角川文庫
空想列車(上)
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
プロローグ
1 信 子
2 めぐみ
3 千 鶴
4 マドカ
プロローグ
朝から降り続いていた雨も小降りになったらしい。
それとも、もう降り|止《や》んだのかしら。
列車の窓からガラス越しに雨の糸をたどるのはむつかしかった。通行人を見つけて、傘をさしているかどうか、それを確かめればいいのだが、線路沿いの道には人影もない。しばらくは倉庫のような建物が続いている。
ようやく赤い傘を一つ認めて、
「まだ降ってるのねえ」
と、|伊《い》|駒《こま》信子が独りごとのようにつぶやいた。
|熱《あた》|海《み》発、東京行きの普通列車。車両の後部に四人がけの座席があり、四人の女がすわっていた。信子は窓側の席に、進行方向へ顔をむけて腰をおろしていた。
その|膝《ひざ》のすぐ前で久賀めぐみが週刊誌のページをめくっている。信子の声を聞いて窓の外に視線を移した。
しかし、あいづちを打つわけでもない。
「午後には晴れるような話でしたがねえ」
ななめ向かいの席から小早川千鶴が答えた。片足を通路のほうに踏み出している。四人がけの席は四人ですわるには少し狭い。
もう一人、信子の隣で文庫本を読んでいた女は、チラリと目をあげたが、またすぐにもとのページに視線を戻した。膝に載せた布製のバッグにM・Hと|刺繍《ししゅう》がほどこしてあるのは、原マドカのイニシャルだろう。
土曜日の四時過ぎ。車内は座席がちょうど埋まるほどの込みようである。ドアの近くに三、四人、立っている乗客の姿が見える。
列車がスピードを落とした。
駅が近づいたのだろう。窓の外の傘が少しずつ多くなる。だが、傘をさしていない人の姿もあるから、さほどの降りではないらしい。夜に入れば予報通りに雨はあがるだろう。
四人の女たちは顔見知りではない。たまたま同じ列車の同じ一郭に乗りあわせただけのことである。
伊駒信子は熱海で乗った。
久賀めぐみが乗ってきたのは|真《まな》|鶴《づる》だった。
小田原に着いて、小早川千鶴が、
「ここ、あいてます?」
と尋ねてすわった。
女性は、やはり女性が腰かけている一郭を選ぶ。男性三人に囲まれて行くのはつらい。
「すみません」
黒い上着に黒いパンツの原マドカが乗って来たのも小田原だったろう。
四人の女は、年齢も、顔立ちも、立場も,この列車に乗っている事情も、みんなそれぞれちがっている。
めずらしくもない。毎日の生活には、こんな瞬間がいくらでもある。
列車が|国《こ》|府《う》|津《づ》に着き、思いのほか長い停車時間のあとで、ガッタンと一つ揺れて走りだした。
伊駒信子は熱海の美術館を訪ねた帰り道だった。今朝、子どもたちを幼稚園へ送り出し、夫が会社へ出るのを待って家を出た。家は品川の海寄りにある。往路は急行を利用したが、帰りは熱海駅に来て、出発を待っている普通列車に乗った。
美術館めぐりは最近覚えた趣味である。たいてい一人で行く。絵を見ることも好きだが、それ以上に、だれにも束縛されずに美術館の静かな部屋をめぐるのが好きだった。ウイークデーの美術館は、特別な催し物でもないかぎり人数は少ない。洗練されたたたずまい。美しい内装。日常性を離れた、ロマンチックな気配がある。
小さな冒険……。
電車で遠出をしたときは、さらにこの感覚が強い。まったくの話、訪ね歩いてみると、東京と東京の周辺にはほどよい美術館や博物館がたくさんある。一つ一つ計画を立ててめぐり歩く。ときには当てがはずれて落胆することもあるが、それがまた楽しい。失敗があればこそ、成功したときの喜びが大きい。
夫にも、子どもにも話さない。うちあけてみてとくに不都合はなかろうけれど、だれにも知られていないこと自体が少し楽しい。
小さな秘密……。
そんな情況に身をひたしているうちに、なにか思いがけない出来事に遭遇するかもしれない。映画の中の登場人物みたいに……。
熱海の美術館は、ある宗教団体が運営するもので、
――宗教って|儲《もう》かるのね――
釈然としない気持ちも少し味わったが、そんなことに今さら義憤を感じてみても始まらない。|贅《ぜい》|沢《たく》な雰囲気はそれなりに心地よいものだった。いくつものエスカレーターが連なり、さながら天国へでも昇って行くような感覚だった。
――なんの映画かしら――
思い出すものはなにもないのだが、信子の心の中には一つの風景がある。一つの物語がある。
ヒロインが美術館の回廊で絵を眺めている。
「きれいな色彩ですね」
声に驚いてふり向くと、男が立っている。
信子自身は、ついこのあいだの誕生日で三十五歳になった。だから、男の年齢は四十歳くらいがよい……。背広を着た、感じのいい男。美術館に来るくらいだから、センスはわるくない。
「本当に」
はにかみながら信子が答えて、そこから物語が始まる。
――映画じゃなく、小説かもしれない――
列車の振動に体をゆだねながら、ぼんやりと考えた。今までに見聞した物語ではなく、これから始まることかもしれない。そんな予感を抱くのが好ましかった。
久賀めぐみは、週刊誌の占いのページに目を止めた。占いなんか本気で信じたことはないけれど、そんなページがあれば、たいてい自分を当てはめてみる。
十月二十七日生まれのさそり座。
さそりなんて絵でしか見たことがないのだが、さそり座という名辞はまがまがしい響きがあって、きらいではない。星占いにはそのほうがふさわしい。
――今まではあんまり平凡すぎたから――
これは本当だ。
四国の松山で育って、地元の短大を卒業した。そして市内のデパートに勤めた。
勧めてくれる人があって、東京のサラリーマンと見合いをし、望まれて結婚に踏み切った。
――東京へ行ける――
地方に住む者のつねとして東京の生活には一定の|憧《あこが》れを持っていた。松山はけっして小さい町ではないけれど、一生そこで暮らすのは夢がなさすぎる。やっぱり田舎は田舎である。
デパート勤務は家具売り場だった。豪華なベッド。豪華なソファ。売り場のすみに造られたキッチンは、快適な生活をまのあたりに感じさせてくれる。めぐみが育った家の台所とはおおいにちがっていた。
東京へ行けばそんな生活が待っていると、そう単純に思い込むほど世間知らずだったわけではない。
夫は|世《せ》|田《た》|谷《がや》の地主の次男坊。区役所に勤めている。
「東京で土地があれば、それだけで言うことがないさ」
「勤めも堅いところだし」
経済的な条件が、めぐみに結婚を承諾させた第一の理由だったろう。
――東京で豊かな生活が送れる――
期待は半分ほど報われたが、どこか少しちがっている。
夫の親からもらった土地にマンションを建て、その一郭を新婚の住まいとした。家具売り場の豪華な家具を並べるほどの生活ではないけれど、自分の家があるだけでも恵まれている。夫の給料はけっして高くはないが、そのことにはさして不満はない。
だが、結婚をして九か月。
――こんなものなのかしら――
早くも|倦《けん》|怠《たい》感を覚えるようになった。ひとことで言えば、夫に対する不満だろう。
――この人なにを考えているの――
まじめな人にはちがいないが、|冴《さ》えたところが少しもない。田舎の人よりもっと田舎くさい。おそらく頭のいい人ではないだろう。たいした学校を出ていないことは初めからわかっていた。でも、
――人間の価値は学歴なんかじゃないわ――
これは一つの真実である。あのときはとりわけめぐみの気持ちがそんな方向へ傾いていた。このごろはむしろ、
――男は頭のいい人がいい――
もちろんお金も大切だけれど……。
結婚をしてみて、めぐみは自分が人生についてなにを望んでいるのか、少しずつわかるようになった。
たとえば、よい家庭……。
――だれだって、そうだろうけれど――
よい家庭の中身が少しずつ明確になったと言えば、わかりやすい。
上の下くらいの経済生活。庭つきの家に芝生が植わっていて、玄関の|脇《わき》には白い自動車が|停《と》まっている。夫は仕事もよくやるが、家族も大切にする。一家の|団《だん》|欒《らん》……。子どもたちは、父親の話に耳を傾ける。父の話は、とてもおもしろい。ためになる。ユーモアをまじえ、おもしろさの中に、教養の深さが感じられる。子どもは二人か三人くらい。男の子は賢くて女の子は器量よし。みんな輝かしい将来が約束されているような子どもたちである……。
――でも現実はちがうわ――
経済生活のほうは理想通りにはいかないまでも工夫のしようがある。娘の器量は、
――私の遺伝なら大丈夫――
われながら多少の自信はある。
遺伝といえば、心配なのは、男の子のおつむのほう。めぐみの夫は、どうひいきめに見ても教養とは縁が薄い。|面《おも》ざしは思慮深そうだが……少しだまされちゃったみたい。本箱にはろくな本が並んでいないし、一番の趣味はカラオケを歌うこと。将棋も好きらしいが、努力のわりには腕はあがらない。頭がわるいのだ。
――こんなことでいいのかしら――
子どもたちには第一級の人生を歩んでほしいと思う。めぐみは子どもが生まれないうちから、そんなことを考えている。
今日は真鶴の病院まで知人の見舞いに行った。干魚の|匂《にお》いが町のところどころにこもっている。めぐみはあの匂いが好きになれない。列車に乗っても、まだ匂いが追って来るような気がする。
――早く晴れてくれればいいのに――
垂れこめている雲もうっとうしい。週刊誌もつまらないし……。
小早川千鶴は小田原に住んでいる。夫は仕事一筋のサラリーマン。定年もそう遠くないから、ここ数年が役員として残れるかどうかの分岐点。必死になって働いている。
そんな夫に連れそって二十数年を過ごして来た。生活を切りつめ、子どもを育て、
「|私《わたし》ゃ、やりくり三段ですからね」
そうつぶやくのが、千鶴の得意のジョークだが、本当にレジャーなどとは縁遠い人生だった。
夫は文字通りの亭主関白。やたらにいばっている。気むつかしくて、一緒にいて落ち着かない。楽しめない。ゆっくり考えてみると、千鶴はずっとお手伝いさんのような立場を演じて来たような気がする。
少し不満がある。家が遠いので、夫は品川にワンルームの宿を持っている。今日はそこへ掃除やら洗濯やらをしに行くところだった。
原マドカの職業は編集者。小田原に住む作家のところへ原稿を取りに行き、その帰り道である。たいていは新幹線を利用するのだが、|向河原《むかいがわら》に住む挿し絵画家のところにも立ち寄らなければいけない。そのために川崎で降りて南武線に乗る。
――首都圏は広いから――
つくづくそう思う。寄稿家の住所は一都六県にまたがっている。能率よくまわらなければ仕事にならない。
電車の中ではもっぱら推理小説を読む。今読んでいるのはヘンリー・スレッサーの短篇集。前から読みたいと思っていた本だが、小田原の本屋で偶然見つけた。切れ味が鋭いので楽しめる。
――私が殺すとしたら、やっぱり夫だな――
ときどきそんなぶっそうなことを考える。
マドカの夫はテレビ番組の制作会社に勤めている。
「私、普通の奥さんにはなれないわよ」
「いいよ。気ままにやろう」
そう約束して始めた結婚生活だった。
もう六年になる。子どもはない。
おたがいに不規則な仕事を持っているから、すれちがいが多い。東中野のマンションには、どちらも眠るために帰るようなものだ。
新婚のころは心に張りがあったけれど、少しずつ風化して、今はただの同居人同士のような気分になってしまった。
――あの人、浮気してるな――
確証はないが、|匂《にお》って来るものがある。怒る気にもならない。そのあたりがむしろ夫婦として一番困ったことなのだろう。
――男より仕事のほうがおもしろい――
編集者としてようやく一人前に扱われるようになった。つらいこともあるが、やり|甲《が》|斐《い》はある。自由に生きるのはわるいことじゃない。
だから……と考えるのは、論理に少し飛躍があるだろうけれど、ミステリーを読むときには心のどこかで夫殺しを考えている。
――このトリックなら、きっとうまくいくわ――
と、|膝《ひざ》を打つ。
しかし、現実は推理小説のようにうまくは運ばない。それも充分にわかっている。わかっているから、あれこれ想像する。
頭の中で考えているぶんには、どんなことを思ったってさしつかえない。罪には問われない。脳みそほど自由な世界はほかにない。
もし人間の頭の中をすっかりのぞくことができたら……。考えていることがありのままに映し出されるとしたら……。だれしもが、ずいぶんと恐ろしいことを考えているにちがいない。
きっとミステリーのファンは、身近の人を殺しているだろう。そうした代償性がミステリーの魅力の一つであることはたしかである。
マドカのななめで、久賀めぐみは、週刊誌を閉じながら、
――これで二百八十円。高いわ――
と思った。
真鶴から品川まで、一時間半の退屈を慰めてほしいと思い、駅のキヨスクで女性週刊誌を買い求めた。
――まだ半分も来てないわ――
あらかたはスターが結婚したの、離婚したの、出産したの、といったたぐいの話。それからファッションと料理と健康と……。目の中を滑って行く程度の記事ばかりだ。多少なりとも興味を持って読んだのは、星占いのページくらい。“南への旅は思いがけない出来事に遭遇します”と記してある。
真鶴は東京から見て南の方角に当たるだろう。
――知人の病気見舞いは旅のうちに入るのかしら――
英語で言えば旅は“トリップ”。近所をひとめぐりするのも“トリップ”である。一時間半も列車に乗れば、りっぱな旅だろう。
――で、なにか思いがけない出来事が起きたの――
自問自答してみても、思い当たるものはない。
あと一時間たらずのうちに……。
――だめね。まるで可能性なし――
ふと気がつくと、ま向かいの席にすわった女が週刊誌に視線を注いでいる。読みたいのかもしれない。どうせ捨ててしまうのだから読みたい人がいれば「どうぞ、どうぞ」と勧めてあげたい。でも、わけもなくためらわれてしまう。東京では隣同士でもあまり親しく声をかけたりはしない。
それでも思いきって、
「ご覧になります?」
と告げて、相手の反応を確かめてみた。
「あ、どうも」
笑顔で受け取る。
その様子を見ていた小早川千鶴がバッグの中の|飴《あめ》の袋を取り出し、
「いかがですか。とてもめずらしいの。小田原で見つけたんですけど」
と、さし出した。
古風な千代紙みたいな、きれいな模様をつけた飴。|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》の装飾に似ている。
「あら、きれい」
伊駒信子が一つぶつまんだ。
「|元《げん》|禄《ろく》飴って言いますのよ」
千鶴はちょっと得意そう。
「すみません」
勧められて、めぐみも一つぶ掌に載せた。
白い紫が|縞《しま》を作っている。矢がすりのようなデザイン。ほかにもさまざまな色あいや模様がある。
「お一つ、いかがですか」
千鶴は本を読んでいる原マドカにも声をかけた。
「どうも」
マドカは指を伸ばして、千鶴の掌の中の飴をつまんだ。
――ダイエットをやっているの――
甘いものは肥満の大敵である。
だから食べる気はない。せっかく向かいの席の人が勧めてくれたので、もらっただけのことだ。
だが、飴の色模様は本当に美しい。包み紙のデザインかと思ったが、そうではない。飴自体に趣向がこらしてある。いろいろな飴がまじっている。
マドカが取ったのは円筒型の飴で、横に三色、歌舞伎の引き幕みたいな色あいに塗ってあった。
――カラーページで紹介しようかしら――
職業意識が首を持ちあげる。飴を売る店のありかを聞こうと思ったが、尋ねたとたんに世間話に引き込まれるかもしれない。向かいの席の女はきっかけを求めて飴を勧めたのではあるまいか。マドカが読んでいる本は今が一番おもしろいところ。夫殺しは着々と進んでいる……。
うまいぐあいにマドカの隣にすわった女が……伊駒信子が、飴を|頬《ほお》|張《ば》りながら尋ねた。
「どこに売っておりますの、これ」
「ええ。小田原デパートの食品売り場で」
「そうですの」
「昔のお菓子のほうが情緒がありましたわねえ」
「はい」
信子はうなずきかけたが、
――私、そんな年じゃないわ――
と思って動作を途中で止めた。
四人の女の中では、飴を勧めた千鶴が一番年かさである。四十代の後半……。来年は五十歳になる。
信子とマドカは三十代のまん中。どちらも結婚をしているが、子どもがいるのは信子のほうだけ。マドカは服装も化粧も若々しい。編集者という仕事がマドカを若く見せているのだろう。
だが、器量そのものは信子のほうが美しい。色が白いし、まなざしが夢見るように揺れる。ちょっと悩ましい。男なら誘ってみたくなるのではあるまいか。ただの近視かもしれないけれど……。
一番若いのは久賀めぐみ。二十代の後半に入ったばかり。この人もよい器量だが、今日の服装はちょっとやぼったい。グレーのスーツ。流行に関係なく、いつの時代にも着用できるデザイン。
――学校の先生みたい――
マドカは見たとたんにそう思った。
もっともめぐみの用向きは知人の病気見舞いだった。おしゃれをして行く必要はなかった。
着飾っているのは美術館を訪ねた信子である。マドカの黒い上着とパンツは、このごろよく見かけるファッションだ。千鶴の服装は普段着とそうは変わらない。
「昔のお菓子屋さんには、ガラスをななめに入れた箱がたくさん並んでいて……」
千鶴が手ぶりをそえて話したが、だれも真剣には聞いていない。
マドカの視線は文庫本に戻り、めぐみも外の雨を眺める。うなずいていた信子も、たった今、めぐみから借りた週刊誌をめくり始めた。千鶴は話をやめた。
四人はたまたま同じ列車の、同じ一郭にすわっただけのこと……。
――こりゃ、だめだわ――
マドカは首を|傾《かし》げた。おもしろい作品だが、実用には向かない。小説の主人公は奇術師。体を縛られ、箱の中に入れられ、箱に錠をかけ、しかも、その箱が水の中に沈められてしまう。そこからみごとに脱出して見せるという奇術……。マドカもテレビで見たことがある。
奇術師の妻が夫を殺そうとして|鍵《かぎ》をすりかえておく。奇術師は脱出できない。
夫の職業が奇術師だから使えるトリック。だれしもが応用できるしろものではない。マドカの夫はテレビ番組の制作会社に勤めているのだから……。
もちろんマドカはいつも夫殺しを考えて小説を読んでいるわけではない。小説は小説として楽しむ。マドカの読書は圧倒的にミステリーが多いけれど、それだけではない。歴史物も読むし、恋愛小説も読む。
――でも、私って、心のどこかに殺人願望があるみたい――
身近の人をたいてい頭の中で殺している。編集長も、同僚も、親だって……。なぜそうなのか、自分でもマドカはよくわからない。
――つまり趣味――
“たで食う虫も好き好き”と言うではないか。
趣味といえば、千鶴は旅にあこがれている。目を閉じると豊潤な水の流れと、あやめの花が映る。実際に見た風景ではない。知人が写真で撮って来て見せてくれた。
「そんなとこ、いかんでもいい」
夫の不機嫌な声が千鶴のイメージを裂く。あの声のせいで千鶴は水郷めぐりのバス旅行に参加できなかった。夫は千鶴が楽しい思いをすること自体が気に入らないらしい。
――もっといろんなことをしてみたい――
駅の壁に張られた観光地のポスターを見るだけで胸がときめく。
そのとき、めぐみがふっとため息をついた。
――こんなことでいいのかしら――
なにがどう不安なのか、めぐみは自分でもよくわからない。やがて子どもが生まれ、家族の生活が始まるだろう。
――よい子を育てなくちゃあ――
めぐみは最近になってはじめてエリートという言葉の意味を知った。目のキラキラ輝く、いかにも賢そうな子どもたち。そんな子を育てるにふさわしい家族……。
――私はそれを求めて東京へ出て来たのではなかったかしら――
めぐみは松山の兄の家を思い浮かべた。子どもが二人いるが、あまり賢くはないらしい。
「こいつの頭がわるいから、どうしようもないんだ」
と、兄は兄嫁を指さす。
――そんなのんきなこと言ってていいの? 男の子が二人もいて――
と、めぐみは思った。
「体が丈夫なら、なんとかなるものよ、世の中は」
兄嫁はさして気にする様子もなく笑っていた。本当にそう思っているのだろう。
――でも人間は向上心を失ったら、おしまいだわ――
夫の顔が浮かんだ。
不思議なことにめぐみの夫は面ざしだけはとても賢そうである。だが、向上心はない。賢くもない。めぐみがよほど締めてかからないと、よい家族を作るのはむつかしい。
――楽しいことを考えよう――
できのよい子どもたちに囲まれ、毎日毎日期待に胸をふくらませている家族の風景をめぐみは想像した。このひとときはすばらしい。
一方、信子は週刊誌のページをくっていたが、それほど身を入れて見ているわけではない。
挿し絵に目が止まった。
ネオンのともる街角。男と女のうしろ姿が暗い路地へ入って行く。次のページはベッドで抱きあっている二人。
雑誌を閉じた。
――男と女はどこで知りあうのかしら――
夫とは職場で結ばれた。
恋愛結婚にちがいないが、心の高ぶりを充分に味わったとは言えない。まだまだおいしいご|馳《ち》|走《そう》が残っているのに、最初のお料理だけを食べて帰って来てしまったみたい……。そんな感じの交際だった。十年も昔のことだが、心残りがある。
列車の窓の外には、たくさんの屋根がひしめいている。それぞれの屋根の下に人が住んでいる。今、恋のまっ最中の人もいるだろう。多分、不倫の恋も……。
「どうもありがとう」
雑誌を前の席の女に返して信子は目を閉じた。
さっき止まったのが|大《おお》|磯《いそ》だったろう。どの駅もよく似ている。どの街もよく似ている。
千鶴が|飴《あめ》の袋をハンドバッグの中へ戻した。
四人の女のうち一人が窓の外をぼんやりと眺めている。なにか考えている。二人が目を閉じている。眠っているわけではない。頭の中に空想を広げている。
それぞれが夢を走らせている。
本を読んでいる女も同様だった。
四人が四人とも、とめどない空想を頭に描く癖を持っていた。
ゴトン、ゴトン。列車の響きがそんな思案にはずみをつける……。
1 信 子
伊駒信子の旧姓は佐藤である。
――佐藤信子なんて、日本中に何人いるかわかりゃしないわ――
平凡な名前は信子の好みではなかった。
事実、小学校、中学校、短大と続いた学校生活の中で同姓同名には六人もめぐりあった。とりわけ高校のときには、親しいグループの中にもう一人佐藤信子がいて、こうなると現実に不自由なことも起きる。成績表をまちがって渡されたりして……。
周囲の者は肌の色あいをよりどころにして“白砂糖”“黒砂糖”と区別していた。今でも昔の仲間が集まれば、この呼び名を言う。
信子は色が白い。
――せめて信子のほうだけでもなんとかしてくれればよかったのに――
と、両親を恨んだこともある。姓のほうが平凡ならば、下半分だけでも工夫してくれればいい。
姉の名は杏子である。“ももこ”と読む。
こちらは、まあ、めずらしくはないが、けっして月並ではない。
――私のときは、いい加減につけたんじゃないのかしら――
ひがんだこともあった。
姉の杏子に言わせると、
「あら、私の名前なんか、ちゃんと読まれたこと、ないわよ。たいてい“きょうこ”って呼ばれるでしょ、なおすのが面倒くさくなっちゃって……。そのままにしておくと“ももこ”と“きょうこ”と両方ができちゃうの。結構不自由なもんよ。その点、あなたはいいわよ。まちがえられっこないもの」
となる。
信子に比べると、姉はずっと現実的な性格の持ち主だ。子どものときから算数が得意だった。今でも新聞の株式欄を愛読し、家計簿をしっかりとつけているらしい。
――お姉ちゃんは、まるでロマンチックじゃないんだから――
と信子は思い続けている。
むしろ両親としては、姉のほうに信子、妹のほうに杏子とつけたほうがよかっただろう。姉妹の話を聞いていると、そうなる。
生まれた子どもに名前をつけるとき親には、それぞれなにかしら考えや願いがあってつけるのだろうが、子どもが大きくなってみると、
「名前とずいぶん感じがちがうじゃない」
とか、あるいは、
「お兄さんと逆のほうがよかったわね」
などと言われるケースも多い。
当人も、
――あっちの名前のほうがよかったなあ――
と思ったりする。
信子の場合はまさにそれだった。もっと響きの美しい名前のほうがほしかった。
だが……信子という平凡な名前を与えられたからこそ、特別なものへの|憧《あこが》れを強く抱いたのかもしれない。逆に杏子という名前をつけられ“ももこ”と読むことを|強《し》いられていたら、信子だって、
「月並のほうが世話がやけなくていいわ」
と、現実主義を主張したかもしれない。
女二人だけの姉妹である。
両親はいつも、
「同じように育てたのに、性格はまるでちがうんだから」
と、言っている。
ここにも微妙な問題がある。
新しく生まれて来る子どもにとって、自分のすぐ上に姉がいるのは、それだけで大変な影響を受けることだろう。第一子としてだれもいないところに生まれて来るのとは、まるでちがっている。この情況を考えれば“同じように育てたのに”という|台詞《せ り ふ》は成り立たない。事情が姉と妹をけっして同じようには育てない。姉の杏子が現実的であったぶんだけ信子のほうは反発して夢見がちになったのかもしれない。
信子は幼いときから目が大きく、まなざしに特徴のある子どもだった。
「信ちゃんは、いつも遠くからだれかが来るのを待ってるみたい」
たしかにそんなまなざしである。
近視のせいもあるけれど、表情はやはり性格を表す。
信子は、思い出してみると、
――ある日、突然、王子様が私を連れに来るかもしれない――
と、そんな思案を心のどこかにずっと抱き続けていた。そんな気がする。王子様の実体ははっきりとしないけれど……。信子自身の年齢によってそれは異なっていただろう。
童話が好きだった。
姉の杏子が独特なふしまわしで読んでくれた。ほとんど感情を混じえない平板な読みかた……。だが、かえってそのほうが想像力を駆使する余地がある。
流れるような音声を聞きながら信子はイメージをふくらませた。
自分で読むのはあまり好きではない。あれこれ想像ばかりしていてページが進まない。たった一つのお話をもとにして、いくつものバリエーションを考えた。
お話が信子の希望通りに終わらないときは本気で悲しんだ。くやしがった。あまりいつまでもこだわっているので、
「ただのお話じゃない。本当にあったことじゃないでしょ。ばかみたい」
そう母に言われても、信子は気持ちが治まらない。自分とはなんの関係もない、ただの|絵《え》|空《そら》|事《ごと》とわかっていても……むしろ、そうであればこそ、もっとすてきな夢を見たかった。
幼いころの信子がとりわけ気にかけていたのはアンデルセン童話の中の“人魚姫”の話だったらしい。
信子自身はよく覚えていないのだが……と言うより、ほかにもまだたくさんこだわったお話があったような気がするのだが、姉の杏子はいつも“人魚姫”のことを言う。
人魚姫が王子に捨てられ、人間にもなれず人魚に戻ることもできず、水の泡となって消えてしまう。それが信子は気に入らなかった。
そのあたりの気分は漠然と覚えている。
「信ちゃんたら、どうでもハッピー・エンドにしてほしいってせがむんだから」
幼い脳みそは、どんなふうにストーリーを変えれば満足したのだろうか。たとえば、王子が口のきけない人魚姫を見て、なにかのきっかけで、
「あなたが私の命を助けてくれた人ですか」
と気づき、姫のやさしい心を知って結婚を申し込む。まあ、そんなところだろう。
姉の杏子には、|依《い》|怙《こ》|地《じ》のところがあったから、
「それはできないの。そんなことしたら、せっかくのいいお話が駄目になっちゃうでしょ。このお話は最後がこういうふうになっているから、いいのよ」
と、ストーリーの変更をこばむ。
正論と言えば正論だが、妹のために曲げてハッピー・エンドにしてくれたっていいではないか。
信子のほうは願いが|叶《かな》わないとなると、泣きじゃくってせがむ。母がなにごとかと思って聞きただせば、取りあうのも馬鹿らしくなるような|喧《けん》|嘩《か》である。
「杏子もそうしてあげればいいじゃない」
「いやよ。そういうお話じゃないんだから。信ちゃんがそう思いたいのなら自分ひとりでお話を変えればいいでしょ。私はいや」
と譲らない。
信子としては自分一人で思ってそれですむことなら、なにも杏子に願ったりはしない。その心理をどう説明したらいいのだろうか。
自分一人で思ったのでは心もとない。姉の口からまことしやかに語られてはじめて“人魚姫”がハッピー・エンドの物語となる。自分だけの想像に客観性が加わる。それを望んでいたにちがいない。
何度も何度も姉にせがんだらしい。杏子のほうもけっして譲らなかった。
願ったほうも願ったほうだが、一度も譲らなかったほうもおとなげない。
今でも杏子は、幼いころの信子がいっぷう変わった子どもであったことを強調するためにこの出来事を話すのだが、信子としては、
「お姉ちゃんが意地わるだったんでしょ」
と反論したくなる。
ハッピー・エンドを願って泣いていた自分のほうが上等な子どもだったような気がする。
そんな自分がなつかしい。いとおしい。
実際に信子がよく記憶しているのはこの“人魚姫”よりむしろ“トリスタンとイゾルデ”の物語のほうだ。読んだのは中学生か高校生のころ……。本の名はたしか“悲劇の恋”、少年少女のための翻案物だったろう。原典のタイトルを知ったのは、ずっとあとのことだ。
大恩ある|伯《お》|父《じ》王のため王妃となる人を捜して旅に出たトリスタンは、まさしくそれにふさわしい美女を発見する。それがイゾルデである。
ところが愛しあう二人が飲むはずの飲料を……つまり伯父王とイゾルデが飲むべき飲み物を、侍女の手ちがいでトリスタンとイゾルデが飲んでしまう。
飲料の魔力によりトリスタンとイゾルデは永遠に愛しあうことになる。伯父王の怒りは激しい。だが二人は愛しあわずにはいられない。
二人は死刑を宣告されるが、逃れて森の隠れ家で愛の日々を送る。
三年ののち伯父の怒りもいくぶん薄れ、イゾルデを宮廷に返すことを条件にトリスタンの刑は極刑から国外追放へと変わり、トリスタンもいったんはこの命令に従う。
だが、二人の愛は変わらない。トリスタンは悲しみのあまり重い病にかかり、イゾルデにひとめ会って死にたいと思う。迎えの使者がイゾルデのもとへ走った。
イゾルデもいっさいをなげうってトリスタンの待つ地へ向かう。
迎えに行った船がイゾルデを乗せていたら白い旗をかかげてくれ、もし乗せていなければ黒い旗をかかげてくれ、それが合図だった。
だが、ここでも手ちがいがあって船は黒い旗をかかげてしまう。
それを見てトリスタンは失意の中で死ぬ。
一歩遅れて到着したイゾルデも、トリスタンの死を知って悲しみのあまり死んでしまう。
――もし旗をまちがえてなかったら――
信子は何度そう思ったかわからない。
白い旗を見たならば、きっとトリスタンも生きる気力を取り戻したにちがいない。今度こそ幸福な二人の生活が末長く続いたにちがいない。
――なんて馬鹿なことを――
そう思ったのは、旗をまちがえてかかげた、おろかな行為に対してである。
考えるたびに信子の胸は震えた。激しいいきどおりを覚えた。その感情はとても物語の世界に対するものではなく、本当に身近にそんな出来事があったみたいになまなましいものだった。
姉にはなにも話さなかったろう。
――お姉ちゃんになんか、どうせわかるはずがない――
芥川龍之介の“秋”を読んだのも同じころだったろう。ヒロインの名が信子だった。ヒロインは親しい男を……当然結婚するだろうと思われていた|従兄《い と こ》を妹に譲ってしまう。そこから灰色の日々が始まる。
恋人を妹に譲るなんて……。
――そんな馬鹿なことさえしなかったら、この人の一生も変わっていただろうに――
ヒロインの名が同じ信子だけに身につまされてしまう。幸福なストーリーをいくつも頭の中に描いた。
信子はさほどの読書家ではなかったが、読むのはいつも恋の物語だった。この傾向は今でも変わらない。
ばら色の恋の話がいい。愛しあった二人が仲むつまじく暮らすほど、この世にすばらしいことはない。本当に信子はそう思う。
だが、皮肉な見かたをするならば、信子は悲しい恋の物語のほうが好きだったのかもしれない。
ページの中にはけっして満たされない悲しい恋が、これでもか、これでもかとばかり埋まっている。
――でも、これは|嘘《うそ》――
描かれている悲恋を土台にして、それを否定しながら、もう一つのすばらしい恋を空想する。悲しみの方向に向かって作用していた力が、そのまま喜びの方向へと変わる。そんな心理のからくりが好ましかった。
もしかしたらそれは信子自身の人生を暗示していたのかもしれない。人は十七、八歳にもなれば、自分がどんな人生を歩むか、なにができて、なにができないか、環境や性格や能力をよりどころにして漠然と予測できるようになる。
結果のほうから見れば、その予測は当たることもあるし、当たらないこともある。だが、それはあくまで結果が現れてからわかることでしかない。
信子は恋に|憧《あこが》れていたが、恋のチャンスには恵まれなかった。内気で、|臆病《おくびょう》で、自尊心も強かったから、自分のほうから恋をしかけたりすることなどできなかった。
と言うより家族の習慣として、そんなことは“はしたない”と思うところがあった。女は男に見そめられて、はじめて行動を起こすものと、そうはっきり両親に教えられたわけではないけれど、育った環境の中にそんな気分が厳然と含まれていた。
そうであればこそ恋を夢見ていたのかもしれない。
姉の杏子は家族の習慣に従って見合い結婚を選んだ。
「信ちゃんは恋愛がいいんじゃない。昔からそうだったから」
姉は信子が恋愛に|憧《あこが》れていることを知っていた。しかし、信子のほうは「昔からそうだったから」と言われても、なんのことやらわからない。憧れていたのは本当かもしれないが、体験らしい体験はなにもない。この言いかたは少し不当のように思われた。
信子だけではあるまい。みんなが恋に憧れている。とりわけ若い娘たちはそうだ。
だが、そのわりにはよい恋に恵まれてはいない。そこそこの恋、いびつな恋、自分がめぐりあった恋に夢を託している。恋ですらないものもある。
信子は短大を出て、建設会社に就職した。
お茶をいれ、電話を受け、コピーをとり、書類を届け、計算機をたたいた。業種がら周囲に若いOLは少ない。八割がたが男性で、若い男を身近に見るのは、信子にとってほとんどはじめてと言ってよいほどの体験だった。
「佐藤君は女ばかりの姉妹だって?」
課長に尋ねられたことがある。
「はい」
「兄さんも弟さんもいないのか」
「はい」
「学校も短大だし……。高校はどうなの、男女共学か」
「いえ、付属でしたから」
「じゃあ慣れてないわけだ、男どもに」
「はい」
課長はなにがおかしいのか笑っていた。
隣の席の男も一緒に笑う。伊駒和彦といって、入社早々から仕事の面倒をみてくれている人だった。すぐに昼休みになり、
「やっぱりちがいますか」
と、信子は伊駒に尋ねた。
「女だけの家で育った人?」
「はい」
「うーん、ちがうって言えばちがうな。男の実体をよく知らない。理想化している。たとえばサ、男がわるい遊びをする。外国へ行って女を買ったり……。日本にも似たようなところがあるしな」
「ええ……」
「女だけの家で育った子は、ものすごくわるいことだと思ったりするんだ、そういう遊びを。殺人のつぎくらいにわるい。あははは」
「はあ?」
「男なら、みんなやってることなんだ。とくにめずらしくもないし、わるくもない。男兄弟がいれば、そのへんの見当がつく。げんに自分の兄貴も同じこと、やってんだから。“ああ、そうか。いいことじゃないけど、普通のことなのね”って、|納《なっ》|得《とく》する。女だけの姉妹だと、そういう経験がないから、メチャンコひどいことだと思っちゃう。そばにいるのもけがらわしいくらい、いやな男だと思ったりする」
「ええ……」
信子もそう思いそうだ。
あのときはなにを言われたのか、よくわからなかったけれど、男の多い職場にいて少しずつ理解した。
――どうしてこんなにみだらなの――
朝っぱらから昨夜の乱行が話題になる。仕事の最中に|卑《ひ》|猥《わい》な冗談が飛ぶ。たいていは意味がわからない。わからないのに顔が赤らんでしまう。雰囲気に慣れるまでに何か月かかかった。
「ここは少しひどいのかな。現場とつきあいがあるから。銀行あたりならもうちょっと品がいいんじゃないのか」
顔を赤らめている信子をかばってくれるのは、いつも隣の席の伊駒和彦だった。
それだけでもうれしい。
――この人は仕事のできる人らしい――
周囲は建築の専門家ばかりだが、その中でも伊駒は勉強家らしい。なんとなく気配でわかる。
「若いのに伊駒君は頑張るねえ」
そんな評判も聞いた。
――まじめな人だわ――
卑猥な話を伊駒は一歩距離をおいて聞いている。そんなふうに見えた。
その男について信子は計算式とか建築材料とか、仕事にしか興味のない人だと思っていたのだが、
――男らしいって、案外こういうことなのかもしれない――
と、信子の頭の中がほんの少し広くなった。
なにしろそれまでは“トリスタンとイゾルデ”みたいな恋物語が、頭の中の大半を占めていたのだから。
建築技師はトリスタンにはなれない。少なくとも夢見がちの少女が心に描いたトリスタンとはおおいにちがっている。文学なんかおよそ興味がない。
それでも信子は、
――頼もしい人――
と感じていただろう。あとになって考えてみると、そんな気がする。
ある日、その伊駒から映画のチケットを渡された。
「見に行こう」
「はい」
反射的に答えてから、
――これは仕事じゃないわ――
しばらく|動《どう》|悸《き》が|止《や》まなかった。
日曜日の午後……。映画のタイトルは“ジョーズ” 大きな|鮫《さめ》が人間を襲う外国映画らしい。
話題作にはちがいなかったけれど、男と女がはじめてのデートで見る映画かどうか……伊駒は自分が見たかったのかもしれない。
――映画なんておもしろければ、それでいいじゃないか――
伊駒はそのくらいの気分だったろう。
とはいえ、どんな映画でも信子には同じだったかもしれない。
――男の人と二人だけで映画を見に行く――
それだけで胸がときめいた。
うれしさよりも不安が先に立つ。地に足がつかない。思考がうわすべりばかりしている。
二十三歳になっていた。
だが、はじめてのデートだった。今まで頭の中で空想していた世界に自分が入って行く。どうもそうらしい。期待も大きいが、不安はさらに大きい。
映画館の暗がりに入って少し気持ちが落ち着いたが、突然伊駒に手を握られ、また動悸が激しくなった。
握られた手が汗ばむのが恥ずかしかった。
強い力に引かれて、
――このまま知らない世界へ飛んでいく――
そんなときめきを覚えた。
“ジョーズ”の物語はあまりよく記憶に残っていない。大きな|鮫《さめ》も死んだが、勇敢な男も死んでしまった。女性はほとんど登場しない。恋物語などどこにもない。
映画のあとで食事をご|馳《ち》|走《そう》になった。
「払います」
小声で言ったが、伊駒は、
「いいよ」
と、とりあわない。
家の近くまで送ってもらった。
別れたあとで喜びが込みあげて来た。
――とうとう王子様がやって来た――
伊駒の様子が神々しいほど輝いて浮かんで来る。わるい顔じゃない。背も高い。さまざまな想像が頭の中を|駈《か》けぬける。現実よりも想像のほうがはるかに楽しい。現実は……うれしかったけど、あまりにも息苦しかった。
――私、よく思われたかしら――
それを思うと、つらい。イゾルデのようにはなれなかった。
――とてもうれしいの――
と、それを伝えることさえできなかった。つまらない女だと思われたかもしれない。
翌日、伊駒の顔を見るのがこわかった。
しかし、伊駒のほうは、
「おはよう。きのうは楽しかった」
いつもとほとんど変わらない。
「ご馳走さまでした」
それだけ告げて、わきめもふらずに仕事にかかった。
その一週間、なにかいつもとちがったことが起きるかと思ったが、なんの変わりもない。去年|竣工《しゅんこう》したビルに欠陥が現れ、男たちはその対策で大わらわだった。伊駒もいそがしい。
――よかった――
もう少しゆとりを与えてもらわなくては信子はめまいを感じてしまいそうだ。
一人の男と映画を見て、食事をした。たったそれだけのことを材料にして、さまざまな夢が描ける。物語が作れる。それには慣れている。どんどん伊駒がすてきな人になる。
それに……働いている伊駒はすてきだった。そう見えた。おそらく実際以上に……。
まったくの話、信子が伊駒和彦を一番すばらしく思ったのは、この時期だったろう。
信子の頭の中に伊駒はどのようにでも姿を変えて現れる。いや、姿形は伊駒その人だが、人柄や役割が思い通りに変わる。トリスタンにだってなってしまう。なかばはとりとめのない夢だと知りながら、信子はいくつもの夢を描いた。
伊駒和彦は、世間によくいるような技術屋タイプの男だった。
小説なんかほとんど読まない。
学生時代に国語のリポートを書くために文学作品らしいものをいくつか読んだが、
――|俺《おれ》には関係ないな――
主人公たちがいじいじ悩むのが歯がゆかった。
読むとすれば歴史小説くらいのものである。これは組織の中で生きる知恵となる。多少は役に立つ。一番くだらないのが恋愛小説。もちろん伊駒も女性に関心があったけれど、ああでもない、こうでもないと思い悩んでみたって仕方がない。好きなら「好きだ」と言えばいい。駄目ならあきらめるよりほかにない。
伊駒自身、強く意識したことがなかったけれど、本質的に女性に多くを期待していない。そういうタイプの男なのだ。
