TITLE : 江戸禁断らいぶらりい
講談社電子文庫
江戸禁断らいぶらりい
阿刀田 高
目 次
第一部 艶句あらかると
第二部 禁断らいぶらりい
遺精先生夢枕
旅枕五十三次
長枕褥合戦
壇之浦夜合戦記
阿奈遠加志
大東閨語
色道禁秘抄
花街風流解
大笑下の悦び
雲 雨
第三部 小咄まんだら
ぷっしい考
ぷりっく考
うてるす考
らあげ考
えいぬす考
ふれたす考
こきゅ考
あとがき
江戸禁断らいぶらりい――古川柳と小咄の世界
第一部 艶句あらかると
【艶句あらかると】
ケインズを信じ腎虚に悩みたり
二宮金次郎《にのみやきんじろう》は“節約”を旨とした。ケインズ博士は“活発な支出によって景気が回復する”ことを主張した。経済学の世界にはいろいろ学説があるらしい。
男子一生の性生活も同様である。スペルマは節約すべきか。それとも活発に消費してこそ、かえって末長く楽しむことができるのか、それが問題である。
古くは“人生二升説”などというのがあって、男子が一生に放出できるスペルマの量は二升どまり。さながらパチンコ玉のごとく、これで“打ち止め”になるという説である。二升は三・六リットル。一回の放出量は平均三CC。割り算をやってみると……パチパチパチ。千二百回。四十年間現役として活躍するとして、年に平均三十回。これはちと少なすぎる。もう少し頑張っているにちがいない。
だが“二升”という数値は、この際たいして問題ではない。二升学説は、明らかに二宮金次郎的発想である。“使える量はこれだけ。だから節約しろ。若いうちに浪費するな”という教えである。現代ではこういう考え方はむしろ否定されている。人間の器官は使えば使うほど発達するものであり、生殖器も例外ではない。二升などとケチなことをいってはいけない。どんどん消費すれば、ますます生産活動は盛んになる――ケインズを信じよう。
閑話休題。江戸庶民はもちろん金次郎派であった。スペルマ、つまり腎水《じんすい》はその名の通り腎臓に貯えてあり、激しく使えば、たちまちにして水涸《が》れとなり、腎虚《じんきよ》、すなわちインポになると信じていたのである。
学者虚して曰く少ないかな腎
これは『論語』の文句取り。“巧言令色鮮《すく》ないかな仁”と言ったのは孔子だが、“子のたまわく”の学者先生が腎虚となれば、ここはヤッパリ“少ないかな腎”と歎くのが筋である。
腎虚の句は江戸川柳の中に数多くあって、
おごるへのこ久しからず腎虚なり
殿さまを空ぼりにする美しさ
甚兵衛はふところ手にて蠅を追い
損なこと女房ばかりで腎虚なり
よそでへりますと内儀は医者にいい
“おごる平家”も久しくなかったが、いい気になって、やたら浪費する“へのこ”も長いことはない。そうとは知りながら新しく雇ったお妾《めかけ》が美しかったりすると、お殿さまはついつい度が過ぎてしまい、やがてお堀はカーラカラ。頬の肉はゲッソリと落ち、腰はフラフラ。“甚兵衛”とは腎虚の人のあだ名で、もう手を使うのもおっくう、せいぜい顎で蠅を追い払う程度。床についたまま起きあがることもできない。じっと寝ていれば、少しずつよくなるのだろうが、そうそう安らかに眠っていられないのが、この病気のやっかいなところである。
その薬腎虚させ手が煎《せん》じてる
腎虚したので来にくがる里の母
お妾をすくってのける銀のさじ
看病が美しいのでさじを投げ
看病をしている女が腎虚にさせた張本人なのだから、ぶっそうこの上ない。ふとんもチャンと敷いてある。すぐに手が触れ、足がからみ、「あれ、いけません、いけ……いけ……いく、いく、いくうーッ」と活用して、病気はますます悪化する。嫁さんの母親も、義理の息子の病気見舞いに行かなければならないが、病気の原因を聞くとなんとなく敷居が高くなる。「あの娘《こ》ったら、月に何回くらいやったのかねえ? ほどほどってことがあるはずだよ」とため息をつく。一方、医者としては、さしずめ薬を盛る銀のさじで“看病人”を取りのぞきたいところだが、それがそう思ったようにはいかない。だから、やがて枕が北になり、「チーン、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」と相成る。
水向けをするのも減らした女房なり
腎虚のくやみうらやましそうにいい
亭主の“水”を減らした女房が、亭主の墓に水をあげるのだから、あの世で浮ばれるかどうか。だが、女房としては、そのくらいかわいがられれば女冥利《みようり》につきるというもの。弔問客の中には「どうも、このたびはご愁傷さま……でもご主人、水涸れでおなくなりになったんですって? まあ、うらやましいわ。うちの人なんかぜんぜん愛してくれないの。くやしい!」なんてことにもなる。
江戸庶民の間では、どういうわけか、腎虚で死ぬと、死後にシンボルは立ちっぱなしと信じられていた。
湯灌場《ゆかんば》の笑い腎虚で死んだやつ
魂魄《こんぱく》ここにとどまって生《お》えている
生きているものはへのこと妾なり
二十四時たってへのこはやっと死に
医学的にはあまり根拠はない。ただ、江戸時代の腎虚は、さっぱり立たないインポテンツのことばかりではなく、その正反対のプリアピズムのことも指していた。プリアピズムというのは、立って立って立ちまくり、押せども引けどもどうにも柔らかくなってくれない病気で、ギリシアの生殖神プリアポスにちなんでこの名がつけられたという。ポンペイの遺物などに見るプリアポス神は、まことピンピンと天をも突かんほどの勢い、見るだにうらやましい姿だが、四六時中このまま、タンクに水がないのに神経のコントロールがどこか狂ってしまって、のべつ立ちっぱなしというのは、うらやましいどころか、当人は真実苦しいものである。この病気の原因もさまざまだが、房事過多もたしかにその一つ。江戸庶民はチャンとそこを見ぬいて、これも腎虚のうちに入れておいた。まことに慧眼《けいがん》である。湯灌場に行っても、なお魂魄この世にとどまって立っていたのは、こちらのタイプであろう。
水切れで小僧夜ひる立ちどおし
なえぬのも道理看病の美しさ
気の毒さ息子ばかりに脈があり
これは、みんな“立ちっぱなし”のほうの句である。前夜にあまり激しい合戦をやると、次の朝になってもまだ立ちつづけていることがあって、俗にこれを“疲れ立ち”とか“から立ち”とか呼んでいる。あれがもっともっとひどくなったのが、プリアピズム系の腎虚と思えばよい。その周辺の神経はピリピリとして、トゲなどが当たろうものなら飛びあがるほど痛い。ホーデンはやけにふくらんでいる。そうだ。北原白秋《きたはらはくしゆう》も歌っているではないか。
からだちのトゲは痛いよ……
まろいまろい、金の玉だよオ
【艶句あらかると】
わが妻のウーマン・リブや殿はじめ
新春二日は姫はじめである。姫はじめとは何をする日なのかといえば「きまってるじゃない。アレでしょ。ウフフ」なんて、そんな答が返ってきそうだけれど、ことはそれほど簡単ではない。昔からいろいろな学説がまことしやかに語られている。
例えば、古くはおかゆのことを“ひめめし”と呼び、これを初めて食べるから姫はじめだとか、あるいは姫はじめは飛馬《ひめ》始めであり、新年始めて馬に乗る日であるとか、さらにまた女子が初めて裁縫《さいほう》をする日であるとか、もちろんニューイアーズ・ファックの日だという説もあって、文字通り諸説ふんぷん。素人にはどれが正しいのか皆目見当がつかない。
話はかなり横道にそれるが、山陰地方に“夫婦《めおと》どんぶり”という料理があって、これは松たけと赤貝の混ぜご飯。松たけは男性、赤貝は女性、とわかれば、“夫婦どんぶり”の名の由来もピンと来る。だが、子どもに「ねえ、どうして夫婦どんぶりっていうの?」と尋ねられ、親父は急にドギマギして「そりゃ……、きっと、ほら、父ちゃんと母ちゃんが仲よく食べるからサ」なんて……しまらない話だねえ、これは。姫はじめも似たようなもの。本当はアレのことだと、チャンときまっているのだけれど、まさか娘や子どもの前でそうあからさまにいうわけにもいかない。そこで、やれ、おかゆがナンダトカ、馬がナンダトカ……「あハハハハ、父ちゃん母ちゃん、いろいろ苦労しているんだなあ」……おおむねこんなところが真相ではあるまいか。だとしたら学校で大胆な性教育までやろうかという今日この頃、それほど気イ使うことはないんだね。
江戸庶民はといえば、性純朴にして、あの道が大好き。もとより姫はじめの解釈に異説のあろうはずがない。
その味も相変らずに姫始
忘れても死ぬというなと姫始
おめでたく死にますと姫始
新年になったからといって、べつに中身が変わるわけではないから、毎度おなじみの味覚。亭主はさして感激もないのだが、なにぶんにも奥さまはこのところすっかり味知りそめて、クライマックスともなれば「ああ、死ぬ、死ぬ」と大騒ぎをする始末。正月早々「死ぬ、死ぬ」では、いくらなんでも縁起がわるい。そこで亭主が箝口令《かんこうれい》をしいて、
「いいか。間違っても“死ぬ”なんていっちゃダメだぞ」
「じゃあ、なんていえばいいの?」
「そりゃ、おめえ、“生《い》く、生《い》く”にしろ」
まあ、ざっとこんな風景である。
さて、姫はじめの語源については、もうすでにむつかしい議論が百出しているから、ここでは触れないが、二十世紀ともなれば、またべつな角度からこの言葉にイチャモンがつく。
なぜか、ウーマン・リブの女史が現われて、
「姫はじめなんて最低よ。男尊女卑の思想よ」
「どうして?」
「きまってるじゃない。“姫”って女の人のことでしょう。だったら、この言葉は男の側から一方的に見て作られた言葉よね。しかも女を道具に見たてて……」
「そうかなあ?」
「そうよ。嘘だと思うなら、筆始め、琴始め、弓始め、まな板始め、窯《かま》始め、みんな新年初めて道具を使うことじゃない。だから姫始めも女を道具と見なしているのよ。男の言語的横暴よ。わかった? ボケナス」
「なるほど」
この女史の説によれば“オマ××する”という卑語も女性を道具として見ている表現であって、真に男女同権を願うならば、女性はこれに対抗してあの行為を“オチ××する”と呼ぶべきだというのだ。
であるからして、男のほうから見て“姫はじめ”であっても、女のほうから見れば、これは断固“殿はじめ”とでも呼ぶべきことなのだ、とおっしゃる。日本国憲法第十四条で男女平等がうたわれている以上まことにごもっともといわざるをえない。その晩どちらが上になるかによって適宜“姫はじめ”か“殿はじめ”か、それを決定すれば民主主義の精神にかなうというものである。側位の場合はどうするか? そこまでは面倒を見きれない。ジャンケンでもやって決めてほしい。
話を川柳に戻そう。姫はじめ(または殿はじめ?)をおこなうのは、先にも述べたように正月二日の夜であるが、この夜はふとんの下に宝船の絵を入れて寝る夜でもあった。こうして寝ると好運がめぐってくると信じられていた。だが、ふとんの上ではやんごとない儀式が始まるから宝船も楽ではない。
宝船皺《しわ》になるほど女房漕《こ》ぎ
二日の夜波のり船に楫《かじ》の音
紙屑のたまりはじめは宝船
宝船の絵には七福神と、それから“長き夜の遠《とお》の眠《ねぶ》りの皆めざめ波乗り船の音のよきかな”という、さかさに読んでも同じになる回文の和歌が書いてあるのだが、当時の枕は箱まくら、漕ぐほどに乱れるほどに“ギイギイ”と、さながら楫の音のように枕が鳴る。一夜明ければ宝船の絵は紙屑籠にポイ。これが紙屑のたまり始め、というわけではなく、川柳子が“たまり始め”とことさらにいっているのは、枕元に散ったティッシュ・ペーパーのほうである。ちりも積もれば山となり、ちり紙積もれば朝となる。
女房が泣くたびにいるふくのかみ
“ふくのかみ”は“拭くの紙”である。よがり泣きの奥さまはすこぶるご満足。かくて家庭も円満。拭くの紙は福の神にも通じる。
しかし、残念ながら宝船の上で漕いだからといって、それでいつもすばらしい好運に恵まれるほど人生あまっちょろくできていない。では、どうすればいいのか。
福神を乗せた娘がたから船
この福神は、財布のフックラとふくらんだ福の神さまだ。娘がこれを上に乗せて漕いでこそ、真実の宝船だというわけ。これならば現代でもままあること。ナットク、である。
最後は現代のジョークでしめくくろう。
「坊や。もう寝ずの番をしてサンタクロースを見ないのかい?」
「サンタなんてウソッパチだよ。一月二日のほうがおもしろいよ」
【艶句あらかると】
つかの間の命を愛《め》ずる張り直し
恥ずかしく嬉しく痛くいい日柄
春の語源は“張る”である。“張る”とは草木の“芽が吹き出ること”である。生きとし生けるもの、この季節になるとみんな精気がみなぎってくる。心もうきうきとはずんでくる。やはり結婚式はこの季節が一番ふさわしい。だから、大安《たいあん》の吉日ともなれば、どこへ行っても結婚式。花嫁は恥ずかしく、うれしく、これまでが昼の部。夜の部には、“痛く”が加わるという仕掛けになっている。
結婚カウンセラーは、それほど痛くないとおっしゃるのだが、娘さんの身にもなってごらん。今までに指一本深く入れたことがないのに、そこへあんなものが……と思えば、まずは心理的な恐怖が先に立つ。
花嫁は腑分《ふわ》けにされる心持ち
観念のまなこを閉じてはみたが、脚や下腹に余計な力が入ってしまうから、実際以上にピリピリと感じてしまう。
もちろん男性側の配慮も大切。やさしく、あせらず、うん、それから潤滑油を忘れちゃあいけない。“鉢を買ったが何植えましょうか 新鉢ゃツバキに限ります”と俗謡にある通り、ここはツバキをタップリと……いや、こんなこと、今では常識。先を急ごう。
困ったことに大勢の中には“痛くない”花嫁もいる。困ったことでもないのかな。昨今はこの数がメッキリ増えたらしい。“東京大地震のうわさが流れたころから、ますますそうなった”という説もある。
「ねえ、大地震が来たら死ぬかもしれないぜ、その前に楽しもうよ」
「それもそうねえ」
となってモーテルへ走るということだが、この説、あまり信ずるにたりない。
お江戸の昔にも“痛くない”花嫁はヤッパリいた。
娘もういくのの道を承知なり
花嫁のよがるはできたことでなし
平安朝の代表的な歌人、和泉《いずみ》式部《しきぶ》の娘に小式部内侍《こしきぶのないし》がいた。この娘も母に似て歌がうまかった。まわりの者がやっかんで「どうせ、お袋が代作するのさ。嘘だというなら、今ここで歌を詠《よ》んでごらん」。折りしも母の和泉式部は天橋立《あまのはしだて》に旅行中だった。あらぬ疑いをかけられ、内侍は頭に来た。そこでスラスラスイ、即興でよんだのが“大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立”である。小倉百人一首にも入っている名歌だが、よくよく読むとそうたいした歌ではない。
内侍がよんだ“いくのの道”は地名だが、川柳のほうで“いくのの道”といえば、これはもう“いく、いく”の道。流行歌なら恍惚《こうこつ》のブルース“あとはおぼろ、あとはおぼろ”の状態である。
“指二本いくのの道の案内者”なんて、おなじみのヘビイ・ペッティングをよんだ句もある。それはともかく、花嫁が“いくのの道”を知っているとなると、経験は一度や二度ではあるまい。初夜のベッドで思わず知らず身もだえして、赤ん坊がひきつけを起こしたような顔になる。
当の亭主とさんざん交渉があってのことなら、端《はた》からとやかくいう筋合いではないのだが、新郎になんのやましいところがないのに花嫁が“いくのの道”をマスターしているとなると、ことは深刻になる。“できたことでなし”と忠告の一つも垂れねばなるまい。そこですねに傷持つ娘は演技をする。
「あなた、入ったの?」
「ああ」
「じゃあ、痛い」
これは江戸小咄。これではせっかくの忠告も意味がない。もう少し上手にやらなくっちゃあ。
ご存知の通り、現代の花嫁は事前に整形医の門をたたいたりする。“破るために張る”のである。五万円もするのである。ちょっとむだのような気もするが、日本華道では“花は散るために咲く”ということばもある。つかの間の命に最高の価値を与えるのが日本芸術の精神。どこか共通なところがなくもない。
さて、こうして始まった新婚時代は、ひまさえあればくっついている季節である。晴れてよし、曇ってよし、雨もよし、雷が鳴れば「イヤーン」と飛びつき、雪が降れば「キミの腿《もも》のほうが白いよ」とながめる。結婚十年もすると、なにがおもしろくてああのべつ抱きあっていたのか、まるで冬のさなかに夏の暑さを思い出そうと試みるようなもので、とんと実感がわいてこないけれど、あの頃はどんなに抱きあっても倦《あ》きるということがなかった。
となると月に数日のタブーが邪魔になる。なんとかならないものか?
その当座朱にも交わる若夫婦
まこと“朱に交われば赤くなる”のたとえ通り、プリックの先端はほのかに紅を帯び、懐紙でぬぐえば血の色がにじむ。
そっと掘りなよ炭団《たどん》だと女房いい
これは新婚ではあるまい。奥さんのほうも味知りそめて、万事心得顔。「火鉢の灰の中に炭団が埋まっているから、ソッと掘りな」ということだが、この炭団はもとより血のたどん。うっかり突つくと赤く崩れる。ご用心、ご用心。
新世帯蘭語でいえばヒルモトル
オランダ語で寒暖計はテルモメトル、気圧計はバロメトル、まんじゅうはオストアンデル。失礼、失礼、オストアンデル(押すと餡でる)は嘘だけれども、ヒルモトルもこのたぐい。新婚世帯は夜だけでなく、“昼も取る”。オランダ語辞典をいくらさがしたってこんなことばはない。
連日連夜、昼夜もわかたずに実習を重ねるから上達も早い。初めは痛く恥ずかしく、ジッと目をつぶっていた奥さまもゆさりゆさりと腰を動かし、ときには声などお漏《も》らしになる。
尻で書くのの字は筆の使いよう
よがるのもしゅうと勘定《かんじよう》の数に入れ
亭主の筆使いがうまければ、おのずと奥さまの腰がまわり、いつしか“の、の、の……”と“の”の字をえがき、やがてクライマックスとなる。
これが昨今の核家族なら問題ないが、お姑《しゆうと》さんが一緒となると穏やかじゃない。自分はもう血の道が途絶えているのに、こう派手に“の”の字を書いたり、声を出されたりしたんじゃ我慢がならない。
「いいたくないけれど、本当に料理は下手だし、里帰りばっかりしたがるし、それに夜がすごいんですのよ、まるで商売女みたいな声を出して……」と、亭主が喜ぶよがり声も、姑にとっては欠点の数の中にチャンと入るのだ。
「昨夜は結構なお楽しみだったね。あたしの部屋まで声が聞こえましたよ」
お姑さんがなじれば、嫁さんが答えて、
「ええ。でも……あれ、太郎さんの声なんです」
男の絶叫型も、まれにはあるそうな。
【艶句あらかると】
雷も及ばぬカーの臍と臍
夏が来る。空に入道雲が湧《わ》き立ち、やがて雷鳴が轟く。ご存知の通り、あの雷さまは人間のヘソが大好き。あんなものを奪《と》ってなんのたしにするのだろう?
江戸小咄によれば――落雷のあとに印籠《いんろう》が落ちている。印籠とは、小箱を三つほど重ねて紐《ひも》を通した男性用アクセサリイ。中に印、印肉、薬などを入れ、帯の間に挟《はさ》んで持ち歩いた。
「雷さんは中に何を入れるのかな?」
一番上の小箱を開くとピカピカピカ、目もくらむほどの光が漏《も》れ、二番目を開けば、これがなんとヘソの干物《ひもの》。
「なるほど。これでこそ雷さまだ」
こう思いながら三番目をあけようとすると、天から声があって、
「ヘソの下を見るな!」
この小咄、今では印籠が二重底の弁当箱に変わって落語のまくらに使われている。
大勢の雷さまの中には、ヘソよりももう少し下のほうを狙《ねら》う奴がいてもおかしくはない。若い娘の行水のそばに落ち、白いししむらを見たとたんに欲望がムラムラと起こり、抱きついて手を伸ばせば、これを雷の子どもがそばで見ていて、
「父ちゃん、違うってば。あーあ、目がすっかり悪くなったんだなア」
残念ながら三寸下のほうは人類にとってこの上なく大切な代物。おいそれと雷さまに差しあげるわけにはいかないけれど、ヘソくらいならどうということもない。ヘソを輸出してバーター方式、雷さまからは電気を輸入すればよい。一回の落雷で百ワットの電球を六万時間もつけっぱなしにできるとか。資源の少ない日本国には耳よりの話ではありませんか。
話を江戸川柳に移そう。
雷の落ちる拍子に後家《ごけ》も落ち
雷が鳴ったで留守に豆を食い
男はその女を抱きたいと思い、女はその男に抱かれてもいいと思い、だが、こんなときでもその“きっかけ”がないとモジモジするばかり。そこへいかなる天の恵みか雷がピカリ、ドーン。
「あ、こわい。助けて」
「しっかり!」
抱き合ってしまえば、あとは一瀉千里《いつしやせんり》。いつしか後家さんの鼻息も“ハア、ハア”と荒くなって“落ちて”しまう。相手が後家さんならばだれにも文句はあるまいが、第二句は亭主の留守のうち。節分に撒《ま》いた豆の残りを神棚にあげておき、雷のときにこれを噛むと難をのがれる、という迷信があったけれど、亭主の留守に蚊帳《かや》の中で食べる豆はこれではない。女房秘蔵のクリット豆である。
迷信といえば、
雷も及ばぬ蚊帳の臍と臍
雷のときには蚊帳の中に入ればいいといういい伝えもある。電気は物体の表面を走るので、囲いの中は安全度が高い。だが、蚊帳は電気の伝導体ではないから、そううまくいくかどうか、科学的根拠は薄いようだ。ちなみにいえば、自動車の中はすこぶる安全。夕立ちの中で激しく愛しあっていても、これは確実に“雷も及ばぬ自動車《カ  ー》の臍と臍”である。
蚊帳なんてものは、この頃ではすっかり見られなくなったけれど、昔は腕白小僧が中に潜って“クジラ取りごっこ”。吊り手をはずして四方からおさえると、中の“クジラ”はなかなか逃げ出せない。
時には妙な獲物がかかって、
天の網間男蚊帳でとつかまり
“天の網”といっているのは“天網恢々《てんもうかいかい》疎《そ》にして漏らさず”。老子《ろうし》の言葉を引いているから。天の網はだだっ広く網の目はあらい。だから時には若いセールスマン氏がマンションの奥さまとベッド・イン、「ウシシシシ」なんて、うまいことがないわけでもないけれど、結局は“天の網は漏らさない”のであって、悪事の報いは必ず現われる。昨今は蚊帳がなくなって間男《まおとこ》も逃げやすくなったが、あわてて窓から飛び出したとたんに、これが高層マンションだったりして……途中で「しまった!」と思ってみてももう遅い。読者諸賢よ、おたがいに気をつけよう。
蚊帳と聞いて思い出すのは、加賀《かが》の千代女《ちよじよ》の名句“起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな”である。人名辞典などの記録によれば千代女は結婚して一子をもうけたところで夫と死別したとか(結婚しなかったという説もあるが……)。子どもを一人生んだくらいの時期は花も実もある女盛り。一人寝はさぞつらかったろう。もんもんと身悶《みもだ》えして、いつしか指が……いや、私が想像するのではない。江戸庶民がそう思うのである。
くじりあき千代女蚊帳の句ふと案じ
オナニーの後ですばらしいアイデアが浮ぶのは、ないことでもない。
千代女が出たついでにナンセンスな江戸小咄を紹介すれば――。
千代女の亭主、二階の女中部屋に忍び込んで小女に手を出す。千代女これを見て梯子《はしご》をはずす。亭主はおりるにおりられず、飯ももらえずひもじい思いをしていれば、隣のおかみが窓から飯を差し入れる。亭主、そこで一句を案じ、
今朝かかに梯子取られてもらい飯
もちろんこれは千代女のもう一つの名句“朝顔につるべ取られてもらい水”のパロディである。またまた横道にそれた。話を蚊帳に戻して、
紙燭《ししよく》して見たと新造口惜《く や》しがり
蚊を焼いたあとを用いていやがらせ
せっかく蚊帳を吊ってるのに中に蚊が入っていることがよくあった。こんなとき江戸庶民は紙燭で焼いた。紙燭とは紙をねじってその先端に火をつけて灯りとしたものである。亭主は紙燭で蚊を焼くふりをして、若女房の秘所をチラリ。そこで若女房が、
「ひどい! 見たのね」
とくやしがる。ケチ!
しかしつらつら考えればこれが女の色気というもの。そうあからさまに見せられては、いつも楽しいものではない。
情事が終ったところで懐紙が必要となるが、たった今使った紙燭の残りで始末する人もいる。女房は「いやねえ」と眉をしかめる。体験者でないと、こういう微妙な句はなかなか作れない。
現代の日本国では蚊もめっきり少なくなったが、夏の屋外のデートともなれば、ブーンと羽音を立てて近づいて来ることもある。
「花子さん、ボクはあなたを……」
その瞬間、花子さんが太腿をパチン! なんだかこっちの手がたたかれたよう。ひどく興ざめがしてせっかくの愛の言葉も喉の途中でストップ、そのため愛し合った二人は結ばれず……人生ドラマはなかなか複雑である。
だから……ここは公園の片すみ。アイデア商売を営む人もいて、
「えー。一吹き五十円、一吹き五十円」
エアゾールの殺虫剤を片手に売り歩く親切なノゾキ屋さんもいるそうな。
【艶句あらかると】
月々に月が見れれば安心ね
月々に月見る月は下女《げじよ》安堵《あんど》
古川柳で“月”といえば“月経”の意味がある。“安堵”は“安心”である。となれば、この句の意味は明らか。意味が明らかなばかりか共感を覚えるマドモアゼルもきっと多いはず。ある朝、TOTOの白い陶器を赤く染めて“セーフ。ああ、よかった”の心境である。
もちろん、この句は“月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月”とかいう、それ自体にさして意味のないことば遊びのパロディだが、本歌よりパロディのほうがはるかに人間心理の機微を捕らえて楽しい。
だが、お立ち会い。この句をここに挙げたのは、ただ楽しいからだけではない。江戸時代の下女たちが「生理があれば妊娠していない」という科学的事実をチャンと知っていたことを指摘したかったからである。
なに、そんなことめずらしくもない。人間長い間同じことを繰り返していれば、そのくらいのことは気がつくだろう、とおっしゃるかもしれない。
それはその通り。なんの異存もない。だが、なぜそれだけしか気がつかなかったのか? もっとほかに気づくべきことがあったのではないか。
話は少し横道にそれるが、荻野久作《おぎのきゆうさく》博士をご存知であろう。さよう。あの荻野式受胎調節法を発見した人類の恩人である。この人が荻野式の根拠となる学説を発表したのが大正十三年。人類の歴史から見れば、お話にもならないほど新しいことなのである。このことを思うと私はすっかり考えこんでしまうのである。
そもそも人類はピテカントロプス・エレクトスのむかしから、いや、それ以前からセックスを営み、雌族にはその頃からメンゼスがあり、「予定月経の開始日から逆算して十六〜十二日以内に排卵がある」という荻野博士が指摘した相関関係が何十万年も昔から、人類に備わっていたにもかかわらず、それに気付くのにこの二十世紀を待たなければならなかったとは、なんと愚かなことであろうか?
私は思うのである。もし、それメンゼスが男性にあったならば、この相関関係はもっと早い時期に発見されていたにちがいない。ところが、女性は、いっちゃあわるいが、科学的推論が弱い。せいぜい“生理が止まれば妊娠”という、そのくらいの単純な因果関係しか見出だせなかった。もう一歩踏み込んで目に見えない因果関係を探ることができなかった。
どのセックスが命中したのか? それと毎月の生理とはなにか関係がないのか? そこに少しでも思い至れば、そして少しでも観察を深めれば、もっと早く荻野式理論は発見されていたにちがいない。これは、なんといっても女性のほうがはるかに発見しやすい立場にある。ああ、それなのに……キュリー夫人はこのへんをどう思っていたのか。ラジウムにばかり気を取られていたのではないかと私は残念である。
というわけであるから、江戸時代の川柳では“生理が止まって、さあ大変”という句はたくさんあるが“今が安全。さあ、やろう”という句は、ただの一つもない。
荻野式などさらさら思い至らなかった江戸庶民の頼みの綱は、せいぜい朔日《ついたち》丸《がん》。毎月一日にこの薬を飲んでいれば妊娠の心配はなく、また妊娠しても流れてしまうと信じられていた。値段は百文。酒一升くらいの値打ちである。もとより当時黄体ホルモン薬の発明されているはずもなく、となればこの朔日丸もかなりあやしい代物だが、江戸の庶民ばかりをあざ笑うわけにはいかない。ビタミン剤、ローヤル・ゼリー、養毛剤、現代の妙薬だって本当に効果があるのかどうか、わかったものではない。
朔日で払うは月のとどこおり
持薬さと朔日丸を後家は飲み
酒屋・米屋の勘定は、みそかに払うことになっていたが、“月”のとどこおりのほうは毎月一日に払うというわけで、それは、まあ“信ずるものは救われん”各人のご自由だが、後家さんが愛用となると、おだやかではない。やる気十分である。
ひどいこと下女三文で子をおろし
三文は袋入りのカラシの値段。カラシもまた子堕《おろ》しの効果ありと信じられていたので、朔日丸が手に入らぬ下女は、これで頑張った。
とはいえ、そんな非科学的なことで、堕りてくれるはずもなく、とどのつまりは中条《ちゆうじよう》流。専門家の門をたたくことと相成る。
中条はからしで効かぬやつが行き
三人を二人助ける女医者
中条は月を流して日を送り
“三人を二人助ける”とは、もちろん乳くりあった男女が二人で、残る一人はあわれ神田《かんだ》川あたりにポイ。助かるのが二人で、捨てられるのが一人となれば、なんとなく善行のような気がするところに、この川柳の恐ろしさがある。さしずめブラック・ユーモアであろうか。
中条の少し手前でフッと消し
中条の門は大手を振ってくぐれるところではないから、夜陰にまぎれてソッと入る。提灯《ちようちん》の火もその少し手前でフッと吹き消す。そして……胎内の命も生まれる“少し手前でフッと消”されてしまう。“フッと”という表現にすご味がある。
中条の引き札おろし値段なり
引き札は広告用のちらし。まさしく、これは“おろし”値段であろう。ちなみにいえば、当時の流し代は一分くらい。現在のお金になおせば、一万〜二万円である。
中条流に関する川柳は大変多く、それだけに当時の庶民が、このことに深く関心を持っていたことがよくわかる。
もう一つ二つ、ユーモラスな例をあげてこのテーマは終わりとしよう。
中条の下女はなかなか気がふとし
愛想に上開という女医者
前の句は、なにしろ勤務先がその道の専門医だから気が太くなるのも当然。後の句の“上開”は“ジョウボボ”と読んで現代風にいえば、名器のこと。女は自分で自分の道具を評価できないから、こういわれると内心は真実うれしい。でも奥さんに、こんなこといっちゃあいけないよ。
「いつか名器といったじゃない」なんて、いつまでも図にのって求められる。四十の坂を越えると、あの道は真実シンドイものである。ね?
【艶句あらかると】
独り者今日もお仙に恋をして
あてがきの名におせんとはきついこと
明和の頃(一七六四〜七二年)、江戸谷中《やなか》の笠森《かさもり》稲荷《いなり》の水茶屋にお仙という名の美女がいた。明和三美人のひとりで、折から錦絵の勃興期であったため、お仙はそのモデルとなり、ますます艶名を高くしたという。江戸文学の中にもお仙を扱った作品は数多く、そのためかあらぬか、この女の名は広辞苑にもチャンと載っている。たいしたものだ。これに比べれば、現代の美女などチャンチャラおかしい。何年待ってみても石坂浩二《いしざかこうじ》夫人や岡田太郎《おかだたろう》夫人が広辞苑に載るとは思われない。
笠森《かさもり》お仙《せん》は、似顔絵、つまり今日風にいえばブロマイドとなって、江戸市中にそのあで姿がバラ撒《ま》かれた。となると独身男がこれを買い求め「ああ、いい女だ。抱きてえなあ」。これから先、男が考えることは洋の東西、歴史の古今を問わず決まっている。美女の絵片手にせっせ、せっせと手すさび。現代青年がサンドラ・ジュリアン、池玲子《いけれいこ》を片手に、励むのと同じである。となれば冒頭の句の意味も明らか。「あてがきの相手に、おセンとはピッタリしすぎて、ひどい話やなあ」といった心境である。
さて、この“おセン”ことセンズリ、性風俗事典によれば“皮つるみ、おのこわざ、五人組、五指娘、手開、ます、塩つかみ、ろうそく、独悦、握り飯”などなど、名前は数多《あまた》あるのだが、そもそも元祖はだれが始めたことであろうか?
