角川文庫
三角のあたま
[#地から2字上げ]阿刀田 高
目 次
冷蔵庫から
美女のいる町
京都勘定
正しい日本語のために
私の西遊記
なんじはここまで|狐《きつね》ども
雨だから
私の目くじら
悪意あり
|蕗《ふき》|谷《や》|虹《こう》|児《じ》など
パンと花と犬
命名法余聞
理性効果と感情効果
選挙法私論
掃除的視点
死後のランキング
待ちつ焦がれつ
|薄《うす》|闇《やみ》の目くばせ
美女考
一枚の写真
男と女の接点
カメラとかつら
みどりの日
贈り物
小泉八雲など
チマ・チョゴリ
アメリカ讃江
心が一番
|淫《いん》|靡《び》な視線
パーティ寸感
新人賞の季節
虫の知らせ
美女優遇制度
色川武大さんのこと
納豆と風呂と海の風景
ランキング
脱サラについて
選挙区三景
受け取っていいですか
眠られない夜
古文書見聞録
お盆のような月
卵について
戦後は遠くなりにけり
男というもの
文学部は駄目よ
北海道紀行
いま捕鯨について
武器としての頭
電話と手紙
文庫本
一年回顧
冷蔵庫から
私の仕事場の片隅にドイツ製のミニ・キッチンが置いてある。
蛇口にシンク、ホット・プレートに冷蔵庫……。ある日、気がつくと、この冷蔵庫の製氷室に氷が一センチくらいの厚さで張りつめていた。
――どうも冷えないと思ったら――
電源を切って霜取りにかかった。
ポタン、ポタン、ポターン。
なにしろカチカチに凍っているから簡単には溶けない。私は眺めているうちに|苛《いら》|立《だ》ちを覚え、ドライバーと金づちを持って来た。
全部が溶けるまでには、まだまだたっぷりと時間がかかりそうだ。べつに急がなければいけない事情はなにもなかったけれど、私にはせっかちのところがある。手がけた仕事は少しでも早くすませたい。ポタポタ溶けるのを待つなんて趣味にあわない。氷を砕いて塊のまま取り除けば、すぐに製氷室はきれいになるだろう。
氷の層にドライバーの先を当て、金づちで|叩《たた》いた。
トン、トン……パリン。
氷が割れて、細長い塊が|剥《は》げた。
これだけの氷がすっかり溶けるまでには三十分はかかるだろう。もう一度叩くと、
パリン。
さらに三十分の節約となる。
明日の朝まで放っておけば自然に溶けてしまうものを、どうにも待ちきれない。へばりついている氷がサクリと剥げるときは生理的にもちょっと心地よい。
シューッ。
急にガスの漏れる音が聞こえた。
――いかん――
そう思ったが、もう遅い。
私は冷蔵庫がなぜ冷えるか、理屈をうまく説明できないけれど、とにかく冷却にガスが関係していることだけは知っている。
その大切なガスを……ガス管をドライバーで突ついてガスを漏らしてしまったらしい。電源を入れてみたが、もう冷蔵庫は冷えてくれない。遅ればせながら中を調べてみると“冷却プレートを|錐《きり》やナイフで突つかないでください”と、ちゃんと書いてある。やってはいけないことをやってしまい、その通りの失敗をやらかしてしまった。
ミニ・キッチンの販売代理店を捜して電話をかけると、
「どうにもなりませんね。冷蔵庫を取り換えないと」
という返事である。
多分そうだろうと覚悟していた。冷蔵庫というものは、冷えてくれなければ不細工な箱でしかない。せいぜい子どもを殺すのに役立つくらいのものである。転用はむつかしい。
「結構です。すぐに入れ換えてください」
と頼んだ。
おのれの失敗の|痕《こん》|跡《せき》を長く見詰めているのは、つらい。
代理店の店員はすぐに|駈《か》けつけて来てくれた。
「おいくら?」
作業がすんだところでおそるおそる尋ねた。安いはずはあるまい。冷蔵庫を一つ買ったのと変らない。
「古いのを下取りさせていただきますが……八万円です」
「えっ、八万円」
しみじみ惜しいと思った。
八万円あったらなにができるだろう――
とびきり豪華な食事。温泉旅行。スーツも買えるだろうし……。
――ドライバーなんかで突つかなければよかった――
なにも一刻を争って氷を削り取る必要なんかなかったのである。
大学を出て間もない頃、親しい友人のS君が風呂場のガス事故で死んだ。一酸化炭素中毒であった。
浴室の窓は細く開いていたし、バーナーの火も全部は消えていなかった。つまり一酸化炭素の密度はそれほど濃くはなかっただろう。
S君はゆっくりと、長い時間をかけて有毒のガスを吸ったらしい。
――湯船で居眠りをしたな――
これが私の推測である。
普段から居眠り癖のある男だった。徹夜|麻雀《マージヤン》なんかをやると、ゲームの最中にいちいち起こさなくてはいけない。こっちのほうが疲れてしまう。湯船でもよく眠っていたし……。そんな癖が命取りになったのではあるまいか。
私はさほど神経質なほうではないけれど、眠りに関しては、いつでも、どこでもというわけにはいかない。湯船の中で眠るなんて、とんでもない。同じ情況に置かれたとしても、私は死ななかったろう。いつまでもそんな思いが私の中に残った。
事故が起きるときには、いろいろな偶然が重なるものだが、それにたずさわった人の性格や癖も微妙に関係する。私でなかったならば、冷蔵庫の製氷室をドライバーで突ついたりはしなかっただろう。S君でなかったならば、風呂場で死ななくてすんだかもしれない。
私には、もう一つ、かなり顕著な癖がある。つまり、その、断るのが下手なこと。熱心に誘われると、
――せっかくあんなに誘ってくれるんだから――
と、多少気の進まないことでも従ってしまう。他人の好意や申し出をむげには断りきれない。相手の気持ちをおもんぱかり、|邪《じゃ》|慳《けん》になれない気の弱さがある。
それほどわるい癖ではあるまいけれど、致命的な結果を招くこともあるだろう。
たとえば川むこうに美しいお花畑がある。きれいな女の人がしきりに私を呼んでいる。手招きをしている。
美しい人に誘われると、つい、つい行ってみたくなるのも私の癖の一つである。
――あんなに一生懸命呼んでくれているんだから――
私はふらふらと川を渡って、むこう岸へ行ってしまうにちがいない。
聞くところによれば、人は死のまぎわにそんな夢を見るらしい。むこう岸に渡ったら、それでおしまい。
そうと知りながらも、私は、
――せっかくだからなあ――
と、渡ってしまいそうな気がしてならない。
癖というものは自分で知っていてもなかなか直せない。それが微妙に運命とかかわることがあるようだ。
美女のいる町
だれが言いだしたことか知らないけれど“日本海側一県おき美人説”という学説(?)がある。二、三度、聞いたことがあるから、ある程度流布していることなのだろう。いや、ほんのジョーク、ジョーク、座興として聞いてください。
まず北海道よし。つまり美人の産地である。青森県はダメ。秋田県よし。山形県ダメ。一県おきなのだから……。かくて新潟県よし。富山県ダメ。石川県よし。福井県ダメ。京都府はよし。兵庫県はほんの少し日本海に触れているけれど、なぜかここは京都府と一緒に扱われ、次は鳥取県ダメ、島根県よし、山口県ダメ、福岡県よし、佐賀県ダメ、長崎県よし……日本海はこのへんまで、となる。
兵庫県のあたりで少々インチキがおこなわれたような気配もあるけれど、若干の修正をほどこさないと、うまくいかない。
札幌の町を歩いていると、たしかにきれいな女性によく会う。だから北海道美人説は一応|頷《うなず》ける。混血の歴史もあるし、あれだけ大きければ、きっと美しい人もいるだろう。
秋田美人、新潟美人、京美人、博多美人、長崎美人……世評にあがる美人国はみんなこの区分法に|適《かな》っているし、石川県はなにしろ加賀百万石のお|膝《ひざ》|元《もと》、石川美人という言葉こそあまり聞かないけれど、やんごとないお姫様の|末《まつ》|裔《えい》もいるだろう。島根美人……これも熟した言葉ではないが、ここは古くから|韓《かん》|国《こく》との交流が深いところ。そして韓国はまちがいなく美人の多いところである。血筋は連綿と受け継がれているにちがいない。
無理にこじつけたような部分もあるけれど、ほかの県との対比で考えてみれば、当たらずとも遠からず。山口県なんて、これはもう圧倒的に総理大臣をたくさん出しているところだから、このうえ美人まで生みだすと、
――陰謀ではあるまいか――
あらぬ疑いをかけられるかもしれない。
先日、山形市と秋田市へ行った。
どちらの町も初めてではないけれど、久しぶりの訪問であることはまちがいない。
山形から秋田まで列車を乗り継いで行ったが、二つの町はかなり趣きが異っている。山形市は文字通り山の中にあり、秋田市は海に面している。山形市のほうがずっとひなびている。秋田市のほうが開けている。ビルの高さがちがう。町の明るさがちがう。ことのよしあしを言うのではない。好みを言えば、私は古い家並みを残す、ひなびた町もきらいではない。どこへ行ってもリトル東京ばかりではつまらない。
あらためて地図を調べてみると、山形市は本州のセンターラインよりむしろ右のほうにある。つまり直線距離を計れば日本海より太平洋に近い。山形県が日本海に面した県であることを考えれば、この位置は意外である。それだけ山形市は山の中にあることになる。
この二つの町を見て私はふと“日本海側一県おき美人説”を思い出し、少し考えた。
――あの区分法は、県庁所在地がどれだけモダン化しているか、そのことと関係しているのではなかろうか――
住んでいるところが都会らしくなれば、それだけ女性はきれいに見える。本質的な美しさはともかく、都会にいれば化粧もうまくなるし着るもののセンスもよくなる。見かけは都会の人のほうが美しい。
県庁の所在地がどんな町か、都市のモダン化の度あいを考えてみると、まず札幌、これは本当にリトル東京だ。言葉の|訛《なま》りが少ないから酒場で酒を飲んでいたりすると、東京にいるような気がする。モダン化は充分に進んでいると言ってよい。
青森市は少々ひなびている。秋田市と山形市についてはすでに述べたし、新潟市は港町らしくモダンな感じに|溢《あふ》れている。
富山市は素朴な様子を残しているし、金沢市はみやびの気配を帯びている。福井市はけっして開けていない町ではないけれど、両隣の金沢市や京都市との比較で考えてみれば、やはり田舎っぽい。松江市も洗練されたたたずまいだし、博多は文字通りの大都市、長崎市は異国の文化の受け入れ口であった。
つまり“日本海側一県おき美人説”は本来的にそこが美人を生む土地かどうかの問題ではなく、日本海側ではたまたま一県おきにモダン化の進んだ都市を中心に持っていて、そこが一見美人ふうの女性を多く町に散らしているにすぎない。後天的に作られた美人であり、町を歩いていて、
――あっ、美人がいるぞ――
と、目立つだけのことだろう。つまり……目立つかどうかの問題。“この県はダメ”と言った中にも、隠れた美形がいることは疑いない。
眼を全国に向け……旅に出ると私はきまって、
「この県出身の美女はだれですか」
と、土地の人に尋ねる。女優やタレントのことである。
「さあ、だれじゃろう」
即座に答が返って来るかと思いきや、首を|傾《かし》げる人が多い。長野県では、
「市丸がそうだねえ。“天竜下れば”を歌ってた……」
などと、相当に古い返事が返って来たりする。市丸|姐《ねえ》さんはたしかに一世を|風《ふう》|靡《び》した美形かもしれないけれど、私だってよくは知らない。
――もう少し新しい人はいないのかなあ――
と|訝《いぶか》ってしまう。
まったくの話、一県に一美人くらいいてもよさそうなものではないか。反応のにぶさを見て、
――美人てのはどこでとれるのかなあ――
と考え込んでしまった。やはり東京が圧倒的に多いのだろうか。
ここ十年ばかり鼻息が荒いのは熊本県である。タクシーの運転手が私の質問に答えて教えてくれた。
「熊本には美人が多いね」
「あっ、そうですか」
と私は身を乗り出した。
「うん。島田陽子」
これはまちがいなく美しい。異論はあるまい。
「なるほど」
「斉藤慶子。生まれは宮崎だけど、こっちの学校出てるから」
「それはちょっとずるいな」
「まだいるよ。宮崎美子」
「かわいい感じの人ね」
「そう、そう。それからあと、八代亜紀」
「はあ」
意見の分かれるところである。
「水前寺清子もそうだねえ」
「…………」
私はたしか美人について聞いたはずだが……。
京都勘定
前の章では美女の出身地について考えたが、私は旅に出ると、もう一つ、
「この町で一番大きな会社はどこですか」
と、きまって質問をする。
一番大きな会社……さしずめ法人税を一番多く払っている企業だろうか。
これを聞くと、その町が|拠《よ》って立っている基盤が見えて来る。まったくの話、一つの市が一つの企業と、その下請け、出入りの業者、それらの社員と家族であらかた成り立っているような、そんな町もまれではない。かつての|八《や》|幡《はた》市は八幡製鉄の町だったし、今の豊田市はトヨタ自工の町だろう。私自身は豊田へ一度も足を踏み入れたことがないけれど、この町でトヨタ以外の車を駆るのは、ちょっと抵抗感があるそうな。
こういう情況の町では、当然のことながら、その中心となる企業の浮沈が町の経済を大きく支配する。全市民の懐に直接響く。
だから質問を発して昇り調子の企業の名前が返って来ると、
――なるほど、道理で、みんなの表情が明るいわけだ――
と合点する。反対にそれが斜陽の業種だったりすると、
――この町の将来も大変だなあ――
と同情しないわけにいかない。
数年前、京都銀行の幹部氏と同じ車に乗りあわせたことがあった。例によって私は、
「京都で一番大きい会社はどこですか」
と尋ねた。
「京都にはあまり大きな企業がありまへんなあ」
「そうですか」
京セラは京都に本社を置く企業ではあるまいか。
「うちあたりが結構上位におって……こりゃ、あまりよろしいこと、おへん」
「どうしてです?」
「地方銀行ちゅうもんは、二十位くらいがよろしいおす。ほかの会社に|儲《もう》けてもろうて、うちは貸したり借りたりする立場やさかいに。銀行が上位にいるようじゃ、たいした町じゃおへん」
言われてみれば、そんな気もする。銀行は経済活動の中心だが、銀行だけが張り切っていてもどうにもならない。そういう機能の業種だろう。
幹部氏は話を続けて、
「昔は京都の衣料品や調度品など、ぎょうさん皇室が|買《こ》うてくれはったから、よろしゅうおましたけど、このごろはおまへん」
と伝統産業の衰微を嘆く。
――戦前はそんなにたくさん皇室が買ったのだろうか――
なんとなく話がおかしいので、
「昔っていつごろのことですか」
と聞けば、
「そりゃ、あなた、天子様が京都にいてはりましたころですわね」
つまり明治より前の話らしい。
「はあ」
少し驚いた。京都の人は私などよりずっと長いスパンでものごとを考えている。そう言えば、ほかにも似たような笑い話を聞いたことがあった。京都の人が、
「この前の戦さで大事な文化財がぎょうさん焼けてしもうた」
と、しきりに嘆く。聞き手が、
――はて、いつの戦争だろう。京都は空襲にあわなかったはずだが――
と思い、そのことを尋ねると、京都の人はおおらかに答えたとか。
「そりゃ、応仁の乱どすわ」
やはり古都には悠久の時が流れているのだろう。
言うまでもなく京都は見どころの多い町である。私は何回訪ねたかわからない。そして、いくつもの名所を見てまわった。その数も数えきれない。京都で過ごした夜も多い。
だが……ある日、ふと気がついた。
――京都にはずいぶんお金を払ったけど、俺、京都からお金をもらったこと、あったかなあ――
もちろん私は小説家であり、本を書いて読者に買っていただくことが私の主たる経済活動であり、京都でも私の本はちゃんと売れている。だから京都からも充分にお金をいただいているはずだが、これは間接的なので実感が薄い。
お金をいただくと言えば……そう、たとえば講演会の謝金など。これは直接現金で手渡されることが多いから、
――もらった、もらった――
と、印象も鮮明に残る。
ところが私は京都で講演会のたぐいをやったことがほとんどない。思い出せない。全国ほとんどの主要都市で一回くらいはきっとやっているというのに……。
京都と私の関係について言えば、私が支払っているほうが圧倒的に多く、もらいは少ない。
「そんな気がしないか」
「うん。俺もそうだなあ」
同業のSさんもそう言っていた。
あらためて調べてみると、京都では東京から講師を招いて文化講演会などを開く試みが少ないようだ。
――そりゃ、そうだよなあ――
と私はすぐに納得した。
京都の人にしてみれば、文化というものは京都にこそ存在している。日本では京都が文化を担っているのである。
ああ、それなのに、関東の学者や小説家風情が京都にやって来て、あつかましくも文化講演会とは……。
むこうから見れば、私なんか東国の田舎者、あずまえびすでしかない。
しもじもは京都にのぼってお金を払うのが当然、えらそうなことをほざいてお金を持ち帰るなど、とんでもない、あかん、なのである。
京都の人の心の中には、そんな気分が少しあるようだ。
ところが、つい先だってから私は“京都新聞”の夕刊に連載小説を書くようになった。
これとても京都新聞社から直接交渉を受けたわけではなく、東京の通信社がお世話してくれた仕事である。
通信社が私のところから原稿を取って、さし絵をつけ、地方新聞社に売りさばく。売れて行く先は一つではない。目下のところ私の連載小説は“京都新聞”のほかに鹿児島の“南日本新聞”、富山の“北日本新聞”にも載っている。この先、遅れて連載の始まるところもあるだろう。同じ作品がいくつもの地方新聞に掲載されるわけである。
だが、“京都新聞”が有力な買い手であることは変りない。
――今までのぶん、取り戻せるかなあ――
収支計算はなにごとであれ、バランスのとれている状態がよろしい。
正しい日本語のために
テレビ番組について話すのはむつかしい。私が見たものを相手が見ているとは限らない。いったん見のがした番組を後日あらためて見る手段はほとんどないに等しい。
NHKはともかく、住んでいるところがちがえば、もともとともに見ることのできない番組もある。
「きのうのドラマ、おもしろかったよ」
「あら、そうでした?」
酒場で話しても、この手の話はあまり弾まない。ホステスは職業がらたいていの話に、相づちを打ってくれるが、このテーマはむつかしい。こっちは夜の七時以後の番組を言っているのだし、彼女たちは働いていて、見ることができない。
今、このエッセイを読んでいるみなさんと私とのあいだにも共通の知識があるとは言いがたい。
そんな事情は充分に知っているのだが、日本テレビ系で毎週放映している“笑点”、あの大喜利のコーナーなどは、ほとんどの人が見ているのではあるまいか。大変な長寿番組のはずである。
まん中のあたりに桂歌丸師匠がすわっていて、この人は業界では偉い人だから司会の円楽師匠まで気を使っている。
――ごま、すってるみたい――
そんな気配を感ずることもある。
それはともかく、この大喜利では“光る”だの“つる”だの、あるいはもっと直接的に“はげ”だのと言って歌丸師匠をあてこすり、からかって笑いを誘う。それがおきまりになっている。言われた歌丸師匠がふくれっつらを作って見せるのも、おきまりの一つである。そんなシーンを見たことのある人も多いだろう。
私はテレビを見ながら、
――歌丸さんは、はげかなあ――
と、首をかしげた。
テレビの撮影では被写体に強い光を当てるので髪の毛は普段よりずっと薄く見える。画面で見る歌丸師匠はさほど光ってもいないし、けっしてつるつるでもない。“笑点”がこの先何年続くかわからないけれど、昭和六十三年九月現在では歌丸師匠の頭は、
――少し髪の薄い人だな――
と感ずるくらいのものである。
ああ、それなのに、寄ってたかって“光る”だの“つる”だの“はげ”だのと笑う。“笑点”は、日本語の誤用を毎週毎週全国にまきちらしているのではあるまいか、大喜利コーナーのしゃれはしゃれとして、これはゆゆしい問題である。
「あなただって、はげ頭よ」
妻にそう言われて私は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
私も薄いことは薄い。多分歌丸師匠くらい……。掌を脳天のあたりに当てると、髪よりも肌の感触、少し汗のねばりを感ずる。
私の家系は代々髪が薄く、私の兄弟はだれ一人として父の頭に髪の毛があったのを知らない。それに比べれば、私は自分の代でずいぶん改良を進めたほうである。正直なところ私は自分の髪についてはもう達観している。人はあまりに欲張ってはならない。とにかくこの年齢になるまでこれだけあったのだから……。足ることを知らなければなるまい。
だから……妻の言葉に驚いたのは、けっして|詰《なじ》られたと思ったからではない。妻もまた達観している。
「これは、はげ頭ではない」
と私は厳粛に反論した。
読者のみなさんも機会があったら私の写真を見ていただきたい。どこかに載っているだろう。いかがでしょうか。
「だって、はげてるじゃない」
「たしかに部分的には薄くなっているところがある。しかし頭の面積全体から考えれば、まだ少ない。なにもはえていないところが頭の六、七割を占めるようにならなければ、はげ頭ではない」
「うそ。あなたくらいなら普通“はげてる”って言うわ」
妻はとくに|邪《じゃ》|慳《けん》な性格ではない。むしろ心のやさしい人である。
「それはちがうな」
「やっぱり身びいきになるのね」
「ちがう、ちがう」
おわかりだろうか。これは定義の問題である。ひいては日本語の問題である。私は不安になった。
――もしかしたら私がまちがっているのかもしれないぞ――
“笑点”の例もある。私はテレビがまちがえているのだとばかり思っていたけれど、私のほうの勘ちがいということもある。
話はそれるが、私はつい最近まで“女王”のことを“じょうおう”と発音していた。そう読むものだと信じこんでいた。テレビのアナウンサーが“エリザベスじょ[#「じょ」に傍点]おう”と、詰まり加減に言うのを聞いて、
――へんな発音だな――
と冷笑していた。
しかし、まちがっていたのは私のほうである。これは“じょおう”が正しい。辞書にもそう書いてある。
はげ頭についても辞書を引いてみたのだが要領をえない。厳密な定義は記してない。
妻との論争はなおも続いた。
「はげ頭というのは、髪の毛のない頭のことだろ。ないというのは、完全にないか、少なくとも半分以上ない状態でなければ、おかしい」
私もしつこい。小説家である以上、言葉には厳密でなければなるまい。
「じゃあ、あなた、ペンキがはげてるってのは、半分以上はげてることなの? 若はげって言うじゃない。若くてあなたくらいなら、りっぱな若はげよ。はげ山だって、一部分はげているだけじゃない」
妻もかつて外国人に日本語を教えていた。言葉には一家言を持っている。簡単には譲らない。
「そうかなあ」
言われてみると、世間の用例はかならずしも私の考えに従うものばかりではない。
私は思い悩んだ。最後にすばらしい理屈が浮かんだ。
「言葉使いなんてものはネ、どっちの意味にとってもいいような場合なら、そりゃ、できるだけ多くの人を幸福にするほうの用例に従うべきだよ」
これはヒューマニズムである。
話はふたたびそれるけれど、私たち男性は周囲の女性を呼ぶときに、すぐに“ばあさん”だの“ばばあ”などと言う。四十代はおろか、三十代の女性にまでそんな呼びかたをする。
照れがあってのことだろうが、日本語として正しくない。もちろんヒューマニズムにももとる。まだ相手は充分に若いのだから。
「そりゃ、そうだけど」
まだ“充分に若い”私の妻はなおも釈然としない様子であった。
私の西遊記
たしか英語のことわざに、
〈らくだを水辺に連れて行くことはできるが、水を飲みこませることはできない〉
と、そんな意味のものがあったと思う。水を飲みこむのは、らくだの意志である。周囲の者はお|膳《ぜん》|立《だ》てを調えることはできても、最後はらくだにその気があるかどうか、そこにかかっている。
このことわざに従って説明すれば、私は水辺に連れて行くのには、ちょっと手間のかかるらくだである。そっぽを向いたり、すねたりしていて、なかなかすなおに動かない。しかし、水辺に連れて行ってしまえば、だれよりも先にみずから進んでせっせと水を飲み始める。
若いときからそうだった。友人のS君は私自身より先にそのことを見抜いていた。仲間うちで私のことを|噂《うわさ》していたらしい。
「とにかくあいつには仕事を始めさせればいいんだ。あとは放っておいても自然に一人でせっせとやるから」
たとえば、パーティの計画などを立てるとき……。私は、まず、
――そんなもの、くだらん――
へそを曲げている。|尻《しり》を引いている。消極的で、すこぶる立ちあがりがわるい。周囲の者はそこをなんとかおだてて私を実行委員にでも据えてしまえばそれでいいのである。あとは一生懸命にやる。まわりは遊んでいても、まあ、いい。
あとでこの噂を聞いて少々鼻白んだが、S君はなかなかの|慧《けい》|眼《がん》の持ち主であった。
数カ月前から私の家にパソコンを置くようになった。妻がワープロを習いたいと言うし、子どもたちもパソコンを使ってやりたいことがあるらしい。これからはどの道コンピュータの時代になるだろう。若い世代には遊び感覚で慣れさせておくのも無駄ではあるまい、と考えた。
リビングルームの片すみに一式を据えさせ、私のほうは例によって、
――なんだ、こんなもの――
と横目で見ながら触りもしなかった。いろいろ便利なこともあるらしいが、私は今の生活方法で満足している。未知の世界に足を踏み入れるのはわずらわしい。それに……わけもなくこういうときには尻ごみをするたちなのである。
ところが、つい先日、子どもがパソコン|麻雀《マージヤン》をやっているのを見てしまった。
「おい、俺にもやらせろ」
と、すわりこみ、たちまち夢中になってしまう。らくだは、いともたやすく水辺に引かれ、ガボガボと水を飲み始めたわけである。
使っているソフトはシャノワール社の“悟空”である。箱に孫悟空の絵がかいてある。
――なんでこんな名前かな――
初めは首を|傾《かし》げたが、今はよくわかる。うまいネーミングだ。そのことは、あとで触れよう。
このソフトでは九級から始まり、昇級昇段試験を突破し、やがて、十段まで至る。試験は実戦であり、当然のことながらだんだんむつかしくなる。対戦相手の三人には、|羅《ら》|刹《せつ》|女《にょ》、百眼魔王、牛魔王、李天王、|菩《ぼ》|薩《さつ》など“西遊記”の登場人物が入れ替り立ち替り現われる。
三級くらいまではほとんど一気に進んだ。そこで最初の壁にぶつかった。
――こりゃ本気でやらなきゃ駄目だぞ――
まず相手を機械だと思っていてはいけない。おりるときには、ちゃんとおりなければいけない。それに、
――相手がなにを考えているか――
段位が高くなると、それがゲームのキイ・ポイントとなる。
画面の中の相手は牛魔王であったり菩薩であったりするが、本当の相手はプログラマーである。どういうプログラムを作ったか、それを見抜いて戦わなければいけない。
少しずつ昇段のペースが落ちたけれど、なにしろ水飲みらくだだから、やりだしたら止まらない。子どもたちが、
「|親《おや》|父《じ》、大丈夫かなあ」
と、心配するくらいである。
七段にまで昇った。六段から七段への道は、まことにけわしく、一時は無理だとさえ思った。
しかし、道はなお続く。八段には七、八回挑戦したが、まだなれない。|半荘《ハンチヤン》を十八回やって、平均18点を取らなければいけない。二万五千持ちの三万返し。一位にはプラス10点、二位にはプラス5点の上のせがつくが、逆に三位はマイナス5点、四位はマイナス10点だから、この平均点のすごさがわかるだろう。つねに一位か二位でなければ到達できない。
しかも相手が滅法強い。本当に鬼のように強い。強いばかりではなく、
――うしろから見てんじゃないかなあ――
と思うくらいすごい。
こっちは三面待ちでもなかなかあがれないのに、むこうは〈|間《カン》チャン・リーチ・一発、ウラドラ……ドーン〉手がつけられない。
本当のところ、私はうしろから見られている……つまりそういうプログラムになっている、と|睨《にら》んでいる。
おそらく私は八段になれないだろう。原稿の締切りを延ばし、寸暇を惜しみ、日夜戦っているが、相手が強すぎる。率直に言えば「ずるいよ」と叫びたい。
麻雀の常識から考えて、少し不思議なことが起こりすぎる。リーチをかけても、なかなかあがれない。もちろん相手三人のリーチに対しても、こっちは簡単に振りこまない。これはこちらの努力でできることだ。ところが相手は|三色同順《サンショクドウジュン》や|一《イッ》|気《キ》|通《ツウ》|貫《カン》でリーチをかけずにあがってしまう。麻雀をやる人ならおわかりだろうが、この二つの役は、できそうでなかなかできないものである。
おそらくプログラマーは、むつかしくする手段として私の手を少しずつ“うしろから見る”ような方法を講じているにちがいない。
ここまで来ると、本当に道は遠い。まさしく西遊記の旅にふさわしい。絶望的に困難な道がはるばる続いている。
どうあがいてみても、私はコンピュータのプログラマーに操られているのではあるまいか。私があがるのも、相手にふりこむのも、みんなプログラマーの胸先三寸にある。さながら悟空が仏様の掌の上で走っているように。
「悟空よ、|自《うぬ》|惚《ぼ》れるな。まだ未熟じゃのう」
そんな声が聞こえる。“悟空”とはうまいネーミングである。おそらく私は八段にはなれないだろう。
なんじはここまで|狐《きつね》ども
むかしの小学校唱歌に“楠木正成の歌”というのがあった。正式な題名かどうかはわからない。
楠木正成が死を覚悟した戦いに挑むその途中、桜井の駅でわが子|正《まさ》|行《つら》と別れる情景を歌った歌である。“青葉しげれる桜井の里のわたりの夕まぐれ……”私以上の世代ならたいていの人が知っているだろう。
画家の村上豊さんは子どものころ、この歌の二番か三番の一節を、
なんじはここまで狐ども、
そう思って歌っていたそうである。
正成は山の中から出て来たのであり、正成を慕って何匹もの狐が桜井の駅までついて来たのだろう。そこで正成が「お前たちもここまでついて来たけれど、俺も戦いに行くのだから、ここで別れよう。早く故郷の山に帰れ」と、さとしているのであり、正成の前に狐がすわっているイメージが頭の中にしきりにあったとか。正しくは、
「なんじはここまで来つれども、とくとく帰れふるさとへ」
である。わけもなくおかしい。私はこのイメージが村上さんの画家としての才能をひらくのになにかしら役立ったように思えてならない。村上さんは狐や|狸《たぬき》をよく描く画家である。
古い歌の文句を子どもの頭で勝手に解釈しイメージを描いているケースはよくあることのようだ。向田邦子さんは有名な“野ばら”の一節を“わらべは見たり夜中のばら”と思っていたらしい。正しくは“野中のばら”である。このまちがいは、たしかエッセイ集のタイトルにもなっている。
私はと言えば……“父よあなたは強かった”という軍歌である。出征した父が、戦地で大活躍をしている。“荒れた山河を幾千里 よくこそ撃って下さった”といった文句である。私が勘ちがいをしていたのは、この部分だった。
幸か不幸か、そのころ近所に“タツさん”という職人がいて、みんなに送られて出征して行った。だから、ここは、
あーれ、タツさんが幾千里、
となる。事実、この歌はそんなふうに歌うのである。「あーれ」は感嘆詞である。市井の一職人であるタツさんがなぜ歌にまで登場するのか、子どもの頭は、そこまでは考えなかった。
文章はわかりやすく書いたほうがいい。普通の常識と教養を持った人が読んでみて、すぐに理解できない文章というのは、書いた人の頭がわるいのである。
いや、頭がわるいと言うより、書いた人自身、心の底に、
――むつかしく書いたほうが、きっと尊敬される――
そんな先入観があり、若いときからずっとそれに支配されて自分の脳みそを作りあげてしまったからだろう。平易な言葉で語れないことなんてない。あったとしても、めずらしい。
しかし、詩歌の文句を、へんにやさしく変えてしまうことには、私は反対です。
これも子どものころのことだが“春の小川はさらさら流る”と歌っていたものが急に“春の小川はさらさらいくよ”にされてしまい、釈然としない思いを抱いた。
詩歌はもともと日常の言葉とちがった用語やリズムで作られ、歌われている。少々わからないところがあっても、今にわかる。それを通して知らない言葉を知ることにもなる。よしんばまちがったイメージを描いたとしても、それがなにかの役に立ったりする。なんじはここまで狐ども、でいいのである。
私は“|苫《とま》|屋《や》”という言葉を、これも小学唱歌でよく知られている“われは海の子”で覚えた。“煙たなびくとまやこそ わがなつかしきすみかなれ”の部分である。さしずめボロ屋であろうか。ずっとあとになって小倉百人一首を読み、
秋の田のかりほの|庵《いお》のとま[#「とま」に傍点]をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
にめぐりあって、
――ああ、この“とま”は“とまや”のとまか――
と納得した。
なんだかひどくうれしかった。
勘ちがいとはべつだが、童謡の文句もなかなか正確には覚えていない。“赤い靴”は、私の大好きな童謡だが、私はずいぶん長いこと、
赤い靴 見るたび思い出す
異人さんを見るたび思い出す
そう思っていた。ところが、本当は、
赤い靴 見るたび考える
異人さんに|逢《あ》うたび考える
である。一見わずかなちがいのようだが、本物のほうがずっといい。思い出すでは、過去の情景が浮かぶだけだ。考えるのほうが、あのときから始まって現在に至るまでの時間がかかわっている。深さがある。
先日、私自身の出版記念会を開いた。私の最初の小説集“冷蔵庫より愛をこめて”から十年たち、ちょうど四六判の本を五十冊出版したので、それを記念して関係者に集まっていただいたわけである。
私は主として短篇小説の書き手だから、手数だけは多い。十年間で五百篇ほどの短篇を書いた。五百のアイデアを使い果たし、もう頭はカラッポになりそう。
――いまに書けなくなる――
その不安にはつねにさらされている。
出版記念のパーティでは、編集者のかたがたに改めて“|唄《うた》を忘れたかなりや”の歌詞を訴えてみた。
カナリヤは歌を歌うのが存在理由であり、歌えなくなったらもう価値がない。うしろのやぶに捨てられそうになったり、柳のむちで打たれそうになったりする。
小説家の運命も同じではあるまいか。
お集まりいただいた大勢の編集者に、ちょっと牽制球を投げてみたわけである。
あらためて聞くと、これはかなり残酷な歌詞である。はじめの三節は、これでもか、これでもかとばかり、むごい提案をしている。ほとんど同じようなコンセプトが、くり返して三つ続くが、文章は微妙にちがっている。それはなりませぬ、それもなりませぬ、それはかわいそう、と変えている。メロディも、リズムも、少しずつちがう。最後は、まあ、ハッピイ・エンド。“|象《ぞう》|牙《げ》の船に銀の|櫂《かい》”である。
しかし、月夜の海はカナリヤにとってつらくはないのだろうか。象牙の船は沈まないのだろうか。
この歌を聞くたびに思うことである。
雨だから
今年は本当に雨が多い。
朝、起きてカーテンを開けると、懲りもせず灰色の雨が落ちている。
――よくもまあ、雨が空に残っているもんだな。もういい加減、下に落ちてしまっただろうに――
と、ため息をつく。
もちろん私は雨があまり好きではない。
よく見る夢の一つに、雨がザアザア降っているのに傘がない。|濡《ぬ》れながら行かなければならないと、しきりに困惑している。少々なさけない夢である。目ざめて、
――ああ、よかった――
と思う。
二十代に貧乏していた時期があり、正直な話、傘一本買うお金も苦しい。本当に傘を持っていないときもあっただろう。そんな記憶が頭の片すみに残っていて、私に夢を見させるらしい。
若い頃といえば、ガール・フレンドと日曜日のデートを約束して、これが彼女とは初めてのデート。映画に行こうか、なにを食べようか、今日は手を握るくらいのところまで進んでもいいのかな、いやいや、一回目からそれはまずい、やめておこう、などと考える。
ところが、雨……。
電話がかかって来て(管理人室に電話のあるアパートに住んでいたのだが)受話器をとると、
「今日、やめましょうよ」
「どうして?」
「だって、雨が降ってるじゃない」
「そりゃ……雨くらい降るよ」
「私、雨、きらいなの」
「ちょっとぐらい、いいだろう」
「気分もすぐれないし」
押し問答のすえ、とりやめになってしまう。
――なんて言うことだ――
あの頃の私は、こんな女性の理屈を知らなかった。
私だって、雨はきらいである。
しかし、だからと言って、雨が降ることを理由にして予定を大きく変更するなんて……私の頭にはないことだった。運動会やピクニックを計画しているわけではない。映画を見て、ご飯を食べる程度のことである。台風が来ているわけじゃないんだ。
第一、彼女は丸の内のオフィスに勤めている。雨が降るからと言って、会社を休むのだろうか。そんなはずはない。
だったら日曜日のデート、雨くらい傘をさして出て来ればいいのに……。傘がないわけじゃあるまいし……。
なんたる|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》。
答は一つしかない。
――俺はそんなに好かれていないんだ――
昨夜からの楽しい想像がたちまち吹き飛んでしまう。
この恋は残念ながら実らなかった。
今になって考えると、七、八割がたは、あのとき考えた通りの事情だったろう。つまり、私はさほど彼女に好かれていなかったのである。
どんな女だって、|惚《ほ》れて惚れて惚れぬいている男のためならば|篠《しの》つく雨の中でも会いに行く。
「雨降りだからやめましょうよ」と言ったのは、私に対してやはりその程度の関心しかなかったからである。
だが、絶望的なほど脈のない情況であったかと言えば、かならずしもそうではない。女性の中には、かなり本気で雨の日の外出をいとう人がいて、こんな人にとっては「雨降りだからやめましょうよ」は「あなたに会いたくないの」と、かならずしもイコールではない。私もはやばやとあきらめたりせず、もう少し押してみれば……そう、次の晴れた日曜日を|狙《ねら》えば、
「このあいだ、ごめんなさい。天気がいいと私、うきうきしちゃうの」
そのままホテルへ行ったかもしれなかった……。
ホテルはともかく、人は自分を基準にしてものを考える。もし私が「雨だからやめておこう」とデートを断ったのなら、これはもう百パーセント、その女に会いたくないからである。けっして雨のせいではない。ほとんどの男がそうなのではあるまいか。だから、相手の女もそうなのだろうと私は考える。
だが、このあたりにほんの少し|誤謬《ごびゅう》があるようだ。
今、述べたように、ただ雨がきらいという女性もいて、それがデートを断る二、三〇パーセントくらいの理由になっているケースもないではないらしい。
女は誘われて動きだす性である。もともと、そう作られているのか、それとも長い歴史の中でそういう役割を強いられたからなのか、そこまではわからないけれど、とにかく男が誘い、女が誘われる、これが普通のパターンである。
誘うほうは、おおいにおのれの心を鼓舞しなければいけない。楽しい想像をめぐらし、ほっぺたを|叩《たた》き、
――よし、行くぞ――
エネルギーをみずからかき立てなければ、ことが始まらない。雨くらいでやめてなるものか。
一方、誘われるほうは、はじめからそう激しく燃えたりはしない。恋のテクニックとしてそうする場合もあるが、事実、ゆっくりと動きだし少しずつその気になる。しばらくは腰を引き加減にしている。
――あんなに誘ってくれるんだから、少しつきあってあげようかしら――
そのくらいの気分である。|厭《いや》ではないけれど、なにがなんでもという心境にはほど遠い。
そこに、雨……。
――なにもこんな日にデートすることないじゃない――
髪は濡れるし、おしゃれもできない。
――傘を持って歩くのって、なんか厭じゃない。断っちゃおう――
となってしまう。
雨がきらいな彼女としては「雨だからやめましょう」のひとことで男が絶望的なほど傷つくとは考えない。これまた人は自分を基準にしてものを考える、もう一つの例である。
たったこれだけのことを理解するのに、私はずいぶん長い年月をかけたような気がする。
