角川文庫
消えた男
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
姉 弟
分布曲線
長夜短日
穴の中へ
消えた男
自殺ホテル
慶州奇談
鼻 毛
旅の終り
姉 弟
明けがた、姉さんの夢を見た。
姉さんは背中に赤ん坊を背負っている。赤い花柄の地に黒い襟。古い絵本の中から出て来たような|恰《かっ》|好《こう》だ。
立っているのはパン屋の店先らしい。ウィンドウ・ケースの上に大きなパンが一つ置いてある。焼きたての、とてもおいしそうなパン。
店員はいない。だれも見ていない。
「よいしょ」
姉さんはついと手を伸ばし、パンを取り、急いでねんねこの中へ押し込み、さっと逃げ出す。
バタ、バタ、バタ……。
「待てっ」
バタ、バタ、バタ……。
うしろからもう一つ、べつな足音が追いかけて来る。
姉さんは暗い路地に|駈《か》け込み、材木を覆ったシートの下に潜り込む。
――そんなところじゃ駄目だよ――
お|尻《しり》が見えている。ねんねこの色が赤い。すぐに見つかってしまう。
案の定、路地の入り口に黒い男の姿が映る。
――もう駄目だ――
見つかったら、どうされるかわからない。殺されるかもしれない。怖い。とても怖い。
そこで眼をさました。
五時二十分……。
昨夜、目ざまし時計を五時半にかけておいた。眠っているときでも|脳《のう》|味《み》|噌《そ》は時間の経過を計っているらしい。もうぼつぼつ起きる頃だと考えていたのだろう。夢は眼をさます直前に見るものだとか。
――|厭《いや》な夢だな――
恐怖がまだ心の片すみに残っている。
しかし、|逆《さか》|夢《ゆめ》ということもある。
この前もわるい夢を見たような、そんな記憶が残っている。でも結果は上々だった。
「よいしょ」
声をあげて起きあがった。
苦笑がこぼれる。
「よいしょ」と言うのは姉さんの癖である。夢の中でも|呟《つぶや》いていた。いつのまにか私にも移ってしまった。
姉さんはなかなかの美人だ。四十代のなかばだというのに、まだ充分に見られる。若い頃はずいぶんきれいな人だったろう。だから……一度、言ったことがある。
「よいしょはおかしいよ。年寄りじみて」
「でも、なおらないのよ」
姉さんとは、この十年あまり、ずっとべつべつに暮らしているのに、同じ癖が私に移ってしまうなんて……やっぱり血筋なのだろうか。
私は両親を知らない。
母親はともかく、父親はどういう人だったのか。名前さえ知らないのだから。
ものごころのついたときには姉さんに育てられていた。姉さんと私は十七も年がちがう。
「大変だったんだから」
姉さんに何度それを言われたかわからない。
赤ちゃん言葉はべつにして、私が最初に覚えた日本語は「大変だったんだから」だったかもしれない。本当に何度も何度も聞かされた。
まったくだ。さぞかし大変だったろう。
それはよくわかる。十七歳の娘が男の子を一人|委《ゆだ》ねられ、それを育てるなんて……むしろどうして無事に育てられたか、不思議なくらいである。
いろいろなところに預けられたらしい。
いろいろな人に育てられたらしい。
しかし、そんなときでも、いつも姉さんが気にかけていてくれた。それは本当だ。だから、なんとか私は無事に育つことができたのだろう。
忘れられないことが一つある。
幼い頃の私は盗癖があったらしい。心が|歪《ゆが》んでいたのだろう。さほどの悪気はなかったのだろうけれど、欲しいものがあると持って来てしまう。
姉が気づいた。
「なーに、これは」
「もらったの」
「|嘘《うそ》。もらうわけないでしょ。持って来たのね。ね、そうでしょ」
「…………」
「泥棒じゃない?」
大きな|鋏《はさみ》を持ち出し、ボロボロ涙を流しながら、
「この手がわるい。泥棒になるくらいなら、この指を切ってしまおうね」
指に刃を当て、今にも本当に切ってしまいそうな様子だった。
「ごめんなさい。もうしません」
私も泣いた。
心からこんなことをしてはいけないと思った。あのまま盗みを続けていたら、私はろくなものになっていなかっただろう。
感謝の気持ちを教えてくれたのも姉さんだった。
「人間は一人じゃ生きられないの。ありがとうを忘れちゃいけないわ」
「うん。わかった」
私は礼儀正しい人間のほうだろう。そして……とても義理がたい。恩返しを忘れない。
スポーツはあまり得意ではなかったけれど、勉強はけっしてできないほうではなかった。
中学校からはずっと横浜の全寮制の学校に籍を置いた。週末になると、仲間たちはたいてい両親の家へ帰って行く。私は月に一回くらい姉さんの家へ行った。姉さんに甘えた。
だが、姉さんには姉さんの生活がある。甘えてばかりはいられない、と、そのことが間もなくわかった。
友だちがいないのは仕方がない。みんなとは環境が少しちがっていた。それを隠して生きるとなると、あまり親しい友人は作れない。
「お前、暗かったからなあ」
あの頃の仲間にはよくそれを言われる。
「そうかなあ」
自分ではとくに自覚はなかったけれど、周囲にはそう見えただろう。少しぐれかけた。
「先公なんて信用できないぜ」
でも姉さんの悲しい顔を見て、私は立ち直った。
「自分がしっかりしなくちゃ。くじけちゃ駄目」
姉さんに泣かれると弱い。
姉さんは本当によくしてくれた。学校の月謝も寮の費用もみんな姉さんが払ってくれたのだから……。姉さんには頭があがらない。
高校へ入って……本当は医者になりたかった。人に尊敬されるし、お金も|儲《もう》かりそうだし……。でも無理。姉さんはどうして私の希望を知ったのだろうか。
「お医者さん? なりたいの?」
あのときも姉さんの眼はとても悲しそうだった。あの眼をされると、つらい。
「ちょっと思っただけだよ。でも、やめた。血がきらいだもんな」
と嘘をついた。血が怖いわけではなかった。
「そう……」
わかっている。とてもなれっこない。いくらお金がかかるかわからない。
「薬剤師でいいよ」
と言うと、
「それがいいわね。なんとかしてあげるから」
姉さんはうれしそうに笑った。
薬剤師になるのだって、やっぱりお金がかかる。でも姉さんは約束を破らない。このときも、入学金も月謝もみんな姉さんが面倒をみてくれた。
本当に姉さんにはどれだけ世話になったかわからない。
顔を洗い、背広を着て、下駄箱からゴム底の靴を取り出す。
「よいしょ」
わざと姉さんの口まねをしてみる。姉さんがそばにいたらクスクス笑いだすだろう。姉さんの笑い顔を見るのは楽しい。
身仕度を整えて玄関を出た。
外はまだ暗い。
九時半まで、あと三時間あまり……。会社は埼玉県の|戸《と》|田《だ》市にある。大塚は……|池袋《いけぶくろ》から一駅だから通り道と言っていいくらいだ。充分に間に合う。
私は薬品会社に勤めている。研究開発部に配属され、仕事はなかなかおもしろい。
「あなた平気なのね、動物を殺すの」
つい先日、千恵子に言われて驚いた。
千恵子は職場のガールフレンド。まさかわるい印象を与えたんじゃあるまいな。仕事がら実験動物を殺すことは多い。でも残虐なことはけっしてしない。動物たちはみんな眠るように死ぬ。
「仕事だもん。仕方ないだろ」
「ええ……」
まさか楽しそうに殺していたわけではあるまい。今週の土曜日には、千恵子とディズニーランドへ行く約束になっている。まだ私は行ったことがない。大人でも結構楽しめるところらしい。千恵子はとても明るい。土曜日はすばらしい日になるだろう。
――やるぞ――
勇気がわいて来る。
楽しいことを考えるのが好きだ。少々|厭《いや》なことがあっても、心に楽しいことを描けばそれでいい。得意技の一つ。幼いときからずっとそうやって暮らして来たのだから……。
池袋で山手線に乗り換え、大塚までは五分とかからない。駅前には大きな結婚式場が看板を掲げている。
――結婚か――
連想がすぐに千恵子に|繋《つな》がる。
――うまくいくかな――
可能性は半々。まだなんの告白もしていない。
「|俺《おれ》、両親の顔を知らないんだ」
「本当に?」
「ああ。でも……だからこそ愛情がどんなに大切なものか知っているよ」
「わかるわ」
千恵子は私のために泣いてくれた。千恵子は心がやさしい。同情から愛が始まったのかもしれない。
突然、いまわしい思いが、心をかすめる。
――大丈夫だろうか――
自分自身を励ますように強く首を振った。
――大丈夫。もうずいぶん昔のことだ――
事故死として処理されたにちがいない。
思い返してみれば、好運としか言いようがない。一歩まちがっていたら、ずいぶんひどいことになっていただろう。あんな危ない橋を渡ってはいけない。
忘れかけていた風景が、断片的に脳裏に映る。その男が夜遅くマンションの屋上に出て体操をするのは、日課のようなものだった。しかし、|柵《さく》の一部がうまいぐあいに腐食してこわれていたのは、まったくの偶然だった。
「ここ危ないですね」
と声をかけた。男は私のことを同じマンションの住人とでも思ったらしい。
「子どもも来るからね」
「棒でも|縛《しば》りつけておきますか」
「そうだね」
男が近づいて来て、柵の外を|覗《のぞ》いたとたん、力いっぱい背中を押した。
「あ、あーッ」
不意をつかれ、男は跳ねるように宙に飛び、そのまま|闇《やみ》の底に落ちて行った。
十八階……。
声が糸を引き、ズシン……。ずいぶん重いものが落ちたような地響きが下から返って来た。
非常階段を一気に|駈《か》け降りた。だれにも会わなかった。表通りに出てしまえば、もうただの通行人である。怪しまれるはずもない。
もよりの駅へ急いだ。遠くパトカーのサイレンを聞いた。
翌日の夕刊が、マンションの変死を小さく報じていた。はじめから事故死のような扱いだった。私が疑われるはずもない。運がよかった。
――あの男、なぜ殺されたのかな――
私は知らない。見当がつかないでもないけれど、深くは考えない。知らないほうが忘れやすい。そう、たしか、見ぬもの清し、と言うんだ。姉さんがよくそれを言っていた。
――まさか俺の親父じゃあるまいな――
その可能性も皆無ではあるまい。
薬科大学では中毒の薬理を専攻した。
主任教授は酔っぱらいの|好《こう》|々《こう》|爺《や》で、奥さんに先立たれ、一人暮らしをしていた。卒業まぎわに|一升壜《いっしょうびん》を持って訪ねて行ったら、すっかり喜んでしまい、
「おい、牛肉を買って来てくれ、すき焼きをやろう」
「はい」
「自炊をしてるのか」
「はい」
手料理には慣れている。よもやま話をしているうちに教授は酔ってしまい、
「人を殺しても、わからない薬があるんだぞ」
と、とてつもないことを話し始めた。
「本当ですか」
「本当だ。君、推理小説を読むかね?」
酔っぱらっているから話は長い。
しかし、なにかものすごいことを聞けそうな予感があったので、適当なあいづちを打ちながら私は聞いていた。
「ええ、たまには……」
「青酸カリとか|砒《ひ》|素《そ》とか、いろいろ毒薬を使って殺人事件が起こるけど、犯人はそんな薬をどうやって入手するのかね?」
「偶然持ってるんじゃないでしょうか」
「それ、それ。そこがおかしいんだ。病院の薬局にでも勤めていれば入手できるものもある。わしらなら実験室で作り出すこともできる。しかし、|素《しろ》|人《うと》は、手に入れることもむつかしい。まして作ることなんかできっこない」
「そうですね」
「だから、どうやってその薬を手に入れたか、そこが実際の捜査じゃ、ポイントになるはずなんだ。使った薬をどう入手したか、そこから足がつく。犯人がおのずと浮かびあがる」
「はい……」
「しかし、いくら死体解剖をやってもわからん薬があるんだよ」
「そんなの、あるんですか」
「あははは。厳密に言えば、予測がつかんから見つけられない。それだと思って調べればわかるだろうけどな」
「はあ?」
「つまり検死をする人だって一定の予測を持って検査をするわけだよ。青酸カリとか毒きのことか……普通の生活の中で中毒を起こすものは、まず限られているからな。しかし、普通じゃ存在しない毒物、専門家だけが作れるような毒物、これを使って殺されたら、まさかそんなもの使うまいと思っているから、|騙《だま》される。これはわからん。あははは、わしはできるよ。わしらは恐ろしいことを知っているわけだな」
「なんですか、たとえば」
「うん」
教授がその薬品について口を割るまでには少し時間がかかった。
「ないんじゃないんですか、そんなもの」
わざと話を打ち切ろうとすると、
「いや、ある、ある」
ヒントを与えてくれた。
こっちだって専門家のはしくれだからヒントを与えられれば見当がつく。
――ああ、そうか――
それからは自分で実験し……開発した。褐色の粉末。水によく溶けて、致死量は〇・三グラムくらいかな。
卒業後二年間勤務した研究室は、警察病院から委託を受けて変死体の薬理学的検査をおこなっていた。
――なるほどね――
あらたに知ったことも多い。人間の命なんて思いのほかたあいのないものだ。
ちょうどそんなときに、また頼まれてしまった。事情はよく聞かなかったが、大変なお金がからんでいるらしい。
「うーん。どうするかなあ」
薬を試してみたい気持ちも少しあった。
「あの男よ」
と指さす。
「うん」
その男とはなんの関係もないことだろうけれど、私が横浜の学校にいたとき、さんざん意地わるをされた先輩にちょっと似ている。
――あいつがそのまま大人になったんじゃあるまいか――
別人だとわかっても、極端に印象がわるい。
――あの先輩はひどかったからなあ――
寮では座興に裸踊りまでさせられた。あの屈辱は忘れられない。
男の生活を調べてもらった。
精力剤のようなものを毎日飲んでいるらしい。そのカプセルを一つ、依頼人に持って来てもらえば、簡単なことだ。
薬を入れ換える。
そしてカプセルを男の|薬壜《くすりびん》に戻す。それだけのことだ。
薬壜のカプセルが少なくなっているときのほうがいい。依頼人はアリバイを作っておいたほうが無難だろう。むつかしいことは少しもない。
男が、ある日、薬壜からカプセルを取り出して飲む。
朝、起きがけに飲むのが、男の習慣らしかった、周囲にはだれもいない。十数秒で心臓が止まる。多分……苦しむこともあるまい。
私が見たのは、新聞の短い記事だけだ。当然、死体の解剖はおこなわれただろう。検査の結果はどうだったのか。少なくとも私の耳には、なんの情報も入って来なかった。
いくばくかの謝礼……。
千恵子にプラチナのネックレスをプレゼントした。
「うれしい。いいの? こんなにすてきなものを」
「ううん、そんなに高いものじゃないよ」
千恵子は本当にうれしそうだった。贈り物がこれほど効果の大きいものとは知らなかった。しかし、考えてみれば、それが愛の深さを計る一つの物さしにはなるだろう。人はどうでもいい女のために高価な品物を贈ったりはしない。好きな女だから贈るんだ。それがわかって、うれしくない女はいないだろう。
二人の仲がまた深まった。
――よかった――
|厭《いや》なことは忘れればいい。
――あいつの顔がわるかったんだ――
わるい先輩に似ていたりして……。
大塚駅から徒歩で十分足らず。
ビルの上から太陽が顔を出す。陽ざしの暖かさがここちよい。
それだけ冬が近づいているから……。
ついこのあいだまでは、太陽の輝きがうとましかった。もう夏の陽ざしを思い出すのもむつかしい。人間は忘れることのできる生き物なのだ。夏から秋、秋から冬、季節は着実に変っていく。
――日本ほど季節の変化がはっきりした国はめずらしいのではあるまいか――
私はまだ外国へ行ったことがない。
行くとしたら、新婚旅行。千恵子と一緒ならいいのだが……。
今のマンションは二人で暮らすには少し狭い。結婚がきまったら新居を捜そう。
会社からそう遠くないところ。たとえば浦和市内なら、いくらか安めのマンションが入手できるだろう。しばらくは共働きをやって、子どもが生まれたら、千恵子には会社をやめてもらおう。子どもはやっぱり母親のもとで育ったほうがいい。母親の愛情をふんだんに受けて育つほうがいい。千恵子は家庭的なタイプだから、きっとそんなライフ・スタイルを選ぶにちがいない。
――子どもは二人くらい――
男と女が一人ずつ。犬か猫を飼って、白い車があって日曜日には家族でピクニックに出かける。一家|団《だん》|欒《らん》……。今朝の陽ざしみたいに明るい家庭が作れれば、それ以上はなにも望まない。
――もうやめたいな、こんなこと――
けっして楽しい仕事ではない。われながら信じられない。
――これが最後――
早く終ればいい。お金が手に入ったら、車を買おう。
はや足で歩いた。
下調べはできている。今度は女。マンションに一人で暮らしている。七時過ぎに牛乳がドアの前に配達される。
ドアの中から腕が伸び、女がそれを飲むのは八時頃。一人暮らしだから、ほかの人がそれを飲むことは、まあ、ない。
その牛乳の中へ薬を注入しておけばそれでよい。
エレベーターは使わない。一つ箱の中に乗っていると顔を覚えられたりする。階段を昇った。ゴム底の靴は足音を消すのによい。
牛乳はすでに置かれてあった。
コートの内側から注射器を取り出す。手には手袋。作業は少しもむつかしくない。牛乳の容器をもとの位置に戻す。
階段を急いで降りた。
――ついている――
だれにも会わなかった。
まだ通行人の数はまばらである。ゆっくりと歩いた。
――殺し屋なんて商売、本当にあるのかなあ――
テレビを見ていると、昨今は、そんな番組がたくさん放映されているけれど、かなり疑わしい。
――電話帳で捜す職業じゃないしなあ――
需要と供給を結びつけるのが極度にむつかしい。そこが問題だ。
しかし、東南アジアあたりでは、そんな事件も起きている。マフィアの世界なら、ありえないことでもないらしい。
社会が二重構造になっていて、表の社会と裏の社会と、それが共存しているような状況でないと、殺し屋なんてありえない。
――あるいは国家権力――
国そのものがなにかの謀略で暗殺を考えれば、それは充分に可能となる。
――いずれにせよ日本ではむつかしいな――
せいぜいほんのドメスチックな範囲でしかありえない。
池袋で電車を降りてカフェテリアで朝食を取った。時計を見た。
――女が牛乳を飲む頃――
即効性の薬品である。ほとんど苦しむこともあるまい。どの道、人は死ななければいけない。少し早いか、遅いか、そのくらいのちがいでしかない。殺されるほど恨まれるのは、やっぱりそれだけ当人がわるいことをしているからだろう。
サンドウィッチを食べ、新聞を読み、いつもの時間にあわせて会社へ出勤した。
「おはようございます」
「おはよう」
サラリーマンの朝は同じ風景である。今日は月例の会議がある日だ。
「第二会議室に集ってくださーい」
千恵子とは廊下で顔を合わせた。
「元気?」
「ええ」
めくばせを交わす。心は、
――今度の土曜日、ディズニーランドだぜ――
である。千恵子も|頷《うなず》く。
会議が昼休みの過ぎる頃まで続き、昼食をすますと、次から次へと来客があった。残業をすることに決め、
――そう言えば――
夕刊を見たのは午後六時過ぎだった。
大塚の女は、やっぱり死んでいた。宝石商で、金融業者で……そのあたりにトラブルの原因があったのだろう。依頼人が死体の発見者となり牛乳壜をすりかえる手はずになっているから、薬の付着した壜は残らない。検出のむつかしい毒薬……。なんの心配もあるまい。女は心臓に病気を持っていたらしい。その発作と思われたのではあるまいか。
夜更けに電話がかかって来た。事務的な口調で告げている。
「牛乳壜はすりかえました。ありがとう。またよろしく」
「もう|厭《いや》だな」
「そんなこと言わないでくださいな」
電話を切った。
事件はきっと迷宮入りになるだろう。
三か月たった。
千恵子とは、ますます|睦《むつ》まじい。
「あなたが好きだ」
「はい」
「結婚してほしい」
「ええ……」
「本当に?」
「一応、両親に話さないと」
「もちろんだ」
「私もあなたが好き……」
「俺は親を知らないから……」
「よい家庭を作りましょう」
輝かしい日はもう目の前に迫っている。
日曜日の午後、電話のベルが鳴り、
「今日は。なにしていらっしゃるの?」
千恵子からだ。
「ぶらぶら……なにもせず」
「いいお天気ね」
「うん」
「デート、無理?」
「お母さんと買物に行くとか言ってたじゃないか」
「急に変更になっちゃって」
「会いたいけど……来客があるんだ」
「あら、本当。残念ね」
先約がいまいましい。ろくな用件ではないのに……。
「いや、長くはかからない。一時間くらいで終るから」
「そう。じゃあ、それから?」
「うん。そうしよう」
|渋《しぶ》|谷《や》の喫茶店で会うことにした。
電話を切るのと玄関のブザーが鳴るのと、ほとんど一緒だった。
「今日は」
来客は沈んだ声で部屋の中を|覗《のぞ》き、そのまま靴を脱ぐ。
「久しぶり」
「だれかと約束?」
|顎《あご》で電話を指す。
「うん。なんだろう、急に?」
「お願いがあって来たの」
「なに?」
「わかるでしょ」
|上《うわ》|目《め》|遣《づか》いで私の顔を覗き込む。わからないでもない。いや、最初からわかっていた……。
「やりたくないんだ」
「そんなこと言わないでよ。お願い……」
と手を合わせる。
恨みがましい眼ざしで見る。
私が答えずにいると泣き顔に変る。
「どうしてそんなに……」
「話せば長いことよ。聞いてくれる?」
「聞きたくもない。もうたくさんだ」
「あなたを育てるのがどんなに大変だったか」
いつもの|台詞《せ り ふ》だ。
それを言われると弱い。
「俺のほうだって大変なんだ」
「それはわかってるわ。でも、私の苦労に比べれば」
「第一、どうしてそんなに?」
一人なら、まだ許せる。だれだって殺したい人間の一人くらいいるだろう。二人めも、大変なお金がからんでいたのだから仕方ない。あのときを境に姉さんの生活がいっぺんに楽になった。金持ちになった。でも、三人も殺したい人がいて、それでもまだ足りなくて、もう一人だなんて……。
「お願い。これが最後。とてもわるい男なのよ」
「厭だよ、姉さん」
私だって、まともな人生を歩みたい。どう考えても、これはまともな相談ではない。もうすぐ千恵子と結婚するんだし……。
姉さんが涙を拭いた。
少し笑った。
化粧が崩れると、やはり年相応の顔になる。
「私の願いがきけないの?」
「姉さん」
「姉さんだなんて、本当は、私、あなたの……」
私は手を出して次の言葉をさえぎった。
――それは、言わないつもりだったんだろ――
私だって二十歳を過ぎるまで姉さんだとばかり思っていた。だから感謝もした。恩返しもできた。なのに今さらそれを言おうとするなんて……。
「わかったよ」
あともう一回……。これが本当の最後……。
でも相手は“わるい男”のほうじゃないかもしれない。
分布曲線
窓の外の風景が、プレファブ住宅の家並みから|馬《ば》|鈴《れい》|薯《しょ》の畑に変った。
「ここ、人口はどのくらいかね?」
浅井はシートの上に投げ出しておいたカメラをたぐりながら尋ねた。
「三万とちょっとでしょう」
帽子をまぶかにかぶった運転手が答える。
「増えてるの? 減ってるの?」
「変んないのとちがいますか」
多分そうだろう。駅前通りの様子はともかく、郊外に入ると五年前とほとんどなにも変っていない。
県道を右に折れたところで、
「ここでいい。ちょっと待ってて。十分くらい」
肩にカメラをかけて車の外に出た。
まっすぐに伸びた道のむこうに低い丘陵地が見える。一つだけ他と離れた山があって、シンメトリックな曲線を描いて立っている。たしか離れ山。その山の上で太陽が赤く溶けていた。
浅井はカメラを構えて遠景を写した。
なにか目的があって写したわけではない。ただの癖。ただの習慣。家に帰って五年前の写真と照らし合わせてみれば、付近の変化がはっきりとわかるだろう。
週刊誌の取材記者を務めて八年になる。今日は別件の調査でこの町に来て、少し時間が余ったので、昔の現場を|覗《のぞ》いて見る気になった。
暑い。
|陽《かげ》|炎《ろう》が揺れている。
小川の水が|澱《よど》んでいる。
百メートルほど歩いて、情況の大きなちがいに気がついた。
――へちま棚があったはずだが――
浅井の記憶では……たしかこの先に木陰を作るほどの|喬木《きょうぼく》が四、五本群がり、その下に|納《な》|屋《や》のような古い小屋があり、そこに高いへちま棚が伸びていた。
四、五本の木は残っているが、納屋は取り壊され、へちま棚もない。事件のあとすぐに片づけられ、もう新しい棚を作るわけにもいくまい。
――そうだろうなあ――
浅井はここでもシャッターを押した。
砂ぼこりをあげて単車が二台走り去って行く。むしろトロンとした|田舎《い な か》の風景である。
この視界の中に|凄《せい》|絶《ぜつ》な情景が宿っていたとは、今は想像するのもむつかしい。
――結局、あれはどうなったんだ――
地元の警察は捜査を放棄したわけではあるまいが、今となってはもう迷宮入り、犯人の見つかる公算はとぼしい。浅井のほうも、しばらくは捜査の展開に関心を払っていたが、いつのまにか忘れてしまった。ついでがなければ、現場に立つのはもちろんのこと、思い出すこともなかっただろう。
子どもが二人、浅井の顔を不思議そうに見つめながら通り過ぎて行く。このあたりに怪談の一つくらい誕生したのかもしれない。
「さーて、帰るか」
一つ背伸びをしてタクシーの待っている方角へ戻った。
事件は|凄《せい》|惨《さん》を極めた。
走行中の乗用車が、へちま棚の前で爆発した。車の床下に時限爆弾が仕かけてあった。
車を運転していたのは女だった。
衝撃で宙に飛ばされ、その瞬間に、多分フロントガラスの断面にでも体が強く触れたのだろう。首筋から肩口にかけてザックリと|斬《き》り裂かれ、髪を振り乱したままへちま棚の上に懸った。ポッカリと眼を開け、血が流れるほどに|滴《したた》り落ちていたとか……。
浅井はその現場を見たわけではない。
「あんまりすごすぎて本当のこととは思えんかったなあ」
と、これはいち早く現場に|駈《か》けつけた警官の証言である。むしろ納涼大会のだしものに立つ不気味な人形のような印象だったらしい。
浅井も写真は見た。
人形じゃない……と、それはひとめでわかる。なんという表情だろう。生きてはいないが、生きた人の顔に近い。怒っているような、叫んでいるような……だが、視線はうつろである。真実震えが走った。|血腥《ちなまぐさ》い|匂《にお》いまで漂って来るように感じた。仕事がらいろんな死体を見たけれど、これほどすさまじいのはめずらしい。当人にとっては一瞬の出来事だったろうけれど、
――こんな死にかたはしたくないな――
そう思ったのは本当だった。
しかし、事件が広く世間の話題となったのは、死にざまのひどさのせいではなかった。いや、正確に言えば、それも一つの理由だが、それ以上に、死んだ女が普通の人ではなかった。
「えっ、あの女なのか」
警察も報道機関もいっせいに色めき立った。
女の名は尾山京子。二十八歳。少し前まで東京の花街で|芸《げい》|妓《ぎ》をやっていた。芸妓といっても正式に修業を積んだ芸妓ではなく、臨時に雇われた接客婦である。芸妓と呼ぶことさえ正しくはあるまい。ただ、どこの花街でも人手が足りない。とりわけ若い女が少ない。お客のほうも芸の深さを賞味する人などめったにいない。ちょっと小ぎれいな|素《しろ》|人《うと》女性に着物を着せ、「今晩は」とばかりに座敷にすわらせる。つまりアルバイト。尾山京子もそんな女の一人であり、花街にいたのは、せいぜい二、三か月くらいの期間だったろう。あまり評判のいい女ではなかったらしい。借金の踏み倒しなどをして……。
そこまでは世間にざらにある話だが、彼女が|罷《や》めてから二年ほどたって政界の汚職事件が表面化し、芋づる式に関係者が摘発された。選挙で惨敗した与党は、|捲土重来《けんどじゅうらい》を期して新しい党首を指命して清潔な内閣を国民に訴えようとしたが、その有力なメンバーである大蔵大臣について、
「私は大臣の情婦でした」
と、週刊誌に名のり出たのが、この尾山京子だった。
浅井ももちろんその記事に眼を通した。誌面には金銭の授受から|閨《けい》|房《ぼう》の仕ぐさまで克明に、露骨に記されている。はっきりと悪意の|籠《こも》った告発である。読んでここちよい内容ではなかったが、
――|嘘《うそ》じゃないな――
と思わせるだけの現実感は多分にある。
下半身の話題は俗耳にも伝わりやすい。大臣の、政治家としての手腕はともかく、
――いやらしい男なんだわ――
と|噂《うわさ》はたちまち野を駈ける火のように広がって糾弾の声が|捲《ま》き起こる。とりわけ女性の反応が手厳しい。清潔な内閣のイメージ・ダウンは避けられない。
蔵相は就任して三日後にみずから辞表を提出して職を降りた。尾山京子との関係については「個人的なことなので」と、多くを語らなかった。
記者たちの取材がかまびすしくなる。大新聞から女性雑誌まで、このテーマに関心を抱く層は広い。もちろんテレビの取材も加わる。
一昔前なら、政治家のこの種の醜聞は、ほとんど話題にもならなかっただろう。ことのよしあしは別問題として、社会習慣として特別にめずらしいことではなかった。その意味では、いかにもタイミングがわるかった。不運と言えば不運だった。
あふれるほどの情報の中から出来事の経緯を拾って略記すれば、その政治家は料亭の廊下で京子を|見《み》|初《そ》め、座敷に呼び、間もなく金銭を与えることを条件にして男女の関係を持つようになった。その金額がこんな場合の常識と比べて、
「安すぎるわよ」
「けちな男なのよ、やっぱり」
「顔がそうだわよ」
などなど非難の対象となったけれど。
――はたしていくらくらいが適当な額なのか――
このテーマはむずかしい。
そもそも金銭を支払うこと自体がけしからんという意見もあるだろうし、女がそれで承知したのなら、
「つまり契約じゃない」
そんな考えも充分に成り立つ。
「なんだかんだ言っても、お金を出す男はまだいいほうよ。だって、ほかに誠意の示しようがないじゃない」
という現実的な意見もあるだろう。百人寄れば、百の主張がありそうだ。尾山京子は政治家の人格をあしざまにののしり、
「あんな人に政治はまかせられないと思ったのです」
と、みずからの正義を主張したが、このあたりの判断は|正《せい》|鵠《こく》を射たものかどうか……。
「女もひどいよ。いったんは承知してやったことだろ」
と、当然のことながら|眉《まゆ》をしかめる人も多かった。
それに、取材が進むにつれ、女の過去があばかれ、あまりほめられたものではないとわかった。詐欺まがいの事件で警察の厄介にもなっている。
「わるい女に引っかかったんだよ」
という言葉にも、そこそこの妥当性が感じられる。京子の正義はふりあげた|拳《こぶし》ほどには信じられなかった。
だが、なにはともあれ大臣は権力の座にあり、京子はたしかに弱い立場に置かれた女だ。対等の条件でよしあしを言う情況ではない。清潔さを|標榜《ひょうぼう》する内閣の有力なメンバーであればこそ、問われねばならない責任があるだろう。蔵相の座を退いたのも、合唱のような糾弾を受けたのも、身の不徳、仕方ないことだった。
二人の関係はそう長いものではなかったらしい。半年足らず続いて、政治家の都合で一方的にうち切られたが、そのことについても、
「愛情のひとかけらも感じられませんでした」
と京子は訴えていた。
ニュースには寿命がある。どんな大事件でも上り坂があり峠があり、下り坂にかかれば、すぐにニュースとしての価値を失う。忘れ去られてしまう。
あのとき……と言うのは尾山京子が殺されたときのことだが、蔵相の醜聞も、
――もう峠を越えた――
と、浅井は感じていた。
微妙な段階ではあったけれど、記者たちはみんなそう考えていただろう。問われればそう答えただろう。
記者という職業はニュースの価値について敏感でなければ生きていけない。いつもそれを考えている。蔵相が辞任し、女が主張する正義にも少々|胡《う》|散《さん》くさいところがあるとなると、もうこの事件は一件落着となる。先が見えている。新しい展開はあるまい。
女は事件のすぐあと、取材陣の殺到を懸念して身を隠したが、記者たちは間もなく居所をつきとめた。
東北の小さな市。知人の経営する旅館。その別館の奥……。
「車が好きなんだ。自分で運転して走っているよ」
関係者のほとんどが、京子の居所を知っていたし、それを知ったときには、もうわざわざ出向いて取材する価値はとぼしくなっていた。
そんなときに、まるで消えかけていた火に油を注ぎたすようにもう一つの事件が起きたわけである。
「えっ、なんで?」
という声を聞いた。それとはべつに、
「やっぱり……」
という表情もいくつか見た。
どんなテーマでも、そのことを熟知している人と、ほとんど知らない人とがいる。プロとアマとがいる。この手の事件に関しては刑事や記者がプロフェッショナルである。個人差はあるだろうけれど、似たような事件を一つや二つ踏んでいるし、勘が働く。そのあたりが普通の人と少しちがう。
訳ありの女が時限爆弾でふっ飛ばされた。
「やっぱり……」という反応は、
――あんなことして、危いと思っていたのよ。政治家って口封じのためなら、なんでもやるんじゃないの――
という判断があるからだろう。
だが……なんだかおかしい。少しちがう。ちがうような気がする。うまく説明はできないけれど、これが事件に通じている人たちの直感だった。
たしかに政治家は、怖い連中と|繋《つなが》っている。みんながみんなとは言わないが、薄暗い影を感じさせる人は多い。本人は関係がなくても、郎党の中に、一人や二人あやしげな|奴《やつ》がいる。いざとなれば相当にあこぎなことをやる可能性は……なくもない。まったくの話、大蔵大臣のポストがかかっているとなれば……いや、現実には政治家としての生命がかかっているほどの醜聞なんだから、だれか一人の命くらい、らくにふっ飛んでしまうかもしれない。ただし、|闇《やみ》から闇へ、|痕《こん》|跡《せき》を残さないことが大切だ。
浅井たちが、
「えっ、なんで?」
と声をあげたのも、そのあたりの事情を考えたうえでの反応だった。
――時期がわるい――
京子はもう言うだけのことを言ってしまった。今さら口を|塞《ふさ》いでみても、たいして意味がない。
それに、醜聞は少しずつ忘れられようとしていた。ニュースから消え、話題にものぼらず、やがて過去のものとなってしまう。政治家の立場に立てば、そっとしておくのが一番の良策なのである。蒸し返すことはない。微妙な段階ではあったけれど、事件のプロたちはみんなそう感じていた。