つまり、女は肉欲の対象、よい家庭を作ってくれればそれでよい。
たまたまオフィスの隣の席に若い娘が配属されて来た。仕事を教えるように命じられた。
性格のわるい娘ではなさそうだ。すれたところがない。容姿も伊駒の好みにあっている。女性にさほど大きな期待をかけていないから、心のどこかで、
――女なんて、どれも似たようなもの――
と思っている。容姿だけがちがう。それからもう一つ、性格のいいのとわるいのとがいる。あとは明るいか、暗いか……。
女性が聞いたら怒るかもしれないが、男性の中にはこの手のタイプがけっして少なくない。当の男性も、自分がそうであると気づいてないから、始末がわるい。結果のほうから眺めてみると、それがわかる。若いころはとりわけこの傾向が強い。
信子の容姿はわるくない。性格も、これは評価のむつかしいテーマだが、すれていないのは本当だったし、他人に恨みを持つようには育てられていなかった。ロマンチックなものに強く|憧《あこが》れる癖を持っていたが、これは見えたとしても、
――かわいいとこ、あるんだな――
と思われる。
とくに明るくはなかったが、暗くもない。
それに……伊駒はぼつぼつ結婚をしてよい年齢になっていた。うかうかしていると遅くなる。大がかりな恋愛をするなんて、性にもあわないし、ひまもない。よい仕事をするためには身のまわりを固めておかなければいけない。伊駒は常識的な生きかたを選ぶほうである。
信子を映画に誘ったときから、
――よければ、結婚――
と、その考えを持っていた。信子の胸がときめいたのも、あながち見当はずれではなかった。
一生にかかわる誘いなのだから。
“ジョーズ”を見に行って間もなく、伊駒の配属が変わった。席が遠くなった。
だから……映画に誘ったのは、
「手つけみたいなものだったかなあ」
と、あとで伊駒は漏らしている。
つまり伊駒は自分の配置がえをうすうす知っていたのだろう。席が離れる前に行動を起こしておいたほうがいい。
伊駒は計画を立て、その通り実行する。仕事も男女関係も変わりない。成り行きやハプニングにゆだねたりはしない。
三、四回、似たようなデートに誘われ、いきなり、
「結婚をしよう」
と申し込まれた。
――もうですか――
信子はそう思ったが、口には出せない。
伊駒にわるく思われたくなかった。うれしくてたまらない時期だったし、伊駒を理想化して眺めていた。伊駒の申し込みには、うむを言わせないような迫力があったし、せっかく男の人がそう言ってくれたんだ。人生相談などを読むと“恋人がそれを言ってくれないので困ってしまう”と、そんな話ばかりではないか。
信子が返事をためらっていると、
「いやなのか」
口をとがらせる。怒ったような顔つきで。
「ちがいます」
あわてて答えた。
「君のことはよく知っている。心配ない」
「はい」
一年あまり机を並べていたのだから……。
「なにか不満があるの?」
突然のことなので頭に血が昇って、自分でもどう言っていいのかわからない。「もう少し恋愛をしていたい」なんて言ったら、馬鹿にされるかしら。
「父に相談してみます」
そうつぶやくのが精いっぱいだった。
「それはいい。いつでも君の家に行くから。お父さんにお願いする」
「はい」
父は信子の話を聞いて、いい顔をしなかった。旧弊な考えの持ち主だから、恋愛のようなものはよくないと、わけもなくけぎらいしていたのだろう。
――反対されたら大変――
迷ってなんかいられない。
「信子の気持ちはどうなんだ」
と父に尋ねられ、
「いい人だと思うけど……」
と答えた。
自分も望んでいるんだと、ほのめかさなければ話が進まない。父は伊駒に会ってもくれないだろう。「じゃあ、やめとけ」と言われてしまう。それでは伊駒に申し訳ない。
「会ってだけみるか」
となった。
つぎの日曜日に伊駒が訪ねて来た。
それより先に伊駒は身上書を信子に渡し、父はそれを見て、
「うん」
と、うなずいていた。苦情をつけなかったのは一応満足したからだろう。
信子はいても立ってもいられなかった。応接間にお茶を運んだが、体が小きざみに震えていた。伊駒の顔を直視することができなかった。
父と伊駒は笑いながら話していた。
――よかった――
二人が気まずい様子でにらみあっていたらどうしよう。信子はそればかり考えていたのだから……。
信子はすぐに応接間から逃げ帰る。母は、
「馬鹿ね」
と笑い、
「まじめそうな人じゃない」
と言う。ころあいを計って母も応接間へ行った。信子は廊下のすみに立って三人の話し声を聞いていた。
一時間ほどいて伊駒は帰った。
「なかなかいい青年だな」
父は伊駒と会ってガラリと態度を変えた。
「信子、お前はいいんだな」
と念を押し、母が、
「六歳ちがうけど、そのくらい離れてるほうが信子にはいいんじゃない」
と答え、あっけなく話がきまった。あれよあれよと思うまに……。今さら信子が「もう少し考えさせて」と言うわけにもいかない。やはりうれしかった。
こうなると信子の父はせっかちである。伊駒のほうは母親が富山県の|高《たか》|岡《おか》にいるだけで、とくに相談をする必要もないらしい。むつかしいことはなにもなかった。信子の父と伊駒のあいだで結納の日どりや結婚式の段どりがきまった。
婚約の期間はたった三か月……。
実は、姉の杏子のときに、この期間を一年も取ってしまい、途中で杏子が、
「なんだか気が進まないわ」
なんて言い出すものだから、父はひどく困惑した。
――今度は娘の気が変わらないうちに――
そう思ったのかどうか、とにかく手まわしが早かった。伊駒もそれを望んでいた。
信子としては婚約時代の甘い気分にひたろうとしても、準備がいそがしい。伊駒も新しい職場に移って、休日もろくに休めないような状態だった。
またたくまに結婚の日が来て信子は伊駒和彦の妻になった。
「疲れたか」
「ええ……」
ずっと|駈《か》け足をしていたような気分だった。
信子が和彦と体を交じえたのは新婚旅行の夜だった。型通りに……。和彦はそういう人である。
――もっと早く抱いてくれればよかったのに――
そんな期待がなくもなかった。
性の欲望があったわけではない。むしろ怖かった。なのに結婚前に抱かれたかった……。その気持ちをどう説明したらいいのだろう。
つまり……型通りばかりでは夢がなさすぎる。せっかくの恋愛なんだから、見合い結婚じゃないのだから、少しは禁断の木の実を味わってみたい。結婚という事実が始まる前に、
――これはまだ許されてないことなんだわ――
そう思いながら抱かれたかった。気分だけでも罪の意識がほしかった。
当の相手が|許婚者《いいなずけ》なのだから、罪の意識と言っても本物ではない。ささいな罪でしかないけれど、それでも微妙に異なるものがあるだろう。不倫のまねごとくらいの気分は味わえる。この機会をのがしたら生涯に二度とめぐって来ないことなのだから……。
しかし、和彦はそうはしなかった。そして、新婚旅行の夜、満足そうに軽い寝息をたてている。信子はまんじりともしない。
あわい失望に加えて、性の行為そのものはおぞましかった。
――なんでこんなことをされるの――
男と女の愛の終着がこんなぶざまなことだなんて……。
――トリスタンとイゾルデもそうだったのかしら――
釈然としない。
結婚生活が始まり、それまで信子を抱こうとしなかった和彦が、今度は毎晩のように求める。
しばらくはつらかった。
そのうちに慣れてしまい、多少の快感を覚えるようになった。
――でも、なんだかへん――
娘のころからずっと夢見ていたことと、どこかがちがう。そんな気がしてならない。うまくは言えないが、すばらしい愛の営みであるはずのことが、結婚という日常性の中にすっかり飲みこまれてしまい、めくるめく興奮なんか見あたらない。そんな現実に対する違和感、そう言えば、いくらか当たっているかもしれない。
つまり、夢と現実のちがいである。
結婚して三年たって懐妊した。
|萌《もえ》|子《こ》が生まれ、続いて翌年、伸彦が生まれた。こうなると信子は子育てに没頭しなければいけない。和彦はますますいそがしくなり、
「家のことはお前にまかすから」
の一点張りである。
海外へ出張することも多くなった。夫婦の会話などめったにない。せいぜい用件の伝達くらいのものである。
「仕方ないだろ」
和彦はそれですむのだろうが、信子には|倦《けん》|怠《たい》が忍び込む。
――これが結婚なの――
子どもたちを寝かせつけ、ポカンとむなしさを覚える夜が多くなった。
信子は幼い子どもたちによく童話を読んで聞かせた。男と女が登場する物語が多かったろう。意識はしなかったが、それが信子自身の好みだったから……。
“浦島太郎”の絵本には、あやしい挿し絵が一つあった。乙姫のまなざしが、やけになまめかしい。
――男を誘っている――
どう見ても、そう見える。
太郎のほうもなかなかの美青年だ。
しかも乙姫の背後にはベッドのようなものがかいてある……。
信子の胸がトトンと弾んだ。自分でもどうしてそんなに驚いたのか、わからない。その挿し絵を見るたびに、なにほどかのときめきを覚えた。
――気がつかなかった――
だが……当然そうだろう。鯛や平目の舞い踊りばかりでは太郎も退屈する。めくるめく恋の日々があればこそ、太郎は月日のたつのを忘れてしまった。それで|納《なっ》|得《とく》がいく。
――乙姫様には夫がいなかったのかしら――
だれもが知っている物語でありながら、そのへんの事情はつまびらかではない。
海の世界の王がいたような気もする。けれど、その人は乙姫の夫なのか、それとも父親なのか。
信子としては夫であるほうを考えてしまう。海の王は政務にいそがしくて、乙姫をないがしろにしている。妻のさびしさを知らない。きっと年も取っていただろう。
――だから……不倫の恋――
そのほうが胸がときめく。
――ないことじゃないわ――
たとえば外国の貴族の家で、知りあいの学生を預かる。いつしか屋敷の女主人と青年とのあいだに恋が芽ばえる。主人の目を盗んで……。そんな話は小説にも映画にもたくさんある。その通りの事実がたくさんあったから……。龍宮城の情況もそれに似ている……。
そんなことを思いながら絵本の挿し絵を眺めると、乙姫のあやしいまなざしの意味が見えて来る。
週末にきまって和彦は信子の体を求めた。でも、和彦は独りよがりで、行為はあっけない。愛の言葉を欠いている。心が足りない。やさしさが足りない。信子は目を閉じて頭の中にもっとすばらしい男女の抱擁を想像した。ふと|闇《やみ》の中からさざ波のように歓喜が見え隠れする……。それをつかもうとしてあがく。
――でも……どうして――
きまってそこで終わってしまう。
――もっと長く抱いててほしかった――
和彦は疲れているから……。
しらじらとした思いだけが残った。信子は眠れない目を閉じて、さらに夢を追う。
――夫婦って、こんなものなのかしら――
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
――でも、どこかにもっとすてきな二人がいるわ――
そんな二人を考えた。
子どもに読んで聞かせた童話の中では“ベルとまもの”に心をひかれた。はじめて読む話だった。
フランスの古い物語……。
とてもあかぬけている。童話でありながら、ちゃんと胸のときめく恋物語になっている。
旅の商人が|人《ひと》|気《け》ない|館《やかた》にまぎれこむ。庭にはばらの花がたわわに咲いている。このイメージだけでも美しい。
信子は一度も外国旅行をしたことがないけれど、夢だけなら描ける。山あいの谷間にひっそりと建っている白い館。高い塔が湖に影を落としている。館というより城かもしれない。
「だれか?」
と呼んでみても答えるものがない。大きなドアが鈍いきしみをあげて開いた。中は、きらびやかな家具や装飾で飾られている。回廊を抜け、庭に出ると、一面に咲くばらの花。むせかえるような甘い香り……。
信子の想像はどこまでも果てしなく広がって行く。
旅の商人には三人の息子と三人の娘がいた。末娘のベルをのぞけば、みんなわがままで、|貪《どん》|欲《よく》で、真心のわからない者たちばかりだった。
商人は取引に失敗して、どん底の状態に陥っていた。それでも子どもたちは父の苦境などどこ吹く風、あい変わらず好き勝手な生活を続けている。旅に立つ父親に|贅《ぜい》|沢《たく》なおみやげをせがんでいた。独りベルだけが、
「お父様が無事で帰ってくだされば、それでいいの。ああ、そう、旅の途中でもし、ばらの花を見つけたら、一本だけつんで来てくださいな」
と、やさしく見送ってくれた。
折しも冬のさなかで、商人は道に迷い、泊まるところもなければ空腹を満たす手段もない。冷たい雨風に吹かれ意識さえ失いかけていた。
突然、目の前に古い館が現れ、春の気配が周囲に漂っているではないか。
――どうして? 冬なのに、これは……ばらの香りだ――
だれもいない館……。だが、暖炉があかあかと燃え、まるでだれかが訪ねて来るのを待っているかのようにテーブルの上にご|馳《ち》|走《そう》が並んでいた。
商人はわれを忘れて料理をむさぼった。
――ここはどこだろう。まさか天国ではあるまいな――
いくぶん人心地がついて庭へ出てみると、案の定、そこは一面のばらの花園……。この景色もこの世のものとは思えない。
――そう言えばベルがばらをほしがっていたな。一本だけもらってもばちは当たるまい――
商人は末娘の言葉を思い出し、ひときわ美しい深紅のばらを一本、腕を伸ばして折った。
突然、恐ろしい声が聞こえた。
「だれに断って|俺《おれ》のばらをつんだ。せっかく命を助けてやったのに俺の大切なばらを盗むとは、生かしてここを出すわけにはいかん」
商人は驚いてふり返り、そこに見たものは……声よりもさらにおぞましい姿だった。
なんと言えばよいのだろう。
まっ黒い顔。金色のたてがみ。世にも恐ろしい魔物が怒りのまなざしを赤く燃やして立っていた。
「お許しください。それほど大切なものとは知らなかったものですから、つい折ってしまいました」
「いや、ならん。ほかのものはいざ知らず、ばらを折った者は許せない」
「故郷に娘がおりまして……とても心のやさしい娘が私の帰りを待っておりまして……せめてばらの一本だけでもみやげに持って帰ろうとしたのです」
商人がしどろもどろになって弁明すると、魔物の表情が変わった。
「娘がいるとな」
「はい」
「何人いる?」
「三人でございます」
「三人もいれば不足はあるまい。じゃあ、お前の命を助けてやろう。俺の宝もみやげに持たせてやる。だがな、条件が一つあるぞ。娘を一人、ここへ寄こせ。家に帰って、すぐにだぞ。どの娘もここへ来るのをいやがるようなら、そのときはお前の命はない。さあ、行け。宝も持って行くがよい。忘れるな」
魔物は消え、商人が逃げようとしてうまやをのぞくと、馬には宝の袋が結ばれ、一輪のばらがさしてある。
――夢ではなかったんだ――
馬にまたがると、たちまち馬は走り出し、気づいたときにはわが家へ続く道を|駈《か》けていた。
子どもたちは、父がすばらしい宝を持って帰って来たので、大喜び……。だが、父の顔がいかにも苦しそうにゆがんでいるのを見て、
「お父様、どうかなさったの」
と末娘のベルが尋ねた。
はじめは黙っていた商人も、しつこくせがまれて仕方なく旅で出あった不思議な出来事を話した。
「ベルがわるいのよ。ばらなんかほしがるからよ」
と二人の姉が口をそろえて言う。
「俺が行って、その魔物を退治してやる」
と三人の兄が腕をなでる。
「いや、とてもお前たちが退治できるような魔物ではない。やっぱり私が行こう。どうせ|老《お》い先の長い身ではない。こうしてお前たちの顔を見ることができたんだから、なにも思い残すことはない」
商人は独りうなずいて立ち上がった。
「待って。お父様、私がまいります」
ベルが父親を引き止めた。
「そうよ。ベルが行けばいいのよ。お父様がいなくなったら、あとの者が困るわ。もともとベルのおかげで起きた災難なんだから」
兄弟姉妹たちは、射すような目つきでベルをうながす。
父親はためらったが、ベルの決心は固い。
「ご心配なく。私が行けば魔物もきっと許してくれるわ」
結局、ベルが|人《ひと》|身《み》|御《ご》|供《くう》として一人魔物の|館《やかた》へ行くこととなった。ベルが馬に乗ると、たちまち馬が走り出したのは、父親のときと同じだった。
ベルが館に着いてからの日々は……信子がとりわけ空想の網を大きく広げて読み返した部分である。
身の毛もよだつような恐ろしい魔物。ベルはやさしい心で接しようとするけれど、やっぱり怖い。目をそらしたくなるほどみにくい。
魔物は自分のみにくさを恥じている。ベルを好きになればなるほど、それがつらい。恋の苦しさが魔物をさいなむ。きらわれるのをおそれて、できるだけ姿を見せないようにしているのだが、やっぱりベルを見たい。ベルと一緒にいたい。その|葛《かっ》|藤《とう》……。魔物の心はやさしい。ベルは少しずつ魔物の心根を察する。
ベルは故郷のことが、とりわけ父のことが心配でならない。館の中にある魔法の鏡が故郷の様子を映し出す。兄や姉は、父の持ち帰った宝を奪いあい、みにくい争いを続けている。父だけはうちひしがれて、ベルの身を案じている。
ベルは魔物に願った。
「一週間だけ家に帰してください。父を慰め、かならず戻って来ますから……」
「その前に聞いてくれ。私と結婚してくれまいか」
「えっ……」
それはできない。でも、断ったら、魔物がどんなに悲しむことか。とっさの判断で、
「少し考えさせてください」
「それがいい。かならず帰って来てくれ。もし帰らなければ、私は死ぬかもしれない」
ベルが馬に乗ると、もうそこは故郷の家だった。ベルの元気な姿を見て、父親の喜ぶまいことか。
だが、一週間はまたたくまに過ぎてしまう。期限を越え、さらに三日たち、ベルは夢を見た。
あの館の、見覚えのある部屋……。
魔物が苦しそうに倒れている。目にいっぱい涙をためて……。苦しそうに、悲しそうに。ベルが近寄ると、
「約束を破ったね。そんなにひどい人とは思わなかった」
ベルを信じ、帰りを待ちわびていたのだろう。その苦しさのあまり魔物は死のうとしている。ベルは自分の犯したむごい仕打ちに気づいた。
「死なないで」
ベルがそう叫んだとたん、ベルは魔物の住む館の中にいた。
ベルは館の中を走った。魔物の姿を求めて部屋から部屋へと……。
魔物はいた。暗い部屋で、まさしくベルが夢で見た通りに息も絶え絶えになって、うずくまっていた。
「なぜ約束を破った?」
「ごめんなさい。父があわれで」
「なぜ帰って来た?」
「あなたのことを思って」
「本当か」
ベルの心に、今まで自分でも気づかなかった、熱い思いがこみあげて来る。
――魔物はみにくい。恐ろしい。でも心はとても美しい。こんなに私を愛してくれている――
はっきりとわかった。この愛ほど尊いものが、この世にあるだろうか。
「はい」
迷いはない。はっきりと答えた。
「では、私の妻になってくれるか」
「はい」
答えたとき、突然、周囲に光が|溢《あふ》れ|轟《ごう》|音《おん》が響き、二人はまぶしい光の筒に包まれた。
その光が消えたとき、ベルの目の前に|凜《り》|々《り》しい若者が立っていた……。
物語は、このあとに数行の絵解きがつく。
魔物は、魔法の力でみにくい姿に変えられた王子だった。そのみにくさにもかかわらず彼の愛を受け入れてくれる娘に出あったとき魔法が解けるのだと、そんな|呪《のろ》いをかけられていた。ベルが王子の妻として迎えられ、父を呼んでしあわせに暮らしたのは話すこともあるまい。兄や姉たちの運命にも物語は触れているが、信子はそのくだりにはほとんど興味がなかった。
――愛の|讃《さん》|歌《か》――
そんな言葉が思い浮かぶ。
絵本のあとがきを読んで、この物語が“美女と野獣”の訳で知られていることを知った。
――ああ、そうなの――
それなら信子も聞いたことがある。映画にもなったことがあるらしい。
ある日、新聞を読んでいて、たまたまその映画が|池袋《いけぶくろ》の映画館で上映されているのを見つけた。
――見たい――
古い映画らしいから、この機会を逃したらもうチャンスはないかもしれない。普段はけっして行動的なタイプではないのだが、このときだけはすばやかった。
萌子と伸彦は幼稚園に通っていた。週に一度だけお弁当の日がある。近所に萌子と同じクラスの女の子を持つ母親がいて、信子は心安くしている。市村ひとみさん……。結婚前は喫茶店のウエートレスをやっていたことがあるとか。ご主人は堅いお勤めだが、彼女は少し水っぽい。器量もわるくないし、お化粧も、おしゃれも、その気になって装ったときは、なかなか巧みである。
「市村さんのママって、バーのホステスでもやってたんじゃない」
ひとみについては、そんな陰口も|叩《たた》かれていたが、つきあってみればサバサバしていて、わるい人ではないようだ。
「|親《しん》|戚《せき》でちょっと用があるの。お弁当の日に一、二時間、子どもを預かっていただけないかしら」
と、信子はひとみに頼んだ。
幼稚園の引けるのが午後一時。二時間も預かってもらえば充分だろう。
「いいわよ。ゆっくりしてらっしゃいよ」
ひとみはなんの|詮《せん》|索《さく》もせず承知してくれた。“美女と野獣”を上映している映画館の位置と上映時間を電話でたしかめ、信子は出かけた。
――わるいことをしているみたい――
かすかに気がとがめる。悪の楽しさもある。
――大げさかしら――
池袋なんてまるで知らない町だ。盛り場にはあやしげな映画やショーの看板も立っていて、少し怖い。
――たまにはいいんじゃないの――
映画館はすいていた。
古いモノクロのフィルム。保存の状態がわるいらしく、画面に雨が降っている。
映画そのものは幻想的で、とても美しい。ベルを演ずる女優は典型的なフランス美人。端正で、上品で、こんな物語にこそふさわしい。
魔物もわるくない。
貴族の装束にライオンの顔。煙を吐き、煙に包まれている。恐ろしげに作ってあるが、表情には悲しさも|滲《にじ》み出ている。自分のみにくさを恥じらいながらも、ベルを愛している気持ちがよく伝わって来る。
一転して、王子に変わったとき、
――あ、きれい――
信子は男優の美しさに目を見張った。
――こうでなくっちゃあ――
百パーセント満足のいく映画だった。百二十パーセントかもしれない。久しぶりに心の陶酔を覚えた。
ただ一つ、気がかりと言えば、前の席に男女の二人連れがいたこと。若い人ではない。三十代くらい……。おそらく夫婦ではあるまい。映画の途中から肩を寄せ、抱きあい、長い口づけに変わり、いつまでも離れない。
「ねえ、ねえ」
と、女のあえぐ声まで聞こえる。
――朝から、なんてことを。ちゃんと映画を見ればいいのに――
信子は|眉《まゆ》をしかめたが、ねたましさも交じっている。
休憩時間になると、二人は席を立って、そのまま帰らなかった。
――まだ少し時間があるわ――
ひとみには四時までに帰ると約束して来た。もう半分くらいは見られるだろう。魔物のせつなそうな表情をもう一度たしかめたい。場内が暗くなり、三十分ほどたったとき、
「すてきですね」
隣の席から手が伸び、信子の|膝《ひざ》に触れた。
信子は電気にでも触れたように体を震わせた。
――いやっ――
どうしていいかわからない。
――もう帰らなくちゃ――
そんな時刻になっていた。あたふたと立ちあがり、出口に向かった。
一瞬、ふり返って男の顔を見た……。薄暗いのでよくはわからない。さぞかしいやらしい感じの男だろうと思ったのに、かいま見た|面《おも》ざしはひどく端正なものに感じられた。まるでスクリーンの中の王子みたいに……。
まさか。いくらなんでも、それは見まちがいだ。そんなはずはない。
――よかった――
追っては来ない。
映画館を出て、急ぎ足で駅に向かった。まだ|動《どう》|悸《き》が続いている。
――本当のところは、どうだったのかしら――
安心したところで思い返した。男の顔をもう少しよく見ればよかった。はっきり見たわけでもないのに、いい男だなんて……。
――あのまますわっていたら、どうなったのかしら――
ろくなことはないわ。
顔立ちはともかく、あんなことをするなんて……よくない男にちがいない。
年齢は……これもよくわからないが、むしろ若い人だったろう。
――映画のことを考えよう――
本当にすばらしい映画だった。だからこそ雨が降るようなフィルムになっても上映されるのだろう。
――あんな世界があるなんて――
干からびた現実とは比べものにならない。あれこそ大人のためのメルヘン。大人だって夢を見ていいはずだわ。
やさしい心を持っているならば、魔物だって……まあ、わるくない。まして、それが王子に変わってくれるものなら……。
――あの男優の名前はなんていうのかしら――
顔を思い出そうとすると、隣から手を伸ばしてきた男のほうが浮かんで来る。男は「すてきですね」と話しかけ、|膝《ひざ》に触れた手も、ずいぶん控えめなしぐさだった。わるい人とはかぎらない。
――でも……そんなはず、ないわ――
黙っていれば、もっと露骨な行動に移ったにちがいない。そうにきまっている。
――でも、スクリーンの中から、王子様が飛び出して来たりして――
馬鹿らしい。
馬鹿らしいけれど、この想像は不愉快ではない。思うだけなら、いくら馬鹿らしいことでも思っていいだろう。
――ベルだって、はじめから魔物が王子様だと知っていたわけじゃないし――
だったら映画館の|暗《くら》|闇《やみ》ですてきな男が声をかけ、そこからすてきな恋が始まると、そう考えたっていいじゃない。
今度は前の席で抱きあっていた二人連れが浮かんだ。
――あの二人は、どこへ行ったのかしら――
キュンと体の奥が引きしまり、得体のしれない快感を信子は感じた。
信子の家は京浜急行の|鮫《さめ》|洲《ず》にある。品川まで二十分足らず。東京湾もそう遠くはない。2LDKのマンション。社宅ではないが、会社が家賃の七割ほどを負担してくれている。
鮫洲駅に降りたのが四時少し前。
――間にあったわ――
預けておいた子どもたちを引き取るため、ひとみの家へ寄った。
「すみません」
「あら、早かったわね」
「おとなしくしてました?」
萌子と伸彦は、母親の顔を見てちょっと笑っただけ。ひとみの子どもと一緒になって折り紙をやっている。
「ええ。平気。お茶でも飲んで行かない」
と誘われた。
「いいの?」
「今、折り紙を始めたばっかりだから」
「じゃあ、少しだけ」
信子は人づきあいのうまいほうではない。友だちも少ないし、近所の人とは顔をあわせたときにちょっと|挨《あい》|拶《さつ》をする程度のものである。ひとみの家にあがるのもはじめてだった。
「どうぞォ」
「すみません」
遊んでいる子どもたちをながめながらリビングルームの|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「あたし、お茶が好きなの。一日中ガブガブ飲んでいるの」
「体にいいんじゃないかしら」
「そう言うけど、どうなのかしらねえ」
ひとみはお茶も好きらしいが、タバコも好きらしい。|喫《す》いっぷりが板についている。信子の視線を感じたらしく、
「これは絶対体によくないと思うけど……やめられないわね」
喫いさしを灰皿の中でねじった。
ひとみは前ボタンのついたワンピースを着ている。一番下のボタンの位置が高いので、椅子に腰かけていると、足が|腿《もも》のあたりまで見えてしまう。
スラリと伸びた足……。
見ていて、なんだか恥ずかしい。キュンと体の奥が引きしまる。今日はどうかしている……。
「デートだったの?」
ひとみは、こともなげに尋ねる。
すぐにはなにを聞かれたのかわからなかった。意味がわかったとたんに顔が赤らんだ。
――いけない。かえって疑われてしまう――
でも、いったん赤くなってしまうと、そう簡単にはもとの色には戻せない。
「そんなんじゃないの」
あわてて否定したが、ひとみは図星だと思ったにちがいない。
「いいのよ。たまには気晴らしくらいしなくちゃ。いつでも預かってあげるわ。あたし、口が固いほうだから」
「でも、本当にちがうの」
信子は手を宙に浮かせて払った。
「このおせんべい、おいしいわよ」
ひとみは菓子入れの中のせんべいをつまむと、パリン、パリンと二度割って口に|放《ほう》りこむ。
勧められて信子も一枚取った。
――お昼を食べてないんだわ――
気がつくと、お腹がすいていた。
「おいしいわね」
「でしょう」
と、ひとみは信子の顔をのぞき込み、そのまま含み笑いを浮かべながら、
「だれだって“やってます”って宣言しながらやる人、いないわよ」
と言う。
話がもとに戻った……。
ひとみは、信子の外出をデートときめこんでいる。
――わかるのかしら――
デートではなかった。ただ映画を見に行っただけ。
でも、池袋までわざわざ古い映画を見に行ったのは……どこか秘密の恋に似ている。子どもまで預けて……。その情熱が少しうしろめたい。
とてもすてきな映画だった。夢のような恋物語だった。
――あの王子様の顔――
文句なしの美男子。また胸がキュンと鳴った。隣の席にいた男と重なる。
――あのままじっとしていたら――
そう言えば……前の席にいた二人は、きっと不倫の恋だったろう。
それに、ひとみの言うことにも一理がある。
「やってます」と宣言しながら不倫をやる人はいないだろう。「映画を見に行ったの」と言っても、信じてはくれまい。根掘り葉掘り聞かれて、心の秘密を明かさなくてはいけなくなってしまう。それもわずらわしい。
「そうじゃないったら。本当に|親《しん》|戚《せき》で用があって」
顔のほてりはもう消えているだろう。
「いいじゃない、どっちでも。あたしもちかぢかお願いするわ」
「なにを?」
「えりかを預かってくれない。そんなに無理なこと言わないから」
と、|顎《あご》で遊んでいる子どもたちを指す。
「いつ? そりゃ、かまわないけど」
「だから近いうち。あなたも口が固そうだし。信用してる。ね、いいでしょ」
ひとみについての評判を思い出した。
――市村さんて、バーのホステスでもやってたんじゃない――
もしかしたら、ふしだらな人なのかもしれない。でも「いや」とは言いにくい。今日お世話になったばかりなのだから。
「ええ」
信子は小声で答えた。
「結構みんなやってんじゃないの」
ひとみはテーブルの上でタバコをトントンと弾ませ、ライターの火をつける。
「そうかしら」
みんなと言うのは、つまり幼稚園バスを待っているお母さんたち……。あのイメージと不倫は結びつかない。
「チャンスがあれば、みんなやるわよ。あなた、知ってる。弱き者よ、なんじの名は女、って」
聞いたことはある。
「ええ……」
「あれ、力が弱いとか、体力がないとか、そういうことじゃないんだって」
「そうなの?」
「うん。誘惑されたら、女はみんな弱いって、そういうことらしいのよ。男はどうなのかしらねえ。もっと弱いんじゃない。弱すぎて言葉にもならないのね、きっと」
「私は駄目、そういうこと……」
「よく言うわ。隠すことないわよ。あ、そうでもないか。隠したほうがいいのね。上手に隠して……そのほうがうまくいくわ」
「あなたは……?」
と言ったが、言葉が続かない。あからさまに尋ねるのも、ためらわれてしまう。
「いいえ。あたしもやってません。貞淑な人妻ですもの」
ひとみは笑いながら首を振って否定した。
萌子が走って来て、
「お母さん、お舟ができた」
とテーブルの上に置く。
伸彦も負けじとばかりに追って来て、
「僕も」
と言う。テーブルの上に色とりどりの舟が並んだ。
「どうもすみません。すっかりご|馳《ち》|走《そう》になっちゃって」
「いいのよ。おたがいさまだから。あ、野沢菜があるの。わりとおいしいのよ。おたく、好きかしら」
「ええ」
「じゃあ、持ってって」
「でも」
「ううん、いい、いい。たくさんあっても味が落ちちゃうから」
ひとみはキッチンに走って冷蔵庫を開ける。ビニールの袋に野沢菜を包んで渡してくれた。
「さ、帰りましょうね。おかたづけをして」
「いいのよ、そのままで」
「おばちゃまにご|挨《あい》|拶《さつ》をしましょ」
萌子と伸彦はもう靴をはいている。二人並んで頭をさげ、
「さようなら」
「はい、またいらっしゃいね」
ひとみは大仰に手を振る。
「本当にありがとうございました」
「気にしないで。またどうぞ。あたしもお願いに行くわよ」
信子は子どもたちと一緒に買い物をしながら家へ帰った。
その夜、和彦の帰りは遅かった。めずらしくもない。週休二日制になって、かえってサラリーマンはいそがしくなったのではないかしら。六日でこなしていた仕事を五日間で消化しなければいけない。労働そのものはどうしてもきつくなる。
そのうえ和彦は、現場の作業とのかねあいで土曜日曜に出て行くこともある。さらにゴルフがある。
「日本もいまにアメリカ型の社会になるな」
「ええ?」
「九十五パーセントのサラリーマンがマイホーム型で、生活をエンジョイする。五パーセントだけが目茶苦茶いそがしい」
その五パーセントがエリートになって出世する。
和彦は五パーセントに属することを望んでいるのだろう。
アルコールには強いほうではない。それでもつきあいがある。十二時を過ぎるとベロベロに酔って帰って来ることもあった。
――こんなに働いているのに……申し訳ないわ――
その思いは信子にも充分にある。
幼い子どもを二人持つ主婦もそれなりにはいそがしいけれど、とても和彦とは比較にならない。
――でも、あの人には充実感がある――
仕事に夢中になっていることが和彦の生き甲斐なのだ。
信子にはそれがない。
子どもたちのあどけない笑顔を見ていると、
――これが私の生き甲斐――
と、そう思える瞬間もあるけれど、やっぱりそれだけではもの足りない。子どもたちを寝かせつけたあとのポカンとした空白感はどうしようもない。
――でも今日は事件があったわ――
かすかに心が明るい。事件と呼ぶにしては、あまりにもささいな出来事だったろう。
それでも気分が少し高ぶっている。
池袋まで行って“美女と野獣”の映画を見た。ひたむきな愛の物語……。ドロドロとした現実とはちがった夢がある。あれが大人のメルヘンというものなのだろう。遠い日の|憧《あこが》れが戻って来た。
――ある日、王子様が現れて、私の人生が変わる――
人に話したら笑われてしまう。三十を過ぎた女が心に抱いていることではない。
でも、男性だって少年の日の夢をいつまでも心に残している人がいるではないか。同じように女性が少女の夢を抱き続けていてもよいだろう。そっと心の片すみに宿していても不思議はない。
――みんなが忘れてしまっている――
他人はどうあれ、信子だけは忘れたくない。
想像するだけなら、どんなことでも自由にできる。
――あの人が意外とすてきな人だったりして――
あの人というのは、映画館の|薄《うす》|闇《やみ》で信子の|膝《ひざ》に手を伸ばして来た男のことである。
面ざしは端正だった。
これも実際はそれほど整った顔立ちではなかったのかもしれないけれど、どうせならものすごい美男子のほうがいい。“美女と野獣”の最後に現れた王子みたいに……。
――でも外国人はいや――
言葉が通じない。気ごころが知れない。信子としては親しみにくい。
どうせ想像するのなら日本人のほうが現実感がある。なじみやすい。
――だから、あの俳優の顔をほんの少し日本人に変えたくらい――
鼻をけずり、まなざしの鋭さをやわらげ、背たけも百七十二、三センチくらい。信子自身は百五十七センチである。男のほうが十五センチくらい高いとバランスがいい。
すると……映画館で隣にいた男になってしまう。よく見たわけではないけれど。
――きっとそうよ――
とりあえずそう思うことにした。
もちろん彼は痴漢なんかじゃない。信子と同じように新聞のガイド欄で、
――ほう? “美女と野獣”なんかを上映しているのか――
と発見して、往年の名画を見るために、わざわざ池袋まで足を運んでみる気になった。そういう人だからセンスのわるいはずがない。
それまではなんの関係もなかった二人……。それがある日、同じ目的で動きだし、運命の糸がつながる。すてきな恋というものは、いつだってそんな運命的な出あいから始まる。
――おやっ。すてきな人だな――
彼は信子を見てそう思った……。
信子は自分の容姿について多少の自信がある。色も白いし、ウエストは二人の子どもを生んだとは思えないほど、きれいにくびれている。
――おしゃれをして行って、よかったわ――
恋愛は心でやるものだけれど、やっぱり姿形も美しいほうがいい。
彼は映画を見ながらずっとためらっていた。隣の女性に声をかけてよいものかどうかと……。下手をすれば、いかがわしい男に思われてしまう。
だが、見れば見るほど好ましい女性のように感じられる。
――勇気を出さなきゃ――
まったくの話、勇気のない男は、それだけでなさけない。彼もそのことに気づいて、ツイとなにかに押されるみたいに手を伸ばした。「すてきですね」とつぶやきながら……。
「ええ」
と応じればよかった。
「ここへはよくいらっしゃるんですか」
「いえ。はじめてなんです」
「そうですか。僕もはじめてなんですよ。この映画が見たくて」
少しもいやらしいところなんかない。
「ずいぶん古い映画みたいですけど」
「そうね、この映画は……」
と、信子が知らないことを教えてくれる。
男はもの知りのほうがいい。和彦みたいに計算や建築材料の知識ばかりじゃつまらない。文学とか芸術とか……彼の言葉はキラキラと輝いている。
「“ベルとまもの”って童話がありますの」
「ほう?」
「これと同じお話で……。子どものための本なんですけど、それがとてもすてきなの。だから映画が見たくなって」
「そうなんですか」
会話がトントンと弾む。前からずっと親しかった二人みたいに……。
映画館を一緒に出て、
「コーヒーでもいかがですか」
と男が誘いかける。
――どうしよう――
信子はためらう。時計をそっと見る。
「じゃあ、ほんの少しだけ」
「よかった」
男の目が少年みたいに無邪気に輝く。
はじめてのことだからあまり長い時間を一緒にすごすのはまずい。ひとみには四時に帰ると言って来たのだし……。
ほんの十分くらい……。
頃あいを計り、
「せっかくですが、ちょっと予定があるものですから」
「残念だなあ。またお会いできますか」
「ええ……」
ひかえめに答える。戸惑いながら。
男は電話番号を聞くだろう。
「じゃあ近いうちに、きっと」
「失礼します」
さりげない様子で立ち去ろう。
男の仕事は……画家、イラストレーター、デザイナー、そのあたりがよい。
図画工作は信子の得意な学科だった。小学校のときの先生にはよい思い出がある。引っ込み思案の信子をいつもほめてくれたし、声がやさしかった。好きな先生だった。
――彼……あの先生に似ている――
でも学校の先生じゃあ堅苦しいし、やっぱり自由な立場で仕事をしている人のほうがいい。だからイラストレーター。趣味で油絵もかく。
――二度目の出あいはどうしよう――
眠りが近づいて来て、このあたりで信子の想像は終わった。
一週間もすると、市村ひとみが子どもを預けに来た。
子どもの名前は、えりか。ごぼうみたいに色黒で、細い体の女の子だが、おとなしくて扱いのむつかしい子ではない。
「八時まで。お願い」
と、ひとみは手をあわせる。
「いいわよ」
「ご飯はスーパーでお握りでも買わせて。この子、しゃけのお握りが好物なの」
「どうせうちの子にも食べさせるんだから、気にしないで」
「それじゃ、わるいわ」
「今度、私がお願いするかもしれないから」
信子としては、特に当てがあるわけではなかったけれど、相手の負担を軽くするためにそう言った。
「うん。じゃあ、そのとき返すから。すみません。好きなようにやってね」
「ごゆっくり」
えりかは萌子と同じ年長組である。幼い伸彦を預けておくと二人は競ってお姉さんぶるから、信子としてはかえって楽なくらいである。
しばらくは外でカンをけって遊んでいた。夕方になるとテレビを見ながら折り紙を折る。夕食には鶏のからあげを作って食べさせた。
ひとみが帰って来たのは九時に近かった。
「ごめんね。遅くなって」
子どもを寝かせる時間が近づいていたので信子は心配だった。ひとみの顔を見て、ほっとする。
「えりかちゃんは手間がかからないから」
ひとみは子どもの手を引いて二、三歩行ってからふり返り、
「ご主人、遅いの?」
と聞く。
「ええ」
「うちも今日は遅いのよ」
目くばせを一つしてから帰って行った。
それから三十分ほどして玄関のブザーが鳴った。和彦かと思ってドアを開けると、
「萌子ちゃんたち、寝た?」
「うん。今しがた」
「これ、おみやげ。一緒に食べない」
と、ひとみが洋菓子の包みを持って立っていた。
「ええ……」
あがり込むつもりなのだろう。
「迷惑?」
「ううん、いい」
習慣にさえならなければ迷惑ではない。リビングルームに招き入れて、お持たせのシュークリームを皿に取った。
紅茶を入れ、ブランデーをたらし、
「えりかちゃんは?」
「ぐっすり寝てるから、いいのよ」
ひとみの表情が心なしか輝いて見える。なにかよいことがあったのだろう。
「うれしそうね」
そうつぶやいてから信子は、
――しまった――
と思った。
聞かなくてもいいことを聞いてしまいそう……。だが、聞いてみたい気持ちも少しある。
「そう見える?」
ひとみは上目遣いで信子を盗み見る。
「ええ」
「そうよ。いいこと、あったの。昔の彼に会ってきちゃったんだあ」
言葉じりを伸ばすように告げてから、
「やっぱりいいもんね。命の洗濯。だれにも言わないでね」
と笑いながらにらむ。
「ええ、もちろん」
