角川文庫
花惑い
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
冬の思い出
家の木
蒲田セレナーデ
傷ぐすり
知らない癖
夏の別れ
海の挽歌
シェルティを見た日
色彩反応
花惑い
名古屋まで
冬の思い出
いつのまにか春が終っていた。
ここは都内のホテルで一番木立ちの深いところ。木々の葉が鮮かな若緑を放ち、まばゆい光の中でいくつも花がとりどりの赤を散らしている。
「ずいぶん暑くなったわね」
|泰《やす》|子《こ》は額の汗をハンカチで|叩《たた》きながら言う。昔から肌の浅黒い人だったが、陰の多い光の中で、黄ばんだ肌が壁のように|艶《つや》をなくし、どす黒く映る。
――醜くなった――
さっきそう思ったのは、ラウンジの光のせいなのかもしれない。
三年あまりの歳月が流れている。あの頃、僕は泰子に夢中だった。考えるだけで胸がキュンと痛んだ。
「私、ときどき思うのよ」
声はちっとも変っていないというのに……。
「なにを?」
泰子が私を呼び出した理由はわからないでもない。
「冬って寒いでしょう」
すくいあげるような視線が飛んで来る。とてもコケティッシュ。でも紙一重で卑しさと手を|繋《つな》ぎそう……。
「うん」
僕は思い出す。あの夜もとても寒かった。泰子はおぼえているのだろうか。僕は暗く、寒い夜の下で泰子を待っていた。十二時、一時、二時、三時……。夜通し泰子の窓を見あげて凍えていた。コートの襟を立て何度も足踏みをして、約束を破った女を待ち続けていた。明けがたには、なじる言葉も恨みごとも、みんな凍りついてしまって、ただひとめだけ泰子の顔が見たかった。今、眼の前にある、この面差しを……。
「そのときはすごく寒いのよね。でも夏が来るでしょ。もう思い出せないの。本当に冬があったのかしらって……。寒いときの感じがぜんぜん戻らないのよねえ」
「ああ、なるほど」
僕は|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
「で、今度、冬になると、また夏が思い出せなくなっちゃうのよね」
言われてみると、季節にはたしかにそんなところがある。今年もずいぶん寒い冬だった。七年ぶりの寒さだったとか。
その事実はたしかにおぼえているのだが、夏になってその寒さを実感として肌に呼び戻すのがむつかしい。
鐘が鳴った。柱時計を見た。時刻はまだ二時。
会って、十数分しかたっていない。昔はどんどんと時間が流れていたというのに。
「わかる?」
泰子が尋ねた。
「えっ、なにが?」
僕はよそごとを考えていたらしい。テーブルの上には手紙が載っている。僕が泰子に送った古い手紙。さっき泰子が「本のあいだから出て来たのよ」そう言いながら、テーブルの上に置いた封筒。中身は今でも忘れていない。
「なによ。聞いてなかったの? 今のことよ。こんな季節になると冬が思い出せないって……」
泰子はなじるように告げたが、僕の視線が手紙に向いているのを見て、ゆったりと|頷《うなず》く。女王のように。下僕に君臨するように。
「わかるよ」
僕は、見えない力に押され伝票を持って立ちあがった。
「つまり……手紙の中身はおぼえているけど、実感がまるで戻って来ないんだ」
ロビーを横切り、ドアの外はすでに夏の気配。たしかにこの陽ざしの中にいては、冬を思うのがむつかしい。
家の木
道路ぞいの松林の中に車を|停《と》め、急な坂道を下って砂浜に出た。
秋の海がさびしそうに騒いでいた。
「海って、お魚の色ね」
|十《と》|詩《し》|子《こ》がコンクリート・パイルに腰をおろして|呟《つぶや》く。なんのために運ばれて来たのか、鉄筋をむきだしにしたパイルが一本だけ横たわっている。
僕も隣にすわった。
「ちがうな。魚が海の色に染まるんだ」
沖あいに白い船が浮かんでいる。走っているのか止まっているのか、わからない。
「今、かいてる絵、いつ完成するの?」
僕は画学生だった。|尾《お》|瀬《ぜ》|沼《ぬま》をかいていた。五十号のカンバスが思うように塗りきれず、才能の足りなさを感じ始めていた。
「色を塗るだけなら簡単なんだけど……」
「あなたの色って、とてもきれいね」
「うん」
色彩感覚はわるくない。ただみんなデザインになってしまう。
「私ね、夏の歌じゃ、あれが一番好き。尾瀬の歌。夏が来れば、思い出す、っての」
十詩子は、歌いながら言う。
「ああ、知ってる。僕も好きだ」
「秋の歌じゃ“だれもいない海”かしら」
歌詞どおりの、だれもいない海を見つめながら僕たちはその歌を歌った。
「春は……なにがいいかしら」
「“花”が好きだな。春のうららの|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》……」
「まあ、いいわね。じゃあ、冬」
冬については、なかなかいい歌が思い出せない。意見の一致がむつかしい。僕は“ペチカ”がいいと言った。十詩子はシャンソンの“雪が降る”がいい、と言い張る。
どちらでもいいことで意見が衝突し、我を張り通し、そのまま気まずい気分になってしまうことが多かった。
僕はポケットからハンカチを取り出す。まっ白いハンカチ。それを縦に二度折って細長い短冊のような形を作った。
「骨相学を習ったんだ」
「へえー」
「顔の縦と横の長さを計るんだ」
そう告げながらハンカチを物指しにして、十詩子のはえぎわから|顎《あご》までの長さを取った。
「次に横幅」
耳から耳へとハンカチを当てる。
数日前、近所のバーで覚えた|悪《いた》|戯《ずら》だ。ハンカチが目隠しをしている。十詩子は顔を少し上に向けている。
ここで……すいとキス泥棒。それが悪戯の結末なのだが、僕にはもうひとつ勇気が足りなかった。
十詩子が怒るかもしれない。
まだ手を握ったことさえない仲だった。
「本当は、ここでキスをするんだ」
笑いながらハンカチの目隠しを取った。
「ああ、そういうことね」
微妙な表情が十詩子の横顔に流れた。意気地なし……。後悔が僕の中をよぎった。
――こんな悪戯、やるんじゃなかったな。やり出したのなら、最後までちゃんとやるべきだった――
十詩子は|軽《けい》|蔑《べつ》を覚えたのではあるまいか。急に立ちあがり、
「いい気持ち」
スカートを翻して砂浜を走り、棒を拾う。今は干潮時なのだろうか。砂浜は白く、滑らかに広がっていた。十詩子は棒を使って、砂浜に線を引く。大きな四角をいくつも描いている。あっちに走り、こっちに走り、なにやら熱心にかいている。
僕も立ちあがった。
「なんだい」
「わかんない?」
「わからない」
「家の設計図よ。ここが表玄関。廊下を十字に通し、リビングルームは広く取りたいわね。リビングの隣にキッチンがあるの。キッチンも広いほうがいいわ。ここは仕切りのカウンター。リビングのほうにいくつか足の長い|椅《い》|子《す》を置いて、そこにあなたが腰かけるの。私はキッチンで料理を作りながらカウンター越しに世間話をするのね。“ずいぶん涼しくなったわ。京都にでも行きたいわ。|大《おお》|原《はら》の奥にとてもいいお寺があるんですって。ううん、|三《さん》|千《ぜん》|院《いん》や|寂光院《じゃっこういん》よりもっと奥よ”なんて……」
「廊下のこっちは、なんだい」
「あなたのアトリエ。広いほうがいいわよね。南向きで……。自然の光がふんだんに入ったほうがいいわけでしょ」
十詩子は長い棒を使って砂地に僕のアトリエを作ってくれた。とても大きなアトリエ。
しかしすぐに大きな波が寄せて来て、僕のアトリエの一部を侵してしまう。
十詩子が棒を海に向かって投げた。
すでに太陽が傾き始めていた。その太陽を見つめながら波打ち際を歩いた。
ジュースの空きカン、ゴム|草《ぞう》|履《り》の片方、カップ・ラーメンの容器。ガラクタが波に洗われて転がっている。貝殻も少しはある。十詩子が注意深く捜して掌に集める。
栗色に光るものがあった。初めは石かと思ったが、そうではない。果物の種だろう。
「|枇《び》|杷《わ》かしら」
「こんなに大きくはないよ。マンゴーかなんか、外国の果物じゃないか」
「へえー」
水の中に、もう一つ浮いている。拾ってみると、ほとんど同じものと言ってよいほど形がよく似ている。同じ果実の中の双生児だったのだろう。
太陽が海を金色に染めあげた。水平線には厚い雲が群がっている。直接海に落ちる夕日を見るのはむつかしい。
僕たちは栗色の種を一つずつ手に持ち、空に投げあげながら道を返した。
東の海は早くも陰を帯び始めている。
「あのね、これ、家の木の種なの」
「イエノキー?」
外国語かと思った。すぐにはなんのことかわからなかった。
「そう。家の木。これを埋めておくと、芽を出して、まもなく家の木がはえて来るの。四畳半くらいから始まって、だんだん大きくなってリビングルーム、キッチン、客間、玄関、アトリエ……」
「なるほど」
「子どもの頃、童話で読んだわ」
僕たちはコンクリート・パイルの近くへ戻っていた。十詩子が砂を|蹴《け》あげて走り、さっき描いた設計図のまん中に立った。
「種を埋めるわ」
貝殻で穴を掘り、木の種をその中へ落とした。
「あなたも埋めなさいよ。いつまでも四畳半じゃ困るでしょ」
「いいよ、馬鹿らしい」
僕は木の種を海に向かって投げ捨てた。重みがないから石のようにはいかない。種は波打ち際から少し離れたところへ落ちた。
「ロマンチックじゃないのね。芸術家のくせに」
十詩子は砂を払いながら戻って来た。
「はは、無理だよ」
僕は自分の才能を知っていた。笑いながら視線をそらすと太陽はすでに雲の下に隠れ、西の海も輝きを失い始めていた。
あれから何年たったのだろうか。
十詩子は姓を変えた。二年に一度か三年に一度、季節の|挨《あい》|拶《さつ》のような葉書が届く。
ついこのあいだは転居通知だった。
新しい住所は|有《あり》|栖《す》|川《がわ》公園の裏手のあたりらしい。僕は公園内の図書館へ時折調べものに行く。
――どうしているかな――
子どもが二人あって、多分小学生くらいだろう。十詩子もお母さんらしい様子になっているだろう。
僕はと言えば、案の定、画家になることはできず、デザイン事務所でさまざまな商業デザインを描いている。十詩子に会ってみたところで、なにを話そうか。なにもない。水が砂に吸われるようにいつのまにか途絶えた仲だった。
それでも図書館へ行った帰り道、ふらりと足を住宅街のほうへ運んでみた。ポケットには転居通知がある。図書館で地図を見て、だいたいの見当をつけた。
このあたりの道は複雑に入りくんでいる。古い屋敷の多いところだが、ところどころに新しい意匠の家がある。
――安くないなあ――
住所を見たときから、そのことを思った。今、実際に歩いてみて、さらにその感を深くした。
一、二度迷ったが角の塀に、転居通知と同じ番地を記した表札を見つけた。裏手に新築の家がある。
――あれだな――
すぐにわかった。
十詩子は、着る物の好みが一定していた。好きな色と嫌いな色、好きなデザインと嫌いなデザイン、はっきりと分れていて、はたの者にもよくわかった。
新築の家も十詩子の趣味を思わせるものがある。
表札を見た。
横書きの字は、十詩子の変った姓を記している。
背丈ほどの塀と、それより高い植木が伸びている。家の中まではわからない。
「ここが表玄関、廊下を十字に通し、リビングルームは広く取りたいわね。リビングの隣にキッチンがあるの。キッチンも広いほうがいいわ。ここは仕切りのカウンター。リビングのほうにいくつか足の長い椅子を置いて、そこにあなたが腰かけるの。私はキッチンで料理を作りながらカウンター越しに世間話をするのね」
遠い十詩子の声が耳の奥に響く。
新築の家もそんな構造なのだろうか。僕は、|踵《きびす》を返した。
――種が芽を出したんだな――
|蒔《ま》かない種ははえようもない。僕は相変らず狭い部屋に暮らしている。狭いベッドに眠っている。
夜になって夢を見た。十詩子が足を弛めている。見たこともない恥部がはっきりと見えた。奥には家の木の種が埋まっているらしい。童話の絵本を見るほどに鮮明な色彩だ。芽をふき、幹を立て、枝をのばし、みるみるうちに家らしい形を整えた。つぎつぎに部屋の数を増やした。塀越しに見た家とよく似ている、と僕は思った。
蒲田セレナーデ
知らない町を歩くのが好きだった。
まだ二十代。夜がようやく灯をつけ始める頃に……。
国電の|蒲《かま》|田《た》駅で降りて、東口を出た。雑多な商店街が続いている。なにか目的があるわけではない。四、五分も歩くと|倦《けん》|怠《たい》感が募って来る。
――よせばよかった――
足の歩みとはべつに頭はそう思う。めずらしいものはなにもない。どこの町もみんなおんなじだ。そのくせわけもなく歩いてみたくなる。本屋に立ち寄る。特別な本が|揃《そろ》えてあるわけではない。パチンコ屋をのぞく。特別な台があるわけではない。みんな同じカタログから抜いて来たものばかりだ。スーパーマーケットはもっとひどい。色も|匂《にお》いも変らない。
|轟《ごう》|音《おん》が響き、低い空を飛行機が滑って行く。赤い灯。青い灯。羽田空港が近い。
一時間ほど歩いて知らないバーのドアを押した。“ダブル”という看板。まだ時間が早いせいもあって、客はいない。U字型のカウンター。カウンターの中にもだれもいなかった。
「まだなの?」
「いいですよ」
レジスターの位置でお金を数えていた男が、カウンターの中へ入って来た。
「なんにしましょう?」
「じゃあ、ビール」
一人でコップのビールを飲んだ。音楽は、歌のない歌謡曲。“|襟裳岬《えりもみさき》”が鳴っている。
そのうち、サラリーマンらしい二人連れが入って来る。続いて、
「おはようございます」
芸能界のような|挨《あい》|拶《さつ》が聞こえ、ようやくホステスが出勤して来たらしい。
初めは、気づかなかった。ホステスは二人連れの客についている。なにやら話しこんでいる。きっと常連客なのだろう。
僕は水割りを頼もうと思い、眼をホステスに移した。とたんに、
――えっ、本当に?
眼を見張った。一瞬の感覚は、今でもはっきりと思い出せる。
女が……とても美しい。こんなバーでこんな美女を見るのは……とても信じられない。
さらに眼を凝らした。何度も盗み見た。しばらくは、はすかいの位置から彼女を見つめていた。
「水割り、くれないかな」
飲み物がからになっているのに気づいて、頼んだ。
「あら」
その頃には、ほかのホステスも出勤して来ていた。U字のカウンターを順に詰めれば、彼女が僕の前にやって来る。
女はウィスキーの種類を尋ね、それから、
「うちダブルなの。店の名がそうだから」
と言う。
「いいよ」
口あけは、シングルよりダブルのほうがいい。
女は水割りをつき出して、
「早いのね」
「うん」
「いつもこんなに早いの?」
「今日初めて来たんだ」
「あら、ほんと」
とりとめのない会話を交わした。
正面から見る顔も美しいが、ななめ四十五度くらいの角度から見るのが一番すばらしい。
――これは本物だ――
見れば見るほどそう思った。
僕たちの時代は……昭和五十年代は、経済の法則があまねく日本を支配していた。酒場だって例外じゃない。美女は高級店へ、それほどでもない人は、それほどでもない店へ、区分はしっかりとできあがっていた。蒲田の、それほどでもない店で、こんなきれいな人を見るのは、あってはならないことに近い。
――本当かな――
――本当だな――
そのリフレイン。
色が白い。これはあとで雪国の生まれだと聞いた。薄桃色を白で包んだような、潤いのある肌だった。鼻の|稜線《りょうせん》はまっすぐに伸びて、とても美しい。鼻孔も小さな|勾《まが》|玉《たま》を描いている。眼の間隔が心もち離れているので、あどけなく映る。唇も上下のバランスがよく整っている。デッサンは|完《かん》|璧《ぺき》に近い。
そのうえ、全体にとても上品な感じがある。美しいだけの顔はないでもないが、表情に|雅《みやび》な気配があるのはめずらしい。
顔立ちは、まさしく日本の女性だが、たとえて言えば銀幕に現われるフランスの女優、洗練された文化が何年もかけて作りあげた顔のように端整と優雅とが共存していた。
「きれいだね」
「お世辞でしょ」
「いや、本当にきれいだよ」
「ここ初めてですか。どっかで見たみたい」
言葉には軽い|訛《なま》りがある。声までは高貴とはいかない。むしろ庶民的。どこにでもいる“おねえちゃん”の声だ。
「初めてだよ。偶然入ったんだ」
「そう? わかった。お客さん初恋の人に似てる……」
と大仰に笑う。当然のことながら笑顔もわるくない。
「この店、長いの?」
僕のほうが尋ねた。
――長いはずがない――
そう思ったのも、さっきの経済法則を考えたからだ。
「一か月かなあ。おビールいただいていい?」
「いいよ」
「結構好きなのよ。一人でも飲むんだから」
コップのビールを一息で飲み干す。
それから自分で|注《つ》ぎたし、
「あ、こぼれちゃった。若いから」
と舌を出す。これも一気に。居酒屋の飲み方。ちょっとそぐわない。
客の数もいつのまにか増えている。それとなくカウンターの中を見まわすと、ホステスはほかに四人。場末の店にしては粒の|揃《そろ》っているほうだが、眼の前にいる人が断然美しい。
――一人占めにしていて、いいのかな――
落ち着かない気分になる。
「名前はなんて言うの?」
「和子よ」
「本名?」
「そう。べつな名前なんかつけたりすると面倒くさいじゃん」
「そりゃそうだ」
僕がタバコを口にくわえると“待って”とばかり手で制し、マッチを取って来る。ほかの客に|挨《あい》|拶《さつ》しながらつけるものだから、せっかくのサービスもうまく火がつかない。それに気づいて、
「あら、片思いね」
と|呟《つぶや》く。
僕は何度も強く|喫《す》って、片思いをなんとか完全な燃焼に変えた。
「この店、一応指名になってんの」
薄笑いを浮かべながら指名の料金を言った。水割り二はい分くらい。美女鑑賞料。もったいないが、支払わないわけにいかない。
「いいよ」
「ありがとうございます」
店の方針らしく丁寧に言ったあとで、今度は|蓮《はす》っ|葉《ぱ》な調子で、
「助かるわあ」
と言った。
「助かるってほどじゃないだろ」
「うん? あ、あたし、この歌、好きなの」
メロディに耳を傾ける。
「だれの歌?」
それには答えず、
「あたりめがおいしいのよ」
「ふーん、じゃあ、一皿」
初対面だから話題は限られている。あたりめをつまみながら、食べ物の話になった。
「朝鮮焼き肉が一番ね。カルビ、おいしいじゃん。気取った店は、肩こるでしょ。値段も高いしさ」
「|俺《おれ》は魚のほうが好きだな」
「あたしもお寿司、大好き。貝が好き。とも食い……なんてっちゃって」
急に高貴な表情が|賤《いや》しくなった。
ほかの席から指名がかかり、カウンターの中を泳いで行った。スタイル……まあまあ。しかし太るたちかもしれない。焼き肉はあまり食べないほうがいい。ななめから眺めると、またひとしお美しさが増したように思った。
なんの目的もなく訪ねた蒲田の町だったが、今度はただ一つの目的のために蒲田へ通った。
――そんなにきれいだったろうか――
この疑問が頭を離れない。眼の錯覚だったような気さえする。
――よし行ってみよう――
それを確認したい気持ちで行った。
あの頃は目黒に住んでいた。僕だってそうひまがあるわけではない。それでも九時を過ぎて急に会いたくなる。それから電車に乗って会いに行く。五反田、大崎、品川で乗り換えて大井町、大森……いちいち停まるのがもどかしい。十二時過ぎまでねばって、車で帰ることも何度かあった。
――やっぱりきれいだ――
期待はおおむね裏切られなかった。わけもなく安心する。
――今夜は変だぞ――
微妙に変るときもある。顔の美しさというのは、筋肉のほんのわずかな凹凸に支えられているものらしい。
「きのう、飲み過ぎちゃってさあ。カルビ食べたでしょ。太ったみたい」
太ったと言っても顔の表皮はほんの十分の一ミリくらいふくらむ程度のものだろうが、それでも器量はやっぱり変化する。醜くなる。微妙な品位がそこなわれてしまう。
こっちがまじまじと見つめていると、
「|厭《いや》あね、顔ばっかり見て」
それから僕の顔をのぞきこんで、
「見たことある。前にどっかで……。初恋の人だわ」
と笑う。
「どこの男だ?」
「|田舎《い な か》よ」
一年ほど前、東北から出て来て……洋裁学校に行きながら喫茶店に勤め……でも、それじゃあ収入が少ないからバーに勤めることにしたのだとか。
僕はほとんど毎晩のように通いつめた。けれど、当時はバーの女性とどうつきあっていいのかわからなかった。体験が乏しかった。
「店が終ったら、飯でも食わない?」
「駄目。今日はマネジャーに呼ばれているから」
また数日たって、
「あとで一緒に飯を食おう」
誘いかけると、
「今日は妹が来ているの」
なかなからちがあかなかったが、何度かくり返しているうちに、
「うん。ご|馳《ち》|走《そう》して。友だちと一緒でもいい?」
と聞く。
「いいよ」
指定の焼き肉店で待っていると、一緒に現われたのは、男の友だちだった。
ポカンとした表情の男。年齢は二十五、六。彼女と同じくらいだろう。訛りも似ているから同郷の人と見当がついた。
「信ちゃん。ボーイやってんの。変な関係じゃないわよ」
むしろ気の弱そうな男だった。和子はすっかりくつろいでいたが、男は気づまりの様子だ。めったにしゃべらない。僕が話しかけると、戸惑いながら要領をえない返事をする。
「蒲田で働いてんの?」
「蒲田です」
「クラブ?」
「クラブです」
「近くに住んでるの?」
「近くです」
「あんたァ、もう少しいいアパート借りたら」
「お前みたいに高給取ってねえよ」
「マサエ連れこんだでしょ」
「馬鹿。やいてんのか」
和子と話しているときは、心やすい。
――なんで、こんな男を連れて来たのか――
“私には男がいるのよ、あんまり誘わないで”そういう意味かと思ったが少し違っている。親しい友だちにはちがいないが、恋人や|同《どう》|棲《せい》している男ではないらしい。“お客さんがご馳走してくれるんだから、ついでに信ちゃんにも食べさせてやろ”そのへんが実情らしかった。
僕は相変らず蒲田へ通った。野心もあったが、顔を見るだけでもいい。和子の|美《び》|貌《ぼう》はそのくらいの価値があった。
だが、日を追うごとに、僕の中にまた新しい感慨が少しずつ宿り始めた。
――そんなことって、あるのかなあ――
和子は紺色の|衣裳《いしょう》がよく似あう。初めて会った夜もその色のワンピースだった。着る物のセンスはけっして|垢《あか》ぬけているほうではない。魅力が減ったように見える夜は、あるいは衣裳がわるいせいだったのかもしれない。
それは許せるとしても、彼女の特徴――つまり、どの客になにを話したのかまるで覚えていない。と言うより、どの席でも同じことをしゃべっている……。これが困る。いただけない。
「初恋の人に似ているんだわ」
これはよほどお気に入りの|台詞《せ り ふ》らしい。それともマネジャーにでも教えられたのか。僕は四、五回言われた。隣の席で言っているのも聞いた。タバコの火をつけそこなえば、かならず、
「あら、片思いね」
食べ物の話が出れば、
「朝鮮焼き肉が一番。カルビ、おいしいじゃん」
と来て、気取ったレストランは、
「肩が凝るでしょ。値段も高いしさ」
フランス料理など、まるで価値を認めない。好みは歌謡曲。
一度、店が終ってから、寿司屋へも行ったが、貝を指さしては、
「とも食いね」
笑いかたまで、はじめてこの台詞を聞かされたときとそっくりのような気がした。そんな表情まで覚えているはずもないのだが、口調を聞いていると、
――いつもこのパターン――
とわかってしまう。けっして頭のわるそうな面差しではない。気品というものは、頭のよさとどこかで手を結んでいるものだ。だから、
――そんなはずがない――
四十五度からの顔を眺め、いったんは心の中で否定する。すると、和子は、ビールを注ぎそこない、
「ああ、こぼれちゃった。若いから」
ニンマリと笑う。
新しい台詞というのは、めったになかった。たとえ初めての言葉でも、みんなどこかで聞いたように聞こえてしまう。
こうなると、“ダブル”という店の名が、ひどく象徴的に響いて来る。べつに和子にちなんでつけたわけではあるまいが、僕は和子を見るために“ダブル”へ行ったのだし、和子はたしかに異質なものを二つ重ねたような女だった。
和子は突然いなくなった。
「和ちゃん? 田舎へ帰ったの。来週は来るわよ」
そんな話だったから、僕は日を置いて“ダブル”へ行ってみたが、和子はいなかった。
それからも二、三度訪ねてみたが、結局和子に再会することはなかった。だから……話と言えば、ただこれだけのことだ。
そのまま歳月が流れた。和子のことも忘れていたのだが、
「今まで会った中で、一番いい女はだれだ?」
酒場で旧友の田代に尋ねられ、即座に和子を思い出した。
ほかにも二、三の女の顔が浮かばないでもない。だが、僕のランキングには和子をはずせない。
「蒲田の女かなあ」
「なんだ、それ。撮影所?」
「ちがう。酒場の女」
「あんなところにいるかよ」
「それがいたんだ」
僕は遠い記憶を話した。
「つまり……その女、馬鹿だったわけ?」
「きっとそうだったんじゃないか」
「ふーん。顔がいいけど、頭はわるいって女、たくさんいるよ」
「それはいる。しかし、彼女の場合は、ぜんぜん頭がわるそうじゃないんだ。むしろ“いいんじゃないかなあ”って、そんな顔してんだよな」
「困るな」
「困る。公正取引委員会かなんかで考えてもらわなくちゃ」
「不当表示か」
「そう」
「顔のいい女ってのは、近づいて来た男ががっかりしないよう、そのくらいは頭がよくなるように努力する義務があるな」
これが田代の結論だった。
そんな言葉が頭のどこかに残っていたのだろう。家に帰って夢を見た。
――あ、そうか――
と、夢の中の情況は、すぐに理解できた。自分では直観的に納得したのだが、その情況を他人に説明するのはむつかしい。どんなイメージかと聞かれても答えにくい。
あえて説明をするなら……現実の世界では、まず顔を見て、しばらくたってから頭のよしあしがわかる。顔のよしあしはひとめでわかるが、頭のよしあしは、それほど|明瞭《めいりょう》ではない。
ところが、夢の中ではこの関係が逆になっている。まずパッと見たとたんに、頭のよしあしがわかる。しばらく話しているうちに、
――この人、顔がいいのかもしれないなあ――
と感じられて来る。
具体的にどんなイメージを夢の中で描いていたのか……それがよくわからない。絵柄のない夢というのも、あるのかもしれない。
断片的には絵柄もある。舞台は“ダブル”だろう。僕がドアを押す。U字型のカウンター。
何人かの女がいたが、その中に和子が立っている。
――こりゃ、ひどい――
相当にわるいとは思っていたが、これほどひどいとは思わなかった。なにしろひとめでわかるのだから始末がわるい。
現実の世界でも、場末のバーへ行くと、
――どうしてこんな女が水商売をやっているのか――
不思議に思うほどの面相に出あうときがあるけれど、夢の中の和子は、それよりももっと頭の面相がひどい。
僕はほかの女たちを見た。“ダブル”の女の子たちが並んでいるらしいとわかった。思ったより“いい女”がいる。和子よりはずっとましだ。
それでも僕はやっぱり和子と話をしている。少しずつわかって来る。
――この人、もしかしたら器量がいいんじゃないのかな。うん、こりゃ相当にいいぞ――
かたわらを見ると、田代が笑っている。
田代はすごい。ずば抜けている。見たとたんに、彼のよさがわかった。
――たしか顔は、たいしたことない|奴《やつ》のはずだが――
そう思ってみても、現実にまのあたりに見るのが“いい男”なんだから、女たちがザワザワと騒ぎ出すのも無理がない。
“ダブル”の店内には鏡があった。僕はそれを見る。
――あ、いけない――
|狼《ろう》|狽《ばい》が走る。恐怖に近い感情がこみあげて来る。
そこで眼をさました。
――このごろ、あんまり仕事がうまく行っていないんだよなあ――
もともと僕の才能なんかたいしたことない。それはある程度自覚しているのだが、昨今は、自分が思っているよりさらに低いのではないか、そう考えてしまう。
夢はそのこととも関係しているらしい。もう一度ゆっくりと今見た夢を思い返した。
鏡の中の自画像を考えた。
傷ぐすり
そう遠い昔のことでもないのに、どこの駅で降りたのか、なんという山だったのか、ほとんどなにも思い出せない。あなたまかせの旅だったから……。多分、|青梅《お う め》の奥のどこかだったろう。
誘ってくれたのは旧友の|島《しま》|地《ぢ》だった。金曜日の夜、|高《こう》|円《えん》|寺《じ》のコーヒー・ショップで会い、
「今度の日曜日、ハイキングに行こう」
と島地は、鼻孔をふくらませながら言った。なにか趣向のあるときの癖だった。
「なんで? 急に」
見当がつかないでもなかったが、尋ね返した。
僕はまだ学生だった。島地は高校を出て洋服地のメーカーに勤めていた。彼は両親を早くなくして一人で生活をまかなっていた。高円寺のアパートには何度も遊びに行ったことがある。
季節は青葉の頃。これもはっきりと記憶があるわけではないけれど、誘われて歩いた山は一面に緑を帯びていたような気がする。
「うん、ちょっと……。女の子が行きたいって言うもんだから」
予測は当たっていた。
島地とは|会《あい》|津《づ》の小学校で一緒だった。中学校も僕が東京へ転校するまで同じだった。山に囲まれた町だったから、春のわらび採り、秋の栗拾い、山歩きは生活の一部になっていたが、東京に来てからはめったに山登りなどしたことがない。島地だって同じだろう。ハイキングの趣味なんかあろうはずもない。
おおかたどこかの女性に、
「いい季節ね。ハイキングにでも行きたいわあ」
とかなんとか言われて、
「山なら得意だ。行こうよ」
「どこか知っている?」
「まかしてよ」
相談がまとまったにちがいない。
勝手と言えば勝手な|奴《やつ》で、何か月も連絡がないときがある。仕事もいそがしいのだろうが、それだけではあるまい。女性関係もなかなかいそがしい。そんなときには僕を誘わない。それが男同士のいいところなんだが……。
「会社の人?」
「いや、ちがう。D・P屋の子なんだ。|渋《しぶ》|谷《や》駅の地下街の」
「へえー」
D・P屋の店員とどうして知りあったのか、島地は格別カメラに趣味があるわけではない。
「むこうも二人で来るから」
「なるほど」
律儀に男二人女二人で行かなければいけない理由はないけれど、ハイキングはにぎやかなほうがいい。女性二人のうちのどちらかに、島地はおぼしめしがあるのだろう。そうだとすれば、もう一人が気をわるくしないためにもスペアーの男性を一人用意しておいたほうがいい。
それに、もう一つ、こちらのほうが主要な理由かもしれないが、
「この人が|俺《おれ》の恋人なんだ」
僕に紹介したい気持ちもあるだろう。島地の口ぶりには、そんな気分が見え隠れしていた。
「いいよ。お供する。どこに行けばいいんだ?」
「日曜日の朝、八時に駅の北口。遅れるなよ」
「わかった」
「弁当は女の子たちが用意して来てくれる」
「わるいね」
「いいんだ。荷物を持ってやれば」
この夜は一、二軒バーをまわって酒を飲んだが、島地は終始上機嫌だった。
僕は晴れ男だ。その意味でも僕を誘ったのは正解だったろう。天に地に光が|溢《あふ》れるほどの快晴だった。装備を凝らし、リュックサックを背負って待ちあわせの場所へ行った。
八時の集合はハイキングにしてはちょっと遅すぎる。山歩きは、早だちが原則だ。たとえ近郊のハイキングでもそのほうがいい。
八時を五分過ぎて島地が現われた。
「よおッ、すまん。みんなまだ? すごい|恰《かっ》|好《こう》じゃないか」
島地は普段着にボストンバッグ。運動靴を履いているところだけが、いくらか山へ行く気分を表わしていた。
「そんなんでいいの?」
「近くの山だもん。子どもの遠足程度だよ」
「なんだ。少し|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》すぎたなあ」
