[#表紙(表紙.jpg)]
まじめ半分
阿刀田 高
目 次
図書館員の頃《ころ》
視 線
ネクタイ売り場で
ブラザーの言語学
ぼくのマドンナ
結婚披露宴で
小説の書き方
プールサイドで
いかなる名人上手でも
十年の歳月
地震あれこれ
ある雑誌の終焉《しゆうえん》
カマボコ考
私の踏み台理論
夫婦の会話
犬と猫
授業料の思い出
被説得力
私の発明・発見物語
読む外国語
なぐる教育
小説の題名
読書保険
女ごころ
運命の女神
ナツメロ賛江
クレオパトラの鼻
日本語教師
京都のことば
石炭発電所
遠い日の美少女
おごりの技術
リトマス試験紙
女房と本棚
ゲームの王様
ほめことば
ヤッパリ考
福娘コンテスト
作家の生活
男の嫉妬《しつと》
イエス・多分・ノウ
ビニール本
チョコレート慕情
ご先祖様の湯
コンプレックス
マイ・コンピュータ
恋の曲がり角
パンドラの箱
流行語
我慢比べ
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図書館員の頃《ころ》
学生時代に肺結核を患い、体に比較的無理のない職場ということで、国立国会図書館の採用試験を受けた。
筆記試験を通過し、面接となり、
「図書館ではどんな仕事をやりたいか」
と尋ねられ、はて、積極的にやってみたい仕事が頭に浮かばない。とたんにわるい悪戯心《いたずらごころ》が首を持ちあげ、
「館長の仕事なんか、おもしろいと思います」
試験官は苦笑し、
「いきなりは無理だ」
と、言ったように思う。
面接場を出てから与太が過ぎたかなあ。あの一言で駄目だろうなあ≠ニ反省したが、試験官にはユーモアを解する人が多かったらしく、無事に採用となった。入館してみると、図書館上層部にはリベラリストが多く、あのくらいのジョークなら充分許容されたわけだ、と覚《さと》った。
当時の国会図書館は赤坂離宮(現在の迎賓館)にあって、四ッ谷の駅からの並木道はなかなかの景観だった。シンメトリックな白い王宮に、黒い鉄柵《てつさく》の塀。道はまっすぐに続いて、主要道路のほうが迂回《うかい》している。毎朝、貴族的な仕事に赴くようで、すこぶるよい気分だった。
離宮は、向かって左が男子用の居室、右が女子用の居室と分かれていて、図書館はこの左半分を主として使っていた。
もともと皇室の応接間として作られた建物だから、事務室にはそぐわない。部長室は風呂場、われわれの事務室は回廊だった。天井からシャンデリアがぶらさがり、壁画の美しいエジプトの間で勤勉手当て三百円を寄こせ≠ネどと組合交渉をやっていた。
この建物はヴェルサイユ宮殿に模《も》して作られたものだが、貴族の習慣を反映してトイレットがない(貴族は、みんなおマルを使用していた)。屋外に職員用のトイレットがあって、大雨の日には傘をさし、長靴を履いて行かなければいけない。不自由と言えば不自由だが、のどかと言えばのどかだった。
四月に勤務して、すぐに月給をもらった。現在でもそうだと思うのだが、ここは月給前払いのシステムなのである。うれしかったなあ。
前払いの月給は順ぐり順ぐりに支払われて、結局は退職の日に月給をもらわずに罷《や》める形になるわけだが、その日には退職金その他の諸手当てもあるので、一か月分の月給などもらわなくても、どうということもない。入館早々の喜びだけが印象に残る、うまいシステムだと思った。
初任給は一万円と少し、女性がせめて二万五千円月給を取る人と結婚したい≠ニ言っていた時期だから、相当に安いほうだった。仕方なしにアルバイトの原稿書きに精を出し、それが現在の小説書きの道につながった、と言えなくもない。
在職十一年。離宮から永田町の図書館への引越しをやり、それから和書分類係と洋書目録係に、それぞれ五年くらいずつ籍を置いた。
国会図書館は日本でただ一つの納本図書館だから、この国で発行される本は原則としてどんなものでも入って来る。
和書分類係は、それを内容に従って仕分けする。だから私はほぼ五年間にわたって、日本で発行される大部分の図書に眼を通していたはずである。
もちろん通読するわけではない。本の題名や顔《つら》を見て、すぐに中身のわかるものは、そのままパス。
内容のわからないものだけ目次を見て、前書きを見て、まれに第一章くらいを読んだりする。おもしろそうなことが書いてあると、そのまま仕事をしているような顔をして読み進む。役得のうちである。
サン・ジェルマン伯爵という不老不死の男がヨーロッパに実在した話、清教徒革命で処刑されたチャールズ一世がゴルフ狂であったこと、あるいは大航海時代のインドで人間の死体を肥料にすると、その人間そっくりの木が生えるという話、などなど昨今の私の小説の題材となった異聞奇談のたぐいには、この頃に仕入れたものが少なくない。
後半の洋書目録係では、その名の通り外国図書のカタログを作った。著者名を明らかにし、どこからどこまでが書名か、それを決定するのが主要な仕事だったが、知らない外国語となると、これだけのことでも結構むつかしい。油断していると増刊号≠ニ書いてあるのを著者だと思ったり、著者の名を本の題名だと錯覚したりする。
国立国会図書館で購入する洋書は、科学技術関係や法律書、官公庁資料などが主要なものだから、これは仕事の合い間に読んでもあまりおもしろくない。役得ゼロ。
ああ、そういえば、スイスで発行された浮世絵の図版が入ったことがあったっけ。もちろん野暮なボカシなど入っていない。歌麿、北斎、国貞など図柄は何度か国産の本で見て知っていたが、肝腎《かんじん》なところはいつもボカシだった。スイス版を眺めて、
「ああ、この絵はこういうぐあいだったのか」
と、初めて勉強をした。
今でもあの本は国会図書館の蔵書になっているはずだが、一般には公開しない。予算審査の折などに、
「ご苦労さまでした。お骨休めにどうぞ」
と言って、大蔵省のかたにお見せしたりするらしい。また、わるい悪戯を言っちゃったのかなあ。
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視 線
いっとき、テレビのワイド・ショウで司会役を務めたことがあった。毎週三時間、きっかり一年間続けた。
テレビに出演するのは初めての体験ではなかったけれど、それまではいつもお客さん≠フ役まわりだった。自分が番組の中心に居すわってホストの役を務めるのは、このときが初体験であった。
小説家専業になる前は国立国会図書館の司書だった。図書館員は多少世間知らず≠ナもつとまる稼業で、事実外部の人と接触する機会は極度に少なかった。小説書きという仕事も、いったん専業になってしまうと、書斎に閉じこもっていることが多く、思いのほか世間が狭い。いろいろなことを知っているように見えても、それは傍観者としての知識で、なまの体験とはなりがたい。人間関係もすこぶる恣意《しい》的である。もう少し世間的な仕事を経験してみたいと考えて、テレビ局へ赴くことにした。
初日の放映が終わったあとで番組のディレクター氏が、
「もう少し視線が動かないようにしてくれませんか。とくに視聴者に向かって話しかけるときには、しっかりレンズを見てください」
と、言う。
ディレクター氏が言わんとすることは、すぐにわかった。
たとえば講演会のときなど眼の前に実際に大勢の聴衆がいる場合には、その人たちに視線を向けて話すのはやさしい。普通に話しかければ、自然と視線は聴衆のほうへ向く。
ところがテレビ・スタジオではどこにも視聴者がいない。レンズの向こうに抽象的に存在しているだけである。その眼に見えない何十万人かの存在に対して、愛想よく話しかけるのが私にはなかなかむつかしい。
レンズは小さいし、あえて覗《のぞ》き込むと自分の顔がかすかに映っている。二回目からディレクター氏の意図に沿うよう努力してみたが、なんとなく照れくさくて、いつまでたってもうまくやれる自信が湧《わ》かなかった。
この忠告を受けてからテレビの見かたが少し変わった。つまり、テレビに登場する人たちが、レンズを覗いているかどうか、その点がひどく気になるようになった。
専門の司会者たちはさすがに巧みである。テレビを見ている私に対して、いかにも直接話しかけているように、まっすぐに視線が飛んで来る。ひいきの女優さんが私ひとりに妖艶《ようえん》なまなざしを注いでくれるのは、わるいものではない。
――この要領でやればいいんだな――
とは思うのだが、現実に自分がスタジオに入ってしまうと、つい、つい、視線がレンズ以外の周囲に実在するもののほうへ向いてしまう。
――こんな簡単なことができないようでは先々が思いやられるなあ――
と、考えないでもなかった。
気がついてみると、私は普段の生活でもあまりまともに相手の顔を見て話したりはしない。
視線がパチッと合ってしまうと、自分のほうから眼をそらしてしまう。
会話というものは、相手に正対して、まともに表情をうかがいながら交わすのがよろしい――それがやましい心のない証拠である――と一般に考えられているようだが、現実はかならずしもそうではあるまい。あまりまじまじと見つめられると、かえって話しにくいものである。こっちがそうである以上、多分相手もそうだろう。だから本音を聞きたいと思ったら、いくぶん斜に構え、視線をそらし気味にしていたほうがいい、と、そんな配慮が私にはある。
ところで大脳生理学によれば、理性は眼に現われ、感情は口もとに現われる傾向があると言う。
となれば、
――こいつにはいい印象を与えてやろう――
と、理性が判断したときは、眼はおおいに演技力を発揮する。
眼は真実を語る≠ニいうのは、ある程度までは事実だろうが、なにしろ理性の命令によって演技のできる器官だから、過信をするとそれが陥《おと》し穴にもなりかねない。
このことは経験的にも納得がいく。
ホステスさんのとろけるようなまなざし、あれをいちいち真情の吐露と考えていたら、とても身が持たない。身が持たないと言うより財布が持たない。その点、口もとの表情のほうは多少なりとも信頼がおける。なにしろ理性によって支配される度合いが少ない、と大脳生理学が言うのだから。
この学説を百パーセント信じているわけではないけれど、眼は思いのほか信用できない≠ニいう考えを私は抱いている。口もとだけが≠ニは思わないが、眼以外の、なにか漠然とした表情のほうが――ななめに眺めて感知される雰囲気のほうが、正しく相手の性格や感情を表出しているように思う。
相手の視線をまともに見ない癖は、こんな判断から身についたものなのだろう。
「レンズの向こうに、あなたのことを思ってじっと見ている人がいる、その人に合図を送るんだ、と、そう思えばいいんですよ」
と、ディレクター氏は無器用な私に何度も同じことを告げていた……。
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ネクタイ売り場で
デパートにネクタイを買いに行った。
下着売り場などでは店員にうまく振り向いてもらうだけでも、ずいぶんと苦労することがあるけれど、ネクタイ売り場ではなぜかたちまち店員がまとわりつく。
「お客さまがお召しですか」
「今のお背広におあわせですか」
「どんながらをお捜しですか」
まだろくに品物を見てないうちに矢つぎばやに質問を浴びせかけられる。
こちらとしては曖昧《あいまい》に、不機嫌に首を振るよりほかにない。
大勢の中にはネクタイ売り場の店員にいろいろと示唆を受けたいお客さんもいるのだろうが、一方、迷惑をしている客も少なからずいるはずである。
商売としては、まずお客が相談を求めているかどうか、そこを判断するのがサービスの第一歩だと思うけれど、いつもこちらの気分に関係なくつきまとわれるところを見ると、そういう店員教育はあまりおこなわれていないらしい。
実際の話今の背広におあわせですか≠ニ尋ねられても困ってしまう。背広はなにもこれ一着しか持っていないわけではないのだから、こちらは家の洋服だんすにぶらさがっている背広たちともかねあわせて思案しているわけである。
どんながらをお捜しですか≠ノいたってはさらに困惑する。
まれには水玉にしよう≠ニかチェックにしよう≠ニか、初めから決めて買いに行くこともあるけれど、たいていは品物次第。眺めたあとで、いいがらだなと思えば無地、水玉、チェック、ストライプなんでもかまわないのではあるまいか。
ああ、それなのに、店員はなにやらヘンテコな模様のネクタイを一本取りあげ、
「これなんか現代的な感覚でよろしいと思いますわ」
などと、つけまつげのまなざしでじっとこちらの人相風体を見据える。戸惑っていると、胸のあたりに当ててくれたりする。店員さんには店員さんなりの、なにか見識があるのだと思うけれど、これが本当に似合う場合はめずらしい。
そこで、こっちが今店員さんが選んだのとは、まるで印象のかけ離れたネクタイを手に取ると、
「あ、それもお似合いだと思いますわ。新しいがらで、評判がよろしいんですのよ」
と、おっしゃる。
本当は今着ている背広ではなく、ぜんぜんべつな背広のことを頭に浮かべてそのネクタイを手に取ってみたのだが、それでも似合う≠ニはいかなることか。彼女の美意識と、私の美意識には相当のへだたりがあるとしか思えない。
「ゆっくり見させてもらうから」
とかなんとかこちらは口の中でモゾモゾと言い、なんだか悪いことでもしたような気分を胸に抱きながら、隣のウインドーケースのほうへ足を運ぶと、そこでまた、
「お客さまがお召しになるのですか」
「今の背広におあわせですか」
「どんながらをお捜しですか」
と、新しいつけまつげさんがにこやかに近寄って来る。
結局は買わずに逃げ出してしまうか、なんとなく釈然としない思いのままお似合い≠フ一本を買わされてしまう。
ネクタイを締めるようになってから、もう二十年以上になるが――ということはネクタイを買い始めてからも同じくらいの年月がたっているはずだが、デパートのネクタイ売り場の商法はあまり大きく変わっているとは思えない。
私だけが例外で、ほかのお客さんたちは、つけまつげのお嬢さんにつきまとわれるのが、思いのほか楽しいのかもしれない。あまりそんなふうには見えないけれど……。
ネクタイと言えば、ある友人が「あれは一締めで社員食堂の飯が一回食えるんだぞ」と、教えてくれた。
彼の説明はこうだ。
ネクタイなんてものは、せいぜい一本三十回も締めれば、それでご用済みとなる。一本六千円のネクタイとして、三十回締めて終わりなら、一締め二百円になる計算だ。社員食堂の梅定食くらいは食えるだろう。こう考えてみると、ずいぶん高価なものではないか。
鏡の前でただ一回ギュッと締めるだけで、もう二百円。フランス製のネクタイなど買おうものなら、たちまち一締めが四、五百円くらいに跳ねあがる。さりとて毎日同じネクタイというわけにもいかないし。
気に入らないネクタイなどを買わされて、四、五回締めておしまいということになると一締めの単価はとたんに高騰する。それを思えば買うときによほどゆっくりと吟味せねばなるまい。
つけまつげ嬢よ、願わくは、気弱なる男たちのために安んじてネクタイ選びをさせてくれんことを。
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ブラザーの言語学
今ではもう新制£学という呼び名はなくなったが、私はその新しい六・三制£学の第一期生であった。
小学六年の二学期ごろまで旧制中学へ入るための受験勉強をしていたが、途中で、
「中学へはみんなが行けるらしいぞ」
という噂《うわさ》が流れた。
三月になって小学校は無事に卒業したけれど、次に行く学校がない。
ある日、近所の子が、
「あした、S小学校へ来いってさ」
と伝えに来て、行ってみると、その日が新制中学の入学式だった。
学校は今まで通っていた小学校の一部分を借りた仮校舎。先生もあわててかき集めたような印象がなくもなかった。
東京あたりではどうだったのかわからないが、私が住んでいたのは新潟県の長岡市――まあ、田舎町のほうである。今思い返してみても玉石|混淆《こんこう》の教師陣だった。
英語科のT先生は、東京外語を卒業したのち長く外交官を勤めた老教師で、年齢的にはいささか若々しさに欠けるうらみはあったが、まちがいなく玉≠フほうに属していた。
新しく習う学問をすぐれた先生のもとで学べたのは幸運であった。
「ブラザーという言葉に相当するうまい日本語はないんだよ」
と教えられたのをよく覚えている。
T先生の説明はこうだ。
辞書を引くと、ブラザーの訳語には兄弟≠ニ書いてあるが、これはあまり正確ではない。兄弟≠ニいう日本語は、相互の関係をあらわしたものであり、英語のブラザーはそれとは少しちがう。ブラザーは兄でもなければ弟でもない、それを二つ混ぜあわせた存在を言うのであり、日本語には適当なものがない。日本人は兄か、弟か、かならず区別して言う習慣があり、英米人は、まず二つひっくるめたものをブラザーと言い、必要があればエルダー・ブラザーとかヤンガー・ブラザーとか、形容詞をくっつけて分けるのだ。だからアイ・ハブ・ア・ブラザー≠ニいう文章があったら、前後の関係から考えて「私には兄が一人ある」あるいは「私には弟が一人ある」と訳さなければいけない。
「これから先、英語を勉強するにあたって、いつも日本語と英語とでは、ものの考え方からしてちがうことは忘れてはいけないよ」
という結論であった。
中学生を相手に教えるにしては、少し高級すぎる内容だったかもしれない。
しかし、今でも私がこの話を記憶しているところをみると、小さな頭でそれなりに理解できたのだと思う。
この教訓はたしかにその後末長く外国語を学ぶに当たっておおいに役立った。外国語を勉強するときばかりでなく、欧米の文化に触れるときにも、彼と我と世界の切り方がちがっている≠ニいう認識は、すこぶる有効であった。
大学に入って、K先生からフランス語を習った。テキストはジロドウのアンフィトリオン38≠ニいう戯曲。むつかしいテキストだったが、男女間のきわどい≠竄閧ニりが描かれているので、そこがちょっとおもしろい。
このテキストの中に(直訳すれば)彼女は愛の最中にしゃべらない≠ニいう文章があり、K先生はこのくだりを女生徒に訳させたあとで、
「それはどういう意味かね」
と、尋ねた。
その女生徒はちょっと考えてから、
「この女の人はきっと恋愛をすると無口になるタイプなんじゃないでしょうか」
と、答えた。
K先生はニヤリと笑ったように思う。
それから笑いを顔に残したまま、
「フランス人にとっては、愛ってものはネ、心の問題じゃなく、肉体の愛を意味する場合が多いんだよ」
と、説明した。
くだんの女子学生が、この説明だけでテキストの真意を理解したかどうかはわからない。だが、読者のみなさんはもうおわかりだろう。
彼女は愛の最中にしゃべらない≠ニいうのは、けっして恋愛をすると無口になるわけではなく、肉体的な愛の最中に「いい」だの「すてき」だの、そういう文句を口走ったりしない、という意味内容であった。私はこのときも、遠い昔、中学校の教室で習ったブラザーの言語学≠思い出した。
フランス語のアムール=Bこれはたしかに辞書を引けば愛≠ニいう訳語が記してある。しかし、その愛≠フ中身は、日本人が考えるほど精神的なものばかりではないらしい。精神の愛とセックスとが微妙にからんだものであり、適度に使い分けなければいけないようだ。
中学生の息子が夏休みの宿題で英語を勉強している。私は昔習ったことを思い出し、「ブラザーに相当するうまい日本語はないんだよ」と教えてやったが、豚児《とんじ》はキョトンとした顔で私を見つめるだけであった。私の説明のしかたがわるいのか、相手がわるいのか……。
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ぼくのマドンナ
新潟県長岡市の中学を卒業して東京の高等学校へ入った。今から三十年も昔のことである。東京に家を建てる予定になっていて、当初はしばらく下宿生活を続けた。知人も友人もなく、学校から帰るとたった一人で下宿屋の畳の上に寝転がっていた。
その家は京王《けいおう》線の初台《はつだい》にあって、新宿までは一駅の距離だ。退屈しのぎによく映画を見た。
といっても小遣いがふんだんにあるわけではない。当時新宿には帝都座、地球座、光座、武蔵野館などがあったが、一番よく足を運んだのは帝都名画座という、格安の劇場だった。
一時代前の映画ファンなら、きっとこの映画館の名前をおぼえていらっしゃるにちがいない。階段をたくさん昇ったあとで、ようやくたどり着く狭い劇場で、いつも古い名画を選んで上映していた。
料金は金三十円也。初台から新宿までの電車賃が往復で十円。安値で名高い渋谷食堂(新宿にも渋谷食堂があったのだ)の最高級ランチが六十円。百円を持って家を出ると、映画を楽しみ、食事を楽しみ、このランチにはコーヒーもついていて、なんとなく大人の楽しみを享受したような気分になる。当時の私にとって最高の贅沢《ぜいたく》であった。
ある日、この名画座でカルメン≠見た。監督はだれだったか記憶にない。主演はドン・ホセにジャン・マレイ、そしてカルメンにヴィヴィアンヌ・ロマンスが扮《ふん》していた。
ヴィヴィアンヌ・ロマンスを見たのは、この時が初めてだったろう。とてつもなく美しい女だと思った。
その頃《ころ》フランス映画に現われる美女と言えば、たとえばダニエル・ダリュー、ミシェル・モルガンなどであって、ヴィヴィアンヌ・ロマンスも第一線のスターであったことは間違いないのだが、ダリューやモルガンの名を記憶している人が多いわりには、ロマンスを知る人は少ない。どうしたわけなのだろうか?