「今の主人より古いの、彼とは。気分は最高によくあうんだけどサ、彼、年下でしょ。前は仕事だって、はっきりしなくてフラフラしてたのよ。遊び人じゃないわよ。旅をするのが好きで、世界中あちこち行ってんの。結婚て、やっぱり安定していなきゃ駄目じゃない。あたしもずいぶん悩んだんだけどサ、今の主人のほうは“どうしても”って言うし、彼のほうはぜんぜん煮えきらないし……。綱引きみたいなもんだから、こっちのほうに引っ張られちゃったんだけど」
「初恋の人?」
「ううん、そうじゃない。三回目……。ちがう、四人目かしら」
信子はシュークリームをフォークで切り、口に運んだ。
――私は一度も恋をしなかった――
今の結婚だって、見合いではないけれど恋愛というほどのものではなかった。
「彼から連絡があって、ときどき会ってたんだけど、えりかがいたんじゃゆっくりできないじゃない。あなたのおかげで、今日は久しぶりにゆっくりと……」
ひとみは目くばせをする。
――わかるでしょ――
とばかりに。
――抱きあったのかしら――
多分そうだろう。
――いけないわ――
でも、ひとみがやることまであれこれ干渉する気にはなれない。いけないことであればこそ心が引かれる。恋愛にはその要素がなければつまらない。聞いているだけで信子は胸がドキドキしてしまう。
「不思議なものね」
「なにが?」
「新宿へ行ったの。新宿なんて、きったない町じゃない。でもサ、それが結構すてきに見えて来るのよ。好きな人と一緒に歩いていると……。ネオンなんかキラキラしちゃって。逆に、あたしって毎日こんなに息のつまるような生活してたのかって、自分がかわいそうになっちゃったわ」
「大丈夫かしら」
信子は視線を下に向けたまま小声で言った。
「どういうこと? ばれないかしらってこと?」
「ええ……」
「平気よ。あなたさえ内証にしていてくれれば。うちの人、鈍いから絶対気がつかないの」
「それもあるけど……夢中になったりして」
歯止めがきかなくなったら大変だ。
「ああ、それは大丈夫。おたがいにもう大人だから。私だって、家庭を目茶苦茶にしようなんて、そんなつもりぜんぜんないわよ。むしろ反対ね。このままだったら息苦しくて、あたし、どうかなっちゃう。だから、ときどき息抜きの窓を開けるのよ。そのほうが長持ちするのね。夫婦なんて三十年も四十年も一緒にやるわけでしょ。どっかで少しは息抜きしなくちゃ。まあ、月に一回くらいね。そのときはお願いするわね。たんとはご迷惑かけないから」
「ええ……」
悪事の片棒をかつぐのは、あまりうれしくはないけれど、正面きってそれを言うには信子は気が弱すぎる。
――悪事といっても……これは恋愛なんだし――
どんな恋物語を読んでみても、秘密の恋にはきまってよき理解者が登場する。その人のおかげであやうい恋が成就する。読者としてもその人に手を合わせたい気持ちになる。
――今は私がその役まわり――
むげにはひとみの頼みを断れない。
「いけないことだと思う?」
「そりゃあ……」
とつぶやいて口ごもる。
「弱き者よ、なんじの名は女。男たちがそう言ってんだもの。いいじゃない。おおせの通り弱き者です、はい、てなもんよ。みんな結構やってんじゃない。あなたもおやりなさいよ。協力するから」
「でも、私は駄目」
「ポーンと跳んじゃえば、それでいいのよ。自分の人生は自分のものよ。めいっぱいやらなきゃ。年を取って後悔しても間にあわないわ。若返りにもいいんじゃない」
ひとみは一時間ほど話しこんで帰って行った。
――なにをしに来たのかしら――
信子は布団に入ってもなかなか寝つかれない。
毎日の生活のどこに不満があるのか自分でもよくわからない。箱の中に閉じこめられているような、そんな圧迫感がある。
――ポカンと風穴でも開いてくれればいいのに――
しかし、ひとみみたいに昔の恋人がいてくれるわけではない。
――美術館へ行ってみようかしら――
唐突にそんな考えが浮かんだ。
昔から信子は絵を見るのが好きだった。
そう繁く美術館へ通ったわけではないけれど、美術館のあかぬけた静寂の中に自分を置いて、
――私が今ここにいる――
と、そう意識することが好きだった。そのことを今さらのように思い出した。
つい先日、テレビ番組で美術館の催し物を紹介していた。それが心に残っていたらしい。
――王子様が現れるとしたら、きっと美術館の中――
ひとみに話したら大笑いをされてしまうだろう。王子様などという表現は、たしかに|大人《お と な》|気《げ》がないけれど、だったら夢と言い換えてもいい。
――ひとみみたいにはやれないわ――
秘密の恋なんかやって夫に知れたら大変。いけないことなのはまちがいない。第一、相手もいないんだし……。
――だれか相手がいることにすれば――
考えるだけなら、どんな想像でも自由に広げられる。良心のとがめもないし、どんな相手ともめぐりあえる。すてきな恋だって自由にできる。
――やっぱり美術館ね――
わけもなくそんな気がする。
勝手気ままな想像にだって、なにかしら思案の土台となるものがなければいけない。
映画館は……気が進まない。このあいだはたまたま知らない男に声をかけられたけれど……端正な面ざしだったような気がしたけれど、やっぱりあんなところでいきなり女性の|膝《ひざ》に手を伸ばしてくるような男は油断ならない。
それから数日間、信子はとりとめのない想像に心をゆだねた。
美術館は十時頃には開く。
幼稚園のお弁当の日。子どもたちをバスに乗せ、そのまま駅へ向かった。
手始めに上野の美術館へ……。二時までには充分に帰れるだろう。
上野駅で降り、公園口を出て西洋美術館へ入った。
“ヨーロッパ絵画の知的冒険”と看板が立ててある。ウイークデーの午前とあって人影も少ない。
――色がきれい――
モンドリアン、クレー、ピカソ、キリコ、モネ……。知識はほとんどなにもない。
――私でもかけそう――
そんな気がする。
どこがよいのかわからない絵も多い。
だが、美術館そのものの雰囲気はわるくない。静かな興奮が心に寄せて来る。絵を眺めている自分の姿が、それなりの絵となって脳裏に映る。一種のナルシシズム。それが心地よい。
――来てよかった――
靴音をしのばせて歩く。
人間の体がバラバラになって飛んでいく絵の前で、腕を組み、しきりに考えこんでいる青年がいる。
部屋にはその男しかいない。
うしろからそっと近づき、信子も並んで大きな絵を眺めた。
青年は信子になんの関心も示さない。
そっと横顔を見た。
ひげが、もみあげからあごへと続いている。トランプのジャックみたいに……。日本人でこのひげの似あう男はめずらしい。たいていは、ただ不潔に見えるだけ……。
だが、この青年の場合は、青白い肌にまっ黒いひげ。形よくはえそろっている。
――でも、駄目――
信子はもう少し首を伸ばしてそう判断した。
鼻の形がわるい。おかげでせっかくのひげが台なしになってしまう。
絵の前を離れた。
つぎの部屋に移って、中央のベンチに腰をおろした。
老夫婦が現れ、絵の前に立ってささやきあっている。
――何年たっても和彦とはああはならないわ――
和彦の専門は土木のほう。美術にはほとんど関心がない。
背広の男が早足で部屋を一めぐりして出て行った。
信子は立ちあがり、また絵の前に立つ。タイトルは“無限への思索”。まん中に描かれたまるいものが頭らしい。
「この絵、お好きですか」
だれかが突然、背後から声をかけるかもしれない。ふり返ると、とても感じのいい男性が立っている……。
もし本当にそんなことが起きたら……信子はひどくうろたえてしまい、
「いえ」
ぶざまな応待しかできないだろう。だが、想像の中では、
「不思議な絵だなあと思って」
と、しなやかに答えられる。そんな情景がつぎからつぎへと浮かんで来る。
「どういうつもりでかいたのか、ちょっとわかりませんよね」
その男は、声の響きもよい。
信子は男性の魅力を考えるとき、声のよさも大切な要素になる。和彦も落ち着いた、よい声の持ち主だ。
――あれにだまされたのかしら――
でも、だまされたというのは、少し言いすぎだろう。和彦はとくにわるい人ではない。世間の物さしで計れば、ゆうに水準を越えている。
――ただロマンチックじゃないだけ――
声の響きだけでは、そこまではわからなかった。
「でも“無限への思索”というタイトルですから、なにか考えてるんでしょうね」
想像の中では、われながらほどよい応待ができる。
「見る人が考えるのかもしれませんね。いくら考えても答えがわからない。だから“無限への思索”ちがうかな」
「本当に」
美術館の部屋から部屋へとめぐり歩いているうちに信子の脳みそが少し変化したらしい。
――頭の中に男の人がいる――
もちろんその男は、信子の想像力が生んだものなのだが、独自の人格を持っているようなところも少しある。
――私、狂い始めたのかしら――
その男がすっかり独自の人格を確立して、頭の中に完全にもう一人の人間が存在するようになったら、それは狂気にちがいない。
まだそこまでは行かない。
軽い狂気……。楽しめる程度の狂気。そんな幻覚を生み出すために信子には美術館の雰囲気が必要だったのかもしれない。少なくとも今日の展示物は、みんな狂的な部分を持っている。見る人の心を迷わさずにはおかない……。
「子どものころは、もっと具象的な絵が好きだったけど」
「はい?」
「年を取って少しずつ変わりましたね」
男の年齢はいくつなのかしら。
信子より五つ、六つ年上が望ましい。
「ええ」
信子は男の様子をうかがいながら、恥ずかしそうにあいづちを打つ。このまなざしには多少の自信がある。幼いころから「信ちゃんの目ってかわいいね。夢でも見てるみたいで」と、よく人に言われた。鏡の前で、ときおりちょっと試してみる。
――多分、こんな感じ――
自分で一瞬のまなざしを確かめるのはむつかしい。
「写真みたいな絵は、もうつまらない。デフォルメされたものを見て、どうしてこの画家には人間の顔がこんなふうに見えるのか、それを考えてみる。ああ、そうか、なんて画家と自分と感性がつながったみたいな気がすると、楽しいですね」
「わかりますわ」
目を閉じると、男の声まで聞こえて来る。
信子自身、若いころは具象的な、美しい絵が好きだった。わけのわからない絵に興味を持つようになったのはむしろ最近のことだ。
だから男の言葉は信子自身の考えであり、それに聞き入り、それに|納《なっ》|得《とく》するのは当然のことなのだが、
――でも、不思議ね――
と思ってしまう。
つまり……普段の信子なら、具象的だの、デフォルメだの、感性だの、そんな言葉は使わない。そういう言葉は知っているけれど、自分の口からは言わない。そんな気がする。
ところが、一人の男を頭の中に思い描くと、急に知的な表現が聞こえて来る。
美術館の静かな雰囲気には、そんな作用があるらしい。
「“ヨーロッパ絵画の知的冒険”というのは、つまり……」
さすがにその男は信子が知らないことまでは語れない。これも当然のことだ。
さっき美術館の前で催し物の看板を見たとき、
――知的冒険て、なにかしら――
と信子は考えた。
わかるような、わからないような……。
エックスさんなら……信子はその男のことをこう呼ぶことにしたのだが、彼は知的な紳士だから、きっと信子の疑問に答えてくれるだろう。わかりやすい言葉で明解に説明してくれるだろう。美術館で信子に声をかける男は、そういうタイプでなければいけない……。
「知的冒険というのは、つまり、ただ目に見える対象を描くのではなく、思索を通して今までとはちがった大胆な冒険をやってみようと……」
それがどういう冒険なのか、|肝《かん》|腎《じん》なところが聞こえて来ないのが、もどかしい。
とりあえず彼がすてきな説明をしてくれたことにしよう。信子はそれを聞いてすっかりわかったことにしよう。
「そうなんですか」
目を輝かせてうなずく。
二人並んで回廊を歩いた。
「絵がお好きなんですね」
「ええ。この雰囲気がとても好きなの」
「僕も好きなんです」
「でも、私、なんにも知らないから」
「見て楽しければ、それでいいんじゃないですか。大切なのは、むしろそれでしょう」
「はい」
「その気になって見ようとすれば、東京にはよい美術館がいくつもありますから」
「そうですわね」
もう出口に来ていた。
信子は今回の催し物を解説したパンフレットを買った。これを読めば、男の説明もくわしくなるだろう。
「お茶でも……?」
しかし、今日は帰らなければいけない。二時には幼稚園バスの止まるところに待っていなければいけない。
「ごめんなさい。時間がありませんの」
「残念だなあ」
「またお会いできますわ」
確信をこめて告げた。
「そうですね。またどこかの美術館で」
「どこかしら」
「どこにしましょう。楽しみだな」
「本当に。さよなら」
信子は男と別れて電車に乗った。
こうして信子の美術館めぐりが始まった。
なるほど東京には美術館がたくさんある。上野の博物館へ行き、北の丸の近代美術館へ足を運んだ。大きくて、静かなところがいい。そのほうが想像が広がる。ブリヂストン美術館、サントリー美術館、|五《ご》|島《とう》美術館、あかぬけた雰囲気のところが好ましい。
とはいえ、子持ちの主婦は、そう繁く家をあけるわけにもいかない。月に一度くらいのスケジュール。だから行く先はほんの五つか六つの美術館でこと足りる。どの美術館だって三か月もたてば展示物はすっかり変わっているし、周囲の風景も移っている。
たいていは近所に住むひとみに子どもを預かってもらう。ひとみのほうも信子に子どもを預けて出かける。これはこっそりと恋人に会うため……。
「あたし、本当によかったと思ってるのよ。亭主よりずっと親切だしさア、当たり前だけど。いい刺激になって家庭もうまくいくみたいよ。彼、最高なんだから」
ひとみは、いつも少しのろける。
「いいわね」
「あなただって……隠さなくていいわよ」
「ええ、まあ」
ひとみがそう思うなら、そう思わせておけばいい。信子としては、
――私だって、すてきな男の人と会っているのよ――
と思いたい。
想像を現実に近づけるためには、一人くらい自分以外に、そのことを現実だと信じてくれる人がいたほうがいい。
「どんな人なの?」
「どんな人って、口では説明できないわ」
イメージは、それなりに固まりかけてはいるけれど……。
「どこで会うの」
「美術館で」
「へえー。ホテルは?」
「まだよ」
「|嘘《うそ》」
「本当よ」
でも、このあいだはサントリー美術館を出たところでホテルに誘われた。
「今日は堪忍して……。このつぎに」
と断った。想像はまだその先までは広がらない。でも、近いうちに……。
ひとみのほうは、ときどきベッドの様子などを話す。ちょっとほのめかすだけだが、信子はキュンと胸が引きしまる。
――いけないわ――
でも愛しあった二人が体を重ねあうのは自然なことだろう。
――夫以外の男性に抱かれるって、どんなことなのかしら――
ひとみはそれがとてもすばらしいことだと言っているけれど……。
信子の行動の範囲が少しずつ広くなった。よりよい夢を見るためには、知らないところへ行くほうがいい。
――どんなところかしら――
ガイドブックを見ながら想像をめぐらす。
――思いがけないことが起きるかもしれない――
|熱《あた》|海《み》の美術館を知ったのは偶然だった。
――熱海なんて――
あまりよいイメージを持ってはいなかった。団体旅行で行く温泉の町……。通俗的な|匂《にお》いがプンプンと漂って来る。
だが、ガイドブックで調べてみると、美術館は山の上にあって、とてもよい雰囲気のところらしい。
――ここからそう遠くはない――
品川から急行電車に乗れば一時間と少しで行ける。
「今度の水曜日、お願いしていいかしら」
と、ひとみに子どもたちの世話を頼んだ。
「いいわよ。おたがいさまだから」
ひとみはなんの|詮《せん》|索《さく》もせず気軽に引き受けてくれた。信子としては、
――あなたとはちがうのよ――
だが、それは言わない。
一か月に一度くらいと決めていた。それだけで一か月分の楽しい夢が保てる。そして夢のききめが薄くなると、信子は出かける。
けっして不倫を犯しているわけではない。
でも、頭の中に描くものはそれに近い。おそらく信子には、人並はずれて強い空想癖が備わっているのだろう。あれこれ考えるだけで楽しかった。
あいにくの雨。朝の電車は混んでいた。
熱海駅で下車して、
「MOA美術館まで行ってくださいな」
と、タクシーの運転手に告げた。
美術館は繁華街とは反対の山側にある。車が急な坂道を登る。すぐに着いた。
建物は山の傾斜にそって建っているらしい。玄関をくぐり、エスカレーターで昇った。
とても広い。
団体客らしいグループがいくつか来ていたけれど、敷地が広いので邪魔にはならない。絵画のほかにやきものが豊富に陳列してある。野々村|仁《にん》|清《せい》の壺。とてもきれい。能衣装の特別展をやっていた。
途中に茶室がある。雨が小ぶりになっているのを見て、外に出た。
海が見える。松風が聞こえる。
「熱海にもこんなところがあるんですね」
耳もとで男がつぶやく。
「ええ、本当に」
いつもの男……。
でも、イメージはまだはっきりとできあがっていない。四十歳のイラストレーター。ハンサムで、ひげの|剃《そ》りあとが青々しくて、清潔感がある。
「|松籟《しょうらい》って言うんでしょ」
サワサワと松林が枝を揺らしている。
「松籟? ああ、そうね」
信子は忘れていた言葉を思い出した。松風のことである。
このあたりの脳みその作用は、われながら不思議でならない。
とても知的な男性……。その男のイメージを描いたとたんに、知的な会話が頭に思い浮かんで来る。
松籟などというむつかしい言葉は、知ってはいたけれど、もう何年も使ったことがない。脳みその片すみで、こぼれ落ちそうになっている知識にちがいない。それが突然ふっと浮かんで来る。まるですぐそばに、そんなことをよく知っている男性が本当にいるみたいに……。
「松籟の籟ってのは……」
「どんな字でしたっけ」
「竹かんむりに頼朝の頼でしょう」
「来るっていう字じゃないのね。松林のほうから風が来るから……」
「いや。たしか笛の一種じゃないかな」
十何年か前、短大の国語の授業で習った。
「笛の音に聞こえるのかしら」
「きっとそうなんでしょうね」
二人で耳を澄ます。松風の響きは、むしろ波の音に似ている。
「|松濤《しょうとう》って言葉もありますわね」
「松風が波の音に似ているから」
「|渋《しぶ》|谷《や》の近くにもありますわね、松濤って町が」
「ああ、高級住宅地ね」
「昔は松林があったのかしら」
「そうかもしれない」
あずま屋のベンチに腰をおろした。雨が細い糸を引いて落ちている。
男が信子の手を取った。
「色が白いね」
「そうかしら」
湿った空気が肌にここちよい。
目を閉じた。
すぐ近くに男の気配がある。
信子は男の名前を知らない。まだ名前を聞いてない。名前をつけてない。
――不自然かしら――
現実ならば、これだけ親しくしていてなお相手の名前を知らないはずはない。
――でも、どんな名前――
田中だの、鈴木だの、そんな名前をつけてもしっくりとしない。エックスさんじゃ、外人みたいだし。
じゃあ、今、ここで松林さん……それもわざとらしい。しばらくは、名前なしで行こう。
「あなたを抱きたい」
「ええ……」
でも、今日は時間がないわ。
「いつも、そんなことを言ってる」
「でも、どこで?」
「少し休んで行きませんか」
「ええ……」
ためらいがちに答えて信子はベンチを離れた。
帰り道は傘をさして敷地内の遊歩道をくだった。周囲に梅の木が目立つ。
男は先にたち、急な坂が来るたびにふり向いて手をさしだす。信子はよろけて男の胸にすがりつく。
「ここには尾形|光《こう》|琳《りん》の“紅白梅図”があるんですよ」
ガイドブックにそう書いてあった。図柄も覚えている。
「国宝の……」
「そう。二月にしか展示しない。切手にもなっているでしょう」
「見たかったわ」
「また来ればいいじゃないですか」
「そうね」
|人《ひと》|気《け》ない木陰でしっかりと抱かれた。
熱海駅に着いて、|停《と》まっている列車に乗った。普通列車らしいが、ゆっくりと帰りたい。
「約束だから……」
男は美術館を出たところで、小声で告げた。意味はすぐにわかった。この前、別れぎわに信子は言ったはずである。「今日は堪忍して……。このつぎに」と。
約束は守らなければいけない。
熱海のホテル……。
少し俗っぽいけれど、とても閑静な宿。ししおどしの響く和室。部屋には石づくりの浴室があってお湯がこんこんとあふれ出ている。
それから先の想像はうまくふくらまない。
男はやさしかった。
夫とはちがった快感が体を貫く。それがどんな心地よさだったのか?
どの道、こんなことは、そのときにはっきりとわかるものではない。
あとでゆっくりと思い返す。喜びがひたひたとよみがえって来るだろう。
車窓に映る雨が激しくなった。
まるで信子の心の高ぶりをそそのかすように……。
――やっぱりいけないことなのかしら――
そうとは思えない。そこまで束縛されたらやりきれない。
――どうして彼は一緒に帰らないの――
彼は熱海に用があるから。宿にこもって仕事をしているから……。
列車が動きだした。
灰色の海の上に小さな島が浮いている。
湯河原を過ぎ、|真《まな》|鶴《づる》と記した看板が目に映った。
女が一人乗りこんで来て、信子の前にすわった。グレーのスーツ。すぐに週刊誌を広げて読み始める。
――いくつくらいかな――
多分、二十代のなかばくらい。若いわりには地味な服装である。
――私のほうがきれいかな――
少なくとも信子のほうが着飾っている。なにしろ今日は秘密のあいびきだったから……。
2 めぐみ
――貧乏は、いや――
久賀めぐみは、ずいぶん幼いときから自分がそんな意識を持っていたような気がしてならない。
子どもの目にだって、裕福な生活はすばらしいものに映るだろう。だが、それは漠然としたあこがれにとどまっていて、貧乏をにくむ感情にまでは育ちにくい。
育った家もとくに貧しくはなかった。
生まれは愛媛県の松山市。市域の拡張で市内に組み入れられた農村地帯である。父は林業団体の職員。けっして豊かな生活ではなかったけれど、周囲もみんな似たようなものだった。子どもの心理は現状肯定に傾きやすい。こんな環境では、幼いうちから“お金持ちになりたい”などとあまり考えないものだ。考えたとしても、それを一貫して心の中に抱き続けているのはめずらしい。
小学校一年生のとき、先生に、
「大きくなったら、なんになりたいの?」
と聞かれた。
多くの子どもたちが、スチュワーデス、お菓子屋さん、タレントなどをあげる中で、めぐみだけが、
「お金持ちのお嫁さんになって、お花畑のある白いお家に住みたい」
と答えた。
「めぐみは、欲張りなんだから」
母親にはよくそう言われた。
日本の道徳では、貧しいことはけっしてわるくはない。むしろよいことのように扱われる。貧しくても、清く、正しい人生のほうが|賞讃《しょうさん》に値する。
でも、だからといって豊かな暮らしが悪であるはずもない。裕福な生活にあこがれを抱くこと自体は、けっして不正ではあるまい。
――みんなが現状に満足している――
中学生のころには、はっきりとそんな不満を抱いた。
――進歩がないじゃない――
そう言い換えてもいい。
わるいことをするのならともかく、今よりは少しましな人生を望まなくては、生まれて来た甲斐がない。田舎の生活はどこか薄暗く、時代の流れに遅れているように見えた。
――東京に出たい――
高校生になってそう願った。
東京に行けば、すぐに豊かな生活が待っていると、そう思っていたわけではない。
松山は自然も美しいし、|人《じん》|気《き》もわるいところではない。平穏な生活を送るだけならば、この地でほどほどの結婚をして、子どもを育て、やがて年を取って死ぬ。それはそれで一つの生き方だろう。
――でも、私は、いや――
世の中のことなど、まだほとんどなにもわかっていなかったが、少なくとも父母の代よりレベルの高い生活を味わいたい。世界はもっと広いはずだ。少しずつ上昇して行けば、山登り同様、いつか高みに到達することができるだろう。
かならずしも金銭の欲望だけが強かったわけではない。その点から言えば、母親の「めぐみは欲張りだから」という言い方は正確ではない。めぐみとしては心外だった。
誤解をおそれずに言えば、
――一流の人になりたい――
自分がなれなくとも、一流の人を育てるような家庭を作りたい。そんな願望だったのではあるまいか。
一流とは、どういうことなのか、これもよくわからない。田舎の女学生の頭では、ほどよいイメージを描くのもむつかしい。だが、めぐみのまわりにいる人たちは、どの人を見ても、
――一流じゃないわ――
そのくらいの見当はつく。みんな二流。へたをすれば三流かもしれない。人柄はわるくないけれど、理想がない。志が低い。人生は、望まなければなにも得られるはずがない。
「そんなこと、無理よ」
そう言われれば、そうかもしれないと思う。だから一・五流でもいい。
学校の成績はわるくなかった。
「めぐみさんは、男の子だったら、なんとかなったかもしれんねえ。頭もいいし、思いきりもいいし……」
担任の教師がそんな感想をもらしていたとか。
でも、残念ながら女の子だった。あまりわがままも言えない。本当は四年制の大学に進みたかったが、短大へ行き、卒業してデパートへ勤めた。
ボーイ・フレンドは何人かいたけれど、恋人と呼ぶには、ちょっと食い足りない。
――こんなものなのよねえー、人生なんて――
いくら夢を抱いていてみても、大きな飛躍なんか簡単にできるものじゃない。結局は松山でほどよい縁を見つけて、平凡な主婦になるだけだろう。
――それはそれでいいじゃない――
もともと自分に用意されていた道は、その程度のものだったのだから……。めぐみはあきらめかけていた。
そこへ思いがけない縁談が舞いこんで来る。
相手は東京の資産家の息子。父親が土地をたくさん持っていて、ビルやマンションを建てて貸している。やがて子どもたちが跡を継ぐ。
「めぐみには、もったいな過ぎるんじゃないのか」
たしかにそう見えた。
むこうの母親が松山の人で、
――東京の娘より故郷の人のほうが、ずっとしっかり者で、いいから――
と、そんな考えを持っているらしい。
見合いをしてみると、まずむこうの両親がめぐみを気に入った。当人もどこをどう見たのか知らないけれど、
「いいんじゃないの」
と賛成したようだ。
めぐみのほうは、率直なところ、なにがなんだか、よくわからなかった。
二十四歳。この年齢では人を見る目なんか知れている。まだ充分に育ってはいない。周囲が「よい」と言えば、よく見える。それに……たしかにわるい話ではなかった。
東京に行ける。
むこうはお金持ちらしい。
めぐみの目がくらんだとしても仕方がない。
「みなさん人柄がいいみたいじゃないか」
「お母さんが愛媛の人だから……」
「めぐみちゃんは前から東京へ行きたがっていたんでしょ」
めぐみの親兄弟もこぞって勧める。
心配と言えば、たった一人で慣れない環境へ行って、うまくやれるものかどうか……。
その点については、めぐみは多少の自信があった。
――私は、やれる――
人に説明できるような根拠はなにもなかったが、何度かむこうの両親や当人と会ってみて、そう思った。
――そんなにむつかしい人たちじゃないみたい――
相手の名は久賀二郎。次男坊で、めぐみより一つ年上である。おっとりとした印象で、家族の中にもあまりむつかしそうな気配はない。
「どうなんだ、お前は?」
父に尋ねられ、
「行きます」
きっぱりと答えた。
しばらくは東京と松山を往復した。飛行機の旅はひどく胸の弾むものだった。
赤坂のホテルで結婚式をあげた。それが今から九か月ほど前……。
新居は|代《だい》|沢《さわ》のマンション。両親の住む家もそう遠くはない。
新婚旅行はハワイへ行った。
めぐみにとってははじめての海外旅行である。松山から東京へ行く飛行機だって胸がときめいたのに……。
ハワイは思いのほか小さな島だった。オアフ島は三日も滞在すれば、主だった名所はあらかたまわれてしまう。
楽しくないはずがない。文字通り夢を見ているような心地だった。ワイキキの浜辺には豪華な高層ビルが林立してそびえ、めぐみを圧倒する。そこに住むのは、華やかに生きている人たちばかり……。めぐみの知らない世界を感じさせるに充分だった。
英語が通じたのも、少しうれしい。
――東京は広い。でも世界はもっと広い――
ハワイは小さな島にちがいないけれど、背後にははっきりとアメリカの豊かさがある。この世には豊かな暮らしと貧しい暮らしとがある。
まのあたりに見て、めぐみは身のすくむような高ぶりを覚えた。さまざまな人種のるつぼ……。
「これからは国際化の時代なんですね」
「日本人とおんなじ顔してるなあ」
夫の二郎は妙なことに感心していた。
めぐみとしては、できるだけ多くのところを見物して歩きたかった。マウイ島へは行ったが、まだほかにもカウアイ島がある。ハワイ島も、モロカイ島もある。
だが、二郎のほうは、
「みんな、おんなじだよなあ」
と、あまり興味を示さない。
根がものぐさなのだろう。ホテルでブラブラしている。どことなく頼りない。最後の日はうっかり寝すごして、帰りの飛行機に乗り遅れそうになったりして……。めぐみが気づかなかったら、本当に乗り遅れていただろう。
――大丈夫かしら――
結婚前にも不安はあったが、一緒に旅をしてみて、あらためて心配になった。
旅行から帰って、めぐみは体調を崩した。心身の疲れがたまっていたらしい。
――弱味を見せたくない――
はじめに無理をしたのがいけなかった。貧血で倒れ、三十八、九度の熱が一週間も続いた。
二郎は……そう、やさしかったと言うべきだろう。
「ごめんなさい」
「仕方ないだろ」
いやな顔はしなかったし、苦情も言わない。
さりとて熱心に看病をしてくれるわけでもない。子どもみたいに病人をながめている。二郎は自分の食事くらいはなんとかするのだが、めぐみのぶんまでは気がまわらない。悪気はないのだろうが、なにをしていいのか、よくわからないらしい。
それでも新婚早々の妻としては、夫にきついことを言われないだけで気が休まる。夫の両親たちもやさしかった。
――いい人たちなんだわ――
それはたしかに感じた。見合いのときから、そのことはよく言われていた。
――でも――
と思わないでもない。とりわけ夫の二郎に対して……。
――少しねじがゆるんでるんじゃないのかしら――
めぐみは東京にあこがれていた。東京は活気があり、松山みたいにのんびりとはしていない。まばゆいほどに光り輝いている……。
これは本当だ。
だから……と、めぐみは思ったのだが、東京に住んでいる人は、みんな輝いていて、てきぱきと動き、頭の働きも田舎の人とちがって|冴《さ》えているだろう。すごい人も多いだろう。
一般論としてはそうかもしれないが、例外も充分にある。中には、少しねじのゆるんだ人もいる。
病気のベッドでめぐみが感じた不安は、おおむね当たっていた。二郎は、お人よし。
――でも賢い人じゃないみたい――
だからこそ、しっかり者の奥さんを必要としたのかもしれない。
夫の二郎は区役所に勤めている。月給はあまり高くないらしい。
“らしい”というのは、めぐみ自身、それをはっきりと見たことがないから。二郎が全部小遣いとして使ってしまう。
生活費のほうは、夫の実家から必要な金額が届く。
「足りなきゃ、お袋に言えよ」
と、二郎はわるびれるところもない。
――こんな生活もあるのね――
と、めぐみは少し驚いた。
お金持ちという話は本当だった。
――いくらでも使える――
少なくとも日常生活のわくの中で考えられる程度のことなら、たいていのことが自由にできる。しばらくはめぐみもうれしかった。
子どものころに、めぐみは“お花畑のある白いお家に住みたい”と思った。みんなに笑われたけれど、それも今ではけっして夢ではない。
今、住んでいるのはベージュ色のマンションだけれど、やがて子どもが生まれるようになれば、一戸建てに住むことも多分可能だろう。白い家だって、お花畑だってむつかしくはない。
あっけないほど簡単に夢がかなってしまった。
――東京に出て来てよかった――
一流の生活が手の届くところにある……。
不安がないでもない。
たしかにお金はあるけれど……めぐみが考えていたものとは、少しちがう。大切なところが欠けている。
結婚の一、二か月は、あふれるばかりの希望に包まれて、文字通りフワフワとすごしてしまったが、少しずつ不安のありかがわかる。見えて来るものがある。
二郎は夕刻の六時を過ぎると愛用の車を駆って帰って来る。寄り道をすることもあるが、仕事のために遅くなることはない。
「残業なんて、しないの?」
一度尋ねてみた。
「しない」
「どうして? ないの?」
「八時間働けば、たくさんだよ」
仕事を一生懸命にやっているような様子が見られない。
めぐみが|怪《け》|訝《げん》な顔をしていると、
「どうでもいいんだ。勤めてないと、|恰《かっ》|好《こう》がつかんからなあ」
と、言う。
出世なんかしたってつまらない。適当にやっていればいい。そんな気配がはっきりと感じられた。
それもそうかもしれない。
実家の資産がどれほどあるのか、めぐみは知らないけれど、サラリーマンが努力して偉くなってみたところで、とても追いつかない程度のものが、はじめから備わっているらしい。
――この人、なにを目的にして生きているのかしら――
夫について、めぐみはそれを考えずにはいられない。
本当は勤めには出る必要もないのだろう。黙っていても貸ビルや貸マンションの利益があがる。いざとなれば土地を少し売ればいい。家でブラブラしているわけにもいかないから、仕事に行くだけなのだ。
だから、のんびりしている。覇気がない。ほかに生き甲斐を求める方法も当然あるだろうけれど、二郎にはそんな気概はない。
――おそらく能力もない――
めぐみにもそれが感じられる。二郎は自分のことをよく知っているんじゃないかしら。
家ではたいていテレビを見ている。プロ野球と時代劇とお笑い番組……。無邪気に、結構楽しそうにながめている。趣味はカラオケ。ときどき将棋をやりに行くが、これはあまりうまくはないらしい。進歩が止まっているのだろう。将棋の本を出して|駒《こま》を並べているが、すぐに投げ出してしまう。
本と言えば、二郎がほとんど本を持っていないのも、めぐみには不思議だった。ほどよい家具がそろっている家なのに本箱だけはろくなものがない。本を読まない。漫画さえ見ない。
――大学は出ているはずなのに――
披露宴で大学の教授や友人が|挨《あい》|拶《さつ》をしていたから、出たことはまちがいなく出ているのだろう。いくら三流でも、なにかしら勉強をしたにちがいない。短大よりはましだろう。
――そうでもないのかしら――
勉強の|痕《こん》|跡《せき》はきれいになくなっている。
新聞もそうよくは見ていない。主にテレビ欄……。田舎の父や兄だって、もう少し熱心に読んでいた。
「アメリカって二大政党なんでしょ」
「ああ」
「共和党と、もう一つはなーに?」
「なんだったかなあ」
「どうちがうの」
「ちがうんじゃないのか、やっぱし」
「レーガンさんは、どっちなの?」
「どっちかだよ」
男の人は、こういうテーマについてはもう少しくわしいのではあるまいか。
――頭のいい人ではない――
とくに優秀ではあるまいと、そのくらいの見当はついていたけれど……普通ならいいと、そう深くは考えずにいたけれど、もしかしたら普通以下かもしれない。
――|迂《う》|闊《かつ》だった――
人柄のよさや経済力にばかり目を向けていて、配慮が足りなかった。夢のような生活が送れることだけを考えて、めぐみは|有頂天《うちょうてん》になっていたらしい。
あとになって考えてみれば、めぐみは相手が東京の人というだけで、少し劣等感を抱いていたのだろう。
――あんまり|冴《さ》えている人だと、私はやっていけない――
だから、二郎が少々頼りなく見えても、むしろ、
――ああ、よかった――
と思った。
そのあたりに盲点があったらしい。
二郎はなんの苦労もなく、とくに努力を|強《し》いられることもなく、ノホホンと育てられてしまった。兄さんがいるけれど、印象はよく似ている。それが両親の育てかただったにちがいない。そういう育ちであるにもかかわらず、とくにわがままじゃないのは、一族の血の中に流れている人のよさのせいだろう。まったくみんなわるい人たちではない。田舎の人よりむしろ田舎っぽい。
この家ではなんによらず無理をする必要がない。人並はずれて優秀ならともかく、そうでないのなら、努力などせずに好きなように生きるほうが生きやすい。
とはいえ、めぐみだってそう早くから的確に夫の資質を判断したわけではなかった。姿のよしあしはひとめでわかるが、頭のよしあしはすぐにはわからない。二郎だって三十年近く生きていれば、ぼろを隠すすべを身につけている。めぐみとしては、
――変ねえ――
と思い、
――もしかしたら――
と感じ、少しずつ気がつく。
九か月の結婚生活では、まだ確信は持てない。疑念を抱きながらも、
――目茶苦茶ひどいってことはないんじゃない――
と期待を持っている。
それに、こういう男と一生を過ごすとなると、どういうところに支障が生じて来るのか、めぐみのほうもまだよくわからない。それよりもプラスの面を考えるほうが楽しい。とりあえずはよい夢だけを抱いていた。
生活の心配は、まあ、ない。一生豊かに暮らしていけるだろう。
やがて子どもが生まれる……。
なに不自由のない生活。一家の|団《だん》|欒《らん》。両親を囲んで子どもたちの幸福そうな顔が並んでいる。
子どもたちの目がキラキラと輝いている。
――キラキラねえ――
と、想像がこのへんまで広がると、頭の中にポツンと黒い雲が浮かぶ。
黒い雲がどんどん広がり始めたら大変だ。想像が楽しめない。だから、無理にでも広がらないようにする。そのことはあまり考えない。
子どもたちはみんな賢い子たちでなければいけない……。
松山生まれのめぐみには、東京にほとんど知人はいなかったが、
――青木先生にはお会いしたい――
と、結婚がきまったときから考えていた。
青木秀子先生は、めぐみが中学二年生のときに、教生として教育実習にやって来た。
英語の発音がとてもきれいだった。それですっかりあこがれてしまった。青木先生もめぐみに目をかけてくれた。年齢は七歳もちがうのに、どこか性格のあうところがあったのだろう。
高校生になってからも、ときおり青木先生のところへ遊びに行った。先生は市内の中学校で|教鞭《きょうべん》をとっていた。
「田舎になんかいちゃ駄目。これからは女の人もどんどん社会に出て行かなくちゃあ」
めぐみの上昇志向は、もしかしたら青木先生に植えつけられたものかもしれない。もともと心の底にあったものが、青木先生によって増幅されたことだけはまちがいない。
その青木先生も結婚して東京へ移り、今は|三《み》|鷹《たか》に住んでいる。披露宴に出席していただくような関係ではなかったけれど、めぐみとしてはぜひとも会ってみたい人だった。それでなくても故郷の知人はなつかしい。
手紙を書くと、すぐに返事が来た。“ぜひぜひ訪ねていらっしゃい”と書いてある。
「行って来いよ。三鷹ならそう遠くない」
二郎は妻のやることについて、あれこれ干渉はしない。電車の乗り換えまでこまかく教えてくれた。
土曜日の午後、新宿で乗り換えて三鷹まで。青木先生は駅まで迎えに来てくれた。
「すっかり若奥さんらしくなってしまって」
「そうですかあ」
「うれしいわ。あなたはきっと東京に出て来ると思っていたのよ」
道を歩きながら近況を語りあった。
「お仕事は?」
と、めぐみが尋ねた。
「もうやめたの。専業主婦よ」
「もったいないですね」
「でも子育てが大切だから」
「何人いらっしゃるんですか」
「男の子が二人。小学一年生と、それから幼稚園に行ってるのと」
「かわいい盛りですね」
「子育ては大変よ」
「ええ……」
「本当は田舎で山登りに行かせたり、海で魚釣りさせたりして育てるのがいいんでしょうけど……そうばかりも言ってられないしね」
「はい?」
「上の子を受験させたんだけど、失敗しちゃって」
「受験て、小学校ですか」
めぐみは青木先生の顔をのぞきこんだ。
「そうよ。私立の付属校だから」
青木先生は顔をしかめながら言う。その表情に託した、先生の気持ちがめぐみにはよくわからない。
故郷の松山にも受験戦争の波は押し寄せて来ていた。松山はもともと子どもの教育に熱心な土地である。ずいぶん幼いときから塾通いなどをさせている話をめぐみも聞いていた。
それにしても小学校の受験となれば、子どもは幼稚園児である。
――そんなに早くから――
と思ってしまう。
「ええ……」
と、めぐみは|曖《あい》|昧《まい》につぶやいた。
「うちはちょっと準備が遅かったものだから。下の子には、同じ失敗をくり返させないようにしてるの」
今度は遅れをとらないようにたっぷりと勉強をさせているらしい。さっき先生が顔をしかめたのは、前回の失敗に対する無念さなのかもしれない。
――先生も変わった――
会ったときから、そんな感じを抱いた。
松山にいたときは、とてものびのびとしていて、さわやかな印象だった。本職の先生たちに比べると、とても自由で、大きな夢を秘めているように見えた。
――今はピリピリしている――
かすかにそんな気配がある。
――教育ママになったのかしら――
きっとそうだろう。母親になれば、二十代の娘とはちがう。変化は、はっきりとは見えないけれど、うなずけないことでもない。
先生の住まいは駅から徒歩で十分ほど。
「ここなの」
「お邪魔します」
大きなマンションの七階だった。
リビングルームは黒と白の配色。ピアノの上にどこかで見たような絵が飾ってある。名画の複製だろう。黒い本箱には、高い位置に大人の読む本が並び、低い位置には童話や子どもの絵本がさしこんである。
部屋の美しさは、めぐみのマンションだってけっして負けないけれど、こちらのほうがどことなく、