親しい女性編集者に、この話をしたら、
「わかります」
と|頷《うなず》いたあとで、
「でも、この頃は若い男の人の中に“雨だから、俺、出たくないな”そう言う人、いるみたいですよ」
と教えてくれた。
雨の日に会社を休む男がいたりして……。
私の目くじら
ある講演会の主催者から、私の略歴を記したパンフレットが送られて来た。生年、学歴、職歴、などを記したあとで“国会図書館面接の際「将来は館長になりたい」との名セリフを残す”と書いてある。
パンフレットを作成したかたの工夫には感謝するけれど、
――少しちがうな――
とも思った。感謝のほうを先に言えば、これは私自身がエッセイに書いていることである。作成者は私の作品をいくつか読み、この部分に行き当たり、こんな形で紹介したにちがいない。無味乾燥の略歴紹介が多い中で、この気くばりはうれしい。
だが、短い引用なので不正確なところもある。この一行を見た人は、なにを考えるだろうか。入社試験で「将来は社長になりたい」と答えたようなものである。野心満々、上昇志向の人間像を想像するにちがいない。
そうではなかった。
面接官が「図書館の仕事の中で、どんなことがやりたいか」と尋ねたのである。私は図書館職員養成所に通っていたから、図書館の業務をある程度知っていた。面接官もその前提で尋ねたのだろう。整理、閲覧、リファレンス……知ってはいたが、どれもとくにやりたくはない。学生時代に肺結核をわずらい、やりたい仕事という発想よりも、むしろ体に無理のない、安定した職種という観点で応募した職場だった。とっさに茶目っ気が出て、
「館長なんか、おもしろいと思います」と答えてしまったのである。
すぐに後悔した。
――与太が過ぎたかな。これで駄目だろうな――
採用されたのは好運だった。館長になりたいと本気で思っていたわけではないし、簡単になれるはずもなかった。
国立国会図書館の館長について言えば、これはものすごく偉い。日本で一番偉いお役人と言ってもいいくらい。まったくの話、これより偉いのは内閣総理大臣、衆参両院の議長……。しかし、どちらも選挙で選ばれた人たちであり、下から勤めあげた普通の公務員ではない。学校を出てから係長、課長とピラミッドを昇り、普通の手段でたどりつくポストとしては国立国会図書館の館長が公務員として一番偉い。なにしろ国務大臣待遇なのだから。
大蔵省を例にとって言えば、ここでは大蔵大臣がトップにいて、そのすぐ下に政務次官と事務次官がいる。政務次官は議員であり、選挙で選ばれた政治家である。大臣も政務次官も、そのときだけこのポストに就いているのだから、臨時雇いのようなものである。優秀なる大蔵官僚の最後の到達点は事務次官。この人の権力は、はい、絶大なものです。
それでも次官は次官。国立国会図書館の館長は、権力はともかく、ポストとしてはそれより偉い。副館長が次官と同じ高さである。
どうです、驚きましたか。
私が簡単になれるはずがない。
どうしてこんなことになったのか。大急ぎで説明をすれば、昭和二十年代、占領下の日本。この国の将来について占領国であるアメリカ合衆国の内部に、
――文化的な理想国家を作ろう――
という良心的なグループがいた。そのためには行政府から離れたところに文化のシンボルとも言うべき図書館を置き、このトップには大臣級の権限と名誉を与えようと、そういうことになったらしい。
その後、数十年、この理念がどうなったか、ここでは言わない。
よってもって国立国会図書館館長は、大変高いポストになったけれど、初代の金森徳次郎氏を除けば、あとは衆議院の事務総長と参議院の事務総長が交互に務めている。数十年間、まことに、規則正しく……。
ちなみに言えば、両院の事務総長はそれぞれの事務局で一番偉い人だが、次官待遇である。この先、両院の議長になれるわけではない。行き止まりまで来て、近所を見ると、もう一つ高いポストが、つまり国立国会図書館の館長職があるではないか。
「仲よく交替で分けあいましょうよ」ということになった、と、私には見えるのである。だれが見てもそう見えるのである。
本当のことを言えば、この職には、名をあげてすぐにだれもがわかるような、一国の文化的シンボルであるような、そんな人が就くのがふさわしい。
話をもとに戻して、私の略歴を見ていてもう一つ、気がかりなことがあった。このパンフレットだけではなく、一般によく見かける記述なのだが、私について「“ナポレオン狂”で第81回直木賞受賞」と書いてある。
まちがいではないが、誤解されやすい。
少しややこしい話なのだが、私には「ナポレオン狂」という短篇小説と、もう一つ同じ“ナポレオン狂”というタイトルをつけた一冊の本とがある。本のほうには、「ナポレオン狂」という短篇のほかに十二の短篇が収録されている。直木賞はこの本一冊分、合計十三の短篇に対して与えられたものであり、「ナポレオン狂」という短篇一つに与えられたわけではない。だから誤解のないように書くとすれば「短篇集“ナポレオン狂”で第81回直木賞受賞」がわかりやすい。
本人が気にするほど世間は気にしない。重箱のすみをつつくような話などどうでもいいと思うだろうし、こっちも少し面倒なので、あまりむきになって訂正などしないのだが、
「あのう、『ナポレオン狂』って、たかだか四十枚くらいの短篇でしょ。あれ一つで直木賞をとったんですか。いいな」
などと言われると、これは私事ではなく、直木賞の権威にもかかわるような気がする。
だから昨今はときどき目くじらを立てて訂正している。
そう言えば、国立国会図書館の“国立”もけっして無意味についているわけではない。
この図書館は国立中央図書館であると同時に、その一部で国会(のための)図書館を営んでいるのである。略して呼ぶならば、国立図書館のほうがふさわしい。国会図書館だけでは、
「普通の人が利用できるんですか」
といった疑問が起きて当然だろう。私自身が書くときはかならず国立国会図書館と書く。
悪意あり
ゲーテの最期の言葉は、
「もっと光を」
だったとか。
うーん、さすがはゲーテ。ありがたいことを言うわ。|無《む》|知《ち》|蒙《もう》|昧《まい》な私たちに対して適切な教訓を残してくれたんだ、と思いたいところだが、実際は臨終の部屋が暗かったせいらしい。
この言葉のすぐ前に、
「窓を開けてくれ」
と、召使いに頼んでいる。それに続けてこれを言っているのだから、
「もっと明るくしてほしい」
くらいの意味だったろう。
なーんだ。
なにしろ“ゲーテの語らなかった真理は一つもない”と言われたくらいの人だから、なにげない日常の|台詞《せ り ふ》も、りっぱなアフォリズムにされてしまう。
しかし、ゆっくり考えてみると、このエピソードそのものが、ゲーテの残した教訓なのかもしれない。
つまり、言葉というものは、それが語られる情況、前後の文脈を抜きにしては本当の意味は伝わらない。ゲーテ本人はなんの意識もなかっただろうけれど「もっと光を」は結果としてその典型的な例となった。
「窓を開けてくれ。もっと明るくしてほしい」だけだったものが、その一部を引用して、そこにゲーテに対する敬愛の念が加われば、
「もっと光を」
ありがたいなあ、になってしまうのである。
これは私たちの日常生活でもしばしば経験することである。ゲーテの場合は、なにげない言葉がよい意味にされているから救われるけれど、たいていは言葉の一端をとらえて、
「あの人、こんなひどいこと言ったのよ」
と|誹《ひ》|謗《ぼう》の材料として引きあいに出される。
言った当人としては、
――そういう意味で言ったわけではないんだがなあ――
と、いくら弁明してみても、たいていはもう遅い。悪意で引用されたら、正反対の意味にもなってしまう。
一例を挙げよう。
ひところ私はカルチャー・センターで小説の書き方を教えていた。
「××さんの文章は、一般的に言えばけっしてよい文章ではありません。私はそう思います。ぎくしゃくしているし、ちょっとわかりにくいところもある。滑らかじゃない。でも、その文章が、××さんの描く世界と微妙に呼応している。よくあっている。やっぱりこの文章でなければ××さんの世界は表現できないなあ、と思う。それが小説家の文章であり、名文なんです」
××さんのところには、著名な小説家の名前が入る。
私としては、ほめているのである。これは本当だ。|歯《は》|応《ごた》えのある思想は、歯応えのある文章で書かれたほうがよい。
だが、聴講生の一人が、あちこちで、
「阿刀田先生が言ってましたよ。××さんの文章はいい文章じゃないって」
|吹聴《ふいちょう》しているらしい。
これは困った。××さん自身の耳にも入っているのではあるまいか。月夜の晩ばかりがあるわけではない。
さりとて、××さんに電話をかけ、
「あのう、私があなたの文章はよくないって言ってると、そういう|噂《うわさ》が流れているらしいですけど……」
と釈明するわけにもいかない。この手のことは弁明の機会さえ与えられないのが普通である。
以来、この講義はやらないし、この誌面でも××さんと名前を隠しておく由縁である。
似たようなことは、世間でもひんぱんに起こっているだろう。
野球場というところは、耳をそばだてて聞いていると、本当にすさまじい。
「この野郎、北別府、死んじまえ」
ひどい野次が飛ぶ。
「岡田、あほんだら。顔がわるい」
「中畑、どこ見てる。わるいのはお前だ。せんずりかいて寝ろ」
引用するのもはばかられてしまう。
これだけの|罵《ば》|詈《り》|雑《ぞう》|言《ごん》を面と向かって言ったらどうなるか。ただですむはずがない。
野球場だから、まあ、許されるわけである。
「王様の耳はろばの耳」という童話があったけれど、野球場の野次はほら穴に向かって叫んでいるようなものだ。少なくとも叫んでいる人の意識はそれに近い。言葉だけ取り出して、
「あなたは、北別府投手に“死んじまえ”と言ったそうですが……」
と言われたら、困ってしまうだろう。
一番誤解されやすいのはジョークのたぐいだろう。当人は冗談のつもりで言ったのに、相手はそうは取らない。よくあることだ。
それと、政治家……。舌禍のたぐい。つい本心がこぼれ出てしまうケースもたしかに多いのだが、
――聞いた人がことさらにわるく取ったんじゃないかなあ――
と思いたくなるケースもけっして少なくない。新聞、雑誌の記者の中には、悪意に解釈する癖を持った人がいないでもないから……。
最悪の例を一つ。
もう七、八年ほど前のことになるだろうか。私のデスクの上の電話が鳴った。
「もし、もし」
相手は、ある週刊誌の名を挙げ、その取材記者だと名のった。風俗関係の取材らしい。
「なんでしょう」
「このごろ女性相手のソープランドっていうか、女性客が行くと、若い男がセックスの相手をしてくれる店があるそうですが、ご存知ですか」
どうして私にそんなことを聞くのか、わからなかった。けっして気取って言うわけではないけれど、私はその方面にとくにくわしくはない。なにかのまちがいだろう。
「知りません」
と答えて、電話を切った。
後日、雑誌が送られて来た。記事の冒頭に太い活字で書いてある。
“女性相手のソープランドが東京にあるかどうか、作家の阿刀田高氏は「知らない」と言うが、これはたしかに実在するのだ!”
取材の内容にはなんの嘘も|混《まじ》っていないけれど、私はその道の権威になってしまった。
|蕗《ふき》|谷《や》|虹《こう》|児《じ》など
講演で新潟県の|新《し》|発《ば》|田《た》市へ行った。
新発田と聞いて私がまず第一に思い出すのは、遠い時代に日本の各地でテントをかけていたシバタ・サーカスのことである。
シバタ・サーカスは新発田市に本拠地を置く曲馬団であった。いや、厳密に言えば、少しちがうのだが、私はずっとそう思っていた。
ソ連やアメリカのサーカスは明るすぎて私は少し気に入らない。少なくとも私の記憶の中にあるサーカスは、あれではない。
クラリネットが陽気に音楽を奏でていたけれど、サーカスはいつも悲しく、かすかに恐ろしい気配があった。
そう、人さらい……。
さらわれた子どもは、毎日酢を飲まされ、体の骨をやわらかくして、親方に|鞭《むち》で打たれて芸を仕込まれるのだとか。
まさか私の知っている時代にそんなことが本当にあったとは思わないけれど、興行のあとテントがあとかたもなく消え、|昨日《き の う》までのざわめきが逃げるように知らない町へ立ち去って行ってしまう。そんなサーカスには、人さらいくらいあってもおかしくない、不思議な怪しさがあった。
父や母もサーカスを見に行くことを許してはくれたけれど、
「まっすぐ帰って来るのよ」
と、つけ加えるのを忘れない。
一歩まちがえば、とんでもない|陥《かん》|穽《せい》がある……。事実、興行師たちの世界は、普通の家庭とは折りあえない部分を持っていただろう。
明るいサーカスに違和感を持つのは私だけではあるまい。
「ちょっとちがうのよねえー」
「これ、文部省推薦じゃないの?」
つい最近、新橋の汐留駅跡のあき地で、リングリング・ブラザーズの興行を見たのだが、私たちの世代の印象は共通していた。
ことのよしあしを言うのではなく、昔のサーカスは怪しく、なつかしい。悲しげな様子のピエロはどういう人たちだったのか。踊り子に恋している男や、踊り子を食いものにしている男や、いろいろいたにちがいない。
|昨夜《ゆ う べ》|巴《パ》|里《リ》に笑い過ぎ
|今《け》|朝《さ》は巴里を泣いて|覚《さ》め
若い身空を なんとしょう
笑いのマスクを盗まれた
ことこと ことこと
ことこと ことこと
涙のマスクを ふところに
旅のピエローは 身が|痩《ほそ》り
夜更けをセーヌへ水鏡
ことこと ことこと こと
なぜ突然パリのピエロがここに登場するかと言えば、これは蕗谷虹児の詩であり、蕗谷虹児は新発田市の出身者だから。市の文化会館のとなりにこぢんまりとした記念館が建っている。
今では蕗谷虹児の名を知る人もそう多くはないだろうけれど、大正の末期から昭和の初めにかけてモダニズム|溢《あふ》れる画風と詩歌でそれなりの人気を集めた人であった。
きんらんどんすの帯しめながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろう
文金島田に髪結いながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろう
この文句で始まる童詩“花嫁人形”の作詩者と言えば「あ、そうなの」と、たいていの人が|頷《うなず》いてくれる。芸術家の評価は、どの道むつかしいものではあるけれど、大ざっぱに言って蕗谷虹児はイラストレーションの分野では竹久夢二の次くらい、童詩の分野では西条八十の次くらい……と言ったら、お|叱《しか》りを受けるだろうか。
真価はともかく、世間の扱いとしては、このあたりが当たらずとも遠からず。しかし、私は中学生の頃にたまたま虹児の詩画集を見て、
――うん、これはおもしろい――
今日に至るまで、ずっとファンであり続けている。新発田と聞いて、第二番目に思い出すのは、この詩人のことである。
たったいま引用したのは“夜更けに聴く靴の音”という題。短い詩だが、気分はよく出ている。このピエロも遠い昔のサーカスの男、あまり幸福な影を引きずってはいない。
“花嫁人形”の詩について言えば、|金《きん》|襴《らん》|緞《どん》|子《す》だの、文金島田だの、こんなときに言う決まり文句を用いていながら、詩がちっとも俗っぽくなっていない。そこがすばらしい。しかもどちらの名辞も、かなり大げさな用語である。飾っていながら抑制のきいているところに作者のセンスがある。もう一つ、引用させていただこう。“遠めがね”という題の童詩である。
オランダ船の|伴《バ》|天《テ》|連《レン》さまはまだ若い、
のぼる帆橋 遠眼鏡。
高い帆橋 雲のなか、雲のなかから|覗《のぞ》いてみたら
|鬱《うっ》|金《こん》|香《こう》咲くオランダが
丘が、わが家が、いもうとが、
くるくるまわる風車
くるくるまわって
ちょいと消えた。
も一度 見たいと
のぞいてみたら
遠くフジヤマ 帆かけ舟
見えるは旅の空ばかり。
ここでは鬱金香が、すてきな言葉使いである。初めて読んだときには、なんのことやらわからなかったけれど、これはチューリップ。故郷のオランダを眺めているのだから、そこに咲く花はやはりこれがふさわしい。これもずいぶん仰々しい用語だが、詩の中ではほとんどそれを感じさせない。むしろ“ウッコンコウ”というリズムが、前後の文句とよく折りあって、ほどよい調子を作り出している。
中学生の頃の私は科学少年で、将来は化学者になって日本の科学発展のために貢献しようと、まことに頼もしいことを考えていた。
だが、今になって考えてみると、詩歌や小説のたぐいにも結構好みがあって、
――うん、これはいい調子だ――
一人でそらんじて悦に入っているところがあった。それが今の仕事に役立っていることはまちがいないだろう。
蕗谷虹児について語る人は少ない。それだけに虹児に触れると、忘れていた古い写真を急に見せられたみたいに、遠い日が|忽《こつ》|然《ぜん》とよみがえって来る。私の心の中ではサーカスと蕗谷虹児が結びついている。そして、いつもあやしい夢を見させてくれる。
パンと花と犬
青山に住んでいた頃、よく近所の「ヨックモック」にコーヒーを飲みに行った。
ヨックモックは洋菓子のメーカーだが、ここにはティ・ルームがあって、雰囲気がとてもよろしい。思いがけない美人を無料で(もちろんコーヒー代は必要だが)客席に見つけて鑑賞するチャンスも多い。
それに、忘れちゃいけない。トーストがおいしい。私の好みである。
このことは、ほかのエッセイで書いたことがあるのだが、あらためて、しつこく書く。
パンが柔かく、厚い。そこにバターがたっぷりと染み込ませてある。
私はトーストを注文して自分でバターをぬるのが好きではない。面倒だし、パンもぬるくなっていて、バターが染み込まない。この店のトーストは調理場で熱いパンにバターをぬり、そのあとでもう一度焼くにちがいない。バターはパンの表面でプチプチと小さな泡を立てて溶けていて、ちぎって口に含むと、中のほうまで熱く染み込んでいる。こんなトーストを食べさせる店はけっして多くはない。私一人の好みではあるまい。重ねてここに紹介する理由である。
青タイルを|貼《は》った建物も美しいが、中庭にある花水木がまたすばらしい。たった一本、高く、優美に枝を広げている。
アメリカ花水木と言うくらいだから、アメリカ大陸が原産地なのだろう。昔はあまり見なかった。あまり聞かなかった。
白と赤と二種類の花があり、どちらも趣きがある。花のあとの緑葉も充分に鑑賞に堪えるし、秋の紅葉も|鉄《てつ》|錆《さび》色のやきもののように染まって、これもよい。すっかり葉を落とした冬枯れの枝ぶりもわるくない。四季を通じて眺めることができる。
「すてきね」
「うん。ああいう木がほしいね」
妻と二人で憧れていた。
四年前、自分の家を建てることになり、設計図には小さな中庭がある。
いや、中庭を作ったことさえ「ヨックモック」のイメージがあったから……。敷地の広さは比べようもないけれど、とにかく、もの|真《ま》|似《ね》をしてみたかった。
ご多分に漏れず家屋のほうに予算をあらかた使ってしまい、庭木のほうまでお金がまわらない。
「十万円くらいで、どう?」
「花水木ですか、せめて十五万円は出していただかないと」
「じゃあ、それで捜して」
植木屋さんに無理に注文して、憧れの花水木を一本植えてもらった。
「ヨックモック」の花水木は(伝聞なのでちがっているかもしれないが)あっちこっち手を尽して捜しまわり、百万円を超える名木なんだとか。彼我の差はおのずと現われる。かなりちがう。
「なんだかうちのは貧弱ねえ」
「枝ぶりがわるいな。今に育つんだろ」
「このくらいが身分相応なんじゃないかしら」
今どき小なりと言えども庭のある家を持てるなんて……贅沢を言ってはなるまい。
「ヨックモック」と比較さえしなければ、結構見られる。わが家の花水木もちゃんと春には花を咲かせ、秋には落ち葉を散らす。私は青山へ行っても、このごろは「ヨックモック」へは立ち寄らない。そのほうが心の安定によろしい。
「犬を飼おうよ」
家を持って、まず子どもたちが願ったのが、このことだった。
「うん。ちゃんと面倒をみろよ」
私は犬が好きである。子どもの頃はいつも家に犬がいた。
本当のことを言えば、子どもたちがもっと幼い頃に犬を飼ってやりたかった。|餌《えさ》をやり忘れれば、犬は飢えるよりほかにない。水を与えなければ飲めない。ともすれば過保護になりがちな昨今の子どもたちに、犬を飼わせれば、|厭《いや》でも自分より弱い者がこの世にいることを教えられる。世話をしてやらなければ、犬は死んでしまうのである。「試験があるから」とか「お友だちの家に行ってたから」とか、そんな理屈はなんのたしにもならない。犬を飼うことは教育のたしにもなるだろう。
だが、ずっとアパート住まいだったから無理だった。おくればせながら中庭のある家を持って飼うことにした。防犯の役にも立つ。
犬種はシェトランド・シープ・ドッグ。コリーを小さくしたような中型犬である。俗称はシェルティ。
これもよくできた犬だ。
頭のよしあしや性格は、それぞれに差があるだろうし、飼い主のしつけにもよるけれど、とにかく造形的に美しい。上品で、バランスがよくとれている。毛並みの美しさ、色の配合も申し分ない。
「わが家で一番美形なんじゃないか」
「血統だって、断然いいんじゃない」
私の家系も妻の家系もとり立てて言うほどのものではない。日本には家系のいい人なんてめったにいない。
それに比べれば、わが家のシェルティは、|曾《そう》|祖《そ》|母《ぼ》ぐらいがちゃんと犬の本に記載してある。由緒ある血筋の|末《まつ》|裔《えい》である。
おおいに満足していたのだが、ある日、知人が訪ねて来て、
「ああ、お宅もこれ。このごろ、はやってるからねえ」
「そうなの?」
たしかによく見る。昔はあまり見なかった。シェトランド・シープ・ドッグなどという名前も聞かなかった。
「名犬ラッシーってのがいただろ、映画に」
「うん。あれはコリーだろ」
「そう。戦後の日本人はみんなあの映画を見て“ああいう犬、飼いたいな”って思ったんだな。ところが住宅事情がわるいから、あんなにでかいのは飼えない。それで、あれを少し小さくしたシェルティを飼っているんだ。代償行為。いじましいよ」
指摘されてみると、なんとなくそんな心理が私の中にも働いていたような気がする。
花水木とシェルティ。どちらもわるい品種ではない。何十年か前までは、今ほどよく見かけるものではなかった。今では、どこにでもある。どこにでもいる。
知人はさらに続けた。
「成金趣味とまでは言わないけど“中流の上”的陳腐さだな」
せっかくわるくないと思っていたのに……。
わが家の昼下りは花水木の下でシェルティが眠り、私がそれを見つめている。以前は嬉々として、今は少々鼻白んで。
命名法余聞
「私の|苗字《みょうじ》は黒田と言いますが、小説を読んでいると、黒田というのはたいてい悪人役です。やっぱりイメージがわるいのでしょうか」
大まじめな顔で読者に尋ねられ、私は困ってしまった。
「私の小説にも出て来ますか?」
すぐに思い出すものは……ない。
「いえ。先生の作品では、まだ見ませんけれど」
彼は彼なりに気にかけているらしい。
「ほかのかたがどういうつもりで登場人物の名前をつけているか、わかりませんけど、そうですね、やっぱり名前の持つイメージってのはありますね。黒田はわるい役が多いですか。そうかなあ。わるいというより力強い感じ。やり手の上役とか、腕ききの刑事とか、そんなときにつけたくなりますね。私はとくにわるいイメージは持ちませんけど」
と、お茶を濁した。
登場人物が自分と同じ苗字だったりすると、読み手は、特別な思い入れを抱いてしまうものなのだろうか。私には実感がつかめない。
私の名は、本名である。日本中に何人もいる苗字ではない。成人で二、三十人くらい。全部親戚である。今までそうでない人にひとりとして会ったことがないし、聞いたことがないのだから……。九十九パーセント以上の確率で「親戚以外はいない」と断言してよい。東京都二十三区の電話帳には私しか載っていない。
こういう苗字は、まあ、小説には登場しない。登場したとすれば、それは作者のほうになにかしら意図があってのことだろう。この苗字の主人公が殺されたら、
――ああ、俺、あの作家に恨まれているんだな――
と、これは推測してもよいだろう。
しかし、鈴木だの、田中だの、高橋だの、黒田だってそう深く考えることはあるまい。小説家のほうは、そのときの思いつき、苦しまぎれ、それほど深い考えがあって登場人物の名前をつけているわけではない。
机の上に同窓会の名簿が立ててある。私の場合はこれを見る。
名前なんてどんな名前をつけたってよさそうなものだけれど、実際命名するとなると結構むつかしい。知人の名はやめておこう。特殊な名前も避けたい。|中《なか》|曾《そ》|根《ね》さんだの、掛布さんだの、べつなイメージが加わってよくない。
理由はよくわからないが、きらいな名前というのもある。とりわけむつかしいのは、姓と名との組み合わせだろう。人工的な名前はどうもしっくりとしない。姓と名のあいだに断絶があるように思えて、
――こんな名前、いかにも|嘘《うそ》っぽいなあ――
と、われながら鼻白んでしまう。姓と名と、べつべつに見ているぶんにはさほどおかしくはないけれど、|繋《つな》げてみるとへんてこになってしまう。
日本の国民的英雄と言ってよいほどの、車寅次郎さん、これはわるくない。現実にこの名前を小説に使うかどうか……なんの先入観もなく与えられたとしたら、
――サラリーマンじゃちょっと無理かな。職人さん。五十歳はすぎてないと――
と思うだろう。
その限りではとくにわるい名前ではないけれど、その妹のさくらさん。あの人は結婚前は当然“車さくら”という名前だったはずである。語呂もわるいし、印象も具体的すぎて滑稽でさえある。私はけっしてつけないだろう。
あれこれ名前を考えていて、
――うん、これで行こう――
きめたところで、もう一度よく検討をする必要がある。
ミステリーのヒロインに赤木雪子という名を与えて六十枚ほどの短篇を書きあげた。私が国立国会図書館をやめ、小説を書き始めて間もない頃だった。
原稿を編集部に渡し、著者校正のためのゲラが戻って来て、これに赤字を入れて返す。そのあとで、ふと気がついた。
図書館時代の上司に青木恭子さんがいて、この“恭子”は、なぜか“ゆきこ”と読む。
“あおき・ゆきこ”と“あかぎ・ゆきこ”、この符合性を感じない人はいないだろう。ヒロインは殺人を犯す役どころ。しかも小説の舞台は図書館だった。
上司の名前が“青木雪子”であったならば、私はいくらなんでも“赤木雪子”とはつけない。“恭子”を“ゆきこ”と読むことを忘れていたのである。痛くない腹をさぐられるのはつらい。あわてて印刷所に電話をかけた。この段階まで来て大幅な修正は、歓迎されない。つまらないまちがいも起きる。
「すみません。赤木とあるのを全部宮木に変えてください」
なんとか間にあって誤解を避けることができた。
ところが実際に雑誌が送られて来たのを見ると、なおし忘れが二か所もある。ヒロインは赤木のままで二度も出て来る。今“つまらないまちがいが起きる”と書いたのは、たとえばこういうことだ。
読者はさぞかし驚くだろう。
今までに一度も出て来なかった人が、殺人現場になんの説明もなく急に登場するのだから……。これはよくある失敗の一つである。
それを避けるためには、名前はあとでなおしてはいけない。初めにちゃんと考えてつけること。
――あとで変えればいい、とりあえず浦島太郎と山田邦子でいいじゃないか――
などとやっておくと、ろくなことがおきない。
そう言えば、小説雑誌を読んでいて、もう一つ、ときおり目にするまちがいは、小説の中身と挿し絵がちがっていること……。
主人公は“ダイヤルをまわした”と書いてあるのに、絵のほうはプッシュフォンである。“長い髪を束ねている”はずなのに、絵の女性はショートカットである。
――この画家、ろくに作品を読まずに絵をかいたな――
と読者はお思いだろうが……残念でした。
小説家の原稿が遅れ、
「絵のほうは、絵組みでかいてもらってくださいよ。うん、若い女が電話をかけてる場面……。適当でいいから」となる。
絵組みというのは、おおまかな説明だけを聞いて画家がそれにあわせて絵をかくこと。本文を見てないから細かいところがちがってしまう。その可能性が大きい。わるいのはたいてい小説家のほう。五対一くらいの|賭《か》け率でそうなのである。
理性効果と感情効果
ボーナスの季節になると鮮明に思い出すことが一つある。二十数年前、友人のO君が、
「ボーナスが出た。飲みに行こう」
「いくら出た?」
「手取りで十二万円とちょっと。まあ、こんなもんだな」
「うん」
その金額は公務員の私よりずっと多かったが、世間の相場から言えば、上の下くらいではなかっただろうか。手もとの資料で見ると、公務員の初任給が一万数千円の頃のことである。
行った先はO君が根城にしている四谷のバーだった。O君は飲んべえだから、私は、
――おそらく相当のつけがたまっているぞ――
と想像していた。
私のほうは人間が小物だから、借金があまり好きではない。酒場のつけなどは、一、二カ月くらいのうちにあわてて清算する。
O君もほかの面ではとくにずぼらというほどのこともないのだが、飲みたい酒の量に比べると手持ちの金子が常時少ないほうだから、どうしてもつけがたまる。四谷のバーは、とりわけそれがひどかった。
飲むほどに酔うほどにママが前に来て、
「いらっしゃいませ」
「ボーナスが出た。つけを払う」
「あら、うれしいわ」
「じゃあ、これだけ」
O君がポケットから出して支払ったのは十万円の金額だった。
「こんなに……」
ママは絶句し、つぎに見る見る表情を変えた。
その歓喜の表情が忘れられない。まったくの話、歓喜を通り過ぎ、感動というか感激というか、払ってくれた人の人格に対する尊敬までが含まれているように見えた。
「わるいわ」
「いいよ。まだ少し残ってるだろ」
「あと……二万円くらい」
「うん。いずれな」
「ありがとうございます」
深々と頭を垂れた。
考えてもみよう。サラリーマンなら、だれでも実感できることにちがいない。暮れのボーナスを十二万円もらった。そのうち十万円を、その夜のうちに一つの酒場にポンと支払うことが、どれほど度胸のいることか……いや、まあ、度胸という言葉を使うほど大げさな出来事ではないかもしれないが、簡単にはできないことではある。ほとんど見ないことである。O君はほかにも若干の支払いがあるだろうし、ボーナスは多分これでおしまい、ほとんどなにも残らない……。
――偉いもんだなあ――
|呆《ぼう》|然《ぜん》として眺めていた。古くから知っている友人ではあったけれど、あらためてO君の人柄について感じ入ってしまった。
――待てよ――
もちろんもう一つの考えがすぐに脳裏をかすめる。
私はO君ほどは飲まないけれど、そこそこには飲む。O君がどのくらいの期間をかけて現在の借金を作ったか知らないけれど、私だって一年、二年のスパンで考えれば、十万円近く飲んでいる酒場がないでもなかった。
ただ私はその都度払う。少なくとも一、二カ月以内に清算をしている。どっちが店にとってよい客であるか。
答は考えるまでもない。ママとの話では、O君はまだ二万円くらいのつけを残しているふうではないか。これだけだってりっぱな借金だった。
その夜、終始O君に対して愛想のよかったママを見ていて、私はなんとなく、
――わりがあわないなあ――
と思った。
これからは私も飲み代をすぐには支払わずにおいて、そのぶんを貯金しておき、頃あいを計り一度にドッと払ってやれば、あんなすばらしい笑顔にめぐりあえるのだろうか。尊敬までしてもらえるのだろうか。
しかし、そのためには、何度も何度もつけの積み重ねをやって、苦い思いを体験しなければなるまい。やはり小物にはできない技なのだろう。
人間の行動が相手に与える影響には、理性効果と感情効果とがある。
前者は相手が理性で判断してどう評価するかということであり、後者は感情で受け止めてどう感ずるかということである。
厳密に区分できることではあるまいが、今のケースなどは一つの典型を示している。
理性的に判断すれば、このママはちっとも喜ぶことなどないのである。この店にもきっと通って来ているであろう私のような客にこそママは感謝をすべきなのである。
おそらくそちらにもちゃんと敬意は払っているのだろうけれど、人間には感情というものがあるから、これがまたべつな結果を示す。
ポンと十万円。ボーナスのあらかた……。簡単にできることじゃないのに……。助かったわ。一瞬のうちに|薔《ば》|薇《ら》色の感情が頭の中を走りぬけ、理屈はともかく|欣喜雀躍《きんきじゃくやく》とした表情が顔に浮き出てしまったのだろう。
理性的に考えればO君は当たり前のことをやっただけだが、軽々にやりおおせることではない。ボーナスについて言えば、奥さんという生活のパートナーによってでさえ、あらかた取られるのは、くやしいではありませんか。まして他人に……。
社会生活を続けて行くうえで、なによりも大切なのは理性効果でポイントをあげることのように思われるけれど、感情効果のほうもけっして馬鹿にはできない。理性効果は、ゆっくり考えたうえで作用するものだし、感情効果のほうは、なにはともあれ、その瞬間に一定のインパクトを与えてしまう。
たとえば、恋人と待ちあわせるとき。時間通りに現われる人が一番りっぱな人のはずだが、現実には少し遅れ、相手が、
――もしかしたら来ないんじゃないかなあ――
不安が募り始めた頃に小走りにやって来て「ごめんなさい」などと言われると、
――ああ、よかった――
となり、なんでも許したくなってしまう。
同様に男女の仲でも、一方は律義に、|几帳面《きちょうめん》に行動しているのに、
「わるい人じゃないんだけど、いつも型通りで、つまんないのよね」
などと言われてしまう。
理性効果はだれでも計れる。人間関係の巧みな人というのは、感情効果においてすぐれている人のような気がしてならない。
選挙法私論
“|嘘《うそ》は|泥《どろ》|棒《ぼう》のはじまり”と言う。
嘘は口でつくものであり、泥棒はやっぱり運動神経が発達していたほうがいい。この二つは異質の才能のような気もするが、ここで言う泥棒とは悪人の代名詞。嘘をつくのが悪事のはじまりということなら、よくわかる。
だれだって嘘はつきたくない。嘘をつくのは、なにかしら不都合があるから……。その不都合を不都合のままにしておいて、なんとか見せかけだけは取りつくろってしまう。こういうことに慣れると、ろくなことがない。
私の記憶では、昔は、嘘をつくのがもう少し恥ずかしいことだった。もちろん“嘘も方便”という|諺《ことわざ》もあったし、この世の中まったく嘘なしで渡れるほど晴天続きではないと、その事情には今も昔も変りはないだろう。だが、私の実感では、なんとなく……少なくとも今よりは嘘に対するマイナス感覚がなべて昔は強かったように思う。
男は嘘をつかないもの……。いや、いや、男性こそ嘘つきだし、こういう言い方自体女性を|蔑《べっ》|視《し》していることだろうけれど、昔の男たちは心のどこかでこの気概だけは持っていたように思う。いつのまにか世の中はいい加減になってしまい、
「いいじゃない、そんな堅いこと言わなくたって」
「しゃれ、ほんのしゃれだよ。|野《や》|暮《ぼ》なこと、言うなよ」
「だれだって嘘はつくんじゃないの。憲法第九条だって嘘だしさァ、世の中もっとわるいことあるよ。核兵器とか……」
嘘に対するとがめだてがめっきり弱くなったように感じられてならない。
嘘というのは、ついた本人だけは、それが嘘であると、よくわかっているはずである。社会のしかるべき立場にいる人が嘘をつき、他人がそれを証明することがむつかしいからといって、さほど|痛《つう》|痒《よう》を感じないでいるのは本当に不思議である。それをいろいろな形でかばっている人も、同様になげかわしい。
“これだけの国民にはこれだけの政治家”と言って物議をかもしたのは|秦《はた》|野《の》章さんだったろうか。この人のロッキード事件の頃の言動を考えると、私としてはあまりよい印象は抱けないのだが、よくも知らない人についてこれ以上は言わない。
だが、それはともかく、この言葉だけは本当だと思う。政治家がよくないのは、やっぱり国民がよくないからである。くやしいけれどこの二つは同レベルと考えるよりほかにない。
それなりの選挙をやっているのだから……。いかがわしい政治家は裁判にかけることももちろん必要だろうけれど、まず選挙で落とせばそれでいい。選挙に落ちるのは、罪ではない。罪人としてのレッテルを|貼《は》られることでもない。
「もしかしたらあなたに罪はないのかもしれないけれど、いかがわしい|噂《うわさ》が出たこと自体少し反省してください」
と、そういうことなのだ。
社会人として普通に生きる権利まで奪うわけではない。
この頃しきりにニュースに登場する贈収賄事件も、あれはもし本当におこなわれたのであるならば、贈るほうも贈られるほうもよくないことは充分承知のうえで、それなりの|隠《いん》|蔽《ぺい》工作をめぐらし、見つからないようにやっているのである。
子どもの遊びじゃあないんだ。裁判所で白黒を決しようとしても多分に困難なところがあるだろう。“疑わしきは罰せず”の原則もあるし、これはこれで正しい。選挙で落とすのが一番よいし、少なくとも大幅に票数が減ればそれだけの効果がある。
ロッキード事件では、票数を二倍近くにまで伸ばした人がいたりして……これじゃあ、何度も同じことが起きるだろう。
政治家はそれほど私腹を肥やしているわけではない。公平に見て私はそう思う。
やばいお金に手を出すのは、選挙にお金がかかるから。そのお金がどこへ行くかと言えば、これも私たち国民の懐である。どういう形で入って来るのか私なんかよくわからないけれど、大口はさまざまな利権と結びつき、小口は東京見物をさせてもらったり、多種多様の形で国民の懐に入っているのである。この点でも政治家だけがわるいわけではない。
いかがわしい人は選挙で落とす。政治と個人の利権を結びつけない。それがどこまでやれるか、これは民度の問題であり、まことに“これだけの国民にはこれだけの政治家”、その通りだと私は思っている。
選挙のことに触れたので、もう一つ……。
私にはすばらしいアイデアがある。自治省や選挙管理委員会は、選挙の棄権をなくそうとしていつもやっきになっている。そのためにかなりの予算を使っているだろう。
選挙のあとのニュースでは、かならず投票率のことが話題にのぼり、投票率が低いと、テレビのキャスターも新聞の論調も、こぞって国民の政治的無関心を嘆く。
私のアイデアを実行すれば……おそらく実行されることはあるまいけれど、万に一つでも実行されれば、投票率はかならずあがる。黙っていても選挙は活気を示す。ほとんどお金もかからない。
そのアイデアとは……そう、マイナス投票を認めればいいのである。
現在の選挙は“この人に議員になってほしい”と、その方角でだけ進められている。
私の提案は“この人にだけは議員になってほしくない”と、それもマイナスの一票として投票してよいことにする。プラスとマイナスを合計してプラスの多い人から順に当選とするのは、説明するまでもあるまい。
ちょっと問題のあるタレント議員なんかおおいに危い。今の選挙は名が広く知られていることは、すなわちよいことなのである。悪名であろうと選挙でマイナスに作用する度合は少ない。テレビに毎日でも出て名前を知られているほうがよろしい。
しかし、私の選挙法だと、そうとも言えない。知られて損をする場合もおおいにある。
それよりもなによりも、
――どの政治家もろくなことをやっていない。ああ、馬鹿らしい――
これまでは布団をかぶって棄権をしていたものが、
――よし、あの野郎を落としてやる――
雪が降っても出て行く。
いかがわしい候補の一人くらい、どの選挙区にもかならずいるのだから。
掃除的視点
十数年前、五反田の小さなマンションに住んでいた頃、年の暮れになると、妻が、
「お風呂場のお掃除をお願いするわね。普段はあんまり丁寧にやってないから……はい、これが洗剤」
と、にこやかにほほえみ、バスルームの清掃が私の割当てだった。
たかが二メートル立方くらいの空間。どう磨いたってたかが知れている。子どもの頃はもっといろいろな掃除を命じられていた。
