角川文庫
自選恐怖小説集 心の旅路
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
心の旅路
夜ごとの白い手
踊る指
熱 病
カタンカタン
らせん階段
帰り水
屋上風景
旅立ち
見えない窓
薄 闇
慶州奇談
湯
心の旅路
横浜のGホテルを出て山下公園の門の前まで来たとき、私は急に心の奥底からひたひたと|滲《にじ》んでくる不思議ななつかしさを覚えた。|公孫樹《いちょう》並木はパラソルにも似た異形の葉をハラハラと風にこぼしていたが、その肌寒い晩秋の風情の中にも、遠い日の夢に似たかすかな思い出があった。
とはいえ私が横浜に来たのはその日が初めて……いや、正確にいえば二度目のことだった。
初めて来たのは三年ほど前の夜半過ぎ。たまたま中華街の近くを車で通りかかり、急に空腹を覚えて小さな菜館に立ち寄ったことがあった。薄汚いひどく陰湿な感じのする店だったが、料理はすてきにうまかった。特に店主推奨の煮込み豆腐は、今でも喉の奥にその味と感触が残っているほどだ。ブヨブヨに煮くずした灰白色の豆腐は、日ごろ食い慣れた日本の豆腐とはちがった、もっとねばっこい濃厚な味わいがあった。材料からして違うのかもしれない。私はその豊饒な味に魅せられ、深いドンブリの底までタップリと味わった。
しかし、あの夜の思い出といえば、ただそれだけ、ほかには何一つとしてない。公孫樹並木も、かすかに漂う海の香りも、踏みしめる歩道の響きも、すべて私には無縁のことのはずであった。
私はGホテルの前に掘られた小さな地下道に入った。人気ない博物館の回廊に似たこの地下道にも記憶があった。地下道を抜けて公園に入ると海の香りがサッと浸み込む。それに混ってほのかな香水の匂いが鼻を打った。
「女がいたらしい。それも美しい女が……」
私はこの公園に女と来たらしかった。二人は海辺まで進んでボンヤリと氷川丸を見つめていた。女の悲しい|眼《まな》|差《ざし》が、おぼろな形で私の眼の奥に像を結んでいる。
たしかに、たしかに、この風景に見覚えがある。しかし、どう考えてみても私がここへ来たはずはなかった。どこか似たような港町ではないか? 神戸? 新潟? いや、そうではない。私が来たのはたしかにここだった。
記憶の中で女が私を差し招いた。
「人目につくわ。アパートへ帰りましょうよ」
「キミのアパートへ?」
「ええ。今晩、主人は帰らないわ」
女は人妻らしかった。艶に輝いた眼がイタズラっぽく笑って、それから急にさびしそうに伏せた。
二人はもう一度地下道を抜けて公園の外に出た。私は記憶の糸をたぐりながら二人の跡を追った。歩きながら私は警察犬が匂いを頼りに犯人を追っていくのは、ちょうどこんな作業なのではあるまいかと思った。路傍の電話ボックスに、くずれた塀に、望み見たマリンタワーの角度に……一つ一つ、かすかな思い出があって、私はただその跡をたどればよかった。
五分ほど歩くと私は薄茶けた小さなビルの横手に出た。
「そうだ。このビルだった」
何が、どうして、このビルなのか、私にはわからなかった。だが、とにかくこのビルにちがいなかった。記憶の中で女が口を開いた。
「ここで待って。三階の二号室。あのオレンジ色のカーテンの部屋なの。あたしが先に行って、よかったらカーテンを開けるわ。そしたら上がって来て……」
「三階の二号室だね」
いま眼の前にあるビルはすっかり廃墟と化している。“××重工社員寮建設用地”と白いペンキ塗りのボードが立っているところを見ると、近く取りこわして新しいビルを建てるつもりなのだろう。赤茶けた窓わくにはガラスもなく、長い西日の影の中で野良犬が二匹、最前からしきりにつがっていた。
その時、私の眼の奥でオレンジ色のカーテンが開いた。女が窓辺にほの白い頬を寄せて手を振っている。それを合図に私は廃墟の階段を昇った。階段はアパートの北側に造られていて、ひどく暗かった。しかも冷たい晩秋の夕風がこわれた窓を抜けて吹き込む。その暗さ、その冷たさにもなつかしい思い出があった。
私がこれから訪れるアパートは3DK、ドアを開けるとすぐに|絨毯《じゅうたん》を敷きつめた広間があり、その奥に厨房、そのさらに奥に二つ部屋が並んでいて、一方がベッド・ルームになっているはずだった。
「そうだ。女の主人は、たしか中国人だった」
客間をかねた広間の飾り棚には青磁の壺や朱色の石彫人形が飾ってあった。
三階の二号室――ドアにしるされた文字もいまはほとんど見えなかった。崩れかけたドアを蹴破って中へ入ると室内はすっかり荒れ果てていたが、まさしく記憶どおりの間取りが私の目の前に続いていた。横浜――女――アパート、何一つとして知るはずがなかった。しかし、それは私の心の中に確として存在していた。
風に吹かれたドアがにぶいきしみをあげて締まった。女はあの時もドアが締まるのを待ちかねたように身を寄せて来た。甘やかな髪の香りと荒い息づかいがよみがえってきた。
「あなたにめぐりあえるなんて」
「あんなに愛していたのに……なぜ……」
女はしっとりと潤んだ眼で私を見上げていた。女の顔の輪郭が私の中で少しずつはっきりした姿をとり始めた。黒眼がちの大きな目、形のよい唇、美しい女だ。かすかに触れ、そしてヌメヌメと入り込んで来た熱い舌の感触までが、たしかに思い出されるのに、その女は私にとって見たこともない女だった。
「うちの主人は嫉妬深いの。見つかったら、あなた、きっと殺されてよ」
「悔いやしないさ」
「ほんとう?」
「うん」
「うれしいわ」
よしない会話のすえ、やがて女は男を寝室に招じ入れた。薄桃色のバラを散らした寝具の上に女は倒れ、ゆるやかに身を開いた。私の手が女の肌を滑った。静かな高まりが女の体を震わせ、あるかなしかの体臭が漂った。なめらかな絹にも似た暖かいぬめりが私の指先にあった。
「愛しているわ」
「ボクも……」
腿を押し開いて、あの隠微な部分に口づけをしたとき、ピクリと動いた白い脚。女がためらいがちに同じ口づけを返したとき、男の全身を貫いた激しい快感。その後でそっと見上げた女のまばゆそうな眼差、一つ一つが連なりのない幻燈写真の絵のように、断続的に私の心の中によみがえって、消えていった。
「うれしいわ。こうしてあなたが抱けるなんて」
「しっかり抱いてくれ。いつまでもボクのものになってくれ」
「ああ……もう死にたい」
狂気のように交わした愛の言葉さえも私の中で響いていた。
突然、ガタリと音がして風がドアを開けた。私の脳裏を黒い人影がかすめた。女の顔が紙のように色をなくし、唇が恐怖にヒクヒクと震えた。女はほとんど声にならない声で、
「あなた、どうして……」
とその人影に呼びかけた。
「オマエ、ヤッパリ……」
黒い影はどこかたどたどしい日本語を吐いた。眼が激しい怒りでギラギラ燃えているように思えた。しかし私にはその男の顔形はどうにも思い出せない。ただ、その右手に握られた黒い筒、赤い火を吹くまで拳銃とさえ知ることのできなかった黒い筒だけが、驚くほど鮮明に残っていた。
指の動き、小さな|閃《せん》|光《こう》、ピュッという音に続いた焼けつくような胸の痛み、一連の記憶が――まったくいわれのない不可思議な記憶が、私自身の感覚として廃墟に立った体の中に戻ってきた。
「いったいこれはどうしたことなんだろう」
崩れたアパートを後にして私は考えた。いつか見た映画? 夢? それともどこかで読んだ小説? アポリネール? マルセル・エーメ? 夢野久作? たしかにこんな筋の作品を読んだようにも思えた。
しかし、たった今、私の心の中に浮かび出たものは、文字どおりなまの体験、なまの感触、私の体の細胞の一つ一つが、たしかに自分自身のものとして捕らえているもの、ひと言でいえばみずからの営みを通してしか味わえないもののように思えた。そうでもなければ、公園からアパートまでの道筋、アパートの間取り、こんなことを私が知っているはずがないではないか。
夢遊病? 記憶喪失? あるいはそうかもしれない。私にはそんな奇癖や病歴はなかったが、そうとでも考えるよりしかたがないように思えた。だが、それではあの激しい胸の痛みは? 白くかすんでゆく目の奥でとらえた女の顔は? 私はたしかに横浜で死んだのであった。
奇妙な記憶に思い悩みながら二百メートルも来ると中華街の入り口に出た。横浜になじみの薄い私は山下公園と中華街がこんなに近くにあることさえ知らなかった。そして、そのことが訳もなく奇異に思えてならなかった。
赤と緑のけばけばしい中国風の装飾をほどこした店並みを歩きながら私はいつか来た店――これだけは確実に私の記憶の中にある唯一の横浜の思い出、あの煮込み豆腐をたらふく食った店を捜し求めてみた。
だが、見覚えのあるあたりに店はなく、かわってもっと小ぎれいな中華菜館が建っていた。ちょうど腹もすいていたので私はその新しい店に立ち寄った。時刻はずれで客が少ないためであろうか、店主が所在なさそうに店に顔を出し、新聞を読んでいる。
私は店主に声をかけ、昔ここで食った料理のことを尋ねた。
「なにか日本の豆腐とはまるでちがった、ねばっこい味だったな」
「ダンナサン。ソレハ豆腐ジャナイネ。キット豚ノ脳味噌デショ。ヨク似テマス」
「へーえ。驚いたな。どうも少しちがうと思ったが……」
「キットソウデス。アノ男、得意ノ料理デシタ」
「ほう? あの男って……おやじさん、前の店の主人を知ってるのかい?」
店主は少し驚いたように、私を見つめていたが、急にニコニコ笑って、
「少シ知ッテルダケネ。日本人ノキレイナ奥サンモラッテ大事ニシテマシタ。デモ奥サン浮気シマシタネ。怒ッテ相手ノ男ヲピストルデ撃チマシタ。死体ガ見ツカラナイウチニ、奥サン連レテ香港ニ逃ゲマシタ……」
私はギョッとしてすわりなおした。
「死体は見つかったのかね?」
「イエ、見ツカリマセン、食ベタノカモシレマセン」
「まさか」
「ハハハハハ。冗談デス。ダケド人間ハ、ホントニオイシイデス。ソレニ……」
店主はちょっと言葉を切った。
「それに……?」
「人間ノ脳味噌食ベルト、ソノ人ガ生キテタトキノ記憶ガ、食ベタ人ノ中ニ少シ残リマス。中国ノ古イ話ニヨクアリマス」
私は呆然としてその男の顔を見た。また不思議な記憶が脳裏をかすめた。この男の顔にもかすかな記憶があった。音もなく寝室のドアを開いたあの顔に……。
夜ごとの白い手
芳井次彦が転勤する友人の送別会を終え、大塚のアパートに帰ったのは、真夜中の十二時に近かった。一人住まいの安アパートである。
ひどく底冷えのする夜で、夕刻から降り始めたみぞれが雪に変わり、北に面したアパートの通路はうっすらと雪を積んで白ずんでいた。
しかし次彦の心は夜の寒さなど苦にならないほど熱くたぎっていた。
一昨夜からずっとそういう状態が続いていた。
会社で仕事をしているときでさえ、ふと手を止めて江川多美子のことを思ってしまう。すると心の底からめまいのようなものが込みあげて来る。胸がドキンと鳴る。その高鳴りを何度心に呼び起こし、いつくしみ、独りほくそ笑んだことか。
多美子は一昨夜初めて次彦の胸に抱かれた。二人はそうすることによって、たがいの愛を確かめあった。
「愛してるよ」
「ええ……。私だって……」
多美子の愛の告白には、どこかためらいがちな部分がないでもなかったが、それは若い女の慎しみとして当然だろう。愛の行為に移ってからの燃えようは、多美子が真実次彦を愛していると、その心のたけをはっきりと示していた。次彦はそれで満足であった。
アパートのドアをあけて中へ入ると、外よりいくらか暖かいとはいうものの、暗く、冷たく、そっけない部屋がそこにあった。しかし、それさえも今の次彦には喜びのタネとなった。
こんな生活もそう長くはない。遠からず多美子と二人で暮らす日のあることを思えば、一人住まいの冷たさも堪えがたいものではなかった。
「おや……?」
あかりを|点《つ》け、郵便受けを探ると夕刊の下に白い角封筒があった。
多美子からの手紙だった。凍える手で封を切り、第一行目を読むと次彦の顔が曇った。
――やはりお別れしたほうがよろしいと思います――
手紙はそんな文句で始まっていた。
やはりお別れしたほうがよろしいと思います。
あなたが嫌いで申し上げているのではありません。それどころか好きで、好きでたまらないのです。
本当はなにもお話をせず、二度とお目に掛からないつもりでした。しかし、それではあなたはお許しにならないでしょう。あなたに不愉快な気持ちを残したままお別れするのは、とてもつらい。だから、なにもかもすっかりお話したうえでお別れしたいと思うのです。
話はとても奇妙なことです。あなたはお信じにならないかもしれませんが……。
でも思い切って書き綴ります。
あなたはいつか私に「今までに恋をしたこと、ある?」って、お聞きになりましたね。私は「ない」と答えました。
これは本当です。学生時代のボーイ・フレンドは何人かおりますけれど、恋と呼ぶほどのものではありません。昨夜あなたに抱かれたとき、私はきれいな体のままでした。体を交えるほど深く愛しあう人には、幸か不幸か今までに一人もめぐりあえませんでした。
だけど……本当に恥ずかしいことを告白しますが、どうかお許し下さい。“性”についてなんの経験もないかと言えば、けっしてそうでもありません。
ずっと昔――何年前のことか、はっきり申し上げることもできますが、それはやめます。私は近所の子どもたちを家に呼んで、ピアノを教えていたことがありました。ピアノ教師の技術を持ちながら、そういうアルバイトをすっかりやめてしまったのは、これからお話しする事情があったせいです。
生徒の中にKという少年がいました。どこか腺病質な、早熟な印象の中学生です。Kは眼が大きく、色白で、一口で言えばとてもかわいらしい少年でした。とりわけ手と指の美しさが私の心を魅了しました。
少年の手の美しさに引かれるなんて、ちょっとおかしな趣味だと言って笑われるかもしれませんね。
でも、本当です。彼の白い指が鍵盤の上を、まるで独立した生き物のようにかろやかに動くのを見ていると、私は息が詰まるような、血が湧き立つような、そんな不思議な気持ちに襲われたものです。
ある午後のこと、レッスンのあとで私は少年の手を取り、
「きれいね」
と言って、|悪《いた》|戯《ずら》半分に握り締めました。そうでもしなければ息苦しくて|堪《たま》らない気分だったのです。
K少年は一瞬驚いたように私の顔を見つめましたが、すぐに眼を伏せて私のなすがままにまかせていました。
その時の私はどうかしていたのだと思います。掌に少年の指の微妙な熱さを感じると、私はそれだけでは我慢ができず、そっと私の胸にその指を運んで当てました。
――こんなことをしてはいけない――
少年の手を乳房に当てていたのは、時間にすればほんの短いあいだだったと思います。私はすぐに手を離そうとしましたが、その時、急に少年の手が私にあらがうように動いて、ブラウスを掻きあげ、素肌に触れました。
「いけないわ」
私は小さく声をあげ、それを振りほどこうとしましたが、少年の力は思いのほか強く、あっと思う間に指は私の胸もと深く滑り込み、私の乳房を握り締めておりました。
それからのことは、とてもここにつまびらかに書くことはできません。私の理性はただ|朦《もう》|朧《ろう》として自分の意志で自分を押さえることができなかったのです。
もちろんいけないのは私で、K少年にはなんの罪もありません。先に挑発したのは、年上の私なのですから……。途中で逃げ出そうとすれば、いくらでも逃げ出すこともできたのですから……。
少年の手は乳房だけではあき足らず、私のスーツの下に忍び込み……ああ、恥ずかしい、下着の中にまで届きました。
わずか四、五分の時間が、一時間にも二時間にも感じられました。たとえようもなく甘美な、不思議な陶酔の時間でした……。
玄関の戸があき、レッスンの次の生徒が来ると、K少年は挨拶もせずあたふたと帰って行きました。
私はなかば放心状態のまま、それからのレッスンを続けたことでしょう。
K少年の死を聞いたのは、その翌日でした。
おそろしいことですが、私はその一瞬「よかった」と胸を撫でおろしたのを覚えております。私との秘密をだれかに――たとえば母親などに告げられたらどうしようかと、そのことばかり思い悩んでいたのですから。
私の家からN町のほうへ行くと、長い橋があるのをご存知ですね。K少年はレッスンの帰り道、あの橋の上で車にはねられて死にました。車は対向車に気を取られ、K少年の存在に気がつかなかったということでした。
事故のくわしい様子はわかりません。ただ、K少年の右手は鉄橋に挟まってちぎれ、そのまま川に落ち、いくら捜しても見つからなかった、と私はあとで人の噂で聞きました。
少年が私とのことを思い悩みながら、橋の上を歩いていたのは充分に想像できます。それが事故の、もう一つの原因であったのも、多分間違いないでしょう。私は激しい自責の念に襲われましたが、だれかにそのことを話す勇気はありませんでした。
K少年に対しては本当に申し訳ないことをしたと、今でも私は天に向かって謝罪をしたい気持ちでいっぱいです。
でも、このことがそれだけで終っていたならば、今日こうしてあなたにお手紙を書く必要もなかったでしょう。
それから数カ月たって、自責の気持ちもいくらか薄らいだ頃、私は奇妙な夢を見ました。
夜、ベッドで眠っていると、どこからともなく少年の、あの白い手が私の体を求めてやって来るのです。腕から切り離された手首だけの白い生き物が……。
私は恐怖のあまり声をあげようとしましたが、全身が|強《こわ》ばりついて一声も発することができません。手首は手の甲を上にして五本の指を器用に動かし毛布をめくりあげ、私の胸をさぐり当てました。
その瞬間、恐怖がそのまま身をとろかすような快感に変わってしまいました。
指はぎごちない動作で乳房をまさぐり尽すと、下へ下へと|蠢《うごめ》きました。少年の長い中指が、私の熱くたぎった体に触れ……ああ、なんと言ったらいいのでしょうか。私は体の内奥から海のように押し寄せ、溢れて来る喜びに毛布を噛み締め、それでもこらえきれずにすすり泣きました。
手はそれから何度も何度も繰り返して私の眠りの中に訪れて来ました。
ある夜のこと、私はベッドで眼を醒しました。妙になま暖い夜だったと記憶しております。
私は寝つきはいいほうではありませんが、いったん眠り込んでしまうと、熟睡し、容易なことでは起きたりしないのですが、その夜だけは少し奇妙でした。
はっきり目醒めていたのは間違いありません。部屋のカーテンが少しあいていて星空が見えたのも、遠くの部屋の柱時計が三時を打ったのも明確に覚えているのですから。
突然、部屋に続く廊下になにかかすかな音が聞こえたような気がして、私は耳をそばだてました。
――気のせいかしら――
そう思ったとたん、今度は部屋のドアのあたりでなにかが飛び跳ねるような音がしたのです。
――ネズミかしら――
そう思って首を捻ると……ドアが音もなく開いて、ドアの下のほうから白いものがそっと這うように忍び込んで来るではありませんか。
長い足の、奇妙な生き物だ、と身を堅くして見つめた瞬間、それが切り離された手首だとわかったのです。
手首は大きな蜘蛛のように五本の指を動かし、|絨毯《じゅうたん》の上を滑ってサッとベッドに近寄りました。
けっして夢を見ていたわけではありません。私は驚きのあまり頭の中が白ずみ、一瞬気を失いました。
次に気がついた時には、私は、体の芯から脹れあがり渦のように跳梁する快感のまっただ中にありました。
手は――もう夢の中ではなく、明晰な現実として私の胸をまさぐり、私の呼吸を計って喜びの部分に位置を変え、さらに激しい凌辱を加えました。
そのことについては、もうここに書く気にもなれません。
いったい、どうしたことなのでしょうか?
あなたはとても信じられないとおっしゃるでしょう。
でも信じて下さい。今ここに記したことはなにもかも真実なのです。私はけっして気が狂っているわけでもありませんし、幻覚の虜になっているわけでもありません。すべてまのあたりに見て、そして知覚した現実です。
私は――そう、あえてはっきり申し上げます。この世の生き物とは思えない、無気味な白い手に取り|憑《つ》かれてしまったのです。
あなたと知り合ったのは、こんな時でした。私はあなたに初めてお目に掛かった時から、あなたが好きでした。あなたの落ち着いた話しかた、やさしい微笑、そしてちょっとした仕ぐさまで、私はなにもかも好きでした。私が愛するのはこの人しかいない、真実そう思ったのです。
それからのことは、あなたもよくご存知でしょうから、ここでは省略します。
昨夜、あなたにああして抱かれたことについても私はもちろん少しも後悔しておりません。本当にうれしかった。心から敬愛するあなたに抱かれて、私がどれほどの喜びにうち震えたか、とても言葉では申し上げることができません。
けれども恐ろしいことです。少年の白い手はどこかで私たちの愛の営みを見ていたのです。
あなたがお帰りになったあと、白い手はまた私のベッドに忍び込んで来ました。
しかも手はいつもと違って狂暴に私の体をまさぐり荒れ狂いました。その苛酷な仕ぐさが、嫉妬であると、すぐにわかりました。
そして、その狂暴な動きの中で私がうちのめされ、凌辱され、また激しい歓喜に身悶えしたのも事実でした。
K少年が私に対して憧憬に近い愛を感じていたのは、多分本当でしょう。彼は――おそらく彼にとっても初めての経験だと思うのですが――じかに女の体に触れ、その記憶を白い手に焼きつけたまま、思い出の絶頂の中で死にました。計らずも体から切断され、川に落ちて流れた手首が、その思い出をしっかりと握り締め、死の直前に知った女の体をなつかしく思ったとしても、なんの不思議がありましょうか。私にはその気持ちがよくわかるのです。
少年の白い手は、こうして私に取り憑きました。私が夢だと思ったのは、もともと現実だったのでしょう。
私は昨夜、手が私のもとを去ったあとでつくづく思いめぐらしました。
私はあなたを愛しております。あなたも私を憎からず思って下さっているでしょう。そのことには深く感謝しております。
ですが、感謝しているからこそ私は申し上げたいのです。私の苦しい気持ちをお察し下さい。このまま私たちの関係を続けていったらどうなるのでしょうか。私は少年の手に取り憑かれた女なのです。私は白い手にさいなまれ、その凌辱に歓喜する女なのです。奇妙な生き物はけっして私を逃がそうとはしないでしょう。
昨夜初めて見せた白い手の狂暴さは、とても一通りのものではありません。細い指の、一つ一つの動きに嫉妬の激しい怒りが燃えていました。胸には今でも黒い|痣《あざ》が残っています。この痣の跡が切り離された手首の、いびつな愛のしるしなのです。
そうと知ったとき私ははっきりと悟りました。あなたとの愛をこのまま続けていたら、きっとあなたにとってもよくないことが起きるだろう、と……。
あなたはお笑いになるかもしれませんが、私にはあの白い指の執念がよくわかるのです。どうかこれ以上はなにもお聞きにならないで、白い手に魅入られた、おかしな女のことはお忘れになって下さい。お願いです。
あなたを思い出すときは、いつもあなたのご幸福を祈っております。
次彦は、長い手紙を読み終わってホッと肩で息をついた。
手紙に記された内容はすこぶる奇妙ではあったが、次彦の理性はそれほど大きなショックを受けなかった。むしろ安堵の胸を撫でおろした、と言ってもよい。手紙の第一行目を読んだときには、もっと現実的なトラブルを彼は想像していたのだから……。
次彦はすぐさま多美子に電話を掛けてみようかと思ったが、時刻はもう一時を過ぎている。とても他人の家へ電話をする時間ではなかった。仕方なしにガス・ストーブに手をかざしながら、彼は手紙に記された奇態な出来事に思いをめぐらした。
心理学について格別深い知識があるわけではないが、多美子の妄想の原因は簡単に推測することができた。
多美子が少年の手を美しいと思ったのは多分事実だろう。その手を握り締め、胸に当て、そして興奮を押さえきれなくなった少年が急に狂暴になって多美子の体をその手で犯したことも……。
その情景を想像するのは、けっして愉快ではなかったが、相手が幼い少年であることを思えば、メルヘンの中の出来事のような清涼なエロチシズムがあって、堪えられないほどではない。
少年は事故で死に、まったくの偶然から手首は川に落ちて、消えてしまった。
自責の念にさいなまれていた多美子には、それがただの偶然とは思い切れず、いつまでもその悔恨が潜在意識に残っていた。
一方、充分に成熟した多感な多美子のことだから、艶夢を見ることもあっただろうし、その艶夢の中に少年の白い手が現われることも、潜在意識の現われかたとして納得ができる。
あとは夜ごとの夢が昂じて、現実のように妄想されるようになっただけ……神経が鋭敏で、どこか病的なところがなくもない多美子の性格を考えれば、それも理解できないことではなかった。
なにはともあれ、人間の体から離れた手首が独立して生きることなんかありえないのだから、それほど深刻な問題ではない。
手紙に書かれた内容をよくおもんぱかって、多美子の古い罪の意識を拭い去ってやればそれで万事解決するだろう。
そう思うと、次彦はいっぺんに気が楽になった。布団は冷たかったが、また一昨夜の喜びが彼の胸を満たしてくれるだろう。
次彦はガス・ストーブの栓をしめ、多美子のことを思いながら眼を閉じた。すぐに深い眠りがやって来た。
だから、それからあとに起こったことは次彦の知るところではない。
彼がすっかり眠り落ちたとき、アパートの郵便受けがかすかな音を立てた。外から|蓋《ふた》があき、冷たい風が吹き込んだ。
と、そのわずかなすき間から、扁平の白い生き物が足を|蠢《うごめ》かして部屋の中へ忍び込んだ。
ボトン。
生き物は床に落ち、それから壁に沿って足高の蟹のように走った。
次彦の布団のすそにガス・ストーブがあった。
次彦が寝返りを打った。
白い生き物はギョッとしてカーテンの陰に身を隠したが、次彦がまた安らかな寝息を立てるのを聞くと、カーテンの下から音もなくにじり出て、ガス・ストーブのノブにしがみついて体を廻した。
シューッ。
ガスの音が漏れた。
生き物は、ほんの少時そのままの姿勢でいたが、ガスの出ぐあいが順調なのを覚ると、入って来た時と同じように壁ぎわを走り抜け、ドアに跳びついた。
カタン。
小さな音を残して生き物は外に消えた。
ドアの外の通路には、雪が吹き込み、さっきより一層深く積もっていた。その上に五つの奇妙な足跡が残ったが、それもすぐに吹く雪に消えてしまった。
踊る指
「|苫《とま》|小《こ》|牧《まい》は根っからの製紙業の町なんですよ。紙、紙、紙、カミサマばかりでほかにお見せするものはなんもなくって」
|木《き》|田《だ》さんは車の助手席から体を|捻《ひね》りながら|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な声で言った。
|千《ち》|歳《とせ》の飛行場に着いたときにも同じ|台詞《せ り ふ》を聞かされた。|謙《けん》|遜《そん》と自負とが半分ずつ入り混じっている。
たしかにこの町には、旅人の目を慰めるような名勝史跡はほとんどなにもないようだ。景色の美しい場所なら、これから先北海道の到るところにあるだろう。|蟹《かに》のうまさもトウモロコシの甘さも本来は苫小牧のものではあるまい。
「ですが、まあ、そうおもしろいところじゃないですけど、製紙工場は一見の価値がありますです」
木田さんは控え目な身ぶりではあったが、語気のほうは、どうしてもこれを見てもらわなければ気がすまぬ、といった調子だった。
「ぜひ拝見させてください」
車の外は折あしく雨。それも並大抵の降りではない。ワイパーの動きが用をなさないほどに水の膜を作って雨が流れる。
おびただしい銀の糸を透かして見る町には人の姿もない。苫小牧はどんな町かと尋ねられても、ただ“雨”としか答えられないような、そんな激しい|驟雨《しゅうう》だった。
「今ごろこんな雨はめずらしいんですがね」
「はあ」
「すみません」
天気が悪いのは木田さんの責任ではあるまい。
むしろ激雨にもかかわらず案内の労を取ってくれた木田さんに、こちらのほうが恐縮してしまう。
車がザザッと人の丈よりも高い水しぶきをあげて舗装の道から泥の道へと入った。
工場が近くなったらしい。
「この工場なんですがね」
木田さんが灰色の塀を指差してからも、まだしばらく車は走った。|厭《いや》でも工場の大きさが実感させられる。
門をくぐると、あちこちに小山のような古紙の|堆《たい》|積《せき》があった。
「ここでは古紙を再生して新聞紙を作っていますです」
「チリ紙交換で集めて来たやつですね」
「はい。初めのうちは北海道の古紙を使っていたんですけど、それじゃ間にあわなくて内地の紙を集め、今じゃアメリカやカナダから来てるんです」
なるほど。よくみると、外国雑誌のけばけばしい色の表紙が散っている。
木田さんが傘をかざして雨の中に飛び出し、守衛の詰め所らしいところへ|駈《か》け込んだ。
すぐに戻って来て、
「まっすぐ行って直接工場の中へ車を入れてください。そのほうが濡れませんから」
前半は運転手に言い、後半は私に告げた。
工場の中も古紙の山ばかり。
そのかたわらで幅十メートルほどの、エスカレーターみたいな幅広いコンベイヤーが古紙を平らに載せてゆっくりと昇っている。
――今日は日曜日だったかな――
そう疑ってみたくなるほど人影は少ない。
町に人の姿が見られなかったのは雨のせいだろうが、工場のほうはどの工程もおおむね機械の作業に|委《ゆだ》ねられている。人間が少ないのはべつにあやしむこともない、平常の姿なのだろう。
「まあ、これからこの古紙を細かく裁断して繊維にして、それを紙に|漉《す》くわけなんですがね」
削断機の音がものすごいので木田さんの声は途切れ途切れにしか聞こえない。
「古紙だけで新しい紙を作るんですか」
「いや、新しい繊維も混ぜますです」
木田さんはあちらこちらを指差しながら足早に進む。
私は聞こえぬ声に|頷《うなず》きながら機械の|脇《わき》の細い通路を進んだが、もとよりなにをやっているのかよくわからない。古紙はドロドロの粘液となり|暗《あん》|渠《きょ》の中をどんよりと流れ動いて行く。どんな不満があるのかブツブツと灰色の泡を立てながら。
私は最前、幅広いコンベイヤーを見たときに、
――もしこの古紙の上にゴロリと寝転がっていたらどうなるのかな――
と、|埒《らち》もない想像を抱いたのだったが、さしずめ今ごろは削断機でグダグダにくだかれ、なにもかも正体のわからない溶解物となって気泡をあげている頃だろう。
「古紙はみんな印刷物だから、染料が塗ってあるわけですよ。それをきれいに取り除くのが大変なんですね」
暗渠が長々と続いているのはどうやらその作業のためらしい。
広い工場の中を歩き廻り、ようやく紙らしいものの見えるところにまでたどりついた。漂白した繊維を薄く伸ばしてローラーにかけながら火熱で乾かす。十畳間ほどの紙がゆっくりと流れ出て来て、それがまたローラーに巻かれて製品となる。
「ただそれだけのことなんですがね。日本で使う新聞紙の大半はここで作られているんですよ」
「ああ、そうですか」
私はわかったような、わからないような気分で|相《あい》|槌《づち》を打った。チリ紙交換の古紙がこんな形で再生されるのだと、その現実をまのあたりに見ただけでも収穫だろう。|素《しろ》|人《うと》の見学はどの道その程度のものだ。
「ああ、これは……」
「ご存知ですか」
「ええ」
工場の片隅に紙を所定の大きさに切り落とす裁断機が鋭利な刃を光らせていた。
私も図書館に勤めていたことがあるのでこの機械にはいくらか|馴《な》|染《じ》みがある。製本室で使っていた。大きさにはだいぶ差があるが銀色の刃が滑るように降りて来て、さながらバターでも切るようにサクリと紙の束を切り落とす。
ウッカリ指でも出していようものなら、機械はなんのためらいもなく小気味よく骨を切り落とすだろう。
じっと見ていると、
「おいで、おいで」
と呼んでいるようで、あまり気持ちのいい風景ではない。
「ありがとうございました」
「まあ、こんなところですな」
外に出ると相変わらずの雨。
小一時間ほどの見学だったが、北国はやはり日没が早いのだろうか。空はすでに雨の上で黒く染まっていた。
木田さんから夕食をご|馳《ち》|走《そう》になり、傘をさして少しだけ夜の町を歩いた。
「|札《さっ》|幌《ぽろ》とちがって、たいした遊び場もないんですよ」
一軒だけバーを|覗《のぞ》いてみたが、木田さんの言葉通り格別に楽しい雰囲気ではない。そもそも酒場なんてところは、いくらか顔馴染みになって初めておもしろさが|湧《わ》いてくるものだ。そのうえ胃袋のほうは、蟹と|烏《い》|賊《か》そうめんと――どちらも腹に入るとやけに|量《かさ》の|脹《ふく》れる食べ物だが――その他さまざまな料理で、もう飲み物だってあまり受けつけたくない状態だった。
よほどの美形でもいなければ、ゆきずりのバーで長居はできない。苫小牧にけっして美人がいないわけではあるまいが、少なくともその酒場はそうだった。運がなかったのだろう。
私の知人の|物《もの》|識《しり》博士の言うところでは、
「若い女が五百三十八人いると、その中に一人衆目の認める美人がいる率なんだ」
とか。
「へーえ、そんなものかな」
「うん。だから女学校の一学年に一人いるかいないかの確率だな」
「しかし、どうして五百三十八人なのかな。だれが調査したのだろう」
こう尋ねると、博士は|悪《いた》|戯《ずら》っぽく笑って、
「|嘘《うそ》の|五《ご》・|三《さん》・|八《ぱち》と言うじゃないか」
「なんだ、それは」
「知らんのか、人間にデタラメの数字を言わせると、5と3と8を挙げる確率が高いんだ。これは|真《ま》|面《じ》|目《め》な話。心理学の実験結果だぞ」
「なーんだ、そういうことか」
この話を聞いたのも新宿のバーだったろう。酒場とは、こういう無駄話をして初めて楽しい場所である。木田さんと私は水割り一ぱいずつで店を出た。
木田さんはホテルまで送ってきてくれて、
「どうもお楽しみの場所がなくて、すみません」
と、この点に関しても、彼はおおいに恐縮している。苫小牧市が悪い印象を与えるものなら、天気の悪いことから、酒場に美人のいないことまで彼は責任を感じるつもりらしい。田舎の人らしい実直さだが、そうまで気を使ってもらうと、こちらがかえって心苦しい。
「札幌より千歳空港に近いから、航空会社の人は苫小牧に泊まるケースが多いんです。あ、そうです、このホテルにはスチュアデスが泊まってますよ。よくコーヒーを飲んでます」
