で男の現れた方角を指した。
「見晴台へ」
「碓氷峠の……」
「そう、舗装道路とはべつに散歩コースがあるんですよ」
「これがそうなの」
聞いたことはある。シーズンには観光客でいっぱいになるとか。今は閑散として、だれかの別荘に続く行き止まりの道のようにも見える。
「行ってみますか」
「いいえ」
洋子は逆に今来た道を戻りかかった。男は一、二歩遅れ、歩調をあわせるようについて来る。
「見晴台から降りていらしたんですか」
「いや、途中から」
並んで歩いた。
――なにかが起こりそう――
そんな予感がうごめく。めずらしいことが起きそうだと思ったのは本当なのかもしれない。
「お一人ですか」
と男が聞く。
「ええ、猫と一緒」
自嘲《じちよう》するように答えてから、
「あなたもお一人でいらしたんですか」
と尋ね返した。
「そう、一人で。頭をからっぽにしてみようと思って来たんだけど……やっぱり退屈ですね」
「都会人だから」
黒いセーターに黒いズボン。靴は黒のスエード。褐色のジャケットを羽織って……よく似あっている。
「そうでもないんだけど」
車の走る音が聞こえ、舗装道路が見えて来た。道がほんの少し登り坂になる。
「お茶でも飲みませんか。失礼かな、こんなこと誘っちゃ」
とても自然な言い方だった。誘うのが男の役割、応ずるのが女の役割。ちがうかしら。
「いいところ、あります?」
「この先にあるでしょう」
「紅屋さんかしら」
「そう。いらしたこと……ありますよね」
この界隈《かいわい》ではよく知られたコーヒー店である。だが、洋子はまだ入ったことがない。
「いえ、店の前はよく通るんですけど」
黒い木組みの家で、いかにもコーヒー専門店といったたたずまい。値段が少し高いらしい。
「おいしいですよ」
「じゃあ、行きます。猫をちょっと置いて来ますから」
ちょうどコテージに曲がる角まで来ていた。
「近くなんですか」
「はい。先にいらしててくださいな」
「ここで待ってますよ」
「いえ、あとですぐにまいりますから」
小走りに舗装道路からコテージに続く小道へ入った。男は洋子のうしろ姿を見守っていたが、しばらく来てふり返るともう見えない。
「アミイ、お留守番をしててね」
鏡の前で化粧をなおし、スカーフを巻き、怪訝《けげん》そうに見あげているアミイを残して外に出た。
本当にこの季節の軽井沢は人口が少ない。半分以上の店がドアを鎖している。紅屋のドアを開けた。
「ごめんなさい。お待たせして」
奥に深い店。壁にはふんだんに絵が飾ってある。男は飲み物の注文もせずにカウンターの席で待っていた。
「なんにしますか」
「コーヒー」
「じゃあ、コーヒーを二つ」
店にはほかに一組の客がいるだけ。黒いチョッキの店員が豆をひき、カップを温め、濾紙《ろし》を使って一ぱい一ぱい丁寧にいれる。
カウンターのうしろの棚には、色とりどりのカップのほかに、グレープ・ジュースの壜《びん》やジャムの壜が整然と並んでいて、それが調和のとれた装飾になっている。
「ケーキを食べますか」
男がメニューをながめながら言う。店の内装と同じ色調の黒い木組みのメニュー。ケーキは一種類だけらしい。
「どんなケーキかしら」
「当店特製のケーキです。くるみを入れた、チョコレート・ケーキ」
と、カウンターの中の男が答えた。
「食べてみます」
「じゃあ、それを二つ」
洋子はカップを取ってコーヒーの匂いを確かめる。
「砂糖は?」
「いりません」
ケーキが甘いのでコーヒーはブラックで飲む。
「人が少ないって、本当にいいことですね。観光地の一番の条件じゃないかなあ」
男がおもむろにつぶやく。
「ええ」
と洋子が相槌を打つ。
――つきづきしい――
そんな古風な言葉が浮かんだ。洋子はこの言葉の持つ感覚が好きだ。現代語に訳せば似つかわしい≠ュらいの意味だろう。その場の雰囲気にぴったりとしていること。たとえば、今……。
人気ない軽井沢の山道で一人の男とめぐりあった。男はほどよい容姿、ほどよい知性……多分そうだろう。年恰好《かつこう》も洋子にふさわしい。男が着ている黒と褐色の衣装も秋の気配によくあっている。静かなコーヒー店。焦茶色の香り。カップのぬくもり。ケーキに含まれたくるみの味もこの町にふさわしい。
――私のほうはどうかしら――
グリーンのツーピース。下はキュロットになっている。イタリア製だから緑の色あいが微妙に美しい。からし色のスカーフもよいコントラストを作っているはずである。
「ミス……ですよね」
「はい。売れ残り」
「売り惜しみでしょう」
男は愉快そうに笑う。「あなたは?」と尋ね返したいところだが、それはやめた。おたがいにせっせと相手の戸籍調べをするのは味気ない。
「じゃあ、きっと、お仕事をお持ちなんですね」
と男が尋ねた。
「はい」
「なんでしょう?」
「なんに見えますか」
「わからない。わかりようがないでしょう」
洋子は鼻筋をなでた。心が弾んでいるときの仕ぐさである。
「そうね。とても変った仕事。獣医。動物のお医者さん」
おどけるような調子で告げた。男は首をまわし、驚いたような様子で洋子の横顔を見る。洋子の様子が獣医らしくないとでも思ったみたいに……。でも、どんな顔つきをしていたら、獣医らしく見えるのかしら。
「獣医さんですか。で、さっきの猫は患者さん?」
「いえ、そうじゃないわ。あれは、ただの同居人。病気になっても治療代はいただけないくちなの」
男はコーヒーの残りをすすってから、
「扱うのは犬や猫だけですか」
「うちの病院はペット専門だから。主に犬と猫。小鳥もたまに……」
「なるほど」
と頷《うなず》く。
「驚きました?」
「いや、そうでもないけど……。安楽死なんかもやるんでしょ、そういう病院では」
「はい。依頼があれば」
「怖い仕事ですね」
洋子自身、初めの頃《ころ》はそう思った。いつのまにか慣れてしまった。もちろん動物たちが死ぬときは悲しい。でもどこかでわりきっていなければ、この仕事はやれない。
――人間は結局自分しか愛していない――
この仕事に就いてそう感じた。飼い主とペットを見ていると、つくづくそう思う、どんなにペットをかわいがっていても、それは所詮《しよせん》自分のための愛でしかない。ペットのためではない。
「どんな動物でも死にかたはりっぱですね。じっとうずくまって死を待っています。人間のほうが、みっともないのとちがいますか、ジタバタして」
「そうかもしれない。でも、怖いですよ」
男がなにを怖がっているのか、わからない。顔はうれしそうに笑っているのだから……。
「なんでしょう」
「あなたは虫も殺さないような顔をして……生命の瀬戸際にいつも立ちあっているんだから」
「そうねえ。でも、お医者さんもそうでしょ」
「ちょっとちがうな、お医者さんは。相手が人間なんだから」
「そうね」
「で、安楽死はなんでやるんですか?」
「たいていは麻酔薬を使いますけど……ほかの薬でも」
「食べ物に混ぜたりして……」
「そうですね」
「つまり、殺しかたを知っているわけだ、あなたは」
男が「怖い」と言った意味は、このことだったのかもしれない。言われてみれば、そうかもしれない。怖いと言えば怖い。でも、こんなことを言われたの、初めてだわ。
「私、製薬会社にも勤めていたんですの。ゴキブリを殺したり、鼠を殺したり、そういう研究もやってたから……。怖い女なんですよ。さそり座の女だし」
笑いながら男をにらんだ。
もうコーヒー・カップもからになっている。男もそれに気づいたのだろう。
「塩沢湖、いらっしゃいましたか」
一年に一度くらいのわりで春美の別荘を借りているので、軽井沢の名所はたいてい行ったことがある。
「ええ、前に自転車で」
「どのくらい前?」
「四、五年前かしら。どうしてですの」
「じゃあ、昔とちがっているはずです。ペイネの美術館が建って。ご存知ですか」
「知りません」
「レイモン・ペイネ。フランスの漫画家でしょ。……とてもかわいらしくて、ちょっとエロチックで……」
「ああ、見たことあります。そこへいらっしゃるおつもりでしたの?」
「どうでもってほどじゃないけど、退屈しのぎに。つきあってくれませんか。なんだかとても愉快になって来た……」
「怖いのに?」
「怖いもの見たさかもしれない」
「ひどいわ。怖いことなんかありません」
すねるように言葉じりをあげてつぶやいた。
――コケットリイかしら――
言えるわね。洋子の気分も少し浮き立っている。
「じゃあ、行きましょう。お勘定を……」
と店員を呼ぶ。
「払います、自分の分くらい」
洋子がさえぎったが、男が手を振って支払った。
「女、女って呼ぶわけにもいかない。名前を教えてくださいな」
店の外へ出たところで男が尋ねた。
さっきはアミイを見つけて「猫、猫」と呼んでいた。
「仁科洋子です」
「今は獣医さんで、その前は製薬会社で鼠の殺し方やゴキブリの殺し方を研究していた? 本当に?」
男は笑いながら言う。面ざしは鋭いが、笑うと甘くなる。
「ええ」
「主にどういう薬を使うんですか」
「砒素《ひそ》や有機リンの化合物……。このあいだ、うちでもちょっとやってみたんです、実験を。大きな鼠ちゃんが引っかかって」
「勉強家なんだなあ」
軽井沢銀座と呼ばれている商店街を歩いた。半分近い店がシャッターを降ろしている。
「私は、男、男って呼べばいいのかしら」
「それでもいいけど……。本堂です」
低い声でつぶやくので、よく聞こえない。
「本堂……ですか?」
「もちろんですよ。嘘《うそ》をつく必要がないでしょう」
男は少し気色ばんだ調子で言う。一瞬、洋子は男がなにを言っているのかわからなかった。ああ、そうか。洋子の言葉を「本当……ですか?」と聞きちがえたらしい。あらためて、
「本堂さん?」
と、明快な発音で尋ね返した。
「本堂和也です」
「お仕事は?」
旧軽ロータリーの近くまで来ていた。本堂は洋子の質問には答えず、
「塩沢湖、行ってみますか」
と尋ねた。
「ええ。なんで行きますか」
「自転車、乗れますか?」
「乗れますよ。そんなにうまくはないけど」
「でも、やめましょう。結構距離がある。明るいうちに着くほうがいいし」
日暮れまでにはまだたっぷりと時間がありそうだが、油断はできない。急に寒くなったりする。
ロータリーのむかいにタクシー乗り場があった。車が二台停まっている。
「塩沢湖まで行ってくれないかな」
「いいですよ」
「さ、どうぞ」
車が走り出したところで、本堂が、
「旅行ライターをやってるんですよ」
と、最前の質問に答えた。
世間にはいろいろな職業があるものだ。
「あちこち旅行して、雑誌なんかに記事を書くのね」
「まあ、そう。夢を追いかけて」
「すてきなお仕事ですね」
「そうでもない。満足はしているけど」
「じゃあ、軽井沢もくわしいわけね」
くつろいだ調子で言った。
中軽井沢を通りぬけ、踏み切りを渡った。ここらあたりは民宿の看板が目立つ。自転車で来るとなると、かなりの距離だろう。
「あそこ。この湖は個人の持ち物で、つい最近、有料の施設になったんですよ」
と本堂は指をさしてから、
「運転手さん、二、三十分待っててください。美術館を見て来ますから」
と告げた。
タクシーを降りると、高い格子の門があり、そこが塩沢湖レイクランドの入口だった。夏の盛りには、さぞかしにぎわうのだろうが、今は人影もない。キップを売る人が気の毒になってしまうほどである。
それでも中のレストランやファースト・フードの店は開いている。本堂がポテトのフライを二包み買った。ぬくもりがここちよい。舗装の道が延び、右手に塩沢湖、一隻だけボートが滑っていた。浅間山が姿を見せているが、山頂だけは雲におおわれている。山の稜線《りようせん》がくっきりと見える。木々の梢が美しい。
ペイネの美術館は敷地の一番奥にあった。山小屋風の建物。中へ入ってみて、アメリカの建築家アントニン・レイモンドの別荘を移して美術館としたものとわかった。
「ああ、そうなの」
うなずいてはみたが、洋子はアントニン・レイモンドを知っているわけではない。本堂もくわしくはないようだ。栗《くり》の木の丸太を使い、荒削りの美しさがここかしこにうかがえる。
レイモン・ペイネの絵は何度か見たことがあった。ほとんどが恋する男女。花と木に囲まれた風景の中で愛を語りあっている。月の夜に男が蝶《ちよう》の羽を広げて、女を訪ねる絵がおもしろい。女の乳房がみんなまるく、あらわになっている。
「若い人向きね」
「フランス人の恋が見えて来るみたいだ」
「ちょっと肉感的なところもあって」
美術館を出てから、湖畔の道を少し歩いた。左手の丘にはミニ・ゴルフやテニスのできる遊び場がある。ベンチで休み、今来た道を戻った。
――神様の悪戯かもしれない――
洋子は湖に映る木々の影を見ながら、ふと思った。
さっき会ったばかりの男……。その男がとても近しい人に感じられる。まるで恋人かなにかみたいに……。
人気ない、高原の町は本当に美しい。いやでも人の心をロマンチックなものへと駆《か》りたてる。こんな風景は、恋人と一緒にながめるのが一番ふさわしいだろう。
――だから……隣の男が、恋人のように感じられる――
というのは、少し論理に飛躍がある。
だが、考えてみれば、人は知りあう前はみんな知らない人同士なのだ。知りあってからの長さが親しみの深さを保証してくれるものではあるまい。こんな静かな風景の中なら、普段よりずっと早く心の響きが伝わるかもしれない。
本堂は人あたりの柔かい男である。洋子はむしろ人見知りをするほうなのだが、ほんの何パーセントかのタイプに対してだけはひどく心安くなれる。よくできた細工物の、蓋《ふた》と箱のようにパフリとここちよく心があわさるときがある。
本堂のほうがどう感じているかわからない。
――私のこと、そんなに悪くは思っていないみたい。わりといい線、行ってんじゃないかな。
しかし、それは本堂自身が感ずることだ。洋子が指図するわけにもいかないし、どの道はっきりとはわからない。
「どうします?」
待たせておいたタクシーに乗った。
「ええ……」
「夕御飯は食べるんでしょ」
「食べますけど」
「少し早いけど、一緒にどうですか。一人で食べるのもつまらない」
「でも……」
「猫が心配ですか」
アミイのことを忘れていた。餌皿《えざら》にキャット・フードが少し残っていたはずだ。あれを食べているだろう。
「猫はかまわないんですけど」
あまり簡単に親しくなるのは、ためらわれてしまう。ただそれだけのことなのだが……。
「ホテルのレストランくらいしかないけど」
「そうですね」
「どんなものがお好きですか」
「なんでも食べます」
車は駅に向かって走りだし、結局、一緒に食事をとることになった。
本堂の案内で駅に近いホテルの割烹《かつぽう》店へ立ち寄った。料理を二つ、三つ頼み、二本の酒を飲んだ。二人ともそうたくさん飲めるくちではない。
「趣味はなんですか」
と本堂が聞く。
「一人気ままに散歩をしたり、音楽を聞いたり……」
「どんな音楽?」
皿の上の刺身が、きっちりと角を立てて並んでいて、おいしそう。
「なんでも。ビートルズとか、少し新しいところでは、マンハッタン・トランスファーね」
「ボーカルのグループね。すてきな趣味だ」
「来週も行くんです。横浜まで。キップが手に入ったから」
「一人で」
「ええ」
「いつもそうなんですか」
「そうね。コンサートは一人のほうが没頭できていいんです。でも、なんだか私ばかり質問されちゃって……。あなたのご趣味はなんですか」
「旅行かなあ」
「でも、それはご商売でしょ」
「趣味がいつのまにか仕事になってしまった」
「最高じゃないですか。どこがお好き?」
「日本ですか、外国ですか」
「外国」
「どこの国にもそれぞれいいとこありますよね。きれいということなら、スイス、カナダ」
本堂は焼き魚の身を箸《はし》先でほぐしながら外国の美しい風景について語った。洋子は話の中身より、男の話し方に心を留めていた。話し方は、人となりを表すことが多いとか。でも、わからない。本堂は要領よく、歯切れよく話す。おそらく頭のいい人だろう。回転が速そう……。
「あなたはどこへ行きましたか」
「あんまり行ってないの。近いところばっかり。香港とかグアムとか」
「いつか一緒に行きますか」
本堂は冗談みたいに言う。男はこんな方法で女の気を引いてみるのだろう。それを充分に承知していながら、洋子はわるい気分ではない。
――もしかしたら本当にこの人と外国旅行へ出かけるかもしれない――
ぼんやりとした予感のようなものを描いてしまう。
食事が終った。
「ここにお泊まりなんですか」
「いえ、そうじゃない」
男の宿を尋ねるのは余計なことかもしれない。「ちょっと来てみませんか」と言われたら困ってしまう。今夜はこのへんが引きどきだろう。
――でも、このまま終っちゃうのかしら――
それならそれでもいいけど……やっぱり味気ない。
「別荘に電話ありますよね」
と本堂が思い出したように聞く。
「はい」
「じゃあ、番号を教えて。できれば東京の電話番号も」
「いいですよ」
ボーイを呼んでメモ用紙をもらって記した。
「僕のほうから連絡しますよ。この局番はどのあたりかな」
「三鷹市。井《い》の頭《かしら》公園の近く」
「マンションにお住まいですか」
「ええ」
「何階?」
「五階です」
「じゃあ、いいながめでしょう」
「そうね。でも、なんだか上に住んでいる人が変な男の人らしくて」
「変て、どう変なんです」
「ときどきドーンて、足音が聞こえて来るし……、乱暴な人みたい」
「それは厭だな」
本堂が伝票を持って立ちあがる。洋子はそれを引き止め、
「困ります。これで……」
財布をそのまま男の手に渡してから、
「ちょっと手を洗って来ます」
と、先に廊下に出た。
――あんた、ちょっとおかしいんじゃない――
化粧室の鏡に向かってつぶやいてみた。心が浮き立っている。少し酔ってもいる。
本堂はロビイで待っていた。財布を返されたが、使った様子はない。
「送りましょうか」
「いえ、結構です」
ホテルの前で車を拾った。アミイが待ちかねているだろう。東京では留守番は毎度のことだが、家が変っているから心細いにちがいない。
「さよなら」
車が走り出してから考えた。本堂の連絡先を聞かなかった。聞くのを忘れていたわけではないけれど、うまいタイミングがなかった。賭《か》けてみたい気持ちも洋子の中に少しある。
――連絡をよこすか、どうか――
こんなときはむしろ待つほうがよい。連絡がなければ、男のほうに気のない証拠である。
もう一つ、大切なことを聞かなかったわ。
――独り者か、どうか――
これも聞き忘れていたわけではない。すぐにわかってしまうのはつまらない。洋子には、曖昧《あいまい》さを楽しむような趣味がある。
直感では独り者。そんな匂いがした。かすかに危険な匂い……。でも、本堂は三十代のなかばくらいにはなっているだろう。日本の男性ほど結婚の好きな人はいない。なんのかんのと言っても、みんな結婚をしている。独り者はめずらしい。だから本堂も結婚しているだろうと、そう考えるほうが確率が高いのだが……。わからない。
アミイは普段と変らない様子で待っていた。
ドアの開く気配を聞いて、ベッドからゆっくりと降りて来て、
――なんだ、お前か――
といった顔つきで洋子を見る。お風呂《ふろ》を沸かすのも面倒くさい。電気毛布のスイッチを入れ、アミイを抱いてベッドに潜りこんだ。
――すっかりご馳走《ちそう》になってしまったんだわ――
コーヒー代やタクシー代ばかりか、ホテルで食べた食事代まで本堂が支払っている。
――まあ、いいか――
洋子としては、また会うこともあるだろうと予測していたので、そう強くはこだわらなかった。
女が三十歳を過ぎるまで独りでいれば、たいていいくつかの誘惑を体験する。大小とり混ぜて両手の指の数にあまるくらい……。オードブルで終るものもあれば、フルコースの恋愛もある。
だが、女は受け身の立場である。少なくとも受け身を装うことだけはまちがいない。洋子も例外ではなかった。そっと仕かけておいて相手の出方を待つくらいのことはやったけれど、見かけはあくまでも受け身の姿勢である。
――この人、きっと誘いかけて来るわ――
受け身であればこそ、この勘は冴《さ》えている。女はみんなそうだ。ほとんどはずれることはない。
洋子は気にかけていたのだが、軽井沢のコテージに本堂からの連絡は来なかった。
――はぐらかされちゃったみたい――
本堂がなんの用で軽井沢に来ているのか洋子は聞かなかった。旅行ライターということだし、仕事がいそがしいということも充分に考えられる。
翌日昼近くまで待って、一人で散歩に出た。
旧三笠ホテルは、いかにも明治の西洋建築といった趣きがあって楽しめる。階段の手すりといい、窓枠といい、洗い桶《おけ》みたいなバスタブといい、一つの時代が鮮やかに見えて来る。中を見学したあとで外に出て、あらためて全貌《ぜんぼう》をながめると、この建物は完全なシンメトリック。
――人はなぜ左右対称を好むのかしら――
自分の体がそうだから。目が左右対称についているから。引力に対して安定感があるから……。おそらく人間の根元的な生理と関係していることだろう。
浅間山は雲間にときどき姿を見せるが、これはかならずしもシンメトリックな形状とは言えない。
太陽が傾くまで散策を楽しみ、予定通り最終の一つ手前の特急で東京へ帰った。収穫があったような、なかったような……。いずれ本堂からは連絡があるだろう。
――ご苦労さん――
マンションへ帰るとすぐにアミイはペット用の出入口を抜けてベランダへ出て行く。ベランダの脇には高い公孫樹《いちよう》の木が立っている。便利屋の宮地に頼んで木の枝を一本ベランダの柵《さく》に固定してもらった。アミイは器用にそれを伝って降りて行く。
――あら――
ベランダにピーナツのからが散っている。まるめた鼻紙も落ちている。綿ぼこりの玉もある。
洋子は上を見あげた。六〇七号室のベランダから捨てたのではあるまいか。そのすぐ上が屋上。屋上から捨てたというケースも考えられるが、わざわざそんなところまで行ってごみを捨てる人はいない。
旅に出る前に管理人室に行き、
「上の足音がひどいの。少し気をつけてくださるよう言っていただけません」
と頼んでおいた。
伝言は伝わったのだろうか。今は不在らしい。
洋子が眠りかけたときドーンと大きな響きが落ちて来た。
本当にわざとやっているみたいに……。
港 町
東京に帰ってからも本堂からはなんの音沙汰もない。
――そんなにいい男だったかなあ――
第一印象は合格といってよい。長所はいろいろある。そうね、思いつくままにあげれば……着ているものの趣味がよかった。浅黒い顔も男らしいし、声の響きが洋子の好みにあっている。人あたりのやわらかさ。会話もそこそこに楽しかった。
服装の趣味と頭のよしあしとは関係がないという説もあるけれど、洋子はそうは思わない。
たしかにずいぶん賢い人でも、つまらない服装をしている。男はとくにそうだ。馬鹿のくせにおしゃれだけは、ずば抜けてうまい男もいる。それはそうなのだが、まるっきり着るものに無頓着《むとんちやく》の人はべつとして、当人がその気になって装っているのなら、やっぱりその人の性格や知性は現れる。
本堂の服装は色あいもよかったし、秋の景色にもほどよく溶けこんでいた。
春美が知ったら、
「あなた、面食《めんく》いだからねえ。女の中にも、とにかくハンサムがいいってのが二十パーセントくらいいるんですって。私ゃ男の顔なんか、表と裏の区別がつきゃいいって思ってるほうだけど」
と眉をひそめるにちがいない。いつもそんなことを言うのだから。
――面食いね――
洋子としては強く否定はしないけれど……少しちがうわ。ことはそれほど単純ではない。
美しいものが好き。これは本当だ。でも男性について言えば、ただ容姿の美しさだけを言っているわけではない。頭の働きまで含めて美しい人がいい。
容姿のよさも一つの条件だが、それだけではない。ものの感じ方や表現のしかたなども大切な要素だろう。あれこれ分析してみても、はっきりとはわからない。要は、洋子が好ましいと思うかどうか……。
それに、洋子は、
――男女の仲なんて、惚《ほ》れるが勝ち――
と、そう思っている。俗っぽい損得勘定ではあまり入れあげては損≠ニいうことになっているらしいが、それはおかしい。ちがうかしら。
もともと恋愛なんてものは、好きになるためにやることだろう。だったら、好きになられることに気を使うより、好きになることに夢中になるほうが本筋だろう。好きになって、そのために疵《きず》がつくのは仕方がない。
本堂和也のことはともかくとして、さしあたり気がかりなのは六〇七号室の男のこと……。めったに顔を合わすことはない。手首に小さなあざがあるかどうか、それもまだ確かめられない。昨日、洋子の郵便受けに猫がわるさをする。気をつけろ≠ニ書いた紙片が投げこんであった。
――どういうことなのかしら――
と考えこんでしまう。六〇七号室の男が入れたとは限らないけど、文面の荒々しさからみて、きっとそうだろう。
――わるさって、なんなの――
アミイはそんなにひどい悪戯をする猫ではない。第一、公孫樹を伝って下へ降りて行くことはあっても、上に登って行くのなんか、見たこともない。
洋子は管理人に頼んで「足音に気をつけてください」と六〇七号室に伝えてもらった。
それに対して「お前のところの猫もよくないぞ」と、言いがかりをつけてよこしたんじゃないかしら……。
男の名前は鈴木勇。表札にそう書いてある。
「お仕事はカメラマンて、おっしゃってますがねえ」
管理人も首を傾げている。
あまり評判のいい人ではないことはまちがいない。引越して来たときに近所の子をなぐったのは本当らしい。ろくに挨拶《あいさつ》もしない。目つきがよくない。態度が粗暴である。深夜遅くどこかへ出て行く。このところ近所で下着泥棒がよくあるんだとか……。
相変らず洋子の部屋へは荒い足音が落ちて来る。いや、足音ではないわ。足音なら仕方がない。我慢もできる。もっと大きな響き……。厭がらせなのか、それとも虫の居所のわるいときのくせなのか、全身をドーンと床に落とすような強い響きがいきなり落ちて来る。人形やワイン・グラスが倒れるほどだ。
――せっかくすてきな部屋だと思っていたのに――
この先、あんな男を頭の上の部屋に置いてずっと暮らしていかなければいけないのかしら。腹立たしい。
真夜中に電話のベルが鳴った。
「もし、もし」
呼びかけてみたが答えない。夜光時計の針は三時を過ぎている。
「もし、もし、どなたでしょう」
かすかな息使いのようなものが聞こえる。電話のむこうで様子をうかがっている……。
「もし、もし……?」
答える様子がないので洋子は電話を切った。
ベッドに転がったまま薄暗い天井をにらんだ。引きずるような足音が一度だけ上のほうから聞こえて来た。六〇七号室は起きているらしい。
――どんな顔だったろう――
わし鼻。黄色く濁ったまなざし。よくは見なかったけれど粗暴で、陰湿な感じだった。エレベーターの中で薄笑いを浮かべていた。
――私のこと、覚えているのかしら――
油壺のホテルではベランダの鍵をしめ忘れた。それで、たまたま通りすがりの男が侵入して来たのだと思ったけれど、男は前から洋子をつけ狙っていたのかもしれない。そうだとすれば、洋子の顔を覚えている可能性も充分にある。たとえば、あのとき泊まったホテルに出入りしているクリーニング屋とか……。洋子の名前だって知ろうと思えば、知ることができただろう。
その男が六年ぶりに東京のマンションに住んでみたら、すぐ下の階に見覚えのある女がいる。苗字《みようじ》にも記憶がある。
――ちょっと悪戯でもしてみるか――
たちの悪い男なら、そんなことを考えるかもしれない。
ル、ルン、ル、ルン。
また電話が鳴った。ヒクンと体が震える。黙って電話機を見つめていたが、音は脅すように鳴り続ける。
「もし、もし……」
答がないのは最前と同じである。受話器に耳を当て、どんな小さな音でも聞こうと努めた。
しかし、なにも漏れて来ない。しばらくはそのまま待ち続けた。
クツッ。乾いた音が聞こえ、むこうが切ったらしい。
――どうして私の電話番号を知っているのかしら――
軽井沢で本堂に電話番号を教えたことを思い出した。
――でも、ちがうわ――
本堂がこんな悪戯をするはずがない。やっぱり六〇七号室の男……。さもなければ、ほかのだれか……。いたずら電話というものは、思いのほか世間に多いもののようだ。
――そうか。管理人室だわ――
管理人室のカウンターには居住者の名前と電話番号を記した一覧表がある。このマンションの住人なら盗み見るのはむつかしくあるまい。
受話器をもとに戻して目を閉じた。またベルが鳴るのではあるまいかと思ってしばらくは眠れない。
――明日は横浜へ行くんだわ――
そんなことを考えているうちに眠ってしまったらしい。
東京と横浜、同じように大きな町なのにどこかちがっている。どうちがうかと聞かれたら困ってしまうけれど、洋子は横浜へ来るたびにいつもそれを思う。
やはり海がすぐ近くにあるからだろう。町全体に港の気配が見え隠れしている。山下公園ぞいの道はとりわけそんな味わいがある。
県民ホールのコンサートは、マンハッタン・トランスファー。人気絶頂のボーカル・グループ。このところ洋子は少し凝《こ》っている。ハーモニイがとても美しい。東京でキップを買いそこね、かろうじて横浜の前売りを一枚だけ手に入れた。何日も前から楽しみにしていた。
コンサートは超満員。見せて聞かせて、文字通りのエンターテイメント。お客を楽しませずにはおかない。舞台全体が躍動している。音がビンビンと飛んで来る。聴衆の心を高ぶらせておいて、それから美しいハーモニイが滑らかにアイロンをかけて行く……。
――すてき。来てよかった――
レコードでは何度も聞いていたが、本物を見るのは初めてだった。迫力がまるでちがう。ミーハー相手のグループとちがって音楽的にもとてもすぐれている。音色の美しさがいつまでも耳の中に残って消えない。
みんなが酔っていた。幕が降り、劇場の外に出てもほのかな酔いが続いている。目をあげると、黒い夜を背景にして公孫樹が黄色く輝いていた。その風景も夢幻に映る。
――関内《かんない》まで歩いて行こうかしら――
洋子が帰り道を思案していると、
「やあ」
といきなり肩を叩かれた。ふり向いて、
「どうして?」
と思わず高い声をあげてしまった。
本堂和也が立っていた。
「偶然なんだ。通りかかったら、マンハッタン・トランスファーがかかっていて、あなたが好きだと言ってたのを思い出して……」
「そうなんですか」
大通りは、ホールから出た人の群でいっぱい。本堂が黙って横断歩道を渡り、山下公園に入った。洋子はなにから話していいかわからない。
「どうでした、コンサート?」
「とてもよかった」
公園の薄あかりの中を並んで歩きながら洋子はつぶやいた。
海ぎわの柵まで出た。港にはたくさんの光が散っている。遠くにメラメラと揺れる炎があった。
「食事は?」
「遅く食べたから」
「高いところのほうが、きれいだな」
本堂は独り言みたいに言って歩きだす。洋子もあとに続いた。
――どうして電話をくれなかったの――
その言葉が心の中にあるけれど、尋ねようとは思わない。本堂がどういう男かまだよくわからないけれど、こんな出会いのほうが、この人らしい。
さっきと同じ横断歩道を戻った。ホールの前にうごめいていた人影ももうほとんど消えている。
「このホテル、知ってますか」
「いえ、入るのは初めて」
ロビイを横切り、エレベーターに乗った。エレベーターの天井には、星座が小さなプラネタリウムみたいに描いてある。どんどんと空へ昇って行く……。
最上階のカクテル・ラウンジ。窓ぎわの席がタイミングよくあいたのもこの夜のうまい偶然の一つだったかもしれない。
たった今たたずんでいた公園が、眼下に細く広がっている。点在する常夜灯がぼんやりと散歩道を照らし出している。海と港の展望も広くなった。タグボートがゆっくりと光の尾を引いて沖へ消えて行く。
「なにか飲む?」
「ほんの少しだけね」
「じゃあ、マンハッタン。今夜にふさわしい」
「あ、ほんと。そんなお酒があるんですか?」
「うん。ウイスキーをベースにしたカクテルだけど……。マンハッタンを二つ」
と本堂は手をあげてボーイに頼んだ。
「あなたのこと、なにも知らないわ」
「知らないほうがいいかもしれないよ」
「まったくのフリーなんですか」
「仕事? そう」
「どこへ連絡をすればいいの」
「家は町田にあるんだけど、ほとんど帰らない」
マンハッタンは褐色の酒。舌に冷たく、喉に熱い。酔いが胃袋から全身へ走り出す。
「ご家族は?」
洋子が尋ねた。
「うん? 結婚はしていない。両親は長崎にいます。東京では、恵比寿のレジデンシャル・ホテルを根城にしているけど、そこにもほとんどいないんじゃないのかなあ」
「いつも旅がらす?」
「まあ、そうだね」
洋子は昔、考えたことがある……。札幌に一年、金沢に一年、博多に一年、そんなふうにして日本各地をつぎつぎに住み替えて生きてみたら、どんなに楽しかろうかと。
本堂は視線を遠くに伸ばして、
「横浜もビルが多いね」
と言う。正面は海だが、その海を囲むようにして背の高い建物が林立している。海よりずっと高い位置に窓のあかりが見える。
「このホテルも高いし。地震が来たらどうなるのかしら」
「駄目じゃないのかなあ」
「本当に? 高層ビルは、地震が来ても大丈夫のように作られているんでしょ」
「そうは言ってるけど、わからない」
地震は洋子の大嫌いなものの一つである。
「ときどき思うの。今ここで急に地震が来たら、どうなるかって。高速道路の上とか、地下鉄の中とか」
「大地震が来たら、東京なんか惨憺《さんたん》たるものじゃないのか。パニックが起きて、どうにもならない」
「家にいるときなら井の頭公園に逃げこむけど」
「避難場所なんかが指定されているけど、実際にはそこまで逃げられない。途中で、崩れた塀の下敷きになって、動けない。生きているのに、火が近づいて来たりしてね」
「いやん。それが怖いの。毒薬でも携帯しようかしら。いざというとき楽に死ねるように」
「持っているんだろ、専門家だから」
本堂はタバコに火をつけながら笑いかける。
「いつもは持っていないわ」
「家まで取りに行くひまはないよ」
「本当ね。カプセルにしてハンドバッグの中に入れておこうかしら。スパイみたいに」
冗談のような話がとんとんとはずむ。港の風景も、かすかな酔いもここちよい。
「ところでマンションの、上の階の男、なんだか変な人だって言ってたけど……あい変らず?」
「最悪みたい」
洋子は眉をしかめた。
「足音がひどいのか?」
「それが、足音じゃないみたいなのね。わざとドーンとやってるみたい」
「なんで?」
マンションの上の階に住む男が、なにを考えているのか洋子にだってわからない。
「いやがらせかもしれないの。ベランダには、ごみが捨ててあるし……」
「文句を言えば、いいじゃない」
「怖いわ」
「管理人にでも頼んで。いるんだろ、管理人が」
「いるけど、賃貸じゃないから、管理人も強いこと、言えないんじゃない。このあいだは、いたずら電話がかかって来たし……。夜中にベルが鳴って、受話器をとってもシーンとしているの」
「彼なのか」
「わからない。でも、ちょっと気がかりなことがあって」
「なんだい?」
「むかし、厭な感じの人がいたの。その人に似ているような気がして」
「その人が偶然同じマンションの上の階に来ちゃったわけ?」
「ちがうかもしれないけど」
「厭な感じって、どういう感じ?」
油壺で襲われたことまでは話せない。
「近所に変質者がいたの。その人に似ているの。だからエレベーターなんかで会うと、背中がモゾーッとしちゃう」
「僕が文句を言ってあげようか」
女一人で住んでいるのだから現実問題として男が出て行くのは、さしさわりがあるだろう。
「いよいよのときはお願いしますわ」
話が途絶えた。沈黙は気づまりである。そんな気分をすくいあげるように本堂がつぶやいた。
「運命を信じるほう?」
「ええ。でも、どうして」
「運命的なものを感じるから。あなたが好きになりそうだな。いいですか」
「ずいぶん急なんですね」
「善は急げ……」
「善なのかしら」
「だから運命を信じるかどうか聞いたんです」
「ああ、そういうことね。信じましょうかねえー」
洋子は言葉じりを故意に延ばしてつぶやいた。
「もう少し飲みますか」
「いえ、もうたくさん」
洋子は視線を下に送り、そっと腕時計を見ながら答えた。
いま十時。家へ帰って十一時すぎ……。明日は出勤をする日である。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい。今日は私に払わせて」
「ここはいい。この次にして」
「すみません」
本堂はもう伝票を握っている。ラウンジを先に出て待っていると、エレベーターがすぐに昇ってきた。
「ギリシャ神話、知ってます?」
本堂がそう尋ねたのは、エレベーターの天井に描かれた星座のせいだろう。
「いえ、よくは知らないわ」
「僕も知らないけど、ギリシャ神話じゃ男と女は会ったときから、もう運命がきまっているんですよね」
「ああ、そうなの」
エレベーターが止まった。
本堂が外に出る。洋子があとに続く。
暗いフロアー。ロビイではない。二、三歩進んで、ここは客室専用のフロアーだと気づいた。
「ちょっと部屋に寄ってくれません? お渡ししたいものもあるし……。ご心配なく。紳士です」
本堂は明るい声で言う。まるでとるにもたりないことでも告げるみたいに……。タイミングのとりかたもうまい。部屋のドアもほどよい距離にあった。ほかの人が同じことをやっても、こううまくは行かないかもしれない。
「強引なのね」
ドアを開けて、
「男だから。どうぞ」
「じゃあ、ほんの少しだけ。もう帰らなくちゃいけないの」
「わかってます」
ツインベッドの部屋。ソファが一つだけ窓辺に置いてある。事務用の机にはアタッシェケースが蓋《ふた》を開いたまま投げ出してあった。
「お泊まりなの」
「うん。横浜をちょっと取材する必要があって。さ、棒みたいに立っていないで……腰かけてくださいな」
「ええ……」
洋子はソファのはしに腰をおろした。
「なにか飲みますか」
「いえ、結構です」
「じゃあ、タバコ?」
「喫いません。どうぞ。平気ですから」
本堂はライターとタバコを持って洋子のすぐとなりにすわった。
「不思議だなあ。つい、このあいだ会ったばかりなのに」
他人事みたいに言う。
「電話をくださらなかったわ」
「一度かけたんだ。でも留守だった」
「一度だけ?」
「かけていいのかなって思って……。少し遠慮していた」
「かけられて困るようなら、教えませんでしょ、電話番号を」
「そりゃそうだ」
と本堂はうなずき、
「実は会ったときから、すてきな人だと思ったんだ」
腕がすいと伸びて、洋子の肩に触れる。
「どなたにもそうおっしゃるの?」
「ひどいことを言うなあ。本気で言ってるんだから。僕は、厭なことはやらない主義なんです」
「私もそう」
「短い時間でこんなに気分のうちとけられる人はいないな。本当ですよ。でも、僕がそう思っているだけで、あなたはちがうのかもしれないけど……」
「ペイネの絵、かわいらしかったわ」
男はいつだってどんどん攻めこんで来る。女はときどきブレーキをかけなければいけない。
「あ、そうだ。プレゼントがあるんだ」
本堂は立ちあがり、引出しの中から四角い紙包みを取り出した。
「なんでしょう」
「あとで開けてみてください。高いものじゃないけど……。あのあともう一度塩沢湖へ行って、買って来た」
洋子の膝《ひざ》に紙包みを置き、そのまま腕を伸ばして肩にまわす。
「わざわざ?」
「そう。またあなたに会えると思ったから。そのときのためにと思って……。ただのモーニング・カップ」
ペイネの絵でもかいてあるのだろう。
「すみません」
「好きになってもいいですか」
肩の上の腕に力がかかった。
「今、答えるんですか」
「そう」
