阿刀田高
箱 の 中
目 次
モロッコ幻想
箱 の 中
暗 い 頭
知らないクラスメート
死 ん だ 女
陽の当たる家
青と赤の二人
強清水(こわしみず)
汚れたガラス窓
帰 り 道
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モロッコ幻想
この夏、テレビの仕事でモロッコを訪ねた。千夜一夜物語≠フ痕跡《こんせき》を探るのが旅の目的だった。
ロンドンから空路でカサブランカへ入ったが、ここはどこにでもあるような近代的な港町である。見どころと言えば、映画で名高いカフェ・アメリカン≠セろうが、これはホテルの地下に再現された観光施設だから、さほどのものではない。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの写真がたくさん貼《は》ってある。古いアラブの面影を捜すとなれば、フェズやマラケシュのほうが適しているだろう。ワゴン車を雇って内陸部へ走らせた。迷路のようなメディナ、隊商たちが泊ったフンドーク、高い塔を立てたモスク、昔ながらの染色工場などを見て歩いた。
「魔術使がいるらしいぞ」
「どこに?」
「少し遠いけど」
千夜一夜物語≠フ旅となれば、魔術使にはぜひとも会ってみたい。たしかアラジンと不思議なランプ≠ノ登場する悪党は、モロッコの魔術使ではなかっただろうか。
「行こう、行こう」
スケジュールを調整し、朝早くマラケシュのホテルを出発してカスバ街道をザゴラまでひた走りに走った。三百キロを超える道程である。道そのものは悪くないけれど、どこまで行っても茶褐色の荒野が続いている。
途中、アトラス山脈を越えるとワルザザートの町に着く。ここで小休止をとり、さらにワゴン車を走らせた。
ミネラル・ウォーターは欠かせない。水分を摂らずにいると、知らず知らずのうちに脱水状態に陥り、これが頭痛や吐き気の原因となる。現地の水は絶対に飲んではいけない。
ザゴラに着いたのは午後一時過ぎだったろう。
暑い。本当に暑い。
なにしろここはサハラ砂漠の入口に当たるのだから。摂氏四十一度。吹いて来る風までが、焼けつくような熱気を帯びている。
ドライバーのムッシュー・アブドラがベルベル人の混血らしく、この町で顔がきく。一、二度迷ったが、町はずれの集落で魔術使の家を探りあてた。
「どんな魔術を使うのかな」
「絨毯《じゆうたん》が宙に浮いたりして」
魔術使は生粋《きつすい》のベルベル人だと教えられた。ベルベル人はもっとも古い時代からアフリカの地中海沿岸に住んでいた民族である。生活はけっして豊かとは言えない。薄暗い部屋に入ると、薬草の匂《にお》いが鼻を刺す。
魔術使はマラブと呼ぶらしい。残念ながら絨毯を飛ばしたり、ランプの精を出現させたりするわけではなく、祈祷師《きとうし》と医者とを兼ねたような存在だった。
「どこか体の悪いところありますか」
同行の女性リポーターが実験台に立つこととなった。
思案をめぐらしてから、
「子どものときから、私、喉《のど》が悪くて……風邪《かぜ》なんかをひくと、ひどく咳込《せきこ》むんです。ゴホン、ゴホン」
「ああ、わかります。治してあげましょう」
通訳はアラビア語からフランス語へ、フランス語から日本語へと二段階でおこなう。
魔術使はリポーターの肩にやさしく手をかけ、祈祷書のようなものを取って、頭の上に円を描く。そしてなにやらお祈りのような言葉を唱える。
まったくの話、このあたりで本物の医者を捜すのはむつかしい。たいていはマラブの世話になる。
──大丈夫なのかな──
病は気から、という部分もたしかにあるのだから、信じていれば治るのかもしれない。ひとくさりおまじないを唱えたあとで、
「お薬をあげましょう」
「はい」
秘伝の妙薬のようなものを想像したが、それではなく、黄ばんだ紙を一枚取り出して、それに壜《びん》の水で記号を書く。文字を記す。
壜の水は、あぶり出しの効果を持っているらしい。筆跡が乾いたところで、紙を火にかざすと、記号と文字とが黒く浮かんだ。このあたりが魔術なのかもしれない。
祈りながら紙を折り畳み、
「これをあげますから、持っていなさい」
「はい」
「咳がひどいときには、少しちぎって飲みなさい」
「この紙をですか?」
「そう、そう」
私はとりとめもなく水天宮のお守りを思い出した。
小学生の頃……。従姉《いとこ》の信子さんは女学校の理科の先生だった。結婚し、妊娠し、子どもがいよいよ生まれるときに、叔母《おば》が水天宮のお守りを取り出して、
「さ、これを飲みなさい」
お守り袋の中から小さな紙片をさし出した。
現場を見ていたわけではないけれど、信子さんは目を白黒させながら、けっして小さくはない紙片を飲み込んだとか。産室でうんうん苦しみながら……。
その様子がおかしかった、と、ずいぶんあとあとまで信子さんは親戚《しんせき》の者たちにからかわれていた。
あとで知ったことだが、水天宮は安産の守護神である。お守りの効能の中に、きっとそんな利用法が記されていたのだろう。
──それにしても理科の先生が──
と、私は釈然としない思いを抱かないでもなかった。
モロッコの魔術にも同じような利用法が伝わっているらしい。
「効くかな」
と尋ねると、
「なんだか効くみたい」
リポーター嬢は飲まないうちから胸を撫《な》でおろしている。
魔術使のパフォーマンスはこれで終った。
カメラマンがポラロイド・カメラを取り出して魔術使を写した。
印画紙の上に少しずつ魔術使の笑顔が浮かび、鮮明な映像となる。
「ほう」
と、魔術使が驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。少なくともあぶり出しよりは、こちらのほうが魔術的である。
「どうぞ」
「ありがとう、ありがとう」
頭を垂れて、うやうやしく受け取り、引出しの奥に収めた。
「まいったなあ」
私たちはザゴラの魔術使にそれほど多大な期待を抱いていたわけではなかったけれど、炎天下を三百キロ走って来たわりには、少々たわいない。
「まあ、いいんじゃない。絵にはなっていたから」
と、ディレクターが一同をなだめる。ドキュメンタリィの撮影ではディレクターの判断が優先する。彼が満足してくれれば、問題はない。私一人が、
「もう少しなにかがあるといいんだが」
と首を傾《かし》げていた。
魔術使はそれを見ていた。私の不満を見ぬいたのではあるまいか。
「じゃあ、出発しますか」
と車のほうへ向かった。
「あ、ちょっと待って」
私は、魔術使の家に帽子を忘れて来たのを思い出して道を引き返した。
魔術使は戸口のところに立っていたが、私の顔を見ると、愛想笑いを浮かべながら手ぶりでまるい輪を作った。
「帽子を忘れちゃって」
と、私はフランス語で呟《つぶや》いたが、それが通じたかどうか。
部屋のすみにあった帽子をとって、
「ありがとう」
と言えば、魔術使は笑顔のまま、手で作ったまるい輪を半分に切るような仕草を示す。
──わからない──
なにかを伝えようとしているらしい。もう一つ、べつな魔術をやってみせようと、そう告げているようにも見えたが、スタッフはみんなワゴン車に乗り込んでいる。どうせあぶり出し程度のものだろう。
「オー・ルヴォアール」
と私は声をかけた。
さようならの意味だが、原義は英語の「シー・ユー・アゲイン」同様、また会いましょうである。
──また会うこともあるまいな──
と思いながら、この言葉を告げたのだった。
「クチャクチャクチャ……」
それに対して魔術使の答えた言葉がなんであったか、私にはアラビア語がまるでわからない。思いのほか長い言葉だった。あい変らずまるい輪を半分に切る仕草を続けている。
私の帽子はまるい。
だが、それを半分に切るとどうなるのか。
考えてはみたが、やっぱりわからない。
「ありましたか、帽子?」
「うん。すみません」
ものめずらしそうに集まって来た子どもたちに手を振ってワゴン車は出発した。
帰り道でいくつかの風景を映した。ワルザザートを過ぎたところで右の後輪がパンクし、スペア・タイヤに替えてみたが、これも充分に空気が入っていない。この先しばらくは町らしい町はない。
ゆるゆると走ってワルザザートに戻り、故障をなおしているうちに太陽が西へ傾く。
「よし、もう少し時間を潰《つぶ》そう」
「どうして」
カメラマンが夕日を指さす。
往路でも見たように周囲は見渡す限り茶褐色の荒野である。そのむこうにゆっくりとアフリカの太陽が落ちていく。
車を止め、小半時ほど待った。
地平線には雲も靄《もや》もない。太陽は赤味を増し、大きさを増し、少しずつ地の果てに沈んでいく。
「いいねえ」
「久しぶりだなあ、こんな夕日」
「はじめてかもしれないわ」
神々の宿る風景ではあるまいか。
息を飲むほどに美しい夕暮れだった。
半円になった太陽を見て、私はふと魔術使の身ぶりを思い出した。
──このことかな──
魔術使は途中でまっ赤な太陽が半分になると、そのことを予言したのかもしれない。
しかし、夕日は半分のまま止まっているはずもない。半円はすぐに櫛形《くしがた》になり、細い筋となり、赤い光源となって消えた。
旅先では極力その土地の料理を口にするように心がけている。胃袋もまた民族の文化を知るための大切な触手である。
とはいえ、モロッコ料理を代表するメニュー、クスクスはどうも私の好みにあわない。味は、上にかけるシチュー次第だが、小麦粉を蒸した本体そのものが気に入らない。
スープのたぐいはすべて好物だから、タジンはよく口にあう。パンもわるくない。カバブは串《くし》焼き肉、ケフタはつくねと思えばよい。マトンに抵抗感のある人には、アラブの旅はつらいだろう。
メディナに近いレストランでビールと一緒にモロッコ料理を賞味し、ミント・ティで口の中に残った油っけを洗い流した。
「腹ごなしをしますか」
「いいね」
夜の町を散策した。
小一時間も歩いただろうか。ホテルは喧騒《けんそう》の町を離れて繁みの中に建っている。とりわけ裏手のほうは暗い林になっている。林の中に舗装《ほそう》の道が延びていた。
やがて月が昇った。
満月だった。
「すてき!」
「すごいね」
これもまた久しぶりに見る大自然の美観であった。漆黒《しつこく》の闇《やみ》を背景にして文字通り銀色に輝いている。光が銀色の糸となって降り落ちてくる。月の表に映る薄い影もよく見える。
──兎《うさぎ》じゃないな──
と思った。
むしろ踊っている女のように映った。
──千夜一夜物語≠フ中になかったかなあ──
これだけみごとな月が浮かぶものならば、秀逸な伝説の一つや二つ、きっと語られているだろう。
しかし、思い浮かぶものはなにもない。
「おやすみなさーい」
「明日は九時に出発です」
「わかった」
ホテルの部屋へ戻った。
正直なところ、モロッコのホテルは、どこもみな一カ所くらい、欠けるところがあった。内鍵《うちかぎ》がかからない、お湯が出ない、バスタブの栓がない、冷房がきかない、夜間の国際電話が通じない……。奇妙なことに欠点は一つだけである。だが、一つはきまってある。私は運がわるかったのかもしれない。
マラケシュではバスタブの栓がなかった。シャワーで汗を流し、持参のウイスキーをストレートであおった。
昨今は水割りばかり飲んでいる。よいウイスキーはストレートでたしなむものだろう。
本を読み始めたが、すぐに眠りが襲って来た。
二時間ほど眠ったろうか。
遠い物音を聞いて眼をさました。音の正体はわからない。
──モロッコにいるんだ──
ぼんやりとした意識の中でそう思った。
──星空を見よう──
モロッコへの旅を企てたときから心に抱いていた願いだった。カサブランカの夜空は東京とさして変りがなかった。
ズボンをはいた。満月のことは忘れていた。と言うより満月の夜には星も輝きを失うだろう、と、そんな簡単な判断が頭に浮かばなかった。
意識がはっきりとしない。
ウイスキーの酔いではない。かすかに薬草の匂いが忍び寄って来る。魔術使の家で嗅《か》いだ匂いだ。私はアフリカの夜の気配に酔っていたのかもしれない。
靴を履いて外に出た。
フロントにはだれもいない。ドアを押し開けた。
細い舗装の道がホテルの裏の林へと延びている。
薄闇の中を歩いた。
梢《こずえ》の上に見える空は暗い。ほとんど星も見えない。少し進むと、
──あれっ──
少し先に白い影が浮かぶ。
人が歩いている。
女のうしろ姿だとわかった。女は頭に水がめを載せている。
──ホテルで働く女性なのだろうか──
林のむこうに宿舎があったりして……。
すぐに追いついた。
「ボン・ソワール」
声をかけると、女はふり返り、
「ボン・ソワール、ムッシュー」
と、響きのよいフランス語で答えた。
私は「どこへ行くのか」と尋ねたが、女は首を振っている。私のフランス語が下手なのか、それとも女がフランス語を解さないのか……。
重ねて「なにをしているのか」と尋ねると女は林の奥を指さす。そして、ゆっくりと歩きだす。薬草の匂いが強くなった。女が香料をつけていたのかもしれない。
──やっぱり宿舎へ帰るところなのかな──
と思ったが、女の動作は一緒についてらっしゃい≠ニ、そう告げているようにも見える。
あとに続いた。空地になっている。
後者の考えがあたっていただろう。
道は右に折れ、その曲がり角のあたりが小広い空地を作っている。周囲には高い木もなく、ぽっかりと夜空が開けている。
そこに女と向かいあって立った。
女の顔を見た。
女は頭にターバンのようなものを巻き、その一端がほどけて顔を半分ほど隠している。だから片眼だけが光って見えた。
夜空を見あげたとき、私はわけのわからない違和感を覚えた。
また薬草の匂いを強く感じた。
つぎの一瞬、違和感が恐怖に変った。
──そんな馬鹿な──
と思った。
空には半分の月が懸かっていた。西瓜《すいか》の一切れのような櫛形の月が……。
それ自体はけっして不思議な風景ではないけれど、数時間前に私が見た月は、紛れもない満月だった。みごとな正円を描いて銀色に輝いていた。
それが……いま空にある月は、色こそ銀色だが、半分が切り落とされて失《う》せている。一夜のうちに月がこんなに欠けるはずがない。
──少なくとも日本ではそんなことはありえない──
でも、ここはアフリカ……。
──だからこんなこともあるのかな──
理科の知識を総動員してみたが、アフリカだってそんなことは起きないだろう。つぎに考えたのは、
──私は何日間も眠っていたのかな──
という現実離れをした想像だった。
ホテルのベッドに潜り込み、さながらリップ・バン・ウィンクルのように何日間か眠り続けていたのなら、月も形を変えるだろう。
──そんなことはありえない──
一人旅ではないのだから、仲間が異変に気づくだろう。ホテルのフロントだっていつまでも宿泊客を放っておくはずがない。こんなことを連想すること自体、頭が狂いかけている。
──ああ、そうか──
さっき見た満月がまちがいだったんだ。モスクの塔のてっぺんに輝く人工の光を、私は満月と見たのだろう。
だが、それもにわかには信じられない。
──あれはたしかに月だった──
そして、いま、天上に懸かっているのも、たしかな月である……。
女は一つだけの眼で笑っている。
私の戸惑《とまど》いを……戸惑いの理由をしっかりと見ぬいているらしい。
水がめを頭から降ろして傾けた。
水がこぼれ、足もとに水溜《みずたま》りを作った。
私の顔を見つめながら呟いたアラビア語は……多分アラビア語だと思うのだが、私にはわからない。
──ほら──
とばかりに水溜りを指さす。
首を伸ばして覗《のぞ》き込むと、水溜りの中に半分の月が映っていた。
そして、またアラビア語……。
今度はわかった。わかったと思った。
──半分は、ほら、ここに落ちているでしょ──
とでも言っているらしい。
薬草の匂いが、さらに濃密に二人を包んだ。
──これが魔術なのか──
と思った。
この直観はみごとに的中したようだ。
女が身をかがめ、水溜りの中に手をさし出す。なにげない動作だった。まるで落としたものを拾うように……。
スイと水中の半月を掬《すく》いあげ、水を切って天にさしのべる。櫛形の月が二つ、吸いつくようにくっついて一つの正円に変った。
私は茫然《ぼうぜん》として眺めていた。
女がもう一度水溜りを覗き込む。
水の中に、ターバンで半分だけを隠した顔がほほえんでいる。
ターバンをかきあげた。
半分だけの顔……。半分は欠けている……。
だが、女は水の中の顔を掬い取って自分の顔に当てた。その顔は……女ではない。
──ザゴラで会った魔術使──
と思う間もなく、うしろ姿になり、一、二歩進んで闇より暗い闇の中にフイと消えた。
あとはたださっきより一層輝きを増した月が銀の光をヒタヒタとこぼしていた。
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箱 の 中
「ご苦労さん」
元麻布の三叉路《さんさろ》でタクシーを降り、西本玄三は右手の高い窓を見あげた。
灯《あか》りがついている。カーテンの細いすきまを縫って一条の光が漏れている。
午前二時過ぎ。
──よし──
ひとつ頷《うなず》いて篁《たかむら》マンションの玄関を通り抜けた。守衛は巡回にでも行ったのだろうか、ロビイにはだれもいない。コートを脱ぎながら来客用のインタフォンを押した。
六〇八号室。
答がない。
──眠っているのかな──
しかし、文恵の生活習慣を考えれば、まだ起きているはず。入浴中かもしれない。いずれにせよ今夜は絶対に会わなければいけない。
もう一度、押した。
「はい、どなたかしら」
くぐもった声が答える。声の調子がおかしい。おびえているのだろうか。
「私だ。こんな時間に申し訳ないけど、急用があって」
と、ことさらに穏やかな声を作って告げた。
「ああ。あなたなの」
と、文恵はすぐにわかった。
会うのは久しぶりだが、時折、電話で話す。それに……十年近く一緒に暮らしていたのだから、わかって当然だろう。声というものは年を取っても思いのほか変らない。
「どうぞ。そこの格子戸を押して」
各部屋で〈鍵《かぎ》〉と記されたボタンを押すと、一階の格子戸の鍵が開く仕掛けになっている。西本は他の知人を訪ねてこのマンションに来たことがあるので、このシステムをよく知っていた。
「うん」
格子戸を開け、居住者用のスペースへ入ってエレベータを待った。
きれいな大理石の床。壁ぎわに両切りのタバコが二本落ちている。だれかが箱から落として、そのまま行ってしまったのだろう。多分、紺の箱に入ったピース。昔、西本はよく喫《す》っていたから見当がつく。
──こいつが一番うまいんだよな──
タバコが本当に好きな人が喫う銘柄。しかし、西本はご多分に漏れず健康のことを考えて今はマイルドセブンに替えている。
二本のタバコに触発され、西本は少時両切りピースの味を思い出していたが、エレベータに乗ってから、
──待てよ──
思いがけない思案が心に込みあげて来た。
──稔がこれを喫っていた──
稔は中学生の頃からタバコを喫い始め、いつか会ったときにはたしか両切りのピースをうまそうに喫っていた。
──もしかしたら──
と思う。
当然考えてよいことだったが、思案をめぐらすより先にエレベータのドアが開き、
「どうしたの? 久しぶりね」
と、六〇八号室のドアが細く開いて文恵が覗《のぞ》いている。
「今晩は。どうも」
西本は曖昧《あいまい》に呟《つぶや》いて、ドアをうしろ手で閉めた。
一瞬、血なまぐさい匂《にお》いを嗅《か》いだように思ったのは気のせいだったろうか。
「寝てたのかい」
「いいえ。まだ」
文恵の顔はひどくやつれて見えた。眼のふちに黒く隈《くま》が浮かんでいる。あきらかに年を取り、醜《みにく》くなった。
しかし、考えてみれば、もう十数年も会っていない。テレビで見ることがあっても、そのときはきれいに化粧をしている。素顔を見たのは、いつが最後だったろう。昔の美しさを期待しては酷だろう。
──理由はそれだけかな──
疑心が西本の胸をかすめる。
「ビール、飲みますか」
それに、なぜか文恵はおどおどしている。
「いや、おかまいなく。すぐに帰る」
「じゃあ、蜂蜜《はちみつ》のお湯。私も飲みますから」
「うん」
蜂蜜のお湯は文恵の好物だった。喉《のど》にもよいらしい。寝る前にそれを作って飲むのが、一緒に暮らしていた頃の文恵の習慣だった。
「ちょって待ってね」
キッチンへ入ってお湯を沸かす。
──どんな間取りなのだろうか──
3LDKくらい。西本は耳を澄ましたが、だれかほかの人がいる気配はない。ただ……かすかに水音が聞こえる。バスタブにお湯を入れているのかもしれない。
「風呂《ふろ》に入ろうとしてたのか」
と尋ねたが、声はキッチンに届かなかったらしく、西本はソファに背を預けてタバコを喫った。
壁に掛けられた絵に見覚えがある。ローランサンの版画。〈ブロンテ家の栄光〉というタイトルで、描かれているのはたしかエミリイ・ブロンテではなかったか。新婚の頃にも、この絵がリビングルームに飾ってあった。
──なぜ別れたのかな──
理由はもちろんわかっている。そのこと自体にはなんの後悔もない。ただ、稔のことを考えると、胸が痛む。両親の離婚が子どもの魂を蝕《むしば》んだことはまちがいあるまい。
今から二十八年前……。
劇団の美人女優と若い彫刻家の結婚だった。
文恵の父親は富山県出身の有力な実業家である。地元の信望も厚かった。一期だけ議員を務めたことがある。死後、故郷の村に銅像が建つような人物である。家族には恵まれず、最初の妻は早く他界し、二度目の妻が文恵を生んだ。一人娘である。父親はこの一人娘を溺愛《できあい》した。
文恵は故郷の村をよく知らない。東京の短大を卒業して劇団の女優となった。容姿は美しいが、演技のほうはもう一つ……これが正直な評価というものだろう。だが、うしろ盾がすごい。
「なによ、あの子」
白い眼で見られながらも、そこそこには名前の知られる女優にはなった。だが、間もなく劇団を離れ、擡頭《たいとう》いちじるしいテレビ界に移り……クイズ番組の解答者になったり、旅番組のリポーターになったり、さまざまなコンクールの審査員になったり、この転身はタレント生命を長らえるうえで大成功だったと言うべきだろう。
「ただすわらせておけば、上品で、いい感じだもんな」
という辛辣《しんらつ》な評判も、テレビ界では一つの長所となる。スポンサー筋には信望が厚いし、文恵自身、必死に働いて食べる立場ではない。いつまでもお嬢さんタレントの気分を残していて、さほど困る事情はなにもなかった。
西本との結婚は、劇団の女優からテレビ・タレントへと移る、その境目の頃だった。文恵の父は、もっとほかのタイプの男を……たとえば自分の後継者となってくれるような男を期待していたのかもしれないけれど、なによりも当の文恵に、
「あの人が好きなの」
と、訴えられ、強くは反対しなかったらしい。この人に対して西本は恩義こそあれ、なんの恨みもない。
豪華な結婚披露宴……。将来を嘱望《しよくぼう》された二人の若い芸術家というふれこみであったが、現実はそう甘くはない。文恵のほうはまだしもましだった。西本のほうが、ずっとむつかしい。もともと彫刻家などという職業は、よほど大家にでもならない限り、生業《なりわい》として成り立ちにくい。名刺の肩書を見て、
「ほおっ、りっぱなお仕事ですな」
と言ってくれる人はいても、心の中では、
──よい家のボンボンなんだろうな──
と考えている。
その通り、金持ちの息子でもなければ、なかなか続けられる仕事ではない。
西本自身は、それほど野心はなかった。高校の美術の先生でもやりながら、好きな彫刻を造っていれば、それでよいと考えていた。たまたま文恵と知りあい、最初は名のある人の娘とは知らずに恋仲となり、そうなってしまえば、若い恋愛はわきめもふらずに走りだす。文恵は美しかったし、本当に輝いていた。
「あなたが好き」
と言われれば、たいていの男は舞いあがってしまう。
──これはいいぞ──
実利も期待できる。
文恵の父親は有力なスポンサーになってくれるだろうし、文恵と一緒になれば少なくとも生活の苦労はずいぶん軽減されるだろう。楽しい夢ばかりを描いていたのは本当だった。
結婚して二年後に稔が生まれた。
夫婦のあいだに亀裂が目立ち始めたのは、あの頃からだったろう。不仲の原因ははっきりしている。
──俺《おれ》がわるいんだ──
西本はそう言い切ることに、なんのためらいもない。
まったくの話、文恵の父からの援助を当てにして収入のある仕事はなにもしなかった。いっぱしの芸術家を気取って、
──今に見ていろ──
気ままな制作に明け暮れていた。
卓越した才能でもあれば、そんな方法でも実を結ぶことができただろう。だが、悲しいかな西本にはそれがなかった。内外のコンクールに挑戦しても落選ばかりが続いた。焦りが生じ、性格まで卑屈になる。
文恵にしてみれば、
──今にりっぱな彫刻家になる──
と、自分でも信じ、まわりにもそういいふらしていただろう。
だが、いつまでたっても西本は|※[#「木+兌」]《うだつ》があがらない。ただの金食い虫にしかすぎない。
体《てい》のいいヒモのような生活である。
それに……すぐれた父親に育てられた娘というものは、いつも心に父親のイメージを持っている。身近な男を父親と比較する。
評価の物指はいろいろあろうけれど、娘の眼にはなにを取っても、父親のほうがすばらしい。山のように大きく、愛の深さも勝《まさ》っているだろう。西本は厭《いや》でも負け犬を意識しないわけにいかなかった。
「親父《おやじ》さんと俺とはちがう」
「そんなこと、わかってるわよ」
「どうわかってんだ?」
「パパは、あなたの年で、もう社長をやってたわ」
「それが、どうした。町の魚屋だって社長だぞ」
「へえー。芸術家は偉いのよね、一銭も稼がなくたって」
「そんなに親父さんが好きなら、パパと結婚すればよかったな」
「その通りよ。できれば、そうしたかったわ。あなたみたいな人より」
「本心で言うんだな」
「きまってるでしょ。本心よ」
こうなると、わがままに育った娘は我慢がきかない。体面を重んじて、しばらくは一緒に生活を続けていたが、実質的にはずいぶん早い時期から、二人は夫婦ではなかった。
そうこうするうちに西本は現在の妻である女性と知りあい、彫刻をやめ、やきものを始めた。もう文恵との生活にはなんの未練もなかった。
別れたときの、直接の原因は、今、思い出してみてもくだらない。大人気《おとなげ》がない。
富山県出身の彫刻家に、名士の彫像を好んで造る男がいて、西本も顔くらいは知っていた。もともと、
──厭な奴だな──
と、相手にもしなかったのだが、噂《うわさ》を聞いてますます憎くなった。名士の彫像なんか、金儲《かねもう》けの手段にきまっている。金儲けは金儲けで静かにやっていれば許してやるけれど、こともあろうに……多分、同県出身のよしみからなのだろうけれど、文恵の父の彫像を造って、
「古稀《こき》の記念にどうぞ」
と、送って寄こした。
父のところへ直接送ればよいものを、どういう了簡《りようけん》か文恵の住所へ送って寄こした。ただの住所ちがいだったらしいけれど、荷をあけてみれば、
「なんだ、この下手くそは?」
西本は唾《つば》を吐きたい気持ちだった。
その作品は等身大の大きさで、胸像にもなれば、足をつけて立像にもなる。そんなアイデアもこざかしい。だが、文恵のほうは、
「よく似てるわ。パパのよい表情、うまくとらえてるわよ。器用な人もいるのにねえ」
と、ことさら感心してみせる。
「こんなもの、職人の芸だよ」
「あなたにはできないわ」
「やらないだけだ」
「妬《や》いてるの」
「妬くわけないだろ」
怒りが胸に膨らみ、そのあと文恵が父親のもとに電話をかけ、
「とてもよい彫刻が届いたの」
と、うれしそうに……聞こえよがしに話しているのを聞いて、もう我慢ができない。
「なんだよ、今の電話は?」
「あら、どうしたの」
「わからんのか」
初めて文恵をなぐった。
離婚が成立した。文恵は思いきりがよい。どんなことでもいったん決断をしたらサラリとやってしまう。
八歳の息子は母の手もとに残すこととなった。その息子がかならずしもよく育っていないと知らされたのは、いつが初めてだったろう。西本は新しい生活に精いっぱいで、正直なところ、稔のことは忘れていた。思い出すことはあったが、なんの配慮もしなかった。それに、
「この先、父親みたいな顔はしないで!」
と、それが離婚のときの、文恵の条件でもあった。いくばくかの心残りはあったが、文恵の要求には忠実に応じたといってよいだろう。
離婚後二年たって文恵の父親が死んだ。西本は葬儀には参列しなかったが、墓参りには行った。いっときはお世話になった人である。
墓の前で合掌し、
──申し訳ありません。よそながら娘さんのことは見守ってまいります。私自身は陶芸のほうで、なんとか身すぎ世すぎはできるようになりました──
と報告した。
そのあと墓の管理をする茶屋へ戻ってみると、文恵が一人で来ていた。稔の素行を聞いたのは、あのときだったろう。
「反抗期じゃないのかな」
「ええ……」
「男の子はむつかしいから」
「きびしくは育てているんだけど」
「それがいい」
さほど深刻には考えなかった。ただ、
──文恵にはきびしく∴轤トられっこないな──
とは思った。
口先ではきびしく言っても、すぐに底が抜けてしまう。叱《しか》っておいて、あとで謝ったりする。金品を与えて機嫌をとる。そんな傾向は稔がまだ幼いときから顕著に見られた。男の子は母親の弱点を突くのがうまい。
「よい友だちがいるといいんだがな」
「家に連れて来るのと、本当につきあっているのと、ちがうみたい」
「困ったな」
墓地の入口まで一緒に歩き、
「あなたは元気そうだな。このあいだ、テレビで見たよ」
「私?」
「うん、きれいだった」
「馬鹿なこと、言わないで」
短い会話で別れたが、それからは一年に一度くらい文恵から電話がかかって来た。あとで思えば、相談したかったのだろう。相談されても、たいしたことはできなかっただろうけれど、もう少し親身になってやるべきだった。西本としては新しい妻への遠慮もあった。
稔のぐれようは、なまやさしいものではなかったらしい。中学はどうにか卒業したものの、高校は転校を繰り返し、あげくの果ては退学、悪い仲間とつきあい、西本が実情を知ったときには、いっぱしのワルになっていた。
十九歳のときにマリファナの所持で摘発され、このときは西本が八方手をつくして、なんとか起訴猶予ですませたが、それから三年後にコカインの売買で逮捕、有罪……。執行猶予がついたのが本人にとってよかったのかどうか。ただこのときは情報が外部に漏れず、文恵のスキャンダルとして世間に知れなかったのがさいわいだった。
この前後、西本も稔に会って話している。それまでにも、よそながら姿を見てはいたのだが、拘置所から出て来た直後の様子は中学生高校生の頃とまったくちがっていた。別人と言ってよいほどに……。いや、面《おも》ざしはたしかに当人なのだが、人相がまるでちがう。眼つきがわるい。うすら笑いがまともではない。卑屈で、ずる賢い。
──これは駄目だ──
そのくせ母親の前ではいい顔をする。その表情が、世をいかさまに渡る人たち特有のものだ。騙《だま》されている文恵が不憫《ふびん》だった。
──簡単には立ち直れないな──
わが子でありながら、もう手を伸ばすすべがない。しみじみそう思った。
「なつかしいでしょ」
文恵がキッチンから戻って花柄のカップを勧める。
どこにどんなこつがあるのか、文恵の作る蜂蜜のお湯は微妙においしい。
「うん、なつかしい」
西本はすなおに答えた。
かすかな感傷が胸をよぎる。このお湯をずっと飲み続けていたら……今夜のような事件は起きなかったのではあるまいか。
テーブルの上に睡眠薬の壜《びん》が置いてある。西本がそれに眼を止めているのを見て、
「あい変らず眠れないから」
と文恵が言う。
「うん?」
眠れない夜は、このお湯で睡眠薬を飲む、それも文恵の習慣だった。相当に強い薬である。
「タバコ、一本、ちょうだい」
「いいよ」
マイルドセブンとライターを滑らせる。文恵の手が小刻みに震えている。火がうまくつかない。
──文恵はタバコを喫わないはずだが──
急に喫う気になったのは、なぜだろう。
時計が三時を打った。
どこかこの家の様子がおかしい。第一、こんな夜遅い訪問だというのに、まったく突然の訪問だというのに、文恵はいっこうにその理由を尋ねようとしない。
「実は……」
西本が戸惑いながら切り出した。
「ええ?」
「稔君のことなんだが」
「はい」
文恵はゆっくりと頷《うなず》く。こんな時間に急用があるとすれば、その件以外に考えにくい。すでに文恵は予測していただろう。
「もとはと言えば私にも充分に責任のあることだ。すまないと思う。私たちが離婚なんかしなかったら、もう少しよい結果になっていたかもしれない。あなたを責めるわけじゃないよ。むしろ自戒として言ってるんだ」
ひとこと、ひとこと西本は言葉を選び、注意深く話した。
「わかりますわ」
「今までにもいろいろつらいことがあったと思う。しかし、稔君ももう二十六だ。りっぱな大人だろ。自分で責任を取らなければいけないし、あなたの手にはおえない」
「もう遠いところへ行ってしまって」
「えっ? どういう意味?」
「あの……ずっと寄りつかなくて」
「どこに住んでるの?」
「わかりません」
「最近、会ってないわけ?」
「ええ。会うときは、新しい仕事を始めるから、お金を貸してくれって」
「貸したんだね」
「仕方ないでしょ。泣きつくんですもの。私もその都度いろいろ注意をしたけど、守れたことはなかったわね。この前は、そこに土下座《どげざ》をして」
眼に見えるようだ。
