阿刀田 高
時のカフェテラス
目 次
黄の花
昼さがり
海の影法師
夜を焦がす火
いつの間にか夜明け
翡翠のブローチ
赤い街
薄暮飛行
川向こう
虫歯のあと
ささいな理由
ジャンプ・ショット
黄の花
初めて哲也にその店を教えてくれたのは、妻の博子だった。
「ガラス窓が大きいでしょ。洋品店かと思っていたらコーヒー屋さんなのよね。雑木林の角のとこ。わりと感じのよさそうな店よ」
私鉄沿線の街は、五、六年前からマンション、銀行、コンビニエンス・ストアと、少しずつ新しいビルが建ち始め、最近になってようやく垢《あか》ぬけた店構えを見るようになった。とはいえ、まだキャベツ畑がところどころにあるくらいだから、たかが知れている。警報機もカンカンと鳴っている。
「ああ、そう」
テレビを見ながら生返事《なまへんじ》を呟《つぶや》いたが、
――行ってみるかな――
と、関心がないわけではなかった。
哲也は私立高校で教鞭《きようべん》をとっている。教科は世界史。ここ数年ずっと木曜日を研究日に選んでいた。
数日後の木曜日に朝寝坊をしてリビングルームへ顔を出すと、博子はどこかへ出かけたあとらしい。十時二十分。新聞に目を通し、そのままドアに鍵をかけて外に出た。
このあたりには武蔵野の気配が残っている。空が明るい。日射しがずいぶん暖くなった。枯木みたいな枝も、よく見ると、鮮かな青の芽を吹いている。雑木林の道ではしきりにさえずっている鳥の声まで聞いた。
「ここだな」
目当ての店はすぐに見つかった。踏み石だけの階段をあがって、コンクリートの中二階。たしかに大きなガラス窓が三面に張ってある。店の名は明日香《あすか》=B店の中から公園の花壇がよく見える位置だった。
ドアを押した。
鈴が鳴った。
客はだれもいない。
「いらっしゃいませ」
奥の格子戸が開き、初老の婦人がペコンと現われた。最敬礼みたいなお辞儀をしている。
「コーヒーとトーストをくださいな」
日溜《ひだま》りに腰をおろして周囲を見まわしたとたん、
「えっ?」
恐怖に近い驚きを覚えた。
――見たことがある――
右手の壁に黄色い絵がかかっている。花と少女。十五号くらいの大きさ……。
――そうか。昔、家にあった絵だ――
と、驚きの原因を知るまでに、そう長い時間はかからなかった。
こんな偶然もあるのだろうか。すると……パラシュートでも開くように、糸にたぐられ、いくつかの情景が頭の中に浮かんで来た。父の部屋。白いカーテン。姉のうしろ姿……。
「お待ちどおさま」
お盆に載ったコーヒーとトーストが届いた。
トーストはバターをぬって焼いてある。パンの中にまで脂と塩味が染み込んでいる。哲也はこれが好きだ。コーヒーはブラックのままで。四十代のなかばになって、肥満が少し気になり始めていた。
すぐに視線は壁の絵に戻る。
黄の花は山吹だろう。薄曇りの空の下に一面に群生し、一部はかたわらに立った少女の背より高く生《お》い繁っている。少女は帽子をかぶり、手を伸ばして花の茎《くき》を折ろうとしている。
――変だな――
いったんは、昔、父の部屋にあった絵と思ったが、よく見ると、少しちがっているようだ。哲也の記憶の中にいる少女はもっと横顔をはっきりと見せていたようだ。外国人だとすぐにわかるほどに……。
だが、目の前の絵は、そこまではわかりにくい。絵の大きさも、これは少し小さい。父の書斎にあったのは、もう一まわり大きくて、二十号くらいの油絵ではなかったか。
哲也は立ちあがって仔細に眺めてみた。特徴のあるE・Kのサイン。これは同じ画家の手と考えてよさそうだ。幼い哲也は、いつも不思議な字だと思って見つめていた。英語を習ってからも、捩《よじ》れたサインはE・Kとは読みにくかった。
カップを片手にしばらくは戸惑いながら目を向けていた。コーヒーの味もよくわからない。
絶対にちがう≠ニも言いきれない。だが微妙にちがっている。子どもの頃には、
――どうして外国人なのかな――
と考えた。幼い頭は、わけもなく日本人のほうがいいのに≠ニ思ったのだろう。
絵の中の少女は白いワンピースを着て、長い脚にサンダルをつけている。髪は帽子の中に隠れていて、かすかに茶の色が見える。
こまかく観察すれば、この絵からも白人の少女とわかるけれど、哲也はもっと確実に白い少女の顔を見たような気がしてならない。
画家は似たような図柄で幾枚《いくまい》かの絵をかくことがある。一見して区別のできない二枚の絵を見ることはけっしてまれではない。
――それだな――
と哲也は納得した。
昔、自分の家にあった絵にめぐりあう――それではあまりにも偶然が過ぎるというものだ。よく似た、ほかの絵……そのくらいの邂逅《かいこう》がほどよいところだろう。
そう結論をつけたときには、トーストもコーヒーも平らげていた。哲也はあらためて店の造りに視線を伸ばした。
――わるくないな――
しばらくすわっていたが、相変らずほかの客は入って来ない。もう一度黄色い絵に一瞥《いちべつ》を送って哲也は席を立った。
記憶の構造はよくわからない。歴史書のように古いところから順序よく記録されているような気もするけれど、実際にはそうではあるまい。むしろ曼陀羅《まんだら》みたいにいろいろな情景があちこちに散らばっている。とりとめのない図柄。そして濃淡がある。
古い記憶は当然一つ一つ頭からこぼれ落ちていくわけだが、こぼれそうになっているのを拾いあげると、その時点でまたいくばくかの命を与えられ、記憶の寿命が延びる。こんな操作をいくつもいくつも繰り返しているうちに、古いことと新しいことがごっちゃになる。新しいことが、いつも新しい記憶になっているとは限らない。古いことのほうが新しいことよりずっと鮮明に生きているケースもまれではない。再生のたびごとに多かれ少なかれ修整が加えられ、当人が記憶していることと過去の現実とが微妙に異っている場合も多い。
黄色い花の絵の記憶は、いっときは哲也の脳裏に深く、強く映ったものだったが、そのまま脳味噌の一番奥に押しこめられ、ずいぶん長い時間にわたって日のめを見ることがなかった。長い暗闇をへて、目をあけたら突然目の前に燦然《さんぜん》と輝いている風景……コーヒー店の絵は、哲也にはそんなふうに思えた。
――目黒に住んでいた頃だな――
これはすぐに思い出せる。古い仕舞屋《しもたや》で、一部が洋館風の造りになっていた。玄関を入ると長い廊下があり、その奥の突き当たりが父の部屋だった。
レースのカーテン。白いカバーをかけた長椅子があり、旧式のオルガンが一台置いてあった。これを弾くのは姉の和代である。当時としてはかなり高級な趣味だった。おかっぱ頭。セーラー服。ピンクのリボン。曲目はアヴェ・マリア。
絵はドアを入って左手の壁にかかっていた。その先は中庭で、つつじがいつも窓を赤く染めていたような気がするのだが、もとより春だけのことだったろう。
父は印刷会社に勤めていて、羽振りのよかった頃だったろう。哲也は父の歴史をつまびらかには知らない。初めは軍需工場に勤める技師だった。敗戦後、印刷会社に入り、定年前に独立したが、その直後に肺結核を再発してあっけなく他界した。
髪をきれいに分け、笑うと目尻にたくさん皺が寄る。とても優しい人だった。
これは記憶というよりも、何度も何度も姉から聞かされたこと。姉にはよい思い出があるらしい。哲也もそんな気配をいくつか思い出すことができるけれど……。
父の部屋で家族そろって遊ぶのが、幼い頃の一番の喜びだった。そんな集まりは、ときどきおこなわれていたことでありながら、子どもたちには、特別な雰囲気のともなう出来事だった。おそらく昔の父親は、家族と離れて独り遠い位置に生きていたのだろう。その父が自分たちの高さまで降りて来て相手をしてくれる、それだけで子どもたちにはうれしいことだった。心の高ぶる事件だった。
そんな夜にはお菓子も特別なものが出て来る。母も上機嫌だった。たいていのことはおおめに見てくれる。紅茶にブランディをちょっと垂らすのも、このときだけのご馳走だった。
知人が加わりトランプで遊ぶこともあった。神経衰弱。フォーティワン。ツーテンジャックは大人の仲間入りができたようで誇らしい。母はおかしな手をやっては顰蹙《ひんしゆく》をかう。父がいつもうまい理屈をつけてかばっていた。
ゲームが終れば姉の和代がオルガンを弾く。まれには父が歌うこともあった。流浪の民≠ェよく耳に残っている。
慣れし故郷 放たれて
夢に楽土を 求めたり
放たれて≠ヘ花垂れて≠セと思っていた。歌を聞きながら首をあげると、壁には黄色い絵。文字通り花がたわわに垂れている。だが、歌と絵の結びつきは、ずっとあとになってから辻褄《つじつま》をあわせたことかもしれない。
とにかく、一枚の絵が家族団欒のシンボルのような位置を占めていたのは本当だった。父の部屋を思うときにはいつも鮮かな黄の色調が目に映るのだから……。
「これはわが家で一番高価なものだよ」
この言葉も父から直接聞かされたのかどうか。E・Kのかいた二十号なら、たしかに安いものではない。父はどういう手段で入手したのか。だれかの遺品を格安で買ったような話だったが……。
「火事のときには、まずこれを持ち出せ」
笑いながら言っていたのは、多分父の声そのものの記憶だろう。居間には、猫が金魚鉢に入っている印刷画があって、このほうがずっとわかりやすかったけれど、それとはべつに山吹の花垂れる油絵は、大人の世界に通用する価値を持っている……。きっとそうなんだ、よほど高いものなんだ、と畏怖《いふ》に近い心で眺めていた。
父が死んで一家はたちまち困窮した。父はサラリーマンをやめて会社を興《おこ》したばかり……。最悪の時期の死といってよい。一年あまりの療養でめぼしい財産はあらかたなくなっていた。遺産などあろうはずもない。それからは年ごとに苦しくなるばかりだった。五十代なかばの母にできる仕事なんか、なにもない。母は体も弱かった。いきおいそれまで家事手伝いをしていた姉が一家の支柱として働くことになった。知人の世話で、製紙会社のオフィスへ。姉は洋服のデザイナーとして身を立てたいようだったが、その希望も長くは続けられなかった。
目黒の家は印刷会社の社宅だったから、とうに越していた。戸塚の借家で父の葬儀を出し、そのあと間もなく母子三人のアパート暮らしに変った。
姉一人の給料で生活するのは、なかなかむつかしい。質屋の督促状《とくそくじよう》がよく郵便受けに落ちていた。質屋は品物を流すより、貸した金と利子をほしがる。もう古物など売れない時代に入っていたのだろう。
「困ったわね」
「どうしよう」
家族には現金が必要だった。
そのときまでどうして山吹の絵が残っていたのか。不思議と言えば不思議である。母や姉には団欒のシンボルとして手放しにくい気分があったのかもしれない。
「これを売りましょう」
姉が指差した絵はアパートの壁に窮屈そうにかかっていた。
「でも、和代。売れるかしら。こういうものは売り方がむつかしくて……」
書画|骨董《こつとう》のたぐいはたしかに値があってないようなもの。母の不安も無理がない。
「大丈夫。倉田さんが売ってくださるって」
倉田さんは、姉が就職するときにも世話になった人である。広告会社の課長くらいのポストにいただろう。
大きな絵を額ごと新聞紙に包んだ。紐《ひも》をかけ、哲也が自転車に載せて駅まで運んで行った。
「ひとりで平気?」
「なんとかなるわ」
和代が脇にかかえ、体を傾けるようにして改札口を抜けて行った。そのうしろ姿が奇妙になまなましく目の奥に残っている。
――行っちゃうんだな――
絵を見送りながら、哲也は、一つの時代への訣別を感じていたのかもしれない。姉の様子にそんな気配が漂っていた。
姉が帰って来たのは、ずいぶん夜が更《ふ》けてからだった。
「驚いちゃあ駄目よ」
真実うれしそうに笑っていた。母と哲也とが固唾《かたず》を飲む前に、姉がトランプの切り札でも出すみたいな手つきで封筒を取り出した。茶色の薄い封筒は、脹《ふく》らみに耐えきれずに破れた。
テーブルの上に何枚ものお札がこぼれ落ちた。こぼれてもなお封筒の中にお札の束が厚く残っていた……。
――どれほどの金額だったのか――
不思議なことに哲也は、それが万円札であったかどうか、それさえもおぼつかない。見たことはたしかに見たのだが、こぼれ散ったさまを見たのは……これも後日の記憶修整のような気がしないでもない。
家族の習慣からいって、年端《としは》もいかない少年に多額の札束をさらけ出したとは考えにくい。まして父の形見を売って得た金ではないか。せいぜい哲也はちらりと見た程度だったろう。
無性にうれしかった。久しぶりにご馳走を食べた。たしかそうだった。母の顔がなごんでいた。
しばらくはそのご利益があったろう。哲也の大学の入学金、授業料なども、出所はそのあたりだったろう。
黄色い絵が、熱い太陽のように思い浮かぶのは、絵そのものの色調もさることながら、こうした余慶《よけい》のせいかもしれない。つまり、
――あの絵には世話になった。すごい絵だったんだ――
と、その印象が逆に古い記憶に作用して、現実以上に燦然と父の部屋に輝いていたように思うのかもしれない。
「行って来たよ明日香≠ヨ」
哲也は灰皿を引き寄せながら博子に告げた。
夕食が終ると、二人の子どもたちはそれぞれの部屋へ退《ひ》き籠る。洋菓子やトランプでは、もう一家の団欒はむつかしい。ラジカセにファミコン。それに……二人とも受験が迫っている。
「明日香≠チて……?」
「例のコーヒー屋だよ。雑木林の隣の……」
「ああ、行ったの。どうでした、味?」
博子は夫婦《みようと》茶碗にお茶を注ぐ。
「まあまあだな。トーストが俺好みで」
「雰囲気もいいでしょ」
「室内装飾に金がかかっているよ。大丈夫やっていけるかな」
「そうねえ」
博子が夕刊のテレビ欄を見ながら呟く。眉根《まゆね》を寄せる。この時間帯は大人の鑑賞にたえる番組がほとんどないようだ。
「おもしろいことがあったよ」
「なーに?」
「壁にかかっている絵が、昔、俺んちにあったのと、そっくりなんだ。よく似てるけど、そのものじゃないな」
「あら、ほんと」
E・Kの名を告げたが、博子は知らないらしい。
「一流の画家だよ。結婚したときには、なんの財産もなかったけど、以前は多少値打ちもんがあったんだ、俺んちにも」
言い訳でもするように告げた。
「油絵?」
「そう。山吹の花と少女の絵で、いつも親父の部屋の壁にかけてあった。その下にみんなで集まって菓子を食ったりトランプをしたり……いい時代のシンボルみたいなもんだな。子どものころを思い出すと、かならずあの絵が浮かぶ」
「手放したの?」
「ああ。貧乏のどん底だったからな。結構高い値で売れて、大学へはあれで行ったようなものだったな」
何枚もの札が封筒からこぼれた話は、どうも話す気にはなれない。
「よかったじゃない」
「まあな。それにしてもよく似てたな。画家は同じ図柄の絵をよくかくって言うけど……」
「そうみたいね」
「絵柄はそっくりなんだ。ただ少女が、俺の記憶じゃ外国人だと簡単にわかったような気がするけど、コーヒー屋のはよほどよく見なけりゃわからん。首の角度が少しちがうみたいなんだな。でも、あれはわるい絵じゃない。雰囲気があって……」
「リトグラフじゃないの?」
「ちがうな。本物だ」
「汚れないのかしら」
「ガラスが張ってあるよ。ただこのへんのコーヒー屋の絵にしてはもったいないな。安物じゃないから……。見ておいでよ」
「ええ」
答えながら、博子は所在なさそうにテレビの歌合戦を眺めている。
哲也はタバコに火をつけて、煙の輪を作った。
もうひとつ思い出すことがある。油絵と直接関係のある出来事ではないけれど、黄の花のイメージを追って心に浮かんで来る。楽しい話ではないが、夫婦の世間話くらいにはなるだろう。
「絵を売ってくれたのは倉田さんといって、ほら……一度会っただろ、渋い感じの人で」
「お姉さんのお葬式に来てた人?」
「いや、ちがう。姉のときにはいなかった。羽田で、新婚旅行のとき。ひどく愛想がよくって……。だれ?≠チて聞いてたじゃないか」
「ああ。でも、忘れちゃった。古いことですもん。どうかしたの、その人」
「絵を高く売ってくれたんだ」
「ええ……?」
「で、そのあと……四、五年たって、俺、出版社に入りたくてサ、倉田さんに相談したんだよな。そしたらK社の重役に親友がいる。プッシュしてあげよう≠チて、そういうことなんだ。うれしかったな。試験のほうは面接までいったし、倉田さんも重役に会って君のことを頼んだら、大丈夫だと言ってた。おめでとう≠チて言うから、安心してたら……残念でした。世の中まっ暗。ガックリしたよな。ま、俺には教師のほうがむいてたかもしれんけど」
「ふーん。だれがわるかったの?」
「そりゃ俺がわるかったんだろ。実力がなくて。今はそう思うよ。ただ、俺が教師になって間もなく、偶然、K社の、その重役と会ったんだ、歴史学会で。その人が俺の名刺見て聴波哲也。なんて読むんですか。へえー、キクナミですか。初めて見ました≠チて、その重役が感心してんだよな。俺の名を本当に見たことも聞いたこともなかったらしい。変だなと思ったけど、倉田さんのことはなにも言わなかった……」
「話が通じてなかったのね」
「多分ね。倉田さんが調子のいいこと言ってたんだな。ゆっくり考えてみると、そんな感じがなくもなかった。飯なんかご馳走してくれて、いい人だと思ってたけどね」
今となってはもうどうでもよいことだが、あのときの釈然としない気分は忘れられない。欺《だま》された、と思った。世間というものを見せられた、とも思った。倉田さんにはこまごまとお世話になったけれど、好感を残すことはできなかった。
「受験なんかでもあるじゃない。あいだに入った人がナントカ先生に紹介しました≠ニか……。こっちは知りもしないのに」
「いつかもあったな」
私立学校の教師を務めていると、これはいつも心に留めておかなければいけない危険の一つである。受験生の父母を相手に、詐欺まがいのことをやる奴がいる。
「それっきり? その倉田さんとは」
「羽田が最後だなあ。姉貴より少し前に死んだ」
「早死ねえ」
言われてみれば、そうだろう。みんな鬼籍《きせき》に入ってしまった。倉田さんはいくつで死んだのか。姉の和代も五十を迎えたばかりの若い死だった。たった一人で……。ずいぶん苦しんで死んでしまった。哲也には、もう近い血縁者はいない。
博子は翌日すぐに明日香≠ヨ足を運んだらしい。食卓でその話題になった。
「わざわざ行ったのか」
「ちょっとお買物もあったし……コーヒーを飲みたい気分だったから」
「どうだった?」
「わるくないわね。このへんとしちゃ上等ね。ただ店番がいつもおばあさんなのかしら」
「老後の仕事なんじゃないのか」
「でも、もちょっと若い人じゃなきゃ。私たちはべつにかまわないけど……」
美人のウエイトレスでも置けば、人気の店になるかもしれない。今のままでは危い。
「絵はどうだった?」
「いい絵ね。強烈な色彩だけど」
「うん」
「でも、あなた、あれ、一目で外国の少女ってわかるじゃない。脚の感じとか、肌の色とか……顔がよく見えなくても、わかるわ」
「そうかな」
すると……新しい思案がのぼって来る。指折り数えてみれば、絵を手放したのは二十年以上も昔のことだ。絵そのものの記憶はさらにそれより昔にさかのぼる。記憶の中にある画像は、実際に哲也が目で見たものなのか、それとも何度か修整されたシミュレーションなのか、わからない。
たとえば……描かれていたのは、白人の少女だった。顔はよく見えないが、姿形でそれは簡単に見当がつく。博子が一見してわかったと言うのだから、きっとそうなのだろう。哲也が昔の絵で少女の横顔を見たように思うのも、実は外国の少女だ≠ニいう先入観から生まれた虚像で、本当は最初から現在明日香≠フ壁にかかったままの姿だったのかもしれない。
そう考えるのは、
――やっぱり同じ絵かもしれない――
と、あらためてそんな判断が浮かんで来るからである。
昔の絵のほうが少し大きく見えたのは、子どもの目として当然のことだ。幼い目には世界はかならず大きく見える。画家が、そっくり同じ図柄の絵を描くことは充分にありうることだが、いつもそうとは限らない。はるかにそうでないことのほうが多いだろう。デッサンならともかく、完成した油絵となると、そう繁くは類似のものをかかない。
強い根拠はないけれど、今は思案がその方角へ傾く。姉が引きずるようにして持って行った紙包みは、それからも何度かほどかれ、包まれ、いくつかの手を渡って、今明日香≠フ壁にかかっているのかもしれない。
「あれ、売り物かしら」
と、博子が真顔で尋ねる。
「いや、ちがうな。きれいな店を作ったものだから、一番の宝物を飾ったんじゃないのか」
老婦人の心意気だろう。一度、絵を入手した経緯を尋ねてみようかしらん。
「高いんでしょうね、今、売ったら」
声の響きを計りかねて、哲也が首をあげた。
「まあな」
博子はなにげなく言ったのだろうが、哲也のほうは気にかけてしまう。無一文から始めた結婚生活だった。とりわけ新婚のころは貧しかった。すばらしい油絵が一枚あったなら、ずいぶん役に立ったろう。たとえばマンションを買ったとき……。教育費も馬鹿にならない。
すぐにそんなことを思うのは、やはり哲也の頭の中に封筒を破って溢れたお札のイメージがあるから……。あれは実像だったのか。
――もしあのとき売らなかったら――
母の死があった。姉の死があった。哲也の結婚よりも、そのときに使うのが本筋だったろう。とりわけ和代の死はまずしかった。
死病と知りながら、哲也はそう繁くは病院へ行けなかった。一年のあいだに、せいぜい六、七回……。少なくはないが、多くもない。
博子は……そう、哲也と一緒に行ったのを除いて一、二回は行っているだろうか。
姉と博子の折りあいは、あまりよくなかった。喧嘩こそしなかったが、おたがいに敬遠していた。どちらがいいとか、わるいとか、そんなことではない。性があわない、というやつだ。
もしかしたら……姉は哲也に対して私が育てた弟よ≠ニそんな気分があったのかもしれない。たしかに父の死後はずいぶん姉の世話になったのだし、その感情はわからないでもない。
だが、その気分が哲也を越えて博子にまで及ぶとなると……少しでも姉のほうに押しつけがましい態度があったりすると、博子にはわずらわしい。煙ったい。自分に関係のない借金を催促されるみたいで……。二人の不和にはそんな事情もからんでいただろう。
姉の見舞いには哲也一人で行くことが多かった。
「これを使ってくれ」
死の一ヵ月前に行ったとき、十万円を入れた封筒を姉に手渡した。
「ありがとう」
和代はひどくやつれていたが、このときの笑顔だけは若やいで見えた。その封筒は手つかずのまま死んだ枕の下に残っていた。もうあの時期に至っては、自分でお金を使うことはなかったのだろう。
死の直前に一瞬だけ意識が戻った。哲也だけがそばにいた。
「きれいね」
「なにが……」
「花が咲いてて……。なんて花かしら」
たしかにそう聞こえた。花の名が思い出せず、苛立たしそうにして、そのまま表情が堅く変った。すぐに昏睡《こんすい》に落ちて行った。
翌週の木曜日、いつも通りの朝寝坊。朝食のあと、哲也はまた明日香≠訪ねた。店には他の客もなく、女主人がおぼつかない手つきでコーヒーを運ぶのも同じだった。
――やっぱり同じ絵かもしれない――
今日はそう思う。
いつか消えてしまった時間の中に、この絵と一家の団欒があった。
人気《ひとけ》ないガラス窓の内側から早春の曇り空を眺めながら、哲也はとりとめもない追想をめぐらした。
目を閉じると、一面の黄の花が見えた。花の群は視界を越え、曠野《こうや》の果てまで続いている。
姉の言葉がよみがえって来た。これもいくぶん記憶の中で修整されているのかもしれないけれど……。
「きれいね。花が咲いてて……。なんて花かしら」
病人の混濁した意識は、一面に広がる黄の花を見ていたのではなかったか。山吹の名さえ思い出せない頭脳が、必死になってそれを映し広げていたのではあるまいか。
黄の花の絵は、おそらく姉にとってかけがえのない時代の象徴だったろう。優しい父。一家の団欒。なつかしいぬくもりに浸《ひた》るときは、いつも花の絵が目の奥にあったのかもしれない。
――ずいぶん遠い記憶なのに――
いや、そうではないんだ。姉にとっては、あの日、紙包みを持って駅の改札口を抜けたときから、生活の絵模様が変った。絵を手放すのは、それまでの半生への訣別だったろう。うしろ姿を見た哲也より、もっと痛切に和代はそれを考えていたのではないのか。姉の思案が見えない電波となって、あのとき、哲也に同じ思いを伝えたのかもしれない。
そうだとすれば、いまわのきわにもやはりその絵を思い浮かべるだろう。その花の咲く曠野を越えて、父や母の住む国へ行くことを考えるだろう。
倉田という男のことを考えた。いったんは恨んだこともあったが、哲也自身も、あの頃の倉田の年齢を越えた。人の世のさまざまな感情がわかるようになった。もうなんの憤りもない。
――封筒の金は、絵だけの値段ではなかったのかもしれない――
いつの頃からか、そう考えるようになった。真実は、もとよりわからない。かすかにいまわしいものを覚えたのは、やはり記憶の修整だろうか。
姉は間もなく倉田の愛人となった。
――愛人の弟です≠ニ言って就職の世話をするのはむつかしい――
相手はきっと「どういうご関係の方ですか」と尋ねるだろうし……。
――わるい人ではなかった――
姉のためにもそう思ってやりたい。
壁の絵はなにを知っているのだろう。父と母と、姉と哲也のことだけではなく、この世のさまざまな風景を見て知っているのかもしれない。
人は死のまぎわになにを思いだすのだろうか。
――俺もこれを見そうだな――
十年先か、二十年先か、目のうちに一面の黄の花を浮かべ、その曠野を通ってとぼとぼと歩いていく自分の姿を思いながら、哲也はコーヒーのさめるのも忘れて見入っていた。
昼さがり
――どうして四季がこんなにはっきりと分かれているのかしら――
ついこのあいだまでいとおしかった厚手のキュロットが、春風とともにうとましいものに変ってしまった。ただボテボテと重くて野暮《やぼ》ったいだけの衣裳に感じられてしまう。
シャツ・ブラウスに滑《すべ》りのよいスカート、それでもカーディガンだけ肩に羽織って年子は表通りに出た。
空は電線の上に懸《かか》って、うっすらと白の色を広げている。
――春の空だわ――
雲に向かって投げキッスでもしたい気分……。電線ももうしばらくは悲しい声をあげて泣いたりはすまい。
銀行の電光時計が十四時十四分を示していた。同じ数字が二つ並んでいると、なにかよいことが起こりそうな気がする。以前にそんなことがあったのだろうか。記憶をたどってみたが、すぐには思い浮かぶものがない。
でも、きっとこの街の、このあたりで、十四と十四の並びを眼に映したことはあるだろう。いつもこのくらいの時刻に街に出るのが年子の日課なのだから。
職業はアート・デザイナー。三十九歳。頼まれれば、どんなデザインでもやるけれど、目下のところはアイデア商品のデザイン。カレンダーつきのハンカチや星座つきのハンカチがよく売れている。今年いっぱいは、ハンカチのデザインをずっと考え続けることになりそうだ。
住まいは2LDK。目黒駅に近いマンションで独りで気ままに暮らしている。あ、猫のマミイがいて、こいつが結構やきもちやきで、世話がやけるんだわ。とら猫の雄。朝寝坊をしていると頭の上に落ちて来る。
たいていは八時頃に起きて、ありあわせのもので朝食をとる。塩じゃけのお茶漬。あるいはインスタント・ラーメン。トーストにコーヒーのときもある。
そして五時間くらい仕事に没頭する。集中力はあるほうだ。午前中は電話にわずらわされることも少ないし、来客もない。なまけていたらフリーの稼業は生きていけない。
「さ、小休止、小休止」
背すじを伸ばし、大あくびをし、マミイに声をかけ、二時過ぎに一息いれる。天気がよければ、ふらりと街に出る。白金台《しろかねだい》の自然教育園のあたりまで足を伸ばすこともあるが、たいていは近所のカフェテリアへ行く。軽食をとる。
カフェテリアの名はシェ・トワ=B食べ物がおいしいのと、すみの席が死角になっていて街を見ながらぼんやりとくつろげるのとで年子は気に入っている。
「なんにしましょうか」
「そうね。ピザ・パイと紅茶」
今朝はコーヒーを飲んだ。
そんな日にはたいてい紅茶を飲む。コーヒーのおいしい店はたくさんあるけれど、紅茶のおいしい店は少ない。ここはリプトン専門。紅茶のカンのデザインは、どこにでもあるものだし、中身もきっと同じものにちがいないのに、
――どうして味がちがうのかしら――
そう悩んでしまうほどうまい。年子は紅茶をおいしくいれることができない。
このときだけタバコをくゆらす。
昔は仕事の最中にも喫《す》っていたのだが、一大決心をして節煙を実行した。一日せいぜい三、四本。
――もう平気――
けっしてもとに戻らない自信があるから、ときどき喫う。
この席からはガラス越しにお菓子を売っているカウンターが見える。ケースの中を見ているお客の様子がうかがえる。
店に入って来て、すぐに買うべきケーキを決断する人はめずらしい。たいていは少し迷う。五個買うとして全部シュークリームにしようかしら、それともエクレアを混ぜようかしら、なんて……。とりわけ女は決断に手間がかかる。
その表情を見ているのがおもしろい。
三十四、五歳の男がショートケーキを二個買った。
――だれと食べるのかしら――
相手はきっと女だろう。サラリーマンが家に帰る時刻ではない。
――昼下りの情事……かしら――
などと想像が飛ぶ。この界隈《かいわい》は、ホステスさんの一人暮らしも多い。
あるいは、昨今はやりの人妻の恋……。
――ハンカチにケーキを描いてみたらどうかしら――
他人《ひと》の恋路より自分の商売、商売。
一面にケーキの図案を描く。シュークリーム、エクレア、サバラン、モンブラン、ショートケーキ、チョコレート・トルテ……。
――お寿司屋のポスターみたいね――
鮨を並べてTOROとかHIRAMEとかローマ字で書いてあるポスターがよく寿司屋のカウンターに貼ってある。
――冴えないわ――
むしろケーキをたった一つ描いて、その下に豆知識をプリントしておく。シュークリームは、靴クリームじゃないのよ。正しくはシュー・ア・ラ・クレーム。フランス語でクリーム入りのキャベツ。あれ、キャベツのつもりなの……≠ネどなどと。
――でもハンカチのデザインじゃないわねえ――
このアイデアはペケ。食事に専念しよう。まるいピザ・パイをまず十字に切る。それからまた一つ一つを半分にして、扇形を八個作る。いつも年子はそうやって食べる。初めてホット・ケーキを食べたときがそうだった。以来まるいものは、たいていこうやって食べる。
――ホット・ケーキ、しばらく食べていないんだわあ――
特別うまいものではないけれど、出来あがりを食べれば、そこそこにはおいしい。目の前で作ってくれるのがいい。熱い鉄板の上でまんまるく広がり、周辺から少しずつ狐色《きつねいろ》に焼けていく。頃あいを見て、くるりとひっくり返す。ずっと昔お菓子屋の店頭で観察して自分で作ってみた。小学生の頃は、母のいないときの、すてきなおやつだった。
ズ、ズーン。
自動ドアが鈍い音をあげて開いた。年子は店のカウンターに視線を送った。
――あの子だわ――
黒いセーターが、ズボンのポケットに手をつっこんだまま入って来た。足もとは汚れたスニーカー。足が入っているからなんとか形を保っているけれど、ぬいだらペシャンコにつぶれて、雑巾《ぞうきん》みたいになってしまうだろう。そのうえ二、三ヵ所やぶけていてもと靴≠ニしか言いようがない。
少年の目鼻立ちはわるくない。利巧そうにも見える。だが、どこか表情に暗いところがある。
この店でよく見る顔だった。
どこに住んでいるのかわからない。多分この近くなのだろうが、ほかで会ったことはない。見るのは、いつもこの位置から……。年子が椅子にすわり、少年はガラス・ケースの前に立ってケーキを眺めている。
少年もすぐには買わない。しばらくはケースの中の様子をうかがっている。
けっして迷っているわけじゃない。買うものはいつも同じ。彼は観察ののち、きまってアマショクを買う。アマショク……甘食と書くのかしら。甘い食パン≠フ意味だろうか。まるい富士山の模型みたいなパン。ブラパッドみたいと言えば、よくわかる。
まさか少年もブラパッドを想像するわけではあるまいが、いつも二つ、ポケットから小銭を出して買う。
――よほどアマショクが好きなのね――
迂闊《うかつ》にも年子はそう考えていた。なんの考慮もなく、頭の片隅《かたすみ》でそう思っていた。
間もなく、
――そうじゃないわ――
と、当たり前のことに気がついた。
アマショクはシェ・トワ≠ナ売っている中で一番安い菓子パンである。アマショクがきらいでないのはたしかだろうが、お小遣いが許すならば、少年はもっと華やかなケーキ類が食べたいのだ。しばらくガラス・ケースを凝視しているのは、その心の反映である。それ以外には考えにくい。
――馬鹿ね――
と自嘲が浮かぶ。
頭のどこかで年子はもう日本中に貧しい人はいなくなった≠ニ思っている。年子だけではなく、そう考えている人はきっとたくさんいるだろう。
年子自身けっして豊かな生活をしているわけではない。むしろ世間の水準に比べれば、確実にレベル以下の生活でしかないのだが、
――こんな私でも、これだけのことができるんだから――
と思ってしまう。
この日本にケーキを買うのがむつかしいほどの家があるとは、考えにくかった。少年の凝視の理由がすぐにわからなかったのは、そんな日常感覚のせいだったろう。
少年とても、それほど貧しいわけではあるまい。ただ毎日買うおやつの代金はこれだけ、と予算が決まっている。裁量の範囲が決められている。少年はその範囲の中で、
――あれが買えればいいんだが――
と、案じているだけ。アマショク二個とシュークリーム一個とを秤《はかり》にかけているだけ。おそらくさほど深刻に考えるような情況ではあるまい。
ただ少年の眼差しがいつもとても真剣で、しかも長い観察のすえいつもアマショクにたどりつくので、見ている年子としては少々気がかりだった。暗い表情も、身なりの貧しさも、年子の想像を悪い方向へ脹《ふく》らませるのに役立つ。
――一度ご馳走してあげようかしら――
とはいえ、年子もそれほど熱心にその考えを固持していたわけではない。
今日も少年の姿を見て同じように思った。だがやっぱり立ちあがることもせず、ぼんやりと少年の様子を眺めている。
「ください」
少年は店の奥に向かって声をかける。見かけよりはずいぶん大人びた声だ。
「はい。どれ?」
店員はきまって尋ねる。少年の答も同じだ。
「これ二つ」
と指さす。
「はい。アマショク二つね」
値段通りのコインを渡し、紙包を受取り、さしてうれしそうでもない様子で少年はドアの外に消えた。なにかしら淡《あわ》い後悔のような感情が年子の中に残った。
――また見送りね――
もう一本タバコに火をつけた。
山手線の響きが聞こえる。
その音を追うようにして昔の記憶が胸に戻って来る。カスタード・クリームの匂いがあとを追いかけて来る。
年子は小学校の三年生くらい。茗荷谷《みようがだに》に住んでいた頃だったろう。ちょうど赤い地下鉄が走り始めた頃だった。
あのあたりは住んででもいなければ、めったに用のある地域ではない。つい先日、偶然車で通ったが、街は昔とずいぶん変っていた。路地に入れば、子どもの頃の記憶が鮮明に戻って来るのだろうか。その路地さえも、どこが入口か、目で捜しているうちに車が通り過ぎてしまったけれど……。
あの頃、すでに母と父の仲はこじれていた。離婚はもう少しあとのことだったろうが、父の顔など幼い年子はほとんど見たことがなかった。
母は美容院に勤めていた。子どもを一人かかえてなんとか生きて行かなければいけない。一番苦しい時代だったろう。そういえば、まだ貧しい人がたくさんいる時代だった。
母の勤めている店は年子も知っていた。家から角を二つ曲って、七、八分。
「でも来ちゃ駄目よ」
いつもそう言われていた。だから行かない。前を通っても知らん顔をしている……。
住んでいたのは鉄の階段のある民営アパート。新しくて、床も壁もみんなきれいで……。
――お金持ちになったみたい――
そう思っていたけれど、実情は新築だったというだけのこと。六畳間一つに、ほんの一畳ほどのキッチンのついたアパートがお金持ちの住む家であるわけがない。
学校から帰ると鍵をあけて部屋へ入る。鳩時計があって、これが十五分ごとに鳴く。「ポウ、ポウ」と……。一人で聞くときは、かえってもの悲しく、さびしかった。
テレビはない。ラジオはあったはずだが、昼日中から子ども向きの番組をやっていたのかどうか。とにかく母の留守にラジオを聞いた記憶はない。
テーブルの上に、なにかしらおやつが載っている。おやつがないときは、お金が置いてある。
おやつよりは、お金のほうがうれしかった。たいした金額ではないけれど、自分の裁量でなにかができる……それが楽しかった。退屈な時間を潰すのに役立つ。
たいていは塩豆一合。角の駄菓子屋で買う。豆の粒に大小があって、五円くらい値段の差がある。大きい粒のほうが、やっぱり香ばしくて味がいい。小さい豆を買って五円貯金するか、おいしいほうを食べるか、それがいつもくり返して訪れる悩みだった。
幼い頃は同心円のように行動の半径を広げていく。知らない道を少しずつ遠くまで行ってみる。知ってしまえば、なんのことはない、住んでいる街と少しも変らない隣街なのだが、たった一人で初めて訪ねるときは、真実胸が弾む。わくわくする。ちょっと怖《こわ》い。
あれは蛇屋の前だったろう。だから余計に薄気味がわるい。暗い角を曲って二軒目のウィンドウ。蛇がからまっていくつもいくつも鎌首をあげているのを見たときは、本当に驚いた。
「年ちゃん」
名前を呼ばれたような気がしてふりむいた。
――本当に名前を言われたのかどうか――
あとで何度もそのことを考えた。今でも年子はそのことを考える。名前ではなかったのかもしれない。
だが、幼い耳にはたしかにそう聞こえた。
軒隣《のきどなり》の薬局の前に男の人が笑いながら立っている。お父さんくらいの年恰好……これもあとになってぼんやりとそう思っただけのことだ。四十から五十くらい。もっと年上だと言われればそんな気もする。もっと下だと言われれば、それも頷《うなず》ける。考えてみれば、幼い子どもにとっては、大人の男は、せいぜいお兄さん、おじさん、おじいさんくらいの区分しかない。その男は、お兄さんではなかった。おじいさんでもなかった。
「一人で遊んでるの?」
ネクタイを締めていた。やさしそうな顔だった。でも、それまでに一度も見たことがない人……。目の下に大きなほくろがある。
「うん」
少女は少し警戒しながら頷いた。
ほとんど人見知りをしない子どもだった。だれにでもすぐになつく少女だった。