普通の学問を学んでいたのでは、なかなかわからないことでも、江戸川柳はチャンと配慮してくれるから、ありがたい。
せんずりを国常立の尊かき
となって、国常立尊《くにとこたちのみこと》は、『日本書紀』のとっぱなに現われる神さま第一号、イザナギ、イザナミの先祖に当たる。なにしろ、しばらくは男の神さましかいなかったうえに“常立”というくらいだから、さぞ年がら年中立っていただろう。年中立っていて、しかも女の神がいないとなると、もはややることは一つきりない。天地開闢《かいびやく》このかた、男はこの道を知っていたと想像する所以《ゆえん》である。
さらに研究を深めるならば、なぜ“センズリ”と呼ぶのだろうか。“千回擦《す》るから”では、学説として新鮮味にとぼしい。ユニークな学説を紹介するならば――。
今は昔、あの奈良の大仏さん、あの方は年中すわりっぱなしで、さぞ疲れるだろう。肩こり、腰痛、足のしびれ、きっとお困りだろうと、諸国の善男善女が千人、みんなでマッサージをして差し上げたことがあった。腕をさすり、腰をもみ、ことのついでにあのあたりをさすれば、いかに智光あまねく法界を照らす毘盧遮那仏《びるしやなぶつ》も、物理的な刺激を受けては生理的反応が起きてしまう。とたんにムクムクと立ちあがったから、マッサージをしていた千人はたまらない。そのまま棒につかまって宙吊り。これが“千吊り”の語源……だなんて、これは落語でいうことだから、あまり当てにはならない。
川柳ばかりでは退屈だから、少しは趣きを変えてやまと歌といこう。
心ゆく後に思えば淵は瀬に
変わる飛鳥の皮つるみかな
出典は江戸時代の奇書『阿奈遠加志《あなおかし》』である。どうも江戸時代のポーノグラファーたちは、みなさん学があるのでかなわない。この歌は、いうなれば一種の“本歌取り”である。本歌取り? わからない? 高校時代にはきっと習ったはずなんだが、授業中によからぬ妄想ばかりえがいていたから忘れてしまうのだ。困るんだなあ、そんなことでは。ふたたび広辞苑を引用させていただけば“本歌取り/和歌、連歌などで意識的に先人の作をもとにして作ること”となっている。この皮つるみの歌の本歌は、『古今集』にある名歌で“世の中は何か常なる飛鳥《あすか》川きのふの淵ぞ今日は瀬になる”よみ人知らず、である。
飛鳥川は奈良県を流れる川で、ここでは川底の変遷定まりなく、きのう深い淵だと思っていたところが、きょうはもう浅瀬になっている。土地の人の話によると、それほど急に変わりやしないというけれど、まア堅いことはいうまい。この歌の作者がいいたかったことは「世の中のことは、すべてそのくらいよく変化するもので、恒常不変など望むべくもない。まことにはかないものではないか」と、世の無常を嘆いているわけである。
そこで今度は皮つるみのほうの歌。こちらは「いい気持ちと思っても後で考えなおすと喜びの深淵から、急にシラけた気分にガラリと変わってしまうものだなあ、皮つるみというやつは」であって、これもやはり広い意味での無常の歌であるな。ティッシュ・ペーパーに散った水跡などを見て、ひどくむなしく、世のはかなさを感ずるものである。
だからそれでやめるかと思えば、それが親分大笑い、翌日にはまたぞろ始めるものだから、やがては、
暮ると明くと千《ち》すり百《もも》すり磨きけん
いさをも著《しる》く照れる玉ぐき
なにしろ朝な夕なに磨くものだから、いつしか玉茎《たまぐき》も色つやを増し、歴戦のいさおしに照り輝く。
この歌も『阿奈遠加志』からの引用だが、ことのついでに同書の中の“皮つるみ”論を紹介すれば、
「皮つるみとかいう男の手わざこそ、たぐいなくいみじきものなれ。名を立てず身をそこなわず、世のわずらいとなりしためしをも聞かねば、これもまた、もとはひじり仏の御教えにもやあるらん。さるは世にありとある人、煩悩の闇に心迷わさざるは千人《たり》に一人もありがたかめるを、ただに一拳を昇降して無量の罪科を即滅せんこと、いともいとも尊きわざならぬかは」
おわかりだろうか。オナニー無害論どころか、これはありがたきオシャカさまの御教え、人間を煩悩の闇から救うものだ、と説いている。北欧の学校でオナニー術を教えていると聞いて目をまるくして帰ってくる人がいるけれど、わが日本国ではすでに江戸時代にして、これだけの卓見を述べている。
さらにいう。「しかるを女の身にとりて、これに似たるばかりの慰めごとなきは、また何の因縁にかあらん。ひとえにこれ女の罪障深きによるなるべし」
オナニーが女にはない、なんてこれはどうも事実誤認のような気もするけれど、江戸の御世には女性週刊誌もこれなく、それゆえ、きょうびのお嬢さまのごと、みだりにたしなむことなきぞかし。
【艶句あらかると】
パリの灯に瑶泉院は黒く映え
先日、知合いのフランス人が遊びに来て、
「この紋章はどこの大名のものか教えてほしい」という。
紙にかいたのを見れば、鷹の羽の打ちちがえ。これならば映画や講談で知っている。播磨国《はりまのくに》赤穂《あこう》の城主、浅野《あさの》内匠《たくみの》頭《かみ》の紋所ではないか。したり顔で、
「それは日本では大変有名な浅野家の紋所だ」
といってしまった。すると彼が、
「その家に未亡人がいなかったか」
と、おかしなことを聞く。
ことさら未亡人といわれれば内匠頭の後室瑶泉院《ようぜんいん》が頭に浮かぶ。そこで、これまたよせばいいのに、赤穂事件のあらましを、小鼻などひくつかせて話してしまった。すると、かのフランス人、欣喜雀躍《きんきじやくやく》して、
「オレは大変な品物を手に入れた」
「なんだ?」
「その……マダム瑶泉院の張型《はりかた》だ」
聞けば、彼は数日前、数万円を投じて日本の張型を手に入れた。漆《うるし》塗りのりっぱな箱に収められ、箱の表と左右に、鷹の羽の紋所。きっと由緒《ゆいしよ》ある家のものだと思っていた、とニコニコしている。
私は驚いた。驚きながらも日本国と、それから瑶泉院のためにあわてて弁明につとめた。鷹の羽の打ちちがえなんか質屋紋といわれるくらい、つまり鷹の羽の紋付きは、質流れとなっても、同じ紋所の人が大勢いるのでさばきやすく、したがって、質屋もたくさん金を貸してくれる。ことほどさようにポピュラーな紋所で、日本国中どこへ行ってもある。そのうえ、たとえ万に一つそれが播州《ばんしゆう》浅野家のものだとしても、瑶泉院が使ったとは限らない。こんなことをタドタドしく説明したが、彼はいっこうにひるまない。
「マダム瑶泉院の張型。トレ・ビアン。忠臣蔵の仏訳はないか?」と、すっかりその気になっている。
あの分ではいずれ本国に持ち帰り、大ゲサに吹聴されることだろう。外国人の日本研究は、どうもせっかちなところがあっていけない。文化庁も真剣に悩んでいるそうである。
それはともかく、こんなことが縁で、数日後、私はその“瑶泉院の張型”を実際に見ることができた。なるほど細長いりっぱな蒔絵《まきえ》の箱に入っていて、紫の布に包まれている。布は一見して新しいので、これは売った人の細工だろう。箱は少し時代がついているが、江戸時代のものではあるまい。ただ、その問題の張型は、なんといおうか、私はそれを見て、一瞬愕然として眼を見張った。
長さは十六、七センチメートル。黒い木製のみごとな上ぞりで、下の方にひもを通す穴があいている。張型としてはどこといって特色のない標準型Mサイズだが、すばらしいのはその隠微な光沢である。血と脂と汗と、その他の液とで何度も何度も時代をかけて磨きあげたように、にぶい光を放っている。
あれモウモウと水牛独りごと
長局《ながつぼね》足を早めてよがるなり
などと、張型を抱え、必死の形相ものすごく、よがり泣いていた美女たちの姿が髣髴《ほうふつ》として脳裏に浮かび上がり、ガーンと頭を打ちのめされるようであった。
序論が長すぎた。本論に入ろう。
張型の歴史は、江戸時代の奇書『阿奈遠加志《あなおかし》』によれば、神代の頃から木や石で作り、もっぱら神事に用いられていたが、奈良朝になって呉《ご》の国に産する水牛でこれを作るようになった。外観も美しく、綿を熱湯に浸して中の空洞に入れると本物と変わらないので、宮仕えの女たちが愛用するようになったという。
べっこう屋折ふしひょんな細工もし
むかしのはかりが低いと局《つぼね》見せ
古川柳には、水牛の角で作ったのがよく登場するが、最高級品はべっこう製。第二句から見ると型には多少の流行があったのかもしれない。
ぬく灰がよいと局《つぼね》の伝授なり
急なとき冷で用いる長局《ながつぼね》
利用法には各人各様のノウ・ハウがあったのだろうか、急なときともなれば、飲ん兵衛が冷酒を飲むのと同様、“冷や”で利用したお局もいただろう……川柳子は相変らずうがった想像をする。ま、夏向きの利用法であるな。売って歩くのは大奥出入りの小間物屋で、髪飾りなどと一緒に持っていく。
髪の上毛の下までも小間物屋
である。
べっこうや角のほかに木製があったのは、すでに実物を紹介した通り。有名な江戸小咄では、娘が張型を使って妊娠。そんなバカなと思って、その張型をよく調べれば名人左甚五郎《ひだりじんごろう》の作となっていた、とあるから、これも木製であったにちがいない。
『阿奈遠加志』では、後家さんが大根を温めて「ああ、ここちよや。堪えがたや、もう死にそう。もう少し奥の方……蝦夷《えびす》、天竺《てんじく》、地獄にまで行きそう」とよがり泣くのを、隣家の男がのぞき見て、
大根《おおね》のみ入るや寡婦の穴あわれ
かくても人につらき操は
と詠い、大根やらナスビやらホームメイドもたくさん利用されていたことが、おもしろおかしく説話に残っている。
だが、私にはかねてから一つの疑問がある。張型は古川柳や江戸小咄にのべつ登場する毎度おなじみのテーマだが、本当にそれはどよく用いられていたのだろうかと。
ここで性科学の文献をひも解くならば、女性の性感は、当初はクリトリス性感であって、張型なんか痛いばかり。すでに味知りつくした未亡人なら、大根でも水牛でもいとおしくなるだろうけれど、そうそうセックスのチャンスのなかった奥女中たちが、争って小間物屋からこれを買って、真実これを挿入して楽しんだとは、かなり誇大表示のような気もしないではない。
お局は丑満ごろに角がはえ
などと、女盛りの美女が夜更けて牛の角を挿入し、ひとり悶々と身悶えするという妄想は、それ自体、男性の性的イマジネーションを刺激する。女の色ぐるいは男にとって悪いものではない。「ひょっとしたらオレにもチャンスが廻ってくるのではないか」なんて、さもしい考えが浮かんでくる。それだからこそ、実際以上に張型がバレ句の中によく現われたのではないか。
と思っていたのだが、フランス人の、あの、掘り出し物を見て以来、少し自信がぐらついて来た。瑶泉院なら、未亡人のことゆえ、あの隠微な光沢にも不思議はないのだが……。
後日談が少しある。彼は日本を離れフランスへ帰った。もちろん“重要文化財”は彼とともに海を渡った。古くは浮世絵の例もある。国家的損失なのかもしれない。彼は今『忠臣蔵』のフランス語訳に励んでいるという。
【艶句あらかると】
嬉しさは十九番のねれぐあい
ねれて来て七番になる六あみだ
江戸時代の民間信仰に六阿弥陀《ろくあみだ》参りがあった。奈良時代の名僧行基《ぎようき》が熊野の山中で名木を発見し、これで六体の阿弥陀仏を造った。この六つの木仏が、江戸市中および周辺の六つの寺院に安置されていて、これを春と秋のお彼岸に巡拝した。これが江戸の六阿弥陀参りで、一時は大変はやったものらしい。
その六つの寺を現在の地名でいえば、一番が北区駒込の西福寺、二番が足立区江北の恵明寺、三番が北区西ケ原の無量寺、四番が北区田端の与楽寺、五番が台東区上野の常楽院、六番が江東区亀戸の常光寺で、いずれも東京・北東部の寺にはちがいないが、それぞれ相当に離れており、全部まわるとなると、自宅から一番寺までの距離は別にしても、正味七里(二十八キロメートル)弱の行程。“六あみだみんなまわるは鬼婆ア”などという句もある通り、よほどの健脚でなければ無理であった。実際には、三つ四つまわって、後は次回にというケースも多かったという。
さて、そこで冒頭の句だが、爺さん婆さんのお供をして、六阿弥陀参りに出かけた若女房が家に帰ってくる。すると、女房のプッシイのあたりがすっかり“ねれて”味がよくなっている。亭主は女房が六阿弥陀参りに出かけたとなると、朝からこれが待ちどおしくてたまらない。
爺さん婆さんが寝つくのを待って、さっそく「おい、こっちに来な」「あれ、お前さん」と女房もまんざらではない。阿弥陀さまを六番まわった後で、七番目にありがたい観音さまの登場と相成る。番外の一番だが、その実これが一番楽しい。
現代でも似たようなことがなくもない。
「きのう、彼女とゴルフに行ったんだってな」
「うん」
「で、どうだった?」
「十九番ホールが一番よかった」
ニャロメ。ゴルフは十八番ホールでおしまいである。十九番ホールはゴルフ場の外だろう。これもまた番外のホール。難コースだが、うまく入れば、これにまさる楽しさはない。うらやましい。
いかん。話が横道にそれてしまった。六阿弥陀に戻ろう。江戸川柳を見ていると、六阿弥陀参拝に関する句は相当に多い。まじめな句も、二、三あるけど、ほとんどが艶笑句。江戸の亭主は女房の名器“ヘンシーン”に、少なからず関心があったらしい。
六あみだ婆さま無駄にねれてくる
亡き人のためかや今日の六あみだ
やはり長路をあゆむと婆さまもねれてくるものだろうか? いや、婆さまは婆さまなりにねれるだろうが、これはあまり意味がない。“無駄ねれ”である。同じ“無駄ねれ”でも、第二句のほうは、ずっとあわれである。ヒロインは多分若い未亡人だろう。亡夫の供養のために一念発起《ほつき》して、六阿弥陀参りに出かけたのだが、夜になるとそのあたりが熱くほてってきて「あれ、もう、たまらない。こんなに濡れちゃって……」などとひとり手を当てていたことだろう。まったく“亡き人のため”の六阿弥陀参りは、なさけない。どうせやるなら“有る人のため”の六阿弥陀参り。これでこそ、その晩が楽しみというものだ。
亭主がこれほど楽しみにしているのに、中には不とどきな女房もいて、
ねれぬはずくすねた銭で駕籠《か ご》に乗り
やたらタクシーなどを利用しているようでは、夫婦の和合は望めない。ここはやはり、
奥様のおひろいお下心なり
“おひろい”は徒歩でブラブラ歩くことである。共稼ぎのミセスも積極的にデモに参加すべきであろう。それでこそ、今晩は大幅“チン上げ”……こらっ! 品のないダジャレをいうな。
話は少し前後するが、“ねれる”とは、いったいどんな状態をいうのだろうか。常識的に考えれば、“ねれる”は“練れる”であり、プッシイのあたりが充血し、熱くふっくらと膨張した感じをいうのだろう。
亭主へのみやげあわ餅ほどにねれ
とうろりとねれたを女房土産なり
その晩は片ねれになる機《はた》の足
あわ餅は目黒の不動尊の名物である。目黒といえば今でこそ都心部だが、江戸時代には郊外であった。ここまで参拝するとなると、六阿弥陀ほどではないまでも、十分に“ねれて”くる。その“ねれ”ぐあいが目黒名物のあわ餅とチョボチョボ。トウロリ、トウロリといい加減。これが、亭主へのなによりのみやげであったとは、なかなか賢夫人ではないか。また、機織《はたお》りは片足で踏む。したがって、その夜は“片ねれ”になるだろうとは、またしても川柳子の観察はこまかい。
だが、“ねれる”とは“濡れる”のことではないかという説もある。
六あみだあんまりねれてたわいなし
六あみだ女房湯に行く惜しいこと
読者諸賢もご経験ある通り、あんまり露だくさんというのもダボダボ、ダボダボ、まことに頼りない。前の句はそんな気持ちを詠んだものと考えれば一番ピッタリくるし、後の句は、せっかく濡れてきたのに、銭湯でサッと流してしまっては「ああ、もったいない」、そんな心境ではあるまいか。
もっとも別な面から考えれば、いくら長路の旅をしたって、ただそれだけの理由で顕著に濡れるはずはない。やはり“ねれる”は“練れる”であろう。ただ人間はホモ・サピエンス、考える動物だ。だからいろいろ妄想を抱く。女房もこんなに“ねれて”きたら、今晩は「さぞや」と思う。夜の光景がまのあたりに髣髴《ほうふつ》し、そこで“濡れて”くる。だから結果的には“練れて、かつ濡れて”いるだろう。これが“ねれる”の実態である。どの国語辞典にも書いてないけれど、そうでなければ理屈があわない。
ゴルフ場でも、いかに十八番ホールまで歩いても、それだけで濡れるはずはない。十九番ホールで、あっと驚くほど濡れていたら、これはもう彼女も、長の道中十分に覚悟していた証拠。“うれしさは十九番のねれぐあい”番外のホールにさいわいあれ。
【艶句あらかると】
ありんすのどぶは変わらず指先に
日本からありんす国は遠からず
田んぼ道灯はありんすのおもしろさ
赤線の灯が消えてからもう十数年になる。おびただしい欲望はみんなどこへ消えてしまったのだろう? 同棲時代のベッドの中に、トルコ風呂の白いタイルの上に、あるいはクリネックス・ティシュの“やさしい”感触の中に、それぞれ新しい住み家を見出しているのだろうか。不思議である。
“ありんす国”は江戸吉原の別称である。遊女たちが「わちきはいやでありんす」などと独特の遊里言葉を使ったので、こう呼ばれていた。“日本”というのは日本国のことではなく、現在の台東区は日本堤《にほんづつみ》のこと。
かつては三《み》ノ輪《わ》から隅田《すみだ》川に向けて音無川が流れていて、そこに十三丁の川土手が続いていた。田んぼ道を抜け、この川土手まで来ると、西側に不夜城の灯がギラギラと欲望の炎を燃やしていたのである。
土手のすぐ脇に見返り柳があって、これは今でも昔の位置に残っているはず。この柳を左に見て、大門《おおもん》へ下る坂道が衣紋《えもん》坂である。
もてたやつだけが見返る柳かな
衣紋坂四斗樽ほどの日が当たり
いずれも吉原からの帰り道を詠んだ句だろう。フロイト流に分析すれば「もう一度来よう」という気持ちがあればこそ見返るのである。衣紋坂で見た太陽は夕日だろうか。昼見世《みせ》の女郎をチョンの間で買い、まあ、現代ならば勤務時間中にトルコ風呂へ行った心境。ふと振り返ると西日の色がやけに黄色い。いや、事実四斗樽ほどの入り日となれば、色は相当に黄ばんでいるのだが、なにしろこっちは激戦のあと。全身はけだるく、日の光は妙にまぶしく、もの悲しい。ああ、せっかくのヘソクリだったのに……。来る時は意馬心猿の足取りだが、今はトボトボと歩みも重い。
おや此《こ》の廓《さと》には裏門はありんせん
江戸の吉原は縦二百メートル、横三百メートル、長方形の区域で、あまり広くはない。その四方はおはぐろどぶと呼ばれる、幅四メートルほどの堀割に囲まれていた。入口は大門がただ一つ。それ以外には裏門もなかった。
といっても、この川柳はそれだけのことを詠んでいるわけではない。大勢の客の中には、
「ねえ。アナルちゃんやろうよ」
なんて裏門を希望する人もいたかもしれない。そこでおいらんが眉をひそめてありんす言葉。
「おや。ここには裏門はありんせん」と断わった。
話をありんす国の地図に戻せば、大門を抜けると正面に仲之《なかの》町と呼ばれる大通りが続き、それを挟んで右に江戸町一丁目、揚屋《あげや》町、京町一丁目、左に伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目があって、大通りの一番奥、つまり大門の反対側が水道尻。ここは吉原をめぐるどぶ川の水吐口で、その岸に火の見櫓《やぐら》と、一年中いつも火をともしている秋葉権現《ごんげん》の常灯明があった。
三千の化粧流れる水道尻
三千というのは吉原の遊女の数である。また区域内の四つの隅には、大門から左へ廻って明石稲荷、九郎助稲荷、松田稲荷、榎本稲荷と鎮座して、お稲荷さんのオンパレード。この中でも九郎助稲荷に対する遊女たちの信仰は特にあつく、
九郎助の氏子百から三分なり
九郎助の氏子やっぱり狐なり
プッシイの賃貸料百文也の下級女郎から四分の三両もかかる超特級まで、すべてこの九郎助稲荷の氏子だったが、なにしろお稲荷さんといえば狐が御本尊。氏子のほうもみんな人を欺すのが商売だから、お稲荷さん信仰はまことに理にかなっていた。百文は、当時のソバ代十六文から換算して今の六百円くらい。三分は、職人の年俸が二〜三両だったことから考えれば、現在の二十万〜三十万円の見当になるだろうか。
揚げ代三分のおいらんデラックスが店を張っていたのは、ありんす国でも大門に近い江戸町、京町のあたり。このクラスのおいらんとなると気位も高く、お金を積んだからといってホイホイとワレメちゃんごっこをしてくれるわけではない。
初会にはへそのあたりが関の山
うらの夜は四五寸近く来て座り
真直ぐに足音のする三会目
肥っていんすといじらせる三会目
一回目にはおいらんは酒も飲まず料理にも手をつけず、話しかけてもめったに返事をせず、第一まっすぐに自分の部屋に来てくれるものかどうか、それさえもおぼつかない。もう一度通って裏を返し、さらにもう一度やって来た“三会目”から、ようやく打ち解けて触らせてくれたのである。
もちろん、こんな高級地帯ばかりでは江戸庶民が満足するはずもなく、エコノミカル・エリアは東西のどぶ川べり。東西それぞれを羅生門河岸、西河岸と呼んで、ここには長屋造りの狭い切見世がひしめき並んでいた。賃貸料は百文から。
二朱持った生酔《なまよい》河岸へすべり落ち
鶏のように切見世いそがしい
寄りねえと羅生門から腕を出し
鉄砲で悪く当って鼻が落ち
紙玉をこめて鉄砲見世を張り
二朱は五百〜六百文に相当するから、この界隈《かいわい》なら大威張りだ。あの娘にしようか、この娘にしようか、あれこれ物色しているうちに酔っぱらいはドブに落ちてしまう。百文の賃貸料では、そう長いことサービスをするわけにはいかず「はい、どうぞ。はい、おしまい」とニワトリ並み。時には昨日まで土方のおばさんをやっていたような、たくましい腕がニョキリと出て客を引く。それが羅生門河岸なのだから、辻つまがよく合っている。また、切見世は一パツ撃っておしまいのショート、別名を鉄砲といった。その鉄砲になぜ紙玉をつめるのか? これはタンポン式の避妊法である。
以上で江戸吉原の地図はおおむね頭の中に入った。そこで春の夜のそぞろ歩き。
「このへんが昔の路地、このへんがドブ」
とあれこれ夢想して歩けば、急にカーテンの影からなまめかしい声が掛って、
「お兄さん、ちょっと……昔も今もおんなしよ。やぶがあって、谷があって、その奥にどぶがあるのよ」
「はあ?」
かつての王国も、今はほそぼそと余命をつなぐばかりである。
【艶句あらかると】
芳町は昨日の腹ぞ今日は背に
吉原と芳町の間《かん》蟻わたり
かつて栄耀栄華を誇った“ありんす国”も今では千束《せんぞく》四丁目と味もそっけもない名まえで呼ばれている。
この千束四丁目から国際劇場の前に出て、地下鉄田原町駅のわきを抜け、蔵前《くらまえ》を通り、国電浅草橋駅のガードをくぐり、江戸橋通りを西に向かうと日本橋人形町の交差点に着く。この間約一里あまりの距離である。
この交差点の西南が芳町で、江戸の昔には男娼、つまりオカマの名所であった。オカマといえば、エイヌスの専門職である。もちろん吉原はワギナの名所である。そしてワギナからエイヌスまでが会陰部、つまり“蟻の門渡《とわた》り”である。
といえば、もう賢明な読者諸氏は冒頭の句の意味がおわかりだろう。吉原から芳町までの間は、さしずめ蟻の門渡りではないか、といううがった観察である。日本女性は構造的に下つきが多く、したがって門渡りの距離も三〜四センチメートルとあまり長くはないが、大江戸の蟻わたりは全長一里強と、なかなか長い。
現在はこの江戸橋通り界わいは、交通渋滞も激しく、ビルの階上から眺めていると、黒い自動車が一列にうごめいている。さながら蟻のあゆみのようである。吉原も芳町も、今は昔の意味を失ってしまったが、その間の道だけは“蟻の門渡り”と、いえないこともない。
ところで、今も述べた通り芳町は男色の本場である。男色とは、なかなか“よき味”のものらしく、わが国では弘法《こうぼう》大師がこれを始め、ヨーロッパではカール・マルクスがこれを推奨し「万国のプロレタリアート、男ケツせよ」なんて……。
話を芳町に戻そう。江戸時代は男色が盛んだったから、この町の周辺は、そのメッカとしておおいに繁昌した。繁昌すれば、江戸の川柳子がそれを見のがすはずもなく、
芳町へ行くにはまねをせずとよし
女でも男でもよし町といい
売物に芳町表裏あるところ
背に腹をかえて芳町客をとり
と数も多い。吉原は坊主禁制の地だったから、和尚さんたちは同じ坊主頭の医者に化けて登楼した。だが、芳町はその限りではない。わざわざまねをすることもないというのが第一句である。もっとも芳町の男娼は、けっしてエイヌスだけというわけではなく、女客があれば本来の持ち物でサービスをした。まことに“女でも男でもよし”町であり、表も売れば、裏も売る。便利なスイッチ・ヒッターであった。“世の中は何か常なる飛鳥川きのふの淵ぞ今日は瀬になる”は、『古今集』の名歌だが、芳町の場合は“世の中は何か常なる日本橋きのうの腹ぞ今日は背となる”といった具合で、腹を背にかえ、背を腹にかえてサービスに努めたのである。
さて、芳町から隅田川を渡り、しばらく北に向うと吉田町があった。芳町が男娼なら、吉田町は夜鷹《よたか》である。古川柳で芳町とくれば九十九パーセントまで男娼がテーマだが、その点は吉田町も同じこと、九十九パーセントまで夜鷹の話題である。芳町も吉田町もそれぞれ代名詞的な機能を果していた。
夜鷹といえば、むしろを敷き、星空を仰ぎながらの商売だから、プッシイの賃貸料も格安で、一金二十四文なり(そば代が十六文だった)。安かろう悪かろうは当然のこと。どのくらいすごいかといえば、
本所から出る振り袖は賀の祝い
“賀の祝い”とは、一番若くたって還暦の六十歳だ。こんなのが振り袖を着て厚化粧、ニッコリ笑われたら……これはもう尋常の風景ではない。
それでも、まだ不気味な婆さんというだけなら運がいいほうで、
鷹の名にお花お千代はきついこと
“お花お千代”は“お鼻落ちよ”のしゃれである。悪性の梅毒にかかっていて、交わったが最後やがて鼻がポトリと落ちるかもしれない。それにもかかわらずチャンと商売が成り立っていたところをみれば、男ってやつはヤッパリ好きなんだねえ。
鼻声で仕逃げ仕逃げと追いかける
大勢の男の中には二十四文が払えずに、乗り逃げをするのがいる。逃がしてなるものか! 夜鷹は大声で叫びながら追いかけるわけだが、梅毒という病気は鼻の粘膜を犯しやすい。なにやらフガフガと空気が漏れたような叫び声になる。
フガフガといえば、この病気には甘酒がよく効《き》くと信じられていて、夜の吉田町、甘酒屋の屋台では客同士が、
「フガ、フガ……甘酒はいいんだってねえ」
「ああ、効くらしいよ、フガ、フガ……」
同病同士が世間話をしていると、そこへ甘酒屋の主人が顔を出し、
「そうよ。こいつがいっちよく効く、フガ、フガ……」
一瞬気をよくしたものの、甘酒屋の主人がまだフガフガやっているようでは前途は暗い。すごすごと立ち去ったという小咄もある。“金儲けの秘訣”なんて本を書く人が貧乏だったりしてはいけないのである。
夜鷹にとってなにがせつないかといえば、
唐崎と石山つらき吉田町
唐崎と石山、ともに近江八景である。唐崎は夜の雨が有名であり、石山寺は月の名所だ。夜の雨が彼女らにとってつらいのは当然のことだし、それから月も強敵である。月といっても空に照る月ではなく、月々に一回訪れる赤い月のほう。稼業を休まねばならず、休めばなにしろ二十四文で売っているくらいだから、貯えのあろうはずもなく、たちまち顎が干上ってくる。戦争体験のない世代には、サッパリ実感がないらしいが、腹が減って、しかもしばらくは食う当てがないという状態は真実つらいものである。
名月の夜、川土手で夜鷹を抱きながら客が、
「おい、月は昇ったかい?」
夜鷹が答えて、
「はい。月はあがりました」
月あがりの高齢者も多かったはずである。
【艶句あらかると】
門口で帽子かぶるが作法なり
もやもやも壺も見てくる奥の旅
山形市と仙台市の間の距離は思ったより短い。直線距離を計ればせいぜい四十キロメートルくらいだが、この間には嶮しい奥羽山脈が横たわっている。だから昔の旅人は羽前《うぜん》の国から陸前《りくぜん》の国へ、笹谷《ささや》峠を越えてエッチラ、オッチラ、山道を息せき切って歩かなければならなかった。この笹谷峠にあった関所が“もやもやの関”である。
一方、宮城県の多賀城《たがじよう》には有名な石碑があって、ここには多賀城から京、蝦夷《えぞ》、常陸《ひたち》、下野《しもつけ》などに至る里程が刻まれている。これが“壺の碑《いしぶみ》”である。もっとも“壺の碑”の本家は青森県にあったとも伝えられるが、“もやもやの関”に近いのは多賀城の石碑のほうだから、冒頭の句に詠み込まれている“壺”は宮城県のほうと考えてよかろう。
奥の細道を旅するとなれば、この多賀城の石碑をながめたり、あるいは笹谷峠のもやもやの関を越えたり……、それはそうかもしれないが、川柳子がわざわざそんなどうでもいいことを詠むはずはない。“もやもや”は女性のあのおぼろな部分、毛髪などがモヤモヤと生い繁っている秘密の関所であり、“壺”はその下に奥深く潜んでいる愛の蜜壺である。
恋の旅人は“もやもや”をながめ、それから“つぼ”のあたりを観察するのであって、これでこそ真実“奥の細道”をきわめた、ということになる。
話は少し変わるが、日本語には女性シンボルを呼ぶうまい呼称がない。四文字の俗語があるにはあるのだが、「あれは、どうも……」という意識がだれにでもある。北沢杏子《きたざわきようこ》女史は“ワレメちゃん”を提案したけれど「どうも即物的でいやらしい」という声も高く、相変らず“あれ”とか“あそこ”とか、あるいは“愛の泉”とか“亀裂”とか、さまざまな呼び名で呼んでいるのが実状だ。それでチャンと誤解なく通用するのだから、格別不都合なこともあるまい。
このへんの事情は江戸川柳の世界でもまったく同じこと。“もやもやの関”も“壺”も、ともにプッシイの婉曲《えんきよく》的呼称であった。
もやもやの関を通して五両取り
車井戸阿吽《あうん》備わる下女が壺
間男の示談料が五両だったことがわかれば、前の句の意味は明瞭。そして後の句は――昔の国民学校の教科書に(といっても、これを知っている世代はそう多くはないだろうけれど)“こまいぬさん、あ、こまいぬさん、うん”という、当時はなんのことかさっぱりわからなかったけれども、今にして思えば、あれは神社の狛犬《こまいぬ》、阿吽の呼吸をいっていたのだと思いつくのだが、車井戸を引く下女の口も阿吽の形。グッと縄を引くときには口を引き締めて「うん」のほう。一休みするときは、息を吐いて「あア」。だが、この時、下女の“つぼ”も同じように閉じたり開いたり、つまり“ワレメちゃん、あ、ワレメちゃん、うん”になっているという、ま、相当にこまかい観察なのである。
“火消壺”という呼び名もあって、これは“つぼ”が情熱の火を鎮めてくれるからだろうか。
お客が帰るとすぐに出す火消壺
お客さんが帰ると火鉢の火を火消壺に戻すのは、ごくありふれた風景だったろうが、これが新婚家庭となると、
「いやなお客さんねえ、こんな遅い時間に来たりして」
「さ、早くふとんを敷こうよ」
寸暇を惜んでピンクの火消壺がご開帳となる。
ご存知のことかと思うが、英語にフォア・レター・ワーズ、つまり“四文字語”というのがあって、これは人前で口をはばかる卑わいなことばをいう。例えばCOCK、CUNT、FUCK。初めから順に男性シンボル、女性シンボル、そしてそれを結合させる動作を意味する動詞である。どういうわけかみんな四文字なので“四文字語”といえば、それだけで卑語として通用するようになった。
古い日本語には“情《なさけ》どころ”という味なことばがあって、これも女性シンボルのこと。“情”は男女の色恋であり、その色恋の原点が“情どころ”とは、すこぶる納得がいくけれど、一説ではこれは“名避けどころ”だともいう。みだりに人前でその名をいってはいけないのであって、こう考えれば英語の四文字語とも一脈相通ずるところがある。
女性シンボルの呼び名は、まだまだいろいろあって、例えば“ふる里”、“香箱”、“張飛《ちようひ》”などなど。
ふる里はみな草深いところなり
娘の香箱指人形も入りかね
乳母の股倉から張飛が顔を出し
日本列島も日増しに開発され、“ふる里”には工場が建ったり、ゴルフ場ができたり……、“みな草深い”ところかどうか疑問が残るけれど、とにかく、こちらの“ふる里”は相変らず草深い。また指人形はペッティングのことであり、生娘の香箱は小さ過ぎて指人形が入らないのである。
張飛は『三国志』の英雄、さながら歌手の上條恒彦《かみじようつねひこ》氏のようなひげづらであった。
かわらけの下女が見上げる張飛の絵
などという句もあることだから、お手伝いさんがテレビに映る上條さんを真剣なまなざしで見つめているようなら“もしや”と思ったほうがいいのかもしれない。
プッシイは開くと菱形になる。そこで“菱餅《ひしもち》”と呼ばれることもあった。
菱餅とちまき男女のその形
菱餅も割れる頃には毛がはえる
雛祭りに飾った菱餅もしだいに乾燥し、ひび割れ、長い毛状のカビがはえる、と考えるのは道徳教育のゆきとどいた人だ。そういえば、
門口でお辞儀奥へと女房云い
なんて句もあって、この句を見て「今日は」と門口で挨拶《あいさつ》したところ、奥さんが、「さあ、奥へどうぞ」と考えるのも、同じく道徳教育のゆきとどいた人である。“門口”もまたプッシイのことであり、中年男はなぜか古女房の門口では鄭重《ていちよう》にお辞儀をしたりする。だが、これが一変して、他人様の門口となると、
「結構な御門ですな」
「さ、奥へどうぞ」
「では遠慮なく。このままでいいですか?」
「あっ、お帽子をお召しになって……」
他人様の門の中へ入る時は“着帽をして”。ここが日常の礼儀作法と、この道の作法の異なるところである。
【艶句あらかると】
婿どのは芋の田楽ご存知ないか
人生二回結婚説というのがある。まず二十代の若い男が四十代の年増《としま》女と結婚する。年増女は経済力もあるし、俗に“四十女のしざかり”といわれるくらいだ。二十代の、文なしでエネルギッシュな男がお相手をするにふさわしい。やがて女は年老いて死に、男は中年となる。そこで今度は男は若い娘と結婚する。精神的にも性的にもこの取りあわせはわるいものではない。男が年老いて死ねば、今度は女がその遺産を持って若い男と結婚するわけだ。世の中いつもこううまい具合に運ぶかどうかわからないけれど、これに似た状態が現実に起らないわけでもなかった。
例えば、江戸時代の商人。小僧から手代になり、手代から番頭になり、なんとか世帯を持てる身分になる頃には、男は結構年を取ってしまう。だが女のほうは結婚年齢が低かったから、四十の新郎に十八の新婦というケースもまれではなかった。やがて時移り星かわり、亭主は恍惚《こうこつ》の人となったり、おっ死《ち》んだりするのだが、女房のほうは今が盛りである。ここで若い男と結婚できるものなら、そのまま人生二回結婚説だが、当時のモラルがそれを許すはずがない。そこで悶々と悩んだ中年女房が、ついつい養子や娘の婿《むこ》に手をつけてしまう。かくて複雑な人生ドラマの始まり、始まり。
二十四五まで養母の乳を呑み
継母《ままはは》をあじなところでうなずかせ
姑の生水《いきみず》を取る婿を呼び
男の子のない家では養子をとる。その養子が二十四、五歳になっても、まだ養母の乳を飲んでいるとなるとおだやかではない。「ゆくゆくは娘と添ってもらい、オレたちの死に水でも取ってもらおうか」などといって迎えた養子が、夜になると義母のふとんの中へソッと出入りして、せっせ、せっせと“生き水”を取る。
いったい女はいくつまで性の欲望を持つものなのか? これについては大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》の有名なエピソードが残っている。
ある訴訟事件で大岡越前守が女の欲望について疑問を抱いたことがあった。奉行所から帰った越前守はさっそく母親の部屋へ行って、
「ねえ、母さん、女って、何歳くらいまでセックスの欲望があるものですかねえ」
すると越前守の母親は一言も答えず静かに火鉢の灰をかきなでていた。越前守は「オレとしたことが、母さんにエッチなこと聞いちゃったな」と、初めてワレメちゃんのことをママに尋ねた小学生みたいにドギマギしていたが、急にはたとひざを打った。そうだ、そうだったのか! 母さんは「灰になるまで」と答えたのだ。さすが名奉行。勘がいいのである。
もっとも大岡越前守のエピソードはおおむね後世の作り話。だからこの話も多分嘘だろう。ちょっとうまくできすぎている。だが嘘のないのは“灰になるまで”。欲望の寿命は男より長い。
若い男は美しくもたのもしい。そんな男に抱かれて燃え狂うのは女のさが。年をとったからといってその気持ちに変わりのあろうはずはない。フェミニストとしては、婆さんの浮気もおおいに同情してあげたいところだが、この婿ドノにはもう一人の女、つまり義母の娘が正式の妻として頑張っているのだから、話がとたんにややこしくなる。
酔まぎれ芋田楽を姑食い
とんだこと聟《むこ》の寝床に母の櫛
入聟《いりむこ》の不らちは芋へ味噌をつけ
“田楽”は“おでん”である。豆腐・さといも・こんにゃくにさまざまな味噌をつけて焼いた料理で、それが田楽舞の衣装に似ているのでこう呼ばれた。この料理では、里いもの親いも子いもを一本の串に刺して焼くのが普通だった。そこから親娘ともども文字通り串刺しにするのが“芋田楽”、現代語なら“親子ドンブリ”である。初めは姑が酔いにまぎれてつい手を出し、それからは婿の寝室にソッと忍び込んだりして……、家庭内の力関係からいっても、姑のほうが積極的になる場合のほうが多かっただろう。だが、いずれにせよ、婿のほうにも落ち度はあるわけで、これが“芋へ味噌をつけた”と評されるゆえんである。
田楽でやくやもしおの親子なか
根を掘って聞かれもせぬは芋出入
もちろん親いもと娘いもの間には深刻なヤキモチ合戦が始まる。第一句は百人一首でもよく知られた藤原定家《ふじわらていか》の歌“来ぬ人をまつほのうらの夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ”を、少し引用している。芋田楽に定家卿が出現するあたりが川柳の学の深さだ。骨肉相争うすさまじい芋合戦だが、こればかりは第三者が立ち入って根掘り葉掘り聞くわけにいかない。事態はますます陰にこもって深刻になる。
それでも親と娘の力関係が相拮抗《きつこう》しているぶんには、たとえ戦線はエスカレートするとも、救いがあるのだが、娘のほうも養女だったりすると、
芋の親嫁にえごく当たるなり
母親のわけもいわずに聟にすね
となって、母親にはつらく当たられ、亭主にもそれをハッキリいい出せず、まことに年若い嫁さんはかわいそう。それにひきかえ中年婆アは憎らしいね。“えごく”は里いも独特の“いがらっぽさ”とかけたわけで、いつまでも気がかりにチクチク刺激する感じがよく生きている。
クソ婆アは、ますます図に乗って、
聟どのや聟どのやとていやらしい
姑めの大腹立ちは水が減り
水は男の腎水、白濁のエキスである。本来は嫁さん一人用の水量なのに、親娘そろって奪ってしまっては、水も減ろうというものだ。それを嫁さんが恨むのならともかく、姑のほうが腹を立てるんだからヤッパリ因業《いんごう》婆アだね。婿ドノも、
入聟の仕合わせはまず床が芋
なんていい気になっていると、すっかり涸れてしまうぞ。
この三角関係、最後はどうなるのか。川柳子は、
おかしさは芋田楽で相はらみ
けしからぬことは養母が孫を生み
などと第三者の気軽さ。気安く笑っているけれど、事態がここまで進むと一族あげての大騒動も避けられない。大あわてで里子にでも出したことだろう。
ともあれ、この芋田楽。料理としては昨今すっかりなじみの薄いものになってしまったが、芋田楽式三角関係は、今でもけっしてまれではない。
母「おまえとわたしと、どっちが目方があるだろうねえ」
娘「そりゃ母さんよ。肥ってるもん」
母「でも、おまえのほうが背が高いからね」
ウッカリ娘婿が口をすべらし、
婿「義母《か あ》さんのほうが少し重いです」
【艶句あらかると】
歓びはあれ行かんとす由加んとす
あれさもう牛の角文字ゆがみ文字
『徒然草《つれづれぐさ》』によれば、後嵯峨《ごさが》天皇の皇女悦子がまだ幼い頃、父親に贈った歌に“ふたつ文字牛の角文字直《す》ぐな文字ゆがみ文字とぞ君は覚ゆる”があるという。さあ、わからない。こんなラブレターをもらったらどうしよう?
