[#表紙(表紙2.jpg)]
花の図鑑(下)
阿刀田 高
目 次
ポピー
あじさい
のうぜんかずら
ゆうな
シクラメン
[#改ページ]
ポピー
日曜日の昼さがり、啓一郎は押入れから青い表紙のノートを引き出し、久しぶりにペンを走らせた。
ルーズ・リーフの新しいページに田川|薫《かおる》と寺田|麻美《あさみ》の名前が記してある。ちょっと古いページには千倉法子《ちくらのりこ》の名前が書いてある。それぞれの女性について気づいたことが、アト・ランダムに書き記してある。つまりカタログのようなもの……。
女性に限っているのは、男性相手では数が多すぎて書ききれないから。それに……当然のことながら、女性のほうが興味深い。あとで思い出すのにもよい。
「変な趣味だな」
そう言われそうだから、だれにも明かさない。とりわけ書かれる当の女性が知ったなら、
「いやよ。観察なんかして……最低ね」
よい反応は望めない。
だが、男はおしなべてよく女をながめているものだ。愛のさなかにも観察している。そして、よく覚えている。啓一郎だけではあるまい。ただそれを書き留めるというところがちがっている。頭に記憶しておくのと、紙に記録しておくのと、二つの差はそんなに大きいことなのだろうか。
とはいえ啓一郎自身も少しためらう部分がある。やはり、このノートは男性を相手に――取引先の関係者などを対象に、人柄《ひとがら》を知り、話題を作るための武器として記録したほうがよかったのかもしれない。
筆がにぶるのは、たとえば女性の体の特徴について。あまりあからさまに書くのは、ためらいがある。美意識が働く。
――だれかに読まれることを考えているのだろうか――
それもある。
それ以上に、自分の中に第三者の目があって、それが非難の言葉を吐く。
――そこまで書いたら、あんた、少しおかしいんじゃないのか――
そんな声が聞こえる。
それに……言葉も足りない。淫《みだ》らにすぎて表現が及ばない。
寺田麻美のページに、先週の日曜日の日付を記した。「今日はいけないの」と言った、その日付である。月ごとにいけない%がめぐって来るだろう。この知識は欠かせない。忘れていると、手痛いしっぺ返しを受ける。
思い出すままに麻美のページに書き加えた。
花は散るために咲く。散るからこそ美しいという意味か。出典不明
ペチュニア、アンスリウム、ブーゲンビリア。有栖川《ありすがわ》公園にあった花、広尾のコーヒー店にあった花、薫の部屋にあった花。respectively
ひとつひとつの花のイメージを思い浮かべた。書いておかないと、これは確実に忘れるだろう。
遊びで恋愛ができないたちなの。結婚が条件。秤《はかり》
最後の一字は、麻美が目下何人かの男を天秤《てんびん》にかけているだろう、という注記である。
唇に自己主張がない
と記した。法子と比較して……かな。法子の唇はとても雄弁だ。麻美はもっぱら受け身である。
耳のつけねに小さなほくろ
これは先日はじめて発見した。いつも麻美は髪を長く垂らしているから気づかない。たったひとつのほくろがかえって肌《はだ》の白さを強調していた。
乳房について、いくつかの記憶がないでもないが、それを書くのはやめておこう。いつかもっと明瞭《めいりよう》に書けるときが来る。
ページをめくって薫のほうへ移った。書くべきことがたくさんあるように思ったが、
――なにから書こうか――
と戸惑ってしまう。
女の子。六歳。私立校にあげるらしい
これで離婚ができるわ
私立の小学校では志願者の家庭環境にも目を光らせるだろう。片親ではむつかしい。そんな判断もありうる。薫はそのために今日まで正式な離婚をひかえていたのだろうか。
勘定にむらがある。高いときと安いときがある。このごろはだんだん高くなる。末期的症状
これは本当だ。行くたびに活気がなくなる。ママの立っているあたりが、暗く感じられる。
体の長所を自覚している。自分を抱いた男が、簡単に逃げられないだろうと思っている
書きながらも半信半疑の部分がある。女は、自分以外の女の体を知ることができない。だれか男が教えてくれなければ、内奥《ないおう》の長所はわかりにくい。お世辞を言う男もいるだろうし……。文章の最後にクエスション・マークをつけた。
法子のページを読み返してみた。能登《のと》の旅で受けた印象はすでに書き加えてある。
いろんな世界に目を向けて、一つのものにこだわらずに自由に生きてみたい。昔、そう決めたの。それからはずっとそんなふうに生きて来たわ
最後の夜に聞いた言葉が記してある。
たしかに法子はそんなふうに生きている。ちまちまとした幸福に安住するより、いつも自分の可能性に挑戦《ちようせん》している。時おり啓一郎の胸に安らぎを求めて帰って来るのかもしれない。めずらしくもない。男はたいていそんな生きかたを捜している。法子の中には、何パーセントかの男性が住んでいる。
廊下に足音が響いた。
「お兄ちゃん、電話。笹田《ささだ》さん」
ひろみが障子の外から呼んだ。
「うん」
ノートを押入れの中に投げこんで部屋を出た。電話はリビングルームに置いてある。
「もし、もし」
「近くに来ているんだ。ちょっとつきあわないか」
誘われてみれば、ちょうど笹田に会いたい気分になっているところだった。
「今、どこにいるんだ?」
「西永福。教頭が入院してて。ちょっと見舞いに来た」
笹田の声を聞くのは、去年の暮れ以来だろう。
「そっちのほうの用は、すんだのか」
「うん」
「俺《おれ》んちに来いよ」
「それもいいけど……せっかくの天気だ。少しはいい空気を吸ったらどうだ。夜のネオンばっかり見てないで」
「いいけど」
「じゃあ井《い》の頭《かしら》公園」
「どこで会う?」
「西永福のホームにしよう。三十分もあれば来れるだろ」
「わかった」
すぐに家を出た。
休日になると下北沢の駅付近は、どこから人が集まって来るのかと思うほど混雑している。階段を駈《か》け昇って電車に飛び乗った。井の頭線は駅と駅の間隔が短い。ホームの端に立つと隣の駅が見える。笹田は文庫本を読みながら駅のベンチにすわって待っていた。
「おい、乗れよ」
啓一郎がドアから首を出して呼ぶと、笹田はすぐに気づいて駈け込んで来た。
「早かったな」
「ちょうどぶらぶらしてたときだったから」
「変りなく?」
「変らんなあ」
浜田山、高井戸、富士見ケ丘、久我山《くがやま》……走り出したと思ったらすぐに次の駅に滑りこむ。井の頭公園で降りる人も多い。改札口を出て右手の広場へ入った。
春の光の下で人も自然もうれしそうに躍動している。桜はいつのまにか葉桜に変っていた。
「この公園、わりと好きなんだ」
笹田は幼いころ、この付近に住んでいたとか。
「いい公園だよ。武蔵野《むさしの》の面影が残っていて」
「そう。公園だけが緑ってわけじゃない。付近にもまだたくさん緑が残っている。なにげない緑の空地があるんだよな。それがいい」
小川にかかった木の橋を渡って公園の敷地内へ入った。好天の日曜日とあって、どこを見ても人ばっかり。
「先週、有栖川公園に行った」
「へえ、めずらしい」
「あそこは、周囲をぎっしりビルに囲まれていて、公園だけが緑だ。大きな公園だけど、こことは大分雰囲気がちがうな」
「だれと行った?」
笹田がいきなり核心に触れた。啓一郎は顎《あご》をスルリと撫《な》でてから、
「いつか話した人だ。香港《ホンコン》で会った……」
「そうだと思った。中座が一人で有栖川公園へ行くはずがない。じゃあ順調に進んでいるんだな」
「順調と言えば、順調なんだが」
足もとにボールが転がって来た。笹田が拾って、追って来た少年へ投げ返す。
「引き返そうか」
井の頭公園の中心部近くにまで来て、池にかかった橋を望むと、さらに人の数が増えていた。欄干にすきまもないほど人の頭が並んでいる。この先はそぞろ歩きもむつかしい。
「どこへ行く?」
「周辺にいいところがいくらでもあるんだ。そっちには、人が行かない」
「じゃあ、そうしよう」
雑木林の中の細道を戻った。
「部屋にあがって、手を握って、今のところ、そのへんまでだな」
「昇殿を許されたわけだな」
「昇殿? ああ、そう、少し位があがった」
「じゃあ、もうすぐじゃないか。双六《すごろく》なら上りは近い」
「丸の内会館で彼女とそっくりの女を見た。男と一緒に仲よさそうに歩いてた」
「当人じゃないんだろ」
「それがわからない。車に乗って行っちゃったから確かめようがなかった」
「見まちがいかもしれんさ。いずれにせよ、そう気にかけることじゃないさ」
「うん。主義主張としては、気にかけたくないんだが、ちょっと気になる」
公園を出て、駅前の商店街で酒屋を見つけた。
「ビールを買っていこう」
缶ビール四本とおつまみ二袋を買い、神田川《かんだがわ》にそって歩いた。警備こそされていないが、ほどよい草の広場が続いている。人の群れを避け、草の中に腰をおろして缶ビールを開けた。横手の石塀《いしべい》には、白い花と黄色い花がたわわに咲き乱れている。
「あれはなんだ?」
「小手毬《こでまり》と山吹だろう。まず雪柳とれんぎょうが咲く、それから小手毬と山吹だ。武蔵野はそうなんだ。春先に白いのと黄色いのとが群がってたら、たいていそうだな」
「能登へ行って黄梅を見た。似たような色だった」
「黄梅? あんなもの、めったにありゃせん」
数学の教師は花にもくわしい。笹田は指先でさきいかを丸めて口にほうりこみ、
「花はともかく、美人のほうだが……ライバルがいたって当然だろ。いないと思っていたのか」
「そうは思わない。あれこれ天秤にかけて計っているらしい。それは仕方ないんだが、本当にいい女かどうか、すっきりしないところがある」
「わからん、なにが言いたいのか」
「恋愛じゃなく、取引きをやってるような感じがするんだ。どうしたら一番いい条件で交渉ができるか。切り札はできるだけあとに残して、相手の出かたをうかがっている」
「むこうが?」
「そう」
「そりゃ仕方ない。恋愛だって取引きだ。純愛物語一色ってわけにいかない」
公園をとりまく住宅街はとても美しい。どの家も百坪あまりの敷地を擁しているだろう。
古風な住宅もあるし、モダンな設計もある。鉄錆色《てつさびいろ》の煉瓦《れんが》を積んだ家の前には広い花壇があって、白とオレンジのポピーが今を盛りと咲き乱れていた。
「ポピーというのは、けしの一種だろ」
啓一郎が足を止めて笹田《ささだ》に尋ねた。
「ああ。しかし、こいつは阿片を含まない。インドへ行ったときだったかな、高原のほうまで入ったら一面に本物のけしが咲いていた。まっ赤な絨毯《じゆうたん》みたい。ものすごくきれいだった。ただもんじゃない。こりゃ、やっぱり悪魔の花だって思ったよ」
笹田は掌《てのひら》を水平に動かして、そこに一面の花畑があるような仕ぐさを示した。
「きれいな花には毒がある」
「そう。中座も気をつけたほうがいいぞ」
「彼女? 毒まであるとは思わない」
花ならポピー。わけもなく麻美《あさみ》の印象をそう思った。むしろ清楚《せいそ》である。
「そりゃそうだろう。あんたも三十五まで一人でいたんだから、結婚なんて、面倒なこと、しないのはどうだ? まずいことないんだろ、会社で」
「うん。昔はいろいろ言われたらしいけど、今は業界全体が気にしなくなったよ。会社そのものが、よき家庭の建設とは折りあいにくくなって来てるもん。商社なんか地方へでもどんどん行ってもらわなきゃ駄目《だめ》だろ。一方で独身はいかんて言っておいて、片方で単身赴任なんかさせておいちゃ、矛盾だよ。会社と家庭の蜜月《みつげつ》時代はもう終わったんだ。反目こそしてないけど、当たらずさわらず、私生活には干渉しない」
「じゃあ、いいじゃないか。このまま独身生活を謳歌《おうか》していれば。あの花、この花、きれいだな、てなもんで」
笹田は垣根《かきね》に咲く花を指さす。
「しかし、結婚でもしないと、男女関係って、なにをしていいか、わからんようなところもあるからなあ」
これは啓一郎の実感だった。
男女のあいだに結婚をさまたげるような、なにかネガティブな条件があるならばそれをなくすまで≠ニ努力することが目的になる。だが、啓一郎にはなにも困った条件はない。明日にだって結婚はできる。ブレーキをかけるのは、それだけ愛情が足りないから……そう思われても仕方がない。
「千倉さんとは、結構長く続いてるじゃないか」
「うーん。しかし、あれはときどき帰って来るからいいらしい。それに、彼女は、話していても飽きない人だしな。めずらしいよ。へんなこと聞くけど、女って……退屈じゃないか? 抱きあうのは、そりゃいいよ。でも抱きあう可能性がゼロに近くてサ、それでもなお会ってて楽しいって女、めったにいないのとちがうか」
笹田が首をまわし、奇妙な顔で笑った。
「問題発言だな。しかし、真理をついている。たいていの男はそう思っている。ただ隠しているんだ」
「なぜ隠すんだ?」
生垣が途切れ、角が来るたびに足の向く方向へ曲がった。住宅街は思いのほか広い。まだまだ奥がありそうだ。
「どうしてかな。みんなは、中座みたいに理屈っぽく考えないしなあ。抱きあうんじゃなきゃ女は退屈で意味がない……そんなこと思ってるのがばれたら、まずもてない。自分でも忘れるくらい、ひた隠しに隠しておくほうがいい」
「うん」
「それに……そう思っちゃ、いくらなんでも人生情けないって、そんな気分もあるだろ。女性の中にも少しは楽しい人もいるし」
法子とは……会えばきまって抱きあうのだが、たとえ抱きあうことがなくても、楽しい時間を共有することができるだろう。薫は、これはもう抱きあわなければ、ほとんど意味がない。と言うより、抱くと、とたんにすばらしい。麻美は……そう、見て美しい。これはどれほどの価値があることなのか。
「見て、楽しいのは、どうなんだ?」
「抱かなくてもいいのか」
「あははは。いや、やっぱり終局的には抱きたい」
抱かれるためには麻美は結婚が必要だと言いたいらしいし、啓一郎のほうには結婚ができない条件はなにもない。となれば、本当に抱きたければ結婚を申しこむよりほかにない。煮えきらないのは、麻美ではなくむしろ啓一郎のほうだろう。
「美人というのは、電車で前にすわってるのを見るのが一番いいって、そんな説がある。まず金がかからない。わがままを言わない。好きなだけ見ていられるし、飽きたら降りればいい」
と笹田が言う。
「会社の上役にオールド・プレイ・ボーイがいてサ、彼も同じようなことを言っていた」
「そうか?」
「うん。銀座のクラブあたりで遊んでいるらしいんだけど、けっしてホステスと深い関係にならない。深い関係にさえならなければ、みんなきれいで、愛想がよくて、気転がきいて、とても快適な友だちだって……」
「一線を超えると、とたんに地獄が見えて来たりする」
「まあ、そんなところだ」
銀座のホステスはそうかもしれないが、麻美とはやはり抱きあわなければ悔いが残るだろう。一番美しいと思った人を、しっかり腕に収めることができなかったら、なんのための人生か。
深い竹林に挟まれた小径《こみち》を通り抜けた。
「男と女は抱きあって、はじめて親しくなれるんだ。抱きあわない親しさなんかただのエピソードでしかない。人生を共有したって感じはないよ」
啓一郎にしては、めずらしく熱っぽい調子で告げた。
笹田が下唇をつき出す。
「そう。そして間もなく飽きるんだ」
「花は散るために咲く。人は飽きるために抱きあう。どうだ?」
気障《きざ》な台詞《せりふ》がすんなりと喉《のど》を通り抜けた。花水木《はなみずき》の淡い紅の花びらが風にこぼれている。
「聞いたような文句だな。まあ、そんなとこだろ」
「かならず飽きるかなあ」
「わからん。俺《おれ》もそれほど人生を知ってるわけじゃない。中座と同い年なんだぜ」
「夫婦はどうだ?」
「そりゃ飽きるよ。しかし運命共同体だから。飽きないように努力してんだ。と言うより飽きたと感じないように努めているんだ。うまいぐあいにそうしみじみ意識するひまもないしな。しかし……男同士でこんな話、いくらやってもくだらんよ。最後はくじ引きなんだ、結婚なんてものは。いいのを引くか、引かないか。それが厭《いや》なら、くじを引かないのがいい。心配するな。むこうだって必死になって考えている。中座と暮らしてうまくいくかどうか。彼女も三十をすぎてんだろ。いい選球眼を持っていると思うよ」
「それは言える」
いくつもの角を曲がっているうちに、またもとの神田川のほとりに出た。川ぞいの家並みの中に小さなスナックがドアを立てている。
「また喉がかわいた」
「ビールあるかな」
橋を渡って黒いドアを押した。
狭い店内。客は、中年の男女が一組。啓一郎たちのあとを追うようにして、少年と、その母親らしい女が入って来た。
「なにが早くできるのかしら?」
と女が尋ねる。
「ピザ・パイですね」
「ピザ・パイ好きよね。チーズでいいわね。チーズ好き?」
母親ではないらしい。母親ならば、子どもがチーズを好むか、ピザ・パイを好むか、知らないはずがない。
気がついてみれば、奥の席にすわった男女も、どういう関係かわかりにくい。ひどくうちとけている。夫婦ではない。恋人同士というのとも少し感じがちがっている。説明を聞けば、
――ああ、そうか――
合点《がてん》がいくのだろうが、すぐにはわからない。逆に言えば、世間には、規格通りにはいかない人間関係が思いのほかたくさんあるものなのだろう。
「ビールを二本」
チーフがピザ・パイをオーブンに入れるのを待って注文をした。
――こんなところで商売がやれるのだろうか――
今は三組の客が入っているが、これは日曜日の午後だから。一番よい時間帯だろう。
棚《たな》のテレビがプロ野球を映している。パシフィック・リーグのゲームらしく観客の数は少ない。笹田が画面を顎《あご》でさして、
「わからんよなあ。セ・リーグとパ・リーグと、よく同じ年俸《ねんぽう》が払えるもんだ。満員の球団はよほど儲《もう》けているんだ」
赤字球団にもなにかしらメリットがあるにちがいない。表面に現われていることだけが、すべてではあるまい。
少し冷えすぎのビールが、汗ばんだ体にここちよい。草原で飲んだのは、なまぬるかった。一ぱい目を一気に飲み干し、壜《びん》を取ってそれぞれのグラスを満たした。
「このあいだ、おもしろい話を聞いた。すぐに笹田のことを思い出したよ」
「なんだ?」
「数学は今に進歩がなくなるって話だ」
「へえー」
「数学って、よくわからんけど積み重ねの学問だろ。階段とおんなじで、下から順に昇らなければ上には行けない」
「まあ、そうだ」
「ところがこのまま進歩して行くと、今までの研究成果を理解するだけで四十歳、五十歳になっちゃう。その年齢になったら、もう新しい研究なんかできないから自動的に進歩はストップする。そんな不安、ないかね」
「高校の教師は、そんなレベルの高いことをやってない」
「しかし、理屈としちゃ、そういうこと、起きるんじゃないのか」
「うーん。コンピュータが人間のかわりに考えてくれるから、まだしばらくは限界が来ない。人間の頭で考えなくてすむことは、どんどん切り捨てて行く。そのあまった部分で新しいことを考える。当分はそんな情況が続くだろうさ」
「うん?」
「それと関係があるかどうかわからんけど、このごろの子どもは、計算の練習をほとんどやってないんだ。俺たちのころは、夏休みの宿題なんかでたっぷりさせられただろ。計算の理屈はだれだって知っているけど、計算力は年々確実に弱くなっている。計算機がポケットに入っちゃうんだから、計算の練習なんか意味がないような気もするさ。でも本当にそうなのか。計算の理屈だけわかっていて、実際の計算は計算機にまかせる。実用上はたしかにそれで問題はないけれど、脳みそにポカンと欠けたところができたりしないのか。つまり、計算の反復練習は脳みその発達に対してなんの役にも立たないことなのか。そこんところがよくわからない」
「数学の先生がわからなくちゃ困るじゃないか」
「現実はどんどんその方向に進んでいるんだから、悩んだって仕方がない」
「理屈はよく知っていても反復練習をしないと、わからんことって、ほかにもいっぱいあるからなあ」
啓一郎はなにげなく感想をもらしたのだが、途中から自嘲気味《じちようぎみ》の苦笑に変った。
「そう。イワンは恋愛論を並べることはできたが、恋愛はできなかった。チェホフの言葉だぞ」
「わかってる、わかってる」
ほろ酔い加減でスナックを出ると、もう太陽は西の梢《こずえ》に沈みかけていた。
「どうする?」
「今日は帰る。このところいそがしくて、ほとんど家で飯を食っていない。今日は家で食う≠チて言って出て来た。こういう約束は、破ると減点になるんだ」
「減点?」
「そう。夫婦ってのは、減点ゲームなんだ。わるいことをすると減点になる。おたがいに胸の中で計っているんだ。それでバランスをとろうとする。浮気《うわき》なんかが見つかれば、ひどい減点になるんだろうけど、マイナス1とか、マイナス2とか、小さな減点はいっぱいある。タバコの灰を落として畳に焼けこげを作ったとか、傘《かさ》を電車の中に忘れて来たとか……」
「うん?」
「すると、相手に対しても同じくらいのマイナス点を、認めてやらなくちゃいけない気分になる。なんとなく、そうなる。夕飯の用意をちょっとネグったとか、同級会で遅く帰って来たとか……心理的なバランス勘定がちゃんと夫婦のあいだにもあるものなんだ」
「おもしろい」
「どうせ今日は日曜日だ。ろくな店が開いていない。日をあらためて飲《の》もう。えーと……寺田さんて言ったよな」
と麻美の姓を告げた。
「ああ」
「美女も一緒に飲めるといいな」
「もちょっとかかるかな。なんだ、この程度か≠チて言うかもしれない」
「いや、いや、中座の審美眼なら、かなりのもんだ」
この時刻は、ちょうど犬の散歩時間に当たっているらしい。とりわけ日曜日はそうなのだろう。品評会みたいに次から次へとやって来る。犬と飼い主の顔つきはどこか似かよっているものだ。
「じゃあ、いずれ連絡する」
吉祥寺《きちじようじ》の駅まで歩いて別れた。
「女運長久を祈るよ」
笹田は別れぎわにそうつぶやいたように聞こえた。
啓一郎は井の頭線で下北沢まで。駅前通りを抜け近道に入ると、どこかの窓からカレーを煮る匂《にお》いが流れて来る。啓一郎もここしばらく自宅の夕食を食べていない。笹田のように、それが減点の対象になったりはしないけれど……。
「ただいま」
リビングルームに人の気配がない。台所もあかりが消えている。
「今、帰ったのか」
父が庭の繁《しげ》みから首を出した。
「うん」
「保子《やすこ》もひろみもいない。飯でも食いに出るか」
「日曜日だけど」
「知った店がある。日曜日にも開けているはずだ」
「じゃあ、行きますか」
「戸締まりをしてくれ」
父は着物を着る。表通りに出てタクシーを拾った。
宮益坂《みやますざか》で車を捨てて少し歩いた。割烹《かつぽう》まえだ≠フ看板。黒い格子戸《こうしど》を立て、中は民芸風の装飾になっている。三、四坪の店。二階は座敷にでもなっているのだろう。ほかに客はない。二人並んでカウンターの席に腰をおろした。こんなふうに父と二人だけで夕食をとるのはめずらしい。妹たちがいない夜は、たいてい近所の店からてんや物を取る。
「いらっしゃいませ」
和服の女がのれんを割って顔を出した。四十歳を少し過ぎている見当。細い面《おも》ざしだが目がりすのようにあどけない。
「息子だ」
「やっぱり似てらっしゃる。どうぞよろしく」
体をはすかいに倒して一礼してから、慣れた手つきで名刺をさし出す。和紙の上に前田マリ子と、むしろ現代風な名前が印刷してあった。
「ビールを飲むか」
「昼間飲んだから……いきなりお酒をもらうかな」
「じゃあ、ビールとお銚子《ちようし》だ」
「はい。辛口がいいかしら」
「そうしてください」
奥に調理場があって、女の声が聞こえる。
「日曜日だから、ろくなものがないの。おさしみはまぐろ、烏賊《いか》。尾の身もありますけど」
「烏賊をもらおう。啓一郎はどうする?」
「まぐろ。山かけなんかできますか」
「ええ、できますよ」
「じゃあ、それを」
「あとは……天ぷら、さわらの塩焼き、アスパラガス、お野菜のお煮つけ。こんにゃくの梅あえ、冷やっこ、干魚《ひざかな》もありますけど」
言いながら、そら豆の皿とじゅん菜の小鉢を並べる。
「俺はさわらと野菜、こんにゃくももらうかな」
「じゃあ私は、天ぷらとさわら。アスパラガスをバターでいためて」
「あとで、ふぐのお茶漬《ちやづけ》をめしあがって。うちのは特においしいの」
「そうします」
父は一本のビールをゆっくりと飲む。
「いい陽気になった」
「本当に。今日なんか汗ばむくらいだったでしょう」
父はほとんどしゃべらない。啓一郎も適当な話題を見つけかねている。女将《おかみ》だけがカウンターの中と調理場とを行き来しながら、なにかしら話題を捜して話しかける。
「ヌルヌルしたもの、お好きなんですか」
啓一郎がじゅん菜をたいらげ、山かけをすするのを見て女将が尋ねた。
「そうかな。納豆なんかも好きだし」
「体によろしいのよ」
頼もしそうな視線で啓一郎をながめるのは、この人の客あしらいの一つだろう。
「日曜日に店を開いて、お客さん来るんですか」
父があまりしゃべらないので啓一郎が話しかけた。
「ええ、なんとか。ゴルフの帰りなんかで見えるかたもいらっしゃるし……。開いていれば、お得意さんが顔をだしてくださいますわ。そのかわり私は週のまん中で休むの。妹がやってくれてますから」
「この商売って、はやるのと、はやらないのと、どこがちがうんですか」
頭の中にかとれあ≠フことがあった。
「あら、大問題ね。むつかしいけど……」
頬《ほお》に手を当て、しばらくは言いよどんでいたが、啓一郎が答を待っているらしいと知って、
「この店のことじゃないわよ。いろいろ見ていると、別れ道はほんのちょっとしたことみたい」
とつぶやく。
「わからない」
首を振った。
「みんなはやる店にしようとして努力しているわけでしょ。やることにそんな大きなちがいなんかあるわけないわ。毎日毎日、一瞬一瞬、ちょっとしたことで頑張《がんば》るかどうか、お客さんを本気で大切にするかどうか、それだけじゃないのかしら。なまいき言うようですけど」
「そういうものらしいね」
「なんでもそうだ」
父が横から口を挟んだ。
「成功するやつと、しないやつと、百も二百も力がちがうわけじゃない。ほんのちょっとの差なんだ。それをくり返しているうちにはっきりした差が出て来る」
「それから……もう一つ」
女将は父に勧められた盃《さかずき》を飲み干し、盃洗《はいせん》で洗って返しながら、
「どんなお金を使って店をやっているか……」
「うん?」
「会社だって同じことでしょうけど、水商売は本当にいろいろですから……。金利のつかない自分のお金で店を始めて、自分が働いてるぶんには、少々お客さんが来なくたって持ちこたえられるでしょ。でも、わるいお金だったら大変。いいお店なのに、どうして潰《つぶ》れるのかなってのは、たいていこれじゃないのかしら」
「わるいお金って、なに?」
「たとえば金利のとても高いお金とか」
「それはわかるな」
「でもお客さんには見えない部分でしょ」
薫はどんなお金でかとれあ≠始めたのだろうか。毎日毎日、一瞬一瞬頑張っているようにはとても見えないし……。
父子《おやこ》で飲む酒は、そう量も進まない。三本のお銚子をからにしてお茶漬を頼んだ。白いご飯の上にふぐのみりん干しをのせ、熱いお茶をかける。滲《にじ》み出る汁の匂いが、お茶の香りと混りあって芳《こう》ばしい。箸先《はしさき》でつつくと、ふぐが身をほぐす。
「ご馳走《ちそう》さん」
食事のあと、ゆっくりと煎茶《せんちや》を飲んで席を立った。
「りっぱな息子さん」
門口まで送って来て、女将が小声で父につぶやいたようだ。父の声が断片的に聞こえる。
「……育ち盛りに母親が病気ばかりしていて」
「おいくつでしたの、なくなられたとき?」
「二十歳くらいかな」
「じゃあ、もう大人でいらしたから」
「うん」
父は曖昧《あいまい》にうなずいて格子戸に背を向けた。和服の裾《すそ》をひるがえして道のまん中を歩く。
「帰る?」
「ああ。車を止めてくれ」
タクシーを止め、啓一郎が先に乗った。父が和服のときは、いつもそうする。
「お前は馬鹿《ばか》じゃないが……」
車の中でまっすぐ前を向いたまま父が言う。
「はあ?」
急に言われて驚いたが、これも父のくせだった。言いだすのは突然でも、その前に父は考えている。
「心が少し足りない。四十くらいまでは頭で仕事ができるが、それから先は、心がなければ人を使えない。よく覚えておけ」
それだけだった。
やはり父は割烹店《かつぽうてん》を出たときから考え続けていたらしい。少年の頃《ころ》、母は病弱で、入院生活が多かった。幼い妹たちもいたし、啓一郎は、包みこむような温かい母の愛に触れる機会がとぼしかった。聞き分けのいい少年ではあったが、父の目には不憫《ふびん》に映ることも多かったろう。
――愛情の薄い人間に育ったのではあるまいか――
そんな懸念《けねん》はつねにあっただろう。当たっているところもある。クールと言えば聞こえがいいが少しハートが足りない。それは啓一郎自身も感じていることである。しかし、父に言われてすぐになおせることでもない。
――なるほどね――
だから、よく覚えておいて≠艪チくりでもいいからなおせという忠告なのだろう。
たしかに会社の先輩たちを見まわしても、四十歳までは頭で仕事ができるが、それから先は、よい人格のようなものが必要になる。浪花節《なにわぶし》は啓一郎の好むところではないけれど、他人に対する温かい配慮は、それとは少しべつな精神に属するものだろう。
啓一郎たちが家に着くと、間もなくひろみが帰ってきた。
「ご飯どうしたの?」
「親父《おやじ》と渋谷《しぶや》へ行って食った」
「めずらしいわね」
「親父、なんだかしんみりしてたぞ」
「お姉ちゃんに言われたからでしょ」
「なにを?」
「志野田《しのだ》さんと結婚したいって。それでいいですかって」
娘が正式に父の許可を求めたのだろう。
「親父はいいって言ったんだな」
「そうみたい」
「それで少しさびしくなって、息子と二人で酒を飲む気になったのか」
「そうなんじゃない?」
娘を育て、その娘が嫁いで行く。父親には簡単に説明できない感慨があるはずだ。
母が死んだとき保子《やすこ》は小学生だった。たしか十一歳……。それからは父が母の役割もかねた。不充分ではあったろうが、とにかくやりおおせた。
今となって、
――これでよかったのか――
そう考えないはずはない。
父はさびしさを紛らすためにも啓一郎と話したかった……。とはいえ、とりたてて語るほどの話題があるわけでもない。父は子どもに対して、おおむね無器用にしかつきあえない。
盃《さかずき》を運ぶうちに、
――保子はともかく、こいつはどうかな――
思案が啓一郎のほうへ向かったらしい。
――クールすぎて心のやさしさが足りないような気がする。母親の愛が足りなかったせいかもしれない――
そんな思いが、父の脳裏をかけぬけた。ちがうかな。
「俺《おれ》は心が足りないかなあ」
独りごとでも言うように告げた。つぶやいたら、ひろみが聞いていた。父は部屋にこもって謡《うた》いをうたっている。これも昨今はめずらしい。
「心? なに、それ」
「ハートだよ。心のやさしさ」
「お兄ちゃん? そうでもないんじゃない? 普通よ。ベタベタやさしいのって気持ちわるいわ」
「このごろのヤングは好きなんだろ。誕生日に忘れずにプレゼントをしたり、電話をかけてよこしたり」
「いるわねえ、そういうの。まめなだけよ」
「俺もそう思うよ。やさしさとはちがう」
男のやさしさとはなんだろう。単純にまめなのとはちがう。相手に対する深い配慮、そう言えば当たらずとも遠くはあるまい。
――他人に対して、特に俺は配慮がないとは思わない――
ただ……どう言ったらいいのか。人間はどの道エゴイストで、自分のことしか考えない。啓一郎は愛というものをそれほど強く信じてはいない。世間で愛と呼ばれているものは、大部分砂糖のコートをかぶったエゴイズムでしかない。あとで期待にそえないものなら、初めからあまりおいしい思いをさせてはいけない。エゴイズムをはっきりと示しておいたほうがいい。こんな態度が時には冷淡に映ることもあるだろう。
モラルについて啓一郎はかなりはっきりした考えを一つ持っている。
人はどんなモラルを信奉してもかまわない。ただ自分を律するモラルと、他人を律するモラルと、それが同じ尺度であるならば、それでいいんだ。そう考えている。
たとえば商売とは人を欺《だま》してお金を儲《もう》けることだ≠ニ信ずるなら、それもかまわない。そのかわり、自分が欺されたときに苦情を述べてはなるまい。
男にとって恋愛は、女に甘い夢を見させて肉体を奪う手段なんだ≠ニ思うなら、それもいい。ただ自分の妻や姉妹や娘がどこかの男に同じように扱われても、それは仕方がない。
啓一郎はけっして商売とは人を欺してお金を儲けることだ≠ニは思っていないし、恋愛とは、女に甘い夢を見させて肉体を奪う手段だ≠ニも考えていない。だが自分を切る刃《やいば》と他人を切る刃とが同一であるべきだ、と、その点に関しては、かなり厳しく自分を律しているほうだろう。その限りにおいて、けっしてエゴイストではない。他人に対する配慮のない人間でもない。人間として一番大切なモラルは守っている、と、一定の自負はある。法子は、そのことをよくわかってくれている。法子自身もそんな考えを持っている。
――ただの屁理屈《へりくつ》かな――
まことしやかな理屈は、ともすれば現実を見失う道に通じやすい。
世間には、ただ、ただ、ひたすらにやさしい、温かいハートの持ち主というのもいるものだ。その善意をまやかしだと言うのはやさしいけれど、現実にその温かさに触れたときは理屈を超えた喜びがある。
「なにを考えこんでいるの」
急に無口になった啓一郎にひろみが首をすくめて言う。
「いや、べつに。お茶を飲みたくないか」
「飲みたくないけど……。すなおじゃないのね。お茶いれてくれって頼めばいいのに」
「じゃあ、お茶いれてくれ」
「あとで言われても、ありがた味が薄いのよねえー」
それでもひろみは立って台所へ行く。玄関のドアが開いた。
「ただいま」
保子がリビングに首を入れて中をうかがう。
「お父さんは?」
「聞こえるでしょ」
「あら、めずらしい」
階段をトントンとあがりかけたが、途中から戻って来て、
「お兄ちゃん、聞いた?」
「なんだ」
「志野田さんのこと、きめたわ」
頬《ほお》が上気している。
「おめでとう。うまくいくよ、きっと」
啓一郎は精いっぱいやさしく告げ、そんな自分に少し照れて笑った。笑いの意味は保子にはわかるまい。
「うん、ありがと」
ペコンと頭を下げる。本当にしあわせなときには人間はすなおになれるものだ。
「いつだ」
「日取りのこと?」
「うん」
「まだきまってない。どうせなら早いほうがいいって言ってるけど。夏は駄目でしょ。九月くらいかなあ」
「九月はまだ暑いぜ」
「いい式場は満員なのよね」
「地味にやればいいんだよ」
「そのつもりよ。でも、むこうの都合もあるから」
「結納《ゆいのう》は?」
「ほんの形だけだけど、やりましょうって、今日相談して来たわ。お父さんとこへ行って来る」
廊下を小走りに走って行く。謡いの声がやんだ。
「いよいよ一人出て行く。ひろみは大分先かな」
「そりゃお兄ちゃんのほうが先でしょ。とうに子どもの二人くらいいていいんだから」
「本気で獣医をやる気なのか」
ひろみはいったん短大の英文科に進んだが、途中から一念発起して四年制の農業大学へ変った。どうせなら人のやらないことのほうがいい。技術を身につけておくほうがいい。子どもの頃《ころ》から動物が好きだった。
「やりたいけどねえー」
「やればいいだろ」
「資格があるからって、はい、今日からって仕事じゃないでしょ」
「みんなどんなところへ就職するんだ?」
「病院とか研究所とか、公務員が多いわよ」
「病院て、人間の病院?」
「そうよ」
「なんで? 獣医が人間を診るのか」
「そうじゃないの。お医者さんをやるわけじゃないわよ。いろいろ検査なんかがあるでしょ。医科をやった人はたいてい臨床医になっちゃうし、検査室や研究室は人手が足りないの。それで私たちが行くの。やることは似てるんだし。あとは食品関係かしら。女性は途中でやめちゃう人も多いのよね」
「きついもんな」
「それもあるけど、たいていの人は動物がかわいくて入って来るのね、特に女性は。私だってそうだもん。でも、畜産学って、動物をかわいがることじゃないのね。どうやって殺して人間の役に立てるか、それが大部分でしょ。耐えられなくなっちゃうのね」
「なるほど」
考えても見なかったが、現実はその通りだろう。
「研究所なんかで白い上っぱりなんか着てる女の人を見ると、ちょっと憧《あこが》れちゃうけどね」
「わるくない。頭がよさそうだし」
足音が廊下を戻って来た。
「六月の第三日曜日、第三土曜日、第四日曜日、第四土曜日、あいてないのは、どれ?」
と、保子が聞く。
「いきなり言われたって……。なにすんの」
「調べてよ。結納のあとで志野田さんとこの家族とみんなで会食をするの。これからよろしくってとこね」
「第三と第四か。どこかでゴルフが一つあったな」
「ちゃんと調べて。六月は第五日曜日もあるでしょ。それも見てよ、仲人《なこうど》さんの都合もあるわけでしょ」
「それはきまったのか」
「会社の偉い人らしいわ」
「厭《いや》だあ、会社の偉い人なんか。あとで離婚しにくいじゃない」
「そういう不心得を起こさないようにわざと重しになる人にお願いするんだ」
「早く見て、日程を」
ひろみがテーブルの上に置いたままになっているハンドバッグから赤い小さな手帳を取り出してながめる。
「だいたいあいてるわね。夕方からでしょ。なんとかなるわ」
「俺の手帳を取って来てくれ。背広の内ポケットにある。多分、左」
いったん消えた保子が、上着をまるごと抱えて戻って来た。
「いろいろ予定はあるんだが、保子のためだから……」
「恩に着せるのね」
「第三日曜日だけははずしてくれ」
「ひろみちゃんは、いつでもいいのね。お父さんもいつでもいいって言うし……わが家としちゃ第三日曜日だけね、困るのは」
保子は兄と妹の顔を見て確認をしてから電話のスイッチを二階へまわす。
「ここでかければいいだろ」
「やーだんべ。お父さんがトランプでもするかってサ」
言い残して階段をあがって行った。志野田家に電話をするつもりなのだろう。
だが、間もなく普段着に着替えて降りて来て、
「まだ帰ってないわね」
と、照れくさそうに笑う。
家の前まで志野田に送って来てもらったのなら、まだ彼は自宅に帰り着いていない。今夜の保子はせわしない。はしゃいでいる。いつもはおっとりとかまえているほうなのだが……。わるい風景ではない。精いっぱいやさしい心で送り出してやろう。父がリビングルームに入って来た。
「トランプ、やりますか」
「うん、たまにはやろうか」
四人が食卓の椅子《いす》にすわり、父が慣れた手さばきでトランプをカットする。保子は柱時計をうかがいゲームの途中で電話をかけに立った。
麻美とは週に一度は顔をあわせるようになった。
丸の内会館で、麻美らしいうしろ姿を見たけれど、そのことについてはなにも尋ねなかった。笹田と話しているうちに気が楽になったから……。
麻美だったかもしれない。
そうでなかったかもしれない。
いずれにせよ親しい男の一人くらいいるだろう。あっちが勝つか、こっちが勝つか、交際の中で自然に淘汰《とうた》されていく。啓一郎のほうだって、ぜひとも麻美ときめたわけではない。男女の関係が崩れるのは、外側からではなく、内側に原因があるからだろう。ライバルがいたり邪魔が入ったりするからではなく、二人のあいだに満たされないものがあるからだ。現象的には、外に親しい異性がいて、そのために二人の仲が破れたように見えるケースもたくさん世間にあるけれど、本当は、先に二人のあいだに見えない破綻《はたん》ができていて、その不満が外に向かって裂け目を大きくしていくだけなのだ。
――戦争も国境で起きるものじゃないと言うし――
ほかにも似たことがあったと思ったが、だれかが書いた戦争論の一節らしい。鉄砲が火を噴くのはたしかに国境線の付近だが、原因は国の中、外交の中心部にあるはずだ。
麻美の男性関係にやきもちをやくより、麻美との親しさを深めることのほうがよほど大切だろう。二人の歩みは麻美の希望通りゆるかったが、会うたびに少しずつ親しさを増す。
「野球のキップが二枚ある。見に行かない? 後楽園の巨人阪神戦」
「行く、行く。うまいぐあいにあいてるわ」
麻美はデパートに立ち寄って弁当を用意して来てくれた。白い木綿のスカートにオレンジのブラウス。
「ポピーだな、まるで」
この花の印象は麻美に似ている。
「本当ね」
麻美は思ったより野球にくわしい。選手の名前を知っている。ルールも作戦もかなりよく知っている。
「くわしいね」
「この仕事をやってると、やっぱり……。ピッチャーの裸の肩を見たことあるわ」
「本当に?」
「投げるほうの肩なんか、もう普通じゃないわね。プロって、ここまでやるんだなって感心しちゃった」
「そりゃそうだろう。子どものときから毎日毎日ボールを猛スピードで投げこんでんだもん。それもまっすぐばかりじゃなく、シュートだの、カーブだの、フォークだの、高めだの、低めだの、いろいろ投げわけて。肩の形だって普通じゃなくなる」
「あれ、何メートルくらいあるのかしら」
指を伸ばしてピッチャーとキャッチャーのあいだをさした。
「ピタゴラスの定理だとどうなるんだ。ベースとベースのあいだは二十五メートルだから」
「駄目。数学は弱いの」
「二十五の二乗は六百二十五。それを二つたして千二百五十か。そのルートは三十五か六くらい。その半分で十八メートル弱」
「へえー、すごい」
そのときバッターがちょうど一塁ゴロを打った。ピッチャーが打者走者と競走して一塁ベースにかけこみ、一塁手からの送球を受け取る。十八メートルと二十五メートルの競走。
十八メートルのほうが当然速く一塁ベースに到着するはずだが、草野球ではこれがなかなかむつかしい。
「ゲーム・セット」
ダブル・プレイで阪神の攻撃が終わった。四対三で巨人の勝ち。エラーもあったが、逆転のあとの接戦、おもしろいゲームと言ってよいだろう。
「よかった」
麻美が鼻を撫《な》でながら小声でつぶやく。巨人ファンなのはナイターに誘ったときに聞いておいた。
「中座さんは巨人じゃないんでしょ」
ゲームがすっかり終わったところで急に思い出したように麻美が尋ねる。啓一郎は東京生まれだから当然巨人ファンときめこんでいたのかもしれない。
「うーん、アンチ巨人かな」
「そうだと思った。へそ曲がりだから」
「阪神を応援してたこともあるけど、去年の優勝で熱がさめた」
「浮気なのね」
いちいち性格の分析をやっている。
出口はひどく混雑している。球場の外はもっとごったがえしているだろう。席にすわって人工芝の平地をながめていた。
「神宮球場なんかへ行くと結構ヤクルト・ファンもいるのね。どういう気持ちなのかしら」
麻美はさも心外そうに言う。
「そりゃ、いるさ」
「負けるのが好きなの?」
「そんな馬鹿《ばか》な人はいない。巨人ファンはいつも巨人が勝ってないと満足しないけど、弱いチームのファンはたまに勝ってくれれば、それでうれしいんだ。人間として謙虚なんだな。勝率が二割台でも、自分が見に来たゲームで勝ってくれれば、それで狂気乱舞。負けたときをベースにしておいて、勝ったときに喜ぶ。勝ったときをベースにしておいて、負けたときに悲しむより、こっちのほうが楽しいかもしれない」
「そうかしら」
人の群れがいくらか少なくなったのを見て、出口に向かった。
「負けたほうが楽しいこともある」
「本当に?」
「誘惑には負けたほうが楽しい」
これは法子から聞いたジョークだ。ノートに記してあるので、よく覚えている。
「あなた、負けてばかりいるんでしょう」
ポピーの衣裳《いしよう》は可憐《かれん》だが、逆襲はきつい。球場の近くのパーラーに立ち寄り、駅周辺の混雑がゆるむのを待って帰路についた。
「送って行こう」
「ええ」
信号が黄色に変るのを見て、麻美の手を取って強く引いた。
「こわいんだからあ」
小走りに走り、横断歩道を渡り終えたときにはシグナルは赤に変って気の早い車が走り出していた。
「待つほう?」
「そう。中座さんは駈《か》けぬけちゃうほうでしょ」
性格はこんなところにも表われる。
「まあ、そうだ。でも、あなたのほうが正しい。横断歩道で急いでみたって仕方がない」
気がつくと、とてもいい夜だ。ほどよい気温。ほどよい湿気。空気がなごんでいる。苛立《いらだ》たしいものがなにもない。ジャイアンツが勝ったというのに……。麻美がうれしいのなら、そのほうがいい。
「旅が多いんだな」
「お茶会のお仕事もあるし、それに婦人雑誌って、旅の記事がわりと大切なの」
「そうらしい。女性が好きなのは、着るのと食べるのと、歩くのと」
「なにか言いたいんでしょ、女は馬鹿だとか」
「そうは言わない。男性雑誌よりましなんじゃないか」
「裸ばっかりですもんね」
「このあいだは京都だけ?」
「帰りに渡岸寺《どうがんじ》にちょっと寄って来たわ」
「知らないな」
知らないから教えてほしいと、すなおな気持ちをこめて告げた。
――心が少しやさしくなっているかな――
そんな気配を自分でも感ずる。
「琵琶湖《びわこ》の北のほうにあって、国宝の十一面観音がとてもすてきなの。奈良《なら》や京都とちがって付近にそうよいものがあるわけじゃないでしょ。ほとんどこれ一つ見るためにまわり道をしなくちゃいけないから……。有名なわりには、見に行けなかったわ」
「さすが国宝って思った?」
「ええ。ちょっとなまめかしいのよ。腰が細くて、色っぽくねじっていて……。モデルさんの腰つきに似ているわ。モデルさんて、歩くとき下腹からクイと出て来るのね」
麻美は話しながらモデルのポーズを作る。
「感じが出てる」
「手が不自然なくらい長いの」
「十一面観音?」
「そう。でもそれがきれいなの。ついでに琵琶湖のほとりを少し歩いて……。琵琶湖って、琵琶の形で、それで名づけられたって言うけど、変ね」
「どうして?」
「だって名前をつけたのは、ずっと昔でしょ。ちゃんとした地図があるんならともかく、あんなに大きいんですもの。岸を歩いているだけじゃ、とても琵琶の形だなんてわからないわ」
「そりゃ……ある程度、測量ができるようになってからつけた名前なんじゃないのかな、琵琶の形ってのは」
地下鉄の階段を昇り、マンションへ向かう道へ入った。木陰を歩きながら、
「部屋が見たい」
「このあいだ見たじゃないですか」
声が笑っている。
「また見たい」
少年のように告げてから、
「駄目ですか」
と神妙に尋ねた。
「いいけれど……乱暴なことはしないで。この前みたいに」
「大丈夫」
今夜は格別の野心はない。少なくともこの前とはちがう。今まではあまりにも欲望がギラギラしすぎていただろう。
――男なんだから当然――
そう思っていたが、麻美には麻美の考えがあるはずだ。あんまり速く歩かないでくださいな≠ニ言った気持ちを汲《く》んであげなければなるまい。もっとやさしく扱ってあげなければいけない。父に言われた言葉が頭のすみに刺さっている。
「じゃあ」
麻美は小指を立てる。
「指切りげんまん。嘘《うそ》ついたら……なんだったっけ」
「針千本のます、じゃなかったかしら」
通行人が笑いながら通り過ぎて行った。
「どうぞ」
「お邪魔します」
このあいだは、こたつがあった。短い日時のうちに季節がすっかり変っている。ブーゲンビリアは青い葉だけを繁《しげ》らせている。テーブルと座椅子《ざいす》が一つ。その座椅子を啓一郎に勧める。
「ウーロン茶でいいわね」
「うん」
冷蔵庫をあけ、缶入りのウーロン茶を乳白色のコップに注《つ》いだ。
「汚いでしょ、お掃除しないから」
「べつに、気にならない」
「自分でお掃除するの? 自分の部屋」
「うん、だいたいする。しつけは行き届いているんだ」
「お母様が病弱でいらしたんですものね」
「今度……妹が結婚する」
家族のことを言われて、ふいと保子《やすこ》のことが口からこぼれた。
「あら。おめでとうございます」
「めでたいかどうかわからない。わるい結婚だってある」
「そんなこと言っちゃあ……理屈をこねないで喜んでさしあげなくちゃあ」
「そのつもりだけど」
「恋愛ですか」
「見合い……だな。知人の紹介で会って、わりとすぐにその気になった。今まではさんざん文句を言っていたのに」
「そんなものよね」
麻美は視線を窓の外に移してうなずく。
――抱きたい――
二人だけですわっていると、やはりその欲望がつのって来る。
二十歳の頃《ころ》、啓一郎は自分が性的に異常なのではないかと悩んだことがあった。欲望が強すぎる……。だが大人になって、周囲の男たちをながめてみると、
――俺《おれ》だけじゃない。世間にはもっとすごいのがいる。俺なんかせいぜい平均くらいだよなあ――
とわかった。世の中には真実女が好き≠ニいう男がいるものだ。そんな男にかかったら、とてもこの情況はただではすむまい。指切りげんまんなんかなんの力も持つまい。
だが啓一郎にとっては、子どもの遊びごとでも一定の拘束力がある。約束は守らねばなるまいと、かたくなに思うところがある。
麻美が一つ息をついてから、
「まじめな話、どういうお気持ちで私を誘ってくださるの?」
目を伏せているが、言葉は明快だった。
「好きだから」
「それだけ?」
「もちろんその先のことも考えている。あなたさえよければ」
重い台詞《せりふ》を軽い調子で告げた。言葉に嘘はない。ただ……今は好きであることを確かめている最中なんだ。ずっと好きでいられるかどうか、考えているところなんだ。
――あなただってそうでしょう――
と言いたい。
もとより結婚のことも考えている。まだ決断がつかない……。
とはいえ、今の言葉は麻美には結婚の申しこみに聞こえたのではあるまいか。
奇妙なことに、いつか、どこかで同じような場面に遭遇したように思った。こんな感覚で、女と二人、重い沈黙を続けたことがあるように感じた。思い当たるものはなにもない。むしろ、未来に向けて、いつかそんなことがあるだろうと、脳みそが潜在的にイメージを描いていたのかもしれない。
それとも会社で……たとえば取引きのとき、
――この言葉は誤解されそうだな――
そう考えながら、なお一歩踏みこんで危険な言質《げんち》を与えなければいけない、そんなことが最近あったのかもしれない。
「推理小説を……」
と言いかけて言葉をのんだ。
推理小説をうしろから先に読むみたいだなあ≠ニ言おうとしてやめた。つまり……先に結論を知ってしまう。そのうえで前に戻ってプロセスを楽しむ。結婚の約束をしてから恋愛を楽しむのは、たとえて言えば、そんなものだろう。そう思いながら言わなかったのは、皮肉がきつすぎると考えたから。
「俺もいろいろ考えている。ゆっくり歩こう」
「ええ」
麻美の声が喉《のど》にからみながらこぼれた。
「会社には多いの? 結婚して仕事している女の人って」
「いるわよ。いくらでも」
「白い目なんかじゃ見られないわけ?」
「もうそんな時代じゃないでしょ。未婚の母までいますもん」
「現実問題として子育てなんかどうするのかな」
オフィスの勤務とちがって雑誌記者は仕事が不規則だろう。
「それはもうまったく個人の事情次第ね。産まない人もいるし、お母さんにお願いする人もいるし、お手伝いさんとか保育所とか、よく頑張《がんば》ってるわ、みなさん。子ども好きですか」
「特に好きじゃない。と言うより考えたことがない」
「私は好きじゃないわあ」
「前にもそう言ってた」
「たまに見るのは、かわいいけど。駄目ね、女としちゃ」
「それはそれでいいじゃないか。みんなと同じ考え方することないもん」
「そう思っている」
すいと手を伸ばし麻美の掌《てのひら》を取って口に当てた。
「抱きたい」
願望としてでなく、心にあるものをそのまま伝えた。
「駄目。我慢して。もう少し先のほうがいいと思うの。いつかその気になれるときが来るわ」
「かならず?」
