角川文庫
幻の舟
[#地から2字上げ]阿刀田高
目 次
プロローグ
フランス旅行
屏風絵の背景
安土城散策
湖畔の闇
舟が来る
遠い電話
不能犯
エピローグ
プロローグ
まず初めに、|些《さ》|細《さい》な出来事が私の心の底に残っている。
十年ほど前、京都の|大《だい》|徳《とく》|寺《じ》を訪ねて|狩《か》|野《のう》|永《えい》|徳《とく》が描いた|襖絵《ふすまえ》〈|山水花鳥図《さんすいかちょうず》〉を見た。妻の|和《かず》|代《よ》も一緒だった。
特別に意図して大徳寺へ行ったわけではない。京都旅行自体が気紛れのようなものだった。二人の休暇が重なり、
「いい季節ね」
「久しぶりに旅でもするか」
「温泉?」
「それもいいけど……京都とか」
「いいわね」
「随分行ってない」
「行こう、行こう」
和代は中学校で理科を教えている。私は神田の小さな出版社に勤めていた。相談がまとまり、一泊旅行を企てた。ほとんどなんの目的もない旅である。|嵐山《あらしやま》の紅葉を眺めればそれでよかった。
「川の水が少ないみたい」
「夏の|旱《ひでり》がひどかったもん」
川の風景は水量で一変する。少なければ悲しい。多ければ恐ろしい。
ついでに|竜安寺《りょうあんじ》、金閣寺と廻り、
「お腹がすいちゃった」
「うん」
午後の二時に近かったろう。
「湯豆腐かしら。やっぱり」
「京都だからな」
「ええ」
「しかし、予約をしなくちゃ駄目だろう」
ガイドブックが勧める店を訪ねると、案の定、席がない。
「三時だとさ。どうする?」
「我慢するわ。それまで」
「よかろう」
予約を済まし、時間|潰《つぶ》しを考えて周囲をうかがうと、大徳寺で寺宝の公開をやっているらしい。
「大徳寺って、なーに?」
「名前は聞いたこと、あるけど」
「|大《だい》|覚《かく》|寺《じ》とはちがうのよね」
「当然だろ」
見学者の群に交じって中へ入った。正直なところ、当時の私たちは京都の寺院について、あまり関心がなかったのである。知識は恥ずかしいほど欠落していた。
あとで知ったことだが、大徳寺はその名通り|臨済宗《りんざいしゅう》大徳寺派の総本山で、本坊のほかに|塔頭《たっちゅう》が沢山ある。たしか二十いくつ……。どの塔頭も国宝や重要文化財を秘蔵している。普段は観光客を入れていない。そんなことも私たちは知らなかった。
ガイドブックをななめ読みして、
「秀吉が信長のお葬式をやったんだ、ここで」
「ああ。あれがここなの」
日本歴史のほうなら、常識程度の記憶がないでもない。たしか信長の家臣としては、三番手か、四番手でしかなかった秀吉が、明智光秀を討ち、主君の葬儀を取り仕切ることによって一気に信長の後継者としての地位を占める……そんなデモンストレーションがあったはずだ。
赤い豪壮な三門を右に見て、最初に入ったのが|聚《じゅ》|光《こう》|院《いん》だった。
この塔頭は、利休とゆかりの深いところらしい。墓もある。靴を脱いで廊下へ上がると、まん中の部屋の周囲を囲んで、一つ、二つ、三つ、四つ……十六枚の襖が立っていた。それが狩野永徳の筆による国宝であった。
ひとめ見て心が引かれた。
血が騒いだ。
こんなことはめずらしい。今までには“ついぞなかった”と言ってもよい。
部屋は十畳間ほどの広さだろうか。襖は右に四枚、左に四枚、正面に少し幅の狭いものが八枚立って、一続きの絵を構成している。
「いい絵だなあ」
わけもなくそう感じた。
右手の四枚を貫いて満開の梅樹が枝を伸ばしている。左手の四枚は松の老木。鶴と|鴨《かも》とがバランスよく配置されている。正面はむしろあっさりとした印象で、遠景のようにもうかがえる。|褪色《たいしょく》はいなめないが、もともと色彩の多い絵ではなかっただろう。墨絵を基調とし、金を|刷《は》いている。
「いい絵だよ、これは」
「ええ……?」
と、和代が戸惑うように答えた。
「なんか、こう……打たれるな」
うまい言葉が浮かばない。“いい絵”という表現も適当ではあるまい。
見つめていると、私の心の奥で呼応し、|蠢《うごめ》くものがある。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》かもしれないが、あえて言うならば、絵が呼びかけ、私の心がこれに|応《こた》えようとしているような、そんな不思議な感触を覚えた。
けっして国宝という添え書に唆かされたわけではない。国宝と知ったのは、鑑賞の途中からで、初めはなんの先入観もなかった。それに……京都を歩けば国宝なんかいくらでもある。いちいち感動しているわけにはいかない。
――なぜかな――
興奮の理由を探った。
――わからない――
梅の古木が、その|歪《ゆが》んだ幹と枝の姿が、幼い頃に住んでいた小石川の家の庭にあった梅樹に似ている。あれもみごとな老木だった。だから……私自身が意識するより先に、潜在的な記憶が私の|脳《のう》|裡《り》を刺激して、奇妙な感興を|湧《わ》かせたのかもしれない。
あれは懐しい庭だった。広く、深く、発見に満ちていた。私の一番幸福な時代だったろう。“父母|兄《はら》|弟《から》、ともに居まして、世の幸あつめて送りし、あの日”と、歌声までが耳の奥に響いてくる。早春には梅の花が|馥《ふく》|郁《いく》と薫り、本当に|鶯《うぐいす》が飛んで来て、しきりに|囀《さえず》っていた。
――鶯はどこから来るのかな――
一年中、木の付近にいるわけではない。それが不思議だった。
当時、|戦《せん》|禍《か》はまだ東京を焦がすこともなく、少しずつ窮乏していく生活の中では、母が分け与えてくれる掌一つほどの菓子類が、かえって貴いものに感じられた。菓子のむこうに確かな愛情があった。
その母もいない。
――しかし……それとはちがうな――
襖絵の中の梅樹は、確かに幼い頃に|馴《な》|染《じ》んだ風景と似ているが、それゆえに私が興奮を覚えたとは……到底思えない。
さりとて他の理由を捜しても、合点のいくものがなにもない。
「そんなにいいかしら」
と、和代が首を傾げる。
「よくないかなあ」
「いいことはいいけど……わりとよくあるタイプの構図じゃない」
と、つれない。
妻は私の感動に当惑しているらしい。
私たちは似たもの夫婦といってよいだろう。性格も趣味も、体質までよく似ている。同じ年代で同じ病気に冒されるのだから……。とりわけ絵画の好みは一致していた。シャガール、ローランサン、クレーは好き。ピカソはまあまあ。ミレーやターナーは写真のようで、あまり感心しない。日本画のほうは、一緒に眺めて意見を交わした体験がなかったから、よくはわからないけれど、少なくとも眼前の襖絵に関しては感度がちがっているらしい。
和代は体を引いて眺めなおし、
「まあ、わるくはないけど……」
と、同じ中途半端な評価を繰り返している。
「一応、春、夏、秋、冬って、そういう構図になっているんだな」
「欲張りね、一つの部屋で」
「雄大だよ」
「こっちの鴨、かわいいわ。首を伸ばしていて。空から“ただいま”って帰って来たみたい」
と、鴨を指さす。和代はバード・ウォッチングにも関心がある。
若い僧侶が「押しあわないでください」と叫んでいるが、次から次へと見学者が集まってくる。
そんな周囲の混雑にもかかわらず私は敷居の|際《きわ》に|膝《ひざ》をつき、
「やっぱり、いいよ」
と、しきりに感動を表わし続けていた。
突飛な連想だが、私の感動は美意識の問題ではなく、私の遺伝子の中に、この絵の書き手に関わるなにかが潜んでいて、それが躍動しているようにさえ思えてならない。
「狩野永徳……か」
と、あらためて|呟《つぶや》いてみた。
「ええ」
「知ってる?」
「知らない。狩野って人、いっぱいいるでしょ」
「まあな」
当時の私は狩野永徳という画家についても、ほとんどなんの知識も持ち合わせていなかった。永徳の絵を見たのは、おそらく初めてだったろう。いや、より正確に言えば、見ていたとしてもそれが永徳の絵だとはわかっていなかったにちがいない。なんの記憶もないのだから。
隣室にも永徳の襖絵があって、こちらは〈|琴《きん》|棋《き》書画図〉と呼ぶらしい。角張った岩山に立つ松の古木、琴を楽しむ者、棋盤を囲む者、書画に興ずる者、|精《せい》|緻《ち》に、厳格に、丁寧に描かれている。同じ作者ながら画風が相当に異なっている。墨書で言えば〈山水花鳥図〉は|行書体《ぎょうしょたい》、〈琴棋書画図〉は|楷《かい》|書《しょ》|体《たい》、と、寺院がくれたパンフレットに記してある。
――なるほどね――
見ためは随分と異なっているが〈琴棋書画図〉も、私の心に響いてくるものがある。〈山水花鳥図〉ほどではないが、作用はよく似ている。
すると隣から、
「この虎、いいじゃない」
理科の教師はもっぱら動物のほうに関心がおもむく。それは、廊下を廻った角部屋の襖絵で、
「それこそ月並じゃないか」
「そうかしら」
「狩野|松栄《しょうえい》筆。永徳のお父さんらしいぞ」
と、これもパンフレットの知識である。
「あら、そうなの」
首を伸ばして、薄暗い部屋の中を見た。私に言わせれば、この絵こそ、
「わるくはないけど」
不思議な感慨を覚えるわけにはいかない。
「|俺《おれ》は息子のほうが好きだな。雄大で、躍動していて」
和代はそれには答えず、
「むこうのは|豹《ひょう》みたいよ」
と、隣の襖を指す。
「うん」
虎のむこうで豹がうずくまっている。案内人の説明を聞いていると、当時は虎の雌が豹だと思われていたらしい。それで虎と豹とが一続きの襖絵に収っているのだろう。
「どうして豹のほうが雌なのかしら。まさか毛皮のコートがあったわけじゃないでしょうに」
「大きさだろ。虎のほうが大きいから」
「あ、そうか」
私はもう一度廊下を戻って狩野永徳の〈山水花鳥図〉を眺めた。
やはり、これがいい。圧力が違う。梅も松も、鶴も鴨も、水の流れも水の|淀《よど》みも、いっさいが私の胸に迫ってくる。その感動は、脳髄の中にある私のおぼろな記憶と、どこかで|繋《つなが》っているのではあるまいか。いつか夢で見たとか……。あるいは、私の祖先に永徳と深い関わりを持つ者がいて、その遺伝子が私に伝わっているのではないのか。そんな考えが科学的に成立するかどうかはともかく、換言すれば、私が受けた感触はそうした説明にこそふさわしいもののように思えた。
「よくわからん」
「なにが?」
「いや、ちょっと」
説明がむずかしい。
このあと利休の茶室をいくつか見学したが、私の思案はずっと、私の心に|忽《こつ》|然《ぜん》と湧き起こった奇妙な感興にわだかまり続けていた。三畳の茶室にも二畳の茶室にも関心が向かなかった。
「あれが|沙《さ》|羅《ら》|双《そう》|樹《じゅ》ですって」
「あ、そう」
「あなた、どうしたの?」
和代には放心状態に見えたのだろう。
「うん。永徳に当てられたらしい」
「当てられたって……?」
「ショックだな、一種の」
「そんなによかったかしら」
「よいとかわるいとかじゃなく……当たったんだ」
「へんなの」
腕時計を見ると、|割《かっ》|烹《ぽう》|店《てん》に予約した時刻が近づいている。他の塔頭を廻るゆとりはない。
「残念だけど……行こうか」
「そうね」
道を返して急いだ。
が、豆腐料理がどんな様子だったか、どんな味だったか、まるで記憶に残らなかった。
――狩野永徳か――
名前をしっかりと覚えた。この画家について少し調べてみようと思った。今にして思えば、初めから因縁めいたものがあったということだろう。これが永徳と私の|邂《かい》|逅《こう》であった。|色《いろ》|褪《あ》せた墨絵のように、その日のことが、ぼんやりと脳裡に残っている。
フランス旅行
一九九×年の秋、私たちは二十日間の日時をフランスで過ごした。もとはと言えば、和代の強い願望だった。
「どうしても行きたいの」
「うん?」
「あなた、なんとかならない?」
「そうだな」
休暇はたっぷりと蓄積されている。仕事が忙しいわけではない。
「一人でも行きたいわ」
「一人で行くことはないさ。行くなら、|俺《おれ》も行くよ」
「ね、そうして」
「うん」
「どうしても」
なにかにせつかれたような強い和代の願いだった。
すぐに計画を立て、一カ月後に決行した。
京都とフランスと、旅行の話が重なってしまったが、私たち夫婦は、それほど繁く旅に出ていたわけではない。とりわけ海外旅行は、香港、台湾、グァム島など近距離のものを除けば、あのときだけである。
「ときどき、やりましょうね。お金を貯めて」
「ああ」
しかし、あれが最後の長い旅となってしまった。
二週間をパリで過ごした。
ルーヴル美術館、オルセー美術館、ノートルダム寺院、|凱《がい》|旋《せん》|門《もん》、エッフェル塔、エリゼ宮、アンヴァリッド、オペラ座、オデオン座、サクレ・クール寺院、モンマルトル墓地、そしていくつもの美しい公園、オートクチュールやアパレルの店……初心者向きのコースを連日めぐり歩いた。
「だって初心者なんだから。一次方程式をやらずに、いきなり微分積分てわけにはいかないわ」
と、和代は口を|尖《とが》らせていた。根が真正直だから何事でもきちんと手順を踏んでやる。
「その通り」
和代は|栗《り》|鼠《す》のような眼差で、一つ一つ興味深そうに眺めている。おもしろい発見をして|呟《つぶや》く。
「オペラ座の庭、見ました?」
道路沿いのテラスでコーヒーを飲んでいるときである。
「見たけど。歩道から柵越しに」
「女神の像が沢山あったでしょ」
「うん?」
「どうでした?」
「ちょっとドキッとした」
「やっぱり?」
「胸もあらわに」
「ええ」
「しかし、きれいだから」
滑らかな大理石が滑らかな曲線を描いていた。
「そこよ」
と、|大形《おおぎょう》に|頷《うなず》く。
「なにが」
「フランスの子どもは、小さいときから、ああいうものを見ているんだなあって」
「そりゃ、そうだろ」
「二宮金次郎の銅像を見て育つのと、やっぱりちがうんじゃないかしら。芸術的センスにおいて」
と、卓見を開陳する。
「あははは。言えるかもしれん」
「絶対そうよ」
「しかし、このごろは日本の学校でも二宮金次郎なんかいないんじゃないのか」
「ううん。うちの学校の校庭に立っているわよ」
「そりゃ、すごい」
パリでも感じたことだが、郊外へ出るとフランスの豊かさに私たちは圧倒された。いや確かに現在のフランスはけっして強大な経済力を持つ国家ではないと、そのことは重々知っているけれど、旅をしてみれば、ある時代に世界の政治と文化を主導した国の豊かさは到るところに残っていた。ルーヴルを初めとする美術館のすばらしさ、ヴェルサイユ宮のきらびやかさ、農村の豊かさ……。この地では農村と貧困は結びついていない。むしろ農業が一番人間らしい豊穣な産業であることを認識させられる。
「地図を見てごらんよ」
「ええ?」
「ヨーロッパ大陸の一番いいところを取っているんだよな、フランスは。日本で言えば、関東平野だけで国を一つ造ったみたいなものだもん。なにをするにも都合がいい」
「そうよねぇー」
鉄道の踏切り遮断機を指さして、
「棒がほんの少し短いでしょ」
と教えてくれたのは、この旅行のあいだ、ずっとガイドを務めてくれた|山《やま》|形《がた》|朋《とも》|一《かず》である。
パリからノルマンデーに向かう道筋だったろう。言われてみれば、なるほど、踏切りの遮断機の棒が道幅より少し短い。五、六十センチほどのすきまを残している。そこから列車の通り道へ入り込むことが、たやすくできる。
「どうしてですか」
山形は少し|頬《ほほ》|笑《え》んでから、
「あれがフランスなんです」
と言う。
「ほう?」
「鉄道当局は遮断機を降ろして“通ってはいけませんよ“あなたが自分の意志でどうしても通りたいのなら、それは自由ですよ”って」
「そういうことなんですか」
「まあ……」
と、さらに大きく笑った。
ジョークだったのかもしれない。しかし、フランス人の気質をよく伝えている話ではあるまいか。ルールはあるけれど、最後は人間の自由な意志を尊重する、と、そんな気風はこの国に顕著なものである。
「フランス人が描いた漫画があったじゃない」
「うん? 覚えてない」
「そう? 深夜の横断歩道で日本人が信号待ちをしているの。車がぜんぜん通らないのに赤信号を|睨《にら》んで、じっと待っているの」
「なるほど」
日本人は、なにはともあれ、ルールはルールとして厳格に尊重する。フランス人には、さぞかし|滑《こっ》|稽《けい》に映るにちがいない。
「おもしろいわ」
和代は終始上機嫌だった。体に病いが潜んでいるなんて、とても思えなかった。
しかし……と私は考えてしまうのだが、あの輝くような笑顔こそが、いまわしい病いの前兆だったのかもしれない。絶頂のすぐ隣には|陥《かん》|穽《せい》が忍び込んでいる。神は悲しみの代償として、あらかじめ喜びを与えておくのかもしれない。人生には時折そんなことがある。
が、とにかく、最高の旅だった。
あれほど充実した日時を、私たちは過去に持ったことがなかった。海外の長旅に慣れていなかったから、他との比較はむつかしいけれど、
――ビギナーズ・ラック――
それが正しい観測ではあるまいか。
さながら初めて買った馬券で大穴を当てたように、私たちは初めてのヨーロッパ旅行でもっともすばらしい感動を味わったにちがいない。いつもいつもあんなに楽しく、快く運ぶものではあるまい。
その理由はいくつか考えられるが、特筆大書すべき事情は、ガイドの山形が優れていたから……。これを挙げずにはいられない。
「いい方ね」
「まったくだ」
私たちは何度頷き合ったかわからない。
二十八歳と聞いた。フランスへ来て四年半ほど経ていると言っていた。東京の大学を卒業してパリへ留学し、そのまま居ついてしまったらしい。一種のモラトリアム人間。身分は大学の聴講生らしいが、日本人の観光客を相手に通訳やガイドを務めている。気ままな生活を|謳《おう》|歌《か》している。
「パリには大勢いるんですよ、私みたいなのが」
「そうらしいですね」
「食べるくらいのことはできますから」
「ええ」
「このごろはテレビ局なんかの仕事も多くて」
「日本の?」
「はい。フランスでお化けの出るところ、案内してくれとか」
「案内したんですか」
「はい。一生懸命捜して」
「出ましたか」
「いや、季節がわるかったらしくて」
フランス語も|流暢《りゅうちょう》だし、フランスについての知識もなかなか豊富である。日本人のガイドがみんなこうとは思えない。人柄のよさは生まれつきのものだろう。
彼には恋人がいた。|魚《うお》|住《ずみ》|秀《ひで》|子《こ》という名の日本人で、彼女もまた山形と同じような立場にある人だろう。デコの愛称で呼ばれていた。
山形が忙しいときにはデコが私たちのためにガイドを務めてくれたのだが、この女性もわるくない。明るくて賢い。
「お似合いのカップルね」
「ああ。彼女は十年もフランスにいるんだとさ」
「そうなの。道理で慣れてると思ったわ」
「しっかりしている」
「ええ。ただ……」
「ただ、どうした?」
「ちょっと心配ね」
デコは容姿も美しい。パリジェンヌの持つ鋭角的な美しさとはちがって、東洋的な、ふっくらとした美しさを備えている。若い男性たちのあいだで抜群の人気を集めているようだ。申し分のない人柄だが、強いて言えば、
――少し軽いかな――
と思った。
フランス人の社会で|蝶《ちょう》のように軽々と生きている気配が見える。その点、山形のほうが、男と女の差があるにせよ、日本人らしい生真面目さとぎこちなさを露呈している。パリで過ごした年月の差かもしれない。
「あなたの頭が固いのよ」
「日本人なんだよ、俺は」
「ここはパリです。みんな自由にやっているんでしょ」
「まったく」
「ノエルって……何者かしら」
「二人の友だちだろ」
山形とデコと、三人で仲間を作っている。
「そりゃ、わかっているけど」
フル・ネームはノエル・オステル。年齢は山形より少し上だろう。学生にしては年を取り過ぎている。神秘主義者なのだと聞かされたが、ノエルの身分は最後までわからなかった。
二人の男性と一人の女性……。この情況は悩ましい。
「ノエルはデコに気があるんじゃない?」
「うん。デコはすてきだからな」
この懸念は最初からないでもなかった。
「山形さんは気づいているのかしら」
「わからん」
ノエルと初めて会ったのは、私たちが滞在したホテルのティルームだった。
「おもしろいフランス人がいるんですよ。日本通で」
と、山形に紹介されたのだが、その日の午後は、和代がデコと一緒にオートクチュールの店を訪ねる予定になっていた。すでに一度行ったところなのだが、和代はあらためて買いたいものが一つ、二つ、あるらしい。こういうショッピングに男がつきあうのは大変だ。
「いいのよ。私、デコさんと行くから」
私は少し疲労を覚えていたので、
「うん。そうしてくれ。よろしくお願いします」
と、ガイドをデコに頼み、ホテルでくつろぐことにした。すると部屋の電話が鳴り、山形が、
「よろしかったら、コーヒーでもいかがですか。ノエルも来てます」
と言う。ジャケットを羽織って降りていくと、ノエルが山形と話し込んでいた。
フランス人のつねとして、ノエルはなかなか|饒舌《じょうぜつ》である。人見知りなどはしない。日本についての質問をどんどん浴びせる。日本の事情については、山形より私のほうが年を取っているぶんだけ詳しいだろう。
ノエルは日本語を少し話す。細かいことになるとフランス語に変わる。山形が適当に訳して三人の会話が成立する。
「ランを知っているか」
と尋ねられ、初めは人の名前かと思った。花のことかとも考えた。
私が戸惑っていると、ノエルは、
「クロサワを知っているか」
と重ねる。
これも初めはクルサーと聞こえたが、くり返すのを聞いて、クロサワとわかった。黒沢ならば、日本人の苗字だろう。
「ノエルは黒澤明の〈乱〉を見て、すごく感動したんですよ」
山形が助け舟を出してくれた。
――そういうことか――
黒澤明の映画なら、私はほとんど見ている。〈乱〉も七、八年前、たしか封切りのときに見ている。大きく|頷《うなず》いて、
「ウイ」
と答えた。
「すっばらしい」
と|呟《つぶや》いてから、フランス語でまくし立て、山形が要旨を伝えてくれた。
それにしても会話というのは、おもしろいものだ。いや、むしろ人間の意思疎通のおもしろさと言うべきだろう。以前に、貿易にたずさわっている友人から聞いたことがある。たしかブラジルに行って鉄を売るときの話だった。この友人はポルトガル語ができない。もちろん相手は日本語がわからない。そのうえ双方とも英語が得手ではない。だから、あいだに通訳をおいて話をするのだが、こんなときでも|喋《しゃべ》るときには、それぞれの国の言葉でおおいに弁舌をふるったほうがよいらしい。相手を説得し、訴えぬく情熱で語らねばならない。「ぜひとも、これこれの値段に負けてほしい」と、相手が口角に|沫《あわ》を飛ばして語るのを、じっと聞いている。わからなくても耳を傾ける。通訳の解釈を聞き、今度はこっちが「そんなこと言ったって、こっちにも、これこれの事情があって、もうこれ以上の値引きはできない。これで承知してほしい」と、これも必死に主張する。むしろ言葉の通じる相手より、よほど熱心に語って伝える。相手も同様に、わからない日本語を真剣に聞いている。友人の|曰《いわ》く「表情だけで、ある程度わかるんだよ。細かいことはともかく、どれほどの熱意をもって主張しているか、ね。だから本気で喋らなくちゃいかんのよ。言葉だけじゃないんだ、相手を説得するのは」と。私は、言葉の通じない者同士が向かいあって必死に喋りまくっている光景を想像して、思わず笑ってしまったが、あれは|紛《まが》うことなき真実だろう。言語は異なっても、人間のビヘイヴィアには共通するものがある。火星人と話しているわけではないのだから……。
早口で喋るノエルの言葉そのものはまったくわからないが、多少の見当はつく。なによりも彼が自分の会話に|托《たく》している感情は充分にわかる。楽しいのか、悲しいのか、あきれているのか、称賛しているのか、この点ではフランス人は自分の感情をすなおに表明する国民性だ。ノエルの話ぶりを眺め、山形から要旨の説明を受け、二つを|綜《そう》|合《ごう》すると、滞りなく意思の伝達が成立する。こちらも同じようにやればよい。人類は随分と古い昔から、こういう方法で言葉の通じない者同士が、意思を疎通させていたにちがいない。
ましてノエルは、日本の諸事情を話すことが多いのだから、慣れれば、この会話法でほとんどなんの不足もなかった。加えて、山形が巧みな通訳であった、という事情も伏在していただろう。
「黒澤明の〈乱〉はすばらしい。日本の城の美しさと、それが炎上する美しさと、この二つを余すところなくスクリーンに表現して、最高の芸術作品に仕上げている。人類の宝と言ってよい」
最大級の表現で|讃《ほ》めあげる。
「こちらで上映されたの?」
「もちろん。カンヌの映画祭で特別賞を取っている。パリでも上映されたし、|俺《おれ》はビデオも持っている。あれは、すごい」
私の頭の隅に散っている記憶を集めた。〈乱〉を見たのは、新宿の映画館だった。土曜日の午後だった。昼過ぎまで仕事があって……夕刻に知人と会う約束があって、それまでの時間|潰《つぶ》しだった。そんな事情はともかく、
――黒澤にしては、いまいちだな――
と思った。
学生時代に、シェクスピアの〈リヤ王〉を見たことがある。学生演劇だから、|下《へ》|手《た》くそだった。とりわけ小姓の役が、浮いて、しらけて、見るにたえなかった。〈乱〉は、筋がその〈リヤ王〉に似ている。似ているどころか、そっくりと言ってよいしろものらしい。“らしい”というのは、私のほうが〈リヤ王〉の筋を忘れているからだ。後日、読んだ新聞の映画評では痛烈に、そのことを批判していた。おおいに同感した。こんなときには映画評そのものが、私の意見になってしまう。|二《に》|番《ばん》|煎《せん》じには高い評価を与えられない。シェクスピア原作と銘打つのならともかく、それがないのだから、あえて言えばアンフェアではないのか。
そんな印象が残っていたから、
「それほどよかったかなあ。シェクスピアの焼き直しでしょ、あれは。黒澤はもっといい映画を沢山作っていますよ」
やんわり反論した。
だが、ノエルは|怯《ひる》まない。
「そこがいいのよ。シェクスピアを、あんなにみごとに日本化している。ヨーロッパと日本が融合している。物語はシェクスピアかもしれないが、映像は日本の美だ。あれがよくないなんて、気が狂っている」
ノエルの心情を探れば、ヨーロッパ文化はもともと優れている、それを日本人が|真《ま》|似《ね》することなんか、いちいちめくじらを立てていられない、みごとに真似てくれましたね、と、そんな称賛なのではあるまいか。ならば、ますます手放しで喜ぶわけにはいかないけれど、それを論じるとややこしくなる。
「たしかに映像はきれいだったけどね」
と、さしさわりのない|相《あい》|槌《づち》を打った。
――日本人だなあ――
と思いながら。つまり……自己主張は控えめなのだ。
当然のことながらノエルはフランス人である。とことんまで自説を開陳する。
「その物語だって、シェクスピアだけじゃない。初めのところはシェクスピアとちがう。もう一つ、すばらしいアイデアが入っている」
「どんな」
「三本の矢を息子たちに折らせるところだ。一本なら手で折れるが、三本まとまると、折れない。協力が大切なことを、ちゃんと説明している。あれはシェクスピアも考えつかなかった」
言われて思い出した。たしかに〈乱〉の冒頭に、そんなシーンがあったけれど、日本人はこの話に独創性を認めるわけにはいかない。
「あはは。それがまた借りものなんだ。日本人なら、だれでも知ってますよ。|毛《もう》|利《り》|元《もと》|就《なり》の三矢の教えと言って」
山形が首を振っている。“日本人なら、誰でも知っている”わけではないらしい。
「それはなんだ」
「毛利元就という大名が、息子たち三人を呼んで矢を与え、一本では折れるが三本まとまると折れないことを教えたんですね。映画の通りですよ。三人で協力すればよいって」
「それこそ東と西の融合だ。うまく使っている」
と、ノエルは譲らない。
しかし、私だって黒澤の映画はよく見ている。多少の意見は持っている。
「黒澤明って人は、ストーリィが優れていたんですよ。ほかの点でもいいところが沢山あったけれど、やっぱりおもしろいストーリィを提供したから大衆の人気を集めたんじゃないのかなあ。映画は、なんだかんだと言ったってストーリィがおもしろくなくちゃ駄目なのと違いますか。〈七人の侍〉がアメリカ映画の〈荒野の七人〉に変わって、それでもちゃんと楽しい西部劇になったのは、いかに黒澤のストーリィがしっかりしていたか、その証明だと思いますよ。〈用心棒〉もそうだし」