しかし、そんな|思《おも》|惑《わく》とは関係なく、とにかくすさまじい事件が起きてしまった。
「ちょっと|覗《のぞ》いて来てくれ」
週刊誌のデスクに頼まれ、浅井は現場に急行した。
上野から急行で三時間あまり……。
惨事の現場はすでに片づけられていた。へちまが四、五本、風に揺れていた。血の|匂《にお》いを感じたのは気のせいだったろう。
雑誌記者は、この手の取材にあまり強くはない。と言うより便宜が与えられていない。記者クラブにも入れないし、担当の刑事に会うことさえむつかしい。また聞きのような情報を頼りに記事内容を固めることが多かった。
浅井はたまたま所轄の警察に顔見知りの警官がいて、現場の写真も何枚か見せてもらった。
「すごいねぇ」
「ひどかった。うなされた奴もいる」
|鰻屋《うなぎや》の奥でうな重を|頬《ほお》|張《ば》りながら話を聞いた。
「で、政治家のほうは、どうなの?」
「関係ないな」
「本当に? あとで驚かしっこ、なしにしてよ」
「ないね」
ぶっきらぼうに言う。
警察がこう答えることは、あらかじめ予測がついていた。政界の大物がからんでいる。政府、与党にとって大きなダメージだ。捜査当局には、しかるべき圧力がかけられているだろう。よほどの根拠がなければ|迂《う》|闊《かつ》なことは言えまい。
「じゃあ、だれが?」
「いろいろ恨みをかってる女だからな」
「本気でそう思ってるわけ?」
「わしはわからんよ。担当じゃないんだから」
「どこ突ついても、なんにもあがって来ないっていう話じゃない。犯人らしい筋が……」
「いろいろへんなこと、やってる女だけど、殺されるほどのことはないな」
「でしょう。そっぽうだよ、そっちの方角は」
「かもしれん」
「だから、だれ? もう少し教えてよ。ヒントでいいから」
「正直なとこ、わからんよ。簡単にわかれば世話がない」
古手の警官ともなると、とぼけるのもうまい。表情ひとつ変えずに|嘘《うそ》をつく。
しかし、事前の取材でも、捜査の見通しはなにもついていないふうだった。とぼけているのではなく本当になにもわかっていないらしい。
――うな重をただで食われちまったかなあ――
浅井は話題を変えた。
「時限爆弾のほうから、なにかわからないの? 全部ふっ飛んだわけじゃないでしょうが。火薬はなにか、どこから入手したか、時計の出どころ、調べがつかないわけ?」
「そりゃ調べてるサ」
「過激派とか」
「ちがうな」
「どうして?」
「接点がない。やつらなら声明を出すしな」
「うん」
たしかに尾山京子の告白は、過激派を刺激するような性質のものではなかった。
「時限爆弾ってのは、むつかしいんだよ」
「へぇー?」
「|素《しろ》|人《うと》が使うものじゃないんだ。過激派くずれとか、やくざとか……まだなんもわからんけど、とにかく慣れてるやつがやることなんだ。何か月も前から用意しておいて、足のつかない部品を使う。そういうものなんだな」
「しかし、大臣のスキャンダルが起きたのは、京子が殺される一か月前……いや、三週間もたっていない」
「部品はもっと前からそろえてあったサ。たまたま使ったんだ」
「じゃあ、日ごろから、そういうものを用意しているやつなんだ」
「多分ね。しかし、それだけじゃ、たいして捜査の役に立たん」
「なるほどね」
「これはむつかしそうだよ。いや、どうもご|馳《ち》|走《そう》さん」
事故現場の写真を見せてもらっただけでもめっけものだったろう。収穫はとぼしかった。
警官の言う通り捜査は難航した。
はでな事件のわりには、きめ手となるものがなにひとつとして見えて来ない。尾山京子の過去だけがしきりに取り|沙《ざ》|汰《た》された。
浅井は、現場で|掴《つか》んだ情報を下敷にして、事件のおさらいのような記事を書いて締切りに間にあわせた。
一か月が過ぎ、二か月がたち、三か月が流れてもはかばかしい進展はなかった。地元の新聞が、一度だけ捜査の情況をくわしく伝えていたが、やはり捜査は八方ふさがりのていだった。捜査本部も解散され、事件は少しずつ過去の中へ沈んでいく。
浅井は、待たせておいたタクシーへ戻った。
「どうも」
と乗り込むと、
「なんですか」
と運転手が尋ねる。
「爆破事件があったところよ」
「ああ、あそこなんですか」
「知らなかったの?」
「はあ。まだこっちへ来て間もないから」
もう地元でもあまり話題にならなくなっているのだろう。
「ホテルへ帰って」
「はい」
裏道を走り抜ける。
駅裏のビジネス・ホテル。フロントで東京からのファックスを受け取り、部屋に入って四、五本電話をかけた。
シャワーを浴び、時計を見て、
――少し早いかな――
テレビのニュースが終るのを待って部屋を出た。
ホテルから駅を背にして四、五十メートルほど歩いた。
――あった、あった――
五年前に立ち寄った酒場が、今日も同じ位置に同じ看板を掲げてドアを立てている、その名も“再会”。ホテルや旅館の多い一角だから、浅井と同じように何年ぶりかで訪ねて来て再会する客が多いのかもしれない。
ドアを押した。
「いらっしゃいませ」
乾いた声が返って来る。
細長い店。L字型のカウンター。やはり時間が早いらしく、ほかに客はいない。
「なんにしますか」
「とりあえずビール」
「暑くなったわね」
ママが|呟《つぶや》きながら栓を抜きビールを|注《つ》ぐ。
――こんな顔の人だったな――
忘れていたけれど、見れば思い出す。若い頃は美人だったろう。ちょっと勝ち気な顔立ちで、男で苦労するタイプかもしれない。
「どうぞ」
殻をかぶったままのピーナツを小さな|籠《かご》に入れて出す。このおつまみも五年前と変らない。
「はじめてじゃないですよね」
ママもなにかしら記憶があるらしい。それとも、はっきりしない客にはいつもこんな聞きかたをするのだろうか。
「うん。五年前」
「そんなに昔? ぜんぜん変ってないでしょ」
「ああ」
「ちがうか。私がおばあさんになってしまったわね」
「そうでもない。前におもしろい話をしてくれた。あのときも客が少なくて……。この席だったかな、やっぱり」
「うち、いつもすいてるから。私が? どんな話?」
「分布曲線の話」
カウンターの上にピーナツを七、八粒、並べながら答えた。
「そう」
と|頷《うなず》いてから、
「思い出せない。あの話、ときどきするから」
と首を振る。酒場で客の相手をしていれば、よく話す話というのがあるにちがいない。身の上話、ペットの話、旅行の話……。だが“再会”のママの話は少し変っていた。奇妙なほど強く浅井の心に残っている。今日もう一度訪ねてきたのも、多分そのせいだろう。旅先では、いつもと言ってよいほど酒場を訪ねるけれど、ふらりと入った店の様子が鮮明に記憶に残っているケースはめずらしい。
あのときはもっと遅い時間だった。十二時を過ぎて……閉店に近かったろう。ほかに客がいたかどうか、とにかくママとさし向かいで話しているのが不自然でないような、そんな店の雰囲気だった。
「お仕事で?」
「うん。爆破事件を調べに」
「ああ。記者のかた?」
「まあね」
「ひどかったらしいわね」
「見られたものじゃない」
「殺し屋かしら」
「フフフ、テレビの見すぎじゃないのか。そんな商売、本当にあると思ってたのか」
「そりゃ電話帳には載ってないでしょうけど、政治って結構汚いから」
「汚いけど、殺しまではどうかな。|下《へ》|手《た》をすると自分のほうが命取りになる」
「でも子分がいるんでしょ。血の気の多い子分が親分のかたきをとるつもりで……」
「それもテレビの時代劇みたいだな」
「そう。昼間はテレビばっかし見てるから」
「しかし、そのケースが……子分の暴走が一番ありうることかもしれん」
「でしょう」
事件の話はそう長くは続かなかった。
そのうちにママがピーナツをカウンターの上に並べ始めて、
「分布曲線て、知ってますか」
と不思議なことを尋ねる。
なにを言われたのかわからなかった。
「なんだろ」
「分布曲線」
|呟《つぶや》きながら、指先を水で|濡《ぬ》らしてカウンターの上に漢字を描いた。
「うん」
|曖《あい》|昧《まい》に|頷《うなず》いた。わかるような、わからないような……酒場でよく聞く話ではなさそうだ。
「中学校で習ったの。自然はかならず分布曲線に従うって。とってもハンサムな先生」
ハンサムな面ざしに引かれて少女は熱心に授業を聞いていたにちがいない。
「へえー」
「ピーナツにも大きいのと小さいのとがあるでしょ。特別大きいの、少し大きいの、普通、少し小さいの、特別小さいの、五段階くらいに分けると、普通が一番多くて、その両わきに少し大きいのと少し小さいのとが同じくらいあって、そのもっと外側にほんの少しだけ特別大きいのと特別小さいのとがあるわ」
と、口上通りにピーナツを仕分ける。
「そのことか」
「分布の様子をグラフに描くと、いつもきまった曲線になるんですって。こんなふうに」
と、今度はなだらかに盛りあがった山のような曲線を描いた。
「わかる、わかる。五段階なら1、4、10、4、1くらいの割合かな」
「そう。農園でとれる|蜜《み》|柑《かん》もそうだし、お酒の強い人弱い人、頭のいい人わるい人、女ぐせのいい人わるい人、みんなそんな感じでしょ。普通が一番多いけど、どっちの方向にも少し普通じゃない人がいて、そのもっと外側に完全におかしいのが一人二人いて……」
「女ぐせもそうかね」
「そうよ。たいがいの男は普通のすけべ。ちょっと度のすぎるのが何人かいて、たまにどうしようもないどすけべがいるの」
「まじめなのもいるわけだ」
「そう。異常なほどまじめってのも困るわね」
「例の大蔵大臣はどうかな」
どうしてもそのことが話題になってしまう。
「普通じゃないかしら。ちょっとわるいほうかな」
「うん」
「しかし、女のほうは思いきったこと、やったわね」
「尾山京子?」
「ええ」
「特別にわるいほうかな、あれは」
「どうかしら。よほどくやしかったのね。お金のある人ない人、運のいい人わるい人、みんなそうね。そう思って見ていると、おもしろいの。たいていは普通だから、普通だろうと思って相手をしていると、たまに少しちがうのがいるのね」
「なるほど」
それだけの話だったが、ママの口調にはひどく説得力があった。あれ以来、浅井もいろんなものを見るたびに、心の中に分布曲線を描いてしまう。
たとえば美人について。おおむね普通である。ちょっといいのがいる、ちょっとわるいのがいる、とてつもなくきれいなのがいる、どうしようもないほどひどい女性もたまにいて、これはやっぱり気の毒だ。実際には五段階よりもデリケートな変化があるだろう。しかし、いずれにせよ、普通が圧倒的に多い。例外に気を取られすぎてはいけない。しかし、例外のあることを忘れてはいけない。なんでもそうだ。
――人生は分布曲線――
そんな判断が身についてしまった。
「ああ、わかった」
と、ママがカウンターの中で笑う。
「なに?」
「前にいらしたとき……」
「五年前だ」
「そんなになるかしら。雑誌の記者をやってらして」
「今でもそうだよ」
「爆破事件のときでしょ」
「ピン・ポーン、正解。よく覚えてたね」
「この町に記者が来るなんて、あのときくらいでしょ。そこにすわって、知らないこと、いろいろ話してくれたじゃない」
「そうだったかな」
「そうよ。結構酒場じゃいい話題になっていたから」
「だろうな。ママもなにか飲んだらいい」
飲みものは水割りに変っていた。
「じゃあ、私も水割り」
|呟《つぶや》いて小さなグラスを置く。
一口飲んでから、
「結局どうなったのかしら、あの事件」
「|迷宮《お み や》入りだろ」
「やっぱり政治家かしら」
「ちがうね。あそこで殺して、なんの得にもならない。そっとしておいて早く忘れてもらったほうがいい。尾山京子が週刊誌に|駈《か》け込む前なら、殺人もありうるだろうけど、あれだけ騒がれたあとじゃ、意味がない。疑われるのは眼に見えてるし、多少なりとも関係があって警察の追究を受けたりしたら、もう浮かばれない。政治家としての生命が完全に断たれてしまう。連中はそんなこと、やらないよ」
「子分の中に暴走する人がいたりして」
「それが唯一の可能性だろうけど、どっかちがうなあ。ぴんと来ない」
「じゃあ、|怨《えん》|恨《こん》?」
「結局はそうなんだろうな。彼女に対する個人的な怨恨。あとはまちがわれたか」
「そんなこと、あるの?」
「あるだろう。べつな人を殺そうとして。これは捜査がむつかしい」
「それにしてもひどい死にかただったわね。意識がないんだから、どうでもいいようなものだけど、ああいう死にかたは|厭《いや》ね」
「まったくだ。へちま棚からダンラリ……」
と身ぶりをそえる。
「やめてくださいよ」
「あははは」
ママは水割りを飲み干し、グラスについた口紅を指先で|拭《ぬぐ》ってから、
「でも、気持ちはわかるわ」
「だれの?」
「女の人の」
「そうかね」
「うふふ。私ね、同じようなこと考えていたの。昔、ひどいめにあったこと、あるのよ」
「ほう?」
「わるい男にいいように遊ばれちゃって。そいつ、調子いいんだから」
「うん?」
「尾山京子の相手ほど大物じゃないけど、このへんじゃ結構有名な人よ。とんとん拍子に出世しちゃって……。一度、私、困ったことがあって相談に行ったけど、相手にもしてくれなかったわ。ずっと恨んでたの」
「怖いね」
「そう。そこへあんな記事が出たでしょ。私も新聞社にでも駈け込もうかしらって、そう思ったわよ」
「ますます怖い。そういうタイプには見えないけどな」
「女は怖いわよ。なにやりだすかわからないから」
「まあね」
「そしたら、次に、ふっ飛ばされちゃって……。あの死にかたじゃねぇー。ああ、やめた、やめた、まあ、いいかって心境に変っちゃった」
「ふーん。本当に?」
「ええ。男にひどいめにあわされた女なんて日本中にいーっぱいいるわよ。そんな男がいい顔していると、ほんとに、ひどいめにあわせてやりたくなるわね」
と唇をゆがめる。
表情に実感が|籠《こも》っている。思いのほか正直な人なのかもしれない。正直だからこそ手ひどく裏切られたりするのかもしれない。
「わかるよ。実は……」
と浅井が言いかけたとき、店のドアが威勢よく開いて、七、八人のグループがなだれ込んで来た。
「いらっしゃーい」
「よおっ、元気かね、ばあさん」
たちまち店の中の雰囲気が変った。|椅《い》|子《す》の数が足りない。
「お勘定して」
と浅井が席を立った。
「あら、わるいわ。詰めれば、なんとか」
「いや、いい。どの道、食事もしたいし、ホテルに電話もかかって来る」
今夜は九時過ぎに電話が入る約束になっている。腹ごしらえもしておきたい。
「ごめんなさい」
「すみませんなあ」
新しい客たちも頭をさげる。
「いや、いいんです」
釣り銭を受け取って外に出た。
――そうかもしれない――
ホテルとは反対の方向へ歩きながら浅井は独り|頷《うなず》いた。
前から考えていたことである。
|脛《すね》に|疵《きず》を持つ男は世間にいっぱいいる。浅井の想像よりはるかに多いだろう。
尾山京子が週刊誌に|喋《しゃべ》って、そのことが全国津々浦々で話題になっていた頃、
――弱ったな――
われとわが身を案じた男はたくさんいたにちがいない。政治家だけではなく、大勢の偉い人たちが……。女のほうにも、恨みを捨てきれないのや、執念深いのや、|性《しょう》のわるいのや、銭のほしいのや、いろいろいるだろう。
「ねえ、なんとかしてよ。私、洗いざらい喋るわよ」
男に向かって脅迫まがいの|台詞《せ り ふ》を吐くケースもきっとあっただろう。
あの頃、日本全国の暗い夜の底で、そんな会話がいくつも交わされたにちがいない。眼に見えるようだ。冗談に近いものから、ちょっとお小遣いをせびる程度の脅かし……。だが、もっと深刻な、もっとえげつない、男にしてみれば文字通り|崖《がけ》っぷちにたたされたような情況もいくつかあっただろう。
そんな男が時限爆弾の製造に通じていて、尾山京子殺しを企てる。彼自身は京子となんの関係もなく、なんの恨みもないのに……。
――いい気になってると、ろくなことがないぞ――
つまり、自分の女に対する見せしめである。
――お前もああなるぞ――
細かいところはちがっていても、そんな|狙《ねら》いが爆破事件の背後にあったのではなかろうか。
現に“再会”のママがそう言っていた。
いったんは新聞社へ駈け込むことを考えたが、爆破事件を見て思い止まった。けっしてありえないことではない……。こういう事情なら、現場に確かな証拠を残さない限り、動機や人間関係から捜査しても犯人は見つからない。捜査の経過は、そんな事情とよく符合しているように思えた。
――本当かな――
自分で考えたことでありながら浅井は疑っている。もう一つ信じられない。
――普通の人は考えないな――
つまり、個人的な見せしめのために、縁もゆかりもない人を殺すなんて……常識に反している。
よほど|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つま》っていれば、やるかもしれない。なにほどかの現実性はある。むごたらしい爆破現場の写真は……もちろんそこまでは犯人の意図したことではあるまいけれど、
――お前もこうなるぞ――
と、すさまじいほどの迫力をはらんでいた。
しかし、普通の人の考えにはなじまない。
こんな想像を、一定の現実感を持ちながら描くこと自体、浅井は少し普通ではないのかもしれない。
――人生は分布曲線なんだ――
普通の人は考えない。浅井は考える。そして浅井の外側に、想像するだけではなく、実行してしまう特別な人間がいたとしても不思議はない。爆破事件だけではなく、その一つ前の告発だって、普通の女はあんなことをしない。“再会”のママは考えた。そして尾山京子は実行した。二つの事件がそんなふうに見えてくる。
――きっと正解だ――
車がブレーキを|軋《きし》ませながら浅井のすぐ|脇《わき》を走り抜ける。かなりのスピードだ。ひどく乱暴な運転だ。
「気をつけろ」
テールランプに向かって叫んだが、浅井も酔って車道を歩いていた。
――こんなところで|轢《ひ》かれたら、たまらない――
めったには轢かれないけれど、特別に運のわるい人になら、ありえないことではない。
いつのまにか天上に満月がかかり、離れ山が少々なだらかな分布曲線を描いて黒々と立っていた。
長夜短日
馬車というよりも家畜を輸送する荷車に近かった。床には汚物が染みつき、悪臭さえ放っている。
ちがいと言えば、荷台の囲いが低いこと。だから外の風景がよく見えるし、外からも中の様子がよくわかった。
道の|両脇《りょうわき》は人の群で|溢《あふ》れ、遠く近く家並の窓からもたくさんの顔が|覗《のぞ》いている。口々になにか叫んでいる。言葉は聞き取りにくいが、|罵《ば》|声《せい》であることはまちがいない。|飛礫《つ ぶ て》が一つ|膝《ひざ》に当たった。
「殺せ、殺せ」
「共和国万歳」
「ギロチンにかけろ」
フランス革命のまっ最中らしい。
そう思って眺めてみると、町の風景も、群衆の顔つきも、それらしい。私はうしろ手に|縛《しば》られ、たった一人、車の中にすわっている……。
「無実だ。|俺《おれ》は無実だ」
叫んでみたが、そんな声が群衆に聞こえるはずもない。
私は王侯でもないし、貴族でもない。どこにでもいるような、ごく普通の人間……。それがどうしてこんなことになってしまったのか。
|厭《いや》な|噂《うわさ》を思い出した。
つい先日“反革命的容疑者に関する法令”が発布された。まことしやかな筆致で羊皮紙に記されていたけれど、内容は恐ろしい。
容疑者とはだれのことか? “いかなる方法であれ、共和国の建設に障害となる者……”この法令にはそう定義されている。ただそれだけ。
なにが共和国の建設にとって障害となるのか、|肝《かん》|腎《じん》なことがなにも記されていない。だれがそれを決めるのか、その点も記されていない。つまり、どのようにでも運用ができる……。
たしかにだれの眼から見ても、共和国のためにならない|奴《やつ》はいる。それから……そう、“疑わしきは罰せず”の反対はあるのだろうか。つまり、疑わしきは罰する……。その範囲ならば、まだわかる。
だが、目下の法制は、とてもそんなレベルではなさそうだ。共和国のためになにかわるいことをした人ばかりではなく、共和国のためになにもしなかった人も、なにもしないがゆえに罰せられてしまう。ときには、なんの理由もなく、ただ隣家のパンを盗んだだけでギロチンに送られる。パンを盗んだことだけで、りっぱに共和国建設反対の証拠となる。同様に隣家にパンを与えたことだって今は共和国建設の障害となりうる。ギロチン送りの理由となる。
なにがなんだかよくわからない。生きていること、それ自体が死刑の理由になりかねない。
私もきっとなにかやったのだろう。もしかしたら、なにもしないということをやってしまったのかもしれない。
――本当にそうかな――
疑念が胸をかすめた。
私には夢を見る癖がある。とても現実的な夢。夢とは思えない夢。現実とほとんど区別がつかない……。
となると、私自身、夢だと思っていることが、本当は現実なのかもしれない。
――王侯貴族を夢見たことがなかっただろうか――
すぐには思い出せないが、きっとあるだろう。
だったら、それが夢ではなく、それゆえに私は、今、ギロチンに送られようとしているのではあるまいか。昨日の短い裁判も、そんな罪状を述べたてていた。ぼんやりと記憶に残っている。
「殺せ、殺せ」
「共和国万歳」
「ギロチンにかけろ」
砂利道を踏み、馬車はゴトゴトと進む。
行く手に広場が見え、群衆の輪の中にギロチン台が黒く、小さく映った。
眼をあげると、太陽が頭のすぐ上に輝いている。あの輝きがもう少し西に傾く頃には、きっと私の命はないだろう。
馬車の車輪が一回まわるたびに死が近づいて来る。あとどれほどの時間が残されているのか。
――いよいよ死ぬんだな――
突然、激しい恐怖が胸に突きあげて来た。
今までにも死の瞬間を想像したことはあった。いったん覚悟をしてしまえば、思いのほか|恬《てん》|淡《たん》と死を迎えられるのではあるまいか、そんな思いがなくもなかった。獄舎の中では、
――|俺《おれ》は無実だ――
何度もそう考えた。
――こんなことで殺されたら、悔んでも悔みきれない――
だが、そんな感情も、現実に死が迫って来ると、吹き飛んでしまう。色あせてしまう。もう悔んでみても間に合わない。むしろ、
――予想外の変事が起きて、助命されるかもしれない――
その希望が、心を占める。
そして今、現実の死が近づいて来ると、そんな希望もどんどん小さくなって点と化す。
絶望と同じ色あいのあきらめが心を覆い、
――これが最期の心境――
そう思っていたのだが、さらにもう一つ、わけのわからない恐怖が込みあげて来た。
説明がむつかしい。
なんの理由もない、黒い恐怖……。
けっしてギロチンが怖いわけではない。いや、怖いことは怖いが、今の恐怖はそれではない。ギロチンは一瞬のうちに命を絶つだろう。痛みを感ずるゆとりもあるまい。
考えてみれば、もうここまで来たら、なにも怖いことなんかないはずだ。太陽が東に出て西に沈むように、すべてが決まっている。あとは時間の経過があるだけ。覚悟はとうにできているはずだった。この世が一瞬のうちに消えてしまうことも。私という存在が無になってしまうことも。
なのに、怖い。
どうしようもなく怖い。
これが本当の死の怖さというものらしい。思惟に属するものではなく、きっと生理に属するものなのだろう。
頭ではなく、体が怖い。
もう馬車は広場に到着して馬が歩みを止めた。
うながされて私は馬車を降り、ギロチン台の階段を昇った。
「殺せ、殺せ」
「共和国万歳」
「ギロチンにかけろ」
わめき立てる群衆の顔が、一つ一つはっきりと見える。血の|匂《にお》いが鼻を刺す。
「だれも知らねえことだがよォ、ギロチンてのは、苦しいものなんだ。死んだあとでも苦痛が続く。死体が冷えるまでは、苦しくて、苦しくて、首なし死体がのた打ちまわり、起きあがってもがく。|嘘《うそ》じゃねえ。|俺《おれ》は何度も見たさ」
耳の奥で声が響く。おおかた獄舎で聞いた話だろう。
――嘘だ――
そんなはずがない。
だが……今、感じている恐怖は、そんな途方もない話にどこか通じている。
――もしかしたら、本当かもしれない――
ギロチン台には|斧《おの》のような刃が|吊《つる》してある。その吊り縄を握っているのが、有名なサンソン家の執行人だろう。
彼には私の胸のうちがわかるらしい。
「そうだよ」
ゆっくりと|頷《うなず》く。
もし首を失ったあとの死体が苦しむとすれば……だれもその苦痛を現世に伝えることはできまい……が、もし推測のできる人がいるとすれば、余人はいざ知らず、それはサンソン家の人々よりほかにあるまい。
――痛みを覚えるのは、むしろ|斬《き》り落とされた頭のほうではあるまいか――
苦痛は頭で感ずるものだから。
にもかかわらず体がのたうちまわるとすれば……両方が二つながら同時に苦しむのかもしれない。それゆえに苦痛が倍増するのかもしれない。
執行人はなにも言わない。眼顔でうながす。
「殺せ、殺せ」
「共和国万歳」
「ギロチンにかけろ」
群衆はさっきからずっと同じ叫びをあげているが、もう意味を持たないざわめきに変ってしまった。それもだんだん遠く、薄くなる。
ギロチン台の立板には丸い穴があいている。その中に首を入れる。あとは重い斧が落ちて来るだけ……。
いよいよ最期。
――もういい――
今こそ本当のあきらめに到達したと思ったとたん、もう一度、さらにドス黒い恐怖が“く”の字に折れた体にジワリと忍び寄って来る。
シュッ。
音を聞いた。
恐怖がまっ二つに裂けた。
――なんだ、こんなことだったのか――
私の体が“く”の字に曲がっている。縄でうしろ手に縛られ、|縄《なわ》|尻《じり》が、|股《また》のあいだを通って、固く縛られた脚に|繋《つなが》っている。
そんな状態のまま粗い木の床に投げ出されていた。この匂いは……飼い葉の匂いだ。
恐怖も少し残っている。
だが、最前に実感した黒い恐怖ではない。
――どうされるのか――
これからの自分についての不安、やがて自分が体験する|苛《か》|酷《こく》な事態についての恐怖と言ってもよいだろう。それが少しずつ明白になる。
村はずれのブッシュで若い娘を犯した。幼い娘と言ったほうがよいかもしれない。背丈は大人だったが、まだいたいけな様子だった。青い眼が恐怖に震えていた。
殺すつもりはなかった。
腕の下で急に暴れだしたので、つい首を締めてしまった。|苦《く》|悶《もん》の表情までがあどけなかった。
なにくわぬ顔で現場を離れたが、保安官に呼び止められ、逃げようとしたのがいけなかった。
知らない土地で逃げおおせるわけがない。追いつめられ、|崖《がけ》から転落して気を失った。
「なぜ逃げた?」
「はあ」
「なにをした?」
保安官ははじめから犯罪者を見る眼つきだった。
「前に……保安官に呼び止められて、|厭《いや》な思いをしたから」
「ふん。なにも悪いことしてなきゃ、厭な思いなんかしやせんよ」
そうだろうか。
私は知っている。このあたりは|他《よ》|所《そ》|者《もの》につらい土地だ。なにもしなくても白い眼で見られる。簡単に犯罪者にされてしまう。ろくな裁判もない。十日に一度、州判事が駅馬車でまわって来るが、それまで待つのはめずらしい。保安官の考え一つで、どうにでもされてしまう。
村のヒースで娘の死体が見つかったから、たまらない。被害者は村の有力者の一人娘らしかった。
――偶然の一致だ――
私は夢を見ただけだ。
とはいえ、こんな事件が起きてしまったら、他所者が助かることは百に一つもあるまい。村人たちはいきり立っている。いけにえを求めている。
「殺せ、殺せ」
「ならず者を逃がすな」
「縛り首の木に|吊《つる》せ」
|噂《うわさ》は村中に広がり、怒り狂った村人が押し寄せてくるにちがいない。
「お前がやったんだろ」
|牢《ろう》の|格《こう》|子《し》の外から保安官が声をかける。薄笑いを浮かべながら。
「いえ」
「洋服の汚れようを見れば、わかるさ」
「これは……崖から落ちたときに……」
「俺は信じてやってもいいさ。しかし、村の連中がなあ」
と、片眼をつぶる。
でっぷりと肥って、人のよさそうな男だが、眼の動きがずる賢い。
「お金をやるから」
「ははは」
愉快そうに笑った。
私が死んでしまえば、私の所持金なんて、どのみち保安官のものになってしまうだろう。
「州判事はいつ来るんです?」
望みはそれしかない。
「おととい来て、行っちまったよ。ここのテーブルでたらふくバーボンを飲んでな」
「私じゃない」
「あきらめが肝腎だぜ。わかってんだ。お前がやったんだ。しかし、まあ、やってなくても同じこった。同じことなら、あれこれ考えてみても無駄なことよ」
「そんな……ひどい」
「祭も終って、めぼしい楽しみもないからな」
すぐにはなにを言われたかわからなかった。
ざわめきが聞こえる。大勢の|罵《ば》|声《せい》が近づいて来る。
「ちょっと出て来るか」
牢の扉の錠前をパチンとはずし、保安官はもう一度片眼を閉じてめくばせをする。
逃げろ、ということだろうか。
しかし、手足ががんじがらめに縛られている。
――これを切ってくれなくちゃ――
表のドアがバタンと閉じて、保安官が消えた。
必死になって縄を解くことを考えた。
|錆《さ》びついた格子戸に|這《は》い寄って、鉄棒に腕首の縄をこすりつけた。
何度も、何度も……。
「殺せ、殺せ」
「ならず者を逃がすな」
「縛り首の木に吊せ」
声はもうすぐそばで聞こえる。
――そうだったのか――
保安官が牢の鍵を開けたのは、私のためなんじゃない。村人のため……。
牢に|鍵《かぎ》がかかっていたんじゃ、私を引きずり出すことができない。
表のドアが開いた。
銃を抱えた男が四、五人、躍り込んで来た。
「助けてくれ。俺じゃない」
「ふざけんな。自分で俺だって言う奴はいねえよ」
「本当なんだ。裁判にかけてくれ」
「この野郎」
牢から引きずり出され、横腹を強く蹴られた。
「あんまりいじめるなよ。この前は血だらけで汚なすぎた。みんなが見るんだから。ショウはきれいなほうがいい」
「あいよ」
保安官の言葉を思い出した。「祭も終ってめぼしい楽しみもない」と言っていたっけ。
死刑は最高の娯楽らしい。わるい奴が罰を受けるのは当然だし、道徳教育のたしにもなる。精神のカタルシスにも役立つ。こんなすばらしい獲物を州判事になんか渡してなるものか。村人こぞって楽しまない法はない。
腹と腰とを二、三発蹴られた。歩けないほど痛めつけてしまっては、奴らにとっても厄介だろう。
「立ちなよ」
「広場までは、ちょいとばかり距離があるからな」
脚の縄が切られた。
赤ら顔の男が縄尻を握り、背後からドドンと押す。私は、たたらを踏みながらドアにぶつかり、ドアの外へ出た。
どれほどの人口の村なのか、どの家の門口にも人が群がっている。
「殺せ、殺せ」
「ならず者を逃がすな」
「縛り首の木に吊せ」
石が飛んで来た。
そばに走り寄って来て|唾《つば》を吐きかける奴もいる。
「助けてくれ。俺じゃない」
叫んでみたが、それがどれほどむなしいことか、すぐにわかった。私の声は|罵《ば》|声《せい》にかき消される。たとえだれかの耳に届いたところで耳を貸すものはいまい。
みんなの眼が血走っている。薄笑いを浮かべている。いけにえの祭はもう始まっていた。
道はまっすぐに延び、村はずれに枝のない木が一本、天をさして高く立っている。あの|梢《こずえ》の上に私の行くべき天国があるのだろう。木の下にショウの舞台が作られ、その上に踏み台のような木箱が載せてある。近づくにつれ、横枝が一本、こちらをさして伸びているのがわかった。
木の周囲には、円を描いて群衆が待ち構えている。両側の家のバルコニーは、さしずめロイヤル・ボックスといった趣きだろうか。テーブルと|椅《い》|子《す》が用意され、もう酒盛りが始まっていた。
うしろから突つかれ、私はトコトコと歩いた。
夢ではないらしい。さめようとしてもさめることができない。
群衆がざわめく。拍手まで起きる。
男が二人、縛り首の木の下に現われ、白い縄で輪を作り、横枝に吊す。村はずれの広場がたちまち刑場と変った。
バンジョウが鳴る。歌いだす奴もいる。陽気なものだぜ。
――俺は無実だ――
何度もそう考えた。娘を犯して殺したのは、ただ夢を見ただけ……。
――こんなことで殺されたら、悔んでも悔みきれない――
だが、そんな感情も、現実に死が迫って来ると、吹き飛んでしまう。色あせてしまう。もう悔んでみても間に合わない。
横枝の下で白い縄が揺れている。
――いよいよ死ぬんだな――
黒い恐怖がヒタヒタと寄せてくる。
頭ではなく、体が怖い。
木の下の台は粗い丸太で作られ、木箱には縄がついている。縄を引けば、木箱が台から転がり落ちる。
「殺せ、殺せ」
「ならず者を逃がすな」
「縛り首の木に吊せ」
男ばかりではない。女もいる。なんと! 台のすぐそばに立った若い娘の眼の中にも、これから始まるショウを楽しもうと、そんな気配がうかがわれる。
「あがれよ」
うながされて木の台にあがった。
赤ら顔の大男が、縄の輪を私の首にかけ、輪を縮める。それから眼隠しをされた。汗と硝煙の|匂《にお》いがかすかに鼻をかすめる。
抱きかかえられ、木箱の上に立たされた。
縄がたるまないようピンと張って枝に固定する……。
簡単なものだ。
このだし物には序曲もなければカーテン・コールもない。さらにドス黒い恐怖……。
一秒、二秒、三秒。
ガタン。
音を聞くのと、体に|痙《けい》|攣《れん》が走るのとが同時だった。
風が|血腥《ちなまぐさ》い。
周囲は静まりかえっている。だが、人の気配がないわけではない。
そっと眼をあげて見まわすと、十数人の男たちが正座をしてこっちを見ている。灰色の衣服を着てうずくまっている。その背後で肩を怒らせて立っている黒い服は、獄卒たちだろう。
黒い|板《いた》|塀《べい》の中。松林に囲まれて……。
――そうか――
刑の執行のときは、見せしめのために他の囚人たちにも見物をさせる、と、そんな話を聞いたことがある。
私はうしろ手に縛られ、
「前に進め」
押されて前に進んだ。
薄汚い|茣《ご》|蓙《ざ》が一枚、土の上に敷いてある。その前に凹んだ穴は、掘ったばかりらしく、土の色が鮮かだ。
二つ折りの半紙を顔に当てられ、わら縄で止め、目隠しをされた。それでも半紙の端から周囲の様子が少し見える。
「すわれ」
茣蓙の上にすわった。
――いよいよ死ぬんだな――。
しかし、なぜ?