「知らないかなあ。おじさんのこと」
首を振ったら、わるいような気がした。
「お母さんのお友だちなの?」
「いや、お父さんのお友だちだ」
「おうちに遊びに来たの? お父さん今いない」
「ちがう、ちがう。通りかかっただけだ。ちょっとそこまで行こう。いいもの買ってあげるから」
おじさんは先へ立って歩きだす。
「いいです」
うしろから精いっぱい胸を張って叫んだ。
「遠慮しなくていいんだよ。お父さんにはとてもお世話になったんだ。気にしなくていいよ。さ、行こう」
手を握って引きずる。
誘拐を知らないでもなかった。でも、あれはお金持ちの家の子だけが狙われるのだろう。
――うちなんか、やっぱりちがう――
そう考えていただろう。
それに……人通りの多い街のまん中。大声を出せば、だれでもすぐに助けてくれるだろう。
本当のことを言えば、そんな心配もかすかなものだった。おじさんはとてもやさしそうだし、言われてみれば、どこかで会った人みたいな気もする。竹田のおじさんかしら。なにかいいものを買ってくれるらしいし……。
――断ったらわるいわ――
あれよ、あれよと思うまに連れて行かれたのではなかったか。
おじさんの言葉をいちいち思い出すのはむつかしい。当然のことだ。子どもの頭は、せいぜいその場の情況をぼんやりと記憶する程度。一つ一つの台詞《せりふ》は、あとになってその場の雰囲気にあわせて作られる。外国テレビのアフレコみたいなもの。
なごやかなムードでお菓子を買ってもらったのならば、その場面を頭の中でたどって、
「いい子だね、お菓子を買ってあげよう」
「うん」
「どれがいいかな」
「あれ」
「よし、これと、もう一つこれかな」
「うん、ありがとう」
と、芝居の台本を書くように創造される。
実際に語られた言葉がそのまま再生されるわけではあるまい。少なくともあのときはそうだった。
だから年子は、おじさんの言葉にほとんどなんの記憶もないのだが、ただ一つ、
「お父さんに世話になったんだ」
この台詞だけは、何度か聞いた。なまの言葉としてはっきりと頭に残ったものだった。
――それなら、いいんだわ――
子ども心で考えても、縁もゆかりもない人がいいことをしてくれるはずがない。きっと危いときにお父さんが助けてあげたんだ。貧乏で困っているときに、お金をあげたりしたんだ……。だったら少しくらいご馳走になってもいい。
このときのことを思い出すと、いつもそんな感情が色あせた絵のように年子の心に浮かんで来る。それから地下鉄の音。これも道を歩きながらたしかに聞いたものだった。
「ここにしようか」
連れて行かれた先は、一度も入ったことのない洋菓子店だった。ガラス戸がたくさんあって、中は見えないけれど、少しお母さんのお店に似ていると思った。だが美容院とは匂いがちがっている。ずっとおいしそう。たった一度の体験だから、店の構造を思い出すのはむつかしい。
店の中は白っぽい感じだった。中に何人かお客さんがいた。これは、
――だれもいなかったら、どうしよう――
そう心配していたので、とてもよく覚えている。大学生みたいな人が大勢楽しそうに笑って騒いでいた。女の人も混ざっていた。
――ここなら平気だわ――
年子は小さい頭でそう思った。
「コーヒーは飲まない?」
コーヒー? 名前は知っていたけど、飲んだことはなかっただろう。
「飲みます」
お行儀よくすわっていた。きっとそうだろう。大人におもねるのが下手《へた》な子ではなかったから。
「じゃあコーヒー二つ」
それからおじさんはケーキを頼んだ。
白いエプロンをかけたおねえさんが、手押しの車に載せてお菓子を持って来る。車にはお花畑みたいにいろいろなケーキが載っていた。
今の子どもなら、さしてめずらしくもない風景。でも、当時はおそば屋さんで外食することさえめったになかった。
夢見心地だった。
――お母さんだって来たことないわ――
コーヒーは、とてもいい匂い。
「どうぞ」
そう勧《すす》められても、どうやって飲むのかわからない。そばに小人のコップみたいなのがついていて牛乳が入っている。それをどうするのか……。
おじさんが砂糖を入れ、牛乳を静かに注ぎ込んだ。白く広がるのが、きれい。
――ああするのね――
前から知っていたみたいに同じ手つきでミルクを入れた。
「どのお菓子がいいかね」
クリスマスのケーキみたいの。それからシュークリームは知っている。ずっと前、夜遅くお母さんが持って帰って来た。
おじさんは年子の視線に気づいたのだろう。苺《いちご》の載ったケーキと、シュークリームを指さし、それから、
「エクレアも一つ」
と告げたにちがいない。エクレアはチョコレートがついていて、これもじっと見てみれば、とてもおいしそうな感じだった。
エプロンのおねえさんが、一つ一つ白いお皿にとってくれる。
――三つじゃ、どうわけるのかしら――
やっぱりおじさんが二つ、年子が一つなのだろうと思ったが、どうもそうではないらしい。
シュークリームの甘いあんこ≠ェ、香りと一緒にトロリと喉《のど》に流れこむと、
「おいしい?」
と聞く。
「うん」
「じゃあ、こっちもためしてごらん」
おじさんは苺のケーキを年子の前に押す。
「食べていいの?」
「いいよ、いくつでも」
それを食べ終ると、今度はチョコレートのついたケーキを前に置いてくれた。
少しわるいような気もしたけれど、おじさんは目を細くして見ている。
「ケーキ、きらいなの?」
と尋ねた。
「きらいじゃないけど、今はいらない。さ、食べなさい」
エクレアはシュークリームよりもっとおいしかった。
「もっと食べる?」
さすがに気が引ける。
「お腹いっぱい」
胃袋のあたりをなでて示した。
「そうか。ジュースを飲みなさい」
多分オレンジ・ジュースだったろう。やっぱりコーヒーよりおいしい。
おじさんは最後にもう一度手をあげておねえさんを呼び、エクレアとシュークリームと一つずつ小さな箱に入れさせ、
「お家で食べなさい」
と渡してくれた。
外に出たときは、空が少し暗くなっていただろう。季節はわからない。ただ……西の空がまっ赤だった。蜻蛉《とんぼ》が飛んでいた。地下鉄の音がまた聞こえた。
「さ、帰りなさい」
「ありがとうございました」
よくわからないけれど丁寧にお辞儀をした。おじさんは手を振りながら遠ざかり、すぐに人込みの中にいなくなってしまった。蛇屋の前を通って走って帰った。
あの日、お母さんの帰りは遅かった。たしかそうだったと思う。
我慢できずにエクレアを一つ食べてしまった。そのうちにシュークリームも食べたくなり、それも食べてしまった。「遅いときは、なにか食べてお腹をつないでおきなさい」といつも言われていたから。
――あそこの店に行けば買えるんだし、お母さんだってそのくらいのお金は持っているわ――
店を教えてあげれば、きっとお母さんも喜ぶだろう。
とはいえ、おみやげを食べてしまっては、事件の報告は言いだしにくい。それに……おじさんは「お父さんに世話になった」と言っていた。お父さんとお母さんは喧嘩をしているらしい。
「どうして、そんな人にご馳走になったの」
叱られそうな気もする。
でも黙っているわけにもいかない。翌日の夜になって、ようやく母に話した。
「ふーん、だれかしらねえ」
母は訝《いぶか》しそうに聞いていたが、そのときは見当がついたのだろう。叱られもしなかったし、深くは尋ねられなかった。
ところが数日たって、
「年子、この前、へんなおじさんにご馳走になったって言ってたけど……」
根掘り葉掘り訊かれた。知ってる限りを話したが、母は首をかしげるばかり。母にもわからないらしい。
「駄目よ。知らない人についてったりしちゃあ」
今度はしっかりと叱られた。
両親の離婚が決まったのは、年子が中学生になってからのことだった。その前後に年子は一度父に会っている。
そのときもコーヒー店でケーキをご馳走になったものだから、数年前の出来事を思い出した。
「変なことがあったのよ」
久しぶりに会う父には話しにくかったけれど、思いきって尋ねてみた。ここで聞かなければ一生聞くチャンスがあるまいと思った。
父もやっぱり見当がつかない。目の下にかなり大きなほくろがあったことを言っても、父はわからなかった。
「だれかなあ」
結局答はなにもえられなかった。
それからもう一度、大人になってから年子は同じ質問を母に投げかけてみた。
「本当のところ、あれはなんだったのかしら」
母はあらかた忘れているふうだったが、言われて思い出したらしい。
「なんだったのかねえ。人さらいかしら。あの直後、お母さんもお父さんに尋ねてみたんだけど……」
本当に説明がつかない様子だった。
母の恋人……そんなことを考えた時期もあったが、今はそれもちがっていると思う。そうではないと判断する強い理由があるわけではないけれど、漠然とした直感がそう告げている。
――ただの人ちがい――
このへんが案外正解なのかもしれない……。
山手線が響き、思考が今に戻る。紅茶の残りを飲み干す。シェ・トワ≠ナ軽い昼食をすませると、あとはまた家に戻って二時間ほど仕事をする。
「さ、これでおしまい」
急ぎの仕事がない限り、五時過ぎには仕事を切りあげ、あとは自由時間。友人に誘われ会食に出ることもあるし、芝居を見に行くこともある。年子は舞台美術をやりたいと思った時期もある。だからその方面の友人も少なくない。
「ねえ、キップを買ってよ」
頼まれれば、たいてい買ってしまう。買えばやっぱり見に行く。
なにも予定のない夜は……これも二通り道があって丹念に自分の夕食を作るときと、なにかしらあまりものでお腹を満たすときとがある。
――恋人でもいればいいんだけど――
二十代はいくつか熱い恋を体験した。三十代も前半には少しあった。
今は……そう、これから先は多分よい相手に恵まれることはあるまい。本気になったら、わずらわしい。さりとて本気にならなければ、この年齢でわざわざやるほどのことでもない。それでも心のどこかで、
――あともう一度本気になるときがあるんじゃないのかしら――
ぼんやりと見果てぬ夢を見ているところがある。
今夜は簡単日。ハム・ステーキに生野菜のサラダ。厚切りのパンにバターを塗って焦《こ》がし、それで夕食を終えた。
退屈をすることはない。幼い頃から孤独な生活に慣れていた。おもしろい本があれば、それで充分。おもしろい本はいくらでもある。退屈する人の気が知れない。読書は最高の養老保険。いくつになってもこれがあれば生きるのに困ることはあるまい。
翌日もほとんど同じ時刻にシェ・トワ≠ノ顔を出した。スパゲッティにコーヒー。山手線の響きを聞きながら、この日の午後もとりとめもない思案をなぞった。今朝がたの夢を思った。昨日の記憶が頭のすみに残っていたのだろう。
――変な夢だったわ――
目をさますすぐ前……。だから朝の六時くらい。
時代は江戸の頃らしい。
どうして江戸時代と思うのか、その根拠もはなはだ頼りないのだが、年子が自分の頭に一番たやすく映し出せる古い時代と言えば、多分忠臣蔵≠フ元禄あたり。平安や鎌倉となると、もうひとつぴんと来ない。夢の中の風俗も江戸の頃だったみたい。よくはわからないけれど……。
だが、なにしろ夢の中だから時代考証は目茶苦茶だ。現代がいくらでも混ざっている。登場人物もよくわからない。女の子は年子自身のようだったが、少しちがっているような気もする。
街角で手毬《てまり》をついて遊んでいた。荷物を担《かつ》いだ商人が現われて手招きをする。連れて行かれた先は、ガラス箱の中にいろいろなお菓子を入れて並べたお菓子屋の店先。
これは太平洋戦争前の風景だろう。年子の育った時代にも、古い町へ行くと、たまに見かけた。格子窓をななめに倒したような形になってお菓子を入れた箱が並んでいた。一つ一つのガラス蓋《ぶた》が上に開いて、その中から好みのお菓子を取り出す。
夢の中の商人は、女の子に好きなものを好きなだけ買ってくれた。女の子は……急に年子自身がその女の子の感情を帯びて、
――知らない人なのに――
と訝る。わるいと思いながら受取る……。
夢はそこで終ったらしい。そのお菓子を食べた記憶はない。
そこまで思ったとき、ズ、ズーン、シェ・トワ≠フ自動ドアが開き、少年もまた昨日と同じ頃あいに同じ様子で現われた。相変らずケースの中のケーキを眺めている。今にアマショクを二つ買うだろう。
――あのおじさんはだれだったのかな――
遠い出来事を反芻《はんすう》して、またとりとめもなく思いめぐらしたとき、胸をサクリと鋭利な刃物で切られたように感じた。忽然と答を悟ったように思った。
――そうかもしれないわ――
と、年子は独り頷いた。
あのおじさんも……茗荷谷でケーキをご馳走してくれたおじさんも、ずっと幼い頃、どこかで知らない人にご馳走になったのかもしれない。だから、大人になったら自分も同じことをしてみようと考えた……。
おじさんにご馳走してくれた人も、さらにもっと昔にだれかにご馳走になった……。こうしてどんどん時間をさかのぼる。
いや、事実の経過通り、古い時代から伝わって来たと考えたほうがわかりやすい。だれかが知らない子どもにご馳走をする。なんの理由もなく、ほんの気まぐれで。その子が大人になり、また知らない子へご馳走をしてあげる。江戸の頃から。もっと昔から……。
だれも理由がわからない。周囲の人に話してみても見当がつかない。つくはずがない。ただ永遠のリフレイン。街の中にずっと、そんな見えない伝承が、知らない糸みたいに続いている。そんな風景を年子は考える。
――嘘みたい――
多分嘘だろう。とても真実とは思えない。でも鮭が代々同じ営みをくり返すように、こんな連鎖がこの世のどこかにひっそりと続いているのではないかしら。
そう思うのは楽しい。そう考えることくらい許されていいだろう。
――ほかにもなにか似たようなことがあるみたい――
立場がガラリと逆になって同じことをくり返す……。
そう。二十代の年子はあまりよい恋に恵まれなかった。どんなに深く愛しても、それにふさわしい見返りはなかった。
――だから、これからは立場が逆になり、相手に深く愛され、自分が選び……でも、それとこれとはケースが少しちがうかしら――
いずれにせよ、もうこれからはどんな形の恋とも無縁だろう。やっぱりそんな気がする。
「くださいな」
少年の声が聞こえた。アマショクを指さしている。
――今日こそ声をかけよう……かしら――
ガラス越しに前かがみの姿を見たまま年子はタバコをくゆらし続けていた。
海の影法師
「じゃあ、よろしくお願いします。明日、当人に連絡させますから」
須坂《すさか》が深々と頭を垂れると、小柄な小西は手で制するような身振りをして、
「大丈夫ですよ。須坂さんの頼みなら」
と言う。それから急に思い出したみたいに、
「あんたご自身はどうするんです? 他人の面倒ばかりじゃなく……。本社に戻るんでしょ」
と尋ねた。
本社に戻りにくい事情は小西にもわかっているはずだ。
「そうもいかんでしょうが。これでだいたいやることはやったし、少し休んで充電でもしますわ」
須坂は笑いながら告げたが、さびしさは多分隠せなかっただろう。
「あんまりいいことはなかったね」
小西は肩をまるめてしみじみと言う。
「全力を出しきりましたから。案外いい思い出になるんじゃないですか。失礼しますわ」
「また遊びにいらっしゃいよ。落ち着いたら飯でも食いましょう」
「ええ。いいですな」
もう一度お辞儀をして社長室を出た。小西は工場の外まで送って来てくれた。
ラジエータ部品・小西製作所≠ニ塗った看板のトタンがたわみ、風にバタバタ鳴っている。
「じゃあ、よろしくお願いします」
同じ言葉を繰り返してから須坂はボロ車のエンジンをふかした。
この界隈には小さな工場が軒を連ねている。どこも不景気で苦しい。小西のところだってそう楽ではあるまい。
須坂は百メートルほど走って車を止めた。
ハンド・ブレーキをかけ、ポケットから手帳を取り出しスケジュールを確認した。三時に木更津《きさらづ》市内のボン≠ナ仁科静枝に会う。四時半に富津《ふつつ》の工場へ行く。それからまた木更津に戻って静枝と会うことになるかどうか……これははっきりと予定に組まれているわけではない。
手帳のうしろのほうのページには、大勢の名前が記してある。ざっと三十人あまり。その中の一つを線で消した。ほとんどの名前に線が引いてある。鉛筆で消したもの、ボールペンで消したもの、あるいは赤線を引いた名前もある。そのばらつきぐあいが、ここまで来る道のりのたどたどしさを物語っている。一人、一人、手間をかけて再就職の先を捜した。今日も三軒まわった。小西製作所で一人引き受けてもらい、これであらかた終った。あとは是が非でも働きたいという連中ではない。
「これでよし」
須坂は車を川崎のフェリー港に向けて走らせた。何度も通った道だから出港の時刻も暗記している。埠頭《ふとう》に着いたときスピーカーが乗船を呼びかけていた。
須坂は甲板に出た。飛行機が下腹をさらしてつぎつぎに飛び立つ。頭の上を飛んで行く。
海を吹きぬけて来る風がここちよい。いつのまにかそんな季節に変っていた。
――あと何回来るかな――
こんなところに、こんな交通機関があることさえ知らない人も多いだろう。須坂自身だって富津工場の責任者を命じられるまで、この船に乗ったことがなかった。
子どもみたいに身を乗り出して水の面《おもて》を眺めた。船が思いのほか速いスピードで走っているのがわかる。白い波は舳先《へさき》で盛りあがり、やがて灰色の筋となって流れて行く。
五年前にも同じように水の面を見つめていた。そんな感慨が胸をよぎる。まるで消えて行く波のように……。
「あんまりいいことはなかったね」
小西の声が響く。小西は声に温かみのある人だ。
――そうかな――
水鳥が二羽ブイに乗って羽を休めている。いつかもこんな風景だった。
そう、たしかにあまりよいことはなかった。
「須坂君、君には富津工場の責任者をお願いするよ」
それが始まりだった。
左遷《させん》――とっさにそう思った。ショックは覚えたが、意外ではなかった。かねてからありうることだと思っていた。
先代の社長がなくなり、若社長になってからというもの、須坂は上層部とそりがあわない。ことごとに意見が衝突する。
どちらが正しいとか、まちがっているとか、そういう問題ではない。見通しのちがい、方針のちがい、もしかしたら人生観のちがいかもしれない。
若社長は無節操と言ってよいほど新しい仕事に手を出す。仕事の幅を広げることも必要だが、イズチ産業がつちかって来た技術を抜きにして新しい仕事に手を染めるのはどうなのか。すぐに根なし草になってしまう。技術者はつらい。現場から不満が出ていた。製缶のエンジニアがどうして急に、ボール箱を作らなくちゃいけないんだ。
いや、贅沢《ぜいたく》の言える情況ではないと、それは須坂にもわかっていた。ただ、社長にはもう少し現場の心に思いをはせてほしかった。労働組合もない会社ではないか。須坂はそうまちがっていたとは思わない。
粋《いき》がって現場の意見を代弁しているうちに、
「うるさい奴は、ちょっと他所《よそ》に行っていてもらおうか」
そこで富津工場の責任者がまわって来たのだろう。
あの頃はまだ会社の景気もわるくなかったから、
「よし、新天地でやってやろうじゃないか」
腕をさすり、下唇を突き出し……さほど暗い気分ではなかった。
新工場ではステレオやテレビのボディを作る仕事。ほとんどなんの経験もない作業だったが、そのへんのことはもうあきらめていた。新しい仕事だけにおもしろいところもある。
気がかりと言えば、妻の病気が悪化していたこと。京子は入院したばかり。大崎の家には、母と高校生の娘がいた。
「ひどいな。奥さんが入院中なのに」
しかし、これはサラリーマンの宿命だ。家族の病気を理由に転勤を拒否するのはむつかしい。
「なに、うちは女だけの家族だからな。なんとかなるさ」
母はもちろんのこと、娘もよく頑張ってくれたと思う。
川崎・木更津間は、一時間十分の距離である。何度ももどかしい思いでこの海を越えた。仕事を思い、家族を思い、とりわけ妻の容態を考えながら……。
それでもフェリーの走る時刻はまだいい。
最後の船が出たあとは、陸路をまわって車で帰らなければいけない。新設工場の責任者には仕事が山ほどある。真夜中まで働くこともまれではない。夜業を終え、それから夜道をひた走りに走って妻のいる病院へ。京子に対しては、あまりよい夫ではなかっただろう。いつか大切にしてやろう、そう思いながら機会がなかった。
臨終の床にも間にあわなかった。昏睡の直前にひとこと、
「お父さんは?」
宙を捜すように目をしばたたいたとか。
小西は「あんまりいいことはなかったね」と言っていたけれど、この五年間、本当によくなかったのは、これ一つだけだったかもしれない。言葉はわるいが、妻が死んだおかげで心身ともに新工場の仕事に集中することができた。
「そうでもないか」
須坂は海に向かって独りごちた。エンジンの音が大きいので自分の声ですらそうよくは聞こえない。
初めのうちこそ新工場の業績は好調だった。次から次へと注文が集まり、輸出も伸びた。地元から工員やパートタイマーを大勢雇い、商工会議所から感謝状をもらうほどだった。
だが、すぐに不況がやって来る。注文が激減し競争が激しくなり、体力のない企業はたちまち潰《つぶ》されてしまう。加えて円高。一ドル二百円まではなんとかこらえたものの、そこから先は、売れば売るほど赤字になりかねない。
少しずつ生産量を減らし、パートタイマーを削ったが、その程度の対策では間にあわない。
――なんとかこのピンチを乗り切れば――
須坂は傷《いた》ましいほど働き、ない知恵を絞った。
さいわい娘も短大に入り、須坂の母と一緒につつがなく暮していた。後顧《こうこ》の憂いはない。
不景気だって円高だって、初めからそういうものだと覚悟して挑めば活路はある。それが須坂の考えだった。
一進一退が続く。むしろ退くほうが多かったけれど……。
突然、イズチ産業が上位の企業と合併することとなった。追い討ちをかけるように富津工場の閉鎖が決まった。寝耳に水の決定だった。
「そんな馬鹿な」
もちろん須坂は反対した。本社に赴《おもむ》いてどんな形でもいいから工場を閉じることだけは避けるよう訴えた。
しかし交渉の対象となるべき上層部が合併の計画で浮き足立ち、管理能力を欠いているのだから話にならない。閉鎖はゆるぎない現実として進行し、現地で採用したほとんどの工員やパートタイマーは職を失った。須坂がそれを宣告しなければいけなかった。
「このままでは申し訳ない」
他企業から須坂が引き抜いた奴もいる。いそがしいときには、ずいぶん苛酷な労働を強《し》いた覚えがある。どなったし、怒ったし、小突いたりもした。みんな苦楽をともにした仲間たちだ。
「罪ほろぼしに私はここに残って、就職の斡旋をする」
須坂はそう宣言し、本社からの呼び戻しに応じなかった。けっして稚気《ちき》ではない。そうしなければ一生悔むぞ$Sの奥でそう叫ぶものがあった。
それが三ヵ月前のこと。数人は本社へ帰った。十数名はすぐに新しい職場が決まった。パートタイマーのほとんどは、土地を離れてまで働こうと希望していない。仕事があれば働く、といった程度の意識だから、これはとことん再就職の世話をする必要がない。
残りは三十人あまり。これがなかなか決まらなかった。
「自分でも捜せよ」
自分で新しい職場を見つけて来る者がいれば、須坂はわざわざその企業の内容を確かめ、よいとわかれば、かならずその会社まで行って、しかるべき筋に頭をさげて彼の将来を頼んだ。そうしなければ気がすまない。一つ、一つ、世話をして三十数人を消した。
そんな作業がようやく終ろうとしている。
「あいつ、うまくやっていけるかな」
こうつぶやいてみたがあいつ≠ヘ一人ではない。いろんな男の顔が浮かぶ。
言っちゃあわるいが、ちっぽけな企業がちっぽけな工場で雇った連中ばかり……。どこかはんぱな奴がほとんどだった。根はわるくないのだが、一つ二つ欠けたところがある。新しい勤め先でつつがなくやっていけるかどうか。とりわけ若い奴ら……。
案ずるより生むがやすし、そんな言葉もある。完全な奴なんかいやしない。世間でもまれているうちに、なんとか恰好がついていくものなんだ。
――学校の先生なんかがよかったのかなあ――
そう思ったのは自分自身のこと。若い連中の面倒をみるのが性にあっている。昔の部下にしばらくぶりに会って、少しでもりっぱになっていると本当にうれしい。よくはわからないが、これはきっと教師に向いている性格だろう。
ふいに兄貴のことを思い出した。
水の面を見つめていると、ときどきそんなことがある。幼い頃、遊覧船の甲板で柵につかまりながら兄と二人で海を見ていた……。そんな記憶がぼんやりと残っている。
よほど古い記憶だろう。兄は五歳上。四十年以上も昔に戦争で死んだ。須坂が覚えているのは、ほんのいくつかの断片。仏壇の奥にある黄ばんだ写真。それさえもここ数年見ていない。たしか予科練兵士の服装で、きっかりと敬礼している。その姿で家の玄関を出て行ったような、そんな場面も眼の奥に映るのだが、これは本当に須坂が自分の眼で見たものかどうかわからない。
たった一人の兄弟だった。なんでも教えてくれる兄だった。多分……やさしい兄だったろう。いつも須坂は腰巾着《こしぎんちやく》みたいについて歩いていた。
「大きくなったら先生になるよ」
「馬鹿。兵隊になってお国のために死ね」
須坂はお国のために死ぬこともなかったが、先生にもならなかった。
エンジンの音が低くなり、フェリーは港に近づいている。四角く切った岸壁に四角い形の船が着く。接点にはたくさんの古タイヤが縛ってある。船のほうにも、港のほうにも……。
まず人が降り、それから車が桟橋を渡る。すぐに車が人の列を追いぬく。
木更津の港から市の中心部までは、そう遠い道のりではない。ご多分にもれず道は細く、複雑にくねっている。
須坂は腕の時計を見た。
二時四十二分。静枝との待ち合わせはボン≠ニいうコーヒー店。三時には充分に間にあうだろう。その店の前には花を飾ったテラスがあって、とても垢ぬけた様子だ。
キクンと胸が鳴る。
船の震動がまだ体のどこかに残っている。思い出ばかりに浸っていたが、今日はもうひとつ大切な仕事がある。
――気を引きしめなくちゃあ――
須坂は車の中で腕をまわした。
静枝と知りあったのはこの町の、富士見通り裏のスナックだった。看板にはビストロと書いてあるが、ビストロがどういう意味か、須坂は正確には知らない。
そこは静枝の姉夫婦の店で、静枝は、頼まれて時折手伝っていたらしい。酒を飲ませる店だが、食事もできる。
「変な人だと思ったわ」
尾籠《びろう》な話だが、須坂は市内を車で走っていて便意を覚えた。我慢ができなくなり、飛びこんだのが、静枝のいる店だった。脂汗を浮かべていたらしい。
「初めからくさい仲だったんだ」
月並みなジョークを言った覚えがある。
店に入った以上なにか注文しなくてはいけない。車を運転しているからアルコールはまずい。
焼飯を作ってもらった。味は……可もなく不可もなし。一息つき、五千円札で勘定を払ったが、静枝は一万円札と勘ちがいしたらしい。須坂がそのことに気づいたのは、夜半過ぎ、大崎の家に帰ってからだった。どう考えても千円札が少し多い。
――しめた――
とは、けっして須坂は思わない。
――困っているだろうな。悪いことしちまった――
あのくらいの店なら五千円のまちがいは大きい。いくら売り上げを出せば、それだけの利益が出るのか。原価計算をしてしまう。
――彼女は雇われ人みたいだったし、弁償させられたんじゃあるまいか――
ほぼ一晩の日給に相当するだろう。人件費を考えてしまう。
ポケットをさぐったが、店のマッチもない。電話番号はもちろんのこと、店の名も思い出せない。
三日間いそがしい日が続き、四日目になって、ようやく見覚えのあるドアを押した。
「いらっしゃいませ。ああ……」
このときは静枝の姉もいた。静枝は須坂の顔を覚えていたが、釣銭をまちがえた当人とは知らなかった。
須坂はカウンターに着いて、すぐに釈明をした。
「あ、やっぱり」
「どうも変だと思ったのよ」
会話の調子から、二人が姉妹だろうと想像した。面ざしも少し似ている。年齢は、四十を境にして上下に同じくらい離れている。つまり四十二、三歳と三十七、八歳……。
これが縁で須坂はこのビストロに時折顔を出すようになった。
あとで思い返してみれば、初めから静枝に引かれるところがあったのだろう。静枝も須坂に対しては、他の客と少しちがった愛想を配ってくれてるように思えた。そう、ほんの少し……気のせいかもしれなかったが……。
だが静枝はいつも店にいるとは限らない。本職はなかなか腕のいい和裁師で、
「お姉ちゃんのとこより、こっちのほうが儲《もう》かるのよ。でも、あんな店じゃいい人いないでしょ。無理に頼まれちゃうとねえ――」
それが実情だったろう。
三ヵ月ほど通って、ようやく外で会う約束を取りつけた。
映画を見て、食事をして、ほんの少し酒を飲んで……五十代の技術屋はこういうことには慣れていない。それでも静枝は苦情も言わず、問わず語りに自分の身上を語ってくれた。
「兄が日立にいるのよ。三人兄妹で」
「ご両親は?」
「母はずっと昔。父は今年が三回忌なのかしら。姉には世話になったわ」
「もともとこの土地の人なのか?」
「ううん、もっと田舎。鴨川《かもがわ》のほう。漁村の出よ」
「そのわりには垢ぬけている」
「そんなこと、ないでしょ。今にボロが出るわよ」
「独り?」
「そう。だれももらい手がいないの」
「そりゃ嘘だな。えり好みが強いんだ」
「そんなこと言える年じゃないわ」
浅黒く、むしろ小肥りのほうだが、表情に愛敬がある。年齢よりずっと若々しい印象がある。けっしておしゃべりではないが、どんな話でも楽しそうに話す。そばにいると、春の陽だまりみたいに、明るさと温かさがほのぼのと漂って来る人だ。
二度目は東京へ誘った。三度目は……市内のコーヒー店で手軽く。このときに行ったのがボン≠セったろう。
「いいお店ねえ。木更津にはめずらしいわ」
「東京湾のまわりは東京のうちだよ」
「昔はホント、ひどいところだったのよ」
女の存在が須坂の目に、耳に、ここちよい。妻を失ってからしばらく忘れていた感覚だった。率直に言えば、妻が生きているときだって、よほど時間を遠くさかのぼらなければ、この感覚を思い出すのはむつかしい。
とはいえ須坂は真実体がいくつあっても足りないほどいそがしい立場だった。静枝に会いたいと思っても、そう繁く会えるはずがない。せっかくの約束も何度か取りやめにしなければいけなかった。
男と女のあいだにも物理学の法則は関与している。たとえて言えば炉に火を入れるようなものだ。火を入れたあとで、そのまま作業を中断してしまえば、火は勢いをなくしてしまう。ほとんど消えかかる。次に作業を始めるときには、また火をかきたてるところから始めなければいけない。
せっかく火が起こり始めたのに、そこでまた中断。次はまたまた、火起こしから始める。須坂と静枝の仲は、そんなふうだった。つまり……親しさがとんとんと加速度をつけて深まっていかない。二、三週間ぶりに会って、前回別れたときの親しさを取り戻すために、デートの時間のあらかたを使わなければいけなかった。これではいっこうに先に進まない道理である。
――いつか、いつか――
そう思いながら、いそがしさに押し流されていた。
――なんとかしなくちゃ――
今日でいよいよ富津の工場も本当の閉鎖となる。玄関のドアに二重の鍵をかけ、その上、板を渡して長い釘を打つ。
その日取りが決まったとき――つい一昨日のことだが、須坂は静枝に電話をかけた。
「三時にボン≠ナ会いたい。ちょっとお話があるから」
さりげない調子で告げたが、言葉の重みはそれなりに伝わっただろう。
――なんと言おうか――
結婚の申し込み? まだ、それは早過ぎる。
須坂は自分の立場を考えると、ついひるんでしまう。五十一歳。二度目の結婚。娘がいる。母がいる。しかも当面は無職になりそうだ。相手は三十代のなかばこそ過ぎているけれど、とにかく初めての結婚。性格もよく、健康で、生活力も一通り持っている女なんだ。
だが……世間の恋人たちのように繁く会うことはできなかったが……それに、なにひとつ恋らしい出来事もなかったが、会えば、ひたひたとおたがいの胸の中に満ちて来るものがあった。少なくとも須坂はそうだった。静枝もそうなのではあるまいか、と感じることは一度ならずあった。
――結婚の申し込みはともかく好きだ≠ニいうことははっきりと伝えよう――
今日会って、なにかしら二人の関係の節目のようなものを作らなければなるまい。大切な言葉を伝えなければなるまい。そして……そのあと須坂は、いったん工場へ行く。夜の予定はあけてある。静枝ともう一度会えればいいのだが……。
春の花を並べたカフェテラスが、車のフロント・ガラスに映った。
静枝はすみの席にすわって待っていた。
「久しぶり。いつも同じこと言ってるみたいだな」
須坂は笑いかけた。腹の底からうれしさがこみあげて来る。
「ええ……」
「すっかり春になったな。この前まで甲板になんか出られたものじゃなかったけど」
「フェリーでいらしたの」
「ああ。あれが一番便利だ」
「東京の、もう少しまん中のほうに着けてくれると、いいんだけど」
「そうだなあ。竹芝桟橋とか……」
「あの……今日で工場を閉《し》めるんですか、本当に?」
「そう。玄関に板を打ちつける」
「どうするの、須坂さんは?」
「本社に戻る気はないんだ。もともと上のほうとあわなくて、こっちに飛ばされたんだからな。今度の合併も、俺にはいい方向だとは思えないし……俺の働き場はないね。すぐに本社に戻ったのならともかく、こっちで最後までみんなの世話をするって、そう突っ張ったときから、もう道はきまっていたんだ。むこうに言わせりゃ、最後のわがままだよな。それを通してやったんだから罷《や》めろって……」
「そうなの」
須坂は会社の事情を説明した。自分の身のふりかたについても、まあ、二、三ヵ月は静養するが、技術を持っているので、食うくらいのことはなんとかなるだろう、とつけ加えた。
静枝は「ええ」とか「そう」とか相槌だけは打っているけれど、少し元気がない。思案が半分どこかへ飛んでいる。
さもあろう。せっかく会って、会社の話ではつまらない。
「どうした?」
「いえ、べつに……」
「これからいったん工場へ行くけど、夜、あいていない?」
フェリーの中では、このコーヒー店で決定的な台詞《せりふ》を告白するつもりだったが、どうもその気になれない。勇気が湧いて来ない。雰囲気も熟していない。なにを言うか、まだきまっていない。できれば夜を待ったほうがいいだろう。夜の国道を車で南に走り、半島の突端まで行ってみようか。岬の人気《ひとけ》ないホテルで静枝と二人の夜をすごせないものか。
――あなたを抱きたい――
言葉が喉にまで昇って来る。それが一番言いたい台詞なのかもしれない。
「夜はあいてる?」
繰り返して尋ねた。
「ええ……。ただ……」
「ただ?」
「あの……須坂さんにお話したいことがあって」
「ほう」
静枝は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干した。
木更津から富津の工場まで車で三十分あまりかかる。
道路工事でもやっているのだろうか。道は思いのほか込んでいる。須坂は右頬に傾きかけた日射しを受けながらゆるゆるとハンドルを操った。体の芯《しん》に力が入らない。体重が軽くなったような気がする。
――これでいいんだよな――
と、薄笑いが頬に浮かぶ。
静枝はコーヒーをきれいに飲み干してから視線を伏せたまま一気につぶやいた。
「実は……今度……結婚することになったの。半年ほど前に知りあったかたなんですけど」
一瞬、須坂は軽い眩暈《めまい》を覚えた。下腹に力を入れて必死に意識の平衡《へいこう》を保った。
――いい大人が、みっともないぞ――
体重が軽くなったのは、あのときから……。ずっと続いている。
「そう。それはよかった。おめでとう」
とにかく笑って祝辞を告げた。
静枝が申し訳なさそうに告げたのは、とりもなおさず須坂の気持ちを知っていたからだろう。それを承知のうえで須坂に言うのは静枝の決意がゆるぎないからだろう。
「日取りは決まったのか? どんな人?」
「九月三日です。公務員で、同い年の人」
静枝は顔をあげて恥ずかしそうに笑った。しかし表情の奥には幸福が漂っている。女はこの瞬間に美しい。そこまで知れば、須坂はもうなにも言う必要がない。
「九月か。暑いね、まだ」
「あ、そうですね。出席してくださいます?」
「いや、俺は出ないほうがいいんじゃないかな。会社の上役ってわけじゃないし」
あとは残務整理のような、とりとめのない会話が続いた。今夜、会うのも適当ではあるまい。
「さて、俺は行かなくちゃあ」
大げさに腕時計を見た。
「いろいろとすみません。これ……」
さし出した長い袋は多分ネクタイだろう。別れの挨拶のようなもの……。
「ありがとう」
「困ったことがあったら、またご相談します。いいですか」
「いいよ。家のほうに電話をして。じゃあ、さよなら」
手を振って別れた。
――彼女くらいの人なら、俺よりずっといい相手がいて不思議はない――
五十男の後妻じゃかわいそうだ。須坂は年甲斐もなく愚かな夢を見ていたらしい。
渋滞を抜けると、工場が見えた。
駱駝《らくだ》みたいな丘陵の、低いほうの中腹に建っている。新建材を使って組立てた粗末なもの。これ以上安い建物はない。撤去するより放置しておくほうが金がかからない。いずれまた作業を開始するときがあるのかもしれないが……。
工場の玄関には、すでに十数人の女たちが集っていた。ほとんどが地元に家庭を持つパートタイムの人たち。彼女たちに今後のことについて最後の指示を与え、挨拶をすまし、形ばかりの手じめをする約束だった。するめにコップ酒。漁村の女たちも混って、すこぶるたくましい。
須坂の音頭《おんど》で手じめを打ち、それで解散。荷物を車に積んでいると、
「工場長はどうなさるね」
と帰りかけた女たちが尋ねる。
「俺はもう少し事務が残っている。最後は俺が板を打って閉めるから。もういい」
きっぱりとした口調で告げた。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
「この近くに来るときがあったら、狐のすみかになっていないか見てくれよ」
「はあ」
ペコンとお辞儀をして三々五々降りて行った。
須坂は一人残った。
事務が残っているわけではない。たった一人で工場に別れを告げたかった。
ドアを閉じ、鍵をかけ、一礼をしてから三枚の板を釘で打ちつけた。工場を一周し、少し離れて全景をながめ、それからふと思いついて細い道伝いに、もう一つの丘に向かって歩いた。
その丘のてっぺんからは浦賀水道が真下にうかがえる。工場に来たばかりの頃は、よくそこに立って海をながめた。潮の動きを見ながらさまざまなことを考えた。多くは、つらいこと、苦しいことだった。考えて、忘れるために海を見た。