映画には当たり役というものがあるものだが、ジャン・マレイのホセとヴィヴィアンヌ・ロマンスのカルメンは、やはりそういった当たり役の一つだったろう。マレイは実直な、どこか田舎者風な、しかもどちらかと言えば大根役者のほうだから、ホセのような一途な役柄がよく似合うのである。
一方、ヴィヴィアンヌ・ロマンスは、いかにも尻軽《しりがる》な、パリ娘のような雰囲気をふんだんに身につけている。カルメンにはうってつけの女優のように思う。
もちろん高校一年生の私が、そこまで深く考えて映画を鑑賞していたわけではあるまい。
ただ、ただ、眼の大きい、男を惑わさずにはおかない、不思議な美貌《びぼう》をスクリーンの中に認めて、荒い息をついていたにちがいあるまい。感激のあまり三日連続で帝都名画座の階段を昇った。二度目のときには、渋谷食堂を省略して、その代金でブロマイドを買った。紀伊国屋書店の、古い木造の建物に入るところの角にブロマイドを売る店があった。三度目のときには、懐中に五十円しかなく、映画と往復の電車賃だけで我慢しなければいけなかった。
本箱から本を抜き出し、机の上に二十冊ほど積む。それを横から眺めて、比較的不必要な本を引き抜き、それを古本屋へ持って行く。もとより高校生の蔵書だから高価なものはない。それでも五十円程度のお金にはなった。
こうして捻出《ねんしゆつ》したお金を握って新宿の帝都名画座へ通った。目的はヴィヴィアンヌ・ロマンスの登場する映画を見るためである。
ブロマイドの中のヴィヴィアンヌは、あまり私の好みではなかった。その写真は、子ども心にも端整すぎて、あの溢《あふ》れるような魅力に乏しいように思えた。静止している表情より動いている面差しのほうが、はるかにチャーミングな女優だったのかもしれない。
デュヴィヴィエが監督した我等の仲間≠燒Yれられない映画の一つだった。
パリの下町に住む親しい仲間たちが宝くじの一等を当て、それを資金にして郊外にレストランを建てる。しかし、仲間たちはそれぞれ事情があって、一人減り二人減り、事故死するものもあって、結局二人だけになってしまう。残った一人に悪い女がついていて、これが二人の友情を駄目にしてしまう。
わが親愛なるヴィヴィアンヌが演ずるのは、もちろんこの悪女役で、これもカルメン同様、彼女にはもってこいの役柄だ。スクリーンの中の彼女は、ヌードモデルをやっていて、アパートの壁いっぱいにそんな写真が張ってある。
「あの一枚がほしいな」
そんな心で少年はスクリーンを眺めていたのだと思う。
今にして思えば、まだ年若い私が、どうしてあれほど熟《う》れた感触の女に入れこんでしまったのか、不思議な気がしないでもない。
当時好きだった女優は、他にはジューン・アリスン、ジェニファー・ジョーンズなど、むしろ清純派のスターだったのだから。
しかし、少年期であればこそかえって淫蕩《いんとう》なものに強く引かれるところがあったのかもしれない。実際の話、ヴィヴィアンヌの映画を見るときは、まだ知らない大人の世界を垣間見るような、なにかいけない≠アとをしているような、そんな奇妙な興奮が胸をふさぎ、息苦しかった。考えてみれば、ヴィヴィアンヌ・ロマンスの淫《みだ》らさは、少年にも理解できるたぐいの典型的な淫らさであって、美しさと共存する淫蕩さの存在をすこぶる明快に、平易に、私に感知させてくれたのかもしれない。
もう少し遅れて私は花咲ける騎士道≠フジーナ・ロロブリジーダにも感激した。フランス文学を学んだ理由も、この二人の女性の影響を少し受けている。
先日テレビの名画劇場で久方ぶりに我等の仲間≠見た。
ヴィヴィアンヌのコケットリイは少し明快過ぎて、近頃はもう少し複雑な淫蕩さに引かれるのではあるまいか、と思った。
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結婚披露宴で
結婚披露宴に出席するたびに苦情を言いたくなることが、少なくとも二つ三つある。おめでたい席ではあるし、原則的には一生にたった一度しかないことだから……つまり、そこで文句を言っても次に改善する機会がめぐって来ることは期待できないのだから、たいていは黙っているのだが、本書のページをかりて、いささか鬱憤《うつぷん》を晴らさせていただく。
まず、司会者のしゃべり過ぎが気に入らない。
察するに、あれはテレビの司会者の影響ではあるまいか、と思う。
私自身もあるテレビ局のワイド・ショウでキャスターの役を務めていたので、あまり大きなことが言える立場ではないのだが、テレビ番組の司会者はおおむね愚にもつかないことをペラペラとしゃべりまくる。
まあ、それは仕方がない。
テレビの司会者は、それが職業であり、なにやかやと饒舌《じようぜつ》に話しまくって、自分の存在を視聴者に印象づけなければいけない。居るのか居ないのか、よくわからないような司会役ではタレントとしての生命が危ない。目立とう精神も身過ぎ世過ぎのうちなのだ。
しかし、結婚披露宴の司会役はそうではあるまい。
当日の主役は新郎新婦であり、また主賓をはじめとする参列者各位のはずである。司会者はほんの進行役。大切な役まわりではあるが、ことさらに目立つべき立場ではない。
ところが、どう心得ちがいをしたのか、この人がよくしゃべる。
まず会の冒頭に自己紹介を長々とする。お日がらがよろしいとか、新郎と自分はどんな関係だとか、時には新郎新婦の人となりまで説明したりする。
会の冒頭は、式次第の流れの中ではすこぶる高い∴ハ置である。こんな時にペラペラ司会者がしゃべるのは、司会者がメイン・テーブルに着席するのと同じくらい珍妙なことのはずだ。ちがうだろうか。
自己紹介は必要最小限度、ほんの一言ですますべきである。
テーブル・スピーチが始まると、司会者が、
「若い二人に大変役立つ、結構なお祝辞をいただきました」
などと、論評がましいことを言う。これも司会役の仕事の範囲を逸脱している。
さて、次に、これも司会役の仕事に関係があるのだが、祝電の披露というのが、私にはよくわからない。
いいですか。祝電というものは、きれいな封筒に入っているけれど、料金にして五百円足らず、電話一本かければこと足りる、簡単な儀礼である。発信人が秘書にでも一言告げておけば、それですむものだ。
これに比べれば、参列者のほうがずっと大変である。
式場まで足を運ぶのも一仕事だし、ご婦人ならば衣装を整えるだけでも相当に費用がかかる。参列者はそれだけの労力やお金を費やしてわざわざ出席してくださったかたなのだ。
その人たちをさしおいて、さあ、これから祝電を読みあげます。みなさん、敬聴してくださいよ。拍手をしてくださいよ≠ニ求めるのは、どういう神経か、私には不思議に思えてならない。
電報はせっかく文字で書いてあるのだから、あとで新郎新婦に手渡しておけば、それで発信人の祝意は充分に伝達されるのではあるまいか。
それをわざわざ読みあげるのは参列者たちよ、よく聞けよ≠ニいう意志がある証拠であり、これは参列者をずいぶん馬鹿にしていることにはならないだろうか。
時間にゆとりがあるのなら、ほんの一言でもよい、参列者のほうに祝辞を述べてもらったほうが、その労にむくいることになるのではないか。
一歩譲っても、式次第の一番最後あたりで、発信人の名を一応紹介しておけばそれで充分なのであり、仰々しく電文を読みあげるなど、もってのほかである。
会費制の結婚式というのも、忌むべきものの一つだ。
会費が惜しいわけではない。
自分が結婚しました≠ニいう挨拶《あいさつ》くらい自分の費用でまかなったら、どうだろう。たとえ紅茶一ぱい、ケーキ一個でもかまわない。質素な結婚式はむしろほほえましい。
自分の結婚まで他人の金でやろうとする、そのけじめのなさ≠ェ、ひどく不愉快である。
かたい話ばかりが続いた。最後はジョークで締めくくろう。
「夫婦円満のコツは、相手をほめることです」
というスピーチを聞いて、花嫁がその夜ベッドの中で早速実行したそうだ。
「あなたって上手ね」と。
これは、やはりまずいですね。
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小説の書き方
さきに、テレビ番組の司会者をつとめていたことを書いた。
「おまえもいろいろなところに顔を出すんだなあ」
と、友人知人に苦笑されるので、いくらか気おくれを覚えているのだが、じつはこのほかにも私は日本経済新聞社の文化講座で小説の書き方≠フ講座を担当している。
この道では、すでに朝日新聞社のカルチャー・センターが話題の講座を持っていて、あちらのほうは駒田信二さんが名講義を重ねていらっしゃる。
「駒田さんにはとてもかなわないなあ」
と、真実そう思ったが、日本経済新聞のほうでは若い、エンターテインメントの実作者を希望している≠ニいうことなので、それならいくらか当てはまると思ってお引き受けした。
わりとすぐ引き受けてしまう癖があるんですね、私は。
あとでうかがってみたら講師選定の条件には、もう一つチャンと授業に出てくれる人であること≠ニいう項目もあったらしい。
なるほど。エンターテインメントの実作者の中には、強者が多いから、
「あ、二日酔いだ。今日は休講!」
ということも、おおいにありうる。
この文化講座は日本経済新聞と伊勢丹デパートの提携で開いたものなので、デパート商法としては受講生からお金をいただいておきながらはい、休講≠ナは、はなはだまずかろう。
あまり休講のなさそうな私が選ばれたゆえんである。
――どんな人が聞きに来るだろう――
と、いたく興味を抱いて第一回目の授業に出てみたら、四十五人のクラスのうち四十人が女性。年齢的には、三十代、四十代、五十代が、ほぼ同じ人数で大部分を占めていた。
顔ぶれはこれでわかったが、どんな目的で小説の書き方≠聞きに来るのか、その動機があまりよくわからない。そこで第一回目にアンケートをとってみた。一生に一度、小説を書いてみたい、と思っている≠ニいう答えがいくつかあった。小説好きなので、自分も書けるものなら書いてみたい≠ニいう主旨の答えも散見された。
傑作は本当は主人が書きたがっているんですが、勤めがあるので受講できません。私が聞いて帰って、夕食後に伝えます≠サれから子どもが文章にセンスがあるようなので、将来その道に進ませたいと思って≠フ二つ。さしずめ内助の功′^と教育ママ′^。
昔は小説家になりたい≠ネどと言ったら親兄弟があわてて引き留めたものだけれども、昨今は大分事情が変わって来たらしい。
授業を始めてみると、これがなかなかむつかしい。
教えることがあまりないのである。
同時に始まった他の講座にはたとえば音楽の鑑賞法≠竍利殖の知恵≠ネどがあって、そちらのほうは、なにやら盛りだくさんの講義をやっているようだ。
だが小説の書き方≠ヘ、あまりいろいろな知識を与えても、かえって役に立たないおそれがある。
小説とはこういうものだ、ああいうものだ、こんなのもある。こう書いたほうがいい、こう書いた人もいる――こういう知識は、小説鑑賞の役には立つが、あまり知識ばかりを詰め込まれると、
「小説って、むつかしいものだなあ」
という意識だけが先に立ち、いざ自分が書くときになって、自己規制だけが強くなり、なにも書けなくなる。
どうやら、この講義はスポーツのレッスン、たとえばゴルフのレッスンなどに似ているのではなかろうか。
ボールから目を離すな∞左手を強く∞体の軸を揺らしちゃダメだ≠ネどなど、ゴルフの場合、教えられるべき項目はそれほど数多くはない。おそらく二十か条か三十か条を正確に守れば、シングル・プレイヤーになれるだろう。
だが、理屈はわかっても、体がなかなか思うようには動かない。レッスン・プロは、だからいつも同じことを繰り返して教える。小説の書き方≠焉Aこれによく似ている。
こまかいことを言えば、際限がないけれど、初めて(あるいはほぼ初めて)小説を書く人に申し述べるべき注意事項はそれほど多くはない。人間をよく観察して、生き生きと描くように≠ニ、ひとこと言えば、それでみんな終わってしまうようなところもある。
よく観察するにはどうしたらよいか、生き生きと描くにはどうしたらよいか、もちろんそれについても一通りの解説はするけれど、最終的には本人が自分なりに会得《えとく》しなければいけない。知識だけではどうしても教えられないところが相当に大きく残ってしまう。
「とにかく実際に書いてみることです」
と、勧めているのだが、書いたものをあまりたくさん持って来られると、さあ、大変。
それよりも私は自分の原稿を書かなければいけないんだった。
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プールサイドで
散歩の道すじに小学校がある。
夏が近づくと、学校のプールで水泳教室が始まる。プールサイドに同じ海水着の子どもたちが、紺色の団子でも並べたように勢ぞろいしている姿が植木のすきまから見える。
今では、ほとんどどこの小学校へ行ってもプールがあるようだ。しかるべき法規によってプールの設置が規定されているにちがいない。
教科の中にも水泳教育が正式に取り入れられているので、たいていの子どもは小学校を卒業するまでには泳げるようになる。水泳はすこぶる健康的なスポーツだから、発育盛りの子どもたちにこれを教えるのは体位向上のためにもおおいに役立つにちがいない。
だが……私はふと考える。
私たちの子どもの頃には、プールはそれほど身近にはなかった。一つの市に一つあればいいほうだった。だからプールへ通うだけでも大変であった。
私自身は川で水泳ぎを覚えた。海で覚えた人も少なくあるまい。
川で水泳を覚えた経験から言えば、これはプールほど楽ではない。浅いと思っていたら急に深くなる。水の流れも定まりなく、油断をしていると本流のほうに引き込まれる。
「あっ」と、思ったとたん、流れに巻き込まれて、ずっと川の下流まで流されて行ったこともあった。溺《おぼ》れかけても監視員がとんで来てくれるわけではない。自力でなんとか苦境を脱するよりほかにない。
実際の話、私は、
「ああ、これでオレの人生もおしまいか、お父さん、お母さん、さようなら」
そう思いながら、大川のまっただ中を浮いていたのを、今でも鮮明に思い出すことができる。
海では一度沖まで泳いでいって、途中で片足が引きつれ、完全に動かなくなったことがあった。岸までの距離は千メートル近い。一瞬まっ青になったが、その頃はある程度まで泳力に自信があった。
「まあ、あわてることもない」
全身の力を抜くと、体が水の中に沈んだ。沈みながら、動かなくなった足の筋肉をマッサージする。息が苦しくなったら、手だけをかいて、水の上に首を出す。それからまた沈む。
こんなことを十回ほど繰り返しているうちに足の動きが戻った。あとはもう一度|痙攣《けいれん》が起きないよう、ゆっくりゆっくりと岸まで泳いだ。
海や川で会得する水泳には、たしかにプールで覚える水泳とは一味ちがったところがあったような気がする。
そのちがいを吟味してみると……プールで覚えるのは水泳だけなのに対して、海や川で習うときには、同時に自然と対処するすべを覚える。自然はいつどんな陥し穴を作っているかわからない。油断をしていれば、こっちがやられてしまう。泳ぎを覚えているうちに、いつのまにか生きた注意力が身につく。
もし万一水に巻き込まれたら、その時はどうしたらいいか。まず、なによりもあわてないこと。情況をよく判断して冷静に行動すれば、なんとか道が開けるものだ。この判断力も人生を生き抜くうえで役に立つ。
こういうぐあいだから、水泳を覚えたときには、ただ単に水に泳ぐ技術を身につけるだけではなく、自分を取り囲む環境に対する配慮や注意力が身につく。自然が私たちに教えてくれるものは、けっして少なくない。
その点プールは、ただの水泳教室≠ナしかない。
もちろん海や川で泳ぎを覚えることには危険がともなう。一年に一度くらいは、自然との戦いに敗れた水死人が、あわれな姿で浮かんだものだった。
その悲しい姿を見るにつけても、
――オレも気をつけなくちゃあ――
と、なによりも厳しい、生きた忠告を受けたものだった。
水泳のように、下手をすれば命にもかかわるようなスポーツを安全に教えるとなれば学校プールで、監視員つき、深さも急に深くなったりはしないほうがいいのだろうが、それだけでは、かつて私たちが海や川で覚えたような、かけがえないものを会得できない。これは本当だ。
よろずお膳立てが整っているところで「さあ、どうぞ」と言われて覚えることなど、たかがしれている。
水泳は命にかかわることだから、いたし方ないけれど、もっとひどいのはプラ・モデル。ただ糊《のり》づけをするだけでは、たとえどんなに高級なものができたとしても、なにが工作なのだろう。苦心して木を切り、板を削り、穴をうがち……そういうプロセスがなくては、ただ、ただ、結果としての完成品がえられるだけ。
結果以外にその道中で習得するもののほうが、はるかに重要なのではあるまいか。プールの子どもたちを見ながら、そんなことを考えた。
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いかなる名人上手でも
原稿を書き終えると、原稿用紙の右肩に小さな紙片を当て、その上下からホチキスでガチャンと留める。
二十枚までの原稿なら、どこの事務室にでもあるような小型のホチキスで、それ以上は大型の卓上ホチキスで留める。
印刷所では、この留め金をはずして活字を組むのだろう。原稿はバラバラのまま渡したほうがよろしいと、そのへんの事情はよくわかっているのだが、以前に、中の一枚を編集者に手渡す前に紛失したことがあって、以来、完成と同時にガチャン、このシステムが確立してしまった。
しかし私の場合は、このガチャン≠フ時が本当の意味での脱稿ではない。一応の完成をみたあとで、何度も何度も読み返して手を入れるくせがある。優柔不断なのかなあ。
音読してリズムのおかしいところがなかろうか。論理の矛盾があるまいか。同じ表現を何度も使っていやしまいか。誤字は? 脱字は?
読み返したからといって駄作が急に名作に変わるはずもないのだが、さながら四六のガマが鏡に映るおのが姿に恥じて油汗を流すように、私も不快の汗を流しながら読み返す。
「今度こそ最後」
と思って、読み通し、机の引出しに投げ入れるのだが、そのあとでまた引き出して二度、三度読み直すこともめずらしくない。
「そんなに読み直しているわりには、陳腐な表現も多いし、誤字もあるじゃないか」
と、言われたら――心やさしい編集者は、そうはおっしゃらないけれど、内心ではそう思っているにちがいない――まさにその通りだと思うのだが、ある意味では、自分の書いたものが、自分で考えているよりいい出来だ≠ニ自覚したいために……いや、錯覚したいために読み返しているところもある。だからこそ、なかなか錯覚ができなくて何度も読み直すことになってしまうのだ。
こんな事情があるので、原稿は書き上がり次第、即刻持ち去っていただきたい。早ければ早いほどよろしい。時には、いたたまれなくなって、タクシーを飛ばして自ら出版社まで持って行くこともある。
編集者の手に渡してしまえばこれにて一件落着。今さらジタバタしても始まらない。賽《さい》は投げられたのだ。
「いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でも天晴《あつぱ》れ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか。つたない細工を世に出したと、さほど無念とおぼしめさば、これからいよいよ精出して、世をも人をも驚かすほどのりっぱな面を作り出し、恥をすすいでくださりませ」
などと修禅寺物語≠フ一節を心に詠じ……すると、自分も夜叉王《やしやおう》クラスの名人になったような気分になって、おおいに慰められる。
編集者が玄関から立ち去るのを見送って、これが本当の、私の脱稿。
さて、それからあとは……ひげでも剃《そ》るかな。
原稿を書くときは無精ひげのままだが、一段落すると無性にひげが剃りたくなる。
私のひげは、黒、赤、白の顕著な三色で「雄の三毛はめずらしいのだぞ」と威張っているが、実際に伸びて来ると、まことにみっともない。
お湯をわかし、タオルで蒸し、切れ味のよい安全カミソリで剃る。気分は爽快《そうかい》。
それからは外出するときもあるし、家で飲むこともある。もうこの頃になると、原稿のことはきれいサッパリ忘れている。
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十年の歳月
十年ほど前に池田書店からユーモア一日一言≠ニいう本を出版した。一年三百六十六日、その日その日ごとにだれか著名人の言葉やエピソードを取り上げ、それにユーモラスな解説をほどこしたものである。
取りあげる人物は、その日にちなんだ人、たとえば誕生日であるとか、命日であるとか、歴史上の事件を起こした日とか、そういう関連性のある人物を選ぶつもりであったが、三百六十六日くまなくそういう関連性を見出《みいだ》すことはむつかしい。部分的にはなんの関係もない人を、なんの関係もない日に登場させたこともあった。
長らく絶版になっていたのだが、出版社から、
「ちっとも内容が古くなっていないから、改訂版を出してみては……」
と、勧められ、若干の手直しを加えて出版することにした。
読み返してみると、自分が編集したものではあるけれども、なかなかおもしろい。
「へーえ、こんなエピソードがあったのか」
と、あらためて思い出し、笑いを誘われた。
十年前は国立国会図書館に勤務していたので、背後に資料が山ほどあった。今、私の蔵書だけを頼りにこれだけの内容の本を作るとなると、相当にむつかしい。
三月十三日には毛沢東の言葉が引用してある。
「現在の世界では、すべての文学・芸術はみな一定の階級のものであり、一定の政治方針にしたがってできている。芸術のための芸術、階級を超越した芸術、政治から独立した芸術というものは実際には存在しない。プロレタリアの文学・芸術は全革命事業の一部であり、革命という機械全体の中の歯車やネジである。文芸は政治に従属するものであるが、逆にまた政治に大きな影響をおよぼす。革命的な文芸は全革命事業の一部であり、第二義的なものではあるが全体にとって欠くことのできない大切な歯車やネジである」
著名な文芸講話≠フ一節である。革命に奉仕するためのものとしての文学=Bそんな考え方がさかんに宣伝されていた。今の中国でも、おそらくこの理論は生きているのだろうが、日本ではこんな理論がなまの′`で見られることはほとんどなくなった。それを退化と考えるべきか、進化と考えるべきか……。
六月二十六日の項には、パール・バックの次の言葉が載っている。
「男は自分の知っているたった一人の女、つまり自分の妻を通して女の世界全体をいいかげんに解釈をしている」
女性軍としては、女の悪口に対してこうでも言って一矢をむくいなければ気分が収まるまい。
十月四日はソ連で人工衛星第一号が打ちあげられた日で、この日の登場人物はニキタ・フルシチョフ。
「フルシチョフは次のような話をして一座を爆笑させたことがあった。あるロシア人がフルシチョフは馬鹿だ、フルシチョフは馬鹿だ≠ニわめいてクレムリン宮殿の前を走りぬけようとした。その男は捕えられて二十三年の禁固刑に処せられた。三年は党書記侮辱罪に対してであり、二十年は、国家機密|漏洩《ろうえい》罪に対してである」
このジョークは楽しい。
フルシチョフは、みずからこんなジョークを気軽に話す陽気なタワリーシチでもあったらしい。
十月六日はシャンソン歌手のモーリス・シュバリエのエピソード。
「若いピチピチした娘を見て、中年男のシュバリエがため息まじりにつぶやいた。ああ、もう二十年としを取っていたらばなあ=Bこれを聞いた友人がえっ? 二十年若かったらじゃないのかい?≠キると、往年のプレイボーイはゆっくりと首を振っていや、二十年としを取っていたら、こんなに胸をときめかす必要もあるまい=v
老いてますますさかんだったシュバリエも、二十年後はもう駄目だ≠ニ考えていたのだろう。
そして、十二月一日はジャン・ポール・サルトルの言葉。
「人間はまず先に存在する。人間は世界に不意に姿を現わし、その後で定義されるのだ」
つまり……人間はあらかじめなにかの目的にかなうように作られたわけではない。まず先に存在してしまって、それを素材にしてなにを作りあげるか、それは人間それぞれの自由なのだ、というのが彼の哲学であった。
すでにお気づきのように毛沢東もバックもフルシチョフもシュバリエもサルトルもこの十年のうちに死んでしまった。
私自身はと言えば、この十年のうちに図書館員から作家へと身分を変えた。これから十年先どうしているか、まさか死んではいるまいと思うが、それもわからない。日本国そのものがどうなっているやら……十年の歳月は短いようにも思えるが、結構盛り沢山の変化があるものだ。
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地震あれこれ
東海地震の噂《うわさ》があちこちでささやかれている。
地震は本当に来るのだろうか。
何年か前、ある地球物理学者と対談したことがあったので、その時に質問してみた。
「関東大地震級の地震が遠からず起きるって言われてますが……」
すると物理学者は厳粛な面差しで答えた。
「かならず来ます。科学的なデータははっきりとそれを予測しています」
「いつ頃《ごろ》?」
「まあ、十年以内、と私は一応考えていますが」
これはエラいことだと思った。
「確実ですか」
と、念を押すと、物理学者はかすかに笑って、
「この種の予測には確実ということはありません。多少の誤差はつきものでしょう」
「どのくらい誤差があるんですか」
「そりゃ地球のことですから、一番小さく見積もっても四、五十年の誤差はあるでしょうな」
ナーンダ、と思った。
だが、これが科学的真実というものだろう。東海沖あたりを中心に地震の気運が高まっているのは本当らしい。
しかし、なにぶんにも地球は大きいし、その生成発展の歴史は古い。
もし人間の場合、明日の十二時に死ぬ≠ニ予言されて、十二時十分に死んだら予測はみごと適中した≠ニいうことになるだろう。この誤差十分に相当するものが、地球の場合には四、五十年になる。近いうちに地震が来る≠ニ予測して、五十年後に地震が来ても、地球物理学的にはおおむね適中した≠ニいうことになるのだろう。
地球の変遷のサイクルと、人間一生のサイクルとがあまりにもちがいすぎるのだから、これは仕方がない。
この時にもう一つおもしろい話を聞いた。
「大地震というものは、こわがっているひまがないものなのです」
と、学者は言う。
「はあ? こわくないんですか」
「いや、こわいことはこわいけど、こわがるひまがないんです」
「はあ?」
「つまり、大地震というものは、最初の一揺れか二揺れが一番大きい。急にドドーッと襲って来るケースがほとんどです。こわがるより先に逃げ出さなければいけません。たいていの人は家が揺れ出すのを感知してああ、このままひどくなったら、どうしよう≠ニ心配するわけですが、実際には初め弱く揺れ、次第次第に強くなる大地震というのはほとんどありません。だからこわがっているひまがあるのは、もうそれ自体大地震でない証拠なんです」
これは、いいことを聞いた、と思った。
いつぞやの伊豆沖地震の時、私はマンションの五階にすわっていた。かなり大きく揺れて不安を覚えたが、不安を感じるゆとりがあるのは大地震ではない≠ニ信じてすわり続けていた。
案の定、間もなくおさまった。
私の知人に地震恐怖症の男がいるので、早速この学説≠教えてやった。
「大地震は急にドドッと来るんだ。このまま大きくなるんじゃないかって、気をもむ必要はないものらしいぜ」
地震をこわがる人というのは、家が揺れ始め、なんとなくもっと強くなっていきそうなあの四、五秒間が恐ろしいのだから、私の説明で彼は充分安心すると思った。
ところが、彼はいっこうに気を安める様子もない。
「どうした? やっぱり心配かね」
と、尋ねたら、
「うん。今度はいつドドッと来るかと思って、四六時中心配していなければいけない」
なるほど。これも一理屈である。
話は少し変わるが、今、私はマンションの五階にいて≠ニ書いたが、これは私の自宅である。
過日、四階の、真下の家から電話がかかって来て、
「足音が響くから、少し気をつけてほしい」
と、言う。
わが家には子どもが三人もいるのだから足音が響くこともおおいにありうるだろう。下の家では、ドシンと足音が響くたびに、天井を見あげて顔をしかめているだろう。すこぶる同情して、少しは気をつけるように努めているのだが、なにぶんにもこちらも日常生活を営んでいるので、足音を完全になくすことは不可能だ。
私は四六時中気を使うようになった。子どもたちの足音にも気を配るようになった。そこで、ふと思った。
下の階の人は、足音が響いたときにだけ心を悩ませればそれでいいのだが、私はどの足音が響くだろう≠ニ終日心を悩まさなければいけない。こちらの精神的被害もそう小さくはない。
地震恐怖症の男が四六時中心配しなけりゃいけない≠ニ言った心境が少し理解できた。
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ある雑誌の終焉《しゆうえん》
昭和二十年代から四十年代にかけて漫画読本≠ニいう雑誌が発行されていたのを覚えておられるだろうか。
版元は文藝春秋。漫画が半分、読物が半分といった体裁で、エンターテインメント一筋の編集方針。新鮮な企画に溢《あふ》れ、なかなかスマートな都会的な誌面だった。
当時はまだ娯楽雑誌の少ない時期だったから漫画読本≠ヘおおいに人気を集め、全盛期には三十万部を越える部数を誇っていたのではなかったか。
その発行部数がだんだん減少し、ついには十万部を切り、昭和四十五年九月号を最後にして休刊、実質的な廃刊となった。
理由はいくつか指摘できる。週刊誌が雑誌の主流となり、読者の嗜好《しこう》が月刊誌から離れたのもその一つだろう。劇画の台頭もマイナス要因として作用したにちがいない。さらに「世の中の雑誌がみんな漫画読本になってしまったからなあ」
といった情況とも無縁ではなかっただろう。つまり消費文化への移行にともない、多くの雑誌が娯楽色を強め、みんな漫画読本%I傾向を帯びるようになった。結果として漫画読本≠フ特殊性が色褪《いろあ》せてしまったのである。
しかし、このことは裏を返せば漫画読本≠フ企画性がそれだけすぐれていた証拠ともなりうるだろう。私は今でも、
「おもしろいページを作ろうと思ったら、古い漫画読本≠見るといいですよ。なにかしら盗み取れるものが残っていますから」
と、若い編集者のかたがたに答えることが多い。
アダムス、ペイネ、サーパーなど欧米のすぐれた漫画家たちの作品に触れることができたのもこの雑誌のおかげだった。当節はやりの一口ジョークも、この雑誌が毎号掲載している呼び物の一つだった。漫画賞、しゃれた外国小説の紹介、折込みのピン・アップ・ヌード、カラー・ページ、穴場ニュース、旅と食べ物のページ、新人漫画家の発掘なども、この編集部が意欲的に作りあげた遺産≠ナあった。
まだ商業雑誌の少ない時期だったから、寄稿家の顔ぶれも多彩だった。第一線の漫画家はもちろんのこと、吉行淳之介、山口瞳、暉峻《てるおか》康隆など、洒脱《しやだつ》な文章がページを飾っていた。まださほどに著名ではなかった頃の野坂昭如、政治家に転身する以前の野末陳平、さらには星新一、永六輔、前田武彦、小中陽太郎、石川喬司、上前《うえまえ》淳一郎、片岡義男たちもしばしば登場していたように思う。匿名のページも多かったので定かにはわからないが、現在ジャーナリズムの中堅に活躍する書き手の中には、この雑誌から育った人が相当数いるのではなかろうか。かく言う私自身も休刊間近い頃の常連ライターであった。
まさか私が参加するようになったせいではあるまいが、四十年代に入って漫画読本≠フ売れ行きは下降を続け、あわてて劇画に色目を使ったりしたが、これもカンフル剤とはならず、
「今後の編集方針についてご相談したい」
という主旨で、何人かの寄稿家が編集部に招かれて麹町《こうじまち》の松井≠ニいう料理店に集った。
私が少々定刻に遅れて部屋に入って行くと一座の雰囲気が糊でも張ったように強《こわ》ばっている。
「どうしたのですか」
「はあ。せっかくお集まりいただいたのですが、今日の午後の重役会で漫画読本≠ヘ休刊と決まりました」
企画会議はたちまち残念会と変わった。
編集部の面々は無念やるかたなし≠ニいった表情で苦い酒を汲《く》んでいた。たとえて言えば、江戸時代、主家の復興を画策しているその矢先にお家取りつぶしの知らせに接したようなものであろうか。
二次会、三次会と続き、私は担当の編集者のYさんといっしょに十二時過ぎに拙宅へ戻った。そこでまた残念会のやり直し。
突如Yさんが立ちあがり、
「どうもおもしろくない。社長に電話をする」
と、言う。まさか冗談だろうと思ったが、Yさんは私の家の電話機を取って本当にダイヤルを廻《まわ》し始めた。
社長は池島信平氏であった。話のやりとりから察して、まず奥さんが出たようだ。
「読者の一人ですが漫画読本≠ェ休刊になると聞きました。その件についてぜひとも社長にひとこと申しあげたい」
池島社長はもう休んでいたらしいが、わざわざ起きて電話口まで出て来た。
「どうしてやめるんですか。けしからんじゃないですか」
「読者のかたがたのお気持ちはよくわかりますが、なにぶんにも会社の方針として決定したことなので……」
とかなんとか、社長は当たり障りのない答弁を告げていたようだったが、そのうちに今日の重役会で決まったばかりのことがどうして読者に知れたのだろう、と訝《いぶか》しく思ったらしい。
「どこでそのニュースをお知りになりましたか」
「はあ、じつは私、編集部のYです」
「バカヤロウ!」