――知的な感じ――
そんな雰囲気がすみずみにまで広がっている。
すぐに子どもたちが帰って来た。
めぐみにキチンと|挨《あい》|拶《さつ》をし、サンドイッチを食べ始める。
青木先生がステレオのスイッチを押した。
スピーカーから英語が流れる。やさしい日常会話……。
「こんなもの、年中、聞かせているの」
と、女主人は笑いながら言う。
「子どもたちのために?」
「ろくに聞いてはいないんだけど、やっぱり耳が慣れるでしょ」
子どもたちはジュースのびんとコップを取り出し、
「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」
と兄が言えば、
「イエス・プリーズ」
と、弟がたどたどしい声でつぶやく。
発音がそれらしく聞こえる。
「ときどきあんなこと言ってんのよ。よくわかんないのにね」
二人ともかわいらしい。まなざしがキラキラ輝いている。とても賢そう。
「おつむ、いいんでしょ。先生のお子さんだから」
「さあー、どうかしら。これからじゃないの」
「うらやましいわ」
「そんなことないわ。あなただって……まだなの、赤ちゃん?」
「ええ、まだ」
「結婚したばかりですもんね。少しは楽しまなくちゃあね、一番よいときだから」
「ええ……」
声がよどみがちになってしまう。
――先生はやっぱり理想的な家庭を作っている――
ほんの一端をかいま見ただけだが、そんな気がする。ご主人もきっとすばらしい人にちがいない。
「お母さま、遊びに行って来る」
「いいわよ。弘ちゃんのこと、よく見てあげてね」
「うん、じゃあ、さようなら」
「はい、さよなら」
子どもたちはペコンと頭を垂れ、転げるようにドアの外へ出て行った。
「お菓子、どうぞ。わりとおいしいのよ。甘みをおさえていて」
「はい、すみません」
フォークでケーキを切って口に運び、会話が途絶えた。
「先生をやってて、つくづく思ったんだけど……」
と、青木先生が思案の糸をたぐるようにつぶやいた。
「はい?」
「子どもの頭って、生まれつきみたい」
「ええ……」
「頭のいい子って、最初からいいのよね。おくての子もいるけど、それだってあとで伸びるようにはじめっからそう作られているみたい」
「そうなんですか、やっぱり」
「パンダの赤ちゃん、知ってる?」
「いいえ」
「とっても小さいの。あれがあとであんな太っちょのパンダになるなんて、ちょっと信じられないくらいよ」
「あ、見たかもしれない。雑誌のグラビアで。ピンク色で、ねずみの子みたいなの。ちがいますか」
「そう。あれがパンダになるのよね。いくらはじめは小さくたって、遺伝子の中にちゃんと将来太っちょのパンダになるよう組みこまれているわけでしょ」
「ええ」
「人間だって同じことよ。どのくらいの人間になるか、脳みその大きさは、ある程度はじめからきまっているみたい。才能の早く現れる子と、遅く現れる子と、そのちがいはあるけど」
「努力すれば頭がよくなるってものじゃないんですか」
「もちろん少しはちがうわ。でも百メートルを走らせてみればわかるでしょ。高校生くらいが一番速いのかしら。そのとき一生懸命走っても十五秒くらいしか出せない子は、どんなに訓練したって、せいぜい十三秒台がいいところよ。どんなに毎日しごかれたってそれ以上速くならないわ。体の仕組みがそうなってるんですもの。努力でできることには限界があるわ」
「そうかもしれませんね」
「それに……ウフフ。努力のできる性格だって、生まれつきのものかもしれないしね」
「どういうことですか」
「努力をするのって、みんながとてもすばらしいことみたいに言うじゃない。あの人は努力するから偉いって……。でも、性格的に生まれつき努力にむいている人と、むいていない人とがいるみたい。生まれつきいい頭をもらって来て、そのうえ努力する性格までもらって来れば、最高よね。当人が偉いみたいに言われるけど、本当はみんな遺伝のせいかもしれない。その反対に、頭もそうよくないし、努力は好きじゃないし、そういうふうに生まれついちゃうと、本人はそれなりに一生懸命やっても、なんだか駄目みたいに言われちゃうのよね」
「悲しいお話ですね」
「まあね。お金持ちの家に生まれたとか、生まれつき器量がいいとか、そういうのは“本人はなんの努力もしてないのに、いいめをみて”なんて、ひがまれるけど、頭のいいのだって似たようなものよ」
「じゃあ、教育って、なにをするんですか」
なにもかも生まれつきだったら、教育なんてたいしたことができない……。
「鋭いわね。私もそれを考えたわ。いくらいい頭だって、ちゃんと育てなくちゃ駄目よ。だから教育の役割は、軌道に乗せてあげること、少しはいい方向に引っぱってあげること、それから能力に合った生き方を捜してあげること、それくらいかしら。とにかくわるい頭をよくすることはできないわ。でも、あなたはいいじゃない。おつむもいいし、努力もするし、器量もすてきよ。ご両親に感謝しなくちゃね」
「私なんか……」
めぐみは両手の掌で|頬《ほお》をはさんでつぶやいた。
青木先生の弁舌に少し圧倒されてしまった。
――でも、本当だわ――
青木先生は昔から本当のことをはっきりと言う人だった。それがさわやかさの原因だったろう。
――器量は大丈夫――
めぐみは自分の容姿について多少の自信は持っている。女優のような器量ではないけれど、十人集まれば一、二番目くらいには位置するだろう。スタイルだって、|風《ふ》|呂《ろ》あがりの体を思わず鏡に映してながめたくなるほど整っている。
夫の二郎もそうわるい顔立ちではない。遺伝の法則を信ずる限りひどい様子の子どもが生まれるはずがない。
――でも頭のほうはどうなの――
これが問題だ。
――私はそんなにわるくないと思うけれど――
学生時代は少し手を抜いていたが、それでも成績はいつも上位だった。実力テストでは、女の子の中で二番を取ったことがある。通信簿の成績よりも実力テストの順位のほうが上だった。これは頭のよさの一つの証明だろう。田舎の学校だって、そう捨てたものじゃない。東京の一流大学にいつも十数人は入れているのだから……。
わけもなく夫のポカンとした表情が浮かんだ。
「ほら、英語のテキストで、ローマの貴婦人の話を読んだじゃない」
青木先生がめぐみの顔をのぞきこむ。
「そうでしたか」
「ほかの貴婦人は、宝石や美しい|衣裳《いしょう》で身を飾っているの。でも、その貴婦人だけは、ぜんぜん着飾っていないのね。“あなたはどんな宝石を持っているの”って聞かれて、彼女は胸を張って二人の子どもを呼び出すの。“これが私の宝石です”って。とてもいい子どもたちで、その子どもたちが、のちにローマを救う大政治家になるのね」
めぐみはそのテキストを思い出せない。習ったものではないらしい。
だが、話の骨子はよくわかる。
「じゃあ、先生も……」
「そううまく行くかどうか……。でも、よい子を育てるのって、最高の楽しみじゃない。うちは男の子ばかりだから。一流の人になってほしいわね、正直のところ」
「ええ」
青木先生の顔には自信が見え隠れしている。なにかしら|手《て》|応《ごた》えのある子どもたちなのだろう。さっき見たときも、幼いながらそんな感じだった。
「やっぱり学歴は大切よ」
「そうでしょうか」
「きまっているじゃない。いい学校へ行けば、いい仲間も多いし、いい先生もいるわ。評論家の人なんか、学歴なんてたいしたことじゃない、人格が大切だとか、それぞれの幸福を見つけ出すことが一番だとか、いろいろ言うけど、結構その人の子どもを見ると、いい学校へ行ってたりしてんのよね。ホンネとタテマエがちがうのよ。そりゃ人柄も幸福も大切よ、もちろん。でも、それといい学校を出るのとは矛盾しないわ。むしろ正比例のほうよ。そりゃ、頭のわるい子を無理に引きあげてみたって、ろくなことないけどね。いい子に恵まれて、いい家庭を作るって、最高じゃない」
「ご主人は、どちらの大学を出ていらっしゃるんですか?」
「うちの人? 一応東大だけど……どうなのかしら。いびきかいて寝てるとこなんか、ただのおっさんね」
「そんなこと、ないでしょ」
「でも、やっぱり知識は広いし、ものの見方なんか鋭いとこ、あるわね。子どもたちを相手にいろんなこと教えているから。頼もしくなるときがあるわ」
「ええ……」
めぐみは戸惑いながらつぶやいて、リビングルームの本箱へ目を移した。
「あなた、知っている? 子どものボキャブラリーは両親のボキャブラリーをなかなか越えられないんですって」
「どういうことですか」
ボキャブラリーというのは……たしか単語のことだろう。英語の授業では「君たちはボキャブラリーが少ないから駄目だ。最低四千語くらいは、ちゃんと知ってなくちゃいけない」などとよく言われた。
「英語のことじゃないわよ。日本語のこと。日本人だって、日本語をよく知っている人と知らない人とがいるじゃない、当然。知っている単語の数が人によって、ずいぶんちがうのね。早い話、小春日和と言って、なんのことかわかる人とわからない人とがいるでしょ。いつかテレビのアナウンサーがまちがって使っていたわ。小春日和って、春のことじゃないわ。秋なのに、ポカポカと春みたいに暖かい日のこと。知ってた?」
「いえ……」
「そう。そういうふうに日本人の中にも、言葉をよく知っている人と知っていない人とがいるのよ。その言葉の数がね……結局のところ両親の影響を受けるのね。育った環境がいろんな言葉を使っていれば、自然と子どもも意味がわかるようになるし、自分でも使うわ。それが少なければ子どももそんなにたくさんは覚えられないの。つまり両親のボキャブラリーをそう簡単には越えられないのね」
言われてみれば当然のことだろう。
言葉というものは幼い時期に身につくものである。もちろん青年期以降に本人の興味や努力によって新しいボキャブラリーをどんどん吸収していくケースも充分に考えられるけれど、育った環境のボキャブラリーがとぼしければ、どうしてもその子どものボキャブラリーも少なくなりがちだ。
――ボキャブラリーという言葉だって、普通の人の会話の中で使われるものじゃないわ――
青木先生と話しているからこそ出て来る。そのぶんだけ利口になれる。
――二郎は知っているかしら――
ボキャブラリーという言葉を、である。
知っているかもしれないけれど、めぐみの家でこの言葉が登場することは、まあ、あるまい。
「両親がろくな言葉を使っていなければ、子どもも使えないわ。言葉の知識が少なければ国語はなかなか伸びないし、国語が駄目だと社会も英語も駄目ね。取りかえしがつかないくらい欠落している子どももいるわね」
「そうなんでしょうか」
「ボキャブラリーの不足は、それでも目に見えることのほうだけど、ものの見方とか、考え方とか、みんなそうよ。子どもは、まっ白い紙みたいな状態で生まれて来るんだから、両親の影響をそのまま受け継いじゃうのね。エリートの家庭をのぞいてみると、そのへんが実にうまく行ってるわ。その両親と一緒にいるだけで、ボキャブラリーが増え、表現のしかた、ものの見方、考え方、みんな身につくようになっているの。そういう環境の中からまた次のエリートが生まれるのね」
「ええ……」
エリートという言葉もめぐみはあまり耳慣れない。見当はつく。多分英語だろう。
――私が望んでいるのは、きっとそれなんだわ――
目からうろこの落ちる思いがした。
エリートを生むにふさわしい知的な環境、それを求めてめぐみは東京へ嫁いで来たのではなかったのか……。
「おたくのご主人はどうなの?」
「なんだか駄目みたい」
あからさまには話しにくい。
「大丈夫よ。男の人はなんだかんだと言っても、知識が広いから。家庭的な人なんでしょ」
家によくいるということなら、よくいる。子どもが生まれたら一緒になって馬鹿をやっているのではあるまいか。
「はい……」
めぐみは|曖《あい》|昧《まい》な声で答えた。
三時間ほどいて青木先生の家を辞去した。
「またいらっしゃいな」
「ありがとうございます」
電車の中で青木先生の言葉を一つ一つ心に刻んだ。
――私がしっかりしなくちゃあ――
今さらこの結婚をやめるわけにはいかない。
東京に出て来れたのだし、お金もある。夫に不安はあるけれど、はじめから完全な状態を求めてはなるまい。
――少しせっかちかしら――
苦笑がこぼれる。
――まだ赤ちゃんが生まれるってわけでもないのに――
どんな子どもが生まれるか、それもわからないうちに、あれこれ先走って悩んでみても始まらない。
新宿で乗り換え、|池《いけ》ノ|上《うえ》で降りて本屋に立ち寄った。
奥まったところに辞書を並べた棚がある。外来語辞典を取って“エリート”の項目を調べた。“選ばれた者。選良。社会の上層階級”と記してある。
「わからないことがあったら辞書を調べなくちゃいけないわ。ちゃんと説明してあるんだから」
と、これも中学生のころ青木先生に教えられたことである。めぐみはわりとよくその教えを守って来た。
でも、今の家には手紙を書くときに役立つ程度の小さな国語辞典しかない。それもめぐみが故郷から持って来たものだ。
厚い辞書を棚から引きおろしたが、値段を見てもとへ戻した。薄い外来語辞典だけを買うことにした。このごろは知らないカタカナ用語が|溢《あふ》れている。
――ボキャブラリーを増やさなくちゃあ――
そんな意識が働く。
平積みの棚をのぞいてふと、胎教の本を手に取った。
――本当かしら――
いろいろなことが書いてある。胎教はまちがいなく効果があると記してある。母体が安らかな気持ちで毎日をすごし、よい子が生まれて来ることをひたすら願う。それがとても大切なことらしい。性格のよい子を生むにはそれが第一歩だと……。母体がいら立っていては、ろくな子は生まれない。生まれる前から期待をされていないようでは、胎児だってひねくれてしまう。
このあたりまでは、なんとなく心理的には|納《なっ》|得《とく》できるが、お母さんが美しい絵を見ること、よい音楽を聞くこと、それが胎児の情操教育に役立つ……本当かしら。さらに胎児に話しかけたり、文字を切り抜いてお|腹《なか》に当てておくと、頭のよい子が生まれる、と、そこまで言われると、首を|傾《かし》げたくなってしまう。
――読んでみよう――
外来語辞典と一緒に“胎教のすすめ”を買った。
外に出てから、
――厚い国語辞典も買えばよかった――
お金にはなんの不自由もないのだから、値段を見てひるむ必要はなかった。
その夜、めぐみは、テレビをながめている夫のわきで“胎教のすすめ”を読んだ。
二郎は「なにを読んでいるんだ」とも聞かない。読書などというものは、自分以外の人の読書でも関心がないふうである。
――この人に、あまり多くは望めないな――
青木先生のご主人はこうではあるまい。
本を読み終えて、めぐみは軽いショックを覚えた。“胎教のすすめ”は、三章から成っている。第一章は胎教が充分に科学的な根拠を持っていることを説きあかしている。第二章は、そのやり方、そして第三章は体験報告である。すみからすみまでわかりやすく書いてあった。
だれだって一冊の本を読めば、その影響を受ける。めぐみは、もともと活字で記されたものを信じやすいほうだった。
――やっぱり、あるわ、胎教って――
このテーマは今までじっくりと考えたことこそないけれど、頭のどこかで、
――ありうることだわ――
と思っていた。
ぼんやりと考えていたことを、あらためて確認したようなものである。
むしろめぐみが驚いたのは、世間の母親たちが、よい子を作るために、
――こんなに一生懸命になっているんだわ――
そのことのほうだった。
故郷の家では、子どもはなんとなく生まれ衣食を与えられ、やがて大きくなって巣立って行く、そんな感じだった。まわりもみんなそうだった。もちろん両親にはそれなりの希望と苦労があっただろうけれど“なにがなんでもエリートを育てよう”と、そんな覚悟はなかった。あるはずもない……。
――だから駄目なのよ――
教育ママという呼び名は、あまり好きじゃないけれど、母親が子どもの教育に関心を持たないで、どうしてよい子が育つだろう。
――とくにわが家は、そう――
子どものことなんか、まだめぐみは妊娠もしてないのだから、夫とはほとんど話したことがない。だが、いずれにせよ二郎にはあまり期待をかけてはなるまい。めぐみが頑張るよりほかにないらしい。
想像が少しずつふくらむ。
――子どもは二人くらいがいいかしら――
そう思ったのは、多分青木先生の家庭を見たから。男の子が二人……。
――でも、女の子も一人くらいほしいわ――
じゃあ、三人。男の子が二人続いて最後が女の子。
これは“胎教のすすめ”に“はじめに生まれる子のほうが優秀”と書いてあったから……。ほかでも似たようなことを聞いたおぼえがある。男の子はとにかく優秀でなければいけない。
男、男、女と続く兄妹を考えたとたん、
――あっ、昔、あったわ――
と、すっかり忘れていた記憶がよみがえって来た。
子どものころにめぐみはかわいい人形を三つ持っていた。男の子が二人に、女の子が一人。お人形遊びのときには、いつもその三人が,お花畑のある白い家に住んでいた。
ほかにもう一つ、松山の家の客間に古い額がかけてあって、そこには子どもにも読める書体で“真善美”と書いてあった。
ものごころのついたときから,その額はかかげてあった。もちろんはじめからその字が読めたわけではない。今はない。
――いつなくなったのかしら――
それは思い出せないけれど、とにかくずいぶん長い年月のあいだ、その額を見続けて育った。
「あれ、なんて読むの」
父か母か、あるいは兄にでも教えられたのだろう。多分、意味も教えられた……。
三人の人形は、真一、善二、美子と名づけた。
しかし、人形遊びをしていたのは、せいぜい小学校の低学年。そうでもなかったのかしら。人形にそんな名前をつけたのは、めぐみ自身の考えではなく、だれかの入れ知恵だったかもしれない。三つの名前は、幼い子の知恵ではない。
人形の背たけは似たようなものだったけれど、言葉の順序で男、男、女の兄妹となった。
あれから十数年。お花畑のある白い家は、もう夢ではない。
とすれば……次は、三人の子どもに恵まれる。人形遊びの順序と同じように……わけもなくそんな気がする。
――名前もその通りでいいわ――
長男は真一、次男は善二、そして末娘は美子となる。きっと夫は反対しないだろう。
真にして善、善にして美、美にして真、三つそろえば、これこそエリートの家庭にふさわしい。
その通りになるかどうかはともかく、この想像はめぐみの好みによく|適《かな》った。
真一は賢くて、気まじめなタイプ。善二は活発で、いたずらっ子。でも、頭の働きは鋭い。美子はかわいらしくて、やさしくて、性格がとてもよい。
真一は算数が得意で、将来は科学者になろうと思っている。善二は人づきあいがうまいから、商社マンになって世界を相手にビジネスをやる。美子は……ピアノがうまくて、英語もフランス語も、とても上手に話す。
――そんな家庭が作れたら――
想像をしているときはとても楽しい。
突然トイレットの中から夫の歌声が流れて来た。
夫の歌……。
俗っぽい歌謡曲。いかにもそれらしい節まわし。|眉《まゆ》をしかめて、泣きそうな顔で歌う。
「……あーあ、涙の桟橋でえー、泣いているあの|娘《こ》おー」
これが十八番なのだろう。結婚以来何度か聞かされた。男と別れた女が港の桟橋で涙ながらに帰りを待っているらしい。
「でも、おかしいわ」
トイレットから出て来た夫にめぐみは話しかけた。
「なにが?」
「今どき港なんかあるのかしら」
「あるだろ。どうして」
なにを聞かれたのか、二郎はぴんと来ないらしい。
「だって、その歌、女の人が港で男の人の帰りを待っているわけでしょ」
「うん? そうだな」
「どこの港なの」
「どこって……きまってないよ。どこでもいいんじゃないのか」
「でも、今は飛行機か、列車でしょ」
「そんなこと言ったって……」
いたずらの現場を見つけられた子どもみたいに夫は困惑の表情を浮かべる。何度も歌っているくせに、歌詞について疑問を抱いたことなどまるでないらしい。
「港なんかで待ってたって、男の人、帰って来ないわよ。せいぜい貨物くらいしか着かないんじゃない」
「そういう理屈を言っちゃ駄目だ。歌だもん」
「ハンカチの花が涙でにじんで……って、そこも変よ」
「どうして」
「そんなハンカチないわ。染めがもっとしっかりしているから」
「そういうこと言ってちゃ、気分が出ないよ」
なんの考えもなく歌っているのだろう。
めぐみは口をとざした。
「いつもそんなこと考えながら歌ってんのか」
口をとがらせながら夫が聞く。
「私、歌わないもの」
「そうだな。メロディーがよけりゃ、それでいいんだ。堅いこと言ってたら、つまらん」
そうかもしれない。たかが歌謡曲。めくじらを立てるほどのことでもない。
――でも、まるで疑問を持たないなんて――
夫の日常と重ねあわせて考えてみると、不安になってしまう。俗っぽい世界にどっぷり首までつかっているみたい……。ボキャブラリーの多い人じゃない。これは本当だ。
――それに、言葉の意味もそう深くは考えていない――
めぐみの不安をよそに、また同じ歌を口ずさむ。
わけもなく思い出すことが一つある。
ささいなことかもしれないが、めぐみにとっては輝かしい出来事だった。
高校一年生のとき……。
「このクラスは優秀だね。実力テストで男子の一番と女子の二番がいる。廊下に五十番まで名前が張り出してあるぞ」
担任の先生が、昼休み直前の授業でそうもらした。
――男子の一番は、わかる。木部弘彦君だわ――
めぐみだけではなく、みんながそう思っただろう。木部弘彦は本物の秀才だった。このクラスに全校で一番がいるとすれば、彼よりほかには考えにくい。
問題は女子のほうである。
全校で二番となれば、これははんぱな成績ではない。男子二百名、女子百七十名いる学校なのだから……。県下で最優秀の高校と言ってもよい。
――だれかしら――
教室の中にさざ波のようにささやきが走る。いくつかの視線が、日ごろから成績優秀と目されている女の子に集まる。当人は目顔で否定する。
担任はニヤニヤ笑いながら晴れの名前を明かさない。あとのお楽しみ、そんな気分だったのかもしれない。
授業が終わる。みんなが教室の外に出る。
すでに廊下の壁の下に人が群がっていた。
めぐみはゆっくりと歩いて行ったが、なんとなくいつもとちがう気配を感じた。
「やるじゃない、めぐみ」
ほかのクラスの親しい仲間に声をかけられた。
男の名は黒で、女の名は赤で、実力テストの成績順に五十番までかかげてあった。
黒の一番は、やはり木部弘彦の名前だった。最初に赤の名前が登場するのは、全体の四番目。西野和美。いかにもガリ勉らしいタイプの人である。
赤の二番目、全体の十一番が……なんと、めぐみ自身の名前だった。
――信じられない――
教室では自分のことなどちらとも想像しなかった。周囲の人もそうだったろう。
――まちがいかもしれない――
確認するまで少し時間がかかった。まっすぐには見られなかった。
横一線に五十個の名前が書いてあるだけなのだから、まちがいようもない。
まわりの視線が熱い。
「まぐれよ。まぐれ」
いたたまれなくなって壁の前を離れた。
昼休みのあいだ、こんなこと、ちっとも気にしていないと、そう装うのが大変だった。
うれしさをしみじみと感じたのは、学校からの帰り道、一人になってからだったろう。
――すごいわ――
われながらそう思う。
前後に名前を連ねていたのは、いつもみんなから、
――あの人はできるわ――
と、一目も二目も置かれている人たちばかりである。女生徒の中で二番ということは、もうほとんどだれよりも上と言ってよい。つね日ごろから、
――私よりは上――
と、うらやんだり、くやしがったり、ときには劣等感を抱いていた相手が、みんな下になってしまった。
「あのね、今日、学校で実力テストの発表があったの」
母は台所で洗い物をしていた。
「そう」
「私ね、全体で十一番。女の子だけなら二番だったわ」
喜びを|噛《か》み殺し、ひかえめな声で伝えた。
「あら、そう。よかったわね」
母の返事がこころもとない。むしろそっけなく響いた。まるで事の重大さがわかっていない……。
「女の一番が西野和美さんで……」
と言いかけて、めぐみは言葉を切った。母はあまり熱心には娘の話を聞いていないように見えた。
「女の子は勉強だけができても、しょうがないから」
冷水をかけられたような思いだった。
あのときのことを考えると、めぐみは少し母を恨みたくなる。
――もっと喜んでくれても、よかったのに――
そう思わずにはいられない。
女の子は勉強だけができてもしょうがない、と、その考えにも問題は多々あるだろうけれど、そこは一歩譲ってもいい。たしかに田舎では、そんな考え方がなくもない。めぐみの育った家は、そうだった。でも、めぐみは勉強だけができたわけではない。家の仕事だって一通りはやっていたし、性格の面だってとくにわるくはなかっただろう。
母としては、めぐみが「だから東京の大学へ行きたい」などと言いだすことを恐れたのかもしれない。でも、めぐみはそんなにわがままを言う娘ではなかった。希望は希望として持つことはあったかもしれないが、親の言うことを無視して高望みなんかはしない。家の事情もわかっていた。
――もっとすなおに喜んでくれればよかったのに――
やさしい母ではあったけれど、考えが足りなかったと言われても仕方があるまい。
実力テストの結果は多分父にも伝えられなかったろう。めぐみは心待ちにしていたのだが、家族のあいだでは一度も話題にのぼらなかった。
それで気落ちをしたわけではあるまいが、高校二年の実力テストでは、五十二番だった。
わずかなところだが、名前は張り出されない。五十二番だってわるくはないけれど、みずから、
「私は五十二番だったのよ。あと一歩のところだったのに」
とは周囲に言いにくい。
思いすごしかもしれないが、友人たちは、
――めぐみは、この前はフロックだったのよね――
と、そんな感じで見ていたのではないかしら。
三年になってからは、これはもう、家の事情で四年制の大学へは行けないらしいと見当がついていたから、勉強に身が入らない。実力テストも百番をちょっと切る程度の結果だった。
西野和美は、いつも女生徒の中の一番。木部弘彦は全校一番の席を一度も譲らなかったろう。西野は医大に進んだはずだし、木部もエリート街道をまっしぐらに走っているにちがいない。
――木部君はどうしているかしら――
東京に来ているはずである。小学校も中学校も一緒だった。家が近いせいもあって、松山にいたときはときおり姿を見かけた。
本当に絵にかいたような優等生だった。勉強だけではなく、スポーツもうまかったし、絵をかかせてもうまかった。ピアノも弾けたし……。
すばらしい男の子ということなら、めぐみはどうしても木部弘彦のイメージを思い浮かべてしまう。
――長男の真一は、ああいう子であってほしいわ――
あらためて木部弘彦の印象を心に呼び戻してみた。
――そううまくはいかないわ――
もちろんその気持ちは、ある。
だが、想像するだけなら、どんなことだってできる。そのほうが楽しい。
第一、まだめぐみは妊娠さえしていないのだし、はじめの子が男の子かどうかだってわかるはずもない。
だからこそかえって自由に想像することができる。
――私は、うちのお母さんとはちがうわ――
遠い日の台所の風景がよみがえって来る。空想がそれに重なる。
「今日、学校で実力テストの発表があったんだ」
真一が、この家のキッチンで洗い物をしているめぐみにつぶやく。さりげない声で……。
でも、本当は喜んでいることがわかる。
「どうだった?」
「二番だった」
「そう。すごいじゃない」
ふりかえって真一の顔を見つめる。本当にうれしい……。
思っただけで歓喜が胸にこみあげて来る。
「でも一番じゃなかったから」
「いいじゃない。二番なら、たいしたものよ」
二番というポジションは、めぐみ自身、きらいではない。好みにあう。
充分によい成績でありながら可能性を残している。一番には必死の思いで頑張っているような印象がつきまとう。子どもはもう少しゆとりのあるほうがいい。
「ご褒美をあげなくちゃね。なにがいい?」
真一は何歳なのかしら。
空想は|肝《かん》|腎《じん》なところがぼやけている。
実力テストが話題になるのだから、中学生くらい……。
――小学校じゃ、まだそんなことやらないでしょ――
まだ生まれてもいない子どもについて、あまり大きく成長した姿を想像するのはむつかしい。
いずれにせよ、その夜の食卓でこのことが話題になるのはまちがいない。
――夫は喜ぶかしら――
喜ばないはずがない。なにしろ根が単純な人だから……。
でも想像に夫の顔がからんで来ると、めぐみの表情がくもってしまう。
――そんな賢い子が生まれるはずがないじゃない――
思案がたちまち現実に戻ってしまう。
それから二、三日して、夫の兄が子どもを連れて遊びに来た。
義兄には二人の子どもがいる。小学一年生の男の子と三歳の女の子。どちらもかわいらしい顔立ちをしているが、
――おつむのほうは、どうなのかしら――
と心配になる。|冴《さ》えた感じではない。兄嫁もよい器量だが、口調はどこか舌足らずで頼りない。
子どもたちを相手にしりとり遊びをやった。三歳児のほうがうまく遊べないのはまだ許せるが、一年生のほうもルールがよく飲みこめないらしい。
「うさぎの最後が“ぎ”でしょ。だから“ぎ”ではじまる言葉を言えばいいのよ」
兄嫁がいくら説明をしても、ポカンとした表情でいる。
「猫」
などと見当ちがいのことをつぶやいて笑っている。動物あわせをやっているわけじゃあるまいし……。
――こりゃ駄目だわ――
短い時間だったが、めぐみは失望を覚えた。
「お|義《に》|兄《い》さんとこの子どもたちだけど……」
と、めぐみは義兄一家が帰ったあとで夫に話しかけた。
家の中は散らかし放題。あとかたづけもせずに帰って行った。子どもたちがいたずらをすると、兄嫁は、
「いけませんよ」
と、思い出したみたいにたしなめるけれど、口調が本気でないことはすぐにわかる。周囲の手前、一応言っているだけのことなのだ。子どもたちも母親をなめてかかっている。平気でいたずらを続けている。
つまり、しつけがなっていない。
――あんなことじゃ、ろくな子どもに育たないわ――
頭もよくなさそうだし……。
青木先生のところの子どもとは、まるでちがっている。青木先生はめったに子どもを|叱《しか》らないけれど、注意をするときには本気で言う。すわりなおし、子どもの手を握り、目をのぞきこんで、なぜいけないかを言う。いけないことは二度とさせない。その意気ごみがそばで見ていてもはっきりとわかる。
――聞きわけのいい子が育つわけだ――
と、めぐみは思った。
さしずめ義兄のところは正反対だろう。けじめがはっきりとしていない。
そのあたりを夫がどう思っているか尋ねてみたかった。
「うん?」
二郎は手足をもぎとられた人形を接着剤で修理しながらふり向く。
「しつけが駄目みたい」
「子どもだから仕方ないだろ」
「でも、子どものときからしっかり教えておかなきゃ、いけないこともあるんじゃないかしら」
やんわりと告げた。
あまり強いことは言えない。二郎はうっかり者だから、なにかの拍子に義兄に向かって「めぐみが言ってたぞ。兄さんとこの子ども、しつけがわるいってよ」くらいのことを言いかねない。義兄はきっと気をわるくするだろうし、兄嫁にも伝わるだろう。そんなことで争いたくはなかった。
――むこうはむこうで好きにやればいいんだわ――
それでよい子が育たなくたって、めぐみにはなんの関係もない。大切なのは二郎のほう。夫がそれをどう見ているのか……。
「兄貴んとこも、いろいろ塾になんかやって勉強させたらしいよ」
少しそっぽうの答えが返って来た。
――しつけのことを言ったのに塾のことなんか言いだして――
教育には、たしか知育、徳育、体育の三本柱があるはずだ。短大の、|狸《たぬき》みたいな顔つきの先生の講義だったけれど、そこのところだけはよく覚えている。たしか試験にも出たはずだ。
知育は子どもたちに知識を与えること。徳育は、子どもたちの心を正しく育てること。そして体育は、子どもたちの体を健康に育てること。この三つがそろってはじめて本当の教育になる。
しつけは徳育に属すること。塾に通うのは知育のほうだろう。
めぐみとしては徳育のことを言ったのに、夫の答えは知育のほうへ変わっている。でも、
「それで、どうだったの?」
義兄のところの子どもが塾へ通ってどうなったか、それも聞いておきたい。
「ぜんぜん駄目」
「ああ、そう」
「ほかの子どもの邪魔になるからって帰されたらしい」
「でも、どうして? まだ小さいのに……。塾なんて早いんじゃないかしら」
「有名校の付属に入れようとしたんだ。無理だよ。無理」
「そうかもね」
「生まれつき、頭がいいわけじゃないんだから」
「やっぱり」
「兄貴だって、たいしたことないもん。|義《ね》|姉《え》さんも、そうよくはない。久賀家はどっちを向いても勉強には向いてないんだ。あははは」
夫の結論は、奇しくも青木先生と一致している。
つまり、生まれつき頭がよくなければ少々の努力をしてみたってどうにもならないと……。
――でも|肝《かん》|腎《じん》なところがちがっている――
めぐみはそれを思わないわけにはいかない。
青木先生は、生まれつき頭のいい子を持っている。久賀家では、どうもそういう子には恵まれそうもない。
――困るわ――
真一も、善二も、美子も、みんな賢い子どもでなければいけない。めぐみの夢は、このところずっとその線で描かれているのだから。
そのとき電話がかかって来て、夫婦の会話はここでとぎれた。
「もしもし……入院? えー、そんなにわるいの」
と、夫は電話口で話している。
――だれか病気みたい――
めぐみは聞き耳を立てた。
「|俺《おれ》はまずいよ。あのおばさんにはきらわれてんだ。勤めもあるしさ。あははは、俺だって遊んでるわけじゃないんだ。わかった、わかった。めぐみに行かせるから」
しばらく押し問答みたいな話が続いて電話が切れた。
「どうしたの?」
「滝口さんの奥さんが病気なんだって。ほら、結婚式で主賓をやってもらったろ。あの滝口さん」
モーニングを着た男の隣で、青い顔をしてすわっていた中年の女をめぐみはかろうじて思い出した。
「ちょっとお見舞いに行って来てくれよ」
「私でいいの」
「いい、いい。俺だって、そうよく知ってるわけじゃない」
「私が行っても、なんのたしにもならないのとちがう?」
「行きさえすればいいんだよ。メロンでも持って」
「いいわ、どこ?」
「|真《まな》|鶴《づる》。品川から電車で行けばいい」
「メロンを届けて、ご|挨《あい》|拶《さつ》だけして来ればいいのね」
「そう。長くいることはない。むこうも迷惑だろ。結婚式に来てもらったんだから、一応挨拶だけしておけばいいんだ。あんたのほうがしっかりしているからいいよ、俺より」
そんな気もする。気むつかしそうな夫人だった。
「いいわよ」
「いろいろ歩きまわって東京の地図もよく覚えたほうがいいしな」
「そうね」
渋谷から品川へ出て東海道線で行く方法を教えられた。
めぐみはまだ首都圏の地理をよく知らない。気晴らしにもなるだろう。
翌日は雨模様。だが、予定通りに出かけた。
東海道線の普通列車。ほとんど変化のない町並を窓の外に映しながら走る。
真鶴で降り、病院の位置はすぐにわかった。
「古い肺結核が再発したんだと」
そう聞かされて来たが、もっとわるい病気なのかもしれない。病人もなにかしら知っているらしい。
「わざわざよく来てくださいましたね」
ベッドのそばの堅い|椅《い》|子《す》に腰をおろした。話すことはほとんどなにもない。新婚家庭の様子を少し話した。
「あなたがしっかりしているから安心ね。よいお子さんをお生みなさい」
「ありがとうございます」
ころあいを計って病室を出た。
――二郎さんのことをいくらか知っているみたい――
さぞかし夫は頼りなく思われているのだろう。
真鶴の町には干魚の|匂《にお》いが流れていた。
帰路も普通列車。週刊誌を一冊買って車両に乗りこんだ。四人の席に一人だけ腰かけているところがあった。
三十代なかばの女……。めぐみはその前の席にすわった。窓を右手に見て……。
雨が降り続いている。残りの二つの席が埋まったのは小田原だったろうか。
週刊誌の記事は退屈だ。星占いのページを見た。向かいの席の女が読みたそうな顔をしているので「どうぞ」と勧めた。
雨を見ながら、これから生まれて来るはずの真一のことを考えた。まだ妊娠もしていないのに……。
3 千 鶴
――いつのまにかうかうかと一生を過ごしてしまった――
小早川千鶴は、このごろよくそんなことを思う。
まだ四十九歳なのだから、一生が終わったわけではない。平均寿命まで生きるとすれば、二十年以上の日時が残っている。
そうであるにもかかわらず、自分の一生があらかた終わったように思えてしまうのは、なぜだろう。
子どもの時代があった。
少女の時代があった。
それから今日まで……かなり長い時間があったはずなのに……。
終戦を迎えたのが小学校の一年生。だから小学生時代は戦後の混乱期にどっぷりとつかっている。ろくな教育を受けていない。
今でも千鶴は漢字の書き順を問われると、迷ってしまう。こんなことは小学校で習わなければ、一生習う機会がない。ほかにも地理とか歴史とか、基礎学力を欠いている部分があるようだ。
中学を卒業して高校に入り、高校を出て洋裁学校に入った。そのあと洋裁とはなんの関係もない家電メーカーに勤め、三年働いて結婚のために退職した。ごく平凡な見合い結婚。男の子が二人生まれた。秀樹と敏樹。秀樹は広告代理店に就職し、今は札幌へ行っている。敏樹は大学四年生で、クラブ活動がいそがしくて、ほとんど家にいつかない。子育ての仕事もあらかた終わったようだ。
本当にまたたくまに歳月が過ぎてしまった……。
日本という国自体がこの四十年くらいをかけて敗戦のどん底から今日の繁栄まで、まるで大急ぎで階段を上るみたいに|駈《か》けあがって来た。
千鶴もそんな雰囲気にまき込まれて走り続けて来たらしい。深く考えることもなく、ただ目先の必要を満たすことにだけ夢中だった。
――女の一生ってなんなの――
そう尋ねてみたくなる。
結婚をして子どもを生み、子どもを育ててそれで終わる。昔は、その年齢が人生そのものの終わりだった。終わりに近かった。ところが今は寿命が伸びてしまって、それからもたっぷりと生き続けなければいけない。
少女のころまではともかく、それからしばらくは、夫のため、子どものため……つまり自分以外のだれかのために生きて来た。
急に「さあ、今度は、あなた自身のために生きてごらんなさい」と言われてみても困ってしまう。
それに……千鶴の場合は「あなた自身のために生きてごらんなさい」と言われているわけでもない。夫の良介は自己中心的な人で、妻の生き方になんかとんと関心がない。妻は夫のあとに、ただ盲目的について来るものだと思っている。
千鶴が結婚したのは、二十三歳のとき。良介は六歳も年上だった。
――この人が私の夫なの――
今の娘さんたちが聞いたら、
「馬鹿みたい」
と笑うかもしれないが、あのころは親に強く勧められればそれに従うといった風習がまだ残っていた。
――とくにいやな感じじゃないし――
ただぴんと来ないだけ……。
頼もしそうな人ではある。
千鶴の実家は、紙のおろし問屋を営んでいた。問屋と言っても規模はとても小さい。ちり紙やトイレット・ペーパーなど、家庭用雑貨が主力で、印刷用の紙は扱わない。新しく誕生したスーパーマーケットやドラッグ・ストアに押されて、先行きの暗い商売になっていた。弟や妹もいることだし、家庭の情況を考えると、千鶴は結婚についてあまり|贅《ぜい》|沢《たく》の言える立場ではない。良介は大手の製紙会社に勤めていた。
「サラリーマンがいい。こんなちっぽけな商売は、どうもならん」
千鶴の父は口ぐせのようにそう言っていたし、事実、はたで見ていても、その通りだと思った。店を持っていると、一日中仕事から解放されない。父ばかりか母も働かなければいけない。ぜんそく持ちの母はつらそうだった。
それでも商売に勢いがあるうちは、うま味があるだろう。だが、時代の流れに遅れてしまうと、どうあがいてみても浮かばれない。借金がかさむ。
その点、サラリーマンは安定している。収入が飛躍的に伸びることもあるまいけれど、世間の景気がわるかろうと、たとえ病気になろうと、ある程度のことは保障されている。
――結婚するなら、相手はサラリーマンがいい――
と、千鶴も少女のころから考えていた。それがちっぽけな商店に生まれた娘の|憧《あこが》れだった。われながらいじましい。
夫にはむつかしい係累はなかった。
会社の社宅で二人だけの生活を始めたが、家計は楽ではなかった。良介は月給袋の中から自分に必要な金額を取り、残りを千鶴に渡す。月給の総額がいくらなのかも知らなかった。ボーナスなど臨時の収入も同様である。
不満はあったが、相手は六歳も年上だし、千鶴のほうにも“夫には文句を言わずに従うもの”といったふうな、古い意識があった。
――男の人って、みんなこんなものなのかしら――
と、戸惑っているうちに子どもが生まれ、こうなると迷ってなんかいられない。子どもを育てるのに夢中だった。自分の楽しみなど考えるゆとりもなかったし、子育てには充分に楽しい部分もある。
何年か良介に連れそってみて、
――この人は自分勝手の人――
と、わかった。年月の経過とともにしみじみわかった。
仕事はよくやる。そこそこに出世もした。今は役員になれるかどうか。
――多分なれないだろう――
会社ではどうなのかわからないが、良介には夫としてどこか欠落している部分がある。家族に対する考え方……。とりわけ妻というものをどう考えているのか?