「まあ、今までのことは、もういいさ。今夜、来たのは……」
「はい?」
「申し訳ない。ちょっと手洗いを貸してくれないかな」
西本は尿意《にようい》を催していた。大切な話に入る前に小用をすませておきたい。
──どう話したらよいか──
緊張感をほぐし、もう一度、思案を整えておきたかった。
「どうぞ。その奥よ」
文恵が頬笑《ほほえ》んだのは、西本のそんな癖をよく覚えていたからだろう。
「水音が聞こえるぞ。バスルーム?」
「ええ。タイルが汚れて。油で。お湯を流しているの」
「ふーん」
バスルームは洗面所の奥にあるらしい。西本はスリッパを履き替え、便器の前に立った。
──どう話したらよいか──
さっきから同じ問いかけが頭の中を駈《か》けめぐっている。
昨夜十一時前……つまり今から四時間ほど前のことだが、親しい新聞記者から西本の自宅に電話がかかって来た。この新聞記者は警察関係の担当が長い。稔が前の事件を起こしたときにも世話になった人で、西本とは高校時代のテニス仲間である。
「松井稔君に逮捕状が出る。容疑はコカインの売買だ。くわしいことはわからないが、罪状は相当ひどいようだ。海外逃亡のおそれもある。どの道つかまるだろうけれどな。今度は実刑をまぬかれない。なによりもお母様がお気の毒だ。あらかじめ伝えて少しでもショックを小さくしてあげてほしい。万一、彼がお母様のところへ立ち寄ったら、絶対に自首を勧めてほしい。スキャンダルにはなるだろうけど、もう私の手ではどうにもならない。こうしてお知らせするのが、せめてもの友情だと理解してほしい」
おおむねそんな内容の電話だった。
西本はすぐにタクシーを呼び、小田原から元麻布まで走らせた。車の中で対策を考えた。よい思案のあろうはずもない。日本の警察は優秀だから、きっと稔をつかまえるだろう。逮捕、スキャンダル、裁判、実刑……。文恵の悲しみがわがことのように感じられてならない。西本自身だって無関係ではいられないだろう。十数年前に別れたとはいえ父は父なのだから……。
万に一つ、海外へ逃亡できたとしても、その生活はさらに悲惨なものとなる。当座はともかく、よい結果になろうはずがない。それも眼に見えている。
──どの道よいことはない──
たしかに記者が言っていたように、あらかじめ事情を文恵に伝え、いくらかでもショックをやわらげてやること、そして、もう一つ、稔が母の家に顔を出すようなことがあったら、どのような手段を使ってでも自首をさせること。それが大切だ。それを説得するために、西本はこのマンションに駈けつけたと言ってよいだろう。
──でも、変だな──
小用を終えて廊下に出ると……手を拭《ぬぐ》いながら、なにげなく視線を廊下の奥に移すと、奇妙なものが壁に立てかけてある。形から察して電動の鋸《のこぎり》らしいとわかった。この家にふさわしい品ではない。文恵が使う道具ではない。
「どうなさったの?」
文恵がリビングルームから心配そうに覗く。
「あれ、なーに」
と西本は尋ねた。
「ああ、あれ。ベランダに欅《けやき》の枝が伸びて来て困るのよ。いつも冬になって葉が落ちると、切るの」
「あなたが?」
「そうよ。なんでも自分でしなくちゃ」
バスルームの水音はまだ続いている。
──嘘《うそ》をつくのがうまい女じゃない──
余人はいざ知らず、西本はそのことをよく知っている。一緒に暮らしていた頃……たいていは見ぬけた。見ぬいても知らんぷりをしていると、すぐに襤褸《ぼろ》が出て嘘がばれてしまう。
西本はソファに腰をおろし、あらためて本題に入った。
「実は東都新聞の記者から電話があって、稔君に逮捕状が出たらしい。コカインの売買。罪状は相当に重い」
一気に告げた。
「そうですか」
思いのほか文恵は冷静に受け止めた。
「実刑はまぬかれない。海外へ逃亡するおそれもある。あなたにもよいことはない」
「もう何度も泣かされ、覚悟はできてますわ」
「それはそうだろうけど……」
「正直なところ、あの子のことはあきらめているの。何度注意をしても性懲《しようこ》りもなく同じことを繰り返して……死ななきゃ直らないわ、つらいけど」
「わかるよ」
「麻薬なんて、自分も馬鹿だけど、それ以上に大勢の人を苦しめるものなんでしょ。売ったり勧めたりして、どのくらい人を不幸にしたかわからないわ。人殺しよりわるいくらい。人殺しなら、犯人のほうにもなにか理由があるはずでしょ。許せる部分もあると思うの。でも、麻薬の取引きなんて、お金儲けのために人を不幸に突き落とすわけでしょ。許せない。ちがうかしら」
涙が光っている。
「その通りだよ」
「失礼」
文恵は立ちあがり、奥の部屋へ続くドアを開けた。ハンカチを取りに行ったらしい。
だが、そのドアのむこうに、大きなダンボールの箱が二つ、ひどく場ちがいな様子で置いてある。
「えっ!」
西本は声を飲んだ。
場ちがいと思ったのは……そこがリビングルームから奥の部屋への通り路だから……。たまたま大きな物を箱に納め、一時的にそこへ置いたように見えたから……。
西本は自分の顔が青ざめていくのがわかった。
「あれ、なに?」
尋ねられて、ハンカチを当てた文恵の胸が、ドキン、本当に弾《はず》んだのではあるまいか。西本は鼓動が聞こえたようにさえ感じた。まさか鼓動までは聞こえなかったろうが、文恵の一瞬のうろたえぶりはそう感じさせるほど激しかった。
ドアを閉じ、
「言えないわ」
と、奇妙な表情で笑う。
「来たんだね」
西本は静かに尋ねた。
「だれが?」
「稔君が」
「どうして?」
西本はまた新しい言葉を捜さなければいけなかった。
「両切りのピースが落ちていた」
と、西本はあまり理由にもならない理由を告げた。文恵にはわかりにくかったろう。
西本は思う。数時間前……多分、きのうの夕刻あたり、
──稔がこの部屋へ来た──
と。稔は周辺に伸びて来る官憲の手を察知して海外への逃亡を企てる。このマンションへ来たのは逃走資金をくすねるためだったろう。そして、ほんの少し、母親への挨拶《あいさつ》……。しばらく会えないことは確実なのだから。
文恵がどう応対したかはわからない。自首を勧めただろう。だが、稔は取りあわない。そして最後に母は息子に告げた。
「蜂蜜のお湯、飲んでお行きなさいな。おいしいわよ」
稔がそれを飲む。激しい睡魔が彼を眠らせる。文恵はその寝顔を見つめ、細い紐《ひも》を握る。
──ちがうかな──
当たらずとも遠からず。この家の気配はすべて符合している。
考えてみれば、それが一番よい方法なのかもしれない。不肖《ふしよう》の息子を母が殺すのだ。死体が見つからなければ、海外逃亡が成功したと見なされるだろう。
「入っているんだね、バラバラにして」
と、西本はダンボール箱の見えなくなったドアを指さして尋ねた。
「ええ。やっぱりわかった?」
文恵は無邪気なほどすなおに頷く。
もう自首を勧めるどころではない。むしろ、今は、文恵の心を苛《さいな》むにちがいない恐怖と後悔を少しでも軽減してやることのほうが大切だろう。
「あなた、見たくないでしょ?」
だれだって見たくはない。
「どうするつもりなんだ」
「富山へ送るわ。昔の家のあとが記念公園になるの。造成が始まっているわ」
その公園の土の底にでも箱を埋めるつもりらしい。しかし……だれが運ぶんだ、だれが埋めるんだ。うまくいくはずがない。
「それはまずいよ」
今となっては死体が見つからないこと。それが一番必要な条件だ。それならば、文恵は救われる。どれほどの後悔があっても慰めようがある。
「そうかしら」
「私にまかせなさい。あなたのしたことは、けっしてまちがっていない。やむをえないことだった。母の責務かもしれない。いいね、稔君は海外へ逃げたんだ。もうけっして帰って来ないけれど、遠い国で今度はだれに追われることもなく、人を苦しめることもなく、安らかになれる。祈ってあげよう。さ、あなたは、もういい。みんな忘れて。これから先のことは私が引き受ける。富山になんか送っちゃいけないよ。間にあってよかった。私がやきものをやっているのは知ってるね」
「ええ……?」
「七、八メートルもある登り窯《がま》だ。心配ないよ。あとかたもなく焼けてしまう。車を用意して取りに来るから。いいね。急いだほうがいい。すぐに戻って来る」
西本は立ちあがった。
一刻も遅れてはなるまい。警察の捜査がここに及ぼうものなら、なにもかもおしまいだ。それより先に手を打たなければなるまい。
「私、大丈夫よ。来てくれてありがとう」
文恵は戸惑うように呟く。
「四、五時間、待って。ね、なにも考えずに」
「ええ……」
西本はコートを羽織り、急いで部屋を出た。エレベータでくだり、表通りへ走った。
文恵は一人部屋に残り、ポカンとした様子で首を傾《かし》げた。
──稔が追われている──
それはよくわかった。
──海外逃亡のおそれがある──
それもよくわかった。
「でも」
と呟いて、リビングルームから奥の部屋へ通ずるドアを開いた。二つの大きなダンボール箱が置いてある。
中には……離婚の原因となった父の彫像が入っている。バラバラになって……。故郷の記念公園に贈るつもりだった。
突然、電話のベルが鳴る。
ピクン、文恵は体を震わせて受話器を取った。
「ママ? 俺だよ」
と、稔の声が聞こえる。
「もしもし、どこにいるの?」
「今、行くよ。ちょっとやばいことがあって銭がいるんだ。できるだけたくさん。ね、これが最後だから……。大丈夫だってば。とにかく、今、行くから」
「待ってるわ。だれにも見つからないように来てね」
「わかってるってば。ママ、愛してるよ」
と含み笑いと一緒に電話が切れた。
文恵はソファに戻り西本が忘れていったタバコを一本抜いてゆっくりと喫った。
恐ろしい思案が浮かんだ。
もうこれ以上、稔にわるいことをさせたくはない。遠い国へ旅立ってくれれば、だれにも迷惑をかけないだろう。
──西本は登り窯で焼いてくれるって言ってたけれど──
あとかたもなく消えてしまうだろう。
だから……蜂蜜のお湯に睡眠薬をたっぷりと溶かして稔に飲ませれば、それでよい。
──私にできるかしら──
とてもできそうもない。おぞましいイメージが次々に脳裡に映る。いたいけな少年であった頃の思い出があとを追う。逡巡の時間が流れる中で玄関のブザーが鳴った。
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暗 い 頭
「なにが怖いって、やっぱり人間でしょう。それも少し頭の暗い奴《やつ》、これが一番怖い。ね、そうでしょ、砂田先生」
突然、隣の席の男に声をかけられた。
新宿の花園神社に近い路地裏のバー。黒い内装、黒いカウンター。スポット・ライトのような照明が細長い店のあちこちに光の濃淡を作っている。明るい光に曝《さら》して見せるような店ではない。
客は五人。一人はカウンターにうつぶして眠っている。十二時に近かった。
声と同時に、一番奥の席にすわっている男が顔をあげ、鈍い視線でこっちを見た。あまり感じのよい人相ではない。さっきからチラリ、チラリと視線を投げていた。
──知った人だろうか──
照明が暗いので、よくわからない。じっと見つめるのも気が引けるし……。
「ねぇ、そうでしょ、砂田先生」
もう一度、隣の男が私の顔をのぞき込む。
「まあ……」
と、私は曖昧《あいまい》に答えた。
「駄目よ、弓さん。こちらさんは一人で静かに飲みたいんだから」
と、ママが隣の男をたしなめる。
「うん」
「もうたっぷり飲んだでしょ。帰りなさいな」
「うん」
神妙な様子で頷《うなず》いている。それほどしつこい酔っぱらいではないらしい。私としてはむしろ奥の席のほうが気がかりだ。視線がねばっこくからみつく。
私の仕事はイラストレーター。だが、テレビのクイズ番組などにも時折出演しているから、顔を知っている人も多いだろう。
今日の夕刻、新宿のデパートで油絵三人展が終った。私の本職はイラストレーターだが、油絵も描く。事業部の人の話では大成功だったらしい。新聞にも小さな批評が出た。私の作品だけが取りあげられていた。油絵で評価を受けるのはうれしい。色彩感覚と抒情《じよじよう》性がほめてあった。
関係者と一緒に夕食をとり、そのあと、
「お車、どうしましょう」
と尋ねられたが、
「いいです。ちょっと散歩をしますから」
と断った。
心が高ぶっている。わけもなく新宿の裏通りを歩いてみたかった。
二十年ほど前……つまり、まだ駈《か》けだしだった頃、この付近に住んでいた。イラストレーターを目ざして必死に勉強し習作に励んでいた。西日の射す狭いアパート、丼飯《どんぶりめし》とコロッケ、銭湯、安酒……貧しい生活を続けながら夢だけを脹《ふく》らませていた。あの頃がひどくなつかしい。
──一種のナルシシズムかな──
成功を勝ち得た今、ふっと昔なじんだ街《まち》を訪ねてみたくなったのだろう。
十年以上もこの界隈《かいわい》に足を踏み入れていない。だから街の様子は相当に変っている。知らない道まである。新しいビルが目立つ。
──どこもかしこも汚かったからな──
どの路地にも似たような匂《にお》いが漂っていた。その匂いも薄れ、ところどころひどく小ざっぱりした様子に変っている。
見知った酒場を見つけて中へ入ったが、ママが代っている。店の構造には見覚えがある。カウンターの汚れぐあいにも、
──こんな感じだったな──
記憶がないでもない。
「いらっしゃいませ」
知らないママが一人に、知らないチーフが一人。こういう店では、ふりの客はめずらしいのだろう。
「前に来たことがあるもんだから」
と、説明した。
「あら、ホント」
ママもチーフも私の顔を知らないようだ。そのほうがいい。あまり雰囲気のよい店ではないけれど、昔はいつもこんなところで飲んでいた。今夜はわざわざ、それを確かめに来たのだった。
「水割りを」
「はい」
静かにグラスを傾けていると、いきなり隣から、
「ねぇ、砂田先生」
と、名前を呼ばれたわけである。
あとで思い返してみると、その少し前まで隣の客はママを相手に、UFOがどうの、幽霊がどうの、夏の夜のせいなのだろうか、あやしい話に興じていた。私が耳を傾けるのを待っていたのかもしれない。
いっこうに聞いてくれないので、
「怖いのは、やっぱり人間でしょう」
と、まことしやかな文句を呟《つぶや》いたのだろう。
だが、ママがいち早く私の気分を察してくれた。この配慮はありがたい。
「弓さん、ね、もうこれで最後よ。おうちに帰りなさいな」
ママは薄い水割りを作り、もう飲まさない≠ニばかりにボトルをうしろに隠す。
「うん」
「終電でしょ」
「母ちゃんとこへ帰るか」
グラスの水割りをグイと喉《のど》に流し込み、フラフラと揺れながらドアを押した。
「気をつけてね」
男の姿が消えるのを待って、
「すみません」
と、笑う。若くはないが笑顔がかわいらしい。
「いや。水割り、もう一ぱい」
「はい」
「ママも、どう」
「はい、ありがとう」
だがすぐにドアの外がにぎやかになり、三人連れが肩からなだれ込んで来る。
「あらっ」
とママは店内を見まわし、
「すみません。席、つめてくださいな」
私が頼んだ水割りを奥のカウンターへトンと置く。鈍い眼《まな》ざしの男の隣だった。
──弱ったな。出ようか──
と思うより先に、鈍い眼ざしが、
「どうぞ」
と、膝《ひざ》をそろえる。
「どうも」
とりあえずその席に腰をおろした。
「いらっしゃいませ。どうしたの、その黒い顔?」
ママは新しい客の接待に余念がない。
「グアムで焼いてきたんだ」
「豪勢ねえ」
「社員旅行だよ」
私はママと客とのやりとりに眼を向けていたが、耳もとで、
「砂田先生、お久しぶりです」
鈍い眼ざしの男がくぐもった声で話しかける。はすかいに見える表情が含み笑っている。独り笑いのような、自嘲《じちよう》のような……。
「失礼。ちょっと思い出せなくて」
と、仕方なしに答えた。
毎日いろいろな人に会っている。たくさんの名刺をいただく。ファンもいる。いちいち覚えてはいられない。
「清水です」
そう言われても、私にはなにも思い出せなかった。年齢は三十四、五歳だろうか。
男の服装は、黒いシャツに灰色のジャケット。特に異様ではないけれど、醸し出す雰囲気は、どことなくまともな生活者のようではない。なにかしらダーティな部分で生きている人の匂いがする。
「どちらの……?」
「ふふふ。前に先生のお宅にうかがったことがありますよ」
「ほう?」
「大塚の……あれは仕事場ですか。倉庫みたいな。今はちがうんでしょ」
「ああ、そうですか」
十四、五年前、私は大塚に住んでいた。新婚間もない頃だった。新聞社が主催するコンクールで最優秀賞に選ばれ、イラストレーターとして一躍脚光を浴び始めた頃だった。大塚駅に近いマンションを住居とし、そこから自転車で五分ほどのところにアトリエを借りていた。たしかに倉庫のような部屋だった。訪ねて来る人は今ほど多くはなかったけれど……。かなり昔のことである。清水という名にはまったくなんの覚えもない。
「すみません。思い出せなくて」
「でしょうね」
男はタバコをつまんで口にくわえる。左の手の甲に刃物でえぐったような醜《みにく》い疵痕《きずあと》が残っていた。
──やっぱりまともな人じゃない──
そう思ったのは、疵痕のせいばかりではない。普通の社会人ならば、もっと明快な態度をとるだろう。清水などという姓は世間にいくらでもいる。肩書もなにも言わずに「清水です」と名のるのは配慮を欠いている。押しつけがましい。
──知らんのですか──
と、不遜《ふそん》な気配が感じられてならない。それもこの男の身についたやり方なのかもしれない。
「先生になぐられましてね」
男は唇をゆがめながらさらに解《げ》せないことを呟いた。
私はめったに暴力をふるわない。よほどのことがなければ、人をなぐったりしない。なぐられるのも厭《いや》だが、なぐるのも同じように嫌いだ。ここ十数年を考えてみても、人をなぐったことなどあっただろうか。
そう、息子をなぐった……。一度だけ。
古い友人をなぐった……。酒を飲んで喧嘩《けんか》をして。相手がなぐったから。しかし、すぐに仲なおりをした。
──あとほかにあっただろうか──
心当たりがない。人ちがいではあるまいか。
「私がなぐったんですか」
男は私の戸惑《とまど》いをなめるように眺めてから、
「ほら、先生の絵を盗作して」
と言った。
「ああ」
それならわかる。すっかり忘れていた出来事を私は思い出した。
「あのときの……青年ですか」
「その節はどうも」
と、首を垂れる。
──こんな顔の男だったろうか──
面《おも》ざしは思い出せないが、出来事そのものの記憶は充分にたどることができた。
だれにとっても新婚時代はすばらしいものだろうけれど、私の場合はとりわけ輝いていた。キラキラと眩《まぶ》しいほどに……。
美しい新妻。一緒に暮らしてみると、心根のやさしさがよくわかった。最高の伴侶《はんりよ》。最高の生活。足に錘《おもり》でもつけておかないと、舞いあがってしまいそうな毎日だった。私生活が満たされているばかりか、私はあの前後、商業デザイン協会が主催するコンクールで入選したのを皮切りにつぎからつぎへと賞を受け、一歩一歩第一線のイラストレーターとしての地歩を固めていた。新聞社のコンクールは婚約の当日だった。アメリカの広告代理店から注文を受けたのも、あの頃だったろう。
順風|満帆《まんぱん》。前途は無限に広がっていた。
「すごいのね」
妻の喜びがまた私の喜びを倍加する。
住まいは2LDK。これは結婚前に借金をしてようよう購入したものだから、アトリエを兼ねるほどの広さはない。西巣鴨の庚申塚《こうしんづか》の近くにほどよい建物を見つけて借りることにした。倉庫のような建物だったが、十坪近い広さがあって、改装すると、よいアトリエになった。
「行ってらっしゃい」
朝食はコーヒーにトースト。新妻が作る野菜サラダ、キャベツいため、コーン・オムレツはどれもみんなおいしい。それを食べ終えると自転車を漕《こ》いでアトリエへ向かう。
「行って来るよ」
玄関口でキスなんかをして……。外国の映画みたいだった。
たしか……ひどくむし暑い、夏の午後だったろう。
アトリエの電話のベルが鳴った。
「はい」
不機嫌な声で答えた。
──どうせ仕事の催促だな──
私としては普通の声で答えているつもりなのだが、みんなが「愛想わるいぞ」と言うところをみると、きっと不機嫌に響くのだろう。
「もしもし」
妻の声だ。
「なんだい?」
アトリエに妻から電話がかかってくるのはめずらしい。朝夕顔をあわせているのだから、よほどの急用でもなければ、わざわざ電話で話すことはない。
「お客さんがそっちへ行くわよ」
「だれ?」
「知らない人」
「編集者かな」
「そうじゃないみたい。どうしてもあなたに会って、おわびをしたいことがあるんですって……。あんまり熱心に言うものだから」
「若い人?」
「ええ。二十歳くらいかしら。いけなかった?」
「いや、かまわん。ちょうど仕事が一段落したところだから」
「ちょっとへんな人よ」
「うん?」
「気をつけたほうがいいみたい。逃げ道、用意しておいたほうがいいんじゃない」
声が笑っている。本気で心配しているわけではあるまい。
「わかった」
私も笑いながら答えた。
アトリエには出入口が三カ所もある。逃げ道にはこと欠かない。とはいえ私も本気で心配をしたわけではなかった。
──なにをわびるつもりかなあ──
思い当たることはなにもない。多分ファンの一人ではあるまいか。若い人たちのあいだではイラストレーターは人気の職業である。ファンもたくさんいる。私としては世間に名を知られるようになって間もない頃だったから、私に関心のある人に会ってみるのも、
──おもしろいかもしれない──
そんな好奇心を抱いたのも本当だった。
電話を切ってから三十分あまり待った。もう来ないのかと思った。
──それならそれでいい──
次の仕事の段取りにでもかかろうかと思ったときにブザーが鳴った。
「はい」
ドアを細めに開けた。
中肉中背。ひどく緊張しているような印象だった。
──少し暗いタイプかな──
顔をまっ赤にして汗を流しているのは、道に迷ってあちこち捜したせいだろう。
にこりともせずに首だけを垂れた。お辞儀のつもりなのだろう。
「アトリエのほうへ行けって言われたもんですから」
と、ぶっきらぼうに呟く。
「ああ、そう。今、電話があったよ。どうぞ」
「失礼します」
田舎《いなか》の人らしい。悪気はないのだろうが、人づきあいの作法に通じていない。ひどく丁寧なところと、ぞんざいなところがまだらを作っている。
玄関のすぐ近くにソファが置いてある。テーブルを挟んで私の席がある。私は冷蔵庫を開け、カン入りのジュースを取り出し、グラスと一緒に男の前に置いた。
「暑かったでしょう」
「はあ。いただきます」
男はジュースを一気に飲み干した。
「もっといる?」
「いいです」
ソファに浅く腰をおろしてアトリエの奥をうかがっている。
「十五分でいいですね」
時間を制限したほうが無難だろう。
「はあ?」
言葉の意味がよく飲み込めないらしい。
「次の仕事があるもんだから」
と、私は時計を見た。
「あ、はい。清水と言います」
男は名を名乗った。最初からちぐはぐな感じだった。
「砂田です」
笑いながら私も名を告げた。そして両掌《りようて》で片膝を抱えながら相手が話しだすのを待った。
男は一つ深呼吸をしてから、
「あのう、私、先生に謝らなければいけないことがあって……」
深々とお辞儀をする。そのあまりの丁寧さに、私はなにか私の見えないところで、
──よほどひどいこと、やられたんじゃあるまいか──
と、そんな不安を覚えたほどであった。
「なんでしょう」
表情を引き締めた。
「私、長野の商業高校を出て、それから東京に来て、練馬で食品関係の会社に勤めています」
「はい」
「高校二年のときに年賀状のコンクールがあって、私、先生の絵をそっくり真似して出しました」
「なるほど」
「一等になって賞品をもらい、校友会雑誌の表紙にもなったんだけど、そのあと、あれは盗作だって、わかってしまいました」
「どんな絵ですか」
「葉書の上のほうに賀正≠チて赤い字が書いてあって下のほうが四角い絵になってるやつ……。青っぽい版画で、木と雪と灯籠《とうろう》が白く抜いてあって、灯籠の中に黄色い灯がともってて……」
それだけ言われれば見当がつく。
「ああ、月刊デザインに発表したやつね」
「はあ。古本屋で見つけて、とってもいいと思ったから、つい魔がさしてしまって……。そっくり同じのを作って、出したんです」
「そう」
あまりほめられたことではないけれど、中学生や高校生なら、ついうっかりをやりかねない。いや、むしろいろんなところでおこなわれていることだろう。早い話、正月が近づく頃の雑誌の誌面に専門家の年賀状をサンプルとして掲げること自体が、
──どうぞ真似をしてください──
という示唆《しさ》ではあるまいか。
気に入ったデザインを真似して私的に配っているぶんには、トラブルも起こるまいけれど、コンクールに応募したとなると、これはルール違反だろう。
「入賞したわけね」
「はあ。最優秀賞でした」
どれほどの規模のコンクールだったのか。話の様子では、せいぜい学内の生徒を対象としたもののようにも感じられた。
「そのとき、すぐに言えばよかったんだがねえ、こういうことは」
「そうなんです。校長室に呼ばれて、いきなりほめられちゃって……。それで引っ込みがつかなくて」
事情はおおむね察しがつく。美術かなにかの宿題で年賀状のデザイン作製が課せられたのだろう。提出期限が迫り、苦しまぎれに、
──これでいいや──
軽い気持ちでそっくりのコピイを作ってしまったのだろう。
ところが、それが最優秀作に選ばれてしまった。校長がこのコンクールに関心を持っていて、
「これ、いいじゃないか。だれが描いたの? ほう、二年の清水君か。ちょっと呼んでくれ。センスがあるよ、なかなか」
校長みずからがほめることになってしまった。校長室にはきっと、担任の教師や美術の教師もいただろう。こういう情況では、
「あれはちがうんです」
と告白するのに勇気がいる。狼狽《ろうばい》しながらも成行きにまかせてしまう。
むしろ私としては、
──美術の先生が気づかないものかなあ──
と、そちらのほうを疑わないでもなかった。
「君はもともと絵がうまいほうなの?」
「いえ、普通です」
かりにも原画はプロの手によるものである。わるいできではなかった。普段、普通程度の絵を描いている学生があれだけのデザインを描けるものかどうか、さらに言えば、年賀状のデザインなんて、どれほど物真似が多いものか、大人である教師が少し想像力を働かせてみれば、見抜けないことではなかったろう。そんな気がしてならない。運のわるいことに、みんな善意の教育者ばかりだったらしい。
「困ったでしょうな」
そのうえ、それが校友会雑誌の表紙を飾ったとなると……。
「はあ。盗作だ、盗作だって言われて、みんなの前で謝らされて……外にも出られんし、親にも叱《しか》られるし」
首を垂れたままボソボソと呟く。表情の暗さは、もともとの性格なのだろうか。それともこの事件と関係があるのだろうか。
「さんざんな目にあったわけだ」
「はあ。すみませんでした」
「充分に罰は受けたわけだ」
「自分でわるいことしたんだから仕方ないけど……このあいだ電車の吊《つ》り広告で先生の名前を見ました」
「展覧会の広告かな」
「それを見てたら、そう言えばまだ先生には謝ってなかったと気がついたんです」
「私に?」
「盗んだのは先生の作品だから。学校では謝ったけど、先生にはまだ謝っていません」
男の訪問の目的がようやくわかりかけた。私はまた笑ったかもしれない。
「もうあなたは罰は受けたわけだから」
「盗作されても平気ですか」
顔をあげて、きっと睨《にら》む。心の不確かさを感じさせる鈍い眼ざしだった。
「いや、そうでもないけど」
私はあわててうち消した。
「もちろん自分の作品を盗作されて平気なわけがないよ。ただあなたの場合は、それでお金儲《かねもう》けをしたわけじゃない。学校のコンクールに出して、学校の雑誌の表紙になった。いいことじゃないけど、もうすんだことだし、今さら目くじらを立てるほどのことでもないでしょう。こうやって訪ねて来てくれただけで充分です」
「そうすか。私みたいな小物に盗まれても、先生は平気だってことですか」
からみつくようなもの言いである。一途《いちず》で生真面目《きまじめ》なだけの青年ではないのかもしれない。
「小物ってわけじゃないけど、もういいでしょう」
「おとしまえをつけさせてください」
うわめ遣いでチラリと私の表情をうかがう。
──まるでチンピラだな──
もしかしたら本当にチンピラそのものなのかもしれない。そんな気配も感じられる。学校に行きにくくなり、中退して東京に出て来た……。そんな生活はけっして楽ではあるまいし、誘惑はたくさんある。仕事をあちこち変え、わるい仲間に誘われる。
「私にどうしろって言うの?」
「なぐってください」
「どうして?」
「盗作をしたんだから」
「いきなりなぐってくれって言われてもなあ」
私は笑って、その場の雰囲気をやわらげた。
しかし、相手は固い表情ですわっている。
「私なんかをなぐったら、手が汚れるんですか」
卑屈になることには慣れているらしい。
「そうじゃないけど」
「じゃあ、なぐってください」
暑い日射しの中を、ただなぐられることだけを考えて、この男は私の家を捜し、アトリエまで訪ねて来たのだろうか。
「困ったね」
「レベルのちがう者なんか、なぐれんのですか」
あまり愉快ではない。こんな謝りかたがあるものだろうか。
「なぐればいいの?」
「はい」
「それでおしまい?」
「はい」
「本当だね。もう約束の時間も過ぎたし……じゃあ」
男は私より先に立って、気をつけの姿勢をとった。
「いいね」
「はい」
軽くなぐったのでは、相手は満足しないだろう。
パシン。
私は平手で男の頬《ほお》を打った。
「もっと強く。もう一つ」
パシン。私は言われるままになぐった。
「お邪魔しました」
男はもう一度お辞儀をして、ドアへ向かった。
「もう気にしないことだね」
私はうしろ姿に声をかけたが、聞こえたかどうか……。
それだけの出来事だった。
「頭の中が少し暗いんじゃないの?」
私はその日の出来事を妻に話した。
「まあ、そうかもしれん」
「いるのよ、結構世間にはたくさん。見ただけじゃ、わからないでしょ、すぐには。普通の顔して歩いてるけど、少し頭がおかしいの。怖いわね。なにをやりだすかわからないから」
「チンピラみたいな感じもしたな。眼つきだとか、話しかたとか」
「平気かしら、なぐったりして。あとで脅されたりしない?」
「大丈夫だろ」
自分の犯したあやまちにあれほど固執するのは普通ではない。生真面目なのかもしれないが、この真面目さはちょっとあやうい。バランスを欠いている。あんなにつきつめて生きていては、この世の中は生きにくい。人づきあいもむつかしいのではなかろうか。
──どんな生活をしているのかな──
私としては、男の背後にあまりまともとは言えない生活を想像したが、どの道、深くかかわることではない。すぐに忘れた。
そして、もう一度この出来事を思い出したのは、つい一年ほど前のこと。月刊誌にエッセイの執筆を頼まれ、
──なにを書こうかな──
ふとアトリエを訪ねて来た青年を思い出した。
──たしかに世間には頭の少し暗い人間がいる──
外見は普通の人と変らないが、どこかが少しおかしい。なにかの拍子にそのおかしさが外に現われる。軽い狂気……。時折そんな事件が新聞の社会面に載っている。
──多分、あの男もそうだったろう──
眼つきも、ものの言いかたも少しへんてこだった。人を訪ねて来て、いきなり「なぐってくれ」だなんて……それだけでもまともではない。エッセイはそんな視点で、遠い日の出来事を忠実にたどって書いた。
それもすぐに忘れた。
そして新宿の裏通りの酒場で思いもかけずその清水という男に、
「お久しぶりです」
と、声をかけられたというわけだ。
──こんな顔だったかなあ──
ほとんどなんの記憶も残っていない。
ただ……どう説明したらよいのだろうか、以前は暗く、卑屈な印象だったけれど、田舎の人らしい生真面目さがあった。そんな気がする。一途なところがあった。はっきりとは思い出せないが、たしかそうだった。
今はちがう。暗くて、ふてぶてしい。暗さは変りないが、ヌメッとした無気味さがある。眼ざしが濁っている。真面目さは少しも感じられない。あれ以後の人生が彼を歪《いびつ》に変えたのではあるまいか。
左手には深い疵痕があった。右手のほうは腕から手の甲にかけて不自然なほど筋肉が隆起している。格闘技の訓練を積んだみたいに……。それもよい印象ではなかった。
私が黙っていると、男は、
「ご活躍のようで」
と言う。
「まあね」
「エッセイを読みましたよ」
男は、あのエッセイを……アトリエに訪ねて来た青年のことを綴《つづ》った私のエッセイを読んだらしい。まずいな。
「印象深い出来事だったから……」
笑いながら答えたが、男は笑わない。
私の水割りはすでにただの水に変っていた。もともと長くいるつもりで入った店ではない。
「ママ、お勘定。これで足りるね」
五千円札をカウンターに投げた。
「あ、どうも。お釣り……」
「いや、いらない。失礼。用があるものだから。元気でやってください」
最後の台詞《せりふ》は清水という男に告げた。そしてうしろも見ず、あたふたと店を出た。
──わるいこと、書いたかな──
夜道を歩きながらエッセイの内容を反芻《はんすう》してみた。訪ねて来た青年に対して悪意はなかったけれど、頭の少し暗い男≠フ一例として書いたことはまちがいない。当人が読んだら、よい気分にはなれないだろう。