これも推理小説をうしろから読むことではないのかな。抱きあうことを約束して親しくなるのだとしたら……。
「かならずかどうかはわかんない。男の人みたいにはいかないの。一生を賭《か》けることですもん。自然にそんなふうになれるときが来て……。あなただって、まだ心がきまってないわけでしょ。妹さんたちのようにはいかないわ」
固い意志を伝えるように下唇を噛《か》む。
「うん?」
「古風なの。お茶をやっているくらいだから」
笑いながら言い、手をふりほどいて髪を束ねる。それからさらに愉快そうに笑って、
「このあいだ見ちゃったわよ、四《よ》ツ谷《や》で、夜遅く、女のかたと二人で。タクシーの窓から」
と言う。
――どうしよう――
否定する道もないではないが、四ツ谷≠ニ言う以上、はっきり見ている可能性が強い。
「知っているバーがあるんだ。仕事でよく使ってる。ママが大通りまで送りに来てくれたんだろ」
「仲よさそうに……」
「そうかな」
丸の内会館で見た二人連れのことを告げようかと思ったが、それも味気ない。麻美もそう強くこだわっているようではない。たまたま薫と大通りに出たところを見られただけだろう。
麻美が視線をななめに送って置時計を見た。啓一郎の位置からは文字盤は見にくいが十一時にはなっているだろう。
「あれは許してあげる。そのかわり今夜は静かに帰ってくださいな」
これは女のロジックだ。どことなく辻《つじ》つまがあっていないような気もするが、それなりの説得力はある。
「わかった。そのかわり今週の土曜か日曜に会おう」
啓一郎のほうも条件を提示する。
「ごめんなさい。今週は静岡へ帰るの。法事があって。その次の週末は?」
「ゴルフが一つあるし……」
保子の結納《ゆいのう》はいつにきまったのか。
「ゴルフ、なさるの? 知らなかった」
「するのか」
「いえ、私はしない。ただ……話に出ないから、しないのかと思ってた」
「少しはやる。うまくない。あれは口うるさいスポーツだからなあ」
「来週にでも入ったら、また連絡してくださいな。なにかきれいなものでも見に行きたいわね」
「なんだ、きれいなものって」
「展覧会とか」
「それもいいけど、あるいはドライブ」
「ちょっと暑いわね。もう梅雨入りでしょ。再来週《さらいしゆう》あたりは」
麻美は立ちあがる。
啓一郎も立って、行く手をさえぎるように麻美の前に出た。両手で麻美の髪をかきあげ、頬《ほお》を撫《な》でるようにして唇を求めた。麻美は目を閉じ、そのまま見上げるようにおとがいをあげた。下唇を含むように重ねて、静かに深みを訪ねた。小さな舌先が、男の舌先を迎える。大きな腕が細い体を包んだ。しばらくはそのままの姿勢で抱きあっていた。
――香港《ホンコン》のホテルでいきなり麻美の部屋に入ろうとしたら、どうだったろう――
その後の経緯から察して、麻美はかたくなに拒んだにちがいない。無理をすれば、助けを呼んだかもしれない。
「ビクトリア・ピークを思い出す」
「そうね。あのときは急に抱くんだからあ」
「でも、どうして……」
「わりと簡単な女だと思ったんでしょ。厭《いや》だわ」
「そうでもないけど」
「油断のならない人だと思ったわ」
「そんなことないんだがなあ」
いつかあのときの女心を尋ねてみたい。しかし、それは今ではなさそうだ。
「じゃあ今日は我慢する」
もう一度麻美のおとがいを手の甲であげ、唇を寄せた。かすかに銀アマルガムの匂《にお》いがもれた。
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あじさい
夕刻からあいにくの雨に変った。新橋駅を銀座口に出て、ほんの二、三十メートルも歩くと目ざす建物があった。
蔵前工業会館。古い壁に古い文字が刻んである。
――知らなかったなあ――
時おり通る道だが、こんなところにこんなビルがあるとは気づかなかった。建物よりさらに古い感じのエレベーターが軋《きし》みをたてて昇る。
定刻五分前。志野田家・中座家御席≠ニ記された部屋に入ると、テーブルを挟んで数人の男女がすでにすわっていた。保子《やすこ》は和服でかしこまっている。
「遅くなりました」
「長男の啓一郎です」
父がまず正面の男に、それから左手の列に告げた。
「おめでとうございます。本日は大変なお役目をゆだねられまして」
正面の男が名刺を取り出しながら歩み寄って来る。志野田|弘《ひろし》の上司で、本日の仲人《なこうど》を依頼された人だとわかった。
「家内です」
目顔でうしろにいる和服の夫人を指す。
「中座啓一郎です」
啓一郎も名刺をさし出した。
脇《わき》のテーブルに結納《ゆいのう》の品々が並べてある。
「みなさん、おそろいですね」
志野田家のほうは、当人のほかに両親、長兄らしい人、これは面《おも》ざしが似ているからすぐにわかる。あとの二人の女性はだれなのか。こちらの列のほうが中座家に比べて少し長い。
「では始めましょうか」
仲人は窓際《まどぎわ》の位置に立って、一つ咳払《せきばら》いをしてから口上を述べ始めた。
「本日はおめでとうございます。本式の結納となりますと、いろいろややこしいしきたりもあるようですが、私、とんと不案内でございまして……本日はご両家のお許しをえて、略式中の略式。志野田弘君と中座保子さんが、正式な婚約をしたのだという、その約束の立会人を務めさせていただきます。そのあと、あわせてご両家の初めての会食にも参加させていただく次第でございます。で、これをまず渡すのだと思いますが……」
背後に待機していたボーイが結納品を載せた白木のお盆を志野田弘に渡し、それが仲人の手に渡る。
仲人は目録を広げ、照合をしてから、
「志野田様からの結納品でございます。いく久しくお納めください」
と保子に渡す。
「ご丁寧におそれ入ります。ありがたくいく久しくお受けいたします」
仲人は神妙な様子を装っているが片頬《かたほお》が少し笑っている。ひろみが上目遣いで、こまかく観察している。保子の手から受書と御袴料《おはかまりよう》が渡され、志野田がその受書を返して儀式が終わった。
「これで、おしまい。いや、あ、そうか、指輪があるんでしたな」
仲人が額の汗を拭《ふ》き、笑いながら志野田と保子を招く。男から女ヘルビーの指輪が、女から男へ、こちらは実用品で、お仕立て券つきの背広地一着分の目録が手渡された。
「ご両家ともおめでとうございます。…儀式は終わりまして、ボーイさん、会食のほうをお願いしますよ」
合図を送ってから、
「ご両家のご家族の紹介ですが、私よりお父様がたにやっていただいたほうがよろしいでしょう。で……お願いできますか。志野田さん」
「それでは、どうも。あらためて紹介させていただきます」
志野田家は父親も相当にきまじめな人らしい。まるで気をつけみたいに姿勢を正して家族の一人、一人を紹介する。女性二人は、長男夫人と長姉とわかった。もう一人、下の姉がいるはずだが、
「出産が近いので失礼させていただきました」
と報告があった。
中座家のほうはやさしい。父が立ち、啓一郎を紹介し、
「これは甲斐性《かいしよう》なく、いまだに独身で……」
と言い、ひろみについては、
「学生ですが、これももうほどよい頃《ころ》で……。よそ様に比べると、わが家はちょっとすねをかじっている年月が長いようで」
と、つけ加える。笑いが起こり、一座の雰囲気がなごむ。
今日の保子は、妹ながら少々りっぱに見える。華やかな訪問着もよく似あってよい器量だが、それ以上に凜《りん》とした覚悟のようなものが顔に漂っている。志野田の表情にはないものだ。
時代のモラルはずいぶん変ったけれど嫁いで行く≠ニいう行為には、やはりそれなりの決意が必要だろう。だれかのエッセイで昨日まで一緒に遊んでいた姉が、嫁ぐ日に悲しいほど大人びた表情になっていた≠ニ、そう読んだのが印象に残っている。
――しあわせになれよ――
心からそう告げてやりたい。
――隗《かい》より始めよ、かな――
とも思う。啓一郎自身が、迎える妻をしあわせにしてやらなければなるまい。それは麻美《あさみ》なのだろうか。
「ここは建物はひどいけど、料理はわりとうまいんですよ」
仲人さんが工業大学の卒業生らしい。部屋の天井を見あげながら言う。シャンデリアも黄ばんでいる。壁には亀裂《きれつ》が走っている。
「一ツ橋のほうは、りっぱな会館になってますなあ。このあいだ久しぶりに神田へ行って驚きました」
「そりゃ、あなた、技術者よりは商売人のほうが、お金儲《かねもう》けはうまいですから」
志野田も志野田の父親も厳粛な面持ちでうなずいている。
「志野田さんのところは、三代にわたって技術屋さんだとか」
仲人さんの額は限りなく上に広がって滑らかな頭に続いている。色白の肌が赤味を帯び、どことなく西洋人のような面ざしだ。
「はあ。私の父は鋳物屋《いものや》でございまして。技術者と言っても町工場の職人に毛がはえたみたいなものですけど」
「その前はどうでした?」
「その前って言うと……」
「あなたのおじいさんは」
「ああ、坊さんでした。親父《おやじ》は四男坊だったし、お寺が厭《いや》なんで早く飛び出したらしいです」
「中座さんのところも、昔は僧門のほうだったとか」
「ええ。うちのほうは、私のひいじいさんが寺を飛び出したのかな」
と、父が答えた。
啓一郎がかすかに知っている程度の知識だ。幼い頃には、武士の末裔《まつえい》のほうが恰好《かつこう》がいいような気がして、母に尋ねた。
「お坊さんよ」
そう聞かされてひどくがっかりした記憶がある。
「お坊さんは当時の知識階級だから……ご両家のその後の発展をながめますと、うなずけますな」
「でも、お式のほうはキリスト教で」
今まで黙ってナイフとフォークを動かしていた志野田の母が笑いながらつぶやく。
「ああ、そうでしたな。お母様が信仰していらして」
「いえ、信仰ってほどじゃないんですけど、私の母が新しいもの好きで……なんとなく関係があったものですから」
と言葉を濁す。これは、とても元気のいいお母さんで、今でも山登りなどに行くらしい。
「志野田君とキリスト教ってのは、あまり結びつかなかったけどなあ」
「はあ、ほんのおつきあい程度ですから」
当人はまじめに答えたのだろうが、席のあちこちで笑いが起きる。
「保子さんは英語がうまいそうじゃないですか」
「あ、そんなことないんです。身上書になにか一つくらい特技を書かないと恰好がつかないものですから」
「いや、いや。そうでもないでしょう。志野田君はそっちのほうはまるで頼りないから。読めるのは読めるらしいんだが、話すのはたしかにひどい。奥さんがうまければ、これから助かる」
「保子は、そんなにうまくなったのか。月謝を大分持っていかれたもんな」
父にからかわれ、保子は顔を赤くして首を左右に振っている。
「わりと発音はきれいみたいですよ」
啓一郎が助け舟を出す。
しばらくは食卓を挟んで、英語を話すことのむつかしさが語られた。
「若い人たちは大分ちがってきましたな。もう話せることが前提になっている」
「私の会社では、仕事を持たせて、いきなりアメリカへやっちゃうんです。当人は苦労もするし、トンチンカンの一つや二つ、やるんでしょうけど、結局はなんとかこなして帰って来る。そういう点、若い人たちは、りっぱになりましたな」
話を聞いているうちに、啓一郎の思案はいつのまにか本日の主役のほうへ移った。とりわけ保子のほうに。
――女としてどうだろう――
ずっと一緒に暮らして来た妹だから、もちろん一通りの観察はしている。だが、それが総合的な判断に結びつかない。兄妹《きようだい》とはそんなものだろう。データはファイルの中にあるのだが、まとめができていない状態、そう言ったら、いくらか近いだろうか。
――すべてが中の上くらい――
器量は目を見張るほどよくはないが、けっしてわるいほうではあるまい。頭も抜群のよさとは言いかねるが、そう馬鹿《ばか》でもない。性格も、ぼんやりで、わがままで、わるいところはいくつもあるが、心根はわるくないし、気のやさしいところがある。家事も、母が早くからいないせいもあって、ほどよくこなす。明るく、屈託がないのも長所だろう。妻ということなら、ほどほどにそろっている。志野田弘が、
――これならいい――
と惚《ほ》れこんだのは、技術者らしく基礎的な条件をちゃんとチェックした上での判断だったのかもしれない。啓一郎自身よりよほど落ち着いた、堅実な道を選んでいる。
――少しほめすぎかな――
そう思ったのは保子に対してである。身びいきの感情は、きっとどこかに潜んでいるだろう。
「お兄さんのほうも、そう長く独身生活を謳歌《おうか》されていないで、ぼつぼついかがですか。よいお嬢さんがたくさんいらっしゃいますよ」
食卓の視線が啓一郎のほうに向く。この席でこの話題が出ないはずがない。覚悟して来たことだった。
「はい。その気になりましたときには、あらためてお願いにまいります」
「女性がおきらいってわけじゃないんでしょ」
「そんなことはありません。ただ……大勢の中には一人くらい変った生き方をする者がいてもいいような気がして……さほど強い信念でやってることじゃありませんが」
仲人《なこうど》さんは釈然としない様子だったが、志野田家に対しては、すでに保子がなにかしら説明をしているだろう。「兄は少し変っているの」とかなんとか……。
食事を終えて外に出ると、会館の脇《わき》の路地にハイヤーが四台待っていた。志野田が仲人さんを送って行く。中座家は一台で充分に間にあう。
「今夜はここで失礼させていただきます」
「今後ともよろしく」
「お遊びにいらっしゃいね」
いくつものお辞儀があったあとで車が走り出す。
「疲れたか」
「ううん、平気」
「どう、気分は?」
啓一郎が尋ねた。
「変ね」
「どう変だ?」
「わかんない。いよいよこっち岸からむこう岸へ行くのかなあって思って」
たしかにテーブルを挟んで両家は向かいあっていた。いくら結婚は二人だけのものだと言っても、女には住み慣れた岸から、知らない岸へと渡って行く部分が残されている。
「そう面倒な家じゃないみたいだな」
啓一郎が言ったが、父も保子も答えない。たとえそう見えても、このテーマは手放しに楽観はできない。
「厭味《いやみ》な人はいなかったもんね」
ひろみが今までの沈黙を破って感想を述べる。
「まあ、普通の家族だろう。普通が一番いいんだ。厄介なこともあるだろうが……みんなで保子を祝ってやってくれ」
父が窓の外を見ながら言う。
「ええ」
答えながら、啓一郎は、
――俺《おれ》は少し普通じゃないからなあ――
と考える。大きく軌道をはずれているとは思わない。だが、理屈の通らないことはしたくない。かたくなにそう思うところがある。どんなことでも自分で選択して、そのうえで進みたい。これは一見すばらしい生きかたのように見えるが、現実はそうでもない。それも知っている。この頃《ごろ》はよくそう思う。
つまり、一つ一つ自分で選んでいくというのは、とても大変なことなんだ。残念ながら人間はそれほど賢くはない。苦労して自分で選ぶより、世間がいい≠ニ言っていることをそのままうのみにして従うほうがずっとまし、そんなケースがいくらでもある。
志野田弘がどういう基準で保子を選んだのか、たしかなことはわからないけれど、おそらく世間でいい≠ニ言われていることにすなおに従ったのではあるまいか。そんな気がする。会食の最中の様子を見ていて、そんな判断が当たらずとも遠からず、と感じた。
啓一郎は、むしろそんな考えにさからって生きて来た。職場でも、女性関係でも……。
――ただのわがままかもしれないけど――
この生き方は結果のほうからながめてみるといいことばかりではなかった。
厳重に戸締まりをして出たので、家の中はひどく蒸し暑く、空気が淀《よど》んでいる。縁側の雨戸を開けて夜気をいれた。
「あじさいが咲いた」
ガラス越しに射《さ》す明るい光を受けて、闇《やみ》が一カ所だけ切り取られたように輝いている。花の群れはその中にあった。薄紫の花と緑の葉が美しい。あじさいは闇に似あう花だ。
「婚約の日にあじさいが咲いてるなんて厭ね」
ひろみが普段着に着替えてリビングルームに戻って来た。
「なんで?」
「だって、あじさいの花言葉は移り気でしょ」
「色を変えて、いつまでも美しいってのは、いいじゃないか、新妻の前途としては」
「言えるわね。でも、あじさいだって、そういつまでもきれいってわけにいかないから。すぐにバラけちゃって。スタイルがわるくなるのよ」
父も作務衣《さむえ》に着替えて入って来て、
「保子はまだかな」
と聞く。
「着物を片づけているみたい」
「手がすいたら降りて来るように言ってくれ。ひろみ、お茶を入れてくれんかな」
啓一郎が保子を呼びに立った。家族四人がそろい、お茶が出たところで、父がおもむろに話し始めた。
「今日はおめでとう。みんなもご苦労だった。保子はくれぐれも体に気をつけ、いいコンディションで式を迎えてくれ」
「はい……」
「あらためて言うほどのことではないのかもしれんが、いい機会だから、お父さんの考えをみんなに言っておく」
そこで咳払《せきばら》いが一つ。
「財産はこの家屋敷と、隣のマンションと、それから若干の株券や預金などがあるだけだ。もちろんお父さんが死んだあとのことだが、この家屋敷は啓一郎に、マンションのほうは敷地ともども保子とひろみに譲る。動産が残っていれば、これは保子とひろみで折半しなさい。あんまり期待をするなよ。お父さんが全部使って死ぬかもしれんしな。啓一郎は、家屋敷だけだ。財産としてはマンションを折半にしたよりずっと価値がある。そのかわり、現金や有価証券が残っていたら、それは妹たちのものだと思え。相続税は自分の金で払うんだぞ。この先少し方針が変るかもしれんが、原則はこんなところだ。いいな」
思いがけないことを聞かされて啓一郎も保子もひろみも、お茶も飲まずにかしこまっている。
「どのくらいかかりますかね、相続税って?」
「わからん。税制も変るし、まだそう簡単には死なんよ。しかし、税金の心づもりくらいはしておけ。くわしい人もいるだろ。保子たちの相続税は、もらったお金で払える程度だろうと思うよ」
「お兄ちゃん、まるで文なしなんじゃないの?」
と、ひろみが半畳を入れる。
「いざとなれば多少はあるさ。月給取ってんだから、ひろみとはちがう」
「私がお金持ちと結婚して、そのとき少し恵んであげる」
「ああ、そうしてくれ」
「お姉ちゃんはもう行く先がきまったんだし、これからものすごいお金持ちになれるのは、私だけよね」
「可能性だけを言えばね」
「ものすごい貧乏になれるのもひろみだけじゃないのか。駄目な男に入れあげたりして」
父は庭の灯《ひ》を見ながら子どもたちの無駄話に笑っていたが、
「とにかく保子の結婚を機会に一応いま言ったような筋で遺言状を作らせておく。それだけだ」
父は茶わんに残ったお茶をすすって椅子《いす》を立った。それを目で送り、
「親父《おやじ》らしいな」
「まさか死ぬんじゃないでしょうね」
「用意のいい人は、かえって大丈夫なんだ」
「お兄ちゃんかお姉ちゃんが死ぬと、私の分け前が多くなるわけよね、当然」
「そう。中座家殺人事件なんちゃってな」
「お父さんが病気になったら、だれが面倒を見るのかしら」
と保子がつぶやく。その問題は啓一郎の頭の中にもあった。
「お父さんは完全看護の病院に入るつもりらしいわよ」
「それだけですむもんじゃないさ」
保子が茶わんの中をのぞきながら、
「この先、私だってどうなるかわからないわ。もちろんお父さんのことは精いっぱい考えるつもりよ。でも、お父さんが病気になったとき、むこうで私がどういう状態になっているかわからない。ひろみちゃんだって同じことよ。今は独りでいるけど、いつまでもそうじゃないんだから。お兄ちゃんの奥さんだって、どういう人になるかわからないし」
「一生独りかもしれないし」
ひろみがまた横からあいの手を入れる。
「でもずっと独りってつもりじゃないんでしょ」
「うん。いずれは考える。そう遠い先じゃないと思っている」
「わかんないことが多すぎて、今ここでなにかをきめるってわけにはいかないけど……。ね、お兄ちゃんもひろみも聞いて。いざというときにはお父さんのこと、本気で考えましょ。私もそのつもりでいるから……志野田のほうへ行ってからも」
保子がけなげに訴える。
「そのつもりだ」
啓一郎が答え、ひろみも神妙な顔でうなずく。
――いつかそんな日も来るだろう――
三人の目がそろって庭のあじさいに移った。紫の花はこんな家族の風景にもよく似あっていた。
毎年、梅雨の季節に入ると、オフィスの中に淀《よど》むような、流れるような気配がこもり始める。空気調節がどんなに完備してもこればかりは変らない。
人事異動の空気がそろりそろりと動き始めるからだ。慣例では七月一日の発令。そこから逆算して六月なかばあたりから噂《うわさ》が流れ、やがて内示が始まる。空気の密度が変り、ひどく揺れ動くところや奇妙に静まりかえっているところができる。やけに早く噂の流れる部分があるかと思えば、まるで沈滞して話が通らない地域もある。
「中座君、今夜、飯でも食わんか」
四時半を過ぎ、啓一郎が電卓を片手に書類の数字を拾っていると、植田課長に声をかけられた。
「はい?」
「いそがしいのか」
残業を考えていたが、大切な話らしい。この課長とは、もうひとつ反りがあわない。同じラインの中の課長と係長なのだから、仕事の面では協力しあっているけれど、深いところでは折りあえない。
「いえ、大丈夫ですが」
「酒ぬきのほうがよければ、それでもいいけど」
酔っぱらって肩を叩《たた》きあい、なあなあ≠フ雰囲気で仕事の話をするのは、あまり好きじゃない。昔、なにかの席でそう言ったことがある。課長はそれを覚えていて、気を遣ってくれたらしい。今はそれほどこだわっていないのだが……。植田課長のほうは根が浪花節《なにわぶし》だから部下を飲みに誘うのが大好きだ。
「飲みましょう。せっかくですから」
「じゃあ、終わったらちょっと行こう。俺の知った店でいいな」
「はい、お願いします」
書類の整理は明日にしよう。
――なにかな――
人事異動ではあるまい。なんとなくわかる。サラリーマンの直感……。机の上を整理して待った。
「行こうか」
五時を過ぎると、待ちかねたように課長が上着を肩に羽織って誘う。
「はい」
同じように背広に腕を通しながらあとに続いた。
地下鉄で神田まで。車内の話は、もっぱらゴルフ談義。先週植田課長は平塚《ひらつか》のコースで、あわやホールイン・ワンをやるところだったらしい。飛ばし屋だから、まれには第一打がピンに近づくこともある。
駅前通りから路地に入った一ぱい飲み屋。
「いらっしゃいませ。お二階あけておきました」
「うん。ありがとう」
顎《あご》で行先を示す。細い階段をあがった奥に二畳間があった。密談専用といった趣がある。狭いから冷房がよくきいている。
「ああ、いい気持ちだ。ビールでいこう。あとでお銚子《ちようし》。二合のやつを二本。料理は適当に選んでくれ」
手拭《てぬぐ》い大のお絞りで汗を拭った。植田課長は、ワイシャツのボタンまではずして体の汗を拭《ふ》く。
「久しぶりだな。ま、一ぱいいこう」
「はい、いただきます」
「ビールの種類もいろいろ増えたけど、結局昔からのが一番いい」
「必要なんですかね、新しいパッケージが」
「新しいのを出すと、一時的には売れるらしいがね」
一ぱいを飲み干し、二はいめをなかばまで飲んだところで、
「特別どうこうって話じゃないんだ」
と課長が切り出す。
「はい?」
やはり人事異動ではなさそうだ。まだしばらくはこの課長の下で働くことになるだろう。課長としてはついては、ここで一つ意志を疎通しておこう≠サんなところではあるまいか。
「いろいろ言われるんだ」
「私についてですか」
「まあ、そうだ。まだ芽だよ、芽。そう強く気にすることはないけど、芽のうちに処理しておいたほうがいい」
「どんなことでしょう」
「うーん。むつかしいんだがね。商社の連中なんかに言わせればつきあいがわるい、ってとこかな」
「必要なときはちゃんとつきあっていると思いますけど」
「うん。俺は否定してるよ、もちろん。そんなことないって。だけど、むこうの言い分がわからんでもない。常識的に見れば、君はつきあいのいいほうじゃない。これは本当だよ。ほんのちょっとのことだけどな。会社とプライバシーと分けていこうってのは、君だけじゃなく、最近の傾向だけど、係長クラスは、もちょっと考えてくれないとね。古い体質の世界だし、無用の用ってこともある」
「はい?」
「くだらないようなつきあいの中からも、思いがけなくいいことが生まれるときもあるだろ、現実問題として。人間と人間がやる仕事だもん。あいつはいい奴《やつ》だ、一緒に酒を飲んだ、信頼がおける、そういうことが案外大切なんだ。君を見てると、必要なことはたしかにやる。よくやるよ。舌を巻くほど敏腕なところもある。だけどプラス・アルファーがない。いい? 俺は君についてだれかにあれこれ言われたときは、みんな否定してんだぞ。それは信じてくれな。だから、今が一番きびしいこと言ってんだ。君についていろいろ言っている奴の本心はこういうことだろうって想像して、強いことを言ってんだ。言いすぎを承知で言うんだが、君の仕事はなんかこのへんでいいや≠チてところが見えるんだ」
「しかし商社の連中だって少し迷惑に思っているんじゃないですか。あんまりつきあいがいいってのも……」
啓一郎としては商社の連中に言わせれば、中座さんはつきあいがわるい≠ニいう指摘は、いくぶん心外だった。必要なつきあいは充分やっている。商社の連中だって、つきあい酒が好きな人ばかりではあるまい。仕事としてやっていることだ。それぞれに家庭もあるし、プライベートの時間も必要だろう。
それに、もっと大切な問題として、メーカーと商社のつきあいは、原則的につかず離れずがよろしい。逆に出入りの業者にたかりすぎて評判を落とした例も皆無ではない。むしろ植田課長のように酔い始めると、
「さあ、もう一軒行こう」
その一軒が二軒になり、三軒になり、深夜のカラオケ大会にまで及ぶというのは、弊害も大きい。今はそういう時代じゃないんだ。交際費の枠《わく》だってずいぶん窮屈になっている。
植田課長は、自腹を切って、なにかと気前のいいところ見せたがるけれど、これだって考えようではあまりよい趣味ではない。おごられるほうにもプライドがある。いつも安らかな気分とは言えない。ありがた迷惑のときもある。飲み屋の勘定くらいで恩を着せられたらたまらない。ましてさほど飲みたくもない酒をおごられて、そのあと大きい顔をされたんじゃやりきれない。おごる側には、そんな意識がなくても、受けるほうは釈然としない。要は課長自身、ドンチャン騒ぎをやって仲間意識を高揚し、そこで商売をやるという、古い方式が好きなんだ。それが得意技なんだ。啓一郎のやり方は少しちがっている。つきあいが特にわるいわけじゃない。
「まあ、商社のほうは、どうでもいいんだ」
啓一郎の言い分は課長もわかっているはずだ。このテーマに深入りすると、課長のほうも旗色がわるくなりかねない。
「じゃあ、なんでしょう」
どうでもよいことなら、たとえ前置きにせよ、なんで言うのか。
「だからサ、君には仕事の上でこのへんでいいや≠チてところが見える。それをもう少し気をつけたほうがいいと思うんだ。ちがうかな」
根はわるい人ではない。反りはあわないが、何年か下で働いてみて、それは充分にわかっている。課長としては、本気で啓一郎の身を案じているのだろう。たしかに、このところ女性関係がちょっといそがしい。それで仕事に影響があったとは思わないが、どこか気がゆるんで見えたのかもしれない。
「精いっぱいやってますけど」
「いや、もっとできる。このあいだのミヤ建設の件だって、もうひとつ突っこみがあったら、ほかに取られやしなかった」
課長が言うのは、啓一郎が担当していた取引きで、いいところまで追いこみながら他社に契約をさらわれたケースである。不況のさなかの大量注文だったから悔いが残る。あとになって考えてみれば反省点も多々あるけれど、あの程度のミスなら商売にはいくらでもある。
「ときには、ちょっと気がゆるんで、エア・ポケットができてしまうこと、あるんじゃないですか」
精いっぱい≠フ内容がむつかしい。文字通りすべてを犠牲にして死にものぐるいということなら、啓一郎はたしかに精いっぱい≠ナはなかった。
しかし、そんなサラリーマンは、どこにいるのか。植田課長だって、いつも百パーセント精いっぱいではあるまい。滅私奉公型なので、自分でそう信じているだけのこと。厳密な意味で言えば、私的なものをすべて犠牲にして会社に勤めているはずはない。
だれにだってプライベートの生活はある。女と会うために仕事にほんの少し集中力を欠き、そのためにちょっと失敗を犯したとしても、ある程度までは仕方がないことだろう。むしろ、そういう失敗が決定的な損失にならないよう会社は作られている。飛行機のフェイル・セーフ、つまり一カ所や二カ所故障したって、けっして墜落はしない。あの思想が会社にも使われている。
精いっぱいかと聞かれれば、言葉の厳密な意味では、精いっぱいではない。だが、主観的には、それなりに精いっぱいやっていると、その自覚は啓一郎にもある。私的な生活と折りあえる範囲で精いっぱい≠ノはやっている。
「だからサ、それは、それで仕方ないんだ。ただ君は、なんて言うのかな。どうせ本当の精いっぱいはないんだから、これでいいんだと考えている。今よりもっと精いっぱいはないか、毎日問いかけているところが見えないんだなあ」
それは言えるかもしれない。
精いっぱい≠ノ見せようという気はさらさらない。むしろ見せないようにしているところさえある。
「でも、やることは平均点くらいやっていると思いますが」
「それは認めてるよ。このあいだも古い連中と話したんだ。五十人新卒を採用する。三十人は平均点だ。十人は優秀、十人はわるい。優秀な十人が平均点はあれぐらいか≠ニあわせられたら、全体の平均点はたちまちさがってしまう。力のある奴は平均にあわせるんじゃなく、一層忠誠心を持ってトコトン頑張ってくれなきゃ、全体のバランスがとれない」
料理は冷やっこ、焼きとり、野菜の煮つけ、高級品はないが、どれもみんなおいしい。家庭料理の味に近い。壁に貼《は》られた値段を見ると、驚くほど安い。この店も精いっぱい頑張っている口らしい。
「忠誠心ですか」
啓一郎は少し笑ったかもしれない。悪意はなかった。
会社に対する忠誠心、女性に対するやさしさ、この二つはどこか似ている。みんな羊の皮をかぶったエゴイズムのような気がして仕方なかったが、このところ啓一郎の気持ちが少しゆるみかけている。世間で大切と言われているものには、それなりの価値があるようだ。過信は禁物だが、少しは耳を傾けたほうがいい。
「堤義明さんなんかは頭のいい者はいらん。忠誠を尽す人間がいればいい≠チて言っとる。会社にはそういう面もある」
「わかるところもありますけど」
それほどの忠誠心は持てそうもない。啓一郎は笑いながら、
「課長は会社のためなら死んでもいいって思ってるんですか」
なかばたとえ話の気持ちで聞いてみた。二人ともすでに酔っている。酔っているなら話は少し大げさのほうがいい。
「ああ、思っている。なんせ古い型の人間だからな」
そう告げてから大きな盃《さかずき》の酒をグイと飲み干して、
「思っていると思っているんだ。わかったよ。そこが君とちがうんだ。会社のために死ねるか? 実際には死ねん。家族もある。自分の人生もある。だから君は死ねっこない、と思っている。だけど、俺《おれ》はちがう。思うだけは、死ねると思っているんだ。そう思おうとしてるんだ。見方によっては、嘘《うそ》つきでインチキかもしれん。だけどナ、人間のやれることなんか、そう大差はない。だからサ、思おうとしている奴と、はじめっから思おうともしてないやつと、これは少し差が出て来るんだ。若い連中と俺たちの世代は、そこがちがう。君は俺より頭がいい。だけど頭だけじゃ駄目《だめ》だぞ。会社のために死ねるかもしれんと、ちょっとくらい思ってみてくれ。長島ボール、金田ストライクってのがあっただろ」
少し時代がちがうが、啓一郎にも言葉の意味はわかる。
「長島が見のがせば審判はボールだと思う。金田が投げればストライクに見える。偉大な選手だと思うだけで、見えるものが変って来る。会社のために死ねると、思うか思わないか、案外大切なんだ」
適切なたとえ話かどうかわからない。だが、なにを言いたいかはわかった。
「わかります」
「うん。遺言だよ。俺は近く会社を罷《や》めるんだ」
「え?」
課長の顔をのぞきこんだ。
赤ら顔が一瞬、目をしばたたいたように見えたが、すぐに笑い顔に変って、
「部長にはもう話した。来週あたりから噂《うわさ》も流れるだろ。君のほうからはまだあんまり言わんでおいてくれ」
「はい……? でも、どうして」
「神戸《こうべ》の兄貴の病気がわるくてサ。帰って手伝う。親父《おやじ》が始めた会社だから潰《つぶ》すわけにはいかん。サラリーマンのほうが、いくら不況でも楽だろうけどな」
「そうですか」
今夜の酒盛りはこれだけは中座に言っておこう≠ニ、この人らしい好意からなのだろう。
――やっぱりわるい人じゃない。無償の善意というのも、たまにはあるものだ――
今まで反りがあわないとばかり思っていたが、懐《ふところ》に飛びこんでみれば、通じあえる部分もたくさんあったのかもしれない。おたがいにかたくなだった。
あるいは……そう思うこと自体がこの場の感傷なのだろうか。今まで職場で、何度も反目しあって来たのだから、そう簡単に折りあえるはずはない。別れのひとことでうまくいくものならば、とうにうまく行っていた……。
――ややこしく考えるところが、俺《おれ》のよくないところなんだよなあ――
それもわかっている。頭の中で思案が堂々めぐりをしている。酔った頭の特徴でもある。
「君は理屈人間だからな。俺みたいな浪花節《なにわぶし》とはちがうけど、人を動かすことなんか、どこかに浪花節があるものなんだ。あの人のためにやってやろうってとこがなけりゃ駄目だ。少し考えてみてくれ」
それが結論だった。
「ありがとうございます」
料理はもう終わっていた。
「フルーツなんかいかがですか」
「なんだ?」
「さくらんぼ、グレープ・フルーツ」
「いらん」
「場所を変えて飲みますか」
「すまんが、このあとちょっと用がある。君にはわるいが、すきまの時間につきあってもらったんだ。もう一度とことん飲もう」
「いいですよ。しばらくはいそがしいでしょう」
「うん。失礼する」
店を出て左右に別れた。
――ちょうどいいところ……だな――
これ以上飲むと、議論がしつこくなる。啓一郎も反論するだろう。忠告というものは、たくさん言われたから従えるというわけではない。反作用が起きて来る。ほのめかされるくらいのほうが効果が高い。たまたま課長のほうに仕事があってそうなってしまった。課長の意見を全面的に認めたわけではなかったが、自分の弱点を指摘されたわりには、あと味がわるくなかった。
街は昼の温気《うんき》を残している。電話ボックスの中に浅緑色の電話があるのを見つけて中へ入った。テレフォン・カードは、ちょっと使ってみたくなる商品である。
麻美《あさみ》の電話番号をまわした。
信号音を十五数えて受話器を戻す。
「いないか」
神田の古本屋街を歩いた。本屋の棚の前でペラペラとページをめくっているときは、
――おもしろそうだな――
そう思う本も多いのだが、いざ買おうかと考えると、
――まあ、いいか。荷物にもなるし、今週はいそがしいからどうせ読まないな――
と、もとへ戻してしまう。なにも買わずにパチンコ店へ。三百円で買った玉がまたたくまになくなってしまう。もう三百円……。これもさしたる成果もあげずに消えてしまった。こうなると意地になる。今度は四百円買った。しめて千円|也《なり》。パチンコ店へ入った以上、このくらいの出費は仕方ないだろう。
会社で机を並べている男は桐生《きりゆう》の出身で、
「中座さん、今や桐生はパチンコの町ですよ。もう絹織物なんかめじゃない。パチンコ機の製造じゃ日本一です。市を代表する産業ですよ」
そんなこと言っていた。
小・中学校の日本地理ではよく各地の名産物を覚えさせられたけれど……これからの教科書では群馬県の桐生市はパチンコ機の製造でよく知られ≠ニ記されるのだろうか。あまり自慢になる産業ではないが、これは偏見かもしれないぞ。庶民にこれほど愛される娯楽は、ほかにそう多くはない。手軽で時間もそう長くは取られず、没頭できて……文化勲章の受章者にもファンがいる。ほかの賭《か》けごととちがって一家心中までやった話は聞かないし。
四百円の玉が残り少なになったとき、一つがポンと特賞の穴に飛びこんだ。急に音楽がにぎやかになる。しばらくは断続的にアームが開いて、どんどん入る。受け皿がいっぱいになった。
しかし、このゲームは一時間も遊ぶとあきてしまう。わずかな玉を景品に換える気にはなれない。なまじ増えたりすると今度はかえってがっかりする。最後にタバコ一箱分の玉を残してやめた。
――今夜は帰るとするか――
家について、もう一度麻美に電話をかけると、電話のむこうで息が弾んでいる。
「もしもし、今、帰ったところなの」
「今週の週末はどう?」
「鎌倉《かまくら》に行きたいの。つきあってくださらない?」
「うん、いいよ」
土曜日の約束が決まった。
あいにくの曇天。北鎌倉の駅を降りると、線路ぞいの細道はとりどりの雨傘《あまがさ》で埋めつくされていた。それほど強い降りではない。同じ細い雨でも、ひどく苛立《いらだ》つ雨と、さほど気にならない雨とがあるのは、なぜだろう。
麻美は白とグリーンの縞模様《しまもよう》の傘を広げる。ブラウスは白地にグリーンのこまかい水玉。そしてスカートは傘とほとんど同じ色合い。髪を束ねたりボンも同じグリーンにそろえてある。
「本気で降る気かな」
空を見上げた。啓一郎は傘を持たない。降り続くようなら、安い傘を買うつもりだった。
「降ったり止《や》んだりじゃないかしら。このくらいがいいのよ」
「どうして?」
「晴れたら混雑がひどくて。明月院《めいげついん》は、これでも満員だと思うわ」
まず円覚寺《えんがくじ》を歩いた。何年か前に来たことがあるはずだが、ただ広い≠ニいうこと以外ほとんどなんの記憶も残っていない。
豪壮な山門をながめ、仏殿に拝し、方丈の庭をめぐった。手まりのようなあじさいが、さまざまな色を映して咲いている。赤、白、青、紫、そしてそれぞれの色を微妙に混ぜあわせたもの。
「同じ禅寺でも、京都のお寺は、庭がきれいに刈りこんであるでしょ、たいてい」
「そうかな」
「こっちのほうが自然な感じ。あんまり手入れがよくしてあると、ほら、男の人が床屋さんから帰って来たばかりみたいで」
「頭がわるそうに見える」
「そう。軽薄な感じ。少し崩れているほうがいいわ」
古刹《こさつ》には見どころがたくさんあるのだろうが、知識のない者には本当の価値はわからない。
「よく来るのか、鎌倉に」
「この季節は久しぶり。だからつきあってもらったの。昔はもう少し奥のほうまで見せてくれたような気がするんですけど」
あじさいの道にグリーンの傘が鮮やかに映る。
「これが、がくあじさい。ご存知よね」
麻美が道に垂れている花を指先に挟んでふり返った。手まりの外周にだけ小花がつき、中はつぶつぶになっている。
「知らない。まだ半分しか咲いてないのかと思った」
「男の人って、本当に花のこと知らないんだから」
「なんて言うんだ。音痴じゃなくて……花痴」
「そうね。形に変化があって、がくあじさいって、好き」
門を二つくぐり、横須賀線《よこすかせん》の踏み切りを越えても、池があり橋があり、寺の敷地が続いている。線路は一部、寺の中にある。街道《かいどう》は車でぎっしり。狭い歩道も人の群れでいっぱいだが、まだこちらのほうが早く進める。
東慶寺《とうけいじ》に着くころには雨が止んでいた。長く尼寺であっただけに、どことなくたたずまいが穏やかで、やさしい。円覚寺のようにさあ、どうだ≠ニばかりに威圧するところがない。
「江戸からここまで、どのくらいあったのかしら。距離」
駈《か》けこみ寺《でら》としての歴史はよく知られている。
「五、六十キロかな」
「大変ね、逃げて来るのも」
「川もあるしなあ。追手も来るし」
境内は奥に細長い。白い壁が途切れた先に垂直の崖《がけ》が立ち、その湿った壁画にへばりつくようにこまかい草花が咲いている。
「雪の下」
「あの白いの?」
「そう」
小さな枝に、小さなおみくじを縛ったように見える。
「これは知ってますよね」
指の先はスペード型の葉と、白くさびしそうな花。
「どくだみだろ。子どもの頃《ころ》は便所花って言ってた」
「厭《いや》ね。たいていそんなところにあったけど……。でも、よく見ると、わるくないわ。あら、めずらしい。あれ、いわたばこ。あの紫の花」
岩の裂けめに葉を広げ、茎をのばし、星形の小さな花をいくつも群がらせている。可憐《かれん》で、しかもたくましい。
右手に花しょうぶの湿地があり、少し進むと、奥の丘陵地は墓地になっていた。
「しゃががこんなにあって。もう花は終わったのね」
一つの斜面を、光沢のある細い葉が覆いつくしていた。しゃがと言われても啓一郎はどんな花を咲かすのか知らない。
「有名人の墓があるんだろ」
「田村|俊子《としこ》とか……。たしかそのへんよ」
左手の墓地には、すでに何人かの女性が群がっている。苔《こけ》むした墓石の表面にぼんやりと田村≠フ字が見えた。そのななめ前に、真杉静枝《ますぎしずえ》≠ニあって、これもたしか名のある人だろう。観光客が高見順≠セの西田|幾多郎《きたろう》≠セのと囁《ささや》いて歩いている。どこかにその墓があるらしい。みんな無邪気に墓をのぞきながらあった、あった≠ニカルタ取りみたいにはしゃいでいる。和辻家《わつじけ》≠フ下には和辻哲郎が眠っているのだろうか。一番奥の、高い位置まで登ってふり返ると、それぞれの墓は刈りこんだ垣根《かきね》に囲まれ、遊園地の迷路のようにも見えた。
「これ、ほたるぶくろ」
なるほど、蛍《ほたる》の宿にでもなりそうな薄紫のちょうちんが低い草の中にぶらさがっていくつもいくつも咲いている。
「花を見に来たのか。寺じゃなく」
「そう。だって、きれいでしょ。今日の花はこの季節にしか見られないんだし」
浄智寺《じようちじ》から明月院、建長寺《けんちようじ》へと北部の名刹をめぐり歩いた。
なるほど明月院までの道筋は麻美が言った通り、人と傘とでごった返している。造花やマスコット、それにカルメ焼きの屋台までが沿道に並んで観光客に呼びかけている。
あじさい寺と呼ばれるだけあって、明月院は寺院全体が大きなあじさいの花木のような風情《ふぜい》だが、行くところ行くところに人の群れがあって、花の枝をくぐると「やあ、今日は」とばかりに人の顔が現われる。
「同じ人混みでも桜のほうは、陽気で許せるけど……」
「あじさいは、ひっそりとした花ですもんね」
「浄智寺の参道のほうが、まだよかったんじゃないか」
景色をながめるためには人の数が少ないのが思いのほか大切な条件だ。
――前にも同じことを考えたな――
多分、法子《のりこ》と能登《のと》へ行ったときだったろう。
「でも、いつ来たら人のいないあじさい寺が見られるの?」
「真冬かな」
「あじさいが咲いていないわ」
特別なコネクションでもないかぎり、あじさい寺のあじさいをあじさいの季節に静かにながめることはできない。同じ矛盾は随所にある。
「モナ・リザが日本に来たとき私はモナ・リザを見ない≠ニ宣言した人がいた」
「どうして?」
「つまり一年に一度も美術館に足を運んだことのないような手合いは見に行っちゃいかん、そういう忠告なんだ。自分をだしにして言ってるんだ。日ごろから美術に関心のある人だけが、ゆっくり見ればいい。そのためには、つね日ごろ関心のない人は遠慮すべきだって」
「大胆な発言ね」
「今の日本では通りにくい意見だけど、正論は正論だな」
さしずめ啓一郎などは、あじさい寺などに来てはいけないくちだろう。
――麻美のほうが完全な有資格者だからな――
同行者は多少おおめに見てもらってもいいだろう。建長寺の伽藍《がらん》を早足で撫《な》でるようにながめてから鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》をぬけ住宅街の細道に出た。
「すごい、大きな犬」
白い柵《さく》の門から玄関まで、花壇に挟まれた通路に背の高い犬がのっそりと歩いている。細長い、優美な顔だち。でもいささかメランコリックな表情。
「ボルゾイだろ」
「へえー?」
「たしかロシヤの犬だ。貴族の屋敷の、大きな庭なんかを走っているんだ……映画では」
手をさしのべると寄って来る。
「さよなら」
麻美が手を振って別れる。雲のあいだからかすかに光がこぼれて来た。出発が遅かったから、太陽はもう西の雲の中にいるだろう。
「頼朝《よりとも》ファンというのも結構いるらしいな」
頼朝の墓までは、舗装の道からたくさんの階段を昇って行かなければいけない。思いのほか小さな、ひっそりとした様子の墓地である。
「お腹《なか》が黒かったんでしょ」
「政治家だもん。義経《よしつね》みたいに一本気じゃやれない。京都のほうに、もっと腹黒い人がいたんだから」
だれも頼朝や義経に会ったことがあるわけじゃないのに、日本人はたいてい二人の性格を知っている。
墓地の脇《わき》にある、たった一軒の茶屋も店を閉め始めていた。
「私もお腹、黒いわよ」
階段を先に降りた麻美が、ふり返って言った。
「ああ、そう。どうして?」
わけもなく丸の内会館の前で見た二人連れを思い出した。麻美はそれには答えずに、
「瑞泉寺《ずいせんじ》まで、ちょっとありますけど、歩きます?」
「いい寺?」
「とてもいいと思いますけど」
また住宅街を歩いた。塀越しの庭にさまざまな花が咲き乱れている。槍《やり》の穂先みたいな花、漏斗《じようご》のような花。啓一郎はまるで名を知らないと言ってよい。麻美はひとつひとつ目線で確かめ、時おり花の名を告げる。
「美女やなぎ」
「すごい名前だ」
「でも、きれいでしょ」
黄色い花弁を広げ、長い何本ものしべが繊細な様子で開いている。しばらく歩いて、
「また美女やなぎだ」
と言えば、
「ちがうわ。金糸梅《きんしばい》。葉っぱがぜんぜんちがうでしょ」
と笑われる。あらためて、
――美女やなぎは、どんな花だったかなあ――
と考える。色しか覚えていない。この方面には、いちじるしくセンスを欠いているらしい。
「俺《おれ》だって……黒い」
と、話題を戻した。
「お腹《なか》?」
「うん」
麻美《あさみ》には隠しているけれど、法子がいる。薫もいる。なぜそうなのか、説明はできるが、ほめられたことではない。今の状態はだれに対しても誠実ではない。
「そうみたい」
あっさり相槌《あいづち》をうたれてしまうと、今度は狼狽《ろうばい》を覚える。
「だれでも少し黒いさ」
「そうね。それがわかってくれている人のほうが、いいわ」
一般論を言っているのか、それともなにかはっきりとした意図があって啓一郎に告げているのか……。つぶやくように言ってから、麻美はまた庭の花をのぞいた。白いカップの花が木の枝にまばらについている。
「あれは、むくげ。きれいなものを見て、生きて行きたいわ」
「毎日、鏡を見て暮らせば……」
「馬鹿《ばか》らしい」
啓一郎は本心を述べたが、麻美の反応は、けんもほろろといった感じに近い。
――本当に気をわるくしたのかなあ――
内心ではそうね≠ニ思いながら、怒って見せている。ちがうかな。世間の習慣。美女の処世術……。どう考えてみても、麻美が自分の美しさを知らないはずがない。そのくせ「美しい」と言われると、まるでそんなこと思ってもいないようなふりをする。麻美に限らず、美女たちのこの演技はいつも巧みで、入念で、
――もしかしたら、この人、自分はそれほど美しくないと本当に思っているのではあるまいか――
と欺《だま》されかねない。
啓一郎としては、まさかそんな手くだに欺されたりしないけれど、麻美は今、本気であきれているのか、少しはうれしいと思う部分があるのか、そのあたりの心理がつかめない。美女を「美しい」と言ってほめるのはむつかしい。
「中座さんて、おしゃべりのほう?」
「話は好きなほうだけど……」
「つきあっている女の人のことなんか、ぺらぺらしゃべっちゃうんでしょう、バーなんかで」
「それは、ない。そういうことならぜんぜんおしゃべりじゃないほうだ」
「本当に?」
「自分でもしゃべらないし、その手の話を得意顔で話すやつ、はっきり言って好きじゃないな」
「秘密っぽいとこ、ありますもんね」
今度はガラリと逆のことを言う。啓一郎の見たところ、麻美の気分には照る日と曇る日がある。雨の日もあるのかもしれない。この前会ったときは陽気にくつろいでいたのに、次に会ってみると、ちょっと勝手がちがう。なにかまずいことをやっただろうか、と、考えてみても思い当たるものがない。麻美のほうの、虫のいどころのせいらしい。
――本日は薄曇り――
言葉のはしばしに少し険がある。
「気まぐれのとこ、あるんじゃないのかな、あなたは」
「そうよ。今まで一生懸命やってきたことでも今の、みんな嘘《うそ》。やめぇー≠ネんて言っちゃって……パッと投げ出したりするのね」
「なるほど」
道はさらに細くなり、ゆるい傾斜の先に瑞泉寺《ずいせんじ》の入口が見えて来た。
「何時までですか」
「五時までです」
寺務所の若い僧が答えた。
錦屏山《きんぺいさん》瑞泉寺。寺門を閉じるまでに二十分ほどの時間が残っていた。閉門まぎわに到着したせいだろう。もう観光客の姿はほとんど見えない。参道は喬木《きようぼく》に包まれ、緑の濃いトンネルを作っている。
「ここは水仙《すいせん》と梅なんですけど、いつ来てもきれいよ。花の寺って感じ」
麻美は体の前で掌《てのひら》を軽く叩《たた》きあわせながら歩く。道が二つにわかれ、急な男坂と、ゆるい女坂になった。
啓一郎が女坂を選び、麻美が男坂を登った。坂を登りきると庭園が開ける。あじさいの花が目立つが、ほかにも高く、低く、形も色もとりどりの花が新緑の中に隠れている。たしかにここは今日訪ねたどの寺よりも花の趣が深い。
「もうききょうが咲き始めているのね。好き、この紫」
「これが黄梅か」
本堂の前に天然記念物≠ニ記した柱が立っていた。裏手には山が迫り、岩盤の凹《くぼ》みに濁った水が溜《たま》っている。ここは、目下手入れを待っている状態なのだろうか。いくぶん荒れ果てた感じで、奥の岩盤にぽっかりとあいた穴もどういう趣向の景観かわからない。
梵鐘《ぼんしよう》が鳴った。
それが合図でもあるかのように啓一郎は麻美の手を取った。
「萩《はぎ》の季節もすごいわね、きっと」
「また来ようか」
「そうね」
麻美は腕こそ啓一郎に委《ゆだ》ねているが、けっして体を預けようとはしない。強く引こうとすればおそらくなんらかの手段で拒むだろう。
何度も唇を重ねた仲。もうそこまでは通行手形を渡されたものとばかり思っていたのだが……男女の仲はたいていそういうものなのだが、麻美の場合は少しちがっている。ここにも照る日と曇る日がある。猫《ねこ》のようにしなやかに体を預けるときと、犬のように肢体《したい》をこわばらせてあらがうときとがある。その理由もよくわからない。
「しょうぶとあやめって、どうちがうんだ?」
花の話題が一番さしさわりがないようだ。
「しょうぶは葉を見ればすぐにわかるわ。まん中に一本筋があって。あと、かきつばたは水辺に多くて花のまん中が黄色い線なの。あやめは網目のぶちになってて……でも変種があるから」
「ふーん」
帰り道では、それぞれ自分の性と同じ坂を降りた。つまり啓一郎は男坂を、麻美は女坂を。
ちょうど五時。しかし、すぐには寺門を閉める様子はない。
「疲れちゃった」
「だいぶ歩いたもんな」
門前の公衆電話からタクシーを呼んだ。
「鎌倉駅《かまくらえき》まで行ってくださいな」
駅までの道のりは思ったより近い。
「コーヒーが飲みたいわ」
「よかろう」
大通りで車を止め、八幡宮《はちまんぐう》のほうへ少し戻った。
「このへんでいいでしょ。歩くの、もう厭《いや》になっちゃった」
「いいよ」