――しばらく行ったことがなかった――
丘に登ると、なつかしい景色が広がっている。海は西日の中で赤く輝いていた。海峡のまん中に黒い船が浮いている。
――軍艦かな――
はっきりとはわからないが、それらしい船が一つ浮いている。
またしても遠い記憶が甦って来た。忘れてはいたが、思い出そうとすれば鮮明に映る一つの場面……。これは兄の記憶と繋っている。
昭和二十年の、多分この季節だったろう。
新潟の海だった。須坂は家族と一緒に新潟に疎開していた。
あの日、海には一隻の駆逐艦《くちくかん》が碇泊していた。前後の事情はよくわからない。当然空襲警報はかかっていたのだろうが、岸のほうは安全だった。たった一隻の駆逐艦めがけて敵の戦闘機が何機も襲いかかる。駆逐艦も反撃する。すさまじい光景だった。須坂が……岸壁にいる人のほとんどが、初めて見る本物の戦闘だった。
しかし駆逐艦の運命は眼に見えている。援軍はけっしてやって来ない。文字通りの孤軍奮闘だ……。船は中から燃え始め、傾き、沈んでいくのがわかった。水兵たちはボートをおろして逃げようとするが、そのボートにまた攻撃が加わる。海に落ちても、なお機銃掃射が降る。わずか数百メートルの海が渡れない。
司令塔に人影が一つ立っていた。黒い影でしかなかっただろうが、たしかにその姿が見えた。
――敬礼をしている――
微動だにしない。船が傾いても同じ姿勢で立っている。駆逐艦は沈没の速度を速め、ぐらりと回転するように揺れて消えた。その瞬間まで黒い影は立ち続けていた。
どこまでが本当に子どもの目で捕らえた風景だったのか、わからない。しかし須坂はたしかに見た。海に消えて行く軍艦と、おそらく艦長であっただろう人の姿を……。その光景が一枚のゆるぎない絵として脳裏に刻みこまれた。
それが今ふっと心に甦って来た。
――自衛隊の船かな――
ながめているうちに眼下の浦賀水道は暮れ始めた。赤の色が黒に変る。船は動かない。甲板には人の姿もない。とても静かな夕暮れだ。
須坂はふりかえった。
低い視界に閉鎖した工場が見えた。これも静かにうずくまっている。
須坂は体をまわし、廃屋に向かってまっすぐに対峙《たいじ》して掌をあげた。背筋をピンと伸ばして、
――敬礼――
いつまでも、いつまでも、黒い影法師となって立ち続けていた。
夜を焦がす火
――すごい。危くないのかしら――
西の窓を開けると、工場地帯の高い煙突が一本だけ見えた。黒い筒は絶えまなく炎を吹きあげ、火はちぎれた旗のように踊って夜を焦がしている。一瞬ごとに姿を変えてさまざまな模様を描く。
引越して来たその夜にも、早苗《さなえ》は輝く火を見たはずだが、しみじみと眺めたのは三、四日たってから……。夫の帰宅の遅い夜だった。
部屋は高層マンションの七階。眼下に高速道路が延び、低いビルが続き、左隅に工場地帯のほんの一画だけがうかがえた。煙突のむこうはきっと海だろう。
しばらくはわれを忘れて見入っていた。火の色がこんなに美しいとは……。息を詰め、いつしか息苦しさを覚えるほどの美しさだった。
――なにかに似ている――
そう思ったが、すぐには思い浮かばない。
そのうちに、記憶の中のなにかと似ているのは、炎の形や色ではなく、めらめらと夜空を焦がして揺れている不思議な妖《あや》しさ、それが人間の心の作用と通じているから、と気づいた。もし熱い心の状態をそのまま風景に表わしたら、きっとこんなにでもなるだろう、と早苗はぼんやりと考えた。
「でも」
と、戸惑ってしまう。
思い返してみても早苗は、そんな気持ちを抱いた覚えがない。
夫の順二郎とは、知人の紹介で知りあった。結婚を決心したのは、桜の花びらがほろほろとこぼれる公園だった。青空の美しい日だった。花の下を歩きながら空を見あげると、薄桃色のむこうに澄んだ青が映っている。
――桃色と青って、意外と、よくあうのね――
そんなことを思った。
その日はとても穏やかな日和で、一生こんなふうにのどかに生きて行きたい、と考えた。そのことをよく覚えている。
わるい縁談ではなかっただろう。順二郎はまちがいのないエリート。人柄も家庭環境もみてくれも、大きな欠点はなに一つとしてない。
「さっちゃん、やったじゃない」
結納《ゆいのう》の日に叔母が大仰《おおぎよう》に叫んでいたが、その通りの結婚相手だった。
早苗も若かった。
しばらくは十歳年上の夫に憧憬のような畏怖を抱いた。その感情は今でも続いている。
二年たって美可《みか》が生まれた。
順二郎の海外勤務があり、早苗は実家に帰って美可を育てた。夫婦がべつべつに暮らしていたのは、このときだけなのだが、現実には同じ家に住んでいても、順二郎はひんぱんに出張を繰り返している。海外勤務のときと、そうは変らない。娘を育てながら、時折帰って来る男を待っているような、そんな生活が普通の形になった。
いつのまにか十年がたっていた。夫にはどこと言って大きな落ち度はない。ただいそがしいだけ。会社の事情と夫の立場を考えれば、そのいそがしさも仕方ないもののように思える。
――みんなこんなものなのかしら――
心のどこかに小さな穴があるように感じた。
美可ももう小学生。年ごとに手がかからなくなる。夫の世話もたいしたことがない。むつかしい血縁者はいないし、収入もそこそこにある。穏やかな日和で暮らしたいと、そう願ったことは一応|叶《かな》えられているだろう。
ただ、どこかにちょっと濁った部分がある。穏やかな生活の中には、もの足りなさも穏やかに忍び込んで来るのかもしれない。どこがどう不足なのか、早苗自身、指摘するのがむつかしい。
――違うわ――
風の向きが変ったのだろうか。右になびいていた炎が、まっすぐ上に立つ。それからあわただしく左に傾く。そのたびに黒味を帯びた赤の色から白く輝くオレンジへと移る。
記憶をどうたどってみても燃えさかる火のように心が昂ぶったことはない。
体が小刻みに震えているのがわかった。
車のブレーキが響く。あの音はマンションの玄関のあたりから……。だれかが帰って来たのだろう。
――主人かしら――
エレベーターのボタンを押して、ドアが開き、エレベーターが昇り始め、ふたたびドアが開き……耳を澄ましたが、靴音は聞こえない。ブザーは鳴らない。どこか他の家だったのだろう。
振り返って柱時計を見た。
もう深夜に近い。昨夜も順二郎の帰って来たのは一時過ぎだった。手荒く背広を脱ぎ、崩れるように眠ってしまう。
早苗は窓辺を離れ、障子を開けて美可の部屋をのぞいた。寝顔があどけない。ふっと笑いが浮かぶ。とりとめのない会話を思い出した。
「あなたの寝顔に似てるわ」
「そう言われても困る。外国じゃ浮気をした奥さんが夫にそう言うそうだ」
「どういうこと?」
「似てると言われたって、寝顔は自分で見ることができない」
「ああ……」
少し考えて意味がわかった。
早苗は順二郎のほかだれも男を知らない。夫もまさか疑っているわけではあるまい。
美可がよく眠っているのを確かめてから早苗はまた窓辺に立った。
――似ている――
小説のヒロインに、映画のヒロインに、自分の心を同化させたことがあったのではないかしら。そうならば、夜の火のように熱く燃えた魂も、きっとあったにちがいない。
――たしかフランスの映画……不倫の恋――
場面のいくつかが脳裏に浮かぶのだが、題名は思い出せない。
夏目漱石のそれから≠思ったが、これは最近映画を見たせいだろう。激しい情事が描かれていたわけではないけれど、時代の古さを考えれば、ヒロインの魂はずいぶん熱くたぎっていただろう。
火はなおも燃え続けている。夜通し燃え続けている。いつも欠かさず見ているわけではないけれど、見るたびに燃えているようだ。
――そうかな――
思いめぐらしてみると、燃えていない夜もあったような気がする。四六時中じゃ煙突のほうだってたまらない。たわいのない思案を揺らしながら早苗は、あかずに火の色を眼の奥に映していた。
カタン。
郵便受けが鳴ったように思った。
――今日あたりきっと返事が来るわ――
早苗は洗濯で濡れた手を拭いながら玄関をのぞいた。ドアの内側に郵便受けがある。
予測は当たっていた。
ダイレクト・メールや公共料金の振込み通知に混って横書きの封筒が落ちていた。裏を返すと、野中武雄と右肩あがりの名前が読めた。
――こんな字だったかしら――
特徴のある字体が初めて見るもののように映った。
封を切る。立ったまま読み、そのまま膝を落としてもう一度読み返した。
なつかしいお手紙ありがとう……何度か思い出しました……相変らず博物館に勤めています……そう、おっしゃる通り家はそう遠くありませんね……僕もお会いしたい……いつも月曜日が休みです……お電話をください……
いくつかの文章を一つ一つなぞるように確認した。
夫の勤務が博多の支社から東京本社へと変り、このマンションを新しい住所と決めたときから、
――野中さんの家の近くらしい――
と思っていた。落ち着いたら手紙を書いてみようと思っていた。
それを実行したのが、四日前。手紙を書けば当然返事を待つ心境になる。このところずっと野中のイメージが頭のすみにあった。
野中とは、早苗が博物館へアルバイトに行ったときに知りあった。早苗のほうは、まだ女子大生で、博物館の年寄くさい職員たちの中で野中だけが若かった。
とてもやさしい人。とても話のおもしろい人。
「この男の人のミイラは、紀元前六〇〇年頃のものですね」
「そうなんですかあ」
「こっちの女の人は、紀元前五九〇年くらいかな」
「ずいぶんこまかいところまでわかるんですのね」
「いえ、同じときに発見されたんですけど、女の人のほうを少し若く言ってあげたほうがいいから」
「嘘ばっかり」
野中は眼を細くして笑っていた。
休み時間によくコーヒーをご馳走になった。アルバイトが終ってからも何度か誘われて、会った。
――恋だったのかしら――
世間にはけじめのはっきりしないことがたくさんある。人はいつから恋人になるのか? いつから人は老人になるのか?
手を握りあいながら公園を歩いた。木陰で唇を求められ、顔をそらし、頬に熱い感触を覚えた。恋だとしたらとても未熟な恋だったろう。
――嫌いな人じゃなかったわ――
もっとうまくいく可能性もあっただろう。
人生には、ほんのちいさな小石のせいで針路の変わるときがある。早苗も幼かった。野中のほうも、
「この給料じゃ嫁さんなんかもらえんよ」
煮えきらないところがあった。
そのうちに今の夫との話がとんとんと進んだ。こちらはとても積極的だった。まちがいなくよい縁談だった。たしかな話だった。
早苗の中に心残りがなかったわけではない。一つは、恋らしい恋も体験せずに結婚をしてしまうことに対して……。もう一つは、野中武雄という存在に対して……。まだ読み終らないうちに手もとから消えてしまった本みたいに淡い失望が残った。
――武雄だなんて……ちっとも猛々《たけだけ》しくないじゃない――
結婚の挨拶状を送り、あとは年始状を交換する程度の関係が細く続いた。
けっして忘れきっていたわけではない。さびしいときには時折、引出しのすみから取り出すように思い出してみた。夢の中にも野中は鮮明に登場する。そして誘いかける。とりわけここ数年はそんなめにあって驚かされた。
――嫌ね、すっかり恋人気取りで――
野中はいつもその役割だ。目ざめたときに笑いが浮かぶ。すると、自分でもわけがわからないほどのなつかしさが胸にあふれてきた。
ご無沙汰しておりますが、お元気でいらっしゃいますか。実は、夫の転勤で、急に東京に戻ることになり……
野中の住所が、早苗のマンションからそう遠くないことを理由にして手紙を書いた。宛名には博物館の住所を記した。野中も結婚をして、たしか幼い子どもが一人いるはずである。
早苗としては控えめに書いたつもりだったが、なにほどかの熱さは文と文とのあいだに滲《にじ》んでいただろう。野中からの返事にも同じ熱さが見え隠れしていた。
――電話をかけよう――
手紙の末尾には博物館の電話番号が書いてある。ダイヤルをまわせば野中の声が聞こえるだろう。なんの不思議もない。それが電話なのだから。電話の前に立ったが、ためらいがある。
――すぐに電話をかけるのは、はしたない――
そんな抑制心が働く。とりあえず洗濯を終らせなくちゃあ……。
しばらくは野中のことを思いながら家事を進めた。台所もかたづき、洗濯物も乾燥機に投げ込んだ。午後には美可も学校から帰って来るだろう。野中のほうも十二時から一時までは昼休みに入るだろう。
ダイヤルをまわしたのは、十二時少し前だった。
「もし、もし、野中です」
声にははっきりと記憶があった。奇妙なことに、このまま電話を切りたい衝動を覚えた。しかし、それも失礼だ。意味がない。
「もし、もし、池永です」
「ああ、久しぶり。お手紙ありがとう。なつかしかったなあ。僕の返事届きました?」
「はい、いただきました」
「そう。本当に久しぶりだねえ」
「お元気でいらっしゃいますか」
「ええ。相変らず。いつ東京へ戻ったんですか」
「えーと、もう三ヵ月になるのかしら」
「そう。で、お子さんは?」
近況を尋ねあった。野中も三十五歳になったらしい。
「会いましょうよ」
野中のほうが誘った。
「ええ。よろしいんですか」
「もちろん。いつがいいのかな」
「普通の日のほうが……」
「勝手を言えば、月曜日がいいんだ。月曜ならば、どの時間でも」
手紙にもそう書いてあった。
「じゃあ午前中。変ですか」
「いいですよ。そのほうがいいもんね」
「はい」
「来週の月曜日。急かな?」
「かまいません」
「善は急げだもんな。どこにしよう? 駅の東口、改札を抜けたところ」
「はい」
「十時くらいでは早いのかな」
「早いほうがかえっていいの」
たくさん会っていられるから……とまでは言わない。
「わかった。楽しみにしているよ。じゃあ、そのとき」
「はい、さようなら」
電話を置くと、動悸が激しい。
カーテンを開けて深呼吸をした。
――善は急げだなんて――
少なくともこれは善≠ノ属するものではないだろう。視線を伸ばすと、垂れ籠《こ》めた灰色の雲を背景にして朱色の火が燃えていた。
春の到来を、告げる日だった。
「やあ」
「すぐにわかったわ」
改札口で野中と会い、足の向くままに多摩川べりまで歩いた。
この道筋でも、話題の大半は二人の近況と十年の変化だった。野中は眼を細めて、少年のようにあどけなく笑う。表情には昔のままの癖がよく残っていた。
「少し太った?」
「そりゃ太るよ。以前と比べれば五キロは多い」
「私も。厭になっちゃう」
「ぜんぜん変らないよ」
川土手を下り、水辺まで行ってみた。腰をかがめ、水を掬《すく》った。まだ冷い。立ちあがって水の行方を眺めた。
「やっぱり流れているのね」
「そりゃ流れているさ、川だって、時間だって」
「本当ね」
「ボートに乗ろうか」
「時間がないみたい。戻りましょ。御飯でも、どうですか」
「いいよ」
繁華街に戻り、中華料理店でそばをすすった。それからコーヒー店へ。花壇に囲まれたカフェテラス。二時までに帰ればいいだろう。
残り時間が少なくなるにつれ、胸をしめつけられるような重苦しさを覚えた。
――会ってよかった――
なつかしい。楽しい。
だが、かすかにもの足りない。無駄な話ばかりしている。もっと大切な話が……それがなにかわからない。もどかしい。
「過去しかないのかな」
苦笑いを浮かべながら野中が呟く。
そう、たしかに二人はさっきから過去の話ばかりしていた。
「ええ……そんなみたいね」
「また会えますね」
男の眼の中に欲望が宿っている。そう見えた。
「ええ」
眼を合わせたまま女も同じ程度の欲望を輝かせて答えた。
「来週?」
「ええ。今日と同じところで、同じ時間に」
「わかった」
それが二人の習慣となった。
「夜は無理だろうか。ゆっくりお酒でも飲みたいな」
デートを重ねるうちに野中が呟いた。朝の出会いはあまりにも明るすぎる。わだかまりを背負った二人には、夜のとばりと酒の酔いなどがふさわしいように思えた。
「ええ。考えるわ」
機会はすぐにやって来る。美可が早苗の実家へ泊まりに行くことになった。そう仕向けたところもあった。順二郎は折よく出張中。
「ママはクラス会があるの。一人で行ってごらんなさい。頑張って」
なによりも娘を送り出すときに胸が痛んだ。
――いけない母親ね――
でも、なにかしらふっ切らなければ、どんな小さな冒険だってできやしない。美可のうしろ姿を見送りながら早苗は頭を振った。なにかを忘れるように、思い切るように……。
それから、化粧を整えて家を出た。都心に出て銀座の夜を楽しむ計画である。折あしく電車の事故にあった。苛立ちと逡巡。しかし事故はすぐに収まる。約束の時間に少し遅れてしまった。
「ごめんなさい」
「心配したよ。本当に来れるのかなあって思って」
瀟洒《しようしや》なレストランでワインを飲んだ。酔いがさまざまな屈託を薄くした。
――何年ぶりかしら――
夜の街を歩くとビルの明りが美しい。放恣《ほうし》な心を掻きたてる。タクシーを止め、知らない道を走って重いドアを押した。
「これがディスコなの」
「そう。少し流行遅れだけど」
いくつもの光が点滅し、一瞬ごとに色と模様を変える。体の奥底にまで否応《いやおう》なしに響いて来る音の群れ。しばらくは眺め、見よう見まねで踊ってみた。野中は思いのほかうまい踊り手だ。ともすればいやしくなりそうな踊りを、少し古風に、そのぶんだけ品よく踊る。
「うまいのね」
「そうでもない」
踊る姿が鏡に映り、消えてはまた映る。酒の酔いが魂の酔いに変った。
ふたたび外へ出て夜の街をさまよい歩いた。
「そんなにめずらしいですか」
「ええ。だって、こんな時間に遊び歩いてることなんか、なかったですもん。東京もきれいになったのね」
いつのまにか腕を組んでいた。どれほど歩いたのだろう。地下鉄から京浜線へと乗り継いで帰路についた。微酔を帯びた乗客たちの人いきれさえもが早苗の心を昂ぶらせた。
「なんだか夢みたい」
「夢かもしれないよ」
「本当に。送ってくださる?」
「いいよ」
駅からは裏道を通ってマンションまで。引越して来て間もない町だが、どこに知人がいるかわからない。
もう十一時……。
心の酔いは続いている。別れづらかった。
――この人は、いつもいい人だったわ。どのようにでも形を変えて私を包んでくれるの――
近所の喫茶店などではかえってひとめにつくだろう。
ためらいのあとで早苗が呟く。
「ちょっとお茶を飲んでいらっしゃらない?」
「いいけど……いいの?」
「ええ」
玄関からエレベーター。エレベーターから家のドアまで。二人は間隔を置くようにして急ぎ足で歩いた。だれにも会わなかった。
「どうぞ。汚れているけど」
「いいマンションだね」
「少し狭いの」
部屋に入ってからは、どう抑えようとしても動悸が静まらない。胸が重く、息苦しい。
――夫は鍵を持って行かなかった。万一帰って来るとしても、きっと先に電話をかけてよこすだろう――
そう確信しても重苦しさは収まらない。何度も深呼吸をした。ブランディ・ティを作った。
「とてもおいしい」
「ええ」
テレビもうとましい。
話もあらかた尽きてしまった。
急に言葉が途絶えた。
唐突な沈黙のあとで男が肩を抱く。そして抱き寄せた。
女は抗《あらが》った。
――いけないわ――
そこまで覚悟ができていたわけではない。
だが、もう二度とこんな機会はやって来ないだろう。美可が泊まりに行くことなんか本当にめずらしい。早苗が一緒に行かない口実を見つけるのもむつかしい。いつもクラス会ではおかしいし……。順二郎は出張の多い立場だが、きまって留守とは限らない。
「あなたを忘れられなかったよ」
「ええ……」
男はしっかりと抱きしめる。
女は首を振りながらも抗いを弱める。しばらくはぎこちない抱擁が続いた。
女が立ちあがり、あかりを消した。
――わからない――
どうしてこんなことになったのか、体がドロドロに溶けている。頭の中の、意地悪い部分が、たしかに抱かれましょう≠ニ唆《そそのか》している。それが信じられない。
カーテンは閉じていた。
だが、早苗の眼の奥で赤い火が、夜を焦がして燃え続けていた。
不思議な感覚だった。
性の喜びは、これまでにも感じたことがあったけれど、野中に抱かれた夜は、なにもかもが狂っていた。脳裏に奇妙な絵が浮かんだ。人間の体。女の体。でも体は皮だけで、中は白波の立つ海だった。ルネ・マグリットの絵みたいに……。いくたびも、いくたびも波が繰り返して押し寄せて来る。女体は、波の方向もわからぬほどに乱れ狂った。
声をあげた、と思う。
遠い声。本当の自分がどこかにいて、それが叫んでいる。闇の中に糸を引いて響いた。意識があれほどおぼろになるとは信じられない。歓喜があれほど激しいとは信じられない。野中は明けがたに帰った。
寂寥感と後悔が残った。それとは裏腹に新しい自分を発見したような満足感もあった。
――もうこれっきり――
そう思いながら、これっきりでは終れそうもない自分を早苗は感じていた。
――のめりこんだら、ろくなことがないわ――
その判断はあったけれども……。
野中からはすぐに電話がかかって来た。
「とても楽しかった」
「本当。あたしも」
「また近々会いましょう」
「ええ……でも、いろいろとよくないみたい」
「そう、後悔してるの?」
「後悔って言うより……なんだか厭なの。いつか説明します」
「とにかくまた会おう。来週にでも」
「少し考えるわ」
何度も誘いかけられ、もう一度美可を実家へ泊まらせた。一つの情事のためには、たくさんの嘘をつかなければいけない。虚構を組み立てなければいけない。そんな計画を一つ一つ実行している自分がうとましかった。
女体は同じように蜜の喜びを味わったけれど、釈然としないものは、さらに強く早苗の中に残った。
――男は気楽なものね――
野中はとても都合のいい関係を手に入れて歓喜しているのだろう。言葉はわるいが、すてきな玩具を見つけて手放したくないのだろう。
春が深まり、たくさんの花が咲き、夫が課長に昇進した。お祝いに家族三人で横浜まで行って食事をした。夜は久しぶりに夫に抱かれた。
「家のことも考えてくださいね」
「家のこと? ああ、考えてるよ。しかしいそがしくてなあ」
夫はすぐに寝息をたてる。早苗は厭《いや》でも野中のことを思ってしまう。
――あの歓喜はなんだったのかしら――
とりとめのない想像をめぐらした。トランクの中に札束がいっぱい入っている。開いて使えば、たくさんの喜びを味わうことができるだろう。でもトランクは簡単に開かない。早苗は開けようともしない。いつか開くことだけを考えて、じっと待っている……。
小用に立つと、煙突の火があかあかと燃えていた。
野中の誘いは断り続けた。
――行ってみよう――
一ヵ月たって、ある朝、ふいに野中の住む家を確かめてみようと思った。野中が勤めに出ている留守に……。
――なんのために――
わからない。ただの好奇心……。あるいは、生理的な勘のようなものだったかもしれない。住所を頼りに地図を見た。あとは行ってみればわかるだろう。
空いっぱいに青の色が広がっている。風も心地よい。青葉が若々しい緑を映して輝いていた。
二駅だけ私鉄に乗って、野中の住むアパートはすぐにわかった。公園と隣りあわせのビル。緑には恵まれているが、建物は少し古びている。
三階建ての公務員住宅。その二階の五号室。長い廊下の両隅に階段がある。一つを昇って一つを降りた。途中で野中≠ニ記した表札を見た。
もう一度ゆっくりと階段を昇って廊下へ戻ったとき、背後で五号室のドアが開いた。
胸が高鳴ったが、野中であろうはずがない。子どもを抱いた女だった。階段の踊り場ではっきりと顔を見た。女は、
――だれかしら――
とばかり視線を止めたが、すぐにそのまま立ち去る。女は少女のようにあどけない面差《おもざ》しだった。
――季節なら春――
今日の空のようにうららかな表情だった。きっと不幸がよけて通って行くタイプにちがいない。
アパートの敷地に大きな泰山木《たいさんぼく》が枝を広げ、まっ白い花が五つ、六つ咲いていた。
とても美しい。
とても大きい。
早苗は時間を忘れて花と、その上に広がる空を見つめた。
――一生をこんなふうにして生きて行きたい――
わけもなくそう思った。泰山木の花のような生涯とは、どんな生きかたなのか。それもよくわからないまま、ただそう思った。
息を吸うたびに花の匂いが強く薫《かお》る。花びらを一つ拾い、ハンカチに包んで帰った。
夕刻また野中から電話があった。
「会いたい」
「ええ、いつか。来年くらい」
「どうしたんだ?」
「べつに」
電話を切った。泰山木の匂いが、部屋のどこかに隠れている。
何年かたって、今の気持ちを野中に説明するときがあるだろう。現実には、そんなときはないのかもしれないが、その日の場面が鮮かに早苗の心に浮かんだ。コーヒー店のカフェテラス。そばに泰山木の花がたわわに咲いている……。
夕食後は美可を連れて花を買いに出た。美可は色のきれいな花がほしいと言う。オレンジ色のポピイに、白いポピイを少し混ぜてもらった。
美可はとても聞きわけのよい子。頭も賢い。
「おやすみなさい」
時間割をそろえ、枕もとにランドセルを置いて眠る。
夜更《よふ》けて風が出た。今夜も順二郎は遅いだろう。
――消えないのかしら――
カーテンを開けると、煙突の火が今夜も空を焦がして飛ぶように乱れて燃えていた。
いつの間にか夜明け
「先生、景気はどうですかね」
カウンターのむこうから声がかかった。L字形のカウンター。左四十五度のあたりに眼尻の垂《た》れた赤ら顔がいる。この店でよく見る顔だが、名前は知らない。
「いいわけないでしょ」
佐伯は面倒くさそうに答えた。
先生と呼ばれて、すぐに自分のことだと納得できるまでに何年かかかった。今でもまだなじめない。少し馬鹿にされているような気がする。
「円高のせいかね」
「関係ないんじゃないですか」
酔っぱらいの話相手になるつもりはなかった。そんな気分を、むかいに立ったミドリがいち早く察知して、
「これから仕事をするんでしょ」
と尋ねる。そのことを充分に知っていながら聞いているのだ。
「ああ、ちょっとね。二時過ぎまでかな」
佐伯も口裏をあわせる。ミドリの視線が意味ありげに揺れてから、
「大変ね」
と、気のない声で呟いた。
東中野の繁華街。サン≠フカウンターにはママとミドリがいる。二人とも気さくで、器量は上の下くらい。勘定の安いせいもあって、よくはやっている。二人の印象が似ているのでだれもが姉妹かと思うが、そうではない。なんの関係もない他人同士と、佐伯もしばらく通いつめて教えられた。
「どうしてサン≠ネんて名前をつけたんだ?」
赤ら顔は今度はママに話しかけている。酔うと言葉がぞんざいになるのがよくない。
「いいじゃない。いつも心に太陽を……」
「サン≠セけならいいけど、ここは酒場だろ。バーサン≠ワ、いいか。ママもそう若くないしな」
ママは三十五、六。ミドリは三十二。まだまだ若いが、この手の店では三十を越えると客の悪口がきつい。
「十時か。行くかな」
佐伯が時計を見て呟く。ママが耳ざとく聞きつけ、
「あら。もう一ぱいだけどう?」
と勧めたが、
「いや、これから一仕事あるんだ」
残りの水割りを飲み干して席を立った。
「ありがとうございます」
ミドリがママの様子をうかがい、動きのないのを見てからドアの外まで送って来た。
「またお近いうちに」
声高に告げ、それから小声で、
「じゃあ、あとで」
と言う。佐伯は大仰《おおぎよう》に投げキッスをして背を向けた。
マンションまで歩いて五分足らず。案の定、郵便受けに厚い茶封筒がさし込んである。留守のあいだにお使いさんが来たのだとわかった。
佐伯の仕事は雑文稼業。原稿用紙にペンを走らせることなら、ほとんどなんでもやる。一昔前にシナリオ作家を志して教科書会社を罷《や》めたが、もうひとつうまくいかない。
次の誕生日が来れば、四十歳になる。家族がないのだから気楽なものだ。シナリオ作家にはなれそうもないが、今の生活に大きな不満はない。
今夜の仕事は週刊誌のアンカー。数人の取材記者が集めたデータ原稿を読み、それを材料にして指定の枚数にまとめあげる。それが週刊誌の記事になる。データ原稿が届くのはいつも遅い。ゆっくり読んで一時間、まとめるのに四、五時間。明日の昼までに仕上げればいい。サン≠ェ終ったあと、ミドリが訪ねて来る約束だった。
男と女の縁なんか、どこに転がっているかわからない。サン≠ノ行くようになったのは、ほんの半年ほど前のことだ。行きつけのやきとり屋が臨時休業で、仕方なしにスナック風の店を捜してのぞいた。まだ早い時間で、ミドリが一人でサラダを作っていた。
「ママ?」
「ううん、ちがうの。ママはもっと美人よ」
「あなたもすてきだなあ」
そんな会話で始まった仲だった。親しくなってから、ミドリは、
「初めっからお世辞がいいんだから……。危険な人だと思ったわ」
と口癖のように言う。
危険なものを待つ心がミドリの中にあったのかもしれない。
店に行くようになって間もなく、新宿の本屋で偶然会い、コーヒーを飲み、約束をして映画を見た。ママには内緒の関係だった。
どういう素姓の人か、佐伯もまだよくは知らない。身寄りは少なく、母親と暮らしている。結婚は……多分したことがないだろう。同棲、これはいくらか体験があるかもしれない。
「どこかへ連れてって」
「どこへ?」
「どこでも」
先週、休日を利用して奥日光へ行った。そこで初めて体を交えた。まだ始まったばかりの関係。行く末のよしあしはわからないが、今が一番よい時期であることはまちがいない。
体の特徴もまだよく覚えていない。顔だって、眼を閉じると、すぐに浮かぶかどうか。ずいぶん親しい人でも、さてとなるとうまくイメージの結べないときがある。ミドリは穏やかな、特徴の少ない面差しだから余計にむつかしい。
二つのち≠フ字だけはおぼろげながら記憶している。乳房と恥毛。一つは堅くて、小さい。しかし、よく感じる。もう一つは細く密生し、黒い短冊《たんざく》のような印象だった。今夜また少し記憶をたしかにするだろう。
「さーて」
声をかけて自分を励ます。机の前にすわってしまえば、仕事はさほど厭ではない。とりわけ今夜みたいに女が訪ねて来るとき……それまでの時間は能率があがる。すてきな時間が待っていると思えば張りあいもある。ご褒美《ほうび》をいただくためには、人は一生懸命働かなければなるまい。
茶封筒を切って、乱雑に書かれた原稿を取り出す。きれいな字、汚い字。字の巧拙《こうせつ》は問わないが、どうしてこう読みにくい字があるのか。まるで読まれることを拒否しているみたい……。
テーマは自殺。たて続けに自殺があった。あるエリート課長の自殺、女性タレントの自殺。通常のモラルで裁断してはつまらない。新しい自殺観。「あれは自殺菌のせいなのです」とかなんとか、そんなタッチがいい。これはすでに編集長と打ちあわせのできていることだった。
まず事実関係のデータを読む。エリート課長のほうは原稿もきれいだが、幼いタレントのほうは記者の字まで幼く、誤字がある。
――適材適所なのかなあ――
などと馬鹿らしい思案が浮かぶ。
自殺についての識者の意見が五つ。最新の統計資料が一つ。これは結構ページ数が多くて、全部理解するのが厄介だ。
雑誌の読者は、取材をした当人が原稿を書くものだと思い込んでいるだろう。たいていの場合はそうだが、最後のまとめ役、つまりアンカーが書いている記事もこの世界ではけっして少なくない。
ろくに文章がかけない記者がいるから。そういう連中を走らせるほうが人件費が安くてすむから……。
もとより記事というものは取材した当人が書くのが一番いい。それが当然であり、精度も高いはずだが、アンカー制度にも多少の長所はある。
取材をした人は、自分の取材した対象にこだわりがある。愛着があったり反感があったりして、なにかしら思い入れが残っている。
アンカーはそういうことに関係なく、どれを取捨選択すれば記事がバランスよくまとまるか、おもしろくなるか、それを拠《よ》りどころにして書く。週刊誌などでは、これが重宝だ。
――正確であるより、おもしろく、読みやすく――
佐伯はそのこつをよく飲み込んでいる。
タバコは何本喫ったかわからない。途中でコーヒーを沸かした。データ原稿に縦横無尽に赤線を引き、番号を打ち、その順序にしたがって記事を書く。一ぺージに原稿用紙四枚が入る。六ページの特集は二十四枚前後にまとめればよい。
六枚目を書きあげ、七枚目に入ったときブザーが鳴った。
「早かったじゃないか」
「お仕事はかどりました?」
ミドリはうしろ手でドアを閉じる。答えるより先に首筋を抑えて唇を奪った。アルコールが少し匂う。
「順調だ」
「続けてらして」
「いや、少し休む。そのつもりで今まで頑張ったんだ」
「そう。じゃあ飲みたい」
「なにがいい?」
「ビール」
「おつまみは、さき烏賊《いか》くらいしかないぞ」
「うん。それでいい」
佐伯は駅の売店へ行って、おつまみをいつも山ほど買って来る。それを肴《さかな》にしてビールを飲む。佐伯の深夜の小休止だった。
デスクの脇に低いテーブルがある。ミドリは絨毯の上にペタンとすわる。コップもおつまみも佐伯が用意した。
「ご苦労さん」
「カンパーイ。おいしいわ」
ミドリは少し酔っている。眼もとが少し赤く染まって艶《つや》っぽい。
「さんざん飲んだんだろ」
「ううん、飲まないよ。お店じゃセーブしてんの」
「本当かよ」
「もう一ぱい、ちょうだい」
ミドリはアルコールに強いたちではない。男の住む部屋に一人でやって来て、照れ隠しをしているのかもしれない。
佐伯のほうだって、何時間も前からずっと楽しみにしていたお客の到来だった。現われた瞬間から抱きたくてたまらない。
ビールを注ぎながら肩を引き寄せた。
ミドリは一気に飲み干して崩れる。
「サーさん、好き」
「俺も好きだよ」
唇が重なる。舌がからみあう。
男の手が待ちきれないようにブラウスのボタンをはずし、ブラジャーのホックを解く。乳房は小さいが、乳首は大きい。背中のほうから抱え、羽がい締めにして乳首を指のあいだに挟んだ。
ミドリの息が荒くなる。
「明るい」
と抗議をするが、あかりの下を本気で嫌っているようには見えない。抱きあうたびにミドリは少しずつ大胆になる。均整のよくとれた、美しい裸形だ。とりわけウエストのくびれが際立《きわだ》っている。キュッとくびれて、その下は白い桃のようにふくらむ。
ブラウスを奪い、スカートを剥《は》いだ。
「自分で脱ぐうー」
あらがうのを委細かまわず押さえて残酷にむく。そうでもしなければ、ずっと待ち続けていた欲望のバランスが取れない。
「きれいだよ、本当に」
中途半端に下着をつけているより、女は生まれたままの姿のほうがずっと美しい。
「シャワー……」
荒い息の下で嘆願するように呟くのだが、今夜はそれも許したくない。
「駄目。このままキスさせなくちゃあ」
佐伯も一気に服を脱ぐ。
そしてあかりの真下で絨毯をベッドにして汗ばんだ女体に激しい愛撫を加えた。
「ねぇ、抱いて、抱いてよオ」
女は眼を閉じ、顎を浮かし、泳ぐように宙を掻いて催促する。男はそれでもまだ、少しじらした。
やがてあせりの表情が苦痛に近づくのを待って、ようやく体を重ねる。
火を当てたような声が女の口からこぼれて糸を引いた。
佐伯はそのまま眠った。
ふと眼をさまして……毛布をかけているところをみると、ミドリがかけてくれたのだろう。あかりも消えていた。
窓越しにネオンの輝きがもれて来る。寝息が聞こえる。隣にも毛布の山があり、山の麓で女の髪が波打っている。
――いいのかな――
そう思ったのは、ミドリの帰宅時間のこと。母親と一緒に暮らしているという話だった。いくら夜の仕事でも母親は浅い眠りのまま娘の帰宅を待っているだろう。
腕時計を捜したが見つからない。立って本箱の上の時計を取り、窓の光に当てた。
三時二十分……。
――起こしたほうがいいのかな――
枕もとに近づき、額に唇を当てた。
毛布が揺れ、ミドリが眼をあける。
「眠っちゃったわ」
「よく寝てた」
「サーさんもよ。今、何時?」
「三時だ」
と少し早い時間を言う。
「そう。帰らなくちゃ」
下から腕を伸ばし、ぶらさがるように抱きつく。裸のままだ。乳首に触れると、
「駄目。またほしくなるから」
眼を細くして泣くような表情を作った。
「うん」
佐伯のほうもまだ仕事が残っている。眠る時間も必要だ。
「あっち向いて。仕事してて」
佐伯は、部屋のあかりをつけ、言われるままに背を向けて机の前にすわる。原稿用紙のノンブルは7。そこに三行だけ書いてある。
四行目をすぐに書き繋いだ。
ミドリは手早く服を着る。髪を撫でながら、
「変じゃないわよね」
と尋ねる。
「今、男に抱かれましたって、そういう顔してる」
「嘘」
「あははは。ここべつにおかしくないだろ」
原稿用紙の字を指さした。ミドリは少し読んで、
「べつに……。どうして?」
「三行目と四行目のあいだ」
「ええ?」
「そこで、愛しあったんだ」
「バーカ」
首を一つすくめてから、
「いつも鉛筆ですか」
と尋ねた。
「そうだよ」
「汚いわ。消しゴムの屑で」
そう言いながら机の表面のゴム屑を集めて掌に取って捨てる。指のきれいな女だ。
背後から胸を押さえ、首をねじらせる。
「駄目よ。また来ていい? 明日の夕方」
そう言われて、初めて明日が日曜日のことを思い出した。
「いいよ。何時?」
「午後。三時くらい」
「いや、三時には来客がある。出版社の人が来るんだ」
「じゃあ五時。なにかおいしいもの食べさして」
「よかろ」
「じゃあ、さよなら」
「送って行こうか」
「いいわ。慣れてるから」
佐伯が手を伸ばし、もう一度軽く唇をあわせたが、ミドリはすぐに振りほどき、逃げるようにドアの外へ消えた。性にはとても感じやすいが、終ってしまえば男のように淡白だ。
――真子もそうだったな――
一人残された佐伯は、タバコをくゆらし、もう一人の女を思い出した。
九年前、一大決心をしてサラリーマンを罷《や》め、まだ間もない頃だった。ちょうど三十歳を境にする時期だった。罷めてはみたものの、行く先の見通しは思いのほかきびしい。
――まずかったかなあ――
翻訳をやったり、雑誌のクイズを考えたり、原稿用紙を埋める作業ならなんでも飛びついてやっていた。住まいは新高円寺のアパート。
夜更けて階段を昇る音が響き、そっと佐伯の部屋のドアの前に止まった。
ノックが鳴る。
「だれですか」
「私」
声に驚いてドアを開けると真子が立っていた。一年ぶりに見る顔だった。
「どうしたんだ?」
「会社にお電話したら、罷めたって言うでしょ。すごいのね。はい、陣中見舞……」
四角い箱のメロンを突き出す。
「汚いとこだけど……。よくわかったな」
「交番で聞いたの。新しい番地だから区画がわりとキチンとしているみたい」
六畳間一つとキッチン。仕事机の椅子を真子に勧め、佐伯自身は背のない椅子に腰をおろした。
「お茶、入れようか」
「いい。ビールを買って来たから」
ハンドバッグの隣の紙袋にカン入りビールが三本入っている。
――なんで、また?
