角川文庫
空想列車(下)
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
ブレイク・タイム
5 原稿用紙
6 旅行案内
7 英語教室
8 新聞記事
エピローグ
ブレイク・タイム
たまたま|熱《あた》|海《み》発東京行きの列車の一郭に四人の女が乗りあわせた。
顔かたちはもちろんのこと、年齢も、立場もみんなちがっている。
伊駒信子、三十五歳は、ここ数年ずっと不倫の恋の夢を見続けている。夫の和彦はまじめなサラリーマンで、幼稚園に通う子どもが二人いるのだが、
――若いころに恋をしなかった――
信子は人生に忘れ物をしたような気がしてならない。近所に住む主婦のひとみに子どもを預けてときおり美術館へ行く。そこで、すてきな恋人に会うはず。空想はどんどん広がって、まるでもうすぐそこに現実があるみたい……。
久賀めぐみ、二十五歳の悩みは、夫の二郎が無能なこと。二郎は地主の息子で、たしかに財産はあるのだが、おかげで人生に対する闘争心もなければ向上心もない。区役所に勤めているが、これもいい加減。知能指数もきっと高くはないだろう。のんべんだらりと暮らしている。松山からエリートの家庭を夢見て嫁いで来ためぐみとしては、やりきれない。
――すばらしい子どもを育てよう――
まなざしのキラキラと輝く、知的な子どもたち。勉強もできるし、スポーツも得意。そんな三人の子どもができる予定なのだが………。名前まで真一、善二、美子と決まっている。
――でも大丈夫かしら。私に似てくれればいいんだけれど――
夢を描いているときは楽しいが、現実をかえりみると、|憂《ゆう》|鬱《うつ》になってしまう。
小早川千鶴、四十九歳の場合は、もともと夫の人柄がよくなかった。夫の良介はひどく自己中心的な男で、女はみんな馬鹿だと思っている。感情の起伏も激しい。結婚以来、千鶴はずっとこの夫に圧倒され、服従を続けて来たのだが、ここへ来て、
――なんだかへんだわ――
と気がついた。
近くに引っ越して来た片瀬知子と親しくなり、さらに梅宮一恵と知りあう。そして二人に誘われ、夫の反対を承知で旅に出た。一恵は最近夫を亡くしたばかりだが、なんといきいきしていることか。日本全国を旅して見聞を広めている。
――私もああなりたい――
考えてみれば、千鶴もずっと旅に|憧《あこが》れていた。もうすぐ二人の男の子は独立する。
――離婚ができたら、どんなにいいかしら――
それを考えずにはいられない。そうしたら気ままに旅に出かけ、美しい景色を眺め、温泉につかり、おいしいものを食べよう。寡婦の生活があんなに明るいものとは知らなかった……。
これまで三十年近く、千鶴の人生はほとんど夫に奪われたようなものだった。千鶴にとって良介は、いるよりはいないほうがいい人であることはまちがいない。夢くらいは自由に見たっていいだろう。
原マドカ、三十四歳は婦人雑誌の記者。夫の洋はテレビ番組の制作会社に勤めてディレクターをやっている。
「ずっと記者の仕事をやりたいわ」
「いいよ」
そういう条件で始めた結婚だった。記者の仕事はおもしろい。洋もあまり家庭的ではない。おたがいに自由に生きている。干渉はほとんどしないし、顔をあわせている時間もそう多くはない。
だが、ここ数年、夫婦のあいだにあぶない|倦《けん》|怠《たい》感が漂うようになった。二人一緒に暮らしていて邪魔にはならないが、昔のような愛情があるとは思いにくい。
――あの人、浮気しているな――
感ずるものがある。
マドカの趣味は読書。とりわけミステリーを読むのが大好きだ。腹が立つと、身近な人を頭の中で殺してしまう。トリックはいっぱい頭に詰まっている。もちろん夫の洋も例外ではない。一番多く殺された被害者だろう。以前は現実とはまったく関係のない、ただの想像だったけれど、昨今は、
――私、案外、本気なんじゃないのかしら――
自分でもドキッとするほど代償行為の色あいが濃くなった。
四人が乗った列車は雨の中を走っている。
千鶴がバッグの中からきれいな|飴《あめ》を取り出して三人に勧めた。ひとこと、ふたこと会話が交わされたが、すぐに話は途切れてしまう。
――少し小降りになったわ――
みんなおし黙って頭の中の想像を広げる。
はたから見ただけでは、なにもわからないけれど、四人は四人とも人並はずれた空想癖を持っている。いったん考えだすと、どんどんふくらんでいく。
それぞれの頭の中の風景が見えたならば、さぞかし異様なものだろう。
信子は不倫の恋の相手と肩を寄せあっている。
めぐみは、すばらしい子どもたちに囲まれて一家|団《だん》|欒《らん》のまっ最中。
千鶴は夫と別れて念願の北海道旅行。ちょうど|知《しれ》|床《とこ》半島の果てまで来たところだった。
マドカは下唇を|噛《か》みしめ、手ぬかりがなかったことを確認している。足もとには夫の死体……。
それぞれが列車の響きに体を|委《ゆだ》ねながら思い思いの風景を描いていた。
空想に没頭する度あいがどんどん強くなってピークに達する……。一瞬、それが現実であり、目の前にある現実が消えてしまう。そんな瞬間がある。
四人の顔がみんな似たような表情に変わった。|強《こわ》|張《ば》ったような、無表情のような……。
四人の空想がいっせいにピークに達したとき……まったくの話、それぞれの頭の中から激しい空想が一種の念力のようなものとなってほとばしり出たように見えたとき、もう一つの偶然が重なった。
ガシーン、ガツン、ガタガタガタ……。
音が響き、列車内に悲鳴が流れた。
結果のほうから先に言えば、列車の衝突事故だった。踏切を乗用車が通りぬけようとして、列車とぶつかった。
乗用車の居眠り運転? あるいはブレーキの故障かもしれない。
列車のほうは急停車を企てたが、まにあわなかった。ガツーン。衝撃が走る。
四人の女が……信子、めぐみ、千鶴、マドカが腰かけていた一郭は、なにかの理由で一番ショックが激しかったのではあるまいか。
それともみんなが空想に没頭していて、現実への対応が一瞬遅れたのかもしれない。
衝突の瞬間、四人の体が|椅《い》|子《す》から宙に浮いた。そして四人が四人とも体をつんのめるようにして前に倒れた。頭がゴツン、ゴツン、ゴツン、つぎつぎにぶつかった。
「いやッ」
「ひどい」
「なんでしょう」
「痛あーい」
みんなが頭をさすりながら立ちあがった。車内に声があふれている。
「衝突らしいぞ」
「踏切だよ、踏切」
「自動車にぶつかったんだ」
口々に叫び、なにが起きたのか少しずつ明らかになる。
だが、もう一つ、不思議なことが四人の女の席のあたりで起こっていた……。
そのときはだれも気づかなかった。
いや、なにしろ目に見えないことだから、そんな不思議なことが本当に起きたのかどうか、それもわからない。
とにかく四人は衝突の直前までそれぞれ空想を描いていた。夢を見ることに文字通り夢中だった。没頭の度あいはピークに達し、イメージが念力に変わって頭から飛び出しそうになっていた。
そのときに頭がつぎつぎにぶつかった。
念力がほとばしり出て、ふたたびそれぞれの頭の中に戻るときに、少しずつ他人の念力を持ち帰ってしまった……。そんなこともあるらしい。
信子はマドカの空想を少し取り込んだ。
めぐみは信子の空想を少し取り込んだ。
千鶴はめぐみの空想を少し取り込み、マドカは千鶴の空想を少し取り込んだ。
四つの頭がそういうふうに、つまりマドカが信子にぶつかり、信子がめぐみにぶつかり、めぐみが千鶴にぶつかり、千鶴がもとに戻ってマドカにぶつかった。
事故のショックに驚きながらも、四人は四人ともほとんど似たような顔つき、似たような仕草で周囲を見まわす。首を|傾《かし》げる。
――へんだわ――
とでも言いたそうに。
このとき……四人が四人とも、自分の頭の中が少し変わったことを意識したかどうか……。
――頭をぶつけたせいだわ――
はじめのうちは痛みによる単純な違和感だと思ったにちがいない。
「本当にごめんなさい」
「つい、うっかりしてたものですから」
「私もあなたにぶつかっちゃって」
「なんだか将棋倒しみたい」
頭をさすりながらも笑わずにいられない。
本当に将棋倒しと言うか、玉突きと言うか、四つの頭が輪を描くようにぶつかった。一瞬の出来事だったけれど、四人の目にはそれが見えた。
それぞれの席にすわりなおして、
「どうしたのかしら」
「どうしたのでしょうねえ」
「なんか衝突みたいですね」
「乗用車にぶつかったとか」
車内放送が流れて、
「ご迷惑をおかけしております。ただいま|大《おお》|船《ふな》・|戸《と》|塚《つか》間の踏切で、列車が乗用車と衝突いたしました。列車の運転系統には大きな損傷はありませんので、間もなく発車できると思います。このまましばらくお待ちください」
それでも二十分あまり待たされただろうか。
列車が動きだすと線路わきに投げ出された乗用車が見えた。
「あんなにひどくなっちゃって」
「お亡くなりになったんでしょうねえ」
人間の姿は見えない。さっき救急車のサイレンが聞こえていた。
「救急車は、死んだ人を乗せないそうですわねえ」
「車に何人乗っていらしたのかしら」
「踏切につっこむなんて考えられませんわ」
「踏切に入るところが、かなり急な坂になってましたから……やっぱりブレーキの故障かなんかじゃないのかしら」
「そんなときにあいにく列車が走って来るなんて」
「この列車、少し遅れ気味だったんじゃないですか。小田原で長く停まってましたから」
「急いでいたのかもしれませんねえ」
ひとしきり事故についての話が続いたが、すぐに話題がなくなる。
窓の外の雨はほとんどあがっていた。
窓ぎわの二人は街を見ながら、それぞれの思案に戻った。千鶴は目を閉じ、マドカは本を読み始める。
「失礼します」
列車が川崎に着くと、マドカが席を立つ。
信子、めぐみ、千鶴の三人は品川で降りた。
「さようなら」
「さようなら」
乗り換える人、改札口に向かう人。
――なんだかへんだわ――
三人はそれぞれ一人になって、あらためて首を|傾《かし》げた。
5 原稿用紙
列車が大船を過ぎる。
――どうして首だけの観音様なのかしら――
マドカは思った。
何年か前に、ドイツ人のモデルと一緒に長い階段を上った覚えがある。大船観音の縁起についても一応調べたはずだが……忘れてしまった。
編集記者という仕事は毎日新しいものに触れている。雑多な情報が頭に入って来る。
――十年もやっていれば、ずいぶんもの知りになるだろうなあ――
と、はじめは思ったが、現実にはそれほどのこともない。
脳みその収容能力にはおのずと限りがあるものらしい。新しいものを入れるためには、古いものを出さなければいけない。今月の情報を確保するためには先月の情報を忘却しなければいけない。
マドカは本当に頭をポンと|叩《たた》くときがある。古い情報がショックで飛び出し、そのすきまに新しい情報が入りやすくなる……。
――さっき頭をぶつけたけど――
なにかが飛び出し、なにかが滑り込んだんじゃないかしら。
ドイツ人のモデルにむこうの童話を話してもらった。そのお話が……たしかポンと頭を叩くと、よい知恵がすぐ隣にいる人に移ってしまうお話だった。とても|剽軽《ひょうきん》な感じの娘で……。マドカが頭を叩くのも、もとをただせば、あの話のせいかもしれない。
列車事故のせいで頭をぶつけ、そのあとちょうど大船を通り過ぎ、剽軽なモデルを思い出し、それから彼女の話してくれた童話へと連想が弾み、自分の脳みそが少し変化したように感じてしまったらしい。
東神奈川の駅を過ぎるあたりで、
――書けるかもしれない――
突然、自宅のテーブルで熱心に書きものをしている自分のイメージが浮かんだ。とても鮮明な姿で……。
――なんだか怖いみたい――
もしかしたら、ドッペルゲンガー。これもドイツ語だろう。自分でもう一人の自分を見てしまう怪奇現象。本当にあることじゃないだろうけれど、小説なんかにはよく書いてある。
マドカは家に仕事を持ち帰らない。仕事以外ではペンを持つことも少ない。ここ十年以上日記はつけていないし、手紙も仕事以外ではめったに書かない。
だから自宅のマンションでマドカがなにかを書いている姿なんて、現実にはほとんどないことと言ってよい。なのにそんな自分のイメージが急に思い浮かんだ。
テーブルの上に置いてあるのは……白い原稿用紙。
――なにを書こうとしていたのかしら――
頭の中のイメージはすぐに消えてしまったけれど、とにかく“g書けるかもしれない”という意識が風のように通り抜けたのは本当だった。
“書けるかもしれない”と思ったのは、なにか書きたいことがあるからだろう。ちがうかしら?
――そうとも限らないわ――
マドカの父は若いころ小説家を志したことがあったとか。
――今、浮かんだのは、お父さんだったかもしれない――
小説家を志した人なら、きっと自分が小説家になって、せっせと原稿を書いているイメージを何度も想像したにちがいない。あらまほしい姿として……。父の頭に焼きついたものが、遺伝子を通して娘の脳裏に浮かぶことってないのかしら。
――馬鹿らしい――
マドカは首を振った。
すでに鶴見を過ぎて川崎駅は近い。マドカは立ちあがって列車のドアのほうへ向かった。
ポケットをさぐると、|飴《あめ》が一つ出て来た。とてもきれいな飴。|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》の引き幕みたいな模様……。さっき、向かいの席にすわっていた女が、
「お一つ、いかがですか」
と勧めてくれた。
甘いものは肥満の大敵である。せっかくだからいただいたけれど、食べなかった。そのままポケットの中に入れておいたらしい。
――小田原のデパートで売っているという話だったけど――
カラーページで紹介してみようかと考えた。
――あの人、小田原に住んでいるのかしら――
前の席にすわっていた五十年輩の女のことを思い出したが、どんな顔だったろう。列車が乗用車にぶつかったとたん、その女が弾んで、マドカの上にかぶさって来て、頭をゴツンとぶつけた。その弾みで今度はマドカが隣の席から転げた女にぶつかる……。
飴を勧めてくれたのは、小早川千鶴である。
マドカがその女の名前を知るはずもない。ただ列車の中で近い席にすわっていた女。なんの関係もない。
だが……その千鶴は、このところときおり机の前で原稿用紙にペンを走らせていた。旅日記の執筆……。千鶴が実際に行ったのはまだ|弥《や》|彦《ひこ》への旅だけだが、頭の中には“花の百景”がある。日本中の花の名所を訪ね歩いてそれを記録した本を作ってみたいと、できるかどうかはともかく、強い夢がある。
その夢の一部が千鶴の頭の片すみから、ポンとこぼれてマドカの中に染みこんだのかもしれない。
列車が川崎駅に着いてしまえば、マドカもとりとめのない想像にこだわっているわけにはいかない。南武線に乗り換え、向河原の挿し絵画家のところへ。
「ありがとうございます」
玄関先で原画を受け取り、今度は東横線で都心へ向かった。会社へ戻ったのは、七時近く。
月刊誌の編集はまだいそがしい時期ではないけれど、マドカは午後いっぱい外に出ていたので、今日中に処理しておいたほうがいい仕事がいくつかあった。
「お先に」
「お疲れさまあ」
七時過ぎに編集長が外から帰って来て、
「わるいけど、帰りに|大《おお》|塚《つか》に寄ってってくれないかなあ」
「なんですか?」
「大塚に猫の写真家がいるんだ。四、五点、珍種の写真をお願いしてある。明日の昼までにほしいから。キミちゃんは大阪へ行ってるし……」
担当は君塚さんのはずだが、いやとは言えない。
「はーい」
「行って受け取れば、それでいい。通り道、通り道……」
このところ編集部でへんな言葉がはやっている。お使いに行ってほしいときに「通り道、通り道」とつけ加える。ぜんぜん通り道でもないのに……。早い話、信濃町の会社から東中野のマンションに帰るマドカにとって、なんで大塚が通り道になるものか。
ことの起こりは編集長が銀座あたりで作家と飲み、閉店後、ホステスに、
「送って」
と頼まれたらしい。
「いいよ」
三人もホステスがついて来て、
「通り道だから、よろしくウー」
と乗り込む。
「なんと、それが板橋と両国と|西《にし》|馬《ま》|込《ごめ》だもんなあ」
まるで方角がちがう。おかげで編集長が自宅に帰り着いたのは三時過ぎだったとか。
――本当の話かしら――
編集者はみんな話をおもしろく変えてしまうから。
その日のうちに「通り道」が編集部のはやり言葉になってしまった。
――ひどい通り道ね――
会社の前でタクシーを拾い、大塚駅を過ぎたところでおりた。教えられたマンションはすぐに見つかった。
長く東京に住んでいてもマドカはほとんどこの方面を知らない。夫の洋も同じようなことを言っていた。
エレベーターが使用禁止。ロープが張られ警官が立っている。
――事故でもあったのかしら――
階段を上ってとりあえず四階の写真家を訪ねた。
「ごめんください。四谷書館の原でございます。お写真をお借りにあがりました」
インターフォンの前で告げた。
「はーい」
子どもの声が聞こえた。
ドアが開き、
「これです」
と、袋をさし出す。中学生くらいの女の子。色が白くて、目が大きい。ハーフではあるまいか。となると、母親が欧米人……。
「お母様は?」
夜の八時を過ぎていた。
「いません」
今、いないのか、それとも離婚や死別のような事情なのか。後者を考えるのは突飛な連想のような気もしたが、女の子の言葉にはどことなく、そんな響きがあった。
「父がこれを渡すように言って出かけましたので」
「そう。ありがとう。一人なの?」
「はい」
手早く袋の中を確かめた。猫の写真が数枚入っている。玄関の棚に赤いばらの花が飾ってあって、
「きれいね」
と言えば、無邪気な笑いが返って来た。
「はい。マルグリット祭でいただいたの」
「ああ、そう。たしかに。じゃあ、お借りします。戸締まり、気をつけてね」
「さよなら」
「さようなら」
背後でバチンと|鍵《かぎ》をしめる音が聞こえた。
――離婚か――
マドカは勝手にそう考えている。
階段にかかると、踊り場のあたりで主婦らしい女が三人集まって、
「絹のスカーフが引っかかったらしいですよ」
「四階の進藤さんて……」
「ほら。いつも上等なスーツを着てらして、お化粧の濃いかた」
「ああ……」
「おわかりになる?」
「多分、あのかたね」
「でも、そんなことで死ぬのかしら」
「スカーフをネクタイみたいに結んでいらしたから」
小耳に挟んでマドカは階段を降りた。事故があったことはまちがいない。
“進藤”という苗字は、たった今、写真家の表札を捜して廊下を歩いたときに見た覚えがある。たしかすぐ隣だった。
――ハーフの女の子はなにも知らなかったのかしら――
子どもだからテレビにでも夢中になっていて、気づかないかもしれない。
――だれかが死んだらしい――
一階まで降りると、警官があとかたづけをしている。現場の検証はすでに終わっていた。
「エレベーターの中で首つりとはねえー」
「お化けが出るぞ、お化けが」
「きれいに消毒してもらわなきゃ」
「お化けのためなら消毒じゃ駄目だろ。やっぱりお経でなくちゃ」
「まったくだ」
これは管理人と、たまたま顔を出した男だろうか、声高に話している。
――あっ、そうか――
事故の詳細はなにもわからない。
それでもいくつかの話の断片から想像できるものがある。
化粧の濃い女……。四階の住人らしいが、みずから進んで首をつったわけではあるまい。
絹のスカーフ……その一端が四階のフロアのなにか、たとえば|紐《ひも》のようなものに引っかかったままエレベーターが下降する。
丈夫なスカーフが一気に首をしめる。
――理屈は絞首台と同じことよね――
よくはわからないけれど、当たらずとも遠からず。
――問題は事故か、殺人か――
マドカの想像は例によって飛躍が大きい。
――ハーフの女の子が、隣の女を恨んでいて――
少女の母親がいないのは、家出をしたから。父親が隣の女と親しくなり、それが家出の原因であったりして。
娘が事情を知り、隣の女を殺そうと企てる。
うまい計画が浮かんだ。決行はマルグリット祭の夜……。
どういうお祭りかマドカは知らないけれど、殺人事件にはお祭りの夜が似あうみたい……。
――神様がいけにえを必要としているから。それとも天の裁きかしら――
うまいぐあいに父親は家にいない。少女は耳をこらして隣家の様子をうかがっていた。
ガタン。
化粧の濃い女が家を出る。
ドアを閉じ、|鍵《かぎ》をかける音。
――おばさんが出て行くところだわ――
少女もあとを追って廊下に出る。
「こんばんは」
「あら。こんばんは。お使い?」
「はい。スーパーまで」
「ああ、そうなの」
二人はエレベーターの前で足を止める。少女は、女のすぐうしろに立っている。エレベーターの表示が下から昇って来る。女はスカーフを細くネクタイのようにして首に巻いている。
エレベーターが四階に着く直前に、ハーフの女の子が、
「おばさま、ごみがついているわ」
つぶやいて女の首すじに手を伸ばす。
「あら、ほんと? ありがとう」
「なかなか取れない」
「なにかしら?」
「毛糸が結び目を作っているみたい。あ、取れた」
ちょうどエレベーターのドアが開く。中はからっぽ。ほかにだれもいない。
「これ」
と、少女が指先につまんで示したのは、赤い毛糸。家からこっそり持って来たものだ。
「どこでついたのかしら。あなた、乗らないの?」
「うん。忘れものしちゃった」
「あ、そう。じゃあ、お先に」
エレベーターのドアが閉まる。そのあいだから細い釣り糸が一本出ている。
少女はその釣り糸を握り、すばやい動作でエレベーターのそばの窓のノブに巻きつける。
ピーン、と糸が張った。
下のほうからうめき声が聞こえた。
エレベーターの中の光景は……だれも見ていない光景が少女の脳裏に映る。
釣り糸の一端は、釣り針を使って女のスカーフに引っかけてある。絹のスカーフはとても頑丈で、結び目を作って女の首に巻きついている……。
女が父のところに訪ねて来たとき、少女は尋ねた。
「スカーフって、どうやって結ぶの?」
「私はほかの人と少しちがうの。こんなふうに……。お父さまのネクタイと同じよ」
しっかりと首に巻きついているはずだ。釣り糸も釣り針もやわなものではない。まぐろが一匹暴れても平気なくらい……。
女はエレベーターの中で宙づりになり、天井に引き上げられ、首を曲げたままぶらさがる。
釣り糸がきつく張っているのが、なによりの証拠だ。
少女は、さらにその糸を強くたぐる。手ごたえは充分……。エレベーターは三階のすぐ手前あたりで止まっているらしい。
用意の|鋏《はさみ》で糸を切った。
ドサン、と音が響く。
少女は階段を|駈《か》け降りて三階のエレベーターの前に……。ボタンを押す。ドアが開く。
女が投げ出されている。
――死んでいるわ――
急いで釣り針を取り、釣り糸をたぐり、それを持って逃げ帰る。
そして、あとはそしらぬ顔でテレビを見ている。ブザーが鳴り、婦人雑誌の記者が訪ねて来るはず……。
マドカはそこまで想像をめぐらしてから、
――無理みたいね――
と、苦笑をこぼした。
原理としては可能だろう。げんに今出て来たマンションでそんな事故があったのだから。
だが、問題は時間帯。午後八時ではマンションの廊下にだれが現れるかわからない。外から帰って来る人も多いだろう。犯人はむしろ真夜中を選ばなくてはなるまい。
マドカが駅を捜して表通りに出ると、角に時計屋が店を開けていた。腕時計の電池が切れていた。左の腕の内側で六時過ぎをさしたまま止まっている。
「ごめんください。これ、電池が切れたらしいんですけど」
そう告げたとき、ガラス・ケースの前に先客が一人いて、目があった。スエードのジャンパーを羽織った女。
――あらっ――
女の表情がかすかに動いた。たとえば、思いがけず知った人を見たときのように……。
しかし、マドカのほうは知らない。
仕事でいろんな人に会っている。こっちは覚えていなくても、むこうが記憶しているケースも多い。
「じゃあ、お願いします」
「|竜頭《りゅうず》の取り替えだから……一週間くらいみてください」
「はい」
「これが預かり証ね」
「はい」
女はそそくさと出て行く。
二十七、八歳。髪を無造作に束ねているが、よい器量だった。
「お待たせしました。なんでしょう」
時計屋は灰色の髪をきっかりと七・三に分けている。
「電池が切れていると思うの」
「はい、はい。ちょっと待ってくださいね。これをかたづけますから……。えーと、エテルナは田宮さんのところか」
独りごとを言いながら、前の客から預かった時計を封筒に入れる。自分のところで修理するわけではないらしい。
マドカはぼんやりと時計屋の指先を見ていた。もう六十歳に近いだろう。器用そうな指先だが、今にきかなくなる。そのときはどうするのか。
――息子さんがいるのかしら――
先行きの明るい商売とは思えない。
「これはどの電池かな」
腕時計の|蓋《ふた》を開いてのぞく。女性の時計にしては大きい。本来は男物だろう。仕事をしているときは、小さい時計は使いにくい。そっと盗み見たときに、すぐに時間がわからなければいけない。
――さっきの女の時計も男物ね――
このごろはそれがはやっている。
時刻をあわせてもらって時計屋を出た。
翌朝、編集長に封筒を渡して、
「あそこの奥さん、外国人なんですか」
と尋ねた。写真家のことである。
「うん、たしかフランス人じゃないかな」
「離婚なんかしてないのね?」
「どうして」
「娘さんが一人でお留守居してたから」
「聞かないなあ。なんか言ってた?」
「ううん。当人もいなかったから」
「あ、そう」
エレベーターの事故のことを話そうとしたら、
「原さん、電話。二番を取って」
とマドカに電話がかかって来た。
印刷所からの問いあわせ……。
――仕事、仕事――
雑談をしているわけにはいかない。
いつもならこれですっかり忘れてしまうのだが、大塚の出来事はあとを引いた。その夜、マドカは|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》で芝居を見たあと、仲間と一緒に焼き肉を食べた。
口の中が脂っこい。
東中野の駅前でガムを買い、|噛《か》みながら家に帰った。駅からは近い。
「ただいま」
ガムを噛みながら声をかけた。
洋はいない。
電気がついているのに……。いったん帰ってまたどこかへ出て行ったのだろう。
洋の部屋をのぞき、机の上の台本をペラペラと見て、ガムを捨てようとした。
――小さな紙、ないかしら――
|屑《くず》|籠《かご》をさぐり、たまたま取ったのが電車の切符。JRの大塚駅から百六十円区間。
――あら、洋さんも大塚へ行ったのかしら――
今日の日づけ。
――なんの用だろう――
洋にとってもほとんど縁のないところのはずである。
もちろん仕事のうえで必要があればどこへでも行くだろう。げんにマドカも昨夜行ったのだから。
小さな切符を掌にのせ、ガムは新聞のすみを切って包んで捨てた。
――エテルナって言ってたわ――