私がよほど物ほしげな顔をしていたのだろうか、木田さんはまだ“美人”にこだわっているふうである。
お言葉ですが、昨今はあまりスチュアデスの中に美女はおりませぬ。それこそ五百三十八人並べておいて、一人くらいの率ではありますまいか。
「どうぞご心配なく。疲れてますから今晩はもう寝ます。ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
木田さんは明朝の予定を私に伝えて帰った。
私は部屋に入ってシャワーを浴び、テレビのスウィッチをひねったが、そのまま眠り込んでしまったのだろう。
次に目を|醒《さ》ましたときには、テレビは赤紫の走査線だけの画面に変わっていた。
頭が重い。
体がだるい。
飛行機に乗るために日頃のスケジュールを崩して早起きしたうえに、急に北海道の涼気に打たれ、|風《か》|邪《ぜ》を引いたのかもしれない。
およそ医学的には納得のできない話だが、私には、
――ああ、今、風邪の|黴《ばい》|菌《きん》が入ったな――
と思う一瞬がある。
人混みの中から私の|喉《のど》まで点線を描いて病原菌が飛んで来る経路が見えるような時がある。
今朝の羽田空港でもそんなことがあった。あの時に感染したとなると、ぽつぽつ症状の現われる時期ではないか。
ボストンバッグから愛用の薬を取り出して飲んだ。この薬はただの売薬だが、飲むと眠くなり意識がトロンと|水《みず》|飴《あめ》みたいに不定形になる。
そんな時には、夢ともうつつともつかぬ状態に陥り、なにかしら頭に浮かぶものがある。それが、まれには小説の材料になったりする。
私はベッドに転がったまましばらくの間、半睡状態のやって来るのを待ったが、今夜に限っていっこうに効果が現われない。薬が古くなっていたのかもしれない。
それとも……私は旅に出ると、かすかに興奮するところがあって、長くは眠っていられない。限られた時間の中で、できるだけたくさん旅先の町の雰囲気を味わっておきたいという欲望があって――そうでもしないと少し損をしたように思う心理が、平常の意識と深層心理の間くらいのところに|蠢《うごめ》いていて――旅の宿では早々と目を醒まして自転車で町を|駈《か》けずり廻ったりすることも珍しくない。
「ホテル内の散歩でもしようか」
雨ばかりが打つ狭い部屋に閉じ込められているのは、どうも酸素が少なくなるようで息苦しい。
服を着替えて最上階のカクテル・ラウンジまで昇ってみた。
――スチュアデスがいるかな――
まさかそんなことを思ったわけではあるまいが……。
もとよりとうに営業時間を過ぎていて人影はない。だが、中へ入ってクッションに腰を落とすくらいのことはできる。
私は窓際の席にすわって|緞帳《どんちょう》のような重いカーテンを細目に開いた。
外はただ|闇《やみ》。
おびただしい雨がガラス戸に当たって弾ねている。
私はソファに背を預け、タバコをふかした。
ラウンジは私のいるところを除いて光はない。もともとそういう仕掛けになっていたのか、それともボーイが電気を消し忘れたのか、目の前のテーブルに、一筋のスポット・ライトが射している。そのテーブルの脇のカーテンがテーブルの|木《もく》|目《め》をなかば覆うように掛かっている。
――なにやらミニチュア・サイズの劇場みたいだな――
そう思ったのは、その時だったのか、もっと後のことだったのか……。いずれにせよ、意識が少しぼやけていたのは本当だ。
スペインの酒倉で奇妙な人形劇を見たことがあったっけ。酔客はほかにも何人かいたのだろうが、ひどく陰影の深い、薄暗い酒場だった。
ホテルのカクテル・ラウンジはあの酒倉よりずっと|瀟洒《しょうしゃ》に作ってあったが、影の深さが――テーブルの上にたった一つだけ明るい光が落ちているさまが、どこかあの時の雰囲気に似ている。
東洋人とも西洋人ともつかない|面《おも》|差《ざ》しの男が黒い|蜜《み》|柑《かん》箱のようなものを粗木造りのテーブルの上に置いて器用に人形劇を演じていた。
スペイン語なので、物語のこまかいやりとりはわからなかった。“|赤《あか》|頭《ず》|巾《きん》”のパロディみたいなものらしく、赤装束の人形と|狼《おおかみ》とが|猥《わい》|褻《せつ》なやりとりを演じていた。
スペインには、あんな古風な人形芝居が今でもちょいちょい残っているのかと思ったが、そうでもなかったらしい。スペイン通の人に聞いても思い当たるものはないと言う。あそこの酒場にだけ現われる、奇態な芸人だったのだろう。人形の動作にはそれなりにソフィスティケートされた愛敬があって、結構見られる|演《だし》|物《もの》だった。
そんなことをぼんやりと思い出しているとエレベーターからラウンジへと続く廊下に足音が聞こえて、人影が現われた。
「今晩は」
なんとなくスペインの人形使いを連想したが、そんなはずはない。紛れもない日本人。初老の男で、どこかで見たような面差しだが、だれだったろう。
「今晩は」
私は|挨《あい》|拶《さつ》を返した。
「雨がひどいですね」
「ええ」
「これじゃあ一日中どこへ出るわけにもいきませんわ。陸の孤島ですな、まったく」
その男も眠られぬ夜をもてあまして出て来たのだった。
「失礼」
そう言って、私の前のソファに腰かけた。
|尻《しり》を半分だけ載せたのは、先客である私にいくらか遠慮をしたためかな。
「なかなかいいホテルじゃありませんか」
男は暗いラウンジを見廻しながら言う。
「ええ」
「昔はなんにもない町でしたがね。ここ十年ばかりでえらく変わりました。飛行場は近いし、港はアメリカやカナダあたりから船が入るし、大分|賑《にぎ》やかになってきましたな」
「そうですか。初めて来たものですから」
「おや、おや」
相手は口先だけで驚いてから、
「このホテルも以前は製紙工場の敷地でしてね、私ゃこの近所の工場で働いていたんですよ」
「紙会社の景気がよかった頃ですか」
私が大学を卒業する頃、求人広告の|貼《は》り紙では製紙会社が一きわ高い初任給を掲げていたのを覚えている。
「いや、それより前ですな。ダンスのはやっていた頃ですから」
ダンスの流行と製紙業の隆盛と、時代的にどういう年月をへだてているものか、私には記憶がない。
男の表情は若く見えたが――と言うよりいったい何歳くらいなのか、見当のつけにくい|風《ふう》|貌《ぼう》だったが、話から察して私より十数年は上、おそらく六十に届くのではあるまいか。
「ダンスですか」
「はい。私ゃ内地のほうで仕事をしくじってしまって、まあ、就職口があったものだから、こっちへ渡って来ましてね」
「はあ」
「楽しみのなんにもない土地でしたからねえ。社交ダンスを覚えたんですよ」
「なるほど」
私は作家の|新《にっ》|田《た》|次《じ》|郎《ろう》さんが富士山の気象観測所で|帚《ほうき》を相手にダンスを覚えたというエピソードなどを思い出した。
苫小牧ではまさか帚をパートナーにするほどではなかっただろうが、娯楽設備の少ない地方都市で、社交ダンスが若い人たちの|恰《かっ》|好《こう》な楽しみとなった話は、ほかでも聞いたことがある。
「あなたは踊れますか」
「いえ、駄目なんです」
「それは残念。やってみるとなかなかおもしろいものですよ」
「ええ、たぶん……」
「私はすっかり夢中になっちまいましてね。一時はプロのダンサーになろうかと思ったほどですよ」
「そりゃあ……」
私は|曖《あい》|昧《まい》に言い、さりげなく男の体恰好を観察した。
年を取っていくぶん背筋は|彎曲《わんきょく》しているが、脚は長く、若い頃にはおそらくスタイルのいい男だったろう。
「でも、途中でダンスのできない体になってしまいましてね」
「なんですか」
「骨の病気ですよ。それでもダンスは忘れられない。それで、ベッドに寝ているうちに、しようがない、指のダンスを研究しましてね」
「指のダンス……ですか」
「はい。ほら、見てごらんなさい」
男はそう言いながら私の目の前についと両手の指を差し出した。
「私の指はちょっと変わっているでしょう。生まれつき人差指と中指の長さが同じなんですよね」
言われてみると、その通り。二本の指の丈がほとんど変わらない。私はあらためて自分の掌を見たが、ほぼ一センチほど中指のほうが長い。これが普通の手というものだろう。
「野球のピッチャーでもいましたよね。指が他の人と少し違っているために特別なボールを投げられる人が」
「ええ」
「私も、この指、なんかの役に立たんかいなって思ってたんですが、急に思いつきましてね。よし、この指にダンスを踊らせてやれ」
「おもしろそうですね」
「はい。右の指二本が男の足、左の二本が女の足。ズボンを|穿《は》かせスカートを穿かせ、ナーニ、上半身なんかなくたってダンスの気分は充分に出せますからね」
「練習なさったわけですね」
「そう。毎日鏡の前で練習して……」
「ええ……」
「お見せしましょうか」
男の指はもう|膝《ひざ》の上で軽くステップを踏み始めていた。
「はい。|是《ぜ》|非《ひ》」
「じゃあ,ちょっとあなたの上着を貸してくださいな」
「どうぞ」
男はカーテンの裂け目に|椅《い》|子《す》を置き、椅子の上に私の黒い上着をかけ、膝を落として椅子の背から腕を出した。男の姿はカーテンの中にすっぽりと隠れてしまった。
四本の指はすでに白いズボンと赤いスカートをはいている。
「なにを踊りましょうかな」
カーテンのうしろから男の声が響いた。
「一番得意のものを」
「じゃあ、一番ポピュラーなところで、ラ・クンパルシータを」
「ええ」
細い口笛が鳴り、椅子の上で指が踊り始めた。
本当のところさして期待もしていなかったのだが、踊りが始まったとたん、私はたちまち目を見張らなければいけなかった。
カーテンが緞帳のように垂れている。黒い上着が手首を隠している。ラウンジのスポット・ライトがほどよい大きさで|光《こう》|芒《ぼう》を広げている。
椅子の台は木製で、さながら舞台のフロアーにふさわしい。
四本の指は彼の口笛にあわせてみごとなステップを踏みだした。とても指のようには見えない。なにやら天井桟敷から遠く、小さな舞台を眺めているような風景だ。
曲が止み、脚も止まった。
「いかがですか」
「すばらしい」
「じゃあ、もう一曲」
「なんですか」
「そうね。“|浪《なみ》|路《じ》はるかに”をフォックス・トロットでやってみましょうか」
「はい」
ダンスを踊れない私には、フォックス・トロットがどんなステップかわからなかったが、曲のほうならよく知っている。ずっと昔、どこかの深夜放送がテーマ音楽に使っていた。原題はたしかメSail along silvery moonモではなかったか。いかにも銀色の海に帆船が一つ、なめらかに滑って行くようなメロディだ。
雨は降りやんだのだろうか。
さっきから窓を打っていた激しい響きは消えてしまった。聞こえるのは彼の細い口笛の音色だけ……。
四本の指は軽く、歯切れよく、楽しそうに弾んでいる。人気ないフロアーで、一組の男女が心地よさそうに戯れてる……。
曲が終わったとき、私は小さく手を|叩《たた》いた。
「うまいものですね」
「おそれいります」
こんな芸があるとは知らなかった。まったく世間にはどんな奇特な人がいるかわからない。
それにしてもこれだけ熟練するには、どれほどの練習が必要なんだろう。中指と人差指と、二本の指の長さが似通っているという身体的な条件をべつにしても、そうそうだれにでもできることではあるまい。
「気に入りましたか」
「ええ」
「じゃあ、わる乗りをして、もう少し」
口笛は“魅惑のワルツ”を奏で、足の動きは――いや、指の動きは、ゆるやかな、|床《ゆか》を|掃《は》くようなステップを取った。
曲の題名から察して、これはワルツなのだろう。メロディにつれ映画のシーンが浮かぶ。ゲーリー・クーパー、オードリイ・ヘップバーン、それからモーリス・シュバリエだったな。シナリオもよくできていたが、音楽の美しさが抜群だった。
本来ならば、クーパーが私立探偵の役を、シュバリエが|女蕩《おんなたら》しの役を演ずるのが普通なのだろうが、それを逆にしたところがおもしろかった。|逢《あい》|引《び》きの場面には、かならずお抱えの楽団がついて来て、甘い音楽を奏でる。ラブ・シーンそのものが典雅なダンスのようだった。連想はとめどなく広がる。そのうちにステップが急にすばやい動きに変じ、音楽も変わった。
これは……このリズムは、私にも見当がつく。
たぶんサンバだろう。
曲名は……そう、“エル・クンバチェロ”と言うんだ。カーニバルのリズム。激しい動き。汗の|臭《にお》い。
こちらもつい指で拍子を取りたくなる。
「あれ?」
思わず独りごちた。
私は最前からただひたすら感心して|呆《ぼう》|然《ぜん》と指の動きに見とれていたのだが、ふと奇妙なことに気づいた。
サンバが始まった頃から指の動きがおかしい。
狂気のように激しく乱舞している。
相変わらず指の動きは見事なものだ。
だが……見事過ぎやしないか。
四本の指がまるで独立した生き物のように踊っている。
――そんな馬鹿な――
私は凝視した。
指は右に動き、左に跳び、クルリと回転して複雑な運動を描く。
――手の指にこんな動きができるはずがない――
そう思ったとき、口笛の音が遠のいた。
遠のいたのではなく、もともとその音色は私の頭の中でのみ響いていたのではないか。
「あの……」
声を掛けたが返事はない。
自分でもよく理由のわからない恐怖が走った。
私は立ちあがり、舞台を――椅子の舞台を覆っている上着をサッと払いのけた。
男の姿はなかった。
それだけではない。その瞬間、私はたしかに見たのだった。
四本の指が――手首のない指が、さながら演技を終えたバレリーナたちのようにススッと小走りに走りながら緞帳の中へ引き退がるのを……。
すぐにカーテンを払った。
男の影も、四本の指もなかった。ただ、青いスポット・ライトがカーテンの一角を照らしているだけ。静寂が途切れ急に聞き慣れた雨の音が戻ってきた。雨は激しく打って窓を濡らしている。
「もし」
もう一度声をあげたが、ラウンジはひっそりとしている。カーテンをくまなくたぐってみても、なにもない。
――なにかブラック・マジックのようなものを見ていたのだろうか――
私はまどろんだのだろうか。
翌朝は林業研究所を見学して、それから札幌へ入るスケジュールだった。
雨は降りやまない。
木田さんは、
「また雨ですね」
と、くやしそうに言う。
「いつやむのかな」
「すみません」
私は今朝目醒めたときからずっとサマセット・モームの“雨”という短篇のことを思っていた。
孤島の雨。何日も何日も降り続ける雨。そのうっとうしさが一人の宣教師の理性を狂わせてしまう小説だった。
――少し似てるかな――
旅先のホテルで雨に降りこめられるのも、ひどく滅入った気分になるものだ。私にはちょっと閉所恐怖症のところがある。“閉じ込められる”ということが好きになれない。体調がわるければなおさらのことだ。
「よく眠られましたか」
「はい、まあ」
“寝つきが悪かった”と言えば、木田さんはそれもまた自分の責任だとばかりに恐縮するだろう。
「夢を見ましてね」
私は自分の戸惑いに結論を下すように木田さんに告げた。
「いい夢でしたか」
「ヘンテコな夢でした。夢の中にネ……」
「はい」
「指が出て来ましてね」
「ええ」
「ダンスを踊るんですよ。とても|上手《じょうず》に。まるで一本一本が生きた生き物みたいに」
「ああ」
木田さんは小さく|呟《つぶや》いてから、
「本当に夢でしたか」
と、聞く。
思いがけない質問に私は驚いた。
「ええ、でも……」
思わず口ごもってしまう。
助手席の肩が笑いながら言った。
「製紙工場では紙の裁断機を使うでしょう。よく事故を起こして指を切ってしまう人がいたんです。最近は機械もすっかり改善されましたけど、昔はよく」
「…………」
「その指が幽霊になって出て来るんだそうです。私ゃまだ見ませんですけど。製紙会社の町じゃよく聞く怪談なんです」
木田さんは含み笑う。
私はさぞかし珍妙な表情を作っていただろう。前日見学した工場の、鋭い裁断機の印象が|甦《よみがえ》った。
もし誤って手を出したら、五本の指が棒チーズのようにサクリと切り落とされてしまう。
――しかし、その指の幽霊が出るなんて――
雨がまた強くなった。車の中は息苦しい。
――それにしても――
とりとめもない思考をまとめようとして窓の外に目を移すと、雨の歩道を相合傘の脚が急ぐ。上体を傘の中に隠して、四本の脚がしなやかに踊って消えた……。
熱 病
鋭一が家に帰って来たのは夜の七時過ぎだった。
ゴールデン・ウィークも過ぎて、外はまだ明るさを残していたが、小学三年生の帰宅時間にしては遅過ぎる。しかも全身土まみれでゲッソリと疲れきった様子だった。
もう三十分も早く帰って来たら、さぞかしきつく怒鳴れたところだったろうが、妻も私も、
――なにかよくないことが起きたのではあるまいか――
と、本気で心配を始めた矢先だった。
顔を見たとたんにほっと安心する気持ちが先に立ち、叱りそびれてしまった。
「どうしたんだ、今ごろまで」
私が尋ねると、鋭一はものを言うのも億劫そうに、
「自転車に乗ってたの」
と、答える。
「どこで? 危いじゃないか」
鋭一はまだ自転車によく乗れない。家の付近は道路も狭くて危険なので自転車を買い与えていなかった。
「危かないよ。広場だもン」
「だれが貸してくれたんだ」
「知らない子。二台あるから、いくらでも乗っていいんだ。転んだけど、乗れるようになったよ」
「チャンとお母さんに連絡しなくちゃ駄目だぞ」
「うん」
鋭一にしてみれば、思いがけず広場で自転車に乗ることができた。それで、つい、つい家に帰るのが遅れてしまったのだろう。その心根がわからないでもない。
妻の安子が口を挟んで、
「さ、早く手を洗ってらっしゃい。洋服も全部脱いでよ。スープがさめないうちに」
と、|急《せ》かせる。
「うん」
鋭一は緩慢な動作で揺れるように立ち去った。
夕餉のおかずは好物のハンバーグだったが鋭一の箸の動きは鈍かった。
「どうしたの、お腹すいてないの?」
「すいてない」
「なにかご馳走になったの?」
「ううん」
どす黒い額に汗が浮いている。
「熱があるんじゃないのか」
安子が手を当て、
「あ、ほんと。風邪かしら。食べたくないんならやめたほうがいいわ」
「うん」
鋭一はポトンと箸を落とした。
「駄目ねえ。いい気になって遅くまで遊んでいるからよ。薬をあげるから早くパジャマに着替えなさい」
安子は鋭一の肩を抱くようにして子ども部屋へ連れて行く。なにやら話し声が聞こえたが、私はさして気にも留めずにビールを飲んでいた。
K市に引越して来たのは二カ月ほど前のこと。敷地四十坪の建売住宅だ。付近は新興の市街地で、似たような家がびっしりと建ち並んでいる。駅まで六、七分と、値段のわりには近いのがなによりの長所だった。
三人家族は、まあ、なんの問題もなく睦まじくやっているほうだろう。安子はおとなしい性格だから夫婦のあいだで、めったに諍いが起きることはない。
「三十九度も熱があるのよ」
安子が眉をしかめながら戻って来た。
「そうだろう。ひどい顔色だった」
「大丈夫かしら?」
「熱さましを飲ませたんだろ。しばらく様子を見るより仕方ないさ」
「言うこともちょっとおかしいの」
「ほう?」
「表通りのところに椿の木の並んだ角があるでしょ」
「どこ?」
「ほら、|家《うち》のほうへ曲がる角と反対のほう。木の陰になって見えにくいけど」
「ああ、あれ椿の木か」
「そうよ」
「それがどうした?」
「そこんとこ曲がって、くねくねした道を行くと、黒と白の縞模様のマンションがあるんだって。知りません?」
「あんな角、曲がったことないから知らん」
「鋭一は行ったらしいわよ。そしたら、知らない男の子が出て来て“自転車に乗ろう”って誘われたんですって」
「あいつ、人見知りしないほうだからな」
「ええ……。階段を登って部屋へ入って、そこの押入れをあけたら、そこに広場があって……なんだか熱のせいで頭がボーッとしているみたいなの」
「どうしたのかな」
私も少し気になって子ども部屋のベッドを覗いてみたが、鋭一は早くも寝息を立てて眠っている。額はひどく熱いが、熱さましも飲んだことだし、とにかくこのまま眠らせておこうと思った。
高熱は多分風邪のせいだろう。自転車に乗っているときは、おもしろさのあまり体調のわるいのに気づかずにいたのだろうが、家に戻ったとたんドッと病いが外に現われた。疲労と高熱のせいで、言うことがおかしくなるのも子どもなら充分にありうることだ。
食後のお茶を飲みながら、
「あれは椿だったかな」
「そうよ、あなた、花になんかまるで関心がないんだから」
「そうでもないけど……」
いつも帰宅を急いでいるので反対のほうに折れる角などよく確かめてもみなかった。日曜日に近所を散歩して歩くのだが不思議とあの角は曲がらなかった。私だけの感覚かもしれないが、たくさんある角のうちでもなんとなく曲がってみたくなる角と、その反対にどうも曲がる気になれない角とがあるものだ。その判別の基準が、角の、どんな特徴に由来するものか、自分でもよくわからないけれど……。
椿の|喬木《きょうぼく》が立ち並んでいる角は明らかに曲がりにくい角に属していた。
――角と言うより古い農家の庭にでも続くのだと思っていたんだが……あの先に縞模様のマンションや原っぱがあるのなら、ちょっと散歩の足を伸ばしてみようか――
などと、私はとりとめもなく思った。
テレビがプロ野球の結果を伝えている。鋭一の病気を除けば、いつもの夜と少しも変わらない。十時過ぎに安子がもう一度熱を計り、
「三十八度。下らないの」
「眠っているんなら、そのまま眠らせておけ。アイスノンでも敷かせて」
「あたし、隣に寝てあげようかしら」
「そのほうがいいな」
安子はベッドの脇に布団を敷いて自分の寝床を作り、心配そうに横たわった。私もその背後に身をそえて寝転がりそっと乳房をまさぐる。
安子の肌はこれが人間の肌かと思うほどに白く滑らかだ。手が少しずつ深く忍び込む。
安子は肩の動作で逆ったが私の腕が堅く捕らえて逃がさない。彼女の抵抗もそう激しいものではなかった。
「鋭一が……起きるわ」
私はその声に答えるように灯りを消した。闇の中で音のない動作が続く。掌に熱い絹がまとわりつく。太腿のあたりは肉も張りつめていて指先を弾ね返すほどだ。
安子の息が荒く漏れる。鋭一はかすかに苦しげな息をあげて眠り続けている。
奥深い部分はすでに軟かく潤って、安子の本当の意志を伝えていた。もう抗おうとはしない。私は背後から探り続ける。
子どもが病気で眠っているというのに……不謹慎だろうか。
――いや、そうでもあるまい――
父と母とが愛しあっているのだ。これも平穏で、幸福な家庭の縮図なんだ。
安子はけっして愛のさなかに声をあげない。いつも控え目にとり澄ましている。
ふたたび灯りをつけると鋭一は相変らず深く眠っていた。安子がその顔を眺め、それから私を見返す。
影の多い光が一瞬、恥ずかしそうな妻の表情を映した。
鋭一の高熱は三日ほど続いた。
近所の医者に往診してもらったが、診断はやはりただの風邪だった。注射を打ってもらったが、その効果もあまりはかばかしくない。もっと熱が続くようなら専門医に見てもらおうかと考えたが、四日目にははっきりと快方に向かい、五日目にはもう学校へ飛び出して行った。子どもの回復は速いものだ。
元気になると、晩酌のテーブルににじり寄って来て、
「お父さん、自転車を買って」
と、せがみ込む。
「危いじゃないか」
「大丈夫だよ。上手に乗れるようになったんだから」
「この前見つけた空地で乗るんならいいけど」
「うん」
鋭一の表情が奇妙に曇ったが、私にはその理由がなんなのか、その時にはわからなかった。ただ、
「じゃあ、近々買ってやろう」
と、約束しただけだった。
あとで思い返してみれば、鋭一はあの時、心の中でひとり秘かに思い悩んでいたのだろう。自分でも高い熱が続いたことは知っていただろうが、現実と幻覚はいくら子どもだって区別がつくのではあるまいか。
「このあいだのマンション、見つからないんだよ」
と、不思議そうに言っていたのも、私は気にも留めずに聞き流していた。
それから何日かたって、あるなま暖い夜のこと、私はホロ酔い加減で駅からの舗装道路を歩いて来て、ふと椿の並ぶ角に目を向けた。先にも述べたように、これまではあまり“曲ってみたい”とは思わなかった角なのだが、この夜ばかりは事情が少し違った。鋭一の言葉が耳の奥で響く。
――白と黒の縞模様のマンションがあるんだよ。そこに知らない子がいたんだ――
――でも、あのマンション、見つからないんだァ――
鋭一の|訝《いぶか》しそうな表情も心に浮かんだ。
椿の木は黒々と枝を伸ばしている。街灯の光をさえぎり路地の入口はひときわ色濃い闇に包まれている。
この一角だけ商店街が切れているのは道に沿って古い農家があったせいなのだろう。大木に育った椿を切りかねているうちにいつのまにか付近が市街地に変り、場違いな印象を示すようになったのだ。
木の幹の間には思いのほか広い道幅があって、その先はポッカリと広がり、どこにでもあるような住宅街の道が続いていた。
坂を一つ登り、それから蛇行する道を歩いた。夜の色が一瞬濃くなり、それから急に空の星が輝きを増したように覚えたが、なにかの錯覚だったのかもしれない。
眼をあげると、崖を背にして白と黒の縞模様の建物が見えた。
――ああ、あれだな――
よほど珍妙な趣味の持ち主が建てたものにちがいない。ひところ婦人服の模様でペンシル・ストライプというのがはやったことがあったけれど、その建物も鮮やかなコントラストを作って闇の中にうずくまっている。とりわけ白の色が夜光塗料でも塗ったみたいに光っている。じっと見つめていると、眼がくらむようなサイケデリックな印象のデザインだ。商店の壁面ならともかく、住宅用のビルディングとしてはすこぶる突飛なデコレーションと言うべきだろう。
私は近づいた。
極度に窓の少ないマンションで、わずかに三階のあたりから光が漏れているだけだ。
――あそこが、鋭一の行った家かな――
脇に屋根つきの階段があるので、なんの目的もなく昇ってみた。
三階に昇り着くと白黒のストライプをかすかに波形に揺らしたドアがあった。表札はない。
足の向くままにここまでやって来たけれど、わざわざドアを押し開けて、
――先日、子どもがお世話になりまして――
と、挨拶するのは突飛過ぎる。それにしても鋭一が言っていた広場はどこにあるのだろうと首を廻していると、ドアの中から、
「どうぞ、お入りなさいな」
と、女の声が響いた。
ドアがほんの十センチほど開いている。声の主はだれかと間違っているのではあるまいか。
「どうぞ」
もう一度同じ声が聞こえた。
「あの……」
こんなときなんと事情を説明したらいいのだろうか。
「先日は坊やが遊びにみえたわ」
私のことを鋭一の父だと知っているらしい。そうならば呼びかけた理由も少しはわかる。好奇心にもかられて私はドアの中を覗いてみた。
女が背を向けて立っている。
エメラルド・グリーンのワンピース。その鮮やかな色彩を長い髪が隠している。
「こんばんは」
さぞかし落ち着きのない声を出して呼びかけたことだろう。
「おあがりくださいな」
女は振り向き、髪を掻きあげながら笑った。
目鼻立ちの輪郭がはっきりしている。いくぶん浅黒い肌に大きな眼がよく釣りあっている。歯並びのよさは、大粒のとうもろこしを連想させた。
年齢はいくつくらいだろう。三十歳くらい? いや、もっと若いのかもしれない。私は漠然と、鋭一と同じ年の子どもを持つ母親を想像していたのだが、女はそれよりはるかに若々しく見えた。
「いい陽気の夜だわ」
女は日頃顔見知りの知人にでも話しかけるように気安く言う。
「ええ、そうですねえ」
こっちのほうが戸惑ってしまう。
「少しはお時間がおありでしょ」
女は玄関に続くリビングルームのソファに腰かけ、脚をブラブラさせながら私の顔を覗き込む。
「はあ」
くつろいだ様子に誘われ、私は曖昧な気持ちのまま靴を脱いだ。
なにがなんだかよくわからない。相手はやけになれなれしい。面識のない男を家の中へ呼び入れることについて女はなんの不安もためらいも感じていないらしい。
「いつもこんな時間にお帰りなんですか」
「いや、今日はちょっと知人とお酒を飲んで」
「ああ、お酒がお好きでしたの。なにかお出ししましょうか、ブランディ? ビール?」
「いえ、おかまいなく。もう結構です。おそれいりますが、水を一ぱいいただけませんか」
ひどく喉が渇いていた。
「ただのお水でよろしいの? お紅茶でもいれましょうか」
「結構です。お水で」
「そう」
女は香料のかすかな風を起こしてキッチンのほうへ立った。ワンピースの裾に伸びたふくらはぎの形が美しい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女は私が水を飲むさまをうれしそうに見上げている。その眼差しが媚びを含んでいる。ドキン、と胸が鳴る。
――コールガール――
そんな言葉が心に浮かんだ。
男の客を招き入れて、いきなりこんな眼差しで眺める女となると、ほかに考えられない。
しかし、それにしては上等過ぎる。
コールガールなんて、そう何人も見たことがあるわけではないけれど、どの女もみんな表情のどこかに汚れた生活の垢を張りつけているものだ。今、私の目の前にいる女にはそれが微塵もない。表情がかすかに淫蕩に蠢いているがけっして下品ではない。
器量のよい若奥さま、そんな印象だ。
「驚いたんですか」
「ええ、まあ」
「どうして」
「突然だから」
「困りますか」
「いえ、困りやしないけど」
「一度だけのことですから」
女は呟くように言ったが、たしかに私の耳には“一度だけのこと”と聞こえた。
「なにが……です?」
と、聞き返しても、女はそれには答えず、
「かわいい坊やちゃんでしたわね」
「あ、その節はどうも。自転車を貸していただいたとか」
「ええ、それが一番やりたいことだったみたい」
「はい。前から乗りたがっていたんですけど、このへんは結構車が多くて危いから」
「ええ」
「あの……なにかこの近くに広場があるとか言ってましたが」
「ええ、その押入れの中に」
言葉は明瞭にそう聞こえた。
私は驚いて女の顔を見上げたが、女は片頬で頷いてから立ちあがった。とても狂人の表情とは思えない。
だが、これまでの様子から判断して、見た目には普通の人と少しも変わらない精神異常者なのではあるまいか、と私は疑ってみた。
待てよ。狂っていたのは、もしかしたら私のほうなのかもしれない。きっとそうだろう。
女が押入れの戸を開いた。
夜気が流れ込み、そこに四角く切り抜かれた闇があった。首を伸ばすと星が見え、下には、なんと、ぼんやりと広がる草原があった。
――たしかここは三階のはずだが……。階段で七、八メートルほど高い位置まで昇ったはずだが――
もしかしたら、このマンションは急な傾斜地に建っているのかもしれない。表通りから見たときにはそんなふうに見えなかったけれど、裏手は山に続いているのだ。それよりほかに考えようがない。だから押入れを開けると、いきなり足の下に草原が広がっているんだ。
「散歩しませんこと。草がとても気持ちいいわよ」
女はスリッパを脱ぎ、縁側から降りるように素足のまま草の上に載った。
私もあとに続かずにはいられない。たしかに足の裏をくすぐる草の感触は心地よい。
女は肩を寄せ私の手をまさぐる。人気のない草原で二人だけの散歩が始まった。
それにしても、ここはどういう形状の草原なのだろうか。広さもよくわからない。周囲には家らしい家も見えない。私の家からそう遠くないところに――市街地のすぐ近くにこんな空き地があるとは意外だった。
一歩進むたびに闇が深くなる。女の肌が重く伝って来る。
――この女はなにを望んでいるのだろう――
考えてみたが思案がまとまらない。
女が足を止め、私が背を向けると、そこにかすかに上向き加減の唇があった。
舌と舌とがからみあう。
闇の中でしばらく抱きあっていたが、女が体を振りほどき小さな身振りで指を差した。指の行方にほんのりと白い、小さな建物が見えた。
「なんだい」
「小さなお部屋があるの」
「ほう」
|訝《いぶか》しく思ったが、女の言葉に嘘はなかった。
ドアには錠もかかっていないらしく、ギイと鈍い軋みをあげて開いた。女が電灯のスイッチを押すと、小奇麗な空間が浮かびあがった。四畳半くらいの大きさ。なんのために作られた建物かわからないが、現在は寝室として利用されているらしい。
草原のまっただ中の寝室――考えてみれば奇妙な話だが、現に部屋いっぱいにベッドが置いてあるのだから、ほかに解釈のしようがない。
女はタオルを濡らし、私の足を丁寧に拭く。
それから自分の足を拭ってベッドの隅に腰をおろした。
唇がさっきと同じ角度で上を向いている。
私は女の首に腕をそえ、滑らかな舌の感触を探ねながら女を押し倒した。
ジッパーの音が鳴り、女の匂いが揺れて漂う。
女の胸はいくぶん白ずんでいたが、やはり浅黒い肌なのだろう。汗を帯びた小麦色が美しい。
「電気を消して」
「だれかに見られるかな」
窓の外には相変らずなにも見えない。
「恥ずかしいわ」
女の肌は掌によくなじむ。餅肌というのは普通色白の肌について言うのだろうが、小麦色の餅肌というのもあるのかもしれない。
――さしずめこの人の場合がそうだな――
などと、私は熱い頭の片隅でとりとめもなくそんなことを考えていたように思う。それほどに軟かく滑らかに吸いつく。
指先が体の一番奥深い部分に届くと、女は体を弓に変えた。声が細く伸びた。
なんという熱さだろう。なんという潤いだろう。肉が私を押し包み、女の意志を伝えて蠢く、蠢く、蠢く。いくたびも繰り返して。
私は信じられないほどの歓喜と恍惚の中で果てた。
帰り道の記憶はそれほど明晰ではない。体がとにかく熱かった。熱のために意識がぼやけるほどだった。
「ただいま」
玄関に崩れるように跳び込んだ。
「どうしたの? ひどい顔色。熱があるんじゃない」
「どうもいかん」
体が熱いのに、寒気が走る。いったん歯が鳴り出すとなかなか止められない。
「風邪かもしれん。鋭一に移されたかな」
「とにかく早く寝なさいな。お医者さん呼びましょうか」
「いや、いい。解熱剤をくれ」
解熱剤にはいくらか催眠効果があったのかもしれない。眠りはすぐにやって来た。夢の中で何度も何度もあの縞模様のマンションと女の小麦色の肌を見た。
熱がなかなか下がらないのは、鋭一の場合と同様だった。
四日目頃から快方に向かったのも同じだった。
「鋭一と同じ風邪だったみたいね」
「そうかもしらん」
「|譫《うわ》|言《ごと》を言ってたわよ」
「なんて?」
「よく聞いてなかったわ」
「フーン」