これは、かたわらで聞いている私の耳にもはっきりと聞こえた。
だが、池島社長はすぐに気を取り直し、
「お前たちの気持ちはよくわかる。私も初めの頃にあの雑誌の編集長をつとめていたから愛着はある。休刊は残念だ。いずれなにかの形で再刊するから、やけ酒なんか飲むな」
と、穏やかな説得に変わった。
私は電話を聞きながらなにがしかの感動を覚えずにはいられなかった。
自分の担当する雑誌が休刊になったからと言って、その忿懣《ふんまん》を社長にまで直訴する社員というのはめずらしいのではないか。とかくシラケ社員の多い当節、これはやはり美談のほうに属する。
またYさんは多少型破りな編集者ではあったけれど、彼に電話をかけさせた理由の一つに相手が池島社長であったということも忘れてはなるまい。私は残念ながら、この名編集者のほまれ高い人物に直接お目にかかる機会には恵まれなかったが、仕事を愛し社員を愛し、まあ、真夜中の電話くらい受けて立ってくれそうな雅量の持ち主ではなかったのか。いくら無鉄砲なYさんでも相手を考えずにあんな電話をかけるはずはない。
当時の私は国立国会図書館に勤める公務員であった。お役所にはお役所の秩序があるのだから、いちがいに比較するのは無謀な話だが、一人のサラリーマンとしてこういう珍事を許容しうる組織の情況をうらやましいと思った。
とりわけバカヤロウ≠ニ一喝したあとで、酔っぱらい社員のせつない心情を察してじゅんじゅんと説いて聞かせた池島氏についてなるほど、ひとかどの人物だな≠ニ感銘した。こういう社長の下で働いている編集者はしあわせだったろう。
もとより以上のエピソードは漫画読本≠ニいう雑誌の一寄稿者として編集部に比較的近い位置にいたけれど、けっして編集部員ではなかった私の、言わば傍観者としての印象にしかすぎない。休刊の事情についても私の知らない複雑な理由があったのかもしれないし、池島社長の人柄も伝聞、推測の域を出ない。
ただ、今でも私たち往年の寄稿家たちは「あの雑誌はわるくなかったのになあ」と、語り合うことが多い。
漫画読本≠ヘ、たとえば改造≠竍世界≠フように日本文化のオピニオン・リーダーとなるような重要な雑誌ではなかったが、現在に続く娯楽雑誌のさまざまな源流を内包するユニークな試みに溢れていた。その終焉《しゆうえん》の日のエピソードを、せめてもの遠いはなむけとして私は語ってみたかったのである。池島氏は他界し、Yさんも編集部にはいない。
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カマボコ考
魚を磨《す》った食べ物が好きである。
ひらたく言えば、ツミレ、カマボコ、ハンペン……国産品愛用風の食品である。いや、待てよ、原料は輸入しているのかな。
子どもの頃には母がよく小イワシを磨り潰《つぶ》してホーム・メードのツミレを食べさせてくれた。
あの味はなつかしい。
家内はあまり作らない。
「新しいイワシがないのよ」
「子どもたちがあまり好きじゃないの」
というのが、その理由らしいが私のほうも無理には注文しない。
母の思い出に連なる料理というものが、一つくらい無垢《むく》のまま残っていてもいいではないか。そんなノスタルジアがある。
私の母は、どちらかと言えばせっかちの性分で、あまり料理は得意ではなかったようだ。
ツミレを作るときには、イワシを刻んで磨り鉢の中に入れ、丹念に磨り潰すのだと思うけれど、母はこの最後の作業をいくらか手抜き加減にやっていたらしい。おかげでできあがったツミレの中には微細な骨が残っていて、噛《か》むたびに口蓋《こうがい》をちょっと突き刺す。調理法としては、あまり上等の部類ではあるまい。
しかし、私にとっては、これがツミレの中のツミレなのである。
昨今デパートなどで買って来たツミレは、機械を使って丁寧に加工してあるから、口内を突っつく刺激などあらばこそ、なんとなくノッペラボウの印象でおもしろくもない。
料理店で手作りのツミレを食べても、母の作品にくらべればずっと抵抗感が少ない。一生のうちにもう一度あんなツミレにめぐりあうことがあるだろうか。家内にも頼まずに、じっと再会の日を待っているのは、こんな思惑が心のうちにあるからだろう。
母は仙台の生まれなので、笹《ささ》カマボコも子どもの頃からなじんだ食べ物の一つである。仙台のナントカいうカマボコ屋では、「ヒラメの皮をはいで、グルグル巻きにして店の前に飾ってあるのよ。うちのカマボコはこんなにたくさんヒラメを使ってます≠チてそれを見せるためだったのね」と、話してくれた。
今でもこんな習慣が残っているのかどうかわからない。
昔は仙台から来客でもないかぎり、なかなかお目にかかれない品だったが、今ではどこのスーパー・マーケットに行っても売っている。
形はたしかに笹の葉の形だが、味のほうはすっかり画一化されてしまって、記憶の中にある味とはだいぶちがっている。もう材料にヒラメなどを用いることもないのだろう。
酒の肴《さかな》には、手軽で便利で、ほどほどにおいしいからカマボコを食べることが多い。
先日もスーパー・マーケットで買って来て、紙の包装を脱がせてみたら、カマボコのほうは薄いビニールに包まれ、その下に板が一枚そえてある。「あれっ」と驚いた。カマボコというものは、本来、板にピッタリと身をくっつけてうずくまっているものだったのに、いつの間にかカマボコはカマボコ、板は板と、別個になってしまった。
この様子から察すると、現代のカマボコは製造上まったく板を必要としなくなって来つつあるのだろう。それなのに、昔の名残で板だけがそえてある……。
もしそうならば、資源の無駄使いではあるまいか。材木の値段はドンドンあがっている。パルプも不足気味である。たかがカマボコ板一枚と言うなかれ、不用の物なら、わざわざ貴重な木材を切って削ってカマボコの台にすることもあるまい。
カマボコをそぎ取られたあとのカマボコ板は、まさか表札に用いるわけにもいかず、子どもの下駄にするわけにもいかず、そのままゴミ箱にポイ。ここでまた無用のゴミが増える。二重の無駄と言うよりほかにない。
第一、板をつけたまま包装してあると、カマボコそのものが大きく見える。スーパー・マーケットのウインドーに並んでいるのをながめて、
「これが五百円、これが四百円。大きいほうが安いなあ。なぜだろう」
と思ってみても、包装をほどいて見ると、大きいほうにはタップリと板が隠されていて、実質は小さい。
これも一種のウソツキ食品ではあるまいか、と思ったりする。
と、まあ、カマボコ一本見つめているだけで、日本の資源問題、ゴミ処理問題、誇大表示の問題、さまざまな社会問題が心に昇って来る。
そこでさらに今日はなぜこれほどカマボコに関心を持っているのか≠ニ考えてみれば、家内に、
「あなた、今日はいそがしいの。酒の肴くらい、自分で考えてくださいな」
と言われたからであり、一番簡単に食べられる物を自ら買って来たからだった。そこでまた考える。
――亭主の座も弱くなっているんだなあ――などと、これはまた新しい社会問題が心に昇ってくるのであります。
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私の踏み台理論
むかし、ある国で王様の華麗なパレードが町をねり歩くことになった。王様の姿などめったに拝めるものではない。
町の人はこぞってこれを見ようとしたが、見物人が多過ぎてなかなか眺めることができない。
「どうしよう?」
「なんとかならないものか」
とりわけ背の低い人は、背の高い人をうらやんだ。
そんな様子を察知して、頭のいい家具屋が踏み台を売り出した。踏み台は飛ぶように売れた。だが……。
みんな同じ高さの踏み台にのれば、踏み台がなかったときと少しも変わりがない。背の低い人は相変わらず眺められない。儲《もう》けたのは、家具屋ばかりだった。
これは私自身が作った寓話《ぐうわ》である。
自分が作ったものについてあれこれ解説するのは、いささか面映ゆいが、だれもほかの人が言ってくれないので、まず隗《かい》より始めよ℃ゥ分で少し説明を加えさせていただく。
今述べた話はただの一口話だが、世間には存外似たようなケースが転がっているのではあるまいか。
たとえば、私の家の窓から外を眺めると、たくさんのネオン・サインがきらめいている。どれもこれも広告宣伝のために夜を徹して輝いているわけだが、果たしてあれは期待通りの効果があるものだろうか。
たしかに一番初めにネオン・サインをつけたときは、おおいに注目を集めただろう。一番初めに踏み台にのった人がよく見えたのと同様である。
だが、われもわれもとネオン・サインの広告を出したら、もうさほど効果もあるまい。さりとて自分の会社だけやらなかったら取り残されてしまう。ネオンを掲げてようやく人並みのレベル、掲げなければ落ちこぼれ。儲かるのはネオン・サイン業者ばかりである。
この例がお気に召さないようなら、近頃の塾ブームはどうだろうか。これこそ、わが踏み台理論≠ノピッタリだ。
地方の実情はよくわからないけれど、東京あたりの小、中学生は、まずたいてい塾に通っている。
ある都心部の小学校で調査したところ、四年生で六八%、五年生で七三%、六年生でじつに八八%、の学童が塾に通っているそうな。
そこで考えてみよう。
自分の家の子どもだけが塾に通っているのならば、いくらか他の人より成績がよろしくなるかもしれないが、みんながみんな塾へ行くようになったら、どうなるか。
できる子どもはやはりますますできるようになるし、中くらいは中くらいなりに、かんばしくない子はかんばしくないように、いぜんとして同じような分布図を構成するばかりだ。
「塾にもいろいろあるから」とか「塾へ行って伸びる子もいるし、伸びない子もいるし」という主張も当然ありうるだろうけれど、巨視的に見れば、上は上へ、中は中へ、下は下へと移行するにちがいない。
そこで、塾で習う勉強が子どもの能力開発にとっておおいに役立つものであるならば、なにはともあれ、日本の子どもたちの学力水準が全体的に高まることになり、まことにおめでたいのだが、果たしてそうなのか。
教育には、知育、徳育、体育の三つの柱があるはずだ。その中の知育だけに重点を置いて、無闇《むやみ》やたらに引き伸ばす。受験のためにのみ必要で、ほとんどほかの目的には役立たず、時には害にさえなりかねないものを詰め込んで、たとえペーパー・テストだけの力があがったところで、学童たちの学力が向上したことにはならないだろう。
さりとてみんなが塾にせっせと通っているとき、わが子だけ行かせないでいると、大幅に遅れをとってしまう。よほど優秀な子どもでもない限り落ちこぼれてしまう。
かくて、その結果、受験産業にたずさわる人たちだけが――私は特別にこの職業に敵愾心《てきがいしん》を燃やしているわけではないけれど――なんとなく儲かるような仕掛けになっている。
これこそ、わが親愛なる踏み台理論≠フもっともふさわしい例のような気がしてならない。
あるお母さんがしみじみと嘆いていた。
「そりゃ塾なんかやりたくないわ。自由に遊ばせてやりたいし、スポーツなんかもさせたいわ。でも、クラスの中のたいていの人が行っているんだから、うちの子だけやらないわけにいかないのよ。学力にグーンと差がついちゃうから。それで塾にやればいいのかっていうと、みなさん行っているものだから、ヤッパリうちの子はドン尻《じり》のほうにしかなれないのね。ほんと、困っちゃう」
こういう悩みを抱いている親はずいぶんと多いはずです。ちがいますか。
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夫婦の会話
「ねえ、今晩のおかずなんにする? なにか食べたいものある?」
たとえば日曜日の昼下がり。亭主はテレビの前にゴロリと寝転がり、高校野球の中継なんかを眺めている。奥さまのほうはと言えば、テーブルの脇《わき》に置いてある新聞をパラパラとめくり、折り込み広告にサッと目を通し、しかるのち頬杖《ほおづえ》など突きながら尋ねる。
亭主は手枕《てまくら》の後頭部で奥さまの声を聞き、いくぶん面倒くさそうな様子で、
「なんでもいいよ」
と、答える。
すると、奥さまは眉《まゆ》をひそめ、
「なんかとくに食べたいものないの?」
と、畳みかける。
そこで亭主はちょっと思案をめぐらし、
「焼き魚なんかいいんじゃないか。あっさりしてて」
と、返事をする。
「焼き魚? 大変なのよ、ガスで焼くのは。このあいだガス台を掃除したばっかりなのよ。また汚れちゃうの、いやだわ」
なるほど、焼き魚というものは、昔なつかしい七厘《しちりん》で焼いてこそ初めてさまになるもので、ガス台で焼くと、焼きあがりもあまりおいしくないし、そのうえガス台に油を垂らしたり、やたら煙をあげて近代的なキッチンを煤《すす》っぽくしたり、奥さまがたに評判のよろしい料理ではない。
「じゃあ、カレーライス」
「カレーなんて外でもよく食べるでしょ」
「まあ、そうだな。よし、なす焼きなんかどうだ」
「ダメよ。今日は日曜日だから、いつも売りに来る八百屋さんが来ないのよ。スーパーで買ったなすじゃ味がわるくて。なす焼きはやっぱりなすそのものの味がよくなくちゃ、おいしくないわ」
「フーン。それじゃ思い切って刺し身でも食べるか」
「そんな高いもの言わないでよ。第一、今日は河岸が休みでしょ。どうせ古い魚だから、おいしくないわ。せっかく刺し身を食べるんなら、もっとべつな日がいいわよ」
「じゃあ、お茶漬け」
「あー、いやだ、いやだ。こっちは年中あまりご飯でお茶漬けばっかり食べてんのよ」
「…………」
つまるところ、なにを提案しても反対されてしまい、そんなことならば、最初から意見なんか聞かなければいいのに……と、思ってしまう。
だが、奥さまのほうばかり責めるわけにはいかない。
お話変わって、今度は月曜日の朝の風景。亭主がいつもの起床時間より少し遅れて起きて来て、
「どうも頭痛がする。風邪かな」
首すじをトントン叩《たた》きながら言う。奥さまは、目玉焼きなど作りながら、
「最近の風邪はなおりにくいのよ。休んだらいいじゃない」
亭主は厳しい表情を作って、
「休んだらいいって、そう気安く言うなよ。会社ってものはな、そうそう簡単に休めるものじゃないぜ」
「そう? じゃあ急いだほうがいいわよ。もう八時過ぎてるじゃない。はい、目玉焼。バターはそこにあるでしょ。ワイシャツは椅子《いす》の上に出しておいたわよ」
「そうせかせるなよ。こんな体調のとき会社へ行ったって、ろくな仕事ができやしない」
と、言ってグズグズしている。
奥さまは横目でそれを見て、
「あら、休むの?」
「いや、大事な会議がある」
「じゃ、急がなくちゃ」
「人が頭痛なのに、無理やり会社へ出そうとするのか。働く機械じゃないんだぞ」
「なら、休めばいいじゃない」
「いーや、休めない」
これまた、そんなことならグチャグチャ奥さまになど相談しないで、自分でチャンと決断すればよろしいのだが……なぜかああでもない、こうでもない≠ニ言ってすねてみたくなる。
子どもたちも両親のこうした会話を日ごろからよく聞いているから、おのずと心構えができている。
若い男がガール・フレンドに尋ねた。
「キミのご両親、ボクたちの仲を許してくれるかなあ」
恋愛がある程度の段階まで進めば、これはどうしても気がかりな問題だ。
マドモアゼルが答えて、
「すんなりとはいかないわね」
「どうして。お父さんが反対なの? それとも、お母さんかな」
「どちらとも言えないわね」
「へえー?」
「だって、父がいいって言えば、母が駄目だって言うし、母が賛成すれば、父が反対しそうだし……。わが家は昔からそういう仕組みになっているのよ」
しかし、まあ、夫婦の会話なんてもの、おたがいに相手に逆らいながら、自問自答しているところもあるらしい。ちがいますか、おたくは?
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犬と猫
二十年以上も昔――と言うのは、閑暇がありあまるほどあった頃、猫におあずけを教えようと努力したことがあった。
飼い猫の目の前に魚を置き、
「おあずけ」
と言って命令を下し、じっと睨《にら》んでいる。
猫のほうも、命令の語気から判断してこれは食べてはいけないものなんだな≠ニ、すぐに察したらしい。目を細くして、あらぬ方向など見ていた。
ところが、こっちがちょっと席を立てば、たちまち魚をくわえて逃げて行ってしまう。何度教え込んでも無駄だった。
同じ頃、家に犬も飼っていた。こちらのほうは、肉を目の前に置き、
「おあずけ」
と、命令を下したものの、途中で電話がかかって来てそのまま忘れてしまった。一、二時間ほどたって戻ってみると、犬はまだ肉を目の前にして顎《あご》の下によだれの海を作ったままじっとすわっている。
「ごめん、ごめん」
犬に謝って、もう一きれ新しい肉を追加してやった。
猫ならばとてもこうはいかない。こっちが目を離したとたん肉をくわえ込み、満腹したところで日なたぼっこでもしているだろう。犬と猫とは根本的に性質がちがうものらしい。
犬好きの人は、
「だから犬はいい。忠実で、正直だ」
と、言う。
しかし、考えようによっては、犬の性質には主人にはどうあっても従う≠ニいったふうな奴隷根性が見られなくもない。前近代的である。
猫のほうは現在の力関係としては人間に劣るから一応服従しているけれど、いざとなれば反逆をする精神を持ちあわせている≠フだから、こちらのほうが近代的人♀iのような気もする。
水商売の世界には、猫型、犬型という客の区分法がある、と聞いた。
猫は家につき、犬は人につく≠ニいう習性があり、これは猫というものは一家が引っ越して行っても、もとの家になおも住みつく性質があるのに対して、犬のほうは主人一家のあとを追ってどこまでもついて行く、そのことを言っているのだろう。
バーやクラブの客の中にも、店のホステスがどう変わろうと、同じ店に通って来る人がいて、これが猫型。一方、犬型のほうは、ホステスがほかの店に移り、
「ねえ、アーさん、今日からお店が変わったの。来てね」
と、電話でもかかって来れば、もう前の店のほうはすっかりご無沙汰《ぶさた》となり、人について移って行ってしまう。これが、すなわち犬型の客である。
店の経営者にとっては、猫型の客のほうが望ましいのは当然だが、一方、ホステスにとっては、いつまでも自分のあとを追って来る犬型の客でなければ商売としての妙味が薄い。
飲み仲間を眺めていると、たしかに犬型と猫型の区別はあるようで、この分類法はおもしろいと思った。猫型の客は酒好きのタイプであり、犬型の客は女好きのタイプである。
こんな分類法をある酒場で話していたら、
「恋愛のやり方にも猫型と犬型とがあるんですね」
と、もう一つの区分法を教えられた。
「へーえ、それは知らない」
「ああ、そうですか。犬の恋愛ってのは、わりとやりかたがはででしょう」
「そうかな」
「そうですよ。昼日中、道のまん中で、二匹くっついたりして」
「なるほど。言われてみると、かなり大っぴらにやってるね」
「ね。ところが猫は夜陰に乗じてこっそりとやる」
「声はうるさいけど……」
「でも、猫の交尾の現場って、あまり見ないんじゃないですか」
「うん」
「人間の場合も二種類あるでしょ。だれかのこと好きになると、やたら大っぴらにしてオレ、もててんだ、もててんだ≠ニ発表したがるタイプと……」
「それが犬型だね」
「そう。その反対に、こっそりとどこでだれとくっついているのかわからない。いつの間にか仲よくなっているってタイプがありますね。こっちが猫型」
「しかし、それは恋愛の種類にもよるんじゃないのかな。人前で大っぴらにやって許される場合もあるし、それから厭《いや》でも秘密にしなけりゃ駄目な場合と……」
「もちろん、そうですけど、それにしてもやっぱりタイプがありますね」
私自身はどちらかな? と考えた。
動物の好みについては、犬も猫もどちらもほどほどに好きである。酒場の客としては犬型の場合もあるし、猫型の場合もある。折衷方式だ。そして、恋愛のやりかたは……はて? 近頃しばらくやっていないんだなあ。
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授業料の思い出
ある朝、突然目を醒《さ》ました。時刻は四時過ぎ。心配事が心に昇って来て、とても眠れそうもなかった。
「ぐずぐず悩んだって仕方ない。行動あるのみ」
私は布団をけって起きた。
今から二十年以上も昔、まだ大学生の頃《ころ》の出来事である。
なにを悩んでいたかと言えば、まず、
「定期券の期限が切れる」
ということだった。
当時、私は浦和の兄の家に住んでいて、大学も東京都内、友だちも東京都内、つまり、なにをするにも電車に乗らなければ埒《らち》があかない。いちいちキップを買っていたんじゃ高価すぎるし、キセルもできない(国鉄さん、ゴメンナサイ。当時はやっていたのです)。定期券がなくなったとたん、私は陸の孤島に置かれるも同然の立場にあった。
定期券が切れたら新しいのを買えばいいじゃないか、と思われるだろうが、ことはそれほど簡単ではない。定期券を買うためには大学の事務局へ行って通学証明書をもらわなければいけない。通学証明書をもらうためには学生証を提示しなければいけない。
しかし、私は授業料を一年分ほど滞納していたので、学生証は一年前のもの。これでは通学証明書を交付してもらえない。
こういう事態もあるべしと予測して、五か月前に目いっぱい長期の六か月定期券を買っておいたのだが、その定期券の期限が近づき、しかし授業料のほうはいぜんとして五か月前と同じ支払い状態だったのである。
父は、私に充分すねを齧《かじ》らせてくれないうちに他界していて、授業料は自分で捻出《ねんしゆつ》するよりほかになかった。
「アルバイトをしよう」
しかし、アルバイトの口があるかどうか?
その頃、靖国神社のすぐ近くに学徒援護会という機関があって、そこへ行けばアルバイトを斡旋《あつせん》してくれるという話を聞いていた。よいアルバイト先を見つけるためには、朝早く行って並ばなければいけないのだという。
四時に目を醒《さ》ました私は五時に起床してそのまま援護会へ向かった。それでも浦和から駈けつけたのでは、あまり早いほうではなかった。
「本が好きだから、本に関係ある仕事を」
と、私は出版社の編集事務のような仕事を想定して言ったのだが、
「じゃあ、これがいいでしょう」
事務所の人が勧めてくれたのは書店の売り子だった。背に腹は替えられない。それに、本を売る仕事も存外おもしろいかもしれない。
かくて私は神田の、お茶の水駅から明治大学の前を過ぎ、ななめに古書店街のほうへ降りて行く道の途中にある文苑堂という書店で、売り子を務めることとなった。
結論を言えば、あの仕事はそれなりに役に立った、と思う。現在の私は、本を作る側の一角を自分の生業としているわけだが、自分の書いた本がどのように売られていくのか、そのプロセスをつぶさに体験したのはけっして無駄ではなかった。
それはともかく、私はこの書店に二か月ほど勤務して、なにほどかの金子を得た。昼めしにはたぬきうどんより高価なものは食べず一生懸命に貯えた金だった。
滞納した授業料を全額まかなうには足りなかったが、半期分でも納めれば通学証明書はもらえるルールだった。
汗の結晶をポケットに収めて大学の事務局へ赴くと、先客が一人いた。
「授業料を滞納しちまって、通学証明書がもらえないんですけど、困っちゃうからなんとかできないんですか」
彼は二か月前の私と同じ状態で、それで事務員に相談しているのだった。
「学部の主任教授のところへ行って、勉学を続ける意志のあることを証明していただければ、通学証明書は交付します」
その学生がどうしたかは知らない。
私はその話を立ち聞きしたとたんきびすを返した。
――そんな手があったのか。それじゃあ、この金を支払うのは、ちょっと待て――
おおいに苦労して貯めた金であるにもかかわらず――いや、おおいに苦労して貯めた金であればこそ、おいそれと授業料になんか使ってなるものか。
クラブ活動などもやっていたので主任教授とは親しかった。早速、教授の部屋をノックして、急に懐ぐあいが豊かになった。
「よし、飲みに行こう」
仲間たちを誘って、たちまち浪費したような気がする。
それから数か月後、私はまたしても愕然《がくぜん》として夜中に目を醒まし、学徒援護会へ走らなければいけなかった。
私の中には、ひどく心配症のところと、奇妙に楽天的なところが共存しているようだ。その傾向は今でも少しも変わっていない。
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被説得力
話はいささか旧聞に属するが、伊藤|律《りつ》氏が帰って来た頃のことである。
なぜこの時期に中国が伊藤氏の生存を明らかにして帰国を許可したのか。なにはともあれ、中国はソ連などとはちがって人道的な配慮の国だと、そのことをPRするのが一つの目的だったろう。私が言うのではない。新聞、雑誌にそういう論調が多かったように思う。
ところが、ある週刊誌にもう一つべつな解釈が記してあった。
平たく言えば、
「なにが人道的なものか、二十数年間も生死を不明にしておいて、そのことのほうがよほど非人道的な印象を与える」
という主旨だった。
なるほど。言われてみればそんな気がしないでもない。そりゃ体も不自由になり、望郷の念ひとしおの老人を暖かく故郷へ帰還させるのは、間違いなく人道的な措置にはちがいなかろうが、
「もっと早く帰国させてもよかったじゃないか」
という考えも当然成り立つ。
どちらの見解が正しいのか私にはにわかに判定ができない。
ただおもしろいのは、みなさんが中国の人道的措置≠了としているときに、すかさずほかの考え方を――充分に説得力のあるもう一つの考え方を思いつく、そのへそ曲がり精神である。これは物書きを生業とする者にとっては、なかなか捨てがたい貴重な才能の一つである。
私自身はと言えば、たしかに物書きを生業としているし、へそ曲がりの部分も多少あるのだけれど、あまりこの方面の才能には恵まれていないようだ。
その原因は、まずなによりも被説得力≠ェ旺盛だからだ。
被説得力=\―あまり耳慣れない言葉だと思う。広辞苑を引いても載っていない。それもそのはず、これは私自身が作った言葉である。
人を説得するのが説得力であるならば、その逆に人に簡単に説得されてしまう能力も存在しているにちがいない。これが私の言う被説得力である。
なにやらもっともらしい説明を聞かされると、私は、「うん、なるほど、そうだろうなあ」と、簡単に説得されてしまう。
早い話が伊藤律氏を帰国させたのは、中国の人道的配慮である≠ニ書いてあれば、
「中国人は器量のデカイところがあるからなあ」
と、たちまち感じ入ってしまう。
ところが、そのすぐあとで、
「二十数年抑留しておいたことのほうが、よほど非情じゃないか」
と聞かされれば、ポンと膝《ひざ》を打ち、
「たしかに。中国という国は、深慮遠謀があって、ちょっと油断のならないところがあるからなあ」
と、あやぶんだりする。
軽薄と言うべきか、付和雷同と言うべきか、まことに頼りない。
これもひとえに被説得力が旺盛なためらしい。
こういう性向は人生を渡るうえでかならずしも便利なものではない。
学生時代に貧乏をしていた話は、すでに一、二度書いたと思うけれど、ある時なにがなんでも奨学金を借りなければならないと思った。
現在はどういうシステムになっているか知らないが、昔は申請書を提出したあとで、学生課のしかるべき先生の面接を受ける制度になっていた。
教授が書類を眺めながら、
「キミ、そりゃお父さんがいなくて大変だろうけど、お兄さんもいることだし、家も東京にあるんだし、アルバイトでもしてなんとかならないかね」
「はあ」
「奨学金といってもそうたいした額じゃないからね。家庭教師のほうがいいんじゃないかな」
「はあ」
五、六分も説得されているうちに、
「はい、なんとかできると思います。今までもそれでやってきたんですから」
と、つい言いたくなってしまう。
口に出して言わないまでも顔色に現われてしまう。これではなかなか奨学金は貸与されない。
この習性は今でも少しも変わらずに続いていて、原稿の注文が来るといっこうに断れない。
「ほんの三枚ですから」
などと言われると「ああ、そうだな」と思って引き受けてしまう。
だから、わが家では、新聞勧誘員、セールスマンなど、それらしい風体の人が訪ねて来たときには、けっして家内は私を玄関に出さない。当然の配慮だと思う。
ところで、伊藤律さん、頭の冴《さ》えたかただそうだから、落ち着き次第いろいろおっしゃるのでしょうなあ。私が「ああ、そうだったのか」と、納得するすばらしい真実≠。
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私の発明・発見物語
科学少年であった。
初めは医者になりたいと思っていたが、小学六年の頃にペニシリンが発見され、新薬の効能をまのあたりにするに及んで考えが変わった。
「医者なんか多少ヤブでもかまわない。ペニシリンをスポンと注射してしまえば、誤診をしたって病気はなおるんじゃあるまいか」
オッチョコチョイと言うべきか、短絡と言うべきか、とにかく志望が変わって化学者になりたいと思った。
押入れの中に手作りの木机を置き、アルコール・ランプやフラスコを並べて、あやしげな実験を始めた。
今にして思えば、よく火事になったり爆発を起こしたりしなかったものだと、そら恐ろしい。
やはり食べ物のない時代に育ったせいだろうか、栄養化学に対する興味が深かった。
「セルロースも炭水化物の一種である。しかし人間はセルロースを分解する酵素を持たない。だから、もしそういう酵素を発明すれば木材からでも甘い糖分を作ることができるはずだ」
と、考えた。
理論的にはそれほど間違いではあるまい。しかし、そんな酵素がそう簡単に合成できるはずもない。
そこでさらに考えた。
牛や馬はわらを食べても栄養になるのだから、きっとそういう酵素を持っているにちがいない。それを転用してみよう。
近所に兎《うさぎ》の肉を売る家があって、そこへ行って殺したばかりの兎の臓物をもらって来た。胃と腸を裂き、内面のヌルヌルした液を取り出して試験管に入れ、水で薄めてその中へわらや木片を浸した。科学少年の見通しによれば、このわらや木片はブドウ糖かなにかに変質し、試験管の中の液は甘くなるはずであった。
二、三日待ってみたが、いっこうに変化がない。なめてみても甘くない。そのうちに厭《いや》な臭いを発するようになった。それでもなめてみた。
この実験も今になって考えれば、よく腹痛などを起こさなかったものだ、と不思議である。
科学少年の夢はついえ去り、年齢を重ねるにつれだんだん文学青年に変貌《へんぼう》し、結局は小説家になってしまったのだが、
「なにかおもしろい発明をしてみたい」
という願望はずっと残っていた。
今でもそんな気持ちがなくもない。
子どもの頃のアイデアは、もし本当に成功でもしたならノーベル賞でもいただけそうな、そんなドエライ夢ばかりだったが、長ずるに及んで、さすがに馬鹿らしいアイデアは頭に浮かばなくなった。
夢が小さくなったぶんだけ実用化の可能性は濃くなり、もしかしたらちょっとした金儲《かねもう》けくらいできるのではないか、といったアイデアなら今でも二つ三つ心に残っている。
たとえば、名づけてカラー・マッチ。
銅を燃やすと――たしか銅だったと思うのだが――炎が鮮かな緑色を呈するような記憶がある。カリウムなら紫だったろうか。
だからマッチの頭に特種な材料を混入させると、緑とか紫とか紅色とか黄色とか多彩な炎を作ることができるのではあるまいか。
こうしたマッチを製造して喫茶店や酒場に卸す。お客は、
「おい、何色の炎が出るか賭《か》けないか」
などと言って楽しむ。
現在のマッチよりずっと遊戯性があるから、営業用の景品としておもしろい。
もしこのアイデアが化学的にさほど無理なく可能なものなら、充分に実用化ができると思うのだが……。
これよりもっと平易なアイデアもある。
昨今ではどこの家庭でも洋風の朝食をとるケースが多い。トーストに生野菜、牛乳かコーヒーといったメニューである。食卓には大きなガラス・コップが置いてある。私のアイデアは、このガラスコップにその年のカレンダーを、美しいデザインで描いたらどうだろう、というものだ。
技術的にはとりわけむつかしいことはあるまい。まっ白い牛乳を入れると、カレンダーが明晰《めいせき》に浮かびあがって来るのは、美しさの面から言ってもわるくない。アイス・コーヒーを入れると、今度は褐色のカレンダーになる。朝ごとにカレンダーを眺めるのは、生活の習慣として無用ではあるまい。
難を言えばカレンダーは一年で使えなくなるものだし、ガラス・コップはもう少し耐用年数が長い。去年のカレンダーで朝食を食べるのでは、いささかピンボケの感をまぬがれない。
そこで商店などの年末の景品として、初めから一年間だけ使用してもらうといった、軽い気持ちの贈答品として考えれば、このアイデアも生きるのではないか、と思う。
私は鉛筆で原稿を書く。
デスクの目の前には電動式の鉛筆削り器がある。
毎日原稿を書くから鉛筆の減りも速い。長さ六、七センチの鉛筆が――そのまま手に持って書くには短か過ぎる鉛筆が――溜まりに溜まってワイシャツの箱に二つ分もある。
このまま捨てるのはもったいない。
一本七十円の鉛筆だから、二十円がところは活用していない勘定になる。戦中戦後に育っているので、こういう無駄は耐えがたい。
ワイシャツ箱に入れて保存してあるのも、まさかの時の用意である。もちろん鉛筆のホルダーが文具店に売っていて、これを用いれば軸は長くなる。
ところがこの軸をつけると、鉛筆削り器の穴の中に入らない。軸の金具の部分が少し太くなっているからだ。
なんとか現行の鉛筆削り器を使ったまま、チビた鉛筆を最後の最後まで削る方法はないものだろうか?
