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仮面の女
阿刀田高
目 次
父殺しのパラドックス
肉の影
仮面の女
裏切りの遁走曲《フーガ》
本番まで
街の旅
その遺産を捜せ
歪《ゆが》んだ蜜月
脳味噌《のうみそ》の報酬
[#改ページ]
父殺しのパラドックス
まず初めに田島一郎は俊秀の物理学者であった。彼は太陽エネルギーを原子核レベルで固定することに成功した。
日ごとに降り注ぐ無尽蔵の太陽エネルギーを最大限効率よく把握することができたら、これはあのプロメテウスが神々のすみかから火を盗み出して以来の快挙であろう。人類は彼の発見により、地下資源、原子力に続く第三のエネルギーを入手することとなった。石油価格は暴落し、危険の多い原子力発電は未熟のまま転向を迫られることとなった。
しかし、これらはすべて田島一郎が四十歳を過ぎてから起こるべき出来事であり、これからの物語があった頃《ころ》には、彼はまだ二十代なかばの一研究者にしかすぎなかった。
彼は代々木八幡《よよぎはちまん》の1DKマンションに住んでいた。独身であった。生活は極度に貧しくはなかったが、さりとてさほど豊かなものでもない。大学助手の給料と育英会の特別奨学資金、そして毎週、火曜と金曜に勤める家庭教師の報酬が田島の生活を支える全ての収入であった。
その朝、田島は眼を醒《さ》ましてすぐに枕《まくら》もとのテレビのスイッチをひねった。画面の右すみに9・14の数字がある。
――九時十四分か。まだもう少し眠れるな――
今日は午後一時までに研究所に顔を出さなければいけない。新しい実験の手伝いを命じられていた。
布団にくるまりながら、見るともなしにテレビの画面を眺めた。
和服の男が話している。風貌《ふうぼう》から察して小説家かなにかだろう。
「……まあ、結局、明智光秀が謀叛《むほん》を起こし織田信長は殺されてしまうわけですが、信長という人は光秀がいなくてもだれかに殺されただろうと思うんですね。麻のごとく乱れた世の中をとにかく平定するところで信長の歴史的任務は終わった。そこまで来るのに信長はずいぶん無理なこともやったし、人の恨みをかった。平定した土の上に新しいものを築くためには、どうしてもべつな人格が現われなければいけない。結果のほうから眺めれば、明智光秀が一人いたおかげで信長は新しい天下を創《つく》ることができなかったように見えるけど、それは違いますね。光秀がいなくてもだれかが信長を抹殺《まつさつ》したでしょう。光秀一人の力で歴史が変わったわけでもありませんね。人間一人の力では歴史の大きな流れは変えられません……」
小説家は確信のこもった声で言う。
――そんなものかな――
田島はまだ眠気の残っている頭でぼんやりと思った。
チャンネルを変えると、CMが映り、上越新幹線の開通で賑《にぎ》わう町が映り、次いで画面はNHKの教育テレビに変わった。二人の男が話し合っている。
「パラドックスというのは、なかなかおもしろいものでしてね」
「ほう?」
「たとえば例外のない法則はない≠ニいう諺《ことわざ》が一つのパラドックスでしてね」
「はい?」
「例外のない法則はない≠ニいう言葉自体が一つの法則ですから、その内容から言ってこの法則にも例外があることになる。この法則の例外というのは、つまり例外のない法則はある≠ニいうことであり、例外のない法則がある≠ニいうことになると例外のない法則はない≠ニいうテーゼは成立しなくなってしまう」
「ややこしいですね」
「もっとわかりやすいのは親殺しのパラドックス≠ナすよ」
「説明してください」
「ええ。ある男がタイム・マシンに乗って時間を溯《さかのぼ》り、自分の親を――彼が生まれる前の親を殺してしまうわけですね」
「なるほど」
「自分が生まれる前の親を殺してしまったんじゃあ彼自身が生まれるはずがない。生まれなかったら彼がタイム・マシンに乗って親を殺しに行くはずもない。親が殺されなければ彼は生まれ、タイム・マシンに乗って親を殺しに行く。親が殺されれば彼は生まれない。どこまで行ってもきりがない」
「厄介ですな。どう解決したらいいんです?」
「解決できないからパラドックスなんですね」
「ああ、なるほど」
「いくらか対策を考えた人もいますけれどもね」
「どんな?」
「たとえば系図が違っていて本当の親ではなかったとか」
「それはずるい」
「ええ。親を殺したとたんに、この世界とはべつな異次元が開け、殺した当人はこの世界に対しては幽霊になってしまうとか」
「それも釈然としませんね」
「もともとタイム・マシン自体がよくわからない存在だから」
「それは言えますな」
画面の二人が笑っている。
その笑顔が揺れ、田島の瞼《まぶた》が重くなった。
夢の中で父の顔を見た。父は田島が小学生のときに死んだ。面差しはぼんやりと覚えている。父を知る人の話では、田島は父そっくりになって来たという。本当だろうか。自分ではよくわからない。
だが、夢の中に現われた父は、鏡の中で見る田島自身の顔とよく似ている。
「元気かね」
父は他人行儀の声で言う。
父としては若くして死んでしまって、子どもに対して申し訳なく思っているのかもしれない。
「はい、元気です」
「しっかり勉強しろよ。つまらん遊びをしちゃいかん」
田島の顔が火照《ほて》った。
――親父《おやじ》は、俺《おれ》が先週いかがわしい女と寝たのを知っているのだろうか――
女の裸形が脳裏《のうり》に広がった。
――ああ、いかん、こんな夢を見ては――
しかし、女はますます淫《みだ》らな部分をあらわにする。父の眼《め》が光っている。いくらなんでも親父の眼の前で女を抱くわけにはいかない。ほとんど言葉を交わしたことさえない父親が、避けがたいほどの威圧で田島の行動を束縛している。
――今日はやめておこう――
夢はそのあたりで深い眠りに変わったらしい。
「あ、いけない」
田島一郎は布団を蹴《け》って跳ね起きた。時計は十二時を廻《まわ》っていた。髭《ひげ》を剃るひまもない。
昨日の背広に昨日のワイシャツ。ネクタイを握って外へ飛び出した。
研究所の門に駈《か》け込んだのが一時五分過ぎ。すでに教授は作業着に着替えて待っていた。
「申し訳ありません」
「ああ、ご苦労さん」
他の助手たちの姿は見当たらない。
「今日は私一人なのでしょうか」
「うん。まあ、かけたまえ」
「はい」
教授は椅子《いす》に腰をおろし、タバコを一本ゆっくりとくゆらす。
「君は高校時代にラグビーをやっていたんだって?」
「はい」
「ポジションはどこかね」
「フォワードです。主に右のフランカーでした」
「道理でよい体をしている。研究室の連中はみんなひよわでいかん」
「はあ?」
「実は……君に時間旅行に行って来てもらおうと思って。いいね?」
「時間旅行って言いますと……?」
まだ夢を見ているのだろうか。
「いわゆるタイム・トラベルだ。過去の時代へ行って来てほしい」
「そんなこと、できるんですか」
教授がその方面の研究に興味を持っていることは知っていた。科学雑誌の座談会などでよく話している。
しかし、時間旅行がそう簡単に成功するとは思えない。
「できる。大学の正規の研究ではないから、今日まであまりおおやけにはして来なかったが、データの上では成功している。動物実験もうまくいった」
「はあ」
「ただいくらデータや動物実験で成功してもこの研究は説得力が薄い。私としても疑問が残る。現に生きている人間が過去に溯《さかのぼ》り、それを実際に見て来てくれなくては困る。それを君にお願いしたい。画期的な実験だ。君の将来にとってもおおいにプラスになるだろう」
「本当に大丈夫なのでしょうか」
「無理な実験を強いたりはしない。君は二十七歳だったね」
「はい。それがなにか……」
「それでいい。今のところせいぜい三十年しか過去に戻れない。君の生まれる前の世界を……君が知らないはずの世界を見聞して来てほしい」
「はあ」
それから教授はなぜ時間旅行が可能なのか、いくつかの理論を並べて田島に説明した。
田島は位相物理学の、こうした方面の知識にはほとんど関心がない。教授の説明もあまりよく分からない。だが、教授に、
「まあ、ざっとこんなぐあいだ。わかるね?」
と言われて、研究室の助手としては、
「いえ、わかりません」
とは答えにくい。
「はい、なんとか……」
と返事をしたとたんに、もう是が非でも時間旅行をしなければならないような立場に追い込まれていた。
もしこれが本当に画期的な実験ならば、時間旅行の体験者はおおいに珍重されるだろう。まさか大学の教授がなんの成算もない実験に研究員をかり出すこともあるまい。
「まあ、気軽にちょっと散歩をして来てくれないかな」
「はあ?」
「到着するのは、私の古い家だ。建て替える前の家の応接間だ。椅子《いす》の上に着くだろう。到着して三時間たったら同じ椅子にすわって待っていてほしい。帰りそこなわないように。操作はこちらでする。裸になって……。衣服はむこうで私の服を着てくれ」
設備はすでに研究室の片隅に置いてあった。
思いのほか小さな装置である。シリンダーのような筒がたくさんの計器に接続している。
「最初の十分間くらいは少し苦しいかもしれない。しかし、それもたいしたことはない。動物たちはみんな元気で戻って来た」
と、教授はゆったりと頷《うなず》く。
――こうした実験の前には、もっと慎重なボディ・チェックを受けるのではあるまいか――
と、田島は考えたが、教授はすでに装置の扉をあけている。うながされるままにすっ裸になってその中に入るより仕方なかった。
――妻子がいるわけじゃない。ここで死んだところでべつにだれかが困るわけじゃない――
ほとんど身寄りのない田島を選んだこと自体が教授の計画だったのではあるまいか。それを思うと、教授の悪意を感じないでもなかったが、その時はもう時間旅行機の中に据えられたスピーカーが命令を発し始めていた。
「頭上のヘルメットをかぶり、ベルトで固定せよ。手と足を定位置に置け。手足を固定する。体を横たえる。静かに回転をさせる……」
ヘルメットをかぶるといっさいが闇《やみ》になった。上体が倒れ、足が自然に伸びる。体がゆっくりと回転を始め、宙に浮き、やがて回転している感覚が薄くなり、消えた。白い眩暈《げんうん》が脳裏《のうり》にかかる。意識が飛翔《ひしよう》する。いっさいの思考が消えた。全身が知能の低い、鈍重な虫になったように感じたが、その意識もすぐになくなった。
あとはただ白い闇……。
どのくらいの時間が経過したのか。
ふたたび全身が鈍感な虫となり、意識が糸を引くように細く、少しずつ戻って来る。白い眩暈の中に不定形のイメージが宿り、体が回転しているらしいとわかった。
回転の意識がさらに明瞭《めいりよう》になり、速度が少しずつゆるくなって止まった。
そのままなんの変化も起きない。体がかすかに揺れている。
眼をあけると闇《やみ》の中にすわっていた。
ヘルメットの中の闇ではなく、周囲は夜らしい。ベルトをはずしたわけでもないのに手足は自由になっていた。
「ここはどこだ」
声ははっきりと耳に響く。
闇に眼が慣れて来ると、ここはたしかに応接間らしい。ロッキング・チェアの上に横たわっているのだとわかった。
田島一郎は椅子《いす》を離れた。
――そうか、時間旅行機に乗ったのだった――
不安と興奮が交互に胸にのぼって来る。応接間の時計は二時五分過ぎを指している。
部屋を出た。
広い廊下があり、玄関へ通じている。家はひっそりとしてだれも住んではいないらしい。
――ああ、そうか。教授の古い家に到着したのだ――
と覚った。
教授は古い日記をくって、三十年前のある日、自分の家にだれもいない時間を狙《ねら》って時間旅行機を到着させたのだろう。出発前にそんなことを言っていたっけ。
田島一郎は玄関の鍵《かぎ》をあけて外に出た。門の外に出て、家の全容を眺めた。
――この家は今から十数年後に取りこわされ、鉄筋三階建てのビルに建て替えられたはずだ――
板塀に見越しの松。瓦屋根《かわらやね》。二階の窓が三つ見えるが、どの窓も木戸で鎖してある。しっかり記憶しておけば、三十年後に戻ったときになにかのたしになるかもしれない。
――しかし、待てよ――
田島は思い直した。
教授の家が取りこわされるのは十数年あとのことだ。そのときには田島一郎は生まれている。小学生くらいにはなっているだろう。
だからこの家の様子をいくら記憶してみたところで、人は小学生の田島がなにかの理由でこの家を見て覚えていただけのこととしか考えないだろう。時間旅行で溯《さかのぼ》って記憶したとは思うまい。
――こんなことを記憶したって役に立たない。もっと古い時代に溯り……そう、たとえば明智光秀にでもめぐりあって、それを殺したりすれば、歴然とした証拠を残すことができるのだが――
とりとめもなくそんなことを思いながら、道を南に進んだ。
教授の家のある位置は今も未来もずっと変わっていないはずだ。それならば南へ行けば甲州街道にぶつかるだろう。甲州街道を西に向かい、五日市《いつかいち》街道へ行ってみよう。
田島は幼い頃《ころ》、杉並区の成宗《なりむね》に住んでいた。五日市街道から少し南へ入ったところだった。父の家が昔からそこにあったはずだ。そのあたりまで歩いて行ってみようと考えた。
――いずれにせよ。夜はまずかったな――
教授はなにか些細《ささい》な計算違いをしていたのではあるまいか。過去の町を眺めるにしても真夜中では際立った特徴が見つからない。どの家も灯を消して黒々と眠っている。人影もほとんど見当たらない。夜廻《よまわ》りの警官にでも呼び止められたらなんと答えたらいいのか。
途中で工事人夫らしい二人連れに会い、声をかけてみた。
「五日市街道の入り口はどこですか」
「この先をまっすぐ行けばいいよ。二百メートルくらいかな」
なんの変哲もない。三十年後だってこんなものだろう。
気ばかりがあせる。
せっかく過去の時間に飛んで来たのだから、なにかしら変わったものを見て帰らなければ意味がない。
この真夜中に犬を散歩させている人がいる。
横町からひょいと人影が現われ、
「あのとき緑発《リユウハ》がくれば、俺《おれ》のトップだったんだよなあ」
「今ごろそんなこと言ったって、なんのたしにもならんよ」
角帽の学生は今しがたまで麻雀《マージヤン》でもやっていたのだろう。角帽は三十年後ではめずらしいが、この時期の学生はかぶっていたらしい。
しかし、そうと知ってみたところで時間旅行の、なんの証拠にもなるまい。映画でも見れば、古い風俗はいくらでも知ることができるのだから……。
考えてみれば、過去の時間に溯《さかのぼ》って、その時代の証拠を記憶の中に留めて帰るのはなかなかむつかしい。いや、記憶にとどめるのはやさしいが、それが証拠になりにくい。過去のことは、みんな知ろうと思えば知ることができるのだから。
これが未来旅行なら話がべつだ。未来の世界へ行ったのなら、その証拠を持ち帰るのはずいぶん楽なのだが……。どこそこにどんな建物が立っているか。何月何日はどんな天気で、どの方角にどんな雲が浮いているか、それだけでもりっぱな旅のおみやげになるだろう。
歩き続けるうちにかすかに記憶の残っている地域にたどり着いた。
角の魚屋。餓鬼《がき》大将のサブがいた家だ。戸を叩《たた》いて起こしてみようか。
――しかし、サブもまだ生まれていないだろう――
真夜中にいきなり戸を叩いて「未来からやって来た」などと告げたら、狂人と間違えられるばかりだ。
角を曲がって数十メートル進んだ。このあたりはよく覚えている。
――俺が生まれるより三年くらい前か――
一番古い記憶は三歳のとき。家の前に止まっていたオート三輪のクラクションを鳴らして、どやされたときのことだ。
昔は魚屋の角から家まで、ずいぶん遠い道のりのような気がしたが、大人の足で歩くとさほどの距離ではない。
――ここだ、ここだ――
生まれた家の前に来た。
親父は結婚前で、お祖母《ばあ》ちゃんと、それから勇雄叔父さん、友子叔母さんと、四人家族で住んでいるのではなかろうか。
わが家にも灯り一つついていない。街灯がぼんやりと門口を照らしている。
あまりりっぱな家ではない。代々貧しいのがわが家の伝統なのだろうか。敷地は百坪くらいあるだろうか。このあたりに百坪の土地を持っていれば将来は多少の財産になる。
――今のうちに土地でも買っておこうか――
家の造りは記憶の中にあるものとほとんど変わりない。
塵芥箱《ごみばこ》の上に乗ると、敷地の中に飛び込むことができた。昔の家はずいぶん不用心だったんだな。
凸凹《でこぼこ》の敷石。植木が乱雑に生えている庭。庭のすみにある赤石。
物置の戸には小さい南京錠《ナンキンじよう》がかかっている。
だが台木のほうが腐りかけているので力いっぱい引っ張ると、ガタン、音を響かせて留め金のほうがはずれた。
狭い物置の入口には炭を入れた箱。そして自転車が一台。奥のほうには馬鈴薯《ばれいしよ》を入れた箱。洗い張りの張り板……。あとはよくわからない。
庭に戻って赤石の上にすわって家の様子をもう一度観察した。
――親父は今なにを夢見て眠っているのかな――
民枝という女と結婚することも、その結果一郎という男児の生まれることも、そして自分自身が四十前に死ぬことも、なにひとつとしてわかっていないはずだ。
――ちょっと揺り起こして教えてやろうか――
驚くだろうなあ。
急に今朝がたテレビで見た親殺しのパラドックス≠フことを思い出した。
――もしここで親父を殺したら俺はどうなるのだろうか……。当然俺は生まれない。生まれなければ教授に頼まれてここへ来るはずもない。ここへ来なければ親父は殺されない。すると俺は生まれてしまう――
どこまで行っても終着のない循環論が続くばかりだ。
田島は腰をあげた。
いつまでもぐずぐずしていられない。教授は「三時間後に戻る用意をしろ」と言っていた。
――そうか、自転車で走ってみようか――
そのほうが歩いて戻るより広く町を観察することができるだろう。自転車泥坊はいささか気がとがめるが、親父の家の物を盗むのだから罪が軽い。
物置に戻って自転車を引き出した。鍵《かぎ》がかかっているが、外に持ち出して石で叩《たた》けばこわれるだろう。
後輪を持ちあげ、前輪だけを廻《まわ》して門のほうへ向かった。
――しまった――
一瞬、そう思った。家の陰に人影が立っている。
肩口をいきなり鈍い、薪《まき》のようなものでなぐられた。
家人が物音を聞きつけ、家の陰で自転車泥坊を待ち伏せていたのだとわかったが、そう思うまもなく次の一撃が頭をかすめた。
「泥坊!」
と叫ぼうとするのを、とっさに棍棒《こんぼう》の下をかいくぐり、相手の首に手を伸ばして声を殺した。
――逃げなければいけない――
こんなところで掴《つか》まったら時間旅行の実験は目茶苦茶になってしまう。
田島の手はうまいぐあいに相手の首筋をしっかりと捕らえていた。そのまま力いっぱい押し放すと、相手の体は勢いよく倒れ、庭石に頭を打った。
なにかがすぐ近くでグラリと揺れた。
――古い石灯籠《いしどうろう》だ――
こんなところに石灯籠があったなんて、田島にはなんの記憶もない。
崩れ落ちて来るのを飛びよけたとき、石灯籠は唸《うな》っている男の頭の上にドン、ドーンと落ちた。
かすかに男の顔を見た、と思う。
――親父だ――
そう思うより先に田島は逃げ出していた。
父の足が激しく痙攣《けいれん》して見えたのは、本当に見たことだったのか、それともあとから描いた想像だったのか……。
田島は路地を駈《か》け抜け、五日市街道を走った。ラグビーの選手だったから走ることには慣れている。追っ手の姿はなかった。
――あのまま死んだんだろうか――
衝撃の強さから考えて、それもおおいにありうることだろう。庭石と石灯籠に挟まれ、血漿《けつしよう》が水しぶきとなって散ったのではなかったか。
父が自転車泥坊と争って大怪我《おおけが》をした話など、母から一度も聞かされたためしがない。叔父からも叔母からも聞かされなかった。
計らずも田島は過去の時間の中に、大きな石を投げ込んでしまった。
――もし親父があのまま死んだら――
さあ、わからない。
もちろん罪の意識はあった。
――しかし、これはなにかの夢ではあるまいか――
夢だとすれば……科学者の好奇心が首を持ちあげて来る。
――死んでくれたら、おもしろいぞ――
不謹慎な考えがのぼって来る。
待てよ、それはけっして不謹慎な考えではあるまい。なまじ不充分な体で生き返るよりそのほうがいいんだ。死んでしまえば田島一郎は生まれない。生まれなければ、彼が未来の時間から父を殺しに来るはずもないのだから……。
そうすれば親父は死ななくてすむ。しかし……親父が死ななければ田島一郎は生まれてしまうし……。
――いったい、俺《おれ》はどうなるんだ――
頭が錯乱する。
とにかくふたたび時間旅行機に乗って現実の時間に戻ろう。
田島一郎は教授の家の応接室に帰って、ロッキング・チェアにすわった。眼を閉じて手と足を固定した。こうしていれば、教授があちらの世界の計器をこちらの時間と位置にあわせて彼を三十年後に引き戻してくれるはずであった。
椅子《いす》にすわっているはずなのに上体が倒れ、足がまっすぐに伸びた。体が回転を始め、宙に浮き、全身が鈍重な感覚の虫に変わり始めた。こうして田島一郎の果てしない循環運動が始まった……。
その頃《ころ》……女は思い悩んでいた。
――魔が差したのかしら――
女は頭《かぶり》を振った。
――そうじゃないわ。私はあの人を愛している――
あの人≠ニは音楽会で知りあい、いつのまにか体を重ねるほどの親しさにまで踏み込んでしまった。今こうしてすわっていても男の姿が目頭に浮かんで来る。声が聞こえて来る。
朝鮮動乱が始まってこのかた夫の帰りが遅くなった。景気が回復し始め、千載一遇のチャンスがやって来たのだという。よほど仕事が忙しいのだろう。
結婚して七年。どうしたわけか子どもには恵まれなかった。ひとり留守番ばかりしている妻の座などみじめなものだ。
そんな心のすきまにスイとあの男が滑り込んだ。
――私より十歳も若い男――
けっして長続きのする関係ではあるまい。彼だって、いずれはよい相手を見つけて結婚するだろう。夫に気づかれたらどうしよう。
「いけないことだわ。夢が美しいうちにお別れしましょ」
そう告げて別れたのが一か月前。
だが、女は懐妊していることに気がついた。
――多分、あの人の子――
夫はなにも感づいていない。夫は今、仕事に手いっぱいで、妻への配慮など心のどこを捜しても見当たらないのだから……。
子どもはほしい。
――あの人の子なら余計にほしい――
今までに妊娠できなかったのは夫婦のあいだになにか支障があったからだろう。これから先も夫とのあいだに子どもが恵まれることはあるまい。
――ならば、今、この子を生みたい。秘密は私が墓の中まで引きずっていけば、だれにも知られるはずはない。夫の子として育てればそれでいい――
だが、本当にそうかしら。
――私は秘密を守ることができる――
しかし相手はどうだろう。なにかの弾みであの男が真相を知りやしないか。それをだれかに告げることはあるまいか。問題がこじれたとき、子どもとそっくりの顔立ちの男が現われたら、どうしよう。
――危ないわ――
やはりお腹の中の子は、このまま葬ってしまったほうがいいだろう。
――かわいそうに。せっかく生まれて来ようとしているのに。あの人の子だというのに……。もう一生私は子どもに恵まれないのかもしれない。赤ちゃんがほしい――
女が決心のつかぬまま逡巡《しゆんじゆん》しているそのときに、思いがけないニュースが届いた。
新聞の中の小さな記事。
あの男が自転車泥坊と争って死んでしまった……。
女は驚いた。悲しみもした。
だが驚愕《きようがく》のときが過ぎると、新しい思案が胸にのぼり、心が決まった。
――もうあの男はいない。私さえ秘密を守ればなんの危険もない。あの人の子を産んで育てよう。もう二度と帰らない人の思い出を、一生眺めて暮らそう――
その男が生きていたらけっして誕生することのなかった子どもがこうして誕生した。男の子だった。
女は夫の姓の下に、自分好みの名前をそえて島田一郎と命名した。
歳月は人の世の秘密を覆い隠したままあわただしく流れた。五年、十年、二十年……と。
島田一郎は今は両親のもとを離れて代々木八幡《よよぎはちまん》のマンションに一人で生活している。1DKの小さなマンション。
朝、目醒《めざ》めて枕《まくら》もとのテレビをつけた。
「……明智光秀が一人いたおかげで信長は新しい天下を創《つく》ることができなかったように見えるけど、それは違いますね。光秀がいなくてもだれかが信長を抹殺《まつさつ》したでしょう。光秀一人の力で歴史が変わったわけじゃありませんね。人間一人の力では歴史の大きな流れは変えられませんね……」
小説家は確信のこもった声で言う。
――そんなものかな――
島田はまだ眠気の残っている頭でぼんやりと思った。
島田一郎は将来を嘱望されている俊秀の物理学者である。彼は太陽エネルギーを原子核レベルで固定する方法を研究している。数年後にはきっと成功するだろう。
島田はチャンネルを廻《まわ》した。
画面では二人の男がパラドックスについて、なにかしきりに語り合っている……。
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肉の影
ルルー、ルルー。
デスクの電話が鳴った。
「もし、もし」
製品課長の工藤恒彦が電話を取ると、女の声が聞こえてきた。
「もし、もし。あの……工藤恒彦さん、いらっしゃいますか」
「はい、私が工藤ですが……」
こう答えながら工藤は、プライベートな電話らしいな、と思った。仕事上の電話ならば工藤課長≠ニか、ただ工藤さん≠ニか言うはずである。電話の声には恒彦≠ウんという部分にことさらに強いアクセントを置いているような気がした。
「あの……わたくし、佐野歌子です」
女はこう言いながら、少し笑ったようにも聞こえた。
だが、その名前に記憶はない。咄嗟《とつさ》にどこかのバーかクラブの女が電話を掛けて寄こしたのだと思ったが、それに思い当たるふしがなかった。
工藤自身そう酒が飲める口ではなかったし、水商売の世界の女にはなじみが薄かった。
「佐野さんとおっしゃいますと、どちらの佐野さんでしょうか」
「フフフ」
今度は女はハッキリと笑った。
「小松です。小松歌子です。お忘れになっちゃった?」
ああ、そうか。今度はわかった。
「なーんだ。佐野なんて言うものですから……」
「ごめんなさい。結婚後の名前なんか言ったって、わかりませんわね」
「うん。そう言えば、ご結婚の挨拶状《あいさつじよう》でその名前を拝見したような記憶がわずかにありますよ。お元気ですか」
「ええ、元気です。とても……。よろしいですか、お電話を続けて……」
「ええ、結構ですよ」
もう工藤は完全に記憶を取り戻していた。そして電話口で言葉を交わしながらも、つぎつぎに小松歌子のことが心に浮かんで来た。
歌子は、工藤が勤めるN光学機器にアルバイトに来た女子大生だった。六年前……いや、もう七年くらい前になるかもしれない。
その頃《ころ》、工藤は開発部の庶務担当の係長だった。何人かやって来たアルバイト女子大生の中で、どことなく自分好みの歌子を配下のセクションに配属したのを覚えている。
初めっから野心があったわけではない。席のそばに若い女性を置いて、チョッピリいい気持ちになるのは、サラリーマンならだれでも知ってるささやかなリクリエーションだ。
工藤は周囲の席に気を使いながら電話を続けた。
「東京に出ていらしたんですね」
結婚通知状の住所はたしか四国のどこかだった。
「はい。主人の勤めの関係で……」
「お子さんは?」
「それが、まだなんですの」
「そうですか」
急に工藤の心に、みずみずしい歌子の裸形がよみがえって来た。薄い恥毛と、まっすぐに伸びた亀裂《きれつ》とが……。
「こんな長電話、よろしいですか」
「ええ、電話はかまいませんが、一度おひまなときにお目に掛かりたいですね。なつかしいですよ」
「わたくしのほうはいつでもよろしいんですけれど……工藤さんはご迷惑じゃないんですか」
「夜でよろしいんですか」
「ええ、夜中でも……」
歌子はまた笑った。
工藤は卓上のメモを見た。
「今晩でも?」
「結構ですわよ」
「じゃあ、そうしましょう。どこがいいかな。わかりやすいところで……新橋駅前のKという喫茶店、覚えていますか。今でも昔のところにあります」
「はい。わかると思うわ」
「では、そこで六時半くらい……」
「六時半ですね」
「では、その時に」
話は簡単に決まった。
電話を置くと工藤はタバコに火をつけ、部下の持って来た書類に目だけ向けながら、小松歌子のことを思った。
歌子は当時N女子大の、そう、たしか四年生だった。口数の少ない、いつもデスクにひっそりとすわっている女のコだった。目鼻立ちは整っていたが、全体に野暮ったく、オフィスの中でそう目立つ存在ではなかった。ただ、時おり口もとにフッと浮かぶ笑いには奇妙な色気があり、見ようによっては淫蕩《いんとう》な感じを与えないこともなかった。
仕事は思いのほかテキパキとこなした。見かけより頭のいい女なのかもしれない。友だちづきあいもしない、どこか変わってる女の子だった。
昼休みにポツンと机の前にすわっている歌子を見て、工藤は何度かコーヒーを飲みに誘ったことがあった。昼食に誘ったこともあったし、会社の退《ひ》けたあとで夕食をご馳走《ちそう》したこともあった。若い係長はアルバイトの女性に対して、おおむねサービスがいいものだ。こうしてアルバイトの期間も終わり、彼女は姿を見せなくなった。本当はそれでなにもかも終わったはずだった。
ところが、それから半年たって工藤は偶然新橋駅の近くで歌子に会った。夜の八時ごろだった。
「あ、係長さん」
「なんだい、今ごろ。どこへ行くんです?」
「べつに……。ショッピング……」
「コーヒーでもご馳走しようか」
「ええ」
駅の近くの喫茶店に入ったが、運わるく団体客が入っていて、あまり雰囲気はよくなかった。
「ほかへ行こうか」
「はい」
「赤坂のホテルの屋上に回転する展望ルームがあるでしょう。あそこへ行って夜景でも見ましょうか」
「すてき!」
思い出すと、あの日はたしか給料日で、世帯持ちの若いサラリーマンも、懐に潤沢な資金があった。そのゆとりが工藤を少し大胆にした。高級ホテルで何を食べ、何を飲んでも恥をかく心配はなかった。
工藤は薄いバーボンの水割りを飲み、歌子はヴァイオレット・フィーズを飲んだ。ヴァイオレットのびんによく似た東京タワーが重い雲の下でチラチラと光っていた。歌子もアルコールに弱いほうらしく、一ぱいのカクテルで頬《ほお》を熱く染めていた。回転台の動きが二人の酔いを一層心地よいものにした。心地よさに引かれて、もう一ぱいずつ飲んだ。小さな眩暈《げんうん》につれ魂が体から抜け、細い意識の糸でわずかに体につながった風船のようにフラフラと揺れていた。
十時過ぎる頃《ころ》、ホテルを出て暗い道を歩いた。手と手が重なり頬と頬があった。歌子は少しも拒まなかった。
それからもう一つのホテルへ行くまでは、距離的にも時間的にも、そしてなにより心の壁を乗り越える上でも、そう遠くはなかった。
「遅くなってもいいのかい」
「どうせアパート住まいですもの」
「それはいい」
二人は肩を抱きあうようにして連れ込みホテルのドアをくぐった。
あのときバス・ルームから出た歌子は、タオルを体に巻いたまま、
「電気を消して」
とせがんだ。
天井のメイン・ライトを消しても、ベッドの上はスタンドの光で適度に明るかった。
そっとバス・タオルを剥《は》ぐと、掌に入るほどの白い乳房があった。青く浮き出た静脈がその白さを一層際立たせていた。
恥毛は薄く、その下に深く凹《へこ》んだ一直線の亀裂《きれつ》が見えた。工藤はその頃までに妻を含めて、ほんの四、五人の女体しか知らなかった。その経験からいって、成人した女の亀裂はもう少しゆがんでいるものだと考えていた。歌子のまっすぐな亀裂は、そのまま女体そのものの新しさを感じさせた。
歌子は処女ではなかったろう。隠された部分は充分に潤んでいたが、中は堅く、狭く、抽送のたびにむしろ苦しそうでさえあった。浅いあたりに小さな突起があって、それが運動のたびに工藤のグランスの裏側をかすかにこそぐる。その感触は、どの女からもえたことのない、不思議な心地よさだった。
眼をつぶった歌子の顔は、暗い光の中でひどく淫蕩《いんとう》なものに映った。もう少しこのことに慣れてきたならば、ずいぶんエロチックな女に育つのではないか、工藤はそんなことを感じ、むしろ彼女の将来に漠然とした不安さえ抱いた。
ホテルを出ると歌子は一人で帰ると言い張った。工藤は車代程度の金を渡した。
「すみません」
「本当に一人のほうがいいのかい」
「ええ……」
「キミに連絡したいときは、どうすればいいんだ」
「アパートに電話がないから……」
そこへタクシーが来た。歌子は車に体を入れながら、
「あとで会社へご連絡します」
「うん」
しかし何日待っても歌子から連絡はなかった。大学は卒業しているはずだし、アパートもアルバイトに来てた頃とは変わっているらしい口ぶりだった。人事課の記録で両親の住所は浜松市内とわかったが、まさかそこへ手紙を出して問い合わすわけにもいかない。
そのうちに小松歌子のことは意識の中から少しずつ消えて、次に思い出したのは半年後に結婚通知の葉書をもらったときだった。工藤はそれを見て、なぜか「なるほど」と納得した。歌子の心には影の部分があって、そこにさまざまな秘密が隠されているのだと思った。歌子はそういう女だった。
「ご主人はなにをなさっているんですか?」
「平凡なサラリーマンよ。なんの取りえもない……。S皮革っていう皮製品の会社なの」
七年ぶりに会った佐野歌子は、一瞬少し太ったな≠ニ感じさせたものの、しばらく話しているうちに昔の記憶のほうがすっかり消えてしまい、工藤には歌子は昔からずーっとこの顔で、少しも変わっていないような気がしてきた。
変わったことと言えば、七年前に比べて化粧も顔立ちも、そして体のこなしもずっと女らしくなった。半おとなの女子大生から花も実もある若い人妻に変わっている。巧みに隠されているが、あの淫蕩《いんとう》な気配は昔よりはっきりと濃くなったように思えた。だが、そのことは工藤にとって、けっしていやなものではない。むしろのぞましい、期待通りの変化でさえあった。
歌子はおしゃべりにもなっていた。以前はもっと無口で、陰性で、ちょっとなにを考えているかわからないところがあった。その本質はたぶんそう変わってはいないのだろうけれど、さすがに一家を預かる妻となってからは、近所づきあいなど、いやでも社交的なおとな≠ノならざるをえない。そういう境遇の変化が歌子をいくぶん雄弁に変えたのだ、と工藤は思った。
「もうずいぶん偉くなられたんでしょ」
と歌子が言う。
「偉くなるわけないだろう」
「お名刺いただけるかしら」
「うん」
工藤が名刺を出すと、
「うわーッすごい。課長さんなのね。一流会社の課長さんですもん。うちの主人などと違って……」
工藤は歌子の夫はどんな人だろう≠ニ興味を抱いたが、それ以上尋ねようとは思わなかった。
ひとしきり近況を話しあったあとで、歌子が伏し目がちに笑って、
「あの……いつかのホテルの展望ルーム、今でもまわっていますの?」
と、さりげなくほのめかした。
「ええ、まわっていますよ。行って見ますか」
「ええ……」
「食事は?」
「あまりお腹すいてないんです」
「あそこでも食べられるかな」
喫茶店を出て工藤と歌子は赤坂のシティ・ホテルへ車を走らせた。
いったん体を交えあったことのある男女は、多少の年月を隔てても、ふたたびめぐりあえばもとの位置に戻るのはやさしい。
とりわけ工藤と歌子の場合は、抱き合ったその夜に別れて、それ以来ずっと今日まで空白が続いていた。あの夜がそのまま今夜に続いても不思議はなかった。
食前に飲んだ酒の酔いと展望ルームの軽い動きが、二人の心を余計に滑らかなものにした。それに……二人はもともとそうなることを期待して、ここまで来たのではなかったのか……。
「二人だけのところへ行きましょうか?」
「ええ」
外に出るといつか来た道は、同じような黒いとばりに包まれていた。
先に工藤が風呂《ふろ》に入り、工藤が出ると替わって歌子が入った。
浴衣《ゆかた》に着替えた工藤は、バス・ルームの水音を聞きながら、もう一度風呂に戻ろうかと思ったが、それもあせりすぎているような気がしてベッドで待った。
歌子は大きなバス・タオルを体に巻いてあがって来た。
「なんだか変な感じ……」
「昔とちっとも変わっていない」
「そんなことないわ。工藤さんこそ変わっていない」
歌子はベッドの上に腰掛け、髪をかきあげながら工藤のほうを向き、誘うように笑った。たしかに七年の年月が歌子を女子大生から一人前の女に変えていた。
「何度も君のことを思い出したよ」
「嘘《うそ》ばっかり。電話じゃ、あたしのこと、わからなかったじゃない」
「それは無理だ。始めっから小松と言ってくれれば……」
工藤はベッドをまわって歌子の隣にすわった。
「突然消えてしまうのだから、ひどいぜ」
「でも、そのほうがよかったんじゃないかしら」
「君の体はいつまでも忘れなかったよ」
工藤はこう言いながら、歌子の肩に腕をまわして胸に引き寄せ、そのまま唇を重ねた。歌子は工藤の口いっぱいに舌を差し込み、かすかに震わせながら巧みに操る。その滑らかな動きも昔にないものだった。工藤が腰をねじると歌子の体はしなやかに崩れてベッドに倒れた。
バス・タオルの下に白い二つの乳房があった。工藤はその乳房が、昔よりいくぶん大きく、まる味を増したように思った。
工藤は指を使わずにいきなり唇で歌子の乳首をとらえた。舌の中で乳首がふくらむのがわかった。それから唇を乳首から少し離して舌先で軽くチョンチョンと触れるようにした。
歌子はいつの間にか枕《まくら》の端を握りしめ、
「ああ」
と、声を漏らした。口もとがエロチックにゆがんだ。
いったい七年前にはどんな愛撫《あいぶ》を加えただろうか。歌子はどんな反応を示しただろうか。工藤はその細かい印象を思い出すことはできなかったが、歌子が充分に成熟し、はるかに感じやすい女体に変わっていることは確かだった。工藤はその変化に軽い嫉妬《しつと》を覚えた。
恥毛は記憶の中にある通り薄くかすむように萌《も》え、そのかげりの下に、これも昔通りのまっすぐな亀裂《きれつ》があった。工藤が足をからめて開くと、亀裂が濡れた色を見せて崩れた。
「もうこんなに濡れている」
「いや、そんなこと……」
工藤は舌を亀裂の奥に沈め、舌先の真珠に乳首と同じような愛撫を繰り返した。
「あ、もう、いや……」
歌子の手が工藤の髪にかかった。もう女の声が鼻声に変わっている。
工藤が身を起こし、歌子の上に折り重なった。
「あ、すてき」
歌子はベッドの上で体をのしあげるようにそらし、工藤の腰を両手で動きが取れないほどに強く抱き締めた。
「いいよ、すてきだ」
工藤も声をあげた。
浅い部分には、やはり昔のままの小さな突起があって、それが引き抜く動作のたびに工藤をこそぐる。抽送の最後に高価なおまけ≠ェあるみたいだった。