女性たちが現われるまでには、もう二十分あまり待たなければいけなかった。彼女たちは島地以上の軽装備。一人はキュロットだが、もう一人はフレアーのスカートをはいている。足まわりはどちらも扁平な短靴だ。
「わっ、すごい」
僕の姿を見て驚いた。
「島ちゃん、どんな山に行くの?」
「こいつがオーバーなんだよ。しかし、靴はなあ。痛むかもしれんぞ」
「ほら、だから昨日、運動靴を買いに行こうって言ったのに」
「いいよ。どうせ捨てる靴だもん」
女性同士で顔を見あわせている。
黄色のシャツブラウスに紺色のキュロットをはいた人が|米《よね》|田《だ》|綾《あや》|子《こ》。こちらが島地と親しい人のようだ。もう一人は、
「|野《の》|村《むら》みかでーす」
と、幼い口調で名のった。体は大きいが、仕ぐさは子どもっぽい。
「米田と野村。往年の名バッテリー」
と島地がつけ加えた。
「オールスター戦だな」
野球を知っている人なら、セットで覚えやすい。二人は同じアパートに住んでいて、職場も同じ渋谷のD・P店。夜は退屈なので|阿《あ》|佐《さが》|谷《や》のバーで、パートタイマーをやっている。
「片方が都合わるくても、片方が行けるでしょ。お店に迷惑がかからなくていいの」
そう言ったのはバー勤めのことだろう。毎日の生活もセットですごしているらしい。年齢は同じくらいだが、綾子のほうが、世慣れていて、姉貴分。みかはなんによらず綾子の様子をうかがって行動をするようなところがあった。
ハイキングは中央線で|立《たち》|川《かわ》まで。そこで乗り替えたと思うのだが、そのへんの記憶はひどく頼りない。
島地は職場のだれかからハイキング・コースを教えられて来たのだろう。彼自身も初めて歩く道だった。だからよくわからない分れ道が来るたびに、
「こっちじゃないかなあ」
と、はなはだ頼りない。棒の転んだほうへ行く。
「やだあー」
女性軍が|睨《にら》みつける。
初心者向きのコースらしいが、その中では一番やさしいものではなかった。短靴ではつらい。女性たちの荷物は全部私のリュックサックに入った。それでも急な坂道は|厄《やっ》|介《かい》だ。登り坂で|顎《あご》を出し、下り坂では|滑《すべ》って転びそうになる。
「助けてえー」
黄色い声をあげて叫ぶ。
ほかのハイカーたちの装備は僕に近い。駅頭で笑われた服装が正しかった。
島地はボストンバッグを抱え、照れくさそうに笑っている。まっ白いズボンなんかはいて来るものだから坂道で転んだら台なしになる。ナイトにはなりにくい。
「本当に、島ちゃんは駄目なんだから」
綾子までが難所にさしかかると、僕のほうを当てにする始末だった。
とうとう途中でコースをはずれてしまい、路傍の案内板を眺めて、
「戻ろうか」
「駅に出る道があるんじゃない」
「疲れちゃったあ」
進路を変更して帰路についた。
町に戻れば僕だけが大がかりな服装だ。それがおかしいと言って女性たちがクスクス笑う。
――なんだ、世話になったくせに――
少し憤慨もしたが、その実、あとになって考えてみると、二人とも、
――頼りになる人――
そんな気持ちは持ってくれたらしい。彼女たちとはそう長いつきあいではなかったけれど、会うたびにそんな感触はあった。
男性の恰好よさについて、女性たちは一通り評価はするけれども、しかし、なりふりかまわず献身的に頑張ってくれることについても少なからず好感を寄せるのではあるまいか。つまり、見てくれと誠意という二つのテーマについて、男たちが自分で採点している度合いと、女たちが男を採点している度合いと、微妙にくいちがっている。ちがうかな。あのハイキングこのかた僕はいつものこの疑問が頭から離れない。
「もうくたくた」
「明日も早いから」
二人の女性と別れたのは九時過ぎだった。
めったにやらない山歩きのあとビールまで飲んだのだから女性たちは疲労と酔いとで最後は目をあけているのさえつらそうだった。
二人をアパートの近くまで送ったあと、
「もう少しつきあえ」
と島地が言う。
「コーヒーくらいなら」
僕等はもう一軒ティールームに立ち寄った。
「いい子だろ」
「わるくない」
これは本当だ。島地と僕とは女性の趣味がよく似ている。女優でもタレントでも、島地が「いい」と言えば、たいてい僕も「わるくない」と思う。容姿だけではなく、人柄についても好みが似ている。
綾子は、言ってみればスリムな|狸顔《たぬきがお》。ふっくらとした印象だが、鼻は細く、思いのほか高い。だから横から見ると、上品な感じになる。顔の美しさを表現するのは、どの道むつかしいものだが、綾子の場合は矛盾した要素がうまいぐあいに混りあって、よい面ざしを作っている。
「わりとうまくいってんだ」
「そうみたい」
あの頃の僕には恋人なんかいなかった。ほしいことはほしいけど、ほしいからといって急に恵まれるものではない。
代償行為として友人の恋人を見るのは、それなりに楽しい。おもしろい。その人が僕自身の好みにあっていれば、なおさらいい。
「野村さんのほうは、どう?」
ハイキングの最中はやけににぎやかだった。道がひどいと言って、独りで悲鳴をあげていた。
「無邪気だけど」
「カマトトだな」
「言える」
「どう? 今、空き家だって。綾子が言ってたぞ」
「俺に?」
そんな|狙《ねら》いは感じられないでもなかった。しかし、綾子のほうがいい。
「ピンと来ないか」
「来ないな。なにも狭い範囲で仲よくせんでもいいだろ」
「ま、そうだな」
その後、何回か四人で会ったが、たいていは短い時間だった。夜遅く焼き鳥屋でビールを飲んだり、深夜喫茶でコーヒーをすすったり……。ピアノ・バーへ行って歌を歌ったこともあった。
島地と綾子はもっとひんぱんに会っていたにちがいない。女性関係がいそがしいときは私を呼び出さない。
電話をかけると、
「結構いそがしくてねえ」
と口ごもる。
「綾子さんとは?」
「うん、順調だ」
声が弾む。島地は女性に関しては少し甘いところがある。男はみんなそうだが、島地は特にそうだ。
――大丈夫かなあ――
不安がないでもなかった。
そう言えば、夏の暑い盛りに新宿のバーで島地と綾子に会った。島地はずいぶんうちとけていたけれど、綾子のほうは微妙な距離を置いている。僕の目にはそう映った。
綾子の飲み物はヴァイオレット・フィーズ。氷が溶けて紫の色が薄くなっている。
「どんな味だ?」
島地が手を伸ばして、飲みかけのカクテルを一口すすった。
「|厭《いや》」
綾子が小さく声をあげてあらがったが、一瞬の表情がけわしかった。
島地はなにも見なかったろう。
僕のほうも考えすぎだったかもしれない。ただあのときにふっと思った。
――それほどうまくいってないんじゃないのかなあ――
本当に親しい恋人同士なら、自分の飲み物に男が口をつけたからといって、さほど厭がりはしない。生理的な嫌悪を覚えるのは、男女の仲にとって一番よくない兆候だ。僕自身、男女の仲について格別豊富な体験があったわけではないけれど、理屈としてそう考えた。不安の根拠はとぼしかったが、直感に響くものがあった。
暑い夏が終り、秋が青の色を空高く広げる頃になって、綾子から電話がかかって来た。
「お会いしたいんですけど、都合つきません?」
「なんだろ? いいけど」
「渋谷でよろしいですか」
「うん……?」
指定の場所は、ウエディングホールの控え室をかねたティーラウンジだった。
「島地さんと会っていらっしゃる?」
「ここしばらく会っていない」
コーヒーを一口飲んでから、
「お別れしようと思って」
|膝《ひざ》の上でハンカチをしきりに折り畳んでいる。
「僕に言われたって……」
「でも言いにくくて。怒られそうだし」
「島地は大分好きらしいよ、あなたのこと」
「だから困るの」
「ぜんぜん駄目か?」
「駄目みたい」
「なんかあったの?」
「なんにも。今まで通りよ。週に一回くらい会って。このまま続けてもかえってわるいでしょ」
「うまくいってたのに」
「そう見えた? 初めっから“少しちがう”って思ってたわ。島地さんのほうが勝手にどんどん進むもんだから」
たしかに島地にはそんなところがある。しかし、それだけではあるまい。綾子のほうだって、多少は気を持たせていただろう。
「みかは最初から知ってたわよ、私の気持ち。だから“馬鹿みたい、早くやめたら”って、いつも言われてたんだけど」
証人まで立てて初めから好きではなかったことを主張する。
「俺が言ったって信ずるかなあ」
「お願い。あなたのほうが好きだったわ」
ドキンとすることを平気で言う。
その言葉に感動したわけではないけれど、真剣に頼まれては、むげには断れない。
「一応伝えてはおくけど」
「恩に着るわ。お願いします。直接は言いにくいの」
結局承諾させられてしまった。
島地は文字通り寝耳に水のていだった。
「本当かよォ」
「何度も念を押して聞いたけど、気持ちに変りはないってサ」
「しかし……直接俺に言えばいいのに。先週も会ったんだぞ」
「だから、島地はすっかりその気になっているし、彼女のほうは気が進まないし」
「なにも今ごろ急に言わなくたって」
「チャンスをうかがっているうちに、ずるずる日がたってしまったんだろ。そういうことって、あるよ」
たしかに綾子の心は離れていた。一時間ほど顔をつきあわせ、話を聞いてそう確信できた。だったらあきらめさせたほうがいい。
「直接聞く」
「それがいいだろ。怒ったりするなよ。駄目なのは駄目なんだから」
「しかし……頭に来るなあ」
翌日か、その翌日くらいに二人が会ったことはまちがいない。島地はなにを言ったか。少しは怒っただろう。綾子はただかたくなに口を閉じていただろう。こんなときの女は強い。黙って台風の通過を待つ。
怒りのあとは、くどくどと説得をくり返したにちがいない。ずっとあとになって、島地から話を聞いてそう思った。島地は納得がいかなければ、野暮なほどしつこく説明を求める。翻意をうながす。“どうせ駄目なんだから、いろいろ聞いたって仕方ないだろ”といった考えには傾かない。くどい説得と無言の反抗とが目に浮かぶ。
とはいえ当座はなんの連絡もなかった。
新宿で偶然みかに会い、
「綾子さんどうした?」
と聞けば、
「知らないの? 島地さんと別れたみたいよ。あたしもあのアパート引越しちゃったから」
不確かながら結末を知った。
「もしもし」
「はい?」
「俺だよ。なんだ、景気のわるい声だして。久しぶりに飲もうよ」
島地から連絡があったのは、冬が来て、年の瀬も迫ったときだった。
「どうしてんだよ」
「うん、まあまあだ。会って話すよ。俺んちに来てくれ」
またなにか趣向があるらしい。
アパートのドアを|叩《たた》くと、島地が顔を出した。
「あがれよ」
島地はきれい好きのほうだから室内はいつもよく片づいている。
「やもめはつらいよ」
いっぱしの|台詞《せ り ふ》を言いながら窓に|吊《つる》した洗濯物を取り入れる。
――綾子とはあれっきりかな――
気がかりだが、こっちからわざわざ尋ねることもあるまい。
黙ってテレビの|脇《わき》に置いてある雑誌を読んでいると、島地が時計を見て、
「行こうか」
と言う。サラリーマンと学生、たいてい島地が僕にご|馳《ち》|走《そう》してくれる。迷惑料と言ったら怒るかな。
「うん」
アパートを出たところで、
「いい玉だったよ。いいように遊ばれちまってよォ」
と石を|蹴《け》る。綾子のことだ。
「仕方ないんじゃないの。好きになろうと努力したけど、駄目ってこと、あるさ」
「ほかに男ができたらしいんだ」
「そうかな」
僕が綾子から受けた印象はちがっていたが、あるいはそれが真相かもしれない。そのくらいの演技はするだろう。
「さいならってなもんよ。俺もなあ、ショックだったよなあ」
「たかが女の一人や二人……」
「うん、うん。そう思ったよ、最後は」
ひとりで|頷《うなず》いている。
繁華街の裏通りに入り、格子戸を開けた。
年期の入った|割《かっ》|烹《ぽう》料理店。カウンターがあり、テーブル席があり、刺身も焼き鳥も天ぷらもある。
テーブル席にすわってビールを頼んだ。
「綾子のことはな……これ、これ」
と島地は口にチャックをする。
「わかってる」
焼き鳥の皿が出たとき格子戸が細めに開き、小柄な女が遠慮がちに店の中を見まわす。島地を見つけて小さく笑った。
島地が手招きをして|椅《い》|子《す》を引く。
「|一《いち》|塚《づか》みずえ……さん。彼のことは、さんざん話したろ」
と、それぞれに紹介する。
「あ、どうも」
僕は椅子から立って丁寧にお辞儀をした。
――綾子さんのほうが上だな――
まずそう思った。男は考えることが卑しい。女性の価値をすぐに容姿で計りたがる。この人はきっと心根のいい人なんだろう。
「飲めよ」
島地はいくぶん横柄な言い方で勧める。それだけで二人の親しさがわかる。
「じゃあ少しだけ」
「なま|雲《う》|丹《に》が好きなんだろ。きっとあるよ」
「|厭《いや》だあ、私だけ」
「俺たちは焼き鳥が好きなんだ」
「じゃあ……」
笑うと|頬《ほお》に笑くぼが割れる。色も白いし、見ようによっては……少なくとも特に器量のわるいほうではない。
ビールを清酒に替え、最後はお茶漬けで仕上げた。おおむね島地がしゃべっていた。仕事の話、プロ野球のストーブ・リーグ、それからパチンコ必勝法……。私は聞き手だった。その二人の話をさらにみずえがほとんど口を挟むこともなく聞いていた。
話というものは、聞くほうだって結構疲れるんだ。物理学として考えれば圧倒的にしゃべっているほうが疲れるはずだが、話し手は多かれ少なかれ、みずから興奮し、いい気になっているから、精神の疲労度は小さい。聞き手のほうは、
――ハンターイ、ちがう、ちがう――
あるいは、
――なによ、くだらない――
心の中に異論を抱えながら、それを表明するチャンスも与えられない。腹をふくらませ、|苛《いら》|立《だ》ちを抑えて、我慢しなければいけない。たまには|相《あい》|槌《づち》の一つくらい打たなければいけないし……。けっして楽ではない。
みずえは小首を|傾《かし》げながら島地の話を聞き続けていた。食べ口もそう|旺《おう》|盛《せい》なほうではない。
みずえの仕事は、問屋筋から入っているデパートの店員。その関係で島地と知りあったらしい。
「まだ新米なんです。えーと、三か月くらい」
どういうきっかけで知りあったのかわからないが、みずえがデパートに勤めたのが三か月くらい前で、そこで島地と会ったのなら、二人の関係はそれより短いはずだ。綾子との仲が崩れて間もない頃だろう。
――やるもんだねえ――
むしろ島地の変り身の早さに拍手を送りたい気持ちだった。
――古いことにいつまでもこだわっていることはないんだ――
少なくとも失恋に関しては、だれしもがこの意見に賛成してくれるだろう。
食事が終ったところで、
「あたし、帰ります」
とみずえが言う。
「いや、俺のほうが……」
島地の顔を見たが、初めからそういう手はずになっていたらしい。
「お邪魔しました。あんまり飲まないでね」
手を振って小走りに駅のほうへ去って行った。スタイルはわるくない。
「いいのか」
「いいんだ。ブスだけど、性格がいいから」
「ブスってことはないだろ。きれいだよ」
後半はちょっとお世辞。
「お前とは好みが似てるからなあ」
しかし、今度はそれほど僕の好みではなかった。それに……初対面だけでは特徴のつかみにくい人だった。
「まあな」
「もうちょっと飲もう」
安い酒を|酌《く》みながら、島地ののろけ話を聞いた。彼自身のろけているつもりはなかっただろうけれど、恋の話は、失恋だってのろけになりかねない。
それからまた数か月たって街に春がめぐって来た。ゆきやなぎ、れんぎょう、桜、|花《はな》|水《みず》|木《き》、つつじ、とりどりの花がさまざまな色合いで街の公園を染める。島地からはなんの連絡もない。
今度も女のほうからの電話だった。
「お会いできません? ご相談したいことがあるんです」
と、みずえは口ごもりながら言う。
「ええ、いいですけど」
僕の思案はよくない方角へと進む。
「このまま続けたほうがいいと思いますか?」
コーヒーを挟んで、みずえは僕に尋ねる。こんな質問をされても困ってしまう。最近の様子をまるで聞いていない。
「わからないけど、とくにわるいことはないんじゃない」
当たりさわりのないことを告げた。
「でも、あたし、どうしても好きになれなくて……島地さんのこと。とてもいいかただと思うんですけど。いつまでもお友だちでいたいわ」
女が言う“お友だち”には登り坂とくだり坂とがある。“あの人とお友だちになりたいわ”は、そこから始まって恋愛へと進んで行く道筋だ。“ずっとお友だちでいたいの”は愛を否定する遠まわしの表現だ。
みずえの言葉が後者であるのは言うまでもない。
「しかし、だれだって一度や二度迷うもんだよ。島地はいい|奴《やつ》だし、あなたのこと本気で好きなんだし」
僕は一生懸命島地のために弁明したが、次の言葉でポカンと頭を|叩《たた》かれてしまった。
「今度、結婚することになったんです。知りあいのかたの紹介で……」
このまま続けたほうがよいかどうかもあるもんか。お友だちもへちまもあるもんか。答は初めからきまっていた。
「自分で言ったら」
「なんだかわるくて」
「でも、わるいことしたんだから」
「べつになにもしてません、わるいことなんか」
説明する気にもなれない。
「どうするかなあ」
「お願いします。こわくて。なにを言われるかわからない」
人目があるのにみずえはオロオロと泣きだした。まるで僕がわるいことをしているみたい。
――体の関係はあったのだろうか――
あったかもしれない。みずえのおそれは、島地が血迷って、そのことを婚約者に言いつけるのではあるまいか、そのへんにあるようにも感じられた。
結局、このときも僕は馬鹿な役まわりを引き受けた。
島地は案の定怒った。信じられないことらしかった。
「本人から直接聞く」
「それがいいだろ。だけど、結婚まで決まっているらしい。いやがらせなんか絶対するなよ。これは俺からの注文だ」
「ああ、わかってる。それほど腐っちゃいない」
島地からは例によってなんの連絡もなかった。
みずえからは結婚の|挨《あい》|拶《さつ》状と“お世話になりました。とても幸福です”との走り書が届いた。
――いい気なもんだ――
そう思ったが、すぐに思い返した。
――だれだって幸福になる権利がある。そのためには人を裏切ることだってあるだろう――
恋はいつでもそんな危険の上に位置しているんだ。
島地が引越しをした。ぜひ遊びに来てほしいと言うので訪ねてみると、長い坂をあがった高台のマンション。前の住まいより大分上等だ。ベルを押すと、|浴衣姿《ゆかたすがた》の島地がドアを開けた。
「入れよ」
「2LDK?」
「ああ」
リビングルームの|食器棚《しょっきだな》もテーブルも新しい。
――だれかが一緒に住んでいる――
すぐにわかった。
女物のスリッパがある。エプロンもキッチンのすみに置いてある。どこを見ても女の気配があった。
島地はべつに説明をしようとしない。いきなり突きつける。こっちも尋ねない。島地のやりかたに従っている。新しい浴衣もきっと新しい女が仕立ててくれたのだろう。
ドアが開いて、
「ただいま。あら、いらしてたの」
声が響いて、この家の女主人が帰って来た。
三十歳に近い。島地より大分年上だ。
――みずえさんより落ちるなあ――
いや、容姿で人を判断してはいけない。きっと人柄がずばぬけていいんだ。
冷たいビールが出る。枝豆が出る。お新香が出る。冷やっこが出る。
料理はうまい。旅館の仲居さんなんだとか。
それにしても、ずいぶん早わざだなあ。みずえが泣いて訴えたときから数えて三か月もたっていなかった。
島地が上機嫌で話し、私が聞く。料理を|揃《そろ》えながら、年上の女が|頬《ほほ》|笑《え》んでいた。
すっかりご|馳《ち》|走《そう》になって島地のマンションを出たのは夜半に近かったろう。
「またお遊びにいらしてくださいね」
「ええ」
もう二度と来ないような気がした。島地はともかく、僕までがこの女の世話になってはなるまい。きっと長くは続くまい。
マンションは坂の上にあった。帰り道はくだり坂になる。
――いいのかなあ――
釈然としない。島地の女性関係はだんだんとわるくなる。ちがうかな。急な坂道を降りながら考えた。
いつのまにか十数年がたった。
――失恋には、新しい恋が一番いい治療になるのよ――
僕はそんな言葉をガール・フレンドに教えられた。
あの頃の島地はこの法則に従っていたのだろう。明るくふるまっていたけれど、思いのほか|疵《きず》は深かったのかもしれない。その疵をなおすためにはどうしてももう一つの恋が必要だった……。
だが、どさくさまぎれの選択だから、たいていはわるくなる。判断をあやまる。
――恋と恋とのあいだには休みを入れなくちゃあ――
そう思いながら、つい先週、僕は女と別れた。そして今日、新しいデートに出かける。
島地はあのあと幾人か女を替えた。三年前に離婚をして相変らず坂道を歩いている。時おり登ることもあるようだ。
知らない癖
|朝《あさ》|子《こ》はとても負け嫌いだった。自尊心も|旺《おう》|盛《せい》だ。
出身は群馬県の|前《まえ》|橋《ばし》市。からっ風とかかア天下の本場だから気の強いのも無理はない。
もっとも同じ|上州《じょうしゅう》のうちでも前橋はいくぶん風のゆるむ気配もあって、
「県内では|淑《しと》やかなほうなのよ」
それが朝子の口癖だった。
かなり上等の人間と言っていいだろう。まず頭の回転が早い。きっとIQも高いにちがいない。努力もする。遊んでいても、よくできる。大学時代、僕の知る限りでは、朝子よりよい成績を取った者は、男女を問わず、いない。
「すごいよなあ。優のちょうちん行列」
僕は知らないけれど、これは成績表を見た仲間の感想だ。そのちょうちん行列は、おそらく小学校のときから大学まで、ずっと続いていたにちがいない。
しかも器量がいい。とりわけ眼が美しい。眼千両って言うのかな。大きな、黒眼がちのまなざしで、いつも表情豊かに潤んでいる。まつ毛も作り物のように長い。キッと|見《み》|据《す》えたときには、光るほどの美しさが刺す。お酒に酔えば、トロンと|脹《ふく》らんでなまめかしい。
「眼がきれいだ」
僕は正直に|讚《ほ》めたのだが、朝子は首を振り、
「あ、駄目。眼は前頭葉の影響をもろに受けるのね。演技派なのよ。脳みそが“ここでいい女に見られたいなあ”と思うと、眼はちゃんと演技しちゃうの。気をつけて」
と、解説する。
すなおに讚められているような手合いではなかった。たしかに朝子の|眼《まな》|差《ざ》しは、脳みそと直結して、上手に演技していたのかもしれない。そんな様子はあった。
四十人のクラスに女性が七人。男はみんな面食いだし、若いときはとくにそうなんだ。始業式のクラス分けのときから、
「おっ、チャンス」
「やるじゃない」
そんな|囁《ささや》きが男たちのあいだで起きた。
すぐさまラブ・レターを書いた|奴《やつ》もいたらしい。独り|悶《もん》|々《もん》と胸を痛めた奴もいたらしい。クラスの半分以上が朝子になにほどかの関心を持ったのではあるまいか。
僕は朝子と出席番号も近かったし、同じ電車で通っていた。そのうえほんのいっときではあったけれど、同じクラブに属していた関係もあって、いち早く朝子と親しくなった。
「ずっと東京ですか?」
「いや、そうでもない。高校はそうだけど」
「|垢《あか》ぬけてるのね」
「そうかなあ」
初めて言われたことだった。それがなれそめの|挨《あい》|拶《さつ》だった。それから毎日のように言葉を交わした。
僕はと言えば、そんな有利な立場にもかかわらず朝子には興味が薄かった。ほかに親しいガール・フレンドがいたから……。そんな事情も少しあったけれど、朝子は|狐顔《きつねがお》。僕はどちらかと言えば|狸顔《たぬきがお》のほうが好きなんだ。
日本女性の面差しは、大別して狐顔と狸顔に分かれる。本当の美人は狐顔なのだろうけれど、狸顔のやさしさも捨てがたい。
それに朝子は……小学校のときの|島《しま》|崎《ざき》先生によく似ている。血縁者ではないかと思うほどそっくりだ。島崎先生もきれいな人だったが、腹は黒い。僕には苦い思い出がある。
朝子とはなんの関係もないのだが、
――あ、あの顔――
と思ってしまう。根拠のない悪感情が走る。これは一種の刷り込み現象。そのあとすぐに、
――顔が似てたって、性格まで同じじゃないよなあ――
と思い直すのだが、一瞬、一瞬、無意識のうちに脳裏を走る嫌悪感は、いくばくかの影響を心に残す。だから朝子がもうひとつ好きになれない。これはずいぶんあとまで続いた。
それだけではない。
クラスの大半が朝子に|岡《おか》|惚《ぼ》れをしているとなると、
――なんだ、馬鹿らしい――
といった気分になる。
クラスメートは上等な印象の|奴《やつ》ばかりではない。見るからに軽薄そうで、好色そうで、頭のわるそうなのが、しきりに朝子に話しかけ、朝子もまんざらでもない様子で応じているのを見ると、
――あんな奴と争わなきゃいけないのか――
と、僕の中に自尊心が|湧《わ》いて来て、
――いち、抜うーけた――
となる。恋人レースに参加する気持ちは、僕にはほとんどなかった。ちょっと|恰《かっ》|好《こう》がよすぎるかな。
――争っても、どうせ負けるから――
僕の得意の負け犬根性もおおいに作用していただろう。
朝子のほうは大勢の男に関心を持たれることに慣れている。かしずかれることにも慣れている。慣れているからこそ、自然である。さほど思いあがっているようには見えない。なんの|屈《くっ》|托《たく》もなく|蝶《ちょう》のように軽々とキャンパスに舞っていた。
「|麻雀《マージャン》できる?」
「できない。教えて」
麻雀を教えたのは僕だった。これも朝子と親しくなった原因の一つだろう。大学は休講の多いところだし、休講のときは麻雀でもしなければ間が持たない。
「結構複雑なのね。中国語も覚えなくちゃ駄目だし」
「なに、すぐ覚える。みんなやってるんだから」
「本ないかしら」
優等生は本で勉強する。学校の帰りに朝子は本を買った。次の日には読了していた。驚いたことに役の形と名称は、カードを作って記憶している。
すぐに遊び方を覚えた。
やたらにやりたがった。
だが、このゲームは遊び方を覚えたくらいでは、そうたやすく勝てない。手さばきがそれらしくなるまでに一か月くらいはかかる。うまくなるには、さらに日時が必要だ。しばらくは負け続けていた。
生意気な女だから、こっちも本気で痛めつけた。ささやかな反逆。少し陰湿。完膚なきまでにうちのめしたことも何度かあった。朝子のくやしがるまいことか。以来、朝子がほんのちょっぴりながら、僕に敬意を払っているように見えるのは、このときの師弟関係のせいかもしれない。朝子の側の刷り込み現象……。
「本当? どうしてそんな役ができちゃうの。まだ早いのに」
「できるんだから仕方がない」
「私のほうは、ぜんぜんそのけもないのよ」
「腕がちがうからだ」
「運よ、運。それだけじゃない」
「運を呼ぶのも腕のうちなんだ」
あとで聞けば、くやしさのあまり家に帰って泣いて泣いて泣きじゃくり、周囲の人を心配させたこともあったらしい。
これだけ努力すれば上達も早い。すぐに追いつく。二年生になったときには、もうりっぱな打ち手だった。
キャンパス周辺の雀荘に出没する美人雀士。それはそれで朝子によく似あっていた。
二年生の終りの頃だったろうか。とにかく寒い季節だった。時間割の最後の授業が休講となり、僕たちは当然のように雀荘へしけこむ。
朝子と、|土《つち》|田《だ》と|野《の》|々《の》|宮《みや》と僕。
朝子と土田が、特別親しい仲になったのは、三年生になってから……。
でも、男と女の関係は特徴のある山型のカーブなんだ。しばらくは人目につかずに低く、静かに進行する。それから急に上昇する。ピークが三年生になってからだとすれば、あの冬はどうだったのか。カーブはすでにゆっくりと|這《は》い昇り始めていたのかもしれない。
「麻雀て、いやあよねえ。御飯くらい、一時、中断して食べられないの。美しくないじゃない」
これは朝子の持論である。
ラーメンの|丼《どんぶり》を左手に持ち、もう一方の手で|牌《パイ》を操る。そのとき|箸《はし》は丼の上にある。一瞬のすきを見つけて箸を取り、ラーメンを口に運び、ふたたび箸を丼の上に戻して牌を|自《ツ》|摸《モ》る。
「来た、来た、来た、リーチ」
捨て牌を曲げて河に置き、またここでツルツルとすする。
器用と言えば器用だが、朝子の言う通りたしかに美しくない。優雅ではない。どんな情況にあっても、食事くらいはゆっくり食べたほうがいい。それができなくなったら、この世の底辺も近い。
八時過ぎにいったん中断して食事をとった。ほかのことはたいてい俊敏な朝子だが、ものを食べるのだけは遅い。
「貴族の|末《まつ》|裔《えい》なのよ。ガツガツしてないの」
「前橋に貴族なんかいたかなあ」
「|御《ご》|落《らく》|胤《いん》ってことだってあるでしょ。たまたまやんごとないかたが|鷹《たか》|狩《が》りなんかに来て」
「狐の落胤じゃないのか」
「どうして狐なの」
自分ではあまり狐顔の自覚はなかったらしい。
九時過ぎにまた雀荘へ戻った。
もう朝子は|遜色《そんしょく》のない腕前になっていた。根が負け嫌いだから、とてもくやしがる。振りこんではくやしがり、あがりそこねてはくやしがる。にぎやかな麻雀だった。
好きな役は純チャン三色。しかも|面《メン》|前《ゼン》がいい。
「だって、この役、美しいじゃない」
難を言えば、手作りに美意識を介入させることだろう。変幻自在の打ち方ではあったが、時として手作りに酔ってしまう。大きなものを|狙《ねら》いすぎてしまう。
こっちが食いタンなどであがろうものなら、
「|厭《いや》だあ、また人足の麻雀やるんだから。もう遊んであげないから」
と|睨《にら》む。
この眼差しがちょっと鋭く、|媚《こび》を含んでいて、わるくない。圧倒されて、|賤《いや》しい手ではあがりにくい。
しかし、あの夜はたしか朝子の一人負けではなかったのか。
雀荘を出たのが十二時。外では雨がみぞれに変りかけていた。
「飲むか」
「飲も、飲も」
しかし、懐はだれも豊かではない。財布の中身を出しあってわかった。
僕のアパートが一番近い。その前の年に、父が死に兄が結婚し、僕自身のわがままもあって学校の近くのアパートに僕は移って、独りで暮らしていた。
「酒を買ってお前んとこで飲もう」
「いいけど」
「朝ちゃんはどうする?」
「行くよ」
朝子も親もとを離れて気ままなアパート暮らしをやっていた。お父さんは県庁に勤める公務員。堅い家庭らしいが、一人だけ遺伝子の組み合わせが狂ってしまったらしい。朝子は、なにをさせても一応|帳尻《ちょうじり》をあわせてしまうから、周囲も文句が言いにくい。僕たちにしてみれば、とてもさばけたガール・フレンド。一緒に遊んでいて、すこぶる楽しい。ちょっと誇らしい。どうだ、こんな美人と一緒なんだぞ。とてもさばけているんだ。こんな友だちはめったにいない。学生時代の楽しさは、朝子に負うところが大きかった。
スーパーマーケットでウィスキーと氷とおつまみを買い、コートの襟を立てて暗い雨の道を急いだ。
僕の部屋は三畳間。本箱と机があるから畳の部分は正味二畳足らず。暖房具は置き|炬《ご》|燵《たつ》一つだけ。車座になってウィスキーの水割りを飲んだ。話すのは、友だちの|噂《うわさ》、たわいのない世間話。
「このあいだ、英語で麻雀の本を読んだわ」
「アメリカ人なんかやるらしいな。指にあわせて、少し大きい牌がある」
「あら、そうなの。英語の役名、結構感じが出てるのよ。ハンド・フロム・ザ・ヘブン」
この発音も、朝子は軽やかで、それらしく響く。
「天国の手か」
「そう。これが|天《テン》|和《ホー》」
「なるほど」
「サーティン・オーファンズ。十三人の孤児だから|国《こく》|士《し》|無《む》|双《そう》。セブン・トゥインズは七組の双生児で、|七《チー》|対《トイ》|子《ツ》」
「待てよ。概念の統一を欠いているな」