おそらく妻なんて子どもを生む機能を備えたお手伝いさんくらいの感覚でいるのだろう。
しかも気むつかしくて怒りっぽい。
子どもたちに対しても、あまり愛情の深いほうではない。千鶴が気を配って、なんとか家族の形態を保って来たようなものである。
良介が家族のためにしてくれたことといえば、小田原に住むところを用意し、月給の一部を与えてくれること……。
――この人は、なんのために結婚をしたのかしら――
千鶴は夫の横顔を盗み見ながら、何度かそんなことを思った。
女ぐせがわるいとか、酒ぐせがわるいとか、あるいは暴力をふるうとか、決定的な短所があるのなら、まだ救われる。ふんぎりがつく。考えようがある。それを理由に離婚に踏み切ることだってできるかもしれない。
だが、良介の短所は、他人に説明しにくい。みんなの理解をうるのがむつかしい。そう、言ってみれば、ともに生きて行くうえで大切なものがまんべんなく何パーセントかずつ欠けているみたい……。
――つまり、けちなのよ――
愛情も、金銭も。
まったくの話、良介は生活にぎりぎり必要なお金以外はなかなか千鶴に渡してくれない。
「もう少し家に入れてほしいんですけど」
と頼んでみても、
「ない」
と不機嫌になる。
「月給をいくらいただいてるんですか」
「うん? |俺《おれ》が働いてんだ」
だから、いくら稼いで、どう配分するか、そんなことは教える必要はないという理屈らしい。
「私は飼われてるみたいなもんですね」
ため息まじりにつぶやくと、ジロンとしたまなざしが飛んで来る。
――ああ、そうだよ――
と、本心はそう言いたいのだろう。
小ぜりあいは何度もやったけれど、それでよい結果が出ることは、けっしてなかった。|芯《しん》から身勝手な人と争っても勝てるわけがない。
それに、やはり女は弱い立場である。
「いやなら離婚すればいいだろ」
と言われて、
「はい」
とは答えられない。路頭に迷ってしまう。良介は口には出さないけれど、心の中では“これでいやなら別れるまでだ”と思っているにちがいない。
しかし、女だって、いつかは反逆を考える。
子どもたちが幼いうちは、
――とにかくこの子たちを育てなくては――
と、愛情の深いほうが弱い立場に立たされてしまうけれど、二人の子どもももう成人に達した。
二十数年間しっくりとしない夫婦生活を続けて来て、もういさかいを起こす気にもなれない。子どもたちが育ってしまえば、千鶴を良介に結びつけていた、たった一本の細い|絆《きずな》も切れてしまう。
ある日曜日の昼さがり、昼寝をしている夫の顔を見て、千鶴は、
ブルッ
と、身震いをしてしまった。
――私とは、なんの関係もない生き物がこんなところに寝転がっている――
真実そう感じた。
ただのきたないじいさん。鼻筋が太く、いかにも|傲《ごう》|慢《まん》そうで、にくにくしい。ゆるんだ唇は下品で、けちくさい。
――これからもずっとこの人と一緒に生きて行くのかしら――
それが到底信じられないことに思えてならなかった。
――私ももう少しちがった生き方を考えなくちゃあ――
さりとて、なにか具体的な行動を起こすとなると、なにをやっていいかわからない。夫に従い、ただ子どもを育てることばかりやって来たのだから、急にほかのことを考えるのはむつかしい。
――離婚ねえ――
それができれば、どんなにすっきりするかしら。
1LDKくらいのアパートを借りて、たった一人で生活する。少しさびしいけれど、気むつかしい生き物と暮らすよりはずっといい。考えてみれば結婚して二十数年、夫の顔色ばかりうかがって生きて来た。いまだにその圧迫から逃れられない。それを考えただけでもいまいましい。なにもかもきれいさっぱりふり払ってしまったら、どんなにせいせいするかしら。
「離婚してください」
突然、そう告げたら、夫はどんな顔をするだろう。
「別れて、どうする?」
「さんざんあなたに奉仕させられたから、今度は少し自由に生きてみたいわ」
夫は鼻でせせら笑うだろう。目に見えるようだ。
「やりゃいいだろ。で、おもらいでもやって生きていくのか」
「私にだって権利があるわ」
「なんの権利だ? 好きで出て行くんだろ。なんの権利もありゃせんよ。|俺《おれ》もせいせいする。好きにやればいいじゃないか」
かけ引きでは夫にとても勝てそうもない。
――なにか方法はないのかしら――
遅ればせながら千鶴は少しずつ自分の生き|甲《が》|斐《い》を考えるようになった。
片瀬知子と親しくなったのは……そう、たしかスーパーマーケットでかぼちゃを買ったのがきっかけだったろう。
知子が裏手のマンションに住んでいることはもちろん知っていたし、会えばいつも|挨《あい》|拶《さつ》を交わしていた。笑顔が親しみやすい。
――感じのいい奥さん――
と千鶴は思っていた。
スーパーマーケットの棚においしそうなかぼちゃが載っている。だが、良介はかぼちゃを好まない。ずっと昔に、かぼちゃを甘く煮て食卓に出したら、
「なんだ、こんなもの。俺はきらいだ。戦時中に一生の分を食っちまったからな。無駄な料理、作るな」
と文句を言われた。
千鶴はむしろ好物のほうである。スーパーの棚で見つけて久しぶりにかぼちゃが食べたくなった。
でも、一人で食べるには一個は多すぎる。値段もそう安くはない。
隣で片瀬知子が首を|傾《かし》げていて、
「かぼちゃ、好きなんだけど」
と、つぶやく。
「あら」
と、千鶴が首をまわした。
「こんにちは」
「こんにちは」
「奥さんもかぼちゃ好きなの」
「ええ」
知子は夫と二人暮らし。子どもはいない。
「これ、おいしそうじゃない? 一つ買って半分わけしません?」
「いいわよ」
相談がまとまり、一つのかぼちゃを知子の家で半分に切って分けた。
つぎの日、千鶴が朝食のあとかたづけをしていると、玄関のブザーが鳴り、
「おはようございます」
知子が皿を持って立っていた。
「おはようございます」
「うちのかぼちゃ、食べてみて」
と、さし出す。
「あら、おいしそう。うちのも、少し残っているわ。奥さんほど上手には作れないけど」
「そんなこと、ないわよ。味くらべしましょ。人の作ったものって、ちょっとおいしいじゃない」
「どうぞ。ちらかっているけど、おあがりになって」
と、はじめて知子を家に入れた。
良介は、千鶴が友だちを呼ぶのを好まない。へんな入れ知恵をされては困るし、家事もないがしろになる。出費もかさむだろう。そんなことよりなによりも、良介は妻が楽しみを持つこと自体が気に入らないのだ。女なんてほそぼそと生きているのがいい。なんとか生きさせていただいている、そのくらいの感じが適当だと考えている。
夫が|難《なん》|癖《くせ》をつけるものだから、友だちづきあいも近所づきあいも、千鶴はほとんどしなかったが、ここへ来て少し気持ちが変わった。
知子は人柄がよさそうだ。なんの屈託もなく、自然体で生きている。聞いてみれば年齢も千鶴とすっかり同じ。裏のマンションに引っ越して来たのが、三か月前。
「近所にお友だちがいなくて、困っていたの」
ということらしい。
以前の千鶴だったら、そう親しくはならなかっただろうけれど、ちょうど自分の半生をかえりみて窓一つない部屋に閉じこめられているような|苛《いら》|立《だ》ちを感じている矢先だった。
――この人と仲よくなれば、なにかしら風穴が開くかもしれない――
かすかな予感を覚えた。
親しくなるまでにそう時間がかからなかった。一緒に買い物へ行ったり、到来物を分けあったり、どちらかの家に行ってお茶やコーヒーをすすりながら世間話をするようになった。
夫には内証である。
話せば、どうせ反対される。
「ご主人、気むつかしそうね」
知子にもわかるのだろう。
「そうねえ。私は慣れちゃったけど……」
「男って、なんでああ威張るのかしら」
「おたくもそう?」
「はじめに油断したのがいけなかったのよ。実家の父も威張ってたもんだから、ついうっかり主人にも威張らせちゃったのよね。新婚早々って、こっちはなんにもわかってないじゃない。毎月、お金を稼いで来てくれるから、ついありがたがってしまっちゃって……」
「ええ……」
「でも、このごろの法律じゃ、夫の稼ぎの半分は、妻の稼ぎなんですって。そうなっているらしいわよ」
「ほんと?」
「だって、そうじゃない。洗濯をしたり、食事ごしらえをしたり、子どもを育てたり……まあ、うちは子どもがいないけど、いろいろ奥さんがやってあげるから、ご主人が安心して働けるわけでしょ」
「でも、月給は働いた当人のものだって……。その証拠に、奥さんが会社へ取りに行っても、絶対に渡してくれないって……」
千鶴はよく夫にそう言われた。
「うそ、うそ。たてまえはそうかもしれないけど……第一、このごろは銀行振り込みでしょ」
「ええ……」
千鶴のところでは印鑑も通帳も、夫がしっかりと握っている。
「男って、ずるいのか、馬鹿なのか、私、両方じゃないかとにらんでいるのよ。こっちが要求しなきゃ、なんにも気づかないのよ。気づいても気づかないふりをして……。ふりをしているうちに本当に気づかなくなっちゃうのね、根が馬鹿だから。私、あるとき、それがわかったから、どんどん主張することにしたの。面倒くさがってちゃ駄目。五年もたつと、かなり風通しがよくなるわよ」
「うちは頑固だから」
知子が言うほど簡単にはいかないだろう。二十数年近く夫に従う生活を続けていると、どこで踏んばっていいかわからない。どうしても気おくれを覚えてしまう。「いかん」と怒鳴られれば「はい」と従ってしまいそうだ。
「黙ってやりたいことをやってればいいのよ。むこうが気づいたら謝って、そのつぎまたシレッとした顔で、同じこと、やればいいの」
「そうなのかしら」
「女だって少しは楽しまなくちゃ。これからが楽しいのよ。あと二十年くらいね。体を鍛えて……。男なんて、もうしぼりかすみたいなもんだから、これからはだんだんこっちのほうがイニシアチブを取るようになるわ」
知子の夫は、たしかに青白い顔をして元気がない。|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》があるらしい。だが、良介は元気|横《おう》|溢《いつ》、この面でも千鶴は夫にとてもかないそうもない。
「ポンと跳びたいわね」
「そうよ。跳んでみればいいのよ。ね、一緒に跳びましょう」
知子が|膝《ひざ》を|叩《たた》いて言い出したのは、|両国《りょうごく》の花火見物だった。
「ちょうどいいわ。再来週の土曜日。お友だちの家が川っぺりのマンションなの。その屋上に三十人ほどの席が作れるの。いつも十人分くらい確保してもらって見物するのよ」
「いいのかしら、私なんかが横から入って」
「いいの、いいの。いつも何人かはじめての人が見えるわ。明日、返事しておく。今年はいつも一緒に行く人たちが、なんだかんだって都合がわるくて……。ちょうどよかったわ。両国の花火、見たことある?」
「ないわ」
「なかなかのもんよ。ね、そうしましょ。申し込むなら、早いほうがいいわ」
「じゃあ……」
と、決心も充分につかないまま承諾の返事をしてしまった。
カレンダーを見ると、七月の最後の土曜日。良介は土曜日にはたいていゴルフへ行く。
――よかった。良介のいないときに出かけるほうがいい――
帰ったところで|一悶着《ひともんちゃく》起きるだろうけれど……。知子のほうはすっかりその気になっているから、今さら取りやめるわけにもいかない。
千鶴が迷っているうちに土曜日がやって来た。
夫の会社では去年から、週休二日制を実施している。この制度は大変結構なことのように言われているけれど、
――本当にそうかしら――
と、千鶴は首を|傾《かし》げてしまう。
千鶴と同じような立場の主婦のことを考えてほしいと思う。日本中にきっと大勢いるにちがいない。今までは週に一回、日曜日だけ気むつかしい顔の亭主とつきあっていればそれでよかった。今度はそれが二回になる。二倍もうんざりさせられる。
知子に言わせると、
「わかるわ。うちもそうなの。つまり、近代化が充分に進んでいないうちに革命が起きちゃったみたいなものね」
なのだそうだ。
知子は四年制の大学を出ている。専門は西洋史。ちょっとめはそのへんの主婦とぜんぜん変わらないけれど、時折教養がほとばしり出るときがある。
「どういうこと?」
「つまり、歴史ってものは段階をへて発展して行くものなのよね。封建制から資本主義制をへて社会主義制になるとか……。そうでないと、うまくいかないの。ぎくしゃくして」
「ええ」
「家族だっておんなしよ。亭主関白の時代が終わり、つぎに夫婦平等、おたがいの立場を認めあいながら生きて行く時代が来て、そのあとレジャー志向のファミリーに変わって行くべきなのよね」
「ええ……」
「ところが、まん中を一つ飛び越して、亭主関白のまんまレジャー志向の状態になっちゃうわけよ。わが家とか、あなたのお家とか。こりゃ休日が二日になったって駄目だわ。亭主ばっかりがいい思いをして、奥さんのほうは面倒なことがもう一日増えるだけよね。ロシアみたいなもんね。古い制度を残したまんま革命が起きちゃって、今になってあわてて近代化を進めているわけ」
ロシアのことはよくわからないけれど、小早川家の場合はたしかにその通りだ。亭主関白という前近代性が少しも改善されないうちに、革命的に週休二日制が舞い込んで来た。これからあわてて夫婦の近代化を計らなければなるまい。
さいわいなことに、千鶴の夫は、土曜日にたいていゴルフに行く。亭主一人で楽しんでいることに変わりはないけれど、一日中顔をつきあわせているよりはいい。
「じゃあ、行って来る」
十時過ぎに知人の車が迎えに来た。
「はい、行ってらっしゃい」
「なんだ?」
千鶴の顔を見て良介が尋ねた。
千鶴の表情にどこかぎこちないところがあったのだろう。
「べつに」
と、答えた。
「花火を見に行きます」などと言ったら、夫は「なんだ、それは」と気色ばむにちがいない。下手をすると行けなくなってしまう。
「うん」
一人|頷《うなず》いて靴をはく。
「何時ごろお帰りですか」
「遅い」
それだけ言い残してドアを開けた。千鶴は夫のうしろ姿を追って門の外まで出て、
「おはようございます。いつもご迷惑をかけて……すみません」
と、迎えに来てくれた男に頭を垂れた。
良介は車のうしろの席に腰をおろし、上機嫌で笑っている。家にいるときは、まるで笑うのが損だとばかりに口を曲げているくせに……。
ゴルフのあとでなにをするのかわからないけれど、良介が「遅い」と言って昼近くに出て行った日の帰宅は……おおむね夜の十一時ごろ。もっと遅いときもある。
一方、両国の花火は八時半に終わるらしい。帰路は交通の混雑が予測されるけれど、
――九時半の“こだま”に乗れないかしら――
一歩でも夫より早く帰れば、それでなんの支障もあるまい。でも、きわどいタイミングになりそうだ。
――なにもそこまでしなくても――
と千鶴は思う。花火見物なんて、それほど楽しいことでもあるまい。小田原からわざわざ両国まで見に行くなんて……。しかも、夫の目を盗んで。
千鶴の迷いもそのへんにもあったのだが、知子は昼すぎに外出の用意をして現れ、
「あんまり遅く出ないほうがいいみたい。せっかく東京へ行くんだからデパートにも寄りたいし」
と誘う。心が決まった。
「いいわよ」
食卓の上に“東京へ行って来ます”と書き置いて、二時すぎに家を出た。
新幹線で東京まで。料金も馬鹿にならない。
――たかが花火見物のために――
少しもったいないような気もしたが、いつもそんなことを考えているからいけないんだ。
知子は、まだ心の片すみで迷っている千鶴を励まして、
「女だって気晴らしをしなきゃ、つまらないわよ。男は“仕事”だの“つきあい”だの、いろいろ言いながらみんな適当にやってんだから」
「それはわかるけど」
「今日は思いきってドーンとやろう、ねっ、花火みたいに」
両手を空に向けて高くあげた。
日本橋のデパートに立ち寄り、それから地下鉄で|浅《あさ》|草《くさ》に向かった。
五時前なのに車内はもう花火見物の客でいっぱいになっている。
「あなた、カラオケは?」
と知子が聞く。
「やったこと、ない」
「そう。わりと楽しいわよ」
「どこで歌うの?」
「カラオケ・バーよ。私だって、そうしょっちゅう歌っているわけじゃないわよ。ノンコが……信田紀子っていうの、マンションを持っているお友だち。今は信田じゃなく永井さんだけど。あそこは夫婦そろって好きなんだから。ノンコはわざわざカラオケ教室に習いに行ってんのよ。で、私もたまにね、彼女たちに誘われて」
知子は自信がありそうだ。
「恥ずかしくない?」
「はじめのうちは、ちょっとね。でも、あれ、本当に不思議よ。いっぺん歌っちゃうと、われながらそんなに下手じゃない、もういっぺん歌っちゃおうかしら、そういう気になっちゃうのよねぇ。あなたなんか、きっとうまいわ。声がいいもの」
「駄目。歌ったことないから」
「でも、知ってるでしょ、少しは。好きな歌あるでしょうが」
「好きだってことだけなら……“だれもいない海”とか“恋人よ”とか」
「いい線、行ってるじゃない。最高よ。ぜひ聞かせて」
「駄目、駄目。本当に駄目。人に聞かせられるようなしろものじゃないわ」
「平気よ。あのね、歌には二種類あるのよ。ノンコの説だけど」
「二種類?」
「そう。人に聞かせてお金をもらう歌と、人に聞かせてお金を払う歌と。カラオケは、あとのほうなんだから。下手でもいいの。本当。自分がいい気持ちになれれば」
浅草駅の構内は押しくらまんじゅうみたい。六時を過ぎると、いたるところで通行禁止がおこなわれるらしい。
|吾《あ》|妻《づま》|橋《ばし》を渡り、|駒《こま》|形《がた》|橋《ばし》のたもとからななめに路地へ入った。
「ここ。打ちあげるところの、すぐそばなんだから」
永井マンション。十一階建てのビル。一階に受付があり、このビルも六時になるとシャッターをしめてしまう。
エレベーターで最上階まで昇り、さらに階段をあがって屋上に出た。
川風がさっと髪をなでる。
テーブルが並び、ざっと三、四十人分の席が作られている。ビールの銘柄を記したちょうちんが頭の上にいくつも並んで揺れていた。
高速道路を挟んで|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》が見えた。川のまん中にプラットホームのような足場が浮いていて、そこが花火をあげる場所らしい。
屋上にはまっ赤なエプロンを垂らした男が立っていて、
「こちらが永井さん。ノンコのご主人」
と知子が紹介する。
「お世話になります」
「こちらこそ。はじめてですか」
「はい」
「ここはよく見えるから」
知子の話では、永井は、ついこのあいだまで上野で家具商をやっていたらしい。だが、家具商は店舗が広くなくてはいけないし、そのわりに利が薄い。デパートや大手と競争したらとてもかなわない。店を処分し、今は不動産業を営んでいる。
このマンションも、彼の資産の一つなのだろう。
もう一人、まっ赤なエプロンをかけた女が現れて、この人が知子の友だちのノンコだった。
「ほかに二団体入っているの。うちは、こっちの|柵《さく》ぞいのとこ。好きにやって」
知子には何人か顔見知りがいる。あちこちに|挨《あい》|拶《さつ》をし、千鶴を紹介する。
バ、バ、バーン。
突然激しい破裂音が響き、川の上空にいくつもの光が散った。
背後のほうでも、
ドーン、
と、これは腹に響くような重い音が聞こえ、ふり返ると、赤や黄の花火が低い空にたて続けに開く。
「二か所でやるの。あっちが隅田公園」
「そうなんですか」
「まだ景気づけ。本当に始まるのは、七時半からよ。ビール飲んで。枝豆も、やきとりも」
テーブルの上にラップをかけた皿が置いてあった。会費は五千円也。つぎつぎに冷たいビールが運ばれて来る。
「手伝います」
「いいわよ。ちゃんと当番がきまっているから。たいしたことないの。すわってらして。もうすぐカラオケ大会が始まるの」
「本当に?」
「うん。あそこ」
ノンコが指さした。
屋上のすみのほうに高さ三十センチほどの舞台が作られ、そのわきにカラオケのセットらしいものが置かれている。
「花火を見るんじゃないの?」
「だって、まだ一時間もあるじゃない」
折り詰めの弁当が並ぶ。
「みなさーん、ひと通り行き渡りましたかあ。とりあえず|乾《かん》|盃《ぱい》をしましょう」
ノンコのご主人が今晩の幹事長。いつもそうなのかもしれないが……。
缶ビールをあけ、
「乾盃」
「かんぱーい」
いくつもの腕が、夕暮れの空にむかってあがった。
川を挟んで対岸のネオンサインが少しずつ光の色を濃くする。飛行船があかね色の空を背景にしてゆっくりと動いている。
ビールを飲む人、弁当を食べる人……。
「えー、みなさん、ご苦労さまです。お待たせいたしておりますが、本日の花火の打ちあげは、午後七時半からでございます。それまでただぼんやりと隅田川をながめているのでは、退屈してしまいます。隅田川の水質もこのところかなりきれいになりましたけれど、ビルの上から見ていても格別楽しくはありません。そこで、ひと思案。おおかたのお勧めもございまして、今夜は納涼カラオケ大会を催すことにいたしました。たいがいの曲はそろっております。どんどんお申し込みください」
ノンコのご主人が赤いエプロンを取り、その下は白シャツに黒いネクタイ、司会者に|変《へん》|貌《ぼう》していた。
「では一番。あらかじめ申し込みのあった片瀬知子さん。片瀬さんの歌う曲は“抱擁”です。片瀬さん、どうぞ」
いきなり知子の名前を呼ばれ、むしろ千鶴のほうが驚いた。
「あらッ、一番なの。いやあね」
周囲でパチパチとまばらな拍手が起きる。
「待ってました」
「泣きたくなるほど、あなたが好きよ」
と声がかかる。知子は首をすくめていたが、
「じゃあ、前座に……。歌って来るわね」
|椅《い》|子《す》から立って、舞台のほうへ進む。
ほかの二つのグループからも拍手が起きた。スピーカーがキー、キーと高い音をあげる。
「どうした?」
「いえ、ちょっと」
係がカラオケ・セットをのぞきこむ。前奏が、風に音を切られながら流れる。知子がマイクに口を寄せ、
「|頬《ほお》をよせあった、あなたのにおいが……」
と歌いだす。聞いていて、千鶴はドキドキしてしまう。
――この歌なら、聞いたことがある――
下手ではない。歌そのものよりも身ぶりがそれらしい。体を軽く曲げ、上体を浮かしてリズムを取る。もう一つの手でマイクのコードをほどよくたるませてつまんでいる。
「……泣きたくなるほど、あなたが好きよ」
せつなそうに|眉《まゆ》を寄せ、目を閉じ、うっとりと歌う。
――気分、出してる――
歌は風に切れ、どの道そうよくは聞こえない。
バ、バ、バーン。
まるで歌の終わるのを待っていたみたいに花火があがった。
「|玉《たま》|屋《や》あー、|鍵《かぎ》|屋《や》あー」
おきまりの声がかかる。
「歌がいいから花火があがったぞオ」
知子が丁寧にお辞儀をして舞台を|駈《か》けおりた。
「駄目。最低」
「うまい、うまい。ムードでてたぞ」
「カラオケの演奏、よく聞こえないのよね。勝手に歌っちゃった」
「いや、うまい。大分月謝がかかってるな、これは」
「そんなこと、ないんですよ」
知子は手をふりながら千鶴のとなりに腰をおろし、ペロリと舌を出した。小声で、
「どうだった?」
「すてきだったわ」
「そう。好きな歌なの」
「そうみたい」
「これでせいせいしたわ」
ビールをごっくんとのどに流し込んだ。
つぎにほかのグループの男が壇上にあがり、千鶴の知らない歌を歌い始めた。
この人も身ぶりは堂に入っている。目を閉じ、体を揺すり、みえを切って一角をにらむ。歌もそこそこにうまいけれど、だれのために歌っているかと言えば、本人のため……。
知子の言う通り、なるほど歌には二種類があるようだ。お金をもらって歌う歌。お金を払って歌う歌。
いくら自分のためでも、だれもいないところで歌っていたのでは、つまらない。やっぱり聴衆がいて、拍手くらいはいただきたい。
「これは、まあ、共済組合制度とおんなしだねえ」
鼻にかかった声が聞こえる。たしかさっき大蔵省のお役人だと紹介された人だ。
「なんで?」
連れの男がつくねを|串《くし》から抜きながら、尋ねる。
「だからさァ、自分のとき拍手をもらうために、ほかの人のときにも拍手をしておくんだよ」
「それで共済組合か。言えるな」
三つのグループから順にだれかを選ぶシステムになっているらしい。
ゆかた姿の男が、
「隅田川の花火にちなんで……“明治一代女”を歌います」
と言えば、
「待ってましたあ」
と、すかさず声がかかる。
千鶴はその歌がどうして隅田川の花火と関係があるのかわからない。
空がだんだん暗くなる。
ヘリコプターが二機、川の上空を旋回している。
かなり低い位置……。
――花火があたらないのかしら――
とつぜん、
「えーと、つぎは小早川千鶴さん。“だれもいない海”」
と名前を呼ばれた。
千鶴はまさか自分の名前を呼ばれるとは思ってもいなかった。
「ひどい」
知子が紙に書いて申し込んだにちがいない。
「歌ってらっしゃいよ」
「駄目、駄目。本当に駄目なの」
「そんなことないってば。隅田川をバックにして歌うことなんか、そうめったにあるもんじゃないわよ」
「でも……」
拍手がかり立てる。困った。
「じゃあ一緒に歌おう」
あまり渋っているのも、おとな|気《げ》ない。それに……千鶴はカラオケなんて歌ったことがないけれど、歌そのものはまんざら自信がなくもない。
「ひどいわあ」
仕方なしに席を立った。
知子と一緒に舞台にあがり、顔をあげるのも恥ずかしい。
「よっ、美人デュエット」
笑い声が起きる。
前奏が鳴り始め、知子が体でリズムを取る。指先で“一、二、三”と調子を計って、
「はい」
と千鶴の背中を軽くたたいた。
「今はもう秋、だれもいない海……」
千鶴はカラオケの演奏にあわせようとしたが、はじめて聞く演奏だから勝手がよくわからない。知子は小さな声で歌っている。この歌をよく知らないのかもしれない。
一番歌い終わって少し気持ちが落ち着いた。どんな演奏か、おおよその見当もついた。
――少しはうまく歌わなくちゃ――
首でリズムを取った。
「今はもう秋、だれもいない海……」
二番を歌い終わって、
――わかったわ。今度はちゃんと歌える――
案ずるより生むがやすし……。知子はもう歌わない。デュエットがソロになった。千鶴は目顔で、
「ずるいわ、一緒に歌ってよ」
と合図を送りながらも演奏の進むまま最後まで一人で歌った。
――うまくいった――
拍手が鳴った。
今までのだれよりもたくさんの拍手。恥ずかしいけど……いい気持ち。
「こりゃ、本当にうまいわ」
そんな声も聞こえる。
「うまいじゃない。はじめてだなんて|嘘《うそ》でしょ」
「本当よ。本当。カラオケなんて、ぜんぜん知らなかったわ」
「信じられない」
「でも歌は昔から好きだったから」
だれかれかまわず話しかけてしまう。ひどく興奮している。もう一度歌わせられたら、もっとうまく歌えるだろう。
――カラオケもわるいものじゃないわ――
夢中になる人がいる理由も、少しわかった。
おしなべて、みんなうまい。一人だけどうしようもないほど下手な人がいて、これはもう、
――どうしてあんなにひどく歌えるのかしら――
と不思議に思えるくらい。タンバリンまで用意して来て、それを頭上でジャラジャラ鳴らしながら、
「かんぱーい、かんぱーい」
歌とも、おたけびともつかない声をあげて踊り狂っている。
酔っているのかと思ったが、歌い終わってみれば、思いのほか正気の様子を示している。それがとてもおかしい。
ビルの屋上のカラオケ大会は、七時半より少し前に終わった。
「いよいよだな」
「今、ちょうど七時半よ」
川面のほうで花火師らしい人の群れがあわただしく動いている。
バ、バ、バーン。
いっせいに火が噴きあがった。
バーン。
バーン。
バ、バーン。
およそ二十発くらいの花火が、短い|間《かん》|隙《げき》で打ちあげられ、黒い夜空を背景にして一瞬の絵模様を映し出す。
「きれいだねえー」
「こんなに近くで見たの、はじめて」
音の大きさが意外だった。
ズシンとお|腹《なか》に響いて来るような重さがある。それがいくつもたて続けに響いて来るのだから、圧倒されてしまう。
ひとしきりにぎにぎしく騒いで、ふっとかき消すように音が途絶え、そうなると、たった今、空に輝いていた絵模様も|嘘《うそ》だったような、そんな静寂がやって来る。そしてまた、
ババーン。
バーン。
その休止を破って夜空に幾重もの花が咲き、音が体に染み込む。
飛行船もヘリコプターも、ずっと上のほうで見守っている。
「みんな、ねぎぼうずみたいに、まんまるいのよね」
知子がつぶやいた。
「本当ね」
言われてみると、その通りだ。夜空に広がる花火は、おせんべいみたいに平べったく見えるけれど、本当の形はまりみたいにまるいはずだ。
「飛行船から見ると、川の上にまーるく広がって見えるわけね。石を投げたときの波紋みたいに」
それはそれで不思議な風景だろう。
「きれいね」
「本当にきれい」
「きれいだわあ」
息をのんでながめたあと、みんなで同じことを告げてうなずきあう。それ以外の言葉は浮かばない。
色は赤と白と青味を帯びたものと、おおよそ三色くらい。花が開くにつれ、色の変わるものもある。花の形も三種類くらい。菊のように開くもの。しだれ柳のように流れるもの。それから四方八方にくるくるまわりながら広がって行く、めずらしい形のものがあった。
「あんなのに追っかけられたら、たまらんなあ」
と、ゆかたの男が叫んだのは、このくるくるまわって広がる花火のことだろう。頭だけの大入道が光に乗って追いかけて来るような感じがある。
「やけくそみたいだなあ」
そんな声も聞こえる。
次から次へと激しい音をあげて爆発するのだから……。
「そう。|雪《せっ》|隠《ちん》の火事だ」
「なに、それ?」
「だからよォ、便所の火事だから、焼けくそだ」
勝手なことを言いながらビールをあおり、夜空を見あげている。
「一発一万円くらい?」
ノンコが聞く。
「もっと高いだろう」
「じゃあ、五万円として……。ああ、十万円、十五万円……三十万円、三十五万円、数えきれないわ。今、百万円くらいよ」
「せこいこと、言うなよ」
無駄と言えば、たしかにこれは大きな無駄だろう。
でも、そんなことを言ったら、世間に無駄はたくさんある。これだけ大勢の人が見ているのだから、一人あたまで計算すれば、それほど費用はかかっていないのかもしれない。あらためて屋上から下をながめると、道路は見物人でぎっしり埋まっている。どれほどの人出か見当もつかない。
「いよいよ最後かなあ」
「大やけくそだ」
ババーン。
ババババーン。
高く低く、赤く白く、ぱっと開いて消えるもの、ススーッと糸を引くもの、暴れまわるもの、空いっばいに入り乱れ、目茶苦茶と言ってよいほど激しく咲いて、最後はひときわ高く、大きく、
バ、バーン。
残影がたちまち消えて、あとはしんとしたいつもの夜空……。
それで終わった。
一呼吸を置き、終わりとわかって拍手が起きた。川のまん中で花火師が手を振っている。
「すごいわね、やっぱり」
「ええ……」
千鶴は時計を見た。
八時三十五分。
道路の様子を見ると、帰るのは大変だ。
「もう少し待ったら? カラオケ大会の続きがあるのよ」
と知子が誘う。
「ええ、でも、かえって帰りにくくなるんじゃないかしら」
「しばらくは駄目ね」
「だったら早いほうがいいんじゃない」
「あなた、一人で大丈夫?」
知子は東京の姉の家に泊まる予定で来ている。小田原に帰るのは千鶴だけである。
「それは平気」
「ご主人のマンション、品川かどっかにあるんでしょ。そこへ泊まればいいのに」
夫の良介は、小田原の家が遠いので宿泊用のワンルームを品川に持っている。
「そうもいかないわ。帰ります。なんとかなるわよ。どうもありがとう」
「うん、じゃあ」
千鶴は大急ぎでノンコとご主人に|挨《あい》|拶《さつ》をしてビルのエレベーターで降りた。
地下鉄の駅までの道は想像以上に混雑していた。それでも千鶴はスタートが早かったぶんだけよかったのかもしれない。どんどん込んで来る。電車に乗るまでに一時間以上もかかった。ギュウ詰めの電車に乗って|京橋《きょうばし》で降り、東京駅まで歩いた。
十時三十六分の最終列車。
あやういところだった。へたをすれば今日中に帰れなかったかもしれない。
――楽しかった――
花火もみごとだったし、カラオケも歌った。普段とちがうことを体験した。ささいな冒険にはちがいないが、それがひどく楽しい。胸が弾む。
――でも――
問題はそのために支払う代償のほうである。
――帰ってなければいいんだけど――
夫のことである。
良介のほうが先に帰っていたら……ただではすまない。|一悶着《ひともんちゃく》が起きる。
――怒るだろうなあ――
怒ることはまちがいないけれど、どんなふうに怒るか、今までにこんなことやったことがないから見当もつかない。
何度も時計を見た。
――十一時十二分に小田原に着いて……家に着くのはタクシーに乗って、十一時半――
良介はゴルフに出かけ、そのあと仲間と酒を飲んだり|麻雀《マージャン》をやったり、十二時すぎに帰宅することも、けっしてまれではない。
小田原が近づくにつれ不安が胸をしめつける。
さっきまでの楽しさが花火のように消し飛んでしまいそう。
――とにかく急がなくちゃあ――
列車を降り、階段を|駈《か》け上り、タクシー乗り場まで少しでも早く着こうとしたが、すぐに息が切れてしまう。長い列のうしろにつかなければいけなかった。
車に乗ってしまえば家まではそう遠い距離ではない。
「そこでいいわ」
家の少し手前で降りた。
タクシーで家の前に乗りつけるのは、近所の手前もあって、ためらわれてしまう。
――よかった――
家の窓が暗い。
歓喜が胸にこみあげて来る。|鼻《はな》|唄《うた》のひとつくらい歌ってみたくなる。
「今はもう夜、だれもいない家……」
事実千鶴は“だれもいない海”のメロディーにあわせて歌ってみたが、この先が続かない。
|鍵《かぎ》を取り出して裏口を開け、
「ただいま」
暗いままの部屋に向かって声をかけた。
一瞬、良介が|闇《やみ》の中で息を殺して様子をうかがっているのではあるまいか、そんな恐怖を覚え、
――油断は禁物。気を引きしめなくちゃあ――
浮かれ気分を押さえ、リビングルームのあかりをつけた。食卓の上に、千鶴自身が書き残しておいたメモがそのまま残っている。
そのとき……表のほうで車の止まる音がきしんで、人の話し声が聞こえた。夫が帰って来たらしい。
本当に一歩ちがいだった。
小田原駅の階段を苦しい息で一生懸命に上ったのがよかった。あそこでモタモタしてタクシーに乗るのが四、五台遅れたら、もう間にあわなかっただろう。
――神様が味方をしてくれた――
そう考えよう。
玄関のブザーが鳴った。
メモをちぎって|屑《くず》|籠《かご》に捨てた。
――困ったわ――
外出のため少しおしゃれをしているのに気がついた。普段はこんな服装で夫の帰りを待ったりはしない。
ワンピースを脱いでまるめ、スリップ一枚になって、
「はい」
と、玄関に走り出た。
「遅い。なにしてる?」
早くも|苛《いら》|立《だ》った声が聞こえる。
「どなたかご一緒?」
「一人だ。どうして」
「いえ、ちょっと」
ドアの|内《うち》|鍵《かぎ》を開けた。
良介はスリップ一枚の千鶴を見て、
――なんだ、だらしない――
そんなまなざしでにらむ。
前に夜遅くお客を連れて帰って来たことがあり、そのとき千鶴がひどい|恰《かっ》|好《こう》だったものだから、あとでずいぶん文句を言われた。
――あれだけ注意したのにまだなおっておらん。こいつは馬鹿だから――
夫の目つきはそう言っている。
良介はおしなべて“女は馬鹿だ”と思っている。“女は男と猿のあいだくらいにいる生き物だ”と考えている。女は常識がない。判断力が足りない。感情に支配される……。
先の二つはそうかもしれないけれど、感情的ということなら、
――あなた、人のこと言えないんじゃない――
と良介に言ってやりたい。
会社ではさぞかし抑えているのだろうが、家ではこのうえなく良介は感情的である。感情そのものが服を着ているみたいなものだ。すぐに不機嫌になる。すぐに怒りだす。好ききらいの感情が根本にあって、たいていの判断はそこから始まる。
人を評価するときだって、
――あいつは気に入らん。だから、あいつは馬鹿で、駄目なんだ――
千鶴の見たところ、夫はそういう思考方法を採っているみたい……。とても冷静な判断力の持ち主とは思えない。
女は猿に近いから習慣的な仕事を与えて慣れさせ、失敗をしたときは強く|叱《しか》ればいい。楽をさせると、すぐにいい気になってなにをやりだすかわからない。だから、楽しみなんか与える必要がない。夫は九割がた本気でそう思っているにちがいない。
考えてみれば、千鶴は不満を覚えながらも二十数年間ほとんどその通りに夫に従って来たようだ。だから、
――こりゃ馬鹿だと言われても仕方ないわねえ――
と、|自嘲《じちょう》気味になってしまう。