おそらく、これもどこかの映画評で読んだものだと思うけれど、今では私の持論になっている。
「だから今度は黒澤がシェクスピアのストーリィを借りて作ったんだ。俺が見た、どのシェクスピア劇より〈乱〉はいい。俺は日本人を尊敬するよ」
と頭を下げる。
そうまで言われたら反論はしにくい。フランス人にはまた日本人とちがう見方があって当然だろう。
話が途切れるのを見て、山形が、
「ノエルはすごい日本|贔《びい》|屓《き》なんですよ。私なんかより、よほどよく日本の古いことを知っている。お化けとか、まじないとか。このごろは日本の城に凝っていて、宝捜しまでやっているんですよ。あの話、話してみたらいいじゃないか、|白《しら》|井《い》さんに」
と、顔をノエルに向けて促す。
「なんですか」
ノエルは頭を抱え、顔を|撫《な》で、どこから話したらよいものか、少し迷っているふうであったが、やおら持ち前の雄弁を駆使して、
「うん。〈乱〉に感動したから、家に帰って|親《おや》|父《じ》に日本の城のことを話したんだ。そしたら親父が言うには“日本の城はすばらしい。自分は|屏風《びょうぶ》に描かれた日本の美しい城を見たことがある。それは非常に古い日本の屏風で、日本一の大名が、日本一の湖の近くに建てた日本一の城を描かせたもので、描いた人も、日本一の画家らしい。たしかに、ひとめ見て超一流の芸術品とわかるしろもので、周囲の風景も丁寧に描いてある。湖には舟が浮かび、人が四人乗っていた。町の様子も描かれていた”ということなんだ」
「ほう?」
「そのときは俺のほうになんの知識もなかったから“親父も日本の城の美しさを知っていたのか”って少しいい気分になっていただけだったんだが、そのあと、翌年に親父が突然死んでしまって」
「そりゃ、どうも……」
フランスでは、こんなとき、どういう弔意を示すのだろうか。私は軽く頭を垂れた。
ノエルのほうは委細かまわず、
「オダを知っているか」
と尋ねる。
「オダ?」
「日本一の大名だ」
「ああ、織田信長ね。キング・オブ・ジパングだ」
だれをして日本一の大名と呼ぶか、多少の異論はあるにせよ織田信長がその有力な候補の一人であることはまちがいない。
「そう、それ。織田信長が城を造っただろう」
「たくさん造っていると思うよ」
「日本一の湖の近くだ」
これは|琵《び》|琶《わ》|湖《こ》だろう。
「じゃあ、|安土城《あづちじょう》かな。安土なら琵琶湖のすぐ近くだ」
「アズウチ?」
「そう、安土」
「日本一の城か」
よくはわからないけれど、これも有力候補の一つだろうかと思って、
「ウイ」
と答えた。
ノエルは満足そうに笑って、
「安土城。それを描いたんだ。二つに折れる屏風が二枚で一組になっている。日本一の画家が描いて、それを織田がグレゴリオ十三世法王に贈った」
と、ノエルは掌で屏風の形を“く”の字に作りながら言う。二曲|一《いっ》|双《そう》の屏風と理解したが、贈り物の件については、
――そんなことがあったのか――
若い山形ばかりか、|迂《う》|闊《かつ》なことに私もこのエピソードを知らなかった。だから正直なところ、
――本当のことかな――
と、ノエルの弁舌を少し疑っていたくらいである。第一“日本一”が三つも四つも出てきては話の|信憑性《しんぴょうせい》がにわかに薄くなる。|眉《まゆ》に|唾《つば》をつけてしまったのも人情というものだろう。
「織田信長とローマ法王のあいだに接点があったかなあ」
半信半疑のまま|呟《つぶや》いた。
「それは使節団が来ているから。少年たちが四人。はるばる日本からローマまで来ている。そのときのおみやげが、安土城の屏風だったんだ」
と、山形が言う通りノエルは日本の古い歴史に通じている。
「そうだったっけ?」
感嘆しながら、おぼろげな日本史の知識をたぐった。たしか|天正《てんしょう》少年使節団……。天正ならば織田信長の時代である。
「一五八五年のことだ。だけど、そのあと、すぐグレゴリオ十三世法王が死んで、いつのまにか屏風はヴァチカンの宝物庫から消えてしまった。ずっと行方がわからなかった。見つかれば、大変な宝物だ。ネ・ス・パ?」
「まあ……」
と言い|淀《よど》んだ。
史実は|詳《つまび》らかでないが、本物ならば価値の低いはずはあるまい。
――和代は知っているかな――
理科の教師はどれほど日本史の記憶を残しているのだろうか。東京ならば書棚に手を伸ばせばすぐに知りうることが、ここではわからない。
「俺の親父が見たのがそれらしい。とてもりっぱな屏風だったというし、安土城は日本一の湖の近くに建てられたというし……なんと言いますか、日本一の湖?」
「琵琶湖です。日本一大きい」
「そう、その琵琶湖です。日本一の湖の近くに建った日本一の城の屏風が、そういくつもヨーロッパにあるはずがないでしょう」
「だれが描いたのかな」
「カノウです」
「カノウ? ああ、狩野派ね」
「カノウ・エイトク。知ってますか」
「もちろん」
聚光院の襖絵を思い出した。京都旅行のあと永徳については、ほんの少し調べてみたので、一応は知っている。永徳なら信長と関係が深い。
「日本一の画家ですか」
「ええ。永徳なら日本一と言ってもよいでしょう」
「ボン。俺が調べたところでは、カノウが描いた屏風には城のほかに湖と、それから舟、舟には人が四人乗っていた。なぜそれがわかるかと言うと、屏風のほうは法王庁から消えたけれど、それをスケッチした人がいて、それが残っている。俺の親父が見たのも、とても古い屏風で、城のほかに湖があり、舟が浮いていて、人が乗っていた。これだけ一致していれば、きっと本物でしょう」
話を聞くにつれ、真実味を帯びてくる。
「お父様はどこでそれを見たんですか」
「それがわかれば世話がない。親父は商売をやっていて、いろんな国のいろんな連中とつきあっていましたね。知合いには、貴族や貴族くずれもいました。そんなすごい宝物とは知らなかったから、くわしいことは聞きそこなってしまい、屏風の価値がわかったときには、もう親父は死んでいて、どこでそれを見たかわからない。心当たりのところへ問い合わせてみたけれど、返事はみんな“ノン”ばかり。それにロシアの衛星国とか、ユーゴスラビアとかなら、今はそれどころじゃない。見つければ、すごい発見だと思うけれど……ちがいますか」
「ええ。相当なものだと思いますけど、詳しいことは日本に帰って調べてみないとわからない」
「お願いします。どうか調べて教えてください。なぜオダが法王に屏風を贈ったか。どんな絵だったか。カノウ・エイトクは本当に日本一であったか……」
「いいですよ。調べてみましょう」
パリで狩野永徳の名を聞くなんて……。私も、この宝捜しにほんの少し心が動いた。
「ノエルは日本の宝物を前に見つけて、気をよくしているんですよ。な、そうだろ」
と、山形が補足する。
「ほう。なんですか」
ノエルが相好を崩して、
「スクレ、スクレ」
と、口に指を立てたが、その実、|秘密《スクレ》ではないらしく、
「ヨーゼンインを知ってますか」
と尋ねる。
ノエルの日本研究はいつも同じパターンで攻めて来る。今度はなんだろう。発音がフランス語風なので、すぐには判じにくい。
「ヨーゼーイン?」
「ノン。ヨーゼンイン」
ゆっくりと、明確に発音した。
「なんだろう。知らない」
「マダム・アサノ、マダム・アサノ」
と、くり返す。
「|浅《あさ》|野《の》夫人ですか」
「そう。日本一の敵討ち」
ちなみに言えば、この“日本一“ニポニイーチ”と発音される。
「つまり忠臣蔵の浅野|内《たく》|匠《みの》|頭《かみ》の奥方のことらしいんですよ」
と、山形が通訳のあとで説明を加えた。
「そう言えば、内匠頭の奥方は、そんな名で呼ばれていたな。字はわからないけど」
「アサノは江戸城で抜いてはならない刀を抜いて切腹を命じられましたか」
一通りは知っているのだろう。
「はい」
「まだ若い殿様でしたか」
「そう。三十代かな」
「では、マダムも若いですね」
「そうでしょう。当時の大名家の習慣として、殿様より年上の奥方ってことは、まずないでしょうからね」
ノエルはますます満足そうに三度も|頷《うなず》いて、
「アサノの紋章はなんですか。山形さんは日本人なのに知りません」
と、指をさしてからかう。
「どうも。駄目なんです。そういうことは」
「なんだったろう」
「鳥の羽の|十字《クロワ》と違いますか」
「ああ、そう。そうです。鷹の羽のうちちがい」
腕を胸のところで交差して示した。
こういうことは私たちの世代のほうが、はるかによく知っている。忠臣蔵の映画は、かつて年に一度くらいのわりで|頻《ひん》|繁《ぱん》に作られていた。何度見たかわからない。そのうちのどれとは思い出せないが、浅野家の紋章が身分を隠している家臣たちに秘密を伝える重要な手掛りとなるシーンがあった。それを私は覚えていた。
「こんなの」
と、ノエルが手帳のページに鳥の羽をかける印に重ねた図案を描く。
「そうです」
「黒い|漆塗《うるしぬ》りの箱に、金でその紋章がついています。ヨーゼンインが使ったものです」
なにかしら掘り出し物を入手したのだろう。そう、たしか瑶泉院と書くのではなかったか。
「それで?」
「ゴッドミッシェ」
と小声で|呟《つぶや》く。
山形の顔をうかがうと、いたずら小僧のような表情で笑っている。そして、
「ペニス・アルテフィシェル」
と言った。
あまり上等な話題ではないらしい。ノエルの顔つきからそれがわかった。意味もおおむね見当がついた。
「プール・ラ・ファム? 女性用?」
と、山形が二つの国語で念を押す。ノエルは掌を上にしたまま両腕を上げ、
「ナチュレルマン」
と言う。これもわかった。“当然”くらいの意味だろう。山形が私のほうに顔を向けて、
「フランス語ではゴッドミッシェって言うらしいんですよ。私も知らなかったけど。人工のペニス。日本じゃ……」
「張り型のことかな」
「はい。そうです。ノエルは瑶泉院の張り型を見つけたって悦に入ってるんですよ」
「それはどうかな」
にわかには信じがたい。
首を傾げたが、私の疑念はノエルの確信に押し返された。説明を聞けば、日本の有力な|骨董商《こっとうしょう》の息子がパリに留学し、ノエルが随分と世話をしたものだから、その御礼として贈られたものなのだとか。紫のシルクに包まれた非常に重々しい感じの品で、そのときに由緒をしっかりと教えられたのだと言う。
――わるい冗談だなあ――
と思ったが、ノエルは|断《だん》|乎《こ》として信じている。
「三十代の未亡人なら、当然、|空《くう》|閨《けい》の寂しさに苦しむでしょう」
と、ノエルは主張する。
「いや、当時の大名の奥方は、そんなはしたない悩みは抱えませんよ」
「なぜ、あなたにそれがわかりますか。この悩みは国際的に共通してます」
と、譲らない。
たとえそうだとしても、その種の秘具がたやすく手に入るはずがない。が、ノエルは、
「だから特別にもらったんです」
「うーん」
「ムッシュ・タキグチも、あまり人に見せるな、と言ってました。秘中の秘です」
骨董商の息子が滝口という姓なのだろう。からかったつもりなのに、ノエルがすっかり本気になるものだから、引っ込みがつかなくなり、適当な戒めを告げて逃げ帰ったにちがいない。
「それに、鷹の羽のうちちがいは、ものすごくポピュラーな紋章だから、それが付いているからといって浅野家の品とは言えないし」
と、私が別方向から注意を促しても、
「いや、りっぱな箱だから、あれは大名家のものです」
「箱と中身がべつべつってことは骨董の世界ではよくあるんですよ」
「その点はムッシュ・タキグチが保証してくれたし、彼は専門家の息子なんだから」
と、ノエルは気色ばむ。
フランス人は議論好きで、滅多に自説を曲げたりはしない。それに、骨董というものは、人が大切にしているものについて、あまりけちをつけないのが良識とされている。私よりずっと若い外国人相手に、つまらない議論をするのもためらわれた。
そんな私の気持を|掬《すく》い上げるように、山形が、
「ゴッドミッシェなんて辞書にあるかな」
と、話のポイントを変えた。この配慮はありがたい。
「あるとも。ゴッドとも言うんだ。アメリカ人は|厭《いや》な顔をするけれど」
「どうして」
「オー・マイ・ゴッド」
ノエルが女性の身振りで叫ぶ。
大笑いのあとで山形は私に尋ねた。
「|有《あり》|島《しま》|生《いく》|馬《ま》というのは有名な画家ですか」
「一流じゃないのかな。兄さんが有島|武《たけ》|郎《お》で、弟が里見|ク[#「ク」はWin機種依存文字 Unicode="#5F34"]《とん》で」
「そうなんですか」
「どうして」
「イタリアに留学してたとき、日本から|鰹節《かつおぶし》が送られて来たんですね。宿のマダムに“何か“日本人は干しても、こんなに大きいのか”って……」
山形がノエルに訳して聞かせるのを待って三人で笑った。
「この話には、もう少し続きがあって、マダムが“効くのなら少し分けてくれ”って。|媚《び》|薬《やく》かと思ったらしいんです」
再び笑い合っていると、和代とデコが帰って来る姿が見えた。
「なにを大笑いしているの?」
「いや、ちょっとね」
女性向きの話ではない。ノエルに和代を紹介してから、
「宝捜しの話をしていたんだ」
「すごい。海賊キッドの秘宝?」
「ちがう、ちがう。ノエルさんはすごい日本通で、日本の宝を捜している」
「フランスで?」
「フランスというより、ヨーロッパだな。なんと、狩野永徳だってさ、京都で見た……」
私がこのところ狩野永徳に関心を向けていることは和代もよく知っている。眼を見張って、
「本当に?」
「ああ」
黒澤明の〈乱〉から始まって、ノエルの父親が日本の城の|屏風絵《びょうぶえ》を見たことや、それが永徳の筆によるものかもしれないことなどを私は手短かに和代に話した。
「つまり。織田信長がローマ法王へ贈った屏風絵。それがヨーロッパのどこかにあるらしい」
「信長が?」
「少年使節団に托して。あったよな、そういうのが」
「天正遣欧少年使節団」
「それだよ」
ノエルが身を乗り出して、
「オダの城はなんと言いますか」
和代にも最前と同じことを尋ねた。
「えーと、やっぱり、安土城?」
「日本一の湖の近くですか」
「ええ、まあ。琵琶湖の近くだから」
「カノウ・エイトクは日本一の画家ですか」
「日本一かどうかはともかく、一流でしょ?」
と、私の|相《あい》|槌《づち》を求める。
私は目顔で山形に通訳を頼んで、
「フランス語で言えばエコールって言うのかな。日本画のエコールがあって、狩野派はその中でももっとも傑出していた。有名な画家を沢山出しているのですね。ほとんどが血族なんだけれど、特に有名なのが永徳、|探《たん》|幽《ゆう》……。このへんは日本一と言ってもいいんじゃない」
大徳寺以降、入門書程度の知識は身につけている。
「どんな絵を描きましたか」
ノエルは私と和代の顔を交互に見つめる。
「そりゃ、梅とか松とか、鶴とか鴨とか、屏風絵もあれば|襖絵《ふすまえ》もある」
ノエルは首を振って、
「それじゃなく……オダが法王に贈った絵のことです。部分的には古くて|下《へ》|手《た》なスケッチで見ましたが、全体がよくわかりません。どんな絵か知ってますか」
私には、その知識がなかった。信長がローマ法王に屏風を贈ったことさえ初耳だったのだから、その図柄を知るはずがない。永徳の画集では……見た記憶がない。もちろん和代も頭を振る。
「記憶ないわねぇ」
「日本に帰ったら、わかりますか」
「わかると思いますよ。有名な屏風なら」
「ぜひ教えてください。スケッチでもコピィでも。とてもうれしいです。フランスでいくら調べてもわかりません」
「いいですよ」
軽く受けあったところで私が小用に立ち、戻って来ると話が変わっていた。和代が、さっき私がやっていたと同じように山形をあいだに挟んでノエルに話している。
「|蘭《らん》|奢《じゃ》|待《たい》ってお香があるのよ。|伽《きゃ》|羅《ら》の香木かしら。正倉院に御物になっている貴重なものなのね。正倉院というのは、日本の古いお寺の宝物庫なの。ローマ法王庁と同じで、いろんな宝物がたくさん納められていたのね。その中に中国から渡来した、すばらしいお香の木があったわけ。それが蘭奢待ね」
と、理科の教師はめずらしいことを知っている。私も初めて聞く話である。
「もちろん門外不出なんだけど、三つだけ切り取った跡があって、切り取ったのは、たしか足利……足利だれだったか忘れちゃったけど、とにかく足利将軍、それから織田信長、そして徳川家康、みんなその時の権力者なの。その切り取った蘭奢待が、日本のどこかにあるんじゃないかしら。見たところ、きっと古い木のかけらみたいなものでしょ。でも発見すれば大変な宝物らしいのね。今でも捜している人がいるわ」
「だれ」
「板橋の学校にいたときの歴史の先生。田村さん」
と、小声で私に告げる。
ノエルはデコに話しかけている。蘭奢待にはさほど興味がないらしい。
「さーて、今夜は六時にロビーに集まってください」
デコと和代がコーヒーを飲み干すのを待って、山形が言い、この午後の|茶《さ》|話《わ》|会《かい》が終わった。
「知ってた? 信長がローマ法王に屏風を贈ったこと」
と、エレベーターの中で和代に尋ねた。
「ううん」
「狩野永徳の絵らしいけど。永徳なら、そりゃ価値はあるよ」
「でも、何年経っているの?」
「えーと、四百年くらいか」
「今、どこにあるのかしら」
「それがわからない」
「安土城って、残っていないんでしょ」
「焼けたんだろ。永徳の障壁画がいっぱいあったはずだけど」
「じゃあ、こっちで屏風絵が見つかれば、ちょっとしたものよね」
「まあな」
このときは私も和代も、この程度のことしか知らなかった。日本に帰れば、簡単に永徳の描く安土城屏風の図柄がわかるものと考えていたのである。
ノエルとはこののち、旅行のあいだに三度ほど会い世話にもなった。当然のことながらパリについてはノエルのほうが山形やデコよりずっと詳しい。いろいろな穴場を知っている。彼の案内で行った|牡《か》|蠣《き》料理店は、あらゆる種類の牡蠣を食べさせるレストランで、小さくて薄汚いが、味はまことに絶品|揃《ぞろ》いだった。夏には牡蠣を食べないと言われているが、この専門店は、そんな通説などとんでもない、一年を通じて美味を提供してくれる、と教えられた。
「店の名前をここに書いてください。電話番号も。簡単な地図も」
と、和代は手帳を出してノエルに頼んでいた。もう一度来ることを考えていたのだろう。
牡蠣を食べた夜であったか、それともその次の夜であったか、一日のスケジュールを終えてホテルの部屋へ戻ると、深夜のテレビが映画を流していた。あるいは宿泊客のためのビデオだったのかもしれない。私がバスからあがると和代がベッドに転がって眺めていた。
「これ……〈太陽がいっぱい〉だな」
若いアラン・ドロンが、まことに美しい。
「そう。見た?」
「見た、見た」
スーパーインポーズが英語で入っている。しかし、筋はあらかた覚えているから、充分に楽しめる。二人の男と一人の女。と言うより恋仲の二人を|羨《うらや》んでアラン・ドロンが男を殺し、財産と女を奪ってしまうというストーリィだ。
映画が恐怖の幕切れで終わるのを見てから、
「ノエルはデコに気があるんじゃないのかなあ」
と私が呟くと、
「やっぱり、そう思う、あなたも」
「ああ。デコはチャーミングだもん。フランスの男性は、手が早いっていうだろ」
「まあね。でも山形さんはすてきよ。今どきの若い人にしては気配りがやさしいし、ゆったりと包むようなところがあって、わるくないわ」
「たしかに好青年だよ」
せっかく日本人同士が仲よくしているのに、フランス人が横からちょっかいを出すのはおもしろくない、と……これはナショナリズムなのだろうか。
そのことを和代に言うと、
「ナショナリズムなんかじゃないわ。山形さんとデコは、とってもいい感じよ。|横《よこ》|恋《れん》|慕《ぼ》を憎むのはナショナリズムじゃなく、人間として普通の感情でしょ。あえて言えば、ヒューマニズムでーす」
と、口を|尖《とが》らす。
「なるほど」
たあいのない会話を交わしながら電灯を消したが、
――ノエルには、どことなく食えないところがあるな――
かすかな不安を覚えないでもなかった。陽気で、話上手で、日本|贔《びい》|屓《き》で……軽くつきあっている限りでは楽しいが、本心はどうなのか。山形は油断しないほうがいい。デコの態度にも、ノエルに対するコケットリィが見え隠れしている。ちょっと心配だ。
とはいえ、こういう考え方自体が、
――日本人なら信用できる――
という狭いナショナリズムに由来するものだろう。私がフランス人の流儀に慣れていないだけのこととも言えそうだ。
――いずれにせよ、みんなりっぱな大人なんだから――
あれこれ思ううちに眠ってしまった。
そして夢を見た。
男が|槌《つち》を振るっている。太い|釘《くぎ》を打っている。横顔はノエルのようだ。
暗い森の中なのに、寺子屋がある。寺子屋なのに大学の教室みたいだ。法律学の教授が「不能犯について説明せよ」と言っている。私は手を挙げて答えようとしたが、ノエルが|老《ろう》|獪《かい》な表情で笑っている。とっさに私の考えはまちがっているかもしれないと思った。激しい|狼《ろう》|狽《ばい》を覚えて眼をさました。
|薄《うす》|闇《やみ》の、ベッドの中……。
――ここはパリなんだ――
意識が少しずつ明瞭になる。夢の中身を|反《はん》|芻《すう》した。
不能犯のことは、大学の試験で答えた覚えがある。うまく書いたつもりだったが、結果は優ではなく良だった。不能犯とは、たとえば|丑《うし》の|刻《こく》参り。人を|呪《のろ》い殺そうとしても、呪いで人を殺すことはできない。もともと不能である手段で犯罪を意図しても、それは罪にならない、たしかそんなことを言うのではなかったか。
――呪いで人は殺せないかな――
記憶がさらにはっきりと|甦《よみがえ》ってくる。山形が言っていた。「ノエルは神秘主義者だから古典的な超能力を信じているんですよ。日本の口寄せとか呪いとか……」と。赤ワインを飲みながら丑の刻参りのことを話してやった。深夜、|藁《わら》人形を木に打ちつける、あの古典的な|呪術《じゅじゅつ》である。ノエルはひどく真剣な|面《おも》|持《も》ちで聞いていた。細かい手続きまで尋ねる。もちろん私は答えられない。和代だって知らない。これも日本に帰ってから調べて資料を送ることにした。ノエルは本当に信じているのかもしれない。
和代は、大きな寝息を立てて眠っている。よほど疲れているのだろう。
そのうちに私も眠った。
屏風絵の背景
フランス旅行から帰って調べてみると、ノエルが言っていた屏風絵を描いたのは、やはり狩野永徳であった。
「こんな偶然もあるんだな」
神田の古本屋で買った本をポンポンと|叩《たた》きながら|呟《つぶや》いた。
「どんな」
と、和代が聞き返す。
和代は「肩が凝る、肩が凝る」と言いながらレース編みをやっている。いったんやり始めると、なんによらず夢中になる癖がある。
本を読む夫、編み物をする妻、夕食後のこんなひとときは嫌いではない。夫婦であることの実感はこんな瞬間にふっと漂うものだ。
「聚光院で狩野永徳の|襖絵《ふすまえ》を見ただろう」
「あなた、感激してたわね」
「うん。それで永徳のこと、少し調べていたんだけど……」
「ええ?」
「そうしたら、フランスで、また永徳だもんな。ノエルが捜している屏風、たしかに永徳の筆なんだ」
「そう言ってたわね、ノエルが」
編み物の目数を数えながら呟く。横顔が少し老けたようだ。童顔のうえに子どもがないから、随分と若く見えるほうなのだが……五十歳を目前にすれば、老けもしよう。
「結構大変なしろものらしいんだ」
「でしょうね。狩野永徳なら」
「うん。調べてみると、なかなかおもしろい」
「ええ?」
私は読み終えた本のページをぺらぺらとめくった。
京都から帰った直後に、事典類を中心に狩野永徳について若干の知識を拾ってみたが、あとはそのまま忘れていた。ノエルに調査を頼まれ、あらためて本屋の棚を捜し、本腰を入れて調べる気になった。ノートを用意し、メモをとった。そうでもしないと、ややこしい。記憶だけでは頼りない。
狩野永徳は|天《てん》|文《ぶん》十二年(一五四三)に生まれた。奇しくも、これは|種《たね》|子《が》|島《しま》にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝来した年である。足利幕府は衰退の影を濃くし、世情はあわただしく、群雄割拠の時代へと変わりつつあった。幼名を|孫《そん》|四《し》|郎《ろう》、長じて|州《くに》|信《のぶ》、永徳はその号である。
狩野派は永徳の曾祖父・祐勢正信を始祖とする流派で、第二代永仙元信の頃に大和絵の画法を発展させ、写実を基礎としながらも水墨画の装飾的な傾向をあわせ持つという画風を確立した。永徳の若い時代、つまり孫四郎(後に源四郎)と呼ばれた頃には、この元信も健在で、永徳は祖父と父(第四代松栄直信)と、二人の|薫《くん》|陶《とう》を受けて育った。早くから非凡の才能を示したらしい。元信は殊更にこの孫に眼を掛け、将来大きく開花するであろう天才を認めていた。嫡子の松栄より孫のほうに大きな期待をかけていたふしさえうかがえるし、また父・松栄も「|俺《おれ》よりもこいつのほうがすごい」と考えていたのではあるまいか。そして結果のほうから眺めてみれば、この観測はまちがっていなかった。松栄も|一《ひと》|廉《かど》の画家ではあったが、済々たる狩野家の家系の中では、永徳のほうが際立って傑出している。
「隔世遺伝かな。創始者はともかく、二代目が有名で、五代目の永徳がさらに有名なんだ」
「狩野探幽とかは? 有名でしょ」
「もっと後だ。永徳の孫だから。これも隔世遺伝か。探幽守信は分家のほうだから、何代目という代は継いでいないけど、永徳と探幽の二人が最高峰じゃないのか」
と、本に記された系図を見ながら伝えた。
「でも永徳のお父さんも偉いわね。自分も一流の画家だったわけでしょ。なのに自分の息子のほうがすごいって、早くから降参しちゃったんでしょ」
「そのへんの感情は、俺が調べた範囲じゃわからん。多少の|嫉《しっ》|妬《と》はあったんじゃないのか。松栄にしてみれば、自分の父親が自分より孫のほうを認めているんだから」
「そうよね」
「それだけ永徳が優れていたのかもしれない。天才ってのは、どの分野にもいるんだよ」
「聚光院にはお父さんの襖絵もあったわよね」
「あった、あった。しかし、永徳のほうが感動的だった」
「あなたの眼力もなかなかのものじゃない」
「なんかショックを受けたんだよな。聚光院の襖絵が永徳のデビュー作で、|塔頭《たっちゅう》の座敷の中で一番いいところを描かせてもらっている。表の庭に面した一番いい部屋二つに掲げてあっただろ。|親《おや》|父《じ》や同門の連中はむしろ|脇《わき》|役《やく》だ」
「じゃあ、あれは若い頃の絵だったわけ? 二つあったけど」
「そう。二十四歳かな。二つの部屋に、二つの画法を描き分けて……。〈山水花鳥図〉と〈|琴《きん》|棋《き》書画図〉、|行書《ぎょうしょ》と|楷《かい》|書《しょ》みたいなものだってパンフレットに書いてあった」
「ええ」
「何枚も襖を貫いて描くのは、永徳が初めてってわけじゃないらしいけど、それが永徳の大胆な画風の特徴なんだってさ。たしかに〈山水花鳥図〉はみごとだったよな。梅の木なんか襖四枚分もあって。水の流れも松の枝も、みんなグーンと広がっている」
「あなた、二十四歳のとき、なにをしていた?」
「俺と比べたって始まらない」
「私は結婚の齢よ」
「ああ、そうか」
もちろん二十四歳以前にも孫四郎永徳は絵筆をふるっていただろうが、現在に残るものとしては聚光院の二つの襖絵がもっとも古い作品であり、また仕事の大きさという面から言っても、これをデビュー作とするのは絵画史の通例のようである。二つの襖絵についての評価はおおむね定まっていて、評伝や画集の解説を読んでみても、ほぼ一致した見解が示されている。〈山水花鳥図〉のほうがよい。大胆な構成、大自然を力強く描写していながら同時に洗練された装飾性が画面に|溢《あふ》れている。しかも、これより後の永徳の画風を高らかに主張している。永徳の特徴を如実に表わし、生涯第一の傑作と評する人さえいる。