むつかしいことを言ったのは、たしか野々宮だった。こいつは哲学書などを愛読していて、ちょっと理屈にうるさい。
「どうして?」
女王は首を|傾《かし》げる。
「だって、そうだろ。十三人の孤児ってのは、|聴《テン》|牌《パイ》の状態だ。まだあがってない。十三面待ちはめずらしいしな。そこへ行くと、七組の双生児は、あがった形だろ」
これは、むしろ朝子が言いそうな|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》だ。こっくりと|頷《うなず》いて認めてから、
「堅いこと言わない、言わない」
この話題はこのへんで終った。
土田は酒に弱い。野々宮は強い。僕はほどほど。朝子は僕よりも少し強かったろう。結構いける口だった。
一本のボトルがなくなり、僕は押入れの中からもらい物のウオトカを出した。半分ほど残っている。義兄がロシア旅行から帰ったのは半年以上も前だったろう。栓を抜いたままかなりの日時がたっているから、うまいはずがない。
「かまわん、かまわん」
「やっぱり水割りにして飲むものなの?」
「ストレートじゃ強すぎるよ」
「なんだか水みたいだな。ぜんぜん味がないじゃない」
「あとになると効いて来るんだ、親の意見とおんなじで」
「もっともらしいこと、言うじゃない」
「あとにならなくても効いて来たよ」
土田が体を横たえた。
布団を引きずり出した。僕の布団は、敷寝が青のカバー、掛け布団が赤のカバー、シーツはクリーニング屋から届いたばかりの白だった。
「トリ・コロールね。フランス国旗じゃない」
「なるほど」
野々宮が思案深そうに煙を吐く。こいつは生意気にいつも外国タバコを|喫《す》っている。ささやかな一点豪華主義だった。
そのタバコの煙をもう一度大げさに吹きながら、
「洋モクや、敷くはフランス、飲むはオロシヤ」
と|詠《よ》む。
「なに、俳句のつもり?」
「まあな」
「オロシヤはちょっと苦しいな」
「俳句なんてものは、言葉が少し古びてるほうがいいんだ」
「国際色豊かねえ」
朝子がせまい部屋をグルリと見まわす。
スーパーマーケットで買ったおつまみはもうすっかりごみになり、そこで取り出したのは買い置きのインスタント・ラーメン一袋。袋を破り、中身をくだいて、おつまみにしてこもごもつついていた。
「中国もあるし……」
「これ中国か」
「一応ラーメンだろ」
もう夜も大分更けていた。
「泊まって行くのか」
「電車ないだろ」
「朝ちゃんも?」
「うん」
「ここで四人寝れるかなあ」
「なんとかなるわよ。ゴロ寝で」
ドキンと胸が鳴る。男たちに異論のあろうはずがない。これもまためったにありえない体験だろう。
「寄ってたかって犯さないでよ」
「リンカンが加われば、アメリカもある」
「馬鹿」
寒い夜だから炬燵を片づけるわけにいかない。まん中に炬燵を置いて、古い毛布や夏がけまで出した。
なにしろ狭い部屋だ。体をまっすぐに伸ばして寝ることができない。みんな体を曲げて寝る。
「あ、これ」
朝子が大きな声をあげた。なにごとかと思えば、
「ドイツよ、ドイツ。ドイツもあるわ」
「なにが?」
「ほら、ハーケン・クロイツ、|鉤《かぎ》十字じゃない」
たしかに僕たちは、あのナチスのマークみたいな形になって寝転がっていた。
電灯を消して、しばらくたつと野々宮の声が聞こえた。ずっと考えていたらしい。
「洋モクや、敷くはフランス、飲むロシヤ、中国食べて、眠るジャーマン」
「狂歌のつもり?」
朝子が最後の一言をつぶやき、やがていくつかの寝息に変った。
僕の右足には朝子の|腿《もも》が触れている。女の体は軟らかい。不自然にならない程度に体を近づけて脚を並べた。
僕はまんじりともしない。脳裏に|淫《みだ》らなイメージが浮かんで|駈《か》け抜ける。悪魔の|跳梁《ちょうりょう》に近い。
――朝子はすでに男を知っているらしい――
きっとそうだろう。そのほうが朝子にふさわしい。どんな男と、どんなところで……。土田も野々宮も深々と寝入っている。朝子も体をゆがめたまま安らかな息をついている。
――指先をそっと体の奥に伸ばしたらどうなるか――
朝子なら気がついても案外そっとそのままでいるかもしれない。|悪《いた》|戯《ずら》に身を委ねているかもしれない。|闇《やみ》の中の思案は、ともすれば良識と離れた世界へ飛んでいく。
「朝ちゃん」
小さく呼んでみた。答はない。
脚はゆるく力を失って開いているようだ。偶然触れたように|膝頭《ひざがしら》に|掌《てのひら》を当てた。姿勢を止めて、しばらく待った。
興奮がただごとではない。
掌がそっと太腿を昇った。朝子の息遣いは相変らず規則正しい。吸う息、吐く息がやさしいリズムを繰り返している。
指先はさらに深いあたりに達した。
夏の|衣裳《いしょう》とちがって、冬の防備は堅い。それ以上は侵入を許さない。いくらなんでも眼をさますだろう。
朝子が寝返りを打った。
知っていたのか……それとも無意識のうちに|抗《あらが》ったのか。体はかたつむりのようにまるまって、とりつくしまもない。
――よかった――
むしろ僕は|安《あん》|堵《ど》の胸を|撫《な》でおろした。あのままの状態が続いていたら、どんな愚行を企てたかわからない。
――ここから先は想像力にまかせればいいんだ――
寝つかれないままに、僕は自分がやったかもしれないと思う痴戯を想像した。指先が内奥をまさぐる。朝子の恥毛はしなやかだろうか。軟らかい部分は、どれほど潤んでいるだろうか。
やがて僕も眠った。
三年生と四年生の二年間は、朝子とは専修がちがって、そう繁くは顔を合わせなかった。時折一緒に雀荘へ行くこともあったが、時間割が異なると、めったにはチャンスはない。酒を飲む機会はさらに減った。
そんなときに朝子が土田と特別の関係になったという|噂《うわさ》を聞いた。噂だけではない。
まず土田が、
「朝ちゃんと仲よくなっちまったんだ。すまん」
と告白した。
“仲よく”の意味は見当がつく。“抱きあった”という意味だろう。恋愛がはっきりと始まったということだろう。
「すまんことはない」
「お前のほうが、いい線行ってた」
「そんなことはない。ただの友だちだ。|狐顔《きつねがお》は好かん」
「狐顔? まあ、そうだな」
「しっかりやれよ」
わるい気分じゃないね。男の友情。仲間の仁義。僕にだって|浪花《な に わ》節の血は流れている。むしろハードボイルドで行きたいね。土田はいい|奴《やつ》だ。土田と朝子なら、うまくいくだろう。すなおに喜ぶことができた。
ほんの少しうしろめたいものがある。国際色豊かな夜のこと……。しかし、なにかがあったわけではない。朝子はなにも気づかなかったろう。僕が口を|鎖《とざ》していれば、だれも知らない。だれも知らないことは、なかったことに等しい。
それからはキャンパスで朝子に顔をあわせるたびに、
「元気? 土田と会ってる?」
と尋ねた。
反応はいろいろだった。初めのうちは、
「どうして?」
と朝子は僕の質問の意図を確かめる。二人の親しさを隠そうとしているふうだった。
だが、そのうちに周知の事実となったと知って、
「まあ、まあってとこ」
照れるような、|睨《にら》むような笑いで答える。答はいつも同じ言葉だったが、調子が微妙に変る。僕もそれほど熱心に耳を傾けていたわけではないけれど……。
いつのまにか朝子の答が、投げ捨てるような調子を帯びるようになった。
「朝子とは終ったよ」
土田のうちあけ話を聞いた。この日も冷たい雨が降っていた。
「ああ、そう」
二人が親しくなったときも“なるほど”と思ったが、別れ話もまた同じ納得の気持ちで聞いた。
数か月前から関係がこじれ、朝子は新しい恋を始めたらしい。相手は原田といって、僕も土田も知っている先輩だった。
土田はずいぶんあしざまに朝子の悪口を言う。かと思えば、彼女のすばらしさを未練がましく解説する。
しゃべりたいだけしゃべらすのが得策だ。“違うな”と思う部分もあったけれど、僕はもっぱら聞き役を務めた。
「土田とは別れたんだって?」
卒業間近にキャンパスで朝子に会ったときに尋ねた。
「まあ、まあってとこ」
翻訳のむつかしい日本語だが、気分はわかる。
「コーヒーつきあわない?」
「いいわよ」
おたがいに時間があいていた。テーブルを挟んで向かいあい、しみじみと見つめた。
――いい女になったな――
狐顔は変らない。だが、四年足らずのうちに朝子は明らかにいい女に|変《へん》|貌《ぼう》していた。すっかり|垢《あか》ぬけて、紛れもない女の美しさを身に帯びるようになっていた。
「きれいになったなあ」
思った通りのことを|呟《つぶや》いた。
「なんで、急に? おかしいんじゃないの」
だが顔の表皮の下には納得がある。朝子が自分でそのことを知らないはずがない。まったく花のように輝いていた。
「小学校のときに習字を習った先生がいてサ」
「お習字?」
「うん」
どうして島崎先生の話なんかする気になったのか、こまかい心理までは思い出せない。
一見無関係のように見える会話の中にも、意識はどこかできっと|繋《つな》がっているものだ。直前の会話がなにかしら意識に変化を与え、そこから次の話題が生まれる。海洋に浮かぶ火山列島のようなもの。島はポツン、ポツンと切れていても、底は繋がっている。
「その先生が朝ちゃんに似てた」
「へえー?」
「でも、その先生、あんまり好きになれなくてね」
「どうして」
「習字の時間にクラス中でさんざんいたずらをしたんだ。女の先生だから、みんないい気になって……。それは|俺《おれ》たちがわるいんだけどな、先生のほうもよくなかった。“あなたたちもよいこととわるいことと、よくわかってんでしょうから好きなようにしなさい”初めから|叱《しか》りもしなかった。好きなようにしなさいって言うんだから、好きなようにやった」
「わかるわね」
「ところが、授業のあとで担任に泣いて訴えたらしい。俺たちは担任に呼ばれて、ものすごい説教をくった。なぐられたよ。それだけなら、まだいいんだけど……二人は恋仲らしいとわかって」
「|私《し》|怨《えん》も混っているって……」
「そう。大人の言葉で言えば、そういうことになるのかな。言葉は知らなかったけど、釈然としなかった。恋人に泣きつかれて、いいとこ見せようとして、やたら怒ったんだろ。不純だよ、教師として。担任も憎かったけど、それ以上に体裁いいこと言って、あとで泣きついた女教師が許せない。あの女狐めって」
「私に似てるのね、顔が」
「よく似てる。特に朝ちゃんに初めて会ったときそう思った。今はそれほどでもないけど」
「私はそんなややこしいことしないわよ。その場で怒るわ」
「知ってる」
なんでこんな話をしたかと言えば、多分……。
朝子はとても魅力的だ。早い時期から僕は彼女のそばにいた。そうであるにもかかわらず、僕は朝子と特別な関係にならなかった。口説こうとしなかった。朝子はそれを少し不思議に思っているらしい。「きれいになったなあ」と告げたあとで、古い出来事を話したのは、僕の意識の中で一つの繋がりがあるからだ。
――口説かなかったのは、これこれの理由があって――
そんな気持ちだった。
答になっているかどうかわからない。いくつかの答の中の一つを告げて、さりげなく右代表とした。
少し会話が途切れたあとで、
「あなたは自尊心の強い人だから」
と朝子が言う。いつのまにかタバコを喫うようになっていて、その手つきもわるくない。
「そうかな」
「そうよ。好きな人、口説けないたちよね。ふられるのが怖くて。それから……もうひとつ、くだらない奴をライバルにするのが厭で」
当たっている。とりわけ後半はよく当たっている。そう思いながらも僕は、
「そうかな」
|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
朝子の意識も繋がっている。“私を口説かなかったのは、そのせいでしょう”と。
二人の視線が同じものを見ている。窓越しに見える空が血のように赤い。朝子は、
「私、あんな雲を見ると、ちょっと興奮しちゃうの。なんかあんな空の下で、どえらいことをやったみたいな記憶があるの」
「なにを?」
「なにもないのよ、思い出すものは。きっと前世ね」
「血のような空の下で人殺しをして」
「そう。そんな感じ。前世の反対はなんて言うの?」
「来世かな」
「少しちがうみたい。デジャ・ビューってのかなあ。この人生のうちに、そんなことがあったりして」
コーヒー店を出たときには赤い空は、もう大分色を弱めていた。僕たちは駅まで歩いて別れた。
卒業をして僕は広告会社へ、朝子は優秀な成績で商事会社へ入った。それからはほとんど会う機会がなかった。途切れ途切れに噂が聞こえて来た。
朝子は三年勤めて会社を|罷《や》めた。ヨーロッパへ渡ったと聞いたが、紛れこんで来たクリスマス・カードの住所はニューヨークだった。
――やってるんだなあ――
パープル・タウンを朝子が風を切って歩いてる姿を思った。
僕のほうは、相変らず広告会社でくすぶっていた。商業デザイナーになろうとして、それなりの努力は続けているけれど、どうやら才能に恵まれていないらしい。
朝子が帰国して、数人の仲間が集った。会食のあとで麻雀をやった。朝子の一人勝ち。それからまた|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》にくり出して朝近くまで飲んだ。
「しばらく日本にいるんだろ。これからどうするんだ?」
「まだ決まっていないの」
「結婚は?」
「しないんじゃないかしら。急にするかもしれないけど」
商社を罷めたのは、職場の恋の果てらしい。多くは語らなかったが、おそらく不倫の恋。妻子ある上役と結びついて……当たらずとも遠くはあるまい。
この夜は|高《たか》|輪《なわ》のマンションまで送って行った。
「じゃあ、またな」
「どうもありがとう。近く相談に行くかもしれないわよ」
「なんだ?」
「ううん、わかんない」
小走りに玄関の奥へ消えて行く。
――この人、あんまりしあわせではないのかもしれない――
漠然とそう思った。
才能はある。器量もいい。だが、それだけでは世間は幸福を約束してくれない。下手をすれば、かえってそんな長所がマイナスに働く。
だが自宅に帰り着いたときは、もう朝子のことなど忘れていた。朝子は僕にとって学生時代から続く親しい友だちだが、つねに僕の意識の中にいる人ではなかった。いつもそうだった。
三か月ほどの空白があって朝子が勤めた先は、驚いたことに|銀《ぎん》|座《ざ》のクラブだった。
「|土《ど》|橋《ばし》の近く。日航ホテルの裏。とても雰囲気のいいお店よ。一度来て」
と電話口で言う。
「俺たちの行ける店じゃないよ」
「仕事で銀座のクラブを使うこと、たまにはあるんでしょ」
「ほとんどないね。あっても安い店ばっかりだ」
「じゃあプライベートで」
「冗談じゃない。一回で月給がふっ飛ぶ」
「わりと安いわよ。格安にしておきますから」
最後にちょっと営業用の|台詞《せ り ふ》まわしで告げた。
僕は水商売に格別の偏見があるわけではないけれど、優のちょうちん行列が勤めるところかどうか……もったいない。少しひっかかる。
「それよりどうなんだ、長くやるつもりなのか」
「わかんない。気晴らしにのぞいてみたんだけど、わりとおもしろいわよ。今まで知らなかった世界がいろいろわかるし」
「ふーん」
僕は銀座のクラブを知らない。銀座で酒を飲んだことくらいあるけれど、ホステスがそばにはべってくれるような店ではなかった。
けれど推測くらいはつく。朝子ほどの器量と機転があれば、なんの不足もあるまい。お釣が来るくらいだ。英語を|喋《しゃべ》れるのもきっと重宝がられるだろう。だが、あの負け嫌い、あの自尊心……。酔っ払いのご機嫌取りができるものかどうか。先輩や仲間に嫌われないものか。
「私、水商売にあってるところがあるみたい」
結論を出すのは、少し早すぎる。とはいえ、僕の知らない世界だから強いことは言えない。
「体に気をつけるんだなあ」
と、当たりさわりのないことを言った。
「うん。元気よ。本当に来て」
「チャンスがあったらな」
行ってみたい気持ちがなくもなかったが、やはり僕のような若輩が行くところではないように思った。
結局、そのまままた一年が流れた。
電話のベルが鳴ったのは金曜日の夜も大分更けてからだった。僕は商業美術のコンクールに出品する作品を手がけていた。
サラリーマンを続けながらもう一つの人生を模索する――聞こえはいいが、よほどの克己心がなければむつかしい。才能がなければ果せない。どちらも僕には恵まれていないらしい。そのことにぼつぼつ気づき始めていた。あきらめるために最後の一あがきをしている頃だった。
金曜の夜から土曜日曜にかけて、これが一番大切な時間だ。というより唯一製作に没頭できるときだった。
――だれだろう――
ベルを七つ聞いて受話器を取った。
「もしもし、私。朝子」
と響く。
「なんだ、今ごろ」
「なにしてたの、起きてた?」
「製作をしていた」
僕は大学で商業美術を専攻したわけではない。それが口惜しい。その気があるのなら、もっと早くからこの道に精進すればよかった。精進しなかったのは、われながらうすうすと能力のなさを感じていたからかもしれない。絵は昔から下手ではなかったけれど、|所《しょ》|詮《せん》は素人の趣味でしかない。万に一つの|僥倖《ぎょうこう》を願って、あちこちのコンクールに出品していた。朝子もそのあたりの事情は知っていた。
「すごいのね。陣中見舞いに行ってもいい?」
これまでに例のないことだった。
「いいよ。けど、なんで?」
「ちょっと……話したくなったから」
「場所わかるか?」
学生の頃のアパートを引き払い、少しはましな宿に住んでいた。
「教えて」
わかりにくいところではない。目標を伝えた。
「わかった。じゃあ、今から行く」
電話が乾いた音を残して切れた。
――なんだろう――
思案をめぐらしながら絵筆を動かした。部屋は汚れているが、朝子ならいいだろう。そんなことを気にする人ではない。
思いのほか時間がかかった。心配しながらも製作に心を奪われ、朝子の来訪など意識の中心から消えかけたときに靴音が響き、ブザーが鳴った。
「遅かったな」
「アイスクリームを買って来たの。夜通し開いてるスーパーで」
「そう、ありがと」
すぐに袋を破り、ビールと一緒にサイド・テーブルの上に並べた。
「店、どう?」
「うん、先々月から変ったの」
「へえー、知らなかった」
「同じ系統の店なんだけど、今度は新しい店をまかせられて……」
「ママか」
「雇われママよ」
「若過ぎるだろう」
「カウンターだけの店ですもん」
「じゃあ、高くないな」
「そうね」
今度は「いらっしゃいよ」とは言わない。
「なにか用があって?」
言葉が途切れるのを待って尋ねた。
「ううん。特にないの。いけない?」
「そうでもない」
「泊めて」
いきなり重大発言をする。だが朝子なら驚かない。
ベッドのほかにソファもある。僕は夜通し仕事をするつもりだった。
「いいけど」
「抱かれに来たんじゃないのよ」
黒眼がちの眼差しが|妖《あや》しく光った。昔からの特徴だが、一層なまめかしく、流れるような|媚《こび》が映って消えた。
「わかってる。寝る?」
「あなたはまだ寝ないんでしょ?」
「寝ない」
「じゃあ、起きてる。仕事をして。邪魔かしら」
「いいよ。どうしても今夜中に、しなくちゃ駄目ってわけじゃない」
「そう。うれしい。男女の仲ってオール・オア・ナッシングじゃない」
不充分な言いかただが、朝子の言いたいことは、よくわかる。いくつもの障子をずずいと開けて奥座敷を見すかすように、朝子の考えがわかった。男と女はいったん恋愛関係を結んだら、とことん親しくなるか、それともすっかり別れてしまうか、ほかにない。
「土田になんか会わないんだろ」
「会わないわ」
「原田さんは?」
「それも会わない」
この質問は朝子の言葉を復習するようなものだろう。つまり……朝子はいくつもの恋をした。僕の見えるところでも、見えないところでも……。中途半端で終る人ではない。傷つくか、傷をつけるか。オールが終ればナッシングだけが残る。それできっと僕に会いに来たんだろう。僕は朝子にとってオールではないかわりにナッシングでもない。なにかが残っている。
「土田さん、偉くなったみたい」
土田は業界ナンバー・ワンの音響メーカーに就職した。いち早く係長に|抜《ばっ》|擢《てき》され羽振りよくやっているらしい。そんな噂を聞いた。奴ならやるだろう。
「うん」
「原田さんもいいみたいよ、独立して。自分で会社をやって」
「貿易だろ。円高で大丈夫なのかな」
この先輩の消息はつまびらかではない。
「でもレジャー用品の輸入のほうだから。どんどんのしている。やるわね、あの人はきっと。やり手ですもの」
昔の恋人たちを客観的に見ているのは、いかにも朝子らしい。
「みんな頑張ってる」
「そう言えば、野々宮さんに会ったわ。|新《しん》|橋《ばし》で、偶然」
「あれは、そういいことない。並みだな」
「そうなの? 昔と変らない感じだったわ」
「言える」
「いつかみんなで|雑《ざ》|魚《こ》|寝《ね》をしたじゃない、あなたのアパートで。覚えてる?」
「覚えてるよ。国際色豊かな夜だろ」
「そう。野々宮さんが俳句なんか詠んじゃって」
「あれ、俳句かな。|都《ど》|々《ど》|逸《いつ》みたいだったけど」
学生時代の思い出話に変った。
それも尽きると、
「なにかいてるの?」
と朝子はテーブルの上を指さす。
部屋に入って来たときにも尋ねられたが、さっきは、きっかりとは答えなかった。
「コンクールに出品するんだ」
「うまくいきそう?」
まだ下絵をかいている段階だ。夢はあるけれど自信はとぼしい。
「駄目じゃないのか。専門に勉強したわけじゃないからなあ。基礎がやっぱりできてないよ」
「でも、昔からうまかったじゃない」
「素人と玄人はちがう」
「研究所へは通ったんでしょ」
「町の学校だもん」
朝子はソファに身を横たえた。
「隣にベッドがある。男くさいけど」
「いい、ここで。見てる」
「洋服、しわになるよな。洗ったパジャマがある。泊まるんなら着たらいい」
「貸して。シャワー使っていいかしら」
「うん。赤いほうをひねればお湯が出る。熱いぞ。気をつけて」
朝子はパジャマを持ってバス・ルームに消えた。しばらく水音が聞こえた。
――なにをしに来たのだろう――
理由はわからない。聞いても話すまい。負け嫌いは、弱音を吐くためにわざわざ深夜に訪ねて来たりはしない。
わかるのは、さびしいから……。さびしさの理由はわからないが、さびしいから訪ねて来たことは疑いない。
――抱くべきかなあ――
欲望は体の底に|疼《うず》いているが、ここで抱くのは朝子の弱味につけこむようで、気がひるむ。せっかく今日までオールでもなくナッシングでもなく、ほどほどにやって来た|甲《か》|斐《い》がない。僕の美意識。
朝子が本当に好きならば、抱いてもいい。抱くべきだろう。だが……その自信がなければ抱かないほうがいいのではないか。それが友人としての節度のような気がする。
――何人かの仲間と噂のあった女なんだし――
今さら朝子を、といったふうの自尊心も僕にはある。だが待てよ、抱かれるつもりで来たのなら、このまま帰したらいたわりが足りない。バス・ルームのドアが開いた。
「さっぱりしたわ」
ダブダブのパジャマを着て現われた。新鮮な感じで、かわいらしい。女が着る男物のパジャマはとてもエロチックだ。男がいて、女がいて、ベッドがある状態。そうでなければ、女はそれを着ない。
「よく似あうよ」
「コンクールに入賞すると、いいことあるの?」
「賞金がもらえる」
「それだけ?」
「デビューの手がかりくらいつかめるかな」
「じゃあ、とっても大切な時期なのね」
「まあな。今の段階じゃ……これに|賭《か》けてると言ってもいい」
「登り坂を見つけなくちゃ駄目よ」
「登り坂か……」
朝子はソファに寝転がり、毛布を引いた。毛布から首を出して、
「あなた、雑魚寝のとき、いたずらをしたでしょ」
笑いながら言う。
「そうだったかなあ」
「わるいんだからあ。興味あったの、私に?」
「男だもん」
「そうね。でも、好きよ、こんな関係」
「わるくない……かな」
朝子はまっすぐ上を向く。僕はデッサンを続ける。
「寝ません?」
「もう少しやる」
「そう」
しばらくたって「寝ません」は誘いの言葉だったのかと思ったが、もう朝子は寝息をあげていた。
――知ってたのか、やっぱり――
そう思ったのは雑魚寝の夜のことである。
――|狸寝入《たぬきねい》りなんかして――
今夜も狸寝入りかと思ったが、そうではないらしい。本当に眠っている。ソファの|脇《わき》に腰をおろしたが、きわどいところで僕はこらえた。
――とても朝子を背負いきれそうもない――
窓が白くなる頃、僕もベッドに入って少し眠った。翌朝は二人とも遅く目ざめて近所のコーヒー店でモーニング・サービスのトーストを食べた。
「どうする?」
「帰る」
昼の光の下で疲労がはっきりと朝子の顔に現われている。
「気をつけたほうがいい」
「ありがと。また泊まりに来るかもしれないわよ」
「ほかに女がいるときもあるからなあ」
「いいじゃない。そのときは遠慮する。じゃ、さよなら」
店の前で別れた。
それから二日間ほどたって朝子の|失《しっ》|踪《そう》を聞いた。どこかの男とどこかへ逃避行を企てたらしい。セ・ロマンチック。教えてくれたのは、野々宮だった。土田のところへ、問い合わせがあったらしい。
「思いきったことをやるもんだなあ」
野々宮の会社は新橋にある。僕は銀座に出たついでにふと立ち寄って、聞くともなしに朝子の事情を尋ねた。野々宮もくわしく知っているわけじゃない。オフィスのティールームから西に沈む太陽が見えた。
「銀座の店のオーナーの息子さんとできちゃっていたらしいんだ」
「それで駆け落ち?」
「ちがう、ちがう。|同《どう》|棲《せい》までしていながら、ほかにまた好きな人ができちゃった。やるよ、相変らず。変り身の早い人だから」
「人が一年でやることを彼女は三か月でやっちゃうからな」
朝子のために少し弁護してやりたい。もし普通の女が十年で三つの恋をするならば、あの俊敏な脳みそは、その二倍か三倍の恋をしてもおかしくない。人間の頭がコンピュータならば、当然優秀な機種は演算が速くなる。
「いろいろ義理があって、今度は逃げなくちゃあ、まずい。そんなことらしい」
「どこに行っても彼女ならなんとかやるんじゃないのか。相手はどんな男なの?」
「一流企業の社員で、彼は会社を罷めなきゃ駄目だな」
「どこ?」
「そこまでは知らん」
「やるもんだな。そっちのほうが心配だ」
「しかし、彼女がついていれば大丈夫だ」
野々宮は意味ありげな笑いを|頬《ほお》に広げた。なにかあるらしい。
「どうして」
「自信家だからなあ、彼女は。自分で言ってたよ。酔っぱらって。なんとかって言うんだろう。へんな言葉がある」
「なんだ?」
「彼女と寝た男は、みんな運をつかむ。偉くなる。成功する。そういう癖があるんだ、彼女に。のぼりなんとか……」
「癖かな。むしろ体質と言うべきだろう。知らん」
「たしかにそうらしいよ。みんなわるくない、土田も原田さんも、商社の上役も」
野々宮はいつそんなことを朝子から聞いたのだろうか。中身が少し|猥《わい》|雑《ざつ》な話だけに気がかりだ。
「野々宮も寝たくちか」
「いや、俺はちがう。ご覧の通りだ。|うだつ[#「うだつ」は「木偏」+「兌」Unicode="#68b2"]《うだつ》があがらない。のぼりなんとかのご利益に|与《あず》かったほうがよかったかなあ。おぼしめしはなかったけど」
それから|顎《あご》をスルリと|撫《な》でて
「お前こそどうだ?」
と聞く。
「いや、俺はなかった」
デザイン・コンクールの発表が明日に迫っている。今回もきっと駄目だろう。かなり確かな予感がある。
――朝子と寝なかった……から――
太陽はどのあたりにいるのだろうか。雲が血のように赤く染まっている。いつかこんな風景を見たように思った。
夏の別れ
「あんなに大きな松ぼっくり」
声を聞いて車を止めた。ちょうど地図を確認したい矢先だった。
アスファルトの車道に、握り|拳《こぶし》より大きい松ぼっくりが三つ、四つ転がっている。
「ちょっと出ちゃ駄目?」
「待って。もう少し行く。あそこからなら展望がききそうだし」
僕は|顎《あご》で指した。二、三十メートルむこうにベンチを置いた芝地が見える。あの先は|崖《がけ》になっているだろう。端に立てば、海と……多分アカロアの町が見えるだろう。
クライストチャーチから三十キロあまり、もうぼつぼつ海沿いのリゾートが見えてよいはずだった。
「どうぞ」
僕はサイドブレーキを強く引いた。空港で借りたハードトップ。ニュージーランドでは日本と同じ左側通行なので、戸惑いが少ない。一番ちがうのは踏み切りの横断。遮断機があがっているなら、けっして一時停車をやってはいけない。下手をすれば、たちまちうしろの車にぶつけられてしまう。信号を信じて、そのまま低速でスーッと通り抜けなければいけない。
「ええ……」
外に出た|智《とも》|代《よ》が、すぐに松ぼっくりを拾って、
「ほら」
と差し出す。大人国へ行ったガリバーの心境。左側が赤土の|断《だん》|崖《がい》になっていて、その上に高く松らしい|喬木《きょうぼく》が枝を伸ばしている。道路|脇《わき》の溝には、さらに多くの松ぼっくりが散っていた。姿形は日本の松ぼっくりと少しも変らない。色あいも黒味を帯びた茶褐色。ただ大きさだけがやたらに大きい。三つも拾えば両手の|掌《てのひら》がいっぱいになる。
――ここは……日本じゃないんだな――
あらためてそんな感慨が胸をかすめる。
道を横切り、ベンチのある芝地へ向かった。
視界が広がり、静かな入江が眠っている。海はいくつかの青の色に染まっている。ほとんど波もない。とてつもなく大きな幕を広げたみたいに映る。
そのむこうに町らしい集落があった。
地図と照らしあわせて、
「あれがアカロア。まちがいない」
「本当に人が住んでいるのかしら」
それほど静かな風景だった。
ニュージーランドの歴史を語るのはやさしい。五行ですむと言ったら言いすぎだろうか。
まず鳥たちの住む島があった。そこへマオリ族が渡って来る。クック船長が発見し、移民が始まり、農牧業中心の福祉国家が成立した……。地誌はと言えば、南島と北島に分かれ、総面積はほぼ日本と同じ。緯度も赤道を挟んで日本と同じくらいの位置。埼玉県ほどの人口と日本人口と同じ数の羊が住んでいる……。
大部分はイギリス系の移民らしいが、アカロアはフランスからの移民が作った町だ。南島の主都クライストチャーチから車で一時間あまり、案内書が“ぜひとも行ってらっしゃい”と勧めている入江と田園のリゾートである。もうあと二、三キロだろう。
「行きましょうか」
「ええ」
僕たちは車に戻った。
南半球は夏の初め。あのとき僕は二十七歳だった。いや、待てよ、十一月だったから、誕生日を過ぎ、もう二十八歳になっていただろう。
――あんまり人の行かないところへ行ってみたい――
少しへそ曲がりのところがある。広告会社でキウィ・フルーツの宣伝を担当していたおかげでニュージーランドへは安く行けた。航空運賃が半分になるのは、なににも増してありがたい。年次休暇に夏休みのあまりを加えて一週間の旅に出た。
直行便でオークランドに着き、首都ウェリントンにまわり、ここでは小グループのツアーに参加してのクック海峡まで出た。
ウェリントンはウェンディ・ウェリントンと呼ばれるほど風が強い。丘陵の尾根伝いに走るジープに突風が吹きつける。風速二、三十メートルはありそうだ。道らしい道もない。右を見ても左を見ても、数十メートルの傾斜を作って落ち込んでいる。落ちたらけっして助からない。
「怖い」
「助けて」
若い女性たちの声が飛ぶ。アドベンチャー・ツアーの運転手はそれが楽しみらしい。
――しかし……本当に危険はないのだろうか――
男の僕でさえ不安を覚えた。
ニュージーランドの風景は、荒れたゴルフ場によく似ている。全体に起伏の多い芝地が続き、ところどころに喬木の茂った森や林がある。低いブッシュがある。無数の羊たちは、ほとんど動いているようには見えない。斜面にばら|撒《ま》かれ、毛玉となってへばりついている。