──配慮が足りなかったな──
昔なじんだ街を訪ねてみようと、そんな気を起こしたのがいけなかった。
──たしかに、一番怖いのは人間だな。頭の少し暗い奴、これが怖い──
酒場で聞いた話を思い出しながら、角を曲がった。ヒョイと人影が私の前に立った。
「先生、急ぐこと、ないでしょ」
清水がそこに立っていた。
「なんですか」
私は相手の顔を見た。
鈍い眼ざしが細くなった。黄色い眼だと思った。
「先生。あれは、やっぱし盗作って言うんじゃないすか。私のやったこと、そっくり書いたんだから。なんのことわりもなく」
男の頭の中が暗いかどうか、それはわからない。ただ、男が考えたことは、すぐにわかった。
つまり、私のエッセイは、清水青年の行動をそのまま書き写している。ことわりもなくコピイを発表したのだから、これは盗作だろうと……。その理屈が正当かどうかはともかく、男がそう考えたことは、疑いない。そして盗作である以上、それを犯した者はその報いを受けなければいけないと……。
「おとしまえをつけさせてくださいよ」
いつかも同じ台詞を聞いた。
男がポキンと指を鳴らした。黄色い眼が凶暴な光を帯びた。
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知らないクラスメート
「ニャンコは、かならず遅れて来るのよ」
と、甲高い声が聞こえた。
さんざめきを貫いて、よく通る。幹事役の野中照美の声だろう。昔から美しいソプラノの持ち主だった。
「そう。いつだって遅いんだから」
だれかが相槌《あいづち》を打つ。
四谷のレストラン。小ぎれいで、料理がおいしくて、値段もさほど高くはない。二、三十人で会食のできる瀟洒《しようしや》な部屋があって、女性たちの同級会などにはよく利用されているらしい。
さわやかな五月の夕刻、昭子たちが集まった理由も、まさにそれだった。短大を卒業して十七年目。
──この前は……たしか実家の父が死んだとき──
と昭子は思う。
だから五年前。昭子は出席できなかった。その前となると……一度集まったのは確かだが、時期までは思い出せない。
四十数人のクラスだった。小さなグループではずっと交流が続いているのだろうけれど、クラスの全員に呼びかける集まりはめずらしい。知らない顔もないではない。名前の思い出せない人となると、さらに多い。
時刻は五時を十四、五分まわっている。
段取りに手ちがいがあったらしく、集合は五時(時間厳守)≠ニ案内状に記されてあったのに、
「ごめんなさい。前の会合が延びたらしいの。五時半には、お部屋へ入れますから」
と、もう一人の幹事が説明する。
おかげで時間を厳守した面々は、玄関|脇《わき》の狭いホールで待つことになってしまった。
子育ても一段落したのだろうか。今日の出足はわるくない。昭子は十分遅れの到着。親しい顔も見えるのだが、ホールが込みあっているので、人をかきわけて近づくのはむつかしい。
「お久しぶり」
「お元気?」
「ええ、おかげさまで」
周囲の人とだけ挨拶《あいさつ》を交わし、昭子は柱のかげに立って、見るともなしにみんなの様子を眺めていた。
手を取りあって話している二人がいる。
──あの人たち、そんなに親しかったかしら──
たしか同じボーイ・フレンドに熱をあげていた……。馬術をやっていた男。
──どちらかがその人と結婚したのかしら──
その後の消息は知らない。どちらもふられてしまって、それで仲がよくなったのかもしれない。
その隣にいるのは、
──あら? 手島さん、老けたわ──
観察が少し意地わるい。
クラスできれいな人と言えば、手島さん、それから二宮さん。
──私は三番目くらい──
しかし、みんなが三番目だと思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、一位と二位は暗黙のうちに了解されていた。その手島さんが今日はあまり美しくない。昔から痩《や》せぎすで、眼ばかり大きい人だった。こういう顔立ちは、皮下脂肪の、ほんのわずかな多寡《たか》で美しさが左右される。三十代のなかばだから、まだ充分に美しくてよいはずなのに、
──どうしたのかしら──
体のどこかに支障があるのかもしれない。お化粧の下の肌がドス黒く感じられる。
──二宮さんはどうかしら──
二宮佳子の渾名《あだな》はニャンコ。面ざしが猫に似ているわけではない。二宮という苗字《みようじ》からつけられたものだろう。手足の動きがしなやかで、そのあたりの印象が猫に似てないこともない。人柄も明るくて、ニャンコはいつもクラスの中心だった。
「ニャンコ、まだ?」
「だから、いつも遅れるのよ、あの人」
「先生は?」
「青山羊《あおやぎ》さんは来ないみたいよ」
クラス主任は青柳教授。まるで名前に合わせたように、顎《あご》に髭《ひげ》を垂らしている。だれが考えても、渾名は青山羊に落ち着くだろう。
「よかったあ」
「あなた、睨《にら》まれてたもんね」
「そうよ。言語学だけ私、Cなんだから。一生恨んでやる」
「でも、Dじゃなくてよかったじゃない」
「ひどいわ」
声の聞こえる範囲で笑いが起きる。昭子も笑ったが、
──あの人、だれかしら──
と視線を移した。
話し声は当然聞こえただろうに、笑いに加わらず、壁ぎわに無表情のまま立っている……。
実を言えば、さっきから気がかりだった。灰色のワンピースを着て、黒い、つばつきの帽子をかぶっている。だれとも喋《しやべ》らない。さほど注意深く観察していたわけではないけれど、そんな気がする。
──お仲間じゃないのかしら──
その可能性も皆無ではない。
昭子たちが群がっているのは、レストランの玄関脇のホールである。ほかの客だって、自由に出入りするスペースである。
たとえば、その灰色のワンピースの女性は、このレストランのホールで、だれかと待ちあわせをしていた。待ち人が現われるより先に、昭子たちのグループがどんどん集まって来て、行き場を失ってしまったのかもしれない。彼女が立っているのは、入口にそう遠くない位置だから、そんな事情も考えられないでもない。
しかし、それはかなり無理をして考えたことでもある。
──私だったら、あんなところにはいないわ──
昭子のみならず、たいていの人がそうだろう。まちがわれたらばつがわるい。なにも喋らず、みんなから半歩くらい距離をあけているけれど、このホールを埋めているのは昭子たちのグループだけなのだから。
──ほかに行くところ、あるでしょ──
ドアの外だってよい。雨が降っているわけではないのだし、なにも気まずい思いまでして中に留《とど》まっている理由はないだろう。
──でも、世間にはおかしな人もいるから──
灰色のワンピースは、もしかしたら頑《かたくな》な性格の人なのかもしれない。
──私のほうが先に来たのよ。外で待つのなら、あんたたちが待つべきよ──
などと考えているのかもしれない。無表情は少し怒っているようにも見える。いずれにせよ、かすかな違和感が漂っていた。
──でも、上から落ちて来た人もいたから──
と、これは十七年前の記憶である。
卒業名簿には五十人近い名前があったはずである。ほとんどが一年のときに一緒に入った仲間だったが、ほんの二、三人、上から落ちて来た人が……つまり単位が取れずに落第した上級生が含まれていた。
名簿に名前が記されているから案内状が届く。たいていは、
──私はちがうから──
と、当人が出席を避けるが、中には奇特な心がけの人もいるだろう。あるいは主任の先生にだけは特別にお世話になっていたりして……。そこで出席してみたものの、親しい顔がどこにもいない。それで戸惑っている……と、そんなふうに見えないこともなかった。
五時二十一分。
「もうすぐですから」
と、幹事も少し苛立《いらだ》っている。
「ニャンコ、来ないじゃない。来るはずなんでしょ」
「出席の通知はいただいてるけど……」
「二宮さんは、いつも二十五分遅れるのよ」
「あら、そうなの」
「知らなかった? その点は正確なの。だから憎たらしいのよ」
言われてみれば、昭子にも思い当たるふしがある。二宮佳子とは、それほど親しくはなかったけれど、何度か行動をともにしたことはある。コンサートへ行くとか、パーティに出席するとか……。女性同士のことだから、十分、十五分の遅刻は許容範囲のうちだろう。それが過ぎて、
──どうしたのかしら──
心配になり、つぎの手立てを考える必要が生じ、
──とにかく早く来て──
と、願うような心境になったとき……それが多分二十五分の遅刻くらいだろうか、
「ごめんなさい」
憎めない笑顔で現われる。待たされたほうは、
──よかった──
怒るよりも安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしてしまう。微妙なタイミング……。そんなことが、昭子が覚えているだけでも二、三度あった。だれに対しても、同じ手口なのだろう。
「だから、ニャンコには三十分前の時間を言えばいいのよ」
「やったわよ。そうしたら五分前に着いちゃって、だれも来てないじゃないの。ニャンコったら待ってればいいのに買い物かなんかに行っちゃって、結局二十五分遅れて現われたのよ」
「待たせる人って、自分で待つのはきらいなのよね」
時計が五時二十五分を指した。
しかし、動きがあったのは会場のほうである。
「ご迷惑をおかけいたしました。チェリー・ルームのほうへどうぞ」
黒服の男が呼びかける。
「じゃあ、みなさん、どうぞ」
幹事にうながされて一同がゆるゆると両開きのドアをくぐり抜ける。
「あら、きれい」
「本当に」
部屋は中庭に面している。広い庭園ではあるまいが、傾斜を作り、樹木を植え、奥行きを深く見せている。噴水が水を噴きあげ、幅広いフランス窓にそってチューリップが今を盛りと花を並べていた。
入口でくじを引き、口の字形の席につく。
「もう全員、見えたのかしら、出席の通知を寄こされたかたは?」
「えーと、二宮さんだけ……」
「ニャンコ、今日は特別に遅いわね」
いつもみんなの中心になって華やぐ人である。まったくの話、
「ニャンコがいないと、クラス会じゃないみたい」
そんな感じも嘘《うそ》ではない。
そのときである。
「二宮さんは死にました」
ざめわきを縫って、はっきりと聞こえた。
ドアに近い部屋のすみから、灰色のワンピースがあい変らず無表情のまま発した声だった。
一瞬、部屋の中が静まった。みんなが息をのんで、すみの席にすわった女を見た。当然なにか説明が続くのだろうと思った。
だが、灰色のワンピースは、黙ってすわっている。
「だれなの、あの人?」
「わからない」
「落ちて来た人じゃない?」
「そうね、きっと」
小声でささやく。
突然、笑い声が起こり、
「あなたも、その話、聞かされたの?」
と、とりなしたのは、フランス窓を背にしてすわっている春恵だった。
テーブルのところどころに似たような笑い顔が散っている。
──なにか仕掛けがあるらしい──
怪訝《けげん》な顔を向けると、春恵がみなさん、落ち着いて、落ち着いて≠ニばかりに両手を広げ、掌《てのひら》を下に向けて静める。
「私がヘマをやったの。でも、そうでしょ、だれだって驚くわよ」
と、少し大きな声で話し始めた。
オードブルが並ぶまでには、まだ少し時間があった。
三カ月ほど前のこと、春恵が二宮佳子のところへ電話をかけた。
あとで考えてみれば、電話番号を押しまちがえたにちがいない。
「二宮さんですか」
あいにく、かかった先の家の苗字《みようじ》も二宮さんだったらしい。
「はい」
くぐもった女の声が答える。佳子ではない。
「佳子さん、いらっしゃいますか」
「佳子は死にました」
「えっ、本当に? いつでしょう」
だれだって、あわててしまう。
「一カ月前に。急死です」
ガチャン、と電話が切れた。
──大変──
春恵は、二宮佳子とそれほど親しい仲ではない。佳子の家族について、面識はもちろんのこと、ほとんどなんの知識もなかった。
──離婚をして、実家に帰って……子どもはないはずだし……。今、電話に出たのは、だれかしら。あまり感じのいい声じゃなかったけど──
とりあえず仲よしの石井百合香に電話をかけた。
「あなた、ご存知? 二宮さん、亡くなられたんですって」
「本当? 知らない。ご病気?」
「いえ。それがよくわからないの。一カ月前って、電話口では言ってらしたけど」
「じゃあ、事故かしら」
「言っちゃわるいけど、電話口の人、とてもつっけんどんだったわ。なんかよくないことでもあったんじゃないかしら」
「そうねえ」
「いずれにせよ、このまんまってわけにもいかないでしょ」
「お葬式はすんでるわねえ、きっと」
「ええ……。みんなに声をかけて、お花くらい届けなくちゃ。四十九日とか」
「そうね。則子に聞いてみる。彼女、ニャンコと仲よかったから」
つぎからつぎへと電話の輪が広がる。
「ニャンコったら、運転免許を取ったって言ってたわ。それじゃないの」
「彼女、放心癖があるでしょ。道を歩いていながらボケーッとしてるの。あれ、危ないわよ」
だが、間もなく、
「馬鹿なこと言わないでよ。チャンと生きているわよ」
「うそーォ」
「嘘じゃないわよ。今、電話で話したわ」
情報はもとの道を戻って春恵にまで届いた。
「ええーッ。困ったわ」
春恵としても自分の早とちりに気づかずにはいられない。文字通りの大失敗であった。
同級会の会場で、ところどころに起きた薄笑いは、この騒動の関係者のものだろう。一度はうっかりと二宮佳子の死を思った人たちの笑いである。
「本当に私がドジだったのよ」
と、春恵は深々とお辞儀をする。
「どういうことだったの?」
「わかんないわよ。ただ、やっぱりまちがえて番号を押したんでしょうね。そこが偶然、二宮って家で……私が二宮さんですか≠チて聞いたらはい≠チて、たしかに答えたのよ。だから私、天からニャンコの家だと思ったわけ。それで次は死にました≠ナしょ。あせったわよ、本当に」
「ひどいわね」
「あとで考えたんだけど、ニャンコの家ととてもよく似た電話番号で、今までにもチョイチョイまちがわれていたんじゃないのかしら。それで頭に来ちゃって……」
「よく火葬場です≠チて答えるのがあるって言うじゃない」
「それとおんなじ発想ね。まちがい電話がかかって来ると、みんな死にました≠チて答えるのよ、きっと」
「人騒がせじゃない」
「でも気がつくんじゃないかしら、たいていは。自分がまちがえたって」
「すみません、私は馬鹿で、気がつかなかったんです」
と、春恵がまた丁寧に頭《こうべ》を垂れる。
「ごめんなさい。あなたのことじゃないわよ……」
と、あわてて訂正するのを、照美が横から押さえて、
「大変お待たせいたしました。オードブルもそろいましたようなので、同級会を開催いたします」
開会の宣言をした。
昭子はあまり親しくはない二人に席を挟まれてしまった。右手にすわった高木さんは、電話に惑《まど》わされた一人らしい。オードブルのチーズをフォークの背に載せながら、
「噂《うわさ》って広がるたびに本当らしくなるでしょ」
と、今の話題を蒸し返す。
「ええ……?」
「AさんBさんCさんと順に伝わって来て、はじめのAさんは疑いを持つこともできるけど、Bさんは無理でしょ。話だけ聞いて、まるまる信じ込んじゃうと、もう疑えないわ。それがCさんに伝わるときは完全に本当の話になっちゃうのよね」
「ええ……」
たしかにそういう構造はありうるだろう。
今のケースについて言えば、春恵だけは疑うことができた。相手の声の調子がおかしかった、つっけんどん過ぎた、普通はもう少しくわしく死の事情を説明してくれるものだろう、電話番号を押しまちがえたかもしれない……などなどと。
しかし、いったん春恵が、
──二宮さんが死んだ──
そう信じ込んでしまい、そこから発せられる伝達は、次の人にとっては疑うのがむつかしい。死んだ≠ニ言われれば死んだ≠アとなのである。冗談で言えることではない。電話口では、
「去年、お会いしたときは、お元気だったのに」
「どこかそんな感じのかただったわね」
「パッと咲いて、パッと散るタイプなのかしら」
まことしやかな感想なども加わって、ますます固い真実となってしまう。
──なにか似たことがあったわ──
昭子はキャビアの塩味を舌の上に転がしながら思った。
──そう、鯛《たい》の刺身だわ──
昭子が中学生の頃……。あれも電話だった。
電話をとったのは、昭子の姉だった。遠縁の従兄《いとこ》の声で、
「鯛を一匹もらった。刺身にして持って行くから、今晩のおかずは作らずに待っててくれ」
と言う。
あとで聞けば、従兄は、
「俺《おれ》は、目の下二尺の鯛って言ったはずだがなあ」
と、頭をかくのだが、そのことは母には伝わらなかった。刺身が到来するという情報だけが姉から母に伝わり、母から祖母に伝わり、昭子や兄にも伝わって、
「どうした風の吹きまわしかしら」
「鯛の刺身って、どんな味だっけ」
「なさけないこと言わないでよ」
「お酒を用意しておかなくちゃあね」
待てど暮らせどいっこうに鯛は届かない。
「大きな鯛なのかしら」
「二尺って、どのくらい」
「六十センチ以上だろう」
「目の下って、なーに?」
と姉が聞く。
「魚の大きさを言うとき、目から下の寸法を言うのよ。頭は普通食べないでしょ」
「じゃあ、目の下六十センチって言ったら、すごいじゃない」
「電話でそう言ったの?」
「ええ。たしかそう言ってた」
「大き過ぎるわ。嘘《うそ》じゃない」
「あっ、エイプリールフール、今日は」
「それよ、それ」
被害が大き過ぎたため、従兄は母や祖母から苦情を言われたらしい。目の下二尺≠フところで気づくべきだったろう。しかし、電話を受けた姉が信じ込んでしまい、それから先は信じた話がつぎからつぎへと伝わって行く。
──あれとおんなじ──
オードブルの中にも鯛のマリネがある。梅肉であえて和風の味つけに仕上げてある。とてもおいしい。それを喉《のど》に落としてから、
──そう言えば──
昭子は急に思い出して、ドア寄りの席に視線を向けた。
──あの人──
灰色のワンピースは、やはり黒い帽子をかぶったまま無表情にすわっている。ナイフとフォークを取ろうともせずに……。
──変ね──
彼女もまちがったニュースを伝えられて二宮さんは死んだ≠ニ思ったくちなのだろう。だが、その後の知らせが……つまりあれはまちがいでした≠ニいう伝達が彼女には届かなかった。それで今日まで、二宮佳子が死んだものと思っていた……。
──ちがうかしら──
きっと、そう。だから、みんなが、
「ニャンコ、遅いわねえ」
と呟くのを聞いて、突然、巫女《みこ》の託宣のように、
「二宮さんは死にました」
と告げたにちがいない。
いや、当人に確かめたわけではないから確信を持てないが、会場のみんながそう思っただろう。
──もう少し話題に加わればいいのに。トンチンカンの人っているのよね──
訝《いぶか》しく思うより先に、
「順番に近況報告をお願いしまーす」
と、昭子のすぐ近くから立ってショート・スピーチを始めることとなった。
一人一分間。家族のことなどを話せば終ってしまう。
メニューはスープに移り、次に車海老《くるまえび》のクリーム煮が運ばれて来た。
「ニャンコ、来ないわね」
「どうしたのかしら」
「あらっ」
気がつくと、灰色のワンピースが消えている。近況報告もせずに……。洗面所にでも立ったのかと思ったが、いっこうに戻って来ない。
「あの人、だれなの?」
「だれも知らないんじゃない」
「頭、おかしいんじゃないの」
みんなが首を傾《かし》げたが、そのときはそれ以上、長くは話題にならなかった。
そして、会食が終りに近づく頃、幹事の照美に電話がかかり、戻って来た照美の顔はまっ青に変っていた。
「二宮さんが亡くなられました」
「えっ?」
「今度は本当のようです。お母様から電話があって……」
「いつ?」
「ここへ向かう途中。病院からのお電話みたい」
満場がざわめく。
「さっきの人、なによ」
捜し求めたが、灰色のワンピースはあとかたもなく消え去っていた。
葬儀の日には大半のクラスメートが集まった。
事故死の事情が少しずつ明らかになる。二宮佳子は、同級会の当日、銀座に用があり、それをすませたあと午後五時過ぎにタクシーを拾って四谷へ向かった。そのまま到着すれば、例によって二十五分遅れになったのではあるまいか。赤坂の日枝《ひえ》神社の下の道路でダンプカーと衝突。運転手は軽傷ですんだらしい。二宮佳子も即死ではなかった。救急車が呼ばれたが、病院に向かう途中で心臓が止まった。死亡時刻は五時三十二分……。
「変な女の人が死にました≠チて言った時刻じゃない」
「そうよ」
時計を見ていたわけではないから正確なことはわからないけれど、多分、そのくらい……。
──たしか五時二十五分に会食の部屋へ入って、それから少しあと──
と、昭子は記憶している。
「なんだったのよ、あの人? 黒いつばつきの帽子なんかかぶって」
「怖い」
「厭《いや》あーね」
いったいだれなのか、今度は本気で詮索《せんさく》が始まったが、照美も、もう一人の幹事も、
「いつのまにか来てたのよね」
「そばに行くと、すっと向こうへ行っちゃうの。てっきり落第組だと思って……」
と要領を得ない。
「出席の通知を寄こした人は全員見えたわけでしょ、ニャンコ以外は?」
「ええ。でも、返事をくれないかたも結構いたから……。私、聞いたのよ。でも、あの人野中さんのほうに言いました≠チて照美のほうを指さすから……」
「あら、私、なんにも言われてないわよ」
「会費はどうなっているの?」
「会費だけはレジに置いてあったわ、無記名で」
「手島さん、あなた、なにか話していらしたじゃない。隣の席だったでしょ」
調べてみると、灰色のワンピースと口をきいたのは、手島みやこ……あの日、昭子が昔ほどきれいじゃないと思った痩せぎすの人だけだった。
「ええ。でも、話ってほどの中身じゃないわ」
結局、正体はわからない。
葬儀からの帰り道、昭子は手島と同じ電車に乗った。
「不整脈があるの」
手島みやこは、この前よりさらにドス黒い顔色をしている。
「ちゃんと診ていただいたら、お医者さんに」
「でも、怖くて」
「診ていただいて安心したほうがいいわよ」
「ええ……」
そのうちに話題は、またしても灰色のワンピースの女のことに移った。
「あのかた、オードブルが出て間もなく席を立ったのね」
と、手島は視線を宙に浮かせて呟く。
「ええ?」
「その少し前に来月また≠チて、たしかそうおっしゃったの。なんのことかわからないし、聞きちがいかもしれないでしょ。なんでしょう≠チて聞き返したら、そのままついと立って出て行ってしまったの。それっきり戻らなかったわ。気味わるい」
「来月、なにかお集まりがあるんじゃないの。お茶の会とか……。同じ会のメンバーだったりして」
「でも、思い当たること、なにもないのよ」
昭子の降りる駅が近づいてきた。
それから二カ月ほどたって手島みやこの訃報《ふほう》を聞いた。狭心症の発作による急死だった。
──まさか──
いまわしい想像が心をよぎる。
灰色のワンピースを着た女は、手島みやこに対して「また来月」と、そう言って別れたというではないか。その女は二宮佳子の死を的確に告げた人でもあった。
「まさか」
昭子は、口に出して呟いてみた。
黒い帽子の下にあった無表情な顔……。いま思い返してみると、眼《まな》ざしにも唇の動きにも、まがまがしいものが漂っていたように思えてならない。
昭子は夢を見た。
電話をかけている。
「武志さん、いらっしゃいますか」
と尋ねている。
武志は夫の名前である。とすると……これは結婚する前のことなのかもしれない。
くぐもった女の声が答える。
「武志は死にました」
恐怖が走り抜ける。
──あの女の声だ──
なじみの薄い声なのに、なぜかそれがはっきりとわかる。
女は、だれかの死を人に伝える役目を負うている。黒い帽子をかぶり、灰色のワンピースを着てあちこちに現われ、だれかの死を伝える。
──いけない、早く目ざめなくては──
狼狽《ろうばい》が込みあげてくる。
ようやく目を開けた。
──よかった──
でも、大丈夫かしら、夜光時計が午前二時半を指している。
夫は福岡に出張中……。すぐにでも宿泊のホテルに電話を入れたかったが、
「なにごとだ?」
と怒られてしまうだろう。
まんじりともせず朝を待った。
翌朝、時間を計って電話をかけた。
「スーツケースの鍵《かぎ》は何番で開くんでしたっけ」
と適当な用件を考えて……。
「442だ。親父《おやじ》のとこの局番だ」
「ああ、そうだったわね」
「どこへ行くんだ?」
「お友だちが貸してほしいって言うから」
「ふーん」
「気をつけてね」
「ああ」
夫は、当然のことながら無事だった。
それでも昭子は、一日中、あちこちの友人知人に電話をかけた。
夢の記憶が残っている。
とりわけあの女の声がしっかりと耳の奥に残っている。
「……は死にました」
一瞬が怖い。呼びだし音が切れたあと、いつかその声を聞くような気がして……。
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死 ん だ 女
父は四十九歳で死んだ。
若い死だった。
死因は脳|溢血《いつけつ》。その日の朝、家を出るときにはなんの変調もなかったらしい。母がそう言っていた。
──父の体質が遺伝しているんじゃあるまいか──
自分が四十九歳になったとき、私はそのことがひどく気にかかった。四十九歳を超えた日には、ほんの少し安堵《あんど》を覚えた。
「馬鹿ね。今どき五十前で死ぬ人なんかいないわよ」
と、妻の秋子は、不正確な知識を呟《つぶや》いて笑う。
調べたわけではないけれど、四十代で死ぬ人だって、それなりにいるだろう。比較的めずらしい、という程度のものでしかない。
「そうかな」
「寿命が延びてるもん」
「うん」
父の世代と比べて、どのくらい延びているのか。それはそれで、またあらたに気にかかることである。五年延びているとして……私は今年五十四歳になった。
「お祖父《じい》さんは長生きだったんでしょ」
「六十二だから、長生きってほどじゃない。死因は狭心症だし……」
高血圧と無縁の病気ではあるまい。
「あなたの体型なら大丈夫よ。脳溢血になる人って……もっと太っているわ」
たしかに私は中肉中背である。しかし、父だってそれほど太っていたわけではない。私と同じくらい……。体型だけではわからない。
私自身、若い頃はむしろ血圧が低かった。このごろになって、急に「血圧が少し高いですね」と注意を受けるようになった。いずれにせよ気をつけたほうがよい。
──塩昆布はやめるかな──
車のハンドルを握りながら、そんなことをちらっと思った。
塩昆布は私の好物である。老舗《しにせ》で販売している高価なやつ。二センチ四方くらいに切られていて、表面に塩が吹いている。それを食後のお茶と一緒に一、二枚食べる。
──まあ、いいか──
塩昆布のことは、すぐに忘れた。
日曜日の朝。街《まち》は人通りが少ない。とりわけ倉庫の並ぶ一画は人影を見ない。もう少し走って右へ曲がれば早稲田通りに出るだろう。車のスピードをあげた。通り慣れた道ではない。
先日……と言っても三カ月ほど前のことだが、高田馬場で会合があり、その帰り道にタクシーで落合のあたりを通った。家並みのあいだに消防機具・唐辺商会≠ニ記された看板を見つけて、
──ほう──
と思った。唐辺はからのべ≠ニ読む。多分そうだろう。
──昌代の兄さんだな──
この推測には百パーセントに近い自信がある。消防機具を専門に扱う商店なんて、そうたくさんあるものではない。それが昌代の家の職業だった。唐辺という苗字《みようじ》はさらにめずらしい。以前は大塚の駅の近くに似たような看板を出していたが、一画はすっかり整理されて広い道路に変っている。数年前に通りかかって、それを知った。区画整理のときに店を移したにちがいない。昌代は二人|兄妹《きようだい》だった。兄が父の仕事を継いでいるような話も聞いた。それならば、その兄の店が都内のどこかにあっても不思議はない。落合の商店街で看板を見たとたんに推測が生じ、すぐに確信に変った。
「消防機具の専門店なんて……あるのかいな」
三十年も昔、馬鹿な質問をして昌代に笑われた。昌代が現に、その店の娘なのだから……。
「あるのよ」
昌代は、笑うと片えくぼがくっきり凹《へこ》む。肌の柔らかさを感じさせるえくぼだった。
あって当然だろう。家庭用品としては、せいぜい携帯用の消火器くらいしか思いつかないが、工場ならば、どんなに小さくても、さまざまな消火設備が義務づけられているにちがいない。ニーズがあれば、それを扱う専門店もあるだろう。
赤く塗られた消防用具、ヘルメット、銀色のマント、銀色の長靴、ホース、避難|梯子《ばしご》……しかし私は昌代の家の店内を見たわけではない。いつも近くまで送っていって、そこで別れた。
昌代と知りあったのは目白の英会話スクールで、私はまだ大学生だった。
──英語が喋《しやべ》れるようになりたい──
と、気まぐれのような動機で英会話の中級コースをのぞいてみた。たしか日曜日の午前のクラスだったろう。その学校はミッション系の事業を営んでいて、そのせいで授業料が格安だった。それも私が気まぐれを起こした理由の一つだったろう。昌代のほうも似たような事情だったのではあるまいか。
昌代は一人だった。つまり、女性はたいていこういうところへは仲間と連れだってやって来る。
「ねぇ、英会話、やらない?」
「英会話?」
「安いところがあるのよ。英語、話せたほうがいいじゃない」
「そうねぇ」
「ね、行こう、一緒に」
相談をして現われる。
あとでわかったことだが、昌代も本当は友人と二人で来るつもりだったらしい。その友人に不都合が生じ、仕方なしに一人で顔を出したという事情だった。
レッスンが始まってみれば、教室は二百人も入る大所帯で、とても会話が学べるような雰囲気ではない。アメリカ人の教師が英語で喋り、何人かの生徒を教壇の上に呼んで会話の真似ごとを演ずる。壇上にあがった生徒はまだしも、それを見ているほうは、ただの見物人である。二百人を対象にしたメソッドが確立しているとは、到底思えなかった。大学の講義じゃあるまいし、二百人も集めた英会話教授法などありえないだろう。
「こりゃ駄目だ」
「そうみたい」
レッスンが進むにつれ出席者が少なくなる。とことん少なくなったところで、ほどよい英会話教室に変るのだろうか、私は途中で罷《や》めてしまったから先のことまではわからない。
昌代とは最初の日に隣あわせにすわった。これは偶然だった。つぎの日は、
「おはようございます」
玄関のところで顔をあわせ、なんとなく並んで腰をおろした。三回目からは、それが習慣となった。昌代は如才《じよさい》のない性格だった。
私のほうは、
──わるくない──
はじめから昌代に惹《ひ》かれるものがあって、意図的に近づいた。
「コーヒー、飲まないか?」
「いいわよ」
目白駅に近いコーヒー・ショップに立ち寄った。こうして交際が始まった。
英会話スクールのほうは、私も、昌代も、三カ月足らずで挫折《ざせつ》してしまったけれど、親しさはそのあとも続いた。
恋人同士と言えるような間柄ではなかったろう。ただ、会うのはいつも一対一である。ほかに名目があって会うわけではない。会うことが目的である。恋人同士のような気配がまったくなかったわけではない。
昌代は私と同い年である。厳密に言えば、昌代のほうが四カ月ほど年長だった。高校を卒業して事務機器のメーカーに勤めていた。恋愛とか結婚について、私よりずっと具体的なイメージを抱いていただろう。私のほうは、
──適当なガール・フレンドがほしいな──
と、暢気《のんき》なものである。
そのガール・フレンドが恋人になってくれればもっとよいけれど、それから先のことについては、なんの展望もない。いい加減なものである。結婚なんて、ほとんどなにも考えていなかった。考えたとしても、おいしい部分だけを想像して、現実性はすこぶる薄い。学生の考えなんておおかたがそんなものだ。自分の身のふりかたも決まらずに、結婚もへちまもあるまい。昌代に対してはそれなりに真摯《しんし》な気持ちで接していたが、なんの目算もないのだから、からまわりの情熱と言われても仕方なかっただろう。
昌代はもう少し大人だった。
──結婚の対象ではないわ──
と、私の心を見抜いていただろう。
事実、どの時期から始まったことかわからないが、昌代にはほかに親しい男性がいた。そちらが本命だった。
──結婚はべつの人と。でも、その前にボーイ・フレンドと少しくらい楽しんだっていいんじゃない──
そのくらいの気分だったろう。その気持ちは私がサラリーマンになってからも変らなかったと思う。天秤《てんびん》にかけていた、と、そう思えるふしも皆無ではないけれど、たとえそうだとしても、私の載った皿は極度に軽く、はるかに重いものがもう一方の皿に載っていたにちがいない。
四年を少し超える関係……。月に一、二度会って映画を見る、食事をする、コーヒーを飲む、一度海へ行ったな、いろいろな時期があったけれど、強いて言えば、同じことをくり返しているような関係だった。もちろん体の関係などはありえない。せいぜい手を握り、肩を寄せあったくらい……。
しかし、好きなことは好きだった。そのことが少しずつわかった。わかったときには少し遅かった。はじめから本気で接していれば、もう少し事情が変っていたかもしれない。
奇妙によく覚えていることがある。
超高層のビルはまだなかったが、それでも充分に高いビルのレストランで、私たちはカクテルを飲んでいた。西の空がほんのひととき血のように赤く染まり、すぐに鈍色《にびいろ》の夜に変った。
「死ぬって、どういうことかしら」
そんな話題にふさわしい、沈んだ音楽が流れていたような記憶が残っている。