大塚の時計屋で主人がつぶやいた言葉である。二十七、八の女が預けて行った腕時計をマドカはチラッと見て覚えていた。周囲に濃紺の輪がデザインとしてついている。
――洋が持っていたのと同じ――
時計屋の店先では、さして気にもとめなかったが、なんだかあやしい。洋は「なくした」と言っていたけれど。
エテルナの時計なんか持っている人はいくらでもいるだろう。どういうブランドかマドカはよく知らないけれど、洋が持っているくらいだからほかの人が持っていても、不思議はない。女が男物の時計を持っているのも昨今はよく見かける。
むしろマドカが不審に思ったのは、その女の一瞬の表情のほうだった。時計屋のガラス・ケースの前でふり返り、マドカを見たとき、女はかすかに驚いた。そう見えた。
マドカを知っていたから……。しかも、
――どうしてここで?――
そんな感情を隠しているようにも感じられた。
――もしあの女が西峰彩子さんだとしたら――
とマドカは考える。西峰彩子というのはマドカが、夫の恋人につけている勝手な名前である。本当はもっとべつな姓名があるのだろうけれど……いや、洋にそんな恋人がいるかどうか、それさえ確かじゃないけれど、とにかく便宜上そう名づけている。
彩子はマドカを知っている、と、その可能性は充分にあるだろう。
大塚駅の周辺になんか用のあるはずもないのに、いきなりマドカがそこにいたのだから彩子はびっくりする。
――私のこと、調べに来たのかしら――
と彩子は思うのではないかしら。
あのときの表情はそんな事情によくあっていたように思えてならない。
女の顔はほとんど思い出せないが、きれいだったことだけは覚えている。
――大塚にしては|垢《あか》ぬけてるわ――
なんて、大塚の人は怒るわね、きっと。でも、あのときそう思ったのは本当だ。
きれいと言うよりテレビ局なんかによくいるタイプ。アナウンサーやキャスター。その卵くらい……。頭もそこそこによくて、かわいらしい。そして、なによりも洋の好みの容姿ではなかっただろうか。細くて、まなざしが|栗《り》|鼠《す》みたいにあどけなく、よく動く。
――私も昔はそうだったけど――
昨夜、洋は帰らなかった。大阪へ行き、今日の午後帰る予定になっていた。昨夜のうちに東京へ戻り、大塚の女のところへ泊まったのではなかろうか。そうして午後に家に戻って切符を屑籠に捨てた……。
――今日の午後、東京駅に着いた人が大塚からの切符を持っているなんて――
ありえないことではないけれど、少しおかしい。
――それに今日は月はじめの二日――
先月は“小”の月だった。
――すごい。私って探偵の才能があるんじゃないかしら――
われながらうれしくなってしまう。
事実がどうかはともかく、着眼点としては|冴《さ》えている。
洋が腕時計をなくしたと言っていたのは、二か月くらい前……。女に、
「いい時計ね。私、男物がほしいと思っていたの」
そんなことを言われ、
「あげよう」
と渡したのが、そのときだったとしよう。
もともと竜頭がこわれていたのか、そのあとでこわれたのか、それはどちらでもいいことだ。自動巻き時計だから、しばらくは女がいじる必要がない。
つまり“大”の月の終わりを通過しても、時計の日づけは31から1へと正しく変わる。不都合が起きるのは“小”の月を通過したとき。暦は三十日から一日に変わっても、腕時計は31を示してしまう。女は竜頭をまわして、それを正しくしようとしたが、今度は竜頭のぐあいがよくない。それで、時計屋へ行くのが、ちょうど月はじめの二日くらい。
――ちがうかしら――
そう言えば、洋が持っていたエテルナも竜頭のぐあいがよくないふうだった。
しかし、ただの想像……。当たっているかどうか、多分当たっていないだろう。
――それより、あっちのほうはどうなのかしら――
マドカはエレベーターの事故のことを思い出した。
新聞の社会面では見なかったから、それほど特異な事件ではなかったのかもしれない。ほかのニュースもあったし……。
だが、実は巧みに仕組まれた殺人事件で、
――その犯人が洋、てのはどうかしら――
大阪に行き、新幹線で帰り、夜のうちに一仕事する。それほど時間がかかる作業ではあるまい。一時間くらいうまく浮かせ、前後のアリバイを作ればいい。
――犯行の理由はなんなの――
化粧の濃い女が、洋の致命的な弱点を握っている。たとえば、会社のお金の使いこみ。
――それは、ないな――
洋は金銭に欲のある人ではない。
――私に隠れて彩子に会っていることを化粧の濃い女に知られて――
それが殺意となるだろうか。
――彩子に夫がいて――
彩子を守るためなら、ありうることかもしれない。
「ただいま」
玄関のドアが開いて洋が帰って来た。
「おかえりなさい」
マドカは、洋の様子を頭から足へ、足から頭へとゆっくりながめた。
「どうした?」
「べつに。ご飯は?」
「いらない」
「そうでしょうね。こんな時間ですもの。じゃあ、コーヒー?」
「どうするかな」
「私が飲みたいの」
「じゃあ、いれてくれ」
「うん」
お湯をわかし、ペーパー・ドリップで二人分を作った。コーヒーというものは結構気むつかしいところがある。目を離さず、ちゃんと見張っていないと、おいしいコーヒーになってくれない。沸騰する泡を見つめながら、
「きのう大塚へ行ったの。結構開けてるのね」
と、さりげない調子でつぶやいた。
「ああ、そう」
洋は「|俺《おれ》も行った」とは言わない。今日の午後行っているはずなのに。
「交通の便もわるくないし、マンションなんかさかんに建っているわ」
「もう都心だよ、あのあたりは」
洋は背を向けて自分の部屋へ入って行く。
マドカはコーヒーを持って、あとを追った。
「引っ越さない、ここも長いから」
と、心にもないことを言ってみた。
マドカはこのマンションが気に入っている。会社にも近いし、住みやすい町だ。
「面倒だよ。つまらん」
洋は簡単にぼろを出すような手あいではない。マドカはここで「あなたも大塚へ行ったんでしょ? 今日の午後。なんで?」と尋ねようかどうか迷った。
大塚の町が話題にのぼり、今日の午後、そこに行っているのなら、もう少しはかばかしい答えが返って来てもよさそうなものだ。普通の人ならきっとそうだろう。
だが、洋の場合はいちがいにそうとも言いきれない。なんによらずはっきりしないところがある。とぼけているのか、本当に忘れているのか、わからない。始末がわるい。マドカが「大塚に行ったんでしょ」と詰め寄れば「うん?」とどちらともつかない表情を示して、あとは雑誌の記事でも読み続けるにちがいない。「切符があったわ」と証拠のありかを言えば「ああ、そうか。行ったんだ」くらいの答えが返って来るだけだろう。
今朝大阪から帰って、それからわざわざ大塚へ行って……それを忘れているはずはないのだが、そんな|曖《あい》|昧《まい》さがほどよく洋の人柄と折りあっている。深く追及する気にもなれない。
――変ね――
結局マドカはそれ以上なにも聞かなかった。
だが、女の直感はあなどれない。
洋にはやはり親しい女がいた。あとになって考えてみれば、あのころから……つまりマドカが大塚へ行ったころから抜きさしならない関係になったのではあるまいか。
女の名前はもちろん西峰彩子ではない。山野みどり……。
――まるで小学生の遠足みたい――
聞いたときには笑ってしまった。
住まいも大塚ではなかった。だが、洋が大塚へ行ったのは、女とまんざら無関係ではなかっただろう。
つまり、あの前日、大阪へ行ったほうがみどりとの秘密の旅であり、大塚へはなおざりにしておいた仕事を急いで手当てするためだったらしい。どこか不自然に感じられたのは、そのせいだったろう。
――こういうときは、こんなものなのね、きっと――
一つ一つの想像は事実とちがっている。だが疑惑の本質はぴたりと的中している。
時計屋で会った女はなんの関係もない人だったろうけれど、山野みどりに会ってみれば、案外面ざしが似ているのではないかしら。
――でも、駄目――
いくら予測が的中していても、なんの対策も講じなかったのだから。天気予報がいくら当たっても傘を持たずに出てしまったら、なんのたしにもならない。
ここ数か月、マドカはいそがしかったし、ほかにもやりたいことがあった。原稿用紙に向かってペンを走らせていた。心が洋のほうに向いていなかったのは本当だったろう。
――あのテレビ・キャスター――
と、思い出すことが一つある。
以前によく見ていたワイド番組に人生相談のコーナーがあって、夫婦のトラブルがよく話題にのぼっていた。落語家あがりのキャスターが、きまり文句のように、
「で、夫婦のことは、どうでしたか、週に何回くらい?」
と相談者に尋ねる。
――いやあね――
なにもそんなことまでいちいち聞かなくたって……視聴者のいやしい好奇心に迎合していると、マドカは|眉《まゆ》をしかめていたのだが、
――案外、大切なことかもしれないわね――
と、今さらのように思わないわけにいかない。
いつのまにか洋と体を交えることが少なくなっていた……。少しずつ間遠くなっている。そのリズムが、むこうのリズムと……洋が山野みどりと親しくなって行くリズムとぴったり一致していたのではないかしら。反比例の関係で……。
――これもきっと当たっているわね――
マドカは夫の女性関係について、軽いものなら黙認しようと思わないでもなかったけれど、この手のことはけっしてそう都合よくは運ばない。
男には二つのタイプがあるらしい。
浮気は軽く、ほどほどにやる。家庭をこわすことまでは考えない。男女の愛を至上のものと考えている人には、この軽さは許せない。
――本気なら仕方がないけれど――
ああ、そうですか。それならばとばかりにおおいに本気になってしまうタイプもある。こちらは“あれも、これも”ではない。妻を捨てて愛人のところへ走る。純粋である。ひたむきである。しかし、はた迷惑であることもたしかである。
それに……ひたむきは結構だが、あいにく人生は長い。ひたむきのあとに熱が冷め、狐つきが落ちたみたいにまた次のひたむきさを求めだし……一生のうちにひたむきが何度もあったりして……。こうなると、はた迷惑が少ないぶんだけ、軽く、ほどほどのほうがまだしもましに見えるときもある。
――洋はあきらかに後者のほう――
この件に関しては、それほど器用な人ではないだろう。
わるいときにはわるいことが重なる。マドカも仕事のうえでトラブルが多く、|苛《いら》|立《だ》っていた。体調もわるかったし、ごみの出しかたについて見ず知らずの女にひどい苦情を言われた。
――なんでこんな人に、こんな文句を言われなくちゃいけないの――
我慢をしたぶんだけ|鬱《うっ》|積《せき》する。
そのうえ夫の母親から電話がかかって来て、
「もし、もし、元気かしら?」
と、言葉遣いは丁寧だが、初めから含むところがあるように感じられた。
「はい。なんでしょう」
「用がなければ、かけちゃいけないみたいね」
「いえ、そういうことじゃなく……」
夜遅かったのでなにか急用かと思った。むこうは洋が電話に出ることを予測していたのかもしれない。嫁と|姑《しゅうとめ》の仲なんて、どう転んでもそううまくいくはずがないのだが、ご多分に漏れずマドカはこの|義《は》|母《は》が煙ったい。生きて行く思想が根もとからちがっているのだから折りあいがむつかしい。
とりわけむこうはマドカが働いているのが気に入らない。仕事をやめ、子どもを生み、夫に忠実に仕えてほしいと願っている。
洋自身がけっして望んでいないことなのに、母親は、
「あの子だって本心はそうしてほしいと思っているんですよ」
と信じて疑わない。
電話が|繋《つな》がらないのも、もちろんマドカが仕事をしているから……。家を留守にするわるい妻だから。
「たまには顔を見せて。私もそう長い命じゃないんだから」
「いいえ、そんなこと」
「本当よ、長くはお待たせしないわ。子どもなんて一生懸命育てても、あとは知らんぷりされるんだから、あなたが正しいわ。好きなことやってて……」
とげのある話を一方的に聞かされた。
電話口では抑えていたけれど、|鬱《うっ》|憤《ぷん》は当然洋に向けられる。
「あなたがお母さんに会うの、私、止めたことなんかないわよ。好きなようにやって。でも子どもを生まないことまで、いちいち文句を言われたんじゃ、かなわないわ」
「お袋も悪気で言ってんじゃない。田舎で一人で暮らしてて、さみしいからだろ」
いつも母親の肩を持つところが気に入らない。
――お母さんもずるい――
洋にはけっして苦情を言わない。息子にはいい顔ばかり見せている。だから洋はマドカがどれほど意地のわるいことを言われているかわからない。
|喧《けん》|嘩《か》になった。
――なんでこんな人のために、いやな思いをしなきゃいけないの――
夫に対する愛情が薄れたぶんだけ、この思いが強くなる。言っちゃあわるいけど、洋を大切だと思えばこそ、ただの田舎のおばさんに頭をさげて来たんだから……。この日はマドカの言いかたもひどく投げやりになっていた。
洋の反応も冷たい。
――前はこんなじゃなかったわ――
喧嘩の途中からマドカもそのことに気づいたけれど、
――|膿《うみ》が出るなら、とことん出してみようじゃない――
そんな気分もないではなかった。ここ二、三か月、家の中の気配がざらついている。大変なものが隠されているみたい……。
口論が少し途絶えたあと、
「|俺《おれ》たち、一緒に暮らしていること、ないんじゃないのか」
サラリと洋が言う。
――これが洋の本心ね――
すぐにわかる。何年も一緒に暮らして来たのだから。
「そうね」
マドカも軽く答えた。それから追い討ちをかけるように、
「好きな人、いるんでしょ」
と首をあげ、洋を見すえた。
洋は|椅《い》|子《す》にかけたまま指を組んだり離したりしていたが、一つを握り一つを開き、ポンと|叩《たた》いてから、
「実は、そうなんだ」
申し訳なさそうに言う。
――下手な役者の演技みたい――
わけもなくそう感じた。
洋は心から申し訳なく思っているわけではあるまい。儀式として……。もしかしたらこのポーズも、|台詞《せ り ふ》もあらかじめ考えてあったことかもしれない。
「そうだと思ったわ」
マドカは顔が引きつれそうになるのを無理に抑えてつぶやいた。
――かわいい女になったほうがいいのよね――
頭の片すみで、そんな声がささやく。
たとえば、オロオロと泣き崩れ、洋のひざにすがりついて「そんなの、いや。ひどい、ひどい」とわめき散らす……。少なくとも、ものわかりのよさそうな顔をするのは、ちっとも得にならない。
そうとわかっていながらも、とてもそんなこと……自尊心が許さない。それに……マドカ自身も、
――一緒に暮らしていること、ないんじゃない――
と思わないでもない。ここ数か月、そんな思案がふくらんでいた。
まして洋がほかの女を好きになっているのなら……無理に戻って来てもらおうとは思わない。だまされていたのが、くやしいだけ。
――私も儀式かしら――
つまり、一緒に暮らして来た夫婦が別れるのだから、少しはドラマチックなところがなければ重みが足りない。あとで、
――あんなことでよかったのかなあ――
と|納《なっ》|得《とく》しにくい。
――もう少し怒らなくちゃ――
激さないこと自体が腹立たしい。
「変じゃない」
自分でも驚いてしまうほど冷ややかな声でマドカは言った。
「なにが?」
「このまえ聞いたときは、好きな人なんかいないって言ってたわ」
愚かにもその言葉を少し信じていた。洋がそんなに|嘘《うそ》をつく人ではないものだから。
「あのときは、なかった」
「そんなに簡単に男と女って、仲よくなったりするものなの?」
せいぜい二か月くらい前のことじゃないの。
「なるときは、なる。一晩のうちにだって」
洋は途中で口をつぐんだ。“一晩”という言葉のなまなましさを避けたのだろう。おそらく決定的な“一晩”があったにちがいない。それがいつだったのか。今日に近いほどいい……。そのほうが長くだまされていなかったことになるから。
――馬鹿らしい――
どうでもいいことなのに。
「矛盾はしてないだろ」
「なにが?」
今度はマドカのほうが尋ねた。
「たしか、俺、あのとき言ったはずだ。一緒に暮らしているのが、なによりも愛情のある証拠だって。いやなら、やめればいい関係だって……。あのときは、好きな人、いなかったし、今は……」
わるびれもせずに言おうとする。
「今はいる。だから私とは一緒に暮らせない……」
マドカが代わって洋の言いたいことを告げた。当人にみんな言われたら……かなわない。
「まあ、そうだ」
「離婚てこと?」
「うん。まあ……」
明解すぎて、もつれようもない。
――こんなに簡単でいいのかしら――
とあきれてしまう。
「頭、いいのね、やっぱり、あなた」
半分は皮肉だが、本心からそう思うところもある。敵ながら、あっぱれ。手ぎわが|冴《さ》えている。
「そうかなあ。あなたにはわるいことしたと思っているよ」
“あんた”が“gあなた”に変わっている。
また少し沈黙が続いた。
洋の母親のことから始まって、口汚いことをたくさん言ってしまった。おたがいに……。
「小説、書いてんだろ。わりとおもしろいんじゃないかな」
洋が笑いながら言う。まるで仲のいい夫婦の、親しい話しあいみたいに……。いつもこんな調子で話を切り出す人だった。
「見たの? いやあね」
マドカもいつもの調子を取り戻して首をすくめた。
――この先、これがなくなるのね。ちょっと惜しいな――
この味わいが夫婦の実感なのかもしれない。
「書いてみたらいい」
「ええ……」
|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
マドカにもよくわからないことがある。
――たしか小田原へ行った帰り道、電車の事故があったとき――
近くにすわっていた人と頭をぶつけた。あの瞬間に、
――脳みそが少し変わったみたい――
そんな気がしてならない。
十年あまり編集者をやって来たけれど、赤インクを青インクに変えることなんかほとんど考えたことがなかった。赤インクが編集者の仕事である。青インクが書き手の仕事である。それが、
――なんだか私、書けるみたい――
急にそう思うようになった。
自分が原稿用紙の前で一生懸命になって書いている姿が浮かぶ。まるでドッペルゲンガーみたいに。
書くとしたら推理小説。
ほかには考えられない。ずっと愛読して来た。まわりの人をあらかた殺している。自分の母親も、洋も、洋の母親も……。
今まで書こうと思わなかったのが不思議なくらいだ。てんから自分にそんな才能なんかないと思っていた。
それがゴツンと頭をぶつけたとたんに少し変わった。
――そう言えば――
もう一つ、変わったことがある。
――離婚も、あのとき移されたんじゃないかしら――
論理的とは思えない思案が頭の中に|湧《わ》いて来る。
――あのときまで洋と離婚することなんか少しも考えていなかった――
|喧《けん》|嘩《か》をすることはあったけれど、まさか破局までは行くまいと思っていた。自分に対しても、洋に対しても……。
ところが、いつのまにか、
――離婚ってものも、たしかにあるのよねえ――
そんな考えが、実感としてときおり浮かぶようになった。そして、今、なんの違和感もなくそれに直面している。その道に入りこもうとしている。以前のマドカだったら、こう簡単には考えられない。
――もしかしたら、あの女の人――
|飴《あめ》を勧めてくれた、中年の女だった。あの人があのときひたすら離婚のことを考えていたとしよう。頭の中が離婚だらけになっていて……。
その思案が衝突のショックでポンと飛び出し、マドカの頭に入り込んでしまったのかもしれない。
何年か前、雑誌のインタビューで会った科学者が、
「このところ、ずっと芽のことを考えているんですよ」
と言っていた。
「目ですか」
トンチンカンの応答をして笑われたのをよく覚えている。
一つの変化が起きるとき、かならずその芽となるものがある。きっかけと呼んだほうがいいのかもしれない。周囲の情況がいくらその変化を起こすにふさわしい状態になっていても、なにかしら芽となるものがなければ、その変化は起きない。と言うより、そういう芽を想定しなければ、変化の実体を把握できないケースが多々あるらしい。そんな話だった。
――|癌《がん》細胞は、いつ活動を開始するのか――
きっと芽となるものがあるにちがいない。
いくつもの自殺を調査している学者の話を聞いたときも、似たようなことを言っていた。
「同じ情況に置かれていても自殺を考える人と、考えない人とがいます。同じ人でも時期がちがえば、やることもちがって来る。自殺菌という|黴《ばい》|菌《きん》があるんじゃないかって、そう思うときがありますよ。それを吸いこんじゃうと、もういけない。ちょうど風邪を引くみたいにね」
自殺菌があるならば離婚菌があってもいいだろう。
――それがストンと私の中に入ってしまって――
だから洋に離婚をほのめかされても平気でいられるのかもしれない。
洋に離婚を切り出されてからも、マドカはしばらくは事情をはっきりさせないまま今までとさして変化のない日々を過ごした。
洋は山野みどりとの関係を絶ったわけではあるまい。むしろしばしば会い、どんどん親しさが深まっている……。
少しずつマドカがあきらめるのを待っているのだろう。たしかにマドカとしても、
――これから先、この人とどういう関係を保っていくか――
それを考える時間が必要だ。
離婚をするなら、そのように。あるいは、
「お願い。その女の人とは別れて」
と、本気で言うなら、言うように心構えがちゃんとできていなければなるまい。
もちろん「その人と別れて」と言えば、それですむことではない。洋が「いやだよ」という可能性も充分にあるだろうし、それに……いったんほかの女と仲よくした夫がヌケヌケと戻って来て、マドカは、
――ああ、よかった――
と思えるものかどうか、それもじっくりと考えなければいけない。
そう思いながらも仕事はいそがしい。
それにもう一つ、なぜか突然やり始めたことがある。
――書けるかもしれない――
原稿用紙に向かってペンを走らせてみると、思いのほかスラスラと進む。
テーマは不倫。それが原因となって殺人事件が起きる。洋と相手の女に対する憎しみがそのままペンを運ぶエネルギーになってるみたい……。困ったことに憎しみは、そこで何十パーセントか解消されてしまうらしく、現実にはそれほど強い怒りがこみあげて来ない。
――私ってへんなのかしら――
愛情が薄いのかもしれない、とも思う。
つまり、本当に洋を愛しているのなら、とてもこんなことではすまされまい。恨みや|嫉《しっ》|妬《と》で狂気のようになってもおかしくはあるまい。
そんな気になれないこと自体、洋とはもう長くは続けて行けない関係なのかもしれない。
そもそも初めから、
「仕事をやめる気はないわよ」
「ああ、いいよ」
「いやになったら別れましょ」
「それが一番健康的な関係だ」
|納《なっ》|得《とく》ずくで始めた結婚生活だった。その気持ちにいつわりはなかった。
今になって流行歌のヒロインみたいにイジイジ、メソメソ未練を漏らすなんて、
――私、そういうタイプじゃないの――
もう少し自分の理性を信じたい。プライドを持ちたい。
――本当に離婚菌が入ってしまったみたい――
病状が明確に現れるのを待っているような心境だった。
殺人の方法は大塚であった事故を参考にしよう。首に輪をかけ、輪に|紐《ひも》をつけ、その一端を固定したままエレベーターが降りれば、たちまち絞首台の構造が成立する。
大塚の事故が本当にそんな事情だったのかどうか、マドカは、あのあと新聞の記事も見ていないのでわからないけれど、事故現場のそばを通って、そんな情況を勝手に想像した。
――わりとおもしろいんじゃない――
かなり独創的なトリック。女でも、子どもでも、これならできる。
犯人がすぐにわかってはつまらない。これはミステリー小説の常識。
殺される男はとても好色で、あちこちで女に罪を作っている。
たとえば、相手はクラブのママ。ずいぶんその男につくしたはずなのに、男は利用するだけ利用して今は冷たい。
「あんたなんか死ねばいいんだわ。そう、チャンスがあったら、私、殺すわよ。覚悟しておいて」
「こわいこと言うなよ」
「私、本気よ」
男が殺される前の日にママはそんなことを言っている。
まっ先に疑われるが、もちろんこの人が犯人ではない。
むしろあやしいのは、この男の妻。夫の不実を知ってショックのないはずがない。とても貞淑で、夫を愛しているけれど……。
ミステリーの読者は、先読みをするから、
――ああ、奥さんが犯人だな――
と思って、ほくそえむにちがいない。
だが、残念でした。これも犯人ではない。
つまり、おとりが二重に仕かけてある。いっぺんは読者も、
――うふふ、こんな小細工をして――
と、ひっかからないけれど、その先に、いかにも作者が隠しているらしい人物がいると、
――これだ、これだ――
と考える。
“はずれ。それでもありません”といった構造。マドカ自身が読者でも、この構造にはしてやられてしまう。
「どうかね。うまく書けてる?」
洋は妻が突然ミステリーを書き始めたことを知っている。書きかけの原稿用紙が机の上に置いてあるのだから、多分何枚かは読んでいるだろう。
夫婦としては目下冷戦状態だが、初めに原稿を読んでもらう人としては、洋が一番適任者かもしれない。小説でも映画でも芝居でも、洋の批評はいつもうまいところをついている。そういうセンスは秀でている。
「どんな感じ? 読んだんでしょ」
「ほんの少しな。しかし、最後まで完成したものを読まなきゃ、わからん」
「そりゃそうね」
まるで仲のいい夫婦みたいに話す。
とりわけ|日《ひ》|射《ざ》しの明るい休日の午後だったりすると、
――私たち、やっぱり仲がいいんじゃないかしら――
そんな錯覚を抱いてしまう。
男と女。そのもっとも親密な関係としての夫婦……。でも、それはたてまえでしかない。と言うより、たてまえとしての意味しか持たない場合が多い。
マドカは、思った通りに、
「なんだか離婚を考えてる夫婦じゃないみたいね」
笑いながらつぶやいてみた。
「まあな。結婚というのは、人類の長い歴史の中じゃ、わりと最近になって作られた制度だからな。わるい制度じゃないけど,人間の本質にぴったりあっているわけじゃない。できのわるい既製服みたいに、どっか寸法のあわないところが少しあるさ」
洋の話はいつも少し飛躍する。踏み石を一つ飛び越して、先のことを話してしまう。
「どういうこと?」
だから聞き手には話が|繋《つな》がらないときがある。
「人間には理性もあるけど感情もあるもん。どんな相手だって、いつも一番すてきな人であり続けることはできない。感情は移りやすいからな。おおむね一番だけど、ときに二番になったり、三番になったりする。それが自然だよ。でも制度としちゃ、それじゃあ困る。制度としては結婚か離婚、オールかナッシングか、中途半端は認めにくい。|俺《おれ》、あんたのこと、べつにきらいじゃないもん。このくらいの親しさなら、いつだって感じられるよ。本質的なところで折りあえない事情があっても、そこそこに親しい関係はいくらでも存在するよ。それを否定したら息苦しくって生きて行けないよ」