それが一番聞きたい質問だったが、佐伯は喉の奥に飲み込んだ。
一年前……とても真子が好きだった。そのときまで二人はとても親しかった。少なくとも佐伯はそう信じていた。
「なんだか波長があわないみたい」
ある日、真子が呟く。
「そんなこと、ない」
「今にあなたも気がつくわ」
男と女の仲なんて崩れ出すと早いものだ。どことなく気持ちのしっくりしない日が続き、突然糸が切れた。どう連絡をとっても会えない。話ができない。
朝、真子の家の前で張り込んだ。玄関のドアが開き、真子を吐き出す。
サラリーマンたちが黙々と駅へ向かう道で追いつき、黙って隣を歩いた。
真子は首をねじり……気がつく。
「あら」
と、一瞬笑ったが、すぐに表情が堅く変った。
「どうして避けるんだ」
真子はなにも答えずにスタスタ歩く。振り切るように急ぐ。
「何度か電話をした」
「…………」
駅が近づいていた。真子は定期を出して改札を抜ける。佐伯はキップを買わなければいけない。
「それは……ないだろ」
逃げる真子の肩を手荒く押さえて引き戻そうとした。
「人込みで、みっともないじゃない」
思わず手を縮めるほど冷たい、きびしい言い方だった。
「しかし……」
「暗いのね。待ち伏せなんかして」
「会いたかったんだ」
「ベタベタした人、きらい」
「厭になったら厭になったと、はっきり言えばいいじゃないか」
「そう。じゃあ言うわ。厭になったの」
そう告げると、くるりと体を翻《ひるがえ》して改札口を抜けて行った。それが最後だった。
たしかにあんな待ち伏せは冴えない。じめじめしたやり方だ。人込みで、荒っぽい仕ぐさを見せたのもいけなかった。
謝まろうと思ったが、その機会さえも与えられなかった。心変りは明白だった。
――あんな女――
そうは思ったが、忘れられない。真子の笑顔や話し声や二人で過ごしたさまざまな時間が心に浮かんで来る。もう会えなくなったんだ、だれか男がいるんだ、それを考えると真実胸がキュンと痛んだ。本当に好きな女だった。
しばらく日時を置いて真子から手紙が届いた。いつかの朝よりはずっとやさしい文字が並んでいたが、中身には大差はない。別れの確認でしかなかった。
「いい部屋じゃない。駅は新高円寺?」
「うん」
夢ではあるまいか。とうにあきらめていた女がなんの前ぶれもなく、訪ねて来た。住所を頼りに、一度も来たことのなかった部屋に……。
恨みなんかもうなにもない。ただうれしい。
「罷めて……やっぱりシナリオのほう?」
その希望は真子にも話したことがある。
「うん。少しずつね」
「そう。うまくいくといいわね」
メロンを四つ切りにして、二つずつ豪華にむさぼった。
「おいしい。冷たくて」
それよりももっと豪華な夜が待っていた。佐伯は初めて真子を抱いた。感じやすい体に触れながら、背後に男の影を感じた。熱い疼《うず》きを覚えたが、それでも不服はなかった。
真子は何度新高円寺のアパートに訪ねて来ただろうか。
「これ、買って来たの。机の上が汚いでしょ」
紙包みを解いて出したのは、小さな卓上掃除機だった。電池を入れ、机の上を滑らせてごみを集める。
「ありがとう。役に立つ」
あの夜も当然抱きあっただろう。真子は熱く昇りつめ、淡白に終る。その関係と同じように二人の再度の親しさもそう長く続かなかった。今度もまた突然真子はよそよそしくなった。姿を見せなくなった。連絡を取りにくくなった。やっぱり駄目のようです≠ニ記した手紙が届いた。
佐伯のほうも少しは慣れている。
――同じ女に二度振られちゃったかな――
苦笑するゆとりもあった。卑しい話だが、何度か抱きあって、
――まあ、もとは取れたか――
そんな気分もあったのかもしれない。
何年かたって佐伯も少しは大人になり、真子の気持ちがわかるようになった。真子の側から見た風景が見えるようになった。
真子はもともと佐伯のことをそう好きではなかったのだろう。嫌いではなかっただろうが、とても好きというほどの男ではなかった。いったんは親しくなったが、どうも食い足りない。きっぱりと縁を切ろうとした。ほかに好きな男ができたのかもしれない。その可能性は充分にある。
だが、そちらの男との関係もそううまくは運ばなかった。さびしさのあまり真子は、いつも自分を暖かく迎えてくれる甘い男を思い出した。メロンはそのためのおみやげだった。抱かれる喜びも身についていたかもしれない。抱かれなければ癒えない傷だったのかもしれない。とはいえ、ただの雨やどり。長く留まるところではなかった。
世間によくあることだ。男も女もやっている。真子は無器用だから……感情をそのまますぐに行動に表わすタイプだから、二度も同じ男を傷つけてしまったのだろう。当たらずとも遠くはあるまい。
真子の側の事情はおおむね推測がついたが、だからと言ってなにもかも忘れられるわけではない。恨みは消えたが、虚《むな》しさは残った。
またたくまに十年近い歳月が流れたような気がする。佐伯としては、なによりもフリーのライターとして立場を確立することに懸命だった。
遊び心で何人かの女を抱いた。
「ねえ、結婚しよ」
「まだ早いんじゃないか」
「結婚しましょうよ」
「もう遅いんじゃないか」
愛なんて馬鹿らしい、喜劇みたいに二つの台詞を使い分けて生きて来た。
真子の思い出と言えば、机の上にいつも卓上掃除機があった。手みやげの好きな人だったが、奇妙なことにあとに残ったのはこれだけだった。
初めて見たときは便利そうな道具だったが、使ってみると、単三の電池二本では吸引力が弱い。道具というより玩具に近い。掌《てのひら》でごみを集めるほうが手っ取り早い。いつのまにか電池も切れてしまった。それでもべージュ色の小さな道具は机のすみに残って、時折真子のことを呼び起こす。
――幸福にやっているのかな――
結婚して大阪へ行ったはずだが、消息はそれっきり途切れた。
「これでよし。一件落着」
ミドリが帰ったあと、朝の七時までかかって自殺≠フ記事をまとめた。原稿用紙のます目を埋める作業はたっぷりと時間がかかる。一時間にせいぜい四、五枚。少しでも筆が鈍れば、たちまちこの枚数は減ってしまう。
タバコがうまい。夜通し喫《す》っているのだがやはりこの一本がうまい。午前十一時にお使いさんが取りに来る約束になっている。強い水割りを作り、その酔いを借りて眠った。夢を見たのは、目ざめるすぐ前だったろう。
お使いさんのブザーに起こされ、寝呆《ねぼ》けまなこで原稿を渡した。
夢は女の夢。赤坂のカフェテラスで会って、そのまま奥の部屋に入った。カフェテラスとホテルが続いているらしい。女はミドリだと思ったが、真子かもしれない。二人が一緒になったような不思議な感じの女だった。
そのあともまた少し眠った。
起きて手作りのトーストを食べていると、ブザーが鳴って顔見知りの編集者が現われた。
「少し早かったけど……」
「いいですよ、どうぞ。昨夜はほとんど徹夜で……」
「そう。忙しくていいじゃない」
「雑用ばっかりでね」
この編集部からはアメリカの青春小説の翻訳を頼まれている。背筋がくすぐったくなるような純愛物。しかし外国の物語だと、若い世代はさほど違和感がないらしい。ロマンチックはわるいものじゃない。二冊読んで、どちらがおもしろいか、そのあらすじを話した。
「どう、ビールでも」
「昼間っから?」
「いいじゃない」
仕事の話が一くぎりしたところでビールを飲みながら雑談を交わした。
「もうこの手の小説も頭うちだね」
「おどかさないでよ、飯の種なんだから」
七、八年前、佐伯のところへ初めてこの仕事を持って来てくれたのが、この編集者だった。この出版社で二十冊近く訳している。生活の基盤としてずいぶん助かった。マンションを買ったのも、そのおかげだろう。とはいえたしかに限界は見え始めている。
「これからはファミコンだね。アドベンチャー・ゲーム」
「アドベンチャーねえ」
「五十通りくらいの人生を用意して、入力する。コンピューターを相手にサバイバル戦争をやるわけだ。ソフトの知恵は小説家の発想に近い。ストーリィを考える。佐伯さんもやってみない? 知りあいの業者がいるのよ」
「俺は駄目だよ」
「いろんな人生を考えるんだから……。東大へ行くか早稲田へ行くか。東大を選んだら早稲田閥の会社へ入って出世ができない、とか……」
「考えておくよ」
編集者は一時間ほどいて帰った。
佐伯は風呂に入って髭を剃る。
またブザーが鳴った。
「ちょっと待ってくれ」
バス・ローブを着てドアを開けた。
「お風呂、入ってたの?」
「ああ。超朝寝坊をしちまったからな。今まで編集者が来ていて」
「そう」
ミドリは大きな荷物を抱いている。
「どうする? このまま食べに行く?」
夕食をご馳走する約束だった。今夜は楽しい夜になりそうだぞ。
「いいわよ」
「じゃあ、あがって雑誌でも見ててくれ。用意をする」
「はーい」
「あんたは一流のホステスになれないな」
「どうして?」
境の戸を締め、声だけで話した。
「一流のホステスは店にいるときが一番きれいなんだ。あんたは普段のほうがいい」
ちょっと屈折したお世辞。でもこれは本当だ。今日のミドリは溌剌《はつらつ》としてとても美しい。
「そうかしら。お化粧って……きらい」
「お待ちどおさん」
新宿へ出て寿司をつまんだ。酒を飲んだ。そしてほろ酔い加減でふたたびマンションへ戻った。
「いやン、駄目」
昨夜と同じようにあかりの下で衣裳を奪うと、ミドリはすでに流れ落ちるほど濡れていた。ずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない。
「ねえ、抱いて、抱いてよ」
いつもの台詞をもらす。
一層強い歓喜が夜を満たした。
時計が三時を指すのを見てミドリは帰り仕度にかかる。
「あ、忘れてたわ」
「なに?」
「おみやげを買ってきたの」
「へーえ」
ドアの脇に荷物が置いたままになっている。箱を開けるとフットボールほどの流線形の機具が現われた。色はベージュ色。
「なんだ?」
「卓上掃除機。机の上、汚いじゃない。コンセントで蓄電ができるの。便利よ」
組み立ててスウィッチを入れた。
ブーン。
音が大きい。吸引力も強い。これはずっと大がかりだ。
「ね、いいでしょ。ちょっとしたお掃除もできるし」
「ありがとう」
「使ってみて。じゃ、帰るわ。また……。店にもいらしてね」
「うん。電話する。今週は忙しいけど」
「サーさん。私のこと好き?」
「ああ、好きだ」
「そう。もっと情熱的に言って」
「この次はそうする」
「私も好きよ、サーさんのこと」
「うん」
ドアを閉めようとするのを、
「ちょっと待って」
と引き留めた。
「なーに?」
「これを角のゴミ捨て場に、捨ててってくれ。明日は分別ゴミの日だから……」
「はーい」
机の上でほこりをかぶっている古い、小さな卓上掃除機を取った。
「もう、これはいらない」
「あ、本当ね」
ドアが閉まった。
足音が遠ざかる。
佐伯はタバコをくゆらし、卓上の新しい掃除機のスウィッチを押してみた。煙までもが吸い込まれていく。
――新しい仕事か――
アドベンチャー・ゲームにまで手を出す気はないけれど……。生きて行くことは、次々に脱皮をして行くことなのかもしれない。ここ数年、ずっと虚しい夜が続いた。夜のあとには朝が来るだろう。
佐伯はもう一本タバコに火をつけた。煙がゆっくりと流れ、いつのまにか窓の外が白くなっていた。
翡翠のブローチ
ル、ルン……。
最初のベルが鳴ったのは朝の十一時頃だったろう。
――今ごろ、だれかしら――
もう少し眠っていたい。葉子は枕を顔の上にのせ、耳をふさぎ、ベルの音を殺した。
だが、いったん目ざめてしまうと、たやすくは眠られない。頭の片方で眠ろうとする努力を続けながら、もう片方で田宮のことを考えた。
深夜二時過ぎにスナックを閉め、田宮の泊っているホテルへ行った。
「早かったな」
「道がすいてたから」
シャワーを浴び、窓の外が明るくなるまで抱きあって別れた。
――田宮は、もう大阪へ着いただろうか――
おたがいに五分と五分の関係。ほどほどの親しさ。借りもなければ貸しもない。借りてるぶんがあるとすれば、同じくらい貸しているぶんがある。親し過ぎるのは剣呑《けんのん》だ。人間関係は骨身に染みこまないほうがいい。何人かの男と親しくしているうちに、よくわかった。こつを覚えた。
人生には男より楽しいものがいくつかある。さしあたっては、お金儲け……。そう言いきってしまっては抵抗があるけれど、ビジネスと言えば恰好がつくのかしら。
精いっぱい頭を働かせ、本気で挑戦する。これは半端な世界じゃない。ゲームとしてもおもしろい。実際に儲かれば、それはそれでべつな喜びをあがなう手段となる。プロセスで楽しみ、結果で喜ぶ。スナックの経営、株の売買、近ごろは陶器を焼くことに凝《こ》っている。
それでも時おり田宮に抱かれたくなるのは生き物の証拠なのだろうか。一過性の喜びでしかないのだが、そのときはやはりここちよい。無くて我慢のできないほどの喜びではないけれど、あればあったで悪くない。屈託《くつたく》が残らないのが条件だ。その意味でも田宮はほどがよい。なぜだろう? 理由はよくわからないが、セックスのあと味が軽い。別れたあとに後悔やあざとい意識に悩まされることがない。彼の気くばり? こっちがそれほど愛していないから……。
シーツの上に脚を滑らせ、体を伸ばすと、今朝がたの快感がまだ少しくすぶっているようだ。淫《みだ》らなイメージが浮かぶ。このひとときはちょっと楽しい。情事のおまけみたいなもの。
ル、ルン……。
また電話のベルが鳴った。今度は腕を伸ばして受話器を取った。
「もし、もし」
かすれ声で答えた。声がまだ充分に目をさましていない。
「葉子? まだ寝てた?」
すぐにナナの声だとわかった。
「なによ、朝から。まだ眠たいのに」
「お願い。もうお昼過ぎよ。コーヒー飲も。きのう遅かったの?」
「まあね」
家に着いたのは、朝六時。きのうなんてものじゃない。遅いと言うより早いという時間。だが、田宮のことを逐一《ちくいち》ナナに告げる気にはなれない。うすうすは知っているだろうけれど。
「ね、ニュースよ。崎谷と別れたわ」
ナナの声を聞いたときから、なんとなくその話だろうと思っていた。
――相変らず男運がわるいのね――
とっさにそう思ったが、これは運だけのせいではない。もともと目の薄い男に期待を懸《か》け過ぎるからだ。納得のできる話は少なかった。アメリカ人の貿易商、歯医者、歌舞伎の役者、大学の助教授、みんな奥さんがいて「離婚をしたら」という話だった。その台詞《せりふ》だって本当に男が言ったのかどうか……ナナのほうだけが聞いたつもりでいて……。
崎谷というのは建築家だ。一度ナナと一緒に食事をご馳走になった。頭はきれるのだろうが、どう見ても実《じつ》のあるタイプじゃない。銀座によくいる客。垢《あか》ぬけしていて、ホステスのボーイ・フレンドとしてはわるくないけれど、深入りしていい相手じゃない。
――またナナの病気が始まった――
そう思い、注意もしてやったのだが、まるで耳に入っている様子はなかった。
六ヵ月ほど関係が続いて、案の定、別れ話になって……その愚痴を聞いてほしいということだろう。
「またふられたの」
「ふったのよォ」
「似たようなもんだけど」
「ね、コーヒー、飲もうよ」
ナナとは、七、八年ほど前、銀座の同じクラブで働いていた。葉子のほうがずっと年かさだが、適度に仲がよかった。気があった。根のわるい子じゃない。長所は美貌。みてくれはまことに申し分ない。女の葉子が見てもドキンとするときがある。
――男はたまらないのだろうな――
見るたびにそう思った。
住まいも近いので、店が終ると、よく同じ車で帰った。今でもナナのマンションはそう遠くない。身寄りの少ない子だから、葉子のことをとても頼りにしている。多少はひま潰しの気分もあって、ナナの愚痴にはわりとよくつきあってあげて来た。
「墓地下の喫茶店に来てよ。ね、一生のお願いだから」
話を聞いてさえやれば、ナナの気分は晴れる。モルヒネでも打ったみたいに心の痛みがなくなる。
だが、そのナナも三十を二つ三つ越えたはずだ。少しずつ痛みが残るようになったのではないかしら。このごろは、ふっとそんな気配を感じるときがある。
「じゃあ……いいわよ。お風呂に入るから、一時半ね」
「うん。ありがとう。待っている」
電話を切った。
ベッドの中で指折り数えてみると、四時間半くらいしか眠っていない。
――少しこたえるかな――
丈夫なたちなので体はさほどつらくないが、四十を過ぎて、無理のあとにはめっきり化粧ののりがわるくなった。それが気がかりだった。
「よいしょ」
かけ声をかけてベッドから起きた。窓の外が眩《まぶ》しい。余計に肌の荒れが気にかかった。
待ち合わせの店は、どちらの家からも同じくらいの距離にある。白い壁にアイビーが垂《た》れている。メニューは少し高めなのかしら。昼休みの時間をはずせば、たいていすいている。
青山通りから墓地の繁みにそった道に入ると、栗の花の香りが空気の中に混っている。
むせるような匂い。男の体液に似ているというのは本当だろうか。
首を伸ばして捜してみても、それらしい花は見えない。たしか細長い毛虫みたいな花。墓地にはふさわしい。
階段をあがり、ドアを押すと、入口の近くに三人連れの客がにぎやかに話しあっている。空席が三つ、四つあって、一番奥のテーブルでナナが小首を傾《かし》げるようにして待っていた。
ドアが開いたことには充分気づいているはずだが、すぐには目をあげない。窓の外に視線を送るようにして表情を止めている。それが絵になる。ナナのテクニック。右四十五度くらいの角度がとくによい。葉子を待つときにもポーズを作っている。
色は浅黒い。だが、潤いのある小麦色だ。目も鼻も口もみんな輪郭《りんかく》がはっきりしている。黒眼がちの大きな目。鼻もすっきりと伸びて、鼻孔も形よい。少し整形をしているのかな? 鼻の形からそう思うのではなく、ナナの性格から考えて、ありえないことではない。唇はちょっと上唇が突き出していて、かわいらしい。肌の色素は髪の毛にも浸透するものなのだろう。本当にまっ黒い髪だ。色白の人には、この黒さはない。本日は、片側にだけゆるく三つ編みにして、オレンジのワンピースの肩口に垂れている。
「待った?」
「ううん、今、来たとこ」
喫《す》い口に紅のついたタバコが一本だけ灰皿に捨ててあった。
「結構暑くなったわね」
「また夏が来るのよ。厭ねえ」
「仕方ないでしょ。四季があるんだから。気候のほうだって、いつも同じじゃ退屈しちゃうわよ」
「北海道にでも巡業に行こうかしら」
「ホステスの巡業? いいじゃない」
ナナはプロポーションまでいい。簡素な衣裳がそれをよく表わしている。モデルにも充分なれる体形だ。欲を言えば、もう少し背丈がほしいところだが、小柄のわりには胸も豊かで、ホステスにはむいている。背の大きいホステスはかわいげがなくて、よい条件とは言えない。
「これ、どう思う?」
ナナはポシェットの中からブローチを取り出した。まん中は翡翠《ひすい》だろう。エメラルドとはちがった、深い東洋の緑がとても美しい。指先でつまんで色と重さを計った。これだけの石となると安くはあるまい。
「いいじゃない」
とりあえずそう答えた。
「でも、まわりが……」
と、ナナが赤いマニキュアの指で翡翠の周囲を指さす。
たしかにそれは言える。金色の花弁のようなデザインが三枚あしらってあるのだが、これがどうにも趣味がわるい。
「なんか仏壇みたいな感じでしょう」
「ほんとね」
言われてみると、安物の仏具みたいな印象だ。仏壇の引出しに転がっている細工物のようだ。よほどセンスの悪い職人が作ったものだろう。
「どうしたの?」
「もらった」
「手切れ金?」
「そのつもりなんじゃないの、むこうは」
「やっぱり」
ナナはテーブルの上のブローチを指先で邪慳《じやけん》に弾く。
けっして翡翠を憎んでいるわけではない。価値は充分に知っている。宝石商にもう値ぶみをさせたかもしれない。ただ……邪慳に扱うのは、デザインの悪さが、男のずるさと重なって見えるから。このくらいじゃ満足できないわ……そんな見栄もある。
「石だけ残して作り替えればいいじゃない」
「そうね」
素っ気ない調子で答える。私は不機嫌なのよ≠ニ態度で告げている。
注文のコーヒーが届いて会話が途切れた。
「あんた、ママに習わなかった?」
話のつぎ穂《ほ》を捜しているうちに葉子はふと思い出して呟いた。
「なーに?」
「お客さんの分けかた」
「ううん。知らない」
ゆっくり首を振る。首が細くて、長い。花を載せた茎のように揺れる。おつむのほうは頼りないが、隅から隅までナナは美貌に恵まれている。一つくらい欠点があるのかしら。ビキニを着ると出べそだったりして……。
「大とり、小とり、客、いろ、まぶ、ひも、用心棒のチャリンチャリン」
「なによ、それ」
「だからお客さんの分けかたよ」
以前に勤めていたクラブのママのお供をして熱海まで招待旅行に参加したときだったろう。ママはグリーン車のシートで足先の草履をぶらぶら揺らしながら、なかば冗談みたいに周囲のホステスたちに話していた。まだナナは店に来ていなかったかもしれない。おもしろい分類法なので葉子はよく覚えている。
「ええ?」
ナナは大まじめな顔で聞き返す。
「大とりは、やっぱりマンションの一つくらいかな」
「大きく取るわけね」
「そう。小とりはどのくらい? ン百万くらい。それから普通のお客さん。これはお小遣いをいただいてもせいぜい十万円。お洋服買ってもらって、売上げに協力してもらって……まあ、そんなところ」
「そういう人、このごろ少ないわよ」
「でも、この翡翠、小とりくらいはありそうよ」
「まあねえ」
二人の視線がブローチに移る。それにしても、どうしてこんなすてきな石に無細工なそえものをするのかしら。作った人の気も知れないが、買った人の気もよくわからない。
「お客さんの次は、いろ。これは恋人ね。まぶは好きな男で、ひもはわかるでしょ」
「いろとまぶは、どこがちがうの?」
ナナにしては、ましな質問だ。葉子自身もママから聞いたときに同じ疑問を抱いた。
「いろは、むこうがこっちに惚れてんの。こっちも好きだけど、むこうのほうがもっと好きなのよ。お食事に行っても、むこうが勘定を払ってくれるわ。まぶのほうは、こっちが、かわいがっているって感じ。たまにはお小遣いくらいあげる。微妙なとこよね。これがもっとひどくなると、ひも。内心は軽蔑してんだけど、便利だし、優越感を感じるためにもいいじゃない」
「でも、嫌いよ、ひもなんか」
「やめたほうがいいんじゃない。好き好きだけど。それから用心棒。車で迎えに来てくれたり、集金に行ってくれたり……。最後はチャリンチャリン。十円玉の音よ。電話だけかけて寄越す男」
「十円指名ね」
「そんなとこ。だいたい男はこの八種類に分けられるんだって。わかる? 崎谷さんは、小とりくらいだったんでしょ」
そう言いながら葉子は、
――田宮はどれかな――
と考えた。
東京へ出て来るたびに葉子のスナック≠ノ顔を出してくれるが、客というほどの客ではない。
――まあ、いろくらい――
まぶと呼ぶほどこっちが入れあげているわけではない。
「わかんない」
分類学はナナにとってさほど興味を引くテーマではないらしい。
「初めはだれかと店に来たんでしょ、崎谷さん?」
「そう」
火をつけたばかりのタバコを消してナナはようやく、話し始めた。
どんな人にとっても出会いのチャンスはあるけれど、ホステスという稼業は毎日が出会いの連続だ。人生にかかわる男が、いつ現われるかわからない。その気になれば、毎晩でも現われる。
崎谷は、ナナの馴染みの客の連れだった。去年、もう寒くなって……七ヵ月くらい前だったろう。
「建築家の崎谷さんだ。俺んちを設計してくれた人だ」
そう紹介された。年齢は四十代のなかばくらい。あとで四十二歳と教えられた。
――好きなタイプね――
男の横顔をうかがいながらそう思った。
もっともナナの場合は、好きなタイプはかなり広い。四十代で、一応恰好がよく、羽ぶりがよく、親切そうな男なら、たいていわるくない≠ニ思う。
崎谷は精悍《せいかん》なスポーツマン・タイプ。話の中に英語がポンポンと入って、きっと頭のいい人なのだろう。建築家は銀座でよくもてる職業の一つである。
最初のときにはなにを話したか覚えていない。
「またいらして」
「うん。近いうちに来るよ」
二日おいて崎谷は一人でやって来た。一人で来る客は、たいていホステスに狙《ねら》いがある。大勢で来ても狙いはあるけれど……。
「君に会いたくて」
「うれしいわ」
崎谷の視線は初めから熱っぽかった。ナナが話していると――さしておもしろい話でもないのだが、崎谷はじっとナナの顔を凝視している。そんな視線にぶつかって、
――あ、来るな――
そんな予感を覚えた。
男は例外なく面食いだ。だから美しい女のほうは男はみんな私のことが好きなんだ≠ニ信じてしまう。これは一種の刷りこみ現象だろう。それに……現実問題として、この確信は、めったに裏切られることがない。
とりわけナナはそうだった。彼女は正真正銘の美女だし、心の美しさなどにはさほど高い価値を置くほうではないから、このテーマは信じやすい。男に好かれることには慣れている。世界中の男が自分を好きなんだと思っている。あとは男が上手に誘惑をしてくれること、それから……なにがしかの経済的な利益をもたらしてくれること、それだけが要件だった。
崎谷はおおむねたくみに演じたといってよいだろう。二人が親しくなるのは早かった。初めて店に来たときから数えて、一ヵ月もたたないうちにホテルのベッドで抱きあっていた。
「なにかプレゼントをしよう」
男は戦果に気をよくして、こんな台詞を吐く。ナナはあどけない表情で呟く。
「キャッシュのほうがいいわ」
「ああ……そうか。いいよ」
男もそのほうが面倒くさくない。
「毎月ちょうだい」
一層かわいらしい声で言う。
男は毎月抱けるものなら、それもわるくないな、と考える。お金を渡すときには当然抱きあうだろう。あとは金額だけの問題だ。
ナナが消え入りそうな様子で告げた金額は、男が想像していたものより安かった。
「いいよ」
いたわるように肩を抱きながら承諾した。
――うまくいった――
と男はほくそ笑む。
とはいえ崎谷がそれほど巧みな猟色者であったかどうかは疑わしい。
と言うのは、恋のムードを盛りあげるために……あるいは礼儀作法の一つとでも考えたのか、多少は本心の部分もあったのだろうが、
「女房が冷淡な女でね。できれば別れたいよ」
言わずもがなの台詞をうっかりこぼしてしまった。一度だけではない。言いかたはちがっても、似たような言葉を何度か漏らした。
ナナは見かけこそ現代風なレディだが、心の中は思いのほか旧弊《きゆうへい》だ。女は結婚するのが一番しあわせ、と、ある意味では正しいモラルをかたくなに信じている。だから結婚の話は忘れない。餌の匂いには敏感だ。
――すぐでなくてもいいわ。一、二年後きっと奥さんと離婚して私と一緒になるつもりなんだわ――
と考えた。この期待はけっして消滅しない。
だが、どなたもご存知のように男はそう簡単に離婚をするものではない。したいと思ったとしても、実行にはさまざまな困難がともなう。できもしないのに離婚をほのめかす手合いはさらに多い。
崎谷も途中でしまった≠ニ気がついたが、もう遅い。
「どうするつもりなのよォ、弁護士さんに話した?」
「もうちょっと待ってくれ」
「聞きあきたわ、その台詞」
相手が煮えきらないとなると、ナナはその代償としてお小遣いの値上げを言いだす。意図していることかどうかわからないが、この二つが頭の中できっちりと繋っている。とはいえ値上げをしてやったからと言って、結婚の願望を捨てるわけでもない。それはそれ、これはこれ。日を置いてまた、「奥さんとはもうセックスもしてないんでしょ。別れるべきよ」
と主張する。
「まあな」
「いつ?」
「そう簡単にはいかないものなんだ、こういうことは。子どももいるしな」
「そんなこと、はじめからわかってたことでしょ。なんだかんだって調子のいいこと言って」
「そうあせるなよ」
「あせるわよ。そんなこと言うためなら、もう来ないで。度胸がないのよね、男のくせに。ああ、馬鹿みた。へんな男に引っかかってしまって。スカッとしたいな」
「怒るなって」
「あたり前でしょ、怒って」
バタバタと周囲のものを手荒く整理し始める。それを無視して崎谷が知らん顔をしてテレビでも見ていようものなら、なにかが飛んで来る。ライター、サングラス、ハンドバッグ、枕……。小さいものから順に大きくなる。
「機嫌わるいんだな、今日は」
「そうよ、きまってるじゃない。お金はないしさ」
「このあいだやったろ」
「あんなの、すぐなくなるわ。ありがたいけどサ。お礼言わなくちゃ駄目よね。大切なお金なんだから。ね、奥さん、なんて言うの、月給を渡すとき? ご苦労様って……」
「銀行振込みだよ、今は」
「奥さんのほうがずっとたくさんもらうんですもんね」
「そうでもない」
「いくら? 月に」
「いいよ、そんなこと。ほら、これで洋服でも買えよ」
と、立って背広のポケットをさぐり、財布から数枚抜き出す。
この瞬間だけナナの機嫌がなおる。
「うれしい」
「ま、そのうちにいいこともあるサ」
「なに?」
「いや……俺もいろいろ考えてんだから」
危い台詞を言いそうになって、あわてて口をつぐむ。
男としては、別れないためには小遣いの連続的な値上げに応じなければいけない。それが困るから、離婚をちょっとほのめかしたりする。事態はますますわるくなるばかりだ。
そのうえ、ナナはわがままだ。美女の特権。だらしないところもある。これは知能指数と関係がある。そんな短所が男にも少しずつわかって来る。
男は逃げにかかる。ついこのあいだまで満ち潮のようにナナに寄せられていた関心が、引き潮のように去って行く。
ナナは気づくのも遅いし、うまく男を引きとめる手段も持ちあわせていない。ただひたすら不機嫌になったり、ヒステリーを起こしたり、厭味を言ったりするだけだから、余計に男の引き足は早くなる。
美女の頭の中には、
――次の男がいるんだから――
と思う部分があるから、執着心もそう強くはない。
「このごろ御無沙汰ね。浮気の虫が騒ぎだしたんでしょ」
「馬鹿なこと言うなよ」
「調子いいんだから。いいわよ、いつでも別れてあげる。そのかわりお小遣い置いてってね、半端なお金じゃ厭よ」
男はなにがしかの金を出す。ナナとしては、あとは自尊心を保持するために、相手がどんなにくだらない男であったか、それを周囲に告げれば、気分は七、八割がた収まる。
崎谷は翡翠のブローチを最後の挨拶のつもりで置いて、えっさえっさと逃げて行ったのだろう。葉子は話を聞く前から見当がついていた。
「最低の男ね、けちで、しつこくて。設計事務所の副所長だなんて嘘だったのよ」
コーヒー店の一番奥の席を選んだのは正解だった。ナナが、いかにも憎らしげな顔つきで、あしざまにののしるのは、けっして人に見せたいものじゃない。聞かせたい言葉でもない。
「名刺、見たんでしょ」
「忘れちゃったわよ。適当に自分で作ってばら撒《ま》いてたんじゃないの。若い人と一緒に飲みに行っても、あいつ、払わないんだってサ。俺は合理主義者だ≠チて。なによ、ただのけちじゃない。そのくせ気取っちゃって……。恋人なんか持つタマじゃないのよ。ただのスケベェ。ドスケベェ」
「男はみんなそうでしょ」
「あいつは特別ね。けちのくせ、しつこいの。元を取ろうとしてんじゃないの。何度も何度もやりたがってさァ」
なんでこんな美しい顔が、ひどい言葉を吐かなくちゃあいけないのか。
葉子は慣れている。毎度のことだ。台風と同じこと。しばらくは荒れるにまかせておいて、通り過ぎるのを待てばよい。
「言ってやったのよ。あんたにはネ、あたしはもったいないのよ≠チて。言わなきゃわかんないんだもン、あの馬鹿。本当、あんなのとつきあっていると、馬鹿がこっちにまで伝染しちゃうわ。場末のおばんにでももててればいいんじゃない、ああいう男は」
ナナの言い草には、いつも決まった根っこがある。前提がある。私ほどの女が抱けるんだから、あんた、よっぽど感謝していいのよ≠ニいった自信。それなのに、あの男……≠ニいった不満である。
男たちがどうしようもないほど面食いである現実を考えてみれば、ナナのうぬ惚れをあながち非難する気にはなれない。六、七割がたはその通りだ。これだけいい女を抱けるなら、男は相当の犠牲を払っても仕方あるまい。そう考える人がいてなんの不思議もない。
「奥さんを見たら、ひどい女。品がないのよねえー、顔に。あれじゃ離婚もしたくなるわ」
「いいじゃない、似た者夫婦で」
葉子は茶化し加減に言った。
「言えるわねえ。でも一度寝た男の奥さんがひどいと滅入って来るわね。こっちまでブスになってしまったような気がするよ」
「わかるけど」
鼻先で頷く。
葉子にも経験のない心理ではない。真剣に愛した男だった。男は妻と別れて、葉子と一緒になると言った。その気持ちに嘘はなかっただろう。それまで疑ったら、みじめ過ぎる。たしかに一時はすべてがうまく運ぶように見えた。だが、遅々として進まない。男は問題のむつかしさに気づいて厭になる。最後に奥さんが懐妊して、それがフィニッシュだった。男の気持ちが微妙に変った。
数ヵ月たって、葉子はその男の奥さんを垣間《かいま》見た。どう眺めてもあまり上等な人格には見えなかった。
――この程度の人に負けたのか――
いったん胸に収っていた憤懣がまた戻って来て、しばらくはそれを静めるのに苦しんだ。男までが憎くなった。
――こんな女を選んだ目で、私を選んだのかしら――
親しい男の妻を見てはいけない。それからはずっとその方針を守った。田宮の妻も知らない。
「男って、わからないねえ」
ナナは外国人がするように掌を上に向けて肩をすくめる。あきれちゃったわ≠ニでも言いたげに。台風はおさまりかけている。
「そうよ。今ごろ気がついたの」
「そうでもないけどサ」
「いい女がいると、盛りがついた犬みたいにガツガツ寄って来るけど、そのわりにはたいしたことはできないもんよ」
「どうしてかしら?」
ナナは呟きながら指先で、テーブルの上のブローチをくるくるまわしていたが、今度はそれを取って胸にあて、
「作りなおせば、いいかもねえー」
と言う。
葉子は、わけもなくある男の言葉を思い出した。さっきからずっと思い出していたのかもしれないが……。あの人ももうひとつ度胸の足りないインテリ・プレイボーイだった。
「女は宝石なの。とってもきれいな……」
ナナの胸もとを見つめながら、男の声をなぞって葉子は呟いた。
「ええ……?」
「でもサ、その宝石のまわりには、都合ってものが、いっぱい取りまいてんのよ」
「うん?」
「都合がわるけりゃ、中の石がいくらよくたって、男は尻ごみするのね」
葉子は思う。
――ナナほど美しくなかったけれど、いつだって私はわるい女ではなかったわ――
涙が出るほどいいやつ≠セった時期もある。
男はそれをちゃんと認めながら、結局はさまざまな都合を口にした。妻が、子どもが、仕事が、世間の目が……。それを知るたびに少しずつ葉子の情熱は風化した。けっして大きな期待をかけない、それが恋のやりかたとなった。田宮にとっては、少しも都合のわるいところのない、便利な女になっているだろう。
「翡翠だけ残して、まわりは取っちゃいなさいよ」
そばにペンチでもあれば、むしってしまいたいほどの衝動を覚えた。
「あたし、都合がわるいかなあ」
ナナがタバコを抜きながら言う。
「わるいわよ」
結婚はしたがるし、お金はせびるし、わがままだし……。ナナはまだわかってはいまい。まん中の石さえきれいなら、周囲の都合なんかどうにでもなると考えているのだろう。
窓の外を見た。
――男にとって、女はきれいな宝石。でもそのまわりには都合ってものがいっぱい取りまいている――
木立ちが濃い緑を広げているので、ガラス戸が鏡になる。葉子自身の顔が眉をしかめて映っている。
その表情を通して、男たちの……何人もの男たちの都合のわるさ≠告げている顔が浮かび、今、葉隠れの中にまざまざと頼りないものを見たように思った。
赤い街
「長島と王と、どっちがすごい選手だったの?」
小肥りのママがウーロン茶のグラスを揺すりながら尋ねた。サムシング≠ヘ酒も飲ませるが、軽食の用意もしてある。仕事帰りのサラリーマンがちょっと立ち寄るのに便利な店だ。
時刻は七時過ぎ。カウンターの隅に置かれたテレビがプロ野球のナイターを映し始めた。巨人・大洋戦。背広姿の長島が甲高い声で喋《しやべ》り、ユニフォーム姿の王が険《けわ》しい表情で、たった今、画面に登場したところだった。