正解を示せば、ふたつ文字とは“こ”の字のこと。牛の角に似た文字なら“い”の字であり、直ぐな文字は“し”である。“し”の字は活字では曲がっているが、毛筆なら縦にスーッとまっすぐに書く。そして最後のゆがみ文字は“く”であって、全部まとめれば“こいしく”となる。ナーンダ。それなら初めからそう書いてくれればいいのに……ヘソの曲がった娘っ子だ。
これだけの予備知識があれば、冒頭の句もスンナリ理解ができる。場面は大奥のあたり。牛の角の張型を使いながら奥女中が口をゆがめて、嬌声を発している風景である。
古来日本国ではクライマックスの一瞬には“いく、いく”と発することになっている。アメリカ国では“来る、来る”だそうで、運動の方向が逆になっているのは興味深い。ノコギリも日本では引くときに切り、アメリカでは押すときに切る。日本語の“道路”は英語で“ろうど”である。これ、関係ないかな。
話を戻して、古川柳の中に“いく、いく”の声を求めれば、
四つ目屋はじきにいくよと近所なり
お身達は気がゆかぬかと浅黄裏《あさぎうら》
四つ目屋は性具専門店のこと。江戸両国に有名な四つ目屋があり、そして同じ両国に“幾世餅”を売る店があった。この餅は、当節でいえば文明堂の三笠山、泉屋のクッキー、江戸庶民にはよく名の知れた名菓であって、日本国語大辞典には「元禄十七年小松屋喜兵衛が吉原の遊女・幾世を落籍して妻とし、その名を冠して売り始めたあん餅」、チャンと解説が載っている。四つ目屋のすぐ近くに“いくよ”餅があるのは、まことにナットク、であった。
また浅黄裏は毎度おなじみの田舎武士。遊女を相手に「おん身は気がゆかぬか」などと間抜けた質問をしている姿が目に浮んでくる。
ところで「行く」と書いて“イク”と読むのか、“ユク”と読むのか、現代のヤングたちは「この電車は上野いきだ」なんて、これはひどく耳障りなんだけれども、クライマックスの発声となると“イク、イク”が一般的。“ユク、ユク”というのはあまりお目にかからない。
微妙な差ではあるが“イク”のほうが下賤な感じがするのであって、浅黄裏といえども武士は武士。士農工商の第一位ともなれば「お身達は気がゆかぬか?」と、上品に“ゆ”の音を使ったのではないか。川柳子の観察はいつもながらこまかい。
これに関連して思い出されるのは『壇之浦夜合戦記』のこと。頼山陽《らいさんよう》の作と称される美文の春本だが、そのクライマックスは(手元の資料によれば)、
「廷尉曰《いわ》く“鹿の将《まさ》に死なんとするや音択《えら》ばず。太后将に死なんとする、其《そ》の言や美《よ》し”
太后曰く“妾《わ》が心魂、何処《いずこ》にか行かんとす。〓《ああ》、行かんとす”
相共に曰く“それ由加《ゆか》んとす。それ由加んとす。〓、それ由加んとす。〓、それ由《ゆ》けり、それ由けり”……」
となっている。“行かんとす”は文語文の常識からいって“ゆかんとす”と読むのだろう。廷尉とは源義経、太后とは建礼門院《けんれいもんいん》、やんごとない身分の人たちだから、ここはヤッパリ上品な“ゆ”の発音でなければなるまい。だが、それはともかく、その後なぜ“行かんとす”が“由加んとす”に変わったのか。頼山陽ともあろう人が、意味もなくこんな見慣れぬ表記に変えるはずはない。廷尉と太后は今や絶頂に達し、意識はますますおぼろになっているのだ。ああ、それなのに、なぜここでことさらにややこしい漢字を用いなければならないのか。“行かんとす”と“由加んとす”の違いは何か?
筆者は日夜この問題に思い悩んだのであるが、ある日、忽然《こつぜん》とその理由を悟った。
といっても、そう気張るほどのことではない。理由は簡単。これは一種の誤写誤植というものだ。頼山陽は平仮名で“ゆかんとす”と書いた。(もっとも『夜合戦記』の原文は漢文だったという。それならば原文の最初の訳者が“ゆかんとす”と書いた、と考えてもよい)クライマックスを表わすキイ・ワードはなよなよとした平仮名のほうが一層ふさわしい。ただ昔の人は、平仮名を書いていても、その元となった漢字のイメージがいつも頭の中にある。毛筆で書けば“ゆ”が“由”の字に、“か”が“加”の字に似るのは、おおいにありうること。廷尉も太后も羽化登仙《うかとうせん》の境地をさまよっているのだから、それを表現する文字も“由”のごとく“ゆ”のごとく、“加”のごとく、“か”のごとく、朦朧《もうろう》たる筆致で書いた、と推測するのだが、はて、読者諸賢は首肯せらるるや否や。
話を少し変えて、“行く、行く”とともに名高い発声に“死ぬ、死ぬ”がある。忘我恍惚《ぼうがこうこつ》の状態は、どこか死を連想させるものがあるから、この表現はすこぶる納得がいく。フランス人はこの状態を“小さな死”(プチット・モール)と呼ぶという。
死にますといわれて抜身ぐっと突き
あべこべさ長命丸で死ぬという
D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の中に、夫人が歓喜の一瞬に“もし、自分の体内に入って来るのが、剣の一突きであったら……”と思う場面があった。女はだれしもそんな自虐的な連想を抱くものらしい。長命丸は、四つ目屋で売っていた強精剤。男性用塗り薬である。
“長命”という名の薬を塗って“死ぬ、死ぬ”では、これは矛盾である。
同じ“小さな死”の状態でも、やんごとなき人たちともなれば、おのずと表現法も異なってくる。
あれいっそ神去りますと橋の上
朕《ちん》はもう崩御《ほうぎよ》崩御とのたまえり
“神去ります”は神さまが死ぬことだ。イザナギ、イザナミは天《あま》の浮橋でワレメちゃんごっこをしたのだから、多分こう叫んだのだろう……か?
そして最後の句は、かの巨根道鏡《どうきよう》にメロメロにされた孝謙女帝のクライマックス。“崩御”とは、天皇・皇后などの死にしか使えない言葉である。
現代の賢所《かしこどころ》はいかに、なんて不謹慎な連想が湧いてくるけれど、これは軍艦マーチのおじさんがこわい。饒舌はやめておこう。
【艶句あらかると】
越前の実盛さねをただおもり
へのこをば見ざりしかと手塚に問い
『平家物語』の中には、武者たちの勇ましいエピソードがたくさんちりばめてあるが、斎藤別当実盛《さねもり》の最期は、その中でも一きわ光彩を放っている。
平家の軍勢が志保山で、木曾義仲《きそよしなか》の軍に敗れ、全員われもわれもと敗走する中で、ただ一人実盛だけは討死を覚悟に引き返した。その時の出立《いでた》ちはといえば、
“赤地の錦の直垂《ひたたれ》に、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧《よろい》着て、鍬形打ったる兜《かぶと》をかぶり、滋籐《しげどう》の弓を持ち、金覆輪《きんぷくりん》の鞍おいたる連銭葦毛の馬にまたがり……”まア、国語辞典を次から次へと引いてみないと、どのくらいカッコよかったか、そのへんの事情はあまりよくわからないけれど、物語の作者がかなり興奮して熱心に語ってるところをみると、相当な晴れ姿であったにちがいない。
引き返した実盛は、たちまち義仲軍の郎党に囲まれ、善戦のすえ、手塚太郎に首をチョン斬られてしまう。だが、斬った手塚太郎も相手の出立ちがあまりにもりっぱなので、
「これはきっと偉い大将にちがいない」
こう思って、首を総大将義仲のところへ持っていった。
義仲が見ると、その首はまだ自分が幼い頃、命を救ってくれた恩人実盛によく似ている。しかし、実盛ならばもう七十歳を越えているのに死人の髪は黒々として、まるで青年のよう。そこで実盛をよく知っている部下に尋ねると、
「実盛は戦場に向かうときは、いつも若い者に負けないように髪を黒く染めていた」という話。早速首を洗ってみると、白々とした老人の髪が現われた、ということになっている。
さて、話は大分横道にそれてしまったが、今回のテーマは“越前”である。斎藤実盛は越前国の出身であり、そして江戸川柳で、“越前”といえば、これは百パーセント“包茎”、つまりプリックの皮かむりのことである。
なぜ越前が包茎を意味するようになったのかといえば、越前の大名福井侯の槍が熊の皮をかぶっていて、俗に、“皮かむり槍”と呼ばれていた。そこから皮かむりを“越前”と呼ぶようになり、ことのついでに、いつの間にか越前の国の出身者はみんな皮かむりということになってしまった。福井県の人には、まことにお気の毒である。
だから……斎藤実盛は、なにしろ越前の生まれなのだから、義仲は首を斬った手塚太郎に「ちょっとのぞいて見なかったのか」と尋ねたにちがいない。これが冒頭の句の大意である。
だが、お立ち会い。福井侯は徳川家康の子孫のはずだから“皮かむり槍”も当然徳川時代のこと。この点でもこの川柳子の推論は相当なアナクロニズムなのだが、そんなこまかいこと屁とも思わないのが江戸川柳の特徴だ。宇宙の広大さを思えば、平安と江戸くらい前後がゴチャゴチャになったって、べつにどうということもないのである。
性科学書によれば、“越前”には反転不能の真性包茎と、立てば反転する仮性包茎と、二種類あって、真性は、そうめったにあるものではないということだが、なにぶんにもこれはユーモラスな欠陥だから、江戸の川柳には真性・仮性とりまぜて、やたら登場し、
越中がはずれ隣の国を出し
越中はたらず越前あまりあり
越前は肥後に加勢を頼むなり
“越中”はもちろん手ぬぐいの両端にひもをつけたようなクラシック・パンツのこと。これは生地《きじ》の寸法がいつも足りなくて横から顔を出す。昔のマドモアゼルは「いやねえ」などと横を向きながら、それでもチャンと垣間《かいま》見て、性教育のたしにしていたのであって、これは越中の隠れた効用であった。
“肥後”は肥後ずいき。だが、ご存知のように、あれはグランスの首のあたりにえり巻きのように巻きつけるもの。越前の人には痛くて痛くて、とても無理なのではなかろうか。肥後の加勢とは、これもまた川柳子の早トチリのような気がしてならない。
本格的な“越前”ともなれば、なかなかコイタスはむつかしいのであって、されば斎藤実盛はどうしたか。せいぜい、クリットちゃんを愛撫して、コリコリ、グリグリ、シトピッチャン。へビイ・ペッティングが精いっぱい。自作の川柳で恐縮だが、
越前の実盛さねをただお守《も》り
その名の通り、ただいたずらにクリットちゃんのお守りをしていたにちがいない。
しかし、これでは男としてあまりにも情けない。現代では手術をして余った皮を切り取れば、それで万事OK。世の中には奇特というか、自己愛というか、わが身の一部をいたくいとおしむ人がいるもので、この切り取った部分を大事に保存したりする。なんのたしになるか? なんのたしにもならない。バーのおつまみなどで出すイカ燻そっくりで、これを女のコに噛ませると、体の底からゾクゾクとうれしくなってきて……。ちょっと変態であるな。
話を川柳に戻そう。
女性軍にとって越前の評判よかろうはずもなく、
越前は一本もない長局
さもあろう。長局のコレクションといえば、これは毎度おなじみの張型。ふっくらとえらがふくらみ、上ぞりになっているのでなければ、商品価値は乏しい。
入り婿の越前かたみなおすばり
“すばり”は狭いことで、入り婿のうえに越前とあっては、さぞ肩身が狭いことであったろう。
越前の住《じゆう》はへのこの下作なり
名刀の来歴を語るときには、重々しくカッコつけて“備前《びぜん》の国長船《おさふね》の住、長光が打ちたる名刀”などという。プリックが刀にたとえられるのはよくあることだが、“越前の住”では、残念ながら名刀といいかねるしだい。
“越前”が多少なりとも役に立つのは、お寺のお坊さん。
殊勝にみえる出家の皮かむり
僧正は越前でなお殊勝なり
これならば破戒の歓楽に耽《ふけ》るまいと、檀家一同安心である。
舞台は変って現代のトルコ風呂。トルコ嬢が、
「へーえ。大学受験のついでに遊びに来たの?」
「はい」
「あら、包茎じゃないの」
「はい。法科と経済を受けました」
受験シーズンともなればこんな会話が交わされる。
【艶句あらかると】
囚われて心も腰も揺れ動き
貸元がずるいで源氏旗をあげ
戦争に敗れた大将は、首をチョン斬られる。だが大将夫人の首はチョン斬られるとは限らない。大将夫人になるほどの女だからたいていは美人である。これを見て勝った側の大将が惜しくなる。「オレの女にしようか」と思う。
大将夫人の心境はどうか。相手は自分の国を滅ぼし、夫を殺した憎い敵である。その敵に肌身を許さねばならないとは、なんたる屈辱。いっそ死んでしまいたい。だが夫人のまわりには亡夫の残した幼い子どもがいる。この子どもたちだけはなんとか生きながらえさせたい。そこで、子どもたちの命乞いをして、自分は敵の大将に肌を許すということになる。
日本史上隠れもない美女、常盤《ときわ》御前《ごぜん》もこんなケースであった。平治の乱で、源義朝《みなもとよしとも》が敗れ、常盤は今若、乙若、牛若三人の命と引きかえに清盛《きよもり》に身をまかせた。
話は少し変わるが、フランス古典劇の名作、ラシーヌの『アンドロマク』も似たような状況である。ここでは囚われの寡婦アンドロマクが、やはり子どもの命乞いをして、その代償に敵の大将ピルスの愛を受ける約束をする。アンドロマクは子どもの命の保障をえたところでピルスとベッド・イン。その後で自害をする覚悟をきめている。一種の詐欺であるな。
現実の問題として考えれば、こんな時の敗軍の大将夫人の心境は相当に複雑だろう。貞女ばかりがそろっているとは限るまい。自分の命も惜しかろう。敵軍の大将がすてきにチャーミングな場合もなくはない。なにせこっちは囚われの身。すっかり気が弱くなっている。そこへあれこれ親切にされると、つい心が動く。心が動くとなぜかプッシイが濡れる。だれかに抱きしめてもらいたくなる。
子どもの命と引きかえに、敵の寵妾となった女たちが、本当にその理由だけであったかどうか、微妙な心理の領域まで立ち入って見ると、かなりあやしいところもある。心の底では、進んでチェンジング・パートナーを企んだ女も多いはずだ。女は男に添って生きるもの。新しい男が現われれば、そちらにユラユラとゆらめく習性がある。まして前の男が死んでいるとなれば、敵の大将によろめいてもいっこうに差しつかえない。生活の知恵である。
だが世の中には、英雄は徹頭徹尾、清く尊く美しくなければ我慢のできない単細胞人間も多い。アンドロマクのように自害を覚悟によろめくならばともかく、常盤御前のように、一見スンナリと清盛にプッシイを明け渡してしまったのでは、どうも気に入らない。庶民の偶像・源義経の母君として、もう一つピリッとしないのだ。
前置きが長くなった。冒頭の句はちょっと解釈がむつかしい。“貸元がずるい”というのは“女が淫乱で、だらしない”ことである。なぜそうなのか? 貸元は賭場《とば》の責任者だ。だから“貸元がずるい”ようでは“肝心かなめのところがたるんでる”ことであり、そこから転じて“だらしない、淫乱な女”を意味するようになった。
貸元がずるいで小銭まわるなり
貸元がどうだと後家の下女に聞き
貸元がずるいとなめた奴がいい
三句とも“貸元がずるい”の意味がわかれば、句意は明瞭である。
冒頭の句で“貸元がずるい”といわれているのは、もちろん常盤御前である。彼女が淫乱であったお蔭で子どもたちの命が助かり、お蔭で源氏の旗上げができた、という推察である。囚われの女がわが子の命乞いをして、その代償にプッシイを触らせたからといって、それですぐに“貸元がずるい”といわれたのでは、少しわりにあわないような気もするが、
残念かいいか常盤は泣いてさせ
義朝とおれとはどうだなどと濡れ
などという句もある。命乞いは表向きの理由。女盛りの常盤がテクニシャンの清盛に攻められ、「どうだ。おれと義朝とどっちが上手だ?」「あれ、もう、そんな……堪忍して……ああーッ」と乱れ狂った、なんてことがなかったとは限らない。もしそうだったら「貸元がずるいぞ」と、江戸庶民は手まわしよく批判しているのである。
もっとも清盛のほうからいえば、
妓王妓女よりひろいと入道いい
妓王と妓女は白拍子の姉妹で、清盛入道の妾となった女たちである。白拍子は当時のダンサーだが、酒席で踊りを見せるついでに売春のほうもやったらしい。だから妓王も妓女も生娘のまま清盛のところに参上したとは思われないが、常盤御前のほうは三人の母である。日本海と太平洋くらいの違いはあったかもしれない。気宇壮大で、万事大きいものが好きだった清盛も、こればかりはそうもいかなかったであろう。そのせいかあらぬか、常盤御前はそう長く清盛のもとにはいなかった。
大勢の中には、心ならずも貞女になれなかった常盤御前に対して拍手を送る人もいて、
裾っぱり常盤御前をへしにほめ
“裾っぱり”は着物のすそをヒラヒラさせて歩く浮気女のことである。現代ならパンティをわざとチラッと見せて歩く感じだ。“へしに”は“非常に”である。
「それはさア、常盤御前は清盛とセックスしたわよ。でもサ、子どもの命を助けるためじゃないの。美談よ。たいしたものよ。あたしだってサ、いろんな男と関係したけどサ、複雑な事情があるのよ」
なに、そう複雑な事情もないのだが、常盤御前に便乗して自分を正当化しようという魂胆だ。
最後は未亡人の登場する小咄でしめくくろう。
亭主に先立たれたかみさんが、墓に線香をあげようと思っても、貧乏で線香一本買うことができない。
「線香がなけりゃ成仏《じようぶつ》できないんだろうねえ。堪忍しておくれ」
と墓前で涙を流していたが、急に何を思ったかポンとひざを叩いて、前をまくりあげ、
「そうだ、お前さん。ほれ、ここにオセンコの十倍のものがある」
センの十倍はマン。常盤御前も義朝に線香、清盛にその十倍のものをあげたはず。その心中は知るよしもない。
【艶句あらかると】
名にし負わばいざ松たけと松ケ岡
離婚が年々増えている。昭和四十六年の統計によれば千人について一人は離婚した勘定。離婚王国アメリカに比べれば、まだ三分の一程度の離婚率だが、ほぼヨーロッパなみの水準。“離婚は文明の尺度”といわれるくらいだから、わが日本国もりっぱな文明国である。
江戸時代の離婚は、ご存知の通り男性の一方的権利だった。亭主がどんなにふしだらでも、甲斐性なしでも、インポでも、女房のほうからは離婚の要求ができない。
ああ、それなのに男のほうが離婚したいと思えばサラサラサラと三下《みくだ》り半、例えば「はな事、此度不縁《このたびふえん》に付、いとま申付候。然る上は何方へ縁付候共、一言も申分御座無候《ござなくそうろう》……」とかなんとか三行半に書いて署名、爪印。これを女房に渡せばそれでよかったのである。
だが、そういつもカッコよくいくとは限らない。熊さん、八つぁんだって結婚はするし、結婚をすれば当然離婚もしたくなる。しもじもには無筆者が多かったから、巻紙出してサラサラサラとはいかない。困っちゃうんだな、これは。そんな時はどうするのか。
去り状へ無筆は鎌《かま》と椀《わん》となり
鎌の絵と茶わんの絵と、それだけ画いて間にあわせた。そのこころは、どこへ行っても“かま・わん”である。また、棒線を三本半書いて爪印を押すだけでもよく、女房は「あら、あんた、アミダくじやんの?」なんて、そんな暢気《のんき》なことをいってはいけないんだよね。目頭を押さえ「長らくお世話になりました。お達者でお暮らしください」といって静かに家を去って行ったのである。
離婚される理由はさまざまだが、
白壁を見ろと去り状ぶっつける
動かずに居ろと去状書いてやり
去り状のうち三下りは婆の作
白壁は、さしずめ土蔵の白壁。民間の情報サービス機関である。女房とどこかの色男とが相合傘に入っている落書きなどをされては、亭主としても黙っているわけにはいかない。もっともこの段階なら、まだ傍証だけ。なんとか弁解することができるかもしれないが、間男と二つに重なった現場を見つけられ「そのまま動かずにいろ。いま離縁状を書くから」となったら、もうどうしようもあるまい。川柳には女房の浮気がよく詠まれているが、本当のことをいえば、江戸の女房は当節の奥さまがたほど解放されていないから、浮気による離婚というのはまれであって、気の毒なのは第三句。嫁は一生懸命に尽し、当の亭主もそれほど不満に思っていないのだが、姑がクソ婆ア。「家風にあわない、飯を食いすぎる……」なんて三下り半のうち三下りまで、つまり七分の六はこの婆さんの不満というケースも多かったろう。
いくら男上位の江戸時代でも、女房から離婚を願う道がまったくとざされていたわけではない。ほそぼそとした道が一本残されていて、これが縁切り寺。尼寺に飛び込み、ここで一定期間を過せば、離婚が認められた。どこの尼寺でも多かれ少なかれ縁切り寺の機能があったと思われるが、天下公認の縁切り寺は、相模《さがみ》国鎌倉の禅寺、俗に松ガ岡と呼ばれた東慶寺《とうけいじ》と、東慶寺ほど有名ではないが上野《こうずけの》国新田《くににつた》の満徳寺《まんとくじ》であった。
雲州と相州嫁の会者定離《えしやじようり》
つりあわぬものは相模に松ケ岡
“会うは別れの始め”といわれるが、雲州は出雲《いずも》大社《たいしや》で縁結び、これは“会者”のほう。相州は松ガ岡東慶寺で「定離」のほうの担当である。だが相模女はセックスが大好き。こともあろうにその相模に男断ちの寺があるとは皮肉なめぐりあわせである。
十三里先だに四里四方尋ね
すわ鎌倉と股引で五六人
底豆が十三できて縁が切れ
美しいびっこが入る松ケ岡
江戸から鎌倉までは十三里。亭主は、“すわ鎌倉”と追っかけてくるから大急ぎで逃げなければならない。一里で足に底豆が一つできるといわれるから、豆を十三もこしらえ、ビッコを引き引き寺の門をくぐる。その女が美しいのは……多分好きな男がいるケースではあるまいか。
今朝越した渡しを運の悪い嫁
六郷を静かに越える三年目
道中多摩川には江戸防備のため橋がなく、通行人は渡し舟を使っていた。これが六郷の渡しで、せっかく六郷を越えたのに、その先で捕えられ、連れ戻された女もいれば、首尾よく東慶寺までたどりついて、三年後ふたたび渡し舟に乗る女もいた。東慶寺に滞在する期間は三年(後に二年)だった。帰りの六郷はさぞ感慨無量だったろう。
東慶寺に駆け込んだ場合の離婚には、寺法離縁と内済離縁の二つがあって、三年間寺に滞在しなければならないのは寺法による離婚のときだけ。駆け込みがあると、寺から亭主のもとに使者がたって、
「奥さんがあれほど離婚してほしがっているのですから、ここはひとつ……」
亭主としても逃げた女房を深追いしてはメンツにかかわる。
「よし。あんな女は、こっちだって願いさげだ」
となって、そこで離縁状を書いて一件落着。これが内済離婚で、実際には、このケースのほうが多かった。慶応二年の記録によれば、その年駆け込んだ女は三十八人。寺法によって在寺していた尼は四人だったという。亭主が内済に応じない時にのみ、寺は女を二〜三年預かり、その後で強制執行をおこなったのである。
大きいに困ったもある松ケ岡
けつをするからとはとんだ松ケ岡
駈込みへ張型をやる里の乳母
「なぜ逃げてきたのか」と寺で理由を尋ねられ、
「あの……彼のアレが大きすぎるんです」
「うちの人は、おしりにするんです」
セックスに恐怖を抱いて逃げてきた女もいたかもしれないが、みんな経験者ばかりで、大部分はあの味が忘れられるはずもない。実家の乳母が気をきかせて、張型を届けて寄こしたりして……世俗の煩悩はどこまでもつきまとう。
寺では脂の乗り切った尼たちが、
「松ガ岡なんて、名まえを考えただけでも濡れてきちゃうわ」
「どうして?」
「だって、松タケがいっぱいありそうですもの」
現実には尼としての修業は相当に厳しいものであったらしい。
【艶句あらかると】
濡れ衣《ぎぬ》で小町もいちどしとど濡れ
日本の美女といえば、まず小野小町《おののこまち》が思い浮ぶ。駅前の繁華街は“ナントカ銀座”、町一番の美人は“ナントカ小町”。世に美女の数は少なくないが、これほど知名度の高い美女は日本歴史上ほかに例を見ない。
鎌倉時代の絵師藤原信実《ふじわらのぶざね》の画いた“三十六歌仙絵巻”の中に小野小町の姿絵があるが、この小町はうしろ向きで長い黒髪を見せているだけ。エメロン・シャンプーのように振り向いてはくれない。これは信実が「オレ、そんなトテシャン、想像力だけじゃ画けないよ」と、ブルってしまったからである。画家のくせして情けない話だが、このエピソードからもその頃すでに小野小町の美女ぶりは、広く認められていたことがよくわかる。
だが、小町の名がよく知られているのは、ただ美人で歌がうまかったためばかりではない。彼女はプッシイのあたりに異常があって、男性と交わることができなかった。月にむら雲、花には嵐、小野小町に穴がない。この世に完全な美はありえないというのが、日本人の伝統的美意識なのである。関係ないかな。
江戸川柳によれば、
濡れごとは雨よりほかにない女
玉に疵《きず》ないのが小町玉に疵
歌でさえ小町は穴のない女
ある年、都に大旱魃《かんばつ》が起こり、大地はカラカラ、井戸は水涸れ。このままでは作物はもちろんのこと、人間の飲む水だってどうなるかわかりゃしない。都の人たちが相談して「小町さんに頼んでみよう。天の神さまも絶世の美女がすてきな歌を作ってお願いすれば、きっと雨を降らせてくれるだろう」。
小町の歌のうまさは、紀貫之《きのつらゆき》が、『古今集』の序文でわざわざ名をあげてほめているくらいだから本物である。“あめにます神も見まさば立ち騒ぎ天の戸川の樋口あけたまえ”小町が雨乞いの歌を捧げ、天の神さまに秋波を送ると、一天にわかにかき曇り、たちまちザザザ、ザーッと大雨が落ちてきた。これが有名な“雨乞い小町”の伝説で、小町はこの時雨にビッショリ濡れたばかりか、ほかにも雨に濡れた歌をいくつか詠んでいる。だが肝心なベッドの濡れごととなると、大切なオルガンに欠損があるので濡れることができない。玉のように美しい女体でも、あのあたりに天与の疵《きず》がなければ、女としては残念ながら不良品と申しあげるよりほかにない。
小野小町の生涯は、身分の低い女のつねとして、あまりつまびらかではない。出羽国《でわのくに》(秋田県)の国司小野良実《おののよしざね》の娘として生まれ、若くして京に上り、采女《うねめ》として宮中に仕え、老後は生まれ故郷に帰って、かなりの長寿で没したという。父親の名が“よしざね”と聞いて一言ダジャレをいってみたくなるのが江戸っ子のわるいくせ。
父っ様は良実だのに惜しいこと
「ああ、父ちゃんはせっかく“サネがよい”といっているのに」とくやしがっているのだ。ちなみにいえば、父さんの名が“角栄”といっても、べつに娘さんが角の張型ばかり使うわけではない。
それはともかく、小町は本当に“穴なし”だったのだろうか? いくつかの記録によれば彼女は結婚したふしもあり、また子もあり、孫もあったという説も有力だ。しかもよろず耳よりな話を集めて抜け目のなかった『古今著聞集』では、小町のことを“天子のほかにわが肌許さじと、よろずの男をいやしみくだす”高慢ちきな女と悪口をいっているが、“穴なし”のことは一言半句も触れていない。江戸時代になって急に“穴なし”伝説が誕生した形跡も濃く、自作の川柳で判定を下せば、
濡れ衣で小町も一度しとど濡れ
こんなところが真相であろう。
ただ、この女、深草少将《ふかくさのしようしよう》に口説かれたときに、「じゃあ、百夜欠かさず通ってきたらデートしたげるわ」なんていっちゃって、よせばいいのにこの少将が通いつめ、いよいよ百夜目というときに、大雪に降られて凍え死んでしまうのだが、これを聞いた世の男どもは「あんなに冷たい仕打ちができるのは、さてはプッシイがないからにちがいない」。かくて“穴なし”伝説が生まれたとみるのが妥当のようである。
この深草少将のエピソードを詠んだ川柳も多く、
百夜目はなにを隠さん穴のわけ
とは知らずあかずの門へ九十九夜
となっている。
小町と並んでとかく話題になるのが武蔵坊弁慶《むさしぼうべんけい》の一生一交の説。
弁慶と小町は馬鹿だなあ嬶《かか》ア
弁慶はせめて小町はからむたい
われら人類にとって、あの道は最高のレジャーである。それをろくに楽しむこともなく死んだとあっては「なア、母ちゃん、あの二人はまったく馬鹿だよ」「でもサ、弁慶は一回やったからまだいいけど、小町はしようがないねえ。それに比べりゃ、あたいたちは……あ、そこ、そこ、いい気持ち」なんてことになる。
第三者はそれですむだろうが、弁慶の主人、義経ともなれば、
鼻息を静か静かと御曹司《おんぞうし》
愛妾静御前とのセックスも弁慶の前では気兼ねをしただろう。まして逃避行の最中に、イチャイチャしようものなら「若君、この非常時をなんと心得まする」なんて、勧進帳は安宅《あたか》の関みたいになぐられるかもしれない。鼻息も「静か、静か」と静御前にささやいた、という推測である。
だが、弁慶の一生一交説の根拠はどうなのか? これも小野小町に負けず劣らず疑わしい。巷間伝えられるところによれば、弁慶は初めて女性と交わったとき、「ああ、こんなにすばらしいこと、二度もやったら、くせになって体に悪い」こう思って以後二度と交わらなかったということだが、それはいつ一体だれを相手にしたときなのか。まだ若い頃、播州《ばんしゆう》(兵庫県)の円教寺で修行中ある女と一夜をともにしたともいわれ、また、壇ノ浦で平家を討ち破り、平家の女官を捕えての大乱交パーティ、この時に弁慶も人の子、ほかの源氏の郎党どもと人並みに楽しんだともいわれている。
弁慶がなぜセックスを嫌ったか、川柳子の説によれば、
かのとこはむさしむさしと一つぎり
これもまたあまり当てにはならない。今ごろは天国のはちすの上で、小町も弁慶もさぞや苦笑していることだろう。
【艶句あらかると】
旅で見たホームスチールに気が掛かり
つるみからがんづきとって返すなり
一都二府一道四十三県、合計四十七の都道府県のうち、あなたがなにかの目的をもって足を踏み入れたことのある地域はいくつあるだろうか? 一人前の男で三十以下というのは、チト情けない。結婚前のお嬢さんで四十以上となると、なかなかの発展家、もう処女ではないかもしれぬ。旅も恋もアバンチュールを求める心には共通なものがある。
実際にこんなテストをやってみると、いっぱしの男で三十以下というのは予想通りあまり多くはないけれど、四十以上をマークするマドモアゼルは意外と多い。それだけ現代では旅行が簡便にできるようになったのだろうし、多分それに比例して処女も少なくなったろう。
だが江戸時代の旅はそう楽ではない。天災、地災、追剥ぎ、コソ泥、人さらい、旅先で病気になったらどうしよう。危険は山ほどあったし、レジャー費の捻出も庶民にはままならない。かてて加えて、熊さんやお花ちゃんがやたら用もないのに諸国を遊び歩くことはお上の命によって堅く禁じられていた。江戸で生まれて江戸しか知らずに死んだ人だって結構たくさんいたのである。
庶民が旅をするとなれば、まずは神社仏閣の参拝。これだけはお上の制限もゆるかったので、近くは大山詣に江の島参り、遠くはお伊勢参りなど、町内の仲間や同業者で講を作ってのグループ旅行、これがおおいにはやった。当時の人々が神仏に対して篤《あつ》い信仰を持っていたことも確かだが、この旅行はかけがえのないレジャーでもあった。人の噂や旅日記で知った他国の風物をこの目でじかに見てみたい。それに……男どもには風物以外にも確かめたいものがあっただろう。
“筑紫ぼぼ、相模尻早、播磨なべ、備中かわらけ、出羽くさつび、越後女のとくりぼぼ、長崎さねなが、明石だこ、浪花巾着、京羽二重”諸国によって異なるという女の品定め、なろうことならためしてみたい、これなん男心というものだ。
だが女は家に残されることが多く、残された若女房たちの中には、
「ずるいわ、自分たちだけいい思いして」
こう考える女もいて「それでは、こっちは間男でもしなくっちゃあ」。現代でもマダムの浮気はご主人の出張中と相場がきまっている……新幹線の中でこのページを読みながら、ふと不安を覚えたサラリーマン氏もおられるかもしれん。
冒頭の句も似たような心境で、“つるみ”は神奈川県の鶴見。そして“つるむ”といえば、英語の“ファック”。“がんづく”は“眼付く”だが、意味は“勘づく”と大差はない。この男の行く先は江の島の弁天様か。六郷の渡しを越え、しばらく来たあたりで、
「ここはどこだえ?」
「もう鶴見さ」
“つるみ”と聞いたとたんに、なぜか不思議な胸騒ぎ。「もしや、女房のやつ?」あわてて取って返した風景である。
そういえば、こんな話もある。東北のサラリーマンが出張中招待を受け、後楽園のネット裏で野球を見た。試合は高田選手の鮮やかなホームスチールでゲームセット。巨人ファンの彼は盛んに拍手を送ったが、ふと家《ホーム》に残してきた奥さんが心配になった。ホーム(家庭)スチールなんて縁起でもない。
話を元に戻して江戸のプレイボーイたちは、どこかの亭主が旅に出たとなると、それとなく留守宅訪問。
まめの薬をもってくる旅の留守
旅の留守かい賊どもが入りびたり
黒鯛をやるとは粋な留守見舞
当時の旅は徒歩《か ち》で行くのだから、足のまめは大敵である。そこでまめの薬を持って行くのはもっともらしいが、亭主はすでに旅に立ったあと。
「じゃあ、これは無駄だったねえ」
なんて、チャンとそれを計算して来たくせに……。だが女房も魚心に水心。
「まあ、いいじゃないの。ちょっとあがりなさいな」
「じゃ、少しだけ……」
そのうちにあやしいムードになり、これが真実、“おマメ”のお薬なんだなア。
“かい賊”は“開賊”あるいは“貝賊”だろう。“開”は“ボボ”とも読んで、ワレメちゃんのこと。旅先の海賊も恐ろしいが、留守宅の“かい賊”も油断がならない。
黒鯛は流産を起こすと信じられていたが、医学的根拠は薄いようだ。出産祝いには赤い鯛をそえるから、流産は黒い鯛だという説もある。
抜けぬぞと女房おどし伊勢に立ち