「まあね」
いつもの洋の言いぶんだが、マドカもその通りだと思う。ただ、今、それを認めてよいかどうか……。
「人間のやる契約的事項の中で結婚くらい長い期間を想定しているもの、ほかにないぜ。三十年、四十年、五十年くらいの契約だもんな。当事者も変化するし、周囲の情況も変化する。そのことをあえて無視しているんだ。殺人だって十年ぐらいで時効だろ。一緒くたに論じられることじゃないけどサ。時間の長い経過があれば、おのずといろんなものが変わって来る。三十年も五十年も不変であることを前提として計画を立てていること、人間の社会じゃほかにありゃしない。あったとしても例外的なことだし、たいていは計画通りにはならないね」
「じゃあ、今の私たち、ごく自然なことをやっているわけ? 私があなたの御飯の仕度をして、あなたが二人分の生活費を出して……それで仲よくお話なんかして、夜になると、あなたがほかの女のところへ行ったりして……」
「うーん。そういう言いかたをされると困るけど、いろんな親しさがあるし、過渡的な情況もあるさ。結婚制度で線を引いちゃうから奇妙だけれど、原始社会じゃべつにめずらしいことじゃない、こんな形も」
「なんだかちょっと不自然な感じのする自然さね、これは」
「それだけ意識が結婚制度に拘束されているわけだよ。優秀なジャーナリストであるマドカさんとしても」
「いや味ね。で、優秀なディレクターである洋さんは今夜もお出かけになるのですか」
「夕方な。しかし、本当に仕事だ」
「いちいち言い訳をしてくれなくたっていいわ。聞きたくもない」
不快と言えば、やはり不快である。マドカはそこまでは達観できない。
「小説を書くんなら、日ごろの会話をよく覚えておいたほうがいい」
「夫婦|喧《げん》|嘩《か》のところなんかうまく書けそう」
「俺のおかげだ」
「そう。感謝しなくちゃね」
「冗談はともかく“小説とはかぎかっこだ”という言葉もある」
「ええ……?」
「会話はかぎかっこでくくるだろ。あれがとても大切なんだ。人間はみんな同じ言いかたをするわけじゃない。人によって言いかたがちがう。“アイ・ラブ・ユー”って言うときだって、コンピューターみたいに“私はあなたを愛してます”って機械的な声で宣言するわけじゃない」
「あなた、なんて言ったかしら」
「忘れたのか」
「ううん、忘れてないけど……」
「人によってちがうんだ。“毎日みそ汁を作ってくれ”とか“君なしでは生きて行けない”とか……。意地わるい人間を書きたかったら、身のまわりにいる意地わるい人間を思い出せばいい。どういう言い方をするか。遅刻をとがめるときだって、なるほど、この人はこういう言い方をするのかって、それらしい言い方があるもんだよ」
「まあね」
洋は熱っぽく話す。
――罪ほろぼしのつもりかしら――
それもあるだろうけれど、仕事のことになると、洋はいつもこんな調子だ。よいサジェスションを与えてくれる。仕事のパートナーとしては最高の人である。
――そこが好きだったんだけど――
ほかの女も同じように引かれるだろう。
「小説を書いて、どうする?」
「新人賞に応募するわ。“小説界”で百枚くらいの作品を募集しているから、ちょうどそのくらいになるんじゃないかしら」
「結構いけるかもしれないぞ」
「本当に? 正直に言って」
「可能性は充分にある」
洋の目ききはわりとたしかだ。これまでにも新人歌手、新刊書、新製品、新しく出たものを見たとたん、触れたとたん、
「これ、わりといいね」
洋が、ある表情でつぶやいたときは、たいていうまくいく。注目を集める。
「|俺《おれ》、ミーハー的な直感があるからだろ。根がミーハーなんだ。大衆そのものなんだ」
たしかにそんな側面もあるけれど、それだけではあるまい。一種の眼力……。洋に保証されるのはうれしい。
タイトルを“赤い転落”とつけた。赤は血の色であり、赤い毛糸が犯人を割り出す手がかりとなる。
百五枚を書き、書きなおして九十八枚の作品にした。
――まあまあの出来――
いそがしい仕事を持ちながら書くのだから楽ではない。
完成した日の夜は忘れられない。
会社が|退《ひ》けたあと仲間と一緒に六本木のレストランへ行き、軽く|祝盃《しゅくはい》。マドカはほとんど飲めないのだが……。ミニツ・ステーキのあとコーヒーを注文し、
「久しぶりにディスコにでも行かない?」
「知ってるとこ、ある?」
「昔ね」
「ちょっとおトイレに行って来るから」
席を立ってトイレットへ向かう途中、
「やあ」
と声をかけられた。
「あら」
通路に近い席で洋が笑っている。普段と少しも変わらない笑顔で……。洋の前にすわった若い女が顔をあげ、マドカを見て、みるみる緊張が顔に張りつく。
――この|娘《こ》なのね――
めったにない偶然だろうけれど、同じ東京の中で動いているのだから、こんなこともあるのだろう。
「元気?」
「元気よ」
今朝は洋が眠っているうちに家を出た。昨日は……どうだったろう。
女は二十四、五歳。
長い髪。今、顔を伏せているので、よくは見えない。しかし、かわい子ちゃんみたい……。
一度ゆっくりとながめる権利くらいマドカにはあるだろう。
――かわいいけれど、そんなに頭のいい娘じゃないかもしれないわ――
マドカはわけもなくそう思った。ちょっと見ただけで脳みその中身までわかるものじゃない……。それはたしかにそうなのだが、なんとなくそう感ずるときはある。
こんなことはいつも感ずるわけではないけれど、感じたときは七、八十パーセントくらいの確率で当たるような気がする。
――なぜかしら――
その娘の表情に鋭いものが感じられない。
それに、ピンクの|衣裳《いしょう》……。ピンクのスーツが頭のわるい証拠だと言ったら、デザイナーたちはいっせいに反論を唱えるだろうけれど、不用意にピンクを着る人は、けっして賢くは見えない。
「私、帰ります」
女が立ちあがろうとするのを洋が、
「いい、いい」
と両手で制し、マドカを見ながら、
「あんたも連れがあるんだろ。いい機会だから紹介だけしておく。山野みどりさん」
と言いながら、
――わかるだろ。荒っぽいことはやめてくれ――
懇願をするような、目くばせをするような、微妙な表情が洋の顔に浮かんだ。
女は両手で顔をおおった。泣き出したのかもしれない。
「いいんだ、いいんだ。じゃあ、出ようか」
と洋がかばうのを見て、マドカは、
「どうぞ、そのまま」
と引き止める。
女が顔から手を離し、マドカを見た。
「ごめんなさい」
ちょっと舌足らずの言い方。洋が包むような視線で幼い表情を見ている。一瞬、
――ああ、そうなの――
と、マドカは思った。
長く目を閉じていて、パッと目を見開いたときのように、鮮やかに見えて来るものがあった。そう、たとえば朝のシャンプーのときみたいに……。
――洋さんは案外この手の女が好きなのかもしれない――
どう説明したらいいのだろうか。
男女の親しさの中には、対等に位置して励ましあい、競いあい、尊敬しあっていくような部分もあるし、男が女を|庇《ひ》|護《ご》し、かわいがり教え育てていくような部分もある。もちろん女が男を庇護するケースもあるが、それは例外的で、今考える必要もあるまい。
洋は現代的でセンスのわるくない人だから、前者を……つまり対等な男女関係を|標榜《ひょうぼう》するだろう。マドカとの結婚もどちらかと言えば、その方向にそったものだ。
だが、それは洋が一つの理想として選んだこと……。洋の中にも当然のことながら月並な男である部分が潜んでいる。少し年を取って気楽につきあえる相手がよくなったのかもしれない。
マドカだってキャリア・ウーマンと言われる人たちのように強い信念で仕事に生きているわけではない。むしろ根は平凡な女。ただ、今の仕事が好きなだけ。子どもを生み家庭を守ることより、編集の仕事をやりながら自由に生きるほうが、
――少しいいかな――
と思った……。その程度のことである。
だから結婚もした。洋に対しても、
――絶対に負けないわよ――
なんて、肩を怒らせて生きていたわけでもない。むしろ、
――やっぱり男はえらいな――
洋を見てすなおにそう思う。洋は知識も広いし、年齢の差だってある。
だが、普通の奥さんに比べれば、やっぱり競いあって生きているようなところはあるだろう。少なくともマドカは“夫のために”生きているわけではない。世間の妻たちが、どれほど“夫のために”生きているか、心の中にまで立ち入ってみれば、けっしてのどかな風景ばかりが見えて来るはずもないのだが、生活の形は一応“夫のため、子どものため”となっている。
男としては、自分に甘え、自分をひたすら頼りにしてくれるような女、少々油断をしていても、なんの負いめを感じなくてすむような女、それが気安くて、ここちよい、そんな部分もきっとあるだろう。
マドカはそういう意味で、けっしてかわいい妻ではない。
――それ、あなたの日ごろの主張とずいぶんちがうじゃない――
洋に言行の不一致があれば、目ざとく見つけて矛盾を指摘する。ジャーナリストの、ちょっと皮肉な目でながめてしまう。
洋はユニークな弁舌で巧みにかわしているが、
――なんだ、いちいち。家の中にこういう目が光ってんのは、やりきれんな――
そんな思いはあったかもしれない。
山野みどりは……ちょっと見ただけだからたしかなことは言えないけれど、おつむがさほどよくなさそうなぶんだけ、男は気らくかもしれない。若くて、かわいいのだし……。
一瞬のうちにマドカが見たのは、そんな風景だった。
――こりゃ駄目だわ――
洋としてはとなりの芝がきれいに見える心理。洋も、またいつか、失ったものの大きさを知る日があるかもしれないが……きっとあるはずだが、当座はむこうの魅力に心がはっきりと傾いている。それがどうしようもないほど確かなものとしてマドカには感じられた。
――|退《ひ》きどきみたいね――
マドカは同僚とディスコに行く気にもなれず、そのまま家に帰った。
洋は朝になっても帰らなかった。
マドカは書きあげた原稿を綴じて茶封筒に入れ、朝の散歩に出た。ポストに|投《とう》|函《かん》するために。この時間に起きているのはめずらしい。空気がとても新しく感じられた。
6 旅行案内
――まだ痛いわ――
小早川千鶴は額をさすりながら品川駅の改札口を出た。
乗用車が千鶴の乗っている列車に衝突し、その瞬間、近くにすわっていた乗客と頭をぶつけた。ご丁寧に二度までも……。
額のはえぎわのあたりに小さなこぶがある。たしか向かいの席の若い女とぶつけたとき。黒いパンツをはいて本を読んでいた……。
品川には、夫が借りているワンルーム・マンションがある。家が小田原なので、帰りにくいときがあるとか言って……。千鶴はときおり掃除や洗濯に来る。
マンションを借りたときも、なんの相談もなかった。
「不便だからな。掃除に来てくれ。洗濯もしてほしいし」
否も応もない。
――女がいるのかしら――
ワンルーム・マンションは、そういう目的で使われることも多い、とテレビのキャスターが言っていた。
そんな女がいるなら、のし紙をつけて譲ってやりたい。
――でも、ちがうわね――
良介も五十代のなかば。勤めている会社の役員として残れるかどうかの境目。それを抜きにしても、部屋を借りてまでして女性と会うかどうか、良介の日ごろのやり方とは結びつかない。
遊びたいときには、妻になんかなんの遠慮もせずに勝手に遊ぶだろうけれど、
――女性には好かれないわ――
やさしくないのだから……。良介のような男とつきあえるのは、
――私くらいのものね――
|濡《ぬ》れた歩道を踏みながら、千鶴はそう思った。
マンションは海側にある。品川駅の海側がこんなに広いとは知らなかった。
エレベーターを待ちながら首筋を一つ二つこぶしで|叩《たた》いた。
――離婚なんて……むつかしいわ――
ここ数か月ずっとそのことを考えていた。近所に住む片瀬知子は、
「少しは反逆しなくちゃ駄目よ」
と、しきりに勧める。
しかし、二十数年夫の言うなりになって来た身としては、そう簡単にはいかない。夫の顔を見たとたんに威圧されてしまう。ジロンとにらまれると、譲歩してしまう。むこうのほうが、くやしいけれど、役者が一枚も二枚も上だ。
知子の友人の一恵は、夫を失って、かえっていきいきとしている。
「未亡人がこんなに楽しいものとは思わなかったわ」
本当に楽しそうだ。しかし、夫が死んで楽しいということなら、千鶴はおそらくだれにも負けないだろう。
――そんなこと、自慢にもならないわ――
まったくだ。人に話すことさえ、ためらわれてしまう。
やっぱり額が痛む。
ここにぶつけたのは、隣にすわった女のほうだったかもしれない。それも若い女だった。
――まじめそうで、きっとよい家の若奥様ね――
そんな感じだった。
ご主人もエリートで、よい子どもに恵まれ、すばらしい一生が待っている……。
エレベーターが降りて来て、ドアが開く。
千鶴の想像に呼応するように中から若い夫婦が現れ、手を握りあったまま立ち去って行く。
――あんな結婚もあるのに――
千鶴は大事なところで道をまちがえてしまった。ボタンをかけちがえてしまった。
――あんな男と結婚しなかったら――
今までに何度悔やんだかわからない。今は悔やみあきてしまい、
――もう少しべつな人生を考えてみようかしら――
たとえば、もっとまともな男と結婚をして……。ボタンのかけちがえさえしなければ、千鶴だってもっとましな生活ができたにちがいない。日曜日には家族全員でハイキングに出かけ、高原の草原にシートを敷いて、お弁当を食べる。子どもたちは父親とじゃれあい、母親は目を細くしてこれを眺めている。
太陽の光をいっぱいに浴びた草木が美しく育つのと同じように、子どもたちも両親の愛情をいっぱいに受けて、つつがなく育つ。
――秀樹も敏樹もよく育ってはいるけれど――
千鶴は二人の子どものことを思った。わるくはないが、どこか温かさに欠けるうらみがなくもない。二人とも遠からず結婚をするのだろうが、
――よい家庭が作れるかしら――
想像がふくらむ。
こたつにあたって一家|団《だん》|欒《らん》。子どもたちは|蜜《み》|柑《かん》をむきながら、本を読んでいる。“科学者・湯川秀樹”とか“数の絵本”とか、女の子もいて、こちらは“キュリー夫人伝”……。ガラス戸のむこうは芝生。こたつがあるのに、芝は青い。太陽もさんさんと光を落としている。空想の中では、どんな不思議なことだって起きてしまう。
――これ、どこの家なの――
息子たちの家……。二人の男の子は、どちらもまだ独りなのに。
――もしかしたら、私の家――
つまり、良介と一緒にならなかったら、こうだったかもしれない。それが現実のことのようにはっきりと頭に浮かぶ。
――へんね。あの女の人のせいかもしれない――
そう思ったのは列車の中で頭をぶつけた相手のこと。
あの瞬間から、
――頭が少し変わったみたい――
そんな感触がずっと続いている。
たとえば、あのとき、隣にすわっていた女性が考えていたことが、ストンと千鶴の頭の中に飛び移って来たりして……。ありえないことだが、わけもなくそんな気がする。
マンションの|鍵《かぎ》を取り出し、ドアを開け……このときにも、
――このドアの中に、もう一人の私が住んでいる――
などと、へんてこな想像が浮かぶ。
入ってみれば、いつもと変わらない、乱れた室内。キッチンの食器を洗い、ごみをまとめることから手をつけた。
窓越しにたくさんの窓が見える。このあたりはマンションが多い。十階も、十五階もありそう。目下建設中のビルも見える。
――窓の中には、それぞれの生活がある――
幸福な家族。みんなが仲よく笑いながら暮らしているような一家。さっきからそんなイメージばかりが映る。
だれのことを考えているのか、わからない。千鶴自身は子どものころも、良介と結婚してからも、そういう幸福とは縁が薄かった。息子たちが、これから作る家庭……。そうかもしれないが、そんなものがそうはっきりと想像できるはずもない。
――テレビ・ドラマかしら――
いずれにせよ一家|団《だん》|欒《らん》の席には良介はいない。これがとても大切なことだ。|煎《せん》じ詰めれば、良介がいないということが、すなわち一家の幸福なのだから。
――私もこんなマンションを一つ持とうかしら――
夫の知らない隠れ家。それがあったら、どんなに気が安まるか。
――お金はどこから出すの――
意地わるい質問が、楽しい想像をぶちこわす。けっしてお金のない家ではないが、財産はしっかりと良介が握っている。マンションを買うのは、魚の切り身を選ぶようにはいかない。
いつもはここで想像がしぼんでしまうのだが、今日は少しちがう。
――いいじゃない。とにかく隠れ家があるのよ――
良介がいない。千鶴は、まあ、一人暮らしである。秀樹が訪ねて来る。孫を連れて……。敏樹が訪ねて来る。嫁を連れて……。
「また旅行に行きましょうよ」
と、これは片瀬知子の声である。
「今度は花の名所がいいわね」
と梅宮一恵がつぶやく。マンションは|鍵《かぎ》一つで戸締まりができるから、いい。
二時間ほどかけて掃除と洗濯をすませた。洗濯物は脱水機にかけたから明日までには乾くだろう。シーツやパジャマは帰りがけに近所のクリーニング店へ預ける。
「女のやる仕事の中で洗濯と掃除は馬鹿でもできる。料理はむつかしい。お前は料理がへただな」
と、良介に何度も言われた。
洗濯だって掃除だって、それなりに頭を使わなければ能率よく、きれいにはできない。
しかし、まあ、毎日、気を入れてやるほどの仕事ではあるまい。あれこれほかのことを考えながら手を動かす。
良介はなんによらず断定的に言う。自信満々だから、聞いているほうも、
――そうかな――
と思ってしまう。
「岡山県生まれってのは、後半生でまずいものしか食えなくても我慢しなくちゃいかん」
これも良介の口癖である。
良介の母方の実家が岡山なので、あちら生まれの縁者が多い。
「どうして?」
と、たいていの人は聞き返す。良介は|顎《あご》をスルリと|撫《な》でて得意そうに答える。
「岡山で育っていると、うまいものばかり食べる。魚がいい。果物がいい。米がいい。肉だって近くに名産地があるし、|牡《か》|蠣《き》も松たけも酒も、名産地に囲まれている。前半生でいい思いをしているから、あとは少しくらいまずいものを食べさせられても我慢すべきなんだ」
岡山の出身者は、ほめられたのか、けちをつけられたのか、わからない。良介のことだから、やっぱり後者のほう。憎らしいと思っているのだろう。
「でも、そんなことなら……」
仕事を終え、手を洗いながら千鶴は思わず声を出してしまった。
前半生で良介みたいにひどい夫と一緒に暮らした女は、後半生でよほどいい思いをしなければわりがあわない。これは本当だ。
おいしいままかりが食べられなくても、甘い水蜜桃の味を知らなくても、そう損をしたとは思わない。
女にとっては、結婚が一番大切だ。ここでわりをくったら、ほかでは取り返しがきかない。
――なんだかへんだわ――
さっきからずっと千鶴は感じている。とてもかすかな気配。なにか不思議な薬を飲んで酔っているみたい……。
わけもなくうれしい。
うれしいことなんかなにもないのに……。たとえば、子どものころ、お弁当のおかずが好物だったりして……。
――うれしいことがある――
と、胸をときめかせて原因を捜してみると、それほど喜ぶことでもなかった。
それでもあのときは“お弁当のおかずが楽しみだ”という理由があった。胸をときめかせるほどうれしいことではないけれど、とにかく喜びの原因を見つけ出すことができた。
今はちがう。
いくら思いめぐらしてみても、なにも楽しいことなんかはない。だが、さっきから掃除をしたり洗濯をしたりしている最中に、
――これが終わったら……いいことがある――
そんな気配を頭のすみに感じ、われながらはっとして、
――なにかしら――
周囲をグルリと見まわしたりするのだが、なにもない。
――明日になれば、来月になれば、来年になれば――
やっぱりなにもない。
――来世になれば――
そういうことなら、とてつもなくよいことが待っているのかもしれない。
――馬鹿みたい――
クリーニング屋に預ける洗濯物を持ってマンションを出た。
――またどこかへ旅に行きたいわ――
知子とはときどき顔をあわせるが、一恵とはしばらく会っていない。一恵はきっと気ままに日本中を旅しているのだろう。
――きらわれたかもしれない――
たしかに千鶴は人づきあいのうまいほうではない。
「近所の女なんかとつきあうな。ろくなことがない」
と、良介にずっと禁じられて来たのだから、つきあい上手になれるはずがない。
――でも、私ってわるい人間じゃないわ――
われながらそう思う。
|嘘《うそ》はつかないし、ずるいことや人をおとしめるようなことはけっしてやらない。
――みんなが幸福になってくれればいい――
と、いつも心から思っている。
働くこともいとわないし、まちがいなく辛抱強いほうだろう。わがままじゃないし、根はけっして暗いほうではない。
人とつきあって、とくにきらわれる理由は思いつかないけれど、
――面倒な亭主がいるからねえ――
これがマイナス・ポイントだ。
知子にしても一恵にしても、連れ出してみすみすトラブルの起きそうな女を連れ出すのは気が進まないだろう。いくら口先で、
「もっとご主人に反逆すべきよ」
「女性も自分の楽しみを持たなくちゃあ」
と言っても、そう気楽には誘えない。あとで夫婦|喧《げん》|嘩《か》のしりを持って来られても困ってしまう。それを思うと悲しい。
悲しいのに……うれしい。
千鶴は下りの急行列車を待っていた。横暴な夫がいるために友だちづきあいもままならない。そのことを悲しいと考えたはずなのに、頭のどこかで、
――でも、ほかに楽しいことがあるから、いいじゃない――
そんなことをつぶやいている声がある。声ではなく気配と言ったほうがいいのかしら。冬のさかりに春の風を感じたようなものだ。
はっとして確かめると、ただの錯覚。春風も楽しいこともなにもない。さっきから何度同じようなことを感じたか……。
電車は込んでいた。もうサラリーマンの帰宅の時間にさしかかっていた。
千鶴は入り口のドアに近い通路に立った。二人がけの席が向かいあっている。
――さっきはここにすわってたんだわ――
上りと下り、普通列車と急行列車、情況に多少のちがいはあるけれど、おおまかな様子は変わりない。
さっきは四人とも女性だった。
窓ぎわの奥にいたのは、三十代なかばの女。少し着飾って、ハンドバッグの中から絵葉書を取り出して眺めていた。絵画ややきものの絵葉書。美術館の売店に売っている……。それで、
――熱海の美術館へ行った帰りなのかしら――
と千鶴は思った。
そこへは行ったことがないけれど、小田原に住んでいるから|噂《うわさ》くらいは聞いている。
ちょっとまなざしの落ち着かないような、遠いところを見つめているような、そんな感じの女だった。
――男に誘われれば、ふいとついて行くような――
テレビ・ドラマにはよくそんな女が登場するけれど、
――もしかしたら、あんなタイプかも――
と、千鶴はその女の潤んだような目を見て考えた。
千鶴の隣の席は……二十代。結婚している人なのかどうか、地味なスーツを着て週刊誌を読んでいた。それ以外はあまりよく思い出せない。
まむかいに腰かけていたのは、黒い、はやりの服装をした三十代。モンペのような黒いパンツだった。
――黒がはやっているのかしら――
本当のことを言えば、それがはやりの服装なのかどうか千鶴はわからない。今までにあまり見ない服装だし、いかにも現代的な感じの女性が着ていたから、
――きっと今の流行ね――
そう思っただけのことである。
――私は、たしか北海道へ行っていた――
そう、あのとき、身は東海道線の上り列車の中にいながら空想だけは|知《しれ》|床《とこ》半島へ飛んでいた。
今、一番行ってみたいところの一つ。
もちろんこれまでに行ったことはない。でも、テレビでよく映し出している。狐や熊や|栗《り》|鼠《す》。鮭の産卵。日本に残された最後の秘境らしい。バスの便くらいはあるらしいが、その先は自分の足が頼りである。
――あと二、三年――
千鶴は来年五十歳になるのだから、そう長くは丈夫な足腰ではいられまい。ちゃんと歩けるうちに知床へ行ってみたい。できれば花の季節。
――どんな花が咲いているのかしら――
頭の中には原始林が映り、白と黄の花が乱れていた。それを思っていたとき、いきなり車両が弾んだ。たしかそうだった。
ゴツン、ゴツン。
隣の人がぶつかって来て、それに押されて向かいの人にぶつかった。
しばらくは頭が痛かった。
――あのときからよね――
頭の中身がほんの少し変わったみたい。
昔のラジオはトンと|叩《たた》くと鳴り出したりしたけれど……人間の頭もショックで新しい回線がつながったりするのだろうか。
事故があったのは、戸塚と大船のあいだ。もうすぐ現場を通るだろう。
――だれか死んだのよね――
車内の声では、死体が見えたらしい。死んだ人は、まさか今日自分が死ぬとは思っていなかっただろう。死の直前までそんなことを、ちらとも考えていなかっただろう。
――それともなにかサインがあるのかしら――
来世のことがやたら頭に浮かんだりして。ちょうど今の千鶴みたいに……。なんの理由もないのに、ふっと幸福感を覚えたりして……。
――来世は旅行家になりたいわ――
旅行家がどういう職業なのか知らない。そんな職業があるのかどうか。たとえば旅行案内を書くライター。旅行社の案内人。旅行をすることのできる職業なら、なんでもいい。
また想像が広がる。
知床の原野。沖縄の|珊瑚礁《さんごしょう》。朝日に映える日本アルプス。
列車が戸塚駅を出たのも知らなかった。事故現場を通ったときは、もう外はすっかり暗くなっていた。
小田原で降り、買い物をしながら家に向かった。家のすぐ近くまで来たとき、むこうから知子が|駈《か》けて来るのが見えた。
「た、大変」
知子はよくしゃべれないほど息があがっている。
「ご主人が……」
知子は胸を押さえながら、とりあえずひとことだけ言った。
「はい?」
身が堅くなる。
「ご主人が駅の階段で倒れて、総合病院に運ばれたんですって。警察から連絡が入って、私、ちょうど、おたくに、いただいた|椎《しい》たけをお届けしようと思って行ったところだったから……。すぐ病院へ」
とにかく表通りに出なければいけない。いま来た道を戻りながら、
「どうして」
と千鶴はつぶやいた。
階段で倒れた、その理由がわからない。
「心臓がどうとか……。とにかく行ってみて」
「あなたも来て」
「ええ……」
「お願い」
一人では心もとない。
表通りに出たとき、ちょうどからのタクシーが来たのは運がよかった。二人で車に乗りこむ。
――そう言えば、今朝がた、どことなく気分がすぐれないような様子だった――
良介は五十五歳。頑健な人だが、その両親は早く死んでいる。油断はできない。
「しっかりして」
「大丈夫よ」
千鶴は気が動転して、頭がうまく働かない。