つれづれなるままに考え出したアイデアは細い軸の上面に三本の鋭く、短い爪《つめ》の突き出した器具である(図参照)。
(図省略)
この器具を鉛筆の尻の面に突き差し、それを支えとして鉛筆削り器の中に挿入する。
実際にそんな器具を作ったわけではない。可能性としてそういうことができるのではあるまいか、と思っただけだ。
鉛筆の消費量は全国的に見れば相当なものだし、近頃《ちかごろ》の子どもたちはほとんど電動鉛筆削り器を使っているのだから、このアイデアは明らかに資源の節約に役立つにちがいない。
「どうだ、うまいアイデアだと思わないか」
と言ったら、友人が笑いながら答えた。
「わるくないけど、まず実用化は不可能だろうな」
「どうして?」
「そういうアイデアで実用新案を取ったとしても、それを作って売り出すのは文具商だろう」
「まあ、そうだな」
「みすみす鉛筆の消費量が少なくなるようなものに協力するはずがないじゃないか」
「なるほど」
資本の論理としてはそうだろう。しかし、資源の節約になることだから、だれか実用化してはくれませんか。
以上、私の発明発見はまことにちまちましたもので、世のため人のために著しく貢献するものとは思えない。
ある日ある時、ある雑誌の注文で妖虫≠ニいう小説を書いた。
これはプラスチックを食べる虫を、ある男が偶然発見する物語だ。
プラスチックはすばらしい発明品だが、自然界のサイクルからは大きくはずれた物質である。動物が植物を食べ、その排泄物《はいせつぶつ》が植物の栄養になり、また動物がそれを食べる。腐った植物は土に返る――こういったサイクルを自然界は太古から繰り返して来たわけだが、プラスチックはそのサイクルとは別の世界のものだ。だから、これをもとの自然界に戻すのは大変むつかしい。腐りもしないし、燃やすのも厄介だ。
なんとかこれをもう一度簡単な方法で自然のサイクルに戻すことができないものか。
そこで考えたのが、プラスチックを食べる虫である。いかなる酵素の働きによってか、この虫はプラスチックを栄養として摂取し、糞をたれて自然のサイクルの中へ戻してくれる。そんな虫がもし存在するものなら世界のごみ処理問題もずいぶん解決が楽になるだろう。
そんな観点から想を得た作品であった。
もとよりそんな便利な虫のいてくれるはずもない。
小説家はどんな突飛なことでも考えて文章化すれば、それで商売になるが、発明家はそうはいかない。
アイデアを生み出すばかりではなく、それを具体化する技術や、商品化する才覚も発明発見にとってすこぶる重要な過程にちがいあるまい。
私の脳味噌《のうみそ》はやはり発明家よりいくらか小説家のほうに向いているらしい。
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読む外国語
時折、外国人に招かれてパーティーに出席することがある。
率直に言えば、私はこの種のパーティーがあまり好きではない。理由は簡単。外国語が堪能に話せないからだ。話が聞けず、みずから話せない者にとってパーティーが楽しかろうはずがない。
それだけならまだしも我慢するのだが、同席の日本人の中に滅法外国語の巧みな人がいて、この人が、
「オー、イズ・ザッ・ソウ、ワンダフル」
などと、まことに流暢《りゆうちよう》に話す。
こっちが下手クソの英語を使おうものなら、
――なんだ、場違いの野郎が来て――
ひがみかもしれないがそんな眼差《まなざ》しでチラリと見る。その目つきのいやらしさよ。異国の空の下で頼みの同胞に裏切られたような気がして、悲しい。
こんな私でも外国語を読むことなら、人並みにチャンとできるのだ。
これは多分私だけではあるまい。古い外国語教育を受けた世代はみなさん、
「読むのはできるんだが、話すとなると……」
と、頭をかく。
発音がなっていない。したがってヒアリングが心もとない。
中学生の頃から習い始めて十有余年、苦労に苦労を重ねた結果が、このざまではまことに情けない。なんのために刻苦勉励したのかと無念である。だから読むこと£心の英語教育は間違っている、とよく言われる。
だが、お立ちあい。本当にそうだろうか。読むこと℃蜻フの外国語も欠点ばかりとは言えないのではないか。昨今は、さながら魔女裁判かなにかのように、話せない♀O国語を糾弾する傾向が強いので、一言弁明したい気にもなって来る。へそ曲がりのところもあるんですね、私は。
そもそも――と気張るほどのこともないのだが――だれだって原書を読むとなると、一語一語丹念に読み拾い、論理を追い、「ハハーン、そういうことを言っているのか」と、合点する。時には隔靴掻痒《かつかそうよう》、なにを言っているのかあまりよくわからんこともあるけれど、そんなときでも自分なりに適当な論理を組み立てて読み進む。こうして一冊読み終えると、著者がなにを言おうとしているのか、多少の誤解はあるにせよ、とにかくその発想の拠《よ》りどころから論理の進め方まで、しつこいほどよく身についてしまう。
明治このかた日本が西欧文明の真似ごとをしながら、なにかそこに新しい独自のものを付加しえたのは、こういう操作と決して無縁ではなかった、と私は思う。
アジア諸国の中には日本人よりはるかに巧みに西欧語を話す民族がいるけれど、日常会話がうまいだけでは、ただの召し使いか物売りにしかなれない(言い過ぎがあったらゴメンナサイ)。西欧文化の発想と論理を盗み取り、さらに自分の発想と論理を創造するためには話す≠セけの外国語ではむつかしい。こみいった思考はやはり文章を読んで熟慮しなければ理解できない。
しかも語学力が百パーセント正確でないため、かえってあれこれ想像したぶんだけ新しいものを考え出す余地がある。誤読は誤読なりに論理の筋が通っていれば、それ自体一つの創造である。
独り書斎にたてこもり、原書を紐解《ひもと》きながら、まだ見ぬ外国のことをああでもない、こうでもない≠ニ想像していると、そこに一つのイメージが生まれて来る。なにしろ見たこともない$「界のことだから、イメージは実像とずれているところも多いだろうが、大ざっぱな言い方をすれば、こうして得たイメージに托《たく》して作られたのが明治以降の日本文化ではなかったのか。
これを否定するのは、現実を無視することであり……となれば読むこと£心の外国語もそれなりに価値があったのである。もちろん私は話す♀O国語の重要性をけっして軽視するつもりはないけれど、読む♀O国語はいぜんとして今後も話す以上に大切なのではないか、とさえ考える。
日常会話ならばアメリカ人相手にそつなく話すけれど、さて、それじゃあ、
「この英語の専門書を一冊読んで要旨をまとめてくれ」
と言われたとたん、尻ごみするような脳味噌は――昨今の若い人にはどうもこの傾向が強いのだが――それほど役に立つものではあるまい。
日常会話くらいなら、なんにも外国語がわからなくたって、表情と身ぶり手ぶりである程度伝達することができるものだ。読む♀O国語は話す♀O国語ほどカッコウよくはないけれど、ボクシングのボディ・ブロウのようにじわじわと効いてくるところがある。
原書を読むことばかりではない。
なにかを本当に理解し、そこに自分の想像力を加えて享受しようと思うなら、やはり読むこと≠ルど有効な武器はないし、それもゆっくり読む≠フでなければ効果が薄い。
恋人からの電話もうれしいけれど、ラブレターをためつすがめつ読むのも悪いものじゃない。もっともこれは精読≠オたわりには想像力を駆使し過ぎて、ずいぶんと誤読≠オた場合が多かったような気もするけれど……。
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なぐる教育
私の父はけっして子どもをなぐらなかった。兄もなぐられた覚えがないと言うし、私自身も記憶がない。
父は鉄工所の経営者で、若い頃には荒くれどもを引き連れて未開の樺太《からふと》あたりまで渡っているのだから、男くさい、荒っぽい生活習慣に無縁のはずはなかった。
ただ奇妙に文化的な生き方やリベラルな思想に共鳴するところがあってわが子をなぐらない≠ニいう信条も、多分そんなところから出ていたのだろう。
その信条とはなんの関係もあるまいが、父は頭髪が薄く、四十代のなかばできれいにはげていた。私は父の頭に髪の毛のある姿を想像することさえできない。五つ年上の姉も知らないし、八つ上の兄も知らない。十二歳年上の長姉にも尋ねてみたのだが、
「私も知らないの」
という返事だった。
私は心配になり、母にも尋ねてみた。
「そうねえ、結婚後しばらくはあったけど、初めから薄かったわねえ」
さすがに母は知っていた。
だから私の知っている父は、みごとなはげ頭であって、口ひげをたくわえ、和服姿ですわっているときは、なかなか威厳があった。
顔をあわせると文句を言われることが多いので、できるだけ父のそばには近づかないようにしていた。幼い私にはこわい父親だったが、その実、人情もろい、やさし過ぎるほどやさしい人柄だったらしい。
子どもの頃の私はまことに意気地なしの、情けない少年だった。いじめっ子が怖くて仕方がない。押し入れの中に隠れて、なんとか学校へ行かないように工夫したこともしばしばであった。
どうしてそれほどいじめっ子が怖いのかと言えば、煎《せん》じつめれば、なぐられるのが怖かったのである。なにしろ家ではなぐられた経験がないのだから、外でピシャンと頬《ほお》などを叩《たた》かれると、これが身に染みて恐ろしい。世界がまっ暗になってしまう。なんとかなぐられないようにと、いじめっ子の前に平伏し、来る日も来る日も屈辱的な生活を送っていた。
小学五年生の頃だったろうか。私は忽然《こつぜん》と悟った。
――なぐられるのはそれほど恐ろしいことだろうか。いくらなぐられたって殺されるわけではない。痛いといったところで、ほんの瞬間だけだ。虫歯のほうがもっと痛い。なぐられないようにと願ってさまざまな屈辱的な思いをするより、なぐられたほうがずっといい――
喧嘩《けんか》の弱いのは相変わらずだったが、なぐられてもなぐられても必死で抵抗するすべを覚えた。いじめっ子としてはなぐる′果が消失してしまっては、いじめ甲斐《がい》がない。私は次第になぐられなくなり、以前ほど弱虫ではなくなった。
私自身の中にこんな体験があるものだから、わが子に関しては、なぐることをそれほどためらわなかった。家でなぐられていれば、外でなぐられてもさほどこたえることはあるまい。それに子どもが充分に幼い時期には、理屈をいろいろ並べて説教したって相手の理解が及ぶまい。世の中には理屈ぬきにやってはいけないことがあると、そう会得《えとく》させるためには、やはりなぐってやること≠燻桙ノは大切だと考えた。
わが家には二男一女がいるが、それぞれに何回かなぐられた経験を持っているはずだ。
「いいか、なぐるぞ。半歩足を開け。手を腰に当てろ」
と、軍隊式に用意を整えさせ、そこで往復ビンタとなる。
わざわざこう宣告してなぐるのは、けっして感情でなぐるのではない、理性でなぐるのだ、儀式の一つなんだ、という父親の側の配慮である。
しかし、ほどよくなぐるというのは、なかなかむつかしい。原稿を書いているときになぐるとしばらくは指先がふるえて仕事ができなくなる。
長男をなぐったときには、数時間後に、
「お父さん、耳が痛いんだよ」
と訴えるので、あわてて病院まで連れて行った。医師に、
「ほどほどにしてください」
と、忠告され、まことに締まらない話だった。
なぐられるほうもつらいだろうが、なぐるほうだって楽ではない。やり過ぎたかなあ∞あまり文化的とは言えないなあ≠ネどと、しばらくは後悔のようなものが胸の中に去来して、気分がすっきりとしない。
しかし、結論として私はなぐる°ウ育をそれほど否定しない。感情ではなく、理性でなぐるぶんには、他人が――たとえば学校の先生などが――わが子をなぐることも、あっていいと思っている。
理性でなぐるのだから、相手が充分に理屈を理解する年齢に達すれば、もう私はなぐらない。中学三年生の長男は、ここ一、二年なぐられてはいないだろう。理屈がわかるようになったせいもあるが、親父より背が高くなってしまっては、なかなかなぐる勇気が湧《わ》いて来ないのである。
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小説の題名
小説の題名をつける仕事は、思いのほか苦労の多いものである。
他人様《ひとさま》はどのように思案しているのか、くわしい事情はわからないけれど、伝記小説、歴史小説のたぐいは、比較的楽なような気がする。宮本武蔵∞佐々木小次郎∞榎本武揚∞マリー・アントワネット∞項羽と劉邦《りゆうほう》≠ネどなど、まことに単純明快であり、さほどご苦心があったとは思えない。
同じ伝記小説でも城山三郎さんの落日燃ゆ=A角田房子さんの一死、大罪を謝す≠るいは塩野|七生《ななみ》さんのチェザーレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷≠ネどとなると、
――ああ、やっぱりストレートな題名じゃおもしろくないと思ったんだな――
と想像し、それぞれの作者が思案している様子がわがことのように脳裏に浮かんで来る。
小説を書く前に、まず題名がパッと浮かび、それを手がかりにしてイマジネーションを広げるという手法もあるらしい。つまり初めに題名ありき≠ニいうわけだ。水上勉さんの名作、飢餓海峡≠ヘ、そうした例の一つだと聞いたことがある。この場合は、当然のことながら、題名と内容とはほどよく一致しているだろうし、書き終わったあとであれこれ思い悩む必要もあるまい。
しかし、私自身の場合は、こうしたケースは皆無に近い。まず作品を書きあげ、それから題名、この順序が一般である。
小説を書き出して間もない頃には、脱稿したとたんに精力を使い果たしたような心境になってしまい、もう題名を熱心に考える気力がなかった。さほどの思慮もないままに適当な題名をつけることが多かった。
親しい編集者から、
「とにかく題名は大切です。短篇一つ書きあげる労力を十とすれば、題名のために三くらい使っても惜しくない。それくらい題名のよしあしは決定的です」
と教えられ、それからは題名にもずいぶんと気を遣うようになった。
この編集者の言は正しい。
自分が読者になって考えてみればすぐにわかることだ。やはりなにかしらおもしろそうな題名の作品をまず読む。読まれなければ、名作も駄作もありゃしない。どんな題名をつけるかは作者の技量の一つであり、名作であれば一層のこと画龍点睛《がりようてんせい》を欠く≠フ愚をおかしてはなるまい。
ごく一般的に言うならば、作品の内容を巧みに抽象化したり、概略化したり、比喩《ひゆ》化したりして、しかもそれ自体美しい、含みのある表現であるものが望ましいのだろうが、ミステリー小説の場合はそれほど単純ではない。
つまり、作品の内容とあまりにも密接に結びついているものは、読者に結末を教えることにもなりかねない。これではミステリーの醍醐味《だいごみ》は大きくそこなわれてしまう。
つい最近、式貴士《しきたかし》さんのカンタン刑≠ニいう短篇を読んだのだが、私はカンタン≠ニ記されているのを見て邯鄲之夢《かんたんのゆめ》≠ニいう故事を連想するのに、そう多くの時間がかからなかった。
立身出世を願って都に登る男が旅の途中で昼寝をし、栄華の夢を見る。起きてみれば、かまどの枯草が燃え尽きるまでの、ほんのひとときのこと。富貴栄達のむなしさを伝える、あの有名な話である。カンタン刑≠フカンタン≠ヘ、私の予想通りこれにちなんだものであり、小説の読者は故事にうとい若年層ばかりではないのだからネタ割れにならなければいいが≠ニ思わないでもなかった。
逆にみごとだな≠ニ思った例の一つとしては、リチャード・マディスンの名作 "Sorry, right number" がある。この題名は短篇集にまとめるときに、どういう理由からかわからないが "Long distance call" と改題された。日本語訳でもこちらの題名を採って長距離電話≠ニ訳されている場合が多いのだが、どう考えてみても初めの題名のほうがすばらしい。
ご存知の通り英語では、間違い電話をかけたときには "Sorry, wrong number" と言ってあやまるのが、決まり文句である。
マディスンの作品は、その "wrong" の部分が "right" になっているところが、まずおもしろい。
正しい番号ならば、あやまる必要もあるまいに、と思うのだが、作品を読んでみればわかるように、正しい番号であればこそかえって "Sorry" と言ってあやまらなければいけない事情がある。
だが、このへんのニュアンスを日本語に訳出するのはむつかしい。日本語としては長距離電話≠ュらいが適当なのかもしれない。
私自身の作品では恋は思案の外《ほか》≠ェ気に入っている。事件の発端も理性では御しきれない恋の不始末から始まっているし、結末もまた思案の外≠フ恋で終わっている。作品を読み終わったあとで、もう一度題名の寓意性《ぐういせい》に気がつきなるほど、うまくやられたな≠ニ唸《うな》っていただく趣向になっている。
以上のようなエッセイを書いたのは、ほかでもない。目下作品を一つ書きあげ、その命名に四苦八苦している最中なのである。
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読書保険
風邪を引く。
そう重い風邪ではなく一日寝ていればなおる程度の風邪である。
こんなとき私は菓子と紅茶と本を一冊|枕《まくら》もとに置いて床につく。菓子は柿の種が好物である。紅茶はトワイニングのプリンス・オブ・ウェルズ。本は銭形平次捕物控≠ェ一番よろしい。柿の種をポリポリ齧《かじ》り紅茶で辛味を消し親分、大変だあ≠読んでいるとトロリトロリと眠くなる。しばしまどろんでまた柿の種、紅茶、親分、大変だあ≠ニなる。
この物語では、八五郎はいつも顎《あご》が長く、丸ポチャ娘はけっして犯人になることはない。天下泰平、人畜無害、このひとときはすこぶる楽しい。この世に生まれて来てしみじみよかった、と思う。
読書と言うと、すぐに堅いことを言い出す人が多いが、そう気張ることもあるまい。銭形平次をいくら熟読玩味しても世界の真理、人生の意義について高遠な哲学が悟れるはずはないけれど、とにかく数時間は真実楽しめるのであって、これもまた読書の欠くことのできない効用である。
十九世紀フランスの文人ブリア・サバランは、食道楽のすばらしさを説いて、
「食卓の快楽は、どんな年齢・身分・国籍の者にも毎日ある。他の快楽といっしょでもよし。また他の快楽がなくなってからも最後まで残ってわれわれを慰めてくれる」
と記しているが、読書の快楽もこれに勝るとも劣らない。
読書は食物のように人生不可欠のものではないから、自動的に毎日ある≠ニは言えないが、そこは心掛けひとつ、習慣さえ身につけば毎日ある≠アとも可能だし、他の快楽がなくなってからも、最後まで残って慰めてくれる≠ニいうことなら、むしろ食卓の快楽より読書の快楽のほうが長生きする場合もある。たとえば食事がサッパリ楽しくない人だって世間に結構たくさんいるのだから。
しかも食う≠アとに比べれば、なんと読む≠アとは安くてすむか。読書によって人生いかに生くべきか≠ネどなど、りっぱな思想や判断力が身につくかどうか、過度の期待はさて置くとしても、わずかな投資と努力で人生の楽しみが増加することだけは確かである。とくに病気の時や老後にこれが役に立つ。言うなれば読書には傷害・養老保険のような価値もあるのであって、病中・老後のレジャーを確保するためにも若いうちに読書習慣を身につけておいたほうが便利のようだ。
現在私たちが掛けている養老保険なんて、言っちゃあわるいが二十年後の満期になったとき、諸物価高騰の折から本当に役立ってくれるかどうかあやしいものだ。その点、読書保険にはいささかの不安もない。しかもいったん習慣となってしまえば、あとは満期を待つまでもなく電車の中でも、トイレの中でも、ベッドの中でも毎日毎日欠かさず快楽の配当を受けることができる。子どもたちにはぜひともこの読書保険≠掛けてやりたいと思う。
話は少し変わるが、現代の読書論には大別して三つの流れがある。その一つは修養のための読書論=B読書によって人格を錬磨せよ、古典に親しめ、一字一句ないがしろにするな、文章のよさを味わえ。われら銭形平次%}としては、さながら校長先生の前に出た悪戯《いたずら》小僧の気分。こういう格調高い読書論を読むと、煙ったく、また面映ゆい。
もう一つは社会運動のための読書論=Bサークルを作ってみんなで本を読み討論をして連帯感を高め、それによって自分たちの生活を改善し、日本国を少しでもよくしていこう、と、これもまた志が高い。
そして三つ目が、わが親愛なる楽しみのための読書論=Bイギリスの作家サマセット・モームは、
「読書は楽しくあるのが本当であって、楽しくない本は読む必要がない」
と、すこぶるわかりのいいことを言っている。
私も大賛成。ただ、残念なことにこのタイプの読書論を主唱する人は少ない。
なーに、実践する人はたくさんいるのだろうけれども、いざ論≠展開することになると、みんなカッコウをつけて、堅いことを言いたがる癖がある。
もともと日本では楽しみはそれ自体が善である≠ニいうモラルが未発達であって、そのため楽しみのための読書論はおおいに肩身が狭い。
だが、すでに見た通り、読書には傷害・養老保険の効能もあるのであって、福祉社会の建設のためにも本はおおいに読まねばなるまい。
本屋さんの代弁をすれば、本は諸物価の値上がりに比べてずっと値上げの率が小さい。戦後もっとも値上げ幅の少ない商品はタマゴと言われているが、そのタマゴにはちょっと及ばないけれど、本も相当にいいところにつけているのではあるまいか。
そのうえ、古くなったタマゴは捨てるよりほかにないが、本は古本屋に売るもよし。もしくは、毎度おなじみのチリ紙交換などもあって、トイレット・ペーパーの一回分くらいは充分まかなってくれる。
これほど経済効率のよい楽しみはちょっと見当たらない。
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女ごころ
先日、S君が久しぶりに拙宅に遊びに来た。S君は、私が長岡市の中学校にいた頃の同級生である。酒を酌《く》みかわし、近況報告やらプロ野球の話題やら、四十男のめぐりあいにふさわしい、当たりさわりのない会話を交わしてS君は帰った。
だから、つぎに話す話は、この時に話題に上ったものではない。遠い昔の出来事だし、中年男どもが今さら語り合うようなテーマでもない。だが、私はS君に会うたびにいつも心に思い浮かぶことが一つある。
おたがいに二十五歳を少し越えた頃だったろう。S君は長岡市から上京して、出版関係の会社の営業部にいた。その少し前、まだ長岡市にいたときに、彼はある旧家の娘のK嬢と親しい関係にあった。K嬢は彼より一つ年長。ガール・フレンドよりもう少し近しい間がらだった。
S君は彼女にのぼせあがっていたが、K嬢の本心はどうだったのか。二人の交際は遅々として進まず、S君は悶々《もんもん》たる日々を送っていた。K嬢にはほかに結婚の話があるのだと、そんなふうに聞いた記憶もある。
「もう駄目だよ」
と、S君は自嘲《じちよう》気味に言っていたが、ある日のこと、彼が会社から帰って来ると、自宅に近い駅の改札口にK嬢が立っている。
「どうしたんだ」
「あなたに会いたくて」
K嬢はほとんど東京を知らない。
不案内の東京へたった一人でやって来て、手紙の住所だけを頼りに駅頭に立っていたのだと知れば、彼女がどういう心境なのか、多くを聞かなくたってピンと理解できる。
S君の喜びはどれほどだったろう。聞けば、親に結婚を勧められ、その相手が気に入らず、S君がなつかしくなって逃げて来たのだ、と言う。
S君は民営アパートの四畳半に住んでいたのだが、彼女をそこへ連れ帰ったのは言うまでもあるまい。独り暮らしだから布団は一つしかない。いろいろと話し合ったあとで、二人は一枚の布団の中に体を並べて入った。
そして、これから先が話のポイントなのだが……彼女は結局五日間S君の部屋にいた。甘い、甘い、同棲《どうせい》生活の日々だったろう。
K嬢の親は娘の失踪《しつそう》に狼狽《ろうばい》し、捜し廻《まわ》ったあげく、娘がS君のところにいるのをつきとめた。
「娘を返してほしい」
「返せません」
「とにかくいったんは返してください。そのあとで交際を続けるのはかまわないから」
そこまで言われれば、引き止めておく理由も薄い。着のみ着のままで逃げて来た彼女をいつまでもアパートに置いておくわけにもいかない。ことさらに彼女の親と仲たがいする必要もなかった。K嬢はかならず戻って来ると約束して故郷へ帰った。
だが、この約束は守られなかった。手紙を送ったがなしのつぶて。S君はいたたまれず長岡市へ赴いたが、K嬢はどこか親類の家にでも預けられたらしく姿がない。親は、
「あの娘は気が変わったから。本当に申し訳ないですけど、話はいっさい水に流して」
と、願うばかり。S君は怒った。相手の不実をなじりもした。
もう一度K嬢が自分のところへ逃げて来るのではないかと期待もしたが、K嬢の心変わりはかならずしも親の口実だけではなかったらしく、間もなく風の便りで彼女が新しい結婚をしたことを知って、暗然たる気持ちを抱くばかりだった。
そこで話を少し前に戻すのだが、問題はアパートで同棲した五日間、S君はK嬢と体の関係をただの一度も持たなかったということだ。これは嘘《うそ》ではないらしい。私は彼の性格をよく知っているので素直に合点がいく。
S君はうれしくてたまらなかったのだ。感激のあまり体に触れることができなかったのだ。一通りの女遊びもしていた男だから、単純な意味でできなかった≠けではない。彼女を大切に思うあまり必死になって我慢したのだろう。苦しいことは苦しかっただろうが自分を頼って来てくれたそのことのうれしさを思えば、それだけで彼は我慢できた。
美談と言えば美談である。だが、馬鹿らしいと言えば、馬鹿らしい話でもある。
どうせ駄目になるのなら行きがけの駄賃くらい≠ネどとさもしいことを言うのではない。
私はその後、何度か女性にこの話を語って意見を求めた。女性たちの意見はおおむね似通っていた。
「抱いたからって結果は同じだったかもしれないわ。でも、女ごころとしては、ヤッパリ頼りない男と思ったんじゃないかしら。親まで捨てて逃げて来たんだから、なにがなんでもまるごと引き受ける気概を見せてほしかったと思うわ。抱けなかったのは、彼に自信がなかったからよ。世間と戦う……」
女ごころを考えるうえでおおいに参考になることなので、私はS君を見るたびにこの古い出来事を思い出すのである。
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運命の女神
ここ四、五年|麻雀《マージヤン》をやって勝ったためしがない。一夜の合計をしてゼロで終われば、すこぶる好成績のほうだ。
負けるのは下手クソだからだ。それは自分でも認めるのだが、多少の屁理屈《へりくつ》がないでもない。昔は常勝将軍の季節もあったのだ。
まず第一に、この頃《ごろ》はめったに麻雀をやらない。せいぜい二、三か月に一度雀卓を囲むかどうか……。だからゲームを始めてもしばらくのあいだ、勘が戻って来ない。