「うん、うん」
二つ返事で引き受けたのが甘かった。そのバスルームは、床と、三つの壁面にタイルが張ってある。二センチ四方くらいの小さなタイルがぎっしりと……。そのタイルのつなぎめの部分を目地と呼ぶことをあの時はじめて知ったのだが、これがところどころ薄汚れている。
スプレイ式の洗剤を吹きつけ、少し時間を置き、歯ブラシでこすると、アーラ、不思議、まるで新装直後のように白くなる。汚れをきれいにするという作業には生理的快感がともなうものだ。
――ざまみろ。こんなにきれいになったぞ――
と思ったのも、つかの間。まっ白になった状態を基準にして眺めれば、どこもかしこも汚れている。どの目地も薄黒い。歯ブラシでこすれば、さほどの苦労もなくきれいになるのだが、目地は意外にたくさんある。
考えてもみよう。二メートル四方の壁に、二センチのタイルを埋めつくすとなると、目地は縦に百本の線、横に百本の線、線の長さはそれぞれ二メートルだから、合計四百メートル。これが床と三つの壁に張ってあるとして総長千六百メートル。
現実にはガラス窓の部分やコンクリートのままになっている部分もあって、この半分くらいの見当……。しかし、それでも八百メートルはある計算。歯ブラシでこすりながらたどるとなると、けっして楽な作業ではない。
――なまじまっ白になるからいけないんだ――
と気がついた。
子どもの頃の掃除はもう少し|鷹《おう》|揚《よう》なものだった。|雑《ぞう》|巾《きん》で|一《ひと》|拭《ふ》きすればいい。木造建築に|煤《すす》がこびりついた状態はそう簡単に汚れの落ちるものではない。強力な洗剤もなかったし、どう磨いてみても、新築同様になることはありえない。ゆえに雑巾の一こすりで許されたわけである。
「あら、本当にきれいになったわねえ」
白く、明るくなったバスルームを見て、妻は喜び、それが私の毎年の仕事となった。
――またあれをやるのか――
正月を前にして、ちょっとしんどい。それをやらなければ正月はやって来ない。近所に住む義兄は金融機関に勤めていた。三十一日の|大《おお》|晦《みそ》|日《か》まで勤務がある。
――あっちのほうがいいなあ――
少しうらやましかった。
青山のマンションへ移り、ここはユニット式のバスルーム。実際にどう作るのかは知らないけれど、合成樹脂の一枚板に|凹《くぼ》みをつけ、湯船を作り、立方体に仕上げ、そのままスッとビルの各階にはめ込んだようなもの。中から見ればどこにもつぎめはないし、湯船も床も天井も壁も、みんな同じ材質。窓もない。
殺風景このうえないバスルームだが、掃除はひどく楽だった。スプレイ式の洗剤でシューッと|濡《ぬ》らして、あとはシャワーでザザーッと洗い流せばいい。雑巾で|拭《ぬぐ》えば、さらに上等。もうこれ以上の作業はありえない。
「お風呂場、お願いしますね」
「はい、はい」
今度は実に気分|爽《そう》|快《かい》であった。
その後、高井戸に家を建てることになり、私は断固青山方式のバスルームを主張したが、設計者が、
「あれは味気ないですよ。もう少し気分のいいバスルームにしましょう」
と譲らない。
家というものは……建てた人はみんな異口同音に訴えている。
「だれの家を建てているんだ!」
と設計者にむかって叫びたくなるときがきっとある。
私はユニット式バスルームがいかに掃除に便利なものか、|縷《る》|々《る》説明をくり返したが、設計者は、
「私がお掃除に来てあげますから」
と、すてきなタイルの壁になってしまった。
もう建築して四年たったが、いまだに彼は掃除に来てくれない。
女性の家事労働には、育児、料理、掃除、洗濯、この四つの柱がある。
育児はあまりにも大きなテーマだからここでは述べない。
残る三つのうち、洗濯は洗濯機の発達とクリーニング業の普及により、ずいぶん楽になった。ことのよしあしはともかく、汚れたら捨てるという手段もある。
料理は楽しみの一つともなったし、ファミリー・レストランの流行を見れば、この労働もずいぶん軽減されたと言ってよいだろう。
厄介なのが掃除である。
「女に楽をさせると、ろくなことがないぞ」
という意見も聞かないではない。
PTA活動に首をつっ込んで現場の先生を悩ませる。さして必要でもないパートタイムに励んで、ますます家事をおろそかにする。カルチャー教室に通って油を売る。浮気に走る……。
にがにがしい事件がないでもないが、私はやっぱり余暇を持つのはよいことだ、女性もおおいに楽をすべきだと考えている。家事が楽になり、その結果として生じた余暇をどう使うか、これはもう一つの問題である。ごっちゃにしてはいけない。余暇そのものの増大はけっして悪ではない。人類の文化は、ずっと私たちを労働から解放することを考え続けて来た。これを止めることはできないし、止める必要もない。女性を除外する理由もないし、だれにもそんな権利はあるまい。
冒頭にも述べたように、掃除の道具は……たとえば洗剤などが改良されても、掃除はあまり楽にはならない。それを使ってきれいになりすぎると、かえってきれいにするために手間ひまがかかる。妥協はむつかしい。
掃除のやりやすい建築構造、掃除の楽な設計、建築材料、そういう視点は現代の建築学に組み入れられているのだろうか。年の瀬の風呂掃除は、私に思いがけないことを教えてくれた。美麗な住環境や建造物を見るたびに私は思うのである。
――掃除はどうかなあ――
死後のランキング
このところ毎年、|大《おお》|晦《みそ》|日《か》の朝早く墓参りに出かけている。墓は東京の郊外、小平市にあって、私の両親が眠っている。
父の死が昭和二十六年、母の死が昭和三十三年、どちらもすっかり遠い昔の出来事になってしまった。私の子どもたちはもちろんのこと妻も私の両親を知らない。知らない人の墓について関心が薄いのも当然だろう。私自身でさえ、いそがしさのせいもあって昨今はなかなか墓参りには行けなくなってしまった。
――今年は行かなかったなあ、お彼岸のときも――
そこでぎりぎり押し迫った大晦日に出かけて行くわけである。
私はどちらかと言えば“人間死んだらゴミになる”のほう、霊魂の存在を根元的には信じていないけれど、自分の心の中の肉親を消すことはできない。むしろ自分のために墓参りに行くと言ってよいだろう。
だから一人で行く。
だれか家族の者が「一緒に行く」と言えばもちろん喜んで連れて行くけれど、たいていは朝五時頃に目をさまし、
――よし、行くぞ――
ガバリと起きて、このときばかりは滅多に着ない|股《もも》|引《ひ》きをはいて出かける。日の出前。とにかく寒い。そして家族の朝食の頃までには帰って来るスケジュール。乗客がまばらの電車の中で飲むカン・コーヒーが温かい。
冬の朝の墓地は凍りついていて、水道の水も出ない。墓の掃除をしようにも、花も草も落ち葉もみんな大地にこびりついて、なま半可の手段では、はがれるものではない。
ほとんどだれもいない。無気味と言えばかなり無気味である。
――まあ、なんとか元気でやってます――
墓の前で手をあわせ、そのくらいの報告を心の中で|呟《つぶや》く。
霊魂の存在をほとんど信じていないくせに、私は心のどこかに極楽と地獄の思想を持っている。子どもの頃にさんざんその手の話を聞かされたせいだろうか。このごろの若い人は、ああいう思想から完全に解き放たれているのだろうか。
この世でよいことをやった人はあの世でよいめにあう。わるいことをした人は当然その報いがある……ちょっとちがうな。私の場合はキリスト教の最後の審判や、なんでも採点をして位置づけを決める趣味もまじっているようだ。
つまり、百点から零点までこの世の所業により死者はあの世で審判を受ける。なにを善とし、なにを悪とするか。キリスト教の最後の審判では、当然キリスト教の倫理によって裁かれるのだろうけれど、私の場合はそれではない。なにがよくて、なにがわるいか、それはキリスト教でも仏教でも回教でも神道でもなく、あらゆる宗教、あらゆる哲学を超えた絶対者が判断すること……。それができるからこそ絶対者なのであり、その絶対者の心のうちなど、私たちが知るよしもない。
しかし、よいことはよい、わるいことはわるい……|屁《へ》|理《り》|屈《くつ》を言わず、素朴に考えればわかる程度のもの、絶対者の考えもそのあたりだろう、と私は思っている。余人はいざ知らず自分で自分の位置づけくらいはできるような気がする。
私は七十点くらいのところには入るのではあるまいか。七十五点かもしれない。
あははは、少し甘いかな。案外四十点くらいだったりして……。
織田信長はどのくらいの位置にいるのだろうか。田中角栄さんなんてかたは、このままだとどのへんが予定されているのか。いろいろ思いめぐらして、あの人はあのへん、この人はこのへん、私の頭の中に大勢の人が上から下へと|繋《つなが》っている情景が浮かぶ。
「死んだら、とにかく上を見ろ。俺がいるから」
と私はいつも妻に言っている。
「なーに?」
「俺が先に死んでいて、あとからあんたが来たら“あれは私の妻です。もう少し上に引きあげてやってください”神様にお願いして上から手を伸ばしググイと引きあげてやるから」
「馬鹿なこと言わないでよ。私のほうがずっと上にきまっているじゃない。あなたなんかはるか下だから、私、見えないんじゃないかしら」
まことにたあいのない話を交わしている。極楽と地獄の思想と言っても、私の場合はこの程度のものだ。
幽霊の存在についても、私はまるっきり否定をしているわけではないけれど、確実に言えることは、幽霊になるのはとてもむつかしい。幽霊が存在するとしても凡夫が簡単にそれになれるものではない、ということである。考えてもみよう。この世に恨みを残して死んだ人なんていくらでもいる。みんながなにかしら断腸の思いをこの世に残して死んでいる。
そのわりには幽霊の数が少ないではないか。察するに、死者は、
「私は幽霊になりたいんですが」
と申請を起こさなければいけない。
「どういう恨みがあるんですか」
「えーと、無実の罪で死刑になりました」
「なるほど」
審査がおこなわれ、なにかしら試験のようなものが課せられるのかもしれない。東大受験よりも、司法試験よりも、芥川賞直木賞を取るよりも、オリンピックで金メダルをもらうよりも、ノーベル賞よりもむつかしい。恨みを抱いて死んだであろう人の数と、幽霊を見たという件数とを比べると、どうしてもそうなってしまう。文字通りこの世のものとも思えぬむつかしさ。
――私なんかとても幽霊にはなれないなあ――
と、この世にいるうちからあきらめている由縁である。
大晦日の二十四時間が過ぎれば元旦。ここ数年、私はどこにも行かない。東京で、家で、ゴロゴロしている。普段は日中から酒を飲んだりしないのだが、正月の三ガ日は朝から飲む。
またたくまに松が取れ、いつもと変らない一年が始まる。
成人式の頃には、
「今年もはや残すところ、十一カ月と少し」
と言うのだが、このジョークは通じにくい。
本当に年のたつのは早い。新しい年も、はや残すところ十カ月、九カ月、八カ月……三カ月、二カ月、一カ月……となって、一年がすぐ終るだろう。皆さんの一年がなべて幸福でありますように。
待ちつ焦がれつ
初めて小倉百人一首を知ったのは、小学六年生、敗戦後のなにもない時代だった。
今の子どもたちは、あんな刺激の薄い、とろいゲームなんて、
「どこがおもしろいの」
と首を|傾《かし》げるだろうけれど、防空壕の中でうずくまっているより、ずっとましだった。|雅《みや》びなところもあって、私には興味深かった。
最初に覚えた札は、|小《こ》|式《しき》|部《ぶの》|内《ない》|侍《し》の、
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天の橋立
だったろう。初心者むきの歌である。この作者のお母さんが歌の名人で(つまり|和泉《い ず み》|式《しき》|部《ぶ》である)そのお母さんが旅に出た留守中に小式部内侍は、歌をよまなければいけなくなった。「歌は大丈夫ですか。お母さんから助け舟の手紙はつきましたか」と先輩にからかわれ、それではとさし出したのが、この歌だったとか。そんなエピソードも一緒に聞かされた。
次が|阿《あ》|倍《べ》仲麻呂。
あまの原ふりさけ見れば|春《かす》|日《が》なる
|三《み》|笠《かさ》の山にいでし月かも
と、遣唐使の勉強をすれば、たいていこの歌は引きあいに出される。
これとほとんどあい前後して記憶したのが、
ちはやぶる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くくるとは
その頃の私は落語全集を愛読しており、この歌はもう、そのほうでは大変有名な歌。本当の歌の意味を知ったのはずっとあとのことで、先に覚えたのは落語のご隠居さんが垂れた珍解釈のほう。相撲とりの竜田川が千早おいらんにふられ、妹分の神代もきかず、田舎へ帰って豆腐屋を開くというお話。くわしくは落語のほうを聞いていただきたい。こじつけの解釈ながら、これはかなりよくできている。落語のほうでは、このほか、
つくばねの峰より落つるみなの川
こひぞつもりて淵となりぬる
憂かりける人をはつせの山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
なども珍解釈があって、これもいち早く覚えた。
六年生で十首くらい、中学一年生で三十首くらい、二年生の頃にはほとんどすべてをそらんじて一応のかるた取りになっていた。
百首を知ったところで、得意札にもなり好きな歌でもあったのが藤原定家の一首。
こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ
であった。調子もよいし、待つ身のジリジリとしたせつなさがよく伝わって来る。私自身はむしろ奥手の少年で、初恋などにはとんと縁がなかったけれど“待つ”ということには、なぜか強い関心があったような気がしてならない。
芥川龍之介の“|尾《び》|生《せい》の|信《しん》”を読んだのも同じ頃だったろう。
尾生という名の男が、橋の下で女を待って待って待ち続けて、そのうちに川の水かさが増して来て、|溺《おぼ》れ死んでしまう故事である。
芥川はその故事を流麗な文章で|綴《つづ》ったあとで、こう結んでいる。
“それから幾千年かを隔てた後、この魂(尾生の魂)は無数の流転を|閲《けみ》して、又生を|人《じん》|間《かん》に託さなければならなくなつた。それがかう云ふ私に宿つてゐる魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、|唯《ただ》、何か来るべき不可思議なものばかりを待つてゐる。丁度あの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人を|何《い》|時《つ》までも待ち暮したやうに”
子ども心にもなんとなく理解できた。けっして来ないはずのものをずっと待ち続けている、人生にはそんな部分がきっとあるにちがいないと……。そして私もまた尾生の生まれかわりではないかと思った。
まったくの話、私は人を待つことがそれほど|厭《いや》ではない。待っているときのイマジネーションを楽しむようなところがなくもない。
大学に入り、ベケットの戯曲“ゴドーを待ちながら”を読んだ。二人の浮浪者がゴドーを待っている。ゴドーがどういう男で、ゴドーが来るとどうなるのか、なにもわからない。なのに二人は待ち続けている。結局ゴドーはやって来ない。前衛劇の代表的な作品、かな。私にはそれなりに理解のできるドラマだった。
話は変るが、フランス語の|鷲《わし》|尾《お》猛教授は一家言の持ち主で、この先生の授業では“esp屍er”という語をかならず“期待する”と訳さなければいけない。まちがっても“希望する”と訳してはいけない。この語の名詞形“エスポワール”は時折日本語でも使われているが、これは“希望”と訳されるのではあるまいか。
鷲尾教授によれば、
「いいですか。“期待する”というのは、文字通り期して待つこと、です。待つだけの根拠があって、それで待っていることなんですね。その点“希望する”は、ぼんやりと待ち望んでいる。そうなるかどうかわからないのに、根拠もないのに勝手に望んでいるわけなんですね。フランス語の“esp屍er”は、根拠があって望み待つこと。だから“期待する”と訳さなくてはいけないのです」
ということであった。
なにしろフランス語学の大家の言だから、きっと“esp屍er”は、そういう意味内容なのだろう。日本語の“期待する”と“希望する”のあいだに、それほど厳密な差異があるかどうか、多少の疑念はあるけれど、字づらを見ればそんな気もする。
なにはともあれ、私はこのとき、“待ち望む”ということにも、二つの種類があることを知った。ちゃんと勉強をして大学受験にパスする日を待ち望むのは、“esp屍er”のほうである。宝くじで借金を返そうなどと考えるのは“esp屍er”ではあるまい。定家は、尾生は、ベケットの主人公たちは、どちらだったのか。
久しぶりに小倉百人一首を取り出して一つ一つ読んでみた。ほとんど意味を知っているつもりでいたが、わからない歌もいくつかある。本箱から解釈の本を取り出して、あらためて不明な部分を勉強しなおしてみた。
定家の歌にも目が止まった。
定家その人の体験ではなく“こがれる思いで男を待つ女の立場をうたった歌である”と書いてある。
――へえー、主人公は女だったのか――
この歌は漁村の少女の恋に託して歌ったものらしい。昇華されたイメージの歌であったらしい。
そのあたりに定家の歌人としての特徴があったと……四十年ぶりに少し利口になった。
|薄《うす》|闇《やみ》の目くばせ
何年か前、あるテレビ局のクイズ番組に出場した。
「ジュディ・オングさんは、中国語、英語、日本語を自由に使えますが、彼女が日記を書くときは何語でしょうか」
という問題が提出され、私は、
――なるほど――
と納得した。
ジュディ・オングさんが蝶のような華麗な|衣裳《いしょう》でヒット曲を歌っていた頃のことである。私は配られたボードに“英語”と記し、これが正解であった。
テレビのクイズ番組には、たいていものすごく的中率の高いレギュラー・メンバーがいて、あまりによく当たるものだから、
――答を教えられているのではあるまいか――
そんな勘ぐりがよく|囁《ささや》かれている。
たしかに番組を見ていると、
――これは答を教えてもらっていないと、とても正解は出せないなあ――
と感ずるケースもなくはない。
それに、テレビの制作現場というものは、必要とあればそのくらいの演出を平気でやってしまうムードを持っている。
早い話、魚屋の店頭が画面に映り、なにげなく作業をしているご主人にマイクが近づいて来て、
「おじさん、今日はなにがおいしいの?」
「うん? |鯖《さば》だねえ、鯖がいい」
とご主人は顔をあげて答える。
いかにも店頭でいきなり問いかけたように見えるけれど、テレビ・カメラにはライトも必要だし、音声も一緒につけなければいけない。カメラアングルも考慮しなければいけないし、いきなりカメラをつきつけたら、どんな答が返って来るかわからない。事前にリハーサルとまではいかないが、
「カメラがこのへんをずーっと通って行ってここでマイクが横から“今日はなにがおいしいの”って聞きますから……“鯖です”って答えてください。リラックスしてね」
ライトがあかあかと照らしたところで、キューが出て始まるわけである。うちあわせがなければテレビはほとんど映せないし、うちあわせがあるということは、そこに演出の入りこむ余地がかならずある。
クイズ番組にもなんらかの演出はあるだろう。
とはいえ、逆の立場からも一つ指摘しておくと、クイズ番組のレギュラー・メンバーになったりすると、毎日の見聞がそれにそうようになる。本や新聞雑誌を読むときも、
――こんなこと、出題されるんじゃあるまいか――
いつもその気持ちが働く。結果として常人以上によく答えられるというケースもなくはない。出題者のほうも、同じ情報の海の中から問題を拾っているのだから。
話がすっかり横道にそれてしまったが、冒頭のジュディ・オングさんの日記のこと。私がなぜ“なるほど”と思ったか……。
このクイズ番組に出場する数週間前に私はある週刊誌の対談でジュディ・オングさんに会っている。そして、その中で私自身が、
「あなたは五カ国語をしゃべるそうですけど、日記をつけるとしたら何語ですか」
と尋ね、
「英語でつけます」
と、答をちゃんと得ているのである。よほどもの忘れがひどくない限り、これは正解が出せる。
おそらくこの問題を作った人も、この対談からソースを得ているだろう。そして、さらに出題者側に、
――招いておいて一題も答えられなかったら気の毒だ。阿刀田さんに一つサービスをしてあげよう――
と、その意図があって、これが出題されたのだろう。けっして偶然ではあるまい。
私にこれをやってくれたということは、ほかの人にも同じことをやっているだろう。このサービスは、いきな計らいとも言えるし、ちょっとこわいところもある。
こんなことを今ふと思い出したのは、同じような構造を、|江《え》|副《ぞえ》浩正アンド・アザーズが演じたリクルート疑惑に感じたからである。
ずいぶん広範囲に渡る疑惑だから、|全《ぜん》|貌《ぼう》を一つのパターンでくくることはもちろんむつかしい。贈収賄事件の典型的なパターンは、
「これこれの金額をあなたに贈りますから、これこれの便宜を図ってください」
と、約束があって実行されるケースだろうけれど、みんなそれとは限らない。江副さんはもっとべつな方法も混ぜていたような気がする。
はっきりとした約束もないままに、未公開株の購入を斡旋したりする。しかも相手が秘書であったりする。
未公開株を購入すること自体はなんの罪でもない。たいていは公開後にその株は値上りするけれど、これだって“絶対に”とは言いきれない。金利やリスクを考えれば、現金を受け取るのと比べて意味あいが相当に異なる。
やがてその株が公開され、値上りし、売却して利ざやを稼ぎ、この段階に至って、
――うん、なかなか味なことをやってくれるじゃないか――
と受け取った側は感ずる。そこで贈り主に対して、
――なにか便宜を図ってやらにゃあならんなあ――
となる。
大物の秘書ともなれば、親方の資金プールを豊かにするために独自の判断で(まったく独自とは考えにくいが、ある程度まで彼自身の裁量で)後日値上りが充分に予測される未公開株を斡旋されて、それを買うこともあるだろう。後日、値上りしたところで親方に、
「やっぱり値上りしましたよ。味なことをやってくれますな」
と報告する。
「うん、私のほうの資金にまわしておいてくれ」
そんな会話となることもあるだろう。
先ほどのクイズの答について、
――教えてくれたんだな――
と感づくのは私だけと言ってよい。出題者のほうは知らん顔をしており、たとえ追及する人が現われたとしても、
「へえー、そうなんですか。偶然の一致ですよ。問題を作る人はいちいちその週のゲスト解答者がだれかなんて知りませんからね」
と答えればよい。
目くばせのごとく関係者だけが、そこに秘められている意味がわかる。ア・ウンの呼吸のようなものでもある。これをやられると手がつけられないし、リクルート疑惑にはそんな匂いがたしかにある。
美女考
だれとは言わない。
だが、女優はやっぱり美しい。
昨今は、民主主義のせいか、映画界の衰退のせいか、はたまた個性美を尊ぶ風潮のせいか、美しい女優がめっきり減ったと言われているけれど、美しい女性をどこに捜すかと言うことになれば、やはり女優とその周辺になってしまうだろう。
私の見たところ、女性の美しさにも、プロとアマとがある。
「あの人はプロの美女だから」
「あの人はきれいと言っても、アマチュアのレベルだから」
そんなふうに私は言葉を使い分けている。
ここでいうプロとアマのちがいは、いわゆる|玄《くろ》|人《うと》っぽい容姿を持っているとか、|素《しろ》|人《うと》の娘さんらしいとか、そういうことではなく、純粋に器量のレベルの問題である。
なにごとであれ、プロとアマとは明らかに技量にちがいがある。一番ちがうのは相撲の世界。アマチュア横綱だってようやく幕下つけだしくらいの実力。千代の富士と比べたら、文字通り月とすっぽんの差がある。囲碁、|将棋《しょうぎ》、野球、大工仕事、歌謡曲……。小説家だってプロとアマとは一線を画しているのである。
同様に美女にもプロとアマと、レベルの差があるだろう。
プロの美女というのは、私の定義では、ただもう美女という、その一点だけで価値のある女性のこと。もちろんその人にも知性や性格に由来するさまざまな長所が備わっているだろうけれど、それを抜きにして考えても、
――これくらいきれいなら、それだけで銭になるなあ――
と、そう感じさせるレベル。多少の誇張はあるにしても、私の言う一線のありかがなんとなくわかっていただけるのではあるまいか。そこへ行くと、アマチュアの美女は、
――一応きれいだねえ――
というレベル。それだけで食べて行くわけにはいかない。
英語ができるとか、愛敬があって、とても感じがいいとか、家庭的な性格だからさぞかしよい奥さんになるだろうとか、情婦志願だとか、つまりなにかほかに女性として世間に通用する属性を持っているうえに、
――彼女はきれいだねえ――
と、プラス・アルファがついている状態。
このプラス・アルファは女性にとって、大変な価値を持つものではあるけれど、さはさりながら、それだけで食べていけるわけではない。これがアマチュアの美女の基準である。
女優という職業は、ただきれいでさえあればそれでいいというものではないけれど、業界を見渡して各ジェネレーションごとに一人か二人か三人くらい、プロの美女がいてくれないと困る。
だれが困るのか……。うーん。よくはわからないけれど、あえて言えば、民族として困る。たしかに日本の女優はあまりきれいではなくなったが、それでもなお私の見たところ一人や二人や三人くらいはいるような気がする。
東京は銀座のホステス嬢……。ここにも美女がいる。
「|嘘《うそ》つけ! どこにいるんだ」
という声が聞こえないでもない。
たしかに昨今はこの名勝地でもめっきり美女が少なくなってしまった。六本木とか赤坂とか、美女の分布図に変化が見られている、と、そんな指摘もある。しかし、まあ、場所はどこでもいいのだが、すわっただけで何万円も取られるような酒場に比較的多く美女がいるのは本当だ。当然のことだ。むしろ美女がいてくれなくては困る。
だれが困るのか……。これははっきりしていて、まずお客が困る。そしておそらく経済学が困るだろう。美女がいるからこそあれだけのお金を取ることが許されるのであって、それなしで勘定だけやたらに高いのは経済学の常識に反する。経済学の根底があやしくなる。
でも、ご安心あれ。実際、この手の酒場に行くとなると、女優もかくやと思うほどの美女がいないでもない。
ある夜、ふと気がついた。
――女優の美しさとホステスの美しさはちがうんだなあ――
どこがちがうか。
女優はどんな情況、どんなアングルでもつねに平均点は出せなくてはいけない。顔が美しいのは当然として、和服、はい、水着、はい、お姫様、はい、|娼婦《しょうふ》、はい、プータロウ、はい、お嬢さま、はい、うしろ姿、はい、裸、はい、足の裏、はい……。どこをとっても平均点は出せて、しかもいくつかはすばらしく美しいところがある。五段階評価の成績で表示すれば、“3354335533343553……”といった|塩《あん》|梅《ばい》で、2や1はない。仕事がらそうであることが望ましい。
ところがホステスはそうではない。たとえば髪をアップにして、つけさげの和服を着る、これが一番。目茶苦茶美しい。顔は右四十五度から見たところが一番きれい。それでかまわない。
毎晩、髪をアップに結い、いつも和服で。いつもつけさげ、主として右四十五度の角度でお客に接する。実際には右四十五度だけというわけにはいかないけれど、その心意気……。
水着姿が美しいか、足の裏が美しいか、それはかならずしも必要条件ではない。仕事がらそうなのである。毎晩、ほとんど同じ姿でかまわない。その限りにおいて美しければ充分に務まる。あれもこれもいろいろな役柄を演じ分ける必要はないのだから……。
和服姿はまことにみごとだが、洋服は見ちゃいられない、なんてことでは女優は務まらない。しかし、ホステスはそれでいっこうにかまわない。5が一つ二つあればいい。あとは2があっても1があっても、それは見せない。逆に言えば、ある一点において見るかぎり女優よりはるかに美しいホステスがいても少しも不思議はないのである。
「彼女はプロの美人ホステスだね」
と私が言うときは、店にいるときが一番きれいな人。昼間コーヒー店で会ったり、ゴルフ場に連れ出したり……このときは、
――えっ、この程度の容姿だったかなあ――
と目を疑ってしまう。生気までない。夜の四、五時間、店の中でこそ|燦《さん》|然《ぜん》と輝く。
ついでに言えば、すべてにおいて最低でも平均点を出す女優も、普段はさほどきれいではない。カメラの前に立ったときが一番きれい……。みなさん、銭をいただくときに輝く。プロなんだなあ。
一枚の写真
ここ一カ月ばかり、ひまを見つけてはあちらの引出しを開け、こちらの段ボール箱をさぐり、ずっともの捜しを続けている。
捜しているのは一枚の写真。
私自身としては、
――なければ、ないで仕方がない――
さほど強い執着があって捜しているわけではないのだが、だれかに話すと、
「それは貴重品ですなあ。捜しておきなさいよ」
と言われ、言われてみればそんな気もして来て、くり返し、くり返し捜し続けている。
その写真とは……つまり、その、おそれ多くも私が明仁天皇とともに写っている写真である。美智子皇后もご一緒である。
並んで写っているわけではない。まだ皇太子、皇太子妃であった頃のお二人がまん中に写り、私は右下すみに一被写体としてすわっているだけのものである。
正確な日付は忘れてしまった。私が国立国会図書館に勤めていたとき、たしか永田町の新館が開館して間もない頃だったと思うのだが、お二人がこの図書館の見学にいらしたことがあった。整理作業をご覧になり、私のデスクの脇に立って、
「分類番号というのは、どの図書館でも同じなんですか」
「中身を読んで分類するんですか」
前者は明仁天皇から、後者は美智子皇后から、それぞれご下問があり、私ではなく館長と整理部長が九割がた正しい(つまり一割はまちがった)答を述べていた。写真はそのときのスナップである。
私は文字通りの端役だが、主役と同じくらい鮮明に、大きく写っていたから、総務課あたりで焼きましをして一枚分けてくれた。たしかそんな事情だった。
記念の品としてしばらくアルバムに挟んでおいたのだが、数年前、ある小説雑誌の依頼でグラビアに使い、そのあと私の手もとに返って来て……それからどうなったのか。わが家のどこかにあることはまちがいない。写真の中の私は視線をデスクの上に向け、まじめな横顔で仕事をしていた……。
このときのスナップには、もう一枚、私が、顔をあげ、椅子のアームに腕を載せ、少々尊大な様子で写っているヴァリアントがあったはずで、それを一度だけ見たことがあるのだが、
――これはまずいね――
図書館のしかるべき筋が判断して門外不出、ネガ焼却、永遠に見られないものとなったのではあるまいか。
私が勤めていたのは図書館の整理部であり、名刺にもそう記してあった。
図書館の整理部とは、そもなにをするところなのか……。その頃の私は|仕《し》|舞《もた》|屋《や》の一部屋を間借りして暮らしていたのだが、その家の奥さんがしげしげと私の名刺を眺め、
「まあ、あなた。整理部だなんて……毎日なにを整理しているんですか?」
と、眼をまるくして驚いていた。
無理もない。私の部屋は、整理などとはおよそ縁遠い混乱状態。奥さんはさぞかしにがにがしく思っていたにちがいない。
十年あまりずっと整理部に籍を置き、文献の整理を担当し、文献の整理については、大学や講習会で講師を務めるなど、一応は整理のプロフェッショナルだったはずなのに、自分の身のまわりのこととなると、あははは、それが親分大笑い(これは「銭形平次捕物控」でガラッ八の八五郎がよく言う|台詞《せ り ふ》である)、整理整頓のたぐいはまったく不得手である。一枚の写真が見つからないことなど、めずらしいケースではない。
今、小説家を生業とし、
「資料の整理なんか、どういうこと、やってらっしゃいますか」
なんて尋ねられると、本当に困ってしまう。
私がやっていたことと言えば、雑誌の目次を切り取り、読んだ記事に赤丸をつけて|綴《と》じておくだけ。
――あれは、たしか“週刊読売”で読んだはずだったなあ。昭和六十年前後に――
と思い出して、目次の束をめくる。雑誌そのものは手もとにない。その都度捨ててしまう。目次の束で所在をつきとめ、あとは図書館へ行ったり、コピイを送ってもらったりする。
これは労少なくして、わりと役に立つ文献の整理・探索法であった。
昨今はそれもやらない。少ないはずの労力さえも面倒になってしまった。仕事部屋の書棚や押入れにただ雑然と資料が積まれているだけ……。
――どこへ置いたかなあ――
|苛《いら》|立《だ》ちながらあちこちをつついて結局は見つからず、そのままあきらめてしまう。まことになさけない。
「そうかなあ。机の上なんかきれいになってるじゃないですか」
私の仕事場を知っている人は、そう言ってくれるし、机の上はたしかにきれいと言えばきれいである。一見したところそんなに乱れてはいない。
もう少し細かく説明すれば、私は整理整頓されている状態そのものはけっしてきらいではない。そういう状態を作るプロセスが面倒なのである。だからややこしいものは極力捨ててしまう。見えないところへ隠してしまう。結果として、見えるところはきれいになっているけれど、これは本当の意味での整理整頓ではないだろう。
英語にセレンディピティという言葉がある。|綴《つづ》り字を示せば serendipity……。私はたまたま知っているのだが、よほど英語のよくできる人でなければ、知らない言葉である。小さな辞書には載っていない。厚目の英和辞典を引くと“掘り出し物上手”と語義が記してある。
少しちがうのではあるまいか。
セレンディプというのはセイロンの古名。昔、セイロンに一人の王子がいて、この王子は年中捜しものをしていた。ところが、必要なものが必要なときにけっして見つからない。あきらめてしまってのち、思いがけないときにそれを見つけ出す。ここから生まれた言葉がセレンディピティで、つまり“捜しているときにはそれが見つからず思いがけないときにヒョイと出て来ること”である。
私の日常もセイロンの王子に負けず劣らずセレンディピティに富んでいる。私のみならずこういう傾向は、だれにもよくある。
冒頭に述べた一枚の写真も今はセレンディピティに恵まれんことを願っている。いつかはきっと見つかるだろう。平成の御世はまだ始まったばかりなのだから。
男と女の接点
あなたがもし結婚をしているならば、
「どんなきっかけで奥様と(あるいはご主人と)知りあいましたか」
と尋ねてみたい。
配偶者でなくてもかまわない。今の恋人といつ、どこで、どのような理由で親しくなったか、と……。
「職場結婚です」
月並みだなあ。
「友だちの紹介で会ったのが最初でね」
これもよくあるパターン。
月並みなケースだからと言って、けちをつける理由は少しもないけれど、小説家は……私は、いつも考えているのです。作品の中の男女をどのような形でめぐりあわせようか……。
男が公園のベンチに腰をかけていて、女がその前を通りかかり、ハンカチがヒラヒラヒラ。
「落ちましたよ」
拾って追いかければ、
「あら、すみません」
「きれいな柄だなあ。ディオールですか」
「ええ。好きなんです」
「香水は……ディオリッシモ」
「よくおわかりですね」
「いやあ、本当にいいご趣味だ。いかがですか、お茶でも」
こんな書き出しでは、読者から、
「古いんだよなあ。五十年も昔の手を使うな」
と|叱《しか》られてしまうだろう。
少なくとも編集者はいい顔をしない。
もう少し気のきいた男女の出合いがないものだろうか。
数年前バンコクへ行った帰り道、飛行機が乱気流に巻かれ、機体のどこかに不調が生じたのだろう。|香《ホン》|港《コン》の空港に降りたままいっこうに飛びたってくれない。数時間待たされたあげく、
「整備不良のため今日は出航いたしません。ホテルを用意しましたからお泊まりください」
となってしまった。
私は一人旅だった。
――まいったなあ――
しかし、もしこのとき私と同様に一人旅の女性が同じ便の乗客の中にいたならば、いかがなものだろうか。空港ロビイで待たされているときから、
「まったく、どうなってるのかなあ」
「本当に。よくあることなんですか」
「いえ、僕は初めてです」
「ほかの便、ないのかしら」
などと語りあい、もう一度ホテルのフロント付近で顔をあわせて、
「香港、ご存知ですか」
「いえ、ぜんぜん」
「僕もよく知らないけど、せっかく入国したんだから、どうです、散歩してみませんか」
「ちょっと怖いけど」
「大丈夫でしょう」
と、見知らぬ者同士がすぐに親しくなることができるだろう。
私の現実はそのように運ばなかったけれど、帰国して間もなく小説のプロットを作ることとなり、
――そうだ、あれで行こう――
かくて“花の図鑑”という小説の冒頭シーンがたちまち浮かんだ。
体験をほとんどそのまま書けばそれでよい。ディテールの描写もやさしいし、現実感も保証されている。長篇小説の滑り出しとしては、まことに好都合であった。
この作品が民放でテレビ化されることとなり、ある日、プロデューサーから、
「あの、冒頭の場面ですけれど」
と相談の電話がかかって来た。
「ええ……?」
「少し変更したいんですけれど」
「どうして」
理由を聞けば、民放では航空会社が有力なスポンサーであり、海外のロケーションをおこなうとなれば少なからず航空会社の協力をあおぐ。
「飛行機の事故ってのがまずいんですよ」
「うーん」
「お願いします」
「仕方ないか」
簡単に仕方がないと思ってはいけないケースだったのかもしれないが、テレビにとってスポンサーが大切なことは私もよく知っている。
シナリオができあがってみると、飛行機事故はどこにもなく、ただ香港の町中でヒロインがトラブルに遭遇し、それをヒーローが横から助け、それが馴れそめとなる。やや平凡な出合いに変っていた。
このテレビ・ドラマは、田村正和さん、いしだあゆみさん、小川知子さん、市毛良枝さんなどなど豪華なキャスティングで制作放映され、私としては、
――原作とちがうけど、まあまあ楽しめるんじゃないかなあ――
と、七、八割がたの満足を覚えたのだが、
「ずいぶん軽い感じの作品になったじゃない」
と、そんな意見も多かった。
「軽いのはテレビの特徴だろう」
「でも、主人公がC調過ぎて……。あんなサラリーマン、いないね」
それは私も思わないでもなかった。
――やっぱり冒頭がまずかったのかなあ――
つまり、たまたま飛行機が事故を起こし、知らない国の空港に長時間待たされ、心ならずも異国のホテルに泊まることとなり……そこで声をかけあうことになった男と女。とりわけ男性はそういう情況におかれて初めて女性に話しかけることができた……。そうでもなければ、知らない女性に声をかけられない。日本のサラリーマン諸氏の中にはこのタイプが多いと思うのだが、私の原作では飛行機事故から書き始め、そういうタイプの男性としてヒーローを登場させている。
ところがテレビ・ドラマでは、旅の女性が困惑しているのを見て、気軽に声をかける。ちょっと軽い感じ。英語をしゃべったりして……。このちがいは、やはりある。
冒頭の変化はスポンサーに気がねをしたせいだったけれど、そのためにヒーローの性格のプレゼンテーションが変り、作品全体のムードも変ってしまった。
作品というものは、いろいろなバランスの上に構築されているから、一部分を変更すると、それが思いがけないところに影響を与えてしまう。
当然のことながら人間の心理と、その行動とは結びついている。木に竹をつぐようにちぐはぐなことはできない。男と女を、自然な形でありながら、けっして月並みではない方法で、どうめぐりあわせるか、すてきな体験をお持ちのかたがいらしたら、ぜひとも教えていただきたい。
カメラとかつら
わが家を新築してたとき、警備会社に頼んでいくばくかの防犯装置を備えてもらった。
どんな装置?