ジープはひた走りに走った。傾斜のむこうに白波をむき出したクック海峡の荒海が浮かび、やがて近づいてみれば、そこは何頭ものあざらしが憩う|磯《いそ》だった。
コテージ一つない。奇怪な魚の骨が散り、岩かげにはまた新しいあざらしがいる。
「ドント・アプローチ」
運転手が大声で制止した。
ジープとちがって、こちらは本当に危険があるらしい。とりわけ|仔《こ》を連れた母あざらしは狂暴だ。
だが、むこうは人間を見て、緩慢な動作で海へ逃げて行く。僕たちを除けばどの方向にも人影一つない。旅程の長さをしみじみと思わせる荒れた風景だった。
ウェリントンに一泊してクライストチャーチへ飛んだ。
話は前後するけれど、日本とニュージーランドを結ぶ直行便の数は少ない。あの頃は特にそうだった。
だから、同じ飛行機で到着した日本人は、たいてい一週間後に同じ飛行機で帰る。僕のような一人旅でも、|到《いた》るところでツアーのグループと顔を合わせる。同じ飛行機で来た人とめぐりあってしまう。
「こんにちは」
智代に声をかけられたのは、クライストチャーチのホテルの朝だった。はにかむような小さな声だった。
「よく会いますね。このホテルでしたか」
彼女も一人旅らしい。
成田のロビーでも見たし、オークランドの空港でも会った。たいていが新婚旅行のペアーか連れのある旅行者だから、一人旅の女性は気がかりだった。
三十歳くらい。片笑くぼがかわいらしい。
「日本人はここを紹介されるみたい」
「でも今日は僕たちだけじゃないかなあ。食事に行くんでしょ」
「ええ」
「どうですか、一緒に」
「はい」
同じテーブルで朝食を食べた。日本語で話せるのは、とてもうれしい。
「新婚さんが多いみたい。やっぱりツアーのほうがよかったのかしら」
英語は僕よりうまそうだが、外国旅行に慣れている人には見えない。ただ町から町へ飛行機で飛んで、ホテルに泊まり、ホテルの付近を散歩している。能率的な観光旅行をやっているようには見えなかった。
「どこにいらしてたんですか」
「あのう、マウント・クック」
「ああ、それはいい」
僕のほうはウェリントンに飛んだために氷河の絶景はあきらめていた。これは計画の失敗だったろう。マウント・クックへ登らない手はない。
「どうでした?」
「死にたくなるほどきれい」
首を左に傾け、肩をヒクンとあげるようにして笑う。それが癖だった。
「ここもきれいな町ですね」
クライストチャーチについては、だれしもがそれを言う。町そのものが公園という表現には、いささかの誇張もない。みんなが町と花とを愛している。|楡《にれ》、柳、ポプラ、|石南花《しゃくなげ》、そして名も知らない|喬木《きょうぼく》たち。陰の濃い枝葉を広げてエイボン川の岸辺に立ち並んでいる。街並みはどの角度から見ても美しい。教会の鐘がいくつもの低い屋根を越えて鳴り響く。
「本当に。さっき川岸に出てみたら道のすぐ脇で|鴨《かも》が眠っているし、お魚はいっぱい泳いでいるし」
「木の枝がまんまるく広がっているでしょ。|綿《わた》|飴《あめ》みたいな形で」
「さえぎるものがないからかしら」
「トローンとしちゃうような町だな」
「ここは、いい人ばっかりを選んで作ったんでしょ」
クライストチャーチの歴史……である。
「そうらしい。案内書にそう書いてあった。なんてったって名前からしてクライストチャーチだもんな」
かつて南島の都を作ろうとしたとき、ここには人格の優れた|敬《けい》|虔《けん》なキリスト教徒だけが移民を許された。幾代も前にさかのぼって血筋が調べられた。「イギリス本国は腐敗している。よきキリスト教徒の町を作ろう」と、そんな理想があった。良心の伝統は今日に至るまでりっぱに生きているようだ。
「今日はどこへ行くんです?」
と尋ねれば、
「自転車でも借りようかしら」
心もとない様子で言う。予定がしっかりと立っていないのだろう。
「自転車もいいけど……僕はアカロアへ行きますよ」
「遠いんでしょ」
「レンタカーを借りてるから……」
「いいわね」
「一緒にどう?」
軽い調子で誘った。僕のほうも一人旅を気取っていたけれど、いささか退屈していた。日本人がなつかしくなっていた。まして女性なら……。
「よろしいんですか」
「ええ」
「なんだかわるいみたい……」
「かまいません。一緒のほうが心強い」
「なんの役にも立ちませんよ。運転も替れないし」
「英語がうまい」
「|嘘《うそ》! 目茶苦茶イングリッシュなんだから」
「十時に出発して……ほとんど一日かかると思いますよ」
「本当によろしいの、甘えさせていただいて」
「ええ、どうぞ」
こうして僕たちはアカロアまで行くことになった。車の中で初めておたがいの名前を名のりあい、身分を語りあった。
|長《なが》|浜《はま》智代、ちょっと古風な印象。意外なことに彼女は未亡人だった。
「若いのに……信じられないなあ」
「一昨年、悪性の肝炎で」
それからポツン、ポツンと、ギターの音でも鳴らすように|呟《つぶや》く。
「主人がオークランドに勤めていたの。そのときは来れなくて……“とてもきれいな国だ”って言ってたものだから」
「思い出を尋ねて……」
「そういうことになるのかしら。直後はかえって|厭《いや》だったけど、外国旅行に出てみようと思ったら、やっぱりここがいいような気がして……。でもそうたくさん話してくれたわけじゃないのよ。だから、ここも来たのかな、なんて、そんな感じね」
「長くいらしたんですか、ご主人は?」
「一年半。そのときからもう調子がわるかったみたい」
「日本に帰ってすぐ?」
「そうね」
「おいくつだったんですか、ご主人」
「三十七」
「大分年が離れてたんですね」
「私と?」
「そう」
「そんなこともないわ。ウフフ。いくつだと思っているの、私のこと? 三十二よ」
「若い。二十代の後半かと思った」
「大分お姉さんよ。あなたこそそのくらいでしょ」
「二十八」
「奥さんは?」
「まだ」
「選り好みしてるのね」
「そんなこともないけど……|甲斐性《かいしょう》がないから」
「嘘ばっかり」
智代は横浜の生まれだと言う。性格そのものは、むしろ控えめだが、浜っ子らしい明るさがある。自分のほうが年上なのでいくぶん気らくになれたのかもしれない。僕たちはすぐに親しい仲間になった。
入江を巻くようにして坂道を登り降りするとアカロアの町に入った。
海沿いに広い道が一本走っている。そこが一番の繁華街らしいが、それとてもそうにぎやかではない。視界に入る人の数は……ざっと三十人くらい。周囲の家並みはほとんど二階建てほどの高さ。木造の家が目立つ。レストラン数軒。モーテル数軒。町は眠ってこそいなかったが、明るい光の中でのんびりと息をひそめていた。
「B・Bって、なにかしら」
海寄りのベランダに手すりが低い|柵《さく》を連ねている。そこに赤いペンキの看板が|吊《つる》してあった。
「ベッド・アンド・ブレックファーストじゃないかな」
「あ、そうなの」
この国には宿泊と朝食だけの簡易ホテルがたくさんある。せいぜい五室か十室くらいの宿だろう。こんなホテルでは、女主人が、きっと自慢のベーコン・エッグなどを焼いてくれるにちがいない。
「なんだか芝居のセットみたいだなあ」
ちゃちな造りというわけではない。並んでいる家はどれもこれも手作りの感触がある。木を削り、|釘《くぎ》を打ち、屋根を張り、ペンキを塗る。みんなちがった家なのに造りはどこか似ている。配色に統一感がある。基調はローランサンの絵のような中間色。それがこの町を明るく、穏やかな印象に染めあげている。
海だけならば、日本の漁村にもこんな静かな入江があるだろう。アメリカやヨーロッパのリゾートならもっと豪華なホテルが建ち並んでいるだろう。ここは、ただ小ぢんまりと|垢《あか》ぬけている。名前もアカロアと開放音でまとめてある。
町はずれの空地に車を置いて大通りに出た。
「タバコ|喫《す》う?」
「喫わないの」
智代はとんでもないものを勧められたように答えた。
「このごろ女の人で喫う人、増えてるでしょ」
「おいしいの?」
特別においしいわけではない。ただの癖。正面切って尋ねられると困ってしまう。独りよがりのダンディズム……かな。
「うまくはないけど……」
モゴモゴと返事をし、僕はくわえタバコで海沿いの歩道を進んだ。ほんの肩一つ遅れて智代がついて来る。僕の横顔を見ながら包むように|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
町の男たちは、みんな体が大きい。|髭《ひげ》も濃い。服装はひなびているが、|風《ふう》|貌《ぼう》はキングのように威厳がある。女たちも同様に大きい。胸を|脹《ふく》らませ、大きなヒップを布団袋みたいなフレアースカートに包んでノッシ、ノッシと歩く。こっちはクイーンと言うよりも陽気なメイドたちだ。
「へえー、博物館がある。入ってみる?」
「ええ」
タバコを喫い終ったが、捨てるところがない。町を汚すのは忍びない。
「どうぞ」
智代がティッシュ・ペーパーを四つに折り畳んで差し出す。僕の喫い殻を丁寧に包んで掌に収めた。
「アカロア博物館……か」
これもまたこの町にふさわしい小さな博物館だ。手作りの印象は町そのものと変らない。小さな町の、小さな歴史が陳列してある。
「こりゃ長い船旅の最中に作ったんだろうなあ」
ウィンドウの中にギョロ眼の水夫がすわっていた。
「操り人形かしら」
「そうだろ」
「丁寧に作ってあるのね」
英文の説明。“この人形は、船大工のジョージ・フュリーレットが作ってブレットメイヤ家の子どもたちに贈ったもの”と読める。
古い花嫁|衣裳《いしょう》もあって、これは“マンソン嬢がブラックフォード氏に嫁いだときに着たもの”と記してある。それぞれの家の子孫が今でもこの町に住んでいるのではあるまいか。
「こんなものがあるわ」
智代が入口の箱の中からパンフレットを見つけ出して来た。ひとめでわかる日本語文。アカロアの町の由来が、ほとんどまちがいのない日本語で記してある。
「対日感情はいいみたいだ」
「イギリスはあんまり当てにならないし、太平洋を囲む仲間として日本に期待してるんじゃないのかしら」
これは、きっと亡くなったご主人から聞かされていたことだろう。
博物館を出て桟橋に向かった。
日本人の姿を見てもさほど驚く気配はない。目顔で笑いかける。話しかける人は少ない。彼等もまたシャイなのだ。
桟橋には漁船とモーターボートが無秩序にもやっていた。ここではいちいち縄張りを主張する必要もあるまい。
「こんなところで遊んで暮らしていたら、たまらんなあ」
海に向かって深呼吸をした。
「ええ」
振り返り、背後で|頷《うなず》くのを見て、ふと考え直した。女は悲しい|眼《まな》|差《ざ》しで海を眺めていた。
――この人の旅は、それほど気楽なものではないのかもしれない――
僕はあわててつけ加えた。
「でも、あなたには、こんな青さもつらいのかな」
智代は首を振る。
「もういいの、それは。思うけど……それをふっ切るために来たんですから」
「一人旅のほうがいいのかな」
「ううん。初めはそう思ったけど、やっぱり心細い。あなたこそ……お邪魔じゃなかった? 一人で孤独な旅を楽しむつもりだったんでしょ」
「もう飽きた」
桟橋を子どもが|駈《か》けて来る。突端まで行って、石を投げ、また走りながら戻って来る。背は大きいが、顔つきは幼い。
「なにか食べようか」
「ええ」
海沿いの道に戻ってレストランを|覗《のぞ》いたが、どの店もあまり熱心に商売をやっているようには見えない。どのくらい待たされ、どんなものが現われるか、おぼつかない。景色は抜群だが、この国の料理には当たりはずれがある。
テイク・アウェイを見つけた。持ち帰りの軽食を売る店である。このほうが実物を眼で確かめられるだけわかりやすい。
「これにしようか」
「どうせ私、たくさんは食べられないから」
ハンバーガーとホットドッグを買い、海辺のベンチに並んで食べた。
「少し奥のほうまで行ってみる?」
「なにがあります?」
「住宅がきれいらしい」
「じゃあ……」
車で坂道を登った。
芝生の庭をいっぱいに広げた家が続いている。眼を見張るほど|豪《ごう》|奢《しゃ》な邸宅は見当たらないけれど、どの家もみんなそこそこに美しい。
町をめぐり、小学校の校庭でラグビーをやっている子どもたちを見た。
「ここはラグビーが強いんだ」
「ゴルフも盛んみたい」
「どこもみんなゴルフ場みたいなものだもん」
「本当」
小さな町は、もう見るところがない。海辺で貝を拾い、帰路についた。
帰り道は、暑い|日《ひ》|射《ざ》しを正面に受けて走る。どこへ行っても羊たちが群がっている。どこまで行っても点在して草を|食《は》んでいる。
智代は少し眠った。今日一日の旅で|頬《ほお》が焼けている。|睫《まつ》|毛《げ》がとても長い。
「ごめんなさい。私ばかり眠っちゃって……」
「いいよ」
「運転できればいいんだけど」
「僕は平気だから。全部あわせてもたかだか百キロくらいだもん」
「どうすればいいの?」
眠ってしまったつぐないを尋ねているらしい。
「気にしなくていいから」
恐縮しているのを見ると、こっちが笑い出してしまう。
それでも智代は、
「どうすればいいのかしら」
と、くり返し、最後に、
「晩御飯おごります」
そう提案した。
助手席で眠ったことはどうでもいいけれど、智代と夕食を一緒にするのはわるくない。僕は少し智代が好きになっていた。
「そうしよう。日本食が食べたくなった」
「あるかしら」
「ある。ホテルに案内があっただろ」
「知らないわ」
「高いぞ」
「本当。心配」
「それほどでもない」
シープドッグが二匹疾駆して無数の羊を集めている。
「うまいもんだなあ」
智代はそれがおもしろいと言って、窓をあけ、いつまでも首を伸ばして眺めていた。
大聖堂はクライストチャーチの中心部にあって、ゴチック様式の高い塔を建てている。これを目印にすれば迷うことはない。
塔の裏通りにある日本料理店で刺身と焼き魚を食べてホテルに戻った。味、まあまあ。すでに夜のとばりが静かな町を覆っている。
「あれが南十字星」
「昨日見たわ」
南半球の十一月は夏の初めだ。空はぼんやりと|霞《かす》んでいる。美しい星空を仰ぐには、やはりここでも冬の季節のほうがよいのだろう。
まだ十時。寝るには早過ぎる。歓楽街のある町ではない。
「少し飲みませんか」
十二時までホテルのバーが開いている。
「今、すぐ?」
「あとでもいいけど」
「あとのほうがいいわ。三十分くらい」
「じゃあ、そうしよう。十時半に」
「はい」
僕はとりあえず部屋に帰り、さて、なにをしようか。
――そうか、手紙を書かなくてはいけない――
飛行機の中で眠りそこね、ウェリントンの夜は眠ることが先決だった。手紙を書くひまはなかった。簡単な手紙でかまわない。旅先からの手紙はわるいものじゃない。
“クライストチャーチは、とてもすてきな町です。町全体が公園で、花や木の名前をいちいち気にしていたら日が暮れます”
大聖堂、ハグレー公園、モナ・ヴェイルの庭園について記した。アカロアへのドライヴも書いた。あて名は、|伊《い》|方《かた》まり子様。ドライヴの同行者にまで触れるわけにはいかない。
話は突然変るけれど、
――恋はいつから始まるのか――
僕はいつもそのことを考えてしまう。
まり子とは夏の初めに知りあった。高校時代の友人と一緒に新橋で酒を飲み、|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》のディスコへ行った。男二人では味も素っ気もないけれど、ディスコへ行けばだれかしら踊りの相手くらい見つかるものだ。相手が見つからなくても、周囲の女がみんな相手だと思って踊ればいい。
鏡を張りめぐらし、ストロボがパチパチと光を放つ。案の定、髪を束ねた女と眼をあわせて踊るようになった。初めは偶然顔をあわせ、それから意図的に同じリズムで踊った。
僕はあまりうまい踊り手ではない。酔っていなければ気恥ずかしい。
――それほど気取ることもないんだよなあ――
と、愚かな自尊心を恨むのだが、それでもやっぱり猿のように踊っている自分を意識してしまう。
その女も同じように照れているように見えた。照れながらも巧みにリズムに乗っていた。そこが僕とまるでちがう。
「うまいね」
「そうお?」
「よく来るの?」
「そうでもない」
「いい|匂《にお》いだ、香水」
「わかります? |厭《いや》だわ」
「匂うためにつけるんだろ」
「そりゃそうだけど……」
「なーに」
「ディオリッシモ」
彼女には女の連れがあった。むこうは女の二人連れらしい。
だが、連れのほうはあまり踊らない。テーブルに着いて、薄い水割りを飲みながら踊る人を眺めている。僕の相棒は充分に酔っていて、こいつは道化師みたいに珍妙な身ぶりでフロアをまわっている。大仰な腰つきで踊りながら、みんなに愛敬を振り|撒《ま》いている。
女が僕たちに飲み物をおごってくれた。
「サンキュー」
「すみません」
それからまた何曲か踊った。点滅する光の中では相手の顔をよく見きわめることができない。テーブル席は暗すぎる。それでも少しは見える。顔のデッサンはわるくない。
――僕より年上――
そう判断したのは、面ざしよりも女の話し方や身のこなしからだったろう。
一時間ほど踊って僕たちはディスコを出た。
「じゃあね」
女たちには軽く手をあげて別れた。
「バーイ」
女たちも酔っていた。
本来ならそれで終りになる関係だったろう。関係と呼ぶことさえ適当ではあるまい。
青山の|表参道《おもてさんどう》に近い路地の角に小さなネクタイ店があって、僕は以前から心に留めていた。ウィンドウにいつもよいネクタイが並べてある。値段もそう高くはない。
そのくせそれまでに一度も中へ入ったことがなかったのは、ものぐさのせいだ。|原宿《はらじゅく》まで行ったついでに思い出して足を伸ばしてみた。
ネクタイというものは買う気になって、いざ吟味していると、気に入った品が思いのほか見つからないものだ。デパートあたりでは店員が、
「今のお服におあわせですか」
などとしつこく寄って来るが、この店は女主人が横顔だけで客を意識して選ぶにまかせている。
二坪ほどの店。並べてあるネクタイの数もそう多くはないけれど、きっと女主人と僕の趣味とが似ているのだろう。少なくとも、
――これは絶対しめたくないな――
そう思う品は少ない。
ストライプの二本を選んで、
「これをください」
「はい」
女主人が微笑みかける。香水の匂いをかぐのと、
「お会いしましたね」
そう彼女が|呟《つぶや》くのとが、ほとんど同時だった。
「ああ」
匂いがすぐに記憶を運んで来る。印象はずいぶんちがっていたけれど、言われてみればあのときの顔だ。
「六本木のディスコで……」
「そう」
「酔ってたからなあ」
「お近くですの?」
「そうでもない」
店には僕のほかにだれも客がいなかった。
「また踊りに行きたいわね」
言葉の抑揚に誘いがこもっている。
「いいなあ」
「お勤めでしょ?」
「うん」
「ここは八時にしめるの。それからなら、たいていあいてるわ。明後日くらい……」
女はほとんど|淀《よど》みなく誘う。こんなことに慣れている人なのかもしれない。
「明後日か……」
「おいそがしいの? 変ね。急に誘ったりして。お客様なのに」
「なんとかなる。会いましょ」
「無理しなくてよろしいのよ。明後日がまずければ、ほかの日でも」
「いい。大丈夫」
六本木のコーヒー店で九時に会う約束をした。
「おまけしますわ」
と言いながらネクタイの包みを差し出す。
「いいよ」
「じゃあ、ほんの気持ちだけ」
彼女は一割引きの値段を告げた。
二日後に約束の店で会い、ディスコへ行った。おたがいにしらふでは踊りにくい。そう長くは踊らなかった。ホテルのバーへ行ってアルコールを入れた。順序が逆だったかもしれない。
「おいくつなのかしら」
「年?」
「そう。どうでもいいけど、聞いておかないと人間関係がちょっとむずかしいでしょ」
「二十七」
「ウフフ。私のほうがほんの少し上ね。お姉さんよ」
「ミセス……ですね」
まり子はゆっくりと首を振った。
「結婚して……離婚したの」
「どうして?」
「彼がよくなかったから。ちがうか。私がわがままだったからよ。奥さんには向いてないみたい。生きて行く手段があるのなら、それもいいじゃない」
「うん」
|曖《あい》|昧《まい》に|頷《うなず》いた。
「あの店は自分の店よ。小さいけど家賃を払うわけじゃないから」
「うらやましい」
水割りを二はいずつ飲んでこの夜は別れたが、またお誘いがかかった。週に一度は会うようになった。
抱きあうまでにそう長い時間はかからなかった。誘ったのは僕のほうだが、そんな気配を作ったのはまり子のほうだったろう。
「好きなのか」と尋ねられれば「嫌いな人じゃない」と答えるよりほかにない。少なくとも気性のわるい人じゃない。器量も十人並みを越えているだろうし、おしゃれのセンスは、仕事がら|垢《あか》ぬけている。「好きだ」とはっきり言いきれないのは、それを吟味する前に抱きあってしまったからだ。
男はいつだって女を抱きたい。好きもへちまもないところがある。抱くためには儀式としてでも好きでなくてはならない。はっきりと嫌いでない限り好きのような気がする。そう思いながらも、
――本当かな――
と疑うところもある。
「ニュージーランドへ行く」
「へえー。どうして?」
「南半球へ行ってみたい」
「なにかいいことあるの?」
「べつにないけど……。航空券が安くなる」
「なーんだ。お手紙ちょうだいね」
「短い旅だから、手紙より先に帰って来るよ」
「それでもいい。手紙って、わるくないわ」
「それはわかるけど」
約束しておきながら書けなかった。クライストチャーチで|投《とう》|函《かん》すれば、この一通だけは僕が帰るより先に着くだろう。
手紙を書き終え、十時半きっかりにバーに降りた。お客はだれもいない。若いバーテンダーが、
「グッド・イーヴニング」
あわてて奥から顔を出した。
エレベーターが降りて来たが、智代ではない。アメリカ人らしい夫婦がバーを|覗《のぞ》きながら出て行った。
「スカッチ・アンド・ウォーター」
この地に来てから何度か呟いた言葉で水割りを頼んだ。クライストチャーチの英語は折り目正しい。トゥデイをトゥダイと言うようなオーストラリア|訛《なま》りは、ほとんど耳にしない。正統なクイーンズ・イングリッシュ。
――待てよ――
彼等の先祖がイギリスの地を出たときは、本国にはキングが君臨していただろう。その頃の伝統を守っているのだから、これはキングス・イングリッシュと呼ぶべきなのだろうか。とりとめのないことを思ううちに智代が掌をうしろで組んで入って来た。
「ごめんなさい。遅れちゃって」
「なにを飲む?」
「弱いもの」
「じゃあスクリュー・ドライバー」
「おいしいの?」
「飲みやすい」
弱いとは言いきれない。ウオツカをベースにオレンジ・ジュースで割る。女性を口説くときに使うカクテル、そんな説がある。ちょっぴり野心がなくもない。
「お隣の部屋の御夫婦、鍵もかけずに出て行くの。ドアが少し開いていて……大丈夫なのかしら」
「この町は平気なんじゃない。空港でも、だれもいないところでラゲージ・ベルトの荷物がクルクルまわっていた。ローマあたりだったらとうになくなっている」
「いろいろいらしたのね」
「そうでもない。ロスアンジェルスとパリ、ロンドン、ローマ……。あなたは?」
「駄目よ。ヨーロッパへ、ツアーに参加して。あとはハワイ」
「ハワイは知らない」
「とても狭いわ。すぐに町が終っちゃう」
「慣れていないのに、一人旅はすごい」
「だから、まごついてるの。今日はありがとうございました」
ペコンとお辞儀をしてからスクリュー・ドライバーを口に含んで細い|喉《のど》に流した。
「明日はロトルアでしょ。何時の便?」
「午後の……一時二十分かしら」
「同じ便だな、きっと」
ロトルアはマオリ族の住む町だ。ニュージーランドへ足を踏み入れた以上、だれもが一度は行く。
バーテンダーが「用のあるときはベルを鳴らしてほしい」と告げて奥へ引っ込んだ。このほうがくつろげる。
「マウント・クックへ行かなかったのは、失敗だったなあ」
「ええ。でも、ウェリントンへいらしたんでしょ。首都ですもの。どこかへ行くためにはどこかを犠牲にしなくちゃ。みんなってわけにはいかないわ」
「さっと|撫《な》でるように見るのがいいか、数を抑えて丁寧に見て歩くのがいいか。むつかしいところだな」
「大きな町でした、ウェリントンは?」
「小さな町」
「オークランドより?」
「比べものにもならない。だってこの国の人口の半分はオークランドと、その周辺にいるんだろ。格から言えば、オークランドが首都になるべきなんだ」
「ええ?」
「でも北の端っこにあるから、オークランドを首都にすると、全島のバランスがくずれてしまう。日本で言えば、宮崎か高知あたりを首都にする感じだもん。南島にも近いウェリントンを首都にしたんじゃないのかな。僕の想像だけど」
「くわしいのね」
「飛行機の中で案内書を読んだ程度だよ」
「私も読んだけど、さっぱり頭に入らないわ。旅って、そうじゃないかしら。行く前に案内書を読んでも、|漠《ばく》|然《ぜん》としてわかんないの。見物をして、そのあと読むと、ようやくわかるの」
「それは言える」
「でも、男の人って、すごいわ。どんどん吸収して、どんどん行動して……」
智代の眼のふちが赤くふくらんでいる。ほろ酔い加減。ちょっと色っぽい。
――この人は、きっと、よい|自《うぬ》|惚《ぼ》れ鏡になれる人だな――
僕はそう思った。
今日半日、ほんの十数時間を一緒にすごしただけだが、どことなく居心地のいい人だった。
けっして出しゃばらない。眼差しが男を頼っているように見える。世間知らずではないが、一歩|退《ひ》いたところで見守っている。そんな様子がかわいらしい。板についている。こういう女と一緒に暮らしていれば、男は|厭《いや》でも、
――俺は頼りにされている。偉いんだ――
そう思いたくなる。自惚れることができる。自信が生まれる。最近、この手の|大和撫子《やまとなでしこ》は日本国でも品薄らしい。
ふとまり子のことを思った。
まり子はけっして控えめではない。敏腕な人。行動的で、労を惜しまない。なんでも一通りこなしてしまう。ともすれば周囲の男は劣等感を抱く。「奥さんには向いていないみたい」と言ったのは、本当かもしれない。いろんな奥さんがいていいけれど……。
「あなたは、いい奥さんだったろうな」
「どうして? 突然」
「そう思ったから」
「駄目よ。家事は下手くそだし。主人はそう思っていなかったみたいよ」
「むこうがわるい」
「なんにもできないし」
「女性の一人旅はすごいよ」
「また、それ? ただ飛行機に乗っただけじゃない。ウロウロしているだけ。馬鹿の証拠みたい」
「そんなことない。本気でそう思っているわけじゃないだろうけど……」
「本気よ」
真顔で言う。心の底からそう思っているように言う。
ベルを|叩《たた》いて水割りをもう一ぱい注文した。
「どう、あなたももう一ぱい?」
「ううん、これでたくさん」
氷が溶けてオレンジの色が薄くなっている。
「|嘘《うそ》つきのほう?」
ちょっとたちのわるい質問をしてみた。
一度このテーマでまり子と言い争ったことがある。まり子は多分嘘つきではあるまい。思ったことをすなおに言う。嘘をつかないと言うより、つけないタイプなのだ。
僕は嘘の効用を認めるほうだ。いたわりがあればこそ嘘をつく場合もある。いらない部分にまで正直なのは、相手に負担を押しつけることになりかねない。当人だけがいい子になっていて……。
「つくわよ、嘘」
智代は思いのほか正直に答えた。控えめである分だけ嘘もあるだろうと想像していた。
「正直なら、それでいいってものじゃないからなあ」
「でも、いけないわ。わるい嘘もいっぱいありますから」
もうバーを閉める時間も近い。残りの水割りを飲み干して、
「行きますか」
「ええ」
席を立った。相変らず智代は肩一つ遅れてついて来る。エレベーターは女性を先に乗せ、先に降ろすのがルールなのだろうが、智代はやはり半歩遅れる。
「部屋で飲みますか」
「ううん……。今夜は遅いから……おやすみなさい」
丁寧に頭をさげ、三つ先のドアに消えた。
ロトルアまでの空路は席を並べてすわった。それからはずっと行動をともにした。
「この町は平ららしい」
「平ら?」
「そう。坂がない」
自転車を借りて走りまわった。ファカレワレワの間欠泉は、二、三十メートルの高さまで熱湯を噴きあげる。復元されたマオリの部落を眺め、マオリの工芸学校を|覗《のぞ》いた。
ハンギはマオリ風のヴァイキング料理。ハンギとコンサートがセットになっている催し物を予約して、夜はそこへ出かけた。
ダンサーの中には、いかにもマオリ族らしい|体《たい》|躯《く》もいるが、ほとんどが混血ではあるまいか。男のダンサーは眼をカッと見開き、舌を出し、ベロベロベロと震わせる。その仕ぐさがたまらなくおかしい。
「あれ、なんなんだ?」
「おかしいわあ」
ホテルへ戻ったのは十時頃だったろうか。三階と四階と、フロアはちがっていたが、ここでも智代と同じホテルだった。
「少し飲みませんか」
「バー?」
「僕の部屋で。駄目?」
二日間の親しさが、こんな言葉を軽く吐かせた。とはいえ、これも外国旅行の途中だったからだろう。
「よろしいんですか」
「どうぞ」
「いいのかしら」
「いいと思いますけど」
智代は一瞬ためらってから、
「じゃあ、あとでお邪魔します」
と言う。
僕は大急ぎで部屋へ飛び込んで整理をした。ベッドカバーはかけたままになっている。下着類をトランクに詰め込んだ。グラスを洗い、テーブルの上には成田空港で買ったウィスキー。それから、さきいか、|燻《くん》|製《せい》のいか、柿の種、日本ならばどこのキヨスクにでもあるおつまみ類を出して並べた。これも空港でそろえたもの。外国旅行では、得がたい珍味となる。この味がたまらなくなつかしくなる。
智代はなかなかやって来ない。
考えてみれば、女が単身で男の部屋へ来るのは……ただごとではない。それをためらっているのだろう。
――電話をかけてみようか――
手を伸ばしたときドアがかすかに鳴った。
「よろしい?」
「どうぞ」
智代は部屋の造りを眺め、奥の|椅《い》|子《す》にすわった。
「こんなもの、買って来たの?」
と、テーブルの上のおつまみを指さす。
「そう。深夜のパーティには、これが一番なんだ。ビールにする?」
「ええ、一ぱいだけ」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、二つのグラスに注いだ。
「お疲れさん」
「ありがとうございました」
おつまみの袋を開いた。
「おいしい」
智代は、さきいかをほぐしながら口に運ぶ。昨夜と同じようにとりとめのない会話を交わした。
「花がいっぱい咲いていたのに蝶々がいなかったわ」
「そうだったかなあ」
「見ました?」
「いや、気づかなかった。見た記憶もないけど、見ない記憶もない。ここは動植物にはうるさいんだ。空港でも薬品を散布してたし……ヘンテコなものが入って来ないように注意している」
「本当に鳥しかいなかったのかしら」
「そうらしい。四つ足はみんな外から連れて来た。牛も馬も羊も……。猛獣とか毒蛇とか、いやらしいのは一つもいない」
「平和な国なのね」
「無菌室みたいだな」
僕はタバコばかり喫っている。小さな灰皿がすぐにいっぱいになった。
――こんなとき、女はなにを考えるのだろうか――
部屋の中は煙っぽい。立ちあがって窓を開け、その帰りしなに智代の背後にまわって肩に手を載せた。
――男の部屋に来た以上、なにほどかの覚悟はあったのではないか――
それとも、
――厭らしい。とんでもないこと……そう思うのだろうか――
智代は|膝《ひざ》をそろえ、両手をキチンと載せている。
「くすぐったい」
掌を滑らし、肩から腕に移るあたりに止めて両側から軽く挟んだ。智代は動かない。拒否もしなければ、受け入れようともしない。僕は大胆になって鎖骨のありかをさぐった。