その点〈琴棋書画図〉のほうは巧みではあるが、祖父・元信が創った狩野派の伝統を器用に踏襲しているだけで、個性において〈山水花鳥図〉に及ばない。独創性が乏しい。永徳の偉大さは、狩野派の伝承を守ったからではなく、それを発展させ、新しい個性を加えて開花させたことにあるのだから〈山水花鳥図〉のほうが高く評価されるのも当然だろう。私の眼にも〈山水花鳥図〉のほうが、みごとに映った。そう、爆発を前にした若者の|妖《あや》しい力を感じさせられた。和代は「あなたの眼力もなかなかのものじゃない」と笑ったが、よいものは素人にもわかる。眼力というより、感応のようなものを感じたのは本当だった。
聚光院の襖絵を|嚆《こう》|矢《し》として永徳は一気に当代屈指の絵師としての栄光を担い、つぎつぎに名画を描くこととなる。|公《く》|卿《げ》の中でもっとも格式の高い近衛家のために描いた襖絵は残存していないが、生涯の名作の一つ〈|洛中《らくちゅう》洛外図〉は、三十歳を少し超えた頃の作だろう。六曲一双の屏風で、京の風景が武家屋敷の様子も庶民の生活も、はたまた山里の風光も|細《さい》|緻《ち》に描かれ、それでいながら全体としてもみごとな調和を作っている。遠目に美しく、近づいて見れば部分部分がそれぞれに楽しい。風俗の資料としても価値が高い。もちろん私が入手した小冊子の図版では、この楽しさを賞味するのはむつかしいが、どんな図柄かは見当がつく。
興味深いのは、織田信長が〈洛中洛外図〉を上杉謙信に贈っていることだ。この|貢《みつ》ぎ|物《もの》は北方の脅威を懐柔するための手段と推察され、そういう目的に用いられたこと自体が永徳の技が当時の権力者にとって|垂《すい》|涎《ぜん》の的であったことの証左であり、また永徳と信長の接触がこの頃から密接に始まっていたことの傍証となっている。
信長は永徳の雄大で華麗な画風をおおいに好んだ。永徳もまた時の実力者信長の|寵愛《ちょうあい》によく|応《こた》えたようだ。|瞥《べっ》|見《けん》した画集の解説には“信長には二人の強力な助力者がいた。軍事面での秀吉、そして文化面での永徳である”という記述もあって、
「秀吉のほうはわかるけど、永徳もそれほど強い力を持っていたのかなあ」
と、これは私にとっては初めて知る指摘である。
「そう書いてあるんなら、そういう側面もあったんじゃないの」
「うん」
信ずるより他にない。文化行政もまた信長が強く意図したものであった。
折しも安土城の築城が始まる。永徳は信長の命を受け、家督を弟の宗秀|季《すえ》|信《のぶ》に譲り、門弟を率いて安土城に|籠《こも》って、|数《あま》|多《た》の障壁画を作成した。現存していれば、国宝の山となるべき大事業であった。
安土城が一通り姿を整えたのは、天正七年(一五七九)の頃である。信長は城の遠景を望み見て、
「どうじゃ」
「みごとでございます」
かたわらに永徳がかしこまっていた。
「これを描け」
「承知いたしました」
永徳が安土城の風景を二曲一双の|屏風絵《びょうぶえ》に記したのは紛れもない史実である。
この屏風の価値は……私自身、少しずつ調べて知ったことなのだが、まず安土城そのものの価値から説き起こさなければなるまい。
「すごい城だったらしい」
「へぇー」
安土城は短い命であったが、日本美術史上に|燦《さん》|然《ぜん》たる光彩を放つ安土桃山時代のあらゆる技巧を結集した成果であり、絶大な権力を掌握した異能者織田信長の象徴でもあった。秀吉の|聚《じゅ》|楽《らく》|第《てい》に比肩する建造物であり、華美を極めた装飾性には好みの差はあるにせよ、まちがいなく第一級の巨大な芸術作品であった。そして永徳が描いた安土城の屏風絵は、この|城塞《じょうさい》の|全《ぜん》|貌《ぼう》を周囲の風景とともに映した唯一の写実画であった。屏風絵としての若干のデフォルメは当然あっただろうが、安土城を実際に見て、描いたものはこれよりほかにないのである。狩野派を代表する名匠が、そのもっとも充実した時期に精魂籠めて描いたという芸術的な視点からだけではなく、歴史の資料としての価値も極度に高い逸品であった。安土城の遠景はどのようなものであったか。山と湖と町は、どのような配置になっていたのか。実感としての雄姿は、むしろ絵画のようなものにこそよく表われる。設計図などでは知り得ない威厳を屏風絵は映し出していたにちがいない。
「それが焼け落ちてしまったわけね」
「そう。完成して何年も経たないうちに」
「だから、あとかたもないのね」
「ほかの城郭だって、あらかたは復元したものだけどな」
安土城を建立した信長は、翌天正八年(一五八〇)本願寺を降伏させ、天正九年二月には京都御所にて|正親《お お ぎ》|町《まち》天皇を迎えて大馬|揃《そろ》えを催している。天下布武を誇示する一大デモンストレーションであった。続いて伊賀、甲州を平定すると、もう信長に残された大敵は中国地方に勢力を張る毛利しかない。
信長の命を受けた秀吉は鳥取城攻略のあと毛利勢の拠点高松城へと進攻する。秀吉の採った作戦は地形を|詳《つまび》らかに調査したうえでの水攻めであった。堤防を造って、折からの梅雨で増水した|足《あし》|守《もり》|川《がわ》の水を城郭内へ流し入れる。高松城は水上に浮かぶ孤島と化し、刻々と水中に沈み始めた。急を知って毛利勢も、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景が援軍を動かし始める。信長は明智光秀、細川|忠《ただ》|興《おき》、高山右近、中川清秀等に出陣を命じ、たまたま安土へ訪ねて来ていた徳川家康には京・堺を遊覧したのち軍を整えて参陣するよう依頼し、自らも前線へ向かうつもりで京へ入り本能寺に宿した。
率いる供は馬廻小姓衆七十余人。もとより本能寺は城塞ではない。信長に油断があったことは疑いない。一万三千の軍を従えて高松へ向かうはずの明智光秀が馬首を変え、京へなだれ込んだ。天正十年六月二日未明の出来事である。一世の風雲児信長は四十九年を一期として果てた。
信長自刃の知らせは四方に散った。
安土城の留守居役は|蒲《がも》|生《う》|賢《かた》|秀《ひで》であった。賢秀は側室等を日野の居城に移し、あとを安土城築城にかかわった木村二郎左衛門に|托《たく》して退城する。五日、代って明智光秀が安土城へ入城。しかし、秀吉軍の予想外の急進に驚き、八日、城を女婿の明智秀満に預けて近江の坂本城へ帰った。十三日、光秀軍は天王山で秀吉軍を迎えて戦うが敗走。十四日、秀満が安土城を退き、十五日に光秀が土民の襲撃を受けて死ぬ。
安土城が炎上し|灰《かい》|燼《じん》に帰すのも、同じ頃である。秀満が退却のさいに火をかけたという説もあるし、イエズス会の宣教師フロイスの書簡によれば“付近にいた信長の一子が|如《い》|何《か》なる理由によるか明らかでなく、智力の足らざるためであろうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、ついで市にも|亦《また》火をつけることを命じた”とあるが、真相はわからない。ここでいう信長の一子は次男の|信《のぶ》|雄《かつ》で、いささか愚鈍のため父の寵愛を他の兄弟たちのように受けることができず、その恨みがあって父の象徴である安土城に火を放ったという説なのだが、これをどれほど信じてよいものか。
さらにまた明智光秀を襲ったと同じように|跳梁《ちょうりょう》する土民が賊と化し、安土城を略奪して火をつけたという説もある。が、いずれにせよ、安土城が誇る天守は燃え失せ、次代の覇者秀吉がその焼け跡に立ったのは、十六日のことである。本能寺の変からこの時までの十五日間の変転は日を追い時を追って、めまぐるしい。
「結局、何年の寿命だったの、安土城は?」
「えーと、完成が天正七年で、本能寺の変が天正十年だから、あしかけ四年というとこか。このとき焼けたのは天守と本丸、二の丸くらいらしいけど、そのあと跡目争いなどもあって結局廃城になってしまった。雄姿を見せていたのは、本当に短い期間だったと思うよ」
「もったいないわね」
「だからこそ永徳の絵が貴重なわけよ。どれほど正確に描いたかわからないけど、安土城の|全《ぜん》|貌《ぼう》を描いたのは、この絵しかないんだから。画風から考えて、結構写実的に描いてんじゃないかな。信長もそれを望んだと思うし」
「ところが、その屏風がローマ法王に贈られ、ヨーロッパで消えちゃったわけ?」
「そういうこと」
「じゃあ、図柄も残っていないの?」
「城そのもののほうは、断片的な資料を集めて研究者が復元をしているけど、絵のほうはどうなったのかな。本を見ても、わずかしか書いてない」
「あなた、凝り性だから」
「あんただって凝り性だ」
と、|顎《あご》でレース編みを指した。
「そう、似た者夫婦だから」
「まったく」
私が勤める出版社は、地方の公共団体等から依頼を受けて××県史誌とか○○町要覧とかを編集出版している。地味な仕事だが、長年やっているから資料を扱うことには私も慣れている。ノエルに頼まれたせいばかりではなく、私自身の興味として安土城の屏風絵について調べてみたくなった。
「なにかわかった?」
「いや、わからん」
しばらくのあいだ、我が家の夕食後のひとときは、私の調査報告と和代のレース編みに費された。レース編みは……大きなテーブル・クロスが順調に広がっていく。しかし、私のほうはなかなか進まない。
焼失した安土城そのものについては、内藤|昌《あきら》氏という建築学者をはじめとして、何人かの学者が資料を頼りに、どんな城であったか、充分に精緻で具体的な復元を完成しているのだが、屏風絵のほうは、海外へ持ち出されてしまったうえに、そのまま消え失せてしまったせいもあってか、日本の資料では、どんな絵であったか、追究は進んでいない。
狩野永徳が信長の命を受けて描いた二曲一双の屏風であることは確かである。完成は天正八年、城の竣工から一年後くらいと推察されている。安土山は、琵琶湖へ続く入江に突き出した細長い半島で、その上に城が建ち、三方を水に囲まれていた。城の造りから考えて絵師は半島のつけ根のほう、つまり東南の方角から、城郭内に建てられた|ハ[#「ハ」はWinIBM拡張文字、Unicode="#6460"]《そう》|見《けん》|寺《じ》を見越すようにして安土城を望見しただろう。二曲一双、合計四枚の画面を右から順にABCDとすれば、きらびやかな天守閣をB面の中央より少し右手に高く描き、A面に山の下り傾斜と背後に広がる湖を大きく描いたのではあるまいか。この推測に具体的な根拠があるわけではないけれど、天守閣を全体の中央近くに描くのは当然であろうし、その中央がC面ではなくB面としたのは、東南の方角から見たとき城の左下にくるハ見寺を考えると、城は中央寄りの右上が適当だろう。加えて、永徳には画面の右手のほうにポイントを置く癖があったように思えるからである。ハ見寺はC面の傾斜に点在し、D面は城下の町である。そして背後に琵琶湖が広がり、遠く|比《ひ》|良《ら》の山塊もうっすらと見えていたのではあるまいか。
信長はこの屏風に大変な満足を覚えた。|正親《お お ぎ》|町《まち》天皇が「譲ってほしい」とほのめかしたにもかかわらず、譲渡を断わっている。
が、後日、その愛蔵の品をイエズス会の巡察師アレクサンドロ・ヴァリニャーニに贈ったのは、なぜだったのか。このあたりの事情を、私が図書館でコピィしたフロイスの〈日本史〉(松田毅一・川崎桃太訳)から引用して示せば、
“(巡察師が)その訪問から安土山に帰り、信長に別れを告げ、|下《シモ》の地方に出発する運びとなった時、(信長)はさらに大きい別の好意を示した。その一つは、一年前に信長が作(らせ)た、|屏風《ビョウブ》と称せられ、富裕な日本人たちが、(独自の)方法で用いる飾り付けの|布《パンノス》(?)である。それは金色で、彼らの間できわめて愛好される(風物)が描かれている。彼はそれを日本でもっとも優れた職人に作らせた。その中に、城を配したこの|市《まち》を、その地形、湖、邸、城、街路、橋梁、その他万事、実物どおりに寸分違わぬように描くことを命じた。この制作には多くの時間を要した。そしてさらにこれを貴重ならしめたのは、信長がそれに寄せる愛着であった。内裏はそれを見ようとして、彼に伺いを立て、気に入ったので譲渡されたい、と伝えたが、彼はとりあえず、その希望(をかなえること)を回避した。ところで、巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し、「|伴《バ》|天《テ》|連《レン》殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついてはそれを実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい」と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに対して抱いていた愛情と親愛の念を示したのであった。
巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では容易に説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。
元来日本人は新奇なものを見たがる強い好奇心を持っているので、安土山、都、堺、豊後において、この屏風を見ようとして集まった人々の数はすこぶる多かった。そして一同の希望を満させ、男も女も自由に見物できるためには、それを教会(内)に展示せざるを得なかった。異教徒たちは、我らが信長から、彼がいかなる場合にも同国人に対してなすことのない、かような多大の好意を寄せられているのを見て、我らを果報者と呼んだ”(第二部三一章)
となっている。ヴァリニャーニは天正七年に来日してキリスト教の布教に|辣《らつ》|腕《わん》をふるったイエズス会の宣教師である。巡察師というのは、法王の命を受けて布教の実情を監査報告する職制で、宣教師団の長と考えてよいだろう。
「信長は天皇よりも伴天連に好意を示したわけね」
「気紛れかな」
「気紛れかしら」
と、和代は首を振る。
「いや、あんたのほうが正しい。ただの気紛れじゃないな。信長の野心は海の向こうを見ていたと思うよ。ヨーロッパの文物に、強い関心を示している。合理主義者だしな。ジパングの隆盛を世界に示したかったんじゃないのかな」
「ええ」
「信長の考え方は、現代風に言えばプラス思考なんだよ。当時としては、ものすごく|斬《ざん》|新《しん》だったんじゃないのか」
「よく、そういうこと言われるわね」
「鉄砲を見たとき、他の武将たちは、刀を中心とする日本古来の武道に執着を持っていたから、けちをつけることのほうにばかり頭が向いてしまったんだ。一発撃ったあと、次の弾込めに時間がかかりすぎる、そのあいだに馬を|駈《か》って撃ち手を|斬《き》り倒すことができるって。欠点に眼を向けたんだ。信長は鉄砲の威力のほうに眼を向け、プラス面を生かすには、どうマイナスを克服するか、すなおに考えたんだな。長篠の戦いで、ほら、鉄砲撃ちの軍勢を三つに分け、つぎつぎに連続的に撃たせるっていう戦法を用いたけど、あれはアイデアとしてはそれほどのものじゃないよ。考えれば、だれだって思いつく。しかし、考えようとしない|奴《やつ》には、なにも考えつかないさ。完全なプラス思考だよね。わりと大切なことじゃないのか」
「学校でもよくそう思うわ。生徒のマイナス面だけじゃなく、プラス面をよく見て伸ばさなくちゃあ、って」
「その通り」
「信長は、利用できるものをなんでも利用する人だったんでしょうけど」
「そして、いらなくなったらあっさり斬り捨てる」
「|厭《いや》ぁね。お手本になる人格じゃないわ」
「まあ、普通の人とちがっているからこそ天才なんだろ」
「そうね」
フロイスの書簡からもうかがえるように、問題の屏風は初めからローマ法王に贈呈したものではなかっただろう。むしろヴァリニャーニへの|餞《せん》|別《べつ》のようにもとれるし、信長自身、ローマ法王がいかなる存在か正確には知らなかったにちがいない。
屏風絵贈与の時期は天正九年九月である。そして、安土を離れたヴァリニャーニは九州へ帰り、二度と信長に会うことはなかった。
折しも、ヴァリニャーニの帰国の時期が近づいていた。巡察師は、自分の帰国を機に日本からローマ法王へ使節団を派遣することを思いつき、
――名案だぞ、これは――
|膝《ひざ》を打って計画の実行に奔走する。大友|義《よし》|鎮《しげ》、大村|純《すみ》|忠《ただ》、有馬晴信等いわゆるキリシタン大名の賛意を得て、伊東マンショ、|千《ち》|々《ぢ》|石《わ》ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの四人が選び出され、天正少年使節団としてヨーロッパへ旅立つこととなる。
周知のようにフランシスコ・ザビエルがキリスト教をたずさえて日本へ上陸したのが天文十八年(一五四九)の七月。初めてポルトガル人が鉄砲とともに種子島へ漂着したときから数えてわずか六年というのも宣教活動のすばやさを伝えているが、そのザビエルの到着から数えて三十余年後に、公式の使節団がローマ法王へ送られるというのも、なかなかのすばやさである。このヴァリニャーニにせよ、著名な〈日本史〉の著者ルイス・フロイスにせよ、当時のイエズス会のメンバーは相当な手腕の持ち主であり、有能な外交官であった。
「ヴァリニャーニは考えてたんだ。日本での布教はそれなりに成功している。日本というのはりっぱな文明国だ。ここで布教をする意義は大きい。そのことをローマ法王庁に知ってもらうには、日本人の使節団を送るのが有効だと考えたんだな」
「どうして少年ばかり選んだのかしら? 何歳くらいなの?」
「十三、四歳だろ。末長く体験を生かしてもらうためには若いほうがいいじゃないか。純粋|無《む》|垢《く》な少年たちにヨーロッパの繁栄を現実のものとして見聞させ、キリスト教の力を実感させようと考えたんだろ」
「ええ。ちょっと待って。目数を数えるから」
と、レース編みの手を止め、目を見張る。|竪《たて》|琴《ごと》模様の完成が近い。
「聞いててくれればいいんだ」
「でも、ちゃんと聞きたいから、数えまちがいそうだし」
和代の唇が小さく動く。再び|鉤《かぎ》|針《ばり》が動きだすのを待って、
「ヴァリニャーニというのはすごい辣腕家でね。今だったら、ちょっとまずいんじゃないのかな」
「なにが?」
「のんじゃったんだよ」
「お酒を?」
「ちがう、ちがう。競馬なんかで“のんじゃう”って言うだろ」
「知らない」
「つまり、間に立つ奴が適当にやっちゃうんだよ。競馬のことはどうでもいいけど、法王と日本の大名のあいだに立って適当にやってしまったんだな。大名が書いてもいない親書を適当に書いたり、預ってもいない|貢《みつ》ぎ|物《もの》を作ったり」
「あら、それっていいの? 詐欺じゃない」
「よかないよ。詐欺はともかく、公文書偽造だな。安土城の屏風絵だって厳密に言えば、信長はローマ法王に贈ったわけじゃない。ヴァリニャーニが、中に入って、そういうことにしたんだ。“ノブナンガ王よりこんなに立派な貢ぎ物を預ってまいりました”とかなんとか。悪気はなかったし、当時の外交活動ではよくあったことだと思うけどな」
これは本当だ。詳しく調べれば、ヴァリニャーニの越権行為はいくつも指摘されるだろう。
「つまり信長は知らなかったわけね。自分のお気に入りの屏風が法王のもとに届けられたことを」
「これまで調べたところでは、知らなかったと思うよ。ヴァリニャーニが信長|宛《あて》に手紙で書いていればべつだけど、ヴァリニャーニは忙しかったし、なまじ許可などを求めて“それはならん”なんて信長の気が変わったらややこしいもの。九月に安土を去り、翌年一月には長崎を出帆しているんだ。少年たちと一緒に」
「船の中で手紙を書いて出すってわけにはいかないもんね」
「まるっきり不可能ってわけじゃないだろうけど、届くまでに時間がかかる。信長のほうも大変だ。同じ年の六月に本能寺で討たれている」
「えっ。使節団の出発と信長の死は同じ年の出来事なの?」
「そう。一月と六月。少し月日が介在しているけど、同じ天正十年だ」
当時は船の旅も情報の伝達も、ゆっくりとしたものだった。信長が自刃したとき、使節団はまだマカオの港にいた。しかし、情報は届かず、使節団が信長の死を知ったのは一行が全ての任務を終えヨーロッパを去る直前、天正十四年春のことである。
「でも、いずれにせよ、屏風はヨーロッパへ渡ったわけね」
「それはまちがいない。少年使節たちがローマ法王グレゴリオ十三世の謁見を受けたあと、ノブナンガ王からの贈り物として納められた事情は、はっきりと記録に残されている。法王はおおいに喜んで、信長がどんな男かしきりに尋ねたらしい」
「ヴァリニャーニに?」
「いや、ヴァリニャーニは少年使節を率いて長崎を出発したけれど、インドのコチンまで行ったところで、インドの管区長に就任するよう命じられて、そこで別れている。メスキータとかいう安土のセミナリヨにいた神父が、いろいろと説明したんじゃないのかな」
「で、屏風はどうなったの?」
「当時のヨーロッパ人に屏風の価値がちゃんとわかったかどうか。画風は相当ちがうし。むこうはダ・ヴィンチやラファエロの時代を通過しているわけだろ」
「でも、法王は喜んだんでしょ」
「儀礼かもしれないし、はるかかなたのジパングからの贈り物だというセンチメンタル・ヴァリューもあっただろうからね。それに、大喜びをしたとしても、すぐにこの法王は死んでしまうんだ」
「あら、よく死ぬのね」
「よく死ぬ?」
「信長も、法王も」
「言われてみれば、そうだな。使節団が謁見してから二十日もたたないうちに、グレゴリオ十三世は死んでしまう。次の法王が、屏風絵をどう見たか。グレゴリオ十三世ほど愛着を持たなかったかもしれないし、就任早々はそれどころじゃなかっただろう。しばらくはヴァチカン宮殿内の地誌室に……つまり世界各地の地図とか海図とかを飾った部屋に屏風もおかれていたらしい。今でもその部屋は、通路みたいな形で残っているらしいけど、もちろん、そこには屏風のあとかたもない。いつ、どこへ行ったか、|杳《よう》として行方がわからない」
「手がかりは、ないの?」
「ないらしい」
「所蔵目録とか」
「わからん。記載があれば、どの本かに書いてあるんじゃないのか。法王庁の歴史は長いし、贈られた品なんか、それこそ|唸《うな》るほど沢山あるだろうから、目録もそうきちんとできてるわけじゃないんだろ。|散《さん》|佚《いつ》もしてるだろうし」
「そうよね。随分古いことですものね」
「NHKのテレビ番組で、この屏風をヨーロッパで捜している人を映してたそうだよ」
「ノエルかしら?」
「いや、ちがうみたいだ。職場で聞いた話だけど……日本人とベルギー人の女性。ノエルじゃない。去年の秋あたりの番組で」
「見つかる可能性があるわけね、捜している人がいるところを見ると」
「そりゃ、あまり論理的じゃないな。いくら捜す人がいたって、ないものは見つからない。ただ、ノエルの|親《おや》|父《じ》さんが見たとなると、あるのかもしれない」
「ヴァチカン宮殿の宝物って、そんなに簡単に外に流出しちゃうものなのかしら」
「昔は、大ざっぱだったんじゃないのかな。NHKの番組では、少なくとも現在の宝物庫にはない。どの法王かが、だれかに与えたんじゃないのかって」
「ありうるわね」
「しかし、|屏風《びょうぶ》だからな。火災に遭えば、いいように燃えるし、それにヨーロッパの乾いた空気の中じゃ、ボロボロになるかもしれない、保存の方法を知らなければ」
「でも、ノエルのお父さんが見たのなら……わりと図柄もはっきりしているような話だったじゃない」
「うーん。どうなのかな」
「見たことは|嘘《うそ》じゃないみたい。話がこまかかったから。ただ、それが問題の屏風かどうか」
「ほかの似たような屏風がヨーロッパへ渡ったってケースも皆無じゃあるまいし」
「図柄はぜんぜんわからないの?」
「資料はない。ただ想像はしてみた。こんな感じ」
手近にあった包装紙の裏にマジック・ペンで、私の想像した図柄を描いてみた。和代はちょっと首を上げて眼をしばたたいてから、
「確からしさは? なんパーセント?」
「うーん。八十くらい。城を望見する方角はおのずと決まっているし、当然、ハ見寺を入れるだろうし」
「ハ見寺って?」
「信長が自分の|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》を城郭内に建てさせたんだろうけど、自分を礼拝させるための寺だったかもしれない。|謎《なぞ》の多い寺なんだ。信長自身の化身であり、神体とも目されていた盆山という石も安置されていたらしいから、思い入れは相当あったにちがいないよ。かならず絵には描かせるさ」
「そうね」
「風景画として山も湖も欠かせないし……当たらずとも遠からず」
わけもなく確信が|脹《ふく》らんでくる。
「信じましょ」
「それより、ノエルが言ってたこと、できるだけ正確に思い出しておきたいんだ。ノエルの親父さんが見たのが、本物かどうか、この先、ほかの資料で新しいことがわかったとき照合するのに役立つから」
「ノエルが言ったこと?」
「うん。親父さんが見た屏風絵の図柄について……ノエルはあとであんたにも話したんだろ」
「ええ。ヴェルサイユに行く車の中で」
「たしか二つに折れる屏風が二枚で一組になっているって言ってた」
「あ、私も覚えている。手まねで形を造っていたわ」
「つまり二曲一双の屏風ってことだ。それから日本一の湖の近くに日本一の城が建っている。町の様子も描かれていた、と……」
「舟が浮いてたって」
「うん。四人、人が乗っていたとか」
「四人だった?」
「うん。四人と言ってた。少年使節の数と同じだな、と、あとで思ったから。この四人という数は、結構、大切なポイントじゃないかな」
「ええ?」
「ノエルのお父さんも四人と言い、ノエルが見た古いスケッチも四人だ。城と山と湖と、それから舟くらいは、わりとよく描くだろうから、偶然の一致もありうるけど、舟に乗っている人の数が四人というのは偶然に一致することじゃない。一致の確率は極端に低い」
「言えるわね」
「ノエルの親父さんは、どこで見たのかな」
「それがわかれば世話がないわけでしょ」
「うん」
「こんなめずらしいものがわが家にあります、なんて所有者が名乗り出たりしないものなのかしら」
「そこがヨーロッパと日本のちがいじゃないのか。日本は文化の面でも中央集権的だもん。“藤原定家の日記が蔵の中から出てきました”なんて、すぐに名乗り出る。ヨーロッパの金持ちは、こっそり所有してんじゃないのか。いろんな民族が入り混じっているから、お|上《かみ》をそれほど信用していない」
「ノエルに頼まれたことなのに、あなたのほうがすっかり夢中になってしまって」
「ああ」
おそらく狩野永徳が関わっているからだろう。それにしても聚光院で感じた不思議な気配はなんだったのか。
調べたことを要約してノエルヘ書き送った。
もちろん私はフランス語で書くことができない。ノエルも少しは日本語が読めるらしいが、この種のリポートを読みこなすほどの力はあるまい。山形が訳すだろうことを前提にして、狩野永徳がどういう画家であったか、安土城がどういう城であったか、どういう経緯で屏風絵がヨーロッパへ渡ったか、推測される図柄がどんなものか、かいつまんで要旨だけを記した。
それから数日たった|昼《ひる》|下《さが》り、レース編みのテーブル・クロスを漂白して干している和代に声をかけた。
「一度、安土へ行ってみるか。せっかくここまで調べたんだから」
|濡《ぬ》れた手をエプロンで|拭《ぬぐ》いながら、
「なにか残っているの?」
「城跡がある。土台石くらい残っているんじゃないのか。このごろ地方の都市じゃ観光のスポットを作るために、いろいろ工夫しているから。城跡を整備したり、博物館を造って城の|雛《ひな》|型《がた》を展示したりしてる。なんかあると思うよ」
「いいわよ、どこでも。行けるときに行っておきたいわ。命のあるうちに」
「えっ?」
私は驚いて和代の顔をうかがった。最後の言葉が重く響いたから……。
が、和代は私の凝視をよそに、さりげない様子で洗濯物を干している。