洋子が上目づかいに見あげたとき、本堂が体を寄せ、唇が頬《ほほ》に触れた。洋子は首を小刻みに振った。一種の照れ隠し。意図的にやることではないが、こんなときにはいつもこんな動作をしてしまう。男の腕にさらに力が加わり、今度は唇が重なる。
「ごめんなさい。今夜は堪忍してくださいな。帰ります」
軽く本堂の唇を受け入れたあとで身を引き、掌で男の胸をさえぎってつぶやいた。
「どうして」
「理由はありません」
「厭ですか、僕のこと?」
仕ぐさの手慣れているところが気がかりだが、この年齢の男なら、まあ、許せる。下手くそよりはスマートのほうがずっといい。会えば、こんなこともあるだろうと思っていた。進展が予想より早かっただけ……。
とはいえ洋子もそれほど冷静に考えていたわけではない。さまざまな思案や感情が頭の中を駈《か》けめぐっている。
――この人に抱かれたい――
その欲望だってなくはない。性の喜びを知らない体では、なかった。それに……今夜は、ここにたどりつくまでのすべてが順調だった。コンサートの興奮も夜景の美しさも、体のあちこちでくすぶっている。魂が少し酔っているようだ。決して厭な相手ではない。ただなんとなく、
――今夜はやめておこう――
おぼろな判断があった。美意識のようなものかもしれない。あやういところで踏みとどまっている……。ここで一歩進んだら、今夜はこの部屋に泊まることになるだろう。
「厭じゃないわ。よいかただと思ったからこそ来たのよ」
相手の目を見つめて、きっぱりと告げた。
「残念だなあ。ほら、明日、なにが起きるかわからない。大地震が来たりして」
本堂も洋子の目をのぞいている。笑っている。
「また来ます」
「本当に?」
「ええ」
洋子は立ちあがりバッグとコートを持ってドアへ向かった。本堂があとを追って来て、ドアの前で背後から肩を包んだ。それから洋子の体をまわして唇を近づける。洋子は目を閉じて熱い感触を受け入れた。コートが足もとに滑り落ちた。
「待って。送って行こう」
本堂が洋子のコートを拾って、さし出しながら言う。
「いいわ。一人で帰れるから」
「いや、もう夜も遅い」
二人で部屋を出た。
ホテルの前で車を拾い、桜木町の駅まで。
「本当にまた来てくれますね」
「ええ」
来ればどうなるか……洋子はそれを知らない年齢ではない。充分に知っている。これが恋ならば……多分、恋だと思うのだが、どこかで女も跳ばなければいけない。
「いつ?」
「いつがよろしいの?」
「今週は用があるから……来週。月曜日。早いほうがいい」
「できれば火曜日。月曜日は病院があるから」
「そう。じゃあ、火曜日。夕方の六時に。さっきのカクテル・ラウンジで待っている」
「はい。もし来なかったら、気持ちが変ったんだと思ってください」
「ひどいな。そんなこともあるわけ?」
「覚悟のいることですもの。あなたのこと、まだなんにも知らないし」
「今度ゆっくり話しましょう」
本堂は東横線で渋谷まで送って来た。「家まで送る」と言ったが、洋子は断った。
「一人で帰りたいの。考えたいことがたくさんあるから」
もう夜も遅い。吉祥寺まで送らせたら本堂のほうが帰れなくなる。
「そう。じゃあ、僕も考えながら帰ろう」
「そうしてください」
本堂が洋子の手を取り、ポケットの中で握りしめた。
「さよなら」
「来週の火曜日。六時。待ってます」
「はい」
洋子は背を向け急ぎ足で歩いた。本堂はきっとうしろ姿を見送っているだろう。視線を意識しながら人混みの中に身を埋めた。
――人生なんて、みんな賭けでしょ――
迷っていても仕方がない。
――きっとよいことがあるわ――
この賭けは、ゴー・サインのような気がする。
洋子はテレビで時折相撲の中継を見る。
――どうしてああ何度も仕切り直しをするのかしら――
以前は不思議に思ったが、この頃はそうも思わない。
くり返しているうちに機が熟して来る。心構えができあがる。能率はわるいが、それが必要なケースもあるだろう。
――恋愛もそうね――
軽井沢で本堂に会ったときから、
――この人には抱かれるかもしれない――
と思った。直感としか言いようがない。昔、人間がもっと正直だった頃には、今よりずっと大胆に行動していたのではあるまいか。本当のことを言えば、軽井沢で本堂の泊まる宿にまで行ってもよかった……。
でも、やっぱり仕切り直しをやってしまう。女はとりわけそうだ。あとで悔んだとき、
――けっして軽はずみだったわけじゃないわ――
そう思えるように、あらかじめエクスキューズの道を作っておく。
約束の火曜日に洋子は美容院へ行った。あまりおしゃれをするのは、かえって変だろう。さりげなく、のほうがいい。普段よりちょっと着飾る程度にとどめた。
家を出てからは、
――糸に引かれているみたい――
そんな意識があった。自分で覚悟したことでありながら、見えない糸でたぐられているような気がする。
約束の時間に少し遅れた。本堂はホテルのカクテル・ラウンジで茶色い酒を前に置いて待っていた。
「こんばんは」
「車で?」
「そう。桜木町からタクシーで」
「タクシーが来るたびに、あなたかと思っていた。なにか飲む?」
「そうね、あまり強くないもの」
「じゃあ、バイオレット・フィーズ」
本堂が注文をすると、ウエイターが紫色の酒を運んで来た。
「会いたかった」
「ええ」
たがいに目を見つめあったまま、チンとグラスをぶつける。それを飲みほしながら食事のメニューを選んだ。
「肉が好きなの?」
「いえ、魚も好きよ」
二人とも同じミニッツ・ステーキをとった。
「マンハッタン・トランスファーのレコードを買って僕も聞いてみた」
「いかがでした? すてきでしょ」
「本当にハーモニイがきれいだね」
「音楽的にもレベルが高いんじゃないかしら。アカペラでも充分に聞けるから」
「アカペラって、なんだろ」
「伴奏なしで歌うコーラス、でしょ」
「何語かな」
「イタリア語じゃない? 正確にはア・カペラ。カペラが礼拝堂かなんかで、そこではそんなふうに歌ったんじゃないのかしら」
「もの知りなんだな」
「そんなことないわ。レコードのジャケットに書いてあったの」
「イタリアはすごいよ。洗練されたものは、みんなあそこから出て来ているみたいな気がする」
「ファッションもすてきですものね」
とりとめのない会話をするうちに食事が終った。本堂が立ち、洋子があとに続く。
――糸に引かれて、とうとうここまで――
エレベーターの天井に描かれた小さな星空を見た。本堂が手を握る。
「ここにはよくいらっしゃるの」
「いや、そうでもない」
ダブル・ベッドの部屋……。ベッドの存在が少しまぶしい。肩を抱かれ、ふり向くと唇が重なる。
「初めから、こうなるんじゃないかと思っていた」
「本当に?」
「うん」
「そんな女に見えました?」
「そういう意味じゃない。好きになりそうな人だと思った」
また唇が重なる。触れるたびに少しずつ深くなる。
――これも仕切り直しね――
体が熱くなった。アルコールの酔いとはちがった酔いが、体を侵し始める。洋子は目を閉じて自分だけの闇を作った。
――私、きれいかしら――
この瞬間に洋子はいつもそう思う。抱かれるならきれいに抱かれたい。そんな美意識に配慮をしてくれる男がいい。そして、最後にそれを忘れさせてくれる男が頼もしい。
抱きかかえられ、ベッドに運ばれた。男の掌が胸に届き、ボタンが一つ一つはずされる。
「あかりを消してください」
本堂が体を起こし、光を落とした。洋子はスーツの胸もとをあわせながら、
「不思議ね」
と、つぶやく。
「どうして」
「なんとなくそう思ったの」
本堂がまた近づいて来て、洋子の髪を撫《な》でながら押し伏せる。
「自分で脱ぎます」
「そう」
「シャワーを使っていいかしら」
「どうぞ」
洋子は小走りにバスルームへ向かった。
「バスローブがあるけど……ここへ置いておく」
本堂がバスルームのドアの外に白いバスローブを置く。洋子はドアを閉じながら、それを抱えた。
家を出る前に体を洗った。今は汗を流すだけでいい。香水はハンドバッグの中にある。取りに行くのは面映《おもは》ゆい。
鏡がすっかり曇っている。
掌で拭い、上半身を映した。
――五人目の男――
旅先でたった一度だけ抱きあった男もいる。油壺の事件は数に入れない。抱かれるのは……好き。性の喜びがそれなりにわかるようになっていた。
男にやさしく肌を撫でられるのはここちよい。バスローブの紐《ひも》を結んでドアを押した。本堂もバスローブに着替えていた。
「すみません」
さっきと同じように抱かれてベッドの上に運ばれた。
「洋子さん」
本堂は呼びかけ、洋子の目が開くのを待って、
「あなたが好きだ」
と続けた。薄闇の中で男の目が輝いている。甘さと鋭さを混ぜあわせたようなまなざし……。
――まだこの人のことをよく知らない――
肩をあらわにされ、腕を抜かれた。乳房が男の掌に包まれる……。安らかなここちよさ。目を閉じて男の愛撫《あいぶ》に身をゆだねた。キクンと体が震えた。
男の唇が乳首に届く。不確かな快感が少しずつ確かなものへと変って行く。
男は折り重なり、滑らかに体を貫かれた。一瞬、しびれるような感覚が走り抜ける。
体を堅くして、男を抱きしめた。
あとは体のここかしこにうごめくたゆたいに身をまかせればいい……。
耳もとの息使いが荒くなる。
男の体がどんどん堅く、熱くなって行く。
白いものが頭の中に広がった。深い部分の感触が、目の奥に、頭の中に不確かなイメージを作る。白く吹き出し、ねっとりと滲《にじ》んで体の中に染みこむ。
男の体が重くなった。
しばらくはそのままの姿でいた。この時間がいとおしい。
――いいの? これで――
頭の片すみで意地わるく問いただすものがいる。その名は、良識……。
――いいのよ、これで――
おぼろな意識の中で答える。
汽笛が聞こえた。港町のホテルにいることを思い出した。洋子の両親は神戸の生まれだと言う。港町にはどこか放恣《ほうし》の気配が漂っている。男はみんな旅人。女はそれを迎えて、胸の中に抱く。
「汗をかいたね」
本堂が掌で乳房のあいだを拭った。そして体を転がすように離し、洋子のすぐ隣であおむけになる。二人そろって天井を見上げた。
「あい変らず上から音が落ちて来るのか」
本堂が尋ねたのは、マンションの物音のことである。
「ええ、そうね。管理人に頼んで注意してもらったんだけど……。郵便受けに逆に投書があって、猫がわるさをする。気をつけろ≠チて」
「上の男が?」
「きっとそうよ。アミイはそんなわるさをしないわ」
「厭な奴だなあ」
「だれにでも愛想のいい猫なのよ」
「夜は外に遊びに行くんだろう」
「ええ。公孫樹の木を伝わって」
小一時間も家族の話や仕事の話をかわしただろうか。本堂は聞き上手である。気がつくと、たいてい洋子のほうが話していた。
そのうちに本堂の手が洋子の胸に伸び、また抱きあった。
「泊まって行ってくれないかなあ」
「明日、仕事があるの。特別に出勤を頼まれてしまって」
犬猫病院では今、風邪がはやっている。常勤の医師が二人も休んでいる。朝も早いし、横浜のホテルから出勤したくはなかった。
それに……最初の日から泊まってしまうのは、
――アクセルがかかりすぎちゃうわ――
そんな思惑がある。けじめを見せておいたほうがいいだろう。
「ここから出勤すればいい」
「ごめんなさい。そうもいかないの。用意もあるし……。このまま会えないわけじゃないでしょ」
「そりゃそうだ」
「帰ります」
「そのかわり、また会う約束をしよう。できるだけ近いうちに。今週の金曜か土曜。今度は東京がいい」
「ずいぶんすぐなのね」
「駄目かな」
「そうね。連絡をしますわ。恵比寿のレジデンシャル・ホテルの電話番号、何番ですの」
「僕のほうから連絡する。明日の夜にでも」
「そうしてください」
「送っていこう」
この前の夜と同じように渋谷の駅まで本堂に送ってもらって別れた。
「疲れちゃったわ」
マンションの部屋に帰ったのは十二時過ぎ。すぐにベッドに入って目を閉じたが、長く眠らないうちに電話のベルで起こされた。
「もし、もし」
はっきりと目をさまさないまま受話器をとった。
なにも答えない。
――まただわ――
耳を澄ますと、荒い息使いが聞こえる。男が一人であえいでいるような。どうもそうらしい。電話のむこうには変質者がいるみたい……。
受話器を置き、上に毛布をかけた。さらに布団をかぶせた。こうしておけばベルが鳴っても目をさまさないだろう。
しっかり眠っておかないと明日がつらい。手術も二つ三つあるだろう。このごろは骨折をするペットがやけに多い。動物たちも体がすっかりやわになってしまったようだ。
――私もなにか運動をしようかしら――
ジョギングをしている夢を見たのは、そのせいだったろう。
二週間たらずのうちに本堂とは四回もあった。
「どうしても会いたい」
そう言われると、洋子のほうは時間の作れない立場ではない。本堂も忙しいことは忙しいのだろうが、なんとか都合をつける。
男と女の仲は、いったん抱きあってしまうと、それが習慣になる。そのたびに体がなじんで行く。手と上等な手袋のようにフィットする……。東京では赤坂のホテルを使った。いつも本堂に支払わせていては申しわけない。食事代は洋子が持つように努めた。
「これ、見たことある?」
抱きあったあと、本堂がテレビの前に立って尋ねた。
「どれ?」
首を曲げると、画面に外国映画らしいものが映っている。本堂がベッドに戻って来て枕《まくら》を立てる。洋子も同じように枕を立てて画面をながめた。
「映画は好き?」
「嫌いじゃないけど、このごろ、あんまり見てないわ」
「これは死刑台のエレベーター=v
「ああ、聞いたことあるけど、見てないわ。この女優、なんていう人でしたっけ」
「ジャンヌ・モロー」
「唇のあたりが、ちょっとだらしない感じね」
「そうかな」
見ているうちに引きこまれる。
「スリラーって、わりと好き」
「女性は案外残酷だから……」
「私は、とくにそう」
人妻の不倫の恋。その夫は土地開発会社の社長で、恋の相手は夫の会社で働いている男。秘密の愛はついに二人に殺人を決意させる。男はロープを使って社長室に忍びこみ、完全犯罪が成功するかに見えたが、そのロープを片づけるのを忘れて来た。男は気がついて引き返し、すぐにエレベーターで逃げようとするが、あいにく守衛にビルの電源を切られてしまい、夜通しエレベーターの中に閉じこめられる。外では犯罪の成否を案じながら、待っている女。男がエンジンをかけたまま止めておいた車に、町のチンピラと花売り娘が乗りこみ、この連中がもう一つの殺人事件を起こす。それがきっかけとなってエレベーターを出た男は逮捕されてしまう。
そんな物語である。
テレビの画面をはすかいに見ながら本堂がつぶやく。
「あのう、鼠を殺す薬、僕にもくれないかな」
ベッドの飲み物は黄金色のブランデー。洋子は一口飲んだだけで酔いが走りだす。
「あら、どうして」
「液体? どうすればいいんだ」
「水に溶して鼠の好きそうな食べ物に染みこませておけばいいの。毒性はものすごく強いわよ」
「無味無臭なの?」
「そう。危険だから発売できないの」
「なるほど。今度、持って来てよ」
「なんに使うの」
「護身用だな。いつ地震が来るかわからない。逃げられなくなって少しずつ死ぬんじゃたまらない」
「考えておくわ」
「ハンドバッグの中に入れておいてくれれば、僕が盗んでもいい。あなたに罪はない」
「ああ、そうね」
「このつぎ会うとき、かならず。本気だよ。指切りげんまん」
ベッドの上で指をからめた。
話しながら、はすかいに視線を送ってテレビの画面を見る。映画は……ちょっとした手ちがいで完全犯罪は崩れ、主人公は逮捕されてしまう。それを知ったヒロインは「あなたが刑を終えて帰って来るまで十年でも二十年でも待っているわ」とつぶやく。そしてエンド・マーク。
「あら、ビデオだったの」
「うん。ひまつぶしに見ようかと思って……。ホテルって結構いろんなものがそろっているんだ」
「この二人、本当に愛しあっていたのね」
洋子はあごで、テレビを指した。人妻の不倫。夫の部下との恋。結婚したあとで夫より好きな人にめぐりあうことも……あるだろう。
「そうだよ。でも、むつかしいな」
「なにが?」
「夫を殺したあとで、二人仲よく暮らそうという計画だろ、これは。当然疑われるよ」
「でも二人の関係はだれにも知られていなかったんでしょ」
「そりゃ、そうだけど……。深く愛しあってからじゃ遅いんだよなあ。だれかが感づく、だれかが見ている。こういうことは、もっと早い段階で決断をしなくちゃあ」
「どういうこと?」
本堂はすぐには洋子の質問に答えない。起きあがりテレビのスウィッチを切った。
「あなたはどう思っているか知らないけど、僕は運命的なものを感じているんだ。あなたと出あったことについて。本当だよ。きっとすばらしい二人になるって……」
洋子の目を見つめながら言う。この男のまなざしはいつも甘くて、雄弁だ。
「ええ……」
「でも、たとえば僕に妻がいたとする」
「いるの?」
「いないけど……たとえばの話だよ」
「それで?」
「これから先、あなたと僕が熱烈に愛しあって、どうにも離れられない関係だとわかって……そうなると当然、妻が邪魔になる。今、見た映画みたいにね」
「ええ?」
「でも、そのときになって、ことを起こしたんじゃ遅いんだ。もっと早い段階で未来をしっかり予測して……。それが幸福をつかむこつなんだな。なんでもそうだよ。このゲーム、知っている?」
本堂はサイドテーブルのマッチを取って、軸を毛布の上に並べた。三本、五本、七本と、三つの山を作った。
「知らないわ」
「あなたと僕とで順番にマッチの軸を取って行く。何本取ってもいいけど、いつも一つの山から取らなきゃいけない。二つの山にまたがって取っちゃいけない。そうやって交互に取って行って、最後の一本を取らされたほうが負けになる。やってみよう」
言われるままに洋子は五本の山から二本を取った。すると、本堂が七本の山を全部取ってしまう。残りは三本の山が二つ。洋子が一本を取る。本堂がべつの山から一本を取る。二本と二本……。こうなったら洋子がどう取っても負けになる。
「駄目みたいね」
「そう、もう一度やってみようか」
何度やっても洋子が負けてしまう。
「じゃあ、今度、あなたが先に取って」
「いいよ」
それでも洋子が負ける。
「あははは、勝負はずっと前についているんだ。最初に取ったときに……。残りの軸が少なくなってから考えたって遅いんだ」
「そうみたいね」
本堂がマッチ棒を片づけ、洋子を抱きしめる。
「僕はワルだよ。エゴイストなんだ」
「私もそうよ。人間はみんなエゴイストよ」
「まあね。そのへんであなたとは波長があうのかもしれないな。でも、どうせ生まれて来たんだから、思いっきりすばらしい一生を送りたい。そう思わない?」
「思うわ」
「ところが人生はなかなか思った通りにはいかない。幸福になるためには頭も必要だし、勇気も必要だ」
「わかります」
本堂は洋子のバスローブを割って乳房をさぐる。まるい形のよい乳房……。
「殺したいほど、憎い人、いない?」
「いないこともないけど……」
洋子は、ついこのあいだ便利屋の宮地と同じような話を交わしたことを思い出した。宮地はいかにも気のよさそうな青年。いつまでたっても田舎っぽい。あのとき、
――この人は、本気で人を憎んだことがないみたい――
と、わけもなく思った。人を憎めない人は人を愛することもできない……。そんな気がする。
――私はちがうわ――
強く愛するためには強く憎めなければいけない。同じパトスから出ていることなのだから。
「だれ?」
「そうね。今は上の階の人」
六〇七号室の男。やることなすこと洋子の神経にさわる。イライラさせられる。油壺でひどいことをした男かもしれない。洋子の快適な生活をおびやかす存在……。いなくなってくれればいいと思っているのは本当だ。
「そんなにひどいのか」
「なんか厭な感じなの。いたずら電話もしょっちゅうかかって来るし……。で、あなたは、どうなの? 殺したいほど憎い人、います?」
「いるね。憎いというより、その人がいては僕は幸福になれない」
「奥様?」
「ちがう、僕は独り者だよ。嘘じゃない」
「じゃあ、だれ」
「あなたは知らないほうがいい。僕があなたの憎い人を消しちゃう。あなたが僕の憎い人を消しちゃう。消しゴムかなんかで……。これが一番いいんだよね」
本堂が笑いながらタバコをくわえた。
「そうみたい」
洋子も笑いながら相槌を打った。
「むかしのローマの法律用語に、アリバイとクイボノがあったんだってさ」
「くわしいのね」
「いや。世界史の授業で先生が話していた。雑学の大家でね。とてもおもしろかった。アリバイのほうは今でも使われているだろう」
「ええ」
「クイボノってのはだれの利益か≠チてことらしい。つまり事件が起きたとき、アリバイがあるかどうか、だれが得をするか、それを調べれば、おのずと犯人がわかる。この二つがきめ手なんだ」
「アリバイとクイボノ?」
「そう。ところが交換殺人てのは、どっちも曖昧になってしまう。その人が殺されて利益をうる人には、歴《れつき》としたアリバイがある」
「推理小説がお好きなの?」
「わりと好きだね」
「私も好き」
「どんな作品が?」
「忘れちゃうの。そのときはおもしろいけど……。ヒッチコックなんか」
「でも、それは映画だろ。赤毛のレドメイン家≠ネんか僕は好きだな」
「知らないわ」
「フィルポッツの作品。あなたみたいなすてきな人が出て来る。とてもチャーミングだけど、悪女なんだ。愛のためなら、こわいことも平気でやっちゃう」
「あら、そうなの」
本堂の指が乳首をはさむ。洋子の中でくすぶっていた快楽がまた騒ぎ始める。
「いやン」
「これ、かわいい。公平に愛してあげなくちゃあね」
二つの乳房があらわになった。襟もとをあわせても、またすぐに脱がされてしまう。
乳首は正直だ。つんと上を向いて堅くなる。
「あなたが好きだ。すばらしい二人になりたいね」
「ええ……」
「鼠の薬を忘れないで。このつぎ会うとき……」
指先がもっと深い部分をさぐる。
洋子は男の掌に体をゆだねながら、本堂の声を聞いた。
転 落
井の頭公園の木立ちが色づき始めた。毎日観察しているわけではないが、見るたびに色が変っている。
――四季って、いいわね――
洋子は朝起きて、まず一番にベランダの戸を開ける。部屋の空気を入れ替え、天気がよければベランダに出て深呼吸をする。
――あらっ――
表情が曇った。
ベランダにちり紙が落ちている。なかば開きかけたちり紙の中に痰《たん》が粘りついている。
眉をしかめて上を見た。
指先でちり紙をつまんだとき、
――痰じゃないわ――
と気づいた。
よくはわからない。ねっとりと紙に染みこんで糸を引いている。どこがどう、痰とちがうのか……。
――男性のエキス――
匂いをかげばわかるのかも知れないけれど、とてもそんな気にはなれない。
――どういうつもりなの――
背中に虫酸《むしず》が走る。いきどおりがこみあげて来る。
ちり紙を新聞紙の上にのせ、いくえにも包んで捨てた。こんなことをたびたびやられたら、本当に許せない。
昼近くに一階まで郵便を取りに行くと、六〇七号室の男が郵便受けをのぞいている。
洋子は横を向いたまま、
「ベランダにごみを投げ落とさないでください」
と、それでも一応は丁寧な口調で告げた。
男はジロンとした目つきで洋子を見て、それから頬をゆがめて笑った。それが目の端に見えた。男はあやまるわけでもないし、言い返すわけでもない。
――いやっ――
洋子は一瞬、息を飲んだ。郵便物を持った男の右手の手首のあたりに黒いあざがある……。セーターの手首からちょっと見えて、すぐに消えた。
――やっぱり油壺の男――
はっきりと見たわけではない。
でも、そうだとすれば、薄笑いの理由もわかる。男はほくそ笑んでいるにちがいない。
――俺《おれ》、あんたを抱いたことがあるんだぞ――
あわよくばもう一度チャンスを狙っているのかもしれない。ちり紙の悪戯にも同じ種類の悪意が感じられる。
洋子は管理人室をのぞいた。
「六〇七号室のかた、ごみをうちのベランダに落とすのよ、わざと」
「このあいだ、一応注意してみたんですけど」
管理人は眼鏡をかけた気弱そうな男である。おそらく定年後の仕事といったところだろう。
この手の苦情は処理がむつかしい。わるいのがむこうとわかっていても、あまり強く攻撃すると、かえってひどいことになる。
「どういうかたですの?」
「お仕事はカメラマンで……。よく家をあけてますね」
「なにを写しているのかしら」
ろくでもない写真。たとえばポーノグラフィとか……。
「さあー。風景写真みたいなお話でしたけど、よく知りません」
「困るわ」
「また言っておきますよ」
「お願いします。軽くね。あんまりひどく言うと、かえって妙なことをされちゃうから」
「はあ。大丈夫です」
不安がないでもなかった。
午後は新宿に出て買い物をすませ、七時ごろ部屋に戻ったが、アミイの姿が見えない。餌皿の餌はいっぱいのまま残っている。
――変ね。あの子も恋をしてるのかしら――
そのときは深く考えなかった。
だが、夜がふけてもアミイは帰って来ない。外へ捜しに出てみた。
「アミイ、アミイ」
あまり声高に呼ぶのは恥ずかしい。第一、猫の行方なんて、どこを捜していいのかわからない。管理人室は、夜は委託の警備員に替っている。
「猫、見ませんでしたか。白と黒のぶちで、白のほうが多くて……」
「見ませんねえ」
十二時を過ぎても戻らない。夜遊びは毎度のことだが、餌はかならず食べる。それを考えると、洋子も安穏としていられない。
夜中の一時過ぎにまた外に出た。
「アミイ、アミイ」
暗闇に向かって呼びかけた。
アミイの帰りを待ちながら洋子は、アミイを初めて手に入れたときのことを思い返した。渋谷のペット・ショップ。もう閉店時間も近かったろう。ガラス戸の中で仔猫《こねこ》がポッカリと目を開けて夜の人通りを見つめていた。
――だれかを待っているみたい――
ただの日本猫……。シャム猫やペルシャ猫などとちがって血統的に珍重される種類ではない。洋子が通り過ぎてしまったら買い手もつかず、そのまま殺されるかもしれない。そんな運命も知らずに仔猫は明日を思っている……。ぼんやりとした不安を覚えながら。
洋子自身も一つの恋が終り、心の中にポッカリと穴があいていた。
「性質のいい猫かしら」
と店の主人に尋ねた。
「ええ。飼いやすいと思いますよ」
「どうしてわかるの?」
「親猫も、ほかの兄弟も、みんなそうですから」
「じゃあ、ください」
コートの中に抱いて帰った。アミイと名づけた。その意味は友だち、恋人……。幼いうちに去勢の手術をほどこした。だからアミイは恋をするとしても、はんぱな恋でしかない。
――そのぶんかわいがってあげなくちゃあ――
店の主人が言った通り、性格の穏和な、飼いやすい猫だった。もう二年近く一緒に暮らしている。
朝まで帰らない夜など、一度もなかった。夏バテをして、ちょっと食欲の落ちるときはあったが、餌皿の餌がそのままに残っていることもなかった。
「どうしたのよオ」
洋子は小さな物音にも目をさました。明けがたもう一度捜しに出たが、アミイは見つからない。
――今日は出勤の日だし――
餌を新しくして家を出た。この次に餌皿を見るときには少しでも減っていてくれればいいのだが……。
犬猫病院は風邪で欠勤の人もいて、とてもいそがしい。昼食をとるひまもないほどだった。なぜか重症の多い日。腎《じん》機能の低下しきったシャム猫、血尿のアメリカン・ショートヘアー、腹水貯留のチンチラ……。
残業をして家へ帰ったが、アミイはいない。餌皿の中身も朝のままだ。
インターフォンのベルが鳴った。
「はい」
急いで受話器を取った。
「宮地です」
インターフォンから聞こえて来たのは、便利屋の宮地の声だ。下の管理人室かららしい。
「はい?」
「電気がついていたから……。あのう、アミイによく似た猫が外で死んでいるんだけど、アミイ、元気ですか」
「本当に? どこ。きのうからいないの」
洋子は軽いめまいを覚えた。
「下のごみ捨て場。木くずを捨てに行ったら、そこにいて」
「今、行くわ」
エレベーターを待つのももどかしく階段を駈けおりた。
マンションの裏手にごみ置き場がある。ごみを入れた黒い袋やポリエチレンの容器が乱雑に置いてある。
宮地が立っていた。その足もとにアミイが転がっている。
「アミイ」
駈け寄って抱きかかえた。毛肌は変りないが、体がこわばっている。目を薄く開き、口から舌をつき出している。
首輪の下にひもが巻きついていた。右足の毛の中に血の色があった。
「ひどいわ」
「そこの、すみに押しこんであったんですよね。尻尾が見えたもんだから」
よく見るど、ところどころに傷がある。
人なつこい猫だから、声をかけられれば足を止め、抱かれもしたのだろう。それからどうされたのか。アミイは危険をさとって抵抗したにちがいない。いくつかの傷はそのときについたものだろう。指先で目と口を閉じてやったが、すぐにもとに戻ってしまう。
「殺されたんですかねえー」
「六〇七号室の人よ。鈴木勇とかいう男」
「ああ、変な人でしょ。さっき見ました」
「ここで?」
「ううん。荷物をしょって。どっか旅にでも行くような恰好でしたよ」
「そう」
涙がにじんで来る。
――どうしよう――
人間ならば、ただではすまされない。凶悪な殺人事件である。でも、猫だから……このまま泣き寝入りするしか方法がないのだろうか。
「ありがとう。なにか手伝ってもらうかもしれないわ」
「はあ」
胸にしっかりと抱いて部屋に戻った。
アミイの死顔を整え、ダンボールの箱に納めた。菊の花を買って来て棺を飾った。
ペットの焼き場に連絡をとった。
箱の中を覗いて見ると、いつのまにか安らかな表情に変っている。まるで眠っているみたい。
――許せないわ――
涙のあとから憎悪がこみあげてくる。ただの悪戯ではない。はっきりとした悪意が感じられる。敵意と言ってもよいだろう。
――私がなにをしたと言うの――
アミイだって、なんの罪もないのに……。声をあげてののしってやりたい。
――殺してやる――
一瞬、そう思った。
――あんな男、死ねばいい――
本当にそう思った。洋子は自分でもよく知っている。普段は冷静だが、時おりカッとなることがある。そんなときには感情をうまく制御できない。
手帳を取り出し、電話番号を押した。
――本堂さんに話そう――
恵比寿のレジデンシャル・ホテル。信号音が三つ鳴って、
「はい」
と答える。
「本堂さん?」
「いえ、フロントです」
「あのう、本堂和也さん、お願いしたいんですけど」
「今、いらっしゃいません」
「何時ごろお帰りになるのかしら」
「わかりませんねえ。ずーっといらっしゃらないんじゃないかな。どなた?」
「仁科と言います。お帰りになったら、お電話をいただけませんかしら。ご伝言をお願いします」
「はーい、言っておきますけど」
ホテルのフロントにしては頼りない感じだった。マンションの管理人みたいな立場なのかもしれない。
――春美に話そうかしら――
電話番号を押しかけたが、途中で指を止めた。
春美はペットに関心がない。驚いてはくれるだろうが、洋子の悲しみを正確には理解してはくれないだろう。
――今夜はお通夜ね――
棺の中からアミイを取り出し、ベッドの中で抱いた。毛肌の感触だけは生きているときと変らない。堅い体を撫でながら眠った。
だが、すぐに電話のベルで浅いまどろみを破られた。
受話器を取った。胸の下にアミイの堅い死体が触れる。
「もし、もし」
「仁科さん? 本堂です」
「あ、本堂さん。どうして?」
「うちに電話をかけたら、あなたから連絡があったらしい」
「あ、そう。本堂さん、私、悲しい」
眠ったからといって、現実は少しも変っていない。むしろ悪い夢からさめたときみたいにとても悲しい。
「どうしたんだ」
「アミイが、アミイが殺されたの。きのうからいなくて」
「殺された? どういうことなんだ」
「帰らないから心配してたの。そうしたら、今日、ごみ捨て場に捨てられていて……。首にひもが巻いてあったわ。二重にまわして」
「首をしめられたわけか」
「ええ」
「だれ? 上の階の男?」
「ほかに考えられないじゃない。ねえ、来て。会いたい。私、おかしくなっちゃいそう」
本堂がそばにいてほしいと思った。たった一人の通夜なんて、情けない。
「東京じゃないんだよ」
「横浜?」
「ちがう。岐阜に来ているんだ。今もまだ、うちあわせの最中なんだ」
「こんな時間に? いつお帰りになるの」
「あさって、かな」
「早く帰っていらして。さびしい」
「ごめん。こんなときそばにいられなくて」
「仕方ないわ。一人でお通夜をする。ごめんなさい。わがまま言って」
「大丈夫かなあ、元気を出して」
「ええ。なんとか……ね。死んだものは戻らないわ」
「鈴木勇とか言ったね、上の男。フリーのカメラマンで」
「そう」
「あなたはなにもしないほうがいい。まともな神経の持ち主じゃないな、そいつは」
「怖いわ。手首に黒いあざがあるの」
洋子はつい言ってしまった。
「黒いあざ? なんで」
電話のむこうで本堂が尋ね返す。
「むかし、乱暴をされたことがあるの。手首に黒いあざのある人に」
「乱暴? 乱暴って、なに」
「言えないわ。あやうく逃げたんだけど……。殺されるかと思った」
洋子は泣きながら少し嘘をついた。本当のことは言いにくい。
「その男なんだね」
「わからない。似てるような気がするけど……。手首にあざがあったのよ。同じあざが、このあいだ、チラッと見えたの」
「そりゃ、あなた……簡単に考えていいことじゃないぜ」
「だから、怖いの」
なぜ怖いのかしら……。そう思ううちに、今まで考えなかったことが頭に浮かんだ。
鈴木勇のほうも半信半疑なのかもしれない。下の階にいる女が油壺のときの女かどうか……。洋子が先に気づいて警察にでも訴えやしないかと、むこうはそれをおそれているのかもしれない。それで脅しをかけている……。
――少しちがうみたい――
もしそうなら、そっと洋子の前から姿を消す道を選ぶだろう。ちがうかしら。
――でも、あんな人、なにを考えるかわからないわ――
相手は普通の人じゃない。アミイの首をあっさりとしめてしまう男なんだ。その手が洋子の首にまで伸びないものだろうか。考え過ぎかもしれないが、悪意ははっきりと感じられる。
――甘くみられたのかもしれないし――
油壺ではほとんどなんの抵抗もしなかった。ただ殺されるのが怖かった。そのあとも洋子は騒がなかった。だれにも告げず、むしろ洋子のほうが、ひた隠しに隠してホテルを去った。
――脅せば、どうにでもなる女なんだ――
と、相手が思っても不思議はない。そんなふうに考えてみると、つじつまのあうところがある。
「どうしたんだ。泣かないで」
洋子が急に黙りこくってしまったので、本堂が声を高くした。
「今夜は上にいないみたい。だから安心。ね、仕事がすみ次第、すぐに帰って来て」
「ああ、そうするよ」
本堂は慰めの言葉を続ける。それを聞いて洋子の気持ちも少し静まった。
「よかった。本堂さんの声が聞けて」
「気をつけてな。アミイによろしく。ご冥福《めいふく》を祈ります」
「本当ね。伝えておくわ」
「おやすみ。よく眠ったほうがいい」
「ええ、さようなら」
電話を切って毛布をかぶったが、なかなか眠れない。よくない想像ばかりが浮かぶ。
――お通夜にはお酒がなくちゃね――
起きてブランデーをグラスに注いだ。一年前にあけた壜だけど、まだわるくなってはいないだろう。アミイに向けてグラスをあげ、一口飲んだとき、
ル、ルン
と、戸惑うように電話のベルが鳴った。
――本堂さんだわ――
さっきはもう少しうちあわせがあるって言ってたけど、それが終ったのだろう。
「はーい」
だが、電話のむこうはなにも言わない。
「もし、もし、どなた」
あるかなしかの息づかい。そっとこっちの様子をうかがっている……。わけもなく洋子はかま首をもたげた蛇を連想した。冷たい目で舌なめずりをしながら獲物を狙っている……。
背筋に悪寒が走る。
叫びたいのをかろうじてこらえた。「よくもアミイを殺してくれたわね」「このままじゃすまないわ」「卑劣よ、最低の男ね」などなど、言葉はたくさんある。
だが、しゃべるのは相手の思うつぼ、そんな気がする。反撃するなら、本当に効果のあることでなければつまらない。それに……相手を刺激するのは、やっぱり怖い。
黙って受話器を戻した。
またすぐにベルが鳴る。
対策はできている。電話機の上に毛布と布団をかぶせた。
――でも、本堂さんだったら――
その可能性もあるが、また声のない声を聞かされたらやりきれない。
――受話器をとってニャーオ≠ニでも鳴いてやろうかしら――
馬鹿らしいことを考えているうちに信号音が消えた。ブランデーを一気にのどに流しこみ、アミイの隣に体を滑らせた。
翌日、ペットの火葬場でアミイを焼き、小さな骨箱に骨を納めてもらった。部屋に持ち帰り、しばらくは机の上に置くことになるだろう。
一輪ざしに花を飾った。
アミイには野の花のほうがふさわしいかもしれない。
その次の日、夜ふけて本堂がマンションに訪ねて来た。
「眠っていたの?」
「ええ」
「ごめん。ほんの少しだけ」
あらためてアミイの死の様子を話し、本堂の膝で泣いた。
「ひどいやつだな。彼のこと、少しわかったよ」
「本当に? どういう人」
「鈴木勇ってカメラマンだろ。写真家の名簿に出ている」
「ええ……。私、狙われてるみたい」
「今夜はいるのかな」
「音は聞こえないわ」
「前科もあるらしい。まだよくわかんないけど」
本堂が肩に手を巻く。そのまま抱かれた。安らぎを覚え、目を閉じているうちに少し眠った。
「鼠の薬、どこにある?」
本堂が耳もとでささやく。
「なんに使うの」
「だから……護身用」
「嘘でしょ。殺したいほど憎い人がいるって、言ってたわ」
甘えるような、からかうような、そんな調子でつぶやいた。
「ああ、いるよ。そいつがいたんじゃ、僕は幸福になれない。僕たちもなれない」
「どうして」
「聞かないほうがいい。死刑台のエレベーター≠見ただろ」
「奥様なの?」
「ちがう、ちがう。僕は独り者だよ」
「私も上の人、殺したい」
もとより本気で言ったことではない。六〇七号室の男に対して激しい憎悪を感じていたのは本当だが「殺したい」なんて本気で言える言葉ではない。憎しみの感情を、そんな表現に託してみただけのことだった。
「だから、僕があなたの憎い人を殺す、あなたが僕の憎い人を殺す。それでいいだろ」
「そうね」
なんだか映画の中の会話みたい……。
「じゃあ、きまった」
部屋は暗く、本堂の横顔も暗い。声だけが、わざとらしいほど明るく聞こえた。
「ええ……」
「ねえ、鼠の薬、どこにあるの?」
「それは駄目。教えない」
「あることはあるんだね」
「そうよ」
「家捜しでもするかな。子どものころ宝捜しをやった」
「きっと見つからないわ」
「まあ、いいか……。いたずら電話、相変らずかかって来る?」
「ええ。厭なものね、あれは。家でくつろいでいるときって無防備の状態でしょ。そこをいきなり襲われるみたいで」
「電話で言ってたけど、昔、乱暴されそうになったことがあるって……」
「もういいの。思い出したくないから」
「でも、その男なのかな、本当に」
「わからない」
手首のあざは、はっきりと見たわけではない。偶然、同じところにあざのある男だって、いないとは限らない。
「そう」
本堂は二時過ぎまでいて帰った。
アミイがいないのがさびしい。それでも本堂に会って、心が少しなごんだ。
――よく眠っておかないと、つらいわ――
病院の仕事は忙しいが、これはいつものことである。
重症のマルチーズの安楽死を相談されたが、それを実行するより先に死んでしまった。よくあることだ。ペットは飼い主の心を知っているのかもしれない。
それから三日たって夜の十一時近くに電話のベルが鳴った。
――またいたずら電話かしら――
いたずら電話にしては時間が早い。
「もし、もし」
声を低くして呼びかけると、
「もし、もし、僕だ」
と、本堂の声が聞こえた。
「今晩は。今、どこ。また旅行?」
「新潟にいる」
「あ、そう」
「知っている? 彼は死んだよ」
なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。
「もし、もし、なんですって」
「彼が死んだ」
はっきりとそう聞こえた。
「彼って……だれ」
「鈴木勇。六〇七号室の男」
「嘘っ」
「本当だ。そっちの夕刊には、まだ載ってないかな」
「どういうことなんですか」
「佐渡《さど》を知っている?」
「いえ。行ったこと、ないわ」
「北の先っぽに大野亀というところがある。海辺に切り立った二百メートルくらいの絶壁でね、そこに写真を撮りに来て……死んだ」
「でも……」
なんだかおかしい。
「事故死ということになっているけど、わかるね」
受話器を握っている手が汗ばんで来る。
――新潟から電話をかけていると言ったけど――
思考がうまくまとまらない。
「本堂さん」
「なんの心配もないよ。警察は事故死じゃないかもしれないって、少しは疑っているらしいけど、どうなのかな。まあ、大丈夫だね」
洋子は電話に向かってなにを言っていいかわからない。
「本堂さん、本当に、あなた……」
「だって約束したじゃないか」
「でも、あれは……」
「僕は本気だよ。いい、いい。こっちのことは気にしなくていい。あなたの知らないところで、事故が一つあっただけだ。死んでも仕方のないような、ひどい男らしいよ、いろいろ暴行なんかやってて」
「でも」
さっきから同じ言葉ばかりをくり返している。
「明日の新聞にちょっとくらい出るかな。僕が疑われることはない。次は、あなたの番……」
「なにをするの?」
「ゆっくり相談するよ」
「もし、もし」
「ちょっと急いでいる。テレフォン・カードもなくなる。とにかくもう安心だ。明日の朝、また連絡する」
「いつ東京へ帰って来るの?」
尋ねたが、答えるより先に電話が切れた。
しばらくは電話の前にポカンとすわっていた。
――わるい冗談じゃないのかしら――
そう思いたかった。現実のこととして考えるのがむつかしい。洋子はあたふたと立ちあがり、本棚の中から地図帳を引き出した。新潟県がなかなか出て来ない。山形県、福島県、茨城県……神奈川県の次にやっと長い海岸線と佐渡島が現れた。
地図に記された字が小さい。ルーペを取って当てた。
――たしか大野亀って言ったと思うけど――
北の先端には二ツ亀島という記載はあるが、大野亀は見あたらない。ルーペを動かして佐渡島のすみからすみまで捜してみた。
――ないわ――
もっと大きな地図でなければ記してないのだろう。
海に面した高い絶崖《ぜつがい》。たしか二百メートルとか言っていた。そのてっぺんから男が転落して死んだ……。大野亀がどこにあるか、それはさして重要な問題ではあるまい。
時刻に気がついてテレビのスウィッチを入れた。十一時のニュースを聞いたが、なにも伝えてくれない。
――どういうことなの――
こんなときこそ落ち着いて考えなければいけない。脳味噌の半分ぐらいが「嘘よ」と疑っている……。
ここ一日二日、六〇七号室から音は落ちて来なかった。鈴木勇は佐渡へ写真を撮りに行ったのだろう。
それをどうして本堂が知ったのか。このあいだの話では、カメラマンの名簿で見つけたようなことを言っていた。旅行ライターという仕事がら本堂は風景写真家について情報を得やすいルートを持っているのだろう。
とにかく本堂はなにかの方法で鈴木勇の旅程を知り、跡を追った。カメラマンが絶壁に近づいたのは、自分の意志だったのか、それとも本堂が誘ったのか……。本堂は周辺の地形を知っていたにちがいない。
――でも、本当に大丈夫なのかしら――
だれかに見られたかもしれない。
ゆっくり考えてみると、本堂の危険はその一点にしぼられる。それしかない。
――たしかクイボノって言ってたわ――
ラテン語でだれの利益か≠ニいう意味……。犯人捜査に当たって、アリバイと一緒に古代ローマではこれが決め手になったとか。鈴木勇が死んでも本堂にはなんの利益もない。だれにも見られず現場を離れてしまえば、捜査の糸はたぐれない。
安らかには眠れない夜だった。恐ろしい夢を見て何度か目をさました。
新聞の落ちる音を聞いて、ベッドを出た。
社会面を広げたが、それらしい記事はない。
――よかった――
一瞬、そう思ったのは、本堂の電話をまだ現実ではないと思う心理が洋子にあったからだろう。
テレビをつけた。本堂からの電話を待った。今日は病院へは行かない日である。当然のことながら六〇七号室に人の気配はない。その男を憎いと思ったし、消えてくれればいいとは思ったのも本当だが、こんな事態は予測さえしていなかった。
ベルが鳴った。
「ああ、僕だ、洋子さん?」
本堂の呼びかたが苗字《みようじ》から名前に変っている。
「はい」
「新聞、見た」
「見たけど……なにも載っていないわ」
「地方の事件だからね。こっちの新聞には載っている。現場まで行った者がいる。事故死じゃない≠チて書いてる新聞もあるよ」
「本当に? 本堂さん、大丈夫なの。今はどこ」
「高崎に来ている。ここまで来れば心配はない」
本堂の声は普段とほとんど変りがない。男はちがうのだろうか。
「でも、だれかに見られたんでしょ」
「遠くからうしろ姿くらい見られたって、どうってことないよ」
「そうかしら」
「結局、事故死として処理されるね。うまく行った」
「そんな暢気《のんき》なことを言って」
「明日くらい東京へ帰る。あなたにはなにも関係のないことなんだから、騒いだりしちゃ駄目だよ」
「でも」
「さよなら」
十時を過ぎるのを待って近所の書店へ行った。佐渡島のガイドブックを買い、それから駅のキオスクに立ち寄って、家で見たのとはべつの新聞を選んだ。
マンションのロビイを通り抜けると、管理人室の前に人が二、三人集っている。
「事故死らしいですよ」
たしかにそう聞こえた。
そのほか「佐渡」とか「六〇七号室」とか「鈴木さん」とか、そんな声も聞こえて来る。なにが起きたか、事態は疑いようもない。
「仁科さん」
管理人が洋子を呼んだ。キクンと胸が鳴った。
「はい?」
「六〇七号室の鈴木さん、おなくなりになったそうですよ」
眼鏡をかけた管理人には、これまで二度ほど「六〇七号室に苦情を言ってほしい」と頼んだことがある。管理人はぜひともこのニュースを洋子に伝えなければなるまいと思ったのだろう。
「えっ、どうして? 急にですか」
「佐渡のほうに写真を撮りにいらして、崖《がけ》の上から落ちたらしいですよ。警察のほうから問いあわせがあって……」
「本当に?」
眉をしかめて見せた。
――ただの事故よ。そう思えばいいんだわ――
洋子は新聞と一緒に佐渡のガイドブックを持っている。それを主婦たちに見られないように新聞のあいだにたたみこみ、
「危険なお仕事なんですのね」
「そうなんですなあ」
と、管理人は眼鏡を滑らせてうなずく。
「こちらにお体が戻って来るのかしら」
と、だれかがつぶやいた。
「そうじゃないみたいですよ」
「ご家族はおられないんでしょ」
「岡山にどなたかいらして、そちらのほうに直接……」
管理人もそう正確には知らないらしい。
「ちょっと変ったかたでしたわねえ」
頭にターバンを巻いた女が言うと、管理人は同意を求めるように洋子の顔をのぞく。
「ええ」
洋子は曖昧《あいまい》に言ってから、
「じゃ、失礼します」
と、人の輪を離れた。
部屋に戻り、ドアに鍵をかけて、買って来た新聞を見たがやっぱり記事はない。人が事故で死ぬことなど、めずらしくもないのだろう。佐渡のガイドブックを開いた。
今度は、佐渡島の地図の先端に赤い字で大野亀と記してある。特徴のある島の形の、北のはずれのあたり。
――どんなところかしら――
おそらく人けのない、さびれた海。切り立った断崖《だんがい》。荒い波のしぶき、波の音。
ガイドブックのページをくって大野亀の項目を捜した。
鷲崎からバスで二十五分。一六七メートルの切り立った一枚岩壁の雄大さは外海府《そとかいふ》のシンボル。頂上には大きな石灯籠《いしどうろう》があり、外海府の海岸線を一望……≠ニある。
また地図を見た。
佐渡なんて、洋子はおけさ節と金山くらいしか知らない。それも「知っている」とはとても言えない程度の浅い知識である。
新潟からは両津という港に着くらしい。鷲崎をようやく見つけた。鷲崎から大野亀までが二十五分ならば、両津から鷲崎までは三時間くらいの見当になる。とにかくさいはてのはるか遠い海であることはまちがいない。
人に見られることは少ないだろうが、姿を見られたら案外致命的かもしれない。もう秋も深まっている。北の島は寒くなり始めているだろう。東京の人などめったに行かないところなのではあるまいか。
――どうしてそんなところに――
鈴木勇は風景写真家だから、人の行かない場所にわざわざおもむくこともあるのだろう。それを本堂がどうして知ったのか……。
――早く本堂さんに会いたい――
納得のいく説明をしてほしい。抱きあって安心をしたい。
ヒクン、と体が震えた。大切なことを忘れていた。忘れていたというより、考えるのが怖いから考えずにいた……。
――私って、変なのよね――
悩みごとに強いタイプではない。悩み続けているうちにどうしようもないほど苛立《いらだ》ってきて、思考停止が起きてしまう。どうでもよくなってしまう。レース編みなんかどう編んでいいのかわからなくなり、鋏《はさみ》でズタズタに切ってしまう。そんな自分をよく知っている。だから怖い……。
本堂は電話口で言っていた。「次は、あなたの番……」
ベッドでつぶやいていた言葉も耳に残っている。「僕があなたの憎い人を消しちゃう。あなたが僕の憎い人を消しちゃう。消しゴムかなんかで……」
しかし、これは消しゴムではない。
洋子は冗談だと思っていた。
でも、今になって思い返してみると、本堂の口調はどこか普通の話し方とちがっていた。口もとは笑っていたが、声には乾いたような、押し殺したような、真剣なものが含まれていた。
――この人、なにを考えているのかしら――
あのとき頭の片すみでそんな不安を抱かないでもなかった。
「次は、あなたの番……」
言葉の意味ははっきりとしている。本堂は、自分がしあわせになるためにはどうしても邪魔な人がいる、と、たしかそう言っていた。
――なにをすればいいのだろう――
考えたくはない。それでも考えてしまう。苛立って来る。本堂からはなんの連絡もない。
午後遅くなって速達が届いた。差出人の名はないが、本堂の字である。
急いで開けてみると、新聞記事の切り抜きをコピーしたものが入っていた。
読んだら封筒ごと焼いてください。かならず≠ニ余白に赤く書いてある。
記事は、大野亀の事故を報じている。カメラマン、転落死?≠ニいう見出しに続いて、
〈新潟〉十三日午前十時ごろ佐渡北端の大野亀で東京都三鷹市井の頭四のカメラマン鈴木勇さん(三六)が撮影中に崖から転落。死体が海に浮いているところを発見された。大野亀の頂上は三平方メートルくらいの狭い岩場で、その百七十メートル下が海面になっている。なお、鈴木さんには同行の男性が一人いたという証言もあり、両津署では殺人の疑いもあるとして捜査を進めている
と、不鮮明なコピーで記してある。
――やっぱり見られていたんだわ――
それは本堂も電話で言っていたことだ。
どのくらいはっきりと見られたのか。目撃者は一人だったのか。天候はどうだったのか……。
――ああ、そうね――
安堵《あんど》が胸に広がる。
同行者がいたことがはっきりしていて、しかも、その男が姿をくらましているとなれば、まず第一に考えられるのは殺人のほうだろう。新聞の見出しは事故を匂わせているし、管理人室への連絡も事故死だった。扱いが事故死なのは、目撃者の証言がすこぶる曖昧だったからにちがいない。
洋子は夕食を近所のそば屋ですまし、マンションへ戻って来ると、
「あの、仁科さん」
と管理人が手招きをする。
「なんでしょう」
管理人は二人いて、今日は眼鏡のほうの人ではない。ちょっと赤ら顔、人のよさそうな老人である。
「聞きましたか、六〇七号室のこと」
「ええ、おなくなりになったとか」
「佐渡で、崖から落ちたんですって」
「そうなんですってね。さっきここでみなさんが話していらしたから」
管理人は周囲をうかがってから、
「警察から電話があって、だれか死んだ鈴木さんを恨んでいる人がいないかって……」
と、声を落として言う。
「でも、事故だったんでしょ」
「一応調べてみるらしいですよ、そう言ってました」
「変なのね」
「私、わからないって言ったんですけど、隣の人や真下の人はどうだって……。このごろそういうトラブルが多いから。いえ、むこうがそう聞くんです」
「それで?」
「そりゃ多少のトラブルはありますけどって言ったら、名前を聞かれましてね」
「私の……」
「隣と真下と。そしたら仁科さんは独りか、なにをしている人か、ここ一週間マンションにいたか、そんなことも聞かれました」
「私だけ?」
「いえ、六〇六の谷さんも。隣は一つだけだから」
「ちゃんと東京にいましたって、答えてくださった?」
事実、洋子は東京にいたのだし、赤ら顔の管理人とも顔を合わせている。
「はい、もちろん」
ここ一週間といえば……アミイがいなくなり、夜中に何度か捜しに出て、翌日は病院へ。夜になって死体が見つかり、お通夜のあとでペットの火葬場へ行った。それが五日前のこと……。そのあと鈴木勇が佐渡で死んだはず。洋子のほうは病院勤務もあったし、いろんな人と顔をあわせているし、あやしいところはどこにもない。いつでも証明ができる。
「それ以外に、なにか聞かれました?」
洋子は管理人に尋ねた。
「いえ、べつに。私、なにも言いませんから」
「故郷はどこなの、鈴木さんは」
「岡山ですね。たしか。遺体もそっちのほうでしょう。お姉さんがおられるとか」
「そうなんですか」
「ここは鈴木さんの持ち物じゃありませんから」
「あ、そうなの」
初耳だった。
「鈴木さんはたしか来週あたりからずーっと東南アジアへ行って、しばらく帰らないような話でしたよ。その前に佐渡へいらしたんでしょうにねえ」
眼鏡の管理人よりこの人のほうが情報通らしい。
「はあ」
六〇七号室の男には、外国へ出る前に済ましておかなければいけない仕事があったのだろう。
「ありがとうございました」
洋子は頭をさげてカウンターを離れた。
鈴木勇がどういう男か、そんなことはどうでもいい。とにかく憎いやつ。ろくでもない男。そう思わなければやりきれない。アミイを殺し、いたずら電話をかけ、洋子のベランダにいやらしいものを落とす。油壺で乱暴をした男……。きっとそうだ。
――私になにをしようとしたのかしら――
しばらくは外国へ行くような話だったけど……。いつまでも六〇七号室に住んでいるわけではなかったらしい。
――私、疑われてるのかな――
アリバイは完全。クイボノは……そう、あんな男、いなくなってくれればいいと思っていたのは本当だが、佐渡まで行って海に落とすのは飛躍がありすぎる。本堂にはしばらく会わないほうがいいのかもしれない。念には念を入れ……。そんな言葉もある。
――でも会いたいな――
体が男に抱かれる喜びを思い出してしまった。そんな暢気なことを考えている場合ではないのだろうけれど……。とにかく本堂に会って、顔を見て、一通り話を聞かなければ気持ちが収まらない。
夜ふけて電話のベルが鳴った。いたずら電話ではあるまいかと思ったが、その心配はもういらない。
「もし、もし。僕だ。今からすぐ行く。鍵を開けておいて。だれにも見られないように、そっと入るから」
風だけが動いてドアが開き、すぐに閉じた。
「ただいま」
本堂が影法師みたいに立っている。
「会いたかった」
洋子は胸にすがりついて握りこぶしで二、三度本堂の胸板を叩いた。
――余計なことをしちゃって――
そう言っては酷かもしれないが、その気持ちはいなめない。海に突き落とすなんて簡単に実行していいことではない。ただの冗談のつもりだったのに……。
本堂の目のふちには濃いくまがある。疲れているのだろう。それも当然のことだ。
なじる気にはなれない。
「あいつは悪いやつだったよ。死んでも仕方ない」
「そうなの? どうしてわかったの?」
「わかるさ。婦女暴行。いろいろやってる。見つかってないのもあるだろうし、これからもやるね」
「カメラマンなんでしょ」
「仕事は持ってるさ、食うために……。あんなやつのことは忘れるんだな。頭を使うだけ無駄だ。わるいやつに天罰がくだったってこと、それだけだ」
まるで他人事のように言う。洋子としてもなまなましい話は聞きにくい。いくつかの情景が頭にこびりついてしまいそうだ。
「あなたは本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。神様がみかたをしてくれたんだろ。見られたとしても遠くから、ちょっと……。一緒に行ったわけじゃないんだから。やつが先に行ってて、あとから僕が行った。いいよ、そんなこまかいこと、話したくもない」
「さびしいところなんでしょ。なんで行ったの? バス?」
「ああ、そう。バスを乗りついでね」
「それは平気なの?」
「まったく人の行かないところじゃないよ。それほど田舎じゃない。町の人だって乗っている。ただ、風も冷たかったし、崖は急だし、周辺にはだれもいなかった」
「そうなの」
「一件落着だ」
「なにか食べる?」
「いや、いらない。それより……抱きたかった。ずっと洋子のことを思っていたんだぞ」
本堂の手が荒々しく洋子のガウンを奪った。
本堂の愛撫はいつもとちがっていた。
「消して」
洋子が願ってもあかりを消そうとしない。まばゆい光の下で裸にされた。洋子はベッドに投げ出され、裸の本堂が狂ったように襲いかかる。体の深い部分にまで男の唇が届く。
――忘れようとしている――
もとはといえば、洋子が言ったことなのだ。そのために本堂は知らない男を追いかけ、追いつき、チャンスを狙った。早とちりだなんて……今は言えない。怖くなかったはずがない。危険のなかったはずがない。
――私も忘れたい――
狂暴な愛撫は、そんな目的にふさわしい。洋子の全身の血が騒ぎだす。その奥から意地わるいほどの快楽が寄せて来る。
――これは人間がまだ野獣であったころの血――
仲間を殺し、血の匂いの中で体を交えていたころの……。
本堂の目も血走っている。洋子の体を押し開き、激しい動きを続ける。
「和也さん」
初めて本堂の名を呼んだ。
「洋子、洋子」
息と一緒に本堂も耳もとで呼ぶ。
洋子の頭の中で、なにかを割ったように白いものがはじけ、ほとばしって散る。ひたひたと熱いものが内奥に広がる。
本堂の動きが止まった。
そして、ゴロリと転がって体を離した。
洋子は頭を振り、理性を取り戻そうとした。快感がまだ体のあちこちにくすぶっている。
「ご苦労さま」
そうつぶやいたのは、なにに対するねぎらいだったのか。
「疲れた」
「泊まっていらして」
「朝、帰るのはまずいな」
「どうして?」
「ひとめにつきやすい。もう心配はないけれど、用心に越したことはない」
「ええ……」
「次の計画もある」
「なんなの?」
洋子は身をなかば起こした。本堂はすぐには答えない。思案が男の頭の中を走っている……。横顔がそう見えた。
「カン入りのウーロン茶を用意する。鼠の薬をその中に入れる。少し量を多くね。でも、あなたはそのことを知らない」
本堂がゆっくりと言う。
「どうするの」
「それ以上は聞かないほうがいい」
「まさか……」
「僕がやってもいいんだけど、それじゃ危険だろ。いいかい、よく聞いて。僕はあなたが好きだ。あなたと一緒に暮らしたい。それは、わかるね」
「ええ……」
「でもね、幸福な一生を確保するためには、やっておかなくちゃいけないことがあるんだ」
「だから、なんなの」
「聞けば、あなただってそんなにひどい話なの≠チて、理解してくれる。世間にはわるい奴《やつ》はいくらでもいる。さんざんわるいことをしておきながら、ぬくぬくと生きてい続けて、ほかの人がしあわせになるのを邪魔している。でもな、そんな話はあまり聞かないほうがいい。新聞にどんな事件が書いてあったって、かかわりがなければ忘れてしまう。できるだけかかわりを持たないで、ほんの一瞬、肩を触れあうくらいで……それで終ってしまうのが一番いいんだ」
「私はなにをすればいいの」
「鼠の薬がどこにあるか教えてくれ」
「どうして?」
「僕が盗む。盗まれるのは、あなたの責任じゃない」
「でも、あなたは薬を扱うことに慣れていないわ」
「それは、そうだけど。じゃあ、それはあなたにやってもらう」
本堂が薄闇の中でじっと洋子を見つめる。
「本気なの?」
本堂はこっくりと頷《うなず》いた。怖いほど真剣なまなざしで。
「僕はあなたのためにやった」
「本当にひどい人だったのかしら、上の人」
「あなたは狙われていたんだよ。アミイを殺し、これからなにをしようとしていたか……。なにかをされてからでは間にあわない」
「変な人だったけど」
「いいね。今度はあなたの番なんだ」
洋子はどう答えていいかわからない。
「来週は、いつあいている?」
と本堂が洋子の手を握りながら聞く。
「えーと、勤務の日以外はあいているわ」
「火、水、金あたり、あけておいて」
「でも……」
握っている手に力が入る。
「僕はあなたを裏切らないよ。それはわかっているね」
「ええ……」
語気に押されて、こっくりと頷いた。
「僕を幸福にしてほしいんだ。助けてほしい。そうすれば僕たちは幸福になれる。あなたはなんの危険もない。僕がどれほどあなたを大切に思っているか、それは佐渡でやったことで……わかるだろ。事件のことは忘れてほしいけど、僕の気持ちは忘れないで」
「知ってるわ」
しばらくは沈黙が続いた。そのあとで本堂は、
「僕を助けてほしい」
と、顔を天井に向けたまま、ため息と一緒に吐きだす。
洋子は体を本堂のほうにまわし、男の胸に耳を当てた。
――心臓が鳴っている――
いつかアミイの胸に耳を寄せたことがあった。あのときは小さな鼓動が聞こえた。
――これが止まると死ぬ――
ただ、それだけのことなのかもしれない。考えてみると、洋子はそんな考えをずっと昔から持っていたような気がする。何十年かたってしまえば、今、動いている心臓もあらかた止まる。生きている人も死んでしまう。百年たてば確実にだれもいない。
――命なんて、どうってことないのね――
そんな虚無的な考えも頭のどこかにある。
人はいつも一つの意見だけを固持しているわけではない。正反対の意見も、かならず頭の中にある。命の大切さを一方で考えながら、一方で命のたあいなさを知っている。
――すっかりこの人の言うままになってあげようかしら――
愛しているなら……。信じているなら……。
たしかに本堂の言うようになにも知らないほうがいいだろう。
「いいね、火、水、金をあけておいて。あとで連絡をする」
洋子は答えない。
「じゃあ、おやすみ」
本堂が帰ったのは夜半を大分過ぎてからだったろう。
洋子の不安をよそにうららかな日が続いた。
――インディアン・サマーね――
たしか小春日和のことを英語ではそういうのではなかっただろうか。
佐渡で六〇七号室の男が死んだことについては、その後なんの動きも知らせもない。事故死として処理され、遺体は岡山のほうへ運ばれたのだろうか。上の部屋はひっそりとして、当然のことながら足音は落ちて来ない。
――早くだれかが住んでくれないかしら――
洋子は幽霊などまるで信じないほうだが、あまり気持ちのよい情況ではない。
夜になると電話のベルが鳴る。ギクリとして受話器を取る。本堂は毎夜かかさず電話をかけて寄こした。そして「あなたが好きだ」「僕を助けてほしい」「すばらしい二人になろう」「今度はあなたの番だよ」とささやく。
洋子のほうは「会いたいわ」と、だだっ子のように言う。不安で仕方がない。平穏な時間を早く取り戻したい。本堂に抱かれたい。
「今はまずいよ。すぐに終る」
「ええ……」
そんな夜が三晩続いて、夕刻、洋子が部屋へ帰るとベルが鳴っていた。
「もし、もし」
「もし、もし、僕だ」
「あ、本堂さん」
「金曜日あけておいてくれたね」
「はい?」
「いよいよだ。お願いするよ。よく聞いて。メモを取って」
「なんでしょう」
「なんでしょうは、ないだろう。まあ、いいや。下の郵便受けに必要なものは入れておいたから」
「いらしたの、ここへ?」
本堂はそれには答えずに話し続けた。
「キップと写真とおしぼりが置いてある。ちょっと旅に出てほしい。せいぜい上野から小山くらいまでだけどね。ウーロン茶は駅で温かいのを一本買ってほしい。あなたが用意するものは、例の薬。それから画鋲《がびよう》を一つ、注射器、手袋。手袋は薄手のもの。ずっと脱がないほうがいいよ。キップに書いてある新幹線に乗ると、隣の席に、写真の男がいる。ちがっていたら計画は中止だ」
なにかの呪文《じゆもん》みたいに言葉が流れて来る。洋子は、
――夢なのかもしれない――
そう思いながら聞いた。
車 窓
仁科洋子は朝の九時にマンションを出た。
列車は十時十八分発の東北新幹線あおば号である。発車の前にやらなければいけないことが一つ、二つあった。
一昨夜、電話口で本堂が言っていた。
「余計なことは考えないで。絶対に成功する。僕たちのために……頑張って」
「怖いわ」
「怖くなんかない。僕を信じて」
朝そのものは、いつもの朝と変らない。今日も一日暖かい小春日和だろう。
――本当に夢の中にいるみたい――
目ざめたまま夢を見ている……。自分があやつり人形になったような気さえする。
――やる以上は迷ってはいけない――
初めて動物の解剖をしたとき、初めてペットの手術をしたとき……少し似ている。
上野駅に着きウーロン茶を買い、冷めないように暖房剤の袋に挟んでバッグに入れた。けっして手袋を脱いではいけない。
キップが指示する席はグリーン車の6C。通路側の席である。
発車前に車両のトイレットに入り、ウーロン茶のカンに画鋲で小さな穴をあけた。
注射器で中のウーロン茶を吸いこみ、少し捨て、残りの液に薬を溶いて、もとに戻した。有機リンの化合物……。即効性がある。無味無臭。しかし、薬品会社の研究室ではそれほど特別な薬剤ではない。
ビニール袋のおしぼりは、かすかに温かい程度。仕方がない。
グリーン車はすいていた。
洋子は少し離れた席にすわって、自分の座席番号のあたりを見まもる。
五十がらみの男が乗り込んで来て、キップと座席番号とを照らしあわせている。6D。つまり洋子の番号の隣である。
――まちがいないわ――
写真で見た男。赤ら顔。あまりよい人相ではない。はっきりとはわからないが、表情に人を威嚇するような気配がある。ペットが怒って示す表情に似ている。
――ろくなことをやっている人じゃない――
そのほうがいい。名前は右田……そう教えられた。
発車のベルが鳴りドアが閉まり、列車が動き始めた。
洋子は通路を通り抜け、ドアの外の洗面所のそばに立って中をうかがった。車掌が検札をしている。
荒川の鉄橋を渡るころ、
「電話室からのお呼び出しです。グリーン車にお乗りの右田輝男様。お電話がかかって来ております。九号車の電話室までおいでください」
右田が席を立ち、九号車のほうへ立って行くのが見えた。それと入れ替りに洋子はドアの中へ入り、マスクをかけ、まだ通路にいる車掌のそばへ寄って、
「6Cですけど」
と、キップをさし示した。
「はい。あちらですよ」
車掌は指をさし、ほとんど洋子の顔も見ずにパンチを入れる。洋子は6Cの席の近くへ戻った。
――ここまではうまくいった――
動悸が次第に速くなる。
――今、窓の外に見えた駅はどこかしら――
腕時計を見た。十時三十三分。大宮駅への到着は十時三十八分のはずである。
――あなた、本気なの――
と、自分に問いかけてみた。やめるなら今……。しかし、本堂はどんな顔をするだろう。
そのとき右田が戻ってくる姿が見えた。洋子は6Cにすわった。
列車がスピードをゆるめ、大宮駅も近い。十時三十六分……。
「ちょっと失礼」
男は右手をあげ、洋子の前を抜け、6Dにどんと腰をおろす。
「あの……ウーロン茶とおしぼり」
洋子はそう言って、用意の品を男に渡した。
「こりゃ、どうも」
男は自分が電話室に行っているあいだに、隣の席の女がサービスの品を受け取っておいてくれたのだろうと判断した。それが狙いだった。
「いいえ」
洋子は立ちあがった。洗面所にでも行くような身ぶりで……。列車は大宮駅に滑りこむ。
男がおしぼりで顔を拭《ふ》く。
列車が止まり、ドアが開いた。
洋子が降りる。
窓越しにグリーン車の中を見たのは、なぜだったろう。6Dの席で男がウーロン茶のカンを開けている……。
洋子は窓越しに男の表情を見た。
いや、見たというのは正確ではない。本当に見たのかどうか、それもよくわからない。
――見てはいけない――
引きとめる意志があったのは本当だ。見て、おもしろいはずがない。見ないほうがいい。しげしげと見たりしたら疑いを持たれるおそれもある。
でも、見ずにはいられない……。
こんなに早く男がウーロン茶を飲むとは思っていなかった。洋子が大宮駅で降りたあと、少したってから……たとえば小山駅に近づくころ、そう考えていた。
――危かった――
男がおしぼりを使わず、いきなりウーロン茶を飲む可能性も皆無ではなかったろう。まだ洋子が列車の中にいるうちに……。
その場合でも、騒ぎが起きたときには、もう洋子は降りているだろうけれど……。いずれにせよ、きわどいタイミングだった。
男はウーロン茶を飲み干し、次の瞬間、顔がゆがんだ……。
走って行く窓の中に、洋子はそれを見た。ゆがんでいたかどうかもわからない。そこまでは見なかったろう。まさにゆがもうとする、その直前の表情が、走り去って行ったのではなかったか。
軽いめまいを覚えた。
ぐずぐずはしていられない。
途中下車をして駅の外へ出た。下水口に注射器を捨てた。タクシーを拾い、
「浦和まで」
車の中で、ベージュ色のコートを脱ぎ、下は紺色のニット・スーツである。
浦和の駅近くのデパートへ入り、トイレットのごみ箱にコートを捨てた。
もう一つ、べつのデパートへ入って手袋を捨てた。
――喉がカラカラ――
コーヒー店を見つけ、窓際の席にすわってアイスコーヒーを一気に流しこんだ。
――手落ちはなかったかしら――
ひとつひとつ反芻《はんすう》してみた。
列車が大宮駅を出た直後に大騒動が起こったにちがいない。男はなにか言うことができただろうか。もしそうなら、なにを言っただろう。
コーヒー店のガラス窓に顔を映しながら洋子は束ねておいた髪を解いた。
――タクシーの中で髪を解くはずだったわ――
昨夜、企てた計画では、その手はずだった。用心のため、人相を早く変えたほうがいい。
――ほかにも忘れていることがないだろうか――
両手で頬をおおった。
「コーヒーをもう一ぱいちょうだい。今度は熱いの」
近づいて来たウエイトレスに頼んで、朝からの行動を頭の中でくり返した。
いつもと同じように起き、髪を束ね、紺のスーツに長いベージュのコート、薄い手袋をはめて九時にマンションを出た……。十時少し前に上野に着いた。十時十八分発あおば号の座席を確認し、キオスクでウーロン茶を買ってトイレットへ入った。マスクをつけ、画鋲でカンに穴を開け、注射器で薬を注入した。致死量は充分にあったはずだ。
右田という男の人相を確認し、写真を焼き捨てた。それから洗面所の前で目立たないようにしていた。
発車してすぐに車掌の検札があったのは幸運だった。このタイミングが、一番心配なことだった。右田が検札を受け、電話が彼を呼び出す。本堂はどこからその電話をかけたのか……。
洋子は通路で検札を受け、右田が戻るのを待った。車掌はほとんど洋子の顔を見ていなかったろう。大宮駅が近づき、列車がスピードを落とすころに右田が帰って来た。バッグの中からウーロン茶とおしぼりを出して渡した。これもよいタイミングだった。洋子はホームへ降りた。
窓の中で男がウーロン茶を一気に飲み干した。それをかすかに見た。顔がゆがんだ。ゆがんだのは薬の効果があったから。確かめるより先に窓が走り去って行った。
大宮駅を出て駅前の下水口に注射器を捨て、タクシーで現場を離れた。浦和市内の二つのデパートでコートと手袋を捨てた。コートは着古したものだ。ごみ箱に捨ててあっても怪しまれることはあるまい。
――マスクがバッグの中にあるわ――
これはここで捨てよう。
ほとんどが本堂の示唆によるものだった。
――大丈夫みたい――
自分が自分でないような数時間だった。コーヒーの香りをかいでいると、ようやく人心地がついてくる。
――でも――
釈然としないものが胸にわだかまっている。なんのためだったのか……。
洋子はコーヒー店を出て浦和の駅まで歩いた。この町には……そう、七、八年前に来たことがある。
町の様子がすっかり変っている。人通りも多い。アーケード街もしゃれている。道を歩いている人は、今、なにを考えているのだろう。
――私は……とにかく憎まなくちゃあ――
強い憎しみがないと、心のバランスがとれない。
殺されたアミイのことを考えた。油壺の出来事を憎しみに加算してみた。
猫と人間では釣りあいがとりにくい。油壺の記憶は少し古すぎる。しかもいくら六〇七号室の男を憎んでみても、それと今日の行動とは結びつかない。
――どんな顔だったろう――
列車の中の男……。写真のイメージのほうがよく残っている。たしか赤ら顔だった。顔は笑っていても目は笑わない。そんな印象だったが、よく見たわけではないから確信は持てない。
ゆがみかけた顔は、
――いかん、やられた――
そんな表情を映していたように思う。
わるいことをたくさんやっている男。だから狙われる。本人も自覚している。激しい狼狽《ろうばい》のような表情だった。きっとわるい人。まったくの話、世間には殺されても仕方のないような人がいる。それは本当だろう。
浦和駅から有楽町駅まで。途中で前の座席があき、洋子は腰かけて少し眠った。
銀座のデパートへ行って冬物を一、二点買い、ギャラリーの絵をかけ足で見た。
「十一月二十一日はどこへ行ってましたか」
「銀座のデパートへ行って、ゆっくりと絵を見て、それから買い物をして……」
後日、アリバイを問われたときに答えられるようにしておいたほうがいいだろう。まあ、そんなことはないと思うけれど……。
並木通りの中華料理店へ寄って五目そばを食べた。昼食にしては遅い。夕食にしては早い。
家に帰ったのは四時過ぎだったろう。
テレビで六時のニュースを聞いた。男のアナウンサーが円高の見通しを告げたあと、画面に女のアナウンサーが映った。
洋子の中にひたひたと緊張が押し寄せて来る。
テレビの画面の中で女のアナウンサーが、時おり顔をあげながらニュースを読みあげる。
「今日午前十時四十分ごろ、東北新幹線下りあおば二〇九号が大宮駅を発車したとたん、グリーン車に乗っていた男の乗客が突然苦しみだし、間もなく死亡しました。この男性は東京都世田谷区の誠《まこと》総業社長右田輝男さん五十四歳で、発車直前に飲んだカン入りウーロン茶に毒が入れてあった模様。警察ではこのウーロン茶を右田さんに渡した者を有力な容疑者として捜しております。カン入りウーロン茶のグリーン車サービスは、やまびこ号に限られており、問題のあおば号ではやっておりません。犯人はグリーン車の車内サービスを装い、右田さんにウーロン茶を渡したものらしく、検札にあたった車掌は右田さんの隣の席に仙台行きのキップを持った、若い女性がいた≠ニ言っております。女は二十代か三十代、マスクをかけており、大宮駅で降りたらしいこと以外、今のところ手がかりはなにも発見されておりません。右田さんが経営する誠総業は金融、不動産、先物取引など手広く営んでおり、辣腕《らつわん》家の右田さんについては人に恨まれることもあったかもしれない≠ニ、右田さんを知る人は言っております。なお右田さんは那須塩原まで人形のコレクションを買いに行くところでした」話の途中で右田輝男の写真が画面に映った。
――ああ、そうだったの――
洋子は、グリーン車ならみんなウーロン茶とおしぼりのサービスがあるものと思っていたが、そうではないらしい。サービスが二重になってしまっては疑惑を抱かれるかもしれない。そのあたりに本堂の計画があったのだろう。
――人形のコレクションて、なにかしら――
右田の人相とは結びつかない。本堂はなにも言ってはいなかった。
夕刊にも事件は載っていた。東北新幹線で社長殺される≠ニ、太い見出しの次に消えたマスクの美人?≠ニ、もう一行細い見出しがそえてある。
――どうして美人とわかるの――
きっと読者の目を引くためだろう。
テレビのニュースより少しくわしい。洋子はくり返して読んだ。右田が車内電話で呼び出されたことが記してある。それから……右田の趣味は、からくり人形のコレクション。那須塩原で掘出し物があり、それを見に行くところだったとか。だが那須塩原でだれに会い、そこからどこへ行くつもりだったか、旅のスケジュールは不明で、もしかしたら掘出し物の話自体が右田を東北新幹線に乗せるための偽装だったかもしれない≠ニ書いてあった。
洋子はさらに七時のニュースを待ってチャンネルをまわした。
ほとんど似たような内容。使われた薬剤が有機リンの化合物であることだけがあらたにつけ加えられている。
アナウンサーの声で語られると、事件が自分とかかわりのないことのように聞こえて来る。
学生時代に社会学の授業でマクルーハンの理論を習った。こまかいことは忘れてしまったけれど、テレビはどんなことにでも人を参加させるが、どんなことでも等質化して伝えてしまう……と試験の答案に書いて優をもらった。南アフリカで起きた暴動も東北新幹線の事件も、うっかりしていると同じレベルのものに感じられてしまう。
本堂が寡黙《かもく》だったのは、ある意味では正しかった。よく知らないからこそ遠いことのように感じられてしまう。列車の窓越しにゆがんだ顔を見たのは、失敗だった。見なければ、さらに現実感はとぼしかったろうに……。
――これじゃあ、いけないわ――
ハーフ・コートを羽おって吉祥寺の駅まで新聞を買いに出た。ほかの新聞を見ておこう。
だが、どの記事も大同小異。右田は那須塩原駅で旗屋という男と会い、ニュー・スター・ホテルのロビイで掛川という男に会う約束だったらしい。掛川が人形の持ち主……。だがおそらくそれも本堂の細工だろう。
――緻密《ちみつ》な人――
本堂のことである。少し恐ろしい。何を考えているのか、もうひとつわからない処がある。
「大丈夫かしら」
洋子は独りごちた。
つぶやいてから洋子は自分が今なにを考えているのか、自問してみた。
思わず知らず「大丈夫かしら」と不安を吐露してしまったのは、ひとつには事件の行末だろう。手ぬかりはないつもりだが、この世に完全などというものはない……。
だが、今「大丈夫かしら」と言った主な理由はそれではないらしい。本堂に深入りしてしまったこと……。
好きで、好きで、たまらない人だが、知りあってからの日時が短かすぎる。恋愛はいつだってわからない部分があるものだが、少しひどすぎる。
「あなたが好きだ」
「助けてほしい」
「すばらしい二人になろう」
本堂の声の響きが、魔術みたいに洋子を動かした。信じられないことをやってしまった……。
ル、ルン。
電話のベルが、ためらうように鳴った。ギクンと洋子の体が震える。人は息を吐ききったときに驚かされると、余計に驚くものだとか。洋子の呼吸もきっとそんな状態だったらしい。
――本堂さんからだわ――
なにも体を震わせてまで驚くことではない。ソファに腰をおろして受話器をとった。
「はい」
「あ、もし、もし。私」
二宮春美である。拍子ぬけ……。一番親しい友だちだが、このところしばらく会っていない。
「あら、久しぶり」
「このごろいそがしいみたいね。いつ電話してもいないじゃない」
「そうかしら。いるときはいるんだけど」
「先週軽井沢へ行って来たわ」
「ああ、そう。紅葉がきれいでしょうね」
旧軽井沢にコテージ……。本堂と会ったのは春美のコテージの近くだった。考えてみれば、ここ一ヵ月ばかりの出来事は、みんなあのときから始まっている……。
「そうね。少し遅かったわ。山のほうはもう茶色一色」
冬枯れの軽井沢もわるくはない。