なさけない。いまいましい。
――えへへ。でも、今日はちょっと反逆をしたのよ――
不機嫌な夫の顔を盗み見ながら心の中で舌を出した。
――知子の言う通りだわ――
実力行使が一番いいらしい。知らん顔をして、やりたいことをやってしまう。ばれたらそのときのこと。
そう言えば、良介はいつも言っている。
「まったく女ってのは馬鹿だから、いくら叱っても、そのときだけ恐縮している。台風が通り過ぎるのを待ってるようなもんだな。通り過ぎたあとは、またおんなじまちがいを平気でやっている」
むこうがそう思っているのなら、こっちもその通りやってあげようじゃないの。
良介はどの道怒るのが趣味なんだから、怒らせておけばいい。
――ね、そうでしょ――
クレンジングで顔を|拭《ぬぐ》いながら鏡の中の自分につぶやいてみた。
どうせ怒られるものなら、やりたいことをやって怒られるほうがましだろう。良介の意にそうようにやって、それで怒られるのは、まことにわりがあわない。
こんな単純なことに気がつくのにずいぶん年月がかかってしまった。
怒られるのには慣れている。
そのときだけ恐縮して、あとでシレッとまた同じことをやればよい。
――離婚されちゃうかしら――
まさか一気にそこまでは行かないだろう。夫は今、役員になれるかどうかの瀬戸際だし、世間体を無視できる人じゃない。
――離婚ねえ――
食べていけるものなら千鶴のほうはいっこうにかまわない。
「おい」
「はい?」
「なにかあったのか」
ドキン。
――わかるのかしら――
よそゆきのワンピースは押し入れの中に隠したはずだし……。表情が明るすぎたのかもしれない。
「いいえ、べつに。どうしてですか」
「もう寝ろ。遅くまで起きてていいことなんかなにもない」
「はい、はい」
「なんだ。“はい”は一つでいい」
「はい」
夫は一人で二階に寝る。千鶴はリビングルームのとなりの和室をまっ暗にし、しばらくは布団の中で今日一日の冒険を考えた。
|闇《やみ》の中に花火のイメージが浮かぶ。布団の中で小さく、
「今はもう秋、だれもいない海……」
と歌ってみた。
――そんなに喜ぶほどのことじゃないんだけどね――
知子に誘われ、東京まで花火を見物に行っただけ。このくらいの楽しみなら、だれだってやっている。夫に隠れ、なにかわるいことでもするような気分でやることではないだろう。
――知子さんは、あのあとも歌ったのかしら――
地下鉄の込みようはひどかった。みんなはもう少し屋上で時間を|潰《つぶ》してから帰っただろう。
――良介の頭が堅いばっかりに――
これからはもう少し自分の楽しみを捜そう。そうでもしなければ、生まれて来た甲斐がない。
――でも、できるかしら――
すぐに心配になる。
良介には気むつかしい人特有の威圧感がある。まわりの者をけっして落ち着かせない。気楽にさせない。長年の習慣で、千鶴はついつい夫のご機嫌をとろうとしてしまう。おもねてしまう。気がつくと、きまって波風を立てない行動を選んでいる。それがいけない。
花火見物から二週間ほどたった火曜日の午後、知子から電話がかかって来た。
「もし、もし、私」
「あら。このあいだはどうもありがとうございました」
「無事に帰れた?」
「地下鉄がものすごく込んで」
「そうでしょう。心配してたの。で、ご主人のほうは?」
「セーフ。私のほうが先に着いたわ」
「そう、セーフなの。よかったじゃない」
「ええ。ほとんどタッチの差」
「でも大ちがいよね。セーフとアウトじゃ」
「そう。神様が味方をしてくれたんだと思うわ」
「言えるかもねえ。じゃあ、ひどいこともなく……花火よかったでしょ」
「ええ、本当に。あんなに近くで花火を見たの、はじめてでしょ。感動したわ」
「あそこ、最高なのよ」
「ノンコさんにも、ご主人にも、なにかお礼をしなくちゃ」
「それは、いいの。気のおけない人たちだから。なにかのときでいいんじゃない。それより私たちのお仲間に入ってよ。あの、いつかお話した梅宮さん、今、家に見えていらっしゃるの」
「梅宮さん?」
「ほら、おととしにご主人を亡くされたかたよ」
そう言えば、そんな話を知子から聞かされた覚えがある。たしか知子の高校時代のお友だちで、ご主人が|癌《がん》でなくなられて……。
「ああ、あのかたね」
「とてもすばらしいかた。ぜひご紹介したいから……今、無理?」
「すぐに?」
「そう。一人でしょ」
「そう」
「じゃあ、いらっしゃいよ。梅ちゃんの話を聞いてるとネ、人生、明るくなるの。本当よ。わるいこと言わないから、すぐ来て。ね、お願い」
「じゃあ、ほんの少しだけ……。いいの? お邪魔して」
「もちろんよ。待ってますから」
知子の声も浮き立っている。
どうせ良介は夕食までに帰らない。洗濯物のアイロンかけが残っているけれど、それは夜でもいい。明日だってかまわない。
千鶴は鏡の前で髪を整えて家を出た。
――知子さんの方角に風穴があいている――
この直観は当たっていたらしい。息苦しい生活にスーッと心地よい風を通してくれるような、そんな気配がある。
千鶴が知子のマンションへ行くと、にぎやかな笑い声が聞こえた。
「待っていたのよ。どうぞ、ご遠慮なく。今、話してたの、カラオケ大会のこと」
リビングルームの机の上に写真がいっぱい散っている。少し大きめの写真が、額に入れて立てかけてある。屋形船を背景にして紫色のあやめが一面に咲き乱れていた。
「こんにちは」
「こちら小早川千鶴さん」
と、知子は千鶴をお客に紹介してから、
「梅宮一恵さん」
と、掌で指す。
「はじめまして」
「はじめまして」
藤色のスーツ。年齢は千鶴と同じくらいだろうが、様子は若々しい。
「さ、かたくるしいの、やめて。梅ちゃんの趣味は旅行なの。日本全国|股《また》にかけて」
知子もはしゃいでいる。
「そんなあ。まだほんの少ししか行ってないのよ」
机の上の写真は、最近の旅の記録らしい。
「これ、|琵《び》|琶《わ》|湖《こ》の写真」
「あやめのほうはちがうわよ。これは水郷へ行ったとき」
「知ってるわよ。本当にあちこち遊びまわっているんだからあ」
「人聞きがわるいじゃない」
一恵はまるで女学生みたいに知子をぶつ仕草をする。
「琵琶湖って、大きいんでしょ。私、見たことない」
「大きいわよ。海とおんなし。意外と開けていないから、穴場も多いのよ」
「不便でしょ」
「むしろ便利なんじゃないかしら」
「どう行くの?」
「新幹線で|米《まい》|原《ばら》まで行って……。もうそこが琵琶湖ですもの」
「ほら、有名な仏様があるんでしょ、なんとか言う……」
「渡岸寺の十一面観音かしら。|高《たか》|月《つき》の」
「それよ、きっと。すてきなんでしょ。フランスからモナ・リザを借りたとき、かわりに日本からなにを貸そうかということになって、それで候補にのぼったんじゃなかった? その観音様が」
「そうなの? 知らなかったわ。でも、無理なんじゃないかしら。あそこから動かすのは」
「どの写真?」
「お堂しかないわよ。これ。ご本尊は撮影禁止だから」
一恵が取り出した一枚に古い寺院が写っている。
「残念ねえ」
「持って来ればよかったわね。そこで写真は買ったから」
「国宝?」
「ええ、もちろん。ここにあるわ。この写真」
と、一恵が、ガイドブックのページを開いた。写真を白く抜いて“渡岸寺の十一面観音”と記してある。
「これ?」
「色っぽいのよ、お姿が」
「へえー。観音様って……男? 女?」
「どっちでもないんじゃない。むしろ男性かしら。でも、この十一面観音は、とても女性っぽいの。ウエストがくびれていて、ちょっと腰をひねっているポーズなんだけど、仏像にしちゃめずらしいんじゃないかしら。ギリシャの彫像とか、ああいう感じ」
「手が少し長すぎるんじゃない?」
「うん。でも、不自然じゃないわ。手の流れも女性的だし」
「どういうつもりで作ったのかしらねえ」
「そりゃ、やっぱり病気や災害をよけるために……」
「ううん、そうじゃなく、それを彫った人の気持ち。自分の好きな女の人なんかモデルにして」
「昔はそういうこと、しなかったんじゃない。おそれ多くて。でも、心の奥じゃ、だれか好きな人がいて、|憧《あこが》れの気持ちを表現したのかもしれないわね」
千鶴は机の上の写真を眺めながら二人の話に耳を傾けた。
仏像のことはよくわからない。というより、よく見たことがない。高校の修学旅行のとき……。むしろ退屈だった。今、見れば印象が変わっているだろう。
たくさんの写真は水辺の旅の楽しさを写しだしている。船の風景。島の風景。山と|断《だん》|崖《がい》。城と城壁の写真もある。
――旅に行きたい――
考えてみると、千鶴はほとんど旅に出たことがない。東海道新幹線だって大阪より先へ行ったことがない。飛行機は……ずっと昔にプロペラ機で広島へ行っただけ。みじめと言ってよいほど日本を知らない。知っているのは、テレビの旅行番組で見たものばかり。
知らない土地を訪ね、美しい景色を見て、ゆっくり温泉にでもつかりたい。それから、あげ|膳《ぜん》、さげ膳。自分が作らないだけでおいしい。あとかたづけをしなくてすむと思うと、それだけでくつろげる。
「今度はどこ?」
「大分へ行ってみようかしら。|磨《ま》|崖《がい》|仏《ぶつ》とか」
「遠いのね。近くにいいとこ、ない?」
「あるわよ、いっぱい。一緒に行きましょ」
「どこ?」
「どのくらい時間がとれるの? それによるわよ」
「ね、千鶴さんも、行こう」
と、知子がのぞきこむ。
「ええ……」
千鶴は|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
――そんなに簡単なことじゃないわ――
両国の花火見物だって、どれほど胸をドキドキさせたかわかりゃしない。千鶴のほうが先に帰宅したからよかったものの、一足でもおくれたら、夫にどんな文句を言われたかわからない。「旅行に行きます」などと言ったら「やめておけ」と、夫が反対するのは目に見えている。
「千鶴さんとこは、ご主人がなかなか離してくれないの、ねっ?」
知子が上目遣いで言う。
聞きようによっては“夫婦の仲がよろしいから”とも取れる言いかただ。
――すっかり知っているくせに、わざとおかしな言いかたをして――
千鶴は首を振った。
しかし、一恵はあらかじめ千鶴の家のことを知子から聞いて知っていたのだろう。
「男は身勝手だから」
と、つぶやく。
実感がこもっている。その表情を見て、
――ああ、この人も苦労したな――
ストンと胸に落ちるようにわかった。
「梅ちゃんのご主人も暴君だったの。ねっ、そうでしょ」
と、知子が解説を入れた。
「そうなんでしょうねえ。なんにも知らずに言うこと聞いてたけど」
「ね、ね、世間はみんなこんなものだろうって、そう思ってたわけ?」
「ううん。世間よりは少しひどいかなって思ってはいたけど、亭主ってものは、あっちがいいからって急に替えるわけにもいかないでしょう」
「そりゃ、そうだ。でも、ご主人が亡くなったとき、あなた、一緒に死んでしまいそうな顔してたわよ」
「そうだった? 突然だったからねえー。死ぬなんて、まるで考えていなかったでしょ。ろくに看病もしてあげなかったし、亭主のいない生活なんて想像もしたことなかったでしょ。どう言うのかしら、年取ったらこの人も少しはまるくなるんじゃないのかしら、そんな期待もあったのね。そしたら二人であちこち旅行にでも出かけよう、なんて。多分、あのまま生きていたら、そんなふうにならなかったと思うけど。私、勝手に楽しい夢だけは描いていたのね。それがパッといなくなっちゃったから、これからどうやって生きて行こうか……」
「やっぱり愛してらしたんじゃないの、ご主人のこと」
「へんなこと言わないでよ。あなただって何十年と夫婦生活をやってんでしょ。夫婦ってどういう感じで顔つきあわせているか、知っているでしょうに」
「そうよねえ。愛情なんてものじゃないわね」
「癖よね、癖。春になって、こたつがなくなると、どこにどう身を置いたらいいかわからなくなるじゃない。あれとおんなしよ。それにさァ、生活費のことだってあるじゃない。夫の価値って、つまり、それでしょ。私、父が早く死んだから月給袋に思い入れがあるのよね。母が“毎月黙っててもお金が入って来るのは心強いから”って、よく言ってたのよ。それ聞いて育ったから、月給袋を持って帰って来る人に、わけもなく感謝しちゃうの」
「ご主人、月給袋だった?」
「あとのほうは銀行振り込みよ。でも、お医者さんに“死にます”って言われたとき、まず最初に考えたのは、ああ、これで月給袋が来なくなる、それだったわね。人間て、エゴイストだなあって、われながら思ったわよ」
「でも、あなた、よくご主人につくしていたわよ」
「まあねえ。子どもたちにとっても、これからが父親が相談相手になるときだって、そう思っていたし……この先どうしようって、目の前がまっ暗になったのは本当ね」
「でもサ、三か月もしたら、やけに元気そうになっちゃって」
「そう見えた? いやあねえ」
一恵はいたずらを見とがめられた子どもみたいに頭をかかえる。
「あなた、正直なんだから」
「言える。十日目ぐらいからよ。なんだか肩が軽いの。解放感を感じちゃってサ。亭主がいないのも、そうわるいもんじゃないなあって……。でも、自分としちゃ、それを否定したいのね。もっと悲しいはずだ、これから大変なことが起きるんだって考えるんだけど、べつにどうってこともないの。反対に解放感のほうがどんどんふくらんじゃって」
「こんなはずじゃなかった……」
「そう。子どもたちも、かえってしっかりするし……時期もよかったんでしょうけど」
「そうね。娘さんはもともとお宅の近くに嫁いでいらしたんだし、坊っちゃんはアメリカ勤務の直前だったし」
「そうなの。急に私一人になっちゃって。さびしくなるだろうって思ってたんだけど、私、気がついてみたら、そんなに家族を当てにして生きているタイプじゃないのね。本当は一人で勝手にやってんのが好きなの」
「そうみたい」
「お金も、生命保険とか退職金とか、|贅《ぜい》|沢《たく》をしなきゃ、あたし一人ぐらい、なんとか生きて行けそうじゃない」
「恵まれてんのよ。ご主人に感謝しなきゃ」
「感謝はしてる。でも、子どもが育っていれば、老後なんてなんとなくやれるものね。大病をしたら困るけど」
「まだ老後じゃないでしょ。ぴんぴんしてるじゃない。恋でもしたら」
「あ、それはいいの。ああいう面倒くさいのは、もうたくさん。あっちこっち好きなとこへ行って写真でも撮って」
一恵は屈託がない。根が正直で、明るい人なのだろう。千鶴には思い当たることも多い。
――良介よりはましな人だったろう――
一恵の夫のことである。良介より身勝手な男なんかめったにいないだろうから……。
でも、程度の差こそあれ、一恵も夫の抑圧の下で二、三十年のあいだ生活を続けて来た。その夫が急にいなくなって……当初は先行きの不安を感じたが、実際に感じたのは、わけもなくさわやかな解放感だった。そういうことらしい。
――|嘘《うそ》ではないわ――
一恵の表情がはっきりとそのことを伝えている。旅の写真までもが、彼女の生活の楽しさを|謳《おう》|歌《か》しているみたい。面倒な夫はいないし、生活の不安もとりあえずなにもない。
結婚生活がすばらしいのは、新婚のときと老後だなんて、千鶴はそんな言葉を聞いたことがあるけれど、その喜びさえ恵まれない人もいる。
――私がそうよ――
千鶴はつくづくそう思う。
新婚のころもけっして楽しくはなかった。最初から、びくびくしていた。
――夫に気に入られなかったらどうしよう――
と、そんなことばかり考えていた。
事実、良介は最初から気むつかしかったし、見ていると、とても夫に気に入られているとは思えなかった。
――今さら実家へ帰るわけにはいかないし――
良介の機嫌を取ろうとしてばかりいた自分がうらめしい。それをいいことにして、気まま勝手な生活を始めてしまった夫が憎らしい。
――あんな人、いなけりゃいいのに――
老後が楽しいはずがない。ますますわるくなりそうだ。
――ぽっくり死んでくれないかしら――
大っぴらに言えることではないけれど、このごろはときどきそんなことを考える。その回数が少しずつ多くなる。
「ねえ、|磐《ばん》|梯《だい》|山《さん》なんかいいんじゃない。行きましょうよ、三人で。もっと大勢でもいいけれど」
「タクシーに乗ることを考えると、三、四人がいいのよね」
「一泊で行けるでしょ」
「ええ。東北新幹線ができて便利になったから」
「千鶴さんに冒険をさせたいのよ」
と知子が指をさした。
「知子はすぐに誘惑するんだから。悪魔的なのよ」
と、一恵が千鶴の気持ちを察して、とりなしてくれた。
「天使的って言ってほしいわ。千鶴さんに思いっきり跳んでほしいのよ。私だって、昔はいじいじと古い日本の妻をやってたわけよ。でも、ほんのちょっと跳んでみただけで、世の中の風景がまるで変わるじゃない。ほんと、男なんて、こっちが主張しなきゃ駄目。黙っていると、つけあがってこっちが満足してるんだと思うわけ。はじめのうちは驚いてるけど、そのうち、女ってそういうものなのか、やっと気がつくのね。そういうとこ、あるでしょ」
「うちはその前に死んじゃったから」
「あ、そうか。だから、死なないところでは頑張らなくちゃ駄目」
知子は一人でうなずいて千鶴を見る。
「そのうちにね」
「そんな弱気なこと、言ってちゃ、あとで後悔するわよ」
「後悔って、たいがいあとでするものじゃないのかしら」
と、一恵が|半畳《はんじょう》を入れた。
「お茶、いれるわね」
知子がキッチンへ立つ。
「へんな女だと思ったでしょ」
二人だけになると、一恵が小声でつぶやく。
「いいえ」
「そりゃ、長年連れそった相手が死んだんだから、悲しいことはやっぱり悲しかったわ。最後は子どもみたいに私のこと頼りにして。ここで死ななかったら、この人、もっといい夫になるわ、なんて、そんなことも感じたりしたけど」
「はい」
「でも簡単に死んでしまって……こっちはまだしばらく生きて行かなくちゃいけない。なにか生き甲斐を捜そうと思ったの。手さぐりみたいにして、前からやりたいと思っていたこと、少しずつやりだしたら、これが本当に楽しいのよ。日本の主婦は、なんにも自分の楽しみなんか持たずに、ただ夫や子どものためにだけ生きて来たんだなあって、あらためてしみじみ思ったわ」
「わかります」
「知子さんみたいに極端なこと言わないけど、主婦も少しずつ楽しいこと、お持ちになったほうがいいみたい。私、このごろ、どなたにもそれをお勧めしてんの」
知子が戻って来て、
「この紅茶、わりとおいしいの。アップル・ティー」
と、カップを三つ置く。
「すみません」
「なに深刻な顔してんのよ。なにかおもしろい話して。梅ちゃんの話、本当におかしいんだから」
「おもしろい話? このごろ不作ね」
「なんかあるでしょう。このあいだの“むこう横丁のタバコ屋の……”とか」
「ああ、あれねえ。ちょっと品がないじゃない」
「あなた、知ってる。“むこう横丁のタバコ屋の”って歌、あるでしょ」
と、知子が千鶴のほうを向いて話しだす。紅茶はとてもよい|匂《にお》いだ。
「ええ」
「テレビの番組でメロディーを聞いて、その歌を歌うクイズがあるじゃない」
「ええ」
「とても上品な感じの奥さんが“むこう横丁の”のメロディーを聞いて歌いだしたんですって」
知子は歌いながら話す。
「いやあねえ、そんな話」
「それがさ“タン、タン、タヌキの……”知ってるでしょ。その文句なのね」
知子は体を二つに折って笑いだした。
――そんなにおかしいかしら――
“タン、タン、タヌキの……”
――ああ、そうか――
二つの歌が同じメロディーとは知らなかった。
「そう言えば、このごろ、NHKで古い外国映画をやってるじゃない」
一恵が話題を変えた。
「ええ」
「グリア・ガースンて、女優、いたでしょ」
「どんな女優だったっけ」
「とても上品な感じ。“キュリー夫人”とか“心の旅路”とか」
「忘れちゃった」
「一時は人気あったんじゃない。イングリッド・バーグマンの次くらいに」
「名前、聞いたこと、あるもんね」
知子はうなずいたが、千鶴は首を振った。グリア・ガースンなんて、顔はもちろん名前も知らない。
「私の知ってる人にファンがいたのよ。男の人よ。あのノーブルな感じが大好きでたまらないんですって」
「へえー」
「どんな顔よって、私が聞いたら、鼻の穴をふくらませ、顔をこう伸ばして」
と、一恵はその通りの表情を作る。知子がまた笑いだす。
「そういう顔なの、本当に?」
「馬みたいな鼻の穴だって言うのよね。そんなの美人じゃないじゃないって言ったら、そこがとても高貴なんだって」
「ふーん?」
「彼が言うのよ。じっと見てると、酸素のような大切なものは、私のような美人がたくさん吸ってしかるべきもので……あなたがたしもじもは控えめに吸いなさいって、そんな感じがして来るんですって。このあいだ映画見てたら、グリア・ガースンが出て来て、本当にそんな感じなのよね」
一恵がまた鼻の穴をふくらませ、知子が体を折った。
たしかに梅宮一恵は人がらのよい人のようだ。カラッとしているが、思いやりがある。そして話がおもしろい。話し方がおもしろいと言ったほうがよいのかもしれない。なにげない話でも、一恵が話すと、どこかおかしい。小首をかしげながら一生懸命に話す。|訛《なま》りも少しある。まじめにやっているのに、間のぬけたようなところが少しあって、それが笑いを誘う。
一恵自身は、ことさらに人を笑わせようとそんな意図はほとんどないのだろうが、聞いてるほうはほほえんでしまう。たくまざるユーモア……。
――根が明るい人なんだわ――
当たりまえのことだが、千鶴の見たところ世間には根の明るい人と根の暗い人とがいる。これは生まれつきの性質みたいなもので、どうしようもないことのような気がする。
夫の良介は暗い。もともと暗いうえに家では笑うのが損だと思っている。明るい人じゃないから、笑いの分量が少ないのだろう。それを会社で使わなければいけないから家では節約している。
――|片《かた》|頬《ほお》三年。たしかそう言うんだわ――
昔の武士も笑わなかった。笑っては男の|沽《こ》|券《けん》にかかわる。三年に一回、片頬がかすかにゆるむくらいに笑えばそれでいいとされていたらしい。
――私は根が明るいのに――
二で割れば、そうだ。子どものころは、みんなによく「チーちゃんは明るいね」と言われた。笑い上戸だった。なのに良介と長年暮らしているうちに不機嫌を移され、すっかり明るさを忘れてしまった。
一恵と知子は本当によく笑う。高笑いではないけれど、どこにでも笑いが潜んでいる。
――こうでなくちゃあ――
二人の話を聞いていて千鶴は長いあいだ忘れていたものに触れたように思った。同じ一生なら笑って暮らすほうがいい。
――いい人たちと知りあった――
事情の許す範囲で仲間に入れてもらおう。
「じゃあ九月なかばすぎあたり……」
知子が大きな声で言う。
話はいつのまに旅行の計画へ戻っていた。
「いいけど。私はいつでもひまだから」
と一恵がうなずく。
「日本海って、いつ見たかしら。上越新幹線も乗ったことないし。あんまり人の行かないところのほうがいいじゃない」
「地元じゃ一応名所だけど、東京からはめったに行かないから……。頂上から真下に見る海はわるくないわね。近くに温泉もあるし」
「どこまで乗るの?」
「|燕三条《つばめさんじょう》かしら」
「そんな駅があるの。ね、いいでしょ、千鶴さんも」
知子と一恵だけの計画ではないらしい。千鶴はどこへ行くのかもよく聞いていなかった。
「なんのお話?」
「いやだ。聞いてなかったの?」
「そうでもないけど。あんまりとんとんと進むから」
「|弥《や》|彦《ひこ》よ、弥彦。聞いたことあるでしょ。海のすぐ近くに山が隆起していて、結構いい眺めなんですって」
「天気がいいといいんだけど」
一恵が横から口を挟んだ。
「ええ……」
「十一時ごろ上野を出て、温泉に泊まって……ね、おいしいもの、あるかしら」
「新潟県て、とくに名産てほどのものはないけど、だいたいおいしいのね」
「で、翌日、帰って来るの。月末の金曜日。いいわね、三人で行こう」
「でも」
千鶴がためらう理由は一つしかない。
「その“でも”がいけないのよ。“でも、でも、でも”で二十数年過ごして来たわけでしょ。死んでしまったら、もう“でも”もへちまもないのよ。生きてるうちだって、もうすぐ体が動かなくなるんだから、千鶴さんに必要なのは“でも”じゃなくって、デモンストレーションのほうのデモよ。今こそご主人に対してデモを仕かけるべきよ。デモ、デモ、デモ……。団結頑張ろう」
「もしかしたら、あなた、それ、しゃれのつもり」
「そう。なんだったら、私たち、応援に駆けつけてもいいわよ。“奥さんに自由を与えろ”“一か月に一度泊まりがけ旅行を保証しろ”“亭主は元気で留守がちにしろ”なんてね」
知子は手を空中に突き出し、シュプレヒコールのように叫ぶ。
「昔、やってたんでしょ」
「学生のころ、少しね。ま、冗談はともかく、だまされた気になって一緒に行きましょ。わるいことは言わないから。ご主人になにか言われたら、わるいのはみんな私のせいにしたってかまわないわよ」
「そんなことは、いいんだけど……」
千鶴はためらいながらも、
――この旅には、きっと行くわ――
漠然と予感のようなものを感じた。九十九パーセントまで千鶴の意志にかかわっていることでありながら、そんな意志とは関係なく、すでに道が作られている……。迷ってみてもさからってみても結局この旅には行くのではないかしら。
「じゃあ、きまり」
「なにも月末でなくてもよろしいのよ。千鶴さんの一番都合のいい日に」
と、一恵が千鶴の顔をのぞきこむ。
「いいのよ。この人の場合は。みんな都合のわるい日ばかりなんだから。月末の金曜日に決定」
「そうねえ」
知子の家から帰るときには予定はほぼきまっていた。
旅に立つ日はみごとな秋晴れ……。案内役の一恵は、
「たいしたとこじゃないけど、交通の便がいいし……わりと穴場じゃない。晴れたら、の話だけど」
と言っていた。願いがかなったらしい。
――やっぱり神様が味方してくれた――
千鶴としてはそう思いたい。
朝、そしらぬ顔で夫を送り出し、大急ぎで支度をした。
“お友だちと一泊旅行に行って来ます。もし明朝ご飯を召しあがるなら、電気|釜《がま》にご飯があります。|海《の》|苔《り》はテーブルの上に、卵とめんたいこが冷蔵庫の中にあります。インスタントのみそ汁も一応置いておきます。どうせ食べないと思いますけど……。私もたまには気晴らしをしたいので、あしからず、お許しください” と、メモを残した。うまいぐあいに良介は明朝早くゴルフへ行く。こんなときは朝食をとらない。
――どんな顔をして読むかしら――
まず驚く。つぎに怒りだすだろう。だが、怒ってみても怒る相手がいない。それがまた腹立たしい。不機嫌になり……それをいつまで続けているか。ゴルフ場まで怒りを持って行くのかどうか。
――スコアはよくないわね、きっと――
明日の夜、顔をあわせるときが一騒動だ。それを考えると千鶴は気分が|滅《め》|入《い》ってしまうけれど、
――三十五時間くらいは解放されるんだわ――
わずらわしいことはいっさい考えないことにした。
――楽しまなければ意味がない――
あとは野となれ山となれの心境……。
知子が誘いに来て、新幹線で東京まで。上野で一恵と待ちあわせ、
「おはようございます」
「おはようございます。ご苦労様。さ、いい旅にしましょう。ね、みんな忘れて」
一恵はこまかい心遣いのある人だ。千鶴が今日どういう気持ちで家を出て来たか、よく知っている。
座席の向きを変え、四人がけの席に三人ですわった。旅の手配は全部一恵がやってくれた。
列車が走り出す。
――さあ、いよいよ――
気持ちをふっ切らなくてはいけない。
「デパートでお弁当を買って来たの。駅弁よりおいしいでしょ。しめじのご飯」
「すみません。おいくら」
「あとで精算していただくわ」
「きちんとしてくれなきゃ、いやよ」
「ええ、それはちゃんと」
「何時に着くの?」
「一時四十八分かしら」
一恵が眼鏡を取り、時刻表を見る。
「本当によいお天気になったわね」
「よかったわ」
「旅慣れていらっしゃるのね。なにもかもすみません」
しめじのたきこみご飯がおいしい。
「いいのよ。私、昔はぜんぜん旅行のことなんか知らなくて、時刻表だってろくに見れなかったのよ。でも一つ一つ覚えて、一つ一つ計画して……楽しいわね。この年になって覚えることじゃないんでしょうけど……」
「日本全国に行った?」
中年女性の三人旅……。そんなポスターがあったけれど。
「ううん。そんなに行けるわけないじゃない。旅をしてみると日本も広いわよ、ものすごく」
「行かない県、ある?」
「ある、ある、いっぱい。沖縄がまだだし、九州と四国も半分くらい行ってないし、それから北陸。金沢だけよ、あのへんは。和歌山も三重も、青森も岩手も……行ってないとこ、いっぱいあるわよ」
「本当よねえ」
知子と一恵が話す。千鶴は聞き役である。
高崎を過ぎ、トンネルが多くなり、長岡に止まった。少し大きな町。だが市街地を走り抜けると、車窓は一面に黄色い田んぼに変わった。
「あれが、そうよ」
一恵が指をさす。進行方向の左手。遠くにうっすらと山が見えた。燕三条で下車してタクシーを拾った。
「|弥《や》|彦《ひこ》まで」
「神社があるんでしょ」
「ええ。でも、よかったかしら」
「なにが?」
「小田原からわざわざくり出すほどのところじゃないわ」
「いいのよ、そんなこと。人があまり行かないところのほうがいいの」
「日本海が見たいって言うし、上越新幹線に乗って、しかも温泉のあるとこって、そういう注文でしょ」
「そう。食べる物もおいしくて」
「わかんないわよ。甘えびかしら。野菜がおいしいし、ご飯もおいしいみたい」
「米どころですものね」
まず弥彦神社に参拝をする。
近くに小さな駅があって、これが神社の造りになっている。
「おもしろい」
「たしか|出雲《い ず も》の駅もそうだったと思うわよ」
「あなた、出雲にも行ってんですものね」
「山陰はバス旅行に参加したから」
話を聞くと、一恵はずいぶん精力的に動きまわっているようだ。
「うらやましいわ」
夫がいてはとてもできない。寡婦の特権と言ってもよい。夫を持つ身としては、
――そのぶん夫がなにかいいことをしてくれればいいんだけれど――
千鶴にはそれがないのだから、どう考えてみても計算があわない。
「なにをお祈りすればいいの。ご利益は、なに?」
杉木立の参道を登った。
「普通は家内安全とか、子どもの受験とか、そういうの願うんじゃない」
「人生もこの年になると、あんまり願うことないのね」
そういう知子には子どもがいない。お|賽《さい》|銭《せん》を投げ入れ、千鶴としてはとりあえず、
――子どもたちが健康で、事故になんかあいませんように――
と祈ったが、さて、その先は、
――良介がぽっくり死んでくれますように――
とは、いくらなんでも頼みにくい。神様が驚いてしまうだろう。
――夫の考えが変わりますように――
と祈ってみても、これは見込みが薄い。良介は生まれついたときから身勝手で、不機嫌で、怒りっぽくって、暗い性格なのだ。それを五十年以上続けて来て、今さら変えるわけにもいくまい。いくら神様だってきっと無理だろう。
――離婚ができたらいいんですけど――
心の中で控えめにつぶやいた。
ほかの二人はなにを祈ったのか。考えてみると……神様は毎日五回や十回や……二十回くらいもびっくりさせられているのではあるまいか。人間の願望は、もしそれが本当に包み隠さずに述べられたら……これは恐ろしい。
ロープウエーで弥彦山に登った。
たしかに観光客の数はそう多くはない。観光バスも止まっていたが、神社の境内と山の広さの中に散ってしまえば、さほどの人数ではない。
「名所って観光客の数で割り算してみなきゃ駄目なのよね」
と、知子がわけのわからないことを言いだす。
「どういうこと?」
「いくらいいところでもサ、観光客の数で割って価値を出さなきゃ。さほどのところでなくてもお客が少なければ、美しさの単価が高くなるでしょ」
なるほど。言いたいことはわかる。
「ああ、そうね」
「お花見なんか、その典型よ。いくらたくさん咲いていたって、お花見の客が多ければ、一人あたりの花の数は少なくなるでしょ。その点、家の近くの公園なんか花は少ないけど、見ている人も少ないから単価は高いわ」
ロープウエーが急傾斜を登る。耳が痛くなった。深呼吸をしながら頂上の駅を出た。
「あ、きれい」
「すごいじゃない」
まずまっ青な海が広がり、海上に低く、遠く佐渡島が見えた。それからさらに|崖《がけ》のきわまで進むと、山は日本海に面して切り立ち、急角度でまっすぐに海へ落ちている……。
「こわいみたい」
「こっちもきれいよ」
背後は|豊饒《ほうじょう》な越後平野。稲が色づき、見渡すかぎりまっ黄色の平面が続く。その中にいくつかの町が点在し、そのむこうに|山《やま》|脈《なみ》が……本州の背骨へと続く山脈が視界の端から端まで奥行きの深さを感じさせながら、うっすら連なって見えた。
弥彦山は海抜六百三十八メートル。たいした高さではないけれど、文字通り海面から一気に登っているから充分にけわしい。
「どうして? どうしてこんなところに山ができちゃったの」
知子が子どもみたいな質問を発したが、それもうなずける。
広い越後平野。本来ならゆるやかな砂浜でも作って海へと沈んでいくべきなのに、ここで急に隆起して、取ってつけたように不思議な|断《だん》|崖《がい》を作っている。それもほんのこのあたりの一郭だけに……。前もうしろも切り立っている。一方は一面のブルー、一方は一面のイエロー、そのコントラストもみごとである。
「地球のしわなんじゃない。突然地殻が変動して、両側からギュッと……」
一恵が手まねで説明する。
「そうなんでしょうね」
しばらくは見あきない。
「来て、よかった」
「本当に?」
「ええ」
「よかったわ、私も。そう言っていただければ」
山頂で時間を|潰《つぶ》し、ころあいを計ってロープウエーをくだった。宿は近在の|岩《いわ》|室《むろ》温泉。|岩《いわ》|風《ぶ》|呂《ろ》につかり、そろって食卓についた。
「ビール、飲みましょうよ」
「お酒も頼もうか」
女性三人の宴会。料理がとてもおいしい。
材料もよいのだろうけれど、それ以上に気分が最高だ。一日歩きまわり、おいしい空気をいっぱい吸い、温泉につかって汗を流した。お|腹《なか》もすいているし、第一、自分が作った料理ではない。こんな席でアルコールを飲むのは千鶴にとってほとんど初めてといってよいほどめずらしい。酔ったところで、あと片づけの心配もない。とことんくつろいでかまわない。なにを食べてもおいしくいただけるだろう。そのうえ料理の味もたしかにわるくなかった。
「一人旅が多いんですか」
千鶴が一恵に尋ねた。一日行動をともにして大分くつろげるようになった。
「ううん。たいていはだれかとご一緒。そのほうが楽しいでしょ。でも、一人旅をいやがっているようじゃ、本当の旅はできないのね。行きたいところがあれば、一人でも頑張って行くことにしてるの」
一恵は言い終わって唇を引きしめる。
――この人は意図的に旅行をしているんだわ。人生の忘れ物を取り返そうとして――
一恵の夫がどんな人だったかわからない。良介ほどひどくはなかったろうが、古いタイプの関白亭主で、一恵もずっと古いタイプの妻を演じて来たのだろう。夫に仕え、子どもを育て、楽しみらしい楽しみはなにも持たなかった。自分の力を試す機会もなかった。
ところが夫が急死して、いやおうなしに自分の生きかたを考えなければいけなくなった。
――前から旅行が好きだったのかしら――
きっとそうだろう。
でも今は、ただの趣味というより生活の一部……。一恵はきちんと取り組んでいる。しっかりと計画をたて、なにか記録のようなものをつけているらしい。
「紀行文を書くつもりなんですって」
と知子が冷やかす。
「そんな大げさなものじゃないわよ。ほんのメモ」
「でも雑誌社からルポを頼まれたりするんでしょ」
「一回こっきりよ。それもたった二ページくらい」
「だって、あなた、旅行をするようになってから、せいぜい一年じゃない。これからだんだん認められるわ」
「|嘘《うそ》よ。そううまくはいかないわ」
一恵は否定したが、可能性がないわけでもないらしい。雑誌に原稿を書くようになるかどうかはともかく、趣味として始めたことが軌道に乗りかけている。ただの遊びではなく、生き甲斐に|繋《つな》がっている。
――私もあんなふうになりたい――
もっと低いレベルでもかまわない。旅行をするだけでいい。日本のあちこちへ行って……。知らないところが山ほどある。行ってみたいところがたくさんある。
――今日だってこんなに楽しいじゃない――
夕食後は三人で町を散歩した。とくに眺めるものがあるわけではない。それでも心が弾む。
宿に戻り、布団に寝転がってまたおしゃべりをした。本当に夢のように楽しい。
――良介は怒ってるだろうなあ――