「息が絶えて、心臓が止まって……」
「そうでしょうけど……。一昨年、従姉《いとこ》が死んで、そっくりの人が博多で歩いてたんですって」
「ああ、そう」
「この世の中って、混ざりあわないカクテルみたいに分かれているんじゃないのかしら」
「うん?」
「博多なんて、うち、なんにも関係がないのよ。なのに、本当にそっくりだったらしいわ。見た人が君枝さんだ≠サう思って追いかけたら、ビルの陰でいなくなってしまったんですって。正面からはっきりと顔を見たそうよ」
「死んだのは確かなんだろ」
「ええ。焼き場へ行って、骨まで拾ったわ」
「じゃあ、見た人の見まちがいだな」
そう呟いてから私は、
──現実的すぎるかな──
と思わないでもなかった。正解はその通りだろうけれど、それではそこで話が終ってしまう。男女の語らいは、もう少し曲《きよく》があったほうがよい。なによりも昌代がそれを望んでいるらしいのだから。そうと気づいて、
「生まれ変ったわけ?」
と尋ね返した。多分、私の頬《ほお》は笑っていただろう。
「でも、生まれ変るのって、赤ちゃんになるわけでしょ。一昨年死んで、博多にいた人は従姉と同じくらいの年だったんだから」
「困るなあ」
「だから、みんな一緒に暮らしているように見えるけど、べつな世界が入り混じっていて、こっちの世界からあっちの世界に行っちゃうのね。たまに、それが見えたりするわけ」
「体はどうなるんだろ。焼かれて骨にまでなっちまったんだから」
「そうよねぇ」
この種の話は理屈を追いかけてみてもつまらない。昌代が続けた。
「お祖母《ばあ》ちゃんに聞いたら、うちはよくそういうことがあるんだ≠チて」
「どういうこと?」
「わかんない。よく聞かせてくれなかったから。お祖母ちゃんも、二、三回、同じめにあったみたいよ。一つは母も知ってたわ」
「やっぱり死んじゃった人が、べつなところにいるわけか」
「そうなんじゃない。みんなうちの親戚《しんせき》。そういう血筋なんじゃないのかしら」
「ふーん」
「私が死んで、どこかに現われたら、どうします?」
「追いかけて行くよ」
たわいのない会話だったが、昌代は思いのほか真顔だった。
──よく似た顔がある血筋なのかな──
このほうがはるかに合理的な解釈である。よく似た顔の血筋がもう一つべつなところにあるとすれば、簡単に説明がつく。代々似た顔が生まれることもあるだろう。
しかし、この世界がある種のカクテルみたいに混ざりあわずに分かれている、そのくせ一つのコップの中に共存している……そんな昌代の考えかたは、
──おもしろいな──
わけもなく私の心に残った。
──この人を本気で愛そうか──
と思ったことは、ある。それは本当だ。
私自身もサラリーマンになり、二年ほどたって、少しは結婚のことを本気で考えるようになっていた。すぐには無理だとしても一年後、あるいは二年後なら、それができる。昌代ほど心の通う相手はほかにいなかった。
そのことをどううち明けようか。四年以上も友だちのような関係を続けて来て、ある日、急に、
「ところで、恋愛でもしませんか」
と告白するのは、むつかしい。やりにくい。
迷っているうちに、
「お話があるの」
「なーに?」
「実は……」
と、昌代は言葉を切り、一息ついてから、
「結婚します」
と告げた。
「いつ?」
「秋に。だから、もうお会いできないわ。いろいろと準備に忙しくて」
と、最後の台詞《せりふ》はつけたしのように添えた。
忙しくなるのが、会えない理由ではあるまい。忙しくなるのは本当だろうが、月に一度やそこら会おうと思えば会える。結婚を前にして、
──もう、こんな関係、清算しましょう──
と、それが世間の良識である。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「いい人?」
聞かずもがなのことを尋ねた。思い返してみれば、数カ月前から、
──昌代に好きな人がいるらしい──
と、感じようと思えば、充分に感じられただろう。感じたくないから、感じないでいただけのことだ。
「ええ、まあ。でも、わからない」
破顔一笑、幸福そうな笑顔だった。
「俺《おれ》が申し込もうと思っていたのに」
冗談のような調子で言った。
「遅かったみたい」
と、昌代も軽い調子で答える。
「今からでは駄目かな」
これは真面目《まじめ》に呟いたつもりだが、真意は昌代に通じただろうか。
笑いが消え、
「ごめんなさい。遅すぎました」
と、きっぱりと答えて首を振った。
「もう一回だけ、お別れの会をしよう」
「なにをするの?」
「ご飯を食べる。思いきりデラックスの」
「いいわよ」
未練と言えば、未練だろう。
赤坂のホテルでフランス料理を食べ、お濠《ほり》ばたの道を歩いた。公園は怖いほど静かだった。昌代は終始好意的でやさしかったけれど、心はすでに私を離れていた。微妙な動作にそれが感じられた。
そうであるにもかかわらず、肩を抱きあって歩き、街灯の光を避けて頬を寄せた。
「さよなら」
「お世話になりました」
大塚の家の近くまで送って行き、
「さよなら」
「お世話になりました」
同じ言葉をくり返して別れた。うしろ姿が小走りに去って行く。
その姿が見えなくなるのを待って私はあとを追い、昌代の家の前をゆっくりと歩いた。消防機具・唐辺商会≠ニ、その看板をあらためて確認した。家の窓には明るい光が溢《あふ》れ、中に住む人たちの喜びを映しているように感じられた。
昌代は金沢へ行った。結婚の挨拶《あいさつ》状がそれを伝えていた。夫はその地に住む人らしい。苗字は佐藤と、ずいぶん月並なものに変っていた。
それから三年ほどたって、私は出張で金沢へ行った。連絡をとると昌代はホテルのティルームまで来てくれた。
「もう田舎《いなか》のおばさんよ」
「変らない。金沢は田舎じゃないし」
「子育てに忙しいの」
「何人?」
「まだ一人よ」
ほんの十分足らず、短い再会だった。
「東京へ行ったとき、ご連絡をしてもよろしいかしら。そのほうがゆっくりできるから」
金沢では人の眼もあるのだろう。
「いいよ。もちろん。いつ来るんだ?」
「わからない。いつか……。たまに行くけど主人と一緒だし、実家へも行くから」
「うん」
曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
昌代の言ういつか≠ヘいつか一人で気楽に東京へ行ったとき≠フ意昧だったろう。
おみやげに大きな最中《もなか》をもらった。前田家百万石の紋所を刻したお菓子だった。
それからは年賀状を交わす程度のものだった。私も仕事が忙しい。年月が飛ぶように流れた。
──昌代はどうしてるかな──
そう思うことさえ間遠くなった。ほとんど忘れた、と言ってもよいだろう。
金沢で見た海と空は暗かった。昌代の生活がどちらかと言えば、くすんだものに思えたのはなぜだったろう。
「もしもし、佐藤です。昌代です」
電話で声を聞いたのは……そう、金沢で会ってから五年ぶり、結婚のときから数えれば八年ほどの年月が過ぎていただろう。
「今、東京?」
「はい。あの……」
「なに?」
「お会いできますか、できれば今夜」
「えーと、今夜しかあいてないのか」
「すみません。できれば……」
「なんとかなる」
予定がないでもなかったが、そちらのほうは変更ができる。
銀座のデパートの前で待ちあわせた。
「久しぶり」
「お変りもなく?」
「変りようもない。まだ独り身だ」
すぐに親しさが甦《よみがえ》ったのは、やはり四年あまりの交友のせいだろうか。だが、
──少しちがう──
会って一時間も経ないうちにそれを感じた。
──俺たちはこんなに仲がよかったろうか──
昌代の態度がやけに睦《むつ》まじい。人妻だというのに……。ほの白い表情の中に、かすかに浮き立つものが感じられた。ビルとビルに挟まれた細い夜空に点滅するネオンの輝きを見あげ、
「これが東京の夜なのね」
と、肩をすくめる。
放恣《ほうし》な街のたたずまいに昌代はなんのためらいもなく身をゆだねている。
食事のときに飲んだワインに少し酔ってはいただろう。肩が触れると、
「いいわね」
いたずらっぽい表情で腕をからめる。わけもなく私は、
──この人の結婚はしあわせなのかな──
と訝《いぶか》った。
ティルームに入り、さらに席をホテルのバーに移してカクテルを飲んだ。夜は次第に更けていく。
「いつ帰るんだ?」
「……ええ、明日」
子どもは金沢に置いて出て来たらしい。
「大塚の実家に?」
「……いえ」
膝《ひざ》のハンカチを丁寧に折り畳んでいる。
急に顔をあげ、
「お部屋をとっていただけません?」
と言い、
「今からじゃ、お友だちの家には行けないわ」
と、つけ加えた。
「うん」
うっすらと昌代の頬が上気している。
──初めからそのつもりだったのかな──
私のほうにはなんの支障もない。結局、二人で一つ部屋に泊ることになった。
四谷のシティ・ホテル。黙ってエレベータを昇り暗い廊下を歩いた。鍵《かぎ》を開けると、ベッドの存在が眩《まぶ》しい。
「いけないわね」
「まあ、こんなこともあるんじゃないのか」
「そうかもね」
かすかに投げ遣りに響いた。
私が先にバスを使い、そのあとで昌代が汗を流す。シャワーの水音がとだえ、
「暗くしてくださいな」
ドア越しに声が聞こえて、
「うん」
薄闇《うすやみ》の中に白いバスローブが立った。
ベッドに誘い、並んで体を横たえた。
「今夜だけ……」
「どうして」
私の問いかけは、むしろどうしてこんなことになったのか≠セったろう。どうして今夜だけなのか≠ニ、それを尋ねたわけではなかった。しかし、二つは同じ質問だったかもしれない。
昌代はどちらにも答えず、
「どうしても」
と、首を振る。
これ以上尋ねるのは、心ない仕打ちのようにも思えた。
男女が体を重ねあうことの意味なんて、いかようにも変化する。あまり軽々しく考えるのは、私の好みではなかったが、そして多分、昌代も同様だったろうけれど、さりとて、さほど重いものでもないのかもしれない。親しい者同士であれば、むしろ自然なことなのかもしれない。そして、昌代と私は充分に親しかったのだから……。
短い会話のあとで、私たちは体を重ねた。
昌代の体は充分に熟していた。
抱擁《ほうよう》のあとで、昔のことをあれこれ語りあい、もう一度、体を交えた。朝近く、昌代の寝息を聞きながら、
──人生に、こんなことがあってもいいんだよな──
と、とりとめもなく私は思った。
昌代は羽田から空路で帰ると言う。
「ご迷惑かけちゃって……ごめんなさい」
「いや、こっちこそ」
別れぎわに、
「忘れものをしたような気がして」
「えっ、どこに?」
「ううん。人生に。じゃあ、さよなら」
意味のわかりにくい台詞《せりふ》を呟いた。
少し考えて、
──ああ、そうか。一度抱きあわないと、人生に忘れものをしたような気がして、と、そういう意味かな──
と解釈した。
当たっているかどうかわからない。しかし、ほかにうまい解釈も見当たらない。
「今夜だけ」という約束にどれほどの真意がこもっていたのか、それもわからないが、結果としてはその通りになった。その後、昌代からはなんの連絡もなく、二年後に私も結婚をし、また年賀状を交わすだけの関係となった。
──これでいいんだ──
あまり深入りをしてよいことではあるまい。いっときの気晴し。生活のカタルシス。忘れものなんて、何度もしてよいものではない。
いつのまにかまた何年かが流れた。
「もしもし」
女の声である。聞き覚えはなかった。
「もしもし、田村です」
と私は名のった。
「田村洋一様でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「佐藤昌代さん、ご存知でいらっしゃいますわね」
「はい?」
「亡くなられましたが……ご存知でしたか」
「いえ、いつ?」
「先月の十七日でした。私、昌代さんと親しくおつきあいをさせていただいていたものですから……あるいは、ご存知ないかと思いまして」
「ありがとうございます。知りませんでした。ご病気ですか」
「はい。一年ほど前から入院されていて……肝臓のあたりに、ちょっと」
病名は言わないが、見当はつく。
「お子さんは?」
「敏樹ちゃん。高校生になって」
「お一人ですよね、お子さん?」
「はい」
「ご葬儀は?」
「もうすみました」
そうだろう、二週間もたっている。
「どうしたらよいのかな、私は?」
「あのう……」
と、戸惑《とまど》うように呟いてから、電話の声は、
「さしでがましいようですが、なにもなさらないほうがよろしいかと思いますが」
と言う。
それはわかる。私の立場は……たった一度のことではあったけれど……まあ姦夫《かんぷ》である。秘密は守られていただろうが、残された夫はなにかを感じているかもしれない。今となってはなにもしないことが、昌代への一番のはなむけだろう。
「わかりました。そうします」
「ずっと前に、昌代さんが言ってらしたんです。私が死んだら、この人に連絡してって。田村様のお名前をうかがっていたものですから。冗談みたいな言いかたでしたけれど」
親しい友人にちょっと漏らしたことだったろう。そのときの昌代の心境はなんだったのか。
「幸福だったのかなあ、彼女は?」
それが見ず知らずの人に対する精いっぱいの質問だった。
夫婦の仲はうまくいっていたのだろうか。恋愛結婚のような話だったけれど、だからといって、いつまでも睦まじいとは言いきれまい。
私と過ごした夜のこと……。昌代は気まぐれのように装っていたが、なにかしら切羽つまった気配がないでもなかった。ありていに言えば不幸な結婚に腹いせをするような……。
「若い死でしたから。敏樹ちゃんを残して……さぞかし気がかりだったと思いますわ」
電話の声は私の疑問には答えてくれなかった。
「そうですね」
「とりあえずご連絡だけはと思いまして」
「ありがとうございます」
「では」
電話が切れた。私はやはりうろたえていたのだろう。相手の名前も聞かなかった。
──死んだのか──
ゆっくりと電話の中身を反芻《はんすう》した。驚いたけれど、それほど意外ではなかった。ありそうなことにさえ思えた。あの夜、昌代の裸形《らぎよう》は、とても薄く、頼りなく感じられた。根の丈夫な人ではなかったろう。そのくせ頑張り屋で……。無理をすれば、命を縮めかねない。
──友だちに連絡を頼んでおいたのか──
少し意外だった。わるい気はしない。電話の様子では、それは大分、前のことらしい。まさか自分の死を知っていたわけではあるまい。
それとも、人は漠然と自分の死を知るものだろうか。夫婦の仲は、少なくとも非常によい≠ニいう状態ではなかったろう。いっときのことかもしれないが、険悪な時期もあっただろう。そうでなければ、女は昔の男を誘って一夜を過ごしたりはしない。
──不幸な結婚だったのかもしれない──
それが彼女の死を早めたのではないのか。疑えば、子どもが一人というのも、あまり円満とはいえない夫婦の証《あかし》かもしれない。
その夜、昌代の夢を見た。
少女のようにかぼそい裸形だった。茎のような腕を伸ばし、
「あなたと一緒になればよかったのね。ばちが当たったみたい」
縄のように身をよじって歓喜を訴える。この世に存在しない、文字通り夢の中の快楽であった。
──そんな人生もあったのかもしれない──
と、なつかしんだ。とはいえ、
──なにもかも過ぎさったこと──
私はそれほど深い感傷に浸ったわけではない。現実問題として、昌代のことは、私の意識からすでに消えていた。いや、消えたというのは言い過ぎだろう。いくらかの記憶は頭のすみに残っていたが、それとても思い出そうとしなければ、思い出すことではなかった。どのような意味でも、私の日常生活に影響を及ぼすことではなかった。
ただ……なんと説明したらよいのだろうか。死の知らせを聞いてから、ほんの少し、しこりのようなものが頭のすみに残った。
──いつかゆっくりと彼女のことを思ってあげよう──
あえて言えば、そんな心境だったろうか。
そのまままた十数年が流れた。
落合の商店街で消防機具・唐辺≠フ看板を見たとき、長いあいだ放っておいた感傷が心に甦《よみがえ》って来た。とても大切な忘れもののように……。それを追うようにして、
──どういう人生だったのかな──
昌代のことが少しずつ心に浮かんだ。
なにもかもすっかり過去の中に埋れてしまった。これだけの日時が経過してしまえば、昌代の夫も、昌代とはほとんど無縁の人生を生きているだろう。私が昌代のことを思ってみても、迷惑をかけることはあるまい。墓があるものなら(金沢となると少し厄介だが)一度訪ねてみたい。
大袈裟《おおげさ》に言えば、私の心に芽生えたものは、
──人の一生とはなんなのか──
そんな思いに近かった。だれにだって一生のうちに、いくつかの輝いた時間があるだろう。だれかが思い出してあげなければ、その輝きは永遠に消えてしまう。昌代と二人で過ごした夜は、昌代にとっても、私にとっても、平凡な人生の中でそれなりに輝いていた瞬間ではなかったか。私自身のためにも、それを呼び戻して、いつくしんでみたい。私が少し年を取り、まれには自分の死なども考え、それが契機となって、過去を顧みるようになったせいかもしれない。
さりげなく唐辺商会≠訪ねてみよう。
昌代の兄に会えば、なにかしら昔に繋《つな》がるものが見えてくるだろう。
そう思いながらも実行までには、一カ月あまりの日時がかかった。人は、現実的な用件については、ずいぶんつまらないことでも体を動かすが、こうしたぼんやりとした用件には、なかなか腰をあげないものだ。
──それで、どうする──
その判断がつきまとう。
快晴の日曜日に、
──行ってみるか──
ようやく決心をした。
「ちょっと車を走らせてくる」
家族に告げて家を出た。
車の中で父の死を考えたのは、昌代の若い死に誘われて自分の死を考えたから……だろう。それにしてもこのごろよくそんなことを思う。
──昌代も考えたのかな──
自分の死のことを……。
重い病気にかかっていたのなら、当然それを考えただろう。
そう言えば、もう一つ、これもずいぶん古い出来事なのだが、昌代と親しくつきあっていた頃、私は昌代に贈るつもりで金のブローチを買った。当時の懐《ふところ》ぐあいを考えれば、かなり奮発した買い物だった。
だが、間もなく昌代が結婚することとなり、せっかくの贈り物も渡しそびれてしまった。そのあと四谷のホテルで話すと、
「今でも、あります?」
「もちろん。Mの字を花のように刻んで、わりとよいデザインなんだ」
「ほしいわ。よい思い出になるから」
「うん、あげよう」
あのときは、また会うこともあるだろうと思っていた。
だからそのまま引出しのすみに、放っておいた。そのうちに忘れた。引出しそのものが父の家の物置きにある。先日、見つけ出して、もし昌代の墓へ行くことがあったら、
──これを土に埋めてあげよう──
ぼんやりとそんなことを考えた。
墓のありかはわからないが、とりあえずブローチを握って家を出た。
車が倉庫の並ぶ道へ入った。人通りは……だれも見えない。
スピードをあげた。そのとたん、
「あっ」
黒いものが……犬がいきなり倉庫のあいだから飛び出して来た。
犬だ、と、はっきり見たわけではない。
──いかん──
激しいショックを覚えた。一瞬、血の流れが止まるような不思議な感覚を覚えた。
脳裏が白くなった。
緩慢な動作で車を出た。周囲にはだれもいない。だれも見ていない。ただ人気《ひとけ》のない道がひっそりと延びている。
──どうしたのかな──
とても奇妙な感覚……。
──早く立ち去ったほうがいい──
そのまま歩いた。
角を曲がると、商店街だ。すぐに消防機具・唐辺≠ニ記した看板が見えた。黄ばんだ看板が、背景から浮かびあがったようにはっきりと見える。
──ここだ、ここだ──
と、納得する。
「ごめんください」
と、ドアを開けた。
男が一人、奥のほうでうしろ姿のまま仕事をしている。私の声は届かなかったらしい。
赤く塗られた消防用具、ヘルメット、銀色のマント、銀色の長靴、ホース、避難梯子……私が想像した通りの品々が棚に並んでいる。気配を感じて、
「なにかご用ですか」
と、男が振り向く。
──昌代の兄さんだ──
一度も会ったことのない人なのに、すぐにわかった。眼と鼻のあたりの表情が昌代によく似ている。
「家庭用の消火器はどれですか」
「普通のご家庭なら二キログラムの蓄圧式でよろしいと思いますよ」
と、笑いながら一番小さな筒を指さす。
──私のことを知っているのだろうか──
親しげな様子でこっちを見つめている。
「あの……以前、大塚のほうでお店をお持ちじゃなかったですか」
意を決して尋ねてみた。
「はい」
「同じ唐辺商会で……」
「父の店です。私もおりましたが」
「そうですか。やっぱり。妹さんがいらして」
「はい」
「昌代さんとおっしゃいました」
「そうです」
「私、昌代さんを存じあげていましたので」
「ああ。田村様でしょ」
と、相手は頷くように言いあてた。
──知っていたのか──
それならば話しやすい。しかし、どの程度のことを知っているのか。
「はい、田村です」
「このあいだもお噂をしてたんですよ」
「えっ」
一瞬、息を飲んだ。聞きちがえかと思った。
──ああ、そうか──
噂というのは……たとえば、昌代の母親が生きていて、その人とこの兄とが話しあうこともあるだろう。
──どう切り出したらよいものか──
戸惑ったすえに、
「昌代さん、お気の毒でした」
と呟いた。
相手はゆったりと笑ってから、
「まあ、亭主と別れて……仕方ないでしょう」
「はあ?」
思考が混乱する。
なんだか様子がおかしい。さっきから周囲の気配に違和感がある。
相手は、そんな私を見つめながら、とどめを刺すように言った。いや、言いかたはなにげなかったが、少なくとも私にはとどめを刺されるように響いた。
「いると思いますよ、今。裏の二階に」
と、横手の出入口のほうに首を向ける。敷地の一部がアパートにでもなっているのだろうか。
「昌代さんが?」
「はい。行ってごらんなさいませ」
「……はい」
かろうじて声が喉を通り抜けた。「お亡くなりになったんじゃないんですか」と言いかけて、それを飲み込んだ。あまりにも馬鹿げている質問だ。不謹慎と思われるだろう。
思考がまとまらない。
たとえば、夢の中で、なにかを掴《つか》まえようとしているのだが、いっこうに掴まえられない。そんなときのあせりに似ている。頭の中に薄い膜がかかったように、はっきりとしない。
──ああ、そうか──
ようやく思考の糸が繋《つな》がった。
昌代の死を知ったのは、たった一本の電話だった。それも見ず知らずの女性からだった。その人は昌代の友だちだと言い、昌代の死を教えてくれた。
それだけの経緯だった。葬儀に出席したわけではない。死亡通知を受け取ったわけでもない。
──迂闊《うかつ》だった──
なんの確認もしなかった。ただ一途に信じてしまった。もしあの電話が嘘だったら……。
──なんのために──
嘘の目的はわからないけれど……。なにかしら悪意があったにちがいない。
──いずれにせよ、今はそんなことを考えているときではない──
やっとのことで、そこまで考えついた。
「どうぞ」
男は横手のドアを押しあけた。
「おそれいります」
ドアをくぐりぬけると、なんと……一面に花が咲き乱れている。いくつもの色彩が地面を埋めつくしている。まばゆいほどに美しい。花の群を割って細い道のむこうに、昌代のすみからしい家が見えた。
大きな窓がある。
磨《す》りガラスの窓だが、窓辺に人が立っているのがわかる。こちらを見ているらしい。走り寄って、
「昌代さん?」
と呼びかけた。われながら声が弾《はず》んでいる。
「はい」
「田村です」
「お久しぶりね」
「一人ですか」
「最近兄が一緒に暮らすようになって」
と、意味ありげに呟く。
昌代は窓に顔を寄せたらしい。うっすらと顔が映る。はっきりとは見えないが、面ざしはほとんど変っていないようだ。
歓喜が胸に込みあげてくる。
──昌代に会えるなんて──
死の知らせを聞いてこのかた、何度も昌代のことを思った。とりとめのない想像だったが、いつも楽しい空想……。もう一つの、あったかもしれない人生……。
「へんてこな電話がかかって来て」
事情を説明しなければなるまい。
「ええ?」
「階段はどこにあるんだ?」
「待って。大切なこと、忘れているわ。あなた、車の中で……」
言われて閃光《せんこう》のきらめきのように私は気がついた。
いや、そうではない。気づいたというのは正確ではない。大切なものを忘れていながら、それがなにかわからない。そんな感覚に似ている。
とっさに思い出した。
──金のブローチ──
車の中に忘れて来た。
それが、なぜこんなときにそんなに大切なのか。
よくはわからないけれど、「あなたにあげよう」と約束した。昌代は「ほしいわ」と眼を輝かせていた。それを昌代の墓に埋めようと思い、車の小物入れに入れて家を出た。たしかそうだった。
──忘れ物は……本当にあれかな──
不安が胸をかすめる。
急いでいま来た道を戻った。風のように走った。
倉庫の並ぶ道。人気のない一画。しかし、すでに四、五人の人影が集まって私の車の中をのぞいている。忘れたのは金のブローチではなかった。
近づいて私も車の中を見た。
シートにうずくまって中年の男が一人、息絶えている。私だ。
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陽の当たる家
一月にしては陽気が暖かい。
春を思わせる明るい日射しがガラス窓を抜けて縁側にさし込んで来る。小さな庭の片隅で南天の実が赤く輝いている。寒椿《かんつばき》は今年は花が少ないようだ。
梅代はガラス戸を開けてシクラメンの鉢を庭石の上に並べた。少しは外気に当てたほうがよい。
今日は土曜日……。夫の啓介はゴルフの練習に出かけた。
──幼稚園もお休みなのかしら──
隣家の娘がピアノを弾いている。明るいメロディがタンタンと聞こえて来る。少し上達したようだ。
新年のあわただしさが通り過ぎて、また同じような毎日がめぐって来た。お正月だからといって家族の少ない家では、格別の趣向もないのだが、やはり多少の気ぜわしさはある。それが終ると、もう暦は月のなかばを過ぎていた。
リビングルームは畳の上に絨毯《じゆうたん》を敷き、洋風のテーブルが据《す》えてある。
「よいしょ」
梅代は安楽|椅子《いす》に腰をおろして、ぬるくなったお茶を口に運んだ。
このひとときがわけもなくいとおしい。
──平穏な生活──
しみじみそれを実感する。
夫は古稀《こき》を迎えた。
梅代自身も今度の誕生日が来れば、六十五歳になる。若い頃はけっして頑健な体ではなかったけれど、今はどこといってとくにわるいところもない。
住まいにも年齢がある。小さな家だが、十坪ほどの庭もあって、年老いた夫婦とよく折りあっている。住む人と住まいとの年齢がちぐはぐでは、やはり生活はやりにくい。
このままさらに年齢を重ねて、つつがない一生を終えることになるだろう。最後には少しは厄介なことも起きるだろうけれど、それは仕方があるまい。
──なにもない、無難な一生だった──
昨今はそんなことをよく考える。簡単なことのようだが、数十年の長さで考えてみれば、思いのほかめずらしいケースなのかもしれない。
──運がよかった──
しみじみそう思う。陽《ひ》だまりに座って感ずる、わけもないいとおしさは、このあたりの思案から来るのだろう。
夫の啓介は誠実で、やさしい人柄だ。仕事もおおむね順調だった。
父も母もよい人だった。とりわけ父には一人娘のせいもあって、よくかわいがられた。父のやさしさは、けっして猫っかわいがりではなく、娘の幸福を深いところで考えてくれるような厚い配慮だった。梅代は前半生で父に愛され、後半生では夫のいつくしみをふんだんに受けた。恵まれた人生と言ってよいだろう。もちろん悩みごとが皆無だったというわけではない。一つ、二つ、すぐにも思い出すことがあるけれど、歳月を経てしまえばそんな出来事も心の底に沈んでしまう。現実に大きな被害を蒙《こうむ》ったわけではない。わり切って考えることもできる。
──和子も生まれたんだし──
いっときは子どもが生めない体なのかと嘆いたが、結婚後十年を過ぎて妊娠を知った。昭和三十四年のことである。一人っ子というのは少し寂しいけれど、ないよりはずっとよい。これもまた性格のよい娘である。
──和子も三十四になるのね──
若い頃の梅代によく似ていると言われる。
和子は子どものいないせいもあって、まだ若々しい。
──もうぼつぼつ子どもを作らなくちゃあねえ──
孫のないのが目下の悩みである。総じて子宝に恵まれにくい一族なのかもしれない。
夫の啓介とは、梅代が十五歳のときに初めて知り合った。父と母と弟と、奉天に住んでいた。早い時期から、
──この人のお嫁さんになる──
と思っていた。
と言うより、啓介は梅代の父の、お眼鏡《めがね》にかなった青年だった。父こそが、
──この男を娘の婿《むこ》にしよう──
と、強く考えていた。
父の意見に逆らうのはむつかしい時代だったし、育った家族の雰囲気もそうだった。それに、梅代自身が啓介を好ましく思っていたし、啓介の気持ちも同様だったろう。そうであるならば、結婚への道筋にはなんの支障もあるまい。十代で婚約……。終戦前後の苦しい時代ではあったけれど、今思い出しても、心が弾《はず》むような、気恥ずかしいような、二人の仲だった。
リビングルームの棚に仏壇が置いてある。二枚の写真が飾ってある。母は人なつこい笑顔で笑っているが、父はいかめしい。
梅代の父は生涯の大部分を軍人として過ごした人だったから、その影響は、人格にも立居ふるまいにも生活のやり方にも、すべて現われていた。とりわけ姿勢に……。いつも背筋をピンと伸ばしてよい姿勢を保っていた。その特徴は上半身だけを写した老後の写真にもよく残っている。
夫の啓介も陸軍士官だったけれど、今はもうりっぱな猫背である。軍人としての年期が父とは大分ちがっていたからかしら。啓介が軍務にあったのは、せいぜい四、五年だったろう。すぐに敗戦を迎えてしまった。それはそれでよいことではあったけれど……。
梅代の母に言わせれば、
「お父さんは軍人には向いていなかったわ。少将くらいにはならなくちゃあ。同期には中将になった人もいるのよ。根がやさしいから」
と、あれは苦情だったのか、それとも褒め言葉だったのか。最後の位は大佐だった。
どんな性格が軍人に向いているのか、梅代にはよくわからないが、なんとなく父は駄目だったろう。そんな気がする。いくらいかめしい顔をしていても、心根のやさしさが頬《ほお》のあたりにこぼれていた。仏壇の写真だって見る人が見ればそれがわかる。荒々しいことは好きではなかった。家族の団欒《だんらん》をなによりも大切なことと思っていた。
ふと気がつくと、南天の枝に尾の長い鳥が来て、実をついばんでいる。このごろよく見かけるが、名前はわからない。
──奉天ではカナリアを飼っていたっけ──
若い将校姿の啓介が、梅代の家に訪ねて来て、陽だまりで巣籠《すかご》を掃除していた。そのそばで梅代が座って手伝う……。そんな光景がつい昨日の出来事のように思い浮かぶ。五十年も経《た》っているというのに……。カナリアはたしか金糸雀と書いたはずだ。あの頃の記憶となると、この文字のほうがふさわしい。
階段を踏む足音が聞こえ、
「おはようございます」
おどけた声と一緒に娘の和子が襖《ふすま》を開ける。和子は、夫の尚雄《ひさお》が海外へ出張しているので、先週から両親の家へ来ている。
「あまり早くはないわねえ。お祖父《じい》ちゃんが生きていたら大目玉よ」
時計の針は十時に近い。
「よく寝たわ。気持ちいい」
和子は人形劇を演ずる劇団に勤めている。保母になるつもりだったのが、途中からコースが変った。劇団の事務いっさいを受け持っている。
「今日はお休みなの?」
「午後からちょっと」
「なにか食べる? お餅《もち》が残っているけど」
「うん」
ポットのお湯を急須《きゆうす》に注《つ》ぎ、まずお茶を飲む。
「お父さんは?」
「ゴルフの練習」
「早いのね」
首をまわして肩の凝《こ》りをほぐしている。
「あの鳥、なにかしら」
「さあねえ」
「食べるの、南天の実?」
「食べてるみたいね」
二人とも縁側に座ってしばらく黙って鳥の仕草を眺めていた。
「ねえ、お母さん、うちの先祖って、山形なんでしょ」
と、和子が首を傾《かし》げながら呟《つぶや》く。
「そうよ。お祖父ちゃんのほうはね。山形の……酒田のあたりで」
「商人だったんでしょ」
「商人って言っても、廻船問屋って言うのかしら。船を使って手広く商売をやってて、代々続いた旧家だったみたいよ」
「やっぱり。近くに温泉ある?」
「さあ? あったんじゃないかしら。どうして」
「朗読を頼まれたの。山形の放送局から」
「あら、本当」
「民話。本当にあった昔話っていうの」
「へえー」
「江戸時代くらいかしらねえ」
そのまま会話が途絶えたが、和子が餅を焼きながら、
「お母さん、生まれ変りって、信じる?」
奇妙なことを言いだした。
「生まれ変り? なんですか、それ」
「よく言うでしょ、輪廻転生《りんねてんせい》とか」
「ああ、あれね」
「とっても変なの。山形放送の朗読で蟹《かに》の恩返し≠チてのを読んでたら、あ、これ、覚えがある。私だわ°}にそんな感じがしたの」
「馬鹿ねえ。前に読んだんじゃないの?」
「ううん。そういうのとはちがうわ。なんかフワーッと頭の中に……。覚えがあるのよ。子どもの頃の写真を見せられて、あっ、そう言えば≠チて、いろいろ忘れてたこと、思い出したりするじゃない。あれとおんなじ」
「朝寝をしたと思ったら、今度は寝ぼけ? 低血圧、まだ癒《なお》らないんでしょ」