うーん、ここでそれを明らかにするわけにはいかない。言っちゃあわるいけれど、読者諸賢の中にも……つまり、その、他人の家に侵入することを生業とするかたが、いないとは限らない。
話をもとに戻して、わが家の工事を終えたところで警備会社の責任者が、
「これを玄関の目立つところに|貼《は》っておいてください」
と、小さな金属製のプレートをさし出す。
犬の登録証やNHKテレビの契約証のたぐい。つまり、見る人が見れば“この家に防犯設備あり”とわかる仕かけになっているステッカーだ。
私は驚いた。
「どうして?」
と言い|淀《よど》んだ。
私の考えではドロボウが“ここはただの家だろう”と思って侵入する。ところがドッコイ、防犯装置が作動して……不意打ちを食らわせてこそ効果があるのではなかろうか。わざわざ目立つところにステッカーなんかを貼っておこうものなら、むこうだってプロかセミプロなんだから、
――ふん、ふん。そうか――
対策を立てたうえで侵入して来るにちがいない。
私の説明を聞き、防犯会社の責任者は、
「それが|素《しろ》|人《うと》のあさはかさ」
とまでは言わなかったけれど、その種の表情で一つ笑ってから、
「ドロボウはスポーツをやっているのとちがいますよ。困難なものにわざわざ挑戦してみようって、そういう気持ちで人の家に入って来るわけじゃないんですから。防備のしてある家と、してない家とがあれば、なにも好き好んでむつかしい家のほうを選んだりしませんよ」
とまた笑う。
言われてみれば、ごもっとも。
心のどこかに芸術家|気質《か た ぎ》を宿しているドロボウもいないではあるまいが、そういう人はきっと美術品や宝石を|狙《ねら》うだろう。小説や映画の世界にこそそんなドロボウもいるけれど、現実にはそう多くはあるまい。
「そうかなあ。やっぱり無難な家のほうを狙うものですか」
「もちろんです」
「ふーん」
私はもう一つ、あらたな不安を抱かねばならなかった。
同じ頃、わが家からほんの数十メートル離れたところに日本ボクシング界の英雄具志堅用高さんが新居を建てていた。
ここに一人のドロボウありて、
――新築の家は、すきがあって狙いやすいんだよな――
と、これは統計的な事実である。
道を歩きながら様子をさぐり、
――新築が二つあるけどどっちを狙うかな――
表札を見れば、かたやボクシングの元チャンピオン、こなた小説家、どっちが無難かと考えれば、考えるまでもなく答はきまっている。
――見つかって殴られたときがちがうもんなあ――
きっと私の家に入って来るだろう。
しかし、まあ、警備会社のステッカーのせいかどうか、これまでのところ|厭《いや》な思いをすることもなく、わが家はもはや新築のレベルではなくなってしまった。ステッカーのみならず、やたらに|吠《ほ》える犬がいるし、私か子どもか、だれかしら夜通しで起きているし、わが家はドロボウには都合のわるい家だろう。
それはともかく、警備会社のステッカーの件、目立つところに貼るべきか否か、多分警備会社の言い分が正しいのだろうけれど……読者諸賢はどう思われるだろうか。
こんな思案をめぐらしているうちに、すてきなアイデアに思い至った。
――防犯カメラを作って売り出してみたらどうかな――
屋根の上からドロボウの侵入して来そうなところを狙って四六時中二、三台のカメラが眼を光らせている……。
「そんなもの、もうとっくにあるよ。銀行とか大使館とか」
いや、いや、私のアイデアは少しちがう。
警備会社のステッカーを見ただけでドロボウが警戒して入って来ないものならば、防犯カメラならもっと驚くだろう。
タネをあかせば、私の発明は屋根の上にカメラらしいものが据えてあるだけ。写しもしなければ四六時中見張っているわけでもない。ただのお飾り……。こけおどしのたぐい。
しかし、それがお飾りであるか、本物であるか、外にいるドロボウにわかるはずがない。ずっと廉価で、同じ効果を期待することができるのではあるまいか。
「自分で作ってつけるのならともかく大量生産は無理だろう。みんなに知れちゃうから」
と友人のN君は私のアイデアに反対する。
「そうとも言えない。アデランスとか、アートネイチャーとか……あるだろ」
「えっ?」
N君は|怪《け》|訝《げん》な顔で私を見た。
屋根の上の防犯カメラと昨今はやりのかつらと、どう関係するのか。
「かつらだって本来はこっそり作って売るべきものだろう。ああ大々的に宣伝してちゃ“あっ、アデランスやってるな”ってわかってしまう。それでも、大量に作って宣伝して……商売になっているらしい。イミテーションの防犯カメラだって……」
「それとこれとはちがうよ」
「どうちがう」
友人と私はしばらく二つの差異について語りあった。おひまなむきはご一考いただきたい。
防犯については、私はもう一つ秀逸のアイデアを持っている。
名づけて防犯レコーダー。
十分おきに回転して声を出すテープ・レコーダーを用意する。夜間の利用が効果的だろう。
ドロボウというものは、かならず周囲の様子をうかがってから侵入する。子どもみたいに走って来て、いきなり飛び込んだりはしない。
夜間、垣根のかげなどにうずくまって様子をうかがっているとき、
「そこにいるの、だれ?」
声をかけられたら、さぞかしびっくりするだろう。|尻尾《し っ ぽ》をまいて逃げて行くにちがいない。ほかに、
「あなたなの?」
「なんの音、今の……」
などなど十分おきに家人の声が外に漏れる仕かけになっている。これもやっぱり大量販売は無理かなあ。
みどりの日
四月二十九日は“みどりの日”という名の祝日になるらしい。いつのまにかそう決まってしまった。
私の予想は、大はずれ。
いつとは言わないが、かなり以前から私は裕仁天皇崩御のあと四月二十九日は国民の祝日となり、その名は“平和の日”になる、と固く、固く、固く信じていた。そう予測していた。ガチガチの本命。これ以外にはないと考えていた。
昭和天皇は、その歴史的意義、在位の長さ、人となりなど、多くの面でしばしば明治天皇と対比されて来た。明治憲法と昭和憲法の対照はだてではない。その明治天皇の誕生日は秋の盛りにあって“文化の日”。
となれば昭和天皇の誕生日は春の盛りにあって“平和の日”。文化と平和、バランスもよく、言葉の持つ意味の深さも甲乙つけがたい。
なるほど明治天皇の治世は富国強兵の時代であり、
――文化だったかなあ――
と首を|傾《かし》げる側面もないではないが、なにはともあれ西洋文化が積極的に取り入れられ、文明開化の成就した時代であった。富国強兵だってその一環として捕らえることができるだろう。印象のよくない部分は、ちょっと|頬《ほお》かむりしてもらって、カッコウよく“文化の日”。このあたりの事情も四月二十九日を“平和の日”にすれば、よく呼応している。昭和の御代も平和ばかりじゃなかったけれど、そこはちょっと頬かむりをして“平和の日”、プロセスはともかく昭和は結論として平和を祈念した時代であった。
ああ、それなのに“みどりの日”だなんて……。どうしてこんな|腑《ふ》ぬけた名前になってしまったのか。私は天皇制の存続について強い関心を持つ者ではないけれど、昭和っ子の一人として恥ずかしい。
“みどりの日”の命名には、昭和天皇が植物学に造詣が深く、すぐれた植物学者であったことが大きな理由となっているらしい。
ふざけたこと、言わないでくださいよ、竹下さん(この総理大臣のときに命名されたのです)。
昭和天皇が植物学者として、どれほどすぐれていたとしても、それはあくまで私的な研究でしかない。昭和天皇の八十余年の生涯は、顕微鏡に目を寄せ、じっと標本を眺めている姿に象徴されると“みどりの日”の命名者たちは本気でそう思ったのだろうか。そうだとしたら歴史的認識の欠如ばかりか、普通の常識さえ疑わしい。
昭和天皇の八十余年の生涯は“戦争と平和”、これしかない。植物学よりもなによりも天皇裕仁が真実心をくだいたのは、このテーマではなかったのか。そうでなければ国民はやりきれない。それでもやっぱり植物学のほうだと言うのだろうか。“みどりの日”は歴史的存在の|矮小化《わいしょうか》と言ってもあながち言い過ぎではないだろう。
「あれはなんだねぇ、やっぱり」
と、友人のS君が私の話を聞いて笑いながらつぶやいた。
「なにさ」
「“ふるさと創生”じゃないのか。緑を掲げるのは」
へえー、気がつかなかったなあ。
言われてみれば、そんな匂いも少しする(“ふるさと創生”は……なんだかよくわからないけれど、竹下首相のアイデアだった)。
緑と言えば大自然である。ふるさとの大自然を見なおそう……となれば、これはもう“ふるさと創生”まで、あと一息。
竹下さんがそこまで意図して命名したとは思わないけれど、自分の頭の中にあるイメージと“みどりの日”という名辞が近いような気がして、
――これがいいね――
となった……。当たらずとも遠からず。ちがうだろうか。
緑を大切にするのはけっしてわるいことではない。私も大好きである。
だが、今回の命名について竹下さんは、
――このところ評判もわるいし……国民に好感を与えるような名前がいいんじゃないの――
くらいの感覚。はしなくも歴史的視点の甘さを露呈してしまった。まさか秘書が決めたんじゃないでしょうね。
何十年かたって、
――“みどりの日”? なにをした天皇だったの? ああ、そう。植物がお好きだったのね――
天皇制なんてその程度のものになっているかもしれないが(そうであっても私はとくに|痛《つう》|痒《よう》を感じないけれど)昭和天皇の|御《み》|霊《たま》の前にうやうやしく|頭《こうべ》を垂れた人たちは、こんな評価に矛盾を感じないのだろうか。不思議と言えば不思議である。
お話変って、昔、ある新聞記者が晩年のクレマンソーに尋ねたそうな。
「最悪の政治家はだれですか」
老政治家の答えていわく。
「最悪の政治家をきめるのは、実にむつかしい。これこそ最悪と思ったとたん、もっとわるいやつがかならず出て来る」
フランス人だけあって、言うことがしゃれている。昨今の日本国を眺めていると、とてもただのジョークとは思えない。この国の政治家は……総理大臣は、本当のところどうなのだろうか。
マスコミの報道を見聞していると、どの総理大臣もみんなわるかった。ボロクソに言われていた。
でも吉田茂さんなんかは死んでしまうと、とたんにものすごくりっぱな名宰相になってしまう。佐藤栄作さんもノーベル平和賞なんかもらっちゃって、ああいう物さしの当てかたもあるのだろう。
わるい中にも上中下くらいの区別はあるにちがいない。戦後の首相がみんな六十点以下だとしても、もし本当にそうなら、民主主義の時代にこの国で首相を務めるということは、そのくらいの点数しか取れないものと考えたほうがよい。六十点を百点とする物さしを用いなければなるまい。
みんな同じようにわるいと言うのでは、評価をしないのと同じである。政治の報道、解説にたずさわるかたがたは「あれもわるい、これもわるい」ではなく、もう少し理性的な物さしを示してほしい。
それにしても、竹下さん、この人はどうなのかなあ。最後にもう一つジョークを。
「竹下さん? いいんじゃないですか」
「本当に?」
「うん。この次の首相に比べればね……」
まったくの話、だんだんわるくなっているような気がしてならない。
贈り物
食べ物の中で、
「なにが一番好きか」
と尋ねられたら、私はなんの|躊躇《ちゅうちょ》もなく、即座に、
「江戸前の握り|鮨《ずし》です」
と答える。
一番好きな女優は? 一番好きな小説は? 一番好きな町は? 一番とつくものについて答えるのは、いつも思いのほかむつかしいけれど、食べ物だけは迷いがない。
それほど握り鮨が好きである。
朝昼晩、三食続けて食べても……まだ食べたことはないけれど、おそらく|厭《いや》ではないだろう。体の状態が相当にわるいときでも握り鮨なら、まあ食べられる。これが食べたくないようなら、いよいよ私も終りが近い。本気でそう思っているし、多分医学的に考えてみてもその通りだろう。
それほど大好きな握り鮨だが、
――もうこれで限界。どうにも食べられない――
|喉《のど》もとまでいっぱい、たらふく食べたという記憶がない。
――もう一つか二つ……。でも我慢しておこう――
いじましい話だが、いつも心残りがあった。
ゆっくり考えてみれば……私も五十歳を過ぎ、いくらなんでも今日まで握り鮨を充分に食べた経験がないなんて、そんなことはありえない。遠い昔の戦中戦後ならともかく、飽食の時代はすでにかなり長く続いている。だから、これはリアリズムではなく、心理学のテーマなのだろう。つまり、どんなに充分に食べても、私は握り鮨に関しては、
――まだ食べ足りない――
と感じてしまうのである。
若いときはたしかに懐ぐあいも潤沢とは言いがたく、財布の中身とのかねあいで、
――このへんでやめておくか――
そう考えることが多かった。ほとんどの場合がそうだった。それをくり返していたから、言ってみれば、刷り込み現象。鮨屋から外に出たとたん、
――もうちょっとだったなあ――
と感ずる癖がついてしまったのだろう。
変ってこのごろは財布の中身のほうは、握り鮨くらい、相当な高級店でも、一生に一回……いやいや、そこまで大げさに決心しなくても一年に一回くらい食べようと思えば、たらふく食べられる。
だが、お立ちあい。世の中、矛盾に満ちている。今度は新しいテーマがある。
――肥り過ぎに注意しなくちゃなあ――
それ思うと……一通り満腹感が生ずるところまでは食べたのだから、これ以上は余分である。すでに今しがた喉から胃の|腑《ふ》に落ちて行った|烏《い》|賊《か》一ケだって余計と言えば余計だった。さらにその前の赤貝一ケだって、できれば我慢すべきだったろう。適正な食事ということなら、その前の平目二ケもけっして好ましいものではなかった。減量を心がけるなら、さらにその前のシャコ、甘だれなんかつけちゃって……あれもやめるべきであった。
後悔が続いている。いくらなんでもこれ以上はひどい。
「お勘定をお願いします」
かくて最後の一押しに……それを果せなかったことに、なお未練が残ってしまうのである。
前置きがすっかり長くなってしまった。こんなことを書くのが、目的ではなかった。
そう言えば、夏樹静子さんの|短《たん》|篇《ぺん》小説に「前え置き」という傑作があって、これはなにかと前置きが多く、いつも|叱《しか》られている男の物語。不運なことに殺される羽目に陥り、彼は|瀕《ひん》|死《し》の状態でダイイング・メッセージを書く。自分の血で指先を|濡《ぬ》らして、
“私は殺人犯を告発する。私を殺した犯人の名は……”
そこで力が尽き息絶えてしまう。
笑ったけれど、笑えない話である。日ごろの弱点は、思いがけないときに思いがけない形で現われるものである。
そう、そう、前置きはともかく……握り鮨のうまさは、料理そのもののおいしさだけではなく、あの、少量ずつ差し出すというプレゼンテーションの形とも関係があるのだろう。
なべて食べ物は少しずつ出すのが、よろしい。
――もうちょっと食べたいけれど……これでおしまいか――
お客にそう思わせるところが、こつだろう。
残りがないと思うと、かえってほしくなる。余るほどあったら、だれがほしがるものか。
昔、食べ物飲み物すべて不足していたころ宴会場の廊下で、
「いいか、薄いお茶でいいから、一升びんに入れて、二、三本、床の間に並べておくんだ。酒飲みたちはな、まだあんなにあると思えばそれだけで酔っちゃう。あと一本きゃないと思うと、われ先に飲むから酒が足りなくなってしまうんだ」
幹事役が、したり顔で言っていた。実行したかどうか、そして結果はどうであったか、そこまでは目が届かなかったけれど、そういう心理は充分にあるだろう。
食べさせたくないときには、大量に並べ、食べさせたいときには、ほんの少量……。飢餓の時代から飽食の時代へ、盛りつけの原理もきっと変ったにちがいない。また変らなければなるまい。
かつて“おすそわけ”という言葉があって、文字通り到来物の一部を近所に配る習慣があった。今でもなくなったわけではないけれど、昔ほどの味わいはなくなった。
果物なら五、六個、小魚なら六、七匹、お菓子ならちょっと小箱に入れて……。量の少ないところがよかった。むこうが好きかどうかわからないのだし、もらったほうの負担も小さくてすむ。
――多過ぎて迷惑ではあるまいか――
贈り物にはつねにこの視点が大切だろう。好意のつもりでやったことが、迷惑に思われたらつまらない。
季節の果物など、昨今はやたらに箱が大きくなって、中にごっそり入っていて、一箱ならともかく、なにかのはずみで、三箱も四箱もいただいたりして、近所に配ったところ、
「どうする? おむかいから大きな梨を二十個もいただいちゃったけど」
「弱ったな。うち、梨はあんまり人気ないだろ」
「それに、うちにも大きな箱が二つ来て、おむかいにあげようと思ってたのに……」
よくあるパターンである。
小泉八雲など
新聞を読んでいたら、一九九〇年はラフカディオ・ハーンが松江に来てちょうど百年。それを記念して松江市が小泉八雲文学賞を創設すると書いてあった。
私は松江に二度行ったことがある。しっとりとした様子の、家並みの美しい町であった。
関東から訪ねると、松江は黒松が多いので、それだけで落ち着きがある。陰気と言えば少し陰気だが、けばけばしさを殺して、私はむしろ好きである。そんな家並みの中に小泉八雲記念館がこぢんまりと建っているのも、つきづきしい。
――また行ってみようかな――
思い出してはそんな気を起こす町の一つである。
そして、また、小泉八雲も私が愛読した作家の一人である。
と言っても、八雲の日本研究のたぐいはほとんど読んでいない。読んだのは、もっぱらお化けの話。“怪談”や“奇談”に収められている作品が圧倒的に多い。
翻訳文で読み、英文で読み、二、三度くり返して読んだ作品も少なくない。おかげですっかり影響を受けてしまった。
怪奇幻想の説話に関心があるのは、かならずしも八雲のせいではあるまいけれど、
――怖い話は淡々と語ったほうが、かえって効果的なんだな――
と、これは明らかに八雲の作品を読んで知ったことだったろう。
それ以前は……たとえば夏の夕涼みのときなどに大人が聞かせてくれる怪談は、どれもみんなおどろおどろしく、思わせぶりで、大げさで、突然、
「出たーッ」
などと大声が入ったりして、怖いことは怖かったが、しみじみとした味わいを伝えるものではなかった。
八雲は静かに語り読者の想像力に訴え、けっして故意に怖がらせようとはしない。しかも描写は簡素で的確で、美しい。怪談を文学にまで高めたのは、八雲だけとは言わないが、八雲の功績として高く評価されてよいだろう。
二度、三度と同じ作品を読んでいるうちに、
――読者の息遣いを計るのがうまいんだなあ――
と気がついた。
小説を読むとき、読者は、登場人物の心理や筋の運びについて、いろいろ想像をめぐらしている。
――この女は、もしかしたらわるい人かもしれないぞ――
とか、あるいは、
――この話は、きっとこうなるな――
などと。予測が的中しすぎては、意外性がとぼしくて、おもしろくない。さりとて、あまり当たらないと、
――ちょっと|辻《つじ》|褄《つま》があわないのとちがうか――
と納得できない。
それが読者の息遣いである。
言ってみれば、作者と読者は勝負をするように作品をあいだに挟んで|対《たい》|峙《じ》している。作者は読者の呼吸を計り、ほどよいペースで話を進めなくてはいけない。くどすぎてはいけない。さりとて説明不足もいけない。小泉八雲は、そのあたりの判断がすこぶる巧みな書き手であった。私はそう信じている。
一例をあげれば“雪おんな”の中の一節……。
有名な物語だからほとんどの人が粗筋を知っているだろう。|吹雪《ふ ぶ き》のため村に帰れなくなった木こりの茂作と巳之吉は、渡し守の小屋で一夜を過ごす。夜中に白い女が現われ、茂作に息を吹きかけて殺す。女は巳之吉の上にも覆いかぶさって来るが、巳之吉の顔を見て、
「お前もあの人と同じような目にあわせてやろうと思ったんだが、なんだかかわいそうになってきてね。お前はまだ若いし美しいもの。でも、このことをだれかに話しちゃあいけないよ。もし話したりしたら、そのときは、お前を殺すから」
そう告げて立ち去る。
それから一年ほどたって、巳之吉は、仕事から帰る道すがら旅の娘と知りあう。お雪という名前……。お雪は江戸に行くと言ったが、巳之吉に誘われて彼の家に立ち寄り、巳之吉の母にも気に入られ、一日、二日と出発を延ばす。
そこで小泉八雲は書いているのである。
“当然の成行きとして、お雪は江戸へは行かなかった”と……。英文も、まあ、そんな意味ですね。
|些《さ》|細《さい》なことだが、私はこの一行に感服した。
読者はもうお雪が何者か知っている。下手な思わせぶりが通用するはずもない。吹雪の夜、雪女は美少年に|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れをし、姿を変え、お雪と名のって巳之吉のところへ会いに来たのだ。言っちゃあわるいが、みえみえである。そうである以上、お雪が江戸へ行くはずもない。
小泉八雲は淡々と物語を進めながら鋭く読者の呼吸を計り、さりげなくその呼吸にあわせる。ここでは“当然の成行きとして”という表現を使って。そのこころは、
「そうですよ。あなたもお気づきでしょうけれど」
であろう。読者はこのひとことで安心する。
小泉八雲は英文で書いたのであり、その文章を語るのに翻訳文であれこれ言うのは正当なことではあるまい。
それは私も充分承知しているのだが、八雲の文章のよさは、翻訳されても長所がちゃんと残るような、そういう部分がすぐれているようにも思われる。文章を|綴《つづ》っていく論理の運びが的確で美しいのではあるまいか。
そして私が読んだいくつかの翻訳もそれぞれわるくなかった。よい文章であった。
“翻訳のような文章”というのは、おそらく、ぎくしゃくとした、わかりにくい、わるい文章のことだろう。
だが、よい翻訳文はけっしてそうではない。
原文のほうに多少わかりにくいところがあったり、あるいはほかの言語に置き替えにくい部分があったりしても、翻訳者が|咀嚼《そしゃく》し自分の論理でもう一度組み立てなおしたもの、それがよい翻訳というものだろう。
だから、それがよい訳文であるならば、著者の論理を翻訳者が|噛《か》みくだき、もう一度組み立てなおしているぶんだけ、かえってわかりやすい。“翻訳文のような文章”は、よい翻訳文を対象として言えば、むしろわかりやすい、親切な文章のはずである。
私は、わかりやすい文章の手本を、八雲と八雲の翻訳者から得たように思う。
チマ・チョゴリ
旅に出れば、なにかしら心に残る発見がある。異国の旅ならば、なおさらだろう。
三泊四日の|韓《かん》|国《こく》旅行。ソウル、|慶州《キヨンジユ》、|釜《プ》|山《サン》とめぐり歩いて、私には慶州が一番印象深かった。
慶州は町全体が歴史博物館と言われる古都である。もともと史蹟に富んだ美しい町だが、そのうえ訪ねた日は空に雲ひとつない、みごとな快晴。観光客も少なく、仏国寺境内の散策は浅い春の気配の中で、すこぶる快適であった。
このあたりは韓国の新婚旅行の名所にもなっているのだろう。それらしい二人連れが目立った。新郎は上下そろいのダーク・スーツ。新婦は民族|衣裳《いしょう》のチマ・チョゴリをまとって弾んでいる。原色の衣裳が周囲の風景とよくマッチしている。
「日本で見るよりきれいだな」
「まったく」
実のところ私は民族衣裳としてのチマ・チョゴリにあまり高い評価を置いていなかった。これほど美しいものとは思っていなかった。
美しいことは美しいけれど、原色をせいぜい二色くらい組み合わせただけ、少し単調である。われら|大和《や ま と》民族の和服が持つ、込み入ったデザインのほうが断然すぐれていると考えていたのである。
だが、韓国の粗い風土の中で眺めると、チマ・チョゴリもわるいものではない。
――騎馬民族だからなあ――
などと、見当ちがいかもしれない感想を抱いた。
つまり男が粗い草原を馬に乗って帰って来る。それを迎える女は、遠くからひとめでわかる色あいの衣裳を着ているほうがふさわしい。こまかい模様が織り込んであっても、見えやしないではないか。一方、われらが和服のデザインは、四畳半風の文化にこそふさわしいものだろう。
もちろんチマ・チョゴリにも複雑な模様を染め込んだり、織り込んだりしたものもあるけれど、新婚旅行の女性たちは単純明快な色を合わせて花のように咲き、蝶のように舞っていた。それが本当に美しかった。
チマ・チョゴリは、韓国式の|晩《ばん》|餐《さん》の席にもすわっていた。|妓《キー》|生《セン》である。この職種についてはかんばしくない|噂《うわさ》もあるけれど、本来は由緒ある酒席のホステス兼エンターテイナー。サービスを受ける側も一定の作法を守らなければいけない。
「自分で|箸《はし》をとって食べてはいけません」
と教えてくれた。
「あ、そうなんですか」
マン・ツー・マン方式で、隣にすわったチマ・チョゴリが食べさせてくれるのである。
しかし、率直に申しあげれば、これはなんともまだるっこしいものですね。
私はあらためて、ものをおいしく食べるという方法の中に、手の作業が深く関与していることを|覚《さと》らされた。
ハングル語が話せないから、おいしそうな皿を選んで、
「あれを」
と、指をさす。
隣のチマ・チョゴリが銀の箸でつまみ、にこやかに|微《ほほ》|笑《え》んで私の口に運んでくれるのだが、その量とかタイミングとかが、かならずしもこちらの思惑と合致しない。
――もう少し大きく。もうちょっと|醤油《しょうゆ》をつけてほしかった――
そう思っても、希望通りにはいかない。
想像以上に辛いものを口の中に押し込められたりする。
やっぱり自分で箸を持ち、自分のリズムで食べるほうがおいしい。私は日本酒だって人から|盃《さかずき》に注いでもらって飲むのがあまり好きではない。自分で注ぎ、自分のペースで飲みたいほうである。
妓生の食卓サービスは、看護人に食べさせてもらう病人食みたいで、せっかくのご|馳《ち》|走《そう》を心ゆくまで賞味したという気分にはなりにくい。
さらに、この食卓作法では、熱いものをフウフウと吹きながら食べることはむつかしく、少々ぬるめのものを口に運ばれ、この点でも不満が残った。
韓国の女性はなかなか美しい。
女性の顔にはタヌキ顔とキツネ顔とがあって、日本女性はタヌキ顔、韓国女性はキツネ顔、もちろん例外はたくさんあるけれど、大別すればそうなる。私は端整なタヌキ顔にひとかたならぬ愛着を持つ者ではあるけれど、美形ということならキツネ顔のほうが一般に整っているだろう。
韓国テレビの女性キャスターは例外なく美人である。今、韓国ではこのあたりに一番美しい女性が集まっているのではあるまいか。
町を歩いていても、なかなかの美女がいる。
肌の白さ……。表皮が薄いような独特な白さである。おしなべて歯並びのいいのは、
「キムチのせいですよ」
と教えられたが、キムチを食べると、なぜ歯並びがよくなるのか、通訳の答は要領をえず、栄養学的医学的説明は聞けなかった。
それから脚もすっきりと伸びている。|膝頭《ひざがしら》が小さいから形がいい。
いいところばかりを挙げたが、立居振舞いは大和|撫《なで》|子《しこ》に比べると、ちょっと荒っぽいようですね。やはり騎馬民族のせいなのかな。
口論も多い。
言葉がわからないから、なにを言い争っているのかわからないけれど、おそらく日常のちょっとしたトラブルだろう。一方がまくしたてると、もう一方も負けずにまくしたてる。聞いていて恐れ入ってしまう。キツネ顔の|吊《つ》り目がさらに鋭くなり、柔和なタヌキ顔がなつかしくなった。
女性のことばかりでは申し訳ない。
ソウルはたしかに現代都市として生まれ変っていた。この国はこれからもどんどん発展して行くだろう。
ただ一つ気がかりと言えば、どこへ行っても三星グループ、現代グループなどなど一握りの財閥が支配している。見るもの、聞くもの、手にするもの、すべてに財閥の経済支配が及んでいる。
独裁や独占は、なべて能率のよいものではあるけれど……そして、おそらく韓国の驚異的な発展はその能率と関係があったと思うけれど、この先、どこかで一般大衆が、
――結局、俺たちは財閥のために働いているようなものなんだよなあ――
などと思ったりしないものだろうか。それが発展の障害とならないものだろうか。短い旅の終りにふと考えた。
アメリカ讃江
昭和二十年代、私はアメリカに三度負けたと思った。
私はまだ十代の子どもだったけれど、敗北の記憶は今でもはっきりと心に残っている。刷り込み現象の一つと言ってもよいだろう。
まず戦争で負けた。これは、もう、なんの説明もいるまい。歴史的真実。完全なノック・ダウン。負け惜しみも出ないほどの完敗である。
ずっと後になって知ったことだが、大日本帝国の陸軍大学では(海軍のほうは知らない)戦争の負け方についてなにも教えていなかったとか。陸軍大学と言えば、軍の最高の指揮官を養成するところであり、事実太平洋戦争をとりしきった陸軍の最高幹部にはここの出身者が断然多かった。
日本の軍隊は神軍で、絶対に負けないことになっていたのだから、負け方を教えるなんて言語道断、必要のないことと思っていたのだろう。
このこと一つを考えてみても理性を欠いた教育機関であったとしか言いようがない。負け方がどれほど大切か、歴史を少しでも眺めてみればすぐにわかる。勝負を本気でやったことのある人はみんな知っている。
――今の自衛隊はどうなのかな――
防衛大学校では教えているのだろうか。憲法により日本国は戦争をしないたてまえになっているから、負けることもないのだろうか。
でも攻めて来たら戦うつもりだろう。そのために仮想敵国を設けて、いろいろ訓練をしているはずである。
で、そのときは……どういう敵がどう攻めて来るのかわからないけれど、自衛隊はなんだか負けそうな気がする。だから軍備を増やせと言ってるのではない。どう負けたらよいか、今度こそしっかりと必修科目に入れて教えておいていただきたい。
話を元に戻して……つぎに私はアメリカ製のチョコレートを|嗅《か》ぎ、それを食べたとき、負けたと思った。
この芳香、この味わい……。
――むこうはこんなもの食べていたのか――
こっちは芋づるを食べていたのに……。
昭和二十一年。ハーシーのチョコレートだったと思うが、たった一かけらのチョコレートが、彼我の力の差をはっきりと教えてくれた。
つまり、物資で負けた。
これもほとんどなんの説明もいるまい。戦後数十年、日本はずいぶん豊かになったけれど、それでも物資の力ということなら、アメリカの足もとにも及ばない。日本が豊かになったといくら言われても、
――本当かなあ――
と、|頬《ほお》をつねりたくなるのは、このせいである。土地もなければ石油もない。太陽エネルギーの飛躍的な利用法が発明されない限り、日本はいつまでたっても資源のない国であり続けるだろう。アメリカには絶対に勝てない。肩を並べることさえ絶望的である。
以上二つの敗北は自明であり、あまりにも明白過ぎて、それだけにかえって、
「まいりました」
と、この一言であきらめることもできた。
だが、最後の一つ、
――人間としても負けたな――
そう悟ったときはつらかった。
アメリカの占領政策はみごとなものだった。
荒廃した日本国をなんとか立ち直らせようとして幾多の援助をほどこしてくれた。あのときアメリカから運び込まれた食料や衣料がどれほど日本人を助けてくれたことか。
もちろんそれらは余剰物資だったろうし、むこうはむこうで日本を自立させることがアメリカの利益になると、そういう判断があってのことだったろうが、それをさし引いてもなお余るものがあったように私には感じられた。
弱い者に手をさし伸べて立ちあがらせてやろうと、人間としてすこぶる大切な精神がアメリカにはあった。
万に一つ、日本がアメリカに勝ってアメリカを占領していたら、日本軍はどうアメリカ大陸に|跋《ばっ》|扈《こ》しただろうか。侵略、略奪、|殺《さつ》|戮《りく》、|凌辱《りょうじょく》……考えただけでも恥ずかしい。恥ずかしさを通り越して真実恐ろしい。ろくでもないことを、私たちはまたもう一つ、太平洋のむこうの大陸でも犯してしまったにちがいない。
このあたりの事情が子どもの目にも見えて来て、私はしみじみと人間としても負けたと思ったわけである。
世界連邦が誕生するとして、どこの国が盟主となってくれたらいいだろうか。私は時折そんなことを考える。意見はたくさんあるだろう。
意見がたくさんあること自体、世界連邦がまだ遠い夢であることの、なによりの証拠と言ってもよい。
だが、一つの茶の間談義として言うならば、私は、
――アメリカ人がいいな――
と思う。
昭和二十年代の印象が今でも続いている。
どの民族も、どの国民も、みんな利己的だが、それでもアメリカ人は人柄のいいところがある。正義とか、公平とか、民主主義とか、そういう理念について自分が多少の損をすることを承知の上で、道義を貫いてくれそうな、そんな気配を帯びている。西部劇の保安官は、映画ではいつもそうだった。その|片《へん》|鱗《りん》をアメリカ人とアメリカ社会は今でも少し持っているように見えるのである。
――フランス人やロシア人は|厭《いや》だな――
これは私の、私だけの偏見だろう。
フランス人はすぐれた文化の担い手であり、作り手にちがいないが、私の見たところでは、いろいろ理屈を言ったあげく、結局はフランス人だけが得をする策を選びそうな気がする。ロシア人は……民族としては好人物も多いだろうが、あの官僚制、あの独善性、戦後の東側衛星国との関係を見ていると、ソビエトはなんだかもう一つ信頼ができない。
もう一度言うけれど、これは私の、ほんの印象、ほんの偏見……。ごめんなさい。
それよりもなによりも、
――日本人は駄目だろうな――
私が言うのではない。
だれよりも世界の人々が、日本人を見て知っている人たちが、そう思っているにちがいない。
盟主になんかならなくてもいいけれど、そう思われていることは熟慮に値する。ゆゆしい問題である。これも私の偏見ならいいのだが。
心が一番
二十六、七歳の頃、お金が大好きという女性にめぐりあった。かりにS子としておこう。
私の恋人ではない。ただの友人。
説明するまでもなく、私は彼女の恋人になるための主要条件を決定的に欠いていた。
S子はむしろ|清《せい》|楚《そ》な感じの美人で、一見したところ、とても“お金大好き人間”には見えなかったが、私は彼女の日常生活を身近にうかがえる立場にいたので、
――ああ、この人は本当にお金が好きなんだなあ――
と察知することができた。