鳥居の左手のコーヒー店に入った。若い娘たちのグループが二組ほど窓ぎわの席を占めている。いくつかの視線が麻美を見て、それから啓一郎のほうに飛んで来る。それをよけるようにして奥まった席にすわった。
「鎌倉って……わりといいところだな」
半日歩きまわったあとの実感だった。とりわけ瑞泉寺などは人気《ひとけ》の少なかったせいもあって閑雅なたたずまいだった。
「ほかにもいいところがいっぱいあるのよ」
「車でまわるか」
「道が混んでて。特にいい季節の日曜日は駄目」
「じゃあ自転車」
「坂が多いし」
「やっぱり歩くのが一番いいのか」
「そうみたい」
コーヒーがやけにうまい。もうすっかり体が都会の人間になりきっていて、長い散歩のあとにはのどがこんな強い飲料を必要とするらしい。
啓一郎の位置から数人の娘たちの姿が見える。どこかちぐはぐな服装。あまりよい器量の娘はいない。目の前にすわっている人のほうが断然美しい。服装も白とグリーンの調和がみごとである。
――けっして見栄《みえ》なんかじゃないんだ――
美しい人を好ましいと思うのは、だれかにほこりたいからではない。そんな気持ちも少しはあるだろうけれど、本筋はやはり見て美しい≠ニ思う、その心の楽しさにある。
――女の歴史は女の地理できまる……か――
法子が笑いながら言っていた言葉だろう。女性軍からは反論が起きそうだが、この箴言《しんげん》はなかなかの真理を含んでいる。顔の地理で、生涯《しようがい》の歴史がきまっていく……。
――男の歴史は、なんできまるのか――
脳みその地理。しかし、それだけではなさそうだ。
「今度、旅にでも行こうか」
さほどの思案もなくポツンとつぶやいた。
「いいわね」
麻美もなにげなく答える。疲労のせいで、頭の働きがポカンと空白を作っている。
「じゃあ、いつ? どこへ行こうか」
麻美がコーヒーに視線を落としながら、意味ありげに笑った。男と女が旅に出るとなれば、一定の覚悟がなければいけない。ただの物見遊山《ものみゆさん》ではありえない。
「行こうよ」
あらためて強く誘いかけた。
「近いところは、わりと行っちゃったわね、仕事で」
「じゃあ、遠いところ」
「いいわねえー」
言葉の最後を伸ばし加減に言ったのは承諾の意味ではあるまい。ただの感想に聞こえる。
「なんだかもてあそばれているみたいだなあー」
啓一郎も言葉尻《ことばじり》を伸ばした。
「そんなことないわ」
「じゃあ行こう」
「どこへ?」
「だから遠いところ。北海道とか沖縄とか」
「沖縄は本島へは行ったけど、もっと先まで行ってみたい」
「いいよ」
麻美はまたコーヒー・カップの底をのぞいて笑っている。それからなにかをふっ切るように首をひとつ振って、
「行きましょうか、本当に」
見あげたまなざしに微妙な妖《あや》しさが流れた。かすかな媚《こ》びを見たように思った。
「行こう、行こう」
麻美はもう一度首を振ったが、今度は否定の意味を含んでいるようだ。
「でも……。もう少し待ってくださいな」
「いつまで?」
「秋か、冬」
「どうして?」
「だって……」
口をつぐんだ。
「いつもそうだ」
「覚悟のいることでしょ。酒場の女じゃないのよ」
見えない矢を感じた。一瞬、
――知っているのかな――
と訝《いぶか》った。薫のことを……。
だが、そうではないらしい。適当な言葉がなくて酒場の女≠ニ告げたのだろう。三十男の背後にはそのくらいの過去はあるだろうと推測しただけらしい。
「もちろんそうだ」
少し沈黙があったあとで、
「あなたのほうは、覚悟がよろしいんですか」
麻美は小首を傾《かし》げ、啓一郎の表情をうかがいながら冗談めかした調子で言う。
――何度か恋の戦場をくぐりぬけて来た人だな――
そう感じた。啓一郎などよりよほどしたたかな戦士かもしれない。きっとそうだ。考えてみれば、啓一郎はろくな戦いを体験していない。
「じゃあ……秋に行こう」
真顔で、相手の目を見すえてきっぱりと宣言した。秋まで。それまでにおたがいに覚悟をきめようと、その意味をこめて告げた。
「いいわよ」
多分啓一郎の意図は伝わっただろう。
「約束しよう」
小指をさし出したが、下を向いたままの麻美は気づかない。指切りげんまんはわざわざ呼びかけてまでやることではない。
「男と女って厭《いや》あね」
麻美は顔をあげてつぶやいた。
「どうして?」
「気があったからって、気軽にホイホイ旅へ出て行くわけにもいかないでしょ」
ふと法子のことを思った。法子にはそれができる……。
「気軽にやればいいじゃないか」
「そうよね。私ってそういうところもあるのよ。蝶々《ちようちよう》みたいにヒラヒラ、ヒラヒラ、軽うーく生きるのもいいじゃない」
掌《てのひら》を波を打たせて蝶の舞う様子を示した。仕ぐさがとてもよく身にあっている。麻美には案外そんな部分があるのかもしれない。容姿は蝶にふさわしい。男から男へ蝶のように、風のように軽く舞って行く姿は、けっして想像できないものではない。それは、それなりに麻美に似あっているような気さえする。古風を装っているのは生きるための知恵であり、意外に奔放な、軽い部分を心に隠しているのかもしれない。
「たしかにそう思うことはあるな」
啓一郎こそ女から女へ飛んでいるのではあるまいか。しかし蝶のように軽くはない。重く、たどたどしい。たまたま結果としてそう見える部分があるだけのことだろう。
「出ましょうか」
もうコーヒー・カップは二つともからになっていた。
「うん」
とうなずいて立ちあがる。
「グリーンと白っていいわね。梅雨どきに、あうじゃん」
娘たちの声を背後に聞いた。外は薄闇《うすやみ》に包まれ、プラットホームに立ったときには、もうはっきりと夜の中にいた。横須賀線で品川まで、山手線から都営地下鉄線へと乗りついで広尾で降りた。
「御飯はどうする?」
「なにか食べなくちゃあね。中座さんは?」
「一緒に食べよう。今ごろ家に帰ってもサービスはない」
「じゃあ、この前のとこ?」
「ロール・キャベツの店か」
「ほかにもあるわよ。オムライスとか」
「それにしよう」
ビールを一本飲み、二人とも同じオムライスを取った。
「コーヒーは?」
「もういらない。眠れなくなると困るから」
人間は煎《せん》じつめれば食欲と性欲で成り立っている。一つが満たされると、もう一つを考える。
「送って行こう」
マンションの下まで来ると麻美が体をまわした。
「今日はここで……。疲れちゃった。お風呂《ふろ》に入ってぐっすり眠りたいわ」
「仕方ない。我慢しよう」
「おやすみなさい」
曇り、のち晴れかな。啓一郎は重い足を引き、空を見あげながら帰路についた。
啓一郎が家に帰ると、家族たちはテレビを囲んでくつろいでいた。画面はドラマのようだが、そう熱心に見ているわけではない。
「ご飯は?」
「いらん。食べて来た」
そう言いながらも食卓のからあげを一つ、つまんで頬張《ほおば》る。
「お行儀わるい」
ひろみがひとこと言ってから、
「お姉ちゃんきれいになったでしょ」
と同意を求める。啓一郎は保子の顔をのぞいた。
「そうかな。どうして?」
「なんと、彼女は美顔術を始めたのでーす」
「へえ」
「式場のホテルがサービスでやってくれるんですって」
「なにをするんだ」
「パックをしたり、マッサージをしたり」
「ドロ縄もいいとこだな」
「馬鹿《ばか》なことを考えるもんだよ」
と父が笑う。
「美人になるこつは、なろう、なろうと思い続けることだ」
と啓一郎が極意を授けた。
「そうかしら」
「パックやマッサージよりよっぽどいい。タレントなんかそうだろ。いつも人に見られることを意識しているから自然ときれいになる。やせる石けんと同じことだ」
「なによ、それ」
「使うと、やせる石けんがあるだろ。値段が高けりゃ高いほど効果がある。中身はただの石けんと変らないんだ。石けん一個に一万円も二万円もかける人は本気でやせたいと思っている。食事に気を遣ったり、運動をやったり、なにかしらほかにも努力しているから結局少しはやせるんだ。高いほどいい。商社の連中が教えてくれた」
「詐欺じゃない?」
「そうとも言えん。やせることはやせるんだから。保子も無料の美顔術なんか受けてたってだめだ。百万円くらい出さなきゃ」
無駄口を叩いてリビングルームを出た。
「馬鹿なことを言いおって。大切なのは健康だ。体さえしっかりしていれば、多少のことは充分にたえられる」
父の声が背後で聞こえる。
背広をハンガーにかけ、ズボンをプレス機にはさむ。一日でも怠ると、ズボンがふくらみ、プレスの位置が少しずれて、すじめが複線、複々線になったりする。これが始末に困る。
ズボンの中にも性質のいいのと、わるいのがいて、すなおにすじめをつけて、いつまでも長持ちするのがいるかと思えば、いらないしわは何本もつけるくせに、大切なすじめはすぐに消してしまうのもいる。
「さて」
パジャマに着替え、青いノートを取り出した。麻美の欄に少し書き加えておかなければいけない。まずは麻美の服装を絵でかいた。
――ひどいな――
われながら稚拙な絵だと思う。子どもの絵よりわるい。絵ごころのある人はうらやましい。ブラウスに水玉を打ち、緑≠ニ漢字で色を記した。
めぐり歩いた社寺の名を書いた。円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、八幡宮、頼朝《よりとも》の墓、瑞泉寺。それから麻美がつぶやいた言葉を思い出すままに書き連ねた。
男の人が床屋から帰って来たばかりって、軽薄な感じね≠サのあとに俺《おれ》もそう思う≠ニ意見を書きたす。
私、お腹《なか》黒いわよ。それがわかっている人のほうが、いいわ<Nエスション・マークをそえた。
この台詞《せりふ》は解釈がむつかしい。黒いと言えば、だれでも少し黒い。麻美の謙遜《けんそん》かもしれないし、本気かもしれない。きれいなものを見て、生きて行きたいわ≠アれは本心だろう。
沖縄は本島まで行ったけど、もっと先まで行ってみたい。でも二人で行くのは、覚悟のいることでしょ。酒場の女じゃないのよ
当然といえば当然。語調はきびしかった……。この件は秋までに結論を出す約束をした。
蝶々みたいにヒラヒラ、ヒラヒラ、軽うーく生きるのもいいじゃない。私、そういうところもあるのよ≠スしかにそんなところもあるようだ。
初めて香港《ホンコン》で会ったときと比べると、印象がずいぶん変っている。当初は、上品で、聞きわけがよく、やさしくて、控えめの人柄《ひとがら》のように見えた。そのくせ情熱を心の奥底に秘めていて……。絵にかいたような理想の女を漠然《ばくぜん》と思っていたのだが、そうは問屋がおろさない。だんだん生きた人間としても長所短所が見えて来る。それはそれで、いいではないか。変らないのは、容姿の美しさ。見れば見るほど好ましく映る。
――恋愛の修羅場《しゆらば》をいくつかくぐっているな――
そのこともノートに記した。背広のポケットからメモを取り出し、散歩の途中で書き留めておいた花の名を並べた。
がくあじさい、雪の下、いわたばこ、ほたるぶくろ、美女やなぎ、金糸梅《きんしばい》……。しょうぶは葉に一本筋がある。かきつばたは花のまん中に黄色い線、あやめは網目のぶち。名前を記しても、思い出せない花がある。図鑑を引き出して、一つ一つ調べてみた。こういうことは、幼い頃《ころ》から几帳面《きちようめん》なほうだった。
――本気で覚えるつもりならカードでも作らなくちゃいかんな――
いくらなんでも、それほど熱心にはなれない。それに花の種類は限りなくありそうだ。ノートを閉じ、図鑑と一緒に押入れに投げこんだ。
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のうぜんかずら
オフィスの昼さがり。啓一郎が食事を終えてデスクに戻って来ると、
「中座君、面会だ。一階の受付」
新任の布崎《ぬのざき》課長が人差指を何度も下に向けて叫んでいる。この人は学生時代に合唱団に入っていて、声が大きい。部下たちに溶けこもうとして、すこぶるサービスがよい。
「すみません」
今来た廊下を戻った。
――だれだろう――
エレベーターは三機あるのだが、どれももたついている。エレベーターにも頭のいいのと、わるいのとがいて、啓一郎の見たところ、この三機はあまり優秀ではない。来《こ》ないときはいっせいにやって来ない。そのくせ、一つが来ると、続いてつぎつぎやって来る。各階ごとに止まって、ようやく一階に着いた。
ロビーは昼休みを終えて外から帰って来る社員で人の流れを作っている。それにさからって進むと、受付嬢が掌《てのひら》をドアの脇《わき》へ向けて、
「あちらに」
と示した。
赤いシャツ・ブラウスに黒いスカートの女が、うしろ向きのままつっ立っている。髪型は変っているが、細い腰の線は、まちがいなく薫のものだ。エレベーターの中でもある程度予測していたことだった。
うしろ姿は、すねている。人を待ちながら、背を向けたままというのは、それだけで普通ではない。
――なんで会社になんか顔を出すんだ――
不愉快に思ったが、ここで騒がれたら、みっともない。昔、地方の製鉄所あたりでは、酒場の女がナイフを握って飛びこんで来たなどという、はでな武勇伝もあったらしいけれど、今はそんな時代ではない。
「やあ」
さりげなく声をかけた。
「どうして来てくれないのよ」
ふり向かずに言う。店に来るのが当然、そんな響きがある。
「とにかく外に出よう」
受付のほうを見たが、だれもこっちを見ていない。先に立って玄関を抜けた。ビルとビルのあいだの路地を通り、喫茶店に入った。
「いそがしくてな。なんか急用か?」
「来てくれるって言ったじゃない」
「行くよ、近々に」
「いつ」
「うーん、予定がはっきりしない」
「今夜、来て」
「急に言われてもなあ」
「もう私のこと、厭《いや》になったのね?」
感情の高ぶりを必死に抑えているような声だ。
「そうでもない」
この喫茶店はそう繁《しげ》く利用する店ではないけれど、店主は啓一郎の身分くらい知っているだろう。
「ぜんぜん来ないじゃない。土曜日なんか部屋でずーっと待ってたのに」
なにかをはっきりと約束をした覚えはない。薫のほうが勝手にイメージを作りあげ、それに啓一郎が従わないと言って怒っているだけだ。
「とにかく今は仕事の時間だし……困るよ、会社になんか訪ねて来てくれちゃ。じゃあ今夜行く」
「嘘《うそ》つきなんだから」
「嘘はつかない」
「じゃあ、そうして」
「勤務中はいそがしいんだ。飲むなら飲んでったらいい。失礼するよ」
顎《あご》でコーヒー・カップをさし、伝票を取って席を立った。
「待ってよ。ネクタイ買って来てあげたのよ」
薫は追っかけて来て長い袋を突き出す。
――いらない――
そう言いたかったが、ここで断わると角が立つ。面倒なことになりかねない。
「ありがとう」
勘定を支払い、外に出て道を急いだ。ビルの玄関でふり返ると、薫はひどくなさけなそうな顔で二、三十メートルむこうに立っている。追いかけてはみたが、男の足にはかなわない、途中であきらめたのだろう。
啓一郎は手を振って玄関をくぐった。デスクに戻ると電話のベルが鳴る。
「もしもし……?」
「私」
「なんだ」
「本当に来てよね」
「ああ、行く」
答えて電話を切った。
また電話のベルが鳴る。
「もしもし……?」
無愛想な声で答えると、今度は仕事の電話だった。
「ああ、どうも。ご無沙汰《ぶさた》しております」
われながらガラリと声の調子が変るのがおかしい。電話の相手はかつての上役だ。今は子会社に出向していて、ほとんど帰る望みはない。啓一郎の係に注文をもらいに来る。啓一郎が親会社の窓口になっている。
声の調子が変るといえば、この人がそうだった。子会社へ行って間もなく挨拶《あいさつ》にやって来て、
「やあ、中座さん、お世話になりますよ」
いきなりさん≠テけで声をかけられ、ひどく戸惑った覚えがある。今、電話の中から響く声も、すこぶる低姿勢だ。
――彼も精いっぱいやってんだろうなあ――
こんなときのサラリーマンはつらい。
電話を切ってからインボイスの点検にかかったが、頭の片すみにわだかまりがある。
――弱ったな――
薫のことを考えた。
大問題、中問題、小問題、三つくらいレベルがありそうだ。この分類法は、やめた植田課長の得意技。会議でよく使っていた。
まず小問題……。今夜かとれあ≠ノ行くかどうか。
行かないわけにはいくまい。商社の人と飲む約束があるけれど、十一時くらいには切りあげよう。それから四《よ》ツ谷《や》へまわって……なにを話すか。店でややこしい話をするわけにもいくまい。店が終わってからということになると、もうまともな時間ではない。ずいぶん久しぶりだ。抱きたい気持ちがないわけではない。しかし、抱いたら厄介《やつかい》だ。薫は抱いてほしい≠ニ身ぶりできっと示すだろうけれど……。その誘惑をしりぞけ、少しずつあきらめさせる。むこうがなにを考えているか、わからない部分が多いから対策が立てにくい。出たとこ勝負よりほかにない。
――俺《おれ》は身勝手だなあ――
そうは思うが、人間はみんな身勝手なものだ。麻美《あさみ》との仲が進むにつれ、啓一郎自身、自分でも信じられないほど薫に対する関心が薄らいでいくのがわかった。
それに……会社の情況もなみたいていではない。円高の衝撃を受けて大揺れに揺れている。まともな恋愛ならともかく、今はふわふわ遊んでいる雰囲気《ふんいき》ではない。少し度が過ぎた。今さらのようにそれを実感している。植田課長の説教も小骨みたいにのどにささっている。薫とのことはほどよく幕を閉じるべきだろう。
思案は、このあたりから中問題へと滑りこむ。とにかく薫を会社に来させるのは、まずい。この苦しい時期になにをやっているんだ、だれもがそう思うだろう。啓一郎自身だって痛切にそう思う。苦しい時期でなくても、みっともない。
さりとてドラスティックな手段を取るのは適当ではない。少しずつ退く。少しずつあきらめてもらう。この中問題は対策をまちがうとひどいことになりかねない。
――貸した金は返って来ないな――
これはすっぱりあきらめよう。惜しいことは惜しい。話せばみんなに笑われるような失敗だ。
――そうかな――
そのくらいの損失は当然だろう。高いか、安いか、この計算はむつかしい。
――それにしても、薫とは、なにを考えて始めたことだったのか――
これが一番大きな問題だ。本来なら深みに入るような関係ではなかった。たまたまかとれあ≠ノ行き、誘われて抱いてしまった。好きになれる女ではない。だが女体の妖《あや》しさが、ただごとではなかった。
薫に深入りしていった過程は、奇妙な言いかただが……愛情というより、むしろ科学する心≠ノ近い。女体にあれほどの個人差があるとは知らなかった。薫を抱き、妖しさに酔い、
――本当だろうか、本当だろうか――
そう疑い続けるうちに、のめりこんでしまった。今でもよくわからない。あれほどのここちよさを与えてくれるのは、どんな構造の、どんな機能なのか。
――薫のほうはなにを考えて始めたのか――
啓一郎が好きだから……。だがそれだけではないような気もする。啓一郎が独身のことは早い時期から知っていただろう。
――結婚したい――
子連れの女としてそう思った……。
思いあがった考えかもしれないが、一つの常識として、啓一郎のような立場にある男が、薫を妻に迎えるものかどうか、答は簡単に出る。世間にまったく例のないことではないけれど、めったにないのは本当だ。薫にはこの常識が薄い。なんとかなりそう、勝手にそう考えていたふしがある。
その反面で、薫は啓一郎が持っていない常識をしっかりと身に帯びている。女は体を提供した以上かならず代償をもらうものだ≠ニいった考えだ。
ある意味では正しい。長い歴史の中で、ずっとこの思想は生き続けて来た。男も女も認めて来た。一つの常識となって今でもあちこちに厳然と残っている。
啓一郎の世代は、この常識にうとい。とりわけ啓一郎は好まない。なによりも法子がそんな思想と無縁のところで生きている。法子と長くつきあって来たからこそ、啓一郎は余計にこの常識を失ってしまった。
ところが、薫のほうはしっかりと身につけている。これまでの薫の生活をあれこれ調べたわけではないけれど、できるだけよい男を見つけ、それにすがって安逸に生きていく、そんな考えが感じられる。啓一郎に対しても、まず結婚、それが駄目ならパトロン、それでも駄目なら……なにを狙《ねら》っているのか。パトロンになんかなれる身分ではない。
――いかん、いかん――
仕事に集中力を欠いている。こんなことでは、とても精いっぱい≠ナはない。薫とは別れよう。どの道、それよりほかにない。あとは、やさしさの問題。心をこめて相手の立場を考えてあげること。植田課長や父に言われたことが、結構よく効いている。
――俺も結構すなおなところがあるんだよなあ――
首を一つ振って仕事に心を預けた。
「景気のひどいときですから」
それを理由にして商談の酒を少し早目に切りあげた。
車も断わって地下鉄に乗った。かとれあ≠ヨ曲がる角には、古い屋敷が一軒残っていて、壁越しにオレンジ色の花が垂れている。街灯の光の中で、いくつもいくつも咲いている。人工の光では花の色は正確にわからないけれど、咲きっぷりの上品な花ではない。まるで大安売りみたいにたくさん咲いている。花の形もどことなくやぼったい。朽ちた花が道をよごして散っているのも、見苦しい。
よく見ると蔓《つる》がある。それを触手のように伸ばして塀《へい》の上をはっている。塀から垂れている一本を取って引っぱると、パリパリとはげてさらに長い花の蔓に変った。何度も通った道でありながら、こんな木があったのを知らなかった。花が咲かなければ目立つ木ではない。
そっとかとれあ≠フドアを押した。
「いらっしゃい」
薫はカウンターの中でタバコを喫《す》っていた。横顔を見せたままタバコをもみ消した。客は三人連れが一組。チーフの姿は見えない。
――首にしたのかな――
役に立ちそうな男ではなかった。人件費の節減も仕方がないだろう。啓一郎は黙ってカウンターのまん中あたりの席にすわった。表情を硬くし、不快の様子を少し匂《にお》わせたのは、昼間の訪問をとがめておこうと考えたから。薫のほうも、けっしてよいご機嫌ではない。視線をゆっくりとあげて、
「なんにしますか」
と、笑いもせずに聞く。
「水割り」
薫は緩慢な動作で氷をコトン、コトンと落とし、ウイスキーを注《つ》ぎ、水を加える。
「どうぞ」
「会社には来るなよ。いろいろあるからな」
苦笑を浮かべながら小声でつぶやいた。
「だって電話かけたって出ないんだもん」
「べつに居留守を使っているわけじゃない。会議があったり、ほかの部屋に行ってたり、デスクには半分くらいしかいないものなんだ」
「でも、ひどいわ。ぜんぜん来ないんだから。どこで飲んでるの? いい人できたんでしょ」
「まあ、あんたもなんか飲めよ。せっかく来たんだから」
「中さんのおかげで、ほかのお客さんも来なくなったわ」
薫は自分の水割りを薄めに作りながら語る。
「どうして?」
「きまってるじゃない。こういう店って、そういうものよ」
「そうかな」
「そうよ。大西さんなんかはっきり言ってたわ。エリートさんがママとできちゃったら、ほかのお客はつまらないって」
大西というのは玩具《がんぐ》会社に勤めている男だろう。カウンターで何度か顔をあわせた。このところしばらく見ないけれど。
お客たちの気持ちがわからないでもない。啓一郎自身がエリートと呼ばれるほどの立場かどうかはともかく、酒場というところは、ママが特定の客とくっついてしまったら、ほかの客は釈然としない。おもしろくない。
だが、それは、これ見よがしにベタベタやった場合のこと。たいていのママはどの客かと親しい。けれどその関係は水面下に隠れている。噂《うわさ》にのぼるのは、ただのダミーだったりして……。
薫との仲をことさらに誇示した覚えはなかった。むしろひた隠しに隠していた。薫のほうが故意に漏らしたのではあるまいか。
「言ったのか、大西さんに」
「なにを?」
いくら小声で話していても、会話のはしばしがほかの客の耳に入りかねない。
「言うわけないでしょ。でも中さんの態度でわかったんじゃないの」
あくまでも啓一郎のせいにしようとする。
「ちがうな」
首を振った。
一般論として言えば、世間はわけありの男女をかぎわけることに関して、思いのほか鋭敏な感覚を持っているものだ。二人がどんなにうまく演技していても、なにかしら匂うものがある……。
啓一郎は事実薫と関係があったのだからある≠ニ見ぬく人がいても、それ自体は不思議ではない。だが、公平に考えてみて啓一郎の側に大きな落ち度があったとは思いにくい。小さな落ち度だってないような気がする。そうであるにもかかわらず薫がことさらに啓一郎のせいにするのは、ほかの意図があってのことだろう。事実をありのままに見ようとせず、自分に都合のいいように曲げてしまうのは、この人のわるい癖だ。ことがことだけにとても不愉快だ。
「でも実際にあったんだから、人に知られても仕方ないわね」
なにげない言い方だが、微量の脅迫さえ含んでいるように聞こえる。
――厭な女だな――
あらためてそう思う。
「ああ、仕方ない。二人の責任だ」
「でも、損をしたのは私のほうだけよ。お客さんが急に来なくなったわ」
「噂のせいだけじゃないと思うがなあ」
不快を殺して、笑いながらつぶやいた。ここで言い争うと、余計に薫を窮地に追いこんでしまいそうだ。そうなると、なにをやり出すかわからない。
――穏やかに、穏やかに――
それが当面の方針だった。
「でも、現にお客さんが来なくなったんだもん。ひところの半分以下よ」
それには触れず、
「貸したお金、あげるよ。返さなくていい」
切り札でも切るつもりでおおように告げた。
「ああ……」
薫は思いがけないことでも指摘されたみたいに曖昧《あいまい》な声をあげてから、
「ありがとう」
と、気のない調子で言った。それから新しいタバコに火をつけ、
「でも、あれくらいじゃ赤字は埋まらないわ」
煙を下に吐く。
「俺をなんだと思っているんだよ。そんな金持ちじゃない。これで終わりにしよう。俺にしてみればかなりの大金だ」
「嘘。あれっぽっちじゃみじめすぎる」
薫の顔が赤くなった。鼻を伸ばして涙をこらえている。
「いいかい。俺はあんたになにかを要求したわけじゃない。パトロンになろうって言ったわけでもない。対等の恋愛関係だろ。みじめだのなんだの言われるケースじゃないと思うんだ」
「でも一緒になる気なんかなかったじゃない」
「それは初めっからきめることじゃないよ。初めに好きだと思った。そのままどんどん好きになれるものなら一緒にもなるだろうサ。しかし、途中で破綻《はたん》すれば、それはそれで仕方ない。男女の仲ってそういうものだろ」
「初めっから遊ぶつもりだったくせに……。だったら、それだけのことをしてくれなくちゃ」
まるで地盤のちがうところに立って話しているようだ。
「弱ったな」
薫の言っていることが、まちがっているとは言いきれない。そこに啓一郎の弱さがある。
「ちょっと」
三人組がママを呼んだ。
「はい」
薫は急に笑顔を作って三人の前へ動く。客たちの前でアイス・ポットの氷が解け、ボトルもほとんどからになりかけている。
「新しいボトルを入れてくれ」
「うれしい」
大仰に喜んでいる。啓一郎に当てつけているような感じさえある。
「なんだ、密談か」
「そうじゃないの。お金の話。どこかに落ちてないかしら」
「俺たちが先に拾いたい」
「印刷会社なんでしょ。お金、刷れないの?」
「そう。かとれあ≠ノは、それで払う」
話を聞きながら啓一郎もタバコをくわえた。
男と女が対等の立場にいるならば、啓一郎の主張はまちがっていない。その自信は充分にある。
だが現実に男女の力に差異がある以上、都合のいいときにだけ対等を言うのは卑怯《ひきよう》だろう。法子ならそれでいい。薫にはハンディキャップをつけてあげなければ、けっして公平にはならない。
――それにしても古典的な方法だなあ――
つくづくそう思う。不愉快を通り過ぎて苦笑が浮かぶほどだ。体を餌《えさ》に男を引きこむ。その体は、信じられないほど妖《あや》しく作られていて、男は文字どおり蟻地獄《ありじごく》に落ちたみたいに深みにはまってしまう。結婚なんかどうせできないだろうとわかっている。遊び心で始めたことならば、当然その費用を支払ってもらわなければなるまい、となる。契約のあるなしなどは、さして問題にもならない。昔からこの種のことはそうだった。あとは泣いて、すねて、しつこく同じ主張をくり返す。
――百万じゃ駄目なのか――
さっきは切り札のつもりでつぶやいたが、なんの効きめもなかった。相手はとうにもらったものときめ込んでいる。
――薫のほうだって楽しんだじゃないか――
むしろそのときの歓喜の度あいで言えば、啓一郎より薫のほうがずっと大きい。まさか全部が演技というわけではあるまい。だが、薫の論理では、痴態を示すことが男へのサービス、自分の喜びはおまけのようなもの、そんな認識で処理してしまうのだろう。
――いくらもらうつもりでいるんだ――
こんな考えが頭に浮かぶことさえいまいましい。百万円だってずっと惜しいと思っていた。啓一郎の身分ならそれが当然だろう。
――何回抱いたかな――
あざとい思案だが、一回いくらが相場なんだ、と思いたくなる。標準があってないような世界……。このテーマは、いつか笹田《ささだ》と話したことがあった。結論は出なかった。
薫が漠然と目論《もくろ》んでいる金額がありそうだ。それを考えること自体、すでにこのやりとりでは敗北の道に通じかねない。負けたくはないし、やさしい心で終わりたいし……。いずれにせよ短兵急はよくない。
「帰るよ」
薫が三人の客と話し続けているのを見て声をかけた。
「どうして?」
と歩み寄って来る。
「疲れた」
「厭《いや》よ」
「考えていることが大分ちがうみたいだし……接点がない」
「もうすぐ閉めるから」
「今日はやめておく」
かたくなに席を立った。事実疲れていた。本日、この酒場で愉快なことは、なに一つとして起こりそうもない。
「じゃあ、あさって。土曜日の午後に来て。まだなんにも話してないじゃない」
「土曜日は、たしか予定があるんじゃないかな」
「絶対に来て。ね、お願い。来てくれたら、そんなにわがまま言わないわ」
薫の表情がけわしい。般若《はんにや》を隠している。本当は怒りたいのだろう。おさえているのはほかの客がいるから。
「うん、まあ」
曖昧《あいまい》に答えて外に出た。薫があとを追って来る。
「冷たいんだからあ。よくないと思うわ」
言いかたが押しつけがましく響く。
「なんだかぜんぜんずれてるような気がするんだな」
「だから話しあおう」
ふり切ったりしたら、また会社へやって来るだろう。
「とにかく今日は帰る。少し考えてみる」
薫が歩道にヘナヘナとしゃがみこみ、両手で顔をおおった。
「立てよ。みっともない。泣くことはないだろ」
人影が近づいて来る。腕を伸ばして立たせた。
「なにが一番言いたいんだ?」
薫は手の甲で顔を拭《ぬぐ》った。
「中さんのこと、好きなんだからあ」
今夜初めて聞く、やわらかな声。見あげる視線も艶《えん》を含んでいる。啓一郎の腕を取ってすがりつく。
――弱ったな――
むしろそう思った。
「短い時間なら……」
「土曜日?」
「うん」
「じゃあ、来て。絶対よ。嘘《うそ》ついたら、どうなるかわかんない」
また表情が黒く変った。
「行くよ、きっと」
腕をふりほどいて足を速めた。オレンジ色の花の角を曲がり、横断歩道を渡りながら、そっと視線を送ると、薫は花を背にした薄闇《うすやみ》の中に立っている。からだ全体で抗議しているように見えた。
――なにを考えているんだ――
薫の心がもうひとつよくつかめない。「好きよ」とつぶやくのと、手切れ金を求めるのとは、正反対の行動だろう。そう思うのは啓一郎の論理で、薫の中では、すべてがいっしょくたになっているのかもしれない。好きなんだから、もっと大切にされていい、もっとお金をもらっていい、そう考えている……。
――金はないよなあ――
とはいえ、なにもかもすっきりするなら、もう少し出してもいい。せめてやさしい心のあかしとして……。うっかり深入りをしてしまった、その代償として……。啓一郎のほうもなにほどかの痛みを感じなくてはなるまい。
翌日、薫から会社へ確認の電話がかかって来た。
「明日、来て、かならずよ」
「ああ、行く」
ややこしい仕事の最中だったから簡単に答えて電話を切った。イエスの答えのほうが短くてすむ。こうなったら行かずにはすまされない。土曜の予定は、せいぜいプールへ行くこと。久しぶりに泳いでみるつもりだった。ぜひともという用ではない。
十一時近くに起きると、家の中がひっそりとしている。だれもいない。
居間の小箪笥《こだんす》の上の書類入れをのぞいた。ファイバー製の黒い箱。二十年近くも使っている。家族のメモはここに入れてある。
帰宅は午後二時。昼食はいらん、父
と一枚だけ入っている。
新聞を読みながら食卓のバナナをむいた。それから時計を見て麻美の家の電話番号をまわした。
「もし、もし、中座です」
「あら、久しぶり。おはようございます」
それほど久しぶりではない。むしろよく電話をかけてきますわね≠フ皮肉かもしれない。電話機をぬけて来る声は明るい。今日の麻美は照る日のほうだろうか。
「今、いい?」
「えーと、出ようとしてたとこなの。このあいだ言ったでしょ。静岡のお友だちに会うって」
「ああ、そうか」
「用意でバタバタしてたとこ。五分遅かったらいなかったわ」
「どこへ行くんだ」
「銀座。四丁目のライオンの前に十二時。めずらしいわ。あんなとこ。おのぼりさんみたい。なにかご用でしたか?」
「花の名前を聞こうと思って」
とっさに告げた。
「どんな花?」
「古い屋敷の塀から蔓《つる》が垂れてて、オレンジ色の花がいっぱいついている。花の形は三センチくらいの直径でカップ型。あまり品のいい感じじゃないな」
「なにかしら。あとで考えておく」
「いや、いいんだ。声が聞ければ……明日は会えるね」
「ええ、大丈夫」
「急いだほうがいい。もう少し遅れている」
「本当。じゃあね」
電話が切れた。
――本当に静岡の友だちだろうか――
丸の内会館の前で麻美らしい女を見たことが、まだ頭のすみにひっかかっている。というより啓一郎自身、何人かの女と深くかかわりあっているから麻美を疑うのかもしれない。人はだれしも自分の升で他人を量るものだ。
――銀座へいってみるか――
麻美の姿をよそからながめるのもわるくない。しかし、もう間にあいそうもなかった。
縁側のあじさいは今が盛りらしい。気がつくと、ここにもがくあじさいがある。子どものころから見ているのに知らなかった。中央に花がないのは、咲きそこねたか、まだ咲かないのか、虫が食べたか、深く考えもせずにながめていた。
――あのオレンジの花――
電話で麻美に尋ねた花を思い浮かべた。かとれあ≠ヨ曲がる角に咲いていたやつ……。
花の印象が薫に似ている。一応美しく咲いているけれど、ベタベタと花をたくさん垂らして、すっきりとしない。蔓を伸ばしてからみつく。
シャワーをあび、髭《ひげ》を剃《そ》り、外出の用意にかかった。昨日梅雨あけ宣言があって、いよいよ本格的な夏が来る。紺のポロシャツにベージュの薄いズボン。上着を着ないで済むのは、それだけでうれしい。
――植田さんは元気でやっているかな――
植田課長は真夏でも背広の上着をちゃんと着て来る人だった。
「上着を着ていれば、それを脱いだときが涼しい。初めからシャツ姿のやつは、どうすればいいんだ」
これが持論だった。いかにも植田さんらしい。いなくなってみると、ひどくなつかしい瞬間がある。中小企業の経営者になって、この時期、楽なはずはない。本当に命を張って頑張っているのではなかろうか。
家中の戸を閉め、鍵《かぎ》をかけ、帰宅四時、夕めしは食べます。啓≠ニメモ用紙に記して箱に放《ほう》りこんだ。
日ざしがきびしい。書店に立ち寄り、評判のラーメン屋で席が一つあいているのを見て、中へ入った。ここは細長い店で冷房が寒いほどよく効いている。
なんの特徴もない単純明快なラーメン。だが、スープがうまく、めんがうまい。めんまと海苔《のり》とほうれん草。そしておまじないみたいに薄い鳴門巻《なるとまき》が一枚。食べ終わったときには、冷房がほどよい温度になっている。背後に立って待っている人がいるから長居はできない。
外へ出ると、どっと汗が噴き出す。もう一軒、冷房の効いた書店へ寄って汗を乾かした。
――昔は冷房なんてなかったのに――
今は冷房のない生活なんて、考えにくくなっている。じゃあ冷房があって満足しているかと言えば、そうでもない。「暑い、暑い」と苦情を並べている。欲望はどこまで行っても果てがない。どこかで線を引いて我慢をするよりほかにない。昼さがりの電車は事故のせいでひどく混んでいた。これは冷房でもなければ、やりきれない。
地下鉄で曙橋《あけぼのばし》まで。黒い窓に自分の顔を映しながら対策を考えた。
――けっして激《げき》しないこと――
怒らないのはやさしさの発露であると同時に防衛の手段でもある。薫を怒らせたら、ろくなことになるまい。
――かならず別れること――
この方針はすでにきまっている。もともと親しくなってはいけない女だったろう。
独り身であればこそかえって身を慎まなければいけない。これまではなんのトラブルもなくやって来た。薫には、あやういものを感じながらみすみす深入りをしてしまった。その理由はよくわかっている。だから、
――けっして抱かないこと――
大丈夫かな。われながらこれが一番おぼつかない。
あんな女体を抱いたことがない。そうたくさんあるとは思いにくい。薫は抱かれているときの姿がいい。声がいい。女体の喜びの深さが男の興奮をかき立てる。そして内奥《ないおう》の微妙なうごめき。正体のよくわからないものが、啓一郎に触れ、包んで圧迫して反転する。心はすでに薫を遠ざかっているのに、夢の中では何度か抱いた。
――あと五十万。それが限度――
結局はお金が介入することになるだろう。なさけない話だが、薫もそれを望んでいる……。
手切れ金としては少し安いような気もするが、すでにそれに倍するだけの貸金を棒引きにしている。もともと金銭の約束のある関係ではなかった。まっとうな恋愛に手切れ金などあろうはずがない。「知らんよ」のひとことですましてもよさそうなものだが、少しは薫の立場にもなってやろう。
あと五十万は根拠のある金額ではない。啓一郎が、今、なんとか都合のできる限度がそのくらい……。社内預金も底をついている。ボーナスもあちこちの支払いであらかた消えた。満期を過ぎた定期預金を解約するよりほかにないだろう。
――このへんが俺《おれ》の気の弱いところなんだよなあ――
しかしあまり強気になって、そのあと薫が会社の受付に泣いて現われでもしたら困る。
――心が足りない……か――
父に言われた言葉が、思いがけないところで啓一郎をつつく。何回薫を抱いたか、数えてみた。正確には思い出せない。その数で百五十を割り、万という単位をつけてみる。
――高い情事だなあ――
それほどの価値があるかどうか。過去のものになってしまえば、とてもそんな価値があったとは思えない。目の前にさし出されたら、微妙な女体はそれだけの価値があるように思いそうだ。細い路地をぬけ薫のマンションへ着いた。
――このまま帰ろうか――
地下鉄の駅から薫のマンションまで、ドアのブザーを押す瞬間まで頭のすみにその思いがあった。
「いらっしゃい」
「暑いね」
部屋の中は冷房がよくきいていて、ここちよい。薫はオレンジ色のワンピース。ベルトも、ウエストのくびれもなく、ひところサック・ドレスと呼んでいた筒型の衣裳《いしよう》。
「どうしたの。入りづらい?」
ここへ来るのは二カ月ぶりくらいだろうか。
「いや、べつに」
靴をドアのかげにそろえてあがった。部屋は一通りかたづいている。リビングルームと畳の部屋のさかいに、半透明の間仕切りが垂れ、何匹もの魚のデザインが頭をつきあわせて並んでいる。そのむこうに花ござを敷いたベッドが見えた。
――麻美の部屋のほうが少し広いかな――
2LDKと1LDKの差はあるけれど、床の面積は大差あるまい。ただ部屋の印象はずいぶんちがっている。色彩がちがう。匂《にお》いがちがう。麻美の部屋では、本棚《ほんだな》と洋服|箪笥《だんす》と植木鉢《うえきばち》がまず目についた。物がたくさん置いてあった。ここは、ずっと風通しがよい。
「ビールがいい?」
「昼間だからなあ」
「いいじゃない」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ガラスの皿に柿の種を盛る。
「こんなものしかないのよ」
「かまわなくていい」
缶から直接ビールを飲み、ポケットのタバコをさぐった。箱の中には、四、五本しかない。
――もう一箱買って来るんだった――
よくタバコを喫《す》う午後になりそうだから。
「来てくれないんだからあ」
「考えてることが少しちがうみたいなんだよな」
「どこがちがう?」
「うまく言えないけど」
男と女のちがい。育った背景のちがい。社会的な立場のちがい。説明はできるが、話すには戸惑いがある。
「結婚を考えてたのか」
「そうでもないけど……。でも好きになれば、女はいつも考えるわ、それを」
「好きになったのか」
「きまってるじゃない。そうでなきゃ寝ないわ。だれとでも寝るんじゃないって、初めのときに言ったじゃない。忘れた?」
「いや、覚えている」
忘れてはいない。薫はくどいほどそれを言っていた。だが啓一郎は少し疑っている。やましければやましいほど、人は同じ嘘《うそ》をくり返すものだ。だれとでも≠ナはあるまいが、けっして情事に潔癖な女ではないだろう。
啓一郎が好きだ≠ニいうのも嘘ではあるまいが、薫の好き≠ヘ相当に幅広い範囲に亘《わた》っている……。今も薫は眉根《まゆね》を寄せ、悲しそうな表情を作っているが、この悲しさも過大に評価しては、ひどいめにあいかねない。
「俺《おれ》はサラリーマンなんだぜ」
「ええ?」
「少しはやったことあるんだろ、OLを」
「あるわよ」
「じゃあ、わかるだろう、職場の気分が。恋愛をするときは対等なんだ。たとえうまくいかなくたって、それで終わるより仕方ないんだ」
「ひどいこと言うのね」
「どうしてひどい?」
「だって……だって、遊びのつもりで寝たんでしょ、初めっから」
それは多分本当だったろう。だが、恋には遊びの部分がないものだろうか。遊びと言いきってしまったら語弊があるかもしれないが、人はなんらかの意味で楽しむ≠スめに恋をするのではないか。
――恋愛って、なんなんだ――
大問題が頭に浮かぶ。一方では生殖を通して子孫を残す手段に繋《つな》がっている。もう一方では、肉体の快楽を貪《むさぼ》る道と深くかかわりあっている。厳粛であり、あざとくもある。つまり……恋愛という言葉で包まれる中身がとても広い。黒から灰色を経て白に至るように、さまざまな色あいを帯びている。恋愛と言われて、それぞれの男女がどのあたりの色調を考えるか、同じ言葉を使っていても内容はずいぶんちがってしまう。
啓一郎はことさらに弁解をするつもりはなかった。遊びということなら、法子《のりこ》と親しくなったのも遊びだった。真剣な遊びだった。若さが遠ざかるにつれ、いつのまにかどちらにとってもほどのよい遊びに変った。麻美に近づいたのも、
――この人と親しくなったらきっと楽しいだろう――
そう思う心から始まった。あれも一種の遊びだったろう。そんな遊びをいつまでも長く続けよう、長く続けるためには一定の責任を持とう、そんな意識が結婚や経済的な援助へと繋《つな》がって行く。遊びで始まったからといって、かならずしも非難されることではあるまい。
――本当にそうかな――
すぐに反作用が心の中に首を持ちあげる。
初めて薫に対したとき、啓一郎は法子のときと同じ気持ちだったろうか。麻美のときと同じだったろうか。ただ一過性の遊びを求めただけではないのか。先のことはわからない≠ニいう意味で言えば、法子の場合も麻美の場合も、そのときだけで終わる可能性を含んでいた。だが、どこか薫の場合とはちがっている。やはり薫は軽く扱われていた。とはいえ、それを認めてしまったら、今日はどんな難題を押しつけられるかわからない。
「だれだって楽しみたいと思って始めることだろ、恋愛なんて」
薫は生きるために始めるのかもしれないが……。
「ずるい」
短く言い放ったかと思うと、薫は急に掌《てのひら》で顔をおおった。まるめた肩が震えている。荒い息遣いを追って子どものような嗚咽《おえつ》が噴きあげて来る。
「なんで……?」
啓一郎の口からタバコの灰が落ちた。指先を湿らせ、灰をねばりつかせて灰皿へ運んだ。
そのまま、むしろ残酷な思いで泣きじゃくる女を見つめていた。今、薫が悲しくないとは言わない。だが、
――ここで泣けば有利になる――
そんな感情が皆無ではあるまい。泣きかたは少し唐突にさえ見えた。それとも朝からずっと泣くつもりで待っていたのだろうか。
――涙なんて、九十九パーセントまでは、ただの水――
女は水から金を作るすべを知っている。それぞれに巧みな錬金術師《れんきんじゆつし》たちだ。
すぐ近くで蝉《せみ》の声が聞こえる。薫はなかなか泣きやまない。啓一郎も黙って待った。案の定タバコが足りなくなる。
「もらうよ」
薫のタバコを取って火をつけた。
「どうすればいいんだ?」
結局は啓一郎のほうが根負けをして口を切った。薫が手の甲で涙を拭いながら顔をあげた。
「もう嫌いなのよね」
うん≠ニは言いにくい。それに……嫌いではない。泣いている背後から肩を抱き、胸をさぐり、そのまま押し倒したい欲望は、さっきから体の中にひたひたと押し寄せて来ている。抱きたいのは、好きだから……。
「嫌いと言うより……このへんで別れたほうがいいと思うんだ」
「急には、厭《いや》よ」
「ゆっくり別れるほうがいいのか。変だな」
「そうじゃないけど、もう少し親切にしてよ」
「どういうこと?」
薫は下唇を噛《か》む。なにかしら一心に考えている。
「無理だと思ってたわよ。子持ちの酒場女なんか……。頭はわるいし、ブスだし」
「そんなに卑下することはないだろ」
少なくとも無器量ではない。
「でもね、私ばっかり損するんじゃ厭。お客さん、みんな来なくなっちゃうし」
「今はむつかしい時期なんじゃないのか。不景気だし……。よその店もそうはやってはいない」
「銀行の借金も払えないのよ」
「でも、俺がどうこうできる問題じゃない」
「好きなら、もっとよく来るわ」
「店に行けばいいのか」
「ここにも来て」
薫はついと立ちあがり、ワンピースの肩に手をかけた。オレンジの衣裳《いしよう》が滑って落ちた。
黒いパンティ一つだった。腕を茎のように伸ばして胸を隠している。うつむいて……こんな絵がらの絵があったように思った。
「来てくれなきゃ厭よ」
首を垂れたまま左右に振る。
――罠だな――
それはわかっている。だが、さっきの嗚咽のように冷静な気持ちでながめるのはむつかしい。
――抱いて切りぬける手段はないものだろうか――
啓一郎はそれを思っている。薫は抱いてくれないことを怒っているのかもしれない。抱きあえば気持ちも穏やかに変るだろう。ベッドの中で因果を含める方法もあるのではないか。
――危険な道――
その判断もたしかにある。
けれど男の欲望がすでに一つの方角に向かって走り始めている。今日ここへ来たこと自体、こんな風景を予測していたからではなかったか。
「長く続けていい関係じゃない」
啓一郎は立ちあがり、薫の前に立った。
「わかってるわ」
声はむしろ苛立《いらだ》っている。「早く抱いて」とせがんでいるようにさえ聞こえる。
「せいぜい秋まで」
「どうして秋なの?」
「多分そのくらいだろう」
「それでおしまい?」
「そんな気がする」
「変ね」
啓一郎も腕を交叉《こうさ》させて薫《かおる》の手首を押さえ、クイと開いた。
胸は薄く小さい。ふくらみのまん中で乳首だけがキュンとそそり立っている。その一つに啓一郎が掌の平らな部分を当て、ゆるくまわすと、ヒクン、薫の体が震えた。これがこのかぼそい体の特徴だった。見かけはもろいが、いつまでもたぎってやまない火の海が潜んでいる。
両の腕を肩にまわして裸の体を包んだ。
まだ少しためらいがある。動作だけが少しずつ深い愛撫《あいぶ》へと進んで行く。指が背筋を滑り降りて|尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨《びていこつ》の堅さに届いた。なお指の長さを余している。
「久しぶり」
「うん」
その先の凹《くぼ》みを撫《な》で開くようにして指先を伸ばした。また薫が震えた。息遣いが甘くなった。ジルバを踊るみたいに薫を一回転させ、背後から抱いて乳房と恥毛に触れた。
――いっそこのまま薫と暮らそうか――
長くは続くまい。人はベッドの上だけで生きられるわけではない。
「お店に来て」
歌うようにつぶやく。
「それだけ?」
指先がもっと深い部分を割る。薫はもう体を支えきれない。目を閉じたまま啓一郎に全身を預けた。
両手で薫の体を支えながら間じきりをくぐり抜けた。
間じきりのすそが、薫の顔、啓一郎の顔と滑って背後に落ちたとき、目の前に花ござを敷いたベッドがあった。涼しい浅緑色の夏がけが四つ折りになって置いてある。薫を腰かけさせ、唇《くちびる》を重ねながら脚をすくってベッドにまっすぐに寝かせた。
――あとはなんとかなる――
そんな思案だけがひた走りに走る。頭の中の会議場では、いつのまにか議決が決していた。ここで戻《もど》ったら、かえってしこりを残す。それが少数派へのエクスキューズとなった。
啓一郎も手早く服を脱いだ。それから薫の両脚をそろえたまま背後から果物の皮をむくようにパンティを奪った。
――少しおかしいぞ――
少数派はまだくすぶり続けている。ここで抱くのは……損得はともかく、なにか人間としてとても大切なものにそむいている。そんな警鐘が鳴っている。それをふり切って、一気に激しい愛撫《あいぶ》に没頭した。白い脚を荒々しく割って開いた。腿《もも》の奥は少し内側に凹《くぼ》み、薬で焼いたような鈍い灰色を帯びながら、そこからさらにいびつな部分へと形を変えて行く。両肩を脚の下に入れ、両腕で背後から腰をかかえた。舌先が花芯《かしん》に触れると、はっきりと薫の声が変った。もうけっして戻れない。
――馬鹿《ばか》な、馬鹿な――
そう思いながら抽送をくり返した。女体はたちまち火となって燃え立つ。火のあとには海があった。複雑な岩礁《がんしよう》を底に隠した荒い海に変った。波はどこから押し寄せて来るかわからない。いたるところから速く、遅く、高く、低く寄せて来て、さまざまなうねりを作る。啓一郎はたゆたいに身を委《ゆだ》ねた。最後は、やはり、
「落ちちゃう」
を聞いた。なかば息の混じった声だった。奔流がほとばしり、啓一郎も急速な落下を意識した。いっさいが落ちて行く……。
昇りつめた興奮が引き潮となって落ちて行く。おそらく下北沢の家を出たときから昇り始めていたであろう欲望が、方向をかえて手品のように消えて行く。そして、なによりも人格そのものが卑賤《ひせん》な淵《ふち》に向かって落ちて行く。それを意識せずにはいられない。
――抱くべきではなかった――
少数派がたちまち息を吹き返す。もう過半数を超えようとしている。
「おしまいにしよ」
「どうして秋までなの?」
薫はまだ少し混濁した意識の中にいるようだ。声がくぐもって響く。その曖昧《あいまい》な意識に告げた。
「結婚をする」
言葉が銀色の弧を描いて飛んだ。秋には結婚する……真実ではないが、嘘《うそ》でもない。心のうちにかなり確かな予感がある。
八十のことを説明するのに、一から順々に積みあげて八十まで行くのが一番よい方法とは限らない。一気に百を言う。そこから足りないものを引いて八十を理解してもらう。そんな手段もあるだろう。
薫は目を開き、男の表情をうかがうように視線を凝らした。
「前からの人?」
「そうでもない」
「もう抱いたのね」
予期しない質問だった。
「ううん」
息だけで笑った。薫は肯定の意味に取っただろう。
「ひどい話ね」