和子には子どもの頃からその傾向があった。朝のうちは頭の働きが鈍い。
「低血圧は癒らないけど、本を読んだのはお昼過ぎだもん。びんびん冴《さ》えていたわよ」
「どうだか」
「でも、本当。とっても変な感じだったわ。はじめてよ。ね、聞いて、聞いて」
子どもじみた口調で言う。
人形劇などにたずさわっているせいか、和子にはほんの少し現実離れをしているところがある。
──三十四にもなって──
と梅代は思わないでもないが、
──なにも急いで年を取ることもないか──
少女の心を持ち続けているのも大切なことかもしれない。それに……梅代自身も、
──この世には人の知恵では計り知れないことがある──
と、時折、感じないでもない。
「じゃあ、話してごらんなさいな。聞きましょ」
と、座りなおした。
和子はトースターで焼いた餅に醤油《しようゆ》をつけ、それを海苔《のり》で包んで一口頬張ってから、
「山形放送から届いた本を電車の中で読んでいたのね。そしたら、なんだか頭の芯《しん》のほうからこれ、知ってる。私じゃないかしら≠チて、そんな気が急にしてきちゃったのよ。うん」
と、一つ頷《うなず》いたのは、むしろ醤油餅の味加減を賞味したのかもしれない。
「ふーん」
「若いお嫁さんなの、主人公は。夫は、明日から船を出して遠くの国へ行くのね。だから、ほら、心配じゃない、やっぱり。胸騒ぎがして、夫の身を案じているわけ」
「ええ……」
「そこで蟹を助けるのよ、そのお嫁さんが」
「なんで急に?」
「かわいそうじゃない。村人が獲《と》って来たのね。食べられちゃうわけでしょ」
「大きい蟹なの?」
「どうかしら。沢蟹みたい。川の……」
「寄生虫がいるんじゃないの、川の蟹は」
「わかんない。とにかく蟹がかわいそうだから、それを買い取って逃がしてやるのね」
「まるで浦島太郎ね」
「そう。あれとおんなじ。川に連れてってもう人間になんかつかまるんじゃないよ≠チて逃がしてやって、帰ろうとすると、旅のお坊さんが怪我をしているの。お嫁さんは、お坊さんを背負って近くの湯治場《とうじば》まで連れて行くんだけど……湯治湯って温泉でしょ」
「そうね」
「お坊さんは懐《ふところ》から手紙を出してこれをどうしても明日中に山向こうの村まで届けなければいけない≠チて言うのね。お坊さんは足を挫《くじ》いて歩けないし……」
「困るわねえ」
「でしょう。でも、とても大切な手紙らしいし、お坊さんが手を合わせて頼むものだから、結局、彼女は夫に頼んで、それを山向こうまで届けてもらうの」
「自分で届ければいいのに」
「ううん、それは駄目。赤ちゃんがお腹《なか》にいるんですもの。夫のほうは仲間たちと一緒に船を出すはずだったんだけど、彼一人だけ船に乗らないのね」
「ああ、そう」
「そしたら、その船が難破して、彼女の夫だけが助かるのよ。ああ、あれは、蟹がお坊さんに姿を変えて、恩返しをしてくれたんだ≠チてわかるの」
「よくある話じゃない」
「聞いたことある? 子どもの頃、私に話してくれた?」
「聞いたことはないけど……」
「でも、本当に変なのよ。読んでいくうちにこれ、覚えがある。私よ、たしかに私よ≠サんな気がしたのね。細かいことは思い出せないけど昔、こんなこと、あったな≠チて、感じだけはかなりはっきりと頭のすみに浮かんでくるのよね」
「どうしたのかしら」
「劇団の光枝さんに話したら……彼女、こういうこと詳しいじゃない、そりゃ、もう絶対に前世の記憶だって……」
「そういうこと言う人、いるわね」
「全体はぼやけていて、はっきりしないんだけど、部分的にはひどくはっきりしていてこれはたしかに私のことだ≠チて、それがわかるときがあるんですって。彼女も前にそんなことがあったらしいわよ。光枝さんの場合は京都の近くのお寺で身を売ってたんですって」
「身を売ってたって?」
「売春よ」
「お寺で?」
「お寺って、そういうこと、わりとあったみたいよ。旅の人がお布施をはずむと、尼さんがサービスをしてあげるの。前に読んだことあるわ」
「本当に?」
「本当みたい。光枝さんは千人浄土って言って、千人の男に極楽を味わわせてあげたんですって」
「馬鹿なこと、言うんじゃないわよ」
「でも、それがはっきりわかったんですって。尼さんになって旅人の相手をするのなんか、特別な体験でしょ。考えたこともないのに突然フワーッと来てこれは私だ≠チてわかったんですって」
「人形劇なんかやってるから……」
とんでもない妄想《もうそう》を描いたりするのではあるまいか。
「でも、うちは子どもたちが相手よ。尼さんのサービスなんか出て来ないわ」
「そりゃ、そうでしょうけど」
「で、光枝さんはともかく、私よ。蟹の恩返し≠烽謔ュ似てるのよ。頭の奥のほうからフワーッと湧《わ》いて来て」
「そう言えば、和子、あなた前に蟹を助けたことあったわよ」
と、梅代はとうに忘れていたことを思い出した。
「えっ、私が?」
「そう。代田に住んでいた頃かしら。まだ小さかったわ。魚屋さんの店先に一匹だけ生きた蟹がいて……しばらく遊んでいたんだけど、かわいそうだから逃がしてやりたいって、せがんだの」
「覚えていない」
「海の蟹だから川に逃がしたって駄目だっていくら聞かせても駄々をこねて……結局、その蟹を買ったわ」
「で、逃がしてやったの?」
「一緒に川へ行ったわね」
「帰り道でお坊さんに会った?」
「会うわけないでしょ。でも、そういう昔のことが頭の隅にいくらか残っていたんでしょ」
電話のベルが鳴った。
和子が小走りに寄って受話器をとる。
「もしもし……あ、私」
友だちからの電話らしい。
「平気よ、で、どうしたの?」
親しい友人からの電話なら、長話ときまっている。
梅代は立ちあがり、ガラス戸を開けて庭へ降りた。落ち葉を掃いておこう。
和子にとって、それは本当に不思議な体験だった。不思議な感触と言ったほうがよいかもしれない。母にはうまく話せなかったけれど……多分だれに対してもうまくは話せないと思うけれど、今までに味わったことのない感触が脳裏に急に広がったのは本当だった。
──これ、なんなの──
恐怖さえ覚えた。
なにが恐ろしいと言ったって……いや、恐怖の種類はたくさんあるだろうけれど、自分の頭の中に、理性ではわりきれないものの存在を感ずるのは、かなり怖い。些細《ささい》なことでも、それが鮮明に脳裏に映るとしたら相当に無気味である。
──これって軽い狂気じゃないの──
とも思った。
きっかけは、ただの昔話である。本当にあった話≠ニ銘うっているけれど、根拠はあやしい。
だが、それが突然、
──あなたのことよ──
と、主張し始めた。和子の中で自分自身に起きたことのように感じられてしまった。説明はむつかしい。
そのとき和子は総武線で新宿から水道橋へと向かっていた。空いた座席に腰をおろして放送局から送られて来た本を開く。
──これを読むのね──
民話集の目次で三番目にある物語のページを開けた。タイトルは蟹の恩返し=B
この民話集には山形で本当にあった話≠ニ、副題がついている。蟹の恩返し≠ノは(酒田)と記してある。酒田市あたりで採集された民話なのだろう。
──酒田には前に一度行ったわ──
父方のルーツが酒田と聞いたことがあるけれど、今は親戚《しんせき》がいるわけでもない。和子が行ったのは、五年ほど前、劇団の巡業だった。
劇団の支持者に飛島出身の人がいて……実は山形放送の仕事もこの人に頼まれたものなのだが、
「俺《おれ》、飛島の神童って言われたんだ」
酒田の沖あい四十キロに位置する島である。
「それで、そのくらい?」
「文化果つるところだからなあ」
「わかる、わかる」
巡業の旅は楽しい。
あんなこと、こんなこと、とりとめない旅の記憶を頭の片隅に置きながら和子は蟹の恩返し≠フページに眼を滑らせた。
朗読の仕事は下読みが大切だ。まずサッと読む。そうやって全体の雰囲気を掴《つか》む。人名や地名などむつかしい読みや不確かな読みについては、抜かりなく辞書を引かなければいけない。アクセントを確かめなければいけないし、息つぎのポイントも、意味がよく通るように、滑らかに読めるように、チェックする。
電車の中の作業は、その第一段階のつもりだったが、数行読んだ時点で、奇妙に引き込まれてしまった。引力のような気配を覚えた。
ヒロインの名は、あい、と言う。あいは、若い人妻らしい。夫は明日から船旅に出る。何日も帰らない。
──大丈夫かしら──
ヒロインの不安が和子自身の不安と重なる。和子の夫は営業の仕事でアメリカの西海岸を走りまわっている。アメリカはかならずしも治安のよいところではないらしい。夫の持論は「やっちゃいけないことがあるんだ。それさえ守っていれば、そんなに危険なところじゃないサ」である。
でも、アメリカをよく知っている人に言わせれば「昔はそうだったけど、このごろはちがうわ。昼日中《ひるひなか》、繁華街で災難にあったりしているから」……。過信は禁物。昔の船旅はもっと危険が多かったろう。
──どうか夫の身に危難がふりかかりませんように──
と、いつも心のどこかで思っている。
なにかしら善行を積めば神様の加護が得られるのではあるまいか。
村人が蟹を紐《ひも》で吊《つる》して来るのに出あった。
物語には、さほど細かい情況まで記してあるわけではないのだが、
──山あいのゆるい坂道。道は港のある町へと続いている。川のせせらぎが聞こえる。村人は頬かむりをしている。蟹は紐の先で苦しそうに蠢《うごめ》いている──
情景がパッと和子の脳裏に映った。
めずらしいことではない。
朗読の下読みのときには、いつもイマジネーションを働かせて読んでいるから……。
しかし、あとで考えてみると、そんな作用もいつもとは少しちがっていた。
──蟹がかわいそう──
食べられる運命を知っているのだろう。たくさんの足を必死に動かして苦しみを訴えている。
「その蟹をゆずっていただけませんか」
「買ってくれるのかね」
「はい」
持っているお金を全部はたいて、その蟹を買い取った。
せせらぎの響きが高くなる。川まではそう遠くはない。木の枝をはらいながら川土手を下り川床に出る。小石を踏んで水辺まで行った。紐を解き、
「もう人間になんかつかまるんじゃないよ」
電車の振動の中からふとそんな声が聞こえた。
──私の声かしら──
蟹はうれしそうに水に浸り、それから振り向いて甲羅《こうら》を傾けた。お辞儀のような仕草で……。
──これ、見たことがある──
鮮明にその情景が脳裏に映った。
──どうしたのかしら──
考えるより先に視線が本のページを進む。
蟹は水の流れに身を委ねて泳いで行く。銀色の水が岩のあいまを縫って流れて行く。あいは、そのあとを追って川床を走った。すぐに蟹の姿は見えなくなった。
──どこから登ろうかしら──
川土手の繁みを見通したとき、灰色の衣装が見えた。不自然な姿勢でだれかがうずくまっている。荒い息遣いが聞こえる。近づいて、旅の僧侶《そうりよ》らしいとわかった。川ぞいの高い道から足を踏みはずしたのだろう。
「お坊さん。どうされましたか」
「道をまちがえ、近道を行こうとして足を滑らせてしまった」
「まあ、血が……」
脚絆《きやはん》がまっ赤に染まっている。
その脚絆を解き、傷口を水で洗い、手拭《てぬぐ》いを裂いて血を止めた。
「足を挫いてしまった」
「それはいけません」
とっさによい考えが浮かんだ。川床を少し下れば湯治場へ続くなだらかな道に出る。湯治場へ行けば、だれか治療の心得のある者がいるだろう。
「どうぞ背中へ」
「すまんのう」
僧侶を背中に背負って川床の砂の上を歩いた。よろけながら、休みながら……。ようやくの思いで湯治場までたどりついた。
「ご親切ありがとう」
「どういたしまして」
「申し訳ないが、ご親切ついでに、もう一つ頼まれてくれまいか」
僧侶がそう切り出したのは、一通りの治療を終えてからだった。
「なんでしょうか」
「山向こうの村までどうしても届けなければいけない手紙がある。一刻も早く届けなければならない」
「はい?」
「この体では、とても山越えはむつかしい」
たしかに……。女の足でも越えにくい山道だった。
「はい」
「わしの替りに行ってはくれまいか。なんのお礼もできないが、どうか仏様への功徳《くどく》だと思うて聞いておくれ」
「山越えの道は、けわしくて女の足ではまいれません」
「そうか」
「でも、主人に頼みましょう」
「おう、おう。お内儀でいらしたか。それならば好都合。どうかご主人様にお願いしてくだされ。この通り、お頼みいたします」
掌《て》を合わせて頭を垂れる。
「もったいないことです。頭をおあげください。きっと主人に頼んで届けさせますから。ご安心ください」
あとさきの考えもなく約束してしまった。
家に帰り着いて夫に事情を伝えると、
「困ったな」
と、夫は眉《まゆ》をしかめる。
「なぜでしょう」
「わかるだろう。明日は船出だ」
「でも……」
旅の僧侶と約束したことだった。手紙にはなにかしらとても大切な用件が記されているらしい。
それに……どう説明したらよいのだろうか、船の仲間にそむいてでも、この用件だけは果したほうがよいような、そんな気がしてならない。
夫はしばらくためらっていたが、
「よし、行こう。お前のためにな」
と言って立ちあがった。
その瞬間である。
──この台詞《せりふ》、たしかに聞いたことがあるわ──
と和子は思った。
一字一句、同じ言葉というわけではない。情景そのものに、曖昧《あいまい》でありながら鮮明な……そうとしか言いようのない不思議な記憶があった。
男と女。多分、夫と妻。夫が書状をたずさえてどこかへ出かけて行く。そして男が呟《つぶや》く「行こう。お前のためにな」と……。
言葉だけならば……三十年を超える人生の中で、こんな台詞を聞くこともあっただろう。それほど特異な台詞ではない。実生活でも、人形劇の中でも、充分にありうる。なにとは思い出せないが、こんな意味の言葉だけが奇妙に心に残っているということもありうるだろう。
だが、不思議な記憶は言葉だけではない。情景そのものに……言葉で代表される情景に……いや、情景を交えた概念そのものに記憶があった。その概念を言葉に托《たく》すならば、きっとこんな表現になるだろう、と、そうとでも言うより仕方のない感覚だった。
あえて言えば、夢に似ている。鮮烈な夢を見たけれど、そのことは忘れている。前後の事情はなにもわからない。ただ男と女がいて、こんな意味の会話が交わされた、と、その部分だけが現実と分かちがたいほど強く心に残っている。ちがうだろうか。
夢であればこそ、言葉は音として聞いたわけではない。おおむねそういう内容だったが、一字一句同じというわけではない。音を持たないものについて、一字一句同じ音ということはありえない。同様に、眼に見えない情景について、同じ情景とは言いにくい。夢を見る≠ニ言うけれど、あれは見る≠フではなく、思う≠フだろう。聞きもしないし、見もしないものでありながら、聞こえて、見えて、それなりに確かなものに感じられた。
男のうしろめたさも和子は実感した。そのことは、ほとんど物語の中に書かれていないというのに……。
船で行く旅は仲間たちの共同作業だったろう。廻船の出港のようなものを想定してみればよい。船旅は危険を冒してみんなで行く一蓮托生《いちれんたくしよう》の小社会だった。仲間同士の堅い結束を必要とするものだったろう。そんな情況にありながら、
「俺は行かない」
出航の前日になって同行を拒むのは、仲間たちに対する裏切りであった。裏切りとまで言うのは不適当かもしれないが、うしろめたさなしではできないことだったろう。
──変ね──
さらに読み続けた。
──あっ──
うしろめたさの理由がすぐにわかった。
船は米や紅花《べにばな》を積んで若狭へ向かう。港を出て三日目、季節はずれの疾風《はやて》に遭い、あえなく沈没した。その噂《うわさ》が届いた。あいの夫だけが生き残った。
──よかった──
物語は蟹がお坊さんに姿を変えて恩返しをしてくれたのでしょうか≠ニ結んでいるが……かすかに釈然としない。
──手紙はどんな用件だったのかしら──
それが説明されていない。
生き残ったのは結構だが、うしろめたさの度合は手紙の持つ意味あいによってずいぶんちがってくるだろう。早い話、山向こうの村人を全員危難から救い出すような内容なら、バランスがとれている。あと味がわるくない。
しかし、このあたりが昔、本当にあった話≠フ真骨頂《しんこつちよう》なのかもしれない。現実というものは、そうそうバランスよく運ぶものではないのだから。
──お坊さんはどうなったの──
想像はつくが、そのことにも物語は触れてなかった。
だが、そうした思案とはべつに、
──私のことみたい──
納得のいかない感覚が心に残っている。
思い当たるものはなにもない。夢かもしれないが、そんな夢を見た記憶はどこをどう捜しても見つからない。
気がつくと電車が水道橋駅に着いていた。
「それが前世なのよ」
光枝はスパゲッティを巧みにフォークに巻きつけながら即座に断定した。
光枝とはさほど親しい間柄ではないけれど、時折、誘いあって夕食を一緒にとる。
「前世?」
「あなた、酒田の出身だって言ってたでしょ。そのお話、酒田なんでしょ」
「出身てほどじゃないわ。父方のルーツが酒田あたりらしいって……」
「そのお話も昔のことじゃない。合ってるじゃない」
「でも……」
和子はミートソースの汚れをナプキンで拭《ぬぐ》った。
「頭の中にフワーッて湧いて来たんでしょ。これは覚えがある、私のことだって」
「まあ、そんな感じね」
「それがそうなのよ。前世の記憶がほんの少し残っていることがあるのよ。それが突然浮かんで来るの。私もそうよ」
「いつ?」
「ずいぶん前よ。放送劇をやってた頃。京都の大原から琵琶《びわ》湖のほうへ抜ける道を歩いていて、あ、ここ知ってる、って急に思ったわ。初めてのところなのにね。どんどんわかってくるの。尼寺があったのね、昔。そこで私は尼さんだったの」
「本当に?」
「尼さんかどうかわからないけれど、尼寺にいたんだから、そうじゃない」
「ええ……?」
「千人|斬《ぎ》りって、知ってるでしょ。おじさんたちがよく言ってるじゃない」
「プレイボーイの話?」
「そう、現代風に言えばね。女の人を千人、ものにすること、そう言うじゃない」
「ええ」
「その反対を千人浄土って言うんですって。男の人千人に対して、極楽の思いをさせてあげるからよね、きっと。私は、それをやってたらしいの」
「尼寺で?」
「昔の尼寺って、そういうとこ、あったみたいよ。旅人を泊めて、サービスをしてあげて」
「聞いたことある」
「そんな突拍子《とつぴようし》もない経験が、急に自分のこととして頭の中に浮かんで来たのね。まったく覚えてないもの。当たり前だけど」
「ええ……」
光枝は男性関係の少ない人ではないけれど、それとこれとではおのずと性質が異なっている。
「輪廻転生ってのは絶対にあるのよ。モーツァルトなんかもそうね。伝記を読んでいて、そう思ったわ。前世で恵まれなかった音楽家ね。それが生まれ変ったの。それでなきゃ、あんなに幼いうちから、あれほどの才能を発揮できるわけないでしょ」
「だれだったの、前は?」
「名もない音楽家よ。名が出なかったから、その執念が強く残っていたのよ」
「なるほどね」
和子は曖昧《あいまい》に頷いた。
光枝の話は飛躍がありすぎる。納得のできるものではないけれど、
──さっきのは、なんだったのかしら──
電車の座席で感じたものは、日常的な説明で合点《がてん》のいくものではなかった。前世の記憶が甦《よみがえ》るとしたら、あんな感じかもしれない。
テーブルにコーヒーが運ばれて来て、
「話、変るけど、あなたのお父様、軍人だったんでしょ」
光枝が尋ねる。
「ええ。そうだけど」
「うちの亭主が推理小説を書いてて、昔の軍隊のこと、知りたいんですって。取材させてもらえる?」
「あらかた忘れてるみたいよ。めったに話さないし」
「でも素人《しろうと》とはちがうでしょう」
「そりゃそうでしょうけど……。昔のこと、あんまり話したがらないし」
「やたら自慢話する人もいるのにね」
「ええ……」
光枝に家の中まで入り込まれるのは、考えものだ。ちょうどレストランのドアが開き、
「やあ、今晩は」
光枝の知人が入って来た。
光枝が立ちあがり、和子は一人で残りのコーヒーをすすった。
暦を見ると、一月ももう残り少ない。あと五日……。月日の経つのが速いことにはいつも驚かされるけれど、一月は格別に速い。
梅代はお湯を沸かし、熱い番茶をいれた。夕食のときに食べた天ぷらの油が少し口に残っている。さつまいもの天ぷら……。
──昨日はおいしかったんだけど──
電子レンジで温めると、油が浮いてしまう。
夫も和子もまだ帰らない。
梅代はコントローラーを取って、テレビのチャンネルを九時のニュースに変えた。秋田犬のような面ざしのアナウンサーが出生率の低下を告げている。それを見ていると、
──産めよ殖《ふ》やせよ≠ネんて言われた時代もあったのに──
独り笑いが込みあげて来る。若い頃にはよくからかわれたものだった。「梅代だなんて、いい名前ですねえ。りっぱな子どもをたくさん産んでくださいよ」などと。赤い顔をして睨《にら》み返していた。
──それなのに、たった一人しか産めなくて──
奉天にいたのは三年あまり。女学生だった。大きな町のはずなのに、実際に生活を営んでいた地域は限られていた。自宅と学校のあいだを往復し、それからピアノの先生の家へ通う。日本人の居留地は奉天駅の周辺に集まっていた。駅前の広場と、それをとり囲むビルの様子は今でもそっくり思い出すことができる。大和館、満鉄病院……現地の人の住居は土塀に囲まれ、いつも、家畜の匂いが漂っていた。高梁《こうりやん》畑に落ちる夕日はとても大きい。雄大でありながら、どこかもの悲しかった。
「さようなら」
「またいらっしゃい」
幅の広い車両。どこまでも続く長いレール。昭和二十年の三月に大連経由で帰国した。母と弟と三人だけの旅だったが、船室はホテルのように豪華だった。
「お父さんは帰れないんだよね」
「ご奉公があるんだから、無理よ。啓介さんも」
「啓お兄ちゃんに会いたいなあ」
啓介は牡丹江《ぼたんこう》付近を警備する部隊に配属されていたが、一年前までは奉天にいて、父直属の部下だった。家族に近い存在だった。弟もよくなついていた。
「お手紙書きなさいよ」
「うん」
敗戦のことなど、想像すらしていなかった。けれど、戦局は急速に悪化していたにちがいない。
あとで知ったことだが、八月に入り、啓介が軍令をたずさえて平壌へ飛ぶ。現在のピョンヤンである。それを追うようにしてソ連の参戦。そして日本の敗戦。平壌まで来ていた啓介の引揚げは早かった。
──運がよかった──
元気な姿で帰って来た啓介を見てそう思った。
父の帰国は二十二年の秋だった。終戦後の混乱期は生きるのに必死だった。父は追放され、しばらくは庭の片隅を畑に変えて野菜作りに精を出していた。啓介は……闇屋《やみや》のような仕事に手を染めていたらしい。
昭和二十三年に結婚。家の八畳間にみんなが集まってご飯を食べる、ただそれだけの披露宴だったが、夫婦の幸福は宴会の華やかさで計れるものではあるまい。
「赤飯はやめよう。白いご飯がいい」
混ぜものは、もうこりごりだったのである。あれから四十年たっても梅代は赤飯を作るたびにそれを思い出してしまう。
表で車の止まる音が軋《きし》み、夫かと思ったら、
「ただいま」
和子が帰って来た。
「車?」
「学《がく》さんに送ってもらったの」
「ご飯は?」
「もうすんだ。お番茶、いい匂いね」
キッチンへ入り込み、お湯を熱くしてから、
「お母さんは?」
と、土瓶をかかげる。
「ええ、ちょうだい」
テレビは外国のドラマに変っていた。
「光枝さんのご主人がね、昔の軍隊のこと、聞きたいんですって、お父さんに」
「忘れたでしょ、もう」
「そうよねえ。私もそう言ったんだけど」
しばらくは見るともなしに母娘《おやこ》でテレビの画面を見つめていた。
「朗読、終ったの?」
「うん。四谷のスタジオで入れたわ」
「そう」
「あれ、私の前世じゃないかもしれない」
「まだそんなことを言ってんの」
「だって、とても変な感じだったのよ。フワーッと湧いて来て。あのサ、お母さん、夢十夜≠チて知ってる? 夏目漱石の。愛読書だったんでしょ」
「漱石は昔、よく読んだけど」
「夢十夜≠ヘ?」
「読んだと思うわよ。どうして」
「その中にあるんですって。学さんが言ってた」
「学さんて、だれ?」
「劇団の中谷さん。今日送ってくれた人よ。なんでもよく知ってるから、学者の学さんなの」
「そうなの」
「で、漱石の夢十夜≠セけど、ものすごく怖いお話があるんですって。子どもを背負って田舎道を歩いていくの。眼の見えない子なんだけど、なんでもよくわかるのね。今に鷺《さぎ》が鳴くとか、石が立ってるとか、行く先は左手の森のほうだろうとか、大人びた口調で言うのよ。その通りのことが起こるの。で、最後にここだ、ここだ、杉の根のところだ≠チて。そう言われて思い出すのね。百年前のこんな暗い晩に、この杉の木の下で自分が眼の見えない人を殺したって。とたんに背中の子が石地蔵みたいに重くなるの。学さんたら、運転しながら低い声で話すんだから」
「そう言えば、あったわね、そんなのが」
梅代は記憶の糸をたぐった。
夢のような話が十話あったと思うのだが、あれはまさか漱石が本当に見た夢ではあるまい。
「前世の体験みたいだけど、そうじゃないんですって。学さんが言うのよ。あれはね、遺伝なんですって」
「遺伝?」
「そう」
和子はしたり顔で頷いてから、
「形態の変化は遺伝しないけれど、学習の内容は遺伝する、って、そういう学説があるんですって」
「わからないわ、むつかしくて」
梅代は首を振った。
「そんなにむつかしくないのよ。モルモットの尻尾《しつぽ》をいくら切っても尻尾のないモルモットは生まれて来ないわ。これが形態の変化のほうよ」
「かわいそうねえ。モルモットはいつもそんなことされて」
「でも右のほうへ行くと、電気がピリッとする巣箱に入れてモルモットを何代も飼い続けると、とうとう右には行かないモルモットが生まれるの。学習の内容が遺伝したわけ。ねえ、お母さん、心当たり、ない?」
「なにに」
「蟹の恩返し=Bわりとうまく読めたわ。聞いてみて」
和子がバッグの中から小型のテープレコーダーを取り出してスウィッチを押す。
「むかし、山形県の酒田あたりで本当にあったお話です」
と、小さな箱の中から和子の声がこぼれ出る。
「あなた、機械に入れたほうがいい声になるわね」
「やっぱり? みんながそう言う」
梅代は聞くともなしに娘の声を聞いた。
テープが中ほどまで進むと、和子が、
「ねえ、覚え、ない? お母さんが体験したことが私の中に遺伝するの」
と覗《のぞ》き込むようにして尋ねる。
「ううん」
かすかな胸騒ぎを覚えた。
テープが終り、玄関に靴音が響き、夫が帰ってきた。
翌朝、八時過ぎに和子はあわただしく家を出て行った。夫は朝早くからゴルフの練習だ。
梅代は一人、陽だまりにすわり込む。ガラス窓を抜ける日射しは暖かいが、外は風が冷たい。シクラメンの鉢を出すのはやめておこう。
梅代は煎茶《せんちや》をすすりながら庭を眺めた。
──平穏な生活──
このままなにごともないままに無難な一生を終えることだろう。
思案がゆっくりと遠い昔へ移っていく。
──和子が言ってたけど──
モルモットの尻尾を切る話はよくわからない。むしろ梅代としては胎教のようなものを感じてしまう。母親の強い思いが胎児に移ることはないのだろうか。
敗戦直後、梅代は母と弟と三人で母の実家に身を寄せていた。それまではあまりつきあいのなかった叔父叔母《おじおば》や従兄弟《いとこ》たち……。苦しい時代だったから、みんなの心がささくれだっていた。結婚前の啓介が食糧や放出物資を持って訪ねて来てくれるのが、なによりの楽しみだった。娘の婚約者なのだから……。母にも弟にも、啓介はよく気を配ってくれたと思う。
昭和二十二年の秋に父がすっかり痩《や》せこけて引揚げて来た。体の回復まで一年近い日時がかかった。心の回復までにはもう少し時間が必要だった。
それでも二十三年の春には、梅代は啓介と結婚し、新しい生活が始まった。
なかなか子どもが生まれない。
「だれかの恨みかしら」
冗談まじりにそんなことを呟いたこともある。
「覚えがあるのか」
「ううん、なにもないわ」
生活が落ち着くにつれ、疑惑が生まれた。きっかけは思い出せない。なにかしら噂が耳に入ったのだろう。疑惑は長い日時をかけてゆっくりと脹《ふく》らんだ。そして、ちょうど和子を身籠《みごも》る頃に、暗い疑惑はゆるぎないものとなって梅代の心を苦しめた。
昭和二十年の八月……。
──啓介はどうして牡丹江付近の最前線から退いてきたのかしら──
もちろん軍令による任務の遂行だったろう。しかし、あのとき梅代の父は関東軍の中枢部にあって、なにかしら特別の情報を得ていたのではあるまいか。戦局は極端に悪化していた。ソ連軍は国境付近に厖大《ぼうだい》な軍隊を集めていた。
──啓介に梅代たちを托そう──
父自身は死を覚悟していただろう。
数日後、ソ連が急遽《きゆうきよ》参戦し、黒竜江を越えて攻め込む。すでに弱体化していた関東軍はひとたまりもない。到るところで敗退し、啓介の所属した部隊は綏芬河《すいふんが》付近で一兵も残さず戦死した。戦後何年たってもだれ一人として、この戦線で生き残った者の消息はなかった。
──運がよかった──
しかし、それだけのことだろうか。
疑惑はそこに始まり、長い日時を経て、一つの確信に到達した。細かい事情はなにもわからない。ただいくつかの厳然たる事実が残った。啓介が生き残り、戦友たちはすべて死んだ。父はいち早く戦局を察知しうる立場にあったし、なにかの方便で将校を一人、最前線から平壌へと移すことができた……。少なくともその可能性は皆無ではなかったろう。
父はなにも語らずに死んだ。
啓介もまたなにも語らない。しかし、うすうすと感ずることはあったにちがいない。にもかかわらず、そのことは妻にさえもひとことも語らない。今日に到るまで、ただの、ひとことも……。
父は公正で、正直で、思いやりの深い人だった。生涯を通じて、そうだった。長年近くで見ていれば、見まちがうことはない。
夫もまた同じように公正で、正直で、思いやりの深い人格である。これも五十年近く連れそって、よく知っていることである。
──だれかの恨みをかっているのかしら──
いっこうに子どもに恵まれない時期には、梅代はわけもなくそんなことを思った。皮肉なことに妊娠を知ったときに、
──恨まれて当然──
疑惑は頂点に達し、激しい恐怖を覚えた。
──健康な子どもが生まれるだろうか──
そんな不安にもさいなまれた。
恨みなどという、なまやさしいものではあるまい。大勢の男たちが恨むいとまもなく死んでいった。小さな謀《たくら》みの存在さえも気づかなかったろう。知らなければ、恨むこともできない。恨むことさえできずに死んでいった多くの兵士たちには、それぞれの家族がいた。その家族たちも、小さな謀みは知るまい。
──それでいいのかしら──
家族たちは多くの悲しみと苦しみを背負った。
公正な父。公正な夫。
しかし、いつか、どこかでこの知らない恨みが現われないものだろうか。
──現われなければ、この世はあまりにも理不尽だ──
そんな気がしてならなかった。わけのわからない恐怖の理由もそこにあった。とりわけ和子が胎内にあったとき……。恐ろしい夢を見て夜中に跳び起きたこともあった。
健康な女の子が生まれた。
健康に育った。
なにも不幸は起こらなかった。
しかし、あのとき、異常なまでに感じた恐怖はどこかに痕跡《こんせき》を残さなかっただろうか。蟹の恩返し≠ヘたわいのない昔話である。
──わりと上手ね──
和子の朗読を聞くともなしに聞いていたが、途中から不安を覚えた。不安は少しずつ深まった。恐怖は形を変えて胎児にも伝わったのかもしれない。
胎児の記憶が……理不尽な記憶が、似たような物語とめぐりあって、
──私のことだわ──
と感じたのではなかろうか。
物語の中の夫は「よし、行こう、お前のためにな」とその妻に呟いたとか。和子はその声に聞き覚えがあると言って首を傾《かし》げていた。
梅代は、そんな言葉を啓介から聞いたわけではない。だが、啓介の心の中には、そんな言葉が鳴り響いていただろう。それを若い梅代は胎児とともに心で聞いていたのかもしれない。あのとき啓介は、仲間を裏切って父の講じた策に従ったのではなかろうか。梅代のために……。お前のために……。少なくともあとでそのことに気づいただろう。
──なにごともない、無難な一生──
公正な父。公正な夫。平穏な生活。このまま人生を閉じることはまちがいあるまい。
尾の長い鳥が来て、今日も南天の実をついばんでいる。日射しが暖かい。梅代は耳を澄ました。
──なにかしら──
表通りを大勢の人が歩いている。
ザクザクザクと遠ざかっていく。いつまでもそれが聞こえた。
──あれは軍靴の音──
玄関の戸が開いて、
「ただいま」
夫が帰って来た。夫一人が帰って来た。
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青と赤の二人
なぜ私がそんな考えに取り憑《つ》かれてしまったのか、自分でもよくわからない。
幼い頃に聞いた童話のせい……。
──そうかもしれない──
なにとは思い出せないけれど、そんな不思議な童話を聞かされ、それがほんの少しだけ頭のかたすみに残っていたのではあるまいか。
考えの背後には、とても曖昧《あいまい》な感触がある。
ある日、その感触を覚え、それに引きずられるようにしてその考えが芽生えた……。
いつから?