お札にアイロンをかけ、いとおしそうに財布に入れておく。見えないところでは|頬《ほお》ずりくらいしていたのではあるまいか。S子の財布には……大分昔のことなので記憶も薄くなってしまったが、いつも二千円。千円札一枚、五百円札一枚、そして百円札四枚と小銭である。余分なお金は持たない。こういう点では、とても|几帳面《きちょうめん》な性格の持ち主だった。
話は少し横道にそれるが、お金というものは、気位の高い美女とよく似ている。それを手に入れたければ「好きです、好きです、好きです」と、ひたすら熱愛しなければいけない。身も心も捧げるつもりで接しなければ、寄りついてくれない。
逆に言えば、
「お金だけが人生じゃないよ」
などとうそぶいているようでは駄目なのである。それはちょうど気位の高い美女に、
「あんただけが女じゃないよ」
と告げたようなもの。もう金輪際近づいて来てはくれない。お金がほしければ、いつでもどこでも「好きです、好きです」と、口に出すかどうかはともかく、心の中で思っていることが肝要である。
S子はまさしくそういう女性だった。
私はと言えば、育った家が「お金だけが人生じゃないよ」と考えたがるタイプ。その習慣が骨身に染み込んでいるから、今でも抜けきれない。若い頃はさらにそうだった。だからS子の生き方にはあまり好感を抱けなかった。
S子の選ぶ男はみんなお金持だった。私は三人知っている。三十代が二人、四十代が一人……いや、いや、こういうことは事情をよく説明しないとわかりにくい。
最初が四十代の既婚男性、つまり不倫の恋である。二人目が三十そこそこの青年実業家。と言うより中どころの企業の二代目で、絵にかいたようなボンボン。そして三人目が病気の奥さんを持つ三十代後半の男。「ゆくゆくは結婚しよう」なんておいしいお話もあったらしいが、奥さんはなかなか死ななかったし、離婚もしなかった。
どの恋も、まあ、言ってみれば、高級車に乗ってフランス料理店に赴き、一流ホテルで愛しあい、贅沢な海外旅行なんかも挟まれていて、まことにはではでしい。プレゼントも毛皮のコートやダイヤのブローチなんかをもらっちゃう。破局のときには、S子はちゃんと手切れ金のようなものをせしめていた。
しかし、この生き方は少々あやうい。
――こんなことで一生幸福に暮らしていけるかなあ――
ある日、私はS子をつかまえ、
「お金がそんなに好きなのか?」
と年来の疑問を投げかけてみた。
「そりゃお金は大事にしなくちゃいけないわ。このごろ一円玉が落ちてても拾わない人が多いでしょ。いけないと思う」
「そういうこと言ってんじゃないよ」
「じゃあ、なあに?」
「男の魅力ってなにかなあ。お金をたくさん持ってることだろうか」
S子はシャンと首を立て、私の顔を見すえたうえで、
「そりゃ人柄でしょう。きまってるじゃない。お金か心かって聞かれたら、それは心よ。気のあう人じゃなきゃ、好きになれないわ」
と答える。|嘘《うそ》を言っているようには見えない。私はうろたえた。
「しかし……あんたが好きになる人、みんな金持じゃないか」
「そりゃ結果じゃないの」
「そうかなあ」
思案のあとでS子はポツリとつぶやいた。
「お金を持ってない人って、私、性格として好きになれないのよね。なんかいじましくて」
「なるほどね」
私は弱い声で答えた。
S子の考えは、私が推察したところ、好きなのはお金ではなく、お金を持つことによって育成される人柄や心のほう、そういうことらしい。
――結局は同じことなのではあるまいか――
そんな気もしたけれど、S子は、
「そうじゃないわ。あ、この人、感じがいいって、そう思って好きになってみると、たまたまお金持なのね」
と、恋愛にはフィーリングの一致が第一であることを主張してやまなかった。
数年後、S子は見合結婚をした。相手はやはり資産家だった。
「会ったとたんに、性格のいい人だわ、この人とならやっていける、そう思ったわ」
S子は誇らしげに笑っていた。
同じ頃、私は一人のプレイボーイと知りあった。いわゆる漁色家。恋人の多いこと、多いこと。こまかい事情までは知らない。本来大っぴらにすることではないから、見えて来るものは限られている。
「やっぱり一押し、二金、三男かね」と、プレイボーイ道の極意を尋ねてみた。
「うん。そうだな。たしかに男前かどうかはたいした条件じゃないな。銭は一定の効果があるだろうけど、半端な金じゃ駄目だよ。やっぱり、押しって言うか、まめって言うか、ねばり強く、懲りずに頑張らなくちゃ、いかんのとちがうか」
「うん」
「しかし、一番大切なのは、まごころだよ」
「えっ」
私はうろたえた。こんなところにまごころが出て来るとは思わなかった。プレイボーイ氏はゆっくりと解説してくれた。
「まごころでぶつかれば、今、好きな男がいる女でなければ、たいていなんとかなる。この世にまごころほど強いものはないね。ただ、まごころが使えないときが多いだろう。まごころじゃないものを、まごころに見せて使わなくちゃいかんから、それが苦しいのよ」
|淫《いん》|靡《び》な視線
「“なるほど”って納得しましたよ」
知りあいの編集者が、私の近作を読んでわざわざ電話をかけて寄こした。
その作品は「視線」というタイトルで、自信作というほどのものではないけれど、ちょっとした|狙《ねら》いがなくもない。
主人公は四十代のサラリーマン。小料理屋のママと親しくなり、体の関係を持つ。ママは花柳界の出身で、ほかにも何人か親しい男がいるような気配がある。小料理屋の開店五周年のお祝いが開かれ、常連が集まる。ママは昔とったきねづか、歌にあわせて“|奴《やっこ》さん”を踊ったが、主人公はその身ぶり手ぶりを見ながら、抱きあったときの彼女の姿を思い浮かべる。見ているのは踊りだが、男の脳裏にあるのはむしろ|閨《けい》|房《ぼう》の姿であり、そんなイメージに淫靡な喜びを覚える。その瞬間、彼ははっと気がつく。ここに集まった他の常連たち、その視線もみんな同じではあるまいか。みんな同じものを見ているのではなかろうか。いくつもの淫靡な視線が彼女目がけて飛んでいるのを感じて|愕《がく》|然《ぜん》とする。
「お座敷の踊りなんて、なにが楽しくて旦那衆が見ているのかと思ってたけど、ああいうことなんですね、つまり」
それが編集者の納得したことであった。私が作品に|托《たく》したメッセージもそのあたりで、それがうまく伝わったのだから、成功と言ってよいだろう。
「わかった? 一応そこが狙いだから」
「体験談ですか」
「とんでもない。あの世界をよく知ってるわけじゃない」
これは本当だ。
私の、ずっと年上の知人に花街にくわしい人がいて、かりにNさんとしよう。
「演舞場をつきあってくれ」
と誘われ、新橋演舞場へ行ったことがある。ナントカ踊り……。彼の|馴《な》|染《じ》みのお|姐《ねえ》さんも当然出演する。私も酒席で何度かその人を見たことがあった。
晴れの舞台に彼女が登場した。あの手の踊りというものは、
――下手じゃないんだろうけど、わざわざ見るほどのものかなあ――
と、そんな感じがなくもない。油断をしていると、なまあくびが出かねない。しかし、隣の席にいるNさんは、眼を凝らして眺めている。
その眼ざしを横から見て、
――あ、裸を見ている――
と感じた。
小説家のいやらしいところである。
|下《げ》|衆《す》の勘ぐりかもしれない。裸という表現も適当ではないだろう。が、とにかく舞台の上のお姐さんは鮮かな|衣裳《いしょう》を着て舞っていたが、Nさんのほうは、頭の中に閨房の仕草を描いているのではあるまいか。
――おそらく体の関係はあるだろうし――
もしそうならば、きっとこの瞬間にはそれを思い描くだろうし、それならまんざら楽しくないこともあるまい。
――しかし、待てよ――
彼女の客は、本日ここに大勢来ているはずである。切符をたくさん買わされたり、御祝儀をせびられたりして……。その全員が、とは言わないけれど、何人かがやっぱり隣の席と同じように彼女の閨房を思い浮かべているのではあるまいか。会場を見渡し、あっちから、こっちから、そんな視線が乱れ飛んでいるように思った。
「そんな馬鹿な……。あれは芸術です」
とお|叱《しか》りを受けるかもしれない。
古来、日本の芸術にはこういう淫靡な思惑が伝統的にかかわっていて、文部省推薦ばかりではない、と私は思うのだが、一歩譲ってこのケースは、下衆の勘ぐり、当たっているかどうかはわからない。だが、小説家はそれでいいのである。
つまり、事実を把握することがなにより大切な立場にある人なら、Nさんがそのお姐さんと関係があったかどうか、しこうして演舞場の席で閨房の姿を思い描いたかどうか、それは裸なのか|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》くらい着ていたのか、そのあたりはおおいに問題となるだろう。
小説家はそうではない。この職業では、事実かどうかが大切なのではなく、事実らしいと感じ、それを事実らしく描くことが肝要なのである。極論をすれば、想起したことが事実とまったく関係がなくても、それから先が事実らしければそれでよい。Nさんとお姐さんがどうであるか、そんなことはどうでもよろしい。一幅の淫靡な情景が私の頭の中に浮かび、
――いただきます――
と、ありがたくイメージを貯えることができれば、それでよろしい。
このテーマは、小説家に人を見る眼があるかどうかということにも関連する。人間を描くことが仕事の一つなのだから、人間をよく見ているだろうと、それはたしかにそうなのだが、見方がちょっとちがう。
ここにAさんという人物がいて、刑事や人事課長や詐欺師は、Aさんの人柄を正確に把握しなくてはいけない。小説家はAさんを観察し、その結果、Aさんとは似ても似つかないAさんもどきを想像したとしても、そのAさんもどきが小説の中にいきいきと登場し、現実感を持ってくれればそれでよい。正しく見ることは二義的であり、いきいきと描くことのほうが大切である。そこが刑事や人事課長や詐欺師とちがう。正しく見ることは正しく描くことに通じてはいるだろうけれど、それが本筋ではない。新橋演舞場の体験もまたそうであった。
話をもとに戻して、演舞場で感じた視線はほかのところでも飛んでいるかもしれない。舞台に立つ女性はほかにもたくさんいるのだし、その女性と親しい男性は、きっと客席にいるだろうから……。宝塚でも、新劇でも変りない。
もしかしたらテレビだって同じかもしれない。
恋をするなら、テレビの娘よ
スウィッチ一つで すぐ会える
オコサでオコサで本当だね
こんな歌詞を酒席で聞いたことがあるけれど、これだって深読みをすれば、同じ視線で眺めているケースがあるだろう。
テレビの娘は時代の花形であり、昨夜、彼女を抱いた男は、こっそりとそのことを思って眺めているだろう。うらやましい。
パーティ寸感
スピーチについては、苦い思い出がある。
私自身が、ある文学賞をいただいたときのこと。受賞者は故人も含めて四人だった。
当時、この授賞式では、受賞者の友人が一人ずつ祝辞を述べるしきたりになっていた。
式次第が進み、私ではない受賞者の友人が壇上に招かれて話し始めたのだが、その長いこと、長いこと、十五分はたっぷりあっただろう。内容もそれほど感動的なものではなかった。
参列者はほとんどみんな立って聞いている。受賞者が多くて、それでなくてもこの夜のセレモニイは長くかかっていた。四人の受賞者の友人が、それぞれ十五分ずつ話したら、どういうことになるか、
――ちょっと考えてみれば、わかりそうなものなのに――
私は受賞者の席にすわりながら、率直のところ腹立たしかった。
友人たちのスピーチが終ると、受賞者の|挨《あい》|拶《さつ》がある。私は最後に立ったのだが、会場はもうすっかりざわめいていて、とても話をする雰囲気ではない。
私は、文字で書けば、ほんの二行足らずの短いスピーチをして終った。その短さに対して、会場からやんやの喝采が起きたのを覚えている。
私としては、三分くらいに収まる挨拶を用意していたのだが、それさえもむつかしいような気配だった。すでにセレモニイが始まってから一時間以上も経過していた。
――騒ぐやつがわるいんだ――
という意見もあるだろうけれど、現実問題として、会場には、
――もういい加減にやめろ――
そんな様子が満ち満ちていた。やんやの喝采がなによりの証拠である。
受賞者として、せっかく用意した挨拶が語れなかったのは、もちろん残念だった。
――もう少し前のほうで短くやってくれていれば――
友人の祝辞と受賞者の挨拶と、どちらが本質的か、これは言うまでもあるまい。この賞の授賞式では、翌年から友人のスピーチは割愛されるようになった。
まったくの話、スピーチというものは、短いのがよろしい。長くて五分。三分足らずで、キリリとしまっているのは、本当にすばらしい。
つい先日、知人の出版記念会に出席して、M氏の挨拶を聞いた。
M氏は、名を挙げれば、
――ああ、きっとスピーチがうまいでしょうね――
と、みなさんが思う人である。
そのM氏が壇上に立ち、ポケットから数枚の|便《びん》|箋《せん》を取り出して語り始めた。読むのではなく、半分語り、半分読んでいるような感じ。
書いてあるのだから、|淀《よど》みがない。内容も、よく考えてあって、とてもおもしろい。的確である。
そして、短く終った。
うまい人が、こうするのである。
M氏のことだから即興でやっても、きっとみごとだったろう。だが、会場がどんな雰囲気になっているか、それを予測してこの手段を選んだにちがいない。
考えさせられることであった。
スピーチの下手な人に限って、ちゃんと用意をして来ない。
短い時間でなにを語るか、あらかじめ考えてあれば、ダラダラと続くはずもない。自信がなければ、便箋に書いて来てもよいだろう。
「諸先輩をさしおいて私のような若輩者がご挨拶を申しあげるのは|僭《せん》|越《えつ》至極でございますが……」
などと、ばか丁寧に前置きを述べる風習もあるけれど、私の考えでは、あれはほとんどの場合、不必要。なにかの理由があって会の主催者が、その人にスピーチを依頼しているのである。卑下することもないし、やたらに遠慮することもあるまい。
むしろ失礼があるとすれば“諸先輩をさしおいて”|喋《しゃべ》ることではなく、ろくに用意もせず、熟慮もせず、長く話してしまうことのほうだろう。逆の立場に立ってみれば、すぐにわかる。
この手のセレモニイについて、
「長いスピーチで閉口した」
という話はよく聞くけれど……聞く以上にだれしもが体験しているけれど、だれがスピーチをしたか、その人選について苦情を聞くことは滅多にない。
スピーチは短く。自信がなければ、紙に書いて用意をすればいい。四百字詰一枚が一分間のスピーチである。
文句ついでに、もう一つ。
前にも書いたことがあるのだが、こうしたセレモニイで、どうして祝電の披露をやるのだろうか、私は不思議でならない。
先日の会でもやっていた。私は時計を見ていたのだが、そのために三分少々かかった。
たかが三分……。しかし会場の雰囲気はすでに乱れ始めていた。三分でも余計なことはやらないほうがいい。
考えてもみよう。
祝電というのは、もっとも安易な儀礼である。電話一本ですむ。しかるべき立場の人ならば、秘書か部下にやらせる。料金も千円くらいのものだろう。
これに比べれば会場にわざわざ足を運んでくれた人たちのほうがずっと礼儀を尽している。ずっと厄介である。
ああ、それなのに、式次第のしかるべき位置で、
「祝電を披露させていただきます」
と、なぜか司会者が読みあげる。かくて、足も運ばず時間もかけず、たった千円くらいの費用で秘書にでも打たせた、ありきたりの電文を、わざわざ会場に足を運んだ人たちが敬聴する。それを強いる。それほどありがたいものだろうか。
祝電の発信人の中には、たしかに著名な人もいるけれど、
「俺が打ったんだから、ありがたく聞け」
ということなら、それは|不《ふ》|遜《そん》というものだろう。
それに、会場には、ごくごく常識的な物さしで計ってみても、その発信人と同じくらい偉い人がかならずいる。その人をさしおいて、たかが千円の祝電が威張ってはいけない。どう考えてみてもおかしい。
受取人に手渡しすれば、それでよい。せっかく文章になっているのだから。
新人賞の季節
サラリーマンは人事課で辞令をもらったとたんにサラリーマンとなるが、世間には、いつ、その職業的肩書を帯びてよいか、|曖《あい》|昧《まい》な仕事も少なくない。
小説家も、その一つ。
人はいつ小説家になるのか。
自分一人で「私は小説家です」と名のってみても、裏づけがなければ認めてもらえない。発表の舞台が同人雑誌だけでは何十篇作品を書いていても、小説家ではない。
小説を書いて生計を立てている人、それが小説家と、常識的な定義が浮かぶけれど……ことはそう簡単ではない。つまり、文筆業は経費を全部自分でまかなわなければいけない。時節がらばかにできないのが、仕事をするためのスペース。マンションなんかを借りたら大変だ。ほかに取材費もかかるし、年収にして最低一千万円くらいはないと“生計を立てている”とは言いがたい。五年十年という期間を通して、このレベルを越えている人となると、小説家はたちまち百人くらいになってしまうだろう。
そこで方向転換。
しかるべき小説雑誌で新人賞をとったくらい……。このあたりが一つの基準となる。新人賞ではまだ生計は立てられない。一千万円はまだまだむつかしい。それでも、小説業界で一応認知されたのだから、
「まあ、小説家なんです」
と名のる権利はある。
かく言う私は、雑文書きとして編集者と接し、いくらか名を知られ、
「どうです、小説でも書いてみませんか」
新人賞もとらないまま作品を小説雑誌に掲載してもらい、少額ながら第一作から原稿料をいただいた。
一作、二作、三作……五作、十作と作品を発表し、少しずつ小説家に近づいたが、なんとなく業界の認知を得ていないような気がして居心地がわるかった。言ってみれば、正規の入社試験を通らず、社長のコネで入社した社員のようなもの。仕事は同じようにやっていても、やましさがつきまとう。
昭和五十四年に推理作家協会賞をいただいたときに……これはまあ、係長昇任試験のようなものですね。
――あ、これで認知された。小説家になったらしいな――
と|安《あん》|堵《ど》の胸を|撫《な》でおろした。
現代では新人賞をとることが、この職業への入門ルートである。これがフェア・ウェイであり、一番よい方法である。
大作家の家の門を|叩《たた》き、玄関番から廊下の掃除……なんてのは、もうない。同人雑誌も修業を積む手段としてはともかく、そこから見出されて、いきなり作家というケースは少ない。同人雑誌で編集者の目に留まっても「新人賞に応募してくれませんか」と、結局は同じ道筋を勧められることが多い。
昨今は、たとえばイラストレーター、コーディネイター、インストラクターなどなど、片仮名で表わす自由業が人気の的らしい。同じ自由業でも漢字で書く小説家は、
「あれ、なるの、むつかしいんじゃないの」
と、若い人にはちょっと敬遠されている。
それでも新人賞の応募となると、老若男女ざっと千篇ぐらいの作品が寄せられて来る。
「本当に読んでくれるんですか」
疑問の声を聞くことも多いけれど、私の見たところ新人賞を主催する出版社はかなりよく読んでいる。階段の上から原稿を投げて、一番遠くに飛んだのが新人賞……なんてことは、ゆめありません。
専門の読み屋を雇ったり、編集部員が休日を返上して読んだり、予選の枠を少しずつせばめていって最終候補作七、八篇に絞る。選考委員が読むのは、ここからである。私も現在二つほど新人賞の選考委員を務めているが、もちろん真剣に読む。
――見ず知らずの人の運命を変えることになりかねないからなあ――
それを思うと、少し怖い。
落とした場合より、入選作と決めたときのほうが怖い。そのほうが運命を変える度合いが大きいから……。
「はい。サラリーマンをやめて小説家一筋で行くことに決めました」
などと受賞者が荷物を背負って上京なんかしちゃって……本当に恐ろしい。
――大丈夫かなあ――
選んでおきながら心配になってしまいます。
短篇を一つ書いても、新人の頃は原稿料が安く、せいぜい十五万円くらい。一カ月くらいかけて書きあげ、編集者に駄目を押され、突き返され、苦労のすえこの金額だから、そろばんはあわない。新人はみんなそう思う。私もそう思った。
昔、すごいことを新人作家に教えてくれる編集者がいて、
「原稿料、安いと思いますか」
「ええ。まあ」
「五十枚で十五万円だから……一枚三千円ですね」
「でも、毎月注文があるわけじゃないし、とても食べて行けないでしょう」
「まあね。しかし、発想の転換をしてみましょう」
「発想の転換ですか」
「そう。今、小説雑誌が五百円なんですよね」
「ええ……?」
「あなたに十五万円を払うとして……印刷代や組み代や紙代や、その他の人件費やマージンや、そういうもの全部抜きにして、ただ、ただ、あなたにお支払いする十五万円を入手するだけで、雑誌を三百冊売らなきゃいけないんですよ」
「そうなりますね」
「逆に言えば、三百冊お客さんが買ってくれなければ、あなたにお支払いする十五万円さえ入って来ないわけです」
「ええ」
編集者は少し笑って、
「で、あなたの名前が目次に書いてあるからといって、それで“おお、これを買おう”って思ってくれる読者、三百人いますか?」
|親《しん》|戚《せき》、友人、知人を総動員してみても、なかなか三百人にはならない。しかも、この計算は、印刷代、組み代、紙代、その他を全部無視したうえでのことなのである。かくて新人は首をうなだれてしまう。
新人賞の季節には私も一生懸命に最終予選を通過した作品を読んで、すぐれた新人を捜しています。
虫の知らせ
相撲のテレビ中継を見ていたら、東方の力士ばかりがズラリと勝っている。正確には数えなかったけれど、十人くらい続けて東の電光板だけが光っていた。
こんなとき、これから取組む二人の力士はどう思うものだろう。
西方の力士は、
「縁起がわるいな。俺も負けかな」
東方の力士は、
「ぼつぼつ東が負ける頃だな」
それぞれにネガティブな思案を心に抱くのではあるまいか。
私が見ていたときは西方が勝ち、他人事ながら、なんとなく|安《あん》|堵《ど》を覚えた。
コインが一枚あって、これを投げて裏表を当てる。そんなゲームを考えてみよう。
四回たて続けに表が出て、さて、五回目はどうなるか。
なんとなくもういい加減裏が出てもよい頃だと思ってしまう。|賭《か》けごとなら、おそらく裏に賭ける人のほうが多いのではあるまいか。
たしかに五回続けてコインの表が出る確率は、二分の一の五乗、つまり、三十二分の一である。滅多にないことと言ってよい。
だが、それはゲームを始める前のこと。現実に四回投げ終えてしまい、四回はすでに過去の出来事となり、そのつぎの五回目は、ただの一回目となんら変りがない。
表が出るか、裏が出るか、確率は二分の一。
むしろたて続けに表が出たコインは、表の出やすいコインで、五回目も表が出る確率のほうが少し大きいかもしれない。
理屈はその通りなのだが、それでもなお感情としては、
――そんなにたて続けに同じものが出るもんか――
と、私たちは思ってしまう。
子どもが三人女ばかりで、
――四人目は男だろう――
ところが、あははは、四人目もまたまた女だったりして……いえ、いえ、これは女性蔑視ではありません。男が三人続いて、
――今度は女だろう――
楽しみにしていたのに、また男。薄汚いのばかりが並んでしまい、閉口している親も私は知っている。
そう言えば、|麻雀《マージヤン》好きのFさんが、ある雑誌の誌面で自分の打った麻雀を解説していた。
“この二萬は当たらないと信じて捨てた”
と書き、その根拠として、
“その日のゲームでは、もう二萬で二回も放銃していた。二萬ばかりが当たるはずがない”
と記していた。
もちろんFさんも、これが根拠として正当でないことを知っている。その日、二萬が三回当たっていようと、五回当たっていようと、たとえ十回続けて当たっていようと、今、このとき相手が二萬で待っていないという保証はどこにもない。危険な|牌《パイ》はやっぱり危険のはずである。
そうであるにもかかわらず、
――そんなに二萬ばかりが当たってなるものか――
その心境もよくわかる。
麻雀の牌は三十四種類。牌の機能によって多少の差はあるだろうけれど、ゲームを始める前にはみんな等しく三十四分の一ずつの危険性を持っているはずだ。何千回とゲームをやり、当たり牌を調べてみれば、三十四種類が一定の平均率で当たっているはずである。
しかし|鰯《いわし》の頭も信心から……。
Fさんの放った二萬はめでたく放銃とはならず、ピンチを脱することができたようである。
話は突然変るのだが“私は飛行機事故で絶対に死なない”と固く、固く確信を抱いていた時期があった。
そして、その理由。
当時、私は南青山のMDマンションに住んでいた。同じマンションに向田邦子さんが住んでいらして、みなさんもご存知の通り向田さんは飛行機事故で他界された。
向田さんも私も、同じ直木賞の受賞者である。
あははは。論旨の行方はすでにお気づきであろう。
そう、その通り。
直木賞の受賞者なんて百数名しかいない。それが同じマンションに住むことだけだって滅多にない偶然である。さらに、そのうえ同じ飛行機事故で死ぬなんて、そんな偶然があってよいものだろうか。この確率の計算はむつかしいが、極度に小さいことだけはまちがいない。
――いくらなんでも神様はそんなことをしないだろう――
それが“私は飛行機事故で絶対に死なない”と信じた論拠である。
五年前にMDマンションから|杉《すぎ》|並《なみ》へと住居を変え、今は少し心配である。
ふたたびお話変って……なべて原稿というものは、みなさんがお読みになるより少し前に書く。
当然のことだ。印刷、製本、発送……筆者と読者のあいだには、いろいろな手続きが介在している。
週刊誌について言えば、書く時点と読まれる時点とで、十日ほど差があるだろう。月刊誌なら、もっと長くなる。この時間差が長ければ長いほど困ったことが起こりやすい。
たとえば、そのあいだに飛行機事故が起きたりして……こうなると、このテーマについてジョークめいた発言をしているのは、はなはだまずい。まことに不謹慎、と相成る。
テレビ・タレントのKさんは、アメリカ旅行中に、日本で飛行機の大事故が起きたことを知り、即刻、国際電話に飛びついたとか。
Kさんは、いくつものテレビ番組で司会をやっている。それはみんなビデオ録画にされて放映を待っている。録画の時点と、視聴者がそれを見る時点とに時間差があるのは、原稿の場合と同様である。
「俺、まさか番組の中で、飛行機事故のジョークなんか言ってないだろうな」
ニュース番組が悲しみの遺族を映しているとき、これはまずい。国際電話に飛びついてチェックをさせたのも、プロフェッショナルとしての心遣いだったろう。
私としてもこの原稿を書いた以上、願わくは、この十日間あまり飛行機事故の起きないことを祈る。
そして私自身もその間に二度ほど飛行機に乗る予定になっている。
「あんなこと書いてて……。虫が知らせたのかしら」
なんて……これはもう最悪と言ってよい。
美女優遇制度
美しい女性は、性格もよい……。
「|嘘《うそ》。そんなこと絶対にない」
という反論も当然あろうけれど、どちらかと言えば私はこのテーゼを信じてしまうほうである。
私も五十年ほど生きて来て、もちろんそうではないケースに何度も遭遇しているし、煮え湯とまではいかないけれど、ちょっと熱いお湯くらいなら美女に飲まされたこともある。それでもなお、美しい女性は性格もよいと、つい、つい思ってしまう癖が抜けきれない。
「あなたのお父さんもそうだったわ」
と、私の父をよく知っている人が言っていたから、これは一族の血なのかもしれない。血のせいなら、私の一存ではどうしようもない。
――しかし、本当にそうなのかなあ――
このテーゼの是非について、つれづれなるままに考えてみた。
まず美女は幼いときから陽のあたる場所を歩く。いいめにあっている。だから明るく、屈託がなく、ひがみが少ない。心がゆがんでいない。それで性格がよろしい、と、一般論としては言えるだろう。これがプラス要因である。
だが、お立ちあい。美女であるがゆえに性格がわるくなるということはないのだろうか。
残念ながら、これもある。
えてして美しい女は冷淡になりやすい。表情こそさわやかに笑っていたりするけれど、なにかの拍子にドキンとするほど冷たい面が|垣《かい》|間《ま》見えたりする。
その理由は簡単だ。
温かい心とは、やっぱり、
――他人に温かく接していれば、自分も他人から温かく扱われるだろう――
と、そういうバーター・システムを無意識のうちに抱き続けて来た結果、育成されるものである。そういう歴史と無縁ではない。
そこへ行くと、美女は自分でなんにもしなくても他人からやさしく、大切に、温かく扱われやすいから、どうしても思いやりが不足してしまう。習い性となり、これは性格として大きなマイナス要因となる。
つまり、プラスとマイナスと両方あって、テーゼの是非は決めにくい。困っている私に助け舟を出してくれたのは、友人のK君だった。
「しかし、性格ってものは、表われかたに時間差があるからな」
「どういうことだ?」
「ちょっと顔をあわせるくらいの仲なら、明るくて屈託のない人がいいだろ。いくら美人だって、いきなり冷淡てのはめずらしい。恋人だったり女房だったり、深くつきあってみて、しみじみ“こいつは冷たいな”ってわかるわけだろ、たいていは」
「まあな」
「香水だって、うわ立ち、中立ち、あと立ち……三回ぐらいにわけてべつな|匂《にお》いがするって言うじゃないか。人間の性格もつきあいの浅い段階で表われるものと、少し深くなってから見えて来るものと、しばらくたってようやくわかるものと、いろいろある。美人は最初の“うわ立ち”がいいんだ」
「なるほど」
すこぶる論理的である。たしかにサラリと接している限り、美しい女性は性格もよい。
数年前、ある美女と知りあった。かりにT子としておこう。だれが見ても、
――きれいね――
とわかる美女であった。
早く結婚をすればいいのに、T子は、
「私、本当に結婚に興味がないの。これからは|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》がはやると思うわ。そういうのを外国から仕入れて、小さなお店を持ちたいの」
資金も多少はあるらしい。英語も堪能である。相談を受け、私はたまたまその方面で仕事をしている旧友にT子を紹介した。
数日後、その旧友に会い、
「どうかね。仕事のできそうな|娘《こ》だろう」
と言えば、相手は「うん。すばらしい」と|頷《うなず》く。
「どう、実現しそうかね、彼女の希望は」
旧友はゆっくりと首を振り、
「無理だろうな」
「どうして」
「もともとそう簡単な仕事じゃないし……一番よくないのは美人すぎる」
「美人は駄目かね、骨董屋には?」
「骨董屋に限らず、この手の仕事は、だいたい美人は駄目なんだ。店があって、ウインドウの前に立ってるぶんには美人がいいよ。でも、これはかなりやくざな仕事だからな。そりゃ、初めはいいんだよ。美人にはみんなが手を貸してくれるけど、それはやっぱり野心があってのことだもん。“|俺《おれ》の女になるんなら、いくらでもおいしい商売をさせてやる”って、みんなが少しずつそういう気分を持っている。ほとんどが男なんだから……それに乗っちゃえばわけないさ。しかし、それじゃ本当の商売は覚えられない。器量で商売してるのと同じことだからな」
「うん」
言ってることは、わからないでもない。
「美人であることが邪魔になるケースってのも案外あるんだよ。どこへ行ってもかならず男がつきまとう。地道な商売で苦労するより、それを利用したほうが楽だから、どうしてもそっちへ傾く。だから顔がきれいな人は、それが一番有効な職業に就くのがいいんだ。女優とかホステスとか。ほかの道では、いい思いをさせてもらえるぶんだけ本当のことがなかなか覚えられない」
「うーん」
私は考え込んでしまった。
この世には美女優遇制度というものが存在している。
男たちはみんな私同様美女に弱いから、ちょっといい女が現われると、すぐに手助けをしてしまう。手助けのレベルは何億円もの肩入れから、手荷物を持ってやる程度まで多種多様だが、美しい女がいろいろな形で有利な取り扱いを受けているのは論をまたない。
だが、神様は思いのほか公平なところもある。
美女であることだけが長所という状態も、たしかにつらいだろう。ほかに多少の長所があっても美女優遇制度の適用が断然強い。それにいつまでも美女ではいられないし、そうなればいつのまにかこの制度の適用も消滅してしまうだろうし……。
色川武大さんのこと
「|麻雀《マージヤン》の必勝法を教えてください」
講演会のあとなどに「どんな質問でもどうぞ」と言うと、こんな質問をあびせられ、私は何度か|狼《ろう》|狽《ばい》したことがある。
私も麻雀はやる。きらいではないし、エッセイに書いたこともある。ショートショートなら麻雀をテーマにした作品を二、三篇書いているだろう。だが、腕前のほうは、そこそこ。他人に必勝法を教えるような立場ではない。
――阿佐田さんとまちがえられたな――
と、わかった。
わざわざ説明する必要もあるまいが、過日急逝した色川武大さんは、ペンネームを阿佐田哲也と言い、これは主として麻雀小説を書くときの名前。一時はプロの麻雀打ちとしてその名を鳴らした人である。阿佐田哲也ならこのゲームの必勝法を語るにふさわしい。
小説家の名前なんて、世間の人はそうそうキチンと覚えているわけではない。阿佐田と阿刀田と、まちがえても少しも不思議はない。
「あなた、このあいだ、死んだんじゃなかったんですか」
ことの性質上、まだこれは言われていないけれど、そう思った人はきっといるだろう。作品も|風《ふう》|貌《ぼう》も大分ちがうと思うけれど……。
色川さんに初めてお会いしたのは銀座の酒場だったろう。“まり花”といって、十人も入れば満員になる店である。色川さんは常連だったし、私も時折顔を出す。
なにを話したか……覚えていない。
軽い|挨《あい》|拶《さつ》程度のものだったろう。
色川さんはシャイな人である。こちらが飛び込んで行くぶんには懐も広いし、とてもやさしい人だが、人はそうそう簡単に親しくなれるものではない。私にもシャイなところがある。
それに……私は酒場の友情をあまり信じていない。酒場は、もともと愉快になるために行く場所である。だれだって不愉快にはなりたくない。多少気に入らない相手でも、話くらいはあわせるものだ。酔った勢いで仲よくなってみたところで、たかがしれている。あまり深入りをしてはいけない。色川さんに対しても遠慮がなくもなかった。