あとで考えてみれば、あのとき和代はなにかしら感じていたのかもしれない。感じていたと言うより意識下の意識が警鐘を鳴らして訴えたのかもしれない。さらに言えば、私のほうも意識下の意識が働いて微妙な危険を感じていたのかもしれない。「命のあるうちに」という言葉が、いつになくまがまがしく聞こえたのは本当だった。
とはいえ、このときは、それ以上は深く考えることもなく、
――そうだな、旅ってやつは、行けるときに思いきって行っておかないと、結局、行けなくなってしまう。なにごとも命のあるうち、命があるうち――
と、ごく平凡に受け取ってしまった。こんな思いは、だれしもが日常的に味わっていることだろう。
「一度描いてみたら、いいじゃない、きちんと」
と、和代が冷蔵庫から麦茶を取り出しながら言う。
「|俺《おれ》にもくれ。なにを描く?」
「安土城の屏風絵。このごろ、あまり絵を描かないじゃない」
たしかに結婚したばかりの頃は、よく水彩画などを描いていた。油絵も描いた。
「しかし、屏風となるとなあ……」
「なにも屏風でなくても、こんな図柄じゃないかって。このあいだ包装紙の裏に描いたのより、もう少しましなのを」
「うん。そのうちにな。もう少し様子がわかってからがいい。安土へ行くほうが先だな」
「ご自由に」
コップに麦茶を注いでさし出す。
「絵具も新しいのを|揃《そろ》えなくちゃな」
「胸がときめくものよね。絵具とかクレヨンとか、新しいのを手にしたときって」
「うん」
|下《へ》|手《た》でもいい、久しぶりに絵を描いてみたくなった。
安土城散策
安土を訪ねる機会はすぐにやって来た。“あえて作った”と言ったほうがよいかもしれない。
「五月の末の土曜日に大阪で高校の同級会があるの」
と、和代がキューイの皮をむきながら言う。
「俺も、その頃、名古屋へ行く」
「あら、お仕事? 土曜日に?」
「金曜日のほうがいいな」
安城市へ行って打ち合わせをする用件が起きていた。今すぐという仕事ではないが、二、三週間のうちには片づけねばなるまい。
――ついでに安土まで足を伸ばしてみるかなあ――
と考えている矢先であった。
「安土に行こう、一緒に」
「いいけど。金曜日、私、午後まで授業があるわ。同級会は六時までに大阪へ着けばいいの」
「なんで大阪で?」
和代は東京の高校を出ている。
「いつも東京でやっているから、たまには関西でって。五、六人、向こうへ行っている人がいるのよ。今回は幹事が堺に住んでいるから」
「なるほど」
「どうしようかって迷っているんだけど……みんなの顔も見たいし」
「行けよ。俺は金曜日に仕事をすまして名古屋に泊まる。あんたは土曜の朝に出発して一緒に安土へ行こう。大阪へは、行けば泊まることになるんだろ」
「そうね」
「一日あれば充分だよ。安土はそんなに広いところじゃない」
「あなたはどうするの、土曜日の晩?」
「帰ってもいいし、琵琶湖のほとりで泊まってもいい。成行き次第だな」
「じゃあ、そうする?」
「ああ」
安土行きが決まった。
私は名古屋のビジネス・ホテルに金曜日の宿泊を予約し、和代は堺の友人と長電話をしたあげく、新大阪の駅に近いホテルに土曜日の宿を取った。
五月らしいさわやかな日が続いている。さぞかし山野の緑が美しいだろう。
――明日はよい天気になるな――
安土は雨の日に歩くところではないようだ。
金曜日の午前中に名古屋へ入り、段取りよく仕事をこなし、宴会にもつきあい、十一時過ぎに駅前のホテルへチェック・インした。
――これで今週の仕事はおしまい――
五日働き、二日くつろぐという生活が滞りなくおこなわれるならば、サラリーマンの人生も捨てたものじゃない。“滞りなく”というのは経済の面も含めてのことだ。私たちは子どもがないし、ずっと共働きできたから、この点では不足がない。これからは、ますます自分の楽しみを大切にしなければなるまい。
ベッドは硬いが、そのほうが私の好みである。柔かくて沈み込んでしまうようなマットは、逆に疲労が取れない。ぐっすりと眠り、約束の時間に合わせて名古屋駅へ向かった。
十時過ぎ、プラットホームで待っていると、下りのひかり号が滑り込み、和代が降りて来た。光のせいか顔色が黒ずんで見える。
「どう、調子は?」
「べつによ。どうして」
「何時に起きた?」
「六時前」
この時間に名古屋で落ち合うとなれば、東京の家ではそのくらいの時刻に起床せねばなるまい。休日の和代は朝寝坊のほうである。
「でも平気。車中で眠って来たから」
こだま号で米原まで行き、さらに東海道線に乗り換える。
「新しいものがいろいろできているらしいぞ」
買ったばかりのガイドブックを|叩《たた》いた。
「新しいもの?」
「うん。信長の|館《やかた》とか。安土城の天守を復元したものらしい」
昨夜深更、ガイドブックをめくって得た知識である。
「城跡に?」
「そうじゃないらしい。館があるんだ。りっぱな復元だから雨ざらしにはできない」
「でも本物の安土城は雨ざらしだったわけでしょう」
「あはは。そりゃそうだろうなあ。そこが信長と文化事業のちがうところよ」
「このごろ、ガイドブックは年々変わるんですってね。古いものは、すぐに役に立たなくなっちゃうの」
「いろいろ造ってるからな、新しく」
「横浜なんか、まるでちがっちゃって」
「東京だって変化している。はとバスにでも乗るか。東京めぐり」
「本当」
このあたりの東海道線はローカル線のような様子を呈している。昔からそうだったのか、それとも新幹線が走るようになって変わったのか。彦根、南彦根、河瀬、稲枝、能登川と止まって安土で降りた。安土の次が|近江《おうみ》|八《はち》|幡《まん》である。
駅前で自転車を借りた。安土の観光はこれで足りるらしい。
快晴である。
「先に文芸の|郷《さと》へ行こう。昼飯のあと安土城跡だ」
「なにがあるの、文芸の郷?」
「よくわからん。とにかく信長の館がある。これが目玉らしい」
田園風景の残るアスファルト道路を自転車で走った。ところどころにサイクリング用のレーンが設けてある。和代が前を行き、私がうしろから見守って行く。
「そこは右だ」
「もっと早く言ってよ」
「こっちだって初めてなんだから」
大きな、新しい建造物が二つ三つ、視界へ入って来る。
「あれだ、あれだ」
文芸の郷は町の文化センターといった趣きの一部で、まだ開設されてさほど月日が経っていないようだ。多目的ホール、レストラン、信長の館、博物館などが広い敷地を占めて点在している。
まっすぐに信長の館へ向かった。
黒い八角形の建物……。
入場券を買って中へ入ると、屋根の下にきらびやかな二層の殿堂がある。外側の黒い八角形は、この殿堂の覆いと見てよいだろう。
「安土城の天守だとさ」
安土城の研究は、ここ数年のうちに急速に進んだ分野らしい。書店に新しい関係書が目立つ。図版も多い。眼の前に建つ天守は、図版で見たものとよく似ている。
「これが?」
「うん。セビリアの万国博覧会に出品したものをもとにして再現したらしい」
そうパンフレットに書いてある。
天守をまん中に、ぐるりと見学者用の廻廊がめぐっている。その廻廊の奥で、ちょうど説明のビデオが始まるところだった。和代を前に押し出し、映像を見ながら説明に耳を傾けた。
「天正十年(一五八二)一つの巨大な城が焼け落ちた。天下統一を|狙《ねら》う織田信長が、その威信をかけて築いた安土城である。築城後わずかに三年、ヨーロッパにまでその名を知られた名城は一夜にして焼失したのである。
今からおよそ四百年前、天正遣欧使節がローマ教皇に謁見、安土山図屏風を献上し、ヨーロッパに初めて日本の名建築として安土城が紹介された。以来四百年の時をへだてた一九九二年、スペイン、セビリア万国博覧会において日本館展示テーマ“木作りの文化”を表現するにあたり、安土城天守の最上部二層の内部空間が原寸大に復元、展示された。復元にあたっては現代の名工と呼ばれる人々が集まり、美術の粋を尽くしておこなわれた。
標高百九十九メートルの安土山全体に設けられた家臣その他の館、さらにハ見寺という大寺院を含んだ安土城は当時その規模において想像を絶する壮大なものであった。
建築にあたっては織田家の重臣、丹羽長秀を筆頭に、東海、北陸、近畿の十一カ国の武士たち、さらに地元の近江、京都、奈良、堺の天下一の名工たちがたずさわった。こうしてできあがった高さ四十五メートルを超える日本最初の大天守閣は世界最初の木造高層建築であり、黄金に飾られたダイナミックな造形であった。
天守指図をもとに復元された安土城天守は外観が五層で、内部は天守台上六階、穴倉地下一階、計七重の大建築物であった。地階から地上三階まではヨーロッパの教会に見られるような吹抜けの大空間となっており、宇宙の中心を意味する宝灯が安置されていた。
天守台上一階は大広間と諸座敷、二階吹抜けには舞台が張り出し、それを囲むようにして座敷が設けられていた。一階は神道思想による盆山を|祀《まつ》る座敷に加えて家臣の控えの間など政庁の機能を有し、二階は信長が大名に対面する座敷があり、地階からの吹抜け空間に舞台が張り出されていた。三階は信長と奥方の生活する部屋、さらに黄金の茶座敷が設けられていた。地階よりの吹抜けには回縁が張りめぐらされ、中央には橋がかけられ、地階の天下の中心のシンボル宝灯を眺め、天下統一を実感できるようになっていた。四階は屋根裏部屋で五階の控え室である。五階は朱塗りの正八角円堂で、仏教思想の空間、そして最上階六階は外部を全面|金《きん》|箔《ぱく》張りとし、内部は儒教、道教の教えを説く金壁障壁画で飾られていた。
これらのデザインは、日本に古くからある神社や寺院建築を基礎に、ヨーロッパ、インド、東南アジアを経由して来た最先端の南蛮様式と中国の|唐《から》|様《よう》を|綜《そう》|合《ごう》したものであった。それはまさに地球規模での国際様式を意図したもので、当時、京都に建てられた南蛮寺のデザインと照応して天下に際立っていた」
それからしばらく内部の障壁画について詳細な説明があって、最後は、
「安土城天守には軍事機能がなかった。それは信長の天下統一における政治・経済・宗教の理想としてのランドマークの役割を果していたからであろう。
日本の神道をベースに中国の道教・儒教、インドの仏教、そして西洋のキリスト教までを綜合した天道思想、信長は地球規模の志向である、この天道思想のもとに新しい町づくり国づくりをおこない、戦乱の時代に終止符を打ち、新しい時代の理想郷、すなわち平安楽土を建設しようとしていたのである」
と結んでいる。
パチパチパチと疎らに拍手が起きる。
「すごいのね」
すなおに感心するのが和代のよいところだ。
「意気壮大だね」
あらためて視線を伸ばした。
私たちの|脇《わき》には、今の説明にあった天守五階と六階が五、六メートルの高さで鎮座している。六階は正方形に壁をめぐらし金色に輝いている。五階は八角形で、朱の色が目立つ。
「金閣寺は、たしか下のほうが黒く、上が金色だったわね」
京都旅行の記憶が残っている。
「安土城は下から順に黒、赤、金、そんなふうに見えたんじゃないかな。図版でも、そんな感じで再現している」
「それにしても、よくこれだけの復元ができたわね」
「昔の設計図が出てきたんだ。ここに書いてある」
と、パンフレットの隅を示し、
「一九七九年というから、昭和五十四年か。内藤昌さんという建築学者が、金沢の前田家の御用大工の家に伝わる文書を発見したらしい。〈天主指図〉というやつ。今の説明でも言ってただろ。他にもいろいろ残存する資料があって、当たらずとも遠からず、安土城の天守はこんなところでしょうってことなんじゃないのかな」
「ふーん」
「安土城のことを調べていると、内藤昌という名前はよく見かける」
「第一人者ってわけ?」
「そうなんじゃないのか」
「でも、これだけじゃまだ全体の感じはわからないわけね。遠くから見た安土城の雄姿は。まわりの風景も含めて」
「それが狩野永徳の|屏風《びょうぶ》ってことよ」
「見つかるとおもしろいけど」
「さあ、どうかな。永徳はこの時代が一番いいって評価もある。三十歳前後。力がみなぎっている」
「なんでもそうじゃないのかしら。私たちの年になっては駄目。なんとかごまかして生きてるみたい」
「まあな」
私たちは首を伸ばして、中の障壁画を眺めた。仏教画や中国の聖人君子の絵がところ狭しと描かれている。金、赤、緑。豪華|絢《けん》|爛《らん》……。天道思想かどうかはわからないけれど、飾りつけがきらびやか過ぎるのではあるまいか。
和代は下唇をつき出して、
「ちょっとやり過ぎみたい」
「権力の誇示だもん。これでもか、これでもかと飾りつけるんだ」
「一つ一つは、そう悪い趣味じゃないのにねぇー」
「信長が聞いたら“無礼者!”お手討ちにあうぞ」
「中の壁画なんかも正確に復元したものなのかしら」
「それはどうかな。どういう障壁画があったか記録は残っていても、それは文字で書いたものだろうから」
「図柄まではわからない?」
「ただ、当時は老子を描くならこんな感じ、|釈《しゃ》|迦《か》を描くならこんな感じ、ある程度きまっていたんじゃないのかな、図柄が」
「もとの絵は……永徳?」
「だいたいそうなんじゃない。弟子も含めて永徳アンド・アザーズだったろうけど」
「ふーん」
見学用のスペースも二階造りになっている。上に昇って六階を飾る障壁画をまぢかで鑑賞した。残念ながら永徳その人の絵ではない。
「わかったわ、だいたい」
「行こうか」
「ええ」
もう一時をまわっている。
「牛肉がうまいんだろ。近江牛」
「昼間から?」
「ミニ・ステーキくらいなら」
「このごろ胃がもたれるの」
「一ぺんちゃんと診てもらったら」
「ええ……」
信長の館を出て、レストランで軽い食事をとった。
安土城考古博物館のほうは、まだ開館して日時が浅いせいか、眼を引くものが少ない。近江地方の古物は|駈《か》け|足《あし》で|瞥《べっ》|見《けん》し、安土城関係の部屋で足を止めた。中央に安土城周辺の地形を立体的に作った模型が据えてある。
「こんなに湖に囲まれていたのね」
安土山はまさしく半島のように突き出して三方を湖面に囲まれている。
「今は干拓されて地形がすっかり変わってしまったらしいけど」
「でも、これはいいわね。敵に攻められても」
「それもあるけど、なぜ安土を選んだかと言うと、ここが|中《なか》|山《せん》|道《どう》を|睨《にら》む要所だったかららしいんだ」
「ええ?」
「東海道が京へ入る道として栄えるのは、むしろ江戸時代に入ってからで、信長の頃は中山道が重要だったらしい。東海道は尾張のあたりでやたら大きな川を越えなきゃならないから大軍を動かすのには向いていない。その点、中山道はいいんだ。|北《ほっ》|国《こく》街道も湖東を行くとなれば中山道に合流するわけだしな。しかも安土は琵琶湖を横切って湖西に渡り、あとは山一つ越えれば一日で京へ行ける。眼のつけどころは鋭いよ」
壁にかかった琵琶湖周辺の大きな地図を眺めながら、私は和代に語りかけ、自分自身もおおいに納得した。
「これ、|袴《はかま》ね。皮? バックスキンみたい」
ガラス・ケースの中に茶色のニッカーボッカーズみたいな袴が平たく置いてある。
「ああ、これか。信長がはいたやつだ」
「随分新しいじゃない」
「うん? 残念ながらレプリカだ。そう書いてある」
「なーんだ、道理で」
「しかし、本物がどっかにあるはずだ。本で読んだから。袴の前のところが男のズボンみたいに開いていて小便がやりやすいようになっているんだってさ。それも信長の合理精神のせいで」
「本当に?」
笑いながら疑わしげにうかがう。
「本当らしいぞ。日本で最初の前開きズボンなんだと」
「へぇー」
レプリカでは、そのへんの構造がよくわからない。
短時間で博物館をめぐり、ペダルを踏んで安土城跡へ。和代の息が荒い。
「結構、きついらしいぞ、山登りが」
ガイドブックにはそう書いてある。
「前に山寺へ登ったわね、山形の」
「|立石寺《りっしゃくじ》か」
「あれよりは楽なんでしょ」
「わからん。しかし、あれは十年以上も前だし、|俺《おれ》たちの体力がちがっている」
「言えるわね」
自転車に|鍵《かぎ》をかけ、二人並んでとりあえず案内板の説明を読んだ。
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特別史跡 安土城跡
織田信長が天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。天正四年(一五七六)着工、天正九年ごろ竣工したと認められる。天正十年(一五八二)六月、本能寺の変の直後に天主閣等も|罹《り》|災《さい》し、ついで廃城となった。琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き中央に七層の大天主閣をはじめ各殿舎等を建て雄大かつ壮観を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世城郭の先駆であった。現在、城の縄張りを知ることのできる石垣、石段、礎石等のほか、罹災をまぬがれた織田氏の|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》であるハ見寺の三重塔、楼門および金剛力二士像(いづれも重要文化財)が残存している。
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[#地から2字上げ]安 土 町
「ふーん」
「まあ、こういうことですな」
登り口のあたりは一応整備されているが、すぐに小道に変わる。いずれはりっぱな|城址《じょうし》公園にでもなるのだろうが、目下のところは大がかりな工事が断片的に進んでいる情況で、全体計画の五パーセントくらいのレベルではあるまいか。前田利家や秀吉の邸あとが標示板だけで示されている。城壁もところどころに残っているが、どの部分が信長の時代のものなのか。
「こまかい石を詰め込んで強度を保ったのが安土城の特徴なんだとさ」
「そうなの。他のお城はもっと大きな石を積んでるものね」
たしかに上り坂はきつい。全身が汗ばむ。黒金門は天守に通ずる門のうちもっとも重要なものと伝えられているが、それも敷居石らしいものを認めるばかりである。道が|鉤《かぎ》|型《がた》に折曲しているのは、やはり敵の進入を考慮したからだろうか。
「金沢の町がそうよね」
「ああ、そう?」
「鉤型についていて、まっすぐに進めないの」
私は金沢を知らない。
信長|廟《びょう》は文字通り信長の墓を置くところだが、この英雄の威光を考えれば簡素に過ぎるだろう。果して本当に骨が埋めてあるのかどうか。本丸御殿跡、台所曲輪を経て、ようやく天守跡にたどりついた。
「やれやれ」
「これが?」
「そうらしい」
百坪ほどの平地。土台石らしいものが縦横に|疎《まば》らに散っている。
「意外と小さいのね」
「一部分だろう。これを中心にして周辺からぐーっと立ち上がっていたんじゃないのか」
「でしょうね」
木々のあいだから西の干拓地が見える。水路があって湖に通じている。
「あれが西の湖?」
「多分。そのむこうの高いのが伊吹山」
と北の方向をさし、
「あれが比良山系かな」
と、西にうっすらと映る山稜を指さした。
「今、見えるあたりは、みんな湖だったんでしょうね」
「うん」
なにしろ五パーセントくらいの整備情況だから見どころは少ない。道を返し、ハ見寺の跡のほうへ向かった。
なぜ信長がハ見寺をここに建立したか、理由はあまりはっきりとしていない。城郭内に、山門、三重塔、鐘楼など七堂|伽《が》|藍《らん》を備えた正式の寺院を置く例は、城郭建築としてすこぶるめずらしい。前例を見ないことと言ってもよいらしい。あえてそれを実行したのは、自らを神として|祀《まつ》り、拝ませることを目的とした、ということらしい。信長に好意的であったフロイスも、次第に信長の途方もない考えに対して批判を抱くようになり、次のように記している。
“かくて彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的|傲《ごう》|慢《まん》さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと|不《ふ》|遜《そん》に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。そしてこの|冒《ぼう》|涜《とく》|的《てき》な欲望を実現すべく、自邸に近く城から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ、そこに毒々しい野望的意志を書いて掲げたが、それを日本語から我らの言語に翻訳すれば次のとおりである。
「偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、見る者に喜悦と満足を与えるこの安土の城に、全日本の君主たる信長は、|ハ《ソウ》|見《ケン》|寺《ジ》と称する当寺院を建立した。当寺を拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる者に授けられる功徳と|利《り》|益《やく》は以下のようである。
第一に、富者にして当所に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、|賤《いや》しき者が当所に礼拝に来るならば、当寺院に|詣《もう》でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しこうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう。
第二に、八十歳まで長生きし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平安を得るであろう。
第三に、予が誕生日を聖日とし、当寺へ|参《さん》|詣《けい》することを命ずる。
第四に、以上のすべてを信ずる者には、確実に疑いなく、約束されたことがかならず実現するであろう。しこうしてこれらのことを信ぜぬ邪悪の徒は、現世においても来世においても滅亡するに至るであろう。ゆえに万人は、大いなる崇拝と尊敬をつねづねこれに捧げることが必要である」
信長はその生涯を通じて明らかなように、つねに|神《カミ》と|仏《ホトケ》の礼拝を意としなかったのみならず、それらを|嘲笑《ちょうしょう》したり、焼却することを命ずるほどであったが、今回は悪魔の勧誘と本能に操られ、日本においてもっとも崇敬され、またもっとも多数の参詣者を集めている偶像を諸国から持ち来るようにと命じた。彼がその目的とするところは、それらを網として用い、自らへの信心をいっそうよく|捉《とら》えるためであった”
文中にあるナブコドノゾールは、ヨーロッパ古代史に悪名高いバビロニア王ネブカドネザルのことである。
「ハ見寺も焼けたんでしょ」
「焼けたんだろうなぁ」
と、心もとない。
しかし、こちらのほうは、その後の再建があったらしく、それなりの姿を留めている。
三重塔は重要文化財に指定されていて、|享徳《きょうとく》二年(一四五三)の建立、信長よりずっと古い。他所にあったものを移築した、と書かれてある。
私たちはその|脇《わき》の長い階段の道を下った。仁王門を抜けた。付近は時代劇の撮影にもよさそうな寂とした雰囲気を漂わせている。人影もほかにない。
気がつくと、和代の顔色が|土《つち》|気《け》|色《いろ》を帯びている。
「どうした」
「ええ……ちょっと」
と、肩で息をつく。
「休もうか」
「平気」
腕時計が四時五分前を指している。少し強行軍であったかもしれない。
山すそに神社があり、その鳥居を抜けると自動車の走る道に出る。自転車を置いたところまでゆっくりと歩いた。
「タクシーを呼ぼうか」
「ううん。自転車で風に当たれば……」
六時前に大阪へ着くためには、あまりのんびりとはしていられない。サイクリング道路を走って安土駅へ直行した。
さいわい七分後に上り電車がやってくる。米原まで戻って、こだま号に乗れば大阪まで五十分くらいだろう。冷たいウーロン茶を飲んで待った。
「無理するなよ」
「しないわ」
「飲み過ぎとか」
「しない、しない。あなたは、これから?」
「もう一度自転車を借りて走ってみる。今日はこの近くに泊まるよ」
「じゃあ気をつけて」
「うん」
改札口で別れた。
三輛編成の上り列車が走っていく。
駅前の観光案内所で近江八幡の大湖荘を|斡《あっ》|旋《せん》してもらい、今夜の宿を確保した。
私のほうは、まだ少し元気が残っている。自転車を借りなおし、地図を頼りにセミナリョ跡を訪ねた。フロイスの〈日本史〉を読んでいると、よく出てくる神学校である。
――はあ? これですか――
住宅のあいまに猫の額ほどの小さな史跡が残っていた。信長の許可を得て宣教師たちが建てた歴史的な存在であったが、今は石碑が一本立っているだけである。説明板を読むと、ここで学んだ一人が長崎で殉教し、西坂公園の二十六聖人の列に加わっているとか。
さらに自転車を飛ばして西の湖の水際まで行ってみた。遊覧船はもう今日のスケジュールをすべて終えているらしい。手を伸ばして水に触れてみた。西の湖は琵琶湖に通じている。間接的とはいえ琵琶湖の水に触わるのは初めてのことだ。指先をなめてみる。ただの水……。塩気はない。水辺をしばらく散策して安土駅へ戻った。
初夏の日がとんろりと暮れていく。安土には|鄙《ひな》びた気配がふさわしい。一駅だけ電車に乗り、大湖荘までタクシーを走らせた。
「どうぞ、こちらへ」
宿は高台にあって、眼下に湖を見おろしている。これは本物の琵琶湖だと教えられた。質素な宿だが、こんなところに泊まるのも一興だろう。ほんの少しタイム・マシンに乗って過去へ戻ったような感触がある。
風呂に入り、遅い夕食をすませた。
テレビ一つない部屋である。氷をもらい、手持ちのウィスキーで、オン・ザ・ロックを作った。
「よいしょ」
窓辺に|濡《ぬれ》|縁《えん》がせり出し、そこにすわると、はすかいに湖面が見える。
月が出た。
十三夜くらいの明るい月である。
隣の部屋の男が、姿を見せないまま窓のあたりで、
「今晩は」
と言う。
「今晩は」
と、こっちも|挨《あい》|拶《さつ》を返した。窓ぞいの濡縁は隣の部屋と一続きになっている。隣の男もそこへ腰をおろし、
「さっきお目にかかりましたな」
と笑う。
言われて驚いた。風呂場では私一人のはずだったし……。
「それは、どうも。どちらで?」
「安土山で。奥様はどうされました?」
「ええ……。大阪に用があって」
「それは、それは。安土には宿がありませんから」
と、いくらか関西|訛《なま》りの調子で言う。
言われてみれば、安土山に登ったとき、近くを一人で歩いている男がいた。あのときは気にも止めなかったが……偶然、同じ宿に泊まることになったらしい。男も安土駅前の案内所で斡旋を受けたのかもしれない。
「気がつきませんでした」
「お二人でしたから」
それとなく観察していたのだろう。
男は、お|燗《かん》のできるコップ酒を手に持っている。年齢は……七十歳くらい。鼻の高い、色の白い、端正な横顔だ。知的な雰囲気が感じられる。
――もと学校の先生――
もしかしたら校長先生、と見当をつけたが、そのあとの会話などから判じて、この推測はあながちまちがいではなかったのではあるまいか。
「安土城は、このごろやけに研究が盛んになりましてな。県も町も、観光のスポットとして力を入れ始めましたし」
「はい? こちらのお方ですか」
「いえ、|一宮《いちのみや》です。郷土史に興味があるものですから。久しぶりに安土山に登ってみましたが、まだまだ整備はこれからですな」
これまでにも何度か登っているような口ぶりである。
「随分とりっぱなお城だったみたいですね」
「それはもう。残っていれば、このあたりも連日修学旅行のバスが走ってくる名所になっていたでしょうな」
「なるほど」
「あなたもなかなかお詳しい」
和代に話しているのを聞かれたらしい。
「とんでもない」
ここ一年ほどの勉強でしかない。
「|屏風《びょうぶ》のことを話していらしたけれど」
ハ見寺のあたりで少し話しただろうか。
「少年使節団が持って行った……」
「はい、はい」
オン・ザ・ロックを一口飲んでから、
「実は、去年、フランスへまいりまして、むこうで屏風を捜している人に会ったものですから。フランス人ですけど」
「いるんですよ、今でも。私も若い頃ミュンヘンにまいりまして、少し調べてみたことがあるんですよ」