広瀬は同僚の村木を誘って、カウンターのテレビに近い位置に陣取っていた。
「そりゃ記録ということなら……」
村木がいったん言葉を切ってビールを口に運ぶ。話す前に舌の滑りをよくしておかなければいけない。
このテーマは村木がうるさい。語らせればとめどなく話す。ママは直感的にそんな気配を覚《さと》って、わざと尋ねたのかもしれない。お客が話したいことをうまく誘って話させる、それも、この商売のサービスのうちだろう。
それに……このママは、ものごとに優劣をつけたがる癖があるようだ。虎とライオンと、どっちが強いか、海と山とは、どっちが楽しいか、猫と犬と、どちらがかわいいか、広瀬はそんなたわいのない議論を何度かこの店で聞いた。
「記録ということなら王のほうが断然すごい。長島は足もとにも及ばない。横綱と小結くらいの差がある」
村木の小鼻が蠢《うごめ》く。広瀬は、ママと村木とを半々に見ながら頷いた。異論はない。村木とはまったくの同世代だから、同じ体験を背負っている。二人の名選手のことはこまかいエピソードまでよく知っていた。
カウンターには、もう一組、若いサラリーマンたちのグループがボトルを置いて水割りを飲んでいる。アルバイトの女の子を相手に、スキン・ダイビングの話。海の底がどんなに美しいか、競いあって話している。その中の一人が時折こちらの話に顔を向けるが、彼の年齢ではサード長島≠フ雄姿を知るまい。四十歳を過ぎていなければ、このテーマは語れない。
「へえー、そうなの」
「しかし、だ。今後、王は出ることがあっても長島は出ない。絶対に出て来ない」
村木はわがことのようにきっぱりと断定した。これが村木の持論である。広瀬はいろんなところで聞かされた。
「どうして?」
グラスの中の氷がパチンと音をあげて割れた。ママがウーロン茶の底をのぞきながら尋ね返す。
「日本がちがう。情況がちがう。同じ情況は二度とくり返さない」
「むつかしいのね」
「長島が大学を出てプロに入ったのが昭和三十三年。ママはいくつだった?」
「まだ可憐な美少女よ」
「よく言うよ。少しは覚えがあるのか」
「ある、ある。もう東京に出て来ていたわねえ、父の転勤で」
「三十三年がどういう年だったか、こりゃ知らんよな」
「なにしてたかしら、本当に」
「この年に大事件があった」
「なーに?」
「赤線の灯が消えた」
「ああ、そうなの」
「大事件だよ。何百年かの伝統文化が途絶えたんだ」
「文化ねえー。知ってるの、赤線?」
「ほんの少しな。長島がデビューする、赤線の灯が消える、これはたいしたことなんだぞ」
村木が気張ったとき、表のドアが開いて新しい客が入って来た。
「あら、いらっしゃい」
客は頬を撫でながら、まっすぐに進んでカウンターのまん中の席に着いた。
――ああ、やっぱり――
広瀬はわけもなくそう思った。
二十五、六歳。印刷会社に勤めていると聞いた。名前はセンちゃん。それ以上くわしくは広瀬も知らない。いつも早い時間に現われてビールを飲み、食事をする。何度か顔をあわせた。
カウンターに並んで、軽く会釈をする程度の関係。話したことは……多分ない。深いかかわりはないのだが、広瀬にはちょっと気にかかることがある。勝手に想像していることが少しある。
たった今も村木の話を聞きながら、頭の片隅でセンちゃんのことを思っていた。そこへ案の定センちゃんが現われた。こんな偶然も時折あるものだ。
「日に焼けたんじゃない」
「地黒だよ、俺は」
「でも、また濃くなったみたいよ」
短い髪。浅黒い肌。肩はガッシリと張っている。力仕事でも充分にやれそうな体躯だ。
ママがセンちゃんにお絞りを渡し、ビールを注ぎ、ふたたび広瀬たちの前へ戻って来ると、村木は一つ咳払いをしてから、
「さっきの話だけど……」
と繋いだ。
いったん話し始めた以上、最後まで話さなければ気がすまない。そのくらいの価値はあるんだ……と、余人は知らず、当人は信じている。
「うん?」
「三十三年を境にして日本の社会が変ったんだ。もはや戦後ではなくなる。高度成長期にさしかかる。男中心の世の中が少し変って、マイ・ファミリー的な社会構造がはっきり見え始める。今までは父ちゃんだけが酒をくらったり赤線へ行ったりして遊んでいたんだ。三十年代に入るとテレビが普及して、どこのうちでも茶の間にテレビがあるようになる。みんなでテレビを見ながら一家団欒を楽しむようになる。母ちゃんと子どもが、自己主張を始める。チャンネル権をだれが持つか、もう父ちゃんだけが威張っているわけにはいかない」
「言われてみれば、そうねえ」
「テレビのおかげで映画が大衆娯楽の王者から滑り落ちる。プロ野球だって、昔は松竹とか大映とか、映画会社が持ってたんだ。ところがみんな手を引いちまって、マスコミ産業が……つまりサ、テレビを持った会社が、どんどんのしあがって来た。テレビと野球がくっつく。そのときに長島茂雄がプロ野球のヒーローとして登場したんだよな。球場に行く人の数なんかたかがしれてる。みんながテレビで見てたんだ。ジャイアンツはそのテレビのネットワークとしっかり結びついていたんだ。しかも地盤は東京。東京が全国でダントツのマンモス都市になったのも、あの頃からだったし……。ジャイアンツは、地盤も東京で、東京のテレビ局から独占的にゲームが放映されたんだ。いろんな条件が、一番いいお膳立てになっていたんだよな。今はちがうよ。テレビはあの頃よりもっと普及しただろうけど、ほかに娯楽がたくさんあるもん。テレビ見てんのなんかダサイ趣味よ。プロ野球だって、ほかにゴルフとかサッカーとかラグビーとか……そう、スキン・ダイビングとか、おもしろいスポーツが、どんどん出て来て、もう昔ほど絶対の価値はない」
「ジャイアンツも、昔ほど人気がないしなあ。タイガースとかカープとか」
広瀬が茶化すように口を挟《はさ》んだ。
「まったくだ。王が登場したのは、ちょっと遅かったよ。タイミングが少しずれていた。個人としちゃ王のほうがすごいけど、時代のシンボルとしちゃあ、長島のほうがずっとすごい。だから長島は二度と出ないんだ。つまり赤線の灯が消えて、長島が登場したんだ」
「ふーん」
ママは曖昧な表情で頷く。
村木の長広舌《ちようこうぜつ》がどこまで納得できたか……あの時代を通り抜けて来た人でなければ理解できない話なのかもしれない。
「時代が人間を要求するんだよ。ナポレオンでも織田信長でも。その時代に一番ピッタシあったいいタイミングで登場してヒーローになる。少し遅れたら、もういけない。歴史のヒーローにはなれない」
ママが不意に広瀬の顔を見て、
「広瀬さんも知ってるの、赤線を?」
と尋ねた。野球より、このほうがママの興味に適《かな》っている。
「知ってるよ、きわどいところで」
「今、いくつ?」
「四十九だ。長島より一つ下だ」
「じゃあ、学生のとき行ったわけ?」
「そう。厳密に言うと、売春防止法が施行されたのが昭和三十三年。猶予期間が少しあって、本当に消えたのは三十四年の三月」
「くわしいのね」
「サラリーマンになった頃には灯が消えてた」
「結構遊んでんのね、真面目そうな顔して」
「そうでもない。金がなかったもん」
「高かったの?」
「今、考えると、そう高くはなかったけど、みんな貧乏だったからなあ。大切な金を握って、必死の覚悟で行ったんだよな」
「男って好きだから」
「女だって好きだよ」
「そりゃ言えるけど」
ママはセンちゃんの注文で野菜いためを作りにかかる。センちゃんは広瀬たちの話を聞いているのかどうか。飲み物はいつもビール一本、それ以上飲むことはない。
テレビの野球は巨人のチャンス。村木は椅子をまわして画面に正対する。
「ゲッツー打なんか打ったら承知しないぞ」
広瀬は、息まいている村木をはすかいに眺めながら古い記憶を心にたぐった。
新宿はまだ狭く、細長い街だった。駅を出て伊勢丹デパートに行くまでの道筋が繁華街だった。歌舞伎町の方角に盛り場が伸びて街全体が大きく広がったのは、もう少しあとのことだったろう。高層ビルなどあるはずもない。あのあたりはガス・タンクの並ぶ野原だった。
繁華街を通り抜け、大通りの長い横断歩道を渡ると、そこが新宿二丁目だった。赤線地帯への入り口はいくつもあったが、広瀬はいつも同じところから入った。ジンクスのようなもの……。大通りを越してしまえば、ほかになにか目的のある街ではない。
地図はおおよそ心得ていた。友人に連れられて何度か冷かして歩いたから。
「学生さん、寄ってらっしゃいよお」
声をかけられても広瀬は懐《ふところ》がさびしい。慣れているふりをして手を振って通り過ぎる。すでにサラリーマンになっていた友人があいかたを決めて登楼すると、しばらくは遊園地のブランコに乗って待っていた。
五百円あれば一番安い遊びができた。灯が消える直前に少し値上りをしたが、広瀬がよく覚えているのは、この金額だった。
五百円がどれほどの価値だったのか、はっきりとは思い出せない。一日アルバイトをすると三百円くらいの収入ではなかったか。
真夏の昼下がり。初めて一人で行ったときだったろう。まだ本格的に店を開いている時刻ではなかった。
それでもあちこちのドアが細めに開いていて、女たちの姿が見えた。客を待っているというより、たまたまそのあたりに用があって立っているような感じだった。洗濯物を干している女もいる。買い物の帰りらしい女もいた。
広瀬は早足で歩いた。
まるでほかの目的でたまたまこの街に来たように歩いた。けっして女たちと目を合わせない。女がいるとわかれば、むしろ道の反対側を通った。
それでも家の中の女たちを目の端で見る。一瞬のうちにうかがう。
やはり美人のほうがいい。
だが、めったなことで美人になんかめぐりあわない。皆無に近い。
――せめて半分より上――
その程度の願いだった。
娼家が次から次へと軒並み続いているような路地は通りにくい。多勢に無勢、引きずりこまれるおそれがなくもない。
同じ道を通るのもまずい。物色しているらしいと、すぐに見破られてしまう。見破られたからといって、なにか不都合なことが起きるわけではないけれど、心をすっかり読まれてしまうのは、ばつがわるかった。
――夜のほうが、いい人がいるのかな――
今はオフ・タイム。昼寝をしている女も多いだろう。歩いているうちに、どうでもいいような心境になってしまう。早く抱きたい。望みがだんだん低くなる。
このまま帰る気にはなれない。せっかく金を用意して来たのだから、どこかの店にあがらなければ体が承知しない。
「あら、早いのね」
突然、声をかけられた。ただ通り抜けるつもりで入った路地だった。薄暗いドアの中から扇風機の風が吹き、ターバンを巻いた女が顔を出す。
「うん」
足を止めたのは、よほどひどくない限りぼつぼつ決めようと思っていたから……。
左右に開くドア。ベニア板をくりぬいてシャンペングラスや楽器の形に、色ガラスが貼ってあった。
女は黒眼が大きい。そばかすが頬に密集している。それが特徴だった。
けっしてよい器量ではないが、とくにわるくはない。二丁目の平均点。だが、人柄がよさそうで、どことなく親切そうに見えた。これはとても大切な条件だ。広瀬は二十歳を過ぎたばかり。たちのわるい女に当たると、ろくに楽しませてもらえない。
「遊んで行く?」
「五百円しかないんだ」
部屋にあがると飲みたくもない紅茶が出る。色だけの薄い紅茶……。その代金として百円べつに取られるのがルールだった。
広瀬の懐も五百円こっきりというわけではなかったが、紅茶の分を値切ってみた。
「いいわよ」
女は四角いドアの薄闇から手を差し出し、広瀬の腕を抱えた。もう逃げられない。
「お客さんよ」
奥に一声告げてから、先に立ってとんとんと階段を昇る。
四畳半ほどの部屋に布団と姫鏡台。布団は赤い、はでな模様だった……そんな気もするのだが、どの部屋も類似の様子だったにちがいない。女がスウィッチを押すと、小さな扇風機が首を振る。
「お帳場して」
前金で五百円を差し出す。
やり手が紅茶を持って来て、襖《ふすま》の細いすきまから中へお盆をさし入れる。女は、たった今受け取った五百円の中から、いくらかを手渡した。
足音が遠ざかると、ふり返って笑った。
「暑いわね。学生さん?」
「うん」
「よく来るの?」
「月に一ぺんくらいかな」
実際の数より多くを言ったのは、
――また来ることもあるんだから、サービスをよくしてくれよ――
といった気分である。
「あ、そう。頭、このままでいいわよね」
ターバンのままブラウスを脱ぎ、スカートを落とし、スリップ一枚になって布団の中に滑りこんだ。
広瀬はうしろ向きになって服を脱ぐ。背筋が汗ばんでいる。扇風機の風で乾した。
「いらっしゃいよ」
「うん」
女は布団を蹴り、器用に男を誘導して脚を開く。
短い遊戯だった。放出のあとには、
――なんでこんなことにあれほど夢中になるのか――
あわい後悔を抱く。虚脱感もある。五百円も少しもったいない。
男が身を起すまで、そのまま待っていてくれるのは、心のやさしい女だ。
「よかった?」
女も汗ばんでいる。
「よかった」
戸惑いながら答える。自慰のほうが、ここちよいのではあるまいか。
だが自慰ばかりではイマジネーションが枯渇《こかつ》する。よりよいイマジネーションのためにも、時折本当の交接がなければいけない。
女はぎこちない足取りで部屋を出て行く。男は扇風機の前で服を着る。女はすぐに戻って来て、手早く服を着た。
「なんていう名前?」
「平凡よ。ア、キ、コ」
一つ一つ区切りながら言った。年は二十代の後半くらい……。だが口調はあどけない。
「どんなアキコ?」
「春夏秋冬の秋子」
「本名?」
「そうよ。面倒だもん」
二人で部屋を出て階段を降りた。さっきから三十分もたっていないだろう。
「また来て」
「うん、来る」
路地の角を曲るときにふり返ると、まだ秋子は店の外に立ったままこっちを見ていた。
「……遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う」
浪花節の一節を口遊《くちずさ》んだ。その先は知らない。
路地の裏手に喬木《きようぼく》が残っていて、蜩《ひぐらし》がまのびのした声で鳴いていた。
「ママ、お金を拾ったことある?」
ジャイアンツの攻撃は尻すぼみ。画面がCMに変ったところで今度は広瀬がカウンターの中のママに尋ねた。
「拾わないわねえ。広瀬さん、拾ったの?」
ほかの客たちが聞き耳を立てている。野球の話よりこのほうがだれにとっても興味が深い。
「いや、そうじゃないけどサ」
「五年くらい前にいっぺんあるわ。石神井《しやくじい》にいた頃。風の強い日で、道を歩いてたらサ、木の葉に混って五百円札が飛んでるの。あせって追っかけちゃった。だれも見てなかったから、よかったけど」
「この頃は十円玉もなかなか落ちていない」
「落ちてても拾わない奴がいるから頭に来る」
村木がテレビを見たまま話に加わる。
「拾わないの? どうして?」
「面倒だからだろ。とくに若い人」
「私なんか一円玉でも拾っちゃうけどね」
「一円なんか、なんに使う? 役に立たないだろ」
「そりゃそうだけど……。でも昔、言われたでしょ。一円を笑う者は一円に泣く≠チて」
「古いこと知ってるじゃないか」
「センちゃんたち、拾わない? 一円玉じゃ落ちてても」
カウンターの中を左右に動きながらママが一番年若い客の意見を尋ねた。
「うーん。場合によるよ。一円じゃ拾わないな、やっぱし。十円なら拾うかもしれないけど」
「十円玉って案外大事よね。電話かけようとして……一万円札しかなくって……。真夜中で、どこもあいてなくて、雨なんかザアザー降ってたら、どうしようもないでしょ」
「なんかそんなテレビドラマがあったなあ。十円玉がないばっかりに大切な連絡ができなくて、入念に企《くわだ》てた計画が狂って行くっての」
「いくらなら交番に届ける?」
酒場の会話は、一辺を欠いた三角形だ。ママと客A、ママと客B、二本の線分は引かれているが、客Aと客Bのあいだには、線がない。こだわりがある。そこにはあまり濃い線を引かないのが暗黙のルールである。
「拾ったお金?」
ママが広瀬に聞き返した。
「そう」
「そうねえ、一万円かなあ。一万円ならもらっちゃうかなあ。三万円くらい。広瀬さんは?」
それには答えず、
「自分が落としたときは、どうする? いくらなら交番へ駈け込む?」
と聞き返した。
「五万円以上……かな」
「そのへんがめどだよな。自分が拾ったとき届けるのも、落として交番へ一応行ってみるのも」
「でも、拾ったお金って、考えちゃうでしょ。どういう人が落としたろうって……」
センちゃんが野菜いためのおかずで、白い御飯を食べながら言う。米はコシヒカリ。たっぷりと盛ってもらって職人のように豪勢に食べる。
村木のほうはビールも飲まずに野球に見入っている。
「ええ?」
「千円くらいでもサ、子どもが落としたのなら結構大金だろ。今ごろ泣いてんじゃないかと思うと、気が引ける。落としたのが大金持ちなら、五万円でも十万円でも、ルンルン猫ばばできるけどさア」
センちゃんは、田舎出の人らしい、素朴な笑いを頬に刻んで言う。これは本心だろう。
「本当よね」
奥の一組が席を立った。
もう一度秋子の店へ行ったのは拾った金のおかげだった。
財布の中に百円札が八枚。ほかに小銭と、商店会の福引き券が入っていた。
けっして上等な財布ではない。
――どうしよう――
子どもの財布ではあるまい。サラリーマンかな。交番に届けてみたところで、この程度の金額なら本人はあきらめているだろう。その公算が強い。
――まあ、いいか――
中身を見た瞬間から広瀬の心に誘惑が見え隠れしていた。
拾ったのは四谷。新宿二丁目は近い。
電車に乗り、繁華街を通りぬけ、長い横断歩道を渡った。もうあとへ引く気にはなれない。
秋の日暮れは早い。街は赤い灯をともし、ぼつぼつにぎわい始めていた。ドアのすぐ内側でラーメンをすすりながら客を引いている女がいる。
「学割りあるわよう」
声をかけられたが、広瀬は肩をまるめて通り過ぎた。
「どこへ行くのよう」
からかうような声に呼ばれた。組んだ脚のきれいな女だ。顔もわるくないが、目つきがよくない。意地がわるそうだ。
そう長くは迷わなかった。
――よくないことをしている――
この街を歩くときは、この気持ちを拭うことができない。
まして今夜はうしろめたい金を使うのだ。心がひどく高ぶっていた。
見覚えのある路地に入って、見覚えのある店の前に立った。すぐに女が顔を出す。この人じゃない。
「秋子さん、いる?」
知った顔のほうが安心だ。
「秋ちゃん? いるわよ」
女は階段の上に向かって声をかけた。黄色いスカートがすぐに階段を降りて来た。広瀬を見て、
「あら」
と頷く。
――二度訪ねるほどの女だろうか。もっといい女が抱けたのではあるまいか――
その迷いは路地に入ったときからあった。だが、とにかくここへ来てしまったのは、女の仕ぐさに心の暖かさのようなものを漠然と感じていたからだろう。
秋子はさほど意外そうではない。
――やっぱり来てくれたわね――
そんな表情だった。
一度彼女になじんだ客が二度目に来ることも、よくあるらしい。広瀬が考えているよりいい女なのかもしれない。
若いときには自分の物指しに自信が持てない。みんながいいと思うのなら、きっといい女なのだろう。
――よかった――
女の表情を見て広瀬は遠まわりの満足を覚えた。
「少し寒くなったわね」
「うん」
季節の変化は早い。
部屋には電気ストーブが赤い光を広げていた。
「いつだったかしら」
「二ヵ月くらい前かな」
この夜は紅茶代もキチンと払った。
女が服を脱ぎ、男も服を脱いで体を重ねる。
相変らず短い遊戯だった。秋子は身を反《そ》らして広瀬の動きにあわせてくれた。
部屋のすみで弾むような小さな音が響く。放出のあとで虫の鳴き声らしいとわかった。
「なんだろう?」
「かねたたきでしょ」
「へえー」
名前は知っていたが、音色を聞くのは初めてだった。
「田舎でよく鳴いてたわ」
「どこ?」
「新潟。糸魚川《いといがわ》の近く。知らないでしょ」
「富山県のほうだろ。海辺で」
「よく知ってるわね。厭だ。行ったことある?」
「ないけど」
秋子は身を起こしかけたが、
「もう一回、やる?」
と笑う。
「いい」
返事をしてから、しまった≠ニ思ったが、言葉を取り消すのもきまりがわるい。そのままズボンをはいた。
「今年もすぐ終るのね」
「うん」
「また来ても、いないと思うわ」
「ここに? どうして」
「やめるの。赤線も終るしね」
「やめて、どうするの?」
新聞にもそのテーマがくり返して載っていた。
「結婚する」
女は呟いて花のように笑った。歯並びがきれいなことに気づいた。
少し意外だった。
――こんなところにいて……結婚をする人がいるのだろうか――
だから広瀬は尋ねた。
「相手はおなじみさん?」
「ちがうわよ。田舎へ帰って……大工さん」
「その人、知らないわけ、この仕事?」
残酷なことが聞けたのも若さのせいだろう。秋子は屈託がない。
「知らないわよ。せいぜいいい奥さんになってあげなきゃね」
「田舎って、糸魚川?」
「そう」
二人はもう服を着終っていた。
階段を降り、外に出た。夜の街がとても赤い。秋子はこのときも広瀬が角を曲がるまで門口に立っていた。
それから何ヵ月かたって赤線の灯が消えた。
――あの人、しあわせになったかなあ――
顔も体の特徴もすっかり忘れてしまってからも、そのことだけは時折ふいと心に浮かんだ。
ジャイアンツの勝ちは、ほぼ決まったらしい。
「どう、新居は?」
村木が首をまわして尋ねる。広瀬はつい最近、家を手に入れた。老後のすみかのつもりで作った。とてつもない借金をして……。
返済まで二十年かかる。二十年後の自分を想像するためには、二十年前の自分を考えてみればいい。
「どうせプレファブの安普請《やすぶしん》だからな」
「たいしたもんだよ」
「広瀬さん、新築したのよね。お祝いもしなくて……」
「いいよ、べつに」
センちゃんの食事が終った。多分独り者だろう。これからどんな夜を過ごすのか。
ママが茶碗をさげながら、
「センちゃんのお父さん、大工さんなのよね」
と言う。
そのことは以前に、カウンターの会話で聞いて、広瀬は知っていた。
そして、もう一つ、彼が糸魚川の出身であることも……。
――糸魚川だって広い町だ――
大工さんも大勢いるだろう。
「ご両親、お元気なんでしょ」
「まあね」
「東京に呼んであげれば」
「むこうのほうが好きなんじゃないのか」
どう記憶をたどってみても秋子の面差しを思い出すことはできない。はっきりした眼、そばかす、よい歯並び……せいぜいそれだけだ。センちゃんの眼も大きいけれど。
「お袋さんの名前は?」
そう尋《き》きたい気持ちがあるけれど、これはずいぶん唐突の質問だ。聞いてはいけないことのようにも思えて、広瀬は尋ねない。
「ご馳走さん」
センちゃんが立ち、テレビの中から長島の声がこぼれた。
薄暮飛行
――あ、浮いた――
そう思った次の瞬間に、窓の外の草むらがななめに傾き、滑走路がどんどん遠ざかって行く。
たちまち空港そのものが遠景に変り、眼下の街が地図になった。
そして海に出る。
右手に細い海《うみ》の中道《なかみち》。その先に志賀島《しかのしま》が浮かび、機体の旋回につれ、それもすぐに見えなくなった。
「夕日がきれい」
響子《きようこ》は左の肩に市橋の息を感じながら呟いた。シンプルな夏のワンピース。肩は貝殻骨《かいがらぼね》のあたりまで、あらわになっていた。
夏の日はゆっくりと暮れかかっている。太陽はすでに雲海の下に隠れ、ところどころ薄みを貫いて金色の光が溢れている。ぽっかりと宙に立つ雲があった。
「三分たった」
「ええ?」
「飛行機は離着陸の瞬間が危い。事故はたいていそのときに起きるんだ」
「そうらしいわね」
仕事がら響子は旅に出ることが多い。昨夜は博多のホテルでタンゴを歌った。碧空《あおぞら》∞黒い瞳∞小雨降る径《みち》≠ネど、古い、よく知られた曲のほうが拍手を多く集めた。ホテルの客には若い世代は少ない。
飛行機には何度乗ったかわからない。それでも乗るときはいつも怖い。心のどこかで事故を意識している。
――特別臆病なのかしら――
ほんの少し高所恐怖症のところがある。
だが、だれしも飛行機に乗るときには、いくばくかの不安を覚えるのではあるまいか。事故なんて滅多にないものと知りながら、不幸な偶然を想像する。飛翔の瞬間に落下を思う。市橋もきっとそれを考えていたのだろう。禁煙のサインが消えた。
「もう安心だ」
と、市橋は自分に聞かせるように言う。
窓の外は、雲だらけの空をひろげている。その果ては、地平線でもないし、水平線でもない。新しい言葉を考えなければなるまい。さしずめ雲平線。
――少し語呂がわるいわね――
そう言えば、このごろの新しい歌……歌詞には、たいてい二、三ヵ所ひどく語呂のわるいところがある。歌いにくいと言うより、そこへ来るといつも気をそがれてしまう。詩情が崩れてしまう。
――昔のほうがよかった――
そう思うこと自体、響子が年を取った証拠かもしれない。三十八歳。まだまだ若いつもりではいるけれど、現実には若さからずいぶん離れてしまった。三十八は十九の二倍なのだ。
市橋の肩が動き、響子の手を握った。
「でも途中で事故を起こすこと、あるじゃない」
ハンカチとハンドバッグで市橋の手を覆《おお》いながら言った。
――厭ね、こんなところで。悪い人――
そんな気持ちをこめて軽く握り返した。指先が掌をくすぐる。少し淫《みだ》ら。昨夜の情事が心にのぼって来た。
「皆無《かいむ》じゃないけど、ほとんどない」
通路側の席は、中年の紳士。週刊誌を読んでいる。
「飛行機の窓から、ほかの飛行機が飛んでいるのって、見ないわね。いっぱい飛んでいるんでしょうに。船なんか、よくすれちがって手なんか振るじゃない」
「このあいだ見たな。真下を飛んで行った。すごいスピードで、すぐに見えなくなる」
「本当?」
「同じ高さを飛んだりはしないよ。危いから。手を振るってわけにはいかない」
握った手が合図を送って寄こす。好きだよ≠ニ、そう読み取ればいいのかしら。口と手と、べつべつな会話を交わしている。炬燵《こたつ》カンバセーション――そんなへんてこな言葉を発明したのは、竹井だったろう。はにかむような笑顔。白くて長い指。初めての恋人と呼んでもいい。炬燵というものは、外で真面目な話を交わしていても、中はちょっぴり淫らである。
――もう十五年もたつんだわ――
死んでしまった人は、年を取らない。だから心に浮かぶ竹井は、いつも若々しい。傷つきやすい人。どの道、この世でたくましく生きて行くのに向かない人だった。その判断にまちがいはないのだが、響子がそう言いきってしまっては、竹井も浮かばれまい。竹井を思うときには、いつも心の中で苦《にが》い後悔を覚え、そっと手を合わせて来た。
――なにも死ななくてもよかったのに――
何度もそう思った。
とはいえ、その記憶も昨今はすっかり薄くなっている。時間はいっさいを風化させてしまう。昔の苦しみ、過去の恋……
竹井の次が戸波。それから昭二。飛び石のように跳んで市橋へと続く。
――これが四番目――
三十八歳で四つというのは、多いのか、少ないのか。
けっして多くはあるまい。二十代はレッスンが忙しかった。ローマに留学して三年間のブランクがあった。三十代はプロの歌い手となるのに夢中だった。よそ見なんかしていられない。おしなべて恋をする時間は乏《とぼ》しかった。
――ろくな恋をしてないな――
そんな実感がある。むしろ気がかりなのは数のことよりも中身のほう。とりわけ今ひっかかっているのがよくない。最悪と言ってもいい。
――どうして昭二みたいな男に深入りしてしまったのか――
響子は自分でもよくわからない。魔がさしたとしか言いようがない。
昭二は、よくこの手の話にあるような美男子なんかじゃない。むしろ凡庸《ぼんよう》な容姿、凡庸な体躯。社会的なステータスを言うには若過ぎるし、男として特にりっぱなところがあるわけでもない。それは初めからわかっていた。ただの一ファン。熱心さということなら、昭二よりもっと熱心なファンがいないでもない。
おどおどとした様子、放っておいたら駄目になりそうな人柄。それでいながら、とてもしつこい。しぶとい。何時間でも待っている。ずいぶんみじめなことでもじっと耐えている。そして、
――君のために、こんなにつらい思いをしたんだから――
と、その一点にすべてを賭《か》けて執拗《しつよう》に迫って来る。
あれも一つの才能のうちだろう。
響子はまんまとひっかかってしまった。しつこさに負け、一緒に暮らすようになり、これは大変な人だとわかった。嫉妬の深さは常軌を逸している。暴力をふるう。男のくせに涙をボロボロと流して泣く。信じられないほど悲痛な声をあげてすがりつく。
――逃げたら、ただじゃおかないぞ。お前を殺して、俺も死ぬ――
くり返す言葉には、嘘とは思えない迫力がある。
思いあまって市橋に話した。
それが十日ほど前の夜のこと……。
市橋は初めて会ったときから好ましい人だった。四十代のなかばを過ぎているのに、家族がない。会うたびにひたひたと寄せて来る好意を感じていた。
――もしかしたらこの人と――
早い時期からそんな気配を覚えないでもなかった。
「わかった。なにかあるとは思っていたけど」
「本当は言いたくなかったのよ」
「聞いてよかった」
「がっかりしたでしょ」
「いや、しない。響ちゃんが好きだから」
「ありがと」
「いずれにせよ、長くつきあってていい男じゃない。それは確かだ。断固別れたほうがいい」
「ええ」
「未練はないんだね」
「未練なんか……あるはずないでしょ」
市橋は響子の眼の底を覗いた。いつものやさしい眼差しとは少しちがっていた。三十代には商社の営業マンとして世界を歩きまわり、ずいぶんきびしい仕事もやったらしい。初めて見る鋭い眼の光だった。
「わかったよ。未練はないと思うよ。だけど哀れんでもいけない。心を決めた以上、きっぱりと別れなくちゃ」
「そのつもりよ」
それからおもむろに尋ねた。
「僕を頼れる?」
「そう思わなかったら、こんな相談、しません」
「うん」
市橋は軽く顎先で頷いてから、
「一日考えさせてほしい」
「何日でも待ちます」
「よっしゃ」
翌日会ったとき、市橋は細長い小箱をポケットから取り出し、
「これをあげる」
と言う。
「プレゼント?」
ファンから物をもらうことには慣れているけれど、少し唐突の感じがなくもない。
「そうだ」
市橋は自分で紐を解いて開いた。
男物とも女物ともつかない腕時計。ボーイッシュの服装をしたときなら響子でも使えるだろう。
「どうして?」
「日付を見てくれ」
七月二十一日。土曜日。二日前の日付だった。なにか訳がありそうだ。でも響子には市橋の意図がわからない。キョトンとした身ぶりで、
「なにかしら」
と尋ね返した。
「タイムマシンだ。今日は一昨日なんだ」
「ええ?」
「昨日、君からとても大切な相談を受けた。実を言うとしまった≠ニ思った。話を聞く前に言っておきたいことがあったんだ」
「ああ、そう。なんでしょう」
少しずつ謎が解けた。
「だから、今は、時間を戻して一昨日なんだ。二人は一昨日の状態にいるんだ」
「お芝居みたいね」
「そう、その通り」
「それで……」
「うん」
市橋は間を置くような、これから言い出す言葉を考えるような、曖昧な表情で笑ってからゆっくりと呟いた。
「僕は響ちゃんが好きだ。今までは、ただのファンだったけど、もう少し深入りをしたい。君さえよければ、ずっと人生を共有したいと思っている。わかるね」
涼しい風のように響く。遠からずそんな告白があるのではないか、そんな予測があった。市橋との親しさは、やはり特別のものだった。
「突然ですのね」
「言い出したのは突然だけど、ずっと前から考えていたことだ」
「すぐに答を言わなければ、いけないんですか?」
「いや、待つ。でも早いほうがうれしい。いい答のほうが断然うれしい。ぜひともそれが聞きたい」
「強引なのね」
響子は笑った。答はほぼ決まっている。
「こういうことは強引でなくちゃあいけない」
「でも、私、仕事を続けたいし、すぐに身動きはできないわ」
「もちろん……僕は結婚のことを考えている。でも、すぐって言ってるわけじゃない。君が仕事を続けたいのはよくわかっているし……才能もよく知っている」
「才能なんか……」
「ある。普通の奥さんになるのはもったいない。だから形はどうでもいいんだ。君が好きだってことを言っておきたいんだ。文字通り人生を共有したいって……」
笑いがこみあげて来た。うれしさも混っていただろう。
「これ、一昨日なんでしょ」
「そう」
「だとすると、私はここで考えこんじゃうわね」
「うん?」
「私、市橋さんが思っていらっしゃるほど上等な女じゃないわ。いろいろ過去もあるし……」
一昨日の気分になって告げると、市橋も笑いながら合わせる。
「男は未来のあるほうがいい。だけど女は過去のあるほうがいい、そういう諺《ことわざ》もある」
「そんなかっこいいのとちがうの。どうしてもお話しておきたいことがあるの。ぜひとも相談にのっていただきたいの。今のお話は、今のお話としてうかがっておいて、それとはべつに……?」
「なんだろう、ゆっくり聞かせてくれ」
市橋は口を尖《とが》らせ、時計の日付を移しながら、
「そして昨日になり、昨日の相談があって今日になる」
また、もう一つ日付を変えた。
「遊びっぽいのね」
「深刻なのは柄にあわんから……しかし心は真剣だ。わかるね」
「ええ」
「だから今日はもう人生を共有しようという覚悟で来ているんだ。君の事情を充分に知ったうえで、一緒に戦うつもりで来たんだ」
遊びのふりをして市橋がなにをしようとしたか、響子にはよくわかった。響子の弱味を聞いてから愛を告白したのでは代償を求めたようになる。まず先に告白をしておいて、それから悩みを聞きたい。そのほうが二人の愛を育てるのによい、と市橋は考えたのだろう。
「悪いみたい」
「悪くない。どうなるかわからないけど、けっして負い目に感じないこと。俺だって今日までいつも清く正しく生きて来たわけじゃないんだから。つらいだろうけれど、もう少しくわしく話してくれ」
「そうね」
あの夜は酒を飲みながら長い叙事詩でも歌うように昭二との生活を市橋に語った。
昭二の嫉妬はなみたいていではない。市橋と会って相談する時間も取りにくい。たまたま響子は博多で仕事があった。昭二は一応サラリーマンなのだから東京を離れてまでまとわりつくのはむつかしい。
「博多なら僕も行けるかもしれない」
「来てくださる?」
「なんとかなるだろう」
市橋は出張の足を広島から響子の待つホテルまで伸ばした。それが昨日の夜半過ぎ。部屋の外には黒い川と街の一画が見えた。二人にとって初めての夜だった。
「もう沈んだのね、太陽」
頬を小さな窓に寄せて背後の空を見た。西の空がわずかに明るさを残しているが、行手の雲はすでに薄闇の底に沈んでいる。
――ああ厭だ――
急に嫌悪が心をよぎる。空港にはきっと昭二が来ているにちがいない。
――あと五日間――
ベッドで肩を並べながら市橋の計画を聞いた。
「それまでなにも話さないほうがいい。一気に片をつける」
「大丈夫かしら」
「君一人じゃむつかしい。僕がついている。男は男に弱いものだ。言っちゃあわるいが、根は気の弱い人だろう。職業的なワルじゃない。憐れみをかけたら負けだよ。かわいそうだと思うのは一年か二年先でいい。ここは黙って僕に従うこと。厭なこともあるだろうけど、我慢してほしい」
「あなたは平気なの?」
「腕には少し覚えがある」
「そんなこと、怖い」
「いや、そこまではやらんさ」
五日後の日曜日、昭二はいつものようにテレビの娯楽番組を見ているだろう。十二時を合図に響子が、
「話があるの」
と言う。
「なんだよ」
ただならない気配を察し、昭二はさぐるような眼で見るだろう。
「別れたいの」
つとめて冷静に言おう。芝居の台詞《せりふ》のように。少し練習をしておこうかしら。
「なに言ってんだよ」
昭二は拗《す》ねるような、脅すような表情を向けるにちがいない。何度も見た顔……。はっきりと眼に浮かぶ。
「好きな人ができたの」
「馬鹿!」
灰皿くらい飛んでくるかもしれない。
そのとき玄関のブザーが鳴る。響子がドアを開ける。市橋が立っている。
「こんにちは。失礼します」
「どうぞ」
だれに遠慮することもない。響子自身が所有するマンションの一室だ。女主人がよい≠ニ言っているのだから同居人が拒《こば》めるわけがない。