――麻雀って、どうやるんだったかな――
そんなことを考えているうちに、たちまち振り込んでしまう。その損失をなかなか回復できない。
サラリーマンの頃には、
――よし、今晩は勝つぞ――
と、初めから意気込みがちがっていた。
昨今は、古い仲間に誘われ、自分のほうも時間のやりくりがつくと、それだけで、もううれしくなってしまい、
――まあ、一晩楽しめれば負けたっていいじゃないか――
といった気分が先に立つ。
実際問題として麻雀の負けなんかたかがしれている。旧友たちといっしょにあれだけ長い時間楽しむことができれば、当方としては多少の遊興費を支払っても損はない、と思う。酒場にでも行けば、もっと支出がかさむだろう。
それに……これからが本題なのだが、私は運命の女神≠ニいうものについて、独特な考えを持っている。
運命の女神という人[#「人」に傍点]は、なにしろ地球上の何十億という人間の運命をつかさどっているわけだから、とてつもなくいそがしいことだろう。好運や不運の配分について、それほど厳密な配慮をするゆとりがない。
そこで彼女はどうするか。
私が感じているところでは、彼女は運・不運の配分について、あまり質的な吟味をすることはなく、もっぱら点数主義を採用しているような気がしてならない。
つまり、だれそれさんにどんな好運を配ったか。また、だれそれさんにどんな不運を配ったか、その内容までいちいち記憶しているひまがないのだ。ただ彼女が記憶しているのは、だれそれさんについこのあいだ一つ″D運を配ったという事実であり、だれそれさんに一つ&s運を配ったという事実だけである。
たとえばここにAさんという人がいて、宝くじの一千万円を当てたとする。女神としては、
――たしかAさんには、最近いいことを一つしてやったはずだ――
と、そのことだけは記憶しているから、次には、
――少し損をさせてやってもいいな――
と、思う。
そこで一千万円の損失を与えるならば、運・不運のバランスがとれていることになるのだが、なにしろ彼女は運・不運の内容まで記憶していないから、むしろ行き当たりばったりに、
――じゃあ、今日のゴルフは悪い成績にしてやろうか――
となって、Aさんはチョコレートの十枚くらい損をすることになる。プラスは一千万円、マイナスはチョコレート十枚。Aさんとしてはずいぶん得をしたことになるが、女神のほうは、運・不運の内容に関係なくプラスが一点、マイナスが一点、それでバランスがとれたのだと思ってしまう。
もちろん逆のケースもある。
Bさんはパチンコで打ち止めをやった。
「今晩はついてるぞ」
と、つぶやいたかもしれない。
とたんに運命の女神は、なにかしらあの男に損をさせなくては、と思う。
そこでパチンコ屋から出たとたんに、自動車にはねられて大ケガをする。パチンコの打ち止めと自動車事故とでトントンにされたんじゃBさんとしてはたまったものじゃないけれど、運命の女神はこの場合もプラスが一点、マイナスが一点。
「うまくバランスがとれたわ」
と、涼しい顔をしている。
どうも私の見たところ、運命の女神にはこういう性癖があるようだ。
だから、われわれ人類としては、同じプラスの一点をいただくなら、できるだけ中身の濃いもののほうがいい。同じマイナスの一点を課せられるなら被害の小さいもののほうがよろしい。これが生活の知恵というものだろう。
こう考えてみれば、麻雀なんかで多少いい思いをしても、次にどんなことでマイナスを与えられるかわからない。人生には、麻雀なんかよりはるかに大切なことが山ほどある。ぜひとも運命の女神の加護を願いたいことが無数にある。むしろ麻雀のときなどにこそ、おおいに負けたほうがよろしいのである。
「ああ、また今夜も負けてしまった」
と、私が麻雀屋を出たとき、女神は、
――あの男になにかしら埋めあわせをしてやらなくては――
と、すてきな運命を用意しておいてくれるだろう。ちなみに言えば、私が直木賞を頂戴した前夜は、麻雀で惨敗した夜であった。
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ナツメロ賛江
ご多分に漏れずなつかしのメロディー≠フファンである。
なにしろ歌謡曲以外にこれと言った楽しみのない時代に育っているから、愛着の度合いもことのほか深い。あまり性能がよいとは申しかねるラジオの前にすわって熱心に今週の歌謡曲ベストテン≠聞いていたものだった。
そんなメロディーが今ふたたびテレビの画面から流れて来ると、やはり耳を傾けずにはいられない。あの頃ひそかに思いを寄せていたガール・フレンドの顔などもそこはかとなく浮かんで来るのであります。
それはともかく、テレビのナツメロ番組を眺めていると、いくつか気掛かりなことが心に昇って来る。「あの歌はどうしてナツメロ番組に登場しないのだろうか」などと。
たとえば三日月娘=B
※[#歌記号、unicode303d]いく夜重ねて砂漠を越えて
明日はあの娘《こ》のいる町へ
鈴が鳴る鳴るらくだの鈴が……
歌っていたのはだれだったろうか。敗戦後のひととき、マーケットと呼ばれた粗末な商店街の屋根から屋根へとしきりに流れていたような気がするのだが、私はナツメロ番組でこの歌を聞いた覚えがない。
青春のパラダイス≠ニいう歌もあった。
※[#歌記号、unicode303d]あでやかな君の笑顔やさしく
われを呼びて
青春の歌に憧《あこが》れ丘を越えていく……
手もとに歌詞集があるわけではないので、文句のこまかい部分はちがっているかもしれない。この歌は私にとってはなつかしいものであり、充分に、流行《はや》っていたように思うのだが、めったにテレビで聞くことはない。訝《いぶか》しく思って、あるテレビ局のプロデューサーに尋ねてみたら、
「理由はよくわかりませんけど、現実に番組を担当するディレクターたちが、ナツメロ世代じゃなくなっているんですね。つまり、彼らは今ナツメロと言われている歌を子どもの頃に実際に親しんでいるわけじゃない。それで、番組を作るときにここ数年間に歌われているお決まりのレパートリー≠フ中から選曲することが多いんですよ。だから、いったん落ちこぼれてしまったものは、なかなか浮かびあがって来ない。そういうことなんじゃないですか」
と、分析してくれた。
この分析が正しいかどうかはわからないけれど、現象面から見れば適中しているように思う。
いずれにせよ、どうせナツメロ番組を流すのならば、もう少しこうした面での配慮があってよいのではあるまいか。私はいつももどかしい思いを抱いている。
ことのついでに、ナツメロ番組についてもう一つ意見を申し述べれば――。
率直に言って往年のナツメロ歌手たちは歌が下手クソになってしまった。昔はそれぞれに巧みな歌い手だったのだが、やはり寄る年波には勝てない。
訓練をへた声はけっして衰えない
と、おっしゃるむきもあろうけれど、それも程度問題ではあるまいか。
いささか厳しい感想を述べるならば、歌には金をもらって歌う歌≠ニ金を払って歌う歌≠ニ二種類ある。前者は言うまでもなく、プロフェッショナルの歌手たちの仕事であり、後者は私たちが日頃酒場などで歌うカラオケ・ソングの場合である。
ところがナツメロ歌手の中には、残念ながらその技量において、この後者のレベルに劣るとも勝らない$lがいらっしゃる。あえて名前を申し上げる失礼は遠慮するけれど、こういう私の判断に首肯されるかたもけっして少なくないのではあるまいか。
敬老精神は人並みに持ち合わせているつもりだが、敬老精神だけでプロフェッショナルの世界が支配されていいものかどうか。長年の功績を評価するのにやぶさかではないけれど、なにやら評価の方向がほんの少し狂っているような気がしないでもない。
せめて時には、往年のナツメロ歌謡を現役パリパリの歌手のみなさんに歌っていただきたい。そんな番組もたまにはあるのだが、この手のショウではかならず番組の後半で、
「では、このへんで新曲を聞かせていただきましょう」
となって、かならずしもこっちが聞きたいとは思っていない新曲が――たいていはあまりはやっていない新曲が――披露される。とたんにナツメロ番組としてのトーンが崩れてしまう。
「お気持ちはわかりますがね。現役の歌手としては新曲の宣伝をしなければテレビ出演の意味がない。だから、古い曲を歌ってもらうときには、抱き合わせで新曲をやってもらわないと、制作上ちょっとむつかしいところがあるんです」
と、これもあるテレビ局のプロデューサーが述懐してくれた。
このご意見も多分そうだろうな≠ニ納得がいくのだが、配慮の方向がちょっとそっぽのような気がしないでもない。まず第一に視聴者を楽しませることが番組制作の基本なのではありますまいか。
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クレオパトラの鼻
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の顔は変わっていただろう」と、これはあまりにも有名なパスカルの言葉である。そしてその意味も明瞭《めいりよう》であろう。
シーザーやアントニウスがもしクレオパトラの色香に迷わされなかったら、古代ローマの歴史は大きく変わっていただろうし、その結果、世界の地図――パスカルの言うところの世界の顔も、すっかり変わっていただろう。
ところで、クレオパトラは本当に絶世の美女だったのか?
今さら知るよしもないことだが、諸説を総合して考えると、どうやらクレオパトラは美人というより大変センスのいい女だったようだ。
センスのよさを髣髴《ほうふつ》させるエピソードはたくさん残っている。
シーザーに初めて会ったときは、たしか彼女は絨緞《じゆうたん》にくるまって、さながら贈り物のごとく届けられたはずだった。
「なんだろう?」と思ってシーザーが開いてみれば、中からピョンと異国の女王が現われる。演出効果満点の出会いであった。また、アントニウスと魚釣りをして、
「こんなものより世界をお釣りあそばせ」
などと名文句を吐いたのもよく知られている故事である。
さぞかし自分をチャーミングに見せる演出法をたくさん知っていたにちがいない。
女性の中には、目鼻立ちはとびぬけて美しくはないけれど、センスのよさで自分をチャーミングに見せるのがうまい人がいる。あの手のいい女≠フ代表がクレオパトラだったと思えばよろしい。
だから、クレオパトラは自分の鼻が多少低くたって、なんとかごまかして美しく見せることができただろうし、したがってたとえ彼女の鼻が低かったとしても世界の歴史はさして変わらなかった――これは芥川龍之介を初め昔からよく言われている解釈。美術品などに見る限り、彼女はそれほどの美女ではない。
それはともかく、クレオパトラがすばらしい香料の使い手だったことをご存知だろうか。古代エジプトは香料の利用がいちじるしく発達していた国で、紀元前二、三千年頃からすでに各種の香料が用いられていたことが、さまざまな遺跡や文献から明らかになっている。
ミイラの製造も香料を抜きにしては考えられないし、食料の保存のためにも欠かせない実用品であった。
クレオパトラの頃には、肉桂《につけい》、白檀《びやくだん》、乳香《にゆうこう》、没薬《もつやく》、沈香《じんこう》、麝香《じやこう》、龍涎香《りゆうぜんこう》などがおおいに愛用されていた。彼女は一回肌を匂《にお》わすために壺《つぼ》の金貨一ぱいに匹敵する香料を使っていたということだから、全身から立ち昇る香気は大変なもの。特に麝香がお好みで、これは男性の性欲刺激剤として効果が高い。シーザーもアントニウスも、クレオパトラの顔よりもむしろこの馥郁《ふくいく》たる香りに迷わされた、と言ってもあながち間違いではあるまい。
だから、もしシーザーの鼻が曲がって、潰《つぶ》れて、悩ましい匂いを嗅《か》ぐことができなかったら、彼はクレオパトラに迷わなかったかもしれない。かくて「シーザーの鼻が曲がっていたら世界の顔が変わっていた」と言えないこともない。
ジョークはさておき、クレオパトラの鼻はどんな鼻だったか。これも美術品で見る限りそれほどみごとな鼻ではない。だが、クレオパトラは血統をたどればギリシャ人である。だからギリシャ鼻であったと想像することは許されるだろう。
ギリシャ鼻とは、横から見て額から鼻の先まで稜線《りようせん》が一本のまっすぐな直線を描いているのを言う。
われとわが身を鏡に映してみるとよくわかるのだが、日本人にはまずこのギリシャ鼻は皆無と言ってよい。たいていは目と目の間のところでガクンと凹んで、そこから鼻の盛りあがりが始まる。額の盛りあがりからいっきに鼻の盛りあがりに続くという顔立ちは、大和民族のものではない。
人相学のほうから言えば、鼻の稜線がまっすぐなのは大変上品で、高貴な印象を与えるものらしい。ギリシャ彫刻の表情が冷たく、高貴に映るのは、一つにはこのユニークな鼻のせいでもある。あれがクレオパトラの鼻だったのではあるまいか。
クレオパトラの鼻で思い出すのだが、フランスのことわざにこんな名文句がある。
「女の歴史は、女の地理によって決まる」
おわかりだろうか?
女の地理≠ニいうのは、たとえば鼻がどこにどんな形で隆起しているか、目がどこにどんな形でポッカリ凹んでいるか、唇はどの位置に開いているか、つまり顔の造作のことである。
こういう地理によって、女の歴史が、生涯が決まる、というわけだ。
ある人生相談の回答者が、
「女の相談者の場合、どんな顔の人か、それを見ないことには、どうもうまく忠告を与えられないケースが多いですね」
と、述懐していたが、なるほど、女の地理がわからなくては、人生航路の指針もうまく示唆することができないのかもしれない。
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日本語教師
ひところ外国人相手に日本語を教えていた時期があった。
こういう話をすると、すぐに、
「それじゃあ、英会話はお上手でしょうね」と言われるのだが、それは認識不足というものである。
率直に言って、私の英会話能力は、まことにたどたどしい。大学でフランス文学を専攻しているので、
「ああ、わかった。それじゃあフランス語で教えたんですね」
と言われるのだが、これまた見当はずれ。
フランス語のほうも、なんとか読めることは読めるけれど、流暢《りゆうちよう》に話すにはほど遠い。まあ、日常会話ができる程度。これを使って外国人に日本語を教えるなど到底おぼつかない。
ここまで話すと、たいていの人は、「へえー、それでよく日本語教師が務まりましたね」と、首を傾《かし》げる。
そうあからさまに言わないまでもこいつはよほどいい加減な教師であったにちがいない≠ニいった判断を持つものらしく、表情のそこかしこにそんな様子が現われる。
だが、お立ちあい。私がかなりいい加減な日本語教師であったことは八割がた本当だけれども、外国人に日本語を教えるときに、まず第一に必要なのは外国語の会話能力ではない。このことだけは、どうか知っておいてください。
では、なにが必要かと言えば、まず第一に日本語についての知識が大切だ。
「なーんだ。日本語くらいオレだってらくに話せる。漢字だって書けるし、日本語の知識も外国人に教えられるくらい持っている」
と、おっしゃるかもしれないが、これがその実それほど簡単ではない。
たとえば、日本語文法。その中でも動詞の活用。私たちは四段活用とか、上一段活用とか、下一段活用とか、一通り学校で習って知っているけれども、この知識は外国人に日本語を教えるときにはまるで役に立たない。
なんとなれば書く≠ニいう動詞を提出され、さあ、これがなに活用かと尋ねられたとき、学校の勉強では書く≠ニいう動詞にない≠ニいう助動詞をつけ書か[#「書か」に傍点]ない≠ニ、ア段になるから、これは四段活用だ、と習ったはずだ。
ところが日本語を知らない外国人には書く≠ニいう言葉とない≠ニいう言葉を接続させたとき、それがア段になるかどうかわかるはずがない。それがわからないからこそ、文法の助けを借りたいのである。
言い換えれば、私たちが学校で習った日本語文法は、日本語がすでに話せる人に対して日本語の構造を明確化するように、そういう目的で作られたものであった。
外国人にとっては、書く≠ヘ四段活用であり、したがってない≠ニつながるときには書か[#「書か」に傍点]ない≠ニなる、という知識のほうが必要なのであり、書く≠ノない≠接続させて書か[#「書か」に傍点]ない≠ニなるから四段活用だ、というのは本末転倒の文法なのである。
だから、もっとべつな方法で書く≠ェ四段活用であることをわからせねばならない。
以上はほんの一例で、そのほかにもこれに類似した例は山ほどある。
だから、日本語教師になるためには、こうした外国人に消化しやすい日本語の見方≠身につけることが第一義であり、一般的に言えば、英文科の卒業生より国文科の卒業生、それも国語学を学んだ人のほうが、よりよい日本語教師になりうる素地を持っているようだ。
もとより外国語が堪能に話せるにこしたことはないけれど、これはカタコトでもなんとか間に合うし、実際の教室作業では日本語で日本語を教える&法を取っている学校がほとんどなので、外国語会話力は必須の条件とはならない。
私がなんとか日本語教師が務まったのは、文章を書くことを通して日本語そのものについて厭《いや》でも関心を持たないわけにはいかず、そうした知識が外国人に消化しやすい日本語の見方≠身につけやすくしていてくれたからだろう。
それでも一度だけとぼしいフランス語が役に立ったことがあった。
ある時、私が講師を務める日本語学校にサウジアラビアのお姫様が勉強に来て、この人はさながらアラビアン・ナイトの中から飛び出して来たような、ものすごい美人。まあ、美人であることは、この際なんの関係もないのだが、彼女はフランスに留学して教育を受けたので、英語がまるで話せない。やむなくカタコトでもフランス語が話せる私のほうがなにかと便利だろうということで、私が担当の教師となった。
さすがにアラビアン・ナイトのお姫様だけあって、まことに優雅なもの。私の下手クソなフランス語に対しても、おおらかにお笑いくださるだけ。はしたなくとがめたりはしない。
ただ、ただその美しさにおそれいっているうちに授業の終わりを告げるベルが鳴る、といったアンバイだった。あの時、寵愛《ちようあい》を受けておけば、私も日本の石油問題にいささか貢献できたのではなかったか。なにやらうらめしい。
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京都のことば
京都の女は立ち居振る舞いがものやさしいわりにはお腹《なか》が黒い、ということになっている。全国的にそういう評判になっていて、そのことは京女自身もよく知っている。だから、
「どこのお生まれですか?」
「京都です」
「ああ、それでは……」
と、こっちが皆まで言わないうちに、
「そう。お腹が黒いの」
と、察しよくむこうが先に言ってくれる。
京都の女が、日本女性の全国的腹黒さ水準≠ニ比べて、特にきわだって腹が黒いかどうか私にはよくわからないけれど、われら東《あずま》えびすどもがとかく誤解してしまうのは、その独特な言葉遣いである。
たとえば、京都の女は否定語をあまり用いない。
「今晩、夕食をいっしょにどうですか」
と、こちらが誘うと、
「おおきに」
と、言う。
おおきに≠ニいうのは標準語に訳せばありがとう≠ナある。
外国人ならば――つまり、この問答を外国語に直訳して外国人に読ませたならば――まず確実に夕食の誘いは受け入れられたのだと思うだろう。なにしろ相手はこちらの誘いに対してサンキュウ≠ニ答えているのだから。
ところが京都ではそうではない。
右のような問答でおおきに≠ニかありがとうございます≠ニか答えられたら、十中八、九まで拒否されたと考えてよい。
おおきに≠ヘ自分を誘ってくれた好意に対して感謝しているのであって、その内容は、
「お誘いは感謝しています。でも残念ながら……」
である。
本当に誘いに応じるときは、
「ほな、どうしまひょ」
と、話を具体的に進めてくる。
さらに言えば、いったん約束ができて、そのあと彼女のほうになにか事情が生じ、都合がわるくなった場合でも、京都の女は自分のほうからは断わらない。こっちが事情を察して、
「困ったな、どうしよう?」
「どうしまひょ」
「どうにもならんのか」
「間がわるいわあ」
「どうしようか?」
「どうしまひょ」
「またにするか」
「そうやなあ」
初めから答えはノウ≠ニきまっているのに、どうしまひょ≠ニ言って、こっちが否定的な言葉を言い出すのを待っている。どうしまひょ≠ニ言っているけれど、そういろいろと思案の道があるわけではない。
表面に現われる言葉遣いは、以上のように曖昧《あいまい》だが、京都の女はそれほど優柔不断ではない。むしろ合理的で冷静でプラグマチストだから、ものごとの好き嫌い、イエスとノウなどは、はっきりと決まっている。大脳の決断そのものは速いほうである。
ただその決断がなまの形で外に現われないところに特徴がある。自分のほうでは答えがはっきりと決まっているにもかかわらず、それを明確に表現しないで、相手がそれを忖度《そんたく》し迎合してくれるのを待っているわけだ。
歴史的に考えれば、朝廷を中心とする京都の貴族階級は、こういう方法で武家階級を扱ってきたのであり、その名残が現代でも京女の中にうかがえる、と言ってよいのかもしれない。この微妙な二重構造が、はたから見るとどことなく腹黒いように映るのではあるまいか。
歴史の伝統は思いのほか根深いものであり、たとえば東京で東北や九州の方言を使って話すのは一般的に言えば恥ずかしい≠アとだが、女が京都の言葉を使うことだけは周囲もちょっと敬意を払うところがある。お姫様としもじもの関係は今でも残っているらしい。
そう言えば――以上の話と直接関係があるかどうかわからないが――ある女性雑誌の編集者からおもしろい話を聞いたことがあった。
皇室関係の記事を誌面に載せて、その内容にどこか適当でないところがあると、宮内庁に呼び出される。
担当のお役人さまが、問題の誌面を机の上に広げ、渋い顔で、
「よくありませんな」
と、言う。
「どこがどうまずいのでしょうか」
と、尋ねても、なかなか教えてくれない。記者のほうが「ここでしょうか、あそこでしょうか」と質問し、ようやくむこうさんのご不満がどのへんにあるか見当をつける。そこで、
「どう直せばよかったのでしょうか」
と、聞いても、やはり、
「よくありませんな」
としか返ってこない。
記者は、またもや「こう直せばよかったのでしょうか、ああ直せばよかったのでしょうか」と、提案して、ようやく相手の顔色により判断して帰って来るのだそうだ。これが宮中式のやりかたで、京都の女と、どこか共通するところがある。
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石炭発電所
電源開発株式会社が長崎に日本一大きい、強力な石炭火力発電所を持っている。
「それを見物してみませんか」というお話だった。
私には奇妙に心配性のところと、奇妙に楽天的なところとがある。石油エネルギーは先行きの見通しがわるいんだし、電気はやたらに必要なんだし、日本のエネルギーの将来はどうなるのだろうか。
この疑問は私の心配性の部分におおいに響いて心が安らかではいられない。尾籠《びろう》な話で恐縮だが、トイレットでも大≠フほうのときには、電気を消したままかがんだりしているのである。
私ごときが心配したって、なんの効果もあるまいが、なんの効果もないのにいたずらに心配するのが、心配性の心配性たるゆえんだろう。なにかこのエネルギー危機を救う、うまい話がないものかと、ひそかに期待している矢先だった。石炭発電と聞いて、「はい、行ってみましょう」と答えたのは、日頃のこうした思案のためだったろう。
旅は出発の直前までいそがしかった。出発する前に書きあげておかなければいけない原稿が山ほどあった。だから、自分がなんに乗って、どこまで行くのか、くわしい事情まで聞くゆとりがなかった。
どうせいっしょに行ってくれる人がいるのだから、万事まかせておけばいい。
このへんが、まあ、楽天的な部分である。
電源開発広報室のIさんが、午後一時半に拙宅に迎えに来てくださって、
「さあ、行きましょう」
「はい、はい」
身の廻《まわ》りの道具だけ持って車に乗った。車は一路羽田空港へ。行き先は長崎なのだから、とりあえず飛行場だろう、とは考えていた。
空は快晴。西へ傾く太陽を追いかけるようにして長崎空港へ着くと、周辺はすでに黄昏《たそがれ》の中。黒塗りの車が滑るように近づいて来て、
「どうぞ」
「はい、はい」
行けども行けども車はいっこうに目的地まで着く様子がない。
「どのくらい乗るんですか」
「まあ、二時間と少しですね」
車は明らかに山道に入り、日はとっぷりと暮れ、窓の外にはほとんど灯の光も見えない。
考えてみれば、行き先は発電所なのだ。長崎といっても町中へ行くはずはないと、あらためて納得していると、車は急に小さな波止場に着いた。
「着きました」
「はあ?」
どこにも発電所らしきものが見えない。
――おかしいな――
と思っていると、島かげからエンジンの音が聞こえて忽然《こつぜん》と一隻《いつせき》の船が現われ、桟橋に横づけになった。
「さあ、どうぞ」
驚きましたね。
まさか船にまで乗るとは思っていなかった。
乗客は随行のIさんと私だけ。つまり、この船は私を乗せるために闇《やみ》の中から突然現われたのである。そのタイミングのよさが、なにやらスパイ映画の一シーンのような印象である。
ここからは朝鮮半島も遠くないはずだし、金大中氏の誘拐事件などをふと思い出した。
私が不安な様子をあらわにしているのを見て、Iさんがニヤリと笑って「もう簡単には帰れませんよ」と、脅かす。
船は相当なスピードで疾駆し、なるほど私の水泳能力では簡単に逃げられないだろう。岬を廻ると海暗の中にポッカリと発電所らしきものが現われ、それが目ざす松島発電所だった。
翌朝、晴朗なる天気の下で見れば、まことに穏やかな海。島と言っても九州本島からそう離れているわけではなく、一番近いところを捜せば私の泳力でも充分脱出ができるとわかったのだが、夜の海というのは、どことなく怖いものです。
島にはホテルなどあるはずもなく、だが、ホテルに勝るとも劣らない宿泊施設で歓待され、見学旅行はすこぶる快適だった。まずはこの文中にて御礼申し上げます。
本当は松島発電所のすばらしさについて書くつもりだったが、紙数が少なくなってしまった。大急ぎでにわか仕込みの知識を披瀝《ひれき》すれば、この石炭火力発電所の出力は百万キロワット。百万キロワットと言われても、どのくらいのものか見当がつかないでしょう? 私もそうだった。所長の説明では、
「日本で必要な電力は約一億キロワットですから……」
「じゃあ、この規模のものが百個あれば、石油がなくても、日本は大丈夫なんですね」
「計算ではそうなりますが、これだけの設備を百作るのは大変だし、そのための石炭を確保するのも、運んで来るのもむつかしいです」
やはり石炭だけでは駄目らしい。
公害対策にも充分気を遣った、なかなか近代的な設備だったが、やはりいつの日か核エネルギーが登場してくれなければ抜本的な解決はないらしいのです。残念。