「なにか……」
と、洋子は問いかけた。いつ本堂から大切な電話がかかって来るかわからない。
「ううん。べつに用ってほどじゃないんだけど……小学校って私立のほうがやっぱりいいのかしら」
春美の娘は来年小学校へあがる。たしかそんな話だった。
「わからないわ」
「あなた、私立だったでしょ」
「ずっと昔のことですもの」
「小学校なんて近所にお友だちがたくさんいたほうがいいじゃない。なんか一人ぽつんと電車で通ったりしてんの、見ててかわいそうでしょ。月謝だって馬鹿にならないし」
「そうねえ。私立にもいろいろあるから」
「そう。寝てても入れたような学校がみんなむつかしくなっちゃって。ただ、ここで入れておけば、あとがずーっと楽じゃない。公立の学校って、ひどい先生に当たったら、どうしようもないわ。一生の不覚よ」
「そりゃ、わるい先生ってことなら、私立だって公立だって同じじゃない」
「でも私立はやっぱり営業上わるい先生が少ないわ。首にすることもできるでしょうし。公立には信じられないくらい駄目な先生がいるのよ。体育ばっかりが得意で、字もろくに書けない。授業はへたくそ。子どもたちもわからないから騒ぐでしょ。そうすると怒るか、泣くか、それっきゃないの」
「まさか」
「本当よ。ここの小学校じゃ連絡簿を見ると、かならず字のまちがいが一つか二つある先生が二人もいるんですって。父兄が文句を言うと、子どもがにらまれるでしょ。なにせ人質をとられているから……」
「そうねえ」
春美はどんどん話し続ける。洋子は適当なあいづちを打ちながら聞いていた。
「……殺したくなるそうよ」
聞き捨てにならない言葉が耳に飛びこんで来る。
「先生を?」
「そうよ。同じ先生に三年間も持たれたりするのよ。その先生がはずれだったら、すごい悲劇じゃない。一生とり返しがきかないわよ。勉強ぎらいになるし、性格もゆがむし」
「じゃあ私立にしたらいいじゃない」
春美は洋子にこう言ってほしくて電話をかけて寄こしたのではあるまいか。
「そうしようかしら」
そのあともしばらくは春美の当世学校批判が続いていたが、洋子の反応がおぼつかないので、
「ごめんなさい。長っ話をしちゃって」
と、切りかける。
「今ちょっと用があって。ね、ちかぢか会いましょ。なんかおいしいもの食べましょうよ」
「いいわね、時間のあるとき連絡して」
「はい。じゃ、さよなら」
受話器を置いた。
――先生も大変ね――
いつ、どこで殺したい≠ニ思われているかわからない。当人はまさかそこまでは考えていないだろう。急にゆがんだ赤ら顔が洋子の脳裏に浮かんだ。しばらくはこのイメージに悩まされそうだ。
ル、ルン。
また電話のベルが鳴り、またキクンと体が震えた。
「もし、もし」
「本堂さん」
声高く叫んだとたん涙が吹き出した。予期しないことだったが、わるくない。一番ふさわしい反応のようにも思えた。
「ありがとう。みんな終った」
「そうよ。終ったの。終ったのよ」
「なにか、なかった?」
「なにかって、なーに」
「気がついたこととか、ちょっと失敗したこととか」
「べつにないわ。ないと思う」
「使ったものは、みんな処分したね。注射器とか」
「ええ」
「写真やメモも残っていないね」
「大丈夫よ」
「薬のほうから足がつくことは、ないんだろうね」
「それほど特別なものじゃないし……。五年も前に悪戯《いたずら》半分で取っておいたものだから……。心配ですか」
「いや、あなたなら心配ない。わかった。もうこの話はよそう。すっかり忘れよう。いいね、なにもなかった。考えてもいけない。二人だけのときでも話題にしちゃいけない」
「会いたいわ。今どこなの。ずっと電話を待っていたのよ」
「すまない。いろいろあって。東京じゃないんだ」
「どこ」
「名古屋の近く」
「じゃあ会えないの、今夜」
本堂の声を聞いたときから、今夜は会えるものだとばかり思っていた。
「無理だよ。それは」
「ひどいわ」
あんなことをさせておきながら、放っておくなんて……。
「ごめん、ごめん、しかし、しばらくは会っちゃいけない。わかるだろう」
「だって……なんだか頭が変になりそう」
まったくの話、洋子は自分で自分が信じられない。本堂の魔術にかかってしまった。魔術師がふたたび現れて魔術を解いてくれなければ、もとの自分に戻れそうもない。
「もう少し我慢してくれよ。僕だって会いたい。でも会っちゃいけないんだ」
「本当に会いたい? そう思っている?」
甘えるように声を作って尋ねた。
「もちろん本当に会いたいと思っているよ。でも、とにかくほとぼりのさめるのを待とう」
「仕方ないわね」
「時間のパネルを入れ替えるんだ。童話か芝居みたいにね。僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」
「いつめぐりあうの、二人は?」
「今に。きっと」
「そんなに先はいやよ」
「近日中にまた連絡するよ。なんの支障もなければ、会えるさ。短い時間かもしれないけど」
「遠くから見るだけでもいいから、会いたい」
「山手線かなんかですれちがうわけ? おたがいに窓ぎわに立っていて……」
「本当に。そんなことがあればいいけど」
「まあ、待ってて。じゃあ、切るよ」
「また電話をください」
「本当は電話もあまりかけないほうがいいんだろうけど」
「そんなこと言わないでよ」
「まあ、なんとか……。じゃあ、さよなら」
「さよなら」
乾いた音をあげて電話が切れた。洋子は、そのままぼんやりと受話器を見つめていた。
「仕方ないわねえー」
つぶやきながら受話器を戻し、握り拳《こぶし》を作って頭をトンと一つ叩いた。もし、これでなにもかも忘れられればいいのだが……。
カタン。
頭の上から音が落ちて来た。ギクン、とまた体が震えた。心がなにかを警戒して、ずいぶんおびえているらしい。
静かな足音……。
だれかが六〇七号室にいる。でも、なんの不思議もない。死んだ男にはお姉さんがいるような話だった。荷物を取りに来たのかもしれない。管理人に鍵をあけてもらって……。
――あるいは警察かしら――
洋子はサンダルをつっかけ、踊り場のところまで階段を昇って様子をうかがってみた。
「災難でしたなあ」
管理人の声である。
「一、二年はマレーシアのほうへ行って住む予定でしたのにねえ」
女の声が聞こえた。
話はとぎれとぎれで、はっきりとは聞こえない。やはり岡山のお姉さんが荷物を取りに来たのだろう。相手をしているのは、眼鏡をかけたほうの管理人らしい。
洋子はもう一、二段、階段をあがって聞き耳を立てた。
「昔から写真が好きで、危いところへ行っちゃあ写真を撮ってたんです。無愛想で、ちょっと変った子でしたから」
ドアが細くあいている。
「いえ、いえ」
「でもカメラマンなんて、食べるのがなかなか大変なのね。たまたまこの部屋をアメリカへ行くお友だちに貸していただいて……」
「そうなんですってねえー。同じ鈴木さんだから、ご兄弟かと思ってましたけど……」
「そんなことないんです」
そこでドアがガンと鳴って閉じ、もう話し声は聞こえない。洋子は首をすくめながら自分の部屋へ戻った。
――まちがってたみたい――
このマンションには賃貸の部屋はない。住んでいる人が持ち主、と洋子は深く考えることもなく思っていた。
だが、六〇七号室の男は、友人から借りていたらしい。その友人はアメリカへ行っていて……やがて帰って来るのだろう。
――いやな男が、ずっと頭の上に住んでいるわけではなかった――
しかも、そのいやな男は近くマレーシアへ行き、しばらくは帰らない……。つまり洋子の災難はそう長く続くものではなかった。なにもしなくても快適な生活が戻って来ただろう。
――もう、いや――
考えたくない。ささいなことから始まって、あれよあれよと思うまに大きな事件にまでふくらんでしまった。事実はどうあれ、そんな気分はぬぐえない。
テレビのスウィッチを入れたが、あまりおもしろそうな番組はない。どこかのチャンネルが殺人鬼の映画を映している。あわてて画面を変えた。
――音楽のほうがいいわ――
気がつくと、このところほとんど音楽を聞いていない。
少し前までは毎晩のように聞いていたのに……。プレイヤーには、マンハッタン・トランスファーのレコードが置いたままになっている。イヤフォンを耳に当て、ヴォリュームをいっぱいにあげた。たちまち美しいハーモニイが頭蓋骨《ずがいこつ》の内側を満たす。もうほかのことを考えようとしても考えることができない。
四、五日たつと、東北新幹線で起きた殺人事件が、週刊誌に載り始めた。
洋子はつぎつぎに買い集めて注意深く読んだ。本堂は「忘れよう」と言ってたけれど、そう簡単には忘れられない。こっそりと雑誌を読むぶんには怪しまれることもあるまい。洋子が知らないことも書いてある。当たっている推理もあれば、見当ちがいもある。
殺された右田輝男は五十四歳。五十五歳と書いてある雑誌もあったが、これはどちらでもいいことだ。山梨の商業学校を卒業したのち東京に出て、いろいろな職業につき、八年前に誠総業を設立した。総業という名のとおりなんでもやる会社。でもやり口は名前とちがってあまり誠実ではなかったらしい。死者に鞭《むち》打つつもりはないけれど、詐欺、ゆすり、紙一重のあたりで商売をやっていたという噂《うわさ》もしきり≠ニ書いてある。
――よかった。やっぱりわるい人なのね――
家族は、離婚した妻と高校生になる娘が一人。これは、名古屋に住んでいる。当人は世田谷区奥沢の高級マンンョンで一人暮らし。通いの家政婦がいるが、この人は右田輝男の私生活についてほとんどなにも知らない。
「無線でタクシーを呼んで……上野までいらっしゃるようなお話でした」
と要領を得ない。
誠総業は株式会社といっても、せいぜい従業員十人足らずのオフィスらしい。社長用の車もない。社長の行動についても社員たちは断片的にしか知らされていない。
「社長の趣味はからくり人形の蒐集《しゆうしゆう》なんです。世界的なものもいくつか持っているような話でしたけど……。多分、ご自宅のほうに電話があったんじゃないですか。急に金曜日に那須塩原へ行って来る。夜には帰る≠サんなお話でね。人形ですか≠ニ聞いたらそうだ≠ニいう返事でした」
と、これは社員の中でも、比較的社長の行動をよく知っている人の証言なのだろう。
右田が持っていたキップは乗車の三日前、午前十時過ぎに東京駅で買ったもの。東北新幹線十時十八分発のあおば七号車6D。同時に七号車の6Cも買われた形跡があり、これが犯人の使用したものではないか……。
「社長が自分で買ったものじゃありませんね」
警察は犯人グループが二枚のキップを買い求め、なんらかの手段で一枚を社長に渡したものと見ている。
右田輝男が、だれに、どのように誘われて東北新幹線のあおば号に乗ったか、はっきりしたことは警察もつかんでいないらしい。少なくとも週刊誌の記事は、推測の域を出ていない。
それぞれの記事は微妙にくいちがっているが、大筋はよく似ている。そのあたりが警察の発表なのだろう。
殺される数日前に右田のマンションに電話がかかり、
「からくり人形の逸品があるから、ぜひ那須塩原までおこしいただきたい」
と言葉巧みに誘われ、右田はそれに応じた。今までにもそういうことはしばしばあったらしい。犯人は蒐集家がぜひともほしがるような品物を告げたにちがいない。このときにキップを犯人側で用意する約束があったのだろう。
そのキップは郵便で右田の家に届いた。あるいは直接マンションの郵便受けに投げこまれたのかもしれない。おそらく封筒にはキップのほかに手紙が入れてあったにちがいない。
だが、その手紙は見当たらない。
手がかりとなるのは、死んだ右田の内ポケットにあった手帳で、十一月二十一日のところにあおば10・18 旗屋光二氏、ホームで。掛川さん≠ニあり、さらに矢印を引いて電話番号が記してあった。その番号は塩原のニュー・スター・ホテルである。
右田を誘い出した男の名が旗屋光二。もとより犯人が本当の名前を名のるはずもなく、この名に該当する関係者は見つかっていない。掛川さんというのは、からくり人形の売り手ではあるまいか。
つまりキップと一緒に送られて来た手紙には、指定のグリーン車に乗り、那須塩原駅で降りれば、旗屋光二がホームに迎えに出ており、それから掛川という売り手のところへ案内する、その行先はニュー・スター・ホテル……あるいは旗屋への連絡はニュー・スター・ホテルまで、そんな内容が記されていたのだろう。
右田は手紙を捨て要点だけを自分の手帳に記した。
約束の日に右田は上野に行き、指定の列車の、指定の席にすわった。マスクの女が登場するのは、このあたりからである。しかし、はっきりと見た人はいない。一つの週刊誌だけが「若い女の人。マスクをかけてましたが、目がきれいでした。美人ですね。長い髪で、茶色のコートを着てました」と、まことしやかに乗客の言葉を紹介している。
――おかしいわ――
洋子は無理に笑いを作って笑った。さっきからずっと週刊誌の記事を食い入るように読んで見比べている。喉がすっかりかわいていた。お茶をいれるのももどかしい。
キッチンへ行ってコップに水を満たして飲んだ。
――どうやって、あの日の乗客の証言を集めるのかしら――
ああ、そうか。事件の直後に同じ車両にいた人の住所と名前くらいは警察は聞いておくだろう。週刊誌の記者はその中のだれかに会ったのだろう。そして、その人が「マスクをかけていましたが、目がきれいでした。美人ですね」と証言したらしい。長い髪、茶色のコート。どちらもちがっている。洋子は肩にかかるほどの髪を束ねていた。コートはベージュ色。べつな週刊誌にはマスクの女は駅のホームまでは背の高い男と一緒だった≠ニ書いているが、これもなにを見ていたのか。人間の観察力なんて案外当てにならない。
たった今、洋子が無理に笑ったのは、緊張をほぐすためだけではなかったらしい。
――うまくいった――
記事の中から身の安全を読み取った、そのぶんも相当に含まれていただろう。
いずれにせよ洋子は、あのとき人の目にとまらないよう充分に注意していた。「記憶がありませんなあ」と言っている車掌が一番正直だろう。
あおば号が発車してすぐ右田輝男に電話室から呼び出しがかかる。「那須の旗屋様から」と、これは運よく係員が覚えていた。旗屋光二がとりあえず犯人の名と見なされるもう一つの理由である。
マスクをかけた美人が実行者。もう一人それを助けた男がいる……。右田の電話は二、三分だった。なにを話したのか、わからない。今となっては、本堂だけが知っていることだろう。
右田はおしぼりを使い、ウーロン茶を飲んだ。大宮駅が近づいていた。
「あおばのグリーン車では、おしぼりもウーロン茶も出しません」
ここにポイントがある、と、どの週刊誌も指摘していた。
グリーン車でウーロン茶やおしぼり等のサービスがあるのは、やまびこ号に限られている。ちなみに言えば、下りやまびこ号でこのサービスをおこなうのは列車が大宮駅を出て次の停車駅に着くまでのあいだ。ところが、この事件では、犯人は列車が大宮駅に着く直前に二つの品を右田に渡している。右田がそこですぐウーロン茶を飲むとは限らないだろう。飲まずにいるうちに列車が大宮駅を出発し、そのうち本物の列車サービス係がウーロン茶とおしぼりを配って来たら「さっきのは、なんだ」と、いぶかしく思うにちがいない。画鋲であけられた穴を見つけるかもしれない。怪しんで、前にもらったウーロン茶を飲まない可能性も大きい。それでは犯人たちは困る。つまり、犯人たちは右田を、ウーロン茶やおしぼりのサービスがないあおば号に乗せる必要があったのだ。列車内サービスがどのようにおこなわれているか、一般の人はよく知らない。その盲点をついて、犯人たちはあおば号でウーロン茶を渡した。たとえ右田があおば号でサービスのないことを知っていても「おや、民営になってサービスがよくなったのかな」くらいの気分で受け取るだろう。まして隣席の美人が親切に受け取っておいてくれたとなれば……
ある週刊誌の推理は的確である。まさしく本堂が意図したことを言い当てている。
だから、この事件すべてが綿密に計画されたことなのだ。右田の行先が那須塩原であるのも、そのためだろう。つまり、あおば号に乗せるのが犯人たちの目的だった。おそらく那須塩原そのものには、なんの手がかりもあるまい。時刻表を見て選ばれただけの土地だろう……
このあたりの事情は洋子もよく知らない。
――なるほどね――
深く考えることもなく、那須塩原のあたりに本当にからくり人形のコレクターがいるのかと思っていた。こけしのイメージが洋子の頭の中にあって、それがからくり人形と結びついたらしい。だが、こけしとからくり人形では、まるでちがうものだろうに……。
べつの週刊誌は、右田輝男という男の身辺を洗っている。
……ゆすりや詐欺などと紙一重のところで仕事をやっている男だが、けっして強面《こわもて》ではない。若いころには弁護士になろうとして勉強したこともあったらしい。試験には失敗したが、法律には明るい。他人の弱点を見つけてじわじわと迫る。法律の穴を見つけては巧みに利用する。前科はない。刑務所の塀の上を歩いても、なかなかむこう側には落ちない……
洋子は右田の顔を思い浮かべた。
赤ら顔だった。
背広を着ていた。多分、ネクタイをしめていただろう。顔は笑っていても目は笑わない、と、そんな印象を持ったのはなぜだったろう。右田の笑い顔を見たわけでもないのに……。ペットが威嚇を示すときのような、攻撃の表情を顔の下に隠していた……。
窓越しに見た最後の顔は、狼狽を載せていた。
――しまった。俺としたことが、充分に警戒しなくちゃいけなかったのに――
そんな意識を表しているように見えた。
洋子の思いすごしかも知れない。一瞬の表情に、それだけのものを読み取るのはむつかしい。
……最近、右田がくらいついていたのは、ある政治家がからんだ収賄《しゆうわい》事件。右田は証拠となる念書まで握っていて、政治家に代償を求めていた。明るみに出れば、自殺者の一人や二人出てもおかしくないほどの事件である
そう断定している週刊誌はどこまで真相をつかんでいるのかしら。同じようなことを書きながら県会議員のK・S≠ニイニシャルを明らかにしている記事もある。
女性関係もなかなかにぎやかだ。週刊誌の記者は、こちらのほうが好みなのかもしれない。やけにつっこんで書いてある。
……新宿のクラブMのママとは古い仲だった。そのママは昔はさぞかしきれいだったろうと思わせる人。今でも目つきが色っぽい。「私、本当に悲しいのよ。馬鹿なこと、書かないでね」とけんもほろろの態度である。たしかに最近は右田との関係も薄くなり「ママのほうがやられるならわかるけど……。右田の弱点をいくつか知ってるだろうからね」という噂もあって、犯人はこの筋ではないだろう
記事には新宿の盛り場の写真がそえてあり、モレイ≠ニ書いたネオンサインが光っている。文中のクラブM≠ヘ、これです、という意味らしい。
……目黒のバーKのママは二年前に右田から資金をまわしてもらったが、最近は結婚したい相手ができて、右田と別れたい。右田は「だったら金を返しな」と取りあわない。このママは若いころ、日劇で踊り子をやっていた。ふくらむところはふくらみ、くびれるところはくびれている。性格については「彼女、カッとなったら、なにをやるかわからないわよ。でも、計画的ってことになるとねえー。次の日はケロッと忘れているほうだから」という証言もある
動機はあるが、もうひとつピンと来ない、と言いたいのだろう。
渋谷のスーパーに勤めるS子のことも、一、二の週刊誌が書いているが、あまりつまびらかではない。ほかにももう一人いるのかしら。
……右田の趣味は、からくり人形の蒐集だが、それに負けず劣らず美人も好きだった。とにかく面食い。好みのタイプは一定で、憂いを含んだ美人。和服の似あうタイプ。見かけはスリムだが、けっして貧弱な体ではない。この女と目をつけると、どんな手段を用いてでも手に入れたくなる。コレクターの執念と共通している。最近も上玉を見つけたが、その女性にはもう将来を約束した恋人がいる。普通の人ならあきらめるところだが、右田はあきらめない……
このあたりから週刊誌の記事はいくつかの方向へ道分かれする。この女性と渋谷のスーパーに勤めるS子とを重ねあわせている記事もあるし、いや、そうではない、S子とは別人で、彼女は豊島区の外科病院の娘、右田はその病院の経営ミスを見つけてゆすり始めていた、と記しているページもある。さらに女性とは関係なく、右田の仕事ぶりの一例として病院をゆすっているという話もあった。
新聞や雑誌の記事というものは、当事者が読んでみるとどこかかならずちがっている。事実のちがいもあるが、それ以上に印象がちがう。同じことを表現していても、見ている角度がちがう。いつか洋子が勤める犬猫病院でも、ペットの安楽死をめぐって女性誌の取材を受けたけれど、できあがった記事を読むと、
――こういうつもりで言ったんじゃないのに――
と首を傾げたいところがいくつもあった。
右田という男の背景についても、当人が生きていたら、
「いい加減なこと書くなよ」
怒りだすような推測がきっとあるにちがいない。
でも……とにかくあまりよいことをやっている男ではなかった。洋子としてはぜひともそう信じたい。ろくでもない男が、本堂の弱みを握っておとしいれようとしていた。
――どの筋かしら――
右田の悪事はたくさんある。本堂に関係があるのは、その中のどれだろう。
洋子がいくつもの週刊誌を熱心に読んだ理由もそこにある。本堂に尋ねても教えてはくれまい。「聞かないほうがいいよ。全部忘れて」そう言うにきまっている。
その後も洋子は新聞雑誌の記事に目を光らせていたが、なんの進展も見えて来ない。事件は早くも迷宮入りの様相を示し始めている……。
一方、本堂はなかなか姿を見せない。
東北新幹線の事件から十日あまりがたち、洋子はすっかり苛立っていた。本堂からは一度電話があったっきり。そのあと、なんの連絡もないのだから……。いくらなんでもひどすぎる。
そう思っている矢先に電話のベルが鳴った。
電話の声が本堂とわかったとたん、
「どうしたのよ」
電話口でなじった。声がけわしくなる。
時刻は夜の十一時を過ぎていた。
「今、近所の公衆電話からかけている。行ってもいいかな」
「ええ」
「じゃあ」
電話が切れた。
――よかった。久しぶりに会える――
本堂が来るとわかったとたんに心の中のつかえがあっけないほど簡単にとれてしまう。洋子の心はなんの節操もなく喜びにくみしようとしている。少しいまいましい。もう少し不機嫌でいていいはずなのに……。
考えてみれば、好きな人を待つ心理にはいつもこんな作用があるものだ。たとえば渋谷のハチ公前の待ち合せ。約束の時間を六、七分すぎるころまでは、なんともない。むしろ胸を弾ませて待っている。十五分をすぎるころから、だんだん不愉快になる。苛立ち始める。三十分も待つと、もう本当に怒りたくなる。だが、そこを過ぎると、
――とにかく早く来て――
哀願するような気持ちが生まれる。そんなときに、ちょうど相手が小走りにやって来たりして……。怒るのを忘れて胸を撫でおろしてしまう。
玄関の鍵をはずし、部屋を片づけ、ベッドのシーツを替えた。
「こんばんは」
本堂は音もたてずに忍びこんで来た。洋子は走り寄り、なにかを言おうとしたが、本堂が自分の唇に指を立てる。表情が「静かに」と告げている。
無言で胸にすがりついた。本堂は洋子の肩を抱え、そのまま押しこむように部屋の奥へ進んだ。
「なにかあったの?」
「いや、なんにもない。すべて順調だ」
「まだしばらくこんなことしてなくちゃいけないの」
「うーん。そうだなあ」
本堂が洋子の目をのぞきこみ、頬を寄せ、唇を重ねる。
「抱きたかった」
本堂の手が洋子のガウンを奪った。
パジャマのままベッドに運ばれた。
なにもかもそれをすませてからでなければ始まらない。男と女のあいだにはそんな時期があるものだ。
――体がこの人になじみ始めている――
洋子は目を閉じ、体のうちに高まって来るものをさぐりながらそう思った。
性の営みには本当に計り知れない部分がある。春の日の陽だまりのように、なんのかげりもない幸福のまっただ中で抱きあうのも無上の歓喜にちがいないけれど、その反対に、邪悪な欲望が業火のように燃えさかる、そのまっただ中で抱きあうときも、果てしない喜びが募って来る。他のしあわせとともに手をたずさえ、うらうらと心地よく抱きあう喜びも捨てがたいが、頭のどこかで地獄を意識しながら、その邪悪さゆえにかえって計り知れない歓喜に洗われることもある。性の営みは、天使だけではなく悪魔ともたやすく手を結ぶところがあるようだ。
――たとえば、今――
喜びに溺《おぼ》れてよいときではない。なにはともあれ二人の人が死んでいるのだから……。
――私たちの手は、まっ赤に汚れている――
ところが、その意識が洋子を高ぶらせる。むしろ一層の歓喜をかきたてる。自分の心の中にそんなよこしまなものが潜んでいるのが恐ろしい。
――本堂さんも同じなのだろうか――
いつものように体の内奥で白いものが弾け、男の体が重さを増す。洋子の中でゆっくりと潮が退き、黒い火も輝きを失う。
「なにを思っているの?」
洋子はおぼろな意識にさからって尋ねてみた。
なにかの本で読んだことがある。男は放出の直後に、しろじろとした冷静さを取り戻すと。その瞬間の男ごころが一番正しいものだと……。そんな判別法があるらしい。
「うん。君が好きだ」
本堂は型通りに答える。だが、ただのリップ・サービスかもしれない。本心は簡単に見えるものではあるまい。この判別法は男が自分自身に問いかけて、自分の本心を知るためにのみ役立つものだろう。
「わるい人だったのね、右田って男」
「そうだよ」
「なにをした人なの」
「それは聞かないほうがいいよ」
本堂の返事はいつもと変らない。
「そう。私はなんにも知らされないのね。あやつり人形みたいにあやつられて」
「気をわるくしないでくれよ。そのほうがいいんだ。僕だって話したいことじゃない。どうせなら、もう少し楽しいことを考えたほうがいいよ」
「どんなこと」
「初めて会ったのは十月の……?」
「七日。短いあいだにいろんなことがあったわ」
「さそり座だって言ってたけど、誕生日はいつ?」
「言わなかったかしら。十一月十七日よ」
答えながら洋子は自分でも忘れていたことに驚いた。
「ついこのあいだじゃないか」
「ガタガタしてたから」
「なんにもお祝いをしなかった」
「いいわ。もう三十歳を過ぎたんですもの。誕生日なんてとくにめでたくもないわ。あなたは?」
「四月二十日」
「おうし座ね」
「どうなんだ。おうし座とさそり座の相性は?」
「いいはずよ、たしか。相性としては最高にいいの。でも親しくなれるまでに紆余《うよ》曲折があるの」
「なるほど、当たっているみたいだ。あさってからヨーロッパへ行く」
「本当に?」
洋子は身を起こした。せっかく会えたというのに……。
「うん。わるいけど……。でも、こんなときにはかえってそのほうがいい。会わないほうがいいんだ、しばらく」
「冷たいのね」
「そういうことじゃないってば」
本堂が眉をしかめる。
――わかっているのよ。でも――
本堂と洋子が親しくしていることが世間に知れれば、ろくなことはない。それはよくわかるのだが、本堂の態度がなんだか歯がゆい。今夜は甘えたい。わがままを言ってみたい。
「長いの、ヨーロッパは」
無言でいる本堂に尋ねかけた。
「二ヵ月くらいかな」
「そんなに」
洋子はもう少しすねなければ、とても気分が収まりそうもなかった。
不 在
十二月五日、本堂はヨーロッパへ出発した。成田空港からの短い電話が、その知らせだった。
「行ってらっしゃい」
「うん、じゃあ。あなたも元気で」
「たまには電話をくださいね」
「わかった」
電話が切れた。
――これでしばらく会えない――
心の糸がプツンと切れてしまったような寂寥《せきりよう》感を覚えたが、ある意味ではなまじ本堂が国内にいて会えないのよりましかもしれない。今、必要なのは時間の経過である。本堂がいつか言っていたことを思い出した。
「時間のパネルを入れ替えるんだ。童話か芝居みたいにね。僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」と……。
たしかに時間の経過とともに事件の実感は稀薄になる。良心の痛みはあるが、もうそれは思うまい。自分とは関係のないことのように思えてくる。
――こんなことでいいのかしら――
と心配になってしまう。
――私って、少し欠落してるところがあるのよね――
本堂のことも、しばらくは本当に忘れてしまうのがいいのかもしれない。なにもかもすっかり忘却して、ある日、めぐりあい、
「どこかでお会いしましたねえ」
「あら、そうかしら。思い出せないわ」
「前世かもしれない」
「わかった。あのときの……初恋の人よ」
そんなふうに言いあって、しあわせな二人になれないものだろうか。
――本堂さんはそれをやろうとしてるんだわ――
おそらく本堂は自分の知能と意志力に相当の自信を持っている人だろう。うまく隠しているけれどその気になれば俺はなんでもできる≠ュらいの自負は持っているだろう。その力強さが魅力である。いつのまにか洋子が魅かれてしまうのも、そのせいらしい。自分の脳味噌の力で、現実を別なものに変えてしまうことも、本堂にはできるのかもしれない。少なくとも本堂がそうやりたいと思っていることは疑いない。
「つまり……認識論の世界ね」
洋子は鼻筋を指で撫でながら独りごちた。まるで、目の前に本堂がいて話しあっているみたいに……。
たとえば蜜柑《みかん》がテーブルの上にのってる。そこにあると思うから、ある。ないと思えば、ない。大切なのは認識の問題だ。
まあ、蜜柑はきっとテーブルの上に実在しているのだろうけれど、霊魂はどうか、神はどうか、愛はどうか……。あると思うか、ないと思うか、そこにそのものの存在がかかっているテーマはけっして少なくない。
――自分が生まれる前の世界。自分が死んだあとの世界――
これは決して実感することができない。みんながただあると思っているだけである。自分が生まれたとたんにパッと全世界が誕生し、自分が死んだとたんに、パッと世界が消滅すると考えたとして、それがまちがいだとは言いきれない。
洋子はそんなとりとめない会話を本堂と交わしている自分を想像した。そんな日が続いた。
ある日、ふと横浜へ訪ねていってみることを思いたった。
本堂と初めて抱きあった港町へ……。
――今年の冬は暖かいのかしら――
十二月のなかばに入ってもコートのいらないような日が続く。井の頭線から東横線へと乗りついで桜木町で降りた。そして山下公園まで歩いた。
街のところどころに本堂がいる。声が聞こえる。本堂の気配が洋子と肩を並べて歩いている。それを期待して港町まで来たのだが、想像以上にはっきりと感ずることができるのがおもしろい。ホテルの最上階まで昇ってコーヒーを二つ頼んだ。ウエイターは怪訝《けげん》に思ったかもしれない。
「お砂糖はなんばい?」
「僕はブラックでいいよ」
「そう。じゃあ、ミルクを私にちょうだい」
そんな会話を心の中で交わして、甘いミルク・コーヒーと苦いブラック・コーヒーとを飲んだ。
本堂と歩いたはずのない道にも本堂がいる。ここはもともと洋子の好きな町である。無意識のうちにも本堂と二人で歩くことを考えていたのかもしれない。
フランス山に登るつもりで来て人形の家に入った。世界の人形がところせましとばかりに並べてある。吊《つる》してある。
――右田とかいう男、からくり人形のコレクターだったわ――
洋子もカタカタと不思議な動きを示す人形に興味を覚えたことがあった。
ほんの一、二年前、洋子は銀座のデパートで茶運び人形を見た。
おかっぱ頭の人形が、茶わんを手にのせられると歩きだし、途中まで行くと戻って来る。中のからくりも設計図をつけて説明してあった。
――こんなの、ほしい――
そう思ったが、べらぼうな値段にちがいあるまい。
もっと昔……どこかの遊園地できまった時間になると高い塔の窓が開き、人形たちの楽隊が現れて音楽をかなで、ついで王子様と王女様がぎこちない仕ぐさで現れて踊りだす。それが見たくて、いつまでも帰ろうとしなかった。
今でも有楽町のマリオン、新宿のハルクあたりで似たような仕かけを見るけれど、
――昔のほうがすてきだった――
本当に一瞬のうちに夢の世界が動きだしたような興奮を覚えた。
――子どもだったから――
それもあるだろうが、昔の細工のほうがぎくしゃくとしていて、そのためにかえって不思議な現実感を作りだしていたのではあるまいか。現代の技術をもってすれば、どんなに精巧なからくり人形でも作れるだろう。それだけにもはや精巧であることがおもしろさに通じない。ぜんまい仕かけみたいな中途半端な精巧さがかえってからくりの楽しさを見せてくれる。
洋子は人形の家を出て岩崎博物館からさらにブリキのおもちゃ館へとまわった。岩崎博物館は服飾の歴史を展示している。ブリキのおもちゃ館は、その名の通りなつかしいブリキ玩具のコレクションを並べている。ここにもぜんまい仕かけの人形があった。
帰路に渋谷で降り、車を飛ばして区立図書館へ寄った。獣医学の歴史について学生時代に読んだ本をもう一度見ておく必要があった。獣医学の発達=c…。あのときもこの図書館で見たはずだ。
目的の本はすぐに見つかったが、ついでに、
「からくり人形のことを書いた、よい本ありません?」
図書館員に尋ねてみた。
頬骨の張った図書館員は偶然この方面に明るい人だったらしい。ほとんど迷うこともなく厚い目録を開け、
「これですね。ほとんどこれ一冊でしょう。範囲も広いし、説明も詳細だし……」
とからくり人形の歴史≠勧める。
だがその本は目下貸出し中。見ることができない。
「区民のかたには館外貸出しをなさるんですか」
洋子は図書館のカウンターで尋ねた。
「はい。区民のかたと、こちらに職場があるかたにも。もう返ってなくちゃいけないんですけど……お急ぎですか」
図書館員は貸出しの記録らしいものを見ながら首を傾げる。
「いえ、結構です」
「また、来てみてください」
獣医学の発達≠セけを借りて閲覧室へ入った。本堂も時おりこの図書館を利用するようなことを言っていた。
――お腹がすいちゃったなあ――
朝ごはんを食べただけである。閲覧室で必要なページを捜し、コピイをとって図書館を出た。
青山通りにおいしいスパゲティの店がある。思っただけでお腹がグウとなる。一人で食べるのは冴《さ》えないけれど、
――あそこはカウンター席があるからいいわ――
ボンゴレを注文した。貝がたくさん入っているので豪華な感じがする。
――また猫を飼おうかしら――
いつかアミイを見つけたペット・ショップの前を通ってみたが、もうシャッターがおりている。
夜に入り風も冷たくなった。ジングルベルのメロディが聞こえ、町はもうはっきりとクリスマスの色に染まり始めている。一年のたつのが本当に早い。こんなに早く日時がたってくれるものならば、本堂が帰って来るのも、そう先のことではあるまい。待ちどおしいけれど、過ぎてしまえば短い時間に思えるだろう。
家に帰ると、上の六〇七号室から声が聞こえて来る。ドアが開いている……。
管理人の声。もう一つの声は、話の内容から察して、周旋屋だろう。
「この十一月が過ぎたら、今、住んでる人が外国へ行ってしまうから、そのあと売ってくれって委任されておりましてね」
「聞いてます」
六〇七号室の持ち主はアメリカにいるような話だった。留守を知人に預け、結局、売ることにしたらしい。
ドアがしまり、男が二人、並んで階段を降りて来た。
「お売りになるのかしら」
洋子が尋ねると、管理人が、
「ええ。あのこと黙っててくださいね」
と小声で言う。死者が出た部屋というのは、あまりかんばしいものではあるまい。
――今度はどんな人が住むのかしら――
六〇七号室について洋子はそれを思わずにはいられない。不安はあるが、今までのようにひどいことはないだろう。
「よかった」
なにはともあれ、へんてこな男がいなくなり、不都合のない住生活が戻って来た。ここはやっぱり快適なマンションである。
クリスマスから年末、そして新年、洋子はさして変りばえのしない日々をすごした。一人暮らしにはさびしい時期である。
――来年はどうなるかな――
去年の正月は箱根へ行った。今年は東京にいて……おかげで二日間も日直を頼まれてしまった。洋子の勤める病院ではペット・ホテルをやってはいないけれど、年末年始は入院という形でペットを預けられる。飼い主にとって、体の弱いペットはそのほうが安心なのだろう。だから外来は一応休んでいても、だれかが勤務しなければいけない。
――かえって気晴しになっていいか――
今年勤務しておけば、来年は休みやすい。一年後も同じ病院に勤めていれば、の話だが……。
――生活が大きく変るかもしれないわ――
その期待はある。運勢は……たしかこの数年は上昇に向かっているはずだ。元旦《がんたん》のおみくじも大吉。占いのたぐいは信ずるほうである。とくによい占いは絶対に信ずる。
松がとれてすぐに六〇七号室が売れた。新しい住人は中年の夫婦。子どもはいない。体が弱いのでないかと思うほどもの静かな人たちだ。ほとんど足音も聞こえない。
あのまま鈴木とかいう男につきまとわれていたら……なにをされたかわからない――
住生活をおびやかされるのは想像以上に不愉快なものだ。ピアノ殺人だってあることだし、当事者でないとちょっとわからない部分がある。鈴木勇はどの道出ていくはずだったが、それは洋子の知らないことだった。
――私も少し狂ってたのかなあ――
去年のことは早く忘れるのが一番だろう。本堂がくり返していっていたように……。
「こんにちは」
声が先に聞こえて、それからブザーが鳴った。
「はい」
「宮地でーす」
便利屋の宮地である。洋子はドア・チェーンをはずした。
「しばらくじゃない」
「故郷に帰ってたんです。おみやげ。きらいですか」
宮地が壜詰めの海胆《うに》をさし出す。
あい変らず宮地は黒い帽子をかぶっている。この青年は大学を出たのに就職もせずに便利屋をやっている。洋子とは気のあうところがある。
「好きよ。青森の海胆ね」
「よかった」
「むこうじゃほやを食べるんでしょ」
「好きですか。今度持って来ます」
「ううん、いい、いい。せっかくだけど、あそこまで海くさいのは駄目。どう、ちょうどコーヒーをわかそうとしてたところだから。おあがりなさいよ。あなたに、なにか頼むことなかったかなあ」
「いいんですか」
「どうぞ。六〇七号室、新しい人が買ったみたいね」
「鈴木さんて、本当に事故だったんですか」
宮地はリビングルームのソファに遠慮がちに半分だけ腰をおろした。
「そうなんでしょ。そんな話だから」
「でも、管理人さんのところへは、殺されたかもしれないって、警察から電話があったみたいですよ」
洋子は、やかんにお湯をいれ、ガスの栓をひねりながら、うしろ姿のまま、
「そんなこと……聞いたわね」
「天罰ですよ。ひどいやつだったから。アミイのこと、あんなふうにしたんだし……」
「でも、もう外国へ行く予定だったんですってね」
「そうなんですか。あ、そう言えば、そんなこと聞いたな」
三角の濾紙にコーヒーの粉を入れ、沸騰したお湯を注ぐ。コーヒーの香りが部屋いっぱいにひろがる。
「どう、今年の景気は?」
ミルクと砂糖をテーブルの上に運んだ。
「どうかなあ。結構いそがしいけど……。いろんなこと頼まれるんですよね」
「そうみたいね。でもいつまでもこんなことしてていいことないわよ」
宮地は洋子の忠告には答えず、
「尾行って意外とむつかしいものですね」
スプーンをまわしながら言った。
「尾行って……人のあと追いかけること?」
「そうです」
と、宮地がうなずく。
「便利屋さんて、そんなこともやるの?」
「頼まれれば、一応」
「ふーん。どんな尾行?」
洋子は、コーヒー・カップの上まで垂れた髪をかきあげ、宮地の顔を見あげた。
「不倫の……」
「ああ、やっぱり」