亭主が伊勢参りに出かける。その留守に女房がよろめく。すると神の祟りで抜けなくなるという迷信が江戸時代にあった。この状態、医学用語でいえばワギニスムスである。ワギニスムスは、例えば、初夜の恐怖、男性に対する嫌悪、浮気に対する良心の苛責などから誘発されることが多いという。だから亭主が伊勢参りの留守中に女房が間男を呼び込んだのはいいけれど、やはり良心のとがめがあって、にわかに起るワギニスムの痙攣――。こんな実例があってもおかしくない。この状態になると二人だけではどうしようもない。近所の人を呼んでお医者さまへ。騒ぎはおさまってもうわさは残る。「ありゃ、やっぱりお伊勢さまの祟りだぞ」「ちがいねえ」。情報は八百八丁を風のように伝わり、“抜けぬぞ”の迷信が誕生した、といったところであろう。
もちろん残された女房が浮気をする率よりは、旅に出た亭主が浮気する率のほうがはるかに高い。
品川に居るに蔭膳《かげぜん》三日すえ
貞淑な女房は、亭主が道中ひもじい思いをしないようにと、留守宅で膳をそろえて神仏に祈っている。ああ、それなのに、亭主は品川の遊女を相手にイチャついている。フトイ野郎だ。
蔭膳を飼い犬が食う不届きさ
そのお膳を飼い犬のポチがペロリ、というのは表の意味。この飼い犬は“飼い犬に手を噛まれる”の飼い犬。社長の出張中に運転手が奥さまを口説いて、ペロリ、である。
こういうことがあるから、旅から帰った亭主は心配になる。早速その晩抱き寄せて実地検証。
旅戻り思いなしかは広くなり
いや、それは疑心暗鬼というものさ。ハッキリした証拠もないのに人を疑ってはいけない。男はいつも鷹揚《おうよう》でなくっちゃね。
【艶句あらかると】
娘らは白・発・中の順序なり
麻雀の三元牌は“白・発・中”の順で呼ぶ。なぜそうなのか? 白板《パイパン》は白粉を表わし、緑発《リユウハ》は髪を表わし、紅中《ホンチユン》は口紅を表わすという。「つまり、女の人が化粧するときには、まずおしろいを塗って、それから髪を飾って、最後に紅をつけるだろう。白・発・中の順序だよ」という珍説もある。
それならば、もう一つ珍説を紹介しよう。初めのうちはノッペリと白い。次に春草が芽を吹き始め、ある日突然紅が流れる。娘たちの思春期は白・発・中の順序なのである。
お江戸の娘たちはどうかといえば、
十三と十六ただの年でなし
十六の春からひえを蒔《ま》いたよう
十六になると文福茶釜なり
十三歳が平均的初潮年齢。十六歳が平均的発毛年齢と考えられていた。白・中・発の順である。しかし、当時の栄養状態を考えれば、十三歳は少し早すぎる。十六歳の春からはえ始めるというのは、少し遅すぎる。個人差のあることだ。周囲の二、三人を見ただけで全体を判断してはいけない。
もちろん十六歳の春からはえ始める人もいただろう。ひえなどといっても、あまり実物はお目にかからないが、これは荒地でもチョボチョボと細い芽を出した。はえ始めの春草は麦でもなく稲でもなく、やはりひえでなくてはなるまい。細く、頼りなく、まばらに芽を出している。観察がこまかいのである。
文福茶釜は、いわずと知れた群馬県は館林《たてばやし》、茂林《もりん》寺の秘宝、実は狸の化け物である。化けの皮がはげるにつれ、次第に表面に毛が現われて来た。文福茶釜は名茶がいくらでも湧いたが、娘の茶釜もいよいよこれから、汲めどもつきぬ泉が湧く仕掛けになっている。
けものが化けているといえば、その昔鳥羽《とば》天皇の御代に玉藻《たまも》の前という絶世の美女がいた。彼女の本体は中国やインドで何度も美女に化けて、国を傾け世を乱した金毛九尾のキツネであって、日本でも鳥羽天皇がメロメロになり、あやうく日本国もつぶれるところだったが、安倍泰親《あべやすちか》なる博士がその正体を見抜いて、からくも難をのがれることができた。
ただならぬ毛切れと博士そうもんし
なにしろ相手がキツネだから毛切れがひどかろう。「痛いぞよ」とおおせられるのを安倍泰親が診断し、「これはただならぬ毛切れ。さては……」と思って奏聞したかどうか、それはわからないけど、江戸の庶民はそう考えたのである。
初めはひえを蒔《ま》いたような毛髪も、一、二年するうちにグングン成長し、いつしかうっそうとして熊の皮のよう。
そりゃミンクやチンチラの手ざわりもよかろうが、われら男性にとって、この手ざわりにまさるものはない。
こたつにて毛雪駄《けせつた》をはくおもしろさ
牡丹餅《ぼたもち》を食い毛雪駄をつっかける
毛ちがいでこたつの猫にひっかかれ
毛雪駄は毛皮つきの雪駄だが、足の指先でプッシイを探るのも毛雪駄である。こたつの上でボタ餅を食い、下では毛雪駄をはく、まことに楽しきかな人生である。ボタ餅は不美人のことでもあり、まあ、毛雪駄なんていう少し無精な手技を許すのは、あんまり器量がいい女ではあるまい。だが油断は禁物。いつも雪駄がはけるわけではなく、ついつい猫をつついてひどい目にあうこともある。
ところでこの春草。見て楽しく、触って楽しく、嗅いで楽しいものなのに、お江戸の娼婦たちはわざわざ刈っていた。
惜しい毛を傾城みんなひんむしり
売物は草をむしって洗う鉢
小綺麗に毛を抜いておくてんやもの
脱毛の風習は世界各国にあるが、江戸の娼婦が抜いたのは主として毛切れを防ぐため。毛切れは痛いばかりかスピロヘータが入りこむおそれもある。生活の知恵であった。“ひんむしり”とあるが、まさか商売道具をそうそう手荒に扱うはずもなく、たいていは線香で焼き切った。なかには丘の上の芝草はそのまま残し、谷間の繁みだけを切っておくのもいた。美観は美観として残し、毛切れの原因だけを取りのぞいたのである。手鏡に映しながら、一本一本丹念に切っていく。てんやものは商売女のことである。
銭湯には毛切り石といって、除草用の石が用意してあった。小石を二つ使ってカチカチとすり切るのである。
ぼうぼうと生えるとかちかち山をする
鋏で切ったのでは、切った跡が鋭くなって、お客さんがチクチク、チクチク、痛くてたまらない。
ところが、これが女房族となると横着をきめこんで、
女房の毛は十六ではえたまま
まことにアイヌの熊もかくやと思うほど。あわて者の亭主が毛切れをして「お前がわるい」といえば「あたしが?」「そうとも」「そんなことないわよ」「いや、お前の毛だ」すったもんだのすえ、
女房は毛切れの論に出して見せ
なんていう派手なシーンもおおいにありうることであった。
もちろん人の世にハゲのあるごとく、最初から抜く必要のない人もいた。
かわらけだあははあははと十三日
かわらけとちぢれは人の好く片輪
毛のないをやって仲人へしりが来る
十三日は十二月十三日。すす払いの日である。女中がけなげに踏み台にあがってすす払いをするのを、小僧が下からのぞき込んだ。パンティのない時代なればこそこの楽しみがある。しかし、笑われはしたものの無毛の評価はけっして低いものではなく、俗に“タコ、キンチャク、カワラケ、カンヌキ、アタゴヤマ”などと第三位にランクされるほど。無毛の女性は劣等感の分だけサービスがよかったからではないか、とうがった説もあるが、ある種の稀少価値があったことは確か。とはいえ、やはり“仲人にしりがくる”ところをみれば、手ばなしに喜べるものではなかったらしい。ちぢれ毛が好まれたのは、これも名器のほまれが高かったからで、
宝のもちくされ後家のちぢれ髪
茶でみてもちぢれたほうが味がよし
お茶の葉もよくちぢれているほうが名茶である。
とあれ栄枯盛衰は世のならい、熊の威をふるった春草にもいつしか秋が来て、すすきの原となる。オレもお前も枯れすすき、である。
八つぁんがご隠居にたずねた。
八「どんな毛の女が一番浮気をしませんか?」
隠「そりゃ、白い毛だ」
だが老人ホームにも、浮気な婆さんはいるらしい。
【艶句あらかると】
蚊帳の中やせた力士の鉢合せ
だんまりの幕は三助下女旦那
“だんまり”は歌舞伎の用語である。暗闇の中で、何人かの登場人物が密書や宝物などを求めて無言のままもつれあう。その身ぶり、手ぶりを大げさなパントマイムとして様式化したのが、本来の“だんまり”であった。ところが、時代が進むにつれ、物語の筋とはあまり関係のない顔見世的な要素が“だんまり”の中に持ちこまれ、例えば『東海道四谷怪談』の隠亡堀《おんぼうぼり》の場面では、せっかくの看板スターにお岩さんの役ばかりさせていたのでは、女役の美しさを見に来たお客さんに申し訳ない。そこで筋とはなんの関係もなく、お岩役のスターが艶姿で舞台に現われ、伊《い》右衛《え》門《もん》たちと無言の所作《しよさ》を演じてお客を楽しませてくれる。
冒頭の句の舞台は下女の寝室。三助はここでは下男のことだろう。かねて狙いの下女の部屋にそっと忍んでいくと、そこへ後から旦那もコッソリと夜這《よば》いに来た。暗闇の中で、下男が追えば下女が逃げ、下女が逃げれば旦那が追う。これぞみごとな“だんまり”の一幕である。
旦那にしてみれば、下男と鉢合せしたくらいならべつにどうということもない。「えへん」と咳払いをして後で小遣でもやっておけば、それですむ。ところが、
すっぱりと這わせておいて内儀起き
旦那が女中部屋へ行くのを知っていながら奥方は狸寝入り。決定的瞬間を見計らって「ちょいと、お前さん」、顔を出すのだから、これは真実困ってしまう。
こんな時にはどうするか。江戸小咄の中にはウィットに富んだ女中が登場する。
――北浜《きたはま》へんの米問屋に美しい下女を置きければ、惣領《そうりよう》息子が思いをかけ、その夜九ツ時、下女の寝屋へ行き、かれこれとかき口説く。そこへあとから人の音しければハッと驚き、片すみに寄れば、弟息子、恋慕の闇のくらがりをふんどしもせずに来たりて、兄のかたわらにいるのも知らず、いろいろと口説きにかかる。そこへまた人の音しければ、これも片すみへ退く。あとから来たるは、この家の親父、息子が来ているのも知らず越中ふんどし一つになって這って来ると、内儀はなんとも合点の行かぬことと手燭隠してあとからついてくれば、このありさま。手燭つき出し「これ、旦那殿」という声にびっくり、みなみな顔をあげれば、親父をはじめ兄弟息子みな裸のままうつむく。下女抜からぬ顔で、「こなた、伊名川、伊名川」――
“伊名川”は相撲取りの四股名《しこな》である。内儀がプッと吹き出せば、めでたし、めでたし、この勝負も無事に収まるだろう。
“夜這い”と書くと、いかにも夜の夜中に四つん這いになって行く姿を思い浮べるが、この言葉の語源は“呼び合い”である。“呼ぶ”というのは古語では“求愛する”ことであり、いうなれば猫のラブ・コール、“ギャオーン”と鳴けば“ギャオオーン”と答える。あれが“呼び合い”の原型で、女のほうもおおむねその気になって待っているのである。ただ、そこはそれ、人間の女は「いや、ダメ」なんて一応はいうけれど、あまり気にかける必要はない。日中は家人の目がうるさいので、こうして夜中にコッソリと会うのである。
初夜這い下女は小声でおめでとう
合意であればこそ、正月二日の初夜這いに下女が“おめでとう”なんて、うれしいことをいってくれるのだ。
ところが、なんの合意もなく、うち合わせもなく花も嵐も踏み越えて、ブッツケ本番、大野心。これはあんまり楽ではない。
初夜這い二階から落ち皆目覚め
“長き夜の遠のねぶりの皆目覚め……”は正月二日、枕の下に敷く宝船の文句だが、二階から転げ落ちてガタガタ、ドシーン。腰骨を折っても後を見ずスタコラ逃げ出すよりほかにない。
無名円つける夜這いは不首尾なり
“無名円《むみようえん》”は打ち身、切りきずの薬。こんなものをつけているようでは、昨夜のデートは大失敗と見てよい。
首尾よく女の寝所まで忍び込んでも、女が承知してくれないことには、なかなか目的は達せられない。「八つぁんじゃない。いやよ。帰って。大声でだれか呼ぶわよ」けんもほろろに扱われ、出て行くときのせめても抵抗。
その意趣に夜這い蚊帳から立って出る
乱暴に蚊帳を出るので蚊がみんな中へ入ってしまう。「ざまアみろ」なんて、その心境はわかるけど、こんなことではせいぜい課長補佐どまり。大事をまかせられる人物じゃない。
大勢の中には、夜這いなんていう穏やかな方法では我慢のできない奴もいて、
かつがれた夜はぶっかけを二はい食い
かつがれた下女はさせもが露だらけ
“かつぐ”は婦女誘拐のことである。“ぶっかけ”は“かけそば”だが、ここでは男性のエキスを二度も“ぶっかけ”られたことだろう。あるいはその後で「まあ、いいじゃないか。そばでもおごってやろう」なんて、そういわれれば、少し腹も減っている。そこで現実に“ぶっかけ”を二はい食べたのかもしれない。ちなみにいえば、これは現代でもプレイボーイ氏がよくやる手口。その後で飲食をともにすれば、合意の行為とみなされることが多い。“させもが露”は百人一首にもある藤原基俊《ふじわらもととし》の歌“ちぎり置きしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり”の文句取りだが、そう深い意味はない。“させて、露だらけになった”ということを、ちょっとしゃれていってみただけである。
本格的な婦女誘拐となれば、とても一人ではかつぎきれない。三人でかついでジャンケンポン。
とんぼうになって待ってるへんなつら
“とんぼう”は荷物の持ち方で、Tの字型に棒を渡して、左右に二人、うしろに一人、とんぼの形に似ているからこう呼ばれた。裏山では「おい、おまえ、右手をおさえろ、おまえは左手だ」。ジャンケンで一番勝ったやつが足のほうから攻めのぼるわけだが、待ってる二人は目がギラギラ、あまり上品な顔つきではない。
“夜這い”にも、暗黙の合意があったのと同様“かつぐ”にもなれあいがあって、
かついだは嘘手を引いて逃げたなり
かつがれる宵にしげしげ裏へ出る
かねての約束通り屋敷の裏にたびたび出てみたり、それから先は手に手を取ってエッサカ、エッサカ。古代の結婚は略奪婚であり、“かつぐ”の中にその伝統が残っている。“かつぐ”ことによって、娘を承知させ、親を承知させたのだ。そういえば、甘くて楽しい新婚旅行、あれも略奪婚の名残りだとか。
新婚旅行の宿で、
新妻「ほら。『シンドバッドの冒険』に背中にかつがれたまま、あれこれ命令する人が出てきたじゃない」
新郎「やれ、やれ」
まったく、とんだものをかついでしまったものである。
第二部 禁断らいぶらりい
【禁断らいぶらりい】
遺精先生夢枕
恋川春町 著
恋川春町《こいかわはるまち》は、江戸中期から末期にかけて流行した黄表紙《きびようし》本の作者である。黄表紙というのは、現代風にいえば、絵入りの風刺ユーモア小説で、春町の代表作『金々先生栄花夢』が、その嚆矢《こうし》であった。
本書『遺精先生夢枕』も、その春町の作と推察される黄表紙で、『金々先生』が贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の大名生活を夢見る男の話ならば、本書のテーマは人間のもう一つの欲望、つまりモテモテ男の夢物語である。
主人公は俳名を遺精《いせい》と呼ぶ町人。女郎買いをするには金が続かず、ガールハントをするには醜男《ぶおとこ》すぎ、仕方なく鼻についた女房を相手にラーゲなどを変えて楽しんでいたが、ある日手枕でまどろむうちに、どこからともなく大名に仕えるお局《つぼね》が現われ、
「姫君が、あなた様を見そめられ、今日はその婚礼のお迎えにあがった」
と型通り夢物語の始まり、始まり。
今や若殿となった遺精先生、姫君とのお楽しみはもちろんのこと、湯殿のお役目をあずかる腰元に目をつけ、風呂からあがったところで、
「まずこれを拭いてほしいと、おえきった一物を握らせれば、腰元は今年二十歳になるまで角《つの》細工ばかりの楽しみ、なま物は初ものなれば、握るやいなや夢中同然のぼせきって返事もせぬを、すぐに押しふせ濡らしもせずにきわまで入れるに、初めてとはいえ痛がりもせずしがみつくを、まずすっぱりと口を吸い、十ばかり腰を使えば腰元は大の取り乱し。『ああ、もう、これが気とやらのい、い、いくので、ああ、ござりますか』……」と恥も外聞も忘れてよがり泣く。
さて、かねてより当たるをさいわい、数々の女たちと手合せしてみたいと願っていた遺精先生、腰元ひとりで満足するはずもなく、毎日毎日、とっかえひっかえ、奥女中の中でこれはと思う女を選んで試食してみたが、あまり変わったあんばいでもない。そこで奥家老に命じて奥女中の新規採用。町娘を次から次へ呼んでみては実地のテスト。その中から二人を選んで妾《めかけ》とし、精力剤を飲みながら昼夜わかたぬお楽しみとなった。
このお楽しみの最中に、次の間にひかえさせられる奥女中たちはたまったものではない。みんなすっかり刺激され、われとわが手で秘所を触って声をあげ、身もだえするありさま。遺精先生これを見て、うしろにまわってグッと入れ込む。その味またわるからず。
これに味をしめた遺精先生、今度は奥女中を集め、全員ノー腰巻きに薄布を着せ、
「座敷の縁へずらりと並べて、庭のうちへ女犬と男犬を入れさせれば、頃も秋のさかる最中なれば、男犬はおやしきって女犬をしたたかになめ、やがて登って腰を使うその気のわるさ。腰元どもは歯ぎしりをして心を移すまじと思えども、怖いもの見たいぐらいにて、しり目にかけて見るたび、顔より先に股ぐらとろろのごとく、ちぢみの帷子《かたびら》もぴったりつくを、時分《じぶん》はよしと尻から二三べんこすれば恥ずかしいことはもうどこへやら……」
と、大変な乱れようである。
どうも女というものは、セックスに飢えきっているときがいちばん味がいいらしいと知った遺精先生、次に長局《ながつぼね》の部屋へ忍びこめば、長局はのぞかれているとも知らず、たんすから張型を取り出し、
「なでつさすりつ吐息をつき、これほど世界に多くある生のもの、してもらうことならぬというは、なんたる因果。これでなりと堪能しようといいつつ広げた玉門を見れば……」
そのすばらしさ、たくましさ。遺精先生、コッソリ背後からまわって、居茶臼《いちやうす》で一番。
この場面もそうなのだが、本書では、茶臼のラーゲが断然多い。作者自身のお好みか、それとも江戸庶民の願望か。察するに多分後者のほうだろう。大勢の美女に囲まれ、自分は何もしないで快楽をむさぼりたいのが男の夢。となれば、ラーゲは茶臼が最適。本書の中でこのスタイルが多いのは、けっして偶然ではあるまい。作品のモチーフから考えて当然そうでなければなるまい。
大勢の長局に取り囲まれ、
「わたしも、わたしも」
とせがまれた先生、さすがにゲッソリしたが、それでも大好きな道のこと、兄嫁の、はや十八歳で未亡人となり、その名も上開院《じようかいいん》と法名を持っているのが、すこぶるおいしそう。
「十八歳で後家《ごけ》になるとは、よくよく味がよいゆえに吸い取ったものと見えたり。なんでも人を喜ばせるのが仏の慈悲。天の与うる玉門を取らざれば、かえって災をうくる」
とかなんとか、早速挑戦。
さらに家中の後家という後家をためし、ことのついでに領内の娘という娘をためそうとしたが、この娘たちの許婚《いいなずけ》者が現われ、
「主人とはいえ、あまりのふるまい」
とて切腹を迫られ、あわやというところで夢がさめ、気がつけば、わが女房が上から茶臼の最中。
といったところで、まことにたわいない夢物語。だが、これは封建社会の下積みの庶民にとっては、一度はえがいてみたい夢であったろう。黄表紙はナンセンスの世界。ナンセンス文学にはいつだって庶民の屈折した願望が潜《ひそ》んでいるものだ。
【禁断らいぶらりい】
旅枕五十三次
恋川笑山 著
恋川笑山《こいかわしようざん》の『旅枕五十三次』は、幕末東海道のナイト情報。日本橋《にほんばし》を初めに最後は京都まで、各ページの上半分に宿場付近の地勢・風俗が記され、下半分には、男女交合の浮世絵、読んでおかしく、見て楽しい春本である。
笑山は江戸最後の春本作家で、全盛期は安政から明治維新にかけての十数年間、明治の末年に東京で死んだ。柳亭種彦《りゆうていたねひこ》に戯作《げさく》の手ほどきを受け、歌川国盛《うたがわくにもり》に絵を習い、どちらも超一流の名人にはなれなかったが、絵も文もともにこなすところから、一人二役、絵入り物語を何百冊か書きまくり、太平の世の最後のあだ花を撩乱《りようらん》と咲かせて去った。
『旅枕五十三次』は、多作の笑山の作品の中でも代表作と称されるもので、宿場各地のナイト情報はもちろんのこと、ハウ・トゥ・セックスやら、ジョークやら、はたまた衝撃の告白やら、サービスは満点。一読、作者の多彩な才能をあますところなくうかがうことができる。例えば――
「ある飯盛女郎《めしもりじよろう》に、気をやると、やらぬとの加減を問いしに、答えていいけるは、初会惚《しよかいぼ》れということ、ままあることにて、旅人の伽《とぎ》に出るはただ一夜限りのことなれど、どことなく好いた男があるものにて、情を通ぜんと思えども、かえってこれに気のゆかぬこと多し。なにゆえにというに、心の内に十分色を隠しおのずからたしなむゆえ、心あらたまり、精《き》が移りかねるものなり。されども気のいくだんには、命の終わるも思わず。また、いやな客には、わざと鼻息荒く、よい気味な仕打ちして、早く男に気をやらせ、手短かにうちあげてしまいたく、心もがくゆえ、おのれが鼻息にさそわれ、思わず取りはずすことも、ままあり」
と、これは上巻の序文から。いやな客のときのほうが、かえってクライマックスに達することがあるという、微妙な心理を解説しているのはおもしろい。
かと思えば、島田《しまだ》の宿では、
「折により川止めなどあらば、となり近き座敷に女娘を連れたる客あらば、はやく心安くなり、逗留《とうりゆう》の退屈など語りあい、酒事《さけごと》にてちかしくなり、娘にでも年増《としま》にでも小当りして地色をかせぐべし。女も道中にあるうちは、心意気べつになり旅のことは他物《ほかもの》のようにこころえ、ほんの遊びにさせる気になり、たとえ亭主持ちにても、余国の変わったへのこの味好もしく、させるだんになりては、一しおめずらしきまま、陰門をすりつけすりつけ、もとよりいきみせんと思うてさせることゆえ、気をやりづめにうつつのごとく、湯のような陰水出しかけるは、売女になきもてなしにて、またありがたきことなり」
と、現代ならば海外旅行に出かけた婦女子の心境、端的に述べてハント術を披露している。
さらに金谷《かなや》の宿では、
「この辺菊の名所なり。盛りのときならば花をつみたくわえ、交合のとき用ゆべし。用い方、黄菊の花びらをつみ、酒ひたひたにつけおき、一つまみをざっとしぼりて出し、交合の前その露を手のひらへしぼり出し、へのこのかしらより竿のまわりへべったりとぬり、そのまま差し込み、少しおいて抜き差ししげくすべし。開《ぼぼ》のうちしまり、両方とも心よく、すすりあげて泣きよがり、陰水ほとばしりてそのよきことを忘れかねるものなり。これ女悦薬手製の第一なり」
と、本当かどうか、まことしやかに媚薬の講義をする。
筆の調子のおもむくまま、日坂《につさか》の宿では、
「女《め》くじり山、宿の左の方にあり。いま、めくじら山というは非なり。この国の女は陰心ことのほか深しといえども、はらむことおそれて、淫心きざすときはたれにても男の手でくじらせ、思うまま気をやりて心を晴らす」、このことから「女くじり山」となり、その近くに男がその後ヌメリだらけの手を洗った「ぬめり川」があるなど、田舎者が読んだら本気にしそうなジョークまで折り混ぜてある。
宿場女郎については、値段の相場、まわしを取るかどうか、果ては「病気多し」などと親切な実用知識も見られ、素人女と遊んだときにも、おおむねプロの二分の一から三分の一のチップを与えるよう、プレイボーイの心得も述べている。
絵は、惜しむらくここに紹介できないが、島田では大井川の渡し人足が輦台《れんだい》の上の娘にいたずらをしていたり、桑名ではハマグリを焼く女の背後に抱きついていたり、なんとか風土の色を表わそうとしているのは、作者笑山の旺盛なサービス精神の現われであろう。
池《ち》鯉鮒《りゆう》の宿では全裸の男女が、みごとな六十九を演じている。性心理学者の高橋鉄《たかはしてつ》氏のご指摘によれば、「浮世絵では、女の唇を小さく、男のりんがを大きく誇張するため、フェラチオの図が少ない。ましてこの宿のごとくはめずらしい」
とのこと。これもサービスの現われか。
恋川笑山には、ほかに淫水亭開好《いんすいていぼこう》、柳水亭種清《りゆうすいていたねきよ》など、あやしげなペンネームがあり、本書にも“水沢山人玉の門主人”という、これまた意味深な雅号が記してある。春信や歌麿が王、長島なら、さしずめ二軍あがりの選手といったところであろうが、江戸粋人《すいじん》の心意気が伝わってきて楽しい。
【禁断らいぶらりい】
長枕褥合戦
平賀源内 著
『長枕褥合戦《ながまくらしとねがつせん》』はわが国ポーノグラフィの古典的名作。作者は異端の科学者にして滑稽洒脱《こつけいしやだつ》の文人、平賀源内《ひらがげんない》である。浄瑠璃《じようるり》本の体裁をとり、文章は一読してわかる通り、滑らかですこぶる調子がよい。原本には浄瑠璃として語るための詳《くわ》しい節付が書きそえてある。
さて、その内容は――、
時は鎌倉将軍源頼朝《みなもとよりとも》の没後。世子の頼家《よりいえ》卿はまだ年若く、頼朝の妻政子《まさこ》が政治の実権を握っていた。だが政子はまだ四十前の若後家とあって、日ごと夜ごとのご乱淫。望む大まらにめぐりあえずイライラしているときに、重臣梶原景時《かじわらかげとき》がひそかに企むところがあって、全国大まらコンクールを開催した。
「上段の御簾《みす》巻き上げさせ、うやうやしく政子御前《ごぜん》、御またぐら引きまくり、御玉門をひこつかせ、上覧あるこそ晴れがまし。まず一番に進みしは……」
と、いずれ劣らぬまら自慢が逸物《いつぶつ》を公開するので、大広間はどこもかしこも、まらだらけ。そのくだりを源内先生の滑脱自在の筆致でえがけば、
「大山《おおやま》参りの天狗まら、くわえて引くが鼠まら、入れてこねるが金てこまら。開《ぼぼ》したまらを今朝見れば百になる親父が顔にさも似たり。似たるものにはぼぼ摺子木《すりこぎ》。いざこざするがなまこまら。天下無双のまら坊主、志道軒が持ちたるは、木まら竹まら石のまら。指にやせるはせんずりまら、外で誤る早気まら、穴《けつ》をうがつはへんまらなり。湯屋で幅《は》のきく名主まら、長屋でしゃちばる大家のまら、との粉のつきたる研《と》ぎ屋のまら、五色に染めたが紺屋《こうや》のまら。死脈の打つは医者のまら、抹香臭《まつこうくさ》い坊主のまら。四角に力む新吾左まら、女郎のいやがる座頭のまら。士農工商うちそろい世に覚えあるまらの数々、まらまらまらと居並んで、御用いかにと待ちいたる」
と、いささか悪のりの様子。
しかし、一般応募者は七寸(約二十一センチメートル)以下の中まらばかり。なにを隠そう、梶原景時その人は、一尺有余の大まらで、
「かく御吟味のうえ、それがしがまら随一なれば、政子御前と枕を交わし……鎌倉二代の将軍職はこの景時に極《きわま》ったり」
と、このコンクール、実はまらに自信のある景時の政権略奪が目的だった。
そこへ弓削《ゆげ》の道鏡《どうきよう》の子孫、弓削の道久《どうきゆう》というものが現われ、これが一尺八寸(約五十五センチメートル)の超L型。景時の企みは、残念無念あと一歩というところでトンビに油揚げをさらわれてしまった。
だが野心満々の景時は、頃を見計って政子御前の病気をいいふらし、これもあの道久の大まらを愛し過ぎたせい、道久を罪に落としいれようとしたが、忠臣、畠山重忠《はたけやましげただ》が古来腎虚《じんきよ》の病いには、淫羊〓《いんようかく》なる薬草に男女の腎水、すなわちザーメンおよびバルトリン氏腺液その他のエキスを混ぜ合わせた薬がよい、と提案し、たちまち腎水採取のため家中の若者、腰元各百人を集めて大セックス・パーティ。
「御用と声懸け押し当てれば、生れて覚えぬ御馳走と夢中になって……天下晴れての転びあい、茶臼横取り入り乱れ、たがいに秘曲つくしあう。陽に入れば陰にひらき……肩口に食いつき食いつき鼻息の音おびただしく、御殿もにわかに震動し百千の雷一度に落ちるがごとくにて天地に響くそのありさま、神武以来の褥《しとね》合戦、今の世までも隠れなし……」
景時はこのありさまを見て、腎虚の薬など政子御前に捧げられては、自分が根も葉もない噂を流したことがバレてしまう。早いところ道久のまらを切り落としてしまうが得策と考え、腹心の部下石田為久《いしだためひさ》を呼んで、
「道久が館に行き、上意ごかしに自慢の大まら、うち切って帰れ」
だが為久が道久の館に行けば、意外や意外、道久の大まらは実は張型で作ったにせまら。道久のいわく。先祖道鏡が専横の天罰を受け、以来子孫数十代長子は生まれながらの“まらなし”ばかりであったが、この度景時の野心を知り、畠山重忠と計ってコンクールにはにせまらで出場。また家中の大セックス・パーティも若者・腰元どもを喜ばせて味方につけ、景時一派の勢力伸長をはばむためであった。政子御前の淫乱は、玉門が広すぎるためであり、これも梶原がひそかに御前に飲ませたオランダの秘薬“やれしたがーる”のせい、これを治すには“まらなし”男の生肝《なまきも》を用いるのが一番、
「さあ、わが心の乱れぬうちに早々肝をくり出し、君の御用に立てたまえ」
と、道久は切腹をする。
かくて景時の野心は白日のもとにさらされ、若党ども、
「みなへのこをおやし、この勢いに悪人退治と一度に寄って梶原の頭をまらの千本突き、落花みじんに打ちしだき、悦びいさむ勝どきや……」となって、めでたしめでたしの大団円。
平賀源内は下級武士の出身。ありあまる才能を持ちながら封建社会の厳しい身分制度のため、その力を十分に発揮することができなかった。そのうさ晴らしが、こんな戯作を源内に書かせたという。二十世紀の日本国は、諸物価高騰し、公害は溢れ、もはや地球の滅亡も近いとか。せめてものうさ晴らしに、ポーノグラフィ読もうにも、これも刑法一七五条の厳しい掟てがあってままならず。嗚呼《ああ》、やんぬるかな。
【禁断らいぶらりい】
壇之浦夜合戦記
伝 頼山陽 著
『壇之浦夜合戦記』は江戸末期の漢学者頼山陽《らいさんよう》の作といわれている。だが、それを証明する根拠があるわけではない。あまりにも優美華麗な文章であるため、いつの頃からか「こんな名文は頼山陽でもなければ、とても書けっこない」と噂され、それが頼山陽原作のよりどころとなった。原作は純然たる漢文体だったらしいが、現在目に触れるのは、それを日本語に読みくだした和漢混淆《わかんこんこう》文のものがほとんどで、異本も相当に多い。
「平軍悉《ことごと》く潰《つい》ゆ。源廷尉《ていい》すでに乗輿《じようよ》の在る処を知り、軍を合せて疾《と》く攻む。……すでにして時子《ときこ》、帝を抱き海に投じて死す。皇太后また続いて投ず。東兵鈎《かぎ》して之《これ》を獲たり。諸嬪《しよひん》を併《あわ》せて廷尉の艦《ふくかん》に致す。太后悲泣す」
舞台は壇ノ浦。源廷尉とは源義経《みなもとよしつね》のことだ。平家軍は壊滅し、義経は安徳《あんとく》天皇の乗っている船がどれか見きわめて、これを攻撃した。平清盛《たいらのきよもり》の妻時子は幼い安徳天皇を胸に抱いて投身自殺。太后徳子も、それを追って海に身を投じたが、義経の配下に助けられ、他の女官たちとともに義経の船に連れてこられた。
義経は悲泣する太后を慰めて、酒宴を催すが太后の悲しみは、いっこうに晴れない。酒宴が進むにつれ、船中は勝った源氏の兵士たちと、捕われた平家の女官たちがもつれあい、さながら乱交パーティのてい。独り残された太后を、ゲリラ軍の隊長義経がジワリジワリと口説きにかかる。酒とムードで太后の理性を弱らせ、さらに、
「熊野に隠れている平維盛《たいらのこれもり》(太后の甥に当る。この時点では平家の中心的人物)をこの義経が助け、平家一門がなんとか生き延びる方法を考えてあげてもよい」
と条件を持ち出し、太后の心がゆらめくと見るや、サッと手を握り、今度は女の生理に訴える。太后も、「ああだ、こうだ」と拒否の姿勢を示すのだが、所詮捕われの女は弱いもの。義経の攻撃はしだいに進み、
「廷尉力索し、初めて桃源境を得たり。心に温柔を感じて、徐《しず》かに中指頭を点じ、緩《ゆる》く玉門を掻《あが》くこと数々、畢《つい》に伝えて玉心を匝《めぐ》らす。玉心軟かくして凝脂の如し。太后身を縮《ちぢ》め、面《おもて》を廷尉の胸に当て、耳朶《みみたぶ》を染むる事赤うして鶏冠に似たり。廷尉乃《すなわ》ち双指を弄《ろう》し、遂《つい》に玉心を探って銜珠《かんじゆ》を拾う。太后鼻息稍《や》や高く呼吸漸《ようや》く疾《はや》し。身を悶えて膝位に堪えず、相擁して前に倒る……。
『〓《ああ》、止めよ。指を以ってする勿《なか》れ。〓、殆《ほと》んど堪え難し。我れ先帝に侍《じ》すると雖《いえど》も未《いま》だ身を交えずして爰《ここ》に至りしことなし。知らず廷尉独り我れを一指頭に玩殺す。〓々《ああ》、夫《そ》れ指を止めよ』……」
義経の指頭が太后の内奥をまさぐるにつれ太后の肉体は急速に燃えたぎる。
「太后すでに熟せんとして未《いま》だ全《まつた》からず。将に蕩せんとして未だ尽るに至らず。魂魄独り宇宙に恍惚として虚空に飛び、身の措《お》く処を知らず。左手を挙げて更に廷尉を勾双し、脚をからめて十指を屈《かが》めたり。廷尉、勢いに乗じて双指を張り、曲直回旋、緩急玉心を抄《しよう》すること多時、太后気して、又、太息すること数次。終《つい》に眉間を集めて、叫号大声して恥を忘るるの時、宝縫綻《ほうほうほころ》び開け、玉液丹鼎《たんてい》に迸《ほとばし》り、〓沸《ひつふつ》として温泉溢る。嗚呼《ああ》、此の夕べは何の夕べぞ。金閨に生まれて万乗の君に配し、天下の母たる尊きに座し、愁眉を開いて一指玩に甘んず。料《はか》らざりき生来不覚の純精を東国男児の掌中に漂わさんとは。実に寿永四年三月二十四日の夜。太后時に齢二十有九」