――発作がひどいのかしら――
体の自由がきかない病人を想像した。
――あのわがままな人が……。さぞかし大変だろう――
と、今から|滅《め》|入《い》ってしまう。
――わがままも言えないほど、ひどい病人になるかもしれないし――
それはまたそれで厄介だ。
すぐに病院に着いた。表玄関は閉じている。救急の受付で、
「小早川です。主人が駅で倒れて、こちらに運ばれていると聞いたものですから……」
と早口で告げると、ジャンパーの男が、
「あ、わかります」
と、うなずきながら電話をとる。ひとことふたこと話して電話を切り、
「そこの階段を地下に下りて、右へ行って……看護婦が来ますから」
掌でさし示した。
「すみません」
もう夜に入り、病棟はひっそりとしている。二つ並んだ電話の前で、おそらく入院患者なのだろう、笑いながら声高に話している。
階段を下りると、左手に廊下、右手はすぐに鉄のドアになっている。
そのドアがきしみながら開いた。
眼鏡の看護婦が首を出し、
「小早川さんですか」
と尋ねた。
「はい」
「奥様でしょうか」
「はい」
病院の構造はよくわからない。うしろに知子が続く。千鶴は、
――このへんに病棟をつなぐ地下の通路があるのかしら――
と周囲を見まわした。だが、ちがった。
「病院に運ばれていらしたときは、すでにお亡くなりになっていらして……。心臓がおわるかったのかしら。霊安室のほうへどうぞ。ご案内いたします。ご用意をしていらっしゃいましたか」
言葉の意味がすぐにはわからない。
「なんでしょうか」
「ご遺体をお運びになるご用意ですけど」
「いえ、突然でしたから。主人……亡くなったんでしょうか」
「はい。救急車の中で。ご愁傷さまです。警察のほうは問題がないそうです。狭心症の発作ですね。できるだけ早くお運び出しになってください」
事務的な口調で告げた。
千鶴は知子と顔を見あわせた。言葉も出ない。
「どうぞ」
もう一つ鉄のドアがきしみをあげて開く。
コンクリートの床の、さむざむとした部屋。すみのほうに白いシーツのふくらみがある。造花が置いてあった。
近づくと、シーツにくるまれて良介が目を閉じている。青黒い顔にひげが濃くはえていた。
「あなた」
|頬《ほお》が冷たい。すでに硬くなり始めている。
肩をおおっていたシーツがめくれ……下は全裸らしい。洋服と下着がそばに畳んで置いてある。
千鶴はあわててシーツで肩を隠した。
「どんな様子だったんでしょうか」
「くわしいことは駅のかたのほうがよくご存知なんじゃないかしら。階段の途中で倒れて、少し後頭部を打ってらっしゃるわね。でも、そのときはもう……。打ったのが原因じゃないですね。病院に運ばれていらしたときは、もうはっきりと……」
死んでいたということなのだろうか。
「朝はお元気で出ていらしたんでしょ」
知子がつぶやく。
「もとから心臓がわるかったんじゃないんですか」
「さあ?」
「健康診断は?」
「会社ではやっていたと思いますけど」
「わかると思いますがね。前に倒れたことは?」
「ありません」
「急に強いのが来たんですね。で、どうなさいます?」
声にはあきらかにせきたてるような響きがあった。
早く遺体を持って帰れということなのだろう。まだ千鶴のほうは、死を実感すらしてないのに……。それに、そう簡単に動かせるものではない。どうしていいかわからない。知子が横から、
「どういうふうにするものなのでしょうか、こんなときは?」
と、助け舟を出す。ちょっと厳しい口調で……。
「お車でいらっしゃるとか」
自家用ならともかく、タクシーというわけにもいくまい。いきなり|霊柩車《れいきゅうしゃ》でもあるまいし……。
「病院のほうでなにか……いつもお願いしているところとか」
言っちゃあわるいが、病院と死体とは関係があるはずだ。
看護婦は迷惑そうに首を振り、
「とくにそういうところは知りませんけど、こちらに電話をおかけになってみてくださいな。ワゴン車があるらしいですから」
メモ用紙にすでに電話番号が記してあった。
――なるほど――
ある程度きまった手続きがあるにちがいない。ただ病院としては、それを大っぴらにしたくはない。たてまえとしては、死体とは縁のないふりをしていたいのだろう。
「先生に……最期を見とどけていただいた先生におめにかかれないでしょうか」
「もうお帰りになったんじゃないかしら。それに、先生はちょっとご覧になっただけですから。あとは警察の検死官がいらして……。救急車か本署のほうに問いあわせられたら、様子がわかりますわ」
運ばれて来たときにはすでに死んでいた、だから病院はいっさい関知していない、と、そういうことなのだろう。
「私がそこへ電話をかけて来るわ。早くおたくに連れてってさしあげましょ」
知子がメモを指さし耳もとで言う。
「お願い」
知子が立ち去ったあとで、シーツの下の体に下着と背広をかけ、もう一度シーツでくるんだ。
看護婦が|紐《ひも》を渡してくれる。胸のあたりと、腰のあたりと、足首と、三か所をその紐で縛った。そうでもしなければ、途中でひどいことになりかねない。
「このシーツ、いただいてよろしいの」
「ええ、お代に入っておりますので」
ああ、そうか。当然のことながらいくばくかの費用は請求されるのだろう。
「ワゴン車がすぐに来てくれるそうよ」
知子が戻って来た。
「すみません」
千鶴は車を待ちながら、あらためて良介の顔を見つめた。
――自分勝手で、冷淡な人――
ほとんどなんの愛着もない夫だったが、こうして死なれてみると、やはり気の毒だ。複雑な思いが胸にこみあげて来る。
――医師の手当てを受けることもなく、家族に見守られることもなく――
しかし、考えようによっては、良介自身が家族を家族とも思っていなかったのだから、こんなふうに一人で死んで行くのが、天の報いのようにも感じられる。
むしろ千鶴がショックを受けたのは、
――人間の死って、こんなに簡単なことなのかしら――
そのあっけなさのほうだった。
「お子さんやご|親《しん》|戚《せき》のかたに連絡をしなくていいのかしら」
と知子が言う。
小さな声だったが、看護婦が聞きとめて、
「もう車も来るでしょうから。ご自宅にお帰りになってから、ゆっくりと」
と、さえぎる。
病院は死者に冷たい……。はっきりと嫌悪している。
――死を憎むことが病院の仕事なのだから――
と、千鶴は自分を説得した。
そうでもしないと不満がのどから|溢《あふ》れ出しそう。でも、怒ってみたところで、よい結果はなにもないだろう。それに、良介のためにそこまで憤るのも釈然としない。
「電話番号もわからないし」
とりつくろうようにつぶやいた。
部屋のすみの電話が鳴った。
ドキンと、心臓の響きが聞こえるほど驚いたのは、心が平静を失っているからだろう。看護婦が電話をとり、
「はい、わかりました。裏口のほうにね」
と答えて電話を切り、
「車が来ました」
と伝える。
古い担架車に遺体を載せ、シーツで顔を隠して霊安室を出た。暗く、ひっそりとした廊下。ここはおそらく病院の中でも、ほとんど人の来ないところではあるまいか。
「お会計は後日お願いします。もう閉まってますから」
「わかりました」
ワゴン車のほうは慣れているような感じだった。車が動き出し、看護婦が窓の外でふかぶかとお辞儀をする。その姿を見て、
――それほどわるい人じゃないのかもしれない――
と思った。そっけないのが彼女の役割だったりして……。
「一緒に来てくれて……ありがとう。助かったわ」
知子がいてくれて本当に心強かった。
家に帰り着き、奥の部屋に遺体を安置した。なにから手をつけていいか、わからない。
気がつくと電話のベルがけたたましく鳴り続けている。
「すみません」
目顔で知子に頼んだ。
白い|浴衣《ゆ か た》を取り出し、夫の硬い体に着せた。がっしりした|体《たい》|躯《く》。手足をこわばらせて、
――もっと丁寧に扱え――
死んでも威圧感があるみたい……。
「ご主人の会社からお電話」
と知子がふすまのむこうで言う。
「すみません」
電話をとった。
「総務課長の宮滝です。やはり……本当なんでございますか」
「はい。今、遺体を持って帰ってまいりました」
「そうですかあ。突然のことなので……びっくりしております。こちらにも警察から連絡がありまして、なんかのまちがいじゃないかと思っていたのですが……」
「ご心配おかけいたしました」
「いえ、いえ。奥様こそご心痛でしょう。私もおって参上いたしますが、とりあえず総務課の者を二名そちらに向けておりますので、なんなりとお申しつけくださいませ」
「ありがとうございます」
電話を切り、まず早速子どもたちに知らせなければなるまい。夫の係累は少ない。
だが、それより先にまた電話のベルが鳴り、今度は警察からだった。
場ちがいなほど明るい声が聞こえる。
「階段を一、二段下りたところで、なんかこう胸をかきむしるような動作をして、そのままガクンと倒れたそうです。すぐに駅員事務室に運ばれ、一一九番に連絡があり、救急車が|駈《か》けつけたときには、もう心臓はおかしくなっていて、それで近くの病院まで運んだわけです。救急車の設備では少し無理だと判断したわけですね。しかし、運搬の途中で心臓がまったく動かなくなり、|蘇《そ》|生《せい》術を試みましたが、残念ながら駄目でした。|御《ご》|冥《めい》|福《ふく》をお祈りします。心臓が少しおわるかったようですね、会社のほうのお話では。警察としては、なんの問題もございませんが、もしご遺族のほうにご希望があれば、死体解剖をおこなって、くわしく原因をお調べいたしますが……」
死は歴然としている。今さら原因を調べてみても意味がない。
「結構です」
答えながら、
――もっと死因を疑ってみるべきなのかしら――
と千鶴は迷った。すかさず明るい声が、
「わかりました。小田原駅では、野中さんてかたが、よくしてくださったようです。事情をお聞きになってください。ではよろしく。なにかあったらご相談してください」
と告げて切れた。
二人の息子たちに連絡がついたのは夜の九時近くになってからだった。
秀樹が札幌から|駈《か》けつけて来るのは、明日の午後だろう。敏樹は浦和の友人の家にいて、そこから直接小田原に向かうと言う。
「早く来てね」
「うん」
連絡をとるべき|親《しん》|戚《せき》を思い浮かべてつぎつぎに電話をかけた。
会社からは、五十年輩の男と、三十年輩の男とが来てくれた。
年かさのほうは、こういうことに慣れているらしい。おそらくその方面の担当者なのだろう。千鶴の意見を聞きながら、てきぱきと必要なことをきめていく。通夜と葬儀の日どりや規模などを……。
「この前の健康診断で心臓がよくない、専門家に診てもらったほうがいいって言われてたみたいですけど」
若いほうは、良介の部下らしい。千鶴の知らないことを知っていた。
――どうして私に話してくれなかったのかしら――
うらめしさはあるが、良介の日ごろを考えれば、わかるような気もする。
良介は妻に対しても弱いところを見せたがらない。千鶴のことをほとんど信頼していなかったのだし……。
――お前に話してなんになる――
そのくらいの気分でいたにちがいない。考えてみれば、夫婦でいることの価値のほとんどない二人だった。
涙がにじむ。
ほかの人にはひどく夫の死を悲しんでいるように見えるだろう。
――そうじゃないのよ――
大きな声で叫んでやりたい。まるで意味のない共同生活のために自分の人生のあらかたが使われたのかと思うと、それが悲しい。涙の大部分がそのためのものだ。
「本当にご愁傷さま」
遅くなって梅宮一恵が来てくれた。知子が知らせたのかしら。
「すみません。おいそがしいでしょうに」
「ううん。ちょうど知子さんのところへ寄ろうとしていたから」
一恵は旅行帰りのような服装だった。
「突然だったのねえ。気を落としちゃ駄目よ。しばらくは気が張りつめているから、いいんだけど……そのあとガクッと来るの。いそがしいでしょうけれど、できるだけ体をいたわって無駄なところに神経やエネルギーを使っちゃ駄目。お手伝いしますから」
なにしろ一恵は経験者なのだから……。
「ありがとうございます」
知子と一恵がそばにいてくれて、しみじみありがたいと思った。
それからの数日は本当に流れ作業のような、ベルト・コンベヤーに載ったような日々だった。
通夜も葬儀も近在の寺院を借りてすました。
二人の息子が黒い背広を着て立っている。それがひどく頼もしい姿に見えた。
「りっぱな息子さんがいらっしゃるんですもの」
「本当に」
みんなが口々に言う。
息子を残してくれたことだけは良介に感謝しなくてはなるまい。千鶴一人で子どもを作ることはできないのだから……。
弔辞の中の夫は、家族に愛され、仕事にきびしく、部下にやさしい人格者として語られていた。これが儀式というものだろう。
「これからいよいよご夫婦仲よく、人生を楽しむところだったのに」
そんな声もしきりに聞こえた。
――それだけは絶対にちがう――
死んだ人をわるく言いたくないけれど、この先どう転んでみても夫婦むつまじく暮らして行くことだけはなかっただろう。
良介の骨は太い。
骨になってもまだなにかしら|傲《ごう》|岸《がん》なものを主張しているように見えた。
「本当にありがとうございました」
「お力落としのないように」
会社に在職したままの死であったから弔問者の数は多い。その弔問者もいつのまにか散ってしまい、親族と十数人の親しい者だけが残った。
――今日一日何回頭をさげたかしら――
千鶴はとりとめのないことを考えた。
家の外まで|親《しん》|戚《せき》の者を送り、ふと眺めた西の空がみごとなあかね色に染まっている。
「まあ、きれい」
千鶴はことさらに声をあげ、足を止めてながめた。
――これほど美しい夕焼け空を見たのは、いつだったろう――
もしかしたら今までで一番きれいな夕焼け空かもしれない。
ふっと暖かいものが胸をかすめた。日だまりのようなのどかさが心の中を走りぬけた。
――数日前に感じたこと――
品川のマンションへ行き、掃除や洗濯をしながら、しきりに感じたこと……。微妙な幸福感。なにとははっきりとわからなかった。今もはっきりとはわからない。
――夫が死んだというのに――
いくらなんでも不謹慎すぎる。
――予感みたいなものだったのかしら――
千鶴はあらためて良介が死んだという現実を|噛《か》みしめてみた。
――一人になった――
つまり、願いが|叶《かな》った……。
いつのころからとははっきりわからない。多分ここ十年くらい、あるいはもう少し長く、もしかしたら結婚してまだ日の浅いうちから千鶴はずっと頭の中にジレンマをかかえていた。
夫と別れたい。でも夫は別れてはくれないだろうし、一人では生きていけない。
離婚のことをしばしば考えては、この人生ではそんなことはけっしてないだろうと予測する。それでもまた離婚を考え、絶望する。そのくり返し。
良介の死を考えたことはほとんどなかった。とても頑健な人だし、そんな都合のいいことを千鶴のためにやってくれるなんて、頭の片すみで考えることさえ無理な感じの人だった。
――こき使われて私が先に死ぬ。ろくに面倒もみてもらえずに――
そう信じていた。
それがこんなに早く……。まだ充分に千鶴が元気でいるうちに……。なんの手間もかけずに……。神様はこんなことを用意しておいてくれたのかしら。
――やっぱりあれね――
列車の中でガツンと頭をぶつけたとき。なにかが変わったように思った。頭の中が少し変わり、運命が変わった。隣の人の持っている願いや運命を少しもらってしまったらしい。
あのときから、わけもなくばら色の生活が頭の中に浮かんだ。なにがうれしいのかちっともわからないのに、うれしさだけが感じられた。
夫の死にともなういくつかの儀式も終わり、小早川家の資産がはじめて千鶴の前に明らかになった。退職金、弔慰金、生命保険、株券に預金、思ったより多額の金額が残されている。若干の税金は取られるだろうけれど、三分の二は自動的に千鶴のものとなる。
――みっともないわ――
必死になって平静を装っていたが、お腹の底から笑いが|溢《あふ》れそうになる。
――あなた、さぞかし残念でしょうね――
そんなことも言ってみたくなる。
財産のことは子どもたちにもはっきりと見せて伝えた。
続いてよいことがつぎつぎに起きる。長男の秀樹が札幌の勤務を終え、東京の本社に戻って来た。そして結婚をする。
「マンションの頭金くらいほしいな。あとはお母さん使えよ。さんざん苦労したんだから」
そう言ってくれるだけでもうれしい。
敏樹の就職も決まった。
千鶴一人で住むには小田原の家は広すぎる。一軒家は住みにくい。
千鶴は品川のマンションに住むことにした。
すぐ近くに秀樹が新しいマンションを買った。敏樹は、
「|俺《おれ》の住むとこ、なくなっちゃったなあ」
四年生になってからは、論文のための実験がいそがしく、大学の近くに下宿していて、めったに小田原には帰って来なかった。
「どこに飛ばされるかわからんよ」
「いつでもなんとかしてあげるから……。早くお嫁さんを連れて来て」
「俺、兄さんより理想高いもん」
「あ、敏樹、そういうこと、言うのか」
久しぶりに家族の中に笑いが起きる。久しぶりというより、はじめてかもしれない。こんなに屈託のない笑いは……。
一家|団《だん》|欒《らん》。子どもたちはみんなよく育っていた。これからは孫たちも増えて行くだろうし、千鶴は自由になった。
残念なのは小田原を離れたせいで片瀬知子とそう繁くは会えなくなったこと……。でも、今度は梅宮一恵の家が|田《た》|町《まち》にあって近い。
「私が出かけて行くわよ」
と知子が言い、事実よく顔を出した。
千鶴はマンションの内装を改め、自分の好みに変えた。
本棚を置き、そこに旅の本を並べた。お客用のベッドを一つ置いた。だれでも泊まれるように……。まず知子。それから敏樹。おいおいほかの人も泊まってくれるだろう。帰る時間を忘れて話しこんでも心配はない。人生は残り少ないし、話したいことはたくさんある。
あいにく寒い季節に入っていたので花を捜しての旅はままならない。
「温泉にでも行きましょうか。千鶴さんを慰め、新しい出発を期待して」
一恵が提案をする。
「いいじゃない、ねえ?」
と知子が千鶴の顔をのぞきこむ。
「いいわよ」
そうつぶやきながらも、心のどこかで「ばかなこと、するんじゃない」と良介の声が聞こえて来るのを恐れている。
――もう、それはないんだわ――
と胸をなでる。しばらくはこんな心理を味わうだろう。
|西《にし》|伊《い》|豆《ず》の先端近くの温泉宿を一恵が選んでくれた。
「露天|風《ぶ》|呂《ろ》があるの。すぐそばまで海が来ていて」
「寒くないかしら」
「ちょっと寒いかもね。でも、伊豆は暖かいから」
「混浴?」
「残念でした。ここは女性専用の露天風呂があるの」
「あら、めずらしいわね」
「最近、温泉旅館の造りかたが変わって来ているのよね」
「どんなふうに?」
「以前は男性中心で、男性用の浴室だけが豪華に作られていたの。女性用は、もう、ホント地下のほうに、窓もなかったりして。のぞかれる心配もあったんでしょうけど、やっぱり冷遇されてたのね」
「このごろはちがうの?」
「少しずつ変わって来ているみたい。女性客が増えているし、男性中心の旅館じゃ、女の幹事さんが絶対に選ばないから」
「そうよね。で、今回は女性用露天風呂があるわけね」
「困る?」
「困るってほどのことはないけど、落ち着かないじゃない」
「沖のほうから舟でも|漕《こ》いで来れば見えるかもしれないけど、そんなもの好き、いないんじゃない、私たち三人なら」
「あははは」
ウイークデーを選んでの一泊旅行。知子の都合にあわせた。
「知子さん、うらやましがっちゃ駄目よ。私たち二人は、悪事の共犯者みたいなものなんだから」
と一恵が千鶴を指さして言う。
寡婦は一恵と千鶴。夫がいるのは知子。本来は寡婦のほうがかわいそうな立場であるはずなのに……。
「悪事の共犯? そうねえ」
千鶴がうなずいた。言いかたはきついが、その感じはなくもない。とくにわるいことをしたわけではないけれど、この気楽さの背後には一人の人間の死がきわめて重要なこととして存在しているのはたしかである。あまり喜んでは申し訳ない。
「隠して。隠して」
一恵が笑いを掌で隠す。
本当にそんな気分。笑いすぎてはよくないことが起きてしまいそう。
伊豆急行で|下《しも》|田《だ》まで。小田原で知子が乗りこんで来た。下田からはタクシーを雇った。
しばらくは海ぞいの道を走る。
快晴。伊豆の島々が点在している。列車の中からも見えたが、ここまで来ると、さらに先端のほうまで見える。
「どれがどれなの?」
「大島ははっきりしているけど、あとは|利《と》|島《しま》、|新《にい》|島《じま》、|式《しき》|根《ね》|島《じま》じゃないかしら」
「ふーん」
「旅をしていると、よく思うわね。“窓から見える風景解説図鑑”なんてのがあるといいわねって。今、渡った川は何川、あそこに見える高い山は何山って」
「作れば?」
たしかに列車の窓から外を見て、山や川や島や湖や、名前を知りたいと思うことはある。
「そうねえ」
「新幹線なんか、何度乗っても川の名前すらよくわかんないものね。いつだったかお母さんが子どもに“|大《おお》|井《い》|川《がわ》よ”って教えたら、隣の男の人が“これは|安《あ》|倍《べ》|川《がわ》です。大井川はもう少し先”小声で言ってたわ」
「案外知らないのよね」
「だから一恵さんが作ればいいのよ」
「売れるかなあ。いずれにせよ、出版社が企画の段階からついてくれないと」
「|儲《もう》からない?」
「儲からなくてもいいけど、なんの|手《て》|応《ごた》えもないもの作ってもつまらないし……。千鶴さんは“花の百景”を作りたいんでしょ。日本中の花の名所をまわって」
「そんなだいそれたこと考えてるわけじゃないの。ただ一つくらい目的を持って……。自分の思い出のために写真帳くらい作りたいと思って」
と顔を赤らめた。
「それが一番よ。本にしようとか、出版社に売りこもうとか、そんなこと考えると、気ままにやれないのね。私なんか、これからは自分のために生きること、それしか考えてないのね、わるいけど」
「それが一番よ」
知子が同じ言葉を言う。
道は伊豆半島を横断する山道に変わる。結構高い山が見える。
「あれが|婆《ば》|裟《さ》|羅《ら》|山《やま》ね」
「名前を知るってのは、やっぱり大切よ」
「ええ……」
「ほら、昔はサ、偉い人が野遊びに来て、ちょっときれいな娘なんか見つけると、名前を聞くじゃない。あれが“アイ・ラブ・ユー”だったんでしょ」
「ああ、そうねえ」
「“万葉集”かなんかにそんな歌があったじゃない」
「ええ……」
千鶴がうなずく。
――“万葉集”なんて言葉、ここ何十年も聞いたことがなかった――
良介とは絶対に共存することのない世界だった。
「名前を知らなければ、どうにもしょうがないものね」
「でも旅行案内の本なんかいくら見てても意外と地名は覚えられないものね。実際に行ってみて、そのあと本を見るとスーッと頭の中に名前が入るの。名前と印象が結びつくの」
それは本当だ。実際に見なければ名前すら覚えられない。
三時過ぎにあかね館に着いた。
三階建ての、よくあるタイプの温泉旅館。
「むかしは、もっとひなびた感じの宿だったらしいの。ランプでお|風《ふ》|呂《ろ》に入るような」
と一恵が言う。
「そのころいらしたの?」
「ううん。そのころはご主人様にお仕えしていたから」
「そうよねえ」
温泉になんか来ていられなかった。
「海のすぐそばに温泉があって、夕日を見ながら入るのが特徴だったんですって。改築して、今は大々的にそれをやってるのね」
「あ、ほんと」
少しくつろいでから売り物のなぎさ風呂へ行った。
「すてき」
「へえー。こんなのはじめて」
屋内に岩風呂があり、ガラス戸の外にももう一つ岩で囲まれた風呂がある。海が近い。外の風呂の水面は海面と比較してほんの少し高いだけ……。
「行ってみよう」
「少し寒いから中でよく温まってから」
「波が高いときなんか平気なのかしら」
「海そのものが、うまいぐあいに入り江になっているのよね」
はしゃがずにはいられない。
千鶴たちばかりではない。同じ年輩の女性客がほかにもいるが、みんな子どもにかえって喜んでいる。
体をよく温めてから外へ出た。
さすがに寒い。すぐに湯船の中へ体を沈めた。首までつかったままソロリソロリと海のほうへと進んだ。三人並んで泳ぐように。
周囲の岩は“入”の字の接点を切るようにして海に面している。すぐ近くで海が揺れている。波の強い日には、海水がいくらか飛び込んで来るだろう。
立ちあがって視線を遠くに伸ばすと……よくは見えないが、海は細い入り江になっていて、入り口を囲われているらしい。
西の雲が厚い。
「ここにつかったまま夕日を見たらすてきでしょうね」
「めったに見られないらしいわよ」
「西の空って、わりと曇ってるもんね」
「それもあるけど、方角が……。ちょうどこの先に太陽の沈んでくれる日が、一年のうちそう何日もあるわけじゃないのね」
「ああ、そうか」
いくら西の空が晴れていても、入り日がうまい位置に落ちてくれなければ鑑賞できない。
「少し塩からいみたい」
知子がお湯をすくってなめている。
夕食は一階の大広間で食べる。畳の部屋のあちこちに座卓がすえてあり、三人は“梅宮様御一行様”と記された席についた。
皿数は多い。
「豪華じゃない」
「もっと実質的なほうがいいのよ。わりと食べるものがないのね」
「お皿を洗うだけでも、これ大変ね」
ビールを少し飲んだ。
部屋に戻ると、もう布団が敷いてある。その中へ足をつっ込み、テレビをつけ、なかば眺めながらおしゃべりをする。
知子が持って来たお茶菓子を並べ、千鶴がお茶をいれた。
ちょっとだらしないが、この解放感がすばらしい。とりわけ千鶴は、どうしてそんなにうれしいのか、自分でもよくわからないほど心が軽い。
――だれに気がねをする必要もない――
いつも夫の存在が肩に重くのしかかっていた。結婚前のことなんかとうに忘れてしまったが、あのころはあのころで両親の目がうしろに光っていただろう。
「自由っていいわね」
ぽつりと漏らした。
二人がゆっくりとうなずく。
知子は……しかし、知子の夫は良介とはちがうだろう。
「おもしろいことがあったの」
「なーに」
「東海道線の列車が自動車と衝突して、私、そこに乗ってたのね。ガーンと揺れて、まわりの人と頭をぶつけたの。その瞬間に、なんだか頭の中が変わったみたいな気がしたのね。言葉じゃうまく言えないんだけど、愉快になって、なんだかいいことが起きるような気がして……」
「だれかの運命をもらっちゃったのかしら」
「そう。そんな感じ」
「あなたの運命はどこへ行っちゃったの」
「そうねえ。頭をぶつけたとたんに飛び出して、だれかの中へ入っちゃったんじゃないかしら。だったらわるいわねえー」
「でも、いちがいには言えないわ。ご主人がお亡くなりになるなんて……いいことじゃないんですもの。それをもらってあげたんだから……」
「ああ、そうねえ」
少し言葉が途絶えた。