「ひどいと言えば、ひどい。俺《おれ》、あんたのこと、嫌いじゃないぜ。これは本当だ。だけど好きってだけじゃ一緒にはなれない。わかっていたけど……。やめよう、やめようと思いながら、やめられなかった。今日だって、そうだ」
つぶやきながらも穴だらけの理屈だと思った。それを補うように、
「謝れば、いいのか」
と、薫の顔をのぞきこんだ。
「あきれちゃって……」
そう言ってから薫は首をあげ手の甲に載せ、
「謝られても、しようがないわ」
カーテンの絵模様を見つめている。声は感情を殺したみたいに乾いている。泣きもしなければ怒りもしない。静かに口を閉じていること自体がかえって無気味である。
「困ったな」
「ずるい人だもん。私は勝てないわ」
言い分はあるが、黙って聞いた。
「なんで離婚したんだ」
そう聞いたのは、いったん踏み切ってしまえば、そんなにわるい女ではないかもしれないと思ったから……。
「関係ないでしょ」
「そりゃそうだ」
立ちあがり、タバコとライターと灰皿を取って戻った。
「喫《す》う?」
薫は黙って一本を抜く。二人とも天井を向いて煙を吐いた。ついさっきまで荒れ狂っていた激情はどこへ飛んで行ってしまったのだろうか。
――いい子になっちゃあいけない――
言い訳はのどまで溢《あふ》れて来るが、言えば言うほどあざといものがあとに残るだろう。
「もう一度聞く。どうすればいいんだ」
「どうすればいいのかしらねえ」
「厭《いや》な気分で終わりたくない」
薫は少し笑った。
「考えとくわ。お店に来て」
「わかった。会社に来るのはやめてくれ。いろいろまずい」
「私はもう行かない」
ひどく自信のこもった声に聞こえた。
「帰るよ。なにをしに来たのかわからないけど」
「そう? 言いたいことは言ったじゃない。やりたいこともやったし」
「そうかな。そうかもしれん。仕方がない」
ベッドから起きて服を着た。
――仕方がない……か――
外国人に言わせると、これは日本人がよく使う台詞《せりふ》の一つらしい。彼等《かれら》には、もうひとつ釈然としないところがある。
仕方というのは、つまり対策のことだろう。現実には、対策はいくらでもある。にもかかわらず、日本人は「仕方がない」と言う。直訳されると「嘘《うそ》つけ」と叫びたくなるらしい。つい先日もドイツ人のバイヤーが言っていた。
「自分に都合のいい仕方≠ェないだけです。それなのに、まるで絶対的に仕方がないようにすりかえて、言います」
厳密に言えば、その通りだろう。今、この情況で啓一郎がつぶやいた言葉も、すこぶる自己本位の仕方がない≠ナしかない。とりとめもないことを思ううちに帰り仕度が整った。
「来るべきじゃなかったかなあ」
「わかんない。待ってたけど」
「店には行くよ」
「うん」
「さよなら」
「さよなら」
薫はベッドに寝たままだった。ドアを開けるとたちまち汗ばむほどの温気《うんき》が全身を包む。逃げるように廊下を歩き、エレベーターを降りて外に出た。
――終わった――
本当に終わったのかどうかわからない。ただ、胸のつかえが降りたのは、たしかだった。
――気の毒をしたな――
胸のつかえをただ薫にパスしただけだろう。不快の総量が減ったわけではない。かとれあ≠ヨは時おり顔を出すと約束してしまった。薫もしきりにそれを言っていた。その程度の配慮はいとわないが、薫はなにを望んでいるのか。
――不実な男なんて、顔を見たくない――
と、そう思わないものなのだろうか。それとも、
――贅沢《ぜいたく》は言っていられない。一人でも客がほしい――
それほどせっぱ詰まった状態なのか。最前、この道を歩いたときには、激《げき》しないこと、別れること、抱かないことを考えた。最後の一つだけはみごとに果たせなかった。少しずつ別れて行くのがよいのかもしれない。
――しかし、もう本当に抱いてはいけないな――
最後にしてはあわただしかった。しばらくは情事の風景がつぎつぎに頭を満たした。
翌日曜日は麻美からの電話で起こされた。
「おはよう」
「まだ寝てらしたの?」
「起きようとしていたところ」
梅雨あけと同時に猛暑が始まった。午前十一時。温気はすでに日盛りの暑さに達している。
「プールなどいかがですか」
「いいね、どこ?」
「割引き券があるの」
新宿。高層街のホテルが報道関係に配ったものを持っているらしい。
「じゃあ、二時間後」
「一時くらいかしら」
「うん」
ホテルのロビーで待ちあわせる約束をして電話を切った。
「よくこんな時間まで寝ていられるわね」
リビングルームをのぞくと、保子が椅子《いす》を二つ並べて脚を載せ新聞を読んでいる。
「久しぶりだな」
「そうみたい」
「順調か」
「結構大変」
「美顔術には行かないのか」
「今日はお休み」
式の日取りは九月二十七日ときまった。美顔術はともかく、保子にはいそがしい夏になりそうだ。
「大安《たいあん》じゃないだろ」
「ええ。先勝《せんしよう》」
「あれはなんなんだ。大安は字づらを見てもめでたそうだけど」
「先勝は午前中がいいんでしょ。先負《せんぶ》は午前がわるくて、午後がいいの」
「なるほど。あと赤い口って、読みかたもよくわからん」
「しゃっく。鬼の口らしいわよ」
「くわしいじゃないか」
「日取りをきめに行って習って来たのよ」
「ゴルフには友引がいいんだ」
「あら、そう、どうして?」
「せっかくコースを取っておいても、その日が葬式になったらかなわん。初めっから友引に予約しておけば葬式はない」
「そんなことだと思った。なんか食べる? キャベツが洗ってあるけど」
「食べる」
「どうぞ」
「作ってくれないのか。冷たいな、男ができると」
「仕方ない。やってあげるか」
冷蔵庫をあけ、フライパンに油を入れる。
「ゆくゆく離縁されたときは実家の兄さんを頼ることになるんだから」
「本当? そのときになって逃げないでよ」
「まかしておけ」
トンと大げさに胸を叩《たた》いた。
「どこに行くの」
「うん? プールだ」
「寺田さんて、お義姉《ねえ》さま候補かしら」
「わからん」
「年上なんでしょうね、私より」
「一応な」
話しているうちにコンビーフ入りの野菜いためができあがった。
「ごちそうさん」
ミルクとトーストと野菜いため。食べ終わって声をかけたが、もう保子はキッチンにいない。洗い物を流し場に運び、部屋へ戻って新しい下着に着替えた。つい一昨日のことだ。新任の布崎《ぬのざき》課長は如才がない。
「いや、あせった、あせった。昨夜《ゆうべ》はひどい午前様になっちゃってさァ。家に着いたのが三時すぎ。女房は眠っているし、暗いところでそっと寝ようとしたんだよな。ところがパジャマが見つからない。起こすのも気が引けるし、裸じゃ寝れんし、いったん脱いだシャツをまた着て寝たんだ。今朝になって女房があなた、どうしてシャツが裏になっているの?<hッキーンとしたね」
課長の狼狽《ろうばい》ぶりが目に浮かぶ。特別な事情がないかぎり、朝、正しく着たシャツが、夜、裏になっているはずはない。
「車、使うぞ」
「いいわよ」
ボロ車をホテルまで走らせた。ぼつぼつ買い替えていい頃《ころ》なのだが……。とりわけクーラーの調子がわるい。
――薫のやつ――
余分な出費は控えなければなるまい。ホテルの駐車場では、外車と外車のあいだに。しかし見渡せば相当にひどい車も止まっている。どの車もそれぞれ表情を持っているのが、おかしい。ロビーには麻美がすでに来ていた。竹を編んだバッグを膝《ひざ》に載せている。
「暑い」
「暑い」
あい言葉みたいにつぶやく。
「でも夏のほうが好き」
「どうして?」
「冬は風邪を引きやすいの」
話しながらロビーを歩いてエレベーターへ。
「電話で言ってらしたの、のうぜんかずらじゃないかしら」
「オレンジのやつ?」
「塀《へい》から垂れるように咲いてんでしょ、たくさん。蔓《つる》を伸ばして」
「うん」
「細いカップを開いたみたいな形で」
「そう」
「じゃあ、のうぜんかずらね。たしかあの花は毒があるのよ」
「へえー」
厭でも薫を思い出してしまう。
このホテルのプールは七階の屋上にある。細い廊下を抜け、ガラス戸を押した。脱衣所が左右に分かれている。
「先に行ってるよ」
「ええ」
けっして安い料金ではない。それでも子どもたちの姿があちこちに見える。ハワイアンが鳴っている。主流は若い娘たち。今年の流行はハイレッグの水着。デッキチェアーを並べて、脚というより、あきらかに下腹の領分まであらわにして肌を焼いている。啓一郎もパラソルの下に青と赤のデッキチェアーを並べて、バスタオルを広げた。それからシャワーで汗を流す。
麻美はまだ現われない。
周囲は高層ビルに囲まれ、見あげると、いくつかの窓が太陽の光を受けて金色に輝いている。とてつもなく大きな積み木が一つ、二つ……三つ。いつのまにか建ってしまった。何百年かのち地球が廃墟《はいきよ》と化し、荒野の中にこのビルの残骸《ざんがい》を見るとしたら、いったいどんな風景だろうか。
入口のドアが開き、白と黒の水着が赤いバッグを抱えて立ち止まる。啓一郎が手を振った。
麻美は水溜《みずたま》りをよけながらゆっくりと歩み寄る。首を左右に振ったのは見ないで≠ニいう合図だろう。それでも啓一郎はながめ続ける。ワンピースの水着。粗い、ななめのストライプ。けっして豊満ではないが、それなりに均整はとれている。
「恥ずかしい」
デッキチェアーに横すわりに腰かけ、バスタオルを引きながら脚を伸ばした。
「泳いでるのは子どもばっかりだ」
「あそこに泳いでるわ、女の人。あ、やめちゃった」
「さっきとってもきれいに泳いでる人がいた」
「うまいんですか、中座さんは?」
「普通だな。小学生の頃は水泳教室に通っていた」
「じゃあ、うまいわね」
「好きだけど……泳ごうか」
「どうぞ。見せて」
立ちあがり、プールのふちで合図を送ってから宙に飛んだ。初めはクロール。途中から平泳ぎ。背泳ぎに変ると、プールサイドを麻美が歩いている。
「昔はもっと体が軽かったんだがなあ」
泳ぎながら言う。
「きれいよ、とても」
「泳がない?」
「ちょっとだけね」
はしごの手すりに手をかけ、体を縮めながらしずしずと水の中に入る。胸まで沈んだところで両腕を伸ばして体を水に預ける。平泳ぎ。だが五メートルも泳ぐとすぐに足をつき、髪をなでる。
「駄目《だめ》。ぜんぜん」
「百や二百は泳げるだろ」
「ずっと昔はね」
「このごろは泳げない人って、いないんじゃないのか」
「学校でやるから」
麻美はつぶやきながら腕を広げ、また平泳ぎではしごまで戻ってあがった。啓一郎はクロールで遠いサイドまで泳いで、とんぼ返りのターン。
「まいったなあ」
息つぎをあやまって水を飲む。鼻から脳にかけてツーンと痛みが走る。一瞬、少年の日が甦《よみがえ》って来る。
体をあおむけにし大の字になって手足の動きを止めた。太陽と空がある。いつかもこんな風景を見たように思った。視界の端にビルの稜線《りようせん》が伸びている。突然、
――今日は麻美に結婚を申しこもう――
そんな考えが心にのぼって来る。重大な決断はかえってこんな瞬間に浮かぶものかもしれない。以前にも水に浮かびながら大きな決心をしたような記憶がある。それがなんだったか、思い出せないけれど……。
来年もきっと水に浮かんで空を見るときがあるだろう。そのときなにを思っているか。去年の決断を後悔しているかもしれない。そのままゆっくりと手を動かして麻美《あさみ》がいるサイドへ向かった。子どもが水しぶきをあげて泳いで来る。その下に潜って、はしごのところで顔を出した。麻美はしきりに髪を拭《ぬぐ》っている。啓一郎が近づくのを見てバスタオルをさし出す。
「ありがとう」
デッキチェアーに並んで太陽を仰いだ。
「タバコ、喫いますか」
「うん、ほしい」
わずかな風がライターの火を吹き消す。掌《てのひら》をそえて火をともした。麻美の手がライターを握り、その上から啓一郎の手が包む。麻美の視線が下からすくうようにのぞく。
「とてもいい」
啓一郎は曖昧に告げた。自分でもよくわからない言葉……。
「なにが?」
「いろいろと」
「おかしいわ」
プールサイドはタバコのうまい場所だ。煙が風に飛んで行く。麻美は片脚を伸ばし、もう一つの膝《ひざ》を立てている。内股《うちまた》の白さが目に映る。その奥に啓一郎がまだ触れたことがない部分がある。恥毛におおわれ、いびつな亀裂《きれつ》を作っているだろう。
――そこに触れることが、どうしてあれほど大きな意味を持つのか――
不思議と言えば不思議である。
「なにを考えているの?」
正直には答えにくい。
「うーん。前にもこんなときがあったなって」
「女の人と一緒に?」
「いや、そういう意味じゃない。水に浮いて、空をながめて……子どものころに」
「ああ、そういうことって、よくあるわ。どうしても思い出せないけど、前にもこんな感じ、あったわって」
「だれでもあるんじゃないのか。既視感とか」
「前世で見た風景とか」
「うん」
「人の好ききらいも、そういう原体験のせいなんですって」
「ふーん」
プールサイドには、いくつもの裸形がうごめいている。それぞれ微妙に体型がちがっている。麻美が紙を三角に折って鼻に載せた。鼻だけ赤く焼けるのは、みっともない。
「使います?」
あまった紙をさし出す。啓一郎も鼻に載せた。
「本当に沖縄へ行こうか」
「いいわねえ」
麻美はパラソルの影の中で脚を伸ばし、目を閉じている。そのまま唇が小さく動いて、
「秋になって……。休み取れますか」
「なんとかなる。九月まで夏休みを残しておく」
会社では五日間の夏休みがある。啓一郎はまだ一日も使っていない。毎年余してしまう。労働組合は、かならず消化するようにと呼びかけているけれど。
「いい気持ち」
麻美は顎《あご》を少しあげ、眠りにつくような仕ぐさを示した。
「太陽がいっぱい」
つぶやいて啓一郎も目を閉じた。アラン・ドロンの代表作を見たのは、ずいぶん昔のことだったろう。たしか法子と一緒だった。池袋の、古い映画を専門に上映する映画館だった。画面は青く揺れる海を背景に置いていて、スーパーインポーズが読みにくい。法子もまださほどフランス語に熟達していないときだった。あとで吹きかえのテレビ映画を見て、
――このシーンは、こういうことだったのか――
そう納得した部分がいくつかあった。
――法子はどうしているだろう――
昨日は薫を抱いた。今日は麻美とプールサイドに来ている。そして目を閉じて法子のことを考える。
――花の生涯《しようがい》。そんなテレビもあったな――
たかだか三人の女性。花と呼ぶほど華やかなものではあるまい。たまたま平凡なサラリーマンが、一時的に三人の女性に取り囲まれただけのことだ。一人とは今、関係がこじれている。一人とは、結婚を前提にしている。そして、もう一人は古くからの友人……。やましさがないわけではないけれど、そんなストイシズムは三十代の男にとって実りが少ない。生まれて来た以上楽しくなければ意味がない。麻美の横顔を見た。
――この人だって昨夜だれかに抱かれたかもしれないし――
かすかな嫉妬《しつと》が風のように心をよぎった。だれだってすべてを人前にさらけ出すわけにはいかない。さらけ出してはいけない秘密を持っている。秘すれば花、そんな言葉だってある。
ほんの四、五分まどろんだ。体半分に日ざしが当たっている。肌が焼けるように暑い。小走りに走ってプールに飛びこんだ。ひと泳ぎをしてデッキチェアーへ戻って来ると、麻美がまぶしそうに目をあけている。
「よく眠っていた」
「そう。でも暑い。少し冷やさなくちゃ」
髪をかきあげながら立ちあがる。足が水溜《みずたま》りに触れ、コンクリートの上に足あとが残る。その上を踏んで、あとを追った。今度はしばらくプールの中で遊んだ。泳いだり、体をくっつけたり……。
「目が痛いわ」
ほとんど顔を水につけていないのに、麻美の目が赤く充血している。
「俺《おれ》の目も赤い?」
少し痛む。
「赤いわよ」
「消毒液が強いんだ」
またプールサイドに戻って肌を焼く。そのくり返し。それ以外にプールの遊びはない。
太陽が位置を変え、まっすぐ上の空にかげりが少しずつ忍び寄って来る。
「出ますか」
「いいよ」
「髪が濡《ぬ》れちゃった。あなたは、もう一泳ぎしてらして。私、仕度に時間がかかるから」
「今、五時十分前。三十分後ならいい?」
「ええ。どこで?」
「エレベーターの前にソファがあった」
「じゃあね」
荷物をまとめて赤いバッグの中へ。啓一郎はうしろ姿を見送った。水着の中のヒップは小さく、腿《もも》と腿とのあいだに少しすきまがある。脚も細いが、脚が骨盤と繋《つな》がっている位置に間隔があるからだろう。
男は三角、女は台形……。地面に両脚をふんばって立ったとき、そこに空間ができる。その形が男と女ではちがっている。女には台形の上底がある。
独り残った啓一郎はプールサイドの裸形をながめ、クロールでプールを縦に往復してあがった。熱いシャワーで体を洗い、ゆっくりと乾かした。疲労がここちよい。廊下へ出たが、まだ麻美は来ていない。窓の外の高層ビルをながめながら待った。
「ごめんなさい。結構時間がかかっちゃって」
さっき会ったときに比べて、はっきりと顔が焼けている。そんな肌に赤く引いた口紅がよく似あっている。
「どうする。ビールでも飲もうか」
「上のほうにラウンジがあったでしょう」
「夕日でも見物するか」
「いいわね」
急速に昇るエレベーターの中で耳が痛い。屋上のラウンジは混雑していて、窓《まど》ぎわの席に案内されるまでしばらく待たなければいけなかった。
「ホテルもずいぶん増えたわね」
窓の外にもう一つのホテルが見える。
「東京のホテルには三ブロックがあるんだ。今、しのぎをけずっている」
「そうなの?」
「東京駅周辺から赤坂あたりまでのブロック、それから品川方面のブロック、もう一つが新宿|界隈《かいわい》のブロック」
「ええ」
「ブロック内の競争も激しいけれど、それより先にブロック同士で争って客を集めなくちゃいけない。パイそのものを大きくしなくちゃ、分けようもない」
密集した屋根のむこうに低い山並が見える。少し首を伸ばすと視界の左いっぱいの位置に太陽が宿っている。生ビールを頼んだ。
「いい汗かいた」
「本当」
麻美はグラスを両手で包むようにして飲む。
「少し焼けたね」
「すぐに焼けるたちなの」
「色が白いからだろ」
「そんなに白くないわ。本当に白い人は赤くなるでしょ。私は焦げちゃうから。すぐに焼けるわりには、なかなか抜けないのね」
「夏は黒いほうがリッチな感じがする」
「秋になっても黒いまんまだから困るのよ」
「沖縄へ行ったら、もっとひどいぞ」
「でも、いいの。いちいち気にしてたら、なんにも遊べないわ」
「本当に行こうよ」
「行けるといいわね」
「行こうと思えば行けるさ。思わなければ、なんにも始まらない」
「そうね」
麻美が視線を窓の外へそらした。
「お日様、あのへんに沈むのかしら」
と、山の一角をさす。
「少しななめに落ちていくはずだ」
答えてからタバコに火をつけ、おもむろに喫《す》って吐いた。
「大事な話をしよう」
「ええ?」
「旅に誘うのは、ただの遊びじゃない」
ボーイが近づいて来てビールのおかわりを聞く。このまあいは、よいことなのか、それともわるいことなのか。
「ビールはもういい。水割りがほしい」
「銘柄《めいがら》は?」
「国産でいい」
メニューを指さす。
「あなたは?」
「なにか軽いもの」
「ジンフィーズ?」
「それでいいわ」
もう一度緊張を取り戻さなければいけない。
「旅に行くのは、結婚を考えたから」
と告げた。
麻美はほとんど表情を崩さずに、テーブルの一角を見つめたまま啓一郎の言葉を聞いていた。それから髪を一つ振って顔をあげた。
「どのくらいたつのかしら」
「なにが?」
「香港でお会いしてから」
「一年足らず」
「そうね、秋の初めでしたもんね」
「あのブラウスのグリーン、今年流行色なんだね」
ボーイが水割りとジンフィーズを運んで来た。
「私、中座さんが思っているような上等な女じゃないかもしれないわよ」
「すてきな人だと思っているさ」
「それが困るのよ」
「どの道、こういうことは自分の判断に賭《か》けるより仕方がない」
一年足らずの交際は長いのか短いのか。麻美の人柄についてよくわかったのか、わからないのか。逆に麻美は啓一郎のことをどれだけ理解しているだろう。
一生の大事を決めるにしてはたしかに不足の部分がある。しかし、どこかで自分の直感を信ずるよりほかにない。
「中座さんには、どんな奥さんが似あっているのかなあー」
「わりと適応性があるほうじゃないかな、俺は」
「そうかしら。貞淑で、なんでもはい、はい≠チて、言うことをよく聞いて……そんなタイプがいいんじゃない?」
「人形みたいなのは厭《いや》だ」
「私、奥さんには向いてないみたいよ。今の仕事が好きだし、わがままだし」
「奥さんというものの考え方一つだろう。いろんな奥さんがあっていい」
「そうは思うけど、現実にはどうかしら。子どもはきらいだし、束縛されるのは厭だし……」
「子どもなんかなくたってかまわない」
「婦人雑誌なんかやっていると、奥様族の悩みがいろいろ集まって来るのよね。生きがいがないとか、主婦なんて女中みたいなもんだとか、夫婦ってなんだろうとか、なんのために苦労して子どもを育てたのかとか……。ほとんどがどうしようもない悩みばっかり。煎《せん》じつめれば、妻である道を選んだところに原因があるのね」
「うん?」
「男の人にはわからないわ。五十になって、夫はどっかべつなところで生きているし、子どもたちは離れて行くし、さて、なにかしようと思っても、八方ふさがりでなんにもないし」
「仕事って、そんなに楽しいかなあ」
「家事よりましね。私には」
「結婚にはまるっきり憧《あこが》れがないわけ?」
「そんなことないわよ。好きな人と一緒に暮らして……。一生が保証されるわけですもん。女が仕事を続けていくの、楽じゃないわ」
「うちの会社なんかじゃ、女性はそう長くはいられない。いたって特に楽しいことはない」
「そうでしょうね。でも、今の私の仕事は、女性にむいているから。せっかく確保したものを手放したくないわ」
「手放さないまま結婚をすればいい」
「そうしたいとこね」
「じゃあ、そうしよう」
「できるかしら。私ってそんなに真面目《まじめ》な女じゃないの。フワフワ生きてんのが好きなの、風船玉みたいに。なんにも決めずに」
少しわかって来た。麻美は、法子のように強い信念があって独りでいるわけではないらしい。今が楽しいから。その延長線の上で生きて行きたいから……。これも現代風な生きかた、一種のモラトリアム人間なのかもしれない。
男は職業選択を前にしてあれか、これか≠決定しなければいけない。それから先は組織に帰属し、一定の責任を持たなければいけない。その道を選ばず、アルバイトなどで生計を立てながら自分をどこにも深く帰属させずあれも、これも≠ニばかりに自由に生きているのが、いわゆるモラトリアム人間だろう。女は結婚を前にしてモラトリアム人間になるのかもしれない。
啓一郎のほうにも、結婚について明確なビジョンがあるわけではなかった。ほとんど白紙に近い。
朝、甘いささやきで新妻に起こされ「はい、ワイシャツ」「はい、ハンカチ」「今晩早く帰って来てね」「おかずなにがいい?」「愛している?」そんな型通りの奥さんでなくてもいっこうにかまわない。モラトリアム人間と妻業とは決定的に矛盾するものなのだろうか。
短い沈黙のあとで麻美が悪戯《いたずら》っぽい口調でつぶやく。
「いいわよ。旅行に行きましょ。九月の中ごろ」
「沖縄?」
「暑いかしら」
「そりゃ暑いだろうけど」
「でも行きたいわね。前に北海道の先っぽのほうへ行ったわ。今度は南の先っぽ」
「最南端は東京都の沖《おき》ノ鳥島《とりしま》だろ。与那国《よなぐに》が西のはしかな」
「あなたって、そういうこと、くわしいんだから。石垣島《いしがきじま》には絶対に行きたいわ」
「それは行ける。四泊五日くらいかな」
「そのくらいはほしいわね。今スケジュールをもっていないから……わかんない」
「あとで連絡する」
「そうよね。あんまり堅く考えること、ないのよね。ルンルン」
鳥の鳴き声のように言う。
「まあ、そうだ」
話が途切れると、西の空に太陽が赤くふくらんでいた。
むしろ啓一郎のほうが戸惑いを覚えた。軽い拍子抜け……そう言ってもよい。
ついこのあいだ、たしか鎌倉《かまくら》へ行ったとき麻美は、男と女が旅に出るのは簡単なことではないと言っていた。「覚悟のいることでしょ」と告げていた。暗に結婚の約束があって初めてできることだと匂《にお》わせていた。女の立場としては当然そうだろう。啓一郎が、たった今「旅に誘うのは、ただの遊びじゃない。結婚を考えたから」と言ったのは、そんな麻美の心に応えようと思ったから……。
ところが麻美は結婚の部分をスルリと飛び抜けて旅のイメージをふくらませている。「あんまり堅く考えること、ないのよね」というのは、結婚のことはとりあえず脇《わき》に置き、仲よく旅を楽しみましょう、と聞こえる。「ルンルン」は、まさしく軽い。立場が逆になったような感じさえする。
――ちがうだろうか――
結婚の約束がなければ男女は深入りができない。それでは不自由すぎる。おたがいに三十歳をすぎているんだ。無分別だって一つの分別のうちだ。それなりの親しさがあるならば一緒に旅に出るくらいいいではないか。啓一郎はそう考える。男にとってとても都合のいい考えかたではあるけれど……。
麻美はそれとはちがった考えを持っているように見えたが、あながちそうとも言いきれない。その日その日によって麻美は人柄が変る。人柄が変ると言ったら言いすぎかもしれないが、こちらが受ける印象は微妙に異なる。気分屋のところがある。天邪鬼《あまのじやく》のところもある。
啓一郎の心が結婚に傾くまでは、それを重要な条件にしていた。ところが啓一郎の心が決まりかけたとなると、今度は自分のほうでもう少し自由に考えたい、となる。
――あなたの覚悟は聞きました。私のほうはこれから決めます――
焦点をぼかしているのかもしれない。決断を延ばしているのかもしれない。
「どうかしました?」
急に啓一郎が無口になったので麻美が首を傾《かし》げる。
「いや、べつに」
結婚の約束をしてから旅に出るというのは、本来は逆の手続きなんだ。旅に出て、数十時間をともにすごし、相手を見きわめ、その結果最後の約束を交わすほうが理には適《かな》っている。
「私っていい加減なとこ、あるのよ」
「そう……かな」
「あんまり深く考えたりしないで、そのとき、そのとき、やりたいことパッとやったりしちゃって」
「わるいことじゃない」
「男の人には、とくにそうね」
「とにかく行こう。いいね」
「またコロッと気が変るかもしれないわよ」
「それは困る」
「ウフ。大丈夫よ、きっと」
視線のおもむく先に、また一つ建設中のビルがある。大きなクレーンが屋上で腕を伸ばしている。この周辺は、いくつ高価な積み木を建てれば気がすむのか。
「前に高層ビルの竣工《しゆんこう》パーティーに出席したことがあって」
「ええ」
「設計者が、なんでもいいから質問してくれって言うんだ」
「ええ」
「だれもなにも聞かないし、ちょっと不思議に思ったから、手を上げて質問したんだ」
「ええ?」
「最後にあの大きなクレーンはどうやって降ろすんですか」
「本当に?」
麻美はクレーンを見なおしてからうなずく。
「エレベーターじゃ……無理よね」
この位置から見てもクレーンは相当に大きい。窓の幅と比べてみれば大きさの見当がつく。
「せっかく聞いたのに設計者は鼻で笑っただけ。答えてくれなかった」
「どうしてかしら」
「馬鹿《ばか》らしいと思ったんだろ。素人《しろうと》はそういうことが気になるんだけどね。もっと高度なこと聞いてほしかったんだな」
「でもどうするの?」
「あとでべつな建築屋さんに聞いたら結構大変なんだ。最初のより少し小さいクレーンを引きあげて、それを使って降ろし、その少し小さいクレーンはまたもう少し小さいクレーンで降ろし、だんだん小さくしていって、最後はエレベーターで降ろす」
「そうなの、おもしろいわ」
「聞いてみりゃ、なーんだ、そうかって思うけど」
「わかんないことって、案外たくさんあるわ。電話の呼び出しベルの電気代は、だれが払うのかしら。このあいだ編集部で議論になって」
麻美は指先でダイヤルをまわす仕ぐさをする。
「こまかいな。しかし、だれだろう」
「相手が出なきゃ、料金は取られないわけでしょ。公衆電話ならチャンと十円玉が戻って来るし」
「そうか。公衆電話のことを考えると、基本料金に含まれてるとも言いきれないか」
「受け手が負担しているのかしら」
「NTTが負担して、結局はみんなが基本料金でまかなっているのかな」
とりとめのない話が続く。太陽はすでに落ちてしまったが、温気《うんき》は収まりそうもない。
「このあと、なにか予定あります?」
「べつに」
「シャンソンなんか、つきあいません?」
「どこで?」
「お友だちが歌ってるの。原宿《はらじゆく》で。ミシェル岡田《おかだ》さん」
「知らないな」
「知らないほうが普通。古い歌が主で、わりとうまいわ」
「男?」
「女よ。ミシェルは女でしょう」
「そうかな。男にもいるんじゃないか。いいよ、行こう」
啓一郎はここ数年シャンソンなんか聞いたこともない。あの歌の歌い手にはみんな気取ったようなくさみがあって、鼻につく。偏見かな。学生時代には法子に誘われて何度か聞いている。多少の知識はある。
「七時半が一番最初のステージなの。ステージったって、喫茶店に毛のはえたみたいなところだけど」
「先に腹ごしらえをしよう」
「よく食べるわね」
「そうかな。今日はまだなにも食べてないだろ」
「今日はそうだけど、いつも食べること気にしてるでしょ」
「そういう意味か。男だからなあ。時分どきになるとやっぱり腹がすく。女の人は、そうでもないのか」
「日によってはずーっと食べないでいることもあるわね」
「お腹《なか》が減るだろ」
「そのへんにあるもの、つまんだりして。そのうちに忘れっちゃう」
「男って腹がすくと、怒りっぽくなるんだ」
「本当にそうなんですってね。私のお友だちで結婚した人が言ってたわ。なんでうちの亭王、不機嫌《ふきげん》なのかって思ったら、要するにお腹がすいているからなんですって」
啓一郎の家では、食事はほぼ時間通りに出る。このごろでこそ啓一郎のほうが不在がちになったが、学生のころの夏休みなど、いつも朝、昼、晩の三食、きっちり食べていた。父は、母を失った子どもたちにまず食事を三度食べさせる、それが子育ての第一課だと考えていたのではあるまいか。
「怒りっぽくなられちゃ困るから、なんかお腹に入れましょ」
「わざわざ暑い街に出ることもないな」
「一階のレストランで軽いものでもいただきましょ」
「うん。それがいい」
上のほうでなにか催し物でもあったのだろうか。満員のエレベーターで降りた。若い女が多い。
――この中では麻美が一番きれいだ――
十目《じゆうもく》の視《み》るところ、十手《じつしゆ》の指すところ……。男はだれしもこんな思案を持つ。
一階のロビーを抜け、
「この店は、たしか一日に二時間くらいしか休まないのよ、ほら」
と麻美は指をさす。入口のボードには午前三時から五時まで閉店≠ニ記してある。二皿のスパゲッティにチキン・バスケットを一つ加えた。
原宿で降り、駅前の花屋で麻美がバラの花束を買った。細い路地を東郷神社のほうへ二、三分歩いて、
「ここよ」
と言う。婦人服を並べたブティックの地下にあるコーヒー・ショップだった。土曜と日曜の夜に特別なショウがあるらしい。
「落語なんかもやるのよ」
「ここで?」
「そう。床に絨毯《じゆうたん》を敷いて、座布団《ざぶとん》を置いて」
客の入りは七、八割。黒いカーテンの前の空間がステージらしい。七時半きっかりに簡単なアナウンスメントが響く。前奏が流れスポット・ライトがともって歌手が現われた。
濃紺のドレス。軽く会釈《えしやく》をして一節を歌い、それから深々とお辞儀をする。拍手が起きた。
「ラ・セーヌかな」
この歌はシャンテ、シャンテ、シャンテ≠ニくり返すところに特徴がある。
「知らない。くわしいのね」
「セーヌ川がパリに近づいて来ると、胸を弾ませるんだ。セーヌ川は恋をしていて、その恋人はパリだから、そんな文句だった」
「フランス語もできるの?」
「できない。第二外国語じゃ、たかがしれている」
この方面に多少なりとも知識があるのは法子《のりこ》のおかげだ。
一曲歌い終わり、歌手は自己紹介をかねたスピーチをする。その背後に聞き覚えのある曲が流れているが、なんという歌かわからない。
曲がパダム、パダム≠ノ変った。エディット・ピアフの歌。これは法子の部屋にあったレコード。昔が今に飛んで来る。
「うまいじゃない」
「ええ。うまいわよ」
顔立ちも美しい。舞台に立つ人にしては少し小柄《こがら》だが、こんなステージにはよく似あっている。
これだけうまくても、さほど名の知れた歌手ではない。テレビでは下手くそが寄ってたかって下手な歌を歌っているのに……。
「なんで一流になれないのかな」
「大ホールをいっぱいにできる歌手なんか、日本にそう何人もいないわ。彼女、地味にやってるから」
「これで食えるのか?」
「いろんなステージがあるから……それは大丈夫みたい」
三つ目の曲が終わったところで、客席から何人かが立って花束を贈る。麻美もバラを抱えて立って行く。歌手はそれを抱きながら小さなひなげしのように≠歌う。ところどころ日本語の歌詞になる。これも啓一郎が記憶しているメロディだ。
歌手は歌いながらテーブルのあいだをぬって歩く。一人、一人に頬笑《ほほえ》みかける。笑顔がやさしい。
「知った歌が多い」
「そう」
「みんなわりと古い歌だ」
「シャンソンのファンは、それがいいみたい。若いファンは少ないわ」
「このごろは、もっと騒がしい曲が多いもん。古くからの知りあい?」
「ううん、仕事で親しくなったの」
「独り?」
「一応ね」
「このごろ女性の独りは多いからなあ」
メドレーをあいだに挟み、十曲ほど歌ってショウは終わった。
「歌詞って意味がよくわからないほうがいいわね」
「そうかなあ」
「恋愛の歌なんか、抱きしめたいだの、キスしたいだの、ハートが火の玉になっちゃっただの、俗っぽいのが結構多いでしょ。よくわからなくて、よっぽどいいこと言ってるのかしらって思っているときのほうがすてきよ」
「日本人は言葉じゃはっきり言わない民族だから……。しかし、やっぱりわかったほうがいい場合が多いよ。なんにもわからずに聞いてたんじゃ頼りないし」
黒いカーテンが開き、ミシェルが普段着に着替えて顔を出した。ショートカットの髪型のせいもあって、年齢より大分若く見える。まず啓一郎たちのテーブルに着いた。
「なにか飲みます?」
「いえ、結構」
「とても楽しかったわ。こちら中座さん」
「すてきでした。僕《ぼく》の知った歌が多くて」
「ありがとうございます。私、古い歌が好きだから」
「手風琴《てふうきん》でも弾いて歌ったら?」
「そこまで古くないわあ」
「次のステージは?」
「九時半、十一時半。ゆっくりしてらして」
「ええ。でも今晩は失礼するわ」
「そう。じゃあ、またね。ありがとうございました」
次のテーブルへと移って行く。客席の半分近くが顔見知りらしい。幕あいを利用して、いちいち挨拶《あいさつ》をしている。
「出ようか」
「ええ」
「大変だな。いつも笑顔でいなくちゃいかん」
「小じわが増えるんですって」
「笑ってると?」
「そう」
裏通りを歩いた。大きな柳の下で二人連れが堅く抱きあっている。濃厚なベーゼ。シルエットが美しい。日本人にしてはめずらしい。
――俺《おれ》はああはいかん――
自分で自分を見たことはないけれど、きっとそうだろう。啓一郎たちがそばを通っても二人は身じろぎひとつしない。
「感想は?」
抱きあっている二人の脇《わき》を通りぬけ、少し離れたところで麻美に尋ねた。
「よろしいんじゃないでしょうか」
肩をピクンとあげて笑う。いちょうの喬木《きようぼく》の立つ角を曲がって表通りに出た。
「どうする?」
「疲れちゃった。帰ります」
「たまには俺のうちに来ない?」
「今から?」
「まずいか?」
「プールの帰りってわけにいかないわ。またいつか……。車で帰ります」
「送って行こう」
「いいわよ。遠まわりじゃない」
「行くよ」
タクシーを止めて乗りこんだ。
「お妹さん、もうすぐでしょ」
「来月の二十七日」
「いいわね。うらやましい」
「どうして?」
「どうしてって……私だって女ですもん、結婚はすてきよ」
「わからない」
さっきプールサイドで啓一郎は、限りなく結婚の申し込みに近い言葉を告げた。麻美の反応は鈍かった。むしろ避けているようにさえ感じられた。
「憧《あこが》れくらいは持っているわよ、当然」
「なんだか少し変ったような気がする」
「私?」
「うん。遊びで恋愛ができないたちだって言ってた」
「そうよ」
西麻布《にしあざぶ》の交差点を曲がった。もう麻美のマンションは近い。
「このまま乗ってらして」
「いや、降りる。もう少し話がしたい」
「送り狼《おおかみ》は厭《いや》よ」
「大丈夫だ。そこで止めて」
タクシーを降り、肩を並べて路地へ入った。マンションの前に小さなクリーニング店があって、主人らしい男が店の外に出て腰をおろしている。しきりに通行人をながめている。この人は、きっと麻美の私生活の一部を知っているだろう。いつも何時ごろに帰って来るか。どんな男が送ってくるか。
「ちょっとくらい、いいだろ」
マンションの見える位置まで来て尋ねた。
「一時間くらいなら……。いつかみたいな乱暴はしないで」
「乱暴かなあ」
「そうよ」
麻美は最近になって、ようやくうち解けるようになった。それでも他人行儀がまだ少し残っている。他人行儀は相対的なものだから、麻美に対していると、啓一郎も少し他人行儀になる。美人というのは、相手を他人行儀にする才能を、幼いときから身につけているのではあるまいか。
「じゃあ、どうぞ」
「うん」
ドアを開け、ふり返って、
「O型とO型って、あわないらしいわよ」
と言った。
――そんなことを考えていたのか――
馬鹿《ばか》らしい。啓一郎は占いや血液型のたぐいをほとんど信じない。生まれ年が同じだと、どうして同じ運命になるのか。生まれ月が同じだとどうして同じ性格になるのか。血液型は、なまじ科学っぽいところがあるから始末がわるい。
「血液型なんか……」
「中座さんは信じないほうね、きっと、麦茶くらいよ、出るのは」
「それでいい。ほとんど信じてないな。血液型の専門家はみんな笑ってるよ。血液の分けかただけでも三十種類以上あるらしい。A、B、Oに分けるのは、そのうちの一つだし、ほかにRhだの、MNだの、いろいろあるわけだろ。同じO型だって、べつな分けかたをしたら、ぜんぜんちがう血液なんだ」
「でも、よく当たるわ。本当よ」
苦笑が頬をくすぐる。
男と女は、これまでにどれほど同じ会話をくり返して来たのだろうか。男は論理を積みあげて説得する。女は「でも……」と呟《つぶや》いて、身近な現実をポツンとあげて首を振る。「地球は太陽のまわりを公転しながら自転しているんだ」「でも、お日様は東から出て西に沈むわ」などと。
どちらがいいとは言いきれない。生きて行くうえでは身近な現実のほうがはるかに役立つケースが多い。地球の公転自転を知ってみたところで毎日の生活にはなんの影響もない。太陽が東から出て西へ沈む現実のほうが、よほど大切だ。
血液型だって同じこと。当たると思えば当たる。つまりチェックリストみたいなものなんだ。当たっているところだけを選んで利用すれば、当たる。
むしろここでは麻美が二人は性格があわないんじゃないかしら≠サう思っている事実のほうが大切だろう。
「初めっからあう人なんかいないんじゃないか」
麻美はキッチンで麦茶をグラスに注《つ》いでいる。そのうしろ姿に告げた。聞こえたのかどうか……。
テーブルへ戻って来て、
「言ったでしょ、私、コロッコロッ変るの。そりゃ、まじめなお話じゃなきゃ厭《いや》よ。男の人は、強い立場なんだから。でも私のほうは少し不まじめなのかなあ」
「どういうこと?」
「奥さん稼業もいいなって思うのよ。でも、次の日は、今の仕事もわるくないって思ったりして……。なんて言うのかしら……結婚していいって思うくらい本気で、まじめな関係で、それでいて、べつべつに生きているような、そんなのがいいなって思ったりして」
まさにモラトリアム・ウーマンではあるまいか。
「わるくないんじゃないの」
なにげなく相槌《あいづち》を打ったが、少し無責任かもしれない。啓一郎には、わるくない。しかし麻美にとってわるくないかどうか……。
「サルトルとボーヴォアールって、どんな関係だったの?」
「知らないよ」
「あんなに偉くないけどサ」
さっきから一つの数字が啓一郎の頭の中にある。その数字は、青い表紙のノートの、麻美の欄に記入してある。
いつか、まだこたつがここにあったころ、この部屋へあがった。麻美が「今日はいけないの」と抗《あらが》った、その日付である。その数である。
月は変っているが、今日はその日付とたった一日ちがい……。今日もいけない日なのだろうか。
――プールへ行ったくらいだから――
とも思う。体調のわるい日なら、女はわざわざプールへ行ったりはしないだろう。
「でも、そういう生活って、結局、男の人に得をされるだけでしょ」
「そうかなあ」
法子なら、そうは言うまい。法子は四十代、五十代の自分に自信を持っているから……。おたがいに得をすればいい。
「そうよ。女はやっぱり若いときだけですもン。結婚の枠でもはめておかなきゃ、男の人はすぐにどこかへ飛んで行ってしまうでしょ。結婚と同じくらいに本気で、まじめでって……初心をすぐに忘れっちゃうわ」
「だったら一応枠をはめておいて、その中で自由にやればいい」
「でもネ、いったん枠に入ってしまうと、人間て、やっぱりそこでいい子になりたがるものよ。駄目《だめ》な奥さんだってレッテルを貼《は》られるの、そんなに楽なことじゃないもの。サラリーマンの社会だってそうでしょ。駄目なやつだって言われても平気でいられるなら、ずいぶん気楽に、自由にやれるでしょ」
「それは言える。トータルとして俺は自由で、いい人生をやっているんだって思っても、組織の中で評価をされないのは、やっぱりつらい」
「そうよ。いったん結婚してしまったら、そう気ままじゃいられないわ」
「女の生きかたはむつかしいね」
「そうよ」
「それだけ自由があるってことだな」
男はサラリーマンになるか、家業を継ぐか……あとは結婚をして仕事に励み、係長になり課長になり、趣味はゴルフ、浮気の一つ二つやったりして……ライフ・スタイルはおおむね決まっている。
「自由ねえ? あるような、ないような。力がなきゃ駄目ね」
法子には力があるだろう。麻美は……そう、女にとって美貌《びぼう》は力の一つだ。使いかたによっては、すごい力になる。ただ困ったことに、これはかならず衰える。力を失えばたちまち自由は危機に瀕《ひん》す。そこらあたりに麻美の悩みがある……。
薫《かおる》の力はなんだろう。妖《あや》しい女体。しかし、そう大っぴらに使える力ではない。
「のうぜんかずらって、毒がひどいの?」
唐突に話題を変えた。薫、のうぜんかずら、毒、三つが啓一郎の頭の中で繋《つな》がっている。
「子どものころ、近所の庭にあって、そばへ行っちゃ駄目って言われたけど、たいしたことないんじゃないかしら。蜜《みつ》が甘いの。それがおいしいけど毒らしいの」
かとれあ≠フ角にのうぜんかずらが咲いているのは、皮肉な寓意《ぐうい》を含んだ風景らしい。
「植物だって強い毒性のものがあるんだろ」
「あるでしょうね。けしなんか栽培を禁じられているくらいだから」
「そうだよな」
「ピーナッツくらい出しましょうか。なんにもないのよね」
「いい、いい。それより……」
言い淀《よど》んでから、
「あなたを抱きたい」
と目をのぞく。
「それはない約束でしょ」
「でも、抱きたい」
テーブルの上の手を取った。
「旅に出て……」
と麻美は視線を遠くにすえて言う。
「待ちきれないって言ったら?」
「待ってくださいって言うわ」
「どうして……旅にこだわるんだ?」
「ここじゃ厭なの」
「思い出があって?」
「そんなんじゃないわよ。セックスなんて、どんなにでもみじめになるものよ。だから舞台だけはそれなりにりっぱなほうがいいの」
「ムード派なんだな」
「そんな単純なことじゃないわ」
口調がちょっと厳しくなった。
「わかった。じゃあ旅にはきっと行こう」
「そうね。そのつもりではいるけど……もう少し考えさせて」
「煮えきらない」
「そんなに速く歩かないでくださいって……覚えているでしょ」
「覚えているよ、身にしみて」
麻美は、うまい防御の言葉をいくつか持っている。追いこまれると、それをつき出す。答えにくい質問には「あなたは、どう?」と、同じ質問を返して寄こす。
「しかしなあ、俺は思うんだけど……一般論として言うんだよ。男と女って、やっぱり抱きあってみなくちゃ、本当に親しくなったって言えない。どんなに親しい人でも、それがないまま別れたら、ただのエピソードにしかならない。人生を共有したって感じにはなれない。前にも言ったっけ?」
これは啓一郎の持論である。そして口説き文句の一つでもある。
「いいえ」
そうか、笹田に言ったんだ。
「人間はもう少ししなやかに生きていいと思うんだ」
「それはわかるけど。とにかく今日はおとなしくお帰りくださいませ、中座様」
おどけた口調で言う。
「そうよなあ」
「髪を切ったほうがいいかしら」
麻美が髪をかきあげながら立ちあがった。うながされて啓一郎も立った。
「明日にでも連絡する。旅の日取りのこと」
「そうしてくださいな」
玄関に出てから、ふり返って麻美の手を求めた。
「なーに?」
それをたぐって抱きしめ、唇を重ねた。麻美は一度だけしっかりとつきあい、すぐに体を離す。
「お休みなさい」
「かならず行こう、沖縄」
「靴《くつ》べらを買っておかなきゃね」
「この靴はいいんだ。じゃ、さようなら」
唇を近づけると、額を出した。
「さようなら」
ドアのすきまから顔と片手だけを出して見送っている。
――たしかにゆっくり歩く人だな――
これが普通なのかもしれないけれど……。
地下鉄に乗ると、タンク・トップにショート・パンツの娘が熱心に文庫本を読んでいる。カバーがないのでタイトルが読める。志賀|直哉《なおや》暗夜行路=c…。娘の服装とあっていない。
――女子大の、夏休みの宿題かな――
多分そうだろう。たいていの人がカバーをかけて本を読む。読んでいる本を周囲にさとられるのは、わけもなく気がひける。けっして恥ずかしいものを読んでいるわけではないのに……。あれこれと想像されるのが厭なのだろう。
――暗夜行路≠ヘ……俺、途中で投げ出したんだな――
名作かもしれないが、とても退屈な小説だった。覚えているのは、乳房を見て「豊年だ、豊年だ」と叫ぶくだりだけ。あとはすっかり忘れた。
豊満な乳房には、たしかにそんな印象がある。あのあたりが、文章の神様なのかもしれない。
――最近は並作《なみさく》ばかり――
薫などは、並作より少し劣るだろう。豊饒《ほうじよう》な乳房はかならずしも感性の豊かな乳房ではないようだ。
志賀直哉と言われて思い出すのはむしろ小僧の神様≠ニいう小品のほうだ。たしか教科書にあった。これはよく覚えている。
秤屋《はかりや》の小僧は握《にぎ》り鮨《ずし》が食べたくてたまらない。しかし、なにぶんにも値段が高いので食べられない。電車賃を節約して、まぐろを一つだけ食べようとするが、そのお金では食べられず、こそこそと帰って行く。それを見ていた男がいた。秤を買いに行って偶然その小僧を見つけ、秤を届けさせるついでに握り鮨をたっぷり食べさせてやる。小僧は、
――なんで俺が鮨を食べたがっているってわかったんだろう。なぜおごってくれたんだろう――
と訝《いぶか》しく思い、ついには、
――あれは神様なんだ――
と考える。
全貌《ぜんぼう》を知ってみれば、なんのこともない。だが小僧の目からだけ見れば、とても不思議なことに映る。世の中にはそんなことがよくあるものだ。啓一郎が小僧の神様≠鮮明に覚えているのは、多分そのせいだろう。
麻美は少し変った。どこがどうとは言えないが、受ける感触が前とちがう。啓一郎のほうからだけながめていたのでは、なぜそうなったのかわからない。全貌を知れば、
――なーんだ、そういうことか――
きっと納得がいくにちがいない。
――男と別れたかな――
その公算も大きい。もしそうならば、どんな男と、なぜ別れたのか、知ってみたい。麻美が話すはずもあるまいが……。
下北沢の駅を降りると、小腹がすいているのに気づいて、いつものラーメン屋に入った。
――親父《おやじ》も大変だったな――
いつも子どもたちに三食きちんと食べさせること、それが育児の第一課であると考えたのは、充分に頷《うなず》ける。いかにも親父らしい。
日本人はすっかり飽食に浸ってしまって、つい忘れがちだが、動物の親たちは四六時中それを考えている。
「あれ?」
家の前にだれかがいる。保子と……そして多分志野田だろう。人影は門の中に消え、だが、玄関に灯《ひ》のつく様子はない。啓一郎は路地から路地へと一まわりして戻った。
「おかえりなさい。私も今帰ったとこ」
保子はクーラーの前で汗を拭《ぬぐ》っていた。
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煮えきらない麻美《あさみ》から、はっきりと沖縄《おきなわ》旅行の約束を取りつけたのは、九月に入ってからだった。
十月の九日に出発して四泊五日。休日と土、日が入るから休暇は二日取ればよい。気がかりなのは保子《やすこ》の結婚だが、これは、
「式の当日、ちゃんといてくれればいい」
と、父の承諾を得た。
結婚式の前後に兄がいなくて困る事情はそうたくさんはない。会社の仕事もなんとかやりくりがつくだろう。この日のために猛暑の盛りにも休日をとらなかった。
「一番いい季節らしいぞ。人は少ないし、海は夏と変らないし」
「台風が来ないかしら」
「日ごろの心がけ次第だな」
「大丈夫、あなた?」
「俺《おれ》はいいけど……」
「私はマルよ。晴れ女のほうなの」
「石垣島《いしがきじま》まで行って、あともう少し西のほうまで行くかもしれない」
「西表島《いりおもてじま》?」
「猫《ねこ》のいるところだろ」
「みなさんそれを言うのね。でも、めったに見られないんですって。山にウロウロしているのは、みんなイリオモテ野良猫《のらねこ》」
「そんなとこだな。とにかくガッチリ計画を立てるから」
「航空券は?」
「知りあいがいるから心配ない」
「落ちないかしら」
「それこそ心がけ一つだ」
「タイからの帰りは、ひどかったわ」
「あんなことはないさ。この先はもう駄目≠ネんて言いっこなしだぞ」
「言いそうだなあー」
「おい、おい」
「まあ、大丈夫なんじゃないでしょうか」
とにもかくにも麻美のほうは順調に動き始めたが、厄介《やつかい》なのは薫《かおる》のほうだ。約束もしたことだしかとれあ≠ノは週に一回くらいの割で顔を出したが、薫の機嫌《きげん》はあまりよいとは言えない。表情がけわしい。いちいち恨みっぽい。そして厭《いや》みを言う。啓一郎も気が重くなり、一週間に一度が二週間に一度になる。余計に行きづらくなる。三カ月ぶりに請求書が送られて来て、封を切れば、
――少し安いな。何カ月分だろう――
だが、ふと見なおして、
「なんだ、これ」
と驚いた。不快感がこみあげて来る。明細書もなにもつけてない。ただ五〜七月分≠ニだけ書いてある。それはいつものことなのだが、請求金額は……啓一郎は一桁《ひとけた》まちがえて読んでいた。最初の数字は四万ではない。もう一つ上だ。
「こんな馬鹿《ばか》な」
啓一郎はデスクで小さな声を漏らしたらしい。隣の席の男が顔をあげ、
「なんです?」
と聞く。
「いや、べつに。バーの勘定が高すぎる」
「不景気だから、高くつけるんでしょ」
「そういうことらしい」
口ではそう答えたが、とてもそんな単純なこととは思えない。書類を引き寄せながら思いめぐらした。
五月から七月と言えば、薫との関係がこじれ始めてからのことである。そう繁《しげ》くはかとれあ≠ヨは通っていない。全部たしあわせてもせいぜい十回くらいのものだろう。これまでにも勘定のはっきりしない傾向はあったけれど、こんなに高いことはなかった。銀座あたりの高級クラブ並みの料金である。