主人を殺した。私は日本橋の油問屋で働く手代だった。金がほしくて盗みを働き、主人に見つかり、殺してしまった。
白洲でそんな罪状をあばかれ、|斬《ざん》|首《しゅ》の刑を宣告された。
裁判官の声を聞きながら、
――主殺しの夢を見たんだ――
そう思った。
今は今で、あの白洲の風景そのものが夢だったような気がする。
そう思いながらも、みんな本当のことかもしれない、と考える。私には夢を見る癖がある。とても現実的な夢。夢とは思えない夢。現実とほとんど区別がつかない……。
となると、夢だと思っていることが、本当は現実なのかもしれない。
名を呼ばれ、刑の執行を言い渡された。
人の気配が近づいて来る。
灰色の着物。刀を差している。
――山田浅右衛門だな――
なぜかわかった。山田家は代々|首《くび》|斬《き》りを業とする家柄である。つい先日、高橋お伝という毒婦の首を斬りそこね、それはお伝があまりに美しかったから……。お伝はのたうちまわって苦しんだらしい。
今日はまさか手もとが狂うこともあるまい。どうせ斬られるものなら、スッパリと斬られるほうがいい。ギロチンのように……。
――ギロチン? なんだったろう――
遠い記憶が心に残っているようだ。
しかし、それを考えるゆとりはない。
浅右衛門が刀を抜く。
主殺しと言えば、大罪だ。首を斬られるだけではすむまい。しばらくは獄門台に首をさらすことになるだろう。
――死んだあとのことは、どうでもいい――
首が斬られる瞬間に、いっさいが消えてしまう。私が無になる。
それが……わけもなく怖い。
本当にわけもなく……。なぜこれほど怖いのか自分でもよくわからない。説明がむつかしい。
とにかく普通の怖さではない。わからないながらも考えた。
怖いと感ずることも生きているからだろう。その生きていることを奪われるのだから並の怖さとはちがって当然だ。生きていなければ、動くことも考えることもできない。
おそらく生きとし生けるものは、みんな長い進化の歴史の中で、
――生きていることが一番大切――
そんな本能を固く、固く、意識の底に固めて抱き続けて来たのだろう。それが侵され奪われようとしている。細胞の一つ一つが恐れている。これは何千億個の細胞の恐怖なんだ。もし何度も生き返られるものならば、死もそれほど怖いものではあるまい。
「首を伸ばせ」
早く終ればいい。ドス黒い恐怖が来る前に……。
首を伸ばした。
シュッ。
風が鳴った。青白い光を見た。血の匂いを|嗅《か》いだかもしれない。
看守に起こされ、あたふたと仕度をした。
コンクリートの壁面に囲まれた、ひどく殺風景な部屋の中。さびれた作業場のような印象である。すみに|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|如《にょ》|来《らい》の像が立ち、|灯明《とうみょう》が二本、オレンジ色の光をともしていた。
私は誘拐殺人を犯した。
殺したのは一人ではない。三人、五人、七人……自分でもよくわからない。
いや、数はわかっているが、なにしろ夢の中のことだから……。
長い裁判がぼんやりと記憶に残っているが、それも一瞬の夢のように感じられてならない。人間の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》の作用はとても複雑だ。数秒間のうちに、いくつもの思案を浮かべてしまう。一瞬のうちに数十年の時間を体験してしまう。
|袈《け》|裟《さ》を着た男が私の前に立っている。眼を伏せたままおごそかに告げる。
「あなたはこの世で罪を犯しました。罪のつぐないのため、今、あの世に召されるのです。念仏を唱え、御仏の加護をお祈りなさい」
|呟《つぶや》いて合掌し、私もそれに|倣《なら》った。
「なにか言い残すことはないかな」
「ありません」
「タバコは|喫《す》うのかな」
「喫いません」
そう答えてから喫ったほうがよかったかもしれないと思った。それだけ刑の執行が先へ延びるだろう。
――そのあいだに天変地異が起こるかもしれない――
とはいえ、ここまで来てしまったら、時間を長引かせること自体がつらくなる。ドス黒い恐怖が来る前に……。
「では御仏の加護を祈って……恐れることはなにもありません」
「はい」
奥の壁がギイと鈍い響きをあげて穴を開けた。そんなところに扉があるとは気づかなかった。
――いよいよ死ぬんだな――
中に白木の台がある。
上から縄が垂れている。
眼隠しをされ、手を引かれて踏み段を昇った。
――苦しくはあるまいか――
さほどのことではない。すぐに終る。縛り首の木のときはそうだった。
――縛り首の木? なんだったろう――
遠い記憶が心に残っているようだ。
しかし、それを考えるゆとりはない。
――とてつもない恐怖が襲って来るはずだが――
なぜかそんな気がする。
――経験があるのかな――
首を|斬《き》られたこと、首を|縊《くく》られたこと……。死んでしまえばそれまでのはず。たとえ経験があっても、それが頭に残っているはずもない。
となると、夢。みんな夢。
――こんなにはっきりとした夢があるものかなあ――
怖いことは怖いが、さほどの恐怖ではない。首に縄を巻かれ、あと数秒後に踏み板が開く。
それでおしまい。
だが……次の瞬間、またなにかが始まる。わけもなくそんな予測がある。そんな期待が心の底に|蠢《うごめ》いている。たとえば、ドラマの終りが次のドラマに続いているような……。永遠に続く不可思議なドラマ。
――私はその主人公らしい――
そんな気配が心の奥底にある。そんなドラマの存在が、かすかに、おぼろに感じられる。
――恐れることはない、のかな――
むしろ、
――次はなんだろう――
そんな理不尽な期待さえ感じてしまう。
バタン。
なんの前ぶれもなく、突然、踏み板が開いた。
縄が張る。体が|痙《けい》|攣《れん》する。
つかのまのひととき、私の脳が直感する。
――わかった。今度だけは夢ではない――
穴の中へ
――あ、いけない――
激しい恐怖を覚え、湯船の中で眼をさました。お湯に浸かりながら、私はウトウトと眠ってしまったらしい。
――熱い――
あたふたと湯船から跳び出し、跳び出してから湯船のお湯に手を触れてみた。
眠ったまま|茹《ゆ》でられてしまったら、どうなるのか。まっ赤な“茹で人間”……。全身に大やけどをするだろうが、まあ、その前にきっと眼をさますだろう。
湯船のお湯はさほど熱くはない。
|焚《た》き|釜《がま》の火は消えていない。薪がかすかに|燻《くすぶ》っていて、周囲に松やにの燃える|匂《にお》いが|籠《こも》っている。遠い記憶を呼び起こすような、なんだかひどくなつかしい匂いだ。
「薪で焚いたお|風《ふ》|呂《ろ》って、やっぱりいいでしょ。お湯が柔らかくて」
と、まゆみが言っていた。
「そうかな」
今どきめずらしい。
万事、都会的で簡便なことが好みのまゆみにしては、思いがけない趣味である。
|那《な》|須《す》高原の古いコテージ。以前はだれかの別荘だったらしい。長期滞在型の施設で、広いリビングキッチンのほかに応接間までついている。プロパン・ガスが引いてあるが、お風呂だけは昔ながらの薪で焚く。新聞紙を|捻《ひね》って火をつけ、まず小枝を燃やし、それから少しずつ太い薪へと火を移す。この作業は慣れている。子どもの頃は、それが私の仕事だった。
「木造でも昔の建物はりっぱね」
「いつ頃のものかな」
「相当に古いみたい。たまにはいいでしょ」
「しかし、不便だな」
「でも、道路はいいし、車で来れば近いわ」
「そりゃ、君はいいさ。運転ができるから」
まゆみに誘われ、休暇を過ごしに来たのだが、私は少し後悔していた。
初めての土地。初めての宿。私はもうまゆみのようには若くない。なんによらず“初めて”というのは、わずらわしい。なにをしたらいいのか、どこへ行ったらおもしろいのか、見当もつかない。まゆみは、車を|駈《か》って高原口のテニスコートへ行ってしまった。
――仕方ないか――
まゆみは二度目の妻である。
去年、先妻の三回忌をすませたあと、たまたま新幹線のシートで隣りあわせ、それが縁で|交《つき》|際《あい》が始まり、今年の春に籍を入れた。私は性急すぎたかもしれない。たった半年……。しかし、人の縁なんて、時間をかければそれでいいというものではない。むしろ私は好運だったろう。若くて美しい妻とめぐりあったのだから。三十歳も年齢がちがえば、生活のはしばしに折りあえない部分があっても、我慢しなければなるまい。
――あと何年、生きられるか――
五年や十年は大丈夫だろうけれど、いずれにせよそう長いことではあるまい。若い女と一緒に暮らせるだけで|冥利《みょうり》と思わなければなるまい。友人たちは声をそろえて、
「毎日、いい思いをしてんでしょう」
と、からかう。
厄介なことも多いが、楽しいこともある。かけがえのない喜びがある。
若い体。ここちよく弾んで、若さが掌に伝わって来る。恥毛の黒さまでもが若々しい。
――それにしても……変だな――
私は首を|傾《かし》げた。
あい変らず松の匂いが|燻《くすぶ》っている。
タオルで|濡《ぬ》れた手を|拭《ぬぐ》った。
まどろみながら、私はなにをあんなに恐れていたのか。ひどく怖かった。このくらいの温度なら“|茹《ゆ》で人間”になるはずもない。|淀《よど》んだ意識は、なにか途方もないことを考えたらしい。それが思い出せず、もどかしい。
ひどく息苦しい。
バスタオルを体に巻いて|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》を出た。
窓越しに青い空が見える。まだ日暮れまでには充分に時間がある。退屈な山荘だが、空気だけは本当においしい。散歩に出よう。とにかく、それがいい。私はセーターの上に薄手のジャンパーを羽おり、素足にゴム草履を履く。
裏口のドアを押し開け、深々と息を吸った。
それでもまだ息苦しい。
この気分。この感じ……。
――似たようなことがあったなあ――
それも最近……。
――ああ、そうか――
たとえば夢の中で尿意を催したとき。ようやく便所を見つけ、放尿をすますのだが、けっして|爽《そう》|快《かい》感は戻って来ない。また便所を捜している。
――しかし、そんな夢、最近、見たかなあ――
と首を|傾《かし》げる。
六十年も生きていれば、いろんな夢を見るだろう。同じ夢を繰り返して見ることもある。いつとは思い出せないが、ここ四、五年のうち……。かならずしも最近の夢とは限らない。意識がぼやけている。
そう言えば、ゴム草履だって、なんの違和感もなく鼻緒に足の指を突っ込んだけれど、私はここしばらくこんなものを履いたことがなかった。しかし、足の指がしっかりと記憶している。子どもの頃、|田舎《い な か》ではいつもこれを履いていた。運動靴を履くのは、遠足とか運動会とか、特別なときに限られていた。普段はゴム草履。すぐに履けるし、すぐに脱げる。汚れたら足ごと水道の蛇口の下に突き出して洗えばよい。足にもよくフィットするし、大小の差がないのも重宝である。遠い日の感覚がたやすく|甦《よみがえ》って来た。
このごろは、サンダルばかり。|下《げ》|駄《た》だってめずらしい。
「お父さん、みっともないわ」
娘の貴子に言われて、驚いたことがある。銀座通りを歩くわけではない。下駄ばきで近所のスーパーへ行っただけだ。
――なぜみっともないのか――
サンダルはいいけれど、下駄はよくない、それが貴子の考えらしい。
貴子はアメリカで高校生活を送った。だから下駄に偏見を抱くのかと思ったが、そうでもないらしい。このごろの若い人はみんなそう思っている。おかしなことだ。
――どうしてるかな――
連想が貴子のほうへと移って行く。
たった一人の娘。たった一人の子ども。アメリカ人と結婚して、今はサンフランシスコに住んでいる。
「お父さんのことは心配するな」
三回忌のときに帰国して一週間の滞在のあと、|成《なり》|田《た》のロビイで別れた。
「シスコへ来て住んだら」
「今さら英語で暮らすのは、好かん」
「結構日本語も通じるわよ」
「考えておくよ」
「うん。じゃあね。気をつけてよ」
「ああ。貴子も気をつけてな」
父が娘を思うほどではあるまいが、娘も一通り父の生活を案じている。だから父の再婚には大賛成だった。ピンクのレターペーパーに|安《あん》|堵《ど》の気配が躍っていた。
“アメリカではよくあることです。精いっぱい第二の人生を楽しんでくださいね。新婚旅行にはアメリカめぐりなど、いかがですか。たとえば、夏休みの頃に。ジョージともども心から歓迎します”
そのあとに|娘婿《むすめむこ》の筆跡で数行の英文がそえてあった。
しかし、この夏はまゆみのほうに都合があって行けなかった。まだまゆみを貴子に会わせていない。
「なんだか変ね。貴子さんのほうが年上なんでしょ」
「世間にないことじゃないさ。貴子は、そういうこと、わりと平気なんじゃないかな」
私の再婚は、おそらく娘にとっても望ましいものだったろう。父は父、娘は娘。少しさびしいけれど、自分の幸福は自分で見つけなければいけない。太平洋一つ隔てているのだから、おたがいにあまり当てにはできない。
道は、少し登り坂。草履の指先を締めて、しっかりと鼻緒を捕えて進む。
土の道。|轍《わだち》が二本くぼみ、ところどころに雑草が島を作って生えている。昔の|田舎《い な か》|道《みち》はみんなこんな感じだった。
|向日葵《ひまわり》が四、五本、ダラリと褐色の首を垂れている。夏が過ぎ、秋が来て、種をいっぱいに実らせている。花を割ると種がバラバラとこぼれる。種の中には白い|芯《しん》があって、食べるとおいしい。味は忘れてしまったが、たしかそうだった。
切り通しを抜けると、道は下り坂に変わり、小さな池がある。|陸稲《お か ぼ》を植えた田んぼがある。日射しがうっとうしい。日影が恋しい。黄色い穂の上でかすかに|陽《かげ》|炎《ろう》が揺れている。人っ子ひとりいない。静かな山里の風景が広がっている。いつか見た絵のように……。どこからか松の葉の匂いが漂って来る。
――変だなあ――
私は歩きながら、もう一度首を|傾《かし》げた。
――この風景に記憶がある――
そんな気がする。
――松葉の匂いにも――
歩を進めるたびに、その意識が強まって来る。遠くに見える山の形まで、初めて見るものではないように思えてならない。
それほどめずらしいことではないのかもしれない。いつか見た風景が心の片すみに残っていて……いつ、どこで見たかは忘れてるのに、ただ、そのイメージだけが、知らない絵のように残っていて、あるとき、ふっと|甦《よみがえ》って来る……。
――那須になんか来たかなあ――
五年ほど前、会社の仲間と温泉に来たことがあるけれど、あれは町中だった。あのときの記憶ではあるまい。
このへんはもっと山が深い。それに、今回の旅は私のプランではない。まゆみが突然、話を持ち出して、
「ねえ、行きましょうよ。とってもいいところなんですって」
と、せがむ。
初めから、さほど期待はしていなかった。
まゆみの友だちが近くに別荘かなにかを持っていて、テニスでもやろうという計画らしい。当たらずとも遠からず。口ぶりから見当がついた。つまり、私のために行くのではなく、まゆみ自身が行きたいから……。
「行って、|俺《おれ》はなにをするんだ?」
「本でも読めば」
「本なら東京でも読める」
「でも空気がおいしいし、きれいな景色を見ながらボケーッとしてるの、体にもいいと思うわ」
「一人で行ったら、どうだい?」
「|厭《いや》。一緒がいいの。ね、お願い。一緒に行きましょう」
誘いは|執《しつ》|拗《よう》だった。
一緒に行きたいのは本心らしい。
私だって……厭ではない。
三十歳も年齢の離れた夫婦となると、抱きあうためにもなにかしら理由のようなものが必要だ。若い頃のように、いつでもどこでも体を寄せあい、そのまま押し倒したりするわけにはいかない。少なくとも今の私はそうだ。だから、たとえば旅に出たとき……。環境が変わり、ベッドが変わり、気分が日常性を離れたときのほうが、スムースに運ぶ。そんな気がする。
――あと何回抱けるかな――
と、よくそんなことを考える。
ここ四、五年はともかく、やがて抱けなくなるときが来る。チャンスはしっかりと|掴《つか》まえなければいけない。まゆみは若いんだし、夫婦はやはり抱きあわなければ、いけない。
――行ってみようか――
結局は、まゆみの希望が通る。
昨日の午後に到着。しかし、昨夜はなにもせず静かに眠った。
まゆみは今朝、十時すぎまで寝ていて、朝食をすますと、
「テニスに行って来るわ。四時頃帰りますから……お|風《ふ》|呂《ろ》、お願い」
片手でバイバイをして出て行った。
――なにを考えているのかな――
まゆみの頭の中には、なにが、どんなふうに詰まっているのか、わからないときがある。私とは|脳《のう》|味《み》|噌《そ》の構造がちがっているらしい。
女だから。
若いから。
それもあるだろうけれど、それだけではなさそうだ。
論理の糸がチャンと|繋《つなが》っていないらしい。
早い話が、今度の旅だって、あれほど「一緒がいいの」と言ってたくせに、コテージに着いてしまえば、一人勝手に車を飛ばしてどこかへ行ってしまう。
――いつもそうなんだ――
なにとはすぐに思い出せないけれど、これまでに何度も同じようなことを体験させられた。一つ一つは|些《さ》|細《さい》なことでも、合計してみると、
――この人、数学なんか、まるでできなかったろうな――
脳味噌にポカンと穴のあいたようなところがある。
それと関係があるのかどうか、まゆみは|嘘《うそ》つきだ。自分の妻について、それを認めるのは少しつらいけれど、夫としてやはり心得ておいてもよいだろう。
けっして上手な嘘ではない。用意周到の嘘でもない。だから、すぐにばれてしまう。
「おかしいじゃないか」
矛盾を指摘すると、まゆみはとたんに不機嫌になり、一層かたくなになり、
「だって、本当よ」
と、|抗《あらが》う。
そして、矛盾の有無より疑うことのほうが、どれほど卑しいか、攻撃にかかる。
私は争いごとを好まない。親子ほど年のちがう妻と言い争って、勝ってみたところでなにもおもしろいことなどない。
それに……まゆみの場合は、どうでもいいような嘘も多い。むしろ、
――どうしてこんな嘘をつくのか――
まゆみの心が計り知れないときがある。
たとえば、父親に将棋を教えられ、男の子を負かすほど強かったとか、コーヒー専門の商社に勤めていたのでコーヒーのことはなんでも知ってるとか、切手のコレクターだったとか……。
しかし、将棋なんか|駒《こま》の動かしかたさえよく知らないだろう。コーヒーの知識もあやしいものだし、切手のコレクターが“見返り美人”を知らないはずがない。
生きて来た道筋に少々いかがわしい部分があって、それであんなふうにごまかしているのだろう。これまで、どんな人生を歩んで来たのか、|腑《ふ》に落ちないところが少しある。
――まあ、いいさ――
死んだ妻は誠実だったけれど、それで私の毎日が楽しいというほどのこともなかった。若い妻を見ながら、ドキドキして暮らすのもわるいものじゃない。
――えっ、ここだったのか――
私は、突然古い写真を見せられたような……そんな写真があることさえ知らなかったのに、いきなり子どもの頃の自分の姿を見せられたような、戸惑いを覚えた。
木造の二階建て、とても大きな建物。眼をあげると、すぐ前にあった。ゆっくりと近づいて、建物がL字型に曲がっていることを確かめた。
――やっぱりここに来たことがあるんだ――
建物の姿に記憶がある。
鮮明な記憶ではないけれど、見たとたんに“知ってる”と思ったのは、やっぱり過去にこの建物を見たことがあったからだろう。
学校みたい。
しかし、学校ではない。
集合住宅。つまりアパート。人が住んでいるのかどうか、窓は閉じているし、洗濯物も見当たらない。
――|親《おや》|父《じ》と一緒に来たんだ――
さっきから一つだけ心に引っかかっていることがあった。知らない記憶があるとすれば“あのときのことだ”と、ぼんやり考え続けていた。
小学校の一年生か二年生。私は父と一緒に電車に乗って、知らない町へ着いた。
父の用向きはなんだったのか。
旅館のようなところへ泊まった。
隣の部屋に、男と女の二人連れがいて、二人の様子がわけもなく気がかりだった。女の人がとてもきれいだった。男の人は……怖い感じだった。
――|駈《か》け落ちをした人らしい――
子どもの頭がそんな判断をするはずがない。あのときは、ただ、どこか普通とちがった様子の二人だな、と、そう感じただけだったろう。女が人妻で、男に誘われ、夫のところから逃げて来たんだと、それは父が話してくれたことなのか、それとも私が勝手に想像したことなのか……よくわからない。はっきりしているのは、隣の部屋に怪しい様子の男と女がいたこと、ただ、それだけ……。
父は私を宿に置いてどこかへ行ってしまう。隣の部屋からヒソヒソと話し声が聞こえる。よくない相談……。しかし中身までは聞こえない。私のほうは一人で部屋に閉じ|籠《こも》っていてもつまらない。仕方なしに付近を歩きまわって|無聊《ぶりょう》を慰める。それがどうやらこのあたりだったらしい。記憶には、ところどころ鮮明な部分があるけれど、前後の事情までひと続きの出来事として思い出せるわけではない。
|轍《わだち》の凹んだ土の道も、|陸稲《お か ぼ》の色も、木造の二階建ても、男女の二人連れも、同じときのこととは知らなかった。それが今わかった。
これまでは自分の過去を顧みて、記憶のぼやけた部分があるとすれば、
――お父さんと一緒に行った、知らない町のこと――
と、そんな判断をつけていた。わからないことは、みんなあのときのことらしいと、見当をつけて、自分を|納《なっ》|得《とく》させていた。
それが当たっていたらしい。
――よく残っていたなあ――
そう思ったのは眼前の建物のことである。ベニヤ板を|貼《は》った大きなアパート。今どきこんな家はめずらしい。
それに……昔のまんま残っているのが不思議である。父と一緒のときなら……五十年近くも昔のことではないか。
昭和十年代。郊外地に工場が建設され、その近くに寮が建てられていた。当時の生活レベルなら、こんな感じのアパートでもむしろ上等のほうだったかもしれない。
――今はなんに使っているのかな――
あい変らず、ひっそりとして人のいる気配もない。
それよりも、なによりも、これは本当に私がずっと昔に見たものなのかどうか疑わしい。
――縁の下に入る穴があったはずだ――
この記憶が一番鮮明に残っている。
L字型に曲がった建物の、その長いほうの棟の内側、そこにベニヤ板のはがれた部分があって、そこから一階の床下に潜れる……。
建物を見た記憶自体が、いつのことやら、どこのことやら、はっきりしなかったのだから、当然、その建物にあった穴のことなど、どうしてそこへ入ったか前後の事情はなにも思い出せないけれど、とにかく私は木造の大きな建物の床下に潜り込み、奥へ奥へと、ほとんど|闇《やみ》に近い細道を手さぐりで進んだ……と、その気配は、床下の細い光、湿った|匂《にお》い、心細さと興奮……むしろ感性の記憶として残っていた。
どこまでが自分で本当に体験したことなのか、正直なところ半信半疑だった。
もっと幼い頃の隠れんぼの記憶なども混ざっているらしい。ピノキオの童話では、たしか|鯨《くじら》の食道から胃袋へ、まっ暗な通路をたどって行くのではなかったか。ほかの物語にも似たような場面があったような気がする。
――もしかしたら、夢かもしれない――
暗い道を|這《は》って行く夢なら、これまでにきっと何度か見ているだろう。
考えてみると、人間はみんな暗い道を歩いている。恐れながら、怪しみながら、そしてなにほどかの期待に胸を弾ませながら進んで行く。だれしもがさまざまな形で、そんな体験を持っている。|生《なま》|身《み》の体験だけではなく、類似のイメージが頭の中で|錯《さく》|綜《そう》している。生命の誕生そのものが、|精《せい》|嚢《のう》から子宮に至る暗い道のりだった。その記憶が残っているとは言わないけれど、私たちは心のどこかにそんな抽象的なイメージを宿しているのではなかろうか。
つまり……人は暗い道を進んで行くものなのだ。知らない知識を求めて行くことだって暗い道を行く旅だろう。
五十年も昔に、私が木造の家の床下を、柱と柱に挟まれた狭い道を手でさぐりながら這って行った……それは、まぎれもなく現実であったけれど、その出来事の前後の記憶がぼやけているぶんだけ、ほかのイメージが……たとえばピノキオの童話やいつか見た夢が混ざり込み、
――本当にあったことなのかなあ――
と、みずから怪しんでしまう、そんな心境に私は落ち入っていた。
昔、見た建物が……とうに朽ち果てていてよい木造の建物が、眼の前にふいと現われたことだけでも信じにくい。
いったんは、
――よく似ているけど、べつなもの――
と考えた。
だが、L字型に曲がった建物の、その長いほうの棟の内側にベニヤ板のはがれた穴が……あった。
――やっぱりここなんだ――
体をかがめて中を|覗《のぞ》いた。
穴の下側はゆるい土の傾斜を作り、滑るように床下へと続いている。
コテージを出てから、ずっと日射しがつらかった。日影がいとおしい。私は身をかがめて穴の中へ潜り込んだ。
一瞬の決断だった。どうしてそんなことをする気になったのか……。
なつかしいと言えば、たしかになつかしい。昔、潜った穴かどうか、もっとよく確かめてみたい、と、そんな気持ちがあったのは本当だ。でも、それだけではない。
もっと強い衝動。むしろ、
――今日はここへ潜り込むために散歩に出て来たんだ――
そう感じた。
那須へ来たこと自体が、このためかもしれない。なにかとても重大な|謎《なぞ》がこの中へ入って行けば、わかるような気がした。
私は吸い込まれるように穴の奥へと足を進めた。
湿った匂い。しかし、心地よい。
――|俺《おれ》は穴居性の人間だったのかなあ――
頭の片すみで、そんな奇妙なことを考えた。
たとえば、もぐら。たとえば、ハブ。穴居性の動物は長く日射しの中にいると、死んでしまうとか。私もコテージを出てからずっと息苦しかった。周囲の明るさがまぶしかった。
――そうだ、|風《ふ》|呂《ろ》に入っていたんだ――
体が汚れたら、また風呂に入ればいい。
すぐに行く手がまっ暗になった。
どういう構造になっているのかわからない。このあたりは柱と柱の間隔が少し広めに作られているのではあるまいか。
子どもの頃の記憶が戻って来る。多分廊下の下。そこをどんどん這って行く。入口の明るさが見えなくなった。まっすぐ来たつもりだが、曲がって進んでいるのかもしれない。
――もし出られなくなったら、どうしよう――
五十年前にも同じことを考えた。
私がこんなところへ潜り込んだことをだれも知るまい。
――でも、大丈夫だな――
建物の形を知っている。大きな建物だが、L字型に曲がり、どこに入り口があるか、見当くらいつく。
そう言えば……かんな|屑《くず》がたくさん周囲に落ちているはずなんだ。
かんな屑はとても燃えやすい。火を起こすのに便利である。
冬の朝、最初に起きるのは、母だった。母は|手《て》|拭《ぬぐ》いで|姐《あね》さんかぶりをして、まず外に出て七輪の火を起こす。新聞紙を|捩《よじ》り、消し炭を載せ、マッチをする。松の小枝もよく使っていた。朝と言っても、まだ暗かった。炎が燃えあがり、煙が眼にしみる。
その煙が消え、炭に火が移ると、七輪は台所に運び込まれる。お湯をわかし、炊事が始まる。家族が起きて来るのは、その頃だった。
――お母さんは大変だなあ――
寒い季節は本当に寒い。母はよくあかぎれを作っていた。
そんな様子を知っているのは、私も何度か冬の朝に眼をさまして、母の仕事ぶりを眺めていたからだろう。
「かんな屑だと、よく火がつくのよ」
子ども心にも“ああ、そうか”と納得した。
――かんな屑があれば、お母さんの仕事が楽になる――
そう思ったのは本当だ。
かんな屑があったところで、屋外で火を起こすわずらわしさが、さして軽減されるはずもないのだが、幼い頭はかんな屑さえあればそれでいいのだと考えた。
潜り込んだ床下には、かんな屑がたくさん散っていた。
――全部集めて持って帰ったら、お母さんが喜ぶだろうなあ――
手を伸ばしてかき集め、小さな山を作ったが、それをどうやって持ち帰ったらいいかわからない。
――お父さんだって、いい顔をしないな――
かんな屑の山を抱えて汽車に乗るわけにはいかない。結局は手ぶらで帰るより仕方なかった。
――お母さんには、ろくに親孝行をしなかったなあ――
かんな屑だけの話ではない。
したい気持ちはあったのだが、結局はなにもしなかった。なにひとつとしてめぼしいことが思い浮かばない。
二十二のときに家を飛び出し、孫の顔も見せてやれなかった。私の生活が少し落ち着いたときには、もう母はすっかり衰弱していた。
急を知らされ、いくばくかの|金《きん》|子《す》を封筒に入れてお見舞に行ったが、それが最期になってしまった。
父の死は、その三年後。両親とも短命のほうだった。だとすれば、私の寿命もそう長くはないだろう。すぐそこに死が迫っているのかもしれない。わけもなくそんな気がする。