「でも、もうこうなってしまったんだから、千鶴さんもご自分で幸福をつかむことね」
「本当。そう思う」
「いいこと、あるんじゃない」
知子がいたずらっぽい顔で笑う。
その通り、よいことばかりが続く。
秀樹は、
「お父さんが死んで一年もたたないうちに結婚てのはまずいかなあ」
と気にかけたが、千鶴は、
「べつにいいんじゃない。年も変わったし、四十九日もすむんだし、先方さえよろしければ……気にすることないわ」
と勧めた。
「じゃあ、そうするかな」
「ええ」
春三月、吉日を選んで結婚式をあげた。落ちついた雰囲気の、ほどよい披露宴。花嫁も人柄がよさそうだ。
――自分で勝手に見つけて来て――
母親としては少しくやしいところもあるけれど、これが一番いい。当人の|納《なっ》|得《とく》できる結婚が最高だ。
――これで安心――
二人の息子の様子を見ていると、本当に幸福そうだ。きっとうまくやって行くだろう。
敏樹のほうは|三《み》|島《しま》勤務となって、しばらくは会社の独身寮に入る。
「東京に近くてよかったよ。うちは鹿児島にまで工場があるんだから」
「三島ならすぐですものね」
「東京に出て来たときは、お母さんとこ行くよ」
と母のマンションのベッドを|狙《ねら》う。
「午前様ばっかりやるんだろうね」
「まあね」
千鶴は独身寮の部屋まで行って、あれこれ生活の必需品を整えてやった。
「あなたももうすぐ結婚ね」
「そりゃ、大分先じゃない」
「そうでもないわよ」
いずれにせよ千鶴は一人になる。孫もかわいいだろうけれど、一定の距離をおいて接しなければなるまい。子どもたちには、
――私とちがったよい家庭を作ってほしい――
と願いたい。
そんなことを考えていると、また不思議な気配が頭を貫く。
目のキラキラと輝く、賢そうな孫たち。両親が仲よく力をあわせてよい子を育てている。そんな風景が浮かぶ。今まで頭に描いたこともなかった。
――これも頭をぶつけたせいじゃないのかしら――
千鶴自身は、日本の各地を……とりわけ花の名所を訪ねて歩くことにした。
一恵に誘われ、知子を誘い……ときには一人で旅行案内を頼りに出かけるようにもなった。
写真を撮ることも覚えた。
いつも旅日記をつける。美しい風景や花の写真をそえて……。
中年夫婦の二人旅に会ったりすると、少し悲しかったが、
――私には縁がなかったのね――
ひたすら花の美しさに心を向けた。
7 英語教室
久賀めぐみは品川駅で降り、山手線の外まわりに乗り換えた。
――頭が痛い――
さっき列車の中で頭をぶつけたから……。
雨に打たれて少し風邪気味なのかもしれない。
――明日は青木先生のところへ行かなきゃいけないんだわ――
青木先生は、めぐみが人生のお手本にしたいと思っている女性。故郷の松山で|教鞭《きょうべん》をとっていたときもすてきだったけれど、今は主婦となって理想の家庭を作りあげている。先日、電話がかかって来て、
「ちょっとお願いがあるから顔を出してくれないかしら」
と言われた。
「はい」
日時を約束して電話を切った。
――なにかしら――
思い当たるものはなにもない。でも、なんだかいいことみたい……。青木先生になにかを頼まれるだけでもうれしい。風邪なんか引いていられない。
|池《いけ》ノ|上《うえ》駅で降り、風邪薬を買って帰った。
「ただいま」
「うん」
二郎はテレビの前に寝転がって漫画の番組をながめている。本気でおもしろがっているから困ってしまう。
「お見舞い、行って来たわ」
「どうだった?」
「大分わるいみたい」
「死ぬかな」
「そんなこと……わからないわ。よろしくって」
「うん」
心はあらかたテレビの漫画に奪われている。
「疲れちゃった。てんや物でも取っていい?」
「ああ」
「なんにします?」
「|俺《おれ》は、うなぎだ」
「はい」
ひどくおかしい。
めぐみは注文の電話をかけ終わってからも笑い続けていた。しかし、二郎は気づかない。
――青木先生が言ってたのよね。日本語と英語はちがうって――
松山の中学校……。西日のあたる教室。青木先生は教育実習のためほんの数時間英語を教えてくれただけだったけれど、今でも覚えていることがたくさんある。
「みんなでてんや物なんか取るとき“なんにしますか”って聞くでしょ。すると答えるのね。“俺は、うなぎだ”なんて……。英語に直訳すると、どうなるかしら。うなぎはイールって言うのよ。ちょっとむつかしい単語だけど」
青木先生の弾んだ声までが頭の中によみがえって来る。
「アイ・アム・アン・イール。これじゃあ自分がうなぎになってしまうわね」
教室に爆笑が起きた。
――でも、この人、本当にうなぎじゃないのかしら――
テレビの前でながながと寝転がっている夫を見て、めぐみはそんなことを考えてしまう。つかまえどころがない。
二人分のうなぎ|丼《どんぶり》を取り、めぐみは早めに休んだ。
「ちょっと出て来る」
二郎はカラオケ酒場にでも行くつもりなのだろう。
頭痛は治まったが……頭の中がいつもと少しちがっている。
――なにか新しいことが始まりそう――
わけもなくそんな期待がふくらんで来る。
――頭をぶつけたせいかしら――
二度もぶつけてしまった。|元《げん》|禄《ろく》|飴《あめ》を勧めてくれた人と、向かいの席にすわっていた人と……。
――明日、青木先生のところへ行くと、きっといいことがあるんだわ――
もっと大胆に生きなければいけない。せっかく東京へ出て来たのだから。
そのうちに眠ってしまったらしい。
目をさますと快晴。富士山が見える。
「今日はちょっと出かけます。夕方までには帰ると思いますけど」
「ああ、いいよ」
二郎は「どこへ行く」とも尋ねない。
今夜のメニューはおでん。午前中に近所のスーパーマーケットで材料を買い入れ、あとは火を入れるだけにして家を出た。電車を乗り継いで|三《み》|鷹《たか》まで。そこから先が心もとない。電話口では、
「大丈夫です。一人で行けます」
と言ったが、途中で迷ってしまった。
赤電話をみつけてかけると、青木先生が、
「今どこ。なにが見える? ああ、そう。すぐ近くまでは来ているのね。じゃあ、そこにじっとしていて」
と、サンダルをつっかけた姿で迎えに来てくれた。
「すみません」
「結構ややこしいのよ。似た曲がり角があるから」
「一度来ているのに」
「このあいだは行きも帰りも私が一緒だったから」
「はい」
「道ってそうでしょ。自分で苦労して歩いた道はちゃんと覚えているのね。でも、人をあてにして歩いたときは駄目。また迷っちゃうの」
本当にそうだ。だれでもそんな経験を持っているだろう。
「人生も同じかもしれないわね」
「はい」
「でも、よい道案内も必要ね。そのへんのかねあいが教育のむつかしいとこじゃないかしら。自分で苦労をするのが一番だからって、ろくな指導もないまま勝手に我流でやっていたら、やっぱり伸びないでしょ。さりとて、ここはこうしなさい、あそこはああしなさい、なにもかもすっかり教えてもらったら、自分で苦労して会得する道がとざされてしまうわ」
「わかります」
角を一つ曲がり、
「ちょっと行きすぎてたのね。そこよ」
指をさされたのによくわからない。マンションの門の前に立ってはじめてわかった。反対の方角から見た路地はまるで様子がちがってしまう。
コーヒーとケーキ。子どもたちはまだ帰っていない。
「実はね……。あなたに会わせたい人がいるんだけど、彼、ちょっと用ができちゃって、今日は来られないの」
「はあ?」
“彼”という以上、男の人だろう、当然……。
「主人の大学の後輩で、とても優秀な学生さんなのよ」
青木先生のご主人はたしか東京大学の出身と聞いた……。
「はい」
見合いの話でないことだけは確実である。
「経済的にちょっと苦しくて、家庭教師をやりたいんだけど、子ども相手じゃわずらわしいでしょ。研究もあるから……。で、私、あなたをお勧めしたの」
「私ですか」
「そう。あなたも新婚早々で、楽しい毎日でしょうけれど、なにか勉強をしなくちゃいけないわ。英語だってあんなによくできたんですもの。そのまま枯らせてしまっちゃ、もったいないと思うの。彼はものすごく英語がうまいから習って無駄にはならないと思うわ」
話のあらすじがようやくつかめた。
「私が英語を勉強するんですか」
「英語だけじゃなく、いろいろ刺激にもなるわ、きっと。主婦の習いごとなんかもいろいろあるようだけれど、やっぱり知的なものじゃなければ、つまらない。よい子どもを育てるためにはまずお母さんが賢くなくちゃあ」
それはわかる。
「でも……」
「ねっ。ご主人にお願いしてみてくださらない。“英語を勉強してみたいんですけど”って。私からのお願い。あなたにも役立つことだし、若い人に応援してあげてほしいの」
思いがけない相談だった。
――どうして私に――
青木先生が勝手に話をきめ、押しつけているような感じがなくもない。
一昨日までのめぐみだったら断ったかもしれない。だが、昨日列車の中で頭をぶつけて以来、なんとなく頭の中身が変わったような気がしてならない。
――若い学生さん、それもいいかもしれないわね――
とっさにそう思った。
「どうかしら」
「でも、主人に相談してみないと」
「それはそうよ。私も無理じいはできないから。ただ、彼のアパートは|下《しも》|北《きた》|沢《ざわ》だから、お宅の近くでしょ」
「ええ。生徒は私一人なんですか」
「そう。個人教授のほうがいいじゃない。能率もあがるし……」
「でも、どこでやるんでしょう?」
「それが都合のいいことに、彼のお友だちが下北沢で喫茶店をやってるんですって。奥まったところにそういうことができるようなスペースがあって、学生さんなんかが少人数の勉強会なんかで利用してるんですって。そこがコーヒー代だけで借りられるのね。そもそもそこから話が出て来たの。場所もあるし、週に一回くらいアルバイトもしたいし」
「どのくらいお払いすればいいのでしょうか」
「そうねえ。週一回で月に三万円くらい、どうかしら」
「はい……」
「無理かしら。子どもの家庭教師だって、このごろ結構高いから」
「ええ……」
夫の二郎は月給全部を自分の小遣いに使っている。家計費は実家のほうからもらうことになっている。「足りなきゃ、お袋に言えよ」と、久賀家ではそういうシステムになっている。二人だけの家族だから、今もらっているぶんでも余ってしまう。少しくらいめぐみ自身のために使ってもばちは当たらないだろう。勉強のためにお金をかけるのはわるいことではない。
「一生のお願い……。うちの主人がお世話になった人のお子さんなの。そのかたが早く亡くなられて……」
「わかりました。家に帰って相談をして……お電話します」
「ごめんなさい。無理を言って。でも、あなたもなにかしら勉強しなくちゃ駄目。これは本当。英語なら、これから役に立てることもできるし、少なくともお子さんたちに教えることはできるわけでしょ」
「はい」
小学校へ行っている子どもが帰って来た。
「ただいま。あ、こんにちは」
とても賢そう。見ていてうらやましくなってしまう。
めぐみは家に帰って早速夫に相談した。
「英語を勉強したいと思うの」
「へえー」
キョトンとした顔でめぐみを見た。
「昔から英語が好きだったし、このままだとせっかく習ったこと、忘れてしまうでしょう」
「いいけど、どこで習うんだ」
「今日、青木先生のところへ行って……。よい先生がいるから習ってみたらって、そう言われたの」
「じゃあ、いいだろ」
「個人的に習うわけだから、お月謝が少し高くて……」
「いくら」
「月に二万円」
一万円だけ安く告げた。
「なんだ、そんなものか。いいだろ」
「将来、子どもにも教えられるわ」
「うん。やりたきゃやれよ」
「うれしいわ。ありがとうございます」
ふかぶかと頭を垂れた。
「うん。銭のことは|俺《おれ》がお袋に言っとくよ。たくさん世話になったほうが喜ぶんだ」
この家にいると経済感覚が少し狂ってしまいそう。お金があるのはわるいことではないけれど、お金だけしかないというのも困りものだ。なによりもこの家には知的なものが足りない。ろくな子どもが育ちそうもない。
――頑張らなくちゃあ――
そのためにもめぐみが勉強することは無駄ではあるまい。
――どんな人かしら――
青木先生に連絡をとり、翌週から英語の勉強をすることになった。
一回目は青木先生も来てくれた。下北沢のコーヒー店“ペチカ”で待ち合わせて、
「こちらが志水隆広さん」
と、紹介された。
「どうぞよろしく」
「よろしくお願いいたします」
|眉《まゆ》|毛《げ》が濃く、浅黒い。笑顔が少年みたい。わるい感じじゃない。
「専門はコンピューター関係なの」
「あ、そうなんですか」
「でも、英語が抜群にできて。発音がとてもきれいだから」
「いやあ、それほどのこともないんです」
笑うとえくぼができる。男の人にしてはめずらしい。
コーヒー店の奥まった一郭が教室となる。毎週火曜日の十時から十一時半まで。
店の主人が顔を出し、
「開店は十時半だし、午前中はお客もいませんから自由に使ってください」
と言う。
志水がコーヒーをすすりながら、
「テキストはこれなんかどうですか」
とラフカディオ・ハーンの“KAIDAN”を取り出す。
「ハーンの“怪談”読んだことありますか」
「いいえ」
部分的には知っている話もあるだろうけれど、きちんと読んだことはない。英語で読んだことはもちろんない。
「短い話のほうがいいんじゃない。飽きないから」
と青木先生も勧める。
渡された本のページをめくって英文を目で追ってみた。まあ、なんとか読めそう。
「いいです」
「じゃあ、これを持って帰ってください。毎週三ページくらい予習をして来てくださいね。できないときは仕方ないけど」
「学校みたい」
「学校のつもりで頑張って」
「はい、はい」
なんだか楽しいことが起こりそう。
――感じのわるい人でなくて、よかった――
志水はとてもさわやかな感じの青年である。めぐみははじめから好感を抱いた。
「じゃあ来週の火曜日から」
テキストには十篇ほどの物語が並んでいる。最初の物語は“MUJINA”とても短いお話だ。
久しぶりに辞書を引いた。さほどむつかしくはない。
「おっ、勉強か」
二郎が見て、目をまるくする。
「これを読むの」
と、テキストを突き出したが、二郎は、
「英語か。きらいだったなあ」
手を振ってテレビの前に逃げて行ってしまう。
火曜日が待ちどおしい。
コーヒー店の主人が十時少し前に店の|鍵《かぎ》をあける。開店は十時半から。
授業のほうは十時過ぎに店のすみっこで始まる。開店の準備を横目で見ながら……。そして途中で朝一番のコーヒーが入る。
「むじなって知ってますか」
「いたちのことかしら」
「辞書を引くと、あなぐまのことだって書いてある」
「あなぐま? 知りません」
「このテキストの感じじゃ、いたちかたぬきか、とにかく人を化かす生き物らしい」
「ええ……」
「|紀《き》|伊《の》|国《くに》|坂《ざか》は? 知ってますか?」
「いいえ」
「|四《よつ》|谷《や》の、迎賓館の|脇《わき》あたりでしょ。お|濠《ほり》があって、昔はさびしいところだったかもしれませんね。読んでみてください」
「なんだか恥ずかしい」
深呼吸をしてからめぐみはテキストを読み始めた。
「そのへんまで」
めぐみが一ページほどの英文を読むと、志水が制して今度は自分で同じところを読む。
とても|流暢《りゅうちょう》な発音だ。
――きれいだわ――
耳に心地よい。
「訳してみてください」
「えーと、東京の赤坂の町に紀伊国坂という坂があります。|紀《き》|伊《い》の国の坂という意味です……」
志水はうなずきながら聞いている。
一ページを訳し終えると、
「だいたいいいんじゃないですか。でも一応僕も訳しますね」
訳しながら文法的な説明を加える。
――学校ごっこね――
しかし、志水の発音はきれいだし、説明も田舎の学校の先生よりどことなくあかぬけて聞こえる。
“MUJINA”は、商人が夜遅く紀伊国坂を通りかかり、若い娘が泣いているのを見つける話である。実は、これはむじなが化けているのだが、商人は知らない。娘が身投げをしようとしているのではあるまいか、親切な商人が助けてやろうとして、しきりに声をかけると、泣いている娘が向きなおり、つるりと顔をなでると……目も鼻も口もなかった。
商人は驚いて逃げ去り、路上に店を出しているそば屋の灯を見つけて|駈《か》けこむ。
「どうしたんです。そんなにあわてて」
「そ、そ、そこで……娘が……とても口じゃあ言えない」
すると、そば屋が、
「娘が見せたのは、こんな顔じゃなかったかい」
つるりと顔をなでると、玉子のようなのっぺらぼうとなり、そのとたんにふっとそば屋の灯も消えてしまう。
「はじめてですか」
「ええ。聞いたこと、あるような気もしますけれど」
「二段構えになっているところが、おかしい」
「むじなは二匹いたのかしら」
「あ、そこまでは考えなかった。二匹で連絡を取りあってねえ。そうかもしれない。商人はお|濠《ほり》のふちから一目散に逃げ去ったんだし、そば屋の灯は先にむこうのほうで光っていたんだし」
「本当に化かすのかしら」
「さあ、どうかな。人間のほうが動物を化かしてんじゃないですか」
「そうみたい」
ちょうど十一時半になっていた。
「じゃあ、今日はこれで。次は“耳なし芳一”ちょっと長いけど」
「はい」
生活の喜びが増えた。
増えたと言うより、喜びが一つもなかったところに、少なくとも一つは喜びが見い出せるようになった、と、そう表現するべきだろう。
家族のあいだにさほど面倒なトラブルもなく、経済面でも充分に恵まれていて、それで“喜びがない”などとほざいたら、
「|贅《ぜい》|沢《たく》を言うもんじゃないわよ」
と|叱《しか》られるにちがいない。
それがわかっているから、めぐみは不平を述べてはなるまいと、ずっと我慢もして来たし、自分を説得して来たのだが、実感としてなに一つ喜びらしい喜びがなかったのも本当だった。
――知的なものに触れたい――
それが幼い頃からのめぐみの願いだったのだから。
「ザ・ラスト・マン・ザットという構文を知っていますか」
とコーヒー店の片隅で志水は紙に英文を書いて尋ねる。
「えーと、最後の人って意味ですか」
「そうだけど……。たとえばヒー・イズ・ザ・ラスト・マン・ザット・アイ・ラブ」
「彼は私が愛する最後の人です……」
「どういう意味です?」
「歌謡曲なんかにもあるんじゃないかしら。いろいろ好きな人がいたけど、最後はやっぱりこの人だって……」
「ちがう、ちがう。ぜんぜんちがう。英語では、愛するとしても、この世で一番最後に愛する人。つまりほとんど愛することのない人。この構文を訳すときには否定的に訳したほうがいいんです」
たちどころにいくつかの例文をあげて説明してくれた。
「そうなんですか」
こんな会話はけっして二郎と交わすことがない。めぐみは心の中で思った。
――二郎さんは、知的である最後の人だわ――
つまり、ほとんど知的でない人……。英文ではどう作ればいいのかしら。ヒー・イズ・ザ・ラスト・マン・ザット・イズ・インテレクチュアル……。まあ、そんなところだろう。英文も、二郎も。
火曜日が楽しくて仕方がない。たった一つの喜びで生活の色あいがガラリと変わってしまう。ゼロと一とのちがいをまざまざと感じさせられた。
“耳なし芳一”は“むじな”に比べると、ずっと長い。もちろんめぐみは物語のあらすじくらいは知っていた。
それだけに読みやすい。
「わかりますか。ハーンの怪談は、淡々と|綴《つづ》っているんですよね。こけおどしはないんです。それがかえって効果的なんですね」
本当にそうだ。言われてみると、そんな気がする。子どもじゃあるまいし“こわいぞ、こわいぞ”と驚かされると、かえってこわくなくなってしまう。
その点ハーンの“怪談”は、さりげなく語っていて、それでいながら無気味である。
「わかるわ。でも志水さんはコンピューターの専門家なんでしょ。本当に感心しちゃう」
「どういうことですか」
「コンピューターって言えば理系じゃない。英語とか文学とか、文系のことも本当によくできちゃうから」
「ああ、そういうことか」
えくぼをくっきりと|凹《くぼ》ませながら、
「僕の家、|親《おや》|父《じ》がどうしても理系をやらなきゃ駄目だって言うもんだから……。英語はどの道必要だし、本当は文学のほうが好きだったのかもしれない」
「なんでもできるんですね」
いくら父親が理系に行けと命令したって数学がてんからきらいだったりしたら、どうにもならない。
「そんなことないよ。できないこと、たくさんある。将棋も碁も|麻雀《マージヤン》も。ダンスもできない」
「そんなこと、やろうと思えばすぐできることだわ」
将棋なら二郎だってできる。
「そうかなあ」
「そうよ。数学は子どものころから強かったんですか」
「きらいじゃなかったな」
「やっぱりおもしろくて……? 鶴亀算とか因数分解とか」
「なんて言うのかな。むつかしく言えば、数学って論理の積み重ねでしょう。きちんと積んで行けば、きちんと答えが出る。わけのわからないところがないから」
ほとんどの人にとって、数学こそわけのわからないものの筆頭だと言うのに……。やっぱり頭のできがちがうのだろう。
「うらやましい」
「でも歴史も好きだったな」
「だって、歴史は暗記物でしょ」
「あれは覚えちゃえばいいんだから、それはそれで楽でしょう」
聞いていて、もういやになってしまう。論理の積み重ねはすっきりして心地よいし、暗記物はただ覚えればいいのだから楽だし……。
「まる暗記がお得意なの?」
「そんなことない。“耳なし芳一”ひとつ読んだって、歴史上のいろんな出来事と関係してるでしょ」
「ええ……?」
「このあいだも京都の大原へ行って寂光院に寄って来たんだけど、つまり、あれはこのお話の登場人物の一人のわけだし」
「ええ……?」
めぐみは|曖《あい》|昧《まい》なあいづちを打った。言われたことの意味がよくわからない。
――京都のお寺と“耳なし芳一”と、どこに関係があるのかしら――
第一“耳なし芳一”の登場人物なんて、芳一と和尚と、それからいつも迎えに来る侍くらいのものではないか。
「ああ」
と、志水はすぐにめぐみの戸惑いを察した。
「登場人物じゃないけど、当然、彼女の幽霊もそこにいたんじゃないのかな。|建《けん》|礼《れい》|門《もん》|院《いん》。清盛の娘で、安徳天皇のお母さん。芳一は安徳天皇のお墓の前で|琵《び》|琶《わ》を弾いたんだし」
「そうですよね」
「でも彼女は|壇《だん》|之《の》|浦《うら》で死んだわけじゃなく、|入《じゅ》|水《すい》したところを助けられて、京都の寂光院にこもったわけでしょ。だから……」
志水はいたずらっぽい顔で笑う。少年の|面《おも》ざしが充分に残っている。
「だから?」
「京都で死んだ人は、壇之浦にはいないのかな。それとも幽霊はやっぱりどこにでも行けるのだろうか」
「行けるわよ、きっと。いたんじゃないですか。そのかたの幽霊も。安徳天皇の隣あたりに」
と、めぐみがテキストを指さす。
「うん。芳一は見えないからなあ」
「本当。でも、あなた、お若いのに、いろんなこと知っているのね」
「にわか勉強ですよ。京都へ行ってパンフレットを見ただけだから」
「でも、すごい」
「寂光院のすぐ近くに三千院があって……」
「知ってる。京都大原三千院……」
と、めぐみが小声で歌をくちずさむ。
「そう、そう、その歌。その先、歌えますか」
「えーと、どうかしら。京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり……。あと、わかんない」
「それでいい、それでいい。いい歌だけどさア、いつ行っても三千院てとこ、観光バスが並んでいて……。絶対に女がひとりってわけにいかないんですよね、あの感じじゃ」
「そんなに込んでました?」
「もうゾロゾロ、ゾロゾロって感じ」
「そうよね、どこへ行っても」
話がトントンと弾む。
志水の話は本当におもしろい。まだ若いのに知識は豊富だし、ものの見方がちょっと変わっている。会うたびにそれを感ずる。
――将来はきっとすごい人になる――
アメリカへ行って勉強をして……。
性格は……まだ少年みたいで、自己中心的で、世間を甘く見ているようなところもあるけれど、それはおいおいなおっていくだろう。
英語の勉強はハーンの“むじな”“耳なし芳一”から“雪女”“破られた約束”と続いたが、二か月ほどたったところで、
「実は、来月アメリカへ行くことになって」
と、志水が言う。
「あら、急に? 早くなったんですね」
あと半年くらいは日本にいるような話だった。
「ええ。秋ごろの予定だったんだけど、むこうでホーム・ステイのようなことができるようになって」
「そうなんですか」
「どうせなら早く行ってアメリカに早く慣れたほうがいいし」
「それはそうね」
「研究も一段落したところだし、教授もそのほうがいいって言ってくれるし……。お金も日米文化基金がOKを出してくれたし」
若者の夢はもうアメリカへ飛んでいる。すべてが順調に運んでいるのだろう。
「じゃあ……勉強もおしまいね」
「勉強?」
「この学校ごっこ」
「あ、そう。お世話になりました」
「こちらこそ」
めぐみはちょっと皮肉な調子で告げたが、志水は気づかなかったろう。めぐみにとっては、
――とても大切な火曜日だったのに――
単調な生活の中でそこだけが輝いていた。だが、志水にとっては、ただのアルバイト。さほどのことではなかっただろう。
それはわかる。当然のことだ。アメリカ行きに比べれば、学校ごっこなんて比較するのも馬鹿らしいほどささいなことである。
ただ……どう説明したらいいのかしら。めぐみの生き|甲《が》|斐《い》が消えてしまう。大げさに響くかもしれないけれど、本当にそうだった。
――もう少し気を遣ってくれればいいのに――
少しうらめしい。
とはいえ、そんなデリカシイをこの若者に期待するのは無理だろう。ここは年長者として志水の門出を祝福してあげなければなるまい。
「よかったわね」
今度は心をこめて告げた。
「うん、よかった。だれか後任を捜しましょうか」
「そうねえ」
めぐみは首を|傾《かし》げながらつぶやいた。気が進まない。
――英語の勉強だけが目的ではなかったのよ――
志水のキラキラと輝くような知性に触れるのが楽しかった。
「もう出発の日どりもきまっているの?」
「多分、来月の五日か六日か七日くらい」
「そんなに早く。ひと月もないじゃない」
「そうなんです。結構準備がいそがしくて。英語の勉強、今日でやめにしてください。すみません」
ペコンと頭を垂れた。
「それはいいけど……」
「故郷にも帰って来なくちゃいけないし」
たしか富山市と聞いた。
「お母様と……?」
「姉と妹がいるんです」
「お母様、さびしくなるわね」
「今までだってほとんど帰らなかったから」
「でも、東京にいるのと、アメリカにいるのとでは、まるで気持ちがちがうわ」
「すぐですよ、アメリカなんか。飛行機で一っ飛びですから。お袋がよく話してるんです。昔、富山から東京に出るのは、本当に一日がかりだったって。それを考えれば、アメリカのほうが近いくらいだ」