夜の十一時。帰宅してメモを見ているころだろう。
――まあ、いい――
明日のことは明日考えよう。
翌朝はタクシーを雇って海ぞいの道を走り、近隣の寺社を二つ三つ訪ねてから午後の列車に乗った。
「佐渡もいいわね」
「|能《の》|登《と》にも行ってみたいわ」
知子と一恵はもう次の旅へと心を弾ませている。千鶴の気持ちだけが今夜起こるであろういさかいを思って|滅《め》|入《い》っている。それを隠すのがつらい。
「さようなら」
「ご苦労様でした」
千鶴が小田原の家に帰り着いたのは、六時近くだったろう。夕食の用意くらいはありあわせのものでどうにでもなる。良介は食事の用意がしてないと、ひどく不愉快そうな様子を示すが、毎晩きちんと食べるわけではない。作るほうとしては張りあいがない。
九時過ぎに玄関があいた。
「おかえりなさい」
千鶴はいつもと同じように迎えに出た。
ドアがあらあらしく閉じる。良介は無言で靴を脱ぎ、風を立てて廊下を歩く。
千鶴は黙ってあとに続いた。
洋服を手荒く脱いで投げる。
「なま意気なことをするな。馬鹿者が……。どこのだれと行ったんだ?」
「お友だちと」
「どこへ」
「新潟県の弥彦……です」
「弥彦。わざわざ行くようなとこじゃない。第一、だれの金だ」
「私だって、そのくらいお金は持っています」
「うん? へそくりか。くすねてためておいたんだろ。持参金があったわけじゃないからな」
いやな言い方だ。
たしかに結婚したとき千鶴は貧しかった。身ひとつで嫁いで来たようなものだった。それをひけめに思えばこそ、千鶴はずいぶんつらいことにも耐えて来たのではなかったか。
「みんな|俺《おれ》の銭なんだぞ。断りもなく使うのは……つまり泥棒だ。留守中にどんな用事が起きるかわからん。勝手に出て行きおって。そんなに行きたきゃ、もう一生帰らなければいいんだ」
千鶴は夫の脱いだワイシャツの襟の汚れを見ていた。脂性だからすぐにきたなくなる。
「おい、聞いてんのか。なにもわからんくせに……」
ねちねちと言われるのは毎度のことだし、|台詞《せ り ふ》も似たようなものだけれど、今夜はできるだけ距離をおいて聞いた。
――声がいやだ。|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》がいやだ。そばにいるだけでもわずらわしい――
千鶴の一番きらいなものは……蛇。その蛇と比べてどうだろう。
比較にはならないけれど、良介のほうがもっといやみたい。そんな気がする。
――会社でもこんなことを言って部下を|叱《しか》るのかしら――
千鶴の頭で考えてみても、良介の言っていることはどこかおかしい。子どもじみてさえ聞こえる。
おそらく千鶴をあまく見ているからだろう。
――女はどうせ馬鹿だから、この程度の理屈で大丈夫――
日ごろ考えていることが、はしなくもこぼれて見える。おどせば相手がおそれいるだろうと良介は考えている。
――へそくりが泥棒だなんて……業種がちがうんじゃない――
と、ものを知らない千鶴だって見当がつく。どこの奥さんだってへそくりを作るくらいの権利は持っているだろう。
――こっちがなんにも知らないと思って――
見くびっているところが憎らしい。
だが口答えはしない。今夜ははじめからそのつもりだった。
千鶴は口下手だし、言いだせば良介よりもっとひどい理屈を言うだろう。正義は千鶴のほうにあっても、反論されるとしどろもどろになってしまう。|口《くち》|喧《げん》|嘩《か》というものは、事の正否より、声の大きさや理屈のうまさのほうが結局勝ってしまう。この家ではいつもそうだった。
だったら黙っているほうがいい。
知子も言っていた。
「あるじゃない、このごろ、騒がしいだけでぜんぜん楽しくない音楽。あれとおんなしだと思っていればいいのね。今、演奏の最中だって」
良介の演奏はしばらく続いた。
千鶴の心は旅で見た風景に飛んでいる。海のブルーと田んぼのイエロー。
――きれいだったな――
テーブルの上の雑誌が千鶴の顔を目がけて飛んで来た。
「聞いているのか」
「はい……」
「ふん。言ってみろ。なにを言われたか」
そう言われて、小言をいちいち|復誦《ふくしょう》する人なんかいるのかしら。表情でそんな気持ちを伝えた。
良介は|頬《ほお》をゆがめて笑った。
「だれに習った?」
それから声を急にけわしく変えて、
「だれに習った?」
と、同じ文句をくり返す。
「はあ?」
「だからよ、だれに習ったって聞いてんだよ、黙って、ほかのこと考えながら聞いていろって、だれかに教えられたんだろ。この馬鹿が……」
さっきから馬鹿という言葉がいくつ出て来たかわかりゃしない。
――数えてみようかしら――
普段は千鶴の考えていることなど、まるで見当もつかない良介が、意外に鋭く「だれに習った?」と見抜いている。皮肉なものだ。
それでも千鶴はなにも言わない。良介だけが怒り続ける。
「下等なやつはみんなそうだ。黙って“はい、はい”と聞いてるが、心の中じゃ舌を出している。犬や馬とおんなしだ、ふん」
あい変わらず良介は不思議なことを言っている。犬や馬が「はい、はい」と言うだろうか。心の中で舌を出しているだろうか。
たしかにペットは怒られると、ひどく恐縮する。そして、そのあとすぐに忘れる。そこだけは今夜の千鶴と似ているけれど……でも、まるでちがうみたい……。
「馬鹿っ!」
途中で雑誌のほかに|布《ふ》|巾《きん》と化学調味料のびんが飛んで来た。布巾はともかくびんのほうは少し危険である。
――茶わんやお皿が飛んで来たら、どうしよう――
今度、知子に聞いておこう。
――でも、この人、根がけちだから、こわれるようなものは投げないんじゃないかしら――
しゃべらないぶんだけ冷静になれる。エネルギーも節約できる。もっと早く気がつけばよかった。
良介は一時間くらい、言いたいことを言っていたが、そのうちに自分でもあきてしまったのだろう。
「いいか、二度と許さんぞ。行くんなら許可をもらってから行け」
テーブルをバーンと|叩《たた》いて終わった。
「ご飯、めしあがります?」
「いらん」
良介はテレビのスイッチを入れ、つぎつぎにチャンネルを変えて、消した。夕刊を持って寝室へ行く。
「どいつも、こいつも、くだらん」
テレビの番組がつまらないことまで、千鶴のせいにされたらかなわない。
「おやすみなさいませ」
千鶴は一人残ってお茶づけをすすった。
――うまく行った――
ゆっくり考えてみれば、殺されるわけじゃあるまいし、なにも恐れることなんかありゃしない。
とはいえ二度続けたら良介はもっとひどく怒るだろう。
――敵だって対策を考えるわ――
良介は|奸《かん》|智《ち》にたけている。油断はならない。
ふと弥彦神社の前で手をあわせたときのことを思い出した。
――良介がぽっくり死んでくれますように――
そうまでは祈らなかったけれど、そのことを考えたのは本当だった。
――一恵さんはあんなに楽しそうにやっているのに――
夫の価値ってなんだろう。
世間にはもっとよい夫、もっとよい父親がたくさんいるのだろうけれど、良介はちがう。子どもたちも父をきらっている。千鶴にはまちがいなく迷惑な人でしかない。
弥彦山への旅をさかいにして千鶴の頭が変わった。ひまがあれば旅のことを考えてしまう。
――いろんなところへ行ってみたい――
旅行はだれにとっても楽しいものだ。
千鶴はもともとそんな好奇心を持っていたのだろうけれど、ずっと眠り続けていた。
――五十になって目がさめるなんて――
ずいぶんおくれての好奇心だが、
――もう元気でいられる時間は、そうたくさん残っているわけじゃないわ――
そのことを思えば渇望は余計に激しくなる。
とはいえ、現実にはそうそう簡単に家をあけて出て行くわけにはいかない。だれかが誘ってくれなければ動けないし、なにより良介の存在が大きな障害になる。
仕方なしに千鶴はテレビの番組表を捜す。
思いのほかたくさんの旅番組がある。リポーターが美しい景色を眺め、温泉につかり、おいしいものを食べる。たいていの番組が駈け足みたいな紹介で、いいところだけをかいつまんで映している。本当の旅にはもっと思いがけない出来事があるだろう。列車をまちがえたり、あいにくの悪天候だったり、ガイドブックにないようなすばらしいところを見つけたり……。
千鶴は、そう、一日中、海を眺めていてもいい。れんげの咲くたんぼ道をただ歩くだけでもいい。空気のおいしい高原で白い雲を見て、寝転がっていてもかまわない。
本屋へ行って旅の雑誌を買って来た。
今月は東北の旅。磐梯、|会《あい》|津《づ》、仙台、|北《きた》|上《かみ》|川《がわ》、|十《と》|和《わ》|田《だ》|湖《こ》……。
奥の細道を歩いた女性のエッセーが載っている。芭蕉と同じコースを歩く。でも今は昔の道があるわけではない。地図を頼りにコンクリートの道路を歩くのだが、その計画がおもしろい。
|深《ふか》|川《がわ》の芭蕉博物館からスタートして歩けるだけ歩く。宿を見つけて泊まるときもある。予定の日時が尽きれば、もよりの駅に行き、そこから列車で東京の自宅へ帰る。次のチャンスにはその駅から歩き始め、また予定の日時の尽きたところで駅を捜す。
何回も何回も行く。途中まで行っては引き返す。三年七か月かけて……終着地まで。時間もかかるし、お金もかかる。
「そんなこと、なにがおもしろい。ただの無駄だ」
良介ならきっとそう言うだろうけれど、とにかくこの女性が芭蕉と同じ道のりを自分の足で踏破したことはまちがいない。
その人が書いている。
“帰りの列車で芭蕉の本がたくさん読めましたし、実際に歩いてみるとやっぱり気分がずいぶんちがいます” ノートで三冊もの記録が残ったらしい。
そう言えば、前に日本国中のJR線をすべて乗り尽くした人の話を聞いたことがある。このあいだのテレビでは日本のすばらしい滝を百景、自分で選んで訪ね歩いた年寄りのことを映していた。
――私にもプランがあるんだわ――
花の名所を捜して歩くこと……。
千鶴は考えついたとたんにすばらしいアイデアだと思った。きっかけは佐渡の風景を写した一枚のカラー写真。海を背景にして草原の中にまっ黄色の花がワッとばかりに咲き乱れている。
――日光きすげかしら――
こんなに美しいところがあるならば、花の季節に行って眺めたい。以前にも、同じようなことを思った記憶がある。
――一恵さんは、あやめの花盛りを見て来たらしいし――
あれは水郷の風景……。
たしか北陸のほうには水仙の名所がある。チューリップを大量に咲かせているのはどこだったかしら。世界中のコスモスを集めているところも聞いたし、|神《じん》|代《だい》公園にはばら園があったはずだ。札幌にはアカシアの花が咲く。
日本中の花を見て歩く。たとえば花の百景……。
――だれかもうやっているかしら――
それを思うと少し残念だが、
――でも、人は人、私は私――
そんなことより本当に実行できるかどうか、そのほうがよほど問題だ。
一恵の存在が励みになった。
ノートを買って、メモをつけた。新聞の婦人欄などにも役に立つ記事が載っている。本屋をときどきのぞくようになった。
――図書館へ行けばいいんだわ――
市立の図書館がどこにあるかは知っていたけれど、自分で足を運んだことはなかった。
――一度訪ねてみよう――
実際の作業はそうはかばかしくは進まないが、夢だけはどんどんふくらむ。
ぼんやりと想像をめぐらすのは、昔から千鶴のくせだった。
わずかな知識を手がかりにしてさまざまな風景を頭の中に浮かべる。
水辺にあやめの花が一面に咲き、その中を舟がゆっくりと進んで行く。舟の中には当然千鶴自身が乗っている。カメラは良介がゴルフの賞品でもらって来たもの。フィルムを入れてシャッターを押せばそれで映る。むつかしいことはなにもない。それでもそれなりの写真は撮れる。
花の種類はたくさんあるし、花の名所も少なくはあるまい。
あいにく寒い季節に入っていたから、花の便りはもう少し先のことになる。冬に咲く花もないではないが、イメージが貧弱だ。旅と結びつくものは少ない。
それに……千鶴にとっても、そのほうが好都合だった。良介がいる以上、気安く旅に出かけるわけにもいかない。一度反逆を起こしてはみたけれど、案の定、抵抗は大きかった。二度目は相当の覚悟がなければできない。千鶴のほうもエネルギーを貯え、心構えをしっかりと整えたうえで実行しなければ、むつかしい。
その点、頭の中でいろいろ想像するのはやさしい。花の季節を思いながら計画だけが先行する。
そんなときには、子どもたちのことも少し忘れる。一人は札幌に転勤中、一人は東京の大学の近くで下宿生活を送っている。二人ともまったく手がかからなくなったわけではないけれど、想像の中ではその子どもたちもほとんど存在していない。
――良介とは離婚していて――
現実にはそう簡単に行くことではないけれど、この部分がきっちり保証されていないと、夢も描きにくい。
「福井県の海ぞいのあたりに水仙の名所があるんですって」
知子と一恵を誘わなければなるまい。
「聞いたこと、あるわね」
「どこから行けばいいの?」
「やっぱり東海道新幹線で|米《まい》|原《ばら》まで行って」
「米原? それ、どこ」
「名古屋と京都のあいだよ。知らないの。こだまに乗り換えて」
何度もくり返して想像しているうちに、こまかい部分まできっちりとできあがって来る。
「あなた、ずいぶん明るくなったわね」
と知子が言い、
「みなさん、そうなのよ」
と一恵がうなずく。
「信じられないわ。こんなにのびのびした毎日があるなんて」
「少し狭いでしょ、今度のマンション?」
「平気よ」
空想の中では……千鶴の住まいは1LDK。千鶴はたった一人で暮らしている。毎月の生活費は銀行に振り込まれている。子どもたちは……男の子だからひどく無愛想だが、二人とも母親の味方だ。離婚のときもそうだったし、離婚したあとも千鶴の肩を持っている。そして、ときどき母のマンションに訪ねて来る。千鶴も子どもたちの住まいを訪ねる。良介にいちいち干渉されることもなく……。
長男の結婚が近い。
――やっぱり親が離婚をしていると、子どもの結婚はむつかしいのかしら――
とたんに現実の思案が頭に浮かんでしまう。
でも不都合なことはあまり考えない。
――どうせ頭の中で考えているだけのことなんだから――
障害をひとつひとつつまみ出して思い悩んでいたら空想の楽しさは失われてしまう。
長男の結婚ばかりか次男の就職もある。これも両親の離婚がよい影響を与えるわけがない。
――じゃあ、離婚はもう少し先ね――
でも、良介と一緒に暮らすのは金輪際ごめんだ。なんのためにわざわざ想像するのか、わからなくなってしまう。
まず良介とはけっして一緒に暮らしてはいない。これが第一歩だ。すべての想像はそこから始まる。
だから離婚はしていないけれど、別居状態。実質的には離婚と変わりない。千鶴の自由は確保されている。
長男の秀樹は、
「別れたほうがいいよ。|親《おや》|父《じ》ひどいもん。お母さんも自分の生き甲斐を見つけるべきだな」
と賛成してくれた。
「でも、なんとか子さん……」
秀樹の結婚相手は当然名前があるはずだが、それは言えない。
「なんとか子さんのお家で反対しない? 私たちがこんな状態でいちゃあ」
「そういうこと、気にしない家なんだ。彼女自身も女性の味方だから」
万事うまく運ぶ。
次男の敏樹も、
「いいんじゃない。いやなら一緒に暮らしていること、ないんじゃない」
と、いっぱしのことを言う。
「でも、あなたの就職が……」
「だからサ、|俺《おれ》の就職がきまるまでは正式に離婚しなきゃいいだろ」
「調査なんかしないかしら、会社のほうで」
「だって俺、理工科だもん。そんなこといちいち調査して採用を取りやめたりしないよ」
理工科でよかった……。
千鶴自身だってそう簡単に行くとは思っていない。想像には現実感の薄い部分がたくさんある。
なによりも最大の難関は、良介が別居など認めてくれないだろう。別居を承知して、そのうえ月々千鶴の生活費を保証するなんて、良介はけっして考えない。目を閉じて針の穴を通すよりむつかしい。
だから、これは第一歩から“ありえない”ことなのだ。
それでも千鶴は考え続ける。
「今度はどこへ行こうかしら」
ボストンバッグを一つさげ、花のありかを訪ねて行く。
――一恵さんと同じように――
しみじみと一人になりたいと、千鶴はそのことばかりを願うようになった。
4 マドカ
「どうしたらあなたみたいな本好きになれるの?」
子育てまっ最中の母親たちにマドカはよく質問される。
母親たちがそう尋ねるのは自分のためではない。わが子が読書好きになってほしいから……。読書は親の目から見て望ましい趣味の一つになっている。
――本当にそうかなあ――
マドカは少しへそ曲がりのところがあるから、すなおにはうなずけない。
どちらかと言えば、怠惰な趣味である。体を動かさないのだから……。テレビが出現したおかげで、
――テレビよりましじゃない――
ということになったけれど、以前は、
「本なんか読んでいて」
と、親に|叱《しか》られた時代もあったらしい。マドカの母親はよくそんなことを言っていた。親に隠れて読む、それが昔の読書法のレッスン・ワンであり、|醍《だい》|醐《ご》|味《み》でもあったとか。
もちろん読書はすばらしい。
漢字を覚えるし、言葉を覚える。マドカが出版社のむつかしい試験をパスしたのも、もとはと言えば子どものときから本をたくさんよく読んでいたからだろう。
教養も身につく。人間性も豊かになる……。
しかし、マドカが読書を最高の趣味だと考えている理由は、なんと言っても、これがすばらしいひま|潰《つぶ》しになるから。読んでおもしろいから。マドカに言わせれば「どうしたら本好きになるか」なんて、質問自体が不思議でならない。とにかくおもしろいんだから、としか言いようがない。教養が身につくとか、人間性が豊かになるとか、そんなことは二義的でしかない。少し疑わしい。本なんか読まなくたって、りっぱな人はいくらでもいる。
マドカとしては、たとえ読書が悪魔の勧めであったとしても手放したくはない。
考えてもみよう。
こんなに安くて、だれにも迷惑をかけず、いつでもどこでも、どんな年齢でも、どんな立場の人でも気ままに楽しめるものがほかにあるだろうか。本の種類は多い。選ぶのにこと欠かない。
「本のきらいな人、私、信じられないわ。人生の楽しみの総量が大分ちがうんじゃない」
と、マドカは夫の洋によく話す。
「そりゃ、そうだ。人生は楽しみの多いほうがいい」
洋はさほどの読書家ではない。
「本がなかったら、人生の半分くらい、損したみたい」
「でも、あんた、酒を飲まないだろう」
「ええ……」
洋は飲んべえのほうである。
「酒を飲まないやつを見てると、やっぱり人生の半分くらい損してるんじゃないかって、|俺《おれ》、思うよ」
「でも、私、飲めないんだから仕方ないでしょ」
「無理してまで飲めとは言わんよ。人生は基本的には喜びがたくさんあるほうがいい。本を読むのもいいし、酒を飲むのもいいし、ゴルフもいいし、|麻雀《マージャン》もいい。楽しむチャンスをたくさん持っているのが、いい人生だな」
「でも、そのため身を持ちくずしたり、体をこわしたり……」
「だからサ、それはべつな問題なんだよ。楽しみは多いほうがいいけど、それでマイナスを作っちゃつまらん。まあ、本を読んでいるぶんにはマイナスは少ないけどな」
|強《し》いて言えば、読書の趣味は行動力を弱めるかもしれない。一種の代償行為だから、本を読むだけで、なんでもやったような気になれる。ある程度の満足が得られる。知識はあるけれど実行力のとぼしい頭でっかちを作ることがあるかもしれない。
夫の洋はむしろ行動的である。体を動かしているのが好きだ。テレビの制作会社に勤めているが、性格にあっているんじゃないかしら。
マドカのほうは婦人雑誌の編集者。これも性にあっている。なりたくて、なった職業である。結婚したからといって簡単にやめるわけにはいかない。
子どものときから本が好きだったけれど、本格的なミステリーとめぐりあったのは中学三年生のとき。受験勉強のすきを盗んで読みふけった。こういうときにはなにを読んでもおもしろい。
ヴァン・ダインの“グリーン家殺人事件”世の中にこんなにおもしろい本があるのね、しみじみそう思った。
古本屋の棚で、ほとんどただ同然の値段で買ったものだった。
――こんなに安いのに、こんなにおもしろいんだから――
“ビギナーズ・ラック”という言葉がある。訳せば“初心者の好運”ろうか。きっと競馬の用語だろう。はじめて競馬場に行って馬券を買った人が優勝馬を当ててしまう。思いがけない大金が転がりこむ。競馬のことなんかなにも知らないのに……。運命の神様もたちがわるい。それが病みつきになり……それから先はそうそう的中するものではない。だが人生にははじめての人がすごい好運を引き当てたりすることがときおりある。
マドカはなにも知らなかったけれど“グリーン家殺人事件”は、ミステリーの世界で定評のある名作の一つである。古典と言ってよい。
――どっちかと言えば、初心者向き――
今はそう思う。
一つの家に未亡人と五人の子どもたちが住んでいる。それが一人ずつ殺されて行く。最後に二人の女が残り、どちらが犯人か?
“グリーン家殺人事件”のあら筋を簡単に言えば、そういう作品だ。
マドカは本当に自分が作中人物になりきったみたいに驚き、恐れ、興奮して読んだ。
十数年も昔のことだから、こまかい部分はすっかり忘れてしまったが……いや、そうじゃない、ひどくこまかい部分まで覚えていたりするのだが、筋をきちんと話せと言われても、あちらこちらに穴があいている。
病気で寝たっきりで歩くこともできないはずの未亡人が、夜中にそっとオーバー・シューズを履いて屋敷の中を歩いているらしい、そんな疑念の浮かぶくだりは、ひどく怖かった。オーバー・シューズがどんなものか、知りもしないのに、それが音もなく歩きまわるのに絶好の履き物のように感じられた。今でもマドカはオーバー・シューズと聞くと、このイメージを思い浮かべずにはいられない。
冒頭で長女と年若い養女が暴漢に襲われる。姿の見えない暴漢……。長女はピストルで撃たれて死ぬが、養女は深手を負っただけで、かろうじて命を取りとめる。
ミステリーの愛読者は、たいてい|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》が|旺《おう》|盛《せい》だ。この場面を読んだだけで犯人がわかるだろう。
――初心者向き――
と、マドカが思うゆえんである。
一番あやしくない人が真犯人であるところも型通りと言ってよい。
しかし、なにぶんにもマドカは中学三年生だった。子ども用の読み物はべつとして、それまでにミステリーらしいミステリーを読んだことがなかった。だから手もなくだまされてしまう。“グリーン家殺人事件”は型通りに作られ、慣れない読者を型通りにだまして興奮させる作品だった。
とはいえ、あの時期にあの本と出あったのは、やはり好運だったろう。
――たしかにビギナーズ・ラックね――
それからは夢中になってミステリーを読みあさった。
「ミステリーなんて、ただの作り話でしょ。殺人事件があって、探偵が出て来て……その探偵がものすごく頭がいいもんだから事件を解決して、それだけのことじゃない。|嘘《うそ》っぽくって」
親友の百合子はミステリーがお気に召さない。何度も議論をした。
「最高の作り話だから、おもしろいんじゃない」
「見解の相違ね」
そうとしか言いようがない。トマトの好きな人もいれば、きらいな人もいるようなものである。
カトリーヌ・アルレーの“わらの女”を読んだときも身が震えた。
一人の男が|莫《ばく》|大《だい》な遺産を横領するために一人の女をジワリ、ジワリと追いつめる。マドカは本当にそのヒロインになったみたい……。
――こんなひどいことって、あっていいのかしら――
結末は、早くからある程度まで予想がつく。わなに落ちて行く楽しみ。
――私って、少しマゾっけがあるのかしら――
と思ったりもした。
たしか寝る前にちょっと読み始め、途中でやめられなくなって最後まで読んでしまった。朝が明け始めていた。
解説を読むと“わらの女”はフランス語で馬鹿な女の意味だとか。ヒロインはたしかに馬鹿な女と言えば馬鹿な女である。男が利口すぎるのかもしれない。利口な男が馬鹿な女を利用して徹底的に陥れる。そして男は罰せられない。うまうまと豪華な生活を手に入れる。読者にとっては、むしろサディスティックな小説なのかもしれない。自分を男のほうの立場に置いて。
「同じ感情なんじゃないの、サディズムも、マゾヒズムも」
百合子はミステリーこそ読まないが、心理学には一家言を持っていた。
「そうかしら」
マドカは首を|傾《かし》げる。
「心の中で入れかわるのよ。見ためは正反対でもマゾの気持ちがわかるからサドにもなれるし、その逆にもなれるわけよ」
「言えるわね」
「つまり、二つに分けるとすれば、普通の人のグループと、サド・マゾのグループとがあるんじゃない。あなた、そんな小説が好きなところを見ると、少し普通とちがうんじゃないの」
「ちがう、ちがう。心の中じゃみんなそういう心理を持ってるのよ。それを外にはっきりと表すかどうか、そのへんが普通と変態との差だと思うわ」
「小説なんて代償行為だから。自分のやれないことを登場人物がやってくれて、それで自分がやった気にもなるわけよね」
百合子の結論は明快である。
「ええ……」
マドカは小さな声で答えた。
たしかに小説には代償行為としての機能がそなわっているようだ。
「ミステリーなんて、あらかた変態者の代償行為じゃないの」
「そんなことないわよ」
紳士と淑女の趣味。とても知的なゲーム。でも、これが心の底の|歪《ゆが》んだ部分の代償行為であればこそ、現実の面で健全でいられるのかもしれない。
少女時代の自分をふり返ってみると、マドカの心にまず浮かぶのは母親との確執だ。
兄が二人いる。上の兄とは七つ、下の兄でさえ五つ年齢が離れているから、気分としては一人っ子みたいに育った。たった一人の女の子だったし……。
そんなせいもあって母はマドカをとてもかわいがった。幼いころのマドカはとてもすなおな、いい子で、母の言う通りになっていた。
――お母さんがきらい――
そう思うようになったのは、いつごろからだったろう。母としては裏切られたような心境だったろう。その母も鬼籍に入ってしまい、マドカ自身もあのころの母の年齢に近づいた。昨今はずいぶん心がやさしくなって、
――もう少し妥協してあげればよかったなあ――
と思わないでもない。
母は普通の女だった。ほんの少しみえっ張りで、偽善者で……。世間にはたくさんいる。
兄たちが受験をするときコネクションを求めてあちこち奔走していた。
――つまり、それ、裏口入学じゃない――
子ども心にもなにか釈然としないものを感じた。
兄たちの名誉のために言っておくけれど、二人ともけっして裏口入学で学校へ入ったわけではない。そこそこにはできたはずである。
問題は母のほうだ。
そんなにできのわるい子どもたちでもないのに余計なことをする。自分の子どもだけには、うまい汁を吸わせようとする。それがはっきりと見えたから、マドカの正義感が許せなかったのだろう。
そのくせ母は口先だけではかっこうのいいことを言う。
「ええ、ええ。私、勉強のことは、子どもにまかせておりますのよ。親がどうこうしてなんとかなるものじゃございませんもの。いろいろ親が手助けをして目先で少し得をさせてみたところで、長い人生を考えてみれば、ちっともいいことありませんから。オホホホ」
いつもそんな主張だった。よく言うわ。声まで鮮明に思い出すことができる。
その通り。母の主張は正論だ。
ところが、裏から見ると、母のやっていることは主張とまるでちがっている。
勉強のことは子どもにまかせているだって? とんでもない。母はほとんどそればかりを気にかけていた。成績がどうか。テストの結果がどうか。兄たちがいないときに、こっそりと部屋に入って調べている。日記まで読んでいる。マドカだって同じことをやられているはずだ。そして目先のことばかりでよしあしを判断する。最低だと思った。
「それが親の愛情というものでしょ。どこの親もそうよ。わかりもしないくせに、へんなこと言うんじゃないの」
マドカの正義感に対して、親の愛情をふりかざしたのも、あのころのマドカの心理を考えれば、適当ではなかっただろう。|錦《にしき》の|御《み》|旗《はた》をかかげて、うむを言わせない。
マドカにはますます母のやることがいかがわしく映ったし、
――そんな愛情、いらないわ。ただのエゴイズムじゃない――
と反発したくなる。
正直なところ、東京の山手あたりの家庭では表面でお体裁をつくろいながら、うちうちで、
――私たちだけはうまくやろう――
と、そんな魂胆を隠し持っているところが多い。
「うちなんかサラリーマンざあましょ。当てがいぶちをただ使うだけ。財テクなんてとんでもない。みなさまがうらやましくて。正直者が馬鹿ばかり見て……本当に困りますわ」
と|眉《まゆ》をひそめながら結構、親譲りの土地にマンションを建てて人に貸したりしている。
それはそれで生きて行くための知恵であり、大人になってしまえば、どうということもないのだが、
――お母さんは汚い――
と、そんな目で眺めれば、なにもかもいやらしく見えて来る。
いろいろなことがあった。少しずつ憎悪がつのった。一時期は……かなり長い期間にわたってマドカはことごとに母に反抗した。
そうなると、マドカのほうにも問題が生ずる。理由のないことにまで反発し、これはただのわがままにしか見えない。
父は母からの報告だけを聞いて、
「それはマドカがわるい。なにを考えてるんだ」
と、頭ごなしに|叱《しか》りつける。
そうね、たとえば日曜日の台所のあとかたづけのこと……。マドカの仕事になっていたのだが、あのときはテレビを見ていて、いつまでたっても手をつけなかった。母がいらいらしているのを承知で放っておいた。
「このごろ、マドカは家のこと、ちっとも手伝ってくれないんだから」
母は突然ヒステリックな声をあげ、
「もう、いいわ。お母さんがやるから」
と、かたづけ始めた。
「ああ、そう。どうぞ」
それでも知らん顔をしていた。
この場面だけを見れば、マドカがわるい。母親に反抗する、わがままな娘……。
案の定、父にどなりつけられた。
「女の子だろ。少しはお母さんの手伝いくらいやれ。くだらんテレビなんかいつまでも見ておって。なにがおもしろいんだ」
テレビのスイッチを切られた。
たしかにそのとき見ていたのは、あまり上等なテレビ番組ではなかった。お笑いタレントが、よりによって下品なものまねをやっていた。普段のマドカなら、
――なによ、これ――
見ているのも恥ずかしい。
だが、横からいきなり父にスイッチを切られて、
「私が見てんのに」
大声をあげ、手を伸ばしてスイッチを戻した。
――しまった――
と思った。
父に反抗するのはめずらしい。感情が高ぶっていて、つい金切り声をあげてしまった。
父が驚いてマドカの顔を見る。次の瞬間、
「馬鹿者」
肩を小突かれ、またスイッチを切られた。
マドカは声をあげて泣いた。
「本当にこのごろ言うことを聞かないんだから」
と、母がやさしい声でとりなしてくれたが、それを|邪《じゃ》|慳《けん》にふり切って自分の部屋へかけこんだ。ドアをバターンと強く閉めて。
「放っとけ」
父の怒声が背後で聞こえた。
部屋に入ってからも、しばらく泣き続けた。母が心配して様子を見に来たが、なにを言われても返事をしなかった。
とてもくやしかった。
あとかたづけをしなかったのは、たしかにマドカの落ち度だが、そうなったのはそれなりの伏線があってのことなのだ。
マドカのほうにだって予定がある。これを先にやり、つぎにあれをやりと、心づもりがある。ところが母はそれを無視して、ただ怠けてグズグズしているのだと思う。
――こっちだって子どもじゃないのよ――
仕事をまかせる以上、信頼してすっかりまかせるべきだろう。
――ぼつぼつやろうかな――
と思っている矢先に、母から、
「なぜやらないの」
などと、とげとげしい声で言われると急にやりたくなくなってしまう。
そんなことが、いくつかたて続けにあって、マドカのほうも少しへそを曲げていた。前の日も頼まれたごみ出しを渋っていたら、母は、
「やる気がないんなら、やってくれなくていいのよ。こっちはいつもやってることなんだから。お願いまでしてやってもらうほどのことじゃないわ。そのかわりお母さんにも考えがありますからね」
と、ひどくいや味ったらしい声で言う。売り言葉に買い言葉。
「へえー、どんな考え?」
と、負けず劣らずマドカもいや味たっぷりの言い方で尋ねた。
「へらず口ばかりきいて。いやな子ね」
と、母は立って行ってしまった。
マドカとしても、
――少しまずかったかな――
とは思ったけれど、折れて出るのも腹立たしい。きっかけがない。下手をすれば非をはっきりと認めたことになってしまうし……。
そんな事情があって、母とはちょっとした冷戦状態に入っていた。めずらしくもない。どこの家にだってあることだろう。
そんなときに、また同じリフレイン。
マドカが日曜日のあとかたづけをやらない。母は|苛《いら》|立《だ》っていた。それを承知でマドカは足を投げ出したままテレビのお笑い番組を見ていた。
――だって、お母さん、このあいだ言ってたじゃない。「やる気がないんなら、やってくれなくていいのよ。お願いまでしてやってもらうほどのことじゃないわ」って――
マドカはそっぽを向きながらも体半分でそっと母の様子をうかがっていた。母のほうでさりげなく、
「じゃあ、マーちゃん、お願いね」
くらいのことを言ってくれればよかったのに……。
母が金切り声をあげてあとかたづけを始めるものだから、マドカは、
「どうぞォ」
となる。
父が見ていたからたまらない。テレビのスイッチを切られ、それにマドカがさからったから、火に油を注ぐようなもの。「馬鹿者」と父に肩を小突かれ、大声で泣くはめになってしまった。泣けば泣くほどくやしくなる。
わるいのは自分と、けっしてわからないわけではないけれど、それをすなおに認めたくない。
――お母さんだって、わるい――
泣きながら母の落ち度を捜す。だから、フィフティ・フィフティ……。
――いや、お母さんが六十わるくて、私は四十くらい――
ついでに今夜の出来事とはなんの関係もない母の欠点も加算して、
――お母さんは汚いわよ。いつもいい顔ばかりしているけど、かげじゃ結構ひどいことやってんだから――
と思い出し、
――お母さんが七十わるくて、私は三十――
と、計算が変わる。
憎しみを思いっきりつのらせる。
――お母さんなんか、いなけりゃいい――
そんな感情を抱いたのも本当だった。
ミステリーに親しみ始めたのがちょうどそのころだったから、この感情と本の中の世界は簡単に結びつく。
――お母さんのこと、殺せないかしら――
もちろん本気ではない。考えて、その手順を楽しむだけのことである。
たわいのない思案ばかりだった。
たとえば“グリーン家殺人事件”の冒頭みたいに……。とても印象的だったから、よく覚えている。
憎い相手を殺しながら、自分が疑われないためには、自分も暴漢に襲われたことにすればいい。つまり、家に暴漢が侵入し、二人を殺そうとした。一人が死に、一人が傷を負う。
軽傷では説得力が薄い。でも重傷はこわい。
――中傷って言葉、あるのかしら――
まあ、そのくらいのところ。
問題は凶器である。
傷を負って倒れ、そのまま意識不明になる予定……。凶器をどこに隠すか。
“グリーン家殺人事件”では雪が降っていた。犯人は窓を少し開けておく。ピストルに|紐《ひも》をつけ、紐の一端におもりをつけ、窓の外に垂らす。自分で自分を撃ち、ピストルは手を離れたあと、自然に外へ滑り落ちて行くだろう。雪の中に落ち、降る雪がさらにそれを覆い隠す。ピストルのあと始末は傷もなおりかけ、雪がとけ始めるころ……。
――うまいトリックだわ――
しかし大邸宅じゃないと、むつかしい。家族とふすま一つへだてて寝ているようじゃあ、このトリックもままならない。
――第一、どうやってピストルを手に入れるのよ――
一番|肝《かん》|腎《じん》なところが抜けている。
そこが想像の想像たるゆえんだろう。どうせ実行なんかできっこないのだから。
――包丁はどうかしら――
家の近所に刃物を売る専門店があって、ショーウインドーに銀色の包丁がズラリと並んでいた。見ているだけでゾクゾクする。
――取り締まりの対象にならないのかしら――
と|訝《いぶか》った。
あの中の一本……。
――美的じゃないわ――
|凄《せい》|惨《さん》すぎる。見ためがひどい。血のあとが残るから困る。やはりピストルがいい。失敗する率も少ない。
なにかの拍子でピストルが手に入ったことにしよう。
――毒薬でもいいんだけど――
これもミステリーではしょっちゅう使われる。とりわけ女性の犯人は、これを使う。効果は的確だし、腕力を必要としない。
でも、どうやって手に入れるの?