歌子は快感の渦の中で波のように乱れた。その波が体の中で少しずつ高まって頂点に達し、それを追いかけるようにもっと高い波が迫ってくる。その様子が、接している工藤にもよく伝わってくる。波は三度も四度も押し寄せ、このままいく度も高まっていったら、最後はどうなるのだろうと不安になるほどであった。
事実、歌子は足を工藤の体に巻きつけ、また振りほどいて弓なりにそらし、狂喜の動作を繰り返しながら、
「いや、もう……」
と、耐えきれないように最後の声を吐き出した。工藤もそれを聞いて果てた。
すべてが終わってからも歌子はしばらくポカーンと放心したようにベッドに横たわっていた。
「すっかり感じやすい体になったね」
「言わないで」
「本当だよ。ご主人がうらやましいよ」
「主人はこんなに愛してくれないわ」
歌子は主人という言葉にことさら力をこめるように言った。
こう言われて工藤はあらためて歌子の背後に夫のいることを意識した。自分以外に……いや、自分以上にあのこそばゆい感触を賞味している男がいることを思った。
歌子がポツリと言う。
「主人とのときも、あなたを思い出しそう」
「そうかな」
工藤は首をかしげた。
歌子は明晩にも夫と抱き合うかもしれない。その光景を思うと、工藤は昔からよく言われているような人妻を盗む♀びとはべつに、人妻を盗む≠゙なしさのようなものを感じた。今夜の情事を刺激剤にして、歌子は夫とのときにも一層燃えるだろうし、なにも知らない夫はそれをこころよく味わうだろう。工藤はそこに屈折した嫉妬《しつと》を覚えたが、それはとりもなおさず工藤が歌子の体に愛着を感じ、歌子を愛し始めた証拠とも言えた。
二時間ほどして二人は部屋を出た。夜は大分更けていた。
「送ろうか」
話の様子では、歌子の家は世田谷の奥らしい。
「いえ、一人で帰るわ。そのほうが安心」
「ご主人は?」
「今日は宴会で、たぶん午前さまよ」
「家の電話番号を教えてくれよ。また消えられると困る」
「ええ」
工藤が手帖《てちよう》を出すと、歌子は電話番号と住所を告げた。住まいはマンションの五階らしかった。
「でも、へんなときに電話をしないでくださいね」
「それはわかっているよ。せいぜい昼間だけだ」
「昼間でも主人がいないとも限らないわ」
「男の声が聞こえたら、間違い電話にするから大丈夫だ」
「そうね」
「また近日中に会いたいな」
「たぶん来週の終わりごろ……連絡します」
「うん」
国電の改札口で歌子と別れた。
工藤はどちらかと言えば、平凡で生まじめなサラリーマンだった。大学で経営工学を専攻し、十数年前にN光学機器に入社した。そしてゆるやかな階段を昇るように係長になり、課長補佐になり、課長になった。
その間入社六年目に勧める人があって見合い結婚をし、年の経るままに二人の男女の父となった。
女性関係も、出張先などでゆきずりの女を抱くことはあったが、特定の女と深入りしたことはなかった。会社の若い女性社員たちとコーヒーを飲んだりボウリングを楽しんだり、時にはバーに誘って酒をご馳走《ちそう》したりすることもあったが、これも人事管理の一環と心得て、若やいだ雰囲気を楽しむ程度にとどめていた。
そこへ降って湧《わ》いたように歌子との関係が再燃した。
歌子は一月に一、二度会社に電話を掛けて寄こし、二人は都合を確かめあって、デートを楽しんだ。
回を重ねるにつれ工藤の心は歌子に傾いた。歌子の淫《みだ》らな体に愛着を覚えた。男は女の体を知ったとたんにその女への興味を失うと言うのは、嘘《うそ》だ。しばらくは熱狂的に燃えるものだ。とりわけ工藤のように遊び慣れない男の場合はそうだ。工藤はこんなに負担のかからない、便利な密会がいつまでも続けられるものなら、人生にこれに勝る歓《よろこ》びはないとさえ思った。
歌子はと言えば、彼女もめくるめく情事に酔いしれた。抱きあったあとには、いつも、
「もうあなたから離れられないわ」
と、口ぐせのようにつぶやいた。
デートのたびに歌子は精いっぱいおしゃれをしてきたが、工藤は漠然と歌子の生活がそれほど豊かではないように感じていた。歌子はいつも「主人はどうせけちで、二流のサラリーマンでしょ」と言っていたが、それもあながち謙遜《けんそん》だけではなさそうだ。
もともと生まじめな工藤は、そのことを思うと少し心が痛んだ。自分より恵まれない立場にいる男の妻を盗むことは、あまり気持ちのいいものではなかった。だが、その一方では、歌子と抱きあうたびに、歌子の愛のしぐさのはしばしに、夫の痕跡《こんせき》を感じて、ままならない嫉妬《しつと》を覚えていた。歌子をこんな感じやすい体に育てた男がいて、それが自分よりはるかに数多く歌子と接していることが、くやしかった。
だから工藤は自分の心の中に歌子の夫のイメージができるだけ形成されないように意識的に努めた。歌子のほうから言い出さなければ、工藤が進んで彼≠ノついて質問することはなかった。
さいわいなことに、歌子もデートの最中にそれを感じさせることは少なかった。
ただ、抱き合ったクライマックスの瞬間に、突然歌子が、
「あなた」
と呼ぶことがあった。
もちろん、そのあなた≠ェ工藤自身を指していないとは言いきれなかったが、工藤には歌子が夫を呼んでいるように感じられ、いやな気持ちになった。それを忘れるかのように工藤は歌子の体の中にのめり込んだ。
初めのうち二人は、いつも同じ連れ込みホテルに通ったが、四、五回デートを重ねたところで、歌子が急に、
「いつものところは、もう、いや」
と言うので、その都度あちこちと場所を変えるようになった。
あとで工藤が思い返してみると、その頃《ころ》から歌子の様子に変化があったような気がしないでもない。とりわけホテルの出入りにはひどく警戒心を働かせているふしがあった。
四か月ほどたったある夜のこと、歌子がホテルの風呂《ふろ》にも入らずに、じっとベッドにすわって考え込んでいる。工藤はワイシャツを脱ぐ手を止め、
「どうしたんだ。今日は少しおかしいぞ」
と尋ねた。
「ええ……」
「話してごらん、なにか心配があるなら……」
工藤は内心夫に感づかれたのかな≠ニ思った。歌子の様子はただならないものをはらんでいた。
だが、ようよう口を開いた歌子の言葉は少し違っていた。
「あの……お金を貸していただけないかしら?」
「お金? どのくらい?」
「八十万円ほど……。きっとお返しするわ」
「八十万か」
工藤が漠然と想像したよりはるかに大きな金額だ。
歌子があわてて、
「無理なら半分でもいいの。三十万円でも……」
「しかし、どうしてそんなお金がいるんだ?」
「ええ……」
歌子はまたうな垂れた。
「急に八十万と言われても、ちょっとむつかしいけれど、話によっては相談にのれるかもしれない」
「訳を言わなければ、いけない?」
「ウーン。できれば聞きたい。どうしても言いたくないことなのか」
「言いたくないの。あなたはいやがるわ、きっと」
「なんなんだ? 俺にも関係のあることなのか」
歌子は顔を両手でおおいながら小さくうなずいた。
こうなると、ますます工藤は訳を聞かずにすまされなかった。
「まあ、とにかく話してごらん」
何度か勧められてようやく歌子はポツリ、ポツリと語り始めた。
聞いてみると、確かにそれはまずい§bだった。歌子が、工藤との情事をたねにだれかに金をゆすられた、というのだ。
「三回目のデートのあとだと思うの。知らない男から電話が掛かってきて、男とホテルで会ったのを知ってるぞ≠チて言うの。ホテルの名前も言ったわ。証拠の写真もあるって……。あとから、その写真を送って来たわ。あなたとホテルに入る写真……」
「本当か」
「ええ。それで……その男が、主人に知られたくなかったら、三十万円でネガを買えって……」
「駄目じゃないか、そんなこと、オレにすぐ連絡しなくちゃ……」
「でも、こんなことであなたとお別れしたくなかったわ。……。三十万円ならなんとかなると思ったし……」
「そういうことは自分一人で処理しようとしちゃいけないんだ。すぐにでも警察に言わなければ……」
「でも……警察に知らせたら、主人にみんなわかってしまうと思って……」
「いや。警察もその点は充分に注意してくれるはずだ」
「ええ、それはあとでわかったんですけれど……」
「あとでわかった?」
「ええ。あたし、二度もゆすられたんで、とうとう我慢できなくて警察に行ったの」
「二度も」
「そう。三十万円と五十万円と……」
「二度とも取られたのか」
工藤は唖然《あぜん》とした。なんて馬鹿な女かと思った。しっかりしているようでも、これだから女は困るのだ。
「あたしが馬鹿だったんです。でも、とてもこわかったの。あなたと別れたくなかったし……。それだけはわかって……」
「それで、どうした? とにかく全部話してごらん」
「三度目の電話があったとき、警察が張り込んでくれたわ」
「犯人はつかまったのか」
「ううん。でも、それからはもう電話が掛かって来ないわ」
危険をさとって手を引いたのだろうか。
「このまますんでくれれば、あたし、それでいいと思ってたの。あなたに迷惑をかけたくなかったし。でも……」
「でも……?」
「あとの五十万円は、困って町の金融業者から借りたの。初めの三十万円も、主人から預っている通帳からおろしたの。借りたお金の返却期限は迫っているし、主人にはいつ見つかるかわからないし……もう、いや、不安でたまらないわ」
話のアウトラインは、ようよう工藤にも飲み込めた。
工藤はもっと早く自分に知らせてくれればよかったのに、といまいましく思ったが、それも歌子が自分との関係を失いたくないために独力で処理しようとしたのだ、とわかればそう強く苦情を言える立場ではなかった。
それに……八十万円は奪われたものの一番危険な事態が避けられたような話なので、工藤はさまざまな不安と困惑を感じながらも、心の奥深いところではほっと安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろした。
工藤は話のアウトラインを知ったところで、もう一度歌子をうながして初めから事件の詳細を聞きただした。それをまとめてみると――
電話の声は、若い男の声で、いつも同じ人のようだった。
写真の中の二人は、横顔ながらはっきり写っているらしい。
結局ネガは返して寄こさないので、まだ危険が去ったわけではないが、犯人は歌子がその後も工藤とデートを続けていることを知ってるふしはない。
一回目の三十万円は、夜十時|頃《ごろ》電話があって、今すぐベランダから下に投げろ≠ニ言われてその通りにした。
二回目の五十万円は、やはり夜十時頃に電話がありマンションの屋上の北側に立って、赤い懐中電灯の点滅を見て下に投げろ≠ニ言われ、その通りに投げた。
三回目の脅迫があってから、歌子は警察に訴え、警察が捜査に乗り出した。要求金額は三十万円で、歌子は新聞紙でそれらしい束を作って用意したが、結局犯人からなんの連絡もなかった。
それからもう二か月が過ぎ、警察では犯人は危険をさとって手を引いた≠ニいう考えに傾いている。歌子の主人はまだなにも気がついていないらしい……ということであった。
胸につかえていたものを全部吐き出すと、歌子は肩で大きく息をつき、工藤の顔をおそるおそるうかがうように下から見あげ、遠慮がちに体をすり寄せて来た。
「ごめんなさい」
「いや、君が謝まることじゃない。私も不注意だった。君ばかりに心配をかけて……」
「こわかったわ」
工藤は歌子の肩を抱きながら、金の算段を考えていた。半分は預金に当てがあったし、残り半分も借金の当てがあった。
「お金のことは心配するな、明日にもなんとかしてあげるよ」
「すみません。月々のやり繰りをしてもかならず返します」
「いや、それは困る。これは俺の責任だ」
「でも、私が馬鹿だったんだから……」
「いいよ、いいよ。それよりこれからは気をつけよう。変なことがあったら、すぐに連絡してくれよ」
「ええ……。もう一度二人で警察に行ったほうがいいかしら?」
「ウーン、今さらしょうがない。今度電話があったら、俺が行く」
工藤は少しうしろめたい気持ちで言った。
「きっとそうしてね」
「うん」
工藤はとても歌子を抱けるような気分ではなかったが、さりとてこのままなにもせずに別れるのはもっとやりきれなかった。
「風呂《ふろ》に入るかい」
「ええ」
歌子の顔に初めて笑みが浮かんだ。ようやく安心したのだろう。こんなときでも、その口もとはどこか淫蕩《いんとう》なものを感じさせる。あの、こそぐるような突起は、いかにも彼女にふさわしいものに思えて、工藤は結局歌子を抱き寄せた。
暗い。どこまでも暗い部屋の中である。
歌子が素裸のままでベッドに縛られていた。
男は芝居の黒子のようにまっ黒い影で、ただ男としかわからなかった。
男が近づくと、歌子がいやいやでもするように首を振った。黒い手が歌子の乳首をまさぐり、乳暈《にゆううん》がパッと薔薇色《ばらいろ》に色を変えた。
喉《のど》がヒクヒクと動き声が甘い鼻声に変わった。
「どうだ?」
どこかで聞いたような声だ。
「いいわ」
「ここはどうだ」
男の手が歌子の亀裂《きれつ》に伸びた。亀裂はその奥にポッカリと大きな穴をあけ、その入口に金魚のこぶのような突起が見えた。
男の指がその中に吸い込まれたとき、工藤は自分の指先にもドロドロととろける熱いぬめりを感じた。
このときには、工藤は曖昧《あいまい》な意識の中で自分が夢を見ていることに気づいていた。
しかし目を醒《さ》まそうとは思わなかった。それを夢と覚っているのは大脳の中のほんの一部分で、大部分の大脳はそれを現実として知覚しているふうだった。
黒い男が歌子を犯そうとしている、と思った。男はあの男だ。電話で歌子をゆすった男だ。
道理で声に聞き覚えがあると思ったら、あれは電話の声なのだ。工藤は、その電話の声を聞いたはずがないのに、聞き覚えだけはあった。
男が体を動かすにつれ、歌子の顔が淫《みだ》らにゆがんだ。
ああ、あれは歌子が感じているときの顔だ。歓《よろこ》びが津波のように押し寄せ、フツフツとたぎっているときの顔だ。
「どうだ、亭主よりいいか」
「ええ」
「どうだ、あの男よりいいか」
「ええ、工藤さんよりも……」
歌子ははっきりとそう言って体をのけぞらせた。
夢から醒めても工藤はぼんやりと夢のことを考えていた。
工藤の中には不安があった。
「歌子は、あの男に会っていないと言ってたが、本当だろうか?」
歌子から脅迫の話を聞いたとき、金の受け渡しのくだりが、どうも納得がいかなかった。辻褄《つじつま》はあっていたが、なにか不自然なものがあるような気がした。
いや、あのときはとにかく事件の詳細を聞き出そうとしてあせっていたので、そうはっきりと不自然さを意識したわけではなかったが、やはり心のどこかでそれを感じていたのだろう。それが潜在意識を刺激して、こんな夢を見させたのだと思った。
男の目当てが金にあったにせよ、歌子をそのままにしておくはずがない。秘密の情事をタネに金をゆするほどの男が、歌子の体を犯さないはずがない。
男は金を受け取りに来て、そして歌子の白い体をタップリと賞味した。歌子はいやいやと首を振りながらも、男の執拗《しつよう》な愛撫《あいぶ》に歓《よろこ》びの声をあげたのではないか。
歌子はそのことを話さなかった。話せることではなかった。できることなら、なにもかも工藤に知らせずにすまそうとした歌子のことだ。男に犯されたとしても、それを工藤に告げるはずはない……。工藤は夜の静寂の中で、まんじりともせずそんなことを考えた。犯されることも、それを黙っていることも、いかにも歌子にはありそうなことに思えた。
あれこれ思ううちに東の空が白み、朝があけた。太陽のまばゆい光の中で思い返してみれば、昨夜の夢は工藤の思いすごしのような気がしないこともなかった。それに、たとえ事実がどうあれ、そのへんのことはあまり詮索《せんさく》をしないほうがよいのではないか。歌子には、どこかはっきりとしない、うしろ暗いようなものを感じたが、工藤は無理にそういう感情を振りきった。
それよりも差し当たって、今日は八十万円の金を作らなければならなかった。工藤は金のことはほとんど妻にまかせ、月給運搬機を自認しているくらいだから、こんなときには不便だった。妻には、
「部下に借金を頼まれたから……」
と言って、自分名義の預金通帳を出させ、そこから目いっぱい預金をおろすことにした。つい最近娘にピアノを買ってやったばかりなので残額は、心覚えの通り四十万円を少し越えているだけだった。
会社に出てから商売をやっている友人に電話を掛けて五十万円を借りることにした。歌子が町の金融業者から金を借りたと言っている以上、金利のぶんも考えてやらねばならないと思った。あわせて九十万円は、中途半端な金額だが、これは仕方あるまい。
会社の帰りに約束の喫茶店で歌子と落ちあい、金を渡した。
歌子は、また、
「きっとお返ししますから」
と言った。
工藤は目顔で笑って取りあわなかった。
その夜も結局二人は抱き合うことになった。ただ、連れ込みホテルはもう懲りたので、都内のれっきとしたシティ・ホテルを予約し、宿泊客としてツイン・ベッドの部屋を借りた。
歌子は安心感のせいか、それとも工藤の金策に感謝してか、いつもより一層大胆に体を開いた。薔薇色《ばらいろ》の真珠は大粒で、その根方に続く茎の部分も少し長さがあった。
歌子は、それを舌先でしごいてほしいと言う。
その通りにすると歌子はもう堪えられないといった声をあげ、工藤の頭に爪《つめ》を立ててかきむしった。
歌子はどこでこんな愛撫《あいぶ》を教えられたのだろう?
工藤の心に、またしても歌子の夫と、そしてあの男≠フことがかすめた。
歌子が死んだ。
工藤はそのことを五週間も知らなかった。最後に会ったのは、金を渡してから数えて二度目のデートのときで、歌子は、
「おかげで、お金のことは片づいたし、あの男から電話もないわ」
と顔をほころばせていた。
どこといって死を予感させるものはなかった。強いてあげれば、
「このごろ低血気味で、生理のときなんかめまいがするの」
そう言って、少しけだるそうにしていた。情事にも、もう一つ身が入らないふうだった。
「また来月あたりに……」
と工藤が言うと、歌子は、
「そうね。このごろなかなか主人が家をあけてくれないものだから」
と、首をすくめた。
それが最後だった。
しばらくは歌子から呼び出しの電話がなくても、工藤は都合がつかないのだろうと、さして心配もしなかった。
三週間も連絡がないので気掛りになり、日中歌子の家に電話を掛けてみた。工藤のほうから歌子に電話をするのはめずらしいことだった。
「もし、もし……」
男の声が返って来たので、工藤は、
「田中商店ですか」
と適当な名前を言った。
「いや、ちがいます」
「どうも失礼」
その後また折をみて電話をするとベルが鳴るばかりで返事がない。ようやく相手が出ても、また男の声なので間違い電話を装わなければならなかった。
その後も相変わらず歌子のほうからは連絡がなく、やむなく会社のタイピストに頼んで電話を掛けさせると、彼女が怪訝《けげん》そうに、
「この電話は使っていない、と言ってますが……」
「えっ、そんなはずはないのだが……」
もう一度ダイヤルをまわすと、電話局の交換嬢の声が聞こえて、
「あなたがお掛けになった電話番号は、ただ今使われておりません。もう一度電話番号をお調べになってお掛け直しください」
と繰り返すばかりだった。
工藤はまた昔のように歌子が自分の前から姿を消したのだと思った。
しかし、今度は前に比べてずっと手掛りがたくさん残っている。捜し出そうと思えば捜し出せないことはあるまいと思った。
工藤は適当な口実を設けて会社を早退し、歌子のマンションまで行ってみることにした。
歌子のマンションは一、二度近くまで送って行ったことがあるので、建物の位置は知っていた。
一階の郵便受けには『五〇二、佐野』と、歌子の姓を記した名札が残っていたが、エレベーターで五階まであがってみると、二号室には表札がない。ベルを押したが返事はない。
通りかかった子どもが、
「そこは空き家だよ」
と言うので、ノブをまわすと偶然ドアがあいて、たしかに中に人の住んでいる気配はなかった。
「引越したのかい?」
「うん」
「いつごろ?」
「わかんない。おばさんがベランダから落ちて死んだんだよ」
「えっ! 本当かい」
「本当だよ」
「いつごろ?」
「忘れちゃった。ずっと前……」
管理人室がわからないのでマンションの外に出て近所の酒屋に聞いてみることにした。
酒屋には若い店員が店番をしていた。
「そこのマンションの五階で、佐野さんの奥さんが事故でなくなったと聞いたけど……いつごろかね?」
「一か月くらい前かな。そう、九月十一日か十二日、そのへんだよ。あのマンションにはあんまり行かねえからなあー」
口のききかたもぞんざいであまり感じのいい店員ではない。中小商店は求人難で質のいい店員が雇えないのだろう。
「どんな事故で……」
「ベランダに干し忘れた布団を夜帰ってきて入れようとしたんだってさ。布団が滑って、一緒にドシャーン。それで、おしまい」
「そのあとすぐ引越したのかな」
「そうだろ、知んねえけど……」
工藤はもっと尋ねようとしたが、店員が肩をすくめながら、はやりの言葉で、
「あんた、あのコのなんなのサ」
と、つぶやくのを聞いて、その気がくじけた。
たしかに根掘り葉掘り聞いたのでは、歌子のなんなのサ≠ニ思われても仕方あるまい。
工藤は酒屋を出てマンションを離れた。
工藤の足は次第に速くなった。角を曲がるときには、うしろを振り向いてみた。
工藤には直感的に歌子の死が、事故死ではないような気がした。
もし殺人だったとしたら……工藤は自分と歌子の関係が明るみに出ることをおそれた。早足でマンションのそばを離れたのは、こうした心理のせいだった。
工藤は翌日会社に出て新聞の綴《と》じ込みを調べてみた。九月十二日の夕刊に歌子の死を伝える記事を見つけたが、その日はあいにく大きな列車事故があったため、歌子の事故死は記事の扱いが小さく、三面の片隅に「世田谷《せたがや》区|大蔵町《おおくらまち》××番地Nマンション五〇二号室の佐野歌子さん(三○)がベランダに干し忘れた布団を取ろうとして布団と一緒に滑り落ち、十五メートル下の道路に体を打って即死した」と書いてあるだけだった。
工藤は考えれば考えるほど歌子の死が、ただの事故死ではないような気がしてならなかった。
布団と一緒に滑って落ちるというのも、ありえないことではないが、工藤には納得がいかなかった。
夫がそそくさと家をたたんで引越してしまったのも、不思議と言えば不思議だった。夫が歌子の不倫を知って殺したと考えられないだろうか。
それに、あの男。あいつが三たび歌子の前に現われることはなかったのだろうか。警察は脅迫事件と事故死とを結びつけて考えてくれただろうか。初めから事故死と決めてかかったため、配慮がおろそかになったのではあるまいか。警察にもセクトの壁があって、事故死と脅迫事件とで管轄が異なるため、連絡がうまくいかなかったのではあるまいか。
歌子との関係が人に知られるのをおそれて、いったんは逃げ帰って来た工藤だったが、このままでは歌子が浮かばれないと思った。せめて最後まで事情を明らかにしてやるのが、何度も体を確かめあった女へのはなむけだと思った。
工藤は世田谷署に出向いた。
来意を聞いて現われたのは、おだやかな物腰の刑事だった。工藤はこの男ならば、自分の置かれた微妙な立場をよく飲み込んで、こちらの話を聞いてくれると思った。
歌子との不倫な関係、脅迫事件、そしてベランダからの墜落……いずれも警察はすでに知っているはずの事柄だったが、工藤は要点をまとめて一通り簡潔に話した。
刑事はほとんど言葉を挟むこともなく聞いていたが、工藤の話が終わると、
「警察にご協力くださって、ありがとうございます。しかし、佐野歌子さんの場合は、間違いなく事故死です。転落のときの目撃者もおりますし、その他の情況も疑いようがありません。あなたも社会的な立場のあるかたなのですから、これからはあまり不道徳な関係を結んだりなさらぬようご注意ください」
と言って席を立とうとした。
工藤はせっかく会社を休んでまでやって来たのに軽くあしらわれ、しかも説教までされては気持ちが釈然としない。
刑事の袖を取って引き止め、
「そう簡単に考えていいものでしょうか。脅迫事件の犯人もあがらないのに、その脅迫されていた人妻が不慮の死をとげたんですよ。もう少し慎重に捜査をしなければ、犯人はどこかでせせら笑ってるかもしれませんよ。申しにくいことですが、警察にもなにかセクトの壁みたいなものがあって……」
刑事はもう一度|椅子《いす》に腰をおろし、ちょっと皮肉な笑いを見せた。
「では申しあげましょう。実はあなたと同じ訴えが、すでにもう一件ほかにもありました。わかりますか? つまり佐野歌子のアルバイトだったんですな、そうやって男友だちから金を稼ぐのが……。第一、歌子は何年も前に夫と死別して、ずっと一人暮らしだったんですよ。ご存知なかったんでしょ?」
工藤はしばらく席を立つことができなかった。
――これも夢なのかな――
帰り道の街は、昼下りの気だるい気配の中でゆらゆらと揺れていた。工藤は軽い目まいを感じていたのかもしれない。中年の男と若い女が肩を触れあうようにして道を急いで行く。
――どこへ行くのだろう――
この街もきっとさまざまな男と女の関係を隠しているにちがいない。駅は高い位置にあって、いくつもの屋根が続いている。
――ホテルの展望ルームもそうだったな――
工藤はぼんやりと歌子と眺めた風景を眼の前に思い浮かべた。
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仮面の女
国道沿いにドライブ・インを兼ねたコーヒー店があった。店の名は絵里花《えりか》。飲ませるコーヒーがうまいし、店内の装飾が垢抜《あかぬ》けている。夜中の一時|頃《ごろ》まで店を開いているのも好都合だった。
木原年雄は週に三度はこの店に顔を出す。
「寝る前にコーヒーなんか飲んで、よく眠れますわね」
と、ママは言うのだが、木原の場合は、いくぶんカフェイン中毒に陥《おちい》っているのかもしれない。むしろコーヒーでも飲んで、ほんのひととき寛《くつろ》いだ気分を味わったあとのほうが眠りやすかった。
仕事は広告代理店の編集部員。あちこちの企業から依頼を受けて、PR誌の編集などをやっている。
帰宅時間はいつも遅い。子どもたちの朝が早いので、妻はたいてい先に眠ってしまう。家の近くのコーヒー店で少時、時間を潰《つぶ》してから布団に潜り込むのが彼の習慣だった。
木原が絵里花でその男≠見たのはいつごろだったろう。一、二か月前……いや、もう少し前だったかな。とにかくよく見る顔だった。
三十年輩の男で、これもコーヒー党らしい。良家のボンボンといった風采《ふうさい》。着ている物もなにやら高価そうだ。幾何学《きかがく》模様のセーター。バックスキンのジャンパー。あれは七、八万円もする品ではあるまいか。靴もピカピカに光っている。
「この豆、ブルー・マウンテンの極上品なんだ。ちょっと挽《ひ》いてみてくれないか」
そう言ってママに小さな袋を渡しているのを見たことがある。
常連客の一人なのだろう。
木原もこの時ブルー・マウンテンのご相伴《しようばん》にあずかった。
「これ、貝崎さんからのご馳走《ちそう》よ」
と、ママに勧められ、その男に軽く挨拶《あいさつ》を送った。あの時が馴《な》れ初《そ》めだったろう。
貝崎≠ニいう姓も印象に残った。
木原自身の住まいは、安物の建売住宅だったが、裏手の高台のところに白壁の瀟洒《しようしや》な家が建っている。表札は貝崎=B
「まだ若いのに、あんな家に住んで。奥さんもきれいな人よ」
と、妻が言っていた。
その家の主がこの男なのだろう、と木原は想像した。
東京の土地は毎年腹立たしいほど高騰している。安サラリーマンが家一つ持つのは容易なことではない。木原だって、あちこちに借金をして、ようやく敷地三十八坪の住まいを手に入れた。四十歳を過ぎて、初めて持つマイ・ホームだった。
それに比べれば、三十になるやならずの年齢であれだけの家に住めるなんて……世の中、たしかに不公平にできている。
今さらそんなことを恨んでみても仕方ないけれど、
――きっと親が金持ちなんだろう。新婚早々に家を建ててもらって……どんな奴《やつ》が住んでいるのかな――
と、思ったことはあった。
コーヒー店で、予想通りの風采《ふうさい》の男を見て、なにやら安心したような、納得したような気分を味わったのは本当だ。
何度か顔を合わせているうちに親しみも増し、会えばなにかしら世間話の一つくらいするようになった。
と言っても、貝崎のほうはおおむね寡黙《かもく》である。坊ちゃん育ちのはにかみ屋で、彼自身、自分のそうした性質をよく自覚しているらしく、人前では努めておとなしく振舞っているようにも見えた。
「あれで、奥さんの前では結構威張っているのよ」
と、絵里花のママが言う。ご近所の噂《うわさ》はこの人に聞けば、たいていわかる。
「そりゃ金持ちなんだもン。あれくらいの家を持っていれば、奥さんの前で大きな顔くらいしたって、いいだろう」
「そりゃ言えるわね。奥さんもおとなしい人よ。なかなかの別嬪《べつぴん》さんだけど」
「へーえ」
金持ちの息子は、家屋敷だけではなく女房まですばらしいのをもらえるのか、と、あらためて納得し、その別嬪さん≠ノも一度お目にかかってみたいものだ、と、木原はぼんやりと考えていた。
その機会はすぐにやって来た。
日曜日の昼下り、木原が絵里花でコーヒーをすすっていると、店の前にモス・グリーンの車が止まった。左ハンドルだから外国車なのだろう。
中から貝崎が現われ、そのすぐあとに薄茶のコートをまとった女が続いた。
――あれが奥さんかな――
と、思った。
スカーフをかぶっているので、顔立ちはよく見えない。
貝崎は肩をすぼめるようにして入って来て、
「今日は寒いよ。熱いコーヒーを二つ」
と、言ってから、ドアの近くの席に木原がすわっているのに気づいて、ちょっと恥ずかしそうに、だが、かすかに誇らしげに、
「あ、来てますね。家内です」
と、背後の女を紹介した。
それからうしろを振り向いて、
「木原さん。ご近所の……」
と、言う。
「いつもお世話になってます」
と、女は小声で挨拶《あいさつ》をした。
木原は視線をその女に向けたまま、顎《あご》だけを軽くさげてお辞儀を返したが、とたんにコーヒー・カップを持つ手が不自然に止まった。
――あ、これは……見覚えがある。この顔なら……知っている――
忘れかけていた記憶が、出し抜けに心に戻って来た。
木原はいくぶん無躾《ぶしつ》けに女の顔を凝視したかもしれない。
――間違いない。たしかにあの時の人だ――
一瞬、女のほうもなにか反応をあらわにするかと思ったが、それはありえない。彼女のほうは、木原の顔を覚えているはずがないのだから……。
貝崎は含み笑いを浮かべながら、木原の様子を見つめている。
亭主としては、自分の女房の美しさに木原が驚いたとでも判断したのだろう。
それほどの美しさかどうかはともかく、彼女が一通りの美人であることは確かなのだから、亭主が自惚《うぬぼ》れてそう判断するのも無理からぬ事情だった。
「では、失礼」
夫婦は連れ立って窓際の席へすわった。
木原はふっと息をつき、もう一度女の横顔を盗み見た。
――驚いたなあ――
思考を取りまとめるのに少し時間がかかった。
だが、考えてみれば、それほどドギマギすることではあるまい。むしろここでは平静を装うほうが大切だ。
木原はさりげない動作でコーヒーを飲み干し、読みかけのスポーツ新聞を最後まで読んでから席を立った。
挨拶《あいさつ》を送ろうとして振り返ると、二人は顔を突き合わせて話し込んでいる。
貝崎は、妻の前では饒舌《じようぜつ》になるらしい。
女は亭主の話を神妙な様子で傾聴《けいちよう》しているふうであった。
二年前まで木原はフリーのルポ・ライターをやっていた。その前は小さな出版社の編集部員だった。会社が倒産し、やむなく雑文書きで糊口《ここう》の糧《かて》を稼いでいたわけである。
ルポ・ライターと言うと、なにやら聞こえはよろしいけれど、内情はそれほど結構なものではない。
公害問題とか教育問題とか、なにか自分の得意とする専門の領域を持っている場合には、それなりにやり甲斐《がい》のある仕事となるのだろうが、木原にはそんなものはなにもなかった。雑誌の編集部から依頼を受け、どんなテーマでもなりふりかまわず取材して、一本の記事にまとめなければいけなかった。
ピンク・キャバレーとかストリップ劇場とか、風俗関係の取材が多かった。
まれには自分のほうでテーマを見つけ出し、それを編集部に売り込むこともあった。
女性の下半身にかかわるテーマはけっして木原の好みではなかったが――いや、恰好《かつこう》のいいことは言うまい。一人の男として、充分な関心はあるのだが、それを仕事とすることには、やはり抵抗感があった。
だが、贅沢《ぜいたく》の言える立ち場ではない。古くからの知合いに整形外科のドクトルがいて、一緒に酒を飲んだときに、
「先生、女性の処女再生術って、本当にあるんでしょ」
と、尋ねたら、
「ありますよ。このごろは少なくなったけれどね」
と、言う。
「どんなふうにやるんですか」
「いつか見せてあげましょう」
とたんにルポ・ライターの職業意識が首を持ち上げ、
「本当ですか。ぜひ見せてください」
と、頼み込んだ。
「記事に書くんですか」
「もし、よろしければ……」
「まあ、いいでしょう。秘密さえ守ってくれれば」
「その点は心配ありません。絶対守ります。よろしくお願いします」
その時はさほど期待もしていなかったのだが、二か月ほどたってドクトルから電話がかかって来た。
「この前の話だけれど、明日、手術がありますから、見に来ますか」
「それはどうも。もちろん行きます」
収入の不足しているときだったので、ありがたかった。
――これは記事になるぞ――
そういう手術のあることは知っている人も多いが、現場をつぶさに取材した人はいないだろう。なんのためらいもなくドクトルの好意に甘えることにした。
木原は約束の時間に病院のドアをくぐった。
「やあ、ご苦労さん」
「よろしくお願いします」
「患者のかたが見えるまで、ちょっとお話をしましょうか」
「すみません」
ドクトルは小学校の校長先生といった風貌《ふうぼう》で、話しっぷりも説教調だった。これから始まる手術とは、いささかかけ離れた印象だったが、そう感じたのは木原の認識不足のせいかもしれない。
つまり……この世はきれいごとだけではすまされない。だから、この仕事も、なにかの形で世の中に役立っているのだと、当人は堅く信じているふうだった。世のため、人のためなら、校長先生にこそふさわしい。
「このごろはこの手の手術が少なくなりましてね」
「どうしてでしょうか」
メモを片手に聞き込む。
「やはり、処女性というものが昔よりずっと軽く見られるようになったからでしょうなあ」
「どういう人が受けるんですか」
「そりゃ、やっぱり、大部分は結婚前の女性ですわ。まれには中年の奥さんが見えて、まあ、子どもを産んだあとの性生活を充実させたいからって、手術を受けるケースもありますがね」
「なるほど」
「赤ちゃんを生んだり、性交渉を数多く重ねたりすると、筋肉が弛《ゆる》んでしまうんですね。それで、まあ、少し細工をして緊張感を取り戻してあげる。それだけのことなんですよ」
「娘さんたちは、すっかり安心して帰って行くわけですね」
「そうでしょうね。私はいつも言ってやるんですよ。人間にとって大切なのは、心だって。体じゃない。いくら整形手術をしたって、心の中がちっとも変わっていなければ、なんの意味もない。この手術を受ける娘さんはみんな過去に男と関係があったわけですけれど、そういう過去をすっかり水に流して新しい人生を始めようと思っているわけでしょう。あやまちはだれにでもあることだし、たとえ真面目《まじめ》な動機で始めた恋愛だって、それが毀《こわ》れてしまい、今となっては隠しておきたいってこともあるわけでしょ。過去の出来事は一つの体験として胸の中に仕舞《しま》っておいてああ、馬鹿なことをした≠ニ思うかあれはあれでよかったんだ≠ニ思うか、それは個人の勝手でしょうが、とにかく今日から新しい出発をするんだ≠ニいう気持ちを持つことが大事なんですね」
「ええ……」
「本当のこと言えば、こんな手術やらんでもいいんですよ。本人がそういう気持ちにすっかりなれるものなら……。ただ過去のことにいつまでもこだわっていて、不幸な結婚をしたり良縁を取り逃がしたりしたら、つまらんでしょうが。大勢の中にはねえ、いつまでも古いことが気になっていて、なかなかふっ切れない人がいる。そういうふん切りをつけるために、手術が役に立つなら、いたしましょう、そういうことなんですよ」
ドクトルはいくぶん弁解がましく告げた。
一つの正論にはちがいないが、ドクトルとしてもこういう論理を自分の中に持っていないとやりきれなくなることがあるのだろう。
「むつかしい手術じゃないけど、ちょっとしたこつがありましてね。まあ、ご覧なさい」
「はい」
その時、看護婦が入ってきて、どうやら患者がやって来たらしい。
「じゃあ、あなたも白い上っ張りを着て、部屋のすみのほうにすわっていてください」
ドクトルは立ち上がり、看護婦が白い手術着を持って来てくれた。彼女はいたって無表情。すこぶる事務的な態度である。
診察室に入ると、ドクトルと患者が話している声が聞こえる。
「過去の男性はお一人だけですか」
予診の段階では、こんなことを一応尋ねるものらしい。
「いえ、三人です」
「一番最近はいつでしたか」
「えーと、四か月前です」
「そのかたとはどういう関係でしたか。長いおつきあいでしたか」
「六か月くらい」
「関係はあったわけですね、その間ずーっと」
「はい、同棲《どうせい》をしてましたから」
木原の位置から女の横顔が見えた。
初めのうちは、女の顔を見るのが申し訳ないような気がして、あらぬ方向などを眺めていたのだが、時間がたつにつれ気持ちがいくぶん落ち着いて来た。
端整《たんせい》な鼻筋。大きな眼。
はっきりとは見えないが、相当な美人であることは間違いなさそうだ。
「その前の男のかたとは、どうでしたか。やはり同棲を」
「いえ、ちがいます。初めの人とは女子大のとき。ほんの一、二回です。次の人とは、十回くらい」
ドクトルはカルテの上にペンを走らせる。
かつては切ないほどに熱く、苦しく人の心をわずらわせた出来事が、すこぶる散文的に、事務的に記録されていく。
「今までのかたとは、すっかりきれいにお別れになったんですね」
「はい」
「もう会ったりしちゃいけませんよ」
「ええ、それは大丈夫です」
女は膝《ひざ》の上でしきりにハンカチを開いたり握ったりしている。
「近くご結婚されるんでしたね」
「はい」
「恋愛結婚ですか」
「いえ、どっちかって言えば、見合いです。知っている人に紹介していただいて……」
「結婚は決まったんですね。日取りはいつですか」
「十一月十五日。大安の日です」
「それは結構。ちょうど一か月ほど後ですな。よろしいでしょう。術後三週間はそのままにしててくださいね。そのあとはもう平気ですから。あ、今度結婚する彼とは、まだなにもありませんね」
「は?」
女は質問の意味がよくわからないらしい。
「まだ関係はありませんね」
「はい、とても真面目《まじめ》な人なんです」