志水には年寄りの心がわかるまい。
「お母様おいくつですか」
「えーと、六十二かな」
「そう。じゃあ、まだお若いのね」
「見たところは、りっぱなばあさんだけど」
「そんなこと言っちゃわるいわ」
「ホント、ホント」
「でも、すばらしい息子さんに恵まれて、お母様もお鼻が高いわね」
「|親《おや》|父《じ》が早く死んで、あとはお花の先生をやりながら子どもを三人育てたんだから、老後は少し楽をさせてあげないとね」
「そうよ」
「あと四、五年待ってくれれば」
「そんなに長く?」
「そのくらいはかかるんじゃないかな。お花の先生ってのは、ほかの仕事とちがって年を取っててもできるから」
「そりゃそうだけど」
「仕事を持っているほうが元気でいいですよ」
「まあね」
と、めぐみは口ごもる。
「さて」
と、志水がテキストを取って立ちあがる。
「一度、送別会をさせて。ご|馳《ち》|走《そう》をしたいから。おいそがしいでしょうけど、一晩だけ時間を作ってくださいな。いつでもよろしいから。ね、お願い」
少し顔を染めて告げた。
「本当に? いつがいいのかな。電話で連絡します」
「そうしてくださいな。きっとよ。忘れずにね」
「わかりました」
二日後に志水は富山へ帰り、三日ほどむこうに滞在して戻って来たが、出発前の準備やら|挨《あい》|拶《さつ》やら仲間うちの送別会などでいそがしいにちがいない。
めぐみは志水からの電話をずっと待ち続けた。今日あたり、今日あたり、と思いながら。そして日ごとに|苛《いら》|立《だ》ちを覚えながら。
だが、自分のほうからは連絡を取ろうとはしなかった。
――|賭《か》けね――
つまり「きっと時間を作ってくださいね」と頼んだのに、志水が約束を守ってくれないようなら、二人だけの送別会をやってもつまらない。そんな気がする。
それに……めぐみの心の中にはもう一つ賭けていることがあった。
――彼、青木先生に話すかしら――
志水とめぐみが食事をすることを……。
もし志水の送別会をやるのなら青木先生を誘うのがむしろ自然な形だろう。
めぐみはそれを思いつかなかったわけではない。ただ……志水とは二人だけで会いたかった。青木先生を交えたら、会話のほとんどを青木先生と志水に占められてしまうだろう。疎外感と言ったら少し言い過ぎかもしれないが、青木先生と志水の二人の会食にめぐみがおまけとしてくっついて来たみたい、そんな雰囲気になりかねない。きっとそうなる。
それがいやだった。
――あんなに大切な時間を共有したのだから――
志水にとってはそれほど大切な時間ではなかっただろうけれど、せめて二人だけの送別会くらいやらなければ、めぐみはやりきれない。
その気持ちを志水にわかってほしかった。青木先生を呼ぶのが自然でありながら、あえて呼ばなかったのはなぜか……ちょっと考えてみれば志水にもわかるはずだ。なにしろあんなに|聡《そう》|明《めい》な人なのだから。もし志水から、
「青木先生にも声をかけたら“ぜひ三人で”って言ってましたよ」
なんて、そんな電話がかかって来るようなら最悪である。めぐみとしては、
――この件については、志水さんは青木先生になにも話さない――
と、そのほうに|賭《か》けた。
出発の十日ほど前……めぐみは出発の日どりも正確に知らなかったが、朝早く電話のベルが鳴った。
――あ、志水さんだわ――
受話器を取る前に予感のようなものが走った。きっといい答え……。
「もしもし」
志水の声だ。
「はい。久賀です」
めぐみは、わざと気づかないような声で答えた。
「志水です」
「あら、久しぶり。出発の日どりはきまったんですか」
「はい、きまりました。七日です」
「もう何日もないのね」
「ええ……。あのう、お約束の件ですけど」
「はい、はい。覚えていてくれた? ぜひご|馳《ち》|走《そう》したいの」
「今日でもいいですか」
「ずいぶん急なのね」
「なかなか時間が作れなくて、すみません。楽しみにしてたんです」
とてもうれしい。
「今日しかあかないのね」
「はい……」
志水がいそがしくないはずはない。そうであるにもかかわらず一晩をめぐみのためにとってくれた。約束を忘れずに……。
「なんとかなるわ」
「どうしましょう?」
めぐみの知っているところは、そう多くはなかった。
――ホテルがいい――
よい雰囲気の中でたしかなものを食べさせてくれるだろう。
「じゃあ赤坂の……」
と、結婚式をあげたホテルの名を告げた。
「わかりました」
「六時でよろしい?」
「ええ」
「洋食と和食、どちらがいいのかしら」
「どちらでも」
「お肉がいいわね。若いんだから」
「そうですね」
「じゃあ、今晩。ホテルのロビーで」
「はい、よろしくお願いします」
電話を切ったあと、めぐみは部屋の中でスキップを踏んだ。周囲がパッと明るくなったみたい……。
――恋なのかしら――
その男をすてきだと思い、その男のことを考えてこれだけ胸がおどるのだから、恋ではないとは言いにくい。でも、
――今日で終わり――
しばらく志水に会うことはあるまい。もしかしたら一生会わないかもしれない。会うことくらいあるだろうけれど、次に会うときには情況も心も変わっている。それはまちがいない。
だから、恋だとしても、これは一日だけの恋……。もしそれを恋と呼ぶならば……。
二郎にはなんとでも言える。
勤め先に電話をかけ、
「松山のお友だちが出て来ているの。夕食を一緒にすることになって」
と伝えた。
「うん、わかった」
美容院へ行って髪を整えた。われながらなかなか美しい。
めぐみのほうが約束の時間より少し早く赤坂のホテルに到着した。
ロビーを見まわし、化粧室へ行って姿を鏡に映した。グリーンのブラウスにグレン・チェックのジャケット。お気に入りの|衣裳《いしょう》である。
いつか本当に松山の友人が上京して来たとき、このホテルで会食をした。
――あれが予行演習になっちゃったわ――
今日はあのときとまったく同じことをやるつもり……。服装までほとんど同じなのではあるまいか。
だから少し慣れている。やたらドギマギする必要はない。
「すみません」
志水はエスカレーターを|駈《か》けるように昇って現れた。
「私も今来たばかりよ」
「大急ぎで来たんです」
息を荒げている。
一か月ぶり。なんだかまたちょっとりっぱになったような気がする。ダーク・スーツなんか着ちゃって……。青年のダーク・スーツはわるいものじゃない。カジュアルに比べると、二、三割がた賢く、大人になったように見える。
「とてもすてき。なんだか志水さんじゃないみたい」
「そうですか。いつもそんなにひどい|恰《かっ》|好《こう》してましたか」
「そういう意味じゃないけど」
エレベーターで最上階のレストランに昇った。
「いらっしゃいませ」
「窓側の席、あいております?」
この前も窓に近い位置だった。夜景が見えるほうがよい。
「はい、どうぞ」
運よく窓際の席がとれた。高速道路をへだてて、もう一つのホテルが見える。
「なにか飲む? 遠慮なくおっしゃって。今晩はまかせて」
「うれしいな。僕たちの送別会はやきとり屋の二階なんかが多いから」
「そうなんですか」
「やきとり屋はともかく、こういうとこはめずらしい」
「お飲みもの、なんにしましょう?」
とウエイターがうながす。
「おビールかしら」
「うん」
「じゃあ、とりあえずおビールをお願いします」
それからメニューを見る。
めぐみのほうはあらかたきまっている。このあいだと同じもの……。おいしかったし、慣れないものを注文すると、ろくなことがない。
「肉を食べたい」
「どうぞ。お好きなの?」
「うん」
「じゃあ、そうしましょ。フィレとサーロインと、どっちがいい?」
「どっちがおいしいかな」
「どちらがおいしいですか」
と、ウエイターに尋ねると、
「好きずきですが、お肉が本当にお好きならば、サーロインのほうが」
と勧める。
「じゃあ、僕はサーロイン」
「私はフィレにしてください。それからオードブルは|蟹《かに》のテリーヌ。いかが、あなたも?」
これもいつかと同じ注文である。
「はい」
「スープはいかがいたしましょうか」
「どうします?」
「そうだな。コンソメかなあ」
「ワインをお飲みにならない?」
「いいね」
「なにがいいのかしら」
「やはりお肉を召しあがるのですから赤を」
「じゃあ、赤を」
「かしこまりました。今、ワイン・リストをお持ちします。サラダのほうは?」
「ごく普通のグリーン・サラダ」
「僕もそれ」
リストを見せられてもワインのよしあしはわからない。
「選んで?」
「僕もわからない」
「どれがよろしいかしら」
「甘いのと、渋いのと、どちらにしましょうか。あるいはボジョレー・ヌーボーなど」
「あ、それがいい。名前を知ってるから」
と志水が無邪気な声で言う。
「そうね」
「肉にあうでしょ」
「はい」
「じゃあ、それをください」
メニューがきまった。
「機会を作ってくださって本当にありがとう。なんて言うのかしら。前途をお祈りしまーす」
「ありがとう」
ビールのグラスをあげてカチンと鳴らした。
志水が首を|傾《かし》げてめぐみのことを見つめている。
「どうしたの」
「きれいだと思って」
と頭をかく。
「いやね。お世辞までうまくなったじゃない」
「そんなことない。年より落ち着いて見えますね」
「ふけてるって言いたいんでしょ」
「ううん。僕の友だちなんかみんな餓鬼っぽいから。やっぱり奥さんになると落ち着くのかなあ」
それは言えるかもしれない。もともとめぐみは実際の年齢より上に見られる。言葉遣いがこのごろの若い人に比べてきちんとしているからだとか……。
それに、このレストランには慣れている。たった一度だけれど、予行演習がすませてある。
英語教室では志水のほうが先生だけれど、今夜はめぐみがスポンサー。志水にご|馳《ち》|走《そう》してあげる立場である。いつもよりは落ち着いて見えるだろう。
「好きな人、いるんでしょ」
上目遣いに尋ねた。
「女性ですか」
「そう」
「駄目ですよ。研究がいそがしいから。サービス精神、ないほうだし」
「あんまりサービスのいい男性って……軽くていやだわ」
「このごろはサービスがよくないと、もてないみたいだ」
「これからよ。これから」
「アメリカへ行ったら、しばらくはそれどころじゃない」
と志水が首を振る。
「生活に慣れるまでは少し大変かもしれないわね。でも言葉には不自由しないんだから、それだけでもずいぶん楽でしょ」
「なにもかも英語ばっかりとなると、疲れると思うな」
「しばらくは洋食ばかりね」
「日本料理店も結構あるらしいんだけど、値段がものすごく高いらしい。完全に高級料理なんですね、日本食は」
「お|鮨《すし》なんかも人気があるみたい」
「お鮨を食べるのがステータス・シンボルだって……。無理だな、しばらく」
「かわいそう」
「でも肉が好きだから、大丈夫じゃないかな」
「アメリカのステーキは、大きいけど、大味で、あんまりおいしくないって、本当かしら?」
「本当みたいですよ。みんなそう言うから。わらじみたいに大きいのがドーンと出て来て」
「わらじなんて知ってる? 見たことないでしょ」
「知ってますよ。田舎育ちだから。今はもう作ってないかもしれないけど、子どものころは農家の友だちのところへ行くと、壁にぶらさがってた」
蟹の肉を埋めこんだテリーヌは蟹そのものの味がいいので、なかなかの美味である。
「富山県は蟹がおいしいのよね、たしか。ちがったかしら」
「もちろん。最高ですよ。ずわい蟹。でもこのごろは高くて、地元じゃ食べれない」
「そうねえ」
「子どものころは、おやつがわりで……。なに? 蟹か、なんて|軽《けい》|蔑《べつ》してたのに」
ウエイターがワインの栓を抜き、志水のグラスに注ぐ。
「いいです」
テイスティングを終えて、めぐみのグラスを赤く満たした。
「|乾《かん》|盃《ぱい》」
「乾盃」
酔いがゆっくりと体の中に広がって行く。
「短い期間だったけれど、志水さんに会えて本当によかったと思ってるの」
「そうですか。僕も楽しかった。結構火曜日が来るの、待ちどおしくて」
「本当に?」
「本当」
えくぼのくぼむ顔が紅潮する。
――きらわれてはいなかった――
その確信はあった。志水のほうはどうだったのか。はじめはアルバイトだけが目的だったろうけれど、なにかの拍子にふっと男と女の親しさが……その芽のようなものが二人のあいだに漂わないでもなかった。
――|賭《か》けには勝ったんだし――
めぐみは自分の心に対して二つの賭けを課していた。
一つは、かならず志水から会食に応ずる電話がかかって来ること。これはこの通り向きあって食事をともにしているのだから、めぐみの勝ちははっきりしている。
もう一つは、二人で会食をすることについて、志水はなにも青木先生に話さない……。
「青木先生にはご|挨《あい》|拶《さつ》したの?」
「えーと、ご主人の会社にうかがって。奥さんにも電話したほうがいいのかなあ」
これもめぐみの勝ちらしい。
「そりゃ、したほうがいいんじゃない。私もあとでお礼を言っておく」
「うん」
志水はもりもりと食べる。見ていて気持ちがいいほどに。
「あのね」
「はい?」
「おもしろいことがあったの」
「なんですか」
「乗ってた電車が自動車と衝突して、まわりの人と頭をぶつけたの」
「へえー」
「ゴツン、ゴツンと二度も。そのとたんにネ、笑っちゃ駄目よ。頭の中が少しショックを受けて変わったみたい」
「変わったって?」
「質的変化。ショックを与えると、物質の構造が変わってべつなものになるってこと、ないんですか」
「そりゃ、あるけど」
「私の考えていたことがピョンと飛び出し、ほかの人の考えていたことも同じように飛び出して、私のすきまにスルンと滑り込んじゃったみたい」
「おもしろいな。そう思ったわけ?」
「そう。直後は頭が痛いだけだったけど、それが治まったら、なんだか頭の中が変わったみたいな感じ……」
「どう変わった?」
「どう変わったって簡単には説明できないけど、軽くなったみたい」
「脳みそが」
「脳みその中身がね。私、いろんなこと、重く考えていたのね。あれはいけない、これもいけない……。でも、自分の人生じゃない。やりたいこと、そんなに深く考えることなく、らくウな気分でやったほうがいいって……。そんな気がしたの」
「つかえが取れたわけだ」
「そのあとちょうど青木先生から電話があって、なにかとってもいいことが起こりそうな感じがしたわ。それが英語教室の勧めだったの」
「うん」
「とてもよかった。でも……もうしばらくは日本に帰って来ないわね」
めぐみは志水の目をじっと見つめて言った。
体が熱い。酔っている。揺れている。志水には言わなかったけれど、頭をぶつけたときから心が高ぶっている。体が騒いでいる。
「三、四年は無理です。もっとかもしれない」
「きっとそうね、もう会えないと思うわ」
「会えるよ。アメリカに来ればいい。僕だってたまには帰って来る」
「かもしれないけれど、会えないような気もする」
きっぱりと言った。わけもなくそれがめぐみには確かなことに思えた。確信の強さが志水に伝わったのだろう。
「うん……?」
もう肉を食べ終え、デザートとコーヒーを待つばかりになっていた。
――今夜、これからどうするの?――
めぐみは|頬《ほお》を両手で包みながら、
「ごめんなさい。酔っちゃった。あのう、お部屋を借りてくださらない。フロントへ行って。お金が必要なら……これで」
とハンドバッグの中から財布を取って渡した。
「今ですか」
受け取りながら志水が尋ねる。
「そう。今夜は真夜中まで一緒にいて。ご迷惑はかけないわ」
「はあ」
ウエイターがコーヒーを持って近づいて来る。
志水が立ちあがり、
「じゃあ」
とつぶやく。
「お手洗いでしょうか」
「いや……ちょっと」
小走りに出て行った。
――どういうつもりなの――
と、めぐみは自分に問いかけ、
――いいじゃない。軽ウーく――
と自分に答えた。
志水はなかなか戻って来なかった。
――あのまま帰ったんじゃないかしら――
まさか女の子じゃあるまいし、そんなことはないだろう。
コーヒーをすすりながら、
「これで全部?」
とウエイターに尋ねた。
「はい」
「会計をしてください」
カードを渡した。
そのとき志水が帰って来た。
「大丈夫ですか」
志水はめぐみが酔って気分がわるくなったとでも考えたらしい。
「ええ……」
「コーヒーをどうぞ」
「はい」
あたふたと飲む。めぐみはその仕草を真正面から見つめていた。飲み干すのを待って、
「行きましょうか」
「はい」
「もう会計はすんだの」
「ご|馳《ち》|走《そう》様でした」
キャッシャーでカードを受け取り、エレベーターに乗った。
「酔っちゃった」
笑いながら志水の胸に体を預けた。
「十四階です」
「ボタンを押して」
エレベーターのドアが開き、薄暗い廊下が続いている。
手を握りあったまま部屋のドアの前に立った。
志水が|鍵《かぎ》を開け、ドアを押す。
ドアを閉じたとたんに酔いが……酒の酔いとはちがった魂の|酩《めい》|酊《てい》が体の中を|駈《か》けまわる。
志水に体を預けたまま顔をあげ、目を閉じた。
――|淫《みだ》らな人妻……。そう思っているわね、きっと――
それでもかまわない。送別会の贈り物はこれしかない。
唇が重なる。ちょっとぎこちない仕草で。
「真夜中まで一緒にいて」
「いいんですか」
「シンデレラ姫みたいに。でも、あとには引かない。今夜だけよ。靴を持って捜し歩いたりはしないわ」
「はあ……」
「困る?」
「困りゃしないけど」
「じゃあ、ゆっくりして」
「ええ」
「汗っぽいの。体、流して来る。テレビでも見てて」
顔を見あわせているのが気恥ずかしい。なにを話しても、この場にふさわしい話題とはなりそうもない。とりあえずバスルームに入って一人になった。
――本当に頭が変わったみたい――
淫ら頭。だれかからもらってしまったらしい。
――どの人かしら――
と首を|傾《かし》げた。
あのとき乗りあわせていた二人の女性客なんて、ほとんど思い出せないのだが、多分窓際のほうの人だろう。
――浮気っぽいような感じだった――
めぐみはバスルームの鏡に向かって笑った。
――人のせいにしちゃって――
わるいのがだれか、答えはきまってる。
――でも、変ね――
志水を誘ったこと自体も信じられないが、それは心の奥底になかったことではない。
――このまま別れて一生会えないかもしれない人。でも好き――
夢の中では抱きあった。あれはたしか志水だった。目ざめて胸がざわめいていた。
だから信じられないことではあるけれど、人格が変わったと思うほど不思議なことではなかった。
――不思議なのは……手際のよさ――
けっしてこんなことに慣れているわけではない。松山の友だちは女性である。彼女がこのホテルに泊まっていた。だからレストランから部屋へ来るという道筋には体験がないでもないが、事の中身がまるでちがう。さっきレストランで、
「ごめんなさい。酔っちゃった。あのう、お部屋を借りてくださらない。フロントへ行って」
ほとんど|淀《よど》みもなくスルリと言葉が|喉《のど》を通り抜けた。それが信じられない。
思い返してみると、なかなかうまい|台詞《せ り ふ》である。たしかに酔って気分がわるくなったようにも聞こえる。言葉そのものは男を誘っているわけではない。
あらかじめ考えておいたわけでもない。
言葉を吐く、その二、三分前……。突然、頭の中に浮かんだ。
――だれかがやったこと、あるのよ、きっと――
電車で頭をぶつけた二人のうちのどちらかが……。
シャワーで体を流し、
「お先にごめんなさい」
白いバスローブをまとってバスルームを出た。
「あ、きれいだ」
「そう? あなたも汗を流していらして」
「うん」
テレビのニュースを見た。
バスルームの水音が途絶えるのを聞いて部屋を暗くした。テレビの音を小さくした。
情事にはそれがふさわしいような気がした。
――もしかしたら私、浮気のセンスがあるのかもしれない――
ゆっくりと首を振った。
――相手が志水さんだから――
一度あって二度とないこと……それも確信に近い。
めぐみはベッドの中で目を閉じていた。
志水がベッドに腰をおろす。それから意を決したようにめぐみのかたわらへ滑りこんで来た。
「もう会えないわ」
「そうかな」
「きっと会えない。だから……」
「うん」
シーツの下で足をからめた。
とても恥ずかしい。情事そのものの恥ずかしさもあるけれど、こんなことに志水を誘ってしまったことがさらに恥ずかしい。めぐみは目を開くことができなかった。目を閉じてさえいれば、
――これは夢なの――
そう思うこともできる。
頭の中が目茶苦茶になってしまって、なにを考えてもしっかりと考えることができない。体が熱くなり、めまぐるしいほどの速度で血が全身を|駈《か》けめぐっている。
志水の手が少しずつ深い部分へ移る。
――こんなことにも知性があるのね――
頭の片すみでそう思った。
どんな|愛《あい》|撫《ぶ》が知的なのか。愛の仕草にそんな区別なんてないような気もするけれど、やはりどこかその人の性格や知性を反映している。もしかしたら、とても深い関係があるのかもしれない。おそらく志水はこんなことに慣れてはいないだろう。初めてではあるまいが、経験がそうたくさんあるとは考えにくい。
だが……なんと説明したらいいのかしら。言ってみれば、これだって一種の知識に由来していることだろう。頭の働きに支配されていることだろう。頭のいい人は能率よく、要点をしっかりと勉強し、会得しているのではないかしら。男性にとっては、体験よりは見聞によって多く知る世界なのではあるまいか。
志水はけっして慣れてはいないが、それなりに知っている。
体が重なった。
「もう会えないわ」
めぐみはもう一度同じ言葉をつぶやいた。
こんなことをしてしまっては“もう会えない”と、そういう意味もあったし、“もう会えないのだから、これが許されてもいい”とそんな自己弁護も含まれていただろう。
激しい動きがすぐに治まった。
「サンキュー」
と、英語教師は耳もとでささやく。
「サンキュー」
生徒も同じ言葉を少しおどけた調子で返した。
体を並べた。
「|一《いち》|期《ご》|一《いち》|会《え》……って言うのかしら」
「すごい言葉を知ってるなあ」
「そうなの? お茶の言葉じゃない?」
「あ、そう」
「お習字で習ったわ」
「習字なんか、やったの?」
「ええ……。高校で。やらなかった?」
「僕は美術をとったから」
「ああ、そう。お習字の先生がお寺の息子さんで、お茶のお師匠さんだったの。一期って“いちご”って読むときは、人の一生で、一会は一回会うことでしょ」
「一生のうちに、ただ一回だけ会うことかな」
「ええ。でも、実際には一回こっきりじゃなかったかもしれないの。昔のお茶会だってレギュラー・メンバーはいたわけでしょ。同じ人と二度も三度も四度も同じ茶席で一緒になることはあったと思うの」
「うん?」
「でも、気分として、そのとき、そのとき、一生のうちでこれがただ一回の出会いなんだ、いつもそのつもりで全力を尽くしなさいって、そういう意味なんですって、そう教えられたわ」
「なるほど」
シーツの下で手を握りあっている。指をさぐりあっている。
――今夜がそうなの――
厳粛な茶道の用語をこんなところで使ったら|叱《しか》られてしまうだろうか。でも、男と女のあいだにこそ一期一会があるような気がしてならない。
――もしかしたら、もう一度くらい会うことがあるかもしれない。でも、これが一生でただ一回こっきりの出会いと考えよう――
もしそうならば悔いのないように愛しあうことも一つの道だろう。
――いろいろ理屈をつけることもないんだわ――
もっと軽ウーく。なにしろこのあいだ電車の中で頭をぶつけてからというもの、頭がすっかり軽くなってしまったのだから……。
「変な女だと思ったでしょ」
「いや……」
「嘘。そう思っている」
「男と女の関係って、いろいろあっていいんじゃないのかな」
「たとえば?」
「こういうのも……いいんじゃない。僕、好きだもん、あなたのこと」
「本当に?」
「そりゃ……あなたのこと、まだよく知らないし……結婚ができるわけじゃない。だけど、もしかしたら、この人とは本当に親しくなれるんじゃないかな、人間的にフィットするんじゃないかな、でも、人生の歯車がうまく|噛《か》みあわなくて、この世では駄目なんだ、そういう親しさ……感じたな」
「わかるわ」
志水も同じようなことを考えていたのかもしれない。それとも、こう言ってくれるのが志水の賢さであり、やさしさなのかもしれない。
「シャワーをあびて……帰ります」
「うん」
「どうぞお先に」
「いや、あとでいい。女の人のほうが仕度に手間がかかるから」
「よく知っているのね。慣れてるんでしょ」
と、めぐみは|薄《うす》|闇《やみ》の中でにらんだ。
――もしかしたら、本当に慣れているのかもしれない――
ぎこちなさも演技だったりして。……
めぐみだっていくつかの演技をベッドで演じた。志水に信じこませる程度には巧みだったろう。だったら志水のほうだってめぐみをだますくらいには巧みかもしれない。
「そんなことはない」
「あんまり罪つくりをしちゃ駄目よ」
「そりゃ……ないな」
「ちょっと流して来ますね」
と、ローブをかぶりながら立ちあがった。
バスルームで汗だけを流した。志水の体液がいとおしい。
「お先に失礼しました」
「僕もちょっとだけ」
志水はバスタブにお湯を満たして、ゆっくりとつかっているらしい。めぐみはドライヤーを使って髪の乱れを直した。
「どう?」
バスルームから出て来た志水に聞く。
「きれいだ」
ちょっとお世辞っぽい。
「そうじゃなく……“わるいことして来ました”って、そういう顔、してない?」
「大丈夫。してない」
ホテルを出るときが恥ずかしい。
「私の名前で部屋を取ったの?」
「もちろん」
「このまま帰るんじゃ、変ね」
今は十一時少し前。八時にチェック・インをして、この時間にチェック・アウトをするなんて……。
「そうかな」
「いいわ」
|鍵《かぎ》を預けて帰ろう。明日もう一度ここへ出なおして来て会計をすまそう。
「先に出てタクシー乗り場にいてください。送ってくださる?」
「もちろん」
「一期一会ですものね」
「うーん。また会えるとは思うけどな」
「それはそのときのこと。もう会えなくてもいいわ。後悔しない」
今夜、まちがいなく志水との距離感が縮まった。そして別れる。それでいい。
「うん」
鍵をフロントに預け、うしろも見ずに急ぎ足で外に出た。
車の中で手を握りあった。
「このままこの車で帰って。これ、タクシー代」
「いいよ」
「いいの。さようなら」
「さようなら」
テール・ランプが角を曲がるまで見送った。
二郎はすでに眠っていた。
8 新聞記事
熱海から帰ってからも伊駒信子の美術館めぐりは続いた。
月に一、二回。近所に住む主婦のひとみに子どもを預けて出て行く。かわりにときどきひとみの子どもを預かる。ひとみは昔の恋人と会っているらしい。
「私、思うんだけど……」
と、ひとみは、とても重大な発見でもしたようにつぶやく。
「なーに?」