多少なりとも懇意の間柄になったのは“小説現代”新人賞の選考委員になってから。つまり、昭和六十年から色川さんのほかに津本陽さん、西村京太郎さん、そして私がこの賞の選考委員となり、年に二回の選考会のほかに授賞式でも顔をあわせる。選考会では、その都度、真剣な論議を重ねた。
色川さんと私とは小説の評価の物さしが似ていた。いや、正確に言えば、最後の二作に絞るあたりまではよく似ているのだが、そこから先、色川さんは穴|狙《ねら》いの傾向を帯びる。私は本命のほうへ傾く。
「このほうが文章もいいし、まとまってるじゃないですか」
「ウーン。しかし、こっちのほうがこの先、化けるような気がする」
一定の水準を越えていれば、色川さんはきまって|斬《ざん》|新《しん》なもの、わけがわからないけれどなにかありそうなもの、下手をすればキッチュになりかねないものを選ぶ。眼のつけどころがいかにも色川さんらしい。
新人発見のためには、おそらく色川さんの眼が正しいのだろう。示唆されることも多かったし、この選考会を通して色川さんの人柄をよく知ることができた。色川さんの気配りは本物である。大きな肩を小さくすぼめて、そんな気配りがけどられるのを少し恥ずかしがっているみたいだった。
ある雑誌の主催で、ギャンブルについて対談をやったこともある。
この人選はわるくない。
色川さんがギャンブルについて語るのは、当然至極。これ以上の人選はない。私はと言えば、室内ゲームはほとんどみんなできるし大好きである。ただ|賭《か》けることにはそれほど興味がない。ゲームに含まれている論理や哲学や遊戯性がとても好きなのである。
つまり、この対談は、ギャンブルが大好きな色川さんと、ギャンブルは下手くそだがゲームの理屈には通じている私との組合わせであった。
そして、おもしろいことに、話は大筋においてよくあった。
色川さんの信条は九勝六敗の思想である。十五勝だの、十四勝一敗だのを|狙《ねら》っているうちはプロにはなれない。勢いに乗ったとき全部勝とうとするのは、当然の欲望であり、それを抜きにしてどこに勝負事の楽しさがあるのか、と、そんな気もするけれど、そこが素人のあさはか。犠牲も大きいし、思いがけない落とし穴もある。全勝狙いは全敗の道に通じかねない。
「ギャンブルなんて、楽しんだらお金を払わなくちゃいけない。お金を残して帰ろうと思ったら、楽しみのほうは我慢しなくちゃいけないんですよ」
そんな言葉が印象的だった。
シャンポンで待てばオール・グリーンの役萬貫、リャンメンで待てば、ただの緑発入りの混一色。
それでも色川さんは、
「原則としては、リャンメンのほうを選びますね」
なのである。
オール・グリーンなんて一生に一回できるかどうか……。せっかくめぐって来たチャンスなのに、実現の可能性が少なければ、よりよくあがれそうなほうを選ぶ。まことに勝つためには楽しむことをあきらめなければいけない。
この対談は文春文庫の“ビッグトーク”の中に収められているが、私自身、読み返すたびにあらたに発見するものがある。このテーマでもう一度色川さんとお話がしたかった。
色川さんと何度か麻雀を打ったこともある。そう多くはない。文壇の|親《しん》|睦《ぼく》|会《かい》のような席だった。色川さんは本気ではなかっただろう。実力に横綱と十両くらいの差がある。
色川さんがリーチをかけた。
――まさか色川さんほどの人がソバテンはやるまい――
と思って、|牌《パイ》を振ったらドカーンと命中。
色川さんの解説は、
「勝つためにはなんでもやらなくちゃ駄目ですよ。セコイ勝ちはカッコ悪いとか、やらないことがあったら負け。あれはやらないだろうと思わせると、それだけ相手に楽をさせますからね」
非常に親しい人ではなかったが、今はひどくなつかしい。
納豆と風呂と海の風景
知人に誘われて藤本敏夫さんの主催する“納豆パーティ”に出席した。
藤本さんは|鴨《かも》|川《がわ》自然王国の国王で、無農薬農業の普及やら、自然教育の推進やら、はたまた健康食品の開発やら……まあ、ひとことで言えば“自然とともに生きよう”という理念を胸に、さまざまな社会運動を実践している行動派。歌手の加藤登紀子さんのご夫君でもある。
千葉県の鴨川に農場を作り、自然王国と名づけて、正式には代表理事とでも呼ぶのだろうけれど、当節は遊び感覚も大切、みずから国王と名乗って君臨している。作業着に長靴を履いた国王ではあるけれど。
今回のパーティは納豆の普及運動。スローガンは“納豆は地球を救う”と、かなり雄大である。
納豆は健康食品であり、その原料である大豆の生産は山間地農業の活性化にもおおいに貢献をするだろう。二十一世紀を目前にして、日本人はもとより世界の人々に納豆を食べてもらい、納豆の価値を知ってもらおう、という主旨である。
世界を|繋《つな》げ、ネバネバの輪に……。
そのためには従来の食べ方、つまり、あの、|丼《どんぶり》に納豆を入れ、|醤油《しょうゆ》を注ぎ、刻みねぎを混ぜ、辛子をたらし、|箸《はし》でグルグルとまわしてご飯にかける、あればかりではこころもとない。世界的な展望を欠く。もっと多様な食べ方がないものだろうか。たとえばフランス料理のメニューに納豆を介入させることができないものだろうか。藤本さんは一流のシェフを誘い込み、このパーティは、その実験的な試食会であった。
日本青年館の中ホールに四百人ほど集って熱気ムンムン、納豆の|匂《にお》いも漂い、テーブルの前には人の群、試食会のわりには料理が少々足らずまえ。私はといえば、残念ながら納豆汁を二はいすすっただけ。フランス料理風メニューはいつのまにか雲散霧消し、その未来的展望について報告する資格を獲得できなかった。「おいしい」という声もいくつか聞こえましたがね。
それはともかく、私はかなり顕著な納豆ファンである。藤本さんのような理念は持ちあわせていないが、好きなことは相当に好きである。
諸外国への普及のためにはどんな方法が適当かわからないけれど、私はもっぱら古典的な方法、丼に納豆を入れ、醤油を注ぎ、辛子をたらし箸でグルグル……刻みねぎさえいらない、純粋な食べ方が好きである。ナットウ・ア・ラ・マニエール・ナチュレル、ですね。
味の素少々。これはおそらく藤本さんの好むところではあるまい。
私の趣味は家族全員に|伝《でん》|播《ぱ》し、わが家の食卓に納豆がないときは、納豆の買いおきがないときと考えてよい。それほどの愛好ぶりである。
味のよしあしは、詰まるところ好みの問題。きらいな人にはどうにもならない。かわいそうに……。納豆はとにかく安い。この安さで、このうまさ。そして健康食。私はいつも納豆に感謝している。
お話変って、私はお風呂が大好きである。
「俺、血管の|脹《ふく》らむものは、みんな好きなんだ。風呂、酒、セックス」これはたしか中上健次さんの名|台詞《せ り ふ》だったと思うけれど、あとの二つは後日にまわして、今日はお風呂、お風呂……。これも安くて、ここちよい。
たとえば銭湯は今いくらなのだろうか。
多分、二百数十円。
うっかり安いなんて言うと、
「馬鹿なこと言わないでよ。子どもを三人も連れて行って髪でも洗ったら、すぐに千円札が消えちゃうわ。それでなくても消費税で苦しいのに」
たちまちお叱りを受けるかもしれない。
けっして“安いから値上げをしろ”と言っているわけではない。コスト計算ではなく、あの湯船にお湯を満たし、その中に裸になって入るというシステム、どなたの発明かしらないが、本源的に安価で、ここちよい御恵みであると、そう言っているのである。
二百数十円であれほど気持ちよいものがほかにあるだろうか。私はお風呂にも感謝している。これもまた健康によろしい。
ふたたびお話変って、私は海を眺めているのが大好きである。二、三時間見ていても飽きることがない。
「どうしてそんなに好きなの?」
尋ねられても答えようがない。
好きだから好き。これが一番正直な答のような気がする。
強いて説明すれば、波がおもしろい。同じようなリズムで押し寄せて来て、少しずつちがう。生き物のようにも見えるし、大自然が私に語りかけているようにも感じられる。
とりわけ白く、たけり狂う波がすばらしい。台風に襲われたナントカ岬なんて、テレビでしか見たことがないけれど、一度は現場に立ってみたい。
トンロリと静かに休んでいる海もわるくない。ゆったりとして、母の懐のように安らかである。
海と母。|M《メ》|E《ー》|R《ル》(海)と|MERE《メ ー ル 》(母)。
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。
母よ、フランスの言葉では、あなたの中に海がある。
三好達治ですなあ。
まことに|豊饒《ほうじょう》で、ここちよい。
台風下の海辺までわざわざ行くとなると厄介だが、ただ海を眺めているだけならば、それほど費用のかかることではあるまい。
理想を言えば、裏木戸を開け、トントンと階段を降りて行くと、そこに海があるような、そんな家に住みたいのだが、
「潮風が大変。家がすぐにボロボロになるわ」
という意見もある。
東京をかなり離れなければ、よい海はもうない。ともあれ私は海にも感謝をしている。おそらくこれも健康にわるくはあるまい。
納豆と風呂と海の風景と、さほど費用をかけることもなく、
――これはいい――
と思えるものを持っているのは、とても心強い。
あっ、それからもう一つ、電車の中の美人……。これも費用をかけることもなく、楽しく鑑賞できる。心をわずらわされることもなく、飽きたらいつでもやめられる。健康にも……きっとわるいことではあるまい。
ランキング
子どもの書く絵日記を見て、思わず苦笑してしまったことがある。
“材木置場のあき地で、カケッコをしました。ヨウちゃんが一番で、ぼくが二番で、昇が三番でした”
“誠君のうちでオセロゲームをしました。一回勝つと一点です。十二回戦をやって、高橋くんが一番、前田くんが二番、ぼくが三番でした。くやしかったです”
わずか三十日くらいの日記の中に、だれが一番、だれが二番、だれが三番と、ランキングのようなものが、四、五回記されている。
――この子の脳みそは、いま、ランキングを盛んに意識するあたりにさしかかっているんだな――
と、納得した。
子どもというものは、おおむね、なにが一番で、なにが二番で、なにが三番で……この手の順位づけが好きである。とてもわかりやすい。その世界を理解するのに役立つ。
「一番強いバッターはだれなの?」と尋ねられ、
「昔の人と、今の人を一緒に比較するわけにはいかないけど、今ってことなら、これを見なさい」
新聞の打撃成績ベストテンを見せればそれでよい。
「一番がクロマティで、二番が正田で、三番がパリッシュかあ。外人が多いね」
平成元年五月八日現在のセ・リーグではそうなっている。
「ああ」
「パ・リーグと比べて、どっちが打つの?」
これはなかなかむつかしい。
ランキングには、いくつかの制約がある。どういう条件の中での順位づけか、セ・リーグかパ・リーグか、世界なのか日本だけなのか、枠の大きさが問題となるのは当然だし、もう一つ、時間的な視点も見のがせない。
つまりランキングの中には、世界で高い山はなにか、エベレストから始まって、K2、カンチェンジュンガと続く、ほとんど恒常不変のものもあるし、その一方で打撃ベストテンのように日々変るものもある。
だから、どのくらいのスパンで対象をランクづけするか、それによって結果も、結果の妥当性もおおいにちがって来るのだが、なにはともあれ、おおよその価値基準を知るうえでは有効である。
子どもがこれを好むのは当然のことだし、大人だってけっしてこれがきらいではない。
毎年五月初めに発表される所得番付も典型的なランキング志向であり、年鑑のたぐいをのぞいてみれば、県民所得、死因、地価、テレビ視聴率、実にさまざまなランキングが載っている。子どもに限らず、私たちはランキングの好きな生き物なのかもしれない。
話は旧聞に属するけれど、放浪の画家、山下清さんの口ぐせに、
「兵隊の位でいうと、どのくらい?」が、あった。
実例は忘れてしまったけれど、たとえば、
「あの人はとても偉い人なんだ」
と、聞かされると、
「兵隊の位でいうと、どのくらい?」と問い返す。答えるのは、ちょっとむつかしい。
たしかに偉い人だけではわからない。それこそ兵隊の位で言えば、大将も偉いし、中将も偉い。大佐だって偉いし、大尉くらいでも結構偉そうな顔をしていた。どのくらい偉いか、はっきりと言ってほしいのは、山下画伯ばかりではあるまい。
だが、価値観の多様性や、人間をランクづけすることの非礼さを考えたりして、普通はこの手の質問は発しない、答えない、それが社会生活の習慣になっているのだが、それをズバリと尋ねたところに、山下画伯の無邪気さがあり“兵隊の位でいうと”が流行語となる理由があった。
新聞社の外報部あたりでは、
「スワジランドの×××が暗殺されたらしいぞ」
「どのくらい偉いやつなんだ」
現実の問題として、偉さのランキングを問われることがよくあるとか。
「政府の要員で、まあ、小結くらいかな」
さすがに戦後四十余年、兵隊の位では言わない。相撲の番付が用いられることが多いらしい。
ほとんど知らない国の、知らない名前を呈示され……ややこしいことはこのさいあとまわしにして、とりあえず、どのくらい偉いのか、手がかりをつかみたいときは、たしかにあるだろう。
よく知っている世界ならば、一応の目安くらいはつけられる。松本清張さんはどのくらい偉いのか、赤川次郎さんはどうなのか、台頭著しい吉本ばななさんは、どのくらいのランキングがよろしいか。言えないこともないけれど、ここではちょっと書きにくい。
エベレストは言うに及ばず、高額所得者なども、どの山が一番高いか、だれが一番多く所得税を払ったか、疑問をさし挟む余地はほとんどない。一番は一番であり、二番や三番でないことは歴然としている。
だが世にある森羅万象は、けっして単純ではないから、対象によっては順位づけがすこぶるむつかしくなることもある。
だれが一番きれいか、だれが一番わるい総理大臣か、どの本が一番おもしろいか、なにが一番怖いか、なにが一番おいしい食べ物か。
もともと主観によって価値の異なるものもあるし、今のところ人類の知識が不足していて断定のできない事象もある。
十数年前“週刊サンケイ”誌が掲げていた“なんでもベストテン”は出色の一ページだった。
ランキングのつけにくいものをその週のテーマに選び、五人の識者に十位までのランキングを作ってもらい、なぜそれを選んだか、短い説明をそえてもらう。
たとえば、日本で一番美しい女優。日本で一番すごいピッチャー。
だれでもそれなりの答は出せるけれども、人それぞれ、選ぶものも順位も微妙に異なる。おおいにちがう場合もある。
――なるほど。こういうものの見方もあるわけだな――
と、あらためて納得したこともあった。
たった一つのランキングで割り切れるものは、むしろ少ない。私たちは、物指しがけっしてそれ一つではないと知りながらも、一応はランキングを求めたがる心理傾向を持っているらしい。
脱サラについて
私は十一年間サラリーマンを勤めたのち退職して文筆業に転身した。脱サラと言えば、脱サラの体験者だろう。
こんな経歴を過去に持っているから、
――あの人は、きっと脱サラの賛成論者にちがいない――
と世間は思うものらしい。
時折その手のインタビューなどの申し込みを受けるのだが、残念でした、私はむしろ脱サラに関しては保守的な考えの持ち主のほうである。
私の場合はたまたまうまく行ったけれど、これは運がよかったから。
――危ない橋を渡ったなあ――
と、今でも思い返して、しみじみそう思う。
正確な統計の出しにくい事柄ではあるけれど、脱サラの成功例は依然としてそう多くはあるまい。私の頃は一〇パーセント以下と言われていた。今でも、よくて二〇パーセントくらいのものではあるまいか。
自分の置かれた立場に不満を持つサラリーマンは大勢いるから、ジャーナリズムはとかく脱サラの長所と可能性を|喧《けん》|伝《でん》したがるし、たしかに職業を自由に変えられるほうが未来的な展望を持っているだろう。だが、現状を正確に眺めれば、まだまだ転職や脱サラには、相当な危険がある。
そして、おもしろいことに、脱サラの成功者はほとんど例外なく、
「もとの会社でこれだけ努力していれば、なにもやめなくてもよかったでしょうね」
と言っている。これは熟慮してよいことだろう。
もちろん成功例も数多くあるんだし、一生意にそわない仕事をやるなんて、本当に馬鹿げている。ケース・バイ・ケース。十把ひとからげに論じるのも適当ではあるまい。
ただ私の体験から考えて、これだけは言ってもよさそうな気がする。つまり、怒りのエネルギーだけで即断しないこと。
職場でなにかおもしろくないことがあって、
――こんな会社、俺には向いていない。|罷《や》めてやる――
辞表を|叩《たた》きつけるというケースである。叩きつけないまでも、怒りを胸にさっさと退職を実行する場合である。
気分はよくわかる。やりようによっては、まことに|恰《かっ》|好《こう》がよろしい。
だが、これがよくない。
怒り狂っても、すぐには決断をせず、そのエネルギーを、
――果して自分はこの職場以外で生きて行けるかどうか――
冷静に考えることに向けてみよう。
隠忍自重。|臥薪嘗胆《がしんしょうたん》。まあ、そこまでやらなくても、考えているうちに周囲の情況も少し変るし、怒りもさめる。その程度の怒りなら、あまり思い切ったことなどしないほうがよかっただろう。
怒って、三年……。そのくらい熟慮すればよい結果にも恵まれるのではあるまいか。
「こんな会社に、俺、いつまでもいることないんだ。ここだけの話だけどサ、ほかから誘われてるんだ。うん。ヘッド・ハンティング? まあ、そういうこと。ウッフフフ」
|顎《あご》などをスルリと|撫《な》で、ここだけの話をいろいろなところで語っているサラリーマンを時折見かけるけれど、あれはなんのつもりなのかなあ。あまりお勧めはできない。
当人も承知のうえで根も葉もないホラを吹いているのなら、これはもう救いようがない。だが、それとはべつに、特別優秀なサラリーマンでなくても長いあいだには“ほかから誘われている”ような気配に遭遇することはある。
「あなたみたいな方がわが社に来てくだされば本当に助かる。いや、まったく、高給で優遇しますよ」
これくらいのことは言われるかもしれない。
しかし、ほとんどがお世辞の一種。ただのお話。本気にしてはいけないケースも多い。
それよりもなによりも、自分で、
「ほかからもいろいろ誘われているんだ」
などと、あまり確かでもない気配を|拠《よ》りどころにして|吹聴《ふいちょう》していると、余人はいざ知らず、当人自身が、
――俺は相当なものなんだよな――
と、いくばくかの錯覚を抱いてしまう。
冷静に自分の実力を判断し、ほかの環境でも通用するかどうか熟慮しなくてはいけない一番大切なときに、この錯覚は致命傷になりかねない。この手の|台詞《せ り ふ》をひとこと吐くたびにおのれの判断は甘くなると思ってまちがいない。唇を固く閉じて、内圧を高め、その噴射力で飛び出して行かなければなるまい。
それに、こと志と異って長くその職場にいることとなれば、こんな言動は百害あって一益なし。たとえ外に出て行くとしても、あとに残る仲間たちに対して、こんな言いぐさは失礼であり、配慮を欠くことになるだろう。まったくの話、
――どうせこんな会社、|厭《いや》で出て行くんだから――
うしろ足で砂を|蹴《け》り立てたいような、そんな心境でやめる人も多いだろうけれど、ここでもう一息我慢が大切。一つの職場をやめて、もう一つの仕事に就いたとしても、二つのあいだにまったく|繋《つなが》りがないことはめずらしい。
前の職場は、なにはともあれ職業人として何年か身を置いたところである。その経験によって今の仕事を得ているはずである。人間関係も仕事のルートもノウハウも密接に繋っている。
「お世話になりました、今後ともよろしく」
|溜飲《りゅういん》は文字通り腹の中にとどめて、愛想よく立ち去るほうが後難がない。
あっ、もう一つ、奥さんの了解。転職、脱サラにはこれが欠かせない。
「だから、私、あのとき、冒険はやめてって言ったじゃない」
下手をすると、一生言われる。
本当のことを言えば、自分の仕事に疑問があるうちは……つまり将来に転職、脱サラの可能性を相当に持っているならば、その段階では結婚なんかしないほうがいいのだろう。独り身であれば転職、脱サラ、どんな冒険だって自由にできる。若くて結婚、この身の災難、シェクスピアもそう書いている。
選挙区三景
リクルート事件の火の手がはっきりと政界に及び始めた頃、私は、
――新潟三区のみなさんはどう感じているのかなあ――
マスコミが取材してくれればいいと思った。
新潟三区は、リクルート事件と、ほとんどなんの関係もない。だが、すぐこの前のロッキード事件にはおおいにかかわりがあった。つまり、ここは田中角栄さんのお|膝《ひざ》|元《もと》。この刑事被告人に対して従来に倍する二十二万票の得票を与えた、その選挙区である。
私は、政治家にいかがわしい|匂《にお》いが漂い始めたら、選挙で落とすのが、一番とかねてから考えている。
まったくの話、この種の疑惑は刑事事件として扱うのが極度にむつかしい。裁判には“疑わしきは罰せず”の原則もある。立証できても氷山の一角。そんなときは選挙で罰するのがよいのであり、だから私としては新潟三区の二十二万票はまことに不本意であった。
もちろん生きて行く道は、きれいごとだけではすまされない。田中角栄さんは、典型的な利益誘導型の政治家だったから、この人の存在により、地元はかなりの利益を受けているはずである。
「お世話になったんだから、こういうときこそ御恩返しをしなくちゃあ」
と、これが二十二万票の背景だろう。その気持ちはわからないでもない。
だが、利益誘導型には、本質的な|破《は》|綻《たん》が内蔵されている。田中角栄さんが勢力を握っているうちはいいけれど、そうでなくなれば今度はほかのところに利益誘導型が誕生し、そっちが得をすることになる。あえて簡単な図式で示せば、新潟三区の利益は他の諸地域の犠牲によって成り立っていたわけであり、星変り時移れば今度は新潟三区が犠牲にならなければいけない。
リクルート事件は、まさにその一つと言ってよい。社会現象は理科の実験とちがって、まったく同じような出来事がくり返して起こることはないけれど、二つの事件は政治家の利権が特定の人々の利権と結びついたところはよく似ている。底流は同じものと言ってよい。この現実を前にして、新潟三区の世論は、
「この前は角栄さんのおかげで俺たちがちょっと得したんだから、今度は我慢する番だこてね」
となるかどうか……。論理の一貫性としては当然そうなってしかるべきだが、多分そうはならないだろう。そのあたりの庶民感情と困惑の表情を、少々意地のわるい趣味かもしれないが、テレビの画面などで眺めてみたい。マスコミが取材してくれればいいなあと思った由縁である。私たち自身の実像を鏡に映し出してみる手段としても、これはけっして意味のないことではあるまい。
新潟三区から県境を北へ越えると、会津に入る。福島二区。この地域は昨今すこぶる鼻息が荒い。言わずと知れた伊東正義さんの地元である。ついこのあいだまでは、さほど著名な政治家ではなかったけれど、あちらこちらでシュプレヒコールが起こって、にわかに伊東さんは時の人となってしまった。
たしかに、一かどの人物であることはまちがいない。言行には納得できるものが多いし、東京の自宅のトタン屋根のひどさを見ただけでも、ただものではない。
「やっぱり会津の人間はちがうのう」
地元の様子はしばしばテレビの画面にも映し出され、その表情は二〇パーセントくらい残念だが、なにはともあれ誇らしそう。
伊東正義さんは、利益誘導型の政治家ではないらしい。この人が作った橋だの、道だの、地元の人もとんと思い出せないふうだった。
よってもって伊東さんは、言葉は古いが、義に生きる人……。選挙民としては、橋を選ぶか、義を選ぶか、これはなかなかむつかしい問題ですね。
結果として新潟三区は橋を選び、福島二区は義を選んだような|恰《かっ》|好《こう》になってしまったが、県境一つで人の心はそんなに異なるものなのだろうか。
――やっぱり橋のほうがいいわな――
目の前に利益がぶらさがれば、ついつい心が傾いてしまう人も多いだろう。
もちろん私は義を選ぶ人に拍手を送りたい。義を選ぶなんて、橋に比べると、武士は食わねど高楊子、現実にはなんのたしにもならないように見えるけど、人間としての満足感は捨てがたい。
よいことは高らかに誇ったほうがよろしい。福島二区のみなさんは、このさいおおいに誇ってください。そのぶん、言っちゃあわるいが、新潟三区のみなさんは、少し恥じてください。ゆめゆめ衆議院議員として一回も出席できなかった人を再度当選させたりはしないでください。
こんなことをとりとめもなく思いめぐらしていたら、三重二区、つまり藤波孝生さんの地元で、自民党の県議会議員あたりを中心にして、藤波さんに対して、
「次の選挙には立候補しないでほしい」
と、強い要請が出されている、とテレビ・ニュースが報じていた。
県会議員たちの自己防衛的な思惑も感じられるが、立候補がなければ当選もありえない。控え目に生くる幸せ根深汁、なんて言っちゃって、この人はそんなにわるい人柄ではないような気もするけれど、いかがわしい|匂《にお》いが立ったらとにかく落選させるのが一番である。
「いい人だから」
「お世話になったから」
「この選挙をみそぎにしてもらいたい」
従来以上の得票なんかを集めてしまっては本当にしめしがつかない。
三重県議会議員の要望は新潟三区との対比においてそれなりに評価されてよいものだろう。
田中さんと藤波さんとでは実績も立場も人格もずいぶんちがうけれど時代も少しずつ動いている。国民の政治意識も微妙に変っている。ロッキード事件とリクルート事件とどこが異なるのか。少しは私たちも賢くなっていなければ、本当に救いようがない。
新潟三区には……その中心地である長岡市には、私は少なからず地縁があるのだが、ごめんなさい。少しひどい言い方になってしまった。でも本音です。県の外から見れば、こんなふうに見えるのです。
受け取っていいですか
十数年前、新宿のキャバレーでミーティングを傍聴したことがあった。
この店では三十歳をちょっと過ぎたくらいの男が経営をまかされていて、たった一人では何十人ものホステスの管理はできない。ホステスたちはたしか雪組、花組、月組などと、宝塚歌劇団みたいな名前の班に分かれていて、それぞれに班長、副班長がいる。
班長は若いホステスや、新入りのホステスの面倒を見て、
「そんな男とは、別れたほうがいいわよ」
私的な生活面にまで忠告を与えていた。
開店少し前、メンバーがそろうころを見計って、店長のミーティングが始まる。事務的な連絡のほかに、かならずなにかしら仕事に役立つ訓話がある。短いが、おもしろくて適切だった。
「お勘定が九千七百円で、お客様が一万円札を出し“お釣は取っておけよ”と言いました。みなさんはどうしますか」
「もらっちゃう」
「もらっちゃう」
あちこちから声が飛ぶ。店長はおもむろに|頷《うなず》いて、
「そうです。もらっていいんですよ。もらっていいんです。しかし……」
と、言葉を切り、グルリと見まわしてから、
「もらっていいんですが、思いっきり喜んでください。メチャクチャうれしがっちゃう。お客様はそれを見て、思いますね。三百円で、この女、こんなに喜ぶんだから、千円やったら、どうなるだろう。このつぎもまた来たくなりますね。今度はきっと千円くれます。みなさんもうれしいですね。お店もうれしいですね。お客様もうれしいんです。わかりますか。じゃあ、今日も元気で売り上げを伸ばしてください。はい、頑張ろう」
で訓話はおしまい。軍艦マーチが鳴って開店となる。
――うーん、なるほど――
お客の心理をよく心得ていると言うべきか、われら男性は鼻毛をすっかり読まれていると言うべきか、しみじみと感心させられてしまった。
同じころ、今度は銀座でクラブのママがホステスたちに話しているのを聞いた。
「いい? お客様が“これ、取っておけよ”って、チップをくださること、よくあるでしょ。そのとき、いただいていいのは五万円までね。それ以上は返しなさい」
私は釈然としなかった。あとで、
「お客からもっとたくさんもらうホステスが、たくさんいるだろうが?」
と尋ねたら、ママが、
「もちろんよ。でも十万円以上を受け取ったときは、魚心あれば水心。|口《く》|説《ど》かれてもいいってことね。その気がなくて、受け取っていいのは五万円くらいまで。そういうこと」
と教えてくれた。
今から十年あまり昔のことだから、お金の価値は少し変っている。二倍くらいに換算してみれば、つまり、十万円と思えばいいのだろうか。
金額には若干のちがいがあるけれど、似たような話は、ほかのママからも聞かされた。暗黙のうちにもそんなルールがあるのかもしれない。
当然のことだ。
お金には受け取っていいお金と、受け取ってはいけないお金とがある。受け取った以上、覚悟しなければいけないことがある。
「私、べつにおねだりしたわけじゃないのよ。サーさんが勝手にくれたの。私、いらないって言ったのに、いいから、いいからって……」
シレッとした顔で、二十万円も三十万円ももらったりしてはいけない。
「ばかね。男は野心があるにきまっているでしょ。なんの目的もなく、そんなお金をくれる人、いるわけないじゃない。少しは考えてごらんなさいよ」
「でも、なんにも言わずくれたんだもの。どういうつもりでくれたか、私、サーさんの心の中まではわかんないわ」
「本気でそう思っているんなら、あんた、よほどのばかね」
という結論も、広く世間に認められる意見にちがいあるまい。
ところが、まだ記憶に新しいリクルート事件のとき、ナントカさんやナントカさん、この本が出版されるころには、どんな情況になっているか知らないけれど、いずれもつい先日までは日本国の政治の中枢にあったかたがた、常識も分別も充分に備えた人たちが、リクルート・グループから億というお金を受け取って、
「なんの条件もありませんでした。政治資金として自由に使ってほしいということで献金していただいたわけでございまして、どういうつもりかと尋ねられましても、それはむこうさんのお気持ちですから、私にはわかりません」
なんて、この手のお話がたびたび聞こえてきた。
「本気でそう思っているんなら、あんた、よほどのばかね」
ですね、これは。
多額のお金をさし出すのは見返りを期待しているからであり、子どもじゃあるまいし、それに気づかない大人はいない。返さないのは、見返りを与えるつもりでいるからである。
「いや、私は断じてそのようなことをやっていませんし、関係者にそうするよう指示したこともありません」
本当かなあ。
じゃあ、もう一つ、私が見た風景を……。
酒場のカウンターで父と子らしい二人が飲みながら語りあっていた。父は長いサラリーマン生活の経験者らしく、子どもはまだなりたてのサラリーマンみたい……。
「うちの社長は、ああしろ、こうしろって、こまかいこと、言わないよ」
「言わなくても、なにを考えてるか、気がつかなきゃいかん。社長さんが黙ってても、思ってる通りのことがチャンと進んでるようじゃなきゃ駄目だ」
つまり、偉い人というのは、いちいち指示なんか出さなくても、部下はチャンとその通りおこなうものなのである。
政治家のナントカさん、ナントカさん、みんな偉い人だったけど、若いホステスさんレベルの常識もなかったのでしょうか。
眠られない夜
京都のホテルでなかなか眠られず、その少し前、
「京都にはよくいらっしゃいますか」
と尋ねられたのを思い出し、
――はて、京都には何回来ているかな――
と|薄《うす》|闇《やみ》の中で記憶をたどってみた。
修学旅行で一回。新婚旅行で一回……。
修学旅行は高校の二年生から三年生へ変る春休みで奈良に行き、吉野にまわり、吉野山は桜のまっ盛り、京都では金閣寺、銀閣寺、清水寺、それから今ではなかなか入れない御所を見学したような記憶がぼんやりと残っている。
新婚旅行のほうは、自分で計画を立てたことだから、これはよく覚えていて当然。六甲山から奈良の西の京をめぐり、京都は|竜安寺《りょうあんじ》、|西《さい》|芳《ほう》|寺《じ》、大原の三千院、寂光院、|保《ほ》|津《づ》|川《がわ》下りなんかもやっちゃって|嵐山《あらしやま》を見た。まあ、月並の観光コース。
――銭がなかったなあ――
と、すぐにそのことを思い出してしまう。
――三回目はいつだったろう――
と自分史をたどることになる。
私が勤めていた国立国会図書館は出張の少ない職場で、係長になって初めて出張を命じられた。広島、岡山、大阪、ついでに京都へ。
寝台特急の|安《あ》|芸《き》号で東京を発ち、広島に着いたのは朝の十時ごろだったろう。
「広島大学へ」
駅前でタクシーに乗りこみ勇んで最初の目的地を告げた。広島大学図書館に所用があったのである。
ところが、二、三分走ったところでタクシーの運転手がふり向き、
「兄さん、女はどうかね。きれいな奥さんがアルバイトしてるんだけど」
驚きましたねえ。午前中だというのに……。
もちろんお誘いは辞退した。大学図書館にアポイントメントがとってあったし、いくらなんでもその気にはなれない。
――広島とはこういう町なのか――
なにしろ初めて着いてこの体験。広島と聞くと、しばらくはこの出来事を思い出した。
「隠語かもしれないね」
と解説してくれた人もいる。
つまり、|下《げ》|賤《せん》なことを表わすのに一番それと反対の言葉を使う。広島大学がいかがわしい場所の隠語だったりして……。
二度目に広島に行ったのは市内の女子大に呼ばれて……。ここはうって変って、今どきめずらしい純朴なお嬢さんの多いところ。どちらが本当の広島なのか、いまだに少し迷っている。
出張の帰りにちょっと京都に下車して市内を散策した。宿泊はしなかったが、あれがたしか三回目だったろう。
図書館を退職して、もっぱら雑文を書いて|糊《こ》|口《こう》を潤していた時代があった。懇意の編集部から、
「京都へ行ってほしいんだけど」
「はい?」
なにかと思えば、ヌード・ショウの見学。
当時京都はこの方面の文化でも第一級の劇場を持っていた。劇場見学の詳細は省略して、劇場からの帰り道、すぐ近くの東寺に立ち寄り、ここは真言宗の|名《めい》|刹《さつ》。
「アニハンドガシンダラハラバリタヤ、ウオンアボキャベイルシャノウマカホダラ……」
経文を唱えて。汚れた心を清めた。
五回目は、きっと小説の取材で行ったときだろう。目的地は|琵《び》|琶《わ》湖の北端であったが、お|膳《ぜん》|立《だ》てを調えてくれた編集者が、