――書きちがいだろうか――
ちがうな。請求書に書かれた数字は、ぎくしゃくした書体ながら、
「これだけは払ってくださいね」
と、頑固《がんこ》に主張しているように見えた。
――なにを考えているんだ――
薫の真意がつかめない。お金がほしいのは事実だとしても、こんなやりかたがあるものか。
言ってみれば、請求書というのはかとれあ≠ノとって公式な文書だろう。薫が啓一郎に求めているのはおねだり≠フようなもの。つまり私的なレベルに属するもののはずだ。
――まずいんじゃないのかなあ――
賄賂《わいろ》を会計課の窓口に請求しているようなものだ。しかし、そのへんのけじめのなさが、薫の、薫らしいところかもしれない。啓一郎からはすでに借金をしている、それは棒引きにしてもらったけれど、その直後に、
「また貸してください」
とは言いにくい。お小遣いのおねだりくらいでは額が小さいし、ここはいっそ請求書で請求するのが一番だ、薫はそんなふうに考えたのだろうか。
――放《ほう》っておくか――
いったんはそう考えたが、このままにしておくと、また会社へやって来るかもしれない。気がかりでならない。所用で外出した折りに電話ボックスに入って、薫のマンションの番号を押した。六回ほどベルがなり、切ろうとしたときに気だるい声が答えた。
「中座です」
「あら、こんにちは」
「寝てたのか」
「そうでもないけど……なーに?」
「請求書を見た」
「ええ?」
「少し高すぎるんじゃないのか」
「そうお」
「四十ってことはないだろう。三カ月で」
「請求書を出すの、遅れちゃって……だからおまけしたくらいよ」
啓一郎の疑問を知っていながら、薫はとぼけている。そう聞こえる。
「冗談じゃない。どういう計算なんだ?」
「怒らないでよ。お部屋代が入っているの」
「どこの?」
「マンションよ。きまってるでしょ。お家賃の領収書、見せてあげてもいいわよ」
そんなもの、見たってしようがない。
「なんで、それを俺《おれ》が出すんだ?」
「だって中さんのために借りたのよ。お母ちゃんにはべつに住んでもらって。月に二回は来てって言ったでしょ」
「なんで……? 第一そんなには行っていない」
「そうかしら。でも、それはあなたの勝手でしょ。私は待っていたわ」
「今までこんな請求はなかったじゃないか」
「初めのときは少し助けてくれたわね。本当はもっともらっていいのよ。でも……だから言ったじゃない、請求書を出すの遅れちゃったからって……」
「どういうことだ?」
「あんまり額が大きくなるとわるいから、おまけしたって……」
テレフォン・カードの残額を示すサインが一つ減った。あと四十円分しか残っていない。
「わからない話だなあ」
「そうかしら」
「部屋代を出すって言った覚えはないぞ」
「でも仕方ないんじゃない、お部屋でいろいろあったんだから」
「その代金か」
薫は答えない。
「もし、もし。聞いているのか」
「聞いてるわよ。あのね、私、そんなに中さんに迷惑をかけるつもりないのよ。馬鹿だけど、わるい女じゃないもん。中さんのこと好きだけど、中さんが結婚するんなら、あきらめるわ。仕方ないでしょ。男の人、そうなったら追っかけたって無駄よ。こっちが傷つくばっかりで」
声は涙を帯びている。
「泣くことはないだろう」
振りあげた拳《こぶし》の持って行きようがない。
「でも、ときどきは顔を見せてよ。お店に……。それからお部屋のほうにもよ。少しずつあきらめるから」
「こわい話だな」
「なんにもこわいことないじゃない。私、へんなことしないわよ。口は堅いほうだし」
おぼろげながら薫の考えていることがわかりかけてきた。残額のサインが、また一つ減った。
薫については、以前から、
――利巧なのか、馬鹿なのか、わからんなあ――
そんな感じがあった。
たしかに学校の成績のいい人ではあるまい。だが、あなどってはいけない。奇妙に賢いところもある。男の本心なんか……とりわけ一番低俗な部分に関しては、しっかり見抜いているにちがいない。
いやしい部分をあからさまにしてしまっては、だれにとっても楽しくない。だからとぼけている。知らないのではなく、曖昧《あいまい》にしたまま帳尻《ちようじり》のほうだけはあわせる。そのあたりの読みはけっしてぬけてはいない。狙《ねら》いは鋭い。
「俺に払える金額じゃないな」
「そんなことないわよ」
「いや、本当だ」
「ボーナスなんかいっぱいもらうんだし」
「今は不景気なんだぞ」
「お願い……。あ、ちょっと、玄関に人が来たみたい。失礼するわ。ごめんなさい。待ってるわよ」
「払わないぞ」
「そんなこと言わないで。また来てね」
電話が切れた。受話器を置くと、テレフォン・カードがピイピイと音を鳴らす。
請求書に記された金額のうち一、二割が本来の飲み代だろう。それを払わないとは言わない。当然払う義務がある。払わないで「無銭飲食じゃない?」となじられたら一言もない。金銭に関して啓一郎は潔癖なほうだ。
――本来の飲み代は、正確にいくらなのか――
啓一郎の性格を見ぬいたうえで薫は故意にそれをはっきりとさせずに請求して寄こしたのだろう。
ビルに挟まれた狭い空を見あげながら考えた。残暑はきびしいが、空の色は秋を映し出している。
――一種の恋愛業かなあ――
恋愛によく似ているが、根底にちゃんと金銭の判断がある。薫は「私、へんなことしないわよ。口は堅いほうだし」と言っていた。「中さんのこと好きだけど、結婚するんなら、あきらめるわ」とも言っていた。
この言葉と請求書をつきあわせてみると、薫の考えていることが見えて来る。
結婚のことは、もういいの。口は堅いから心配しなくていいのよ。奥さんと恋人、わるくないんじゃない。そのかわりお部屋代くらいのものはいただくわ。本当はもっとたくさんもらうのが相場でしょうけど、中さんは、サラリーマンだし、私も好きなんだから、おまけしてあげる。だから高いなんて言わないでよ。中さんのほうも歩み寄ってくれなくちゃあ。この先も仲よくやりたいわね%魔スらずとも遠くはあるまい。
――馬鹿じゃないな――
ここ一、二カ月、薫がどんな態度に出るか、それを考えると心が落ちつかなかった。
この種のトラブルは、こじれて啓一郎がダメージを受けるのは当然としても、薫のほうもあまり得をしない。あこぎなことをやったあとは、やっぱり当人にも傷が残る。
薫がそれとなく提案している内容は、啓一郎がつい受け入れてしまいそうな、そんなほどのよさを含んでいる。薫にとっては、このあたりが一番得策なのかもしれない。心の問題を除外して考えれば、うまいところを狙っている。恋愛業ならば、あまり深く心の問題にこだわってはなるまい。
お部屋代くらい≠ニ言うあたりは相変らずうまい。啓一郎が絶対に出せないレベルではない。苦しいけれど必死に頑張れば、できるかもしれない。その限界である。もっと高ければ考えもしないだろう。もっと安ければ、薫としては不満だろう。
啓一郎の心が薫から離れていることも冷静に見ている。いったんは怒ってみたが、怒り続けるよりも、笑って利を求めるほうがいい。女にとって相手がひどい男でない限り、自分を抱いた男は、一種の財産なのだ。貯金通帳なのだ。
ほどよく別れておけば、男のほうにうしろめたさが残る。過度の要求をしない限り、この先も使い道がある。おねだりに応じてくれる可能性がある。男がのちに立身出世でもしようものなら、またなにか見返りがある。
それに……薫は男を必要とする体だろうし……啓一郎の若さも価値があるのかもしれない。
こんなことを全部あわせて考えてみると、薫の言っていることは、けっして不思議ではない。馬鹿じゃないなと思ったのは、そのことだ。
――出せんなあ――
若干の預金がないわけではないが、これは出すべきお金ではない。結婚をするとなれば、いくらでもお金は必要だ。それに……もっと重要な問題がある。これから結婚をしようというとき、情婦を確保しておくやつが、どこにいるものか。
いるかもしれないが、ちょっとひどすぎる。そこまで啓一郎は不道徳ではない。それでもなお薫の提案に心が傾くのは、拒否したらなにをやり出すかわからないから。その不安がある。
そして、もう一つ、この期《ご》に及んでも、まだ啓一郎は薫の妖《あや》しい体を忘れられない。
忘れられないと言うより、まだよく妖しさの実体がつかみきれない。つかめないから知りたい。誘われると、揺らめいてしまう。
――法子《のりこ》にあいたい――
法子がいてくれれば薫の誘惑にも充分勝てそうな気がした。薫と抱きあった直後は、いつも、
――もう別れよう。ろくなことがない――
そう思うのだが、一日、二日たつと気持ちがゆるんでしまう。頭の問題ではなく、体の問題としてそうなのだ。男にとって下半身に人格なし≠ニいうのは、あながち誇張ではないだろう。かなりの真実を含んでいる。ひたひたと欲望が募って来て、理性を曇らせてしまう。理性の力を薄めてしまう。
麻美は、今のところ、この点ではあまり役に立ってはくれない。麻美に会ったあとは、かえって微妙な苛立《いらだ》ちを覚えて薫に会いたくなってしまう。
法子に会えば、きっと耐えられるだろう。法子と抱きあって充足され、話しあって、
――こんなにセンスのいい女がいるんだよなあ――
メンタルな喜びをあらためて感じさせられるだろう。
つい十日ほど前に届いた手紙で秋には日本へ帰ります≠ニ伝えて寄こした。秋とは、いつごろの秋だろうか。
――ところで……あっちは、あれでいいんだろうな――
啓一郎にはもう一つ気がかりなことがある。沖縄旅行ではホテルの予約をツインの部屋でとった。まさか麻美が「厭ね」と拒んだりはするまいが……。「いいですか」と、わざわざ尋ねることではない。麻美もそれほど子どもではなかろう。
帰り道に航空会社のオフィスを訪ねた。大学時代の友人が勤めている。森井といって笹田《ささだ》の次くらいに親しい。
「なんだい、これは?」
二枚の航空券のうち一枚は中座ひろみの名義で申しこんである。
「妹だ」
妹と二人で沖縄旅行へ行く兄がいるものだろうか。
「へえ?」
「武士の情《なさけ》ってこともあるんじゃないのか」
「事故のとき少し困る」
「あるのか」
「ない。もちろんない」
「お茶でもどう?」
「すまんが、ちょっと会議がある」
「いずれお礼は……ゆっくり」
「うん。口止め料かな」
「それほどわるいことはしていない」
「うんうん。今度飲もう。おたくは大変なんだろう、円高で」
「想像以上だ。じゃ、いずれ。ありがとう」
会社へ戻ると、今度は笹田から電話がかかって来た。
「用があって都庁まで来た」
笹田の声はよく通る。機械を通ると、さらによく聞こえる。
「用はすんだのか」
「ほぼすんだ。どう、久しぶりに?」
「飯か」
「酒もだ」
この前会ったのは井《い》の頭《かしら》公園に行ったとき、近くの家の前庭にポピーが咲き乱れていた。
「いいけど」
「何時ならいい?」
「そう……六時半だな」
「烏森《からすもり》のおかめ≠ノしよう」
「烏森? ずいぶん前に行った店だよな」
「安いからいい」
「路地に入って、お稲荷《いなり》さんの少し先だな」
「そう、そう」
「じゃあ、そのとき」
電話を切ると、布崎《ぬのざき》課長が、
「お楽しみだな」
と声をかける。
「野暮用ですよ」
「烏森なんかで飲むのか」
「友だちが知ってる店があって」
「酒は安いのがいい」
「はあ」
五時すぎに長い電話がはいり、急いで烏森へ駈《か》けつけたときにはもうすでに笹田はビールをあけ、お銚子《ちようし》にかかっていた。
カウンターだけの狭い店。ママは料亭の仲居さんあがり。たった一人で切りまわしている。
「コップ一ぱい分だけビールを残しておいた。もっと飲むか、ビールを」
「いや、それでいい。ビールは肥《ふと》るからな」
「そうでもない。よくそう言うけど、ほかのアルコールに比べてとくにひどいことはないんだ。ただ胃袋を刺激して食欲を増進させるんだ。それで肥る。ビールのせいじゃない。マッチ一本火事のもと≠ニおんなじだ」
「なんだ、それは」
「知らんのか、標語を」
「それは知ってる」
「マッチの不始末で起きる火事は少ない。どっちかって言えば、タバコ一本火事のもと≠セろう。責任のありかが転嫁《てんか》されている」
グラスにいっぱい注《つ》いでも、まだ少しびんに残っている。それを笹田のグラスに注ぎ、
「お疲れさん」
「おたがいに」
と飲み干した。
「どうだ?」
「景気はわるい」
「それは新聞を読んでいればわかる。聞きたいのは個人生活のほうだ。女難の相がでていたぞ」
「このごろは人相見もやるのか」
「なに、たいていの男は女難の相が出ているものなんだ。女房も女のうちだし、女にもてずに困っているのも、女難だ」
「へんな理屈だな。今のところ収まっている。わからんね、女というものは」
「結婚すると少しわかるけどな。そのときはもう遅いんだ」
「女が結婚をどう考えているか、それがわからん。したいのか、したくないのか」
啓一郎は小声で言った。ママはむこうのすみでじゃがいもの煮つけを作っている。多分話を聞いているだろうけれど……。
「千倉《ちくら》さんに聞けばいい」
「彼女には主義があるからな」
「そりゃ、いい結婚なら、したいだろうけど、現実にはいい結婚は少ないからな。生きていくだけなら、なんとかできるし」
「モラトリアム・ウーマン……」
「なんだ?」
「俺《おれ》が発明した現代用語だ」
「ふーん?」
「女は結婚すると、自分の人生が決まってしまうから、それを決めずにおく。あれか、これか≠決めずあれも、これも≠チて感じ。いいところだけつまんで生きている。このごろはやってんじゃないのか、女の人たちのあいだで」
「例の彼女のことか、美人の……」
「まあ、そうだ」
「花の命が長くなったんだよ。三十代でも結構きれいだもん。人間的には、三十代のほうがチャーミングになっているはずだし……女も売り急ぐ必要がなくなった」
話している笹田の前にじゃがいもの小鉢が出る。笹田が右手の中指と人差指を曲げてカウンターをトントンと叩《たた》く。さっきもそんな動作をやっていた。
ママが頷《うなず》いて笑う。
「なんのおまじないだ」
「香港《ホンコン》へ行ったんだろ。覚えて来なかったのか」
「知らん」
「ママもこのあいだ行ってたんだ。ボディ・ランゲージ。口の中にものが入っているとき、サービスをうけてもお礼が言えないだろ。香港じゃこれがありがとう≠フ合図なんだ」
「なるほど」
小鉢をもらって、啓一郎も同じ仕ぐさをまねてみた。
――話はどこまで行ったんだっけ――
しかし、そう筋道のある話をしていたわけではない。
「女はクリスマス・ケーキってのは、どうなんだ」
「二十四をすぎたら、もう駄目《だめ》ってやつか」
「そう」
「そういう面もあるだろうけど、ただのジョークみたいなもんだろ、あれは」
熱いじゃがいもをフウフウ吹きながら口に運ぶ。狭い店だから冷房がよく効いていて熱い料理がうまい。
「子どもって、いいものか?」
「なんで、急に?」
「いや、べつに。ただ……」
啓一郎の中では思考が繋《つな》がっている。
「結婚してなにがいいかって聞かれて子どもができたこと≠チて答えたことがあるよ」
「そんなにいいのか」
啓一郎は笹田の答を聞いて少し驚いた。笹田はけっして子煩悩《こぼんのう》のタイプではない。高校の教師をやりながら広くいろいろのことに興味を持っている。ディレッタントに子煩悩はそぐわない。そんな気がする。
「子どもって、そんなにいいかなあ」
「ただし、だ」
笹田は啓一郎の疑問のありかに気づいているらしい。
「結婚してなにがわるいかと聞かれても、やっぱり子どもができたこと≠チて答えるんだな」
「なるほど。そういうことか」
これなら合点《がてん》がいく。笹田の答は、やっぱり一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない。
「ほかのことはたかがしれている。俺《おれ》が死んだあとまで価値が残ることなんかありゃせん。その点、命はすごいからな。無限の可能性を持っている。子孫が残っているのは、なにはともあれ、俺が生きていたっていう、なによりの証拠だもん」
「わるいほうは?」
「同じことよ。この先、俺自身どんなわるいことをしても、自分のやったことなら責任の取りようがあるもん。子どものやったことはそうはいかん。自分のコントロールの外にありながら、もとをただせば、みんな俺から始まったことになるんだ。これはつらいぜ。考えようによっては最悪だ」
「それはわかる。子どものない夫婦って、どう思う?」
「彼女がまずいのか」
まだ麻美を笹田に紹介してはいない。
「一般論として聞くんだ」
「一般論はあんまり意味がない。夫婦のことはな。俺の後輩で、結婚前にフィアンセの体が弱くて心配していたやつがいた。子どもがない夫婦って駄目だろうかって……」
「どうだった?」
「うん。親分大笑い。ハネムーン・ベビィができちゃって。今は二人子どもがいるんじゃないのか」
「産めないんじゃなくて、ほしくないってのは……?」
「そりゃあ、さっきの話の続きで言えば、モラトリアム・ワイフだな。モラトリアムってのは自分を決定的になにかに帰属させないわけだろ。いつまでも可能性を残しておく。それがナウいんだ」
「うん」
「結婚をしただけなら、まだフワフワしていられるけど、女は子どもを産んだら、もういやおうなしだ。完全に母という立場に帰属させられてしまう。中座が惚《ほ》れてる美女は、自分のことよく知っているよ。根っからのモラトリアム人間なんだ。結婚を延ばして来たのもそのせいだし、結婚しても、しばらくはモラトリアム・ワイフでいたいんだ、きっと」
「そうかもしれん」
この店のメニューは、お惣菜《そうざい》のたぐいばかりである。かますの塩焼きと冷やっこを注文した。
そのほかに、するめと人参《にんじん》を細く糸のように切って、みりん醤油《じようゆ》で漬けたものが出る。本日のサービス品。これが清酒によくあう。なまの人参は苦手だが、こうして食べるとなかなかうまい。カルシウムもビタミンも含まれていて、きっと健康食品にちがいない。
「十月に沖縄へ行く」
「仕事?」
「いや、遊びで」
「会社の連中と?」
「そうじゃない」
「ああ、そうか……。いいじゃないか」
「石垣島《いしがきじま》から西表島《いりおもてじま》あたりまで。できれば、もっと西まで行ってみたいんだが……。笹田はどこまで行ってるんだ?」
「沖縄はそうくわしくはないんだ。本島だけ。それも大分前のことだから。結構高いしな」
「日本の先っぽよりロサンジェルスあたりのほうが、なじみが深いんじゃないのか、このごろは」
「それに沖縄は、食い物がちょっとね」
「まずいのか」
「魚がよくない」
「肉が安いんだろ」
「しかし、肉は、東京の肉屋で買って来て、フライパンで焼けば食える」
銚子を四本並べたところで啓一郎は洗面所に立った。この洗面所には出入口が二つあって、もう一つのドアは、背中あわせの飲み屋へ続いている。
――尾行されたときには、ここへ来ればいいんだ――
などと、役にも立たない思案をめぐらした。昨夜見たテレビ・ドラマにそんなシーンがあったからだろう。
「このトイレは、刑事に追われたときにいい」
おしぼりで手を拭《ぬぐ》いながらつぶやくと、笹田が、
「みんながそれを考える。トイレってところは、なんか考えちゃうんだよな、たいてい」
と笑う。
「匂《にお》いがいいんだ、脳みそに」
「厭《いや》ね」
ママが近づいて来て銚子を取る。
「匂いを消すのに必死なのよ。近いから」
「かわやの分別、風呂場《ふろば》の無分別、そう言うんだ」
笹田がママのお酌《しやく》を受けながら言った。
「へえー?」
「トイレではいい知恵が出るんだ。あの問題はどう解こうか。あの女とは別れたほうがいいかどうか……。そこへ行くと、風呂場はよくない。無分別を起こして湯女《ゆな》に手を出したりする。たいした知恵は湧《わ》かない」
「アルキメデスがいるんじゃないか」
「あれは作り話だろ」
表戸が開き、数人の客が外に立ってのぞいている。
「出ようか」
ちょうど銚子もからになっていた。
「いいよ」
「どうもすみません」
ママはエプロンで手を拭いながら見送りに出る。おかめ≠ニいう店名はこのママの顔からだろう。
「安い店だな」
「うん。信じられないほど安い。かますなんか近所の魚屋で買ってももっと高いんじゃないのか」
「知らんけど、そんな感じだ」
夜になって風が涼しくなった。半円の月が天にかかっている。
「上弦の月」
「上弦たって、ほとんどまっすぐに立ってるじゃないか」
「西半分がひかっているのが上弦だろ。これからだんだんふくらんで行くはずだ」
「そうだったっけ。学校の先生の言うことを信じよう。日比谷《ひびや》のほうへでも行こうか」
「よかろう」
交差点を渡り公会堂の脇《わき》から公園に入った。
「少し困っていることがあってな」
「ほう?」
「酒場の女性に深入りしてしまった」
「うん」
「別れようとしているんだが……」
「むこうが惚《ほ》れてんだな」
「そうでもないだろ。少し金がかかりそうだ」
「いくら?」
「前に百万ほど融通した。名目は貸した≠アとになっているけど、返って来ない」
「大金だな。しかし、そういう金って返って来ないものなんだろ、たいてい」
「それはあきらめてる。俺としちゃそれを棒引きにすりゃいいと思ったんだが……」
「もっと寄こせって……」
「まあ、そうだろうなあ」
「たちがわるいぞ」
「そんなにわるい女じゃないんだ。ゆすられてるわけじゃない。泣きつかれてるって感じかな」
「どうしろって言ってんだ?」
「部屋代を払ってくれって……」
「借りてやったのか、部屋を」
「そういうわけでもないんだけど」
「わからんな」
薫との関係を説明するのはむつかしい。あらすじだけを述べると、啓一郎一人が馬鹿《ばか》なことをやっているように見えるだろう。薫のやりかた……つまり、通らない理屈をいつのまにか通してしまうあの方法、あれを知るためにはその場にいなければいけない。あの表情を見なければわからない。それでも啓一郎は、かいつまんで目下の情況を伝えた。
「兵藤《ひようどう》を知ってるな?」
笹田がベンチに腰をおろし、啓一郎がその隣にすわった。
「あんたの友だち?」
「そう」
「名前は聞いたことがあるけど。なにをしている人だっけ」
「渋谷署《しぶやしよ》に勤めている。経済犯が専門らしいけど」
「へえー」
「やつをつれて飲みに行こうか。その……かとれあ≠ニかいう店に」
「で、どうする?」
「なにもしない。ただ中座の友だちだって……。名刺だけ置いて帰って来る。デモンストレーションだな」
「おだやかじゃない」
「客として行くだけだよ。むこうはうしろにどういう連中がついているかわからんだろ」
「そういう感じとも少しちがうんだがな」
「まだ惚れてんのか、少し」
「そんなことは……ない」
「近々会うんだ、兵藤に。行ってみるかなあ、兵藤と一緒に」
広い芝生の中に、ところどころ花壇が切ってある。どの花壇にも花が密生しているが、灯《ひ》が暗いので、花の色がはっきりと見えない。風向きが変り、噴水の水が飛んで来る。また立ちあがって歩いた。
「しばらくは放っとくつもりなんだ」
「わからん。教師がくわしいジャンルじゃない」
「まあ、そうだな。あの研究はどうなった」
ベンチはほとんど男女のペアーで埋まっている。
「どれ?」
「キスとセックスの関係」
口づけを交わした男女はどのくらいの確率で肉体関係にまで到達するものか。笹田は知人や教え子に協力してもらって、奇妙な統計を作っている。
「まだサンプルの数が足りない。二十代と三十代で、それぞれ千くらいないとむつかしい」
「今はどのくらいだ」
「二十代で六百と少し。三十代で二百五十くらいだ」
「結果は?」
「二十代で七十八パーセント。三十代で八十六パーセント」
「三十代のほうが大分多いんだな」
「そりゃそうだろう。三十代はなかなかキスだけでは終わらないさ」
ベンチの二人連れは目下抱擁のまっ最中。二十代だろうか、三十代だろうか。
「わざわざ光の中で抱きあってるのがいる。どういう心理なんだ?」
笹田が首をひねった。言われてみれば、たしかにその通り。たいていは光から陰へと移る境目のあたりに陣取っているけれど、故意に明るいところにすわって抱きあっている二人連れも、けっしてまれではない。
「パフォーマンス」
「そのつもりらしい」
繁みの奥にレストランが灯をともしている。
「コーヒーでも飲もうか、野郎同士で」
「うん」
屋外のテラスもあるが、体が汗ばんでいる。冷房のきいたガラス戸の中にすわった。
「中座もいそがしいな。千倉さんはどうする?」
「古い関係だからなあ。いつか別れるだろうって、覚悟はできている」
「千倉さんのほうも?」
「うん」
「やけに自信があるな」
「それが彼女の美意識なんだ」
「美意識ねえ。なんであんたたちは一緒にならなかったんだ? わるい人じゃないのに」
「彼女の方針だ。両親があまりいい結婚ではなかったんだ。親父《おやじ》さんがいろいろ問題のある人で、お袋さんの苦労ばかり見て育った。十九のときに絶対に結婚はしない。一人で生きて行く≠サう決心したんだな。好きな人ができても、いつでも別れられる覚悟でつきあう。そういう方法で、そのときそのときの純粋さを貫こう。それが彼女の思想なんだ」
「わかるけど……さびしくないのかな、女として」
「さびしさくらい覚悟してると思うよ、彼女は。俺、思うんだけど……彼女は男なんだ、ある部分は。生理的にはまちがいなく女だよ。かなり上等な女だ。女らしい感受性も充分に持っている。だけど、前頭葉の働きは男なんだ。女だから一つの愛にしがみつくだろうって、そう杓子定規《しやくしじようぎ》に考えるのは古いぜ。どんどん変っている。男に置き替えてみれば、そう不思議はない」
「うん?」
「外国で仕事をしていて、たまに日本に帰って来る。そこに気分よく自分を迎えてくれる異性がいる。なつかしさもあるし愛情のようなものもある。その人を相手に心と肉体の渇望《かつぼう》をいやしてまた外国へ戻って行く。男ならちっとも不思議じゃない」
「それは、そうだが……」
「もちろんそう簡単に割り切れない部分もあるとは思うけどさ。あんまりめめしく考えるのは、かえって彼女のためによくないんだ」
「それならいいけど」
コーヒーを飲み終え、また公園の暗がりを歩いた。
「女にだって当然セックスの欲望があるわけだろ」
啓一郎がつぶやく。
「そりゃあるさ」
「でも、俺たち、ちょっと忘れてるよな。正面きって尋ねられれば女にも欲望があるにきまっている≠チて答えるけど、どっか忘れてるところがある」
「個人差があるから」
「そう、それなんだ。たしかに欲望の薄い人もいる。だから、それが普通かな、なんて思ったりする。英雄、色を好む≠チて女にも言えるんじゃないのか。エネルギッシュに仕事のできる女は、やっぱり男にも関心が強い。歴史的に見て、女が英雄になることが少なかったから、目立たないけど、女がどんどん社会的に進出して来ると、少しずつそれが見えて来るんじゃないかな」
法子を抱いたあとにはいつもそのことを思った。法子はとても知的で、上品な女だが、ベッドの仕ぐさには好色な意志が感じられる。
「それはそうだろう。リビドーは同じだもん。仕事だって、セックスだって」
「俺《おれ》の感想……。セックスってものは、その最中はどんなに淫《みだ》らでもかまわないけど、前後には凜《りん》としたところがあったほうがいい。清潔感があるし、かえって興奮する。女の人には特にそうお願いしたいな。学校で……将来の、よき男女関係のために教えておいてほしいくらいだよ」
法子はそのあたりがみごとなほど垢《あか》ぬけている。
「数学の教師には無理だな。どうする?」
二人はお濠寄《ほりよ》りの門に来ていた。
「疲れた」
「じゃあ、今日のところは、このへんで別れるか」
「よかろう」
「景気の見通しはどうだ?」
「いいことはなにもない。まごまごしていると、これが普通な状態になるね。日本経済なんて、その程度のものだろ。体質のもろいところが、いっぱいあるもん」
数寄屋橋《すきやばし》の交差点に近づいたとき、ちょうど十時になった。ビルの壁面に据《す》えられた大時計が音楽を奏《かな》で、そのまま上に滑っていく。あとはポッカリと穴があき、中から金色の人形たちが現われて鉄琴を叩《たた》く。通行人が足を止めてながめている。
「知らなかった」
「見るのは初めてだ」
二分ほど音楽が続き、人形たちは穴の中へ帰り、時計が滑り降りて来た。
「たしかロマンチック街道にあった。ローテンブルクかな」
笹田はいろいろなところへ行っている。商売で行く旅より、趣味で行く旅のほうが当然のことながら多彩である。
「そう?」
「時間が来ると、市役所の上のほうの窓が開いて、将軍と老市長の人形が出て来るんだ。老市長は大きなコップを傾けてワインを飲む。昔、ローテンブルクが敵の将軍に攻められたとき、市長がワインを一気に飲んで見せることによって町を救ったんだ。町の名物になっている」
「この手のからくりは歴史が古いほうが味がある」
「そう。現代の技術を駆使すれば、どんな複雑な人形でも動かせるからな。昔のからくりの、少しぎこちないほうが風格がある」
地下鉄の階段を降りたところで別れた。啓一郎は新宿行きへ。|霞ケ関《かすみがせき》、国会議事堂前、赤坂見附《あかさかみつけ》……。
――このまま乗っていって四谷三丁目へ行こうか――
薫の様子を思い浮かべたが、かとれあ≠ヨ行ってみても楽しいことはあるまい。気が重い。
大きな決心でもするようにポンと赤坂見附で降り、むかい側に来たオレンジ色の車両に乗った。ドアが閉まる。もう十日以上もかとれあ≠ヨ行っていない。銀座線に乗り換えてしまったら四谷は遠い。行こうとすれば、ひどい遠まわりになる。青山一丁目、外苑前《がいえんまえ》、表参道……。
――ここから麻美のマンションは遠くない――
そう思ううちに、ここでもドアが閉まった。
――どの段階で法子に話そうか――
麻美とのことを、である。秋には東京に来ると書いて寄こしたが、沖縄へ行っている留守では不都合だ。手紙を書いておいたほうがよいかもしれない。
――国際電話が手っ取り早くていいかな――
会えば、また抱きあうことになるだろう。法子は、それが当然のことと思っているだろう。啓一郎としても、いつだって法子を抱きたい。久しぶりに抱きあうときは、なにものにも替えがたいほどの喜びを覚える。いつもそうだった。
だが、抱きあったあとで別れ話を告げるのは、非礼ではあるまいか。これまでの二人の親しさを考えれば、ほんの少しでもあざとい印象を残したくない。
抱きあう前に告げる……。
――うまいタイミングがあるかな――
法子は案外最後にもう一度抱きあってから別れることを望むかもしれない。
――先走って、今、考えることもないか――
麻美とだってまだはっきりとした約束を交わしたわけではない。ただ沖縄へ行くだけ。麻美は「ルンルン」と軽《かろ》やかに告げて笑っていた。
渋谷《しぶや》から下北沢まで車両に冷房がきいているので助かる。やはりまだ暑い。ネクタイをゆるめ、首の汗を拭《ぬぐ》った。
家に帰り着くと、玄関に男の靴がある。リビングルームから話し声が聞こえる。志野田が来ているらしい。
「こんばんは」
「お邪魔してます。ようやく家が決まりまして……」
保子と二人で、このあいだから新居となるマンションを捜していた。
「どこ?」
「広尾よ」
「へえー、どのへん」
「有栖川《ありすがわ》公園の反対側。広尾商店街のほう。これが駅で……」
とマッチやタバコを使って地図を作る。麻美のマンションの前を通って行く道ではあるまいか。
「中古で、2LDK」
「場所のわりには家賃が安いものですから」
志野田が弁解でもするように言う。
「それがいいんだ。毎月の出費がかさむのはつらい」
父の持論である。
「毎月の、きまった生活費で赤字を出しちゃいかん。たまたま贅沢《ぜいたく》をして、それが赤字になるのは、まだ許せるがな」
と続く。啓一郎が単身で博多《はかた》に行ったときにもそれをいわれた。啓一郎の見たところ、今夜の父は上機嫌《じようきげん》のようだ。息子が一人増えたような気分でいるのかもしれない。
――娘も一人増やしましょうか――
そんなことを考えてしまう。
「お父さんは結婚したとき、どこに住んでたの」
「立川《たちかわ》の社宅だ。啓一郎もそこで生まれた」
「新婚旅行はどこへ行ったのかしら」
ひろみが首をすくめながら尋ねる。これは啓一郎も知らないことだ。
「熱海《あたみ》へ行った」
「熱海?」
「終戦直後のひどい時期だからな。熱海でも行ければいいほうだった。たしか米を持って行ったんじゃないかな」
「ムードないのね」
「今とはちがう」
「お母さんきれいだった?」
「さあ、どうかな」
父は首を揺すって笑ってから、
「ひろみのほうが似てるな」
と答える。
「じゃあブスね」
と保子が言えば、ひろみがすかさず、
「かなりいいんじゃない」
「ひろみはぜんぜん覚えていないのか」
「仏壇の写真くらい。あとね、どっかのデパート。大きな人形がほしいって泣いたの。買ってくれなかったわ」
「保子は知ってるんだろ」
「ぼんやりとね。ひょっとこみたいな口をするくせがあったでしょ。困ったときなんか」
啓一郎が口をとがらせ、
「あった、あった。美人のほうじゃないの、どっちかって言えば。ちょっと竹久夢二調で」
「病気をしてたからな。昔はもっとぽっちゃりしていた。親になったら若死をしちゃいかん。保子もせいぜい体に気をつけることだ。弘《ひろし》君もな」
「はい。気をつけます」
「お茶いれます?」
保子がだれに聞くともなく尋ねた。
「いえ、もう遅いから失礼します」
志野田もだれに言うともなく答えて腰をあげる。
「うん、頼む」
啓一郎が茶わんを顎《あご》でさしたが、保子は首を振り、
「あとでね」
と玄関へ送っていく。玄関の戸が開き、閉まり、保子が部屋に戻って来るまではしばらく時間がかかった。
「やっぱりお茶いる?」
「いる」
父は自室に引きこもり、啓一郎とひろみが茶わんを突き出す。
「ひろみまで? 世話がやけるんだからあ。出がらしでいいでしょ」
ポットから急須《きゆうす》にお湯を注《つ》いだ。
「当てつけ賃よ」
保子は三つの茶わんにお茶をいれながら、
「弘さんて、ひどいのよ」
と啓一郎に言う。
「なんだ?」
「男はしまった≠チて思うものなんですって」
「ふーん」
「結婚がきまるでしょ。どんなに望んでいた結婚でも、いよいよこれできまったんだなとなると、一瞬しまった≠チて思うんですって」
「わりと言うじゃない。マジメちゃんにしては」
「そういう心境はあるかもしれんな。当の相手が不足ってわけじゃないんだ。一つを選ぶってことは、その他の可能性をみんなあきらめるってことだろ。実感が出てるよ。わけもなくしまった≠チて思うかもしれん」
「女だって同じじゃない?」
「女の考えは、自分たちで考えろ。理屈じゃない。そのときしまった≠ニ思うかどうか、そういうことだよ。保子は思わなかった?」
「あんまり。そんなこと思ってるひま、ないわよ。いそがしくて」
「なんか手伝ってやろうか」
「今んとこ、ないみたい。それより讃美歌《さんびか》、ちゃんと歌える? キリスト教なのよ、式は」
「いや、知らん」
「うちのほう、だれも知らないんじゃないかしら」
「じゃあ、みんなで練習会でもやるか」
「そう言えば、お父さんが言ってたわよ。今度の金曜か土曜、夜あいてるかって。お兄ちゃんどう?」
「なにするんだ?」
「最後の晩餐《ばんさん》じゃないの。ラシーヌ≠ナお肉を食べ、そのあとトランプでもするんでしょ」
「土曜のほうがいい。保子は?」
「私は、どっちでも」
「じゃあ土曜にしよう。親父《おやじ》に言っておいて」
ラシーヌ≠ヘ駅の北口通りにある古いレストラン。赤煉瓦《あかれんが》に蔦《つた》がからんでいる。しばらく行っていないが、いっときはラシーヌ≠ナ肉を食べるのが中座家の最高の贅沢だった。
「さて、寝るか」
十一時をまわっている。東京とパリの時差は九時間。むこうのほうが遅れるのだから……今は、午後の二時過ぎ。法子は自宅にいるかどうか。手帳を取り出し、いくつもの番号をまわすと、
「アロー」
日本語にない響きが聞こえて来た。
「もし、もし、中座です」
「あら。東京からよね」
「もちろん。いないかと思ったんだが」
「ええ、いましがた戻ったとこ。ご飯をたべてんの。日本は……エート、夜中ね」
啓一郎は法子の住まいを知らない。パリへは行ったことがあるけれど、そのとき法子はいなかった。古いアパート。モンマルトルにそう遠くないところらしいが……。
「十一時過ぎ」
「そうね。こっちの三越《みつこし》で菊の展示会をやっていて、ちょうど思い出していたとこ」
「どう、ビジネスは」
「まだね。ようやくバカンスから人が戻って来たところだから。あんまりいい景気じゃないみたいよ、下半期も」
「いつ来る?」
「まだきめてないわ」
「そう。俺《おれ》は十月のなかばごろちょっと東京を留守にしているから」
「出張?」
「旅へ出てる」
「どこ? 外国?」
「ちがう。少し骨休みをしようかと思って。十月九日から十三日までだ」
「それよりはあとね。きまったら連絡します」
「うん」
「お変りもなく?」
お変りの内容は、なにを考えているのだろうか。変りつつあることもある。
「いよいよ保子が結婚をする」
「そうでしたわね。なにかプレゼントするわ」
「そこまで気を遣ってくれなくていいよ。こっちも不景気でね。円高が深刻だよ」
「そうみたい」
少時《しばらく》、東京とパリの様子を語りあった。
「暑いんでしょ、まだ」
「暑いね。じゃあ、すっかり涼しくなったころに……」
「ええ。そうします。さよなら。お電話うれしかったわ」
「さよなら」
電話を切り、細く息を吐いた。
――お電話、うれしかったわ……か――
法子はこんな表現をけっして忘れない。さりげない言いかただが、ここちよい情感が含まれている。
部屋に入って青い表紙のノートを引き出した。法子の欄を読む。いくつもの歴史が記されている。体の特徴も浮かんで来る。内奥《ないおう》には歓喜のポイントが二つ潜んでいる。一つは浅く、一つは深く……。
薫のページを見た。ここには書き加えるべきことがいくつかある。新しい情報があるはずだ。だが、今夜はわずらわしい。いずれこの欄は閉じることになるだろう。
麻美のページを開いた。それを枕《まくら》の脇《わき》に置き、洗面所へ立って歯を磨いた。リビングルームでは保子とひろみがまだなにかを話しあって、笑っている。啓一郎はベッドに潜り込んで、しばらくは麻美のことを思った。
あわただしい毎日が続いた。
会社の仕事もいそがしいが、家に帰ると、雰囲気がざわついている。家族の一員が結婚するとなると、やはり大事である。保子ばかりか、みんなが落ち着かない。
結婚式を一週間後にひかえた土曜日の夕刻、
「さて、行くかな」
父が眼鏡のくもりを拭いながらリビングルームをのぞいた。
今夜は家族四人でラシーヌ≠ヨ行って会食をする予定になっている。ひろみが名づけて最後の晩餐《ばんさん》。ほかの家では、こんなときどうするものなのか。なにかしら送別会のような儀式をやらなければ恰好《かつこう》がつかない。近所の店だから服装は普段着と変らない。ひろみが最後に出て玄関の鍵《かぎ》をかけた。父と保子が先に立って歩き、啓一郎はひろみを待って肩を並べた。
「親父、どうだ?」
本当はひどくさびしいのではあるまいか。啓一郎の見たところ、父は子どもたちの結婚にあまり熱心ではなかった。
「自分で納得のいくのを一つ見つければいいんだ」
それが口ぐせだったけれど、それだけではないだろう。一人減り、二人減り、やがてみんないなくなる。父の心の中に何パーセントかは、子どもたちを長くそばに置いておきたいと、そんな願望があったにちがいない。若い頃《ころ》の父は大切な決断に私情を挟むことの少ない人だった。年を取って少し甘くなったような気もする。それとも啓一郎のほうが大人になって、人の心が見えるようになったせいかもしれない。
「変んないんじゃない?」
「少しはさびしいんだろうな」
「お姉ちゃん、どうせちょいちょい帰って来るわよ」
父と保子はなにを話しているのか、笑い声が聞こえる。
「女は面食いのほうが、エゴイストじゃないんですって」
ひろみが突然おかしなことを言い出す。どうせどこかで聞き齧《かじ》って来た屁理屈《へりくつ》だろう。
「どうして?」
「自分だけの幸福のためなら、あんまりいい男じゃないほうがいいわよ、夫は。浮気はしないし、奥さんに親切だし、働き者だし」
「そうとは限らんだろう」
「でも一般的にはそうよ。いい男は油断がならないわ」
「それで?」
「だから自分の幸福のためだけなら、顔はひどくても誠実な人のほうがいいの。でも、娘がサ、お父さんの顔、もろに受けついじゃうでしょ。あんまりひどくちゃ大変じゃない。だから家族のことを思えば、少し危険でも、ちょっとは見られるのを選ばなくちゃいけないの。そのほうがエゴイストじゃないの」
「世の中は、そう簡単にはいかんさ」
「でも娘って、本当にお父さんによく似ちゃうものよ」
「まあな」
医学的に説明のできることなのだろうか。奥さんにお会いして、とてもきれいで、
――娘さんはどんなだろう――
胸を弾ませていると、お父さんのほうにそっくりで……そんなケースはだれしも繁《しげ》く体験しているはずだ。
「お母さんになる人は少し考えてくれなきゃ」
「顔じゃないよ、心だよ、人間は」
自嘲気味《じちようぎみ》につぶやいた。笹田がそばで聞いていたら「お前にそんなこと言う資格あるのかよ」と笑い出すだろう。
たしかに啓一郎は面食いのほうだろう。男はたいてい面食いだが、啓一郎は水準よりちょっとそのけが濃い。自覚している。だが、その一方で、
――大切なのは、人格のほうだ――
本気でそう思っているところもある。この矛盾は自分でもうまく整理がつかない。多分、理性の判断としては、人柄《ひとがら》のほうに高い点数を置くだろう。だが、欲望のほうがフラフラと美形のほうへ傾く。もともと人間とは、皮袋の中に矛盾を詰めこんだような存在なんだ。簡単には割り切れない。
――親父も同じかな――
頭では子どもたちを、ほどよい時期に結婚させなければなるまいと考えながら、なんとなく引き延ばして来た。そんな気配が少し見える。
「お兄ちゃん、本気でそう思ってる?」
「なに? ああ、顔じゃないよ心だよってことか」
「そう」
「本気で思ってる部分もあるな。要はバランスだよ。どれをとっても中の上くらいが一番いい」
「特徴がないじゃない」
「長い一生を考えると、あんまり特徴があるってのもつらいぜ」
妹を相手にしていると、ついつい月並みの意見になってしまう。
「言えるわねえ」
話しているうちにラシーヌ≠ノ着いた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
予約をしておいたので席が取ってある。銀色の鉄板を前にして椅子《いす》が四つコ≠フ字型に並べてある。この店ではコックが目の前で調理してくれる。
父と保子が正面にすわり、啓一郎とひろみが、脇の席についた。
「久しぶりねえ。今年初めてかしら」
「ビールにするか、それともワインがいいか」
「とりあえずビールで祝盃《しゆくはい》をあげましょう」
「じゃあ、そうしてくれ。みんな好きなものを言いな」
大きなメニューをながめながら肉を選んだ。
「サーロインの……百五十グラム」
「太るわよ。私はね、フィレの百五十」
「肉って脂がなきゃ、おいしくないじゃない」
ほかに車えび、もやし、なす、椎茸《しいたけ》などを選んで注文する。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
主人が長い帽子をかぶって現われた。昔は役者志望の演劇青年だったとか。店名をラシーヌ≠ニしたのは、おそらくその名残りだろう。
役者志望と言えば、この人は立居ふるまいが形になっている。客の前で肉を焼いてみせることにだって、なにほどかの演劇的な要素が含まれているだろう。鉄板を熱して、まずトーストを作る。フランス・パンを一センチほどの厚さに切り、バターをたっぷりと塗りつけて焼く。パンの中にまでバターが染《し》みこみ、狐色《きつねいろ》に焼ける。これがなかなかうまい。
ただし、いい気になって食べていると、あとのご馳走《ちそう》が食べられない。途中で腹がふくれてしまう。それがくやしいと言って、ひろみはついこのあいだまで口をとがらせていた。
「まあ、乾盃《かんぱい》だな。おめでとう。保子はくれぐれも健康に留意して頑張ってくれたまえ」
「おめでとう」
「おめでとうございます」
「どうーも。今後ともよろしく」
グラスをあげて口に運ぶ。
「ご結婚ですか」
「うん。儀式ばることもないんだが、みんなで一緒に食事でもしておこうと思って」
「おっしゃってくださればよろしいのに。シャンパンを用意させますよ」
キッチンのほうへ走って行く。
「ご結婚なんですって。おめでとうございます」
女主人も顔を出す。表情の動きが大きい。この人も女優志望だったらしい。
「恥ずかしいわ」
「なにも恥ずかしいことなんかないでしょうに。お父様はおさびしいでしょうけど……。シャンパン、冷やすのに少し時間がかかっちゃうけど……」
と、後半は主人のほうに体を向けて言う。この人は、台詞《せりふ》ごとに体を相手に正対させて言う。
「とにかく大至急で冷やしてくれ」
「ええ。そうします。ちょっと失礼」
スカートをひるがえして芝居の退場のように飛んで行く。煉瓦造《れんがづく》りの店内は、舞台の酒蔵みたいな印象がなくもない。
「お式はいつですか」
「来週の土曜日です」
「じゃあ、おいそがしいですね」
鉄板の上に車えびが四匹整列した。主人はナイフとフォークを使って器用に車えびの殻《から》をはぐ。白い身はワインをかけて焼く。殻は頭と一緒につぶしながらあぶる。
「おいしいわ、やっぱり」
入学、卒業、誕生日、家族の祝いごとには、たいていこの店を利用した。次はいつ来ることになるのか。
「もう芝居はやらないんですか」
「ええ。すっかり」
主人は照れるように笑う。
「演劇教育って、もっとあってもいいんじゃないかな」
啓一郎がポツンとつぶやいた。
「そうでしょうか」
「役者になる人だけじゃなく、普通の人だって体でいろいろなことを表現しなくちゃいけないケースって結構あるでしょ。どうやったら相手に効果的な印象を与えられるか……」
「はあ?」
「発声を習ったり、身のこなしかたを習ったり、案外大切なことだと思うな。学校の先生なんか、教職課程で必修にしておいたらいい。だって、教壇に立って、どうやって生徒を引きつけるか、あれは演技のひとつだもん」
「それは言えるかもしれませんね」
「魅力的な先生が来ると、わくわくする」
キッチンのドアが開き、バスケットに入ったシャンパンとグラスが届いた。
「どうぞ。お祝いに」
「ありがとう。じゃあ、ご主人も、奥さんもごいっしょに……」
六つのグラスに白い泡を立たせて、
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
と飲み干す。しばらくは保子の周辺でこんな儀式が何度も何度もくり返されるにちがいない。
「先生って大事よね」
保子が話をもとに戻す。
「うん?」
「英語の先生がすてきだっていうだけで、英語が好きになり、一生それを職業にしたりすることもあるわけでしょ」
「数学の先生なんか、できるだけチャーミングなほうがいい。それでなくても厭《いや》な数学が、先生がひどいとますますきらいになる」
「笹田さんは、どうなの?」
「わりといいんじゃないのか。あそこの高校は理系に進む生徒が多いんだ。笹田の功績かもしれんぞ」
「笹田さん、話、おもしろいもんね」
主人の合図でふた塊りの肉が運ばれて来る。フィレとサーロイン。
「焼きぐあいは?」
「ミィディアム」
「同じでいいわ」
「ウェルダン」
「えーと、ミィディアム・レアー」
それぞれが注文する。
「お姉ちゃん、よく味わって食べたほうがいいわよ。志野田さんの月給じゃちょっと無理だから」
ひろみが憎まれ口を叩《たた》いた。
「ひろみこそ解剖のあと始末なんかばっかりするわけでしょ。野蛮なんだからあ」
「それに慣れるようにならなきゃ一人前じゃないのよ」
「本当に食べちゃうのか、獣医科の教室じゃ」
「そう。とても調理のうまい先生がいるの」
「ひどいね」
「ま、その話はやめておけ」
と父がいさめる。
鉄板の一番熱いところで肉の表面を焼く。おいしい味を逃さないためだ。ほどよい大きさに切りながら鉄板の上を右に左に動かす。ブランデーを注ぎ、炎を立て、ボウルのような蓋《ふた》で隠す。
「蓋を取ると、パッと肉が消えていたりして……」
手品の手さばきに似てないこともない。ミィディアム・レアー、ミィディアム、ウェルダン、注文にあわせて、それぞれの取《と》り皿《ざら》に配られる。サラダが運ばれて来た。主人は鉄板を拭《ぬぐ》い、今度は野菜いための調理にかかった。
「ガーリック・ライスは、どうしましょう」
「お腹《なか》いっぱい」
「ほんの一人前くらい。みんなで少しずつ食べるから」
「承知しました」
この店のガーリック・ライスには麦が三分の一ほど含まれている。パサパサして、うまい。
「よく食べたなあ」
「人間が一生に食べる分を全部集めたら、すごい量になるわね。どのくらいかしら」
「倉庫一つ分くらいあるんじゃない?」
「そんなにはないだろう」
「昔は、一年一石って言われていたな」
と父が言う。
「一石って、一升の何倍?」
「百倍だな」
「一日お米二カップとして、あれ、約二合でしょ。その三百六十五倍だから……」
「ほら、チャンと計算できるかな」
「七百三十合。七十三升。七斗三升。十斗が一石でしょ」
「昔の人は、もう少し米を食べたろうから、一石はいい数字だな」
「六十歳まで生きて六十石」
「俵《たわら》にして、どのくらいになるんだろう」
肉を頬張《ほおば》りながら聞いていた父が、
「あれは四斗入るんだ」
「じゃあ一石で二俵半。えーっ、百五十個か、俵で」
「それだけでも結構倉がいっぱいになりそう」
「ほかに副食物だって、たくさんあるんだし」
「三人育てるとなると、大変なものだな」
父が愉快そうに笑って言う。
猫《ねこ》の飯ほどのガーリック・ライスを食べ、あとはコーヒーとアイスクリーム。保子が抹茶《まつちや》のアイスクリームを一さじ口に運んでから、
「アイスクリーム・フォア・アイスクリーム」
と、意味ありげにつぶやく。
「なんだ?」
と聞けば、
「英語の言葉遊び。アイ・スクリーム・フォア・アイスクリーム。私はアイスクリームがほしいって泣き叫ぶ……」
「くだらん」
「英作文の役にくらい立つんじゃない?」
「いや、ご馳走《ちそう》さま。うまかった」
父がナプキンをテーブルに戻して会食が終わった。
「お粗末さまでした。お嬢さんもまたお越しくださいね。本当におめでとうございます」
「はい。ありがとうございます」
帰り道は商店街を抜けて帰った。商店が尽きるあたりにあき地があって、よしず張りの中に鉢植えの菊が並べてある。展示即売会らしい。父が足を止めてのぞきこんだ。
「きれいなことはきれいだけどどっか陰気な花ね」
ひろみが小声でささやく。
「葬式によく使うからな」
「反対じゃないの。陰気だからお葬式の花になったのよ」
「そうかもしれん。日本人のパスポートには菊の花がついているんだ。知ってるか」
「知らないわ。私、パスポート持ってないもん」
「まだ半人前だな」
また父と保子が先に立ち、啓一郎とひろみがあとを追った。
「日本の花の代表だからかしら」
「お前なんにも知らないんだな。笑われるぞ。菊のご紋章。天皇家のご紋が描《か》いてあるんだ」
「へえー、どうして?」
「いつからああなったんだろ。外国へ行くときは、天皇の家臣として行くのかな、日本人は」
「ふーん。日本の花ってことなら桜ですもんね」
「もっと前は、梅だったんだろ、日本の花の代表は」
「そう。万葉集じゃ桜の歌は少ないって、国語の狸《たぬき》が言ってたわ。萩《はぎ》が一番、梅が二番、武士道と結びついて桜が代表になったんですって」