「あの……安土城の屏風をですか」
これもまた奇遇である。
「はい」
「驚きました。そうなんですか。見つかればおもしろいですけど」
「さあ……」
声がくぐもって、よく聞こえない。どことなく否定的な表現のように響いた。私は相手が話を|繋《つな》ぐのを待っていたが、そのまま口をつぐんでいる。
「もうないのとちがいますか。四百年もたっているんですから」
「そりゃ、普通に考えれば、ないでしょう。しかし、特別な屏風ですから」
「はい?」
“特別”の意味がよくわからない。
「調べてみると、さまざまな逸話が残っていますし」
「そうなんですか」
私の調べた範囲では、屏風そのものについてのエピソードは、けっして多くはなかった。
――まあ、さほど綿密に調査したわけではないのだから――
せいぜい現在入手できる程度の書籍で調べただけである。もっと広く、深く調べれば、もう少しなにかが伝えられているのではなかろうか。
それよりもなによりも、この男が……隣の老人が、この件について相当に|詳《つまび》らかな知識を持っているらしい。表情が、語調が、そんな気配を漂わせている。ほんの少し得体の知れない感じもあるのだが……。
「その前に」
と|呟《つぶや》いてから、男はコップの酒をひとくち|喉《のど》に流し込んだ。
「ウィンゲのスケッチは、ご覧になりましたか」
「えーと、見たような気もしますが」
私は関係書で見た図版を思い出して、
「まん中の山の上に小さな城があって、下のほうに|格《こう》|子《し》模様の道路と湖岸線が地図みたいに描いてある……」
「いや、それではなく。あなたがおっしゃるのは、パリで一七三六年に発行された〈日本の歴史〉という本にある安土城でしょう。あれは、その頃の、つまり十八世紀の宣教師かだれかが不確かな文献を頼りに安土城と城下町、それから湖を描いたもので、まったくの想像です。よく見ると、お城もまるでヨーロッパの城みたいで、史料的な価値は低いものです。ゼロと言ってもよいんじゃないでしょうか」
やはりよく知っている。
「なるほど」
「それじゃなく、二枚のスケッチで、天守と城門が、木版画で写されているやつ……。ご覧になっていませんか」
「いえ。そんなのが、あるんですか」
「ヨーロッパ人が描いた安土城は二つあるんです。一つは、今、あなたがおっしゃった図版で、根拠の薄いものです。もう一つが、フィリップス・ファン・ウィンゲの木版画で、この画家は、少年使節団がローマを訪ねた頃の人ですから、実際に屏風を見ていると思うんです。なにを思ったか、屏風絵の一部をスケッチしたらしい。その木版画が残っているんですね。日本の城なんて非常にめずらしいものだったから、それを部分的に紹介しようとしたんでしょうね。ほかには考えられませんから」
「ええ」
「残っているのは、二枚の木版画だけですが、これは信頼に足るものです。不充分ではあるけれど、そこにあるのはたしかに日本の城だし、十六世紀という時代を考えれば、ウィンゲは永徳の描いた屏風絵で見たとしか考えられない。しかも現存する木版画にはちゃんと、安土城の屏風絵からのスケッチを基にして作ったと添え書がある。永徳の図柄を推察する大切な資料です。ほとんど唯一の資料と言ってもよいんじゃないでしょうか」
「わかります」
是非とも見たいものだ。
そんな私の気分を見抜いたように、
「今に、どの本かでご覧になりますよ。そのときに気をつけていただきたいんですけど、天守を描いたほうのスケッチで、屋根のうしろに舟みたいなものが、やけに大きく描いてあるんですな。おかしな形ですが、多分、和舟でしょう。四人の男が乗っています」
「舟ですか」
ノエルもそんなことを言っていた。彼の父親が見た屏風絵にも舟が描いてあった、と。
「はい」
「四人、乗っているんですね」
この人数もノエルが言っていたことと一致している。
「はい。もう一枚の木版画は、城門ですが、これも四人の男が、門の中へ入って行くところです」
「そうなんですか」
|闇《やみ》が深くなった。もう湖面は黒く染まって、かすかに舟の灯が一つ見えるだけである。かぼそいあかりが、かえって闇の黒さを増している。
「不思議な伝説がありましてね、この湖の周辺には」
「ほう?」
男は隣の|濡《ぬれ》|縁《えん》から私の顔をのぞいて、はにかむように笑った。笑いの意味はよくわからない。
「おひまなんでしょ、今夜は。なんの楽しみもない宿ですから」
「ええ、まあ」
「少しつきあってくださいませんか」
わるい感じの老人ではない。もと教師であったかどうかはともかく、教養のある人だろう。礼儀も正しい。
「結構です。こちらこそ……よろしく」
「もう一本、持って来ます」
男は立ち上がり、姿を消す。
荷物を探るような音が聞こえたが、やがて新しいコップ酒を持って濡縁にすわった。私のほうは、まだグラスの底に氷が残っている。ウィスキーを注ぎたした。
あるかなしかの夕風を受けて酔いが心地よい。
いつのまにか湖上の小さな灯が消えている。そして最前まで雲と梢に隠れていた月が闇の上に大きな白い穴を開けてポッカリと照っていた。
湖畔の闇
「私が生まれ育ったのは湖北のほうでして……|余《よ》|呉《ご》|湖《こ》という小さな湖があります」
と、隣の部屋の男は、おもむろに語り始めた。
声は若い。身ぶりも、立って歩く姿を見たわけではないけれど、若々しく感じられる。と言うより、男の年齢が判然としない。私より十数歳くらいは上と思ったが、実際はもっと若いのかもしれない。
「いつごろですか」
「えっ? ずっと昔ですよ。あのへんはなにもないところでしてな。寒さはきびしいし、土地は|痩《や》せている。生きていくのが精いっぱいでしたな、みんな。子どもの楽しみと言えば、せいぜい火を囲んで、年寄りの話を聞くくらいのものですよ。貧しい土地ほどよく昔話なんかが残っているものですよ」
かりに七十歳とすれば、幼い頃は昭和の初めになる。田舎では囲炉裏を囲む風景もあったにちがいない。
「そうかもしれませんね。東北地方とか」
「私の母方の祖母はなかなかの話上手で、いろいろ教えてくれました。早い話、この琵琶湖だって」
と、眼下の闇を指差してから、
「みなさん、琵琶の形をしているから琵琶湖だっておっしゃるけれど、おかしいでしょ?」
「はあ?」
なにがおかしいのか。少々|歪《いびつ》ながら地図で見る琵琶湖は楽器の琵琶に似ている。
「ははは。湖の岸に立って、あなた、これが琵琶の形だってわかりますか。ただ水面が広がっているだけ。本当の海となんの変わりもありゃしません。琵琶の形かどうかなんて、見当もつきませんよ」
「なるほど」
言われてみれば、その通りだ。
「私の|祖《ば》|母《あ》さんが言うには“昔は|淡《あわ》|海《うみ》と呼んだ。塩っ気のない海のことじゃ。このあたりを近江と言うのは、このせいじゃ。湖の形が測れるようになって、はじめて琵琶湖になったのじゃ”とね。今でも、私は、湖の畔に立つと、この話を思い出しますよ。昔の人が、この湖を見てなにを考えたか。淡水の海だと考えるのが一番自然でしょう。古いお話の中には、昔の人のものの見方が生きております。馬鹿にはできません」
「わかります」
もとより私にはなんの異存もない。|稗《はい》|史《し》伝説のたぐいにも|汲《く》むべき真実は含まれている。私は、どちらかと言えば、そういう考え方を強く支持するほうである。
「余呉湖には羽衣伝説が残っておりましてな。いえ、関東のほうの話と変わりありません。三保の松原でしたか。あとで、その話を聞いて、私はなんだか自分の故郷のお話が取られたような気がしてくやしかったけれど、なーに、羽衣伝説なんか世界中に似たような話があるみたいですね」
と笑う。
「小学校で習った話では、漁師は、哀れな天女を見て、すぐに羽衣を返してやりますけれど、あそこはちがうんでしょうね」
「ええ、ええ。すぐには返しません。嫁取りの話ですから。美しい女を妻にしたいと、その願望の現われでしょう。天女は漁師の女房になって子どもを生みます。そのあと天女は羽衣を見つけて天へ帰って行く。余呉湖のほうではこの子どもたちが、湖北の先祖となった、としております」
「美人が多いのかな、湖北は」
「さあ、それはどうでしょうか。私は祖母さんの話を聞いて育ったものだから、知らず知らずのうちに昔話に興味を持つようになって、あるときからずっと湖の伝説を集めているんですよ」
「それはおもしろい」
「おもしろいものばかりじゃありません。琵琶湖くらい大きくなると、もうただの湖じゃありません。別な世界です。死んだあとというか、生まれる前というか、湖の底には別な世界があるようです。年を取ると、余計にそんなことを考えます。事実、|竹《ちく》|生《ぶ》|島《しま》の近くでは、水の底から死者が大勢ふわーっと|湧《わ》き上がって来ることがあるんですよ」
「本当ですか」
「ええ、本当です。見た人はいくらでもいます」
「それは……すごい」
にわかには信じられない。
「理屈はあるんです」
「理屈、ですか」
「はい。竹生島の付近は水深も数十メートルあって、とても深いんです」
「竹生島というと?」
「湖の北端のほうです。深いうえに、水底で冷たい清水が湧いている。冷たすぎてプランクトンが繁殖できない。おかげで水底に沈んだ死体がいつまでも腐敗しません。それが、なにかの加減でふわーっと水底から湧いて出て来る、と、まあ、これが理屈なんですがね。よくはわかりません」
「うーん。そんなこと、あるかなあ」
「これとはべつかもしれませんが、死んだ人が水底から帰って来る話はよくあります」
「ほう?」
「お盆の頃になると、もや船が出ます」
「なんでしょう」
「ここはお寺の多いところです。お寺は山の上にあるし、山は湖のすぐ近くまで迫っています。山の|裾《すそ》|野《の》に|靄《もや》が立ち|籠《こ》めると、祖母さんはよく“今夜はもや船が出るぞ”と言って、大急ぎで雨戸を固くしめておりましたよ。夜目にも靄がどんどん濃くなり、それが固まって、よく見ると、船の形になるんです。はい、私も一度見たことがあります。すぐに雨戸を閉じましたけど……。怖くて」
「はい?」
「靄の船には、大勢の死人が乗っていて、船頭さんと同じように船を漕いでいる。口を開けているが、掛け声は聞こえない。船はどんどん山坂を登って、頂上のお寺に着くと、ぱあーッと空に消えてしまう。今では|比《ひ》|叡《えい》|山《ざん》の七不思議の一つにも数えられております。船坂という坂も残ってます」
「見てはいかんのでしょうね、その、もや船が登るところは」
「そうです。祖母さんも夢中で雨戸を閉じてましたから」
湖畔に発生した靄が白い塊となって山へ山へと登っていく無気味さから生まれた民話ではあるまいか。たしかに濃い靄は、その中に怪しいものが|蠢《うごめ》いているような気配を含んでいる。
「祖母さんの、そのまた祖父にあたる人が本当に体験した話ですが」
と、言葉を切る。
「なんでしょう」
「とても字のうまい人で、お寺の和尚に頼まれて大切な本の筆写をやっておりました。|多《た》|吉《きち》という名前です。秋から始めて冬のあいだじゅう、ずーっと来る日も来る日も多吉は夜なべをして書き写していたんですね。そのうちに無理がたたって重い病気に|罹《かか》り、寝込んでしまいます。それでもなお頑張るから、ますます病気がひどくなる。ある夜、多吉は|布《ふ》|団《とん》の中で眼をさまし“|俺《おれ》ももう死ぬんだな“湖の死人が俺を迎えに来たんだな“待ってくれ。和尚に頼まれた仕事を終えないうちは死んでも死にきれない。これはお前たちの供養にも役立つものだ。長く待たせない。春まで待ってくれ”と、必死に訴えました。四人は申し合わせたように|頷《うなず》いて立ち上がり、すーっとかき消えたそうです。翌朝になると多吉の体に力が戻っていました。ふたたび筆を執り、春が来て、ちょうど筆写を終えたとき、多吉は机の上に|俯《うつぶ》して死にました。死の直前に描いたらしい絵が一枚残っていました。墨の乾きぐあいから判じて、多吉が死の直前に見たものとわかったそうです。湖の上に舟が|一《いっ》|艘《そう》浮いていて、黒い影が乗っています。きっと多吉の命を乗せて水底へ帰って行ったにちがいありません」
「怖いですな」
と、私は|曖《あい》|昧《まい》に|呟《つぶや》いてから、
「このへんは水葬でしたか、昔は?」
と尋ねた。
「はい。昔は水葬が多かったみたいですよ。私も一つ、二つ知ってます」
「それでは死んだ人が湖へ帰って行くという考え方も自然でしょうね」
「…………」
答えはない。
その無言の中に、返事とはちがった微妙な違和感を覚えた。
周囲の情況をもう少しこまかく説明すれば……私たちがすわっているのは、|鄙《ひな》びた旅館の離れ座敷の窓辺である。他には泊まり客もないのか、さっきからずっと人の近づく気配はなかった。男と私と、たった二人だけの夜である。窓の外に幅の細い|濡《ぬれ》|縁《えん》が作られていて、濡縁には人が向こうに落ちないよう柵が作られている。濡縁そのものは隣の窓辺へと延びているが、その境目にも同じような柵があって、一応は仕切られている。私はこちら側の濡縁に腰をおろし、男はむこう側の濡縁に上半身だけを外に出してすわっている。声はよく聞こえるが姿がすっかり見えるわけではない。話のあいまに男が部屋の中のほうへ体を|捩《ねじ》れば、ほとんど顔も見えなくなる。もともと周囲は薄暗かった。月が雲に隠れれば、部屋のあかりが、ななめから射すばかりである。
――どんな顔で話しているのか――
さりとて私が首を伸ばして様子をうかがうのもわざとらしい。
声だけが……怪しい話だけがこぼれてくる。私はわけもなく自分の部屋の四隅に目を配った。
「初めのうちは、遠い身内の者が体験した話だと思っていたんですがね」
男は背を向けたまま呟く。
「はい?」
「湖の伝説を集めていると、いろいろなところで似たような話を聞くんですよ。湖西でも、湖南でも、もちろん、このあたりでも、ここより一里ほど北へ行ったところに小さな村がありました。それが突然陥没してしまった。明治の初め頃です。その村は湖から死人たちが迎えに来ると知って、村人たちが|鍬《くわ》やら棒やらを持って待ち構えていたそうです。首尾よく迎えを追い返した直後に、ドーンと村全部が湖の底へ消えてしまったとか。迎えの舟にさからってはいけない、舟を見てもいけない、|掟《おきて》を破った罰だったんでしょうね」
「舟で迎えに来る人はいつも四人なんですか」
「大勢とか、数人とか、いろいろです。でも四人という話もよく聞きました」
「なぜ四人なのかな」
「さあ。部屋の四隅にうずくまっているからでしょうか。それとも四は死に通ずるから」
「|語《ご》|呂《ろ》合わせですか」
と私は笑った。こんなところに語呂合わせがあるのは……そぐわない。
しかし、隣の男は生真面目な調子で、
「湖の底の考えはわかりません」
と言う。
「そりゃ、そうですね」
「わからないと言えば、湖西の、今で言う|安《あ》|曇《ど》|川《がわ》あたり出身の絵師がおりました。狩野永仙の教えを受けたということですから、一応は狩野派の絵師なのでしょうか」
「永仙というと、正信の子、二代目ですね」
「そうです。|慶《けい》|月《げつ》という名で、どの程度の絵師だったのか、今ではなにを調べてもわかりません。ただの田舎絵師、あるいは名前を変えたのかもしれませんが」
「はい?」
「その慶月が、村の長者に頼まれて琵琶湖の絵を一幅描いたんですが、長者は浜の網元でしたから、せめて絵の中に一艘くらい舟を描いてほしいと、できあがった絵に注文をつけたんですな」
「ほう」
「ところが、慶月は承知しない。|頑《かたく》なに拒否をします。それでは絵が崩れてしまう、と言い張って」
「わかります」
田舎絵師だって、そのくらいの気概は持っているだろう。
「理由はそれだけではありません。長者が“俺の絵なのだから俺の好むように描いてくれ“この絵に舟を描くと|碌《ろく》なことが起きません“なにが起きる“よくないことです“お前は、それほどの名人か。ならば描いてみよ。なにが起きても、俺はかまわん。描かねば許さん”激怒にあい、絵師は止むなく一艘の舟を描き入れ、そのまま後難をおそれて姿をくらましてしまったそうです」
「それで?」
「数日後、長者は熱病にかかり、うわごとのように“舟が来る、舟が俺を迎えに来る”と絵を指さしながら叫び、そのまま息が絶えました。|枕元《まくらもと》にいる人には、少しも絵に変化が起きたようには見えなかったけれど、長者はきっと絵の中の舟が動きだして、近づいて来るのが見えたのでしょうね。そんな物語も残っております」
「私も似たような話を聞いたことがありますよ」
「ああ、お聞きになりましたか」
「いや、ちょっとちがう話ですが」
と、私は戸惑いながら告げた。
――さっき、教養のある人と見たのはまちがいだったかもしれない――
と考えなおしていたのである。
たしかに知識は充分に広い人らしいが、良識を備えているかどうか。つまり、伝説を語る口調の中に、奇妙な思い入れが感じられてならない。ありていに言えば、
――この人は、この手のことを本気で信じているのではあるまいか――
そんな気配が感じられてしまう。
少し沈黙があった。
気まずさを|掬《すく》いあげるように、
「狩野永徳にご興味がおありなんでしょ」
と男が言う。
「ええ。大徳寺の聚光院で〈山水花鳥図〉を見て、不思議なショックを受けました」
「そうでしょう。若い頃の永徳には|妖《よう》|気《き》がありましたから」
「妖気……ですか」
「はい。幼い頃の名は、なんと言いましたか」
「孫四郎でしょう」
「そう、そう。孫四郎の絵にただならないものを感じて祖父の永仙も父親の松栄も驚いたんです。後年の永徳は、ただ巧いだけです。装飾画の描き手としては天下一品でしたが、妖気を放っていたのは若い頃だけでしょう。永徳自身が必死の思いで捨てたのかもしれませんね」
「よくわかりません」
と、私は首を振った。
「あなたは、それを感じたんじゃありませんか」
言われてみれば、そんな感じだったかもしれないが……はっきりとしない。
「それは、どうかな」
「時折、感ずる人がいるんです」
「ええ……」
また会話が途切れた。
月はどこへ行ったのか。|闇《やみ》がまた深くなったようだ。
やおら、その闇を貫くように、
「信長も見ましたね、|屏風絵《びょうぶえ》の中に……。舟を。ぐんぐん近づいて来る舟を見たんですよ。夢かうつつかわかりませんが」
押し殺したような声が聞こえた。
「えっ」
私は驚いた。闇がはらりと落ちて、また新しい闇が広がったように感じた。
――この人は、何者なんだ――
うしろ姿が影法師のように黒く、うずくまっている。
「織田信長も、湖の沖のほうから近づいて来る舟を見たと思いますよ」
|巫《み》|女《こ》の託宣のように自信の|籠《こも》った声で告げた。
「どうしてですか」
そう思う根拠を尋ねた。
「さあ、どうしてでしょう。もう少しお調べになってください。夜も大分更けました。きっと、またお会いしますよ」
声には含み笑いが混ざっている。
「あの、失礼ですが……お名前は? 私は白井と申しますが」
「|太《おお》|田《た》です。|梅《つ》|雨《ゆ》が近いのかな。夜が更けると寒くなる」
ガラス戸を引く音が聞こえた。
私はしばらくあっけにとられて隣の縁台を見つめていた。
――なんのつもりなんだ――
なんだかからかわれたような気がしないでもない。さりとて、もう一度、声をかけて話すのもためらわれた。たしかにもう夜半が近い。
私もガラス戸を閉じカーテンを引いて|布《ふ》|団《とん》に潜り込んだ。
隣の部屋は、もう眠ったのだろうか。ひっそりとしてなんの物音も聞こえない。壁に耳を寄せてみたが、寝息も|漏《も》れてこない。
――おかしな男だな――
しばらくは眠れなかった。
絵の中の舟が動きだす話なら私も聞いたことがある。あらためて思い返してみると、ラフカディオ・ハーンの〈奇談〉ではあるまいか。
|果《か》|心《しん》|居《こ》|士《じ》という道士の話だった。
屏風の中に小舟が浮いている。それを果心居士が招き寄せる。ぐんぐんと近づいて来て部屋の中へ湖水があふれる。舟は絵の中から座敷へと抜け出し、果心居士がそれに乗り込む。舟は遠ざかり、水を引いて、あとはもとの絵に返った……。
たしかそんな話だった。物語のイメージが頭の片隅に残っている。それが果心居士の技なのか、優れた絵には、そんな不思議な力が潜んでいるということなのか。
――永徳の絵も、そうかな――
名画を|称《たた》える|比《ひ》|喩《ゆ》として、この種の話が語られるのかもしれない。
それにしても私が聚光院で感じた不思議な気配はなんだったのか。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な言いかたが許されるならば、|襖絵《ふすまえ》がなにかを語りかけているように感じた。語るというより|囁《ささや》きかもしれない。
かすかな|戦《せん》|慄《りつ》を覚えた。
――変だな――
隣の男は、今日の午後、安土山で私に会ったと言っていた。私のほうには、はっきりとした認識がないけれど、男は私たちとつかず離れず同じ道を歩きながら、私たちの会話を聞いていたらしい。それは充分にありうることだが、
――あのとき、狩野永徳の話なんかしていただろうか――
少しは和代に話したような気もするが……安土山ではそう多くは語らなかったろう。にもかかわらず、私が永徳に関心を持っていると隣の男が言い当てたのは、なぜなのか。
――特別な能力を持った男ではあるまいか――
と考えたのは、やはり夜の暗さのせいだろう。私の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》がぼやけているせいだろう。
――ああ、そうか――
隣の男は、信長の館でも私たちを見ていたのかもしれない。あそこならば、私はたっぷりと和代に永徳の話をしている。隣の男にとっては、安土山で見た私たち夫婦の印象が深かったので「安土山でお目にかかりましたな」と言ったのだろう。それ以前に、信長の館で私たちの話を聞いていれば、私が永徳に関心を持っていることは、きっとわかる。それだけのことだ。これが正解だ。そうとわかればなんの不思議もない。それよりも、
――永徳の描いた安土城はどんな図柄だったろう――
思案がそのほうへ移った。
すでに何度か考えたことだが、安土という土地を踏んで、あらためて思いなおすことがある。もちろん、地形も変わって四百年の昔を残すものは現実としては少ないけれど、私の思い入れが異なる。
安土城の天守も、信長の館を見たことによりイメージがふくらみ、確かなものとなった。天守とハ見寺の距離感がはっきりとした。安土山の高さと形は、そうは変わっていないだろう。湖に向かって半島がどう突き出していたか、見当がつかないでもない。
なによりも背後に広がる湖の大きさが、この地に来て実感としてわかった。安土を描くならば必ずや、この湖を背景に大きく映し出したにちがいない。湖の西を占める比良山系も、私が見たと同様にうっすらと屏風絵の高い位置にあったのではなかろうか。
幾葉かの屏風や襖を貫いて一幅の絵を描くのは、永徳が始めたことではないけれど、永徳において著しく、みごとに実現された技法であったらしい。若い天才は、屏風や襖が家具として持つ枠組を自由に|飛翔《ひしょう》して奔放に、大胆に、広大な構図を展望した。そのことは聚光院で見た襖絵にも充分に感じられた。安土城と城下を望む屏風絵は、さらにその雄大さを十二分に具現していたにちがいない。
――すばらしい絵だったろうな――
それをまのあたりにしたら、私は、あの〈山水花鳥図〉を見たときよりも大きな興奮を覚えたにちがいない。不思議な興奮の原因も突き止めることができるかもしれない。図柄を想像しただけでも胸が躍る。
カタン。
微細な音を聞いて、隣室のほうへ耳を傾けた。
しかし、続く音はない。
やけにひっそりとしている。
――おかしな男だな――
つけられたのではあるまいか。そんな懸念さえ|湧《わ》いてくる。
もとより尾行される理由などなにも思い当たるものがない。
――私のことなんか追いかけて、なんのたしになる――
にもかかわらず、そんな気がするのはなぜだろう。ただの偶然ではなく、男は、私の隣の部屋に泊まることを意図し、私と話を交わすことを考えていたふしすらある。
――ちがうだろうか――
少なくとも安土山で私たちの会話に聞き耳を立てていたことはたしかである。行きずりの旅人が、なぜそこまで関心を持ったのか。わからない。
そのくせ唐突に会話を打ち切ってしまって……。「もう少しお調べになってください。きっと、またお会いしますよ」と言っていたが、あれはどういう意味なのか。
言葉通りに受け取れば、私の知識がまだ足りないということだ。今の段階では話しても無駄ということだろう。
たしかに安土城や永徳についての私の知識は充分ではない。二、三冊の資料を|撫《な》でただけである。
――しかし“また会う”ことなど、ありうるだろうか――
この先、勉強を進めていけば、あの男にもう一度会うことがきっとあると、そういう意味だろうか。
そう考えるのが、男の言葉と態度に一番ふさわしいようにも思えるのだが。
――なんのために――
依然として動機が釈然としない。
――太田とか言ったが――
長く話したわりには、どこの、だれなのか、その点にはほとんど触れなかった。世間話のような調子で始まって、話題がどんどん深化してしまった。それもまたむこうが意図していたことのような気がする。
私はよほど跳び起きて、隣室の戸をノックし「あなたはだれなのです」と尋ねてみようと思ったが……そんな衝動に誘われたが、それも穏当ではあるまい。隣は深く寝入っているだろう。
そのうちに私も眠った。久しぶりの山歩きで疲労もあったのだろう。ぐっすりと眠り込んだ。
翌朝七時過ぎに眼をさまし、小用のついでに隣室をうかがってみると、戸が開け放たれている。「お早うございます」と廊下から声を掛けても人のいる気配はない。すきまから見える部屋の中はひっそりとして、布団も隅のほうに畳んで積んである。
朝食の折に宿の主人に尋ねてみると、
「えらい早立ちでしたな」
と、主人も姿を見ていないような口ぶりだった。宿泊料は前夜のうちに支払うシステムである。
「よく見えるかたですか」
「いや」
と、主人は頼りない様子で首を振っていた。
私は近江八幡の町を少し散策して、午後の列車に乗った。
名古屋駅でひかり号を待つあいだ途中下車して駅近くの大きな書店に|駈《か》け込み、ラフカディオ・ハーンの〈怪談・奇談〉を文庫本で入手した。昨夜、布団の中で思い出したことを確かめてみたかったから……。
ひかり号の窓辺で目次を捜した。
私の記憶にまちがいはなかった。〈果心居士のはなし〉が載っている。
驚いたことに、果心居士は織田信長と同時代の人である。
果心居士は自分で絵を描く。巧みに描いた絵を信長に所望されたが、居士は苦心の作だから「黄金壱百両はほしい」と要求する。ほいと同然の坊主の描いた墨絵が百両とは法外だ。信長の家臣が跡を追い、|斬《き》り捨てて絵を奪う。しかし……奪った巻物を開くと、絵は消えていた。
しばらくして斬られたはずの果心居士があちこちで自分の絵を見せているという|噂《うわさ》を聞き、信長の家臣は、居士を引っとらえ、信長の前に連れていく。居士はわるびれもせず「すぐれた絵には魂が|籠《こも》っているし、絵それ自身の意志もあります。そのことを示す例はいくらでも実在しています。論より証拠、私から奪い取った巻物の絵が消えたのは、信長公が絵の正当な持ち主ではないからでしょう。絵みずからがそのことを知って消えたということです」とうそぶく。「では百両を払えば、絵は現われるのか」「御意」信長が百両を与えて巻物を開くと、絵はたしかにそこにあったが、色が|褪《あ》せ、過日信長が見たときのような|冴《さ》えがない。
「なぜじゃ」居士の答えは「はい。おおかた百両分の姿を示したのでしょう」であった。
そうこうするうちに信長は本能寺で自刃し、果心居士は、なんと! 数日間の天下人明智光秀にも会っている。私が記憶していたのはこのときのエピソードだ。近江八景を描いた|屏風絵《びょうぶえ》の中の舟を呼び寄せ、居士はそれに乗り込んで、漕ぎ去った。果心居士の消息はこれを最後にプツリと途絶えた、とハーンは伝えている。
――なるほどね――
私はほのかに赤味を帯びた富士を車窓に見ながら合点した。
――すぐれた絵には魂があるのか――