「じゃあ結婚の日まで、そのままでいたほうがいいんじゃないかな。まあ、あなたも過去にはいろいろのことがあったでしょうが、これからは新しい気持ちになって、幸福な結婚生活を掴《つか》まなくちゃいけませんよ。私はそのためのお手伝いをするだけなんですから」
「よろしくお願いします」
ドクトルの説教はなおも続いた。
木原は診察室の堅い椅子《いす》にすわりながら、とりとめもなく一人の女の半生を心に描いてみた。
彼女は美しい娘である。さぞかし男たちに騒がれたにちがいない。高校生の頃《ころ》から恋愛めいた噂《うわさ》はたくさんあったのではなかろうか。
女子大に入学して、初めの男とはどういういきさつで知りあったか。
高校時代の同級生。知人の紹介で知り合った男。あるいはスキー場でめぐりあった大学生とか……。
初めて体を交えたのは、西日の射《さ》し込む彼のアパートだったかもしれない。重苦しい沈黙のあとで、彼が狂気のように彼女を押し倒し、脚を押し開く。端整《たんせい》な面差しが苦痛にゆがむ。体液が体の中に広がる。「初めてだったんだね」「ええ」あとはまた重苦しい沈黙。彼女は後悔しなかったのだろうか。恋があっけなく、短く終わったのはなぜだったのか。
間もなく二人目の男が彼女の前に現われた。木原には、なんの理由もなく、この時はずっと年上の男だったような気がしてならない。巧みに誘われて女は初めてホテルの門をくぐった。女も男も愛していた。めくるめく抱擁。掌が彼女の熱しかけた体をもみしだく。女は少しずつ愛の喜びを知ったが、妻子ある男との恋はけっして長くは続かなかった。違うだろうか。
そして女は同棲《どうせい》の相手にめぐりあう。ままごと遊びの毎日。小さなアパート。緊張の中の日々。明日はもう別れることになるのかもしれない。相手の愛を確かめるように二人は体を求めあう。女は頬《ほお》を薔薇《ばら》色に染め、思わず知らず喜びの声が漏れる。愛の営みは日ごと夜ごとに繰り返されたが、心の中にはかすかに空虚なものが宿っていた。いつしか暗い影が二人の間に漂い始める。言葉が噛《か》みあわない。ささいなことで口論が始まる。女の涙。苛立《いらだ》った男の声。窓から見おろす草花も枯れ始め、愛も色褪《いろあ》せてしまっていた……。
「妊娠の経験は?」
とドクトルが尋ねる。
「ありません」
横顔には泣きぼくろがある。
女の年齢は二十七、八歳。
町を歩いているときに出会えば、どこといって変わりばえのしない、普通の女。ただ、ほんの少し器量がよいだけ。過去にどんな秘密があるのか、だれも知らない。
待てよ、普通の女などどこにもいないのかもしれない。それぞれがそれぞれに普通ではない♂゚去の切れ端を背負っているのかもしれない。
「今まで病気をしたことは?」
木原の想像が途絶え、またドクトルの声に耳を傾けた。
「特にありません」
「どこか悪いところは……」
「べつにありませんけど……あの、眼が悪いんです」
きれいな眼差《まなざ》しをしているが……。
「視力が弱いのね」
「はい」
ああ、そうか。近視の人には、目のきれいな人が多いものだ。
「どのくらい」
「○・○六」
「それは悪い。今は?」
「コンタクトをはめているんです」
「手術の時には取ってくださいね」
「はい」
「ほかに?」
「べつにありません」
「そう」
ドクトルはフン、フンと頷《うなず》いてから、
「では、用意をしてください。お持ちになったゆかたを着て……」
「はい」
女は椅子《いす》にすわったまま眼のあたりに手を当てている。
パチン、とハンドバッグを閉じる音が聞こえた。コンタクト・レンズを仕舞《しま》ったのだろう。
木原には○・○六≠ニいう視力がどれほどのものかわからない。
椅子《いす》から立った女は、はなはだ心もとない身振りで歩いている。視力はかなり不自由らしい。
女が衝立《ついた》ての陰に隠れるとき、木原は初めて正面から女の顔を見た。横顔で想像したよりもっと美しい。眼差《まなざ》しが澄んでいる。鼻梁《びりよう》がおだやかに伸びている。頬骨《ほおぼね》のちょっと張っている様子も愛くるしい。唇は情事のときを連想させるほどに、ちょっと淫《みだ》らに脹《ふく》らんでいた。
女は木原の視線に気づかない。浴衣《ゆかた》に着換えると、たどたどしい足取りで手術室に消え、木原が呼ばれてそこへ入ったときには、もう全身麻酔をかけられて意識がなかった。
手術台の風景は無惨であった。
脚を開いたままの姿勢で固定されている。隠微な部分が海の生き物のように口を開いている。眼を閉じている顔が美しいだけに一層いたいたしい。
めったに人前に晒《さら》される姿ではなかったが、少なくとも女はみんなこんな形状のものを持っているはずだ。それがたまたまあらわにされただけのことなんだ。この手術室では、ごく、ごく日常的な姿なんだ。医学書の中の解剖図を見るように、肉体の一つの断面がそこにある――そんな意識が木原の中に宿り始めた。
「周囲を糸で縫うだけなんですがね」
ドクトルは独り言でも言うように呟《つぶや》き、手術用の針と糸を取って、褶曲《しゆうきよく》の内側を縫う。
その手ぶりから判断して――たとえて言えば――小物入れの袋に紐《ひも》を通す作業に似ているように思えた。
周囲にぐるりと糸を通し終えたところで、その両端をチョン、チョンと引っ張る。ドクトルは内奥の部分に指を差し入れ、緊迫のぐあいを確かめる。ここらあたりが、この手術の奥義《おうぎ》なのかもしれない。
神秘な部分は、この瞬間に体の他の部分と少しも変わらない肉ひだと化し、糸の力に引かれて物理的に、力学的に収縮する。肉の色はほのかに白ずんで、内臓の切り口にしかすぎない。
「まあ、こんなものでしょう」
ガーゼで拭《ぬぐ》って、手術は簡単に終わった。
女は静かに眠り続けている。
その夢の中になにを映しているのだろうか、と木原は思った。
木原はこの体験を克明に書いて、月刊誌に売り込んだ。
なにほどかの稿料を得たが、それをなんに使ったか。思い出すこともできない。
しばらくのあいだは、手術室の風景が頭にこびりついて離れなかった。道を歩いているときにも、忽然《こつぜん》とそれが浮かんで来る。若い娘を見ると、それが甦《よみがえ》って来る。
――あの娘ももしや――
と、唐突な連想が心に昇って来る。
ことさらに懐疑的になることもなかったが、人はそれぞれにどんな恥部を心の中に隠しているかわからない、などと、そんな感慨がしばらくは木原の意識から離れなかった。
そうした意識もいつの間にか消え去り、体験そのものの記憶も稀薄《きはく》になった。
もうすっかり忘れていた、と言ってもよかった。
ところが、コーヒー店で――絵里花の店先で、貝崎の妻を紹介されたとたん、二年前の出来事がなまなましく、脳裏《のうり》に戻って来た。
――あの時の女だ――
貝崎の妻は、特徴のある大きな眼差《まなざ》しで木原を見つめ、軽く小首を垂れて挨拶《あいさつ》をしたが、その表情にもはっきりと記憶があった。稜線《りようせん》のまっすぐな鼻にも、かすかに脹《ふく》らんだ唇の形にも、そして目の下の泣きぼくろにも、あの時の印象が残っていた。
――こんな偶然もあるんだなあ――
と、驚かずにはいられない。
もとよりだれかに口外すべき性質のことではない。
女にとってもいまわしい記憶だろうが、木原にとってもあまり結構な思い出ではなかった。身すぎ世すぎのために、けっして見てはならないものを無理に見てしまったのだから。
貝崎の妻にはその後も何度か会った。
貝崎には、それ以上にたびたび会った。
そのたびに同じ記憶が心に戻って来る。払っても払っても眼の底に甦《よみがえ》って来る。
二人はあの瀟洒《しようしや》な高台の家で仲むつまじく暮らしているらしい。
結構なことではないか。
ドクトルの説教通りに、彼女は新しい人生を掴《つか》んだのだろうか。
察するに、女が貝崎とめぐりあったのは、あの手術の数か月前。たしか見合いのようなものだと言っていたっけ。
良縁であった。
女は過去の男性関係をきれいさっぱりと洗い流して、この結婚に飛び込んでみようと考えたのだろう。
ただ、同棲《どうせい》までやった体には過去の痕跡《こんせき》がはっきりと残っていた。少なくとも女はそれを不安に思った。
――手術の結果は、彼女の思惑《おもわく》通りにうまくいったのだろうか――
木原はやはりそのことを考えずにはいられない。一人の女の秘密を垣間見《かいまみ》てしまった、その心のやましさの分だけ、木原は彼女の幸福を願ってやらなければなるまい。ことの成行きについてもいくばくかの好奇心があった。
ある夜のこと、木原はいつものコーヒー店でまた貝崎からブルー・マウンテンをご馳走《ちそう》になった。
「おいしいですね」
「女房の実家がコーヒー豆の輸入をやっているものだから」
また手術台の姿が浮かんだ。
「ああ、そうですか。奥さんは東京のかたですか」
「ええ」
「きれいなかたですね」
「いやあ、そんなこと……」
満更でもなさそうな表情が頬《ほお》に蠢《うごめ》いている。
「とくに眼がすてきですね」
「木原さんはお世辞がうまいから」
「いや、本当に」
奇妙な連想が木原の中を走り抜けた。
咄嗟《とつさ》に質問をしてみたくなった。
「あの……」
木原は口籠《くちごも》るようにして尋ねた。
「はい?」
「奥さんは近視じゃありませんか。近視の人は眼差《まなざ》しのきれいな人が多いから」
貝崎は怪訝《けげん》な顔で首を振った。
「いや、眼はべつに悪くありませんよ」
なるほど。
どうやら彼女はコンタクト・レンズを使っていることも夫に隠しているらしい。
木原は思った。
夫に対して近視のことを隠しおおせるものならば、おそらくもう一つのほうも立派に隠しおおせただろう、と。
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裏切りの遁走曲《フーガ》
「いやよ、そんな」
郁子が眉《まゆ》を八の字に寄せて言った。
ホテルのベッドはうっすらと明るい。どこかの部屋でバスを使う水音がかすかに聞こえた。
「でも、そのほうがずっときれいだ」
泰三がいたずらっぽく笑いながらベッドの毛布を軽く動かした。
郁子の白い乳房が顔を出す。乳暈《にゆううん》が桃の花で刷《は》いたようにほんのりとした色合いである。
郁子の体は胸も腰もみんな細い。それなのに乳房だけは掌を余してこぼれるほどに大きい。そのアンバランスが妖《あや》しい美しさを作っていた。
男の顔は青白く、眼の配りにはいやしい鋭さがあったが、笑うと頬《ほお》にくっきりと笑顔が浮かび、それが男の表情を甘くやさしいものに変えていた。
「いや、そんな」
女はもう一度同じ声をあげて軽く毛布の端に手を伸ばした。
だが、それほどいやがっている様子はない。影の濃い光の中で両の乳房があらわになり、男の手が胸から横腹、横腹から太腿《ふともも》へと滑って行く。
「社長のときもこんなかい?」
「いじわる」
郁子は泰三の頬を軽く叩《たた》きながら甘えるような仕ぐさで身を寄せて来た。容姿は美しいが、こんな蓮《はす》っ葉《ぱ》な動作がよく身に合う女である。
足がもつれあい、そのゆるやかな動きにつれて少しずつ女の顔に歓《よろこ》びの色が浮かび、やがてそれがあせるような表情に変わった。
「いい?」
「ええ」
二つの裸形が重なり合い、激しい動きの中で何度か女の声が漏れた。
そしてベッドのきしみが途絶えた。
郁子はしばらくのあいだそのまま歓びの余燼《よじん》を楽しむようにじっと目を閉じていたが、急にポッカリと目をあけて泰三の顔を見据えた。
男は笑い返した。
その表情に満足したように女はコックリと頷《うなず》き、枕《まくら》もとのモアを一本抜いて火をつけながら、
「長くはいられないのね」
と、尋ねた。
「ああ。仕方ない。つまらないアルバイトだけれど、約束を破るわけにはいかない。手伝ってくれるな」
「ええ。でも、あたしにできることなの?」
「うん。ほんのリポート用紙で二枚くらい清書をしてくれればいいんだ」
「いやだなあ。あたし、字へたなんだもん」
「そんなこともないだろう。うまいじゃないか。頼むよ。少しでもたくさんやっていったほうがそれだけ多く金がもらえるんだ」
泰三はベッドからおりると寝巻きを羽織《はお》り、黒いカバンの中から二、三枚の紙を取り出して郁子に渡した。
紙面には金釘流《かなくぎりゆう》の稚拙な字が並んでいる。泰三は昔から字には自信がない。
「頼むよ。こんな字じゃ恰好がわるい」
郁子はタバコの煙を吐きながら、
「翻訳?」
「そうだ」
「これをただ清書すればいいの?」
「うん。ただ、その赤い鉛筆で印のついているところがあるだろう。そこまで来たら余白があっても次の紙に移ってほしい。そのほうが本文と対照しやすいんだ」
「ふーん」
郁子もベッドから起きて、備えつけの浴衣《ゆかた》を着てテーブルの前にすわった。
「紙は?」
「これに」
「あたしの字もたいしたことないけど」
「いや、君の字はいい字だよ」
「お世辞よ。ただで使おうとして……」
郁子はハンドバッグからペンを取り出し、清書を始めた。
泰三はそのかたわらでベッドに腰掛け、英語の辞書を引いては原書の余白に文字を書き込んでいる。
「これ、小説なの?」
「そうだ」
二人はしきりにタバコの煙を吐きながら黙ってそれぞれの仕事を続けていたが、やがて郁子がフーッとため息をつき、それから一つ大きな伸びをして言った。
「終わったわよ」
「よし。俺ももうすぐ下調べが終わる。もうチェック・アウトの時間だし……早番で用意をしてくれよ」
「ええ」
郁子が浴衣《ゆかた》を脱いだ。細い裸身が石柱のようにすっきりと白く伸びている。
「ありがとう」
泰三は立ちあがって抱き締め、それからもう一度薄紅色の乳首に丁重な挨拶《あいさつ》をした。
泰三が郁子と知り合ったのはM市の国道沿いのドライブ・インだった。T湖に近い位置である。
そのドライブ・インの壁ぎわで郁子がコーラを飲もうとして栓を抜いた。するとコーラが吹き出し、たまたまそばを通りかかった泰三のズボンにかかった。
「あ、すみません」
「いや」
「どうしたらいいかしら。お洗濯代でも」
「いえ、いいですよ」
こうして二人は知り合い、いつの間にか体の関係を持つようになった。男と女の間は、うまくいかない時はいくら努力してもうまくいかないけれど、簡単にいく時にはおたがいに、
――この人よほどの浮気者なんじゃないだろうか――
と、疑いたくなるほど手早く深い関係になってしまうものだ。知り合って間もなく、
「あたし、何者だと思う?」
郁子にこう言われて、泰三はうすうす感づいていたが、その時は口には出さなかった。
「見当はつくわね。二号さんなのよ」
郁子はこう言って屈託なく笑った。
どことなく匂《にお》うような肢体。気ままな生活。お金に不自由している様子はなかった。
「じゃあ、僕は何だか見当がつくかな?」
「あら、学生じゃないの?」
「うん」
泰三は瞹眛《あいまい》に頷《うなず》いてから、
「学生だったけど、もう長いこと授業料を払ってないから抹席《まつせき》されているんだ。アルバイトやってなんとか生きてるけどな」
「そうだったの。でも、そんなことどうだっていいじゃない」
「まあな」
二人はどこか気の合うところがあったのだろう。郁子は週に一、二度くらい泰三を誘いドライブに出かけたり、モーテルで情事を楽しんだりした。
そんな秘密の関係が二か月も続いた頃《ころ》、泰三がアパートの近くの喫茶店で一人でコーヒーを飲んでいると、見知らぬ男が前にすわった。
「ここ、あいてますな」
男は五十過ぎ。ニコニコと顔は笑っているが、眼は少しも笑っていない――そんな印象の紳士である。
泰三は読んでいた劇画の雑誌を前に置いて、
「ええ……?」
と、相手を見あげた。
喫茶店の中はあえて相席をするほどの混みようではなかった。
男は委細かまわずドンとクッションに腰をおろし、相変わらず笑顔で泰三を見つめていたが、
「小寺泰三君でしょ」
と、低い声で言った。
「はあ、そうですが」
「私がだれかわかりますか」
「いえ」
「海野です」
「海野?」
こう言われても泰三はすぐには思い出せなかった。
「おわかりにならない? 郁子の……」
男は照れるように笑った。郁子の……さしずめパトロンといったところだろう。
泰三の全身がカッと熱くなった。
「ああ」
「知らないとは言わせませんよ」
「しかし私は……」
「まあ、いいじゃないですか。そう堅くならなくても」
海野は口をヒョットコのように尖《とが》らせてタバコに火をつけた。
泰三もそれにあわせてポケットのハイライトをさぐって口にくわえた。
「あなたは郁子に親しい男がいることを知ってて手を出したんでしょ? これは、まあ、体《てい》のいいドロボウですよ。いえネ、ドロボウだからいけないってわけじゃない。郁子の心までは束縛できない。自由主義の時代ですからね、今は。郁子があなたのことを気に入って、それで二人で適当によろしくやっている。そんなとこが実情でしょうから」
「私にどうしろって言うんですか」
泰三は気色ばんで尋ねた。
「あなたは郁子が好きなんですか」
「それは……まあ、好きですけど、別れられないことはありません」
「つまり、お遊びだった、こういうわけですね」
「ま、そうです」
「本当ですね」
海野は上目遣いでジロリと泰三を見た。
「本当です」
「多分そうだろうと思ってましたよ」
こう言ってから海野は思案顔になり、
「それから、失礼だけど、あなたのこと少し調べさせてもらいましたよ」
「えっ?」
「あなたは一応学生のようだが、実はそうではない。大学はもう退学になり、アルバイトをやったり賭《か》け麻雀《マージヤン》をやったりして、大分自堕落な生活を送っている。故郷《くに》のお袋さんが心配しますな」
「なんの権利があって、そんなことまで調べるんです?」
「あなたは郁子を盗んだんだから、それくらいはいいじゃないですか。それに、これから話すことはあなたにも損にならんことですよ」
海野はこう言ってまた泰三をチラっと盗み見た。
海野という男の話しかたはネバっこい。腹のうちがよく計り知れないようなところがある。泰三は心の動揺を押さえながら尋ね返した。
「なにを言いたいんですか。ハッキリ言ってくださいよ」
海野はそれならば≠ニばかりタバコの煙をフーッと大げさに吐いてから、
「では言いましょう。私の身方《みかた》になってほしい」
「身方に?」
「そう」
「なにをするんです?」
「郁子とは今までどおり何もなかったように仲よくしていて結構。そのうちに私がお願いすることがありますから、それをやってください」
「断われば?」
「多分断わらないでしょう。あなたは賢い人だから。私はいろいろ事業をやっています。もし今度の仕事に成功したら、私の腹心としてどんどんビジネスのほうも手助けしてほしいと思っています。給料も二、三十万くらいは支払いましょ。今どきわるくない話じゃないですか。私はさんざん苦労して来た人間だから、人を見る眼には自信がある。あんたは相当に仕事のできる人だ。このままアルバイトなんかやって才能を浪費することはないでしょうが」
こう言われて泰三もまんざらわるい気持ちではなかった。
「さしあたって何をすればいいんですか?」
「だから、しばらくは郁子と今までどおり親しくやっててくださいな。もちろん私と会ったことなど言ってはいかんです」
「それで?」
「しばらくは様子を見ます。それでよければ当座のお小遣いとしてここに五万円ある。これを使いなさい。あとは私から連絡があるまで待っててくださいな」
「いいでしょう。わかりました」
泰三はなにかあるな≠ニ思わないわけではなかったがまあ、行きつくところまで行ってみよう≠ニ、いくらか投《な》げ槍《やり》の気持ちで金を受け取った。
「では、くれぐれも気取《けど》られないように」
「はい」
「紳士協定をお忘れなく」
海野はこう言って軽く挨拶《あいさつ》の手をあげ喫茶店を出て行った。
泰三は海野との約束を守り、郁子にはなにも言わずにそれまでと同じ関係を続けた。
海野にはその間二度ほど会ったが、海野はただ泰三の近況を尋ねるだけで、なにかを依頼するということはなかった。
二か月ほど過ぎてある日のこと、海野から呼び出しがかかり泰三は指定の喫茶店に出向いた。海野は手に英語の本の断片のようなものを持っていた。
「君は英語ができるね」
「読むだけならなんとか……」
「それで結構。すまないがこの本の十五ページから二十五ページまでを訳してこの紙に書いて来てくれたまえ」
こう言いながら海野は泰三に本と便箋《びんせん》を渡した。
「はあ」
「何に使うかは今にわかることだから」
「明日までですか」
「いや。何日かかるかな」
「三日あれば十分です」
「じゃ、今度の金曜日同じ時間にここで会おう」
「はい」
「ああ、ページごとに新しい紙を使ってくれ。どこを訳したかわからないと困るから」
「はい」
「じゃあ」
海野が立ち去ったあとで泰三はその英文をサッと読んでみた。読むだけの英語なら得意のほうである。
どうやら小説の一部分らしい。恋に破れた男がせつせつと女に未練を訴えている。ありきたりの三文小説のようだ。
「なんのためにこんなものを訳させるのかな」
と、泰三は首を傾《かし》げたが、その時はそれほど深く考えなかった。
それから三日たって泰三はまた海野に会った。
海野は泰三が差し出した翻訳をペラペラとめくって読んでいたが、途中から眉根《まゆね》を寄せて、
「これは困った。ずいぶん男っぽい文章だな」
「まずかったですか」
「すまんが、この二ページだけ女の言葉でもう一度訳してくれないかな」
「二十三ページと二十四ページですね」
「そうだ。明日まで」
「はい」
「じゃあ、頼む。この完成した分は預っておいてゆっくり見せてもらおう。それからこれはこのお礼だ」
海野は財布の中から新しい札を五枚抜き、泰三に渡して立ち去った。
アパートに帰った泰三は早速翻訳にかかった。本来男の手紙であるものを女の手紙のように訳す――その作業自体はそれほど困難ではなかったが、なぜそんなことをしなければいけないのか、それが飲み込めない。
一応下訳をすませたところで泰三はもう一度読んでみた。
――あたしは死にます。ずいぶん突然の死に見えるでしょうが、あたしにはあたしの考えがあってやることです。どうか涙など流さないでください。今まで楽しく生きて来れただけで、それで幸福でした。けっして悲しみながら死ぬわけではありません。深い水の底にあたしの次の人生があります……。
声を出して読んでみて、すぐに気がついた。
「これはこのまま遺書になるじゃないか」
泰三は慄然《りつぜん》とした。
「そうか。だれかを殺して自殺と見せかけるため? わざわざ女言葉になおさせたところを見ると……郁子かな」
海野の思惑が少しずつ泰三にもわかってきた。
その翌日、海野は相変わらず薄い笑いを浮かべながら、
「やあ、どうも。うまくできたかね」
「ええ。まるで遺書ですね」
泰三は相手の表情を探るように眼を据えて言った。
「そう。それを郁子に清書させてくれないかな。アルバイトで頼まれたのだが字が汚くて……とかなんとか言って」
と、こともなげに言う。
「郁子さんの筆跡でこれを書かせて、それからどうするつもりです?」
「見当はつくでしょう。しかし君としては何も聞かずにやったほうがよろしい。君自身のためにもいい」
「恐ろしい人だ」
「あんまり深入りするな。言われたことをやればいい。君にはそれだけのお礼をする。いや、お礼をしないわけにはいかんだろう。俺の弱味を握ることになるかもしれないからな。どうだ? もちろんやってくれるね」
「やりましょう」
もう乗りかかった船だった。恐ろしい仕事らしいが、海野の春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》とした様子を見ていると、その実感はない。会うたびごとにもらう小遣いが、いつの間にか泰三の心を海野になびかせていた。
泰三はその夜のうちに手はずを自分で整え、翌日郁子と出会ったときに早速アルバイトの手伝いを頼んだ。郁子は少しも疑いを持たずにホテルのデスクの上で清書をしてくれた。その事情はすでに述べた通りである。
郁子と別れた泰三は、きれいに清書された翻訳文の一節を読み返してみた。どこから見ても郁子自身の遺書ではないか。
ふと郁子の細い体と豊満な乳房が脳裏に浮かんだ。
――あの体に俺は未練がないのだろうか――
海野と出会ったのは例によっていつもの時刻、いつもの喫茶店だった。
「どうかね」
泰三がきれいに折りたたんだリポート用紙を差し出すと、海野はその中の一番|肝腎《かんじん》な部分を抜き出し、ゆっくりと目を通した。
――あたしは死にます。ずいぶん突然の死に見えるでしょうが、どうか涙など流さないでください……。
と書かれたところである。
海野は満足そうにコックリと頷《うなず》いて、
「よかろう」
と、言った。
「はあ? それをどうするんですか」
泰三は海野の考えていることがおおむねわかっていたが、それでも海野自身の口からもう少しくわしく聞いてみたいと思い、わざととぼけた調子で尋ねてみた。
「これはまちがいなく郁子の筆跡だからね。まあ、それ以上は考えないほうがいいよ」
海野はカバンの中からハンケチを取り出し、注意深くその紙の上を拭《ぬぐ》った。指紋を消すためらしい。それから封筒を出してその中へ入れた。封筒のうしろには下条郁子の名前と住所が、これも郁子の筆跡らしい字で書いてある。きっとなにかのときに使った封筒をとっておいたらしい。
「郁子さんを殺すんですね」
「さあな」
海野は首をすくめてから、生真面目《きまじめ》な声で続けた。
「小寺君。この世でうまくやるにはきれいごとばかりじゃいかんのだよ。君も年齢《とし》のわりには苦労をしているから、そのへんのことはよくわかるだろう」
「ええ、まあ」
「だから、これからも私の腹心として活躍してほしい。私は君の才能に惚《ほ》れている。口も堅いし、頭もきれるし、押し出しもいい。相当のことのできる男だよ、君は。君の安全は絶対に保障する。君の安全は私自身の安全だからな。それからいつだって仕事に見合うだけのお礼はする。思い切って君の才能を生かしてくれたまえ」
聞きようによっては、ずいぶんまっとうなほめ言葉だが、ここで言う才能≠ヘどうやら悪の才能≠フ匂《にお》いがなくもない。
泰三自身、自分にそんなものが備わっているかどうか危ぶみながらも、つい、なんとなく首を縦に振ってしまった。
「やってくれるな」
「はあ。しかし、なにを?」
海野はそれには答えず、喫茶店の中を一度ぐるりと見まわしてから、
「郁子の体に未練があるかね」
「ええ、まあ、いくらか……」
「これから一か月、いくらでも楽しみたまえ。いやになるまでな。私に遠慮はいらない」
「それで?」
「来月の今日またここで会おう。期限つきで女と遊ぶのもわるいものじゃない」
どうやらその期限が郁子の最期に思えないこともなかった。
「海野さん」
泰三が声を掛けた。
「なんだ?」
「なぜ郁子さんを殺すんですか」
「殺すなんて言ったかな。まあ、もし殺すとすれば、彼女が少し私の秘密を知り過ぎたからかな。それとも私があの女にあきたってことかな。じゃ、来月の今日、同じ時間に」
海野はもう立ち上がって出口のほうへ向かっていた。
泰三は今度もまた海野の言葉どおり、海野と会ったことを秘密にしたまま郁子と熱い関係を続けた。
郁子は愛されることの好きな女だった。泰三が求めれば、いつでも、どんな性の仕ぐさでもいやということはなかった。
「いやーねえ、そんなこと」
と、口先では言うのだが、泰三の手が乳房にかかり体の深い部分に届くと、もう全身が小刻みに震え始め、蛇のようにのたうって歓喜をむさぼろうとする。いったんそうなるとどんなに狂おしい痴態《ちたい》もいとわなかった。
郁子はとりわけ明るい光の中で愛されるのを好んだ。本質的にナルシストなのだろう。不思議なことに郁子は、あの女性の隠微な部分まで美しく整っていて、桜色の花弁も美しい。その華麗な花にも似た部分を眼で賞味されることを彼女はことさらに楽しんでいるふうである。
「君は感度がいいんだな」
ベッドの中で泰三がつぶやくと、
「そうなの? いや?」
と、郁子は言う。
「いやじゃないさ。うらやましい」
「男はそうでもないの?」
「女になったことがないから比較はできないさ。しかし君を見ているととてもかなわないと思う」
「いやだあ、そんな」
郁子はそう言いながらもう泰三に身をからめて来る。それが次の愛撫《あいぶ》の催促だった。淫蕩《いんとう》な女にはちがいないが、その淫蕩なところがたまらなくかわいくもあった。
泰三は海野に言われるままに郁子の体をむさぼったが、そのうちに少しずつ郁子のほうへ気持ちが傾きだした。べつに愛した≠ニいうほどの大げさなものではない。海野という世知にたけた男が美しい花を勝手にいたぶるのが許せないように思えた。
そんな頃《ころ》、郁子が情事のあとで泰三に訴えた。
「お願いがあるの」
「なんだい」
「あたし、海野が邪魔なの」
「邪魔?」
「そう。殺したいわ」
「どうして?」
「憎んでいるわ。それに……このままじゃ、あたしのほうが殺されるかもしれない」
泰三はドキンとして郁子を見た。
「まさか」
「まさかかもしれないけど、いまにごみみたいに捨てられることは確実ね。もうあたしになんか興味がないんだし……あたし、海野の悪い部分を知っていすぎるの」
「大切なパトロンじゃないか」
「限界ね。今ならあたし名義の財産もあるしあたしが受取人になっている保険もタップリあるわ。つまみ食いできるものもあるし」
「殺すとして……どうする?」
「彼のマンションで。ガス中毒」
「ほう?」
「彼はマンションに一人で住んでいるのよ。自分の住居のこと人に教えないけれど、あたしは知っているわ。そこはセントラル・ヒーティングの設備がなくっていまだにガス・ストーブを使っているのよ、暖房は。それにあのあたりはまだ古いガスだから……。彼はいつも夜の九時頃に血圧の薬を飲むわ。あたし、それとそっくりの睡眠薬を見つけたの。その夜のぶんだけ血圧の薬と睡眠薬を差し替えておくの。そうすれば、彼、テレビを見ながらウトウト眠るでしょうし、あとで怪しまれることもないわ」
郁子の計画は綿密で、とてもただの思いつきのようではない。
泰三は、郁子のどこか曇りガラスのようなおぼろな囁《ささや》きを聞きながら人間の心の中は黒い、おぞましい湖だと思った。なにがその中に潜んでいるかわからない。
海野は郁子を殺そうとしている。遠からず泰三になにか指令が来るはずである。泰三もそれを十分知りながらなに食わぬ顔をして郁子と抱きあっているのだ。その郁子が今度は海野を殺そうとして泰三に相談している。人間の心の中にはたしかに計り知れない部分があるようだ。
「それで?」
泰三が郁子に尋ねた。
「あたしは彼のマンションに電話をして彼が眠ったことを確かめるわ。それであなたに連絡するの」
「ふん?」
「そしたらあなたは彼のマンションへ行って戸外にあるガスのノブを閉じ、それからちょっと待ってもう一度開けるのよ」
「いつもガス・ストーブをつけたまま眠るのか」
「うたた寝のときは消さないわ」
「ガスのノブを締めるとストーブの火が消え、次に開くとガス漏れになるわけだな」
「そう」
「どうしてガス・ストーブが消えたか後で怪しまれないかな」
「そりゃ怪しまれるでしょ。でも、あたしはチャンとアリバイを作っておくし、あなたのところまで疑いは行かないわ。あなたは私とも海野とも秘密の間がらなんだから」
「ふん」
「それにガス管がソファのうしろを通っているの。ソファを強く押すと火が細くなることがよくあるのよ。後で警察に聞かれたとき、あたしがそのことを強調するわ。多少不自然なとこがあったほうがいいのよ。ガス漏れの事故なんかみんな思いがけない理由で起こるものなんだから」
「なるほど」
「お願い。ほとぼりがさめれば今度はだれに気がねもなくあなたとも会えるわ」
「パトロンをなくしても食っていけるのか」
「大丈夫よ。スナックのママでもやろうと思っているの」
「考えてみる」
「お金が必要なら、あたしの受取るものの半分はあなたにあげてもいいわ。それに……」
「それに?」
「あなた、そのくらいのお手伝いをしてくれたっていいでしょ。あたしの体をメチャメチャにして、あんな恥ずかしいことまでさせるんですもン。あなた以外にいないわ。まるで奴隷か動物みたい」
「君だって、まんざらじゃないんだろ」
「いやらしい」
郁子は眼だけで笑っていつものように泰三に体をすり寄せた。
「ねえ。お願い。あたしが電話をしたら、ただ出かけて行ってガスのノブをまわし、それからもう一回ノブを戻せばそれでいいのよ。べつにどうってことないじゃない。ね、お願い、やってよ、やってよ」
郁子はまるで駄々っ子がお菓子のおねだりをするように甘ったれた調子で言った。
たしかに泰三が演ずる役割はほんのわずかなものである。指紋を残さず、だれにも見つからないようにすればまったく証拠は残らない。ピストルを撃ったり首を締めたりするのと違って犯行の意識は極度に薄いだろう。
郁子の頼みを聞くか、海野との約束を守るか、判断は泰三の胸のうちにあった。
「どうかね。郁子とは十分楽しんだかね」
海野と泰三はテーブルを挟んでコーヒーをすすっていた。
「ええ、まあ」
「では今週の土曜日、世田谷の川べりの工場に来てほしい。地図はここにある。時間は電話で連絡するからアパートで待機しているように」
「いよいよやるんですね」
海野はすぐには答えなかったが、
「かもしれない」
と、小声でつぶやいた。
泰三は「もう少しはっきりしたことを教えてください」と迫ろうと思ったが、どうせ海野が話してくれるはずはないと思って口をつぐんだ。
それに……おおよその察しはつかぬものでもない。工場現場付近で郁子を殺す。そして死体をどこかの建造物のパイルの中にでも押し隠すのだ。その中にセメントを流し込めば郁子の姿はもう二度と地上に現われることはあるまい。
こうしておいてどこかの火山口か海岸か、自殺にふさわしい場所を見つくろって、あの遺書≠置くのだろう。当たらずとも遠くはあるまい。海野は泰三を信じきれないのでためらっているのだろう。
たしかにこの時の泰三は信じきれない、いや、信じてはならない男だった。
つい一昨日泰三は郁子に頼まれ、もう首を縦に振っていた。郁子の手助けをして海野を死に至らしめる計画が進んでいた。
郁子の話では決行は三、四日のうち、ということ。一方、海野が郁子を狙《ねら》っているのはこの土曜日――つまり明後日のことだ。
泰三は心中でひそかに笑った。
――どっちにしようかな。早いほうに乗ろうかな――
と、思った。
「では大切な仕事だから時間どおりに来て待ってるように」
こう言って海野は立った。
海野と別れた泰三はいったんアパートへ帰った。銭湯に行き、貸本屋に立ち寄り、家に帰ってテレビを見ていると電話が鳴った。
「もしもし、泰三さん?」
「うん」
「今晩決行よ」
郁子の声は少し上ずっていた。
「やるのか」
「ええ。準備は完了よ。トントン拍子にうまく行ったわ。一時間くらい後にもう一度電話をするから、そうしたら海野のマンションへ行ってほしいの」
「ああ」
「三〇三号室。ドアの外にあるガスのノブを締めて、それから二分後にもう一度あけるの。いいわね。あなたにお願いすることはそれだけよ。それで、あたしとお金が手に入るのよ。あたしのほうはいらないかもしれないけれど……。駄目?」
郁子の声が少し艶《つや》を帯びた。
「いいよ」
「じゃ電話を待っててね」
電話を切ってから泰三はゴロンと寝転がって目を閉じた。
多分海野は泰三と別れてから自分のマンションへまっすぐに帰ったのだろう。郁子は泰三と海野が密談をしている頃《ころ》、合鍵《あいかぎ》で海野のマンションへ潜入して、しかるべき細工をしたにちがいない。海野は血圧をさげる薬を飲み、今ごろはソファにでも寄りかかって郁子を殺す手だてを考えているのだろう。
「人を呪《のろ》わば穴二つ、か」
泰三は古風なことわざを思い出してつぶやいてみた。
それから四十分ほどして郁子から電話があった。
「車を拾って大至急行ってほしいわ。今八時五分でしょ。十分で行けるわね。八時二十五分きっかりにあたしがもう一度海野のところに電話をかけるわ。ドアの外から電話のベルを聞いて、万一海野が電話に出るようなら、やめて帰って来て。いくらでもチャンスはこのあとあるんだから。そのままベルが鳴り続けていたら、手はずどおりに……ね。あたしはいまアリバイ作りよ」
郁子は手短かに話して電話を切った。
泰三はすぐアパートを出た。海野のマンションはそう遠くない。泰三はマンションのはるか手前で車をおり、近くの繁華街で五分ほど時間をつぶし海野の家のほうへ歩いた。道から見あげると、海野の部屋と聞かされているあたりに光がともっている。海野が自宅にいることはまちがいなさそうだ。
気がつくと泰三は手を堅く握り締めている。その手の中がじっとりと汗ばんでいる。
時計を見ると八時二十四分。泰三はエレベーターで三階にあがり海野の部屋へ続く廊下を歩いた。電話のベルの音が急にかすかに鳴り始めた。ドアの中から、一つ、二つ、三つ、四つ……。答える様子はない。泰三はガスの元栓のノブを握った……。
その時部屋の中では……海野がソファにもたれて眠っていた。いびきをたて、かなり深い眠りのようだ。部屋のすみでは豪華な作りのガス・ストーブがかすかな音をあげて燃えている。
突然そのストーブの音が弱まり、今まで赤く燃えていた部分がサッと色を失った。部屋を支配するものは海野自身の寝息、柱時計の音、そしてテレビの声だけだ。
シューッ。
急に沈黙のガス・ストーブが無気味な音をあげ死の息を吐き始めた。
泰三はマンションを出た。路上からもう一度海野の部屋を見上げたが、すぐに肩をすぼめて歩き出し車を拾って自分のアパートへ帰った。
十分ほどして郁子から電話が入った。電話口からレコードの音楽と何人かの人声が聞こえる。
「もしもし、ポニイですか」
「いいえ、伊藤です」
これはあらかじめ約束しておいた合図である。「伊藤です」と言えば手はずどおり成功≠フ意味であった。
夜更けて泰三は町に出た。なじみのバーへ行って酒を飲んだ。ゆっくり考えてみると、昼食を食べたっきりそれ以後なにも腹の中に入れていない。アルコールが喉《のど》の奥を燃やすようにして胃の腑《ふ》の中へ染み込んでいく。
水割りを三ばい飲んでから簡単な食事を作ってもらい、それを食べて外へ出た。
「海野はうまく死んでくれただろうか」
あのまま眠っていれば、もう死んでいるはずである。
泰三は一瞬ギクリとして足を止めた。
「そうだ。あの遺書≠ヘどうなっただろう?」
海野が変死すれば一応その周囲の所持品が調査されるかもしれない。もし、その時あの奇妙な封書が出て来たら、人は何と思うだろう? それを見せられて郁子は何と思うだろう? どうしてこんな簡単なことに今の今まで気がつかなかったのか。
泰三は一瞬のうちに酔いがさめていくのを覚えた。
海野には家族がないらしい。だから遠い親類の者とか仕事上の関係者とかがそれぞれの立場に応じて海野の遺品を調べることになるだろう。
その時郁子の筆跡で書かれたあの手紙――あたしは死にます。ずいぶん突然の死に見えるでしょうが、どうか涙など流さないでください……が机の中から現われたらどうなるか?