「女の人も意外と不倫て、やってるんじゃないかしら」
「そうかしら」
「そうよ。きっと、そうよ。大っぴらにしていいことじゃないから、みんなシーンと黙っているけれど、結構やってると思うわ」
「わかんない」
「だって、早い話、私でしょ、あなたでしょ。ほかの人は私たちがそんなことやってるなんて、ぜんぜん思ってないわよ。なのにちゃんとやってるんだから」
「私は……ちがうわよ」
「またあ。水くさいんだから……。本当のこと言ったって、いいじゃない。私ね、口、堅いのよ。絶対にだれにも言いやしないから」
「それはわかってるけど……本当に、私、美術館に行って絵を見て来るだけなのよ」
「そう、そう。そうね。そのくらい秘密をきちんと守ったほうがいいわよ」
おそらくどう説明してみても、ひとみにはわかってもらえないだろう。それに、
――きっとすてきな人が現れる――
その予感と期待があるのは本当だ。それがとても近いことのような気がする。
――怖い――
なにが怖いのか、信子は自分でもよくわからない。
知らない人に誘われる、それが怖いのだろうか? たしかについこのあいだまではそれが不安だった。見かけはすてきな人でも本心まではわからない。
だが……このあいだ熱海から帰る途中の電車で事故にあい、周囲にすわっている人と頭をぶつけた。あのときからどうもおかしい。なんだか新しい恐怖が心の中に巣食っている。その正体がよくわからない。自分が少し変わったような気がする。
テレビの子ども番組で、
「変身!」
というのがあったけれど、なにかの拍子で頭の中身がちょっと変化してしまうこともあるのかしら。
頭をぶつけた相手は……一人は若かった。もう一人は今風の黒い服装の女だった。だから信子も若返り、今風になり、
――気持ちが大胆になったみたい――
なにも古風なモラルにしがみついていることだけが人生ではあるまい。
「もし、もし。今から……ちょっと出て来ます。お願いするわね」
「はい、はい。ごゆっくり。一人も三人も同じことだから」
電話で子どもたちの世話をひとみに頼んで信子は家を出た。
二人の子どもは幼稚園でお弁当を食べて帰って来る。姉の萌子がひとみのところの娘と同じ年長組。弟の伸彦もそう聞きわけのわるい子どもではない。
品川で山手線に乗り換えて上野まで。もう何度も通い慣れた道である。空はどんよりと曇っていた。
西洋美術館に入った。
目あてはミレーの特別展。昔、カレンダーで見た絵の本物が並んでいる。
――前は好きだったけど――
これこそがよい絵だと思っていた。人間の生きている姿がみごとに描写してあって、しかも心の深さも描かれている。
だが、今、まのあたりに眺めてみると、どことなくおもしろ味が薄い。遊びもなければ華麗さもない。じっと見つめていても心が騒がない。
――もっと激しい絵が見たい――
信子自身の心が高ぶっているらしい。
館内はとてもすいている。ウイークデーの昼前から美術館に来る人は、やはり特別な人なのだろう。
ダーク・スーツの男が一人、いつのまにか信子と歩調をあわせるようにしてついて来る。目の端でチラリと見た。
――そんなにわるくない――
実際に見たのは背広の色だけだったかもしれない。チャコール・グレイ。多分ダブル。それだけで紳士的に見える。
なんとか顔を見ようとして足をゆるめるのだが、なかなかむこうが追い越してくれない。さりげなくふり返り、
――四十歳そこそこね――
と判断した。
――シャープな感じ――
横顔を見て、そう思った。
――わるくないわ――
今日あたりいよいよ本当になにかが起こりそうな気配を感じていた。想像は想像で楽しいけれど……想像ばかりしていたのでは、想像もみずみずしさを失ってしまう。いかに空想癖が発達していても、少しは現実が養分として入りこまなければ、美しい花は咲かない。
信子の空想はたしかにこのところ色あせていた。
――肥料をあげなくちゃ、枯れちゃうわ――
想像を楽しむためにも今日あたりすばらしいことが起きてくれないと困る。
むこうも信子のことを意識している。信子はもう絵画の鑑賞どころではない。いやでも背中のほうに神経が集中する。
「この絵、お好きですか」
やはり男は背後から声をかけて来た。
「ええ……」
海に漂う帆船の絵の前に立っていた。
「きれいですね。写真みたいで……」
「はい……」
写真みたい、という言い方は絵をほめたことになるのだろうか。なるほど目の前にある絵は写真によく似ている。
写真のない時代ならばともかくカラー写真の技術が今のように発達してしまっては、この手の絵は価値が少なくなってしまうだろう。いくら絵画と写真とはちがうと主張してみても、説得力がない。
――それを“きれい”だなんて――
しかし、その男は信子がその絵を熱心に見ているので……実は背後にばかり気を取られてほとんど絵のほうは見ていなかったのだが、はたから見れば熱心に眺めているように見えただろう。それで男はとりあえず「きれいですね」と話しかけたのかもしれない。男は隣に立って、
「ここにはよく見えるんですか」
となれなれしい。
「はい、ときどき……」
「僕も来るんですよ。たまーにね。絵はいいですよ、実にいい。絵の好きな女性はすてきですなあ」
「そんな……」
口ごもってしまう。
歩きながら男は低い声でつぶやく。とぎれとぎれにしか聞こえない。
でも、彼がなにを話しているか、信子は見当がつく。すでにこういう情景を今までに何度も想像していた。想像はこまかい部分まできちんとできあがり、くり返しくり返し頭の中に再現されていた。
「子どものころは、みんな具象的な絵が好きなんですよ」
「はい」
「年を取って少しずつ変わりましたね」
男の年齢は信子より五つ、六つ上……。そのあたりが一番望ましい年齢である。
「三か月ほど前かな。“ヨーロッパ絵画の知的冒険”というのを見ましたよ」
「私も見ました」
「本当ですか。あれはよかった。知的冒険というのは、つまり、ただ目に見える対象を描くのではなく、思索を通して今までとはちがった大胆な冒険をやってみようと……」
「そうなんですか」
「絵が本当にお好きなんですね」
「この雰囲気がとても好きなの」
「僕も好きなんです」
「でも、私、なんにも知らないから」
「見て楽しければ、それでいいんじゃないですか。大切なのは、むしろそれでしょう」
「はい」
「東京にはよい美術館がいくつもありますから。時間|潰《つぶ》しにはいいですよ。出張から帰って会社に行こうかと思ったんだけど……。ついてたな、美人に会えて」
「はい……」
信子はあいの手でも入れるようにときおり返事をした。
男の話をどれほどきちんと聞いていたのか……半分は、いや、半分以上、信子は自分の頭の中につまっている、おなじみの会話を聞いていた。つまり空想である。
「|松籟《しょうらい》って言うんでしょ」
「松籟? ああ、そうね」
「松籟の籟ってのは……」
「どんな字でしたっけ」
「竹かんむりに頼朝の頼でしょう」
「来るっていう字じゃないのね。松林のほうから風が来るから……」
「いや。たしか笛の一種じゃないかな」
美術館のビルの中で松風の話など、話題になるはずもないのだが、信子は心の中で独りそんな会話をかわしていた。
男はむしろ俗っぽいことを話していたのだが、信子の耳には四、五割がた浄化されて聞こえてしまう。
「色が白いね」
「そうかしら」
男の手が信子の手に触れる。一、二度あらがったが、三度目には指先をゆだねた。|人《ひと》|気《け》のない回廊を手を|繋《つな》ぎながら歩いた。
体が熱い。
|動《どう》|悸《き》が弾む。
頭がおかしくなりそう。
「行きましょうか」
「ええ……」
手を引かれてビルの外に出た。
――どこへ行くのかしら――
そう言えば、ひとみが言ってたわ。「ポーンと跳んじゃえば、それでいいのよ。自分の人生は自分のものよ。めいっぱいやらなきゃ。年を取って後悔しても間にあわないわ。若返りにもいいんじゃない」このへんが跳びどころのような気もする。
――あら、こんな顔なの――
はじめて正面から男の顔を見た。横顔はシャープな感じだったが、正面はそれほどよくはない。かならずしも知的ではない。少なくとも信子が心に描いているイメージではない。もし先に正面の顔を見たら、それほど胸をときめかしたりしなかったかもしれない。
――でも横顔がすてきだから――
そのほうがきっと彼の本当の人柄を表しているにちがいない。正面のほうが嘘……。
上野の森を望むと、ちょうど雲のあいだから光がこぼれ落ちていた。
「あれ、レンブラント光線て言うんでしょう」
たしかに男は指をさし信子の前で口を動かしてそう言った。
――レンブラント光線――
言われてみれば、たしかにレンブラントの世界を|髣《ほう》|髴《ふつ》させる。陰影に富み、神秘的で……。初めて聞く言葉だった。
――こんなすてきな言葉を知っているんだから――
きっと横顔のほうが本物にちがいない、と信子は思った。
男は美術館の|脇《わき》に止めてある車のドアを開けた。
「どうぞ」
中へ引きこまれた。
男は左手で信子の手を握ったままもう一本の手で運転をする。
――大丈夫かしら――
目の前で成田山のお守りがしきりに揺れていた。
どこをどう走ったかわからない。一時間ほど……。曇天ではあったが、空をおおう雲が薄く、ところどころで太陽の光がこぼれ落ちている。つまりレンブラント光線。まるで神秘的な出来事の前ぶれみたいに……。それが信子にとって、よい運であったかどうか。
「あれ、なんですか」
「お城」
車が坂を下り、車庫のようなところへ入った。ガクンと止まり男が外へ出て信子の側のドアを開ける。
――どこかしら――
童話の中のお城に少し似ている。白い階段をあがった。
自動ドアが開いて、中に絵本のページを広げたように、さまざまな部屋を描いたパネルが光っている。
「フランスの部屋がいいかな」
男が独りごとのようにつぶやき、スイッチを押すと、|鍵《かぎ》が転げ出る。そのまま廊下を歩いて、女神を彫ったドアを開けると、白とピンクの内装。たしかにどことなくフランスの王宮風のムードである。
――魔法みたい――
男は大きな|椅《い》|子《す》に腰をおろし、信子にも椅子を勧める。半分はベッドみたいな椅子。
――これがカウチかしら――
信子は浅く腰を載せた。
「ゆっくりしなよ」
「ええ……」
小声で答えた。
こんなホテルがあるなんて……テレビでちょっと見たことがあるけれど、入るのははじめて……。
「なんか飲む?」
「いえ、いりません」
ホテルに入って男の言葉遣いがぞんざいに変わったが、信子はどぎまぎしていたのでしばらくは気がつかなかった。
男は冷蔵庫をのぞきこみ、ビールとピーナツを取り出す。
「窮屈だな。ネクタイは」
ネクタイを投げ、上着を脱ぎ、ビールのグラスを持って、信子の隣にすわった。グイと一口飲んでから、肩に手をまわし、
「飲みなよ」
と、口の前にグラスを持って来る。
「いいです」
「うん」
いきなり唇を寄せて来た。
信子は顔をそむけた。
だが、男はしつこく唇を寄せ、信子を押し倒す。ビールの|匂《にお》い……。胸に手が触れる。
「そんな……」
信子は椅子からのがれた。
男は照れくさそうに笑い、ちょっと腕時計を見てから、ビールをもう一度飲み干し、
「|風《ふ》|呂《ろ》、入って来るよ。一緒にどう?」
「いいです」
「うん。お先に」
と、造花の垂れているドアのむこうへ消えて行った。すぐに水音が聞こえた。
窓はきれいに作ってあるけれど開かない。隣の部屋をのぞくと、部屋いっぱいにベッドが広がっている。豪華と言えば、たしかに豪華である。安っぽいと言えば、ちょっと安っぽい。
――ここで抱かれるのかしら――
多分そうだろう。それ以外には考えにくい。“あれよあれよ”と思うまにここまで来てしまったけれど、けっして|騙《だま》されたわけではない。すてきな人がぼつぼつ現れてもいいはずだった。
――レンブラント光線だなんて――
そんな言葉を知っている人は、きっとセンスのいい人にちがいないと思った。
「変身!」
両手で胸をかかえ、つぶやいてみた。
よほど思いきって変身をしないと、この場の雰囲気になじめない。一っ跳びができそうもない。
「入っておいでよ」
男が青いローブを着て戻って来た。
ピンクのローブをポンと信子のほうに投げる。
「ええ……」
戸惑っていると、また近づいて来て胸をさぐり、スーツを脱がせようとする。
「さ、脱ぎなよ。女性の服って、わかんないからなあ」
破られたら大変。
「ごめんなさい」
腕をのがれてバスルームへ入った。ドアの|内《うち》|鍵《かぎ》をさぐり、肩で息をついた。
大きなたらいのようなバスタブ。ライオンの口が蛇口になっている。
――どうしよう――
もう逃げるわけにはいかない。それに、せっかくここまで来たのだし……。ここまで来るのが大変なのだから……。あとは目を閉じていればいい。きっとすばらしいことが起きるにちがいない。
スーツを畳み、スリップを脱いだ。
大きな鏡が張ってある。白い裸形が映る。
――私、きれいかしら――
子どもを二人生んで、ちょっと肥ったけれど、もともとスタイルのわるいほうではない。捨てたものじゃない。
そのことが信子を少し大胆にした。ギリシャの彫刻みたいにちょっとポーズをとってみた。
髪をかきあげて束ね、バスタブにお湯をいっぱいに満たして体を沈めた。
バスタブの|脇《わき》に化粧品の|壜《びん》がたくさん置いてある。香水の小壜を取って、お湯にたらすと、濃密な香りが広がる。
目を閉じた。
夢が映る。
人魚姫。トリスタンとイゾルデ。美女と野獣……。最後の物語が一番今日にふさわしいだろう。男は粗野なところがあっても、きっと最後にはすてきな王子に変身してくれる……。
――そううまくはいかないわ、きっと――
不安はあるけれど、とりあえずは香水の香りの中ですてきな空想をめぐらそう。
――私だって、あれほどの美女じゃないんだし――
映画で見た“美女と野獣”には、ものすごい美女が登場していた。だれだって少しは幻想をまじえ|自《うぬ》|惚《ぼ》れを加算しなければ、よい物語は描けない。
ローブをまとってバスルームを出た。
「いい体、してるじゃないか」
男はベッドのすそに腰をおろしている。そこにも鏡があって、
――あらっ――
はじめは仕かけがよくわからなかった。
バスルームが鏡の中に映っている。中が見える仕かけになっている。
ということは、信子が裸でいる姿をすっかり見られていたわけ……。
――ひどい――
体が熱くなった。本当に赤く染まったかもしれない。恥ずかしいような、怒りたいような……。
――のぞき見なんて――
でも“美女と野獣”では、野獣はどこからか美女の一挙手一投足を見つめていただろう。多分、バスルームの中だって……。
「来なよ」
いきなり抱き寄せられた。
「電気を……」
「いいだろう、これくらい」
「駄目」
ローブの胸が手荒く開かれた。
男の手が乳房をなでる。結び目が簡単にほどけてしまう。下着を奪われた。あわててシーツを引き寄せる。男の足が信子の足を割る。
男の手が、唇が、体中をさぐる。
天井でなにかがうごめいている。そこにも鏡があるとわかった。
不思議な生き物……。とても目を開けていられない。
男の体が重くのしかかり、激しく動く。
「感じる?」
耳もとで聞く。
答えようもない。
――なんでこんなことを――
いつかはじめて夫の和彦に抱かれたときもそう思った。昨今はすっかり慣れたつもりでいたが、今、新しい男に抱かれると、やはり同じことを思ってしまう。
セックスについて、かすかな快感めいたものを感じることはあるけれど、ぜひにと言うほどのものではない。むしろわずらわしい。相手がそんなに望むのなら、一つのサービスとして……信子はその気持ちが強い。
夫婦ならともかく、見ず知らずの男なのだから、こっちがサービスをする以上、
――そちらもサービスをしてくださいな――
たとえば、すばらしい夢を見させてくれるとか……。
――相手をまちがえたのではないかしら――
男は体をひくつかせ、
「ああ、いい」
荒い息を吐いて終わった。男の体がさらに重くなる。
休息のひとときがやって来る。
性の営みの中では、|強《し》いて言えば、信子はこのあたりが一番好きだ。ほんのそよ風のような快感。それもどんどん消えて行く。でも、
――行事が終わった――
そんな喜びがある。自分が普段よりもっと大きな存在となって、力の尽きた男をいたわっているような、そんな心の喜びがある。
男はすぐにゴロリと体をまわし、|枕《まくら》を|奪《うば》った。
「なんていう名前?」
尋ねられたが、信子は答えない。ひどくぞんざいに響く、やけになれなれしい。
「まあ、いいか。聞いたってしょうがないもんな。奥さんなんだろ。子どももいる。そういう体だよ」
男は手を伸ばし、ゾロリと信子の胸をさすった。
――いやらしい――
体がブルッと震える。
男のわずかな動作がどうしてこれほど|下《げ》|卑《び》たものに感じられたのか……。なんだか家畜のよしあしを調べられているみたい。
横顔をそっと見た。
さっきまではすてきに見えた横顔が、
――どうってこと、ないじゃない――
ちっともすてきではない。真正面から見た顔が本物で、横顔のほうが|嘘《うそ》らしい。さっきは、逆のほうから見た横顔だったけれど……。
裸まで汚い。
あちこちにしみがある。あざがある。筋肉のつき方が、ボコボコしていて好きになれない。
――レンブラント光線だなんて――
どうしてこんな人があんなにいい言葉を知っていたのかしら。憎しみさえ覚えてしまう。
――ダーク・スーツなんか着ちゃって――
ジャンパー姿に、赤いネクタイくらいが相応の人なのではあるまいか。
男がいろいろ話しかけたが、信子は返事をしなかった。美術館では、とても知的な会話を交わしているような、そんな錯覚を信子は勝手に思い浮かべていたのだが、もう想像する気にもなれない。魔力が消えてしまった。
気がつくと、男は寝息をあげている。
眠ってしまったらしい。
寝息はすぐに荒くなって、耳ざわりな|鼾《いびき》に変わった。
信子は首を伸ばし、おそるおそる男の顔を確かめた。
――悪魔に変わっているんじゃないかしら――
鼻孔をふくらませ、息を吐くとき吸うとき、二種類の音を引きずる。
――一つならともかく、二つともいやらしい音だわ――
醜悪このうえもないもののように感じられた。
|眉《まゆ》|毛《げ》も右左、ちがっている。唇が薄い。
――ひどい顔――
どこがどうわるいのか説明はできないけれど、とにかくいやな顔だ。やっぱりさっきは化けていたにちがいない。
――どうして、こんな男に――
鼾を聞いているうちに、憤りがどんどんふくらんで、
――怖い――
見続けていると、殺したくなってしまう。たしかに殺意のようなものを感じた。
信子は驚いて目を閉じ、頭からシーツをかぶった。
それでも鼾が聞こえる。さらにひどくなり、あざ笑っているように響く。
――どうしたのかしら――
たしか、あのとき……。つまり熱海の美術館に行った帰りに電車の中で頭をぶつけた。あのときから奇妙な感覚がこびりついている。恐怖がわけもなく心の奥底からこみあげて来て、
――怖い――
と思ってしまう。
その感覚が今また信子を襲って来た。
恐怖の正体がわかった。あの恐怖は殺意に由来するものらしい。だれかに殺意を感じ、本当に殺しそうになり、そんな自分を恐れている。
――きっと、そうよ――
だれかから殺意を移されたみたい。ちょうど電車の中で隣の人から風邪を移されるように。
――きっと、黒い服を着た人のほう――
そんなものを他人に移す人はきっと黒装束にちがいない。
「ああ、寝てしまった」
男が目を開け、笑いかける。
――やっぱりそんなにいい顔じゃないわ――
自分でやったことでありながら信子は無性に腹が立つ。ロマンチックな夢を見るはずだったのに途中から道をまちがえたらしい。
男はまた手を伸ばして信子の胸をさぐり、もっと深い部分へと迫る。
「いやッ」
手を払いのけようとしたが、
「いやッてことないだろ。好きなくせに」
と、いきなり強い力で腕首を握られた。
それからはほとんど暴力行為に近かった。あらがってみても相手は男だし、力が強い。しかも信子のほうは全裸になっている……。
助けを呼ぼうとしても、
「だれか来てもいいのかよ。ご亭主もいるんだろ」
そう言われると困ってしまう。
「仲よくしようよ。ほら、ほら」
組み伏せられ、ふたたび体を貫かれた。
「|俺《おれ》、先に|風《ふ》|呂《ろ》に入るぞ」
と、バスルームへ消えた。
信子は起きあがり、鏡を見た。
男の姿がぼんやりと映っている。お|尻《しり》のあたりにたくさん毛がはえていて、ひどくまがまがしいものに見える。
――帰ろう――
そう思ったが、スーツを入れた|籠《かご》が見当たらない。バスルームに置いたままらしい。取りに行こうものなら、また抱きすくめられてしまうかもしれない。
「お先に。あんたも入ったら」
男はすぐに現れて洋服を着始めた。
信子はバスルームに飛び込み、下だけを洗った。男の|匂《にお》いが鼻につく。とても汚いものを注ぎこまれてしまった。
「さ、行こうか」
バスルームから出た信子を見て、男はせきたてる。一丁あがり、そんな感じ……。
信子だってこんな男と早く別れたい。
――でも、ここはどこなの――
車で連れて来られた。
「送ってやるよ、駅まで。どこの駅がいいの?」
「いいです」
「つんけんするなよ。一度抱きあった仲じゃないか。一度じゃないか。あははは」
声をあげて笑った。
ダーク・スーツ。チャコール・グレイのダブル。洋服を着て、少し紳士的な様子になったけれど、やっぱり笑い声は下卑ている。
「一人で出ると、あやしまれるぞ」
ホテルは古いお城みたいな作りになっていて、どこが出入り口かよくわからない。
「総武線の駅でいいんだろ」
うながされてガレージへ降りた。
「乗りな。もうなんにもしないってば。駅まで結構遠いよ」
仕方なしに助手席にすわった。
男がスイッチを押すと、音楽が流れる。タンゴのメロディー。これはそんなにわるくない。男の横顔もさっきの寝顔よりも大分上等に変わった。
車は海ぞいの道を走る。
――上野って、海に近いのかしら――
さっきは美術館を出て小一時間くらい走った。信子はあれこれ空想をめぐらしていて、どこをどう走っているか、ほとんど気にかけなかった。ずいぶん遠くまで来てしまったらしい。
「また会おうよ」
「いいです」
「なにを怒ってんだよ。結構感じてたんじゃないの」
言葉遣いが少しだけ丁寧になった。
「俺、そんなに変な男じゃないよ。なにやっていると思う?」
「わかりません」
「建築家。この近くでマンションを建てているんだ。今日は工事を休んでいるけどサ。海が見えて、最高。千葉もどんどんよくなるね」
信子の夫も建設会社に勤めている。信子自身もそこで少し働いたことがある。男っぽい職場だから女性のデリカシイがわからない。
「ちょっと降りてごらん」
車が工事現場のようなところへ入り込む。
「駅なんですか」
車の外に出た男には聞こえなかったらしい。
ドアが開き、
「いい眺めなんだ。足場はひどいけど」
七、八階のビルが鉄骨とコンクリートをむき出しにして建っている。
男が先に立って手招きをする。
信子は男のうしろ姿をぼんやりと眺めていたが、男がビルの中に消え、三、四階あたりの穴から顔を出し、
「来てごらんよ」
そう叫んだとき、信子はこっくりとうなずいた。そしてゆっくりと男が消えた出入り口に向かって歩き始めた。
足が次第に早くなる。
木の板を当てたままの階段を上った。
「足もとに気をつけなよ」
男は自分が建築家であり、けっしてあやしい者ではないと、そのことを信子に知らせるためにここに車を乗り入れたらしい。
窓が高くなるにつれ海が見えて来る。完成したら、きっとすてきなマンションになるだろう。
「一部屋買うつもりでいるんだ。できたらここでデートしようか」
声だけが上から聞こえる。
信子が上を見あげた。高い穴から男が下を見ている。
「ここがエレベーターの穴だ」
男はさらに上の階まで上ったらしい。
信子は息切れを覚え、途中で二度ほど足を止めた。
「今日は海が汚い」
コンクリートの壁に穴だけ開いた窓のところに立って男がつぶやく。
男の頭のむこうに灰色の海があった。
――これが本当にきれいなマンションになるのかしら――
建設途中のビルは、コンクリートの粗い壁面をむき出しにしていて、床には雑多なものが足の踏み場もないほどに散っている。美麗なマンションも一皮むけば、こんなものなのだろう。
信子は男と少し距離をおいて立った。
「一部屋買うつもりなんだ」
男はもう一度同じことを言った。
――安いマンションじゃないわ――
男の声は「|俺《おれ》はそのくらいの金を持っているんだ」と、そう聞こえた。
笑いながら近づいて来る。笑い顔がひどく卑屈なものに見えた。
「また会おうよ。俺、口の堅いほうだから」
近づいて来てスルリと信子のお|尻《しり》のあたりを|撫《な》でた。
――こんなはずじゃなかった――
もう少し美しい景色が見えるはずだった。
そう思ったとたん、いまわしいものが次から次へと信子の脳裏に映った。男の寝顔、男の仕草、声、鼾。薄い唇。体のあちこちに汚いしみがあった。二度目には無理矢理足を割られた。けだものみたいだった。天井の鏡にみにくい八本足の魔物が映っていた。
――怖い――
恐怖の正体がよくわからない。とにかくここから逃げ出さなくてはいけない。身に迫って来る恐怖をふり払わなければいけない。
目の前にポッカリと穴があいている。
「危ないぞ。足でも滑らしたら」
下をのぞくのが怖い。
と言うより、穴がそこにあること自体がとても怖い。ずいぶんたくさん階段を上って来た。穴の底はずっと下のほうにあるにちがいない。
「落ちたら死ぬぞ」
それはもう絶対にまちがいない。
――どうしてこんなところに立っているのかしら――
それも知らない男と一緒に……。
信子は視線をあげ、もう一度男の顔を見た。えぐい顔……。体が震えるほどの嫌悪を覚えた。
「あれ……?」
と、穴の中を指さすと、男が、
「なに?」
と、のぞきこむ。
「あ、あーッ」
声だけが聞こえた。
すぐ近くで聞こえたはずなのに、ひどく遠い声のようにも感じられた。たとえば夢の中で聞いた声を、目ざめてなお記憶しているみたいに……。
コンクリートの|屑《くず》がバラバラと落ちて行った。
信子は無我夢中で階段を|駈《か》け下りた。まるで自分が風にでもなったみたいに走った。
――だれもいない。だれも見ていない――
敷地のすみで自動車が二つの目を並べてうずくまっている。
――自動車にはみんな顔があるわ――
持ち主同様にいやな人相だと思った。
どこをどう歩いたかわからない。しばらく歩いて車を拾った。
「上野駅」
と告げた。
本当のことを言えば、信子自身「上野駅」と告げたのかどうか、それもよく覚えていない。だが、運転手が、
「正面でいいんですか」
と、車を着けたところが上野駅だったから、きっと信子がそう告げたにちがいない。
ハンドバッグを開けると、一万円札が|放《ほう》りこんである。お金はいつもきちんとそろえて財布の中に入れておくのに……。
――あの男が入れたのかしら――
なんのために?