いずれにせよ、人の一生なんて短いものだ。通り過ぎてしまえば、いくつかの場面が断片的に思い浮かぶだけだ。
――たいした一生じゃなかったな――
二十代は好きなことをやって暮らした。あのときが一番輝いていたかもしれない。
体をこわし、入院先の看護婦と結婚し、なにしろ相手が|生《き》まじめな女だったから、
――少しはまともな人生を送るか――
と思った。それからは世間のどこにでも転がっているような平凡な毎日を過ごした。
その妻が死んで、新しい妻を迎え、これからどうなるのか。
――まゆみの考えは、よくわからない――
期待と不安が入り混じっている。これも今から暗い道を行こうとしているのかもしれない。
角を曲がった。
どこに柱があるのか、まるで見えない。ただ、ただ、暗い穴が続いている。
――おやっ――
人の声が聞こえる。
頭の上に、床板を一枚隔てて、だれかが話しているらしい。
男と女……。
あのときもそうだった。
声に聞き覚えがある。
旅館の隣の部屋にいた二人連れ……。
声が似ている。まちがいない。
――ここはどこなんだ――
記憶が戻って来たのだろうか。
どんな男だったろう。
どんな女だったろう。
女はとてもきれいで、男は恐ろしかった。二人とも、どことなく怪しい気配をはらんでいた。
|駈《か》け落ちなんて、そんな言葉を子どもが知っているはずもない。女が夫を裏切って、ほかの男と逃げて来たらしい、と、そう考えたのは、なぜだったのか。父が話してくれたから……。しかし、父が子どもに話すようなテーマではあるまい……。
でも、穴の中で、男と女の声を聞いたのは、本当だ。今、また聞こえる。
記憶が|甦《よみがえ》ったと言うより、穴の中を進んでいるうちに時間をさかのぼり、私のほうが過去に戻ったらしい。そんな気がする。
「どうだった?」
と、女の声。
「大丈夫。終った。ちょっとくらいややこしいことがあるかもしれんけど、あんたは落ち着いてろよ。なんも心配ないから」
「平気。私はお友だちとずーっと一緒にいたんだから」
短い会話だが、声の響きがただごとではない。聞いているだけで、おぼろに見えて来るものがある。それが確信に変わる。
――ああ、そうか――
二人は駈け落ちなんかじゃなかったらしい。
女は人妻で、その人妻に親しい男ができて、夫殺しを企てた。まるで新聞記事でも読むように、はっきりと事情がわかった。私はそんな記事を読んだのだろうか。
女は三十二歳。男は三十五歳。どちらもあまりよい了見の持ち主ではない。女は六十近い男の後妻に入ったが、初めから財産が|狙《ねら》いだった。
「いい加減にくたばってくれればいいのにな、あんたのご亭主」
「そうもいかないわ」
「|惚《ほ》れてんのか」
「馬鹿なこと言わないでよ」
「いつまで待っていても、らちはあかんぞ」
「ええ……」
二人の視線があい、薄笑いが浮かび、眼と眼で|頷《うなず》きあう。
女はアリバイを作った。男が実行した。死因は一酸化炭素中毒……。
「どうだった?」
「大丈夫。終った。ちょっとくらいややこしいことがあるかもしれんけど、あんたは落ち着いてろよ。なんも心配ないから」
「平気。私はお友だちとずーっと一緒にいたんだから」
同じ声が聞こえる。
――これは記憶なのだろうか――
ずっと昔に自分が聞いた声を思い出しているのだろうか。
そうではないらしい。今、頭の上で響いている。いや、頭の上かどうかわからない。この|闇《やみ》の外……。私を包んでいる闇の外……。
さっきは私が子どもに返ったのかと思ったが、そんな馬鹿なことが起きるはずもない。夫殺しのことなど、子どもの頭が、くわしく想像できるはずがない。昔なのか今なのか、時間が混然としてわからない。
――いかん――
ようやくわかった。
声ばかりではない。わかったとたんに闇の外の情景も見えて来た。私はL字型のアパートの、その床下に潜り込んだとばかり思っていたが、それもちがったらしい。
すぐ近くに……闇に隣りあわせて、私の泊まったコテージがある。風呂場がある。今どきめずらしい薪で焚く|風《ふ》|呂《ろ》|釜《がま》……。
窓ガラスのすきまにチューブがさし込んである。外から一酸化炭素が送られて来て、風呂場に充満する。その一酸化炭素のガスは、外でだれかが化学的に作ったものだ。たしか硫酸に|蟻《ぎ》|酸《さん》を入れて……。簡単なものだ。中にだれかがいれば、すぐに死んでしまう。そのあとで、チューブを抜いておけば、焚き釜の事故と推定されるだろう。
五十年前に起きた事件……。
しかし、子どもの私がそんなこまかい事情までわかるはずがない。
私はてっきり子どもの頃の記憶を呼び戻しているのだと思ったが、そうではないらしい。私が記憶の中へ戻って行ったと……それもちがう。
時間の経過なんて生きているときだけのものなんだ。死んでしまえば、時間の前後なんて、さして意味もない。
闇の外がはっきりと見える。
私が風呂場で死んでいる。
湯船の中で眠り、激しい恐怖を覚えて、湯船から跳び出した。激しい恐怖を感じたのは、私の置かれた情況を直感したから……。息苦しいのは当然だ。一酸化炭素を吸ってしまった。まず、意識がぼやけた。恐怖の理由を捜すのにずいぶん手間取ってしまった。日射しの中をさまよいながら暗い穴を捜していた。
間もなくまゆみが戻って来て、私の死体を発見するだろう。
遠い日に見た怪しげな男女。暗い穴。そこで聞いた不思議な会話。脳味噌の一番|芯《しん》のあたりに残っている記憶が、今の情況に少し似ていた。私のおぼろな意識はどうやらそれを捕らえたらしい。
「あなた、どこなの?」
まゆみの声が聞こえる。
しかし、私は暗い道を急がなければなるまい。恨んでるひまはない。この先になにがあるのか。恐れながら、怪しみながら、そしてなにほどかの期待に胸を弾ませながら進んで行く。
ふっふっと笑いが浮かんだ。さっきは精嚢から子宮へ至る暗い道を思っていた。人は暗い道を通って生まれ、そうしてまた暗い道へ戻って行く。そうとわかったとき、さっきからずっと続いている息苦しさが消え、ボウとばかりに私の意識が|闇《やみ》そのものに変った。
消えた男
|丸《まる》さんの本当の名前は、|丸《まる》|谷《たに》|一《いち》|郎《ろう》という。病室のネーム・プレートにそう書いてあった。
だが、だれもそんな名前を呼ばない。みんなが、
「丸さん、丸さん」
と言う。
体形がまるいわけではない。むしろ|痩《や》せぎすで、骨に皮がまとわりついている。きっと胃腸がわるかったにちがいない。
あえて言えば、人柄がまるい。まるいと言うより、あまり角が立たないよう、調子よく生きている。得体の知れないところがあった。
しかし……これは十数年も昔の出来事である。
――私は本当に丸さんに会ったのだろうか――
|訝《いぶか》しく思うときもある。丸さんの存在は初めから薄かった。
最近知ったことだが、関西ではスッポンのことを“まる”と言うらしい。スッポン|鍋《なべ》はまる鍋だ。偶然の一致だろうけれど、スッポンを見ると、私は|厭《いや》でも丸さんを思い出してしまう。
「あんな顔をしているけれど、|狙《ねら》った女は逃がさない。食いついて離れないんだ」
と、そんな|噂《うわさ》を聞いたことがある。
たしかに丸さんは、顔は笑っているが、眼は笑わない。軽くつきあっているぶんには、なんの支障もあるまいけれど、一皮むけばちょっと不気味な人柄なのかもしれない。
――油断がならない――
そう思わないでもなかった。
しかし、私のほうは学生だった。その少しあとは、なりたてのサラリーマンだった。奪われるものなど、なにもない。だから、どんな相手だって平気でつきあえる。
それに……ずっとあとになって気づいたことだが、丸さんには、男と女を、区別して考えているようなところがあった。
「人間がいて、犬がいて、そのあいだに女がいるんだ。女ってのは、言っちゃわるいが、|馬《ば》|鹿《か》だよ」
正確には思い出せないけれど、こんな意味の|台詞《せ り ふ》をときどき言っていたような記憶がある。
丸さんは女性にやさしかったけれど、心の中では馬鹿にしていた。めずらしくもない。男性にはよくあるタイプだろう。利巧な女もいるけれど、愚かな女も多い。丸さんは馬鹿な女としかつきあわなかっただろうから、丸さんの頭の中では、女の地図は馬鹿ばかりで埋まっていたにちがいない。
丸さんと会ったのは|三《み》|鷹《たか》の外科病院である。横浜の|埠《ふ》|頭《とう》まで遊びに行き私は船の甲板からポンと桟橋に飛び降りた。波で上下に揺れていたから、足場がしっかりしていない。
「|痛《いて》えッ」
降りたところで足首をくじいてしまった。
思いのほか重症で、一か月近くも入院して治療を受けることになった。
隣のベッドに寝ていたのが、丸さんである。
「あははは、|俺《おれ》とおんなじだ」
丸さんも足首の骨折だった。
「ああ、そうなんですか」
年齢のわかりにくい人だが、私より五、六歳は上だろう。
「窓から飛び降りたんだ」
「“坊っちゃん”ですね」
私は夏目漱石の“坊っちゃん”の冒頭のシーンを告げたが、丸さんはぴんと来なかったようだ。
――どうして窓から飛び降りたのか――
尋ねたと思うが、丸さんの答ははっきりとしなかった。ヘラヘラと笑い、
「あんただって、あんまり利巧じゃねえからなあ」
と私の顔を指さす。
まったくだ。
ちゃんと船から桟橋へタラップが渡してあるのに、甲板からいきなり飛び降りるなんて……。笑っていた丸さんも骨折の理由を説明しないところを見ると、ろくでもないことをしでかしたにちがいない。
丸さんの職業は画家だった。
「日本画じゃ。墨絵を|描《か》く」
と言われたときには驚いた。とてもそんなふうには見えない。
どんな|風《ふう》|貌《ぼう》ならば画家らしいのか、と聞かれたら私も困ってしまっただろうけれど、とにかく画家と言えば……芸術家だろう、芸術家ならばどこかに高貴なものを宿しているだろう……。いやいや、大人になって世間をよく知るようになってしまえば、現実はけっしてそんなものではなく、ずいぶん卑しい様子の画家もいないではないけれど、若い|頃《ころ》の私は、
――芸術家はなにかしら芸術家らしい表情を持っている――
と、たとえばミケランジェロ、たとえば横山大観、写真などで見る|容《よう》|貌《ぼう》は、
――なるほど、なるほど――
少年を|唸《うな》らせるくらいの、それらしさを担っていた。
丸さんはまるでちがう。むしろ貧相だった。
もっと幼い頃、私の家に時折姿を見せる|親《しん》|戚《せき》のどら|息《むす》|子《こ》がいて、彼は専門学校を中退してこのかた、ちゃんとした仕事に就いたためしがなかった。|章《しょう》ちゃんという名で、その名を言うときには、かならず|眉《まゆ》をひそめるのが、わが家の習慣だった。来るたびに職業が変っている。なにをやって食べているのか、わからないときも多かった。わずかばかりの小遣いを母からもらって帰っていく。
「しょうがないわね。あんなになっちゃ駄目よ」
子どもたちは、章ちゃんのそばに寄って話をすることさえ許されないような、そんな気配が私の家にあった。
その章ちゃんも、一昨年、交通事故にあって死んでしまったけれど、どういうタイプの生活を送っていたか、想像はできる。
丸さんは、章ちゃんに似ていた。顔や姿ではなく、物腰や雰囲気が似ていた。
――生活ぶりも似ているな、きっと――
この判断は多分当たっていただろう。われながらなかなかの眼力だった、と言ってよい。
考えてみれば、画家などという職業が一番あやしい。
|歴《れっき》とした画家になっているならば、あやしむことなんか少しもないのだが、自称画家、これはまことに|胡《う》|散《さん》くさい。
まったくの話、丸さんが絵を描いているところなんか、私は一度も見たことがない。絵を描かない絵描きなんて、しゃれにもならない。
着ているものだって、もう少し画家らしい服装というものがあるだろう。たとえばベレー帽、たとえばルパシカ、名代の色魔、大久保清は……あれは画家ではなかったけれど、服装だけは画家らしかった。|素《しろ》|人《うと》が|騙《だま》されるくらいの様子はしていたのだろう。
「|俺《おれ》は墨絵一筋だからな」
仙人のような|風《ふう》|采《さい》と言えば、聞こえがいいけれど、現代ではむしろ|乞《こ》|食《じき》に近い。
たしかに字はうまかった。
黒いボールペンで、スイスイと書く。なんとなくそれらしい形にはなっていた。
とはいえ、字のうまい人なんか世間にいくらでもいる。当てにはならない。それだけでは画家の|片《へん》|鱗《りん》とは言えまい。
唯一、画家らしいところと言えば、入院していたとき、ベッドの|枕《まくら》もとに墨絵が|貼《は》ってあったこと……左すみにただ〇印のサインがあって、
「これが俺の署名よ」
という話だった。
図柄は、とっくりのような、|壺《つぼ》のような容器が中央に描いてあって、細い口から煙が出ている。その煙の中にぼんやりと人の形が見え隠れしていて、
「なんですか」
「うん、仙人は壺の中から現われて、壺の中へ帰って行く」
「はあ?」
「俺は仙人の生まれ変りだからな」
「へえー」
「信じてないな」
と、睨みつけるから、
「信じてます、信じてます」
笑いながら答えた。
「俺は、ある日、かき消すようにこの世から消えてしまうからな。驚かんでもいい。そのときは|行《ゆく》|方《え》を捜したって無駄なこっちゃ。壺の中に隠れてしまうんだから」
両手で壺の形を作り、その中に吸い込まれて行く仕草を示す。
「中はどうなっているんです?」
「黒い|闇《やみ》だ。上から中を|覗《のぞ》いて見ても、ただ黒い闇が見えるだけだが、中はひろびろとして、とてもここちよい。まあ、温泉みたいなもんだな。気持ちよくって、気持ちよくって全身がとろけてしまいそうだ」
「そうなんですか」
「あんた、まだ女を知らんだろう?」
「まあ……」
恋愛の体験くらいならないでもなかったが、女性と体を交えたことはまだなかった。
「いい女を抱くと、体がトロトロにとろけてしまいそうになる」
「壺の中もそうなんですか」
「さよう。まことにここちよい」
丸さんは肌ざわりがどうの、足首のくびれがどうの、いろいろな特徴を挙げ、どんな女がいい女か、まことしやかな学説を垂れていた。
「俺の好みは、やっぱし、小またの切れあがった女だな。わかるか?」
「わかりません」
「わからんじゃろうな。小またの“小”ってのは、“ほんの少し”という意味でな、これは日本語の用法としては、めずらしい」
「はあ?」
「ほかにもいくつか同じ用例がある。“小首を|傾《かし》げる”“小腹がすく”“小耳に挟む”みんなそうだ。人間の体に小首ってところがあるわけではないし、小腹ってところが胃袋のどこかにあるわけでもない。小耳もそうだ。少し首を傾げる、少し腹がすく、少し耳に聞く、みんな“ほんの少し”っていう意味なんだ」
学のない人ではなかった。少々怪しい学問ではあったけれど、聞いていれば、
――なるほど――
と|頷《うなず》くことがないでもない。
「そういう意味なんですか」
「うん。で“小またが切れあがっている”ってのも、ほんの少しまたが切れあがってるんだが、その先がまたむつかしい」
「はあ?」
「“また”ってのは、|腿《もも》のつけねのところだな。V字形に線がついているだろう。ま、はっきり線があるわけじゃないが、胴と脚の境界線だ」
|両掌《りょうて》を自分の下腹に当て、V字形に切りあげる。
「水着の、下のほうの線のところですね」
「そう、そう。うまいことを言う。女は体に張りがあると、このV字形が鋭く、細くなってるものなんだ。逆に、しまりがなくなると、腹がゆるんでデレーンとこの線が|扁《へん》|平《ぺい》になってしまう。“小またが切れあがる”ってのは、この線が鋭く切れあがっていて、すっきりしていることだな。そういう女で、肌がしっとりしていれば、だいたい抱きごこちはわるくない」
「そういうものですか」
「そういうものだ。覚えておけ。損はない」
入院しているあいだ、丸さんのところへたしか三人ほど若い女性が見舞いに現われたはずである。
よく見なかった。
ほとんどなんの印象も残っていないのは、特別きれいな人ではなかったからだろう。最後の一人は、細身で、腰のあたりにばねのありそうな感じだった。
――これが“小またの切れあがった”タイプなのかな――
そんなことを思った記憶がかすかに残っている。
「丸さんて、もてるんですね」
短い期間に三人も若い女性が見舞いに来てくれたのだから、この判断には一応の根拠がある。正直なところ、丸さんは少しも|恰《かっ》|好《こう》よくないし、羽振りよく暮らしているわけでもない。私の眼から見れば、むしろもてないタイプのように思えたのだが、それは私が若かったからだろう。男女の仲はそれほど単純なものではあるまいから……。
「そりゃ俺は仙人の生まれ変りじゃからのう。女に好かれるくらい、わけないわ」
「へえー」
「じっと眼を見つめれば、それでよろしい。女はフラフラとよろめく」
おかしな眼つきで|睨《にら》む。
「でも、本当に蒸発してしまう人って、いるんですね」
私は、丸さんの頭の上に|貼《は》ってある絵を見ながら尋ねた。
「なんだ?」
「私の同級生で……恋愛をして、親が許さなかったもんだから、姿を消してしまった人がいるんですよ」
「ほう? 二人とも消えた?」
「はい。遺書も残さずに、ある日、突然いなくなってしまって……。もう三年たつのかな」
「なんの連絡もなく? その後ずーっと?」
「そうみたいですよ」
「死体も出て来ない?」
「はい」
「やっぱり壺に入っちまったかな、その連中も」
「今ごろトロトロにとけてるかもしれませんね」
「さよう。きっとそうだな」
ほとんどがとりとめのない会話だった。結論を求めるような話題でもなかった。入院中の退屈しのぎ……。病院を出てしまえば、みんな忘れてしまうような話題ばかりだった。
丸さんその人だって、
――入院中にへんてこな人がいたなあ――
と、かすかに思い出すくらい。その記憶だって何年かたってしまえば、頭の片すみにも残っていない、それが普通であるような関係だった。
丸さんが先に退院し、
「今度一ぱい飲もう。おごってやる」
「はい、はい」
二つ返事で答えたものの、その約束が守られることなど多分あるまいと私は思っていた。第一、丸さんがどこに住んでいるのか、私は知らなかった。連絡のとりようもないし、再会することなどほとんどありえない。
「じゃあ、元気で。しっかり勉強しろよ」
「お世話になりました」
そのまま途絶えてしまうのが当然であるような、そんな二人の関係だった。
一年後、私は学校を卒業し、サラリーマンとなり、あい変らず|武蔵《む さ し》|小《こ》|金《がね》|井《い》のアパートに一人で暮らしていた。
日曜日の午後、スーパーマーケットで買い物をしていると、
「よおッ、元気か」
ポンと背中を|叩《たた》かれた。
ふり返ると、丸さんが立っている。
――少し|痩《や》せたかな――
丸さんは、もともと太った人ではない。ヒョロリとして|竿《さお》のような感じである。
「お久しぶり」
顔色もあまり|冴《さ》えない。
ズボンの折りめがまっすぐに通り、よく見ると、黒いセーターにグレイの背広、丸さんにしては|垢《あか》ぬけた服装である。
「このへんに住んでるのか?」
「すぐ近くです」
「コーヒーでも飲もうか」
誘われて駅前商店街の奥にある“レンガ”というコーヒー・ショップへ行った。
“レンガ”は、その名の通り茶褐色の|煉《れん》|瓦《が》を積んで作った小さなコーヒー専門店で、丸さんはカウンターのまん中の席にどんと腰をおろして、
「友だちがやってるんだ」
と、マスターを紹介する。
「桜町に住んでんの? じゃあ、近くじゃない」
「安くしてやってよ。まだ学生さん……いや、ちがった、もうサラリーマンなのか」
「はい」
豆を|挽《ひ》く|匂《にお》いが香ばしい。ブルマンとモカのミックス。とてもおいしいコーヒーだ。丸さんのほうはウイスキーを頼んで、たちまちストレートで三ばいほど飲み干してしまう。
「酒をおごってやる約束だったよな」
と、丸さんは退院のときの約束を覚えていた。
「いいですよ」
「いや、いや、約束は約束だ。いい店があるから、一度行こう」
「ええ……」
「スッポン。食ったことあるか?」
「ありません」
「そう。あれはうまい。スタミナがつく。今度会社のほうへ電話をするから。あいてたらつきあってよ」
「はい」
名刺をさし出しながら、
「お仕事のほうは?」
と尋ねた。
あい変らず丸さんはなにを生業としているのかわからない。
「ぼちぼちだな」
笑いながら言う。
絵を描いているのだろうか。
描いた絵が売れるのだろうか。
「|壺《つぼ》の絵ですか」
「そう。わしゃ仙人の生まれ変りじゃけんのう」
と、どこの方言かわからない言葉で言い、マスターのほうを向いてめくばせをする。
「もう一ぱい」
グラスを滑らせる。
「いい加減にしたほうがいいよ、昼間っから」
マスターが|眉《まゆ》をしかめる。
「いや、いや、このくらい。勘定は払うからさ」
「銭のことはどうでもいいけどサ、体のこと、少しは考えなきゃ」
「死にやせん、死にやせん」
「コロッと死ねるものなら、かえっていいさ。長わずらいでもしたら、あんた、どうする」
「頃あいを見て壺の中へ隠れるから、かまわん」
口調がもう酔っていた。
マスターが肩をすくめて、グラスを満たし、ほかの客のほうへ移って行った。
古い友だちなのだろうが、丸さんはあまり歓迎されているようには見えない。気がつくと店のメニューにはアルコール類はいっさい記されていない。ウイスキーは丸さんのためにマスターが特別にサービスしてくれたものらしい。
「行こうか」
「はい」
丸さんは勘定を払おうともしない。
「あの……お勘定を」
と、私が言うと、
「いいから、いいから」
丸さんが引き止め、マスターも首を振る。
「ご|馳《ち》|走《そう》になります」
丸さんを追って外へ出た。
「いいんですか」
「かまわん。あるときにちゃんと払うから。ひいきにしてやってよ」
「おいしいコーヒーですね」
「そう? じゃあ、今日はここで。会社へ電話をするから」
「はい」
丸さんは体を揺らしながら去って行く。うしろ姿が、
――どんな生活をしているのかな――
無理に気勢を張っているようにも見えた。
私のほうはほとんど忘れかけていたのだが、三日後に丸さんから電話がかかって来て、
「スッポンをおごるぞ」
「すみません」
「遠慮するな。ちょっとつきあってくれ。いいだろ」
「ええ」
三鷹駅で待ち合わせ、肩を並べて北口の商店街を歩いた。
店まではほんの四、五分の距離である。
「一人じゃ、まずいんだ」
そう言ったように聞こえたが私の聞きちがいだったかもしれない。いずれにせよ、そのときは意味がよくわからなかった。
「えっ?」
「紹介したい人がいるんだ」
「だれです」
それには答えず、丸さんは間口の狭い店の格子戸を開ける。
「いらっしゃいませ。お二階へどうぞ」
階段の昇り口にハイヒールが|揃《そろ》えて脱いである。
「よおっ」
丸さんが障子を開け、
「あら」
と、中の女が丸さんの背後を見ようとして首を伸ばす。私と眼があった。もちろん知らない人である。
「そこで偶然会って……。いつか話したろ。病院で隣のベッドに寝ていた……」
と、私を紹介する。
――話がちがうな――
と思ったが、なにか丸さんに考えがあってのことだろう。
――見合いかな――
もしそうならば、
――困るなあ――
私自身、結婚のことなどまるで考えていなかったし、丸さんの世話で相手を見つけようなんて……チラッと考えたことさえなかった。
「あ、どうも」
女は戸惑いながら|挨《あい》|拶《さつ》をする。
三十近い女……。|眼《め》|尻《じり》にほくろがあって、まなざしが色っぽい。
――見合いじゃないな――
いくらなんでも三十近い女性を私に勧めるはずがない。
「にぎやかでいい、このほうが」
「ええ……」
と、女が首を|傾《かし》げながら|呟《つぶや》く。
――小首を傾げたな――
と、丸さんが病院で言っていた話を思い出した。反射的に、
――この女性、小またが切れあがっているかな――
と、それとなく容姿を観察した。
――細身ではあるけれど――
どことなくぼてっとした印象で、すっきりとはしていない。
店のおかみさんが上がって来て、
「なんにしますか」
「鍋がいい、鍋が……。それからお|銚子《ちょうし》。熱いのを、とりあえず三本……」
「はーい」
つき出しを三つ、机の上に並べながら、
「今日は一段とすてきじゃない」
と、女のほうを見て、愛想を言う。女はグリーンのワンピース、黒いベルトが|冴《さ》えている。
「そうかしら」
「とってもお似あい、ね」
そり身になって眺めてから階段を降りて行った。
「いいんですか邪魔しちゃって」
丸さんと女の顔を交互に見ながら私は尋ねた。丸さんと女は多分、
――男女の仲だろう――
どれほど深い関係かわからないけれど、親しい仲であることはまちがいない。観察していれば、おのずとわかる。
丸さんは|手酌《てじゃく》の酒をクイクイあおりながら、
「うまいだろ」
料理のほうはあまり食べない。
「はい」
「スッポンの|脂《あぶら》は、きめがこまかいんだ。ほら、浮いてる脂の玉が小さいだろ。豚の脂なんかは、こうはいかん。だから、スッポンはしつこくなくって、サラッとしてるんだ、味わいが」
|覗《のぞ》き込むように女のあいづちを求める。
「ええ……」
女は小さな声で答え、丸さんの顔をじっと見つめている。まなざしが怖いほど真剣だ。
――この人、丸さんに|惚《ほ》れてるんだな――
眼つきを見ていれば見当がつく。
多分、二人は体の関係もあるだろう。何度も抱き合っているにちがいない。だが、もう丸さんのほうはそれほど女に執着がない。適当にあしらっているだけ……。こうなると女はますます追いかける。丸さんは女から食事を誘われ、二人だけで会うのが不都合なものだから、それで私を呼んだ……。そんな事情がふさわしい。
居ごこちのよい役まわりではなかった。
ちぐはぐな雰囲気のまま会食が終った。三人で階段を降り、
「ご|馳《ち》|走《そう》さん」
「またどうぞ」
「あいよ、おいしかった」
「ご馳走さまでした」
「あのね、光子さん……」
おかみさんが女を呼び止め、二言三言、小声で話しあっていた。丸さんより女のほうがこの店をよく知っているらしい。そんな感じだった。
先に店の外へ出た丸さんが、少し離れて追って来る女に、
「今夜は彼と飲むから……。じゃあ、さようなら」
|顎《あご》で私を指し、私の肩を抱いて急ぐ。
「いいんですか」
「かまわん、かまわん」
女はあっけにとられてつっ立っている。街頭の淡い光の中で、女の顔がひどく恨めしそうに映った。火を吹くような怒りを含んでいた。
「ひどいなあ」
と言えば、
「ああいうタイプ、好きかね」
と聞く。
「好きってわけじゃないですけど……」
「しつこいんだよ、あいつは」
「かわいそうじゃないですか」
「|後《ご》|家《け》さんなんだ。男の味を知ってるから、しつこくてかなわん」
「でも、丸さんが|口《く》|説《ど》いたんでしょ」
「いや、口説かれたんだ。金、持ってるからなあ。便利って言えば、便利なんだけど、どうにもこうにもしつこい。あれこれ|俺《おれ》の私生活に干渉するから、かなわん」
「そりゃ、丸さんのこと好きだからでしょ」
それには答えず、
「スッポン屋の娘だから、食いついたら離れない。泣きながらしがみついて来る」
「スッポン屋の?」
今の店の人ではなさそうだったけれど……。
「そう。スッポンをおろしてんだ。|田《た》|無《なし》のほうで飼ってるんだ。ぼろい|儲《もう》けらしいぞ。ちょっとした池があれば、それでいい。下等な生き物だから、むつかしいことはなんもない。どぶみたいな池に何十匹も何百匹も飼っておいて、あとは|餌《えさ》だけやってればいい。餌だって、豚の臓物でも投げ込んでおけば、それでいいんだから、世話ないよ。東京中のスッポン屋におろして、ガバガバ|儲《もう》けている。少しくらい俺が使ってやったほうがいいんだ」
「そうなんですか」
「もう一軒、行こう」
車を飛ばして行った先は、|高《こう》|円《えん》|寺《じ》のバーだった。
「いらっしゃいませ。また酔ってるの」
「いや、今日はそんなに酔っていない」
この店のママは美しい。
色白で、肌がしっとりした感じで、これが“小またの切れあがっている”タイプなのかもしれない。
「きのうは、あれからどこ行ったの?」
「帰ったよ、家に」
「どうだか」
「いや、いや、本当だ」
「あやしいんだから」
「本当だってば」
「今晩……飲みましょ。店、早く閉めるから」
「うん、うん」
二人で顔を見あわせて、意味ありげに笑う。
――この二人もただの仲じゃない――
ほんの四、五分カウンターにすわっているだけで見当がついた。
「ご|馳《ち》|走《そう》になりました」
あまり長くいては邪魔になるだろう。私が席を立つと、丸さんは、
「あ、帰るの?」
私の存在などなかば忘れていたのではあるまいか。
「ええ、明日がありますから」
「そう」
「またどうぞ」
ママの声も、そらぞらしく聞こえる。