郁子がなにかのときに書いたものが、そのまま残っていたのだと思って適当に処分されてしまえば問題はない。しかし、もし警察が介入するようなことがあったら、そのまま謎《なぞ》の手紙を見過ごすだろうか。なにかくさいと感じないだろうか。
もしだれかの手を通じてあの手紙が郁子に渡されたらどうなるか? 郁子はやはり海野と泰三が手を組んでいたこと――手を組んで郁子を殺そうとしていたことに気づくにちがいない。
「ちとまずいぞ」
泰三は独りごちた。もたもたしているとろくなことにならないぞ。
彼はアパートに帰ろうとした足を返してもう一度海野のマンションへ向かった。犯行のあとはけっして現場へ近づかない℃閧ヘずになっていたが、そんな暢気《のんき》なことも言っていられない。海野が本当に死んでいるかどうか、そのことも気がかりであった。
マンションの三階にあがると、海野の部屋《へや》のドアがあいていた。濃紺の制服を着た警官の姿が見えた。近所の人が十数人廊下に立ってヒソヒソ話を交わしている。
「どうしたんですか」
「ガス漏れで事故死したんですって」
「死んだんですか」
「ええ。救急車が来たけど、そのまま帰って行きましたもの」
救急車はすでに死んでしまって手のつくしようのない人を乗せない。泰三もそう聞いたことがあった。海野の死は確実である。そうとわかれば長居は無用だ。泰三はきびすを返した。
泰三には海千山千の海野が認めただけの鋭い直感力があった。その直感力が今警鐘を鳴らしている。思わしくない結果が起こる確率――つまりあの遺書≠ェ警察の疑惑を深めたり、郁子の手に届いたりする可能性は五十パーセントくらいありそうだ。
――五十パーセントだって楽観はできないぞ――
泰三は手を握り締めた。
――手の引きどきかもしれんな――
泰三は小走りにアパートに戻り、ベッドに転がってもう次の計画をねった。まんじりともせぬ夜を過ごすうちに窓の外が明るくなった。
「オーケー。それでいこう」
一時間ほどまどろみ、次に眼をさましたときは朝の九時だった。まず郁子に電話をかけた。
「もしもし、俺だ」
「あら。ずいぶん朝早いのね」
「海野さんは?」
「まだ、わからない」
「そうか。少しまずいことがある。俺の考えでは大至急東京を留守にして二人で姿をくらましたほうがいいと思う」
「どうしたの。何が起きたの」
「電話はまずい。会って話す。用意できるだけ多くの現金を持って出て来てくれ。早いほうがいい」
泰三はたたみかけるように言った。
それから一時間後、泰三と郁子はT湖に向かう国道で落ち合った。郁子は泰三の指示どおり車でやって来た。
「どうしたの?」
「運転を替わろう」
「ええ」
「俺も何がなんだかよくわからないんだ。今朝俺のところに知らない男から電話がかかって来たんだ」
「それで?」
「その男が言うんだよ。海野さんを殺《や》ったのはおまえだろうって」
「ほんと」
郁子の顔がサッと曇った。
「うん。しかもそいつは言うんだ。きれいな女が一枚からんでいる。その女を渋谷で見かけた。あのへんのマンションに住んでいるらしい。あれを抱かせろって」
「だれなの?」
「俺はぜんぜん心当たりがない。君のほうこそ見当がつくんじゃないのか」
郁子はしばらく考えていたが、
「少し声のかすれた人じゃない?」
「うん。そうだ」
「東北なまりの」
「そんな気もした」
「あの人かしら。このあいだ、あなたと渋谷で会ったあとで、跡をつけられて話しかけられたの」
「なんて?」
「うん。べつにたいした話じゃないわ。今、会ったのはだれだって……。海野の知っている人かもしれない。でも、その男がどうして? あなた、昨夜その人につけられたんじゃないの?」
郁子が厳しい口調で言った。
「いや、そんなはずはない。十分注意していたから」
「おかしいわね」
「おかしい」
泰三は心中ひそかにほくそえんだ。郁子はうまく話に乗って来た。今言ったことはみんな作り話なのだ。今朝はだれからも電話などありやしない。目的は郁子を山に連れ込むこと。そこで郁子を殺し夜を待ってT湖に投げ込む。あのあたりはよく自殺のあるところだ。郁子が失踪《しつそう》し海野のところから遺書が出て来ればすべて辻褄《つじつま》があうではないか。警察が疑っても郁子と泰三の関係がだれにも知られていないのだから疑惑が泰三のところまで届くはずがない。
郁子は二百万円近い金を用意して来たという。仕事のわりには小さい金額だが、それは仕方あるまい。
「どう、サンドウィッチ?」
「買って来たのか。用意がいいな」
「大急ぎっていうから、あたし、なにも食べてないのよ。あ、それから車を停めて。うしろのボックスにジュースがあるの」
泰三が車を降りてジュースを取って来ると、郁子が運転席にすわっていた。
「少し運転させて。そうでもしないと気持ちが高ぶって来て……」
泰三は助手席にすわりサンドウィッチをつまみジュースを飲んだ。昨夜からほとんど眠っていないせいだろうか、急に眼が重くなった。
「どうしたの、泰三さん」
「ひどく眠いんだ」
「あら」
泰三は激しい睡魔におそわれた。どうにも我慢ができないほどの眠たさである。
一瞬、心の片すみでしまった≠ニ思ったが、もう遅かった。
「泰三さん、泰三さん、どうしたの? 泰三さん!」
郁子が揺り起こしたが、泰三は眼をさまさない。
すっかり眠り込んでいるとわかると、郁子が笑った。アクセルを踏むと車のスピードがあがった。
「ごめんなさいね。あたしのほうが一歩早かったわ」
郁子はハンドルを握りながら、もう一度楽しそうに笑った。それから眠っている泰三に話しかけた。
「今朝知らない男から電話があったなんて嘘なんでしょ。だって、あたし、かすれた声の男も東北なまりの男も知らないわ。不安そうな顔をしてかまをかけたら、あなた、すぐに飛びついて来ちゃって……そうあまく見てほしくないわ」
郁子はなおも語り続けた。
「じつは、あたし、昨夜海野のマンションで見つけちゃったのよ。血圧の薬と睡眠薬を入れ替え、ちょっと机の引出しをあけたら封筒が二通あったわ。一つにあたしの名前が書いてあるじゃない。おかしいなと思ってあけてみたら、これが大変なしろものじゃないの。あたし、ピーンと来たわ。だって、あれはあなたがあたしに清書をさせたものですものね。海野とあなたが組んでいたことも、二人であたしを殺そうとしていたことも」
郁子はいかにも愉快そうである。
「でも……最後はあたしのほうについてくれたのね、泰三さんは。感謝するわ。海野はみごとに死んだんですもの」
やがて車はT湖の湖畔に着いた。ひどく寒い日で人影はない。今夜は雪だろう。郁子は泰三の手をベルトで留め、服のポケットに石をいっぱい入れると靴をぬがせた。それからダム工事でけずられた断崖《だんがい》のきわまで車を寄せ湖の中に泰三を落とした。泰三は白く泡を浮かべながら水の底に沈んでいった。
「海野の引出しの中にネ、もう一つ封筒があったと言ったでしょう。その中に何が入っていたと思う?」
郁子はいま泰三が沈んで行った湖面に向かって話しかけた。
「あなたの遺書よ。あなた、あたしに清書をさせる前に自分でも下訳を書いたわね。男の文章で。それを海野に渡したでしょう。お馬鹿さんね。海野はあなたも殺すつもりだったのよ。多分あたしを殺させて、そのあとでだと思うわ」
郁子はその遺書を泰三の靴の中に入れ、崖《がけ》っぷちに置き、大きな石で重しをした。自殺者というのは、いつもどうして履き物を脱ぐのかしら? 幽霊に足がないからかしら? などと思いながら。
「さよなら」
車が動き出した。
郁子はまたつぶやいた。
「近いうちに死体があがるわ。死体は警察にまわされるでしょうけれど、睡眠薬を飲んで湖に飛び込んだと思われるわ。だって自筆の遺書があるんですもの。あなたみたいに下手《へた》くそな字、他人が真似《まね》られるはずはないんだし……」
海野が死に、泰三も死んだ。
海野についてはまだいくらかややこしいことがありそうだが、その死亡時間に完全なアリバイがあるのだから心配はない。実際の犯行者である泰三はもうなにもしゃべれないのだし……。
郁子はもう一度湖の面を見た。
ひどく陰気な湖である。その黒い水面が人の心の中のように思えた。その中になにが潜んでいるかわからない。
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その男は鉤型《かぎがた》に曲がったカウンターの一番奥の、壁ぎわの席にすわっていた。
坊主刈り。白い顔色、灰色の開襟《かいきん》シャツ。無表情に水割りを飲んでいた。眼をあけているのか閉じているのかよくわからない。もともと線を引いただけのような細い眼だった。
店の中は混雑していた。スナック・バー風≠ノは常連客しか集まらない。とりわけ遅い時間になると顔見知りばかりだ。まるで大きな家族が集まったように勝手に話が弾む。マスターが含み笑いを浮かべながら話し、客の話に小耳を寄せ、適度に酒を配る。和気あいあいとしたものだ。
その中で壁ぎわの男だけは独り孤立していた。いや、彼本人は格別孤独を愛していたわけではあるまい。反応はとぼしかったが、それなりにみんなの話に耳を傾けていたのだろう。あとで彼自身、話の輪に加わって雄弁に語り出した事情を考えれば、きっとそうなんだ。ただ顔つきがもともと静かな――活気のない人だった。
常連だろうか?
よく見る顔ではない。でも、まったく見たことがないのかと聞かれると、そうでもないような気がする。以前は髪を伸ばしていたのではあるまいか。あの白い顔に眼鏡でもかけさせてみれば思い出すのではあるまいか。一口で言えば、見たような、見ないような、そんな曖昧《あいまい》な印象の顔つきだった。
「夜になるとサ、その、隣に寝ていた男がむっくりと起きだして……」
声高に話しているのは、家電メーカーに勤めるガクさんだ。博識で、学がありそうで……それでガクさん。この男は話し上手だ。
喧噪《けんそう》が急に途絶えたのは、みんながガクさんの話に耳を寄せたからだろう。
「隣に寝ていた男が周囲をそっと窺《うかが》ってからコッソリ部屋を出て行く……。毎晩のことだからこっちは気になるだろう。俺《おれ》もそっと起きて、あとを追っかけて行ったんだ」
と、声をひそめる。
どうやら怪談が始まったらしい。
「門を出てスタスタと墓地のほうへ駆けて行く。俺は見つからないようについて行ったサ。やつは墓地の中へ入ると、墓石を倒し、その下を掘り始めた」
「…………」
「なにをするのかな、と思ってたら……なんと、骨を掘り出してムシャムシャ食べ始めた。これは相当に怖いよ。ちょうどそのとき雲が切れて月が顔を出した。見られちゃまずい≠サう思って身を隠そうとしたら、まずいことに、なんかにつまずいて音を立ててしまった。男が振り向いて……」
「…………」
「見たなあー」
ひときわ大きく、恨みの声を発するものだから、
「キャーッ。いやーッ」
女の客が叫んだ。
ガクさんは満足そうに笑っている。怪談はこうでなくてはいけない。叫び声は聞き手の拍手のようなものだ。
「どうしてその男は骨なんか食べていたんだ」
女の連れが尋ねる。
「あとでわかったんだが、その男は肺結核にかかっていて、骨が体にいいって聞かされていたんだな」
「本当かよ」
「本当、本当」
夏が来ると人はどうして怪談を好むのだろうか。テレビ番組もここを先途《せんど》とばかり怪奇物を放映する。
かつてはうまい消夏法もなく、寝苦しい夜は戸外の縁台に出て涼を取るよりほかに仕方がなかったのだろう。大人も、子どもも……。そこで怖いお話のご開帳となる。
「むかし、信州の山の中には、黒ん坊というのが本当にいたんだ」
「なんだ、それ?」
「人間と猿のあいのこみたいなものでサ、人によくなつく」
「へえー?」
「飼っておいて、荷物を運ばせたり薪《まき》を割らせたりしたんだな、その黒い猿みたいなやつに」
「それで?」
「ある炭焼きの家が崖《がけ》の近くに建っていて、夫婦と娘が住んでいた。そこへやって来る黒ん坊がとてもよく働いてくれるものだからサ、あるとき炭焼きの親父《おやじ》がよし、よし。うちの娘が大きくなったら、お前の嫁さんにしてやるからな≠チて、なんかの拍子につい言ったんだ。黒ん坊は毎日現われてますますよく働くようになった」
「ふん」
「そのうちに娘は大きくなり、鄙《ひな》にはまれな美人に育った。村の庄屋がぜひうちの嫁にほしい≠ニ言う。願ってもない玉の輿《こし》だから炭焼きの親父は二つ返事で承知した。昔、黒ん坊に言ったことなんか、てんから忘れていた。もともと冗談のつもりだったんだし……。ところが嫁入りの日が近づくと、黒ん坊がやって来て、娘を連れて行こうとする。娘は逃げようとしたが、黒ん坊は力が強いから、とても逃げられない。叫び声を聞いて親父が駈《か》けつけた。見れば、黒ん坊がまるで当然といった顔つきで娘を山の奥へ引いて行こうとしている。親父は昔うっかり妙なことを言ってしまったのを思い出したけど、もちろんそんなこと許すわけがない。この畜生、なにをするんだあ!℃閧ノ持っていた鉈《なた》でなぐりつけて殺してしまった」
「なるほど」
カウンターでは、それぞれがそれぞれの酒を飲みながら傾聴している。含み笑いを浮かべている者もいれば、眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せて真剣に聞いている者もいる。あの男は……壁ぎわに陣取った無表情の男は、たしか……いや、どんな様子で聞いていたか思い出せない。どことなく影法師みたいな、存在感の薄いやつだった。
「死体は崖《がけ》から下へ投げ込んだが、あいにく途中で木の枝かなにかに引っかかってしまってね。覗《のぞ》いてみると、黒ん坊のやつが谷の底からうつろな眼で上を見上げている。口もとが嘲笑《あざわら》っているように見える。数日たつうちに肉は鳥に食われたり、腐って落ちたりしたけど、黒い頭だけは相変わらず笑っている。しかも夜になって風が吹いて来ると、ケラケラ、ケラケラ声を立てているように響き出すんだ。その声が笑っているようで、泣いてるようで、無気味で、無気味でたまらない。とても眠ってなんかいられない。噂《うわさ》が広がりどうも炭焼きのとこの娘は黒ん坊に好かれていたらしい。ありゃ祟《たた》りがあるぞ。ろくなことないぞ≠ニなって、庄屋の息子との結婚は破談になってしまった。娘は悲観して崖から身を投げて自殺。たった一人の娘に死なれた母親も気がふれてしまい、あとを追って崖の下にとび込んだ。炭焼きは一人残され、夜になるとケラケラ、ケラケラ、ケラケラ……」
「変な声出さないでよ。気色がわるい」
「ここがクライマックスなんだから仕方がない。とうとう炭焼きの親父は我慢ができず、腰に縄をつけ、崖《がけ》に吊《つ》りさがって黒ん坊の骨を谷底へ突き落とそうと考えた。で、スルスル崖を降りたんだが、ところが途中まで来たときああーッ%黷ェ切れ、炭焼きのほうが落ちてしまった。今でも信州の山の中へ入ると、ときどき黒ん坊が笑っている声が聞こえるんだとサ。ケラケラ、ケラケラ、ケラケラ……」
「フーン、おもしろい」
この話、どこかで読んだことがあるぞ。
ああ、そうか。岡本綺堂の怪談集だったかもしれない。
店の中が急に涼しくなった。なにかのはずみで冷房が強くなったのだろうか。怪談のせいではあるまい。
「しかし、昔に比べると、この頃《ごろ》はお化けっていなくなったんじゃないのか」
そう呟《つぶや》いたのは、角の電気屋の親父だった。
酒好きで、いつも寝る前に風≠ノやって来る。バーボンのオン・ザ・ロックを飲む。
「それは言えるな」
いつも競馬新聞を手放したことのないサラリーマンが相槌《あいづち》を打つ。
今夜のテーマは怪談。遠い日の涼み台が戻って来たようだ。
「俺《おれ》が子どもの頃、お寺の本堂に寝かされたことがあってさあ」
「どうせロクさんの作り話だろう」
「違う、違う。ほんまもんだ。親類の家がお寺だったんだ。死体ってものは、お寺で預かると本堂に安置しておくものなんだな。住職のほうは、ほかにもう一つ枕経《まくらぎよう》かなんかを読む仕事があって隣の村まで行かなきゃいけない。それで俺と弟が死体の番を兼ねて棺桶《かんおけ》のある本堂に寝かされたんだ」
「舞台装置はそろったな」
「まあな。近くに棺桶があると思えば、そう落ち着いて眠っちゃいられない。今に、あの蓋《ふた》があくんじゃないか。中からノソーッと起きあがるんじゃあるまいか……。夜中に目を醒《さ》ましたら、もうとても眠れるもんじゃない。寝返りを打って棺桶を見ることさえできないんだよな。そのうちに……カタン、棺桶のほうでたしかに音がしたんだ。これは怖かったねえ」
「ネズミかな」
「いや、そんなんじゃない。たしかに棺桶の中で音がした。もうどうしていいかわからなくなり、とにかく隣に寝ている弟を起こした。弟はすぐ目を醒ましたさ。棺桶のほうで音がしたぞ≠ニたんに弟もガタガタ歯の根もあわないほど震えだした。夜目にもまっ青になっているのがはっきりとわかる。それを見るとこっちもますます怖くなる。どうしよう∞どうしよう∴齔lでなんか寝ていられないよ。棺桶から遠いほうの、弟の布団の中に潜って、抱き合って身動きもできずにいたら、もう一度、今度ははっきりとガタン……棺の中で音がしたから、もうたまらない。二人とも寝巻きのまま外へ飛び出して死人が動いた、死人が動いた@ラの村の、住職の行っている家まで走って行った」
「フーン」
「住職が寺に戻って、蓋をあけてみたら死体が目をあけている。合掌した手がほどけている。多分、これが箱に当たって音をたてたらしいんだな。こりゃ大変≠トわけで今度は医者を呼びに行って診てもらったけど……結局生き返りゃしなかった。しかし、ホント、あれは怖かったぜ」
「昔はいろいろあったよなあ。あかずの便所とか、便所の中から手が出て来るとか……」
「水洗便所じゃ手の出しようもないからなあ」
「死んだ人の知らせが来るって……あれは本当にあるみたいね」
「ある、ある。うちの叔母さんが死んだときには、お袋のところへ来たらしいぞ」
「へーえ」
「夜八時頃、お袋が帰って来たら、家の近くにだれか女の人が用ありげに立っているんだよな。よく見たらたしか病気で寝ているはずの妹じゃないか。で、どうしたの、今頃? 平気なの≠チて聞いたらうん、ちょっと∞あがりなさいよ∞今はほかにまわらなきゃ駄目だから……またあとで≠サう言ってスーッと行ってしまったんだ。お袋も変だなあ≠チて思ったらしいけど、それが知らせだったんだな」
「ちょうどその時間が死んだ時間だったりして」
「そう、そう」
「でも、このごろの子どもって、お化けなんかあんまり信じないんじゃないの」
「迷信だなんて言ってるから、始末がわるいよ」
「あれで、お化けってものは、結構道徳教育のたしになっていたんだがな」
「そう。悪いことすると、お化けが出て来るって、そう信じていれば多少の歯止めにはなるもん」
「でもサ、あたし、のっぺらぼうって一番怖いような気がするの」
酔っているから話は脈絡もなく飛翔《ひしよう》する。
「あんなの、怖いかな」
「俺も好きじゃない。無表情の極致だからな」
私は想像した。もしこの酒場で……いくつも頭が並んでいるけれど……なんとなく様子が変なので、周囲を見まわすと、みんな表情がない、みんなまっ白い。あわてて自分の顔を撫《な》でると……これは真実怖いかもしれないぞ。
「三鷹《みたか》の団地の近くに、昔、のっぺらぼうが一人住んでいたんだ」
「へーえ」
「まだ三鷹が今みたいににぎやかじゃなくって、初めて公団の団地が市のはずれにポツンと建った頃だった」
「うん?」
「サラリーマンがひとり、遅くまで麻雀《マージヤン》をやってトボトボ帰って来た。折しも草木も眠る丑満《うしみつ》どき……」
「遠くで鐘の音が陰にこもってボーン」
「そう、そう。のっぺらぼうがヒョイと木の蔭《かげ》から顔を出した。うらめしやー≠サの男、つくづくお化けの顔を見てああ、あのときパイパンが出てたら、役満だったのに=v
「アハハハ、これはいい」
笑い声が零《こぼ》れたが、麻雀を知らないらしい女は、真顔のまま話を変えて、
「写真に人の顔が写ってるって、本当にあるみたいね」
と、言う。
「写真に人の顔が写ってんのは当たり前じゃないか。写ってなきゃ大変だ」
「そうじゃないのよ。写そうと思った人の顔じゃなく、そのうしろの森の中とか、窓のところとかに、いるはずのない人の顔が写っているのよ」
「ああ、心霊写真か」
「そう言うの? あれは怖いわ。私のお友だちが写したのなんか、かなりはっきり人の顔が写っていたもんねえ」
「見たのか」
「ええ。霧ヶ峰高原で……草のあいだから知らない顔みたいなのが覗《のぞ》いているの。もう夕方になっていて、まわりに人影なんか絶対なかったんですって」
「俺もそういう写真見せられたこともあるけど、あれ、光かなんかのせいじゃないのか。思いがけないものが人間の顔に見えたりするんじゃないのか」
「そうかしら」
「人の顔みたいなものって、その気になって見てみると、いろんなところにあるよ。森の木をじっと見ていれば、一つや二つ人間の顔が隠れている」
「自動車だって顔があるもんな」
「それは言える。ダンプなんかやっぱり獰猛《どうもう》な顔しているもんな」
「小型車はチマチマした、貧相な顔つきだ」
「ガクさん、おたくの車は、かなり醜男《ぶおとこ》なんじゃないか。持ち主に似て」
「このあいだぶっつけられたからな。しかし、前はもっとハンサムだったんだ。持ち主に似て」
「あのう……」
店の中の空気がかすかに動いて、壁ぎわの男が声を発したのは、このときだった。
みんな自分たちの話に夢中になっていて、そんな男がいることさえ忘れていた。思いがけない発言に拍子を抜かれて息をのんだとたん、その空白を縫うようにして、意外によく通る声が響いた。
「みなさんもやっぱりそんなふうに感じられることがおありなんですか」
「なんでしょうか?」
おごそかに質問を投げられて、酔っぱらいたちは自分たちがなにを話していたのか思い返さなければいけなかった。
「車が人の顔に見えたり、森の木が人の顔に見えたり……」
そう、そう、話していたのは、そのことだったっけ。
「よくあるんじゃないですか」
ガクさんがゆっくりと頷《うなず》いた。
「そうですか」
男は相変わらず眼《め》をあけているのか閉じているのかわからない顔つきで、ひとり頷いていたが、
「いちじ私はそれがひどくて……」
「はあ?」
「見るもの見るもの、みんな人の顔に見えて困った時期があったんですよ」
「…………」
「壁のしみとか雲とか……。どこを見たって人の顔がある。青山に古い時計ばかりを置いてある喫茶店があるんですけれど、あそこの店に入ったときはひどかったな。どれもこれもみんな顔、顔、顔、顔だらけです」
「怖いですか」
「ええ……。とても怖いです。顔が怖いっていうより自分がどうかなってしまったんじゃないかと思って……」
「なるほど」
「見るまい、見るまいと思っても、やっぱり人の顔になって見えて来る。酒を飲んでいればコップの中の氷が顔になってしまう。コーヒーにミルクを入れれば、その模様が顔になってしまう。戸棚を見ていれば二つ並んだ引き手が眼になって見えるし、ぼんやり窓の外の景色を見ていると、二つの窓とバルコニイの柵《さく》が、歯をむきだした顔になってしまって……」
「そりゃ、かなり重病だ」
「はい。新聞の見出しを見ても、漢字が顔になってしまいます。中≠ニいう字とか、本≠ニいう字とか……」
「おちおち本を読んでいられない」
「本当ですよ」
「いつ頃からですか。なにか原因があったんですか」
男は、無表情のまま流れるような調子で語り出した。
その奇癖がいつごろから始まったのか、正確に思い出すことができない。
高速道路を走っていて追突され、一か月あまり鞭打《むちう》ち症の治療のため病院通いをした。どうもそれと関係があるような気がしてならない。やはり脳の病気の一種なのだろうか。
あるいは、それと前後して七万円ほど入った財布を拾ったことがあった。交番にも届けず、そのまま着服してしまったが、いつもだれかに監視されているように思うのはそのせいかもしれない。罪の意識が人の顔を作るのかもしれない。
初めは些細《ささい》なことだった。
向こうから走って来る自動車がみんな人の顔を正面につけている。それまでにもなかったことではないけれど、どこかが違っている。顔の大群が押し寄せて来るみたいだった。
次には雲が気がかりになった。壁のしみがさまざまな顔になり、自分を取り囲んでいるように見えてならなくなった。水溜《みずたま》りも怖いし、公園の木は一本で立っていれば、それがそのまま人の顔に見えたし、群がっていればいくつもの顔がその中に隠れて見えた。
婦人服の模様の中にも顔はたくさんあったし、タバコの煙も人の顔を作って消える……。
それからはなにもかも、この世の森羅万象《しんらばんしよう》が顔のイメージに映った。
あそこが眼だ。
あれが鼻だ。
あそこのぽっかりとあいている部分が口だ。
なにかの形が顔の造作の一部分に見えると、たちまちその周囲に顔全体が見えた。
たとえばカタカナのム≠フ字を見る。高い鼻と小鼻に見える。その付近の小さなしみが眼となってそこに表情が現われる。道路標識もまるい人の顔に見えるし、東京タワーも鼻に見えて、その周辺に大きな人の顔を描いた。
――これはいかん――
そう思ううちに、それぞれの顔が喜怒哀楽を載せ、その一つ一つが彼を悩ますようになった。
人相のわるいタクシーはけっして乗ってはなるまい。乗ればきっと事故を起こす。
偶然の一致かもしれないが、現実にそんな事件があった。
会社の同僚が凶悪な顔つきのタクシーに乗った。よくないことが起きる≠ニ思ったが……車がガードレールに衝突して大きな事故を起こしたのは、その直後だった。
まのびした顔つきのタクシーに乗ったときには、道路渋滞に巻きこまれ、予定の飛行機に乗ることができなかった。
泣き顔の雲ははっきりと雨の兆候だ。天気予報よりもよく的中するのだから、かなわない。グラスの中の氷が不愉快な人相に見えた日は、悪酔いがひどかった。
マンションの壁に映ったしみは、どう眺めてみても女の顔に思えたが、彼がガール・フレンドと会った夜にはひどく嫉妬《しつと》深い表情に変わる。
――こいつがいるおかげで俺は結婚ができないのかもしれない――
洗剤を買って来て拭《ぬぐ》った。
しみは広がって、今度は険悪で、偉そうな男の顔になった。
家に帰っても気分が落ちつかない。壁の男がいつもなにかしら小言を言っているようだ。
「酒を飲むな」
「タバコをやめろ」
「くだらないテレビなんか見ないで、もっと仕事に役立つ勉強をしろ」
ヌード写真もおちおち見ていられない。
会社の同僚たちには、
「どうした、なんか落ちつかないぞ」
と、言われる。
「おかしいぞ。おびえているような顔つきをして」
そう指摘されるようになった。
どこへ行っても人の顔がある。嘲笑《あざわら》っている奴《やつ》。怒っている奴。泣いている奴。
――たしかにおかしい。これはただごとではないぞ――
顔の数はどんどん多くなる。このまま増えて行ったら、いったいどうなるんだ。
彼は病院を訪ねた。
「周囲のものがみんな人の顔に見えるんです」
医師はしばらく彼の告げる症状がのみこめないふうだった。顔が見えたからと言って、どうして彼がこれほどおびえるのか、その理由が納得できないふうだった。
「べつにいいじゃないですか。大勢友だちがいると思えば……」
「友だちなんかじゃありません。みんなあかの他人ばっかりです。みんな感情をむきだしにしています。世間の人は上手に本当の気持ちを隠しているけど、心の底じゃなにを考えているかわかったものじゃありません。違いますか? それがはっきりわからないなら、いいんだけど、でも私の場合、あちこちにいる顔は気持ちを隠すことを知らないから、本音で迫って来ます。たいていの顔はフン、つまらん男だな≠チて私のこと嘲笑っています。とてもやりきれません」
彼は真顔で訴えた。
「わかりました。少し病院に通ってごらんなさい」
治療を受けてもいっこうに治りそうもない。かえってますますひどくなる。
考えてもみてほしい。周囲の人間がみんな本心をあらわにして迫って来たら、どれほど日々の生活が落ち着かないものになってしまうか。
彼の場合は、ただあちこちに顔が見えるだけで心が安まらないのに、かてて加えてそれぞれの顔が邪悪な表情をのぞかせるのだからたまったものではない。
彼は次から次へと自分の奇病を癒《なお》してくれる病院を捜さなければいけなかった。
「それで、結局どうなりました?」
壁ぎわの男の話が一段落すると、ガクさんが身を乗り出して尋ねた。
男の思いがけない雄弁ぶりに圧倒されて、みんなグラスの酒を傾けながら傾聴していたのだった。
話の途中あたりから、みんなの物を見る目が変わった。この氷が人の顔に見えるだろうか。壁の模様が表情に映るだろうか。
見えると言えば、見える。
見えないと言えば、見えない。
たしかにやたらに人の顔に見えるとすれば、それはノイローゼの一種だろう。
待てよ、人間の本心がそのまま見えたら、これはちと厄介だぞ。店のチーフだってこいつら、もういい加減帰ったらどうだ≠チて思っているだろう。その気持ちがそのまま壁のしみに現われているとしたら……。
この女、うまく口説ければいいんだが
馬鹿ね、あんたみたいなカボチャと寝るわけないじゃない
吐き出した紫煙がそんな気持ちをあらわにしているとしたら……。
たしかにこれは居心地のよい情況じゃないぞ。
「はあ、何軒病院を廻《まわ》ったか……。最後にようやくいい先生にめぐりあいまして」
「そりゃよかった」
そう口で呟《つぶや》きながらも、聞き手は内心でもっとひどいめにあったら、おもしろかったのに≠ニ思わないでもない。どこかにそう願っている表情が映っているのではあるまいか。それをこいつは感づいているんじゃあるまいか。
「はい。まるっきり世間にない病気じゃないらしいですね。その先生は前にも一人同じ患者を扱ったことがあるそうで……。それで少し強い薬ですが、飲んでみますか≠チて。私はもう真底弱っていましたからお願いします≠チて言ったわけです」
「どんな薬が効くんだろう」
「やはり一種の精神安定剤のようなものじゃないでしょうか」
「効きましたか」
男は頷《うなず》いた。
「不思議なものですね。今までどうしようもなかったのに、その薬を飲み始めたら、少しずつ効きだして……」
「一種のプラシーボ効果かな」
ガクさんが学のあることを言う。
「なんだね、そりゃ」
電気屋が口を挟んだ。
もう看板の時間はとうに過ぎている。チーフは店を閉めたがっている。これは壁のしみなど見なくたってはっきりとわかる。話の潮時をうかがって客たちも帰ろうとしていた。
「なんの効果もない薬をこれは効くよ≠ニ言って飲ませると、それが本当に効くことがよくあるんだ。これがプラシーボ効果……」
「いえ、そんなんじゃないと思います」
壁ぎわの男は確信があるように抗《あらが》った。
「…………」
「効果ははっきりとわかりました。飲むたびによくなりました。あれは気のせいなんてものじゃないでしょう。今まで厭《いや》って言うほど見えていたものが、次々に見えなくなってしまったんですから。副作用もありましたけれど……」
そこで男は思い出したように時計を見た。
「あ、こんな時間ですか。もう帰らなくちゃいけません。お勘定はいくらですか」
チーフは待ってましたとばかり書きつけを差し出す。男は金を支払いながら席を立った。
「どうもヘンテコな話をしちまって……」
「どんな副作用があったんですか」
そう私がうしろ姿に尋ねたとき、男はすでにドアの近くにいた。
「はあ。人の顔がどんどん見えなくなってしまって……。それはいいんですけれど、周囲にいる人の、本当の顔まですっかり見えなくなってしまって……みんな白くなってしまって……」
男はそう告げながらグルリと無表情な顔で店の中を見まわした。
なんということだ。
その一瞬、奇妙なことが起こった。私はその男の顔を凝視し続けていたのだったが……彼の眼に映ったものが、パッと私の眼にも見えた。いや、彼の無表情な様子を見て、私は彼が見たもの≠悟った……と、そう説明するよりほかにないのだが、そんなこざかしい説明を越えて、さながら神の啓示を受けたように彼が見たもの≠私は、見た。
暗い店の中。
居並ぶ人間たちには顔がない。ただ、まっ白いだけ。目も鼻も口もない顔だけがゾロリと並んでいる。
「さようなら」
男がドアを閉じた。
私はスルリと自分の顔を撫《な》でた。
ガクさんも電気屋も、みんなとりどりに同じ動作をしていた。
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本番まで
「塚瀬さん、ちょっと」
塚瀬純一がテレビ局のスタジオを出ると顔見知りの記者が声を掛けて来た。塚瀬は足を速めたが、相手は大股《おおまた》で追って来て狭い廊下で肩を並べた。
「田村まゆみのニュース、聞いたでしょ? 生むそうですよ。父親はだれかわからないけれど」
「次の仕事があるから、あとにしてくれないかな」
塚瀬は突慳貪《つつけんどん》に言ったが、相手は薄笑っている。いい年をして笑窪《えくぼ》のある男というのは、気味がわるい。
「塚瀬さんが父親なんでしょ?」
「そんなことはない。彼女とは、あなたがたが想像してるような関係じゃない」
「そうかな。お腹の子は六か月ですよ。結構仲のよかった時期じゃないんですかね」
「違うね。私には関係ない。勝手な推測はやめてほしい」
苛立《いらだ》たしそうに言い捨てると、テレビ局の裏口に待たせてあった自動車に滑り込み、記者には目もくれず、
「目黒へ」
と、運転手に告げた。
今日は午後から十二時間もぶっ通しでビデオ撮りがあった。全身が綿のようだ。疲労は人気稼業の勲章なのだろうか。
塚瀬純一はもともと新劇畑に育った俳優だが、途中で食えない*者稼業を断念し、ニュース・ショーやドキュメンタリー番組のナレーターに転向した。結果からみて、この転身は大成功だった。彼の都会的な風貌《ふうぼう》と、いかにも博識そうな弁舌はこの仕事にうってつけで、茶の間の主婦たちのあいだで人気が高い。
「まゆみのやつ……」
車のシートに体を埋めた塚瀬は、小さく舌を打った。
田村まゆみも新劇畑出身のタレントだ。かつてはプレイガールとして騒がれ、詩を詠《よ》む女優として話題になり、演出家と喧嘩《けんか》をして初日の舞台に穴をあけたこともあった。マスクもいいし演技力も確かだが、それ以上に、個性的でわがままで、どこか不思議な魅力を備えたタレントとして一部に根強いファンを持っている。
そのまゆみが一昨日芸能記者を集めて大袈裟《おおげさ》に宣言をした。
「あたし妊娠六か月なの。もちろん生むわ。父親なんかどうだっていいじゃない。私一人で育てるんだから」
記者たちが父親を詮索《せんさく》したくなるのも無理はない。男性関係の複雑な田村まゆみだったが、その人の子を生むほどの相手となると、おのずと限度がある。有力な候補として塚瀬純一の名があがっていた。
塚瀬は劇団の研究生だった頃《ころ》からまゆみとは格別に親しかった。人けのない楽屋の片すみで抱きあったこともあるし、西日の射《さ》すアパートで体を重ねたこともあった。
二人がタレントとして名をあげてからも塚瀬はまゆみとひそかに会っている。ファンや記者の眼をかすめてホテルに泊まり込んだりもした。大人同士の、しゃれたデートのはずであった。
こんな関係は、二年前塚瀬が結婚してからも続いている。
ただ、結婚した以上、塚瀬はスキャンダルを極度に恐れなければいけない。まゆみはもともと主婦層には毛嫌いされている女だし、この種の醜聞は塚瀬のような健全な≠ィ茶の間タレントにとって命取りになりかねない。そのへんの事情は当然まゆみも知っているし、今まではそれなりに気を配ってくれていた。
「それが、ここへ来て……。なんの連絡もなく」
疑心が首をもたげる。裏切られたような気がしてならない。
妊娠六か月ということなら、逆算して今年の一月あたりが焦点の時期になる。記者に対しては強く否定したが、覚えのないことではなかった。
そう、あれは東京にはめずらしく雪の降った夜だった。六本木のスナックで偶然まゆみと顔を合わせ、二言、三言話しただけでその夜の密会が決まった。
会ったのは、まゆみのマンション。窓のカーテンを細く開くと、夜の底がまっ白く広がっていた。まゆみは淡い水色のネグリジェに身を包んで、ブランデーをなめていた。
「奥さん、どう?」
塚瀬の妻は、昔まゆみと同じ劇団にいたことがあるので、おたがいによく知っている。
「四月に子どもが生まれる」
「ゴシップ欄で読んだわ。いまに家族水入らずで雑誌のグラビアに登場するわね。みんなでニコニコ笑いながら。人畜無害、これがとてもハッピーな一家でーす、って……」
いくらか毒を含んだ話しかたが、まゆみの特徴だ。
「まあ、そうだな。まるでこんなこと、したことのないパパみたいな顔をして……」
こう言いながら塚瀬はまゆみをベッドへ押し倒し乳房をさぐった。唇を重ねるとなつかしい感触が男の中に広がる。
まゆみは濡れそぼっていた。
折り重なったとき、猫のようにしなやかに身をからめて爪《つめ》を立てた……。
あの夜、情事が終わってからも二人はベッドに寝転がり、競うように天井に紫煙を吹き上げていた。まゆみは煙で輪を作るのがうまい。
「あたしも赤ちゃん生もうかな」
「いい加減に結婚するんだな」
「月並みのこと言うわね。いやよ。他人のご主人を盗んでいるほうがずっと楽しいもん」
「あんたらしい。相変わらず怖いことを言う」
そうつぶやきながら、塚瀬は妻の昌代のことを考えた。
二人の関係を知ったら、昌代は気も狂わんばかりに怒るにちがいない。まゆみと昌代とは同じ劇団の同期生だが、役者としての技量には差があり過ぎた。つまりまゆみのほうがはるかに優れていた。劇団は人気を掴《つか》んだ者が無条件に幅をきかす世界だ。昌代は端役に甘んじ、いつもまゆみのわがままを黙って我慢しなければいけない立場だった。
そんな昌代だったが、塚瀬純一だけは自分のほうがまゆみから奪ったと信じている。かつて塚瀬がまゆみと交際のあったことはうすうす知っていたが、最後に結婚をしたのは自分のほうなのだ。少なくともこの勝負だけは自分のほうが勝ったのだ。人生で一番大切な勝負と言ってもいい……。これからその男と一緒に幸福な家庭を築いていけば、それでまゆみを見返すことができる――昌代はそう考えているにちがいない。
そのまゆみがベッドの上で塚瀬を相手に楽しげに笑っているとしたら……昌代にとってこれほど堪えがたいことはあるまい。塚瀬はそうと知りながら、ずるずるとこの情事を続けていた。罪深い行為にはちがいないが、まゆみは手放すには惜しい女だった。
「あたし、あなたの赤ちゃん、生もうかしら。どう?」
まゆみは肩を揺すりながら、からかうような調子で言った。
「昌代が怒り狂うぞ」
「あなたがあわてる顔も、おもしろいわね」
「脅かすなよ」
「あたし一度くらいあなたを困らせる権利があるんじゃないの? なんの断わりもなく昌代とくっついたんだから」
「あんたにできっこないさ」
「なにが……?」
「子どもを作るなんて醜悪だ。あんたらしくもない。ヤッパリ他人の恋人なんか盗んでいるほうがよく似合う」
「生むかもしれないわよ」
あのときは冗談だとばかり思っていた。人気稼業の女優が独身のままで私生児を生むなんて、あってはならないことだ。第一、まゆみはとうてい母親になんかなれるタイプではない。
それがどうだろう?
急に気が変わってしまって……。不安が胸をよぎる。
塚瀬はまゆみを見くびり過ぎていたのかもしれない。彼女の友情≠信じ過ぎていたのかもしれない。
もともと気まぐれが進めば、なにをやりだすかわからない女ではなかったのか。嫉妬心《しつとしん》も人一倍|旺盛《おうせい》だ。今さらのように「あなたを困らせる権利があると思うの」――そう言っていたまゆみの声が耳に響いた。
塚瀬は車のシートに埋まりながらなにかつぶやいたのかもしれない。運転手が怪訝《けげん》そうに振り向いた。
「高速で行きますか」
「ああ、そうしてほしい」
家には妻の昌代と、二か月前に生まれた芳郎と、それから塚瀬自身の母がいる。
昌代と母との折り合いはあまりいいほうではなかったが、これは世間によくあること、外から見るぶんには平穏無事な家庭だ。
塚瀬自身はもちろんのこと、マネジャーもプロダクションも、健全な家庭の主《あるじ》としての塚瀬純一≠積極的に売り込んでいる。
大衆が見知っている塚瀬純一≠ヘ――サラリーマンたちがよく見知っているような家庭を手さばきよく取りしきりながら、けっしてしょぼくれたりもせずに、エネルギッシュで知的で、恰好《かつこう》よく動きまわる清潔なパーソナリティ――そんなところだろう。実像はともかくそう信じさせているのが彼の財産だ。
その財産に黒い手が忍び寄ろうとしている。
――もしまゆみが私生児を生んだら? 俺の子だったら?
まゆみが子どもを生むのは彼女の勝手だ。
だが、それが塚瀬純一の子だと知れたら世間はどう反応するだろうか。実子とほとんど年齢の変わらない子どもを愛人に生ませているとわかったら……。今までに築いたイメージとはあまりにもかけ離れている。
――まゆみに会ってみようか――
塚瀬は首を振った。記者たちに感づかれたらろくなことにならない。
「それに……」
まゆみの含み笑いが浮かんだ。
昌代と結婚したことを彼女はいまだに恨んでいるのかもしれない。愛していたからではなく昌代に奪われたのが気に入らないのだ。まゆみの気性を考えれば、充分にありうる。
あるいは……塚瀬純一が最近急速に人気を伸ばしているのが癇《かん》に障るのかもしれない。男と女の違いはあっても塚瀬とまゆみの間にもライバル意識がある。
――まゆみは俺を陥れるために、わざとあんなことを言いだしたのではないか――
そうだとしたら、今まゆみに会ったところで、いい結果の出るはずがない。
たとえ、それほどの悪意はないとしても、
「自惚《うぬぼ》れないでよ。あんたなんかの子じゃないわ」
と、嘲笑《ちようしよう》されたら無惨な話ではないか。
――しかし、本当のところはどうなのか――
時期的に考えて、やはり塚瀬自身の子と考えるのが妥当だろう。
「時限爆弾を預けたようなものだな」
と、塚瀬は小さく独りごちた。
これから先、まゆみがなにかの気まぐれを起こして「父親は塚瀬純一よ。ウフフ。でも楽しいじゃない。あのご清潔な塚瀬さんが、奥さんに隠れて女を作っていたなんて……」と言い出したら最後、塚瀬の価値は暴落する。家庭争議もただごとではない。それに……塚瀬は、まゆみのタレントとしての将来をそう楽観していなかった。わがままいっぱいに振舞って来た彼女も、今や斜光を受けている。それでなくても女性タレントは年齢とともにスターの地位から下落して行くものだ。あと二、三年がいいところかもしれない。
人気を失った彼女が何を考えるか?