「紹介するわ。私の好きな人」
それからは万事市橋がやってくれる。一時にはワゴン車二台が荷物を取りに来る。ラグビー部の後輩たちが一緒に乗って来るそうだ。当座に必要な荷物だけを運び出す。惜しい品物もあるけれど、それはとりあえずあきらめるよう説得された。そのくらいの覚悟がなければ迫力がない。
「あなたの御都合もおありでしょうから今月いっぱいここに住んでいらしてくださって結構です。あとは他人の物になりますから」
市橋が昭二に言うだろう。昭二はどんな顔で聞くか。たしかに昭二は、男同士では強いことの言える人ではない。
少しかわいそうだが、思い切った手段を取らなければ、いつまでもらちがあかない。あとはこういう争いに慣れている強面《こわもて》の弁護士が引導を渡してくれるはず……。
「少しは手切れ金がいるのかなあ」
「そこまで落ちぶれてるかしら」
「わからん。今までだって食うのと寝るのとは、君の世話になってたんだろ。まともなサラリーマンとしちゃ情けない。少し渡しておいたほうがゆくゆくはいいんだがね。そのへんは成行き次第だ。こまかいことは知らんほうがいい。あなたもつらいだろう。僕も好きじゃない」
「ええ……」
眼をつぶって市橋に委《ゆだ》ねることにした。
うち合わせのあとはそのまま市橋の胸に頬を寄せて眠った。昭二の夢を見たのはなぜだったろう。その顔が明るく笑っていたのは響子自身の願望らしい。眼をさまして、もう一度市橋に抱かれた。余燼が体のふしぶしにくすぶっていた。あらたに掻《か》き立てられ、はっきりとした快感を覚えた。
チェックアウト・タイムぎりぎりに部屋を出てスカイ・ラウンジで食事を取った。それから市内の美術館を見物し、昼さがりの大濠《おおほり》公園を歩いた。あまりにも暑い。野良犬も木陰に休んでいる。
――でも、こんな散歩もきっとよい思い出になるわ――
汗を拭うたびにそう思った。
「このまま博多にいたい」
「もう少しの辛抱だよ」
「そうね」
飛行機は定刻通りの出発だった。
切れめのない音を響かせて薄暮の中を突き進む。もう三、四十分で羽田に到着するだろう。
「本当に近くなったなあ」
市橋がそう呟いたのは福岡・東京間の旅程だろう。
「昔は大変だったわ。九州でお仕事があったりすると」
「寝台特急とかね」
「そう。一晩寝ても、まだ着かないの」
「その前はもっとひどかった。昭和二十年代……」
「だれかいい人と一緒なら長旅もいいんだけど」
「そんなのもあったんじゃないのか?」
市橋は笑いながら尋ねる。男はこんな顔で女の気を引くのかもしれない。
相変らずハンカチの下では指たちが遊んでいる。市橋は尋ねながら響子の指を強く握る。
「ないわ、私、本当のことを言って、ろくな恋愛をしていないの」
「そう? そうは見えないけど」
「本当よ。歌の仕事って、本物のプロになるの、簡単じゃないわ。うかうか遊んでいられない」
「そうらしいね」
「最初は二十の頃。奥手ね。大学生だったわ」
竹井のことを少し話しておきたかった。通路側の乗客はイアフォンを耳に差したまま寝息をあげている。
「彼も大学生?」
「ええ。一つ年下で」
「年下好みなのかな」
「そうでもないと思うけど……」
昭二のことを考えれば否定はしにくい。
「なんで、あの人、私なんかにあんなに夢中になったのかなあ」
「当然だろう。きっとチャーミングだった」
「若いときって、こっちもよくわかんないのよね」
「なにが?」
「男の人のこと。自分のことも」
「それは言えるかもしれないな」
「ふわふわした気分で、恋愛ごっこを始めちゃって……途中からちがうな≠チて思ったからやめましょ≠チて言ったのね。ま、そんなに簡単じゃなかったけど」
「うん?」
「とくに邪慳《じやけん》に扱ったつもりはないんだけどねえー。私は音楽のほうへ心がすっかり傾いていたし、彼はもともと心の弱いところがあって……別れがよほど応えたのね。自殺したわ」
むしろ乾いた声で言った。
「びっくりしただろう」
「びっくり……そう、驚いたわね、もちろん。でも、それ以外に、腹も少し立ったわ。無理矢理死体を一つ預けられたような気がして……」
「わかるよ。そう悪いことをしたわけじゃないのに、むこうに決定的な手段を取られちゃった……。永遠に申し開きができないんだから」
「そう。いろんな感情を味わわされたみたい。もう少し配慮があればよかったと思ったときもあったし弱い男は仕方ない≠チて残酷な気持ちで振り返ったときもあったし……。しばらくは恋愛に対して臆病になったわね」
「なんで死んだの? 方法は」
「ガス自殺。まだガスが有毒だった頃だから。睡眠薬を飲んで、ガス栓を開いて」
「それだけの勇気があれば、生きて行けるのにな」
「本当に」
「凡人はなかなか死ねないものだよ。遺書は?」
「なんにもなかったみたい」
「本当に君が原因だったのかな」
「それもわからないわ。私の帰りを待ち伏せしていてどうしても話を聞いてくれ≠チて……それが二ヵ月くらい前かしら。よりを戻したいって話だったから、断ったの。だって私、正直言ってもう厭になっていたんですもの。かえって傷口を大きくしただけみたい。だからもう一度会いたい≠チて言って来たときは、はっきりとお断りしたわ。それが三週間くらい前かしら。ほかに彼、大学で志望のゼミに行けなくて……そんなことで死なないわね?」
「わからん。人によりけりだ。希望のゼミに行けなくて、自分の才能に失望することもあるかもしれないし」
「ええ……。やっぱり私がいけないんでしょうね。みんなの眼がそう言ってたわ。死ぬとは思わなかったものねえー」
「原因の一つは君かもしれないけど、でもこればかりは仕方がない。弱い人だったのかな」
「そうね。アルルの女≠フ最後って知ってます?」
「知らん」
「見てごらんなせえ、男が恋で死ぬものかどうか≠サれで終るのね。村人が、失恋で死んだ男の死体を指さしながら言うの。それがオペラの幕切れになるくらい、男の人って恋愛では死なないんじゃないですか」
「失恋だけじゃ死なないな。他に理由がきっとある」
「そうでしょう。そう思っていたんだけど」
機内にアナウンスメントが響き、飛行機が少しずつ高度をさげ始めた。窓の外は鈍色《にびいろ》の闇と化し、低い底に少しずつ灯が輝く。
「それから八年たって、もう私もプロの歌い手になっていて……今度は本当に好きな人ができちゃって」
戸波のことまで市橋にうち明けるべきかどうか、迷いがないわけではない。でも舌が自然に動いてしまう。心にわだかまっているものを少しでも外に出して市橋に甘えたかった。
「ほう?」
「今、考えると、そんなにすてきな人かどうか、かなりあやしいんですけどねえー。あの頃はそう思ったわ」
「好きになるって、そういうことだろ。どういう人?」
「普通のサラリーマンよ。妻子のある人で」
「そりゃ大変だ」
「ひっそり愛しあっているだけなら、長続きしたんでしょうけど、私、我慢ができなくなっちゃって」
「離婚してほしいって……?」
「うん、そこまではっきりした計算はなかったわね。ただ彼がそばにいてほしくて電話をかけたの、真夜中に、どうしても今夜会いたいって。ルール違反ね。翌日まで待てば、なんとかなったでしょうに」
あの夜は本当に会いたかった。だから必死だった。
戸波は熱意に押されて深夜、響子のマンションに訪ねて来た。
寒い夜だった。
冷えた体に抱きつき、そのままベッドへ誘った。業火《ごうか》にあぶられるような熱い情事だった。
――この火は地獄に続いている――
抱擁のあいまにそう思った。戸波と抱きあったのは、あれが最後だったろう。
あの夜のことを考えると、響子は……そう、奇妙なことに風林火山≠フ旗印を思い出してしまう。火のような情事もさることながら動かざること山のごとし≠サれをモットーにしていた武田軍が、あるとき動いてしまった。それが敗北に繋がって行く……たしかそんな映画を戸波と一緒に見た。
あの夜、戸波は動いてはいけなかった。秘密の恋は、いつも林のように静かでなければなるまい。
「むこうの奥さんが気づいたわけだ」
「調べればわかることですもんね。彼の気持ちが急に硬化して、それを詰《なじ》ったものだから余計におかしくなっちゃって」
「男は意気地なしだからなあ、この問題に関しては」
「仕方ないんじゃないのかしら。ただ、ただ、あのときはひたすら悲しかったけど、今はわかるわ。奥さんが一度訪ねていらして、ずいぶんひどいことを言われて……」
「彼は?」
「電話で少し話しただけ」
「それっきり?」
「ええ、それっきり。去年かしら、偶然銀座で会ったけど」
「どうだった?」
「べつに。なんにも感じないのね。不思議なくらい。なつかしくもなければ、くやしくもないの。少し年取ったかなあ、この人≠トなもんよ」
「そんなもんかもしれん。今の彼と知りあったのは、そのあと?」
「ええ、もちろん。あ、そうか、銀座で会ったときのことね。うーんと、同じくらいかな。でも、これで全部。本当。ろくな恋愛をやってないの」
掌にまた握力が加わる。市橋は指で今度は大丈夫≠ニ告げているのかもしれない。
――うまくいくかなあ――
きっとうまくいくだろう。そう信じたい。市橋は苦労人だ。男らしく、やさしいところがある。でも大きな期待を持つまい。そのほうが、きっといい運にめぐりあえるだろう。運命の神様はえてして天邪鬼《あまのじやく》にできている。ベルト着用≠フサインに続いて禁煙≠フサインがともった。機内のあかりが消え、エンジンの音が変った。
「東京湾かしら」
遠い光の群に包まれて、ところどころ船の灯を散らした闇が眼下に広がっている。
「そうだろ。どのコースから入るのかな」
昭二は空港ロビイに来て、苛立ちながら待っているだろう。五日後に別れが来るのも知らないで……。
「うまくいくかしら」
そう尋ねたのは、昭二と別れる手はずについてだった。だが、市橋は勘ちがいをしたらしい。
「着陸のとき、これがまた危いんだ」
そう言われて響子も忘れていた恐怖を思い出す。
「そうみたい。怖いわ」
響子の横顔を見ながら市橋は少し笑った。あながち勘ちがいをしたわけではないのかもしれない。噛んで含めるように言う。
「男女の別れってやつは、飛行機の離着陸とおんなじなんだ。不安はあるし、どの道多少のショックはあるけど、本当にすごいトラブルってのは滅多にありゃしない」
「ええ……」
呟きながら言葉の意味を反芻《はんすう》した。とてもおもしろい言い方……。
足もとで車輪を出す音が響く。窓の外のあかりがどんどん低くなり、水平になる。
――そうかしら。私はいつも失敗ばかりしていて――
黒い海が切れ、空港の端が現われた。
「大丈夫だよ」
市橋が耳もとで囁くのと、ガタン、ガタン、ギューッ、激しい震動が伝わるのとが同時だった。
体が弾み、引っぱられ、シートベルトが息も止まるほど強く胴を締めつける。一瞬胴がちぎれたように感じた。機内に二つ、三つ、悲鳴があがった。飛行機は、いくつかの軋《きし》みと衝突音を混じえ、機体をブルブルと揺らしながら止まった。
おわびのアナウンスメントが流れる。
響子は、たったいま市橋から聞いた言葉を思い出して呟く。とてもショックの大きい着陸だったから……。
「前途多難みたい」
男女の別れもそうなりそう……。
「とにかく無事だった」
ふたたび明るくなった機内で二人は顔を見合わせ、少し笑った。
川向こう
通子《みちこ》のマンションを出たのは九時を少し過ぎる頃だった。玄関のすぐ前は低い垣根の仕舞屋《しもたや》になっていて、薄闇の中に白い、大きな花がポッカリと咲いていた。
――まいったなあ――
安雄は、ただそう思った。
今、急に目の前に困ったことが落ちて来るわけではない。だから、なにがどう困るのか、自分でもよくわからない。
だが……確実によくない。だんだん悪くなる。遠からずきっと困ったことが起きる。そんな予感に対して安雄は困惑を覚えたのだろう。
妻の朋美《ともみ》には、
「麻雀で遅くなる」
と告げて出て来た。
今から帰ったのでは早過ぎる。せめて十一時頃まで時間を潰さなくては恰好がつかない。
飲んべえならば酒を飲むのだろうが、安雄はアルコールに体があわない。コップ一ぱいのビールで心臓が喉までせりあがって来る。
喫茶店へ行くとしても、その前にもう少し時間を潰す手段がないものか。
遊園地の脇を抜け、駅の近くまで来て、線路のむこう側に小高い丘があることに気づいた。
通子のマンションへは何十回となく行っている。車で行くことが多かったが、渋谷から東横《とうよこ》線で行ったケースも一度や二度ではない。駅の南口のほうに繁みに覆われた丘があって、散歩道らしいものが細く延びている。そのことも一応知ってはいたけれど、実際にその道を歩いてみたことは一度もなかった。
風がここちよい。
月は、十三夜ぐらいだろうか。
いや、そうではないか。一昨日の夜がまんまるい月だった。夜ごとに欠けていく月。今夜は立待月《たちまちづき》あたりらしい。ほんの少しだけ欠けて天にかかっている。とても美しい。
――少し歩いてみるか――
ガードを抜け、散歩道に入った。街灯の下にベンチがあって、二人連れが肩を寄せあっている。急にゴソゴソと音が響き、暗闇のほうの二人は体を重ねて揉《も》みあっているようだ。
――男と女――
今、この公園の中に、いくつ恋が住んでいるのか。とりとめのない想像が浮かぶ。よい恋、わるい恋、芽生えたばかりの恋、もう終ろうとしている恋……。
――俺たちは、どうかな――
ほんの一時間ほど前、安雄は通子を抱いていた。
通子は爪を立てる。脚をVの字にして宙につっ張る。そして声を漏らす。むしろ猛々しいほど粗野な反応。野獣の気配を含んでいる。
初めのうちこそ、そんな嵐のような歓喜に感動したが、今はうっとうしく思うことさえある。熱が少しずつさめていく。
「男ってサ、結局は女を手に入れるまでなんだから、熱心なのは」
「そうとは限らない、抱きあっているうちにだんだんいとおしくなることもあるさ。俺はそのほうだな」
安雄は次から次へと女を漁《あさ》ったりするタイプではない。これは本当だ。一つ一つを大切にする。自分ではそう信じていたのだが、通子については少し勝手がちがう。
――厭な女だな――
まだ愛が充分にあった頃に一度、そう感じて、われながら愕然《がくぜん》とした。
そのうちに同じ思いを抱く回数が少しずつ多くなり、昨今はもう驚くこともなくなった。
美人と言えば、たしかに美人だろう。今でもはっとするときがある。だが、
――本当にそうかな――
見なおして首を振る。
――厭な顔だ――
とさえ思う。額がやけに狭い。猿に似ている。
――頭がわるいんだ――
考えてみれば、その兆候は早い時期からいくつもあった。感情を抑制できないのは、頭のわるさに通じている。テレビ欄のほかめったに新聞を読むことがない。
散歩道は登り坂になっていて、てっぺんまで行くと、展望がきく。その先は急な下り坂となり、横一線の川土手。さらにそのむこうに水の帯が光って見えた。
――なんだ、多摩川があるのか――
新鮮な驚きを覚えた。
他の川は考えにくい。東横線が渋谷から横浜へと走っていることを思えば、このあたりで県境の川を通過しなければなるまい。当然のことだ。ただ安雄が地理にうとかっただけ……。
――行ってみるか――
坂を降りて土手に登った。
川下のほうに鉄橋が見える。オレンジ色の窓をいくつも連ねた電車がちょうどその上を走って行く。
安雄はそれとは反対の方角へ向かって進んだ。
「秘密の関係なんて厭よ」
耳の奥に突然声が響く。通子がそんなことを言い出したのは、三ヵ月くらい前だったろうか。
「どういうことだ?」
「私がいるってこと、ちゃんとはっきりさせてほしいのよ。あなた、まるで秘密にばっかりしているでしょ」
「そりゃそうだろう。秘密の関係だもん」
妻を持っている男が、ほかの女と親しくなる。あまり結構なことではないけれど、これは昔から秘密の関係と相場がきまっている。広く天下に知らせることではない。わざわざ念を押さなくても、わかりきっていることだと思っていた。
それなりの金銭は与えている。
円高の影響もあって、小さな企業の経営は苦しい。今、通子に渡している月々の手当だって、本当はとてもつらい。ほかのことに使えたらどんなにいいかとさえ思う。従業員に知られたら……そう、たとえ安雄自身の金とわかっても、けっしてよい反応はあるまい。
まったくの話、小さな企業の経営者なんて心の安まるときがない。金策、人間関係、先行きの見通し、いつも心配ばかりしている。
そのことに今さら苦情を言う気はないけれど、ほんのいっときのくつろぎがほしかった。
安雄ももう五十の坂を越えた。家には病気がちの妻と、二人の娘がいる。娘はそれぞれに大学と高校の受験生。特別わるい家庭ではないけれど、あそこには安雄が心をポカンと空《から》にして休むゆとりがない。
――女房は体の丈夫なのが一番だな――
今度もらうときは、きっとそうしよう、などと馬鹿らしいことをつい考えてしまう。
朋美はどこがわるいというわけではない。体そのものが脆弱《ぜいじやく》で、よく風邪を引く、胃をわるくする。気分がすぐれない。一年の半分くらいは不調を訴えている。それでも子育てだけは一生懸命にやってくれた。安雄としては、それだけなんとか無事にやってくれればいいと、ずっとそんな方針を取って来た。
娘たちも大きくなり、いくらか母親の手助けができるようにはなったけれど、長年の習慣は変らない。朋美はいつも苛立っていて、家族の中に安雄がくつろぐ場はほとんど見出せない。
まったくの話、家ではプロ野球のテレビ中継だって満足に見られない。
「勉強の邪魔になるでしょ」
「毎晩野球ばっかり見せないでよ。頭が痛くなるわ」
一日仕事で馳《か》けまわった安雄が、テレビの前でジャイアンツに声援を送ることくらい、本来なら許されていいことだろう。
だが、それもままならない。苦情を言えば、朋美のヒステリーが高じる。
「協力してくださいよ。家族の中に緊張感がないと駄目なのよ」
仕方なしに布団の中にラジオを持ちこみ、イアフォンで聞いたりする。
――なんだ、これは――
これではろくなくつろぎにもならない。
そんなときに通子と知りあった。
二十八歳という年齢は、今になって考えると、少し若く言っていたふしがある。辻褄《つじつま》のあわないところがある。三十一、二くらいではあるまいか。つく必要のない嘘なのに……。
いずれにせよ、安雄の年齢から見れば、桁《けた》ちがいに若い。
すぐに体を重ねた。
若い体には、安雄の命を新しくするほどの魅力があった。
それに……通子はどんな性技もいとわない。商売女のような……と言ったら語弊《ごへい》があるかもしれないが、妻にはない快楽に熟達している。それに少し溺れた。月々の手当を払ってまで親しさを続けようと思った。
――時代錯誤かな――
今はそう思う。
当初に安雄が考えていたのは、古い妾宅《しようたく》のイメージ。まさか黒塀に見越しの松とはいかないが、女をマンションに住まわせ、気のむいたときにふっと訪ねる。女は湯あがりの肌に薄化粧などを匂わせていて……なんの屈託もない安らぎとめくるめく情事。
――俺にもそのくらいのことがあっていいだろう――
そう思って始めたことだったが、少しずつ様子が変った。
通子はデパートに勤めている。正規の店員ではなく、問屋筋が派遣している店員だ。その前には水商売の経験が少しあるようだ。男と同棲くらいやったことがあるだろう。
ゆくゆくはアクセサリー関係の店を持ちたいと言っている。
それもよかろう。商売のセンスがあるならば援助してやってもいい。今は苦しいが、そのうちにまた景気のいい時期が来る。きっとあげ潮に乗ってみせる。
だが……気がかりなのは、通子が次第に自己主張を始めたこと……。どんどん横柄になる。
安雄に世話になっているという意識がめっきりなくなってしまった。節度を越えた要求を匂わせる。いろいろな権利を主張する。もう一人の女房みたいな顔をして……。はじめの頃は新鮮だった情事も、だんだん惰性を帯び、むしろ通子の快楽のために安雄が奉仕させられているような、そんな気配さえ感じられるようになった。
それだけならまだいいのだが、とうとう、
「秘密の関係なんて厭よ」
とまで言い出す。
二十歳も年がちがうのだからと、ずいぶんおおめに見て来たが、このごろは諍《いさか》いも多い。なんのために通子のマンションへ通うのか。くつろぎがくつろぎでなくなってしまう。
これまでに女遊びの経験がないわけではない。だが、いつも家庭には波風を立てずにやって来た。離婚をする気など毛頭ない。朋美は不充分なところがたくさんある妻だが、娘も二人いることだし、とにかくこの家族を背負って最後まで歩いて行く、それはすでに安雄の心の中で堅く、堅く決定している事項なんだ。根底を崩したら、この世のことはみんな目茶苦茶になる。それは安雄が小さな会社を経営して、肌で覚えた実感だ。絶対譲ってはいけないことは、最後まで守らなくてはいけない。
――通子はなにを考えているのか――
まさか安雄が家族と別れて、通子と一緒になることまで考えているわけではあるまい。
「奥さんに電話してみようかなあ」
「なんて?」
「おたくのご主人の恋人でーすって。困る?」
「困るにきまっているだろ」
「意気地ないんだから」
「意気地の問題じゃない。なんのたしになるんだ」
「こういう関係って、暗くて厭なのよね。もう少しはっきりさせてほしいわ」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
「でも、私、本気よ」
本宅があり、別宅があり……それを世間にはっきりさせたいと、通子はそんな途方もないことを考えているらしい。
「そんなことを本気で考えるなら、別れるよりほかにないな」
「そう? もう別れたいんでしょ」
「そんなことは言ってない」
「私、ただじゃ別れないわ。大切な時間を使ったんだから……」
「なにをする?」
「いろいろと」
醜悪な表情で笑っていた。
いつのまにか川土手を大分歩いていた。
ここにも二人連れが来ている。草が揺れていると見れば、きっとその下に一組|潜《ひそ》んでいる。見て見ぬふりがいい。せっかくのお楽しみを邪魔するつもりはない。
暑くもないし、寒くもない。ちょうどよい季節。月あかりが白く行く手を照らしている。思ったより明るい。手を見ると、筋目までよくわかる。新聞の見出しくらいなら充分に読めそうだ。一年のうちで、こんなにここちのよい夜は、そういくつもあるわけではあるまい。
川土手を降りて、川床の細い道を進んだ。草っ原が切れると、石を埋めたコンクリートの傾斜があって、その先が川になっている。水が揺れている。川に入ってはいけません≠ニ、大きな注意書きが立ててある。水深はわからない。少し先の流れは速い。
石を一つ拾って投げてみた。
石は川幅の半分までも行かず、流れの中にポーンと落ちた。それがはっきりと見える。どう投げてみても対岸までは届くまい。
傾斜に腰をおろし、さらに寝転がってみた。水の流れが低い位置に見える。月の光の中で無気味に走っている。
このあたりまで来ると、人の気配はない。ふたたび身を起こし、安雄は川面に向かって歌を歌ってみた。
「ふけゆく秋の夜……」
その先の歌詞が思い浮かばない。
それからはただ黙って水の動きを見つめた。むこう岸の様子がぼんやりと見える。
――人間かな――
対岸にもだれかいるようだ。
二人連れが並んで川面を見つめているのかもしれない。木の切り株かもしれない。少しも動かないので、わからない。
それを凝視しているうちに、
――ああ、いけない――
わけもなくそう思った。
不確かなイメージが心に浮かんで来る。これまでに何度も思い浮かべたことだ。
広い川がある。対岸に男と女がいる。それを子どもが見つめている……。
どうしてああ、いけない≠ニ思ったのか、それがよくわからない。説明するのがむつかしい。わからないながらも、そう思ったのは本当だった。
人はだれしも自分の脳の働きを疑わない。しっかりコントロールができていると信じている。理性は自分の支配下にあると思っている。
――本当にそうかな――
曖昧《あいまい》な部分がないものだろうか。安雄はそれを考える。しばらく忘れていたけれど、今、急に思い出す。もしかしたら、それを思い出すために、多摩川の川べりに立ってみたのかもしれない。ああ、いけない≠ニ思うのが、本当にいけないことかどうか考えるために……。
広い川がある。対岸に男と女がいる。子どもがそれを見つめている。景色ははっきりと脳裏に浮かぶのだが、それが自分で本当に見たことかどうか、はっきりとしない。
子どもというのは、安雄自身だろう。
自分の姿がイメージの中に存在しているのは、それが想像の産物だからだろう。実際に見たものなら、広い川、対岸の男女、それだけで、子どもの姿はない。見たのはそれだけのはずなのだから。
しかし、だからと言って、そのイメージがなにもかもすっかり想像の産物とは言いきれまい。広い川と対岸の男女を見たのは本当だった。それを凝視している自分が強く意識に残り、自分を含めた全体がイメージとして固定化することも充分にありうるだろう。
つまり半分までが事実、残りが想像……。いくら考えてみても、そのあたりが判然としない。どこまでが実際に見た風景なのか、どれが脳味噌が作りあげたイメージなのか、さっぱりわからない。
とにかくずいぶん昔のことなのだ。実際に見たことであれ、勝手に想像したことであれ、古い記憶であることだけはまちがいない。安雄は三歳か、四歳。いくらなんでも二歳ということはあるまい。
昼なのか、夜なのか、季節はどうなのか、それもはっきりとしない。
もし事実だとすれば、対岸の男女の姿はかなり明確に見えた。目鼻立ちから表情まですっかりわかった。
だから……とても夜とは思えない。満月の月あかりだって、ああは明るくはない。第一、幼い子どもがそんな時刻に川べりにいるはずがない。安雄はたった一人だった。
昼。しかも太陽がさんさんと照りつけているとき。しかし、イメージの外枠のあたりが奇妙に薄暗いのは、どうしたことだろう。もう宵闇が迫っていたのかもしれない。子どもは忍び寄って来る夜の気配を感じていたのかもしれない。
夕暮れの少し前。ただ西日だけが、ほんのいっとき強く射していた……と、そう考えてみれば、それが一番ふさわしいようにも思える。明るさの中に夜が漂い始めている……と。
奇妙なことにその風景を見た、という実感だけは疑いないほど鮮明に心に残っている。
それは、海水浴で見た海の色、入学式の花吹雪、五歳のときに死んだおじいちゃんの棺《ひつぎ》、みんな現実であったと同じように、一つの現実として安雄の記憶の中に残っている。だから、意識という面に限って言えば、現実以外のなにものでもない。
訝《いぶか》しく思うのは、あまりにも突飛な出来事だったから。加えて、事実にしては辻褄のあわないところが多過ぎるから。
――どこの川なんだ――
まずそれがわからない。
幼い頃は荻窪《おぎくぼ》に住んでいた。あのあたりには大きな川なんかありゃしない。戦前のことだから家族で旅行に出たりする習慣はない。少なくとも安雄の育った家では、そんなことはなかった。
「子どもの頃、どこと、どこへ行った?」
思いあまって一度母親に尋ねたことがある。
母はいくつか思い出してくれたが、どれもみな近くに大きな川のある土地ではない。
――待てよ――
子どもの目には、なにもかも大きく見えるものだ。知りあいの家までの距離なんか、昔は結構遠く感じられたが、今行ってみると、ほんのすぐそこだったりする。低い視線で眺めれば、中ぐらいの川でも大川に見えるだろう。その程度の川なら、どこへ行ってもある。
川土手にポツンと一人で立っていたのか。それともどこかに隠れて見ていたのか。
こちら側から対岸がはっきりと見えたのなら、むこうからもこっちがよく見えたはずだろう。子どもが一人、川岸にいるのを、むこうは気づかなかったのだろうか。隠れていたとすれば、なぜ隠れていたのか。それもわからない。
男と女の表情まで見えたのは、多分嘘だろう。人間の記憶というものは、思いのほか強く後日の修整を受ける。油絵のカンバスみたいに、新しく描き加えられたり、古い部分を削ってべつな画像を載せたりする。この記憶には原型を失うほどたくさん修整があるらしい。
そう言えば……もうひとつ、関係があるのかどうか。幼い頃、夜中にふと目をさました記憶がある。父と母とが激しく言い争っていた。父が他所《よそ》に情婦《おんな》を作り、それが原因で母が怒っているらしい。
父が死んだのは、安雄が十一歳のとき。通夜の席にその女がやって来た。母の白い表情。女の火を吹くような眼差し。
――この人だな――
とわかった。
しかし、この記憶だって少しおかしい。
父と母とが言い争っていたのは、安雄がいくつのときだったのか。そんな幼い子どもに情婦のことなど理解できるものだろうか。通夜の席でこれが、その人だ≠ニ見ぬいたのも、少し唐突だ。みんな後日の修整なのかもしれない。
夜中に目をさましたら父と母とが、今までなかったほど激しく争っている。どこかに女の人がいるらしい。わからないなりに情景だけが鮮明に頭に残り、ずっとあとになって、
――あれは親父の女性関係だな――
とわかったのだろう。
通夜の客については、母がなにかひとことくらい漏らしたのかもしれない。
子どもの脳味噌は、父の周辺に漠然と一人の女を想像し、その女がなにかしら家族に危害を加えようとしている……ただそれだけのことを考えていたのだろう。
大人は、ものごとの因果関係で事の重大さを判断する。こういう原因で起きたことだから、重大だ、こういう結果をもたらすことだから、大変なんだと考える。
子どもの頭にはその知恵がない。事件全体が周囲に放つ気配だけで考える。みんなの顔が引きつれている。だから、きっと大変なことなんだ……と。
夜中に聞いた諍いと、川土手で見た風景とは、かすかに繋《つな》がっている。同じ頃のことかもしれない。それともどちらも曖昧という点だけが似ているのだろうか。
肩まで来るほどの、草の原だった。子どもの身長を考えれば、川土手の繁みはそんな様子だったろう。
たとえば、ボールをその中に投げ込んでしまった。あるいは、大便をしたくなった。とにかくなにか必要があって、子どもは川土手の傾斜に身を埋ずめた。
草いきれが体を包む。葉先が肌を刺す。どれほどの時間そこにいたのか。
首を伸ばすと、灰色の水がゆったりと流れている。
――あの中に落ちたら死んじゃう――
草むらに、たった一人でいることだけでも怖かった。水の流れを見るのは、さらに無気味である。長くいるところではない。水のむこうを見たのは、なぜだったのか。
――人がいる――
服装から見て、男と女とわかった。喧嘩をしているらしい。それも、ちょっとやそっとの喧嘩ではない。男がいきなり女をなぐった。女が逃げようとする。男が押さえつけ、押し倒す。掌で口を押さえているのは、きっと声を出させないためだろう。
固唾《かたず》を飲んで見つめていた。
女がバタバタと手足を振って暴れる。と見るうちに男の腕が女の首にかかった。
引きずられて女の体が折れた。男はすごい目つきだ。表情が黒い。歯を食いしばっている。腕に力を入れているにちがいない。
――殺そうとしているんだ――
首を締められれば人は死ぬ、と、幼い子どもは知っていたかどうか。
女の顔が赤く脹《ふく》れあがる。とても苦しそうだ。声も出せない。
しっかりと瞼《まぶた》に残っているのは、女の白い腕だった。草の中から突き出し、激しく暴れていたが、すぐに草を握り、そのまま少し震えた。と思ううちに、ピンと棒みたいに伸びて動かなくなった。
――死んじゃった――
そう思った。
川面のほうに首を垂れて転がっている姿は、たしかに死んでいるように見えた。それでも男は、もう一度|紐《ひも》を取り出して、女の首に巻く。そして殺しなおす。
――お父さんじゃないかな――
どうしてそんなことを考えたのか。潜在的な不安があったのかもしれない。
男はお父さんに少し似ているけれど、やっぱりちがうだろう。
女の首が揺れる。今度は本当に死んでしまった。さっきよりもっとぐったりしている。死んでいるのを、また殺したんだから、今度こそ絶対に助からない。
男は肩で息をつき、周囲を見まわす。
――見つかっちゃいけない――
少し前から本能的にそのことを感じていたにちがいない。そっと草の中に身を沈めていただろう。ポツンと立っていたような気もするが、やはり本当のところは草と草のあいだから見ていたのではなかったか。
男はポンポンと手についた土を払い、女の体を足で押す。体は二度、三度、転がって川の中に落ちた。白い腿《もも》が見えた。
バシャーン。
水音が響き、女はいったん見えなくなったが、すぐに現われる。いつまでも岸に近いところに浮いている。
男の姿が見えなくなった。
――あんなところに浮かべておいたら、すぐに見つかっちゃうぞ――
だが、心配することはない。
間もなく男が戻って来た。長い棒を持っている。それで水の上の死体を押し出す。
死体がゆっくりと流れ始めた。少しずつ本流のほうへ移って、最後は滑るように遠ざかって行く。
もう一度対岸を見たときには、男の姿はなかった。
――お父さんだったかなあ――
あんなことをするお父さんを、それまでに見たことがなかったから、見当もつかない。
――すごいものを見ちゃった――
急いで草むらを出て走った……。なぜだれにも話さなかったのか。
記憶はひとつひとつ鮮明に残っている。おそらくあとになって修整を受けた部分もたくさんあるだろう。デッサンだけのカンバスに、絵具を使って確かな絵を描きつけたみたいに……。幼い子どもの記憶にしては少しこまか過ぎる。そこが嘘くさい。明らかに修整がプラスされている。
だが、デッサンそのものは本当にあったこと……ちがうかな。
平凡な事件ではない。人ひとり殺されている。ほかに目撃者はいなかったのだろうか。犯人は無事に逃げ延びたのだろうか。
見ている前で人が殺される。めったにめぐりあう事件ではあるまい。ほとんどありえない。そう言ってかまわない。だから、
――やっぱり本当に見たことじゃないんだ――
そう思いたくなる。
昼日中、幼い子どもが行けるような川べりで残忍な殺人事件が起きるなんて……どうもおかしい。
男と女は、ただ喧嘩をしていただけだったのかもしれない。幼い子の頭の中には、現実と想像とが、よく区別できない状態で収っている。おとぎ話を真実だと思ったりして。
父と母の喧嘩……。
人殺しの話を、だれかから聞かされていたのかもしれない。
そんなことがみんな脳味噌の中で一所くたになって、あんな物語を描かせたのではあるまいか。それにいろいろと後日の修整が加わる……。
――ただの幻想だな――
今では、それが正解だと考えている。
母に聞いてみても、安雄が幼い頃行った町で殺人事件など起きたりはしなかった。女の死体が川を流れて行ったのなら発見されないはずもないし、発見されれば話題にもなっただろう。
考えてみれば、川の向こうというのは、それ自体、想像の世界に似ている。想像の世界と手を握りやすい情況を帯びている。この世とはちがった、もう一つの世界……。
――それにしても、あの鮮明さはなんだったのか――
もの心のついたときから、ずっと不思議な幻想を持ち続けている――そんな自分の脳の作用に対して、安雄はかすかな不安を覚えずにいられない。
頭の中に流れる川よりも、多摩川はずっと広い。月は照っているが、対岸の風物をこまかくうかがうのはむつかしい。黒くうずくまっているのが人影かどうか、相変らずわからない。
――人じゃないな――
そう判断したのは周囲にだれもいないから。
ここまで来れば、日中でもほとんど人の気配はあるまい。もう少し先の川原は、深い草むらになっている。さらに寂しい。
――いつかもう一度ここに来るな――
ひどく明瞭な予感を覚えて安雄は驚いた。
自分自身がむこう岸から見ている二つの目になったように感じた。いや、こちら側からむこうを見ている目なのかもしれない。
いずれにせよ、対岸に男と女がいる。見ているのが安雄自身のくせに、その男はやっぱり安雄である。連れの女は……だれだろう。
川がある。男と女がいる。喧嘩をしている。男の腕が女の首にかかった。
――ああ、そうか――
知らない女だと思ったが、今、思い出してみると、遠い記憶はたしかに通子の顔だ。
男が父に似ているのは当然だ。
「安雄はお父さんそっくりなんだから」
母親によく言われる。
通子は、
「秘密の関係なんて厭よ」
と言う。それをしつこくくり返す。