「最近は多いらしいですね」
「そうみたい」
「僕の友だちがやってて……」
「不倫を?」
「ううん、そうじゃなく、調査の仕事を」
「ああ、そうか」
「あんまり近づきすぎては気づかれそうだし、離れすぎると見失ってしまうし」
「でも、そういうとこって、悪質なのもあるんでしょ。逆に依頼者をゆすったりして」
「僕の知ってるとこはちがいます。良心的っていうか、ビジネスとしてキチンとやってますよ。便利屋よりましかな」
「あなた、俳優さん志望ですもんね。変装なんかうまいんじゃない」
「でもそういうこと、あんまり関係ないみたいですよ。資料を分析したりして……。もう一人、新聞社の社会部に友だちがいて、そっちのほうから調べてもらったりもするんです。これから伸びる仕事じゃないのかな。アメリカなんかじゃ、ずいぶん盛んなんでしょ」
「依頼人の秘密はちゃんと守ってくれるわけね」
「もちろん。それが一番大切なことですから」
「社会部のかた、知ってるって言ったけど」
「はい?」
「ちょっと頼んでいただけるかしら」
そう言ってから洋子は、
――大丈夫かしら――
と迷った。だが、もう少し東北新幹線の事件について知りたい。
「なんでしょう」
「殺虫剤なんかに使う薬が使われているみたいだから……。うちの病院とは関係ないわよ。だから、絶対秘密にしておいてほしいの」
「はあ」
宮地はポカンとした表情で洋子を見つめている。
「ちょっと興味があるものだから……。コーヒー、もう一ぱい、どう?」
「はい、いただきます」
「あのね、この間、東北新幹線であったでしょ、殺人事件が……。事件のその後を知りたいの」
「そんなの、ありましたね」
「研究所で使うような薬を使ってたじゃない」
「そうなんですか。だいたいのこと、新聞や雑誌に出てるんじゃないですか」
「でも、それ以外のことも少しあるんじゃない。とくに殺された人を恨んでいた人とか……。社会部の人なら知ってるんじゃないかしら。お代はちゃんと出しますから、ちょっと調べてもらえない? むつかしいの?」
「いえ、むつかしくはない」
「でも私のことは内緒よ。病院や獣医さんのこと、変に思われると困るから、それは大丈夫なの?」
「そんなこと、奴は聞きませんから」
「なんか口実がないと不自然ね」
「雑誌のデータに必要だって言います」
「なに、それ」
「いろんな雑誌があるでしょ。ノンフィクションみたいな読み物が。ああいうの、たいてい新聞社から材料が出てるんです」
「あなた、いろんなこと、知ってるのね」
「役者志望の連中って、みんな食えないから……。いろんなこと、やってんです」
宮地は笑うと笑顔がかわいい。
「おもしろいのね」
「なにを聞くんですか」
「事件のあらまし、捜査がどうなってるか……。とくに殺された人の周辺、恨んでいた人がいたわけでしょ。私も推理小説、書こうかしら」
「メモ用紙と書くもの、貸してください」
「はい、どうぞ」
電話の下から取って渡す。宮地はボールペンを走らせながら、
「テープでいいですか」
と聞いた。
「いいわよ」
「お金が少しかかりますけど」
宮地は申し訳なさそうな顔で言う。
「そりゃ、かまわないけど、おいくらくらい?」
「一万円くらい……かな。わかってることだけでいいんでしょ、奴が」
「ええ、まあ。それで充分よ」
「少し値切ってみます」
「値切らなくていいから、それより秘密厳守ね」
「仁科さんのほうも、秘密を守ってくださいね。奴としては、小遣いかせぎでやってることだから。わるいことじゃないけど、人に知られていいことじゃないでしょ」
「それは大丈夫。その人の名前も聞かないわ」
「じゃあ、頼んでみます」
「お願いするわ。ちょっと推理をしてみたいの。お代は?」
「いただいておこうかな。そのほうが手っとり早いから」
「いくら」
「一万円でいいです」
財布の中にそのくらいの金額は入っているだろう。洋子はきれいなお札を選んで渡した。
「じゃあ、お預りします」
「あなたへのお礼もしなくちゃね」
「いいです。奴におごらせますから」
「いつもそうなの」
「そうでもないけど……」
「じゃあ、あなたへのお礼はまたあとで考えるわね」
「いえ、本当にいいです。どうもご馳走さまでした」
宮地はお辞儀をして帽子をかぶる。
「どういたしまして。またね」
送り出したあとで、
――大丈夫かしら――
また不安がこみあげて来る。事件に過度の興味を持つのは、危険なことである。だが、知りたいことは知りたい。
――宮地さんなら大丈夫ね――
短いつきあいだが、律儀で、義理がたい。約束したことはきちんと守ってくれるだろう。
事件の記録は新聞や雑誌から切り取って茶封筒に入れてある。それを取り出してながめていると、
「馬鹿だな。早く忘れたほうがいいのに」
頭の中で声が響く。本堂がそばにいたらきっとそう言うだろう。
――元気でいるのかしら――
本堂からは今年に入ってまだ一度も連絡がない。少し腹立たしい。
――電話くらいもっとかけてよこせばいいのに――
成田空港からの電話では、本堂はフランスからスペインへまわるような話だった。そのあとローマとフィレンツェから短い電話があっただけ……。洋子はヨーロッパへ行ったことがない。
――時差は……八時間くらい遅れているのよね――
ヨーロッパから「日本へは電話がかけにくい」と聞いたことがある。むこうが起きているときは、こっちが寝ているし、こっちが家にいるときは、むこうが仕事中だったりする。あるいは、その逆。
今は午前十一時八分。ヨーロッパは夜中の三時八分。本堂は眠っているだろう。
それに、本堂は取材の旅に出ているのだろうから、ホテルは、日本へ直通電話のかけられるところばかりではあるまい。国際電話の交換台を通すとなると本堂和也から仁科洋子へ≠フ通話記録がなにかの形で残るだろう。本堂はそんな危険なことはやらない。
――私のほうもいつも家にいるわけじゃないし――
留守中にベルが鳴ったかもしれない。
――でも、私が言いわけを考えてあげること、ないんだけどなあ――
気がつくと、なぜ本堂から電話が来ないか、本堂のために洋子は一生懸命弁護している……。
苛立っていても仕方がない。
買い物のついでに本屋へ行って旅行関係の雑誌を捜し、目次をながめた。どこかに本堂の書いた記事が載っているかもしれない。でも、本堂は、
「ほとんど匿名だし、ガイドブックを作っていることが多いんだ」
と、言っていた。
名前が見つからないのは、そのせいだろう。
――どんなガイドブックを作っているのかしら――
いくつかの出版社がシリーズでガイドブックを発行している。国内の観光地を訪ねるシリーズもあれば、海外旅行のためのシリーズもある。これだけ多くの本があるのだから、当然それを書く人がたくさんいなければいけない。
――改訂もしなくちゃいけないし――
旅先の様子は年々少しずつ変っているだろう。新しい道路ができたり、新しいホテルが建ったり……かと思えば、時刻表が変ったり、入国ビザが必要になったり、三年に一回くらいは新しい版にあらためなければなるまい。
十冊ほど調べてみたが、本堂の名は見当たらない。筆者のはっきりしない本もいくつかある。
日がたつにつれ、洋子はあきらめることに少しずつ慣れた。
本堂の居場所がわからないのだから連絡の取りようがない。まったくの話、本堂が言っていたように「僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」と、これはまさしくそんな状態らしい。と言うより、そうとでも思わなければ洋子はやりきれない。
それでもひまがあると、本堂と一緒に行ったところを訪ね歩いた。横浜へは三度も行った。赤坂のホテルもなつかしい。
――死刑台のエレベーター≠見たんだわ――
部屋にビデオ装置つきのテレビが用意してあった。本堂はなにげなく死刑台のエレベーター≠映したけれど、
――あれは私に見せるため――
きっとそうだったろう。
愛しあっている二人が殺人を企てる。ジャンヌ・モローとモーリス・ロネ。二人の愛は真剣だった。愛を貫くためには邪魔物を殺さなければいけない……。
――また軽井沢へ行ってみるかなあ――
本堂の思い出を訪ねるとなれば軽井沢をはずすわけにはいかない。その計画は、本堂が旅立ってこのかた、ずっと心の中にあったけれど、
――まだ寒いわ――
と、渋ってしまう。冬の軽井沢は足場がわるい。通行不能の道もある。春を待つほうが得策だろう。
二月に入ると、犬猫病院の同僚が一人、結婚して新婚旅行に出かけた。洋子の出勤の数が増える。重症が多く、治療の結果もはかばかしくない。動物たちはみんな静かに死を迎える。じっとうずくまって待ち続けている。
おかしいことが一つあった。あわて者のおばあさんが、犬猫病院をてっきり人間の病院だと思いこんで飛びこんで来た。耳が聞こえないので説明するのが一苦労。
「ここは駄目なんですよ。人間の病院じゃないんだから」
「ああ、やっぱり。保険はきかないんですか」
一人がプッと吹きだすと、もうみんな我慢ができない。
こんなこと、洋子は初めてだが、最近の犬猫病院ではけっしてめずらしいことではない。レントゲン科や精神科まであるのだから……。玄関の看板に書いてある。
この季節の東京は寒い日もあるが、すぐに暖かさを回復する。揺り戻しを続けながら春が近づいて来る。
二月の末になって、ようやく本堂から久しぶりの電話がかかって来た。
恨み事は言うまい。洋子はそんな気分に変っていた。
「今はどこから?」
「パリだ。寒くてねえ」
「東京は大分暖かくなって来たわよ。お変りもなく?」
「うん、元気だ。ずっと田舎のほうへ行っててね。スペインの田舎。いいところだね。何度訪ねてもいい。べつに変ったこと、ないね、そっちは?」
「あんまり連絡がないと、私、警察につかまっているかもしれないわよ」
「なにかあったのか」
「ううん、なにもないけど。無事よ。一週間に一回くらい連絡があっても、いいんじゃないかしら。本当になにが起きるかわからないわよ」
「そうしようとは思ってはいるんだ。ただ、時間帯がねえー。こっちは今、昼だからね。昼間はたいていどこか田舎のほうを走っている。たまたま今日はパリにいるから……」
「どこのホテルですか」
「ダルマ橋に近いとこ。もうチェック・アウトする。これから列車でアムスヘ……」
「仕事はかどってますか」
「強行軍だけどねえー」
「いつ帰るの?」
「滞在は延びるだろうなあ。すまないけど、ここ一番、大切な仕事なんだ。帰って本を書く。どうか待ってて」
本堂はきっと電話口で眉を寄せ、苦しそうな表情を作っているだろう。演技っぽいところもあるけれど、許してあげたくなるような、うまい表情だ。
「我慢するわ」
「ありがとう。なにしろ僕たちは、まだめぐりあってないんだから。僕は考えているんだ。めぐりあうのは、十一月十七日、あなたの誕生日。午後三時。軽井沢の二手橋の近くの散歩コース。いつか会ったところ」
本堂は一気に言う。
「そんなに先なの」
「そのくらい時間を置いたほうがいい。冗談じゃなく、そこで本当に知りあったみたいにするんだ。なにもかも。今までのことは、すっかり忘れて」
「それまで帰らないんですか、日本へは」
「短期間なら帰るかもしれない。でも中途半端な会いかたをするより、そのほうが絶対にいい」
本堂がこんな言い方をするときは譲らない。口調はやわらかいが意志は堅い。
「日本に帰ったときくらい会いたいわね。連絡だけはしてちょうだい」
洋子としては、やんわりと頼むのが精いっぱいである。
――このところ、私ったら同じことばかり言っている――
少しめめしい。プライドに傷がつく。それに……男と女のあいだにはいつも微妙な力学が作用している。一方が追いかければ一方が逃げ腰になる。しつこく迫らないほうがいい。
「うん、そうだな」
本堂は煮えきらない。
そのとき玄関のブザーが鳴ったが、洋子は無視して電話を続けた。届け物が届いたのかもしれない。
「このあいだ横浜へ行ったわ」
話題を変えて近況を話した。
「パリはようやく政情が安定してきてね」
と、本堂も毎日の生活ぶりを語る。
「新しいボーイ・フレンドでも作って、気長に待ってようかしら。ねっ?」
「ああ、それがいい。じゃあ、十一月十七日、軽井沢で」
本堂はスケジュールをすっかり決めているらしい。
「そうねえ!」
洋子のほうが曖昧に答えて、イエスともノウとも言わない。
こういう会話もある。話しながら、おたがいに自分の主張をけっして変えない。途中に天気の話や病気の話など、あたりさわりのないテーマが混って、一見和気あいあいとしているが、その実|肝腎《かんじん》な会話は少しも噛《か》みあっていない。だからなんの進展もない。洋子はこんな話しあいが、あまり好きではないし、得意でもない。本堂のしたたかさをかいま見たように思った。
――馬鹿らしい――
ささいなことに一喜一憂していても始まらない。十一月と言えば、あと九ヵ月ほど先のこと。そのときに本当によい状態で会えるものなら、いま我慢をすることも必要だろう。
電話のあとで郵便受けをのぞくと、茶封筒が落ちている。
お留守なので置いてきます。あとでテープを返してください。宮地≠ニ、茶封筒の表側に書いてある。
宮地の友人が新聞社の社会部にいる。東北新幹線の事件について捜査がどこまで進んでいるか、その人に尋ねてもらった。宮地はすぐに動いてくれたらしい。
洋子はカセット・テープをデッキに入れた。
スウィッチを押す。ガタガタ、コトン……。テーブルの上になにか置くような響きがあって、
「いい? じゃあ」
くぐもった声が聞こえた。記者はメモを見ながら話しているらしい。
A面からB面へ移って合計四十分くらい……。洋子は一通り聞いたあとで、今度はメモをとりながら耳を傾けた。
捜査本部が作られたが、捜査はさほど進展していないらしい。現場には犯人の痕跡《こんせき》がほとんど残されていない。犯行が水ぎわだっているので「プロの仕わざではあるまいか」などと、そんな観測も出ている。「犯人は女装した男ではないか」という意見もある。
現場の捜査にめぼしい手がかりがないので、目下のところ(1)使用された薬品のルート、(2)那須塩原のニュー・スター・ホテルの関係者、(3)右田輝男に恨みを持つ者、この三つにポイントをおいて捜査が進められている。
(1)の薬品は有機リンの化合物で、製薬会社で殺虫剤、殺鼠剤の研究などに用いられるもの。ごく標準的な薬物なのでメーカーの特定はできない。この薬物は最近あまり使われていないが、管理のルーズなところはないか、関係者が持ち出していないか、関東一円の製薬会社、病院、大学の研究機関を対象にして調査中。しかし、みすみす自分の職場の手落ちを訴える者は少ないから、今のところこの筋ではあまりはかばかしい進展は見られない。
(2)はグリーン車のキップ購入なども含めて捜査しているが、ニュー・スター・ホテルはただ便宜的に利用されただけではないか。事件の前日、十一月二十日の午後、東京の旗屋光二という男から宿泊の予約が電話で入ったが、当人は現れなかったし、その男の告げた自宅の電話番号も根拠のないものだった。この予約は、死んだ右田からホテルに照会があったときにフロント係が「はい、宿泊の予約をうけたまわっております」と答えることを予測し、右田に疑いを抱かせないための工作だったろう。グリーン車のキップは、三日前、つまり十一月十八日の午前十時五分に東京駅八重洲側のみどりの窓口で七号車の6C、6Dと二枚一緒に買われたもの。しかし、買いに来たのが男であったか女であったかさえもつかめていない。この筋からの捜査もあまり多くの期待を持てない。
(3)については、仕事がらみ、女性がらみ、いくつかの筋があって、今、捜査が一番力を入れているところ。
「政治家がらみのやつは、あんまりはっきり言えないんだ。そこは承知しておいてくださいね」
そこでテープがB面に変った。
「容疑が固まらないうちは警察はなんにも言わないしね。それ自体がべつな犯罪ってケースもあるわけだろ。うちの社会部で調査してることもあるけど、これはなおのこと言えない」
テープの声は少し笑っている。
「一つは、自民党議員の脱税関係。今一番刺激的な話題だから、ゆすりがいもある。それだけに、やりすぎると殺される可能性もあるわけだな。政治生命にかかわるもん。右田はなにかつかんでいたらしい。議員の名前もはっきりわからない。わかれば調査もできるけどな。脱税だって、おそらく一年か二年か三年くらい前のことだろうし、もうそのぶんは支払って一件落着しているだろうから、法に触れるわけじゃない。証拠となるものは手をうってガッチリ隠してあるさ。まあ、右田がなにを握っていたか……。警察はある程度までつかんでると思うけど、脱税は犯罪じゃないし、政治家がらみはとくに口が堅い。こっちもうっかりしたことは言えない」
新聞記者としては推測はできても、しゃべるわけにはいかないのだろう。
「もう一つは、千葉の県会議員の汚職。空港付近の用地買収にからんだもの。野党のほうだが、あんまり評判のいい議員じゃない。示談屋みたいな男だ。これは別件で警察が調べている。今のところは県会議員のレベルだけど、親分がいるだろうからな。案外、根は深いのかもしれない。この件については右田は、かなりいい証拠≠持っていたらしい。荒っぽい連中の多いところだから、深入りしすぎたかもしれない。これも、今のところは、話せないな。話せないことばっかりで申し訳ないけど、練馬区の鹿崎総合病院、これは手術のミスがあったらしい。取材した記者の話じゃニュースにするのもむつかしい≠チてことだから、どのくらいのミスだったのか。そんなことで殺されたんじゃあわないけど、病院なら薬品とつながりがあるから一応は疑っているわけ。ほかにもなにかあるかもしれないけど、今のところ、右田の仕事関係じゃ、この三つがポイントになってます。それから次は女性関係ですがね……」
と、少しあらたまった調子で言う。
「こっちは女性の感情がからんでるからね。そんなことじゃ殺さないだろうと思っても、当の女性が憎い。殺してやりたい≠チて、そう考えたら、どうにもならんわけでしょう。だから、いろいろ疑わなくちゃいけない」
テープから漏れる声が、また少し笑っている。
右田輝男の女性関係については、洋子がこれまでに読んだ週刊誌とそうちがっていない。ただ、テープの声は名前や住所まではっきりと告げている。相手が政治家や有力者のときは慎重だが、庶民のプライバシーはさほど大切に守られない……。
クラブ・モレイのママ。佐賀栄子。四十六歳。店の住所は新宿区歌舞伎町一。自宅は新宿区百人町二。右田の古い愛人で、右田のくさい部分にもかなり深く通じている。まあ、仲間うちと呼んでいいような関係だから疑惑は薄いけど、一応はマークしておく必要がある。モレイの経営はとくにわるくはない。十九歳の娘がいる。その父親とは離婚。この女には事件のときのアリバイがある。午前十一時過ぎに近所の美容院に行っている。証言者多数。「右田さんが死んで私になんの得があるのよ。ひどい男だけど、もう忘れたわ」という本人の弁は、その通り信用してよさそう。
目黒のバー加世≠フママ。中田カヨ。三十四歳。五年前に右田の資金で店を出している。店は目黒区目黒一。自宅は下目黒三、KWマンション三〇七。彼女はもと店のバーテンダーだった上塚修、三十二歳と一緒になりたいが、右田が許さない。邪魔をしている。昔はともかく、最近の右田はそれほど中田カヨに執着があるわけじゃないのに、女が自分以外の男と親しくなったのがおもしろくない。世話になりながら、かげでコソコソやったのが気に入らない。
「右田さんにはもう充分尽したんだからいいと思うんだけどねえ」という第三者の証言もある。中田カヨもそんな気持ちだったらしいが、右田はいろんないやがらせをやっていた。金銭面でもはっきりしないところがたくさんあって「あれは返したわ」「いや、あんなもんじゃ足らんよ」よく言い争っていた。この女のアリバイは不確か。「午前中は寝てるにきまってるでしょ」と当人は言っている。
つい先月まで渋谷のスーパー・エブリシングに勤めていた木崎早苗二十二歳は、右田の愛人だな。今は品川区東五反田三の桜マンション五〇三に住んでいて無職。いずれ右田がどこかのクラブにでも勤めさせるつもりだったらしい。若い女のことだから、右田の思惑通りになったかどうか。木崎早苗が裸足《はだし》で部屋を飛び出し、右田が追いかけて行って、引きずるようにして連れ戻った、それを近所の人が見ている。そのあと泣き声が聞こえていた。「私の将来のこととか、お金のこととか意見のあわないことが少しあったんです」と本人は言っている。この女はほかにも家具屋の主人のパトロンがいて、若いわりにはしたたかだな。アリバイ……十時に近所の薬局へ行っている。
相田和美、二十九歳。中野区野方一、アビタシオン相田の持ち主で、父親と二人で暮らしている。彼女は創作折り紙の研究家。カルチャー・センターなどで教えている。未婚。同じマンションに妹の芳美がいて、こちらは二年前に結婚。夫は大蔵省のエリートで、単身ロンドンに赴任している。美人姉妹のほまれが高かった。和美がなぜ独身でいるのか、謎《なぞ》の一つ。右田との接点はほとんど考えられないんだが、警察は相田和美が右田にゆすられていたのではないか、そう見ているふしがある。もちろん右田が死んだ今、本人は「右田さん? 知りません」と否定しているが……。この姉妹のアリバイもほとんど完全。姉は午前中ずっと中野の文化センターで折り紙の指導をしていたし、妹は家にいてクリーニング屋の店員や郵便配達員がたしかに顔を見て話をかわしている。
「ざっと以上ですが、もう一つ、右田輝男をおびきだすにふさわしいからくり人形はなんなのか、つまり、あまり確かとは思えない情報に飛びついた右田が那須塩原まで行く気になったのは、犯人たちがよほどの逸品をほのめかしたから……。犯人はその方面の知識に明るい人なのではないか、ここに来てあらたにそんな捜査も進められています。不充分ですが、今、話せるのはこんなところです。なにかに発表するのでしたら、一応原稿を見せてください。お願いします」
ガタ、ガタン……。そこでテープは終っていた。
洋子はフーッとため息をつく。
――運がよかった――
とりあえずそう思う。プロの仕わざではないかと疑われるほどうまくやったなんて……偶然うまくいったとしか考えられない。もう一度やったら、きっとどえらい失敗を犯すのではないかしら。
――おかしいわ――
犯人が男かもしれないと、そんな疑いもあるらしい。
あのとき洋子はマスクをかけていた。身長は百六十一センチ。まあ、小さな男くらい……。でも肩幅は狭いし、どこから見ても女の体形である。
とはいえ警察がまちがってくれるぶんにはなんの不都合もない。
――薬を手に入れたのは五年も前――
だれも知らないはず……。あのころ一時的に厭世《えんせい》的な気分に襲われて、いつか自分が死ぬことを、ほんのちょっぴり考えていた。その日のために……多分、そんな意図だったろう。薬のルートから発見されるはずはない。
――やっぱりクイボノね――
本堂から教えられた言葉を思い出す。クイボノは、だれの利益か、という意味。右田が死んでだれが得をするのか、この疑問の先に犯人がいる。
もう本堂和也の名前は、警察のリストにあがっているのではあるまいか。本堂には強固なアリバイがある。本堂のことだから、そのあたりに抜かりのあろうはずがない。
――でも――
洋子は小さく叫んだかもしれない。
本堂のアリバイがいくら強固でもほとんど何の意味もない。殺人の実行者は女なのだから。
警察が本堂に狙いをつけているとすれば、本堂の周囲に親しい女がいないか、それを捜すにちがいない。洋子の存在が浮かび、その女が獣医で、薬理にも通じていて、しかも当日のアリバイがはっきりしないとなると……、
――危いわ――
本堂が洋子に連絡することを極度に警戒しているのは当然のことだ。
本堂はしきりに言っていた。
「僕たちはまだめぐりあっていないんだ。これからめぐりあう。今のところはまだ知らない者同士なんだ」
今年の十一月十七日に二人は、はじめて軽井沢で知りあう……。
そういうドラマを完全に作りあげなければいけない。
――それよりも宮地さんが、いらないことをしゃべったりしなかったかしら――
背筋が冷たくなる。
宮地が新聞記者に調査を頼むとき、
「知りあいに獣医の女性がいてね。その人が事件に興味を持っているんだ」
などと言っていたら……。
その危険は考えたはずだが、つい捜査の進展が知りたくて宮地に頼んでしまった。
――今からでも遅くない――
宮地の電話番号をまわした。
呼び出し音が鳴っている。
――でも、どう口どめしたらいいの。へんなこと言ったら、かえって怪しまれる――
よく考えてから宮地と話したほうがいい。
そう思って電話を切ろうとしたとき、
「はい、もし、もし」
荒い息使いと一緒に宮地の声が聞こえた。
「はい。テープ、ありがとう。今、聞いたわ」
洋子は、次に言う言葉を捜しながら、とりあえず礼を言った。
「あんなんでいいですか」
「うん。大丈夫。もう、いいんだけど……。忘れてたくらい。でも、おもしろかった。宮地さんて結構すごいのね」
「そんなことないです」
「大学のお友だちなの? 記者のかた」
「はあ」
「声がずっと老けてるから」
「昔からボソボソ話す奴なんです」
「なんと言ってテープに吹き込んでもらったの」
「実話雑誌の記事を書くからって。テレビ・ドラマのシナリオにもなりそうだしって」
「あなたが書くって言ったの?」
「はあ。まずかったですか」
「ううん。それが一番いいの。納得してくれた?」
洋子はからかうような軽い調子で尋ねた。
「はい。そういうこと、こだわらない奴だから。これで飲めるって喜んでました」
一万円はわるくない臨時収入だろう。
「こういうことって、いけないのかしら、記者のモラルとして」
取材で入手したことをほかに漏らすのは許されることなのだろうか。
「そのくらいなら、いいんじゃないのかなあ。とくに秘密ってほどのものじゃないし。アルバイトみたいなもんだから」
「そうでしょうね」
「でも黙っててくださいね。迷惑かけると困るから」
「私は大丈夫よ。なかったことにしましょ。テープ、取りに来て、ついでのときに」
「高かったですか、一万円」
「ううん、それはいいの。ご苦労さま。それよりバスルームの壁紙が少しはげかけてんだけど、今のうちに貼《は》っておいたほうがいいかしら」
自分でもできることだが、宮地に頼んでおこう。
「明日の午後、どうですか。見に行きます」
「いいわよ。じゃあ、そうして」
受話器を戻し、
――うまくいった――
と、洋子は胸を撫でおろす。テープの件はこれで心配なさそうだ。
――返す前にもう一度テープをよく聞いておこう――
洋子は赤鉛筆で、あらたに細かい情報まで書き加えた。重要なところには傍線を引いた。
スウィッチを切って、ゆっくり読み返す。
――なにかに似ている――
そう、たとえば、役者が舞台のそでから舞台をながめている風景……。洋子は舞台に立ったことなど一度もないけれど、今の情況はそんな感じではあるまいか。
いま舞台の上で演じられているのは、東北新幹線で起きた事件である。洋子はそれを観客として見ている。だが、舞台の裏も一部分だけ見える。そして洋子は出演者でもあった……。とはいえ演出家ではない。からくりがすっかり見えるわけではない。今はむしろただの観客に近い。
テープを聞いて記したメモには、不用なことも相当に含まれている。たとえば犯人は女装した男かもしれない≠ネどという疑問は、洋子が吟味する必要はない。
気がかりなのは、右田輝男に恨みを持っている人たちのほう。
――この中のだれかと本堂が繋《つな》がっている――
どの筋かわからない。国会議員の脱税。県会議員の汚職。病院の手術ミス……。右田は人の弱味をめしのたね≠ノしていた……。本堂はこんな人たちと本当にかかわりを持っていたのかしら。
――ピンと来ないわ――
理由はなにもないのだが、そっちの方角ではないような気がする。むしろ右田の女性関係。
クラブ・モレイのママ、佐賀栄子、四十六歳。バー加世のママ、中田カヨ、三十四歳。目下の愛人、木崎早苗、二十二歳。創作折り紙の研究家、相田和美、二十九歳。
――この人かしら――
なんとなく最後の人のところで胸が騒ぐ。
相田和美は、美人姉妹のお姉さんのほう。いまだに独身でいるらしい。週刊誌には、右田はこの女と目をつけると、どんな手段を用いてでも手に入れたくなる。コレクターの執念と共通している。最近も上玉を見つけたが、その女性にはもう将来を約束した恋人がいる。普通の人ならあきらめるところだが、右田はあきらめない……≠ニ書いてあった。その上玉≠ェ相田和美ではあるまいか。
――上玉ねえ――
書いた人の年齢がわかるような古い言葉使いだが、相田和美は和服のよく似合う上品な様子の女ではあるまいか。カルチャー・センターで創作折り紙を教えている……。趣味もわるくなさそう。そのあたりに本堂と繋がるところがある。
「そうなのよ」
洋子は自分で驚くほど大きな声をあげた。
このあいだから頭の片すみにあったことでありながら、きちんと考えなかった。疑いを抱えながら思案を避けていた。
――本堂さんは……アリバイ工作をしていたわ――
断定はできないが、そんな気がする。十一月二十一日午前十時すぎ。犯行の日時は、キチンと決められていた。不安の影がそのあたりにうごめいている。
考えてもみよう。犯罪の実行者が女だとわかれば、男の本堂が直接疑われるはずがない。陰で糸を引いていたかどうかはともかく、実行者としてはけっして疑われない。逆に言えば、本堂がどれほど強固なアリバイを作っておいても、東北新幹線に乗ったのが女だとわかってしまえば、本堂のアリバイなんか、てんから問題にもされない。
――ちがうかしら――
わけのわからないものが洋子の中を駈けぬける。怒りかもしれない。疑念かもしれない。嫉妬《しつと》にも似ているが、そうは思いたくない。
洋子が新幹線に乗るとして、そのときにアリバイ工作が必要な人がいるとするならば、それは女でなければおかしい。洋子は本堂の偽装をすることはできない。つまり洋子は女しか守れない。
赤鉛筆の芯《しん》がポキンと折れた。よほど不自然な握り方をしていたらしい。思わず知らず無理な力が加わってしまったのだろう。
――二重の安全を考えたのかしら――
本堂は慎重な人だ。実行者は女。しかも本堂にはアリバイがある。安全性は二重にでも三重にでも確保しておいたほうがいいけれど……。
でも、どこかおかしい。
むしろまず実行者が女であることにより本堂自身を守り、次にアリバイ工作によって、もう一人の女を守る。そんな構造になっているのではあるまいか。その女が右田を殺す理由を持っている。その女と本堂はどういう関係なのか。洋子は芯のない赤鉛筆を軸ごと折ろうとしたが、今度はそう簡単には折れない。
――まちがっているかしら――
こわい夢を見ているようだ。早く走らなければいけないのに、体が動かない。しっかりと考えなければいけないのに、感情ばかりが高ぶって、まともな思考が働かない。
――落ちつかなくちゃあ――
洋子は息を深く吸い、次に胸を縮めて息を吐いた。二度、三度とくり返して、少し動悸がおさまった。
――警察は犯人が女装しているケースも考えているらしいけど――
そうなると本堂もアリバイが必要だ。二重の安全性も意味を持つ。
――頭がこんがらがりそう――
やはり冷静さを洋子は失っているらしい。本堂の周辺に女の影を見たような気がして……。
ゆっくり考えてみれば、殺人の実行者が女であるか、男であるか、それはさして重要な問題ではない……。
実行者が女ならば、まず男は疑いの外に置かれる。疑いのかけられそうな女は、あらかじめアリバイを作っておくから、これも疑いが晴れる。
実行者が男ならば、まず女は疑いの外に置かれる。疑いのかけられそうな男は、あらかじめアリバイを作っておくから、これも疑いが晴れる。
今度のケースでは、洋子が実行者なのだから、本堂はアリバイの有無に関係なく安全のはずである。本堂の安全のためには洋子を選びさえすれば、それでいいのであり、女である洋子を選んだからといって、かならずしもだれかほかの女を守るためだとは言いきれない。
それはそうなのだが、なんだか釈然としない。やっぱりもう一人、女がいて……、
――本堂と、その女が非常に親しい関係だとしたら――
どちらが右田に恨みを持っているか、それはとりあえず思案の外におこう。右田が殺されれば、二人とも疑われるような状態を想定してみよう。
どちらが手を出しても危い。だれかほかの人に頼んで殺してもらうほうがいい。
男に頼むか、女に頼むか……贅沢は言えない。現実問題としてそんな仕事を頼める人を自由に選ぶわけにはいかない。
たまたま洋子が女だった。本堂はそれだけで安全、あとは女のアリバイを作る。となると、アリバイのたしかな女が、本堂と親しい人、となる。
――考えすぎかなあ――
洋子はアリバイのことにばかりこだわっているので、つい、つい、女である自分が守れるのは女と、その考えに固執してしまうのだが、性別に関係なく、だれかほかの人が殺人を代行してくれれば、それで本堂は安全なのである。かならずしも本堂の周辺にもう一人の女を置いて考える必要はない。
そう思うすぐかたわらから、
――なんだかおかしいわ――
と、疑惑が意地わるく吹き出して来る。やはり本堂の不在が長すぎるからだろう。あまりにも早く親しくなりすぎてしまった。思いこみだけで深入りしてしまった。知らない部分がまだまだたくさん残っている。
――少しずつ調べてみようかな――
宮地の顔が浮かんだが、やめておこう。だれかに頼むのは危険である。洋子自身が注意深く尋ねてみるよりほかにない。氷の湖を歩くように……。一歩一歩安全を確かめながら。
テープから書き取ったメモを見なおした。
事件の時刻にアリバイのはっきりしている女は……まずモレイのママ。午前中に美容院に行っている。確かなアリバイ。「何人かの人に顔を見せ、居場所をはっきりとさせておきなさい」と言われたとき、女が一番最初に思いつくところではあるまいか。
夜の仕事を持っている人が、午前中から美容院に行くなんて、わざとらしいところもある。
加世のママは自宅にいた。だれも見ていない。
木崎早苗は近所の薬局に行っている。これはどの程度確かなアリバイなのか。顔見知りの薬局で、言葉まで交わしていれば、ほぼまちがいない。
相田和美は地域のカルチャー・センターで折り紙教室の講師を勤めている。これは完全なアリバイと言ってよいだろう。それだけにかえってあやしいとも言える。
どの女性についても住所がはっきりとわかっている。それだけでも宮地のテープには一万円の価値があるだろう。
東京都の地図を出して、一人一人の住むあたりを調べてみた。そのうちに町田市のページを見て洋子の指が止まった。
本堂は言っていた。「家は町田にあるんだけど、ほとんど帰らない」と。
――こっちが先ね――
本堂がどんな家に住んでいたのか、それを知ったら何か見えて来るものがあるかもしれない。
地 図
寒さ暑さも彼岸まで。東京に関して言えば、この諺《ことわざ》はほとんど正確に気温の変化を言いあてている。
この季節、気象台にはよく電話がかかってくるらしい。
「もう寒さは終りですか」
そんな問いあわせが来ると、係員はかならず、
「いいえ、まだです」
と答えることにしているとか。
同じように秋ぐちに、
「もう暑さは終りですか」
と聞かれれば、
「いいえ、まだです」
と答える。地学の授業で洋子はそんな話を聞いた。雑談の楽しい先生だった。
いつも同じ返答。それでいいらしい。寒さも暑さも、かならずぶり返す。
みんなが「寒さは終りですか」とか「暑さは終りですか」と尋ねたりするうちは、まだ本当の春や秋にならない。そんな疑問をけっして抱かなくなったとき、ようやく本当の春や秋になる。だれの目にも季節の変化があきらかとなり、もうけっして電話の問いあわせなどがなくなって、初めてぶり返しのない春や秋がやってくる。電話でわざわざ問いあわせがあるうちは、安んじて気象台員は「まだです」と言っていればよい。とてもおもしろいロジックだった。
彼岸が過ぎると、春は惜しみなく街に暖気をふりまく。数日のうちに疑いようもない確かな春となり、もう冬ははっきりと過去に変っている。
洋子が犬猫病院に行くのは月曜日と木曜日。臨時の勤務を頼まれることも多いが、週に二日くらいはウイークデイに休んでいる。
そんな休日の昼さがり、うららかな空を見て町田まで足を延ばした。一度も行ったことのない町。小田急線にその名の駅があるのは知っていたが、どれほど時間がかかるのかわからない。
下北沢で乗り替えて、三十分ほど。思いのほか大きな町である。新興の住宅都市。駅周辺に新しいビルが建ち並んでいる。デパートやファースト・フードの店。銀行の看板も目立つ。
駅の構内に電話のカウンターを見つけ、洋子は個人名の電話帳を開いた。
本堂という苗字……。
めずらしい姓ではないが、それほど多くはあるまい。
たった三軒だけ。だが、本堂和也という名前は見当たらない。加入者が本堂和也とは限らないだろう。
――どうしよう――
洋子は駅前のコーヒー・ショップで一息ついて計画を立てた。
そう言えば、以前にまちがい電話がかかって来たことがある。
「仁科洋子さんですか」と聞かれたので「はい」と答えたが、相手の言うことが少しおかしい。
「どなた」と尋ねれば「小学校の同級生です」と言う。結局は人ちがいらしいとわかったのだが、あれを応用すればいい。
電話ボックスに入り、テレフォン・カードをさしこむ。電話帳で調べた本堂さんは三つ。はじめの本堂昌生さんからダイヤルをまわした。呼び出し音が鳴り、
「はい?」
女の声が答える。
「ちょっとお尋ねいたしますが、お宅に本堂和也さん、いらっしゃいませんでしょうか、小学校の同級会をやろうと思いまして」
早口で告げた。胸が弾む。ひどくわるいことをやっているような気がする。
「和也ですか、いませんけど」
「お留守ですか」
「いえ、和也なんて、うちにはいません。どこの小学校ですか」
「町田第一小学校です」
と適当な名前を言う。
「人ちがいですわ」
「どうも失礼いたしました」
丁寧に謝った。せめてもの罪ほろぼし……。
電話とはそもそも無礼な道具である。洋子はかねてからそう思っている。相手にはっきりと姿を見せないところがいかがわしい。しかし、今日は許してもらわなくてはいけない。せっかく町田まで来たのだから。
「もし、もし。本堂和也さん、いらっしゃいましょうか」
二番目は少しせりふを変えて尋ねた。
「どちらにおかけですか。いませんけど、そんな人」
「和也さんてかた、ご家族にいらっしゃいません?」
「いません」
声と同時に邪慳《じやけん》に電話が切れた。
三番目は、老人の声。少し考えてから、ゆったりと、
「和也? いませんねえ。そういう名前の者は」
頭が弱くなっているのかもしれない。
――大丈夫かしら――
洋子はここでも丁寧にお礼を言って電話を切った。
――変ね――
そうは思ったが、電話帳に名前を載せない人もいる。げんに洋子自身も載せてないのだから、他人のことをとやかく言えない。
わざわざ町田まで来たかいがない。
電車の中で恵比寿のレジデンシャル・ホテルの電話番号が手帳に記してあることを思い出した。旅の多い本堂だが、東京へ帰ったときは、そこが拠点になっている、と聞いた。洋子も一、二度連絡をとったことがある。
下北沢で乗り替え、渋谷で電話をかけた。
「はい。恵比寿レジデンシャルです」
「本堂さんのお部屋は何号室でしょうか」
「本堂さん?」
「本堂和也さんですけど」
「今、泊まっていないねえ」
マンションなのだろうか、ホテルなのだろうか。電話の声はひどくぞんざいである。
「おたくのご住所をうかがいたいんですけど」
「ここ? 渋谷区恵比寿四の四十一……。なんなの?」
「どうもありがとうございます」
相手の問いかけには答えず洋子は電話を切った。
今日はもう一つ、渋谷の図書館へ寄って先日コピイをとった獣医学の発達≠もう少し調べる必要がある。