ピストル同様にむつかしい。薬屋さんで買うわけにもいかないし。
しかし、これもなにかの拍子で手に入ったことにしよう。
母とは一緒に暮らしているのだから毒薬を飲み物に混入するのはやさしい。やさしすぎておもしろみがないほどだ。
ほかにもさまざまなことを考えた。
傷ついたライオンがほら穴の奥にうずくまっている。キツネが通りかかると、ライオンが中から声をかけ、
「寄って行きなよ。なにもこわいことはないから」
と誘う。
キツネはしばらく首をかしげていたが、
「やめておきましょ。中に入って行く足あとはたくさんあるけれど、出て来た足あとは一つもありゃしないから」
と答えて立ち去る。
“イソップ物語”だろうか。
これが世界で一番古い推理小説なんだとか。
ミステリーなんてだれが考えたものか知らないけれど、たいしたものだ。
――これ以上のひま|潰《つぶ》しはないわ――
とマドカは思う。ひま潰し以上と言ってもよい。
――代償行為にもなるし――
初めはたいてい母を殺していた。父を殺すときもあった。もちろん二人の兄も何度かマドカの頭の中で殺されている。
――私って、ひどい女かしら――
とは思わない。
それで気分がさっぱりする。憎しみが軽減される。一緒に暮らしていれば、だれしもよい感情ばかりではいられない。そんなときにはピストルでズドン、毒薬でコロリ。完全犯罪を考える。
友だちも何人か殺した。いさかいがあってもそれで気分が晴れる。精神安定剤……。たとえば学校で大地震があり、逃げる途中に憎い友だちの頭をガツーン、|煉《れん》|瓦《が》かなにかで|叩《たた》いてしまう。事故死と思われるだろう。
――先に私のほうが叩かれたりして――
ミステリーの作家は、どんなところからアイデアを入手するのだろうか。きっと周囲の人を殺しているにちがいない。
マドカは女子大の英文科に進み、論文にはエドガー・アラン・ポーを選んだ。
女子大生の論文なんて、|綴《つづ》り方に毛のはえたようなもの。ポーの生涯を書き写し、二、三の作品について感想を述べた。
「ミステリーが好きなのかね」
指導の教授は、鼻の下の長さを口ひげで隠している。
「はい」
「ポーは一応元祖だからね」
優をもらった。
論文のできはともかく、ポーの作品はこのときに全部読んだ。もちろん翻訳で……。ほかの人はシェークスピアやディケンズなんか選んじゃって、
「なんだかむつかしいのよね」
と、こぼしていたけれど、マドカのほうはたっぷりと楽しませてもらった。
ポーの作品では“メエルストルムの渦”が好きだ。
とてつもない想像力。恐ろしく、美しい。大きな渦に巻きこまれ、すり鉢状の凹みを回転しながら少しずつ渦の底へと近づいて行く。さっきまでの黒い雲が割れ、月がポッカリと浮かんで海を照らす。光る海のふちは目の高さより高い。ゆっくりと迫って来る死。死を目前にして見るおぞましいほど美しい光景……。
こんなことを考える人は、どういう脳みその持ち主なのかしら。
有名な“黒猫”もおもしろい。
壁に死体を塗りこめるところに日常性がある。マンション向きの殺人。マドカもよくそれを考える。
それに、猫という動物は本当に油断ができない。思いがけないところに隠れていたりする。
出版社の入社試験でも愛読書のことを尋ねられた。
一瞬、頭の中に「夏目漱石です」なんて、そんな|台詞《せ り ふ》が浮かんだが、漱石を読んだのは大分昔のこと。突っこまれると危ない。
「エドガー・アラン・ポーです」
と、正直に答えた。
「ほう、どんな作品?」
あとで聞けば、人事担当の重役がポーのファンだったとか。少しは得をしたのかもしれない。女性の就職はどの道むつかしいが、出版社はとくにむつかしい。学生が入りたがるから、採用するほうがいばっている。完全な買い手市場。
――たいした会社じゃないのに――
学生のときは知らなかったけれど、出版社は企業としては本当に小さい。数社をのぞけば、明日|潰《つぶ》れてもおかしくないくらい。会社を訪ねて行って、てっきり倉庫だと思ったところもある。廊下が複雑に延びている会社もあって、これは社業の発展とともに少しずつ社屋を拡張したせいらしい。
マドカを採用してくれたのは、中どころの出版社。おもに女性むけの雑誌や図書を作っている。ミステリーとは縁が薄い。
それでも年来の望みがかなったのだから、万々歳である。
「マドカ、やったね」
「うらやましいわ」
みんなの祝福を受けた。
――でも祝福ばかりじゃないのかな――
クラスメートが一人、最後の面接まで一緒だった。面接の日には、
――あの人を殺せば――
と、マドカはいつものように考えた。
そしてマドカだけが採用。今ごろ彼女は|嫉《しっ》|妬《と》に狂ってマドカ殺しを考えているかもしれない。
――気をつけなくちゃあ――
マドカの想像はいつもそんなふうに広がる。
洋とは仕事を通して知りあった。
ちょうどマドカが雑誌のテレビ欄を担当しているころ……。洋はテレビ制作会社のディレクターで、ドキュメンタリー番組を作っていた。
海外のめずらしい食べ物を選び現地へ行って、その風土の中で食べる。フランスのトリフ、黒海のキャビア、タイのドリアンなどである。
雑誌で撮影風景を含めて紹介した。
バンコクへはマドカも同行した。
もちろん取材が第一の目的だったが、
「一緒に来てみないか。飛行機代くらいなんとかなるから」
と、洋に誘われ、行ってみる気になった。
――この人とは親しくなりそうだな――
運命的なものを感じないでもなかった。
洋は身長が一メートル八十二センチもある。ロケ現場へ行ってもタバコを|喫《す》いながらぼんやりとつっ立っている。棒を立てたみたいに見える。
「なにしてんですか」
「考えているんだ」
だが、実際に動き出すと、てきぱきと指示を出す。「考えている」というのは、|嘘《うそ》ではなかった。
あのときの被写体はドリアンとタイの風景と、それから若いテレビ・タレント。タレントのほうがはるかにハンサムだが、洋も捨てたものじゃない。知的で、表情に奥ゆきがある。遊びも好きらしいが、仕事も熱心にやる。
――わりといいんじゃない――
何日か生活をともにしてそう思った。
制作会社の内情は苦しい。洋はほとんどドキュメンタリー番組だけしか担当しない。海外ロケは予算がきついし、仕事もそうたくさんまわって来るわけではない。
「いいんだよ、好きでやってんだから」
おそらくサラリーマンとして出世することなど、あまり考えていない人だろう。洋が出世を望むとすれば、それはポストが高ければそれだけよい仕事を選べる、と、そんな動機からだろう。
男が創造的な仕事にうち込んでいる姿は、とてもチャーミングなものである。
洋のほうもマドカを気に入ったらしい。
バンコクから帰って一層親しくなった。
それから八か月ほど交際して体の関係まで進んだ。結婚の申し込みはそのあとから。
「|俺《おれ》んちで一緒に暮らさないかなあ」
ぞんざいな言い方だが意味はすぐにわかった。
「いいけど。紙はちゃんと出すのかしら、区役所のほうに?」
「出したほうがいいかな、やっぱし」
「猫の子じゃないから。一応、式くらいあげてほしいわ」
「銭、ないなあ」
「なんとかなるわよ」
かけあい漫才でもやっているようなプロポーズだった。
「私、普通の奥さんになれないわよ。この仕事、続けたいし」
それがマドカの注文だった。
ちょうど仕事がおもしろくなり始めていた。勤めて二、三年は、まだ見習い期間。人間のつながりが大切な仕事だし、それを作るのは、そう短い時間でできることではない。マドカも数年の経験をへて、ようやく自分で企画を立て、それが実現できるようになった。
「いいよ。気ままにやろう。俺だって、そうまともってわけじゃない」
洋のほうも少々やくざな稼業である。旅も多いし、収入も高いとは言えない。ドキュメンタリー番組の制作なんて、一見はでそうだが、出費の大きいわりには関係者の実入りは少ない。洋の身分は一応、正規に雇われたサラリーマンだが、会社は小さいし、たいした保証もない。“寄らば大樹のかげ”とは正反対である。初めから子どもを作らないつもりだった。
言ってみれば、友だち感覚の夫婦。二人ともやりたいことをやって、ときおり親しむ。
おたがいにとって、そのあたりが一番折りあえる部分だったのかもしれない。
教会で式をあげ,ほとんどお茶とケーキだけの披露宴だった。
「かえってすっきりしてて、いいじゃない」
評判はかならずしもわるくなかった。
東中野にマンションを買い、結婚生活が始まった。新婚三日目に洋は撮影のため早くも韓国へ飛んだ。
マドカのほうだっていそがしいから、夫の不在はさして苦痛ではない。
「うちは週休五日制の夫婦なのよ」
「どういうこと?」
学生のころに親しかった百合子も今は二児の母になっている。せいぜい電話でおしゃべりをする程度のものである。
「一週間のうち五日間は夫婦生活がお休みなの。勝手なことやってて。二日間だけ夫婦ごっこをするわけね」
「大丈夫?」
「かえって新鮮でいいわよ」
これはマドカの本音である。
来る日も来る日も一人の人間にかかずらわっていたんじゃ、やりきれない。仕事もしたいし、刺激もほしい。雑誌記者はつらい部分もあるけれど、いつも新しいもの、めずらしいものに触れて時代の気配を享受することができる。職場の雰囲気もいいし、自分の収入があるのも捨てがたい。
もちろん家庭を守り、子育てに専念することにも一定の価値があるし、喜びもあるだろう。そのへんは向き不向きの問題だ。どちらを選ぶか、のテーマでもある。
結婚したからと言って、生活にほとんど変化がない。あまり変わらなすぎて、自分でも、
――私、本当に結婚したのかしら――
と疑いたくなるときがあるほどだ。
ときどき夫婦|喧《げん》|嘩《か》をする。
たいていはささいなことから始まる。両方が|苛《いら》|立《だ》っているとき。おたがいに仕事がうまく行かず怒りっぽくなっているから……。わるいタイミングが重なると喧嘩になりやすい。
「なんで、おならなんかするのよ。くさいじゃない」
「|俺《おれ》のはくさくない。出るものは仕方ないだろ」
「よく言うわ。自分ではくさくないのよ。はた迷惑よ。最低ね。結婚前はしなかったじゃない。けじめをなくすのって、私、大っきらい」
「一緒に暮らせば、我慢もいる。俺だって閉口してるよ、あんたのだらしないのには」
「あら、どこがだらしない?」
「鼻紙をそのへんにまるめて捨てておくし、台所のごみは捨てないし。いつも少し|匂《にお》ってるぞ。|屁《へ》よりたちがわるい」
「そんなこと、めったにないじゃない。いそがしくて、ごみの出せないときもあるのよ」
「屁だって、めったにしない」
「そうでもないわよ」
「いそがしくて、ごみが出せないなんて……それこそ、よく言うよ。そんな大層な仕事かよ。三分早く起きれば、できる」
「じゃあ、あなた、やって」
「亭主にごみを出させて、奥様はゆうゆうご出勤か」
「そういう言い方って、ないじゃない」
理屈を言いだしたら、きりがない。
洋の説によると、夫婦喧嘩というものは我慢比べなのだそうだ。どちらが不愉快な気分に長く耐えられるか。
「男はもう次の日は忘れたいよ。仕事もあるしな。いい気分で仕事に出て行きたいだろ。その点、女はしぶとい。いくらでも不愉快な気分を持続していられる。だから、女がたいてい勝つんだ」
「あら、私だってそうよ。次の日は忘れたいわね」
「あんたは一応仕事を持ってるからな」
「普通の奥さんだって、不愉快に浸ってて楽しいはずないわ」
「みんなこぼしてるよ。女房族ってのは、日中は結構ニコニコしていて、亭主が帰るころになると、ぶっちょうづらを取り戻すらしいって」
「そんな器用なこと、できるかしら」
洋が珍妙な提案をした。
「うちじゃ、こうするか」
「どうするの?」
「奇数日は俺が謝り、偶数日は、あんたが謝る」
「いいわねえー」
しかし、実行はまだしていない。
結婚をしてすぐに夫殺しを考えた。人には言えない。
「あなた、異常ね」
性格を疑われてしまう。
でもマドカとしては普通のことだった。まわりにいる人は、とりあえず空想の中に登場させてみる。まして夫だもの。夫婦の関係は、憎みあっていればもちろんのこと、愛しあっていてもミステリーのとても大切な題材になる。
考えてみれば、夫婦とはとても不思議な関係だ。何十年にもわたって一心同体の生活を続けていくわけだが、スタートのときから相手がよくわかっているわけではない。半年や一年、交際の期間があったからといって、一人の人間の|全《ぜん》|貌《ぼう》が見えるものではない。意図的に隠している部分はなおのこと、わからない。
夫が二重人格者だったりして……。
そんなミステリーはたくさんある。あるいは妻には言えない過去があったりして……。
松本清張の“ゼロの焦点”は、たしかそんな小説だった。日本のミステリーは遊びの部分が少なくて、マドカはかならずしも好みではないのだが、読むことはやっぱり読む。自分の知った土地などが出て来ると、
――あら、ここ行ったことある。そうよ、こんな感じよね――
と、楽しめる。
“ゼロの焦点”の舞台となった|能《の》|登《と》|金《こん》|剛《ごう》はマドカも行ったことがある。小説に比べれば、ずっと開けていたけれど、ところどころに面影は残っていた。
この小説のヒロインも新婚早々だった。
と言うより見合い結婚をして、新婚旅行から帰ったばかり。そこで夫が|失《しっ》|踪《そう》してしまう。それを追って行くうちに少しずつ夫の過去が見えて来る。けっしてありえないことではない。
幸か不幸か、マドカの夫の洋には、それほど大層な過去はないらしい。それでもマドカはいろいろ想像をめぐらしてみる。
一番月並なのは、女性関係。どこかにもう一人の女と子どもがいたりして……。
――記憶喪失がおもしろいかしら――
つまり、洋はどこかの女と結婚し、どこかで家庭を持ち、子どもまでいるのに、それをすっかり忘れてしまう。その数十か月が、こちら側から見れば記憶喪失の時代……。外国に行ってたことになっている。
――でも、洋がアメリカ旅行をしたのは、せいぜい二か月足らずのはず――
ちょっと無理ね。
洋の過去はともかくとして、マドカ自身が夫を殺したくなるケース。一緒に暮らしていれば、このテーマは日常的に頭に浮かんで来る。
例外はたくさんあるけれど、ミステリー小説の中核となる情況はきまっている。
ほとんどが殺人。しかも相手を殺しながら犯人はつかまりたくない。それが|思《おも》|惑《わく》通りに運ぶかどうか。それがミステリーだと言いきってもいい。
マドカの想像もそのへんにある。
――死体解剖をしてもわからない毒薬ってないものかしら――
これはマドカのお好みの思案の一つである。名づけてエックス化合物。
薬科大学に進んだ友だちが言っていた。
「そういうお薬、本当にあるのよ。普通の人に教えると危険でしょ。だから秘密にしているの」
当てにはならない。知ったかぶりが得意の子だったから……。
――でも絶対にないとは言いきれないわ――
マドカがそれを持っている……。
洋と|喧《けん》|嘩《か》したとき、わるいのはむこうなのに謝ろうともしない。憎ったらしい。
「あなた、ロール・キャベツを作ったわよ」
洋の好物はロール・キャベツである。わりと手間のかかる料理。なんでキャベツで巻かなきゃいけないのかしら。
しかし、せめてものサービス。ひき肉の中に適量のエックス化合物を入れて……。
――でも、それはまずいか――
毒薬を混入したかどうかはともかく、マドカの作った料理で死んだことはまちがいない。疑われもするし寝ざめもわるい。
――あの手があるわ――
たしかアメリカの短篇ミステリーだったと思う。イギリスかもしれない。とにかくもとは英語らしかった。
冷蔵庫の氷の中にエックス化合物をしこんでおく。マドカは出張中。洋はお酒が好きだからマドカの留守中にかならず水割りを飲む……。
出張先のホテルに電話がかかって来る。
大成功……と思いきや、洋の友だちが遊びに来て、その人が飲んじゃって……実は、その友人がマドカの恋人だったりして……想像はとめどなく広がる。
結婚して間もなくマドカは昔の恋人と偶然出あった。想像ではなく、これは本当の話である。|橘《たちばな》一雄。名前の響きが美しい。
「やあ」
「あら、久しぶり」
「ぜんぜん変わってないなあ。結婚したんだって」
「ええ。あなたは?」
「|俺《おれ》はまだ」
大学のコーラス部の先輩。卒業してからも少しつきあっていた。恋人と言うより、むしろボーイ・フレンド。ただのボーイ・フレンドよりはもう少し親しかったけれど、恋人とはっきり言えるほどの関係ではなかった。
日本語はむつかしい。
ときおり、“ない言葉”がある。さしずめ橘とマドカの親しさがそうだった。世間にも似たような例がたくさんあるだろう。ボーイ・フレンドよりは親しく、恋人ほどは親しくない。そんな関係をひとことで言い表せる、うまい言葉がないものだろうか。
「コーヒーでも、どう?」
と橘が誘った。
「ええ。十分くらいなら」
マドカは取材に行く途中だった。
「あい変わらず編集のほう?」
「そうよ。橘さんはいつ日本へ帰ったの」
すぐに昔の親しさがよみがえって来る。
――この人と、結婚したかもしれなかった――
あのまま順調に進んでいれば……。
彼は商社マンだから、就職してすぐに海外勤務が始まった。それ以前に、もうほんの少し関係が深まっていたならば、マドカも任地先まで訪ねて行ったろう。そうすれば二人の現在も今とはちがっていたかもしれない。彼のほうにだって心残りはあったはずだ。
「お子さんは?」
「生まないんじゃない。この仕事、続けたいから」
「それはいい」
たわいのない話をかわした。
なにげなく隣の席を見ると、男の子と視線があった。母親らしい女が同じ年輩の女と話しこんでいる。そのわきで少年はショート・ケーキを食べている。
――順ちゃん――
と、マドカは思わず声をあげそうになった。全身の血が落ちて行くようなショックを覚えた。
順ちゃんというのは、夫の姉のところの子ども。つい最近会ったばかりだ。
しかし、よく見ればちがうみたい。
第一、その子が順ちゃんなら、そばにいる母親は夫の姉でなければいけない。これはあきらかにちがう。
「どうかしたの」
と、橘がマドカの様子に気づいて尋ねた。
「いえ、べつに」
それでも横目でもう一度さりげなく確かめた。
――順ちゃんでなくてよかった――
わけもなく胸を|撫《な》でおろす。
「またすぐ外国へ行っちゃうんだ」
「今度はどこ?」
「オーストラリア。来るときがあったら連絡してよ。二、三年はいるから」
「ええ。行きたいわね」
「じゃあ、さよなら」
「さよなら」
別れたあとで、
――どうしてあんなに驚いたのかしら――
とマドカは考えた。
やましいことはなにもない。
ただ街角で学生時代のボーイ・フレンドと偶然出あってコーヒーを一緒に飲んだだけ。そんなことまでいちいち干渉されたらかなわないし、夫の洋だってほとんど気にもかけまい。
でも、相手はただのボーイ・フレンドではなかった。もしかしたら結婚したかもしれない人だった。
いや、過去のことはともかく、これからだってなにも起こらないとは言いきれない。
――まあ、なにも起きないでしょうけど――
それはわかっているのだが、あの瞬間……つまり橘の顔を見ながらコーヒーをすすっているとき、
――人妻の不倫て、こんなところから始まるのね――
とマドカは考えていた。
婦人雑誌の調査でも、人妻の恋人は昔のボーイ・フレンドが圧倒的に多い。安心感があるからだろう。
――このままホテルに誘われたら私どうするかしら――
もちろん橘はそんな非常識な人ではない。マドカのほうも仕事の最中だったし、どうするもこうするもない情況だったけれど、一つの可能性をちょっと頭に浮かべたのは本当だった。
その瞬間に、順ちゃんそっくりの男の子がこっちを見ているのに気づいて……。
――あっ、いけない。見られちゃった――
マドカが驚いた理由はほかに考えにくい。
まるで不倫の現場を目撃されたような、そんな意識が走り抜けたらしい。
自分の|親《しん》|戚《せき》ならなんとかなる。夫の姉の子どもというところが、とくによくない。
笑いがこぼれる。
どう転んでも驚く必要のあることではなかった。
――でも、あるかもね――
想像が広がる。
良家の若奥様。とても貞淑で、ひかえめで、近所でも、
――とてもすてきなかた――
そんな評判が立っているけれど、彼女には秘密の恋がある。
月に一度くらい、夫をあざむき、周囲をだまして秘密の恋人と会っている。
その決定的な現場を知りあいの子どもに見られてしまう。
――どうしてこの子がこんなところに――
のがれようもない。
――この子をこのまま帰したら、どうなるかしら――
結果は目に見えている。この子をこのまま家へ帰してはいけない。
「ちょっと、いらっしゃい。おばちゃまがおいしいものをご|馳《ち》|走《そう》してあげましょう」
と、女は子どもを手招きする。
「うん……」
子どもは、なんだかおかしいな、と思いながらついて来る……。
そんな情景がマドカの脳裏に映る。いつのまにか自分がヒロインになっている。
結婚前にはおおむね母を殺していたが、結婚してからは、もっぱら夫が相手役になった。本当に何度殺したかわからない。
子どももないままに三年、四年、五年と歳月が流れていく。気ままと言えば、すこぶる気ままな夫婦である。夫も妻も勝手なことばかりやっている。朝、起きて食卓で顔をあわせ、
「久しぶりねえ」
「まったくだ。ご機嫌いかがかね」
「はい、つつがなく。あなた様は?」
「うーん、ちょっと二日酔いだな」
「きのう、遅かったもんね」
「知ってたのか?」
「半分夢の中だったけどね。今日はゆっくり寝てたらいいじゃない」
「いや、そうもしてられない。午後の便で沖縄だ」
「あら、本当。私は北海道なのよ」
「へえー。いつ?」
「十一時の便。もう行かなくちゃ」
「名残おしいね」
「よく言うわ。忘れてんじゃないの、私の顔なんか」
「いや、いや、毎晩、写真を抱いている」
「|嘘《うそ》ばっかり」
こんな会話がしょっちゅうだ。
典型的なすれちがいの夫婦。一週間のうち五日間は仕事にうちこんで、残りの二日だけ夫婦をやろう、と、そんなつもりで一緒になったのだが、いつのまにか二日制の夫婦もあやしくなった。
同じところに住んでいるのだから、海外出張でもなければ平均週に二日くらいは充分に顔をあわせてはいるだろう。だが、それは家の中に二人がいるというだけのこと。充実感がとぼしい。おたがいの心が少しずつ風化していく。
――これではいけない――
そう思ってみても、もとへは戻らない。
――本当に“これではいけない”と思っているのかしら――
それも疑わしい。
昨今は|喧《けん》|嘩《か》まで少なくなった。それだけ相手に期待をしていないのだろう。
そのかわりと言っては適切ではないかもしれないが、|諍《いさか》いが起きると、前のように軽くさばけない。あと味がわるい。すぐそばに黒い穴が開いているような……。
――ちがうわ――
ある日、マドカはいつものように夫殺しを考えていて、|頬《ほお》をつねった。
以前は本当にジョーク、ジョーク、けっしてありえないことを頭の中で考えているだけだった。思考を楽しむために……言い換えれば、根も葉もない想像に多少なりとも現実性を与えるために洋を登場させていた。代償行為ですらなかった。
それが少しずつ変化している。
もちろん今だって夫殺しを本気で考えているわけではない。パーセンテージで表すのはむつかしいけれど、本気ということならば五パーセントはおろか一パーセントもそんなことを考えたりはしない。でも、
――急に消えてくれないかしら――
そんなことを思っている自分に気がついて|愕《がく》|然《ぜん》とする。人間が消しゴムでこするように消えてくれるはずもない。こうなると、たわいのない想像にも、多少の代償行為としての色あいがつく。
――あの人、浮気しているな――
はっきりと証拠となるものを見たわけではない。漠然と気配を感ずるだけだが、この感覚はおおむね正しい。
マドカ自身、男と一緒に仕事をしているから、男がどういう生き物か、見当がつく。浮気と無縁な男なんて、めったにいるものではない。いるとすれば、体がわるいか、よほどお金がないか、精神に問題があるか……。
まったくの話、浮気と無縁な男は、数において少ないだけではなく、人間としても多くの場合、欠陥を持っている。つまり普通ではない確率が高い。女としてはくやしくもあり、馬鹿らしくもあるけれど、これは本当だ。仕事のパートナーとして選ぶならば……ほかの条件を無視して、それだけを条件として言われるならば、マドカだって、
――少しは|甲斐性《かいしょう》のある人のほうがいいわね――
と言いたくなる。
けっして浮気を認めるわけではないけれど、処世術としては断然このほうが生きやすい。
ただ|肝《かん》|腎《じん》なことは浮気の程度である。
このへんの日本語もまたむつかしい。
結婚している者が配偶者以外の異性と一線を越えて親しくなるのは、みんな浮気と言ってよいのかもしれないが、そのレベルはゆうに十段階くらいに分かれているのではないかしら。
浮気という言葉は、文字づらを見ていると心がワクワクと浮わついているようで、十段階のうちの、一部分しか表していないような気もする。浮気どころか、どう見ても“|重《おも》|気《き》”としか言いようのない関係もたくさんある。
男の浮気について言えば、どの段階の女性関係なのか、それによって傾向と対策はずいぶんちがってくる。
ちょっとした女性関係、たとえば旅先でその筋の女性と交渉を持つのは、男にとって生理現象のようなものらしい。女であるマドカには実感としてはわからないけれど、男と一緒に仕事をしているから、事実として知っている。ほとんどが一過性の関係。恋愛感情とはほど遠い。事情を聞いて愉快な話ではないが、見えないところでこっそりやっているなら仕方ない。
自分の夫がということになると、さらに愉快ではないけれど、例外を考えるのは甘すぎる。このレベルなら目をつぶることも、できない相談ではない。許したくはないが、世の中はそんなものだろう。このへんに目くじらを立てていると、大局を見失うことになりかねない。
男女の関係は、白が灰色をへて黒に変わって行くように、さまざまな色あいがある。ほとんど白に近い灰色。灰色だが、けっして黒ではない色。黒に近い灰色……。
――洋には親しい女がいる――
そう感じたのは、もちろん恋愛関係のこと。どれほどの深さかわからないけれど、心と心の通う関係。もちろん体の関係もあるだろう。
テレビ制作の現場なんて、若い女性がたくさんいる。男女関係の少々乱れている世界でもある。ディレクターは、俗っぽい言いかただが、カッコウよくて、まあ、女性にもてる立場である。
そのうえマドカは妻としてはあまりよい妻ではない。
――なにがよい妻なの――
と、これもいく通りもの答えが返って来るテーマだろうけれど、ごくごく普通の常識に従って言えば、雑誌記者をやりながら二分の一くらいの配慮で妻業をやっているのだから、あまりよいことはあるまい。それを前提にして始めた結婚ではあったけれど、足りない部分を洋がなにかの方法で補うのは充分に考えられることだ。
――はっきり見えるのが、いや――
調べようと思えば調べる手段がないわけではない。だが、マドカは調べようとは思わない。
おそらく洋はそのことで決定的なトラブルを起こしたりはしないだろう。つまり洋はもちろんのこと、相手の女も洋が結婚をしていることを前提にしてつきあっている。家庭をこわすことまで考えてはいない。
――甘いかな――
そうとも思うが、これは確率の問題であり、|賭《か》けでもある。
知らんぷりをしていれば、いつかその女との関係も終わってしまう。騒ぎ立てたらかえってやぶ蛇になるし、これ以上わずらわしいことはさけたい。
――洋を信じましょう――
そのほうが楽だから……。
マドカとしてもそれほど厳密に自分の心を分析して考えたわけではない。厳密に考えないこと自体が、一つの逃げ道だと言ってもよい。
「あなた、好きな人、できたんじゃない」
快晴の午後だった。
洗濯機のモーターの、低い響きを聞きながらマドカは軽い調子で尋ねた。
その直前まで夫にそんなことを聞こうとはまるで思っていなかった。
「どうして?」
「べつに。ただなんとなく」
洋の様子はいつもと少しも変わらない。
――私のまちがいかしら――
一瞬、そう思った。
ただなんとなく気配で感じているだけのこと。確たる証拠を握っているわけではない。
「陽気がポカポカしているからなあ」
と笑っている。
だから、妄想を描いている、ということなのだろう。
「なら、いいけど」
追求すれば、それでわかるということではない。
マドカが横顔を見つめていると、洋はなおも笑いながら、
「そういう議論は、馬鹿らしいんじゃないのか」
と、おもむろにつぶやく。
洋はいつもものごとを少し斜に構えてながめる癖がある。反論も真正面からは攻めて来ない。はすかいに来る。
「どうして?」
今度はマドカのほうが聞き返した。
「だって、そうだろ。|俺《おれ》たち、普通の結婚をしているわけじゃないもん。子どもはいないし、あんたは生活力もある。おたがいに|納《なっ》|得《とく》ずくで一緒になっているんだ」
「ええ?」
「愛情って言うと、少し大げさかもしれんけど、好きだから一緒に暮らしているんだろ。ほかに二人を結びつけている理由があるわけじゃない。いやなら、やめればいい関係だ。だれか好きな人がいて、それを隠してまで、やたら頑張る必要はないんじゃないのかい」
頭のわるい人ではない。いきなり核心を突いてきた。はす向かいからまんまん中を攻めて来たみたい……。
「そりゃ、そうだけど」
マドカは言葉に詰まった。
「つまらんこと、考えるなよ」
「でも、あなた、楽しい?」
すれちがいばかりで、このごろは夫婦でしみじみ楽しみあうことが少ない。
「楽しいよ」
と、洋はうなずいてから、
「新婚のときみたいにはいかんさ。今晩、めしでも食いに行こうか」
「あいてるの?」
「うん。仕事、あしたにまわせばいいから」
「じゃあ、そうして」
なんだかうまくごま化されたみたい……。
|乃《の》|木《ぎ》|坂《ざか》のレストランで、すてきなフィレ・ステーキを食べたが、疑念はやっぱり疑念として残った。
洋の言うことは正論だ。
子どもがいるわけではないし、マドカは一人で充分に生きて行ける。
そうであるにもかかわらず二人が一つ屋根の下で暮らしているのは、そのこと自体、二人を結びつけるものが……つまり愛情が、そこにあるという証拠である。洋が、
「別れてほしいんだ」
と言えば、マドカは、
「ああ、そう」
事情は一応聞くだろうけれど、いつだって別れる覚悟くらい持っている。
――でも、本当にそうかしら――
釈然としない。マドカはしばらく思いめぐらしたあげく、
――ああ、そうか。台風は急に襲って来るわけじゃないわ――
たまたまテレビの天気予報を見ていたので、そんな連想を抱いた。
台風は南太平洋あたりで発生して少しずつ近づいて来る。夫婦の破局だって、原因となるものは、見えないところで発生し、少しずつふくらんで爆発する。
ある日、洋がちょっと気がかりな女に出あってコーヒーを飲む。だからといって、その日すぐに夫婦の破局が起こるわけではない。コーヒーが食事になり、食事のあとにベッドが用意されたりする。
途中で消滅したり、方角を変えたりする台風もあるし、ときには本土直撃もある。これが厄介だ。
洋は、妻とその女とを|天《てん》|秤《びん》にかけて、
「なあ、ちょっと話があるんだけど」
と、切り出すだろう。
それまでは一見無事に見えるが、危機を隠している。一つ家にちゃんと暮らしているからと言って愛情の保証にはなるまい。
――今がちょうど、そのあたり――
そんな気がする。
――核爆発を使って台風の進路を変える話があったけど、あれ、どうなったのかしら――
マドカはとりとめもない想像をめぐらす。
多分、無理だろう。方法として可能であっても核爆発はそう簡単にできることじゃない。世論の反撃を食う。
――台風のほうはともかく――
マドカとしては殺人のほう……。
洋の恋人。まだ本当の恋人にはなっていない。名前を……かりに彩子さんとしよう。
それが初恋の人の名だと、いつか洋が言っていた。
想像をめぐらすためには名前がないと実感がとぼしい。洋の恋人は、一生のスパンで考えれば何人もいるかもしれないけれど、右代表、みんな彩子さんでよい。
彩子さん殺し。言ってみれば、台風が本土に上陸する前に消滅させてしまう計画……。
もちろん洋は彩子との関係を妻には隠している。だから妻のほうも知らないふりをしている。
――彩子の存在をどうやって知ることにしようかしら――
興信所に調査を依頼する……。
月並すぎてあまりおもしろくない。
思案をしているとき、職場の仲間からおもしろい話を聞いた。
「電話料金がなんだか急に高くなったのよね。変だと思ってNTTに問いあわせたら、子どもが、北海道に家出した友だちとこっそり連絡をとっていて……」
「へえー。でも、どうして北海道にかけてるって、わかったの」
「NTTが一か月分のリストを送ってくれたの。家からどこへ電話をかけたかって。相手の電話番号をずらーッと」
「えっ、そんなことできるの」
「頼めば、やってくれるみたいよ」
「ああ、そうか。できるでしょうね」
よくはわからないけれど、機械の操作としては、少しもむつかしいことはあるまい。
「〇一一なんて局番があるものだから“これ、なによ”って」
「かけた電話のリストって、相当な数になるでしょ。一か月だと」
「それほどでもないわよ。だって、そうでしょ、家の電話なんて、かけてるようでも一日に四、五本しかかけないし……。むこうからかかって来るのはべつだし」
「私んとこなら、もっと少ないわ。二人ともあんまり家にいないから」
話しながらマドカは考えた。
――プライバシーの侵害にならないのかしら――
でも、他人が知るわけじゃない。自分のかけたものを自分で知るのだから……。
――しかし、電話局は知ることができるわけね――
そのへんはどうなっているのだろう。
もともと電話なんて、そうきっかりと秘密が守られているものではあるまい。
――夫婦のあいだにだってプライバシーはあるわ――
そう思ったとたん、いつもの想像が突風みたいに頭の中を走りぬけた。
――家からかけた電話のリストを見ればいいんだわ――
洋が恋人の彩子に連絡をとっている。洋が家にいてマドカが留守のとき、きっと電話をかけているだろう。
一か月のリストというと……百五十個くらい、かけた先の電話番号が並んでいる。
――これはお寿司屋。これは百合子さんのとこ。これは洋の会社――
一つ一つ消して行く。
いくつか残る。
相手が彩子なら、月に、たった一回ということはあるまい。リストはコンピューターがやっている仕事だろうから、電話をかけた日時も記録されているだろう。
だったら、あやしい電話番号はすぐにわかる。局番から判断して、
――杉並区だわ――
局番のありかが彩子の自宅ではないかしら。
電話をかけてみよう。
「はい、西峰です」
答えてくれたら、相手の姓がわかる。
西峰というのは、今、子どもがこっそり北海道に電話をかけていたと、その話をしてくれた同僚の苗字だけれど……かりにそれを借用しよう。
――小説家は、どうやって登場人物に名前をつけるのかしら――
似たようなことをやっているにちがいない。
西峰彩子、これで相手の姓名がわかった。
杉並区の電話帳で西峰の姓を捜してみる。
――たくさんあるかしら――
そう多くはあるまい。西峰彩子という名は記載されていないだろう。女の人が自分の名を電話帳に載せている例は少ない。
そこで道が二つに分かれる。
電話帳にその番号があって、だれか男の人の名でも記してあれば、彩子は家族と一緒に暮らしている。人妻かもしれない。
番号が見当たらなければ、これは一人暮らしの可能性が強い。番号を電話帳に載せていないケースだ。
多分こちらのほうだろう。こっちの道を行こう。
そのとき、住所を知る方法は……? 雑誌記者をやっていると、こういうことには知恵が働く。電話をかけ、
「西峰さんですか? 宅急便なんですけど、ちょうどご住所を記したところが雨に|濡《ぬ》れちゃって……」
と尋ねれば教えてくれる。
こっそり訪ねて行ってみよう。さりげなく様子をうかがうだけ……。
杉並区のマンション。いかにも若い女が一人で暮らしているみたい……。
見張っていれば、彩子の顔を見るチャンスくらいあるだろう。
二十六、七歳。美人。洋の好みだわ。
――やっぱりね――
洋の心は日ごとに彩子に傾いていく。それは、そばにいて注意深く観察していれば見当がつく。
家にいてもソワソワしている。かと思えばわけもなく|苛《いら》|立《だ》ったりする。妻のことなんかぜんぜん考えてないくせに、突然、とってつけたみたいにやさしくなる。おみやげを買って来たりして……。心にやましさがあるからだ。ばれないようにごま化している。
「うちの亭主、下着を新しくするの。だからすぐわかるのよ、浮気のときは」
これも同僚の話。笑いながら話していたから、どこまで本当のことかわからないけれど、ありうることだわ。
洋は普段から下着は白くて新しいのが好きだから、この判別法はあまり役に立ちそうもないけれど。
それよりも洋の場合は髪の毛のほう。三十代のなかばなのに少し薄くなり始めた。脳天のあたりがちょっぴりすけて見える。
――このごろやたらヘアー・トニックをふりかけているけど――
あやしいぞ。秘密の恋と関係があるのかもしれない。
――大変。このままじゃ夫を奪われてしまうわ。どんな女? ドロボウ猫め。許せない――
マドカは真実洋を愛していて、絶対に妻の座を奪われたくない、と考えていることにしよう。事実はどうあれ、そうでないと想像が先に進まない。
洋のほうはまさか秘密が妻に知られていようとは……気づかない。彩子だけが心配している。
ベッドの上で体を二つ並べて、
「奥さんにはなんて言って出て来るの?」
と、女が聞く。
「べつに。仕事だと思っているだろ」
と、男が答える。
「大丈夫かしら」
「平気、平気。そういうデリケートな神経、持ってないんだ、うちのやつは。|俺《おれ》のことなんかどうでもいいんじゃないのか、きっと」
「本当に?」
「君のほうがずっといい」
「いつまでも愛して」
「もちろんだ」
「うれしい」
「最高の人だよ、君は。ここも……すてきだ」
「ウフン、いやっ」
いい気になってほざいている。本当なら、かなり憎らしい。腹が立つ。
――殺してやる――
殺意を感じないでもない。
殺しておいて警察につかまらないこと、これが大切だ。そうでなければ意味がない。殺すだけなら頭を使う必要はなにもない。
洋と彩子の関係は、だれにも気づかれていない。少なくともマドカは少しも知らないことになっている。だからこの殺人についてマドカは動機がない。疑われても、
「いいえ、まったく知りませんでした」
の一点張り。それでいいはずだ。
洋もそれを証言してくれるだろう。警察はしつこく疑い続けるだろうけれど……。
――アリバイがあったほうがいいわ――
これまでに読んだミステリーをつぎつぎに思い浮かべる。
ヴァン・ダインの“カナリア殺人事件”駄目、駄目。あれはテープ・レコーダーがなかったころの話である。今はむつかしい。
列車ミステリー。時刻表の|間《かん》|隙《げき》をぬってアリバイを作る……。無理ね。大げさなわりにはうまく行かないような気がする。
――私のそっくりさんがいたりして――
これが一番いい。
一年ほど前、雑誌の広告がらみで、タレントのそっくりさんを募集したことがあった。
「自分にそっくりな人が、この世の中に三人いるって話だけどな」
と、編集長はしきりにあごを|撫《な》でていた。あてにならない話をするときの癖である。
「そうなんですか」
募集の結果は、似ている人がいるような、いないような……。
上位入選者はかなり似ていた。だが、そっくり同じという人はいないものだ。微妙にちがっている。
髪型とか服装とかを同じにすれば、ずいぶんよく似る。
それから声。話し方……。現実の生活ではこっちのほうが大切かもしれない。
――結城昌治の“替玉作戦”……。短篇だけどとてもおもしろかったわ――
主人公は中年の男で、殺したい人がいる。たまたま自分とそっくりの男を見つけてアリバイ工作を企てる。
――たしかそっくりさんをお墓参りに行かせるんだったわ――
お墓参りを使うところが、えも言われずすばらしい。
親族のだれかの命日にあわせて殺人計画を立てればいい。そして替わりの男をお墓参りに行かせる。久しぶりに出かけて行っても不自然ではない。お寺のお坊さんにせよ、お墓を管理するお茶屋の人にせよ、こっちの顔をそうよく覚えているものじゃない。名前を名のって、似た人が現れれば、当人だと思う。
顔をあわせても込み入った話など、しないものだし、ほかの人に会う可能性は皆無に近い。お墓はたいてい都心を離れたところにあるから往復の時間も含めて、二、三時間は充分にとれる。それも都合がいい。
“替玉作戦”の主人公はみごと成功するけれど、思いがけないところに落とし穴があって……この作品の持つユーモアは、マドカの好むところでもある。
――でも、簡単じゃないなあ――
当然のことながらマドカ自身のそっくりさんを見つけることが楽じゃない。ほとんど不可能と言ってよい。
――小説なら、どこかでパッタリそんな人に会うところから書き始めればいいんだけれど――
現実はなかなかそううまくは運ばない。
――これは無理ね――
ほかの方法を考えなければなるまい。頭を一つ振ってから今までに読んだミステリーを頭の中に並べた。秀逸なアリバイ工作はなかなか思い当たらない。
それもそうだろう。そんなものが簡単に見つかるようでは、世の中の治安は保ちにくい。
――なにかないかしら――
考えることが、よいひま|潰《つぶ》しになる。退屈な会議の最中や満員電車で本も読めないときなどに……。
編集者の出勤は遅い。
マドカが家を出るのは十時前後。洋は寝ているときもあるし、もう出たあとのこともある。この家では、休日を除けば朝食はない。せいぜい牛乳を飲むくらい。洗濯や掃除など家事の一部は出勤前にすましてしまう。
マドカの勤める出版社は|信《しな》|濃《の》|町《まち》にある。東中野からは近い。
「おはようございます」
机の上に印刷所から戻って来たゲラやコピーが置いてある。このごろはファクスで送られて来る原稿も多い。
「午後に谷村先生のところまでちょっと行って来たいんですけど」
童話作家の谷村吾郎は小田原に住んでいる。童謡の歴史にくわしい。このところ連載で日本の童謡と、その周辺のエピソードを書いてもらっている。毎月の原稿はファクスで届くけれど、三か月に一ぺんくらい顔を出さないと、ご機嫌がわるい。次の企画についても少し打診しておきたいことがあるし……。
「ああ、そう。雨降りなのにご苦労さん。よろしく伝えて」
編集長はちょっとだけ顔をあげ、すぐにデスクの原稿に目を移す。
「ついでに今井先生のところにも寄って絵をもらって来ます」
今井武志は挿し絵画家。カラーの挿し絵を五枚頼んである。昨日の午後、
「できたよ」
と、電話が入った。
――えーと、新幹線で小田原に行き、帰りは東海道線で川崎に戻ればいいんだわ――
今井武志の家は|向河原《むかいがわら》にある。南武線の沿線。めったに乗らない電車である。今日の午後はほとんどこれでいっぱい。
電車の中でジェフリー・アーチャーの新作を読み終えてしまった。
谷村吾郎は気むつかしい。底意地のわるいところがある。お世辞さえ言ってれば、いいんだけれど……。
――殺しちゃおうかしら――
三十分ほど話をして谷村邸を出た。
ハンドバッグの中に時刻表が入っている。川崎へは……普通電車。少し時間がある。本屋に寄ってヘンリー・スレッサーの短篇集を買った。
女が三人かけている席に腰をおろして読み始める。そして、ふと気がつく。
――四人とも全部女性ってのは、めずらしいわ――
さっきからしきりに窓の外の雨を見ている人。週刊誌を読んでいる人……。
「お一つ、いかがですか」
すぐ前にすわった中年の女性がきれいな|飴《あめ》を勧めてくれた。
本書は、平成二年四月に当社より刊行された単行本を文庫化したものです。
|空《くう》|想《そう》|列《れっ》|車《しゃ》(上)
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C)  Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『空想列車(上)』平成4年12月10日初版発行
平成7年 1月20日再版発行