「泊まりは京都です。早朝にタクシーで出発すれば行けるでしょう」
「ああ、そう」
これを信じたのがいけなかった。
まず京都に泊まって酒を飲み、八時に起床して出発。それでもまっすぐひた走りに走って行けば大湖の北端を極めることもできたのかもしれないけれど、運転手が、
「北のほうなんか、なんにもないすよ」
と、こっちの目的をとんと理解せず、|堅《かた》|田《だ》の|浮《うき》|御《み》|堂《どう》を見ましょう、琵琶湖大橋を渡りましょう、|白《しら》|鬚《ひげ》神社の鳥居は一見の価値があります、いちいち止まっているうちに今津のあたりまで行ったところで引き返さなければならなくなった。取材の目的は果せず、なんともしまらない旅だった。
このあたりまでは順を追って正確に思い出せるのだが、そのあとは、
――|嵯《さ》|峨《が》|野《の》へ行ったのは、いつだったろう――
――|鞍《くら》|馬《ま》に登ったときは寒かったなあ――
――常照皇寺にも行ってるんだ。タクシー代が高かったけど――
――大覚寺に行ったのは、古都税がもめているときだったな――
入口で五百円取られ、てっきり参拝料だと思っていたら、これは写経料。参拝料なら税金の対象になるが、写経料ならきっと抜け道があるのだろう。
見学の道順の最後のところで、どうでも写経をやれと言う。
「したくないから」
と断れば、
「ほんの一字でもいいから」
と強要する。
そんな写経があるものか。こっちも頑固に拒否をした。
「じゃあ、五百円はいらないから持って帰ってほしい」
「そうしましょう」
「受付に連絡しておきますから」
しかし帰り道、受付で呼び止められることもなく、そのまま五百円は寄進したことになってしまった。
観光のためばかりではなく、映画の仕事で|太《うず》|秦《まさ》にも行っている。セミナーのため同志社大学へも行っている。
多分二十一、二回……。同じ旅を二度数えているかもしれないし、忘れていることもあるだろう。いずれにせよ、このくらいの回数。このあたりで眠りがやって来た。
眠れないときには、羊の数を数える手段があるらしいが、いかにもばからしい。京都の旅を数えたのは、よいアイデアであった。
旅先で眠れないことは、よくある。四十歳そこそこのころ、
「睡眠薬をください」
と頼んだら、主治医が顔をしかめて、
「自慰をなさい。そのほうが体にいいです」
実行はしなかったけれど……。
古文書見聞録
講演で熊本市へ行った。
図書館職員養成所時代の友人Tさんが熊本大学の図書館に勤務していて、
「せっかくだから、ちょっと寄ってくれよ。顔も見たいし、おもしろい史料もある」
少々窮屈なスケジュールではあったけれど、二時間ほどをあけて黒髪地区のキャンパスを訪ねた。
史料は細川家の古文書で、私はほとんど読むこともできないのだが、専門司書のKさんが読んで内容を説明してくれた。
一つは宮本武蔵のこと。
武蔵と小次郎は、のちに|巌流島《がんりゅうじま》と呼ばれる小島で試合をすることになるのだが、そのときの条件は双方とも配下門弟どもを伴なわず、たった一人で来ること。小次郎は約束通り一人で現われたが、武蔵のほうには数人の配下が同道して、この連中が倒れた小次郎を寄ってたかって殺してしまった、と、そんな内容の記録だった。吉川英治その他の筆による巌流島の決闘とは相当にちがっている。
|題《だい》|簽《せん》には沼田家記……。
「権威のあるものですか」
「ええ。一応は信用のおけるものです」
この件については、何か月か前に朝日新聞の記事で読んだような覚えがある。
「出どころは、ここなんです」
「そうだったんですか」
かならずしも新史料の発見ということではなく、宮本武蔵について作品を書く人なら、ほとんどが知っていておかしくない程度の記録らしい。だが、
「やっぱり武蔵のイメージが崩れるから、見て見ぬふりをしているんじゃないでしょうか。私はわかりませんけど」
という解説であった。
私は時代小説を書かないし、このあたりの史料の価値について、とやかく言う資格はない。
――こんなこともあったかもしれないな――
遠い時代の事実をさぐるのは、どの道むつかしい。
もう一つは“阿部一族”について。これも細川家にまつわる史料である。
私が森鴎外の“阿部一族”を読んだのは、ずいぶん昔……おそらく高校生の頃だろう。あらかた忘れた。
――たしか細川の殿様が死んで、おもだった家臣が殉死することになったんだ。阿部ナントカ右衛門は死にきれず、あとになって死んだけれど、藩内の不評をかい、結局一族みんなが死ぬことになる。ちがったかなあ――
くらいの記憶である。
私の高校生時代と言えば、戦後まだ日が浅い。戦争の第一番の責任者東條英機は自殺をしそこねて裁判に身をさらすことになり、それについて国民の感情はあまりかんばしいものではなかった。私の頭の中でも、殉死しそこねた阿部ナントカ右衛門と自殺しそこねた東條英機とが少し重なっていたような気がする。
以来三十有余年、細川家の古文書を指し示され、
「ちょっとちがうような気もするんですけどね」
と、Kさんに言われても、なかなか“阿部一族”のことが思い出せない。
話を聞けば死んだ殿様は細川忠利。奉行の公式記録に殿の死後数日のうちに殉死した者の名が連ねて記され、その中に阿部弥一右衛門の名も、他の者と変らず、同じように列記されている。
「なるほど」
よくはわからないけれど、相づちを打った。阿部ナントカ右衛門は弥一右衛門という名だった。
「少なくともこの文書で見る限り弥一右衛門の死は鴎外の“阿部一族”のようには読めないんです」
「はあ?」
「弥一右衛門の死後、知行を一族にバラバラに分けたことは、ここに書いてありますし、あ、それから、ここに|鷹《たか》が死んだことも書いてあります」
「はあ?」
私のほうはいたって心もとなく、せっかくの示唆にうまく応えることができなかった。
東京に帰って早速“阿部一族”を読み返してみた。
少々自慢めくかもしれないけれど、私は一度読んだ小説のストーリイを、かなりよく覚えているほうである。いま小説家として生きている、その才能の|淵《えん》|源《げん》をたずねてみると、一つにはこのせいではないかと思うほどである。
三十数年前にたった一度読んだ“阿部一族”について、二二四ページに記した程度のストーリイを覚えているのは、よく覚えているほうなのか、それともよく覚えていないほうなのか。公平に判断して、私はむしろ、
――よく覚えていたな――
と思うほうにくみしたい。
それはともかく、いま読み返すと、私の|曖《あい》|昧《まい》な記憶とはかなりちがっている。
殉死というものは、だれでもができることではなかったらしい。殿の生前から許しをえておいた者だけが死んでよい。
みんな武士なのだから、死というものについては一定の覚悟ができている。殿のために死ぬのなら、いささかも命など惜しくない。
だが、当然殉死をしてよい立場にありながら、お許しをえられなかった人もいる。それが鴎外の“阿部一族”の中の弥一右衛門であって、そこが一番|肝《かん》|腎《じん》なところ。そこから生じた悲劇が“阿部一族”の物語であり、高校生の私は、それを読み落としていた。少なくとも記憶には留めてなかった。“知行をバラバラに分けた”ことや“鷹が死んだ”ことも、鴎外の作品を読めばなんのことか、すぐにわかる。
――小説を読んでから熊本大学へ行くべきだったなあ――
と思わないでもなかった。
森鴎外は史料に関しては、きわめて正確な作家であって“阿部一族”を書くに当たっても、充分な調査と推理があったにちがいない。
――阿部弥一右衛門の死は、本当のところどんな死だったのか――
作品の根幹にかかわることではあるけれど、これも私に判断のできることではない。
――天草へも行ってないし――
いつかもう一度熊本へ訪ねて行ってみよう。
お盆のような月
“レトリカ”という本が贈られて来た。
版元は白水社。編者は榛谷泰明さん。面識のあるかたではないけれど、たいへんな読書家にちがいあるまい。巻末の略歴を見ると、私と同い年、同じ大学の同じ文学部の卒業と記してあった。
広告で出版の予告を見たときから興味の引かれる本であった。早速ページを開き、あちらこちら、とりとめもなく拾い読みをしてみた。
なかなかおもしろい。
“レトリカ”は、もう一つのタイトルを“|比《ひ》|喩《ゆ》表現事典”と言い、まるごと一冊さまざまな比喩を集めて件名べつに編集したものである。
比喩というのは、“お盆のような月”とか“鏡のような海”とか、平たく言えば、たとえのことである。文章家がどんなたとえを使っているか、三千あまりの用例を、ざっと千五百人ほどの内外の作家の文章から拾っている。
私自身の用例も二つほど引用してあって、それが私のところにこの本が贈られて来た理由だろう。
〈気がつくと足元の枯草が歯ブラシのようになって揺れている。葉先に宿った水滴が風に飛ばされ、飛ばされながら凍りついたのだろうか〉(“|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の底”)
“歯ブラシ”から“揺れている”までの部分が太い活字になっていて、これがつまり|比《ひ》|喩《ゆ》の部分。“瑠璃色の底”は、その文章を含む私の小説のタイトルである。
これは冬も間近い|蔵《ざ》|王《おう》|山《さん》のてっぺんに私が赴いたときの風景。本当に一面白い毛の歯ブラシを並べたように凍りついていた。
〈新生児が大勢|籠《かご》に入って、焼きかけの今川焼みたいに並んでいる。看護婦が|餡《あん》|子《こ》でも入れるように次から次へと手際よく胸のガーゼを取り替えていた〉(“サン・ジェルマン伯爵考”)
太い活字は“焼きかけの今川焼みたいに”の部分。しかし、この引用文全体が一つの比喩的な情景描写になっていると言ってもよいだろう。
これも実際に体験した風景である。
|杉《すぎ》|並《なみ》区の|荻《おぎ》|窪《くぼ》病院で私の叔父が産婦人科医を務めている。私の二人の子どももここで生まれた。総合病院だから私も外科病棟に入院したことがある。新生児室には生まれたばかりの赤ちゃんが何十人も並べてあって、看護婦が一人一人に同じ作業をくり返して行く様子は、
――まるで今川焼だなあ――
と、見るたびに思った。
机の前で思案のすえに考えだす比喩もないではないが、たいていは、ある情景に触れてその瞬間に、
――まるでナントカだなあ――
と感じる。それを記憶しておいて、あとで作品の中に利用するケースが多い。
私はおそらく比喩を比較的多く用いる書き手のほうだろう。しかし、自分がどんな比喩を使っているか、問われてもすぐには思い出せない。“レトリカ”に引用をされた二つの例も、引用の許可を求められて、
――ああ、そんなの書いたな――
と、気づいたくらいである。
「なにか会心の比喩、ありますか」
と尋ねられても、
「なんだろう」
しばらく捜さなければ、思い浮かぶまい。
――向田邦子さんはどうかな――
と“レトリカ”の索引を調べてみたが、引用した作家の一覧表の中に向田邦子の名はなかった。
向田邦子も比喩をよく使い、しかもその使いかたが巧みな作家である。“レトリカ”に向田邦子の用例が含まれていないのは、きっと編者が向田邦子の読者ではないからだろう。
この編集は楽な作業ではない。一人でやるとすれば、相当に長い年月を、多分必要とするだろう。ある日思い立ち、意図的に読書の折にメモを取り、カードを作り、そして記録が一定量そろったところで具体的な編成作業にかかる。いずれにせよ|厖《ぼう》|大《だい》な読書の積み重ねがあって、はじめてできる仕事である。
読書家は読書家であればこそ、読みたい本を読む。自分の好みに忠実である。仕事のために読むものは限られている。すばらしい比喩の使い手である向田邦子が“レトリカ”に入っていないとしても、編者を|咎《とが》めることではあるまい。
話は少し変るが、数年前、私は主として三十代から五十代の女性を対象にして設けられた小説教室の講師を務めていた。向田邦子はこの世代に愛読者が多いし、女性が文章を書くときとても役に立つ作家のように思われたので、私は、向田邦子の短篇小説を何度かテキストとして利用した。だから私は向田作品について通り一遍の読書ではなく、相当に細かく読んでいる。
比喩には、仕かけの大きい比喩と小さい比喩とがある。“お盆のような月”は小さいほうだろう。字数も少ないし、お盆と月とイメージも接近しており、|常套《じょうとう》的である。一方、たっぷりと字数を使い、たとえるものとたとえられるものとイメージは相当にかけ離れているのだが、書き手の筆力でその二つを接近させ、読む者を納得させ、よくもわるくもそれが味わいになっている文章もある。これが大きな仕かけの比喩である。
向田邦子は小さな比喩も使うが、仕かけの大きい比喩もよく使う。
〈まさかとやっぱり。ふたつの実感が、赤と青のねじりん棒の床屋の看板のように、頭のなかでぐるぐる|廻《まわ》っている〉
これは“花の名前”の中で、妻が夫の浮気に感づいたときの表現である。かなり仕かけが大きい。
向田邦子の場合は、二ページに一つくらいのわりで、大きく華やかな比喩が登場する。
「とてもうまいです。しかし、比喩の使い方としては、あのくらいの頻度が限界です。あれ以上たくさん使うと、少しうるさくもなるし、飾りすぎにもなりかねません」
と、これは私が小説教室で言ったレクチャーであり、向田文学の比喩についての私の率直な感想である。
比喩は使いまちがうと、けれんに流れやすい、飾りすぎて、温泉場のやたらお金をかけた、豪華にして悪趣味のホテルみたいになりかねない。
名人上手はむしろ比喩など使わないかもしれない。使うもよし、使わぬもよし……。小説の根幹にかかわるテクニックでありながら、毒気も帯びている。
“レトリカ”は読んでもおもしろいし、この分野の|嚆《こう》|矢《し》としても価値は小さくあるまい。
卵について
肺結核にかかった友人のところに卵を五つほど持って見舞いに行き、
「これを食べて早く治ってくれ」
「ありがとう」
友人は深く頭を垂れてうやうやしく贈り物を受け取る。数十年前には、たしかにそんな風景が心に響くものとして実在していた。つまり、卵はそのくらいの貴重な食品であった。滋養と言えば卵であった。
風邪を引くと、卵酒を作ってもらう。母親が炭火の上に小さな|鍋《なべ》を置き、清酒少々、砂糖少々、その中に卵の黄身だけを落としてかきたてながら温める。ほどよく温まったところで、マッチをすり、炎を鍋に近づけると、パッと青い火が燃え立つ。
それが消えれば卵酒の出来あがり。|茶《ちゃ》|碗《わん》に半分ほどの分量を、フウフウ吹きながら飲む。甘くて、酒くさくって、のどの奥にツンと来るような感じ。すぐに胃袋のあたりから酔いとぬくもりが込みあげて来た。
どれほどの薬効があったかわからない。あったとすれば、体が温まること、そして卵の滋養がおおいに作用していただろう。粗食の時代であったからこそ、卵の価値も高かった。
私も肺結核にかかった。
昭和三十年代。その前の時代に比べれば、卵の価値はずいぶん下落していたけれど、それでも病気の養生には欠かせない大切な食品であった。
近所に卵を専門に売る店があって、
「あそこは卵が新しいの。値段も少し安いし」
「うん」
散歩がてらによく買いに行った。
店先に卵を入れた|籠《かご》が三つほど置いてある。それぞれに十二円、十五円、十八円、と卵一個の値段が記してある。
十二円は小さい。十八円は大きい。私はいつも十五円を買った。たびたび買いに行ったので、よく覚えている。値札の字体には、ひどく乱雑に書いたのと、反対に滅法丁寧に書いたのとがあって、おそらくこれは店の主人と奥さんと、その筆跡のちがいだったろう。いつも十二円と十五円と十八円の三種類で、それ以外の数値は見当らなかった。
――なぜかな――
養鶏所ではそう都合よく三種類に分けられるように生まれては来ないだろう。十二円の籠の中にも十三円くらいの卵もあるだろうし、十四円の卵が十五円の籠に入っていることもあるだろう。
しかし、ざっと眺めて、三つの区分はそこそこに納得のいくものだった。十二円の籠の中で一番大きなものでも十五円の|籠《かご》より小さかった。十八円の籠には、どれを見ても十五円の籠より大きなものが入っていた。
――本当のところがどれが得なのかなあ――
かりに卵の寸法に二ミリの差があるとして、体積の差はどうなるのか。それと値段の差は妥当なものかどうか。私はわざわざ数式を立てて調べてみたような気がする。
結果は忘れた。
大きな卵のほうが少し得だったのではあるまいか。小さな卵のほうが少し損だったのではなかろうか。
いずれにせよ、私は十五円の籠の中から、できるだけ大きい卵を選んで買い、卵の力で早く病気を治し元気にならなくちゃあと考えていた。
卵にはそう思わせるだけの尊さがあったのである。
考えてみると、卵の値段はその後ほとんど変っていない。昨今はヨード入りとか金印とか特別高価な卵もあるらしいが、そして、
「このごろの卵、まずいでしょ。栄養価もきっと落ちてるわ」
という意見もあるけれど、なにはともあれ、スーパーマーケットへ行けば、昔と比べて姿形に変りのない卵が六個入り百円くらいで売っている。一個十七円也……。
これほど値あがりのしなかった商品もめずらしい。おかげで卵に対する尊敬の念はめっきり減ってしまったけれど、
「卵さん、ありがとう」
そう言ってあげなければ、少し申し訳ないような気がしてならない。
話はガラリと変る。
同じ頃、近所に住むKさんの奥さんは、卵型の面ざしで、とてもきれいな人だった。色も白いし、いつも湯あがりみたいにこざっぱりしている。
――ゆで卵みたいだな――
と思った。
そう思って見れば見るほど顔の輪郭は正確な卵型だった。髪型は……とにかく引っつめにして卵型を際立たせていた。額を隠していることなど、けっしてなかったし、長めの髪を両耳のわきに垂らしていることもなかっただろう。
愛敬があって、とてもやさしそう。私は卵に対してよい印象を持っていたから、この奥さんについても当初はよいイメージを抱いていたのだが、
「あんな虫も殺さないような顔をしていて、ひどい人なのよ。前の奥さんと子どもを追い出し、自分が居すわったんだから」
と、評判はあまりよくなかった。
――そんな人には見えないけどなあ――
前の奥さんのほうがひどい人なのかもしれないし……。それにKさんを真実愛していたのなら仕方ないだろう。
だが、一度だけ、彼女が野良猫に石を投げているところを目撃し、その顔つきのにくにくしげなこと、恐ろしげだったこと、つね日ごろとはおおいにちがっていて、
――やっぱり――
と思ったりもした。
本当のところはわからない。
どちらかと言えば、私は日本的な面ざしの女性が好きである。卵型。もちろん結構です。だが、みごとな卵型を見ると、どうしても昔見たあの奥さんを思い出してしまう。
実は最近、周辺にみごとな卵型が一人いて、愛敬もあるし、とてもやさしそうなので、
――いい人みたいな気がするんだがなあ――
と、迷っている……。
余計な気をまわしていただいては困ります。なにが言いたいかといえば、つまり、その……よきにつけわるきにつけ、昔見た人とよく似た人に会うと、なんの関係もないはずなのに、その二人が、
――性格まで同じじゃあるまいか――
そう思っている自分に気がついて、|愕《がく》|然《ぜん》とする。あなたにはそんなことありませんか。
戦後は遠くなりにけり
美空ひばりさんの死を悼む記事がいろいろな雑誌に載っている。扱いはみんなよく似ていた。
大衆のアイドル、日本人の心を歌ったエンターテイナー。戦後の荒廃した社会に明るい希望を与えた歌手として国民栄誉賞を授与されることにもなった。
だが、お立ちあい。美空ひばりさんが、日本の歌謡界最大のスターであったことにはなんの異論もないけれど、“戦後の荒廃した社会に明るい希望を与えた”という部分があまり強調されすぎると、私なんか、
――本当にそうだったかなあ――
と、首を|傾《かし》げたくなってしまう。
そういう側面もあったが、そうでない側面もたしかにあった、と私は思っている。
昭和二十年代、歌謡曲を取りまく状況が今とはずいぶんちがっていた。ラジオから盛んに歌謡曲が流れていて、どこの家でもそれを聞いてはいたけれど、三度に一度くらいは、
「こんなもの、聞くな」
と、親に叱られた。少なくとも中流以上の家庭ではそうだった。
歌謡曲はサブカルチャーであり、歌だけならまだしも黙認されるところがあったが、それを歌っている歌手となると、
――まともな人間じゃないね――
つまり、不良のやること、そんな気配がなくもなかった。
鮮明に覚えていることが一つある。
当時はテレビがなかったから、歌謡ショウをそっくりフィルムに撮って、それを映画館で上映していた。映画を見に行くと、ニュースと劇映画のあいだに、そんなおまけが映し出される。
私もそれを見た。
川田正子さんという、当時人気の童謡歌手が、その中で歌っている。「汽車汽車、シュッポ、シュッポ……」などと、少女はまぎれもなく健康で明朗な童謡を歌っているのだが、私の母は、
「普通の家の子なのに、こんな人たちと一緒に歌って」
と、|眉《まゆ》をしかめ、それが周囲の大人たちの標準的な考えであった。
つまり“普通の家の子”である川田正子は、たとえ歌う歌が童謡であっても、歌謡曲の連中なんかと同じ舞台にあがってはいけない、あがったら、もうそれだけでかんばしいことではなかった。
これより少し遅れて名子役として登場した松島トモ子さんも、
「芸能界ってとこは、普通の家の子が近づくとこじゃないって、そういう意識はたしかにありましたね」
と述懐している。
川田正子さんや松島トモ子さんのように、一見して筋のよさそうな少女でもそうだったのである。
美空ひばりさんは、そういう時代に、これはもう正真正銘の歌謡曲を引っさげ、その雰囲気に首までドップリつかった感じでデビューしたのである。
――歌はたしかに小器用にこなしているけれど、こまっちゃくれた変な子ね――
少なからず白い眼で見られていた部分もあった。
私はけっして美空ひばりさんをおとしめるために言っているのではない。むしろそういう時代に登場し、長い年月をかけてサブカルチャーであったものを大衆に広く受け入れられるものへと高め、世間の認識を変えたこと、その生きたシンボルであったこと、それこそが美空ひばりさんの価値であったと私は言いたいのである。もちろん、これは美空ひばりさん一人の力でやったことではないし、歌謡曲は現在でも依然としてサブカルチャーの側面を持っているけれど、状況はあきらかに昭和二十年代とちがっている。私は同じ世代を生きた者として、当時のムードを正確に伝えておきたいと思う。
「あんたの指摘には同感だけど、それは、つまり俺たちが年を取ったってことなんだよな」
私の話を聞いて、友人のK君が笑いながら|呟《つぶや》いた。
「うん?」
「今はもう俺たちよりずっと若い連中が現場の指揮をとっているんだ。戦争中はもちろんのこと、昭和二十年代だってほとんど記憶にない連中が現場の指揮官なんだよ。知らないことは、知らない。資料で調べたってサブカルチャーのたぐいは、こまかいところまで残っていない。美空ひばりが昭和二十年代にどんなムードの中で登場したかなんて、もうわからない人が多くなっている。ここ十数年ぐらいの印象で美空ひばり特集を作っているわけだ」
「なるほど」
「前にも、ほかで同じようなこと、感じたよ」
「へえー?」
「なつかしのメロディってのがあるだろ」
「うん」
「昭和二十年代にたしかにはやった歌なのにサ、どういうわけかその後歌われなくなって、そうなると、はやったという事実さえ忘れられちゃう。記録からも脱落してしまう。今のテレビ局のディレクターはその頃の記憶がないからどうにもならない。戦後は着実に遠くなっている」
「たとえば、どんな歌?」
「“三日月娘”。はやったんだよなあ、これは。国籍不明みたいな、変な歌だったけど」
「知ってる、知ってる。幾夜重ねて砂漠を越えて、明日はあの|娘《こ》のいる町へ……」
「そう、そう。ナツメロの歌集を捜しても見つからない」
「どうしてなのかな」
「わからん。“青春のパラダイス”なんてのもあったぞ」
「あでやかな君の笑顔やさしくわれを呼びて、青春の歌にあこがれ丘を越えて行く」
「知ってるねえ」
「知ってるところをみると、ヒットしたんだろうね」
「それから“雨のオランダ坂”」
「それはたまに歌われるんじゃないか」
「こぬか雨降る港の町の……」
私たちはおおいに意気投合し、しばらくは遠い日の歌を口ずさんだ。
サブカルチャーとはいえ歌謡曲はなかなかのものである。
あの頃、楽しみと言えば、映画と歌くらいしかなかった。美空ひばりさんが戦後史の一ページを飾る偉大な存在であったことはまちがいない。だがなにもかも美談だけでまとめてしまっては、本当の姿と歴史的な視点とをそこなってしまうだろう。
男というもの
せまい島国の日本ではあるけれど、それぞれの地域により|人《じん》|気《き》は微妙に異なる。なにほどかの県民性の差異がある。これから述べることは、まったく私の個人的な見解、さほど多くもないサンプルから帰納した不確かな結論でしかないのだが、福岡県の女性と長野県の女性は、ある一点において明らかにその思想が、意識が、ちがっている。
福岡県出身の女性は、“男はやるもの、女はやらせるもの”と、そう思っている。無意識のうちにもそういう考えを抱いている。
表現のいやしさはお許しいただきたい。このくらいの表現が一番ふさわしいテーマについて私は言っているのである。ここでいう“やる”は英語の“|D《ド》|O《ウ》”ではなく“|MAKE《メ イ ク 》 |LO《ラ》|VE《ブ》”のことである。人間の根源的な欲望であり、人類存続のために不可欠な営みでありながら、ともすればみだらなものと見なされる。あの行為について私は言っているのである。
一方、長野県出身の女性は、“できれば、あんなこと、この世の中になければいいのに”と思っている。
まあ、まあ、まあ、反論はありましょうけれど、もう少しお聞きください。
長野県は日本有数の教育県である。生まじめで、理屈っぽくって、野沢菜をポリポリ食べながら、この世の正義から隣近所の悪口まで、日がな一日おのれの正しさについて飽きずに論じている県民性である。
過日物故した殿山泰司さんの奇書“日本女地図”によれば、
“長野県の女がニッポンでいちばん|口《く》|説《ど》きにくいんじゃねえのかな。だいたいだな、長野県の女は貞操観念が発達しすぎてるよ、おもしろくもねえ、どうなってんだ。(中略)長野県の人間はガキのころから理屈っぽいとは、よく耳にする言葉である。であるがゆえに、女どももついでに教育を受けてしまい、しぜんと理屈をこねるようになり、一夫一婦制の悪徳に染まり、貞操などとたわごとを言うようになるのである”
となっている。
当たらずとも遠からず。長野県の男性が、あのことをきらっているとは到底思えないし、もちろん実行しているはずだし、男性がやる以上かならず女性もやっているんだし、長野県の女性もきらいな人ばかりではあるまいと思うけれど、彼女らは心のどこかに、あるいはあからさまに、セックスはよくないこと、みっともないこと、この世になければそのほうがよいと、そんな意識を持っている。私にはそう見えるのである。
そこへ行くと、福岡県はずっとものわかりがよろしい。ものわかりがよすぎて、博多の駅を降りると、中洲の方角からなんとなく|淫《いん》|靡《び》な風が吹いて来るような気さえするほどである。
それはともかく話をもとに戻して、福岡の女性がいかに“男はやるもの、女はやらせるもの”と考えているからと言って、それはただちに彼女たちがふしだらで、好色で、口説かれればすぐにその気になるということではない。断じてそうではない。当然のことながら、好みがある。選ぶ権利がある。|厭《いや》な男とつきあうはずもない。その点は全国津々浦々の女性と少しも変りない。
男の誘いに応ずるかどうかは、まことに彼女たちの胸先三寸、殿山さんがきらった貞操観念も充分に持ちあわせているし、
――やっぱり愛情がなくちゃあ絶対にいやよ――
と、この心境も変りあるまい。
ただ、どこがちがうかと言えば、
――男はやるもの。男とはそういうものだ――
と、その本性を知っている点である。知っているから応じてくれるというのではなく、それがよくもわるくも男というものだ、と、その点を心得ている。そこが長野県とちがうのである。
長野県の女性は、“男はやるもの、女はやらせるもの……まあ、いやらしい”なのである。
このちがいは、男の兄弟を持っている女性と、女ばかりの家で育った女性と、その差異に似ているかもしれない。
「えっ、ソープランドになんか行ったの」
女だけの家で育った女性は、殺人の次くらいにわるいことだと思う。しかし、男兄弟がいれば、兄さんも弟もおおいに行っている可能性がある。
――あんまりいいことじゃないけれど、お兄ちゃんも行ったことあるらしいから、男の社会では普通のことなのね――
ことの本質的なよしあしとはべつに、よからぬことのレベルについて常識的な判断を持つことができる。
男とは、まことにそういうものなのだ。そして自然界のすべての分布がそうであるように、そういう男を中核部の大多数とし、その両極端にとてつもなく好色の男とまったくそのことに興味ない男と、この二グループがさながら五段階式通信簿の5と1のごとく、それぞれ例外的に存在しているにすぎない。もちろん4と2のグループも通信簿と同じように存在している。
私のとぼしい見聞から長野県の女性と福岡県の女性とを引きあいに出したけれど、これはさほど本質的な区分ではない。私にはたまたまそのように見えるだけで、長野県にも、“男はやるもの、女はやらせるもの”と、すなおに思っている女性もきっといるだろう。それとは逆に、
「いやあ、博多の女なんだけどサ、堅くて、堅くて、ちょっと粉かけただけでビンタをくらったよ」
そんな体験を持つ男性もいるだろう。だから、大切なのは、長野か福岡かではなく、この二種類の女性が存在しているという事実のほうである。どこに、どのように分布しているかはともかく、日本女性はなべてこの二つのタイプに分けうるということである。
どちらのタイプも東京にいる。大阪にもいる。名古屋にもいるだろうし、札幌にもいる。銀座にもいるし、北の新地にもいる。|祇《ぎ》|園《おん》にもいるし、そう、そう、|神楽《か ぐ ら》|坂《ざか》にもいる。
もちろん、どちらがいいとかわるいとか、そういうテーマではない。女性はどうあるべきか、これこそ野沢菜を食べながら永遠に論じなければなるまい。だが、それとはべつに、男はいかなるものか、リアリズムをふまえて生きて行くほうが、多くの場合、生きやすい。あ、もう一つ、
「女は太陽であり、男はそのそばにいて奉仕するものよ」
と、そういう考え方もある。
これはどこの県、どこの国に特徴的な意識なのだろうか。昨今、よく見かけるけれど。
文学部は駄目よ
日本の国際化はどれほど進んでいるだろうか。海外生活の長いNさんの意見では、
「一国の国際化の度あいを判定するのは、とてもやさしいんだ」
「ほう?」
「国際結婚がどのくらいあるか、それを見ればすぐわかる」
なるほど。むつかしいことをあれこれ考える必要はなにもない。庶民がどのくらい異国の人と溶けあっているか、本音の部分はきっとこのあたりに現われるだろう。
正確な数値は知らないけれど、日本人の国際結婚は極端に少ないだろう。親族をグルリと見まわして五親等以内に一組くらいいるようにならなければ、とても国際化が進んでいるとは言えない。論より証拠、数字を見れば、おのずと見えてくるものがある。
だが、この章のテーマは日本人の国際化ではなく、女性問題……。昨今はなにかとかまびすしい。
私が学んだ高等学校は男女共学のはしりで、いま思い返してみてもすこぶる優秀な女性が多かった。そのあと私が入学したのは早大フランス文学科、ここも女性が半数。みなさん優秀で、成績なんかは確実に男性より上だった。そして私が十年あまり勤務した国立国会図書館も半数までが女性で、女性の職場としてはわるいところではなかった。だから優秀な女性が集まって来る。つまり私は十代から三十代のなかばくらいまで、いつも能力的にすぐれた女性と机を並べて学び、仕事をしていた。
こんな事情もあって私は女性の能力が男性に比べて劣っているかどうか、ほとんど意識したことがなかった。周囲にいる女性が、男性と少しも変らないのだから、それどころかときには優秀なのだから、
――みんなこんなものだろうな――
差異を実感するのがむつかしかった。
図書館をやめ、フリーの物書きとなり、広く、さまざまな世間を見るようになってはじめて、私はこのテーマに直面した。いろいろな声を聞いた。
「女は使いものにならん」
「責任感がないんだ、女性は」
「とんでもない|嘘《うそ》をつくだろ。男だってつくけどサ、みすみす|尻《しり》が割れるような、馬鹿な嘘はつかんよ」
「本当に女って自己中心的だよな」
全部が全部その通りだとは思わなかったけれど、正直なところ、広く世間を見るようになって、男性たちのこの種の嘆きもあながち理由のないことではないな、と私は思った。私は三十代のなかばまで女性の社会的能力を充分に信じていたから、むしろ少し裏切られたような気がしないでもなかった。
昔はもちろんのこと、今だってこの世の中はどこもかしこも男性優位のシステムで貫かれている。(女性上位なんてほんのジョークでしょう)女性がなかなか社会的に進出しにくく、その結果、社会的能力においてどうしても男性に遅れがちになってしまう、これも充分に理由のあることだろう。私は男だから、
――そうみたいですねえ――
なんて、ついつい薄情になってしまうけれど、心ある女性が切歯|扼《やく》|腕《わん》、怒りの声が高まるのも当然のことだろう。
――俺が女だったら、やっぱり憤慨するね――
と、そのくらいの理解力はあるのです。
「理解だけじゃなく、女性の地位向上のためにもっと協力してくれなきゃ駄目」
「はあ。できる範囲で」
なにしろ、男と女、利害の対立する場合もあるから、そうそういいお返事ばかりはできない。
それはともかく、昨今は大学へ進む女性も増えている。せっかく高等教育を受けるチャンスを与えられ、
「どうして文学部ばかりが多いんですか」
と、私は尋ねてみたい。文学はけっしてこの世に無用な学問とは思わないけれど、社会的に役立つ能力を磨くには|迂《う》|遠《えん》すぎる。そんなものよりまず、この世の中で仕事を得て働いて行くうえで具体的に役立つ学問、女性はそれを身につけるべきではあるまいか。
外国語学部や家政学部のたぐい……これも理念はともかく現実には文学部と大差はない。せっかくチャンスを与えられながら、お嬢様芸のたぐいばかりでは、もったいないのとちがいますか?