そのとき塚瀬純一がはるか高いところで華やかな脚光を浴びていたら……。まゆみ自身さえ予測していないその時期が恐ろしい。
たとえまゆみが沈黙を続けたとしても、子どもが大きくなるにつれ顔形が塚瀬に似て来ることもあるだろう。それも迷惑な話ではないか。
「ひどいな」
塚瀬は首筋を二度三度|叩《たた》いた。
塚瀬が家に着くと、昌代が不機嫌な顔で玄関に現われた。単純な女なので感情がすぐ表に出てしまう。
「どうした?」
「お義母《かあ》さんがうるさいのよ」
またその話か、と思った。
「くたくたになって家に帰って来るんだ。そんな話、よせよ」
「こっちだって、あれこれ言われてくたくたになるわ」
塚瀬は小学生の頃《ころ》に父と死別した。それからは母の手ひとつで育てられた。苦しくはあったが大学生活も無事に送ることができた。今日の成功も半分までは母の力に負うている。
その母にしてみれば、最愛の息子を昌代に横取りされたような気がするのだろう。世間によくある、嫁と 姑《しゆうとめ》 の不和と言えばそれまでだが、気性の強い母とヒステリー気味の昌代とでは、役者がそろい過ぎている。大活劇や愁嘆場《しゆうたんば》もめずらしくない。二人はまるで競い合うみたいに純一に告げ口をして、そのあとでまたその告げ口が悪いと言ってののしりあう。どちらの肩を持っても結果はよくないので、塚瀬は深くは立ち入らない主義にしている。
「電話は?」
「雑誌社から三回。それからマネジャーから。遅くてもかまわないから連絡してほしい、って」
用件はおおむね見当がついた。どうせまゆみのことだろう。
塚瀬はダイヤルを廻《まわ》した。
「もしもし、うん、今、帰ったところ」
「あの……奥さまはそばにおられます?」
「いや、いない」
「そうですか。あの、田村まゆみの件ですがね、記者たちが騒いでるんですよ」
「俺も放送局の廊下で聞かれたよ」
「なんて答えました?」
「なにも言わないさ。関係ないから」
「その線で押してください」
塚瀬は眉《まゆ》をしかめた。まゆみとのことは昔はともかく、最近の事情はマネジャーもくわしくは知らないはずだ。
いざとなればマネジャーだってどこまで信用できるかわかったものじゃない。
塚瀬は送話器に向かって怒るように言った。
「その線で押してくれって、どういう意味なんだ? その線もあの線も、俺は本当にかかわりないんだから。君まで疑っているんじゃ困る。立つ瀬がない」
「そ、そうですか。もちろん抜かりなくやります。記者にはあまり会わないでください」
「好んで会いやしないさ。しかし、やましいところはないんだ。べつに逃げやしない」
「だれの子なんですかねえ?」
「わからない、そんなこと」
塚瀬は電話を切った。
居間に戻ると、昌代が、
「まゆみのこと? スポーツ新聞で読んだわ」
「そうだ。人騒がせな。とにかく俺にはぜんぜん関係ないんだから、あんたも毅然《きぜん》とした態度でいてくれよ。マネジャーもどうかしている」
「大丈夫よ。まゆみも馬鹿ねえ。なにを考えているのかしら」
妻の顔には顕著な優越感があった。
まゆみは私生児を生む馬鹿な女。自分は幸福な家庭を持っている、と……。
しかし、その子が当の亭主の子だと知ったら? この秘密だけはよほど慎重に、堅く守らなければなるまい、と塚瀬は思った。
「疲れた。すぐに寝る」
ツイン・ベッドの脇《わき》にベビー・ベッドがあって二か月前に生まれた芳郎がまどろんでいる。まだ人間になりきっていない、どこか猿みたいな顔立ちだが、それでも鼻から口へ移るあたりには父の面差しがある。
――まゆみの子が俺の子なら、やはり顔が似るだろう。生まれなきゃいいのだが――
ベッドに寝転がった塚瀬は闇《やみ》の中に眼を開いて思いめぐらした。疲労はあったが、脳味噌《のうみそ》の芯《しん》がやけに高ぶっている。
「まゆみは母親になんかなる柄じゃないのにな」
独り言でも言うように、隣のベッドに声を掛けた。
「本当に生む気かしら? あの人、すぐに気が変わるんだから」
途中で心変わりをして堕《お》ろしてくれれば、それが一番いい。
「六か月過ぎてから流産て、ないのか」
「あんまりないんじゃない」
昌代は気のない返事をした。
これ以上この問題にこだわっていると、昌代が奇妙に思うかもしれない。塚瀬は口をつぐみ、眼を閉じた。
やがて夢の中にいたいけな芳郎の顔が映りそれがいつの間にかまゆみの子に変わった。目鼻立ちは、塚瀬自身の顔と言っていいほどよく似ている。塚瀬の手がその赤ん坊の首に伸びる。餅《もち》を握るような柔らかい感触が掌にあって、首がグラリと揺れた……。
翌朝は十時過ぎから二、三本立て続けに電話が入った。いずれも知り合いの雑誌記者からで、田村まゆみの出産宣言について感想を求められた。記者たちの話しぶりから察すると、やはりまゆみの相手としては塚瀬純一が最有力らしい。
「みんなよほどひまなんだなあ。そんな推測は僕にとっても迷惑だけど彼女にとってもひどく失礼じゃないのかな。やめてほしいよ、真面目《まじめ》な話」
塚瀬は電話口で礼儀正しく、だがキッパリと否定した。
午後放送局に出向くと、塚瀬は廊下で偶然スキャンダルで身を持ち崩した歌手に会った。その男は「やあ」と、軽く会釈《えしやく》をしてコソコソと立ち去って行ったが、後姿が痛々しい。塚瀬が初めてスタジオに出入りした頃には、どの局の番組にも毎日彼の名が載っていた。それが同性愛と麻薬の事件に巻き込まれてからは、さながら崖《がけ》の際から垂直に石を落とすように転落の道をたどった。今はなにを生業《なりわい》にして生きているのだろうか。
――まかり間違えば、俺もああなってしまう――
もう二度と子どもの頃の貧しい境遇には戻りたくない。
いろいろ思い悩んだが、塚瀬は結局仕事の合間をみて電話を取り、まゆみのプライベート・ナンバーを廻《まわ》した。本人に直接確かめてみなくては、なんの対策も立てられないではないか。
うまいぐあいにまゆみは家にいた。
「もしもし、塚瀬です」
「あら、ツーちゃん。めずらしい。どうした風の吹き廻し?」
まゆみはなんの屈託もない。塚瀬は気後れを感じながら、
「だいぶ世間を騒がしてるじゃないか」
「あ、わかった。心配になって電話を掛けてよこしたのね」
「馬鹿な真似《まね》はよせよ」
「馬鹿じゃないわ。子ども育ててみたくなったの。猫飼うのはあきちゃったし……」
「猫の代わりにされたら、子どもはいい災難だ」
「ご心配なく。真面目《まじめ》に育てるわよ」
「だれの子だ?」
「どう思う?」
「俺の子なんだね」
「ウフフフフ」
含んだ笑い声が聞こえた。
「そうだったらどうするの?」
「はっきり言ってくれよ。ほかに漏らしゃしない」
「気になる?」
「なる」
「困る?」
「困るさ」
「一度くらい困らす権利はあるはずよね」
「冗談はよせ。厳粛なテーマだ」
「フフン。ツーちゃんともあろう人が情けないんじゃない? 今頃オタオタして。セックスってね、やれば子どもができるものなのよ。学校で習ったでしょ。雌蕊《めしべ》と雄蕊《おしべ》を重ねると、って」
「じゃあ……俺なんだね、相手は」
またまゆみの笑いが響いた。
「あなたもただの男ね。世間体ばっかり気にして」
まゆみはきめつけるように言う。さぞかし電話口で勝ち誇ったみたいに楽しんでいるにちがいない。生意気な……。
塚瀬は打ちのめされたような気分だった。
オドオドと吃《ども》るように、
「そ、そうじゃない。父親なら父親らしいことを……」
「結構よ。あたしはあたしの子を生んで育てるの。それだけのこと。いよいよ困ったら、あなたが司会をしている人生相談の番組、なんという番組だったかしら? あれにお世話になるわ。泣きの涙で。駄目かしら? じゃ、またね、いそがしいのよ」
プツンと話が途切れた。
塚瀬はしばらくの間、電話機を置くのも忘れて握っていた。
猫が鼠《ねずみ》をいたぶるように翻弄《ほんろう》されてしまった。
「まゆみのやつ」
どうやらこれは本物の時限爆弾かもしれない。いつドカンと爆発して、塚瀬のタレント生命を奪うかわからない。
――よし、そっちがその気なら、こっちだって――
電話機を握った手が粘りつくように汗ばんでいる。
人間の心の中は黒い海だ。ひとたびその中を覗《のぞ》いてみれば、どこまでも暗い地獄の光景が続いている。甘っちょろい期待を抱いてはいけない。
塚瀬は昨夜以来ずっと心に描いていたことをあらためて現実の問題として考え直してみた。
暴力団に頼んで、まゆみの下腹をなぐらせる――愚かなことだ。これではいつまでもいかがわしい連中にゆすられてしまう。他人を当てにしてはいけない。
流産や死産もありうる。自分に似た子が生まれない限り、まゆみが週刊誌にどんな告白をしようとなんとか切り抜ける自信はある。問題は赤ん坊のほうなのだ。まゆみを脅すのはむつかしいが、赤ん坊のほうならなんとかなるかもしれない。
産院の風景が眼の奥に映った。塚瀬はニュース・ショーのキャスターとして産院を訪ねたこともあるし、妻の出産のときにも行っている。新生児室には大勢の赤ん坊が小さな籠《かご》に入って並んでいた。夜になると宿直の看護婦もしばらく姿をみせない。どんな病院にもそんな魔の時間があるものだ。新生児室へ入って、そっと子どもの口と喉《のど》とを圧迫すれば……
――できるだろうか――
簡単にできるような気もする。だが、危険も多い。産科病棟では男がウロウロしているだけで人目を引く。それがかねてから田村まゆみと噂《うわさ》のある男とわかったら、芸能記者たちは大喜びをするだろう。
――だれか女の人に頼めないだろうか――
妻の昌代が浮かんだが、昌代に頼めることではない。となると……こんなときに頼れる人は、塚瀬にはたった一人しかいなかった。
それから数日たった朝、昌代が外出するのを待って塚瀬は母の部屋へ行った。いつも忙しくしているので、母と二人で話したりするのはめずらしい。
母と昌代は相変わらず些細《ささい》なことでいさかいあっている。このところ昌代からは毎日のように愚痴《ぐち》を聞かされている。母からも同じような苦情を言われるのだろうと覚悟していたが、母は案に相違してなにも言わなかった。塚瀬はそこに妻と母との違いを見たような気がして、心が和《なご》んだ。
「たまには休んだほうがいいよ」
母は客でももてなすように上等な茶を入れて差し出す。
「ああ」
塚瀬はぶっきらぼうに言う。
水入らずで顔を合わせていると、母子の苦労の歴史が心の中に甦《よみがえ》って来る。
初めての出演料を握って帰って来た少年をこの母はどんなに喜んで迎えてくれたことか。N劇場の主役をライバルに奪われたとき、この母がどれほど激しい憎悪の火を燃やしたことか。塚瀬は知っていた。母は息子のためなら、なんでもやったのを……。
「母さん、相談があるんだよ」
母親は息子の重い語気に驚いて顔をあげた。
「母さん、田村まゆみの記事読んだ?」
「うん。雑誌で少し……。お前の子なんだね」
さすがに母は子どもの心を読むのが早い。
「多分そうじゃないかな」
「困ったねえ。まゆみは馬鹿な女だから、なにをやるかわからない」
塚瀬は母を相手に現在の自分の立場を説明した。清潔なイメージで売っている自分にとって、まゆみの私生児は命取りにもなりかねない、と言って。産院の新生児室には忍び込む隙《すき》が充分あることをほのめかしながら……。
母はほとんど無表情で聞いていた。
「昌代に頼めばいいんだけど……」
こう言ったのは、母に対する無意識の罠《わな》だったかもしれない。
母親の白い表情がわずかに動いた。本当に息子に役立つのは昌代ではない、自分なのだ――そんな母親の自負が頬《ほお》に浮かびあがった。
「そんなこと……考えるものじゃないよ」
母は弱々しいとも思える小さな声で言った。
「…………」
それから急にフッと笑った。
「お前はそんなこと考えずにしっかりやりなさいな。母さんが……」
そう言って口をつぐんだ。
塚瀬は母の心を悟った。なにも言うな、母さんが悪いようにしない、という意志を。
手の中でお茶が冷えていた。飲み込むと苦い味が喉《のど》を抜ける。
「ご覧よ。大きな鳥が庭に来ている」
母はもう普段と同じ様子に戻っていた。
それから三か月が過ぎた。
田村まゆみの私生児出産宣言は、出産予定日が近づくにつれ、ふたたび芸能誌や婦人誌の誌面を賑《にぎ》わすようになった。父親に関しては黙して語らず。周囲で取り沙汰《ざた》されたが、それも推測の域を出なかった。
一度三流の週刊誌が田村まゆみの相手は塚瀬純一≠ニいうデッチ上げの記事を作り、ご丁寧にも二人のベッド・シーンを誌上に脚色再現したが、この程度の記事では塚瀬が受けるダメージは小さい。
いくらか陰口を叩《たた》かれたが、塚瀬純一は相変わらず知性派タレントとして好調な人気を伸ばし続けていた。俳優としてもう一度舞台に立つ話も舞い込んで来た。Q放送の代表的な教養番組の司会者役も本決まりとなったし、N女子大の演劇科の講師を務めることにもなった。参議院選への出馬をほのめかされたりもした。
それも実現できぬ夢ではあるまい。なにをやってもうまくいくような気がした。ただ田村まゆみの件だけが気掛りだ……。
ある夜、塚瀬がテレビの対談を終え、R劇場の舞台稽古《ぶたいげいこ》へ行こうとすると、
「塚瀬さん、田村まゆみが男の子を生んだそうですよ」
かねて頼んでおいた親しい記者が知らせてくれた。
「そう。ありがと。関係ないんだけど……花束くらい贈るかな」
さりげなく応対して車に飛び乗り、劇場へ行く前に公衆電話から自宅へ電話を掛けた。
「母さん? まゆみの子どもが生まれた」
「そうかい。落ち着いているんだよ」
「ああ」
会話はこれで終わった。
深夜、稽古《けいこ》の途中でバルコニイに出ると、どこからか赤ん坊の泣く声が聞こえる。こんな夜更けに? ビル街のまっただ中で? 耳を澄ませたとたんに声は消えてしまった。
ブルッと身震いをした。恐怖が胸に込み上げて来る。
――やっぱり母さんなんかに頼むんじゃなかった。もし失敗したらどうするんだ。いや、きっと失敗する。そのときこそ身の破滅ではないか。俺はどうかしている。もっと冷静に考えなくちゃあ――
塚瀬は楽屋裏の電話にとびついた。だが自宅のベルはコールを繰り返すだけで、だれも応《こた》えない。
――お袋はもう家を出たのだろうか――
気掛りでならない。
劇場のスピーカーが鳴って、出演者の集合を知らせた。塚瀬は舞台に戻らなければいけない。
舞台稽古はそれから朝の七時過ぎまで続いた。その間に舞台のそでで数十分休むことはあったが、塚瀬が演じる狂言|廻《まわ》しの役は出番が多い。稽古が終わったところで演出家から注意があり、解放されたのは九時近くだった。
塚瀬はもう一度ダイヤルを廻した。
「もしもし」
昌代の声が返って来た。
「あ、稽古は終わったの」
「うん。母さんは?」
「今、いないわ」
「どこへ行ったんだ?」
「パーマ屋かしら」
「本当に?」
「どうして?」
「いや、いいんだ。すぐ帰る」
塚瀬は大急ぎでタクシーを拾った。
どこかで事故があったらしく高速道路はひどく混んでいる。通勤とは逆方向なのに車はいっこうに進まない。
――母さん、早まったことはしないでくれ。俺が帰るまでなにもしないでいてくれ――
塚瀬は車の中で祈り続けた。
頭に思い浮かぶのは、よくないことばかりだ。
急にカー・ラジオから明るいディスク・ジョッキーの声が流れて来た。塚瀬はポカンと口を開いてそれを聞いた。
「昨夜、女優の田村まゆみさんが男の子を出産。三千二百グラムもあるんですよオ。オギャーの声と同時にパパが名乗り出ました。パパは青年実業家の三村哲朗さん……」
全身の毛穴が開くような、奇妙な感覚を覚え、意識が淀《よど》んだ。汗が流れ、ついで倦怠感《けんたいかん》が拡《ひろ》がった。
なんたる無駄騒ぎ……。
しかし、それならばなおさらのこと母さんはなにもせずにいてくれなくては困る。軽はずみなことを仕出かしたら大変だ。一刻も早く家に帰らなければいけない。
タクシーはようやく高速道路の目黒口を出た。
タクシーが家に近づいたとき、塚瀬は小首を傾《かし》げた。家の周辺が妙に騒がしい。救急車のサイレンが聞こえる。
塚瀬が門の中へ飛び込むと、女中がまっ青な顔をして出て来た。
「あの……大変です」
わけを尋ねるより先に眼を見張った。
母が赤ん坊を抱いている。赤ん坊の胸のあたりには血が溢《あふ》れ、首が揺れている。
「母さん、違うんだ。なんてことを……」
塚瀬が叫んだが、母は唇をヒクヒクと震わせるだけで、言葉にならない。
なにがどうなったのか、すぐには呑《の》み込めなかった。母がどうしてまゆみの子をここに連れて来たのか……?
だが、すぐにわかった。母が抱いているのは、まゆみの子ではない。
「芳郎! 芳郎!」
彼自身の長男ではないか。
塚瀬は、女中にうながされ、芳郎を抱いて近所の病院へ走った。女中が口早に事情を説明する。
「芳郎ちゃんのことで奥さまと大奥さまが喧嘩《けんか》をなさって……そのうちに奥さまが大奥さまの顔をはたいたんです」
「えっ、昌代がなぐったのか」
「はい。私が止めに入ったんですけど、大奥さまもひどく怒って花びんを投げるやら……」
「チャンと止めなきゃ駄目じゃないか」
「すみません。そしたら奥さまも薬缶《やかん》を投げて……。そのうちに大奥さまが、田村まゆみって女の子どもは旦那《だんな》さまの子だって……。そんなことも知らないくせにって……」
母は激昂《げつこう》のあまり昌代にとって一番つらい台詞《せりふ》を口走ったにちがいない。
「奥さまは嘘《うそ》だ、嘘だ≠チて言ってらしたけど、そのうち急に高い声で笑ったかと思ったら、そんな不潔な男の子どもなんか死ねばいいのよ、って芳郎ちゃんの首をナイフで……」
事情はおおむねわかった。
「先生、大丈夫でしょうか」
医師が芳郎の傷を確かめる。
「大丈夫です。さほど深い傷じゃありません」
医師に言われ、あとを女中に頼んで塚瀬は家へ駈け戻った。
奥の部屋から甲高《かんだか》い笑い声が聞こえる。
塚瀬が踏み込むと昌代が手を血に染めて暗い床の間にすわっていた。
「昌代! 昌代! 母さんのいったことはみんな嘘だ。なんて馬鹿なことを……」
だが、昌代は焦点の定まらない眼差《まなざ》しで空を見据えている。
――さて、どうしよう――
とりあえずマネジャーに来てもらわなければいけない。電話をかけた。マネジャーに事情を伝え、それから、
「母さん、しっかりしてよ。芳郎は大丈夫だから」
と母に声をかけた。母は柱に体を預けている。必死に気持ちを整えようとしている。
塚瀬は急に目まいを覚えて、ヘナヘナと床に膝を落とした。一連の出来事はめまぐるしく過ぎて、とても自分の身に起きたこととは思えない。ニュース・キャスターにとって、事件はいつだって自分以外のところで起きるものだった。
――さて、この事件をどう扱おうか――
とにかく赤ちゃんが無事でよかった。妻は一時的な発作ということで治まるのではあるまいか。警察はうちわの事件として穏便に扱ってくれるだろう。非難はすべて夫のほうに向ければいい。こちらが一番わるいのだから……。
「塚瀬さーん、本番ですよオー」
どこからかディレクターの声が聞こえて来る……。
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街の旅
女房と喧嘩《けんか》をしてしまった。
原因はつまらないことだ。昨夜、酔っぱらい、友だちを引き連れて真夜中に家へ帰った。
芳子は寝入りばなを起こされ、突然お客の接待までさせられ、それがおもしろくなかったのだろう。朝から機嫌が悪かった。
こっちが、
「きのうはご苦労だったな」
くらい言ってやればよかったのだろうが、夕刻、会社から帰ってもまだ不愉快そうな顔をしているものだから、
「なんだ、昨日は。あのくらいのことで怒ることないだろう。うちのお袋なんか、親父《おやじ》がいつお客を連れて帰って来ても、チャンと接待したぞ」
なんて言ったものだからたまらない。
「どうせあなたのお母さんみたいに偉くありませんよ」
「偉い、偉くないの問題じゃない」
「今どき、真夜中にお客を連れて来る人がいるもんですか。野中の一軒家じゃあるまいし。酔っぱらって、大声出して……あんなことしなきゃ、お仲間のご機嫌が取れないの」
「べつにご機嫌を取っているわけじゃない」
「フン、どうだか。あなたがご機嫌取りをするのは勝手ですけど、私まで引き込まないで」
「なにを言ってんだ、馬鹿」
「どうせ馬鹿です、私は」
売り言葉に買い言葉で、ますますひどくなってしまった。
いつまでも顔をあわせているとろくなことがない。
リビングルームのドアを踵《かかと》で蹴《け》って閉じ、サンダルを突っかけて外へ出た。
二月にしてはやけに暖かい。もう春がすぐそこにまでやって来ているのだろう。薄い靄《もや》が立《た》ち籠《こ》めて、街灯がぼんやりと光の輪を宙に描いていた。
この町に引越して来たのは去年の秋のこと。典型的な私鉄沿線の町で、駅前の繁華街を抜けると、マンションやらアパートやらが建ち並んでいる。サラリーマンたちは、このねぐらから毎朝まっすぐに駅まで歩き、夜はまた同じ道を帰って来る。だから、数か月住んでいても周囲の様子はあまりよく知らない。
私の場合も例外ではなかった。
思い返してみると、ここに移って来てから、日曜日はやけに雨が多かった。すぐに寒い季節になったから散歩に出かける気にもなれない。駅までの道はよく知っているけれど、もしこの道を逆に行ったらどうなるのか、そんなことさえ私は知らなかった。
舗装道路は丁字を作って行き止まり、私は右の道を採った。
曲がりくねった道。昔はきっと畑中の通路だったのだろう。周辺には新しい意匠の近代住宅が点在している。
――このあたり土地はいくらくらいするのかな――
世智辛《せちがら》い計算が首を持ちあげる。結構いい値段にちがいあるまい。東京はどこへ行っても安い土地なんかありゃしない。
町並みは思いのほか長く続いている。
家の数が疎《まば》らになり、もう畑地になるのかと思うと、また住宅が群がっているところへ踏み込む。
――ヘンテコな町だな――
そんなことを思いながら、私は足の向くまま気の向くまま、角を曲がり坂を下り、わが住む町を歩いた。
なにやら見知らぬ町を探ね歩いているようだった。
三、四十分めぐり歩いて、少し疲労を覚えたとき、路地の突きあたりにスナックらしい店を見つけた。
古風なスティンド・グラスから原色の光がこぼれている。道の左右は倉庫みたいな建物で、整然と並んだ並木の奥にその店があった。どこか絵画の中の風景に似ていた。
「あんなところにスナックがある」
私は自分自身に話しかけるように独りごちて、それから首を傾《かし》げた。
付近は明らかに郊外の住宅地帯だ。商店らしいものは、さっきポストのある角で小さな雑貨屋を見たのが最後だった。住宅と畑と林とわずかに靄《もや》のかかった空。スナックの立地条件としては、あまり適切な環境ではない。
――商売になるのだろうか――
そう思いながらも足は店のほうへと向いていた。
――かえって物好きな客が集まるのかもしれない――
ドアを押すと鈴が鳴った。
アルプスの牧草地で羊たちが首に吊《つ》るしているようなやつだ。
店はせいぜい三畳間くらい。べージュ色の壁に濃い褐色のカウンター。パステル・カラーの絵が一枚かかっている。
客はだれもいなかった。
鈴の音を聞いて、奥から女が現われた。
「いらっしゃいませ」
ひとめ見て美しい女だと思った。
年齢は三十歳くらいだろうか。白と紺との横縞《よこじま》のセーター。紺の色合いが微妙に垢抜《あかぬ》けている。胸のふくらみも形よい。
眉《まゆ》も眼も唇もみんなくっきりとした印象だ。それでいながら顔全体の印象はやわらかい。
「お酒、飲めるのかな」
と、尋ねた。
店は小ぢんまりしたリビング・キッチンのようで、果たしてここはお客になにかを飲ませたりするところなのかどうか、私は訝《いぶか》しく思ったのである。
「日本酒でしょうか」
「いや、水割りでいい」
「はい。できますけど」
「じゃあ、それを一ぱい作って」
女は冷蔵庫の中から氷を取り出し、タンブラーに入れ、ウイスキイと水を注《つ》ぎたした。
「濃いほうがよろしいかしら」
「うん」
「はい、どうぞ」
女ははすかいに視線を落とし、豊かな髪を掻《か》きあげる。髪はいくらか乱れがちに波を打って、耳の脇《わき》あたりでふっくらと広がる。
「不思議な店だね」
「どうして?」
「だって……こんな住宅地のまっただ中にスナックがあるなんて思わなかった」
「そうね。ご覧の通りお客さんは少ないわ」
「でも、いい店だ。静かで」
「お近くなんですか、お宅は?」
「うん。駅のほう。家にいてもおもしろくないから一人フラフラ散歩に出て来たんだ。そしたらスティンド・グラスのあかりが見えたものだから」
「そうなの」
「初めはなにかと思った。まさかこんなところにスナックがあるなんて思いもしなかったからな」
私は女と話しながら、店の奥を……女が現われたドアの向こうを窺《うかが》ってみた。
ドアはほんの五センチくらい細く開いていたが、ほの白い縦の空間が見えるだけで動くものもない。物音ひとつ聞こえない。人の気配は感じられない。
時刻は九時を少し廻《まわ》ったところ。だれかがいるならテレビの音くらい聞こえそうなものなのだが……。
女は黙って自分の手を見つめている。
私の視線も女の手に移った。
節高の指。マニキュアのない爪《つめ》。薬指に銀色の指輪が光っている。
――ミセスかな――
そう判断するのが妥当だろう。
「どうしてこんなところで店を開いたの?」
「べつに……深い理由もなく」
女は戸惑うように言う。
これだけ美しい女がいるならば、わざわざやって来る客もいるのかもしれない、と思う。現にこの私もこれからは時々顔を出してみよう、と考えていた。なんの愛想もないけれど、たしかに雰囲気の悪い店ではない。
「時々来ていただけるかしら」
女は伏し目のままで尋ねる。
「うん。来よう」
「うれしいわ」
女は視線をまっすぐに向けて真実うれしそうに笑った。
こそばゆいものが私の体の中を流れた。
――いったいここはどこなのだろう――
足の向くままに歩いて来たので正確な位置はわからない。なんという名の町なのかもよくわからない。
たしか……疎《まば》らな家並みが過ぎて灰色の倉庫が二つ並んでいた。その間に、夜を割ったみたいに細い路地があって、奥にスティンド・グラスが光っていた。道の両側には並木があって……あれはポプラだったろうか。
つい今しがた見た風景だと言うのに、どことなく現実感が薄い。
その路地の奥のスナック。
鈴の音がカラカラと響いて、文字通り鄙《ひな》にはまれな美女が現われた。
その女の正体もよくわからない。
カウンターを挟んで二人で顔を見合わせている。奥には音もない。
女の目差《まなざ》しが眩《まぶ》しい。
――すいと手を伸ばして女の手を握ったら女はどんな反応を示すだろうか――
そんな想像が心に昇って来る。
狭い部屋の中にたった二人でいるのが私には少しずつ息苦しくなって来た。
「店の名はなんて言うの?」
どこにも看板らしいものがなかったが……。
「ないの」
「ない?」
「そう」
「どうして? 不自由じゃないのかな」
「ううん。それほど困らない。困ったらその時つければいいから」
「ふーん」
この女はだれかの愛人なのかもしれない、と私は想像してみた。パトロンの男はただ住まわせておくより、なにか店くらい持たせたほうがいい≠ニ考えたのかもしれない。あるいは女が是《ぜ》が非《ひ》でも店を持ちたい≠ニ言うものだから、玩具でも預けるようにこんな店をやらせたのかもしれない。
もとよりこの想像が的中しているとは思わない。だが気がかりな女を目の前に見て、私なりに納得のいく説明を得たいと、そう考えただけのことだ。
「もう一ぱいもらおうか」
タンブラーの中の水割りはすっかり水っぽくなっていた。
「はい」
「あなたもどう」
「いただこうかしら」
「うん。好きなものを飲めばいい」
「じゃあ、同じものをいただきます」
女は背後の棚から新しいグラスを取り、自分のために薄い水割りを作った。
「乾盃《かんぱい》!」
「ごちそうになります」
グラスの縁に唇をそえ、細い喉《のど》に流し込んでから、
「あたし、本当はあまり飲めないんです」
「そうは見えない。いい飲みっぷりだった」
「本当に? 厭《いや》だあ。今夜は少しハッピイなの」
「どうして?」
「なんとなく」
アルコールが飲めない質《たち》だと言うのは本当かもしれなかった。目尻《めじり》のあたりがすぐにほの赤く染まって色っぽい。
「もう酔いがまわったわ」
「そうらしい。顔が少し赤くなった」
「厭《いや》だわ」
両手で頬《ほお》を包んだ。
「お客さんはお強いのね」
「いや、それほどのこともない」
「毎晩飲むの?」
「まあね。一年に三百六十五日くらい飲む」
「おいしい?」
「おいしいこともおいしいが、酔った気分が好きだ」
「そう。どんな感じ?」
「酔ったことないのか」
「あるけど、すぐ眠くなって。楽しい時間は少ないわ」
「なんとなくフワフワと夢を見ているようだよ」
女は私のたわいない話にいちいち頷《うなず》きながら聞き入っている。じっと目差《まなざ》しを据えて。
「近視?」
「えっ」
「眼が悪くない?」
「どうして」
「眼がきれいだから」
「ふふん、そんなことないわ」
近視の人は、眼が悪いぶんだけ人の顔を見るときに目差しが真剣味を帯びる。彼女が私の顔を凝視するのは、そのせいではないのかと思ったのだが……違ったのだろうか。
女は頬のあたりで私を意識している。清楚《せいそ》な花が、
「私を摘んでください」
とでも言っているようだ。
まさか。そんなことはあるまい。初対面ではないか。
また息苦しくなった。
なにか今夜は不思議なことが起こりそうな気がしてならない。
――女は何者なのだろう――
同じ疑問を心に反芻《はんすう》したとき、ドアの鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ」
客は私と同じ年恰好《としかつこう》の男。トックリのセーターにカーデガンを羽織っている。近所に住む男が眠る前にちょっと一ぱい飲みに来た、おそらくそんなところだろう。
――せっかく二人っきりだったのに――
私は恨めしく思ったが、苦情の言える筋合ではない。
「なにになさいます」
気のせいだろうか。女も少し突慳貪《つつけんどん》な調子で新しい客に尋ねた。
「水割りをもらおうか」
様子から判断して、さほど深い馴染《なじ》み客ではないらしい。
しかし、常連でもない客が、こんな場末の店に現われるものだろうか。まったくここはヘンテコな店だ。
男はジュースでも飲むようにグーッと一息で飲み干して、
「もう一ぱい」
「はい」
二はい目を半分ほどすすったところで、私の顔を窺《のぞ》き込み、人なつこそうな笑顔を作った。
「今晩は」
「あ、今晩は」
「だいぶ暖かくなりましたな」
「ええ」
「お近くにお住まいですか」
「いえ、ちょっと散歩のついでに」
「おや、おや。奥さんと喧嘩《けんか》でもなさって、それでプイと出てらしたんじゃありませんか。失礼ですけれど」
私は驚いた。
これほどみごとに言い当てられることはめずらしい。つい狼狽《ろうばい》の色が顔に昇った。
「あ、当たりましたね」
相手は屈託がない。
「まあ、そんなとこかもしれませんね」
「わかりますよ。なんとなくそんな感じがしました」
「へーえ、たいした人相見ですね」
女はまた伏し目がちに自分の指を眺めながら男たちの話を聞いている。指先がピアノのキイでも叩《たた》くように小刻みに動いている。
店の奥のほうでかすかに物音がした。
なんの音かわからない。
「ちょっと失礼します」
女は軽く会釈をし、水とウイスキイの壜《びん》をカウンターの上に置いてドアの向こうへ消えた。
私は耳を澄ましたが、それっきりなんの音も響かない。
「ここへはよくいらっしゃるんですか」
私は隣の男がなにか知ってるかと思って尋ねてみたのだが、相手は首を振り、
「いえ、ほんのたまに」
「あの人は何者ですか」
店の奥を顎《あご》でしゃくるようにして言うと、
「さあ、わかりません。あんまり関心を持たれないほうがよろしいんじゃないですか」
と、妙なことを言う。
「どうしてです? べつに関心もないけど」
「このへんは郊外地でしょう。足の向くまま散歩なんかしていると、時折おかしなことにめぐりあうんですよ」
「わかりません」
私には男がなにを言おうとしているのか汲《く》み取れない。
「私も女房と喧嘩《けんか》をしてフラフラと飛び出したことがありましてね」
「ええ」
「原因はなんだったか思い出せない。どうせたいしたことじゃないと思いますよ。ムシャクシャした気分で第二国道をどんどん歩きましてさア、今日はもう家に帰るのはやめようか。どこか適当なところでも見つけて泊まり込んでやろうか。二、三日帰らなかったら、女房のやつ、さぞかしびっくりするだろうな、なんて、もうどこへ行く当てもないままドンドン歩いたんですよ」
「なるほど」
「どのくらい歩きましたかねえ。一時間か二時間くらい。しかし、東京ってところは広いねえ。どこまでいっても同じような町がずーっと続いている。そのうちに疲れちまってねえ。道ばたに角材が積んであったんで、そこへ腰かけていたんですよ」
話し好きの男らしい。
私は薄くなった水割りに勝手にウイスキイを注《つ》ぎたし、氷を入れた。
奥へ消えた女はいっこうに現われない。なにをしているのだろうか。
「煙草をふかしながら星空なんか眺めちゃってね、さあ、これからどうしようか。だれか友だちのところへでも行ってみようか。しかし、ここはどのへんなのかな。一番近い電車の駅はどこなのだろう。タクシーでも拾おうか。気がつくと、すぐ近くに家の窓があって、そこから女がじっと私を見ているんですよ。だーれもいないと思っていたから、ちょっとびっくりして、それで照れ笑いをしながら挨拶《あいさつ》をしたんですよね、すると女は寒かありませんか≠チて言うんです。薄闇《うすやみ》の中で眼がキラッて光って見えましたよ。顔の輪郭ははっきりわからなかったけれど、直感的にいい女だな≠チて思いましたね。わかるものですよ、不思議とね」
「ええ……」
「私も窓のほうへ寄って行ってべつに寒くはないけど≠チて言ったんですよ。四月|頃《ごろ》だったし、特別寒い夜じゃなかった。近づいてよく見ると、その女はたしかにきれいな顔立ちをしていましたがね、どこかちょっと普通じゃない感じがした」
「ほう。普通じゃない?」
「最初からはっきりわかったわけじゃないんですけどね、なんか妙だな、とは思いましたよ」
「どう妙なんです?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな。言葉じゃうまく説明できない。私が材木のところに腰かけたときから、ずっと見ていたらしいんですね。年齢は三十歳よりは前でしょう。視線を伸ばすと夢見るような表情になってね、それがわるくない。なにをしてたんですか≠チて聞いたらあなたを見てたんです≠ニ真顔で言うんですよ。ドキンとしましたね。どうして?≠ニ言ったら主人が帰って来たのかと思って≠ニ答える」
「へーえ」
話は少しおもしろくなりそうだ。
「それでご主人は会社ですか≠チて重ねて聞いたらさあ、どこへ行ったのか、もうずっと帰らないんです≠チて……。なんか涙ぐんでるような顔つきなんですね。どのくらいお帰りにならないんですか∞もう一年以上……∞それは、それは=Bこんなきれいな奥さんを置いて蒸発をすることもあるまいにと思いましたね」
「どこかで事故にあったとか、そういうこともあるでしょう」
「当然そんなことも考えましたね。しかし、それよりもなんでその女が見ず知らずの私に親しげに声をかけたか、なんで唐突にご主人の蒸発の話なんかしたのか、そのほうが余計気になりましてね。暗闇《くらやみ》をすかして女の表情をうかがったら、むこうも私の顔を見ているんです。どうしたんですか≠ニ言うとごめんなさい。主人に少し似ているものですから∞そりゃ光栄だな∞立ち話をしていると、人目につきますからおあがりになりません?℃vいがけないことになったなあ、とは考えましたけど、断わる理由はありませんよね。フフフフ」
男はその時の光景を思い出したらしく含むように笑った。
男は話し続ける――。
窓の少ない、小さな二階家だった。部屋は小ぎれいに片づいていた。部屋の隅に作りかけの木目込《きめこ》み人形が三、四体転がっていて、それが女の仕事だろうと見当がついた。
――生活費はどうなっているのだろう――
ご主人が蒸発したとなれば、生計を立てるのも楽ではあるまい。人形細工はよい収入になるのだろうか。
とたんにいまわしい考えが男の脳裏《のうり》に浮かんだ。
――木目込み人形くらいで、たいした収入になるはずはない。この女は、だから男を誘い込んでは、なにがしかの金銭を得ているのじゃあるまいか――
それならそれでもかまわない。かえってそのほうが気が楽なくらいだ。男の懐には七、八万円の金があった。
「じゃあ、いつも一人なんですか」
「ええ」
「だれも身寄りはいないの。お母さんとか妹さんとか」
「いないんです」
「そりゃさびしいな」
「ええ、とてもさびしいんです」
女の話す言葉は、年齢のわりには幼く聞こえた。声の響きも幼かったし、言葉使いも幼く聞こえた。
――少し頭が弱いのかな――
とも思った。
女は戸棚の中から茶碗《ちやわん》を取り出してお茶を入れてくれた。自分の茶碗より少し大きめの、同じ柄の茶碗だった。おそらく亭主が家にいた頃《ころ》に愛用した夫婦茶碗《めおとぢやわん》なのだろう。
話すこともあまりなかった。
だが、女は男がこうしてそばにすわっていてくれるだけでうれしいらしい。なにもしゃべらなくても心が弾んでいることがわかった。
「生活もなかなか大変でしょう」
「ええ、でも、私一人が食べるだけですから、なんとか……」
どうやら金銭を当てにして誘い込んだのではなかったようだ。
珍妙な雰囲気の中で顔をつきあわせているうちに時間が流れ、夜が深くなった。
女は「帰れ」とは言わない。それどころか男がいまにも「帰ります」と言い出すのではないか、それを恐れて身を堅くしているようにさえ見えた。
「いいんですか、こんなに夜遅くまでお邪魔してても」
「ええ、たった一人ですから」
「そう」
女は哀願するように弱気な目差《まなざ》しを伸ばして、
「あの……お帰りにならなくてもよろしいんでしょ」
「ええ、まあ、今夜くらい」
「よかった」
女の顔が鮮やかに輝いた。そして、その言葉を手の中に握り締めるようにして立ち上がり、玄関の鍵《かぎ》をかけた。
部屋の灯《あか》りが細くなり、男の手が女の肩にかかった。
女は水の流れのように男の腕の中でしなやかに形を変え、じっとなすがままに身を委ねている。
乳房が掌の中に溶け込む。けっして大きくはないのだが、たしかな手応《てごた》えが愛らしい。
亀裂《きれつ》が薄明かりの中で細く伸びていた。恥毛も頼りなく薄い。成熟した女の亀裂はいくぶんいびつにゆがんでいるものだが、その女の場合はすっきりと口を閉じて新鮮な印象だ。
女は男の指の動きにつれ、かすかな声を引く。声が途切れ、息を詰め、そしてひくつくように喉《のど》を震わせ、また細い声の糸を引いた。
女は顎《あご》をあげ、目を閉じている。快楽の波の行方をたずねて、陶然と酔いしれているふうであった。
「ああ、すてき」
口ごもるように呟《つぶや》き、いつまでも男の体に腕をまわし、体を密着させたまま離れようとはしなかった。
「結局その女の家には二日ほどいたんですよ。ちょうど土曜、日曜で、会社も休みだったから……」
男は頬《ほお》を撫《な》でながら言う。
タンブラーの中で新しい氷が小さな音をあげて割れた。
私はあくびを噛《か》み殺し、男の顔を見据えた。
「なかなかのお楽しみだったじゃないですか」
からかうように言うと、男はいったん頷《うなず》いてから、
「まあ、それは思いがけない保養にはちがいなかったけれど、そのまま長くそこに居続けるわけにはいかんでしょう」
「ええ」