「いいんですか、ご馳走になって」
「かまわん、かまわん」
「じゃあ、失礼します」
店のドアを押して私は外に出た。
――丸さんはお楽しみだな――
今夜はきっとママの家にでも泊まり込むことになるだろう、多分……。
わけもなくスッポン屋で会った女の顔が浮かんだ。
――|眼《め》|尻《じり》にほくろがあったっけ――
泣きぼくろとかいうやつ……。
街灯の下で、本当に泣きだしそうになっていた。
――丸さんも罪つくりだな――
しかし、私には関係のないことである。私は丸さんとそれほど親しいわけではなかった。
私はあまり酒を飲むほうではない。酔った気分はきらいじゃないけれど、酒の味がわかるわけではない。
コーヒーなら、味のよしあしが吟味できる。“レンガ”には、何度か顔を出した。
「丸さんに会う?」
たまたま店に客がいなかった。マスターが自分用のコップにコーヒーをなみなみと|注《つ》いで私の前に立つ。
「いえ、会いません」
「あい変らず女でいそがしいのかな」
「私はそんなに親しいわけじゃないから」
「あ、そう。あんまり仲よくしないほうがいいよ」
笑いながら片眼をつぶる。
「そうみたいですね」
「根はわるくないんだが……あははは、ちょっとね。男はいいよ。実害が少ない。女は勧められないな、丸さんには」
「丸さんの仕事って、なんなんですか」
「知らないの?」
「絵描きだとか」
「絵描きねえー。墨絵くらいはたまに描くらしいけど、俺、見たことないよ、十年もつきあってるけどな」
「|壺《つぼ》の中に仙人が吸い込まれている絵がありましたよ、病院で寝てたとき」
「あれね。まるいサインがあって」
「はい」
「じゃあ、仙人の生まれ変りだっていう、よた話も聞かされたわけだ」
「はあ。俺も今に壺の中へ消えてしまうって」
「そう、そう。酒ばかり飲んでるから、本当にそう長くないかもしれん。血を吐きながら飲むんだから、おそれいってしまう」
「本当ですか」
「うん。注意したって、聞くような男じゃないしな。好きなように生きて、好きなように死ぬつもりなんだろ。丸さんの本業はな……あははは、女たらしだよ。電話帳に載ってる職業じゃないけどな」
「女たらし、ですか」
「そう、次から次へといろんな女と仲よくなって、その女から金をせびる。養ってもらう。才能があるんだねえ、やっぱり。|奴《やつ》に言わせりゃ、一流の画家はみんなスポンサーを持ってるってことだけど、女に貢がせることだけは才能がたしかにある」
「このあいだも、それらしい女の人に会いましたよ。丸さんのほうは、もう飽きちゃって……高円寺のママに|鞍《くら》|替《が》えをしたいようでしたけど」
「ああ、そう。あい変らず|阿《あ》|漕《こぎ》なことやってるわけだ。見てて、はらはらする。なにも起きなきゃいいんだけど」
「ええ」
新しい客が四、五人入って来た。
それから三か月ほどたって、本当に丸さんが消えてしまった。話を聞いたのは“レンガ”のマスターからである。
「いなくなっちまったんだ」
マスターの表情はいつになく真剣だった。
「なんですか」
「丸さんが蒸発しちまったんだよ」
「へえー、やっぱり」
冗談ではないらしい。
「身寄りのない男だし、家にだっていつかないから、しばらくわからなかったらしいけど、郵便受けに山ほど新聞がたまって……捜索願いが出されたようだよ」
「どこへ行ったんだろう」
「わからん。ここにも警察が来た。今にひょっこり顔を出すんじゃないかと思うけど……」
「そうですね」
まさか仙人になって壺の中へ帰って行ったわけではあるまい。
――どうしたのかな――
その後の様子が気がかりで、一週間に一度くらい“レンガ”に立ち寄ったが、
「わからん。本当に消えてしまったらしい」
「警察は……どう言ってるんですか」
「人ひとりくらい蒸発したって警察はそう真剣に調べてはくれないよ」
「ええ……」
「なんか心当たりがある?」
「いえ、べつに」
泣きぼくろのある女のことが、ちょっと頭をかすめたが、私はなにも言わなかった。私の知っていることくらい、周囲の人はみんな知ってるだろう。
――そうでもないのかな――
この日も客は私一人だった。
「お客さん、少ないですね」
店を見まわして私がなにげなく|呟《つぶや》くと、
「うん。|儲《もう》かる商売じゃないよ。単価が安いもん」
「そうなんですか」
「スッポンの飼育って、儲かるらしいね」
マスターが突然話題を変えて、スッポンのことを言い出したのは、なぜだろう。なにか心当たりがあったのだろうか。
「丸さんが言ってましたよ。スッポンは儲かるって」
「うん。あいつ、いろんなところに顔を出してるから妙なことを知っている」
「ええ」
「地下にまっ暗な池を作って、何十匹も何百匹も飼っておく。むつかしいことはない。上に口を作っておいて、|餌《えさ》だけ投げてやって、注文があったときに|掬《すく》い出しておろせばいい」
マスターが手ぶりで示す。一瞬、
――この仕草、前に一度、見たことがあるな――
と思った。
――ああ、そうか、丸さんが壺の形を手まねで見せてくれたときだ。
仙人が帰って行く壺の形……。
スッポンを飼う池が、大きな壺の形を作って私の脳裏に浮かんだ。
マスターがマッチの軸で耳掃除をしながら、
「餌のかわりに人間一人くらい|放《ほう》り込めば、いい餌になるんじゃないのかなあ。あははは」
顔をゆがめて笑った。
「あのう……」
「なーに」
「|眼《め》|尻《じり》に泣きぼくろのある女の人、知ってますか」
「いや」
「丸さんが親しい女の人」
「いや、知らん。親しい女が多すぎる」
警察はあの女を知っているのだろうか。たしか田無のほうで何百匹もスッポンを飼っているような話だったけれど……。
――しかし、いくらなんでも――
連想が突飛すぎる。
「どうした?」
「べつに」
私はなにも言わずに“レンガ”を出た。そのあと“レンガ”へ行ったかどうか、いつのまにか足が遠のいてしまった。
間もなく“レンガ”は店を閉めた。私も武蔵小金井から引越して|東中野《ひがしなかの》、|沼袋《ぬまぶくろ》とすみかを変えた。丸さんの消息は……まるでない。連絡がなければ、知るよしもない。だから、丸さんがどうなったかわからない。
どこかの街角でヒョッコリ顔をあわせるかもしれない。いずれにせよ十数年も昔のことである。
ただ……今でも時折、奇妙なイメージが心にのぼって来るときがある。
丸さんが正体もなく酔い|潰《つぶ》れている。顔色がドス黒く変っている。少しも動かない。首にはネクタイが巻きついている。
泣きぼくろの女が、
「だれにも渡さない」
泣きながらむしゃぶりつく。
長い|嗚《お》|咽《えつ》……。
声が|止《や》んだ。
女のまなざしは、ただごとではない。恨みと怒りと恐怖と、いっさいのネガティブな感情が眼の底に|澱《よど》んで鈍く光っている。
ストーン。
地下の暗い水槽に丸さんが吸い込まれるように落ちて行く。ざわめくような水音。何百匹ものスッポンが集って来て|貪《むさぼ》る。
あとにはなにも残らない。
ただ黒い、大きな壺の中。トロトロにとけてしまったらしい。
つい先日、私は関西でこの生き物の料理をまる鍋と呼ぶことを知った。とてもおいしいものらしいが、私はいつか一度食べたっきり、味も忘れてしまった。食べようとも思わない。
自殺ホテル
旅先のベッドで短い夢を見た。
薄暗い部屋。あかりを消して眠ったはずなのに……。どこから光が漏れて来るのかわからない。ベッドの|脇《わき》が広く空いている。そこに見慣れない背広がズボンと一緒にぶらさがっている。
ズボンのすそに足先が見え、中に人間の体が入っているとわかった。
――自殺だな――
顔を見るのが怖い。
子どもの頃に、私は|首《くび》|吊《つ》りの死体を見たことがある。ひどく首が長かった。紙みたいに風に揺れていた。それが夢に現われたのだろうか。
よく見ると、ぶらさがっているのは一つだけではない。三つか四つ、部屋のあちこちに|垂《た》れさがっている。
真実怖くなって眼を|醒《さ》ました。
あかりをつけ、白い壁を見まわし、
――みんなここで死んだ人たちかな――
と、今見た夢を思い返した。
北国の、荒涼とした海の見えるホテルである。長く眺めていると、知らない世界に誘い込まれそうだ。遠く、細く、だれかが呼んでいる……。
今までに何人もの旅人がここに泊まり、その中には死を企てた人もいただろう。
現実に死んだ人はいなくても、それを思った人はきっといる。その想念が壁に染み込み、|這《は》い出し、私の中に忍び込んで奇怪な夢を見させたのではあるまいか。
まったくの話、ホテルには、人のよく死ぬ部屋というものがあるらしい。
一人ならともかく、二人死に、三人死に、四人目となったら、もうただごとではない。その部屋に|怨《おん》|念《ねん》が|籠《こも》っていて、そこに泊まる人を誘うのかもしれない。
私は、ふとパリのロウモン街のホテルのことを思い出した。世界を|駈《か》け抜けた奇談。今では古い話だが、|牧《まき》|逸《いつ》|馬《ま》が書いている。
ロウモン街の、オテル・ダムステルダム。いつも同じ部屋。いつも金曜日。そこに泊まる客が自殺をしてしまう。
たしか最後は、若い医学生が実験的にこの部屋に泊まり、夜通し時間を決めて外部と電話で連絡をとり……その男も明けがたにドアを|鎖《とざ》したまま死んでしまう。
あの話には、ギャングの仕組んだからくりがあったはずだが、それとはべつに、
――きっとどこかにある――
つぎつぎに宿泊客が死んでしまうホテルの一室が……。私はあかりを消し、とりとめもなくそんなことを考えた。
新宿の裏通り。
薄暗いバー。
あなたは一人で水割りを飲んでいる。
はじめて立ち寄る店ではないけれど、さりとてよく来る店でもない。二か月に一度、あるいは半年に一度くらい。
古い|鳩《はと》|時《ど》|計《けい》。ガラス|壜《びん》の献金箱。安ウイスキーが棚に並んでいる。酒を飲ませるだけの店。着飾ったホステスがいるわけでもないし、サービスらしいサービスもない。カウンターの中に、四十過ぎのママがすわっていて、客の注文したことにだけ|応《こた》えてくれる。このママは笑うと、門歯にはめ込んだ金の枠が光る。
――あれを白い歯に替えればいいのに――
四、五歳は若く見えるだろう。
――どうするかな――
あなたはさっきから考えている。迷っている。
時刻は九時を過ぎていた。
あなたの家は|小《こ》|金《がね》|井《い》にある。親譲りの土地に建てた三階建てのマンション。一階を自分の家にして、二、三階を他人に貸している。結婚して五年だが、まだ子どもはいない。
夕刻、妻から会社に電話がかかってきて、
「|辻《つじ》|堂《どう》のミーコのところにいるの。今晩、ここに泊まるわ。よろしく」
あなたの返事も聞かずに、電話が切れた。
つまり、今夜は家に帰ってみたところで、だれもいない。暗い部屋が待っているだけだろう。
それなら新宿で夜ふかしをして、ビジネス・ホテルにでも泊まろうか。こんな夜には思いがけない出来事が待っているかもしれない。
二はい目の水割りを空にして、
「もう一ぱい、作って」
と頼んだ。
「はい、どうぞ」
「このへんにホテルあるかな」
「泊まるの?」
「考えてんだ」
「カプセル・ホテルがあるわ、この裏手に。でも、あれ、眠れないらしいわよ」
会話はそこで途絶えた。あなたは水割りを飲む。
――変だな――
なにかがおかしい。かすかに心に引っかかることがある。ああ、そうか。妻のことだ。夫婦の仲はあまりうまくいってはいない。このところ妻の外出が多くなった。どことなく様子がおかしい。
――抱きあったのは、いつが最後だったろう――
少なくとも今月はまだ一度もない。もう二十日を過ぎているというのに……。五年もたった夫婦だが、やっぱりそれは愛情のバロメーター……。どちらが避けているのか。
――まさか――
と、あなたはグラスを揺らす。
妻の悦子はわるい器量ではない。子どものないせいもあって、スタイルなんかなかなかのものだ。おしゃれもうまい。バンケットの事務所に登録して、ときどきコンパニオンをやっている。男に誘われることもあるだろう。そんな男と深い仲になって……。
――無理だな――
と、あなたは首を振る。
たいしたことはできないだろう。
根は欲張りの女だ。
欲張りは言い過ぎかもしれないけれど、だれだって安定した生活を望んでいる。女はとりわけそうだ。亭主に財産があって、適当に楽ができて……。
大企業のエリート・サラリーマンだって、そうそう豊かな生活が送れるわけじゃない。一生かかって土地つきの家が郊外に一軒持てるかどうか。
そこへいくと、あなたには親譲りの土地がある。駅の近くに二百坪。この先いろいろな利用法があるだろう。
結婚前、悦子には好きな男がいたらしい。
どれほどの関係だったか、あなたは知らない。
だが、結局はあなたを選んだ。そのほうがよい一生が送れると思ったから。女の|算《そろ》|盤《ばん》はしっかりしている。
――|俺《おれ》はそんなにわるくないもんな――
あなたはそれなりの大学を出ているし、一応世間に名の通った会社に勤めている。エリートじゃないけれど、そこそこに幸福な生活を送るぶんには、マイナスとなる条件はなにもない。むしろプラスが多い。悦子もそれをよく知っているはずだ。
今さら浮気なんかして、離婚にでもなろうものなら、悦子にはなんの得もない。元も子もなくなる。
――相手の男が俺よりいいはずがない――
けっして|自《うぬ》|惚《ぼ》れで言うわけではなく、常識としてそうなのだ。確率と言ってもよい。三十を過ぎた既婚の女が、そうそう条件のいい男と親しくなれるはずがない。ただ遊ばれるだけ。行く先にしあわせはありえない。
たしかにこのところ、あなたたち夫婦の仲はあまりしっくりとはいっていない。悦子は、家事万端、あなたの身のまわりの世話を含めて、今まで通りそつなくやってくれているけれど、どことなく心が|籠《こも》っていない。そんな気がする。
――|倦《けん》|怠《たい》期かな――
まあ、そんなところだろう。五年間も毎日顔を合わせていれば飽きも来る。子どものないのがいけないのだろう。
――悦子のほうはこんな状態で平気なのだろうか――
あなた自身は仕事もあるし、今はゴルフに夢中になっている。浮気の相手だって捜せばどこにでもいる。適当に人生を送るすべを知っている。
だが、悦子は中途半端なことがあまり好きじゃない。決断は早い。思いきりもいいほうだろう。だから好きな男ができたりしたら、手に手をたずさえて|駈《か》け落ち……。
――それもいいんじゃないの――
あなたにはなんの損もないことだ。新しい女を捜せばいい。アズ・ユー・ライク・イット。
――馬鹿らしい――
悦子はみすみす自分の損になることなんかやらないだろう。夫婦の仲はともかく、時間もお金も悦子はほとんど自由に使える。現在の気楽さは捨てがたい。“たいしたことはできないだろう”と、あなたが考える理由もそこにある。
「水割り、作りますか」
いつのまにか三ばい目も空になっていた。
「うん。じゃあ、もう一ぱいだけ」
すると、隣りにすわった男が、
「私にも、もう一ぱい」
と、グラスを滑らせた。
革ジャンパーを着た男。さっきあなたのすぐあとから店に入って来て、隣りの|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
髪を短く刈り上げ、横顔は……そう、実直な職人みたい。
――竹さんに似ている――
そう思って、あなたはもう一度隣りの男の顔をうかがった。
竹さんは、昔、あなたの家に出入りしていた植木屋さん。それが本職だったのかどうか……。大工仕事や大掃除の手伝いまで、なんでもやってくれた。あなたに|凧《たこ》|上《あ》げを教えてくれたのも竹さんだった。
隣りの男は、その竹さんにとてもよく似ている。なつかしい。
でも、竹さんが隣りにすわっているはずがない。もう死んでしまったのだから。仕事に失敗して……自殺をした。
「なにも死ななくてもいいのに」
みんながそう言っていた。
原因のはっきりとしない自殺だった。
――人は急に死にたくなることがあるのかもしれない――
子ども心にそう思った。
今でもときどき同じことを考える。
「ここにはよく見えるんですか」
いきなり隣りの男が話しかけた。むしろぶっきらぼうに聞こえる声である。
「たまに」
話を続けるのかと思ったが、相手はそのままなにも言わない。あなたのほうが気詰まりになって、
「あなたは?」
「ええ……」
|曖《あい》|昧《まい》に|呟《つぶや》いて、あらぬ方向を眺めている。
「なにかおもしろいこと、ありますか」
と|尋《たず》ねてみた。
本気で|訊《き》いたわけではない。天候の|挨《あい》|拶《さつ》みたいなもの……。なんの期待もしていなかった。
ところが、革ジャンパーはポンとカウンターを|叩《たた》いて、まるで渡りに舟とばかりに、
「あります」
と答える。
「なんですか」
当然、会話はこうなる。
すると革ジャンパーは、それが癖なのか、それとも答を捜しているのか、口もとをヒクヒクと動かしてから、
「わ、わたし、|四《よつ》|谷《や》でホテルをやってましてね」
と、|吃《ども》りながら答える。ママとあなたのやりとりを聞いていたのだろう。
「はあ?」
しかし、そこでまた話が途切れてしまった。
――ホテルなら泊めてもらおうか――
あなたは男の横顔を|覗《のぞ》く。
男はゆっくりと水割りを飲んでから、
「連れ込み旅館みたいなもんなんだけど、ちょっとおもしろい部屋があるんですよ」
カウンターの中のママをチラリと見てから小声で|呟《つぶや》く。
――ああ、そうか――
男の様子から見当がつく。
壁に仕掛けがあって、隣りの部屋のベッドが|覗《のぞ》けるようになっていて……。
「なるほど」
あなたは一つめくばせを送ってから、
「泊まれるんですか、男一人でも」
と、話題の焦点をわざとそらした。
「もちろん」
「家が小金井のもんだから……。まあ、帰ってもいいんだけど」
泊まるもよし、泊まらぬもよし。事実あなたはそんな心境だったし、男のペースにまき込まれないためにも態度を|曖《あい》|昧《まい》にしておいたほうがいい。
「好き好きですけど……。いろんな人がいるから。一ぺんくらい覗いてみると、おもしろいですよ」
革ジャンパーは、あい変らず職人みたいに実直な調子で言う。|独《ひと》り|言《ごと》みたいにも聞こえる。とてもこの手の商売の客引きには見えない。
「覗けるわけね、隣りの部屋が?」
あなたもママを盗み見ながら小声で|訊《き》く。
「そう」
「ちょうどいいお客なんか来るかなあ」
できることなら、若くてきれいな女。男のほうはどうでもいいけれど……。
「来ますよ」
「本当に?」
「本当です」
ひどく自信がある。
「で、その……宿賃はいくらなの?」
「二千円で、結構です。食事は出しませんから」
高いのか、安いのか……。むしろ気がかりなのは、
「見学料は?」
と、こちらのほうである。
酒場の客は、あと一組だけ。ママはその近くに細い椅子を置いてすわっている。
「いりません」
「いいの、それで?」
理屈に合わない。
二千円は本来の宿代であり、特別な|演《だ》し物については別途の料金をもらわなくては、わざわざお客を誘う|甲《か》|斐《い》がない。
「じゃあ、千円だけプラスしてもらって」
「ふーん」
「やばいことですから。ほんの気の合った人だけ……」
と、あわてて弁明する。
今、知り合ったばかりなのだから、気が合うも、合わないもない。それとも前にこの酒場で会ったことがあるのだろうか。
――どうせたいした宿ではあるまい――
|滅《めっ》|多《た》に客も来ないホテル。せっかく宿を捜している男と隣り合わせたんだから、客引きをしたほうがよかろう。アトラクションをつけて。
元手のかかることじゃなし、客をその気にさせ、そのうえタバコ銭くらい入れば、それでいいのかもしれない。
「本当にそれだけでいいんだね。|俺《おれ》、|銭《ぜに》を持っていないから」
「はい。そうしてください。ちょっと電話をかけて来ますから」
と、立ち上がり、入口の|脇《わき》に置いてある電話のダイヤルをまわした。
すぐに通じたらしく、小声で話している。
ママが近づいて来たので、あなたは、
「常連?」
と尋ねた。ママは首を振り、
「はじめてだと思うわ。知り合いじゃなかったの?」
「いや。これじゃないだろうな」
と、あなたは人差指で|頬《ほお》を切る。
「ちがうわよ」
「わかるのか」
「わかるわよ。こういうところで商売していれば……。そういう感じじゃないわね。|堅《かた》|気《ぎ》の人よ」
と保証してくれた。
革ジャンパーが戻って来て、
「ちょうどいいみたいですよ」
と言う。
「そう。今から?」
「早いですか」
「いや、いいけど。お勘定、二人分」
とママに告げた。
「あ、いいですよ」
と、革ジャンパーが手を振る。
「いや、いや。どうせ……ここの勘定は安いから」
「すみません」
丁寧にお辞儀をする。
話がきまればタイミングは男にまかせたほうがいい。二人連れだって店を出た。
表通りの角で、男がタクシーを止める。
「|四《よつ》|谷《や》三丁目まで」
運転手が無言のまま車を走らせる。近距離なので機嫌がわるいらしい。
革ジャンパーはチョコンとすわっている。|華《きゃ》|奢《しゃ》な体つき……。五十に近いのかもしれない。
――|喧《けん》|嘩《か》をしても負けないな――
あなたは指をポキンと鳴らした。
だれもが|覗《のぞ》き見に関心がある。どんな紳士淑女でも。例外はない。なにかしら人間の心理に|適《かな》う要素を含んでいるのだろう。
自分の身は安全なところへ隠しておいて、他人の一挙手一投足を観察する。日ごろ隠している部分まで|隈《くま》なく見てしまう。
エロチックな要素が加われば、さらに胸がときめく。
バルビュスの“地獄”……あれは、どんな結末の小説だったのか。ある時代の代表的な|艶《えん》|書《しょ》だった。
世界文学全集に収められていたのだから、ひとかどの文学作品なのだろうけれど、伏せ字だらけで、よくわからないところがたくさんある。それでもみんなが夢中になって読んだ。ホテルの一室らしかった。それともアパートだったろうか。とにかく壁に穴があって、そこから隣りの部屋の様子が覗ける。穴のむこうでは、女が服を脱いでいる。少しずつ白い肌があらわになる……。
あの興奮は忘れられない。何度も何度もくり返して読んだ。そのくせ結末は|憶《おぼ》えていない。
四谷のホテルは思ったより遠かった。道の渋滞もひどかった。
細い道を走り抜け、
「そこの角」
と、革ジャンパーが車を止めた。
六百五十円。基本料金より二区間だけ多い。
「払いますよ」
と、あなたがお金を出す。
「じゃあ、半分だけ」
「いい、いい」
「そうですか。ご|馳《ち》|走《そう》になります」
男は足早に進む。
白っぽい、モダンな二階建て。“ホテル時田”と、看板に記してある。
「新しいんですね」
「三年前に建てて……」
「|儲《もう》かりますか」
「いやあ、儲かりません。でも、私ゃ、ほかに内職をやってますから」
「なに?」
「ウフフフ」
と笑う。|覗《のぞ》きを見せるのが内職らしい。含み笑いはそんなふうに聞こえた。
「普通のお客さんも泊めるの?」
と、あなたは話題を変えた。ラブ・ホテルでは一人客を泊めないと聞いたことがある。
「泊めますよ。ちょっと待ってくださいね」
玄関に|長《なが》|椅《い》|子《す》が置いてある。
男はいったん奥へ引っ込んだが、間もなく戻って来て、
「もう少し待ってくれませんか。あと三十分くらい……。なんでしたらコーヒーでも飲んで……。裏の路地を出てすぐのところにモナミってのがあります。わりとおいしいですよ」
「結構大変なんだね」
乗りかかった船だから仕方がない。
覗いてみたところで失望するだけかもしれない。わるい予感がする。あなたはこれまでに他人の情事を覗き見たことなんか一度もない。滅多にない機会だから、まあ、見ておこう。見て、おもしろいかどうか……。
細い裏道を抜けて表通りに出るとモナミがあった。
「アメリカン」
「はい」
夕刊を手に取って社会面を広げた。見出しを追った。
電話ボックスに忘れた三百万円が戻って来た話。|大《おお》|田《た》区で起きている連続放火事件。それから銀行員の自殺……。
あなたは自殺の記事を丹念に読む。
大銀行に吸収された小さな銀行の職員。人間関係に悩んで首を|吊《つ》った。
――俺は大丈夫かな――
あなたもあまり人づきあいがうまいほうではない。先月、所属が変わり、新しい課長とは肌が合わない。なによりも、むこうがあなたのことを、
――気に入らない奴――
と思っているだろう。
いつかはきっと衝突する。
――そのときは辞めりゃあいいんだ――
なにも死ぬことはない。この銀行員みたいに……。死ぬほど思い悩まなくちゃいけないことなんて、この世にありやしない。
――竹さんはどうだったのかな――
自殺者の心理はよくわからない。だれにもわからない。
はたから見れば|些《さ》|細《さい》なことのように映るが、当人にはどうにも耐えがたいことだってあるだろう。痛みの深さは他人にはわからない。
あるいは、また、
――案外、簡単な理由で死んじゃうのかもしれない――
と、あなたは考える。
わけもなく死にたくなり、ちょいと敷居を|跨《また》ぐように生と死の境界線を越えてしまう。
そんなとき、たまたまゴキブリが一匹|這《は》い出して来て、それを追いかけているうちに、
――やめるか――
と、自殺を断念してしまう。
そのくらい軽い決断……。
そんな自殺もあるのではないだろうか。
「さて、戻るか」
あなたは腕時計を見る。
ちょうど三十分たっていた。まだ頭の中に酔いが残っている。
「今晩は、いいですか?」
玄関のドアを細めに開けてそっと声をかけた。
「はい」
主人は革ジャンパーを脱いでセーター姿になっていた。
「ちょうどいいところでした」
「どうも」
「きれいな女のかたですよ」
と、うれしそうに笑う。
それはよかった。
「ええ……」
「これからご案内します。それで……隣りの部屋の壁に女神の顔が彫ってあるんですよ。ちょうど、こう、お面みたいに。高いところにあるから、下からは見えません。そこに首を入れて……。こっちの部屋の電気は消しておいてくださいね」
「はい」
「音を立てないようにして……」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
どんな風景が見られるだろうか。
足音を忍ばせて階段を上がった。
主人が|鍵《かぎ》を取り出してドアを開け、目顔で中に入るようにと言う。
あなたが足を踏み入れる。
パチン、パチン。
スウィッチが二度鳴って、部屋のあかりがつき、すぐに薄暗がりに変わった。
六畳間ほどの洋室。右すみに幅広いベッドが寄せてあり、左半分は軽い体操ができるほどの空間になっている。
「あそこ」
と、主人が指をさす。
左手の壁の高い位置に、人間の頭が入るほどのまるい穴が空いている。
そこに首を突っ込むと、それがちょうど隣りの部屋の女神の顔になるのだろう。
穴の位置は大分高い。
だが、穴のすぐ下に手ごろな高さの踏み台が置いてある。
「そっと首を入れてくださいね」
あなたはこっくりと|頷《うなず》く。
「お茶はあそこにありますから」
ベッドの|枕《まくら》もとにポットと急須と茶わんがそろえてある。
「ここに泊まるの?」
今度は主人が頷いた。
「お|風《ふ》|呂《ろ》は下でどうぞ。あとでわかしておきますから」
テレビもなにもない。とても殺風景な部屋だ。夜通し隣りの部屋を見ていろということなのだろうか。
|喉《のど》が渇いていた。
あなたは|薄《うす》|闇《やみ》の中でお茶を入れた。
「あかりをつけちゃいけないの?」
「いいえ。でも、覗くときだけは暗くしておいてください」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
主人がお辞儀をして立ち去る。
――さて――
ベッドに腰を下ろし、あなたはお茶を飲む。あわてることもあるまい。
――隣りの部屋はどうなっているのかな――
耳を澄ましたが、話し声は聞こえない。本当に二人連れがいるのだろうか。ベッドの中でスヤスヤ眠っていたりしたら……つまらない。
薄闇に眼が慣れた。
壁紙は無数の風船を散らしたような水玉模様。大きな丸もあれば、小さな丸もある。ちょっとサイケデリックな感じ……。じっと見つめていると、軽いめまいを覚えてしまう。
コトン……。
かすかな音が聞こえた。
隣りの部屋から……。
――やっぱりだれかがいるらしい――
隣りの部屋にはバスルームがついていて、二人は一緒に入って、今出て来たところではあるまいか。
テレビの音声が聞こえる。
スウィッチを入れたらしい。
――男なんか見たくないな――
浴室から先に出て来るのは、きっと男のほうだろう。二人一緒にいるのなら話し声くらい聞こえてもよさそうだ。
――|担《かつ》がれたんじゃあるまいな――
主人は律義そうな印象だったけれど、|得《え》|体《たい》の知れないところも少しあった。
――まあ、しかし、|覗《のぞ》いてみればわかることだ――
あなたはお茶を飲み干し、ベッドを離れた。
――よいしょ――