それもよくわからない。
四、五年前にはなかった。
一、二年前にもなかった。
そう、やっぱりこの部屋に住むようになってからだろう。それもここ二、三カ月のうち……。ちがうだろうか。
去年の秋、長年住んでいた広尾の家を改築することになり、両親は一時的に鎌倉の奥へ引越した。
「お前はどうする?」
と、父に聞かれ、仕事がら私は都心を離れたくない。
たまたま麻布十番の裏手に、適当な貸しアパートが見つかり、
「三、四カ月だろ? じゃあ、部屋でも借りるよ」
と、生まれてはじめて独り暮らしをすることになった。ささやかながら私にとっては新しい体験である。生活の中にいくつかの発見がなくもなかった。
意外なことに都心部にも結構さびしいところが残っている。商店街から坂を登り、坂をくだり、谷のような一郭《いつかく》。ガレージの二階にたった一つだけ1LDKのアパートがあった。家主は坂の途中に大きな屋敷を構えている。老夫婦が二人だけで暮らしている。ガレージの二階という構造から考えると、かつてはおかかえの運転手の住居だったのかもしれない。きっとそうだろう。今は車もなく、そのスペースは物置きに使われている。裏手の木戸を境にして主家の庭へと繋《つな》がっているのだが、木戸の錠前《じようまえ》も錆《さ》びついているから、めったに人の出入りはないようだ。前の道は袋小路になっていて、まるで世を忍ぶ人の住まいみたい。訪ねて来るのは新聞配達の人くらいである。この地域の新聞配達は……なんと、中年のおばさんだ。人手不足のせいかな。ちょっと肥《ふと》っているが、Gパンをはいて、威勢がよい。しかし、そのおばさんとも、せいぜい月に一回、集金のときに顔をあわせるくらいのものだった。
私はべつに世を忍んでいるわけではない。
ただ、ほんの少し、世間の人とは変った生活を営んでいる。夜出かけて朝帰る。泥棒じゃないよ。ラジオ局で深夜の番組を担当しているから。夜通しでパーソナリティを務めている。
普通の勤め人とは正反対の生活時間。日中はおおむね眠っているわけだから、静かな環境は大歓迎だ。よい部屋を見つけたと思った。
食事はほとんど外食ですますが、まれには自分で作る。とはいえ、ご多分に漏れずコンビニエンス・ストアで求めたファスト・フードのたぐいを電子レンジで温める程度だ。ピザ、ハンバーグ、トースト。コーヒーをいれるのは広尾の家にいたときから私の仕事だった。
キッチンのガラス窓から、向かいの家が見える。
この家も大きい。
とにかく庭が広い。冬だというのに鬱蒼《うつそう》と木々が繁っている。枝を広げ、褐色の葉を重ねている。枝にはこれまた褐色の蔦《つた》がからんで、手入れがゆきとどいていないことは、ひとめでわかった。
高い石塀で囲まれているが、キッチンの窓から斜《はす》かいに見えるあたりに裏門があって、そこの押し戸だけが新しい。ペンキは素人《しろうと》が塗ったものだろう。表札は西野。曲がった釘《くぎ》で打ちつけてある。
私が引越して来てすぐにこの家で葬式があった。それより少し前にも葬儀があったらしい。
「ご不幸続きで、お気の毒ねえ」
「どうなさるのかしら」
「お子さんがたも大きくなっていらっしゃるんだから」
小耳に挟んだ噂《うわさ》から察すると、西野家は四人家族だった。まず父親が交通事故で亡くなり、それを追うようにして長く患《わずら》っていた母親が死んだ。残された子どもは男と女。二十代のなかばくらい。二人とも勤めている。毎朝、前後して裏門からあわただしく出かけていく。
この二人の両親ならば、六十前の死ではあるまいか。七十に近いということは想像しにくい。当節としては、ずいぶん早い死に属するほうだろうけれど、
──どの道、親は先に死ぬんだし──
と私は思った。多少の早い遅いはあっても、結果は似通っている。むごい言いかたかもしれないが、世代交代は自然の摂理である。いたいけな幼児を残してというのならともかく、遺族はもうりっぱに成人しているのだ。それぞれが配偶者を見つけて、自分たちの家族を作っていけばよい。
それに……都心にあれほどの屋敷を残してもらって、
──いい身分じゃないか──
と、思わないでもない。
不幸は不幸として、兄妹の前途はさほど暗いものではあるまい。惨めになるようなら、それは当人たちの責任だろう。世間にはもっとひどい不幸がいくらでも転がっている。
時折、見かける兄妹のうしろ姿からは、
──その通りよ──
と、わけもなくそう思っているように感じられた。母親は長く患っていたということだし、若い二人には、重荷をおろしたような気分もあったのではなかろうか。
とはいえ、私もそれほど深くこの兄妹に心を向けていたわけではない。私にとってはどうでもよいことである。あえて言えば、
──いつも日中は留守なのか──
窓越しに大きな庭を見つめて、無用心の状態に少し不安を覚えていたくらいのものである。それとても、けっして強い関心ではなかった。
──どうしたのかな──
そう訝《いぶか》ったのは、多分、二カ月ほど前の朝だったろう。たしか正月の休みを過ぎていた。わりと暖かい日だったような気がする。
朝九時過ぎ……。私はいつものように七時頃家に帰って、コーヒーを沸かし、朝刊を広げた。キッチンに立っていると、どちらが先かはともかく、たて続けに眼下の門の押し戸が開いて兄妹が出て行った。それだけは確かに見たと思う。いつもあとに出て行くほうが鍵《かぎ》をかけるのだが、それは毎朝のことなので、その朝どちらが鍵をかけたのか、その情景についてはなにも心に残っていない。とにかく、それから少したって、私がコーヒー・カップを洗い場に戻しに行ったとき自転車が二台、裏門より少し離れた位置に置いてある。まるでだれかが西野家に訪ねて来たみたいに……。青と赤の自転車が石塀に沿うように並んでいた。
だれもいないはずの家なのだから、不思議と言えば不思議である。鍵もかかっているはずである。
もちろん、さまざまな事情が考えられる。
出て行った兄妹のどちらかが、私の知らないうちに帰って来たのかもしれない。曜日の記憶はないが、とにかくウイークデイだった。しかし休暇をとることもあるだろう。さっきは出勤姿のように思ったが、私はそれほどよく見たわけでもない。
あるいは、留守中に、
「だれもいないけど、入っていいわよ」
知人に鍵を渡すとか、親戚《しんせき》に合い鍵を預けてあるとか、なにかしらあらかじめ約束があって、二台の自転車が訪ねて来たのかもしれない。
それに、自転車はかならずしも西野家を訪ねて来た人のものとは限らない。むしろ私がとっさに考えたのは、
──捨て自転車かな──
と、このほうだった。
あちこちで社会問題になっている。今まで使っていた自転車が不用になると、平気で人気《ひとけ》ない路上や空地に放棄してしまう。無責任このうえない。一台が置かれると、
──ここが捨て場かな──
と、まさかそう思うわけではあるまいが、みんなで渡れば怖くないの心境、二台、三台、四台と同じように放置されて、たちまち収拾がつかなくなる。まだ充分に使える自転車が雨ざらしになって錆びている姿はいたましい。
──ひどいなあ──
ものをこんなに粗末に扱ってよいものか。文明の荒廃をさえ感じてしまう。
窓から見える二台は、青と赤の車体を輝かせて、まだ新しい自転車のようだ。よくはわからないが、少なくとも古くはない。生きて走っているものが、ちょっと小休止をとっているような、そんな気配を漂わせている。やっぱりだれかが乗って来て、一時的にそこに置いたのだろう。
かならずしも西野家へ来た人とは限らない。この近くに用があり、なにかの理由で、この袋小路の奥へ自転車を置いたのかもしれない。
青い自転車は男性用、赤い自転車は女性用。断定はできないが、そんな気がする。石塀に寄せて、あい前後して同じように置かれているところを見ると、べつべつにやって来たものではなく、二人連れではあるまいか。
──人眼を忍ぶ恋かな──
とりとめのない想像を描いたが、長く気にかけることではない。すぐに忘れた。
午後の三時すぎ、小用に起きたときには、そのままの位置にあったけれど、夜、出勤のときには消えていた。
──捨て自転車じゃなかった──
安堵《あんど》を覚えたのは、毎日眺める窓辺の風景に自転車の墓場ができてしまってはやりきれない。そんな心配があったからにちがいない。
その後もときどき自転車を見かけた。
いつも二台。いつも青と赤。同じ自転車と思ってよいだろう。
わけもなく気がかりで、少し注意して観察をしていると、ほとんど毎日、自転車は来ているようだ。止める位置は少しちがっている。窓から見えないときもある。だが、いずれにせよ朝来て、夕方帰る。朝は八時と九時のあいだ。夕方は、五時と六時のあいだ。これにも多少のちがいがあるようだが、おおむねそんな時間帯が推定できた。サラリーマンの勤務とよく似ている。
しかし、依然として目的はわからない。
──どんな人たちかな──
当然、それを考えてしまう。自転車はよく見かけるのだが、それに乗っている人となると、いっこうに見当たらない。
二人の男女は、どこからか乗って来て、石塀の脇《わき》に自転車を置き、そして、この近所のどこかへ行くのだろう。夕刻はその逆の行動……。
西野家の妹のほうが押し戸に鍵をかけて出るのを見た。二時間ほどのち……その日も自転車はあった。合い鍵を持っていなければ、自転車の男女は西野家へ入ることはできないはずだ。
──どこへ行ったんだ──
当初はぼんやりとした観察だったが、少しずつ興味が募《つの》る。気を入れて調べたくなる。
とはいえ、私も仕事を持つ身である。部屋へ帰ったときは、眠らなければならないし、生活のペースを崩してまで事情をさぐることではあるまい。
それでも、自転車のそばまで行って、どんな自転車か、一応は調べてみた。色あいはすでにわかっている。くすんだ青と、ピンクに近い赤。車輪の大きさは同じだが、車体の様子から見て、赤いほうは女性用だろう。どちらも新品ではないが、そう古くもない。乗り始めて一年くらい経《た》ったところ……。同じように古びているから、同じ時期に、
「俺は青にする」
「じゃあ、私は赤」
一緒に乗ることを前提にして入手したのではあるまいか。鍵はかけてあるが、名前とか住所とか、あるいは電話番号とか、持ち主を特定する手がかりはなにもない。
──わからん──
私は首を振った。
二人はいつやって来て、いつ立ち去るのか。おおよその時間は見当をつけたが、その現場を見つけるチャンスがいっこうにやって来ない。
コーヒーを沸かしながら窓の外を見る。
自転車はない。
そして、数分後、ヒョイと見ると、自転車がひっそりと置いてある。
──しまった──
言うまでもなく、この数分間のうちに二人はやって来て、どこかへ行ったのだろう。
あるいは、これとは逆に、夕刻、
──まだいるぞ──
自転車を見て、しばらく注意をしているのだが、なんの変化も起きない。
──今日はどうしたのかな──
ほんの二、三分、眼を離すと、
──えっ、そんな馬鹿な──
もう自転車は消え去っている。
意地になって三十分あまり注視していたが、このときも、見ているときには二人は現われず、ほんの一瞬、窓辺を離れると、もう自転車はなくなっていた。
──どういうことなんだ──
私をからかっているのではあるまいか。そんな馬鹿げたことまで考えてしまう。
それとはべつに、ある日の午後、西野家の裏門がほんの一センチほど開いているのに気がついた。
──鍵をかけ忘れたのだろうか──
そうではあるまい。やはり自転車の二人が合い鍵を持っていて、押し戸の中へ吸い込まれて行ったのだろう。
そう思った理由は……と言うより、そのことを確かめたくて、私は二、三度、留守であるべき家の木戸を押してみた。自転車があるときには、きまって扉が開いた。鍵はあいていた。
さらに四、五日たって、偶然、思いがけない風景を目撃した。ある夜、西野家の兄が押し戸の鍵を開けている。留守宅に帰って来たのだから、そうしなければ家に入れない。当たり前の行動だが、その日の午後、押し戸の鍵ははずされていたのである。私はそっと確かめたから知っている。
となると……自転車の二人は、兄妹が家を出たあとにやって来て、鍵をあけて中へ入り、そして数時間を屋敷の中で過ごしたのち、鍵をかけて帰って行く、そんな行動が想像されてくる。
──なんのために──
西野家の兄妹に頼まれて、その了解のうえで、たとえば留守番をするとか、家の中でなにか仕事をするとか、そういうことなら当然そんな行動をとるだろう。合い鍵を作るのはやさしい。これが一番ありうべきことだが、
──本当にそうかなあ──
私は釈然としなかった。
私はこの二、三カ月のあいだに何度も西野家の兄妹が出入りする姿を見ているのである。ところが自転車の二人のほうは一度も見ていない。
おかしいではないか。
どちらも門を出入りする≠ニいう点においては同じような行動である。確率の法則が等しく作用するものなら、こんなことはありえない。兄妹を見るのと同じように、自転車の二人を見るはずではあるまいか。
──そうとも限らないか──
兄妹はべつべつに家に出入りする。自転車の二人は一緒に行動しているだろう。見られるチャンスは兄妹のほうが二倍多い計算になる。
それに……私自身の行動のリズムと兄妹の行動のリズムとが偶然似かよっていて、それでよく見るということもあるだろう。ウイークデイの行動なんて、だれしもが類似のスケジュールで動いている。電車の中でも毎朝会う人がいたりするものだ。いつも同じ食堂で食事をする人がいるものだ。
だが、それにしても、一方は何度も見て、一方は一度も見ない、という現実は納得がいかない。
ほかにも不思議なことがある。休日には自転車はけっしてやって来ない。兄妹がいないときに限って自転車は石塀に寄りかかっている。兄妹がいるらしいときには、けっして自転車は現われない。ちがうだろうか。
私が奇妙な考えに取り憑かれたのは、この前後からだったろう。
どう説明してよいのか……むつかしい。
たとえば、昼と夜のように、一方が存在しているときには、一方は存在しない。同じ空間を占めていながら、おたがいにまみえることがない。そんな関係を考えてしまう。
──兄妹は自転車の二人を知らないのではあるまいか──
この想像は少し無気味である。留守中にやって来て、留守中に帰っていく。自転車の二人は、紙の裏表のように兄妹とは交りあわずに独自の生活を営んでいる……。
ひっそりと置かれた自転車は、そんな想像にこそふさわしい。そして、その二人の姿が見えないのは、
──魔性《ましよう》のものだから──
そんな気配を感じて……それをさぐり当てたような気がして、私はかすかな恐怖を覚えた。
たとえば外出から帰って来て、
──変だな──
そんな感触を覚えたことがないだろうか。
部屋の様子は少しも変っていないのだが、どことなくおかしい。留守中にだれかがこの部屋に入って、一定の時間を過ごしたのではあるまいか、そんな気がしてならないときがある。
本当にだれかが来た場合もあるけれど、それとはべつに、奇妙な感触だけで終るケースがけっしてまれではない。部屋のどこを捜しても、はっきりとした証拠は現われない。
──勘ちがいだったらしい──
と、最後は理性の判断に譲ることになるのだが、二度、三度と同じ感触を覚えたとなると納得がいかない。無気味である。
私はどうかしていたのかもしれない。さびしい環境で、はじめて一人だけの生活を営んでみて、心が微妙に揺れていたのかもしれない。
ぼんやりとしたイメージが浮かぶ。
私は少年だった。
少年は自分の部屋を持っている。少年は毎日、きまって学校へ行く。帰って来ると、いつも、
──だれか来た──
そんな感触につきまとわれる。
先に幼い頃に聞いた童話のせい≠ニ書いたのは、このことである。なんだか頭の隅にうっすらとそんなイメージがぶらさがっている……。私は少年だった≠ニ書いたけれど、これは、あまり正確ではない。少々説明が必要だろう。童話の主人公なら、きっと少年だろうと、勝手に想像しただけのことだ。
つまり、童話を聞くとき、子どもはたいてい自分自身で物語の中へ入っていく。自分が主人公になってしまう。
少年であった私も、きっと物語の中へ入って行ったにちがいない。その記憶が頭の隅にかすかに残っていたのではあるまいか。それが突然、不思議な自転車を見て急に甦《よみがえ》ったのではなかろうか。ほとんど忘れていたことだから、その記憶は取り戻してみてもはっきりとはしない。
西野家の兄妹も気づき始めているのかもしれない。
「お兄ちゃん、今日の午後、家に帰って来た?」
「なんで?」
「なんだかさっき帰って来たとき、だれかが、昼、ここにいたような感じがしたから」
「馬鹿なこと言うなよ。今日は一日中、得意先を駈《か》けずりまわっていたよ」
「そう。変ね」
「お前こそ、ときどきそんなことしてんじゃないのか」
「そんなことって、なによ」
「昼飯を食いに帰って来るとか」
「どうして私がそんなことするのよ。いちいち帰ってたら、大変でしょ」
「そりゃそうだけど、このあいだ、鍵を開けて家に入ったら、だれかいたなって、完全にそんな感じがしたからな」
「なにか変っていた? テーブルの上の新聞とか、茶碗《ちやわん》とか」
「わからんよ。きちんと見て出て行ったわけじゃないから」
「なにか盗まれた?」
「いや、べつに。それはないな。ないと思う」
「空巣狙《あきすねら》いもベテランになると、しばらくのあいだ入られたこともわからないそうよ」
「この家じゃ、入ってもなにも持っていくもの、ないだろ」
「でも、気味わるいわ。私も、よくそういうこと感じるのよ。だれかいたんじゃないかしらって」
「変だな」
まさしくだれかがいたのである。
童話の中でも少年の部屋にだれかが来て、ひっそりと遊んでいた……。
正体はわからない。
だれも見たことがないのだから。
多分、この世のものではあるまい。
わけのわからない存在が、居どころを求めてさまよっている。そのうちに、まるで海辺のやどかりが身にあった住まいを発見するように、
「ここがいい」
ほどよい場所を見つけて、そこに住みつく。
たとえば、青と赤の自転車に乗った二人。二人は自転車で走っている最中に事故に遭《あ》い、一緒に死んでしまった恋人同士かもしれない。男は青い色が好きだった。いつも青い服を着ていた。帽子も靴もみんな青かった。女は赤い色が好きだった。いつも赤い服を着ていた。帽子も靴もみんな赤かった。当然、自転車も青と赤の色だったろう。
「一緒にすごす場所があるといいわね」
恋人たちはたいていそう考える。
「とてもいい家を見つけたよ」
「あら、本当。どこ?」
「麻布十番の奥だ。さびしいとこだから、人に見られない」
「空き家なの?」
「ちがう。兄妹が二人で住んでいるんだけれど、昼間は勤めに出ている」
「麻布十番? 少し遠いわね」
「自転車で行けばいい」
二人は普段どこに住んでいるのか? 夜はどうしているのか? なぜ自転車だけが私に見えるのか?
矛盾はいくらでもある。
矛盾を指摘すること自体が馬鹿らしくなるような、とりとめのない空想である。
ただ、それが奇妙なほど切実な現実感をともなって、私の脳裏に浮かんでしまうのである。それがわからない。そのイメージは本当の現実ではないけれど、たとえば少年の頭が、
──本当のことかもしれない──
と、そう感じ取った虚構の現実、少年の意識にとってのみ一時はたしかに現実として認識されたフィクション……それが頭のかたすみにぼんやりと、残っているという情況を思うのが一番ふさわしい。
──狂ったかな──
私は自分の周辺にさえ不思議な気配を感じてしまう。だからこそ表の自転車を見て奇妙な連想をめぐらしたのだろうか。それとも表の自転車を見て、想像をめぐらしているうちに、それが私の周辺にも移って来たのだろうか。どちらが原因で、どちらが結果かわからないけれど、二台の自転車の周辺に怪しい気配を感じたのは本当だった。
もとより私は四六時中、こんな途方もない思案を抱いていたわけではない。それを思うのは、ほんの短い時間である。毎日というわけでもない。
私自身が外から帰ったとき、
──変だな──
微妙な気配を感じて、ふいと窓の外を見る。自転車を見つけて空想がふくらむ。すると、さらに自分の部屋の様子が奇妙に感じられてしまう……。
少年の部屋に同居していたのは、美しい少女だったかもしれない。物語なら、きっとそうだろう。
少年はその少女に会いたいと思った。
気配を感じて一生懸命会おうとする。もしかしたら少女のほうも会いたがっているのかもしれない。少女は会いたくて、なにかしらサインのようなものを残すのではあるまいか。花模様のハンカチが一枚、置き忘れたように少年の部屋に残っていたりして……。
「お母さん、これ、だれのハンカチ」
「知らないわ。きれいね」
ハンカチの美しさが少女の美しさを髣髴《ほうふつ》させる。そんなイメージがふくらむ。
──自転車も同じような作用かな──
西野家で起きている出来事は、少年の物語ほど単純ではなさそうだ。なぜ自転車でやって来るのか、二人は何者なのか、西野家となにか関係があるのだろうか。どれもわからない。
もし、それが魔性の世界にかかわることであるならば、わからなくて当然だろう。わからないこと自体が、魔性の世界であることの証明なのだから。
少年も、少女に会えなかった。それが本当に少女なのか、なんのためにこの部屋に来るのか、最後までわからなかった。そして、いつのまにか微妙な気配も消えてしまった。
それだけのこと……。ただ、時折、断片的に魔性の世界の存在がだれかに感じられる。今の私のように……。
──ただの妄想──
それが正しい。そう思いながらも、私は二、三カ月にわたって、ときどき馬鹿らしいことを考え続けた。なぜそんな考えに取り憑かれたか、自分自身を怪しんでいた。
広尾の家が完成して、私はふたたび両親と一緒に暮らすことになった。
引越しの支度をしていると、西野家の兄が、石塀の外に出た庭木の枝を切っている。
部屋を引き払ってしまえば、もう自転車の謎《なぞ》を解くこともできまい。
サンダルをつっかけて外に出た。
「精が出ますね」
「はあ」
怪訝《けげん》な顔で私を見る。
しかし、私がガレージの部屋を借りている者と、そのくらいの見当はついたにちがいない。
「よく自転車がここに置いてありましたけど……日中、お留守のときに」
さりげなく問いかけてみた。
「そうですか」
相手は、なぜそんなことを聞かれるのか、見当もつかないようだ。
「お留守のときに、どなたかが訪ねていらっしゃるのかと思って」
「いえ、心当たり、ありませんけど」
西野家の客人ではないらしい。彼はなにも知らないようだ。
「青と赤の自転車」
「知りません」
「じゃあ、お宅にいらしたんじゃないんですね」
「そうでしょう」
私としては「ときどき裏門の鍵が開いてますよ」と言いたかったが、それを言うと、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。戸を押して確かめてみなければ、わからないことなのだから。
「大分暖かくなりましたね」
と話題を変えた。
「そうですね」
「明後日、引越しますので」
「あっ、そうですか」
自転車の二人について描いた想像は、とても彼に語れるようなものではない。頭がおかしいと思われてしまう。私は一礼をして部屋に戻った。
その翌日も外から帰って来ると、奇妙な感覚を覚え、またも想像が広がった。
──夜はどこへ行くのかな、あの二人は──
と、埒《らち》もないことを考えた。
昼のあいだは、ひっそりと西野家の広い屋敷の中で過ごすとしても、夜はどこへ帰るのか、自転車はどこへ向かって走っていくのか。
──どこかで見かけるかもしれない──
ある日、突然、青と赤の自転車が並んで走っていく風景を……。
──そのときはどうしよう──
追いかけていくわけにもいくまい。
引越しの当日、新聞配達のおばさんが代金を取りに来てくれた。あらかじめ電話をかけておいたから。
おばさんは私の仕事を知らない。その種のことはなにも話してなかった。
「奥様は?」
と、おばさんはお釣りを出しながら尋ねる。
「いないよ」
「あら、お一人でしたの」
「うん。どうして?」
「ええ……」
と、戸惑《とまど》ってから答えた。
「夜、うかがうと、よくドアの外に傘が二本置いてありましたから」
胸騒ぎを覚えた。
「ほう?」
「青い傘と、赤い傘とが二本並んで」
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強清水(こわしみず)
ガーン。
衝撃と同時に眼をさました。
恐ろしい夢を見ていた。
片足がベッドの外に落ちている。寝返りを打った瞬間に衝突の夢を描いたのだろう。体が小刻みに震えている。意識がまだ闇《やみ》の中を疾駆している。
急に涙が溢《あふ》れ出し、とめどない悲しみがあとからあとから込みあげてくる。
人は眠りながら泣くことはできない。どんなに悲しくても涙は出せない。悲しい夢を見て泣くのは、眼をさましてからの作用である。
灯《あか》りをつけた。
思案が少しずつ現実を取り戻す。
新神戸のホテル。時計が三時七分をさしている。
しばらくは涙を流しながら夢の中味を反芻《はんすう》した。
──もう少し眠りたい──
しかし、眠ったらまた夢の続きを見てしまうかもしれない。それに、いったん眼をさましてしまうと、新しい眠りはなかなかやって来ない。旅先ではことさらにその傾向が強い。
起きあがり、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。デスクに向かい、開いたままの書類に眼を通した。
きょうの予定は、十一時半に取引き先の亀田氏に会って昼食を共にし、午後の新幹線で帰京する。帰りの切符はまだ用意してないが、多分三時頃の列車を選ぶことになるだろう。多少の寝不足でも帰りの車両で眠れば、それでよい。
室内が乾いているのだろうか。それとも大量の涙が体内の水分を奪ったのだろうか。冷たいビールが喉《のど》にここちよい。ゆっくりと飲み干した。
アルコール飲料の中では清酒が一番好きだ。しかし、冷蔵庫にはそれが見当たらない。二本目のビールを開けた。ついでにミニ・サイズのスコッチを取ってビールに注《つ》ぎ込む。
名付けてビール・エクスプレス。
──邪道、邪道──
まともな飲み方ではない。学生時代におもしろ半分にこれをやった。もちろんスコッチではなく安ウイスキーだったけれど。味はともかく、酔いがエクスプレスでめぐって来る。
──はじめてビールを飲んだのは、いつだったろう──
子どもの頃に住んでいた家には、小さいながらも庭があった。庭には竹の縁台が置いてあって、夏が来ると、大人たちがパタパタと団扇《うちわ》を使って夕涼みをしていた。
ビールの記憶には、この風景が欠かせない。黄色い液体が泡を立ててジョッキを満たす。丸味を帯びた青いジョッキだった。それをグイと飲むのを見て、
──うまいのかな──
興味|津々《しんしん》だった。
ある日、台所の隅に飲み残しのビールを見つけて試飲してみた。
にがい。ただそれだけの飲み物……。すぐに吐き出してしまった。
──サイダーとはちがう──
と知った。発泡性のところはよく似ているのに……。泡がたくさん立つだけビールのほうがうまいと思っていたのに……。
ビールをうまいと感じたのはいつだったか。多分、十七、八歳。はっきりとは思い出せない。
ホテルの小部屋で、こんなことを考えていると、わけもなく二つの記憶が脳裏に映った。
一つは、とても近い記憶である。記憶という言葉さえ不適当かもしれない。
きのうの昼さがり、ハーブ園を訪ねた。ホテルのすぐ脇《わき》から長いロープウェイが六甲の山並に向かって延びている。
──知らなかったなあ──
ずいぶんと広い敷地を切り開いて作った植物公園である。たくさんの花が咲き乱れ、ところどころに、しゃれた施設が建っている。散策の道が延びている。花の香りが馥郁《ふくいく》と漂っていた。
途中で、ロープウェイの窓から布引《ぬのびき》の滝を見た。滝そのものは公園の施設ではあるまいけれど、どことなくちまちました風景に見えてならない。まるで人工の細工のように映る。
ここでもう一つの記憶と繋《つな》がった。
──昔はこうじゃなかった──
布引の滝は深山|幽谷《ゆうこく》の中にあった。深山幽谷は言い過ぎかもしれないが、子どもの眼にはそう映った。
多分、小学二年生の夏休み。その頃、西宮に親戚《しんせき》があって、父と一緒に二、三日|逗留《とうりゆう》したことがある。車で布引の滝を見に行った。滝の近くで牛肉の弁当を食べた。まだ物資の乏しい時代だったから、とてつもない贅沢《ぜいたく》のように思った。
あのときの滝は、まちがいなく奥深い山の中にあった。
幼い私は布引の滝と書いてあるのを見て驚いた。
布引はサイダーの壜《びん》に記してある文字だったから……。それが産地の名前らしいと、子どもごころにも見当がついていた。どういうわけか私の飲むサイダーには布引の製造のものが多かった。
だから……山を割って布引の滝が白い奔流《ほんりゆう》を落としているのを見たとたん、子どもの私は、
──これがサイダーなんだ──
と思った。
この水を使ってサイダーを作っている……などというまっとうな想像ではない。サイダーの壜を滝壺《たきつぼ》に持って行って、滝の泡を掬《すく》えば、それがそのままサイダーになる、そんな連想だった。
もちろん、それが現実ではありえない、と、その程度の判断は子どもの頭でもできたけれど、それでもなお、
──サイダーの滝なんだ──
と、その印象が長く心に残った。
四十年近い歳月が流れ、サイダーの滝が、今はただ公園に昇るロープウェイの借景と化している。
──もうサイダーは無理だな──
ぼんやりとそう思った。
カーテンのすきまが白《しら》んでいる。
朝が近づいている。
三本目のビールを飲み干した。
──出てみるか──
浴衣《ゆかた》を脱ぎ、洋服に着替えた。靴を履き、ルーム・キイを握った。
外はまだ薄暗い。東の空だけが赤味を帯びている。タクシーの窓を叩《たた》き、
「滝へやってくれないかな」
と頼んだ。
「布引ですか」
と、運転手が怪訝《けげん》な様子で聞き返す。
「ほかでもいいけど、景色のいいところ」
どうしてそんなことを呟《つぶや》いたのか……。運転手の表情が、
──布引以外にもよい滝がありますよ──
と告げているように感じられたからだろう。
布引の滝はきのう見てしまった。なつかしさよりもむしろもの足りなさを覚えた。そばに立てば一層幻滅が増すかもしれない。ほかの滝のほうがいい。
車が走り出した。
少し眠った。
目を覚ますと、右手に渓流が走り、道は深い緑の色に包まれている。
「ここでいいよ」
「いいんですか」
昔、見た風景に似ている。渓流の先に滝があるにちがいない。
ドアを開けると、案の定、滝の音が聞こえた。
「うん。帰りはこの道を下ればいいんでしょ?」
「はあ」
「ありがとう」
舗装道路から山道へと移った。
夜はもう明けていた。梢の上の空が青い。滝の音がますます高くなる。
少し行くと渓流は右へ鋭く屈曲して崖下《がけした》へ向かい、道のほうは左手にそれる。大きな岩が川と道とを距《へだ》て、人がようやくくぐり抜けられるほどの切通しをくぐると、急に視界が開けて川原と滝と滝壺があった。
滝は四、五メートルもあるだろうか。途中までまっすぐに落ち、そこで突出した岩にぶつかって白い流れが扇形に広がって滝壺へ流れ込む。けっして大きな滝ではないが、水量が豊かなので、あたり一帯がうっすらとけぶって、薄い虹が懸《か》かっている。周囲を高い岩壁に囲まれ、どことなく現実から切り離された一郭《いつかく》のように見えないでもなかった。
「ほう?」
と呟いた。
しばらくは気づかなかったが、滝壺に近い岩かげに緑色のシャツが動く。子どもが……十歳くらいの少年が、足を水に浸して腰をおろしている。
眼と眼があった。
浅黒い顔。黒く光る眼ざし。いかにも少年らしい闊達《かつたつ》な印象を覚えた。
はじめは魚釣りにでも来ているのかと思った。そうでもなければ、こんな時刻に、少年がたった一人で山中の渓谷に来ているはずがない……。だが、
──そうとも限らないか──