五十数年を生きてきた私の理性は、こうした話を|鵜《う》|呑《の》みにするわけにはいかないが、やはり年を取ったのだろうか、わけもなく霊的なものを感ずることがなくもない。人知で計りえない|妖《あや》しいものが、私たちの周辺に実在しているのではあるまいか。その|一《いっ》|斑《ぱん》を垣間見ることがあるのではないか。卓越した芸術家が精魂|籠《こ》めて作った作品には、不思議な力が|托《たく》されているのかもしれない。そんなことは、あってもよさそうである。
それ以上に興味深く思ったのは、信長の時代に果心居士がいたということだ。ハーンが伝えたような伝説が生きていたということだ。すぐれた絵には魂がある、と、そんな噂が繁く語られ、現在以上に多くの人が深く信じていただろう。その信頼に|応《こた》えるように不可思議な出来事も起こっていたのかもしれない。
果心居士の描いた絵に魂が籠っていたのならば、若い頃から底知れない才能を現わした永徳にも、同様に妖しい技が|天《てん》|賦《ぷ》されていたかもしれない。人々は、それを感じたのではあるまいか。
私がぼんやりとこんなことを考えた背後には、やはり聚光院の不思議な体験があるからだ。あのとき、私は“なにか”を感じた。絵が私を呼んでいるような、親しみを示しているような、わけのわからない気配を……。
――昨日の男は、なんだったのか――
またしてもそれを考えてしまう。あれもわけのわからない存在だった。
――安土城を描いた屏風絵のこと、もう少し丹念に調べてみよう――
ひかり号は多摩川を越え、都心に滑り込み、少しずつスピードを|弛《ゆる》め始めた。
舟が来る
「ただいま」
大阪の同級会から帰った和代は、素焼きの陶器のように|艶《つや》のない顔色を帯びていた。
「どうした?」
「ええ」
ソファにすわり込み、深呼吸をしている。
「顔色、よくないぞ」
「めまいがして」
「早く寝たらいい」
「そうね」
むしろ頑健なほうである。
だが、ここ数年は、なにかの拍子に、
――どこかわるいのではないか――
と|訝《いぶか》ったことがないでもない。顔色がどことなく冴えないのである。そのつど「気をつけたほうがいい」と忠告していたのだが、和代の対応は|曖《あい》|昧《まい》だった。
この夜の様子は、とても健康とは言いがたい。
「もう若くはないんだから、おたがいに」
「そうね」
本人にも不安があったのだろう。ないはずがない。翌日、病院へ行くと、大がかりな検査を受けることとなり、三日後に入院がきまった。
「本当か」
「ええ。心配ないとは言われたけど」
と、電話から聞こえる声が沈んでいる。
それからは……どう表現したらよいのだろうか、私の思考が病の現状に追いつくのがむつかしかった。
――そんな馬鹿な――
何度そう思ったかわからない。
妻の内臓は、何カ所にもわたって悪性の病気に冒されていた。見舞いに行くたびに、やつれがひどくなる。二週間前まで、少なくとも見かけだけは元気で動いていた人が、まるで手品のように|変《へん》|貌《ぼう》して、まちがいのない病人に変わり果てている。
――わるい薬を使って、健康な人を病人に変えてしまったのではあるまいか――
そう思いたくなるほどの急激な変化であった。
聞けば、今年の春も、去年も、妻は定期の健康診断を受けていない。
――なんで――
と、憤りさえ感じてしまう。
去年は「忙しかったから」と言い、今年は……不安を感じ、怖かったからではあるまいか。言葉を濁している。それ以上問いただすのは今となってはかわいそうだ。尋ねたところで病気がよくなるわけでもないのだから……。
手術の日取りがきまった。
「見込みはあるのでしょうか」
レントゲン写真を何枚もつぎからつぎへと眺めている主治医の横顔に私は尋ねた。正直なところ、この質問さえ私にとっては納得のいかない言い方だった。つまり、見込みはあるにきまっている、こんなネガティブな尋ねかたをすること自体が不本意だ、と考えていたのである。
しかし、医師の答えは、私の情況判断をはるかに越えていた。
「かなりむつかしいですね」
「と言うことは……」
「楽観はできません」
「つまり手術しても無駄かもしれないと……」
「胃も腸も、肺にも転移してます」
医師はおごそかな声で、生命体の危機を|諄々《じゅんじゅん》と教えてくれた。
心の準備が追いつかない。
「見込みは……まるでないのでしょうか」
そう|呟《つぶや》くよりほかにない。
――とても信じられない――
悪い夢ではあるまいか。
しかし、日ごと夜ごとに和代の苦痛が激しくなっていく。モルヒネの助けを受けなければ耐えられないほどに進行している。
「最善の努力はしてみます」
|一《いち》|縷《る》の望みを懸けて手術を決行するのだ、と、その現実を知らされた。
世間にけっしてないケースではないらしい。和代は我慢強い。昔から|身体《からだ》の苦痛など訴えたことがなかった。多少の苦しさくらい、|辛《つら》くとも耐えてしまう、それがあだになった。病いは静かに潜行し、一気に爆発したにちがいない。
「よろしくお願いします」
医師の指示に従うよりほかに私にどんな道が残されているというのか。
――頑張ってくれ――
祈るよりほかになかった。
話は前後するが、和代が入院してしばらくして山形朋一から手紙が届いた。フランス旅行の際に世話をしてくれた、あの好青年である。ノエルに頼まれた件で私たちはこれまでに二、三度手紙を交換していたのである。山形は“所用で二週間ほど東京に滞在するのでお目にかかりたい”と書いている。フランスを出発する直前の手紙である。
――どうしたものかな――
ためらっているうちに電話が入り、
「一昨日、東京に帰りました」
と、快活な声が響く。
「お元気ですか」
「ええ。元気です。奥様は?」
「うーん、ちょっと体調を崩して」
「それは……風邪ですか」
「入院しているんです」
「えっ、どこがおわるくて?」
「胃がわるくて……。まあ、心配はないんですけど」
と答えるよりほかにない。それに、この段階では、私はまだ妻の病状を楽観していた。
山形は、
「お見舞いにまいります」
と主張する。
答えを保留し、和代に尋ねると、
「お会いしたいわ」
と、ベッドの中から微笑を返した。
フランス旅行は真実すばらしい思い出だった。あのときの楽しさが多少なりとも取り戻せるものなら、病人にとってけっしてわるいことではあるまい。なによりも和代がそれを望んでいる。病人に病気の重さを|気《け》|取《ど》らせないためにも、私はなにげない様子を取り続けなければならない。和代にとってこころよい見舞いを拒むのは得策ではなかった。
結局、私は山形を病室へ案内した。
「すみませんが、短い時間で……よろしく」
「ええ、もちろん」
和代は、折よく体調がよかった。熱もなく痛みも薄らいでいた。
二十分も話していただろうか。話題は、もっぱら旅の思い出ばかりである。山形の明るい対応がうれしかった。
山形と一緒に病院を出て近くの喫茶店に入った。
「驚いたでしょう」
旅行のときとは相当に様子が変わっているはずだ。
「ええ、ちょっと。しかし、平気なんでしょ?」
と、山形は屈託がない。ただの|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》くらいに考えているのだろう。私も極力病状の軽さを訴えておいたのだから、山形が軽く考えるのは当然のことだ。なんのこだわりも持たない山形の表情を見ていると、
――こんなに軽い病状に映るなら、和代の病気もそれほどのものじゃないのかもしれない――
と、私の気分までが軽くなる。
「ノエルに頼まれた件だけど」
と、私は話題を変えた。
「いろいろとご面倒をおかけしたみたいですね」
「いや、調べてみると結構おもしろい。私もああいうこと嫌いじゃないほうだから」
「本当ですか。それならば、よかったですけれど」
「いや、おもしろいですよ、なかなか」
「そうですね。私もつい引き込まれてしまって」
と笑う。この笑顔はいつ見てもわるくない。
「このところ日本でも急に安土城のことがブームになっていて」
「そうなんですか」
「ブームって言うのは少し|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》かもしれないけれど、研究の成果が少しずつ人目に触れるようになってきたのは確かみたいですね。一カ月ぶりに大きな書店へ行って本棚を見ていると、必ず新しい本が並んでいるんですよ、安土城関係の」
「はい」
「特に内藤昌さんという方の調査結果がすごい。何年も前から調べていて、それがようやく公にされる段階に達したってことかな。安土城がどんな城であったか、正確に復元ができるようになった。信長はもともと大衆に人気のあるヒーローだし、|絢《けん》|爛《らん》豪華な安土城が明らかにされれば、そりゃ注目を集めるでしょうね」
「信長はそんなに人気があるんですか」
「実際にそばにいたら、そら恐ろしい人のようだし、そんなに好きになれるタイプじゃないと思うけど、そこはそれ、歴史のヒーローだから……。型破りだし、逸話にはこと欠かないし、志なかばで死んでいるところも、わるくない。いろいろと想像をかき立てられるでしょ。もっと長く生きていたら、どうなっていたか、とか」
「何歳で死んだんですか」
「四十九歳」
「若いですね。天才の宿命かな」
「そう。天才はどんな分野にもいます。日本という国が群雄割拠の時代から、近代的な統一国家へ変転せねばならない時期にちょうどさしかかっていたんですね。その時代に、信長はまるで設計図が|予《あらかじ》め用意されていたみたいに、きっかりと登場している。微妙な運にも恵まれていましたね。武田信玄も上杉謙信も都合よく死んでしまって」
「でも最期は運に見放されて……」
「いや、信長個人としては不運の死だったろうけれど、歴史的に見れば、そうばかりは言えないのとちがいますか」
「そうなんですか」
「そんな気がします。だって国家統一みたいな大事業は一人じゃやれない。都市開発だってそうでしょ。大きな建物をこわして、平地にしてからでなくちゃ新しいビルは建てられません。いろいろの勢力を倒して平地にするまでが信長の仕事で、あとは秀吉や家康が担当する」
「はい?」
「全部を一人の人間でと言うのは、むつかしいんじゃないのかなあ。こわすときに人の恨みをさんざんかっていますから。そのあとで、“今後は仲よく建設しましょ”といっても、到るところに恨みが残っています。こわすまでが一人、それからは、また別人。おおまかに見ると、そんな構図が見えてくる。そういう歴史の意志みたいなものがあって、その設計図にあわせて信長が生まれ、動いていたって、そんな気がしますよ」
私は自分でも不思議に思うほど雄弁になっている。和代の病いを忘れたいのだろう。ほかのことを|喋《しゃべ》っていれば気が紛れる。
「あ、そう言えば、フランスでもナポレオンの登場に関して、そんな意見がありますよ。こまかいことは忘れちゃったけど、なにかで読んだなあ」
「ナポレオンも、そうなんですか」
「ええ。ナポレオンの登場は、十日早くても十日遅くても駄目だった。絶妙なタイミングで出現したって。十日は極端かもしれないけれど、とにかく、ほとんど“この時だけ”というタイミングで登場したことは確かですね」
「そうして歴史的役割を果して死んでいる、そうなんでしょ」
「まあ、そうですね」
「最近読んだ本の受け売りなんですけど、信長には二人の有力な天才的な協力者がいた。一人は軍事面での秀吉、もう一人は文化面での狩野永徳。例の|屏風絵《びょうぶえ》を描いた絵師ですね、ノエルが捜していた……」
「そんなに|凄《すご》い立場の人だったんですか? 秀吉と同じくらいに」
「多少、誇張があるのかもしれないけれど、そういう説もあるみたいですね。安土桃山の文化は、中世から近世を展望するエポック・メーキングなものだったらしいし、その中枢にいたのが永徳だったわけですから」
「権力が大きなうねりを持って勢力を拡大するときには、かならず文化的にも新しい力を発揮するんですね。ヨーロッパの歴史を見ていると、よくわかります。アレクサンドロスのヘレニズムから始まって、ルイ王朝もそうだし」
「信長は芸術的センスにおいても型破りで、天才的なものを持っていたらしいですね。永徳は信長の死後、秀吉にも|寵愛《ちょうあい》され、狩野派は絶大な権力を掌握するんですけど、秀吉は本当に永徳のすばらしさを理解したかどうか怪しいようです。永徳の名声は大変なものだったし、秀吉にしてみれば世間がそれだけ高く賞讃するんだから、それで飾らない法はないって、そういうことでしょ。ブランド商品をただ高価だから身につけるのとたいして変わらない心理だったと思いますよ。秀吉が好きなのは、大判小判、金のピカピカでしたから」
一ぱいめのコーヒーは、すでに飲み干していた。私は自分自身に暗示をかけていた。この話を語っている限り、和代の病いが現実から遠のくように思っていたのである。
新しいコーヒーを頼んだ。
「日本のコーヒーはおいしいですね」
「フランスより?」
「ええ。私にはこの味のほうがあっています。何年むこうで暮らしていても」
と、山形は新しいコーヒーをブラックのまま口に運び、味わいを確かめてから、
「じゃあ信長のほうはわかっていたわけですね、永徳の本当の価値を」
「権力志向が強かったでしょうから“本当に”と尋ねられると、むつかしいけれど、かなりよくわかっていたんじゃないのかなあ。永徳自身も晩年は、権力を握ったのと多忙とで筆力はむしろ落ちている、という評価もあるんですよ。信長と接触のあった頃、つまり安土城の障壁画を描き、安土城の屏風絵を描いた頃が、若い才能がみごとに開花した時期で、一番すばらしい、という説が有力なんです」
聚光院の〈山水花鳥図〉も、その一つに挙げられている。
「そうなんですか」
「永徳は四十八歳で死んでいます。狩野派のリーダーとして他派を圧倒し、勢力の絶頂のときに。信長の死が四十九歳。どちらも権力を掌握した直後の早い死でしたね」
「ほとんど同い年ですね」
「そうなんです。若い頃の永徳の絵は本当にみごとなもので……」
と、いったん言葉を切ってから、
「|妖《よう》|気《き》を放っていた、という話も聞きました」
「妖気……ですか」
「そう。|妖《あや》しい気配です。そんな話、聞きませんか。すばらしい絵には人知を超えた不思議な力が備わっているとか」
笑いながらつけ加えた。琵琶湖のほとりの宿で会った男が言っていたことを思い出したからである。
「ああ、ありますね」
「ヨーロッパでも?」
「はい。聞いたこと、ありますよ。あれは、なんで読んだのかなあ。たしかルイ王朝の頃の伝説ですよ。ワイルドの〈ドリアン・グレイの肖像〉とよく似た話です。と言うよりワイルドが、あの伝説を知って〈ドリアン・グレイの肖像〉を書いたのかもしれませんね」
私は首を振った。〈ドリアン・グレイの肖像〉というタイトルは知っているが、読んだ記憶がない。オスカー・ワイルドの作だということも、言われてみれば、そうだったかと思うほどの知識しか持ちあわせていない。
「どんな小説でしたっけ?」
「伝説そっくりですよ。ワイルドのほうは、ずっと現代化され、ワイルドの思想がふんだんに盛り込まれていますけど、もとはよく似ています」
「ほう?」
「ワイルドはフランス語で作品が書けるほど、フランスに通じていたから、同じ伝説からヒントを得たのかもしれませんね。たしか若い王が即位した日に、旅の絵師が王の肖像画を描いて立ち去るんですよ。とても高貴で、美しい肖像画でした。王子であった頃は、その肖像画通りの純粋|無《む》|垢《く》な人柄だったけれど、王位に就くにつれ、次第に残忍非道、好色放逸な人柄へと変わっていく。にもかかわらず容姿は相変わらず美しい。肖像画だけがひどい人相に変わっていく。そんな話でした」
「最後はどうなりました?」
「絵を焼くんじゃなかったかな。あまりの醜さに耐えられなくなって。すると、その夜、王城が敵の急襲を受け、火をかけられ、王自身も焼死してしまう」
「なるほどね」
「よくは知りませんが、絵の中の美女が夜ごとに抜け出して来るとか、あるいは逆に自分が絵の中の風景へ入って行くとか、そういう話、たくさんあるんじゃないですか」
「そうでしょうね」
「ええ」
「信じていないんでしょ」
と、私は若い人の心を尋ねてみた。
「いや」
と、一つ、首を振ってから、
「画家が精魂をこめて描いたものなら、なにかしら不思議な力が潜んでいるんじゃないか、そんな気がしないこともありません。ヨーロッパの文化は奥行きが深いから、超現実的な出来事だって、本当にあったのかもしれないって、そう思うこと、よくありますよ。永徳の絵は、どんな妖気を発したんですか」
「わかりません」
湖畔の宿で会った男は、肝腎なことはなにも話してくれなかった。
「デコは、どうしています?」
と、話題を変えた。
「ええ、元気ですよ」
「いい娘さんだ。明るくて、利発で。結婚されるんでしょ」
今度の帰国も、そのことと関係があるのではないか、と私は推察していたのだが、
「さあ、どうなるんでしょうか」
と、山形は他人事のように笑っている。
なにか事情があるのかもしれない。似合いのカップルのように見えたのだが……日時がたてば情況も変わる。
一瞬、暗い気配を感じた。暗さの理由を捜し、すぐにわかった。
――和代だって――
フランス旅行の楽しい日々には、今日の暗黒を予測することなど到底できなかったではないか。
山形が腕時計を見る。
「すっかりお邪魔してしまって」
「ありがとう。よく来てくださいました」
「いえ。奥様によろしく。早く元気になってまたフランスへいらしてください」
「ええ。そのつもりでいます。また、連絡しますよ」
「永徳の絵のことも、なにか新しい発見があったら教えてください。私もだんだん引き込まれてしまって」
「はい、はい」
喫茶店を出たところで、
「オウ・ルヴォアール」
と告げた。
オウ・ルヴォアールは再会を意図した別れの言葉である、と、これは過日、山形から教えられたことだ。
「オウ・ルヴォアール」
と、山形は私よりずっと確かな発音で答えた。
――和代のためならば、アデューのほうがよいのではあるまいか――
同じ別れの|挨《あい》|拶《さつ》でもアデューは“神がともにあるように”の意だとか。ただの挨拶にだって言葉の原義は残っているだろう。
山形と別れて病室へ戻ると、和代は眠っていた。安らかな眠りはうれしいが、しみじみと眺める顔色が|冴《さ》えない。日を追ってひどくなる。さぞかし山形も驚いたにちがいない。まるで別人のように映ったのではあるまいか。
――これが絵ならば、よいのだが――
絵の中の和代だけが疲弊していく。現実の和代は元気そのもので快活に暮らしている……。そんな|奇《き》|蹟《せき》が起きないものか。
考えてみれば、ここ数年が、たとえばフランス旅行の最中が、まさにそうではなかったのか。どこかに和代の肖像画があって、絵の中の和代だけが少しずつ病んでいた。病いの兆候を現わしていた。現実の和代は病気とはまるで無縁のように|溌《はつ》|溂《らつ》としていた。ある日、その絵が消失して、たちまち病気が和代へ移った。まるでそんな|寓《ぐう》|話《わ》が隠されていたような現実ではないか。
――ならば、もう一度、その絵を発見することができないものか――
和代がポッカリと眼を開ける。
「山形さん、帰ったの?」
「ああ」
薄暗い天井に視線を向けたまま、
「デコとは、うまくいってないんじゃないのかしら」
と|呟《つぶや》く。
「えっ?」
そんなこと、山形は病室では少しも話さなかった。
「どうして、そう思う?」
「わかるの」
言葉は弱々しいが、確信が|籠《こも》っている。まるで見えないはずの未来が見えるみたいに。
「パリのホテルで〈太陽がいっぱい〉を見たわね」
「うん」
「あの映画みたいに」
「うん」
「ノエルがデコを奪ってしまうの」
夢でも見たのだろうか。
「ありうるかもしれないな」
「怖いわ」
なにが怖いのか。目顔で尋ねても答えない。
「安土城の話をしたよ」
「そう」
「彼も意外に興味を持ち始めて」
「山形さんが?」
「うん。宝捜しはおもしろいからな」
「見つかるかしら」
「さあ、どうかな。いま思い出したんだけど……」
「なーに」
「何年か前にアメリカの美術館で花見の|屏風《びょうぶ》が発見されたことがあったな、って」
「どんなお話?」
「もともとは一双の屏風で、一つが日本の美術愛好家の手にあって、もう一つが、どういう事情かわからないけどアメリカに渡り、美術館の所蔵品になっていたんだ。どちらも長い間、独立した一枚の屏風と思われていたらしいけど、美術館員が偶然セットらしいことを発見して、並べて見ると図柄がぴったりと合う。とりわけ片方の屏風の中にいる男が、もう一方の屏風の中にいる女を見つめている、その視線がみごとに合っている、たしか百年ぶりの再会とか……そんな見出しが新聞に出ていたと思うよ。東京のどこかの美術館で、二枚を並べて展示したんじゃなかったかな。花見で|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れした男女が百年ぶりに再会したとか……」
いつのまにか和代は眠りに落ちていた。私は口をつぐみ、和代の寝顔を見つめ続けていた。
手術の時間は短かったが、結果は最悪のものだった。
「そのまま閉じました」
執刀医の短い言葉が全てを雄弁に語っていた。手のほどこしようもないほどひどく病魔に侵蝕されていたということだろう。主治医の説明もむなしい。レントゲン写真で見たより、はるかにわるい状態だった、と教えられた。
それからの十数日は、ただ、ただ衰えていく、生命のあがきを見るばかりであった。断続的であった苦痛が恒常的な苦痛へと変わる。
和代は我慢強い。
私の眼には耐えがたい苦痛のように映ったが、それでも他の患者より苦痛が少ないほうなのだとか。
――それならば、まだしも救われる――
いつしか私は安らかに眠ってくれることを願っていた。助からないものなら、これ以上苦しむ必要はないではないか。それでもなお、
――頑張ってくれ――
と願うのは、生きている側のエゴイズムではないのか。治癒の見込みもないままに苦しんでいる病人を見ていると、否応なしに安楽死の問題を考えずにはいられない。和代が入院して数カ月、もうそんなことを考えている私は薄情な人間なのだろうか。
隣室の患者が昨夜死んだ。一年を超える苦しい闘病だったという。五十七歳の男である。
ダンボールの荷物を手押し車に載せて帰る未亡人が、
「一年あまり看病ができて、よかったと思います。苦しむ病人を見ていて、少しずつ、少しずつ覚悟ができました」
と呟く。
その心境はよくわかるけれど、突っ込んだ見方をすれば、
――病人は、残る人々に覚悟を与えるために苦しみ続けなければならないのだろうか――
となる。そんなことなら、私は二カ月でかまわない。たとえ非情と言われようと、和代に早い安らぎを与えてやりたい。
アメリカのある町で安楽死の是非をめぐって市民投票がおこなわれた、と、テレビが報じていた。結果は小差で安楽死を認めるほうに傾いたとか。五十一対四十九くらいの比率で……。が、これほど重大な事項を公的に決定するにはこの比率では少なからず問題があるだろう。ほんの一握りの市民が意見を変えれば、結果がガラリと変わる。単純な多数決ではきめられまい。そんな事情もあって、投票結果が明らかになってからも、まだ具体的な方策が立てられずにいるらしい。
――しかし、どうかな――
この海外ニュースは自宅で、たった一人の夕食をとりながら見ていたのだが、今、あらためてとりとめのない思案が心にのぼってくる。
――もし、死んだ人がこの投票に加わったならば、結果は、まるで異なっているだろうなあ――
圧倒的な多数で、安楽死を認めるのではあるまいか。
病名は隠していたけれど、和代が気づかぬはずがない。細かいことはともかく、自分の不調が死に至る病いであることは、早い時期から感づいていたのではないのか。ただごとではない苦しみ、日ごとに悪化する病状……、むしろ当人が一番よく感知することだろう。
手術のあと、少し苦痛の和らぐときがあって、
「私が死んだら……」
と、笑いながら言う。
「死にやしない」
私の言葉には|頓着《とんちゃく》せず、
「向こうがいいところだったら、あなたに合図を送るわ。“待ってますよ”って」
そういう話ならば、まあ、よい。冗談として語ることもできる。
「いいところだから、早く来いって、か」
「いけない?」
「いいよ、いいよ。長くは待たせない。どういう合図だ?」
「わかんない。行ってみなけりゃ、どういう合図が送れるか、わからないでしょ」
「うん」
「でも、どういう合図か、今はわからないけど、気をつけて見ていれば、ちゃんとわかるような合図を選ぶわ」
「そうしてくれ」
「うっかりしてないでね」
「大丈夫とは思うけど……。しかし、まだ、そんなことを約束する段階じゃないぞ」
「でも、今のうちに約束しておかないと」
「わかった、わかった。よく目立つ合図にしてくれ」
「きっとね。忘れないでください」
笑ってはいたが、口調は真剣だった。自分の死が遠くないことを充分に予測していたのだろう。病状はすでにその予測が|杞《き》|憂《ゆう》ではない状態に陥っていたのだから……。
ついに最後の通告が下った。
「あと十日くらいでしょうか。親しいかたにご連絡をしてください」
と、主治医が言う。
妻にも私にも親しい身寄りがほとんどいない。この|期《ご》に及んで特に呼び寄せる人など思いつかない。いたずらに騒いでは、かえって病人の疑惑を深めるだけだろう。そう、まったく、余計な|苛《いら》|立《だ》ちを覚えさせるだけだ。いつもと同じように、自然に、自然に……私一人で見守ってやればそれでよい。
昏睡が始まって間もなく、一瞬、眼を開け、おぼろげに意識を取り戻し、
「安土へ行ったわ」
「ああ」
「楽しかったわ」
「また行こう」
「城があって湖が見えて」
そこまで|呟《つぶや》いて、また深い眠りへ落ちていった。|脳《のう》|裡《り》に屏風絵のような風景が映ったのかもしれない。
深くは考えなかった。
深く考えるゆとりが私にはなかった。
が、それからもう一度、和代は眼をうつろに見開いて、
「舟が……舟が来るわ」
と、細く告げて眼を閉じた。
私は名状しがたい|戦《せん》|慄《りつ》を覚えた。恐怖と言ってもよい。|狼《ろう》|狽《ばい》と言ってもよい。いっさいのネガティブなものが頭の中を|駈《か》け抜けた。
「和代、和代、しっかりしろ。その舟には乗るな」
耳もとで叫んだ。
もう眼を開かない。
――舟には乗ったのだろうか――
それが最後の言葉となった。その夜のうちに和代は不帰の人となった。
――人間の生命とはなんなのか――
病院の外は昨日と少しも変わっていない。町の様子も、人の顔も、風の|匂《にお》いも……。明日も、明後日も、世界は同じ姿で同じように活動を続けていくだろう。その片隅で一つの命だけがあとかたもなく消えていく。
――死に行く者は、なにかしら生存した|痕《こん》|跡《せき》をこの世に残そうとしないものだろうか――
それはなんなのか。
葬儀には和代の同僚が大勢集まってくれた。死化粧をほどこした和代は、信じられないほど若く、美しかった。
だが、ひとときの|賑《にぎわ》いが過ぎてしまえば、私の周囲にはさびしさがただ|靄《もや》のように白く厚く張りつめて残った。
和代の最後の言葉が、|厭《いや》でも心に|甦《よみがえ》ってくる。「舟が来るわ」と呟いていた。
あのときはあわてていたが、よく考えてみると、
――私は和代に“舟が来る”話をしただろうか――
琵琶湖のほとりでは……安土もその一つだろうが、舟が死ぬべき人を迎えに来ると言う。そんな伝説がいくつも残っているらしい。
だが、それは、あの湖畔の宿で会った男が私に話してくれたことである。和代は同級会から褐色の顔色で帰って来て、すぐに闘病生活へ入った。奇妙な男が語った話は、病床にふさわしい内容ではない。病室の|枕辺《まくらべ》で私たちはいろいろな話を交わしたが、断じて舟の話などしていない。そう、山形には話したけれど、和代には伝えていない。
なのに、和代は湖を|漕《こ》いで近づいて来る舟の姿を、生と死のはざまで脳裡に描いた……。ちがうだろうか。
――なぜなのか――
安土が最後の旅となった。フランス旅行ほどではないまでも、あれはあれで短いながら楽しい旅だった。とりとめのないことを語りながら老後を旅で過ごすのが二人の夢だった。
安土の楽しさが和代の心に残っていて、湖のイメージが舟を連想させたのかもしれない。永徳の描いた|屏風絵《びょうぶえ》に“舟が浮いていた”と、そのことならパリでも話題にのぼっていた。混濁した脳裡に舟が浮かんで見えたのは、そのせいかもしれない。