踏み台に上がり、細い穴に首を入れた。
穴は滑らかな傾斜を作り、思いのほか奥深い。首をぐっと伸ばさなければいけない。眼の位置に二つ小さな穴が並んでいる。光が|漏《も》れている。
そこに眼を近づけた。
フロアー・スタンドのそばに、
――女が二人いる――
まっ裸で……。
いや、そうではない。
裸の女が一人、背を向けて鏡に体を映している。
顔は見えない。
やはり|風《ふ》|呂《ろ》から上がったところらしい。タオルで体を|拭《ぬぐ》っている。
ウエストもよくくびれて……スタイルのわるい女ではない。
――顔が見えないかな――
さらに首を伸ばしたとき、あなたの首のあたりになにかが触れた。
だが、それを確かめるより先に、女がふり返った。
――あっ――
声を上げそうになった。
人間の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》は一瞬のうちにいろいろなことを思い浮かべる。確かなことも、不確かなことも、事実も推測も、前提も結論も、みんなゴチャゴチャに浮かんで頭の中を|駈《か》けめぐる。
――親切な男なんだ――
あなたはとっさにそう思った。このホテルの主人のことを……。律義な物腰はこの判断にふさわしい。
女はふり向き、髪をかき上げ、視線を少し上に向けた。
――悦子だ――
一秒をいくつかに区切って少しずつそれがわかった。疑いようもない。
――見つかったかな――
一秒をいくつかに区切って、そうではないとわかった。
女はたしかに視線をあなたの方に向けたが、すぐに眼を伏せ、体をもとに戻して鏡の中を|覗《のぞ》き込む。
――気づかれてはいない――
それはともかく、
――どうして――
こんな偶然があるものだろうか。
多分……ありえない。
――ホテルの主人が俺に教えてくれたんだ――
と、あなたは思う。彼はとても親切な男だから「奥さんは、こんなことしてますよ」と……。
こんなときだというのに、
――悦子の裸はなかなかきれいだな――
頭の片すみで観賞している部分がある。
捨てたものじゃない。しげしげと眺めたことなんかなかった。これならば、|愛人《お と こ》の一人くらいいてもおかしくない。
――相手はだれなんだ――
思い当たる男はいない。結婚前の恋人。パーティーで知り合った男……。そいつはまだ|風《ふ》|呂《ろ》に入っているのだろうか。
――どうしよう――
相手の男の顔をはっきりと見きわめたあとで、今晩はひとまず帰ろうか。
本当にいくつもの思案が、あちらからこちらから思い浮かんで騒ぎ出す。ゆっくりと記録したならば、リポート用紙で十枚くらいにはなってしまう。
しかし、時間はとても短かった。
妻がふり返り、視線を上げ、視線を戻し、鏡の中を|覗《のぞ》いて、次の動作を起こすまで……そう、二、三秒。
あなたはと言えば、隣りの部屋の風景にすっかり気をとられ、それでも首のあたりになにか異物を感じて手を上げようとしただけ……。
――いかん――
また頭の中を、さらに速いスピードでいくつかの思案が走った。
――これが……ホテルの主人の内職だったのか――
あなたの妻は、自分が女神の眼の位置から覗かれることを知っていた。覗く人がだれであるかも……。
隣りの部屋に人の気配を感じ、衣服を脱いだ。そうするように、と、ホテルの主人に言われていた。鏡の中を覗いて、女神の眼の中にたしかに人間の眼が重なっていることを確かめた。つぎの瞬間、右手の壁に向かって直角に刺してある棒をトンと強く押した。それもホテルの主人に言われていたことだった。
棒は壁を抜け……そう、あなたが、つい今しがた眺めていた水玉模様の壁紙を破り、あなたが乗っている踏み台を突き飛ばす。
あなたが首筋に感じた異物は、輪を作った縄。力が下に加われば、輪は細く締まる。
ガタン。
――悦子はいくら払うのだろう――
あい変らず短い時間にいろいろなことを考える。だが、すぐにあなたの意識は|稀《き》|薄《はく》になった。
|痙《けい》|攣《れん》し、左右に揺れ、やがてその動きも止まった。
首が長く伸びている。
あとはホテルの主人が、壁の|覗《のぞ》き穴を同じ壁紙を|貼《は》ったベニヤ板で隠し、それからもう一つ、棒の突き抜けた穴にも水玉の模様を貼りつければそれでよい。
「これで三人目ですよ」
「死にたくなるのかね、この部屋に泊まると」
刑事はきっと首を|傾《かし》げるだろう。
北国のさびしいホテル。私はベッドに寝転がっている。寝転がってとりとめのない想像をめぐらした。
だれかがこの部屋で死んだ。死を企てた。一人ではなさそうだ。
|薄《うす》|闇《やみ》の中にゆらゆらと揺れている姿が感じられてならない。
隣りの部屋にだれかがいる。
|睦《むつ》|言《ごと》が聞こえる。
どこかに覗き穴はないものだろうか。私はベッドの上に立ち上がった。
慶州奇談
赤と黄の鮮やかなコントラストだった。
単純な配色でありながら、輝く春の光の中でわけもなく高貴なものに映って見えた。
普通の色あいと微妙に異っていたのかもしれない。たとえば織り糸の中に何パーセントかほかの色を加える、ほかの光沢を加える……。あるいは、重ねのようなもの。表面は赤と黄でも、一枚下になにを置くか、それによって色調は変化する。そのあたりに民族の長い文化の伝統が秘められていたのかもしれない。
それとも、なにもかも春の日の|悪《いた》|戯《ずら》だったのだろうか。
赤と黄のコントラストは、韓国の民族|衣裳《いしょう》チマチョゴリの配色である。チマが赤く、チョゴリが黄色い。日本人の感覚なら、きっと上から下へ、黄と赤の配色と言うだろう。
私は二十代だった。
所用でソウルに赴き、慶州まで足を伸ばした。
急な出張だったので韓国の地誌についてはほとんどなんの知識も持ちあわせていなかった。帰りの便まで三日ほど余裕がある。
――どこか見物するところがないかな――
ホテルのフロントで勧められた名勝地が慶州だった。
まだ日本人の韓国観光旅行など、さほど多くはなかった|頃《ころ》である。韓国政府もあまりこの方面の施策に力を入れていなかった。
――古い都らしい――
その程度のことしか知らなかった。
正確には|新羅《し ら ぎ》の王都。私が新羅と慶州について若干の知識を集めたのは、むしろ帰国してからのことである。
日本語のガイドブックも見当たらず、漢字とハングル文字とをまぜた地図が一枚。私に理解できるのは漢字のほうだけだった。
ソウルから長距離バスで四、五時間。
朝一番に出発するバスを選んだが、ホテルを出たときから体がだるく、微熱があった。
――|風《か》|邪《ぜ》かな――
慣れない仕事の疲労もあっただろう。
――ひどくなるかもしれない――
そんな予感がないでもなかった。
めったに風邪をひかないたちだが、たまに高い熱を出す。そのときは、ただひたすら体を休めているのがよい。むしろソウルのホテルで手続きを頼んで、帰りの便を変更すべきだったろう。
――せっかく知らない国に来たのだから――
一か所くらいソウル以外の土地を踏みたかった。
戦後生まれの私には、日本人がこの半島で犯した罪の記憶などあろうはずもないけれど、知識としては一通り知っている。対日感情はけっしてよいとは言えまい。ほとんどの人がやさしく接してくれたが、なにかの拍子にふっと無気味なものを感じないでもなかった。
バスはほとんど人家の見当たらない丘陵地を走り続ける。一度だけ|停《とま》っただろうか。眠りからさめると慶州だった。
町の中央に位置するバス・ターミナルで降りて、あとは地図を頼りに歩いた。仏国寺までほんの二駅だけ列車に乗った。
韓国の風土は日本とかなりちがっている。
地層は薄く、岩盤が地表に迫っている。だから大木が少なく、ところどころに灰色の岩壁がむきだしになって立っている。高い山も少ない。
太陽が少し傾き始める頃、仏国寺に到着して広い境内を散策した。
みごとな快晴だった。うらうらと気が遠くなるようなのどかな午後だった。
一つ二つ浮かんだ雲が、空の青さを際立たせている。山に野に春の気配が|溢《あふ》れている。そして、ほとんど人の姿を見ることがない。
|陽《かげ》|炎《ろう》が揺れている。
そして私の体も揺れている。
風景はあまりにのどかすぎて、現実のこととは思いにくい。微熱に冒され、私の意識もかすかにおぼろだった。
考えてみれば、昨夜はソウルにいた。その数日前は東京にいた。どちらの町も忙しく、かまびすしい。
――それが、今、まるで現代ではないような雰囲気に包まれている――
寺院の様子も日本とは少しちがっている。
ところどころにけばけばしい色彩があって、それも熱を帯びた眼には、夢幻なものに感じられた。
近くに|石《せっ》|窟《くつ》|庵《あん》があるらしい。
どういう風景かわからないけれど、名勝地の一つであることはたしからしい。地図には白い仏像の絵が丸い輪に囲まれて記してある。
山道を登って行けば、たどりつけるだろうと、方角を定めて歩きだしたのだが、どこかで道をまちがえたようだ。道しるべもない。最初から方角を失っていたのかもしれない。
切り通しのような坂を抜けると、短い草の|繁《しげ》った|窪《くぼ》|地《ち》が広がっていた。
――疲れた――
細道の|脇《わき》に腰をおろし、体を横たえた。少しまどろんだかもしれない。
赤と黄の鮮やかなコントラストを見たのは、このとき、この草原の道だった。
あとで思い返してみると、夢の中でも赤と黄の|蝶《ちょう》が舞っていたような記憶がある。|上翅《じょうし》が黄色、|下《か》|翅《し》が赤……。そんな色あいの蝶が本当にいるものかどうか。だが、夢の中ならなんのさしつかえもあるまい。
蝶は私のそばまで飛んで来て、周囲を一、二度まわって飛び去って行く。
幼い頃に聞いた物語が頭の片隅にあった。
男が沼のほとりに立っていると、水の中から|蜘《く》|蛛《も》が|這《は》い出して来て、その男の足もとをまわって水の中へ戻って行く。何度となく同じ動作をくり返す。いつのまにか蜘蛛の糸が男の足にからみつき、
――それっ――
とばかりに水の中に引き込まれる。その先がどうなったのか、物語の続きは忘れてしまったけれど、とにかく蜘蛛が何度も何度も、足もとに寄って来て這いまわる情景だけが心に残っていた。
――男は引き込まれるまで糸の感触に気づかなかったのだろうか――
気づかないからこそ引き込まれたのだろう。だから、多分、見えない糸……。
それなら蝶だって見えない糸を操るかもしれない。そんな思いが私の心のどこかに宿っていたらしい。
遠い|山稜《さんりょう》の上に雲が一つ浮いていた。蝶はその雲の中から現われて、私の周囲をめぐって飛び、いつのまにか見えない糸が私の体に巻きつく。
――それっ――
私の体が宙に浮き、草原を越え、山稜を見おろし、雲の中へと飛んで行く……。
私が寝転がっていたのは、草原の道と道とに挟まれたゆるい傾斜の上だった。前にも、うしろにも細い土の道がある。背後の道が下り坂を作って、ほんの十数メートル先のところでななめに前の道に接している。それとは逆の方向に、よくは見えないが、土の階段のようなものがあるらしく、下の道から背後の道へと登ることができる。つまり私は、二本の道と階段とが作る三角形の中の草原に休んでいたわけであり、赤と黄の衣裳が、一、二度そのコースを通って、私のまわりをめぐり歩いたのは、夢ではなく、現実だったのかもしれない。
まどろんではいたが、ときどき眠りが浅くなるときがあったらしい。ほんの一瞬、感覚が目ざめるときもあっただろう。
――私の周囲をチマチョゴリが歩いている――
そんな意識が夢の中に忍び込んだのではあるまいか。
眼を開けると、本当に赤と黄のチマチョゴリが私の前を歩いていた。ちょっと背をかがめるようにして。
色彩の鮮やかさは、すでに述べた。
女は階段のほうに向かって行き、そのまま立ち去った。
だが、間もなく背後の道のむこうに、夢の中で見た|蝶《ちょう》とよく似た気配を感じて……おそらく私の眼の端っこがその色彩を捕らえたのだろうが、なにげなく、首をまわすと、女が黄色のチョゴリに赤いチマをはいて近づいて来る。
今度も早足だった。
下を向いて……しかし、私がいることは充分に知っているように感じられた。
すぐに近づき、かすかに|衣《きぬ》ずれの音を残して坂道をくだり、
――どっちへ行こうかしら――
少しためらったのち、私の前を通り抜け、そのままさっきと同じように下の道を遠ざかって行く。下の道は間もなく林に入って、女の姿はその中へ包まれて見えなくなった。
私が眠っていたとき、女は上の道、下の道そして階段と三角形を描いて私の周囲をまわり歩いていたのではあるまいか。まどろみの中で、そういう気配を感じたからこそ私は蝶の夢を見たのではなかろうか。
女がどうしてそんなことをするのか、もとより理由はわからない。わからないからこそ、蝶が見えない糸を操って私を雲の上にまで連れて行く、などと奇妙なことを想像したのではなかっただろうか。
――草原の|衣裳《いしょう》だな――
とりとめもなくそう思った。
正確な知識は持ちあわせていなかったが、韓民族は多分騎馬民族だったろう。男が馬を駆って草原のかなたから家へ帰って来る。迎える女は、たったいま見たチマチョゴリのように明快な色彩をまとっていたほうがわかりやすい。細かい模様はふさわしくあるまい。
――それにしても鮮やかだったな――
太陽の位置はさっきより大分低くなっていた。
――どうしよう――
体が重い。いつまでもこんなところにすわっていても仕方がないと、それを承知していながら、つぎの行動を起こすのが、ひどく|億《おっ》|劫《くう》に感じられてしまう。
「へえー」
私は思わず声を|洩《も》らしたのではあるまいか。遠い林の中から、また赤と黄のチマチョゴリが現われた。さっきと同じように足早に近づいて私の前を通り過ぎて行く。
私のすわっている位置を挟んで西と東に、つまり林のむこうと傾斜のむこうとに、たとえば村があって、女はなにかの用件で二つの村を行き来しているのだろう。用件の中身はわからないが、それ以外の事情は考えにくい。
――しかし、チマチョゴリってのは普段着なのかなあ――
かすかな違和感を覚えたのは、そのせいだったらしい。
ソウルでは、ソウルの町中では、ほとんどこの衣裳を見ることがなかった。景福宮の庭園で二人ほど着飾っている姿を見たが、そばに新しい背広姿の男が寄りそっていて、
――新婚旅行らしい――
と感づいた。
つまり、特別なときでもなければ、この民族衣裳をまとって歩くことはない。日本人の和服姿よりもっとめずらしく感じられた。
慶州に移って、ここでも見なかった。町の風情はソウルよりずっと民族衣裳にふさわしく感じられたが、やはり屋外でやたらに眼に触れるものではないらしい。
それが今、草原の中の土の道を行き来している。チマは引きずるようなデザインだから、いくらたくしあげて歩いても、土ぼこりで汚れてしまうだろう。
「こりゃ……なんだい」
驚いたことに、さらに、もう一度彼女は現われた。
私のそばまで来て遠い雲を望むように顔をあげて視線を伸ばす。
面ざしは整っている。ちょっと|吊《つ》り眼がち。肌の薄さを感じさせるような色の白さである。
言葉をかけたいのだが、私はハングル語が話せない。たしかこんなときには「アンニョンハシムニカ」と言えばよいはずだが、それもうまく一続きの言葉として言えるかどうか自信がなかった。
戸惑っているうちに女は歩調をゆるめ、小首を曲げ、
「今日は」
と、明快な日本語で告げた。
かすかに間のびしたような抑揚だが、この音声ははっきりと意味がわかる。
「今日は、どうも」
笑いながら答えた。
照れ笑いの意味がうまく通じたかどうか。
女は足を止め、
「日本から来たんですか」
と尋ねる。
「そう。うまいね、日本語が」
「そうですか」
と含み笑いを見せる。
草原で寝転がっている私を見て、女は、
――日本人かしら――
そう想像したにちがいない。日本語が話せるものだから、話しかけてみようかどうか、決心がつかずに何度も行き来していたのかもしれない。
「どこ行きました」
「仏国寺へ行った」
「そうですか」
「|石《せっ》|窟《くつ》|庵《あん》へ行こうと思ったんだけど、道をまちがえたのかな。ちょっと疲れちゃって」
「もう遅いですね」
太陽は沈み、空は暮れかけていた。
「うん」
「どこ泊まりますか」
「まだ決めてない」
女の年齢は三十歳くらいだろうか。少女のように明るい笑顔で笑うが、物腰はとても落ち着いている。|眼《め》|尻《じり》に小じわがくぼむ。
「どこか知りませんか? いい宿」
「ありますけど、日本の人はちょっと……。それに、お金、もったいないでしょう。私の家に来てください」
思いがけない言葉だった。
当時の韓国はまだ貧しかった。チマチョゴリの女は、貧しい生活を営んでいる人のように見えなかったけれど、実情はわからない。旅行者を泊めて、なにほどかの収入が得られるものならば、それもわるくないと、そんな事情も充分に考えられる。さっきから何度も私の前を歩いていたことも、それならば説明がつく。チマチョゴリで装っているのも、よい印象を与えようと、そんな意図かもしれない。
「いいんですか」
「どうぞ」
「お礼は……宿賃はいくらですか」
単刀直入に尋ねておいたほうがよい。
「いりません。私の家ですから」
「でも……」
「どうぞ」
先に立って歩き始める。
――どうしよう――
知らない町。知らない女。話が少しうますぎる。怖いと言えば少し怖い。売春のようなものかもしれない。しかし、女がわるい企みを持っていたとしても、
――私を脅かして、なにか得すること、あるかなあ――
お金もあまり持っていない。
――まさか殺されることはないだろう――
危険を感じたら、そのときに逃げ出せばいい。ランナーとしてなら、短距離も長距離もどちらも自信があった。
――ただ、今は熱がある――
体が少しふらついている。普段と同じようには走れない。
――まあ、いいか。そのときはそのときだ――
殺されても妻子がいるわけではない、などと極端な情況を考えた。
私は外国旅行に慣れていなかった。慣れていないからこそ、かえって大胆になれたのかもしれない。まったくの話、知らない国でこんなふうに誘われて、そのままついて行ってよいものかどうか、けっして勧められることではないだろう。確率は低いけれど、恐ろしいめにあうことも皆無ではあるまい。
女の様子は、悪い人のようには見えなかった。むしろそんな疑いを抱くこと自体が申し訳ない。
慶州は美しい古都である。住んでいる人の心もやさしい。疲れている旅人を見つけて、女は声をかけてくれたのだろう。それに、
――日本語ができる――
わけもなくそれが信頼を生む。
ゆっくりと考えてみれば、この国ではその資質がかならずしも対日感情のよさを表わしてはいない。日本人に虐げられ、それゆえに日本語が巧みであるという、そういうケースもたくさんあるのだから……。
「どうしてそんなに日本語がうまいんですか」
うしろ姿に尋ねた。
女は弧を描くように足をまるく踏んで、
「母が日本人だから」
と言う。
「道理で。日本に住んでいたこと、あるんですね」
「いえ、私はありません。行きたいけど」
「来ればいいのに」
「はい……」
道は林の中に入り、しばらくはゆるやかな登り坂が続いた。丘陵の中腹をまわり、林を抜けた。
やはり熱が高い。
「あそこ」
と女が指をさす。
周囲は薄暗くなっていた。
|瓦《かわら》屋根。木造の古い家。小さな門をくぐり抜けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
家はひっそりと静まりかえっていて、人の姿も見えない。この国ではたいてい大家族制を採って暮らしているはずなのに……。
案内されたのは玄関に近い部屋だった。多分客間なのだろう。がっしりとしたテーブルと|椅《い》|子《す》が置いてある。
「すぐに仕度をしますから」
「すみません。でも、おかまいなく」
「ご|馳《ち》|走《そう》がないけど」
「本当におかまいなく……。ほかのご家族は?」
「お父さんと二人です」
「あ、本当。それはさびしいね」
「ゆっくりしてください」
「ありがとう」
女は奥へ消えて行く。
家の外で水音が聞こえた。
客間の壁には山水画が掛けてある。ガラスケースの中に男女一対の人形が飾ってある。
私は椅子に腰かけて待っていたが、そのうちに体を横たえたくなった。あまり行儀のよいことではないけれど、熱があるのだから仕方がない。
足音が聞こえた。
身を起こすより先に女が戻って来て、
「お湯の用意ができました」
「お|風《ふ》|呂《ろ》?」
「はい。こっちです。どうぞ」
本当は風呂など入らないほうがいい。
だが、体が汗ばんでいる。汗だけでも流したかった。
暗い廊下を歩いた。
構造はよくわからないが、かなり大きな家ではあるまいか。
「タオル、これ使ってください」
「すみません」
「ぬるいですか」
「いや、大丈夫」
一坪ほどのバスルーム。湯殿と呼んだほうがふさわしい。木の湯船にお湯がたっぷりと満たしてある。|簀《す》の子が敷いてある。|焚《た》き口は窓の外にあるらしい。
「温度、いいですか」
女の声がもう一度外から尋ねる。
「ちょうどいい」
しかし、湯船には入らず、体を|拭《ぬぐ》うだけにとどめた。
バスルームを出ると、女が|駈《か》け寄って来て、また薄暗い廊下を戻った。
「ご馳走ないです。食べてください」
テーブルの上に皿が並べてあった。
白いご飯。お汁のようなもの。魚の煮つけ。野菜の煮つけ。そしてキムチ。言葉通りありあわせのものを整えてくれたらしい。
「お酒、飲みますか。韓国のお酒。|焼酎《しょうちゅう》です」
大きなとっくりを差し出す。
「じゃあ、少しだけ」
|茶《ちゃ》|碗《わん》に|注《つ》いでもらってから、
「お父様は?」
と尋ねた。
「まだ帰りません」
「わるいなあ」
「いいです」
「あなたは?」
「いいです」
「一緒に飲みましょうよ」
「私、飲めません」
「じゃあ、なにか一緒に……」
「いいです。あとで食べますから」
もしかしたらこの国では女性はもっぱら給仕にまわり、客人と一緒に食事をしないのが作法なのかもしれない。どう誘っても一緒には食べなかった。
「おいしい」
「そうですか。よかった」
思いのほか強い酒である。
豆を甘く煮た料理がうまい。食欲はあまりなかったが、女が気をわるくすると困るので、あらかた平らげた。
もう十時をまわっていた。
眠い。
だるい。
とにかく休みたい。
「少し熱があるみたいなんです」
自分の額に手を当てながら|呟《つぶや》いた。
「あ、そうですか」
女は私の顔を見つめ、そっと額に手をそえる。
「本当。病気です」
「眠れば|癒《なお》る」
「そうです。早く寝たほうがいいです」
急いで部屋を出て行って、寝具を整えてくれた。
白いシーツをかけた狭いベッド。私は周囲がどんな情況か確かめるゆとりもなく服を脱いで崩れるように寝転がった。
「これ、お薬。熱をさげます」
白い錠剤と水をさし出す。
「いろいろありがとう」
「いいえ」
「お父様がお帰りになったら起こしてください」
「いいです。夜、遅いと思いますから」
「あなたの名前を聞かなかった」
「ミキです」
「どんな字を書くの?」
「美しい姫です」
「あ、そう」
女があかりを消した。
私は|闇《やみ》に向かって自分の名を伝えた。女も同じように字を尋ねた。
記憶が残っているのは、そのあたりまでだった。すぐに眠ったらしい。
翌朝、眼ざめると、薬が効いたのだろうか、熱はさがっていた。しかし、足腰がシャンとしない。気力が回復しない。
「少し休んでいたほうがいいです」
|美《み》|姫《き》に勧められ、その好意に甘えることにした。
「わるいなあ」
本当に親切な人だ。
「お父様は?」
「もう出ました」
「お仕事?」
「はい」
あまり立ち入ったことまで聞くのは失礼だろう。
「お父様は日本を知ってるんですね」
「はい」
「住んでいたこと、あるんだ」
「はい」
「どこ」
「東京だと思います」
「いい思い出ばかりじゃないだろうな」
「そんなことありません。とてもいいところだって……。私も行きたいです」
「来ればいい。僕が案内する」
「本当ですか」
女の声が弾んだ……。
思わず喜びを表わしてしまった、と、そう聞こえるような声の調子だった。
――これは本心――
だれかと話していて、わけもなくそんな確信を抱くときがあるものだ。
そして、その確信が、確信通りに真実であることも、けっしてまれではない。野生の動物が本能を持っているのと同じように、人間には社会生活を通じて培った勘のようなものがある。これは真実、これは|嘘《うそ》、いつもではないが、|明瞭《めいりょう》にその区別ができる一瞬がある。
――この女に好かれている――
こそばゆいような興奮が心に昇って来る。
私はとりわけ|自《うぬ》|惚《ぼ》れの強いほうではない。こんな感触を味わうのは、めったにないことと言ってもよい。
だが、このときはそう思った。
――この人に日本を見せたい――
機会を作って、ぜひとも案内役を務めたいと、そんな夢想を抱いたのは本当だった。
「うん。来たらいいじゃない。近いんだから」
「はい」
女の声がくぐもる。
そう簡単にはいかない事情があるのだろう。
――父親のことかな――
多分そうだろう。
午前中は|陽《ひ》だまりで体を休め、午後になってから女の案内で石窟庵を訪ねた。
正直なところ、まだ病気が残っていて脳の働きが|稀《き》|薄《はく》だった。集中力を欠いていた。あとで考えてみると当然尋ねるべきことをいくつか漏らしていた。
それに……女の日本語も、日常会話にはこと欠かないが、少しややこしい話となると、うまく通じない、うまく語れない。語りたくない事情もあったのかもしれない。根掘り葉掘りして聞くのはためらわれた。
美姫の父親は故郷を捨てた人らしい。生まれ故郷の名を言っていたが、私には知らない地名だったし、よく聞き取れず、すぐに忘れてしまった。故郷を捨てた理由は、日本女性との結婚のせいだったのかどうか、そんなふうにも聞き取れる美姫の口ぶりだった。
その母親は、どうなったのか。
ずいぶん前に夫と別れて、今は消息もよくわからない……。
「ずっとお父さんと二人暮らしなんです」
ひっそりと|父《おや》|娘《こ》二人で慶州の片すみに住み続けているのだろう。
この夜も寝室へ行く前に、
「お父様は?」
ともう一度尋ねたが、
「まだ帰りません」
と同じ答をくり返すだけだった。
「遅いんだね」
「はい」
「お帰りになったら起こしてください。ご|挨《あい》|拶《さつ》をしたいから」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
昨夜のようには、すぐに眠れない。
――変だなあ――
なによりも父親の姿の見えないのが気がかりだった。美姫は「まだ帰りません」と言っていたけれど、実情はめったに家には帰って来ない父なのではあるまいか。
市街地までそう遠くはあるまいが、周囲の風景は山中と呼ぶにふさわしい。
――さびしくはないのだろうか――
女一人では無用心でもある。
さびしいからこそ私を誘ったのかもしれない。
――|俺《おれ》もこのままここに住みつくかな――
そんな途方もないことを考えた。
そのうちに眠りに落ち、次に眼をあけたのは、朝の四時過ぎだった。
小用に立ち、ついでにそっと家の様子をうかがった。美姫の眠っている部屋は、多分、廊下の突きあたりだろうと見当がつく。その木の引き戸の前まで行って耳を傾けた。かすかな寝息が聞こえる。
断定はできないが、女の寝息。ひといろの寝息……。
もちろん父と娘が同じ部屋で寝ているとは限らない。むしろべつべつと考えるほうが普通だろう。
――この引き戸を開けたら――
と思う。
苦笑が浮かぶ。
――たしかに女一人は、無用心だ――
論より証拠、この私が忍び込んだら、どうなるのか。
――まさかそれを待っているわけではあるまいな――
くり返して言うが、私は自惚れの強い人間ではない。常識から考えてみても、たった一日や二日のつきあいで、それほど女性に好かれるということはありえない。
だが……それはたしかにそうなのだが、女の態度には、
――もしかしたら――
と、期待を抱きたくなるような、微妙な親しさがあった。
とはいえ、引き戸を開ける勇気はない。家捜しをするわけにもいくまい。自分のベッドに戻り、朝の光が射し込むまでまんじりともせず外の気配に耳をそばだてていた。
「お父様は帰らなかったの?」
「はい」
「よくあるの、こんなこと?」
「そうでもないです」
「なんなんですか、お仕事は?」
「山で焼き物を……」
「かまどがあるわけね。どんなかまど?」
手ぶりで描くが、説明はおぼつかない。
「そこへ行ってみたい」
父親の存在を確かめたかった。
「無理です。遠いから」
「もう一度聞くけど、あなたとお父様と二人だけでここに暮らしていて、お父様はときどき山へ行って、そのまま帰らないことがあって……そういう生活なんですね」
「そうです」
「よくあることなのかな、このへんじゃ、そういう生活?」
「めずらしいです。うちだけ」
「そうだろうな。さびしすぎるよ」
「はい」
「町へ移るとか、ソウルへ行くとか……結婚はどうなの?」
「お父さんが許さないから」