私は布団の上に身を起こしたまま釈然としない思いを胸の底に隠していた。
――あれはなんだったのかな――
思い返してみても奇妙な体験だった。
高い熱が消え去ってしまうと発熱の直前に体験した出来事までもが、熱い脳裏に映った妄想のように感じられてならない。体験そのものもどこか現実離れをしたものだった。
足腰に力が戻ったところで私は早速散歩に出かけた。行く先は初めから決まっていた。
「どこへ行くの」
妻が心配そうに尋ねた。
「うん、ちょっと」
安子の視線が眩しい。
――ああ、俺はこの人を裏切ってしまったんだな――
かすかな後悔が胸にうずく。私は結婚以来つい先日まで妻に対して背信を犯したことがなかった。適当な機会がなかったから? それも一つの理由だろう。男として意気地がなかったから? それも言える。だが一番の理由はやはり安子を愛していたからだろう。
人中で目立つ女ではない。野の花のようにしばらく眺めていて初めて人柄や容姿のよさがわかって来る。
――それに比べて、あの女は――
小麦色の張りつめた肌の手触りが甦る。
奔放に乱れる女だった。糸を引く声が耳に残っている。隠微な部分の蠢きが一つの記憶として心に昇って来る。
しかし、どこかぼやけた印象でもあった。
椿の角を曲がったところで、私はまっ白い本を見るような違和感を覚えた。
――どこかが違っている――
違和感は一歩ごとに驚愕に変わり、たちまち恐怖にまで育った。
――道がない。あのマンションがない――
眼の前に続いている道は私の知っているものではなかった。どこをどう捜してみてもあの縞模様の館はなかった。
――高熱に冒される直前の幻影だったのだろう――
そうとしか考えられない。私は文字通り狐にでも憑かれたようにそのあたりを何度も何度もうろたえ歩いたが、なにひとつとしてあの夜の記憶に符合するものはなかった。
私は家に戻って鋭一に尋ねた。
「この前、縞模様のマンションへ行って自転車に乗ったって言ってたな」
鋭一は眼をしばたたきながら視線を遠くへ伸ばして、
「うん。病気になる前に夢で見たんだよ」
子どもはそう理解しているらしかった。
私もそう納得するよりほかにないのだろうか。
その後も何度か椿の角の奥の道を捜ねてみたが、もう二度とあの珍妙なマンションは私の前には現われてくれなかった。
女のイメージも少しずつぼやけたものとなり、すべてが私の脳に映った幻の風景のように見えるときが多くなった。
そして、私は考えた……。
私はたしかに安子を愛しているけれど、心の奥底にはやはり安子とはまるで違った女を抱いてみたいという願望があったのかもしれない。そんな願いが、高熱のため脳の意識が弱まったあの瞬間に首を持ちあげ、放逸な夢を描いたのかもしれない。安子の白い肌とあの女の小麦色の肌。一方はつつましくもう一方は奔放に。清楚な身振りと淫蕩な物腰。なにもかもが対照的過ぎる。押入れの中に草原があるなんて……。第一“このへんにベッドがあればいい”と思ったとたんにベッドつきの|東屋《あずまや》が現われるなんて、まるでお伽話の世界だ。とても正気だったとは思えない。
それにしても……鋭一は本当に自転車に乗れるようになったが、あれはどうしたわけなのだろうか。
疑問が解けぬままに数週間が過ぎた。
日時がたてばたつほど“あれは幻影だったのだ”と考えるより他になくなってしまう。いち早くその判断を選んだ鋭一のほうが正しかったのかもしれない。縞模様のマンションの話をしても、鋭一はかすかに不思議そうな色を浮べるだけで、それほど深く拘泥しているふうには見えない。
自転車を買ってもらって無邪気に楽しんでいる。
私だっていつまでもつまらぬ夢にこだわっていることはないんだ。
平凡な日々が戻って来た。
安子が一度だけ、
「なんか椿の角のむこうに変なマンションがあるって聞いたけど……」
と、呟いた。
「だれがそんなこと言ってた?」
「鋭一が言ってなかった?」
「夢の話だろ」
「ああ、そうなの」
話はそれで終ったが、その翌日から安子が高熱に襲われた。
病気は四日ほどで癒えたが、それからというもの、妻の表情に時折ふっと淫靡なものが漂うようになった。寝室の動作が少し変った。彼女は心の奥底でなにを願っていたのだろうか。
カタン カタン
あとで考えてみれば、奇妙な出来事はその日の朝からすでに始まっていたのかもしれない。
市原文雄。三十一歳。広告代理店に勤めている。家族は妻の愛子と二人暮らし。もうすぐ新婚一年目の記念日がやって来る。
一カ月ほど前、私鉄沿線の郊外地にマンションを買った。2LDK。三階建てビルの三階。小ぢんまりしたマンションで、建ったばかりだから入居率はまだ三十パーセントくらいのものだろう。一階は商店を入れるつもりらしいが、ほとんど買い手がついていない。
駅までは早足で歩いて十分ほど。ほかには自転車でも用いなければ、なんの便もない。駅の反対側はそれなりに|賑《にぎ》わっていて商店街などもあるのだが、市原が住む北側の地域は開発が遅れていて、広い舗装道路が一本まっすぐに走っているだけ。駅前広場から最初の交差点あたりにかけて小さなスーパーマーケット、銀行、パチンコ屋、やきとり屋、交番、内科医院など。日常の買い物はこのスーパーマーケットでどうにか間にあうし、銀行は一応市原家の取引銀行。交番と医院はなにかのときに役立つだろう。パチンコ屋とやきとり屋は会社の帰りにちょっと立ち寄ったことがある。あとは芝居のセットみたいな家並みが道路を挟んで途切れがちに続いている。
「駅には遠くないんだし、今にこっち側だって賑やかになるわ」
引越しの日に愛子が自分を説得するような調子で言っていた。多分その通りだろう。そうでなければ困ってしまう。東京の周辺では、あっと思うまに開発が進む。住宅公団の建設予定地も近くにあることだし、マンションは思いのほかよい買い物だったかもしれないぞ。
「駅のむこう側だと、同じ距離でこの規模なら二倍くらいの値段だもんな」
「すぐに同じになるわよ」
「そうかもしれん」
大通りはまだ自動車の通行も少なく、夜半過ぎは無気味なほど静かだ。空気が澄みきっていて、星がいくぶん近くに見える。
「あれが北極星。あれがカシオペア座……」
「よく見えるわねぇ」
晴れた日の朝はとりわけ心地よい。山塊は近く、青空の下に高圧線の電線が巨大な|蜘《く》|蛛《も》の巣のように銀色の糸を輝かせている。
「春らしくなったな」
「本当ね」
起床は七時。文雄が家を出るのは七時四十五分と決まっている。
「今度のボーナスで自転車でも買うか」
文雄が食卓に朝刊を広げ|髭《ひげ》を剃りながら呟いた。電気|剃《かみ》|刀《そり》がブーンと低い|唸《うな》り声をあげて頬から顎へと動いている。自転車屋のちらし広告が新聞のあいだに挟んである。
「婦人物が先よ」
「危いよ」
「あら、私、わりと自転車うまいのよ」
「野尻湖へ行ったとき、途中でへばったじゃないか」
「あそこは登り坂なんですもん。平地なら平気よ」
文雄はぼんやりと思う。野尻湖へ行ったのは結婚前だった。湖畔を見おろすホテルで初めて愛子を抱いた。なかなかうまくいかなくて、やたら焦ってばかりいて……。“野尻湖”と聞くと、文雄はいつも口の中に甘酸っぱいものを感ずるのだが、愛子はさほど意識することもないらしい。
「二台買うかなあ」
「もったいないわよ。私のを買って、遅れそうなときだけ貸してあげるわ」
「こっちは毎日出勤するんだぜ」
「私だって、毎日なにかしら買い物があるわ」
いつもと変りない夫婦の会話。生活の中のジャブの応酬。文雄は神経の三分の一ほどを会話に費し、残りは三面記事、トーストとコーヒー、それから髭剃りにと配分する。
電気剃刀の音がかすかに乱れ、ブブーブン、ブーンブブン、ブン……とかすれ、
「痛え」
頬に痛みを残してモーターが止まった。髭を二、三本|噛《か》み込んだらしい。
電気剃刀が肌に触れる部分は細かい網の目になっている。その下で薄い歯が回転している。振っても叩いても動こうとしない。
「電池が切れた」
「本当?」
「スペアないか」
「ないわ」
「今度買っておいてくれよ」
「ええ……。でも、忘れそう。あなた買って来てよ」
「思い出したほうが買えばいい。ダブっても無駄にはならない」
「そうね」
話しながらもグズグズはしていられない。洗面所に駈け込み、安全剃刀のセットを捜した。お湯を沸かしてもらうひまもなさそうだ。|石《せっ》|鹸《けん》を塗りつけ、なんとか残りの髭をそぎ落として文雄は家を出た。
ただそれだけ。どこの家にでもありそうな朝の風景。この風景からなにかの前兆を汲み取るのは極度にむつかしい。
「じゃあ行ってくる」
「今夜も遅いの?」
「少し残業があるからな」
文雄は駅までの道を急いだ。
出がけに愛子のセーターの胸元がチャーミングだなと思った。今朝初めて気づいたわけではない。再確認。再々確認。いや、再々々々と何度続けたらいいかわからない。毎度おなじみの興奮を覚え、抱き寄せてギュッと握り締めたいと思った。どんなに急いでいるときでも、こういう感覚は自己主張を忘れない。本当のところ愛子の乳房はとてもきれいだ。それを知っている男は俺だけ……。違うかな。清潔感を保ちながら微妙にエロチックである。掌に少しあまるくらいの大きさ。シコシコと堅く張りつめている。まっすぐに立ったとき南半球が全体の重さで少し|脹《ふく》らむ。|乳暈《にゅううん》が大きく乳首がツンと脹らむ様子が|淫《みだ》らに映る。
――昨日も、一昨日も抱かなかった――
新婚一年目としてはめずらしい。今夜は早く帰れるだろうか。
――無理だな――
決算期をひかえて残業がたっぷりとある。しかし、酒さえ飲まずに帰れば妻を抱けないほどのことはあるまい。
想像は愛子の乳房から下腹部へと移った。
朝の九時から夜の八時まで、会社で過ごした十一時間には、なんの変化もなかった。いつもと少しも変りがなかった。昼休み前に課長が書類を叩いて怒っていたが、この人の発作は一週間に一回はきっとある。めずらしいことではない。
「ほら、始まった」
「少し周期が短いんじゃないの」
目配せをして風当たりの弱い席からそっと逃げ出す。昼食は社員食堂の梅定食。これもまた平常通り。
午後には退屈な会議。それから計算機を叩いていたら、もう五時。
「残業するの?」
「うん。少しな」
残業前の腹ごしらえは外に出て春木屋の天丼。大小アンバランスの|海《え》|老《び》が二匹載っている。この大きさの海老は日本の商社が世界の果てまで手を伸ばして買い占めているらしい。
「お前はどこから来たんだ?」
尋ねながら尻尾の先の肉まですすった。故郷はインド洋の果てあたりかもしれない。こいつもまさか遠い日本で天丼になるとは思っていなかったろう。
席に戻ってまた計算機を叩いたが、今夜はやけに時間の進みが遅い。気がつくと腕時計が止まっている。婚約記念に愛子が買ってくれたやつ。オフィスの時計は八時を過ぎている。疲れた。帰ろう。愛子も待っているだろう。
帰り仕度をしていると、
「一ぱいどう?」
主任に誘われたが、断った。
そのあとで三人組が近づいて来て、
「つきあわない?」
指先でなにかをつまむようにして横一文字を描く。言わずと知れた麻雀の誘いだが、これも断った。
国電に揺られ私鉄に乗り換え、郊外地の駅を出たのは十時過ぎだったろう。腕時計が止まっているので正確なことはわからない。
無性に愛子を抱きたかった。
駅からの道は角へ来るたびに人影が乏しくなる。|疎《まば》らに街灯のともる道を急ぎながら愛子の白い体を思った。
――愛子の歓びは〈 y = x2〉くらいの関数だな――
高校時代に習った公式を思い出す。黒板にかかれたグラフの曲線が浮かぶ。
妻の|歓《よろこ》びはゆっくりと始まって急速に高まる。しかも時間を追って滑らかに興奮が募っていく。不連続に変化することはない。機械のように一定の曲線を描いて加速していく。
「ただいま」
「お帰りなさい。お食事は?」
胸もとの乳房は健在だ。すぐに抱きつくわけにもいくまい。
「少し食べるかな」
甘塩の鮭でお茶漬けをすすった。
「お風呂沸いているわよ。私、先に入っちゃったけど」
気がつくと妻の体は上気してかすかに|匂《にお》いを放っている。
「汗だけでも流すか」
夕刊のラジオ欄を見ると、ちょうどオペラの“カルメン”が始まるところだった。文雄の趣味はクラシック音楽。“カルメン”は昔から好きなオペラだったし、新婚旅行でスペインに行ってから一層好きになった。ジプシーの踊り。闘牛場のざわめき。グラナダの赤い月……。
「“カルメン”をやってる」
「あら、ほんと」
愛子はさほどオペラには関心がない。文雄はトランジスタ・ラジオをぶらさげてバスルームへ入った。
オペラはすでに始まっていた。フランス国立劇場の公演らしい。フランス語はわからないけれど、何度も聞いているのでお経の文句みたいに|暗誦《あんしょう》している。湯船でゆったりと足を伸ばして“ハバネラ”を口ずさんだ。
第二幕の“ジプシーの歌”が終り“闘牛士の歌”が始まろうとしたとき突然メロディが乱れた。音が細くなり、ツツン、ツンツーンと不細工な響きを残してなにも聞こえなくなった。|濡《ぬ》れた手を拭い、振っても叩いてもなにも鳴らない。音量をいっぱいにあげて耳を寄せてみたが、やっぱり聞こえない。
――また電池が切れたらしい――
“また”と思ったのは朝がた電気剃刀の電池が切れたのを思い出したから……。
風呂場から首を出して、
「おーい、小さい電池なかったかなあ」
と、愛子に呼びかけた。
「だから……ないのよ」
「電気剃刀は単一だし、こっちは単三だ」
「どっちもないわ。昼間捜したけど」
「しようがねぇなあ」
「買って来てくれればよかったのに」
「すっかり忘れてた」
「今日は私も買い物には行かなかったの。困るわ。時計の電池も切れたらしいの。四時十分を指したっきりよ」
「本当かよ」
「嘘なんか言ったってしようがないでしょ」
「俺の腕時計も止まった。あんたからもらったやつ。ちょうど電池が切れる頃だけど」
「変ね。どういう日なの、朝から」
まったく今日はどうなっているんだ。“カルメン”はあきらめるより仕方がない。
体をすっかり洗ったところでもう一度湯船に深々とつかって思案をめぐらした。
結婚して一年足らず。器具類の電池は耐用時間のきれる時期にさしかかっているらしい。それにしても、なにもかもいっせいに止まり始めるなんて……。
――電気を食べちまう怪獣がいたっけなあ――
とりとめもない連想が胸に込みあげて来る。
子どもの頃に怪獣ブームがあった。ゴジラから始まってアンギラス、ガメラ、テレスドン、カネゴン、エレキング……。カネゴンは金貨や札束を好んで食べるヘンテコなやつだった。電気を常食とするのはエレキングだったろうか。
――このマンションのどこかに電気を食べるゴキブリでも住んでいるんじゃあるまいか――
新築のくせにここはやけにゴキブリの多いマンションだ。養鶏場のあとじゃあるまいか。
風呂からあがると、なるほど柱時計が四時過ぎで止まっている。
「何時頃だろう」
「十一時を過ぎたとこみたい」
愛子が顎でテレビの画面を指した。
「あんたの腕時計があったろ」
「しばらく使ってないけど……」
「あとでテレビにあわせておけよ。あれはゼンマイだろ」
「そうだと思うわ」
ニュースが終ったところを見ると十一時十分か、十五分くらい……。
「寝るか」
「ええ……」
夫婦は連れだって寝室へ入った。障子を閉めたところで振り返って唇を重ねた。
「あ、いやン」
抱きかかえて布団の上に押し倒す。乱暴に胸を開き、|愛《あい》|撫《ぶ》を続けながら夜着を奪った。|灯《あか》りの下で形のよい乳房が汗ばんでいる。今朝からずっとこんな光景を思っていた。
|抗《あらが》う脚を掌の動作で何度も何度も説得して布地の上から深い溝をさすった。ナイロンの布地の下に柔かい|褶曲《しゅうきょく》がある。この感触。このぬくもり。いましも不思議な生き物が|跳梁《ちょうりょう》を開始しようとしている。
「あかるすぎるウ」
「とてもきれいだ」
「|眩《まぶ》しいわ」
下着をはぎ取った。
愛子は眼を閉じて自分だけの闇を作る。唇が脹らみを帯びている。
下腹の白さを際立たせるように黒い恥毛が群がっている。指先を伸ばすと、亀裂は滑らかに|潤《うる》み始めていた。
鼻孔が脹らみ、顎があがり、首が左右に小さく揺れる。
そのとき……。
――おや――
なにかしら薄い影が落ちて来るような気配だった。あかりが暗くなったのがわかった。
愛撫の手を止め、天井から垂れた電灯を見あげた。
ジジー、ジジーン。
細い音をたて電灯がフッと消えた。
愛子はすぐには気づかなかった。むしろ文雄の動作でなにかを感じ取ったらしい。
「どうしたの」
声は陶酔を押しのけ、平生の調子に戻っていた。
「停電らしい」
室内はまっ暗だ。
愛子の白い顔もありかがよくわからない。一筋のあかりもない。これだけ黒い闇もめずらしい。
体を寄せあったまま待ったが、いっこうにあかりはつかない。立ちあがってほかの部屋のスウィッチを押してみた。なんの変化もない。
「うちだけかしら」
「わからん」
「厭ねえ。今ごろ……」
「懐中電灯はどこだ?」
「えーと、たしか台所の……食器棚の右の引出しだわ」
「うん」
手探りで台所へ入って食器棚の懐中電灯を捜した。いざというときのためにもう少しわかりやすいところに置いておかなければなるまい。
ドライバーや、ペンチに混って筒状の懐中電灯が指先に触れた。スウィッチを押すと、影の多い、同心円の|光《こう》|芒《ぼう》が室内を照らし出す。
――停電はうちだけかな――
ブレーカーの|蓋《ふた》をあけて、中を一応確かめてみた。ここにも異常がない。
カーテンの外を見た。
空のどこかに月でもかかっているのだろう。視界は思いのほか明るかったが、電灯のあかりらしいものはなに一つとして見えない。
「うちだけじゃないな。みんな停電らしい」
「厭ねえ。冷蔵庫の中のもの……」
「いまにつくよ」
枕元に懐中電灯を立て、天井に光を映した。
――妙なことで中断されてしまった――
〈 y = x2〉のグラフはxに1か2を代入したところで途切れてしまった。
――もう一度初めからやりなおさなくちゃあ――
手を伸ばして愛子の乳房に触れた。愛子も体をからめて来た。女体のしなやかさが心地よい。掌を伸ばして背後から熱い部分を探った。
だが……そのとき、また細い音が響いた。音というより気配のようなものだった。
ブブーブン、ブーンブブン、ブン……。
薄暗い光がさらに薄くなり、懐中電灯の灯が命でも尽きるように弱々しく輝いてスーッと消えた。
「なんだ?」
「へんね」
これも電池がきれたらしい。
「どうなっているんだ、まったく、今日は」
わけのわからない不安が胸をかすめる。電気を食うゴキブリ……まさか。いわれのない悪意が周囲に潜んでいるのではあるまいか。なにかテレパシイみたいなものが作用していて……。
最初は電気剃刀だった。柱時計が止まり腕時計が止まりトランジスタ・ラジオが聞こえなくなった。ついで家中の電気が消えた。周囲の家もまっ暗だ。懐中電灯を持ち出せば、その電池まで切れてしまった。
「こんなことって、あるのかな」
「明日、電池を買って来るわ」
「そうしてくれよ。俺も忘れなかったら買って来る。陰気でいけない」
「怖いわ、なんだか……」
心なしか愛子の声が震えている。なにしろまっ暗なので表情がわからない。
「ただの偶然よ」
そう呟きながら文雄自身もかすかに納得がいかない。
いつか遊園地でメリーゴーラウンドの電源が切れたことがあった。陽気な歌の中で動いていた木馬たちがカタン、カタンと命をなくすように動きを止めた。音楽が止み、イルミネーションも消えてしまった。一瞬、死の世界に変ったような恐怖を覚えた。そんな記憶が胸に|甦《よみがえ》って来る。
「懐中電灯を入れた引出しに、たしか|蝋《ろう》|燭《そく》があったと思うの」
「ああ」
「取って来て。暗いの厭」
「わかった」
また手探りで部屋を出た。
今度は懐中電灯のときみたいにたやすくは見つからない。
「マッチはどこだ?」
寝室に戻って尋ねたが、文雄も愛子もタバコを喫わない。
「さあ?」
喫茶店からもらって来たのが、どこかにあったはずだが……。
旅行|鞄《かばん》の奥にあったのを思い出して、ようやく灯をともした。
灯をつけて捜せば、すぐに蝋燭が見つかる。食器棚の小皿を燭台にして蝋燭を立てた。
カーテンを開けてもう一度外の様子を確かめてみたが、相変らず灯の輝きはない。町ぐるみ停電になっているのだろうか。
「大きな事故かもしれんな」
「そうね」
蝋燭の薄い光のせいだろうか。愛子の顔がひどくおびえているように見える。
彼女もなにか漠然とした恐怖を感じているらしい。
――でもなにを?
わからない。
「どうかしたのかな」
「なんだか……へん」
「べつに気にすることはないさ」
「ええ……」
闇の中でパジャマを脱いで裸になった。
――しっかりと抱いてやろう。俺たちは、愛しあっているまっ最中だったんだ――
途中でおかしな邪魔が入ってしまった。考えてみれば、男と女が愛し合うにはなんの光もいらない。
「どうしていっせいに電池がきれてしまったのかしら」
まだ愛子はこだわっているらしい。
「わからん。寿命が尽きたんだろ」
「みんな一緒に?」
「だいたい一年くらいの寿命じゃないのか、ああいうものは。みんな買ったのが同じ頃だから」
「厭だわ、寿命だなんて……」
それからなにかを思い出したみたいに、
「でも同じ頃に寿命が尽きるって、本当にあるみたいね」
と呟く。文雄は掌で乳房の丘を下りながら問い返した。
「なんのことだ?」
「へんなこと思い出したわ。ある家でお葬式があると、しばらくはお葬式が続くの。私の友だちのところでもあったわ。お祖父さんが死んで、お祖母さんが死んで、赤ちゃんが死んで、お父さんまで死んでしまって、五年くらいのあいだに四回もお葬式を出したのね。そのあいだ、私の家のほうじゃ一回もなかったわ」
「そんなもの、ないほうがいい」
「そりゃそうだけど……そのうちにこっちのほうに順番がまわって来て、ひところうちもお祖母ちゃんとか、伯父さんとか……重なったわ」
言われてみると、たしかにそんなことがあるようだ。家族の世代構成と関係があるのだろう。文雄の実家でもひところ抹香くさい時期が何年か続いたことがある。
「電気剃刀もトランジスタ・ラジオも時計も家中のものがみんな寿命が来ちゃって……」
「なに、電池を入れればみんなまた動き出すさ」
今度はメリーゴーラウンドがいっせいに動き出した光景が文雄の中に甦った。マーチが高鳴り、イルミネーションがパチパチと輝き、木馬たちが胸を張り足を蹴り、誇らしげに走り出した。
「それならいいけど、なんか厭あね」
「気にすることはないさ」
文雄は身を起こし、愛子の不安を吸い取るように唇を重ねた。
――さあ、一からやり直しだ――
人差指と中指のあいだに乳首を挟んで渦を巻くように大きく掻き撫でる。膝頭で|太《ふと》|腿《もも》を割り、そっとやわらかい部分に触れる。風のようにかすかに、波のように繰り返して。
内奥はすでに熟し始めていた。
眉根が寄る。肩が震える。粗い息がこぼれ始める。
――〈 y = x2+ a 〉かな――
と文雄は思う。
〈 + a 〉というのは、最前からの愛撫で女体はすでに高ぶっていた。ゼロからの出発ではない。
ゆるい曲線が次第に加速して高まる。
文雄が女体を割って折り重なる。
薄あかりの中に愛子の|妖《あや》しい表情が浮かぶ。
「ン、ン」
と、しゃくるような声が漏れる。
歓びの一瞬が近づくにつれ愛子は二本の足を寄せてまっすぐに伸ばす。全身がローリングを描いて揺れるようになれば頂点も近い。
「あ、いや」
甘い呻きとは違う、意識の冷静さを思わせる声がこぼれた。
「…………」
文雄は首を起こし、妻の顔をのぞいた。
蝋燭の光の中で愛子はポッカリと眼を開いている。なにかを訴えるような表情が流れた。
それと同時に女体の中で波のように渦巻いていた興奮に変化が起きた。男は腕の中でそれを感じた。
「どうしたんだ?」
急速に腕の中の女体から興奮が引いて行くのがわかった。
カタッ、カタッ、カタカタカタ……カタン。
音のような気配を感じた。
「電池が……」
愛子が細く呟いた。
たしかにそう言ったと思う。
「えっ?」
聞き返したとき、カタン……いっさいの動きが止まった。
「愛子、愛子!」
首を揺すったが、愛子の表情は変らない。
「おい!」
頬を叩いたが、答えない。|狼《ろう》|狽《ばい》が駈け抜ける。
「電池が……」
たしかそう呟いたのではなかったか。文雄はとっさに覚った。覚らないわけにはいかなかった。
――愛子の電池がきれた――
馬鹿げている。
だが、朝からの出来事はみんなこのことの|前《まえ》|兆《ぶ》れだったんだ。違うだろうか。
電気剃刀のモーターが止まった。“闘牛士の歌”が途切れた。そして懐中電灯がフッと消えてしまった。みんな命を使い果してしまったように。
――こうしてはいられない――
跳ね起きてとにかく下着をつけた。
「しっかりしろ」
自分に声をかけたのか、それとも愛子に向かって叫んだのか、わからない。
蝋燭を取り、光を近づけて愛子の顔を照らしてみた。眼を見開いたまま筋肉が動きを止めている。右手は泳ぐようなしぐさで宙を|掻《か》いている。
白磁の女体は興奮のまっさかりに電池がきれてしまい、そのまま動作を止めてしまった。そう表現するのが一番ふさわしい姿だった。
心臓に耳を寄せてみた。
「愛子! 愛子!」
聞こえるのは自分の|動《どう》|悸《き》ばかりだ。口もとに耳を寄せたが、息を吐く気配もない。
――どうしよう――
新築のマンションには、あいにくまだ電話がなかった。
部屋を飛び出したとたん、なにかにつまずいた。
――糞っ、よりによってこんなとき停電になりやがって――
寝室に戻って蝋燭を取り、手早くズボンをはき、セーターをかぶって外に出た。
向かいの家にはまだ入居者がいない。どこの家に人が住んでいるのかわからない。
階段はまっ暗で駈け降りるのは危険だった。
――とにかく医者だ――
手すりにもたれかかりながらよろよろと進んだ。
――何時だろうか――
時計がない。
あったところで今夜は役に立たない。焦りだけが募って来る。思案がまとまらない。なんだかよくわからないが、奇妙なことが起き始めているらしい。
外は月あかり……。
見上げると黒い空に銀紙でも貼ったように明るい月が宿っていた。
電話ボックスの脇を走り抜けた。
電話をかけようにも駅前の医院の電話番号を知らなかった。
しばらく走ってから、
――ああ、そうか。こんな場合は一一九にかければいいのか――
しかし救急車は、もう死んだ人は乗せてくれないというし……。
――でも愛子は本当に死んだのだろうか――
とても信じられない。さっきまであんなに元気だったものが急に死んでしまうはずがない。カタン、カタン、耳ざわりな響きが聞こえる。
――ただの故障だ。電池がきれただけなんだ――
ひた走りに走れば駅前の医院まで五、六分で行けるだろう。そのすぐ先には交番もある。そこまでたどりつけば、なんとかなるはずだ。
――スーパーマーケットは真夜中でもあいているかな。東京には終夜営業の店があるけれど、こんなところは駄目だろう――
駈けながらそんなことを思ったのは、心のどこかで電池を買うことを考えていたかららしい。単一と単三と、ついでに単二も……。
――馬鹿なことを考えちゃいけない――
電池を買ったところで愛子のどこへ電池を差し込むというんだ。
町には相変らず灯一つない。黒々とした視界にただ月の光だけが広がっている。
――真夜中の停電にだれも気づかないのだろうか。迷惑に思う人はいないのか。みんな寝静まっていて――
それにしてもこの道は人っ子一人通らない。せめて自動車かトラックか、なにか走り過ぎてくれればいいものを……。
息苦しさが募る。
心臓が破裂しそうだ。
角を曲がると月が正面に見えた。ここまで来れば駅前まであと四、五百メートルの距離だ。
ジジジ、ジジジーッ、ジーッ。
これは……さっき電灯が消えたときの音によく似ている。だが、もっと大きい音。頭の上からかぶさって来るような音。
――なんだろう――
またしても信じられないことが起きた。
――電池がきれた――
正面の月が少しずつ色を薄くし、チカッと輝いたかと思うと、フッと空の中に消えてしまった。
たしかにそう見えた。苦しい息の下でそう思った。
――俺の眼がおかしいのだろうか――
そんな気もする。意識がぼやけている。脳裏が白ずむ。
必死になって思考を集中した。
――月はたしかに太陽の光を受けて光っているはずだ。月の電池がきれるはずがない――
ブルッと身震いをした。それとも太陽の電池がきれて、それで月が消えてしまったのだろうか。
――今はそんなこと思っているときじゃない。とにかく医者を叩き起こせばいい。交番に駈け込めばいい――
そうすれば、きっとみんなはっきりする。あと三百メートル。
――愛子……医者……交番……スーパーマーケット……。電池を買って……どこに入れるんだ――
さまざまなイメージが浮かぶ。
意識が遠のく。それでも走りに走った。心臓が|喉《のど》から飛び出して来そうだ。もう駄目だ。
カタッ、カタッ、カタカタカタ……カタン。
またしても音のような気配をはっきりと自覚した。今までのどの気配よりもはっきりと聞こえた。
――電池が――
と思った。
――なにが起きたんだ――
頭の中の白い|靄《もや》が解け、黒い霧が|溢《あふ》れ、闇が一層深くなった。
らせん階段
研究所の宿直を終え、東京駅まで来たとき急に海が見たくなった。
房総の荒い海。
時刻表を見ると、ちょうど十時三十分発のL特急がある。|館《たて》|山《やま》までは二時間ほどの距離だろう。長いエスカレーターを駆けおり、発車まぎわの車両に乗りこんだ。
いくつかの鉄橋を渡り、千葉駅でビールとおつまみを買った。昼間の酒はよくまわる。少しまどろんだらしい。目をさましたときには列車は|木《き》|更《さら》|津《づ》を過ぎ、すでに半島の先端にほど近いところまで来ていた。
空は薄曇り。風も少しはあるようだが、内房の海は|和《な》いでいる。
幼い頃から私は|腺病質《せんびょうしつ》だったので、夏はよく海辺で過ごした。おかげで、ほとんどの運動は不得意だが、水泳だけは人並みにできる。海遊びに慣れている。時折海が見たくなるのは、そんな私の原体験のせいなのかもしれない。
終点の館山で降りた。
ここまで来ると乗客の数も少ない。ほとんどが地元の人だろう。タクシーに乗りこみ、
「|布《め》|良《ら》の海岸まで行ってくれないかな」
と頼んだ。
「はい」
走り出してから、
「布良のどこですか?」
と尋ねる。
「海が見たくてね。海岸を少し走ってほしいんだ」
「はあ?」
おかしな客だと思ったにちがいない。
「フラワーラインですか」
名前が美しい。それでいこう。
「うん」
道は案に相違して山の中に入った。館山から布良の海岸まで、ほんの短い距離だと思っていたが、これはいつも小さな地図で眺めているからだろう。
「館山市の人口って、どのくらいなの?」
「七万弱ですよ。少ないですよ」
「七万ありゃ、りっぱな市でしょう」
日本の各地には人口三万足らずの市がいくらでもある。
「なんもないとこだからねえ」
「夏はにぎやかでしょうが」
「海水浴でね。一時的にパッとにぎやかになるけど、それでおしまいだね。あとはゴルフか魚釣りか……」
「今はなにが釣れるの?」
「このあいだのお客さんは、いい形の|石《いし》|鯛《だい》をあげたって、喜んでたねえ」
「そりゃすごい」
石鯛は引きが強い。簡単には降参しない。そこが格闘の相手としておもしろい。味もわるくない。海釣りの|醍《だい》|醐《ご》|味《み》だと聞いていた。
「でも、あれは本当の鯛じゃないらしいね」
「ああ、色もちがうもんね」
「|鴨《かも》|川《がわ》のほうで鯛を見せるところがあったね」
「鯛の浦でしょ」
舟で行って、船頭が|餌《えさ》を|撒《ま》く。すると海の底からゆったりと鯛の群が現われるのだった。ずいぶん大きな鯛がいたような記憶がある。
「もう近い?」
周囲の景色が畑地に変った。つつじが今を盛りと咲き乱れている。
「もうすぐですよ。布良は初めてですか」
「いや、二十年ほど前に来たことがある」
「二十年。そりゃ大昔だ。大分変っているでしょう」
「ほとんど覚えがないね」
もっと|鄙《ひな》びたところだった。道はわるかった。大きな建物はなかった。旅館も少ない。せいぜい民宿くらいだったろう。しかし、それとても正確な記憶ではない。海辺に着いて車から降りると、かすかに海の形に覚えがあった。
大学の二年生、いや、三年生の夏だった。休暇に入って間もなく旧友の西島から連絡があった。
「海へ行こうよ」
「いいよ」
西島は中学時代の友人で、高校を出たあと石油会社に勤めていた。
私のほうは、うまいアルバイトもなく、家でぶらぶらしているときだった。
「しかし、いい宿がとれるかなあ」
「千葉に行こう。もう部屋もとってある。バスのキップもある」
「手まわしがいいんだなあ」
「旅行社に勤めている子がいるんだ」
女連れの旅らしい、とわかった。
事情を聞いてみると、この海水浴は西島のガール・フレンドの文江と、その友人の秋子が計画したものらしい。秋子は旅行社に勤めている人だった。女二人で、
「男の子がいたほうがいいわね」
「西島さんを呼ぼう」
「彼のお友だちにも来てもらって」
そんな相談があったのだろう。
結局、男のほうは、西島と私と、もう一人中学のときから親しい手塚の三人、女のほうは、文江と秋子の二人となった。
朝早く|秋《あき》|葉《は》|原《ばら》に集ってバスで出発する。男女の交際はずいぶん自由になっていたけれど、一緒に泊りがけの旅へ行くのは、まだめずらしい頃だった。私は初めての体験だったろう。
「房総半島の先っぽの、布良ってとこよ。知ってます?」
「いや、知らん」
「知ってるやつ、いないんじゃないか」
「とってもきれいな海よ。民宿で、私たちだけ。四畳半を二つ借りたわ」
若い者同士はすぐに親しくなる。
バスには何時間乗っていただろう。ずいぶん長い旅だったと、そのことだけが記憶に残っている。途中でいくつもの海水浴場を通過し、乗客が少しずつ減り、最後にたどりついたのが、私たちの目的地だった。
「地球の果てじゃないのか」
「途中にも海がいっぱいあったじゃないか」
「いいのよ。それだけいい海なんだから」
民宿は海水浴場を見おろす丘の上の農家で、庭のすみにプレファブ造りの四畳半が二つ並んでいた。男の部屋と女の部屋とに分かれた。
「三対二。不公平ね」
「一人こっちに来てもいいぞ」
「いやらしいのね」
着いた日の午後、すぐに海に出ただろう。三泊四日の旅だから時間を無駄にするわけにいかない。もう太陽は西に傾いていた。たしかに人の少ない海だった。水も澄んでいた。