なんと格調の高いことか。“宝縫”は“宝の縫い目”であり、“丹鼎”は“まっ赤な器”であろう。太后、つまり建礼門院《けんれいもんいん》徳子は平清盛の娘として生まれ、平家の全盛時代に成長し、高倉《たかくら》天皇の妻となり、安徳天皇を生み落とした。この上なく高貴な女性が東国のゲリラ隊長義経の指一本に攻められ、あわや落城寸前の風情。
頃やよし、義経は、
「徐《しず》かに右膝を以って左膝を、又左膝を以って右膝を開き、両股を太后の股間に集め、胸を合せて徐《しず》かに是れに乗る」と、まずは正常位。そこで、
「廷尉曰《いわ》く『尚《な》お美を添えん。此の股を余《よ》が腰に、其の踵《かかと》を臀《しり》の上に。夫《そ》れ斯《か》くの如し。而《しこ》うして余が抵抗に応じて、賓《おんみ》また軒輊《けんち》せよ』」
“軒輊”とは“上げたり、下げたり”である。
「廷尉右手に其の臀を抱き『夫れ軒《あ》げよ』。太后曰く『〓々』。廷尉曰く『夫れ輊《さ》げよ』。太后曰く『〓々』。廷尉曰く『夫れあげよ、それさげよ』。太后曰く『〓々』。廷尉曰く『指玩といずれぞ』。太后曰く『比すべからず』。『先帝もまた斯《か》くの如きか』。太后曰く『否。今や幾層か勝りて美なり。〓すでに美《よ》し、すでに美し』。四孔の鼻息箭《や》を射るが如く、二口の呼吸火を煽《あお》ぐが如し」
このあたり美文といえば美文だが、どことなくユーモラスで、馬鹿馬鹿しい。
こうして第一戦を終え、続いて第二戦は趣きを変えて女上位のスタイル。疲労困憊《ひろうこんぱい》した二人は、重なったままの姿勢でまどろむが、目ざめたところで第三戦。太后の歓びはいよいよ頂点に達し、
「太后曰く『〓、美快迫る。寧《むし》ろ此の美快に死するを得んか。君願わくば妾《われ》を事殺《じさつ》せよ。〓、君の手に死さば本望足る。〓、夫れ死す』。廷尉曰く『鹿の将《まさ》に死なんとするや音択《えら》ばず。太后将に死なんとする。其の言や美し』。太后曰く『〓、美し』。廷尉曰く『心魂漸《ようや》く遊蕩す』。太后曰く『妾が心魂、何処《いずこ》にか行かんとす。〓、行かんとす』。相共に曰く『それ由加《ゆか》んとす。それ由加んとす。〓、それ由加んとす、〓、それ由加んとす。〓、それ由けり、それ由けり』。
春池白水、迸《ほとばし》りて渓澗《けいかん》暖かに、泥幾《でいき》頭を縮めて草根に伏す。牡丹花上、露滴《したた》り、滴り尽して葩《はなびら》初めて閉じ、金風罷《や》んで雨漸《ようや》く収まり、枕頭の燭火漸く尽き、涙流れて乾き、珊瑚声ありて夜更に幽《かす》かなり」
と終わっている。
日本歴史をながめ渡しても、源平盛衰の歴史ほど雄大なドラマはそう数多くは見られない。建礼門院徳子は、その平家側の悲劇を代表するヒロインであり、義経もまた栄枯盛衰の悲運をたどる源氏側のヒーローである。壇ノ浦の船中で二人の間に“何か”があったかどうか、もとより知るよしもないが、『壇之浦夜合戦記』は、そんな二人を虚構の上に結び合わせた華麗なドラマである。本書はどうひねってみてもセックスの誇大描写を旨とした“スーハー文学”にちがいないが、その格調の高さのため“スーハー文学にして、同時に詩文学の趣きをそなえたもの”として、日本ポーノグラフィ史上に燦然《さんぜん》と光を放つ名作中の名作である。
【禁断らいぶらりい】
阿奈遠加志
沢田名垂 著
『阿奈遠加志《あなおかし》』は、どこか『伊勢物語』を思わせる短編形式の歌物語集で、作者は江戸末期会津《あいづ》藩の国学者として知られた沢田名垂《さわだなたり》である。序文によれば、京都の気狂い老女がたわむれに書き留めたものとなっているが、これはもちろん作者のカモフラージュ。上巻二十九話、下巻十三話の短編説話の中から二つ三つかいつまんで現代語訳を示せば――。
「肛門のひだは四十八本あると古くからいい伝えられているが、そのことが書物に記されているのを見たことがない。骨節の数は四十四、毛孔の数は八万四千と、これは仏典にもしばしば書かれているけれど、肛門のひだのことはまったく触れられていない。また肛門の別名を菊と呼ぶのは、そのひだが菊の花房に似ているからだろうけれども、ある人の説では“紫紅《あじさい》色の菊花は大むね四十八ひだなり”とあるから、もしかしたら、こんな説によっているのかもしれない。ナントカ院の女官が一条の歌集に“男のもとに贈る”と題して、
女郎花なまめく野辺をよそにして
菊に心や移ろひぬらん
とあるが、これもこの“菊”の異名をよんだものであろう」(上巻第二話)
巷間に伝わる俗説によれば、弘法《こうぼう》大師は“男色を好み、肛門のひだ四十八本あるをもって、いろは四十八文字を定めた”とか。どう考えてみても、この説はあまり当てにならないけれど、江戸時代にもそんな俗説があったのだろう。“女郎花”は字づらからも想像できる通り、ここではプッシイのこと。
「あたしのワレメちゃんがこんなに色っぽく濡れてるのに、菊になんか心を移しちゃって、ホント、失礼しちゃうわネ」
という歌であって、現代でもない話ではない。いったん男色の道を覚えると、なかなか女色に戻ることができないものだという。
お話変わってふたたび引用を続ければ、
「宮中では生理中の女を“手なし”と呼んでいるが、これはけがれの期間中はお上《かみ》の道具類に手を触れてはならないからだとか。最近、ナントカ朝臣《あそん》という人が、夜にまぎれて女の布団の中に忍び込んだところ、女が手を振って“手なし、手なし”という。朝臣はガックリして、
玉の門指して這ひ寄る夕顔の
つらしやすがる手さへなくして
女は返歌というわけではないがとりあえず、
幾夜かも待つに訪《と》ひ来ぬ足なしや
手なしをときと驚かすらん
と答えた。はて、その後はどうなったことやら……」(上巻第七話)
男としては、はなはだつらい情況だが、そのいらだつ心境をさりげなくやまと歌に托すのが貴人の心得。まことに奥ゆかしい。
「きみの玉門を目ざして夕顔の花のように夜這いをして来たのに、“手なし”だなんて、これではすがりつく手もなくしたと同然。オレはつらくて、つらくてたまらないぜ」
といえば、女が、
「あんたこそ“足なし”じゃない。あたしが毎晩待っているのに、サッパリ訪ねてきてくれないんだもン。“手なし”のあたしをドキドキ驚かすようなことしないで」
こんな風景である。さて、あなたならこんな場面どうするか?
その答ともいうべき話も本書の中にあって、
「男心とはあさはかなもの。いったん欲望が起きると、もうそのままではすまされない。月の障りだからと必死に訴えてみても、無理に帯を解いたりするんだから、困ってしまう。相思相愛の二人がたまにデートをしたときなら、それも仕方がないけれど、年中顔つきあわせている夫婦の間でもそんなひどいことがよくあるんだから、これは一体どうなっているのかしら。後悔することは自分でもよくわかっていながら我慢ができず、紅蓮の血潮に棹《さお》をさし、修羅の巷で一汗流して、ムードなんかまるでなし。あさましいったらありゃしない。最近ナントカ殿が奥さまのもとに、久方ぶりにやって来たところ、あいにく生理のまっ最中。『残念だけど駄目よ』と、気の毒そうに言ったのにナントカ殿はここで他の女を呼ぶのもたちが悪いと思ったのだろう。『それならば……』と、モソモソ動いていたかと思うと、奥さまの白くて美しい足を、長く伸ばしてななめに交叉させ、その上にサッと乗りかかった。奥さまはこんな“お遊び”見たことも、やったこともないから、ビックリ仰天。『いやン、そこは違うわよ。それでもいい気持ちなの?』といえば、ナントカ殿がニヤニヤ笑いながら、
灯し火の明石《あかし》の瀬戸をよそに見る
須磨《すま》の浦こそうらめづらなれ
奥さまは『年増の女官たちが須磨の浦とかなんとかいってキャーキャー騒いでいるけれど、さてはこのことなんだな』と早合点して、うぶな奥さまらしくなにも知らない自分を恥ずかしく思った。そこで返歌というわけでもないけれど、
心あれや明石をよそに行き通《かよ》ふ
雁《かり》はとどめぬ須磨《すま》の関守
やんごとない人たちでも、こんな“お遊び”をヤッパリやるのである」(下巻第十三話)
“須磨の浦”は大正・昭和期の女学生の隠語では“マスターベーション”のことであった。“スマの裏(反対)はマス”ということばじゃれらしいが、『阿奈遠加志』の時代にマスターベーションなる外来語が広く知られていたはずはない。ここでいう“須磨”は“素股《すまた》”のことだろう。「赤い火のともったきみのワレメちゃんをわきに見ながら、須磨の浦を漕ぐのもわるいものじゃないぜ」「あら。ワレメちゃんをさしおいて、あなたが須磨なんかやるつもりなら、私はべつにとめやしませんけど、それで気分がでるの?」
男心はまことにあさましいもの。それはそれなりに、チャンと気分が出るのである。ん?
下巻も大同小異。男女のきわどい会話が、みやびやかな和歌に托して語られているのがおもしろい。
ちなみにいえば、この『阿奈遠加志』に『逸著聞集《いつちよもんじゆう》』(山岡俊明著)、『藐姑射秘言《はこやのひめごと》』(黒沢翁満著)の二冊を加えて、江戸の三大奇書と呼ぶ。いずれも江戸期の著名な国学者の手による短編説話集で、文学性も高い。本来、ポーノグラフィとして書かれたものではないから、いささか迫力に欠ける恨みはあるが、さりとて、江戸期の“禁断の書”を語るとなれば、この三冊を除くことはできない。『阿奈遠加志』を右代表として紹介したしだいである。
【禁断らいぶらりい】
大東閨語
平安金麻羅 著
『大東閨語《だいとうけいご》』は、日本歴史上の名士たちを次から次へと俎上に載せ、その性生活のエピソードを数行の漢文体で記した珍書である。三十三話からなり、登場人物は主だったところだけでも、光明皇后《こうみようこうごう》・孝謙天皇《こうけんてんのう》・道鏡《どうきよう》・在原業平《ありわらなりひら》・紫式部《むらさきしきぶ》・和泉《いずみ》式部《しきぶ》・清少納言《せいしようなごん》・藤原定家《ふじわらていか》・平清盛《たいらのきよもり》・常盤《ときわ》御前《ごぜん》・木曾義仲《きそよしなか》・源義経《みなもとよしつね》・吉田兼好《よしだけんこう》などなど。どこからどこまでが事実か、たぶん大部分はウソだろうけれど、“火のないところに煙は立たぬ”のたとえもある。一読、まことしやかに思えるところが本書のみそである。
漢文のまま、ジッと眺めていると、そこはかとなく意味が浮んできて、そのほうがよほど趣きが深いのだが、ご用とお急ぎの方も多い当節のこと、原文の味を残しながら翻訳してみよう。
「西宮の左相、紫式部を愛す。ある時いわく『女賢ければそのへへも愚かならず。この女ひとたび臀をあぐれば百の滋味をなす。前よりするも後よりするも試みてその味よからざることなし』と」(第八話)
西宮の左相とは左大臣源高平《みなもとたかひら》である。プッシイにも利巧と馬鹿があるものかどうか。紫式部は情熱を内に秘めた内向的才女だったから、セックスもねっとりとして床上手、滋味に溢れていたのかもしれない。その点、同じ才女でも清少納言は当意即妙、ベッドで馬鹿ばなしをするのによい相手であった……?
「亜相行成《あしようゆきなり》、清少納言と情を交え、はなはだむつまじかりけり。ある時、腹を合わせ、股を重ね臥しいたるが、行成たわむれにいわく、『玉門、妙なる香りを漂わせ、さながら桃源の花にも似たり』と。少納言すみやかに答えていわく『吾《あ》が君よ、おんみまた大いなるへのこなり。晋《しん》の世にもいまだ聞かざるなり』と。行成これを聞き、笑いて絶倒す」(第十一話)
いささか文学史的な注釈を加えれば、中国晋代の詩人陶淵明《とうえんめい》の代表作に『桃花源の記』がある。その内容は省略するが、行成が『桃源の花にも似たり』といったのに対し、古今の文芸に通じた清少納言がこの作品が晋代に書かれたことを思い出して、『晋の世にも聞かざるなり』と答えたのである。『枕草子《まくらのそうし》』を見ればわかる通り、こういうウイットの働かせかたは、清少納言の得意わざ。行成が笑ったのもそのためである。
江戸期のポーノグラフィは、学識豊かな粋人のたわむれ、読むほうにもそれ相応の学力がないと、本当のおかしさは理解できない。
もう一人の才女をあげれば赤染衛門《あかぞめえもん》。彼女は、紫式部も舌を巻くほどの歌人であった。
「赤染衛門は才色兼備の女なり。大江匡衡《おおえのまさひら》に嫁す。ある夜、匡衡仰臥して衛門を抱え、下よりこれを犯す。衛門、笑みて問う『知らず、かかるここちよき体位、いつの世より始むることぞ』と。匡衡のいわく『けだし、この始まりは舜《しゆん》王においてか』と。衛門いぶかりて『なんぞもって、これを知るや』と問えば、匡衡答えて『舜王は庶民の生まれにして帝女と婚す。妻を敬い尊ぶのさま、かくのごとくにやあらん』と言えり。また、ある夜、衛門うつむいて臥す。匡衡、添いてうしろよりこれを犯す。匡衡、笑みて問う『知らず、かかるおかしき体位、いつの世より始むることぞ』と。衛門のいわく『けだし、この始まりは殷《いん》の紂《ちゆう》王においてか』と。匡衡いぶかりて『なんぞもって、これを知るや』と問えば、衛門答えて『紂王の愛せし妲妃《だつき》は、野狐の妖怪《もののけ》なり。交尾のさま、かくのごとくにやあらん』とぞ言いける」(第十三話)
大江匡衡もまた、文章博士の称号を持つ大学者。平安朝を代表する才子才女のカップルだから、さしずめベッドルームの会話も、このようにアカデミックであったにちがいない。
才女の時代から武家の時代へと時を移せば、
「白河《しらかわ》帝、祇園女御《ぎおんのによご》を平忠盛《たいらのただもり》に賜いけり。女御たくましき陽物を得、悦びていわく『壮なるかな武臣のへのこ。帝の御胤《おんたね》わが子ぶくろにおわしまして、しこうしてわれたけだけしきへのこを得たり。つねに玉門に出入りして皇子を衛護す。いやしき妾女、なんぞこれをおもんぱかることあらん』と」(第十六話)
白河天皇が、腹心の部下平忠盛に、自分の寵妾である祇園女御をプレゼントし、女御は忠盛に嫁して間もなく清盛《きよもり》を生んだとか。つまり、清盛が白河天皇の落胤であったという説は、日本史上かなり有力である。もしそうだとすれば、余人はいざ知らず、祇園女御その人はその秘密を知っていたはず。『いやしい妾女のあたしがあれこれ心配することないんだわ』なんて、この女、あまり物事にこだわらないたちだったのかな。
さて、その清盛はといえば、精力絶倫、文字通り“英雄、色を好む”であった。
「仏御前は歌舞の技絶妙にして、その容姿人に優れて輝きたり。平清盛ひとたびこれを観じ大いに悦び、立ちて几帳《きちよう》の中に抱き去る。仏御前、年十七なり。心ときめき、体をふるわせ恥らい、赤らみて汗したたり落とせしが、ついに淫に服したり。清盛の陽物奇しく大いなり。御前のへへ、こころよく受け、入るることあたわず、唾をもってへのこを濡らし、ことさらに股を張り開いてこれに接す。亀頭没するに及んで、御前思わず顔をしかむ。清盛笑っていわく『なんじわれと交合しつつも、なお西施《せいし》に心を捧ぐ、また、これ美を増せり。たとえ妓王をしてひそみにならわしむるとも、古きへへいずくんぞふたたび新しきを得んや』と」(第二十話)
西施は中国の美女。胃の病いか心配ごとか、とにかく苦しむところがあって、顔をしかめて町を歩いたところ、美人とは利《とく》なもの、これがまた一段と悩ましい。大勢のブスたちも、ああやれば自分も美しくなるのかと思って、みんな顔をしかめて歩いたという。“ひそみ”とは“顔をしかめる”こと。“ひそみにならう”ということばはここから生まれた。清盛は仏御前が顔をしかめるのを見て『お前は西施に心を捧げている』と軽くからかったのである。平清盛は仏御前の前に妓王を愛していたが、もう妓王のほうは中古品。新品の仏御前を抱きながら、『お前が西施のまねをするのはいいが、妓王が、いまさら顔をしかめてお前のひそみにならってみても、新品にはならないぜ』なんて、こんなことをいわれては、妓王はがっかりする。髪を落とし、尼となって、こもった寺が祇王寺《ぎおうじ》で、ここが京都嵯峨野《さがの》の名所となっているのは、読者諸賢もご存知の通り。
本書の著者は、平安金麻羅となっているが、これは世を忍ぶ作者のペンネーム。儒学者太宰春台《だざいしゆんだい》の戯作ではないかという説もあるが、本当のところはわからない。書名は、服部《はつとり》南郭《なんかく》の大著『大東世話』をもじったものであり、“おどけがたり”と読むこともできる。歴史上の人物の立場や性格をふまえてデッチ上げたパロディ集――とわかれば、その内容の真偽は信ずるに足りない。
【禁断らいぶらりい】
色道禁秘抄
西村定雅 著
その昔、天《あま》の浮橋《うきはし》でイザナギ、イザナミの二神が味知りそめてこのかた、富貴貧賤、老若男女の区別なく、かつは悩みかつは喜び、のべ何億回、何兆回となく繰り返されてきた色の道、その道すじは韜晦《とうかい》にして奥行きは深く、初心者は初心者なりに、ベテランはベテランなりに疑問とするところ、少なくはない。
『色道禁秘抄』は江戸末期に書かれた“ハゥ・トゥ・メイク・ラブ”、色道のさまざまな疑問に答える指南書である。
「問にいわく『奇陰、妙術ある女を外見にて知る法ありや』
答えていわく『婬書にも毛陰戸《こ》は味よしという説あり。妙論なり。しかれども陰所見がたきところゆえ、はえあがり長き女は淫にして上牝と称す一法あり。ちぢみ髪の女も妙陰なりと天下にいいならわすも、血多きより髪ちぢめば、必ず陰戸も佳ならん。手足に男子のごとき毛あるも妙戸にして淫なり。陰毛ふとくこわき女必ず淫にして上牝なり。いずれも毛髪潤沢なる。血気充実したるより起る。……和漢の古き美人、皆艶色ばかりでなく、必ず奇陰妙接ありしならん。ゆえに国家もこれがために傾けるに至る。相書に、楊貴妃《ようきひ》の陰毛、引きのばすときは膝頭を過ぎるとあれば、毛の多きこと知るべし。その他、妲妃《だつき》・褒〓《ほうじ》・西施《せいし》・飛燕《ひえん》・虞氏《ぐし》(いずれも中国の代表的美女)のともがらみな子なし。はらまざる女は上等牝多し。わが国その昔は、髪たれて地を引かざれば美人とはいわざるよし。三十二相そなわりたる美人と記しあれば、毛髪の潤沢なること知るべし。衣通《そとおり》姫・祇王《ぎおう》・静《しずか》・仏御前《ほとけごぜん》、みな子なし……』」(第十五話)
世の紳士諸賢がとかく関心を抱くのは「外見だけで名器かどうかわかるものか?」ということ。本書によれば、髪が多く、しかもちぢれているのがよく、また、不妊症気味のほうがよしという。著者が現代に生きていたら「かの魔里林《マリリン》・門弄《モンロウ》も金色の陰毛潤沢にして、子なし」と書き加えたにちがいない。
「問にいわく『交接中〓声《ぶんや》(よがり声)を発するあり、無言なるもあるはいかなることにや』
答えていわく『〓声は感ずる声にて、諸事に感動して思わず声を発すると同意にて、必ず強淫または妙接あり。婦人ばかりでなく、牝犬にも〓声を発するあり。娼婦は客を悦ばせんとして〓声をつかうというは臆見《おくけん》(ひとりよがりの意見)なり。そのわけは娼婦にても〓声をつかわざるもの多し。もちろん花車《かしや》(娼家のおかみ)ともがらは、そのことを口授せんなれど、元来感じやすき生質ならでは、勤めても〓声をつかうことできぬゆえ、〓声つかわざる娼婦また多し。余、むかし、真の〓声に出合いせしことあり。交接中他聞をはばかり発声するなと戒むるに、女の答に、いかほどこらえても発声するゆえ襟を噛んで声を止めんと、みずから襟を噛んでこらえる様子、小児の灸《きゆう》をこらえるごとく、ついには襟を噛み切りて後悔すれど、また交接すれば美服の襟を噛み切りしなり。かくのごときをもって、〓声をつかうはその生質にして勤めてつかわれざるを知りたまえ』」(第三十五話)
さながら川上宗薫《かわかみそうくん》氏の作品を読むばかり。体験談には、行間ににじみ出る迫力がある。
「問にいわく『男は一夜の交接、何回をもって度とするや』
答えていわく『ことわざに、春三夏六秋一無冬という。これは算術家の論なるよし。その説を聞くに、二の段で割り、一ヵ月におこなうべし。春三は三二が六にて月に六度。夏六は二六が十二度。秋一は二一天作の五にて五度なり。無冬は間一無当作《けんいちむとうさく》九の一にて、月一度なりという。……しかれども、三十年までのことにて、以後は臨機応変のおこない佳なり。医書に、とかく多淫なれば身を損ずというゆえ、衆俗も一概にそう思えども、しからず。久しく精を泄せざる時は、かえって濁精とどこおりて、淋疾・にきび・瘰癧《るいれき》・便毒、無名の腫物を生ず。慾念さかんにして御《ぎよ》に及ばず年月をへるなれば、これがため発狂めまいの疾を生ずることあり。……例えば家政おごそかなる老夫婦、もはやせがれに妻妾を持たせてよろしき年齢なれども、迎えたらば腎虚の病を生ぜんと、いらぬことをおもんぱかりて年月を送るうち、その子欝症あるいは気狂いの症となること多し。……その子ひそかに売女等を犯すれば、その害をまぬかる。ゆえに右狂症は田舎、売女なき地に多し……』」(第五十五話)
過激派学生が暴れるのも赤線廃止のせいなるらん。セックスの回数についていえば、江戸時代には著名な貝原益軒《かいばらえきけん》の『養生訓』がある。「生二十の者四日に一たび泄す。三十の者は八日に一たび泄す。四十の者は十六日に一たび泄す。五十の者は二十日に一たび泄す。六十の者は精をとじてもらさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄す」。現代に比べて栄養補給に差があったとしても、『色道禁秘抄』の“冬”と、『養生訓』の“三十の者”はすこし少なすぎやしないか。
さて、本書の科学的信頼度は、どれほどのものかといえば、
「問にいわく『少女の男に交わりたるや交わらざるかを御するに及ばずして知る法ありや』
答えていわく『……便器へ麻灰《あさばい》を入れ、その上に股《また》がらせ、四方を風の入らざるように包み、鼻の中へこよりを入れ、くさみ(くしゃみ)せる後便器を吟味すべし。一度たりとも交わりたる女は、処女膜破れおるゆえ気下に通りて麻灰散じてあり。処女膜破れざるともがらは、気下に漏れぬゆえ灰は依然たり……』」(第九話)
これぞ名高い“灰かぐら式処女鑑別法”。本書の科学性もおのずと理解できよう。
著者西村定雅《にしむらていが》は京都の俳諧師。戯作者としても名高かった。本書を一冊通読すれば、その正否はともかく、セックスについての珍説奇説、古典的な考え方など一通りわかる仕掛けになっている。
【禁断らいぶらりい】
花街風流解
大眼子 著
ポーノグラフィの語源は、ギリシア語で“娼婦(ポルネ)のための図書”ということである。この意味からいえば『花街風流解《さとふりけ》』はまさしくポーノグラフィであろう。娼婦たちがどのように客の気を引き、たぶらかすか、そのこつを教えた虎之巻であって、さしずめ“娼婦学入門”といったところか。
「翠帳紅閨《すいちようこうけい》に枕をならぶる夜の夢にも、浮川たけのうきふしに情を商う遊女ほどいと哀れなるはなし。されど、その身のいたずらよりなれるはまれにして多くは父母のため、あるいは夫のために、百年の身をわずかの黄金に幾瀬の汚名をしのび、一双玉臂《いつそうぎよくひ》万客の枕となせるはせんかたもなき身の宿因というべし。されど楽しみは苦しみのもと、苦しみは、かえって楽しみの始めと、苦界より身にもあまる幸福にて玉の輿《こし》にも乗るべくもあれば、この苦界すなわち孝行のはじめ、吉事の門出と思い、まめまめしく奉公してお客大事、親方大切を心におこたりなく、如才なく精を出せば、自然、天の冥助にておもいがけなき僥倖あるべし」
と、まずはまごころを持って勤めることを説く。しかし、まごころを胸の奥にしまっておくだけでは不合格。タイミングよろしく外にあらわさなければいけないのであって、
「客と別るるときは、またいついつということをかたく詰引《つめひ》きすべし。その時客多くはちゃらつきて去《いぬ》るものなり。されど、それをまことにうけし顔して去るおもかげをながめて、かの松浦挟夜姫《まつらさよひめ》の心もちありて、しばらくうしろかげを見ているべし。その客四、五間あるいは十間を行きて、かならずあとを見かえるものなり。このときちょっと手まねきなどして慕情あるべし。これ客の心を取りひしぐ秘密の始めと知るべきなり」
これはそのまま現代ホステスのための教訓となる。客が振り向いたとき、もうドアの中へ消えているようでは、あまり愛着はわいてこない。
この商売、客を信じすぎてもいけないのであって、
「悪しき客はいうにおよばず、良き客とても、どのような事で退いてほしいことあるまじきものにもあらねば、かねて逃げ道の工夫をしておくべき事なり」
例えば、
「かねがねおまえにいった通り、義理のある親と実親と両方に親があり……」などは、すこぶる応用範囲が広く、また「あしき持病などのあるよしいって置く」もよい。好かぬ客が図に乗って「お前といっしょになりたい」とかなんとかいろいろ難題をいいかけてきたときも、親がたくさんいたり、持病があったり、逃げ道さえ日ごろから作っておけば、断わりやすく、しかも断わっても客のひいきを失うことがない。
若い客が相手ならば、
「あなたは女房さんがござりますか……おお、うれし。わたしゃ女房さんのあるおかたは実が薄いようでおもろうない。前は年のいったおかたが親切じゃったけがな、今は若いお客にご親切が多い。年の寄ったおかたは口さきばかりで実がない。夕べも年寄のお客で行きましたが、もういやで、いやでならなんだ」
一転、年寄の客についたときは、
「男女に限らず、年が寄るほど欲も深くなるものなれば、色欲の道も深うなると知るべし。しかれば年寄り客に出るときは、ずいぶんいやらしくべったりと持たしかけ、とっくり堪能させて帰すようが秘密なり。しかしなんぼべったり持たしかけても肝心なことがお役に立ちかね、辛気くさきものゆえいずれの女中もいやがるものなり。されど老人でなければ(客として)長くも続かず物にもならぬものなれば、気長う請けてもどって面長うしろもの(うまいカモ)にするがよろしきなり。さて、年寄を手に入れる魂胆とは、至って心やすきものにて、ただ閨中のときこころよう素直にして勤めてくるばかりと知るべし。しかし石仏のようにきょろりとしていたり、隣へすり鉢借したような気でいては得心せぬものなり。なんであろうと、この方が助兵衛になって、むこうから降参してござるよう、かの春画などにかいてあるような、とろくさい、あほらしい馬鹿なこというてつきあっていれば、ずいぶん受けのよきものなり」
と、このへんに来ると“まごころ”も相当にあやしくなる。
遊廓にやって来る客はなにが目的かといえば、
「客というものは粋も不粋も老若にかかわらず十人に八九人までは助兵衛の甚太郎と知るべし。その証拠は茶屋へ来て女郎買いするというものは、まだ嫁のない青息子《こむすこ》というか、または青二才、あるいは表向き女房せんさくのできぬ坊主か隠居か、必竟《ひつきよう》内証の遊さん場所にて、煩悩はらしに来るところなり。さて、またきっと女房子どものあるものが、めずらしからぬ女郎買いするも、いずれみな助兵衛の甚太郎ならでは来ぬはず。その助兵衛や甚太郎を相手にする商売なれば、床おしみしたり、不勤めするときは、たとえいかほど美しい玉女郎でも次第にさびしゅうなるは知れたことなり」
と、これは当然のこと。だが、この指導書、ベッド・サービスの重要性を説きながら、そのテクニックについてはほとんど触れていない。これはいかなるわけか。解せない。
『花街風流解』上下二巻は、大むね納得のいく教訓ばかり、いずれももっとも過ぎて、「ナーンダ。そんなことわかりきってるじゃないか」と思わぬこともないけれど、そうと知りつつ、遊び女たちにこの通りのテクニックを弄せられれば鼻の下デレデレと伸び、頬の肉思わず知らずゆるむのが世の男のつね。いや、昔の話ではない。当節も、キャバレーの“ミーテング”とやらでは、毎度、毎度、どうやったら、お客の気をうまく引くことができるか、例えば、
「お客が『釣り銭を取っておけ』といったら百円でも飛びあがって喜びなさい。お客は『百円であんなに喜ぶんだから千円もやれば寝るんじゃないか』こう思ってまた次の夜もノコノコやってきます」
なんて、こまかい心理とテクニックの研究におさおさおこたりない。だれか現代版『花街風流解』を記す人はないものか。
【禁断らいぶらりい】
大笑下の悦び
森田軍光 著
「男は立ったまま、女はすわって、犬は片足をあげてするもの、ナーニ?」。答は「握手」である。握手というものは、紳士はキチンと立ってやらなければいけないが、淑女は椅子にすわったまま手を差しのべてもかまわない。犬については「お手」といっているが、あれは確かに“片足”であり、握手の一種といえないこともない。
とはいえ、これはすべて屁理屈。このナゾナゾを聞いて「握手」と答える人はめずらしい。大ていはもっと別なものを思い浮べる。相手に淫らな連想を抱かせ、そこでサッと逃げるのが、この手のナゾナゾの常套手段である。
フランス小話にも「割れ目のまわりに毛がはえていて、いつも濡れてるもの、ナーニ」、子どもに出題されて大人たちが大あわてにあわてる話があるが、この答は「目」。あまり気をまわしてはいけないのだ。
閑話休題、『大笑《おおわらい》下《しも》の悦び』は天保のころ出版された小冊子の歌集(?)で、どの歌もナゾナゾ的発想。上の句で読者にあらぬ連想を抱かせ、最後の一句でサッと逃げを打つ趣向である。
出すたびに しくしくと泣く 若後家の
かたみに残る 小袖かたびら
原文はほとんど平仮名ばかりだが、意味が取りやすいように漢字を混ぜて書きあらわしてみた。若後家と聞くと、とかく世の男性諸氏は淫らな連想を抱く。なにを“出す”たびに泣くのだろうか? やっぱりアレかな? “かたみ”には“片身”あるいは“肩身”の意味もある。体中に疲れが“残る”ほどの情事に、若後家さんが歓泣している風景を思い浮べたとたん“小袖かたびら”となって、これは死んだ亭主の衣裳だろう。なんのことはない。これもまたあまり気をまわしてはいけないのだ。
上は出す 下は入れさす 口と口
徳利へ戻す 燗なべの酒
江戸ことばでは接吻のことを“呂の字”といった。“呂”の字は“口”と“口”とがつながっているからである。“上は出す下は入れさす”とあって、それから“口”となれば、これはすこぶる濃厚な場面。だが、残念でした。下の句でたちまち舞台はめぐり炊事場のシーンと相成る。
白い物 ぬらぬら出して そのあとを
そろそろとふく ぬか袋かな
人目をば 忍んでそっと 帯解いて
泣き泣きやって 流す質物
指で穴 さぐりながらに 口寄せて
なめてふき出す 尺八の笛
こういうイタズラは、日本人の好みに合うものらしく、例えば都々逸《どどいつ》でも“横に寝かせて手枕させて指で楽しむ琴の糸”“腰が曲がろがふらふらしようが触れりゃぴんと立つ笹の雪”“気をつけてどうぞしきゅうに届くよう入れてくださいこの手紙”などなど、思わせぶりの歌詞がたくさんある。また宴会などで今なお歌われる春歌には、
正月とや 承知で親もさせたがる 娘もしたがるカルタ取り
二月とや 逃げる女中を追いかけて 無理やりさせるは拭き掃除
三月とや さあさおいでと胸ひろげ ぐっと抱き込む乳呑児を
四月とや しかけたところへ客が来て あわててやめるは へぼ将棋
…………
という数え歌もある。
ナゾナゾはことば遊びの一種であり、しゃれ・地口・無駄口・回文・早口ことばなど、日本人は伝統的にことば遊びの好きな国民である。だから、この思わせぶりなナゾナゾ的詩歌も、その好みの反映と見ることができるのだが、もう一つ別な要素もある。性的な好奇心はすこぶる旺盛でありながら、一方に道徳の抑制があって、それを直截に表現することのできない、そんな庶民たちのささやかな抵抗がそこにあった。あるいは自己規制をしなければ、セックスを語りえないモラルが庶民自身の中にもあって、それがこんな詩歌となって表現されたと見るべきなのかもしれない。
しかし、考えようによっては、こういう屈折した方法でセックスを表現することのほうが、かえっていやらしく、猥せつに思えぬこともない。『大笑下の悦び』にしても、それを読んでニタニタとほくそえむことはできるだろうが、その題名のように呵々《かか》大笑、おおらかに笑うことはむずかしい。
もう少し引用を続けてみよう。
入れてみて また抜いてみて 入れかけて
よく入ったと 思う生け花
出るゆえに どうもいえんと 泣きいだす
あれゆくわいな 親の葬礼
昼もする 夜はなおする ぬらつけば
拭いてまたする 塗り枕かな
この手のイタズラがおもしろおかしく成功するためには、前半の仕掛けが大きく、最後の一句でドンピシャリ、無理なくきまって全体の意味がすぐに理解できることがたいせつだ。『大笑下の悦び』には、二十八首の歌が集めてあるが、今ここに引用したものは比較的できのよいものばかりで、駄作も多い。作者は森田軍光《もりたぐんこう》という、いかめしい名まえの女流作家である。『大笑下の悦び』は現代ならば、さしずめ大衆雑誌の色ページのようなものだが、今日、こういうページを女性のライターが書くことは皆無に近い。女は、セックスを屈折した笑いのタネとすることが不得手である。また、その必要もあまり感じないらしい。『大笑下の悦び』の作者は、原作者というより編者のような役割を果した人ではないか、とも思う。
ともあれ、江戸時代にはこんなたわいのない小冊子もひんぱんに上梓され、それで結構商売になっていたらしい。
【禁断らいぶらりい】
雲 雨
中国春画集
江戸時代までの日本の文化は大むね中国の模倣から出発したものであった。では春画芸術の場合はどうだったのだろう?