「なんだ、その狸ってのは?」
「本当に狸そっくりなの。人間で、あれだけ狸に似た人って、めずらしいんじゃないかしら」
門の前で父と保子が立って、こっちを見ている。
「あ、いけない」
ひろみが小走りに走りだした。鍵《かぎ》がなければ入ることができない。
「トランプでもするかな」
父が玄関に腰をおろし、下駄箱《げたばこ》にはきものをしまいながら言う。
「最後の晩餐《ばんさん》のあとは、最後のナポレオンね」
保子がお茶をいれ、父は作務衣《さむえ》に着替えてリビングルームに戻って来た。
「新しいトランプがあったでしょ、イギリスのタバコと一緒にもらった……」
「ああ、開けてごらん」
小箪笥《こだんす》の引出しを開け、まだ封を切らないトランプを取り出す。
「こりゃ、駄目だ。使いにくい」
ビアズレーの絵のようなデザイン。裸の女が体をくねらせて数字を描いている。しゃれてはいるけれど、どれがどの札か、すぐにはわかりにくい。
「やっぱりいつものカードがいいんじゃない?」
「そうよ。あれじゃないと気分が出ないわ」
「じゃあ、それにしろ」
「何回戦します?」
「十二回かな」
四人がテーブルについてゲームが始まった。これまでに何百回やったかわからない。
「うちのナポレオン≠謔サと少しルールがちがうみたい」
「ローカル・ルールがあるんだよ、ゴルフとおんなじで」
「スペードで十二」
「クラブで十三」
切り札のせりが始まる。
「ダイヤで十五。いい?」
「仕方ない」
「じゃあ……」
保子がナポレオンにきまった。
ナポレオンは、
「副官はね、オールマイティ」
と宣言して、スペードのエースを持った人が自分の身方になってくれることを要求する。
「副官が一番おもしろいんじゃないかな、このゲームは」
「でも無理心中みたいなところがあるじゃない。ちっとも副官になんかなりたくないのに」
「無理心中ねえ」
父はおおむね寡黙《かもく》である。昔は「だれが副官かな」などと言いながら子どもたちの顔をのぞきこんだ。一生懸命に隠すのだが、たいてい見破られてしまった。
――どうしてお父さんは、わかるのかな――
と不思議に思った。いつのまにか子どもたちは知らんぷりがうまくなった。それに正比例して、親を欺《だま》すのもうまくなっただろう。父も、もう馬鹿《ばか》なことは聞かない。静かにゲームを読んでいる。今は父を喜ばすためにこのゲームをやっているのかもしれない。
「保子もたまにはやりに来い」
「そうねえ」
十二回戦が終わって保子が第一位。本日の結果としては、これが一番おめでたくてよろしい。
それから一週間、保子のいそがしさを横目でにらみながら啓一郎は沖縄旅行の計画を立てた。
知りあいの旅行業者にまかせてもいいのだが、あれこれ詮索《せんさく》されるのは厄介だ。保子たちの新婚旅行とちがって、そう大っぴらにできる旅ではない。飛行機のキップはすでに入手した。ホテルの予約も取った。あとはこまかいスケジュールと携帯品の用意。十月の沖縄は充分に泳げる季節らしい。麻美にも水遊びの用意をして来るように告げた。家族には、
「会社の仲間と、ちょっと……」
と言ってある。しかしリビングルームの電話で麻美と話したりしているのだから、ひろみも、保子も、もしかしたら父も、なにかしら感づいているだろう。
「知らんぷりしててあげよう」
「せっかく隠してんだから」
妹たちはそのくらいの目くばせをやりかねない。もっとも保子はいそがしくて、人のことなどかまっていられない。ひろみも、保子のほうに気を取られている。ひろみにしてみれば、やがて来る日のための予行演習。一つ一つ興味がある。
結婚式の三日前に、保子は必要な荷物を新居に運び入れた。
啓一郎が会社から帰って保子の部屋をのぞくと、残された家具類がすみのほうに並んでいる。
「お兄ちゃん、この部屋使ったらどう? 下よりいいわよ。太陽はサンサンと照り、月はムーンムーンと輝き……」
「いや、いい。面倒だ。保子が戻ってくるかもしれないし」
「いやあねえ。しばらくは納戸《なんど》として使うんですって」
「わが家もだんだん納戸が増えるな。今に納戸だらけになる」
「お兄ちゃんは外に出ちゃ駄目よ。お父さんがかわいそう。お父さんは面倒な人じゃないわ。自分のことは自分でやるし、いつも人に迷惑かけないように考えてるし……よほどへんてこな奥さんじゃなきゃ、大丈夫よ」
と、にらむ。
「それはわかっている」
「家じゅう納戸にしちゃって、お父さんひとり口をへの字に曲げてたんじゃ、私たまらないわ」
「わかった、わかった。しかし一般論としては娘相続ってのも、わるくないな。男が外に出て、娘が家を継ぐ。家にいるのは主に女なんだから、親にはそのほうがいい」
「お婿さんをもらうわけ?」
「そうじゃない。住むのだけが親と娘夫婦の組合わせになる。家族形態としては、そのほうがいいんじゃないのか、これからは」
「社会学の講義はいいから、わが家はお兄ちゃんが、まずしっかり考えてよ」
「うん、うん」
保子は首を傾《かし》げ、
「十月の沖縄って最高じゃない」
啓一郎の顔をのぞきこむ。話がこう続くところをみると保子はなにかしら感づいているのだろう。保子の顔は、
――沖縄旅行は、だれと行くのですか――
と尋ねている。そう見える。
とくに隠しているわけではないが、話しにくい。正面から聞かれたのなら、話してもいいのだが、いったんは、
「会社の仲間と……ちょっと」
と言ってしまった。中座家では、嘘《うそ》をつくのはとても恥ずかしいことになっている。
「最高らしいな。観光客も少ないだろうし」
「私たちも、そのほうがよかったかしら」
保子たちは北海道へ飛ぶ。
「北海道もわるくないさ」
「行ってないとこ、いっぱいあるのよね」
「北海道は広いぞ」
とりとめのない会話を交わしながら啓一郎は考える。
――保子とゆっくり話す機会は、もうそう何度もないかもしれない――
保子にも心残りがあるにちがいない。一つ息を吐いてから啓一郎はなにかに押されたように告げた。
「沖縄には会社の連中と行くわけじゃない」
「やっぱり? そうじゃないかと思っていたわ」
「ひろみには、まだ言わずにおけ」
「知ってんじゃない、ひろみが一番よく。でも、いいけど。べつに言わないわ」
「婚約の旅になるかもしれないし、そうでないかもしれない」
「寺田さんて人?」
「そう」
保子は髪をかきあげながらうんうんとばかりうなずく。
「どういう結婚がいいのか、きめかねているところがあるんだ」
「一生に一つ、いいのを見つければいいんでしょ。わが家の家訓は」
「その通り。結婚相手なんてものは普通の意味でいい人が一番いいんだろうと思うけど」
保子は机の汚れを指先で拭っている。
「笹田さんが言ってたわ。お兄ちゃんはハムレット型でもないし、ドン・キホーテ型でもないって」
「ああ、俺《おれ》も言われたことがあるよ」
あれこれ思い悩んで、なかなか実行できないのが、ハムレット型の人間。理想に向かって猪突猛進《ちよとつもうしん》するのがドン・キホーテ型の人間。たしかツルゲーネフが言った、有名な分類法だ。
「お兄ちゃんはネ、いろいろ悩むわりには、最後はわりと簡単に猛進するんですって。ナカザ型なんだってさ」
「言えてる」
さしずめ麻美と沖縄旅行へ行くことなど、その典型だろう。
「しかし、まだなにもきまったわけじゃないんだ、俺のほうは」
「うまくいくといいわね」
電話のベルが鳴り、ひろみが下で保子を呼んでいる。兄と妹の会話はこのあたりで終わった。
結婚式の朝、啓一郎が起きたときには、もう保子は出たあとだった。花嫁はいそがしい。ひろみの姿も見えない。
「ひろみは保子の手伝いに出て行った。俺たちは九時半に車が来るから用意しておけ」
そのことは昨夜のうちから言われていた。テーブルの上に握り飯が置いてある。味噌汁《みそしる》を温め、父と二人で食卓についた。酒も温めてある。
「祝いごとだから一ぱいだけ飲め」
「はあ」
二つの盃《さかずき》を満たして、主賓のいない酒を祝い酌《く》んだ。
「少し暑い日かな」
「そうみたい」
九月に入って涼しい日が続いたが、ここへ来て残暑がまたぶり返して来た。父はモーニング。啓一郎は黒のセミフォーマルを着た。このスーツは父の入れ知恵で、ずいぶん薄手に作ってある。
「礼服は薄いほうがいいんだ。寒いときなら、中に着こめばいい。暑いときがかなわない」
これが父の考えである。洋服屋がなんと言おうと、これは正しい。啓一郎もこれまでに何度か薄いスーツの霊験を味わった。
「鍵《かぎ》をよく見てまわってくれ。お隣には一応お願いしておいたが」
「うん」
家じゅうの鍵を見て歩いた。
「じゃあ、行くかな」
すでに車が玄関の前に来ている。
「ご苦労さん」
座席にすわった父は、内ポケットをさぐり、小声で、
「これを降りるとき渡してくれ」
と運転手のほうを顎《あご》でさす。小さな祝儀袋《しゆうぎぶくろ》がいくつも内ポケットに入っているらしい。
「大変なもんだね」
「ホテルのほうが慣れてるからさほどのことはない。ま、保子が一番ご苦労だな」
土曜日の午前中とあって道はすいている。三十分足らずで赤坂のホテルに着いた。
このホテルは法子の定宿《じようやど》である。啓一郎としては勝手をよく知っているつもりだが、結婚式で来たことは一度もなかった。
旧館にまわり二階の控え室にあがった。すでに新郎と両親が来ていてシャンパンを飲んでいる。
「いや、どうも。よいお日和《ひより》で」
「ご苦労さまです」
短い時間のうちに次々に両家の親戚《しんせき》の人たちが現われる。媒酌人《ばいしやくにん》夫妻も到着した。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
あちこちでにぎやかな挨拶《あいさつ》が交わされている。
「まあ、きれい」
声が響き、保子が白い衣裳《いしよう》で現われた。ちょっとまぶしい。ひろみが介添役のような顔つきで隣に立っている。
「みなさん、おそろいになりましたか」
ホテル側の進行係らしい男が叫んだ。新婦の父がうなずき、新郎の父が「はい」と言い、媒酌人が、
「そろいました」
と答える。
「もうしばらくお待ちくださいませ。そのあいだにご両家のみなさまのご紹介をおすませくださいませ。十時半ごろに式場にご案内いたします。そのあと、お写真の撮影。またこの部屋でおくつろぎいただきまして、十二時にご披露宴《ひろうえん》開始の予定でございます。私がご案内にまいりますので、それまでお待ちくださいませ」
新郎と新婦が並んで奥の椅子《いす》を占め、その両側に両家が列を作るようにして腰をおろした。
「じゃあ、ご両家のお父様から紹介してください。私ゃ、わかりませんから」
媒酌人が言う。この人とはすでに結納《ゆいのう》のときに顔をあわせている。
「そうですか」
まず新郎の父が立ち、
「すでにご承知の顔もありましょうが、全員あらためてご紹介申しあげます。私が弘《ひろし》の父の順二《じゆんじ》です。これが母親の民子《たみこ》」
と、一人一人紹介する。
そのあと中座家が同じことをくり返す。
「本当におきれい」
「弘ちゃん、もったいないじゃない」
次々に新郎新婦の前に進んで写真を撮る。そんなときにも衣裳係がずっと保子のそばについて、なにかしら直している。本日のスターは新婦のほう。新郎の役まわりはおまけのようなものだ。
やがて式典の時間が来て全員が部屋の外に出た。媒酌人と新郎新婦を廊下に残して式場に入った。
ホテルの一室が教会の内部のように作られている。うしろから聖壇に向かって右が志野田家、左が中座家。啓一郎はキリスト教の結婚式に出席した経験がない。
牧師が入場し、合図に従ってウエディング・マーチが鳴った。場内に緊張感が流れ、媒酌人の先導で新郎新婦がバージン・ロードを進んで来る。マーチがさらに音を高くし、そして止《や》む。
讃美歌《さんびか》の合唱。保子の懸念通《けねんどお》り中座家側は、声が低い。父は厳粛な面持《おもも》ちで口をあけているが、なにを歌っているのか。讃美歌のみならず父の歌など、謡《うた》いのほか聞いたことがない。
聖書の朗読、祈祷《きとう》、説教と続き、牧師が新郎新婦に誓いを求める。
「死が二人を分かつまで固く貞節を守ると約束しますか」
「約束します」
保子も同じように問われて、
「お誓いします」
と答えた。
当人にきっかりと誓わせるところが、欧米人のモラルなのだろう。神式の結婚式は神主さんが代って神々に結婚の成就《じようじゆ》を報告してくれる。たしかそうではなかったか。少なくとも新郎新婦に、はっきりと口頭で誓約を求めるようなことはしない。
そのあとは指輪の交換。ふたたび祈祷。牧師から結婚成立の宣言があり、また讃美歌となり、式は終わった。
結婚式と披露宴のあいだの時間を利用して写真撮影へ移る。写真室は式場のすぐ隣にあった。先に親戚一同を交えた記念写真を撮り、みんなが控え室に戻ったあとで新郎新婦だけを写す。このほうが大勢の人を待たせずにすむ。細かいところまで手際《てぎわ》よく、能率的に運ばれている。
ほとんど時間通りに披露宴の開始となった。新郎の友人が司会に立つ。昨今は、まるでテレビの司会者みたいに饒舌《じようぜつ》な司会役が多いけれど、この人は万事控えめで、簡潔で、ここちよい。本日の主役は、新郎新婦に媒酌人、それに来賓のかたがた、司会役はご苦労な役まわりだが、いい気になってベラベラしゃべる立場ではあるまい。
媒酌人の挨拶は、結婚成立の報告のあと、型通りに両家の紹介。新郎の母親を紹介し忘れ、
「あっ、すみません。一人大切なかたを忘れてしまいました」
と、頭を一つ叩《たた》いてもとへ戻る。その仕ぐさがひどくユーモラスで一座の笑いを誘う。きっと気取りやてらいのない人柄《ひとがら》なのだろう。新郎側の主賓は、気むずかしいタイプ。新婦側は、保子の大学時代の恩師で、話のうまい人だった。式次第が進み、保子が色直しに立った。料理がつぎつぎに運ばれて来る。
「新婦がお色直しを終えて入場されます。新郎はお迎えにお立ちくださいませ」
入口のあたりで拍手が起きた。保子が高島田で入って来る。
――まあ、わるくない――
細面《ほそおもて》のほうだから似あうのかもしれない。日本女性は、たいてい似あうものだが……。
すぐ隣にすわった父が、一瞬凝視し、それからなにを思ったのか、まるでうろたえたみたいにグラスいっぱいの白ワインを一息で飲み干す。娘が美しいのは、父親の狼狽《ろうばい》を誘うものなのだろうか。啓一郎もほんの少し照れくさい。
「わりとやるじゃない」
相変らずの調子でひろみが半畳を入れた。
できるだけ簡素な披露宴にしたい、と、それが二人の希望だった。新郎は色直しもせず、ずっと出ずっぱり。主役が入れちがいに姿を消すのは、あわただしい。このほうが儀礼にかなっているだろう。
二時間を少し超えて披露宴は閉会となった。新郎の父親が両家を代表して御礼を述べる。直立不動で、この人はあまり人前で話すのがうまくない。
「よい式だった」
廊下を歩きながら父がつぶやく。
「うん、よかった」
二十数年のねぎらいにしては愛想が乏しい。だが啓一郎はそれを言う立場ではない。だれもそれを父に言えない。
媒酌人ご夫妻と主だった来賓を見送り、保子たちはこのまま新婚旅行に出発する。
ロビーのラウンジで久しぶりに会った親戚の者や知人と談笑していると、旅支度を終えた二人が現われた。
「きれいだったわよ」
「とてもお似あい」
女たちがはしゃいでいる。結婚式は女性が好きな式典である。
「これで一丁あがりね」
ひろみが隣のソファに腰を落とす。
「保子は親父《おやじ》になんか挨拶をして家を出たのか? 長いあいだお世話になりました、とか」
啓一郎は朝寝坊をしてしまい決定的な瞬間に立ちあうことができなかった。ひろみは見ているにちがいない。父をねぎらうとしたら保子しかいない。
「それよ。お姉ちゃんはなんか言おうとしたらしいんだけど、お父さんがぐずぐずするな。早く行け。少しでも早く着いたほうがいいんだ≠チてどなるの。あわてて車に乗っちゃった」
「じゃあ、別れの儀式はなし?」
「そう。残念ながら」
「親父らしいよな。いよいよ出発だぞ」
ひろみをうながし、立ちあがって玄関のほうへ歩いた。
「行ってまいります」
「行ってらっしゃい」
二人は車に乗りこみ、車はゆっくりとホテルの門を出る。空港までは見送らない約束だった。
「みなさん、どうもご苦労さまでした」
志野田の父親が、また一同に頭を垂れる。啓一郎もその隣で父と並んで一礼をした。
「さあ、俺《おれ》たちも帰るか」
客たちが姿を消すのを待って志野田家の家族に挨拶をしてホテルを出た。影法師が三つ並んでいる。車が近づいて来た。啓一郎が助手席にすわった。
「なんで新婚旅行の女は、みんな帽子をかぶるんだ?」
「髪が乱れるからよ。旅行のあいだ、そうそう美容院にも行けないし、帽子があると便利なの」
「新婚のしるしかと思った」
赤坂から青山通りにかけて街は若い人たちでにぎわっている。
「ポカンとしちゃった」
「自分のことでもないのに興奮してたんだろう」
宴のあとには、なにかしらむなしさがつきまとうものだ。
「お姉ちゃん、わりときれいだったね」
「まあな」
窓の外を見ていた父が、
「昔に比べれば、ずいぶん楽になった」
「流れ作業みたいなもんだもの」
「式だけじゃない。女は一人で知らない家に入って行かなきゃならん。長いことかけて、そこで根をおろす」
話しているうちに車が家に着いた。太陽はまだ西に残っているが、今日一日はほぼ終わった。
保子はほとんど毎日旅行先から電話をかけて寄こすらしい。ひろみが逐一説明してくれる。
「今はシーズン・オフで最高らしいわよ。魚も、おいしいし」
「何日行ってるんだ?」
「六泊七日」
「相当なもんだな」
「そのくらいないと北海道はまわれないわ。お兄ちゃんは、いつ沖縄へ行くの?」
「九日にたつ。四泊五日。新婚旅行みたいにのんびりとはしていられない」
「結構長いわよ。沖縄も最高ね。私だったら、どっちがいいかなあ。沖縄を選ぶわ」
「せいぜい新婚旅行で行くんだな」
麻美とは、ゆっくり会う機会が作れなかったが、旅の計画のほうは順調に進んでいる。今度ばかりは麻美もはぐらかすまい。
「熱帯魚、見れるんでしょ?」
電話口でひどく乗り気のときがある。
「うん。シュノーケルを使ったことある?」
「ないけど……」
「泳げれば、大丈夫だよ。むつかしいもんじゃない」
「与那国《よなぐに》にも行くのね」
「そのつもりだ。しかし飛行機が小さいらしいから、天気がわるいと欠航のおそれもあるし」
「そうみたいね。このところ、ひまをみて研究してんの」
とはいえ、根が気分屋だからひどく頼りないときもある。
「出発の日に雨が降ったらどうするの?」
「行くにきまっているだろ」
「厭《いや》あね」
「仕事のときは、そんなこと言ってられないだろ」
「仕事は仕方ないわ。でも、遊びなんですもん」
女性の中には、せっかくデートの約束をしておいても、雨が降ったからと言って急に取り消しにする人がいる。麻美もそのタイプらしい。
十月に入れば、もう出発を待つばかり。昼休みを利用して銀座のレストランで麻美と会った。電通通りから銀座通りにむかう道を右に曲がってつきあたり。
「ここ安くて、おいしいの」
婦人雑誌の記者は、こういう情報にはくわしい。コーヒー・カップのような容器に入ったポタージュがとてもうまい。この分なら料理もわるくない。
「航空券、一応渡しておこうか」
「そうね」
「来ないと困るから」
「行くわよ」
「浜松町駅のモノレールの改札口で待ちあわそう。七時半。いい?」
「ええ、いいわよ」
簡単な日程表を書いて渡した。麻美は海老《えび》のピラフ。啓一郎はポークカツを頼んだ。
「どのくらいかかるのかしら」
「時間?」
「ううん。実費のほう」
「いいよ、それは。今回は俺《おれ》が持つ」
麻美がゆっくりと首を振る。皿のふちに海老のしっぽが並んでいる。
「それは困るわ」
「俺が誘ったんだから」
「そういうこと、はっきりしないの、厭《いや》なの」
麻美の旅費を受け持つとなれば、かなりの出費になる。しかし啓一郎としては、今回の旅はすべて自分でまかなうつもりでいた。そのためにわざわざ定期預金まで解約した。
「まあ、いいだろ」
「そんなんだったら、行きたくないわ」
麻美は窓の外へ視線を向けて口を曲げる。いつも不愉快なときには、こんな表情を作る。
「わかった。じゃあ実費はきちんともらう」
「そうして」
たしかに啓一郎にまるまる出してもらっては心の負担が残るだろう。麻美だって働いているんだ。見くびったことになりかねない。まだ婚約をしたわけではない。
「でも今すぐにはわからない」
「ざっとどのくらいかしら」
「十五万円と少し……」
「絶対にきちんとしてくれなきゃ厭よ」
「わかった、わかった」
「じゃあ、とりあえず十万円お渡ししておくわ」
麻美はハンドバッグの中をのぞき込む。
「いいよ、あとで」
「ううん、今」
折り畳むようにして十枚の札を啓一郎の掌《てのひら》に滑らせた。
「じゃあ、預かっておく。いい旅になるといいけど……」
「やっぱり天気ね。台風なんか来たら大変よ」
「大丈夫なんじゃないかなあ。このところ雨続きらしい。俺たちが行くころは、かえってよくなっているよ」
「そうならいいけど」
お金の話が出たあたりから、麻美の口調が少しけわしく響く。初めからすなおに実費をもらうことにしておいたほうがよかったのだろう。啓一郎の見たところ、麻美は金銭に細かいほうだ。旅行のために十数万円も出すのは、少し惜しいのかもしれない。沖縄まで行くとなれば、そのくらいは当然かかるのだが、そんな高価な旅行を企てたこと自体、気に入らないというケースもある。せっかくの旅なのでホテルも充分に贅沢《ぜいたく》なところを取った。
「じゃあ、そういうことで」
「ええ……」
電通通りに戻って左右に別れた。
会社の前でタクシーを止め、玄関をぬけると、肩のあたりに視線を感じた。青いワンピース。
――薫かな――
一瞬そう思ったが、薫ではない。ずっと年かさの女だ。
――保険会社の人かな――
そう思ったが、受付の前を通ると、
「中座さん、ご面会のかたが」
と視線を送る。やはりその女は中座に会いに来たらしい。
「なんでしょう」
近づくと、女が顔をあげ、
「あ、中座さん。いつぞやはどうも……」
「どなたでしょう」
女はひどくなれなれしい様子で笑った。卑屈に映る笑いでもある。
「薫の母親ですけど」
言われてみれば何カ月か前、薫の部屋の前で見た顔だった。声や表情に覚えがある。
「ああ、どうも。ちょっと出ましょうか」
うながして外に出た。
用件は……なにとはわからないが、よいことではあるまい。いつか薫と行ったコーヒー店へ入った。
「すみません。おいそがしいところ」
「コーヒーでいいですか」
「は、はい」
相手はひどく恐縮している。
「会社へ来てもらっちゃ困るんですけど、なんでしょう。簡単に話してください」
「はあ」
膝《ひざ》のあたりを両の掌《てのひら》でこすっている。とりあえずコーヒーが運ばれて来るまで待ってみた。
「なんでしょう」
砂糖をコーヒーに入れながらもう一度同じ質問をくり返した。
「はあ。あのう、お店のお金を入れていただきたくて……。やっぱり困るもんですから」
「いいですよ。払うものは払います。ただ勘定が少し釈然としないものだから」
「薫もあんな子で、不行届きのところがあると思いますけど、お金はやっぱり払っていただきませんと……」
首をうなだれて言う。
「ですから飲み代は払います。ただ少し額が大きすぎて」
「小さな店ですから、ちょっとお勘定をためられると、本当に困るんです」
まるで啓一郎が飲み代を何カ月もためているようなことを言う。
「金額はご存知ですか」
「はあ」
「三カ月の飲み代にしちゃあ、少し高いと思いませんか。僕はそんなにしょっちゅう行ってるわけじゃないし」
「でもお約束のあったことですから」
と、ハンドバッグからハンカチを取り出して目を拭《ぬぐ》う。
「なんの約束ですか」
相手は答えない。ハンカチを目に当てて涙をぬぐっている。
――なんで泣いているのか――
泣くようなことではあるまい。
「困るんだなあ。薫さんにはちゃんと話したはずです。なにか勘ちがいをして妙な請求書をよこしたんですから」
「勘ちがいじゃありません。約束は約束ですから」
「だから……どんな約束です?」
すすり泣きの声が少し高くなった。店の中の客が怪訝《けげん》な顔で見る。午後の一時を過ぎているので、知った顔はだれもいない。そのまましばらく待ってみたが、なんの答もない。
「困りますよ。午後の仕事がありますから」
啓一郎が立とうとすると、手を伸ばして背広のはしをつかむ。
「なんにも薫はわるいことしてないのに、このあいだ警察のかたが見えたりして……」
「警察の人?」
「はあ。渋谷警察のかたがおふたり。中座さんの友だちだって……。なんだかとっても厭《いや》な感じだったそうです」
どうやら笹田が友人を連れて勝手にかとれあ≠のぞいたらしい。笹田まで刑事にまちがえられたのだろうか。
「べつに気にすることじゃないです。それより今日は帰ってください。薫さんにもう一度話しますから」
ふりほどこうにも相手はしっかりと背広のすそをにぎっている。無理にふりほどこうとすれば、愁嘆場になりかねない。
「約束をしていただかないと……帰れませんから」
「なんの約束です?」
さっきから同じようなことばかり言っている。
「いつ払ってくださるか、期日をちゃんと言っていただかないと……」
「だから、言ったでしょ。請求書の金額に納得がいかないんです。どうしてあんなに高いのか」
女はハンカチの下から目をあげた。
「お部屋にちょいちょいいらしてたでしょ。男のかたですもの、やっぱりいくらか払っていただかなきゃ」
声は泣き声だが、言葉は思いのほかはっきりとしている。
啓一郎は、初めこの母親がなにも事情を知らずに、ただお金だけをもらいに来たのかと思った。だが、そうではないらしい。おそらく事情はみんな知っているだろう。それどころか、こっちが本当の黒幕なのかもしれない。薫を抱いた以上、それ相応のお金を払ってもらって当然と、小さな頭はかたくなに考えているらしい。
「それにしても高いなあ」
相手は黙ってうずくまっている。片手で背広をにぎり、片手で目を拭《ぬぐ》いながら……。
「前に百万ほど用立てたのもご存知なんですね」
啓一郎はもう一度|椅子《いす》にすわりなおした。
相手はこっくりとうなずく。
「それを棒引きにしたことも知ってるんですね」
「すみません。とっても助かったみたいです。店のほうも、あんまりうまくいかなくて……」
「今までどういうかたとつきあっていたのか知りませんけど、僕はただのサラリーマンなんですよ」
「あの子はそんなふしだらじゃありません。どんな人たちとつきあっていたかなんて……」
またすすり泣きが始まる。
「とにかくこの前のお金だって、私にしてみりゃ大変な出費なんです、本当のところ」
「すみません。ご迷惑をかけてしまって。もう少し甲斐性《かいしよう》があればいいんですけど、私も体がむくんでしまって、このあいだもお医者さんに……」
こんな話をいつまでもくどくどやっていてもらちがあかない。
「とにかく薫さんのほうへ直接連絡をします。今日のところは帰ってください」
「もう何度もこんなお願いに来ませんから。どうぞお願いします」
と手を合わす。そのすきに伝票を持って立ちあがった。レジスターのところでコーヒー代を払って外へ出ると、むこうも足早について来る。また背広のはしをつかむ。
「いつ払っていただけますか。こんなことで、また来るの、私も気が進みませんから」
「今日はなんとも言えません。また会社へ来るようなら、こっちにも考えがありますよ。それこそ刑事の友だちにでも中に立ってもらって……」
「そんなひどいこと。なんにもわるいことしていませんから」
「ずいぶんしつこいでしょ。手を離してくださいよ」
ふり切って歩調を速めた。
「どうぞお願いします」
道のまん中で最敬礼をしている。
――人が見たら、どう思うだろうか――
言葉のはしばしが耳に入れば、小口の金融業者から金でも借りて、督促にあっていると思うだろう。いつか会ったとき薫は、
「私はもう会社へ行かないわ」
と、ひどく自信のこもった調子で言っていた。あのときからこんな方法を考えていたのかもしれない。
考えていたと言うより、いつものやり方なのではあるまいか。今までにも例のないことではなさそうだ。あの調子だと何度泣きに来るかわからない。
――弱ったな――
このままでは終わりそうもなかった。
デスクに戻ると、隣の席の種田がファイルを広げたままタバコをふかしている。電話でも待っているのだろう。啓一郎もタバコに火をつけ、笑いながら尋ねた。
「この前の話、どういう理屈だったっけ?」
種田の趣味は利殖。金銭については独特の哲学を持っている。
「なんでしょう?」
「たいしたことじゃない。俺《おれ》がサ世の中のトラブルは、七十パーセントは金で解決する。二十パーセントは、金があれば、次善の策くらいとれる。金で解決できないのは、せいぜい十パーセントくらいだな≠チて言ったら、あんた、なんか言ってただろ」
「ええ。金があれば百パーセント解決できる≠チて……」
「そう」
「つまり、現実は中座さんの言う通りかもしれませんよ。でも、貧乏人は、金以外で解決できる十パーセントは、なんとか努力で解決しちゃうんです。だからトラブルとして残らんのです。極端に言えばネ。だから、トラブルは、やっぱり金がらみのことだけになる。見てごらんなさい、現実問題として。たいていは銭で結着がつきますよ」
電話のベルが鳴り、種田が受話器を取った。無駄話を続けるわけにはいかない。啓一郎は朝刊に取引先の人事異動が載っていたのを思い出して、それをながめた。仕事には直接関係がなさそうだ。隣のページをのぞくと、航空機事故の補償問題が載っている。難航しているらしい。
「お金には替えられないが……」
そう言いながら、結局は金銭で埋めあわせるよりほかに手段がない。種田の考えは、ずいぶん大胆な意見だろう。
――心の傷手《いたで》はどうするんだ――
そう反論したい気持ちもあるが、結局のところ、心の傷手をいやす手段はない。あれば、とっくにいやしているし、いやす手段がなければ時間をかけて忘れるほかどうにもならない。残るのは金銭の問題だけだ。
金で百パーセント解決できる≠ニいうのも、極論ながら説得力を持っている。世の中はたしかにその論理に従って動いている。
――薫もそうかな――
おそらく啓一郎などより、ずっとしたたかな金銭感覚を持っているのだろう。仕事に取りかかろうとしても頭の片すみに薫がひっかかっている。
「すぐに戻る」
電話をかけている種田に告げて部屋を出た。ビルの中にも赤電話はあるがそれもかけにくい。外に出て電話ボックスに入った。だが呼び出し音が鳴るだけ。薫は留守らしい。夕刻もう一度外出して電話をかけたが、薫はいなかった。
――行ってみるか――
もう三週間もかとれあ≠ノ行っていない。早い時間ならほかの客も来ていないだろう。六時半に仕事を片づけ、地下道のそば屋で軽く腹ごしらえをすませてから、そのまま四谷《よつや》三丁目に向かった。
「いらっしゃい」
薫はたった一人でカウンターの中にすわっていた。啓一郎の顔を見て、照れるように笑った。悪戯《いたずら》を見とがめられたときのような、むしろかわいらしげな笑いである。椅子に腰かけ、
「ビール」
と注文してから、
「いくらだ。外国式に即金で払う」
と言う。
「冷たいのね、相変らず」
「そりゃ、そうだろ。あんたのほうがルール違反ばっかりやっている」
「もういいでしょ。グジャグジャ言うの、私もきらいだし、中さんらしくないわ。男って、もっとスパッとしてなきゃ、そこが好きなのに……」
「しかし、わからんよ」
「わかろうとしないからでしょ。私の考えは、もう言ったでしょ。あのくらいは払っていただかなきゃ……みじめよ。おたがいに少しずつつらい思いをしなきゃ」
今夜の薫はジメジメしたところがない。不機嫌《ふきげん》ですらない。年上の女にさとされているような、そんな感じさえする。
考えようによっては、薫の言い分もさほど理不尽なものではないのかもしれない。銀座あたりに行けば、一人の女に何千万円も費やした話はいくらでも転がっているだろう。それに比べれば、薫の要求はずっとつつましい。
つい、このあいだ啓一郎は定期預金を解約した。麻美と沖縄旅行へ行くための費用を作ったのだが、ゆとりは充分にある。麻美も実費は払うと言っている。
――人に笑われるだろうなあ――
今、こだわっているのは、むしろそのことだ。気持ちよく別れられるものなら、多少の支出は仕方ない。ただすでに百万円を棒引きにされ、そのうえ納得のできない勘定まで払ったとなると……さぞかし他人の目には甘い男に映るだろう。いや、現実問題としては、この秘密が他人に知られる可能性は少ないけれど、啓一郎自身の中の、他人の目がこだわってしまう。
「わかったよ」
なるほど、ハムレット型でもないし、ドン・キホーテ型でもないらしい。迷ったあげく、思案とは関係のない答をポンと出してしまう。
「ええ……?」
薫が顔をあげる。唇が形よくふくらんでいる。今夜の薫は美しい。
「払うから、三十万にしろ」
相手はすかさず答えた。
「いいわ。負けてあげる」
あげる≠ニいう言いぐさはちょっと気に入らないが、もうこの話題はたくさんだ。
「そうしよう」
「うん」
「どうなんだ、景気は?」
「ひところよりよくなったみたい。ビールいただくわよ」
薫のほうは、まるでトラブルなどなかったみたいに屈託がない。赤いワンピースに白いベルト。キュンと弾むように揺れる腰の線がなまめかしい。
――いつ抱いたのが最後だったろう――
薫くらいに抱きごこちのよい女というのは、世間にたくさんいるものなのだろうか。百人に一人、千人に一人……啓一郎には判断ができない。
――ビギナーズ・ラックということもあるしなあ――
啓一郎は女性に関して、けっしてビギナーではないけれど、さりとてそう多くの女体を知っているわけではない。たまたま不思議な女体にめぐりあったのかもしれないし、何十人かの女性と交渉を持てば確率的に充分にありうることなのかもしれない。
世間には猥談《わいだん》はいくらでも転がっているけれど、本当のことは思いのほか知られていない。しゃべる奴《やつ》だけが、大げさに、おもしろおかしく語る。大部分の人は自分の体験を秘密の中に閉じこめておく。
笹田が集めている統計だってみんなが知りたいことだろう。だが笹田がやらなければだれも知らない。五百や千のサンプルでは真相はやっぱりわからない。
顔の美しい女は、見ればすぐにわかる。多少の趣味の差はあろうけれど、美しいものはやっぱり美しい。頭のいい女、性格のいい女、これも、まあ、だいたいわかる。一人がわかるだけではなく、みんながわかる。
しかし、抱きごこちがよいという評価は、けっしてみんなのものとはならない。
――そんな物指しで女性を計るなんて、最低――
批判の声も聞こえて来るが、男にとって、それが一つの物指しであることは現実だろう。
そこにどれほどの価値を置くかはともかくとして、けっして無価値ではない。女だって時には、そんな物指しで男を計るときもあるだろう。そんな女もいるだろう。とりとめもなく高校時代の国語の授業を思い出した。
「楊貴妃《ようきひ》はそれほどの美人じゃなかったらしいな。私が見たわけじゃないけれど」
デン助というあだ名の、ギョロ目の教師だった。
――さほどの器量でもないのに、どうして傾国の美女になったのか――
こむつかしい漢文をながめながら、そんなことを思った記憶が残っている。
――玄宗《げんそう》が耄碌《もうろく》していたから――
少年の頭は、その程度の判断しか持たなかったが、もっとべつな物指しがあったのかもしれない。たった一人の物指しがあっても不思議はない。なにも遠い中国の皇帝を持ち出さなくても、
――どうしてあんな女とつきあっているのか――
頭もわるければ、性格もあまりいいとは思えない。顔だってさほどのこともないのに、そんな女にいっぱしの男がすっかりとりこになっている例は、けっして世間にないことではない。
「なに考えてんの?」
薫がタバコを吹きかける。
「いや、べつに」
「いつ、お金入れてくれる?」
「明日にでも」
「うれしい。今晩来てもいいわよ。一時過ぎくらいに」
「いや、やめとく。こわいよ」
薫は肩の凝りでもほぐすように左右に首を曲げてから、
「馬鹿《ばか》ね」
と、ひどく乾いた声でつぶやいた。
「どうして?」
尋ねかけたとき、ドアが荒っぽく開いて数人の客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
たちまち営業用の声に変る。啓一郎が席をすみに移し、六人がカウンターの前に並んだ。薫は急にいそがしくなる。
「アルバイトの子が突然休むもんだから」
「水割りは俺《おれ》たちで作るからサ。ボトルと氷とミネラルを適当に出してよ」
啓一郎は残りのビールをグラスに注《つ》いだ。
――薫は「馬鹿ね」と言ったけど、あれはどういう意味なのか――
啓一郎が無理な勘定を払ってくれる、その代償として、薫は「今夜どうぞ」と誘ったのかもしれない。それを断わったことに対する「馬鹿ね」と、そう考えるのが一番ふさわしいだろう。しかしそのことはもう思うまい。今は麻美がいる。
「ここ、お勘定」
「あら、もう帰るの」
「うん。残業続きでへばっているんだ」
「そう。ごめんなさい。今、いそがしいから。あとで送るわ」
たしかに手が離せそうもない。
「いいよ、そのままで」
片手を高くあげ、それを合図にして店を出た。
――たしかに薫の言うとおりだ――
おたがいにつらい思いをしなければいけない。やさしい心、やさしい心……。
――しかし、俺は甘いな――
そう思いながらも、すがすがしい気分を感じないでもなかった。
翌日の昼休み、銀行へ行って約束の金額を薫の口座へ振りこんだ。
――一件落着――
あとは麻美のことを考えよう。
五時過ぎに床屋へ行き、また会社へ戻って十時まで残業をやった。明後日から沖縄へ。海で遊ぶことを考えれば、髪を短くしておいたほうがいい。休暇をとるためには、少し馬力をかけてやっておかなければいけない仕事がある。
「お疲れさまあ」
「おやすみ」
守衛に送られてビルの裏口を出た。高い建物に挟まれ、裏通りの夜は暗い。屋台の居酒屋が一軒だけ赤い提灯《ちようちん》をさげている。
――入ろうか――
そう思いながら通りすぎた。
このところ出費がかさんでいる。家に帰れば、ただの酒がある。少しでも節約をしたほうがいい。
――そんなことでは追いつかないが――
赤提灯の酒代など、たかがしれている。それに比べれば、最近の出費はけたちがいに大きい。週刊誌を買って電車の中の退屈な時間をつぶした。ご多分に漏れず煽情的《せんじようてき》なグラビアと記事で埋まっている。この傾向は満員電車と深いかかわりがあるんだろう。一時間も二時間も混んだ電車に揺られるとなれば、サラリーマンは、なにかしら強い刺激を受けて苛立《いらだ》ちを紛らわさなければやりきれない。堅い話はたくさんだ。
家に帰ると、保子が志野田と一緒に来ていた。
「どうだった?」
「うん。とてもすてきだった」
志野田がかしこまって、
「いろいろご心労をかけました」
と頭を垂れる。ちょっとやつれている。むしろ保子のほうが元気そうだ。
「しばらくは、大変みたいね。なんかあったら言ってください」
「はい、どうも」
もう夜も遅い。啓一郎とほとんど入れ替るように二人は帰って行った。
翌日も啓一郎は一日中飛びまわっていた。昼過ぎに麻美のオフィスへ確認の電話を入れた。
「モノレールの改札のところね」
「うん。待っている」
午後、外まわりの仕事をすませて席に戻るとかとれあ≠ゥら手紙がきている。封を切った。
――やるもんだなあ――
請求書が一枚落ちた。今度は八〜九月分。三十万円を少し超える金額が記してある。昨日払ったのは、たしかに七月までの勘定なのだから……。あきれるよりもむしろ感嘆に近い感情を覚えた。
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ゆうな
目をさまして窓を開けると、快晴だった。
茶色のシャツに、薄茶のズボン。ハンチング・ベレーをかぶり、スニーカーで行くことにした。
「じゃあ、ちょっと行って来るね」
縁先で庭を見ている父に告げた。
「めしはいいのか」
「どこかで食べるから。十三日に帰ります」
肩をすぼめるようにして家を出た。この時刻の電車はまだすいている。大きな旅行バッグのポケットから旅行案内書を出して車中で読んだ。約束の時間に五分ほど遅れて麻美《あさみ》が現われた。黒のブラウスに黒のキュロット。赤のベルトに赤のスニーカー。
「いいお天気ね」
「幸先《さいさき》がいい」
モノレールはやっと乗れるほどの混雑ぶり。みんなが羽田空港へ行くわけではない。途中の駅でもどんどん降りる。モノレールは通勤用の電車にもなっていた。
那覇《なは》空港行きのB七四七機は八割ほどの乗客率。麻美が窓ぎわの席にすわった。大地が傾き、機体が浮きあがる。空港周辺の風景が、たちまち模型図に変った。東京湾は、ちりめんじわの平面となって広がり、大小いくつもの船が、白い波と長い軌跡を作って走っている。
「どのくらいかかるの?」
「二時間と少し」
麻美は窓に頬《ほお》を寄せてながめている。首都圏は本当に広い。しばらくは人家の密集する地域が続いた。
「海に出たわ」
少し目を離していると、眼下は海ばかりに変っている。
「発展途上国に行くほどスチュワーデスに美人が多い」
「あら、そうなの」
「うん。日本だって昔のほうが美女が多かったらしい。それだけスチュワーデスがいい職業だったわけだ。外国には行けるし、恰好《かつこう》がいいし……」
「今は、それほどのこともないものね」
おしぼりのサービスが終わると、今度は弁当が出る。スチュワーデスは本当にいそがしい。
「朝ごはん食べた?」
「ううん、まだ」
「じゃあ、ちょうどいい」
とても小さな弁当箱。銀杏《ぎんなん》と人参《にんじん》のまぜご飯。さほどのご馳走《ちそう》ではないが、少量で、味がよい。イヤホンで落語を聞いた。そのうちにまどろんだらしい。短い夢を見た。法子《のりこ》の夢だった。
「あれ、なに島かしら」
麻美がつぶやく。
「もうわりと近いんじゃないのか」
首をのばしたとき、アナウンスメントが響いた。
「みなさまの右下に喜界島《きかいじま》、奄美大島《あまみおおしま》がご覧になれます」
真下にくっきりと映っているのが喜界島だろう。港も道路も畠《はたけ》も丘陵地も、なにもかもはっきりと見える。青い海のまっただ中にポッカリと浮いている。とてものどかな印象だ。緑の山稜《さんりよう》はどれほどのけわしさなのだろうか。
「俊寛《しゆんかん》の流されたところね」
「俺《おれ》もそれを思っていた」
「あっちの港かしら、泣いて船を見送ったのは」
多分、北の端の、一番九州に近い港を言っているのだろう。
「船はどこから来て、どこへ帰ったのかな。瀬戸内海から豊後水道《ぶんごすいどう》を抜けて来たんじゃないのか。鹿児島《かごしま》からってことはないだろ」
しかし啓一郎は俊寛の物語をほとんど知らない。
「能でちらっと見たような気がするけど、忘れちゃった。眠くなるのよね」
「能って、どこがいいんだ?」
「眠くなるとこじゃないかしら」
話しているうちにも眼下の風景は変って行く。案内書を取って地図と照らしあわせた。徳之島《とくのしま》、沖永良部島《おきのえらぶじま》、与論島《よろんとう》。サンゴ礁《しよう》の海が見える。海岸線の外側に外円を描くように白い波の弧がうごめき、その中と外とで海の色が鮮やかに異なっている。中は白を混ぜたようなエメラルド・グリーン。これが南の海の色だ。
高度が落ちる。耳が少し痛い。麻美もしきりに唾液《だえき》を飲みこんでいる。あらためてながめて見ると沖縄本島は、長く、細く、複雑な地形を作っている。いたるところにサンゴ礁の海があった。
「今日、電車の中で地図をつくづくながめて驚いた」
「どうして?」
「沖縄本島って、少しでも知ってるのは南のほうだけだもんな」
「そう? 海洋博をやってたでしょ。編集部の人が何人か行ったわ」
「それが名護《なご》市のほうだろ。島のまん中くらいだよ。北のほうは、まだぜんぜん開けてないんじゃないか」
「平地が少ないみたい」
「そうだろうな。しかし、これだけ北のほうに開けた町がないのは、やっぱり歴史的に日本より中国のほうに向いている島だからだよ」
「男の人って、いろんなこと考えるのね」
地峡のように細い陸地を越え、いったん海に出て、それから滑走路に入った。滑らかに、ほとんどなんの衝撃もなく着陸。
「やっぱり暑いみたい」
「暑いほうがいい。そのつもりで来たんだから」
空港の廊下を歩き、南西航空のターミナルまでバスに乗った。今日の行先は石垣島《いしがきじま》である。
南西航空のロビーは狭い。カウンターの脇《わき》の案内板に離島への便がいくつも記されている。宮古島《みやこじま》、南大東島《みなみだいとうじま》、久米島《くめじま》……。耳になじみがあるのは、台風のおかげではあるまいか。石垣島までは一時間半足らずの飛行である。
「結構かかるのね」
「東京・大阪間くらいの距離だろ」
「沖縄へ行く費用でグアムやハワイへ行けちゃうんでしょ。もっと安くできないのかしら」
「安くなるのはいいけどサ、安ければそれでいいってもんでもないだろ」
「そう?」
「国内旅行だから外国より安くて当然て、みんなそう思っているけど、たまには例外があってもいいんじゃないのか。沖縄の海は、グアムやハワイに負けないもん」
「ええ……」
「そこいらへんの外国より少し高いけど、沖縄はもっとすばらしい喜びを提供しますって、そのほうが観光事業としては可能性があるよ。安いほうへばっかり向かうのは、本当にいいかどうかわからない」
「たしかにそんな傾向はあるわね。リゾート・ホテルなんか、どこへいってもずいぶんりっぱになったでしょ。そういうところがかえってはやるのね。若い子が泊まってテニスをやったり、泳いだり、おいしいもの食べたり……」
「レジャー産業は、まだまだこれから発想の転換が必要なんじゃないのか」
「そうみたい」
まっ平らな、ジャムパンのような形の島が見えた。地図を見る。多良間島《たらまじま》だろう。ここまで来れば、もう石垣島は近い。
「あれがそうだな」
「高い山があるわ」
「沖縄の島ってのは、二種類あるらしい。山が意外にけわしいのと、サンゴ礁が隆起してできたペチャンコのと……」
「ハブのいる島も一つおきなんですって」
飛行機は石垣島の東南部を見ながら高度をさげ、滑走路に滑りこんだ。観光客はあらかた新婚旅行だろう。社員旅行のようなグループもいる。タクシーでホテルまで。
「やっぱり暑い」
「夏の日ざしね」
麻美は小首を傾《かし》げながらロビーのあちこちをながめている。啓一郎はフロントで名前を記し、そのあとに麻美≠ニだけ記した。ボーイが荷物を持って案内に立つ。
「きれいなホテルじゃない?」
「新しい。二年くらいじゃないのか、建ってから」
エレベーターで八階まで昇ってツインベッドの部屋へ入った。
「ご苦労さん」
ボーイから鍵《かぎ》を受け取ってふり返ると、麻美はレースのカーテンを開けている。
「あの先、海かしら」
「そうじゃないのか」
啓一郎も並んで窓辺に立った。麻美の薄い肩に手を載せながら。低い家並みが続いている。そのむこうに船のマストのようなものが乱立している。波止場のクレーンが見える。周囲の様子から判断すると、このホテルは際立《きわだ》って高いビルらしい。町のどこからでも見えるような……。
「ようやく来た」
いくばくかの感動をまじえてつぶやいた。ずいぶん長い道のりだった。香港で会って、ちょうど一年を超えた。
「四時間も飛行機に乗っていたわけね」
「そう」
麻美の肩をもみながら体の向きを変えさせた。麻美は目を伏せたままふり向き、おもむろに視線をあげ少し笑った。
啓一郎が唇を近づける。麻美は、閉じたままの唇に軽く触れさせ、すぐに顔を引く。
「変ね」
「なにが?」
「なんとなく」
首をふりながらドアのほうへ歩いてスニーカーをスリッパに履き替える。啓一郎もスニーカーを脱いだ。
「なんか飲む?」
「いらない」
テレビのスイッチを押した。チャンネルを変えても同じ画面が現われる。かと思えば、耳ざわりな音と灰色の砂あらし。
「どうする?」
「どうしましょう」
「プールがある。夕食前に少し泳ごうか。このホテルでゆっくりするのは今日だけだから」
「じゃあ、そうしましょ」
ボストンバッグを開いて洗面用具や着替えを取り出す。
「洗面所、借りるわよ」
「いいよ」
テレビは医学番組を映している。胆石の治療について語っている。胆のうというものは、手術して取ってしまっても、さほど困ることはないらしい。胆汁《たんじゆう》の貯蔵庫。貯蔵庫がなくなれば、肝臓からいきなり胆汁が供給される。つまり倉庫ぬきの産地直送システム。胆のうは、もしやひまだから石なんか作ったりしてるんじゃあるまいか。
麻美が花がらのワンピースに着替えて現われた。
「一応ビーチ・サンダルを用意して来たの」
「うん。俺《おれ》も持って来た。いい?」
「せっかちね。ちょっと待って」
筒型のビニール・バッグに小物を詰めている。しばらくはテレビに映る胆石の見本をながめながら待った。
「お待ちどおさま」
「行こうか」
手を握りあって外に出た。
一階のロビーから売店を通り抜けると、そこが屋外プールになっている。大きな鍵穴《かぎあな》のような形……。長いところでせいぜい二十メートルくらいだろう。ほんの四、五人しか泳いでいない。
脱衣所に入って水着に着替えた。日ざしは充分に暑い。プールサイドに赤い花が群がって咲いている。近づいて見るとひときわ花弁の大きいハイビスカスとわかった。麻美はオレンジ色の水着。同じ色あいのキャップを手に握っている。
「いくつ持ってるんだ?」
「水着?」
「そう」
この前は、たしか黒と白のストライプだった。
「四枚……かしら」
「本気で泳ぐってほどのプールじゃないな」
「少ないのね、お客さん」
「宿泊客は多いらしいけど」
胸を濡《ぬ》らして威勢よく飛びこんだ。麻美は梯子《はしご》を伝ってゆるゆると体を沈める。クロールで泳ぎ、バックで麻美の立っているところへ戻った。
「バックって……どうするの? すぐ沈んじゃって。お尻《しり》が重いのかしら」
まるくてかわいらしいヒップ。さほどの重量感はない。
「まずあお向けに浮くんだ、なにもしないで。静かに手足を伸ばしていれば、人間の体はかならず浮く」
「ええ……」
麻美は水の上で言われた通りの姿勢をとる。
「それから静かに足を打つ、足首をきかせて。それができたらゆっくりと手をかく、耳をなでるようにして。水面を軽くすくうような感じで……」
「駄目《だめ》。沈んじゃう」
「おかしいなあ」
手を軽く麻美の腰に当てて体を浮かせた。
「いい、これで?」
「いいよ。無理に浮こうとしちゃ駄目だ。首をあげようとするから逆に沈んじゃう。体を沈めると、かえって浮くんだ」
「なんかみたいね」
「なんだろう」
「わかんない。あるじゃない、そういうこと。浮こうとすると、かえって沈んで、沈もうとすると逆に浮いたりして」
「うん」
とっさに男女関係を思い浮かべた。追いかければ逃げる。そっぽを向いてると、むこうが寄って来る。だが、今日はそのテーマを言うのはやめておこう。
「大きなハイビスカス」
水の中から麻美が指をさした。
「やけに大きいな」
「そうね。部屋の窓からブーゲンビリアが見えたけど……ああ、あそこね」
木の枝に桃色の花が群がっている。
南の島の太陽はなかなか西へ傾かない。プールサイドの客は一人減り二人減りして、いつのまにか二人だけになってしまった。
「最後のひと泳ぎをしようか」
「ええ」
水に潜って麻美の足をすくった。
「いや、駄目。わるいんだから」
腕の中で大げさに暴れる。しっかりと抱きかかえてプールサイドまで運んだ。掌《てのひら》に太腿《ふともも》の感触が弾む。
「シャワーは部屋であびるだろ」
「そうするわ」
啓一郎は脱衣室のシャワーで体を洗った。売店のウインドーにはサンゴや黒真珠の細工物が並んでいる。見るからに美しい物は、やはりゼロがたくさんついている。