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遠い日の美少女
これから書くのは、いくらか甘っちょろい話である。遠い日の感傷である。
比較的幼い時代のあるとき、私は一人の美少女とめぐりあった。初めて出会ったところも、時も、ほぼ正確に思い出せるのだが、それは言わない。
彼女は赤と緑の、粗い織り目のカーディガンを着ていた。眼が幼い草食動物のようにつぶらで、鼻梁《びりよう》がまっすぐに伸びていた。肌の色も静脈が透き通るほどに白い。
いったい顔の好みというのは、いかなる知能の差異によるものか、今でもよくわからない。
ある人は松坂慶子がいいと言う。ある人は大原麗子のほうがよろしいと言う。かと思えば、山口百恵が一番という人もいる。松坂さんも大原さんも山口さんも、それぞれに美人にはちがいないけれど、そして男という生き物は例外なく美人が好きなものだけれど、それにしても何人か並んだ間違いのない#人の中で、特に松坂さんをよしとし、あるいは大原さんを選ぶ、その微妙な差異はなんなのか。
一言で言えば、それは個人の好みの問題なのだろうが、好みの背景には、その人の大脳の働きのようなものがきっと存在するにちがいない。自分の母親にどこか似た傾向の顔を選ぶとか、あるいはそれと正反対のものを選ぶとか、さらにまた、なにか本人が形成した独特な美意識の尺度があるとか……。
とにかく、私はその時見た少女の顔を大変美しいと思った。美しさから受けるショックの強さだけから言えば、生涯で一番か、二番と言ったほどに。今、思い返してみると、本当にそんなにきれいだったのだろうか、と疑問が湧《わ》かないでもないけれど。
彼女は同じ学年の女生徒だったが、私のクラスの人ではなかった。
男と女がまだそれほど自由に会話を交わしたりすることのない時代だった。もちろんなにか用があれば話しもしたが、私が彼女と話をする、そんな都合のいい用件はなにひとつとして思い浮かばなかった。
私はただひたすらに視線で彼女の姿を追った。クラスがちがうので、そういつも見かけるわけにはいかなかったが、彼女が居そうなところにはいつも目を配り、見つけてはじっと凝視していた。
彼女の人柄については、ほとんどなにも知らない。おとなしそうだったが、芯《しん》はしっかりしていたような気もする。家庭環境が複雑で、そのせいもあってか、私などよりずっと大人≠セったような気もする。
私は、彼女のクラスの脇《わき》の廊下を通るときにも、かならずチラリと視線を走らせて彼女の姿を求めた。彼女は窓に近い席にすわっていて廊下に面している窓はたいてい開いていた。
そのうちに、彼女は私の視線に気がつくようになった。
気がついて、なにを思ったか、それもわからない。この男によく見られている≠ニ感づいたのは、おそらく間違いあるまい。そして、自分が美少女であることは、多少なりとも知っていたはずだから、その視線の意味もおおよそ見当がついていただろう。
やがて彼女は転校することになった。私はその噂《うわさ》を聞いた。
転校の一日前か、二日前の放課後、彼女は学校の長い廊下を女友だちと二人で歩いていた。私は偶然か故意か――おそらく初めは偶然で、そのあとは故意だったと想像するのだが――二人のあとを追って歩いていた。
――彼女に話しかけるなら、今が最後の機会だな――
と思ったが、やはり声をかける適当な言葉がない。
仕方なしに道連れの女性に――その人とは何度か話したことがあった――呼びかけた。
その一瞬、わがベアトリチェは、声をかけられた当人よりもすばやくクルリと振り向いた。彼女も私がうしろからついて来ているのを知っていたのかもしれない。
しかし、いぜんとして彼女に話しかける適当な言葉は湧いて来ず、私は当初の予定通り連れの女性に、当たり障りのない用件を話した。
それだけで終わった。いや、そうではない。もう一度彼女には会っている。
彼女が転校して行ってしまってから、一年くらいたってからだったろう。私は駅のポストの前につっ立っていた。自転車の番をしていたような気がするのだが……。
時刻は六時近く、日の入りどき。祭の季節らしく、町をねり歩く山車《だし》がにぎやかな楽の音を風に流していた。
人波の中からポッカリと彼女が現われた。
彼女はポストに手紙を入れに来たところだった。
私のほうに近づく。私は身を堅くする。彼女のほうもポストのそばに立っている人影に気づかぬはずはない。
なにか話しかけなくては――そう思ったが、ヤッパリ言葉が出ない。彼女はポストに手紙を落とし、踵《きびす》を返し、そのまま立ち去った。
凍りつくような時間だった。西の空が無情に赤く映え、祭の音が嘲笑《あざわら》うように風に乗って逃げ去った。本当にこれっきりだった。
私の初恋は、この時より四、五年はのちのことになる。奥手のほうだった。早い時代に女性と仲よくなった男は、生涯を通じて女たらしになりやすいものだ。
女たらし≠ェ言い過ぎなら、女扱いがうまい。
一言、彼女に話しかけていたら、急速に仲がよくなっていたような気がする。彼女と私がどういう間柄になったかはともかく、私の女扱い≠ヘ――したがって私の人生は、相当にちがっていたのではあるまいか。
ポストの脇で別れてから充分に長い年月が流れたが、なにしろ同窓生なので、彼女とめぐりあう方法がまったくないわけでもない。
もし、めぐりあったら、少女は男のあんな視線をどう感じたものか、クルリと振り返ったときの心根、ポストに近づき、そして遠ざかったときの心境などを尋ねてみたいような気がしないでもない。
忘れている可能性のほうが強いだろうけれど。
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おごりの技術
酒場の椅子《いす》を立ったところで、
「おねえさん、お勘定」
「いや、それは困る。今日はオレにおごらせてくれ」
「いいから、いいから。ここはオレの案内した店なんだから」
「そう言わずに、頼むよ」
「まあ、ここはオレに」
よく見かける風景である。世の中にはお金を払いたい人が大勢いるんだな、と思いたくなるけれど、そんなはずはない。サラリーマンにとってはおごるか、おごられるか、そこに微妙な問題がある。あまりおごり過ぎてもいけない。さりとていつもおごられてばかりいるのでは、これも情けない。
「オレがおごる」
「いや、オレが出す」
と言いながら、一定の期間をおいて合計してみると、相互に損得がないよう、適度にバランスをとっている状態が望ましい。みなさん押し問答をしながら、そのへんの計算をチャンとはじいているわけである。
そう言えば、昔、父親からおもしろい話を聞かされたことがあった。父と私は四十歳近くも年齢が離れていたし、めったに父は家にいなかったし、たまに顔を合わせるとたいてい文句の一つくらい言われていたから、あまり父子の対話らしいものを持った記憶がないのだが、あのときはどうした加減か、父は幼い私にかなり高度な処世術めいた教訓を垂れてくれたのだった。
「人にものをおごるときには、三つの方法があるんだ」
「はい」
私は神妙に敬聴していたにちがいない。
「まず高いものをおごって、相手に高いものをおごったとわからせる場合だ」
「はい」
「次は、高いものをおごりながら、安いものをおごったように思わせる場合だ」
「はい」
「最後は、安いものをおごりながら、高いものをおごったと思わせる場合だ」
「はい」
組み合わせとしては、もう一つ、安いものをおごって、安いものだと思わせる場合≠ェ残っていると私は思ったが、父はそのことについてはなにも言わなかった。その時の私は、この教訓の中身をそれほど深く理解できなかったが、今、思い出してみると、なかなか含みのある分類法ではないか。
たしかに客人を豪華な店に案内してここは一流の店なのですぞ≠ニ、はっきり相手に印象づけたほうがよろしい場合がある。銀座のクラブなどには、店のほうでも明確にそういう接待法を意識しているところが多いのではないか。
それとは反対に、超一流の店に連れて行きながら、相手にそれを意識させず、さりげなくご馳走《ちそう》して負担をかけさせない――そんなやりかたのほうがよいケースもある。どちらかと言えば、粋な接待法。一人前の大人ならば、こういう接待法も一通り心得ておかなければなるまい。
相手はずっとあとになって、
「ああ、あれは思いのほか高い店だったんだな。こっちが負担にならないよう、そこまで気を遣ってくれたのか」
と、感銘をうける。あとになってジワジワと好意の効きめが現われて来る。
安いものをおごりながら、高く思わせる技術も時には必要だろう。いくぶん詐欺めいた社交術だが、人生きれいごとばかりではやっていけない。
ずいぶん昔のことだが、りっぱなのし紙を巻いた一升|壜《びん》をいただき、
「二級酒かな。一級酒かな。贈り物だからまさか二級酒ということもなかろうが、一級酒をいただくほどの間がらでもないし……」
のし紙をはいでみたら、中身は醤油《しようゆ》だった。これは、かならずしも相手のほうにごまかしてやろうという気持ちがあったわけではあるまいが、なんとなく欺されたような気がしたのは本当だ。
「醤油と知りせば、あんなに恐縮して頭を何度もさげることはなかったのに……」
と、さもしい考えが浮かんだものだった。私の父が、最後の一つの組み合わせ、つまり安いものをおごって、安いものをおごったと思わせる場合≠言わなかった理由も充分に理解できる。
これはわざわざ教訓として申し伝えるほど重要なことではない。とりたてて修得を心がけなければならないほどの技術でもない。このケースを割愛したのは当然であった。
さて、そこで、私はこの三つの技術を身につけているだろうか。とても自信はない。
高いところに連れて行って、高いと思わせるのは比較的やさしい。残りの二つはどちらも相手を少し欺すことになるわけだが、うまく歎したかなと思ったとたんに、実はそうではなく、相手が適当にこっちにあわせていてくれたような疑念が湧《わ》いて来る。人にものをおごるのは思いのほかむつかしいことのようだ。
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リトマス試験紙
今は小説書きを生業としているが、子どもの頃は化学に興味を持っていた。
兄から使い古しの実験道具をもらい、自室の押入れの中に実験室を作った。アルコール・ランプは、吸入器とかいう扁桃腺《へんとうせん》を治療する器具のおふる≠セった。
一番得意な実験は牛乳の分析。これは何度もやった。
まず一合の牛乳をビーカーに入れ、一昼夜くらい放置しておく。表面に五ミリほど脂肪分が浮く。
これをすくい取って試験管に入れ、上下に激しく振ると、脂肪分が凝固してバターになる。親指の先くらいの分量のバターに塩味をつけ加え、文字通り自家製のバターでパンを食べる。
得意満面の一瞬であった。
脂肪分を抜いたあとの牛乳には、塩酸を加える。すると、たちまち中の蛋白質が凝固する。たしか塩酸カゼインとかいう名前の物質になるのだったと思う。
濾紙《ろし》を使ってこれを選り分ける。豆腐のおからのような物質だった。
残りの液体は、主として乳糖と水分である。この乳糖を取り出すにはどうしたらいいか。
テキストには石灰水で中和して、水を蒸発させると、そのあとにかすかに甘味を帯びた乳糖が残る、と書いてある。
科学少年がこれを試みたのは言うまでもない。ところが、この実験が一見単純そうに見えて、その実はなかなかむつかしい。
その理由は、少年にも見当がついた。
塩酸はどんなに薄めても相当に強い酸である。一方、石灰水のアルカリ度は弱い。
だからよほどたくさんの石灰水を加えないと、なかなか液体は中和の状態になってくれない。一合の牛乳がバケツいっぱいの量の水になってしまい、もうこうなると酸性なのかアルカリ性なのか、よくわからない。
もちろん、この実験にはリトマス試験紙を使った。リトマス試験紙は酸性なら赤に、アルカリ性なら青に反応する。
その理屈はよくわかっているのだが、青と赤とは現実にはわりと近しい色合いで、そのまん中の紫のような、赤紫のような、青紫のような中途半端の色を呈すると、さて、今はアルカリ性になったのか、それとも酸性のままなのか、とんと見当がつかない。
どうやらこのへんで中和したのだろうと見当をつけて水分を蒸発させる作業にかかるのだが、今度はバケツ一ぱいの液を火力で蒸発させるのは、相当に厄介だ。
長時間かけて蒸発をさせても、あとに残るのは――おそらく微量の乳糖も含まれているのだろうが、ほかに石灰の粉みたいなものやら実験室内のゴミみたいなものやら、いろいろ余計なものが混入していて、とてもかすかに甘い乳糖≠析出したような気にはなれない。
実験はいつもこの段階で失敗したように思う。
この実験に限らず、化学実験というものはなかなかテキスト・ブックに書いてあるようには運ばないものだった。
つまり、テキスト・ブックには、いとも簡単にできそうに書いてあるが、実際にやってみると思い通りの結果になることはむしろめずらしかった。
たとえば石けんを作る実験。これも何度か試みたが、石けんらしい石けんを得たことは一度もなかった。
薬品の調合ぐあい、温度の加減、あるいは実験装置の仕様などに、それぞれ微妙な課題があり、それを間違うと、当然のことながら正しい結果が出ない――そういうことではなかったのか。
数々の実験で得た教訓は、実験はテキストの通りにはいかない、ということであり、なぜうまくいかないのかと、その点を考えるのが私の化学実験であった。
この教訓はけっして無駄ではなかった、と私は思う。
とりわけリトマス試験紙は酸性で赤、アルカリ性で青に反応する≠ニいった、ほとんど疑いを差し挟む余地もないほど明白なことでも、実際にやってみれば赤紫≠ネどという予想外のものが現われ、それを判断するところに実験する人間の、主観と勇気が必要だという経験は、なにかしら象徴的に人生の知恵を与えてくれたように思う。
昨今の受験中心の青少年教育は、こういう点で教訓になるものが少ない。リトマス試験紙は酸性で赤、アルカリ性で青=A知識としてそれを覚えれば、それで満点が取れてしまう。
実は、そこから先に問題があるのだと、それを知る機会がない。それを考えるゆとりがない。
テキスト・ブックに書いてない、予想外の出来事が生じたとき、どう対処したらいいのか、たとえば優秀な成績で試験を突破して来た新入社員諸氏も、おしなべてこういう問題には弱いようだ。ちがうだろうか。
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女房と本棚
友だちの奥さんを拝見すると、その友人が人生をどう考えて生きているか、本音の部分がチラリと垣間見えて楽しい。
奥さんがすてきに美人だったりすると、「ああ、なるほど。彼はヤッパリ美人が好きだったのか」と、妙に納得がいく。
ひがんで言うわけではないけれど、美人というものは、我ままだったり、金使いが荒かったり、浮気者だったり、体が弱かったり、力仕事ができなかったり、同情心が足りなかったり……その他、人生をともに過ごすうえでは不都合な欠点をたくさん持っている。
婚約相整うまでに男は三拝九拝、せつに願ってようやく嫁さんに来てもらったいきさつもあり、結婚後の生活でもそう威張って暮らすわけにいかない。
それにもかかわらず、それを承知でこうした女を細君にしているところを見ると、わが友人は、自分の窮屈は多少我慢しても人生をカッコウよくやって行きたいと思う質《たち》なのだろう、と想像がつく。
反対に、友人の奥さんがハッと驚くような不美人だったりすると、これはまたこれで、「ふむ、ふむ」と、合点がいく。
女房なんてものは、結婚当初はいざ知らず、それ以後は表裏見分けがつく程度に顔があればいい≠ニ言うのも一面の真理であって、なまじ美人と結婚して窮屈な思いをするよりも、丈夫で長持ち、気楽につきあえるほうがお徳用である。わが友人は花より実が大切≠ニ考えているのであって、堅実な人生観の持ち主なんだな、と察しがつく。
もちろん広い世間には美人で賢夫人もいるし、あるいはその反対に顔は狸《たぬき》のアカンベエ、性格は絵にかいたような性悪女、最低のケースもあるのだから、ことはそれほど単純ではないし、また、私が言いたいのは容貌《ようぼう》のことだけではない。だが、とにかく、友だちの奥さんを拝見すると、なにかしらなるほどと思うことがあるものだ。
私がそう感ずる以上、私の友人もまた私の妻を見て、いろいろ考えるにちがいない。
――あの野郎、なにを考えやがったかな――
と、思えば、こちらは尻《しり》のあたりがモゾモゾとして、あまり心地のよろしいものではない。
私は、どちらかと言えば、家内を人前に出すのが好きではないのである。
同じことは本棚についても言えるようだ。
つまり……友人の本棚を眺めていると、彼が今、本当に興味を持っているのはなんなのか、思想傾向や趣味|嗜好《しこう》に至るまで、おおよその見当がつく。脳味噌の断層写真がチラリと見えて来る。
竹村健一さんの本なんかがあれば、
――ああ、なるほど。このあいだ核エネルギー問題について、いっぱしのこと言ってたけど、この本の受け売りだな。ちょいと軽薄だぞ――。
と、納得する。
小林秀雄さんの本居宣長≠ネんかがあれば、
――へえー、驚いた。知的好奇心があるのは本当らしいが、新聞の批評なんかに踊らされて、こんな高価な本を買うところもあるんだな。インテリ性みえっぱり――
と、推察できる。
そう、そう、昔、新婚間もない知人のアパートに遊びに行って、本棚の中に性生活の知恵≠ェ二冊置いてあるのを見つけたことがあった。ご承知とは思うが、この謝国権先生の名著は、結婚を前にした男女が読むものとして一時おおいに評判を集めたものである。
そこで、私は思う。
――一冊は亭主が買ったもの。一冊は奥さんが買って実家から持って来たもの。二人とも事前に一応研究したんだな。ご夫婦ともに文献でものごとをよく調査研究してから実行に移すタイプらしい。それにしても本棚の中に平気でこの手の本を置いておくところを見ると、セックスについてはかなり開放的な考え方を持っているほうだろう。このぶんなら二人でいろいろ研究をしているにちがいない――
奥さんが甲斐甲斐《かいがい》しく用意してくれたすき焼きなどをつつきながら、私はかくのごとく思いめぐらした。われながら、あまり結構な趣味ではないけれど、頭に浮かんじゃうのだから仕方ない。
この夫婦に子どもが生まれたのは、それから一年半ほどたった四月の某日だった。
私は、そのニュースを聞いて、またしても「うん、なるほど」と、頷《うなず》いた。
赤ちゃんを生むのに一番よいのは四月である。気候が暖かくなるので育てやすい。悪い風邪をひかせる心配も少ない。しかも四月生まれの子どもは、充分に成長してから幼稚園や学校へ入ることができるので、スタートでつまずくことが少ない。
もし、計画出産ならば、なにはともあれ四月あたりに生むのがよろしい。逆に言えば、厳寒のさなかに赤ちゃんを生んだり、三月生まれの子どもを作ったりするのは、非計画出産のケースが多い。性生活の知恵≠それぞれに持参して研究する夫婦は、当然計画出産だろう、と私は考えたのであった。
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ゲームの王様
室内ゲームは一通りなんでもたしなむ。その中でなにがゲームの王様かと問われたならば、私は囲碁、麻雀、そして丁半|賭博《とばく》の三つを挙げたい。
その選考事情を私なりに説明してみると、まず囲碁――。
思考性の強いゲームの代表格。強い者が絶対に勝つゲームである。
当然、なぜ将棋ではなく囲碁なのか、という反論が予測されるのだが、これに対する釈明はわれながら心もとない。強いて言えば、私が囲碁のほうが好きだ、ということに尽きるのかもしれない。囲碁は初段、将棋はせいぜい三、四級の腕前である。
独断と偏見に満ちた解釈を言わせてもらうならば――私の見たところ、将棋というものは、男性の性的オルガスムスによく似ている。勝負の決着が直線的である。いきなりクライマックスに達して「あっ」と叫んだときには、もう終盤に近づいている。
その点、囲碁は女性的なオルガスムスだ。楽しみの場所があちこちに散らばっている。初めは部分、部分の勝負だったものが、次第次第に総合される。ジワリ、ジワリと押し寄せて来て、何度かクライマックスを繰り返したすえ、ゆるやかに終焉《しゆうえん》を迎える。
ヴァン・デ・ベルデ以来の性科学書を紐解《ひもと》くまでもなく、両性のオルガスムスはその深さにおいて明らかに女性のほうが勝っている。囲碁と将棋を比べて、私が囲碁の楽しさに軍配を挙げる理由も、これに近い。楽しみの鋭さにおいては将棋に劣るが、その深さ、広さにおいては僅少差ながら囲碁が勝る、と私は考えている。
それに、もう一つ、ゲームの抽象性においても囲碁は特筆すべき遊びではなかろうか。
将棋のように両陣営に分かれて、それぞれに特技を持った駒がいて、たがいに攻め、そして守る、といった発想は、それ自体さほどに特異なものではない。ヨーロッパでは同じ発想からチェスが生まれている。もしかしたらUFOの中でも同じようなゲームがおこなわれているのかもしれない。
だが、囲碁は月並みな発想から生まれたものではない。極度に抽象化された思考の産物である。幾何学的な美しささえある。宇宙的な神秘をも内包している、とまで言ったら少し大袈裟《おおげさ》過ぎるかもしれないが……。囲碁も将棋も、ともに思考性の強いゲームの代表格だが、あえてどちらか一つということなら、私は総合点として囲碁のほうを選びたい。
次に麻雀。これもやはりゲームの王様候補からはずすわけにはいかない。
まずおもしろさが抜群である。しかも悠揚せまらざる中国文化の香りが漂っている。スケールの大きさが感じられる。視覚的に美しいばかりではなく、聴覚的にも美しい。
狭いアパートの隣室でポン、チー、ジャラジャラと日がな一日音を立てられたのでは、聴覚的な美しさもヘチマもあったものではないけれど、竹と象牙《ぞうげ》とが触れあう響きは、本来は典雅な音色を持っている。そこまで計算して牌《パイ》を作ったところに、いかにも中国人らしい芸の深さがある。
視覚的な美しさと言えば、役満貫のなんと美しいことか。ちなみに国士無双を目の前に並べてみよう。てんでんバラバラの牌が集まっているはずなのに、全体として一種独特の調和があって、えも言われず優美である。これもまた四千年の文化の伝統を持つ民族の、すぐれた美意識に由来するものだろう。
麻雀の楽しさには、どこか麻薬の匂《にお》いをかぐような放逸な、不健康な印象がつきまとうものだが、これも遊びが遊びである以上かならずしもマイナスとは言えない――むしろプラスと評価されるべき特質ではなかろうか。
そして最後は丁半賭博。これを選んだ理由は、なにはともあれ、その単純さにある。勝負ごとには運不運はつきものだが、丁半賭博ほど完全に運だけに支配されるゲームもめずらしい。
私はほとんどこの遊びをやった経験がないけれど、ギャンブルの典型ということならば、おそらくこれに勝るものはあるまい。ゲーム時間の短いことでも、丁半賭博ほど簡素化されているものはめずらしい。
以上を取りまとめて――室内ゲームというものは、思考に基づく技術と、確率的な運不運とが微妙に混じりあった領域に、その楽しさの根拠を持つものと考えてよかろう。つまり思考性の強いものから運の支配の強いものまで、さまざまなゲームが段階的に考案されている。
そこで私は、思考性に重点を置くとしたら囲碁を挙げ、運不運の典型ということなら丁半賭博を挙げ、両者をほどよく混合させ極度に発達させたものとして麻雀を選んでみた次第である。
もとよりこの選考には、多くの異論があるにちがいない。それぞれがそれぞれの楽しみを最上のものと考えればよろしいのであって、私も深くこの選考にこだわる理由を持たない。
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ほめことば
女性をほめるときには、無条件でほめなければいけない。
「きれいだ。本当にきれいだ。目がいい。鼻がすばらしい。口もとがかわいらしい。ショックだよ」
これがいいらしいのである。
こんな歯の浮くようなことを言ったのでは、あんまり信用されないのではないか、と思うけれど、どうも実情はそうではないらしい。
私は長いことそのへんの事情がわからなかった。それで、だいぶ損をしたような気がしないでもない。
今はむかし、ある女性と知りあった。とても目のきれいな人だった。ちょっと足が太かったけれど、そんな欠点をおぎなって充分余りあるほど美しい目を持っていた。
そこで私は、
「あなたはちょっと足が太いけれど目がすばらしくきれいだ」
と、言ってほめた。もう少しうまい言い方をしたような気もするが、とにかくこういう内容のことを言ったはずである。私としては嘘《うそ》いつわりなく、真実ほめたつもりだった。馬鹿ですねえ。
そのときの私の気持を少し説明すれば――あなたの足はたしかに太い、それは事実だ。つまりボクは事実をありのままに言う正直な人間なんだ。そのボクがあなたの目は美しいと言うのだから、これほど確かなことはない、という心境であった。足が太いけれど≠フ部分は、後半の目が美しい≠ニいう命題の、真実性を保証するための前提だったのである。
ところが、当然のことながら、彼女はこんな屁理屈《へりくつ》を理解しなかった。
彼女は黙って聞き流していたけれど、その心中を今にして察すれば、
――目がきれいなことは、あたし、自分でもよく知ってるわ。足が太いなんて、厭《いや》なこと言うわねえ――
だったろう。
何年かたって彼女は結婚し、その後さらに十数年たって私はたまたま彼女のご夫君と仕事の関係で知りあった。
「うちの女房があなたを知っているそうですよ」
説明を聞いて、私はすぐに彼女のことを思い出した。
「あ、知ってます。ものすごく目のきれいな人だった……」
すると彼が首を傾《かし》げて、
「そうですか。あなたには足が太い≠チて言われたって、憤慨してましたよ」
ヤッパリ彼女は足が太い≠フほうしか記憶していてくれなかったのである。
べつに弁解するわけではないけれど、男にはひどく照れ性のところがあって、女をストレートにほめることができない。いま私が述べた屁理屈も――つまり足が太い≠アとを告げて、相手を少しこきおろし、そのうえで相手をほめる、といった心境は、かなり多くの男が理解できるものではなかろうか。バーのカウンターあたりでも、ホステス相手にこの手の屈折したお世辞を見かけることは少なくない。
女も、理屈としてこの心境がわからないわけではないだろうけれど、現実問題としてこんなほめ方をして、相手に、
「まあ、この人はなんて知性的なほめ方をするのかしら。すばらしいわ」
と思われることは、絶対にありえない。私はこのごろになって、ようやくそのへんの事情がわかったのである。
イギリスの文人チェスターフィールドによれば、
「美女と醜女は知性を認められたがり、美しくも醜くもない女は美貌を認められたがる」
とか。
なるほど。そんな気がしないでもない。
相手が認められたがっているポイントをしっかり押さえて、そのポイントを無条件に巧みに評価することが、女性に恨まれない第一の原則なのだろう。職場の女性に恨まれたら、サラリーマンはなかなか楽に働くことができない。そうでしょう?