房総半島の突端とはいえ、布良はかろうじて内海に属している。海もほどほどの荒れようで、私たちにむいている。本気で泳ぐわけではない。波打ち際で遊んでいるだけなのだから、波は少々あったほうが楽しい。岩場のあたりには|蟹《かに》や小魚がたくさん住みついていて、それを追うのも一興だった。いま思い返してみても、あの頃の布良は遊び場の多い、愉快な海だった。
閉口したのは風呂のないこと。民宿ではお湯をわかしていて、庭先で体を|拭《ぬぐ》うのだが、それだけでは体の塩っ気が取れない。とりわけ女性たちは、戸外で水着を脱ぐわけにいかず困っていた。西島が銭湯を見つけて来たのは、二日目の夜だったろうか。
夕食のテーブルでは、酒盛りが始まる。ビールに|鯵《あじ》のひらき、それに、持って来たピーナツと|柿《かき》のたね、さほどの|酒《しゅ》|肴《こう》ではないけれど、一日太陽の下で遊びまわって飲むのだから、とてもうまい。すぐに酔ってしまう。
酔えば、夜の海へ出る。沖にはほんの一つか二つ、細い灯が光っていた。波打ち際の波だけが横一線に白い線を引いている。
「あたし、こんな海が好きなの」
「うん」
「暗くて、潮の音だけが聞こえて」
そうつぶやいていたのは秋子だった。
西島と文江はどういう仲だったのか。恋人に近い関係だったろう。寝るときをのぞいて二人はたいてい一緒にいる。いきおい秋子は一人になる。手塚は無口な男だし……私が秋子の話相手になることが多かった。小柄で、会ったときはむしろ陰気な印象だったが、海で一番はしゃいでいるのは、だれかと思えばいつも秋子だった。感情の起伏の激しい人のように思った。
「彼女、お前のこと、好きなんじゃないのか」
西島がそっと私に|囁《ささや》く。
「まさか」
つい一昨日会ったばかりじゃないか。好きも嫌いもあるまい。
「情熱家なんだってサ。いっぱい恋愛をしていくつも失恋をして……」
「へえー」
けっして秋子は私の好きなタイプではなかったが、こんなことを言われれば、ちょっと気がかりだ。私はそれとなく秋子の様子に目を配っていただろう。
「だれか起きてる?」
夜明けもそう遠くない頃、隣の部屋から細い声が聞こえた。私は目をさましていた。秋子の声とわかった。
「うん」
と、小声で答える。
「散歩に行きません?」
「今から?」
「目が|冴《さ》えちゃって」
前夜は疲労と酔いとで早く眠った。こんなときは、えてして早く目ざめてしまうものだ。
「いいよ」
西島も手塚もぐっすり眠っている。私は服を着て外へ出た。秋子は身仕度を整えて廊下に出ていた。
「日の出が見られるかもしれないわ」
「うん」
時刻は四時をまわっていただろう。足音を忍ばせて玄関を出て、急な坂道をくだった。海に出ると、すでに東の空が明るくなり始めていた。雲が厚い。このぶんでは水平線に浮かぶ太陽を見ることはできないだろう。潮風の|匂《にお》う海岸を往復して砂浜に並んですわった。
「情熱家なんだって?」
「だれが言ってた?」
「西島がそう言ってたよ」
「文江が言ったのね。オーバーなんだから」
雲の先端が輝くほどの朱の色に染まった。海が赤くなった。だが太陽の姿は見えない。
「失恋なんか……やった?」
遠慮がちに私は尋ねてみた。その頃の私は恋を知らなかった。当然、失恋も知らない。
「ほんの少しね」
この“少し”は、数のことなのだろうか、分量のことなのだろうか、そんな馬鹿らしいことを私は考えた。
「男女の仲って、ごく単純に考えてみても、四分の三はうまくいかないのよねえー」
と秋子が言う。
「へえー、どういうこと?」
「四通りあるわけでしょ。男が好きだけど女が嫌い。女が好きだけど男が嫌い。両方ともが嫌いの場合と、両方ともが好きな場合。このうちうまくいくのは、最後の一つだけね。失恋て、数学的に考えてみても多いんじゃないかしら」
おもしろい理屈だと思った。とても印象的で、秋子を思い浮かべるときは、いつもこの理屈を思い出した。
男女の図式は、けっして単純ではないけれど、|煎《せん》じ詰めれば、この四つのどれかに属する。うまくいくのは両方が好きな場合しかない。これは本当だ。その後、何度か身にしみて私はこの理屈の正しさを実感させられた。
「頭が数学的なんだなあ」
「ちがうわ。私、文学少女だったの。今でも小説書いてるわ」
「どんな小説?」
「今、書いているのは、ちょっと怖いの」
次第に明けていく空と海を見ながら秋子の物語を聞いた。その小説は不思議な灯台にとじこめられてしまう女の話だった。
「たしか灯台があったよね」
私はタクシーの運転手に尋ねた。
布良は海水浴場だから波が穏やかだ。わざわざ訪ねて来たのは、もっと荒い海を見るためだった。
「|野《の》|島《じま》|崎《ざき》かな」
「半島の一番先端のところ」
見たことはない。地図に記してあった。
「じゃあ|白《しら》|浜《はま》の野島崎灯台でしょ」
「海は荒いかね」
「あそこまで行けば、荒いね」
「一見の価値がある?」
「どうかな。展望台にはなっているけど」
「とにかく行ってみて」
しばらくは海岸線を走った。
午後に入って天気は少しずつわるくなり始めた。風も強くなった。車の走る道筋には、とりどりの花が咲いていて、目に美しい。
「あれですよ」
海辺の低いブッシュのむこうに白い灯台が見えた。ほとんど人影はない。とりわけ観光客らしい姿はない。曇天のウイークデイに、わざわざここまで灯台を見に来る人は少ないだろう。みやげもの屋もガラス戸を|鎖《とざ》している。
「灯台には……昇れるんだね」
「有料だけどね」
「じゃあ、ここで少し待ってて」
道路からのび出した広い岩場の先端近くに灯台は立っていた。
ここからが外海。明らかに海の様子が変っている。遠くから白いしぶきが見えた。
野島崎灯台。北緯34度53分54秒、東経139度53分28秒と位置が記してある。光度百二十万カンデラと書いてあるが、どれほどの輝きか私にはわからない。光達距離十七海里は長いのか短いのか。明治二年十二月十八日の点灯というのは、おそらく充分に古いものだろう。
狭い出入口から入ってらせん状の階段を昇った。左手の壁には、ところどころ窓があって、外の光がこぼれて来る。右手は灯台の|心《しん》|棒《ぼう》になっている壁だ。
何度まわったかわからない。とにかくたくさんの階段を昇った。最後は細い|梯《はし》|子《ご》になっていて、それを昇りきると展望台だった。
「すごい」
期待通りの海が眼下に広がっていた。
見渡す限り視界が黒みを帯びた青に染まり、ところどころ白く荒れ騒いでいる。打ち寄せる波は白く色を変え、獣のように走って岩に砕ける。数メートルのしぶきがあがる。風の|唸《うな》りと波の響きが周囲を満たし、|遠《とお》|吠《ぼ》えのような海の声が全身に染みこんで来る。
十数分も眺めていただろうか。
――きりがない――
車も待たせてある。この光景を見ただけで満足だ。私は階段を降りた。
――今、この灯台の中にいるのは、私だけだな――
だれにも会わなかった。展望台も私一人だった。らせん状の階段を踏みながらふと秋子のことを考えた。昔、秋子が語ってくれた物語を思い出した。
たしか女が独り、さびれた岬の灯台に昇る話だった。灯台の中は、ここと同じようにらせん状の階段がついているが、窓はない。光がかすかにどこからかこぼれて来るだけだ。
女は階段の果てまで昇るが、天板が行方をさえぎっていて、そこより上に出ることができない。仕方なしに階段を降り始めた。今、私が歩いているのと同じように……。
ところが女は降りても降りても、さっきの入口にたどりつけない。
――どうしたのかしら――
左も壁、右も壁。階段は曲折して、前もうしろも見通しがきかない。女は|狼《ろう》|狽《ばい》して足を速める。どこまでも降りる。
――こんなはずはないわ。どこかで出入口を見落したんだわ――
気を取り直して今度は上へ戻ったが、どれほど昇っても、出入口はおろか、さっき見た天板にさえたどりつかない。らせん状の階段は行っても戻っても果てがない……。
秋子の小説は、そんな粗筋だった。
――ありうるな――
まったくの話、壁に挟まれたらせん階段は、見通しがきかないから自分の位置がたしかめにくい。どれほどの長さの階段の、どの位置にいるか、見当がつけにくい。
――もし窓がなかったら――
一層無気味だろう。
人気ない、この灯台の中では、たやすく秋子の描いた恐怖を味わうことができる。あの作品は完成したのだろうか。結末はどうなったのだろうか。
私はゆっくりと足を進めた。
二十年前、三泊四日の海水浴を終えて私たちはまっ黒に焼けて東京へ帰った。帰りのバスは、道路の渋滞などもあって、さらに長い道のりだった。
西島と文江の仲は、あの旅行の頃がピークだったのではあるまいか。
「|喧《けん》|嘩《か》しちゃったよ。性格があわないんだ」
「そうかなあ。お似あいに見えたけど」
「いや、駄目だね」
そんな話を九月に入って聞いた。
私自身はといえば、東京で秋子に二度会った。秋子に誘われ、夕食をご馳走になった。仕事を持っている秋子のほうが断然金持ちだった。
「楽しかったわ。また来年行きましょうよ」
「西島たち、うまく行ってないみたいだな」
「そうみたい。失恋のほうが多いものなのよ」
なにを話したか、このときのことはあまりよく覚えていない。
「じゃあ。またね」
来月になれば、また誘いの電話がかかって来るような感じだった。……が、電話はかかって来なかった。
「秋子のやつ、どこかへ行っちまったらしい」
知らせを持って来たのは西島である。
「どこかって、どこよ」
説明を聞けば蒸発のようなものらしい。
日を追うごとに事態の深刻さがはっきりとして来た。家族は捜索願いを出した。失恋のすえの自殺、その疑いが濃かった。事故死や他殺の可能性も皆無ではない。誘拐の線もないではない。
みんなが懸命に捜した。とりわけ家族は捜し続けた。何カ月も、何年も。
なんの手がかりも見つからなかった。つまり……ある日を境にして秋子はこの世から|忽《こつ》|然《ぜん》と姿を消してしまったのである。
以来二十年、事情は少しも変っていないはずだ。なにかがわかれば私の耳にも聞こえて来るだろう。
私はいつの頃からかずっと思い続けている。
――秋子は知らない階段に踏みこんでしまったんだ――
たとえば、どこかの灯台のらせん階段に……。だれもいない海辺の……。
――ちょうど今みたいな――
ふと私の頭上で足音を聞いたように思った。
帰り水
「降りませんか」
知らない男に|勧《すす》められて、ふいとバスを降りる気になった。
道は山陰の丘陵地帯を貫いて伸びている。舗装はされているが、ほとんど人家も見えない。月だけが明るく空にかかっていた。
――野宿になるかもしれないぞ――
その懸念は充分にあった。だが、背中のリュックサックには寝袋も入っている。季節も春の終り。風もここちよい。大自然のまっただ中で夜を過ごすのも一興だと思った。
伝説収集の気ままな旅である。豊田湖の近くに安徳天皇の御陵があり、|落《おち》|人《うど》伝説にくわしい老爺がいると聞いた。ようやく訪ねあて、三時間もかけて収録したが、さほどの成果はなかった。ほとんどがどこかで聞いた話だった。
「萩へ行く農協のバスがあるわな」
と教えられた。
それなら萩へ行ってみようかと思って、たっぷり時間待ちをして小型のバスに乗った。乗客は少ない。どこをどう通るのかもわからない。萩まではかなりの距離だろう。
最後部の長いシートで体を伸ばし、少し眠った。
眼をさますと、隣に男がすわっている。黒いトレーニング・ウェアを着て、帽子をまぶかにかぶっている。真正面を向いたまま身動きもせず、影法師みたいな感じだった。
「まだしばらくかかるんですかね」
時刻は十時に近い。窓から見ていてもほとんど道には車の通行もない。街路灯だけがうしろへ飛んで行く。
「どちらまで?」
声は低いが、歯切れのいい標準語が返って来た。
「萩まで行こうと思って。あなたは?」
「途中で降ります。東京のかたですか」
「ええ」
「私もそうなんです」
見かけよりは人なつこい人らしく、ポツン、ポツンと、よもやま話が始まった。私が伝説収集の旅に来ているのだと知ると、男は、
「おもしろい話があるんですよ」
と気を引く。
「なんでしょう?」
口を開くまで少し待たなければいけなかった。
「私の兄がいなくなったのが、八年前のちょうど今夜でしてね。私、ずいぶん捜したんですけど、なかなか見つからなくて……。でもようやく足取りがわかって、それで捜しに来たんですよ」
と、不思議なことを言う。
「はあ」
私は|曖《あい》|昧《まい》に|相《あい》|槌《づち》を打った。男の態度にかすかな違和感を覚えた。
世間にはいろいろな人がいるものだ。旅をして多くの人に会っていると、つくづくそう思う。狂気とすれすれのところにいる人もけっして少なくない。
「兄はすごいものを見たらしいんです。今夜なら、それが見られるかもしれない。きっと見られます。私、わざわざそのために来たんですから。ご一緒にどうです? 徹夜になるかもしれませんけど」
男の眼が輝いている。鈍い光だが、執念がこもっている。なにかしら強く心に期すものがある色だ。
――本物かもしれないぞ――
収集の旅にはそんな瞬間がある。私のほうは先を急ぐ旅ではなかった。
「なんです?」
「ええ。それが……なんだかむつかしくて」
男は言い|淀《よど》んだ。なにから話したらいいものか、視線を宙に据え、思案の糸を|手《た》|繰《ぐ》っているように見えた。
「兄のことですが……ああいうのは今の世の中には向かないタイプなんでしょうねえ。とてもやさしい性格で、子どものときからきれいなものが好きでした。花とか、よい景色とか。画家になりたかったらしいけど、その道は駄目でしたね。平凡なサラリーマンになって、そのうちに写真と旅にすっかり|凝《こ》っちまったんですよ。旅に出て美しいものを見つけては写真に撮る。私、思うんですけど、初めから風景写真家にでもなっていれば成功したかもしれませんがね。いえ、特に有名になる必要なんかありません。まるで無欲な人でしたから。気ままに旅をして、きれいなものを見つけたらそれをカメラに収める。それでいいんです。かなりいい線を行ってたと思いますよ。あのウ、芸術家にとって一番必要な才能はなんだと思いますか」
男はなにかに|憑《つ》かれたように話す。年は、私より少し若い……三十二、三歳に見えた。
「さあ。私はまるでそっちの方面にうといほうだから」
「美しいものを見る力だと思うんですよ。すみません。偉そうなことを言っちまって……。でも、うれしいですよ、こんなところで話を聞いてくださるかたにお会いできるなんて。兄も浮かばれます。兄には、美しいものを美しいと見る才能がありましたね。絶対ですよ。ただ、それを表現する手段のほうがね……それが足りない。画家には向いてなかったんでしょ。写真が正解じゃないですか。旅も好きでした。どこかしら人の知らないところを歩いては写真を写してましたよ」
「そのお兄さんがいなくなられたんですね」
「そうです。八年前の今夜」
男は窓の外を見て口をつぐんだ。そのままおし黙っている。急におしゃべりになったかと思うと、急に|寡《か》|黙《もく》になる。しかし、とにかく私を引き込んでバスを降りる気持ちに向かせたのだから、それなりにうまい語り手だったのだろう。
と言うより、私としては、男の話の背後に深い執念のようなものを感じ取り、
――これはなにかある――
と考えた。
私も旅は大好きだ。名勝のたぐいはどこへ行ってもすっかり俗化されてしまったが、ガイド・ブックからはずれた自然の中に入り込むと、まだまだ美しい風景がある。思いがけない奇異に遭遇する。
昨日は|油《ゆ》|谷《や》湾のむこうの|向《むか》|津《つ》|具《く》半島の先端まで行った。川尻岬はほとんど釣人しか行かないところだ。岬の突端は小さな島のように見えたが、行ってみると、細い馬の背を作って続いていた。両側に日本海の荒い波が押し寄せ、白いしぶきをあげる。視界のおよぶ限り人の影もない。凄絶な風景だった。
このあたりにはまだまだ人に知られていない秘境がある。男に「降りませんか」と誘われて、ふいと座席を立つ気になったのは、私のほうにもこんな事情があってのことだった。
田舎のバスだから、頼めばどこででも止まってくれる。乗客たちの|怪《け》|訝《げん》な眼差しに送られて私たちはバスを降りた。
走り去って行くバスの灯を見送って、
――しまった――
と思った。テールランプが闇に飲まれて消えてしまうと、あとは|疎《まば》らな街路灯ばかり。ほかに人工の光はなにもない。月の光を受けて、黒い草原と低い山稜が続いているだけだった。畑らしいものもない。ところどころに岩塊が突き出している。明日太陽がめぐって来るまで、しばらくはこのままの風景だろう。
男はバッグの中から懐中電灯を取り出す。私もリュックサックの底にキャンプ用のランプがあったのを思い出して、それをつけた。
「こっちです」
男は光で示す。アスファルトの道を少し戻った。草原の中に草を割って、細い道らしいものが続いている。男は先に立って、その道に降りる。満月に近い月がまだ低い位置にかかっている。眼が慣れて来ると、月の光が思いのほか鮮明に行く手を映し出している。これなら大丈夫だろう。
光の中に花の群があった。つつじだろうか。風も|爽《さわ》やかだ。夜をおそれる必要はなにもあるまい。古人ならば、きっと大和歌の一つも歌っただろう。
「少し歩きますよ」
「どのくらい?」
「三十分くらい」
「平気です」
あとは、この男が正常かどうか……凶悪犯人だったりして……まさかそんなこともあるまい。
うしろ姿を見れば、小柄な男だ。私より大分背が低い。素手で争えば、まあ、私は負けない。むしろ怖がっていいのは、むこうのほうかもしれない。
「はじめは、どこかに|長逗留《ながとうりゅう》しているんだと思ったんですよ」
男は歩きながら話し続ける。ほとんど音のない世界だから、小さな声でもよく響く。空気も澄んでいる。足もとを見つめながら男の話を聞いた。
「お兄さんのことですね」
「そう。ときどきそんなことがありましたからね。|釧《くし》|路《ろ》へ行ったときなんか一カ月も帰らなかったんだから。えーと、いなくなる前に絵葉書が届いたんです。雨に濡れてて、読みにくいところもあったけど、山口に来ている。秘境の湯を見つけた。二、三日山歩きをして帰る……絵葉書なんて、くわしくは書けませんからね」
「ええ」
「でも、いっこうに帰って来ない。いよいよ変だぞと思い始めた頃、豊田湖畔のみやげもの屋さんから連絡が来たんですよ。荷物を預かってずいぶんになるけど、どうしたのかって」
「ええ」
「電話で聞いてみると、兄はそこに手荷物を預け、身軽な恰好で出て行った……そういうことなんですね。翌日には帰るつもりだったんでしょう。店の人にもそう言ってたらしいですね。ところがぜんぜん帰って来ない。田舎の人は|暢《のん》|気《き》だけど、やっぱり心配しますよ。遭難をするような季節でもないし、そんな気象の変化も聞かない。兄が来る前の日に、山沿いに大雨があったけれど、それで危険ということも考えられない。東京へ帰っちゃったのかな。とりあえず荷物に記してある電話番号に連絡してみたってわけなんですね」
「なるほど」
男の話を聞きながら考えた。私が今、ここで急にいなくなったらどうなるか。家には昨日、絵葉書を書いた。豊田湖までの旅程は伝えたが、そのあと萩へ行こうとしたことも、その途中でバスを降りたことも知らせてない。ふいと気まぐれで始めたことだから伝えようもない。
――痕跡を残しておくべきだったか――
とりとめもなくそんなことを思ったのも底知れない夜の静けさのせいだったかもしれない。声が途切れると、なんの音もない。どう耳を澄ましても……。だから話が聞きたくなる。
「で、どうしました?」
「私はすぐに東京をたって、そのみやげもの屋さんを訪ねましたよ。たしかに兄の荷物です。荷物の中身はたいしたことありません。汚れた下着とか、みやげの品とか……。ただ撮り終ったフィルムが三本ありました。みやげもの屋さんのご主人に聞くと、兄は二、三日前から県道を通るバスに乗って付近の山の中へ入っていたらしい。なにかを捜していて、ようやく見つけたような話だった。“今夜はいい月になる。昨日大雨が降ったし……最後のチャンスかな”そんなことを兄は言ってたらしいんです。店の娘さんも、兄の話を小耳に挟んでいて“見つけたのは露天の温泉みたいな話でしたよ”そう教えてくれましてね。これだけでもずいぶんよいヒントになりますよ」
「警察へは知らせなかったんですか」
道は少しずつ傾斜を増した。登り坂があるかと思えば、くだり坂がある。それをくり返しながら小高い丘陵を一つ越えた。風景が少し変ったように思ったが、薄あかりの中なのではっきりとはわからない。丘と丘とのあいだの地盤は少し凹んでいるようだ。低いブッシュが地表を隠しているが、広い視野で眺めると、草の丈はいったん低くなり、遠くに行くにつれまた高くなる。そんなふうに見える。ところどころに突出する岩塊も数を増し、岩そのものもいくぶん大きくなった。
「ええ、もちろん」
男はちょっと振り向き、また背を向けて話し続けた。
「警察のほうは……すぐじゃなかったです。本当に失踪したらしいとわかってから、一応は届けてみたんですけどね」
言葉の響きには、はっきりとした不満が含まれている。警察はあまり熱心にとりあってくれなかったのだろう。
人が急にいなくなる――つまり、蒸発のたぐいは、世間にいくらでもあることらしい。いちいち真剣に応対していたら警察もたまらない。だから犯罪の匂いが感じられなければ本気にならない。いい大人がみずから進んで姿を隠したとすれば、なにかしら切実な事情があってのことだろう。
ただ問題は残された近親者のほう。どこへ行ったんだろう? 無事でいるのかしら。心配のあまりみずから探索に乗り出す人もけっしてめずらしくない。
「秋吉台にいらしたこと、あります?」
道のすみに石が目印のように積んである。男は歩きながらそれを確認する。一度通った道を、また来ているのだとわかった。石積みの目印はこの男自身が作ったものだろう。
「ええ。四、五年前に一度」
バスの走ったコースから考えて、秋吉台はここからそう遠いところではあるまい。それとも、ここはもう秋吉台の一画なのかもしれない。風景も少し似ている。
「あそこには穴がたくさんあるんですよね」
「穴ですか?」
「はい。あそこは全体が軽石みたいなところでしょ。だからところどころに深い竪穴があるんです。草むらを歩いていて、うっかりそこに落ちようものなら大変ですよ」
「ええ?」
「|秋芳洞《しゅうほうどう》のエレベーター、乗りましたか」
「えーと、乗りました、乗りました」
「あれも竪穴を利用して作ったんですから。三、四十メートルくらいの穴は、いくらでもあります。ストンと落ちたらもうおしまい。どこに落ちたか、だれが落ちたか、よほど運がよくなければ見つかりません」
ひときわ大きな石積みの目印があって、そこからブッシュの中へコースが変った。もう道とは言えない。だが、草の丈が低いので方向さえまちがえなければ、歩くのに困難はない。今度は木の枝に白いリボンが結んである。手拭いかハンカチを裂いたものだろう。木そのものの数が少ないので、目印をたどるのはさほどむつかしくない。
地形から考えて、このあたりは太古海の底だった地盤が隆起したのではあるまいか。太陽の光の下で見れば、もう少しよくわかるだろうけれど……。
「お兄さんも、その穴に?」
「初めはそれを心配しました。でも、ほら、フィルムが三本残ってたって言ったでしょ」
「はい」
「それを現像してみたんですよ、おもしろいもんですね。写真てものは、いろいろ話しかけてくれますから。行き先は秋吉台なんかじゃない。すぐにわかりました。どの角度で撮ってもあそこは特徴のある景色ですから。みやげもの屋の主人も言ってたでしょ。兄は二、三日、同じところへ通っていたらしいって」
「ええ」
「それは写真からもわかりました。豊田湖の周辺らしいところは、たしかに写っている。そこを起点にしている。さて、そこからの行き先はどこだろう? なにを見つけたのかな? 私もだんだん引き込まれちまって」
「わかりますよ」
そんな推理小説を読んだことがある。死んだ男のアルバムに何枚もの旅先の風景が残っている話だった。それを見ると、主人公はいろいろなところへ行っている。旅には連れがあるらしい。相手はだれなのか。行き先はどこなのか。それがわかれば連れの見当もつくだろう。小説のタイトルはすっかり忘れてしまったが、写真を手がかりに謎が少しずつ解けていくあたりは、とてもおもしろかった。
この男の場合は、小説ではない。なまの現実だ。しかも兄さんの行方がかかっている。多分生死もかかっている。おもしろいと言ったらわるいが、エキサイティングだったことは疑いない。
「薄紙をはぐように少しずつわかりましたよ。偶然にも助けられましてね。捜しあぐねて草原の中にぼんやり腰かけていたら、山のてっぺんに立った大きな杉の木が見えるんですね。あれだっ! てなもんですよ。フィルムの終りのほうにその木が写っているんです。えーと、ああ、ここからじゃ見えないか。疲れましたか。もうすぐです」
「なにがあるんです?」
聞こえなかったのだろうか。男は答えない。足を止め、首を傾けて進路を案じている。それから意を決したように歩き始めた。岩がまた多くなった。どうせなら昼間、太陽の光の下で来たほうがよかったのではないか。それとも夜でなければいけない事情があるのかもしれない。草原の中にうっすらと花の群が続くのが見えた。白い花、黄色い花。おぼろに咲いている。
「絵葉書が雨に濡れてて……。ほら、兄から絵葉書が着いたって、言いましたよね」
「はい」
「雨でインキが滲んでいて、読めないところがあったんですよ。でも、なにか大切なことが書いてあるみたいな気がしてね。ずいぶん苦心しましたけど、ほんの少しだけ読めました。“帰り水を見つけた”そう書いてあるらしいんです。帰り水ってなんですか。辞書を引いても載っていない。地名辞典を見たけど、やっぱり見つからない。こっちへ来て運転手さんに聞いたら、あっけないほど簡単に教えてくれましてね。そんなもんですよ。ご存知ですか」
「いえ、知りません」
とっさに思い出したのは、逃げ水のことだった。あれは|陽《かげ》|炎《ろう》の一種なのだろうか。暑い日に、道の行く手に水溜りがあるように見える。近づくとどんどん逃げて行く。むしろ小さな|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》かもしれない。
しかし帰り水はそれとはちがうようだ。
「秋吉台へいらしたとき聞きませんでしたか」
「さあ。聞いたかもしれないけど」
「高速道路の途中にありますよ。私ももちろん行ってみました。兄がそこへ行ったのかと思って……。でも、ちがいましたね。写真の景色とはぜんぜんちがうし……。兄が行ったのは、ほかの帰り水です。それに、不思議ですね、ここに来て、いろいろ調べているうちに……どう言えばいいんでしょうか、兄の気持ちがわかるって言うか、私自身が少しずつ兄と同じ頭になるって言うか、道を歩いていても、ここだ、ここじゃない、ピンとわかるようになりましてね。夢の中の風景をたどるみたいに……」
「そんなこともあるかもしれませんね」
「兄はどこかに帰り水を見つけたんだ。それがすごい景色なんだ。じゃあ、それはどこなんだ。探索の方向がはっきりと見えて来ましたよ」
「帰り水って、なんですか」
男の足が速くなった。草をかきわけ、走るように進んだ。私は四、五メートル遅れてあとを追った。
「ここですよ」
男は少し高い位置に立ち、指を下にさし、それから腕をあげ懐中電灯の光をかざして腕時計を見た。私も同じ動作で腕時計を見た。十一時に近い。男はさっき「三十分くらい」の道のりと告げていたが、一時間あまりかかった計算になる。夜道のせいで少し遠まわりをしたのかもしれない。
急な勾配を登りきると眼の前が急に開けた。
「ほう」
とりあえず声をあげた。しばらくは情況が明確に把握できなかった。
すり鉢のような凹みになっている。すり鉢と言うより壺かもしれない。凹みの直径は、二十メートル近い。ほとんど垂直にえぐれ、その下はなだらかな傾斜を作って凹みの底になっている。深さは七、八メートルくらい。
人工的に作られたものではないらしいと、周囲の様子からなんとなくわかった。火山の火口によく似ている。
凹みの周囲に眼を移すと、野の草があふれるほどに豊潤な花を咲かせ、凹みの中に向けて花を垂れていた。色彩は鮮明に見えないが、多分白と黄色。花は姿から察して、|小《こ》|手《で》|毬《まり》とえにしだではあるまいか。今が花のまっ盛りらしい。凹みの縁にそってたわわに咲き崩れ、巨大な花の輪を作っていた。
「なんですか、これは」
私は凹みの|由《ゆ》|来《らい》を尋ねた。
だが男の答は少しそれていた。
「帰り水ですよ」
「ええ……。帰り水ってなんです?」
最前と同じ質問をくり返した。それを聞かなければ、謎の鍵は解けない。
「私もくわしくは知りません。特別な地形のところにだけ起きるらしいんです。雨が降るでしょ。凹地に水が溜まるけど、なにしろ軽石みたいな地盤だから吸い込まれて水は消えちゃうんです」
「ええ?」
「ところが周囲の高い山でも水が吸い込まれる。これが地下を通って、また凹地の中に噴き出して来るんです。何時間もあとになって。消えたと思った水が、また戻って来るもんですから……」
「それで帰り水ですか」
「ええ。ここもそうなんですね。|染《し》み込んだ水は、地下を通っているうちに温められ、お湯になり、しかも特殊な化学成分を帯びるんです。でもめったに見られるものじゃありません。地元の人でも知らないくらいですから。私も何度も何度も足を運んで、ようやくわかったんです。ずっと待っていたんですから」
男はくいいるように凹みの底を見つめている。そう言えば、昨日の夜中にかなりの雨が降った。あれが関係しているのだろうか。
「今夜なんですね」
男の緊迫した気配に押されて、私は言葉少なに尋ねた。
「ええ」
「どうしてわかるんです?」
「ほら」
指をまっすぐに伸ばして凹みの底を指した。なぜその男が今夜とわかったのか? 尋ねるゆとりはなかった。
月あかりに照らされた深い部分に銀色のものが|蠢《うごめ》いた。と思うまに、いくつもの白い泡が吹き出し、踊り始めた。泡はみるみる数を増す。大きくなる。
ショウの幕|開《あ》けのようにいく本もの白い柱が噴出し、蒸気が傾斜にそってゆっくりと白い渦を巻く。湧き水は見ているうちにどんどん噴出の速度を増す。底一面が湯の壺と変った。表面は複雑なうねりを示し、時折、深い底の爆発を伝えるように白く盛りあがる。
いつのまにかもう凹みのなかばの高さまで水面は湧きあがっている。それでもまだ白い泉は膨脹を続ける。
――湖ができるんだ――
じっと見ていると、わけもなくそう思った。
大自然はめったなことで活動の、なまの姿を私たちの前に見せない。私たちが見るのは、たいてい活動のあとの結末だけだ。
だが、この風景はなんだろう。今まさに変化の一瞬を|垣《かい》|間《ま》見せている……。
ひたひたと体の底から込みあげて来る興奮に私は息もつけぬ思いだった。
本当に息をつかなかったかもしれない。凹みの底に銀の泡を見てから、一面に満ちるまで、それほど短い時間だった。文字通りあっと思うまの出来事だった。
それでいながら私にはひどく長い時間にも感じられた。それも本当だった。どこかスローモーションフィルムの映像に似ていると思った。急速に変化する現象を、ゆっくりと眺めているのだと思った。いや、そうではない。長い時間を一瞬のうちに見たのかもしれない……。
高まる水位は、足先のわずか一メートルほど下まで来て止まった。月の光の中にぽっかりと見知らぬ泉が生まれ、深々と銀の湯を満たして広がっている。
「お兄さんは、これを見つけたんですね」
私は尋ねた。
そのとき水蒸気の中に浮いているものが見えた。
――人の体だ――
気がつくと、連れの男がいない。いつのまにか衣服を脱いでのんびりと湯の中に浮いている。……どうもそうらしい。水の面に手足を投げだし、夜空を見あげている。
――生きているのだろうか――
不思議な感触を覚えた。
たしかに私は泉のほとりに立っていた。男は……連れの男は泉のまん中に浮いて空を仰いでいる。これは疑いようもない。
そのくせ私は、男がそのとき見ている風景を自分の脳裏に映すことができた。想像よりももっと鮮明な、私自身が見たとしか言えないほど鮮かな風景として心に描いた。
月はまっすぐ上にあった。銀の光を惜しげもなく射しこぼしていた。その下に黒い山の稜線が見えた。泉の周囲には、花の群。あふれるほどに咲き崩れている。
――体が溶けていく――
真実そう思った。
全身が力を失い、すべての細胞が陶酔の中へ犯されていく。私自身もまた水の中に浮かんでいる……。
われに返って、私も衣服を脱ごうとした。男と一緒にこの不可思議の中に体を浸そうとした。だが……。
水の面にまたさざ波が立った。
スローモーションのフィルムがゆっくりとまわり始めた。水位がさがり始めた。帰り水がふたたび大地の中へ消えて行く。その動作を開始したらしい。
ぐんぐんと縮んでいく。あちこちに渦を描く。水は地の底に引き込まれていくような無気味な音をあげる。
たちまち半分の高さに減った。
水の動きにつれ蒸気は左右に揺れ、あわてふためくように舞う。花たちも異変を感じたのではあるまいか。逃げて行く水たちにむけてはらはらと花びらを散らして別れを告げる。
水位はさらに低くなった。
「おーい」
私は声をかけた。湯気に隠れて男の姿が見えない。渦の底に引き込まれたのではあるまいか。その危険も皆無ではない。それほどまでにすばやい水の引き足だった。
凹みの底が見えた。
――よかった――
底には男の姿はない。いち早く異変に気づいて岩の上にあがったのだろう。花陰で衣服を着ているにちがいない。
クオーッ。
水は最後の音をあげて消えた。
急に暗くなった。月が光をしぼったらしい。ドラマが終り、ライトが暗くなったのだ。
「いいお湯でしたか」
私は花の闇にむかって声をかけた。
闇だけが答えた。花たちがまた凹みの底を目がけて散る。男は現われない。いくら呼んでも答えない。冷気が背筋を走り抜ける。
私は待ち続けた。一時間も、二時間も、三時間も。朝が明けるまで待ち続けたが、男は戻って来なかった。
私は凹みの底まで降りてみた。
――吸い込まれてしまったのだろうか――
どこをどう捜しても人間を一人飲み込むほどの穴はない。底にはこまかい穴が無数にあいているだけで、朝の光の中では異変のあったことさえ疑わしく思えた。
男は泉の中で溶け、|忽《こつ》|然《ぜん》と消えてしまった。
あれから何年かたった。