「それはひどい」
「仕方ないです」
「日本に連れて行くと言ったら……」
笑いながら冗談めかしく尋ねた。
「きっと駄目」
女も笑いながら答えた。
最初の予定では、私はこの日のうちにソウルに戻り、明日の昼過ぎの便で日本へ帰るつもりだった。
だが、朝一番のバスに乗れば、午後の便には間にあう。今日一日……、もう一晩、美姫と一緒に過ごしたかった。
「そうしてください」
美姫はうれしそうに言う。
言葉はもう一つ通じにくいところがあったけれど、気分はとてもよくあう。そんな気がする。
韓国の女性はおおむね気性が激しいが、美姫はおだやかで、控えめである。私を凝視して、なんとか私の気持ちを理解しようと、けなげな態度を崩さない。
「どうして私の前を行ったり来たりしてたんだ?」
と、初めて会ったときのことを尋ねた。
首を|傾《かし》げ、少し考えてから、
「日本人だと思ったから」
と答えた。
「日本語を話してみようと思って?」
「はい」
それだけの動機とは思えない。
「チマチョゴリはよく着るの?」
「はい」
尋ねたことしか答えない。
美しいチマチョゴリには特別な思い入れがあったのではないかと、そんな想像も浮かぶのだが、こっちから尋ねるのは|面《おも》|映《は》ゆい。
「お父様はお父様として、あなたはもう少し自分のこと考えなくちゃ。いつまでもここにいたって、どうにもならないのとちがうかなあ」
「はい。でも……」
口ごもるばかりだった。
よほどかたくなな父親なのだろう。娘を自分のそばに置いてけっして放そうとしない。
韓国には親孝行の美風がいまだに強く残っている。子どもは親のためにずいぶんひどい犠牲を強いられることも多いらしい。父が望むなら、娘はずっと父のそばにいなければならない……少なくともこの家ではそんなルールが厳然と生きているように思えた。
――それはよくない――
一介の旅行者にはとても計り知れない事情があるのだろうと、それを充分に承知しながら、なおも叫びたかった。
私のほうも美姫に心を奪われ始めていたのだろう。
美姫の案内で武烈王の墓陵まで足を伸ばした。この日も晴天に恵まれ、チマチョゴリをまとった美姫は真実|蝶《ちょう》のようにあでやかに山野の風景に溶け込んでいた。そして、ひどく楽しそうだった。
「冒険をしなくちゃいけない」
「はい」
「日本に来なさいよ」
「はい……」
韓国では、日本と同じ|明石《あ か し》の標準時を用いているから、日没は遅い。赤い夕日を眺めながら家に帰り、|風《ふ》|呂《ろ》に入って夕食をすますと、もう十一時を打つ。
私の体調は完全に回復したわけではない。思いがけない楽しさに遭遇して、心が高ぶり、
――こんなときに体調をわるくしていてたまるものか――
意志の力で病気のほうに小休止を課していた、というのが実情だったろう。|布《ふ》|団《とん》に入ると、もう起きるのもつらいほどぐったりとしてしまう。
それでも朝の五時近くに眼をあけた。
暗い廊下を歩いて美姫の寝ている部屋の前に立った。
――六時にはこの家を出なければいけない――
そのまま|佇《たたず》んでいた。
かすかな寝息が一つだけ聞こえる。
「美姫さん」
呼びかけて引き戸を細く開けた。
やはりたった一人で眠っている。
布団の|脇《わき》にすわって寝顔をのぞいた。
「美姫さん」
女は眼をあけ、キクンと体を震わせる。
「あなたが好きだ」
布団の上に横たわり、肩を抱いた。
美姫は|抗《あらが》ったが、それほど強い力ではなかった。やはり待っていたのかもしれない。身勝手かもしれないが、そう思った。
「日本に来て」
本当に訪ねて来たらどうするか……もちろん案内くらいはできるだろうが、美姫はこの言葉にもっと大きな期待を抱くのではあるまいか。
「お父さんが……」
と|呟《つぶや》く。
「帰って来やしない」
襟もとが割れ、白い乳房がのぞいた。
もうあとには引き返せない。
――娘を一人ぽっちにしておくのがいけないんだ――
けっして肉欲のせいではない。
もちろんその欲望が私の中になかったはずはない。
だが、それよりもなによりも出発を前にして、なにかしら|証《あか》しがほしかった。行きずりの旅人として別れるのではなく、契りとなるものがほしかった。かならずしも美姫を抱こうとして引き戸を開けたわけではなかった。
くちづけ一つ、それだけでもよかった。
いや、そう言いきってはやはり|嘘《うそ》になるだろう。ただ、もう少し明確な結びつきがほしかった。
|薄《うす》|闇《やみ》の中に白い体があらわになる。
私はその上に折り重なった。
そのときである。
なにかが……そう、たしかな力が私を抑えた。背後から、身動きもできないほど強く。
――しまった――
父親が帰って来た……。そう思った。
首をまわそうとしたが、よくまわらない。
つぎの瞬間、本当に全身が総毛立つほどの恐怖を覚えた。
――だれもいない――
私の背後に。
よくは見えないが、気配でわかる。
だれもいないのに、力だけが私の背後からかぶさって私を抑えている……。
美姫は眼を閉じていた。そして私の|愛《あい》|撫《ぶ》を待っていた。多分、そうだったろう。
だが、私の動作に不自然なものを感じて、眼を開けた。
ポッカリとしたまなざしで私の背後に焦点をあわせる。なにかが見えたのだろうか。
それからゆっくりと首を振った。
私は必死の力で、美姫の体の上から転がりおりた。ほとんど身動きのできない圧力の下で、それだけがかろうじて私が採ることのできる動作だった。
やはりだれもいなかった。
暗い部屋に美姫と私と二人っきり……。
美姫は襟もとをあわせ、布団の上にすわって、悲しげな表情で私を見た。
「どうして」
私の声が震えている。
「だから」
とだけ美姫は|呟《つぶや》いた。
――こんなことがあるのだろうか――
考えられることは一つしかない。理性の枠には入りにくいが、ほかに思いようがない。
「お父様は本当に……?」
生きているのかと眼顔で尋ねた。
意味は通じたのではあるまいか。
「ずっとここにいるんです」
と美姫は答えてから、高い窓を見あげ、
「もう起きなくちゃあ」
|哀《あい》|艶《えん》な笑顔で笑った。
布団を部屋の隅に押し、髪を|掻《か》きあげ、なにごともなかったように部屋を出て朝の仕度にかかった。
出発を急がなければいけなかった。
美姫は赤と黄のチマチョゴリを着て仏国寺の駅まで送って来てくれた。私は東京の住所と電話番号を書いて渡した。
「日本に来てほしい」
と告げたが、はたしてあの姿のない父親が許してくれるものかどうか。
美姫は、
「はい」
と答え、それから列車の動きだすのを見て、
「やっぱり駄目でしたね」
と細く|呟《つぶや》いた。
言葉はそう聞こえた。私はバスの座席に体を預け、くり返しくり返し美姫の告げた言葉の意味を考えた。意識がおぼろだった。ソウルに着いたときには高い熱が戻って来て、東京に帰ってからも、一週間は病いの床に|臥《ふ》さなければいけなかった。
歳月が流れた。
私はそのあいだに三度韓国を訪ね、そのつど慶州に足を伸ばした。
仏国寺の付近を捜したが、美姫の家は見つからない。初めて美姫を見た、あの三角の草原は……多分それらしい草原はあったけれど、それから先がうまく捜せない。慶州は観光地を目ざして土地改革が進められていた。古い家は取り壊されたのかもしれない。
――|痕《こん》|跡《せき》くらいありそうなものだが――
そうなってみると、私の記憶そのものがぼやけて感じられる。初めて訪ねた異国での出来事だった。しかも私は病いに冒されていた。あのときは、意識がはっきりしていると思っていたけれど、高い熱と高い熱の谷間の時期であったことはまちがいない。途方もない夢を見たのかもしれない。
しかし、たしかに残っている感覚がある。それだけは本当だ。
美姫を抱こうとしたとき、私の背後から私を抑えこんだ、あの見えない力……。あれだけは、けっして忘れられない。あれだけは夢や幻想ではない。
――じゃあ、なんだったろう――
つい先日、新聞のコラムで、とても大きな蝶が韓国の岩山の上を飛んでいるのが目撃された、と、そんな記事を読んだけれど、多分私の体験とはなんの関係もないことだろう。美姫は今でも父親と一緒にどこかにひっそりと暮らしているだろう。美しいチマチョゴリをまとい、蝶のように舞いながら……。
昨今の慶州はすっかり観光地化されて、もうこの世の外の出来事などどんな形であれ|垣《かい》|間《ま》|見《み》せてくれることはあるまい。
鼻 毛
海沿いの丘の切通しを抜けると、さびれた|埠《ふ》|頭《とう》が見えた。
時折、白い|掌《てのひら》のような|飛沫《し ぶ き》が立つ。
波風に洗われ、もやっている舟の姿もない。舟つき場のタイヤもボコボコに朽ちて、今はもう使われていないらしい。
埠頭は沖に向かって三、四十メートルほど伸び、突端はかなり深い海に接している。そこまで行って首を出すと、灰色の水面が、高く、低く、波の動きを伝えて揺れていた。
コンクリートの|路《ろ》|肩《かた》は、ところどころ崩れて鉄骨があらわになっている。それでも小型の自動車ならば、路面のまん中を通ってゆっくりと先端まで寄せて行くことができた。
埠頭の中ほどに一か所だけ岩場に降りられるところがあって、そこが|磯《いそ》|釣《づ》りによい場所なのだろう。
――また来ている――
まだ朝も早いというのに……まったくの話、夜の続きと言ってよいほどの時刻なのに、赤い防水着をつけた男が|竿《さお》を出している。
一昨日もそうだった。
先週もそうだった。
もっと前にも見たことがある。
顔つきはわからない。ほとんどうしろ姿だけの男である。もちろん私も、さほど注意して眺めていたわけではない。
一年ほど前、私が初めてここに来たとき、そう、まだ寒い頃の朝がただったと思うのだが、やっぱり赤い防水着が岩場にうずくまっていたような気がする。同じ男かどうか確信は持てないけれど、様子はよく似ている。きっと同じ人だろう。|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》のようなものを敷き、あぐらをかいている。いつもそんな姿だった。
とはいえ、眼の片すみにちょっと入れただけ……。粗い風景の中の、赤い、小さな点でしかなかった。
――海に落ちたとき、赤いほうがよく目立つんだろうな、きっと――
そう思ったのは、二回目に見たときだったろうか。
たとえ水の中で赤い着衣が目立ったとしても、
――そのときはもう、当人は死んでいるな――
そう思ったのは、三回目のときだったろうか。
赤を着ていても、メリットは知れている。だったら、はでな色を着る理由はなんなのか。釣り仲間への合図だろうか。当人の趣味だろうか。
――わからない――
しかし、いずれにせよ、そう深く考えたはずもない。とりとめもない思案だった。
人間の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》の作用には、深い働きと浅い働きと……それからもう一つ、中くらいの働きもあって、およそ三段階くらいの機能に分けられるのではあるまいか。
しっかりと対象を見極め、しっかりと考え、しっかりと記憶に残る出来事がある。かと思えば、ろくに確かめもせず、ろくに考えもせず、すぐに記憶からこぼれ落ちてしまう出来事もある。そのまん中くらいのもあって、もう少し厳密に眺めてみれば、五段階にも、十段階にも分けられるのかもしれない。
赤い防水着の男を見たのは、浅い働きのほうだった。突き出した岩場にすわっていたが、いつもきっちり同じ場所だったかどうか。赤い色を着ている理由も、それほど念入りに考えたわけではない。本来なら、すぐに忘れてしまうことだったろう。
先週の朝、岩場にいるのを見て、
――前にもたしかあそこにいたな――
と思い出し、一昨日の朝、また見つけて、
――毎朝いるのか――
ようやくその存在を心に留めた。
まだ脳味噌の中ぐらいの働き。わざわざ近づいて顔を見ようとは思わなかった。むこうも私のことを気にかけているふうには見えなかった。
――海釣りってのは、おもしろいんだろうな――
私はまだやったことがない。魚釣りそのものさえよく知らない。
子どもの頃、一度だけ母の|田舎《い な か》へ行って川釣りを試みた。なかなか釣れなくて、むしろ退屈だった。
ところが帰りぎわに、たて続けに|鮒《ふな》が二匹かかって、その|手《て》|応《ごた》えがすばらしかった。生きた魚が銀色に躍る姿、バケツの重さ、家族の驚き、なにもかもいたたまれないほどうれしかった。
――魚釣りはいいな――
そう思ったが、二度とよい機会はめぐって来ない。自分でチャンスを作ろうとしなかったのは、なぜだろう。
――もっと年を取ってから――
たとえば四十歳を過ぎてから……。なんの理由もなく、ただものぐさから魚釣りの楽しみを先へ延ばしていたらしい。
しかし、その四十歳も、もうそう遠くはない。海に近い町に住んで、昨今はよく海の景色を眺めている。
魚釣りばかりではなく、やり残したことはたくさんある。
――ちょっと失敗したかなあ――
くり返して寄せて来る波の動きを見ながら、このごろはよく自分の人生を考える。
立身出世とか、家族の|団《だん》|欒《らん》とか、そんなものとはもともと縁がない。とうにあきらめている。工業高校を出て、いつもセメントや鉄パイプが仕事の相手だが、きまって人間関係でしくじってしまう。上役と|喧《けん》|嘩《か》をしてしまう。後輩をなぐってしまう。
我慢が足りないから……かな。
まるで我慢のできないたちではないと、自分では思いもするし、努力もしているのだが、なぜか相手がわるい。いったん我慢の限界を越えてしまうと、われを失ってしまう。頭の中の制御装置がガツンと音を立ててこわれてしまう。
工業高校に入って初めてやった実験は、鉄材の引っ張りテストだった。不思議なほどよく覚えている。
細長い鉄のテスト・ピースの両端に力を加えて引っ張る。鉄が苦しそうに伸び、外力の増加と鉄の伸びとがグラフに描かれる。
――鉄が、今、必死になって我慢をしているんだ――
グラフを見ながらそう思った。
我慢にはおのずと限界がある。
ガツン。
鈍い音が響いて機械が揺れ、鉄がちぎれる。パーマネント・セット。我慢の限界を越えてしまえば、鉄だってこうなる。
――|俺《おれ》とおんなじだな――
あれからというもの、心の高ぶりを必死にこらえるときは、いつもあの鉄材のイメージが浮かんだ。怒りが|脹《ふく》れあがり、
ガツン、
と限界を越えてしまう。もうなにがなんだかわからない。でも、それまでは私だって、頑丈なテスト・ピースと同じように一生懸命耐えているんだ。
――ちがうかな――
疑いも少しある。
「あんた、我慢強いほうだなんて|嘘《うそ》よ。だれだって、あんたくらいの我慢、してるわよ。できない我慢を無理にでもするのが、本当の我慢でしょうが」
和枝にそう言われて驚いた。
和枝は利巧でもないくせに、ときどき鋭いことを言う。
――本当かもしれんな――
いくらひどい仕打ちを受けても、平気なやつがいる。|飴《あめ》ん棒みたいに伸びて、いっこうに切れない。
――あれが本当の我慢なのかなあ――
和枝と知りあったのは、七か月ほど前。
雨の夜にいきなり飛び込んだバーで、前に立った女が和枝だった。
「髪がきれいだな」
おしぼりを使いながら、女の顔を見あげた。ほめたのは、きっと女がほしかったからだろう。
「あら、そう。髪はね、わりと……。ありがと」
女はまんざらでもなさそうな顔で笑った。
それに、和枝の髪がきれいなのは嘘ではない。黒く、ゆったりと波を打っている。
「水割りをくれ」
「私もいただいて、いい?」
「ああ、飲めよ」
女はウイスキーの濃さを光にかざして確かめ、一口飲んでから、
「この近くなの?」
と尋ねた。
「今はな」
「昔は?」
「生まれたのは埼玉だけど、あっちゃこっちゃ|栖《すみか》を替えて」
「奥さんは?」
「いない」
「嘘ばっかり」
「本当だ。あんたは?」
「|独《ひと》りよ。私もあっちゃこっちゃ住み替えて……」
「なるほど」
髪はともかく、とくにいい女だと思ったわけじゃあない。顔も、人柄も……。
――だがネ、いい女なんて、めったにいるものじゃない――
そこそこの女なら満足をしなけりゃいけない。人生はそんなものだ。高望みをしたってろくなことが起きない。
寒い夜だった。
「あったかいラーメン、食いたいなあ」
「知ってる。おいしい店。日本一、めんが細いの。一緒に行こう」
「ああ」
店が終わってから二人でラーメンを食いに行き、それが|馴《な》れそめになった。
そのラーメン屋は間口が一間ほどの汚い店で、中に入ってみれば屋台に毛が生えたような造り、裸電球が一つ、ぼんやりと光っていた。
「わりとうまいな」
「おいしいでしょ」
「酒、飲もうか」
「うん」
その夜のうちに私のアパートで抱きあい、ずるずると一緒に暮らすようになってしまった。
汚いラーメン屋には、あのあとも一、二度行っただろう。裸電球の下で、つくづく和枝の顔を見て、
――鼻毛が生えてるのか――
と気づいた。
女にはめずらしい。男だって、あんまりいいものじゃない。鼻孔の外まではっきりと毛先を|覗《のぞ》かせている。みっともない。
――切ればいいのに――
普段は切っているのだろうが、あのときは無精をきめこんでいたらしい。
――|厭《いや》なものを見たな――
しかし、私はなにも言わなかった。和枝もそのあとすぐに切ったらしく、私も忘れた。あれも|脳《のう》|味《み》|噌《そ》の浅い働きのほうだったろう。
一か月ほど一緒に暮らして、
――厭な女だな――
少しずつわかった。
わるいところがたくさんある。
まず怠け者。|腎《じん》|臓《ぞう》に病気があるとか言って、
「夜の仕事はよくないでしょ」
バー勤めをやめてしまった。働かないのが和枝の|狙《ねら》いだったらしい。
家にいても、和枝はなにもしない。炊事も、洗濯も、掃除も、あきれるほどやらない。食べるのは、てんやものか、スーパーで買うインスタント食品のたぐいばかり。流し場に汚れ物が山のように積んである。ごみも捨てない。家の中が|饐《す》えたような|匂《にお》いでいっぱいになってしまう。それでも和枝は平気らしく、布団の中から首を出し、くだらないテレビ番組を見てゲラゲラと際限なく笑っている。
――馬鹿じゃないのか――
私もたいして利巧じゃないが、もう少しまともな生き方を知っている。
「少しは片づけものくらいやれよ」
「また汚れるしね。まったく、女はつまらないわ。女中の役ばっかりさせられて」
怠け者のくせに負けん気だけは人一倍強くて、すぐに|嘘《うそ》とわかるような見栄を張る。
「昔は、いい家の子だったのよ。おんば日傘って言うの? 女中が二人もいてさあ」
「女子大にも行ったんだけど、くだらないでしょ、ああいうとこ」
「ハワイは駄目。小さくて。あんた、行ったことないの? へえー、そうだろうね」
出まかせをほざいて、鼻の|孔《あな》を|脹《ふく》らませている。
一番我慢がならないのは……なんによらずわるいのは自分でなくて、他人のせい、そう信じて疑わないこと。|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》のつけ方はみごとなものだ。拍手をしたくなるほど……。しかし、まあ、一緒に暮らしていては、拍手どころではない。まったく腹が立つ。
よくない女だと気づいたときにすぐに別れればよかったのだが、あいにく私が|風《か》|邪《ぜ》をこじらせ、四十度近い熱が一週間以上も続いた。和枝も少しは看病らしいことをしてくれたし、こっちも気が弱くなる。思いきった決断はくだしにくい。
病気が|癒《なお》って、すぐに別れ話を持ち出すのも具合がわるいし、看病のときの親切を思えば、
――案外いいところがあるのかもしれん。もう少し様子を見てみようか――
と気がゆるむ。
それをいいことにして和枝はますますひどくなった。
――やっぱり別れよう――
なんなら黙って逃げ出す手段もある。その矢先、和枝はすかさず、
「|厭《いや》あね、赤ちゃん、できたみたい」
「なに言ってんだよ、そんな……」
「なに驚いてんのよ。セックスてサ、やれば子ができるもんよ、昔から」
「ふん、いい加減な」
「そんな言い草ないでしょ。あんた、適当に遊んでおいて逃げるつもりだったんでしょうけど、あいにくね。あんたの子どもよ。どう、背中に背負って工事現場へ行ったら」
「馬鹿なこと言うな」
「私、生むわよ」
和枝のほうには三食昼寝つきの生活を捨てる気がない。
「育てられるのかよ、お前に」
「どうだか。あんた次第よ。あんたサ、もう四十にもなるのに、独りでいるもんじゃないわよ。ちゃんと籍を入れて……どう? 生まれる子に罪はないんだから」
|上《うわ》|目《め》|遣《づか》いで笑っている。
本当に子どもができたのかどうか、それもあやしい。そのくらいの嘘は平気でつく。ただ……和枝の顔は、すすけたみたいに黒ずんで、また醜くなっていた。
――妊娠のせいかな――
もしそうなら……黙って姿をくらましたら、ひどすぎる。
二か月ほどたって、
「どうなんだ、腹のほう?」
「べつに、腹なんかこわしてないわよ」
「子どもだよ」
「あれ? 流産しちゃったみたい」
「みたい、とはなんだ」
「偉そうなこと言わないで。よかったくせに」
まったくなにを考えているかわからない女だ。
「よ、よかったとか、どうとか、そ、そういう問題じゃないだろ」
「どもらないでよ、いい|大人《お と な》が」
「初めから嘘だったんだろ、ひでえ女だな」
声がけわしくなる。
私のほうも腹の虫の居所がわるかった。銀行振込みの給料を、和枝が勝手におろして使ってしまう。罪になることじゃないのか? そのことでここ数日もめ続けていた。さらにこのトラブルだ。
口では和枝にかなわない。
「|嘘《うそ》じゃないよオーだ」
「馬鹿」
「怒りたくなるのは、こっちでしょうが。あんたみたいな、けちな男の子どもなんか、私だって生みたくないわよ。流産さまさま。|頬《ほ》っぺたが思わず笑っちゃうわ」
「|俺《おれ》もろくでなしだけど、お前よりは上等だな」
「よく言うわ。今まで会った中で最低の男。ぐずで、単純で、ろくに人づきあいもできないもんだから、きったないアパートでもぐらみたいに暮らしてサ。ゴキブリかな。顔、似てるわよ。|脂《あぶら》でテラテラして……。仕事をしくじっちゃ、あっちフラフラ、こっちフラフラ、ちがう? そうじゃない、はっきり言えば」
それからは、よくもまあこれだけひどい言い方が浮かぶものだ、と思うほど……。
もう我慢ができない。
「言ったな」
「なによ、その顔」
|睨《にら》みつけると、和枝の鼻の孔から鼻毛が出ている。
まったく|厭《いや》な顔だ。
「鼻毛くらい切ったらどうだ。女のくせに」
「大きなお世話よ。また生えて来るわ」
鼻毛の生え出た鼻の孔が、たまらなく醜いものに見えた。醜悪で、無気味で、|傲《ごう》|慢《まん》で、|嘘《うそ》つきで、怠惰で、無知で、欲張りで……和枝の|性《しょう》のわるさが、その一か所に集まって黒くヒクヒクと|蠢《うごめ》いている。
「なに見てんのよ。そんなに見たけりゃ、見れば。ほら」
と、和枝が鼻の孔を|脹《ふく》らませた。
「馬鹿っ!」
これほど醜いものはこの世にない。こんなに厭な女はこの世にいない。生かしておいたら世のためにならない。
「なによ」
鼻の孔がさらに大きくなった。
海岸の切通しを出たところでいったん車を|停《と》め、|埠《ふ》|頭《とう》を歩いて行くと、ちょうど赤い防水着の男が|磯《いそ》|釣《づ》りを終えたところだった。
バッグを肩にかけ、釣り|竿《ざお》を入れた袋を持って岩場からあがって来る。収穫はあまりなかったようだ。
眼と眼が合い、
「おっ?」
と、むこうが|呟《つぶや》き、
「池さんじゃない?」
と、私も思わず声をあげてしまった。
「よおォ」
男は笑ったが、私の名前までは覚えていないだろう。前にどこで会ったのか、それさえも思い出せず、戸惑っているようにも見えた。
私のほうは覚えている。
十数年前、私は足の骨を折って入院し、隣りのベッドにいたのが池さんだった。そう言えば、池さんはあの頃も魚釣りの雑誌を熱心に読んでいた。ベッドを並べていたのは、せいぜい二日か三日くらい。顔を覚えていたのが、不思議なくらいである。
「元気かね」
池さんは私より二十歳くらい年上だろう。|親《おや》|父《じ》と息子くらい離れている。
「はあ。このへんなんですか」
と、池さんの住まいを尋ねた。
「いや、|東《ひがし》町に会社の寮があるんだ。あんたも?」
「いえ。たまたまちょっと……。一昨日も来てたでしょ」
「ああ」
「先週も」
「そう」
親しい人ではない。久しぶりに会ったからと言って、話が弾むはずもない。話題を捜すのもむつかしい。私としては、池さんが私のことを本当に思い出したのかどうか、それをさぐるために言葉を|繋《つな》いだ。
――覚えていないな――
多分、まちがいない。
私のほうは、池さんについて一つだけおぼろな記憶が残っている。それを今、急に思い出した。
病室の白いベッド。池さんも足の骨折だった。ギブスを|撫《な》でながら、
「あんた、若いんだから、女には気をつけたほうがいいよ」
「はあ」
どうしてあんな話になったのか、前後の事情はわからない。私はキョトンとして聞いていただろう。
池さんは独りで|頷《うなず》きながら、
「とくに鼻毛を鼻から出しているような女はよくないな。絶対によくない。恥知らずで、|性悪《しょうわる》で」
なぜそうなのか、|訝《いぶか》しく思いながら、それ以上は聞かなかった。まだ私も若くて、女の怖さを知らなかったからだろう。あるいは、自分には、わるい女なんて生涯関係がないと思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、脳味噌の浅い働き。だからまともに聞いていなかった。すぐに忘れてしまい、ずっと忘れ続けていた。
それを、今、池さんの顔を見て、|忽《こつ》|然《ぜん》と思い出した。長い歳月をへだてて急に現われる|箒星《ほうきぼし》かなにかのように……。
大きな波が来て|埠《ふ》|頭《とう》が|水《みず》|浸《びた》しになる。
「あのう」
もううしろ姿になっている池さんに私は声をかけた。
「うん?」
ふり向いて首を|傾《かし》げる。
「一年くらい前にも、ここに来たでしょ。今日と同じ赤いのを着て」
「ああ。ときどき来るんだ。どうして?」
わざわざ呼び止めて尋ねるほどのことではないのに……と、池さんは思ったらしい。だれだってそう思う。私だってそう思うだろう。
「べ、べつに」
「見たんなら、声をかけてくれればよかったのに」
池さんは、まだ私のことをよくわかっていないらしい。当たりさわりのないことを言っている。
「本当に」
私はしみじみとそう思った。
――一年前に声をかければよかったんだ――
せっかく赤い防水着を眼に留めたのだから、横顔くらい確かめればよかった。すぐに池さんだとわかっただろうに……。
その赤い防水着が埠頭を離れ、切通しの方へ遠ざかって行く。
姿が消えるのを待って私は車に戻り、ゆっくりと車を埠頭の先端にまで寄せた。
――まいったなあ――
一年前に池さんに会っていれば、そこで思い出したにちがいない。あのときなら間にあった。先週でもなんとかなった。今はもう遅い。
鼻毛を出している女は、本当によくない。
醜悪で、無気味で、|傲《ごう》|慢《まん》で、|嘘《うそ》つきで、怠惰で、無知で、欲張りで……性のわるさがみごとに現われている。
池さんの言ってたことは本当だ。早く気がつくべきだった。
荒れ果てた埠頭に人影はない。
車のトランクを開け、
「よいしょ」
と引きずり出して、ドボーン。
コンクリートの塊を海へ落とした。
一昨日の夜から……ほとんど私は眠っていない。セメントを練って細工をほどこし、すっかり乾くまでに一昼夜かかった。だから、
――一昨日の朝でもよかったのか――
池さんに会ってさえいれば、その瞬間に性悪女と別れる算段をしていただろう。
突端から首を伸ばして|覗《のぞ》くと、灰色の海があい変らず高く、低く、揺れている。
朝が明け始めていた。
旅の終り
住宅街の路地の奥に、|椿《つばき》、梅、|満天星《どうだん》、桜、|楓《かえで》、|木《もっ》|斛《こく》、さまざまな木を|繁《しげ》らせた庭があった。|葡《ぶ》|萄《どう》のような実をつけた|蔓《つる》|草《くさ》が、塀の外にまで垂れているところを見ると、あまり手入れが行き届いているとは思えない。表札には“権藤”と、いかめしく記してある。
塀の中の住宅は、プレファブ造りで、これは最近、新築したものだろう。|母《おも》|家《や》と離れが廊下を挟んで|繋《つな》がっている。
「ごめんください」
声をあげながら玄関のブザーを押した。
「はい」
女の声が聞こえ、ドアが開く。
「東都新聞の田村と申します」
と、私は名刺を差し出した。
「はい、どうぞ、あちらのほうへ。今日は、父、体調いいみたいですよ。張り切っていますから。ようございました」
と、笑う。
権藤英作の娘さんか、あるいは、息子さんの嫁さんか、三十過ぎの、おだやかな様子の女性である。