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ヤッパリ考
たとえば、アナウンサーが初詣《はつもう》での人の群に質問をする。
「なにをお祈りしましたか」
すると、答えて、
「そうですね、ヤッパリ……一家が安全でありますように」
「毎年いらっしゃいますか」
「そうですね、ヤッパリ……近くに引っ越して来たものですから」
熱戦のすえ勝った相撲取《すもうと》りに質問すれば、
「そうですね、ヤッパリ……早く上手が取れたから」
となり、巨人軍の原選手に抱負を尋ねれば、
「そうですね、ヤッパリ……三割は打ちたいですね」
と答える。
そうですね、ヤッパリ≠ヘ、昨今とてもよく耳にする慣用句だ。私自身もきっと使っているのだろうが、他人の会話の中で二、三回繰り返されると、相当に耳障りなものである。
そうですね≠フほうは相手の質問を軽く受けているだけで、ほとんど意味がない。はあ≠ニかええ≠ニかうん≠ニか、そんな言葉に替えてもいいのだが、それではちょっと短か過ぎる。受け言葉が短いと思考の時間も短くなる。
そこで少し間を持たせるためにそうですね≠ニ、いくぶん長いほうが便利なのだろう。
では、次にヤッパリ≠フほうはどうなのか。ヤッパリ≠ヘやはり≠フ促音形で、辞書を引くとやはり≠フ意味としてもとのまま。前と同様に。なお≠ニ記してある。
しかし、実際の用例を考えてみると、それほど単純ではない。
たとえば、今、例にあげた「ヤッパリ一家が安全でありますように」のヤッパリ≠ヘ、もとのまま≠ナもなければ前と同様に≠ナもない。なお≠ナもない。その他の用例も同様である。
こう考えてみると、この頃《ごろ》やたらに使われるヤッパリ≠ノは、思った通り≠ニいう意味があることに気がつく。
だが、お立ちあい、この思った通り≠熬P純ではない。
「そうですね、思った通り、一家が安全でありますように」
「そうですね、思った通り、近くに引っ越して来たものですから」
と言い換えてみても、あまりしっくりとはしない。だれが思った£ハりなのか、あまりはっきりしないのである。
くわしく説明してみれば、ヤッパリ≠フ内容はみなさんもおそらくそんなふうに考えているのではないかと思うけれど、そう考えた通りに≠ニいった感じなのだが、みなさんがそんなふうに考えている≠ニ思うのは話し手の勝手な想像であって、本当にみなさんがそう思っているかどうかは、さして重要な問題ではない。時には、自分だけがみなさんの代表になって、そう考えている場合もあるし、だれもそんなこと考えていないような場合に使われることさえある。
いずれにせよ、みなさんがどう考えているかという点は、はなはだ曖昧《あいまい》なものだからヤッパリが正反対の場合に用いられても、ちっともおかしくない。
たとえば、
「お父さんはりっぱな社長さんだったが、息子さんもヤッパリ偉いね」
「お父さんはりっぱな社長さんだったが、息子さんはヤッパリ駄目だね」
などの用例はどうであろう。
前の文章のほうが普通な表現だが、後のほうの言いかたもけっして使われないものではない。
お父さんが偉い社長だと息子も偉い社長になる――これは遺伝的に一応そう考える根拠がある。
だが、お父さんが偉い社長であったにもかかわらず、ドラ息子がとてもそのレベルに及ばない、これも日常よく見かける風景である。むしろ現実には、こちらのケースのほうが多いのではあるまいか。
どちらもみなさん≠ェそう考えていてもいいことだからヤッパリ≠ェ使えるのである。
というわけでヤッパリ≠使うと、これから申しあげることは、みなさんも充分お気づきでしょうが、あえて申しあげると≠ニいった意味が漂い、その結果、話し手がいかにも謙虚であるように響く。このへんがヤッパリ≠フ多用される理由であろう。
さらに言えば、日本人は他人と同じ意見であることを好む民族である。この点、フランス人などとはおおいにちがっている。フランス人のおしゃべりは有名だが、あの饒舌《じようぜつ》の中にはオレの考えがどれほど他人と異なっているか≠ニいった内容の自己主張が相当に含まれている。日本人は私もあなたとおんなしよ≠ニ告げあって安心するために、会話をしているようなところがある。
ヤッパリ≠ヘ今述べたようにあなたもそう考えているでしょうが、私もまた≠ニいう意味を含んでいるのだから、こうした日本人の感情によく適合している、と言ってよい。
こんな事情もあって、日常会話でよく利用されるのだろうが、あまり多く使われるのはヤッパリ℃ィ障りですな。
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福娘コンテスト
昭和五十六年の初仕事はまことに幸先のよろしいものであった。
東京・日本橋の高島屋デパートが、創業百五十周年の記念事業として正月の十日、十一日に関西から恵比須《えびす》様のご出張をあおぎ、一階に特設祭壇を設けて、恵比須祭をやろう、という計画を立てた。
「商売繁昌じゃ。笹《ささ》もって来い」の掛け声で賑わう恵比須祭は、関西ではおなじみのもの、新春の行事のハイライトだ。
このお祭りでは福娘という、巫女《みこ》姿のサービス係が人気の的。今宮恵比須でも西宮恵比須でもこのお嬢さんがたを一般から公募するのが習慣になっているらしい。
「東京でも実験的に十五名ほど募集してみましょう」
と決まり、デパートとしてはごく控え目に公募したつもりだったらしいが、千五百名近い希望者が集まった。
書類選考で五十五名にしぼり、次は面接試験。平たく言えば、美人コンテストのようなものですね。
小生はその審査員の一人をおおせつかった。初仕事としてはこの上なくめでたく、この上なく楽しいお勤めであろう。
一度に五名ずつのお嬢さんがたが私たち審査員の前に現われ、一分間だけ自己PRのスピーチをおこなう。私たちは履歴書やアンケートの回答などを見ながらスピーチを拝聴し、容姿を吟味し、なにほどかの質問をして、
「どうもご苦労さまでした」
しかるのち点数をつける。点数は十点満点だった。
事前の打ち合わせで、
「どんな人が福娘らしい人なんですか」
「福を授けるわけですから、ヤッパリ明るい感じの、下っぷくれのお多福顔のほうがいいんじゃないでしょうか」
「影のある美人なんて駄目なんですね」
「はい」
私は薄倖《はつこう》の美女タイプにもおおいに関心のあるほうだから、この点は気をつけねばなるまいと、強く戒めて審査会場へ入った次第である。
よほどのことがない限り十点はつけまいと思った。六点以下もつけまいと考えていた。つまり、これぞ福娘にふさわしいと思ったときは九点、あまりふさわしくないなと思ったら七点、どちらでもない場合が八点である。
しかし、他人を審査するというのは、責任が重いような、申し訳ないような、しんどいところのある作業ですね。
できるだけ客観的に眺めようと思うのだけれど、これも一種の美人コンテスト、個人の好みが入るのは仕方ない。たいして審美眼があるとも思えない私の判断で七点をつけられる人には、その都度どうか気にしないでくださいね≠ニ言いたい気持ちだった。
もっとも志願者のほうは相当にアッケラカンとしたもの。
「スキーに行くお小遣いがほしいので」
「お多福顔のコンテストなら、お前にあってるんじゃないかって言われて」
「今年はなんか今までとはちがったことをやってみたいと思っていたとき、ちょうど広告を見たものですから」
などなどと動機はいろいろ。
恵比須様そのものについては、
「あんまりよく知らないんです。七福神の一人だと思いますけど……」
「商売の神さまなんですか、知りませんでした」
と、いくぶん頼りない巫女さん候補が多かったみたい。
なーに、どうせ二日間のお勤めなのだから、めくじらを立てることもあるまい。
それはともかく、次々に点数をつけていくと、なにやらおのれの好き心を調査されているような気がしないでもない。
だれかが私の点数表を見て、
「へえー、あんなタイプが好きなの。そりゃ完全に中年男のいやらしさよ」
と、みごとに看破されそうな不安が胸に去来してならない。
審査が終わったところで、他の審査員がどんな点数をつけているか興味深く拝見した。とりわけ私が九点をつけた人は、ほかの人にはどう映ったか、この点にはおおいに関心があった。
もちろん評価はさまざまである。
ただ私が九点をつけた人は、たった一人を除いて全部合格した。この結果から言えば、そこそこの審査をしたことになるだろう。
ただし、七点をつけた人の中にも合格者は何人かいて、これは文字通り燦然《さんぜん》と輝く太陽のように明るい娘さん。福娘には、このほうがふさわしいのかもしれない。
つまり、裏を返せば、充分に美しい容姿のかたでも、また知的にすぐれたかたでも、堅い印象、生《き》まじめ過ぎる印象、寂しい印象の人は落選の憂き目をみたように思う。
世間には薄倖の美女℃u向の男性も大勢いるのです。どうぞガッカリしないでくださいね、五十五引く十五名≠フお嬢さんがた。
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作家の生活
一週間が瞬時のうちに過ぎてしまう。
月曜日までにはあの仕事、水曜日までにはあの原稿、そして金曜日にはあれをやって、そう、そう、その次の月曜日までには……と思って、その通り四苦八苦して実行すると、もう一週間が飛び去っているのだ。
先日、親類の女子大生が私の日程表を見て、
「叔父さんの人生って、つまらないのねえ」
と、しみじみ言っていた。
彼女は一月中だけで二度もスキー旅行へ出かける計画があるらしい。そのほかスケートリンクへ行ったり、ショッピングをしたり、遊びのスケジュールにはこと欠かない。それに比べて、ああ、私はなんたることか。新年早々からあさましいほどにいそがしい。三日間さかのぼって夕飯に何を食べたか思い出せないのは老化現象だと聞かされていたので、この一週間なにをやっていたか、仕事のメニューを少し思い出してみた。
一月十一日、日曜日。明日から日本経済新聞主催の文化講座が始まる。私の担当は小説の作法と手法=B去年一年間、基礎講座を受け持ったが、今年はその継続と、もう一つ新しい人のためのコースを担当することになった。午前二時間、午後二時間。本日はその下準備。大相撲の初日をテレビで見て、その後飲酒少々。夜はアサヒグラフ≠ニ東京新聞≠フ取材を受ける。ベッドに入って波§A載中の恐怖抄≠ノ何を書いたらいいかあれこれ思案。結局想を得られず就眠。
一月十二日、月曜日。日経文化教室の講義のため伊勢丹《いせたん》会館へ。二つの講義のあいまが二十分間しかないので、サンドイッチを頬張《ほおば》って昼食。午後の講義のあと、新しい受講生のかたがたと歓談。夜はショッピング&メ集部のA氏、S氏らと新年会。明日の仕事を考えて酒は控え目に。
一月十三日、火曜日。四十六歳の誕生日である。しかし、なにほどかの感慨を抱くひまもなく、朝早くから仕事場に入った。今日中になにがなんでも野性時代§A載中の異形の地図・第六話℃O十枚を書きあげなければいけない。骨子は完全に頭の中にできあがっているのだが、具体的に書く作業というのは、やはり小説作りの中で一番つらい、苦しい部分である。私のようなアイデア中心の作品でもこの事情には変わりはない。
アイデアが浮かべば八分通りできたようなものです≠ニ言うのは、ここまで来れば見通しはつく≠ニいう安心感の面から吐く発言であり、枡目《ますめ》を一つ一つ埋めていく作業は、確実に一定の時間を必要とする。あっと思う間に書き上がっていた、ということはありえない。ほとんど休みなく書き続けて夕刻七時に脱稿。途中に波&メ集部のT氏から電話があって「明けがたまででもお待ちしますから、なにがなんでも今晩中に原稿をいただきたい」とのこと。絶体絶命の状態らしい。夜八時に家に帰り、軽い夕食ののち、恐怖抄§Z枚を考え、筆を取り、夜半十二時に書き終える。T氏は徹夜のよし。編集者も大変だなあ。入浴ののち水割り少々。体がコンニャクにでもなったみたいにグタグタに疲れている。
一月十四日、水曜日。婦人画報§A載中の女のいる風景%十枚をこれまた本日中に書きあげなければいけない。昨日の三十枚よりは十枚少ないから、おおいに心強い。今回が十二回連載の最終回。朝早く仕事場に入り、四時に脱稿。新潮社へ所用があって赴き、そのあと婦人画報&メ集長U氏に四ツ谷でお会いして原稿を手渡す。午後六時半、新宿で太陽≠フ書評会。毎月一回、平凡社の雑誌太陽≠フ書評欄の図書選択のため、小田島雄志、長部日出雄、合田佐和子の諸氏と会合する。私は寺山修司著不思議図書館=A風の書評=AB・エドワード著脳の右側で描け=AC・H・マックギラフィ著エッシャー、シンメトリーの世界≠ネどを持ち帰る。
一月十五日、木曜日。成人の日、江東公会堂で十一時より講演。演題は新しく成人になる人への期待=B早起きをして講演内容のメモを作る。講演のあとはすぐにNHKに向かい、ラジオ第一放送の成人おめでとうヤング・スタジオ≠ヨゲスト出演。われながら、いろんなところへ顔を出すなあ。おおいに反省。夜は酒を飲みながら、日経文化教室受講生の作品を読む。
一月十六日、金曜日。短い原稿の執筆がいくつか溜《たま》っている。アサヒグラフ≠フわが家の夕めし≠フキャプション一枚半。サンケイ新聞≠フコラム直言∴齧半、週刊時事≠フ連載エッセイ脳味噌通信′ワ枚半を猛スピードで午前中に書く。早起きの賜物なり。十一時半に光文社出版部のS氏、H氏が見えて、出版企画について検討。午後ショッピング≠フ取材で人形町界隈の老舗《しにせ》食べ物屋をめぐり歩く。その後東京12チャンネルへ赴き、明日のテレビ番組ウィークエンド東京≠フ打ち合わせ。下手くそながら、この番組のキャスターを毎週つとめているので。
一月十七日、土曜日。午前中はショッピング§A載の東京意外誌¥\二枚の一部分を書く。午後はウィークエンド東京≠フ司会へ。番組の途中で、電通のM氏の打ち合わせ。これは来週、広島へ行く下準備。家に帰って余力があれば東京意外誌≠書くつもりだったが、ダウン。
まことにつまらない人生≠ナすなあ。
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男の嫉妬《しつと》
嫉妬《しつと》≠ニいう漢字は、二つとも女偏がつく。だから、
「嫉妬は女の専売特許だ」
などと言われるが、本当にそうだろうか。
私の見たところ、男もどうして、どうしてなかなか嫉妬精神が旺盛である。
なるほど嫉妬≠ニいう漢字は、女偏で成り立っているかもしれないがやきもち≠ニいう言葉の語源は、男から来ているそうだ。私が言うのではない。あの柳田国男がそう説いている。
むかし、何人かの男に思いをかけられた女が、どの男を選んでいいかわからなくなったとき、火の上に餅《もち》を一つ置き、その周囲に男の数だけ餅を置いて占った。中央の餅が彼女自身であり、周囲の餅は焼く前からこれは吾作、これは多兵衛、これは捨松、これは竜太と決めてある。やがて餅が膨らんで、中央の餅と周囲のどれかとがくっつく。そのくっついた餅に該当する男を彼女は背の君として選んだ。
ところが、最初の餅がくっついたというのに、あとから膨らんで、盛んに女の餅にくっつこうとする餅がいる。これはその男が、すでに決まった二人の結びつきに嫉妬を感じているからだと解釈され、このことからやきもちをやく≠ニいう言葉が生まれた、と言うのである。
つまり、語源的に言えばやきもち≠フほうは、男のジェラシーに由来している。
「しかし、嫉妬と言われると、ヤッパリ女を連想するなあ」
という意見も多い。
小説の中に女の嫉妬をテーマにしたものを探したら、それだけで一大文学全集が完成するだろう。少なくとも男の嫉妬をテーマにしたものよりはるかに多いことだけは間違いない。
だが、この理由は歴史的に、社会的に考えてみれば、すぐに説明がつく。
男にとって嫉妬は感情の問題にしか過ぎないけれど、女にとっては生活問題でもある。
身近な実例を挙げて言えば、女房が亭主の浮気にやきもちをやくのは、そのことにより生活の基盤がおびやかされるからでもある。一方、浮気女に惚《ほ》れ込んだ男は、それなりに悩むだろうけれど、彼女に振られたからと言って彼は生計を失うことはなかった。つまり女の嫉妬は感情プラス生活問題なのだから、女のほうに嫉妬が顕著に現われるのは当然のことではないか。
おそらく女の経済力が強まり、女に養われる男がどんどん増えてくれば、男の嫉妬も相当にヒステリックに、なまなましく現われることだろう。
話は少し変わるけれど、男の嫉妬が集団的に、しかもいくぶん屈折した形で現われる場合もあるようだ。
旧聞ながら、女優の関根恵子さんが舞台をすっぽかして失踪《しつそう》した事件。彼女もひどく悪しざまに言われたけれど、恋人の河村|季里《きり》さんはさらに悪く言われた。大衆感情の中にあんないい女と同棲《どうせい》なんかして≠ニいったねたみがあったとしか考えられない。
よくよく考えてみると、一般大衆は関根さんのために少しも迷惑なんか蒙《こうむ》っていないのである。
迷惑を受けたのは、まず芝居の主催者、劇場、共演者、そして関根恵子主演ということで前売りのキップを買っていたごく少数のお客、それだけのことだ。この人たちが怒っていたのならともかく実情はそうではなかった。言っちゃあ悪いが、女優がりっぱな人格者だなんて、だれも思っていないから、失踪したくらいで国民がショックを受け、そのため道徳水準が下降するとも思えない。この点、総理大臣の醜聞とはおおいにちがっている。関根さんの騒ぎの根底にはいい器量に生まれながら、つまらん男にくっついた女≠ノ対するやきもちがあったとしか考えられない。
そう言えば、三浦友和さんの評判もあまりよろしくないようだ。引っ越し荷物の中に本棚が一つもなかった≠ニか、専門高校を中退しただけの男のオツムなんか、たいしたことない≠ニか、相当に厭味《いやみ》ったらしい噂《うわさ》が飛んでいる。
引っ越しの荷物の中に本棚がなかったなんて、だれがわかるのか? たとえ、なかったとしたって、べつにいいじゃないか。本なんか読まなくたって偉い人はいっぱいいる。まして専門高校の中退なんて人間の評価の基準にしてはならないと、かねがね皆さんが言っていることではなかったのですか。
これもやはり冷静に判断すると、やきもちのせいである。山口百恵さんという、いい女をさっさとさらって行った男に対する大衆の嫉妬のせいである。そして、この嫉妬は明らかに男たちのものだろう。
関根さんについても、山口さんについても、日本中のかなり多くの男たちは、
「あんな男とくっつくくらいなら、オレといっしょになればいいのに」
と、チラリくらいは思ったはずであり、ジャーナリストは自らもそう思い、その思いのたけを記事にしたのだろう。かく言う私の、この小論もその例外ではない。
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イエス・多分・ノウ
政治家と淑女の言葉遣いは正反対である≠ニいう内容の、愉快なフランス小ばなしを読んだ。
その理由はこうだ。
政治家は多分≠フときにイエス≠ニ言う。ノウ≠フときに多分≠ニ言う。もしノウ≠ニ答えるようでは、その人はもはや政治家ではない。
一方、淑女はイエス≠フときに多分≠ニいう。多分≠フときにノウ≠ニ言う。もしイエス≠ニ答えるようでは、その人はもはや淑女ではない。
おわかりだろうか。
たとえば、老齢年金の増額を政治家に訴えてみよう。彼は内心でそれは無理だな≠ニ思っていても脈があるような返事をする。
「予算のわくがきついけれど、なんとか努力してみましょう。福祉問題はわが党のもっとも力を入れているポイントの一つですから」
つまりノウ≠ナあるにもかかわらず返事は多分≠ネのだ。
多少でも実現の可能性がある状況ならば、
「その件は心配ありません。大臣も十分承知していますから。今春早々にも実現されます」
と、多分≠フかわりにイエス≠フ太鼓判を押す。
いくら状況がわるくても、
「そりゃ駄目。無理だな。何度陳情したって、キミ、骨折り損だ」
などとはけっして言わない。ノウ≠フ答えを言うようではとても政治家としてはやっていけない。
一方、淑女のほうは、
「今晩どう? すてきなホテルを知っているんだけど……」
と男に誘われて、内心おおいに望んでいる場合でも、彼女はけっしてイエス≠ニは言わない。ちょっと眉《まゆ》をしかめて、イエスのようなノウのような曖昧《あいまい》な態度で、
「ええ……。でも……今夜は疲れてるから……」
などと言う。つまり中途半端な多分≠フ返事を呟《つぶや》くはずである。
どっちつかずの心境でいるときはもちろん、
「駄目よ、そんなこと」
と、拒否の姿勢に出る。だからノウ≠ニ言われても完璧《かんぺき》に断わられたわけではない。世のプレイボーイ諸氏は、この厳粛な女性心理をよく知っているはずだ。
ホテルに誘われて、「はい、はい」と返事をするようでは、もはや淑女とは言いがたい。
若干の個人差はあるだろうけれど、政治家と淑女の言葉遣いはおおむねこういう仕組みになっているらしい。
だが、以上の指摘はなにも政治家と淑女の場合ばかりではなかろう。オフィスの中でもセールス担当の部署などは、政治家的言葉遣いを愛用するようだ。
電気冷蔵庫を買った奥様が小首を傾《かし》げながら、
「本当にこわれたら修理に来てくれるの? 真夜中でも?」
と、セールスマンに尋ねたとしよう。
まあ、一応そういうタテマエになっているけれど、現実には真夜中に電話一本で修理に行けるようなシステムにはなっていない。
だから本当の答えは多分≠たりが適当なのだが、そこはそれ大袈裟《おおげさ》に頷《うなず》いて、
「ええ、もちろんですとも。救急車より早いくらいですよ」
と、受けあう。
「こわれたら新品と替えてよね」
と言われて、そんなことはできっこない場合でも、
「こわれませんよ。まあ、その時は相談してください」
と多分≠フ返事をする。
お客の注文にはめったなことでノウ≠ニ言ったりしない。それがセールス畑の会話術であろう。
一方、金銭に関係する部門は、一般に淑女のごとく慎重で、
「今月は五、六百万円ぐらい黒字が出るだろう」
と、水を向けられても、
「ええ……まあ……多分」
自信のあるときでも、曖昧な返事をする。気安くイエス≠フ返事をして受けあったりはしない。多分≠フときは、控えめにノウ≠フ返事をしてしまう。
もちろんこうした応対は、ただ単に言葉遣いの問題だけでなく、その人のものの考え方――つまり楽観的に考えるか悲観的に考えるか――とも深く関係していることだろう。
最後にもう一つ愉快な小ばなしを紹介しておこう。
アフリカに靴の売り込みに行ったセールスマンが二人、本社に電報を打った。一人は、「ミコミナシ、トウチデハ、ダレモクツヲハカナイ」
もう一人は、
「ミコミアリ、トウチデハ、ダレモマダクツヲハイテイナイ」
後者のほうがおそらく有能なセールスマンである。セールスマンは楽天的でなければ生きていけまい。
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ビニール本
仕事場で一生懸命原稿を書いていたら、知り合いの編集者が苺《いちご》とビニール本を持って陣中見舞いに来てくれた。苺のほうはともかく、ビニール本のおみやげ品はめずらしい。
「これで元気をつけろというわけですか」
「まあ、そうです」
「元気がつき過ぎたらどうしよう」
「それほどお若くないでしょう」
と、ニヤニヤ笑っている。
くやしいけれど、たしかにビニール本を拝見したくらいでにわかに活気づく年齢ではない。
「これが今、名高いビニール本か……フーン」
などと呟《つぶや》きながら、ペラペラとページをめくった。
そもそもこの手の本を人前で鑑賞するときには一定の作法があるのでありまして、かりそめにも身を乗り出して凝視などしてはいけません。体をはすかいにして、さほど興味はないけれど、まあ、せっかくだからちょっと見ておこうか、いくぶん面倒くさそうに眺めるのが正しい作法。ページの進行につれ、
「なかなかやるもんだねえ」
「モデルはどういう娘なのかねえ」
と、呟き、最後は、
「まあ、ポルノなんてどうってことないんじゃないの。セックスに好奇心がなくなったら人類はおしまいだからなあ」
などと文化論的な擁護でまとめるのがよろしい。もちろん私も作法通りに通覧し、編集者が帰ったあとで熟読|玩味《がんみ》、こまかい部分まで賞味いたしました。
ビニール本とはいかなるものかおおよその見当はついていたのだが、手に取って眺めるのはこれが初めてのこと。どこへ行ったら買えるのか、どこが優良出版社なのか、国法の網をかいくぐってどこまで人体を明らかにしているか、などなどなにも知らなかった。
まだご覧になったことのないかたのために申し述べれば、ビニール本とはきわめて薄い半透明の下着を着用した大胆的カラー・ヌード・グラビア集と考えていただければよい。半透明だから、なにやらもやもやとあやしい風景も窺《うかが》える。あまりにもはっきりと窺え過ぎるときには、一、二ミリの、引っかき疵《きず》のようなぼかしが入る。北欧の解剖図風鮮明写真に比べればこの程度の露出度はまことにささやかなものだが、薄布を通してという、日本的技法は、あからさまの場合よりかえってエロチックに見えるのではないか。
薄布は刑法のお目こぼしにあずかるための苦肉の策なのだろうが、そのためにかえってエロチックになるというのでは、取り締まり当局はなにをやっているのか、と首を傾《かし》げたくなる。
もしかしたら、いっきに露出させてしまってはうま味が薄いので、当局は業者に少しずつ露出の方針を取らせ、業界の末長い健全な発展を願っているのかもしれない。そう勘ぐってもみたくなる。
ジョークはさておき、ここまで許可したのなら――多分、許可したのだろうと推察するのだけれど――もうなにもかも許可しても同じことなのではないかとも思う。ビニール本は、完全なる丸裸にはまだ一歩残余があるけれど、限りなく透明に近い一歩手前である、と、そう理解していただいてもよいしろものだ。
一通りカバーからカバーまで観察したあとで、今度はモデルがどんな顔をしているか、その点を重点的に見直してみた。つまり、一回目のときは顔以外のところばかり勉強していたことになる。
そこで、かねがね考えていたことだが、写真というものは想像以上にその一瞬の雰囲気を――写された人間の感情をうまく掌握《しようあく》しているものだ。写真家がやたらパチパチとシャッターを落とすのを見て、
「専門家なら一枚でピシャッと決められないものかいな」
と、腹立たしく思った時期もあったが、今はちがう。
一瞬のよい表情をとらえるためには、やはり数多く写して必然性の中の偶然性に頼らなければいけないのだろう。つまり、ここまで追い込めば、何枚かに一つ傑作ができるという必然的な情況を作り、あとは偶然性に期待をかけるということだ。