私は何度かあの凹地を訪ねた。異変の夜と同じ日付に訪ねてみた。花の群は同じように咲き乱れていた。月の夜にも行ってみた。風は同じようにここちよかった。だが、今日に至るまで二度と帰り水を見ることはなかった。
――男はどこへ行ったのか――
かすかに|辻《つじ》|褄《つま》のあわない話だった。彼こそが消えた兄さんその人だったのかもしれない。
この世の外に消えた男が、帰り水の奇景を私に見せるために、ふっと戻って来たのかもしれない。そんな異変も、まれにはあるのかもしれない。考えてみれば、あの夜、月も、花も、水も、いっさいがあまりにも夢幻であった。この世の外の風景にこそふさわしいと、今の私にはそう思えて仕方ないのである。
屋上風景
電話では「麻布の本社ビルへ十一時に来てほしい」という指示だった。西原は時間通りに到着したが、四十分あまり待たされたあげく、
「ごめん。どうしてもはずせない会議があるんだ。社員食堂の食券があるから、これで昼めしでも食べて、一時にここに来てくれないかな」
と、先輩の高野さんがしきりに頭をかく。あれこれ言える立場ではない。西原はむしろ恐縮して、
「おいそがしいときにすみません」
と、頭を垂れた。
高野さんはもううしろ姿になっている。よほどいそがしい最中なのだろう。大学の五年先輩。西原と比べて年齢にそう大きな差があるわけではないのに、高野さんは全身にエリート・サラリーマンらしいシャープな雰囲気を漂わせていた。
――俺も今にああなるのかな――
初めての会社訪問。まずゼミの先輩を訪ねて会社の内容や様子を聞く。水井商事は学生たちにとても人気のある企業だ。ここに入社できれば申し分ない。とはいえ不安材料も少しある。
「仕事はきついらしいぞ。お前なんかのんびりと公務員でもやったほうがいいんじゃないのか」
そんな忠告もあった。
商社マンとして世界を股にかけて活躍するのも、夢としてはすばらしいけれど、西原はけっして外向的なタイプではない。むこうっ気の強いほうでもない。会社が採用してくれるかどうかはともかく、西原自身としても、
――競争の激しい会社でやっていけるだろうか――
いくばくかの疑念が胸の中にくすぶっている。
面会室から廊下に出てエレベーターを待った。食堂は地下一階。ここは三階。エレベーターにはだれも乗っていない。
ドアがしまる。
薄暗く、四角いボックス……。
一瞬、奇妙ななつかしさを覚えた。
――なんだろう――
西原は首を|傾《かし》げた。
なにがなつかしいのかよくわからない。このビルに来たのは初めてだが、エレベーターの中なんて、どこだって似たようなものだ。だから……今、とくになつかしく思う理由は考えつかない。
――ああ、そうか――
かすかにBGMが鳴っている。この音楽が原因らしい。
どこかで聞いたメロディ……。ちょっとサイケデリック。ひたひたと心の中に|染《し》み込んで来る。
ドアが開いた。
「あれっ」
地下ではないらしい。屋上に来ていた。ボタンを押しちがえたのだろう。それともだれかが先に屋上のボタンを押して、そのまま降りてしまったのかもしれない。
――まあ、いいか――
景色を展望してみたくなった。
まだ昼休み前だから人の姿はない。コンクリートの平面が続き、周囲には低い金網が張ってある。
うっすらと曇った空の下に、無数の屋根が広がっていた。ところどころに高いビルがある。あれが霞ケ関ビル。あっちが貿易センタービル。新宿の高層ビル街は、霞に包まれて|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のように浮かんでいた。
首を伸ばすと、真下の中庭が見えた。日本庭園のような造りになっているらしい。粗い岩石で築山を作り、黄ばんだ芝生がふっくらとした|絨毯《じゅうたん》を広げている。
「わりと暖かいね」
いきなり背後から声をかけられ、西原はふり向いた。
「はい」
この会社には高野さんのほかに知人はいない。でも会社の人ならば礼儀正しく接しておいたほうがいいだろう。
「会社訪問かね?」
リクルート・ルックの服装だから、そう見ぬかれても不思議はなかった。
「はい。まあ……」
「もうそんな時期かな」
「まだなんですけど、ちょっと先輩に様子をお尋ねしようと思って」
「なるほど。ここは学生さんに人気があるからな」
男は三十代のなかばくらい。ひげも伸びているしネクタイも冴えない。スタイルで仕事をするわけではないけれど、高野さんに比べると、どことなく景気のわるいサラリーマンに見えた。同じ水井商事の中にだっていろんな立場の人がいるだろう。
「だれに会いに来たの?」
「高野さんです。営業第二課の……。食堂へ行くつもりだったんですけど、エレベーターが屋上に来ちゃって」
手短かに事情を説明した。
「高野君か。彼はなかなかやり手だよ。奥さんも美人だし」
「はあ」
「知らないの?」
「今日はじめてお目にかかったんです、高野さんに」
「あ、そう」
男は軽く|頷《うなず》いてから|柵《さく》の端に立って下を覗き込む。それから指をさして、
「岩と芝生が見えるでしょう」
「はい」
「自殺をする人も、やっぱり思うらしいね、落ちて行く途中で」
と、おかしなことを言う。
「はい……?」
「岩のほうに落ちたら痛いだろうなあ、なんとか芝生の上に落ちたいなあ、って」
どう答えていいかわからない。
「あははは。めしを食うんでしょ。社員食堂はまずいから、ご馳走してあげるよ。遠慮しなくていい。会社のこと、少し話してあげるから」
情報はたくさんあったほうがいい。せっかくそう言ってくれるのに断るのはかえって失礼だろう。
「よろしいんですか」
「いいとも」
男はテレビの合言葉を言ってエレベーターのほうへ行く。
「すみません」
西原はあわててあとを追った。
連れて行かれたのは、近所のうなぎ屋だった。
――こんなところにこんな店があるのかなあ――
ビルの谷間の細い路地に、屋根の傾きかけた平屋がある。男は一番奥のテーブル席にすわり、
「僕はうな丼にする。君は? 好きなものを食べなよ」
と勧める。昼のメニューは、うな丼と親子丼と卵丼しかない。
「うな丼でいいです」
「あ、そう。英語でうなぎはなんて言うかね」
独りでフッフッと笑っている。本人は照れているのかもしれないが、あまり感じのいい笑いではない。
「えーと、イールです」
「ほう、よく知ってるね。英語ができるから商社かね」
「そうでもないんです」
「ここの連中はみんな下手だね、英語が」
|顎《あご》をあげて今出て来たビルのほうを指す。話しているうちにうな丼が二つ運ばれて来た。
「まあ食べなよ」
「いただきます」
男は丼を抱え込むようにして食べる。クチャクチャと音を立てる。
「僕は勧めないね」
食べながらポツンと言う。
「なんですか」
「学生に人気のある企業のランキングでは……上位のほうなんでしょ、わが社は」
「去年の調査では八位です。ずーっとベストテンに入ってます」
「見ると聞くとは、大ちがい、昔からそう言うわね。そりゃフェア・ウエイを歩いてる奴には、いくらかいいさ。そんなの、何人いると思う? せいぜい五分の一かな。あとは、ひどい国に飛ばされたり、あらかた地方の支店で下積みの仕事をさせられたり……。ノルマはきついし、冷たいんだなあ、会社の雰囲気が……上も下も」
「そうなんですか」
「同じ商社でも、もっとましなところはいくらでもあるよ。とにかくここはよくない、公平に見て。考え方がちがうんだ」
「どうちがうんですか」
「商売の考え方には二通りあるな。一つは“買い手も売り手もフィフティ・フィフティで行きましょう。あなたも儲ける、私も儲ける”、これがノーマルな考え方。もう一つは“相手に損をさせ、こっちだけ儲ける”、|巾着《きんちゃく》切りの思想だな」
言われてみれば、わかるような気もする。
子どもの頃、近所の駅から大学病院へ行く道すじに果物屋が二軒あった。一軒は八百屋をかねた小さな店。あねさんかぶりのおばさんが、
「お客さんに喜ばれるのが一番うれしいわ」
と、口ぐせみたいに言っていた。
この店の品物はいつも新鮮だった。
そこへ行くともう一軒はひどい。水をかけて新しそうに見せる。籠物を買えば、見えないところへ腐りかけた果物を入れる。店構えはきれいだが、やることは汚い。
でも病院へ行く見舞い客は、たいていこっちの店で買っていた。いちげんの客に良心は伝わりにくい。結局生き残ったのは、こっちだった。西原は子ども心にも釈然としないものを感じた。
今、それを思い出す。
「うちは完全に巾着切りのほうだからな。表向きはいいこと言ってるけど、経営者の基本方針がそうなんだから……。実情がわかってみると、やりきれんよ。派閥のボスに尻尾をふらなきゃ、いいポストにはつけない。いくら実力主義だって言ったって、初めっから実力を出せるようなところに置かれなきゃどうしようもない。スパイも大勢いるしサ。とにかく冷たいよ。夜なんか廊下を歩いているとヒヤーッと寒気を感じちゃうな。暖房がきいていても」
「でも月給は、いいんじゃないですか。初任給はどこよりも上だし」
「とくにいいことはないさ。あんなもの、計算の仕方でどうにでもなるしね」
「福利厚生面がいいと聞いていますけど……」
「多少よくたって、中にいる人間が悪くちゃ意味がない」
歯切れのいい話し方ではない。ボソボソと愚痴でも言うように|呟《つぶや》く。悪口はとめどなく、だらしなく続く。コースをはずれたサラリーマン。英語だけができたりして……。
――待てよ――
これは人事課のまわし者かもしれないぞ。さんざん会社の悪口を聞かせて就職希望者の反応を見る……。
当たりさわりがないように接しておくほうがいいだろう。
食事もちょうど終っていた。高野さんと約束した一時も近い。
「いろいろとありがとうございました。僕にはそんなにひどい会社とは思えませんけど、参考にさせていただきます」
「ろくなことがないね。よしな。君には向かない。顔を見ていれば、わかる。僕に似ているよ」
こんな人に「似ている」と言われてもあまりうれしくはない。
「ご馳走様でした。時間も迫っていますので……」
「高野君の意見は俺とちがうと思うけどな。でも、あんたは高野君にはなれんから」
「あの失礼ですが……お名前は?」
それを聞いてなかった。
「|市《いち》|井《い》だよ。市井稔」
「ありがとうございました」
八百円のうな丼をご馳走になったが、これはよかったのだろうか。愚痴の聞き賃かな。
男はつま楊子を使いながら、ひどく陰気な様子で見送っていた。
たしかに高野さんの話は、まるでちがっていた。
「きびしいことはきびしいよ。しかし、やりがいはある。実力主義だから、すっきりしているしね」
「はい」
もしかしたら二人とも同じことを言っているのかもしれない。ただ|楯《たて》の両面みたいなもの……。
一升|壜《びん》に半分酒があるのを見て、
「しめた。まだ半分ある」
と思う人もいれば、
「もう半分しか残っていない」
と悲観する人もいるだろう。
高野さんは見るからに頭の切れそうな人だ。話し方も魅力的で、ユーモアを含んでいる。すぐに引き込まれてしまう。会社の特徴をわかりやすく、丁寧に説明してくれる。説得力がある。熱気がある。
――そんなにひどい会社じゃないな――
市井という人の見方がゆがんでいるんだ。自分がコースからはずれたものだから、恨みっぽくなってしまったんだろう。高野さんの見方のほうがずっと正しそうだ。そうでもなければ、日本の一流企業でいられるはずがない。要は、
――俺が高野さんになればいいんだ――
しかし、すぐに、
――大丈夫かな――
不安が胸に募って来る。
「まあ、よく考えなさい。自分にあっているところを選ぶのが一番だからね。決心がついたら、すぐに連絡をしてね。たいしたことはできないけど、お役に立ちたいから。ボーイズ・ビー・アンビシャス」
「ありがとうございました」
市井という名を出す気にはなれなかった。「あんな奴にご馳走になったのか」と、先輩は不愉快な顔を見せるかもしれない。
「じゃあ失礼」
高野さんは“しっかり”とばかりに片目をつぶって笑う。その表情がさまになっている。だれに対してもこんな調子で接しているのだろう。また、早足で立ち去って行った。
――さて帰ろうか――
高野さんと別れてエレベーターに乗った。今度もたった一人だ。とたんにまた奇妙ななつかしさを感じた。同じBGMが鳴っている。
――いつか、たしかこんなことがあったなあ――
さっきと同じことを思ったが、やっぱり思い出せない。
――夢で見たのかな――
そんな感覚に近いのだが、BGMつきの夢なんて、あるものだろうか。
ドアが開き、
――なんだい、これは――
また屋上に昇って来ていた。二度も同じまちがいをやってしまうなんて……エレベーターのほうが狂っているんじゃあるまいか。
くぐり戸を抜けて、外へ出た。奇妙ななつかしさと屋上の風景とが|繋《つなが》っているような気がしてならない。
太陽は雲の下に隠れている。文字通り玩具のような自動車が道いっぱいに屋根を連ねている。
――あの人、へんなこと言ってたなあ――
自殺する人は、落下しながら、堅い岩の上より柔かい芝生のほうに落ちたいと、そう思うんだとか……。
その意見をだれが死者から聞くことができるのか。
「なにをしてんですか」
またうしろから声をかけられた。
青いユニフォームの男が近づいて来る。五十歳くらい。服装から見て警備員らしい。
「会社訪問に来たんですが、エレベーターが屋上にあがっちゃって……。せっかくだから、東京の街を見てました」
「ああ、そう。危ないからね」
「はい。すぐ帰ります」
「そうしたほうがいいよ。そんなところに立っていると、ろくなことがないから」
声の調子がおかしい。
――もしかしたら……ここはよく自殺者が飛び降りる場所なのではあるまいか――
とっさにさとって、立ち去って行く警備員に声をかけた。
「ここの会社の方ですか」
「ええ、以前はね」
そうか。今は警備会社に雇われて、昔の会社に来ている……。
「ここ、いい会社ですか」
退社した人なら正直に教えてくれるかもしれない。
「いや、弱い者には冷たいね。評判ほどよくはない。二度と勤めたくないね」
うしろ姿がとてもさびしそうだ。
――この人も落ちこぼれ組だったのだろう――
そうにちがいない。定年前に警備員になっているのはどういう事情だったのか。
「あのう、市井さんて方……市井稔さんてかた、ご存知ですか」
男は立ち止まり、首をまわして笑った。
「知ってますよ、よく。会ったんですね。市井君に」
「はい」
「うなぎ屋へ行って、さんざん愚痴を聞かされて……」
「はい……」
「彼もまだここに未練があるんだねえ。もうあれはやめたのかと思ってたのに……」
「どういうかたなんですか」
警備員は生まじめな表情で答えた。とても冗談とは思えない。
「三年前に死んだよ。仕事に行き詰って……。そこから飛び降りて。今でもときどき現われるらしいね、このへんに」
「まさか……」
だが理性の判断とはべつに、
――そうかもしれない――
奇妙に納得できるものがあった。ひどく影の薄い感じの男だった。西原はふと思い出し、わけもなく尋ねてみたくなった。
「あの……その市井さん。落ちたのは岩の上でしたか」
くぐり戸に手をかけたまま青い服の男が答えた。
「岩の上だったね。血が周囲に飛び散ってさァ」
急に頭の中でBGMが鳴り響く。
――あれは……未来を垣間みるときの音楽――
たとえば映画の“トワイライト・ゾーン”、サイケデリックで、ひたひたと心に染みて来て……ちがうだろうか。
いつか西原自身が|人《ひと》|気《け》ないエレベーターに乗って、ここまで駈け昇って来るのではあるまいか。そして柵を越えて……。
青い服が話し続ける。
「市井君は痛かっただろうなあ。僕は途中で体をねじったので……芝生の上だったけど……」
影のようにスルリとくぐり戸を通り抜けた。西原は驚いてあとを追った。
姿はない。エレベーターは止まったままだ。
――この会社はやめておこう――
帰り道は階段を選んで降りた。ドアが開いて、また屋上だったりしたらたまらない。
旅立ち
カチッ。
ロビイの壁に貼られた時計が、かすかな音をたてて針を動かした。
多佳子はもう二時間近くも待ち続けていた。
「先に行っててくれ。僕はすぐあとで行くから」
多佳子は目を閉じていた。和夫はその顔をまばたきもせずに見つめて、はっきりとそう言った。
「はい」
それがこんなときのルールなのだろうか。初めてのことなのでわからない。多佳子はすなおに従い、玄関に近いロビイで和夫が追って来るのを待った。
外はまっ暗だが、朝はそう遠くはあるまい。時折、ドアが開いて宿泊客が一人、二人と帰って来る。それを除けば、広いロビイにほとんど人影はない。
多佳子は柱のかげに立っている。身を隠すようにして……。姿を見られたら、ずいぶんみじめに見えるだろう。奇異に映るだろう。
凍りつくような不安が胸を貫く。
――もし和夫さんが来なかったら――
こんなに手ひどい背信はありえない。
時計の針が三時半を指すのを待って多佳子はロビイを横切り、エレベーター・ホールへ急いだ。心配で、心配で、やりきれなかった。
「和夫さん、どうしてすぐに来てくれないの」
声にならない声でつぶやいた。
エレベーターの前に男が一人立っている。彼はギョッとしたように多佳子のほうへ視線を向けたが、すぐに目をエレベーターのシグナルに戻した。
黒い制服。ホテルのフロント係。腹痛を起こした宿泊客がいて、そこへ薬を持って行くところだ。胸には“正田”と記した名札がとめてある。多佳子は、その男の脇に数歩の距離を置いて立った。エレベーターがなかなか降りて来ない。上のほうの階で、ところどころ止まっている。
――こんな時間になにをしているのかしら――
正田という名のフロント係も同じことを考えているらしい。多佳子はそっと横顔をうかがった。
パチ、パチ、パチ……。
その瞬間に多佳子の頭の中でなにかが弾けた。音が聞こえたわけではないけれど、そんな感覚に近かった。
たとえて言えば、男の横顔を見つめたとたんに、その脳みその中にあるものが“見えた”……。そんな感じに近かった。男の脳みその作用が脳波となって弾け飛んで来たのかもしれない。
――こんなことがあるのね――
あとで考えてみれば、ほんの数十秒。とても短い時間のはずなのに、信じられないほど多くの情報が飛んで来た。
それも充分に頷けることだ。人間の脳の働きはすばやい。一瞬のうちに数十数百のことを考える。撫でるようにたくさんの情報に接して行く。たとえば……町でだれかの顔を見て、この人だれかしらと思う。ああ、そう、田中春子さん、高校のとき隣のクラスにいた人ね、いつも髪の毛をきれいな三つ編みにあんでいて……バスケットがうまかったわ、それからお習字も、お母さんが継母だったんじゃないかしら、そのせいですぐに就職をして、たしか生命保険の会社、勧誘をされて困ったって噂を聞いたけれど、今ここで声をかけたらまずいかしら、そういえば私の生命保険証どこへしまっておいたろう、大切な書類はみんな一まとめにしておかなくちゃいけないわ、でもそれで泥棒に狙われたら困るし……むこうも気がついたみたい、戸惑うような顔で笑っている、とにかく声をかけてみよう、あの、田中さんでしょ、などなどと数秒間のうちに頭は思い描く。夢などもほんの一瞬のものらしいけど、内容はずいぶん多岐にわたっている。さまざまなことが同時に頭の中に映るみたい。
黒い服の男は……正田隆。三十六歳。フロント係をすでに三年あまりやっているはず。だからたいていのトラブルには遭遇している。今、彼の頭の中をよぎったことは、あまり楽しい想像ではない。彼はシグナルを見ながら考える。
――エレベーターが三十七階に止まった。それから三十四階……。次が二十九階か――
ほとんど宿泊客が寝静まっている時間……。こんなときにエレベーターがあちこちの階に止まるのはめずらしい。
――さっきは背筋に冷たいものを感じたけれど――
魑魅魍魎が走りまわる時間……。連想はどうしてもそちらのほうへ傾く。近代的な設備を誇っているけれど、ホテルはどこかに影の部分を隠している。怪しい気配を包んでいる。とりわけ夜は恐ろしい。
――朝の五時が一番早いモーニング・コールだったな――
と彼は思う。
そのあと時間をおいて二十いくつかのモーニング・コールがあったはずだ。これを忘れてはいけない。
朝、目をさますことくらい、自分でやったらいいじゃないか、そう思わないでもない。そのうえホテルではちゃんと、ベッドサイドに目ざまし時計の設備までつけてある。いそがしいフロント係がなんでこんなサービスまでしなければいけないのか。
――忘れると厄介なんだよなあ――
ひどいめにあったフロント係が何人かいる。正田自身は経験のないことだが……。
「どうしてくれるんだ。大事な契約があったんだぞ。七時に起こすように頼んでおいたのに……そっちのミスだろ。おかげで一億円の商談がパーになったぞ。弁償しろ」
お客は怒りだす。それをなだめなければいけない。サービス業のつらいところだ。
ホテルマンがうっかりモーニング・コールを忘れてしまうことなど千に一つもない。そのときが、たまたま大切な契約の日だなんてお客のほうも運がわるい。あとでどうにも取り返しがつかないほど決定的な遅刻となるケースは、現実問題としては非常に少ないだろう。皆無に近い。
だが、お客はそうは言わない。お客の中にもたちのわるいのがいる。
「もう取り返しがつかん。初めから一分でも遅刻したら、この契約はなしにするって約束だったんだ。だからこそわざわざモーニング・コールを頼んでおいたんだ」
ことさらに大事件にしてしまう。契約の相手と口裏をあわせてホテル側をゆすりにかかる。計画犯らしいのさえいる。モーニング・コールを忘れたばっかりに一千万円近い損害賠償を払ったケースが過去にあった。担当者は一生浮かばれない。
だからモーニング・コールはけっして忘れてはいけない。指定された時間にベルを鳴らす。
起きない人がいる。
一分待って、もう一度鳴らす。それでもなお起きない人がいる。また一分待って、もう一度鳴らす。
三度鳴らして、それでも目ざめてくれなければ、フロアー係が起こしに行く。ドアをノックして、
「もし、もし。おはようございます。お目ざめですか。七時半になりましたが」
と叫ぶ。さらにドアを強く叩く。
応答がなければスペアーキイを出してドアを細く開ける。すきまから呼びかける。ときには部屋の中まで入り、毛布の上から肩を揺すって起こすこともある。ベッドがもぬけのからならば、お客はすでに起きているわけだからモーニング・コールの仕事は終る。
厄介なのは、内側からドア・チェーンがかかっている場合だ。どんなに呼びかけても返事がないとなると、フロアー係はにわかに緊張する。フロントに連絡する。
――もしかしたら――
最悪の予想が頭をかすめる。
正田隆がフロント係になって、まだ間もない頃だった。午前十時頃、三十七階のフロアー係から、
「三七四八号室の様子がおかしいんだ」
と連絡が入った。
つい今しがたモーニング・コールを発したのに応答のなかった部屋である。
「どうおかしいんだ?」
「ドア・チェーンがかかってる。いくら呼んでも返事がない」
「じゃあ行くよ」
主任に連絡し、一緒に三十七階へ昇った。大騒ぎをしてはいけない。ほかの宿泊客に感づかれてはいけない。
こんなときのために専用のペンチが用意してある。ドア・チェーンの鎖の中の輪が一つだけ切りやすいように、もろく作られている。ドアのすきまから大型のペンチをさしこみ、その輪を切ればよい。
「もし、もし。もし、もーし。おはようございまーす」
主任がドアのすきまに口を寄せ、ひときわ大きな声で呼びかけた。
「駄目だな」
ドアの外で頷きあい、正田がペンチを中へ入れた。
カツン。
思いのほか軽い感触で鎖は切れた。
「おはようございます。失礼します」
声と一緒に主任が通路からベッドのある部屋へと向かう。正田はノックをしてバスルームのドアを押し開けた。
赤い色が正田の目を染めた。
客はバスルームのタブの中にいた。お湯が薄赤く染まっていた。壁に血のりが散っていた。フロアー係と主任が背後から駆けこんで来てのぞく。ひとめ見て、客の死は明らかだった。前向きのままお湯の中に潜りこみ、鼻までつかっていた。
引きあげると、左手首に深々と切られた疵あとがあり、血を流し続けていた。
「外のドア、しめてあるな」
「はい」
主任が電話をとり、まず支配人室へ連絡をとる。
「常連じゃないね」
「と思います。たしか電話で予約を受けて」
「宿泊カードをコピイにして四、五枚持って来てくれ。騒ぐなよ」
「はい」
正田は大急ぎでフロントへ戻った。主任の対応は手慣れたものだった。
――めずらしいことじゃないんだな――
警察が来てからのことは知らない。
四十八歳の男。中小企業の社長。仕事に行き詰まり、バスタブの中で手首を切った。しばらくは正田の目の奥に、赤く染まったバスタブの風景がこびりついていた。
それから三ヵ月後、正田はまた同じような事件に遭遇する。三十四階のスウィート・ルーム。今度も四十代の男だった。病気を苦にしての自殺だった。
それからさらにまた一年たって若い男が二十九階の部屋で死んだ。
奇妙なことに自殺者は、翌朝のモーニング・コールを頼んでおくことが多い。心のどこかで、
――助けに来てほしい――
と願っているのだろうか。それとも、
――早く発見されたい――
そう思うものなのだろうか。正田には見当もつかない。
「おい、夜になると、出るらしいぞ」
先輩のフロント係が小声でつぶやく。ホテルではめずらしくない話題である。
「なにが、出るんです?」
「出るって言えばきまっているだろ」
先輩は胸のあたりに両手を垂れて見せる。
「幽霊ですか」
「そう。三十七階と三十四階と、それから二十九階あたりで」
いずれもここ一、二年のうちに自殺者があったフロアーである。お客には黙っているけれど、フロント係ならルーム・ナンバーまではっきり記憶している。
「本当ですか」
正田は笑いながら尋ね返した。
「うん。どこからともなく足音が聞こえたり、エレベーターが開いてもだれもいなかったり……。今夜、君は夜勤だろ。ちょっと一まわりして来てくれないかな」
たいした用もないのに、わざと後輩を行かせたりする。
正田も何度か深夜に、いわくのあるフロアーを歩いた。忘れているときもあるが、たいていは思い出す。とりわけ問題の部屋の前を通るときは、いい気分ではない。
それに……ホテルというものは、どこからともなく物音が漏れて来るものだ。エレベーターのドアが開いたのに、だれも待っていない、そんなこともけっしてまれではない。採光も暗い。
雨の降る夜ふけ、ひっそりと静まりかえった廊下で怪しい気配を感ずることはたしかにある。少し怖い。
正田隆は一階のロビイでエレベーターを待ちながら、これだけのことを脳裏に思い浮かべた。ほんの数十秒という短い時間のうちに……。
理路整然と思い出したわけではない。さながら夢の中の出来事のように、いろいろなことがいっせいに浮かぶ。原因も結果もみんな入り乱れている。
そんな風景が多佳子に見えた。正田の頭の中にあることなのに、自分が見た夢のようにはっきりと見えた。
エレベーターのシグナルが上から順に三十七階、三十四階、二十九階と灯った。
――変だなあ――
と正田は思ったはずである。
――みんな自殺者が出た階だ。こんな真夜中にだれがボタンを押したのかな――
薄気味のわるい噂を思い出す。惨事の現場を思い出す。事件の発生と顛末を心に浮かべる。
雑然としたイメージを整理し、そこに脈絡をつけるのは、むしろ多佳子のほうの頭の作用かもしれない。
――本当に夢によく似ているわ――
と思う。夢で見たイメージに脈絡を与えるのは、目ざめてからの頭の作用だろう。桃太郎の物語を例にとるならば、夢の中では、大きな桃が割れる様子も、鬼ガ島も、きびだんごをもらう犬も、川へ洗濯に行くおばあさんも、宝を積んだ荷車も、みんなゴッチャになって頭の中に映るのだ。それに順序を与え、原因と結果の糸をつけるのは、もう一つのべつな脳みその作用にちがいない。
今、同じようなことが起きている。
正田がイメージを映し、それを多佳子が因果関係の糸で繋いでいる。ほんの一瞬のうちに……。
――どうしたのかしら――
と多佳子は思う。とても不思議な感覚だ。
――ああ、そうか。早く部屋へ戻らなければいけないわ。ずっと和夫さんが来るのを待っていたんだわ――
エレベーターのシグナルが一階を灯し、ドアが開いた。
中にはだれも乗っていない。
正田が首を傾げる。周囲を見まわす。
ドアが閉じ、ゆっくりとエレベーターが昇り始めた。次第に速度を増す。それから、速度をゆるめる。
二十四階で止まった。
正田がドアの外を見る。
多佳子だけが降りた。正田はもう一つ上の階へ行く。腹痛を起こした客がいる。そのことも正田の頭の中をのぞいて多佳子が知ったことだった。
――和夫さん、どうしたの? すぐに来てくれるはずだったじゃない――
まさか……。
廊下を風のように走った。
ドアを抜け部屋の中へ入った。
和夫が立っていた。多佳子と同じような姿だった。
――ああ、よかった――
多佳子は安堵の胸を撫でおろす。
「どうしたんだ」
ちょっと甘えるような視線で和夫は多佳子を見た。このまなざしが大好き。
「だって……待ってても来てくれないんだもの。私、心配で、心配で」
「ごめん。思ったより手間取っちゃって」
「モーニング・コール頼んだの?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてかなあ。そのほうがいいんじゃないかと思って……」
和夫が近づいて来て多佳子の肩を抱く。
「疑ってたのか。僕が来ないんじゃないかと思って」
「ううん、そうでもないけど。あんまり来ないものだから」
「馬鹿だな、多佳子を一人で行かせやしないよ」
「うれしい」
「さ、行こうか」
「忘れ物、ないわね」
「あるわけないだろ。ちょっと見るかい?」
「ええ……」
ベッドルームをのぞいた。
「明るいのね」
「暗いのは厭だろ」
「そうね」
ダブル・ベッドの毛布がふくらんでいる。その下で男と女が目を閉じている。二つの頭が同じ枕の上に載っているが、微妙に顔の色がちがっている。
女の首には堅くネクタイが巻きついている。女の顔が赤黒く歪んでいる。
「ごめん。僕が巻いたんだ」
「ええ、知ってるわ」
情景がはっきりと浮かぶ。
女が先に睡眠薬を飲み、眠りが深くなったところで男が殺した。男は女の死を見とどけたあとで、自分も大量の睡眠薬を飲んだ。
薬はゆっくりと作用する。男が死ぬまでにしばらく時間がかかった。
男はある汚職事件に関連し、女は簡単には治らない病を患っていた。
「死のうか」
「ええ。いいわ」
二人はまだ若かった。死ななくてもよかったかもしれない。だが二人はあの世でともに暮らす道を選んだ。どの道、死の理由は他人にはわからない。
「さよなら」
「グッド・バイ」
多佳子はもう一度二つの死顔を見つめ、
「思ったよりきれいでよかった」
とつぶやく。
「とてもきれいだよ、君は」
死体に投げキッスをして部屋のドアへ向かった。手を取りあって廊下を急ぐ。
エレベーターのドアが開いた。中には正田というフロント係が立っていた。
彼はただならない気配を感じたように周囲をうかがう。だれもいない。
風が二つの流れを作って入りこんで来る。まるで二人の人間が乗りこんで来たみたいに……。
――変だなあ――
彼の脳裏に映るものが多佳子にははっきりと見える。
――朝が来てモーニング・コールを鳴らすのはこの人なのかしら――
と思う。
「ご苦労さま」
そのときの情景を想像する。多佳子と和夫の死体……。多佳子は声にならない声でつぶやいて和夫の腕を取った。
二人でこれからどこへ行くのか、初めてのことなのでわからない。人気ないロビイで自動ドアが開いて、閉じた。
見えない窓
「おおかみ少年がまた変なことを始めたわよ」
午後番の看護婦が直子の顔を見るなりカルテの山の中から首を伸ばして|呟《つぶや》いた。
「あら、ほんと。なーに」
答えたのは一歩遅れて入って来た斎田のほうである。直子は手を洗いながら黙って二人の話を聞いていた。小さな鏡を|覗《のぞ》くと、|眼《め》|尻《じり》の|小《こ》|皺《じわ》が映る。
「双眼鏡を差し入れてもらったの」
「ふーん」
原宿の駅に近い総合病院。外科入院病棟のナース・センターの中。あと五分もすれば八時になって看護婦が交替する。特別のことがなければ夜の勤務は二名。明日の朝四時まで勤める。今夜は斎田と直子が夜勤だった。
同じ病棟に勤務していても一日三交替制だから看護婦同士顔を合わせないケースもある。交替時の接触がわずかな情報交換の場となることが多かった。
「窓から覗いているの。|厭《いや》らしい」
「あったじゃない。映画で」
「そう? 知らない」
「怖いの。“裏窓”ちがったかしら」
「へーえ」
おおかみ少年というのは、三号室の患者。|渾《あだ》|名《な》の由来は……イソップ物語。「おおかみが来たぞ」と何度も|嘘《うそ》をつくので村人に信用されなくなり、本物のおおかみが来たときにはだれも助けに来てくれない。たしか|噛《か》み殺されてしまうのではなかっただろうか。
三号室の患者も嘘をつく。
看護婦をつかまえて真顔で|突拍子《とっぴょうし》もないことを言う。夜中に白い物がドアを開けて入って来たとか……。嘘というより作り話のたぐい。真面目に相手をするのは馬鹿らしい。
たしか中学三年生。カルテには浜真彦、十五歳と記してある。
学校の階段から転げ落ちて右脚の|大《だい》|腿《たい》部を骨折した。骨盤にもひびが入っている。ギプスで固定し、ベッドを離れることができない。
「古い映画よ。テレビで見たわ。主人公もやっぱり脚の骨を折って、部屋の窓から双眼鏡で見てんの」
両の|掌《てのひら》で筒を作って覗く。
「変態ね」
「そうじゃなくって……たしかカメラマンなのよ、その人。だから望遠レンズとか、そういうの持っているわけ」
「おおかみ少年は外科病棟よりもっとほかのとこのほうがいいんじゃないかしら」
「どこ?」
「旧館のほう。三階」
「ああ」
精神病棟のあるところだ。
「ねっ」
「言えるかもね」
三号室は個室である。
中学三年生で、受験を控えているので「勉強をさせたい」と、そんな注文があって個室に入ることになったらしい。
病院をよく知っている立場から言えば、個室の入院はよしあしである。かならずしも勧められない。よほどの重症患者ならともかく、たいていは退屈する。孤独感に襲われ、ろくなことを考えない。仲間のいるほうが気晴らしになる。
――不運は私一人じゃないんだわ――
と、慰められる。個室では、当然のことながら費用も割高になるし……。中学生には|贅《ぜい》|沢《たく》だ。
しかし、病院のほうに個室のあきがあり、患者側がそれを望むのなら、看護婦がとやかく言うことではあるまい。