「あなたが好きだ」
肩が息をつく。
「変ね」
細く|呟《つぶや》いて首を振る。
前側にまわり、膝をついて智代を見あげた。
「なにが変?」
「なんとなく」
顔を寄せると、首を垂れる。おとがいに指を当て顔をあげさせた。眼を閉じている。その唇に唇を当てた。
「あなたが好きだ」
「たった二日で?」
「二日でもわかることはわかる」
今度は強く体を抱き寄せながら唇をそえた。
智代はいったん抱擁に身を|委《ゆだ》ね、それからついと立ちあがり、
「ごめんなさい。あんまり突然だから」
と顔を覆った。
「いけなかった?」
「わるい人だわ」
と笑う。
僕が一歩踏み出すのを両手を合わせて遮り、
「今日は許して。頭がボーッとしちゃって」
片手の|拳《こぶし》でトントンと自分の頭を|叩《たた》く。
「すばらしい旅になりそうだ」
「明日も明後日もあるわ。ごめんなさい。もう遅いし……疲れちゃった。寝ます。おやすみなさい」
あたふたとドアのほうへ行く。
僕はこんなときどうしたらいいかわからない。立ちふさがって引き止めるべきなのだろうか。それでは性急にすぎるのだろうか。
智代はドアを開け、振り返り、
「いかの|匂《にお》いがしたでしょ。ごめんなさいね。おやすみなさい」
小首を|傾《かし》げて外に消えた。
僕は追いかけてドアを開け、
「おやすみ」
と廊下の|薄《うす》|闇《やみ》に呼びかけた。
だが、もう智代の姿はない。エレベーターは一階に止まったまま。きっと階段を昇ったのだろう。
僕も階段を昇り、智代の部屋の前まで行ってみた。そして、しばらく息を殺してドアを見つめていた。水音が聞こえる。バス・タブにお湯を注いでいる……。
背後でエレベーターのドアが開くのを聞いて|踵《きびす》を返した。
翌朝は電話で智代を起こし、軽い朝食のあとバス・ツアーに参加した。
レインボー・スプリングスは|鱒《ます》の養殖場を兼ねた自然公園。小休止のあと、しばらくバスに揺られてワイトモの|鍾乳洞《しょうにゅうどう》に着く。
「世界三大奇景の一つらしい」
「あと二つは、どこですの?」
昨夜の口づけは、二人の仲になにか変化をもたらしただろうか。智代はなんの|屈《くっ》|託《たく》もない。
「わからない」
「あやしいのね」
しばらくは|洞《どう》|窟《くつ》の道を進み、最後は水をたたえたまっ暗な鍾乳洞を行く。十人ほどまとまって舟に乗る。地獄めぐり……みたい。気がつくと洞窟の低い天井に沿って縄が張ってあり、案内人がそれをたぐりながら舟を滑らせる。
音をたててはいけない。フラッシュを光らせてもいけない。洞窟に住むツチボタルが嫌うから……。
僕は智代の手を握った。智代は手首の力を抜いて委ねている。
――ほら――
黒い天井に青く光るものが見えた。
ツチボタルは蛍ではない。|蚊《か》の幼虫。洞窟の壁に巣食って光を放つ。初めはちらほらと見える程度だったが、内部の深い洞窟に入ると、天井いっぱいに青い|糸《いと》|屑《くず》のような光が散っている。とても夢幻の光景……。あえて言うならばプラネタリウムに似ている。
僕は感動を伝えるように智代の手を握りしめた。弱い握力が返ってきたのは智代のほうも感動を伝えたかったから……。
「かなりすごい」
「本当」
洞窟を出ると、うって変ってまばゆい真昼の日光が降り注いでいる。入口は|喬木《きょうぼく》と草の中に小さな裂けめを見せているだけだ。
「初めてここに来た人は、冒険の連続だったろうな」
「本当。クック船長なんでしょ」
「その部下だな」
長い船旅のすえ知らない島にたどり着いて、どんな人間が住んでいるかもわからない。どんな野獣がいるかわからない。船を|碇《てい》|泊《はく》させ、海辺にキャンプを張り、不寝番が見張りを続ける。安全らしいとわかれば少しずつ奥へ進む。そのとき草むらの中にポッカリとあいた黒い|亀《き》|裂《れつ》を見つける。|逡巡《しゅんじゅん》のすえ少しずつ侵入する。怪しい生き物が現われるのではあるまいか。突然、洞窟の闇に青い光が広がる。おそらくツチボタルたちは今よりもずっとみごとな輝きだったろう。周囲の壁をことごとく光らせていただろう。それを初めて見た男はだれだったのか。二十世紀の地球は、もうそんな数奇な体験を許してはくれない。
ワイトモを出てオークランドまでの道のりのなんと長かったことか。風景は相変らず美しいが、行けども行けどもいっこうに変化がない。
「たまにはちがう景色を見せてみろ」
そう叫びたくなってしまう。
とはいえけっして退屈はしなかった。隣に智代がすわっていたから。僕は、その横顔を、その声を、その肌の匂いを楽しんだ。
「また同じホテルらしい」
「ごめんなさい」
「謝ることはない」
オークランドでは二つの夜をすごした。
二つ目の夜に智代を抱いた。
最後の夜だった。
フットライトだけの暗い闇。ワイトモの洞窟よりもさらに暗い。それが智代の願いだった。
旅というものは人間の心を冒険に駆り立てるものなのだろうか。それともそれは巧みな口実なのだろうか。僕たちはとても自然な抱擁のすえに体を重ねた。
「すばらしい旅になった」
「こんなこと、初めて……。まだ知りあったばかりなのに」
智代は自分自身に戸惑っているように見えた。
日本人らしい|華《きゃ》|奢《しゃ》な体。細い骨。しなやかにからみつく。乳房も小さく、乳首だけが堅かった。
歓喜を知らない体ではない。初めは息を殺していたが、|愛《あい》|撫《ぶ》が深まるにつれ少しずつ反応があらわになった。
「いや」
細い声がこぼれた。
それを聞きながら僕も歓喜の奔流に身を委ねた。
「すてきだった」
「そんなこと……」
しばらくはベッドに並んで指をからめていた。
「こんなことが用意されてるとは思わなかったなあ」
「後悔してるんでしょ」
「どうして?」
「好きな人、いるんでしょ」
とっさにまり子を思ったが、好きな人とは少しちがうような気がした。
「いや、いない」
智代の掌を強く握った。
――これは嘘だな――
うしろめたさがないわけではない。そんな気分を察するように智代が闇に吐く。
「いいのよ。帰ったら、もうなにもなかったことにしましょ」
「それがいいのか」
「あなたにいいと思って」
「そんなことはない。むしろあなたのほうの問題だ」
「私は平気。でも御迷惑はかけたくないわ」
「僕も平気だ」
なにが、どう平気なのか、自分でもよくわからない。強いて言えば、
――まり子との関係は、そう長くは続くまい――
そんな予感があった。いっときの親しさのような気がしてならなかった。
一度に二人の女性と親しくなるのは、あまりよい趣味ではない、と、そのくらいの思慮は充分にあったけれど、僕としては、まり子を裏切っているという意識は薄かった。
――あれはあれ、これはこれ――
しかし、これはやっぱり不道徳なことだろう。
そのうちにまどろんだらしい。
目ざめたとき隣に智代はいなかった。静かにベッドを降り、衣服を整え、音も立てずに自分の部屋へ帰ったらしい。そんなやり方がとても智代にふさわしいように思った。
「おはようございます」
「きのうはどうも……」
翌日はオークランド空港からの直行便で帰路についた。日本人客のほとんどが、どこかで会った顔だった。僕たちがこの一週間足らずのうちにすっかり親しくなったことにだれか気づいただろうか。|訝《いぶか》しく思わないものだろうか。
十一時間の長旅。来るときよりずっと短く感じられたのは、これも智代のおかげである。
何度か眠った。
いつ窓の外を見ても雲の上だった。機内映画はアガサ・クリスティの探偵物。後半がおもしろい。
成田に着き、そこから箱崎までがまた長い。
「また会えますね」
「いいのかしら」
「連絡します」
智代の連絡先を聞いた。今は生まれた家に帰って家業の楽器レコード店を手伝っている……。
「お断りするかもしれないわよ」
「そんなこと言わないで」
「あなたによくないわ」
「どうして?」
「だって、そうでしょ。もっと若い人じゃなくちゃ、かわいそう」
「そんなこともないと思うけど」
箱崎で別れた。
「さよなら」
「さよなら、また近々に」
智代はタクシーの窓の中で何度か首を左右に振っていた。「いけません」とでも告げているように。
電話のベルが鳴る。
家へ帰ったのは土曜日の夕刻。日曜日一日ゆっくり休んで出勤するつもりだった。
「もしもし」
ベッドの横の時計は十時前を指している。十二時間眠った計算になる。
「やっぱり帰ってたのね。どうだった、ニュージーランド?」
まり子の声とわかった。
「よかった」
僕には低血圧症のけがあるから寝ざめの機嫌はおおむねよろしくない。相手にはひどくぞんざいな声に聞こえるらしい。
「まだ眠っていたのね」
「そう」
「何時に帰ったの、昨日?」
「家に着いたのが八時頃かな」
「電話をくれれば、よかったのに」
「風呂に入ってビールを一本だけ飲んで、そのまま眠ってしまった」
「会いましょ」
「うーん、明日から会社だからなあ」
「夕方。店が終ってから行くわ。九時頃。若いんでしょ。一日ぶらぶらしていれば、すぐに元気になるわよ」
まり子はいったん計画を立てたら簡単には崩さない。今夜の予定はおそらく彼女の中でしっかりと決まっているにちがいない。
「手紙、着いた?」
そう尋ねたのはクライストチャーチで投函した航空便のことだ。あのときはまだ智代に深入りをしていなかった。
「なんと! 今朝いただきましたわ。つい今しがた」
「そうか。いいよ。じゃあ来てくれ」
「なにか食べたいものある?」
「べつに。おいしいかまぼこ。それで水割りを飲む」
「わかった」
マンションの一人暮らしは|放《ほう》|恣《し》そのものの生活だ。二十代の後半。|淫《みだ》らと言ったほうがよいかもしれない。
一週間の不在のうちに秋がめっきり深くなった。オークランドはもう夏の盛りの暑さだった。
布団のぬくもりに浸りながらテレビを見た。それから|穴《あな》|熊《ぐま》のように|這《は》い出し、セーターをかぶって近所のコーヒー店に行った。店の名は“さ・え・ら”。フランス語の“ここ、かしこ”。休日にはたいていこの店で朝昼兼用の食事をとる。
「久しぶりですね」
マスターは昔、新劇の役者を志した人だとか。顔立ちもわるくないが、歩く姿がきまっている。
「うーん」
なま返事で答えた。低血圧症はまだ続いている。ニュージーランドの旅を語るのはわずらわしい。
食事をすませてパチンコ店へ。
――なんと日本的なゲームだろう――
外国旅行のあとだから……。ちまちまと忙しい。メカニズムは遊戯と思えないほど精巧だ。
ほどよい台に当たってしばらく奮戦したが、そのうちに飽きが来る。集中力を欠くと、たちまち入りがわるくなる。なま意気なことに機械はこっちの心が読めるらしい。
タバコ一つ取ることもできない。本屋に立ち寄り、週刊誌五冊と新刊の推理小説を一冊買って家に戻った。
旅の荷物を片づけなければいけない。洗濯もしなければいけない。部屋の掃除は、まあ、いいだろう。ずっと留守だったから、さほど汚れてはいない。
新聞と週刊誌で一週間の空白を埋め、もう一度外に出てそば屋の親子丼を食べると、八時に近い。風呂に入り、テレビの歌番組を見ながらまり子を待った。
まり子はきっと抱きあうつもりで訪ねて来るだろう。セックスに対してもともと積極的な人だ。ビヘビアーは、むしろ男に似ている。
――ほどよい相手を失ったとき、ちょうど僕が現われたんじゃないのかな――
当たらずとも遠からず。きっとそうだろう。
盲人が象を|撫《な》でる話はとても教訓的だ。世間の出来事は、ほとんどあれに等しい。一部分だけに触れていたのでは、たしかなことはわからない。|全《ぜん》|貌《ぼう》を見て“なるほど”と合点する。まり子とは本当に“あれよ、あれよ”と思うまに深い仲になってしまった。僕の側からだけ見れば、ちょっと不思議でさえある。
――残念ながら、俺はそんなにもてるタイプじゃないんだ――
自覚している。まり子のほうにきっと僕を必要とする理由があったにちがいない。
「美容のためにもいいのよ、男は」
本気のような、冗談のような調子で言っていた。
情事が美容に役立つ。あながち|出《で》|鱈《たら》|目《め》とは言いきれない。“美しく見られよう、好きになってもらおう”そう思い続けることが、人を美しくする。まり子は一月に一度くらいは男を必要とする体質なのかもしれない。男が女を必要とするように……。かすかにあさましいようにも思えるが、それは男社会の身勝手というもの。男と女はちがうとしても、ほとんどの男に備わっている性癖が、女に無縁であるとは考えにくい。
まり子と僕とは、フィフティ・アンド・フィフティ、とても便利な関係。智代を抱いたとき、やましさをほとんど感じなかったのは、こんな事情のせいだろう。
ブザーが鳴った。
「今晩は」
「早かったな」
「急いで来たのよ」
ソファに弾むように腰を落とし、両手で髪を|撫《な》でる。
「どうだった?」
「よかったよ。景色が抜群だ。一度行って来たらいい。水割りでいい?」
「いい。山口のかまぼことイクラを買って来たわ」
「飯は?」
「いらない」
水割りを飲みながらクック海峡の荒波、クライストチャーチの町並み、アカロアの穏やかな海、そしてワイトモのツチボタルなどなど……かいつまんで話した。
まり子も雄弁だ。何年か前に行ったカナダの大自然を語り、アンダルシアの|夕《ゆう》|陽《ひ》を言う。こっちだけに話させたりはしない。
「これ、おみやげ」
緑石で作ったペンダントを出した。
「|翡《ひ》|翠《すい》?」
「そんな高価なものじゃない。色はちょっと似てるけど、風格がまるでちがう」
「わるいデザインじゃないわね」
丸い石の中央がクエッション・マークのようにえぐってある。
「シャワーを借りていいかしら」
「うん」
イヤリングとネックレスをはずして立ちあがった。
「気をつけて。熱湯が出る」
「知ってる。深夜電力を使っているんでしょ」
「そう」
水音に混ってハミングが聞こえる。まり子は上機嫌だ。
「バス・タオル、ある?」
ドアを細めにあけ、首を出す。すきまから白い体が縦の直線になって見える。
「うん、今、新しいの、出してあげる。バス・ローブもあるよ。洗濯屋から戻ったばかりのやつ」
ドアの外に置いた。
僕もパジャマに着替えて待った。
――これで四回目――
抱擁の回数……。まだ数えることができる。少しずつ体がなじむ。相手の癖がわかる。好みがわかる。情事の手順がスムーズになる。
「いい気持ち」
ドアが開いた。バス・ローブの|襟《えり》のあわせかた、|紐《ひも》の結ぶ位置、ちょっとしたことがまり子にかかると小粋になる。
|石《せっ》|鹸《けん》の香りを匂わせながら水割りの残りを一口すすり、すぐに唇を求めた。僕たちはソファに腰かけたまま唇を重ねた。
それから僕はまり子を立ちあがらせ、バス・ローブの紐を奪い、タオルの衣裳を肩から落とす。
乳房の形が美しい。ほどよく盛りあがり、優美な曲線を描いている。ウェストもキュンとくびれて申し分ない。白い下腹に恥毛が色濃く繁っている。夏草のように猛々しい。
抱きかかえるには少し大きな身長だ。肩を抱くようにしてベッドに誘った。
シーツの上に横たえ、僕も裸になる。あかりはつけたまま。はっきりと言葉で言ったわけではないけれど、まり子はむしろ光の中で愛しあうのを好むらしい。
初めは暗かった。次にあかりをつけたまま抱きあったとき「消して」とは言わなかった。キスの最中にもたいてい眼を開いている。視覚も情事に参加する。明快な抱擁がまり子には似あっている。
受け身であったものが、回を重ねるたびにポジティヴになる。もしかしたら愛されることよりも、みずから愛することのほうが好きなのかもしれない。
「あなた、寝て」
愛撫の役割が交替し、僕は眼を閉じてベッドに体を伸ばす。まり子は|餌《えさ》を|貪《むさぼ》る獣のように僕に襲いかかり|昂《たか》ぶって行く。まのあたりに眺めるのは、少し|眩《まぶ》しい。少しつらい。
しかし、結局は男が女に襲いかかる。女は脚を開いて受け入れ、やがて脚をそろえて伸ばす。
「ごめん」
激しい運動は、情事を中断させる。体が離れる。脚を開くところからやり直さなければいけない。とても不都合……。今度はうまくいった。
声が漏れる。
――大丈夫だろうか――
隣の部屋が心配だ。僕は手を伸ばしてFMラジオのスウィッチを入れる。音量をあげる。
――小粋なまり子はどこへ行ってしまったのか――
そんな感慨が頭の片すみをよぎる。女はもうまり子ではないような気さえする。白い、不思議な生き物に姿を変えている。
男が放射する。
女はゆっくりと丘をくだり、
「よかった。ありがとう」
感謝の言葉を述べて、もとのまり子に戻る。
「あの絵、いつ完成するの?」
デスクの|脇《わき》に製作中のデザインがあった。ルナールの“博物誌”を素材にした作品。“蝶――二つ折りの恋文が花の住所を捜している”なんてやつ。
部屋に入って来たときから当然まり子は見ていただろうに、情事が終って初めて尋ねる。
「うーん、もう少し」
「いくつかあるんでしょ、ほかにも。ルナールだったっけ。“博物誌”」
「そう」
「どんなのがある?」
「えーと“蛍――いったいなにごとだろう。もう夜の九時。なのにあそこに灯が……”とか“鯨――コルセットを作る材料はちゃんと口の中に持っている。だけどこの胴まわりじゃあネ”とか」
「おもしろいじゃない。一枚じゃなく三枚か五枚セットにしたほうが迫力があるみたい」
「そうだな」
ワイトモの|洞《どう》|窟《くつ》のツチボタル、ルナールならどう書くだろう。
「タバコちょうだい」
「うん」
まり子はタバコの喫い方も板についている。手の動きが美しい。形のいい鼻孔が紫煙を吐く。
「何時かしら」
「十一時かな」
「そう。シャワー借りるわ」
僕が二本目のタバコを喫い終り、パジャマを着ていると、もうまり子は帰り仕度を終っていた。
「帰るの」
「うん」
「来週は忙しいけど……再来週くらい。連絡するわ」
「送って行こう」
「いい。すぐ前で車を拾うから。さよなら」
掌を顔の脇で振って出て行く。遠ざかる靴音を聞きながら僕はデスクの上のデッサンを見る。
――たしかに一枚より何枚かセットにして描いたほうがおもしろい。しかし、ルナールに寄りかかってばかりいるのは、どんなものか――
どこかで虫が鳴いている。
――ニュージーランドに蝶がいなかったのは本当だろうか――
智代の笑くぼを思い出した。
たった一週間でも休暇を取ると、そのあとが忙しい。智代にふたたび会ったのは十二月に入ってからだった。
土曜日の昼下り。新宿|御《ぎょ》|苑《えん》まで散策の足を伸ばした。日射しは暖かいが、風はもう冷たい。日陰に入ると、はっきりと冬の気配を感ずる。
「むこうは夏のまっ盛りかしら」
「あそこも南北に長い国だからな。南のほうは結構涼しいんじゃないのか。北海道の夏みたいに」
「言葉が逆でしょ。クライストチャーチでポスターを見たわ。海水浴の誘い。“北の海岸へ行こう”って誘っているの」
「北が暖かく、南風が冷たい」
「そう。北向きの家がいいわけ」
智代の手を取り、ポケットの中に入れて握った。
「芝生に入っていけません、なんて、そんな無粋なこと書いてなかったわ」
「人口がちがうからなあ」
「そうねえ」
「ハグレー公園なんか、でかくて、でかくて、本当、はぐれーそうだった」
「しゃれのつもり」
「そう」
「おかしい」
初めは会うだけのつもりだった。だが、やはり抱きたい。智代はとてもエマーブルだ。
「寒いね」
「ええ」
「僕の家に行こうか」
「四谷……でしたっけ」
「信濃町のほうが近い」
黙っているのは承諾のしるしだろう。
「その前に|紀《き》|伊《の》|國《くに》|屋《や》の裏の画材屋さんへ寄って行かなきゃ」
「あ、知ってる。すぐ裏のビルでしょ」
「そう。どうしても今日中に買っておかなきゃいけない色があるから」
「いいわよ」
十二月の街はせわしない。御苑の出口から画材屋に向かう途中でちょっとした事件が起きた。
狭い歩道で、たしかうしろからついて来たはずの智代がいない。十メートルほど戻ってみたが、姿が見えない。
――先に行ったんだろうか――
今度は人の肩をかきわけて、しばらく前まで行き、思いなおしてまた戻った。
――変だな――
とっさに思ったことは、
――帰ったのかもしれない。信濃町へ行くのが|厭《いや》で――
だが、智代はそんな|唐《とう》|突《とつ》の行動を採る人ではない。なんとなくそんな気がする。少なくとも今日はそんなことをしない……。
四、五分捜したあとで僕は画材屋まで急いだ。行く先は告げてある。智代もその店を知っている。僕は今日どうしてもそこへ行かなければならないと、それも智代に言った。
街はもうクリスマスの気配だ。
画材屋の店の奥まで入って捜してみたが、智代はいなかった。時間が過ぎれば過ぎるほど、見つけるのはむつかしくなる。
――どこまで一緒だったろう――
それを考えた。御苑を出て甲州街道へ続く信号を渡ったときは、たしかに背後にいた。はっきりと姿を見たのは、あのときが最後かもしれない。
来た通りの道を戻った。
「ごめんなさい。私、ぼんやりしていたものだから」
信号を渡り、御苑の入口が見えるあたりまで来ると、むこうから智代が|駈《か》けて来た。
「いや、僕もわるい。てっきりうしろから来ると思って」
「前を見たら、いないんでしょ。あちこち捜したけど……」
「でも、よかった」
胸を撫でおろし、画材屋へ向かった。
「今度はしっかりついて来てくれよ」
「大丈夫」
並んで歩くには歩道が細い。
「いないとわかって、すぐにもとへ戻ったわけか」
「そうよ。そのほうが確かでしょ」
画材屋で、番号を指定して赤と黄色の絵具を買った。
――おもしろい――
つい半年ほど前、同じようなことがあった。僕は早足なのだろうか。あのときうしろから歩いて来たのは、まり子だった。
横浜駅近くのホテルで一泊し「山下公園まで行ってみようか」と、そんな相談になった。駅でキップを買い、振り返ると、まり子がいない。横浜駅の構内はひどく混んでいた。JRの改札口、東横線の改札口、それから京浜急行の改札口もある。まり子は自分でキップを買ったのかもしれない、僕は|狼《ろう》|狽《ばい》して捜しまわった。最後に見たのはアーケード街の脇の噴水のところ……。そこに戻り、最後はホテルのロビーまで戻ってみた。だが、結局まり子には会えなかった。
あとで聞けば、まり子は“しまった”と思い、周囲をバタバタと捜したあとで山下公園へ行ったのだとか。
智代を見失って、まず画材屋のほうへ向かったのは、あのときのことが心の底に残っていたからかもしれない。
先へ行くか、あとへ戻るか……。
まり子は、いかにもまり子らしい。戻るよりは先へ行く人だ。待つよりは動く人だ。|些《さ》|細《さい》なことだが、こんなところにも人間の気質は現われる。
――智代は戻って、待つ人らしい――
考えてみれば、それが智代の性格にあっている。智代をよく知っていたならば、まず先に御苑口のほうへ戻っただろう。
「駅から近いんですか」
「うん。まあ、近い。汚いところだよ」
背後に充分目を配りながら歩いた。階段を二つ昇って三〇五号室へ。
「どうぞ」
「お邪魔します」
智代がハイヒールをそろえているすきに、散っているものを片づけた。
「おもしろい、これ」
デスクの上のデザインを指さす。鯨がコルセットを当てている。
「ルナールの“博物誌”なんだ」
本を差し出した。智代は表紙を眺め、それからソファに腰かけて読み始める。
何枚かの絵を見せた。
どうした加減か話題は童謡に移った。
「私、“赤い靴”が好き」
「赤い靴はいてた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった……ってやつ?」
「そう」
「だれの詩だろう。感じが出てるよな、子どものぼんやりとした恐怖感」
「ええ。でも、どうして童謡ってみんな悲しいのかしら」
「昔のは特にそうだ」
「“|叱《しか》られて”なんて、どうしようもなく悲しいでしょ」
「昔の子どもは弱者だったし、一種のソウル・ミュージックなんだな、あれは」
「ああ、ソウルねえ」
話が途切れた。
ソファに並んですわり、智代の手を取った。
「抱きたい」
「困るわ」
「どうしても」
「そんなつもりで来たわけじゃないのに」
「うん。そんなつもりで呼んだわけじゃないけど」
しかし結局は抱きあうことになった。智代は少し|抗《あらが》ったが、僕のほうが強引だった。
「暗くして」
哀願するように言う。
カーテンを引いても、少し明るさが残る。小さな乳房だが、乳首がとてもよく感ずる。愛撫が進むにつれ智代は一つ一つさからう。必死に声を殺す。シーツの端を握りしめて耐える。こらえればこらえるほど女体が理性を裏切る。一層|淫《みだ》らに|蠢《うごめ》く。
恥毛は、やわらかい影のようだ。ひっそりと下腹に繁っている。
体を重ねた。
オークランドの記憶はほとんど消えている。新しい情事のようにさえ感じられる。あらためて智代の特徴を意識した。
女体は薄く、しなやかだ。男の胸の下にしんなりと包まれてしまう。そしてしっかりとペニスを含み込む。
いつまでも余韻を引く情事だった。ふたたび指をそえれば、また激しく燃え立つ体だった。
僕は責められても仕方がない。
冬から春、春から夏、ほとんど交互といってよいほど取り替えて二つの女体を抱いていた。
僕が忘れていても、まり子がほどよい間隔で誘いかける。
まり子と抱きあったあとは、わけもなく智代を確かめてみたくなる。
智代は、
「なんだか変ね」
と|呟《つぶや》き、
「そんなつもりじゃなかったのに」
と抗い、最後は、
「もうこれで終りにしましょう」
と宣告するが、けっして拒み続けることはなかった。
二つの情事には顕著な差があった。それをどう説明したらいいのだろうか。
一つのシンボルがある。そこから同心円を描くようにいろいろなものが広がって行き、いろいろな特徴が現われる。そんな構図を思うのは、僕がデザインに関心があるからだろうか。
シンボルは愛撫のスタイルだ。まり子は僕を寝かせ、手で、口で……全身で愛撫する。それがまり子の好みに|適《かな》っている。蒸気機関車のように、みずから激しく動いて|昂《たか》まって行く。智代はほとんど愛撫に手を貸さない。攻められて抗い、開かれて昂ぶって行く。
そのことが微妙に二人の行動様式にかかわっているように思えてならない。愛撫がシンボルだと言ったのは、そのことだ。
体のシルエットは、はるかにまり子のほうが整っている。バストもウェストもヒップも日本人にしてはめずらしいほどみごとな曲線を描いている。乳房はツンと上を向いて主張し、恥毛はしたたかなものを感じさせる。まり子の体は外に向かって訴えている。
智代は猫のようにしなやかだ。形はなにも主張していない。|闇《やみ》の中でどのようにも形を変え、しないつく。まったくの話、智代の内奥は、どのような角度に対してもしなやかに応ずる。情事を途中で中断する必要はない。浅く、深く、自在に含み込む。
そう言えば、内奥の色まで異っている。まり子は桃色の|薔《ば》|薇《ら》を思わせる美しい色調だ。智代は|妖《あや》しい|淫《いん》|靡《び》さに染まっている。見るためのものではなく、この快楽がどこか地獄に近いところへ通じていることを感じさせる、そんな色合いだ。つまびらかに見たこともない。
まり子の体が、はっきりと形を整え、自己主張を持っているように、彼女自身も明快な人格だ。好きなものは好きだという。厭なものは厭だと言う。最初の情事からしてそうだった。形式はともかく実質的には彼女が僕を誘ったのだ。
「人間て結局エゴイストじゃない」
「まあ、そうだな」
「いろんなこと言っても、大切なのは自分だけでしょ」
「言える」
「人を愛することなんて、できるのかなあって思ったわ」
「うん?」
「でもセックスって、相手がいなきゃ駄目なのよね、原則として」
「うん」
「そこに愛が生まれる余地があるのね。神様って、すごいわよ。自分がよい思いをするために相手を愛さなくちゃいけないのね。セックスってそういうものでしょ」
「哲学だなあ、まるで」
まり子はその哲学のように生きている。智代はこんな理屈を言わない。第一、ついぞセックスのことなど、話題にのぼらない。「そんなもの、この世にありません」と、笑くぼの笑顔はそう告げている。だが、ひとたび情事が始まれば、地の底の火のように熱く燃えたぎり、ドロドロと|熔《と》けていく。けっして暗い性格ではないのだが、どこかにわからない部分が少しある。けっして全部を語らない。全部を知るのに手間がかかる。
「兄弟いるんだろ」
「いるわよ」
「お兄さん?」
「ええ」
「一人?」
「そう」
「お姉さんは?」
「いないわ」
「妹さんがいるのか」
「そう。一人」
「三人兄弟か」
「弟が……」
「いるの?」
「いたんだけど、ずっと小さいとき死んでしまって」
「つまり三人兄弟なんだ」
「そうね」
僕ももの好きだ。同じことをまり子に尋ねてみた。
「兄弟のこと、聞かなかった」
「兄が一人と弟が一人。三人兄弟のまん中。男ばっかりだから、私も男っぽいのよ」
たちどころに全貌を伝える答が返ってきた。
性格が性の仕ぐさに影響を与えるのは当然のことだ。だが、性の構造そのものが、性格とかかわっているのは、僕には不思議に思えてならない。まり子の内奥は、無理なスタイルを受け入れにくい。それは彼女の人格に似ている。智代はどんなスタイルでもしなやかに受け入れる。人柄そのものが、受け身で、うまく適応する。まり子の乳房は男を圧倒するし、恥毛は威圧的でさえある。智代は体型も控えめで、男に自信を与えてくれる。
それから、もう一つ。|淫《いん》|靡《び》な観察だが、二人は性感そのものも異っているのではあるまいか。まり子はクリトリスで感ずる。智代は子宮で|悶《もだ》える。わかりやすい性感、奥深い性感。そのあたりもどこか二人の性格を思わせる。
もうよそう。
まり子に圧倒されたあと、智代に会いたくなるのは、ただの好色ではなく、人間の不思議さに対する興味、そう言ってしまったら自己弁護がすぎるだろうか。
まり子に誘われ、夏の盛りの数日を軽井沢ですごした。もう一年がすぎていた。
「あなた、結婚しないの?」
初めてこの質問を受けた。僕たちはベッドに転がり天井を見つめていた。タバコの煙を吹きあげながら。
「うん。いまに……。もう少し独りでいたいな」
「それもいいわね。新しいことを二つ同時に始めちゃ駄目。デザインをやるならデザイン。結婚をするなら結婚。どちらか一つでなくちゃ」
「そう思っている」
まり子のアドヴァイスはいつも的確だった。商売のセンスもわるくないらしい。
「私、帽子の勉強をしたいの」
「帽子?」
「これから帽子がだんだんはやるわ。今から準備しておけば、ちょうどいいわ」
「男物?」
「ちがう、ちがう。女物よ。広告会社に勤めているくせに、うといのね。これからは女の時代だから、男物の市場はそう期待できないわ。ネクタイでたくさん」
「なるほど」
「昔から帽子に興味があったわ」
「そう?」
「とりあえずネクタイから始めたけれど、一つが落ちついたところで、もう一つやってみたくなって」
「いいんじゃない」
帽子は自己顕示のシンボルだ。まり子にはよくあっている。
――しかし、日本で本当にはやるかな……
僕の見たところ、帽子の好きな女性は、どこか性格に変ったところがある。独りよがりで、ちょっと適応性に欠けるところがある。
「あたし、あなたとはセックスのあい性がいいみたい」
帽子の話のあとに、どうしてこんな話になったのか、わからない。僕は僕で、べつなことを考えていた。
若い男なら、どんな女とだってそれなりにセックスを楽しむことができる。だが、女は少しちがうだろう。
――本当にあい性がいいのかな――
それもまり子の側の独りよがりではあるまいか。あい性ということなら、僕には智代のほうがあっているような気がする。
「今までの人とは、うまく行かなかった?」
「そうでもないわ。そんな大勢じゃないけど。でもどうしても駄目って人、いたわね」
僕は心の中で少し笑った。