洋子は時計を見た。恵比寿へ行ってからでも遅くはあるまい。
山手線で一駅。恵比寿駅前の書店で東京都の地図を買い、恵比寿レジデンシャル・ホテルを捜した。
すぐに見つかったが、名前ほどりっぱな建物ではない。古い三階建てのビル。壁には裂けめが走っているし、塗装のはげかけているところもある。
「ごめんください」
玄関を入り、だれもいないカウンターに呼びかけた。
「はい」
中年の女が顔を出した。
「ちょっとお尋ねしますが……こちらはホテルなんでしょうか、それともマンションなんですか」
「ホテルですよ。もう古いし、料金もそうは取れないから、長く滞在しているかたもおられるけど。近く建てなおす予定なのね」
「本堂和也さん、よくご利用になっていらっしゃいます?」
「本堂和也さんねえー。どの人かしら、いろいろお客さんがおられるから……。どういうご用?」
「届け物を頼まれたんですけど、今はいらっしゃらないようなので」
「ああ、そう」
女はファイルされたカードを調べる。
「今は泊まっていらっしゃいませんね」
「以前は?」
「興信所のかた?」
女はいぶかしそうに洋子の顔を見る。頭のてっぺんからゾロリと足もとまで……。
「いえ、そうじゃありません」
「古いカードを調べればわかりますけど、困るんですよね、お客さんから文句が出たりしても……」
「いえ、いいです。じゃあ、ここは泊まりたい≠チて言えば、どなたでも泊まれるんですね」
「はい。部屋があいていればね」
「わかりました。ありがとうございました」
お辞儀をして外に出た。視線が背中を追っている。
洋子がなにか調査に来たらしいと、女は見ぬいたのだろう。
本堂が時折ここを利用していたことは調べるまでもない。洋子自身が一、二度電話をかけている。そのときには連絡がついたのだから……。
意外だったのは、恵比寿レジデンシャル・ホテルが、ホテルだったことだ。ホテルと言っているのだから、ホテルであってなんの不思議もないはずだが、洋子はなんとなくマンションのようなものを想像していた。ホテルと同じような管理とサービスがついている賃貸マンション……。本堂の口ぶりもそんなふうに聞こえた。
だが、どうもそうではないらしい。そういう利用法もありうるだろうが、大部分の人はただのホテルとして利用している。本堂にとっては、むしろ常宿のようなものだったろう。
――あの人、どこに住んでいたのかしら――
いくら旅から旅への生活だって、どこかに住所がなければ困るのではあるまいか。洋服とか本とか、だれだって少しは私物を持っている。カタツムリじゃあるまいし、全財産を持って歩くわけにはいかない。その拠点が恵比寿レジデンシャル・ホテルだと思っていた。あるいは町田に住所と家とがあるのかなと、思うともなく洋子は思っていた。
――わからない人ね――
これまでにもけっして疑問がなかったわけではない。
男と女の仲なんて、どの道不確かな部分があるものだ。なにもかもわかってしまったら楽しさも苦しさもない。
洋子は昔からそんなロジックが好きだった。
だから本堂について、不確かなところがあっても、深くは追及しなかった。むこうが説明をしないのなら、
――それもいいんじゃない。今にどうせわかることでしょうから――
あえて問いただそうとしない。そんなところがないでもなかった。はっきりわからないのは本堂の韜晦《とうかい》趣味のせいだろうと考えていた。
――でも、ちがっていたかもしれない――
住所とは、とても大切なものだ。住所のない人はめずらしい。住所不定というのは、それだけでまともな社会人としての要件を欠いている。もちろん本堂和也に住所がないはずがない。どこかにあるのだろうが、洋子はそれを知らない……。本堂はそれを教えてはくれなかった。
本堂とは、まるで凸と凹との文字を噛みあわせるように気分がよくあうと思ったことがあったけれど、
――おかしいわね――
思わず笑ってしまう。大切なことを尋ねない洋子と、大切なことを話さない本堂と、妙なところでも凸と凹との組み合わせができていたらしい。
――十一月十七日。本当にそれまで会えないのかしら――
行く先、行く先で、穴を掘られているような不安を覚えてしまう。
渋谷の図書館へ寄って獣医学の発達≠借りた。業界の雑誌に原稿を頼まれ、一つ二つ確かめておきたいことが残っている。ついでにもう一度からくり人形の歴史≠請求してみたが、依然として貸出し中。
「この前も貸出し中だったのよ」
「すみません」
図書館員はスポーツ刈りの若い男で、からくり細工のように頭をカクンと垂れて謝る。面ざしもちょっと人形に似ている。
ないものなら仕方がない。ぜひとも見たいわけではない。洋子がカウンターを離れると、背後で、
「駄目じゃない。ちゃんと返却してもらわなくちゃ。十一月五日の貸出しでしょ。もう五ヵ月近くもたってんのよ」
女の声が聞こえた。眼鏡の女が若い男を叱《しか》っている。
「あのう、一応請求はしてんですけど」
若い男は、またカクンと頭をさげている。
「一応じゃ駄目。ちゃんと取り戻すまでやらなきゃ」
図書館から本を借りたまま返さない人もいるらしい。
四月に入っても本堂からはあい変らずなんの連絡もない。本堂はすでに決心を固め、それを堅く守り通すつもりなのだろう。むこうがその気なら、洋子のほうからは連絡のつけようもない。
――ただ待ってるのも、しゃくね――
本堂は右田輝男についてもなんの説明もしてくれなかった。
だが、右田が本堂にとって邪魔な男なら、右田の周辺になにかしら本堂の影が残っているだろう。新聞社の調査では、右田に恨みを持つ人の中に本堂の名はあがっていなかった。仕事上の怨恨《えんこん》はわからない。
――あやしいのは、右田の女性関係――
これは洋子の直感である。本堂と右田の接点には、なんとなく女性が立っているような気がする。本堂はあれほどみごとに洋子を籠絡《ろうらく》したのだから、ほかの女性を扱うのもきっとうまいにちがいない。くやしいけれど、そう考えるほうが正しい。
――本堂さんはどの女性かを助けようとしている――
たとえば相田和美。創作折り紙の研究家。この人が一番あやしい。本堂と相田和美のあいだには強い絆《きずな》があって、相田和美が右田にゆすられているとわかれば、本堂はどうしても助けてあげなければいけない。
相田和美には将来を約束した相手がいるような話だったが、それがまさか本堂では……。
――ありうることね――
怒りを通り過ぎてあきれてしまうほどひどい想像だが、その可能性は皆無ではあるまい。むしろおおいにありうることかもしれない。
本堂はなぜ右田を恨まなければいけないか、けっして洋子に説明してくれなかった。
――説明できないわけよね――
もし相田和美とそんな仲になっていれば、の話である。
事件当日、相田和美にきっちりとしたアリバイがあるのもかえって疑わしい。カルチャー・センターの教室で大勢の人を相手に折り紙の講習をやっているなんて、これ以上完全なアリバイはない。本堂は、その時刻にあわせて洋子を東北新幹線に乗せたのではあるまいか。
右田が死んでしまえば、あとは洋子の周辺から本堂は少しずつ遠ざかる。できるだけ痕跡を残さずに……。そのあたりも事実の経過とよく一致している。
――少し調べてみようかしら――
相田和美の住所を知っているのが強味だった。中野区野方一……。アビタシオン相田。地図を頼りに捜した。
黄土色のスレートを貼ったビル。壁に凹凸のある三階建て。まだ新しく、美しい。自動ドアを入ると、ポーチがあり、その奥にもう一つ鉄格子の扉がある。その扉は居住者の許可がなければ開かない。ルーム・ナンバーを記した郵便受けとインターフォンが壁に並んでいる。外来者はインターフォンで呼び出し、中でスウィッチを押すと、ようやく鉄格子が開く。二〇五号室に相田≠フ文字がある。アビタシオン相田と名づけているのだから、マンションそのものが相田家の持ち物なのだろう。
――妹夫婦もここに住んでいるような話だったけれど――
その苗字はわからない。背後で自動ドアが開き、中年の男が入って来た。
――声をかけられたら、まずいな――
そう思ったとたん、
「どちらをお訪ねですか」
と声をかけられた。管理人室のカウンターにはだれもいない。この男が管理人らしい。
「相田先生の折り紙教室、どこでやっていらっしゃるのかしら」
「たしか文化センターだと思いますよ」
「どこにあるんでしょう」
「線路ぞいに中野のほうへ行って」
と指をさして言う。
「お妹さんもこちらにいらっしゃるんでしたわね」
「ああ、宗近さんね、三〇七ですけど」
「じゃあ、あとでお寄りするわ。ありがとうございました」
「いえ、どうも」
いぶかしく思われないように、笑顔でゆっくりとドアの外に出た。
――われながら上でき――
どちらかと言えば、洋子はとっさにうまい知恵の出るほうではない。あとになってああ言えばよかった。こうすればよかった≠ニ悔むほうである。
――嘘がうまくなったのかしら――
管理人に教えられた道をたどって文化センターの前に出た。いくつかの教室が四月の聴講生を募集している。相田和美の創作折り紙教室は金曜日の午前十時から。先月から始まっているらしい。
「創作折り紙のお教室、これからでも入れますの?」
「はい、まだあきがありますけど」
だが、ゆっくり考えてみると、危険がなくもない。
もし相田和美の周辺に本堂がいるとすれば、警察はこの二人を見張っているかもしれない。
洋子は、佐渡で変死した鈴木勇のことを思い出した。
警察は、あの前後に、近くの旅館に泊まっていた男や、佐渡行きの船に乗った客など、くまなく調べているにちがいない。きっと本堂の名もそのリストの中にあるだろう。
その本堂が相田和美と親しくして、その和美の教室に、死んだ鈴木勇と同じマンションに住む洋子が出入りしている……。そんなわずかな接点を警察が見つけ出すものかどうか洋子はわからないけれど、油断はできない。むしろ、一瞬、黒い手でジワリ、ジワリと追いつめられているような恐怖さえ感じた。
――やめておこう――
とりあえず和美の顔を見ておけば、それだけでいい。
二日待って金曜日の十二時近く、折り紙教室の終る時刻を計って洋子は中野の文化センターへふたたび足を運んだ。
数人の受講生に囲まれて講師が現れた。
ブラウンとグリーンをからめたスーツ。笑うと目尻《めじり》にしわがくっきりと凹《くぼ》むが、顔立ちは美しい。垢ぬけた印象で、おそらく才色兼備などという言葉がすぐにつけられるタイプの女性だろう。本堂のことをぬきにして考えれば、洋子のきらいなタイプではない。受講生は、色とりどりの、もみ紙のような折り紙の束を持っている。幼稚園じゃあるまいし、ただの色紙を使うわけではないらしい。
和美は受講生たちに一礼をして講師の控え室へ消えた。
洋子は待つともなくロビイの椅子《いす》にすわって壁の絵をながめていた。
「さようなら」
「失礼します」
和美が玄関に現れ、受講生の群に挨拶をして外へ出て行く。洋子もあとを追って出た。
和美は車で来たらしい。駐車場に向かい、モス・グリーンの車に乗りこんでエンジンをかける。
洋子は走り去って行く車のナンバーを確認した。
――まるで探偵ごっこね――
受講生が三々、五々、駅のほうへ歩いて行く。ゆっくりと歩いているのですぐに追いついてしまう。
「相田先生って、おいくつかしら」
受講生の年齢はさまざま。だが、三十代の主婦がほとんどではあるまいか。歩道から溢《あふ》れながら話している。
「三十くらいね、きっと」
「おきれいね」
「ええ……。ここどう? 中が広いから」
駅前広場まで来てレストランらしいドアを指さす。みんなで食事をする相談にでもなっていたのだろう。
洋子はそのまま駅まで歩いて、上り電車に乗った。
電車の中で東京都の地図を見た。
新宿で降りて歌舞伎町へ向かう。昼さがりの街はすでににぎわっていた。仕事で歩いている人もいるのだろうが、大半は遊んでいるみたい……。今日は金曜日。どういう立場の人なのか。
――あなたはどうなの――
と、洋子は笑いながら自分に問いかけてみた。
――本当に探偵ごっこみたい――
クラブ・モレイを見つけるまでにそう時間はかからなかった。週刊誌に路地を写した写真が載っていたから……。
佐賀栄子の店。死んだ右田と古くから関係のあった女。店はビルの二階にある。二階全部がモレイ。でもビルそのものの様子から判断して、さほど高級な店ではあるまい。
洋子は階段を昇ってドアの前まで行ってみた。廊下にはごみを入れた袋やラーメンの丼《どんぶり》が置いてある。
名刺が一枚落ちていた。クラブ・モレイと印刷してあって、山本ミミと女の名前が手書きで記してある。電話番号もそえてある。
――そっと電話をかけてみようかしら――
このあいだ町田まで行って、本堂という苗字の家にいちいち電話をかけてみた。その記憶が洋子の頭に残っていたのかもしれない。
歌舞伎町から百人町までは、そう遠くはない。百人町には佐賀栄子の自宅がある。今日は一日かけて右田と関係のあった女たちの居どころを見て歩くつもりだった。
――女の背後に本堂さんがいる――
居どころを見たからといってすぐになにかがわかるはずもない。それは覚悟している。でも少しは見えて来るものがあるだろう。見ないよりはいい。洋子は知らない町を歩くのが好きだった。
佐賀栄子の家は三階建ての古いビルの一階。上のほうは多分賃貸のアパートになっているのだろう。一階の窓はみんな閉じている。今は留守らしい。洋子は玄関の前を一、二度往復して新大久保駅へ向かった。
うまいアイデアが浮かんだ。
右田輝男に恨みを持っていた女たち、もしかしたら本堂と繋がっているかもしれない女たち、その電話番号を調べて一つ一つ電話をかけてみる。
「パリで本堂さんから大切なものを預ってまいりました。お渡ししたいので、どこどこへおいでください」
それだけ言って電話を切る。
本堂和也を知らない人なら、まちがい電話だと思うだろう。とんちんかんな返答が返ってくるかもしれない。本堂と秘密の繋がりを持っている人なら、きっと反応がある。指定の場所に姿を見せるのではないかしら。
新大久保駅で山手線の内まわりに乗り、ここでまた洋子は東京都の地図を確かめた。中田カヨは目黒に店を持っている。家も目黒にある。そこへ行ってみたところでたいした成果もあるまい。
――散歩のつもり――
地図で見た住所は権之助坂の裏通り。のら猫がごみ袋をあさっている。
黒いドアに白く加世≠ニ書いてあった。いかにも駅周辺のバーといった感じ。さほど大きな店ではないようだ。それから川ぞいの道を歩いて下目黒のマンションを捜しあてた。三階の廊下を歩いていると、三十くらいの女と目があった。化粧っけはないが、目鼻立ちは整っている。きちんと化粧をすれば、相当の美人に見えるかもしれない。洋子の背後でドアがしまった。多分、三〇七号室のドア……。中田カヨの部屋。つまり、いま会った女が中田カヨその人だったろう。
裏手の路地に出てマンションの窓を見ると、三〇七号室には下着が干してある。黒いスリップ、黒いパンティー。
そこから大通りに出たところのコーヒー・ショップに寄って昼食をとった。マッチをもらい、店の名を確かめた。
「タイガーっていうの、この店?」
「はい」
「お休みはいつ?」
「火曜日です」
「そう、ありがとう」
手帳を開いて、店の名を記した。
「ごちそうさま」
また目黒駅に戻り、五反田まで。次は木崎早苗である。北口から国道ぞいに歩いて陸橋の手前で右手に曲がった。なかなか見つからない。地番が少しちがっているのかしら。タバコ屋でガムを買い、
「桜マンションって、この近くですか」
と尋ねた。
「桜マンション? ああ、大通りのむこうでしょう」
大通りのむこうなら四丁目か五丁目になるはずだ。でもそんなことはどうでもかまわない。
信号を渡ると、白壁のマンションが建っている。郵便受けに木崎の名が貼ってあった。
エレベーターで五階まで昇った。五〇三号室の表札には木崎輝男と書いてある。
――ああ、そうか――
まちがいあるまい。木崎は中に住んでいる女の苗字。輝男は、スポンサーである右田の名前。こんなケースでは、こんな表札を掲げるのかもしれない。国道に戻ってエリザベスという名の洋菓子店を見つけた。木崎早苗のすまいからそう遠くないところ……。ここでも店の名を手帳に記した。
洋子はいったん仕事をやり始めると、中途半端なことはきらいなほうである。やろうと決めたことは、たいてい最後まできちんとやってしまう。
中田カヨと木崎早苗と、二人の女については、それぞれのすまいに近いコーヒー・ショップと洋菓子店を手帳に記した。どうせ調べておくなら、佐賀栄子や相田和美についても同じことをやっておいたほうがいい。
――さっき見ておけばよかったなあ――
山手線でまた新大久保まで乗り、数時間前に歩いた道をとって返した。こげ茶色一色の塗装、手造りコーヒーの店、モンドの看板があった。雰囲気のよさそうな店……。
――でも、コーヒーは飲んだばっかり――
佐賀栄子の名に続けてモンドと書きとめた。
今度は大久保駅まで歩いて、中野へ。これは帰り道でもある。相田和美の住むアビタシオン相田は、早稲田通りから少し入ったところ。角に開化堂という、古風なケーキ屋があり、そこに喫茶室があるのを確かめた。
――これでよし――
アーケード街で買い物をして井の頭のマンションへ戻った。六時を過ぎている。今日一日、地図をたよりにあちこち捜し歩いた。
――ああ、疲れた。何キロ歩いたかな。でも、もう少し――
お茶をいれ、電話の前にペタンと坐りこんで一〇四番をまわす。すぐにかかった。運がいい。
「四つほど電話番号を知りたいんですけど」
「はい、どうぞ」
中田カヨ、木崎早苗、佐賀栄子、相田和美、それぞれの文字を説明し、住所を告げて尋ねた。
「少しお待ちください」
「はい」
洋子は手帳を開き、ボールペンを握ったまま一〇四番の答を待った。
「佐賀栄子さんと相田和美さんはございますけど」
「それだけで結構です」
あとの二人は、おそらく電話番号簿に登録してないのだろう。
――電話がないのかしら――
今どきそんなことはあるまい。
「よろしいですか」
「あとの二人は、知りようがないんですね」
「はい」
「ありがとうございました」
こんな場合の対策もすでに考えてあった。電話番号がわからなければ、そっと訪ねて行って郵便受けにメモを落としておけばいい。
それに……洋子の直感では、中田カヨと木崎早苗は事件と繋がりがない、そんな気がする。理由は二人ともアリバイがはっきりしないから。
もし本堂と関係があるならば、その女はきっとアリバイを明確にしておくはずだ。アリバイが不確かだからこそ、かえってあやしくないのである。
――やっぱり相田和美の線――
考えれば考えるほど、中野方面があやしい。
だが……ここまで調べておきながら、洋子は、すぐにはさぐりの電話をかけなかった。行動を起こすまでには、しばらく日時がかかった。なにはともあれ、楽しい仕事ではない。ひどくうしろめたい。つい、つい日を延ばしてしまう。
そのうちに犬猫病院で思いがけない偶然に遭遇した。
――広い東京で、こんなこともあるのかしら――
なにかの作為ではあるまいか、といぶかったほどである。
シェトランド・シープ・ドッグがフィラリアにかかって入院することになった。病気は相当に進んでいる。もう老犬だ。手術をしても助かるかどうかわからない。
飼い主の名は雲井一生。どこかで見た名前だと思ったが……洋子はさして気にもとめなかった。手術のあと病室で洋子は飼い主と一緒に犬の容態を見守っていた。
「この病気にかかるのは飼い主の怠慢のせいって言われたけど、本当かね」
あまり感じのいい男ではないが、犬は好きらしい。本気で心配している。
「まあ、そうですね。予防さえちゃんとやっておけば、フィラリアは防げますから」
飼い主の怠慢が原因と言っても、けっしてまちがいではあるまい。
「仕事がいそがしくてね。女房には逃げられちゃうし」
どこか崩れた感じの男である。ネクタイをしめているがまともなサラリーマンには見えない。
洋子はなにも答えずにいた。
犬は力なく眠っている。まだ麻酔がとけない。
「厄年なのよ。ついてないね。去年は社長が殺されちゃうし……。知ってるでしょ。東北新幹線で起きた殺人事件。ウーロン茶に毒薬を仕こまれて」
洋子は身を堅くした。本当にドキンと心臓が鳴った。音を聞かれたのではないかと思うほどだった。
「ありましたわね、そんなの」
洋子はそっと男の表情をさぐりながらつぶやいた。
雲井一生という名前……。ああ、そうか、週刊誌で見た名前らしい。
「社長と犬を一緒にしちゃいかんか」
男は自嘲気味にふっふっと笑っている。
洋子は大仰な仕ぐさでカルテを見た。飼い主の職業欄に誠総業と会社の名が記してある。この名前にははっきりとした記憶がある。
「いい犬ですね」
故意に話をそらした。相手を油断なく観察しながら。
「よくそう言われる」
「このごろはやっているんですよね、この犬」
「そうかね」
「でも、これだけいいのはめずらしいわ。もっと大事に飼ってあげればよろしかったのに」
話しながら頭の中で計画をねった。
カルテに記された男の住所は、病院のすぐ近くである。犬が病気にかかり、近所の病院に連れて来た……ただそれだけのことだろう。ほかに狙いがあるとは思えない。その病院にたまたま洋子がいた。病院になにかをさぐりに来たわけではあるまい。
いったん頭の中に計画ができあがってしまうと、それを実行せずにいられない。ためらいはあったが、引きとめるより先に言葉が洋子の口からこぼれてしまった。
「本堂さん、ご存知ですか。本堂和也さん?」
犬と飼い主を交互に見ながら尋ねた。だが、注意はひたすら飼い主のほうに向けながら……。
「本堂和也さん? 知らないなあ。どういうかた」
雲井の表情は少しも動かない。洋子は眠っている犬のパッドを軽く触って、雲井に思案のための時間を与えた。
「ブリーダーのかた。この毛並みの犬は本堂和也さんのところから出ているのが多いから」
「いや、これは友だちからもらったんだ」
「そうなんですか。ブリーダーって、変った人が多いんですのね。本堂さんは人形のコレクターで……」
何度も本堂の名を口に出して言ってみた。雲井が「知らない」と答えたら、こんなふうに話を進めてみようと企てていた。人形のコレクターと言えば、雲井は殺された右田を連想するだろう。雲井は右田のすぐ下で働いていたのだから。それに本堂和也という名前がからむ……。雲井が本堂を知っているならば、きっと思い出してくれるだろう。だが、雲井は、
「ああ、そう」
気のない声で言う。
犬猫病院の女医がつまらない世間話をしている、と、そんな様子で聞いている。
なにか強い理由があってとぼけているのでなければ、雲井は本当に本堂和也を知らないのだろう、洋子の判断はその方向に傾く。
手術を受けてシェトランド・シープ・ドッグは、なんとか命をとりとめた。おかげで洋子は、その後も何度か雲井と顔をあわせることができた。
「このかたなの、いつかお話したブリーダーの本堂和也さん……」
たった一枚だけ洋子は本堂の写真を持っている。洋子の部屋で、夜、フィルムの余りを使って写したものだ。あまりよく撮れていないが、なんとか面ざしだけはわかる。
「ほう」
雲井はなにを見せられたのか、それさえわからないみたい……。ちょっとながめただけだった。
――この人、顔も知らないな――
雲井が本堂を知らないのは、まず、まちがいない。
となると、本堂和也と殺された右田とは、仕事の関係で繋がっていたのではない。少なくとも本堂は誠総業の仕事とはかかわりがない。週刊誌の記事でも、右田の仕事関係の事情は、たいてい雲井一生が代弁していた。
もちろん、右田は誠総業以外に、いろんな仕事をやっていただろうが、それでも雲井がまったく知らないというのはこの方面に本堂がいないから。きっとそうだろう。
そのうちに雲井は病院に顔を見せなくなり、かわって新聞に千葉の県会議員の汚職が載るようになった。空港の用地買収にからんだ贈収賄事件。評判のあまりよくない野党議員が検挙された。週刊誌にあったK・Sというイニシャルとも一致している。
――これが右田の関係していた事件ね――
洋子は新聞や雑誌を買い求めて、注意深く読んでみたが、右田の名が出てきたのは、たった一回。ほんの二行……。深くはかかわっていなかったようだ。
――やっぱり女性関係――
どうしても考えがそちらに向く。
本堂からは二月の末の電話を最後になんの連絡もない。十一月十七日まで本気で会わないつもりらしい。
――まったく薄情なんだから――
だが、どこかで本堂は洋子のことを観察しているのではあるまいか。わけもなくそんな気がする。
六月に入って洋子はようやく気の進まない電話をかけてみる気になった。
まずモレイのママ、佐賀栄子から。栄子の自宅の電話番号は、すでに調査ずみ。手帳に記してある。
病院の昼休みに公衆電話のダイヤルをまわした。
「もしもし?」
「はい?」
しわがれた声が返って来た。寝起きばなかもしれない。
「パリで本堂和也さんから大切なものを預ってまいりました。お渡ししたいので明日一時、お宅の近くのモンドにおいでください。よろしいでしょうか」
「あなた、だれなの?」
「学生です。パリから帰ったばかりで」
「どこにかけてんのよ?」
「本堂和也さんから、電話番号と喫茶店の名前だけ言われて」
「本堂和也さん? 知らないわね。お客さんにはいないわ。番号は何番にかけたの?」
洋子が番号を告げると、
「あってるわ。モンドって喫茶店も近くにあるけど……。なにを預ってきたの?」
「小さなものです」
「ふーん、変ね」
「知らないようなら、いいって言われて来ましたから」
「あんた、いたずらじゃないの?」
「ちがいますけど……じゃあ、失礼いたします」
電話を切った。胸がトクトクと鳴っている。
――この人は、関係ないな――
そうは思ったが、翌日一応洋子は、佐賀栄子の自宅近くのモンドまで行ってみた。
モンドは細長いコーヒー店。カウンターの席にすわって雑誌を読み続けていたが、佐賀栄子らしい客は現れない。佐賀栄子の周辺には本堂和也はいない。手帳に×印をつけた。
つぎは相田和美、こちらが本命。佐賀栄子に電話をかけたのは予行演習みたいなものだった。
――本堂さんの名前を言うのは、まずいかなあ――
つまり、相田和美と本堂が知り合いなら、後日、和美が「へんな電話があったわよ。あなた、パリで女の人に、なにか頼んだ?」などと本堂に尋ねるだろう。本堂は洋子がなにかやったな≠ニ感づくだろう。それはおもしろくない。
電話の中身を少し変更することにした。
「もし、もし」
二日たって今度は相田和美の番号をまわした。
「はい、相田でございます」
おそらく和美自身だろう。三十歳くらいの上品な声である。
「本堂和也さん、ご存知ですね」
同じような聞きかたでも「ご存知ですね」と「ご存知ですか」とではずいぶんちがう。すぐには返答がない。
「あの、いえ、存じあげませんが……」
「連絡がございます。ご近所の開化堂、知ってらっしゃいますわね」
「ええ?」
「明日のお昼の十二時、開化堂でお待ちしてますから」
「どちらさまでしょうか」
「明日の十二時に」
「でも……」
「あらっ、まちがえたのかしら」
ひとり言のようにつぶやいて唐突に電話を切った。苦肉の策である。もし相田和美が本堂を知らないなら、最後の「あらっ、まちがえたのかしら」を聞いて、和美はただのまちがい電話だと思うだろう。本堂とのあいだに隠れた糸が繋がっているのなら「連絡がございます」という言葉を和美は無視できないだろう。しかも「連絡がございます」という表現は、本堂から頼まれた連絡なのかどうか、はっきりとしない。どちらにもとれる。それからもう一つ「明日の十二時」と指定したのも、洋子に狙いがあってのことだった。
――あやしいなあ――
電話で本堂和也の名を告げたとき、和美は「存じあげません」と言ったが、その直前に思わず息をのむような気配があった。戸惑いが感じられた。あれは本堂を知っていて、どう答えようか、一瞬、迷ったから……。秘密の関係であればこそ、とりあえず「存じあげません」と答えたにちがいない。
明日は金曜日。中野の文化センターで相田和美の折り紙教室がある。授業は十二時に終る。洋子はあえてその時間を指定してみた。
文化センターからケーキの開化堂までは車で五分たらず。講師なら授業を五分や十分早く切りあげることもたやすいだろう。もし相田和美が、
――これはとても重要なこと――
と考えたら、そうするにちがいない。反対に、
――よくわからないけど、きっとまちがい電話ね――
そう思ったなら、わざわざ授業を早く終えたりはすまい。帰り道にちょっと開化堂をのぞく程度ではあるまいか。
開化堂は早稲田通りに面している。
洋子は、はじめ道路越しに出入口の見える位置で見張るつもりだったが、その日、中野駅に着いて方針を変えた。
――文化センターのほうに行こう――
和美がはたして授業を早く終えるかどうか、そのときの様子は? それを確かめたい。開化堂には少し遅れて行ってもいいだろう。
十一時四十分……。洋子は文化センターの外で少し待った。日射しが暑い。もうはっきりと夏の温気が漂い始めている。
それからロビイに入って、講習会のパンフレットを見ながら折り紙教室が終るのを待った。
十二時少し前、相田和美が急ぎ足で現れた。オレンジ色のワンピース。事務室に首をつっこみ、すぐに洋子の前を通って外に出る。駐車場へ急ぐ。
洋子は門の外に出てタクシーを拾った。
和美の運転する車が前に走り出て、洋子はそのすぐうしろを追うことになった。
――あらっ――
二、三百メートル走って和美が車を止めた。まっすぐ開化堂へ行くと思ったのに……。洋子の乗ったタクシーが追いぬく。ふり返ると和美は歩道をよぎり、錆《さび》色のビルの中に入って行く。
「待って」
洋子はタクシーを止めてもらい、外に出た。
洋子は道を戻り、和美が消えたビルの前を通り過ぎながら、中をうかがった。
暗い通路があり、その奥にオレンジ色のワンピースが立っている。こちらに背を向けて……。電話をかけている。ビルの中にピンク電話があり、和美は受話器を耳にあてている。今、ちょうど十二時。
――ああ、そうか――
たやすく事情が読めた。手応えは充分と言ってよいだろう。
電話の相手は、多分開化堂。なにを話しているかわからないが、見当はつく。
「相田和美と申しますけれど、私に面会のかた、見えていらっしゃいません? 女のかた。三十歳くらい」
とでも言っているのではないかしら。
文化センターにも電話はある。
だが、和美はそれを使わずに、少し離れたビルのピンク電話を使った。偶然ではあるまい。
受講生たちに話を聞かれるのが厭だったから。電話の内容が、和美の秘密にかかわることかもしれないから……。
ビルの奥にピンク電話があるのは、前から知っていただろう。
一連の行動は、和美の頭の中であらかじめ企てられていたにちがいない。十一時五十五分に授業を終え、急いで車に乗って十二時きっかりにピンク電話のダイヤルをまわす。開化堂の電話番号も昨日のうちに聞いておいたのだろう。
――相田和美は、おかしな電話をかけて来た相手と直接、顔をあわせるのを避けたのかな――
それも充分に考えられる。いずれにせよ、やましいことが少しもなければ、和美の行動は不自然である。
電話が終った。短い電話……。当然そうだろう。
和美は車に戻る。車が走りだす。
洋子はタクシーに戻った。
「行ってください」
もう和美の車は見えない。
――開化堂へ行ったのかしら――
その可能性は五分と五分……。
洋子は開化堂の数十メートル手前でタクシーを降り、歩道をゆっくりと歩いた。和美の車のナンバーは記憶してある。開化堂は道の向こう側にガラスのドアを立てている。
角を曲がれば、すぐにアビタシオン相田。和美が開化堂へ行くとしても、いったんは自宅へ戻って車を置くだろう。
――むこうも目を光らせているわ、きっと――
ピザ・ハウスの看板が目に止まった。花の鉢植えを並べた階段を昇った二階。その窓からななめに開化堂の出入口がうかがえる。
――ピザなんて、しばらく食べたことないけど――
階段を踏み、白いドアを押して洋子は窓際の席に腰をおろした。すみっこの席なので開化堂のドアがわずかに見えるだけ……。その中の喫茶室まではのぞけない。相田和美はすでに中に入っているのかどうか。
和美の衣裳《いしよう》は、かなりはっきりした色あいのワンピースだった。あのオレンジ色ならまず見のがすことはあるまい。
洋子はピザ・パイを平らげ、それからコーヒーをゆっくりと飲んだ。店は次第に混んで来る。
十二時四十分まで待って席を立った。
道を渡り、開化堂から出て来る人と入れちがいに中へスルリと踏みこむ。
カウンターのケーキ売り場。右手の奥が喫茶室。
「シュークリームあります?」
洋子はわき目もふらず一直線に店員の前に進んだが、目の右すみにオレンジ色が走った。相田和美が喫茶室にいる……。おそらく洋子のほうを凝視しているだろう。
――あの人じゃないかしら――
などと思いながら。
だが、洋子は顔も向けない。ひたすらシュークリームを買いに来た客を装っている。
「二個でいいわ」
ウインドーケースの上にチョコレートを並べた箱がある。箱の背に金色に光る部分があって、そこに相田和美らしい客がゆがんで映っている。やはりこっちを見ている。
――目があったら、まずい――
いつか、どこかで和美と顔をあわせることがあるかもしれない。いよいよのときが来るまで、むこうにはなにも気づかれたくない。
シュークリームの小箱を受け取って外に出た。商店の並ぶ歩道を急ぎ足で歩き、また道の反対側に渡って、開化堂のドアを遠くから見張った。
オレンジ色のワンピースが見えたのは、一時を大分すぎてからだった。遠目ではあったが、相田和美にまちがいない。角を曲がって自宅のほうへ消えた。
和美が一時間以上も喫茶店にすわっていたのは、やはり昨日の電話が気がかりだったからだろう。
中野駅に戻り、プラットホームへ出る階段を昇りかけると、すぐ前に四、五人の女たちが群っている。話しながらゆっくりと足を運んでいる。
洋子は、はじめ気づかなかったが、追い抜いて下り電車を待っているうちに、
――ああ、あの人たち――
と、わかった。無意識のうちにも話し声を小耳に挟んでいたのだろう。
「外国人はとても興味を示すらしいわね。私の知人で、ご主人が商社に勤めていらっしゃる奥様がいるのよ。むこうの生活が多いものだから……」
「電車の中で折ってらっしゃるかたのお話が新聞に出てましたよねえ」
手さげ袋の口から、それらしい折り紙の束がのぞいている。相田和美の折り紙教室に出席して、そのあと昼食をとり、今帰るところらしい。
「じゃあ、また来週」
「ご機嫌よう」
一人は上り電車に乗ったが、残りは下り電車へ。洋子も下りの車両に乗りこみ、教室帰りの群のわきに立ってさりげなく話を聞いた。
「先生あんなにおきれいなのに……」
「ちゃんといらっしゃるのよ。お友だちが、先生のお妹さんと親しいから」
「ええ?」
「フィアンセのかた、今、外国にいらしてて。お帰りになり次第、ご結婚なさるらしいわよ。相思相愛、あつあつの仲なんですって」
小肥りの女が、わがことのように語っている。
「そうでしょうねえ」
断片的な話だが、事情ははっきりとわかる。相田和美に婚約者がいる。その男は外国に旅をしており、帰り次第、二人は結ばれる……。
相田和美がなにかしら本堂と繋がりがあることはまちがいない。そうでなければ、和美の行動はおかしい。授業を少し早めに切りあげ、人気のない場所を選んで電話をかけた。電話のむこうはおそらく開化堂。そのあと和美は開化堂へ行って一時間以上もコーヒーを飲んでいた。本堂からの連絡を持って来る女を待ちながら……。
そして和美の婚約者は外国へ旅行中。本堂がちょうどそうであるように。
調査の網が少しずつせばまっていく。
――ほかの女たちを調べる必要はないわ――
たとえば中田カヨや木崎早苗。二人とも事件のときのアリバイがはっきりしない。だからこそかえって疑いが薄いのである。
洋子には、見えないものが……一連の企てが、九分通り見え始めた。こまかいところにちがいはあるかもしれないが、大筋はつかんでいるだろう。アリバイのある人こそあやしい。
相田和美のアリバイが一番たしかだった。
――じゃあ、私はだまされたのかしら――
そうは信じたくない。
というより信じにくい部分がある。
これまでにわかった事実を繋ぎあわせてみるとあなたはだまされています≠ニ、その方向を指している。まるで羅針盤が北を指すように……。
そうであるにもかかわらず感覚的に、
――ちがうわ――
と叫ぶものがある。
――おろかな人はいつもそうだけど――
事実をつきつけられても、かたくなに頭を振っているのは、たしかにおろかなことにちがいない。だが……と洋子は場ちがいな連想をめぐらす。
――似たようなことがほかにもあったわ――
そう、科学の歴史……。なにとはすぐに思い出せないけれど、たくさんの実例があったはずだ。いくつもの事実を並べて帰納して一つの結論に到達する。一見正しい結論のように見えるが、一人の科学者が、
――どうもちがう――
と直感する。さしたる根拠もないのにそう思う。信仰のようなもの……。だけど、それが正しかったりする。科学の歴史には、そんなケースが点在している。この直感はけっしてあなどれない。
洋子は、折り紙教室の受講生たちが、いつ、どの駅で降りたのかも知らなかった。電車が滑りこんだ駅を見ると、そこが吉祥寺だった。
――とてもいい感じだったから――
しみじみそう思う。本堂と親しくなった、その道筋についての感想がそうなのだ。なんのわだかまりもなく、本当に滑らかに進んだ関係だった。軽井沢で知りあい、横浜で結ばれた。二人をとり囲む自然や街が、こぞって祝福してくれてるように思った。そのことに疑いを挟むのはむつかしい。
――フォルムが美しい――
洋子はよくそんなことを考える。フォルムというのは形のことだ。目に見えないものにも形がある。恋愛にだってフォルムがある。フォルムの美しい恋と、そうでない恋とがある。
なにをもってフォルムの美しい恋と言うのか、そこまでは洋子の研究も進んでいない。ただ漠然と感ずるだけ……。滑らかで、自然で、ほどよいドラマになっている。どこかで神様の演出がなされているような、美学の法則に適っているような……。
たとえば起承転結。もともとは詩歌を作るための約束事なのだろうけれど、あれも美学の法則だろう。その法則に従えば、人間の心に美しく感じられる。起承転結の整った恋は、きっとフォルムが美しい。
――今は転の時期かもね――
とも思う。本堂との関係は本当にとてもよいフォルムだった。起があって承があって、転となった。
――どんな結論が待っているのかしら――
洋子は考える。
相田和美と本堂が繋がっていると、そこまでは調査してきたが、その先は進みにくい。うまい手立てがない。
六月、七月、八月と、洋子は待ち続けた。待ちすぎて、待つという意識までが薄くなるほど待った。
日時だけがただ流れていく。新聞が一度だけ東北新幹線の事件のその後を報じていた。目新しいものはほとんどなにもない。迷宮入り≠サんな見出しが太く記してあった。記事には本堂の影も、相田和美の影も見えない。
――こんなものなのかしら――
たしかに完全に仕組まれた交換殺人は、犯人たちの仲間割れでもない限り捜査は極度にむつかしいだろう。殺人の実行者には動機がない。疑わしい人にはアリバイがある。
「あっちのほうはどうなの?」
佐渡の事件も迷宮入りになったのだろうか。事故死と見なされたのなら、迷宮入りもへちまもあるまいけど……。
――たしかに大野亀って言ってたわ――
とても重要な場所であるにもかかわらず、洋子はそこへ行っていない。
――行ってみようかしら――
そう決心したときは、もう九月に入っていた。
海 路
佐渡へ行く。
病院を休む必要はなかった。金曜日に出発して日曜日に帰る。むしろ厄介だったのは、旅館の予約のほうだった。週末は観光客も多い。女の一人旅はきらわれる。
春美の夫が旅行会社につてがあるのを思い出し、頼んでもらうことにした。