浜少年はもともと少し変ったところのある子どもらしいけれど、個室に入れられ、さびしくなって周囲の関心を引こうとする。それでおかしな話をするのではあるまいか。
――達夫はどうしてるかな――
直子には弟がいる。故郷の米子でスーパーマーケットの店員をやっている。二十二歳になるはずだが、ここ一、二年会っていない。
浜少年の顔を見ていると、わけもなく弟のことを思い出す。けっして|面《おも》ざしが似ているわけではないけれど……。
父を早く失い、米子では母子三人で暮らしていた。あの頃が一番苦しかった。
――今は少し楽になったけど――
母は体のぐあいがあまりよくないらしい。あい変らず和服の縫い子をやりながら、直子の結婚を心待ちにしている……。
「さ、引き継ぎ、やりまーす」
机のまわりに看護婦が集まった。
「一号室の滝口さん、|容《よう》|態《だい》の急変も考えられますから注意してください。それから二号室、今は鎮痛薬が効いてますけど、夜中に痛みを訴えるかもしれません。そのときはオピオイドを……」
と、年かさの看護婦がカルテを次々に開いて言う。それを立ったまま聞く。
古手の看護婦たちの話では昔の外科病棟はもう少し雰囲気の明るいところだったとか。
骨折のたぐいなら、そのときは痛くても、やがては治る。日ごとに回復する。盲腸炎や胆石など、ほとんど危険のない手術も多いし、消化器の|潰《かい》|瘍《よう》だって本当に潰瘍だけならさして怖くはない。治る病気なら希望も持てる。明るくもなれただろう。
だが、昨今は死病に冒され、手術を受けてもなお体の中に病巣を残している患者が少なくない。とても明るい雰囲気ではいられない。その点三号室はなんの心配もない。
「三号室は、あい変らずよ。ひまがあったら話を聞いてやるのもいいんじゃない」
視線が直子に集まる。
直子は首をすくめた。
「それから五号室……」
一号室から十八号室まで順送りにカルテを積み替えて引き継ぎが終った。とくに新しい伝達事項はなにもない。
「じゃあ、お願いします」
「お疲れさまーあ」
午後番の看護婦が帰って行く。直子は斎田と向かいあって|椅《い》|子《す》にすわった。
「びっくりしちゃったわ。私が夜勤のときだったから」
と斎田が日誌にペンを走らせながら甲高い声をあげた。
「なーに?」
「おおかみ少年」
「ああ」
「夜中に呼び出しのブザーが鳴ってサ、行ってみたら……“最近、この部屋で若い女の人が死んだでしょう”だもんね。眼をパッチリ開けて。|睫《まつ》|毛《げ》が長いから、眼つきが普通とちがうのよね」
「ええ……?」
「あそこ、野添さんが死んだ部屋じゃない。私、赤棒勤務だったから、すぐにピンと来たのね」
患者が死んだときにはカルテに赤い棒を引いて、終りとする。そのときに立ちあうのが赤棒勤務。慣れてはいるが、気持ちのいいものではない。
「そうだったわね」
「でも知らんぷりして“そんなことないわよ。どうしたの?”って聞いたら、“今、入って来たんだ、青い顔して……。死んだ人だって、すぐにわかった。眼が曇ってるもん。僕のそばまで来て、じっと立っているんだ。自分が死んだこと、よくわかっていないみたい。ベッドに入ろうとしたら、僕がいるから、それで困ったんだね、きっと”真面目な顔で言うのよ。つきあっていられないじゃない。“夢を見たんでしょ。さ、寝なさい”そう言ったら“夢じゃないよ。髪を片側に編んで、赤い上っぱりを着て……ほら、まだそこに立ってる”ゾーッとしちゃったわ。野添さんて、いつも髪を片側に編んでたし、赤い上っぱり持ってたじゃない」
「だれか話したのかしら」
「でも、だれが話すの? 看護婦じゃないわ。入院患者かもしれないけど、あの子、そんなにいろんな人と口をきくわけないでしょ。まだ入院して間もなかったし、一人じゃ動けないんだから」
「そうねえ」
「気味がわるくなっちゃった」
「で、どうした?」
直子も|噂話《うわさばなし》くらい聞いていたけれど、斎田の口からこの話を聞くのは初めてだった。
「ふり向いたけど、だれもいやしないわよ。“変なこと言わないで眠りなさい。痛みはどうなの”“痛いけど、平気”“じゃあ、ね、おとなしく”そう言って帰って来たわよ」
斎田の話ではそれから二、三日、続けて三号室から夜の呼び出しがかかり、看護婦が行ってみれば、いつも、
「最近、この部屋で若い女の人が死んだでしょう。さっき入って来た……」
と、少年が呟く。
すぐに噂は看護婦たちのあいだに広まり、三号室から呼び出しがかかると、
「ほら、死んだ女が立っているわよ」
となる。たちまち“おおかみ少年”の渾名が授けられた。
「どうして毎晩この部屋に入って来るのよ、死んだ女の人が?」
そう尋ねた看護婦もいた。
「忘れ物があるんだよ」
「へーえ、どこに?」
「どこかわかんない。どっかに隠したまま死んでしまったんだ」
「そんなもの、ないわよ。すっかり掃除しちゃうから」
「でも隠しておいたんだから、簡単には見つからないよ」
「どうして隠してなんかおいたのよ」
と、しつこく尋ねた。
「人に見られると困るものだから」
「なんなの?」
「わかんない。男の人からもらった手紙とか男の人の写真とか……」
「ふーん」
思わずその看護婦は|唸《うな》ってしまったらしい。
三号室で死んだ野添さんは、若い人妻だった。きれいな人だった。ご主人のほかに男の人が……恋人らしい男が、一度だけ訪ねて来たことがあった。
「あれ、絶対に恋人よ」
ナース・センターは女性の職場だからこういうことにはとても敏感だ。
「なんかちょっと変よね」
「不倫の恋?」
「やるタイプよ、三号室は」
「ご主人、|芋《いも》っぽいもんね」
患者の死はさほどめずらしいことではないけれど、三号室の死はなにほどかの感傷を看護婦たちの心に残した。
「どうしたかしら、恋人?」
「泣きの涙よ」
「最後までばれなかったのかしらね」
「ご主人、遺体にすがりついて泣いてたけど……ああ、女は怖い」
事実はどうあれ、その人妻は不倫の恋を隠したまま死んだことにされてしまった。
だから……浜少年の言葉を聞いて看護婦がギクリとしたのも|頷《うなず》ける。なにかしら決定的な証拠が部屋のどこかに残っていて、死んだ女がそれを取り返しに来たのかもしれないと……。話に尾ひれがつく。
婦長が少年の母親に、
「病気以外のことで夜中に看護婦を呼び出さないでください」
と注意してから、
――幽霊は出なくなったのかしら――
少年はもうその話をしなくなった。
「あのサ」
「なーに?」
そのかわりまた新しい作り話を語り始めた。
少年は左の腕にもひびが入っている。腕のギプスはとれたが、毎日マッサージを受け、そのあと金属のネットを当てて包帯で固定しなければいけない。
看護婦に話しかけるのは、たいていそのとき。
「この病院、建ってどのくらいたつの?」
「ずいぶん古いんじゃない。四十年くらいね」
「ここ、昔は|石《せっ》|鹸《けん》工場だったね。石鹸工場のあとに病院を建てたんだ」
「どうしてわかるの」
「匂いがする」
看護婦は包帯を巻きながらクンクンと鼻を鳴らした。
「今じゃないよ。昔のことだよ」
中学生のくせにひどく大人びた口調で言う。|片《かた》|頬《ほほ》で笑いながら。
「どうしてそんな昔のことがわかるのよ」
と聞けば、
「だって、そのころ、僕、この近所に住んでいたんだもん」
確信のこもった声で答える。
「へえー、驚いた」
看護婦は両手を広げて首をすくめた。ちょうど包帯を巻く仕事も終っていたから、そのまま彼女は病室を出た。
その日の夕刻、その看護婦が病院の玄関でボイラーマンの田宮老人に会い、
――そう言えば、田宮さんは古くからこの病院で仕事をしていたんだわ――
と思い出し、
「ねえ、この病院、建ってからどのくらいになるんですか」
と尋ねた。少年の話がほんの少し頭のすみに残っていたから。
「四十二年かな」
「前は石鹸工場だったんですか」
老人は|怪《け》|訝《げん》そうに首をかしげ、
「いや……。どうして?」
「ううん、ちょっと」
少年のことを話すのはためらわれた。多少なりともまともに聞いていたことになってしまう。馬鹿らしい。
「工場なんかがあるところじゃなかった。ちっちゃな家が軒を接して建ってて……。一つを取っちゃうと、みんなバタバタと倒れそうな、そんな感じの町だったな。区画整理をやって、そのあとにここが建ったんだ」
「そうなの。ありがとうございました」
「いや、どうも」
翌日も彼女が三号室の包帯巻きを担当した。
「石鹸工場なんて、なかったってサ。ボイラーのおじさんが昔のことよく知ってるの。住宅街だったって」
|詰《なじ》るように告げた。
まだ若い看護婦だから少年の嘘が許せない。
「そうだよ。僕も少し変だと思ってたんだ」
浜少年は少しもひるまない。腕を看護婦に預けたまま、
「平屋っていうの? 一階しかなくて、二階がないやつ。小さな家がいくつも並んでいて……工場なんかがあるようなところじゃなかったもん」
見て来たことのように説明する。眼ざしが遠くを見ている。
「そうよ。残念でした」
「でも石鹸の匂いがしたのは本当なんだ。ちょうど、この部屋のあたり。こっそり石鹸を作っていた家があったんだよ。四十年以上も前のことだろ。引き算をしてみれば、終戦直後じゃないか。物資のなかった頃だよ」
看護婦は思わず顔をあげて、少年の表情を|窺《うかが》った。
入院患者の世話をしていれば、戦中戦後の苦しい時代の話をよく聞かされる。しかし、それはみんな老人たちの話だ。こんなに若い声で“物資のなかった頃”の話を聞かされたことはない。
「なんでもよく知ってるのね。だれに聞いたの」
「だから昔、この近くに住んでいたって言ったじゃないか」
「何町?」
「覚えていない。昔のことだから全部覚えているわけじゃないよ。少しだけ」
「へえー」
「それにそんなに近所じゃない、僕んちは。たまに遊びに来るくらい。ちいさい家が並んでいて、そのうちの一つでこっそり石鹸を作って|闇《やみ》|市《いち》で売ってたんだ。石鹸て、作るの、むつかしくないからね。脂さえあれば、だれでも作れる」
「この頃デパートへ行くと売っているらしいわよ。使い古しの天ぷら油で石鹸を作るセットが……」
「あ、本当。ここで石鹸を作っていたのは眼つきのわるい……もと兵隊さんだった男の人。|痩《や》せていて|頬《ほ》っぺたなんか、こんなにへこんでいたよ」
と、指で頬をへこませる。
「そうなの」
看護婦は適当な|相《あい》|槌《づち》を打った。
「奥さんがいて、もともと仲がわるかったんだ。|喧《けん》|嘩《か》になって、ガーンと突き飛ばしたら奥さんが机の角に頭をぶつけて死んでしまったんだよ」
少年は手ぶりをまじえて真顔で話す。
「あら、あら、ひどいわね」
「すぐに病院に連れていけばよかったんだけど……もともと仲がわるかったから……」
と言いよどむ。
「どうしたの?」
「石鹸の材料も足りなくなっていたし、奥さんは|肥《ふと》っていたし……。脂肪がたくさんついてたから、石鹸にしちゃったんだ」
「はい、おしまい。あんた、小説家にでもなったらいいわ」
この看護婦は肥っていたから、てっきり自分がからかわれたと思ったらしい。
「あの子、なによ」
本気で怒りながらナース・センターへ戻って来た。
「どうしたの」
「今度は、女の人の脂肪で石鹸を作る話よ」
「ちょっと変態じゃないの」
「普通じゃないわね」
たちまち同調者が声をあげる。
肥満を気にしている看護婦は多い。勤務体制が不規則だから当節風の優雅なレジャーにはなじみにくい。ついつい食べることが最大の楽しみになってしまう。
おおかみ少年の噂は全病棟に伝わり、あまりよい印象は持たれなかったろう。おおかみ少年などという、明らかに悪意を含んだ渾名が定着したのも、この出来事と無縁ではあるまい。直子だって、その前後にようやく、
――そんな子なの――
と、少年の性向に気を止めるようになったのだから……。
もちろん三号室に若い入院患者がいることは知っていた。
「あんまり変な話をしちゃ駄目よ。本気にする人もいるから」
と、ベッドサイドの掃除をしながら少年に話しかけた。
「なんのこと?」
たしかに十五歳のわりには大人びている。言葉つきも表情も……。真面目なのか、とぼけているのか、ちょっと正体のわからないところがある。
「石鹸工場の話」
「工場じゃないよ。普通の家。お風呂場で作ってたんだ」
「じゃあお風呂が使えないじゃない」
「近所にお風呂屋さんがあったからね。終戦直後は燃やすものがないから、自分の家に風呂場があっても駄目だったんだ」
「あら、そう。どうしてそんなことがわかるの」
直子もほかの看護婦と同じように尋ねた。だれだって同じ質問をするにちがいない。
「僕、近所に住んでいたから。“あそこの家に行くと闇で石鹸が買えるぞ”って、みんなが言ってたもん」
「だって、あなたは十五歳でしょ。その頃、生きてるはず、ないじゃない」
笑いながら明白な矛盾を指摘した。
「でも、知ってるんだ。知ってるものは仕方ないだろ」
「前世ってわけ? その頃生きていて、そのあと生まれ変ったってわけね」
「そうかもしれない。昔のこと、いろいろ覚えているもん」
「不思議な人なのね」
「うん」
驚いたことに、石鹸作りの男の話が病院中に広まってボイラーマンの田宮老人のところまで届くと、
「ほう。よく知ってるねえ。そう言えば、そんなこと、あったなあ」
と、老人が少年の話を肯定した。
「えっ、本当なの?」
みんながただの作り話だと思っていたのに……。
「テレビもない頃だから、くわしいことは知らん。石鹸を作っていた男がいて、そいつが奥さんを殺したのは本当だ。死体が見つからなくて、脂身を取って石鹸にしたとかどうとか、いっときそんな話がよく言われてたな」
「どんな男だったの?」
「知らんなあ」
「本当にこのへんなの?」
「そうじゃなかったかなあ。町の形がすっかり変っちまったから、たしかなことは言えんけど」
こうなると、あれは作り話ではなく、
「なにかで読んだのよ。子どもの雑誌なんかに、そういうこと、興味本位に書きたてているの、あるじゃない」
「そうよね。人間の脂で石鹸を作るなんて、子どもの頭じゃ考えられないわ」
「でも、あの子、眼つきがおかしいじゃない。あんたのヒップなんか見てると、いい石鹸になりそうだなんて、そう思っているんじゃない」
「ひどい! 私、この頃、少し体重減ってんのよ。ダイエットしてるんだから」
「効きめ、ないのとちがう」
看護婦たちは「変な子ね」と言いながらも三号室の少年の話には耳を傾けていた。少年の作り話は、ナース・センターに持ち帰ってみんなに吹聴するには|恰《かっ》|好《こう》な話題だったから……。
「人はみんな生まれ変るものなんだよ」
幼い頃、直子は母方の祖母から何度もそう教えられた。祖母と一緒に暮らしていたのは、せいぜい二年足らず。朝、起きると祖母がいつもお日様に手を合わせて拝んでいたこと、千代紙で箱を作り大きな箱から豆粒ほどの箱までいくつもいくつも重ねていたこと、|小豆《あ ず き》を煮つめてあんこを作るのがとても上手だったこと……祖母についての記憶はけっして多くはないのだが、人が生まれ変るという話だけは奇妙なほど鮮明に直子の心に残っている。
どちらかと言えば、とりとめのない話だった。
「なぜそれがわかるの?」
そう聞きただしたら、なんの説明も得られないような、そんな頼りない話だった。子ども心にもそれはわかった。でも、
――おばあちゃんは信じている――
それだけは充分に感じられた。
理屈ではなく、祖母自身が強く、強く信じているという、その迫力が直子にも伝わり、けっしてないがしろにできない事実のように感じられた。
「死んだら、また生まれ変るの」
「そうだ」
「今度はだれになるの?」
「それはわからないの」
「直子が生まれる前も、どこかの人だったの?」
「そうだよ」
「どうして覚えてないの? そのときのことを」
「死ぬときにみんな忘れちまうんだよ。だけど、少しだけ思い出すときがあるの。この人、どこかで会ったなあとか、前にもここへ来たことあるわとか、少しだけわかるときがあるのよ。それがみんな前世で見たことなんだから」
「おばあちゃんも見た?」
「ああ、見たとも」
たとえば前世で恋しあったまま結ばれなかった男と女。それがふたたび生まれ変って、この世でめぐりあったら……。
――一目|惚《ぼ》れって、そういうことなのかもしれない――
けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……言葉で言い表わしてしまえば矛盾以外のなにものでもないのだが、直子は人間の生まれ変りについて、そんな判断を持っている。
――とりわけ今はそうなの――
祖母の話を思い出したのは、自分の心に対する言い訳なのかもしれない。
六カ月ほど前、直子は一人の男と知りあった。コーヒー・ショップの片すみで直子は友だちを待っていた。男がそばで電話をかけていた。三分間の通話時間が終ろうとしているのに、十円玉がない……。男の身ぶりからそれがわかった。
「どうぞ」
手を伸ばして十円玉を男に渡した。
男には直子の好意がすぐにわかったらしい。電話をかけながら頭を垂れる。
――この人、会ったことがある――
一瞬そう思った。それだけではない。
――好きになりそう――
その感情をどう説明していいかわからない。あとで何度も考えなおしたが、やっぱりわからなかった。その男に……初めて会った男に不思議な親しさを感じたのは本当だった。
男は電話をかけ終え、
「ありがとう。助かりました。待ち合わせですか」
と尋ねる。
「ええ。でも、来ないみたい」
その友だちとは「三十分待って現われなかったら、今日は都合がわるいと思って」と、そんな約束だった。その三十分がちょうど過ぎるところだった。男も、
「僕もふられたらしい」
と、直子のすぐ前にすわった。
それがなれそめだった。
どうしてあれほど簡単に親しくなったのかしら。相手の人柄も|素性《すじょう》もよく知らないうちから胸騒ぎを覚えた。
――一目惚れ――
ちがうわ。もう少し深い意味が隠されているような気がしてならない。祖母の言いぐさを思い出した。
たとえば、前世で愛しあった二人。そこでは結ばれず、幾年月かを隔ててふたたびこの世でめぐりあった。けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……。
すぐに体の関係ができた。
男はテレビ局のディレクター。とても華やかな世界。今までつきあったことのないタイプの男……。直子はすっかり心を奪われてしまった。
そんなときに三号室の少年の噂を聞いて、直子は興味を覚えた。病室に死んだ女が現われる話、奥さんの脂肪で石鹸を作った男の話、そのほかにも飼い主とそっくりの顔をした秋田犬の話や階段の踊り場である夜突然ドアが開く話など、おおかみ少年と言うより妄想少年と言ったほうがいいのかもしれない。
「九時よ」
と斎田がナース・センターの時計を見上げながら言う。
「じゃあ、私、行って来る」
と直子が立ちあがった。
病棟の消灯時間は九時である。夜勤の看護婦は各室をまわり各ベッドごとに様子を窺う。
「いかがですか。おやすみなさい」
十八号室から十七号室、十七号室から十六号室へと逆順にまわった。九と四のつく部屋はない。数の大きいほうが大部屋である。
「すみません」
細い声で呼ばれて苦情や訴えを聞く。完全看護がたてまえになっているけれど、病状によっては家族のつきそいを黙認している。病人にとっても、つきそい人にとっても、これから始まる長い夜はつらい。
五号室まで来て直子は足音を忍ばせ、先に一号室と二号室を覗いた。最後に三号室のドアを開け、
「どう?」
とベッドサイドまで歩み寄った。
「変りない」
少年はスタンドの灯りをつけたまま、毛布の上に双眼鏡を置いている。ベッドは窓際に寄せてあるから双眼鏡で外を覗くのはやさしい。カーテンが細く開いている。
「なにを見てるの?」
「いろいろと」
「覗き? 厭あね」
「あそこの窓……。男の人が独りで住んでる。あんまりいい男じゃないんだ。毎晩女の人が来るんだけど、同じ女の人じゃない。今、来ているのは、若くて、きれいな人。着ている服もセンスがいいよ。男の人が自分でコーヒーなんかいれて、女の人のご機嫌をとっている」
あい変らずませた口調で言う。
直子も窓辺に寄ったが、遠くに無数の灯が散っているだけ。いくら双眼鏡で覗いてみても、むこうにはカーテンが降りているだろうし、|磨《す》りガラスの窓もある。たとえ見えたとしても窓の大きさだけから見えるものなんてたかが知れている。
「さ、寝なさい」
ベッドをポンと|叩《たた》いて部屋を出た。
だが少年の妄想はどんどんと|脹《ふく》らむ。
直子は次の夜も、そのまた次の夜も夜勤の夜まわりで遠い窓の物語を聞かされた。
「女の人は三人いる。きれいな人が二人と、あんまりきれいじゃない人が一人。きれいじゃない人は一生懸命男の人に好かれようとしているんだけど、男の人はあんまりその女の人のこと好きじゃないみたい。ほかにもっといい女がいるしね。適当に利用しているだけじゃないのかな」
そんな話だった。
そのうちに少年のギプスも取れて、退院の日が近づく。直子は午後組に勤務が変り、少年の包帯を巻く仕事がまわって来た。
「昨夜はすごかった」
少年の顔に恐怖がこびりついている。
「どうしたの?」
「人殺しを見ちゃった」
「本当に?」
「うん」
|顎《あご》で双眼鏡を指す。
「それで見たの?」
「いつもの部屋だよ。女の人が……あんまりきれいじゃない女の人が、とうとう男の人を殺しちゃった。適当に遊ばれていたことがわかったんだね。一緒に寝ていて、じいーっと男の人の寝顔を見ていたと思ったら、突然メスを握ってサッと首のところを|撫《な》でたんだ。血が噴き出して、窓がまっ赤になって、中が見えなくなっちゃった。今朝また見たら、もう窓はきれいに|拭《ふ》いてある。中で男の人が倒れてる。死んでるね。まちがいない」
「どんな顔の女の人だった?」
少年は眼をあげ、直子の顔をチラッと見た。眼ざしが、
――あなたに似ている――
そう告げている。
「私に似ていたでしょう?」
直子は先を越して、少年の眼を見つめながら言った。
コーヒー・ショップで知りあった男は、ただの猟色家。テレビ局のディレクターをやっているのは本当らしいけれど、あまり評判のいい人ではないだろう。直子はわけもなく入れあげ、いっときは、
――きっと前世で約束しあった人――
けっして信じてはいないけど、ほんの少し信じている夢を託してみたけれど、男にはほかにも親しい女がいる。直子よりずっときれいで、若くて、華やかで……。
――私はほんのつまみ食いをされただけ――
それがわかった、男が憎い。ほかの女のことを考えると、|嫉《しっ》|妬《と》で気も狂いそう。
――殺してやりたい――
外科病棟にはいつだって鋭利な刃物が並んでいる。どこを、どう切れば、どんな血が噴き出すか、直子たちはよく知っている。
――私は本当に殺すかもしれない――
そう思ったのが、昨日のこと……。
少年はゆっくりと、首を振った。
「ちがう。似てないよ」
口調がぎこちない。表情が戸惑っている。
――嘘を言ってるのね――
すでに包帯を巻き終えていた。
「どの窓」
と直子は双眼鏡を取って外を眺めた。
「むこうのほうだよ。見えない?」
「わかんないわ」
「ちょっと貸してごらん」
少年は双眼鏡を取り、顔に当てる。しきりに首をかしげながら、
「変だな。見えなくなっちゃった」
嘘とは思えないほど|狼《ろう》|狽《ばい》している。
――本当に見たのかもしれない――
ありうべき未来を……。
だが……今はもう直子の殺意は消えてしまった。とすれば、少年の見たものも消えてしまうのかもしれない。けっして信じてはいないが、ほんの少し信じていること……。
「明日は退院でしょ」
いつもと同じようにベッドのすそを叩いて部屋を出た。
翌日、三号室を覗くと、もう少年は退院をしたあとだった。直子は両の掌をまるめて双眼鏡を作り、窓の外を眺めた。
春が近づいている。
――すてきなこと、ないかしら――
今度の誕生日が来れば三十歳になる。双眼鏡の方角を変えれば、故郷の母が見えるかもしれない。弟が元気で働いているかもしれない。
薄 闇
〈拝啓 秋もすっかり深まり朝夕に寒さを感ずる頃となりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。過日はすばらしい花器をお送りいただき、本当にありがとうございます。いつまでもお心にかけてくださって、なんとお礼を申しあげてよいのか……深く感謝いたしております。
実は三カ月ほど前に鎌倉に住居を移しました。町はずれにポツンと立ったマンションの二階のすみです。ベランダに立つと鎌倉の自然がほんの少しうかがえるのがとりえです。ご連絡が遅れて申し訳ありません。お荷物も転送されてまいりました。これは備前なのでしょうか。とてもいい色あい。早速、野の花を生けてみようかと胸を弾ませております。
ついでがありましたら、鎌倉まで足を伸ばしてみませんか。電話番号を記しておきます。
とりあえず御礼まで
[#地から2字上げ] 静子〉
二枚の便箋に見覚えのある字が埋まっていた。
オフィスの昼さがり。海野は一度読み終えてから周囲をうかがい、またゆっくりと読み返した。
文中にある“花器”は、先月岡山に出張したときに送らせたもの。さほど高価な品ではない。ふらりと立ち寄ったみやげもの屋で、
――わりといいかな――
鉄錆色の花器に目を留めたとたんに静子のことを思い出して買ってみる気になった。多分静子は気に入ってくれるだろう。お礼の手紙が来るのを心待ちにしていた。
三カ月前と言えば、暑い盛り。静子の夫が急性肝炎であっけなく死んだのが、去年の十二月。四十九日の法要で静子に会ったのが最後だった。
――あのときには、なにも言っていなかったけれど――
家を移すことについて、である。
――どうしたのかな――
海野は思うともなく法要の日のことを思い出した。
黒い衣裳の静子は、少し面やつれはしていたが、充分に美しかった。三十三歳……。まだ若い。
「これからどうする?」
「しばらくポカンとして……。まだ納得がいかないの」
「なにかあったら相談してくれ」
「ええ……」
黙って引越したのは、少し心外である。
故人は麻布の住宅街に五所帯分ほどの貸マンションを持っていた。あれを相続していれば、生活費に不足はないだろう。子どももいないことだし……。
――そう言えば、猫が一匹いたな――
いずれにせよ一段落したところで静子も新しい人生を考えなければなるまいに。その第一歩が鎌倉へ引越したことなのだろうか。
――再婚をしたのかな――
もしそうならば手紙にそう書くだろう。いくらなんでも早過ぎる。どう読み返しても、その方面で匂って来るものはない。
型通りのお礼状……。“鎌倉まで足を伸ばしてみませんか”という文句も、この種の手紙によくあるものだが、この二行だけは、話し言葉のようで、親しみが感じられる。
――ただの儀礼ではないかもしれない――
そんな気配がある。
もともと静子とは親しい仲だった。夫をなくし、一人で、なじみのない土地に暮らしているのなら、きっとさびしいだろう。なにかしら決意があってやったことだろうが、さびしさは別問題だ。海野が訪ねてくれるのを待っているかもしれない。控えめな文章は、夫を失った女のたしなみのようなものと考えることができる。
――行ってみようか――
静子の横顔が浮かんだ。まつげが長く、いつもうるんでいるような|眼《まな》ざしだった。
海野自身も三十四歳になる。ずっと独り暮らしを続けている。結婚の機会がなかったわけではない。何回かあった。一度は結納まで交わしたが、相手が顔面にヘルペスを患い、失明のおそれさえあるということで破談になった。その後あの人はどうなったか。
――わからないものだな――
もしかしたら一生の伴侶となったかもしれない人でさえ、消息がわからなくなってしまう。結婚は厳粛な営みにはちがいないけれど、どこかにくじを引くような、茶番を演ずるような、いい加減さも含まれている。いつの頃からか海野は結婚についてあまり熱心には考えなくなっていた。
――その気になったときにすればいいさ――
そんな気分である。
だが、さらに深い心の奥底を覗いてみれば、若いときからずっと心に抱いて来た、静子に対する思慕のせいかもしれない。静子が一番好きな女だった。三十四歳まで生きて来て、そう言いきることができる。この先何十年か生きて、もっといい女にめぐりあうこともあるだろう。だが、そのときは海野のほうがどうなっているか。一生のスパンで考えてみても、静子は海野にとって一番と言っていいほどいとしい女なのではあるまいか。
次の土曜日、十時過ぎに起きて鎌倉に向かった。会社は週休二日制をとっている。独り暮らしだからだれかに気がねをする必要もない。
本来ならあらかじめ電話をかけてから訪ねるのが筋だろう。せっかく鎌倉まで行ってみても、留守ということもある。無駄足になるかもしれない。テレフォン・カードをさしこんでダイヤルをまわせば、それですむことだ。
そうと承知のうえで横須賀線に乗り込んだのは、海野の心の中に、
――賭けてみようか――
そんな気持ちがあったからだろう。
どの道、やることのない土曜日だった。電話をかけて、
「ごめんなさい。今日は都合がわるいの」
と静子に言われれば、それで楽しみが終わってしまう。
電話をかけずに電車に乗れば、少なくとも鎌倉駅に着くまでは、楽しみが続く。想像の喜びがある。結果として無駄足になっても仕方がない。運がなかっただけだ。
横須賀線のシートに腰をおろし、窓の外の景色を見た。電車が急にスピードをあげる。
――時間もこんなふうに飛んでいくんだな――
初めて静子に会ったのは、大学四年生のときだった。静子は一年後輩の三年生。二人ともバドミントン・クラブの会員で、どちらもあまり熱心な会員ではなかったけれど、海野が科学史のノートを静子に借りたのが縁で親しくなった。
仲間たちと一緒に何度か旅へ行った。二人だけで映画を見たり、野球を見たり、ドライブを楽しんだりしたこともある。
――好きだな――
会うたびにそう思った。
だが、海野は慎重|居《こ》|士《じ》のほうだ。気の弱いところもあるし、自尊心も強い。静子のことを好きだと思っていながらも、なかなかその気持ちをあらわにすることができない。思っている度合いの半分も態度に出せない。これは大学生のときだけではなく、その後もずっと……今日に至るまで続いている海野の悪い癖だろう。
とりわけ若い頃はそうだった。
――第一、俺はそんなにたくさんの女を知っているわけじゃない――
だから……たまたま知りあった静子が最良と思うのは確率的にみても正しくない。最良と考えるにしてはサンプルの総数が少なすぎる。おそらく男女の仲を円滑に進めるためには、こうした数学的な判断より、むこう見ずと言ってよいほどひたむきな情熱のほうがよほど効果があるだろうけれど……。
静子に引かれながら、もう一つふんぎりのつかないところがあった。押しの弱いところがあった。
静子のほうはと言えば、海野について、
――きらいじゃないけど、夢中になるほどには好きじゃない――
そのくらいの感覚だったのではあるまいか。海野にも正確なところはわからない。
というより、女は受け身の性なのだ。男に激しく愛されて初めて花が咲く。たくさんの愛を注がれて初めて自分も愛を滲み出す。注がれるものが少なければ、応えるものも少ない。すべての女がそうだとは言えないが、静子はきっとそうだろう。
海野がそのことをわかるまでに、取り返しがつかないほど長い時間がかかった。残念ながらそう思うより仕方がない。ある日、挨拶状が届き、静子の姓が変わっていた。
静子の夫の|各務《か が み》がどんな男か、海野はよく知っている部分と、まるで知らない部分とがある。
よく知っているのは、静子が気を許して話してくれたから……。だが、直接その男と会って話したのは三、四回。海野より五つ年上。年齢もちがうし、あまり折りあえるタイプではなかった。おそらく海野とはかなり異質の人格だったのではあるまいか。
――静子はこんな人が好きなのか――
意外に感じた。
おそらく各務は、有能サラリーマンだったろう。必要とあれば、かなり強引なこともやりかねない。狙った獲物は逃がさない……。小鼻のふくらみに、そんな印象があった。
狙われた獲物のほうの心理はどうだったのか。釈然としないものがあったのは、やはり嫉妬のせいなのだろうか。
静子は美しいものが好きだった。花とか絵画とか……。|薔《ば》|薇《ら》園や美術館を訪ねた昔がなつかしい。
「主人は、そういうものにまるで興味がないのよね。仕事人間……。ワーカホリック、そう言うんでしょ」
そんな新語がはやっている頃だった。
多分各務はそういう人だろう。それを承知で、なぜ静子は一緒になったのか。
わからないでもない。女はおおむね現実主義者だ。口先でなんと言おうと、生活の安定を保証してくれそうな男、サラリーマンならば将来役員くらいには手の届きそうな男、それが好きなのだ。趣味のよしあしだけで生きていくわけにはいかない。
静子の夫は申し分のない学歴の持ち主。エリート・コースをがむしゃらに走っているらしいことは、静子の口ぶりから推察できた。
「男はやっぱり仕事じゃないのかな」
「海野さんも、そう?」
「俺は怠け者だから……。しかし、現実には仕事に支配されている部分は大きいよ。仕事にうちこめる人はうらやましい。男としてはいい人生じゃないのかな、そのほうが」
「それはわかるわね。なんでこんなに働くのかしらって思うときもあるけど、一心にうちこんでいる姿って、わるいもんじゃないでしょ」
「まあね。ただ、奥さんのほうはどうなのかな、それを見ているだけで……」
「そりゃ、さびしいわよ。今に子どもでもできればちがうんでしょうけど」
「さびしいときはどうするんだ」
「猫のリリがいるでしょ。かわいいわよ。おつむもわるくないし……。海野さん、猫と犬と、どっちが好き?」
「飼ったことないからなあ。どっちかって言えば、犬のほうがいいんじゃない。猫はずるそうだもん」
「よくそう言うわね。でも猫ってプライドがあるでしょ。貴族の血よ。特にうちのリリはそうなのね。自分を貴婦人だと思っているらしいの。気に入らないことは絶対にしないわ。“なに様だと思ってんの”って、腹が立つこともあるけど、結局は従わされちゃうの。姿もきれいだし……」
「ふーん」
もしかしたら静子は従うことが好きなのかもしれない、と思った。夫に従い、猫に従い……そういう趣味の女もけっしてまれではない。そうだとすれば、なるほど海野は静子にふさわしくないわけだ。いつも海野のほうが従っていた。静子をあがめていた……。“あがめる”という言いかたは、大げさすぎるかもしれないけれど、静子を少し高い位置に置き|騎士《ナ イ ト》の役割を楽しんでいた。まったくの話、男女の関係は、これが女にとってよいとは限らない。