それもまたまり子の人間関係と一致するのではあるまいか。つい先日もまり子は新しい店員を首にした。ずいぶん腹を立てていたけれど、そうわるい店員には見えなかった。怒っている理由も少し不当のように思えた。まり子には、どうしても折りあえないタイプがいる……。
軽井沢では毎日抱きあった。
まり子は、そのために僕を誘ったのかもしれない。
僕はといえば、別れを予感していた。
「セックスの行動と日常の行動様式と、どこか|繋《つなが》っているような気がする」
一年の交際の結語として、そのことをまり子に告げておきたかった。
「どういうこと?」
シーツが胸から落ちた。相変らずまり子のバストは美しい。整いすぎて|淫《みだ》らさが足りない。美術館のトルソーを見ているようだ。
「エネルギッシュな人は日常生活でもエネルギッシュだし、淡泊な人はやっぱり淡泊だ」
「そりゃ当然そうでしょ。同じ人間がやることなんだから」
「うん」
思っていることがうまく言えない。もっと微妙な形で繋っている。そう言いたいんだ。まり子の恥毛はまり子にふさわしい。クリトリスの性感は、シャープで、敏速で、明快で、外に向いていて、そうであればこそ、これはまり子の性格に符合している。智代の恥毛は、智代の人がらに似あっている。うっすらと、控えめで……。子宮の性感は、不確かで、不可解で、深く大きな喜びで、内に向いていて……これはやはり智代のものだろう。まり子と智代が、逆のセックスを持っていないのは、二人だけの偶然なのか。それとも女性とはそういうものなのか。人間そのものの特性なのかもしれない。ただ“ベッドでエネルギッシュな人が、外でもエネルギッシュだ”と、そんな当たり前のことではないのだが、それをまり子に話すのは、ためらわれた。
「フランスに行こうと思うの」
僕の予感は当たっていたらしい。
「本当に?」
「ええ。そう長い期間は無理だけど」
「店は?」
「なんとか人にまかせていけるから」
「お別れだね」
「ううん。また会えるでしょうけど……そのときは、おたがいにまた事情がちがっているかもしれないし」
「そうかもしれん」
「だからしっかり抱いておこうと思って……」
まり子はまた僕におおいかぶさって来た。
軽井沢から帰ると無性に智代に会いたくなった。
連絡を取り、二日後に会った。
智代は相変らず|抗《あらが》っていたが、最後には従った。ただ抵抗がいつもより少し強いように思った。歓喜がいつもより薄いように思った。
「セックスの行動と日常の行動様式と、どこか繋っているような気がする」
僕は同じことを智代にも告げてみた。
「なーに、それ」
智代は|眉《まゆ》をしかめる。
「あなたのヘアーとあなたの性格、どこか似てるような気がする」
「厭……そんな」
智代は耳を押さえて立ちあがる。話はそこで終った。
ニュージーランドで聞いた話を思い出す。原住民の女たちは、昼間は男に声をかけられても顔をまっ赤にして恥ずかしがるのだが、夜ともなれば|豹変《ひょうへん》して男に挑みかかるとか。
――それはどういうことなのか――
とりとめもなく僕は考えた。
夏の終りが近づくにつれ、まり子のフランス行きが本物となった。行動は相変らずすばやい。やると決めたことは、きっとやる。フランス語の猛勉強を始めたらしい。
九月の初め、十数人の友人に見送られ、成田からまり子は旅立った。
「ちょっと行って来るわね」
税関の入口で振り返って、両手で投げキッス。にぎやかな出発だった。
そして、もう一人の人……。その少し前から僕は智代に連絡を取り続けていたのだが、いっこうに会えない。
渋っている。
なにかしらはっきりしないものがある。
釈然としない日々が続いたあとで、智代は電話口で静かに告げた。
「ごめんなさい。もうお会いできないの。ちょっと事情が変って」
「なんですか」
「いろいろと……」
「結婚?」
|頷《うなず》いたような息遣いに続いて、
「さようなら。ごめんなさい。楽しかったわ」
そう告げて電話が切れた。
別れも不確かで、智代の恥毛に似ている……。
わけもなく街を歩きたくなった。
外に出ると、空の色が秋に変っている。太陽は南半球へ傾く用意をしているのだろう。日射しはいつのまにかすっかり鋭さを失っていた。
夏は|放《ほう》|恣《し》の季節だ。僕は古い夏から新しい夏まで二人の女のあいだを走っていた。時間もまた大急ぎで一年を走り抜けて行った。
――夏が逃げて行く――
眼をすぼめて秋を待つ街を見た。
海の挽歌
富山駅の改札口を抜けると、背後から、
「いよおッ」
と、威勢のよい声が聞こえ、いきなり肩を|叩《たた》かれた。
垂れ目のサングラスに黒いジャンパー。
十年あまりも昔の風景なのに、このときの|一《ひと》|齣《こま》だけがひどく鮮明に残っている。駅舎は古い建物だった。構内は薄暗く、背中あわせのベンチに旅人たちの影がうずくまっていた。
|南《な》|雲《ぐも》|二《じ》|郎《ろう》は放送局の支局員として富山に赴任していた。大学を出て二年目の春だったろう。
「たまには遊びに来いよ。|田舎《い な か》だけど、なかなかいいとこだぞ。魚がうまい」
高校時代からの友人である。気心はよく知れている。一度訪ねてみるつもりでいたが、うまい機会がない。飛行機の便も少なく、まだ富山は遠方の土地だった。
|直《なお》|江《え》|津《つ》まで行ったついでに足を伸ばした。
「飯は食べたか」
サングラスを|拭《ぬぐ》いながら尋ねる。駅舎を出ると、町はもう暮れかけていた。ビルの背が低い。
「いや、どうせ一緒に食べるだろうと思って列車の中では食べなかった」
「よかった。|鮨《すし》でもつまもう」
知らない町を少し歩いた。西の空だけがかすかに赤い。あのあたりに海があるのだろう。
「変りないか」
「変らんなあ。いつ東京へ戻れるんだ?」
「あと一年。それからまた地方にまわされたら、べつだけど」
「その可能性もあるのか」
「皆無じゃないけど……まあ、大丈夫じゃないの」
鮨屋ののれんをくぐった。
隣が棟続きの魚屋になっている。のれんは新しいが、店構えは古い。けっしてきれいな店とは言えない。
この手の店は、顕著に二通りのタイプに分かれる。“汚いけど、うまい”か、“汚いだけあって、まずい”か、の二つである。
さいわいに、ここは前者のほうだった。
僕たちはおたがいのグラスにビールを|注《つ》いで、久しぶりの|邂《かい》|逅《こう》を祝った。
「一年ぶりかな」
「もっとだ」
「|乾《かん》|盃《ぱい》」
「乾盃」
勢いよくグラスをぶつけて、一気に飲み干す。大きな|笹《ささ》の葉をカウンターに広げて、それが皿のかわりになる。
「|鮪《まぐろ》なんか食っちゃ駄目だぞ」
「どうして?」
「馬鹿だな。鮪は東京が一番うまいんだ。いい鮪はみんな東京へ行く」
「なにがうまい?」
「それ以外なら、なんでも。はまち、|黒《くろ》|鯛《だい》、|烏《い》|賊《か》、|雲《う》|丹《に》……。|鰯《いわし》ある?」
「はい、新しいのが入ってますよォ」
豆絞りの鉢巻きが答える。
「鰯は、あればみんな新しい。古いのは刺身にならん。酢でしめてあるの?」
「いや、なまです」
「じゃあ、それからもらおうか」
南雲はいっぱしの食通になっていた。
「食事はどうしてんだ?」
「ほとんど外食だな」
「自炊もできるんだろ」
「うーん。たまにしかしない」
「だれか作ってくれる人は?」
「あははは」
南雲は|曖《あい》|昧《まい》に笑った。
若い男が地方勤務になると、たいてい現地で親しい女ができてしまう。結婚相手になるような人なら文句はないが、独り身の生活には不自由とさびしさがついてまわるから、不本意な関係もけっして少なくない。別れにくくなる。
東京を離れるときに、
「気をつけろよ」
「大丈夫じゃないの」
そんな話を交わした覚えがある。
あれから一年以上たっている。みんな初めのうちは大丈夫なんだ。しばらくは緊張もしているし、仕事を覚えるだけでも大変だ。環境になじんだ頃……南雲はもうぼつぼつ危い。
「どうだ、うまいだろ」
わがことのように鼻を|蠢《うごめ》かす。
「うまい。初めてだ、鰯を刺身で食うのは」
「今が最高にいいんだ」
ビールから熱い酒に変った。この酒もうまい。
まだサラリーマンになったばかりの頃……。味覚にさほどの自信はなかったけれど、料理はどれもみなうまかった。
「ここの海は悲しいよ」
「そう?」
「見なかったのか、列車の窓から」
「眠ってた」
「波が荒い。じっと耳を澄ましていると沖のほうから細い声が聞こえる。呼んでるみたいに」
「怖いね」
「いや。なにかなって思う」
話題の途切れるのを待って、
「このあいだ、久しぶりに|横《よこ》|田《た》さんに会った」
顔を正面に向け、ゆっくりと|盃《さかずき》を口に運びながら告げた。南雲に会ったらこれを言おうと思っていた。
映画やドラマなら、きっと南雲の顔を|覗《のぞ》き込んで言うところだろう。演出家はそんな演技を要求するにちがいない。だが、僕は南雲の表情を見るのが面映ゆい。
横田なおみは南雲が一番好きな女だ。何度聞かされたかわからない。
だが、なおみのほうは煮えきらない。
彼女も高校のときからの友人だから、南雲に対して一定の親しさは示すのだが、それがなかなか男と女の親しさに育たない。なおみがそれを拒んでいるような気配がある。南雲もだらしない。一か八か、|賭《か》けることができない。様子をうかがっている。なまじ告白などをして友情まで失ってしまうのをおそれている。南雲が地方勤務となり、ますますこの縁は薄くなった。手紙くらいは|繁《しげ》く書いているのだろうが……。
「なんで?」
南雲は盃を持っている手を止めた。
僕は正面を向いているから、南雲の表情はわからない。
「偶然新宿で会って、ほんのちょっとだけお茶を飲んだ。南雲にはわるいけど」
「べつにわるいことはないけど……ありゃ駄目だよ」
今度は首をまわした。南雲は口をゆがめて笑っている。
「可能性、ありそうだがなあ」
「そおう? どうして?」
「なんとなく」
実を言えば、僕はなおみに尋ねてみた。「南雲をどう思っているんだ」と。答は「そうねえ」だけだった。肯定をしたわけではないが、はっきりと否定したわけでもない。あのときの表情だけから判断すれば、六・四で可能性あり、と見た。南雲の押しが足りないんだ。女はそれを待っているのではあるまいか。
「もっと押してみれば」
「|俺《おれ》の気持ちはわかっているはずなのに、避けてるからな」
「そうなのか本当に?」
「まあ、そうだ」
「避けながら待ってるってこともある。さあ、上手に私を誘惑してくださいって……。女って、そういうとこ、あるだろ」
他人のこととなると、僕のコーチも|俄《が》|然《ぜん》|冴《さ》えて来る。
「うーん」
南雲はどっちつかずの表情でつぶやく。
僕の言葉を信じたい。しかし簡単には信じられない経過もある。そんなところだろう。
「おい、腹八分目にしておけ。まだ夜は長いぞ」
「いいよ」
未練はあったが、二つ三つつまんだだけで鮨屋を出た。飲み屋の数は結構多そうだ。
「人口はどのくらいあるんだ」
「三十万に少し足りない」
東京に比べれば、やはり寒い。高い山には雪が残っていた。
「酒ばっかりが強くなる」
南雲はジャンパーのチャックを引きあげながら言う。
「気をつけろよ。心臓が丈夫じゃないんだろ」
「子どもの頃のことだ。こんなところに一人でいたら酒を飲むくらいしかない」
「そうだろうけど」
角を二つ曲って、まずバーに入った。
長いカウンターのあちこちで手をあげる男がいる。|馴《な》|染《じ》みの酒場らしい。カラオケなど見かけない頃だった。流しのギター弾きが入って来る。“黒ネコのタンゴ”がやけにはやっていた。
「これは童謡なのかな」
「童謡じゃないな」
童謡という言葉が、南雲の連想を広げたのかもしれない。奇妙なことをつぶやく。
「俺、このごろ、人魚に凝っているんだ」
「人魚?」
「そう。海辺の町には人魚の話が残っている。昔、いたのかもしれない」
「そりゃ広い海だもん。知らない生き物が住んでいるかもしれんさ」
こっちもいい加減なことを言う。
「まったくだ」
「雌だけじゃ絶滅するな、人魚は」
「雄もいるけど、絵にならん」
このバーには二時間ほどいただろうか。酔っぱらうと時間の経過が速くなる。僕たちは久しぶりにめぐりあって、すこぶる上機嫌だった。どんどん飲めてしまう。
それからホステスの|屯《たむろ》するクラブへ行った。“花”という名の店。
「いらっしゃいませ」
ボックス席が五つ六つある。
ショートカットの女が横にすわった。目鼻立ちは整っているが、健康的すぎる。少しは|妖《あや》しいムードがなくっちゃあ……。
とりあえずビールのグラスを満たしたとき、
「いらっしゃいませ。あら、お友だち?」
と、遅れて現われたのが、南雲の親しいホステスらしい。こちらは|眼《まな》|差《ざ》しが潤むように大きく、髪をアンバランスにまとめて垂らしている。ちょっと妖しい気配。|洋《よう》|子《こ》という名前だった。
――これだな、多分――
南雲の好みは、だいたいわかっている。目がポイントだ。
東京から訪ねて来た友人と知って、洋子はしきりと僕に話しかける。話題そのものはたあいないが、どことなく、
――私は南雲さんと、とても親しいの――
そう主張しているように見えた。
南雲がトイレットへ立ったときには、
「南雲さん、東京にガール・フレンドがいるんでしょ」
とまで尋ねた。
「はい、はい」
僕は二つ返事で、おどけて答えた。少しは|牽《けん》|制《せい》球を投げておいたほうがいい。
「おい、行くか」
「行こう、行こう」
夜の街をさらに|徘《はい》|徊《かい》し、お茶漬けを食べて南雲の部屋へ帰ったのは何時ごろだったろうか。夜半を過ぎていたことだけはまちがいない。
「ああ、酔ったあ」
「久しぶりに飲んだぜ」
二人ともよろけている。
「汚いけど布団はあるぞ」
「かまわん、かまわん」
押入れから引きずり出し、ななめに敷いたまま掛け布団をかぶった。
「明日帰るのかあ?」
「そう。また列車で十五時間。遠いよなあ、まったく」
「昼飯くらいしかつきあえない」
「いいよ。一人で適当に町を見て帰る」
南雲に会って酒を飲むのが目的の旅だった。それができたのだから、なんの不足もない。
翌日は一人で|呉《くれ》|羽《は》山へ行った。|五百羅漢《ごひゃくらかん》を見た。青空の中に立つ白い|立《たて》|山《やま》連峰は、身が引きしまるほど美しい風景だった。
南雲からはなんの連絡もないまま半年が流れた。めずらしくもない。いつものことだ。こっちだって短い礼状を一本書いただけ……。いつのまにか夏が終り、街はすっかり秋らしくなっていた。とりわけ朝はすがすがしい。
僕は会社のデスクで、朝の一服を|喫《す》っていた。
電話のベルが鳴る。
「もし、もし」
「俺だ、俺だ」
南雲の声が聞こえる。
「俺じゃわからない」
と、さからえば、
「南雲だ。夜行列車で着いた。昼飯でもどうだ」
と言う。
「よかろう」
「十二時ごろ、会社へ行く」
「うん、待っている」
時間きっかりに南雲は現われた。
「久しぶり。その節はどうも」
富山ではあらかた南雲にご|馳《ち》|走《そう》になった。どの店もつけで飲むのだから払いようがない。
「出張を命じられてね」
会社の近くの中華料理店へ誘った。ここは店が広いのでゆっくりと話しあえる。一本だけビールを頼んだ。
南雲はつい最近テレビの教養番組を一つ仕上げたらしい。しばらくはその苦労話が続いた。
「富山は薬売りの町だからな」
「うん」
「田舎にはちがいないけど、その関係で早くから大衆の知的レベルは高かったんだ。だって、そうだろ。薬となりゃ化学の知識も必要だし、読み書き|算《そろ》|盤《ばん》もチャンとできなきゃ薬売りはやれない。それに、薬売りは諸国をまわって、情報屋の役割も果たしていたから、視野は結構広かったんだ」
「どんな番組を作ったんだ?」
「薬売りの文化史……ってとこかな」
「東京でも見られるの?」
「無理なんじゃないのか。今にひょっこり取りあげられることがあるかもしれんけど……。あんたのほうは、相変らず絵をかいているのか」
「絵って言うよりデザインだけどな」
「見通しは?」
「暗い」
「あきらめるのは早い。少し飲むか」
とビールをつき出す。
「俺はいい。富山じゃすっかり世話になった」
「また来てくれよ」
「相変らず乱れているのか」
「乱れてる、乱れてる」
「飲んで、歌って……?」
「それだけじゃない。このごろは料理をしてくれる人ができちゃって」
|顎《あご》をスルリと|撫《な》でる。
「なるほど」
きっと、あの潤んだ眼差しの女だろう。
「それは……乱れてるのか、整っているのか?」
「うーん。栄養のバランスから言えば、いい方向だろうけど、やっぱり乱れてる。女は怖いとこ、あるからな、本気になると」
どうやら深入りをさせられてしまったらしい。
「うん?」
「女って少しずつちがうな」
「そりゃそうだろう」
「体のことだぞ」
「うん……」
僕はこの分野について語る資格はほとんど持ちあわせていなかったろう。
「声がいいんだ、彼女は。それから、あのときの表情……」
南雲は照れながら話す。
こんな話をするとき、男はけっして上品な顔つきにはなれない。僕もまた奇妙な表情で聞いていただろう。
デザートのレイシを二つつまんで食事が終った。僕には午後の仕事がある。
「夜、会おうか」
「いいよ、多分」
「なにか予定があるのか」
「ちょっとね。あとで電話をする」
「これからは?」
「本社へはもう顔を出したんだ。|日《ひ》|比《び》|谷《や》で“オンディーヌ”の公演をやってるから、それを見る」
と南雲がしかつめらしい顔で言う。
「芝居?」
「そう。ジロドウの……」
どこかの劇場で、そんな芝居をやっているらしいと、新聞の広告で見た覚えがある。僕にはあまり興味のない世界だ。
「いい芝居なのか?」
「さあ。言ってみれば、人魚の芝居だよ」
「ああ、そうか」
富山の酒場で話していたことを思い出した。日本海は、あの帰り道に列車の窓から見た。低い雲が垂れこめ、悲しいような青の色だった。
――北陸の海には、本当に人魚がいるのかもしれない――
などと馬鹿らしいことを想像した。
人魚は髪をアンバランスに束ね、潤んだ眼差しで男を見あげたりしていて……。
「もう時間だろ」
「じゃあ、電話を待っている」
「そうしてくれ。ここはご馳走になる」
中華料理店を出て左右に別れた。
南雲は肩を揺らしながら立ち去って行く。|公孫樹《いちょう》が黄ばみ始めていた。うしろ姿はすぐに人の群の中に隠れた。
午後遅く会議を終えて席に戻ると、デスクの上にメモが置いてある。
“南雲氏よりTEL。今夜はほかに予定がある由”
と読めた。
「なんだ。会えないのか」
都合がわるいのなら仕方がない。僕は残業をしてアパートへ帰った。一人暮らしの夜は、おおむねスケジュールがきまっている。テレビを眺め、ウィスキー会社のCMにうながされてナイト・キャップの水割りを一ぱい飲んだ。
眠りについてすぐブザーが鳴った。
――夢かな――
目を開けるとノックの音が響く。
「だれですか」
「俺だ、俺だ」
声ばかりか|台詞《せ り ふ》まで昼の電話と変らない。
「俺じゃわからない」
苦笑しながら起きてドアを開けた。
「南雲です」
「なんだ。電話でもしてくれればいいのに」
「タクシーが来たから乗ってしまった。もう寝てたのか」
うしろ手にドアを閉め、靴を脱いでいる。
「ちょうど寝たとこだ」
「いいだろう。まあ、つきあえ」
「もしいなかったら、どうする?」
「そんときは帰るさ」
「女が来ているかもしれないし」
「あははは。そのときはドアの前に立っただけでわかる。なんとなく|匂《にお》って来る」
「なんにもないぞ」
「かまわん。こっちも手ぶらで来た」
ナイト・キャップのグラスがそのままテーブルの上に置いてある。もう一つグラスを出し、冷蔵庫から氷を取って丼にあけた。
「飯が一緒に食えなくて、残念だったよ」
「すまん、すまん。急に予定が入ってしまって」
「結構いそがしいんだろ。たまにこっちへ出て来ると」
「そうでもないんだが……なおみさんに会って来た」
「なるほど。そういうことか」
それなら予定が変更になるのも無理がない。
「だから……すまん」
「仕方ない。あきらめる」
「この水割り、薄いな」
「じゃあ、ウィスキーを注げ」
もともと僕よりは南雲のほうがずっとアルコールに強い。地方勤務でまた手をあげただろう。南雲のグラスはすぐにからになった。
「あれから日比谷に出て“オンディーヌ”を見た」
「昔から、あんた、芝居をちょくちょく見てたもんな」
「うん。好きは好きだけど、今度はちょっとね……。ぜひ見ておきたかったんだ。うまいぐあいに出張を命じられたから……」
「おもしろかった?」
「まあ、普通のできだな。ずっと前にも同じ芝居を見たことがあるんだ」
「あ、そう」
「魔法を使うんだけど、舞台装置がよくないと、ギイギイ音は鳴るし、セットはグラグラ揺れるし……。魔法ってのは、パッと変ってくれないと気分がでないだろ」
「そりゃそうだ」
「その点、今度は金をかけてるから、わりと自然に情景が変る。魔法みたいになる。少なくともそこだけは前よりずっといい」
「どんな芝居なの?」
「ぜんぜん知らない? オンディーヌ、水の精」
「知らない」
「人魚姫は知ってるだろ。アンデルセン童話の……」
「うーん。どうかなあ。だいたいは知ってると思うけど。人魚姫が、遭難した王子を助けるんだろ。すっかり王子に|惚《ほ》れこんでしまい、海底の魔女に頼んで人間の姿に変えてもらう」
「そう、そう。よく覚えてるじゃないか」
「それからどうなる?」
「姿を変えるときの条件として、美しい声を奪われてしまう。だから侍女として王子のもとに仕えていても、なにもしゃべれない、自分が王子を助けたことも、愛していることも。そのうちに王子は隣国の王女と結婚してしまう。人魚姫は人間にもなれず、人魚にも戻れず、そのまま海に身を投じて死んでしまう」
「かわいそうに。人魚姫だけがわりにあわない。“オンディーヌ”もそうなの?」
「ちょっとちがう。登場人物は騎士と水の精だし。水の精が人間と恋をする条件として、もし騎士がほかの女に心を奪われたら、彼は死ななければいけないって、そういう条件が課せられるんだ」
「死ぬのは水の精じゃなく、騎士のほうなんだな」
「そう。裏切り者は死ねってこと」
「もちろん騎士はその|掟《おきて》を知らないわけだ」
「そう。騎士は……ハンスって言うんだけど、オンディーヌと、いったんは仲よく暮らす。だけど、どうも生活のテンポがあわない。結局、ほかの女に心を移す。オンディーヌは、ハンスの命を救うためにも、愛を取り戻さなくちゃいけない。必死になって、愛があった頃を思い出させようとするけどうまくいかない。突然騎士に死が落ちて来る」
「ドラマチックだねえー」
「よくできてる。水界の王はオンディーヌをあわれに思って、ハンスが死んだ瞬間にオンディーヌの記憶を奪ってしまうんだ」
「へえー」
「幕切れの|台詞《せ り ふ》がいい。ハンスは死んでいる。死体を見てもオンディーヌはだれだかわからない。“この、きれいな人、だれなの”って聞くんだ。“ハンスって言うんだ”“まあ、いい名前。動かないけど、どうしたの?”“死んでいるんだ”“あたし、この人、好きだわ。生き返らせてやれないの?”“駄目だ”立ち去りながら“生きてたら、きっと愛したでしょうに”そこで幕が降りるんだ」
「なかなかいい。見たくなって来た」
南雲は四はい目の水割りを作っている。
「好みじゃないのかな、あんたの」
「でも俺、芝居ってのは、なんかなじめないんだよな」
スケッチ・ブックと4Bを取って人魚の像を描いた。髪はアンバランスに束ねて……。しかし、顔は見えないほうがいい。上手に描く自信がない。
「うまい」
「人間と魚の|繋《つなぎ》めがむつかしい」
紙をまるめ、|雑《ぞう》|巾《きん》のようにねじって|屑《くず》|箱《ばこ》へ捨てた。
「“オンディーヌ”はともかく、夜の部のほうはどうだった?」
「なんだ?」
「横田さんのほう」
南雲は部屋に入って来たときから上機嫌だった。なおみと会ったとなると……なにかいいことがあったのではないか。
「ちょっと風向きが変った」
「南風かな」
「少なくとも北風じゃない」
「いいじゃないか」
「まあな」
「どういいんだ?」
「説明はできないよ、こういうことは。漠然とした感じだもん」
「言えるな」
僕のほうが黙っていると、南雲は説明できないはずのことを説明し始めた。
「いつ東京に戻るかって、しきりに聞くんだ。なんか待っているみたい……。“富山へ行ってみようかしら”なんて言うし」
「ふーん」
「七時に日航ホテルで会って“エトワール”へ行った。銀座のレストラン……」
「豪勢だな」
「ちっとは気張らなくちゃ。うまい魚は食べているけど、フランス料理なんか、このところとんと縁がなかった。肉も、うまいことはうまいな」
南雲はひどく|饒舌《じょうぜつ》になり、なおみに会ってから別れるまでの経過を話す。
たしかに少し風向きが変ったのかもしれない。なおみに関しては、ここ数年ずっと嘆き節ばかりを聞かされていた。なによりも南雲自身が事態をポジティブに感じているところがいい。一升|壜《びん》に酒が半分入っているのを見て、
「ああ、もう半分しかない」
と思うのと、
「お、まだ半分残っている」
と思うのと、その程度の差異かもしれないけれど、この二つの違いは大きい。やがて大きな差を生む。
――なおみのほうに、なにか変化があったな――
と僕は思う。きっとそうだ。
人間は多面体だ。いろいろな側面を持っている。南雲が見ているなおみは、そのうちの一つの側面でしかない。きっとほかの側面がある。たとえば、そっちにも親しい男がいたりして……。それがこわれて南雲のほうに風向きが変ることもある。
あるいは、今までなおみは結婚のことなど考えてもいなかったのに、ほかの側面に変化が生じ、少しずつそれを考えなければいけなくなる。当然、南雲に見せていた側面にも変化が生ずるだろう。
だが、こんな観察は少々タチがわるい。南雲の上機嫌に水を注ぐことにもなりかねない。僕は黙って聞いていた。
そのうちに笑いが腹の中にこみあげて来た。
――ずいぶん話がちがうじゃないか――
昼食を一緒に食べたときには、富山の女性のことをしきりに|喋《しゃべ》っていた。ベッドの声がよくって、表情がよくって……。結構のろけていたけれど……あっちのほうはどうなったんだ? ちょっと風向きが変ったら、もうなおみ一色だ。
「南風かどうかわからんけど、とにかくなおみ風に吹かれたことだけはまちがいない」
と言えば、
「そう。なおみ風だな、今夜は」
と悦に入っている。
――まあ、いいだろう――
ずいぶん昔から好きな女だった。南雲は今夜初めていい感触を得たのではあるまいか。なにかしら|手《て》|応《ごた》えがあったのだろう。僕だって、こんなときのぞくぞくするような歓喜はよく知っている。
「眠くなった」
「僕も寝たい」
「家には帰らないのか」
南雲の両親の家は浦和にある。今から帰るのは大変だろう。
「ここで泊まる」
「ベッドとソファしかない。毛布はあるけど」
「このソファじゃ小さいな。いいよ。あるだけの布団と毛布を出してくれ」
「あんたがベッドで寝ろ」
「いい。俺は床のほうが堅くて好きなんだ。背筋が張って気持ちがいい」
ベッドの|脇《わき》に細長い空間があいている。南雲はそこに夏がけを敷き、その上に毛布と布団をかけて寝床を作った。|枕《まくら》はクッションをバス・タオルで巻いて作った。
高さに差はあるが、二人並んで寝転がった。
電気を消しても南雲は喋っている。少し|昂《たかぶ》っている。
「来年の三月にはいよいよ帰ってこれる」
「運が向いて来たね」
「そう。三年くらい知らない土地に行っていると、たしかにいい勉強になる。どっちを見ても知らないことばっかりだし、どの道自分でやるより仕方ないし、|厭《いや》でも一人前になる」
「うん」
少し気がかりなので尋ねてみた。
「昼間言ってた、声のいい人のほうはいいのか? この先、東京に戻って横田さんと仲よくなるとして……」
「声のいい人?」
「そう。あのときの表情がよくって」
「ああ、あれか。うーん、ちょっとやばいかなあ」
「すっかり深入りしちゃったんだろ」
「まあ、そうだな。あっけらかんとしたところもあるんだけど、ちょっと怖いところもある」
「どんなふうに?」
「根が暗い。ときどき変なことを口走る。人魚の話は、初め彼女から聞いたんだ。女の人でいるだろ、いい年してまだ童話が好きみたいな人」
「いる、いる」
「人魚の話をたくさん知ってるから“なぜだ”って聞いたら“私は人魚の生まれ変りだから”って……。冗談だと思ったけど、本気らしいところも少しある。人魚の話ってのは、たいてい人間に裏切られるんだ。それで人魚が|復讐《ふくしゅう》する」
「うん」
僕のほうは眠くてたまらない。なかばまどろみながら南雲の話を聞いていた。時折|相《あい》|槌《づち》だけを打つ。
「“だから……”って、笑いながら言うんだけど、笑い顔がどことなく怖い女なんだよ、あいつは。人の心を読んでるみたいで。“だから、私を裏切ったら、あなた、死ぬわよ”なんてな……。馬鹿らしいけど、なんとなく実感があるんだ。まるで、“オンディーヌ”だな」
最後の台詞は、南雲が言ったことなのか、それとも僕の頭が考えたことなのか、よくわからない。僕はいつのまにか眠り込んでいた。
次に目をさましたときには、南雲は寝息をあげていた。常夜灯でみると笑ったような顔。いい夢を見ているらしい。
翌朝、僕は眠っている南雲を残して会社へ出た。|鍵《かぎ》の隠し場所だけをメモ用紙に大きく記しておいた。
昼近くに電話がかかって来た。
「すまん、すまん」
「あんまりよく眠っていたから」
南雲は今夜両親の家に帰って泊まり、明日の夜行で富山へ帰る予定らしい。時間のゆとりはもうない。あったとしても、きっとなおみのために使うだろう。富山でご馳走になったお返しはできなかったけれど、それを気にしなければいけないような仲ではない。話だけは昨夜のうちにたっぷり交わした。時間がなければもう無理に会う必要もあるまい。
「さよなら、元気で」
「うん。来春を待っているよ。さよなら」
僕は受話器をもとへ戻した。
あの年の秋は短く終って、すぐに冬がやって来た。雪も何度か降ったろう。
南雲からは相変らずなんの連絡もなかったが、なにかの折にひょいと南雲のことを思っては、
――うまくいってるな――
と考えた。
確信といってよいほど確かな想像だった。うまくいっている……その中身は、なおみとのことである。僕には、わかるのだ。霊感、かな。
うまくいっていなければ、なにかしら僕のところへ言って来るにちがいない。この件に関しては百パーセント“便りのないのが、よい便り”なのだ。
正月休みは、暮れのうちから僕はスキーに出かけてしまい、帰京した南雲に会うことができなかった。スキーから帰ってほかの友だちに|噂《うわさ》を聞くと、
「南雲のやつ、なんだかいそがしそうだったぞ」
これもわるい兆候ではない。年末年始の休暇を利用して精いっぱいデートを楽しんだにちがいない。
――ただオンディーヌのほうは、どうなんだ――
その女に僕はたった一度会っただけだが、どこか暗い、ねっとりしたものを感じさせる人だった。顔立ちはほとんど忘れたが、人柄についてはそんな印象が残っている。南雲が、
「別れよう」
と言っても、そうたやすく別れてくれる人ではあるまい。そんな気がしてならない。
南雲となおみのあいだが順調に運んでいるだろうと、その想像が確かに感じられるのと同様に、
――富山方面じゃ|一悶着《ひともんちゃく》起きているな――
と、これも目の前の出来事みたいに確かに感じられた。
――あの女なら――
そうでなければ、おかしい。
そんな頃、日比谷で“オンディーヌ”再演のポスターを見て、ふと|覗《のぞ》いて見る気になった。
――芝居を見るのなんて何年ぶりだろう――
少なくともサラリーマンになってからは初めてだろう。
見れば、見たで勉強になることもある。なにかを勉強するために芝居を見るわけではないけれど、舞台のデザインにはいくつかおもしろい趣向がこらしてあった。