品川までの切符を買い、ホームに立って時計を見た。もう四時をまわっている。
――遅くなっちゃった――
しかし、まあ、ひとみにちゃんと頼んで出て来たのだから心配はない。
――美術館で長いこと、時間を|潰《つぶ》しちゃって――
ミレーの絵を思い浮かべた。
――わるい絵じゃないけど、おもしろ味が足りないわ――
もっと激しい絵。もっと華麗な絵。背後にすばらしい物語が潜んでいるような絵……。信子はそのほうが好きだ。
――そう言えば、ひとみさんが言ってたわ――
幻覚剤を飲むと、
「グッド・トリップとバッド・トリップがあるんですって」
「なんのこと?」
「トリップって旅のことでしょ。幻覚のこと、そう言うのよ。意識が知らないところへ旅して行っちゃうから」
「ええ……?」
「そのとき、すてきな幻覚を見る人と、恐ろしい幻覚を見る人とがいるのね」
「へーえ」
信子はべつに美術館で麻薬を飲んだわけではないけれど、なにやらバッド・トリップを体験してしまったらしい。
空想が広がる。
美術館の壁にヨーロッパのお城のような絵がつるしてあって、その中に入りこむと、男が待っていて信子を誘う。男はきっと悪魔の化身にちがいない。
ベッドに引きこまれ、体を汚されてしまった。そんなことを考えると、あれはみんな本当に絵の中の出来事……。現実にあったこととは思いにくい。
――名前だって知らないんだわ――
どう首をひねってみても信子には男の名前が思い浮かばない。
――そんなことって、あるのかしら――
つまり、体を重ねるほど親密な仲なのに、当の相手の名前を知らないなんて……いくらなんでもひどすぎる。
信子はこれまでに何度も想像をめぐらした。美術館ですてきな男とめぐりあい、甘美なひとときをすごす。それがおきまりのパターンだった。
想像の中に登場する男には、いつも名前がなかった。男に名前のないこと自体が、そのイメージが想像であることの印だった。そうだとすれば、
――あの男にも名前がなかったわ――
だから……となる。たしかに現実感が薄い。
二人でどこへ行ったのか、それもよくわからない。名前のない男と名前のない町へ行ったんじゃないかしら。
ときおり「あ、あーッ」と、男の叫び声が聞こえる。遠い声だが、これだけは痛切に響く。それから、もう一つ、ガラガラと信子の足もとから落ちて行ったコンクリートの|屑《くず》……。
電車はいつのまにか品川に着いていた。乗り換えて|鮫《さめ》|洲《ず》まで。ひとみの家へ寄った。
「お帰りなさい。遅かったわね。三人とも公園に行ってるの。もう帰って来るんじゃない」
「すみません」
「どうだった?」
「べつに」
「お疲れさんて顔してるわよ」
と、ひとみがひやかす。
ひとみの言葉通り間もなく子どもたちが帰って来た。
「ねえ、面倒だから、どっかへ行って食べない。駅の近くにできたでしょう、新しく」
そう言えば、ファースト・フード風の店がちらしをまいていた。
「いいわよ」
「ハンバーグがいいな」
「うん、うん」
子どもたちは、母親の会話をすばやく聞きつけて、はしゃいでいる。
「アイスクリームも」
「ストロベリー・アイスクリーム」
「僕も」
子どもたちを連れて駅前のファミリイ・レストランへ行った。奥まった席を取り、たっぷりと時間をかけて食事をした。
「疲れたわ」
信子が家に帰ったのは八時に近かった。
子どもたちを寝かせ……夫の和彦が帰って来たのは、そのすぐあとだった。
「今、寝たとこ」
「よく寝てるな」
和彦はかならず子どもたちの寝顔をのぞく。
「ご飯は?」
「食べる。お茶漬けをくれ」
「はい」
お茶漬けでよかった。夕食の仕度はなにもしてない。
古いご飯にお茶漬けのもとと、びん詰めの鮭をそえ、あとはお新香。和彦は食事にうるさいほうではない。
「上野って、海に近いんですか」
夕刊を読んでいる夫に、おずおずと尋ねた。
「近かあないよ」
顔もあげず、お茶漬けをすすりながら言う。
――やっぱり――
そう思いたい。
「どうして?」
「いえ、べつに」
信子は自分の茶わんにお茶を注ぎながら、
「ビルの工事って、途中でお休みをとること、あるんですか」
とつぶやいた。
「どういうことだ」
和彦が新聞から目をあげて信子を見た。
「工事が始まったら、だれかしら現場監督の人とか職人さんとかが来ているわけでしょ、現場に」
海の見えるマンションの工事場にはだれもいなかった。
「たいていはいるけどな。飯場を作って、そこにだれかいる。しかし、いないときもあるさ。どうして?」
「そう……」
|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
夫もそれ以上は聞かない。
――だれかの絵で見たわ――
建設途中のビル。だれもいない。灰色の、陰気な風景……。カンバスの中にゆがんだ窓が並んでいた。そんな風景画を前に見たような気がする。
台所で洗い物をすませ、
「なんだか疲れちゃった」
「寝たらいいだろ」
「ええ」
「顔色がよくない」
「じゃあ、お先に……」
布団を敷き、横たわった。
夫はしばらくテレビを見ていた。
夢の中で信子はだれか知らない男と海辺へ行った。灰色の雲がおおっている。光がこぼれている。
「今日は雲が薄いね」
「はい?」
「だから、ところどころに穴があいているんだ」
知らない男は、いつのまにか夫の和彦に変わっている。二人は雲の上に立っていた。
たしかにこのくらいの雲模様ならば、あちこちに破れ穴が口を開けているだろう。
「あ、あーッ」
声が聞こえた。
男の声……。足を踏みはずし、どこかの穴からまっさかさまに落ちて行ったらしい。
「死んだかしら」
「そりゃ死んだだろう。ビルの八階だから」
夫はトンチンカンのことを言う。二人は雲の上にいるのに……。でも周囲は雲におおわれているから、よくは見えない。もしかしたら近くにビルがそびえているのかもしれない。
「私たち、大丈夫かしら?」
「うん。設計図を知っているから」
と、夫が手をさし伸ばす。
――よかった――
夫と一緒に歩いて行くのなら安全だろう。
「あ、あーッ」
また男の声が聞こえた。
――まただれかが落ちたのかしら――
聞いていて楽しい声ではない。とても遠い響きなのに細い金属の糸みたいに鋭く聞こえる。そして怖い。
――でも今は夢を見ているんだから――
いよいよ怖くなったら目をさませばいい。
夢がその先どうなったのか思い出せない。つぎに信子がおぼろな意識を覚えたときには窓のカーテンが白くなっていた。
――昨日はどこへ行ったの――
信子は布団のぬくもりの中で体を伸ばしながら自分自身に問いかけてみた。
上野美術館へ行き、男に誘われ、知らないホテルへ行った。その帰り道、男がマンションの工事現場に信子を連れて行き、階段を上った。
――いやな男――
はじめはちょっとすてきな男に見えた。
でも、とんだかいかぶりだったらしい。すぐに男の態度がぞんざいになった。耳ざわりな鼾をかいて眠っていた。寝顔が最低……。そのあと、男は目をさまし、ほとんど無理矢理といってよいほど乱暴なやりかたで信子を犯した。
――ひどいわ――
もっとすてきな男と会うはずだったのに。せっかくの夢を台なしにされてしまった。
――憎い――
そう思ったのは本当だ。
嫌悪が針のように鋭くなって、まっ赤な怒りに変わった。まっ黒い憎しみに変わった。
高い穴から男の顔がのぞいていた。
――殺したい――
どうしてそんな恐ろしいことを考えたのかしら。信子はとても信じられない。だから、それからのことは、みんな幻影みたい。叫び声も幻聴に似ている。
|枕《まくら》もとの時計を見ると、七時前。もう起きなければいけない。
布団はそのままにしておいて、まずごみを出しに行く。
「おはようございます」
「おはようございます」
近所の主婦たちと|挨《あい》|拶《さつ》をかわし、家に戻ってテレビのスイッチを入れた。画面の右すみに映る時刻だけを見る。ほとんど番組には関心がない。目を止めるのは天気予報……。
――夕刻は雨らしいわ――
お湯をわかし、コーヒーをいれる。
まず和彦が起き、それを追って子どもたちがつぎつぎに起きて来る。争って歯を磨き、顔を洗い、朝食はトーストとベーコン・エッグ。子どもたちは牛乳を飲む。
「夜には雨が降るらしいわよ」
「あ、そう」
折りたたみの傘を出して夫の|鞄《かばん》の|脇《わき》に置いた。
「行って来る」
「行ってらっしゃい。遅いの?」
「わからん。多分、遅い」
夫を送り出したあと、
「さ、用意、いいの?」
子どもたちの荷物をチェックし、連れだって幼稚園バスの停留所まで行く。
「おはようございます」
「おはようございます」
ここでも挨拶をかわす。
「あ、来た」
「来た、幼稚園バス」
子どもたちの黄色い声が飛ぶ。
「行ってらっしゃーい」
バスを見送って手を振る。
母親たちはひとつ腰を折ってお辞儀をかわし、それぞれの家へ帰って行く。起きてからここまでは毎朝毎朝ほとんどなんの変化もない。一連の流れ作業……。
信子自身が朝食をとるのは、そのあとである。コーヒーのあまりを温めかえし、ベーコンをチリチリにいためる。
テレビをつけたまま夫がテーブルの上に開いておいた新聞を見る。
テレビに映っているのは、犬が子どもに|噛《か》みついて大けがをさせた事件。
――うちも気をつけなくちゃね――
萌子も伸彦も犬が大好きだ。犬を見つけると、すぐにそばに寄って行って、手をさしのべる。愛想のいい犬ばかりとは限らない。
――もっと大切なことがあったはずだわ――
新聞をめくりながら、そう思った。朝のいそがしさに夢中で、ろくにテレビのニュースも見なかった。もちろん新聞も見なかった。見るのが怖かった。
――あとでゆっくり――
そんな意識があったのは、まちがいない。
新聞をめくる手が止まった。
列車の脱線事故。四つ子の誕生。静岡で竜巻きがあったこと……。左の下すみに小さな見出しで“建設中のマンションで転落死”と記してある。記事には日時と|浦《うら》|安《やす》市の住所が記してあって、そのあとに、
“……海ぞいの埋め立て地に建設中の十二階建てのマンション浦安シーサイドのエレベーター・ホールの底で、花田則夫さん(四二歳)が死んでいるのが発見された。花田さんはこのマンションの設計を担当した広池組の設計者で、十四日には工事もなく、たまたま資材の搬入に来た関係者がエレベーター・ホールの底から片足がつき出ているのを見つけ、警察に通報した。遺体の損傷から判断して相当に高いところから転落したものらしく、なんのために花田さんが工事を休んでいる現場に来て、高い階まで上ったか、警察は事情を調べている……” と書いてある。信子は三度くり返して読んだ。
浦安というのは、たしかディズニーランドのあるところだろう。幼稚園のバス旅行で一度だけ行ったことがある。
――上野に近いのかしら――
千葉県の東京寄りだから、車で一時間もかければ、きっと行けるだろう。
――あの人……。花田さんて名前だったのかしら――
ぴんと来ない。
それに、埋め立て地といえば、のっぺりとした広いコンクリートの敷地が広がっているところではあるまいか。
――私が行ったのは、もっと普通の感じの町だったわ――
もう一度新聞を確かめ、
――これはべつな事件かもしれないわ――
と信子は考えてみた。
建設中のマンションなんて、いくらでもあるだろう。建築の関係者がたまたま足を滑らせて転落することだってときおりあるにちがいない。
思案をめぐらしているうちに、信子はとても大切なことに気がついた。
昨日、声をあげて信子の足もとに落ちて行ったのが花田則夫という男だったとしても、信子自身がその男を突き落としたという、その部分の記憶がまるでない。
無性に憎くなったのは本当だった。殺意を覚えたのも……。怖いと思うほど激しい感情の高ぶりだった。
でも、はっきりと記憶があるのは、そこまで。次に覚えているのは男が声をあげて落ちて行ったこと……。そしてコンクリートの|屑《くず》がガラガラガラ。
――すてきな恋をしたかったのに――
信子が願っていたのは、ただそれだけだった。だれかを殺したいなんて少しも考えていなかった。|納《なっ》|得《とく》がいかない。新聞を読めば読むほど信子とは関係のない出来事のような気がする。
信子はハンドバッグの中をのぞいた。
財布とはべつなところに一枚、折り畳んだままになっていたはずの一万円札は、もう消えている。
――夢だったのかしら――
お金を拾う夢はよく見る。
目ざめて|枕《まくら》もとを捜したりする。見つかるはずもない。
そんなときの感覚によく似ている。
すぐに思い出した。
――|昨夜《ゆ う べ》、使ったんだわ――
ひとみと一緒に子どもたちを連れてファミリイ・レストランへ行ったときキャッシャーで一万円札を出して……。たしかそうだった。
――あの男が入れたのかしら――
つまり、一万円で買われたということ。あまりいい気持ちはしない。そんな了見の男だから足を滑らしてしまったのだろう。信子が|憧《あこが》れるような男でなかったことだけはまちがいない。
「あ、あーッ」
男の声が耳に残っている。
その少し前……おぼろに思い浮かぶイメージがいくつかあった。男が信子に近づいて来た。足もとにポッカリと大きな穴が開いていた。殺したいほどいやな男、そう思ったのは本当だ。いても立ってもいられないほどの嫌悪がこみあげて来た。
とっさに「あれ……?」と、穴の中を指さしたのは、なぜだったろう。穴の中になにかが見えたわけではない。第一、信子は怖くて、ほとんど穴の中を見なかった。
近づいて来た男が、指の先を確かめるように穴のふちに寄ってのぞきこんだ。体をかがめ、首を伸ばした。
その肩のあたりが、信子のすぐ目の前にあった。
そこで、一瞬、記憶が途切れてしまう。
男の叫び声を聞き、ガラガラとコンクリートの|屑《くず》が落ちて行き、あとはただ夢中で信子は走り続け、息が切れて速度をゆるめた。あえぎながら歩いた。
指をさしたのは、殺意があったから……。
でも、どうしてあんなに激しい殺意を抱いたのか、それがよくわからない。
――念力のようなもの――
列車の中で頭をぶつけたときから、信子の頭にそんなものが住みついてしまったらしい。
その念力のようなものが、あの瞬間、信子の頭から飛び出し、勝手に男の背中を押したのではないかしら。とりあえず新聞の記事を切り抜いて机の引き出しに隠した。
その日の夕刊、翌日の朝刊、信子は気をつけて捜したが、もう事故の記事は載っていない。
――やっぱり足を滑らせてしまったのね――
信子は胸を|撫《な》でおろした。
――なにも心配することなんかないんだわ――
一週間たっても、二週間たっても、今までと少しも変わりのない毎日が続く。
日時がたってしまうと……時間を置いて考えなおしてみると、疑わしいことがたくさんある。
――上野の美術館で本当に男に誘われたのかしら――
多分、これは本当のことなんだろうけれど、男に声をかけられ、ふらふらとついて行った自分が疑わしい。信じられない。よく確かめれば、ちっともすてきな男じゃなかったのに……。信子に誘いかけるのはもっとすばらしい男のはずだった。
ホテルですごした時間は、できれば現実のことと思いたくないし、
――上野って海の近くじゃないわ――
車に乗っていた時間の長さが、よく思い出せない。好きでもない男と、長い時間、車に乗っているはずがないじゃない? 途中で降りればよかった。それをしなかったのは、なぜかしら。わからない。
新聞記事の切り抜きを見た。
転落事故があったのは本当なのだろう。
でも、信子が会った男が花田則夫だとは……そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
――花田だなんて――
そんなきれいな名前はあの男に似あわない。だから……べつな人だと思いたくなってしまう。
それに……なにもかもみんな本当だとしても、一番|肝《かん》|腎《じん》なところが一番疑わしい。
信子がその男の肩口を押したのか、それとも男がうっかり足を滑らせたのか。
男の肩が目の前にあって、
「さあ、押しなさい」
そんな声が……いや、声とはちがった衝動が耳もとでうごめいたような気もするけれど、それもよくわからない。
――でも、押されもしないのに、男が足を滑らすものかしら――
頼りになるのは、新聞記事の切り抜きだった。とっておいてよかった。
記事には、だれかに突き落とされた、とは書いていない。“警察が事情を調べている”とは書いてあるけれど、その後、なんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もない。
つまり、警察が調べてみたけれど、ただの事故、そう決まったらしい。
――だったら、それが本当のことじゃないの――
そのほうが信子の気持ちもすっきりする。
ときおり耳の奥で「あ、あーッ」という叫びが聞こえるけれど、それも少しずつ間遠になった。日ごとに弱くなる。
しばらくは美術館通いをやめた。
でも、信子にはほかに楽しみがない。すてきな男とめぐりあって、知的な会話をかわし恋が芽ばえ……ロマンチックな|邂《かい》|逅《こう》はやっぱり美術館から始まらなければいけない。
――想像するだけなら、なんの問題もないわ――
この前はたまたまバッド・トリップをやってしまったけれど……。
信子はまたいそいそと美術館を訪ねるようになった。
エピローグ
何か月かが流れた。
「こんな旅もわるくはないわね」
小早川千鶴は列車の窓から快晴の空を眺めながら独りつぶやいた。
列車は熱海発の東京行き。普通列車。
一年ほど前にも千鶴はこの列車に乗って品川まで行ったのだが、そのことは忘れている。昨今はよく旅に出るので、いちいち覚えてはいられない。
この春、千鶴は旅仲間たちと一緒に箱根に行き、ロープウエイに乗って|駒《こま》ケ|岳《たけ》のてっぺんまで登ってみたのだが、あいにくの曇天。ほとんどなにも見ることができなかった。
今朝早く品川のマンションで目をさまし、めったにないほどの快晴を見て、
――行ってみようかしら――
と思い立ち、起きてすぐに家を出た。一人暮らしだからだれに気がねをする必要もない。
小田原駅でバスを待ちながら朝食をとり、駒ケ岳の頂上に登り着いたのが、正午少し前。
目もくらむような展望だった。
白く優美な富士山がまっ青な空を背景にしてくっきりと浮かび、視線を移すと、眼下に|芦《あし》ノ|湖《こ》がさながら大きな地図でも見るように広がっていた。花もたくさん咲いている。
駒ケ岳の頂上は広い。あちらの眺め、こちらの眺め、足の向くまま気の向くまましばらくは散策を楽しみ、山を降りた。
夜には次男の敏樹が訪ねて来る約束になっている。夕飯の仕度ができる時刻までには帰らなければいけない。
――水たきでいいんだから――
メニューもおおむね決まっている。手間はかからない。
なにも泊まりがけで行くことだけが旅ではない。朝早く出発すれば、東京の周辺にも見どころはたくさんある。
もちろん今の千鶴には旅先で宿泊することだってなんの支障にもならないが、たくさん旅をするためには費用も節約したいし、能率も考えたほうがいい。快晴を確かめたうえで出発できるのも日帰り旅行の長所だろう。
七、八時間のショート・トリップ。楽しさを充分に満喫した。心の底からひたひたと歓喜がこみあげて来る。
――こんな人生が用意されていたなんて――
神様も捨てたものじゃない。夫の良介にはわるいけれど、千鶴はそう思わずにはいられない。夫が死んでからというもの、よいことばかりが続いた。
千鶴のアルバムには……生まれてはじめて作ったアルバムには日本全国の花がたわわに咲いている。旅の思い出が少しずつ量を増していく。
秀樹の結婚も順調らしい。サラリーマン一年生の敏樹も元気でやっている。なにもかも怖いほどうまくいっている。一年前……離婚を考えみじめな一生を思っていたのが|嘘《うそ》のようだ。
――あらッ――
千鶴は首を|傾《かし》げた。
――あのときよ、たしか――
窓の外をぼんやりと眺めていた千鶴は、あわてて記憶の糸をたぐった。このあたりでゴツン、ゴツン、頭をぶつけたことを思い出した。
痛みはともかく、その直後、頭の中身が変わって……そう、なにかよいことが起きるような不思議な予感に包まれた。うれしいこともないのに笑いがこぼれた。
それが夫の死だった。
良介が生きていたら、こんなに気楽で、気ままな生活は望めない。
――私、かなり本気で離婚のことを考えていたんだわ――
これは本当だ。良介と一緒に暮らしていてもろくなことがない。気がつくのがあまりにも遅かった。
――でも、離婚をしてどうするの――
生きて行く手段はなにも持っていない。これまでなんとか我慢して来たのだから最後まで我慢を続けてみようかしら。決心がつかなかった。子どもたちが幼かったときはともかく、千鶴は結婚生活の大半をこのジレンマの中ですごして来た。そう言っても言いすぎではあるまい。良介は少しもよい夫になってくれない。むしろどんどんわるくなる。でも、家族を捨てて、千鶴はどうやって生きて行くのか。思いきって飛び出してみれば、なんとか道が開けるんじゃないかしら。でも、世間はそんなに甘くはないわ。思い悩んでいるうちにどんどん年を取ってしまう。
どれほどの時間とエネルギーをこの思案のために費やしただろう。
それがポンとどこかへ消えてしまった。
頭をぶつけたとたん、わけもなく、
――離婚なんかもう考えなくてもいいわ。もっといいことが起きるから――
そんな気がして来て、それがそのまま現実となってしまった。
間もなく孫が生まれるだろう。敏樹も遠からず結婚をするだろう。
子どもたちと一つ家に住めないのは残念だが、それは仕方ない。男の子は独立して、自分の巣を作らねばなるまい。昨今はそれが若い人の生活の形になっている。千鶴はスープのさめない距離にいて、みんなを見守っていよう。花を訪ねる旅を趣味として……。
どうやら頭をぶつけたとたんに、離婚の思案をだれかにさし渡し、代わりにほどよい家族関係をもらったみたい……。運命がそんなふうに変わったように思えてならない。
――こんなことって、あるのかしら――
と千鶴は首をひねる。
もしそうだとするならば、千鶴から離婚を渡されたのは、黒い流行のパンツを着ていた女……つまり原マドカ、ということになる。
この日、このとき、原マドカも同じ列車に乗っていた。シートはちがっていたが、千鶴と同じ車両の中、そう遠くない位置でやっぱり窓の外を眺めていた。
マドカは、今日も小田原に住む作家を訪ねて、その帰り道だった。
――いろんなことがあったわ――
一年ほど前、この列車に乗っていたときには、わが身にこんな変転が起きるなんて少しも考えていなかった。
「原君。今度は私と同業者かね」
「いえ、そんなこと、ありません」
「いや、いや。強敵、現る、だな」
小田原の作家はすでに知っていた。
マドカが推理小説を書いて新人賞に応募したところ、それがみごと入選。“赤い転落”……若い女流作家のデビューとなった。新人賞をとれば一応プロフェッショナルとして認められる。原稿の依頼も二つ、三つ、四つとやって来る。
しばらくは新人作家と編集者と、二足のわらじ。
――でも可能性があるのなら、思いきって|賭《か》けてみようかしら――
今のところ六分四分くらいの気持ちで編集者をやめることをマドカは考えている。
もう一つ、私的な大事件があった。
「|俺《おれ》、やっぱり家を出ることにするよ。あんたにはわるいけど」
洋は午後の外出にでも行くみたいに軽い調子で告げた。
――たいしたことじゃないさ――
それが洋のポーズである。
六本木のレストランで、洋が若い娘と親しげに食事をしているのを見た。普通の仲ではない。それは見てすぐにわかった。洋もその推測を否定しなかった。しばらくは冷戦状態のまま一つ屋根の下に住んでいた。洋もマドカもいそがしい仕事を持っているから、もともと顔をあわせることの少ない夫婦だった。
それに……マドカは小説を書きあげるのに夢中だった。
――今、そんなこと、やってるときじゃないでしょ――
そう思いながらも書き続けた。
洋の性格はよく知っている。マドカが泣いてすがってみたところで、自分のやりたいことをやめる人ではない。けっして冷淡な男ではないけれど、一番大切なことについては自分のわがままを絶対に通す。妥協はしない。
愛がなくなってしまったら……ほかの人をより深く愛するようになってしまったら、夫婦の|形《けい》|骸《がい》を引きずっていてもつまらない。これは正論だ。洋とマドカはそれを確認しあったうえで夫婦になった。そして今、洋がほかの女性に心を移し、それが一時の迷いでないのなら、採るべき道はおのずと決まっている。
――小説でも書いて、じっと静観――
それよりほかに仕方がない。マドカはその道を選んだ。
その結果……。
「ありがとう。すばらしい結婚だったと思うよ。あなたには感謝している。このマンションは譲るよ。小説、可能性があると思うな」
「それが結論なのね」
「ごめん」
マドカにも意地がある。
それに、正直なところ、それほど悲しくはなかった。
――男と女の仲なんて、相対的なものだわ――
若いころからマドカはそう思っていた。
つまり、一方がいやになるときは、タイミングの差こそあれ、いずれもう一方もいやになる。ただ、そのことに気づくのが遅れるだけ。もし、むこうがモタモタしていたら、きっとこっちが先に別れを言いだしていただろう。
――それよりも新人賞だわ――
運命の神様に対して「離婚と引きかえに新人賞をください」と、そう願ってみたいような心境だった。事実、冗談半分に独り願ってみたりもした。
「ねえ、本当のこと、言って。私の小説、かなりいい?」
洋の目ききを信じていた。
「いい」
「このさいだからって、慰めは言わないで。本当のこと言って」
「自信を持っていいよ。先々のことまではわからない。でも、“赤い転落”はわるくない。最終予選までは行く。入選も夢じゃない」
「本当に?」
「本当だ」
洋の目をのぞいた。|嘘《うそ》は言っていない。
そして、洋の保証はもののみごとに的中した。神様もマドカの望みをかなえてくれたらしい。離婚と新人賞がほとんど同じ時期に転がりこんで来た。
――不思議だわ――
離婚なんて少しも考えていなかった。小説を書いて新人賞をとることだって……。
――この前、この列車に乗ったとき――
頭をぶつけた。二人の女と……。
向かいの席に腰かけていたのは、|冴《さ》えない様子の、五十近くの女性だった。今、思い返してみると、
――あの人、家庭がうまくいってなかったんじゃないかしら――
たとえば列車の中で熱心に離婚のことを考えていたりして……。それが頭をぶつけた瞬間にポンとマドカの中に|跳《は》ね移って来て……。信じられないことだが、あの瞬間からマドカの頭の中が、運命が少し変わった。
――私は、あのときなにを考えていたかしら――
たしか推理小説を読みながら人を殺すことを思っていた。
――人を殺すときって、どんな感じがするのかしら――
想像して、激しい恐怖を実感した。そのときに列車が揺れ、ゴツン、ゴツン、頭をぶつけた。
――だれかに移しちゃったかしら――
殺人の恐怖を。人を殺してみたくなる心理を……。
まさしくその恐怖は、窓際にすわっていた伊駒信子に乗り移ったらしい。
信子もまたこの日、このとき、同じ列車の、同じ車両の中に立っていた。小田原の美術館でキリコの小品展をやっている。日よりもよいので、それを見に行き、
――今日はなんの収穫もなかったわ――
あまりロマンチックな夢を描くことができなかった。
「あ、あーッ」と、頭の片すみで男の声が流れる。ずいぶん間遠にはなったけれど、ときおりかすかに聞こえる。
いまだによくわからない。
――本当に私が押したのかしら――
心の中に強い恐怖が宿っていたのは本当だ。その恐怖が殺意に由来するものだと気づいたとき、すぐ近くにいやな男が立っていた。目の前にポッカリと深い穴が開いていた。
――人を殺したいなんて、考えたこともなかったわ――
そんな恐ろしいこと……。
風邪のビールスを移され、急に熱が出て気分がわるくなるように、なんだか得体の知れない恐怖に襲われたのは本当だった……。
――あんなへんな男と会うはずじゃなかったわ――
それが心外だった。もっとすばらしい、知的で、ハンサムな王子が信子の肩をたたくはずだったのに……。
列車に揺られながら信子は額をさすってみた。
――ここで頭をぶつけたとき――
痛みはすぐに消えたが、あのときから不思議な恐怖が心の奥に巣食ったような気がしてならない。
――たしか熱海の美術館からの帰り道――
熱海のホテルで男に抱かれ、たとえようもないほど甘美なひとときをすごし……もちろんそれは信子の想像の中の出来事でしかなかったのだけれど、そうであればこそ、その|余《よ》|燼《じん》は列車の席にすわってからも燃え続け、空想がふたたび赤く炎をあげたとき、
ゴツン、ゴツン、
と、頭をぶつけた。
信子の前にすわっていたのは、若い女。結婚はしているみたい……。落ち着いた感じの女だった。
――不倫の願望が伝わったかもしれないわ――
その女に……。ちょうど信子が恐怖をだれかから移されたみたいに。
驚いたことに、この日、この列車に、その女もまた偶然に乗りあわせていた。久賀めぐみ。彼女は|真《まな》|鶴《づる》でおこなわれた葬儀に、夫のかわりに参列して帰るところである。
――この前は病気のお見舞いだったけど――
その人が死んだ。
だれかが死に、だれかが生まれる。そして世の中が少しずつ動いて行く。
あの日は雨が降っていた。
今日はみごとに晴れあがっている。季節も変わっているけれど、ところどころ見覚えのある風景がある。川と鉄橋、駅前の商店街……。普通列車は駅ごとに停車し、大船をすぎた。
――あのときは窓ぎわの席――
めぐみは進行方向に背を向けていた。四つのシートに四人の女性がすわっていた。|元《げん》|禄《ろく》|飴《あめ》を勧めてくれた人がいて……。
あの日、病人はすでに死を知っていた。めぐみの見舞いをねぎらい「よいお子さんをお生みなさいね」と言ってくれた。
帰り道、めぐみもただひたすらそのことを考えていた。
――すばらしい家庭を作りたい。目のキラキラ輝く、賢い子どもたちに恵まれて――
そんなイメージで頭の中をいっぱいにしているとき、突然列車が揺れ、ブレーキがきしみ、まわりの女性たちと頭をぶつけた。
一瞬、幸福な家族のイメージがめぐみの頭から飛び出し、ストンと隣の女の頭に移った。そんな光景を……目で見たはずもないのに、わけもなく感じた。
――あの女の人、幸福になったかしら――
|冴《さ》えない表情の、五十近い女性だった。すでに読者諸賢はお気づきだろう。その五十近い女性が小早川千鶴だったことを。夫と死別し、思いがけず幸福な生活を営むことになった、あの人である。
その千鶴は離婚の思案をマドカに移し、マドカは殺人の恐怖を信子に移した。
千鶴の場合は……離婚の願いを夫の死亡という形でかなえられ、あらたに幸福な家族関係が加わった。マドカの場合は……殺人の妄想が推理小説に昇華され、思いもかけない離婚に見舞われた。信子の場合は……そう、不倫の願いはいびつな形で実現され、どうやら殺人の衝動を移されてしまったらしい。
めぐみも当然のことながら、この伝達の輪に参加している。
めぐみはエリートの家庭を夢見ていた。不倫の願いを信子から移され、めぐみにしては信じられないほど大胆に志水隆広と体を交えた。志水はとても頭の鋭い、本物のエリート……。目のキラキラ輝くような。
――きっとよい子が生まれるわ――
志水がアメリカへ発ったあと、三か月ほどたって妊娠を知った。
夫の二郎に過大な期待をかけてはなるまい。
――これは志水さんの子ども――
めぐみの願いもかなえられるにちがいない。
四人の女性はたまたま今日も同じ車両に乗ったけれど、だれもそのことに気づかない。列車は一年前の事故現場を通り過ぎ、四人が四人とも、
――不思議ね――
と首を|傾《かし》げる。人生には時折こんなわけのわからないことがある。人込みの中で思いもよらない運命を移されたりして。
本書は、平成二年四月に当社より刊行された単行本を文庫化したものです。
|空《くう》|想《そう》|列《れっ》|車《しゃ》(下)
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C)  Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『空想列車(下)』平成4年12月10日初版発行
平成7年 1月20日再版発行