ここに取り出した一冊はスイスの出版社、ナジェル社が一九六九年に発行した中国春画集である。本の大きさは週刊誌の二倍。カラー印刷も鮮明で、デリケートな色調もうまく再現している。もちろん要所に黒い浅草のりがペタリと張りついているような、あんな無粋な処置のあるはずもなく、まったくの無修整版。これでこそ心おきなく美術の観賞ができるというものだ。
画集といっても図版ばかりではなく、エチェンブルという人の解説がある。この解説によれば――
今はむかし、仙境を訪れた皇子が疲労を覚えて草の中でうたた寝をした。すると夢の中にすばらしい美女が現われ、
「わたしは仙界の皇女よ。ファックしましょうよ」
そこで二人は愛しあい、やがて別れのときが来ると、皇女は、
「朝に雲を起こすのは、このわたし。夕べに雨を呼ぶのは、このわたし」
だから、朝な夕なにわたしを思い出しておくれ、ということなのだろうが、それはともかく、こんなことばを残して去って行った。この故事から、中国では男女の営みを「雲雨」と呼ぶようになり、「雲」は女性の分泌を、「雨」は男性の射精を表わすようになったという。
エチェンブル氏は、さらに中国の閨房術が道教の影響を受け、末長く楽しむ不老長寿の仙術として研究され、やがて仏教の影響を受け、色の道はむなしく、ろくな結果に終らないといった因果応報律がモラルとして確立し、その典型的な例として小説『肉蒲団』を解説するなど、中国性思想史を熱心に語っているが、この弁舌と本書の図版とはさして関係がない。演説は演説、図版は図版。されば思想史はさておき、図版のほうに目を転じてみよう。
図版は主として十八〜十九世紀に画かれた作品で、ヨーロッパの美術館や好事家《こうずか》の手に保存されているものを、ランダムに並べたとみてよさそうだ。
「鞦韆戯狎《しゆうせんぎこう》」と題する絵では、女がブランコに腰掛け、両足を上げてブランコの縄にからめ、男は立位のまま挑戦。ブランコ揺れて、お空も揺れて、ああ、いい気持ち。
「八俊淫楽《はつしゆんいんらく》」では、さながら騎馬戦のよう。四人の女が一人の女を抱きかかえ、赤ちゃんにオシッコをさせるようなポーズ。そこへ二人の女にささえられた男が近づき、いまや雲雨の営みが始まろうという情景。腰元たちに揺らしてもらおうという魂胆らしいが、なんと横着な。自分のセックスくらい自分で腰を使ったらどうか。こんなテイタラクだから革命が起きたのである。
この二枚の絵もそうなのだが、中国の春画では、日本の浮世絵のように男女シンボルの誇大表示はない。それどころか、じつに楚々《そそ》としたたたずまい、アッサリと描かれていて、頼りないほど。女性に無毛が多いのも特徴の一つだ。
だからどの絵を見ても浮世絵のような、どぎついまでの迫力を感ずることはなく、春風駘蕩《たいとう》としてすこぶるみやびやかな風景。身近なタレントに例をとるならば、さながら奥村チヨさん。目と目、眉と眉とがひどく離れ、あどけない顔立ちの女たちがさりげなく、おおらかに楽しんでいる。大ざっぱにいえば、中国の春画はなよなよと貴族的。日本の浮世絵は頽廃の中にも庶民の力強さを感ずることができる。さらに性器の描写についていえば、中国は童子のいたいけな遊び、天国を夢見るようであり、日本の性器描写は地獄のエネルギーを感じさせてくれる。
日本春画史を瞥見《べつけん》すれば、性戯の図は中国医術の影響を受けた医書の一部として発達し、平安から鎌倉にかけて『小柴垣草子』『袋法師絵詞』などの絵巻物春画が貴族たちの間で珍重され、やがて江戸中期に入って百花繚乱、数々の名画が誕生するのだが、ナジェル社の画集に見る限り中国の春画は『小柴垣草子』など江戸以前の春画絵巻と味わいがよく似ている。中国春画集を見ることにより、そこに江戸春画のオリジナリティが感じられて楽しい。
話を中国の春画に戻そう。
女がL字形になって男の肩に両足を掛けているスタイルが多い。これが中国の正常位とか。肩にかかった足は纏足《てんそく》で、男がその匂いをいつくしんでいる場面もある。纒足の足から漏れる淡いチーズ臭は性欲を昂《たか》ぶらせるものであって、これも纒足の一つの効能に数えられていた。
男一人に数人の女がからみあっている図柄も多い。男がベッドに寝転がり、女が茶臼のスタイル。もう一人の女が男の胸のあたりにまたがって、プッシイのご開帳。さらにもう一人の女は、男がそれを見やすいようにうしろから首をささえてやるなど、これもひどく横着なポーズである。
そのほか馬上で楽しむもの、手押車に女を乗せて楽しむものなどいろいろあるのだが、紙数も尽きてしまった。
最後に実用的な情報を一つ。本書の発行元ナジェル社では『知られざる秘宝』と題して世界の春画シリーズを出版している。本書もその中の一冊である。世界に冠たる日本の浮世絵も、もちろんノーカットでこのシリーズに収められていて、その書名は、
Shunga: L'Image du printemps.
なぜかこの一冊は国立国会図書館に所蔵されてあり、手続きを踏めばだれでも見られるはずである。
第三部 小咄まんだら
【小咄まんだら】
ぷっしい(PUSSY)考
マミムメモの“マ”音は一番発音しやすい子音で、しかも甘い、やさしい、ふくよかな印象を与える音だという。幼児が一番最初に覚える生活語は、ママとマンマであり、われらが親愛なる女性シンボルも現代の標準語では“マ”音を頭にして構成されている。ママ、マンマ、それにもう一つの“マ”、この三つで人類が生まれ生き続けてゆく上で最低限必要な用語は満たされるわけであって、この三つをいずれも発音しやすい、まろやかな音でまとめあげている現代日本語は、すばらしい言語といえないこともない。
しかし、日本の方言をたどってみると、マ行音のほかに、べべ、ベンチョ、ツンビ、ボンボなど、バ行音を含んだことばも少なくない。バ行の音はベトベトと汚ない感じを与えるものであって、これはその地方の先祖がよほどものすごいのを見せられ……いや、あればかりはあからさまに見せられるとおおむねものすごいものだけれど、それをグロテスクと感じとったからにちがいない。
つまり日本語では、女性シンボルを親しむべき、やさしいものとして認識したマ行系理想主義派と、ベトベトした、おそろしいものとして認識したバ行系現実主義派の二つの流れがあるのである。
心情的には美しいものと思いたいのだが、現実は厳しく、それほど美しいものではない。高級な文学作品では、花鳥風月まで持ち出して、なんとか優美高尚な印象を与えようとするけれど、江戸小咄ともなれば、これは現実直視のリアリズム精神、あまりビューティフルではない。
長屋の熊さんが風邪を引き、ひげボウボウにして寝込んでいると、壁一つ隣の家から夫婦の話し声が聞こえてきた。
「なあ、おっかあ、お前に頼みがある」
「なんだい? やぶから棒に」
「オレは今まで女のアレを見たことがねえ。一ぺんでいい。頼むからチャンと見せてくれ」
「なにかと思ったらバカバカしい。夜になったら見せたげるよ」
「うんにゃ。夜は暗くてだめだ。今がいい。頼む」
亭主があんまり熱心に頼むので、
「じゃあ、こうしようよ。なまで見せるのは恥ずかしいから、台所のたらいに水を張って持って来な。そこに映すから」
「よしや。今持って来るぞ」
寝ていた熊公、これを聞いて大喜び。コッソリ梯子《はしご》を持ち出し、屋根に昇り、天窓からひげづらを伸ばして下をのぞく。隣の亭主がしきりにたらいの水を見ながら、
「見えたぞ、見えたぞ……。しかし、なんだねえ、アソコってものは隣の熊公にそっくりだ」
フランス小話にも“見たことのない”男が登場する。
「なあ、ピエール。オレは今までに見たことがないんだが、女のコが脚のつけ根に持っている子猫って、どんな形なんだ?」
するとピエールが答えた。
「そうよなあ。ピカソの絵みたいなものさ。一言ではとても説明できないよ」
その通り。毛髪であり、亀裂であり、一部であり、全体であり、無定形であり、空間であり、実在であり……、まこと神の創りたまわれた不可思議な抽象芸術である。
展覧会で見ても抽象画というのは、どちらが上か下かわからない。画家のサインがあるので、かろうじて見分けがつく。同じようなことは肉体の抽象芸術についてもいえるのであって、
娘が婚礼の晩にたいせつなところにけがをしてしまった。乳母がこれを聞いて、
「お医者さまに見せましょう」
「いや。死んでも出して見せるのは恥ずかしい」
そこで乳母がポンとひざを打ち、
「よい思いつきがあります。私が絵図を書きますから、痛むところへ印をつけなされ。それをお医者さまに見せましょう」と、硯《すずり》を引き寄せ、薬研形《やげんなり》(舟形)を書いて、ムシャムシャと毛を書く。娘がこれを見て、「オヤオヤ。あたしのにはまだ毛が生えぬのに……」
といえば、乳母が答えて、
「黙っていなさい。これを書かねば上下が知れません」
もっとも小咄学のほうからいえば、この抽象芸術は、初めからあのような形で、あのあたりに棲息していたわけではないという。
えー、ご婦人のアレってものは、昔は顔の、ひたいのあたりについていたそうな。
しかし、いくらなんでもここでは具合がわるい。そこでどこぞに引越ししようかと思っていると、おヘソが、
「ウチの近所においでよ。下のほうがあいているから」
お尻の穴が、
「あたしのウチの近くへいらっしゃいな。上のほうに空地があるの」
どっちに行こうかなと迷っていると、両方が手を取って、
「こっちにおいでよ」
「いや、どうでもあたしのうちのほうよ」
争って引っ張るので、それでまア、引きつれた形のまま、現在の位置に収ったとか。付近の芝草は昔の名残り。額から引越しをするときにいっしょに髪の毛を引き抜いてきて移植したのだという。
それはともかく、まじめな問題として“春草はなぜあんなところに繁茂しているのか”これは真剣に問いかけてよいことなのである。
これに答えて世の男たちは、
「まあ、プッシイのアクセサリイだね。“ここにあるのよ”と男を引き寄せているんだよ」
「いや、カーテンみたいな役割じゃないのかな。そうあからさまに見せて、すてきなもんじゃないからな」
「違う、違う。減摩装置だとよ。クッションみたいなものだね」
甲論乙駁。いろいろな説がある。本当かもしれないし、嘘かもしれない。だが、どの説にも共通していることは“春草がなにかのためにある”と考えていることだ。造物主がなにかの目的をもって、春草をあのあたりに繁らせたにちがいないという考え方だ。果してそうだろうか?
春草はなんの目的もなく、ただ偶然あのあたりに繁ったのかもしれない。大ゲサないい方をすれば、これが“二十世紀的世界観”である。
十九世紀までの世界観は、多かれ少なかれプラモデルのようなものであった。プラモデルの部品はバラバラだが、設計図にそって組立てればチャンと飛行機や自動車ができあがる。この世の中もテンデンバラバラで、さっぱりうまくいっていないようだけれども、なにかうまい設計図に従って組立てれば、きっとりっぱな世界になるにちがいない、と昔の人は思っていた。プラモデルの会社が部品をそろえてチャンと組立てられるようにしておいてくれたのと同じように、この世界も造物主が、チャンとうまくいくようにあらかじめ用意しておいてくれた、と考えた。
だが二十世紀にはそんな楽観主義はない。実存主義者たちのことばを借りれば“人間はただ偶然この世に存在してしまった”のである。もともとそろっていない部品でプラモデルを作ろうとしているようなものだから、ギクシャクしてうまくいかないのも当然である。だからこそ(とサルトルたちはいうのだが)人間は、自分で自分たちの人生に目的を見つくろって与えてやらなければならないのである。
春草もまたしかり。なにか目的を与えられて、生《お》い繁っているわけではない。ただ偶然、濃かったり、薄かったりして繁っているのである。それに目的を与えてやるのが人間の仕事なのである。以上恥毛哲学のおそまつ。春草をジッと見ていると、二十世紀の哲学が少しわかってくる。
少し趣きを変えて、中国の『笑苑千金』にある笑い話を紹介すれば――、
ある金持ちの大人《たいじん》が息子の嫁たち三人を呼び寄せ、
「今日はわしの誕生日だ。みんな自分たちの体で字を作って、わしに祝いの酒をついでくれ」
その夜、大酒宴が開かれ、まず長男の嫁が娘を二人連れて大人の前に現われ、
「お義父《と う》さま、おめでとうございます。女三人で“姦”の字を作りました。どうぞお祝いの酌をさせてくださいませ」
次男の嫁は息子の手を引いて進み出て、
「お義父さま、おめでとうございます。わたしは“好”の字でお祝いの酌をさせていただきます」
三番目の嫁はまだ若く、子どもがなかった。
「さあ、どうしよう?」と、しばらく思案していたが、やがて義父の前に進み出て、一礼をし、それから立ったまま片足をピンと真横にあげた。秘密の口を指差し、
「お義父さま。わたしは“可”の字を作って、お祝いの酌をいたします」
大人は大喜びをして、
「なるほど。だが“可”の字の“口”が少しゆがんでおるのう」
大人の喜悦の表情が、目に浮んでくる。
なにぶんにもそうあからさまに見物できるところではない。だから、そのあたりの構造がどうなっているのか、とんと知らない男も昔は多かった。
女房が目黒参りをして帰って来ると、亭主が、
「やれやれ、早かったな。くたびれただろう」
時刻も四つ前(十時前)になっているので、
「さあ、やろうか」
と誘えば、女房が、
「今日は足に豆ができて、帰りに行人坂《ぎようにんざか》から駕籠《か ご》に乗ってきました」
「なんだ。今日は遠道だからさぞよくねれて具合いがよかろうと一日中楽しみにして待っていたのに……」
亭主はひどく不機嫌になる。夫に孝行な女房は「それならばこうしましょう」と梯子《はしご》へ上ったりおりたり四、五へんやって、
「さあ、やりなさい」
と始めかけた。
「どうです? ねれましたか」
亭主が答えて、
「いやいや、まだ粒がある」
目黒参りのことは川柳の項ですでに触れておいた。あんこを作るときには粒があっては、まだ“ねれて”いない証拠だが、こちらのほうは粒が大きくなればなるほど“ねれて”いるのである。この亭主、そのあたりに“粒”のあることを知らなかったのではあるまいか。
いや、まじめな話、あの愛らしいクリット君が、日本人の性生活の中で確固たる市民権を得るようになったのは、そう古いことではない。前戯・後戯なんて戦後の風潮。昔の日本男児は三こすり半で、高いびき、少し離れた谷間のかげにクリット君が息づいていることなど意に介さなかった……といったらいいすぎかもしれないが、少なくとも現代のような市民権を与えられていなかったことは確かだ。だから“粒”の存在に気がつかない人が現実にいてもおかしくはない。
ところで、プッシイの構造といえば“上つき”“下つき”の問題がある。江戸川柳では“お妾は臍《へそ》を去ること二三寸”ということになっていて、プッシイの位置がへそに近いほうが逸品にして品位も高いとされていた。金持ちの囲い者となる女は、きっとそんなプッシイを持っているにちがいない、と、考えたわけである。
だが、どうして上にあるほうが品位が高いとされたのだろう。人類の進化の歴史をたどってみれば、四本足で歩く動物から二本足で歩く人間に変化してくるうちに、プッシイの位置が前にあがってきたことは確かである。江戸庶民はこの進化の歴史を漠然と感じとって、位置の低い女をアンダー・デベロップメントと考えたのだろうか。それともただ動物に似ているように思えて、忌《い》み嫌ったのであろうか? 確かなところはわからない。
初めて里帰りをしてきた娘が泣いてばかりいるので母親が心配して、
「なにか気に入らぬことがあるのかえ」
と聞きただせば、娘が、
「あの人、あたしの顔がきらいなの」
「それは、またどうして?」
「いつもうしろからするの」
里の親は、こんなかわいい娘なのになんたることかと、日を変えて娘むこに尋ねれば、
「めっそうもない。前は盆と正月のためにとっておく」
前からするほうがスタイルはぶざまでない。表情を確かめあうほうが、セックスの奥行きが深まる。単なる性欲のはけ口というより、心情的な要素が加わる。上つきのほうが、前からのスタイルに適しているのは当然であり、こんな心理的要素もあって、上つきのほうが“品位あり”とされたのではないか。
おもしろいことに、この評価は日本国だけのものではなく、例えば、アラブの国はエジプトの物語。
昔、ある王が砂漠を旅しているとき、道ばたに女の放尿の跡を認めた。王は興味深そうにその水跡を見つめていたが、
「この女を捜して余のハレムに加えよ」
女はすぐに見つかり、ハレムに入れられて王の寵愛を受けることとなった。
ある日のこと、大臣がこの時のことを思い起こし、
「王さま、なにゆえあってあの女をお選びになったのでございましょうか?」
と尋ねれば、王が答えて、
「余は女の足跡と砂に掘られた水の跡とを見比べ、その間が大変長いことに気がついた。これは女の愛の園が高くに位置する証拠である」と。
おわかりだろうか? まことにシャーロック・ホームズにも比すべき慧眼《けいがん》。ナイルの川のほとりは幾何学発生の地でもあるが、この王さまはその方面の知識も豊富であったにちがいない。もちろん黄水の排出口とプッシイの入口とは同一ではない。しかし、そこにはある程度の相関関係はあるだろう。排出口が高ければプッシイの入口も高いはずだ。そして水が遠くに飛んでいるのは排出口が高いことにほかならない。“上つき”はアラブの国でも逸品と考えられていたことが、このエピソードからもうかがい知ることができる。
そして、よろずこの方面のことでは話題にこと欠かないフランス国では、
マザラン卿はもうゲンナリ
下つきすぎるコンをこね
その臭いこと、臭いこと、天下に類を見ないほど……。
こんなざれ歌があって、コンはプッシイのフランス語。十七世紀フランスの敏腕宰相マザランも“下つき”にはほとほとまいってしまったらしい。“下つき”はその環境条件からいっても、悪臭を放ちやすく、そのため価値が低いのかもしれない。
プッシイの放つ匂い――“すそわきが”と呼ぶらしいが――これは江戸小咄でもおなじみのテーマである。
あるところのご亭主、学問を好み、本を読みながら紙を引き千切っては唾をつけて本の中に貼る。内儀がこれを見て、
「もし、旦那さま。なぜそのように紙を唾でお貼りになる」
「いや、これはどうもわからぬことを先生に聞くときのため印に貼っておくのじゃ。不審紙というものじゃ」
女房これを聞いて、針仕事をやめ、紙を引きさいて唾をつけ、亭主の鼻先へ貼る。
「これ、なにをする」
と言えば、女房が、
「高くもないが」
と不審顔。亭主は笑いながら、また紙を引きさき女房のほっぺたに貼る。
「なにをなさる」
亭主が、
「赤くもないが」
鼻の高い男は男性シンボルが大きいと思われ、また、頬の赤い女はすそわきがが強いと思われていた。察するにこの亭主は巨根であり、内儀はすそわきがが強かったにちがいない。
日本人は体臭については淡白を好む傾向が強く、わきがもすそわきがも、そのファンは少ない。
旦那が下男の三助に、
「これ、三助。おまえはいたって開《ぼぼ》が好きだということじゃが、素人の開が好きか、玄人の開が好きか」
「いやもう、白いの黒いのと、そんな頓着はござりません。ただ青くさいのがどうもかないません」
江戸小咄に現われるプッシイは、総じてなまなましい。もっと“ぼかした”話はないものか。
最後はフランスの小話で少しばかり品位をあげよう。
カメラの前でマドモアゼルがポーズを作りながらいった。
「写真屋さん。私の一番チャーミングなところを写してね」
「お嬢さん、それはできません。あなたはその上に腰かけているのですから」
【小咄まんだら】
ぷりっく(PRICK)考
物にはみんな名まえがある。なぜ花は“ハナ”という名で呼ばれ、机は“ツクエ″という名で呼ばれるのか。由来のわかるものもあるけれど、大部分はわからない。長屋の熊さん、八つぁんも同じような疑問を抱くのであって、
「ねえ、ご隠居さん。あの鰻《うなぎ》って魚はどうしてウナギっていうんですかねえ?」
「ああ、あれかい」
ご隠居さんは庶民のエンサイクロペディア。なんでも知っていなければいけない。
「それはじゃ、鵜《う》という鳥がいるな」
「へい。魚を飲む……」
「さよう。鰻は体が長いうえに鰓《えら》がふくらんでおる。だから鵜が飲み込もうと思っても、これがなかなか難儀じゃ」
「へい?」
「鵜が難儀するから、ウナギじゃな」
ご隠居さんの話にはデタラメが多い。
だが、宮崎県の方言では“疲れた”ことを“ヨタギィ”といい、これは“余は大儀である”が訛ったものだという。こうなると“鵜が難儀する”から“ウナギ”でもよさそうな気がする。名まえの由来は、どこまでが本当でどこまでが嘘か、見分けるのがむつかしい。
さて、男性シンボルは、“へのこ”と呼ばれた。なぜ“へのこ”なのか。カッカと熱く火照っているので“火の凝《こ》り″が訛ったのだとか、陰茎を表わすことばに“閇《へ》”があり、その先端部を“閇の子”といったとか、さまざまな学説がある。もとより真相はわからない。小咄学のほうからいえば――。
あるところに旗本屋敷が二軒並んでいた。この二軒の下男と下女が相思相愛の仲。とはいえ使用人同士では恋の逢瀬もままならない。ところが、この両家の境の塀に手ごろな節穴があって、これはまことにいいぐあい。下男と下女がしめしあわせ、男が節穴の向こうからスーッと出せば、女がこちら側でスポリと受ける、こういうスタイルで楽しんでいた。
ある日のこと、下女が前をまくろうとしたちょうどその時に、折あしくお屋敷のお姫さまが庭に出て来た。下女はあわてて前をあわせたが、塀の向こうからは妙なものがニョッキリと顔を出している。お姫さまは目ざとくそれを見つけて、
「あれなる異なものは何じゃ?」
「キ、キ、キノコでございましょう」
「はて? 木に生えるをもって木の子と呼ぶに、あれは塀に生えておるのう」
「されば、塀の子でございましょう」
これが“ヘノコ”命名の由来である。
日本映画の名作『また逢う日まで』では岡田英次《おかだえいじ》さんと久我美子《くがよしこ》さんがガラス越しにキスをしていたけれど、昔の男女はもっとせつなかった。民話や小咄のたぐいを読みあさっていると、よく“塀の子”式交合法に遭遇する。それだけ男女の逢瀬がままならなかったからである。
女房が炉端《ろばた》に腰をおろして、しきりによがっている。床下に男を忍ばせ、床板の節穴からいたずらをしていたのである。亭主が不審に思って、
「お前、なにしている? そこをどけ」
女房を突き倒すと、そのあとに浅黒い棒がニョッキリ。
「なんだ。糞など垂れて……」
亭主が焼火箸でこれを挟んだ。
男は驚いただろうな。あわてて引き抜いて逃げて帰ったが、その火箸の跡が残ってグランスの鉢巻ができた、というのがこの話のミソ。以前は長イモのようにのっぺりとしていたそうである。
ところで男性シンボルといえば、とかく話題になるのは大きさのこと。女優の宮城千賀子《みやぎちかこ》さんによれば「バナナだって、口いっぱいじゃ味はわからないよ」ということだが、なぜか男たちは「大きいことはいいことだ」という命題を信じたがる。そこでもろもろの巨根伝説がまことしやかに巷間で語られる。
日本歴史上、この方面で隠れもない英雄といえば、奈良時代は河内《かわち》国弓削《ゆげ》村の生まれ、その名も高い禅師道鏡《どうきよう》にとどめを刺す。鎌倉時代に編まれた百科事典『下学集』によれば「道鏡ハ法名ナリ。丹州弓削ノ人ナリ。後ニ洛ニ入ル。弓削ノ法皇ト号ス。即チ孝謙帝ノ夫ナリ。馬陰ニ量《はか》ルニ過ギタリ。嗤《わら》ウベシ」とあって、これは馬も顔負けをしたということだ。また歴史書『水鏡』では――、「如意輪経を一心に信ずれば現世で大臣になれる」とあったので道鏡が三年間山ごもりをして修業したがサッパリ大臣になれそうにない。怒り狂った道鏡が本尊に小便をかけたところ、なぜか蛙が道鏡のシンボルに飛びつき、それが原因で腫《は》れあがり(多分蛙の毒によってであろう)、そのまま巨根になった、と見て来たような解説をしている。
つまり道鏡巨根説は、相当に古くから広く信じられていたのだが、それがどこまで真実で、一体どのくらい大きかったかとなると、サッパリわからない。
道鏡はサンスクリット語に通じ、外国の音楽にくわしく、修験道の奥儀《おうぎ》をきわめていた。サンスクリットは、当時、時代の先端をゆく、一番カッコイイ外国語だったし、修験道は一種の催眠術である。その名も高い大久保清もフランス語をちらつかせ、音楽を語り、魔術のごときことばで数多《あまた》の女性をあやつったではないか。女の関心を引く方法は、昔も今もそう変わっていない。その上、道鏡は自分のパトロンである孝謙帝に、献身的なサービスを惜しまなかった。女帝が病気になれば連日連夜、徹夜もいとわずに看病をしたし、もちろんセックスはいつ何時《なんどき》でもOK。「どう、今日?」といどまれれば、ただの一度も辞退したことはなく、それで「どうきょう」と呼ばれた……なんて、これは嘘だけれども、嘘のないのは、孝謙帝に心から尽し、孝謙帝も百パーセントの信頼と熱愛を寄せた相思相愛の仲。これをやっかんだ周囲の者が「あんなに女帝に愛されるのは、きっとモノがデカイにちがいない」と考え、それを後世の人々が単純に信じ込んだと思われるふしがないでもない。もっとも“火のないところに煙は立たぬ”のたとえもある。人並みよりは大きいほうではあったのだろう。
江戸小咄の中にも巨根の話はたくさんあるが、その一つ、生活の匂いの漂うものをあげれば、
初鰹《はつがつお》のおごりに客、大根おろしの所望。折ふし大根売り来るを呼び込み、
「この大根は、オレがものより細い」
という。大根売りが腹を立て、
「おめえのものがどのような道具だとてこの大根より太くはあるまい」
亭主が、
「そんなら賭けにしよう。もしこの大根より太くば、どうする」
「酒を買いましょう。わしが勝ったら二百文」
「ああ、合点」
と比べたところが、亭主の勝ち。大根売りも興をさまし、一言のことばもなし、女房が立ち出でて、
「大根屋どん。馬鹿者にかまわっしゃるな。大きにむだなひまを費やしたの。そのかわり唐なすでも持ってござい」
「また、きん玉とくらべるのか」
唐なすとはカボチャのことである。茎が大きければ、袋のほうもそれに比例するものだろうか?