芝居そのものは……|台詞《せ り ふ》まわしに、もってまわったような難解さがある。役者の責任ではなく、ジロドウという作者の特徴らしい。パンフレットを読んで、そう理解した。前半は少々退屈したが、幕切れには感動を覚えた。
――人の世の愛とは、こんなものかもしれない――
ぼんやりとそんな感想を抱いた。失ったものは、もとへ戻らない。タブーを犯した罪はあがなわなければいけない……。
いつまでも物語の骨子が心に残った。人魚姫の話も、“オンディーヌ”も、物語の|衣裳《いしょう》をかぶっているが、世間にざらにあることではあるまいか。|厭《いや》でも南雲のことを考える。
二つの世界がある。異った世界の男女が、たまたまめぐりあって愛しあう。しかし、その愛はけっしてうまく運ばない。二人の属する世界があまりにもちがっていすぎるから……。女はそれでもひたむきに愛そうとするが、男はもとの世界へと戻って行く。いったんは異界の女に心を奪われたとしても、やがては本来の自分を取り戻す。男は、育った社会を捨てきれない。
ついに破局がやって来る。タブーを犯したものは、それなりの罰を受けなければいけない。人魚姫は入水し、ハンスは死んだ。
――南雲は大丈夫かいな――
頭の片すみでそんなことを思わないでもなかった。
長い冬が終り、春が|萌《も》え始める頃、南雲は地方勤務を終えて東京に帰って来た。
「歓迎会をやろう」
「大げさなことは、いいよ」
「じゃあ六、七人の仲間で」
「うん。しかし、ここしばらくはいそがしい」
「わかる、わかる」
高校時代の親しい仲間が集って南雲の歓迎会を開いたのは、五月に入ってからだった。
なおみも姿を見せた。二人はさりげない様子を装っていたが、そのコンビネーションのよさが、かえって二人の仲の親密さを示している。酒場から酒場へ、二、三人群を作って動く。
「うまくいってるらしいな」
小声で南雲の耳に|囁《ささや》いた。
「うん、うん」
南雲は|頷《うなず》く。
「富山のオンディーヌは……いいのか」
「よくはない。弱ってる」
「どう弱ってる?」
「泣きつかれた。このあいだも東京へ出て来た。確定的なことは、なにも言ってないけど、なにか感じているらしい」
「はっきり言ったほうがいいだろ」
「ただじゃ、すみそうもないしなあ」
「殺されるぞ」
「本当、本当」
南雲は首をすくめて笑った。目下のところは、なおみ風。頭の中に、ほかのことはないらしい。
それから数日たって僕の部屋の電話が鳴った。
「もし、もし」
「俺だ、俺だ」
「俺じゃわからない」
「南雲だ。今、ホテルからかけている」
南雲は赤坂のシティ・ホテルの名を告げた。
かすかに水音が漏れて来る。バス・ルームの音だ。女がバスを使っているのだろう。きっとなおみがいるのだろう。
「わかるか」
「見当はつく」
「男子の本懐だ」
南雲は古めかしい言葉を言う。
「おめでとうって言うべきかな」
「まあな」
あまり趣味のいい電話ではない。なおみが知ったら怒るかもしれない。とはいえ、南雲はよほどうれしかったにちがいない。ひとこと僕に報告しておきたいと思ったのだろう。この無邪気さが南雲の取り柄だった。
僕たちは二十六歳になっていた。当然なおみも同じ年齢になっている。世間の習慣に従えば女は結婚を急いだほうがいい。
――秋あたりかな――
僕は漠然とそんなことを思った。
しかし、この想像には実感が薄い。ピンと来ないところがある。そう思ったのは、なぜだったろう。
それからまた数日たって、朝まだき、電話のベルで起こされた。
「南雲です」
今度は「俺だ、俺だ」ではなかった。
「南雲です。二郎が昨夜突然死にまして……」
「本当ですか」
言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「はい。心臓の発作です」
南雲の父親からの電話だった。
文字通り突然の死だったらしい。昨夜遅く……といってももう今日の早朝だったろうが、南雲は例のごとく酒を飲んで家に帰って来た。それほどの酔いではなかったらしい。
家族はみんな眠っていて、南雲を迎えた者はいない。そのときはどんな気分だったのか。
南雲は風呂に入った。
十一時頃に妹が入浴し、温かいお湯が湯船を満たしていた。熱湯を少し加えれば、充分に入れる温度だったろう。
いったん湯船につかったが、急に気分がわるくなったらしい。濡れた体のまま外に出て来て下着をつけ、眠っている母親を起こした。
「ちょっと苦しいんだ」
はっきりと|苦《く》|悶《もん》の表情が表われている。
「どこがひどいの?」
「胸が締めつけられるみたい」
母親が知りあいの医師に電話をかけているうちに、ますます苦しそうになる。救急車を呼んだ。弟を近所の医者に走らせた。
激しい発作が始まり、全身が|痙《けい》|攣《れん》を起こした。
「しっかりしろ」
家族は揺すったほうがいいのか、それとも静かにしておくべきかわからない。さらに激しい痙攣が走り、たちまち顔色が変った。
息がない。鼓動は……気が動転して脈を計れない。人工呼吸をした。胸のあたりをさすった。
医師たちが来たときには、すでに、死は歴然としていた。専門家の人工呼吸もカンフル注射も命を|甦《よみがえ》らせることができなかった。
「まいったなあ」
僕はその言葉だけを吐き続けた。通夜のときも、葬儀のときも、三十五日の法要のときも……。そして、それからあともずっとしばらく同じ言葉を独りごちた。
両親の嘆きは一通りではなかった。なおみの悲嘆は僕だけが知っていることだったろう。
みんなを慰めたあとで、僕の悲しみがポッカリと残った。これはだれも慰めてはくれない。
――ご両親やなおみに比べれば、取るに足りないものなんだし――
それでもやはりかけがえのないものを失ったような痛切な痛みを覚えた。電話のベルが鳴ると、
「俺だ、俺だ」と、|半《はん》|間《ま》の声が聞こえて来ることを思った。
それから四年たった。
記憶がなにもかも過去に沈んだ頃、僕は富山市へ所用で赴いた。今度は飛行機で入った。数年前の長旅が|嘘《うそ》のような短い道のりだった。
かすかに釈然としないものが胸の中に宿っている。夜の|帳《とばり》が降りるのを待って“花”を捜した。電話帳にその名はない。
うろ覚えの記憶で町を歩いて、店の位置をつきとめたが、そこは“テル”という名に変っていた。それでもドアを押した。
「いらっしゃいませ」
中の構造には覚えがある。
「水割りがほしい」
「はい……。今日は寒かったわね」
「また冬が来るな。雪は大分積もるの?」
「初めて?」
「うん」
「富山じゃないの、お客さん? 東京から?」
「そう」
世間話のあとで尋ねた。
「前、ここは“花”って店だったろ」
「ええ……。そうみたい」
「洋子って人がいたんだが……」
「その人、捜しに来たの? すごいじゃん」
「だれか古いこと、知ってる人、いないかな」
カウンターの中にいたチーフが席にやって来て、
「もしかしたら“ラ・メール”のママかもしれない」
と言って地図をかいてくれた。そう遠い店ではないらしい。
水割りを二はい飲んで外へ出た。
――行ってみようか――
風が冷たい。海の匂いをかいだように思ったが、気のせいだろう。海の香りがここまで届くはずがない。
ちょっと迷ったが、細いネオン管で“ラ・メール”と記した店を見つけた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
客はだれもいない。
ベレー帽をかぶったチーフがいる。
――ちがったかな――
高い|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
小用にでも立っていたのか、奥のドアが開いて、和服の女が現われた。
――この人だろうか――
似ているけど、少しちがうような気もする。
アンバランスに髪を束ね、眼差しに特徴があった。そんな記憶が残っているのだが、なにしろちょっと会っただけの女だ。今は髪型もちがっている。
「なんにしましょう」
「薄い水割り」
女はカウンターのすみに立ったままでいる。僕の顔を知っている様子はない。
しばらくは黙ってグラスを傾けた。
「ママさんは“花”って店にいなかった?」
一メートルほどむこうに向けて声をかけると、ようやく女は一、二歩近づいて来て、
「ええ」
と言う。
「洋子さん?」
「そうよ」
「じゃあ、僕を知ってる?」
女は下から|掬《すく》うように見つめる。近視の眼差しだ。
どことなく印象がちがっている。本当に昔会った人なら、頭の中にイメージを浮かべることはできなくても、会えば思い出す。ピンと来るものがないのは別人なのかもしれない。
女は首を振った。
「南雲二郎……?」
女の表情に変化はない。
「お客さん、南雲さんて言うの?」
「南雲は俺じゃない。昔、そいつと一緒に“花”へ行った。そこであなたに会ったような気がしたから」
「ごめんなさい。お客さん、大勢いたから」
「うん」
チーフはさりげない様子で僕たちの話を聞いている。
――この二人は夫婦かな――
夫婦ではないとしても、関係は充分にありそうだ。なにかしら意味ありげな気配を感じた。
――女はこの男を気づかって、知らんぷりをしているのかもしれない――
グラスをからにして店を出た。
「ご|馳《ち》|走《そう》さん」
女はドアのところまで送って来た。いつかの女はもう少し背が高かったような気がする。
ネオンの路地を歩きながら、
――南雲の写真があればよかった――
と思った。
それを女に見せる。すると、女がつぶやく。“オンディーヌ”の幕切れのように……。
「だれなの? 生きてたら、きっと愛したでしょうに」
苦笑が|湧《わ》いて来る。現実はドラマのようには演出が行き届かない。鮮やかな幕切れを期待するのは無理だろう。
タクシーを拾って、
「海は遠いの」
と尋ねた。
「遠かあないけど……」
「じゃあ、行って」
二十分ほど走った。
堤防を越えると、ただ黒いだけの海があった。|漁火《いさりび》さえもない。薄闇の中に白い波が歯をむき出し、冬の声を|轟《とどろ》かせていた。
耳をすますと、かすかに海の生き物たちの声が聞こえる……。そう思った。突然、砂浜のブッシュが揺れ、野犬の群が魚の|死《し》|骸《がい》を争って|駆《か》けて行く。それが遠ざかると、あとはまた黒い海だけになった。ゆるい坂道を登って車に戻った。
もう何年たったのだろうか。記憶はなにもかも、すっかり風化してしまった。それでも僕は“富山”という字を見ると、南雲を思い出す。今でもしつこく考える。
先週、北陸の海で、女のバラバラ死体があがった。新聞がそう告げている。次々に頭と胴と腕とが発見された。
わけもなく、それが洋子ではあるまいかと想像した。なぜなら……いっこうに下半分が見つからないから……。
――人魚なら、それも当然だな――
野犬たちが魚の死骸を争って駆けて行く……。思いがけないご馳走にありついたのかもしれない。
シェルティを見た日
見合いをしたことがあった。
話を持って来たのは先輩の|影《かげ》|山《やま》さんだ。影山さんは銀座の文具商に勤めていて、僕が画材を買うときいつもお世話になっていた。つまり、値段を安くしてもらっていた。あの頃は、特にそうだった。
「|俺《おれ》、他人の幸不幸には、あんまり関係したくないんだけどさァ」
エゴイストを装っているけれど、根はとても温かい。やさしさが表面に現われるのを恥じているらしい。
「はあ」
「女房がちょっと話してみてくれって言うんだ」
「はい……?」
体験のないことだから、こっちもどう対処していいかわからない。毛嫌いするほどのことではあるまいと考えた。
くわしい話は影山さんの奥さんから聞いた。
「ほんのご紹介するだけよ。むこうも軽い気持ちでって言ってんですから、ぜんぜん負担に感じなくてかまわないの。|厭《いや》なら遠慮なく断ってくださいな」
短大を卒業して間もないお嬢さん。三人兄弟のまん中で、兄と弟に挟まれている。趣味は音楽鑑賞と読書。習いごとは華道。ポートレートは、細面で、まあ、ごく普通の容姿のように見えた。
「これよりきれいかしら」
奥さんは首を|傾《かし》げながら言う。
女性が、他の女性の容姿について評価するとき、それが男性の物指しとあっているかどうか、これはなかなかむつかしい問題だ。
男性同士ならおおむねあっている。大勢の中には特別な趣味の人もいるけれど、男が、
「彼女、きれいだね」
と言ったときには、他の男も、
「まあ、そうだな」
と、たいてい納得ができるものだ。
ところが、女が、
「彼女、きれいね」
そう言ったときには、要注意。もちろん本当にきれいな場合もある。なにか含むところがあって、本当はきれいだと思っていないのに、そんな言い方をする場合もある。だが……これはまだ前後の事情から発言者の本心を判断する方法もある。審美眼のちがいではない。
一番厄介なのは、
「彼女、本当にきれいね」
心底からそう思っているにもかかわらず、男が会ってみると、
「どこがきれいなの?」
と首を傾げたくなるケースである。
だれもがこんな経験を一度や二度踏んでいるのではあるまいか。物指しの当て方が少しちがうのだろう。
影山さんの奥さんは、その点、なんとなく男の物指しを知っていそうな、そんな人柄に見えたけれど、お世辞のうまそうなところもあるから油断はできない。それに……そう、そう、もっと大切な問題もある。
――顔だけが人間の価値じゃあるまいし――
これは本当だ。若い僕も少しはそのことを知っていた。
「性格はやさしいし、おつむもいい人よ」
奥さんの熱心な勧めもあって、とにかく会ってみることにした。
「いつがいいかしら。あんまり先ってのも、間のびしちゃうわね」
「まあ、そうかな」
影山さんが|頷《うなず》く。
「お休みの日がいいでしょ」
「はい」
「来週か再来週の日曜日?」
「来週は会社の旅行があるし、再来週の日曜は……夕方から友だちに会うし」
「午後はあいているんですか」
「あいてます」
「じゃあ、それでいいじゃない。そんなに長くかかるものじゃないわ。三時くらいに会って、せいぜい二、三時間」
「結構です」
そばから影山さんが、
「女のほうは“試し”ってのがあるから、気をつけろよ」
と、からかった。
「なんですか」
「まるでその気はないんだ。おもしろいからちょっとやってみるかって、そのくらいの気分で出て来る」
「はあ」
奥さんが反論をして、
「彼女はそんなんじゃないわ。わりと熱心に捜しているのよ」
「そりゃ、あんたにはそう言うさ。でも二十一歳だろ。とても真剣に考える年齢じゃないよ」
「いいですよ。こっちもわりと軽い気分ですから」
僕は二十七歳になっていたけれど、結婚のことなどほとんどなにも考えていなかった。広告会社に勤めながら、
――デザイナーとして独立したいな――
などと|暢《のん》|気《き》なことを考えていた。
“試し”ということなら、僕のほうがよほどそんな気分だったろう。
場所は影山さんの家で。軽くサンドウィッチなどを食べながら、という手はずになった。
「俺は|厭《いや》だよ、立ちあうのは。予定もあるし」
と影山さんは渋る。
「あなたはいなくてもいいけど……最初にちょっと見るくらい、どう? 若い娘、好きなんでしょ」
「うーん。|挨《あい》|拶《さつ》くらいしてから出るか」
「いつまでもいるのは、かえって邪魔よ」
「とにかく負担には思わないでくれよな」
影山さんの家は、|井之頭《いのかしら》公園の近くにある。親譲りの古い屋敷。その日はとてもここちよい|秋《あき》|日《び》|和《より》だった。十一時過ぎに起きて、
――そうか、今日は見合いか――
記念すべき一日になるのかもしれない。シャワーを浴び、|髭《ひげ》を|剃《そ》った。
――やっぱり背広がいいのかな――
いくら“軽い気分で”と言われてもカジュアル・ウエアーでは失礼だろう。いかにもサラリーマンらしい服装で行くことにした。
「あんまり天気のいい日に女に会っちゃいけないよ」
そんな|台詞《せ り ふ》を外国映画で聞いた覚えがある。古いフランス映画だったろう。ジュリアン・デュヴィヴィエかもしれない。天気がいいと気分が|爽《そう》|快《かい》になる。女が二、三十パーセントくらいよく見える。あとで雨の日に会って、
――なんだ、こんな女か――
|愕《がく》|然《ぜん》としてしまう。そんな論理だった。
まさかそれほど極端なことはあるまいけれど、あの日は、
――なにか特別なことが起きてもいいんじゃあるまいか――
そう思わせるほど、すがすがしい空の色だった。
約束の時間より三十分前に影山さんの家についた。
「ご苦労さん。張り切ってるな」
「ええ。よろしくお願いします」
しばらくは影山さんの部屋で雑談を交わした。二人の子どもは、どこかへ遊びに行ったらしい。あらかじめそんな手はずになっていたのかもしれない。
「結婚には二通り考え方があるからな」
「そうなんですか」
「うん。年中ベタベタ一緒にいたいのと、週二日制くらい、土日だけ仲よくして、あとはそれぞれの生活をやっているようなのと」
「一生ベタベタってのは、めずらしいでしょ」
「ベタベタは言いすぎだけど、おたがいに一心同体みたいにもたれあっているようなタイプと、いくらか個人の部分を残してやって行こうというタイプと、二つあるな」
「僕はあとのほうかな」
「そうらしい。心から女を必要としているタイプじゃないな」
「そうでもないですよ」
「ただ好色なだけだ」
「それは言えるかもしれません」
玄関のブザーがなり娘さんが到着したようだ。奥さんに呼ばれて影山さんが椅子を立った。
座敷のほうで話し声が聞こえる。奥さんの声がひときわ高い。結婚は女が好きな行事である。だから見合いのときも気が弾む。
「用意ができたらしいぞ」
影山さんがのぞいた。
「はい」
座敷に入ったが、だれもいない。台所のほうにいるのだろう。すぐにドアが開き、
「じゃあご紹介します。|桜沢良子《さくらざわよしこ》さん」
奥さんの声が響いて、うつむき加減の女が現われた。
僕はお辞儀をしながら名を名のった。
――意外に背が高いな――
それが第一印象だった。肌は浅黒い。やはり面長の顔だ。眼がつぶらで、こんな顔の洋犬がいる。相手は少し緊張しているようだ。それを見て、
――ああ、そうか、緊張しなくちゃいけないんだ――
と僕はあわてて思った。
――場ちがいなところへ来ちゃったかな――
そんな感じがなくもない。
見合いというものは……もう少し|真《ま》|面《じ》|目《め》な生活をやって来た人にふさわしいのではあるまいか。
僕は、とりわけ不真面目な生活ではないけれど、学生時代からずっとアパートで一人暮らしを続けている。生活時間は乱れているし、いろんな女性と親しくして来た。浅い関係ばかりではない。
ある日、突然口を|拭《ぬぐ》って、ずっと年若い娘さんに会い、
「ご趣味はなんですか?」
大真面目で儀式めいた会話を交わすのは、ちょっと面映ゆい。
「じゃあ、俺は失礼する」
影山さんがあたふたと出て行ってしまう。奥さんは台所。二人だけになってしまった。こちらが話しかけなければ、むこうはなにも言わない。すぐに口頭試問のような調子になってしまう。
テーブルにはコーヒーとサンドウィッチ。奥さんが現われて、少し話が弾んだ。
とはいえ、おおむね僕と奥さんとが話していただろう。
年齢よりは少し年かさに見える人だった。見かけは二十四、五歳くらい。写真よりきれいと言うのは、本当かもしれない。デッサンは整っている。
しかし、あえて言えば、表情に躍動するものがない。彼女自身ずいぶん堅くなっているのだろうが、それだけではないような気もする。
八十点の器量を九十点にまで見せてしまう人と、逆に七十点までさげてしまう人とがいる。これはメンタルな問題だろう。年齢とも関係があるのかもしれない。
――この人はせっかくのデッサンを生かしていないな――
石彫でも見るように僕はそう判断した。
それでも相手の緊張をほぐし、できるだけ自然な姿を見ようと努めた。つまり、“今は本当の顔じゃない。普段はもっと弾んでいる。それを見たい”と考えたけれど、なかなかそれが現われてくれない。|垣《かい》|間《ま》見えて来ない。となると……前提そのものがまちがっているのかもしれない。つまり“これが本当の顔なのだ”となってしまう。
指先のきれいな人。サンドウィッチをつまむ手を見てそう思った。
それ以外は……なにを話したのか。
「公園に行ってごらんなさいよ」
軽い食事が終ったところで奥さんが勧める。
たしかに部屋の中にばかりいたのでは気づまりでいけない。さわやかな秋日和の中に立てば、相手も弾んだ姿を見せてくれるかもしれない。
「じゃあ、出てみますか」
「はい」
|屠《と》|殺《さつ》場に|駈《か》られる小羊のように|頷《うなず》く。小羊にしては少し体が大きかったけれど……。
「どう行くんですか」
「知らないの。あなた知ってるわね」
こっくりと頷く。
彼女の案内で井之頭公園まで歩いた。ここはとても木立ちの深い公園だ。|武蔵《む さ し》|野《の》の面影が残っている。
「まだ結婚するには少し早いでしょう」
一歩ほど遅れてついて来る相手に告げた。表情が見えない。
「はい……」
|曖《あい》|昧《まい》に|呟《つぶや》いたあとで、
「でも、お友だちには結婚した人もいますから」
と言う。
「もう?」
「ええ」
周囲の景色を眺めるふりをして様子をうかがった。表情の中に戸惑いが見える。
――嫌われたみたい――
彼女はそう考えているのかもしれない。
つまり、僕が「結婚するには少し早いでしょう」と言ったのは、「もの足りませんね」という言葉の|婉曲《えんきょく》な表現と取られても仕方がない。それほど強い意味で言ったわけではないけれど、そんな気分が僕のほうにないでもなかった。彼女がそう考えるのも無理はない。
彼女は、もしや、
――好かれるか、嫌われるか――
そればかりを気にかけてやって来たのかもしれない。さっきからそればかり考えているのかもしれない。そんな様子が見え隠れしている。
――僕なんかにどう思われたって、どうってことないんだけどなあ――
それがわかるにはまだ少し彼女は若過ぎる。
「あ、犬」
鎖を解かれた犬が一匹、威勢よく走り寄って来た。毛の長い中型犬。鼻先が長い。
――この犬に似ている――
とっさにそう思った。
彼女も犬のほうへ走り寄る。
犬は跳びつき、じゃれつく。女の表情が初めて自然なものに変った。
「コリーかな」
「いいえ。シェルティです」
「へーえ。シェルティって言うの。くわしいね」
「家でも飼ってますから」
「この犬?」
「はい。コリーの小型なんです。シェトランド・シープ・ドッグ」
「羊を追いかけている犬かな」
「はい」
首筋に白い襟巻きを巻いた美しい犬だ。
飼い主が追いかけて来て、
「こらっ、駄目でしょ」
と|叱《しか》る。
犬は鎖に|繋《つな》がれ、走り去って行く。
「犬と猫と、どっちが好きですか」
僕が月並みなことを尋ねた。
「犬です」
きっぱりと言う。この日一番明解な答だったかもしれない。
「どうして?」
「正直ですから」
「猫はずるいかな」
「はい……。犬、きらいですか」
「いや、きらいじゃない。ただ飼ったことがないから」
「うち、子どものときからずっと犬がいましたから」
犬の|行方《ゆ く え》を捜すように視線を送る。彼女は男よりもまだ犬、なのかもしれない。
「きれいな犬だね」
「このごろはやっているんです」
「あれで成犬?」
「はい。だいたいあのくらいの大きさなんです。十キロくらい……」
話はそこで途切れた。
日曜日のせいもあって公園の中心部は相当に混みあっている。とりわけ池を渡る橋のあたりはひどい。
「戻りますか。混雑してるから」
「はい」
下手なことを言うと、また、
――嫌われたみたい――
と思われかねない。「戻りますか」も、そう取られるかもしれない。こうなると、なにを言っていいかわからない。
ゆっくりと今来た道を戻った。
「お花を習っているって書いてあったけど」
「はい。まだ下手なんです」
「あれ、なんて花だろう」
繁みに咲いている黄色い花を指したが、
「なにかしら」
と当惑している。犬ほどの自信はない。
よほどむつかしい花を尋ねたのだろうか。こんな質問も彼女の心にはネガティヴに響くかもしれない。
「しかし、いい天気だ」
「好きです、秋って」
「春より好き?」
「春も好きですけど」
二人で空を仰ぎながら歩いた。
「どうでした」
玄関を通り抜けると、奥さんが笑いかける。
「ええ、人がいっぱい出てましたよ」
「日曜日だから」
足音が背後で止まった。
「あの……今日はこれで失礼します。よろしいでしょうか」
「お茶くらい?」
「ええ。でも……いいです」
「疲れちゃった?」
「そんなことありません」
一刻も早く緊張の場を去りたいらしい。
「そうね、じゃあ」
僕も一応挨拶をしなければなるまい。なんと言えばいいのか。ふりむいて、
「さよなら」
とだけ|呟《つぶや》いた。「ご苦労さま」もおかしい。「楽しかった」は言いすぎになりかねない。
奥さんが門の外まで送って行った。時計を見ると四時をまわっている。
――今夜は|達《たつ》|川《かわ》と会うんだ――
と次の予定を思い出す。
達川は高校時代の友人である。はやばやと結婚して|桐《きり》|生《ゆう》に住んでいる。久しぶりに会い、今夜は、きっと痛飲することになるだろう。
サンダルの音が聞こえ、
「えへへ。ご苦労様でした」
と奥さんが戻って来た。
「僕も失礼します」
「お茶くらい、どうですか」
「ええ。でも、いったん家に帰って……夜、友だちと会う約束がありますから」
「そうなの。じゃあ……」
それからおもむろに僕の顔をのぞきこみ、
「どうでした、感想は?」
と聞く。
「まだ早いみたいだなあ」
「そうね。でも、いいお嬢さんでしょ。すなおで……。緊張して、すっかり疲れたみたい」
「そうですね。あとでお電話をします。少し考えて」
「そうしてくださいな」
即答を避けたのは、なぜだったのか。きっと見合いというものがよくわからなかったから……。どのくらいの満足を感じたときに「イエス」と言うべきなのか、そのあたりを計ってみようと考えたからだろう。
しかし|吉祥寺《きちじょうじ》駅に出て電車に乗る頃になると、今しがたの出来事はほとんど意識から消えていた。
考え続けていれば、よい思案が浮かぶというものではない。むしろほかのことを考える、そして、もとの思案に戻る。その瞬間にふわりといい知恵がひらめくことがある。
高架線の窓から見る町は、地平線のあたりまでぎっしりと屋根で埋まっていた。それぞれの屋根の下に、きっと男と女が暮らしているにちがいない。
――人はなぜ結婚をするのかな――
とりとめもなくそんなことを考えた。
達川とは|紀《き》|伊《の》|國《くに》|屋《や》書店の裏の喫茶店で会った。そこがいつもの待ち合わせ場所だった。
「久しぶり。どう?」
と、僕はラケットを振る仕ぐさを示した。
中学生の頃、僕たちは校庭のすみでほとんど毎日のようにテニスのラケットを振っていた。
「やらん、やらん。こっちばっかりだ」
達川はゴルフ・クラブを振る仕ぐさを返す。シングルに近い腕前のはずだ。
「どこへ行く?」
「ちょっとつきあってくれよ。|東中野《ひがしなかの》で遠い|親《しん》|戚《せき》のもんが飲み屋をやっているんだ」
初めて聞く話だった。だが東京には各地の人が集っている。達川の親戚の一つや二つあってもなんの不思議もない。
「いいよ」
「駅の近くなんだ」
タクシーを走らせた。
日本閣のネオンが見えた。それから少し迷った。正確な位置はわからない。車が止まったのは飲み屋の多いところだから東中野|界《かい》|隈《わい》の盛り場なのだろう。電車の響きも聞こえた。
カウンター|割《かっ》|烹《ぽう》の店。奥に座敷が一つある。
「正ちゃん、待ってたのよ。わかった?」
赤いエプロンの女。この人が女主人らしい。
「うん。なんとか」
数人の客の背を|蟹《かに》が|這《は》うように横に歩いて座敷へあがった。
「まずビールだな」
「ああ」
「それから酒だな」
「うん」
達川と飲むときはいつも飲み物はきまっている。この手の店ではビールと酒。場所を替えて水割りを飲む。
「料理は適当でいいよな」
「おまかせ」
座敷の奥は家族の住居になっているらしい。
「今晩は」
若い娘がやきとりの皿を持って障子を開けた。
「よおッ、大きくなったね。この前会ったのは、伯父さんの三回忌だから……二年ぶりか」
「三年たちます」
話しっぷりからこの家の娘らしいと見当がつく。
達川が僕を紹介する。
「よろしく」
軽く頭をさげると、
「|緑川幸美《みどりかわゆきみ》です」
と相手は丁寧に畳に手をついて頭を垂れた。
とても色が白い。肩幅は|華《きゃ》|奢《しゃ》に見えるほど狭いが、胸は高く|脹《ふく》らんでいる。
「飲めるんだろ」
「ううん。駄目よ。赤くなるから……。じゃあビールだけ」
「短大は?」
「もう卒業したわよ」
「英語がうまいんだ、この人」
と、娘を|顎《あご》で指す。
「|嘘《うそ》よ。いい加減なこと言わないでくださいな」
それからしばらく三人で飲んだ。障子があいて料理がつぎつぎに運びこまれる。
――同じ年頃かな――
僕はさっき会った娘を思い出さずにはいられない。
――ずいぶん体型がちがうものだな。こちらはむく犬かな――
当たり前のことに感じ入っていた。
あの人は大がらだった。この人は小さい。あちらは肩が張っていて、平べったい印象だった。こちらは幅はないが厚みがある。一方は浅黒く、一方は肌白い。
――性格もきっとちがうんだろうな――
一つは、もの静かで、どことなく暗い感じ。一つは、さばけて明るい感じ。しかし、片方は見合いの席なんだし、片方は親戚の男と一緒の酒席である。同等には論じられない。
――第一印象は、案外当てにならんところもあるからなあ――
特に女性はわからない。みんな猫っかぶりがうまい。
特に僕は自信がない。猫っかぶりにうまうまと|欺《だま》される。
「絵をおかきになるんですか」
突然尋ねられて驚いた。達川が話したのだろう。
「ええ、まあ……。しかし、才能の限界を感じているんです」
「そんなことないわ。会社に勤めながら……すごいんですねえ」
「ちっともすごくない」
この娘に僕はどんなふうに映っているのか。僕は、世間一般の物指しで計れば、あまり上等な男とは言えない。勝手気ままに暮しているだけ。将来どうなるのか、特に暗い見通しもないけれど、明るいことはなにもない。
――なんとかなるさ――
なんの根拠もなく、ただそう思っている。
「西田のやつ、家を建てたんだって?」
テニス仲間の消息を思い出して尋ねた。
「そう」
「どうなってんだ」
たとえ|田舎《い な か》の町でも僕の年齢で一戸建てを持つのはただごとではない。
「銀行員だもん」
「それにしてもすごい」
それに比べれば、まことに僕は情けない。生活設計などほとんど考えたことがない。達川だってよく遊んでいるように見えるけれど、家業がしっかりしている。今は副社長。やがて社長になるのだろう。
「どんどん食べてくださいな」
女主人も顔を出してすわる。
「すみません」
「若い人が食べるのって、見てて気持ちいいわ」
テーブルの上に料理がいっぱい並んでいる。娘が皿によそってくれる。指に大きなルビーが光っている。場ちがいのように思える。
――ルビーは何月の誕生石だったろう――
ほどよく酔いがまわって、思考がゆっくりと頭の中を駈けめぐる。
――少なくともこの娘のほうがいいな――
なんとなくそんな気がする。昼間会った人は、もっと生まじめな男のほうがふさわしい。
――電話をしなくちゃあ――
多分、影山さんの奥さんも、見合いの首尾について否定的な見通しを持っただろうけれど、僕がはっきりと言わなければらちがあくまい。断るなら早いほうがいい。
「出ようか」
「いいよ」
ただでご|馳《ち》|走《そう》にあずかったらしい。二人でお礼を述べて外に出た。道の角に電話ボックスがあるのを、さっき見ておいた。
「ちょっと電話をかける」
「うん?」
達川を待たしてボックスの中に入った。影山さんはまだ帰っていないらしい。
「昼間の件ですが……少し年齢がちがいすぎたようで……」
「そうですねえー。若い奥さんもいいものですけど」
「いいお嬢さんですが、僕のほうがちょっとわるすぎます」