一応はそう割り切ってみたものの、釈然としないものが私の中に残ったのは本当だった。
永徳、ノエルの話、屏風絵、安土城、奇妙な男、和代の死……私の周囲ですべてが|繋《つなが》っている。見えない糸が通じている。聚光院で|襖絵《ふすまえ》を見て異常な気配を感じたこと自体が、いっさいの前ぶれだったのではあるまいか。
そして、もう一つ、心に残っていることがある。「向こうがいいところだったら合図を送るわ」と和代は言っていた。あれはまだ脳の働きがまったく正常のときである。怖いほど真剣だった。
――合図が来るかな――
来るような気がする。きっと来る。私にだけは、それとわかる合図が……。
そう思うのは私の願望であり、私の心が弱っているからだろう。理性で信じられることではないけれど、和代と私のあいだならば、そんなことが起きてもよいだろう。生きている者と死んだ者とのあいだに、なにかしら連絡がありうるものなら、和代と私のあいだにこそ、それがあるだろう。私たちは気ごころのよく通じた夫婦だったから。
――まったくの話、生者と死者のあいだに一本くらい細い道が通じていてもよいではないか――
無理にでも、そんな思案を抱いて生きていきたい。
和代の死は、私にとって真実予想以上の衝撃をもたらした。心に大きな穴が開いて、とても修復ができそうもない。
加えて、もう一つ、悪いことが重なった。
二年前に私の勤める出版社の社長が他界し、その息子が新社長に就任した。先代とは二十年近く苦楽をともにしたけれど、新社長とは世代もちがうし、仕事に対する考え方も異なる。それに、私自身、
――定年までサラリーマンをやっていることはないな――
そんな願望を心の中に持っていた。
定年まであと三年……。昨今は体の疲弊が激しい。元気が充分に残っているうちに、自由な身になりたいと、そう考えているところがなくもなかった。
若い社長に肩を|叩《たた》かれ、
「どうですか。定年まで頑張っていただきたいけれど、ご承知のように退職金の優遇制度も設けましたし」
釈然としない思いはあったが、二日考えて、
「わかりました。後進に道を譲ります」
と退職を決意した。
食うくらいのことは、フリーの校正者としてやっていける。長年、出版社に在職したおかげで、校正には自信がある。若い人には負けない。
通勤もつらくなっていた。
――体が悪いのかな――
和代の死このかた、この思いが頭を離れない。悪ければ、悪いでよい。和代がいまに合図を送って寄こすだろう。
だから“悪いことが重なった”という言いかたは、あまり正しくはないだろう。長年勤めた職場を追われるように退職したのは、けっして愉快ではなかったが、必ずしも悪いこととは言えない。よい面もある。
ほんの少しだけ校正の仕事を引き受けながら、とりあえず一年間は、好きなことを好きなようにやって生きてみようと思った。和代と過ごした歳月をじっくりと思い返してみるのもわるくない。それに……安土城の屏風について調べる仕事も残っていた。
生活が一気に自堕落になった。
朝は何時に起きてもかまわない。夜は何時に寝てもさしつかえない。食事だって気ままにとればよい。新聞のテレビ欄を見て、その日に見たい番組を選ぶ。本を読む。書店や図書館へ行く。散歩をする。時折、和代のことを思い浮かべて話しかける。微笑が|頬《ほお》をくすぐる。|傍《はた》|目《め》には少し狂って見えるかもしれない。
こんな生活を続けていると、季節の移り変わりがよくわかる。自然の変化があらためて新鮮に感じられた。
遠い電話
和代の死から数えて一カ月あまりが過ぎ、さびしい正月を迎えた。
テレビだけがにぎにぎしい。
そして成人の日の朝、新しいコーヒー・ミルで豆を|挽《ひ》いていると、電話のベルが鳴った。
「もしもし」
女の声が、遠く、戸惑うように告げている。
「はい?」
「白井さんでいらっしゃいますね」
「はい」
「あの……魚住です。秀子です」
と、含み笑いを忍ばせてから、
「パリでお目にかかった」
と、|繋《つな》ぐ。
「ああ、デコさん」
「はい。その節はいろいろとありがとうございました」
声と一緒に明るい表情を思い出した。
「こちらこそ」
「あの……奥様がお亡くなりになられたとか」
去年の暮、私は山形に手紙を送っている。デコは山形から和代の死を聞いたのだろう。
「はい」
「驚きました。お目にかかったときには、あんなにお元気でしたのに」
「すでに病んでいたんでしょうけど。いい思い出になりました」
「心からお悔み申し上げます」
死に至る事情を短く伝えたあと、
「今、日本ですか」
と|訊《き》けば、
「いえ、パリです」
「それはどうも」
悔みを言うために国際電話をかけて寄こしたのだろうか。
「突然、お電話をして恐縮なんですけど……」
「いえ、かまいませんよ」
「あの……ノエルがどうしても尋ねてほしいと言うものですから」
「なんでしょうか」
わけのわからない思案を頭にめぐらしながら尋ね返した。
ノエルはこれまで(と言っても二度だけのことだが)山形を通じて私に質問を寄せて来ていた。それが、
――デコに替ったのは、なぜだろう――
気がかりと言えば気がかりである。
とはいえ国際電話で尋ねることではあるまい。
「織田信長が死んだときの事情を詳しく知りたいって」
「本能寺の変ですね」
「はい。こちらでも多少のことはわかるんですけど、ノエルは“そんな概説書に書いてあるようなことじゃなく、もっと詳しく”ってせがむんです。なにかよい本、ありましょうか」
「そうですねぇー。あることはあるでしょうけれど」
「申し訳ありません。日本のことを聞かれると、答えてあげないといけないような気がしてしまって」
「わかります」
「すみません」
「信長の最期は……本能寺で自刃するまでの数日は、わりとこまかいところまで調べがついているんじゃないのかな」
「そうなんですか。私、恥ずかしいんですけど、日本の歴史にうとくて」
「いや、こまかいことは日本人だって知りませんよ」
「最後は自分で……切腹したんですよね」
「そうです」
「家来をほとんど連れていなかったってのは本当なんですか」
「たしか七十人くらい……」
「七十人もいたんですか」
「いくら少ないと言っても、そのくらいの配下はいたでしょう。しかし、明智光秀のほうは一万以上ですから」
「ああ。それじゃあ」
「かないません」
「明智光秀は、なぜ裏切ったんですか」
「それが案外むつかしい問題で、真相は今もってよくわからないみたいですよ」
「そうなんですか」
「現代風に言えば、単独犯なのか、それとも背後に光秀を唆かした勢力があったのか」
「そんなのもあったんですか」
「ええ。たとえば堺の商人たちとか、あるいは京都の|公《く》|家《げ》衆とか、信長の台頭に激しい不満と不安を持っていた人は結構たくさんいましたからね」
「でも光秀は、自分が信長に替って天下を取ろうとしたわけでしょ」
「一応はそうでしょうけど、その後の成行きを見ていってると、どれほど目算があったか、少し怪しいところがあるみたいですよ。軽い発作、軽い狂気……つまり、信長に対する積年の恨み、あるいは“このままではいずれ自分は殺される“敵は本能寺にあり”って命令を発してしまったのかもしれない。そういう心理、わかるような気もします」
「天下を取るぞ、って、そういう意味の句を詠んでいるの、本当ですか」
「ああ。“時はいまあめが下しる五月かな”ですね。決行の四、五日前に詠んでいる」
「はい?」
「しかし、これはあとで作り変えられた句で、本当は、“時はいまあめが下なる五月かな“あめが下しる“あめが下なる”では、たった一字ちがいですけど、意味は全然ちがう。光秀は、ただ季節の句を詠んだだけで、天下取りを宣言したわけじゃないと思うなあ」
ここ数年の読書のせいで私もこの時代の歴史について大分知識が豊富になっている。
「おもしろいですね」
「日本人が好きな言葉遊びの一種かな。フランス人にわかるかどうか。“あめが下しる“あめが下なる”では、雨の下に五月があるというだけの意味になってしまう」
「そういうこと、わりとノエルは好きなんです」
「そうかもしれませんね。でも、とにかく、適当な本を見つけて送りますよ」
初歩的な知識を電話でくどくどと述べることもあるまい。
「ありがとうございます。それから、もう一つ、安土城の|屏風《びょうぶ》は、信長がとても気に入っていたものなんでしょう?」
「もちろん、一番|贔《ひい》|屓《き》にしていた狩野永徳に描かせたものだし、描いてあるのが自慢の安土城だし」
「でも、それをなぜ法王に献上したんでしょうか」
「厳密に言えば、ローマ法王に献上したわけじゃないんです。ヴァリニャーニという宣教師のリーダーに|托《たく》し、ヴァリニャーニがローマ法王のところへ持って行った、という事情だと思います」
「でも、とにかく手放したわけですから」
「それはそうです。この屏風は天皇に所望されたのに断わっているんですね。それほどの品を、なぜヴァリニャーニに渡したか、その点は私もよくわからない。宣教師の手を通じて威信を世界に伝えたかったのかな」
「そのあたり、もう少し詳しくわかるようならば、教えていただけますか。もちろん、これもノエルの注文なんです」
「いいですよ」
「よろしくお願いします」
「山形さん、元気ですか」
「はい、元気です。ノエルのときに会って、奥様の|訃《ふ》|報《ほう》を聞いたんですけど」
「ノエルのとき?」
「あっ、このノエルは彼のことじゃなく、クリスマスです。フランス語でクリスマスのこと、ノエルと言って」
「あ、そうですか」
「日本は朝ですね。ご免なさい。朝早くから失礼しました」
「いや、久しぶりに声が聞けて楽しかったです」
「また、どうぞいらっしゃいませ」
「はい。では、みなさんによろしく」
電話を切ってから考えた。
デコが山形に会ったのはクリスマスのときだとか。それから三週間もたっている。その間、デコは山形に会っていないのだろうか。もし、そうならば、二人の仲は、私たちがパリで見たときとは、少し変わっているのではあるまいか。ノエルの質問が山形からではなく、デコから届いたことと、それはたいして意味のないことなのだろうか。和代もベッドの中で山形とデコは「うまくいってないんじゃないのかしら」と案じていた。まるで|巫《み》|女《こ》の託宣のように「わかるの」と|呟《つぶや》いていた。
とはいえ、今の電話の内容をあらためて思い返してみると、デコは「クリスマスのときに山形と会い、和代の訃報を聞いた」と言っただけであり、それはそのあとずっと山形に会っていないということではない。会話のポイントは和代の死を聞いたのがそのときだったということであり、とくに問われないかぎり、親しい友人である山形と会っているかどうか、ことさらに説明することはないだろう。会っているほうが普通なのだから……。
そう考えて納得はしてみたが、心のどこかで和代の告げていた言葉が忘れられない。
――まあ、いいか――
いずれにせよ私が深く拘泥することではないだろう。
本能寺の変に先立つ数日間、信長がどう行動していたか、それを伝える本はすぐに見つかった。平易に記されているものを二冊|購《か》い、ついでに私も読んでみた。
五月十五日、徳川家康が安土城に来訪している。信長より駿河を与えられた家康が、その御礼を言上するのが、この訪問の理由である。信長は家康の功績を多とし、おおいに歓待している。
五月十七日、高松城を水攻めにしている秀吉より援軍の要請が届く。毛利輝元等が高松城の救援に向かったため、秀吉のほうにも援軍がほしくなったということだが、その実、これは信長の出陣をうながし、一番の花道を信長に托そうとする、秀吉らしい気働きだったとか。つまり、必ずしも信長が来なくても勝てる目算はあったのだが、あえて信長の指揮を仰ごうという知略であった。信長は明智光秀、細川忠興、中川清秀、高山右近、筒井順慶等に出陣を命じ、家康にもいったん帰国ののち軍を|揃《そろ》えて西上するように頼んだ。
五月二十一日、家康は安土をたち、京都、堺をめぐり、のんびりと遊覧気分を満喫して帰って行く。
五月二十八日、光秀は|愛宕《あたご》|山《やま》に詣で、将来を|卜《ぼく》して、二度も三度もおみくじを引いたとか。
五月二十九日、信長は自らも出陣し、京都に入って本能寺を宿とする。供は馬廻小姓衆七十余人であった。同じ頃、丹波亀山城へ帰った光秀は連歌師の里村|紹巴《じょうは》等と興じ、著名な一句を詠んでいる。“時はいまあめが下しる五月かな“時はいまあめが下なる五月かな”であったのは事実らしいが、それとはべつに光秀の野望は、このあたりでおおいに|脹《ふく》らみ始める。しかし、逆に言えば、この|期《ご》に及んでも、まだ迷いがあったのである。
六月一日、信長は近衛前久等、|公《く》|家《げ》衆を招いて、自慢の茶器を眺めさせる。また、中国・四国の攻めの総大将に任じられた嫡子・信忠が父のもとへ参上する。信長はすこぶる上機嫌で信忠や京都奉行の村井貞勝と夜遅くまで歓談した。一方、この夜、光秀は亀山城を出て、やがて山城と丹波の国境に位置する老の坂へ到達する。高松へ向かうにはまわり道になるが、光秀は“信長公の謁見を受ける”という口実を設けていたらしい。道は二つに分かれ、一方を採れば摂津から高松へ、一方を採れば桂川を渡って京へ到る。
六月二日、もちろん光秀は京へ向かう道を採る。未明に本能寺を囲んで攻撃を開始する。信長は眼をさまし、物音を聞き、当初は家臣たちが|喧《けん》|嘩《か》でもしていると思ったらしい。しかし、鉄砲の音が聞こえる。|近習《きんじゅう》が走って来て「明智殿の謀反でございます」戦国の雄は一瞬にして勝敗の行方を|覚《さと》ったのではあるまいか。七十余人では明智の軍勢にかなうはずがない。「是非に及ばず」と発し、弓を取り戦う。衆寡敵せず、部屋に戻って自刃して果てた。
順序が逆になってしまったが、デコが告げていたもう一つの質問、信長がなぜ愛蔵の屏風をヴァリニャーニに渡したか、その事情は以前に調べたものより|詳《つまび》らかなものを見出すことができなかった。信長はヴァリニャーニに屏風を渡し、気に入ったら手もとに置くようにと命じている。ローマ法王については、なにも触れていない。信長はローマ法王のなんたるかを正確には知らなかったろう。
それを信長からローマ法王への贈り物としたのは、ヴァリニャーニの判断だったろう。それとも宣教師が受けた贈り物は、法王への贈り物とされるのが、彼等の習慣だったのか。高価なものについては、そんな習慣もあったかもしれないが、そのへんの事情は私の知恵が及ばない。
が、とにかく、その屏風は少年使節団の手によりはるばる海を渡ってヴァチカンに持ち込まれたというわけだ。三年を超える長い、困難な船旅であったことを考えれば、二曲|一《いっ》|双《そう》の大きな荷物が、
――よく届いたなあ――
と、思いたくなってしまう。
こんな事情を手紙に書き、二冊の本と一緒に航空便で魚住秀子|宛《あて》に送った。
それから十日ほどたった休日の朝、電話のベルが鳴り、
――デコからかな――
と、予測をして受話器をとると、予測通り、
「もしもし。魚住です」
と、歯切れのよい声が聞こえてくる。
「届きましたか」
「はい。お手数をかけて本当に申し訳ございません。|早《さっ》|速《そく》ノエルに会って、要所要所、訳して聞かせました。くれぐれもよろしく申し伝えてほしいとのことでした」
「いや、本屋へ行けば見つかる程度のものですから」
「お代は……いかほど費用がかかったのでしょうか」
「いや、結構です。たいした額ではない」
「でも、それは困ります」
「いや、また、いつかお目にかかるときがあるでしょう」
「是非おいでくださいませ。私が帰るかもしれませんが……」
「そのときでいいですよ」
「一応実費だけでも、かかったものをお教えください」
「本の定価と郵便料だけです。私はもう忘れちゃった。そっちで見てください」
「わかりました。じゃあ、しばらくお借りしておいてよろしいですか」
「どうぞ、どうぞ」
問答を続けながら、いつかと同じような不確かな思案を感じた。
私のほうは費用をもらうつもりはなかったけれど、支払ってもらうとすれば、それは当然ノエルからだろう。デコがあれこれと細かく気をまわすことではあるまい。
とはいえ、ノエルは私と直接接触をとっているわけではないのだから、
――やっぱり、これはデコの仕事かなあ――
とも思ってしまう。
「あの、もう一つ、おかしなことをうかがってよろしいでしょうか」
「なんでしょう。どうぞ」
「ノエルが是非とも尋ねてほしいと言うんです」
またノエルか。
「はい?」
「|屏風《びょうぶ》の絵に|呪《のろ》いがかけられているとか、そういうこと、ないのでしょうか。私、そんな馬鹿なことって言ったんですけど、ノエルは神秘主義者で、東洋とか、日本とかの迷信に関心があるし、本気で信じているようなところもあるんです」
欧米人の持つオリエンタリズムの中に、そうした傾向が含まれているのは、よく知られている。
「ノエルが言うんですね?」
「はい。屏風絵を好んだ信長も不慮の死をとげているし、ローマ法王も絵を見て間もなく死んでるわけでしょ? ノエルのお父様も、屏風を見て間もなく死んでいるんです」
「ああ、そんなこと、話してましたね。ご覧になったのが、本物かどうか怪しいところもあるけれど」
「ノエルはその気でいます」
と、受話器のむこうからうれしそうな声がこぼれてくる。
「うーん」
どう答えたらよいものか。
――優れた絵画は|妖《あや》しい力を持っている――
そう、これは、いつか琵琶湖のほとりの宿で会った男が言っていたことだ。聚光院の|襖絵《ふすまえ》も私になにかを語りかけていた。若い頃の永徳には妖しい気配が漂っていた……。
「ヘンテコなこと、お尋ねしてすみません」
「いや、いいんです。りっぱな絵画は、なにかしら人知を超えたものを持っているかもしれないって、私も考えていますから」
「本当に?」
「ええ。ただ……安土城の屏風絵はどうかな。伝説の一つや二つ、あってよさそうな名画であることは確かだけど、描かれて間もなく日本を離れたせいか、わりと関係する資料が残っていないんですよ」
「絵に呪いが込められてるって話、たくさんあるんですか」
「世界的によくあるんじゃないのかなあ。このあいだ、山形さんと話しましたよ。山形さんも一つ二つ、ヨーロッパの話、知っていたな。山形さん、どうしてますか」
「はい。昨日、会いました。わりと忙しいんです」
「ああ、そう。仲よくね」
「ありがとうございます」
「ノエルは、相変わらず屏風を追いかけているわけね」
「はい。夢中みたい」
「今の件、調べてはみますけれど、あまり期待はしないでください」
「わかりました」
「じゃあ、お元気で」
と、電話を切った。
前回の電話に比べれば、ずっと味がよい。勝手な思い入れと言えば、まさにその通りなのだが、デコの恋人として私はノエルより山形のほうがよいと思っている。和代の遺志でもあった。デコは昨日山形に会ったということだし、ノエルは屏風捜しに「夢中みたい」だとか。この「みたい」がわるくない。よくは知らないというニュアンスなのだから。もとより電話で語る、この程度の感触などあまり当てになるものではないけれど……。
――それよりも――
と、思案を移した。
――絵の呪いか――
信長ばかりか、安土城も短命であった。はるばると海を渡った名画は、ローマ法王のもとに届いて、数日後に法王の死に遭遇している。ノエルの父親も絵を見て間もなく死んだとか……。
――そんな馬鹿な――
屏風絵を見た人は、ほかにも大勢いるだろう。みんながみんな不慮の死を遂げているわけではあるまい。
――ただ――
と、私の理性は、こうした因果の糸を否定したいのだが、そう思う矢先に、いつか聚光院で体験した不思議な感覚が心に|甦《よみがえ》ってくるのである。
――名画は、特定の人にだけメッセージを放つのかもしれない――
私は永徳の|妖《よう》|気《き》を感じうる体質なのではあるまいか。かつて信長やローマ法王がそうであったと同じように……。
――話が|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》すぎる――
頭を振って否定した。
ノエルに頼まれた件は、案の定、どの資料を見てもはかばかしい記述にめぐりあえなかったけれど、そんな調査の最中に、ウィンゲの木版画に出会った。
図書館の閲覧室。
だれもいなかった……。
いや、周囲にいくつかの人影はあったのだが、奇妙にひっそりとしていた。だれもいないように感じられたのは本当だった。
古い雑誌のページを開くと、二枚の木版画があった。
――これだな――
ウィンゲの木版画については、すでに湖畔で会った男から聞いている。是非とも見たいと思っていた。
直感的に|覚《さと》った。
わずかな説明から読みとれることは、フィリップス・ファン・ウィンゲは十六世紀の後半、つまり少年使節団がローマを訪ねた頃に生存した画家で、永徳の描いた屏風絵をもとにしてスケッチを描いたらしい。それが、どれほどのものであったか、おそらくスケッチそのものは残っていないのだろうが、その一部を木版画にしてヴィンチェンゾ・カルタリが著述の中に載せている。それが、この二枚の木版画である。一六一五年の木版とあるから、これも充分に古い。
木版画そのものは、たった二枚であり、むしろ稚拙と評してよいものである。永徳の筆を|偲《しの》ぶのはむつかしい。もともとウィンゲのスケッチがそうだったのか、それともそれを木版にするとき、こんな姿になったのか、事情は判じかねるが、いずれにせよ、永徳の絵の中の一部を……おそらく壮大な風景画であっただろう|屏風絵《びょうぶえ》の中のほんの一部分を、当時のヨーロッパ人の興味のままに|摘《つま》んで拡大して写したものだろう。一つは天守、一つは城門である。
稚拙な絵であるにもかかわらず、眺めた瞬間にかすかな|戦《せん》|慄《りつ》を覚えた。周囲の森閑とした静けさは、そのときの私の心理を反映したものなのか……つまり恐怖を覚えたがゆえに周囲への意識が消去したのか、それとも事実そのときに周囲の音が絶え、それが私の戦慄を深めたのか、そのあたりの事情はよくわからない。意識になかった。
ただ、恐ろしいほど静寂で、
――ここには私と二枚の絵だけが存在している――
と、そんな現実離れした感触を覚えた。
おののきの理由は……天守の向こうに大きな舟が描かれている。奇妙な形だが、舟であることはたしかである。
しかし、ひどく大きい。舟の中央部が天守の屋根に隠れているが、|舳《へ》|先《さき》から|艫《とも》までの長さが、その屋根の幅より長い。天守は高く、舟は近いという一種の遠近法なのだろうが、安土城を描く風景画の中で、なぜこんなに舟を大きく描いたのか。永徳の屏風絵を写したとしたら、もとの絵はどんな構図だったのか。舟はどのように描かれていたのだろうか。
私の想像では、屏風の中の琵琶湖はあくまでも安土城の遠景であり、舟が浮いているとしても、ごくごく小さなものだろう、と考えていた。しかし、原図にないものをスケッチが再現するはずがない。
――ちがうだろうか――
それよりも、もっと|訝《いぶか》しいのは舟に四人の男が……多分、男だと思うのだが、乗っていることだ。
四人。この数が不吉である。湖の底から死すべき人を迎えに来る使者は、おおむねその数だと、あの奇妙な男が言っていたではないか。
しかも、もう一枚の、城門を描いた木版画のほうにも、やはり四人の男がいそいそと城内へ入ろうとしている。
四人を乗せた舟が近づき、その四人が城内へ入る、そんな絵を永徳が描くものだろうか。これは安土城の雄姿を描く風景画なのである。永徳は〈|洛中《らくちゅう》洛外〉図などでは人物像も細かく描いているが、よほどよく見なければ、人物の様子はわからない。
しかし、ウィンゲという十六世紀のヨーロッパの画家が日本の城について想像をめぐらして描くことはむつかしい。稚拙な絵だが、描かれているのが日本の城であることはまちがいない。とすれば、やはりもとの屏風絵の中に、四人を乗せた舟と城門を潜る四人とがいたからだろう。それがウィンゲの眼に印象深く映ったからだろう。
|埒《らち》もない空想が私の|脳《のう》|裡《り》を走った。
それが私に戦慄を覚えさせたにちがいない。
――どんな屏風絵だったのか――
私は、名画の持つ|妖《あや》しい力について、とりとめない思いをめぐらした。
それからまた十日ほどが過ぎた朝、電話のベルが響いた。
――デコかな――
と思ったが、今度はちがった。
「もしもし。いつぞやは失礼いたしました」
と、山形の声には聞き覚えがある。
「いや、こちらこそ。お見舞いありがとうございました。和代もよろこんでおりましたよ」
「でも……どう申し上げたらよいのか、お悔み申し上げます」
「あ、どうも。このところ魚住さんから二度ほど電話があって」
「そうみたいですね」
「ノエルがいろいろ尋ねたいことがあるらしくて……」
「例の屏風絵の件でしょう」
「そうです」
「このところ、連中にあまり会っていなかったんですけど……」
連中とは、ノエルとデコのことだろうか。
「どうして?」
「ちょっと忙しくて。今。イタリアなんです。ヴェネチアに来ていて」
「あ、そうなんですか」
「このあと、明日にもフィレンツェに入るつもりでいたんですが、今しがたノエルから急に電話が入って、是非パドワに寄ってくれって言うんです」
「パドワ?」
「はい。ヴェネチアの西四十キロほどのところにある古い町で、そこに安土城の屏風があるらしい。バウアーというハプスブルグ家と関係のあった実業家の別邸が“どうも|親《おや》|父《じ》が屏風を見たところのようだ”ってノエルが言うんです。ヴェネチアにいるなら、それを確かめて来てほしいと……」
「なるほど」
屏風は実在しているのだろうか。
「ただ、私はノエルの宝捜しを話半分にしか聞いていなかったから、データが不足しているんです。屏風を見せられても、それが問題の屏風かどうかわからないおそれがあります。正確なところを白井さんにお聞きしておいたほうがよいと思って、電話をさせていただきました」
「私もそんなによく知っているわけじゃありませんが」
ノエルに聞けばよいのに……。山形の中に、ノエルより私に尋ねたい気持があるのではないのか。
「あの……二曲一双というのは“く”の字に曲がった屏風が|対《つい》になって二つあるということですね」
「そうです」
「面が四つあって、一つの面は畳一枚くらいの大きさですか」
「多分そうでしょう。小さい屏風もありますが、信長の性格、永徳の画風から考えて、充分に大きいものじゃないのかな。畳一枚よりむしろ大きいかもしれない」
「色彩は?」
「うーん。はっきりとは言えないけど、墨絵に金を|刷《は》いて、ところどころ、特に城の天守のあたりに色がつけてあるかもしれません」
「相当に傷んでいるでしょうね」
「四百年以上たっているわけですから。ヨーロッパの風土じゃ、ボロボロになりかねない。余程うまく保存されていないと駄目でしょう。同じ年代の油絵なんかに比べれば、ずっとひどい状態だと思いますよ」
「どんな図柄だと思っていらっしゃいますか」
「それが一番むつかしい。ただ城の形だけは研究が進んでいます。外から見て五層の建造物。屋根の数が五つあるということです。見る角度によっては、上から三つ目のあたりに横屋根があって六層に見えるかもしれない。一番上が金色の四角形、二番目が朱色の八角形、屏風絵でそれがわかるかどうかはともかく、そういう形です」
「助かります」
「天守より少し下側の城郭内に寺院があるだろうと思います。信長にとってとても大切な施設だから、きっと描いてあるでしょう。安土山は湖に突き出した半島で、湖と城下町も多分描いてあるんじゃないのかなあ」
「はい」
「舟がわりと大きく描いてあるかもしれない。男が四人、乗っている。城の門もはっきりと描いてあって、男が四人潜り抜けているかもしれない」
「四人ですね」
「ウィンゲという、ローマ法王のところで|屏風《びょうぶ》を実際に見た絵かきが、断片的なスケッチを残している。スケッチを描いたときの事情がよくわからないから、絶対とは言えないけれど、比較対照をするための一つの手がかりにはなると思いますよ」
「わかりました。とにかくパドワに立ち寄って調べてみます」
「うん。結果が出たら教えてください」
「はい」
「見つからなくてもね」
「お知らせします」
「デコさんによろしくね」
「承知しました」