「ごめんなさい。髪、濡れているけど、いいわね」
「いいだろ。リゾート・ホテルだもん」
水のしたたるような様子でエレベーターに乗り部屋へ戻った。
「お風呂《ふろ》に入りなよ。俺は脱衣所のシャワーで洗ったから」
「そう。じゃあ、ごめんなさい」
すぐに水の響きが聞こえてきた。バスタブにお湯を入れているらしい。それから三、四十分も待っただろうか。テレビの前にすわって英会話講座、ニュース、天気予報を見た。明日もよい天気らしい。
麻美が上気した顔であがってきて、
「お腹《なか》すいちゃった」
「和食のほうがいいかな」
「どちらでも」
「これから先は肉が多い。一階に和食っぽい店があった」
「じゃあ、そこへ行きましょ」
もう八時に近い。割烹店《かつぽうてん》の名はゆうな=B
「ゆうなって、花の名前かしら」
「知らん」
メニューを持って来た店員が、
「そうです。沖縄の花です」
と答える。
「どんな花?」
「どう言うんでしょうか。木に咲いてて、黄色くて、少し赤くて……」
指先で五センチほどの花弁を作る。
「いつ咲くの?」
「いつでも咲いてます。今でも」
花の姿を口で説明するのはむつかしい。桜はどう言えばわかるか。菊はどう伝えればイメージを浮かべてもらえるか。
「そうなの?」
「沖縄の花は、あんまり季節がはっきりしないんです。デイゴは五月|頃《ごろ》ですけど、ハイビスカスとかブーゲンビリアとか一年中咲いてますし……」
「あらかた夏みたいなもんだからな」
「はあ」
メニューにもめずらしい名前が並んでいる。
「ぐるくんて、なーに?」
「白身の魚です。おいしいですよ。からあげにして」
「耳皮って、なんの耳?」
「豚の耳です」
「厭《いや》だあ。どうやって食べるのかしら」
「あえものにして。コリコリしておいしいですよ」
「ラフティーってのは?」
「豚の三枚肉を煮たんです」
「ああ、あれか」
「ピーナッツ豆腐っておいしいかしら」
「食べてみれば、わかる」
ビールを注文し、ピーナッツ豆腐、ぐるくんのからあげ、ラフティー……めずらしいものばかりを選んで頼んだ。
「いい旅になるといい」
「本当ね」
なつかしさによく似た感覚がふっと脳裏をよぎった。何カ月か前に能登《のと》の宿で法子とグラスをあげたことがあった……啓一郎の脳みそは、そんな気配を記憶の中から取り出そうとしたらしい。
――ちがう、ちがう、肝心なところがちがうんだ――
つまり……相手がちがっている。けっしてよく似たことではない。
ピーナッツ豆腐は可もなく不可もなし。予想通りの味わい。原料にピーナッツを使っているから匂《にお》いが残っている。
「これがゆうなです」
支配人らしい男が、手拭《てぬぐ》いに描かれた図案を持って来てくれた。
「むくげみたいな感じかしら」
「そうですねえー。色は黄色くて、夕方になると少し赤味を帯びます。浮気花《うわきばな》って言うんですよ、色が変るから」
「なるほど。ありがとう」
ぐるくんは、おこぜによく似た味わいだ。背骨は骨せんべいにしてカリカリと食べる。
「わりとうまい魚だね」
「こっちは魚が駄目なんでしょ」
「これが一番上等な魚かもしれない」
「泡盛《あわもり》を飲もうか」
「あんまり酔っちゃ駄目よ」
「酔いやしない。せっかく沖縄に来たんだから」
泡盛のオン・ザ・ロックを二つ頼んだ。
「軽い感じだ。どう? 一ぱいくらい平気だよ」
「どんな味?」
麻美は薬でも飲むように舌先で確かめながら飲む。
「水みたい」
「うん」
麻美はラフティーを箸《はし》の先で指し、
「肥満の大敵」
と眉《まゆ》をしかめる。
「しかし、うまい。脂っこいものを食べて、泡盛で口の中を洗うんだ」
「ええ……。本当。おいしいことはおいしいわね」
麻美は箸を取るとき、きまって左手で箸置きから取りあげ、右手をそえて握る。置くときはその逆になる、その仕ぐさが形になっている。多分これが正しい作法なのだろう。
「きれいだ、手の動きが」
「えっ? そうかしら」
お茶漬を取り、食事を終えたのは十時に近かった。
「明日はわりと早起きをしなくちゃいけない」
部屋へ戻ったところでスケジュールを確認した。
「あ、そう」
麻美はテレビのバラエティ・ショウを見て笑っている。
「八時半にここを出る。そのとき荷物をフロントへ預けておいたほうがいい。九時過ぎの飛行機で与那国へ行くから」
「ええ」
「いつも朝めしは?」
「ほとんど食べないわ」
「明日は少し腹に入れておいたほうがいい。与那国にはなんにもないかもしれないから」
「そうね」
「おもしろい?」
啓一郎もテレビをのぞきこんだ。よく見るタレントが二人、寸劇のようなものをやっている。
「べつに」
麻美も緊張している。それをおし隠すためにテレビに見入っている……。
「お風呂に入って来る」
啓一郎は浴衣《ゆかた》を取ってバスルームに入った。バスタブにお湯を満たし、体を伸ばす。ここのバスタブは外国のホテルのように大きい。またなつかしさに似た記憶が頭の中で弾《はじ》ける。
――この道は、いつか来た道――
法子と旅に出たときもそうだった。薫と町のホテルへ行ったときもそうだった。情事の前には、きっとお湯のぬくもりに身を沈めながら、来たるべき喜びを予測している。そんな瞬間がある。だれもがこんな時間を心に隠しているのではないか。バスタブのお湯を抜きながら髭《ひげ》を剃《そ》り、歯を磨《みが》いた。
「入る?」
「ううん。いい。さっき入ったから」
ソファの位置を変え、麻美と並ぶようにしてテレビを見た。
――なにを話せばいいのだろうか――
掌《てのひら》を麻美の手の甲に重ね、指と指のあいだをなぞった。
「不思議な人だ」
「どこが?」
「うまく言えない。古風なところと、現代的なところと、両方持っている」
「矛盾したところがいっぱいあるのよ。支離滅裂ね。自分でもよくわかんないわ」
「しかし、好きだな」
「そう?」
麻美はうかがうように首を曲げる。その表情を見つめながら肩に手をまわし、体を伸ばして唇を重ねた。
「まだ結婚の答を聞いていない」
「そうね。いつかキチンと答えます」
啓一郎は、その答にうん≠ニ頷《うなず》き、無理な姿勢のまま抱き寄せた。二人の体のあいだには椅子《いす》の腕がある。
「痛いわ」
麻美が体をねじる。
啓一郎は立ちあがり、麻美の腕を取って立ちあがらせた。それから体をすくうようにしてベッドの上に倒す。上体をななめに交叉《こうさ》させ、唇を重ねながら静かに乳房のありかに触れた。
「私のどこが好きなの?」
「ひとことでは言えない。存在そのものが好きだ。会ったときからこうなると思っていた」
「いい女かどうか、わかんないわよ」
「とてもいい女だ」
少しずつ抱擁が深くなる。
「いよいよ覚悟しなくちゃ駄目みたい」
麻美は笑いながら、からかうように言う。
「そうだ。覚悟をしてくれ」
「ちょっと待って。着替えてきますから」
啓一郎が腕を解くと、麻美は滑り抜け、ボストンバッグの中からネグリジェを取ってバスルームへ駈けこむ。残った啓一郎はベッドカバーを取り払い、またテレビを見ながら待った。クイズ番組に変っている。
ドアが開いた。
青地にこまかい水玉のネグリジェ。麻美はなにか片づけものでもあるのか、一、二度バスルームの中へ姿を消したが、最後にボストンバッグのチャックを閉じると、ベッドのほうへ歩み寄り、
「恥ずかしい」
とつぶやく。啓一郎が近づいて細い体を包むように抱いた。ネグリジェの下は素肌だろう。掌《てのひら》にししむらの感触がはっきり伝わって来る。
「あなたがほしい」
耳にささやきながらベッドの上に誘いこんだ。麻美は目を閉じている。今夜もやはり麻美の唇には自己主張がない。ゆるく開いてただ啓一郎の動きに委《ゆだ》ねている。
麻美は言っていたっけ。「セックスなんて、どんなにでもみじめになるものよ」と……。本当かもしれない。組み伏せられ、押し開かれ、体液を注ぎこまれる……。そんな意識を稀薄《きはく》にするためにも情事はよい舞台を選ばなければならないだろう。
腕を伸ばしてルームライトを消した。ひとつひとつネグリジェのボタンをはずして、麻美の肩を抱いた。女体はなすがままにまかせている。張りのいい、まるい乳房の上に小さな乳首が載っている。それを指先で愛した。ほとんどなんの反応もない。パンティは白地に紺の水玉。ネグリジェとちょうど反対のデザイン……。麻美のおしゃれには統一感がある。
「ポケットみたいだ」
そう言いかけて啓一郎は言葉を飲んだ。麻美は聞いていない。この場にふさわしい話でもなさそうだ。
ホテルのベッドは、上がけをきつくマットの下に折りこむ。そのために、寝る人は大きなポケットの中に入るみたいな恰好《かつこう》になってしまう。体の自由が制限される。布団《ふとん》に慣れた身には、これが少し窮屈だ。とりわけ二人で寝るときは動きにくい。啓一郎は右手で背後をさぐって上がけの片側だけをマットの下から引き抜いた。
麻美は相変らず目を閉じたまま体をまっすぐに伸ばしている。
――さあ、どうなりと――
さからいもしないが協力もしない。鼻梁《びりよう》の美しさが目立つ。端整な面《おも》ざしは、薄あかりの中でさらに美しい。
――不公平だな――
美しい女は生涯《しようがい》に何度かこんな一瞬を男たちに授けているにちがいない。その瞬間のために男が狂ってしまうような……。
啓一郎はいく度も唇を重ねながら女体を渉猟した。浅い部分から、より深い部分へとめぐった。初めは、ついうっかりと触れたように訪ね、やがて確かな愛撫《あいぶ》へと変えていく。
――手品に似ている――
相手の注意を唇に集めながら、そっと大切な部分を犯す。唇から理性を抜き取り、そのすきに指先が進む。
戦争にも似ている。ひとつひとつ領土を犯して旗を立てていく。だが……男がそう思っているだけかもしれない。女は放心を装いながら、思いのほか醒《さ》めているのではないか。男の仕ぐさを計りながら、なにかしら評価をくだしているのかもしれない。やさしい人、乱暴な人、せっかちな人、遊び慣れている人、しつこい人……。
「厭《いや》っ」
初めて麻美の唇から細い声がもれた。うわずった声ではない。あらがう意志が感じられる。愛撫をきらっているようにも聞こえる。
麻美は脚を閉じ、啓一郎の肩をたぐり、体を密着させて手の動きを防いだ。長い愛撫を好まない人もいる。啓一郎は、ななめに交叉していた体をまっすぐに重ねた。
「とてもきれいだ」
麻美は目を開き、すぐにまた閉じた。やはりさからいもしなければ協力もしない。そっと体をゆだねている。脚を押し開き、一、二度迷ったすえに女体を貫いた。その一瞬だけ堅い反応があった。
――初めてではない――
感触でわかった。予測していたことでもあった。女はゆるく、浅く男を包んでいる。一体感がとぼしい。まだ体がなじんでいないせいだろうか。啓一郎は静かに終わった。とても短い時間だった。ほんの少しだけ麻美の表情が歪《ゆが》んだ……。
――今夜はこれでいい――
しばらくは手を握ったまま肩を並べて横たわっていた。
「今日は疲れちゃった。寝ましょ」
「ああ、明日は七時半起床かな。早いから……おやすみ」
啓一郎は声をかけて自分のベッドに戻った。
朝のまどろみの中で水音を聞いた。目をさますと、麻美はすでに花がらのワンピースに着替えている。ベッドの中から手を伸ばし、唇を求めた。
「もう起きなくちゃあ。七時半になるわよ」
「うん。いい朝だ」
「そうね」
はにかむような笑いが麻美の頬《ほお》に流れてから唐突に消えた。昨日と今日のあいだに、男と女の一夜があった。その重さをどう計るか……。麻美は、むしろそっけない様子を採っている。
――それほどのことじゃないでしょ――
うしろ姿は、そう告げているようにも見える。てきぱきと荷物を整理し、事務的に動いている。
――あんまりいい気にならないで――
そう主張しているのかもしれない。
「よし」
一声あげて啓一郎はベッドを出た。サラリーマンは朝の仕度に慣れている。十分もあれば終わってしまう。
「軽く朝食をとっておこう」
「コーヒーくらいでいいわ」
出発の準備をすっかり整えたところで一階のダイニングルームへ降りた。
窓際《まどぎわ》の席。まだ太陽の位置が低い。芝生のむこうにハイビスカスが群がって咲いている。
「少し食べておいたほうがいい」
「ええ」
麻美はコーヒーとトースト一枚だけ。
「六時ごろ目をさましたの」
「うん?」
「まっ暗で、夜あけが遅いのね。時計が止まっているのかと思ったわ」
「そうかな? 南に来ているのに……」
「経度のせいでしょ。ずいぶん西に来ちゃったわけだから」
「きっとそうだ」
言われてみれば、その通り。台湾からそう遠くない経度に来ているんだ。本来なら一時間くらいの時差があってもよいところだろう。時計の六時は、五時くらいの情況になって当然だろう。
「部屋へは……戻る?」
食事を終えたところで尋ねた。
「荷物だけね」
「じゃあ取って来る」
啓一郎ひとりが部屋に戻り、ボストンバッグを二つクロークに預けた。チェック・アウトをすまして売店をのぞくと、
「どう?」
麻美は大きなストロー・ハットをかぶっている。
「紐《ひも》があるほうがいい」
啓一郎も同じデザインの帽子を一つ買い求めた。ハンチングよりはこのほうが役に立つ。
今日は石垣《いしがき》空港から日本最西端の与那国島《よなぐにじま》へ飛ぶ。それが麻美の希望だった。
「こんなに小さいの」
石垣空港の搭乗口から外に出たとたん、麻美が高い声をあげた。目の前に小さなプロペラ機が停《と》まっている。数人の乗客がタラップを昇って行く。オレンジ色の胴体にきんばと号≠ニ記してあった。
「何人乗りなんだ?」
中へ入ってシートの数を数えてみれば、スチュワーデスの席を含めて、ちょうど二十。
「大丈夫かしら」
「プロペラ機のほうがかえって安全なんだ。急に落ちることはない」
乗客が席に着くと、すぐに滑走路に出て、軽々と舞いあがる。石垣港を見おろし、サンゴ礁《しよう》の小島を見るうちに、たちまち緑の濃い西表島《いりおもてじま》の上空にかかった。鬱蒼《うつそう》たる山林の中を一本の道だけが細く走っている。川が見えた。川沿いの人家が見えた。集落は海沿いに、ほんの一、二カ所しかない。
西表島を越えると、しばらくは海が続く。飛行時間は約一時間。与那国は、西表島からもずいぶん離れた島らしい。文字通り西の孤島と言ってよい。地図を見れば、その距離感がよくわかる。案内書を見てた麻美が、
「ああ、そうなの」
と一人うなずく。
「なんだ」
「東崎《あがりざき》と西崎《いりざき》へ行くんでしょ」
与那国島はさつまいもを横にしたような形をしている。東の岬《みさき》が東崎。西の先端が西崎。太陽の運行を考えれば、この読み方は納得がいく。
「西がイリでしょ。だから、イリオモテなのね」
「なるほど」
啓一郎もうなずく。天然記念物の山猫《やまねこ》の名を聞いたときから、西表をなぜイリオモテと読むのか、不思議だった。だが、この解説を聞けば、とてもよくわかる。
「やっぱり沖縄は大陸に向いているんだ。西側の表なんだな、あの島は」
「そうみたい」
乗客は十六人。観光客らしい姿は啓一郎と麻美だけである。
「西のほうに雲があるな」
「ええ」
話しているうちに降下が始まり、たちまち滑走路に滑りこむ。
ドアの外に出ると、空港と言うより原っぱに近い。野の花の咲く細道を歩いて空港ビルへ着いた。この建物も原っぱに取り残された工場かなにかのようにポツンと建っている。タクシーに乗りこみ、観光案内を頼んだ。
「午後二時半の便で帰りますから……どことどこに行けますか?」
「全部まわれるね」
運転手のまなざしは鋭いが、人あたりはやさしい。この付近の人の特徴だ。言葉はちょっと聞きづらい。
「タクシーは何台いるの?」
閑散とした様子に気づいて尋ねてみた。
「三台です」
「観光客が多いと、乗りそこなっちゃうわけだ」
「ほんと」
運転手は黙ってハンドルを握っている。そんなことはめったにないのかもしれない。
「最初はどこですか」
「久部良《くぶら》ばりだねえ。それから西崎」
「最西端ね」
「そう。それから南のほうを走って……海水浴場、見ますか」
「途中なんでしょ」
「はあ」
「じゃあ行ってみて」
「あとは立神石《たてがみいし》、サンニヌ台、東崎」
話を聞きながら二人は顔を寄せて案内書と地図を見る。
「テンダバナは?」
「行きますか? 今、道を工事してますけど」
「行けないの?」
「裏道なら行けますけど」
「時間はある?」
「多分あるね」
「じゃあ、そこも行こう」
それから麻美に、
「いいだろ?」
と尋ねた。
「せっかくだから行けるところはみんな行ったらいいじゃない、ね?」
「わかりましたあ」
道を走っていても、ほとんど人の姿を見ない。島の人口は三千人。サンゴ石の石垣と赤瓦《あかがわら》の屋根。稲作はもう二度目の収穫も近い。
車が止まった。海の際まで低い草むらと岩肌の平地が伸びている。ところどころに亜熱帯性の植物が葉を広げている。
「なんだ?」
「これは蘇鉄《そてつ》ね。こっちは阿檀《あだん》かしら」
「そうです。よく知ってますね」
運転手が車を降りて追って来た。案内をしてくれるらしい。
「あそこが久部良ばり」
と指をさす。
「行こう」
手を繋《つな》いで足を速めた。草の平地は海に近づいて岩盤をあらわにし、その一部がザックリと唇型に裂けて切れこんでいる。深さは七、八メートル。周囲は蘇鉄と阿檀におおわれている。
「すごいわ」
「現実感があるな」
この溝《みぞ》は、昔、島の妊婦たちを飛び越えさせ、堕胎や転落死をさせたところとか。もちろん人減らし政策のためである。溝の幅は四メートルくらい。男なら飛べる。しかし身重の女体となると……。緊張感で足がすくむこともあっただろうし……。
「私は駄目ね」
麻美がのぞきこんだ。
「うん」
風景が美しいだけに悲しい。海風の中に遠い阿鼻叫喚《あびきようかん》を聞いたように思った。
久部良ばりから西崎までは近い。風景もよく似ている。低い草地と切り立った岩盤。蘇鉄と阿檀が特徴のある葉を連ねている。
「あいにく西の空が曇ってますねえ」
運転手が小高い斜面を駈け登って、ふり返る。上空は青く晴れあがっているが、西の海上に雲が厚く垂れこめている。残念ながら台湾は見えない。
「どの方向?」
「あのへんですね。ずーっと」
「どんな感じ? 水平線上にぼやっと見えるわけ?」
「いえ、もっと高いです。黒く、こんもりと」
掌《てのひら》で山の形を描く。
「残念ね。せっかく来たのに」
「想像力で補うんだな」
「中座さんの心がけがわるいからじゃないの」
「うんうん。そうかもしれん」
石を積みあげ日本国最西端之地≠ニ赤く彫りこんである。展望台と灯台があって、陸には人もなく、海には舟もない。
太陽が雲のあいまから顔を出す。海が明るく輝いた。島はただ岩を切り立たせて、その海の中に浮かんでいる。人間がいるもよし、いなくてもよし……。
周囲の風景は荒れ果ててはいるが、けっして人間たちの営みがうかがい知れないわけではない。注意深くながめれば随所に人間の手のあとが残っている。だが、自然はけっしてそんな風景と折りあってはいない。慣れあってはいない。気ままに樹木を繁《しげ》らせ、勝手に海をうねらせている。人間なんか問題にもしていない。
「行こうか」
海を見つめ、いく枚かの写真を写して車に戻った。
「ゆうなって、咲いていません?」
麻美が運転手に尋ねた。
「ときどき咲いていますけど。今度見たら言いますよ」
「お願いするわ」
「ここにはハブはいるの?」
「いません。ハブはいないし、烏《からす》もいないし」
「めずらしいね、烏がいないのは」
比川浜《ひかわはま》は遠浅の海水浴場だ。視界の果てに大きな湾を描き、湾の入口で外海が白い波を一線に引いている。その響きが風に乗って届く。
「星砂って、ここにはないの?」
貝を捜していた麻美が、車に戻ったところで運転手に尋ねた。
「ないこともないでしょうけど、あんまり聞かんねえ。竹富とか西表でしょう、あれは」
砂の中に星形の粒が混っている。有孔虫の残骸《ざんがい》らしいが、ロマンチックな響きがあるから、みやげもの店などでよく売っている。
「昔からあったの、星砂なんて名前?」
「聞かなかったね。だれか頭のいい人が、うまい名前をつけたんじゃないすか」
「ネーミング一つで、沖縄の新しい資源を作ったわけだ」
「本当ね。観光以外はあまり資源もなさそうだし」
「しかし海はみごとだよ」
サンニヌ台の絶景はどう表現したらよいのだろうか。浸食された黒褐色《こつかつしよく》の奇岩が高く、広く海岸線を埋めつくしている。遠いうねりが、ゆったりと押し寄せ、突然速足になって襲いかかる。白い波の柱が立つ。雨となって降る。波が消えると、畳々たる奇岩が、また最前の荒々しい風景を映す。軍艦島は、さしずめ航空母艦の碇泊《ていはく》であろうか。
サンニヌ台から少し離れた海に立つ立神石は、文字通り海に立つ神の姿である。緑の海と白い波の輪を裳《も》すそに置き、海面からそそり立って天を指す。対岸はけわしい岩壁になっていて、遠い角度からしかながめることができない。
「死ぬ場所なんかいくらでもあるみたいね」
麻美が長い髪を風になびかせて言う。本当だ。立入りを禁止する柵《さく》など、ほとんど見ることができない。いたるところに目もくらむばかりの断崖《だんがい》がある。高い飛びこみ台のように岩がせり出している。
「そう。簡単に殺せる」
一押しすれば……たちまち人形のように落ちて行くだろう。
――法子が好きそうな景色だな――
能登《のと》の海よりさらにけわしい。さらに悲しい。
サンニヌ台に比べれば東崎はいくぶん穏やかな景色である。押し寄せる海には変りがないのだが、岬そのものが広く海に伸び出し、全景がどこかゴルフ場に似ている。荒れ騒ぐ海は遠景になっている。黒牛の牧場にもなっているらしい。糞《ふん》が多いのには閉口してしまった。
とはいえ灯台のある最先端まで進むと、ここも垂直に落ちる絶壁になっていた。岩石を拾って投げればゴロン、ゴロンと落下して行く。はるか下のほうで海に落ちる水音が聞こえた。
「あとはテンダバナくらいですねえ。行ってみますか」
「道のわるいところね」
「そうです」
時間は十二時を少し過ぎていた。
「時間があまってもしようがないし、行ってください」
舗装道路からブッシュの中の砂利道に入った。砂利道はさらに泥道《どろみち》に変る。
案内書にはサンゴ礁《しよう》の海と美しい集落を見るのによい、と記されているが、さほどの景勝とは思えない。車を降り、丘陵ぞいの細い道を進んだ。湧水《わきみず》が貯めてある。ここにも断崖《だんがい》があった。
「ここから落としたのかしら」
琉球《りゆうきゆう》王朝の役人がやって来ると、泡盛《あわもり》で酔わせ、美しい景色を見せ、ついでにここから突き落としたとか。本当だろうか。
「あれが、ゆうなですよ」
帰り道、繁《しげ》みの中に一つだけ咲いている花があった。
「停《と》めて」
麻美が車を降りて、繁みの中をのぞく。
「やっぱり芙蓉《ふよう》のお仲間ね。花の形が似ているわ」
包むような五枚の花びら。黄色から赤へと色を変えかけている。カップの底が赤黒い。そこから長いしべが突き出ている。
「白く咲いているのは、ねむかしら」
「ああ、そうです」
「大きいわね、東京なんかで見るのより」
この島でただ一軒の食堂で昼食をとった。ざるそば……味はまあまあ。島をゆっくりと一周して四時間足らず。来たときと同じきんばと号≠ナ石垣空港へ戻った。
「もう一生のうちに二度と来ないわね」
「与那国《よなぐに》?」
「ええ」
「それはわからん」
啓一郎の脳裏をふっとよぎるものがある。
――法子と来るかもしれない――
などと。法子の好きな風景であることはまちがいない。いつの頃《ころ》からか啓一郎は、美しい景色を見ると、
――法子と来よう――
そう思うようになっていた。実現することは少なかったが、思うだけは頭の片すみで思った。そんな呪詛《じゆそ》じみた願望が今でも残っているらしい。
――いかんなあ――
遠からず法子は帰国する。麻美とのことを話さなければなるまい。法子と与那国へ来ることはありえない。
「あれが小浜島《こはまじま》だ」
飛行機の窓から下を指さした。
「これから行くんでしょ」
「そう。パラシュートでもあればいいんだが」
「本当ね」
石垣島のホテルに立ち寄り、荷物を取って石垣港へ向かった。今日の日程はいそがしい。快速艇で小浜島へ。小浜の港にはホテルのマイクロバスが迎えに来ていた。
ホテル・シーザーは新しいタイプのリゾート施設である。料金はけっして安くはないが、沖縄の海の楽しさを満喫するには、それもやむをえないだろう。麻美と沖縄へ行く話が出たときから、この島が啓一郎の頭の中にあった。
名前のとおり小さな島だが、島の面積のかなりの部分をホテルが占めている。門を入ると芝生の上を孔雀《くじやく》の群れが逃げて行く。「ミャオミャオ」と猫《ねこ》のように鳴く。広い敷地の中に石の館《やかた》が点在していた。朝が遅い分だけ、日の暮れも遅い。
「あら、きれい」
麻美が指さしたのは、池に咲く黄色と紫の睡蓮《すいれん》だった。
「この池の睡蓮は三交代制の勤務なんですよ」
ハンドルを握っている男が、麻美の声に答えて笑いながら言う。
「はい?」
なんのことやらわからない。
「朝は赤いのが咲きます。お昼近くまで咲いてて、日中は黄色い花の番。夕方近くになって紫が咲き出しますね」
「本当に?」
「ご覧になってくださいよ、泊まってらっしゃるあいだに」
「へーえ。おもしろい」
フロントで割り当てられたのは、敷地の東側のコンパートメントの一室だった。通路にそってテニス・コートがある。芝生の続く木陰には白いブランコが垂れている。ただし日が暮れてからは芝生にはいらないでください。ハブがいることがあります≠ニ注意書きがそえてあった。
「夜行性らしい」
「そうみたい」
松林を抜けて潮風が匂《にお》って来る。
到着が遅かったので、部屋に荷物を置き、すぐに本館のレストランへ戻った。今夜のメニューは鉄板焼き。プールサイドの席でポークやら野菜やらを焼いて食べる。ビールがやたらにうまい。テーブルには新婚旅行らしいカップルが目立つ。啓一郎と麻美だってきっとそう見えるだろう。
「よかった。一度行ってみたかったの。西のはしっこまで」
「すごい景色だったもんな。台湾は見えなかったけど」
「私、十六分の一くらい、中国人の血が入っているらしいのよ」
「本当に? 知らなかった」
容姿の美しさは、そのせいかもしれない。言われてみると、日本人とは少しちがった鋭い美しさがある。
「ひいおじいさんの母親がそうらしいの。十六分の一になるでしょう」
「うん。なる、なる。なにしてた人なの、ひいおじいさんは」
「よくわかんない。長崎《ながさき》あたりで商売をしてたらしいわ」
「そのくらいの混血なら、日本人の中にも結構いるんだろうな」
「でも、その頃は鎖国でしょ。やっぱり少ないわよ」
「そう言えば、日本の国際化を計るためには国際結婚のパーセンテージを見ればいいんだと。これがもっともっと増えなきゃ、いくら口先で国際化だなんて言ったってたいしたことない」
「そうでしょうね。とくに男の人で外国人の奥さんを持っている人、少ないわ」
「日本の女性は世界的に評判がいいんだろ」
「そう。アメリカ人の父、日本人の妻、フランス人の恋人。それからイギリスの家に住み、中国の料理を食べ……それがいいんでしょ」
「ドイツ語で神を敬い、フランス語で恋を語り、英語で演説をし、ロシア語で馬を叱《しか》る」
「ゴルバチョフさんが聞いたら怒りそう」
夕食後はホテルの広い敷地を散策して歩いた。薄闇《うすやみ》の中に知らない花が咲いている。麻美にもよくわからないらしい。
「白っぽいハイビスカスもあるんだな」
「黄色みたいね。東京にもあるわよ」
「これは浜木綿《はまゆう》」
「そう。でも大きいわね」
海に降りる道もあるが、
「なんだかハブが出てきそう」
「お日様の出ているときのほうがいいな」
折れ曲がった芝生の道をめぐって部屋へ戻った。絨毯《じゆうたん》を敷きつめた洋室。サンゴ石をセメントで固めた壁が仕切りになっている。
「もう少し飲もうか」
「私はいいけど。飲んだら?」
冷蔵庫をさぐって水割りを作った。時折、麻美をとらえて唇を重ねる。体を抱きしめる。麻美は目で笑い、ちょっとつきあって、すぐにふりほどく。テレビのニュースを見たあと、シャワーを浴びた。
「お湯を入れておこうか」
「ええ、そうして」
麻美が風呂《ふろ》に入っているあいだ、絵葉書を取り出し、四通ほど手紙を書いた。それでもまだ麻美はあがって来ない。
――なぜ麻美はこの旅に来たのか――
啓一郎の頭にはその疑問がある。自分で誘っておきながら、うっすらと不可解な部分がある。啓一郎としては、婚約の旅のつもりだった。婚約を確認するための旅、そう考えて計画を立てた。四六時中一緒にいてみて、そのうえで相性を考えてみる。おたがいにもう二十代ではない。そんな分別があってもいいだろう。もちろん麻美もそのつもりだろう。だが、あい変らず煮えきらない。抱きあったあとでも、その印象は変らない。
「結構強行軍だったわね」
髪を束ねてかきあげ、ネグリジェに着替えて現われた。
「明日は半日だけ西表《いりおもて》に行く」
「ええ」
近づいていきなり抱きあげた。
「いや、ちょっと待って」
うむを言わせずベッドに押し倒し、胸のボタンをはずす。あらがっても勝てないと知ってか、麻美は体の力を抜く。それをよいことにしてネグリジェをむく。下着を奪う。
「暗くしてくれなくちゃ……」
「せっかくきれいなのに」
「悪趣味よ」
「そうかなあ」
麻美はネグリジェを胸にかかえ、体をよじる。一番明るい光だけを消した。そのすきに麻美は上がけの下に潜りこむ。
「好きだ」
「ええ……」
麻美は急に寡黙《かもく》になる。静かになる。啓一郎だけが荒い動作を採る。
この夜も短い愛撫《あいぶ》のあとで体を重ねた。麻美は人形のようにただひっそりと息づいていた。
小浜島から西表島まで快速艇は海面に大きな弧を描いて走る。直線距離をとらないのは、サンゴ礁の浅瀬を避けているから……。海上にいくつもの島が浮いている。竹富島は、大潮のときには沈んでしまいそうなほど薄く、平べったい島だ。船の方向が変り、
――あれも竹富島――
そう思って見ていたら、よく似た形の黒島《くろしま》だった。さらに遠く新城島《あらぶすくじま》が見える。
西表島に近づいたところで船を乗り換え、ほんの六、七人乗りの小舟に乗って仲間川をさかのぼった。水は浅く、川幅は広い。両岸をマングローブの密生林が埋めている。灰色の、骨のような根が、枝分かれして浮き出している。よく見ると、マングローブの木は魚釣《さかなつ》りの浮きによく似た細い実をつけている。成熟した実はそのままストンと縦に落ち、湿地帯に突きささって新しい根を張るらしい。
「あれが、ゆうなかしら」
麻美が密生林の高い位置を指さす。淡い黄色の花が一つ、二つ木に宿って咲いていた。途中で岸に舟をつけ、繁みの中の泥道を踏んで、めずらしいサキシマスオウの巨木を見た。木の幹が扁平《へんぺい》な板状になって幾重にもうねっている。
「船のかじみたい」
麻美が言えば、案内人が、
「ええ、昔は伐《き》って本当にかじにしたんです」
と答えた。船のかじをいくつもいくつもスカートのひだのようにつけている、と言えば、いくらかこの巨木のイメージが伝わるだろうか。七キロの川をなかばまでのぼって小舟は帰路についた。
「川が二本あるの?」
地図を見ると、そうなっている。
「はあ。島の北側にもう一本、浦内川《うらうちがわ》です」
昨日、飛行機の窓から見たのはそちらの川だったろう。集落も浦内川の川口付近のほうがにぎやかのようだ。仲間川の川口で上陸し、みやげもの店や小さな博物館をのぞいて歩いた。
「これがイリオモテヤマネコか」
剥製《はくせい》が一つだけ置いてあった。帰りも快速艇で同じ海を走った。ホテルに戻ったのは、午後の一時すぎ。時計の一時は、十二時と考えてよい。太陽はほとんど頭のてっぺんと言ってよい位置にいる。北回帰線もそう遠くはあるまい。
「あ、ほんと」
麻美が小走りに敷地内の池に走って行く。朝はたしかに赤い睡蓮がいっぱいに開いていた。今はみんなしぼんで、替りに黄色い睡蓮があちこちに花弁を立てている。紫の花は、まだ出番ではないらしい。
「なるほど、三交代制だ」
正しくは熱帯睡蓮と呼ぶらしいと、これはフロントの青年に教えられた知識である。
貝殻の皿に盛ったライスカレーを食べ、午後はランドカーを駆ってプライベート・ビーチへ。
この海水浴場は行けども行けども首の深さほどの海ばかりが続く。しかし海底は粗いサンゴ礁の岩肌で、足の裏が痛い。泳ぐか、カヌーに乗るか、水中眼鏡を使ってのぞき見るか、あとは海浜のテラスで太陽の光をふんだんに浴びるくらい。ウインド・サーフィンや水上スキーは二人とも体験がなかった。
一泳ぎ楽しんだあと水中眼鏡とシュノーケルを借りた。潜ることなら啓一郎は自信がある。
「初めて?」
「ええ。なんだかむつかしそう」
「ここの海に来たら、これをやらなきゃ絶対つまらない。むつかしいことはないよ」
眼鏡をかぶり、シュノーケルをくわえる。
「これでいい?」
「オーケー。息は口でする。水の中に顔をつけ、息をボコボコ吐きながら泳ぐんだ」
麻美が言われた通りに体を水に浮かす。筒先が水面に立って進む。四、五メートルも泳いで立ちあがり、
「きれいね。水底がすっかり見えるわ。青くて、ちっちゃい魚が走ってたわ」
「コバルトスズメだろ」
麻美はすぐに上達した。
「明日はもっと深いところへ行く。もっとたくさん熱帯魚がいると思うよ」
「そうなの」
「で、シュノーケルの使い方だけど、下手をすると、背の立つところで溺《おぼ》れたりすることがあるんだ」
「本当に?」
「うん。筒先が水面に出ている限り問題はない」
「ええ」
「ところが波をかぶって筒の中に水が入るときもあるし、自分が深く潜れば当然筒の中にも水が入る」
「深く潜るときは息を止めてんでしょ」
「息は止めるより吐いている方が楽なんだ。潜りながら吐いていればいい」
「ええ?」
「いよいよ息が苦しくなって水面にあがろうとしたとき、浮きあがるまで少し時間がかかるんだな。ほんの二、三秒だけど。筒先が水面に出たとたん、まず筒の中に入っている水を残りの息で吹き出し、次に吸う。たったそれだけのことなんだけど、水を吹き出すだけの息が残っていないと、困るんだ。苦しまぎれに吸っちゃうから筒の中に残ってた水がいきなり肺に入る。これは苦しい。足にフィンをつけてたりすると、すぐに立てない。体の自由がきかなくなり、本当に膝《ひざ》くらいの深さのところでも溺れそうになるんだ」
「潜らずに水面をプカプカ浮いて見てればいいんじゃない? 筒先を外に出したまま」
「まあ、そうだ。でも、なんかの拍子で筒の中に水が入ることがあるから、それだけは注意しろよ。いったん吹き出してから吸う、それを忘れなけりゃいい」
麻美は海の底を見るのが、よほど気に入ったらしく、小一時間も水面に浮いて、シュノーケルの筒を立てていた。
この海で遊ぶ人の数は、見渡すかぎり数えてみても二十人を超えない。すくえばたちまち掌《てのひら》が緑に染まるほどの青い海が、ほんの数人のために揺れている。見あげればそのまま吸いこまれてしまうほど高い空が、ほんの一握りの人たちのために広がっている。
「すてきね。どうしてこんなにきれいなのかしら」
「あなたのほうが、もっときれいだ」
けっして嘘《うそ》ではない。魂が洗われるほど美しい自然も、たった一人の女の美しさに抗しえない瞬間がある。
「馬鹿《ばか》なこと、言わないで」
麻美は眉《まゆ》をひそめて、海と空との境目を見る。太陽が西に傾くと、海は金色に輝く。ところどころに散っていた金の波頭は、海面を犯すように広がり、やがて見渡す限りが金一色となる。そして沖のほうから少しずつ暮れ始める。すでにプライベート・ビーチを閉じる時間になっていた。
「行こうか」
「惜しいみたい」
「じゃあ……もう少しいてもいいんじゃないかな」
「ええ」
影法師がどんどん長くなる。いつのまにか潮が退《ひ》き始めていた。
「行きましょうか」
今度は麻美のほうがつぶやいた。ランドカーを走らせて行く途中に金網を張った小屋がある。朝顔によく似た花がいっぱいにからみついて咲いている。しかし紫の色がちがう。もっと淡い。葉の形もちがう。
「なにかしら」
「ヤエヤマオオコウモリって書いてある」
「そんな名前なの?」
「あ、ちがった、ちがった。この檻《おり》にコウモリがいるんだ。花の名前じゃない」
「どうりで、へんだと思ったわ」
コウモリの姿は見えない。花の群れだけが目立つ。たまたま通りかかった園芸係のおじさんに尋ねてみた。
「モミジバヒルガオですね。葉っぱがモミジに似ているから」
紫と白の草花は、ニチニチソウ、孔雀の頭みたいに豪華な花は極楽鳥花、黄色とオレンジと桃色に咲いている山吹型の花はランタナだと教えられた。
「もう少し散歩しようか」
「そうね」
プライベート・ビーチとはべつな海に出て、空が明るさを失うまで貝を拾った。バスルームで潮と日ざしにさらされた肌を洗い、レストランへ行ったときは、もう夕食のメニューを締め切るぎりぎりの時刻だった。
三日目の夜は、二人の営みにいくばくかの進展があったと言うべきなのだろうか。やはり薄闇の中で、短い愛撫のあとで体を重ねた。
けっして性の体験のない女体ではない。それは気配でわかった。肉体の微妙な反応からもわかった。
女性のセックスについて、人はよく初めてかどうかを問う。処女性を信奉するのは、古今東西どの民族にもほとんど例外なく見られる風俗だ。むしろ現代が一番その呪詛から遠のいているときかもしれない。啓一郎は、ほとんどそのことに拘泥《こうでい》しない。情報の一つと考えているだけ……。これは本当だ。
――俺《おれ》は少しおかしいかな――
そう思わないでもないが、これからはだんだんこんな考え方が普通になっていくだろう。
情報ということなら、問題は一回の性体験だけではあるまい。性体験のある人とない人と、区分があって当然だが、しかし一回と五回は同じことなのか。十回も五十回も百回も、みんな十把《じつぱ》ひとからげというのは、情報として精密さを欠いている。それぞれにずいぶん異なっていることだろう。
――麻美はどうかな――
初めてかどうか、古典的な区分ならやさしい。確実に体験があるだろう。だがその先がわからない。どの程度の体験か。この情報は、おそらく麻美の性格や生き方とかかわりがあるだろう。知りたいような、知りたくないような……。
稚拙と言えば、稚拙な反応である。とても頼りない。しかし、それは経験の問題ではなく、体質の問題のようにも感じられる。あるいは血液の中に染《し》みこんだモラルかもしれない。そんなはしたないことを、といったふうな価値観……。いきおい啓一郎ひとりが貪《むさぼ》っているような印象になってしまう。
「重いわ」
行為のさなかにつぶやく。
「うん」
啓一郎が一点に喜びを集めたとき、麻美の腕がほんの少しだけ抱擁の力を強めた。それが初めて示した反応だった。女体の反応というより儀礼の一つのようにも感じられた。
――薫とはちがう――
法子ともへだたりがある。愛の深さやなじみの深さとはべつに、体の構造に本質的な差異がある……。
先に眠ったのは麻美のほうだった。啓一郎は常夜灯のあかりを少し明るくして、そっと寝顔を見つめた。目尻《めじり》の小じわが目立つ。しかしこれはまちがいなく大好きな横顔だった。
シーズン・オフではあるけれど、このリゾートには新婚旅行客を含めて数十人の旅行客が泊まっているだろう。コンパートメントは四、五室からなる平屋で、屋根の上によく孔雀が整列している。一羽が舞い降りると、つぎつぎに羽を広げて滑走する。「ミャオミャオ」と鳴きながら窓の外を歩く。カーテンを開ければ、いきなり鋭いまなざしで見つめている。
十数人の客たちと一緒にホテルが用意してくれた舟に乗ってサンゴ礁《しよう》の海に出た。嘉弥真島《かやまじま》は小浜島よりさらに小さい無人島で、
「このくらいの島なら買えるかな」
「あ、買って、買って」
啓一郎の財力ではとても及ばないが、人によっては買えるかもしれない。それほどの大きさの小島である。木らしい木も見あたらず低いブッシュが起伏を作っている。野兎《のうさぎ》がいる。ハブはいくら連れて来ても、すぐに死んでしまうらしい。
薄いスポンジゴムで作った、靴下《くつした》みたいな靴を履き、水中眼鏡、シュノーケル、フィンを渡され、嘉弥真島の磯《いそ》で潜った。
「慣れないうちはフィンはつけないほうがいいよ」
「ええ。そんなに速く泳がなくてもいいわ」
潜ったとたんに、いるわ、いるわ、大小無数の熱帯魚が狭いガラスのむこうに映った。麻美もすぐに顔をあげ、シュノーケルの吸い口を吐いて、
「すごーい」
と叫ぶ。Vサインを作る。近景はさながら熱帯魚の水槽《すいそう》に落ちたようなものである。だが、それだけではない。視野を広げると遠景が見える。深さ一、二メートルのサンゴ礁だが、ところどころ深くえぐれて四、五メートルの溝《みぞ》を作っている。さらに深い凹《くぼ》みもある。色もさまざまなら大きさもちがう熱帯魚が、遠い水の中に、あるいは深い水の底に動いていた。黄色いうちわのようなやつは黒い縞模様《しまもよう》をつけて、阪神タイガースのファンかもしれない。まっ青な細口野郎は、オレンジの襟巻《えりま》きなどを首筋に巻いて海底銀座をしたり顔で散歩している。水底に潜り、淡い光を透かして見あげると、麻美がオレンジの魚となって揺れている。水中眼鏡とシュノーケルをつけた頭は、不思議な生き物のようだが、しなやかな腰の凹みは、たしかに昨夜この手で触れ、この腕で抱いたものだ。
「上から見てたら、すごくすてき」
麻美のほうは上から暗い海の底に落ちていく啓一郎を見ていたらしい。昨日の訓練が役立った。同行の女性たちの中にはまっ青な顔色で舟べりにつかまっている人もいる。シュノーケルをうまく使うのは、思いのほかむつかしい。
「ごめんなさい。本当に疲れちゃった。今夜は寝かせてくださいな」
たしかに少々強行軍だったかもしれない。シュノーケルを使って、たっぷりと三時間くらい鮮やかな熱帯の魚を見てすごした。その前には快速艇を走らせ、仲間川をさかのぼった。一日中南国の強い日ざしにあぶられていた。夕食に飲んだビールが体をグニャグニャにしてしまう。麻美は真実疲労|困憊《こんぱい》のていだった。
それでも啓一郎は、何度か麻美の唇に触れ、乳房に触れ、一つベッドに寝ることを、それとなく誘った。
しかし、麻美は気づかない。応じない。押し倒して肌着に触れると、
「今夜は本当にいや」
眉根《まゆね》を寄せ、はっきりと拒否の表情を示す。こんなときにはいつも言葉の抑揚が少しけわしくなる。それぞれのベッドに入ってあかりを消した。
「熱帯魚って、なんのためにあんなにきれいなのかしら」
少時《しばらく》海の底の話が続いた。
「敵を威嚇《いかく》したり、異性を引きつけたりするためだろう」
「そうなんでしょうけどね」
人間が美しいのは、なんのためなのか。異性を引きつけるため……。ただの自己満足……。啓一郎も疲れていたのだろう、いつのまにか眠った。
翌朝、ベッドの中でまぶしそうに目を開けている麻美を襲ったが、結局は強い抱擁だけで終わった。午前中はなんの予定も立ててない。スケジュールを作るとき空白のままにしておいた。麻美が、
「もう一度熱帯魚を見たい」
と言うので、またサンゴ礁の海に出て潜った。麻美はフィンまでつけてはしゃいでいる。
――あんまりエネルギーを使わないでほしいなあ――
いじましい不安がかすめる。昼過ぎにホテル・シーザーを出発。石垣島に渡り、川平湾《かびらわん》を見てから空港に向かった。川平湾は浸食された岩と、何色かの海の水とが作る不思議な風景である。夢幻と言ってもよいだろう。ただし付近の様子が少し俗化していて夢をそこなっている。黒真珠の資料館の脇《わき》に琉球《りゆうきゆう》の民族|衣裳《いしよう》を着せて、記念写真を撮る写真師がいる。麻美が挑戦。これは本当によく似あった。
石垣島にもいくつか名勝があるのだが、それを見てまわる時間はない。那覇《なは》に飛び、ここで最後の夜を送るスケジュールである。
――また疲れた≠ネどと言い出すのではあるまいか――
懸念《けねん》がないでもない。ホテルの部屋へ入ったのは八時過ぎだったろう。
「今夜で終わりだ」
「ええ」
抱きかかえてベッドに横たえると麻美は首を振りながらもすなおに従った。
麻美の裸形は小ぢんまりと整っている。肌は白いが、ばねのようなしなやかさが感じられ、乳房やヒップはまるくふくらんでいる。ウエストはよくくびれている。薫のように、どのようにでも形を変えてからみつくのとは少しちがっている。
法子は……体型はむしろ平凡な日本人だろう。だが仕ぐさが生きている。情事を楽しむにはどうすればいいか、それを知っている。
その点、麻美はまったく正反対の位置にいると言ってよさそうだ。愛撫《あいぶ》が始まってからは、ほとんど口をきかない。息を荒げることさえ少ない。目を閉じ、眉間《みけん》に小さなしわを集めている。体の細さに比べれば、乳房には存在感がある。あおむけに寝ていても、上部になおまるいふくらみがある。乳首の小さいのが象徴的だ。
――小さいのは、未成熟を示しているのではあるまいか――
薫のように、ちょっと触れただけで感ずることはない。麻美の反応をうかがっていると、むしろ男の乳首を連想してしまう。形はそれよりは大きいが、感じかたは似たようなものではあるまいか。
抱擁を続けながら、他の女性を思い浮かべ、それと比較したりするのは、あまりよいたしなみではあるまい。しかし、それも相手の女性に気づかれたら≠フ話であろう。だれしも頭の片すみでそんなことを思っている……。
麻美の裸形はたしかに美しい。起伏に富み、むしろ官能的な印象を与える。もしかしたら乳首の小ささが、すべてを台なしにしているのかもしれない。薫や法子のことを思うと、そう考えずにはいられない。二人の場合は指先が乳首にまで伸びれば、官能の火はたちまち女体をめぐり始める。それがはっきりとわかる。麻美にはその反応が薄い。とても弱い。快感があるとしても、かすかなそよ風、そんな程度のものらしい。
――まだ慣れていないからだろうか――
開花の早い花もあれば、遅い花もある。麻美はゆっくりと咲く花なのかもしれない。結合も浅く、頼りない。
「きらいなのか」
抱擁のあとで尋ねた。
「なにが?」
「こういうこと。セックス」
一呼吸おいて、
「好き。大好きよ」
と答える。声が笑っている。一番始末のわるい答かもしれない。
「中座さんは?」
と問い返す。
「人並みだな」
「そう。私もそう。ちがう?」
「うん」
曖昧《あいまい》に答え、それから先は自分のベッドに戻って考えた。麻美が一人でいる理由が少しわかったように思った。
――男をそれほど必要としない体質なのかもしれない――
とりわけ薫との比較においてそれを感じないわけにいかない。
翌日はタクシーを雇い、島南の名所をめぐり歩いた。守礼の門、玉泉洞《ぎよくせんどう》、ひめゆりの塔、旧海軍司令部の壕跡《ごうあと》。沖縄の歴史には、どの時代を見ても悲しさがつきまとっている。
「これからは、少しはいいことがなくちゃ、かわいそうだな」
それが啓一郎の感想だった。今でも郊外の大きな地域を米軍基地が占拠している。東京まで一時間たらずで飛ぶ超音速機が空を切って消えて行く。
「どうだった?」
「とてもすてき」
「どこが」
「与那国島。それから熱帯魚」
「うん」
那覇空港を飛び立つとすぐ、左手に長い桟橋が海に伸びている。石川市はあまり知られていない町だ。
「あそこに石炭発電所があるんだ」
「ああ、そうなの」
「外国から石炭を運んで来てもサンゴ礁の海は浅くて大きな船が着けない。それであんなに長い桟橋があるんだ」
「くわしいのね」
「多少は仕事に関係のあることだからな」
新しい発電所は、濃いブルーとエメラルド・グリーンと、煉瓦色《れんがいろ》と、三色で調和を作っている。沖縄の自然に溶けこませようという配慮だろうか。
「がっかりしたんでしょ」
麻美が週刊誌のページをめくりながらつぶやく。
「どうして?」
「なんとなく」
大きな期待をかけて出発した旅だった。与那国島はみごとな奇景だったし、熱帯魚も美しかった、麻美も楽しそうだった。啓一郎の中にだけ屈託が少し残っている。
――あまりにも淡泊な情事だった――
少しずつ慣れあっていくものなのだろうか。もちろんそうだろう。だが、持って生まれた感性というものもある。音感のいい人。色彩感覚のすぐれている人。運動神経に恵まれていなければ、鍛練だけでは補えない。
「旅なんて、そんなもんじゃないのかな。帰り道は、心残りがあるもんだよ」
「そうね。でも、私、帰り道って、わりと好きなところもあるわ」
「どうして?」
「明日からまた頑張ろうって、ちょっとそんな気になるじゃない」
「それはあるな」
羽田空港からモノレールで浜松町駅まで。麻美をタクシーで送り、マンションの前で別れた。おたがいに明日からの仕事がある。旅の疲れを残しておくわけにはいかない。
「さよなら。また連絡する」
「そうね。ありがとうございました」
時間が経過すれば、どんなことも終わる。沖縄旅行もこうして終わった。
[#改ページ]
シクラメン
日時の経過には多少の濃淡があるらしい。ひどく早く過ぎるときもあれば、比較的ゆっくりとカレンダーの日付を追って行くときもある。
啓一郎の場合は、やはり仕事のいそがしさと関係があるようだ。来る日も来る日も十一時近くまで残業をして居酒屋で一ぱい。車を飛ばして家に帰り、そのまま寝る。翌日起きて電車に揺られて会社へ急ぐ。着いてしまえば、やることはいくらでもある。そのくり返し。こんなときには一日、一日の区切りが曖昧《あいまい》になる。あっと思うまに一週間や十日が流れて行く。
――もう今年もあと一カ月半か――
沖縄《おきなわ》から帰って麻美《あさみ》とは一度会ったきりだ。
「来年の企画がいろいろあって」
と、麻美もひまがない。
法子《のりこ》は月末に帰って来る。短い滞在らしいが、なんとか時間を作って会う約束を交わした。
――法子にはなにを、どう話そうか――
啓一郎は決めかねている。休日の朝、昼近くまで眠ってリビングに顔を出すと、父がはやばやとこたつの用意をしていた。
「もう?」
「今年は寒くなるのが早いらしい。机のかわりにもなるし……。どこにも行かんのか」
「うん」
「ちょっと話がある」
作ったばかりのこたつに父が足を入れる。
「なーに?」
啓一郎も父の向かい側にすわった。
「たいしたことじゃないが……かとれあ≠ニいう店に借金があるのか」
思いがけない話題だった。
「あるって言えば、あるけど……どうしてお父さんが?」
父は少し笑った。少年のような無邪気な笑いである。普段の顔はいかめしいが、この笑顔がちょっといい。相手の気持ちをなごやかにする。
「一昨日《おととい》、散歩から帰って来たら、女の人が家の前で中を見ていた。様子がおかしいからなんでしょう≠チて聞いたら、そういう話だった」
「中年の人?」
「そう。娘が酒場をやっているらしい。そうなんだろ」
「うん。ひどいな。家にまで来たのか」
「会社じゃわるいだろうと思って気を遣って家のほうに来てくれたんだ。このところお前は店に顔を見せないし、八、九月分のつけはたまったままだし」
「金額も言った?」
「俺《おれ》が聞いた。三十万とか言ってた。大変な額じゃないか。なんとかしてくれって……」
「その期間に行ったのはせいぜい二回や三回くらいなんだ。それにしちゃ高すぎるから、それでおかしい≠チてペンディングにしておいただけだよ。納得できる請求ならとうに払っているけど」
「聞きたくもない話だが、聞いてしまった。飲み代にしちゃ高い。部屋代が入っているそうじゃないか。お前が娘さんに借りてやったマンションの」
父はむしろ淡々と話す。感情が高ぶることは少ない。理詰めに問いただし、非を覚《さと》らせる。たやすく弁解の余地を与えない。
「借りてやったわけじゃないよ。むこうが勝手に借りて、その支払いをこっちにまわして寄こしただけなんだ」
「その部屋へは何度も遊びに行ったそうじゃないか」