話はだんだん馬鹿らしくなる。
今は昔、下総《しもうさ》の国で巨根と巨器の大手合せがおこなわれたことがあった。女性側のチャンピオンは決戦の場に着くや、おのがシンボルを開き、その中からむしろと枕を取り出し、
「さあ、どうぞ」
男性側チャンピオン、そのあまりのすさまじさに目を見張り、おのがシンボルの陰に姿を隠して怖れおののいたとか。
落語のほうでは丸木橋となって揚子江を差し渡した巨根の話や、その水をすっかり吸いあげた巨器の話がある。
“大きいことはいいことだ”という命題は国際的なものらしく、マルセイユのホラ話を見れば、
「おい、マリウス。お前は自慢ばかりしたがるけど、そんなことじゃ今にだれからも相手にされなくなっちゃうぞ」
こう友人のオリーブにいわれたマリウスが、
「うん。オレも少し反省しているんだ。だけど持って生まれたくせだからな。なかなか直らないんだよ」
「よし。じゃあ、お前が自慢を始めたら、オレがウインクで合図をするから、その時は話をほどほどにしてやめろよ」
さて、それから数時間後、町のカフェに常連が集まって愚にもつかない話をかわしていたが、やがて話は落ちるところまで落ちて、みんなの持ち物自慢となった。
マリウスはもちろん鼻をピクピクと動かしながら、
「オレのシンボルの大きいのなんのって、インコが並んで止まって、一羽、二羽、三羽、四羽……十羽、十一羽、十二羽……」
だがそこで、オリーブがパチパチまばたきをしているのに気がついて、
「……十二羽めのやつは片足しかかけられないけどな」
マルセイユは明るい港町。そこで語られるホラ話も底抜けに明るい。インコ十一羽半というとどのくらいの長さだろうか?
いつか桐島洋子《きりしまようこ》さんの書かれた随筆で読んだのだが、アメリカにはピーター・メーターというユーモア商品があるらしい。ピーターは男性シンボルの愛称。メーターといってもただの物指しらしいのだが、長さに応じて、
一インチ……ただの蛇口に過ぎない。女であるべきだった。
二インチ……九十五パーセントは想像力。
三インチ……いくらかましだが、たいしたことはない。
四インチ……からかうのが精いっぱい。
五インチ……ご婦人の家庭用お相手。
六インチ……秘書嬢の悦び。
七インチ……古い家庭の破壊者のサイズ。
八インチ……大きい女か小さな牛に。
九インチ……酒場での品評会に。
十インチ……見せ物専用。
などとしゃれた文句がつけてある。これでこそ本当の大人のオモチャ。日本の大人のオモチャ屋では、グロテスクな電気仕掛けばかり並べてあって、こういう秀逸なアイデアが見られないのは残念である。
話を小話に戻して、フランスからドーバー海峡を渡ればイングランド。イングランドの伝説によれば、
今は昔、名は申しあげられないが、ある公爵さまの一物は、まことにみごとなもの。いざその時となれば丘を二つ越えるほどであったとか。
となれば尋常のことでは愛の営みのできようはずもなく、公爵の館から丘二つ越えたかなたに第二の館があり、奥方はこの館で待ち受けて公爵の穂先をお含みになる。やがてクライマックスの瞬間が近づくと、第二の館から公爵の館目がけ伝令が馬にまたがりまっしぐら。
「あっ、もう、果てまする、果てまする」
本館からも第二の館目ざして伝令が走り、
「朕《ちん》もゆくぞ、朕もゆくぞ」
げに雄大な儀式であったそうな。
しかし、こんなことではまだまだ小さい。東西の小話の中に現われたもっとも大きなシンボルはどれほどであったか? 揚子江の丸木橋も、はたまた丘越えの公爵も及ばぬ巨根はパリの小話の中にある。
パリ野郎が集まって、相も変らぬムダ話に花を咲かせていた。
「おい、だれの持ち物が一番大きいと思う」
「そりゃクロードじゃないのか。湯舟に入るときにポチャン、ポチャン、ポチャンと三つ足の音が聞こえる」
「いや、いや、ジャンにはかなうまい。奴がセーヌで泳ぐと、クロールなら河底につかえるし、バックなら橋にぶつかる」
話はとめどなく続いたが、最後は貿易商のピエールが一番ときまった。
「なにしろピエールのものは大西洋ひとまたぎだ」
「本当かい」
「そうよ。奴がアメリカに行っている間に、女房に子どもができたんだ」
都会的かつ現代的な味わい。同じ巨根物語でも、江戸小咄とは大分趣きが異なっている。
ディスク・ジョッキーの人気者愛川欽也《あいかわきんや》氏の造語によれば、男性シンボルは「ポール・アンド・タマタマ」である。ポールの話ばかりではなく、タマタマについても触れておかねばなるまい。
なん年か前、象の股間をのぞき見たことがあった。さながら山から切りおろした太い薪のよう。りっぱな逸物がブラさがっていたが、袋らしいものがない。そこで同行の動物学者に、
「あの、象にはホーデンがないんですか?」
とたずねると博士が答えて、
「象のホーデンは体内に隠されているのです」
これはゆゆしいことである。
ここで象の性生活について若干の解説を試みれば――。メス象が発情するのは満三十歳くらい。象の平均寿命は百歳というから、三十歳は人間の二十一、二歳に当たる。相当におく手であるばかりかメス象が発情するのは二、三年に一回だという。あまり情熱的ではない。当然、セックスの回数も少なくなり……象がみんなもの悲しい顔をしているのは、このせいではないかと邪推したくなる。
なぜ象は情熱家でないのか? それは、である。これ以下の説明は筆者の考えであって、動物学者の先生が言うことではない。
ホーデンは精液の貯蔵庫である。人間その他の動物でダンラリとさがっているのは、中の温度を体温より低く保つためであり、表面にちりめんじわが寄っているのもそのためである。自動車のラジエーターと同じく表面積を広くして放熱効果を高めている。ところが悲しいかな、象の場合は貯蔵庫が体内にある。庫内の温度は高く貯蔵能力は低減する。したがって精力減退気味となり、よってもって情熱家になれないのである。エヘン!
それはともかく、ホーデンには貯蔵庫以外にもう一つ、あまり知られていない役割があって、そのへんの事情を江戸小咄に垣間《かいま》見るならば、
ある亭主、女房が間男するに気づいて、
「なんで間男をする?」
無理やり聞き出せば、女房が答えて、
「あの人の玉が忘れられない。大きくて、アソコの下をたたくのがいい」
亭主、これを聞いて、
「では、オレがたたいてやろう」といってはみたものの、あいにく亭主は玉も袋も小さい。そこで思案をめぐらし氷のうにぬるま湯を入れ、へのこに吊りさげて、交りながら女房の開をたたく。女房はことのほか喜んで、
「死ぬ、死ぬ」
と激しいよがりよう。この声を役人が聞きつけ、亭主に縄を打ち、
「そのほう、なにゆえあって女房を殺そうといたした」
亭主が事情を説明すると、役人は、
「ようわかった。しかし、そのほうの罪科はまぬがれぬ」
「それは、なぜでございます」
「そのほう、にせ金を使いおった」
ただの落とし話と思って読み過ごしてはいけない。これもりっぱな性教育であって、会陰《えいん》のあたりに性感が激しい女性は少なくない。古い俗謡では、ペニス氏が“玉よ、ゆうべのところへ行こうじゃないか”とホーデン氏を誘ったところ、ホーデン氏が“わたしゃ行くのはいとわねど、中へ入れる身ではなし、裏門たたいて待つ身のつらさ”と歎いているが、これは心が狭いというもの。プッシイちゃんが喜んでくれれば、それでいいではないか。他人の喜びが自分の喜びとなるようでなければ、りっぱな人格とはいえない。関係ないかな。
ホーデンの小咄をもう一つあげれば、
ある人の問いていわく「“女は氏なくして玉の輿《こし》”というが、あれはいかなることであろうか」。すると大勢の中より物知り顔の男がまかり出で、
「これには深い意味がある。まず開というものは、いたって臭いもので、ほかの物なら蛆《うじ》がわかないはずがない。ところが蛆がわかないから、これが“蛆なくして”。また、まらは開の中へ入りますが、玉は外におります。それゆえ、“玉残し”……」
小咄学の解説は相変らずあまり当てにはならない。
少し観点を変えて、女性軍の目に映った男性シンボルはいかがなものであろうか?
未婚の娘が、父親の逸物を見て母親にたずねた。
「母さん、あれはなんですか?」
母親はあからさまに答えかねて、
「あれは、お前、はらわただよ」
それから何年かたって娘は嫁に行った。里帰りして来た折に、母親が婚家先の貧乏なことを気にして問いただせば、娘が答えて、
「貧乏なことは貧乏だけど、母さん、はらわたがとてもすてきなの」
これは中国の小話だが、どことなくほほえましい。
これが江戸のお女中たちとなると、
奥方つき女中が二、三人、物見座敷で遊んでいると、表でだれかが小便をする音が聞こえて来た。奥方が、
「それ、ちょっとのぞいて見よ」
といえば、牧野《まきの》という女中が、格子戸からのぞいて「碁を打っています」という。次に常盤《ときわ》という女中が見て帰り「いや、将棋でございます」。その次に梢《こずえ》という女中が見て、「いや、双六《すごろく》でございます」。
奥方、おもしろく思われ、
「小便をしていると思うに、みんなそれぞれ見た様子がちがっている。牧野は碁を打っているということだが、どうしたことじゃ」
牧野が答えて、
「はい。私が見ましたときは、石に手をかけておりました」
「ほう、それでは常盤、お前が見たのは将棋ということじゃが、それはどうじゃ」
「はい、私が見ましたときは、玉の脇に金があり、そのそばに毛イ(桂)もありました」
「ほうほう。して梢、お前は双六と申しおるが、それはどうじゃ」
「はい。私が見ましたときは筒を振っておりました」
“石に手をかけている”のはまるく光ったグランスのことだろうか。お屋敷の女中衆だけあって、話はあまり落ちない。だが、もう一つの江戸小咄によれば、
これは三人の尼さん、道端で馬のへのこのいきり立つのを見て、
「さてもみごとなものじゃ、みんなで名まえをつけよう」
まず初めの尼さんが、
「私は九献(酒のこと)と名づけよう」
「おや、九献とはなぜ?」
「酒は昼飲んでも夜飲んでも、飲みさえすれば元気が出ておもしろい。その上酒は三々九度といって九回が正式じゃ。それから先はあなたの気力次第。これよりよい名まえはあるまいに」
中なる尼さんがいうには、
「私は梅干しと名づける」
「それはどうして?」
「見るたびに唾がわく」
最後の尼さんは、
「私は鼻毛抜きと名づける」
「なぜ?」
「抜くたびに涙が出る」
どの尼さんもみんな体験者。俗世間にいたときは、さぞや淫乱の限りを尽し、よんどころない事情により尼さんになったにちがいない。
三人の女が男性シンボルについて語るといえば、フランスにはこんな味わい深い小話がある。
あるところの未亡人、三人の娘を嫁がせ亡夫の恩給でつましいながら幸福な日々を送っていた。ある日、三人の娘たちが里帰りして来たので、未亡人はかねてから気がかりのことを尋ねてみた。
「みんないいご主人を持ってしあわせそうだけど、ご主人のお道具はどんなぐあいかね。大きさに不足はないかい?」
一番上の娘が答えて、
「彼のは細いけど、とても長いわ」
「そうかい。匙《さじ》が壺の底まで届くのは、いいものだからね」
二番目の娘が答えて、
「彼のは短いけど太いわ」
「それは、それは。壺の蓋がピッチリしまるのも悪くないね」
三番目の娘が顔を赤く染めながら、
「彼のは小さくて細いの。でも、その代り怠けずにいつもやってくれるわ」
未亡人は深くうなずいて、
「そうかい、そうかい。それがなによりだよ、ほんのわずかでも年金がキチンとおりるのはうれしいものだよ」
巨根がかならずしもいいわけではない。努力がやはり大切なのである。
【小咄まんだら】
うてるす(UTERUS)考
人間は暗い穴ぐらの中に入ると、身の安全を感じる。フロイトの説によれば、それは母の胎内の記憶であり、その中で過ごした幸福で安全な日々が忘れられないからだという。人間の記憶は子宮の中にまでさかのぼるらしい。
さるところの赤ん坊、生まれてからすぐに大人のようにいろいろのことを話すので、みんながめずらしがって、
「これさ、おまえ、お腹の中のことを覚えているだろう。どんな心持ちだった」
と問えば、その子が答えて、
「腹のうちは八、九月のようだ」
「そりゃどうして」
「暑くもなく寒くもなく、おりおり下から松たけがはえる」
小咄は最後の一行が生命だ。そこに今までのやりとりをまとめる“落ち”がある。この落ちが意外であればあるほど、その生み出す笑いは大きくなる。江戸小咄の落差はそれほど大きくはない。現代人の目から見れば笑いの演出法が稚拙で、もう一つ垢抜《あかぬ》けしていない。生み出す笑いもそれほど大きくはない。だが、その反面どこかのどかで、素朴な味わいがある。
この松たけの小咄が落語になると、赤ん坊は中国の老子《ろうし》ということになる。
え――、老子《ろうし》さまって人は、今から三千年ほど前、殷《いん》の陽甲帝《ようこうてい》のときに玄妙玉女《げんみようぎよくじよ》という婦人の胎内に宿り、周《しゆう》の武帝の庚申二月十五日卯《う》の刻、楚《そ》の国苦県〓郷《こけんれいごう》、曲仁里《きよくじんり》というところに生まれましたな。お袋さんのお腹にいる間に殷から周へと時代が変わっちまった。というのは胎内に宿ったのはいいけれど、これがなかなか生まれてきません。十月十日《とつきとおか》たっても知らん顔している。だから産婆さんが出口からのぞきこんで、
「おーい、ロウシましたか? 早く出て来んさえ」
「そう、シキュウには出られない」
待ちくたびれた産婆さんは死んじまって、その娘が産婆さんになったけど、この人も寿命が来て死んじまって、そのまた娘の時にようやくおっ母さんの胎内から出て来ました。実に親の胎内にいること八十と一年。生まれたときからもう白髪白髯《ぜん》のおじいさん。それで“老子”という名まえをつけた……なんてことはあんまり当てにならないけれど、この人が偉い学者になって、その評判が国中に広まりました。それを聞いてまだ若い孔子《こうし》さまが訪ねて来て、
「あの、老子先生、ちょっとおたずねいたしますが……」
「なんじゃ」
「先生は母の胎内に八十一年もご滞在とうかがいましたが……」
「さよう」
「そのう、胎内の住み心地はどのようなものでございましょうか」
「まあ、悪くないな」
「ほう。ようございましたか」
「うむ。身は楽々として水中に浮かべるごとく、周囲は寒からず暑からず、まことにしのぎよい」
「なるほど。寒くもなく、暑くもなく……ははーん、季節なら春でございますね」
「いや、春ではない。秋じゃ」
「なにゆえに秋でございます」
「さればじゃ、ときどき下から松たけがはえてくる」
先に紹介した小咄に比べて“落ち”の落差は変わりないが、“落ち”になるまでの根まわしがずっと多彩になり、十分に笑えるものとなっている。
子宮内の記憶はフランス小話の中にもあって、ここでは笑いの仕掛けがはるかに複雑になり、落差はもっと大きい。
マルセイユのマリウスは物覚えのいいことが自慢だった。そこへオリーブという男が現われて、
「おい、マリウス、お前はえらく物覚えがいいんだってな」
「そうとも、天下一品さ。なにしろオレはお袋の腹の中にいて、親父が一日おきに訪ねてきたのをチャンと覚えているんだから」
「ふん。それくらいのことか。オレなんかもっと古いことだって覚えているぜ」
マリウスが驚いて、
「えっ? もっと古いことだって」
「そうよ。オレなんかまだ親父の中にいて、弟と二人でお袋の腹に行くか、それとも女中の腹に入るか、賭けをしていたのを覚えているよ」
お袋の胎内にいるのは“人間”にちがいないが、父親の体内にいるのは“人間”として認められるかどうか。
アメリカのジョークでは、
子どもが両親の恋人時代の写真を見つけて、
「パパとママ、自動車に乗ってどこへ行ったの?」
「ピクニックよ」
「ボクはどこにいるの? 連れてってくれなかったの」
「行くときはパパといっしょだったけど、帰りはママといっしょよ」
ここでも“ボク”は母親の胎内に入る前は父親の体内にいたことになっている。果して父親の体内にいるのは一人前の“ボク”かどうか。たとえ授精以前の“人格”を認めるとしても、精子より卵子のほうがはるかに質量は大きい。だから、“ボク”は初めからずっとママの中にいたと考えるほうが正しいのだろうけれど、われら男性にはやはりオタマジャクシの“人格”を認めたい気持ちがあるらしい。
江戸小咄の中にも、オタマジャクシ(?)の人格を認めたらしきものがあって、
今を盛りの若者、ちょっと女の話を聞いても突っぱりかえり、もてあまし気味。二階に忍んでかき始めたところ、あまり血気なるゆえ淫水五間ほど向こうへ飛ぶ。若者、つくづく思って、
「ああ。これは惜しいことかな。これが子になったらよい軽業《かるわざ》師になるだろうに」
世間には、この世にせっかく生を受けながら生存競争に破れて自殺する人がいる。だが思ってもみてごらん。そんな人だって、昔はパパの体内からママの胎内へ、三億もの仲間たちと駆け比べ、生死を賭けた戦いでただ独り勝ち抜いているはず。三億倍の倍率に比べれば、東京大学の入試だってチョロイもの。もっと勇気を持たなければいけないね。
父母の体内の記憶がどれほど人間の意識下に残っているものか、東西の小話はもちろんのこと、フロイトの学説もそう鵜飲みにできないけれど、胎教となれば、なにほどかの科学的根拠はあるようだ。胎教という考え方は中国には古くからあり、日本では平安時代に書かれた医書『医心方』にすでにその記述があって、江戸時代には広く信じられていたが、これを扱った小咄はふしぎと見当たらない。
落語のほうでは、
あるところの若奥さまのお腹に赤ちゃんができましたな。
「なんだか、あたし、女の子が生まれるような気がするの。女の子なら、やっぱり器量がよくなくちゃあ困るわ。毎日毎日、吉永《よしなが》小百合《さゆり》ちゃんの写真を見ていたら、きっとサユリちゃんみたいな女の子が生まれると思うの」
と、まあ、こういうわけで映画雑誌から吉永小百合の写真を切り取って壁にはり、毎日ジッとみつめていました。
やがて十月十日が過ぎて、めでたく女の赤ちゃんが「オギャーッ」。若奥さまが赤ちゃんの顔を見ると、サユリちゃんみたいなところもあるけれどゴリラに似たところもある。
「どうしたのかしら?」
首をかしげながら壁にはった写真をはがしてみると、裏にはいかりや長介さん……。
“吉永小百合”と“いかりや長介”の部分は、その時代、その時代の流行によって適当に置きかえられる。原型は江戸小咄にあってもよさそうな話だが見当たらない。
胎内に子どもが宿っているとき、だれかの肖像画を熱心に見ていると、その人に似た子どもが生まれてくるという話は、例えば古代のアテナイで身籠《みごも》った王妃が、王の身代りとなって死んだ黒人奴隷の肖像を見ているうちに肌の色の黒い赤ん坊を生んだ事件があり、これを医学の父ヒポクラテスが“古来例のないことではない”と説明したエピソードが残っているし、中国の伝奇小説などにもそんな話がたくさん見られるが、はて、どれほどの科学性があるものか。
ソビエトで生物学者ルイセンコの学説がしきりにもてはやされたころのジョークによれば、
「おい、メンデルの遺伝学説とルイセンコの遺伝学説はどうちがうんだ」
「生まれた子どもが親父に似ていればメンデルの遺伝学説で、隣の親父に似ていれば、ルイセンコの遺伝説だ」
メンデルの学説は“染色体だけが、遺伝を支配する”としたものだが、ルイセンコの学説はこれを修正し“生物を取り囲む環境が遺伝的性質の方向づけをすることもある”としたものだ。しかし生まれた子どもが親父に似ているのはメンデル学説にも適うだろうが、隣の親父に似ているのは、残念ながらルイセンコの環境遺伝学説に適っているのではない。もっと怪しむべき事情を考えるほうが適当である。それはともかく、“子宮内教育”を真剣に考えている母親はたくさんいて、特に情操教育にはそれが必要だと思っている。
二人の妊産婦がお腹をさすりながら日だまりで話していた。
「ねえ、あなた。あたし、今度生まれる子を音楽家にしようかと思っているの」
「わたしは画家にしようと思ってるわ」
「だから毎日毎晩美しい音楽を聞かせているのよ」
「あたしだって毎晩主人にカラー・スキンを使わせているわ」
白いコンドームにライトブルーの帯を書いて使えば、新幹線の運転手になれるかもしれない。いや、国鉄総裁かな。
胎内の環境がどれほどその人間の一生を支配するものかわからないが、われら人間の一生はここに始まり、そして骨壺まで。そこで一句……
子壺から骨壺までの一期《いちご》かな
【小咄まんだら】
らあげ(LAGE)考
体位四十八手という。だが名まえだけなら三百数十種類。一年三百六十五日、毎日毎日、ヴァリエーションを楽しむことができる。もっとも呼び名が異なっても、あの形とこの形とどこがどう違うのか判然としないものも多い。“肩車”と“きぬかつぎ”は同じだと、ものの本に書いてあるけれど、ある粋人の説によれば手の位置が微妙に違うともいう。中華料理では複雑なうま煮の材料がたった一種類、例えばタケノコからメンマに変わっただけで、料理の名はガラリと違ってしまう。体位も同じこと、ちょっと手の返し方などが違うだけで、もう名称が異なってしまう。
今は昔、阿弥陀如来《あみだによらい》が済度のため四十八の願をかけたことがあった。これ以来数の多いものには四十八の数をつけるようになったという。四十八手というのは必ずしも四十八の数をいうのではなく“数多くのスタイル”と考えることもできる。
フランス小話では、
大学を卒業して以来、ひとりはパリ、もうひとりは田舎で暮らしていた旧友同士が久しぶりにめぐりあって、酒場で話の花を咲かせていた。そのうちに話は女遊びのこととなり、どうしたらベッドで女を喜ばすことができるか、その技術を自慢しあうようになった。
パリの男が、
「あのスタイルは、十九通りあるんだ」
といえば、田舎の男が、
「いや。二十通りだ」
「いやいや、確かに十九通りだ」
「絶対に、二十通りだ」
おたがいに自説を曲げようとしない。
「よし。ではおたがいに照らしあわせてみようじゃないか」
「よかろう。まず男と女が向かいあって……、一番ふつうのやり方があるだろう」
パリの男が頭をかきながら、
「おお、しまった。おれの負けだ。そいつを忘れていたよ」
この“普通なやり方”は、フランス語では“ア・ラ・パパ”という。訳せば、“父ちゃん用スタイル”である。夫婦ともなれば“おつとめ”のうち、おたがいに阿呆らしくて、そう複雑なサービスができるものか。
江戸小咄ならば、
「今年は菊がよくできたということだが、ぜひ拝見したい」と客が見に来る。主人はまず書院を見せ、それから、
「新花は土蔵のうしろじゃ。ご覧あれ。それ、お供してお目にかけよ」と女中にいいつければ、女中が庭下駄を直し、客を案内して連れていく。しばらくして客が座敷に帰り、
「さてさてみごとなできじゃ」
とほめれば、主人は客の膝のあたりを見て、
「はて、その膝の土は?」
「これは……」
とばかり客が立って縁端に出て土を払えば下女も顔を赤らめて尻をはたく。
本当に菊を見物に来たのかどうか怪しいものである。野外で“ア・ラ・パパ”となれば土の汚れはどうしてもこうなる。
国際色豊かに中国の小話を紹介すれば、これは同じ“ア・ラ・パパ”でも、少し工夫があって、
他郷に嫁いだ娘が里帰りをして来た。母親が、
「むこうの風俗はこっちと変わらないかい?」
とたずねれば、娘が答えて、
「枕の使い方がちがうわ。こっちでは頭の下に敷くけど、むこうでは腰のあたりに敷くの」
オランダの性科学者ヨハネス・ルートヘルスは「男性器は体軸に対してほぼ直角の角度を持ち、女性器は下に向かって約四十五度の角度を持っている。だから日常と異なる姿勢を取らなければ結合はできない」と指摘し、これはその分野で“ルートヘルスの法則”と呼ばれているらしいが、この差し引き四十五度の格差は、いうなれば神さまの設計ミス。枕を使って補正をするのもそのためである。それでもまだまだ間に合わない人がいて、
娘、嫁入りをして七日帰りすると、母親が、
「これ、娘。婿さまの機嫌はいいか」
娘が答えて、
「あい。ご機嫌はよけれども、夕べもおっしゃるには、わが身のはえらい下《した》じゃって……」
「なに、下じゃといわしゃるか。これ、今度からそんな事いわしゃったら、ちゃんと足のかかとで耳の穴を押さえておれ」
なかなか賢い母親である。耳の穴をふさげば婿どのの“いや味”は聞こえなくなる。だがこの忠告の本当の狙いはそうではあるまい。かかとで耳をふさごうとすれば、いきおいプッシイの位置は高くなり、下つきの欠点は補なわれる。母親はさりげなくそのことを教えているのだ。年寄りが教えてくれる教訓の中には、例えば“赤ん坊が風邪を引いたらおしめを部屋の中に干せ”なんて、一見おまじないにしかすぎないようなことでも、実は室内の乾燥をふせぐためには適切な方法であり、経験に裏打ちされた合理性があるものだが、この“かかとによる耳栓”も同じこと。お母さんをばかにしてはいけない。道徳教育のたしにもなるりっぱな小咄である。
いずれにせよ、ルートヘルスのいう通りなかなか困難な結合だから、初心者は楽ではない。周囲の経験者が頃を見計ってチャンと教えてやらなければならない。
若殿が近習《きんじゆう》を呼び寄せ、
「余はまだあのやり方を存ぜぬ」
「さらば、お教えつかまつります」
「苦しゅうない。すぐ教えよ」
「されば、御前では恐れおおうございますゆえ、物かげからご覧くだされ」
近習は屏風を立て、そのかげに若殿をすわらせ、座敷に年若い腰元を呼び寄せて「殿のご命令じゃ」むりに組みふせて取りおこなう。だが、相手は生娘《きむすめ》のこととて思うように進まず、たびたび指に唾をつける。
若殿、屏風のかげからつくづくとながめ、
「これ、ようわかった。じゃが、時おり拾って食うものはなんじゃ」
さすがは若殿さま。物の見方がしもじもとは違っている。
こうして覚えたこの道も少し慣れてくると、いつも同じスタイルではおもしろくない。時には一風変わったことをやってみたくなるのも、また人情。
これは長屋の八つぁん、どうもカミさんが間男を引き込んでいるような気がしてならない。そこで仕事に出かけるふりをして途中から引き返し、そっと家の中をのぞいていると案の定間男がやってきて、
「なあ、どうだい。今日は八つぁんの帰りも遅そうだし、変わったやり方でやってみようじゃないか」
「おや、どんなやり方だい」
「楊弓ボボってのは、どうだい?」
「そんなもの、あたしゃ知らないよ」
「なに、おめえが壁ぎわに立ってナ、足イ広げる。そいつが的ってわけよ。おいら、こっちから走って行ってパッとかかる」
「へえ、おもしろそうだねえ。やってみようか」
てんで、カミさんが壁ぎわに立って着物をまくる。間男は褌《ふんどし》をはずして、狙いをつけ、ダーッと走って飛びつく。狙いたがわずカミさんの……ええ、アソコにスポリッ!
息をつめてなりゆきを見ていた亭主、思わず手をたたいて、
「当たりいーッ」
そううまくいくものかどうか。“当たりいーッ”は、楊弓場でうまく金的を射止めたときの掛け声である。
毎度おなじみの夫婦同士でも時にはスタイルの変更を考えねばならない時もある。
「ねえ、先生、うちの主人はとても太っていて、ベッドではいつも息切れがするっていいますの。どんな形でやったらよろしいでしょうか?」
マダムがたずねるとドクトルが答えた。
「お見かけしたところマダムは細っそりとやせていらっしゃる。だから、あなたが上になったらようございましょう」
「まあ! 私が上に……」
「むつかしいことはございません。ちょうど馬に乗る要領、あれでいいのです」
「馬に乗るようにですの……」
「そうですとも」
それから数日たって、医者は町でマダムに出会った。
「こんにちは」
「あら、先生、こんにちは」
「どうです、馬に乗る形はうまくいってますか?」
するとマダムが首を振って、
「それが先生、どうしてもむりなんです」
「それはまたどうして?」
「主人は肥っておりましょ。どうしても豚に乗る形になってしまうんですの」
その通り。サラブレッドを見るまでもなく、馬とはもっと美しい姿をした動物である。乗馬位なんて、馬が聞いたら気をわるくする。
川柳では“うしろからしなとはよほど月せまり”とあって“月せまり”は八ヵ月くらいの状態だろうか。妊産婦にとって腹部の圧迫はよくない。そこでこの川柳は女房がはやる亭主に向かって、無愛想に命じているわけである。あの頃の女房族は、体躯も堂々として、どこやら人生に対して居直ったような感じ、まことに貫禄があって、亭主は頭があがらない。いったん身についた貫禄は子どもが生まれてからも引き続く。昨今は人工栄養なんていう便利なものがあるけれど、昔は坊やに添い寝をしながら乳を飲ませていた。亭主が帰って来ても「目ざしが棚の中にあるよ」なんて、大きな尻を向けている。
亭主が仕事を早仕舞いして家に帰ってみると女房は赤ん坊に添え乳をしている。これも一興と亭主、うしろからいどみかかれば、女房、赤ん坊の背をたたきながら、
「坊や、よい子だ、ネンネしな。も、ちょっと下だよ、ネンネしな」
あまりムードのある風景ではない。
ところで古い中国の体位三十法などをながめていると、例えば翡翠交《ひすいこう》・鴛鴦合《えんおうごう》・空翻蝶《くうほんちよう》・臨壇竹《りんだんちく》・鸞双舞《らんそうぶ》・海鴎翔《かいおうしよう》などなど、まことに絢爛豪華な名まえがついていて、それはまア、やっていることにはそう変わりはないのだけれど、これも中華料理のメニューと同じこと、なにやら大変優雅麗美な営みをやっているような気がしてくる。
そこへいくと日本の体位は、本間取り・片かけ・かつぎあげ・腹やぐら・松葉くずし・茶臼からみ・巴《ともえ》取り、などなど、こちらは大衆食堂のメニュー。すこぶる庶民的な印象を受ける。これは江戸時代のセックスが庶民のものであったことの、一つの証左であろうか。
今いくつかあげた日本の体位名のうち、巴取りは、いわゆるシックス・ナイン。ラーゲというよりフォア・プレイであろうが、四十八手の中に含めていることが多い。
姉が大学のパーティから帰って来た。着替えのときに妹がふと見ると、姉の胸の下にM字型の大きなあざができている。
「お姉さん、そのあざどうしたの?」
姉はあざをこすりながら、
「あら、いやだ。ジョンがあたしのこと押し倒してキスしたのよ。そのとき、ベルトのバックルが当たったんだわ」
「わあーッ、すごい。わかった。ジョンって、きっとミネソタ大学の人ね」
「あら、どうして?」
「だってミネソタなら頭文字がMでしょう」
姉が顔を赤く染めて、
「いやねえ。ワシントン大学なの」
ワシントン大学ならばWのはずである。いったいどこにキスをしていたのだろう?