人がどんな理由で、どんな行動を採るものか、推測はむつかしい。それぞれがそれぞれの動機を持って動いている。
ふと昔読んだヘミングウェイの小説「キリマンジャロの雪」を思い出した。たしか一匹の豹《ひよう》が高峰の中腹まで登って死んでいたのではなかったか。なぜ豹がそんなところまで登ったのか、理由がだれにもわからない。
まして人間なら、もっと不可思議な行動を採ることがあるだろう。
少年の目的が魚釣りでないことだけは明白である。それらしい道具はどこにも見当たらない。川の情況も魚が多く棲《す》むところではあるまい。
──近くに別荘があるのかな──
この想像は十中八、九、的中しているだろう。少年はこの滝の風景に愛着があり、家族のだれよりも先に、朝を待ちかねて訪ねて来たのではあるまいか。
もとより私はそれほど真剣にこんな想像をめぐらしたわけではない。少年の存在に微妙な違和感があったから、一瞬、その理由づけを模索してみただけのことだ。
「なにをしてるんだ?」
と、声をかけた。
少年は掌《て》を耳に当てる。
どこかで見た顔だと思った。仕草がだれかに似ている。
「なにをしてるんだ?」
もう一度、大声で尋ねた。
「散歩です」
明快な答が返って来た。
やはり私の想像は当たっていたらしい。
──しかし──
とも思った。
今は六月。きょうはウイークデイ。夏休みのシーズンには早いし、休日でもない。学校のほうはどうするのか。
その説明もすぐにさぐりあてた。
別荘ではなく、彼自身の家がこの近くにあるのかもしれない。山中にはちがいないが、開発はそれなりに進んでいるだろう。ここからそう遠くないところに新興の住宅地が造成されている可能性も充分にある。そこには小学校くらいあるのかもしれない。ならば、散歩のあとで登校することもむつかしくはあるまい。腕時計を忘れて来たが、まだ六時前だろう。一歩二歩、足を進めて。
「学校は?」
と尋ねてみた。
少年は曖昧《あいまい》に首を振った。聞こえないのか、それとも聞こえていながら答えないのか。
一瞬、登校拒否児のような情況を考えたが、それは屈託のない少年の様子にそぐわない。なにかしら答えたくない事情があるのだろう。
少年は靴を脱ぎ、水に足を浸している。私は話題を変えて、
「冷たい?」
と水面を指さした。
「はい、少し」
私も靴を脱いだ。
滝壺の下流を占める川床《かわどこ》は滑らかな石面を作り、水深もせいぜい二十センチくらいのものだろう。水の流れもゆるやかである。夏には子どもたちのよい遊び場になるだろう。
とはいえ滑らかな川床は中央のあたりで亀裂を作り、そこは白い奔流となって走っている。幼い子どもには少し危険かもしれない。
靴を川岸に置いて川床へ踏み込んだ。
冷たい。
とてもここちよい。
少年は私の動作をみつめている。奔流を跨《また》いで少年に近づいた。
「何年生?」
「四年です」
「じゃあ、十歳か」
「九歳です」
「早生まれかな」
「はい」
滝壺は文字通り深い壺のようにえぐれている。滝がなければ天然の大きな風呂桶《ふろおけ》のような趣きだろう。
「なんという滝?」
聞くともなしに尋ねた。この近くに住んでいるのなら知っているだろう。
「強清水《こわしみず》です」
やはり布引の滝とはべつなものらしい。
「強清水?」
「はい、強い清水と書いて……。でも、本当はちがうんです」
「ほう?」
「伝説があるんです。お母さんから聞きました」
ちょっと大人びた口調で言う。
「どんな話? 教えてよ」
私は少年と向かいあう位置の岩に腰をおろした。
昔、旅の父子《おやこ》がこの川のほとりを通りかかった。すでに日は西に沈み、父子は川辺の岩穴で一夜を過ごすことにした。
子どもが水を汲《く》みに行き、滝の水を掬って飲むと、
「うまい!」
乾いた喉を冷たい水が潤《うるお》す。
「お父《と》う、うまいよ、この水」
と父を呼んだ。
「酒だったらいいのだが」
父も滝の水を掬って飲む。
「うん?」
表情が変った。
あわててもう一ぱい掬って飲む。
「酒だ、これは酒だぞ」
まぎれもない酒の味わいが口を満たし、喉へ落ちる。
父の様子に驚いて、子どももふたたび水を含んだ。
「水だよ、お父う」
「いや、酒だ」
まちがいようもない。胃袋に落ちた酒は早くも酔いを全身に広げている。一ぱい、二はい、三ばい……父子はたがいに顔をうかがいながら滝の水を飲んだ。その味わいは……親には酒、子には清水であった。
このことから「親は酒、子は清水」の言葉が生まれ、いつの頃からか、その後半だけが残って「子は清水」と呼ばれるようになったとか……。
少年はそんな話をきまじめな調子で話した。
「なるほどね。子は清水か」
そう頷《うなず》きながらも、私の想像は逆だった。
どう説明したらよいのだろうか。つまり、ミネラルを多く含んだ湧《わ》き水を、強清水と呼んだのではあるまいか。このあたりの水がそんな性質を帯びているのではなかろうか。
まず先に強清水という命名があって、そこから語呂《ごろ》あわせのように「子は清水」が連想され、さらにそこから「親は酒、子は清水」と、まことしやかな伝説が誕生したのではあるまいか。伝説の誕生には、そんな経緯がめずらしくない。
少年が立ちあがり、滝壺に近づく。掌で掬って水を飲む。
「おいしい」
ふり向いて笑う。輝くように明るい笑顔である。
かすかに私の心を通り抜ける思い出がある。こんな笑顔を見たことがある。
「一人で来たのか」
と、少年のうしろ姿に尋ねた。
「はい」
「お母さんは?」
重ねて尋ねた。
「来るかもしれないけど」
と、少年は右手の繁みを見あげる。
赤茶けた細い坂道が崖の上まで続いていた。その上に、少年の家へ帰る道があるのだろう。
少年が眼を凝《こ》らして、そのあたりを見つめている。母が現われるとしたら、その方角なのだろう。
私もしばらく少年の眼《まな》ざしの赴《おもむ》く先を追っていた。しかし、だれも現われない。
あきらめて私も滝壺へ近づいた。
少年のほうは岸に戻り、掌で足を拭《ぬぐ》って靴を履き始めた。
私も滝の水を掬って口に含んだ。
「えっ!」
一瞬、自分の感覚を疑った。
──これは……? 酒ではないか──
すぐにもう一口掬った。
かすかな甘さ。芳醇《ほうじゆん》な味わい……。
ただの水ではない。明らかにアルコールを含んでいる。
両掌《りようて》で掬った。
酔いが胃の腑《ふ》に走る。
腰を曲げ、水面に口を近づけてガブガブと飲んだ。
ふと気がつき、ふり返って少年の姿を捜した。
少年は坂道の下まで行き、訴えるような眼ざしで呟く。
「そんなにたくさん飲んじゃあ駄目だよ」
しかし、飲まずにはいられない。確かめずには帰れない。
激しい酔いが全身に溢《あふ》れた。
それからの記憶はとりとめがない。
時計のベルが鳴っている。
昨夜、ベッドサイドの目ざまし時計を十時半にセットして眠った。不規則な眠りを予測して講じた処置だった。案の定、私は夜中に目をさましてしまい、そのあとぐっすりと眠ってしまった。
起きあがり、ベルを止めた。
頭が痛い。軽い宿酔《しゆくすい》かな。
デスクの上には缶ビールが四本、ウイスキーのミニ・ボトルが三本……。いい年をしてビール・エクスプレスなんかを作って飲んだらしい。
──しかし、この宿酔はビールじゃないな──
ビールはエクスプレスで飲んでも翌日には残らない。そういう体質である。
──清酒を飲んだから──
おぼろな記憶が心に残っている。
明けがた、散歩に出た。六甲の山中にまでタクシーを走らせ、渓流を登った。
滝があった。
少年がいた。
昔話を聞いた。
その昔話は……旅の父子が滝の水を飲む。「親は酒 子は清水」それが滝の名前となった。強清水である。
そんな話を語りながら、少年が滝の水を飲んだ。
そして私も飲んだ。それが酒だった。
──馬鹿らしい──
夢でも見ていたのだろう。
──しかし、人はあんなに鮮明な夢を見るものだろうか──
滝まで行ったのは事実にちがいない。最後のところが……つまり、滝の水が酒に変ったところだけが夢なのではあるまいか。
──それにしても、この宿酔はなぜだろう──
時計を見た。いつまでもとりとめのない思案をめぐらしているわけにはいかない。シャワーを浴び、髭《ひげ》を剃《そ》った。荷物を整え、ネクタイを結び終ったとき、電話のベルが鳴った。
「はい」
「おはようございます。亀田です。少し早かったですか」
十一時半に会う約束だった。
「いや、今、ちょうど」
「フロントの前にいますから」
「すぐに降りて行きます」
忘れ物のないことを確かめて部屋を出た。
エレベータがなかなかやって来ない。三基もあるのに……。エレベータのシステムにも頭のいいのとわるいのがあって、頭のわるいのに出会うと、いらいらさせられる。三基がいっせいにやって来て、ドアを開ける。まん中の箱に乗った。各階ごとにドアを開く。
「お待たせしました」
「いや、どうも。地下の和食はいかがです?」
「はい。ちょっとチェック・アウトをしてまいりますから」
「じゃあ、先へ行って席をとっておきましょう。昼になると込みますから。楓《かえで》という店です」
「すみません。お願いします」
キャッシャーで少し待たされた。
──あれはなんだったのかな──
またしても今朝がたの記憶が甦《よみがえ》って来る。
少年は母親と一緒に来ているような様子だった。もう少し長く夢を見ていたなら、その母親にも会えたかもしれない。
階段を降り、楓のドアを開けると、奥まった席で亀田が待っていた。
「ビール、飲みますか」
「昼間から?」
「いいでしょう。一本くらい」
「はあ」
ビール二本と梅定食を二つ頼んだ。
「まあ、どうぞ」
「すみません」
おたがいにビールの壜をとって相手のグラスに注ぐ。
「お強いんでしょ」
と亀田が訊《き》く。
「強いことは強いんですが、このごろ、酔いがひどくて」
「ほう。それはいけませんな」
「深酔いをすると、途中から記憶があやしくなって……」
「いつからです?」
「六年前から」
「気をつけたほうがいいですよ」
「ええ……」
亀田との商談はむつかしいものではない。書類を提出し、一通り説明をすれば、それですむ。
すぐに仕事は終った。
ビールを一本だけ追加してデザートまできれいに平らげた。
「このままお帰りですか、東京へ?」
「はい」
帰りの切符が用意してあるわけではない。午後はあいている。今日中に東京へ帰り着ければ、なんの支障もない。独り身の生活……。家族が待っているわけではなかった。
一階の出入口まで来て亀田に尋ねた。
「亀田さんは、この土地のかたなんでしょ」
「ええ。餓鬼《がき》のころから、ずっとここです」
「強清水の滝、ご存知ですか。強い清水と書いて」
土地の人ならば知っているだろう。
だが、意外なことに、
「強清水ですか」
と首をかしげる。
「はい」
「聞きませんなあ」
「六甲の山の中だと思いますよ」
「さあ、ねえ」
「切通しを抜けると、パッと開けて……。正面に滝が落ちているんです。四、五メートルくらいかな。途中でスカートみたいに水が広がって」
「ほう?」
「川床はすべすべして、子どもの遊び場にいい」
「いらしたんですか」
「いや。昔、子どもの頃にそんなところへ行ったような覚えがあって」
と、ごまかした。
「この土地じゃないでしょ」
と亀田は抗《あらが》ったが、それでも、
「ちょっと待ってください」
とフロントのほうへ小走りに行く。身ぶりから察してホテルの従業員たちに、
「強清水の滝って、知ってる?」
とでも尋ねているのだろう。
首を振りながら戻って来た。
「やっぱりだれも知りませんな。駅の構内にタクシーの案内所がありますけど……」
「いや、結構です」
そこまで亀田をわずらわすことはない。自分で尋ねればよい。
「ご熱心ですな。なにか……?」
「いえ、たいしたことじゃないんです」
「じゃあ、これで」
「あ、どうも。よろしくお願いします」
「お気をつけて」
ホテルの前で別れた。
亀田とは最近のつきあいだから、彼は私の個人的な事情を知らない。
私は六年前に飲酒運転をして、妻と子を殺した。子どもが生きていれば、小学四年生になっているだろう。早生まれだから、今は九歳……。母と一緒にこのあたりに来ているかもしれない。
あの少年も「そんなにたくさん飲んじゃあ駄目だよ」と言っていた。
──少し酔っている──
今しがた飲んだビールが体の中を走っている。
──待てよ──
もう少し飲めば強清水の滝に行けるのではあるまいか。母と子にめぐりあえるのではあるまいか。
ホテルから駅へと続く道路を歩き、構内のタクシー案内所を探した。
「強清水の滝を知りませんか」
つぎつぎに尋ね歩いた。
「はい、あるわよ。こっち」
女の声が聞こえた。その声に聞き覚えがある……。
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汚れたガラス窓
昭和が平成へと変った年、関根孝也は白金台にマンションを借り、中留敏子と同居を始めた。都心に近い住居は二人の身分から考えて少々高級にすぎただろう。
4LDK。小さいながらそれぞれの私室があって、あとはベッドルームと応接間、リビングルーム、ダイニングキッチン、細長い庭までついている。
だが、孝也は週刊誌などに原稿を書くフリーライターで、仕事は不規則できついが、収入のほうは同年代のサラリーマンよりはるかに多い。稼ごうと思えば稼ぐ手段がある。敏子のほうも、六本木のブティックの経営をまかされており、そこそこの収入があった。どちらにとっても仕事がら都心に住みたい。それに、
──正式な結婚ではないのだから──
と、どことなく刹那《せつな》的な意識もあって、住生活には贅沢《ぜいたく》をしたかった。
つまり、一生ということなら、夢を将来に託して節約をしたり貯金をしたり、郊外に土地を探したり自分の家を持ったり、長期的な展望が必要となってくるだろうけれど、三十歳を過ぎた男女の同棲《どうせい》には、もっと別な視点がある。願望がある。
知りあって、親しくなり、
「一緒に暮らしてみない?」
「結婚かい?」
「飽きないようならね」
「じゃあ、とりあえず一年くらい」
「いいわよ」
もちろん愛しあってはいたけれど、成熟した大人の感覚で始めた共同生活だった。結婚のことはほとんど話題にもならなかった。
「でも、あなた、いいの? 長男でしょ」
孝也は二人姉弟で、姉は函館に嫁いでいる。父は亡く、母は埼玉県の大宮で華道の先生をやりながら一人で暮らしている。今のところ健康に支障はないが、次の誕生日が来れば母も六十六歳になるはずだ。
「それで?」
「私、絶対に厭《いや》よ。お母様と一緒に暮らすのだけは」
敏子はきっぱりと言いきって唇を噛《か》む。きびしい言い方だが、こういうことははっきり言ってもらったほうがいい。本心を隠していると、あとでややこしいことが起きる。敏子が孝也との生活を前にして提示した条件はこれ一つと言ってもよかった。
「わかってるよ」
結婚ならばともかく、同棲に親が同居するケースはめずらしかろう。敏子がこの条件を告げたこと自体、彼女の心の中に、
──このまま結婚になるかもしれない──
と、そんな予測なり、願望なりがあったのかもしれない。
敏子と孝也の母とは反《そ》りがあわない。そう繁く顔をあわせていたわけでもないのに、折りあいがわるかった。三回も会っているだろうか。
理由は見当がつく。母にしてみれば、たった一人の息子である。夫《つれあい》を早く亡くし手塩にかけて育てあげた。それを横から来てさらっていく……。嫁という存在はもともと姑《しゆうとめ》には気に入らないところがある。
──せめて自分の眼にかなった女《ひと》を──
と、母は考えていたにちがいない。
お花の先生をやっているから、年ごろの娘はたくさん知っている。ひそかに狙《ねら》いをつけていた娘もいたらしいが、孝也のほうは、
「放っておいてくれよ。自分で捜すから」
と、見向きもしなかった。
この件では母と何度口争いをしたかわからない。母も強い。なかなか譲らない。今でもあきらめてはいないだろう。
孝也にしてみれば……母の好みは古くて、田舎《いなか》くさい。幼いときから、ずっと強い母親の庇護《ひご》の下で生きてきた。とくに反抗はしなかったけれど、一人前の男になってからは、母の存在自体がうとましい。結婚相手まで母の好みで選んだら、またぞろ母の圧力が伸びて来るだろう。目に見えている。ご免だね。こんなことを口に出して言おうものなら、
「孝也! 本気でそんなこと言うの」
と、母は気が狂ったように怒りだすだろうけれど、このあたりの感情は、わかる人にはみんなたやすくわかるはずだ。
孝也が三十過ぎまで独り身でいる理由も、こうした情況と無縁ではあるまい。母に従うのは厭《いや》だし、さりとてことさらに反旗をあらわにするのも厄介である。宙ぶらりんの状態……。こんなときに知りあったのが敏子というわけだが……母が気に入るまいことは最初から想像がついた。
敏子は三十過ぎまで独り暮らしをしている女……。
「なにもそんなオールドミスをもらわなくてもいいだろ。顔がきれいなわけじゃないし、若いほうがすなおでいいんだから」
と、母もまたずいぶんきびしい言いようだった。三十二歳でオールドミスと言われたら、敏子は怒るだろうし、常識にも反するだろうけれど、母の判定ははじめからネガティブだった。
敏子の年齢が気に入らない。表情が気に入らない。髪型が気に入らない。着る物が気に入らない。言葉遣いが気に入らない……。よいところなんか一つもない。
これだけ気に入らない女が、息子を奪っていこうというのだから、妥協の余地は皆無に等しい。それがしかも結婚ではなく同棲というのだから……実情を知って母が許すはずがない。マンション住まいも母には見えないように計画して、既成事実を作ったというのが正直なところである。
こんな雰囲気はもちろん敏子にも察しがつく。女は野生の動物みたいに敵を察知する。
敏子と母とがはじめて会ったのは、たしか同棲の二年前、大宮で催された華道展の会場だったと思うのだが、二、三分|挨拶《あいさつ》を交わしたあとで、すぐさま敏子は孝也の耳もとで囁《ささや》いた。
「お母様は嫌いみたいね、私のこと」
あの頃の私たちはまだそれほど親しい仲ではなかった。敏子は、ガール・フレンドに毛の生えたようなもの。恋人と呼べるような相手ではなかったのに、やはりなにかしら来たるべき将来を予測するものがあったのだろう。母もまた、
「なに、あの娘? 感じのわるい人ね」
と、ぬかりなく嫌悪の反応を示していた。
こんな経緯を考えれば、敏子の台詞《せりふ》は……「私、絶対に厭よ。お母様と一緒に暮らすのだけは」と言ったのは、むしろ言わずもがなの条件だったろう。孝也はそこに気づかないほど馬鹿ではない。
──この二人は駄目だな──
とうにわかっていた。
母には感謝している。十二歳のとき父と死別し、それ以来ずっと母の手一つで育てられた。なに不自由のない生活だった。母に対しては一定の愛着もあるし、親孝行はなすべきことだと思っている。年老いた母の面倒をみることも充分に考えているけれど、
──敏子は無理だなあ──
と思い、その一方で、
──お袋も、もう少し譲ってくれればいいんだが──
なすすべもなく迷ったまま選んだのが同棲という中途半端なスタイルだったろう。
人はいつも右か左か、はっきり決断をして生きているわけではない。孝也は、なんの根拠もないまま、そしてそのことを自分でも充分承知していながら、
──今にうまくいくかもしれん──
と、頭の片隅で期待し、
──とりあえずは敏子と一緒に暮らし、五、六年後のことは、そこで考えればいい──
と、はじめから敏子との仲をそう長く続くものと考えていなかった……そんなふしもなくはない。
それに、とにかく仕事が忙しい。社会派のジャーナリストと看板を掲げているが、注文があればなんでも取材して記事を書く。スキャンダルが一番銭になりやすい。政治家、宗教家、タレント、ときには記事に書かないことが金になることがある。
「大丈夫かしら?」
敏子は孝也の仕事をそれほどくわしく知っているわけではない。
「なにが?」
「あんまり阿漕《あこぎ》なことやってると、ろくなことないわよ」
「おい、おい、阿漕はひどいなあ。正統なジャーナリズムだよ」
「命を狙《ねら》われたりして」
「テレビの見すぎじゃないのか」
敏子は低血圧症で、ご多分に漏れず朝に弱い。必然的に夜更かしをする。ベッドに入って夜半すぎのテレビ映画を見ている。たいていがスリラー。孝也も宵っ張りのほうだが、ベッドに入ってしまえばすぐに眠ってしまう。朝は孝也のほうがたいてい先に目をさまし、起きてまずコーヒーを沸かす。これはなかなかの腕前だ。独り暮らしが長かったせいもあって孝也は、なべて簡単なメニューをうまく作る。ホットドッグ、焼飯、ラーメン……。料理がうまいというより気軽に体を動かす。この種のサービスを厭《いと》わない。
「ありがとう。おいしい」
敏子はほめ上手のほうだろう。
しばらくは、どちらにとっても楽しい毎日が続いた。おたがいに放恣《ほうし》な生活が身にあっている。あまり干渉せずに、そして折りあえそうなときにだけ顔をつきあわせて親しみあう。たわいのない会話をかわし、
「嘘《うそ》ばっかり」
「本当だってば」
陽気に笑ってすごす。深刻なテーマはめったに話題にのぼらない。
そして恋人たちのように甘い抱擁《ほうよう》。セックスなんて、すこぶるメンタルな営みだ。たとえ同棲をしていても、夫婦ではない男女が抱きあうときには、かすかに背徳の気配が漂う。子孫を作るための営みではない。つかのまの愛を確かめ、快楽を尽すために抱きあっている。相手がうとましくなれば、強く拘束するものはなにもない。熱く抱きあっているのは、とりもなおさずここちよいから、相手が必要だから、男女の営みの原点としての愛がそこにあるから……。結婚届が二人の愛を保証してくれるわけではなかった。
「高校生の頃、習ったことがある。〈伊勢物語〉だったかなあ」
「なーに?」
「男がにぎり飯を包む木の皮にくっついた飯粒を一つ一つ丹念に食べてるんだ」
「ええ?」
「女がそれを見てなんて倹約な人なんだろう≠チて感心する」
「ええ」
「そのうちに二人のあいだに愛情がなくなり、女は男の同じ仕草を見てこの人、なんてけちくさいのかしら≠チて、愛想をつかす」
「わかるわ」
「男と女の感情なんて、そんなものじゃないのか。仲がいいときは、みんなよく見える。わるくなれば、なにもかもわるい」
「ええ、本当に」
あんな会話もまた来たるべき将来に対する漠然とした予測だったのかもしれない。
敏子は掃除があまり好きではない。孝也ももちろん好きではない。表現は同じだが、嫌いの中味は少しちがっている。
「私は本当はきれい好きなのよ」
「そうかなあ」
「そうよ。わかるでしょ。だから掃除をやりだすと、とことんやらないと気がすまないのよ。掃除なんてものは、やりだすと本当に限りなくきれいにできるの。それで疲れちゃって……ほかのこと、なんにもできなくなっちゃうでしょ。それが困るの。それを考えると、掃除がうとましくなるの。あなたは、いくら汚くても平気なんでしょ。全然ちがうわ」
「俺《おれ》だって、きれいなほうが好きだよ」
「豚も本当はきれい好きなんですってね。でも汚くても耐えられるから」
「豚と一緒かよ。ひどいな」
「だって……」
たしかに敏子は掃除をやりだすと、ずいぶん念入りにやる。あれでは疲れてしまうだろう。あれほどの精度で住まい全部をきれいにするとなると、どれだけの労力がかかるか、わからない。憎みたくなるのも頷《うなず》ける。
とりわけ大変なのはガラス磨き。二人の住むマンションは一階にあって、南向きに大きなガラス窓がある。高さ二メートル、幅三メートルほどの一枚ガラスが二カ所に張ってある。すぐ近くに隣家の欅《けやき》が枝を伸ばしているせいもあってか、鳥の糞《ふん》や埃《ほこり》が固まってこびりつく。薄汚れて外もろくに見えなくなる。こうなるとせっかくみごとなガラス窓を張った意味がない。むしろ余計に汚さが目立って腹が立つ。
さりとて敏子の体力では簡単に拭《ふ》けない。
「美容にいいんじゃないのか」
「馬鹿なこと、言わないでよ。あなたこそ、このごろお腹《なか》が少し出てきたんじゃない。やって」
「そのうち、ひまになったらな」
「いつひまになる?」
「しばらくたて込んでるなあ」
「そんなことばっかり言って」
二人は手をこまねいて汚れを眺めていたわけではない。三年近い共同生活の期間に少なくとも敏子が二回、それから孝也が一回半、ガラス拭きに挑戦した。一回半というのは、敏子にせがまれてしぶしぶやってはみたものの、乾いてから眺めてみれば、ところどころに汚れの縞《しま》模様ができている。
「なによ、これ、全然きれいになっていないじゃない。汚れを動かしただけね」
「ひどいなあ」
やむなくもう一度やり直し。それで一回半と数えたわけだ。
敏子のほうは、そんな失敗は残さなかったけれど、ほとほと足腰に響いたらしく、
「もう厭、こんなの。だれかに頼みましょうよ」
「だれに頼む?」
「そういう人、いるんじゃない。便利屋さんとか」
「それがいいよ」
ちょうどそんな相談をしている矢先のことだった。
孝也が散歩に出かけた。散歩といっても緑の公園を歩くわけではない。町から町へ、狭い歩道をとりとめもなく歩く。万歩計をつけるときもある。この日も三十分ほど歩いてマンションへ戻ると、ドアのすきまに紙が押し込んである。
──チラシ広告かな──
二つ折りの紙片を開いてみると、
掃除、ガラス拭きのご用はありませんか。気楽にお電話ください。東都大学・お掃除研究会
と書いてあった。マジックペンで書いてコピイ機で複写したものだろう。電話番号は局番のあとに4649(ヨロシク)と、暗誦《あんしよう》の便宜まで記してある。
──これはいいかもしれんな──
近ごろの学生は遊び感覚で、いろいろなサークルを作る。名前はお掃除研究会≠セが、まさか真面目《まじめ》に掃除の方法を研究しているわけではあるまい。アルバイトを目的とした集団が、もっともらしい名称をつけているのだろう。掃除は体力のある学生にこそふさわしい作業である。少しは慣れた連中がやっているのだろうか。料金もさほど高いことはあるまいし、ガラス拭きなら充分にまかせられる。
──東都大学なら、真面目な学生が多いんじゃないのかな──
とも思った。それに東都大は白金台からそう遠くはない。
孝也はもう一度、チラシ広告に記された電話番号を確かめ、紙をポケットへ押し込んだ。いや、押し込んだつもりだったが、そのまま握ってうっかり屑箱《くずばこ》へ捨ててしまったのかもしれない。
とにかくチラシ広告を見たときには、
──頼んでみるか──
と思ったが、すぐに忘れてしまった。
ドアの中で電話のベルが鳴り、あわてて駈《か》け込んだのが忘れた原因だったろう。
四、五日たって、ふと思い出し、
「ガラス拭き、学生にやらせたらどうかな」
「学生?」
「ああ。このあいだ、チラシが入ってた。東都大お掃除研究会。気楽にご用命くださいって」
「なーに、それ」
「アルバイトだろ。学生なら、いいんじゃないか。チラシはどっかにふっ飛ばしちまったけど、電話番号を覚えている」
「そう」
「頼んでみろよ」
「ええ」
敏子は頷《うなず》いたが、電話番号を聞こうともしない。さらに三、四日たって、
「ガラス拭き、どうする?」
と、窓ガラスを見ながら孝也が尋ねると、
「いいわよ、べつに」
「大分汚れたし、大変だぞ」
「ええ、でも……」
気のない返事だった。
あとで考えてみると、あの頃から敏子の様子がおかしかった。一緒にいても会話がどことなく噛み合わない。うわのそらで答えている。同棲生活も三年近い日時を経て、当初の情熱が色あせていた。利害のバランスも少しずつ狂い始める。心身の乖離《かいり》が感じられるようになっていた。そんなこともありうるだろうと予測して始めた共同生活であり、たまたま敏子のほうが先に不都合を感じたということだろう。一緒に暮らすことに気乗りがしなくなれば、住む家の環境なんかどうでもよい。ガラスがきれいかどうかなど、さして問題にもなるまい。
孝也のほうはとりわけ忙しく、敏子の微妙な変化に気づかなかったのは迂闊《うかつ》だった。気づいてはいたのだが、そうした変化の本当の意味を考えなかったのは甘かった。
日曜日の朝、コーヒーをすすっていた敏子が顔をあげ、まるで気候の変化でも話題にするように、
「私、家を出るけど、いいかしら」
と呟《つぶや》く。
「家を出るって……どういうこと?」
「お店のお客さんで、永井さん、知ってる?」
「いや、知らん」
知るはずもない。
「横浜の元町で店を一緒に出そうという話になって……。もう、私も来年は三十五でしょ」
おねだりでもするような表情で孝也の顔をのぞき込んだ。
敏子の台詞《せりふ》はあまり論理的ではない。だがそれは大切なポイントが一つ抜けているからだろう。孝也には見当がつく。
「結婚するのか」
と、ポイントを先に明かしてやる。
「ええ、まあ。すぐにってわけじゃないけど」
「なるほどね」
「それで、こんな生活しているの、まずいでしょ」
これはすこぶる論理的である。だれが考えたってまずい。
──どうしよう──
孝也は狼狽《ろうばい》を心の奥に押し込め、ほどよく面子《メンツ》の立つ対応を思案した。
仕方ない。充分にありうることだった。三年近くも楽しく過ごしたんだから欲張ってはいけない。男女の仲は振るよりは振られるほうが負担が少ない。結論ははっきりしている。ただ、あまり簡単に「はいよ」と言うのは、どうかな。三年間の愛情がにせもののように感じられてしまう。
「よく考えて決めたのか」
「ええ」
敏子は神妙に答えた。
「戻せないんだな、もとへは?」
「あなたのこと、好きよ。でも……」
「わかった。明日から、俺、大阪だ。水曜日に帰って来るから、それまでにもう一度、よく考えておいてくれ。決心に変りがないなら、俺はいいよ」
と提案し、それから、
「我慢するよ」
と続けた。
「すみません」
気まずい沈黙が流れたが、敏子が、
「ステーキ、食べに行きましょうか、今夜」
「ああ、いいね」
最後の晩餐《ばんさん》になるだろう。
──正月のおみくじがわるかったかな──
凶を引き、私生活には波乱があると書いてあった。
大阪へ行くのは、ある大物政治家のスキャンダルを調査するためだった。現職の大臣が関西の劇団女優を愛人にしている……。表向きは後援会長だが、実情はそんなものじゃない。二人の仲は今も続いているらしい。密会の場所を一つ聞き込んだ。関係者の口は堅そうだが、現場に行ってみなければ、埒《らち》があかない。この取材は一カ月も前からいろいろな方面に手をまわして網をかけて来た。網をすぼめる時期が近づいている……。
「じやあ、行ってくる」
翌日、孝也は大阪へ発《た》った。
「はい、気をつけて」
敏子は笑顔で見送る。まるで前日の告白が嘘《うそ》のようにさわやかだ。
──留守中に男と会うんだろうな──
九十九パーセントまちがいあるまい。百パーセントと言ってもよい。孝也は軽い嫉妬《しつと》を覚えたが、肩口で片手を振ってドアを閉じた。
二日後にマンションに帰りつくと、
「お帰りなさい。お食事は?」
敏子がエプロン姿で玄関に立っている。
「うん、あれば食べる」
「好物のちらし寿司、作ったわ」
「サンキュー。ビールの小壜《こびん》、頼む」
「はい」
「あんたも飲む?」
「ええ。いいの? 小壜なのに」
「かまわん。半分ずつ」
それを飲み干したところで敏子が首をすくめて、
「やっぱり予定通り……」
「出るのか」
「ごめんなさい」
「いや、それならいいんだ。いつ?」
「明日、荷物の整理をして。きちんとご挨拶《あいさつ》をして」
「三つ指ついてか」
「そうね。そうします」
あっさりとしたものだった。
孝也のほうは感傷に浸っている余裕もない。
敏子のいないリビングルームで熱いコーヒー・カップを掌《てのひら》で包み、
──ガラス窓を汚したまま行っちまったなあ──
ぼんやりと眺めているときに電話のベルが鳴り、受話器を取ってみれば、
「もしもし。大阪に行ってたみたいだな」
と、親しい先輩の黒川だった。
黒川は大手の出版社の編集局長を務めている。今年の春、総合雑誌の編集長から昇格して取締役となった。業界では腕利きとして知られている。この人には大学の同じゼミの後輩ということで孝也はずいぶん世話になった。