「奥さんに電話してみようかなあ」
とうそぶく。安雄をおびやかす。
それを許すわけにはいかない。いつか通子を連れてこの川岸に来る日があるだろう。
幼い日に見た鮮明なイメージは、そのことだったらしい。気がつけば、月の光は夢幻なまでに白く地上にこぼれ落ちている。この月ならばきっと現実を夢に変えてしまうだろう。いっさいの幻想を事実に変えてしまうだろう。
川むこうに、たしかに男と女の風景が見える。安雄と通子が諍いあっている。
今、本当にそれが起きているのか。それとも、やがて起こるべき事柄の前ぶれなのか。安雄は、たしかな現実感を心の中に覚えながら、光る川面から対岸へといつまでも凝視を続けていた。
虫歯のあと
三日前から歯痛が続いている。
耐えられないほどの痛さではないが、一刻も忘れられない。
――なんとかしなくちゃあ――
雅子《まさこ》は鏡の前で下唇をめくり、指先で痛みのありかをさぐってみた。
右下の小臼歯《しようきゆうし》。しかし、ほかにも褐色に汚れた部分がある。四、五本はわるい歯があるだろう。
歯医者へ通ったのは十年以上も前のことだ。
「今、治しておけば、当分大丈夫ですよ」
あのときは何日も通って丹念に治療してもらった。
あれ以来、虫歯の痛みなどとんと忘れてしまっていたが、治療の耐用年数は過ぎてしまったらしい。
――どこかにいいお医者さんいないかしら――
考えているときに浪江《なみえ》から電話がかかって来た。
「あのサ、高校のときのお友だちがご主人に死なれちゃって……。向井さんて言うの。生命保険の勧誘をやっているんだけど、あなたのとこ、どうかしら。前にそんな話、してたでしょ」
「そうねえ、保険てあんまり好きじゃないけど、一口くらい入っておかないと、やっぱり……」
「そうよ。今は貯金のかわりにもなるし、ね、一度ご主人のいらっしゃるときにでも彼女を行かせますから、話だけでも聞いてあげて。子ども一人かかえて大変らしいの」
「いいわよ」
「なんだか声に元気がないじゃない。どうしたの」
「べつにどうってこともないけど……歯が少し痛いの。いいお医者さん、知らないかしら、うちの近くで」
「あ、知ってる。渋谷ならいいでしょ」
浪江は昔から顔が広い。こんなときには便利な人だ。
「ええ。あんまり高いのは困るわよ」
「一応保険はきくの。でも、大切なところはやっぱり保険外じゃないとね。おたがいにもう四十じゃない。このへんできちんと治しておけば一生ものでしょ。少しかかるのは仕方ないわよ」
「そりゃそうだけど」
言葉尻を濁した。異論はない。
人はよく目鼻立ちの美しさを言うけれど、歯の美しさも案外馬鹿にならない。とりわけ若さを感じさせるためには歯の役割は大きい。歯並びがよいと、笑顔がわるくない。おかげで明るい印象をふりまくことができる。
雅子自身、歯並びには自信を持っている。ここで充分な手入れをしておきたかった。
「本当よ。歯って意外と大切よ。うちの伯父さんで急に老《ふ》けちゃった人がいるの。みんな禿とか白髪《しらが》とか気にするけど、五十代はもうそれじゃないわね。歯が台なしになっちゃって、口のまわりが急に老けちゃったの。これはもう完全におじいさんの顔よ」
「わかるわ。とにかく紹介して」
浪江の長っ話を適当に聞いて電話を切った。浪江はすぐにでも渋谷の歯科医に連絡をとってくれたのだろう。
二十分ほど待って電話を入れると、話は通じていた。
「今、痛みます?」
「はい、少し」
「じゃあ、今日の午後二時。よろしいですか」
「お願いします」
時計を見ると十二時を過ぎている。洗濯物をベランダに干し、
ちょっと出て来ます。五時くらいに帰ります。母
テーブルの上におやつを置いて家を出た。もう娘も五年生。鍵は持っているし、手はかからない。
――もう一人いたほうがよかったかしら――
そう思うときもあるが、経済的にはずいぶん大変だったろう。計算をしたことはないけれど、子ども一人を生んで育てる費用は莫大なものだ。二ついいことはありえない。それに……雅子が年齢よりいつも若く見られるのも子どもが少ないせいだろう。
まったくの話、女は子どもを一人生むと、確実に自分の体をそこなう。削《けず》り取られる。歯痛だって、もう二、三年早く来ていたかもしれない。
原宿で電車を降り、室内プールの脇の公園を歩いた。渋谷で降りるより多分このほうが近いだろう。
「いいお天気」
空気を、少し痛む口の中に吸いこんでみた。
青空が広がり、いかにも秋らしい気配が漂っている。公孫樹《いちよう》の並木が黄ばみ始めていた。
山手線の車両が視界の低い位置を走っている。それを見おろしながら雅子は足を止めた。
――痛いわ――
歯医者に行くと決めたときから歯痛はむしろやわらいでいた。だから、ことさらに痛い≠ニ思ったのは、痛みのありかをわざわざ捜したからだろう。
それに引きずられるように、遠い日の風景が脳裏に映った。
記憶の中でも、やはり電車が走っている。
赤い電車。だから地下鉄の丸ノ内線。四谷のあたりで地上に姿を見せる。それを見たのは上智大学の脇の、土手のような道のような繁みから……。
――アイリッシュ・コーヒーがおいしかったわ――
紐をたぐるように古い記憶を引き出したが、もう二時も近いだろう。ぐずぐずしているときではない。
雅子は首を一つ振ってから、急ぎ足でその場を離れた。
帰り道も同じところを通った。太陽はすでに西に傾き始めている。風が少し冷たくなって、肌よりも心に染みこんで来る。
山手線がまた走って来た。
逆の方向からもう一つ走ってきて、すれちがう。
――痛いわ――
炎症を抑える薬をつけてもらったらしいが、痛みはむしろさっきより強くなった。
十年ほどのあいだに治療の方法は少し変ったようだ。すぐにはわるい歯の治療に取りかからない。レントゲン写真を撮《と》る。口の中をくまなく調べて方針を立てる。今日は歯の磨きかたを教えられたようなものだった。つま楊子に毛をはやしたような細いブラシをもらった。これを歯と歯のあいだのすきまに通して掃除をする。
「うちの患者さんの中には毎日二時間もかけて歯を磨くかたがいらっしゃいますよ。そうすると歯ぐきがしまって……とってもいい状態になるんですね」
医者は噛んでふくめるように言う。
それはそうかもしれないが、ひとことくらい反論がしたくなる。人は歯を磨くために生きているわけではない。二時間はおろか一時間だって無理だろう。
一時的には丹念に磨く。だが、間もなく雑になる。何年かたって、また痛む。そして治療を受ける。それをくり返しているうちに寿命が尽きる。
だが、口をあけたままの患者には、はかばかしい反駁はできない。
「はあ」
と、間のびした声で返事をする。
この前治療を受けたときも、しばらくは丁寧に磨いていた。
あれは……結婚して一年と少し。季節は秋だったろう。でも、
――あのとき……歯が痛んでいたわけじゃないわ――
人間の記憶なんてずいぶん曖昧なものだ。連想の糸も、どうしてこれとこれとが繋《つな》がるのかよくわからないときがある。そう言えば、昔、象の鼻を見て、初めての性体験を思い出した人の話を聞いたことがある。唐突の連想だが、本人の心の中ではなにかしら繋がるものがあったのだろう。
それに比べれば、今、雅子の心の中にある連想はよほどたぐりやすい。
電車が走っていた。
緑と赤のちがいはあるが、眺めおろす角度といい、距離感といい、よく似ているだろう。季節も同じ頃。時間は……もっと早かった。
歯の痛みは……そう、そのあたりの脳の働きがちょっとおもしろい。今は虫歯が少し痛い。あのときは痛くなかったろう。痛ければ、あんなことにはならなかった……。ただ歯痛そのものとはたしかに関係があった。
健一と結婚をして、四谷に狭いながらもマンションを一つ買って、貯えなんか一銭もないときだった。夫の会社にほんの少し社内預金があるくらい……。
「急にお金が必要になったら、どうする?」
「なんとかなるさ」
「なんとかって、たとえば、どういうこと?」
「今から考えたってつまらん。わからないから、なんとかなんだ」
健一の故郷は青森。雅子の実家は博多。どちらの両親も健在だが、お金のことで頼りにしてはいけない。頼っても、よい結果は出ないだろう。それはわかっていた。
「怖いわね」
「怖いって言えば、怖いけど……」
しかし、若い夫婦がなんの貯えもなく生活をしていることなど、けっしてめずらしい状態ではあるまい。どこの新婚家庭も似たようなものだ。
歯痛は新婚旅行のときからかすかにあった。アスピリンを携帯して行ったのを覚えている。
虫歯はいったん治っても、後日かならず勢力を増して襲って来る。それから一年たって、どうにも我慢しきれなくなり、医者通いを始めた。
「きちんと治しておいたほうがいいんですがね」
「はい?」
「少し高いですけど、やりますか」
「どのくらいでしょうか」
「二十万円くらいでしょう」
「そのほうがいいんでしょうねえー」
ためらいを隠すように尋ね返した。
「そうです。あとで治療をすると、そんなものじゃすみませんから」
歯医者は実直そうな老人だった。
――この人なら信頼がおける――
ひとつひとつ丁寧に治療してくれることからも人柄がうかがえた。それに……体に関することは、早い時期に、きちんと手当てをしておいたほうがいい。これは絶対に正しい。雅子が育った家でも、よくそれを言い聞かされて来た。
「お願いします」
お金の目算も立たないまま言ってしまった。
高いことは高いが、どうにもならないほどの金額ではない。健一に相談すれば、それこそなんとかなるだろう。なんとかしてくれるだろう。
ところがあいにく健一と喧嘩をしてしまった。喧嘩の原因はなんだったか……。
ああ、そうか。
生理が不順になって、
「赤ちゃんできたかもしれないわよ」
と言えば、
「ふーん」
健一はテレビの野球を見たままふり返りもしない。
「歯の治療と一緒だと困るのよね」
「へえー」
「どうなの、感想は?」
苛立つ気持ちを抑えて尋ねた。
「なんとかしろよ」
「なんとかって、なによ?」
「二年くらい子どもは持たないつもりだったろ」
「でも、できちゃったら、そうはいかないわ」
「堕《お》ろせばいいじゃないか」
あきれて健一の横顔を見つめた。夫の知らない側面を初めて見たように思った。
――どうしてそんなに軽々しく言うことができるの――
すわり直して、
「そんな簡単なことじゃないでしょ。女が、どんなにつらい思いをするか……」
「だいたいあんたがボヤボヤしているからだろ」
すぐには言葉の意味がわからなかった。
「ボヤボヤって……?」
「こういうことは女が気をつけるもんだよ。男はわかんないんだから。危い時期か、安全な時期か」
「あなたは関係ないってわけ?」
「そうでもないけどサ。ルーズなとこがあるからだよ。お袋も言ってたぞ」
「それ、どういうこと」
憤りがこみあげて来た。多少だらしないところがあっても、それとこれとは関係がない……。
結婚して初めての大きな諍いだった。
――どうしてこんな男と一緒になってしまったのか――
そのまま家を出てしまいたいほど情けなかった。
あとになって考えてみれば、新婚の甘い季節が終り、ぼつぼつ現実の苦さを味わう時期にさしかかっていたのだろう。どんなに仲のいい夫婦だって喧嘩はする。
言ってみれば、結婚後しばらくは、夫も妻もよそ行きの衣裳で暮らしているんだ。無意識のうちにも恰好をつけている。そんな感情のままで一生過ごして行くわけにはいかない。一年もたてば窮屈を実感するようになる。雅子たちも大小さまざまな不満が少しずつ鬱積して、いつか吹き出さなければいけない状態になっていたのだろう。
雅子は頑固なほうだ。
健一も譲らない。
夫婦は二週間近くもぎくしゃくした気分で暮らしていたのではなかったか。
ちょうどその最中に、歯科医の支払いを請求された。
どうしても健一に相談する気にはなれない。雅子には気軽にお金を借りるような友人もいなかった。
指輪を質屋へ持って行って十万円を借りた。これも初めての体験だった。門をくぐってから出るまで、なにかわるいことをしているような厭な気分でいっぱいだった。
――町の金融業者のところへ行ってみようかしら――
何度か頭に浮かんだが、決心がつかない。高い金利を払わされ……ろくなことがなさそうだ。やめておこう。多少のお金ならば、家計からやりくりがつくだろう。
――でも、やっぱり少し足りないなあ――
どこかにお金でも落ちていないものだろうか。
ちょうどそんなときだった。
歯医者は紀尾井町のマンションの二階にあった。窓は遊園地に向って開き、子どもたちの声が聞こえる。一番ひどい歯に金を入れてもらい、四本の虫歯も処置してもらった。
「あともう一回くらいでいいですよ」
「あのう……治療代は?」
「ええ。そのときで結構です」
請求書には二十四万円と記してあった。
「はい……」
とりあえずそう答えて外に出た。ホテルニューオータニの前を通り、ブッシュを割って土手にあがった。土手といっても川があるわけではない。広いグラウンドを挟《はさ》んで地下鉄が走っている。二、三百メートルほど土手の上の道が続き、ところどころにベンチがある。春には桜の花が咲く。公園と呼ぶほどのものではないけれど、ビルだらけの街の中では、ほんの少し自然の気配が感じられる。晴天の日にはたいていここを通った。展望もわるくない。グラウンドでは楕円形のボールを投げて……あれはアメリカン・フットボールの試合だったろう。
雅子はあいているベンチに独り腰をおろして、ぼんやりと眼下の風景を眺めていた……。
十数年たった今、奇妙なほど鮮明に、そのときの風景と自分の心を思い出す。
もう歯の治療は、あらかた終っていたのだから、痛みはなかっただろう。だが、ベンチにすわって、
「困ったな」
そう呟く悩みの原因には歯痛があった。しかも電車が走っている。昔と今が、まるで同じことをくり返しているみたいに近しいものに感じられる。連想があのときに繋がるのは、けっして理由のないことではあるまい。
「いい陽気になりましたね。暑くもないし、寒くもないし」
とても響きのよい声だった。
雅子には好きな声と嫌いな声とがあって、嫌いな声を出す人は、それだけで好きになれない。経験的にもそんな人と親しくなってあまりよいことはなかった。その反対に、好きな声の人には、ついつい気を許してしまう。動物のような勘が働くのだろうか、健一を好きになったのも最初は声だった。
声の主は四十近い男。茶色の背広に茶色のネクタイ……たしかそうだった。
赤い地下鉄が走る。
楕円形のボールが高く飛ぶ。
「はい」
相手の自然な調子に引きずられて雅子は答えた。
「あれ、アメリカン・フットボールでしょう」
「そうなんですか」
「ボールがまるくないから投げるのがなかなかむつかしいんですよね」
「はい」
男はひどくなれなれしい。知った人かと思ったほどだった。
「ちょっとこつがありましてね、投げるときにボールに回転をつけるんですよ。横の方向に」
男は手真似でボールを投げる仕ぐさを示す。
「やっていらしたんですか」
「ほんの少しね。ルール、ご存じですか」
「いいえ、ぜんぜん」
「四回攻撃できるんです。そのあいだに十ヤード進めば、また新しく四回攻撃できます。それをくり返してゴールまでボールを運ぶわけです」
男は指をさしながら説明する。
「あ、あんなに蹴飛ばしちゃって……」
「蹴飛ばすのは、もう攻撃を放棄したときなんですね。今度は白いユニフォームのほうが攻めるんです」
「そうなんですかあ」
十分も一緒にすわってボールの行方を追っていただろうか。
「お散歩ですか」
「ええ、ちょっと」
「コーヒーでも飲みましょうか。とてもいいお天気だし」
本当にみごとな晴天。あれはここちよい秋日和の悪戯《いたずら》だったのかもしれない。
「ええ」
と答えてしまった。よい天気とコーヒーとどんな関係があるのか。
土手を降り、ホテルの庭園を抜けてコーヒー・ラウンジに入った。
「アイリッシュ・コーヒー、おいしいですよ」
「じゃあ、私もそれを……」
細いグラスの中に、白と茶色とが二層に分かれて映っている。クリームは冷たく、コーヒーは舌先が火傷《やけど》するほど熱い。不思議な味わいだった。
「明後日、デュッセルドルフへ帰るんです」
「ご家族は?」
「いません。外国暮らしが多いものですから」
「大変ですわね」
「そうねえー。慣れてるつもりですけど、日本に帰って来ると、ほっとしますね」
「そうなんですか。東京なんかいつもせかせかしているみたいで、外国のほうがいいんじゃないんですかあ」
「そりゃ外国にもいいところありますよ。でも、なんて言うのかな。ソフトなんですね、日本は。景色も食べ物も。女の人が特にそうなんですよ。当りが柔らかくてああ、これだ、これだ≠チて、とてもなつかしく思いますね」
男はけっしておしゃべりではなかったが、巧みな話し手だったろう。
――この人に好かれている――
時間が経過するにつれ、それがわかった。親しさが湧《わ》いて来た。かすかに魔術にかかっているような、そんな気分だった。
いや、それはちがうかもしれない。
雅子の心を満たしていたのは、もっと下賤《げせん》な感覚ではなかったのか。
――この人になら抱かれてもいい――
けっしてふしだらな女ではなかった。見ず知らずの男に抱かれたいなんて……そんなこと、それまでに思ったこともなかった。でも今は思う。世間には、ふしだらな女がいるのではなく、ふしだらになる瞬間があるのではないのかしら。
――きっといいことがある――
そんな直感もあった。
男の誘いも巧みだった。
――どうしてあんな気持ちになったのか――
そのあといくら考えても納得のいかないことばかりだった。
とても感じのいい男。明後日は外国へ帰ってしまう人。ほんのいっときの安らぎを求めている……。あとくされはなにもない。まるで短い夢かなにかのように、雅子の日常とは繋がらない時間が過ぎるだけだろう。こんな冒険があってもいいんじゃないのかしら。お金が手に入るかもしれない……。
理由を求めてもほとんどなんの意味もないような気がした。どれもちがっている。いくらか当たっているけれど、そんなことがあの日の突飛な決断の理由とは思いにくい。
最後にたどりついた結論は、
――みんな黙っているけど、女の人はこんな瞬間を時折体験しているのかもしれない――
であった。
雅子はそれまでに健一以外の男を知らなかった。だが、なにかしらわかるものはある。その男は健一より年かさだけあって情事の手くだにたけていた。
ベッドで抱かれながら、
――少しちがう――
と思った。でも、詰まるところは、
――みんな似たようなものなのね――
そんな感覚を抱いたのも本当だった。愛撫がちがっても感じるのは雅子自身なのだから。
「ありがとう」
男は体を離すときにそう呟いたように思う。声の抑揚に実感がこもっていた。
――この人にも、こうしなければいけない切実な事情があったんだわ――
ぼんやりとそんなことを考えた。
男が女を抱く。とくに理由なんかありゃしない。事情が許せば、男はたいていそうする。その程度のことは雅子も一通り心得ていた。だから、あのときの男の心根をことさらに美化して考えるつもりはないのだが、ほんの少しくらいは、ただの肉欲とはちがったものがあっただろう。故国への郷愁のようなもの……。本当のことはわからない。文字通り肌で感じただけの気配……。
「ご家族は本当にいらっしゃらないんですか」
「ない。あればホテルの部屋になんかいやしない」
「向こうにも?」
「ない」
「すてきな秘書嬢がいたりして」
「それもいないなあ。年中旅をしていて、時折港が恋しくなる」
「じゃあ、私は港なの?」
港≠ニいう言葉に力点を置いて言う。
「厭ですか?」
「べつに」
男と女の関係は、結婚制度の誕生などよりずっと古くからあっただろう。こんな出会いのほうが本来の姿に近いのではないか、と思った。
シャワーを浴び、
「さよなら」
そう告げてドアを押した。男も、
「さよなら」
とだけしか言わなかった。
たいていは「また会いたい」などと言うものだろうけれど……。
そう言われたところで雅子のほうには、また会う気はなかった。男もまた会う機会などけっしてありえないことを知っていた。
一度だけホテルの窓をふり返った。
家に戻ってハンドバッグの中をのぞくと、ホテルの封筒……。中に現金が入っていた。忘れてはいたが、頭のどこかでそんなこともありうるだろうと考えていた。
――ここでは怒りを感じるべきなのかしら――
まともな女なら怒って当然、と、そんな公式が世間にはあるらしい。雅子だって普段ならおおいに憤っただろう。
奇妙なことに、時間がたってしまうと、男の存在感は稀薄だった。ホテルを出てからというもの、
――本当にあったことなのかしら――
と考えたほどだった。
――秋の日の悪戯――
この封筒もそんな悪戯の一つかもしれない。おとぎ話の中でひょっこりと宝物が庭のすみに置いてあるみたいに……。
――売春なのかしら――
そうでないとは言いにくい。
さすがにその思いは楽しめなかったが、その言葉の持つ卑しさもいつのまにか脱色されてしまった。
今、思い返してみると、あの日はホテルを出て、もう一度同じ土手の道を歩いたはずだった。グラウンドでは同じフットボールのゲームが続いていた。やはり赤い電車が走っていた。日射しだけが西に傾いていた。
――秋――
そう思った。
もとよりあれはたった一回だけの出来事だった。封筒の中のお金は、歯医者の支払いにいくらか役立ってくれた。しかし……なにもかもみんな忘れてしまうほど、遠くて、薄い記憶である。まるで自分のことではないような……。
日曜日の昼さがり、保険外交員の向井さんが訪ねて来た。直前に浪江から、
「よろしくね。人柄のいい人よ」
と連絡があった。
人柄もわるくなさそうだが、器量もわるくない。笑顔を絶やさず恥ずかしそうに説明する。まだ仕事には慣れていないらしい。健一は大ざっぱなほうだから根掘り葉掘り聞いたりはしない。
「老後の保障なんかあんまり期待していないんですよ。いざっていうとき、家族がなんとかやって行ければ、それでいいんだ。三十年先がどうなっているかわからないもん」
「みなさんそうおっしゃるんですのよ」
契約がまとまり雑談に移る。
「ご主人おいくつでいらしたの」
「ちょうど四十でした」
「本当に? 大変ねえ」
「生命保険なんかほとんど入っていなかったものですから」
と首をすくめて言う。そんな表情も若々しい。雅子自身も若く見られるほうだが、この人にはかなわない。
「お子さんいらっしゃるんでしょ」
「ええ。娘が一人」
「うちとおんなじね」
一時間ほど話をして帰って行った。
「毎月、大変だけど、仕方ないか」
「ありがとうございました、って言うべきなのかしら」
「そりゃ、そうだよ。俺自身のためにはなんの役にも立たないのに毎月支払わなくちゃいかん」
「でも、いろんな保障があるんでしょ。入院したときとか」
「あることはあるらしいけど……目玉はやっぱり俺が死んだときだ」
「じゃあ、ありがとうございます」
「うん」
健一はタバコをくわえ、ふと思い出したみたいに呟く。
「しかし、美人過ぎるな」
「好みなんでしょ」
「いや、そんなことじゃない」
「いいんじゃないの、ああいう仕事には、美人のほうが。男は鼻の下を長くするし」
「むしろまずい」
「どうして?」
「あれだけきれいだと誘惑が多いよ。それをさばくのが大変だ。年中狙われる」
「まさか」
「本当だよ。大口の契約を取るとなると、それがついてまわるな」
「体を餌にして契約を釣るわけ?」
「そう言っちゃ身も蓋《ふた》もないけど……そういうこともあるさ。魚心あれば水心だな」
「本当かしら」
「男と女の関係は複雑だよ。いろんなパターンがあるんだ。純愛から売春まで……。みんな知らんぷりしているけど、わりと身近に思いがけない関係が転ってるさ」
「くわしいのね」
「そのくらいはわかる」
雅子は頬をさすった。まだ少し歯痛が残っている。
ささいな理由
郡山《こおりやま》駅を出るときに降り始めた雪は、列車が関東平野に入ってからもいっこうに降りやまず、むしろ勢いを増したようにさえ見えた。
白い雪片が窓に当たり、細い水滴となって飛んで行く。
「お母さん、寒くないかなあ」
今日一日の寒さを思い出したように憲一が呟いた。敏雄もぼんやりとそれを考えていたところだった。新設の霊園は小ぎれいに作られていたが、まだ墓石も疎《まば》らで、雪空の下ではとりわけさむざむとして見えた。
「もう寒いもなにも感じないさ」
「お母さんは、なんでも人より先へ行って用意をしているのが好きなほうだったから」
京子が頷くように顎を揺すって言う。言葉を切ったあとで唇をキュッと引きしめる仕ぐさが、このごろひどく母親の春子に似て来た。
春子にはたしかにそんな癖があった。たとえば、お花見のとき。いち早く桜の下に席をとって弁当を並べているような……。
「憲一も飲むか」
敏雄がコップ入りの酒を取って突き出す。敏雄は丸顔。憲一は細面《ほそおもて》。この父子は、ほとんど容姿に似たところがない。
「いや、まだビールが残っている。お父さん飲めば」
「うん」
京子がさき烏賊の袋を開けて、中身を取りやすいようにする。車内は満員に近いが、四人用の座席に親子三人ですわる程度のゆとりはあった。
――いつも……ちょうどよい人数だった――
敏雄はわけもなく思い出す。いつのこととはっきり記憶があるわけではない。家族で旅行に出ることなどめずらしかった。それでも長い年月のあいだには、五回や十回くらい旅行をしただろう。両親と子ども二人、総勢四人の家族は、列車の席を専有するのに一番よい人数だった。春子が欠けてしまい、もうこれからは四人で旅をすることは、けっしてありえない。
春子は敏雄より一つ年上だった。五十六歳の死は、ずいぶん早い死のほうだろう。不快を訴え始めたのは、去年の秋ごろから……。顔色がひどかった。ただごとではないと覚って病院に駈け込んだが、なにもかも手遅れだった。手術もほとんどなんの役にも立たなかった。
「家に帰りたい」
最後はしきりに退院を望んでいた。
「俺がここに泊ってんだから同じことだろ」
「そうだわね」
春子は自分のわがままを長くは言わない。ひっそりと心の中に隠してしまう。どうせ死ぬものなら体にわるくても退院させてやればよかった。
四十九日の法要をすませ、骨を郡山の霊園に運んだ。そこは春子の故郷でもある。
だが、特に親しい人が住んでいるわけではない。もともと係累《けいるい》の少ない境遇だった。
事情があって敏雄の一族の墓には入れたくなかった。どの道墓は新しくして行かなければいっぱいになってしまう。やがては見たことも聞いたこともない人と一緒に眠ることになってしまう。たまたま知人に新設の墓地を勧められ、それを入手した。
郡山なら東京から近い。新幹線で一時間あまり。
父子三人で出かけた帰り道だった。
「お母さんは、お父さんのどこがよくて結婚したの?」
京子が駅売りのお茶をすすりながら聞く。グラスが小さいので口を尖《とが》らせて飲まなければいけない。
「さあ、どこかなあ」
「いっぺんお母さんに聞こうと思っていたのに……」
「男っぷりじゃないことはたしかだな」
「そりゃそうだ」
「恋愛結婚だったんでしょ」
「見合いじゃないからなあ。でも恋愛なんて……そんなにぎやかなもんじゃなかったな」
「見合いと恋愛のほかに、もう一つなれあいってのもあるんだって」
「うまいことを言うな。ミアイとレンアイとナレアイか」
「そう」
「俺ができちゃったもんだから、やむをえず結婚したんじゃないのかな」
憲一が笑いながら言う。
「馬鹿なことを言うんじゃない」
敏雄は笑いを消して、きっぱりと否定した。
通路の自動ドアが開き、中年の女がもっこりとした様子で姿を見せる。一瞬、
――春子かな――
と思ったりする。しばらくはこんな感覚に襲われるだろう。
憲一の指摘はあながち見当ちがいではなかった。むしろほとんど的中していると言ってもいいだろう。だからこそ敏雄は笑いを消して強く否定しておかなければいけない。
生きて行く道筋にはいろんなことがある。ほんの数人の人だけしかが知らない事実もある。だれもが語らず、みんなが死んでしまえば、出来事はだれにも知られず、消えてしまう。
あの頃、敏雄は渋谷のパン工場に勤めていた。二十代のなかばだった。
田舎の高校を卒業し、大学進学を志して一年だけ浪人生活を送ったが、結局失敗した。私大へ行くほどの余裕はない。そんなことなら初めから就職をしたほうがよかった。中途半端の身分のままあっちに勤め、こっちに勤め……なかなか満足のいく職場にはめぐりあえなかった。
そのうちに田舎の親父が死んで、もう自分一人で生きていくよりほかにない。しばらくは東京で食うや食わずの生活を送っていた。
それでも春子と会ったのは、パン工場の主任くらいにはなっていて、多少はゆとりの出て来た頃だったろう。うす汚い四畳半からスタートした独身生活も、キッチンつきの六畳間に変っていた。
一人暮らしのサラリーマンの楽しみは、日曜日の朝寝。十一時頃までせんべい布団にくるまっていて、それからのっそりと起きて近所のコーヒー店へ行く。新聞を読みながらモーニング・サービスの朝食を取る。
行きつけの店は駅前通りのクローバー=B春子はその店のウエイトレスだった。
器量は、まあまあ。私鉄沿線としては上等のほう。けっして背は高くないのだが、プロポーションは整っている。洋裁学校に通っているだけあって、着るものも垢ぬけしているように見えた。
敏雄は日曜日ばかりか普段の日も顔を出すようになった。水割りを飲んでゆっくりと時間を潰したりもした。
当初は店のシートから観察していて、たまに言葉を交わす程度のものだったが、むこうもなにげなく敏雄の様子をうかがっていたのかもしれない。親しくなったときには結構おたがいに相手のことをよく知っていた。
初めてのデートが決まったときは真実天にものぼるような心地だった。前後の事情は忘れたが、喜びの感情だけは長く残っていた。
どこへ誘っていいかわからない。
迷ったあげく浜松町から遊覧船に乗って浅草に出た。水は汚れていたのだろうが、夜の薄闇が隠してくれた。
「初めて。こんなコース」
春子はうれしそうだった。
国際劇場へ行ってショウを見物し、寿司屋のカウンターにすわって大盤ぶるまいをした。
「また会えるかなあ」
おそるおそる尋ねると、
「うん。いつ?」
と、色よい返事が戻って来た。
週に一回くらいは店の外で会った。
抱きあうようになるのも早かった。浅草へ行った日から数えて二ヵ月くらい……。冗談のように誘ったら、春子は意を決したようにこっくりと頷《うなず》いた。
春子も一人暮らしだった。いったん抱きあってしまえば、毎日でも体を重ねたくなる。敏雄のほうだけではなく、春子のほうにもそんな気配がある。
――この人、セックスが、きらいじゃないんだなあ――
女はむしろおつきあいで応じてくれるものと、そんな意識を捨てきれずにいた敏雄には新鮮でもあり、ちょっと不安でもあった。
――俺が初めてじゃない――
それはなんとなくわかった。残念だけど、仕方がない。春子以上の恋人を手に入れるのはなかなかむつかしい。
あの頃、敏雄はオメガの腕時計を持っていた。質流れの品を買ったものだった。同じ金額を支払うのなら、名もない新品より、オメガの古物のほうがいい。それが実感だった。奇妙なたとえだが、春子に対しても、同じような判断があったような気がしてならない。
――少しちがうか――
というより、すっかり春子に惚《ほ》れこんでいたから、過去のことなど今さら気にかけても意味がない。このほうが真実に近いだろう。
過去に男がいたことは我慢できるが、さしあたっての心配は、
――今でもだれか男がいるのではないか――
ということ。そんな懸念がいつも頭を離れない。春子は明るい性格で、シャキシャキしていて、人あたりもよかったが、深いところでもう一つわからない、すりガラスのような部分があった。
長い時間が経過してしまうと、過去の出来事は、一まとめの記憶になってしまう。報告書みたいに序論があり、中身があり、結論がある。
だが、実際にそれを体験していたときは、毎日毎日様相が変る。今日はあっちの結論に行くかと思い、また次の日にはべつな方向へと事態が向かっているように見える。それぞれの道筋では結論のはっきりした報告書とはおおいにちがっている。毎日恋の行方を考えた。
――俺には少しもったいないんじゃなかろうか――
そんな思いが拭いきれない。
背後の男について、それらしいものが見えたわけではない。漠然とした不安……。コーヒー店では、ほとんどの客が春子に興味を示していた。
「春ちゃん、デートしようよ」
誘いかけられているのを見たのも一度や二度ではない。
――みんな俺よりいい男――
いや、けっしてみんな≠ニは言わないが、一人や二人や三人……敏雄よりハンサムな奴がいた。エリートらしい男もいた。
抱きあうのが早かったのも春子が男に慣れていたからだろう。
――何人の男を知っているのか――
日ごとにさまざまな不安が敏雄の心にのぼって来る。春子を知って人生は急に速度を増した。そんな実感があった。
抱きあうのも早かったが、懐妊もまた早かった。
「赤ちゃんができたらしいの」
今でもよく覚えている。行きつけのラーメン屋から大通りに出る細い路地だった。通路が細いので声がよく聞こえた。
「えっ。本当に」
「本当みたい」
「どうしよう?」
「どうしようって……」
その夜は、真夜中近くまで話が続いた。春子の提案ははっきりとしている。結婚をして、子どもを生むこと……。
「べつに、なんの支障もないでしょ」
言われてみれば、その通りだった。
敏雄は結婚のことなど、ほとんどなにも考えていない。けっして春子をもてあそぼうとしていたわけではない。身にあまる恋人と思い、惚れこんでもいたくせに二十代の男の気軽さから結婚を本気で考えたことはついぞなかった。
しかし説得されてみれば、もう結婚をしておかしくない年齢だった。
「できるかなあ」
「できるわよ、なんとか」
しかも一気に父親になるらしい。心の準備がまるでできていない。
「自分一人でももてあましてんだぜ」
「子どもができれば親らしくなるものよ」
一瞬のうちに妻を持ち、子を持つ覚悟までしなければいけない。
――本当に俺の子だろうか――
疑ってはいけない疑念がちょっと胸を通り抜ける。男はだれしもこんなことを少し思う。
不安の出どころははっきりしている。抱きあうまでが早かった。あまりにも早く子どもができてしまった。なんだか予定のレールを走っているような気がする。
――まさか仕掛けられているのではあるまいな――
しかし春子の様子は輝いている。聞きただすようなことではない。
大安の日を選んで婚姻届けを出し、やがて長男の憲一が生まれた。月足らずの出産であったが、目方は充分にあった。
わずかな可能性を想像してみた。
春子に親しい男がいて、なにかの事情があって別れなければいけなくなった。胎内にはすでにその男の子どもが宿っている。どうしても生みたい。だれか適当な父親はいないものだろうか。
そこで敏雄が選ばれた。不足はあるけれど、この際|贅沢《ぜいたく》は言っていられない。人柄のよさそうなのが取りえだ……。
当然すぐに抱きあうことになるだろう。当然すぐに妊娠を報告しなければなるまい。子どもはどうしても早産の形になってしまう。しかし充分に育っている。週刊誌のページに転がっているような物語……。
ほとんど可能性はないように見えた。だが百分の一くらいはありうる道のようにも思えた。
――取りこし苦労だったな――
今はなにも疑っていない。
その後の二十数年間がそれを保証している。
とはいえ、それは報告書の最後のページに記してあることだ。過去の道筋では、時折足もとにぽっかりと穴を掘られるような疑惑を覚えた。その感覚だけがまだしつこく頭の片すみに残っている。
馬鹿らしい。
春子はそんな女ではない。とても明るくて、働き者。春子と一緒になってよかった。敏雄より先に何人か知った男がいただろうけれど、それがその後の生活に影響をもたらすことはけっしてなかった。
「二月生まれってのは危ないんだ」
憲一も新しいコップ酒に手を伸ばした。
憲一は去年結婚をして、来年の春には一児の父になる。憲一自身の誕生が二月。そして子どもの予定日も二月に属している。
「なんで?」
京子が首を傾《かし》げる。こちらはこの春に結婚したばかり。今年は慶事と凶事が重なった。
「今は計画出産の時代だろう。ちゃんと生むつもりなら四月とか、五月とか春がいいんだ」
「ええ」