【小咄まんだら】
えいぬす(ANUS)考
『雨月物語』の中に「菊花の約《ちぎり》」という一話がある。
出雲《いずも》国の武士赤穴宗《あかなそう》右衛《え》門《もん》は、旅先で重い疫病にかかり、たまたま知り合った播磨《はりま》国の武士丈部《はせべ》左門の手厚い看護を受ける。これが縁で二人は義兄弟のちぎりを結び、来たる九月九日、菊の節句の日、丈部の家でふたたび会うことを約して別れた。
そして約束の日、丈部左門は朝から酒肴をそろえて宗右衛門を待っているが、なかなか現われない。いつしか夜もとっぷりと暮れ、待ちくたびれた左門がもう戸をたてようとすると、黒い闇の中に人影が浮び、それが宗右衛門だった。左門は踊りあがらんばかりに喜んで酒食を勧めるが、宗右衛門は箸を取ろうとしない。左門がなおも勧めると、宗右衛門はかすかな声で、国元に謀叛《むほん》があって自分が牢につながれたこと、だが今日の約束を守りたいばかりに自分は切腹をし魂魄となってここへやって来たことを告げ、フッと闇の中に姿を消す。
あやしく思った左門が出雲まで行って調べてみると、すべてが宗右衛門の亡霊が語った通りであった。
この物語はラフカデオ・ハーンの『怪談』の中にもほとんど同じ筋のものがあり、原話は中国のものだが、翻案に当たって武士道の精神が注入され、武士とはこれほどまで堅く約束を守るものだ、という思想が色濃く作品をおおっている。
しかし、読む人が読むと、これは二人の武士の同性愛物語であって、赤穴宗右衛門は、相棒恋しさゆえに亡霊にまでなって会いに来たのだという。その根拠は作品の題名が「菊花の約」。菊花というのはご存知の通り俗語でエイヌスのこと。これは偶然の一致にしてはあまりにもよく符合している。しかも、『雨月物語』が書かれたと推定される明和の頃は、特に男色の盛んな時期であり、中堅武士たちの同性愛もけっしてめずらしくはなかった。赤穴宗右衛門と丈部左門の“友情”は、いくら武士の約束とはいえ、少し熱烈すぎるし、命を絶ってまでめぐりあおうという心には“愛”の狂おしささえ感じる。
「だけど……少しおかしいところもあるな」
「なにが?」
「苗字から判断すれば“赤穴”は女役にふさわしい名まえだし、“丈部”だって、丈々しい部分だから、これは男役だ」
「なるほど」
「だけど物語では、会いたくて切腹するのは赤穴宗右衛門のほうだろう?」
「うん」
「ホモ・セクシアルの女役は、どちらかといえば消極的な性格の人が多い。だから“切腹”までするかどうか……。赤穴は男役だったんだろうな」
「しかし、原作を読んでみると、どう考えてみても武士道物語だがなあ」
「いや、いや。ホモっ気のある人が読めばピーンとくる。別れの場面など、丈部って男には妙に色っぽいところがあるよ」
われら外道にはホモ・セクシアルのこまかい心理のあやまではとても理解できない。
江戸小咄の中にも、死してなお執念を燃やし続ける男がいて、
かげまが九死一生にわずらうところへなじみの和尚がたずねてくる。かげまが喜んで、
「おいとまごいでござります。あなたが仏になられますのを、あの世で待っております」
といえば、和尚、頭を振って、
「おれは仏にはならぬ、ならぬ。おれは来世には蓮の花に生まれるつもりじゃ」
「それはなぜでござります」
「はて、蓮華になって、おぬしの尻を抱いていたい」
仏がすわる台座は蓮華の花である。この和尚、極楽浄土まで女役を追っていくつもりらしい。
話題を少し変えて、この道はそもそもだれが始めたことなのか?
「ご隠居さん、お寺の坊さんはかげまが好きなんですってねえ」
「それじゃて。それで痔疾は“寺の病”と書く」
ご隠居さんの論証はあまり当てにはならないけれど、寺院で男色が盛んだったのも事実であり、その淵源は遠く平安時代の弘法《こうぼう》大師にさかのぼるといわれる。
弘法大師は大変なアイデアマンで、いろは四十八文字を作ったのもこの人、豆腐を発明したのもこの人、風呂敷包みもこの人の発明だなんて、起源のハッキリしないものはみんなこの人の創始にされてしまうところがある。齢三十一歳のとき遣唐使らとともに唐に渡り、一年三ヵ月みっちり勉強をし、日本に帰って「町の中では若い僧たちの気が散っていけない」と、高野山にこもって全寮制の教育を実施した。だが若い僧たちはエネルギーが発散できず、貯水槽に水が満々。これは、真実困ってしまうんだな。
「大師さま、もうどうにもがまんができません」
そこでアイデア大師が答えて、
「おたがい同士後から棒を入れあいなさい」
弟子たちがためしてみると、これはアナふしぎ、“アナふしぎ”ということばはここから生まれたといわれるくらい絶妙な気分。みんなでこれを実践し、大師の没後はこの遺徳を後世に伝えようと思い、それで贈った諡号《しごう》が“後棒大師”なんて……。
これまたあまり当てにはならない。
今度こそ本当のことをいえば、男色は人類が歴史を持ち始めたころからすでに存在しており、例えば『旧約聖書』のソドム・ゴモラ地方は男色の町として名高いし、またお釈迦様も弟子の阿難尊者《あなんそんじや》と男色関係を持ったといわれている。ソクラテスとプラトンは同性愛によって結ばれ、アレクサンダー大王は男色をやらなかったことがわざわざ史書に特筆されている。イギリスの登山家ジョージ・マロリーは「山がそこにあるから」と答えて山に登ったのであり、この道も同じこと「穴がそこにあるからだ」だれ始めるとなく始まったものであろう。
ただ弘法大師たちが中国に赴《おもむ》いた唐時代は、中国でもとりわけ男色が盛んな時代であって、女色を堅く禁じられていた留学僧たちがこれを覚え、帰国後、俗世間を離れた密教の修業生活の中で、この道にのめり込んでいったことは確かである。当時の僧侶が学んだサンスクリット語では“愛欲”を“カーマ”といい、これが“おかま”の語源といわれているほどだ。
つまり日本では、弘法大師とともにこの道は飛躍的に盛んになったのであって、大師はいわば“右代表者”。大師自身がこの道のファンであったかどうかはわからない。『弘法大師一巻之書』という男色の指導書があって、これは夢の中に大師が現われ衆道の秘伝を述べたことになっているが、もちろん後世の作で弘法大師とはなんのかかわりもない。
淵源の歴史はさておき、文化が爛熟した江戸後期は男色が盛んにおこなわれた時代でもあり、そうなれば、その道専門の蔭間茶屋があちらこちらに誕生するのも自然の成りゆき。その中でも特に名高いのが、すでに第一部で紹介した日本橋芳町で、明和の頃(一七六四〜七二年)には百二、三十人のかげまが商売をしていたという。
「おい。おまえは若衆ばかり好いて、芳町よりほかに行かぬそうじゃが、たまには吉原へも行ってみろ。おいらんも味が変わってわるいものじゃねえ」
無理に吉原に誘われ、仕方なく連れだって吉原へ向かえば、途中おわい屋に出くわす。若衆好みの男が、
「やめた。おれはやっぱり芳町へ行く」
「はて、もう吉原も近いのに」
「いや、あの匂いで若衆が恋しくなった」
はて、そんなものだろうか。
ゲイ・ボーイを抱いた後で、よく調べてみると、プリックの先端に鯵《あじ》の小骨がささっていたとか、ホウレン草の切れっぱしがついていたとか、用いる器官が器官だけにこの道のジョークはかなりきたならしい。ご容赦あれ。
若衆をうつむけに攻め、ゆすぶっている最中に、若衆が、
「ちょっと、どいておくれ」
「いや。今がいいとこだ」
「急におならが出たくなって、がまんがならぬ」
「ええ、ここまで来たらどくのも惜しい。もう少しの辛抱だ」
そのまま続けていると、兄貴分の口から、あくびが「うーい」。
解剖学的にはこういうことはありえない。サイエンス・フィクションの世界である。
弘法大師さま御一行に若衆の道を伝授した唐の国に敬意を表して、中国の笑話の中からこのテーマを拾えば、
糞買いが寺から糞を買おうとすると、下働きの僧が他所《よ そ》より倍の値をいう。糞買いがふしぎに思い、
「これは高すぎる」
下働きの僧が答えて、
「なんの高いものか。この糞は他所のと違って、みんなありがたい和尚さまがたが突き固められたものばかりだ」
ロッテ球団元監督金田正一《かねだしよういち》氏の言によれば、「近頃のピッチャーは促成栽培の野菜ばかり食べて育っているので、ピンチになるとボールに力がこもらない」とか。ありがたい和尚さまの肥料を使った野菜ならば、ツー・ダン満塁ツー・スリーのピンチにも、“南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》”の一言、剛速球がキャッチャーのミットにスッポリとおさまるにちがいあるまい。
ところで、この道にも若衆一本槍の人もいるし、女でよし男でよし、とんと偏食をしない人もいる。
美しい尼さんが、諸国をめぐり歩く道すじ、馬子《まご》がこれを見つけて馬を貸し、家に泊めて一番押し込んでやろうと思う。
「もし。わしらがうちでは、かかあが用意をしているから、今夜はうちへ泊まらっしゃい」
と誘えば、
「それはかたじけのうございます」
と尼さん馬子の家に泊まる。
亭主が隣りの家に話しに行っているるすに、かかあは尼さんにいろいろご馳走をし、奥の納戸《なんど》へ寝かし、それから娘に向かって、
「ぼん様は寒むかんべえ。いっしょに行って添寝をしてやれ」
娘は「はい」といって尼さんと一つ布団《ふとん》へ入ると、尼さんと思ったは大まちがい。すぐに娘の上にのしかかって物もいわせずむりに割り込み、さっさとやってしまう。娘は、
「あれあれ、それそれ、ああ、とんだ尼様だ。ああ、いくいく」
となんの苦もなく一番押し込まれてしまい、ほうほうの体で出てくると、お袋が、
「なぜ、そばにいねえ。なにかされたか」
娘は「フフフン」となま返事。
「ええ、らちがあかねえ。どれ、おれが行くべえ」
とお袋が同じ納戸へ行き、
「やれやれ。若い者はサッパリ役に立たないものだ。どれ、いっしょに寝ましょう」
と布団の中へ入ると、おえきった一物をぐッと握らされ、びっくりして逃げようとするのを、そのまま押さえて、さっさとやっつける。めったに食いつけぬ大まらゆえ、一生に覚えぬ大よがり。二、三番突きのめされ大汗になって部屋に戻れば、娘が、
「なぜ逃げてござった」
お袋が答えて、
「フフフン」
そこへ亭主が帰り、
「なぜ坊さまを一人寝かしておく」
といえば、二人が答えて、
「フフフン」
亭主は「ええ、らちがあかねえ」と納戸に行き、さて取ってくれんと無二無三に乗りかかると、下より「えい」とはね返し、なんの苦もなく穴をされ「ああ、痛い、痛い」と尻をかかえて逃げ出す。女房と娘、声をそろえ、
「なぜ帰らした?」
亭主が答えて、
「おれもフフフン」
“フフフン”の文句になんともいえないリアリティがあって、おかしい。
現代サラリーマンの間では“三人寄れば痔主が一人”という。種類はイボ、キレ、走り、とさまざまだが、三人寄れば一人の割合。昼休みには寄ってたかって手でニギニギを作り、おのが某所を模して解説に余念がない。これ“痔主友の会”である。なぜサラリーマンに痔主が多いのだろうか? この理由を深層心理学的に分析すれば「地主になれないから、せめて痔主になろう」なんて、失礼、失礼、これはウソ。
サラリーマンの痔疾とはあまり関係ないかもしれないけど、エイナル・セックスがこの病気にいいはずはない。
「お前はよくお医者さまのまねをするが、あの癪《しやく》というものは、どうしておきる」
「はて。あれは腹のうちに一尺ばかりの棒があって、それが突っ張る。それがつかえるのじゃ」
「むむ、わかった。もう一つ聞くが、男の痔は若衆をやるからじゃが、女の痔はどうしたことだ」
「うむ。あれは舂米《つきごめ》屋の隣で壁がくずれるようなものだ」
江戸時代のエイナル・セックスは主として男色であって、女が“こっちでもやってみようかしら”ということはあまりなかった。
だが、さすが愛の国フランスには、“シャポー”という隠語があって、“シャ”は猫のこと、“ポー”は壺のこと。だが猫はプッシイでもあり、壺はエイヌスでもある。この二つを合成した“シャポー”は両方使える女性をいう。ことばがあるということは、そういう器用な女性がいたということでもある。
ハネムーンの後、花嫁の母が新郎にいった。
「あなた。うちの娘がなんにも知らないと思って、おかしなことをしないでくださいね」
「なにか、ぼくが?」
「おしりにするそうじゃないですか」
新郎が困りはてた様子で、
「いえ、そんなことはありません。ただ、彼女、自分でもよく区別がつかないらしいんです」
鷹揚《おうよう》な花嫁さんである。
【小咄まんだら】
ふれたす(FLATUS)考
日本人は放屁の話が好きらしい。江戸小咄では毎度おなじみのテーマであり、川柳にもこれを詠んだ句は多い。落語・講談の高座で語られることもよくあるし、地方の民話ならきっと“へこき爺さん”や“へこき婆さん”が登場する。これほど豊かな放屁文芸を持つ民族はめずらしい。世界一かどうか、その辺は軽率な判断を差しひかえるけれど、まあ、バレーボール級の実力。金メダルか銀メダルか、世界で一、二を争うことは多分まちがいあるまい。
それというのもフレタス(これが体内ガスの学名である)はデンプン質をたくさん摂取すると多発する。だから肉食民族よりも菜食民族のほうがなじみが深いのが当然である。デンプン質を多量に摂取しながら、相当に高い文化を持っている民族となれば、まず頭に浮ぶのが大和民族。放屁文芸がわが日本国で発達したのは理由のないことではない。
さて、「屁というもののあるゆえに、への字も何とやらおかしけれ」といったのは江戸の碩学平賀源内《ひらがげんない》だが、“へ”の字はなぜか人間の下半身と関係が深く、古語では“へのこ”といえば男性シンボル、“へへ”といえば女性シンボル。それだけの予備知識を持って、まずは次の小咄から観賞してみよう。
「えー、屁つかみ、屁つかみ、屁つかみ屋でござい」と、町内を屁つかみ屋がふれて来た。亭主が「おい、オレの屁がつかめるか?」
「はい、屁ひとつ二百文でつかみます」
屁をつかませると、どういうご利益があるのか知らないけれど、亭主が尻をまくってブーッ。だが屁つかみ屋は、亭主のへのこをギュッとつかんで、
「屁の親は逃がしましたが、屁の子(へのこ)をつかみました。半額いただきます」まんまと百文取られてしまった。これをそばで見ていた女房、くやしくてたまらない。女は元来欲張りのものだ。そこで、
「屁つかみ屋さん、あたしの屁をつかめるかい?」
「へえ。二百文でつかませていただきます」
「そのかわりつかめなかったら二百文お出し」
「はい、承知しました」
そこで、女房も大きな尻をまくって、ブーッ。屁つかみ屋は女房のへへを握って、
「はい。へ一つで二百文ですから、へへで四百文いただきます」
屁つかみ屋のアイデア勝ち。女房は「あたしにはへのこがないから、つかめまい」と思ったのだろうが、その程度の知恵ではとても太刀打ちできるはずがない。いっちゃあ悪いけど、女が詐欺にかかるのは、自分のサル知恵を忘れてひと儲けを企んだときである。ま、男だってそうだけど……。
悪口はさておき、放屁は人前でやってはいけない。これは日本のみならず、世界の常識。客商売ともなればなおさらのことである。
江戸の遊女たちは、「足を重ねて、おいどの穴に踵《かかと》をつけて……」などと作法を仕込まれた。だが、“出もの腫れもの、ところきらわず”のたとえ、お客の前でプッと取りはずすこともある。
そこで遊女は、
「かならず笑いなんすな。わっちゃア、ぬしを客衆だとは思いんせぬ。亭主だと思いんすによって、こんなはずかしいことをしんした。かならず悪《あ》しく思ってくんなんすな」
客は“亭主”のひとことでまんざらでもない顔。
「なに。オレが悪く思うものか。そう心にへだてのないのが、やっぱりありがたいわな」
「そういってくんなんすりゃあ、わっちもうれしいけれど」という口の下から、また一つプイとひれば、客が「はて、疑い深い」
似たような話はフランスにもあって――
ルネッサンス時代のローマに、アンペリアという名の高級娼婦がいた。ミューズ・ルネッサンス(ルネッサンスの芸術神)とまでうたわれた美女で、その才色兼備のほどはバルザックの『風流滑稽譚』の中にも描かれている。
このアンペリアは、いつも麝香《じやこう》の匂い袋を腰の下に敷き、いざお客のクライマックスが近づくと腰を巧みに動かしその袋を破く。あたりに悩ましい香りが馥郁《ふくいく》と漂い、お客はその官能的な匂いの中で恍惚の一瞬を迎える、というすばらしい閨房術を身につけていた。あっぱれプロ根性である。
ある晩のこと、アンペリアは、フランスのいなか貴族とベッドをともにした。そして、いつものようにクライマックスが近づき、プッと袋を破ったとたん、貴族はさも不快そうに鼻をそむけた。アンペリアは艶然とほほえんで、
「あなたがお考えになっているものではございませんわ。匂いをお嗅ぎになってみて」
なるほど、いわれるままに嗅いでみれば、すばらしい香気。貴族は恍然として魂は天を翔《か》けるばかり。アンペリアは、
「イタリアの女は、恋に身を焼くと、こんな落とし物をいたしますのよ」
「いや、これは、これは……フランスの女は、下品な落とし物ばかりいたします」
だが、その瞬間、どうまちがったか、アンペリアがもう一度プッと音をさせて人体ガスを放ったからたまらない。いかにローマ第一の美姫であろうと、こればかりはインドール、スカトール、硫化水素のカクテル(以上三つが臭いの主成分である)。貴族は、夢よもう一度とばかり、鼻をふくらませていっぱいに吸い込み……だが、今度は、ビックリ仰天、顔をしかめて、
「これはしたり、マダム。ひどい匂いじゃのう」
しかし、超一流の遊女は、弁舌もまた当意即妙。アンペリア、少しも騒がず、
「お国の女を思い出させて、ノスタルジアをお慰めいたしましたのよ」
フランス貴族はギャフン。これはヴェルヴィルという十六世紀の作家が書いている話だが、事実かどうか、そこまでは保証できない。ただ、当時の高級娼婦が匂い袋を使っていたことは確かである。ところでフランス人もどちらかといえば放屁に関心の深い民族である。フランス人には食道楽が多く、入口に関心があれば出口のほうにも関心が向くのであろうか。現代フランス小話の中から、一つ、二つ傑作を紹介すれば――
洋服ダンスの鏡の前で中年の男が裸になって自分の体を映していた。腰のあたりには自慢のピストルが今なお盛んな勢いで天を指している。男はそれを見ながら、
「考えてみると、お前もずいぶん罪作りな奴だった。ブロンドの女、赤毛の女、栗毛の女、ゆるいのや、狭いのや、若いのや、年取ったのや……」
その時、彼のうしろでプッと音が漏れた。彼はうしろを見ながら、
「文句があるのかい? お前にも楽しませてやったじゃないか」
あえて野暮《やぼ》な解説を加えれば、この男、エイナル・セックスの経験もあったのだろう。
聖書の中におならの記事があるかどうか……ないような気がするのだが、特に解説がないならば、これもまた全智全能の神がお造りたまわれたものなのだろう。もしそうだとすれば、神さまもなかなかユーモリストだ。どうにもやりきれない気持ちになった時にも、人間たちが笑えるようにと、あんなものを考えておいてくれたのだろう。ありがたい。
パリの町角で三人の子どもが遊んでいた。一番身なりのいい男の子が、
「ボクんちに来てごらん。電気機関車だの、パチンコだの、ローラースケートだの、いろんなおもちゃがあるよ。池でボートだって漕《こ》げるんだ」
すると二番目の、これはふつうの身なりの男の子が、
「ボクんちは、そんなおもちゃはないけど、ビー玉があるぜ。みんなで遊ぶとすごうくおもしろいぞ」
すると三番目の、一番貧しそうな男の子が口を開いて、
「ボクんちは兄弟が多いからおもちゃなんか買ってもらえないんだ」
「じゃあ、きみのうちじゃ、遊ばないのかい?」
「そりゃ遊ぶさ。ご飯が終ったら、みんなでテーブルのまわりに集まって、父ちゃんがおならをやってくれるから、みんなでキャッ、キャッ騒ぐんだ」
ペーソスの漂《ただよ》う小話である。日本で放屁の話が盛んなのは、国民が貧しいせいなのかもしれない。
日本の放屁文芸といえば落語の『転失気』を思い出す。
お寺の和尚《おしよう》が病気になり、医者に「テンシキはありますか?」とたずねられたが、さあ、このテンシキがわからない。しかし「知らない」といっては和尚の沽券《こけん》にかかわる。そこで小僧を呼んで「ご隠居《いんきよ》のところへ行って、テンシキを借りておいで」。だがご隠居もテンシキがわからない。「あいにく棚から落としてこわしてしまった」とごまかす。寺に帰った小僧は、
「ご隠居さんのところでは棚から落としてこわしてしまったそうです」
「そうか。それは残念」
「和尚さま、テンシキって何のことですか?」
「うむ、そ、それはじゃ。わしが教えるとお前はすぐ忘れるから、自分で調べなさい」
薬を取りに行った小僧が医者にたずねると、
「テンシキは“転失気”と書いて、つまり、おならのことさ」
小僧は「さては和尚さんも知らないぞ」と気がつき、寺に帰ってすまし顔。
「和尚さま、テンシキとは盃のことです」
「さよう。呑酒器と書くのじゃ。よく覚えておけ」
翌日、医者がやって来て、和尚が「呑酒器をお目にかけましょう」。医者は目をまるくして、
「ここで? 転失気を? それにはおよびません」
「いえ、ぜひとも」
チグハグなやり取りがあって、小僧が大喜びをする、といった話である。
転失気というのは、いわば専門用語。和尚が知らなくても恥ではない。現代におきかえれば「あなた、フレタスがありますか」ということで、こんなむつかしいことばを使う医者のほうが悪いのである。医者は患者の身になって、親切に話してくれなければいけない。ねえ、武見太郎《たけみたろう》さん。
それはともかく、江戸時代に書かれた『善庵随筆』なる一書によれば、転失気とおならは別のものだという。失気は読んで字のごとくそれだけでおならのこと。その失気が「肛門にせまり、外に漏れず、声響のうちに反転す。俗に屁返りという。これ転失気なり」。放屁を出すまいとしてグッとこらえると、ゴロゴロと音を響かせ体内に戻っていく。あれが正統の転失気。そのまま出なくなってしまうことがあるけれど、あとはどうなるのだろう? 気がかりである。
もっとも、フランスの小話によれば、
町の病院に、ノッペリとした顔立ちの男がやってきた。まっ青な顔をして、ジッと苦しそうに椅子にうずくまっている。ドクトルがこれを見て、
「どうかしましたか?」
「あの……玉のようなものがあるんです」
「玉のようなもの?」
「はい。それが体の中をあがったり、さがったりします。喉のへんまで来てゲップになるのかと思うと、また下にさがって下腹が苦しくなります。あがったり、下がったりで、とてもがまんができません」
「それは奇病だ」
ドクトルは聴診器を取ってしばらく診察していたが、
「これは私のところではむりだ。整形科のほうへおいでなさい」
「整形科へ?」
「そう。あなたの顔はお尻のようだから、屁玉がどこから出ていいのかわからない。上に行けば下だったかなと思い、下に行けば上だったかなと思い……顔さえ変えればすぐになおりますよ」
“尻のような顔”とは一体どんな顔なのだろうか? わからない。
最後は、連歌を読み込んだ江戸小咄で、“香り高い”話の大団円としよう。
西国者の兄弟が江戸に出かせぎに来ていた。ある時、兄貴が国へ帰ろうと思い、「はてさて、弟のやつがなにか餞別《せんべつ》をしてくれればいいが、しわい奴だから気がつくまい。こっちから置きみやげでもしてやろうか。いやいや、あのような奴だから、ただ取りするかもしれぬ。手ぶらで行こう」と弟の家に行き、「オレは国へ帰るのでいとま乞《ご》いに来た。ぶじでいやれ」「それはご奇特」。案の定、茶ばかり出して、餞別を出しそうもない。待ってもらちのあくことではないから、兄貴は「では」と立ちあがったとたん、上り口にて、プイと一ぱつ。弟がこれを聞いて「これは兄貴、なんでござる?」。兄貴が「旅立ちにおなら一つを置きみやげ」。弟が返して「あまりくささにはなむけもせず」
“はなむけ”は、もちろん「餞別」と「鼻向け」と両方の意味をかけている。いかにも江戸小咄らしい、しゃれた話である。
【小咄まんだら】
こきゅ(COCU)考
よその奥さんに手を出して、決定的瞬間に見つかる。そこで間男が差し出す示談金、この相場が江戸時代には七両二分であった。
七両二分とは今のお金に直せばどれくらいの金額だろうか? 物の値打ちや生活の様式が江戸時代と現代ではまるで異っているので、こういう比較は思ったよりむつかしい。米の値段で換算すれば、十五万円くらい。人件費を基準にして考えれば百五十万円くらい。間を取っても七両二分は相当な金額であった。
なぜ七両二分が示談料の相場となったかといえば、これは少しややこしい。ふつう「小判は一両、大判は十両、小判十枚で大判一枚に相当する」と考えがちだが、さにあらず。大判はいわゆる通貨ではなく、贈答用の貨幣であって、現代になおせば商品券のようなもの。額面一万円の商品券を町の金融業者に持っていっても、一万円にはならないのと同様、額面十両の大判を現金に換えると七両二分にしかならなかった。
だから間男は、
「あやまってすむものではないけれど、せめておわびのしるしに商品券でも……」という気持ちで大判を差し出したのであり、それがいつしか略式になって、
「同じことなら、現金の七両二分でもいいジャン」
と現金になり、時代が下って安永・天明の頃には、相場そのものも五両とさがってしまった。
さて、これはあるところの亭主。隣の家に来ていうには「おらが嬶《かか》は間男をしているらしい」。これを聞いて隣の夫婦が「せいては事を仕損じる。きっと見つけて、切るとも突くとも存分にしたがよい」。それより亭主いつものように朝家を出て隣に忍んで様子を見る。間男の来たのを見すまして庭から忍び入り、障子をあけて見れば、枕屏風の外に金八両並べてあり。これを見ると後ずさりにそろそろと取って帰って隣の家へ。「これ、おかみさん、ちょっと二分貸してくれ」
八両置いてあったのでは二分おつりを出さなければならない。律義《りちぎ》といえば律義だが、こんな調子だから女房に甘く見られて間男なんかされるのである。
古来「一盗二婢三妾四妓五妻」ということばがあって、この意味は多分ご存知かと思うが念のため解説しておけば、セックスの相手として楽しい女性のランキング。一は人妻を盗んでおこなう場合、二は女中を権力ずくで犯す場合、三は囲った女、四は金で買った女、最後がわがいとしの奥さま、いや、私がいうのではない。昔の人がそういっているのだ。
女の側からみれば、亭主相手では最下位にしか評価されなかったものが、間男相手だととたんに第一位になるのだから、気分の悪かろうはずがない。二度が三度に、三度が四度にと、果てしなくたび重なる。
「間男をした」といって大げんかをしているのを隣の亭主が聞きつけ、
「何事でござる?」といってくれば、
「いや、嬶めが、あの男と密通した」すると隣の亭主が、
「ああ、ここの亭主は大まかだ。おれが見たばかりでも、密通(三つ)や四つじゃない」
フランス語にはコキュという便利なことばがある。日本語に訳せば“寝取られ男”。夫がいて、妻がいて、その妻がだれかよその男といい仲になる。すると夫はとたんにコキュになる。自分でなろうと思ってなれるものではない。すべて他動的である。そのかわり、仕事をしていても麻雀をやっていても、女房持ちならいつでもどこでも簡単にコキュになれる。もちろん、今こうして本書を読んでいる“あなた”もなれるのである。このところ日本国の主婦の自由化は急速に進み、二、三十代の人妻の浮気実行率は十パーセントとか。相当な高率である。本当だろうか? ああ、たれかコキュを思わざる。
“コキュ”ということばを紹介したついでに、エスプリのきいたフランス小話を引けば、
若いころ、さんざん女遊びをした男が妻に向かっていった。
「ああ、オレも昔はずいぶん罪なことをしたものだ。コキュを何人作ったかわかりゃしない」
すると妻が答えた。
「あら。あたしはたった一人しか作らなかったけど……」
この夫婦の場合は“おあいこ”だろうが、一般的にはコキュは被害者である。だがこの被害者はあまり同情されない。寄ってたかって嘲笑のタネにされる。それでもどこからも苦情はない。自覚症状がないから弁護に立つ者がいない。
亭主の留守に隣のむすこを呼びにやり、今夜は帰りが遅いからとゆるゆると始めかけ、思うまま気をやり、拭くだんになって亭主が帰り、表の戸をたたく。南無三宝とむすこは二階から逃げて帰ったが、あまりあわてて紙入れを落として来た。その翌日、むすこはなに食わぬ顔でまた隣へ行き、
「お前がたにちと相談があって来た」
亭主が、
「何事じゃ?」
「いや、ほかでもないが、あるところの嬶《かか》衆とねんごろして、昨日行ったが困ったことに紙入れを置いて来た。亭主が見つけなければいいが……」
これを女房が聞いて、
「お前も野暮なことをいいなさる。間男をする女にそんな油断があるものか。とうに見つけて隠したろうよ」
亭主もうなずいて、
「間男される男なら、そばに紙入れがあっても気がつくまい」
小咄に登場するコキュは、洋の東西を問わずみんなこのくらい鷹揚にできているのだが、その中でもウルトラつき、特にお人よしを選ぶなら、落語『二階の間男』の亭主である。
浮気な女房が銭湯に行くふりをして間男と会ったが、あいにく二人ともホテル代がない。そこで女房が一計を案じ、
「うちの二階でやろうよ」
「そんな無茶な! ご亭主がいるだろう」
「あんなのボンクラだから、あんたが“よその女房と逢引《あいび》きするから頼む”といって二階を借りればいい。あたしが顔を隠して二階にあがればわかりゃしないよ」
「じゃあ、そうしよう」
それとは知らない亭主は、間男たちに二階を貸してやり、独り天井を見上げながら、
「あっ、始まった、始まった。これはまたえらく激しいなア。どこの女房か知らねえが、いい気なものだねえ。まったく亭主の顔が見たいよ。よっぽどグズな男なんだな。そこへいくと……なんだな、ウチの嬶は身持ちの堅い、いい女だよ。オレに真底惚れてるからなあ。今ごろは銭湯で一生懸命アソコ洗っているね。オレにかわいがってもらおうと思って、ウヒヒヒヒ……“お前さん、そんなにくじっちゃいやだよ”なんて、ほんにいい女だ。二階の女とは大ちがいだね。それにしてもこの女はすごいよがりようだねえ。亭主がへたくそだから間男なんかやるんだぜ……」
ここまでくれば、もうりっぱな大人《たいじん》である。
しかし世の中はこれほど鷹揚な亭主ばかりではないから“天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして漏《も》らさず”いつか現場を見つかることもある。この場合の示談金についてはすでに述べたが、江戸の法律では、亭主のほうは示談などに応ぜず、そのまま二つに重ねて斬り捨ててもよかった。だが……。
ある武家の内室、密夫のある様子を旦那が悟りて、ついに見つけ出し、手早く両人をひっくくり「憎きふるまい。密夫の重ね切り、覚悟せよ」と氷の如き刃を抜きはなって声を立てれば、家中の者も打ち寄り、いろいろなだめたが聞き入れない。くくりおいた二人をズバリと切りかけ、上なる男だけは切ったが、内室のところになりては、さすが恩愛の情忘れがたくなり、切りかねていたが、はたの見る手前もあれば……。「家来ども、このまな板を片づけておけ」
浮気をするような女房は、亭主にとってもどこかチャーミングなところがある。間男は憎いが、女房のほうは憎みきれない。惚れた男の弱味である。
人妻が間男を作れば、子どもができることもある。女は平気で生んで亭主の子として育てる。
「この子、あんまりオレに顔が似ていないなあ」
と亭主がいっても、
「あら、そんなことないわよ。あなたが目をつぶった顔とソックリよ」
なんて、確かめようがないんだな。
次第に成長するわが子の中に女は恋しい人の面影を認めて、秘かに燃えた日々のことを思い出す。記憶の中にある恋人はいつも昔と同様若々しいものだが、それがわが子のイメージによって一層若く、みずみずしく保たれる。これは女にとってきっとロマンチックな楽しみであるにちがいない。
ニュマ氏には四人の子どもがいた。上の三人は顔立ちも美しく、よく似ていたが、末息子のジャンだけはガラリと顔立ちがちがっていた。妻の死期が近づいたとき、ニュマ氏は年来の疑惑を問いただしてみようと思った。
「ねえ、おまえ。ボクはけっして怒りゃしない。だから本当のことを教えておくれ。一番下のジャンは、ボクの子ではないんじゃないのかい?」
妻は苦しい息の下で答えた。
「あなた、心配なさらないで。ジャンだけはあなたの子どもです」
江戸の小咄に比べるとフランス小話は、軽妙で、そして心に響く残酷さがある。
あとがき
川柳の中でエロチックな情景を詠んだものを“ばれ句”と呼んでいる。俳句が世界で一番短い詩文学であるならば、“ばれ句”は世界で一番短いポーノグラフィである。そして多くのポーノグラフィがそうであるように、江戸の“ばれ句”もその時代の風俗を伝える好個の資料として、またそれ自体痛烈な風刺ユーモア文学として、あなどりがたい価値を持っている。
江戸時代のばれ句集には有名な『末摘花《すえつむはな》』がある。当時川柳の格付けに高番、中番、末番の三つのランクがあり、末番は卑猥な句を意味した。その“末番”の中から摘み選んだのが『末摘花』である。『末摘花』が出版された頃(一七七六〜一八○一年)は、川柳文学の黄金時代に当たり、すぐれた“ばれ句”が数多く詠まれた時代でもあった。したがって『末摘花』は“ばれ句”の宝庫的存在とみなされているが、それ以外の句集にも巧みな、“ばれ句”がないわけではない。本書の第一部では『末摘花』以外からも、共通のテーマに適うユーモラスな句を広く拾い集めてみた。“ばれ句”を通して当時の風俗と粋人たちの心意気とが、いく分なりともご理解いただけたと思う。
江戸時代はまた春本の盛んな時代でもある。時には御禁制の網の目をくぐって、さまざまなポーノグラフィが上梓され、その数は現在残っているものだけでも相当な数にのぼる。それらの春本およびその周辺から、ごく恣意《しい》的に数編を選んで紹介したのが第二部である。江戸の春本類には、類似の“こしらえ”が多いので、ここではできるだけ変化に富むよう作品の選択に心を配った。屈託《くつたく》のないナンセンスもあれば、大まじめな指南書もある。格調高い美文もあれば、巧みなパロディもある。江戸庶民はエロスをいろいろの角度から味わうすべを知っていたのである。
第三部は江戸小咄である。江戸小咄は、現代の艶笑コントなどに比べると、仕掛けも小さく、生み出す笑いも単純である。だが、その単純な笑いの中に、現代とは違った江戸の息吹きが感じられて楽しい。とはいえ、それだけでは第一部と重複する部分も多いので、ここは一転奔放に世界を駈けめぐり、東西のジョークを折り混ぜて“おかしさ”の内容を豊富に、また現代的なものとしてみた。古典的な笑いと現代的な笑いと、その二つの差違がおのずから明らかになっていると思う。
なお本書の第一部および第二部の数編は、『小説現代』誌、および『別冊小説現代』誌に連載したものである。
昭和四十八年 秋
阿刀田 高
江戸《えど》禁断《きんだん》らいぶらりい
講談社電子文庫版PC
阿刀田高《あとうだたかし》 著
Takashi Atoda 1982
二〇〇二年七月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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