「喧嘩《けんか》をして飛び出して来たけど、そう簡単に家を捨てるわけにはいかない。初めっからそんな気はなかったんだから。それに、ことのついでに、その女にどうしてご主人は蒸発しちまったんだ。なにか思い当たることはないのか≠チて尋ねたら、その答がね、なんだったと思います?」
「わかりませんよ」
「喧嘩をしてプイと出て行ったっきり、帰らないんだって言うんですよ。それを聞くと、こっちも家に残して来た女房のことがちょっとかわいそうになってきてね。さぞかし今ごろは心配しているだろう。根がわるいやつじゃないんだし、私のほうだって言い過ぎたところがあったわけでしょ」
「夫婦喧嘩は、そんなものですよね。二、三日たてば自然に解消してしまう」
「そうなんです。一方、こっちの女は……二日間だけいっしょに暮らしてみると、女はどこか脳味噌《のうみそ》に弱いところがあるようなんですね。あまり長くつきあって、深入りするのは得策ではない。いずれにせよ、いったんは家に帰らなくてはなるまいと思い、月曜日の朝になって今日は会社に行かなくちゃいけない∞何時にお帰りですか∞九時|頃《ごろ》かな=Aそう言って女の家を出て、そのまま夜はわが家のほうへ帰ってしまったんですよ」
「罪作りだなあ」
「ええ、それはまあ」
「女は待っていたでしょうな」
「二、三日のうちに顔を出すつもりではいたんですがね」
「ええ……」
男は唇を尖《とが》らせ困惑したような表情を作ってから、
「それで三日ほどたって会社から女の家へ直行してみたんですわ。ところがおかしいんですよ」
「どうしました?」
「どう捜しても女の家が見つからない。そんな馬鹿なことがあるものか。たしかに足の向くままにほっつき廻《まわ》ったんだけれど、だからと言って、道の見当がつかなくなるなんて、そんなはずはない。いや、事実、見覚えのあるところはたくさんあるんですよ。女の家のすぐ近くまでは行けるんです。だが、それから先がどうにもわからない。最後の角らしいところまではたどりつけるんだが、いっこうに材木置場が見つからない。そのへんの人に尋ねてみたけど材木の置いてあるとこ? 知りませんねえ≠チて、怪訝《けげん》な顔をされるだけなんですよ。二、三時間捜し廻ったがわからない。日を改めて次の土曜日と日曜日、二日がかりで捜したけれど、ヤッパリわからない」
「本当ですか」
「本当ですよ」
「どうなっちゃったんですかね。狐《きつね》か狸《たぬき》にでも欺《だま》されたのかな」
私はなかば笑いながら言ったが、男のほうは生真面目《きまじめ》な様子で首を傾けていた。
「ごめんなさい」
ドアの奥から涼しい声が響いて店の女が戻って来た。
「水割りを二杯追加したよ」
「オレは合計五杯飲んだ」
「すみません。ちょっと急用ができてしまって」
店の片隅に鳩時計《はとどけい》があって、それが急に間のびした声をあげた。
「あ、もう閉店の時間ですな」
隣の男が言う。
十時がこの店の閉店時間なのだろう。女ももうぽつぽつ店じまいをしたい様子である。
「あ、どうもご馳走《ちそう》さま。お勘定はいくらかな」
私たち二人は金を払って外へ出た。
ドアのところで私は振り返って女の顔をもう一度見た。
やはり美しい。
女は目を伏せるようにしていたが、一瞬私を凝視して、なつかしむような表情を作った。
――あの表情はなんだろう――
なにか特別な意味が込められているような気がしてならない。
「どうもすみません。つまらんうちあけ話なんかしちまって」
男は首をすくめながら言う。
「いや、おもしろかったですよ」
「そうですか」
「その女の人の家はいまだに見つからんのですか」
「ええ、もう四、五回捜しましたけどね。足の向くまま気の向くまま、憂さ晴らしの散歩もよろしいけど、あんな不思議なことに出合うとちょっと気味がわるくなりましてね」
「なるほど」
「あなたもお気をつけになったほうがよろしいですよ。とりわけ思いがけない美女を見たときは」
「はい、はい」
その男とは倉庫の角のところで別れた。
振り返ると、ちょうどスティンド・グラスの灯が消えるところだった。
私は家への道を捜しながら、男の話を考えた。
――変な男だったな――
あの男がなんのために私にあんな話をしたのか、その理由もわからない。おそらくたいした理由もなく、酒場の話相手ほしさに語ったことだとは思ったけれど……。
――第一、女の家がわからなくなるなんて馬鹿げている――
私は到底男の話を信ずるわけにはいかなかった。
家へ戻ると、妻は先に眠っていた。
一日、二日気まずい日が続いたが、私も妻もそういつまでも不快な気持ちを持続できるタイプではない。
さして仲もよくないけれど、さりとて格別に不仲でもない平凡な夫婦の生活が戻って来た。
スティンド・グラスのスナックへはすぐにでも行ってみようと思ったが、会社の残業が忙しくて行けなかった。
そして一昨日のこと、私は食後フラリと家を出てスナックへ足を向けた。なにかすばらしいことが起きそうな予感がしてならなかった。女の、どこか媚《こ》びるような、熱いまなざしが忘れられない。
――もしかしたら、あの女のご主人も失踪《しつそう》して、一人暮らしなのではあるまいか――
なんの根拠もなくそんな連想が頭をかすめた。
頭のどこかにあの男のヘンテコな話が残っているらしい。まったくいい加減な作り話をする男だった。一見したところ生真面目《きまじめ》そうなタイプだったが、なにをしている奴《やつ》だったのか。
「はて?」
私は急に道の途中で立ち止まった。
どこかがおかしい。こんなはずはない。
私はあわてて馳《か》け廻《まわ》った。
「このあたりまではたしかに見覚えがあるのだが……」
どう捜してみてもスティンド・グラスの店はなかった。倉庫もポプラ並木も見つからなかった。
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その遺産を捜せ
「あなた、居心地がよくなったんじゃないの?」
こう言いながら眉子はサイド・テーブルのセーラムに手を伸ばした。銀色の毛布がめくれ、眉子の体臭がフッとあたりに漂う。かすかに饐《す》えた、甘い匂《にお》いである。洋平はベッドに身を横たえたまま物憂そうに目を上げ、
「居心地って……なんの?」
と尋ね返した。
眉子はそれには答えずシュッと金色のカルチェに火をともす。眉子にすれば、言うまでもないことであった。
洋平はすぐに眉子の思っていることを察した。
「わが家がかい?」
「そうよ」
「馬鹿な。あんな女のところ、一年でたくさんだ……俺にもタバコを取ってくれ」
眉子が吸いかけのセーラムを洋平の口に差そうとすると、ネグリジェの襟元《えりもと》がはだけ、白い乳房が弾み出た。乳暈《にゆううん》の色が萌《も》えて美しい。
「妬《や》いているのか」
「まさか。ただ、このあいだ週刊誌に出てたわよ。男は結婚すると弱気になるって……」
「長い間かけた計画だからな。今ここでやめたら意味がない」
「じゃ、本当に殺《や》るのね」
眉子はこともなげに言って、もう一本のタバコに火をつけ、フーッと煙を吐いて巧みに輪を作った。輪がユラユラとくずれ、細く消えて行く。
「やるよ」
「いつ?」
「ただ、少し気になることがあってな」
「なにが?」
「千津子にはまだ俺の知らない遺産があるかもしれない」
「だれから聞いたの?」
「ただの噂《うわさ》だ。だから当てにはならない」
「それ、どういうことなの?」
「千津子の親父《おやじ》は死ぬ直前まで一人娘の将来をひどく心配していたらしい。無理もないよ。足が不自由で、あの顔で……。親としては金でも残してやるよりほかにない」
「マンションに貸しビル二つ、株券があって、銀行預金があって、そのほかまだなにかあるってわけね」
「いや。それで全部かもしれないさ。ただ、あいつの親父は自分が死んだあとで娘が結婚するのをすごく恐れていたんだ」
「どうして?」
「自分の娘のことをよく知っていたからだろう。どうせろくな男が寄って来やしない。寄って来るのは金が目当てだって、な」
「ズバリ的中ね」
眉子はさも愉快そうに笑った。
洋平は下から手を伸ばして、揺れている乳首に触れた。果物をつまむようにすると、桜色の堅さが誇らしげに上を向く。
カーテンの合わせ目から漏れる日の色は、すでにまばゆいほどに明るい。洋平はふと千津子のことを思った。また外泊してしまったが、なにか感づいているだろうか。まさかとは思うが、しばらくは自重したほうがいいだろう。
眉子は乳首を洋平にいじらせたまま髪をかきあげていたが、
「それで、親父さんがどうしたの?」
「うん。千津子の親父ってのは、俺もよく知らないけど、すごい奴《やつ》だったらしいよ。辣腕《らつわん》で、変わり者で、猜疑心《さいぎしん》が強くて……裏でなにを考えているかサッパリわからなかった。戦争中は軍隊で相当ひどいことをやったって噂《うわさ》もある。そのくせ娘にだけは甘くて、猫っかわいがり。生きていたらとても俺なんか千津子のそばに近づけなかったな。そんな男が不器量な娘にタップリ金を残して、次に考えることは何だと思う? おかしな男に引っかかって身ぐるみ遺産をブン取られる、ってことさ。できれば墓の中まで金を持って行き、一年に一回お化けになって現われハイ、これは今年のお小遣い、デレデレデレーン=Aそうやりたかっただろうな」
「馬鹿らしい」
「それもできないから、だれにもわからないようにどこかになにかを隠したかもしれない。それが噂の根拠さ」
「雲をつかむみたいな話ね。彼女はどう言っているの?」
「千津子か。あいつは俺になにか隠せるような才能はないよ。どんなに親父が隠しておいたって、あいつがそれを知っていたんじゃ意味がない。男にうまいこと言われれば、すぐに話してしまう。事実俺はあいつの財産のことなら、なにがどのくらいあるか、全部知ってるからな」
「じゃあ、彼女も知らない遺産があるってわけ?」
「もしかしたらな。何年かたってヒョッコリどこかから千津子のところに転がり込んで来たり……」
「なんだか外国映画の筋みたいね」
「俺はあんまり期待してないけど……それでも、この頃《ごろ》は親父の身のまわりの遺品なんか少し調べてみてんだよ」
「それで、なにか出てきた?」
「まだ、なんにも」
「でも、変ね」
「なにが」
眉子は大仰《おおぎよう》に顔をしかめ、ネグリジェの襟元《えりもと》をあわせてからキッと洋平を見すえて言った。
「まさか、口実じゃないんでしょうね」
「口実?」
「そうよ。どこかに隠してある遺産が見つかるまで……当分はこのままでいようよ、なんて」
「アハハハ」
今度は洋平が笑った。
「あんたらしくもないことを言うじゃないか。この間週刊誌に書いてあったぞ。女も二十五歳を過ぎると弱気になるって」
「いい加減のこと言っちゃって……おあいにくさま、まだ二、三か月はあってよ」
「それは失礼。だが、とにかく千津子を殺《や》る計画には変わりはないよ。最初から結婚一年までにやると言っておいたじゃないか。あんたは、俺が本当にあんな女と楽しくやっていると思うのかい。話すこともなければ、一緒に遊ぶこともできない。年中陰気な顔をして……おかしいことと言えば、妙な恰好で歩く姿だけだ」
「あんまり悪口言っちゃかわいそうよ。有力なスポンサーでしょ」
「お情け深いことで……でも今のままじゃ俺の自由になる金だって、ほんのわずかだし……あんたに渡す小遣いもたかがしれてる。このへんで殺《や》らなければ、何か月もおもりをやってきた甲斐《かい》がないぜ」
「そう。じゃあ、どうやってやるの?」
「うまい方法がある。あいつは心臓が弱くて血圧が高い。今でも毎日血圧降下剤を飲んでいるんだ……。本当は飲んだつもりでいるだけだけどな。この間からなぜか低血圧の患者が飲む薬に変わっちまっているんだよ。ウフフフ。おかげでこの頃《ごろ》はよく軽い発作を起こす。あとは頃あいを見て、強烈なショックを与えてやればそれでいい」
「うまくいくかしら?」
「うまくいかなければ、もっとほかに方法がある。成功率の高い方法は、かえって疑惑を招きやすいだろう。どうせ助ける者のいない小羊だからな。ジワリジワリとやればいい」
「残酷ね」
「今日は、やけにあいつに同情するな」
「フフフ、あたし、本当はあわれみ深いたちなのよ」
「じゃあ、できるだけあわれみ深い方法を考えるよ」
「それで……どうやってショックを与えるの」
「箪笥《たんす》の引出しの中へ蛙《かえる》でも入れておいたらどうかな」
「蛙じゃ弱いわ。蛇がいい」
「じゃあ、蛇にしよう。女中の留守を狙《ねら》って俺が外から電話をして、引出しをあけさせると……あいつはギャッと叫んでブッ倒れる、看護する者はいないし、俺のアリバイは完全だし、蛇はどこかへ逃げて行く」
「駄目よ、それは」
「どうして?」
「うまく死ねばいいけれど、失敗したときにいかにもあなたが引出しの中へ蛇を入れておいたみたいな感じがするわ。彼女、いくらボケでもピーンと来るわよ」
「では、いつも手芸道具を入れておく小箱」
「そのほうがいいわね。それから電話はやめて、偶然彼女がその箱を開くのを待つべきよ」
「うん。もし、これで失敗したら、水道の蛇口で感電死という手もあるし、ベランダから足を踏みはずす手もある」
「まず蛇でやってみて。池袋に蛇屋があるわよ」
「ああ、そうしよう」
洋平がもう一度手を伸ばして乳房を撫《な》でると、眉子はクッと小さな笑い声をあげ、もつれるようにして体を洋平の上に埋めて来た。毛布が滑り落ち、眉子の白い裸形がベッドの上に剥《む》き出しになった。
眉子の体は細い。だが、乳房だけは形よく脹らんでいる。
恥毛は薄く、その下には厚い花弁に覆われた溝があって、そこから官能を狂わす隠微な香りが漂ってくる。洋平はしなやかにまとわりつく眉子の体を開き、しばらくは指先でまさぐっていたが、やがて体を二つに折って、ほのかな恥毛の中に唇を寄せた。昨夜来の熟した体にもう一度熱さがたぎり、眉子の口からかすかな声が漏れ始めた。
洋平は重い疲労を覚えながらも眉子の体をむさぼった。だが、心は不思議に醒《さ》めていた。脳裏《のうり》には千津子を殺すことがあった。一年以上も前から計画を立て、着実に実行してきたことである。二度とない人生だ。眉子とおもしろおかしく生きてゆくためには、どうしてもこの冒険が必要だった。
「なに、たいしたことじゃない」
洋平はつい独りごちたが、忘我の中をさまよう眉子はそれに答えず、内奥からしきりに吹き上がる歓《よろこ》びを、いつまでもいつくしむように洋平の肩に手を組み、小刻みに体を震わせていた。
千津子の父親、遠藤精一は東北の農家の生まれで、若い頃《ころ》に生家の仕事を嫌って家を出たという。苦学のすえ工業中学の土木建築科を卒業し、以来数十年建築業を生業《なりわい》として一通りの財を成すまでになったが、三年前の冬に胃潰瘍《いかいよう》の手術を受け、その実これが悪性の胃癌《いがん》で、手当の甲斐《かい》もなく六か月後に死んだ。六十一歳であった。
遠藤精一が結婚したのは三十八歳のときで、二年後に千津子が生まれたが、生来病弱の母は、その後子どもを生むことができず、千津子が十五歳のときに肺炎をこじらせて、あっさり他界してしまった。
その後千津子の父は後添えを迎えることもなく、女中を置いて父娘水入らずの生活がずっと続いた。千津子に対する父の溺愛《できあい》ぶりは大変なもので、手術の後はもし自分が死んでしまったら娘がどうなるか、そのことばかりを思いつめて、ひどく苦しんでいたという。
この男がことさらに娘の将来を心配したのも理由のないことではなかった。千津子は幼い時に悪性の病いにかかり、手厚い治療のおかげで一命はとりとめたものの、下半身に病気の痕跡《こんせき》が残り、その後どんな手当を受けても踊るような歩き方を治すことができなかった。
そればかりではない。十二歳のときに、一寸《ちよつと》した不注意から熱湯を首すじに浴び、右半面は母譲りの端整な顔立ちであったが、左半面には頬《ほお》から首にかけて手のひらほどの、紫のひきつれが残った。娘を溺愛する父親がこれをどれほど無念に思い、どれほどあわれに思ったか、その心の裡《うち》は想像に難くない。
世間にある並みの父娘ならば、父親はまず娘の婿となるべき男を選び、その男に娘の半生を託すのだろうが、ハンディキャップのある娘には良縁が薄いだろうし、しかもこの父親は、辛苦のすえ財を築いた人によくあるように、万事につけて猜疑心《さいぎしん》が強かったから、たとえほどほどの良縁があったとしても、相手の男を娘の伴侶《はんりよ》として信じ、娘をゆだねる気にはなかなかなれなかったかもしれない。財産だけは十分にあるものの、いくつかのハンディキャップを持ち、世間知らずの娘が、父親の死後も果たして夫に十分かわいがられて生きていけるものかどうか。財産はいつの間にか娘の手から奪われて男の野心を満たすために費され、娘は肩身のせまい余生を送ることになるのではないか。そんなことならば、いっそ独り身で気ままに生きていくほうが幸福なのではないのか……。もちろん世間には千津子のような娘が幸福な結婚をする例はいくらでもあるのだが、遠藤精一はそう思うことができなかった。その感情の中には、父親のエゴイステックな愛情が――つまりいつまでも自分のそばに娘を置いておきたい欲望があったことも確かであろう。不憫《ふびん》な娘だけに一しおこの気持ちが強かったことも確かであろう。
T病院に入院している父を千津子が見舞いに行くと、父は看護の人を遠ざけ、繰り返して言ったものだ。
「千津子、父さんが死んでも一生困らないだけの用意はチャンとしておいてやったからな」
「いやよ。そんな縁起の悪いこと」
その頃《ころ》の千津子は実際父の死を現実の問題として想像することができなかった。自分の身体のことを思って一生結婚をしない覚悟は漠然とできていたが、父だけはいつまでも自分と一緒に暮らしているものと思い込んでいた。
「縁起が悪いものか」
父は偏屈という評判だったが、千津子にはそうも思えなかった。照れたように笑う顔は少なくとも千津子には親しみ深いものであった。
「先生も手術は成功だっておっしゃってるわ」
「それはそうだ。そう簡単に死にゃせん。だがな、人間死んでからの始末をチャンとやっておくと、かえって死なないものなのだ。だから、千津子にもよく言っておくのだ」
「じゃあ聞くわ」
「よし。まず財産のことだが、今住んでいるマンションと、それから貸しビルが二つ、すでにお前の名義に変えてある。税金も払ってあるから心配はない。株券も配当だけでなんとか生活が成り立つくらいのものはあるし……金のことではなんの不安もないはずだ。もしなにかわからんことがあったら、弁護士の谷村さんに相談しなさい。それからな、お金というものは、千津子が考えているより、はるかに大切なものだし、恐ろしいものだ」
「そんなこと、わかってるわ」
「わかっているものか」
千津子はほとんど毎日のように見舞いに行ったが、父は少しでも気分がいいと、きまって自分が残していく財産の話をし、それからその財産をどうやって守っていけばよいか、その手だてを噛《か》んで含めるように話した。だが、この父はそれだけの配慮をしながらも、娘に対して結婚を勧めるような言葉はけっして吐こうとしなかった。それどころか、ある時にはハッキリと宣言した。
「いいかい。千津子、大事な話だ。一度しか言わないから、よく聞いてくれ」
「なーに、急に……」
「一生独りでやっていけるだけのものはある。結婚なんか当てにしちゃあいかん。ろくな男はいやしない」
口調はいつになく厳しく、千津子は思わず父の顔を凝視した。父は千津子のひきつれた左半面を冷酷に見つめ、それから急に目の光を弱めると、二、三度しばたいて見せた。その目はかわいそうだが、お前にはろくな男が寄って来ない≠ニ宣告しているようであった。
「うん、わかっている」
千津子はつとめて陽気に答えた。
「結婚なんかしなくたって、楽しい人生はいくらでもある」
父は自分自身に言い聞かせるように小さくつぶやいた。
そして、それから三週間ほどたった夜半から遠藤精一の容態は急速に悪化し、三日三晩|昏睡《こんすい》のすえ、そのまま不帰の人となった。
「結婚なんかするなよ」
と父に言われ、
「わかっているわ」
と答えていた千津子が、父の死後わずか一年ばかりの間に、どうして田村洋平と結婚する気になったか、そのことをだれかに尋ねられたら、千津子はきっと、
「よくわからないの。あれよ、あれよ≠チていう間にそうなっちゃったのよ」
と答えたにちがいない。少なくとも千津子にとっては、そう言うよりほかにないような、不思議な心の変化であった。
千津子が田村洋平に自宅のそばの公園で出会ったのは、父の四十五日がすんで間もない頃《ころ》であった。社会的に旺盛《おうせい》な活動をしていた男が急死すると、後に残された者の混乱は並大抵のものではない。千津子の父は病院のベッドで、
「死んでからの始末をチャンと準備しておくと、かえって死なないものだ」
と言っていただけあって、後始末はよほど楽なほうだったが、それでも千津子にとってはなにもかもどうしてよいかわからないことだらけ。雑務は万事父の知人や弁護士にまかせて、もっぱら弔問客に頭をさげる役割に専念したものの、その気疲れは一通りではなく、父の手術から続いて数か月、心が安まるということがなかった。
それも四十五日を過ぎると一段落して、今度は今までとは異質な、もっと深いさびしさが胸に込みあげ、そのくせ心の片隅には長い重圧から解放されたような気分もあって、一口で言えば、心が稀薄《きはく》になっているような、そんな頼りない状態であった。
昼下りの公園は三月にしては暖かく、雲の薄い空にはいかにも春らしい光が溢《あふ》れていた。父はどこへ行ったのだろう、あの空の上なのだろうか、千津子がベンチの背に首をもたせかけて、ボンヤリ眺めているとき急に背後で声がして、
「失礼ですが、遠藤さんのお嬢さまですね」
振り向くと、濃紺の背広を着た若い男が立っていた。
「は、はい」
「このたびはどうもご愁傷《しゆうしよう》さまです。さぞお力落としでしょう」
「ありがとうございます」
千津子はその男の甘い顔立ちに見覚えがあった。何度かピアノの調律に来た男である。キイを叩《たた》きながら、ふと髪をかき上げる仕ぐさに、男っぽい美しさがあって、その記憶が千津子の警戒心をゆるめた。
「本当に大変でしたでしょう」
男はなれなれしく口をきいて千津子の右側に腰をおろした。左半面にやけどの痕のある千津子は、男がそれと反対の側に腰をおろしたことだけでホッと安心し、それ以上はすぐにはなにも考えることができなかった。男は明るい声で、
「あの、ピアノの調律でなん度かお邪魔させていただきました田村です」
「はい」
「その後ピアノのぐあいはよろしいですか」
「ええ、なんとか……」
そういえば、ここ数か月ピアノなんか手を触れたこともなかった。
「しかし、今日は本当におだやかないいお天気ですね」
「ええ……」
洋平はポケットから長いタバコを一本抜き出して火をつけた。タバコを挟む指が白く、長い。千津子は調律師の指はみんなこんなに繊細なものだろうかと思った。
「これは染井吉野《そめいよしの》ですね」
洋平はかたわらの桜を見上げながら言った。木の枝には、もう花のつぼみが小さくふくらんでいる。
「もう一週間もすれば咲くでしょうね」
「ええ、多分……」
「去年の花の頃《ころ》は、お父さまも元気でいらしたはずなのに……」
「はい」
「ちょっと噂《うわさ》を小耳に挟んだんですけれど、あまりちかしいご親族はいらっしゃらないとか……」
「ええ。父が生きているときから親戚《しんせき》づきあいは、あまり……」
「それはさびしいですね。でも、親戚なんかあまり当てになるものじゃありません。私も一人ぽっちだけど、かえってせいせいして、いいところもありますよ」
「はあ」
「こんなこと申しあげるのは失礼かと思いますけれど、お父さまのことはなつかしい思い出として大切に胸にしまって、これからは思い切ってご自分の人生をお始めになることだと思いますよ。勝手なこと言って、ごめんなさい。でも、いつまでも沈んでいらしては、健康にもよくないし、天国のお父さまも喜ばれるはずがありません。私にできることがあったら、なんでもお手伝いしますから」
「ありがとうございます」
「ご覧なさいよ。新しい出発には、春はいかにもふさわしい季節でしょう」
こう言ってから洋平は立ちあがり、
「よろしければ明日の午後ピアノの調律にあがらせていただきます。しばらくおうかがいしませんので大分調子が狂っていると思いますよ。ご都合はよろしいでしょうか」
「……ええ」
「では今日はこれで失礼いたします。明日また」
洋平は丁寧にお辞儀をし、そのままうしろも見ずに立ち去った。千津子はそのうしろ姿を伏し目がちに見送りながら、稀薄《きはく》な心の中になにか不遠慮なものがドサドサと入り込み、こっちがようやく冷静さを取り戻そうとしたとき、サッと姿を消されたような、そんなうらめしさを覚えた。だが不思議なことに、それはそういやな気持ちではなかった。
そのなによりの証拠に、千津子はその翌日田村洋平が現われるのを心待ちにしていた。髪を長く左に垂らして醜い傷あとを隠すことも忘れなかった。
午後二時過ぎ、洋平はケーキの小箱を持って訪ねて来た。
「どうも昨日は失礼しました」
その声は何年来の知己のように親しく響いた。
仕事がすんだところで、千津子は洋平を応接間に案内した。洋平は相変わらず髪をかきあげながら、
「さっきのケーキ、ほんとにつまらないものなんですけど、なま物で、悪くなると困りますから……」
「あ、そうでしたの?」
「ええ、よろしかったら、このすてきな紅茶といっしょに……おかしいですか、僕、男のくせに甘党なんですよ」
「じゃあ、遠慮なくいただきます」
「こちらこそ」
「昨日よりお元気そうですね」
「そうですか」
千津子は心がはずむのを自分でもおさえることができなかった。
ピアノの調律のためとはいえ、ここしばらく自分のためにこのマンションを訪ねて来てくれた若い男があっただろうか。
その男は少し強引なところもあるけれど、けっして礼儀知らずというわけではなく、なによりもやさしい心を持っているように思えた。話題も豊富で、白い繊細な指先も千津子の好みに適《かな》った。
千津子は、父がベッドの中から射《さ》すような視線で自分を見ながら、
「ろくな男がいやしない」
と言った言葉を忘れたわけではなかった。しかし、忠告というものは、一度にがい経験を通してみなければ、その本当の意味を悟ることはむつかしい。
洋平と二人で紅茶をすすりながら、千津子が、
――父がいなくなった今、こんな人と一緒に毎日を暮らすことができたら――
と、かすかに思った、その一瞬から、父の忠告は少しずつ千津子の心の中で色|褪《あ》せていった。そして、それ以上に洋平の攻撃は素早かった。
ピアノの調律に来た翌日に洋平はまた千津子の家を訪ねた。
「申しわけありません。シガレット・ケースを忘れてしまって……」
「すぐに気がつけばよろしかったんですが……」
「いえ、僕がウッカリ者なんです。でもフロイトは言ってますよ。忘れ物をするのは、もう一度そこへ来たいという潜在意識があるからだって……」
「あの……おあがりになりますか」
「では、ほんの少しだけ」
ほんの少しだけ≠ェ三時間を越え、翌週に洋平はまた姿を見せ、それからは四日に一度、三日に一度と姿を現わすようになった。いつしか応接間から千津子の笑い声が聞こえるようになった。
公園で出会ってから二か月たった頃《ころ》、千津子は洋平に誘われてドライブに出かけた。足の不自由な千津子は、概して外に出ることを好まなかったが、洋平が、
「家にとじこもっているだけでは、若さを失ってしまう」
と、しきりに勧めるので思い切って洋平の誘いに応ずることにした。
車は東名高速を突っ走って箱根に入った。朝がた曇っていた空も、芦《あし》の湖《こ》スカイラインを走るころには見事に晴れあがり、天下の景勝が千津子の眼前にあますところなくその雄姿をさらしていた。軽快なスピード感が心を酔わせ、さながら夢の中を飛翔《ひしよう》するようなこころよさを覚えた。
車は人けない湖畔に止まった。洋平の白い手が千津子の手を握り、そっと肩を引き寄せると、千津子は、ほとんど反射的に左の頬《ほお》を隠した。
洋平はそれをとがめるように首を左右に振り、目をつぶったまま千津子を抱き寄せた。千津子も目を閉じた。目を閉じると車の躍動感がまだ全身の血管を走り抜けているような眩暈《げんうん》があった。洋平の手が千津子の乳房に伸びる。
「あ、いや」
千津子は身を離そうとしたが、それもそう強い力ではなかった。わずかに目をあけて見ると洋平はなおも目を閉じたままだった。それが洋平のやさしい心遣いのように思えた。そう思ったとたんに、千津子の体から力が抜けて、洋平の胸の中に身をゆだねた。洋平の手がブラウスのボタンをはずし、白い指が乳房をまさぐり、乳首を指の間に挟んだ。ゾクゾクするような歓《よろこ》びが体を満たす。脳裏《のうり》にかすかに残っていた父の厳しい顔が消えた。
ドライブが終わり、千津子のマンションまで送った洋平は、千津子の耳にそっとささやいた。
「今晩遅くもう一度まいります。そっとドアの鍵《かぎ》をあけておいてください」
千津子が女中の目を気にしていることを洋平は知っていた。
「ええ」
千津子は小さくうなずいた。
その夜の儀式は闇《やみ》の中でおこなわれた。洋平はベッドの上に千津子を押し倒し、激しい口づけを重ねながら、千津子の肌着を奪った。闇の暗さが千津子を大胆にした。
「僕はあなたが好きだ」
「でも……」
「でも……?」
「でも……あたしは足が不自由です。顔だって……」
千津子はこう言いながら全身の血がカッと沸き立つような恥ずかしさを覚えた。
「そんなこと、たいしたことじゃない。僕にはちっとも気にならない」
「本当ですか?」
「本当だ。でもあなたが気になるならば、僕はいつも闇の中であなたを愛したい」
「うれしい」
洋平の手が千津子の胸から下へ落ち、白いパンティが闇の中を滑った……。
二人の密会は、その後も何度か重ねられ、三か月後に洋平は千津子に結婚を申し込んだ。千津子は即答を避けたが、それは自分の心に対して申しわけのようなものであった。父が死んでしまっては、千津子の結婚に表立って反対するものはいなかった。
大安の吉日を選び、田村洋平と遠藤千津子は結婚式をあげた。洋平のほうにもちかしい親族がいなかったので、それは二人だけのつましい結婚式となった。式の後で二人は思い出の箱根へ旅立った。
だがその夜、新妻が寝静まった後で、洋平はソッと部屋を出てフロントから東京へ電話を掛けた。
「もしもし、眉ちゃん? 万事計画通りOKだ」
「婚姻届はすんだの?」
「すんだ。もういつ死んでくれてもいい」
「あせっちゃ駄目。それより、彼女にはうるさい親戚《しんせき》や保護者が本当にいないのね」
「調査した通りだ。だれもいない。あ、たった一人いるけれど……」
「えっ! だれが?」
「僕が」
「ウフフフ。大変な後見人ね。でも、今晩はお楽しみですわね。こっちは、やけ酒でも飲むわ」
「こっちだっておもりはつらいぜ」
「電気を消せば同じでしょう」
「いや。あんたのほうがずっとおいしい」
「さあ、どうかしら」
「明後日には帰る……」
「待ってるわ」
千津子が独りベッドで新婚の夢をむさぼっているとき、現実は早くも父が危惧《きぐ》していた方向へと進み始めていた。
「明日と明後日、ねえやがいないのよ」
千津子にこう言われたとき、洋平は心中ひそかに快哉《かいさい》を叫んだ。
――よし、願ってもないチャンスだ。いよいよ蛇のプレゼントをしてやろうか――
だが、素知らぬふりをして、
「ほう、どうして?」
「故郷《くに》のお母さんの病気がよくないんですって……。困っちゃうわ」
家事はすべて女中にまかせてあった。
「そいつは弱ったな」
「だれか臨時の家政婦さん、頼もうかしら」
「いや、知らない人をあんまり家に入れるのはよくない。二日くらいなら、なんとかなるじゃないか」
「でも、あたし、なんだかこの頃《ごろ》すごく体の調子がおかしいの、ちょっと動いただけで動悸《どうき》が激しくなるし、めまいがするし……」
「悪阻《つわり》かな?」
「まさか。お医者さんに絶対できない体だって言われたわ」
「薬はチャンと飲んでいるのかい」
「飲んでるけど、あんまり効かないみたい。かえって苦しくなるくらい……」
「そういうこともあるんだよ。今は季節もよくないし……ま、二日間くらい一人で頑張ってみろよ、主婦なんだから。俺も早く帰るようにする」
「明日はお出かけなの?」
結婚後間もなく洋平はピアノ調律の仕事をやめ、表向きはピアノ貿易の新事業を始めることにして千津子に資金を出させ、連日忙しそうに外へ出ていたが、その実、眉子と会って遊び暮らしているのだった。
「うん。明日も明後日も予定があるが、夕方までには多分帰れると思う。夕飯は外で食べてもいいじゃないか」
「外はいや」
「じゃあ、なにか好きな物を取ればいい。いずれにせよ、二日くらいはなんとか女中なしでやる習慣をつけろよ」
「そうするわ。今日もどこかへ出るの?」
「午後は出るけど、午前中は地下へ行く」
二人の住むマンションは三階建で、一階を二人で使い、二階と三階を人に貸し、地下は倉庫になっていた。亡父の遺品は、ほとんど未整理のままこの倉庫に収められていたが、洋平は一か月ほど前から折をみてはそこへ潜り込み、あちこち物色していた。弁護士や看護人の話を聞くと、手術の後、千津子の父は自分の死の近いことを知っていたらしく、なにやら特別の財産を娘に残そうとしてひそかに細工をしていたふしがあるというのだ。
「この頃《ごろ》、よく地下へ行くのね」
「ああ。親父《おやじ》さんの身のまわりの遺品を俺なりに目を通しておこうと思って……」
「なにか捜しているの?」
「いや、べつに……」
洋平はギクリとして千津子をうかがったが、そう深い意味で言っているのではないらしい。
「遺言はなかったのかい?」
「弁護士のところにあったでしょ。遺言状が。いつか話したじゃない」
「いや、あれじゃなくて、なにか君に直接伝えたことが……」
「ウフフフ。悪い男が多いから結婚は絶対するなって……」
「それは聞いたよ。親父さんの最後の言葉はなんだった?」
「終わりの頃は、ただ、うなるだけだったわ。どうして?」
「いや、べつに……」
「その少し前にはネ、よくうなされていたわ。あたしが気味わるくなって起こしたら、地獄の暗い穴に落ちたけど、うまく逃げる方法見つけて、出て来たんですって。それをクドクドと話すのよ」
「ふーん。それっきりか」
「あとはお金の使い方について、いろいろ面倒なお説教ばっかり……」
「なるほどね。じゃあ、ちょっと下へ行ってくるからな」
洋平は話を適当に切りあげて地下室へ向かった。
地下室のドアを開けるとムッと黴《かび》くさい匂《にお》いが鼻をつく。室内は十五畳ほどの広さで、半分が畳敷き、半分が板敷きになっている。畳の上に衣裳箪笥《いしようだんす》、ロッカー、キャビネット、洋服箱、釣り道具、ゴルフ・クラブ、デスク、小箪笥、ダンボールの箱などが乱雑に置いてあって、それが遠藤精一の身のまわり品のすべてということであった。
洋平はキャビネットの隣に椅子《いす》を置き、引出しの中の品物を一つ一つ取り出して調べてみたが、取り立てていわくのありそうなものは見当たらない。
ダンボールの箱も同様で、どこを調べても洋平が漠然と期待しているようなものはなかった。収穫といえば、せいぜい箱の底から古い春画や性具が出てきて、洋平の目を楽しませてくれたことくらいだった。
「やれ、やれ。くたびれ儲《もう》けだけか」
ズボンのほこりをはらって時計をみるともう一時を過ぎている。
「そうか。今日のうちに蛇を買っておかなくては」
洋平は地下室を出た。
洋平と眉子の企《たくら》みは、もう一歩のところで成功しなかった。
その日洋平が、手芸箱の中へ蛇を仕掛けて外出した。その後で女中は郷里《くに》へ出発し、独り家に残った千津子は気分がすぐれないので、寝室へ行って休もうとしたらしい。
ちょうど、その時に玄関のブザーが鳴って新聞の集金人がやって来た。
「大きいお金しかないんですけど……」
「一万円ですか、弱ったなあ」
「あ、待って」
千津子は手芸の材料を入れた箱の中に五百円札が何枚か入っているのを思い出して部屋へ戻った。
集金人はマンションの奥のほうから、
「ギャッ」
という声と、ガラス器が割れる音を聞いて、声を掛けた。
「もしもし、奥さんどうなさいましたか?」
返事はない。
「もしもし、もしもし……」
集金人が靴を脱いであがってみると、千津子が居間の絨毯《じゆうたん》の上に倒れ、置き物のガラス細工がこわれてあたりに散っていた。
「奥さん! 奥さん!」
顔が苦しそうに引きつれ、意識がなかった。男は電話に飛びつき一一九番を呼んだ。
知らせを聞いた洋平が救急病院に駈《か》けつけたときは、千津子はまだ眠っていたが、夜半過ぎに意識を回復した。
「どうしたんだ?」
「あ、あなた。急に箱の中から蛇が出てきて……」
「蛇?」
「ええ、たぶんそうだと思うの。それでびっくりして……急に目の前が白くなって……死ぬんだと思ったわ」
「簡単に死ぬものか……。そういえば、この間、僕も地下室で蛇を見たな。同じやつかな」
「こわいわ」
「心配するな。家捜しをしても見つけてやるから……。集金の学生さんが助けてくれたんだぞ」
医師の話では手当がもう少し遅かったら、危なかったという。
洋平がベッドに手を入れて、千津子の手を求めると、千津子は弱く握り返した。
――こいつ、まだぜんぜん感づいていないな――
洋平はホッと安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろした。
「残念だったわね」
眉子は洋平の顔を見ると悪戯《いたずら》っぽく笑って言った。あらましの様子はすでに電話で知らせてあった。
「うん、まあ……」
「もう退院したの」
「いや、まだだ」
眉子はトルコ・ブルーの長い部屋着をまとい相変わらずセーラムの煙を吹いては巧みに輪を作っている。
「飲む? ブランディでも」
「ああ、もらおう」
「彼女、少しも疑っていないの?」
「うん、少しも。覚悟をきめてやれば、そうむつかしい仕事じゃないね、これは」
「あなたも相当な演技力ね。あたしも欺《だま》されているんじゃないかしら」
「俺には悪女を欺す才能はないよ」
「言ったわね」
眉子はブランディ・グラスに琥珀色《こはくいろ》の酒を注ぐと、
「じゃ、次の成功のために」
「乾盃《かんぱい》!」
「でも、次はよほどうまい方法を考えなければ駄目よ。彼女も感づくし……周囲の目もうるさいわ」
「うん。それは俺も考えた。どうせ袋のねずみだ。だれもあいつのことを本気で心配する者はいない」
「あまり長く待たせるのは、いや」
「次は転落死か、自動車事故か……」
「あたしもうまい方法を考えるわ」
「集金人さえいなかったらなあ」
「本当ね」
洋平が立ちあがりソファの背に立って眉子の両肩に手を掛けた。体臭が洋平の鼻をくすぐる。眉子の首を上に向かせ、洋平は体を二つに折って唇を重ねた。
「苦しいわ」
「そういえば、今日、地下の倉庫でおもしろいものをみつけた」
「なーに?」
「秘密の春画だ」
「へえー?」
「それから、性具も」
「セイグ?」
「イボつきのゴム。あとでためしてみよう」
「変なものいやよ」
「フランス製のすばらしいやつだよ」
「親父さんが使ったのかしら?」
「六個入りで、まだ一つも使ってない」
「奥さまとおためしになったら?」
「ふん、からかうなよ。第一、あいつはゴム・アレルギーだから、こんなものでこすったら大変だ」
「どうなるの?」
「千津子のことなんか、どうでもいいだろう。それより浮世絵を見るかい?」
「持って来たの?」
「ああ」
「いやらしい」
「そうでもない」
二人はテーブルの上に春画を広げああだ、こうだ≠ニ眺めていたが、眉子が唇を突き出しながら、
「なんだか、少し酔っちゃった」
「頬《ほお》がすごく熱い」