「早耳ですね」
「まあな」
「なんでしょう」
「せっかくだけど、大阪の取材、なかったことにしてくれないかな。筋ちがいの願いだけど……頼むわ」
「えっ?」
「気持ちはわかる。わるいようにはしない。それに……恩着せがましいようだけど、このまま進むと、君のためにならない」
いわゆるもみ消しである。充分にニュース・ヴァリューのある記事でも、発表を控えさせられることは、ある。よくあるとまでは言わないが、この業界に生きていれば聞かない話ではない。女性がらみのスキャンダルはとりわけそうだ。ジャーナリストにとっては、なによりもつらい譲歩のようだが、なーに、ゆっくり考えてみれば女性がらみのスキャンダルなんて、大衆の好奇心を満たすだけのもの、偉い人に対する大衆の嫉妬心におもねるためのもの、あるいは反対勢力の罠《わな》だったりして、大上段に社会正義を主張するほどのものではない。もみ消しに応じても魂の痛みは小さい。
「でも、私がやらなくても……どこかが……」
今のところ孝也一人のスクープになりそうな感触だったが、それは判断の甘さかもしれない。いずれだれかがあばく。
「もちろん、その可能性もあるけど、一つ一つ抑えていくより仕方ない。とりあえず君だよ」
黒川は顔が広い。いろんなところと繋《つな》がりを持っている。
──なぜ黒川さんが──
と思ったが、黒川が大物政治家と親しくてなんの不思議もあるまい。今までは知らなかったが、なにかしら非常に強い接点があるのだろう。
「そうですか」
孝也は少しためらった。黒川には抗《あらが》えない。これまでもずいぶん世話になったし、これからも世話になる。ここで譲っておけば、次によいことがある。別件で無理を願うこともできる。だから結論は決まっている。ただ……二つ返事で「はい、はい」と承知するのも、安易すぎるような気がして……。
──最近、ほかにも似たことがあったな。ああ、そうか。敏子のときがそうだった──
敏子に対しては三日だけ熟慮するように頼んだ。しかし、黒川のほうは、
「頼む」
と、急いでいる。
「わかりました」
「こまかい事情は……いいよな。いずれ、ゆっくり話すよ」
黒川もあまり話したくはあるまい。孝也としては聞きたい気持ちもあるが、見ぬもの清しという言葉もある。黒川とずっと親しくしていくためにも聞かないほうがよい。
「はい」
「とりあえず取材費だけは送るから」
「いいですよ」
「いや、いや、そこまで甘えるわけにはいかん」
「いつもお世話になってますから」
「じゃあ、頼むわ。また連絡する。体、大丈夫なんだろ」
「はい」
「奥さんは?」
と、敏子のことを尋ねる。
「ええ、元気です」
この件もこまかいことを伝える段階ではあるまい。
「奥さんによろしく」
「ありがとうございます」
電話を切った。
コーヒーの残りを捨て、水割りをたて続けに三ばい飲んだ。
酔いがまわる。
疲労を覚えた。
──この二、三カ月、俺はなにをやっていたのかなあ──
苦笑が浮かぶ。
狙った仕事は実を結ばない。敏子はあっさりと出て行ってしまった。こんなときには気ごころの知れた女がそばにいてくれるほうがいい。
──わるい女じゃなかった──
敏子の存在がなつかしい。
以前は親しいガール・フレンドの二、三人くらいいつも身近にいたけれど、敏子と一緒に暮らすようになって、みんな縁遠くなった。消息もよくわからない。
──お袋は喜ぶだろうな──
唯一の救いといえば、これだろう。母は真底から敏子との生活を憎んでいたから……。わけもなくガラス窓の汚れが眼につく。
──お掃除研究会へ電話をしてみるかな──
夜九時。学生ならば、失礼でもあるまい。
局番のあとにヨロシク=c…。だが、答えたのはテープレコーダーの声だった。「この電話は現在使われておりません」と。孝也の記憶にはまちがいがない。もうお掃除研究会は解散したのだろう。
また二はい水割りを飲んだ。
それから三カ月……。敏子は順調にやっているらしい。元町のブティックも開店が近い。
孝也の生活は変らない。
同業者がたむろするスナックでコーヒーをすすっていると、はすむかいにすわった男が、
「殺し屋って、本当にいるんだなあ」
と、タブロイド判の新聞を読みながら叫んだ。あまり上等の新聞ではない。早い時間に読むと手にインキがつく。記事の内容も興味本位で、眉《まゆ》つばものも多いのだが、時折、大新聞が扱わないような記事が載る。
「あるんじゃないのか。東南アジアなら、三万円くらいだとか」
孝也は茶化しながら答えた。
「サラ金で困った日本人が、銭のない外国人を誘って、首都圏で殺人請負い業を始めたんだとサ」
「このごろ、世の中がマンガチックだからな。劇画みたいなことが本当に起きちゃうんだから。それで、成功したのか」
「いや、未遂だ。しかし、余罪があるかもしれない」
「とりあえずは失敗したわけだ?」
「そう。学生アルバイトの掃除屋を装って目的の家に入り込み、中の構造がわかるわけだから、あとで忍び込んで、盗んだり殺したりするってわけよ」
「本当かよ。ちょっと見せてくれ」
孝也は新聞を奪い取って記事を読んだ。
──よく似ている──
事件は未遂に終ったらしいが、外国人を交えた五、六人のグループが殺人請負い業を考えたのは本当らしい。少なくとも記事にはそう書いてある。事件は先月浦和市で起き、グループの用いた名称は……埼京大学お掃除研究会……。
「どうした?」
「いや、べつに」
よもやま話にしては少し深刻すぎる。まさかとは思うが、よく似ている。
──狙われたかな──
東都大学お掃除研究会のチラシ広告……。マンションのドアのすきまに押し込んであった。孝也はそれを見て掃除を頼もうとした。
一方で孝也は政治家のスキャンダルを追いかけていた。命はともかく、引出しの中の書類は狙われたかもしれない。
黒川が電話をかけて寄こし「このまま進むと君のためにならない」と言ったのは、背後に思いのほか怖い部分が見え隠れしていたせいかもしれない。どちらの団体も掃除研究会の名称にお≠ェついている。そこが悩ましい。
──調べてみるかな──
もう一つピンと来ない。もっと大きなスキャンダルが隠されているかもしれない。
だが、今度もまた孝也にとって手の放せない私的な大事件が起きてしまった。やっぱりおみくじがわるかったのだろうか。
夜中に電話のベルが鳴り、
「お母様が急に……大宮の病院で」
と、女の声がすすり鳴く。
知らせてくれたのは、お花の弟子の一人らしい。母は風呂《ふろ》場で倒れ、数人の弟子が気がついて病院へ運んだが、もう手遅れだった。
「一カ月前の健康診断のとき、血圧が少し高いって言われて、心配していたんですけど」
と電話の声が言う。
脳|溢血《いつけつ》である。母の両親兄弟には、この病気で倒れた人が三人もいる。もっと注意すべきだったろう。
死顔は安らかだった。
──これから親孝行をしようと思っていたのに── 悔んでみても間にあわない。
葬儀をすませ、遺品などの整理はやはり孝也が立ちあわなければならない。
母のハンドバッグの中に、スケジュールを記した小さな手帳があった。なにげなくページを繰っていた孝也の指が、
──えっ──
五カ月ほど前の日付のところで止まった。敏子と仲むつまじく暮らしていた頃である。孝也はむしろ結婚を考えていた。別れたのは、その二カ月ほどあとのことだ。
母のスケジュールの余白に電話番号らしいものが書いてある。あの、東都大学お掃除研究会の番号が……。
──お袋はなにを考えていたのか──
母は白金台のマンションへ来たこともない。ガラス窓の汚れを知るはずもない。そして、あのタブロイド判の記事。それを思うと周辺に汚れた窓と同じように見えないものがちらつく。
──殺し屋なんて、本当にいるのかなあ──
明日、敏子が線香をあげに来てくれるらしい。
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帰 り 道
五年ほど前のことである。
シンガポールからの帰り道、航空機のエンジンに不調が生じ、香港の空港に不時着陸した。
どこが故障したのか整備がうまくいかず、空港ロビイで五時間あまり待たされたあげく、
「今日は出発できません」
ほかの便もなく、成田行きの乗客は、そのまま空港に隣接したホテルに泊められることとなった。
軽い夕食をすませたのち、
──せっかく来たのだから──
地図も持たずにホテル付近の町を歩きまわった。薄汚れた繁華街が続いている。一見して観光客が来るところではない。一歩暗い路地へ入り込むと、
──ちょっとやばいかな──
怪しい気配を感じないでもなかった。
悪名の高い九龍城地区は、半分ほど破壊されていた。中国本土への復帰を前にして、香港ではさまざまなリストラが推し進められているらしい。いかがわしい組織は追いつめられ、生き残りを計って一か八《ばち》かの反抗を企てる。部分的には、ひどく治安のわるいところがあると聞かされた。つい先日も刃傷沙汰《にんじようざた》があったとか。いきなり爆発音が聞こえ、運がわるければ一般市民が流れ弾に当たったりすることもある。
「気をつけてくださいね」
パーサーが注意を垂れていた。それを聞きながらも、私は、
──映画じゃあるまいし……そんなこと、滅多に起こるはずがない──
と、たかをくくっていたのである。
私は香港を知らない。
はじめて歩く町である。だから、自分がいま歩いているところが、危ない地域なのかどうか、それもわからなかった。表通りは狭い間口の商店が軒をつらねているが、もう夜の九時を過ぎていたから、大半がシャッターをおろしている。飼い鳥を売る店があった。九官鳥が知らない言葉を叫んでいる。夜目にも白い鸚鵡《おうむ》がせわしなく毛づくろいをしている。
その隣にも鳥を売る店があって、
──鳥を飼う人が多いのかな──
と思ったが、五、六歩進んでから、
──待てよ、今のは、食用の鳥ではなかったろうか──
と、気がついた。
もしそうならば、珍妙な風景である。
飼い鳥を売る店と、食用の鳥を売る店とが並んで建っていてよいものか。べつに法律違反ではあるまいが、釈然としない。香港にも動物愛護を訴える人がいるだろう。熱狂的な保護団体だってありそうだ。
──異を唱える人はいないのかな──
道を戻って、二軒の様子をカメラにでも収めようかと思ったが、
──まあ、いいか──
確かめずに散策の足を伸ばした。
映画館があった。スチールは格闘技のシーンばかりである。女優はなかなか美しい。
駅の切符売り場のような窓口が並んでいて、なにかと思えば、ロッタリイを扱うところとわかった。はずれくじが散って風に舞っている。スピードくじのようなものらしい。
一枚を拾って、くじの仕組みを考えながら歩くと、駄菓子屋が暗い光の下に中国菓子を並べている。ここもシャッターが降りているから、細かいところまでは見えない。
角を曲がって暗い道へ入った。
ホテルを出たときには香港の中心街まで行ってみるつもりだった。はじめて来た町だが、どっちへ行けばよいか、そのくらいの見当はつくだろう。中心街には高いビルもあるだろうから、少し歩けばそれが見えてくるだろう。
だが、いっこうにそれらしいものが認められない。あとで知ったことだが、香港は思いのほか広い。空港と中心街は四キロほど離れている。道も屈曲している。そぞろ歩きで到達できる距離ではなかった。
私はどこをどう歩いたのか、わからない。ただ、はじめての町にしては、違和感がない。雑然たる気配、薄汚れた様子……。むしろなつかしい。理由はすぐに気づいた。
幼い頃の私は、横浜の中華街の近くに住んでいた。五十年以上も昔のこと……。つまり、太平洋戦争の前である。横浜はすっかり変ってしまい、今では自分の住んでいたところもつきとめられないけれど、とにかく近くに中国人の居留地があった。幅広い道を隔てたむこうがそうだった。支那《シナ》町と呼んでいたと思う。もう少しひどい呼び方もあったが……まあ、言わずにおこう。
「行っちゃ駄目よ」
と母に釘《くぎ》をさされていたが、少し年上の子どもたちは、ときどき遊びに行っていた。駈《か》け足で行って帰って来る。
私は五歳。いたって臆病者のほうだったから、道路越しにこわごわ様子を窺《うかが》っていたのだが、それでも町の様子は見当がつく。それに……一度だけだが一人で中まで入ったことがある。香港の町並みはどこかあのときの気配に似ている。
一人で支那《シナ》町へ行った日のことはよく覚えている。
母は重い病気にかかって二階の奥の部屋に臥《ふ》せっていた。よくよくの用事がなければ、子どもが行くことは許されなかった。
私の母は蒲柳《ほりゆう》の質で、病気はめずらしいことではなかった。しばらく二階の部屋で臥せっていたあとで、突然、階段を降りて来て、
「お利口にしてましたか。お菓子をあげましょうね」
特別にやさしくしてくれることがよくあった。久しぶりに元気になった母の顔を見るのがうれしくて……そのうえ普段とはちがったお菓子をもらえる喜びも手伝って、このひとときは、大袈裟《おおげさ》ながら至福の瞬間であった。
だから、あの日も、
──今にお母さんが階段を降りてくる──
そんなことをぼんやりと考えていただろう。
姐《ねえ》やは看病に忙しく、かまってくれない。私は家の中で遊んでいたが、それにも飽きてしまい、一人で家の外に出た。
遊び仲間の姿は見えない。馬が荷車と一緒に路地を塞《ふさ》いでいたのを奇妙なほどよくおぼえている。亜麻色の尻尾《しつぽ》を振って蠅《はえ》をおっていた。その亜麻色の毛を一本か二本ほしいと思った。用途があったわけではない。宝物にでもするつもりだったろう。
──引っぱれば抜ける──
だが、馬は黙って抜かせてくれるだろうか。
──蹴《け》とばされるかもしれないぞ──
下駄屋のおじさんは、兵隊に行ったとき、馬に蹴られて、それで鼻が曲がってしまったんだとか。そんなことになったら、大変だ。二、三歩、馬に近づいてみたが、それ以上の勇気は湧《わ》いて来ない。
あきらめて横手の路地へ入った。
それからどうして支那《シナ》町へ行く気になったのか、心の推移は思い出せない。
──行ってみよう──
意を決してアスファルトの道を越えた。
中国人そのものは見慣れていた。支那《シナ》町は案に相違して、のんびりとくつろいでいた。老人が日なたぼっこをしている。女が窓から長い竿《さお》を突き出して洗濯物を干している。上半身|裸《はだか》の男が大きな包丁で骨つきの肉を切り裂いている。
横眼で見ながら駈け足で通り抜けた。
途中まで行って踵《きびす》を返した。
帰りも駈け足だった。
「おい、坊主」
声をかけられ、全速力で逃げた。振り返ると、大きな男が笑っている。逃げる必要はなかったのかもしれない。
アスファルトの道を越えて、ほっとため息をつく。
──やったぜ──
それだけで満足だった。
アスファルトの道から、ほんの少し入ったところに駄菓子屋があった。いつも頭に手拭《てぬぐ》いをかぶった婆《ばあ》ちゃんが店番をしている。
駄菓子屋には子どもの喜びそうな品がたくさん置いてある。ここもまた、
「行っちゃ駄目よ」
と言われていたのだが、行かずにはいられない。お小遣いの使い途は、ほとんどが駄菓子屋に向けられていた。
売っていたのは、お菓子ばかりではない。
千枚はがし。これは花形に切った雲母の小片だった。針先を使って何枚にもはがす。千枚は嘘《うそ》だが、五枚くらいはすぐにはげる。
「敏ちゃんは八枚もはいだとォ」
「ホント?」
私は不器用なほうだったろう。
写し絵には、漫画の主人公たちがたくさん描いてある。それを切り抜き、絵のあるほうを水で濡らし、ほかの紙の上に置いて裏面を指先でゴシゴシこすりながら圧迫する。漫画の主人公が白い紙のほうへ写る、という遊びだった。
日光写真は、種紙が高いので、あまり買わない。すぐに黒くなってしまうのも残念だった。
小さい店なのに、本当にいろいろな品物が置いてあった。一番心を引かれたのは、くじのついているもの……。たとえば、相撲取りの写真。双葉山の全盛時代ではなかったろうか。化粧まわしをつけた力士のブロマイドが、新聞紙で作った小袋に入れてあって、写真の裏側に赤印がついていれば、大きな写真を無料でもらえる。でも、当たったことは一度もなかった。
そこへいくと、甘いのしいかはわりがいい。これも新聞紙の小袋に、名刺を半分に切ったほどの細長いのしいかが入っている。甘い蜜《みつ》の味がする。袋の中に小さな紙切れが入っていれば、当たりくじとなる。赤い紙が一等、青い紙が二等。一等ならいか一匹分の大きなのしいかがもらえる。二等は、その三分の一くらい。
一等はともかく、二等はときおり引き当てる。のしいかは子どもの頃の好物だった。
支那《シナ》町から戻って、駄菓子屋の店頭でのしいかの小袋を手に握ったとき、
「こんなところにいたの。早く」
姐やが青い顔で駈け込んで来た。息が荒い。あちこち駈けまわって私を捜していたのだろう。
手を引かれて家へ帰った。
母の枕《まくら》もとに父がいた。親戚《しんせき》の人もいる。知らない顔もあった。
「ご臨終です」
白衣の医師はそう呟《つぶや》いたのではなかったか。
気がつくと、私はのしいかの小袋をしっかりと握っている。そっと覗《のぞ》くと、細いのしいかと一緒に青い紙切れが入っていた。
──あとで賞品をもらいに行かなくちゃあ──
そう思いながら、みんなが泣いているので私も涙を流した。
母の死を悲しんだのは、それからもっとあとのことだったろう。母はいつもやさしかった。
「きれいな人だったわ」
と、そんな噂《うわさ》を、よく聞いたから、水準以上の器量よしだったのではあるまいか。ほとんど面《おも》ざしを思い出せないが、残された写真を見ると、母は若くて、美しい。
病気は肺結核だった。子どもがなかなかそばへ行けなかった事情も、この病気のせいだったろう。
──今だったら治ったろうに。俺《おれ》の一生も変っていたな──
そんなとりとめもない思案をめぐらしながら私は香港の夜を歩いた。
それから五年の歳月が流れ、
「ちょっと香港へ行って来てくれんかな」
私は社用を帯びてふたたび香港の土を踏むことになった。
|深※[#「土+川」]《しんせん》地区に下請けを依頼している工場があり、その技術のうちあわせに出席するのが渡航の目的だった。前任者が退職し、急に私が行くことになったのである。
香港の技術はわるくない。
むつかしい用向きではなかった。五日間の会議を終え、接待も受け、最後の夜が自由時間となった。
翌月の出発を考慮して私は深※[#「土+川」]を離れ、尖沙咀《チムサアチユイ》の港に近いホテルに宿をとった。香港の観光は三日目の午後にすましていた。本場の中華料理もたっぷりと味わった。広東料理と北京料理のちがいもおおむねわかった。だから……最後の夜はホテルのバーで一人水割りを飲んだ。そのうちに、
──行ってみるかな──
ふと、五年前に歩いた道を訪ねてみたくなった。夜の九時を過ぎていただろう。
運動のため休日に速歩をやっているから歩くのには慣れている。この前は地図もないままに歩きまわったが、今回はおおよその地理が頭に入っている。彌敦道《ネイザンドー》をまっすぐに行き、適当なところで右に曲がれば空港の周辺へたどりつくにちがいない。疲れたらタクシーを拾って帰ってくればよい。
ジャケットを部屋へ置き、軽装で町へ出た。
五年ほどのあいだに香港は少し変ったような気がする。いや、この前は空港付近の町を少し歩いただけだから、私自身、さほどの見聞を深めたわけではないけれど、ふたたび現地を踏んであれこれ聞いてみると、そんな話をよく耳にした。欧米化はますます進んでいるらしい。本土への帰属はいよいよ目前に迫っている。その先はどうなるかわからない。今のうちに既成事実を作っておこうということなのだろうか。町並みは……もちろん随所に中国的な気配が残っているが、大ざっぱに言えば、世界の大都市とさして変りがない。英字新聞の片すみで、暴力団同士の派手な抗争が報じられていたが、
──こんな町なら、まあ、心配あるまい──
私の心に油断があったのは本当だった。
治安はわるくなさそうだし、この前は暗い町を歩きながらなんの不祥事にも遭通しなかった。
夜になっても彌敦道《ネイザンドー》は人通りが絶えない。若い人が大声をあげて楽しそうに騒いでいる。大きなビルの壁にそって、竹竿を繋《つな》いだ高い足場が作られている。
──これがそうなのか──
一昨日聞いた話を思い出した。
高いビルの窓掃除や壁面の塗り替えは、みんなこの足場に昇って作業をするらしい。軽業《かるわざ》のような仕事である。いっぺん見てみたいと思ったが、さすがに夜はやらない。中国人らしい身軽な仕事ぶりにちがいあるまい。
公園があった。
ここでは夜も遅いのに何人かの男女が群がって太極拳《たいきよくけん》のようなものをやっている。これはどこへ行っても見られる香港の風景だった。二十分ほど歩いて大通りと交差する角を右へ曲がった。
道はまっすぐにはついていない。三叉路《さんさろ》の角に来て、
──こっちにしよう──
直感を頼りに左の道を選んだ。トンネルを抜けた。
飛行機が轟音《ごうおん》を響かせて降りて行く。方角はまちがっていないらしい。
続いてまた一機が降りて来た。
しかし、空港はもう少し先らしい。
──帰ろうか──
タクシーを捜したが、周囲は人通りもなく、走っているのは、客を乗せる車ではない。
──もう少し行ってみよう──
せっかくここまで来たのではないか。
さらに四、五分、道を進んで、シャッターをおろした商店街へ入ると、
──待てよ──
なにかしらちかしい気配を覚えた。
──ここは……。知ってるかもしれない──
遠い記憶をさぐった。
いや、記憶というほど鮮明なものではない。たとえて言えば、夢で見た風景……。かすかに感ずるものがある。
──この道じゃなかったかなあ──
進むにつれ、少しずつ確かさが胸に忍び込んでくる。確信へと近づく。
少し行って……ロッタリイの窓口があったはずだ。その隣が映画館で──
足を速めた。
五年前、空港ホテルから町へくり出したときには、ホテル周辺の記憶が一番鮮明に心に残った。当てもなく彷徨《ほうこう》するうちに、通った道筋も、町の風景も散漫な印象に変った。つまり記憶の同心円……。ホテル周辺がまん中にあり、遠ざかるにつれ記憶が薄くなる。
今、その道筋を逆にたどっている。薄い記憶のほうから濃い記憶のほうへと進んでいる。
──あった──
ロッタリイが。映画館も。もうまちがいない。記憶の糸を……その一端をしっかりと掴《つか》んだ。あとはそれをたどればよい。
つぎつぎに見おぼえのある風景が現われる。
──駄菓子屋があったはずだが──
いや、あれはロッタリイよりもホテルから遠い位置だった。そうだとすれば、今、通り過ぎた路地だったかもしれない。少し戻って捜してみたが見つからない。五年のあいだに店を閉めたのだろう。それがふさわしいような、ちっぽけな店だった。
──うん、ここで入れ墨の男が、飯を食っていたんだ──
網のシャッターを降ろしているが、薄汚い食堂がある。ごみ箱に残飯が盛り込まれ、野良猫が二匹、餌《えさ》をあさっている。
鳥屋があった。
二軒並んで……。
微笑が浮かぶ。あのとき瞥見《べつけん》した風景は、見まちがいではなかった。ここもシャッターが降りていたが、様子をうかがえば、なにを商う店か、見当がつく。一つは鳥肉を売る店である。看板を見ると鶏のほかに鳩《はと》や鶉《うずら》も扱っているらしい。中国人はなんでも食べる。さまざまな鳥を飼い、注文に応じて絞《し》めて売っているのだろう。
その隣は、愛玩《あいがん》用である。薄汚い店構えは隣と似たようなものだが、鳥籠《とりかご》が光っている。金や銀や白色の針金が新しい。鸚鵡が一番近いところで眠っている。いくらなんでもこれは食べるためではあるまい。
隣同士だが、壁一枚で鳥たちの運命はおおいに異なっている。
──しかし、鳩なんか飼う人もいるだろうなあ──
案外、店の裏では商品の交換がおこなわれていたりしていて……。
ここまで来れば、もうホテルも近い。足を伸ばしてホテルの裏口から中へ入った。
──ここだ、ここだ──
フロント・ロビイの形に見おぼえがある。あのときは航空機の乗客がいっせいにチェック・インをしたものだから、このあたりでたっぷりと待たされた。私が腰をおろしたソファもそのままの位置にある。
それにしても人間の記憶はおもしろい。脳|味噌《みそ》の作用だけあって、やっぱり生きている。細胞のように記憶も生まれ変る。
香港の裏通りなど、あらかたは忘れていた。なんの記憶も残っていないと思っていた。空港ホテルのロビイなんか、日本で考えても思い出すことができなかったろう。ところが現場に立つと記憶から消えていたはずのものが甦《よみがえ》ってくる。
奇妙な連想だが、写真では、こうはいかない。もともと写っていないものを、どんなに拡大してみたところで見えてはこない。だが記憶のほうは、脳裏に写っていないはずのものが……正確に言えば、写ってすぐに消えたはずのものが、少しずつ再生する。一つを思い出すと、そのまた先が現われる。
ぼやけていたロビイの形をはっきりと確認すると、つぎには、
──左手にエレベータがあって、上に空港の見えるバーがあるんだ──
と、完全に忘れていたはずのバーの様子が、ぼんやりと見えてくる。
エレベータで昇った。
──そうか。チャイナ・ドレスを着たウェイトレスがいたんだ──
と、生き返ったばかりの記憶と現実が一致する。
バーのシンボル・マークは、ダ・ヴィンチの描いた飛行機の模型図で、
──コースターを持ち帰ったはずだが、どこへ置いたかなあ──
そっちのほうは忘れている。
同じコースターが使われていて、これも図柄に記憶がある。
マルガリータを飲んだ。
喉《のど》が渇いていたせいか。とてもうまい。飲み干して二はいめを頼んだ。酔いがまわる。東京で飲むものよりアルコールの濃度が濃いのではあるまいか。とてもここちよい。
──おもしろいなあ──
心に反芻《はんすう》したのは、つい今しがた、このホテルに向かう裏道で体験した微妙な感触だった。暗い道を歩きながら、私の思案は薄い記憶から濃い記憶へと逆行した。頭の中のイメージと、眼の前に連なる風景がうまく呼応して、なんだか生きてきた道を逆に戻っているような、そんな感触を味わった。
当然のことながら、時間は過去から現在へと流れている。人間は若い年齢から老いた年齢へと齢《とし》を重ねる。五十歳の次が五十一歳、五十一歳の次が五十二歳……五十三歳、五十四歳、五十五歳と、順次に年を取る。
しかし、あるとき、ふいに五十五、五十四、五十三、五十二……と逆行することはないのだろうか。逆行を体験することは、けっしてありえないのだろうか。いつしか若い時代へと帰っていくことはないのだろうか。さっきの体験は、わけもなくそんな感触に似ていた。
──馬鹿らしい──
三ばいめのマルガリータを飲んでバーを出た。カクテルは、同じものを三ばいも飲んだりするものではあるまい。
──まあ、いいか──
ホテルの前にはタクシーがたくさん停《と》まっている。尖沙咀《チムサアチユイ》に帰るのに不自由はなさそうだ。
もう少し散歩がしたくなった。
道を右手に採り、知らない一郭《いつかく》へと足を伸ばした。
崩れかかったビル。かなり広い面積が廃墟《はいきよ》と化している。飯場のようなバラックが片隅に建っていて、ヘルメットをつけた作業員が二、三人、灯《あかり》の下にたむろしている。電線を巻いている。太い電線……。導火線かもしれない。
道はさらに暗くなる。人通りも途絶えた。危険な地域なのかもしれない。
──帰ろう──
と思ったとき、ビルのあいだから、バタバタと人の足音が聞こえた。黒い影が跳び出し、少し遅れて、それを追う人影が二つ、三つ映った。
私も走った。
爆発音を聞いた。細い閃光《せんこう》を見た。
──いかん──
と思った。
胸が熱い。走ったせいで、どこかに潜んでいたマルガリータの酔いが胃の腑《ふ》を直撃したらしい。
一瞬の出来事だった。気がつくと……人影は消えている。足音も聞こえない。
──なにが起きたんだ──
だれかが逃げ、だれかが追い、ピストルを撃ったのではあるまいか。どうもそうらしい。
しかし、この静けさはなんだろう。戸惑《とまど》いながら暗い道を進んだ。
──なんだ、ここか──
私は……いま来た道を戻っている。廃墟の角に立っている。飯場の作業員はもういない。灯も消えている。
事件が起きたというのに……だれも気づかない。私の錯覚だったろうか。だが、すぐに思い直した。事件の現場というものは、こんなものなのかもしれない。急に始まり、すぐに終る……。
暴力団同士の抗争があったのかもしれない。逃げる男をピストルで撃ったのかもしれない。すぐ近くにいながら、私はただうろたえていた。劇的なところはなにも見なかった。一瞬のうちに終っていた。私は逃げた。あとは、前にも増して静かな、暗い道だった。
現場へ戻る気にはなれない。かかわりあいになるのは厭《いや》だ。明日は東京へ帰るのだから……。急ぎ足で廃墟の角を曲がった。
──なんだ、ここへ出るのか──
空港ホテルより先に、見知った路地へ出た。三十分ほど前に通ったばかりだから、記憶は鮮明である。
そのわりには意識がぼんやりしている。夜更けて霧が出て来たのかもしれない。古い日活の映画では、香港の抗争はきまって霧の中だった。
──ちがったかなあ──
日活ではなく、もっと古いフィルムかもしれない。
そんな連想に応《こた》えるように映画館があった。ロッタリイの窓口の前を通った。
──全財産を賭《か》けて宝くじを買った男がいたっけな──
思案はまたしても遠くへ飛ぶ。
昭和二十年代……。父が読んでくれた新聞の記事だった。私の記憶が正しければ、当時の宝くじは一枚五十円だった。一等賞金は百万円だった。その男は中小企業の社長で、資金ぐりに行き詰まり、可能な限りの金銭を集め、たしか十三万円を用意して、すべてを宝くじに注《つ》ぎ込んだ。百万円が当たれば、危機を回避できる計算だった。
結果は……残念ながら百万円は当たらず、当たりくじの総計は七万円を少し超える程度だったのではなかったか。
「そううまくはいかんさ」
父の自嘲《じちよう》気味の笑いが聞こえる。
父も、あの頃、会社の経営で苦労していた。その苦労のせいもあってか、それから間もなく脳卒中で死んだ。朝鮮動乱の前だった。
父はいつも自転車で駈けずり廻っていた。自転車操業という言葉を聞くたびに、肥《ふと》った図体で自転車を漕《こ》いでいた父の姿を思い出す。
──おやッ──
自転車が私の脇《わき》を走り抜けていく。
どことなくうしろ姿が父に似ている。父なのかもしれない。
アスファルトの道を越えた。
──なんだ、こんなところにあったのか──
駄菓子屋が店を開けている。ロッタリイのすぐ近くだと思っていたのに……。
しかし、中を見ると、様子が少しちがっている。前にここで見た店ではないらしい。もっと古い……。もしかしたら、この界隈《かいわい》は、日本人街なのかもしれない。
千枚はがし、写し絵、相撲取りの写真、なつかしいのしいかまで売っている。新聞紙の小袋に入れて、多分くじつきにちがいない。
──日本円を持って来なかったなあ──
奥には、手拭いをかぶった婆ちゃんがすわっていた。
「こんなところにいたの。早く」
姐やが私を呼びに来た。
細い路地に荷車をつけた馬がいる。脇道を通って家へ帰った。
「ただいま」
家の中はひっそりと静まりかえっていたが、すぐに階段のほうから足音が聞こえた。
「お利口にしてましたか。お菓子をあげましょうね」
聞き覚えのある声だ。ずっと忘れていた声だ。
──ああ、やっぱり──
母は若くて、とても美しい。
私は急いで駈け寄った。
──もうまちがいない──
香港の空港ホテルのバーで考えたことは本当だった。なにかの拍子で時間を逆にたどっていく道があるらしい。私は一気に幼い頃の道筋に戻ってしまったらしい。
母の胸が暖かい。
──これは……母の匂《にお》いだ──
きっと私の幼い日が、次から次へと戻ってくるにちがいない。
単行本 平成六年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成九年五月十日刊