「なんで? まだ暑いじゃない」
「海が見たいの」
「海なんかいくらでもあるでしょうに、ほかにも」
「北の海がいいのよ。地図を見てたら、急に行ってみたくなっちゃって」
虚構を組み立てるためには頭をいっぱい使わなくてはいけない。まったく、洋子は、このところいくつもの嘘をついた。
「いいわよ。佐渡ならどこでもいいの?」
「相川《あいかわ》ってとこ。駄目ならほかのところでもいいけど。そんなに大きな島じゃないから」
ガイドブックでおおよその見当はつけてある。
「わかった。頼んでみてあげる」
だが、結局予約ができたのは金曜日の夜のほうだけ。相川の青海旅館。
「そんなにいいとこじゃないらしいけど、みんな似たようなものなんだって」
「かまわないわ。泊まれれば」
時刻表をながめて、計画を立てた。
目的は大野亀である。金曜日に東京を出発して、その日は相川まで。翌土曜日にタクシーを駈って北の先端までいってみよう。ざっと百キロの行程。そのあと両津港に戻り、最後の船に乗って新潟に帰る。新潟のホテルを予約した。
残暑はきびしいが九月の声を聞くと、空の色が秋めいて来る。風が秋になる。
旅の足まわりは、新しいスニーカー。新品だから見苦しくない。ホテル内を歩くのにもいい。こんな旅には洋子はきまってキュロットをはく。一見スカート風。しかしスラックスのように身軽である。
――なにを調べるつもりなの――
無駄のような気もする。本堂が大変な覚悟で行ったところ……。洋子はただそこへ訪ねて行くだけ。それでいいと思った。期待が小さければ失望も少ない。
十時十分発の上越新幹線。
――ほとんど同じ時刻だわ――
厭でも思い出してしまう。大宮駅では窓の外を見るのも怖い。列車が走り出してからそっと首をあげた。
二時間で新潟に着いた。
新潟港から両津港まで、ガイドブックの推奨は高速水中翼船ジェットフォイルである。所要時間はちょうど一時間。普通の船に比べて一時間半も早く着く。
東京でキップの予約をしておいた。
港の出札口で乗船記録を書かなければいけない。
――本堂さんも書いたはずだわ――
鈴木勇の転落死が殺人らしいとわかれば、警察はその前後の乗船記録をしらみ潰《つぶ》しに調べるにちがいない。
――偽名を使ったかもしれないわ――
ううん、そんなことをやったらかえって怪しまれるだろう。警察は一人一人住所までたぐって調べるにちがいないのだから。洋子自身も偽名を……春美の住所と名前を、書きかけてやめた。旅館には本名で予約を取ってある。下手な細工はしないほうがいい。
それに……鈴木勇の死は事故と見なされたにちがいない。事件直後には殺人をほのめかす人もいたらしいが、結論は事故と判定された。そうと決まれば警察が手間ひまをかけて捜査をするはずがない。
――運がよかった――
これは東北新幹線の事件についても言えることだ。
――神様がみかたをしてくれてるから――
つまり、殺された右田輝男が、よほどわるい人だったから……。
海は凪《な》いでいた。三百人くらい乗せているだろう。なかなか島が見えない。
「あれが佐渡だよ」
みんなが窓の外を見る。島が見えてからも両津港に着くまでしばらく走らなければならなかった。
――本堂さんは鈴木勇と同じ船に乗ったのかしら――
多分そうだろう。旅に出たカメラマン。それを追う男。その男はカメラマンをどこかで殺そうと狙っている。カメラマンはこの船のどこかで、窓の外に浮かぶ島を写していたかもしれない。
それをじっと見ている視線。カメラマンはなにも知らない。なにも気づかない。サスペンス映画の一シーン。
だが、現実はサスペンス映画よりずっと恐ろしい。洋子は、本堂の鼓動を感じてしまう。
――殺さなくてもよかったのに――
だが、その場合、洋子は本堂の願いを聞いただろうか。洋子を動かすためにも本堂は鈴木勇を殺さなければいけなかった。
船が速度を落とし、一揺れして止まった。そこが両津港だった。
両津港はコンクリートのビルの建つ港だった。鉄道のない島ではここが交通の要所である。
タクシーの数に不自由はなさそうだ。
「相川の青海旅館までお願いします」
午後の日射しが肌を刺す。海の光はまばゆい。
「どうぞォ」
人のよさそうな初老の運転手。前歯に二本、今ではめずらしい金歯を入れている。
「あそこも佐渡ですか」
山のむこうにもう一つ青みを帯びた山が連なっている。かなり高く、けわしい。
「はあ」
馬鹿なことを聞いてしまった。佐渡のむこうには海しかない。まさかソ連領であるはずがない。
島は思いのほか広い。
――淡路島《あわじしま》とどっちかしら――
中学生のとき淡路島から転校してきた少年がいた。野球がとてもうまい。
「淡路島って野球場が作れるのか」
口のわるい生徒がからかっていた。
地図だけ見ていると、そんな冗談を言ってみたくなるけれど、どうして、どうして、佐渡もなかなかの広さである。
「大きいんですねえ」
「山ばっかりでね」
「でも、このへんは……」
「ここだけですよ」
佐渡にはゴルフ場がないのだと聞かされた。
「観光ですかね」
「ええ、まあ」
「金山に寄って見ますか」
「時間あります?」
「そうだねえ。さあっと見るくらいなら。ちょっと足りんかな」
金山くらいは見ておかないと不自然だろう。観光にしてはおかしい。どこまでもそんな意識がつきまとう。
「さあっと見るくらいでいいの」
金山の跡は観光用にすっかり整備されている。宗太夫坑へ入った。細い坑道。実物大の人形を使って、当時の様子を再現している。しかし、現実はもっと苛酷《かこく》なものだったろう。ほとんどの人夫が三、四年の苦役で死んで行った、と、そう記されているのだから……。
金山そのものよりも、今となっては道遊《どうゆう》の割戸《われと》のほうがすさまじい。山が一つ、ザックリと山頂からくさび形にえぐれて、奇っ怪な姿を呈している。
金を含んでいるということで、どんどん掘り進んでいくうちに、こんな巨大なくぼみができてしまった。のみとたがねだけの手作業で……。人間の欲望のすさまじさが感じられてしまう。
「明日の朝も来ていただけません?」
人のよさそうな運転手に明日の案内を頼んだ。口数が少なく、尋ねたことだけに答えてくれる。笑顔に温かみがある。
「何時に来ますかね?」
「九時でいいわ。大野亀まで行きたいの。どのくらいかかります?」
「二時間はみていただかんとねえ」
「夕方に両津港に帰ればいいの」
「大丈夫だね」
ひなびた旅館。女の一人旅はやはりめずらしいのだろう。女中がポカンとした表情で洋子を見つめている。
「私の甥《おい》っ子も東京に出てますて」
「ああ、そうなの。どこですか」
「綾瀬です」
「このごろ便利がよくなったとこじゃないかしら」
洋子もどのあたりか知らない。電車の行き先表示で見たことがある。
「東京は物価が高いから」
「本当ね。住みいいところじゃないわ」
夕食後、海の近くまで散歩に出た。もう風が冷たい。沖はまっ暗で、漁火《いさりび》一つ見えない。本堂もこの町のどこかに泊まったのではあるまいか。鈴木勇を追いながら……。
――大野亀へはバスで行ったと言ってたけど――
宿に戻り、小さな女風呂に入って疲れを流した。
薄い布団。シーツやカバーがきれいなので、よかった。せんべい布団のほうが背筋がピンと伸びるので、疲れたときには気持ちよい。
どこかの部屋から歌声が聞こえる。おけさ節……。まだ宴会が続いているのだろうか。
そのうちに眠った。
目ざめると快晴。朝食は、のりと卵と味噌汁。小皿にのった漬けものがおいしい。
「おはようございます」
支度をして玄関に出ると、もうタクシーが待っていた。九時きっかりに出発した。
佐渡は細長いパンを二つ、少しずらして並べたような形をつくって海に浮かんでいる。その奥まったほうのパンの、左手の海が外海府、右手の海が内海府である。そして、その先端近くに大野亀がある。
「どっちを行きますかねえ」
「行きは外海府を通って、帰りは内海府から両津へ着けていただけません? 道はいいんでしょ」
「まあ、なんとか。じゃあ、そうしましょう」
島の先端まで舗装道路ができたのは比較的新しいことらしい。昔はめったに人の通うところではなかっただろう。
「尖閣湾《せんかくわん》はどうされますか。きれいですよ」
運転手に勧められたが、
「いいです。大野亀でゆっくり時間をとりたいから」
「そうですか」
おかしな観光客だと思ったのではあるまいか。ガイドブックを見ると尖閣湾はフィヨルド風の断崖を複雑に連ねた景勝地らしい。遊覧船も出ている、佐渡一番の名勝と記してある。
「山椒太夫とか夕鶴とか、みんなこのへんの話ですて」
運転手は遠慮がちに言う。
「ああ、そうなの」
どちらも悲しく、貧しい物語である。海はまぶしいほど明るい青の色を広げているが、この島はどこか悲しい。
道そのものはわるくない。
ところどころに観光の名所があるらしいが、洋子はひたすら先を急いだ。
一ヵ所だけ海府大橋のたもとで車を停めてもらい、外に出た。かつては陸路を行くときの最大の難所だったとか。山が迫り、大ザレ川の渓谷が深々と落ちている。たしかに橋でもなければ、ここを越えて行くのはむつかしい。橋の上に立って下を見ると、真実目がくらむ。そのまま吸いこまれてしまいそうな眩暈《げんうん》を覚える。
「この橋ができて、ようよう島の一周ができるようになったんですて」
島に住む人としては、なにはともあれこの橋だけは見てほしかったのかもしれない。
「怖い」
トラックが通ると、橋が揺れる。
「大野亀も、まあ、すごいとこだね」
海府大橋を渡れば、もう島の突端は近い。家族連れらしいグループが海ぞいの岩場で遊んでいる。
「あれが大野亀ですよ」
と運転手が首をあげた。
道が湾曲している。
海浜の風景はいったん窓から消えたが、つぎに現れたときには青い海と、その中へ急角度で落ちている断崖とが見えた。
岬の突端に小高い岩山がある。頂上から海面までいっきに斜面が落ちている。七、八十度くらいの傾斜だろう。
近づくにつれ、岩壁の様子がわかった。いびつな姿の灌木《かんぼく》が岩肌にしがみつくようにはえているが、その数もそう多くはない。草の色も見えるが、まばらである。てっぺんから突き落とされたら、ほとんどなんの障害もなく、まっさかさまに転落して行くだろう。
「春にはイワカンゾウがいっぱいに咲いてんだがね」
「ああ、そう」
洋子は大きく息をついてから答えた。
岬をまわるようにして走ると、小広い駐車場に出る。
そこからゆるい傾斜の草原が続き、そのむこうに大岩石の山がある。登りはきつそうだが、じぐざぐの小道がついている。草の中に点々と白い人の姿が見える。登りきったところが、岩壁の頂上だろう。
「しばらく待っててくださいな」
言い残して車の外に出た。
快晴の土曜日とあって、ざっと百人ほどの人影が付近に散っている。
道は二つに分れている。
右手の方角は、ゆるく起伏する草原が海のきわまで続いている。左手の方角が岩壁への登り道である。ほとんどの人が右の道へ行く。草原の中にシートを広げ、海を見ながら弁当を食べている。左の道は、同じような草原をへたあと、その先は登るのがちょっとためらわれるような急な坂道に変る。途中まで登って、顎を出している人の姿も見える。
――行けるかしら――
でも、行かなくてはなるまい。スニーカーをはいて来てよかった。
草原の中の細い道を進んだ。白く咲いているのは、なんの花だろう。次第に坂は急になる。息が荒くなる。ところどころで道がなくなり、手を岩にかけてはい登らなければいけない。たかが二百メートルくらい……。だが、てっぺんはなかなか見えて来ない。
「もう少しですよ」
降りて来た男が笑いながら洋子に声をかけた。
「本当に……大変」
肩で息をつきながら答えた。途中で会ったのは、子どもと男の人ばかり。洋子くらいの年輩の女はいない。
「よいしょ」
最後の急斜面を登った。
風がさっと髪をなでる。
だれもいない。洋子は足もとの岩に手をかけ、体をささえながら中腰で周囲を見まわした。岩から手を離すことができない。
頂上は二畳間くらいの広さ……。いや、よく見れば、もう少し広かったが、登り着いたときにはひどく狭い地面に映った。しかも中央に大きな石灯籠が立っている。平らなところはほとんどない。つまり、頂上そのものが凸の字を描いた岩場で、広さを限定するのがむつかしい。岩から手を離したとたん、うっかり足でも滑らそうものなら、そのまま落ちてしまいそう。
一面に海が広がっている。首を伸ばすのもこわい。おそらく真下に海が騒いでいるだろう。
そのまましばらく雄大な海の風景をながめていた。
そのうちに気持ちが少しずつ落ち着く。急斜面を登って来た動悸が収まる。思いがけない運動のせいで全身の筋肉が震えていたのかもしれない。
洋子は気を取りなおし、岩から手を離して、おそるおそる石灯籠をまわって、頂上の一番はしの部分に立った。足をしっかりと踏んばりながら……。
水平線は目の高さより少し低い。百八十度の視界を越えて広がる青い海。褐色の海岸線は遠く背後に続いている。
だが、この風景だけならば、ほかにも例がある。きっとあるだろう。どこかで見たことがある。
ただごとではないのは、目の前の岩角から切り立つように落ちている、その傾斜である。岩角がまるみを帯び、まるでさあ、滑りなさい≠ニ、誘っているみたい……。そんな形を描いているところが恐ろしい。
少年が二人登って来た。
一人でいるのも怖いが、だれかがそばにいるとなると、もっと怖い。一押しされたら、確実に命はない。洋子は石灯籠に手をかけた。
「すげえ」
少年たちは声をあげながらも、さほど恐れる様子もなく、石灯籠を挟んで洋子と反対の岩場に立つ。三人のうちのだれかが、突然、狂気に襲われたら……。洋子はもう一度、海と断崖の風景を目の中に収めてから腰をかがめて、降りにかかった。
くだり道は膝につらい。
一度滑って尻もちをついた。若い二人連れが登って来る。男が女の手を取って引きあげる。うしろにまわって押しあげる。洋子は小休止をとってそれを見送る。
――殺すのはやさしい――
たったいまながめた頂上の風景が洋子の目の底にこびりついている。そこに二人の男の影が映る。鈴木勇と本堂と……。
――でも、本当にそうなのかしら――
人目はなかっただろうか。見知らぬ男が近づいて来たとき、鈴木勇はなんの警戒心も抱かなかったろうか。
今日は秋日和の土曜日。時刻も昼に近い。だから、これだけの人数が出ている。ウイークデイなら大分様子がちがうだろう。カメラマンは撮影のために特別な時刻を選ぶかもしれない。たとえば、朝、早い時間。人っ子ひとりいない情況も充分に考えられる。
頂上で会った少年たちは、ほとんど周囲に警戒をしていなかった。風景写真を撮るカメラマンは、危険な情況に慣れている。そばに見ず知らずの男が近づいて来ても、
――また野次馬が来たな――
そのくらいの気分でいたのかもしれない。
カメラマンの死について、警察が疑問を持っていないらしいのは、すべてがうまくいったから……。そう考えていいだろう。
駐車場に戻ると、運転手が車の外に出てタバコをふかしていた。
「行きますか」
「もう少し……。時間はあるんでしょ」
「はあ」
「すごい景色ね」
ふり返って岩山を見た。
「登られたんですか」
「ええ」
「結構きついでしょ。去年も一人死んだんですよ。足を滑らして」
「ああ、そうなの」
「カメラマンが写真を撮ってて」
地元では噂になったにちがいない。タクシーの運転手なら、なにか知っているだろう。
「てっぺんから転げ落ちたんですか」
洋子は岩山を指さした。
「そう。朝、早くだったね。前の日、雨が降ってたから、滑ったんじゃないかね」
「たった一人で行ったのかしら」
「そうみたいだね」
「だれかがトンとうしろから押したりして……」
「そりゃないね」
「どうして……わかります?」
洋子は笑いを作りながら尋ねた。
「うん? 見てた人がいるから。そこの売店のおばちゃん。道を歩いてたら、大野亀のてっぺんに人がいるでしょ。朝早く、なにしてんのかなって、そう思って見ているうちに足を滑らして、むこう側の海に落ちたんだね」
運転手は事件のディテールを知っている。
「あら、そうなの」
洋子は狼狽を覚えた。なぜうろたえたのか自分でもすぐにはわからない。
――少しちがうわ――
そう思いながらも運転手の言っていることが、わけもなく正しいようにも感じられる。そのあたりに狼狽の原因があるらしい。
「お昼を食べなくちゃあね」
「この先の、二ツ亀にホテルがあるから。あそこがいいんじゃないかね」
「じゃあ、そうするわ。もう少し待っててね」
「どうぞ」
洋子は腕を伸ばしたまま体のうしろで組む。そんな仕ぐさで空気を吸いながら、プレファブ造りの売店をのぞいた。中年の女が店番に立っている。
「ガムを一つくださいな」
「どれにします?」
「梅干の」
覆いの紙をむき、一枚を頬張《ほおば》ってから、
「あそこの崖で事故があったんですって」
と尋ねた。
「ええ、去年の秋にねえー」
「怖いところですもんね」
「登りなすった? そりゃえらいわ」
「おばさん見たんですって?」
「ああねえ」
女は曖昧な声でうなずく。
「よく見えたんですか」
「鳥かと思ったね、はじめは。黒いもんがパッと飛んで。そしたら叫び声が聞こえたから」
「びっくりしたでしょね」
「そら、たまげたのう」
「たった一人で行ったのかしら、その人?」
洋子はこの女にも同じことを尋ねた。
「一人だったね。警察の人にも聞かれたけど、まちがいないわね。落っこちるすぐ前に、てっぺんに一人でいるとこ、それも私、見てたんだから。足跡も死んだ人のぶんだけだったとのう」
「即死だったの?」
「そうじゃったろうねえ。海に落ちたけど、私ゃ、そばまで行けんしのう。すぐにここに来て一一〇番に電話をかけたわね」
女は少しずつおしゃべりになる。
――見まちがいはなかったのかしら――
本堂は人に姿を見られないよう充分に注意を払っていたにちがいない。突き落として次の瞬間に身を潜める。女は黒い鳥が飛んだのかと思った……。つまり男が滑り落ちる、その瞬間を見たわけではない。それを見ていれば鳥だとは思うまい。見たのは落下の過程だけだった……。
洋子は一連の場面を想像してみた。女が道を歩いている。遠い崖の上に男が一人で動いている。何をしているのだろう。だが、目をそらす。それから数秒後ハッとして視線を戻し、鳥が飛んだと思い、男が声をあげて落ちて行った……。
――本堂さんはどこへ身を隠したのかしら――
崖の上から駈け降りるには、どんなに早く走っても五、六分はかかるだろう。女はどの位置で男の転落を見たのか。そこからこの店の電話にたどり着くまでどれだけの時間がかかったのか。一一〇番を受けた警察がここに到着するまでには、さらにどれだけの時間がかかったのだろうか。
本堂が身を隠しながら現場を巧みに立ち去る可能性は皆無ではない。しかし、かなりむつかしい。それもたしかである。どこにだれの目があるかわからない。崖から逃げ降りて来たところをだれかに捕えられたら、言いのがれのしようもない。
「新聞にはもう一人べつな男がいたって出てましたけど」
「いや、いないね。そんな話、聞かなかったのう」
女はかたくなな声で答える。
ドアが開き、ほかの客が入って来た。女はそっちのほうへ歩み寄る。
「どうもありがとう」
洋子は外へ出た。車までゆっくりと歩いて、
「お待ちどおさま、その……お昼御飯食べるところへやってくださいな」
と、乗りこむ。
「はいね」
「殺人の疑いはまるでなかったの、去年の事件?」
「なかったね」
運転手も確信のこもった声で言う。
「新聞で読んだような気がするけど……」
「いや、新聞にもそんなこと書いてなかったね。東京から調査に来なすったかね?」
見抜かれてしまったらしい。洋子はほとんど佐渡の名勝に足を向けなかったのだから……。
「そう。保険関係のね」
とっさに答えた。調査と思われたほうが好都合である。
「ご苦労さんですな。事故と殺されたのとでは保険金がちがうもんですかね」
「そうでもないけど……一応調べておかないと」
保険については洋子も知識がない。曖昧に答えた。
「あれはただの事故だね。あんなところで写真を撮るんなら、よほど気をつけないと」
事実はどうあれ、地元の人たちは少しも疑っていない。
――変ね――
車はすぐに停まった。
二ツ亀は……細い砂浜のむこうに二匹の亀のような島がうずくまっている。干潮時には陸続きになるとか。それをながめる海岸に休憩所をかねたホテルがあり、一階がレストランになっている。
「これでなにか食べてください」
運転手にお金を渡し、洋子自身はサンドウィッチとコーヒー牛乳を買って砂浜に降りた。海を分けるようにして細い砂地が続いている。両側からひたひたと波が打ち寄せて来る。水の底まではっきりと見える。すっ裸になって泳いでいる子もいる。冷たくないのかしら。水に手を入れてみた。
――こんなところに長くいても仕方がない――
風景の美しさは、また後日に訪ねてながめればよい。
「両津へ戻ってくださいな」
「早すぎますよ」
「ええ、でも前の船に乗れるかもしれないから」
「あ、そうかね」
弾埼灯台と記した道標がある。ここらあたりから内海府の海岸となるのだろう。穏やかな海を左に見ながら細い舗装の道を走った。集落を出て、またつぎの集落にはいる。ところどころに小さな港がある。漁船がもやっている。
「新潟へ帰るんでしょ」
「ええ」
「たしか二時半の船があったはずだね」
「できればそれに乗りたいわ」
なにを急いでいるのか、洋子は自分でもよくわからない。車は六十キロ近いスピードで走り続けた。
二時十九分。かろうじてジェットフォイルの出航に間にあった。このほうが断然早く新潟に着く。予約はしてなかったが、さいわいに空席があった。
――また来ることがあるかしら――
窓に映る島影がすぐに遠くなった。来るときはなかなか両津に着かなかったのに……。
船はやがて新潟港の水路に入り、桟橋に船体を寄せた。
「ご乗船ありがとうございます」
声に送られて洋子は桟橋から港のビル構内へと急ぐ。
タクシー乗り場に向かい、
「県立図書館へやってください」
と頼んだ。
「白山浦の?」
「ええ……」
それがどこにあるか知らない。車が走りだしたところをみると、運転手は知っているのだろう。船の中で考えたことだった。図書館へ行けば新聞の綴《と》じこみがあるだろう。
「地元の新聞て、何種類もあるんですか」
「えっ? ああ、一つだけだろ、たしか」
図書館へ行って確かめればわかることだろう。
去年の十一月十三日。この日付は忘れられない。カメラマンの鈴木勇が死んだ日である。その日以降の新聞記事を調べてみよう。中央紙には記事がなかったが、地方紙ならなにかしら書いてあるにちがいない。中央紙の地方版も見たほうがいい。
「ここだけど」
車は褐色の古い建物の前に着いた。
「古い新聞を見たいんですけど」
入館の手続きをすませてから洋子は尋ねた。
「いつごろの?」
「去年の十一月」
「じゃあ一般閲覧室へ行ってください」
保存してあるのは地方紙一紙と中央紙二紙。十一月分の綴じこみを全部出してもらった。
「五時までですよ」
一時間足らず……。今日中に見られなければ明日また来よう。日付がきまっているから記事を捜すのはさほどむつかしくはない。
事件は十三日の夕刊にすでに載っていた。中程度の見出し……。だが、記されていることは、洋子が知っている内容ばかりである。佐渡の大野亀で東京のカメラマンがあやまって転落死したこと……。殺人をほのめかす文章は一行もない。十四日の新聞には事件そのものの記載が見当たらない。
――本堂さんはなにを見たのかしら――
洋子は記憶をたぐった。
事件のあとで本堂から新聞の記事のコピイが届いた。たしか事件の翌日……。午後遅く速達で。マッチ箱ほどの記事。日付はなかったが、あの記事は十三日の夕刊か、十四日の朝刊。そうでなければおかしい。
中央紙の地方版にもコピイで見たような記事はない。
もちろん新聞にはいろいろな版がある。中央紙もここに綴じこみがあるのは二紙だけ。ほかの中央紙だって発行されている。本堂はここにない新聞の……つまり、彼がたまたま見た新聞の一部をコピイして送ってくれたのだろうが、洋子の胸に釈然としないものがこみあげて来る。それが拭いきれない。
――ここにある記事は、どれも殺人のことなんか言ってないわ――
その後の新聞も調べたが、もう事件についての後報はなにもなかった。十九日のぶんまで見て閲覧時間が終った。
「万代橋《ばんだいばし》に行くには、どう行ったらいいのかしら」
ホテルはその橋の近くにあると聞いた。
「かなりありますよ。信濃川に出て川ぞいに行ったほうがわかりやすいと思いますけど」
「ありがとう」
知らない町を歩いた。川は広い掘割のように整然と仕切られ、豊満な水をたたえている。たそがれの空の下で街が少しずつ灯をつけ始めた。
洋子はホテルの部屋に入り、カーテンを開け、ベッドに腰をおろして電話をかけた。一〇四を呼び出し、地元の新聞社の電話番号を尋ねてダイヤルをまわした。
「社会部をお願いしたいんですけど」
六時少し前……。
「はーい。なんでしょう」
「生命保険会社の者ですが、昨年、佐渡の大野亀で転落死した鈴木勇さんについて調査しております。担当された記者のかた、いらっしゃいましょうか」
保険会社といえば、疑問を抱かれることもあるまい。佐渡でタクシーの運転手を相手に思いついた嘘だったが、これは応用がきく。
「えーと、だれかな。今、いないけど、どんなこと?」
「ご記憶おありでしょうか。事件のこと」
「ええ、知ってます」
「殺人の疑いはなかったのでしょうか。ちらっと新聞で見たような気がするんですけど」
「そりゃ、なかったね。あれはただの事故ですよ。たしか東京のカメラマンでしょ。目撃者もいたし、現場の情況にも不自然なところがなかったからね。殺人の疑いがあったら、扱いがぜんぜんちがうから」
「そうですか、どうもありがとうございました」
「はい。よろしく」
電話が切れた。
――本堂さんは、よほどうまくやったのかしら――
その可能性も皆無ではあるまいが、警察もそう甘くはないだろう。
洋子は、本堂が送ってくれた新聞記事のコピイを思い返した。その内容をできるだけ正確に反芻《はんすう》してみた。
コピイそのものは焼いてしまった。本堂が焼き捨てるようにと命じていたから……。不鮮明で、今、思い出してみると、どことなく違和感があった。
コピイには、たしか死体が海に浮いているところを発見された、と記してあった。これは明らかに事実とちがっている。文章の細かい部分までは忘れてしまったが、両津署が殺人の疑いがあるとして捜査している、と、そんな記載がそえてあった。だが、現地に行ってみれば、殺人の話など少しもこぼれて来ない。だれも事故死を疑っていない。
――私はどうして殺人だと思ったのかしら――
本堂自身がそう言ったから。本堂が送ってくれたコピイを見たから。それにもう一つ、洋子のマンションの管理人室に電話がかかって来たから……。
――あれは、どういう事情だったろう――
一年も前の出来事を正確に思い出すのは、むつかしい。たしか、洋子が外出からマンションへ帰って来たとき、管理人が内緒ばなしでもするみたいに話してくれたのだった。警察から問いあわせの電話だった、と。佐渡で死んだ鈴木さんには殺人の疑いがあり、だれか鈴木さんを恨んでいなかったか、近所の人とトラブルを起こしていないか、近所の人の名前まで尋ねられた、と……。
管理人が洋子に嘘を言ったとは考えにくい。事実、そんな電話があったのだろう。
だが、それが本当に警察からの電話かどうか。それはわからない。現に鈴木勇は死んでいるのだし、警察と言われれば管理人はそう信ずるだろう。疑えば充分に疑えることである。
洋子はハンドバッグを引き寄せ、手帳を取り出した。便利屋の宮地昇の電話番号が記してある。
――彼は演劇青年だから、知っているかもしれない――
宮地は本当にいろんなことを知っている男だ。文字通り便利な人である。
「もし、もし。あ、宮地さん。仁科洋子です」
「あ、こんばんは」
「いてくれてよかった。変なことを聞くけど……」
「はい?」
「テレビ・ドラマなんかで、よく新聞記事が大映しになったりするでしょ」
「ええ……?」
「登場人物が失踪《しつそう》したとか、自殺したとか、そういう記事が画面に映ったりするじゃない。ああいう新聞、どうするの。本物の新聞じゃないんだし……小道具係が作るのかしら」
「ああ、知ってます。町の印刷屋に頼めばやってくれますよ。どこでもやるかどうかわからないけど……」
「わりと簡単なことなの?」
「ドラマ作ってる人なら、どこに頼めばいいって、知ってんじゃないですか。むつかしいことはないと思うなあ」
「そうでしょうね」
「なにするんですか」
「ううん、ちょっと。今、急いでるから。また顔を出してくださいな」
「はーい」
電話を切り、洋子は深々と息をついた。
「やっぱり」
洋子は窓の外の街をぼんやりと見つめながらつぶやいた。新潟はとてもにぎやかな街だ。四角い視界に映る風景は東京の繁華街と変らない。
やっぱり宮地は知っていた……。
しかし、今つぶやいたやっぱり≠ヘ、宮地に繋がるものではないらしい。それを考えるのが怖い。
――せっかくだから街に出てみようかしら――
お腹はすいていないが、なにか食べなくてはなるまい。相川の旅館で朝食をとり、あとはサンドウィッチを一箱食べただけ。夜が更けるまでには空腹を覚えるだろう。ルーム・キイをハンドバッグに入れて部屋を出た。
知らない街を歩くのが好きだ。
アーケード街はおしゃれなブティックでいっぱい。アクセサリー店で銀の輪を三つ連ねたイアリングを買った。耳に垂らすとかすかに鳴る。
――重いかしら。つい買っちゃったけど――
風が少し冷たい。スカーフを買い、ショウウインドーに姿を映して首に巻いた。
本屋に立ち寄った。
買いたい本もあるが荷物になるからやめておこう。いろんな人の名言を集めた本を見つけて開いた。
人生という芝居は、信じられないほど演出が欠けている。出てくるはずの場面が遅れて、いっこうに現れない。結末は気ぬけしている。恋いこがれて死ぬはずのやつが、やっとそこまでたどりついたときは、老いぼれのヨボヨボだ
ジャン・ジロドウ。フランスの劇作家の言葉。たしかに人生は演出が欠けている。フォルムの美しい恋愛はめずらしい。
――しかし、演出が行きとどき過ぎてるのも困るんだわあ――
本堂のことを考えずにいられない。細かいところまできっちりと計算ができているのではあるまいか。
娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るよりほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの
ジャン・アヌイ。これもフランスの劇作家。うまいことを言っている。
――本当にそうね――
普段の洋子だったら両手をあげてこの言葉に賛意を表しただろう。だが、今夜は少しつらい。かなりつらい。
ホテルへ戻った。握り鮨《ずし》のルーム・サービスを頼み、お銚子《ちようし》を一本つけてもらった。
疲れた。
体よりも心が疲れている。ベッドに入ったが、どうせすぐには眠れないだろう。
――本堂さんは鈴木勇を殺していない――
その仮説に立って考えを組み立てなおしてみよう。矛盾がなければ仮説は真実に近づく。真実になる。
カメラマンの鈴木勇が死んだのは十一月十三日の早朝。時刻はわからないが、太陽が出てから間もないころ……カメラマンは暗い時刻に風景を写したりしないだろう。朝の六時から八時くらいまでのあいだ。当たらずとも遠くはあるまい。考えてみると洋子は本堂が送ってくれたコピイ以外にその記事を見ていない。中央紙には地方の事故は載っていなかった。
本堂から鈴木勇の死について第一報が入ったのは、十三日の夜遅く……十一時ごろの電話だった。新潟からかけていると言っていた。実際の死から十数時間たっている。
それは本堂が現場を離れ、船に乗り、新潟に着いて安全な場所に落ち着くまでの時間と考えることもできるが、少し遅すぎるような気もする。本堂の立場に立ってみれば、すぐにでも洋子に聞かせたい情報なのではあるまいか。電話はどこにでもあるのだし……。それに、第一報は事故の様子について、そうくわしくは伝えていなかった。
第二報は、翌日の朝。これは高崎からの電話。そして問題のコピイが速達で届いたのは、同じ日の夜に入ってからだった。
――本堂さんは本当に佐渡へ行ったのかしら――
疑えば疑えることである。
たとえば本堂は東京にいて、なにかの方法で鈴木勇の事故死を知った。そう、本堂は鈴木勇が大野亀に行くことだけを知っていて、十三日の夜に旅館に電話を入れた……。
旅館には警察から情報が入っている。
「東京の鈴木勇さんですか。大変なんです。大野亀の崖から転落してなくなられました。今朝早く」
と、宿の者は答えるだろう。
――よし、俺が殺したことにしよう――
とっさに本堂はそう考えたのではないかしら。
交換殺人の話は、その前から洋子とのあいだでなかば冗談のように語られていたけれど、はっきりと約束があったわけではない。第一報が届いたときには、
――なんで、そんなこと……。本気だったの――
ことの性質上、洋子が信じられなかったのは当然だが、あのときの洋子の戸惑いはそれだけではなかった。
洋子は今はっきりと思い出すことができる。
なんのうちあわせもないまま本堂が一人で先走りをしたと、そんな印象が拭いきれなかった。たしかに細かくうちあわせをして愉快なテーマではない。洋子としては、本堂が洋子のことを愛しているあまりあえて危険なことを独断でやってくれたのだと思い、深くは追及しなかったけれど、どこか唐突だった。
――私は鈴木勇さんのことを殺したいなんて、そう本気で思っていたわけじゃない――
そう言いたかった。死んでほしい人とは思ったが、その感情はすぐには殺人と結びつかない。
――あ、待って――
新しい疑念が、洋子の心をかすめる。
思い返してみると、鈴木勇を憎むようになったプロセスにも少し腑《ふ》に落ちないことがある。
たしかに感じのわるい男だった。凶暴な人だった。せっかく快適に暮らしているのに天井からドシン、ドシンと物音が落ちて来る。まるでわざとやっているみたいに……。苦情をいっても逆に猫がわるさをする。気をつけろ≠ネどと脅す。油壺で乱暴を働いた男かもしれない……そんなことをデートのたびに本堂に話した。
鈴木勇のいやがらせはますますひどくなり、ベランダにいやらしいものを落として汚す。深夜に無言の電話がかかって来る。ついにはアミイが殺された。
――でも、あの男がやったとは限らない――
一瞬、背筋が総毛立つほどの恐怖を覚えた。
――本堂さんなら、できる――
ゆっくり考えてみると、鈴木勇を憎むようになった原因の中には、本堂にそそのかされた部分がなくもない。「評判の悪いカメラマンだ」「婦女暴行の前科がある」「なにを狙っているかわからないぞ」ふし目ふし目に本堂の言葉があったのではないかしら。洋子の憎しみをかき立て、殺意にまでふくらませようとしていたのではないか。
――なんのために――
交換殺人を承知させるために……。
その計画の最中に、思いがけず鈴木勇が事故死をして、大急ぎで部分的な調整をした……。そう考えてみると、納得できることが多い。
――悪魔のような――
そんな言葉が思い浮かぶ。本堂ならそうかもしれない。みごとに天使を演ずることができなければ、悪魔ではありえない。
――でも、どうして――
疑問はさらに時間をさかのぼる。どうして本堂は洋子に近づいたのか、軽井沢で出会ったことまでが作為だったのかしら。
記憶をたどるのがむつかしい。考えが乱れてしまう。当然のことながら、洋子のほうは無防備だった。ささいなこと一つ一つに裏の意味を考えたりはしない。だが、その中に、事実をかいま見る芽が隠されていたのではなかろうか。
会って間もないときに洋子は本堂に身分を明かした。獣医であることも、薬剤師であることも。研究所で殺虫剤や殺鼠剤の研究をしていたことも。危険な毒薬を隠し持っていることも話したかもしれない。本堂は少年のような笑顔を浮かべ、まるで冗談でも言うように話題をそのほうに向けた。毒薬を手に入れたがっていた……。
――それが最初の目的だったのかもしれないわ――
本堂は……ある日、軽井沢で一人旅の女とめぐりあった。好感のもてるタイプの女だったからすぐに親しくなった。話しているうちに、その女は薬理に通じている、毒薬を持っているらしいとわかった。本堂には殺さなければいけない男がいた。しかし、人を殺すのはたやすいことではない。それにふさわしい毒薬が手に入れば、殺人は一気に現実性を帯びる。
――この女と親しくなろう――
恋愛感情がどこまでまじっていたのか。演技だけにしてはあまりにもフォルムの美しい恋だった。少しは本気の部分もあったのかしら。悪魔の脳味噌までは計り知れない。
とにかく恋は順調に進んだ。そのうちに女が、マンションのすぐ上の階に住む男を憎んでいることを知った。交換殺人が本堂の頭に浮かぶ。そのほうが安全である。そこで女から事情を聞きだし、少しずつ憎しみが深くなるように仕向ける。とうとうアミイまで殺されてしまった。
――正体のわからない人だったわ――
性格のことではない。本堂の性格もよくわからなかったが、これはほかの男だってわからないと言えば、みんなはじめのうちはわからない。
本堂の場合は、住んでいるところがわからない。職業だって、よくわかっていたとは言えない。トラベル・ライター……。そういう仕事があることはまちがいなかろうが、本堂が本当にそうであると裏づけになるものを見たわけではなかった。
――名前はどうなのかしら――
それだって疑えば疑うことができる。洋子は、ささいな会話を思い出した。心にほんの少しひっかかったので、今でも頭のすみに残っている。
あのとき、季節はずれの軽井沢は人気も少なく、街は映画のセットのように閑散としていた。シャッターを開けている店のほうが場ちがいに映った。洋子はそんな街を歩きながら連れの男に名前を尋ねた。
「本堂です」
と、男は小声で告げた。よく聞きとれなかったので、
「本堂……ですか」
と尋ね返した。
「もちろんですよ、嘘をつく必要はないでしょう」
どことなくちぐはぐな答えだった。もしかしたら相手は洋子の言葉を「本当……ですか」と聞いたのかもしれない。それなら会話が噛みあう。きっとそうだと思った。
ただそれだけのこと……。
でも、自分の名前が本堂だったなら「本堂ですか」と尋ねられ「本当ですか」と聞きちがえるものだろうか。あのとき考えた些細《ささい》な疑問が今よみがえって来る。
本堂はなにかの理由で名前を偽り、親しくなってしまってから、今さら「本当の名前はこれこれです」とは言いにくい。そんなケースも考えられる。
もし偽名だとしたら、なるほど本堂和也≠捜してみても見つからないわけだろう。疑念が黒くふくらむ。
この夜、洋子が眠ったのは三時に近かった。
つぎの朝、洋子は目をさましてすぐにホテルを出た。日ざしがまばゆい。港町のせいかしら。
――東京へ帰ろう――
新幹線の発車を待ちながらコーヒーを飲んだ。
昨夜はわるい想像をしすぎてしまったかもしれない。知らない街の、知らないホテルで一人寝ていては、頭に浮かぶことも暗くなる、ネガティブな方向に向かう。
朝の光の中で思い返してみると、もう少し明るい思案も浮かんで来る。
――たしかなことは一つもない――
よいことも、わるいことも……。
鈴木勇が事故死だったと、それだって錯誤の入りこむ余地がある。担当の警察官が先入観にとらわれ、第一歩の捜査をまちがうことだってあるだろう。
――十一月十七日まで――
それが本堂との約束の期日である。時刻は午後三時ごろ、場所もきまっている。そこに本堂が現れるかどうか、それを待つよりほかにないのだろうか。窓の外はトンネルばかりの風景に変っていた。
秋 冷
都会のビルがどんなに高くなっても、秋の空はそれよりもさらに高い。ビルの高さが秋空の高さを強調しているようにさえ見える。洋子は新宿の高層ビル街を望みながら、そんなことを思った。