洋平の手が眉子の部屋着を開くと、下にはなにも着けていない。大きな乳房がホッと桃色に染まり、伸ばした指先に熱い潤いが触れた。
「恥ずかしいわ」
「久しぶりだもんな」
「そう。四日ぶりですものね」
「二人で優雅に暮らすのもそう先のことじゃない。まず世界旅行にでも行こうか」
「すてきね」
洋平は愛撫《あいぶ》を続けながらソッと手を伸ばして茶封筒の中から小さな包み紙を取った。中からフランス製のコンドームを引き出し、しばらくモゾモゾと手を動かしていたが、急に体を起こして、
「これは、なんだ?」
「どうしたの?」
いぶかしそうな眉子の目の前に細い、小さな紙切れを差し出した。
「なに? それ」
「ゴムの中から出てきた」
「なにかしら?」
細い紙には、こまかい文字が三行ほど書き連らねてある。洋平が身を起こした。
「おい、ヤッパリ千津子には秘密の贈り物があったんだよ」
「えっ!」
眉子も身を起こし、部屋着の前をあわせて、のぞき込んだ。
「これは親父《おやじ》から千津子への伝言だ。おめでとう。ヤッパリ結婚したね。いい相手なら万々歳だ。困ったときには二号館の荷物用エレベーターの鍵穴《かぎあな》をまわして抜け。鍵《かぎ》は……≠サの先は……これは何かな、へんな文様がかいてある」
「何かしら?」
「字じゃないな」
「インキのしみ[#「しみ」に傍点]じゃない」
「いや、違う……あ、わかった。これは鍵の凹凸を横から見た図だよ」
洋平はなおも細い紙を目の前に広げ思案を続けていたが、
「なるほど、わかったよ」
「何が? もったいぶらないで話してよ」
「親父は建築屋だったからな、そのエレベーターになにか細工がしてあるんだ。この鍵型はね、俺のマンションの部屋の鍵と同じだよ。ほら」
ポケットから洋平が鍵を取り出して、真横からみると、その凹凸は紙に描かれた文様とピタリ一致した。
「親父は悪い男が千津子の財産を狙《ねら》うのを恐れていたけれど、そいつが千津子と結婚までするとは思わなかったんだな。当然だよ。普通は結婚をしないで、まきあげることを考えるからな」
「ええ……」
「千津子に財産の守り方を耳タコになるまで教えたのはそのためさ。だが、長い一生のうちに千津子が結婚することがあるかもしれないし、そうなれば遺品をかきまわしてこの紙を発見することもおおいにありうるだろう。その時には、二人を祝して贈り物を贈ろうと思ったわけだ」
「でも、ゴムの小箱が屑屋かだれかに渡って、この紙が関係ない人に発見されたら、みすみす損しちゃうわ」
「いや、それはない。この手紙には千津子の名前も書いてなければ親父の名前も書いてない。しかも贈り物が確実にあるとも書いてない。屑屋はこんなわけのわからない、宝捜しをするほど酔狂じゃない。それに……この文様だって鍵型《かぎがた》とわかっても、だれが持っている、どの鍵か、第三者にはわかりっこない」
「二号館て、なに?」
「それは、俺にもわからない。きっと千津子が知っているはずだ」
「彼女の助けを借りずに宝捜しはできないわけね」
「しかも彼女の夫でもなければ、なかなかこの紙を手に入れることはできない。よく考えてあるよ」
「でも……ウフフフ。結果は裏目に出ちゃったわ」
「ああ早速、千津子に二号館のことを聞いて明日にでも二人で捜してみよう」
「ちょっとスリリングね」
二人はもう一度グラスにブランディをそそぎ、
「乾盃《かんぱい》」
「カンパーイ」
チーンとグラスの音をあげ、芳醇《ほうじゆん》な液体を飲み干した。
「二号館って、どこのことだい?」
翌日千津子を病院に見舞った洋平は、さりげない調子で尋ねた。
「二号館? どうして?」
「いや、親父さんの遺品の中に二号館関係の書類なんて綴《と》じ込みがあったからサ」
「本当? 二号館て、たしかNビルのことよ」
「いま君が貸してるNビルか」
「そう。よく知らないけど、あのビルはお父さんが設計から現場の監督まで全部やったらしいわ。管理人のおばさんが、昔だれかの二号さんだったんで、お父さんが二号館だ≠チて言ったのよ。自分で言っておきながら私がそう言ったら、人の悪口、言うんじゃない≠チて、うんと叱《しか》られたの、よく覚えている」
洋平は心中ひそかにうなずいた。
――ここにも第三者には通じない暗号が仕掛けてある――
やっぱりなにかが隠してあるらしい。
「じゃあ、今日はちょっと用があるので……」
「夜は?」
「夜は来れるかどうかわからない。明日また確実に来るよ」
「明後日は退院していいって」
「そうか。じゃあ」
病院を出た洋平は、すぐに眉子に連絡を取った。
「二号館がわかったぞ。千津子が貸しているNビルのことだ」
「ほんと」
「さ、これから宝捜しだ。すぐに出て来いよ」
「どこにいるの?」
「駅前の喫茶店Sだ」
「すぐに行くわ」
二十分ほど待つと眉子が現われた。二人はタクシーを拾ってNビルまで。
「意外と大きいビルね」
「地上五階、地下二階。地下は倉庫に使っているらしい」
「これだけ大きなビルを貸しているとなると、ずいぶん儲《もう》かっちゃうわね」
「まあな」
重々しいドアを押して中へ入ると薄暗い回廊が続き、その裏手に荷物用エレベーターがあった。
「これかな」
「そうよ」
各階を示すボードのずっと下に目立たない鍵穴《かぎあな》があって、そこへ洋平がポケットから鍵を出して強く押し込むと、錆《さび》をかきけずるような感触があって、中へスッポリとおさまった。鍵をまわすとエレベーターのドアがしまり、二人を乗せたままボックスは下へ沈み始めた。
「地下へ行くのね」
エレベーターの中の表示が地下二階を過ぎても、ボックスは重いきしみをあげて下へ落ちて行く。
「こわいわ。大丈夫かしら」
「心配ないさ」
洋平自身も一瞬奇妙な恐怖を覚えたが、すぐに打ち消した。
――危険のあろうはずがない。本来ならここに千津子が一緒にいるかもしれないのだ。遠藤精一が娘に危害を加えるはずがない。
エレベーターが止まった。ドアがあいた。黒い空間のむこうに部屋のドアがあった。二人がエレベーターをおりて、そのドアに向かうと背後でエレベーターのドアがしまった。
「スイッチがそこにある」
「あら?」
「あれ?」
二人がほとんど同時に声をあげた。
千津子が退院する日、病院に迎えにきたのはねえやだけだった。
「あの……旦那《だんな》さまは、昨日も一昨日もお帰りになりません。奥さまがせっかく退院する日だというのに……」
ねえやはまるでそれが自分の罪であるかのように、申しわけなさそうに言った。
「病院にも来ないのよ。どうしたのかしら?」
外泊することはこれまでにも時折りあったが、連絡のないことはなかった。
「メモかなにかなかった? 紙くずだと思って捨てなかった?」
「家に帰ったら捜してみます」
「そうね、とにかく早く帰りましょう」
家に帰った千津子は、日ごろ洋平が立ち寄りそうなところを思い浮かべては連絡を取ってみた。
「あ、田村さんですか。お見えになりましたよ」
千津子がホッと安心するのも、束《つか》の間《ま》のこと。
「あれは、たしか先週の月曜日でした」
洋平の足取りがつかめるのは三日以上前のことばかりであった。
つまり一昨日の昼近く、千津子を病院に見舞って以後、洋平を見たものはだれもなかった。千津子は弁護士に連絡を取り、その指示に従って、もう一夜だけ待って警察に捜査を依頼した。だが、警察では、
「一応書類を作って関連部署にまわしておきますが……近ごろは家出人が多いものですから……」
殺人や誘拐《ゆうかい》ならともかく、ただの蒸発くらいでは警察も手がまわりかねるといった口ぶりである。
千津子はヒステリックにねえやを叱《しか》りながら家中あれこれと捜してみた。どこかに、なにか伝言がないか、手掛りがあるのではないか。だが、失踪《しつそう》の行方を知らす手掛りが見つからないのはもちろんのこと、預金通帳、株券などを持ち出した様子もなく、洋平は平常の小遣い程度の金だけを持って、普段着のまま姿を消したことがわかった。
不自由な足を引きずりながら地下室まで行ってみたが、ここにも消息を伝えるものはなかった。
「洋平さん、なにか捜していたようだったけど、ねえや、知らない?」
「いいえ、存じません」
千津子の知らないことを女中が知るはずもない。
千津子は、ふと洋平が二号館のことを尋ねていたのを思い出し、ねえやをNビルまでやってみたが、ねえやは、
「だれに、なにを聞いていいやら、サッパリわからないものですから……」
と、子どもの使いのようにキョトンとして帰って来た。
思いあまった千津子は弁護士に相談して私立探偵に調査を依頼した。
調査員は洋平を見つけることはできなかったが、数日後洋平と眉子の関係を調べあげた報告書を届けて寄こした。
千津子は、夫と眉子の関係が二人の結婚以前からずっと続いていること、しかもその女が時を同じく失踪《しつそう》していることを聞いて、一瞬色を失い崩れるようにソファに身を落とした。だが、すぐに身を起こし必死に誇りをくずすまいとして、
「もう結構です。この報告書は持って帰ってください」
と、つき返した。
――あの人は、その女とどこかへ行ってしまった――
それよりほかに考えようがない。見つけ出したところでよいことはない。
千津子は洋平を捜すことを少しずつあきらめた。
洋平は暗い闇《やみ》の中にいた。真の闇であった。喉《のど》はもうすでに割れたか、脹《ふく》れあがったか、声は出なかった。ひどく息苦しいのは酸素がとぼしくなったからだろう。指先は多分血だらけ、血餅《けつぺい》がベッタリとこびりついている。壁に体をぶつけたときの痛みだけがボンヤリと感じられた。
眉子は隣でグッタリとしている。地の底に閉じ込められ、出るすべがないと知ったとき彼女は耳をつんざくばかりの声で何度も何度も助けを求め、壁を叩《たた》き、体をぶつけ、それから千津子をののしり、泣きわめき、急に放心したようにグッタリと身を横たえ、また叫び出し……何度も同じことを繰り返した。
洋平も声をからして助けを呼んだ。エレベーターのドアに体をぶつけた。そのドアはよほど頑強なものらしくビクリともしない。時間とともに事態の恐ろしさが、実感として二人を襲い始めた。焦躁《しようそう》が絶望に変わり始めた。眉子は狂気となってわめきちらし、洋平は眉子の狂乱に耐えることができなくなった。闇の中で眉子を引き寄せ、その白い色を見ることのできない首に腕をまわした。
洋平は壁に身を寄せ、埒《らち》もなく思いめぐらしていた。
あの時、エレベーターを出ると、正面に部屋のドアがあると思った。しかし、それはただドアのように作られた壁だった。背後でエレベーターのドアがザッーと重い音をあげて締まった。電気のスイッチと見えたのもただの飾りだった。一瞬にして二人は三畳間ほどのコンクリートの闇《やみ》の中に閉じ込められていた。間もなくエレベーターが上で呼ばれて昇って行く音が聞こえた。壁を叩《たた》き声を限りに叫んだが、音は部屋の外に漏れそうもなかった。
いったい、なんの目的で千津子の父はこんな秘密の部屋を作ったのだろう? 財産を隠すためか、それともだれかを殺すためか、それは洋平にもわからない。だが、遠藤精一が、自分の死後千津子を守るためにこの部屋を利用しようと思ったことは疑いない。それが、あの男のもう一つの遺産だった。
千津子の父は、やはり自分の娘が愛されて結婚するはずが絶対にないと考えていたのだ。もし結婚するとすれば、その男の狙《ねら》いは千津子の財産だけ。千津子はいずれ虐待されるか、捨てられるか、悲惨な目に遭うと確信していたのだ。千津子の財産を狙う男は家の中を物色し、きっとあのフランス製のゴムを見つけるだろう。
「あ、そうか」
洋平は声にならない声でうめいた。
千津子は子どもを生めない体だったし、ゴムになじめない体質だった。千津子を相手にする限りあの性具を使うはずはなかったのだ。だからゴムの中の書きつけを発見するのは、その男に情婦がいて、フランス製の性具などを試してみようと思うような間がらの時だけなのだ。
「しかし……」
洋平には、なお釈然としないところがあった。確かに千津子の財産を狙《ねら》う男が、情婦と一緒にあの書きつけを発見し、千津子に黙ってここまでやって来ることはあるかもしれない。だが、もし千津子の夫が本当に千津子を愛していて、なにかの拍子であの紙を発見してここに来たときはどうするのか? あるいは、千津子自身がここに来ることもありうるのではないか。その可能性が、たとえ一パーセントでもあったら、こんな無謀な企《たくら》みはできないのではないか。洋平は、千津子の親父の考えを見抜くことが自分の助かる道につながるように思え、残る力を振り絞り、疲弊《ひへい》した精神に鞭《むち》を打った。
――二号館がNビルのことは、千津子に聞かなければわからないはずだ――
だから、男が千津子をあざむくつもりがないならば、どんな偶然であの紙を手に入れても、宝捜しのことを千津子に話すはずだ。千津子に話してあれば、たとえその男が単身で二号館に来て、この穴に入ってしまっても、外にいる千津子が助け出すことができる。エレベーターの秘密のキイは、マンションの鍵《かぎ》なのだから……。そしてマンションの鍵が、みだりに他人に渡すものでないことを思えば、千津子の同意なしに外から助けに来ることはむつかしいのだ。洋平は、たとえ眉子を外に残して来ても、眉子にはそう簡単に自分が助けられないことを知った。
だが、もし千津子とその夫が仲よく二人してここに来てしまったら、どうなのか。
確かに、足の悪い千津子がこんなところに来る可能性はとぼしい。秘密の遺産があるらしいと言われても、
「行って来て、あたし、家で待ってるから」
こう言うにちがいない。
しかし、万に一つでも千津子がここへ来たとしたら……。千津子の父はそれを考えなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。
「あ、あ」
またしても声にならない声が漏れた。悔恨の念がまず頭の中を走り抜けた。
――そうだったのか、あいつは、最後までそのことが気掛りだったのだ――
千津子の父が、最後に言ったという言葉が洋平の胸の裡《うち》に浮かんできた。千津子の声が聞こえてきた。
「お父さんは終わりの頃よくうなされていたわ。あたしが気味わるくなって起こしたら、地獄の暗い穴に落ちたけど、うまく逃げる方法を見つけて、逃げて来たんですって。それをクドクド話すのよ」
あいつは、どんな方法でここからのがれることができるか、その方法をさも夢の中の話のようにゴマ化して千津子に伝えたにちがいない。もし、千津子がここにいたならば、きっとその話を思い出すことができたにちがいない。まさしくここは地獄の暗い穴なのだから。
せっかく末期《まつご》の話を聞きながら、なぜもっとくわしく聞いておかなかったのか!
洋平はそれでももう一度立ちあがって周囲の壁をさぐり始めた。どこかに逃げ出す方法が隠されているのかもしれない。
しかし、すべてが徒労であった。洋平は汚水に湿った床に身を横たえた。眉子の体は、もうすでに堅くなり、気がつくと、あの饐《す》えた体臭だけが、一層濃く闇《やみ》の中に溢《あふ》れている。
洋平は今にも消えそうな意識の中でもう一度思った。それは、今さら考えてみてもどうにもならない疑問であった。
――あいつは、どうして娘がゴムになじめないことを知っていたのだろう? 千津子は俺との関係が初めてだったのだろうか、あいつが千津子を狙《ねら》う男を憎んだのは――
しかし、そんな思案も今となってはどうでもよいことだ。洋平はもう一度立ちあがり暗い闇をさぐった。
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歪《ゆが》んだ蜜月
考えてみれば、結婚というのは不思議な習俗だ。とりわけ見合い結婚は……いや、恋愛結婚だって同じことかもしれない。
ほんのうわべだけしか知り合っていない男と女が、なにやら神妙に誓いあって、これからの半生を否応《いやおう》なしにもたれあって生きていくことを約束するのだから……。
相手がどんな人間か、心の奥の隠された部分は、隠された部分であればこそ、本当のところは少しもわからない。
なるほど九十九パーセントの人間は、それほど大層な秘密を持っているわけではない。
せいぜい同棲《どうせい》の経験があるとか、学歴をちょっと偽っているとか、あるいは古い病歴を隠しているとか……まあ、そんなところである。
けれども残り一パーセントは、思わぬ秘密を背負って生きているものだし、そんな人間だってヤッパリ平凡な結婚をすることがある。
田代宗雄の結婚も、少なくとも表面は石ころのように月並みのものだった。
相手は白井桂子といって、同じ建設会社に勤める同僚である。
だが恋愛結婚ではない。桂子の職場の上役が、
「うちの課にいい娘《こ》がいるんだがなあ。齢《とし》は二十八歳で、そう若くはないけど……」
こう言って、田代に勧めてくれた。
桂子は途中採用の事務員で、社歴は一年足らず。外廻《そとまわ》りの仕事の多い、技術屋の田代は、そのときまで顔も知らなかった。
「器量もいいし、頭もいい。故郷《くに》は島根のほうで、両親も健在だ。彼女は短大を出ると、東京で幼稚園の保母をしたり、デパートに勤めたりしてたらしいが……」
と、その上役は言った。
「性格はどうです?」
「おとなしい人だ。昼休みは独りで読書をしている。このごろの女のコみたいに、チャラチャラしてないとこがいいよ」
器量のいいことはすぐにわかった。
卵型の、どこかさびしそうな顔立ちだが、鼻の下が狭くて、ちょっとめくれあがった上唇の印象がかわいらしい。
夢見がちの細い眼は、しっとりと情熱をうちに隠しているようで、田代の好みによくあった。
「どうだ?」
「はあ、きれいですね」
「女房にはおとなしいほうがいいぞ。うちのかみさんみたいに、ガミガミうるさいのは一生の不作だ」
「まさか……」
「ほかの連中も狙《ねら》っている。課長の特権で君に推薦するんだ」
「よろしくお願いします」
田代は課長の言う通りだと思った。
途中、多少の曲折はあったけれども、結論としてこの話はスピーディにまとまった。
どちらかと言えば、田代のほうがすっかり惚《ほ》れ込んだ。
女のほうは、
「もう自分も若くないし、相手は一応条件のよくそろった人だし……」
といった雰囲気であった。
結婚式の日取りも決まり、新婚旅行については、田代が、
「ボクは学生のころヨーロッパにもアメリカにも行ったことがあるんだ。東南アジアに行きたいな」
と言うと、桂子は、
「はい。いいです」
と、素直にうなずいた。
「仕事のいそがしい時期だから、四泊五日くらいかな。香港《ホンコン》とバンコクと……」
「ええ」
もう少し反論があるかと思ったが、やけにあっけないので、むしろ拍子抜けがしたくらいだった。
挙式、披露宴のあと、二人は空港に近いTホテルに一泊し、翌朝早くJAL機で香港へ飛ぶ計画を立てた。
日時が進むにつれ、田代の中に美しい妻を迎える喜びが実感としてこみあげてきた。同僚たちにも、
「どうだい」
と、胸を張ってみたいような思いであった。
やがて、その日が来た。
すべてが滞りなく運んで、結婚式のあと新郎新婦はTホテルに移り、少時くつろいだ。あわただしい一日が終わり、時計は夜の七時を指していた。
「お腹、すいたかい?」
「ええ、少し……。女は食べられないんですもの」
桂子は披露宴のときのことを言っているらしい。少し鼻にかかる声である。
「じゃあ、食堂へ行ってみようか」
「ええ」
新妻はそれを待ちかまえていたように立ちあがった。
あとで思い返してみると、このときレストランで小さな事件があった。
いや、事件と呼ぶほど大げさなものではないけれど、しかし、それは間違いなく事件の前ぶれであった……。
二人がキャンドル・ライトを挟んで食事をしていると、ダーク・スーツを着た四十年配の男が近づいて来た。田代は最初からその男に注目していたわけではない。食堂の中を往来する数人の客の一人にしかすぎなかった。
男が桂子の脇《わき》を通り抜けようとしたとき、男のポケットから――多分ポケットからだと思うのだが、なにかがこぼれ落ちて桂子のスカートの上を滑った。
桂子は長いスカートをはいていたので、それが床に落ちるまでいくらか時間がかかった。床に響く音も小さかった。
桂子が気づいて拾いあげた。長いキイ・ホルダーをつけた、ホテルのルーム・キイである。桂子はキイと男のうしろ姿を交互に眺めた。
男はスタスタと急ぎ足で去っていく。
「あの……」
桂子が小さく声をあげて追おうとしたが、それより先に田代のほうが立っていた。桂子の手からキイを取ると、
「もし、もし。キイを落としましたよ」
田代はレストランの出入口のところで男を捕らえ、キイを渡した。
「あ、すみません。どうも……」
なにげなく田代が見たキイ・ホルダーには517≠フルーム・ナンバーが刻んであった。
ただ、それだけのことである。
初夜の入浴は、最初のことでもあり、ホテルの浴室ということもあって二人べつべつに入った。田代が先に使って、それから桂子が、
「少し汗を流して来ます」
と、バス・ルームに消えた。
田代は一人になった。
部屋は淡い光の中にあって、ベッドばかりがやけに大形《おおぎよう》に映った。この部屋の暗さも、このベッドの大きさも、みんな今夜の儀式を待って、そうなっているような気がした。
短い婚約期間に、唇を重ねたことはあったが、それ以上のことはなにもなかった。あせることはあるまいと思ったし、適当な機会もなかった。
田代は時計を見た。時間がそのとき≠目指して静かに流れている。急に不確かなものに対する奇妙な、重い苛立《いらだ》ちを覚えて、ラジオのスウィッチをひねった。
騒がしいジャズである。
ダイヤルを替えると、流行歌になった。流行歌は、独身時代の焼き鳥屋の匂《にお》いがした。
もう一度替えると、ポール・モリアのやわらかいメロディになった。
このメロディも恋人のように甘くて、軽すぎて、厳粛な今夜にふさわしくない。初夜に適した音楽は、どんなメロディなのか。
田代はスウィッチを切った。
そのとき、ふとベッドの脚に置かれた桂子のハンドバッグが目についた。
――なにが入っているのかな?――
田代には三つ年上の兄がいるだけで、女の姉妹はない。ハンドバッグは魔法の箱のように興味深かった。
バス・ルームの音に耳を傾けながら、そっとバッグの口金を開いてみた。
財布、ハンカチ、口紅、コンパクト、ティッシュ・ペーパー、デンタル・ガム、薄い住所録……パラパラめくると、いくつかの見知った名前に混って、きっとこれから知り合うであろう人の名が並んでいた。
男の名前もあった。
べつに驚くこともあるまい。一人前の社会生活を営んでいれば、なにかと接触のある男性もいることだろう。古いボーイ・フレンドがいても不思議はないし……。住所録の末尾に田代自身の名前を発見して、少し頬笑《ほほえ》ましい気持ちになった。
品物を仕舞おうとすると、バッグの内側で指先が薄い出っぱりに触れた。よく見ると、そこに下側に口を開いた、秘密の内ポケットがあって、中に赤いバックスキンの手帳が潜んでいた。ハンドバッグに知識のない田代は、これがめずらしい仕掛けかどうか、見当もつかなかった。
ノートには英語でなにかが書いてある。
Anatawa kekkonni hantaideshitane. Demo watashidatte hitorideirarenai. Anataniwa……
――ああ、ローマ字か――
と思ううちに、田代の顔がゆっくりと強張《こわば》った。
カタコトを読むようで、文章の意味がすぐには頭に染み込んで来ない。とんでもない読み違いをしているような気がして、何度もさかのぼって読み返さなければいけない。
だが、やがて乱れた、こまかい文字の連続が一つの現実を田代に伝えた。
――あなたは結婚に反対でしたね。でも私だって独りでいられない。あなたには奥さんがあるんだし……。結婚できるわけではなし……。ウフフ、そうでしょ。でも、あなたのことは忘れません。大好き。結婚してからもずっと会うつもりよ。その気持ちをいつまでも忘れないように日記に書いておくのです。約束します。Tホテルで。彼が眠ってからあなたのところへ。私の愛のあかしです……
告白はたどたどしく続いている。
急にバス・ルームのドアがあいた。
田代が手帳をハンドバッグへ戻してベッドの脇《わき》を離れたとき、桂子が薄いネグリジェをまとって現われた。
田代はドギマギしながら、
「長湯のほうかい?」
と、無意味なことを言った。
桂子はうしろ向きのまま長い髪をかきあげ、
「そう。ポケッとお風呂《ふろ》の中で考えごとしてるの」
「そうか」
田代は桂子の返事を聞いていなかった。
奇妙なことだが、このとき田代の心に浮かんだのは、今日の披露宴に並んだ親族、上役、同僚たちの顔だった。
ここでぶちこわしたらあの人たちに合わせる顔がない――それは、男ならだれでもが持っている、社会全体に対する見えのような感覚であった。
「冷たいもの、いただこうかしら」
「そこの冷蔵庫にあるだろう」
「あなたは?」
「コーラを頼む」
桂子はコップにコーラを入れて運んで来た。その白い手の動きを見ながら田代は考えた。
垣間見《かいまみ》た日記の意味は、ほとんど明白だ。女には不思議な大胆さがあるものだ。
桂子には、妻のある情人がいる。その男のところへこのTホテルで初夜のベッドを抜けて、そっと会いに行こう、というのだ。愛のあかしのために……。
そう考えたとき、田代の心にレストランで起きた小さな出来事がよみがえって来た。閃光《せんこう》のきらめきのように……。
桂子たちの計画が日記の通りに進んでいるとすれば、その男は当然このホテルのどこかに泊まっているはずだ。彼はルーム・ナンバーを桂子に伝えなければなるまい。二人はあらかじめその手立てを打ち合わせてあっただろう。
レストランの出来事は、どこかぎこちなかった。長いホルダーをつけたキイがポケットからこぼれても男は気づかず、それが床の上で小さな音をたてても男は気づこうとしなかった。
桂子はキイをじっと見つめて、それからあわてて男の跡を追おうとした。
――どんな男だったろう?――
ひげの剃《そ》り跡の濃い、四十歳くらいの男……。もう一度顔を見ればわかるだろうが、ハッキリとは思い出せない。ソワソワと落ち着きのない様子だった。
――どうしたものかな――
田代は平静を装いながら考え続けた。
――とにかく今夜、桂子をその男のところへ行かせてはならない――
そうすれば明日からは外国だ。男がそこまでついて来るはずはない。そのあいだにゆっくりと桂子の様子を観察しよう。できることなら、新しい生活のすばらしさをタップリと桂子の中に植えつけてやろう。
――あまいかな――
とも思った。
たしかに桂子のような状態にある女の心をこっちに引き寄せるのは、相当にむつかしいことだ。
しかし、とにかくさし当たっては時間を稼ぐことが大切だ。ここまで来た以上、別れるのなら旅行が終わってからでも同じことだ。
――いただくものだけは、ヤッパリいただいておかなくては――
と、少しさもしい気持ちもあった。
田代は、初めっから桂子に多少の過去≠ェあっても、そうこだわらないつもりでいた。二十八歳までには、なにか一つや二つくらいあっただろう。それがこれからの生活に響かなければ、めくじらを立ててはいけない、と思っていた。今からでも遅くない。桂子が完全に思い切ってさえくれれば……。
田代はコーラを一口飲んでから、急に思い直してコップの中へそっと吐き戻した。
――眠らされるかもしれない。むしろ眠らせたいのはこっちのほうだ――
うまい計画が心に浮かんだ。
田代は目が充血しやすいタチなので、会社の医師に頼んで目薬を調合してもらっていた。その目薬が鞄《かばん》の中にある。あの目薬は睡眠薬の替りになるはずだ。
立ち上がって旅行鞄から目薬を取り出し、大げさな身振りで眼に注いだ。
「あら。眼が悪いの?」
「充血しやすいんだ。新婚旅行で眼を赤くしてたんじゃ……みっともない」
桂子は少し笑った。
やがて、どこかちぐはぐな初夜の儀式が始まった。桂子の乳房は想像したよりずっと豊満で、堅く張りつめていた。恥毛は薄く、その下でかすかに体が潤んでいた。
処女ではなかった。
少なくとも処女だと強く感じさせるものはなかった。
それが終わったとき、桂子は手を洗いに立った。目薬は桂子の飲みかけのコーラへ……。
田代が新しいコーラを冷蔵庫から取り出して飲んでいると、桂子もつられたようにコップの半分を飲み干した。さして怪しむふうもなく。
軽く眼を閉じたまま、まんじりともせぬうちに一時になった。部屋は黒ずんでフット・ライトの光だけである。
目薬の効果は想像以上に的確で、桂子はうなだれるように眠っている。なにを夢見ているのだろうか。声を掛けたが、返事はない。
レストランで見たキイの、ルーム・ナンバーが浮かんだ。
517、517、517……。
このときの田代は、まだ自分の想像に充分の確信を持っていたわけではない。
レストランの出来事はただの偶然で、男はあの男ではなく、もっとべつな方法でルーム・ナンバーを桂子に教えた、とも考えられるのだから。それに計画は日記の通りに実行されたかどうかもわからない……。
女の寝息を聞きながら田代はしばらく天井をにらんでいたが、結局毛布を蹴《け》ってシャツに着替え、ズボンをはいた。
どうするという、はっきりとした目安があったわけではないが、とにかく517号室の付近まで行ってみようと思った。行けばなにかがわかるかもしれない。
エレベーターで五階までおりると部屋はすぐにわかった。ドアの前に立ったが、なにもすることがない。
コツン
ドアを一度だけ軽くノックをして通り過ぎてみた。
男が起きて待っているならば――多分そのはずだが――この音を聞いてきっとドアをあけるにちがいない。ドアの外に女がいなければ、同じ階の泊り客が偶然ドアに触れて立ち去ったと思うだろう。
田代は廊下の角にのがれて様子をうかがってみたが、反応はなかった。
――男は待ちくたびれて眠ったのかな? もしそうなら鍵《かぎ》をあけたままかもしれない――
このホテルのドアは自動ロックではない。ドアの前に戻って、静かにノブを捻《ひね》ってみると、たやすく廻《まわ》ってそのまま押すとドアが開いた。
「もし、もし……ドアがあいてますよ」
あとで考えると、まかり間違えば泥棒と思われそうなことをどうしてやってしまったのか、田代は自分でも不思議になるくらいだ。
だが、ドアが音もなくあいたとたん、つい吸い込まれるように足を踏み入れてしまった。無理もない。ドアは人を入れるために開くものなのだ。
部屋の中にはだれもいなかった。
空室というわけではなく、ほんのしばらく留守にした、という感じである。
すぐに部屋を出ようとしたが、廊下にまばらな足音が聞こえたのでドアを閉じた。
とたんに戦慄《せんりつ》が背筋を走り抜けた。
わけもなく……直感的にその足音がこの部屋に向かっている、と覚ったからだ。
不幸にしてこの予想は的中した。部屋の前で足音が乱れて、止まった。
うろたえた田代は、あとさきの考えもなくベッドの下へ飛び込んだ。
ドアが開いた。
「入れよ。自分の部屋だろ」
「…………」
「どこへ行こうとしてたんだ?」
「ただ、ちょっと……」
まず二種《ふたいろ》の男の声が聞こえた。オドオドと答えているのは、レストランで会った男のような気もするが、よくわからない。足音は三人分のようだ。
「ちょっとか……ウフフフ」
「女を待ってたんだろ」
これは、どこか間伸びのした、ウスノロみたいな声である。
「なるほどな」
低い声が含み笑ってから、
「鞄《かばん》の預り証を貸しな」
「預り証? 知らん」
「いい加減な返事をするなよ。金を入れた鞄だよ。あんたの跡はチャンとつけていたんだ」
「…………」
「相手がわるかったな。自分のほうがワルだと思ってたんだろ。あんたの相棒にはな、わるい兄貴分がついててなア。ウフフ。おい、預り証はどこだって聞いてんだぜ」
「…………」
「相棒を裏切って高飛びか。女といっしょに……。ケイコちゃんてんだろ。いい女じゃないか。おまえの女房よりずっといい……」
「…………」
「なんとか言ったらどうだ。女はなんにも知らんのだろ。デートの気分でここに来るわけか。なんならケイコちゃんといっしょに遠くまで旅行させてやってもいいんだぜ、ずーっと遠くまで。奥さんには保険が残るし……。掛けてあるんだろ、生命保険くらい。あんたはエリート社員だもんな」
「…………」
「よし。テープで口をふさげ。手も足も巻いてしまえ。痛いめにあわさないとな……」
壁ぎわに立っていた男の足音に続いて、ビニール・テープを剥《は》ぐ音……。ベッドがゆさゆさと揺れた。
「首に紐《ひも》を巻け。よし……。おい、俺たちは本気なんだぜ。預り証はどこだ。指で合図しな。殺して取るか、生かしたまま取るか、同じことだ。どっちがとくか、よーく考えろ。アハハハ、おい、ちょっと紐を引いてやれ」
「…………」
「さ、最後だぞ。どこだ……。あ、そう。足か。靴の中か。よし、脱がせてみろ」
「これかな?」
「見せろ。ウン、これだ。おい、その靴余計なところは触っていないな。指紋を拭《ふ》き取れ」
「ああ。こいつはどうする」
「いずれ持ち逃げはバレるし、こいつがしゃべらなきゃ、俺たちの線は出ない」
「女にどれだけ話しているかな」
「さあな」
ベッドの上で男が激しく身悶《みもだ》えをした。
「紐を引きな。俺がこっちを持ってやる」
もう一度ベッドが揺れた。
「よし、行こう」
「ああ」
「死体が見つかりにくいように風呂場《ふろば》へ入れておくか」
「ああ」
体を引きずる音がして、バス・ルームのドアがあいた。にぶい物音が聞こえた。
「いいな」
「うん」
出入口のドアが開き、そして締まった。
時間にすれば、ほんの二十分足らずの出来事だった……。
田代は少時そのままの姿勢で待ったが、男たちがもう戻って来ないとわかるとベッドの下から這《は》い出し、ほとんど無意識でドアの鍵《かぎ》を内側から掛けた。
バス・ルームのカーテンをあけると、バス・タブの中にレストランで見た男が体を捻《ひね》るようにして倒れている。ゆがんだ口もとから涎《よだれ》が流れていた。
急に男の眼が白く動いた。
田代はハッと足をすくめた。
――生きている――
あわててバス・ルームを飛び出しベッド・サイドの電話に腕を伸ばしたが、手は途中で進路を変更して頬《ほお》を撫でた。
フロントに通報したら、どうしてこんな現場にいたか、厄介な問題を起こすだろう。
それに……この男が口をつぐんでしまえば、桂子とこの男の関係はだれにも知られずにすむかもしれない。少なくとも、こいつが警察で犯罪の一部始終を語って、桂子といっしょに高飛びしようとしていたことを告白した場合よりは、そのほうがずっといい。
本来なら、もう命のないはずの男なのだ。
判断は急を要した。
田代はバス・ルームに戻ると、身をかがめてバス・タブの栓を閉じ、蛇口をゆるく捻《ひね》った。チョロチョロと水が落ちた……。
夜はいつも同じようにやって来て、また同じような朝があける。
だが、この夜ばかりは田代にとって、ずいぶんと盛り沢山の夜であった。一生で味わうほどの恐怖が、血管の中を頭のテッペンから足先まで、まるで集中豪雨のようにドッと降り落ちて来た。足腰が揺らめいて、自分が到底自分ではないみたいだ。どこかで現実が路線を変更して夢の中へ乗り入れたような思いであった。
部屋へ戻ると、桂子は眠り続けていた。体の位置もそのままに……。
時刻は三時に近い。
田代は音をたてないようにズボンを脱ぎ、ほこりをはたいてベッドへ横たわった。考えるべきことが山ほどあった。
男たちの会話が断片的に心に浮かんで来る。その断片を組立てると、事態の全貌《ぜんぼう》が少しずつ明らかになって来る。
まず……死んだ男は約束通り桂子を待っていた。桂子が遅いので、様子を見に部屋を出た。そこで二人の男たちと出会った。多分そんなところだろう。
彼はしかるべき会社の課長か、課長補佐くらいか。年齢は四十歳前後だろう。
彼は、どういう方法かわからない、なにか相当に巧みな手段で会社の金を持ち出すことを考えた。桂子と逃げるためだろうか?
四十にもなった男が若い娘と駈《か》け落《お》ちするために――もちろんそれは桂子が承知すれば、の話だが――そのために会社の金に手をつけるものかどうか、田代にはむしろ否定の気持ちのほうが強い。
桂子の結婚は一つのきっかけで、彼はなにかの理由でどの道そんな犯罪をおかす情況にあったのではなかろうか。そんな気がする。
彼には相棒が一人いた。こいつは、あんまり目はしのきくやつではあるまい。桂子の情人はわざわざそんなウスノロを選んで、たいしてむつかしくないが、どうしても必要な役割を頼んだのだろう。
だが、このウスノロには兄貴分がいて、こいつは本格的なワルだった。ワルの入れ知恵で、ウスノロは馬鹿な相棒の役割を演じながら、その実二人で注意深く相手の動向を探っていた。
桂子の情人は相棒をあまく見て、土壇場《どたんば》で裏切るつもりだった。まあ、それほどキチンとした計画があったかどうかわからない。行きあたりばったりみたいなところもあるようだ。だが、とにかく金を手にしたとたんに、相棒に分けるのが惜しくなった。
桂子は……多分なにも知らないだろう。中年の、妻のある男を愛していた。結婚してからも彼女は夫の眼を盗んで関係を続けようと考えていた。その手初めに新婚旅行の第一夜、Tホテルでその男の部屋にちょっと忍んで行くつもりだった。田代にとっては腹立たしいことでもあり、信じられないことでもあるのだが、事実はどうもそういうことらしい。
このことだけでも、ずいぶんと大胆な、アブノーマルな行為だが、その先にもっとドス黒い、はるかにすさまじい事件が待ちかまえていて、そのために、たかが浮気の一つや二つ、取るにも足りない、ありふれた事柄のように思えて来るのは、なんとしたことか……。
ワルとウスノロは、裏切った男を生かしておくつもりはなかった。横領を実行した中心人物はエリート社員≠フほうであり、ウスノロはたまたま端役を勤めたにすぎない。もともと桂子の情人とウスノロの関係は薄いものだった。だから主犯が死んでしまえば、相棒のほうまで捜査が及ぶ可能性は少ない。
桂子の情人は奪った金を鞄《かばん》につめ、どこかに預け、このホテルで桂子を待っていた。ワルとウスノロはその跡を追って来て、予定通り殺人を完了した……もっとも完全に完了したとは言えないけれど……。
田代は急に身震いをした。
――現場になにか手掛りを残して来なかっただろうか――
指紋は思い当たる限り全部|拭《ふ》き取って来たはずだ。だれかに顔を見られた心配はない。桂子は眠り続けていたらしいし、ズボンのほこりは充分に払った。
それよりも桂子の立場のほうが気掛りだ。
あの男が死んだとわかれば、桂子は落胆するだろう。その落胆の度合いは田代には想像がつかない。
しかし、結局はこれでいいのだ。もともといかがわしいやつだった。桂子はもてあそばれていただけだろうし、いずれ桂子もそのことを知るはずだ。
たとえ心の傷は残っても、新婚の新しい生活が少しずつ彼女の痛手を拭《ぬぐ》ってくれるだろうし、それが一番いいことなのだ。田代はなにも知らないほうがいい。田代が知らぬふりをしていれば、彼女はいやでも新しい幸福にすがりつく。
――警察は桂子を疑わないだろうか?――
とも思った。
だが女一人の力で、男の口にテープを張ったり、手足を巻いたりできるはずがない。なにはともあれ、桂子は実際にこのベッドに眠っていたのだから、不利な証拠の現われるはずがないではないか。
――では、桂子とオレの共犯は?――
これは可能性がなくもない。
しかし、平凡なサラリーマン夫婦が、あれほど巧みに、大胆に、一人の男を脅迫して金を奪えるものかどうか。本来なら田代はあの男のことをなにも知るはずがないのだし、桂子もそう主張するだろう。二人で共謀して花嫁の情夫を襲うとなると、これは本格的な犯罪者がやることであって、田代たちにそれだけの能力があるかどうか、警察の眼は節穴ではあるまい。
――問題は、やつらのほうだ――
警察のことばかり考えていたが、あの二人の男たちのほうはどうなのだ?