「猫って、本当にきれいよ」
「なに猫?」
「シャム猫。日本猫もいいけど、シャム猫のほうが、もっと気位が高いわ」
「そうかもしれん」
むこうは人妻なのだから、そう繁く会っていたわけではない。年に一度か二度。二人だけで会ったのは、数えるほどしかない。
きまって猫の話が出た。
ときには夫の自慢話が……サラリーマンとして有能であることをほのめかすような話が混ざることもあったが、そんなときには静子の口調にあきらめのような気配がなくもなかった。
おそらく静子の心は、二つの価値観のあいだを振子のように揺れていたのだろう。仕事のできる人だけど、私はさびしいわ。私はさびしいけれど、仕事のできる人なのよ……。
同じことを言っても、日本語ではあとに来るもののほうが重い響きを持つ。糸は大阪のものですけれど、京都で織らせてます。京都で織らせてますけど、糸は大阪のものです。相手が京都の人か大阪の人か、それによって商人は微妙に使いわけるのだとか……。静子の心はどうだったのか。さびしさをあとに置くか、夫の有能さをあとに置くか。
一度だけ静子のマンションを訪ねたことがあった。たしかに猫が君臨していた。
「ご主人は平気なの?」
「なにが」
「猫」
「うちにいるときは、あの人、たいてい寝てるから。私があんまり猫に夢中になっていると“えへん”なんて咳払いをするのね。わざとらしく。そのときだけ“はい、はい”って従えばいいの、ご主人様には」
静子は首をすくめるようにして笑った。満足感のない笑顔ではなかった。
猫を溺愛するのは、おそらく夫との生活に満たされないものがあるからだろう。だが、そのへんでバランスがとれるものなら、それも夫婦のありかたではないか。つまり、静子はそれなりに夫を愛している。夫との生活をかけがえのないものだと思っている。欠けてる部分を猫でおぎない、夫婦の屋台骨が崩れないようにしている。それが海野の解釈だった。
静子に会うたびに、
――俺はやっぱりこの人が好きだな――
とは思ったが、相手が人妻である以上どうしようもない。|掟《おきて》を犯すほどの度胸もないし情熱もない。静子が好きなのは本当だが、広い世間には同じくらい好きになれる女がきっといるだろう。それを待てばいい。そんな気分のまま三十代のなかばまで来てしまった。
各務の死は突然だった。
――こんなこともあるのかなあ――
頭の片すみでそんな事態を漠然と想像したことがないでもなかったが、もとよりそれは海野の本意ではなかった。
静子の悲嘆は疑いようもない。当然のことだ。嘆かないほうがおかしい。
――ただ……その嘆きがどれほどの深さなのか――
海野の立場としては、それを考えずにはいられない。静子を観察せずにはいられない。
葬儀のときも、四十九日の法要のときも静子は深く沈みきっていた。笑顔までが悲しかった。
とはいえ静子の真情を表情で判断するのはむつかしい。
――今、現在、悲しみの中にあるのは、まちがいない――
そうであるなら、この上ない悲しみを演技することくらい、だれにでもできるだろう。中ぐらいの悲しさを最大の悲しさに見せるくらい……。
――もうしばらくたってから――
数カ月待って備前焼の花器を送ったのは……海野のそんな気持ちの現われだった。
窓越しに|大《おお》|船《ふな》観音の白い顔を見たのは覚えている。
そのすぐあとにまどろんだのだろう。
静子の夢を見た。
暗い部屋の中に静子が寝ている。その隣に海野自身が寝ている。もう一人、静子のむこう側に男が背を向けて寝ているが、静子の夫らしい。
「日本人は髪の毛が黒いでしょう。だからいけないのね」
静子は眼を伏せて笑っている。なにか大変みだらなことを話しているらしい。
「なにが?」
「わかるでしょう」
言われてみると、わかるような気がした。黒い毛髪なら白い肌の上ではっきりと映る。だからいけないのだろう。
「いけないらしいよ」
「そうよ」
そう言いながらも静子は上がけを剥ぐ。スポットライトを当てたように静子の白い体が鮮明に浮かんだ。
とりわけ下腹のあたりが|蝋《ろう》のように滑らかに白い。毛髪が床屋から帰ったばかりの頭みたいに生え際をくっきりとさせ、黒く生い繁っている。
なるほど、こんなにはっきり見えてしまっては警察も黙っているわけにはいかないだろう。
「いいのかい?」
「いいのよ。主人はもう警察をやめたわ」
「警官なのか」
「そうよ」
指先で毛髪をいとおしむように撫でながら呟く。
――それはちがうな――
警察をやめたとしても、夫であることに変わりはない。
でも、せっかく静子が言うのだからさからうこともないだろう。
「ああ、そうだったね」
と頷いた。
「猫もいるし」
「うん?」
「猫ってよく眠るでしょ。だから、そばに寝ていると、それが伝染するの。猫が眠っているうちは安心よ」
耳を澄ますと、猫のいびきが聞こえる。細く、せわしない息遣いは猫のいびきにちがいない。
手を伸ばし、指先を静子の黒い繁みの中に忍ばせた。
肉が溶けているような潤いが指先を包む。
――よかった――
女体の反応は正直だ。これだけ潤っているのは、静子が抱かれたいと願っている証拠だろう。
体を並べているだけなのに、海野の中に快感がはっきりと感じられる。体を交えなくても、こんなことができるなんて……初めて知った。
――二人が愛しあっているからだ――
愛が足りないうちは、体を重ねなければ快感は得られない。愛がふんだんにあれば、並んで天井を見ているだけでクライマックスにまで到達することができる。
――そうだったのか――
歓喜がこみあげて来る。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
――待てよ――
世間の人も案外こんな単純なことを知らないのではあるまいか。
――本を書こうかな。ベストセラーになるぞ、これは――
五年に一回くらいセックスに関して新しい本が出版される。なにかしら新しい考えが含まれている。話題になり、ベストセラーになる。これからは心の時代だ。露骨なセックスものより“体を交えないセックス”このほうが受けるにちがいない。
――静子は厭がるかもしれないな――
二人だけの秘密にしておくべきことだろう。
急に猫のいびきが途絶えた。
――いかん――
いくら並んでいるだけでも二人とも全裸でいるのだから……。
「いいのよ、もう死んでしまったから」
気がつくと、静子の二本の白い足の下に、もう一本青味を帯びた足があった。ひどく冷たい。石のように堅い……。
――ろくなことはないぞ、早く眼をさまそう――
眼をさますと、電車はスピードを落とし、北鎌倉の駅が近づいてきた。
――髪の黒い人だったな――
静子のことである。とりわけこめかみのあたりは静脈が青く浮きだすように白く、生え際がくっきりしているのが特徴だった。
鎌倉駅で降りて電話をかけた。静子は家にいた。
「あら、どうしたの、急に」
「うん。大船までちょっと用があって……このあいだの手紙、ありがとう。会いたいな」
「これから?」
「まずい?」
「用はおすみになったの」
「うん」
「あらかじめ言ってくださればよかったのに……。大船からでも」
「短い時間でもいいから、会いたい」
腕時計を見ると一時を少しまわっている。
「夜、用があるんだけど……いいわ。少し待ってくださいます?」
「いいよ」
「じゃあ、二時に」
静子は八幡宮へ行く角に近い喫茶店を指定した。
「病状がひどいとわかったのは、いつ頃だったの?」
「三カ月くらい前かしら。調子はわるかったらしいの。顔色もひどかったし……。でも、私が言ったくらいで従う人じゃないし。病院で精密検査を受けたときは、もう目茶苦茶だったわ」
「肝炎だろ」
「もっとひどい病気よ」
「ああ……なるほど」
喫茶店でコーヒーをすすりながら、くわしい事情を静子自身の口から聞いた。
「少し歩きましょうか。いい季節よ」
「うん」
「山が近いの。結構早く夕暮れがやって来るのよ、かけ足で……」
十分ほどバスに乗った。降りたのは十二所神社という停留所ではなかったか。そこからどこをどう歩いたか。下り坂が多かったのを覚えているが、道筋はつまびらかではない。
光触寺、明王院、たしかそんな名の寺があった。名勝を訪ねるのが目的ではない。海野はさほど寺院の探訪に興味を持たない。知識のない者が眺めてみても、なにもわかりゃしない。「今日はどこそこへ行ったの」と自己満足を上塗りするだけだ。
静子とそぞろ歩きができればそれでよかった。
観光客の少ない季節なのだろうか。それとも静子は人通りの少ない道を選んだのだろうか。どこへ行っても人の姿が少ない。ひっそりとした晩秋の風情は、この日の二人の気分によくあっていた。少なくとも海野にはそうだった。
「くわしいんだね、鎌倉」
「昔、いたことがあるの」
「へえー、知らなかった」
「ずいぶん変わったわ」
落ち葉の道を踏む。褐色の中にところどころ黄と赤の色がある。
「どうして鎌倉なんかに引越したんだ」
「深い理由はないの。少し環境を変えてみたかったから。東京をまるっきり離れるわけにもいかないし」
「猫だけ? 一緒にいるのは」
「リリも死んだわ。話さなかったかしら」
「そりゃ……。知らなかった。ずいぶんかわいがっていたのに。病気?」
「ええ……」
「また新しいのを飼えばいい」
そして、また新しい結婚をしたらいいのではなかろうか。海野は静子の横顔をそっとうかがった。
あい変わらず美しい。ひたひたと胸に迫って来るものがある。眼を正面に向けたまま手を握った。静子も抗わない。
「あんなかわいい猫、もういないんじゃないかしら。普段は気位が高かったのに、最後はすっかり私を頼りきって……膝の上で死んだわ」
「そう……」
べつな猫を飼えばそれでいいというものではないらしい。
「これからどうする?」
「夜、ちょっと予定があって……。ごめんなさい、急だったから」
「いや、そうじゃない。今後のあなたの生活設計のことだけど」
「そうねえ……」
静子は片方の手で褐色の木の実を枝からつまみ取り、水音の響く方角へ投げた。川が迫っているらしい。
「しあわせだった?」
遠まわしに夫との生活を尋ねた。
「ええ。わるい人じゃなかったわ。仕事ばっかりで……。生き急いでいたのかしら。でもね、節目節目にいろんな思い出が残っているの。しばらくは忘れられそうもないわ。ときどきふっと感ずるの、すぐそばにいるみたいで」
「でも、忘れなくちゃいけないよ。あなたはまだ若いんだし」
橋を渡った。
「あ、きれい」
静子が手を振り切って、小走りに坂を登る。周囲を圧倒するほど赤く染まったかえでの株があった。静子は、その葉をつまみ、それからふり返って、
「海野さんは、どうして独りなの」
と聞く。
海野も追いついて肩を並べた。かえでの葉と一緒に指を取った。
「あなたを待っていたのかもしれない」
言ってしまえば、簡単に言えることではないか。
「そう」
静子はさほど驚いた様子もない。
「ずっと昔から好きだった。わかってると思うけど……。すぐにとは言わない。気持ちの整理がつくまで待つ」
いっきに告げた。
――この先、なにを言えばいいのだろうか――
暗い道に入った。起伏の多い丘陵が伸び、繁みは思いのほか深い。ほとんど風もないのに枯木立ちがわくら葉を落としている。
「うれしいけど、なんだか……」
「なんだか?」
次の言葉を待った。静子は首を垂れたまま歩く。
「シャカンドって言うのよ、このへん」
そっぽうの答が返って来た。
「ああ、そう」
「釈迦堂が正しいんだけど」
「うん」
行く手は、さらに暗い切り通しになっている。もう日は沈んだのだろうか。夕闇がひた走りに近づいて来るようだ。
「結婚しよう」
「待って」
静子が唇に人差指を当て、身ぶりで黙ってと言う。静子の視線がなにかを捜すようにまわりの薄闇を見た。
戦慄が走る。
「リリちゃん、来たの?」
その声に答えるように、たしかに細く猫の鳴く声が聞こえた。方角はわからない。薄闇そのものの中から、あるかなしかの弱い気配で、
「ニャー」
と聞こえた。
「リリちゃん、来てるのね」
静子の表情が高ぶっている。ついさっきまでの静子ではない……。
――本当にそう思っているらしい――
眼ざしの中に、かすかに尋常ではないものがうかがえる。
だが、次の瞬間の恐怖のほうが、もっと激しかった。
たしかに海野も聞いた。聞いたというより静子の表情の中に、その声を見たのかもしれない。静子がリリにばかり夢中になっていると、夫は、わざとらしく咳払いをするのだとか……。
「えへん」
男の咳払いが聞こえた。たしかに……だれもいない闇の底から。
静子が眼をあげ、海野の顔を見つめながらゆっくりと呟いた。視線は遠いものを捜している。
「駄目みたい、しばらくは」
それが静子の答だった。
慶州奇談
赤と黄の鮮やかなコントラストだった。
単純な配色でありながら、輝く春の光の中でわけもなく高貴なものに映って見えた。
普通の色あいと微妙に異っていたのかもしれない。たとえば織り糸の中に何パーセントかほかの色を加える、ほかの光沢を加える……。あるいは、重ねのようなもの。表面は赤と黄でも、一枚下になにを置くか、それによって色調は変化する。そのあたりに民族の長い文化の伝統が秘められていたのかもしれない。
それとも、なにもかも春の日の|悪《いた》|戯《ずら》だったのだろうか。
赤と黄のコントラストは、韓国の民族|衣裳《いしょう》チマチョゴリの配色である。チマが赤く、チョゴリが黄色い。日本人の感覚なら、きっと上から下へ、黄と赤の配色と言うだろう。
私は二十代だった。
所用でソウルに赴き、慶州まで足を伸ばした。
急な出張だったので韓国の地誌についてはほとんどなんの知識も持ちあわせていなかった。帰りの便まで三日ほど余裕がある。
――どこか見物するところがないかな――
ホテルのフロントで勧められた名勝地が慶州だった。
まだ日本人の韓国観光旅行など、さほど多くはなかった|頃《ころ》である。韓国政府もあまりこの方面の施策に力を入れていなかった。
――古い都らしい――
その程度のことしか知らなかった。
正確には|新羅《し ら ぎ》の王都。私が新羅と慶州について若干の知識を集めたのは、むしろ帰国してからのことである。
日本語のガイドブックも見当たらず、漢字とハングル文字とをまぜた地図が一枚。私に理解できるのは漢字のほうだけだった。
ソウルから長距離バスで四、五時間。
朝一番に出発するバスを選んだが、ホテルを出たときから体がだるく、微熱があった。
――|風《か》|邪《ぜ》かな――
慣れない仕事の疲労もあっただろう。
――ひどくなるかもしれない――
そんな予感がないでもなかった。
めったに風邪をひかないたちだが、たまに高い熱を出す。そのときは、ただひたすら体を休めているのがよい。むしろソウルのホテルで手続きを頼んで、帰りの便を変更すべきだったろう。
――せっかく知らない国に来たのだから――
一か所くらいソウル以外の土地を踏みたかった。
戦後生まれの私には、日本人がこの半島で犯した罪の記憶などあろうはずもないけれど、知識としては一通り知っている。対日感情はけっしてよいとは言えまい。ほとんどの人がやさしく接してくれたが、なにかの拍子にふっと無気味なものを感じないでもなかった。
バスはほとんど人家の見当たらない丘陵地を走り続ける。一度だけ|停《とま》っただろうか。眠りからさめると慶州だった。
町の中央に位置するバス・ターミナルで降りて、あとは地図を頼りに歩いた。仏国寺までほんの二駅だけ列車に乗った。
韓国の風土は日本とかなりちがっている。
地層は薄く、岩盤が地表に迫っている。だから大木が少なく、ところどころに灰色の岩壁がむきだしになって立っている。高い山も少ない。
太陽が少し傾き始める頃、仏国寺に到着して広い境内を散策した。
みごとな快晴だった。うらうらと気が遠くなるようなのどかな午後だった。
一つ二つ浮かんだ雲が、空の青さを際立たせている。山に野に春の気配が|溢《あふ》れている。そして、ほとんど人の姿を見ることがない。
|陽《かげ》|炎《ろう》が揺れている。
そして私の体も揺れている。
風景はあまりにのどかすぎて、現実のこととは思いにくい。微熱に冒され、私の意識もかすかにおぼろだった。
考えてみれば、昨夜はソウルにいた。その数日前は東京にいた。どちらの町も忙しく、かまびすしい。
――それが、今、まるで現代ではないような雰囲気に包まれている――
寺院の様子も日本とは少しちがっている。
ところどころにけばけばしい色彩があって、それも熱を帯びた眼には、夢幻なものに感じられた。
近くに|石《せっ》|窟《くつ》|庵《あん》があるらしい。
どういう風景かわからないけれど、名勝地の一つであることはたしからしい。地図には白い仏像の絵が丸い輪に囲まれて記してある。
山道を登って行けば、たどりつけるだろうと、方角を定めて歩きだしたのだが、どこかで道をまちがえたようだ。道しるべもない。最初から方角を失っていたのかもしれない。
切り通しのような坂を抜けると、短い草の|繁《しげ》った|窪《くぼ》|地《ち》が広がっていた。
――疲れた――
細道の|脇《わき》に腰をおろし、体を横たえた。少しまどろんだかもしれない。
赤と黄の鮮やかなコントラストを見たのは、このとき、この草原の道だった。
あとで思い返してみると、夢の中でも赤と黄の|蝶《ちょう》が舞っていたような記憶がある。|上翅《じょうし》が黄色、|下《か》|翅《し》が赤……。そんな色あいの蝶が本当にいるものかどうか。だが、夢の中ならなんのさしつかえもあるまい。
蝶は私のそばまで飛んで来て、周囲を一、二度まわって飛び去って行く。
幼い頃に聞いた物語が頭の片隅にあった。
男が沼のほとりに立っていると、水の中から|蜘《く》|蛛《も》が|這《は》い出して来て、その男の足もとをまわって水の中へ戻って行く。何度となく同じ動作をくり返す。いつのまにか蜘蛛の糸が男の足にからみつき、
――それっ――
とばかりに水の中に引き込まれる。その先がどうなったのか、物語の続きは忘れてしまったけれど、とにかく蜘蛛が何度も何度も、足もとに寄って来て這いまわる情景だけが心に残っていた。
――男は引き込まれるまで糸の感触に気づかなかったのだろうか――
気づかないからこそ引き込まれたのだろう。だから、多分、見えない糸……。
それなら蝶だって見えない糸を操るかもしれない。そんな思いが私の心のどこかに宿っていたらしい。
遠い|山稜《さんりょう》の上に雲が一つ浮いていた。蝶はその雲の中から現われて、私の周囲をめぐって飛び、いつのまにか見えない糸が私の体に巻きつく。
――それっ――
私の体が宙に浮き、草原を越え、山稜を見おろし、雲の中へと飛んで行く……。
私が寝転がっていたのは、草原の道と道とに挟まれたゆるい傾斜の上だった。前にも、うしろにも細い土の道がある。背後の道が下り坂を作って、ほんの十数メートル先のところでななめに前の道に接している。それとは逆の方向に、よくは見えないが、土の階段のようなものがあるらしく、下の道から背後の道へと登ることができる。つまり私は、二本の道と階段とが作る三角形の中の草原に休んでいたわけであり、赤と黄の衣裳が、一、二度そのコースを通って、私のまわりをめぐり歩いたのは、夢ではなく、現実だったのかもしれない。
まどろんではいたが、ときどき眠りが浅くなるときがあったらしい。ほんの一瞬、感覚が目ざめるときもあっただろう。
――私の周囲をチマチョゴリが歩いている――
そんな意識が夢の中に忍び込んだのではあるまいか。
眼を開けると、本当に赤と黄のチマチョゴリが私の前を歩いていた。ちょっと背をかがめるようにして。
色彩の鮮やかさは、すでに述べた。
女は階段のほうに向かって行き、そのまま立ち去った。
だが、間もなく背後の道のむこうに、夢の中で見た|蝶《ちょう》とよく似た気配を感じて……おそらく私の眼の端っこがその色彩を捕らえたのだろうが、なにげなく、首をまわすと、女が黄色のチョゴリに赤いチマをはいて近づいて来る。
今度は早足だった。
下を向いて……しかし、私がいることは充分に知っているように感じられた。
すぐに近づき、かすかに|衣《きぬ》ずれの音を残して坂道をくだり、
――どっちへ行こうかしら――
少しためらったのち、私の前を通り抜け、そのままさっきと同じように下の道を遠ざかって行く。下の道は間もなく林に入って、女の姿はその中へ包まれて見えなくなった。
私が眠っていたとき、女は上の道、下の道そして階段と三角形を描いて私の周囲をまわり歩いていたのではあるまいか。まどろみの中で、そういう気配を感じたからこそ私は蝶の夢を見たのではなかろうか。
女がどうしてそんなことをするのか、もとより理由はわからない。わからないからこそ、蝶が見えない糸を操って私を雲の上にまで連れて行く、などと奇妙なことを想像したのではなかっただろうか。
――草原の|衣裳《いしょう》だな――
とりとめもなくそう思った。
正確な知識は持ちあわせていなかったが、韓民族は多分騎馬民族だったろう。男が馬を駆って草原のかなたから家へ帰って来る。迎える女は、たったいま見たチマチョゴリのように明快な色彩をまとっていたほうがわかりやすい。細かい模様はふさわしくあるまい。
――それにしても鮮やかだったな――
太陽の位置はさっきより大分低くなっていた。
――どうしよう――
体が重い。いつまでもこんなところにすわっていても仕方がないと、それを承知していながら、つぎの行動を起こすのが、ひどく|億《おっ》|劫《くう》に感じられてしまう。
「へえー」
私は思わず声を|洩《も》らしたのではあるまいか。遠い林の中から、また赤と黄のチマチョゴリが現われた。さっきと同じように足早に近づいて私の前を通り過ぎて行く。
私のすわっている位置を挟んで西と東に、つまり林のむこうと傾斜のむこうとに、たとえば村があって、女はなにかの用件で二つの村を行き来しているのだろう。用件の中身はわからないが、それ以外の事情は考えにくい。
――しかし、チマチョゴリってのは普段着なのかなあ――
かすかな違和感を覚えたのは、そのせいだったらしい。
ソウルでは、ソウルの町中では、ほとんどこの衣裳を見ることがなかった。景福宮の庭園で二人ほど着飾っている姿を見たが、そばに新しい背広姿の男が寄りそっていて、
――新婚旅行らしい――
と感づいた。
つまり、特別なときでもなければ、この民族衣裳をまとって歩くことはない。日本人の和服姿よりもっとめずらしく感じられた。
慶州に移って、ここでも見なかった。町の風情はソウルよりずっと民族衣裳にふさわしく感じられたが、やはり屋外でやたらに眼に触れるものではないらしい。
それが今、草原の中の土の道を行き来している。チマは引きずるようなデザインだから、いくらたくしあげて歩いても、土ぼこりで汚れてしまうだろう。
「こりゃ……なんだい」
驚いたことに、さらに、もう一度彼女は現われた。
私のそばまで来て遠い雲を望むように顔をあげて視線を伸ばす。
面ざしは整っている。ちょっと|吊《つ》り眼がち。肌の薄さを感じさせるような色の白さである。
言葉をかけたいのだが、私はハングル語が話せない。たしかこんなときには「アンニョンハシムニカ」と言えばよいはずだが、それもうまく一続きの言葉として言えるかどうか自信がなかった。
戸惑っているうちに女は歩調をゆるめ、小首を曲げ、
「今日は」
と、明快な日本語で告げた。
かすかに間のびしたような抑揚だが、この音声ははっきりと意味がわかる。
「今日は、どうも」
笑いながら答えた。
照れ笑いの意味がうまく通じたかどうか。
女は足を止め、
「日本から来たんですか」
と尋ねる。
「そう。うまいね、日本語が」
「そうですか」
と含み笑いを見せる。
草原で寝転がっている私を見て、女は、
――日本人かしら――
そう想像したにちがいない。日本語が話せるものだから、話しかけてみようかどうか、決心がつかずに何度も行き来していたのかもしれない。
「どこ行きました」
「仏国寺へ行った」
「そうですか」
「|石《せっ》|窟《くつ》|庵《あん》へ行こうと思ったんだけど、道をまちがえたのかな。ちょっと疲れちゃって」
「もう遅いですね」
太陽は沈み、空は暮れかけていた。
「うん」
「どこ泊まりますか」
「まだ決めてない」
女の年齢は三十歳くらいだろうか。少女のように明るい笑顔で笑うが、物腰はとても落ち着いている。|眼《め》|尻《じり》に小じわがくぼむ。
「どこか知りませんか? いい宿」
「ありますけど、日本の人はちょっと……。それに、お金、もったいないでしょう。私の家に来てください」
思いがけない言葉だった。
当時の韓国はまだ貧しかった。チマチョゴリの女は、貧しい生活を営んでいる人のように見えなかったけれど、実情はわからない。旅行者を泊めて、なにほどかの収入が得られるものならば、それもわるくないと、そんな事情も充分に考えられる。さっきから何度も私の前を歩いていたことも、それならば説明がつく。チマチョゴリで装っているのも、よい印象を与えようと、そんな意図かもしれない。
「いいんですか」
「どうぞ」
「お礼は……宿賃はいくらですか」
単刀直入に尋ねておいたほうがよい。
「いりません。私の家ですから」
「でも……」
「どうぞ」
先に立って歩き始める。
――どうしよう――
知らない町。知らない女。話が少しうますぎる。怖いと言えば少し怖い。売春のようなものかもしれない。しかし、女がわるい企みを持っていたとしても、
――私を脅かして、なにか得すること、あるかなあ――
お金もあまり持っていない。
――まさか殺されることはないだろう――
危険を感じたら、そのときに逃げ出せばいい。ランナーとしてなら、短距離も長距離もどちらも自信があった。
――ただ、今は熱がある――
体が少しふらついている。普段と同じようには走れない。
――まあ、いいか。そのときはそのときだ――
殺されても妻子がいるわけではない、などと極端な情況を考えた。
私は外国旅行に慣れていなかった。慣れていないからこそ、かえって大胆になれたのかもしれない。まったくの話、知らない国でこんなふうに誘われて、そのままついて行ってよいものかどうか、けっして勧められることではないだろう。確率は低いけれど、恐ろしいめにあうことも皆無ではあるまい。
女の様子は、悪い人のようには見えなかった。むしろそんな疑いを抱くこと自体が申し訳ない。
慶州は美しい古都である。住んでいる人の心もやさしい。疲れている旅人を見つけて、女は声をかけてくれたのだろう。それに、
――日本語ができる――
わけもなくそれが信頼を生む。
ゆっくりと考えてみれば、この国ではその資質がかならずしも対日感情のよさを表わしてはいない。日本人に虐げられ、それゆえに日本語が巧みであるという、そういうケースもたくさんあるのだから……。
「どうしてそんなに日本語がうまいんですか」
うしろ姿に尋ねた。
女は弧を描くように足をまるく踏んで、
「母が日本人だから」
と言う。
「道理で。日本に住んでいたこと、あるんですね」
「いえ、私はありません。行きたいけど」
「来ればいいのに」
「はい……」
道は林の中に入り、しばらくはゆるやかな登り坂が続いた。丘陵の中腹をまわり、林を抜けた。
やはり熱が高い。
「あそこ」
と女が指をさす。
周囲は薄暗くなっていた。
|瓦《かわら》屋根。木造の古い家。小さな門をくぐり抜けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
家はひっそりと静まりかえっていて、人の姿も見えない。この国ではたいてい大家族制を採って暮らしているはずなのに……。
案内されたのは玄関に近い部屋だった。多分客間なのだろう。がっしりとしたテーブルと|椅《い》|子《す》が置いてある。
「すぐに仕度をしますから」
「すみません。でも、おかまいなく」
「ご|馳《ち》|走《そう》がないけど」
「本当におかまいなく……。ほかのご家族は?」
「お父さんと二人です」
「あ、本当。それはさびしいね」
「ゆっくりしてください」
「ありがとう」
女は奥へ消えて行く。
家の外で水音が聞こえた。
客間の壁には山水画が掛けてある。ガラスケースの中に男女一対の人形が飾ってある。
私は椅子に腰かけて待っていたが、そのうちに体を横たえたくなった。あまり行儀のよいことではないけれど、熱があるのだから仕方がない。
足音が聞こえた。
身を起こすより先に女が戻って来て、
「お湯の用意ができました」
「お|風《ふ》|呂《ろ》?」
「はい。こっちです。どうぞ」
本当は風呂など入らないほうがいい。
だが、体が汗ばんでいる。汗だけでも流したかった。
暗い廊下を歩いた。
構造はよくわからないが、かなり大きな家ではあるまいか。
「タオル、これ使ってください」
「すみません」
「ぬるいですか」
「いや、大丈夫」
一坪ほどのバスルーム。湯殿と呼んだほうがふさわしい。木の湯船にお湯がたっぷりと満たしてある。|簀《す》の子が敷いてある。|焚《た》き口は窓の外にあるらしい。
「温度、いいですか」
女の声がもう一度外から尋ねる。
「ちょうどいい」
しかし、湯船には入らず、体を|拭《ぬぐ》うだけにとどめた。
バスルームを出ると、女が|駈《か》け寄って来て、また薄暗い廊下を戻った。
「ご馳走ないです。食べてください」
テーブルの上に皿が並べてあった。
白いご飯。お汁のようなもの。魚の煮つけ。野菜の煮つけ。そしてキムチ。言葉通りありあわせのものを調えてくれたらしい。
「お酒、飲みますか。韓国のお酒。|焼酎《しょうちゅう》です」
大きなとっくりを差し出す。
「じゃあ、少しだけ」
|茶《ちゃ》|碗《わん》に|注《つ》いでもらってから、
「お父様は?」
と尋ねた。
「まだ帰りません」
「わるいなあ」
「いいです」
「あなたは?」
「いいです」
「一緒に飲みましょうよ」
「私、飲めません」
「じゃあ、なにか一緒に……」
「いいです。あとで食べますから」
もしかしたらこの国では女性はもっぱら給仕にまわり、客人と一緒に食事をしないのが作法なのかもしれない。どう誘っても一緒には食べなかった。
「おいしい」
「そうですか。よかった」
思いのほか強い酒である。
豆を甘く煮た料理がうまい。食欲はあまりなかったが、女が気をわるくすると困るので、あらかた平らげた。
もう十時をまわっていた。
眠い。
だるい。
とにかく休みたい。
「少し熱があるみたいなんです」
自分の額に手を当てながら|呟《つぶや》いた。
「あ、そうですか」
女は私の顔を見つめ、そっと額に手をそえる。
「本当。病気です」
「眠れば|癒《なお》る」
「そうです。早く寝たほうがいいです」
急いで部屋を出て行って、寝具を整えてくれた。
白いシーツをかけた狭いベッド。私は周囲がどんな情況か確かめるゆとりもなく服を脱いで崩れるように寝転がった。
「これ、お薬。熱をさげます」
白い錠剤と水をさし出す。
「いろいろありがとう」
「いいえ」
「お父様がお帰りになったら起こしてください」
「いいです。夜、遅いと思いますから」
「あなたの名前を聞かなかった」
「ミキです」
「どんな字を書くの?」
「美しい姫です」
「あ、そう」
女があかりを消した。
私は|闇《やみ》に向かって自分の名を伝えた。女も同じように字を尋ねた。
記憶が残っているのは、そのあたりまでだった。すぐに眠ったらしい。
翌朝、目ざめると、薬が効いたのだろうか、熱はさがっていた。しかし、足腰がシャンとしない。気力が回復しない。
「少し休んでいたほうがいいです」
|美《み》|姫《き》に勧められ、その好意に甘えることにした。
「わるいなあ」
本当に親切な人だ。
「お父様は?」
「もう出ました」
「お仕事?」
「はい」
あまり立ち入ったことまで聞くのは失礼だろう。
「お父様は日本を知ってるんですね」
「はい」
「住んでいたこと、あるんだ」
「はい」
「どこ」
「東京だと思います」
「いい思い出ばかりじゃないだろうな」
「そんなことありません。とてもいいところだって……。私も行きたいです」
「来ればいい。僕が案内する」
「本当ですか」
女の声が弾んだ……。
思わず喜びを表わしてしまった、と、そう聞こえるような声の調子だった。
――これは本心――
だれかと話していて、わけもなくそんな確信を抱くときがあるものだ。
そして、その確信が、確信通りに真実であることも、けっしてまれではない。野生の動物が本能を持っているのと同じように、人間には社会生活を通じて培った勘のようなものがある。これは真実、これは|嘘《うそ》、いつもではないが、|明瞭《めいりょう》にその区別ができる一瞬がある。
――この女に好かれている――
こそばゆいような興奮が心に昇って来る。
私はとりわけ|自《うぬ》|惚《ぼ》れの強いほうではない。こんな感触を味わうのは、めったにないことと言ってもよい。
だが、このときはそう思った。
――この人に日本を見せたい――
機会を作って、ぜひとも案内役を務めたいと、そんな夢想を抱いたのは本当だった。
「うん。来たらいいじゃない。近いんだから」
「はい」
女の声がくぐもる。
そう簡単にはいかない事情があるのだろう。
――父親のことかな――
多分そうだろう。
午前中は|陽《ひ》だまりで体を休め、午後になってから女の案内で石窟庵を訪ねた。
正直なところ、まだ病気が残っていて脳の働きが|稀《き》|薄《はく》だった。集中力を欠いていた。あとで考えてみると当然尋ねるべきことをいくつか漏らしていた。
それに……女の日本語も、日常会話にはこと欠かないが、少しややこしい話となると、うまく通じない、うまく語れない。語りたくない事情もあったのかもしれない。根掘り葉掘りして聞くのはためらわれた。
美姫の父親は故郷を捨てた人らしい。生まれ故郷の名を言っていたが、私には知らない地名だったし、よく聞き取れず、すぐに忘れてしまった。故郷を捨てた理由は、日本女性との結婚のせいだったのかどうか、そんなふうにも聞き取れる美姫の口ぶりだった。
その母親は、どうなったのか。
ずいぶん前に夫と別れて、今は消息もよくわからない……。
「ずっとお父さんと二人暮らしなんです」
ひっそりと|父《おや》|娘《こ》二人で慶州の片すみに住み続けているのだろう。
この夜も寝室へ行く前に、
「お父様は?」
ともう一度尋ねたが、
「まだ帰りません」
と同じ答をくり返すだけだった。
「遅いんだね」
「はい」
「お帰りになったら起こしてください。ご|挨《あい》|拶《さつ》をしたいから」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
昨夜のようには、すぐに眠れない。
――変だなあ――