「さよなら」
山形は相変わらずさわやかな印象を与える好青年である。もう青年と呼ぶには少し年齢が多すぎるが、その表現が一番ふさわしい若さがある。
三日、四日、五日、一週間、一月、二月、と、私は山形からの朗報を待ち続けた。電話口から「見つけましたよ」と明るい声がこぼれるのを待っていた。
地図を見れば、たしかにヴェネチアのすぐ近くにパドワがある。山形はすぐにも訪ねるようなことを言っていた。朗報であれば、|躊躇《ちゅうちょ》はすまい。
――知らせがないのは、はかばかしい結果ではなかったから――
考えてみれば、四百年も昔の屏風が残っているはずがない。とうに焼け失せてしまっているだろう。
――それにしても――
山形は人の心が見えない男ではない。私が知らせを待っていることを知っているだろう。
――余程忙しいのかな――
それも充分に考えられることだ。私から電話をかけることができないわけではないが、国際電話には慣れていない。|億《おっ》|劫《くう》である。それに、こちらからわざわざ電話をかけて尋ねることでもあるまい。私に知らせるほどの結果ではないから、知らせて寄こさないのである。わかりきっていることだ。あとは忙しさのせいで忘れているのだろう。近頃の若い人なら、よくあることだ。気にかけるほどのことではあるまい。
いつのまにか三カ月が過ぎた。
不能犯
五月の朝、眼をさまし、カーテンのすきまからこぼれる光を見て、
――旅に出てみよう――
と思った。
ここ一、二カ月、ずっと考えていたことなのだが、実行ができなかった。体調がすぐれない。和代の死このかた、心が病んでいる。
――病んでいるのは、心ばかりではないだろう――
その懸念もあって人間ドックに入ることにしたのだが、六月の末でなければ空きがない。
――その前に安土に行ってみよう――
と思い、機会をうかがっていたのである。
自分で決断すれば、なんでも実行できる立場なのに、なんとなくぐずぐずしていたのは、もう一つ、感傷的な理由がないでもなかった。
――同じ日がいい――
つまり、昨年の五月に私は和代と一緒に安土を訪ねている。思い出の旅ということなら、やはり同じ日取りのほうがよいだろう。
さいわいみごとな快晴である。
体調も、ベッドの上で計ってみると、わるくなさそうだ。
すぐに仕度にかかり、十時前に家を出た。
ひかり号で名古屋へ、こだま号で米原へ、さらに東海道線に乗り換えて安土駅で降りた。
自転車を借りた。
――先に安土城へ行こう――
ペダルを踏んで走った。
工事は去年の記憶に比べれば|進捗《しんちょく》しているが、大差はない。ほとんどが山道である。ところどころで足を止め、汗を|拭《ぬぐ》い、ゆっくりと登った。
――たった一年で――
その思いが深い。安土山にはさほどの変化がないけれど、私のほうは情況がすっかり変わってしまった。
――人の命なんて、あっけないものだな――
もう少し長く病んでくれれば納得もいっただろうに……。しかし、そのことはもう充分に考え尽したはずだ。あの苦しみを見ては、長くは患わせておけない。それを願うのは生きている側のエゴイズムだ。もし和代の眠る部屋の四隅に黒いものが四つ、うずくまっていたらどうしただろうか。「癒らないものなら連れて行ってくれ」と、私は叫んだのではあるまいか。それは人倫にもとることなのだろうか。
山道はやはり疲れる。
去年よりずっとつらい。
せめて明るいことを思おう。和代の声を求めた。
「あれが西の湖?」
と、天守の跡では指を差して尋ねていた。
ハ見寺の山道を苦しそうに歩いていた。なんだか私自身が和代と同じ息遣いで歩いているような、そんな気がしてならない。
――せっかくここまで来たのだから――
と、信長の館へも立ち寄った。団体客が来て、ひとしきり賑わっていたが、それが出て行くと、二階の回廊はひっそりと静まりかえる。
――たしかここで永徳の話をしたんだ――
去年と同じ位置に|佇《たたず》むと、あらためて鮮明に思い出すことがある。私は三十歳前後の永徳が一番いい、と告げていたはずだ。和代は「なんでもそうじゃない。私たちの年になっては駄目」と|頷《うなず》いていたが……ひどく投げ|遣《や》りに聞こえたのは、やはり病気のせいだったろう。
場内をひとめぐりして帰路についた。のんびりと行動したので、もう日が暮れかけている。
宿は……近江八幡の大湖荘に、あらかじめ予約を入れておいた。去年、たった一人で泊まったところである。
――疲れた――
この土地を踏んで永徳が屏風に描いた風景を、少しでも想像できればよいと願って来たのだが、いつのまにかそのことは忘れていた。あまりにもイメージが異なっているので、意欲そのものが消失してしまったのだろう。安土山が半島を作って湖の中に突き出していなければなるまい。湖がなくては風景は一変して当然だろう。
宿に着き、夕食後はしばらく持って来た本を読んだ。ぼつぼつ眠ろうかと思ったとき、
廊下に足音が響き、
「あの、東京の白井信也様ですね」
と声がかかる。
「はい。そうですけど」
障子を開け、宿の主人が顔を出す。名前は宿帳に書いておいたから主人が知っていて不思議はない。だが、
「お手紙を預っております」
「私に?」
「はい。太田様から」
「太田?」
にじり寄って厚い手紙を受け取った。
――あの男だ――
ずっと心の片隅に置いていた、去年隣の部屋にいた。あの奇妙な男の姓である。
封筒の裏には“太田拝”と記してある。なかなかの達筆である。
「お客様は、昨年も今ごろお見えくださいましたね」
「はい?」
「太田様は、そのとき、お隣の部屋に泊まってお話をなさったのだとか」
「そうです」
「それで、今年もきっとお見えになるだろうって……そのときに渡すようにと申しつかりまして」
封筒の中の手紙を見た。ぎっしりと書いてある。
「その太田さんが見えたんですね、ここへ。いつ?」
「一週間ほど前です」
「それで、これを私に渡してくれって」
「はい」
事情はわかった。しかし、
――なぜ私がここへ来るとわかったのか――
不思議と言えば不思議である。私自身だって、今朝急に思いたち、
――どうせなら同じ大湖荘へ泊まるか――
と、ひかり号の中で決めたことなのだから。
「私が必ずここへ来るはずだって、そう言ったんですね」
「そうはおっしゃいませんでしたけど……でも、お約束があったのとちがいますか」
「うーん」
特に約束はしなかった。むこうが勝手に「きっと、またお会いしますよ」と言っていただけだ。
「お知りあいのかたですよね?」
と主人が言ったのは、まちがった相手に手紙を渡してしまうことをおそれたからだろう。
「ええ、もちろん」
「一週間ほど前に、お見えになって、昨年の五月の宿帳を見せてほしいと……。それで、お手紙をお客様のほうへ送るのかと思ったら、そうではなく“きっと白井様がここへ見えるはずだから、これを渡してくれ”と、そういうことでした」
なぜ郵送しなかったのか。初めは郵送するつもりだったが、途中で気が変わったのかもしれない。が、そのことを主人に尋ねてみても仕方あるまい。
「私が現われなかったら、どうするつもりだったのかな」
「さあ? そこまでは……」
「わかりました。ありがとうございます。あとで太田さんの住所をお教えください。宿帳にあるんでしょ」
「はい」
幾分、|怪《け》|訝《げん》そうな様子で立ち去って行く。
――なんのつもりなんだ――
私より先に、私がここへ来ることを知っていたとは……薄気味がわるい。
眠るどころではない。大急ぎで手紙の文面に眼を走らせた。本文が始まる前に、
“多分、お見えになるだろうと考えて、これを宿の主人に預けました。失礼をお許しください”
と、別紙に書いてある。
案の定、当初は郵便で送るつもりだったが、大湖荘へ来て方針が変わったのだろう。その理由も、手紙を読み進むうちに見当がついた。もう一度ここに来るだけの熱意が私にないのなら、この手紙を渡す価値もない、と彼は判断したのではあるまいか。
手紙は季節の|挨《あい》|拶《さつ》のあと、去年の五月、信長の館で私が「三十歳前後の永徳が一番よい」と告げているのを聞いて、和代との会話に聞き耳を立てたのだ、と記している。さらに私が「聚光院の|襖絵《ふすまえ》に異様な感動を覚えた」と話しているのを知って“これは、わが党の士だ”と思って、私たちの跡をつけたらしい。
“実は、私もそうなのです。若い頃の永徳の絵を見て、不思議な衝動を受けました。たぐいまれな名画には、|妖《あや》しい力が潜んでいます。わかる人にだけそれがわかるのです。安土城の|屏風《びょうぶ》は、永徳の作品の中でも、とりわけ妖しい力を秘めたものでした”
文面は、きれいな|楷《かい》|書《しょ》で始まっていたが、このあたりから筆致が少しずつ乱れ、書く人の心の状態を表わしているように見えた。
“信長は、絵の中に舟を描くようにと命じました。話は少し飛びますが信長が湖北の竹生島|詣《もう》でに特別の意味を|籠《こ》めていたことは、よく知られている事実です。しかし、竹生島を安土城の屏風に描き入れるのは、いくらなんでも無理が過ぎます。安土からは直線でも四十キロ近く離れているのですから。そこで竹生島参拝の意味を舟に|托《たく》して描いてほしいと命じたのですが、永徳は首肯しません。過日、貴兄にもお話したように、永徳は、祖父・永仙の教えを受けた絵師慶月のことを聞いて知っていたのではありますまいか。網元の注文で不承不承、舟を描き入れたところ|碌《ろく》なことがなかったという話を……。それでなくても絵師は、出来あがった絵に余計なものを加えることを好みません。信長とのあいだに若干のトラブルがあったことは容易に想像されます。「舟を描くと、不吉なことが起こります」「ほう、なにが起こる?」「舟がどんどん近づいてまいります。水底への迎え舟だと言われております」「絵の中の舟が近づいて来るのか」「はい」「おもしろい。そちの筆ならば、そのくらいの不可思議が起こるかもしれない。余は喜んで乗ってやろう」「それはなりませぬ。死人たちの迎え舟です」「かまわぬ。是非とも描き入れよ」 永徳も信長の命には逆らえません。屏風絵の片隅に|一《いっ》|艘《そう》の舟を描きたしました”
織田信長が竹生島参拝を重視していたことは、私もどこかで読んだ記憶がある。
――ああ、そうか。竹生島詣での留守中に不心得にも遊びに出た女房たちを数珠|繋《つな》ぎにして斬首した事件だ――
と、わかったが、絵の中の舟が近づく話は果心居士の話に似ている。伝承が交錯したのかもしれない。
“ところが、ある夜、本当に絵の中の舟が動き出しました。夢か、うつつかわかりません。信長は、たしかに屏風の中の舟がどんどん近づいて来るのを見て「たれかある」と叫んで跳び起きました。小姓が灯を持って飛び込み、隣室にある屏風を見ましたが、舟は遠くに浮かんでいるばかりです。「おかしな屏風だ」そんなことが何度かあって、信長もさすがに薄気味わるく感じて、屏風を手放すことにしました。|伴《バ》|天《テ》|連《レン》どもにも絵の|妖《よう》|力《りき》が現われるものかどうか、と。しかし、絵の|呪《のろ》いは、信長のもとにしばらく残りました。本能寺の変のときにも信長は夢を見たはずです。手放したはずの屏風が寝所の片隅に立っている。絵の中の舟がどんどん近づいて来る。水底からの迎えが門を潜りぬける。「たれかある」と声をあげて起きるのと「明智殿の謀反でございます」と|近習《きんじゅう》が入って来るのとが同時でした”
安土城で体験した異変のほうは信長の口から周囲に伝えられようが、本能寺で見た夢は、だれが聞いて伝え残したというのか。すぐさま決戦が始まり、信長も小姓衆もことごとく死んだはずである。
しかし、私には“舟が来る”というイメージが他人事には思えない。
“狩野永徳もまた同じ頃に夢を見ました。見知らぬ者が|枕辺《まくらべ》に立ち「お前の絵には妖力が潜んでいる。焼き捨てねば、|禍《わざわ》いがお前にかかろう」「どうぞ焼いてください。妖力など、いりませぬ」 永徳自身も自分の絵に潜む妖しい力を感じていたにちがいありません。安土城が永徳の名作ともども焼け落ちたのは、本能寺の変の数日後であったとか。永徳の絵の評価はさまざまで、晩年のほうが円熟味を備えてよいという声もありますが、妖しい力を感じさせるのは、三十歳前後の作品です。何年たっても卓越した絵は妖力を放ち、感じうる人にだけそれを伝えるのです。御用心ください。永徳の絵にあまり興味を持つと、よいことがありません。私は妻を失いました。とりあえず”
長い手紙は、ぶっきらぼうに終わっていた。
――狂っている――
とても信じられない。一つのフィクションとして読むべきものだろう。
ぽんと旅行|鞄《かばん》を置いた床間のほうへ|抛《ほう》り投げてみたが、また気がかりになって読み返した。
理屈にあわない部分を指摘するのはやさしいが、私には聚光院で得た奇妙な感触がある。あのときはたしかに襖絵が私になにかを語りかけているように感じた。永徳に、安土に、宝捜しに興味を抱いたのも、みんなあのときの感触から始まったことである。
それに……ウィンゲの木版画だ。
――どうして舟があんなに大きく描かれているのか――
しかも四人の男が舟に乗り、四人の男が城門から中へ入り込んでいる。
いまわしい空想が浮かぶ。
――そんな馬鹿なことが――
と思いながらも、その空想が捨てきれない。つまり、
――グレゴリオ十三世法王も屏風の中から近づいて来る舟を見たのではないか――
そして屏風を贈られてから数日後に他界したのではないか。
ウィンゲという画家こそが、大きく接岸する舟と、迎えの四人を見た人なのかもしれない。ウィンゲはその後どうなったのか。
手紙の最後の一行も恐ろしい。太田という男の夫人は、いつ、どうして亡くなったのだろうか。
和代はいまわの夢の中で「安土へ行ったわ」と|呟《つぶや》いていた。「城があって湖が見えて」と言い「舟が来るわ」と告げて息を引き取った。|脳《のう》|裡《り》には安土城の風景があったのではないか。四人を乗せた舟がぐんぐん近づいて来たのではないか。琵琶湖に伝わるいくつかの伝説と同じように。安土城の屏風絵を見た何人かの人たちと同じように……。
――変だな――
和代は屏風絵を見たわけではない。永徳の絵に対して私ほど感動したわけでもない。その和代が呪いを受けるなんて……太田の手紙を信ずるとしても間尺に合わない。
――頭のおかしい人なんだ――
どの程度狂っているかはともかく、この判断がまるっきり見当ちがいということはあるまい。なぜ|執《しつ》|拗《よう》に私のあとを追ったのか。同じ宿に泊まったのは偶然だったのか。しかも私が再び投宿することを勝手に予測して手紙まで預けるなんて……尋常の執念ではない。
ためらいはあったが、葉書を書いた。長文の示唆に対してお礼を述べ“お会いできるものならお目にかかってもう少しお話をうかがいたい”と記した。太田の話を聞けばノエルの問い合わせに答えることができるだろう。それ以上に、私自身が……、そう、怖いものに引かれるように知りたいことがないでもない。
いつのまにか夜半を過ぎている。
もう一ぱい水割りを飲んで眠った。翌朝は九時過ぎに起き、安土駅前のポストに葉書を|投《とう》|函《かん》し、東京へ帰った。
だが、なかなか返事が来ない。些細なことだが、先に山形から電話の来ないケースもあったし、梅雨どきで体調も|冴《さ》えず、さらに言えば、もっと本質的な問題として和代の不在をしみじみと寂しく思い始めていたから、
――みんなに見捨てられたのかなあ――
と、少なからず|滅《め》|入《い》ってしまった。
一カ月あまり待って返事が来た。
――えっ――
胸が|潰《つぶ》れるほど驚いた。
灰色の縁どりのついた葉書で、太田誠一の会葬御礼が刷ってある。余白に、返事が遅れたことを謝し“父は六月八日、事故死いたしました”と添えてある。
死の事情はなにもわからない。
――問い合わせてみようか――
とも思ったが、太田との関係を考えれば唐突に過ぎるだろう。旅の宿で会っただけの仲である。随分と折り入った内容の手紙をもらったが、中身は、むしろ奇妙なものだった。遺族のかたに語るのは、どうしたものか。
迷っているうちに、また、もう一つ、意外な出来事に遭遇した。
あとで考えてみると、見えない糸に引かれるような偶然だった。
私は|内幸町《うちさいわいちょう》のビルで所用をすませ、外に出ると小雨が降っていた。鞄の中に書店に本代を送る現金書留が入っていて、
――郵便局はどこかな――
帝国ホテル内の線路寄りの位置に小さな郵便局があるのを思い出した。ホテルの正面から入ってロビーを抜ける……。小雨が降っていなければ別の道を選んだかもしれない。書留を持っていなければ、むしろ新橋駅のほうへ向かったかもしれない。帝国ホテルのロビーは私が繁く行くところではなかった。
通路を抜けようとしたとき、書店をかねた売店で女が雑誌を眺めていた。ふと顔をあげ、眼があい、
「あっ」
「おや、どうして」
と、私は足を止めた。
デコである。
「すっかりご無沙汰しております。その節はお世話になって……」
と、肩をすぼめる。
「いや、いや。いつ日本に?」
「えーと、一昨日。ちょっと用がございまして」
「そう。長い予定で?」
「いえ。来週には帰ります」
「山形さんは?」
はっきりとした|狼《ろう》|狽《ばい》がデコの表情をよぎり、
「うっかりしておりました。私がご連絡をしなければ……」
と言い|淀《よど》んでから、
「亡くなりました」
「えっ。亡くなった?」
「はい」
「いつ?」
「もう四カ月ほど、かしら。二月のなかばです」
「なんで? 事故ですか」
「いえ。心臓の発作で」
「前からわるかったのですか」
「子どもの頃わるかったって聞いたことがありましたが……。申し訳ありません。私がご連絡すべきでした。旅先だったものですから、私も事情がわからなくて」
「旅先?」
「はい。ずっとイタリアへ行ってたんです。ヴェネチアからフィレンツェに着いて……すぐに。ホテルで。少しお酒を飲んでいたらしいけど。警察までが入ったみたいですわ」
「驚いたなあ」
「フィレンツェで焼いてしまって……だから私、死顔も見ておりません」
と、顔を曇らせる。
「フィレンツェですか」
「はい?」
「直前にはヴェネチアにいたんですね」
「はい」
「亡くなったのは、いつです、日付は?」
「二月の十日です」
「ヴェネチアから電話をもらったな。たしかフィレンツェに行くって」
「あ、そうなんですか」
「途中、パドワに寄るって」
「そうだったんですか。ぜんぜん聞いていません」
「例の|屏風《びょうぶ》が見つかりそうだとか……」
と、事情を言いかけたが、デコはここで待ち合わせをしていたのだろう、その相手が近づいて来て立っている。デコと同じくらいの年齢の女性……。二人は目顔で|頷《うなず》きあっている。
「いえ」
と、デコは私に向かって否定の言葉を|漏《も》らして首を振る。
「ノエルは?」
と、私はあわてて尋ねた。長っ話は失礼だろう。しかし、もう少し尋ねておきたい。
「あの」
と、デコの表情が照れるように崩れて、
「結婚することにしました。その件で、ちょっと日本へ」
「あなたが?」
「はい。オステルと」
「ノエルさんと?」
「はい。年貢の納めどきかな、と思いまして」
と笑う。
意外だった。
懸念していた通りと言うべきかもしれない。
「そうですか。おめでとう」
と、とりあえず私は|呟《つぶや》いた。
――それは、いつ決まったことなのか――
デコがその決心を固めたのはいつだったのか。山形の死とどう|繋《つなが》っているのか。
「ありがとうございます」
「例の屏風のことだけど、ノエルさんは見つけたのかな」
ノエルの依頼で山形はパドワに立ち寄ったのではないのか。
「すっかり興味を失ってしまって……。狐が落ちるって言うんですか。今でもあるんでしょうか、日本では、狐がつくとか、落ちるとか」
と笑ってから、
「あの、また、ご連絡をいたします」
頭を垂れる。
「そうしてください」
待ち人が現われたのだから、席を譲らねばなるまい。私も一礼をして背を向けた。
郵便局へ行き、有楽町駅まで歩いて山手線に乗った。渋谷でうっかり降り忘れるほど私は考え込んでしまった。
――山形が死んだ――
まだ充分に若かったのに……。明るく、元気な様子だったのに……。
――デコがノエルと結婚する――
それもありうることだった。私がとやかく干渉することではあるまい、ただ、
――和代の不安は的中したな――
初めから和代は心配していた。〈太陽がいっぱい〉を見て、気をもんでいた。
――まさか――
〈太陽がいっぱい〉のような惨劇があったわけではあるまい。二人の男と一人の女がいて、男は争いあい、一方が一方を殺す……。途方もない想像だが、私はこの空想を|拭《ぬぐ》いきれない。デコは、山形がパドワに立ち寄ったことを知らなかった。私は|鞄《かばん》の中の手帳を開いて確かめて見たのだが、日付は一致している。
私が山形から電話を受けたのは、二月八日の朝九時頃、ヴェネチアは同じ日の午前一時頃だったろう。山形はその日のうちにでも、パドワに行って調査をするような口ぶりだった。フィレンツェのホテルに着いて、すぐに死亡したとデコは言っていた。それが二月十日の夜だった。二日と数時間の空白がある。山形はヴェネチアからフィレンツェに直行したわけではあるまい。パドワに立ち寄ったと考えるのが妥当である。ノエルの依頼を受けて屏風を見に行ったにちがいない。
――山形は屏風を見つけたのだろうか――
いずれにせよ、結果はノエルには伝わっただろう。
にもかかわらず、ノエルはそのことをデコに話していない。許婚者であるデコに……今までのいきさつを充分に知っているデコに、話していない。山形に依頼をしたことも、またその結果についても……。
――なぜなんだ――
学生の頃、試験で不能犯について出題されたことを思い出す。たしかパリでは、それに|因《ちな》んだ夢を見たはずだ。
ノエルは神秘主義者だとか。|呪術《じゅじゅつ》のたぐいに関心を持っている。安土城の屏風絵に|妖《あや》しい力が潜んでいることを知って、ことさらに山形をそこへ行かせたのではあるまいか。恋のライバルの死を画策したのではないか。
――馬鹿らしい――
文字通りの不能犯だ。
絵画の持つ|妖《よう》|力《りき》で人を殺すなど、それが不可能であるばかりか、第一、パドワに永徳の屏風絵があるかどうか、その可能性だって極度に低い。まともな人間なら、そんなことは考えない。
だが、山形は死んだ。
ノエルは恐怖を覚えたのではあるまいか。
つまり……ノエルは、心の奥底でライバルの死を望んだことがあっただろう。それ自体はさほど不自然ではない。心の内奥にまで入り込めば、人はたいていこのくらいの殺意を抱くものだ。もちろん、まともな殺意ではない。
――死んでくれれば好都合だなあ――
と、その程度のものであり、このレベルの思案であればこそ、|呪《のろ》い殺しのような不能犯とほどよく結びつく。
安土城の屏風絵にまつわる妖しいエピソードを知るにつれ、神秘主義者は、
――山形が絵を見つけて、死んでくれないかなあ――
と、これまた心の内奥で、自分でも信ずることなく夢想したことくらいはあったろう。
だが、山形は本当に死んだ。
パドワで屏風絵を見たかどうか、その結果について、ノエルは山形から連絡を得ていなかった、というケースも充分にありうる。山形はフィレンツェのホテルに着いてすぐに死んだということだから。電話連絡ができなかったという事情も充分に考えられる。
もしそうだったならば、ノエルが激しい恐怖を覚えて当然だ。
――山形は屏風を見て死んだ――
神秘主義者は、信長の死も、グレゴリオ十三世の死も、彼自身の父親の死も、みんな屏風との関わりで考えていたのである。百パーセント信じていたわけではあるまいが、二、三十パーセントくらいは考えていただろう。
――屏風に近づくのはやめておこう――
デコが「狐が落ちた」と言っていたのは、まさに、そのことではないのか。よく符合している。しばらくは様子を見ようと……しばらくは日本の呪術について知識を集めようと、ノエルは考えているのではないか。当たらずとも遠からず。
パドワの宝捜しについてデコになにも話さないのは、ノエル自身、うしろめたさを感じているからだろう。
心臓発作で倒れた山形も、遠のいていく意識の中で、一瞬、見たかもしれない。
――舟が近づいて来る――
と。湖上の舟がぐんぐんと近づき、四人の男が乗っている風景を。
歳月が急速に流れた。私は、相変わらず、安土城と永徳にかかわる資料を捜し求め、いくつかの新しい記述を発見したが、妖しい力を語るエピソードにはめぐりあうことができなかった。だが、
――それにしても――
と思ってしまうのである。私が永徳の絵に関心を持ってこのかた、いくつかの死があった。和代が病で没し太田が事故死して、山形が異国で急死した。どの死にも屏風絵の気配が漂っている。
それはなぜなのか。
エピローグ
人間ドックで検査を受け、
「すぐに入院して治療をお受けください」
と、厳重な勧告を受けた。
予測しないことではなかった。おそらく和代と同じ病だろう。私たちは、どこまでも似たもの夫婦なのだから。
「二週間だけ待ってください」
強引に振りきって、その日のうちに旅行社を訪ねた。
「できるだけ早くイタリアへ行きたいのです」
「パスポートはお持ちですか」
「はい」
「イタリアのどちらへ?」
「パドワです」
「パドワ?」
「ヴェネチアの近くです」
「ああ」
と、係の男は|頷《うなず》いてから地図を見て、
「ミラノから入ることになるのかな」
「結構です」
「航空会社の指定は?」
「とくにありません」
五日後の出発を調整してくれた。
もとよりパドワについて私にはなんの知識もない。ガイドブックを読むと随分と古い歴史を持つ町らしい。スクロベーニの礼拝堂にジョットの描くフレスコ画があって、これが観光のポイントである。ほかにはサントのバジリカ聖堂、広場の時計台、市立美術館あたりが見どころのようだ。
しかし、私の目的はたった一つである。バウアーというハプスブルグ家と関係のあった実業家を訪ねること。その別邸にあるかもしれない屏風絵を見ること。それだけである。
――よいガイドに恵まれるといいのだが――
くり返して、そのことを旅行社に頼んだ。山形のような好青年に会えれば最高なのだが、こればかりはこちらの都合通りには運ばない。
――果して安土城の|屏風《びょうぶ》はあるかどうか――
五分と五分の|賭《か》け……。
いや、三分と七分、一分と九分、実在の可能性はそれよりも低いだろう。
――なくてもかまわない――
その覚悟はできている。
ただ、そこまで訪ねていけば、きっと和代からの合図があるだろう。そんな気がする。確信に近い。この旅行自体が和代からの合図なのかもしれない。
――パドワからパリへ行こうか――
旅の途中で病に臥すことも、おおいにありうるだろう。
まさに、そのときにこそ、私は安土城の屏風絵を発見するのではあるまいか。二曲一双の名画。右手に高く安土城の天守がそびえ、山はゆるやかに下ってハ見寺の|伽《が》|藍《らん》が木立の中に見え隠れしている。城下の町、遠くに広がる湖、薄くかすむ比良の山塊。画面を貫いて、雄大に、麗美に描くのが永徳の特徴だ。|妖《あや》しい力が潜んでいる。それが、今さらのように私にはよくわかる。
湖上に浮かぶ|一《いっ》|艘《そう》の小舟。
ぐんぐんと近づいて来る。
四人が乗っている。
――男ばかりじゃないんだ――
ウィンゲの木版画も、性別まではわからない。
「なんだ、和代じゃないか」
「当然でしょ。私が来ないはず、ないじゃないの」
「まったくだ」
私は和代の手を取って舟に乗り込む。
ウィンゲの安土城天守および安土城城門の木版画は、
DONALD F. LACH
「ASIA IN THE MAKING OF EUROPE (VOLUMEU, A Century of Wonder BOOK ONE:THE VISUAL ARTS)」THE UNIVERSITY OF CHICAGO PRESS, CHICAGO AND LONDON
に所収されています。
本書は、一九九五年十一月刊行の小社単行本『安土城幻記』を改題し、文庫化したものです。
|幻《まぼろし》の|舟《ふね》
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C)  Takashi ATODA2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『幻の舟』平成10年10月25日初版発行