コンクリートで固めた、細い、庭の中の道を通って離れのほうへ行く。
「お体がわるいんですか、お父様は?」
と、うしろ姿に尋ねた。
「おおむねよろしいんですけれど、ときどきちょっとおかしくなることがあって」
と、自分の頭を指でさす。こんな仕草ができるのは嫁さんではなく、実の娘にちがいない。
――ああ、そうか――
権藤英作氏は、七十歳を越えているだろう。老人ぼけのようなものが少し始まっているのかもしれない。
離れの出入口が開いて、
「やあ、いらっしゃい」
快活な声が聞こえた。
あらかじめ電話で訪問の目的は伝えてある。老人は待ちかまえていたのだろう。
「東都新聞の田村でございます。お休みのところ、恐縮です」
と、|挨《あい》|拶《さつ》を告げてから、しみじみと老人の姿を見つめて、
「これは、どうも」
と、笑った。
紺色の|作《さ》|務《む》|衣《え》のような衣装を着ているのは、いかにも老人の普段着らしいが、胸に灰色の麻袋を|吊《つる》し、頭には円筒型の|頭《ず》|巾《きん》を載せている。つまり、江戸の俳諧師の風俗、もっとはっきり言えば、松尾芭蕉の旅姿を模している。
娘さんも背後で、
「すっかりそのつもりなんですのよ」
と首をすくめた。
「結構です」
むしろ取材の目的にかなっていると言うべきだろう。
「似あいますか」
と、手を広げて老人も笑った。
その表情や声の調子から察して、|脳《のう》|味《み》|噌《そ》が鈍っているとは思いにくい。時折、おかしくなることがあるのかもしれないが、少なくとも今日は正常だ。
「とてもお似あいです。その姿で歩かれたんですか」
声は老人に届かなかったのかもしれない。
「さ、どうぞ、どうぞ」
客を迎える部屋には|長《なが》|椅《い》|子《す》が置いてあった。“立石寺にて”と記した、大きな写真が飾ってある。寺院を背景にして二人の男が立っている。右のほうが、数年前の権藤英作氏だろう。ジャンパー姿に、白い帽子。古い旅装束で歩いたわけではないらしい。
「いつもこの|恰《かっ》|好《こう》でね」
と写真を指さす。私は長椅子に腰をおろし、
「権藤さんは、おいくつになられましたか」
「えーと、七十一です。もうすぐ七十二です」
「いつ頃から始められたんですか、奥の細道の旅は?」
「ちょうど十七年前になりますかな」
と、ひとり|頷《うなず》きながら、かたわらの古い手帳を取ってページを繰った。
日本人は働いてばかりいて遊び方を知らない。とりわけ古い世代はその通りだ。定年を迎え、終日家でブラブラ暮らす身になっても、なにをやってよいかわからない。
十数年前、権藤英作氏は考えた。
――〈奥の細道〉を歩いてみよう――
三百年前に松尾芭蕉がたどった道を……できるだけそれに近い道を実地に踏んでみようと思ったわけである。
引き算をしてみれば、五十四歳。それを思い立った頃の権藤氏は仕事を持っていた。月曜から金曜まで、ときには土曜も働くサラリーマンだった。
「体が丈夫のうちにと思いましてな」
「はい。今もお元気そうですね」
「ええ、ええ。実は私、去年までは働いてたんですわ。七十になったんだから、もうよかろうと思って……やめました。みんながそう言うもんでね」
口調がさびしそうに響く。
老人自身はもっと働くつもりだったのかもしれない。見たところ、体は頑健そうである。しかし、周囲がなにかと不都合を感じて仕事を退かせたのだろう。
「なるほど」
「まあ、いずれにせよ、当時は時間がふんだんにあるわけじゃないから、土曜日と日曜日を利用して歩いたんですよ」
そこが権藤氏の、ユニークなアイデアだった。
「そうお聞きしました」
「深川から出発しようか、|千《せん》|住《じゅ》からにしようか、ちょっと迷ったんですがね。まあ、本当の始まりは、深川からでしょうから」
「〈奥の細道〉の序文から始められたわけですね」
深川からスタートして芭蕉のたどったコースを、もちろん道路事情はすっかり変っているだろうけれど、おおむね同じ道のりを徒歩で行く。行けるところまで行き、ときには一泊して旅を続け、
「日曜日の夕方になったところで、近くの駅から電車に乗って東京へ戻るわけです。そのつぎには、そこの駅まで電車で行って、そこからまた歩き始める」
電車賃はかかるけれど、サラリーマンはこうでもしなければ〈奥の細道〉の踏破はむつかしい。
〈奥の細道〉は、日本人にもっともよく知られた古典の一つと言ってよいだろう。芭蕉の作品の中でも評価が高い。名句もたくさん含まれている。
一方、ここ数年来、日本人のレジャー志向が増大し、
――もう少しましな余暇のすごしかたがあってもいいじゃないか――
そんな気運が高まってきている。
ゴルフ、テニス、スキューバ・ダイビングなどなど、スポーツに熱中する人もいれば、旅行や美食を趣味とする人もいる。カルチャー・センターに通って、さまざまな習いごとに精を出す人もいる。
東都新聞でも〈成人たちの楽しみ〉と題して、現役を退いた人、退こうとしている人たちが、どんなところに人生の楽しみを求めて生きているか、その実例を訪ねて歩くコラムが企画された。新聞記事である以上、ちょっと意表をついた、話題性のあるもののほうがおもしろい。編集会議の席で、
「権藤英作さん、あれ、おもしろいんじゃないかな」
と、デスクが古い記憶を引き出す。
「なにする人?」
「普通のサラリーマンだよ。ただ、俳句が好きで、芭蕉を研究している」
「めずらしくないんじゃないですか」
「いや、いや。たしか〈奥の細道〉を自分の足で歩いたんだ」
「それだって、世間にいないわけじゃないでしょう」
「その歩き方がおもしろいんだ。歩けるだけ歩いて、電車で帰って来る。つぎの休日に電車で同じとこまで行って、また旅を続ける。三、四年かかったんじゃないのか。俳句はブームだしさ、旅も関心が集っているから、いいんじゃないか」
「そうですね」
こんないきさつで私が権藤氏を訪ねることとなったわけである。
私も大学の国文科で近世文学を専攻した身だから、芭蕉には少なからず関心があった。〈奥の細道〉は一年がかりの講義を受けている。あらかた忘れてしまったが、ずぶの|素《しろ》|人《うと》ではない。
取材を前にして少し勉強をやり直した。
松尾芭蕉は元禄二年(一六八九)三月下旬、門人の|曾《そ》|良《ら》を伴って、かねてより念願の東北への旅へ出発する。四十五歳であった。
旅は日光、|白《しら》|河《かわ》、松島、|平泉《ひらいずみ》、|月《がつ》|山《さん》、|象《きさ》|潟《がた》、|鶴《つる》|岡《おか》、|弥《や》|彦《ひこ》、高岡、福井、|敦《つる》|賀《が》などなどを経て|大《おお》|垣《がき》まで、ざっと千六百キロ、四百里の行程であった。ほぼ五か月を要している。
〈奥の細道〉は、その折の旅日記の体裁を採っているが、厳密な意味での記録ではない。ところどころにフィクションが入り混り、その意味では芭蕉の脳裏に浮かぶ心象風景を描いた幻想文学と見ることもできる。
“月日は|百《はく》|代《たい》の|過《か》|客《かく》にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。|予《よ》も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、|漂泊《ひょうはく》の思ひやまず、海浜にさすらへ、|去《こ》|年《ぞ》の秋、江上の破屋に|蜘《く》|蛛《も》の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる|霞《かすみ》の空に、白河の関越えむと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、ももひきの破れをつづり、|笠《かさ》の|緒《お》つけかへて、三里に|灸《きゅう》すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、|杉《さん》|風《ぷう》が|別《べっ》|墅《しょ》に移るに、
草の戸も住み替はる代ぞ|雛《ひな》の家
|表《おもて》八句を|庵《いおり》の柱に掛けおく”
よく知られた冒頭の名調子である。
熟慮のすえに書かれたものだろう。かろやかに記してあるが、芭蕉がこの旅に、ひいては新しい著作に|賭《か》けた意気込みが、ひしひしと感じられる。
時間そのものが、過去から未来へと移って行く永遠の旅人なのだ。だから、生きるということは、それ自体、一つの旅と見ることができる。風雅を解する古人は、このことをよく知っていた。そして、みずからも旅を愛し、旅に死んだ。
ここでいう古人は、たとえば、西行、|宗《そう》|祇《ぎ》、|李《り》|白《はく》、|杜《と》|甫《ほ》など、芭蕉が慕った文人たちである。そのひそみにならってみようというのが芭蕉の企てであった。古人が詩歌に残した、さまざまな情景と、自分がじかに見たものとを重ねあわせてイメージを|脹《ふく》らませ、そこに時間を超えた風雅を究めてみようと考えたわけである。現実に見たものだけが、芭蕉の俳諧の目標ではなかった。古人とともに名代の|歌枕《うたまくら》に立って、心眼で眺めた風景も当然そこに予測したわけであり、現実そのものの描写が芭蕉の目的ではなかった。〈奥の細道〉が高く評価され、また広く愛読される理由も、このあたりに由来するのではなかろうか。
現代人も芭蕉と同じ道筋を歩むことによって、芭蕉と同じことができるかもしれない。芭蕉ほどの力量はないにしても芭蕉の影くらいが隣りに立っているかもしれない。現実の風景や道筋は元禄の昔とはすっかり変っているだろうけれど、イメージを芭蕉の時代にさかのぼらせることは……ほんの少しくらいならできるだろう。
権藤英作氏の意図がどこにあったかはわからないが、新聞が〈奥の細道〉を実地に歩いた人を記す理由は、購読者のそんな願望を考えてのことであった。
「もともと権藤さんは俳句がお好きだったんですか」
最前の女性が、お茶と|羊《よう》|羮《かん》を運んで来る。
「どうぞ、お口にあいますかしら」
「ありがとうございます。おかまいなく」
老人は厚切りの羊羮をパックリと一口で飲み込んでしまう。
「俳句ですか。べつに好きってことはなかったねえ。五・七・五に詠めばいいんだろうけど」
「じゃあ、芭蕉について、なにか」
特別な思い入れがあったのだろうか。
「いや、いや、それも初めはなにも知らなかったね。〈奥の細道〉を歩いてからですよ、親しみを感じたのは」
障子に手をかけた娘さんが、ふり返って、
「父は自分が芭蕉の生まれ変りだと思っているんですよ。ね、お父さん」
と、からかう。よく見れば父と娘は、面ざしがよく似ている。
「馬鹿なことを言うな」
老人は真顔で怒った。
「はい、はい。用があったらベルを押してね」
と、肩をまるめて出て行く。
老人はすわり直して、私のほうへ顔を向け、
「芭蕉と言われても、せいぜい知ってたのは、あの……」
「はい?」
「あの、ほら……有名な」
「俳句ですか」
「はあ。有名な、なんと言うたか」
必死に思い出そうとしているが、なかなか思い浮かばない。
「古池や、でしょうか」
「そう、それ、それ」
と|膝《ひざ》を打ち、
「古池や|蛙《かわず》とびこむ水の音」
と、おもむろに言う。
それからキョトンとした様子で、
「これ、いい句ですか」
「はい」
「どこがいいのか、さっぱりわからん。蛙が飛び込めばポチャンくらい音がするでしょうが。古池だろうが、新しい池だろうが」
「それはそうでしょうけど、たしか蛙というのは、芭蕉以前は、鳴き声だけが問題にされていたらしいんです。そう聞きました。蛙をテーマに据えながら、鳴き声ではなく、水音を問題にした、そこに芭蕉の新しいセンスが感じられる、と、そういうことだったんじゃないでしょうか」
私は、学生時代に聞いた、うろ覚えの知識を|披《ひ》|露《ろう》した。
老人は、じっと私の顔を見つめていたが、
「さよう、その通り。水音を詠んだところがよかった。よく知ってるねえ、あなたは。さすがに記者さんだけのことはある」
と、ほめあげる。
「おそれいります」
「いや、いや。この句のよさがわからない人が多くて困りますわ」
と、|顎《あご》を|撫《な》で、わがことのように|頷《うなず》いている。さっきは、古池の句をけなしていたではなかったか。
「旅を思い立った直接の動機はなんだったんでしょうか。とくに俳句がお好きってわけじゃないとしたら……」
と私は話題を変えた。
「私、東北の生まれですから、仙台も秋田も山形もみな知っとります。昔のことがなつかしくて、芭蕉が歩いたのなら、私も歩いてみようかと、そう思っただけですよ」
「歩けるだけ歩いて、そこから電車で引き返し、またつぎにそこから歩くってのは、権藤さんご自身のアイデアですか」
「そうです」
「なにかヒントになったものは?」
「ありません」
と、そっけない。
勤めを持つ身としては、それよりほかに方法がなかったのだろう。
「で、深川から出発して、どう歩かれましたか?」
「|浅《あさ》|草《くさ》へ入って……|千《せん》|住《じゅ》まで見送りの者が来ましてね。千住新橋を渡って日光街道をずーっと。|春《かす》|日《か》|部《べ》まで行って泊まりました。翌日は|間《ま》|々《ま》|田《だ》まで」
「大変な距離じゃないですか」
「芭蕉は一日に十里くらい歩きましたから」
「しかし……」
「まあ、途中でいろいろと」
「|曾《そ》|田《だ》さんがご一緒だったんですね」
私は同行者の名前を、あらかじめ調べて知っていた。壁の写真に写っているもう一人の人物。多分まちがいあるまい。
「そう。|曾《そ》|良《ら》がね、どうしても一緒に行きたいと言うものだから」
老人は明確に“そら”と発音した。ジョークのつもりらしい。
「曾田さんは、なにをしてらしたんですか」
「サラリーマンですよ。私が一時出向していた会社の部下で、私より五歳年下です」
たしか曾良も芭蕉より五歳年下だったはずである。
「同じご趣味のかたがいらして、よかったですね」
「はい」
「ずーっと曾田さんと一緒だったんですか」
「最後、山中温泉で別れました。腹痛なんか起こすもんだから」
「曾田さんがですか」
「はい。曾良がね」
話の中身がかすかにおかしい。
深川を出て千住で見送りの人たちと別れ、春日部に泊まり、さらに翌日間々田まで足を伸ばしたのは、まさしく芭蕉と曾良がたどった旅程である。芭蕉は|隠《おん》|密《みつ》の疑いをかけられるほどの健脚であった。〈奥の細道〉は、ところどころで短い|逗留《とうりゅう》などもあって、全行程に百四十数日をかけているが、歩く日は同行二人十数里行くこともめずらしくない。深川を出て春日部に泊まり間々田まで行くのは、相当の強行軍だろう。埼玉県をそっくり縦断してしまうのだから、その前後も含めて百キロくらいはありそうだ。
――権藤さんは歩けたのだろうか――
十七年前のことらしいが、五十歳は過ぎていた。
――無理に芭蕉と一致させているのではあるまいか――
もちろん、こうした旅にあっては、できるだけ行動のパターンを芭蕉に近づけるのは、充分に考えられることである。旅程の始めではとりわけそんな意志が働く。
だが、山中温泉で……これは〈奥の細道〉の最後に近いあたりだが、そこで同行の曾田さんが腹痛を起こし、そのあとは権藤氏の一人旅になったというのは、どうだろう。
〈奥の細道〉の“山中”の項では、
“曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、
行き行きて倒れ伏すとも|萩《はぎ》の原  曾良
と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者のうらみ、|隻《せき》|鳧《ふ》のわかれて雲にまよふがごとし。予もまた、
今日よりや|書《かき》|付《つけ》消さん|笠《かさ》の露”
となっている。
曾田さんも腹痛とは……あまりにも符合がよすぎて、にわかには信じにくい。
「間々田からどう行かれたんですか。鉄道の駅はどこですか」
「鉄道?」
「いったん鉄道で引き返して、また、そこまで乗って行かれたんでしょ」
「はい、はい、そうです。東北本線ですよ。間々田って駅があります」
しばらく手帳のページを捜して答えた。
「その先は?」
「|小《お》|山《やま》、飯塚と通って|室《むろ》の|八《や》|島《しま》です。|大《おお》|神《みわ》神社へ参拝しました」
これもそっくり芭蕉のコースである。
「つぎは日光ですか」
「はい」
「いかがでしたか。どこをご覧になりましたか」
「東照宮。みごとでしたな」
「芭蕉はあんまり好きじゃなかったのとちがいますか」
「いや、いや、そんなことはありません。まぶしいほどみごとな建物ですよ」
「滝は?」
「|華《け》|厳《ごん》の滝ですな、やっぱり」
「芭蕉は行かなかったんじゃないですか、そこへは?」
「いや、行きました。エレベータで降りて」
「芭蕉のことですよ」
「たしか句も詠んでるでしょう」
「裏見の滝のほうでしょう」
「そりゃ、恨みはいろいろあったでしょうなあ」
と、トンチンカンの答が返って来る。
しばらくは芭蕉の話をしているのか、権藤氏自身の旅のことを言っているのか、少々計りにくい話が続いたが、仙台から松島のあたりへ入ると、急に老人は活気づく。
「仙台では|秋《あき》|保《う》温泉に泊まりました。女中さんのサービスがよくって、やっぱり東北の人は人情がありますな。近所の劇場でからくり人形をやってまして、これが本当によく動く。感心しましたよ」
と、身ぶりを交えて旅の見聞を楽しそうに話しだす。
この話はわるくない。私が聞きたいのは、当然のことながら、芭蕉の話ではなく、老人がこの旅をどう楽しみ、どんなところに苦労を覚えたか、そのことのほうである。
「松島はいかがでしたか」
「島が意外とひらけているんですな。学校があったり、|牡《か》|蠣《き》の養殖をやっていたり」
「そうなんですか」
「芭蕉と同じってわけには、いかないけれど、目的を持って旅をするってのはいいことですよ。観光バスに乗って、ただ“はい、こちら。はい、あちら”それじゃつまらない。自分で計画を立て……そりゃ期待はずれもあろうけれど、昔、芭蕉がここを通ったとわかれば、今、なにもなくても我慢ができる。夏草やつはものどもが夢の跡……。あははは。栄枯盛衰、世の流れですわ。義経がいた、弁慶がいた、それから、ほら、なんといいましたか、あのきれいな女の人」
「だれでしょう」
「中国の」
「ああ、|西《せい》|施《し》ですね。|象《きさ》|潟《がた》や雨に西施がねぶの花。象潟はいかがでしたか」
「今は田んぼの中だから」
それは私も知っている。陸地が隆起し、昔の海が田んぼに変っている。芭蕉の頃は、水が広がり松島同様にところどころに島が群がっていたらしい。今でもよく見ると、田んぼの中に昔の島らしい隆起が残っている。
日本海の海岸を山形県から新潟県へと話を移し、
「荒海や佐渡によこたふ|天河《あまのかわ》、これはいかがですか」
「まったく、その通りの風景でしたな。海が荒れていて、空には無数の星が輝いていましたわ。海のむこうに佐渡が見えて、天の川がまるで天に橋でも渡したみたいに輝いていましたよ」
天井を見あげて言う。
「しかし、これは旧暦七月の句でしょう。この季節、天の川は佐渡に横たわらないと聞いてましたが……。それに、夜のあかりで佐渡が見えるはずもないのとちがいますか」
私が口を挟むと、
「あなた、なんでそんなことわかるんですか。私は見たんですから」
声をあらくする。
ここで争ってみても仕方ない。
「このあたりは越後線の沿線ですね」
「そうです。いろんな宿に泊まりましたね。みなさん、親切にしてくれました。旅の道中で女性の二人連れにあいましてね、同じ宿の隣の部屋で寝ているんですよ。廊下に出ると、寝ている姿まで見える。なにかボソボソと話している。気になりましてね。明日はまた長旅だから眠らなくちゃいけないと思っても、なかなか眠れない。そのうちにうとうととして、いい夢を見ました」
「ほう、どんな?」
「言えません」
顔を赤くしている。老人の表情がなまめいて映る。|淫《いん》|靡《び》なほどに……。
「本当ですか」
一つ|家《や》に遊女も寝たり|萩《はぎ》と月……。状況がこの句に似ていすぎる。
老人は私の質問には答えず、
「あなた、芭蕉のことがやけにくわしいですね」
と、不思議そうに見る。
「学生の頃に少し勉強しましたから」
「なるほど、研究家は芭蕉がどんな生活をしていたか、すっかりわかっているそうですね」
「そう聞いたことがあります。何月何日、芭蕉がなにを食べ、だれと会い、どんな夢を見たか、だいたい調べがついているんです。芭蕉研究はそこまで進んでいます」
「ふーん」
と、首を傾げてから、
「しかし、あなた、人間の長い一生だからね、そう全部はわからないのとちがいますか。早い話が、山中温泉で曾良と別れてからのこと……」
「はい?」
「芭蕉は一人旅になり、一人旅じゃだれも知りようがない」
「ですが……」
と、私はさえぎった。
芭蕉の研究は進んでいる。どんな夢を見たかまでは正確にはわかるまいが、行動については、まるで日記のように綿密な記録が作られている。とりわけ〈奥の細道〉の期間については、曾良の〈旅日記〉もあるし、多くの門人や知人が芭蕉の行動を書き残している。ほとんどくまなく観察されていたと言ってよいだろう。曾良と別れても、けっしてだれにも見られずに旅を続けたわけではあるまい。本当に一人であった時間は少ない。もちろん芭蕉自身も書いている。
「女性と会いましてな。これが案外知られていない。だれも知らんことです」
「ほう?」
「若い女です。これは……あなたにだけ申しますが……私だけが知っていることですわ」
老人は、なにか|錯《さく》|綜《そう》した想像を抱いているのかもしれない。
「まあ、それはともかく……」
「あなた、聞いたこと、ないでしょ。研究家も知らんことです。加賀と越前の境に近い、川のほとりですわ。街道からちょっと入った|葦《あし》の生えているあたりで……」
老人の表情がかすかにおかしい。
「結局、のべにして何日かかったわけですか、権藤さんの旅は?」
と、私は話題を変えた。
「百九十八日かかりました」
「今、どんなご感想をお持ちですか」
「とてもよかった。いろんな体験をしましたし……だれも知らない芭蕉の秘密もわかったし」
「なんでしょう」
「だから……曾良と別れてからのことです。いずれ発表する時期が来るでしょう」
話したいような、話したくないような……。
「じゃあ、楽しみにしています」
私は権藤老人にこだわりすぎたかもしれない。取材の目的は充分に果たせた。権藤氏が、ユニークな旅を企て、それを実行したこと、そして、それがレジャーの過ごしかたとして一定の意味を持っていること、それがわかれば記事は書ける。私はそれほど長い記事を書くわけではなかった。
「ありがとうございます」
「いや、いや。どうも失礼いたしました」
それでも権藤氏と別れたあと、二日たって曾田さんを訪ねたのは、この件について裏を取っておこうという新聞記者の習性からだった。
「ええ、ずーっと一緒に歩きましたよ」
曾田さんは、まだ現役のサラリーマンである。気さくに話してくれた。
「深川から山中温泉まで?」
「そうです。今日はどこまで歩くか、どの電車に乗るか、それは主に私がやりましたから」
「なるほど」
細かいところでは二人の談話に多少の差異があったが、同行二人、奥の細道をそれなりに親しくたどったことは疑いない。
話が一段落すると、
「権藤さん、お元気でしたか」
と、私に尋ねる。
「はい」
「こちらのほうですよ」
と、頭を指さす。娘さんもそんなことを言っていた。
「ああ、ちょっと……」
私は言葉を濁した。
「旅をしている途中からですよね、少しずつぼけが始まったのかな、そう感じたこと、ありましたね。自分が松尾芭蕉だと思ったりして……」
「そうですか。たとえば、どんなふうに」
私にも思い当たることがないでもない。
「この岩に立って、この句を詠んだとか。ここで、なんとかいう人に会ったとか……。昔の人の名前を言ったりして。権藤さんはあの当時、〈奥の細道〉を熱心に読んでましたから、その気になっちまったんでしょうね」
「なるほど」
「初めのうちは、ちょっと変だなって、そう思うくらいでしたがね。だんだん時間の幅が広くなる」
「時間の幅……ですか」
「そう。一分間くらい言うことがおかしくなる。“えっ”と思って聞いてみると、すぐにもとに戻る。一分が二分になり、たまにしかなかったことが少しずつひんぱんになり、|脳《のう》|味《み》|噌《そ》の中にぼんやりしたところができちゃって、その幅がだんだん広くなっていくのとちがいますか」
言われてみると、私が権藤老人に会ったときも、そうだった。つまり、
――この人、自分が芭蕉だと思っている――
そう驚いて、注意深く観察を始めると、
――いや、狂ってるわけじゃない――
と、正常な話に戻る。そんなことが何度かあった。
「曾田さんは、この頃、あまりお会いにならないんですか」
「ええ。私が行くと、症状がわるくなるんです」
「ほう?」
「|曾《そ》|良《ら》が来たと思って、本人はすっかり芭蕉を気取ってしまいますから。いいことないでしょ」
「そんなにひどいんですか」
「ひどいときには、ひどいみたいですよ。旅の最後の頃は、疲労のせいもあってか、半日くらい、ずっと芭蕉でいたことがありますよ。初めは冗談かと思って、私も曾良をやってたんですが、そのうち馬鹿馬鹿しくなってね、山中温泉で別れたのは、そのせいですよ」
「腹痛じゃなかったんですか」
「私が? とんでもない。〈奥の細道〉に“曾良が腹を病んだ”と、そう書いてあるからそう思っただけでしょ。二人で旅をしたのは本当ですが、権藤さんの記憶には〈奥の細道〉の内容が相当に交じってますから。芭蕉の行動と、自分の行動と、ごっちゃになって、区別がつかないところがあるんですよ」
「|市《いち》|振《ぶり》で女性の二人連れに会ったのは本当ですか」
「それは本当です。芭蕉のほうはフィクションだったらしいけど……。一人が色っぽい女でね。権藤さん、年甲斐もなく気にかけてましたよ。色が白いとか」
「同行二人はなかなか大変でしたね」
「終りの頃はね」
「そう言えば権藤さんは、山中温泉で曾田さんと別れたあと、一人旅をして……」
「はい?」
「なにか大変な発見をされたみたいな話でしたよ。お聞きになりましたか」
「なんでしょう」
「研究者がだれも知らないことだって……」
「|妄《もう》|想《そう》かもしれませんね」
「ええ」
「心当りはありませんね」
「ありがとうございました」
私は礼を言って曾田さんと別れた。
そして、その夜のうちに記事を書き、三日後に借用した写真と一緒に記事が新聞に載った。
記者の生活はいそがしい。
一つの仕事が終ってしまえば、それを思い出すこともめずらしい。正直なところ、私は権藤老人のことも〈奥の細道〉の取材のこともすっかり忘れていた。
八か月ほど経って権藤英作氏の急逝を聞く。娘さんが、
「父がこれをお届けするように、と、しきりに申しておりましたので」
と、〈奥の細道〉に関する資料を届けてくれたのである。
数冊の本、ファイル、アルバム、そして旅日記……。あまり価値のありそうなものはない。
だが、休日の午後、なにげなく旅日記の手帳を繰っていると、最後のあたりに、小さな新聞記事が|貼《は》ってある。権藤氏のメモは、乱筆で読みにくく、日付や滞在地を除けばほとんど通読ができないのだが、切り貼りの記事は簡単に読める。
私は手元の地図を確かめた。権藤氏が山中温泉を出発して、石川県から福井県へと移るあたりだろう。一人旅だった。市振で女性の寝姿を見て、老人は異常なときめきを覚えたのだろうか。たしか取材のときにも「加賀と越前の境に近い川のほとり」と言っていた。手帳には九月二十日の日付が読める。
記事の日付は、その二日後である。
“二十二日午後三時すぎ、|大聖寺《だいしょうじ》川左岸の草むらで、若い女性の絞殺体が発見された。被害者は加賀市片野町に住む田中春美さん(一四)で、二十日午後、友だちの家を出たきり、行方がわからずになっていた。目撃者によると、春美さんは、旅行者らしい五、六十歳の男性と一緒に川岸を歩いていた。男は白い帽子をかぶり、ジャンパー姿。警察ではこの男を捜している”
老人の混濁した脳裏には、これが芭蕉の秘密として記憶されていたにちがいない。
本書は一九九二年一月に当社から刊行された単行本「消えた男」を文庫化したものです。
|消《き》えた|男《おとこ》
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年2月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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shoseki@kadokawa.co.jp
(C)  Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『消えた男』平成 7年 1月25日初版刊行
平成10年 2月10日 7版刊行