なによりも父親の姿の見えないのが気がかりだった。美姫は「まだ帰りません」と言っていたけれど、実情はめったに家には帰って来ない父なのではあるまいか。
市街地までそう遠くはあるまいが、周囲の風景は山中と呼ぶにふさわしい。
――さびしくはないのだろうか――
女一人では無用心でもある。
さびしいからこそ私を誘ったのかもしれない。
――|俺《おれ》もこのままここに住みつくかな――
そんな途方もないことを考えた。
そのうちに眠りに落ち、次に眼をあけたのは、朝の四時過ぎだった。
小用に立ち、ついでにそっと家の様子をうかがった。美姫の眠っている部屋は、多分、廊下の突きあたりだろうと見当がつく。その木の引き戸の前まで行って耳を傾けた。かすかな寝息が聞こえる。
断定はできないが、女の寝息。ひといろの寝息……。
もちろん父と娘が同じ部屋で寝ているとは限らない。むしろべつべつと考えるほうが普通だろう。
――この引き戸を開けたら――
と思う。
苦笑が浮かぶ。
――たしかに女一人は、無用心だ――
論より証拠、この私が忍び込んだら、どうなるのか。
――まさかそれを待っているわけではあるまいな――
くり返して言うが、私は自惚れの強い人間ではない。常識から考えてみても、たった一日や二日のつきあいで、それほど女性に好かれるということはありえない。
だが……それはたしかにそうなのだが、女の態度には、
――もしかしたら――
と、期待を抱きたくなるような、微妙な親しさがあった。
とはいえ、引き戸を開ける勇気はない。家捜しをするわけにもいくまい。自分のベッドに戻り、朝の光が射し込むまでまんじりともせず外の気配に耳をそばだてていた。
「お父様は帰らなかったの?」
「はい」
「よくあるの、こんなこと?」
「そうでもないです」
「なんなんですか、お仕事は?」
「山で焼き物を……」
「かまどがあるわけね。どんなかまど?」
手ぶりで描くが、説明はおぼつかない。
「そこへ行ってみたい」
父親の存在を確かめたかった。
「無理です。遠いから」
「もう一度聞くけど、あなたとお父様と二人だけでここに暮らしていて、お父様はときどき山へ行って、そのまま帰らないことがあって……そういう生活なんですね」
「そうです」
「よくあることなのかな、このへんじゃ、そういう生活?」
「めずらしいです。うちだけ」
「そうだろうな。さびしすぎるよ」
「はい」
「町へ移るとか、ソウルへ行くとか……結婚はどうなの?」
「お父さんが許さないから」
「それはひどい」
「仕方ないです」
「日本に連れて行くと言ったら……」
笑いながら冗談めかしく尋ねた。
「きっと駄目」
女も笑いながら答えた。
最初の予定では、私はこの日のうちにソウルに戻り、明日の昼過ぎの便で日本へ帰るつもりだった。
だが、朝一番のバスに乗れば、午後の便には間にあう。今日一日……、もう一晩、美姫と一緒に過ごしたかった。
「そうしてください」
美姫はうれしそうに言う。
言葉はもう一つ通じにくいところがあったけれど、気分はとてもよくあう。そんな気がする。
韓国の女性はおおむね気性が激しいが、美姫はおだやかで、控えめである。私を凝視して、なんとか私の気持ちを理解しようと、けなげな態度を崩さない。
「どうして私の前を行ったり来たりしてたんだ?」
と、初めて会ったときのことを尋ねた。
首を|傾《かし》げ、少し考えてから、
「日本人だと思ったから」
と答えた。
「日本語を話してみようと思って?」
「はい」
それだけの動機とは思えない。
「チマチョゴリはよく着るの?」
「はい」
尋ねたことしか答えない。
美しいチマチョゴリには特別な思い入れがあったのではないかと、そんな想像も浮かぶのだが、こっちから尋ねるのは|面《おも》|映《は》ゆい。
「お父様はお父様として、あなたはもう少し自分のこと考えなくちゃ。いつまでもここにいたって、どうにもならないのとちがうかなあ」
「はい。でも……」
口ごもるばかりだった。
よほどかたくなな父親なのだろう。娘を自分のそばに置いてけっして放そうとしない。
韓国には親孝行の美風がいまだに強く残っている。子どもは親のためにずいぶんひどい犠牲を強いられることも多いらしい。父が望むなら、娘はずっと父のそばにいなければならない……少なくともこの家ではそんなルールが厳然と生きているように思えた。
――それはよくない――
一介の旅行者にはとても計り知れない事情があるのだろうと、それを充分に承知しながら、なおも叫びたかった。
私のほうも美姫に心を奪われ始めていたのだろう。
美姫の案内で武烈王の墓陵まで足を伸ばした。この日も晴天に恵まれ、チマチョゴリをまとった美姫は真実|蝶《ちょう》のようにあでやかに山野の風景に溶け込んでいた。そして、ひどく楽しそうだった。
「冒険をしなくちゃいけない」
「はい」
「日本に来なさいよ」
「はい……」
韓国では、日本と同じ|明石《あ か し》の標準時を用いているから、日没は遅い。赤い夕日を眺めながら家に帰り、|風《ふ》|呂《ろ》に入って夕食をすますと、もう十一時を打つ。
私の体調は完全に回復したわけではない。思いがけない楽しさに遭遇して、心が高ぶり、
――こんなときに体調をわるくしていてたまるものか――
意志の力で病気のほうに小休止を課していた、というのが実情だったろう。|布《ふ》|団《とん》に入ると、もう起きるのもつらいほどぐったりとしてしまう。
それでも朝の五時近くに眼をあけた。
暗い廊下を歩いて美姫の寝ている部屋の前に立った。
――六時にはこの家を出なければいけない――
そのまま|佇《たたず》んでいた。
かすかな寝息が一つだけ聞こえる。
「美姫さん」
呼びかけて引き戸を細く開けた。
やはりたった一人で眠っている。
布団の|脇《わき》にすわって寝顔をのぞいた。
「美姫さん」
女は眼をあけ、キクンと体を震わせる。
「あなたが好きだ」
布団の上に横たわり、肩を抱いた。
美姫は|抗《あらが》ったが、それほど強い力ではなかった。やはり待っていたのかもしれない。身勝手かもしれないが、そう思った。
「日本に来て」
本当に訪ねて来たらどうするか……もちろん案内くらいはできるだろうが、美姫はこの言葉にもっと大きな期待を抱くのではあるまいか。
「お父さんが……」
と|呟《つぶや》く。
「帰って来やしない」
襟もとが割れ、白い乳房がのぞいた。
もうあとには引き返せない。
――娘を一人ぽっちにしておくのがいけないんだ――
けっして肉欲のせいではない。
もちろんその欲望が私の中になかったはずはない。
だが、それよりもなによりも出発を前にして、なにかしら|証《あか》しがほしかった。行きずりの旅人として別れるのではなく、契りとなるものがほしかった。かならずしも美姫を抱こうとして引き戸を開けたわけではなかった。
くちづけ一つ、それだけでもよかった。
いや、そう言いきってはやはり|嘘《うそ》になるだろう。ただ、もう少し明確な結びつきがほしかった。
|薄《うす》|闇《やみ》の中に白い体があらわになる。
私はその上に折り重なった。
そのときである。
なにかが……そう、たしかな力が私を抑えた。背後から、身動きもできないほど強く。
――しまった――
父親が帰って来た……。そう思った。
首をまわそうとしたが、よくまわらない。
つぎの瞬間、本当に全身が総毛立つほどの恐怖を覚えた。
――だれもいない――
私の背後に。
よくは見えないが、気配でわかる。
だれもいないのに、力だけが私の背後からかぶさって私を抑えている……。
美姫は眼を閉じていた。そして私の|愛《あい》|撫《ぶ》を待っていた。多分、そうだったろう。
だが、私の動作に不自然なものを感じて、眼を開けた。
ポッカリとしたまなざしで私の背後に焦点をあわせる。なにかが見えたのだろうか。
それからゆっくりと首を振った。
私は必死の力で、美姫の体の上から転がりおりた。ほとんど身動きのできない圧力の下で、それだけがかろうじて私が採ることのできる動作だった。
やはりだれもいなかった。
暗い部屋に美姫と私と二人っきり……。
美姫は襟もとをあわせ、布団の上にすわって、悲しげな表情で私を見た。
「どうして」
私の声が震えている。
「だから」
とだけ美姫は|呟《つぶや》いた。
――こんなことがあるのだろうか――
考えられることは一つしかない。理性の枠には入りにくいが、ほかに思いようがない。
「お父様は本当に……?」
生きているのかと眼顔で尋ねた。
意味は通じたのではあるまいか。
「ずっとここにいるんです」
と美姫は答えてから、高い窓を見あげ、
「もう起きなくちゃあ」
|哀《あい》|艶《えん》な笑顔で笑った。
布団を部屋の隅に押し、髪を|掻《か》きあげ、なにごともなかったように部屋を出て朝の仕度にかかった。
出発を急がなければいけなかった。
美姫は赤と黄のチマチョゴリを着て仏国寺の駅まで送って来てくれた。私は東京の住所と電話番号を書いて渡した。
「日本に来てほしい」
と告げたが、はたしてあの姿のない父親が許してくれるものかどうか。
美姫は、
「はい」
と答え、それから列車の動きだすのを見て、
「やっぱり駄目でしたね」
と細く|呟《つぶや》いた。
言葉はそう聞こえた。私はバスの座席に体を預け、くり返しくり返し美姫の告げた言葉の意味を考えた。意識がおぼろだった。ソウルに着いたときには高い熱が戻って来て、東京に帰ってからも、一週間は病いの床に|臥《ふ》さなければいけなかった。
歳月が流れた。
私はそのあいだに三度韓国を訪ね、そのつど慶州に足を伸ばした。
仏国寺の付近を捜したが、美姫の家は見つからない。初めて美姫を見た、あの三角の草原は……多分それらしい草原はあったけれど、それから先がうまく捜せない。慶州は観光地を目ざして土地改革が進められていた。古い家は取り壊されたのかもしれない。
――|痕《こん》|跡《せき》くらいありそうなものだが――
そうなってみると、私の記憶そのものがぼやけて感じられる。初めて訪ねた異国での出来事だった。しかも私は病いに冒されていた。あのときは、意識がはっきりしていると思っていたけれど、高い熱と高い熱の谷間の時期であったことはまちがいない。途方もない夢を見たのかもしれない。
しかし、たしかに残っている感覚がある。それだけは本当だ。
美姫を抱こうとしたとき、私の背後から私を抑えこんだ、あの見えない力……。あれだけは、けっして忘れられない。あれだけは夢や幻想ではない。
――じゃあ、なんだったろう――
つい先日、新聞のコラムで、とても大きな蝶が韓国の岩山の上を飛んでいるのが目撃された、と、そんな記事を読んだけれど、多分私の体験とはなんの関係もないことだろう。美姫は今でも父親と一緒にどこかにひっそりと暮らしているだろう。美しいチマチョゴリをまとい、蝶のように舞いながら……。
昨今の慶州はすっかり観光地化されて、もうこの世の外の出来事などどんな形であれ|垣《かい》|間《ま》|見《み》せてくれることはあるまい。
湯
金曜日の夜、森崎は酔っぱらって終電に近い電車に駈け込み、そのまま眠りこけてしまった。駅員に起こされてみれば、終点の|青梅《お う め》に着いている。今からはもう杉並の家へは戻れない。これまでにも経験のないことではなかった。
――明日は休みだから――
駅近くの簡易旅館に一泊し、朝早く目をさましてみれば、
――明後日は親父の命日か――
父の墓は奥多摩にある。青梅からは十五キロほど先の駅だ。ここしばらく行っていない。昨夜、この宿に泊まったこと自体が父の招きなのかもしれない。
――墓参りでもして帰るか――
朝食もとらずに下り電車に乗り、奥多摩の駅に着いた。
少し寒い。駅前にうどんを食べさせる店がある。味はあまり期待できないが、なにかしら腹に詰めておいたほうがよいだろう。
カウンターのすみに立って、
「天ぷらうどん」
と頼めば、
「はい」
すぐに干海老と玉ねぎのかきあげを載せたうどんが出て来る。代金を支払い、割り箸を割った。
そのときである。
店のドアが開き、新しい客が入って来た。コートの襟を立て、
「天ぷらうどん」
と告げて、森崎のとなりに立つ。森崎はその横顔を見て、
「やあ。なんで?」
と声をかけた。
高校で一緒だった田辺である。半年ほど前の同級会で久しぶりに顔をあわせ、話してみれば勤務先が近い。昼めしを食べる店や、会社の帰りにちょっと一ぱいを飲む縄のれんにも共通のところがある。事実、つい先日も一ぱい飲み屋で顔をあわせて、
「そのうち、飲もう」
「ああ、いいよ」
と、約束したばかりである。
学生の頃には、そこそこに親しい間柄だった。五十歳が近づくと、昔の仲間がなつかしくなる。
「よおっ、どうして?」
田辺も不思議そうに森崎の顔を見て、それから服装を眺める。森崎は……会社の帰りだから背広にネクタイ。ゴルフへ行く姿でもないし、山登りでもない。田辺のほうは、スポーツ・シャツにジャンパー、スニーカーを履いて、これはこのあたりの散策にふさわしい。
「あははは。しまらない話なんだよ」
と、森崎のほうが先に事情を説明した。
「なるほど。墓参りか。俺なんざ何年もやっていないな」
「朝がた寒くて、おかげでとんだ早起きをしてしまった」
「朝早いのはいいんだろ」
「なにが」
「墓参り」
「へえー」
「夜になると墓は死者たちの世界になる。日が暮れかかったら、もう墓の付近へ入っちゃいかん。そのかわり朝早いのは、いくら早くても、かまわない」
「変なこと知ってるな」
「常識だろ」
「あんたこそ、なんで?」
と今度は森崎のほうが、相手がこんな時刻にこんなところでうどんをすすっている理由を尋ねた。たしか田辺は|信《しな》|濃《の》|町《まち》に住んでいて、もちろん妻も子もある。
「うん? 俺か。女房は海外旅行で、子どもは合宿だ」
「それで?」
ここ数日、一人暮らしという情況に陥ったのだろう。しかし、それだけでは答にならない。
田辺はちょっと眉をしかめ、
「あんた、小早川を知ってるだろ」
と尋ねる。
「一年後輩の?」
「うん」
その名前に記憶はあった。高校の一年後輩の男で、田辺と組んで卓球のダブルスをやっていた。たしか二人は東京都の大会で準優勝をしたはずだ。
「あいつがうちの会社の関連会社に勤めていてサ、ずーっとつきあいが続いているんだ」
「今でもやってんの?」
と、ピンポンをやる手つきを示した。
「いや、もうやらん。たまに会って、酒飲んで、カラオケ歌って……」
「うん」
「あいつが蒸発しちまって」
「蒸発? はでなこと、やるなあ」
「はでってほどのことじゃないけど‥…フッといなくなった」
「いつから?」
「まだせいぜい一週間。俺、奥さんも知ってるものだから……。奥さんが言うには会社の仕事とは関係がないらしい。先週の金曜日の朝、下り電車に乗るのを近所の奥さんが見ている。“変だな”と思ったそうだ。会社と反対の方角だから。会社にはその朝“風邪を引いたんで休む”と当人が連絡を入れているし、三日前には、奥さん宛に葉書が届いて、“もう二、三日休むけど、会社には病気だと言っておいてくれ”って、はっきりしないことが書いてある。消印が奥多摩町の郵便局なんだ」
「わからない話だな」
「ああ。いなくなる二日前に、俺、会っているんだ」
「当人に?」
「そう。待ちあわせの場所へ行ったら、やっこさん、奥多摩町の地図を広げて熱心に見てた。地図に赤線が引いてある。奥多摩駅からの道を指で計って“これ、何キロ、あるかな”って言うから、俺も一緒に地図をのぞき込んで“三キロくらいじゃないのか”って、そんな返事をしたんだ。いつも通り酒を一緒に飲んで、一、二曲歌って別れたんだけど、奥さんに相談されてピーンと来たな」
「なんか言ってたわけ、彼?」
「サラリーマンが厭になった、とは言ってたな。しかし、やっこさん、よくそんなこと言ってたし、わりとサラリーマンはそういうことぐちるだろ」
「まあな」
「そのときはたいして気にもかけなかったけど、あとで思い出してみると、“朝、急に会社とは反対方向の電車に乗りたくなるんだ”なんて、そんなことも言ってた」
「ふーん」
「それに、地図を見ていたとき“この先に東京の人がほとんど知らない、すてきな温泉があるらしい”なんて、いかにも行ってみたそうな様子で話してたんだ」
「そりゃ、そこへ行ったな」
「だろ? 奥さんに相談されてピーンと来たわけよ。奥さんにしてみれば、葉書はもらったけど、要領をえない。胸騒ぎを覚える。さりとて会社の人に相談するのもはばかられるし、俺が直前に会っていることを思い出して相談に来たわけだ。それが昨日」
「会社は何日休んでるんだ」
「えーと、先週の金曜日から始まって、あと連休が入っているから……五日間か」
「風邪だけじゃぼつぼつまずいな」
「奥さんもそれを心配してね。しかし、俺としちゃ確実に奥多摩の温泉へ行ったとも言えないし、変に気を持たせて、あとでガッカリさせたらわるいだろ。自信はないけど心当たりをあたってみますって……」
「賢明だよ。それで今朝、早速行動を起こしたってわけか」
「そう。ちょうど女房も子どももいないし、朝、目がさめちまったから、そのまんま飛び出して来た」
「で、行方は見当がつくのか」
「同じ地図を見つけたからな」
と、鞄の中から地図を引き出す。
田辺は、夫人から相談を受けたあと、書店へ行って小早川が持っていたのと同じ地図を捜したのだろう。一度見ているのだから、同じ地図を見れば、小早川がつけた赤い線も思い出せる。
田辺の持っている地図にも赤い線が引いてあった。
「それが道筋か」
「そう。先のほうはちょっと自信がないけれど、このへんに温泉がそうたくさんあるとは思えない。地図にはなにも書いてないし、付近にいって、あまり知られてない温泉て聞けばわかるんじゃないのか」
「旅館だって、そうたくさんはないよな」
「多分な。で、どうかね。見つかると思うか。あんた、推理小説が好きだろ」
「あははは。わからんよ。しかし、相当にくさいな。まあ、行ってみろよ」
「賭けるか」
「いいよ。あんたはどっちに賭けるんだ」
「あんたが選べ」
「俺は、いるほうに賭ける」
「俺は、いないほうに賭ける」
「わざわざ捜しに行くのに、いないほうに賭けるのか」
「そういう心理って、あるだろ。小早川がいれば万々歳だし、いなけりゃ儲かる」
「株のヘッジ買いみたいなもんだな」
「で、いくら」
「一万円」
「よし」
すでにうどんを食べ終っていた。店を出て吊り橋のところまでゆっくりと歩いた。通学の時刻らしく学生たちの群が目立つ。
「遠いな、やっぱり、奥多摩は」
「山の中だもん」
「今夜、新宿で人に会うんで、早く出て来たんだが……簡単に見つかるといいんだがな」
「帰りに奥多摩で四時に乗れば、六時頃には都心に行けるんじゃないのか」
「さて、この地図で行くと……」
と、田辺はもう一度地図を開いた。
「少し行って右の道に入るんじゃないのか」
「そうらしい。あんたは?」
「俺は駅のすぐそばだ」
「じゃあ、ここで」
「うん。頑張って」
「一万円はあんたのものだな。きっと」
「わからん」
吊り橋を渡ったところで手を振って別れた。うしろ姿が繁みの中へ消えて行く。
森崎は川岸を少し歩き、駅のほうへ戻った。
花屋が開いているのを見つけて花を買う。
お寺の門をくぐり抜け、母屋の裏口をのぞいて、
「あのう、森崎です。お線香をいただけましょうか」
「はーい」
高校生くらいの男の子が顔を出す。
「ご無沙汰しております。和尚さんは?」
「今日は早くから出てます」
「あ、そう。お母様は?」
「一緒に」
「よろしくお伝えください」
「はい」
滅多に来ない墓参りだから、和尚とは顔をあわさないほうが気が楽だ。線香を受け取り、
「お代は?」
「三百円です」
「じゃあ、これを」
と千円を渡し、線香とマッチを受け取る。
「どうもすみません。桶、わかりますか」
「ええ。いつものところでしょ」
「はい」
「どうぞ、おかまいなく」
墓の入口に小屋があり、紋所のついた水桶が並べてある。古びた五つ菱を捜し出し、水を入れて墓に向かった。
墓は最近掃除をしたらしく、きれいに片づいている。線香をあげ、手をあわせた。
たったそれだけのこと……。
ここに来るまでの時間の長さに比べれば、用事そのものに必要な時間は極端に短い。
空が青い。空気がうまい。ブラブラと歩き、森崎が奥多摩の駅へ戻ったのは、十時少し前だった。電車の出発まで少し待たなければならなかった。
――家に帰ってもどうせ一人なんだし――
吉祥寺で降りて二本立ての映画を見る。それからパチンコ屋へ立ち寄り、散財のあとビール一本、お銚子二本、軽い食事をして家へ帰った。
テレビで映画を見て、
――今日は映画漬けだなあ――
やっぱり一人暮らしというのは退屈なものである。よほど楽しい趣味でも持たないと時間を持てあましてしまうだろう。
視界が暗い。少しずつ明るくなる。
映画館かと思って入ったが、どうもそうではないらしい。何列もの客席があって、奥のほうに舞台がある。
黒い燕尾服の男が口上を述べている。
――そうか、昔、親父と行ったんだ――
それを思い出したとたん、父親がとなりの席に腰かけている。
――死んだはずなのに……困ったな――
もう墓まで作ってしまった。
森崎はひどく狼狽を覚えたが、
――夢だな――
と、気がついた。
夢ならば安心だ。怖いことが起こりそうな予感がするけれど、そのときは眼をさませばよい。
父親の顔を見ると、父は顎をしゃくって、
「前を見ろ」
と言う。
舞台の上にまっ赤なドレスを着た女が現われる。透明なバス・タブが運ばれて来る。アシスタントが同じように透明なバケツでお湯を運んで来て、バス・タブに注ぎ込む。
女はとても美しい。音楽にあわせてクネクネと踊っている。
バス・タブがお湯でいっぱいになると燕尾服の男が湯加減を確かめ、女を横抱えにしてゆっくりとお湯の中へ沈めた。透明なバス・タブが赤く染まる。
男が赤いスカーフを取り出して、女の頭をくるむ。
女の体はさらに沈んで頭までがお湯の中へ潜ってしまう。燕尾服が不思議な仕草でまじないをかける。
一分、二分、三分……。
――大変だ。息がつまってしまうぞ――
眼を凝らして見ていると、それどころではない。もっと大変なことが起きているらしい。
バス・タブの中のお湯の様子がおかしい。赤い女が溶けている……。お湯の中に赤の色がくまなく広がり、色もどんどん濃くなる。
舞台にはもう一つ透明なバス・タブが置いてあった。こっちは空のままである。
燕尾服の男が赤いお湯を透明なバケツですくい、空のバス・タブに流し込む。
一ぱい、二はい、三ばい……。
女はお湯に溶けてしまったらしい。
赤いお湯をすっかりすくいあげてしまっても、女は現われない。
燕尾服は青い液を入れたビーカーを取って眼の高さにかかげ、
「えいっ」
声もろともに赤いお湯の中へ注ぐ。
一瞬、赤いお湯が青いお湯に変った。
呪文をかけ、もう一度、
「えいっ」
青いお湯がザワザワとゆらめき、中から青い眼の女が立ちあがる。女はバス・タブから出て、濡れた衣裳のまま音楽にあわせてクネクネと踊りだす。
乳房の形がはっきりと見える。下腹のあたりの曲線も……。
ベルが聞こえる。
終演を伝えるベルだろうか。ルン、ルンと鳴っている。
眼をさました。
電話のベル……。
急いで布団から這い出し、リビングルームに駈け込んだが、そこで音が消えた。
カーテンのすきまから朝の光がさし込んでいる。
九時十八分。
――よく眠った――
椅子に腰をおろしてトントンと頭を叩いた。
――ヘンテコな夢だったな――
たしかに昔、父親と一緒に奇術を見に行ったことがある。箱の中に入れた女が消えてしまう奇術だった。その女が客席のうしろから現われるという趣向だった。
バス・タブの中でお湯が湯気をあげていたのは……もしかしたら、
――昨日の朝、田辺に会ったせいかな――
田辺は、蒸発した後輩を捜しに行った。後輩は鄙びた温泉に浸っているらしい。
――そのまま溶けてしまったのではあるまいか――
と、森崎の頭が勝手なイメージを描いて、それが夢に現われた……そんな気がする。
――賭けはどうなったかなあ――
それを考えたとき、まるで答が走って来るように電話のベルが鳴った。
今度はすぐに受話器を取る。
「もし、もし、森崎です」
「あ、森崎? 俺だよ、田辺だ」
「昨日はどうも」
「起きてた?」
「今しがただ。で、どうだった?」
「あんたの勝ちだよ」
と、電話のむこうで笑っている。
「いたのか」
「いた、いた、まだ会ってはいないけど、まちがいない」
「ほう?」
「こんなとこに温泉があるのかなあって、信じられないほど小さな温泉だぜ。ひっそりと湧いてんだけど、一応、前の湯と奥の湯とがあるんだ」
「前の湯と奥の湯?」
「そう。山の奥のほうに一つ温泉があって、それが地下を流れて前の湯のほうへ来ている。俺は昨夜、前の湯のほうに泊まったんだけど、小早川は奥の湯のほうへ行ってる。山道だから、昨日は行けなかった。これから出かけるとこよ」
「ああ、そうか。一人で?」
「いや、案内の女性と」
「女性?」
「うらやましいだろ」
声が弾んでいる。
「うーん。俺も行くかなあ」
「まったくここは穴場だよ。ほとんど知られていない。だれもいないもん」
「お客が?」
「うん。見かけないね」
「地図の通りだったのか」
「最後のところで迷った。あきらめかけたんだけど、ちょうど女の人が通りかかって」
「ふん、ふん」
「案内してもらったんだ。運よく宿の人だったから」
「お楽しみだな」
運よく出あった女の人がなかなかの美人で……その人が今日奥の湯まで案内してくれるのではあるまいか。電話の声から察して森崎はそんな事情を想像した。
「いや、いや。とにかく賭けはあんたの勝ちだよ。小早川に会って、どういうつもりで家に帰らないのか、一仕事残っているからな」
「上首尾を期待してるよ」
「いずれまた連絡する。寝ているところを起こしてすまなかった」
「もういい加減起きてもいい時間だ。じゃあ、いずれ」
電話を切った。
――新宿に大切な用があるような話だったけど――
たしか田辺は昨日の夕刻、新宿で会うべき人がいて、都心に帰り着く時間のことをしきりに気にかけていた。朝早くに奥多摩まで行ったのもそのせいだった。
しかし、尋ね人が奥の湯にいるとわかれば、それを確かめずに帰って来るわけにもいくまい。再度捜しに行くのは、余計な手間がかかる。もたもたしていると、逃げられるかもしれない。新宿で会う人のほうを延期してもらえばよい。たいていの人が、そんな方法を採るのではあるまいか。
――いずれにせよ、俺には関係のないことだ――
それよりも……薄笑いが浮かぶ。
――一万円儲けたわけか――
冗談半分ではあったけれど、田辺はきっと、
「はい、これ、あんたの勝ちだぞ」
と、一万円札をさし出すだろう。そういうことに関しては、とても律義な男である。
「いいのか」
「いいもわるいもない。賭けだもの」
「じゃあ、これで飲もう」
「それがいい」
そんな会話が思い浮かぶ。焼き鳥屋あたりへ行って、あとはカラオケかな。となると一万円では足が出る。
――さて、今日はどうするかな――
今日もまたよい秋日和だ。
紅葉の山でも仰ぎながら露天風呂にでも浸っていたら、さぞかしよい気分にちがいあるまい。
「こちとらはゴルフの練習にでも行くとするか」
森崎はひとりごちてから立ちあがり、インスタント・コーヒーを沸かし、トーストを焼いた。
田辺からはなんの連絡もなかった。
――あの一万円、どうなったかな――
正直なところ、森崎はほとんど思い出しもしなかった。
いずれ田辺からは連絡が来るだろう。ここ数日のうちにデスクの電話が鳴り、
「よう、時間ない? 飲まないかね」
と田辺の声が聞こえることを漠然と想像していた。
小早川という男の蒸発についても、
――なんで蒸発なんかしたのかな――
そう思わないでもなかったが、さして親しい友人でもない。親身になって考えるほどの事件ではなかった。
そのうちに三週間ほどが過ぎ、
――どうしてるかな――
森崎のほうから田辺の会社へ電話を入れてみると、
「田辺は休んでおります」
という返事である。
一日おいてまたかけると、
「田辺は休んでおります」
と、同じ返事が聞こえて来る。
「ご病気ですか」
「ええ……まあ」
と、煮えきらない。
不審に思い自宅のほうへかけてみれば、奥さんが電話口に出て来て、
「旅に出てるんですの」
「ほう? いつお帰りですか」
「もう二、三日……」
こちらもはっきりしない。なおも事情を尋ねてみれば、
「急にいなくなってしまって……」
すでに警察へも捜索願いを提出してあるという話である。
「本当ですか」
「はい。なにかお心あたり、ございませんかしら」
と問いかける。声が真剣味を帯びている。
はじめは夫の失踪を隠していたが、もしかしたら手がかりが得られるのではあるまいかと、奥さんの心境が変ったせいだろう。
「いついなくなったんですか」
「それが……私、海外旅行に出てまして。子どもの話では、今月はじめの日曜日、合宿から帰って来ると、お父さんがいない。そのまま寝てしまったけど、月曜日も火曜日も帰って来ない。水曜日に私が帰国しまして……それで、おかしいと気づいたわけなんですの」
日付を確かめれば、まさしく森崎が奥多摩のうどん屋で田辺に会った頃ではないか。会ったのが土曜日、田辺はその夜、前の湯に泊まり、翌日曜日は奥の湯へ行ったはずだ。
「そういえば……」
と、森崎はそのことを口に出しかけ……だが、すぐに口をつぐんだ。不自然に聞こえただろう。
「なにか?」
「いえ、まるで見当がつかないんですか」
と話をそらした。
「八方手をつくしてみたんですが」
声が涙ぐんでいる。
三週間行方がわからないとなると、これはただごとではあるまい。奥さんの嘆きもよくわかる。
にもかかわらず、森崎がすぐに奥多摩のことを告げなかったのは……どう説明したらよいだろう。
男同士の仁義……。
大袈裟に言えば、そんな心理かもしれない。つまり、本当に蒸発ならば、蒸発した当人にそれなりの理由があるはずだ。男には妻にも言えない事情がある。真の友人ならば、そこをかばってやらなければなるまい。
――ちがうな――
森崎が口をつぐんだのは、むしろサラリーマンらしい慎重さのせいだろう。不確かなことをほざいて相手に過大な期待を抱かせてはなるまい。まちがっていたら、あとでわるい。
――田辺の様子は、どこか変だった――
奥多摩のうどん屋で会ったのは本当だが、そのあとの行動は電話で聞いただけだ。
――小早川がどうなっているのか――
それもよくわからない。
「小早川君、ご存知ですか」
と電話口で尋ねると、
「いいえ」
戸惑ったような声が返って来る。
「ご主人の高校の後輩で……」
「ああ、ピンポンをやってたかた」
「そうです」
奥さんがすぐに思い出すような間柄ではなかったのだろう。小早川の失踪も田辺夫人は知らない……。
「なにか、そのかたが?」
「いや、ちょっと」
そのときとなりの席から「森崎さん、こっちに電話」と横腹をつつく。森崎は腕時計を見た。十一時四十二分……。
「すみません、一、二調べてから、またご連絡をいたします。あまり突然のことなので」
「よろしくお願いします」
むこうが先に電話を切った。
「午後外出する。多分、社には帰らないと思うから」
となりの席に告げて森崎はオフィスを出た。
その前に小早川という男の勤める会社に電話をかけ、彼がずっと休んでいることを確かめた。
ずっと休んでいるのは、蒸発のせいだろう。応対の様子から判断して小早川の失踪はまずまちがいない。あのときの田辺の話は嘘ではなかった。小早川の自宅を捜し、そこに尋ねれば、もう少し事情がわかるかもしれないが、
――まあ、いい――
それよりも先に奥多摩まで行ってみることだ。この時間なら間にあう。
田辺の奥さんに事情を説明するのは、そのあとでよかろう。
会社の近くの書店で地図を買った。奥多摩の、先日見たのと同じ地図である。ついでに雑誌を三冊買って電車に乗り込んだが、奥多摩はやはり遠い。雑誌を読み終え、しばらくは地図を眺めた。
奥多摩の駅に着いたのは、午後二時半過ぎ。
――急がねばなるまい――
山道は暮れやすい。
田辺の地図で見た道筋はよく覚えている。同じ地図でたどるのだから、まちがうことはあるまい。
五十分ほど歩いた。
――変だな――
道が輪を描いているらしい。同じところへ戻ってしまう。どこかに脇道はなかっただろうか。
もう一度、注意しながら歩いたが、やはり同じところへ帰って来てしまう。
「どこかお捜しですか」
突然、声をかけられた。女が立っている。
木陰に立っているので顔はよく見えない。
だが、声の響きから察して三、四十歳くらい……。モス・グリーンの服を着て、容姿も美しい人のような気がする。
「温泉を捜しているんですけど」
「温泉ですか」
女は笑い声で聞き返す。
「この近くに、人に知られてない温泉があると聞いたものですから」
「わざわざ捜しにいらしたの?」
木の葉が揺れ、女の顔に木もれ陽が射す。
女の表情が映り、すぐに消えたが、森崎の予測はおおむね的中していたようだ。
「ええ、まあ」
「じゃあ、いらっしゃい、ご案内しますから」
女はくるりと踵を返し、スタスタと歩きだす。森崎はあわててあとを追った。
「ここを入るの」
と指をさす。
「へえー」
思いがけないところに脇道がある。さっきは見つからなかったのに……。
――田辺もここを通ったな――
わけもなくそんな確信が込みあげて来る。
田辺は電話口で言っていた。道に迷っていると、女が現われて案内をしてくれたと……。同じことが起きたらしい。それは小早川も体験したことなのではあるまいか。女は知らない歌を歌いながら楽しそうに歩いている。
「なんという温泉なんですか」
女のうしろ姿に尋ねた。
「名前ですか」
女は速足で歩きながら歌と同じように呟く。
「そう」
「名前なんかないの。ただ二つ温泉があって、これから行くのが前の湯、もっと山の奥に奥の湯があるわ」
「どうしてみんなが知らないのかな」
「どうしてでしょうね」
女の声はまた笑っている。
「まだですか」
「もう少し。でも、あなた、ここに温泉が湧いてるって、どうしてご存知なのかしら」
「友人が教えてくれたから。電話で」
「あら、本当に。小早川さんかしら、田辺さんかしら?」
「やっぱりご存知なんですね」
森崎は気色ばんで叫んだが、女はそれには答えず、腕を伸ばした。
「あそこ。とてもいいお湯があるの。いらっしゃい。でも、あなたももう帰れませんわ。どうぞ」
くるりと振り向き、この世のものとは思えないほど美しい笑顔で笑った。
|自選恐怖小説集
心《こころ》の|旅《たび》|路《じ》
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年2月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『自選恐怖小説集心の旅路』平成 5年7月24日初版刊行
平成11年4月10日11版刊行