「二月ってのは寒い盛りで育てにくいし、第一、早生まれの子って幼稚園や小学校へ行ってもハンディキャップがあるだろ」
「よくそう言うわね」
敏雄は黙ってさき烏賊を噛む。話の行方は見えないでもない。
「だからサ、二月に生まれるのは計画外、つまりうっかり生まれた子なんだよなあ」
「お兄ちゃんとこもそうなの」
敏雄が手を振った。咳こみながら、
「ばかなことを言うんじゃない。人の一生にかかわることだ」
あわててたしなめた。憲一には、ちょっとおっちょこちょいのところがある。親兄妹のあいだでも話していいこととわるいこととがあるだろう。
――しかし……憲一は気づいているな――
敏雄としては、それを考えずにはいられない。
憲一はこれから生まれる子の問題として言ったが、それは自分自身のことを考えたからだろう。一家の戸籍を少し丁寧に眺めてみればわかることだ。敏雄と春子の結婚は、憲一の誕生日より七ヵ月前でしかない。
憲一の誕生は、文字通り予期せぬ出来事だったのだから、どこかに不自然なところがあって当然だ。子育ての長い年月のあいだ敏雄たちは極力そんな話は避けるようにして来たけれど、子どもが大人になってしまえば見えて来る。あるいは春子からなにか少しくらい聞いていたのかもしれないし……。
「じゃあお父さんは、お母さんのどこがよくて結婚したの? お母さんには聞きそこねたからお父さんには聞いとく」
京子はそり身になって父を眺める。
「忘れちまったなあ」
「嘘ばっかり。お母さんて、わりときれいだったでしょ。いい写真が一枚あったじゃない」
「あれは特別いいんだ。器量は特にいいってほどじゃない。明るかったな。それに……賢い人だった」
これは本当だ。頭のよさは憲一や京子にもよく伝わっている。この長所は敏雄自身が与えたものではないような気がしてならない。
「そうね。話なんかさせると、ちゃんと筋が通っていたもん」
「体も丈夫だったんだ。お父さんより先に死ぬとは思わなかったな」
「でも、年上だから……」
「仕方ないか」
「一つ年上の奥さんて、いいんでしょ。昔から言うじゃない」
「人によりけりだろう。夫婦なんて結婚してみなきゃわからん。お前たちだってそうだろ」
「そりゃ言える。むつかしいよ。そう言えば、お母さん言ってたな。男だって女だって、むつかしい性格の人は駄目だって。大ざっぱな人。あんまりものにこだわらずに妥協してくれる人、それが結婚にはいいんだって」
「ふーん」
「私も言われたことあるわ。若いうちは恰好よくって、気のきいた男が好きになるけど、少し気がきかないほうがいいんだって……。お父さん、そうだもんね」
「馬鹿な」
苦笑がこみあげて来る。
京子がまた唇を引きしめるような仕ぐさを見せた。本当に春子によく似てきた。ああ、そうか。京子は今、ちょうど春子と出あった頃の年ごろになっている。一番思い出に残っている表情なのかもしれない。
――この子は大丈夫かな――
大丈夫≠ニいうのは本当に俺の子かな≠ニいう疑問である。今まで疑ったこともなかった。出生の頃の事情にはなんの問題もなかったが、京子は春子にこそ似ているが、ほとんどどこにも敏雄の特徴を見ることができない。
――今ごろそんなことを考えてみても仕方がない――
死者に対しても慎みを欠いている。酔いのせいかもしれない。敏雄は頭を振った。
パンの製造工場を罷《や》め、自分で今の印刷会社を始めたばかりの頃だった。憲一は満一歳になっていただろうか。精神的にも経済的にも一番苦しいときだった。
「困ったわ。生理がないの……」
春子が暗い表情で訴えた。
「そんなあ」
春子にも会社の仕事を手伝ってほしかった。そうでもなければ新しい事業の行末が危なかった。
――もうしばらくは子どもは作らない――
夫婦ともどもそのつもりだったし、充分な注意を払っていた。
「まちがいかもしれないけど」
「うん。きっとまちがいだ」
なんの根拠もない期待をしたが、さらに十日もたってみればまちがいなどではないことが明らかになる。
「生みましょう」
「仕方ないな」
京子は四月生まれ。憲一流の解釈によれば、計画出産みたいに見えるけれど、これは偶然そうなっただけのことである。
――人の一生はわからないな――
つくづくそう思う。生まれて来ることさえ、この程度のものなのだから……あとは推《お》して知るべしである。玉突きみたいに、ささいなことがいくつか順ぐりにぶつかって、思いがけない玉が動く。
しかし、二人ともよい子に育った。
新聞などを見ていると、世間にはずいぶんひどい子どもがいる。望まれて生まれ、豊かな環境に育ったからと言って、かならずしもよい人生が送れるわけでもないらしい。
「あのこと……、お兄ちゃん言ってよ」
列車が宇都宮を出た。夜の底がますます白くなっている。
「京子が言えよ。もともとお前が言い出したことだから」
兄と妹はなにか相談をしたらしい。
「なんだ?」
「あのね、お父さん、財産なんか私たちに残さなくていいわよ」
「そんなもの、ありゃしない」
「ないとは思うけど、家とか会社とか……。みんなお父さんが好きなようにしてね」
「うん。しかし、なんで?」
思いがけないことを言われた。春子の死後、二人はどんな相談をしたのだろうか。
「だって、お父さん、これから先まだまだ人生があるわけでしょ」
「そう長かあないな」
「いい人でも見つけたら、また一緒になって」
「お母さんが怒るかもしれんぞ」
「大丈夫よ。お母さんサッパリしてるほうだから。死んだあとまでやきもちやかないわ」
「それは言えるかもしれんな」
敏雄も春子も、ものごとに固執するほうではなかった。その点ではよく似た夫婦だったろう。
「まあ、そのうちにな」
なま返事を返したが、今のところそんな気はさらさらない。
「私たちは遠くから見てる。拍手しながら……。邪魔はしないから。好きなようにやって」
「わかった、わかった」
車内販売が車を押しておみやげ物を売りに来る。
「お茶ない?」
「あります」
「じゃあ、三つ。京子も熱いの、飲むだろ」
「そうね」
車両の揺れを計りながら、お湯の中に茶の小袋をひたし、お茶を作った。
「おもしろいものね。お父さんとお母さんが一緒にならなきゃ、私たちこの世にいないわけですものね」
「当たり前じゃないか」
憲一がぶっきらぼうな調子で言う。
――そうかな――
春子と一緒にならなかったのに、憲一だけがこの世にいたりして……。
そんな考えが相変らず思い浮かぶのは、ただの頭のゲームなのだろうか。それとも本気で疑っている部分が少しはあるのだろうか。
敏雄にはその答えがよく見出せない。
――結局のところ、春子が自分にとってとてもよい妻だったから――
この心境をなんと説明したらよいのだろう。
あの頃はなにをやってもうまくいかなかった。|※《うだつ》のあがらないサラリーマンだった。
春子はクローバー≠フ人気者だった。もう一人、やけに厚化粧のウエイトレスがいたけれど、常連客の点数はずっと春子のほうが高かった。
――こんな女を恋人にできたらいいな――
とてつもない美人というわけではない。プロポーションはよかったけれど、それだってモデルみたいにみごとというわけではない。足首なんかむしろ太目だった。
つまるところ敏雄くらいの男が望める一番高いところ……そんなふうに見える人だった。
人は無制限に高いところを望んだりはしないものだ。現実の中で多少なりとも手が届きそうな、その範囲で一番いいところ、それがその人の理想というものだ。
春子は敏雄にとって、そんな女だった。少なくともあの頃はそう思っていた。
――万に一つでもうまくいけばいいなあ――
そんな気分で誘った。文字通り、瓢箪《ひようたん》から駒……。
「いいわよ」
あっさりとよい返事が返って来た。
それからはなにもかもトントン拍子にうまく運んだ。運にも恵まれた。
いつもうれしさの中に、
――こんなにうまくいくはずがない――
何パーセントかの疑いが入り混っていた。
憲一の出生について、かすかな疑念を抱くのは、言ってみれば、
――バランスを欠いている――
そんな判断のせいらしい。
敏雄は思っている。世間を生きぬいて来て、バランスを欠いていることは、けっしてよい結果を招かない、と……。そのことをよく知っている。バランスを欠いている取引きが成立するのは、たいていは陰に隠されている事情があるからだ。全貌が見えて来ると、ちゃんとバランスがあっている。
――なにも俺でなくてもよかったのに――
そんな思いが心のすみにわだかまっていた。
「お母さんは、お父さん以外に好きな人、いなかったのかしら」
京子は靴をぬいで横すわりに腰かけている。
「さあ、どうかな。一人や二人、いたかもしれんな」
「初恋の人がいたらしいよ。絵をかく人で」
憲一がおかしなことを知っている。
「へえー、聞いたのか」
敏雄も黒い闇の一部を切り取るように、そんな話を聞いたことがある。ほかの人から聞くはずもないから、やはり春子自身の口から聞いたのだろう。十年以上も夫婦を続けて、もうそんな話題がなんの影響も与えないようになっていた頃だったろう。
「気むずかしい人だったわ。こんな人と、とってもやっていけないって、そう思ったわね」
「なにをする人だったんだ?」
「絵をかく人」
クローバー≠フ客には思い当たる人はいなかった。もっと古い頃の話のように聞こえた。
――どうしてそんな気むずかしい男と一緒になったのか――
ほかによほどよい長所があったからだろう。
春子は育った環境こそ恵まれなかったが、センスのわるい女ではなかった。頭もいい。敏雄などよりもっと知的な才能にめぐりあえば、そんな男のほうを好きになって不思議はない。その可能性は充分にある。敏雄は自分の凡庸さをよく知っている。
子どもたちに手がかからなくなってからは春子はなにかに憑《つ》かれたみたいにしきりに勉強を始めた。テレビの教養番組を見たりカルチャー教室に通ったりして……。
――主婦のお遊び――
そんな思いで敏雄は見ていたが、若い頃に忘れて来たものを一生懸命に取り戻そうとしているような、そんな真剣な様子が見えないでもなかった。本来はもっとべつな人生を送る女だったのかもしれない。
――どんな男だったのかな――
多分その男は、若い女を喜ばすような、キラキラした才能には恵まれていたけれど、人間としては欠けるところがあったのだろう。全貌は見えないが、一部だけよく見えるところがある。前にもそんな男をぼんやりと描いた覚えがある。
おそらく敏雄とは正反対の人格……。
「お母さんほどいい人はいないよ」
そう呟いたのは、さっきの再婚についての答えのつもりだった。
だが、言葉が口から通り抜けてみると、
――俺にはもったいない人だった――
と、あらためて子どもたちに告げたように思った。憲一も京子も、そんなふうに聞いたのではあるまいか。
「家が多くなったなあ」
憲一が窓の外を見て呟く。路面は白く雪におおわれているが、夜そのものは黄ばんだ灯で満たされている。さっき停まったのは大宮駅だったろう。
「人の縁なんておもしろいものだよ」
大きな決断だって案外ささいなことから始まる。春子に声をかけてみようと思ったのも、ある日、コーヒーを運んできた春子の頬に浮かんだ、かすかな微笑のせいだったかもしれない。
――どんな微笑だったか――
その微笑も消えて、もう戻って来ない。
列車が上野駅に滑りこんだ。
地の底から這《は》いあがるように長いエスカレーターを昇った。新幹線の駅はよそよそしい印象だが、エスカレーターを昇りきってしまえば、なつかしい上野駅がある。東京の中にある田舎への窓口……。
「送って行こうか」
憲一が言う。
「いいよ」
「本当に一人ぽっちね」
「べつに気にもならん」
この一、二ヵ月は憲一や京子や親戚の者たちが敏雄のマンションに姿を見せていた。骨つぼも仏壇にあった。今夜からは本当に敏雄だけの生活が始まる。
「お前たちも用があるだろ。早く帰ってやれ」
むしろそっけない口調で言って背を向けた。
「じゃあ、また行くわ」
「なんかあったら言ってよこして」
日暮里《につぽり》で電車を降り、白い雪の道を歩いた。今夜はずっと降り続けるだろう。
列車の中では酒ばかり飲んでいて、ろくにものを食べなかった。夜が更《ふ》けて少し腹がすくかもしれない。
「少し食べて帰るか」
寒そうに灯をつけている食堂を見つけて敏雄は立ち寄った。
「なんにしましょう」
「カレーライス」
このところとんと食べたことがない。昔は年中食べていた。
お客はほかにいない。
テレビが大雪警報を映し出している。
「お待ちどおさま」
絵具のように黄色いカレーライス。ついと手が伸びて卓上のソース入れを取った。
「ふっふっ」
突然長いあいだ忘れていたことを思いだした。笑いが止まらない。まったくの話、決断の理由はささいなことかもしれない。
敏雄は一度だけ春子に尋ねたことがあった。
「どうして俺と結婚する気になったんだ」
あんまり馬鹿らしい答えなので忘れていた。春子はゆったりと笑って呟いた。
「あなた、カレーライスにソースをかけて食べるでしょ。それを見て……ああ、この人は面倒な人じゃないって思ったわ」
大ざっぱで、欺しやすい男……。
もうそんなことはどうでもいい。食事を終えて外に出ると、白い雪がみごとにいっさいを隠していた。
ジャンプ・ショット
――まあ、こんなとこね――
膝の上のファイルを閉じながら晴美《はるみ》はタバコに火をつけた。
東京駅を出てから一時間。列車はちょうど静岡のあたりを通過する。高いビルが見えるのは、県都の町並みだろう。
晴美はファッション関係のショウ・アナウンサー。ファッションと言っても下着メーカーの専属だから、ブラジャーがどうの、ガードルがどうのといったコメントばかりを喋《しやべ》っている。メーカーから資料をもらい、会場で語る文案も自分で書く。
――どうしてこう片仮名用語が多いのかしら――
この仕事を始めたばかりの頃は驚きもしたし、あきれもしたが、今はもうすっかり慣れてしまった。商品名も片仮名、形容詞も片仮名、動詞だってエンジョイする≠セのフィットする≠セの、片仮名まじりの日本語が多い。てにをは≠セけが日本語、そんなセンテンスばかりを書いている。
先週横浜でやったショウとほとんど同じ内容だから、コメントはほぼそのままでいいのだが、一、二ヵ所赤い鉛筆で書きこみを加えた。
――これでよし――
あとは大阪に着いて会場のホテルへ足を運べばいい。
タバコの火を消して、視線を窓の外に向けた。遠い山は雪に覆われ、近くの山もすっかり冬枯れの衣裳をまとっている。今、渡った鉄橋は何川だったろう。
――地理はあんまり得意じゃなかったわ――
眠ろうとしたが、眠れそうもない。
かすかに心に引っかかるものがある。腕をそらして腕時計を見た。
――義弘《よしひろ》は何時の列車で仙台へたつのかしら――
会社で残業をして、それから出発するにちがいない。
結婚して二年。恋愛期間が長かったから夫婦のあいだに倦怠感が漂い始めている。けっして嫌いな人ではない。わるい結婚だったとは思わない。
だが……どう説明したらいいのだろうか。この頃は、一緒にいて心が弾むということが少ない。以前は気持ちよく譲っていたのに、妙にさからってしまう。すなおになれない。義弘のほうも我慢が足りなくなった。怒りやすくなった。
――当たり前よね――
いつまでも新婚気分でいられるわけもない。蜜の時代から少しずつ空気のような状態へと移って行く。今はその第一回目の過渡期なのだろう。昨夜もささいなことで言い争ってしまった。
同じ日に夫は仙台へたつ。妻は大阪へ行く。義弘は会社でバスケットボールの選手をやっていて、明日から大会があるらしい。くわしくは聞かなかった。正反対の土地へ向かって行くこと自体が、今の二人の心の状態を暗示しているのではあるまいか。
――いけないわ――
こんな気分を長く続けていたら、ろくなことがない。意地を張り続けているうちに、それが普通の状態になってしまうかもしれない。
――義弘は子どもをほしがっている――
諍《いさか》いの震源地はそこにある。きっとそうだろう。子どもを生むとなれば、晴美は仕事を罷《や》めなければならない。その決心がまだつかない。せっかく身につけた仕事だ。もう少し続けたい。
――でもいつまで?
いつかは罷めなければいけない。だったら義弘の言うようにずるずると先に伸ばすこともあるまいに……。
「たいした仕事じゃないだろ」
「どうしてそんなこと言うのよ」
もうすでに飽きるほどくり返した口論だった。子どもをほしがる夫なんて、むしろよい夫のほうだろう。
褐色の田んぼの向こうに学校が見える。
体育館らしい建物がある。
――しばらく見てないな――
そう思ったのは義弘が出場するゲームのこと。義弘とは知人の紹介で知りあい、親しくなってからは、ほとんど欠かさずに義弘の出場するゲームを見ていた。日本を代表するほどの選手にはなれなかったが、まあ、その次のレベルくらい。義弘の若い時代はバスケットボール一色であったと言っても言い過ぎではあるまい。その恋人も当然バスケットボールに染まってしまう。
晴美にはほとんどなじみのないスポーツだった。
「走って行って籠に入れるんでしょ」
「幼稚園のゲームみたいなこと言うなあ」
義弘と知りあって、こまかいルールを覚えた。戦略を知った。
義弘のポジションはガード。自分でボールを入れることよりも、センターやフォアードによいボールを渡すこと、それが主な役割だ。義弘の性格にあっているような気がしてならない。
ジャンプ・ショットがうまい。一瞬のすきをつき、額《ひたい》のあたりにボールをかかげ、ジャンプをしながらボールを投げる。ボールは大きな弧を描いてゆっくりと飛ぶ。計ったようにリングに吸い込まれ、ネットが揺れる。拍手が起こる。
見ていていつも全身に快感が走った。
――でも、もう三十二歳――
ゲームに出場する機会はめっきり減ったらしい。実際のゲームであの華麗なジャンプ・ショットを見る機会は、もうそう多くは残っていないのかもしれない。
――お腹がすいたな――
忘れていたけれど、朝からずっと忙しくて昼ご飯を食べていない。大阪に着いて五時半。会場までタクシーで三十分くらいだろう。七時の開演までには会場係やモデルとのうちあわせもある。食事をとる時間なんかないだろう。
「失礼します」
隣にすわった紳士に一礼をしてビュッフェに立った。
すわっているとさほどのことはないが、列車の震動はかなり激しい。何度か椅子の背に手をかけながら歩いた。
――あら――
隣の車両に入ってすぐ、ひときわ激しく揺れるのを立ち止まってこらえた。すぐ目の前の席に知った顔がある。わし鼻の男。一瞬、視線があったが、むこうは気がつかない。頬の下の黒い痣《あざ》にも記憶がある。
――まちがいないわ――
そう思いながら晴美は通路を進んだ。
たしか貝堀とかいう苗字。渋谷にいた頃、同じマンションに住んでいた。奥さんとは顔を見あわせれば、立ち話をするような仲だった。
――この人、こんなところにいて、いいのかしら――
とっさにそんなことを考えた。
東京には一千万人を越える人が住んでいる。関西へ旅する人も多いだろう。そのときはたいてい新幹線を利用するにちがいない。だから、列車の端から端まで歩いて行けば、知った顔に一つや二つ会っても不思議はない。
晴美が驚いたのは、知った顔を見たせいではない。それが貝堀だったから……。
もう三年くらい前になるだろう。一時はマンションで、その噂ばかりだった。
「貝堀さんのご主人、前からどういうお仕事かと思っていたのよねえ」
「詐欺師だなんて、虫も殺さないみたいな顔をしていながら……驚いちゃった」
「そこが手なのよ。詐欺師ですって顔してたら、詐欺なんかできっこないわよ」
「そりゃ、そうだけど……。奥さん知ってらしたのかしら」
「そりゃ知ってたんじゃないの。常習犯らしいわよ」
晴美は仕事を持っていたから、奥様たちの噂話にそうそう繁くつきあうことはできなかったが、貝堀が詐欺の容疑で警察につかまったのは本当らしかった。
あのときの事件は……おばあさんが一人で店番をしているようなタバコ屋へ貝堀がタバコを買いに行く。五千円を出し、たとえばセブンスターを買ってお釣を受け取って立ち去る。あい前後して貝堀の相棒が一万円札を出して同じタバコを買い、これもお釣を受取って立ち去る。
五分ほどたって貝堀はタバコ屋に電話をかけ、
「もし、もし、ごめんなさい。今五千円札を出してセブンスターを買ったんだけど、お釣を見たら、やけに多いんだ。一万円分のお釣をうっかりもらって来ちゃった。一緒にタバコを買いに来てた人がいたけど、あの人とまちがえたんじゃないの。うん、今すぐ返しに行くから……。ごめん、ごめん、こっちもぼんやりしてたもんだからね」
と謝る。
「ああ、そうですか、それはご丁寧に」
タバコ屋のおばあさんは多少釈然としないところがあるにせよ、
――あら、まちがえたのかしら。いい人がまちがってくれてよかったわ――
そう思うにちがいない。
――この頃の世の中、わるい人がいっぱいいるけど、捨てたものじゃない――
そう思っていい気持ちになっているとき相棒が戻って来て、
「おばあちゃん、お釣足りないよ。五千円分しかもらってないよ」
と苦情を言う。
たった今「戻しに行く」という電話をもらったばかりだから、おばあさんは、
「すみませんねえ。もう一人のお客さんが多いほうのお釣をまちがって持ってったらしいんですのよ。今、電話がありましたの」
恐縮して不足分の五千円をさし出す。
だが「戻しに行く」と言った男はいっこうに現われない。そこで初めて欺《だま》されたと気づく。
話を聞いたときには、狐につままれたような奇妙な気持ちだった。
――そんなことでひっかかるのかしら――
と思った。
――なんだか落語みたい――
とも思った。
しかし、ゆっくり考えてみると、うまく仕組まれているところもある。心理のエア・ポケットをうまくついている。それに……タバコ屋が欺されなかった場合でも、意図的な犯罪がおこなわれたかどうか、しばらくたつまでわからない。つまりうまく行ったときにだけ、あとで、
――しまった――
とわかる。やり損《そこな》ったからといって手がうしろにまわることはない。おそらくこれは犯罪者にとって、やりやすい詐欺にちがいない。
――でも五千円の儲け。たいしたことないなあ――
それが晴美の実感だった。
「十回やって五万円。百回やっても五十万円よ」
まだ夫になる前の義弘に話した。
「ほかにもいろいろ手を持っているんだよ。それが商売なんだろ」
「そうみたい」
「相棒ってのは奥さんがやるんじゃないのか」
「そう言えば、奥さんも警察に呼ばれたみたいよ」
「きっと共犯だな」
「ええ……」
起訴をされれば当然裁判ということになるだろう。有罪となれば刑を受けなければなるまい。そのあたりはどうだったのか。夫妻はいつのまにかマンションから姿を消してしまった。
あまりわるい人たちのようには見えなかったが、油断は禁物。よい人らしくなければ詐欺師はつとまらないだろう。奥さんはともかく、ご主人のほうは刑務所にでも入ったのだろうと、晴美は考えるともなく漠然と考えていた。
それが新幹線の車両で会って……。
しかし、執行猶予ということもある。もう三年も前の出来事なのだから、刑期を終えたのかもしれない。犯罪のことはよくわからないが、ちょっとした詐欺くらいなら、そう長く刑務所に入れられていることもあるまい。
――濡れ衣ということもあるわ――
マンションの噂話は無責任なものが多い。
そう思いながらビュッフェに続く車両に入った。とたんに、
――これ、どうなっているの――
さっきよりもっと驚いた。
乗客の顔をうかがうようにして歩いていたせいかもしれない。窓際にすわった女と一瞬目が合った。
女はふっと視線をそらしたが、それは偶然の動作だったのか、それとも晴美と知ってすばやく首をまわしたのか……横顔はまぎれもなく貝堀夫人その人だった。
声をかけようとして首を伸ばしたが、思いとどまった。
――むこうが避けている――
その可能性が濃い。彼女は昔の知人になんか声をかけられたくないだろう。黙って通り過ぎた。そして背後から眺められていることを意識しながら通路を歩き続けビュッフェに入った。
時間はずれのせいもあって席はあいている。
「ピラフとコーヒー」
と頼んで、まずタバコ。一日二十本ときめているが、旅をすると、どうしてもたくさん喫ってしまう。
窓の外に浜名湖が見えた。水の色がはっきりと冬を映している。さっき走り抜けたのが浜松市だったらしい。
浜松は知らない街だが、一度だけ降りたことがある。義弘が大阪に勤務していた頃。晴美は東京にいて今の仕事を始めたばかりだった。
「会いたいなあ」
「私だって」
「よし。まん中で会おう」
「まん中って、どこ?」
「浜松にしよう」
市内のホテルを予約し、最終に近い新幹線を利用して落ちあった。義弘はホテルで夜を過ごすのが目的だったかもしれない。恋人たちは旅にでも出なければ抱きあうのがむつかしい。まだそんな時期だった。
レストランで軽い食事をとり、部屋へ入って順番にお風呂に入った。
「お待ちどおさま」
「うん。会いたかった」
疲れた体のまま義弘に抱かれた。
「ずっとこれを考えていたんだ」
義弘の本心だったろう。待ちに待った心を表わすような激しい抱擁だった。
だが……忘れられないのは、むしろ明け方の情事のほう……。
晴美は眠っていた。
背後から愛撫の手が伸び、風のような快感がまどろみと混ざりあう。もう眠ってはいられない。たちまち嵐のような抱擁に変り、気がつくと恥かしいほど体が高ぶっていた。
本物の喜びを感じたのは、あのときが初めてだったろう。自分の体の中にあんな感覚が潜んでいるとは思いもよらなかった。思わず知らず声をあげた。それが遠い声のように聞こえた。意識がおぼろだった。
遠のいて行く嵐の中でもう一度まどろみ、さめてまた抱かれた。
「急がなくちゃ」
「もうこんな時間なの?」
二人とも午後には仕事に戻らなければいけない。そんなきわどい時間を盗んで企てたデートだった。朝食をとるゆとりもない。駅までタクシーを飛ばし、西と東に別れた。
「こんなのも、いいな、スリリングで」
「本当」
あのときも列車のビュッフェで食事をとったが、きっとピラフかなにかだったろう。
間もなく義弘が東京へ戻って来て、もう浜松で会う必要はなくなった。だから浜松の街はどこも知らない。ホテルの名前さえはっきりとは思い出せない。おぼえているのは、あのときの熱い抱擁だけ、と言ってよい。
――このところ……ちょっとご無沙汰ね――
義弘はスポーツマンだから体力はあるほうだろう。新婚の頃は、当然のことながら毎晩抱きあった。日曜日など何度も体を重ねた。
その数も少しずつ間遠くなって、このごろは週に二回も抱きあっているのかしら。愛されること自体は、けっして厭《いや》ではない。快感は快感として好ましい。
しかし、夫婦のあいだに気まずい感情があって、そのまま体を重ねるのには抵抗がある。できれば拒否したい。そんないい加減な営みで感情の齟齬《そご》を補おうとするのは、さらにうとましい。心の屈託はけっして解消されるものではないのだから……。
そう言えば、テレビのワイド・ショウで、夫婦の相談ごととなると、かならず、
「で、セックスのほうはどのくらいでしょうか」
と頻度を尋ねるキャスターがいた。
――下衆《げす》なことばかり聞いて――
と晴美は眉をしかめていたが、案外あれは大切な質問なのかもしれない。
仲がよければやっぱり抱きあうことも多い。気持ちが離れていれば、現実問題として抱きあう気にはなれないし、回数はめっきり減ってしまう。どこの家でもそうだろう。夫婦の相談ごとはそのあたりをしっかりわきまえなければ見当ちがいになりかねない。
あまりおいしくもないピラフを平らげ、砂糖ぬきのコーヒーにミルクをたっぷりと入れた。
――それにしても……貝堀さん――
思案が今しがた見た風景に移った。夫婦がべつべつの車両に乗っているのはなぜだろう。
マンションに住んでいたときの様子では、とても仲のよさそうな夫婦だった。
「奥さんも共犯なんじゃないの」
そんな噂を聞いて、
――そうかもしれないわね――
と思ったのも、そのせいだったろう。
仕事の種類こそちょっと特殊だったが、ご主人が「一緒にやろう」と言えば、奥さんは「はい」と答えて甲斐々々しくパートナーを演じるような感じだった。
――変だわ――
今日もなにか企んでいるのかもしれない。どうしても考えがそこに行ってしまう。
昔、読んだ小説……そう、たしか地下鉄サム≠ニかいう題だったわ。やっぱり詐欺師が登場する話だった。こまかいことは忘れてしまったけれど、たしかレストランで詐欺師が食事をする。あれも釣銭の詐欺だった。十ドル紙幣を払ったのに、釣銭を見て百ドル紙幣を払ったと主張する。マネジャーが現われ、
「なにかのおまちがいじゃありませんか」
「いや、まちがいない」
「しかし、ボーイはたしか……」
「私よりボーイのほうを信ずるのかね」
「いえ、そうではありませんが」
現実にもこういうトラブルは皆無ではあるまい。それぞれのお店ではどう解決するのかしら。
小説の中の詐欺師はゆったりと呟く。
「ああ、よいことを思い出した。今払った百ドルは銀行からおろして来たばかりの十枚の中の一枚なんだ。新札だからきっと番号が続いているだろう。欠けている番号が店のレジスターの中にあるかどうか、それを確かめてくれないかな」
詐欺師は財布を取り出し、九枚の百ドル紙幣を並べて欠けた番号を言う。マネジャーは早速レジスターの中を調べさせる。
しかし、問題の百ドル紙幣は、それより先に相棒が支払い、すでにレジスターの中に入っている仕組みになっている。かくて、
「これは失礼いたしました」
と、マネジャーが謝り、詐欺師の勝ちとなる。正義感の強いサムが(彼は地下鉄専門の掏摸《すり》なのだが)このきたないやり口を知って妨害する。紙幣の単位はちがっているかもしれないが、たしかこんな粗筋《あらすじ》の短篇だった。
――貝堀さんたちも列車の中でなにかやろうとしているのかしら――
ゆっくりと食事をとっているうちに列車は名古屋に着き、短い停車のあとで発車した。
晴美はコーヒーを飲み終え、同じ通路を戻る。途中でさりげなく貝堀夫人の席を見た。
目を閉じているが、狸寝入りかもしれない。それから二両先、ご主人のほうも寝息をあげて、こちらは本当に眠っているようだ。大阪止まりの列車だから、行先は一応、京都か大阪だろう。夫婦が同じところへ行くのに、べつべつの席にすわっているのは……けっしてありえないことではないけれど、どうも釈然としない。
――離婚したのかしら――
夫が犯罪者とわかれば、それもありうることだ。しかし、それがまた偶然同じ列車に乗っているなんて……どうも納得がいかない。
――私には、関係ないことだけど――
思案が今夜の仕事に移った。一人なまいきなモデルがいる。甘やかすとろくなことがないだろう。
――どうお灸をすえてやろうかしら――
と考える。うまい対策も浮かばない。
ふたたび貝堀夫妻のことを思い出したのは大阪駅に着いてからだった。改札を抜け、タクシー乗り場に向かうとき、少し前にご主人のうしろ姿があった。周囲を見まわしたが奥さんはいない。タクシーに乗るときもご主人は一人だった。なにか理由があって列車内で別行動をとることはあっても、目的地に着けば一緒になるだろう。
――奥さんは京都で降りたのかもしれない――
なんの関係もない夫婦だが、わるい想像のほうへは傾きたくない。
貝堀夫妻について詐欺師と聞かされたあとでも晴美は、そうひどい感情を抱かなかった。なんとなくよい人たちのような気がしてならない。
ショウのできばえは可もなく不可もなし。東京と同じことをやっても大阪ではどことなく垢ぬけない感じになってしまう。ここでは観客の中にほんの一人か二人、きまって下卑た様子の男がいて、奇声をあげる。
「ストリップ・ショウをやってんじゃないのよ」
と叫びたくなるときがある。
まあ、マネキンたちも容姿こそ美しいが、あんまり上等な女の子たちではない。控え室では、
「ああ、男がほしいわあ。このごろずーっとやってないのよ」
「あんた、不感症じゃないの。体つき、そんな感じよ」
「ブ、ブーッ、はずれー。一回やれば五回や六回かならずいくわよ」
かわいい顔つきでこんな話を交わしているのだからあきれてしまう。なまいきなモデルは今回は不参加で、晴美としては精神衛生上少々助かった。
ショウのあとモデルたちに、
「飲みに行きましょうよオ」
と誘われたが、断った。一緒に行ってもさほどおもしろいこともない。べつに彼女たちを管理しなければいけない立場にあるわけではないけれど、トラブルが起きたときには年長者としてうしろ指をさされかねない。彼女たちがモデルであることを思えば、度を過ごして飲んだり食べたり夜ふかしをしたりしたときは……それをまのあたりに見たときは、
「少し気をつけたら」
と文句の一つも言いたくなるだろう。言ってやるのが年長者の仕事だろう。それもわずらわしい。
一人ホテルへ戻った。
部屋に入ってからタバコがきれていることに気づいて買いに出た。
降りて来るエレベーターにポンと乗ったとたん、中に立っている人と目があった。今度は避けようもない。箱の中にたった二人なのだから。
「あら、今晩は」
貝堀夫人だった。晴美を見て、わるびれる様子もなく呟く。まるでしょっ中会っている人のような口ぶりだ。
「お久しぶりですね」
晴美のほうは、少しあらたまった調子で応じた。
「ええ、もう三年かしら」
「そうですね」
「結婚をなさった? いつも見えてたかたと」
「ええ、あのあとすぐ」
「それはようございましたわね。おめでとうございます」
今ごろ言われてもピンと来ない。それより、
――この人たちこそ、あのあとどんな歳月を送っていたのだろうか――
あからさまに聞くわけにもいかない。
「夕方の列車でいらしたんでしょ」
と、貝堀夫人が言う。
「ええ……?」
「通路を歩いてらっしゃるの、お見かけして、たしかあなただと思ったんですけど」
やっぱり見ていたのだ。知っていたのだ。
「そうでしたの?」
晴美のほうがとぼけた。
貝堀夫人は人なつこそうな様子で、相変らずそうわるい人には見えない。詐欺師の噂は嘘だったのかもしれない。
エレベーターのドアが開いた。
「なにかご用で?」
と晴美が尋ねた。
「ええ、ちょっと散歩にでも出ようかと思って」
「いえ、そうじゃなく……大阪へは、なんで?」
あからさまに聞くのは失礼だろうか。ご主人が来ていることは知っているのだろうか。小さな刺《とげ》のようにささっている疑問について、なにかしらヒントをもらいたかった。
「うふふふ、馬鹿みたいなの」
ロビイを歩きながら奥さんは子どものように笑った。
「うちの主人ね、切手を集めてますの。コレクターとしては、相当のものらしいのよ」
「ええ?」
「大阪のテレビに出演することになって……東京じゃ見られないでしょ。来るな≠チて言われたけど、私、ちょっと見たくて……。今まで映ってましたのよ」
両手で顔をおおい、
「じゃ、失礼しますわ」
笑ってドアの外へ出て行った。恥かしそうではあったが、満足そうなよい表情だった。
――ああ、そう――
揺れているドアに向かって頷《うなず》いた。馬鹿らしい。謎の答はずいぶん簡単なことだった。
ご主人は本当に詐欺師だったのかどうか。むしろ世渡りのあまりうまくない男で、つい魔がさしたように愚かなことをやってしまったのかもしれない。少なくとも常習的な犯罪者ではなかったのだろう。
今どきテレビに出演することなんか、さほどの晴れ舞台ではあるまいが、奥さんとしてはご主人のそんな姿をちょっと見たかったのだろう。その気持ちはわからないでもない。
タバコを買い、部屋に帰った。バス・タブに熱いお湯を満たし、体をゆっくりと伸ばした。
――仙台へ行ってみようかしら――
もう少しすなおになろう。二人が初めて会ったころの気持ちに返ってみよう。義弘のジャンプ・ショットは本当に体が震えるほどすばらしかった。
――あのころは私たちも負けずにすばらしかったわ――
恋愛結婚の長所は、あんなときがあった≠ニ思い出すことができるところだろう。熱い原点のあることだろう。
仙台は遠い地ではない。行ってみればどこでゲームをやっているか調べるのはやさしい。客席のすみから、そっと眺めてみよう。
バス・タオルを体に巻いて電話をとった。フロントを呼び出し、
「もしもし、伊丹《いたみ》から仙台へ行く飛行機、あるのかしら」
と尋ねた。ジャンプ・ショットのように空を飛んで行く自分を思い浮かべながら。
本作品は一九八七年五月、小社より単行本として刊行され、一九九〇年五月、講談社文庫に収録されました。