ワルとウスノロは逃亡によほど自信のあるような口ぶりだった。それは、あの男の口を塞《ふさ》いでしまえば、男と自分たちの関係が完全に途絶えてしまう、そのことに自信があるからだろう。ただ……
「こいつが女にどれだけ話しているか?」
と、言っていた。
それが……それだけが問題だ。
やつらは桂子の口まで塞ごうと思わないだろうか。
田代の勘では、桂子はなんにも知るまい。彼女の胸のうちにあるのは、ただの火遊び≠セけ。ここ数か月で見知った、桂子の内向的な性格は、夫に隠れてそのくらいのことをやるかもしれないが、せいぜいそこまで。横領の手助けをして、今夜の逃亡を目論《もくろ》んでいたとすれば、もう少し様子が違っているだろう。これは田代の、確信に近い直感であった。
しかし、だからと言って、ワルとウスノロがそう思うとは限らない。預り証で金を手に入れたあとは、今度は桂子を狙《ねら》うのではあるまいか……。
田代はとても眠れるような情況ではなかったが、心身の疲労がそれに勝っていたらしい。
朝の光が窓辺をほのかに照らす頃《ころ》に、ついウトウトとまどろんだ。
ハッとして目を醒《さ》ますと、隣のベッドに桂子の姿がない。
田代は跳ね起きて、ズボンをはこうとした。
「あら……」
桂子がカーテンの裏に立っていて、振り返った。外の景色を眺めていたのか……。
「なにをしているんだ」
「朝を見てたの。もう飛行機が飛んでいるわ」
「よく眠れたかい?」
「ええ……。でも、まだ頭がボケッとしてるみたい。散歩に行って来ようかしら」
「散歩に……? 僕もいっしょに行こう」
桂子は、それには答えず横顔を見せたまま窓の外を凝視している。なにかに訣別《けつべつ》を告げているように……。はからずも夜を眠って過ごした自分を恨めしく思っているように……。
「散歩に行くかい?」
「ええ……。でも、時間がなさそうね」
飛行機の出発予定は九時半である。八時までには飛行場に行かなければなるまい。
時間がないのは事実だったが、桂子の散歩は、自分一人で行かなければならないものなのではあるまいか……田代はそう感じ取った。
桂子を517号室へ行かせるのは得策ではあるまい。
田代は浴衣《ゆかた》のまま起きあがって窓ぎわの桂子と並んだ。
また轟音《ごうおん》を響かせて巨大な銀の鳥が舞い去って行く。
「いいお天気ね」
「ウン。これなら空の旅も快適だろう」
「朝ご飯に行かなくちゃあ」
「いや。ルーム・サービスを頼んでおいたじゃないか」
「ああ、そうね」
田代が頬《ほお》を寄せると、桂子は素直に腕の中に崩れた。
ベッドで抱きあっていると、電話のベルが鳴った。
「もしもし」
「おはようございます。朝食をお持ちしてよろしいでしょうか」
「ああ、いいよ」
桂子がベッドを離れてバス・ルームへ入った。急いで出発の準備にかからなければなるまい。
コッ、コッ
ドアを叩《たた》く音がして、細めに開くと制服のボーイがワゴンを引いて立っている。
「朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう」
「テーブルのほうへ置きましょうか」
「うん」
「かしこまりました」
「朝のルーム・サービスは多いの?」
「はい、新婚のお客さまは多うございます」
「普通のお客さんは?」
「大ていレストランのほうへいらっしゃいます」
「眠っていたらどうするの? ルーム・サービスは」
「電話でお起こしいたしますから……」
「なるほど」
電話を掛けてもまだ眠っていたらどうするのか、田代はそこまで聞きたかったが、口をつぐんだ。
願わくば、あの男がルーム・サービスを頼んでおかなかったことを……。死体の発見は、なにはともあれ、遅いに越したことはない。
もともと早い出発のうえに、明けがたに抱きあったりしたものだから、支度は大いそがしだった。
フロントに問い合わせると、フライトは時間通りだという。
ルーム・サービスの卵とコーヒーだけを喉《のど》に運んで二人は部屋を出た。
田代はかたときも桂子から眼をそらさないように気をつけた。あの男が現われるはずはないけれど、どこかでワルとウスノロが見張っているかもしれない。二人の声は知っているが、どんな人相風体の男たちか、それは田代にもわからないのだ。
しかも声だけの印象は、実にとりとめのないものであって、ホテルで聞くどの男の声も似ているような気がしたし、また違うようでもあった。
ホテルは廊下もロビイも、いつもと変わった様子はなく、まだ死体は発見されていないのだろう。
あの男がルーム・サービスを頼んでないとすると、死体が発見されるのは、多分チェック・アウト・タイムの過ぎる頃《ころ》――十二時に近い頃だろう。そのときにはもう二人は空の上だ。
田代たちは、このホテルから毎日旅立つカップルと同じように、平穏な面持ちでホテルを出た。空はかすかに薄い雲を掃《は》くだけで、まず気持ちよい秋晴れと言ってよかろう。
空港の人混みに入ると、田代は、この群衆のどこかにやつらがいるような不安を覚えたが、その一方では、
――まさかこんな人目の多いところで、事を起こすはずはない――
とも思った。
それに……あの男たちだって、二度まで殺人の危険をおかすはずがあるまい。まして桂子がなにも知らない可能性もあるのだから……と、楽観的な考えが心を占めた。
空港ロビイには、何人かの見送り客も来ていた。
「昨夜はどうだった?」
「まあまあだ」
「ご機嫌な顔をしているぞ」
桂子の親たちも来ていた。
「体に気をつけてね」
「大丈夫よ。ほんの四、五日ですもの」
「叔母さんがよろしくって……」
「ああ、そう、絵葉書を出すわ」
とりとめのない会話がゲート・インの間ぎわまで続いた。
桂子は飛行機の窓から送迎デッキの人影をいつまでも見つめていたが、離陸をすると、ホッと息をついて、
「ああ、やっと落ち着いた」
と、つぶやいた。
その言葉通りに肩の荷をおろしたような様子である。
「飛行機は始めてじゃないだろ?」
「ええ」
「この天気なら心配ない」
「ええ」
雲海が窓の下に遠ざかるのを見ながら、田代はウトウトと眠りについた。
五時間ほど空を舞って飛行機は啓徳《チートー》空港に着いた。
今回の旅は、旅行社のセット旅行に参加したので面倒なことはなにもない。案内人の先導のままに入国手続きをすませ、香港島サイドのEホテルに入った。
小休止のあと一行は香港島に赴いて、ヴィクトリア・ピーク、タイガー・バーム・ガーデン……みんな観光の名所ばかりだ。同行者の中には、ほかに五組も新婚旅行の客があった。
アバディーンの水上レストランで夕食を取り、夜の自由時間になると、案内人が二、三のショッピング街を地図で示し、
「これ以外の地域は、危険が多いのでいらっしゃらないように……」
と、注意した。
田代は、ふと、
――あいつらが香港に来ているのでは――
と思ったが、まさかそんなことはあるまい。
香港のホテルで見る日本の新聞は一日あるいは二日遅れである。
田代が、Tホテルの殺人事件を読んだのは香港を出発する日であり、事件の背景を多少なりとも知ったのはマカオに着いてからだった。
殺された男はS電機という会社の経理課長で、手口の詳細はわからないが手形のカラクリで八千万円ほどの現金を持ち逃げした。死体は浴衣《ゆかた》の紐《ひも》で首を締められたうえ、テープで巻かれバス・タブの中に沈んでいた。直接の死因は、水を飲んで窒息死。死亡推定時間は午前二時から四時くらいまで。現金の行方は不明で、横領の共犯者の犯行ではないか、と報じていた。
田代は、つとめて桂子の眼から日本の新聞を遠ざけるようにした。桂子も故国のニュースにそれほど興味を示さなかった。
旅の途中で田代は、あの赤いバックスキンの手帳≠もう一度じっくりと読みたいと思ったが、なかなかうまいチャンスがなかった。
チェンマイのホテルでハンドバッグを探ったときには、もうポケットの中にそのノートはなかった。
――見られたことに気がついたのだろうか――
と思ったが、日記帳なのだから桂子が取り出してなにかを書きたし、またどこかべつのところに仕舞《しま》ったのかもしれない。
バンコックの空港で見た新聞には、Tホテル殺人事件の、その後の捜査の様子が載っていたが、現金の持ち逃げは被害者の単独犯行らしいこと、警察は当日の宿泊者を対象に聞き込み捜査を進めていること、などが小さな記事となって記されていた。
事態は田代の想像通りに進んでいるらしい。
「ずっと好天に恵まれてよかった」
「ほんとね。でも、なんだか……疲れちゃった」
「もうすぐ日本だ」
「ええ……」
桂子も疲れただろうが、田代のほうはそれ以上に疲労を覚えていた。
「少し眠るかもしれない」
「どうぞ。あなたもすごく疲れているみたい」
「ああ」
田代が眠ると、桂子はスチュアデスに頼んで新聞を持って来させたが、サッと見出しを見ただけで、間もなくそれを膝《ひざ》の上に置いたまま眼を閉じた。
二人の旅は終わった。
人を殺した、という意識は薄かった。
ただ、バス・タブに栓をして、水をチョロチョロと流しただけだ。
自己弁護としてそう思うのではなく、ベッドの下で味わった恐怖があまりにもすさまじく現実離れしていたため、その後のことはなにか夢遊病の一こまのように意識が稀薄《きはく》になってしまうのだ。
――ワルとウスノロは、死因を溺死《できし》と知って不思議に思うのではないか――
と考えたが、やつらはやつらなりに水が蛇口からポトポトとこぼれて、それが顔の高さまで来たのではないか、と想像するだろう。
事件のことばかり考えていたが、田代にはもっと身近かな問題が未解決のまま残っていた。
――これから桂子との関係をどうしたらいいものか――
桂子は情人の変死を知ったら、どうするだろう。案外、平静を装い続けるような気もするし、あるいは、とてつもないことを起こしそうな不安もある。あの男と桂子と、二人の間がらがどんな状態だったか、肝腎《かんじん》なところがわからないので想像がつかないのだ。桂子のほうから打ち明けてくれれば一番いいのだが……。
新居のアパートでくつろいだとき、田代がそれとなく尋ねてみた。
「恋愛の経験はあるのかい?」
「どうして……そんなこと」
桂子は少し笑った。
「聞いてみたい。古いことは気にしないよ。わりとドライなたちなんだ」
「あるわよ」
「どのくらい?」
「ほんの少し……」
「二回くらいか」
「そんなとこ」
「どんなやつ?」
「学生のころ、同い齢《どし》の大学生と……」
「ずいぶん前のことだな」
「そう。でも、いい人じゃなかったわ。嘘《うそ》つきで、いい加減で……。おかげで人間が信じられなくなっちゃった」
「もう一つは……?」
「若い人が信じられなくなって……それで年上の、奥さんのある人をいいなあ≠チて思ったけど……」
「うん」
「ただそれだけ。とても恋愛なんてものじゃないわ」
「いつごろのこと?」
「幼稚園に勤めてたころ」
「その人、どうした?」
「知らないわ」
そうかな?
田代は、その男について遠まわしにさぐりを入れてみたが、桂子はそれ以上語ろうとしなかった。
田代がつぶやいた。
「結婚て、不思議なものだな」
「あら、どうして?」
「おたがいにそうよくも知らない二人が、いろいろ秘密を隠しながらいっしょに暮らしていくのだから……」
桂子は田代の顔をまじまじと見た。
「あなたに秘密があるの?」
「少しはな。君はどうだい?」
「そうね……あるわ」
「なんだい?」
「言えないから、秘密よ」
そのときドアの外に靴音が響くのが聞こえた……。
桂子にとっては、なにがなんだかサッパリわからないことばかりだった。
いくら頭の中を整理してみようと思っても気分が錯乱して、どうしようもなかった。
島根の実家に電話を掛けてみたが、あいにく父も母も留守らしく、電話のベルが鳴り続けているだけだった。
もうこうなったら彼≠ノ相談するよりほかに仕方がなかった。なにから話したらいいのだろうか。とにかく、考えをまとめなくては……。
桂子は独り頷《うなず》いて、スーツ・ケースの奥から隠しておいた赤いバックスキンの手帳≠取り出した。
桂子は小首をかしげながら、ローマ字で書き綴《つづ》った。
Yappari anatano iukotoga honto^deshita. Hitonokokorono uragawawa……
読みやすい日本語に直して記せば、
――ヤッパリあなたの言うことが、本当でした。人の心の裏側はわからない。
主人は二重人格でした。泥棒で、人殺しで……。平凡なサラリーマンだとばかり思っていたのに……。
今日、急に警察に呼ばれました。主人はそれより先に逮捕されていました。
私はなんにも知りません。これは本当です。
主人は初夜のベッドをこっそり抜け出すと宿泊客の部屋を襲い、お金を奪い、人殺しをしました。そんな嫌疑がかけられています。
殺された人は、会社のお金を横領して、恋人といっしょに外国へ逃げるところでした。その恋人の名前は、なんとかケイコさんと言って……いやだわ、ケイコなんてどこにでもある名前なんだから……。
主人が横領の仲間なのか、それともただの強盗なのか、それはまだわかりません。
でも、とにかく主人が人殺しの現場にいたことは間違いないのです。私にはよくわかります。
これは警察で聞かされたことですが、バス・タブの死体の下から、目薬のびんが見つかったのです。主人が会社の診療所で特別に調合してもらったものです。診療所のマークが入っています。
主人はあの夜、初めてのベッドへ入る、そのときに、私の眼の前でその目薬を差し、それからシャツの胸ポケットに入れました。私は今でもどこかぎこちない主人の動作をハッキリと思い浮かべることができます。
主人にこんな秘密があったとは……。本当におそろしい。初夜のベッドを抜け出して、人の部屋へ忍び込むなんて……。結婚はおそろしいことだと思います――
桂子はなおもローマ字で書き続けた。
こうしてノートの中の、年上の恋人に語りかけると、桂子の気持ちはいつも不思議となごむのであった。
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脳味噌《のうみそ》の報酬
ここ数か月、野沢耕一の朝のスケジュールはおおよそ決まっていた。
七時に起床。ジョギング・スーツに着替え、軽い体操のあと近所のS公園を一周する。
シャツの胸にはT大学のネームが、白いローマ字で染め抜いてある。
T大学と言えば、名門中の名門。なまはんかの脳味噌《のうみそ》ではこの学校の門はくぐれない。ランニングの最中に出会う人たちも、みんなおや≠ニばかりに、耕一の胸のローマ字に注目する。T大学と聞くと、だれしも青白いインテリ≠想像するのかもしれない。耕一は浅黒いスポーツマン・タイプだ。いくぶん子どもじみた心理にはちがいないが、耕一にはそんな反応が楽しかった。
運動が終わると、ベンチで一休みして、それからコスモス≠フドアを押す。
コスモス≠ヘ、若いサラリーマンや学生相手のスナック喫茶だ。
この店で耕一はトーストとエッグつきのモーニング・コーヒーを注文する。朝めしを規則正しく食べること――この習慣も脳味噌を心地よく働かせるために欠かせない、と彼は信じている。
耕一がコスモス≠ヨ行くのは、まずこの店が朝早くから開いていること。次に料金が安いこと。貸し間住まいの学生としては、あまり高価な朝食を取るわけにはいかない。
だが、それ以外にもう一つ、ウエイトレスの恵美ちゃんの顔を見に行くのも、重要な目的であった。
恵美ちゃんは色白の美人。年齢は二十五、六歳だろう。髪を無造作に束ね、Gパン姿で甲斐甲斐《かいがい》しく働いている。
毎朝現われるから、もう顔見知りになっている。耕一がT大学の学生であることも当然気づいているだろう。
恵美ちゃんの顔は、目と目が少し離れていて、鼻先がツンと上を向いている。どこかハムスターのような、かわいらしい面差《おもざ》しだ。セーターの下では、いかにも弾力のありそうな乳房が揺れていて、直視するのが面映《おもは》ゆい。細いGパンに形よく納まっているヒップも魅惑的だ。厭《いや》でもその中に隠れている裸形を想像せずにはいられない。
耕一は、そんな恵美ちゃんの姿を見ないうちは、朝の日課が終わらないような気がしてならなかった。
だが、さりとて彼女にぞっこん惚《ほ》れ込んでいるというわけでもない。
耕一は、ひそかに考えている。
――この女、あんまり頭がいいほうではないな――
そのことは時折読んでいる週刊誌の種類からもわかる。話しっぷりや話題からもわかる。
そう言えば、一度尋ねたことがあった。
「コスモス≠チて何だ?」
「花の名でしょう。知らないの」
「いや、知っている」
コスモス≠ノは、もう一つ宇宙≠ニいう意味がある。
スナックのウエイトレスにそこまでの知識を求めるのは酷かもしれないが、T大生としては、そういう知的な%嘯返してくれる女のほうが、自分にふさわしいと考える。
もし真剣な恋をするならばそういう女でなければ長続きはするまい。
恵美ちゃんの肉体的な魅力には充分引かれるものがあったけれど、ことさらに一線を越えて親しくなろうと思わないのは、耕一のほうにそんな思惑があったからだろう。
言ってみれば、自分の肉体的な疼《うず》きを多少なりとも軽減してくれる視覚的な対象として耕一は恵美ちゃんを眺めていた。
恵美ちゃんのほうで、それを知っていたかどうかはわからない。
ただ、当の恵美ちゃんとはべつに、そのことに――つまり耕一の心理に気づいていたらしい、もう一人の客がいたのは本当だ。
その客は六十過ぎの老婆であったが、いつ頃《ごろ》からコスモス≠ノ顔を出していたのか、耕一も思い出すことができない。
少し前までは、公園で犬を散歩させていたような気がする。ジョギングの最中に何度か顔をあわせたような記憶がある。犬は、たしか褐色のむく犬だった。毛足の長い老犬だった。
老婆がポツネンと隅の席でコーヒーをすすっているのを見て、
――ああ、犬は死んだのかな――
と、思った覚えがある。
老婆の顔は、どこか西洋のお伽話《とぎばなし》に出て来る魔法使いのおばあさんに似ている。唇が赤く、頬《ほお》も少し赤味を帯びていて、薄気味わるい。薄気味わるいというのは少し大袈裟《おおげさ》かもしれないが、どことなく異様な雰囲気がある。あとで思い返してみれば、この印象は的中していたと言うべきだろう。
いつの頃《ころ》からか老婆は耕一を見るたびに目顔で挨拶《あいさつ》をするようになった。
丁寧に頭をさげて、
「おはようございます」
と、言うこともあった。
耕一も頭を垂れ、
「おはようございます」
と、挨拶を返した。
どこの、どういうおばあさんか知らないが、いつのまにかその程度の顔見知り≠ノなっていた。
二月の初めの寒い朝だった。立春を迎えたとはいえ、町は冬のまっ最中だ。
耕一は白い息を吐きながらコスモス≠フドアを押した。
「おはよう」
恵美ちゃんが尻上《しりあが》りのかん高い声で言う。
「おはよう」
耕一は手の甲で汗ばんだ髪をかきあげながら答えた。
「いつもの物ね」
「うん」
トーストと卵とコーヒーが、一つお盆に載って差し出される。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
カウンターの席は満員だったので、お盆を持ってテーブルの席にすわった。
新聞を読み、トーストを齧《かじ》り、朝食の時間も終わりに近づいたとき、
「いつも精が出ますね」
と、隣の席から声を掛けられた。
老婆が背をまるめ、下から掬《すく》いあげるような視線で笑っている。
「ええ、まあ」
耕一は曖昧《あいまい》に答えた。
「今朝は特別寒いこと」
「そうですね」
「早く暖かくなるといいんですけど」
「ええ……」
「いつもお忙しいんでしょ」
「それほどのこともないんですけど……」
とりとめのない会話を二つ三つ交わしたあとで、老婆は急に思い出しでもしたように、
「お忙しいところ申し訳ないんですけど、ちょっとご相談を聞いていただけないかしら?」
と、言う。
「なんでしょう?」
耕一は怪訝《けげん》な顔で問い返した。
「とてもヘンテコな相談なの。お時間あるかしら?」
時刻は八時過ぎ。
一時間目が休講なので、ゆとりはなくもない。
「いいですよ、三十分くらいなら」
「そう」
おばあさんは少し思案をめぐらしているふうであったが、すぐに意を決したように話し始めた。
「あなた、T大学の学生さんなんでしょ」
「はい」
「ご専門はなんですの?」
「理科です。化学をやろうと思っているんですけど……」
「すばらしいわ。勉強なんか昔からおできになったんでしょうね」
「それほどのこともないですよ」
こういう時にはこう答えるのが、T大生の習性だ。
「よろしいわねえ。頭のよいかたは。そりゃ努力もなさったんでしょうけど」
「…………」
老婆はフッとため息を吐いて、
「あなたのおツムをちょっと貸していただけないかしら。ほんの五時間ほど」
と、奇妙なことを言う。
「えっ?」
「突然妙なお願いをして……びっくりしちゃうわねえ」
「どういうことですか」
耕一はコップの底に残った、コーヒーを飲み干して、すわりなおした。
――なにかアルバイトのようなものを頼まれるらしい――
と、考えた。
「私に孫息子がひとりおりますの。頭のけっしてわるい子じゃないんですけれど、このごろの高校は受験がとてもむつかしくて……」
「ええ、大変ですよね」
「今のままでは、とても希望の学校へ入れませんわ」
「…………」
「志望はお医者さんらしいんだけど……なんとか希望をかなえてやりたくて」
「家庭教師ですか」
「いえ、もうとても間に合いませんわ」
「間に合わない?」
「もう三日もすれば、試験ですから」
「ああ」
老婆の言おうとしていることが想像できない。
「試験日は二月の十五日。今から少しくらい頑張っても無理でしょ」
「そりゃ、なんとも言えませんけど」
「いいえ、無理だと思いますわ。だから五時間だけ、あなたのおツムをお借りしたいの」
老婆はこともなげに言う。
耕一の顔が強張《こわば》った。替え玉受験かなにかを考えているらしい。
――とんでもないことを頼まれそうだぞ――
彼は厳しい表情を作って、
「そんなこと、まさか……」
老婆も耕一の考えに気づいたらしい。
「あ、違うの、違うの。あなたに替りに受験してほしいなんて……そんなこと、お願いするわけじゃありませんわ。そんなことしたら、いっぺんで見つかってしまいましょ」
「ええ……?」
「そんな危ないこと、お願いしませんわ」
「じゃあ、なにをするんですか」
「だから、試験の日にほんの五時間だけおツムを貸してくださいな」
「わかりません」
耕一は首を振った。
――このおばあさん、頭がおかしいのじゃあるまいか――
そんな懸念が心をかすめる。
「むつかしいことはございませんのよ。ただベッドに横たわって五時間だけ休んでいていただければよろしいの」
「それで?」
「あなた、テレパシンとか念力って、お信じになる?」
テレパシンはテレパシイの間違いだろう。
「念力……ですか」
「そう」
老婆は口を信玄袋《しんげんぶくろ》のようにつぼめて、ゆったりと頷《うなず》いた。
「いや、信じません」
「そうでしょうとも。若いかたはみなさんそうですわ。でも、ホント、真面目《まじめ》な話、そういうものがありますのよ」
「ええ……」
「あなたはベッドに寝転がって、頭の中をまっ白にしていただけば、それでよろしいのよ。あとは、私がお祈りをして、テレパシンをかけますから」
「どうなるんですか?」
「あなたのおツムの力が、孫息子のおツムのほうへ移るの。長いことは無理ですわ。ほんの四、五時間……」
「まさか」
到底信じられることではない。
――やっぱりこの女は狂っている――
そう思わずにはいられない。
だが、老婆のほうはいっこうにひるむ様子もなく、
「お信じにはならないと思ってましたわ。でも、ようございましょ。二月の十五日、午前中だけちょっと私の家のベッドでお休みになるくらい……。ちょうど日曜日ですし」
「それはかまいませんが……」
あまりにも馬鹿げている≠ニ言いかけたが、老婆はそれをさえぎるように言葉を重ねた。
「お礼はなにがよろしいかしら? お金?」
「いえ、そんなことでお金なんかいただいちゃあ……」
「じゃあ、こうしましょう。このお店の、あのお嬢さん……」
老婆は顎《あご》でしゃくりあげるように恵美ちゃんのほうを指して、
「あの人、お好きなんじゃないかしら?」
「いえ、それは……べつに……」
いきなり恵美ちゃんのことを持ち出されて耕一の顔が火照《ほて》った。
「あら、隠さなくたって……。わかりますわよ。あのかたと一晩だけ仲よくしていただくのは、どうかしら? お礼として」
「そんなこと……」
耕一は驚いて、カウンターのほうへ首を廻《まわ》した。
恵美ちゃんは、なに食わぬ顔をしてコーヒー・カップを洗っている。二人の会話に耳を傾けるふうもない。
「できますとも。私があのコにお話をすれば……」
声の調子に自信がこもっている。
――もしかしたら、このおばあさんはこの店の経営者なのかもしれない。恵美ちゃんに対して、そういう命令を発しうる特別な立場にいる人なのかもしれない。それはありうることだ――
老婆の自信ありげな態度から耕一はそんなふうに想像してみた。もとより半信半疑の気持ちだったが……。
「どうかしら」
「でも……」
「あのコはチャーミングだと思うわ。わるくないわ、きっと」
老婆は女衒《ぜげん》が若い娘を品定めするように、恵美ちゃんの姿を長い視線で追った。
耕一は高鳴る胸を押さえながら、老婆の提案を反芻《はんすう》してみた。
おばあさんが言っていることは、どう考えてみてもまともではない。
だが、とにかく提案の中身をかいつまんで言えば二月十五日の午前中だけおばあさんの家のベッドで眠っていてほしい、ただそれだけのことらしい。そうすれば、恵美ちゃんに因果を含めて一晩の相手をさせてくれる、という内容だ。
――わるくない、もし本当ならば――
耕一は戸惑った。
おばあさんがたとえ少し頭がおかしくても、結果がその通りになるとしたら、耕一としてはなんの不足もない。
実際の話、恵美ちゃんのことを抱いてみたいと何度思ったかわからない。夢の中では、いつも恵美ちゃんがあられもない姿で現われる。そして白い脚を開く……。
なんのあとくされもなく、夢が現実になるものなら、これ以上すばらしいことはない。
「いいでしょ?」
「ええ……まあ……しかし……あの……」
「若い人ですもの。女の人がほしくなるのは当然でしょ」
「あの……つまり、ボクは二月十五日の午前中、おばさんの家に行って、ただ眠っていればそれでいいんですね」
「そうよ」
「それだけなんですね」
「そうよ」
「ほかになにもしなくていいんですね」
耕一はしつこく念を押した。
「ええ、そう」
「あとでゴタゴタが起きるのは厭《いや》ですよ」
「そんなこと、私がお願いするわけないでしょう」
「ウーン、どうしようかな」
「お決めなさいよ。はっきりと。男らしくないわ」
「本当にそれだけでいいんですね」
「もちろんですとも」
納得のいかないものが心の中にあった。
だがどうとでもなれ≠ニいう気持ちのほうが支配的だった。
おばあさんが手引きをしてくれて、それで恵美ちゃんが承知してくれるなら、問題はどこにもない。
――恵美ちゃんもそれを望んでいるのかな――
くすぐったい自惚《うぬぼ》れが首をもちあげる。
――いや、そうじゃない。おばあさんに頼まれれば、恵美ちゃんはきっと厭《いや》≠ニ言えない立場にあるのだろう――
そうに違いない。
おばあさんは、念力だかなんだかわけのわからないものを信じていて、それさえ用いれば孫息子の頭が急に、一時的によくなるものと思っている。事実はどうあれ、この際大切なことは、おばあさん自身がそう信じている点だ。
あとはおばあさんが立てた計画通りに、こっちが便乗して演技してあげればそれでいいんだ。
老婆はじっと耕一の表情をみつめている。
彼の心の動きを読んでいるらしい。
「いいわね」
「ええ、まあ」
若い欲望が耕一の首をたてに振らせた。
「じゃあ、約束してくださいな」
「はい、約束します」
「約束を破っちゃ困りますよ」
「大丈夫です」
耕一は盗み見でもするようにもう一度恵美ちゃんの横顔をうかがった。
むこうも耕一のそんな仕ぐさに気がついたらしく、小首をかしげ、頷《うなず》くように笑った。
ドキンと胸が鳴った。
――彼女も承知しているのだろうか?
どう考えてみても奇妙な提案だった。
とても正気とは思えない話だった。
そんな話に乗る気になったのは、やはり耕一の若さのせいだったろう。自分のほうにはなにも失うものがない≠ニいう青年の気安さからだったろう。
しかし、約束をした以上守らなければなるまい。
おばあさんのほうは徹頭徹尾本気らしかった。
約束の二月十五日の朝が来て、耕一は老婆の家のブザーを押した。
ドアはすぐに開いた。
老婆は待ちかまえていたらしい。
家の中は森閑としている。
「母親のいない、かわいそうな子どもなんですよ。父は今外国へ行っているし……。なにもかも私が面倒をみてやらなければいけなくて……」
おばあさんは長い廊下を歩きながら独り言でも言うようにつぶやく。耕一は黙ってそのあとに続いた。
家は古い造りの洋館で、廊下の突き当たりが寝室になっているらしかった。
――いったいなにが起こるのだろう?
不思議な期待感が胸をよぎる。
なにか突拍子《とつぴようし》もないことがもちあがりそうな胸騒ぎがしてならない。
「さ、どうぞ」
薄暗い部屋にベッドが二つ並んでいる。
右側の枕《まくら》に少年の顔があった。
少年は眼を閉じている。しかし、眠っているわけではないらしい。瞼《まぶた》がかすかに動いている。
「一太郎です」
と、老婆が言う。
「あ、どうも……」
と、耕一は少年の寝顔に告げた。
「いっちゃんはそのまま寝ていらっしゃい」
老婆は孫息子に声を掛け、それから耕一のほうを向いて、
「お寝間着にお着替えなさいな」
「すみません」
「それから、このお薬を飲んでくださいな」
と、錠剤二つとコップの水を差し出す。
「なんですか?」
「おツムの中をカラッポにするお薬よ」
まさか毒薬を飲まされるんじゃあるまいな、と一瞬不安が走ったが、耕一を殺してなにか得のあろうはずもない。
「さ、どうぞ」
「ええ」
成行きのままにグッと飲み込んだ。
おばあさんは満足そうに眺めている。
効果は三分ほどたって現われ始めた。
耕一はその時にはもう夜着に着替えてベッドの中に横たわっていたが、まず軽い、心地よい眠気が襲って来て、体がしびれるようだ。意識がいくぶん稀薄《きはく》になり、なるほど老婆の言う通り脳の中がうっすらと白ずんで来た。
おばあさんが電灯を消した。
闇《やみ》の中で老婆の手が耕一の額に載った。
気配から察して、もう一方の掌は少年の額にでも載っているらしい。
「さあ、二人とも頭をカラッポにして」
声にそそのかされるように意識がぼんやりと濁る。階段でも降りるようにカクン、カクンと頭の中が昏《くら》くなる。
おばあさんの唸《うな》るような声が響く。
なにを言ってるのかわからない。
睡魔が眼底にクルクルと渦を巻いて流れ去る。
「なんだか変な気分だな」
「黙って……二人とも」
この時に、隣に寝ている少年が、どんな感覚を覚えたのか、耕一には知るよしもない。
耕一はただ、
――あ、眠るのだな――
と、思った。
どこか普通の眠りとは違っている。
かすかに目醒《めざ》めている部分がないでもない。
そんな状態が何分か続いた。
ドアが開く音を聞いたように思う。
乗用車の軟かいクッションに身を預けたようにも思う。
それからの記憶は、途切れ途切れだ。
英語の文章がある。ニューヨークの町がどういう歴史を経て発達して来たか、そんな経緯を伝えている内容だ。外国語を学ぶのに一番いい方法は、外国で生活することです≠ネどという英作文の文章が妙にしつこく頭の中に残っている。
数学の問題らしいものも断片的に浮かんで来る。アフリカの地図が脳裏《のうり》に残っているのは、社会科の問題なのだろうか。新聞の社説のような論文を読んで、設問に答えたような記憶もある。
時間の経過はほとんど意識のうちになかった。
ひどく長い時間のようにも思えた。
ほんの四、五分のような気がしないでもなかった。
目醒めは、さっき眠りに入った道筋をまるで逆方向に歩むようにやって来た。カクン、カクンと階段を昇るように意識が明晰《めいせき》になる。
脳のしびれが少しずつ氷解する。
――何時だろう?
最初にそのことが気にかかった。
ベッドのすぐ脇《わき》にスタンドのスイッチがあったのを思い出した。
パチン
とても眩《まぶ》しい。
隣には空のベッド。毛布がよじれている。
時計を見た。二時二十一分。ほぼ五時間が経過した計算になる。
――オレはなにをしていたのか――
あらためてそんな不安が募って来る。
頭のあちこちに試験問題の断片みたいなものが散っている。
入学試験の――高校入試の――夢を見たような気がしないでもないが普通の夢とはどこか違っている。
――おばあさんの言っていたことは本当なのだろうか――
もう一度記憶をたどってみると……錠剤を飲んで間もなく意識が朦朧《もうろう》となった。
それでも脳はそれなりに働いていた。
――もしだれかほかの人に脳味噌《のうみそ》を借りられたら……こんな気分になるものだろうか――
信じられないことだが、その時の耕一の感覚だけを言えば、そんな解釈が一番適切のように思えた。
ドアの外で足音が聞こえた。
細目に戸があいて、おばあさんがそっと首を伸ばした。少年の姿がそのうしろにあった。
「もう起きていらしたのね」
「ええ」
「ご苦労さま。すっかりすみましたわ」
「なにが……」
耕一は首筋を二度、三度|叩《たた》いた。
「試験ですよ。おかげさまでよくできたらしいの。オホホホ。さ、一太郎さん、あなたはゆっくりお眠りなさい。疲れたでしょ。なにもかも忘れるのよ。さ、パジャマに着替えてね」
少年はペコンと頭を一つさげて部屋に入って来たが、どこか夢うつつの表情だ。揺れるように手足を動かして夜着に着替え、ベッドへ潜り込んだ。すぐに眠っていた。
耕一はおばあさんのあとに続いて応接間のほうへ。
「こんなこと内緒にしておいてくださいね」
「しかし、どういうことなんですか?」
それを聞かずにはいられない。
「もういいの。なにもお聞きにならないで」
「そうですか」
とにかくおばあさんの願いは滞りなく完遂されたらしい。
それならそれでかまわない。深く詮索《せんさく》する必要もあるまい。
ところで、もう一つの約束のほうだが……。
おばあさんもそのことを思い出したらしく、一つ大きく笑ってから、
「で、コスモス≠フ恵美さんのほうですけれど、今晩にしますか」
と、事務的な調子で言う。
「…………」
「お約束のことだから、遠慮なさらないで」
「僕はいつでもいいんですけど」
耕一のほうがドギマギしてしまう。
「夜の八時過ぎなら、いつでもいいらしいんですけどね」
一瞬、不安が心に昇って来る。
――恵美ちゃんは軽いデートでもするつもりでいるんじゃあるまいか――
それじゃあ少し約束が違うような気もするけれど……こっちだってそれほどたいした仕事をしたわけじゃないのだし……。
そんな心の動揺をふっ切るように、
「じゃあ、今晩でいいです」
と、キッパリ言ってみた。
「そうね。早いほうがよろしいものね」
「はい」
「それじゃあ、八時|頃《ごろ》にここへいらっしゃい。年寄りはお邪魔でしょうから……その時間にいらして、まっすぐ今のお部屋へお行きなさいな。恵美さんにはよく言っておきますから」
おばあさんは、意味ありげな表情を作って片眼《かため》をしばたたいた。
――やはりただの軽いデートではないらしい――
薄暗いベッド・ルーム。恵美ちゃんがそこで待っている……。白い肌。触れればすぐに弾ね返って来そうな胸のふくらみ。
おばあさんに因果を含められ、一夜の貢ぎ物となる恵美ちゃんは、どんな様子でいるのだろう?
思っただけで体が熱くなる。
「それで、よろしいわね」
「はい。お願いします」
「くれぐれも内緒にしてくださいね。今日のことは」
「わかってます」
「じゃあ、今晩」
「お世話になります」
「さようなら」
「さようなら」
老婆の家を出て、耕一は大きなため息をひとつついた。
午後の時間が長く思えて仕方がなかった。
一度コスモス≠フ前を通ったが、窓越しに中を覗《のぞ》くのが精いっぱい。とても恵美ちゃんの顔をまともに見ることができない。
映画を見たが、筋が頭に入らない。
ベッド・シーンだけが心を捕らえる。
――うまくやれるだろうか――
そんな心配が募って来る。
女を抱くのは初めてのことではなかったけれど、純然たる素人《しろうと》を相手にするのは体験がとぼしい。
――もしかしたら、恵美ちゃんはプロなのかもしれない――
とも思う。
たとえば、隠れたコールガールの組織があったりして、彼女がそのメンバーの一人で、おばあさんはその元締めみたいな立場にいる人で……。連想が飛躍しすぎているような気もするが、ありえないことでもない。
夕食を早目に取り、約束の時間を待った。
七時四十五分に家を出た。
おばあさんの家の周囲を一まわりして時間を潰《つぶ》し、八時きっかりに玄関の前に立った。
ブザーを押したが、返事はない。
そっとドアを押すと、にぶい軋《きし》みをあげて開いた。
「ごめんください」
家の中はシーンと静まりかえっている。
「ごめんください」
相変わらず答はない。
耕一は靴を脱いだ。
家の勝手は午前中に来ているのである程度まで知っている。廊下をまっすぐに行けば、一番奥の部屋が寝室になっている。
「こんばんは」
寝室の扉の前でふたたび呼ぶと、中から、
「はい」
と、小さな声が聞こえた。
恵美ちゃんの声ではないか。
ドアを押した。
部屋には電気スタンドが淡い光を拡げている。
毛布の端で、恵美ちゃんの白い笑顔が笑っている。
「やあ」
「こんばんは」
耕一は落ち着かない動作でもう一つのベッドに腰をおろした。
「よくわからない」
「なにが……?」
「うまく説明できないけど」
「いいのよ。あなたは深く考えなくたって」
「ここのおばあさんとは、前から知合いなの?」
「そうでもないけど。頼まれちゃったから」
「頼まれれば、こんなことするの?」
「いろいろ事情があるのよ。聞かないほうがいいわ」
「うん」
「でも秘密は守ってよ」
「もちろんだ」
「今晩だけよ。あとはお店で会っても今まで通りにしてて。ね、お願い。それだけはキチンと約束してくれる?」
「わかっている」
釈然としない部分もあるけれど、もともと初めから訳のわからないことばかりだった。
毛布が動いて恵美ちゃんの白い肩がのぞいた。
「時間がもったいないわ。抱いて」
恵美ちゃんの眼が淫《みだ》らに光っている。
耕一がベッドへ入ろうとすると、
「待って。馬鹿ねえ。洋服を着たままじゃ」
それもそうだ。
相手はすっかり裸でいるらしい。
耕一はあわてて服を脱いだ。背後に恵美ちゃんの視線を意識しながら。
毛布の中へ潜り込むと、フワッと熱い香りが漂う。案の定、恵美ちゃんはまっ裸だ。
すぐに唇が重なった。
「あたしのこと、どう思ってた?」
「好きだった」
「嘘《うそ》よ。T大の学生さんが深入りしていい相手じゃないわ。体に興味があるだけでしょ」
「…………」
図星を指されては、うまく返事ができない。
「いいのよ、それで。あたしもそのつもりで来たんだから」
「でも、好きだよ」
「そんなこと言わなくていいのよ。いろんな女の人、知ってるの?」
「そんなことない」
「何人くらい?」
「ほんの二、三人だ」
「ホント? 初めてかと思ってたけど」
「がっかりした?」
「そんなこともないけど。あのさ……」
「うん?」
「さっきの約束、忘れないでね」
「なに?」
「今晩かぎりだって」
「ああ、いいよ」
恵美ちゃんは話しながらも、腕を耕一の胸にからめて来る。
耕一も女の胸もとに掌を伸ばした。
細い鎖骨《さこつ》の下あたりから肉のふくらみが始まって、ゆるやかな丘陵を作っている。
丘陵のてっぺんに乳首があって、指の動きに触れて堅く尖《とが》った。
「感じちゃう」
「そう?」
「うん」
恵美ちゃんは眼を閉じている。
顎《あご》が少しずつ上にせりあがる。
耕一が毛布をなかばめくりあげた。
「あ、いや」
毛布を引き戻そうとしたが、その手を軽く押さえるようにして乳首に唇を寄せた。
恵美ちゃんの体が弓を作った。
想像した通りに豊満な乳房だ。
乳暈《にゆううん》も大きく、乳首も大きく、その眺めがエロチックだ。
「駄目。お願い。電気を暗くして」
「うん」
スタンドのスイッチを倒すと、部屋は闇《やみ》と変わった。
それでも恵美ちゃんの体はほの白く映っている。
愛撫《あいぶ》の指先が恥毛にまで伸びる。
恵美ちゃんの動作が次第に激しくなり、毛布が滑り落ちた。
しばらくは太腿《ふともも》をしっかりと閉じ合わせていたが、それもゆるんだ。
不確かな構造がサクリと割れて、熱い潤いがあった。指先が奥へ奥へと滑る。
「もう駄目。早くウ」
耕一の体は最前からすでにたぎっていた。
女のあえぐような声を合図に体を重ねた。
短い抽送《ちゆうそう》のあとで耕一は堪えきれずに体液を吐いた。
女はさらに大きな弓を作った……。
闇の儀式は一度では終わらなかった。
若い体はすぐに回復する。
女も貪欲《どんよく》であった。回を重ねるたびごとに歓《よろこ》びが深くなるようにさえ思えた。
男は短く眠った。
眠りのあとにまた激しい抱擁があった。
交わりと交わりのあいまに、いくらか理性の戻るときがあって、男は、
――いったいどういうことなのだろう――
と、思わないでもなかったが、新しい愛撫がたちまちそんな判断を掻《か》き消した。
時間だけが流れた。
「もう疲れちゃった?」
闇の中で女の声が響く。
「うん、少し……」
男はさすがに堪能《たんのう》していた。
もう話をするのも億劫《おつくう》だった。
しばらくは沈黙が続いた。
「わからないなあ」
「なにが……」
「おばあさんは、どういう気なんだろう。少し頭がおかしいんじゃないのかな」
「そんなことないでしょ。お孫さんのためにしたことだわ」
「そりゃそうかもしれないけど、馬鹿らしい」
「どうして?」
恵美ちゃんの声も疲労でしわがれている。
「だってそうじゃないか。知ってるんだろ?」
「…………」
「ボクの脳味噌《のうみそ》を借りたいって話なんだぜ。そりゃ、ボクの脳味噌を使えば、高校の入学試験くらい通るさ。べつに自慢するわけじゃないけど、そのくらいの頭はあるさ」
「…………」
「でも、そんなことできるものか。念力だかテレパシイだか知らんけど」
「信じてないのね」
女は毛布の下で言う。
――なにかがおかしい――
耕一はそう思ったが、その時にはその理由がわからなかった。
「信じられることじゃないよ。まあ、どっちでもいいけど」
「でも、本当よ」
「なにが?」
「念力でそういうことができるのよ」
「まさか。君も信じてるのか」
「もちろんよ」
「どうして?」
「借りられるのはおツムの力ばっかりじゃないの。人の姿形だって借りられるのよ、五時間くらいだけなら」
女がスタンドに手を伸ばした。
部屋が明るくなった。
――なんということだ――
ベッドには老婆が横たわっていた。
声もその声に戻っていた。
「だれにも内緒にする約束だったわね」
老婆はさながら魔女かなにかのようにゆったりと告げた。
本作品はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。(編集部)
角川文庫『仮面の女』昭和62年6月25日初版発行
平成10年5月30日35版発行