十月から十一月へとカレンダーの絵柄が変ってみても、洋子の周辺にはさしたる変化もない。本堂からはあい変らずなんの連絡もなかった。
休日の昼さがり、原宿に出たついでに洋子は区立図書館に立ち寄った。
カウンターに、いつか見たスポーツ刈りの図書館員がいるのを見つけた。
「あのうからくり人形の歴史&ヤって来ました?」
と尋ねてみた。それが目的で図書館に来たわけではなかったが、かすかに気がかりだった。
「ああ、あの本」
図書館員は、洋子の顔を見てもなにも思い出さないふうだったが、本の名を言われてこっくりとうなずいた。
「二度もお願いしたのに……」
「ありますよ、たしか。借出した人が死んじゃって……。困るんですよね。外国旅行の最中だったから、連絡がとれなくて」
「えっ?」
洋子はカウンターのほうへ足先を戻した。
「借りたかたが外国旅行の最中におなくなりになったの?」
「はあ」
「持っていらしたのかしら、その本をむこうに?」
「いえ、うちに置いてあったみたいです」
「なんとおっしゃるかた? 本堂和也さんじゃないかしら」
右田輝男を誘い出すためには、からくり人形の逸品をほのめかさなければなるまい。その方面に知識がなければ、本で調べるだろう。本堂はこの図書館を時折利用すると言っていた。
――からくり人形の歴史≠借出したのは本堂和也ではないのか――
洋子は以前にも漠然とそんな想像をめぐらしたことがある。
「えーと、どうだったかな」
スポーツ刈りが戸惑っていると、横から眼鏡の女が、キッと洋子をにらみながらカウンターに近づき、首を左右に振った。
「こちらではそういうことにはお答えしないことになっております。閲覧者の秘密ですから」
切り口上で告げてから、今度はスポーツ刈りのほうをにらむ。この女性のほうが上役で、きっと規則にうるさい人なのだろう。スポーツ刈りがなさけなさそうな顔をしている。
「ごめんなさい。知らなかったものですから」
洋子はペコリとお辞儀をして引きさがった。
こうなっては借り手の名前を聞き出そうとしても無駄だろう。図書館の理念にかかわる問題に踏みこんでしまう。眼鏡の女性が許してくれるはずがない。
「いいえ」
指先で眼鏡をつきあげ、カウンターの奥に引きさがる。
「じゃあ、御本だけ見せていただくわ」
「はい」
とスポーツ刈りが言う。
からくり人形の歴史≠ヘ週刊誌の大きさ。三センチほどの厚み。グラビア写真がたくさん挿入されているが、古い本なので写真はあまり鮮明ではない。
――本堂さんもこれを見たのかしら――
ページをめくりながら考えた。
記憶がはっきりとしない。だが、この本が借出されたのは去年の十一月の初旬……つまり右田輝男が死ぬ二、三週間前だったような気がする。そう思うのは、いつかあそこのカウンターで図書館員がこの本を貸出した日付をささやいていた。それを聞いて洋子は、
――あ、本堂さんが借りたものかもしれない――
と、そう思った記憶があるからだ。日付のほうは思い出せないが、そう思ったのは、たとえ頭の片すみで考えたことであっても、それが可能であり、事情に矛盾がなかったからだろう。この本で読んだ知識をもとにして右田輝男を呼び出すとすれば、本の借出しは事件より二、三週間前が妥当な線となる。
借出した男は本の返却を忘れて外国に旅立った。本堂が成田をたったのは、十二月のはじめ。返却の催促がきびしくなるのは、そのあとくらいではあるまいか。
――その男が外国旅行の最中に死んだ――
もとよりそれが本堂だとは言えない。多分ちがうだろう。
しかし、なにほどかの可能性はある。本堂からの連絡は二月の末を最後にぷっつりと途絶えてしまったのだから。
――ぜんぜん連絡をよこさないなんて、あまりにもひどすぎる――
洋子はそう思い続けて来たが、人には死ぬこともある……。
――この本を借出した人の名前を知りたい――
でも、今日は無理だろう。いつか機会を見て……。
それよりも今は本堂の死について考えよう。その可能性を計ってみよう。
――病死かしら――
とてもそんなふうには見えなかった。
とはいえ本堂にはどこか普通とちがうところがないでもなかった。死すべき人の気配が皆無ではなかった。
たとえば、人の死を聞いたとき、
「そんな感じ、あったわよね」「生き急いでいたみたいだなあ」「いい人に限って早く死ぬんだ」
などと噂される。あとになってそんな気がするだけかもしれないが、そうばかりとは言いきれない。噂にも一定の説得力はある。つまり、死ぬ人は、なにとは言えないが、あらかじめそんな気配を周囲に放っている。今、思い返してみると、本堂にもなにかわからない気配があった。
――今だから、そう思うだけよ――
第一、本の借り手が本堂ときまったわけではないのだし。
洋子はからくり人形の歴史≠フページをくりながら、どこかに本堂の痕跡が残っていないか、注意深く捜してみた。鉛筆の走り書き。ページにこぼれ落ちているもの。
なにもない。そう都合よく見つかるはずもない。
からくり人形の名品はたくさんあるらしい。この本を丹念に読めば、コレクターがどんな品をほしがっているか、どんな品が売りに出されそうか、一通りの知識が身につく。右田を誘い出すこともそうむつかしくあるまい。
――刑事なら簡単に捜査ができるのに――
そうでもないかな。正式な令状がなければ、きっと眼鏡の図書館員は借り手の名を明かさないだろう。
「そういうことにはお答えしないことになっております」
切り口上で告げるにちがいない。
笑いが浮かび、笑いが消えた。
必要とあれば刑事は令状を用意するかもしれない。この本を返却し忘れたことが、本堂の決定的なミスになるかもしれない。もし借り手が本堂だったら、の話だが……。
――この本に近づくのは危険かもしれない――
二時間ほど閲覧室にいて、洋子は図書館を出た。
それから十日あまりが過ぎ、はっきりと秋の涼しさが感じられるようになった。暦のうえではもう立冬である。
――あと十日――
軽井沢のホテルを予約した。なにはともあれ洋子は約束の日に約束の場所へ行かなければならない。
新しいコートを買った。今年はまたトラディショナルなモードが戻って来たらしい。
休日の夕刻、洋子は紀尾井町にある知人のオフィスを訪ねたあと、
――四谷まで歩こうかな――
弁慶橋を渡って右手の歩道を踏んだ。狭い道だから車がすぐ脇を通る。モス・グリーンの車が目に映った。その色を見てナンバーに視線が映った。
――あら――
車の形にも、ナンバーにも覚えがある。
運転席はよく見えなかったが、きっと相田和美だろう。スーツのイエローだけが目に残った。車はすぐに左へ曲がってホテルの駐車場へ入る。洋子はそれを見送り、そのまましばらく道を進んだが、思いなおして踵《きびす》を返した。
ぼんやりと予測するものがあった。
――相田和美がホテルへ行く――
道からホテルの入口まで湾曲した道路が延びている。イエローのうしろ姿が駐車場を出て足早に歩いて行く。相田和美は少し腰を振るようにして歩く。その様子にも覚えがある。
洋子は本堂と一緒に何度かこのホテルに泊まった。それ以外にもラウンジやレストランを利用したことがある。構造はよく知っている。和美のほうは洋子の顔を知らない。だから、どんなに近づいてもいいはずだが……もしかしたらロビイに本堂が待っているかもしれない。洋子は少し距離を置いて自動ドアを抜けた。
和美はロビイを横切り、まっすぐにエレベーターに向かっている。距離を縮めた。
エレベーターの前で和美はちらっと洋子を見たが、表情にはなんの変化もない。外国人が数人、昇りのエレベーターを待っている。群になって同じ箱に乗った。
和美は三十四階のボタンを押す。外国人は大声ではしゃぎながら三十七と三十八を押す。
エレベーターの表示がどんどん数を増して三十四階で止まった。和美が降りた。一呼吸おいて、
「すみません」
洋子も同じ階に降りた。
ホテルの薄暗い通路をイエローのうしろ姿が進んで行く。ドアの前で止まり、鍵を開けて中へ消えた。
三四三四号室。それをたしかめてから洋子は通路を戻って下りのエレベーターを待った。
――和美は鍵を持っていた――
宿泊客だから……。
東京に家のある人が東京のホテルに泊まる、なにか特別な目的があるからだろう。男と会うため……そう考えるのが一番自然だろう。和美の場合はとくにそんな気がする。それがふさわしい。
洋子は一階まで降り、ベル・ボーイに、
「このホテルの電話番号、何番ですか」
と尋ね、それを聞いてから、ロビイの公衆電話のダイヤルをまわした。
「本日の宿泊をお願いしたいんですが」
直接フロントに行ってもいいわけだが、それはたしかウオーク・インと言って、ホテルではあまり歓迎しない。なぜか理由はよくわからないけれど、電話で予約したほうがいい。
「はい。ご一泊ですか」
「ええ。できれば三十四階の三四三三号室……。思い出がありますので」
このところこんな嘘ばかりついている。探偵ごっこが身についてしまった。
「おそれいりますが、そこは予約がございまして……。三四三五ならご用意できますが」
「じゃあ、そこでもいいわ」
「ツインのお部屋ですけれど」
「それで結構。一時間くらいあとにまいります」
「お名前をどうぞ」
「はい。仁科洋子です」
予約をすましてからラウンジのティ・ルームに腰をおろしてコーヒーを飲んだ。
相田和美の隣室がとれたのは好運だった。日本のホテルは防音設備が甘い。壁に耳を寄せれば、話し声の断片くらいは聞こえるだろう。
――きっと本堂さんが来る――
本堂が十一月十七日に軽井沢で洋子と会うつもりなら、ぼつぼつ帰国していなければならない。外国で死んだ男が本堂でなければ、の話ではあるけれど……。
「マン・イズ・モータル」
と、洋子はホテルのベッドに寝転がったままつぶやいてみた。
中学三年のときに習ったフレーズ。人は死すべきもの。人間一般を言うときには冠詞をつけない。
たしかに人は死すべきものだが、そうやたらに死ぬものでもない。こちらも真実である。本堂はやっぱり生きているだろう。図書館で小耳に挟んだ男の噂は、本堂ではあるまい。
三四三四号室側の壁に耳をつけると、かすかにテレビの音声らしいものが聞こえる。和美は部屋で、訪ねて来る人を待っているのだろう。
その人はなかなか現れない。六時を過ぎ、七時をまわった。もしかしたら和美はテレビをつけたまま部屋を出たのかもしれない。男と食事をするために……。洋子は気をつけていたが、ドアを見張っていたわけではない。
――心配ないわ――
和美はかならず戻って来る……。そうでなければホテルに部屋を取った意味がない。
洋子はルーム・サービスのサンドウィッチを取った。風呂に入り、浴衣に着替えた。テレビのドキュメンタリィ番組をみた。アマゾン川をさかのぼって行く。熱帯のジャングルには、さまざまな風俗と自然が残っている。古代の残骸もある。
その番組がおもしろいので、しばらくは時間のたつのを忘れていた。隣の部屋に変化はない。
――私、少し異常かしら――
うしろめたさがなくもない。洋子はけっして執念深いほうではないけれど……むしろいたって淡泊なほうだけれど、ものごとを中途半端のままで終らせるのは好きではない。知らないままあれこれ想像するのはいいけれど、最後にその想像が的中していたかどうか、一応はたしかめたい。それに、この件については洋子に知る権利がある。執念深さも、きっと許されるだろう。
チャンネルを音楽番組に変えた。そのうちまどろんだらしい。
――いけない――
はっとして目をさました。
九時に近い。起きあがって壁に耳を寄せた。テレビの音声が消えている。隣の部屋になにかしら変化があったらしい。なにかが軋《きし》む。
人の声が聞こえる。男と女……。とても小さな声で話している。
――駄目だわ――
誤算があった。かすかな声は聞こえても、話の中身まではわからない。男の声が本堂かどうかも……。
二人はしきりに話している。断片でもいいから聞こえればいいのだが……。テレビの音声がまた細く響く。
カタンとドアが鳴った。隣の部屋で、しきりの戸を開けたか閉じたか、多分その音だろう。
洋子は浴衣を脱ぎ、大急ぎでスーツを着た。靴を履いた。ドアをそっと開けて廊下に出た。いつでも自分の部屋に戻れるようにドアを開けたままにしておいて三四三四号室のドアの前に立って耳を寄せた。
室内の風景が想像できた。テレビがついている。男はベッドでそれを見ている。女はドアに近い洗面所で化粧をなおしている。時折水音が聞こえる。女の声はかなりよく聞こえるが、男の声はくぐもっている。本堂に似ているが、ちがうかもしれない。
――しばらく聞いてないんだわ――
本堂の声をしっかり覚えているかと聞かれたら、ちょっと自信がない。聞けばわからないはずはないだろうけれど……。
「あなたにどうしても聞きたいことがあるの」
これはよく聞こえた。女は男にうしろ姿を向けたまま言ってるのではあるまいか。
「なんだい?」
男はそう尋ね返したようだ。
次の瞬間、決定的な台詞《せりふ》が聞こえた。その一言だけで、洋子は今夜ホテルをとった甲斐《かい》があった……。
「右田を殺したのはあなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」
アリバイという言葉は、はっきりと聞こえた。右田の部分は……少し遠かったが、たしかにそう聞こえた。
「ああ、殺した……かもしれないさ」
男の声はやっぱり聞きにくい。一言、一言、低いやりとりがあって、
「そりゃそうなんだけど……。父も馬鹿なのよ。賭けごとに夢中になって、みすみす罠《わな》にはまったんだから」
と、これは女の声。
男が女に近づく。声が少し大きくなったから……。
「常套《じようとう》手段なんだよ。土地をまきあげる。でも、あなたを見て奴の気が変ったんだ。あなたも少しまずかったけど」
「やめて。仕方なかったのよ」
「とにかく、忘れるんだ。すんだことだから」
本堂の声だろうか。言いかたはよく似ている……。
ポーンと、エレベーターの止まるサインが聞こえた。女の宿泊客が二人、声高く話しながら廊下に現れる。
洋子はいったん自分の部屋の中へ身を潜めた。
「マリコが急にお金がないって言いだしてさ」
「で、どうした?」
「私だって持ってないじゃない、そんな大金」
二人の女はドアの前で鍵を捜している。
――早く、早く――
苛立《いらだ》ってみても廊下の二人はいたってのんびりしている。
ようやく二人が中に消えるのを待って洋子はまた三四三四号室のドアに耳をそばだてた。
だが、テレビの音声と男女の声とが混然として漏れて来るだけ……。二人はもう奥のベッドサイドへ行ってしまったのだろう。
またエレベーターの止まるサインがポーンと聞こえた。今度は制服のボーイ。ルーム・サービスの品でも運んで来たらしい。
洋子は部屋に戻り、壁に近い位置にすわって隣室の気配だけをさぐった。
――本堂さんだろうか――
かなりはっきりした声を聞いたはずなのに確信が持てない。
――今にわかるわ――
それよりも問題は、たった今聞いた話の断片である。
女は……相田和美は、たしかに「右田を殺したのは、あなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」と言っていた。だったら、それを聞いている男は、本堂和也以外に考えられないではないか。
和美の父親が賭博《とばく》に手を出したらしい。その賭博はだれかの仕かけた罠で、土地をまきあげるための常套手段である。そんなふうに聞こえた。暴力団などがほしい土地をまきあげるとき、よくそんな手を使うと、洋子もなにかの記事をよんだことがある。狙われた土地は相田マンションの敷地かしら。いずれにせよそれを仕かけたのは右田輝男だろう。
ところが右田は和美を見て気が変った。
――いい女だな――
そこで触手を伸ばす。土地のほうはあきらめたのかどうか。両天秤《てんびん》かもしれない。このあたりの事情は、右田の女性関係について書かれた記事と一致している。
弱味を握られた和美は一度くらい右田のところへ行ったのかもしれない。そこでなにがあったか……。
それが「やめて。仕方なかったのよ」「とにかく、忘れるんだ。すんだことだから」という会話の背景だろう。想像はつく。よく符合している。二人が幸福になるためには右田が生きていては困る。
――やっぱり本堂さんの声だったわ――
相手が異なれば言葉使いも少し変る。声の調子も変るだろう。男の声は、ほんの断片しか聞かなかったのだし……。
右田のやりくちはあくどい。和美の苦境を知って本堂の殺意がふくらむ。
――どうやって殺そうか――
たまたま知りあった女が獣医で、薬剤師で、生命を操るすべを知っていた……。それから先のことは、すでに洋子は新潟のホテルで思いめぐらした。本堂は交換殺人を思いつき、そのために洋子が鈴木勇を憎むように仕向けた。
ところが、その最中に鈴木勇が大野亀から転落して死んだ。これは事故……。不透明な出来事ばかりの中で、むしろこの事故死だけがたしかなことなのかもしれない。
しかし、本堂はどの道どこかで鈴木勇を殺すつもりでいたのだろう。そうでなければ洋子を交換殺人にまで動かすことができない。
――待って――
今夜は頭が冴えている。頭の働きにも、火事場の底力みたいな作用があるのかもしれない。
鈴木勇は遠からず東南アジアへ旅立ち、しばらくは帰らない予定だった。そのことは鈴木勇が死んだあと、荷物を片づけに来た血縁者が漏らしていたことだった。それに、あの部屋は鈴木勇の持ち物ではない。鈴木勇は近所に挨拶をしてから旅に出て行くような男でもない。
だから鈴木勇が旅立った直後に、本堂が洋子に、
「あの男を殺したよ」
そう言ったならば、洋子は信じたかもしれない。現に鈴木勇は上の部屋にいないのだし……。
本堂ならば、それを信じさせるような手立てを考えるにちがいない。むしろその方角に向けて着々と手が打ってあったのではないか。
たとえば新聞記事のコピー。大野亀の事故のあと、洋子の手もとに贋《にせ》の新聞記事が……たぶんあれは贋物と断定してまちがいないと思うのだが、とても手まわしよく、そのコピーが送られて来た。手まわしのよさは、コピーを送ることがべつな形で本堂の計画の中に含まれていたから……。ちがうかしら。
実際には東南アジアに旅立った鈴木勇が、トリックにより変死したことにされる。それを洋子に信じさせるためには、きっと贋の新聞記事が役に立つだろう。どうやってそれを作ればいいか、準備はできていた。それを作る印刷屋を本堂は見つけておいた……。
鈴木勇が佐渡で事故死をしたために、記事の文面が変っただけのこと。一日あれば充分に贋物は作られる。ほかにも洋子に鈴木勇の死を、しかもそれが本堂の手による殺人であることを信じさせるさまざまな謀《たくら》みが用意されていた、と、そう考えれば、つじつまがあう。
――鈴木勇と本堂は繋がりがあったのかもしれない――
いつごろから? 多分、本堂が洋子と知りあったあと……。変な男が上の部屋にいると洋子に聞かされたとき、本堂は、
――これは使える――
そう考えて、鈴木勇と接触をとったのではあるまいか。フリーの風景カメラマンならば関係はつけやすい。鈴木勇を佐渡へやったこと自体が本堂の依頼だったかもしれない。
東南アジアに旅立つ直前まで東京から離れたところに鈴木勇を置いておく。そのほうがいろいろと細工がしやすい。洋子やマンションの管理人に、
――あの人、どうしたのかしら。急にいなくなったわね――
と思わせることもできる。鈴木勇自身の口から、
「ここへは帰りません、ずっと東南アジアへ行ってます」
そう宣言されるのは、はなはだまずい。
姿が見えないのは、死んだから……と、そう納得させる素地を作っておく必要があった。
もしそうなら、佐渡へ行った鈴木勇の行動についても本堂は一通りわかるわけである。日程も泊まる宿も。
本堂は佐渡へ行かなかったのかもしれない。東京にいても用は足りる。様子を窺《うかが》うために佐渡の旅館に電話を入れたところ、鈴木勇の事故死を聞かされた。実際の死より十数時間遅く……。それが洋子への連絡が遅れた理由だった。本堂自身が知らなければ、
「彼が死んだ。佐渡の大野亀で」
と、洋子に事故直後の電話をかけることはできない。
鈴木勇の事故死を聞いて本堂は一瞬狼狽したかもしれないが、すぐに計画を練りなおした。むしろ好都合だった。
大切なのは、洋子に鈴木勇の死が事故ではなく、本堂が突き落としたと思わせること。そのために本堂は二つのことを考えた。
一つは贋の新聞記事を作らせること。急がなくてはいけない。事故死のニュースが流れる可能性も充分にある。そこで贋の記事は、事故死のようではあるけれど、殺人の疑いもあるという文面になった。だが、本堂はおそらく東京にいただろうから、事故の様子を正確に知ることができなかった。実際には転落を目撃した人がいたにもかかわらず、本堂の作った記事は、死体が海に浮いているのを発見された、となっている。新聞記者がそんなまちがいを犯すはずがない。
もう一つは贋の電話。本堂自身が刑事を装って電話をかける。洋子に電話をかけたのなら声で見破られるだろうが、相手はマンションの管理人である。安んじて刑事に化けることができる。鈴木勇の死が殺人であるらしいことをほのめかす。マンションの内部に鈴木勇を強く恨んでいる人がいないかを尋ね、洋子の姓名まで聞く。管理人はきっとそのことを洋子に漏らすだろう。みごとな計画。そして、その通りになった。
これだけのお膳立《ぜんだ》てを用意し、あとは本堂自身が、
「僕がやった」
と言えば、ほとんど完璧《かんぺき》だろう。疑念を生みやすい新聞記事のコピーは焼き捨てさせた。ぬかりはない。
――恐ろしい人――
もしすべての想像が当たっているならば……。その男が隣の部屋にいる。
――どうしよう――
今、いきなりドアをノックして隣の部屋におどりこむ……。驚いて洋子を見つめる本堂と和美、洋子はまっすぐに本堂を指さし、
「あなたは極悪人です。人間として許せません」
それから和美を見て、
「あなたもけっして幸福になれないわ。罪が深すぎます」
と言い放つ。
そんな情景が脳裏を駈けぬけたが、洋子は首を振った。
――やめておこう――
いきどおりが足りないのがもどかしい。
第一、本堂は殺人の実行者ではない。人を殺したのは洋子自身である。すべてが明るみに出たとき、一番重い罪を負うのは洋子のほうだろう。本堂も無疵《むきず》ではあるまいが、彼は殺していないのだ。すると洋子だけが馬鹿な女として世間の嘲笑《ちようしよう》を受ける。好奇心にさらされる。考えるだけでもいとわしい。
ガタン。
隣の部屋のドアが鳴った。
――なにかしら――
洋子はベッドからはね起き、ドアののぞき穴のところまで走った。考えに夢中になっていて、隣室の様子をうかがうのがおろそかになっていた。
少し遅かった。
二人の姿がのぞき穴の視界を通り過ぎようとするところ……。かろうじてうしろ姿が見えた。部屋を出てどこかへ行くつもりらしい。男が前を行き、イエローのスーツだけが、くっきりと映って消えた。
――どうしよう――
本堂と和美のいる前へおどり出る勇気はなかった。その心理を説明するのはむつかしい。事態が一気に破滅的になるのをおそれたのかもしれない。なんによらず荒々しいことは洋子の好みではない。
それに……恋愛のルールにも違反しているだろう。新潟の本屋でふと拾った言葉、フランスの劇作家の言葉だった。娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの
言葉をまるごと思い出したわけではないけれども、これは洋子が日ごろから持ち続けている考えでもあった。賭けに負けたからといって、賭けに勝った人をののしってはなるまい。たとえ本堂がルールを違反したとしても、洋子には洋子の矜持《きようじ》がある。本堂に会うのなら、二人だけのほうがいい。
そんな考えが走り抜けたのは本当だったが、洋子のとった行動はその考えとは少しちがっていた。
鏡の前に走り、身だしなみを整え、ハンドバッグをもって部屋の外へ出た。廊下にはもう二人の影はない。
ポーン、とエレベーターの止まる音が聞こえた。
二人が乗りこんだらしい。
小走りに歩いて、そっとエレベーターの前をのぞくと、二人の姿はなくエレベーターのサインが屋上に動いて行く。四十階で止まった。
そこにはレストランとバーがある。二人は軽く酒でも飲みに出たらしい。
洋子もエレベーターのボタンを押した。しばらく待たなければいけなかった。
「本当に見たの?」
自分に問うてみた。のぞき窓に映ったかすかな風景……。
だが、洋子には小さな確信があった。
エレベーターで四十階に昇った。
「お一人ですか」
黒い制服の男が尋ねる。
「ええ、ちょっと。バーのほう……」
曖昧につぶやいて、待ち人を捜すような様子で中に進んだ。目のはしにイエローの色をとらえた。
――ね、そうでしょ――
小さな確信は当たっていた。のぞき窓の中で、イエローのスーツになかば隠されていた男の背かっこう……。
――本堂さんではない――
と思った。
そして、今、まさしく相田和美の隣にすわっている男は本堂ではない……。そう思ったからこそここまで昇って来たのだった。
「あそこ、いいかしら」
カウンターのあいている席を指した。
「どうぞ」
二人からちょっと離れた席。話し声が断片的に聞こえる。聞き耳を立てた。はっきりとはわからないが、たあいのない世間話。外国の地名が聞こえる。
「なんにしましょうか」
「そうね、バイオレット・フィーズ」
横浜のホテルで本堂に勧められて飲んだ酒を告げた。
思考がまとまらない。
さっきベッドの上で考えたことを、あらためて考えなおさなければいけない。築きあげた推理が少し崩れた。建築中の建物が小さな地震にあったみたいに。
でも崩れた部分はほんの少々……。まるっきり造りなおす必要はないだろう。大部分はそのまま残っている。ところどころ修復すればいい。そうすればすぐに建物は完成する。
――どうしてもわからないことがあるけれど――
和美と連れの男は楽しそうに話しこんでいる。とりわけ和美の表情が弾んでいる。
――いい女だわ――
よくはわからないが、男が抱きたくなるタイプなのかもしれない。きっとそうだろう。右田輝男がこの女をほしくなったのはうなずける。
男のほうも楽しそうだが、時折ふっと表情に暗いものが走る。
――なにかを恐れている――
そんな気配がある。
――この男も人を殺したのかもしれない――
わけもなく洋子はそんなことを想像した。三四三四号室の外でドア越しに聞いた言葉……。男は「ああ、殺した……かもしれないさ」とつぶやいていた。いったん「殺した」と言い、それから「かもしれないさ」と繋げていた。
洋子はそう長くはバーにいなかった。
二人が先に立ち、洋子もそれを見送ってから席を立った。
部屋に戻ると、隣室からシャワーの音が聞こえた。恋人たちの甘い夜が始まるのだろう。
――明日は病院へ行く日――
もう十一時に近い。こんな時間にチェック・アウトをしては奇妙に思われるだろう。せっかく部屋をとったのだから、ここに泊まることにした。
考えなおさなければいけないことがあった。
ホテルのベッドは、ネガティブな思案を生みそうだ。慣れないところでは、心のどこかに不安が宿っているから。わが家の陽だまりで青い空でも見ながら考えたほうが、明るい思案が浮かぶだろう。
とはいえ、考えないわけにもいかない。
和美は「右田を殺したのは、あなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」と、男に詰め寄った。そんな雰囲気だった。男は「ああ、殺した……かもしれないさ」と答えた。あのとき和美は男が右田輝男を殺したと思ったのだろう。「かもしれないさ」は、行動の恐ろしさをぼかすための、ただのレトリックと考えただろう。
愛する女のために一人の男を殺した、と、当の女に信じこませることは、恋の進展にとってはプラスに作用する。
――この人はそれほどまで私を愛してくれている――
と女は感謝する。殺された男は、女に大変な危害を加えていたのだし、まちがいのないワルだったのだから……。
だが、その恋が結婚に移行したとき、男の告白はプラスだけとは言えまい。結婚生活の持つ日常性は、殺人とは折りあえない。この人はかつて人を殺したことがある、と、その記憶はなにかのおりにマイナス要因として穏やかな日常をおびやかすだろう。「かもしれないさ」は、そのときに生きてくる。本当はちがうのさ。男は直感的にその日のための救済手段を残しておいたのかもしれない。
――おかしいわ――
洋子は眠りの少し手前で笑った。和美がどう思おうと、世間がどう思おうと、右田を殺した人は洋子にだけは確実にわかっている。
ふたたび隣室の水音を聞いたのは夢の中だったろうか。
十一月十六日、洋子は病院の仕事を終え、最終の列車で軽井沢へたった。
ゴルフ・バッグを持った客が目立つ。車内で酒宴が始まる。洋子もビールを一本だけ飲んだ。
だが、ホテルの部屋へ入ったときには酔いもすっかりさめてしまい、かえって眠れない。
めったに飲まない睡眠薬を飲んだ。
それがよく効いたらしい。
目をさますと、正午を過ぎていた。こんなに長く眠るのはめずらしい。やはり疲れているのだろう。十一月十七日……。長く待った日だった。
シャワーを浴びると体がシャンとなる。頭も軽い。
――冴えてるみたい――
長い眠りはそれだけの効果をもたらしてくれたらしい。空気がとてもおいしい。
窓の外では秋が燃えていた。風がから松の葉の枯れた匂いを運んで来る。
――塩沢湖へ行ってみようかしら――
それだけの時間くらいないでもないが、やめておこう。今日の旅はたった一つの目的のためにだけ使いたかった。
二時すぎに、タクシーでホテルを出た。
街は軒なみシャッターをおろしている。人の数も少ない。一番すばらしい季節。色と匂いだけが溢れている。霧が流れ始めた。
二手橋の手前で車を降りた。
橋を渡り、コンクリートの道を少し登ると、脇道への入口に出る。見晴台へ登る旧道である。落葉が道を敷きつめ、層を作って堆積《たいせき》している。踏むたびに足が沈む。めったに人が通らないのだろう。道とは思えない。
少し寒い。コートの襟を立てた。
道を進むにつれ霧が濃くなる。山に入ったからだろうか。
「午後には霧が濃くなるでしょう」
と、天気予報が告げていた。
耳を澄ましてみても、なんの音もない。落葉を踏むかすかな足音があるだけ……。
赤と黄と二色のシートで覆われた石の上に腰をおろした。
三時までにはまだ少し時間がある。
白いカーテン。落葉が遠く近く舞っている。
――時間が止まっちゃったみたい――
去年から数えて一年あまりの日時が流れている。
――いろんなことがあったわ――
現実が現実のように思えない。洋子の心はすでに決まっていた。
両の頬に掌を当て、指を耳にまで伸ばした。
新潟で買ったイアリングが垂れている。銀の輪が三つ繋がっている。
この銀の輪がヒントになったと言ったら、話ができすぎだろう。でも、そんな思いがないでもない。
本堂がなにを考えていたか、本当のところはなにもわからない。この十日ばかり洋子は考えられるだけのことを考えてみた。いくつもの仮説。その蓋然《がいぜん》性……。
AはBである。CはDである。EはFである。いくつものテーゼがある。証拠となるものはとぼしい。ほとんどが推測ばかりで……。推測が事実であるとは言えない。九十パーセントの事実。八十パーセントの事実。七十パーセントの事実……。五十パーセント以下は切り捨てよう。残ったものには、そのパーセンテージだけの可能性がある。
鈴木勇の事故死は本当だろう。九十五パーセントくらい。残りの五パーセントに期待したいとこもあるけれど、それは捨てなければなるまい。
――それだけでも本堂さんは私を裏切っている――
そこを糸口にして複雑な謎《なぞ》が解けていく。
本堂に殺したい人がいた。これがもう一つの糸口だろう。その手段を考えているとき本堂は洋子とめぐりあい、鈴木勇の存在を知る。交換殺人はもともと本堂の心の中にあったのかもしれない。いくつかの細工をほどこし、鈴木勇に対する洋子の憎しみをかき立て……その最中に鈴木勇がたまたま事故で死んだ。若干の軌道修正。殺人を装い、それをてこにして洋子に右田輝男を殺させた。このあたりは洋子がすでに考えつくしたことだ。
だが、本堂が殺さなければいけなかったのは右田輝男ではなかった。右田の周辺には本堂の影はない。とてもとぼしい。
洋子は右耳のイアリングに触れ、それを取って掌にのせた。
霧はどんどん深くなる。まるで白い部屋の中にすわっているように包まれて、足もとだけが赤と黄の模様を染めている。
殺人を一つの銀の輪とすれば、交換殺人は二つの輪を連ねたものだ。ある一点で繋がり、それぞれが一つの輪を作っている。
――輪が三つもあってもいいじゃない。このイアリングみたいに――
相田和美とその婚約者は、右田輝男を殺さなければいけなかった。本堂の殺人計画と和美たちの殺意とが触れあった。つまり、本堂の殺すべき人はほかにいた……。すると全貌が見えて来る。
おそらく相田和美はくわしい事情を知らないだろう。銀の輪の接点は、和美の婚約者と本堂である。
二人はどこで知りあったのか。どちらが話を持ち出したのか。
とにかく和美の婚約者が本堂の殺したい人を殺し、本堂はその代償として右田輝男を殺害する義務を負った。そこへもう一つの銀の輪がからむ。この接点は本堂と洋子である。
赤坂のホテルで和美の婚約者が右田殺害のことを和美に問われ「ああ、殺した……かもしれないさ」と答えたのは、こんな事情を反映している。殺したと言えば、彼は殺した。しかし、相手は右田ではない。本堂が殺したかった人である。この推理は六、七十パーセント可能性……。
和美は本堂の名を小耳にくらい挟んでいたかもしれない。なにかしらただならないことが起きていると、その不安はあっただろう。洋子の電話に誘われて開化堂に現れたのは、そのためだったろう。
本堂が殺したかった人も、おそらく死んでいるだろう。その現場に和美の婚約者が立っていただろう。本堂にはしっかりとアリバイのあるとき……。
去年の十一月ごろ、どこかで、もう一つ不自然な死はなかったか。新聞を調べれば、見つけ出すことができるかもしれない。
しかし、もう疲れた。
それを調べるより先に今日が来てしまった。
――私の推理だって絶対に正しいとは言えないわ――
本堂が鈴木勇を突き落とした可能性だって、ほんの少し残っている。それに……すべてが洋子の想像の通りだとしても、なお本堂が洋子を愛していると、そのテーゼが否定されるわけではない。たしかに本堂は洋子を利用した。それは本当かもしれない。
だが本堂は「僕を助けてほしい」と真摯《しんし》に洋子に願い続けていた。事情を説明しなかったのは、説明したら計画がうまく運ばないおそれがあったから……。利用をしたのは本当でも、あとで手をついて謝る方法もある。利用することが本堂と洋子の将来の幸福に必要なことであるならば、それも許される。許される余地がある。そんな考えも成り立つだろう。そのことを本堂は言っていた。死刑台のエレベーター≠フビデオを洋子に見せながら……。愛しあってから、その愛をそこなう邪魔物をなくそうとしてももう遅い。邪魔物を先に排除しておいてそのあとめぐりあう。それがよい方法なのだと。
つまり、今日、本堂がここに現れるかどうか……煎《せん》じ詰めればすべてがそこにかかっている。
三時をまわった。
あい変らず音はない。いっさいを無にするような静寂。洋子は幾重にも白い霧に包まれ、時間の経過さえ実感できない。
そうであるにもかかわらず、かつてこれほど時間の経過を意識しなければいけないことがあっただろうか。
――本堂さんは生きているのかしら――
何ヵ月も連絡がなかった。その沈黙はともすれば、死の気配を感じさせる。
からくり人形の歴史≠借りた男は、外国旅行の途中で死んだ。それが本堂かどうか。その可能性はどれほどのパーセンテージなのか。その男はどこを旅して、いつ、どのようにして死んだのだろうか。
――せめて名前をたしかめる方法だけでもないのかしら――
考えれば手段の一つくらいあるかもしれない。
――でも……もういい――
あわい絶望が心をよぎる。
――だって、本堂和也さんが本当の名前かどうか、それさえはっきりしないんだから――
そう教えられただけ。そう信じただけ。
図書館でだれかほかの人の名前を言われたらどうしよう。今度はその人を洋子は捜すのだろうか。もう死んでしまった人を。あわい絶望を本当の絶望に変えるために……。
いつのまにか四時になっていた。
少しずつ暗くなる。冷たくなる。
――もう少し、もう少し待とう――
できるだけ楽しいことを考えよう。
出会いの日は鮮やかな秋晴れだった。紅葉にはまだ少し間があったが、爽やかな秋の気配が溢れていた。
本堂は黒いセーターに黒いズボン。褐色のジャケットが周囲の風景によく溶けていた。
「猫、猫」
おかしいわ。アミイをそう呼んでいた……。
「男、男って呼べばいいのかしら」
洋子がそう尋ねたとき、本堂はその言葉の意味をすぐにさとった。笑顔がやさしかった。
――また猫を飼おうかしら――
アミイとそっくり同じ猫。よくある顔つきだから、捜すのもそうむつかしくはあるまい。
同じ猫を飼って胸に抱いたら、この一年が、アミイのいない一年が、さまざまなことのあった一年が、ストンと消えてしまい、去年と今とが繋がるかもしれない。
横浜のホテルで本堂に抱かれた。
ホテルのエレベーターには、プラネタリウムのような星空が光っていた。あの風景もいとおしい。
本堂はギリシャ神話のことを言っていた。
「ギリシャ神話じゃ男と女は会ったときから、もう運命がきまっているんですよね」
どんなに愛しあっていても、最後は苛酷な運命に見舞われるとか……。
マンハッタン・トランスファーのメロディ。バイオレットフィーズ。タバコの匂い。本堂は愛撫も巧みだったわ。
――映画によく似ている――
男に抱かれる歓びのことである。映画は、いったん見始めると続けて見たくなる。癖になってしまう。そこが男とよく似ている。続けて抱かれたくなる。癖になる。
ここしばらく映画を見ていない。もう一つの癖もすっかり薄くなった。
寒い。
カサッ。足音を聞いたように思った。
「本堂さん?」
白い霧に向かって呼びかけてみた。
答はない。なにかのまちがいらしい。小鳥が落葉の上を走ったのかもしれない。
――あと五分だけ――
洋子は目を閉じた。それを開けたときに本堂が目の前にたっているかもしれない。
――娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るよりほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの――
本当にそうだわ。洋子はもう娘というほどの若さではないけれど……。
一つ、二つ、三つ……六十かける五を数えて目を開いた。
霧のむこうになにかがうごめいたように思った。
「本堂さんなの?」
立ちあがり、一、二歩あゆみ寄った。
なにかがいるらしい。目の錯覚かもしれない。進めばそのぶんだけ逃げて行く。
洋子は両足を広げてふん張り、右の手の指でピストルの形を作ってまっすぐに伸ばした。左手を右の手首にそえながら。
「バーン」
子どもみたいに声をあげて叫んだ。前にもこんなことをやった記憶がある。今日がきっとその日に繋がるだろう。
――東京に帰ったらアミイを捜そう――
手応えはあった。霧のむこうでなにかが倒れた。
音に驚いて、霧の中から一きわ赤い落葉がゆっくりと落ちて来た。いっさいが霧の中に隠れてしまった。
寒い。
夜が駈け足で近づいて来たらしい。
本作品は一九八七年十一月九日より一九八八年六月二十日まで、読売新聞夕刊に連載、一九八八年十月、同社より単行本として刊行され、一九九一年十月、講談社文庫に収録されました
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)