父はあらかた聞き出したらしい。
「何度もってほどじゃないなあ」
「十回くらいか」
「もう少し多いかもしれない」
「二十回か」
「そんなに多くはない」
「独り者なんだから多少は遊んでもいいけど、相手をまちがえちゃいかん。ちょっとポットを持って来てくれ。啓一郎も飲むだろ」
「うん」
台所からポットを取って来て二つの茶わんにお茶をいれた。
「あれは花街の人だな」
「あのお母さん?」
「ああ。あんな様子をしているが、昔はお座敷で働いていた。自分が年を取ると、娘を働かせて、みんながそれに協力するんだ。そんな感じが残っている」
「うん?」
「馬鹿《ばか》な話だが、部屋へ行ったことがあるんなら、少しは飲み代以外にも払ってやらなきゃならんな。むこうはそういうシステムでやってるんだ。知らんのか、その程度のことも」
「でも、前にも三十万円を払ってんだよ」
百万円のほうまでは言い出しにくい。
「それも聞いた。その前の何カ月分かだろ。銀行の振りこみ通知を見せてくれたよ。今まではちゃんとこういうふうにいただいているのに≠チて」
なるほど。そういうことになってしまうのか。
「少しちがうなあ」
「とにかくこんな不始末は二度とやるな。一度は、まあ、許せるが、二度やるのは本当の馬鹿者だ。俺がみたところ、相手はむしろたちがいいくらいのもんだ。母親が出て来るのなんか、さほどのものじゃない。多少はお前の立場も考えてくれているしな。身ぎれいにしておくことだ。独り者は特にそれが大切だ」
父は麻美と沖縄へ行ったことを知っているかもしれない。ひろみがちょっとくらい匂《にお》わせただろう。父の言葉には、結婚前は特に身ぎれいにしておけ、といったふうな響きがあった。
「うん……」
啓一郎もそう思っている。
「お前がノコノコ出て行くと、またおかしなことになる。今回は、俺がかたをつけておいてやる。むこうの母親にも、啓一郎に確かめたうえで俺が返事をする、と言っておいた」
「俺が自分でやるよ」
「本来なら当然そうだ。しかし話を聞くと、今までのところは零点続きだな。こじれるとろくなことがない。仕事にも響く。ずるずるしてちゃいかん」
「うん」
「もう少し利巧だと思っていた。お前が出て行くと、またあとを引く。馬鹿らしいけど、一回だけは面倒をみてやるわ」
「いいよ」
「まあ、いい」
こんなことで父をわずらわせるのはなさけない。しばらく押し問答をくり返したが、父はすでにその気になっている。昔から一回目は許す人だった。そしてすべて処理がついたところで総まとめの説教がある。啓一郎としては「お願いします」とも言いかねて、黙ってお茶を飲んだ。
「お金は俺《おれ》が払うよ」
「ああ、当然だ。払ってもらう、払ってもらう。とにかくその女のところへはもう行くな。それはいいんだな?」
「大丈夫だよ」
「お前が行くと、またむこうは、もう少し関係を引き延ばそうとする。それが手なんだ。よく慣れてるよ」
「うん……」
いまいましい。薫にうまくしてやられたような気がしてならない。
「ぼつぼつ身を固めるんだな」
玄関が開き、ちょうどひろみが外から帰って来た。話はそこで終わった。
父は迅速に行動を起こしたらしい。五日ほどたって、
「昨日まえだ≠ナ連中に会ったよ」
と言う。連中≠ニいうのは薫と母親のことだろう。まえだ≠ニいうのは、半年ほど前に父と一緒に行った渋谷《しぶや》の割烹店《かつぽうてん》だ。父のなじみの店らしい。
――あのママ、どういう人なのかな――
四十歳を少し過ぎているような感じだった。あのママが花街の出身で、こういう出来事の処理によく通じていて……そんな気配がないでもない。そうであればこそ父はそこへ二人を呼んだのかもしれない。
――親父《おやじ》とはどういう関係なのか――
折衝の中身について父はなにも話そうとしない。聞いても無駄だろう。
「もう絶対に会っちゃいかんぞ。そうひどい連中じゃないが、お前にはよくない」
「お金は?」
「ああ、いずれな。とにかく会うなよ。馬鹿なまねは一度でやめとけ」
父は相手が言うだけの金額を払ったのではあるまいか。そのかわりもうすっかり縁を切ることを約束させたにちがいない。念書くらい書かせただろう。まえだ≠フママが中に入って……。表面はやさしいが、しっかりした感じの人だった。
「まえだ≠フおかみさんが、説教してたよ。あなたも娘さんがいるんだから、おかしなことはやめなさい≠チてな」
会談の様子が少しこぼれて見えて来る。まえだ≠フママが花街の出身なら、なにかしら横のつながりがあるものだ。共通の知人がいたりして。
「すみませんでした」
不本意な結末だが、トラブルはたしかに解消したらしい。
その後、薫からは二度ほど会社に電話があったらしいが、啓一郎は席にいなかった。そのうちに華厳滝《けごんのたき》を写した絵葉書が会社に届き、
母と二人で日光に来ています。もみじがとてもきれいです。いろいろとありがとうございました。お父さまはすてきなかたね。もうご迷惑はかけません。たまには遊びにいらしてね
と書いてある。いい気なものだ。
とはいえ、たしかにそんなにひどい連中ではないのかもしれない。言ってみればほんの少しわるい。大きな迷惑はかけないが、中ぐらいの迷惑はかける。そのあたりで男たちと適当に折りあっている母娘《おやこ》なのだろう。何カ月かたって、
「やあ」
とかとれあ≠フドアを押してみたいような、そんな気分が湧《わ》いて来る。危い、危い。
それよりも……今夜は法子と会う約束になっていた。六時半まで仕事をして会社を出た。地下鉄で赤坂まで。いつものホテルのロビーへ急いだ。法子は玄関|脇《わき》の石の椅子《いす》にグリーンの服を着て、脚を重ね、頬杖《ほおづえ》をついて待っていた。
「久しぶり」
けっして激しい感情ではないが、確かななつかしさが胸にこみあげてくる。そう思いながらも頭の片すみでは、
――麻美のほうが美しい――
と考えている。男はみんなそんなものだろう。法子もけっしてわるい器量ではないけれど、一瞬金しばりにあうような美しさではない。
「結構寒いのね」
「むこうのほうが寒いんだろ」
「同じくらいかしら」
「今年は冬が早いらしい。どうする? 食事は」
「食べずにいたわ。でも、そんなにお腹《なか》がすいているわけじゃないの。軽いもの。お鮨《すし》かなにか」
「いいよ。ここの地下にあっただろ」
「ええ」
連れだって大理石の階段を降りた。階段の下はコーヒー・ラウンジになっていて、そこにすわっている人は、ちょっと目をあげれば、石段を降りて来る人を見ることができる。
――この構造でいいのかな――
思いがけない不幸を作っているかもしれない。見てはいけない二人連れを見せたりする。たとえば下で麻美がコーヒーを飲んでいたりして……。
「パリは騒がしいんだろ」
「テロがね……いつ、どこで起きるかわかんないわ。でも、わるいけど、あの町って似あうのよね、政治的異変が。個人主義者の集まりだし、どこにだれがいるかわからないし」
「東京もだんだんそうなって来た」
カウンターのすみの席に並んですわった。
「飲み物は?」
「お酒をいただこうかしら」
法子はタバコを消し、長いパイプをバッグにしまった。食事のときはタバコを喫《す》わないという意志らしい。
「清酒? めずらしい」
「そうかしら。あんまりお腹がすいてないの。お昼が遅かったから。中さんは食べて」
「ああ。中とろをお刺身にしてもらおうかな」
「じゃあ、私もそれを」
燗《かん》のつくのを待ちながら手籠《てかご》の中から盃《さかずき》を選んだ。
「お待ちどおさま」
盃の大きさに比べると銚子《ちようし》は小さい。三、四回も注《つ》げばすぐにからになってしまうだろう。
「ちょっとバランスがわるいみたい」
と、法子も盃と銚子を見くらべている。
「いつ帰る?」
「しあさって」
「ずっとここに泊まってるのか」
「そう。どうして」
いつもそうなのだから尋ねるほうがおかしい。
「べつに」
「なにかおもしろいこと、ありましたか」
「ないなあ。いそがしいばっかりで」
思い浮かぶのは沖縄《おきなわ》旅行だが、これを話題にする気にはなれない。
「このあいだ、妹が結婚した」
「ああ、そうだったわね。よい版画が一つあるから新居に飾ってくださいな」
「いいよ。もったいない」
「高いものじゃないわ。手みやげがわりにいつも何枚か持って来ているのよ」
「なんだかわるいな。お酒をもう一本もらおう」
「そうね」
「俺《おれ》は飯つぶのほうも少し腹に入れるわ。白身と鯖《さば》」
「妹さん、おしあわせそう?」
「うん、まあね。保子《やすこ》のやつ、いい顔しているよ。しかし、新婚時代はみんなおしあわせなんじゃないのか」
「最初の一週間と老後がいいんですって、夫婦ってものは」
「保子たちは、おたがいにわりと普通の人間だから、折りあっていけるんじゃないのかな、俺の見たところ」
「結婚には、大ざっぱで、普通の人がいいわね。できればプラスチックみたいな人。どんなふうにでも形を変えられる人。あんまり特別な人と一緒になったら大変だわ」
「おたがいに駄目かな」
「中さんはそうでもないでしょうけど、私は駄目。わがままな生きかたをやっているから」
「自分でそう思う?」
「思うわね。結婚は重いわ。どんなものにでも自由に対応していけるように、自分自身も自由でいたいわ」
何度か聞いた言葉だった。能登《のと》の宿では、この言葉のあとに法子は「中さんも自由にして。あなたもそれが似あう人なんだから」とつけ加えていた。
――あれはどれほど強い願望だったのか――
たしか抱擁のすぐあとで法子がもらした言葉だった。ベッドのぬくもりの中で聞いた言葉だった。心の一端を伝えるような、たしかな響きを帯びていたが、あの言葉はどれだけ法子の理性をくぐり抜けていたのか。
人間はいろいろなことを考える。たとえて言えば、啓一郎自身、頭の中にいつも議会を持っている。けっして一つのことだけを考えているわけではない。頭の中にAという議員がいる。Bという議員もいる。みんなそれぞれに主張を持っていて意見を述べたてる。派閥を作って声を高くする。なにかのはずみでA議員の発言が、啓一郎の言葉となって外に発せられることもあるだろう。しかし、結論は、B議員の主張のほうへ傾いたりする。
――君が好きなんだ――
A議員の発言としては正しい。一部にはたしかにそういう意見もあった。だが、長い論争のすえ、A議員の主張は過半数を超えることができず君が好きなんだ≠ヘ啓一郎全体の主張とはならない。法子に対して、啓一郎はいつだって、
――君が好きなんだ――
と叫ぶことができる。それを主張するかなり多数の議員集団がいて、その声はいつでも一定の力を持っている。これは本当だ。過半数を超えている時期もしばしばあっただろう。
だが今は……今は、
――麻美が好きだ――
と、その声が蝟集《いしゆう》して、少しずつ結婚という行動のほうへと進みかけている。
――法子だって同じだろう――
と、啓一郎は法子の頭の中を想像する。
能登のホテルで法子は「中さんも自由にして」と言っていたけれど、あれは結婚などしないで、私が帰って来たときに親しく迎えてください≠ニ、そういう意味なのだろうか。
そうだとすれば、それは法子の一つの願望にはちがいないが、おそらく過半数を超える判断ではあるまい。法子はそこまで他人に要求をする人ではない。願望は願望として四十パーセントくらい持ちながらも、あとの六十パーセントは、
「そうね。あなたも結婚したほうがいいわ」
と、妥当な判断に傾く。つまり「中さんも自由にして」というのは、ベッドのぬくもりの中でこぼれた一部議員たちの叫び、ということになる。ベッドのつぶやきは、とりわけ一部の主張であることが多いものだ。
「食べないのか?」
刺身だけを食べている法子に尋ねた。
「そうね。じゃあ鉄火巻き。すだれでまいてくださいな」
「同じものをもらおうかな」
啓一郎のほうは、ほぼ一人前の握り鮨を平らげていた。
「タバコがほしい」
「はい」
バッグの中からタバコと長いパイプを取り出し、法子は自分も口にくわえた。
カウンターの上には、あなごの握り鮨が|一ケ《いつこ》、黒褐色《こつかつしよく》のたれを流して載っている。二人は無言のまま煙を吐き、お茶をすすった。今夜は法子も寡黙《かもく》である。なにかを感じているのかもしれない。
――一番よく理解しあっている二人のはずなのに――
それでもなおなにほどかのわだかまりがある。男と女だから……なのだろうか。それとも人間はどの道、本当に折りあえることなどないのだろうか。
「出ようか」
「ええ。ごちそうさま」
店員たちの声を背後に聞いて席を立った。
「俺が払う」
「いいわよ」
「ごちそうさま≠チてのは、ごちそうになったときに言う言葉じゃないのか。フィロロジカルに言えば……」
意図的になつかしい台詞《せりふ》を告げた。「フィロロジカルに言えば」というのは、若い頃《ころ》の法子の口ぐせだった。訳せば言語学的に言えば≠ュらいの意味だろう。ちょっとペダンチック。このごろは法子も言わない。
「一食を恵みたもうた神様に対してごちそうさま≠チてこともあるんじゃない。いいのよ。どうせ出張中の費用だから」
笑いながらサインをしている。人目の多いコーヒー・ラウンジを通りぬけ、そのままエレベーターに乗った。数字が次々に点滅して三十三階に止まった。
「どうぞ」
「うん」
法子がキーを取り出してドアを開ける。
「テレビ局あたりじゃ夜中に会ってもおはようございます≠チて言うらしい」
「おかしいわね、フィロロジカルに。でも、フランス人だってボン・ソワール≠ネのよ、真夜中だって……。ソワールというのは、本来は夕方でしょうけど。飲みます?」
机の上にファイルが散っている。だが荷物はおおむねきれいに片づけてある。
「そうだな、ビールくらい」
「じゃあ、出して来てくださいな」
テーブルを挟んで椅子《いす》を引き寄せた。
大きな窓を半分に割って夜の町が光っている。高速道路の帯の上にはいくつものテールランプがゆっくりと動いている。
――ここまで来たら、もう抱きあわないわけにはいかない――
いつもそうだった。法子は船が港に寄るようにそれを待っているだろう。啓一郎も欲望に耐えられそうもない。知的な情事――奇妙な表現だが、法子のマナーはどこか垢《あか》ぬけている。美意識がみなぎっている。
「ちょっとくつろいでいいかしら。朝からバタバタしていて。このスーツ、少しきついの」
スーツの襟《えり》をゆるめて肩をほぐす。シャワーを浴びて夜着に着替えるつもりらしい。
「どうぞ」
「先に入る?」
「いや、あとでいい」
「ビールを飲んでいらして」
水色の夜着を抱えてバスルームへ消えた。もう情事ははっきりと助走の道に入りかけている。啓一郎の頭の中の議会は、
――今夜はとりあえず法子を抱きましょう――
と、その方向に傾いている。多少のぎくしゃくはあっても結局はそうなるだろう。啓一郎はグラスの中のビールに問いかけた。
――それぞれにちがっているんだよなあ――
当たり前のことだが、そんな思案があらためて心にのぼって来る。薫との情事。麻美との情事……。
二十代には、ただ女性の中に体液を放出することだけを考えていた。情事の中核はただそれだけだった。三十代になって、あらためて情事というものの本当の意味を考えるようになった。明確ではないけれど、なにかしらおぼろに見えて来るものがある。
――男と女は抱きあってみなければわからない――
抱きあってみてもなおわからない部分もある。思考が集中力を欠いているらしい。むつかしいことは考えずに、今はただ流れのままに従って、久しぶりに心地よい抱擁に浸ろうと、気分はそのほうへと急速に流れ始めている。
「お先にどうも……。湯船にお湯を入れておいたわ」
ドアが開き、強い水音が聞こえた。
「うん。ありがとう」
啓一郎も浴衣《ゆかた》を持って立ちあがった。バスルームの鏡は湯気で曇っている。掌《てのひら》で白い曇りを拭《ぬぐ》った。見慣れた顔がそこに映っている。ながめているうちにもまた曇り始める。湯船につかったまま体を洗った。
――麻美は今、なにをしているかな――
まだ仕事の最中かもしれない。このくらいの時刻には家に電話をかけても、ほとんどいない。たった一人の生活なら、早く家に帰ってもつまらない。仕事がなくても、どこかで時間を潰《つぶ》しているだろう。
目を閉じて、麻美の裸形を映し出してみた。日本女性の細さを保ちながらバストとヒップはまるく脹《ふく》らんでいる。インドの壁画を一、二割おだやかにでもしたように……。バスタオルで体を丁寧に拭って、ホテルのマークの入った浴衣を着た。
法子はベッドの背に枕《まくら》を立て、それによりかかって細長いパイプをふかしていた。そのうしろに顔だけ黒く塗られた裸婦の絵がある。
法子が視線をななめに移して、
「秘密があるみたい」
と言う。
「えっ?」
「その女の人に……。表情が黒く潰されていて。線はエゴン・シーレに似ているけど」
と顎《あご》で壁の絵をさす。
「ああ、そういうことか」
つぶやきながらベッドの隣に足を入れた。
――秘密があるみたい……か――
絵の中の女も秘密を隠しているらしいが、絵の外の男も少し秘密を持っている。
「このあいだターナーの絵を見に行った。上野にごっそり来ていた」
「ああ、そう。めずらしいわね。中さんが展覧会を見に行くなんて」
「そうかな。あんたとはよく行ったじゃないか。詩情があって、とてもきれいだけど、みんな同じ絵みたいに見えたな」
「ターナー? そんなとこもあるわね」
手首がパイプを離れるのを待って指先を握った。節高の細い指……。よく見ると透明なマニキュアが光っている。
「恥ずかしい」
法子は毛布の下に指を引いた。その瞬間にいつもの香水が匂《にお》いを崩す。
――これが法子――
官能に刷りこまれた条件反射なのかもしれない。今までに重ねたいくつもの情事がよみがえって来る。
「匂《にお》いってものは不思議だな」
「ええ……?」
「一番頼りない感覚なのに、一番強く記憶を運んで来る」
「ビタミンCを消耗するらしいわよ」
「なんで?」
「匂いをかごうとすると。香水の調香師なんかレモンをまるかじりにして仕事するの」
「ふーん。じゃあ、あとで俺《おれ》もレモンを食べておこう」
鼻をクンクンさせながら肩を抱き寄せ、悪戯《いたずら》でもするように唇を寄せた。法子は啓一郎に下唇を含ませ、それから首をすくめて身を引く。そり身になって啓一郎を見る。それを見返して、
「目がいい」
「いつもそれね」
「ほかもいい」
もう一度肩を抱いて、今度はしっかりと唇を捕えた。また香水が匂いの水脈《みお》を崩す。
「あかりを消してくださいな」
「うん」
部屋のあかりを暗くした。ベッドに戻って肩から夜具を奪った。下にはさらに薄いネグリジェをつけている。首から肩へとぬくもりを追いながら肌《はだ》をあらわにした。法子は静かな姿勢で啓一郎の動作を見つめている。
しかし、すぐに法子らしい反応が始まる。啓一郎の示す七のアクションに対して法子は三のリアクションで応《こた》える。そのあたりのほどのよさが、知性の働きを感じさせてくれる。愛のさなかには、女はこのくらいの反応がよろしいと、心で計っているような部分がある……。
どこかに演技が含まれているのだろうが、上質な芸事と同じように法子はほとんど演技を感じさせない。自然でありながら美意識の抑制が利いている。
茶道はその道の師範に師事すればいい。バレエにも専門のトレーナーがいる。だが、愛の仕ぐさは、だれも教えてはくれない。自分の頭で考えるよりほかにない。とりわけ女性の役割はむつかしい。粗い営みを、人間の愛にふさわしい姿に整えるためには、やはり理性が関与しなければなるまい。度を過ぎては、たちまち卑猥《ひわい》になる。しかし、なにほどかの卑猥さも情事には欠くことができない。
そう、薫にはほとんど美意識がない。山を焦がす火のようにとめどなく燃えたぎり、深く、深く官能の闇《やみ》へ落ちていく。卑猥さそのものの中へのめり込んでいく。麻美は……たしなみのよい人形みたいに息をひそめている。
――人それぞれにちがっている。ちょうどいろいろな花があるように――
ある一線を超えると、法子の理性も薄くなる。官能の波が美意識を侵し始める。
「いや……」
そのことをみずから恥じるような表情が、男の興奮をそそる。そして、次第に卑猥《ひわい》な領域へと移って行く。
――これもほどよい演技なのだろうか――
変化のさまが、なにかしら人間の心を楽しませる法則に適《かな》っているような気さえする。たとえば序破急……。たしか能狂言の用語だったろう。序はゆっくりと滑らかに始まり、破は一転して変化を示す。急は急激に昇りつめて行く。
――ああ、そうか――
寺田|寅彦《とらひこ》の随筆で、線香花火の輝きを、そんなふうにたとえたのだった。学習塾《がくしゆうじゆく》のテキストで読んだ……。法子もゆっくりと滑らかに官能の波に洗われ、ある境を超えてうねり始める。
「中さん……」
破から急へと移って、息遣いが荒く、早く、スタッカートをきかせる。啓一郎も女体の変化にあわせて序破急を踏み、注ぎこんだ。
そして沈黙。静けさがやって来る。やすらぎがひたひたと押し寄せて来る。
「メルシー」
法子がさわやかな笑顔で笑った。
「男と女の愛って、なんなのかな」
部屋のあかりを少し明るくして尋ねた。頬杖《ほおづえ》をつき、顔を法子のほうへ向けた。とても曖昧《あいまい》な質問……。答えるのがむつかしい。
「人間は愛せるかどうか、初めにその疑問があったの」
法子は深遠な哲理でも語るようにつぶやく。
「うん?」
「だって煎《せん》じつめれば、みんなエゴイストでしょ。結局は自分大事で、他人のことは二義的でしかないわ。愛なんて、本当にあるのかしら」
「まあ、そうだな」
「ローレンスじゃなかったかしら。同じ疑問にぶつかって……」
「チャタレー夫人≠フローレンス?」
「そう。D・H・ローレンス。人間は簡単には他人を愛せないけれど、セックスってものを考えれば、男はどうしても女を必要とするし、女も男を必要とするわけでしょ。自分だけじゃどうにもならないの。必要であるというのは、愛の始まりよ。そこを原点にして愛をはぐくめばいいんじゃないかって、そう考えたみたいよ」
たしかにこれは深遠な哲理かもしれない。
「論理としてはおもしろい」
「ええ」
「でも、どうかな。本当にそれが原点になるかどうか。セックスのあと、さらに深いエゴイズムを感ずることもある」
「それは……あるわね」
「だから困る」
「結局は、あんまり愛になんか期待しちゃいけないのかしら……。赤い火みたいなものなのね。燃えているときだけ存在しているの。捕えようもないし、形も定まらないけれど、そのときの熱さだけはたしかなのね」
「うん……」
どこからか水音が聞こえる。隣の部屋の宿泊客が帰って来たのだろうか。
「好きな人、できたわね」
法子が視線をはすかいに集めてつぶやく。頬が笑っている。
「どうして?」
「わかるわ。中さんは嘘《うそ》が下手だもの。ターナーを見に行ったのも、そのかたと一緒ですか」
「いや、ちがう」
ターナー展を見たのは、上野駅まで部長に頼まれた資料を届けに行ったから。時間が余って、ついでに見ただけだった。しかし麻美とは沖縄へ行っている。どこかにその匂いが残っているのだろう? 法子に嘘をついてはいけない。はっきりと告げておくべきだろう。
「実は……」
言いかけると、法子が唇に人さし指を立てた。
「どうして?」
「聞かないほうがいいみたい」
ゆっくりと首を振る。すぐには法子の考えていることが飲みこめない。
「なぜ?」
法子の顔をのぞきこんだ。
「聞いて楽しい話じゃないわ」
「うん」
法子でもやっぱり……。
「普通の理由と、ちょっと深い理由と……二つあるみたい」
「普通のほうはわかる。深いほうがわからない」
新しい恋人ができたという話を古い恋人が聞いて楽しいはずがない。法子はまたパイプをくわえた。
「そうね。なんて言ったらいいのかしら。礼儀として……」
「礼儀?」
麻美《あさみ》に対する礼儀だろうか。法子は独りこっくりとうなずいてから、
「あのね、私、中さんとの関係、とてもすばらしいものだと思っているの」
視線をタバコの煙にすえて、一語一語ゆっくりと言う。
「俺《おれ》もそう思っている」
「本当に? ありがとう。うれしいわ。男と女の関係って、いろんな形があるんでしょうけれど、私は私なりに一番自由で、一番よいものを選んで来たつもりなの。そのつど、そのつど、中さんが必要だったわ。いつ終わってもいい、そのかわり今は本当にあなたを必要としているんだって……そう思って来たの。それがずっと続いて来たわけでしょ、十年以上も。一生が終わるとき、まちがいなくあれはすばらしい関係だったって、私は思えるわ。だれにも負けない……そのかたにも」
「うん?」
「でも、それは私が思っているだけでいいの。中さんはそのかたと幸福になるでしょうし、ならなくちゃあいけない。そのかたも当然その権利があるわ。でもネ、今、中さんからそのかたの話を聞いたら……私、きっと思うわ。ああ、そんなかたなの、月並みの愛ね、たいしたことないわ、なんて……。たとえばの話よ。私は自分のやったことが最高だと信じているから、そのかたには絶対に負けないの」
「なるほど」
「どんなによい話をされても、私だけの意識としては、誇り高く聞くことができるの。中さんも、きっと気を許してそのかたのことを私に話すわ。あなたは私に甘えているし、私にそんな話をすること自体が気を許していることですもの。そういうなれあいが、そのかたにとって一番失礼だし、私もあと味がわるい……」
「甘えているかなあ」
「うふふ。自覚症状がないの? いいのよ、それはそれで。でもこれからはもう駄目」
「今日、最初からわかっていたのか、さっき会ったときから」
「なにが?」
「好きな人ができたらしいって……」
「最初からじゃない。千里眼は持っていないわ」
「じゃあ、いつ? 抱きあう前にわかった?」
「少しずつ……。終わったときに終わったと思ったわ」
「主語がないな。フィロロジカルに言えば」
「補ってくださいな」
屈託のない笑いが法子の頬《ほお》を揺すっている。
――この人と別れてしまって本当にいいのだろうか――
頭の中の議会が、また激しい票争いを始める。たしかに麻美は美しい。一瞬の表情のために一生を費やしてもいいと、そう思いたくなるときがある。
――でも、ただそれだけ――
あとは平凡な女。平凡プラス美貌《びぼう》、啓一郎はそれを選ぼうとしている。
――平凡ならそれでいいではないか。美貌の分だけ儲《もう》けものではないか――
麻美を選ぶ理由は、煎《せん》じつめればそんなところだろう。沖縄旅行の最中にはそう考えた。今もそう考えている。これからは麻美となじんでいかなければいけない。
「いつかこんなときが来ると思っていたのよ。情景まで考えていた通りなの。ベッドの上で、私がタバコを喫《す》っていて」
声がなごやかに響くのは法子の強がりかもしれない。自尊心の発露であることはまちがいない。
――法子は本当に俺と結婚することを考えていなかったのだろうか――
いくら法子だってそう強くはあるまい。たてまえと本音があるだろう。十数年続いた関係をそう簡単に破棄できるはずがない。しかも、こんな形で。
「平気なのか」
「さびしいわね。でも仕方がないでしょ」
「あっちを……やめようか」
「なにを言ってるのよ」
けわしいものが法子の眉《まゆ》のあたりをかすめた。
「君にわるくて」
「そんなこと、ちっともないわよ」
「本当に結婚を考えていなかったのか、俺と……」
法子がまじまじと啓一郎の顔を見つめた。
「あなたはいい人よ。本当に。私は好き。でも、うぬぼれないで。そこまではあなたを信じてないわ。ごめんなさい」
口調はとても軟らかい。だが鋭利なものが啓一郎の背筋をスーッと切って通り抜けた。法子からこんな感覚を感じさせられたことはなかった。
「それならいいけど」
突っぱねるようにつぶやいた。
「言いかたがわるかったみたい。中さんならわかってくれるはずでしょ。一人で自由に生きて行くのは、少し大げさだけれど私の思想なの。逆に言えば……そうね、結婚というものを信じていないのね。今、あなたを選んで、思想を捨てるわけにはいかないわ。そんなやわな覚悟で始めたことじゃないんですもの。自分の思想や生き方を捨てるほどにはあなたを信じられないということ。だれも信じられないということ。おわかりいただけますか」
「わかる」
たしかにだれよりも啓一郎がわかるべきことだろう。
――でも、女として――
そんなことを言ったら、またきびしい表情が返ってくるだろう。
――これも法子のサービスなのかな――
頭の中の議会でささやくやつがいる。つまり、啓一郎の心の負担を軽くしてあげようという……。
――むこうも飽きたんじゃないのかな――
そんなささやきも聞こえる。十数年も続いた関係だ。法子のほうがいやになるということもあるだろう。しかし、どちらも少数意見でしかない。有力な判断にはなりにくい。法子は、大切なことになればなるほど嘘《うそ》をつかない。つとめて明快なことを述べようとする。ここは言葉通りに受け取ってよいだろう。
「わかったよ」
重く、きっぱりと告げた。
「そう。よかった」
「ビールを飲みましょうか、あそこで」
とテーブルを指す。
「そうだな」
立ちあがって浴衣《ゆかた》を着た。
背を向けているあいだに法子も夜着をまとって帯をきっちりと結ぶ。そんな仕ぐさにももう二度と結び目を解かない意志が感じられた。
「一番初めはなにを飲んだろう、俺《おれ》たち?」
「コーヒーじゃないのかしら」
大学のキャンパスの付近……。
「覚えてる?」
「覚えてないわ」
「俺も覚えていない。これからずっと続いて行くとわかっていれば、これが始まりだって覚えているだろうけど、そうじゃないからな。毎日いろんなことが起きている。その日だけで消えて行くものがほとんどだし」
「そうね。終わりのほうは、わりとよく記憶に残るけど」
啓一郎が冷蔵庫からビールを取り出して、二つのグラスに注《つ》いだ。
「じゃあ」
「おしあわせに」
「わからん」
「パリに来ることなんか、ないのかしら」
「ヨーロッパか。近い将来にはないな。ただ、鉄の神話も崩れちゃって、これからはいろんなことを考えなくちゃいけない。今までの実績をまん中にすえて、同心円みたいに仕事の領域を広げて行かなきゃいけないんだ。ベンチャー・ビジネスなんかにも少しは色目を使ったりして」
「本当に?」
「だからなんかのはずみで、まったく新しい仕事でヨーロッパへ行くことがあるかもしれない」
「そのときは、どうぞ」
「うん。よろしく」
二本のビールをゆっくり飲んだ。
「さよなら」
「さようなら」
十一時近くまで語りあって部屋を出た。弁慶橋まで来て、ふり返ってホテルの窓を仰いだ。
――たしか三十三階――
エレベーターからそう遠くない部屋だった。
――あの窓かな――
薄あかりの窓がある。人影が立っているようにも見える。
もしかしたら、別れの夜、窓から啓一郎のうしろ姿を見送ることも法子の予測の中にあったことかもしれない。
無性に麻美に会いたくなった。電話ボックスに入ってダイヤルをまわした。呼び出し音が八回鳴り、もう切ろうとしたとき受話器をはずす音が聞こえた。
「もし、もし」
「もし、もし、中座です」
「あら……。どうして? なにか」
「会いたい」
「風邪を引いているの」
たしかに声がかすれている。
「寝てたのか?」
「ええ。熱がちょっとあるみたいで」
「どのくらい」
「さっきは三十八度、今は少し楽になったけど……」
「会社を休んだのか」
「ううん。校了が近いから休めないの」
「会いたい。ひとめだけでいい」
「今から?」
「うん。タクシーを飛ばして行く」
麻美は答えない。電話は沈黙にふさわしい器具ではない。
「いいね?」
「どうしても?」
「どうしても。たまにはわがままを言わせてくれ。すぐに帰るから」
また返事がない。
「いいだろ。行くよ?」
「気が進まないわ。大切なお話でもあるの?」
「そうでもないけど」
今、麻美に会うことが大切な用件なんだ。この女が一番いい女なんだ≠ニ、そう思うことが必要なんだ。これより大切な用件がほかにあるだろうか。
「じゃあ今日じゃないとき……」
「今、会いたい」
「どうかしたの?」
「うん。今夜は少しおかしい」
「厭《いや》あねえ」
「ほんのちょっとだけだ。行くよ」
無言のままの受話器を置いてボックスの外に出た。車を拾い、
「広尾まで」
と告げた。ガス工事のため道路が混んでいる。簡単には進めない。十分で着くはずの道のりなのに三十分もかかった。大通りで車を捨て、小走りに夜の道を走った。マンションの階段を駈《か》け昇った。ブザーを押す。
「はい」
細い声が聞こえ、のぞき穴から漏れる光がさえぎられた。
「帰って」
ドアは細く開いたが、ドア・チェーンがかかったままだ。麻美の顔が半分だけ見えた。
「ほんの少し」
「ご近所があるでしょ」
「すぐ帰る」
ドア・チェーンがはずれた。
「会いたかった」
ドアをうしろ手にしめて麻美の手を取ろうとした。麻美は子どものように両腕を体の背後に隠す。
「なんの用なの」
口調が苛立《いらだ》っている。目が落ちくぼんでいる。熱を帯びた病人の顔……。
「ひとめ見たかった」
「こんな顔を? 悪趣味ね。もう見たでしょ。本当に帰って。来週にでも連絡しますから」
拒否の姿勢は堅い。たしかに苦しそうだ。
「うん。お大事に」
退散するよりほかにない。それでも一歩踏みこんで、ガウンに包まれた体を抱いた。唇《くちびる》を寄せたが、麻美は顔をそむける。頬《ほお》に触れた。熱気が感じられる。
「熱がある」
「そうよ」
体の熱さを計るように胸に手を忍ばせた。ガウンの下は薄いパジャマ。その下に無防備の乳房があった。
「厭っ」
身をよじって避ける。
――これに触れただけでもよかった――
啓一郎は手を抜いて、
「ごめん。とても会いたかったから……。おやすみ。来週会おう」
麻美の目を見つめながら告げた。
「ええ」
ドアを開け、外に出た。すぐに鍵《かぎ》をしめる音が聞こえた。邪慳《じやけん》な音に響いた。本当に起きているのがつらいらしい。
――まずかったかな――
釈然としないものが胸の中に残った。いくら体調がわるくても、もう少し愛想があってもよいのではないか。
――冷たい人なのかもしれない――
そんな危惧《きぐ》がぬぐいきれない。
路地に出て、帰り道とは反対の方向に歩いた。五分も行くと、保子たちのマンションがある。あかりが漏れているが、新婚の家を訪ねる時刻ではない。先週訪ねたときには、保子は本当にかいがいしい女房ぶりだった。志野田も満足そうだった。絵にかいたような幸福……。
――平凡がいいんだ――
よほどの信念がなければ特別な生きかたはむつかしい。法子のことを考えた。
――あれでよかったのかな――
法子にはかなわない。人間として敗《ま》けた≠謔、な思いが残っている。それを反芻《はんすう》しながら夜の街を歩き、屋台の酒を飲んだ。家に帰ったのは二時に近かっただろう。
お妹さんの住所がわからないので、お届けください。とても楽しかったわ。ありがとうございました。お元気で
法子は、保子たちに贈る版画を残してパリに帰った。とても楽しかったわ≠フ一行が法子らしい。いつもそういう言葉を忘れない人だった。
麻美には毎日のように電話をかけたが、あい変らず体調がすぐれないようだ。
「無理したものだから、すっかりこじれちゃって」
元気な声を聞くまでには、しばらく待たなければいけなかった。
十一月の終わりが近づくと、街はもう年末の用意にかかる。クリスマスの飾りつけが始まり年賀はがきはお早めに≠ネどというポスターが目に触れる。今年の冬は寒そうだ。
「お昼休み、あいていませんか」
めずらしく麻美のほうから誘いの電話がかかって来た。
「えーと、昼がいいの?」
「できれば……」
「久しぶりだし、夜のほうがいいな」
「そう?」
尻《しり》あがりの声が聞こえ、
「じゃあ、それでもいいわ」
銀座のコーヒー・パーラーで会う約束をした。
――恋人たちは、どこで抱きあうのか――
町にはおびただしい数のカップルが潜んでいるはずだが、愛の設備には恵まれていない。法子のように気楽にシティ・ホテルを使うのはむつかしい。費用もさることながら、手続きが厄介だ。いきおいみんなが簡易ホテルを利用することになる。いかがわしい宿に誘っても麻美はすなおについて来ないだろう。
――また旅にでも行こうか――
七時半の約束。啓一郎の時計は、いつもほんの少し進んでいるから時間より早めに着いた。麻美が奥の席にすわっている。
「すっかり風邪はよくなった?」
「まだちょっと」
「今年の風邪はひどいらしい」
「毎年そんなことを言ってるみたい」
テーブルの上に紙に包んだ鉢植えが置いてある。白と赤と桃色と、三色の花が咲いている。
「これは知っている。シクラメン」
「そう。でもめずらしいのよ、三色の株を一つの鉢に植えたのは。新製品。水さえやっていればしばらく楽しめるわ」
「行こうか、夕飯?」
「いいの。食べたくないし。また会社へ戻るの」
「どうして?」
椅子《いす》に腰かけ、ウエートレスにコーヒーを頼んだ。麻美は目をあけ、
「このあいだの旅行のお金、あといくらですか」
と聞く。だいたいの金額はわかるが、こまかい計算まではしてなかった。
「いいよ、あとで」
「ちゃんとお払いする約束だったわ。厭よ、はっきりしないの。いくら?」
「あと四万円と少しかな」
「じゃあ、これで」
と、ハンドバッグの中から五枚の札を取り出す。
「多すぎる」
「雑費もかかったでしょ」
「他人行儀なんだな」
麻美《あさみ》は窓の外の人通りを見てから、
「おうちに帰るんでしょ。このシクラメンを飾って」
と、さし出す。
「しかし……どうして?」
「いろいろ考えたんだけど」
下唇を噛《か》み、一呼吸おいてから、
「私たち、やっぱり駄目だと思うの」
と笑い、すぐにその笑いが消えた。
「なにが?」
「中座さんには、私、むいていないわ」
沖縄旅行から帰って、あまりしっくりとはいっていなかった。第一、会うことができない。会えないのは麻美の病気のせいだと思っていたが、多少の不安はないでもなかった。しかし、いきなりこれを言われるとは思ってもいなかった。
「わからん。急にそんなことを言われたって……」
「ゆっくり言えばいいわけ?」
「そういうことじゃなくて……なんでそう思うんだ? 怒ってるのか」
「怒ることなんかなんにもないわ。あのねえ……お会いしたの、一年以上前よね」
視線を下に向け、低い声でつぶやく。
「うん」
「ずっと迷っていたの。中座さんの気持ちは、ある程度わかっていたし、私もいつまでもフラフラしている年じゃないでしょ。思いきって沖縄へ行ってみたんだけど……やっぱり無理みたい」
「一方的にそう言われたって」
「中座さんだって気づいているはずよ。しっくりしないなって」
「そうでもない」
「そうよ。なんとかうまくやろうと努力したけど、駄目だったの。よくよくあわないみたい」
「俺《おれ》はそうも思わないけど。どこがまずいと思うんだ?」
麻美は答えない。表情だけがかたくなに主張している。
「気に入らないところがあるんなら言ってくれ」
「言ったって仕方ないでしょ」
「どうして?」
「中座さんらしくないみたい。もっとサラっとしていると思ったのに」
くどくど聞こうものなら「そこが厭《いや》なの」とでも言いたいような口ぶりだ。
「弱ったな」
コーヒーが甘すぎる。砂糖を二度も入れてしまったらしい。
啓一郎には麻美という人格がわからなくなった。香港で会い、東京で再会したころは、とても美しい、上品な三十代を想像していた。控えめで、むしろ古風な女を考えていた。雑誌記者でありながら茶道が専門……その言葉に少し迷わされていたのかもしれない。
その次には、
――それなりのかけひきはある人だな――
と思った。つまり自分にとって一番いい結婚相手を物色している。複数の男性と適度につきあって、さしずめ気に入りのスーツを選ぶように男たちを目の前に並べて較《くら》べている。おそらく結婚の約束がなければ男と抱きあうことはあるまい。ことのよしあしはともかく、根底にそういう計算をちゃんと持っているらしい、と解釈した。そのうちに、
――モラトリアム・ウーマンかな――
などと新語を考え出した。結婚という、はっきりした形に自分を規定することを避けている。法子とはちがった意味で、自由気ままな気分でいたいらしい。そんなムードが垣間見《かいまみ》えて来た。
そして沖縄旅行の最中は、比較的気分よく折りあえた。麻美の美しさは、啓一郎にとって貴重なものだった。
――これなら大丈夫――
そう思えるほどの親しさがたしかにあった。啓一郎は懐疑的になることより自信を深める方向へと自分の意志を集めた。
とはいえ情事はとても淡泊で、熱しない。ものたりないほど、と言ってもよい。
――セックスがきらいなのだろうか――
そんな疑念が残った。しかし愛情さえあれば、少しずつ慣れていくだろう。美しさはずば抜けている。一般的な物さしはともかく、啓一郎にとっては最高に美しい女に見えた。
旅のさなかに感じた親しさとこの美しさを頼りに、
――この人にしよう――
と決意を固めかけた。帰京して……今度は、
――冷たい人だな――
そんな不安を覚えた。風邪気味のときに部屋を訪ねたのは、たしかに非礼なことだが、あの夜の帰り道は釈然としなかった。考えてみれば、麻美の人柄《ひとがら》がのみこめないのは、今に始まったことではない。晴れと曇りがあるのは、ずいぶん早い時期から気づいていた。気まぐれの度あいがちょっと激しすぎる。
「わからない」
沈黙はたいてい男のほうがたえがたくなる。啓一郎は首を振りながら、最前から何度かくり返している言葉を告げた。
「そう? 私はよくわかるけど」
「こんなことになるくらいなら、なんで沖縄に行ったんだ?」
「なんて言えばいいの? 最後の賭《か》けかしら。できれば、中座さんと……って私も思ってはいたのよ」
「それでも駄目だったわけか」
麻美は答えない。無言はその通りよ≠ニいう意味だろう。
「俺《おれ》の考えはちがうな」
麻美は首をすくめたあとで、
「でも……こういうことって、片方が駄目だと思ったら、結局駄目なわけでしょ」
と唇《くちびる》をゆがめながらつぶやく。今日は曇り日。仕ぐさがもうくどいこと言わないで≠ニ告げている。
「どこがいけないのかな」
ため息と一緒に吐いた。せっかくこっちがその気になったと言うのに……。
麻美は言いだしかねている。そう見えた。啓一郎は黙って赤い唇が開くのを待った。
「中座さんは女性を必要としない人よ」
手裏剣のように鋭い言葉が飛んで来た。
「そんなことはない」
「ちがうわ。女の人の体は必要でしょうけれど、一緒に生きる必要はないの」
「俺はそれほど好色じゃない」
「ううん。好色とはちょっとちがうわ。あなたは、なんでもできるし、心のコントロールもうまいし……。一人でいていい人なの。それがはっきり感じられたわ。まちがっているかもしれないけど……仕方ないわね。私、そう感じてしまったんですもん。いろいろご迷惑をかけました。感謝はしているわ。私みたいな女のこと、思ってくださって。やっぱり香港で……飛行機の事故なんかなかったほうがよかったみたい。シクラメン、机の上に飾ってください。さようなら」
お茶の作法を思わせるような丁寧なお辞儀をしたかと思うと、立ちあがり、くるりと背を向けて小走りに出て行く。うしろ姿が視線をこばんでいる。逃げるような足取り……。
啓一郎は呆然《ぼうぜん》として見送る。
ドアの外で一礼したように見えたが、すぐに姿が消えた。
――まいったな――
追いすがるべきだったろうか。
――ちがうな――
麻美は、いやなときには絶対にいやだと主張する女だ。追いすがっても結果は同じだろう。
タバコを一本、二本と続けて喫《す》つた。この煙が健康によいはずはないけれど、精神の疲労回復にはいくらか役立つところがある。三本目を喫い終えたときには、思考がまともに戻って来た。
――当たっているかもしれない――
麻美も三十歳をすぎている。小娘ではない。男を見る目も充分に備わっているだろう。女体を除けば啓一郎は女性を必要としない……百パーセントそうだとは思わないが、そんなところはなくもない。女がそれを感じたら、
――この男とは一緒にやれない――
そう考えるだろう。
――しかし男はみんなそうなんじゃないかな――
心情的に女を必要とするのは心の弱い男たちではないのか。このテーマはむつかしい。
「とにかく終わったな」
ひしひしとその思いが込みあげてくる。麻美の表情は、ゆるぎない拒絶を示していた。
この先追い求めても無駄だろう。くやしいけれど、麻美の言う通り心のコントロールは下手ではない。虚脱感の中に微妙な安堵《あんど》もあった。
――つまるところ美しいだけの女だった――
疑念はたくさんあった。いつもどこかにわだかまっていた。あのまま突き進んだら後悔が残ったかもしれない。今、頭の中の議会は急速にその方向に向かって意見を集めている。麻美が正しい選択をしてくれたのかもしれない。
啓一郎は立ちあがって電話をとった。笹田《ささだ》に会いたかった。
「もしもし中座です」
さいわい笹田は家にいた。
「なんだ?」
「荒れている。飲みたい。つきあってくれ」
「女…難だな?」
「女性に由来する難事ということなら、その通りだ」
「どこにいる?」
「銀座だ」
「仕方ない。つきあってやる。いつかの烏森《からすもり》の店……」
「わかった」
四十分ほどたって笹田の顔が飲み屋の格子戸《こうしど》からのぞいた。
「そんなにひどい様子じゃないな」
と、カウンターの啓一郎をながめる。
「男は恋では死なない」
「大げさな。どうなったんだ」
「みんな終わった」
笹田はビールの入ったグラスを片手に持ったまま、
「へえ。みんなって……千倉《ちくら》さんも?」
と尋ねる。
「まあな」
「思いきったこと、やっちまったなあ」
「手ちがいがあったんだ」
けっして単純な手ちがいではあるまいが……。狭い店の中では話しにくい。それに啓一郎自身、笹田を待っているうちに、あまりくどくどと事後報告をする意志を失っていた。くわしく話してみたところで、どうかなることでもない。
「外に出ようか」
「いいよ」
夜がめっきりと冷たくなっていた。コートの襟《えり》を立て日比谷《ひびや》公園まで歩いた。
――このあいだも笹田とこのコースを歩いたな――
ほんの二カ月ほど前……。短いあいだに私的な事変がたて続けに起きた。
「なんだ、花なんかぶらさげて」
啓一郎が持っているシクラメンの鉢を指さす。
「別れの贈り物」
「例の……美女から?」
「そう。沖縄旅行へは無事に行ったんだが、かえって別れを早めてしまったらしい。俺は女を必要としない男なんだってサ」
「中座が?」
光の中に笹田の怪訝《けげん》そうな顔が浮かぶ。
「そう。心情的にな」
笹田は顎《あご》でうなずく。言葉の意味をさとったらしい。
「そうかもしれん。女のやさしさとか、かわいらしさとか、中座はそんなに求めていないよな。どっちかって言えば、女と一緒にいると、わずらわしくなるほうだろ、きっと、あんたは」
「男は多かれ少なかれそういうとこ、あるんじゃないのか」
「現実はすべて分布曲線の形をとるものなんだよ」
「なんだ、それは?」
「うん? そうよな。知能指数の分布を考えてみればいい。九五から一〇五のあたりが一番多くて、それを遠ざかるにつれ人数が少なくなる。似たようなことが世間にいくらでもあるだろ。分布の状態を調べると、たいていのことがだいたい同じ曲線を描くんだ」
「それで?」
「中座はまん中より少し女性を必要としないほうにいるんだ。五段階評価で言えば2くらいだな。その美女さんは、せめて3か4くらいの人がいいんだろ。大ざっぱな見方をすれば、男はみんな似たようなところがあるけどサ。よく見ると少しちがって、分布曲線みたいに散っているんだよ」
「そうらしい。マドモアゼル・ノリコにはうぬぼれないで≠チて言われたし」
「なんで? それは手きびしい」
「俺と結婚することを考えていたのなら申しわけないって、そう謝ったら……」
「別れを宣告したのか」
「見破られたんだ。美女と親しくしていることがばれて……。どの道はっきり言うつもりだったけどな」
「ふーん」
「彼女言ってたよ。自由でいたいという考えや、今までの生き方を捨てるほどには、俺に期待をかけていなかったって」
「なるほど、千倉さんなら多分そう言うだろうな」
「そんなやわな覚悟で生きて来たんじゃないって」
「当然だ。不服があるのか」
「ない。まったくない」
「それで……そのあと美女にふられて、あぶはち取らずになって」
「そういうこと」
公園の曲がりくねった道を歩きながら事情を説明した。レストランをかねたコーヒー・パーラーに着くころには話題は薫《かおる》に移っていた。
「親父《おやじ》は意外にものわかりがよかった」
「三十すぎの男だもん。女の不始末くらい、あると思ってるさ」
「うん。親父も体験があるんじゃないのかな。手ぎわがよかった」
「しかし相当の散財だったな」
「どういうわけか、むこうはこっちが出せそうな限界を知っている。こっちが出してもいいと考えている金額の五割増しか二倍くらいのところで要求は終わるものらしい。水商売の伝統かな。それを見ぬいて、すばやく手を打つのがこつらしい。一件落着したあとで親父に説教されたよ」
「顔に書いてあるのかな、示談の予算はこのくらいですって。どこがよかったんだ、彼女は」
「そりゃ、いいところもあったさ」
言葉を濁した。話が一段落したところで、また新橋に戻って飲んだ。笹田と別れてからも飲んだ。帰宅の時間は覚えていない。玄関で崩れ、目をあけると、顔の先にシクラメンの鉢があった。
それから二週間あまり、啓一郎は会社の仕事に没頭した。
円高、鉄冷えのさなかでは、仕事はとても順調とは言えない。いくらいそがしくても、利益のあがらない仕事ばかりだ。私生活のほうは、一番むつかしい時期は通りすぎたと言ってよいだろう。虚脱感をどう拭《ぬぐ》うか、そのためにも多忙はさいわいだった。
十一月の末も近い日曜日、父はひろみを連れて出かけた。帰りには保子《やすこ》のところへ立ち寄るような話だった。啓一郎は昼すぎに起きて一人でぼんやりと午後をすごした。コーヒーをいれ、青い表紙のノートを取り出して日だまりに寝転がった。法子、薫、麻美……それぞれの欄に書き加えるべき情報がないでもないが、とてもその気にはなれない。今は読むのさえわずらわしい。
――この一年あまり、俺はなにをしていたのかなあ――
その感が深い。ノートを裏返し、鉛筆を取り裏表紙に知≠ニ美≠ニ二つの漢字を記した。それから少し思案をめぐらし、二つの文字の下にちょうど正三角形を作るように性≠ニ書き加えた。文字の背後に三人の女性たちを思った。
――どれか一つが絶対的な長所だとは言いきれない――
知≠ェすぐれているとは限らない。煎《せん》じつめれば価値観のちがいとしか言いようのないことだろう。この一年あまり啓一郎は、この三角形の中をうろうろとさまよい歩いていたらしい。無様《ぶざま》と言えば、無様だった。体験と言えば、一つの体験だった。
淡い日ざしのこぼれる庭は、すでに冬枯れて、咲く花はない。
「花の図鑑か」
麻美からは、さまざまな花のあることを教えられた。赤い花、白い花、黄色い花。大きな花、小さな花。細長い花、扁平《へんぺい》な花。色も形も咲く季節もみんなちがっている。一つの花にすべてを求めることはできない。
麻美には、もう会うこともあるまい。美しい人ではあったけれど、ほとんど未練が残らないのは、縁の薄さというものだろうか。やはり親しくはなれない人だったのだろう。薫には……ちょっとかとれあ≠フドアを押してみたい気持ちもあるが、けっして会ってはなるまい。後悔がふくらむだけだろう。法子には……そう、手紙を書いてみようか。正直に話せば法子はわかってくれるだろう。それも甘えなのだろうか。ますます人間として敗《ま》ける≠アとになりかねない。
自室に戻ると、シクラメンが茎を伸ばし、赤と白と桃色と三色の花を咲かせている。花弁を広げ、少し笑っているようにも見える。啓一郎は膝《ひざ》を抱え、しばらくは花の姿を眺《なが》めていた。
角川文庫『花の図鑑(下)』平成11年8月25日初版発行