「そんなこともないでしょうけど……。どこが気に入らなかったのかしら?」
声が笑っている。
「どこも特に……。ただピンと来ないんです。八十点は充分にあったと思うけど、なぜこの人か、それがないんですね」
「見合いって、そんなもんでしょうけど。わかりました。たしかに年がちがいますもんね。この話、なかったことにしてくださいね。みんな忘れちゃって」
「ありがとうございました。影山さんにもよろしく」
酔った状態でこんな電話をかけるのは失礼だろうか。
「新宿へ行こう」
「行こう、行こう」
表通りに出てタクシーを拾った。車が走り出すとすぐに、達川が尋ねた。
「今の|娘《こ》、どう?」
「わりと感じのいい娘さんじゃない」
「そう思う? じゃあ嫁さんにどうかな」
「なにを言ってんだよ」
僕は達川の顔を見た。
――酔った状態で、こんな話をしていいものか――
達川はゆっくりと首を振る。
――べつに気にすることはないんだ――
とばかりに……。
「本気、本気。あんたには黙ってたけど、今晩は見合いだったんだ」
切り札でも出すように言う。なるほど。言われてみれば、少し様子がおかしかった。|頷《うなず》けるところもある。
「馬鹿なこと、勝手にするなよ」
「自然でいいだろ」
「見合いは好かん。それに……相手の娘さんに気の毒だよ」
「そうかな。かた苦しく考えることないだろ。人間の出合いなんか、どんなときにだってある」
「それはそうだけど……」
考えがうまくまとまらない。やっぱり酔っているらしい。そうなんだ。酔った状態でこんな話をしてはいけない。
「気に入ったんなら、少しつきあってみろよ」
「そういう意味で感じがいいって言ったわけじゃない」
話しているうちに車は|歌舞伎町《かぶきちょう》に着いた。路地に入り、いつも行くバーのドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
「今晩はあー」
水割りを一ぱい飲んだところで達川が電話をかけに立った。ガラス戸のむこうでなにかしきりに話しこんでいる。
|顎《あご》を|撫《な》でながら戻って来た。
「黙ってたほうがよかったかな」
「なんだ?」
「いい人らしいけど、ピンと来ないんだってサ、むこうが……。母親のほうは“いい”って言ってんだけど、幸美がなま意気なことほざいている」
「当然だろ。見合いってそういうもんだよ」
「やったことあるのか」
「うーん、まあな」
「どうしてこの人なのかしら、それがわからんのだってサ」
「わかる、わかる、その気持ち」
僕は|琥《こ》|珀《はく》色のグラスに向かって何度も頷いた。
今日一日、運命が僕の上を|駈《か》け抜けて行ったらしい。草地を犬が走るように……それとも僕が運命の原っぱを走ったのだろうか。
――そう言えば……細面の犬だったな――
酔った頭は、どうでもよいことばかり思い浮かべる。深夜まで達川と飲み続けた。最後は笑いが止まらないほど酔ってしまった。
ずっとあとになって、いくつかの|噂《うわさ》を聞いた。色白の幸美は薬屋の息子と結婚して一児の母になったらしい。背の高いほうは、自衛隊の幹部候補生と一緒になったとか。きっとそれがよかっただろう。
――シェルティのような顔――
上品だが、ちょっと悲しい。
このごろ東京の町ではたしかにシェルティをよく見かける。今はやりの犬なのだろう。その犬を見るたびに僕は奇妙な一日を思い出してしまう。
色彩反応
窓際の席にすわってシートベルトを締め、小さな窓から空港の風景を眺めた。
すぐ隣にはTDAの中型機。
あちらも出発時間が近いらしく、リムジン・バスが二台タラップの下で乗客を吐いていた。
ふと機内に目を移すと、スチュアーデスが数冊の雑誌をトランプのように広げて歩いて来る。
週刊誌を一冊借りた。
スチュアーデスの笑顔を見て、
――|礼《れい》|子《こ》はどうしているだろう――
そんな思案が湧きあがって来た。
とたんに頭の中に|曼《まん》|陀《だ》|羅《ら》模様が浮かぶ。
曼陀羅模様と言っても、ほかの人にはピンと来ないだろう。僕が勝手に作って勝手に使っている言葉だ。
曼陀羅はもちろん仏教用語の曼陀羅。一枚の画布の中にいろいろな仏様や風景が描いてある。境界線はあまりはっきりとせず、それぞれの情景が相互に関係を持っているわけでもない。たとえはわるいが、壁の落書き同様に、それぞれに独立した絵が、一枚のあちこちに描かれている。曼陀羅というよりお|釈《しゃ》|迦《か》様の一生を描いた図絵、そのほうが近いかもしれない。
僕の頭の中に浮かぶイメージは、これによく似ている。
礼子の曼陀羅模様は……校庭のソフトボール大会、夕顔の咲く庭、線路をかかしみたいな|恰《かっ》|好《こう》で歩いて来る姿、お祭のにぎわい、赤い自転車、さまざまな風景の中に目の大きい少女が立っている。
――変だな――
なぜ礼子を思い出したのか、その理由がすぐにはわからない。
――スチュアーデスの面ざしが礼子に似ているから――
情況から考えて、それが一番ふさわしい解答のような気がするのだが、困ったことに僕は礼子の顔をうまく思い浮かべることができない。
飛行機のドアが閉まり、スチュアーデスたちは通路に立って救命具の使い方を説明する。さっきのスチュアーデスが僕の席の近くに立って、あやつり人形のように手を動かしている。
――こんな顔立ちだったろうか――
そうであるような、そうでもないような……。やっぱりよくわからない。
肌が小麦色だった。目が大きく輝いていた。細身で、壁にそうようにして歩くのが癖だった。
それを除けば、ほとんどなにも脳裏に映らない。そのくせ曼陀羅模様の中では、
――ああ、これは礼子だ――
と、わかる。いろいろな情景の中に彼女がいる。そんな曼陀羅をたやすく頭の中に描くことができる。
|会《あい》|津《づ》に住んでいた頃。中学校の校庭。学校は町中にあったが、目の奥にはいつも間近に迫る山の|褶曲《しゅうきょく》が映る。町内対抗のソフトボール大会は、校庭を四つに区切っておこなわれていた。
僕は女子チームの審判員。礼子は左のバッターボックスに立っていた。女の子のバッティング・フォームはどこか頼りない。いわゆる大根切り。それでも礼子の打ったボールはサードの頭の上を越えてレフトのライン上に飛ぶ。白い粉がぱっと舞いあがり、二点が入った。僕は礼子ばかりを凝視していただろう。
礼子については、知っていることのほうが少ない。家は近かったが、学校はちがっていた。川を境にして学区が異なる。だから礼子の存在を知ったこと自体が偶然だった。
初めて会ったのは、肉屋の前の行列。商店街に評判のよい肉屋があって、夕方にはいつも店の前に列ができる。あの頃の子どもは、よくお使いに行かされたものだった。
僕のすぐ前に赤と緑のカーディガンを着た少女がいた。目に染みるほど新鮮な配色だった。
――赤と緑――
それまでに僕は色彩の調和などというものについて考えたことがなかっただろう。図画は得意な学科だったが、静物なり風景なりを、ただなんとなく自然を模写するように画いていた。どんな色とどんな色がよいコオージネーションを作るか、考えたこともなかった。
いや、考えるともなく考えたことくらいあったのかもしれない。ただ……少なくとも赤と緑の配色を思ったことはなかった。
――わりときれいなものだな――
今でもそのときの印象が心のどこかに残っている。それを考えると、よほど美しい色あいだったのだろう。
そのカーディガンは、粗い、縄を縦につらねたような編み方だった。赤と緑がどのような編み目を作っていたのか、そこまでは記憶がない。
少女がふり向いた。
キクン、と胸が鳴った。
とても美しい。とてもかわいらしい。
ひとことで言えば、明るい、健康的な美しさだったろう。どちらかと言えば、少女漫画のヒロインのような、はっきりとした面ざしだったろう。
赤と緑の配色、その上に載った小麦色の顔。黒眼がちのまなざし。直視するのが面映ゆい。行列の進むのを待ちながら、こっそりと盗み見ていた。
――どこの子だろう――
同じ肉屋に来ているのだから、そう遠い家ではあるまい。
ほとんど同時に買い物を終える……。追うともなく帰り道を追ってみた。
橋の手前の公務員住宅。僕の家はその橋の先にある。二つの家のへだたりは直線距離にしてせいぜい三百メートル足らず。少女の住む|界《かい》|隈《わい》は、よく知った地域である。遊び仲間も何人かいる。
――知らなかったなあ――
公務員住宅は人の出入りが激しい。父親の転勤で、二、三年住んでまたどこかへ引越して行く家族の多いことを知っていた。
それを考えれば合点がいく。最近引越して来た人なのだろう。東京の人……。カーディガンもずいぶんしゃれたデザインのようだった。|田舎《い な か》にはめずらしい。
思いがけない美少女の出現に僕はなんだか世界が急に明るくなったような興奮を覚えた。
それは確かにそうだったが、家に帰って考え直すと、
――そんなにきれいだったかなあ――
と、疑心が|蠢《うごめ》く。
どうも自信がない。
――ほかの女の子と比べてどうだろう――
中学校は男女共学だった。同級生の中にも“あれはシャンだぞ”と目されている女の子が何人かいた。
シャンという言葉も、昨今めっきり使われなくなったけれど、二十年前の田舎町では文字通りしゃんと生きていた。にきび面の少年たちが、美女を言うときの、一番普通な言い方だった。
シャンにはみんな関心がある。だけど、クラスの中でそんな気配を|覚《さと》られると、たちまち冷かされてしまう。からかわれてしまう。中学生が女の子に興味を示したりするのは、いやらしいこととされていた時代であり、そういう土地柄でもあった。
表向きこそ素知らぬ顔を装っているが、学校中のシャンは、みんなたいてい知っていた。ひそかに心の中でランキングを作ったりして……。
――二位くらいまでは相当にかわいい――
僕はそう思っていたのだが、もちろん言葉には出さない。で……そんな二人と比べて赤と緑のカーディガンはどうなのか。
――ずっといい――
そんな気がする。
――いや、そんなにいいはずがない――
とも思う。
これは確率法則に由来する感覚だろう。
ランキングの一、二位ともなれば、何百人もの中から選ばれているのだ。肉屋の店頭で偶然出あったのは、けっして多数の中から選ばれたわけではない。
――でも、とてつもない美女だって肉を買いに来ることはあるだろう――
できれば、もう一度ゆっくりと、冷静な心で赤と緑のカーディガンを確かめてみたいと思った。
――肉屋に行けば、会えるのだろうか――
きっと僕は気持ちよくお使いに行くようになったにちがいない。
機会はすぐにやって来た。
友だちの家に行った帰り道、鉄道線路の近道を来ると、むこうからレールの上を、かかしみたいに両手を広げて歩いて来る女の子がいる。近づくにつれ、
――あの子だな――
とわかった。胸が高鳴る。まるで列車が近づき、レールが鳴り出すように……。
十メートルほどの距離になって、はっきりと面ざしが見えた。紺色のコートを着ていた。
距離がさらに縮まり、僕は視線をそらす。少女は同じ動作で進んで来る。
すれちがい、遠ざかり、ふり返って眺めたのは、もう二、三十メートルも離れてからだったろう。
――やっぱりきれいだな――
とはいえ、このときもまた家へ戻って、
――本当にきれいだったかな――
と、かすかな疑いを抱いたのではなかったか。
それからというもの、心のどこかに少女を捜す意志が潜んでいた。なにかの拍子にふっと、
――そばにいるのではないか――
と思う。まれには的中することもあった。意図的に少女の家の近くで遊んだりしたこともあった。君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思へ……|啄《たく》|木《ぼく》の歌だったろう。
|苗字《みょうじ》は|諸《もろ》|川《かわ》。表札にそう書いてある。
同じ公務員住宅に顔見知りがいて、そいつとはそれまでは特に親しい友人でもなかったのだが、ほんの少し仲よくなって、それとなく少女のことを尋ねた。チョッペンという|渾《あだ》|名《な》の男だった。礼子について僕が持っている知識のほとんどが、こうして知ったものだった。チョッペン・コネクション……。礼子という名を知ったのも、このルートからだったろう。
お父さんは建設省の偉い人。彼女は勉強もよくできるらしい。それを知ったときはちょっとうれしかった。
しかし、あまりしつこく情報を求めると、こっちの本心を見破られてしまう。たくさんの会話の中に混ぜて、ほんの一つか二つ収穫があればいいほうだった。
礼子の家の庭には白い花が咲いていた。多分夕顔だったろう。|垣《かき》|根《ね》に囲まれていたが、一か所だけ中の見えるところがある。そのすきまのむこうに、白い花を背にして礼子が立っていたのもよく記憶に残っている風景だ。
それから……赤い自転車に麦わら帽子。全部数えてみてもそう何度も出あっているわけではない。話したのもソフトボール大会のときだけ。それも審判員として、ほんのかたこと程度のものだったろう。
お祭の夜の|浴衣《ゆ か た》姿は、細いウェストに帯をしっかりと締めつけ、その下のヒップがやわらかくふくらんでいた。とても|眩《まぶ》しい眺めだった。
赤と緑のカーディガンは……そう、もう一度翌年の冬に見ている。雪の道だった。大通りは除雪が進んでいるが、裏道に入ると、人の足跡で踏み固めた細道が雪の平面を割ってついているだけだ。礼子はその道を走って来た。日ざしの明るい午後だった。
――あのカーディガンだな――
まっ白い雪の中で、二つの色はあい変らず|冴《さ》えた配色を映し出していた。
それが礼子を見た最後だったかもしれない。
「あいつ、スチュアーデスになりたいんだってよ」
それが礼子について聞いた最後だったかもしれない。もちろんこれもチョッペン・コネクションである。
私の家族はまもなく、東京へ移った。礼子の家がその後どうなったか。数年後に引越したことは確かである。同窓会のために帰ったときには表札が変っていた。ほかにはなにも消息はわからない。ただそれだけ……たわいのない話である。これだけの出あいでしかないのだから、二十年近くたって礼子の面ざしを思い出せないのも無理はない。
それでも部分的な追想は、この歳月のあいだにいろいろな形をとって僕の中に現われ、僕を驚かせた。
高校の美術の先生の名は諸川と言った。その名を聞いたとき、
――ついてるぞ――
と僕は思った。
僕は美術を志望していた。もし才能に恵まれているならば画家になりたいなどと考えていた。
もちろん諸川先生と諸川礼子はなんの関係もない。だが、偶然の符合はなにかしら僕の願望に明るいものを与えてくれる。そんなジンクスめいたものを胸の中にふくらませていた時期もあった。
ハイキングなどに行って線路を歩くときは、いつも僕はかかしのように両手を広げてレールを踏んだ。そんな仕ぐさの中にも、かすかななつかしさを捜していた。
赤と緑。これは薄れかけた記憶の中でも一番よく残っているものである。
「いいイヤリングをしてるね」
新宿の酒場だったろう。ホステスのいる酒場などにはほとんど行ったことがない頃だったが、あのときはたまたま隣に厚化粧の女がすわっていた。
器量はあまりいいとは言えない。まあ、普通。本人が考えているよりは、少しわるい……。話していてそんな感じがはっきりと伝わって来る。
髪をかきあげているので耳とイヤリングがよく見える。まるくて扁平なイヤリング。どういう細工なのかわからないが、円を半分に分けて赤と緑が光っている。その色あいのバランスがわるくない。
「そう? イタリア製よ」
気に入りの品だったのだろう。ほめられて、まんざらでもない様子だった。
赤と緑の配色。あなたはどんな印象を抱くだろうか。
ほんの少しでもまちがうと野暮ったい配色になりかねない。けっして合わない色ではないけれど、|垢《あか》ぬけた感じを出すのはむつかしい。
――赤と緑だけではないかな――
考えてみれば、色彩はみんなむつかしい。同じ名前を帯びていても微妙にちがっている。まして二色、三色と合わせるとなると、さらにむつかしい。
――礼子のカーディガンはどんな色あいだったろう。それに……模様はどうだったんだ――
僕はとりとめもなく考える。幼い頃の自分の審美眼を知るためにも、僕はちょっと確かめてみたいのだが……今はもうどうにもなるまい。
飛行機は雲海を下に青い空の中を進んで行く。ここには青と白の二色しかない。これもまた思いのほかむつかしい配色だ。白の力がよほど強くないとぼやけてしまう。そのためにも青が鮮明でなくてはいけない。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
|若《わか》|山《やま》|牧《ぼく》|水《すい》の歌を思い出す。
スチュアーデスが紅茶とビスケットを運んで来た。
――礼子はスチュアーデスになったのだろうか――
これも何度か考えるともなく考えた。
かつてスチュアーデスは女性にとって花形の職業だった。容姿端麗が暗黙の条件だった。
今でもそれなりによい職種だが、昔ほどの|憧《どう》|憬《けい》を抱かせるものではあるまい。機内の労働はけっして楽なものではないし、ほんのわずかな確率ではあるが、この仕事は命にかかわる危険を含んでいる。
チョッペンから礼子の志望を聞いたとき、
――そうだろうなあ――
と納得した。礼子に一番ふさわしい仕事のように思った。なろうと思えばなれただろう。容姿は大丈夫。勉強もよくできたというし……。
どうやら僕は、頭の片すみで礼子はスチュアーデスになったものと、勝手に決め込んでいたらしい。
そんな時期がしばらくあった。時折それを考えた。
たとえば飛行機に乗ったとき……。意識のどこかで小麦色の面ざしを求めている。
しかし二十年もたっているのだ。
スチュアーデスになっていたとしても、もう退職して、何人かの子どもの母親になっているだろう。その公算が大きい。
機体が少し揺れた。アナウンスメントが響く。
「なんの心配もありません」
今日は|大《おお》|分《いた》までの旅。週刊誌をななめ読みにしたあと僕は少しまどろんだ。
夢の中に礼子が現われた。礼子とはっきり断定できるわけではない。なにしろ顔立ちをすっかり忘れているのだから……。それでも礼子とわかるのが夢の特性だろう。
礼子はやっぱり赤と緑の|衣裳《いしょう》をまとっていた。
目がさめたあとも二つの色が鮮かに眼の奥に映っている。
「色つきの夢と言っても総天然色の夢を見るわけじゃありません。特定の何色かだけがはっきりと見えるのです」
大学の心理学の授業でそんな話を聞いた。そうかもしれない。僕には赤と緑が特別によく見えるようだ。
飛行機の降下が始まった。耳が痛い。スチュアーデスがベルトをチェックして歩く。ちょっと浅黒い人……。
しかし礼子であろうはずもない。
人生は芝居のように演出が行き届いてはいない。会ってみたい人に、そう都合よく会えるものではない。会わなくてもいい人にはばったり会ったりするくせに……。
――しかし、どうして今日は急に礼子のことなど思い出したのかなあ――
飛行機に乗ったから……。
スチュアーデスを見たから。
それだけではないような気がする。|羽《はね》|田《だ》空港で座席にすわったとたんに、フンワリと風のように礼子のことを思った。
なんの縁もなかった人……。
飛行機は音を荒らげて大分の空港に着陸した。スチュアーデスに送られ|廻《かい》|廊《ろう》を抜けて出口へ。
窓の外を見ながら。
――ああ、そうか――
笑いが浮かぶ。納得が広がる。
たしか羽田空港でも見た風景だった。TDAの翼に赤と緑の色が光っている。ほどよい色調を映し出している。
――僕はあの配色が好きらしい――
それは礼子とめぐりあったせいなのか。それともそれ以前から僕の中にあったものなのか。今となってはわからない。
僕は新しいデザインを考えている。色彩の美しさを基調としたモザイク模様。
――赤と緑で描いてみようか――
遠い日の美少女がどこかで僕を応援してくれるかもしれない。人生はそんなふうに考えるほうが楽しい。僕は振り返ってもう一度尾翼を確認した。
花惑い
「めずらしいわ。道に花売りの車が止まっていたの」
昼休み、食事に出ていた|峰《みね》|子《こ》が花束を持って帰って来た。
|掌《て》に|溢《あふ》れるほどのパンジー。紫と黄色が目を貫くほど鮮かだ。峰子はオフィスのティー・サーバーの|脇《わき》の|棚《たな》からガラスのコップを二つ見つけ出し、きれいに洗ってから花を入れた。
一つを自分の机に、そしてもう一つを僕の目の先のキャビネットの上に置く。
キャビネットの上の花は、職場を飾る花と見ることもできるが、やはり僕のために置いてくれたものだろう。適度に自然でありながら、見る人が見ればはっきりと意図のわかる位置だった。
「きれいだね」
花も美しいが、茎の若緑がよい色だ。澄んだ水の中で|冴《さ》えている。コップまでがりっぱな花器に変った。
「ね、圧倒されそう」
峰子は目を凝らして見つめていた。
――なぜかな――
僕は花の美しさに視線を送りながら峰子の横顔を盗み見た。峰子の心を計った。
二人の関係はすでに病んでいた。
峰子は、当時僕の職場で進めていた統計調査の集計のために雇われた臨時職員。
「学生さん?」
「いいえ、もう卒業しました」
「花嫁修業中か」
「そうでもないんですけど……家にいても仕方がないから」
勤め始めたばかりの頃に、そんな話を交した記憶がある。半年ほど前のことだった。
二人が親しくなるのは早かった。ビートルズの話をしたのがきっかけだったろう。峰子はよく言えば社交的。気軽に男たちとつきあう。都会的で、さっぱりしていて、いじいじと悩んだりするのは好まない。
ジャズ喫茶へ行った。
映画を見た。
ちょっと|贅《ぜい》|沢《たく》なフランス料理を食べた。
手を握りあい、軽く体を寄せあって歩くほどの親しさにまでは進んだ。
彼女にはほかにも親しい男友だちがいただろう。恋人に近い男もいたにちがいない。そんな|匂《にお》いを放っていた。
その男とは、なにかしら気まずい事情が生じ、そのすきまに僕が入りこんだのかもしれない。
男と女の関係は、いつだって|全《ぜん》|貌《ぼう》が見えるわけではない。一対の男女はたった一つのリングで|繋《つなが》っていて、ほかの部分は見えない。もし全貌が見えたならば、
――なーんだ、そういうことだったのか――
簡単にわかることでも、心理や行動の一つ一つを推理し、疑い、悩まなければいけない。
途中から僕も、
――深入りしてはいけないな――
そう思った。二人の性格には折りあえない部分がありそうだ。だが、僕はたいていぐずぐずしている。行動はいつも一歩遅れる。
峰子のほうが僕より先にそのことを感じたにちがいない。
ある日を境にして、峰子の態度がどことなくよそよそしくなった。誘っても渋る。話していても、気が乗っていない。返事が少し遅れる。要領をえない。
――ああ、ふられたな――
まだ恋愛にまで育っていなかったのだから失恋のほうも渋い味わいだ。さほどくやしいとも思わない。惜しいとも思わない。
軽くジャブを混えただけで終ったボクシング・ゲームのような感じだった。
それでもいくばくかのさみしさはある。心の反作用がある。つまり別れを決意したあとで、
――もしかしたらいい人じゃないのかなあ。早まることはないのかもしれない――
だれしもそんなことを考えてしまうものだ。峰子もはっきりと別れを宣言したわけではない。職場ではそこそこに親しい。
つまり……中途半端の状態だった。
「昼飯でも食いに行こうか」
この日も昼休みの時間が来て、ちょっと誘ってみたのだが、峰子のほうが、
「お友だちと行く約束しちゃったから」
逃げるようにして出て行った、そのおみやげが色鮮かなパンジーだったというわけ……。
僕はわけもなくフリュネという古いギリシアの|娼婦《しょうふ》のエピソードを思い出す。罪を問われ裁判にかけられたフリュネは、法廷で衣服を脱ぎ、美しい裸身をさらした。
「こんな美しい人に罪のあろうはずがない」
陪審員はたじろいで無罪の判決を示唆したとか。
ばからしいと言えば、ばからしい。だが、僕にはそんな陪審員たちの心境も少しわかる。
たとえば……そう、パンジーを見たときがそうだった。花の美しさが僕の心をなごやかなものにした。
――もう一度峰子と親しくなってみようか――
峰子も思いがけず手に入れた花の美しさに浮き立っていた。
「本当にいい色だなあ」
「花って、すごいわね」
「こんなにきれいな花だとは知らなかった」
「とくにこれはいいみたい」
午後いっぱい花を見たあとで、夕刻、
「一緒に帰ろうか」
帰り仕度の峰子に声をかけた。
峰子はくるりとふり返り、戸惑うような視線を投げる。その視線の|行方《ゆ く え》にも花があった。
「ええ。めずらしいのね」
「たまにはいいだろう」
「そうね」
新宿のコーヒー・ショップで待ちあわせ、
「酒を飲もうか」
「いいわよ」
「あんまり銭もないけど」
「私、持ってる」
「わるいな」
「いいわ。女のほうがお金持ちなのよ」
「そうらしい」
僕は水割り、峰子はカクテル。僕たちは世界が|薔《ば》|薇《ら》色に揺れだすまで飲んだ。
酔ったままで西口公園まで足を伸ばす。峰子が腕をからめる。草むらに寝転がって高層ビルと、さらにその上に輝く月を仰いだ。
僕は身を起こし、崩れるように重なって唇を求めた。峰子はいったん首を振ってのがれたが、あらがえないと知って応ずる。軟かい舌先を僕は口に含んだ。
「いい夜ね」
「こんな夜に冬が春に変るんだ」
「そうみたい」
南風が吹く。よく見ると黒い影ばかりのように見えた木の枝も小さな芽を連ねている。
この夜、僕たちは夜半近くまで町をさまよい続け、暗がりを見つけては立ち止まった。どこへ行くわけでもない。なにか目的があるわけでもない。ただ親しさを重ねるために歩いた。
「さよなら」
峰子の家まで送って行った。
「さよなら」
峰子は門口で投げキッス。最後まで陽気に弾んでいた。
――風向きが変ったかな――
男と女の関係なんて手さぐりの連続だ。峰子には、折りあえない部分も感じていたが、すてきに気のあう部分もあった。
それに……僕も若かった。峰子も若かった。すぐに結論を出す必要はあるまい。親しみながら成行きを計ることも許されるだろう。
だが、一週間もたつと、また歯車の|噛《か》みあいにくい状態に戻った。
最後のデートは|数《す》|寄《き》|屋《や》橋のショールームの入口だった。大勢の人が連れを待っている。
僕は約束の時間に少し遅れて到着したが、峰子の姿が見えない。
峰子は時間には正確な人だった。
十分過ぎても二十分過ぎても現われない。
――どうしたのかなあ――
ふと見ると、ドアから離れた一画に見覚えのある|衣裳《いしょう》が立っている。
半信半疑で近づいてみれば、峰子のうしろ姿だった。
――約束の場所には来たけれど、会うことを拒否している――
そんなふうに見えた。
「来てたのか。さっきから?」
「ええ……」
寡黙のままコーヒー・ショップへ行ったが、二十分もたつと、
「間が持てないわね」
僕もそう感じていた矢先だった。
愛が引き潮に変ってしまえば、恋人たちはなにもすることがない。目的もなく顔をつき合わせているわけにはいかない。
「帰ります」
「そう。残念だけど」
「さよなら」
「また会おう」
「そうね」
間もなく峰子のアルバイトも終った。僕たちはもう会うこともなかった。
それからは時折年始状が舞い込んで来るだけ……。
――あのパンジーはなんだったのか――
僕は今でもときどき考える。
峰子は美しさに引かれて買った。美しさのおかげで心がゆるんだ。周囲にその美しさを配りたかった。ただそれだけのこと。
「きれいだなあ」
「きれいね」
ともに讚美したかったのだろう。ビートルズのときもそうだったように。
フリュネのような花。あの日のパンジーの美しさには、そんな気配があった。
僕はパンジーを見るたびに峰子のことを考え、考えるたびに、
「あれでよかったんだ」
と|呟《つぶや》く。あれほど美しいパンジーを僕はその後、見ない。本当に心を惑わすほど美しい花だった。峰子は美しいものに敏感な人だった。それが彼女のすばらしい長所だった。
名古屋まで
「京都へ行こう」
と僕は言った。|三《さん》|千《ぜん》|院《いん》から|蓮《れん》|華《げ》|草《そう》の咲く田んぼ道を抜けて|寂光院《じゃっこういん》へまわる。人出が多すぎるようなら、さらにその奥の|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》寺あたりまで散策の足を伸ばしてもいい。
あるいは|嵯《さ》|峨《が》|野《の》を選んで|落《らく》|柿《し》|舎《しゃ》、|祇《ぎ》|王《おう》|寺《じ》、|滝《たき》|口《ぐち》|寺《でら》、|大《だい》|覚《かく》|寺《じ》あたりをめぐるのもわるくない。|貴《き》|船《ぶね》神社や|鞍《くら》|馬《ま》|寺《でら》を訪ねるコースもあるだろう。翌日は市内の名所を歩き、新幹線で帰って来れば、申し分のない週末旅行になる。
だが、|邦《くに》|子《こ》の考えはちがっていた。
「京都? 遠いじゃない。名古屋あたりがいいわ」
「名古屋?」
僕は驚いた。名古屋へ行って、なにを見るのだろう。邦子の真意がつかめなかった。
知りあって一年あまりの日時が流れていた。あとで考えてみれば、ずいぶん|歪《いびつ》な形ではあったけれど、あれも恋だった。
その少し前、クリスマスが近い夜に邦子が僕の部屋に来て泊った。夜更けて雪が落ち始め、夜は凍えていた。すべてのあかりを消した部屋で赤いガス・ストーブだけが燃えていた。
僕はこの夜を境にして二人の関係が、より深いものへと変って行くだろうと考えた。
だが、その後の邦子はひどくよそよそしい。いくら誘ってみても、僕のアパートへ来ようとしない。二人きりで会っていても、どこか気乗りのしない様子だった。
――旅に出れば、すこしは気分が変るだろう――
そんな思案をこめて僕は京都旅行を口に出してみたのだった。
「名古屋なら日帰りができるでしょ」
ああ、そうか。邦子の考えていることがようやくわかった。
京都と名古屋の比較がテーマではない。僕と一泊の旅に出るのを避けている……。ただそれだけのことだろう。
そんなことなら旅そのものを拒否すればよさそうなものだが、邦子には多少のこだわりがあったのだろう。何か月か前、僕たちの仲がとてもスムーズだった頃、
「ねえ、旅行に行きましょ」
「いいよ」
「絶対によ」
指切りまでして約束した経緯がある。誘ったのは邦子のほうだった。そんな記憶が邦子の中にきっかりと残っていたにちがいない。
一種の形式主義者というのだろうか。中身はともかく形だけは整えるような癖を邦子は持っていた。
「無理して行くこともないさ」
僕にとっては中身のほうが大切だ。
邦子は白い表情で、おし黙っていた。心の中では、おそらく、
――私は約束を守ろうとしたのよ。でも、あなたがやめようって言ったのよ――
そう考えていたにちがいない。
僕たちは結局どこへも行かなかった。京都にも、名古屋にも。そうして恋はいつのまにか終った。
青山のレストランの壁に“この時計が九時をさすと名古屋になります”と書いてある。
僕はずいぶん長い間なんのことかと思っていたが、先日、ふと気がついた。
――なんだ。名古屋は|尾《お》|張《わり》のしゃれか――
わけもなく邦子のことを思い出した。
僕たちは、あのとき……そう名古屋へ行った。二本の恋の針があわないと名古屋になります、なんて。
本書は、昭和六十二年十月八日当社刊行の単行本を文庫化したものです。
[#地から2字上げ]編集部
|花《はな》|惑《まど》い
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年9月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C)  Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『花惑い』平成3年1月25日初版発行
平成9年6月20日13版発行