医学とか、理化学とか、建築学とか、司法試験をパスしちゃうほどの法律学とか、実質的な学問は少なくはない。もちろん医学なんかは、当人の努力もさることながらお金もかかり、女性はこの点でハンディキャップを負わされる率も高いだろうけれど、もう少しなんとかならないものだろうか。
女性の社会的進出がどれほど進んでいるか。
「その度合いを判定するのは、そうむつかしくないね」
「ほう?」
「文学部を選ぶ人がどれだけいるか。少ないほうがいいんだ」
私自身、文学部の出身ではあるけれど、先の国際結婚と同じように、こんな会話を交わしてみたい。
眼に見えて役に立つ仕事だけが必要なことではないけれど、この社会を動かしていくうえで眼に見えて確実に必要な仕事、そこに従事する女性の数が増えないことには、女性の社会的進出なんて、チャンチャラおかしい。それを拒んでいるものについてはよく言われているけれど、女性の側にも、もう少し実用の学への熱意があってよいだろう。
文学部を出てテレビのアナウンサー、英文学を専攻して週刊誌のエディター、そんなに必要じゃないですね。
かくいう私にも娘が一人いて、なんと、フランス文学科などへ通っている。仕方がない。当人が好きなのだから、止められない。
先の国際結婚についても同じことが言えるのだが、人はそれぞれ自分の好みで道を選ぶものだし、それが当然であり、他人が干渉できることではない。太郎と結婚したい娘に「トミーにしなさい」とは言えないし、文学部へ行きたい娘に「いや、医学をやりなさい」とは言えない。
だから、以上はあくまでも巨視的な視点でみる。結果として、文学部あたりを志願する女性が今の半分くらいになったとき、つまり個々の女性の総意がそんなふうになったとき、女性の社会的進出は明白に進んでいるだろう。
北海道紀行
北海道の観光シーズンは、夏。
冬も、春も、秋も、それぞれにわるくはないけれど、観光客が一番多く集まって来る季節ということならば、やはり夏だろう。
そのシーズンが始まる直前に、私は北海道へ行った。旅の目的は|糠《ぬか》|平《びら》の水力発電所を見学すること。そのためだけならば一泊旅行で充分なのだが、
――せっかくいい季節に行くんだから――
と、もう一泊余計に時間をとって遊びのスケジュールを加えた。
なんの自慢にもならないことなのだが(そう言いながらも、つい、つい自慢してしまうけれど)ここ数年、私は本当に天気に恵まれている。文字通りの晴れ男。ここぞというときには、かならず晴天になる。少なくとも雨は降らない。
三年ほど前、長崎と熊本へ講演旅行に出かけたときなどは、
「長崎は今日一日大丈夫らしいですよ。熊本はドシャ降りだけど」
と知らされ、たしかに長崎のホールで講演を終え聴衆が家に帰り着く頃まで、雨は落ちて来なかった。
翌日は国見から長洲へとフェリーで渡ったのだが、舟つき場はものすごい土砂降りだった。
ところが熊本市内に入る頃から雨は止み、夜の講演会に集まる足にはなんの支障もなかっただろう。
「長崎はいま集中豪雨らしいですよ」
てなものであった。
そして一昨年、これはたしか大分の講演会だったと思うのだが、
「今日は降りましたねえ」
と、かねてから私の晴れ男ぶりを聞かされている同行者があざ笑う。
「なんの、なんの」
その日は、ある会社の|親《しん》|睦《ぼく》|会《かい》のためにアトラクションとしておこなう講演で、聴衆はみんな会場となるホテルに泊まっている。雨が降っても参加者の人数が減るわけではないし、なんの迷惑もかからない。天気をつかさどる神様のほうにだって都合があるだろう。こんなときくらいは雨の配給があっても仕方あるまい。私の場合、本当に必要なときには、かならず晴れてくれるのである。
|帯《おび》|広《ひろ》の機内で、私はいつものように同行のIさんに自慢をした。
そして、その結果。はい、初日の発電所のあたりでは小雨がパラついたけれど、こんなのは、めじゃあない、めじゃあない。二日目、三日目は、みごとな快晴。|十《と》|勝《かち》|川《がわ》温泉を起点として、オンネトー、|阿《あ》|寒《かん》湖、|摩周《ましゅう》湖、|屈《くっ》|斜《しゃ》|路《ろ》湖、|美《び》|幌《ほろ》峠、さらに川湯温泉に一泊して、ふたたび美幌峠、オホーツク海、小清水の原生花園、|網《あば》|走《しり》の刑務所や監獄博物館はあんまり天気と関係がないけれど、北海道を少しでも知っている人ならば、このコースがどれほど晴天のときにすばらしいか、わざわざ説明する必要もあるまい。
摩周湖、真実、まっ青な水をたたえておりました。屈斜路湖、怪獣クッシーこそ現われなかったけれど、摩周に負けるものかと雄大な青さを広げておりました。美幌峠、三百六十度の展望が青空の下に広がり、文句なしに天下一品。私も世界の佳景をたくさん見ましたけれど、けっして|遜色《そんしょく》はない。どこへ出しても恥ずかしくない。これに比べれば、
――日本三景なんて、ありゃ、なにかね――
松島、宮島、天の橋立、地元のみなさんには申し訳ないけれど、格がちがいます。新しい日本三景を選ばなくてはなるまい、と思った。
それで思い出したのだが、ついでに“日本駄目名所”というのも選んでみてはどうだろう。つまり、これは、名所と言われながら行ってみるとさっぱりよくないところである。またまた地元のみなさんには申し訳ないけれど、私の選んだ“日本駄目名所”は、まず第一に|土《と》|佐《さ》の高知のはりまや橋。「ここだ」と教えられてもよくわからない。なんのおもしろ味もない。二番に福井の東尋坊。むかし、むかし、絵葉書で見たときは白波騒ぐ絶景であったが、今は、どこにでもあるような、ただの岩場。どうなってるのかねえ。そして三番は札幌の時計台。ビルに挟まれてあわれです。
しかし、まあ、駄目名所はほかにもまだまだたくさんあるだろう。
さて、旅のさなか、川湯温泉の酒場で酒を飲み、外に出ると、満月に近い月が天にかかっている。
「もう一度、摩周湖へ行こうよ」
時刻は夜の十一時五分過ぎ。
「今からですか」
「月の摩周湖を見たい」
タクシーを呼び、夜道をまっしぐらに走った。
「こういう客、いませんか」
「初めてですねえ」
「気味わるいですか」
「お二人ですから。一人だと、自殺するんじゃないかとか……」
道が上りにかかると、霧が流れている。トンネルなんかは、お化けくらいらくに現われそうな感じ。人の気配はもちろんのこと、車も通らない。
「霧が出てますね」
「かまいません」
車が止まり、第三展望台に立つと、湖を囲む山々が黒く環を作り、その底にさながら綿あめみたいに霧をいっぱいに集めた摩周湖があった。
――この霧の下に、昼間見た神秘の湖面があるはず――
ポーンと飛び込めば……現実にはものすごい跳躍力を必要とするけれど、頭の中で考えるだけならば、宙に舞い、霧の層を貫いて、だれも触れたことのない水の面に到達するだろう。このイメージは、身が引き締まるほどすてきだった。
――満月が湖面に映る摩周湖なんて、あるのだろうか――
あるとすれば、文字通りの絶景だろう。一年に一度あるのかどうか。神様もそこまでは私にサービスをしてくれなかった。
網走の監獄博物館は、ちょっぴり悪趣味のところもあるけれど、一見の価値がある。とくにお子様連れにはお勧めしたい。
「わるいことをすると、こうなるのよ」
現在の刑務所とは少なからず趣きを異にしているだろうけれど、子どもはそこまでよくわからない。眼で見る迫力はなかなかのものである。元監視さんの説明があれば、さらによい。
昨今は、わるいことをするとどうなるのか、子どもに教える手段がすっかりなくなってしまって……。
いま捕鯨について
たまたま鯨の尾の身が大好物だったことから捕鯨問題に関心を持ち、捕鯨問題懇談会のメンバーに加わり、昭和五十六年にはイギリスのブライトンまで赴いて国際捕鯨委員会の会議にオブザーバーとして出席した。私の立場は、簡単に言えば「鯨を捕らせろ」のほうである。当初から、
――これは敗け戦さらしいな――
とわかっていたが、予想通りズルズルと反捕鯨勢力に押し込まれて、とうとう土俵をわってしまった。目下はそんな情況である。
捕鯨をめぐる問題の焦点は、たった一つしかない。世界の海に鯨は捕っていいだけ|棲《せい》|息《そく》しているのかどうか、それだけである。その他の論点は……たとえば、
「鯨はとても頭がよくって、捕ったらかわいそう」とか、あるいは、「鯨なんか食べなくたっていいだろ」とか言う主張は、二義的である。牛だって豚だって頭はいいし、ものを食べるという行為は、どの道、残酷さをともなうものだ。また、鯨肉を食用とするかどうかは、民族の文化の問題であり、利用のパーセンテージが少ないからと言って切り捨ててよいものではあるまい。むしろ消えかかっている文化を保存することのほうが、二十一世紀的視点のはずである。
だが、鯨は本当に捕っていいだけ棲息しているのだろうか。この問題が案外むつかしい。
いったいどのくらい|棲《す》んでいれば適当なのか、まずこれがわからない。大昔は、おそらく今よりたくさんいただろう。とはいえ自然の|淘《とう》|汰《た》もあるから、無制限に増えるわけでもあるまい。適正な数はどのくらいか。人間が適宜捕獲しながら、よい状態を保っていくというポイントが、理屈としては考えられるが、それがどのあたりか、意見はまちまちである。
ひところ、日本が一番よく捕っていたのはミンク鯨であり、これは繁殖力も|旺《おう》|盛《せい》で、たしかに増加しているらしかった。しかもこのミンク鯨は、繁殖力の弱いナガス鯨などと同じ海域に棲息し、同じ|餌《えさ》をあさるから、一定量のミンク鯨を捕ることがナガス鯨の保護になるという、そういう側面もたしかにあった。
捕鯨国日本の主張は、
「貯金で言えば、元金にまで手をつけるつもりはない。利子のぶんだけ利用させてくれ」
ということだったが、もともと元金が足りなくなっているんだ、利子をどんどん元金にくり込んでほしい、という反捕鯨側の主張も、適正な鯨の数がわからない以上、それなりに論拠があるだろう。
今、どのくらい鯨がいるのか、これもよくわからない。牧場の牛を数えるのとは、わけがちがう。一説では、ある海域にいる鯨の数を調査して、
「二十頭から二百頭のあいだですね」
そのくらいアバウトのものだと言う。二十と二百、十倍のちがいがある。概数と呼ぶことさえためらわれてしまう。
頭数を調査する費用も手間もばかにならない。日本は捕鯨国であり、捕鯨産業で利益をあげている国だから、この調査にある程度までお金をかけることができた。鯨を捕る作業と併行して資源情況の調査をやることも充分に可能である。事実、長年それをやって来て、
「鯨はこんなにいる。大丈夫だ」
という数値をはじき出すのだが、非捕鯨国の側に立ってみれば、
「なーに、捕鯨国の出す数値なんか当てにならん」
この判断もむげに否定することができない。では、非捕鯨国が提示する鯨の頭数が信頼できるのかというと、もともとこうした国は捕鯨には関心がない。
「自然のまま放っておくのが一番いいんじゃないの」
という考えなのだから、多大な予算をつけてまで調査をする気になれない。したくてもなかなかできない。ろくな調査もせず、根拠のあやしい数値が横行しているようにも感じられた。
さらに、もっと身に迫った問題がある。私自身は科学者ではないし、鯨がどのくらいいたらいいのか、今どのくらいいるのか、どちらのテーマについても、専門的な判断を持っているわけではない。
何人かの科学者の意見を傾聴し、データも自分なりに読みこみ、
――このくらいの利子は見込めそうだし、利子くらい使ってもいいんじゃないの――
と感じる。とりわけミンク鯨については、
――絶対に増えている。捕っても大丈夫――
日本の主張を是認し、是認できたからこそオブザーバーにもなったわけだが、
「科学者でもないあなたが……一度も調査をしたことのないド素人のあなたが、そんなこと本当にわかるのですか」
と問われれば、
「うーん」
と、返答に窮してしまう。“本当にわかる”というのは、とてもむつかしいことだろう。だれが本当にわかるのか。本当にわかっている人でなければ、このテーマに口を挟んではいけないのか。つきつめて行くと、これは信ずるかどうかの問題になってしまう。
鯨だけではない。
知識の領域が細分化されている今、なんによらず、専門家以外の者が“本当にわかる”のはむつかしい。そしてその専門家の意見もおおいに分かれている。
原子力発電はどうなのか。大気汚染はどうなのか。本当に知っている人はだれなのか。知りもせずに……とりわけ大局を見ず部分だけを見て主張をしている人が多いのではあるまいか。しかし、専門家しかわからないからと言って、ほかの人が口を出してはいけないというのも困りものである。
やはり、信ずるか信じないかの問題。たとえまちがっていても信じた道を進むよりほかにない。
鯨でさえ、あれだけむつかしかった。世間にはまだまだむつかしいテーマが山積しているだろう。
私は今でも捕鯨についての日本の主張はまちがっていなかったと思う。そのことは、ここ数年のうちに資源の増大という形で明らかになると思う。だが、捕鯨そのものについては、今の私はむしろ消極的である。捕鯨に関してはまちがっていなかったが、自然保護全体に関しては日本人の意識はあまりにも低い。その罰を鯨で取らされているのかもしれないのだから……。
武器としての頭
数年前タイのバンコクへ行ったとき、店頭に“イングリッシュ・スポークン”と書かれたみやげもの屋を見つけて立ち寄った。つまり、この店では英語が通ずるということである。
私は英語がうまくないけれど、タイ語はできないし、日本語の通ずる店は少ないし、英語で話すよりほかにない。店頭の表示を指さして、
“さあ、英語のできる店員を呼んでほしい”
と身ぶりで告げると、十二、三歳の少年が現われた。私が下手な英語で話しかけると、彼もまた相当に下手な英語で答える。私も下手だが、彼はもっとひどい。ほとんど通じない。こっちがわるいんじゃなく、これはむこうがわるいらしいぞ。その証拠にメモ用紙に英文を書いて見せてもあまりよく通じない。私は、ご多分に漏れず書く英語ならそこそこにできるのである。店の主人が心配そうに眺めている。
少年は、表情だけは“わかってる、わかってる”すこぶる愛想よく|頷《うなず》いたりしているのだが、応答はトンチンカンである。
――ああ、そうか――
私はすぐに納得した。
タイで職業を得るのはなかなかむつかしい。おそらく、この少年は“英語ができる”というふれこみで、この店に雇われたにちがいない。ほとんどできないのに“できる”と偽って……。実情が知れたら首になるだろう。主人は、
――こいつ、本当に英語が話せるのかな――
疑い始めている。
だからこそ彼は愛想よく、いかにも英語が通じているようにふるまわなくてはいけなかった。
そうとわかれば……私は笑いかけ、二人のあいだでチャンと英語が通じているように口調を合わせてやった。
――首になったら気の毒だ――
まあ、いずれ実情が知れて首になるだろうけれど……。
「サンキュウ・ベリ・マッチ」
なんとか買い物をすませ、彼の声を背後に聞きながら、
――どこで習ったのかな――
と考えた。まともな英語教育なんか受けてるはずがない。少年の心には、ただ初めに、
――英語がうまくなりたい――
と、その意志だけがあった。向学心と言うより生きて行く手段として、それを願ったのではあるまいか。その志は多とすべきものだろう。ほんの少し話せるようになり、そこで、
「私、英語が話せます」
と売り込み、あとはなんとか|辻《つじ》|褄《つま》をあわせよう、と、そんな計画。
「なんだ、できもせんくせに」
何度か雇い主に|叱《しか》られ、首になり……しかし、そのうちに彼は本当に英語をうまく話せるようになってしまう。今、タイの街中で見かける“英語の話せる”店員や客引きは、みんなこうした修業のすえ話せるようになったのではあるまいか。
――彼もうまくいくかな――
しばらくは少年の笑顔が忘れられなかった。
日本に帰って来て考えた。
――あの少年が“イングリッシュ・スポークン”に入るのならば、日本人はみんな大丈夫だな――
中学三年までの義務教育なら、だれもが受けている。
「駄目、駄目、ぜんぜん駄目。私、英語、まるっきりきらいだったから」
手を振って逃げてってしまう人だって、少しはできたはずである。教科書を一見すればわかる通り、中学三年の英語はレベルとしてけっして低くはない。日常会話の範囲は充分にカバーしている。五段階評価で3を取っていれば、あのタイプの少年よりきっと実力があるだろう。あとは度胸の問題……。
もし無人島にアメリカ人とたった二人で流されてしまったら、持っている英語力を最大限に利用しなければいけないし、きっとうまくなるだろう。
自分自身に対する反省も含めて言うのだが、いつの頃から、日本国では、学校の勉強は学校の勉強、世の中で役に立つのは、それとはべつな知識……そんな気分がだれの心の中にも少しあるようだ。
学校の勉強は、合格点を得たところで完結する。それが卒業後、役に立つかどうかはさして問題ではない。長い年月をかけて、教えるほうも、教わるほうも、ダラダラと遠まわりをやっている。
昔の教育は少しちがった。高等小学校を出ていれば、かなりのものだった。まして中学を出ていれば、りっぱなインテリゲンチュアである。短い期間に本当に役に立つことを教えていた。
知識の領域が今より狭かったせいもあるけれど、教育ってなんだろう? 世の中に出て役に立つ武器を与えること、それをかちとること、教育の原点と密接に結びついていた。
今だって、もちろん、学校で習ったことは役に立つ。大学は言うに及ばず、高校、中学校、小学校、それぞれの段階で身につけたものは、けっしてお遊びではない、一生の武器として、第一線の武器として役に立つはずである。ただ、私たちがなんとなく、
――役に立たなくてもいいか――
そんな意識を心のどこかに抱いている。
ペンクラブの依頼を受けて、私は恐怖小説のアンソロジイを三冊編んだ。題して“恐怖の森”“恐怖の旅”“恐怖の花”の三部作である。アンソロジイというのは“詩文などの選集”のこと。私の場合は、恐怖を含んだ短篇小説を対象にして、
「筒井康隆さんの“遠い座敷”はおもしろかったなあ。半村良さんの“|箪《たん》|笥《す》”は怖かったなあ」
いろいろな作家の名作を集めて三冊の本とする試みだった。どんな作品を選ぶか、隠れた名作を選ぶのが編纂者の腕の見せどころだが、名作はなかなか隠れていてくれないから、セレクションはむつかしい。
岡本|綺《き》|堂《どう》の“くろん坊”、大下|宇《う》|陀《だ》|児《る》の“情獄”、林辰雄の“双生真珠”などを選んだが、これらの作品は、みんな私が中学生の頃に読んだものだった。四十年も昔に、
――おもしろいなあ――
と感じ、それが今、役に立っている。学校教育と直接には関係がないけれど、幼いとき手に入れた知識は、けっして“かりのもの”ではなく、実戦でもチャンと役に立つ武器である。またそうでなければ、やりきれない。
電話と手紙
ル、ルン、と電話のベルが鳴る。
仕事場の電話は私が取る。当然のことだ。私以外にだれもいないのだから……。その瞬間、
――いいことかな――
と、胸を弾ませる。
顕著な喜びではない。かすかな期待感。ほんのわずかなうれしさ。少なくともわるい気分ではない。二で割れば、よいほう。五十をまん中にして、五十一か五十二くらいの喜びである。
――だれからだろう――
どんな内容の電話か、わかる前からこう感じてしまうのである。そんな私を見て、妻は、
「あなたは、根が楽天的だから」
と笑う。多分そうだろう。
幻覚剤の作用には、グッド・トリップとバッド・トリップとがある。とてつもなく幸福な妄想を描くか、どうにもやりきれないひどい夢を見てしまうか……人それぞれ、どちらかのパターンに属しているらしい。私は幻覚剤を使用したことがないけれど、おそらくグッド・トリップのほうだろう。ほんの少し心配性のところもあるが、根は絶対に明るいほうだ。この性格ならば、きっとよい幻想を描くにちがいない。
話を電話に戻して……昔、友人のT君が言っていた。
「電話は|厭《いや》だね。ベルが鳴ったとたん、なんかこう“いけねえ”って思うよ」
どうやら私とは正反対の感覚らしい。あの頃、T君は何度か仕事を換え、どの仕事もうまくいかず、たしかゴルフ場の会員権のセールスみたいな仕事をやっていた。かすかにいかがわしい。借金も少しあるような話だった。受話器を取ると、
「このあいだのゴルフ場、あんたの話とずいぶんちがうじゃない」
お客の苦情が漏れて来る。あるいは、
「このあいだの金、“返す、返す”って言ってたけど、いつなんだよ」
と、催促の電話だったりする。
ろくなことがない。わるいほうが確率的にずっと多い。こんな電話を何年か続けて受けていれば、電話のベルが鳴っても、けっしてうれしくはないだろう。
つまり、電話のベルを聞いた、その一瞬、直観的にどう感ずるか。グッド・ヒアリングとバッド・ヒアリングとがあるのではなかろうか。
私は原稿の締切りを、おおむねよく守るほうである。小説家の仕事では、原稿の催促を除けば、あまりこわい電話はかかって来ない。
「原稿、どうなってますか」
「ええ、今、ちょうどできたところ」
こう答えられれば、電話のベルなんか「さあ、なんぼでも鳴りなさい」と、楽な気分でいられる。
いそがしい最中に電話のベルが鳴るのは、少々迷惑なこともあるけれど、こっちが、
「もし、もし」
と、不愉快そうな声を出すと、相手はたいてい恐縮する。うん、わかっていれば、それでいいんだ。気晴らしになることも多い。少なくともこわいことはなにもない。
それ以外には、親しい友人から、
「よおッ、久しぶりに一ぱい飲まんか」
と、誘いの電話がかかってきたり、あるいは担当の編集者から、
「増し刷りのご通知です。よく売れてますよ」
と、おいしい話だったり、電話の用件は本当に多種多様ではあるけれど、おしなべてよいことのほうが多いだろう。通信簿の5段階評価で言えば、5、つまりものすごくうれしいことが五パーセントくらい、少しうれしい4が一〇パーセントくらい、あとはあらかたどちらとも言えない3が占めて、ほんの少々2があって、1はない。私の場合は、ここ数年こんな状態が続いているようだ。これならばベルの響きと同時にポジティブな感情を抱くことができる。あなたは、いかがですか。
郵便物の到来も、かすかに待ちどおしい。恋文を待つような、あんな熱い思いで待つことは久しく体験してないけれど、とにかくこれも電話同様五十をまん中にして五十一か五十二の気分である。
毎日、両手でようやく持てるほどの郵便物が届く。郵便屋さん、ご苦労さま。本当にそう思う。
あらかたが雑誌や本。毎日、何冊か寄贈されて来る。いただくことに慣れてしまって、もう非常にうれしいということはないけれど、とくに|厭《いや》な理由はない。自分の作品が掲載されている雑誌ならば“見たい”と言うべきか“見なければいけない”と言うべきか、二で割れば前者のほうが多いだろう。
広告のたぐいも多い。マンションを買いませんか、国際投資をしませんか……封も切らずに捨てる。
私的な手紙は、ほんの二、三通。送り主の名前だけを見て、|脇《わき》によけ、郵便物の整理が全部終ったところでゆっくりと読む。私、楽しみはあとに残しておくほうなのです。
時折、ファンからの手紙もまざっている。このところ中学生や高校生など、若い人からの手紙が増えている。それも女の子……。ほとんどがボーイフレンドに書くような文面である。
――小説が甘くなってるんじゃないかなあ――
少し心配である。
――この娘、こっちがいくつだと思っているのかな――
疑いたくなるケースも多い。多分、彼女の父親くらい、それより上かもしれない。
昔は極端に筆不精のほうだったが、この頃は大分改った。しかし、まだ発展途上の段階、筆まめの領域にまでは達していない。
慣れてしまえば、手紙はとてもよいものだろう。そんな予測がある。電話は、相手が不在では役に立たないし、かけにくい時間帯もある。その点、手紙は書いてしまえば、これにて一件落着。あとは|投《とう》|函《かん》するだけ。手紙にふさわしい用件というのもあるようだ。
私の場合は、右翼などから抗議を受けることも少なく、厭な思いで手紙の封を切ることはめずらしい。ただ一つ例外があって、封筒を見ただけですぐにわかる。いつも厭な用件が記されているわけではないけれど、あまりよい印象は|湧《わ》かない。
税務署からのお手紙……。
なにかの拍子で還付金の八百円也とか、千二百円也とか、そんな通知もあるのだが……あの封筒だけは、見て、楽しい気持ちになるわけにはいかない。
文庫本
新潮文庫に“ジョークなしでは生きられない”という、長いタイトルの拙著がある。
私が小説家になる以前、十年ほどのあいだ月刊誌に連載した雑文をまとめたもので、内容は内外のジョークや小ばなしのたぐいを紹介しながら、エッセイ風の文章が挟んである。ちょっと引用してみれば、
〈夫がいて、妻がいて、その妻がだれかよその男といい仲になる。すると夫はとたんにコキュに変身する。日本語に訳せば「寝取られ男」。自分でなろうと思ってなれるものではない。すべて他動詞である。そのかわり仕事をしていても、|麻雀《マージヤン》をやっていても、女房持ちならいつでも、どこでもコキュになれる。もちろん今こうして本書を読んでいる“あなた”もなれるのである。このところ日本の主婦の自由化は急速に進み、二、三十代人妻の浮気率は二〇パーセントとか。かなりの高率である。ああ、たれかコキュを思わざる。まずフランス小話から。
かつてプレイボーイでならした中年男が妻に向かっていった。「オレも若い頃はずいぶん罪なことをしたもんだ。コキュを何人作ったかわかりゃしない」すると妻が答えた。
「あら。あたしは一人しか作らなかったけど……」
言うまでもなくコキュは被害者である。だが古来この被害者はあまり同情されない。寄ってたかって|嘲笑《ちょうしょう》のタネにされる。それでもどこからも苦情はでない。自覚症状がないから、弁護に立つ者がいないのだ。
コキュはフランス語である。「テ・コキュ」といえば「お前はコキュだ」ということになる。フランス人の耳には帝国ホテルは「テ・コキュ」ホテルと聞えるから大変だ。おちおち泊っていられない。日本にはコキュみたいにうまい言葉はないけれど、もちろんコキュがいないわけではない〉
と、今度は江戸小ばなしの紹介に移る。長い引用になってしまったが、どんな内容かおわかりいただけるだろう。はい、正直なところ、そんなに上等な本ではない。笑ってはいただけるだろうが、エロチックな部分も多く、紳士淑女の|顰蹙《ひんしゅく》をかうかもしれない。
ある日、本棚を整理していたら、この本が転げ出し、ラッパーがはげ落ちた。ラッパーというのは、本の外側に巻いてある、通称“カバー”のことだ。
ここで正しい用語を説明すれば、カバーというのは本の表紙のこと。“フロム・カバー・トゥ・カバー”という英語もある。前の表紙からうしろの表紙まで、本をすっかり読んでしまうときなどに使う慣用句である。カバーが堅ければハード・カバー。柔かい軽装本ならソフト・カバー。そのカバーの外側に、印刷された、たいていはカラフルな紙が一枚グルッと巻いてあって、日本語ではむしろこのほうをカバーと言ってしまうのだが、これは正しくはラッパー、包み紙である。さらにその外側に、それぞれの本屋がサービスとしてつけてくれる紙は……あれはなんて言うのかわからない。
それはともかく“ジョークなしでは生きられない”のラッパーがはげ落ち、本体のカバーが現われた。私は一瞬、
――あっ――
と、ショックを覚えた。ベージュ色のカバー。新潮文庫の文字。|葡《ぶ》|萄《どう》のマーク……。
昔の文庫本にはラッパーがなかった。私が高校生、大学生の頃、せっせと読んだ新潮文庫、それはみんな、このベージュ色のカバー、葡萄のマーク。ヘルマン・ヘッセもアンドレ・ジイドも、パール・バックもボードレールもみんなこのカバーだった。見るだけで、高貴なる文学への|憧《どう》|憬《けい》がふつふつと胸を満たしたものだった。このところラッパーをかぶっているので、すっかり忘れていたけれど、新潮文庫に対する遠い日の|畏《い》|怖《ふ》の念が心に|甦《よみがえ》って来た。
ところが……である。
よくよく見れば、本棚から落ちた新潮文庫は阿刀田高“ジョークなしでは生きられない”……。ヘルマン・ヘッセ“車輪の下”とはあまりにもちがうではないか。ボードレール“悪の華”とはちがいすぎるではないか。いや、いや、自分の著作をことさらに卑下するつもりはないけれど、さはさりながら、
――こんなはずじゃあなかった――
|狼《ろう》|狽《ばい》を覚えたのは本当だった。
岩波文庫にも深い思い出がある。これもラッパーをはがして見なければ、昔の憧憬はよみがえって来ない。中勘助“銀の|匙《さじ》”、マルクス・エンゲルス“共産党宣言”、西田幾多郎“善の研究”……。夏目漱石の解説には、いつも小宮豊隆という名が記してあって、わるいけど私は小宮豊隆さんが高名なドイツ文学者であることなど、ずっとあとになるまでつゆ知らず、ただただ“夏目漱石の文庫本のうしろにいる人”だと思っていた。
けっして軽く考えていたわけではない。文庫本もありがたかったが、その解説もまたありがたい。
――こういう解説が書けるようになりたいなあ――
小宮豊隆の解説には、漱石先生との親交がところどころ記されている。師弟の関係が|垣《かい》|間《ま》見えて来る。
――いい先生を持って、しあわせだなあ――
それに引きかえ、私の先生たちの、なんと頼りないことか。後日、文庫本の解説を書かせていただくことなど、ついぞあるまい。ああ、悲しいかな、と思った。
星移り、時流れ、いつのまにか“ジョークなしでは生きられない”が|葡《ぶ》|萄《どう》のマークを帯びて出版されるようになった。文庫本なんて使い捨て文化の一つになってしまったのだろうか。それはそれで仕方ない。本はなによりも読まれることが大切である。読まれずに本棚に飾ってあるより、読まれて捨てられるほうがいい。
私自身の文庫本も数十冊を数え、新しい文庫本を作るたびに、解説を書いてくれる人を捜さなくてはいけない。解説というものは、まあ、ほめて書くものである。
だから、ほめてくれそうな人を捜さなくてはいけない。お世辞をお願いするのではなく、その人が自然な感想を書くと、それがほめ言葉になっていること、つまり、もともと私の作品に好意を持ってくれている人を見つけなければいけない。私は夏目漱石みたいに偉くないから、なかなか小宮豊隆がいないのである。
一年回顧
“一番新しいものが、一番早く古くなる”という現象については、どなたも思い当たるふしがあるだろう。
たとえばファッション。このところ日本全国を|席《せっ》|捲《けん》するほど顕著な大流行はないけれど、たとえば、かつてのミニスカート、パンタロン、一年遅れてしまうと、もう古くて古くて、着ては歩けない品物になってしまう。
流行語なども、去年のはやり言葉をとくとくとして使ったりしようものなら、
――古いんだから。おじさんだねえ――
と、周囲の|顰蹙《ひんしゅく》をかう。
ことのよしあしは別問題として、そういう心理傾向があまねく存在していることは疑いない。
雑誌というものは、そのときそのときの時流を反映して作られているものだから、一年もたってしまえば、かならず古くなる。そこで、その雑誌に連載するエッセイはどうあるべきか、書き手にとってはないがしろにできない問題である。
連載エッセイが、雑誌の記事同様、時流にそったテーマばかりを選んでいると、そのときはタイムリイでも、連載が終って一冊の本にまとめたりすると“一番新しいものが、一番早く古くなる”という法則そのもの、六日のあやめ、十日の菊、あまり読みたい本にはならない。
それではと言うことで、時流とほとんど関係のないテーマばかりを選んでいると、本にまとめたときには結構だが、雑誌掲載のときは、どこか寝ぼけた印象を与えるものになりかねない。
この矛盾に対して、どれくらいのスタンスを取って書くか、執筆者が時事問題に精通した評論家のような人ならば、そのときそのときのトピックスを大切にするだろう。一方小説家などは、あまり時流にはとらわれず、いつでも通用するようなテーマを扱うケースが多いだろう。私も、どちらかと言えば後者のほうであった。
だが本書は週刊誌の連載であり、そんな私でもまったく時流と無関係というわけにもいかない。頭に思い浮かぶことが、どうしても視下の社会の動きから影響を受ける。一年間の連載をふり返ってみると、ところどころにそんな内容の記述もあって、
――たった一年のうちに、情勢が変るものだなあ――
読み返してあらためて考えさせられたり、苦笑を浮かべたりする部分も少なくない。
連載の第二十三話では、クレマンソーのエピソードを紹介して、
「最悪の政治家はだれですか」
「最悪の政治家をきめるのは、実にむつかしい。これこそ最悪と思ったとたん、もっとわるいやつがかならず出て来る」
これを書いたときには、竹下登さんが総理大臣で、その評判が最悪のときだった。これよりひどい首相はいないような話だった……。その後のことは、今ここでは書かない。今は海部総理だが、はてさて、海部さんは今から一年後にどうなっているだろう。
第十四話では、いかがわしい政治家は選挙で落とすのが一番と書いたが、その後のいくつかの選挙でリクルート事件のお|灸《きゅう》はみごとにすえられた、と言ってよいだろう。
“これだけの国民にこれだけの政治家”という言葉も紹介している。国民が賢くなければ政治家が賢くなるはずがない。国民のモラリティが低いのに、政治家だけが高いモラリティを持つはずもない。同じレベルと考えてよい。国民は少し賢くなった。政治家はどうなのだろう。
第二十七話では“アメリカ讃江”と、ちょっとおどけたタイトルをつけ、しかし、内容はすこぶる生まじめなもの。
“昭和二十年代、私はアメリカに三度負けたと思った”
と書いた。戦争で負け、物資の豊かさに圧倒され、そして“人間としても負けたな”と思った。
アメリカの占領政策はみごとなものだった。日本軍が戦時中大陸でおこなったことなどと比べてみれば雲泥の差がある。文化的視点でも、奈良、京都を焼かなかったこと、これも帝国軍人とはおおいにちがっていただろう。この文章は、現在、世界のきらわれ者になりつつある日本と日本人に対して、自戒をこめ、アメリカのよかった点だけを引きあいにして、
「みなさん、もう少し気をつけましょうよ」
と、そんな気分を記したものだった。ところが、これが訳されてシカゴ・トリビューン紙に転載された。
「うーん」
日本人にだけ読まれることを考えて書いたのだが……英文を読むと、微妙に印象がちがっている。アメリカ人が、アメリカ人の常識でこの文章を読むと、どう感ずるだろう。
わるい気はしない。当然だ。アメリカがとてもよく書かれているのだから。
しかし、これを書いた私の本心は……もちろん心にもないことを書いたわけではないけれど、ことさらにアメリカのよい面だけを強調し、日本人に対して警鐘を鳴らしている。言ってみれば、母親がわが子に対して、
「あんたは本当に駄目ね。お隣の一郎ちゃんを見なさい。とってもいい子よ」
と|叱《しか》っているようなものなのだ。
双方を公平なレベルにおいて比較しているわけではない。読みようによっては、ちょっと卑屈なまでにアメリカをほめあげている。
――転載を許可して、よかったのかなあ――
と、今は少し思い悩んでいる。
第五話ではコンピュータ|麻雀《マージヤン》“悟空”に挑戦し七段にはなったが、八段はとても無理だろう、と書いた。
しかし、その後の努力精進めざましく、とうとう私は名人になった。名人のさらに上があるらしいのだが、これはもう本当にむつかしい。絶対に勝てないプログラミングになっているのではあるまいか。さすがに根負けしてしまった。飽きてしまった。今後は本当にこれ以上の昇進はあるまい。
第十話で蕗谷虹児のことを書いたが、平成二年にはこの詩人にして画家の伝記小説を書く予定である。これからはしばらく蕗谷虹児の資料を整えたり、取材をしたりするのが、仕事の中心となるだろう。
本書は一九九〇年一月に読売新聞社から刊行されたものを文庫化したものです。
|三《さん》|角《かく》のあたま
|阿刀田高《あとうだたかし》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Takashi ATODA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『三角のあたま』平成6年1月25日初版発行
平成9年4月 1日 5版発行