焼き物造りもこれに近いし、版画にもそれがある。もしかしたら私たちの書く小説にも、最後は偶然性に頼ってよい出来を期待している部分があるのかもしれない。隅々まで隈《くま》なく作者の予定したものだけで作られる芸術はむしろ少ない。
話がそれてしまった。しかも堅くなった。人はポルノグラフィを語ると、なぜか堅いことを言ってごまかしたくなる。
ビニール本のモデルたちの表情を見ていると、あらためて本職の写真家はプロフェッショナルだな、と感ずる。ビニール本の撮影者はおそらくその道のりっぱな職業人ではあるまい。だからモデルたちの表情がまことに稚拙である。表情にエロスを! どうかこのあたりをもう一つ工夫してください、などと思ううちに一、二時間はたちまち無為のうちに過ぎ、編集者氏の陣中見舞いは、あまりよいお見舞いにはならなかった。
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チョコレート慕情
チョコレートについて書く。
この原稿を書いているのが二月十四日。ちょうどバレンタイン・デーなので、行きつけの酒場あたりからご丁寧にも贈り物が届く。
これを見て小学六年生の娘が負けじとばかりハーシェイズのチョコレートを一枚買って来てくれた。これは私が時折ハーシェイズの板チョコを買うので、きっと私の好物だと判断したためらしい。
本当のことを言えば、この銘柄が格別好きなわけではない。匂《にお》いなんかは強過ぎて、時には少しなまぐさいような感じさえするのだが、それでもスーパー・マーケットの菓子棚にこれが並んでいるのを見ると、つい手を伸ばして買ってみたくなる。私たちの世代にとってはハーシェイズのチョコレートとラックスの石鹸《せつけん》、この二つは文化そのものの象徴であった。防空壕《ぼうくうごう》の長いトンネルを抜けると、そこにハーシェイズがあった、と言ってもよい。ラックスの匂いをかいだとき、アメリカ人はこんな石鹸を使っていたのか、これじゃあ戦争に負けるわけだ、と彼と我の物資の豊かさのちがいをまざまざと感じたのは私だけではあるまい。
チョコレートの記憶は、昭和十六年、太平洋戦争の直前にまでさかのぼる。その頃、駅の待合室の隅に自動販売機があって、コインを入れハンドルを右に廻《まわ》せばミルク・キャラメル、左に廻すと板チョコが出て来た。これから察すると当時、板チョコとミルク・キャラメルとは同じ値段だったらしいが、その後チョコレートのほうが値上がりをして、今でもこの傾向は修正されていないのではあるまいか。
戦争が進むにつれ、チョコレートとはめっきり縁がなくなった。少なくとも昭和十九年、二十年あたりでは匂いさえ嗅《か》いだことがなかっただろう。当時の食糧事情を考えれば、チョコレートなど食べられるはずがない。もし食べたとすれば、その前後の事情をなにもかも明晰《めいせき》に覚えているにちがいない。だれがくれたか、いくつくれたか、だれと分けたか、すぐに食べたか、などなどを。そんな記憶はいささかもない。
久しく忘れていたチョコレートの香りを思い出したのは、たしか昭和二十一年の秋頃だった、と思う。その頃、私は新潟県の長岡市に住んでいた。進駐軍の兵士は東京でこそいくらでも見られただろうが、田舎の町ではめずらしい。
ある日、駅の近くで遊んでいると列車が止まり窓が開いた。かねて話に聞くアメリカ兵が数人窓から顔を出して外を見ている。私たちは線路ぎわに駈《か》けよって初めて異国の男たちを眺めた。
「ヘーイ」
とかなんとか叫んだかと思うと、窓の中の男たちがチョコレートを私たちに投げつける。銀紙に包んだ小さなチョコレートだったと思う。子どもたちはいっせいに飛びつく。
だが……私は一瞬たじろいでしまった。
昨日までの敵からかような恵みを受けてよいものだろうか。いかに敗れたりとはいえ、投げられたものを争って拾っていいものだろうか。日本人の面目はどこへ行ったのか。まあ、大袈裟《おおげさ》に言えば、そんな考えが頭の中をよぎった。
列車は動き出し、アメリカ兵たちは陽気に手を振って遠ざかった。
チョコレートを拾った子どもたちは、いっせいに紙をむいて食べ始める。私にはなにもない。なにしろ匂いの強い菓子である。しかもその匂いは芋ようかんやブドウ糖の塊などとはまるでちがっている。
真実、頭がクラクラした。
――どうして、オレも拾わなかったのか――
かえすがえすも残念だ。後悔が胸を刺す。なにもこんなところで恰好《かつこう》をつけることもなかったじゃないか。アメリカ兵のほうだって、実に軽い気持ちでバラ撒《ま》いてくれたんだ。猿に餌《えさ》を撒いて楽しむような気分ではなかっただろう。
チョコレートの匂いはしばらくのあいだ周辺に漂い、いつまでも無念さが残った。
ハーシェイズのチョコレートが時折手に入るようになったのは、それから間もない頃だったろう。初めのうちは高価な品だったらしく、なかなか一人で一枚もらえることはなかった。板チョコを凹《くぼ》みの線にそってパリンと割り、一センチ四方ほどのかけらを口の中でいつまでもいつまでも、とろけてなくなるまでなめていた。
父が二十枚入りの箱を買って来てくれたときは家族一同で万歳をしたのを覚えている。
今ではもうチョコレートなんかなんの感動もない菓子となった。近頃の子どもたちはチョコレート類より、むしろお酒のおつまみになるような菓子類を好むようになったとか。
もちろん私自身もチョコレートを頬張《ほおば》って楽しむ年齢ではない。肥満の敵と考えて、どちらかと言えば敬遠している食品の一つだ。
だが、なつかしさだけはいつまでたっても消えない。娘のくれたハーシェイズをパチンと割って嗅ぐと、敗戦直後のさまざまな感興が心に戻って来る。
バレンタイン・デーにはなんの思い出もないけれど、チョコレートのほうならば話はべつである。
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ご先祖様の湯
旅行下手である。
けっして旅は嫌いではないのだが――むしろ好きなほうなのだが、なんとなく自信がない。ポケット版の時刻表を見ているとああ、全国でこんなに多くの列車が時間通りに毎日動いているのか≠ニ思い、なにやらそら恐ろしくなる。信じられない気持になる。
旅行に自信の持てない理由は、はっきりしている。
昔の小学校では五年生になると、初めて日本歴史と日本地理を習った。ところが、私が五年になったのは昭和二十年、敗戦の年。前半は敵機に追いかけられて、ろくな勉強ができなかった。敗戦後はマッカーサーの命により日本歴史と日本地理は教えてはならない♂ロ目とされた。この指令は私が中学を卒業する頃まで生きていた、と思う。歴史のほうはその後、高等学校でも習ったし、他の学科との関連である程度までおぎなうことができたが、日本地理はただの一度も系統的に習ったことがない。とりわけどこそこは米の集散地である≠ニかなんとか本線は、どこを起点としてどこまで走る≠ニか、本来なら小学校で修めておくべきレベルの知識が私の場合みごとに脱落している。
かてて加えて大学時代、周囲の友人たちは旅へ出たりスキーに行ったりしていたが、私は肺結核にかかり、しかもすこぶる貧乏をしていたので、旅行どころではない。卒業してから勤めた国立国会図書館もとんと出張などのない職場で、相変わらず旅をする機会には恵まれなかった。
ある時、全国都道府県のうち私が足を踏み入れたことのない場所がなんと多いことか、その数をかぞえて慄然《りつぜん》としたのを覚えている。
物書き専業になってからは、旅行の機会はいくらか多くなったが、そこはそれ、若い時代にスポーツをやったことのない体が急にテニスなどを始めてもいっこうにうまくならないのと同様に、いまだに旅上手にはなれない。
ふらりと旅に出たくなったときには、旅行好きの友だちに電話をかけ、
「どこかいいとこないか」
と、尋ねる。
わが親愛なる友輩は、私の予算や目的や日数を勘案して適当なスケジュールを立ててくれる。
彼らはたいてい、
「オレはここで一泊して、次の日○×山のほうへ行ったけど、それじゃなくて×○温泉のほうへ行くコースもある」
などと、二者択一、三者択一のコースを示唆してくれるのだが、私はたちまち首を振り、
「いろいろ教えてくれなくてもいい。乗った列車の時刻から泊った旅館まで、みんなあんたの時と同じでかまわない。そっくりそのままのやつを一つだけ頼む」
と、注文する。
どう考えてみても旅慣れた人間のすることではない。われながら少し情けない。今回の旅も、従来の例にたがわず、こまかい部分まで出版社の編集部が決定してくれたものだった。
十一月中旬の某日。上野発九・〇〇の東北本線。ひばり5号。みごとな晴天。私は欣喜雀躍《きんきじやくやく》として出発した。先にも述べたように、旅そのものはけっして嫌いではないのである。
車中にあること三時間あまり。いささか退屈を覚え始めた頃に白石駅に着く。シライシではなくシロイシと読む。特急で行けば仙台のひとつ手前の駅だ。
そもそも――と気張るほどのことでもないのだが、私の両親は仙台出身である。母方のほうは伊達《だて》藩にゆかりの深い家柄で曾祖父《そうそふ》は現実に殿様の小姓役までつとめたことがあったらしい。だが、私自身は仙台に住んだことがない。訪ねたことも一、二度しかない。知識と言えば、笹かまぼこと青葉城恋歌。ほかにもぞっこがすぺしゃやー≠ネどという仙台方言について、充分な聞き取り能力を持っている程度である。
白石駅の改札口を出てタクシー乗り場へ直行。
「青根温泉の不忘閣高原ホテル」
と、教えられた通りに告げると、車は背の低い家並みを縫って走り出した。相互銀行、公民館、公民館の隣りには図書館があり、まずは地方の小都市の標準的なたたずまい。児捨橋という物騒な名前の橋梁を過ぎるあたりから山塊の風景が近づき、やがて蔵王連峰が爪《つめ》あとのような雪渓をあらわにした。
たどりついた青根温泉は、古風な湯治場。町角でライトバンの八百屋と魚屋が店を開いている。聞けば、ここには生鮮食品を扱う店は一軒もないよし。昔風に米、味噌を持って遊びに来た湯治客たちが今晩のおかずの吟味をしている風景だった。
山と山との間の窪地《くぼち》にひっそりと息づいている温泉郷だが、かつては伊達家代々のお殿様の保養地として利用されたところ。また山本周五郎の名作樅《もみ》の木は残った≠ナ一躍全国に名の知れた、あの樅の木があるのもこの地である。つまり原田|甲斐《かい》がさまざまな策略を思案したのが、この温泉郷である。
「NHKドラマをやったあとの、一、二年は大勢お客さんが見えましたがねえ。また、昔に戻ってしまって、まあ、夏のシーズンを除けば、静かなものですよ」
ということであった。
不忘閣高原ホテルは、ここでは一番由緒のある旅館。なにしろ伊達のお殿様の御宿だったのだから、その名も青根御殿と呼ばれる一種の博物館風の建物が敷地の中にある。それを見学するのが、今回の旅の目的であった。
シーズン・オフとあって、宿泊客の数も少ない。旅館の中は森閑としている。
「すみません。もっと遅いお着きかと思ったものですから……部屋を温めてなかったので」
室内が冷え冷えとしているので、勧められるままにひとまず温泉のほうへ。
説明書によれば、享禄元年(一五二八)に当館の祖、佐藤|掃部《かもん》により発見され、浴槽は天文十五年(一五四六)蔵王山の転石を組合わせて作ったもの。伊達正宗公もこの湯を好まれ、頭のよくなる湯泉として知られている、とあった。リュウマチによい、婦人病によい、という話はよく聞くけれど、脳味噌のためによい、というのはめずらしい。
大浴場は、男女べつべつの入り口になっているが、中に入ればしきりを一つ置いただけの共同浴場。しかし、女客はもとより男客もない。湯温が低いのでかるく平泳ぎなどをやって楽しむ。
風呂からあがってもなにひとつやることがない。仕方なしにテレビのスウィッチをひねると、この山間の湯泉宿でも、画面は三浦友和、山口百恵の結婚式≠ナ持ちきり。百恵さんとは、婚約発表の直後に雑誌のインタビューでお会いしているので、関心なきにしもあらず。あの時はいかにも幸福そうな笑顔が印象的だった。
本日の百恵嬢はいささか緊張気味で、それはまたそれで美しい。ヤキモチで言うわけではないけれど、三浦さんという方は特徴の少ない役者さんですね。この手のマスクは、年を取るにつれ、どこにでもいるような、ただのいい男≠ノなってしまうはずだし……。俳優として売れなくなったら、どうするのだろうと、百恵夫人の将来を憂慮していると、
「あの、御殿のほうをご案内します」
と、番頭さんが現われた。
あわてて旅本来の目的に頭を切り換え、見学に立つ。
資料によれば、伊達家ご愛泊の休息所は明治三十九年に焼失し、現在の建物は昭和七年に、かつての様式を取り入れて再現したもの。天井の高い二階建ての桃山風|総檜造《そうひのきづく》り。しかし、四面にガラス窓が張ってあるところを見ると、完全な再現ではあるまい。昔は雨戸と障子だったろう。
特筆すべきは展望のすばらしさ。とりわけお殿様の休息室と推察される部屋からは、居ながらにして仙台平野を一望におさめることができる。天気がよい日には太平洋から金華山まで望めるとか。ここらあたりで美酒でも汲《く》めば、まことに気宇壮大。お殿さまとしては、わが領地いかばかりかと眺めることもできて、さぞや快適であったにちがいない。
これまでにも城下町の史跡を訪ねて大名たちの休息所と称される宿に何度か足を運んでいるのだが、たいていは「こんなものかな」と、軽い失望を覚えることが多かった。
室内の造りや庭園などには贅《ぜい》を凝らした跡が見えるのだが、全体としてはちっぽけな印象で、度肝を抜かれるほどのことはない。ヨーロッパの貴族たちの離宮のほうがよほどものすごい。
「大名と言えども、思いのほか質素だったんだな」
と思ったが、そうした例の中では、青根御殿はまあ、眺めのよさを加えて上≠フ部類に属するのではあるまいか。
座敷には、金屏風《きんびようぶ》、書画、甲冑《かつちゆう》、書状などが陳列してある。鎧《よろい》は当家の家宝で伊達輝宗公のものであったとか。
「修理する人がいないんで、ボロボロなんです」
と、番頭さんははにかみながら言う。
この人はいかにも東北人らしく口数も少なく、しかも調度品を説明したあとで、
「たいしたものは、ないんです」
と、口ぐせのようにつけ加える。
通路の壁には、宮尾しげをの絵日記風のものが張ってあった。
これは、古文書の中に伊達家二十三世重村公が青根に湯治した折の記録があり、それを宮尾画伯が絵日記として書き表わしたものである。
安永七年九月十九日|丑刻《うしのこく》より雨降。今暁七時|供揃《ともぞろえ》にて青根温泉へ入湯のため出馬……
とあるが、伊達家は代々モダンな殿様が多かったから、時刻の表記についても時計を用いていたのだろうか。供揃えの名が記してあるので、数えてみると二十人余り。お殿様は温泉につかり、野鳥狩り、鹿狩り、角力《すもう》・馬追いなどを見物している。現代人の目から見れは、さほど楽しそうには思えない。
話を御殿に戻し――この建物は高台に立っていて、風をまともに受けるから相当に寒い。なにしろ当地は涼々たる蔵王連峰の山麓《さんろく》、冷気にはこと欠かない。雨戸と障子戸だけの頃はよほど寒かったにちがいない。全面ガラス窓になってはいるが、これも昭和初期の造りだから、風でも吹けばガタガタとうるさいこと、うるさいこと。
「台風のときなんか中にいると、ものすごい音ですよ」
という説明であった。
古くからの旅館なので訪ねる人も多いらしく、與謝野寛、晶子の歌、高浜虚子の句が残っている。寛と晶子の歌は、
石風呂の石も泉も青き夜に人と湯あみぬ初秋の月 寛
碧瑠璃《へきるり》の川の姿すいにしへの奥の太守の青根のゆふね 晶子
まあ、可も不可もなし。歌人は行く先々で歌を残さなければならないから楽ではないだろう。いつもいつも名作とはいくまい、といささか同情した次第。
そう言えば、古賀政男の名曲影を慕いて≠烽アの湯治場で想を得たものだ、と聞いた。
失恋の悲しみを胸に抱いて、自殺をするつもりでここ青根までやって来たが、自然の美しさに接して心を打たれ死ぬことはない≠ニ、気持ちを取り直したのだ、と言う。旅館の近所に歌碑が建立され、つい先日除幕式を終えたところだったらしい。不忘閣ホテルには例の樅の木は残った≠フ樅の木も立っていて、これも一応見物してみた。
樹齢の古さはひとめでわかったが、とりたてて感想はない。
夕食前に大浴場とはべつの殿様の湯のほうにも浸ってみたが、こちらのほうもとくに強い感慨はない。原田甲斐があの樅の木を眺めたのは本当だったろうし、伊達のなにがし公がこの湯船のあたりで湯につかったのも本当なのだろうが、今となっては、
「ああ、そうですか」
といった印象しか湧《わ》いて来ない。名所旧蹟を訪ね、一しお激しい懐旧の念に誘われるのは、むしろこちら側の思い入れに由来する部分がほとんどなのではあるまいか。
夜は音もなくひたすらに更け、ただ無聊《ぶりよう》の思いが募るばかり。一ぱい、一ぱい、また一ぱい、盃《さかずき》だけを重ねてぐっすり寝込んだ。
翌朝はさらにまた快晴。見渡すかぎり一群れの雲もない。蔵王連峰はすでに冬姿を装い、前夜の情報では、
「山頂まで車で行けるかな」
と、危ぶまれたのだが、晴天とあってこころよくタクシーを出してもらった。
夏の行楽地、冬のスキー場としてはよく知られている蔵王だが、この季節には訪ねる人も少ない。山域に入ってからそこを出るまでに出会ったのは、道路工事関係者を除けば、たったの三人。荒涼たる風景はさらにもの寂しいものとして映った。
途中|峨々《がが》温泉の、たった一軒しかない宿泊所の脇を走り抜けた。文字通り峨々たる岩壁の下に煉瓦色《れんがいろ》の屋根、ベージュ色の壁の建物が寒そうにうずくまっている。つづら折りの道を昇るにつれ視界はぐんぐん広がり、周囲の風景は一層きびしいものへと変わった。
賽《さい》の磧《かわら》を過ぎると低いブッシュさえなくなり、火山岩地独特の荒い山肌だけの風景となる。
「このちょっと先に不帰の滝がありますが、見ますか。靴が汚れるけど」
と、運転手が言う。
このさい靴の汚れくらいは我慢しよう。ウオーターフォール・オブ・ノー・リターン。名前がわるくない。
ゆっくり考えてみれば、どんな滝だって不帰≠フはずだが、この滝は山の中腹からいっきに落ちて、そのまま水跡を隠すように流れ去ってしまうから、この名があるのだろう。滝の観覧台の周辺は駒草平《こまくさだいら》といい、七、八月には高山植物の駒草が薄桃色の花をいっぱいに広げるという話だったが、今は土塊ばかりで草の茎さえ見当たらない。雪があちこちに積もっている。
やがて車は頂上に近い地点に到着。
「ここから先には行けません。お釜《かま》の見えるところまで歩いてみますか」
お釜というのは蔵王山頂にある火山湖でこの山のシンボル的存在である。これを眺めなければ、五千円あまりのタクシー代を費やしてここまで来た甲斐がない。
「どのくらいかかりますか」
「往復で三十分かな」
「じゃあ待っててください」
傾斜は十パーセント。雪もある。ただ一人よろめきながら登る道に寒風が吹きつけ、耳がちぎれそうだ。トックリのセーターの襟《えり》をさながら銀行強盗のごとく高く伸ばして顔を包んだ。
短い枯草が歯ブラシのようになって揺れている。察するに、水滴が草の茎に付着し、これが風に飛ばされ、飛ばされながら凍りついてしまったのだろう。
快晴の空の下で遠くの山脈がみごとに輪状の褶曲《しゆうきよく》をつらねている。
山頂のレスト・ハウスは厳重にドアと窓を鎖して季節はずれの来訪者をかたくなに拒否している。
まっ青な火口湖が見えた。
左に外輪山の馬の背が伸び、右の五色岳をえぐるようにして濁緑色の水面があった。山頂からの距離は三、四百メートルだろう。
水辺まで行ってみたい衝動を覚えたが、とてもこの装備では無理だろう。靴一足駄目にするくらいなら我慢するが、帰り道が楽ではあるまい。さっきから凍えるほどの寒さにさらされ歯の根があわない。
とたんに奇妙な連想が心に昇って来た。
――もし、あの車の運転手が私を置きざりにして行ったら、どうなるかな――
この寒さの中をトボトボと、とにかく人の姿の見えるところまで歩いて戻らなければなるまい。この快晴の空の下なら命にかかわることはあるまいが、下手をすればひどいことになるぞ。
――推理小説の材料になるかもしれないな――
思案はすぐに職業のほうへ移った。仕事熱心なのです。
カメラは持って来たのだが、風景が大き過ぎて、とてもレンズに捕える自信がない。ちまちました写真に撮るよりも、私は自分の眼底によりきびしく、より鮮やかにこの風化した奇っ怪な自然を焼きつける道を進んだ。
しかし、と思う。なにかここまでたどりついた印を残したいのだが……。
はなはだ頼りない、いささか尾籠《びろう》な話だが、私は急に放尿を思いついた。白い雪の原に近づき、水を放った。
私の脳裏には黄色い穴が雪の中へ染み込む光景があったのだが、それは平原ののどかな雪の風景にこそふさわしいものだろう。
風は一瞬にして水を散らし、黄ばんだ色さえ雪の上に認めることができなかった。
放尿のあとで語るのはおそれ多いが、蔵王は霊山である。仰ぎ見ると、さらに小高いところへ続く道があり、その行く手に刈田嶺神社《かつたみねじんじや》の社が望み見えた。しかし、そこまで登る時間もあるまい。
私は道を引き返した。タクシーは最前の位置で私の帰りを待っていた。
「どうでした」
「すごい眺めですね」
「これだけ天気のいいときはめずらしいですよね」
おそらくそうなのだろう。タクシーの中にすわり込み外気を避けたところでふと思った。
――伊達《だて》のお殿様もここまでは来なかったのかな――
青根御殿の展望もすばらしかったが、ただ一人晩秋の蔵王に立ってみた風景は、他の比較を絶するほどみごとなものであった。この絶景は――いささか大袈裟かもしれないが――私の生涯にもう一度めぐりあえるものかどうか。
帰路、三階滝と不動滝を見る。
どちらも山頂にかなり近いところにある滝なのに、水はどこから出て来るのだろう。手品を見物するような、違和感を覚えた。山は冬枯れで水を置く葉の気配さえないのだから……。
山頂から二時間足らず、白石の町に着けば蔵王のきびしさは消え失せ、一転してのどかな田舎の町となる。
いや、そうでもないのかな。私はあらためて児捨橋≠ニいう名を眺めてみた。
蔵王の麓《ふもと》の町がのどかに見えるのは旅人の勝手な感想かもしれない。少なくとも何百年かの昔には、きびしい自然が人間たちにきびしい運命を与えていたのではなかったか。
そんなことをぼんやりと考えながらはるか山の端を振り返ったが、蔵王は山かげに隠れ、もう姿さえ見せなかった。
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コンプレックス
コンプレックスと言うと普通、劣等感の意味に用いられる場合が多いが、これはあまり正しい言葉の遣いかたではない。本来の意味でのコンプレックスは、ひとことで言えば、深層心理が抱く願望のこと、つまり自分ではそれとはっきり意識できないけれど心のどこかに、ある欲望が抑圧された状態で鬱積《うつせき》していて、それがいつか噴き出すチャンスを狙《ねら》っている――そんな心理傾向を指して言う。
劣等感も一種のコンプレックスにはちがいないが、コンプレックスは劣等感だけではない。
たとえば、よく知られたものにエディプス・コンプレックスがある。この言葉の語源となったエディプスはギリシャ神話に登場する英雄で、父を殺し母と結婚した。
男性はその成長期において、自分ではほとんど意識しないけれど、父をライバル視して憎み、恐れ、母を最初の異性として愛する心理傾向を根深く宿しているものであり、例のフロイトがこの心理傾向を取り出し、ギリシャ神話の象徴的な英雄の名を借りてエディプス・コンプレックスと名づけたわけである。
エディプス・コンプレックスほどよく知られたものではないが、ユディット・コンプレックスというものもあって、ユディットはたしか旧約聖書の登場人物だったろう。敵軍に町を囲まれ、その敵軍の大将のところへ操《みさお》を献げに行く。そして処女を与えた後で眠っている敵の大将の寝首をかく。
処女というものは、強い男に自分の処女を奪われたいという願望を持つものであり、だが、それでいながら自分の処女を奪った男に対して愛情と同時に憎しみをあわせて抱くという、複雑な存在であるそうな。自分でははっきりと意識しないけれど、心の奥底にそういう心理傾向を抱いているものなのだ、と精神分析学者は指摘する。そんな心理を旧約聖書のユディットにちなんで、ユディット・コンプレックスと呼んだのである。
私はずいぶん昔からこのコンプレックスというものに興味を持っていた。自分の脳味噌の中に理性では統治できない異分子が存在しているような気がしてしようがない。そいつらがいつ独自の行動を起こすか剣呑《けんのん》でならない。そんな不安がいつも私の心の中にあって、
「なるほど。学術用語ではコンプレックスと言うのか」
と、その素性を合点したからであろう。
幼い子どもの中に学校に行きたくない、行きたくない≠ニ思っていると、本当に足が動かなくなってしまう子どもがいる。けっして仮病ではない。真実足が動かなくなってしまうのだ。これもコンプレックスが反逆行動に出た一つのケースである。学校に行きたくないという心理が抑圧されて心の中にしばらくは鬱積していたのだが、ある日とうとう我慢できなくなり、理性の統治を越え、じかに足を動かす神経に命じてストライキを起こさせてしまったわけだ。
河合隼雄氏著のコンプレックス=i岩波新書)を読むと、この複雑な心理が巧みな比喩《ひゆ》で説明されていておもしろい。
コンプレックスというのは、いってみれば政党の中の小さな派閥みたいなものであり、普段は党大会の多数決決定に従って行動しているが、ときにはその決定に不満のある場合もある。しかし、党決定がある以上、一応はそれに従って行動しなければいけない。不満は一層内攻してはなはだおもしろくない。ますます不満が募る。
その結果、ある日突然分派行動を起こすこともありうる。また表立って分派行動を起こさないまでも、不満のはけぐちを求めてあちこちを突ついてまわる。人間の心因性疾患の中には、多分こうしたコンプレックスの悪戯に由来するものが相当数あるにちがいない。
つらつら考えてみれば、人間が意志決定をするときには、なにほどかの逡巡《しゆんじゆん》があって当然のことだ。今、布団を蹴って起きるべきか寝続けるべきか、電車に乗るべきかタクシーで行くべきか、右へ進むべきか左へ進むべきか……いちいち私たちは決断をくだしている。この場合意志決定が、たとえば九十対十とか、八十対二十とか、圧倒的多数で決まるときは問題が少ないだろうけれど、時には五十一対四十九というきわどい判定によって決定がなされる場合もあるだろう。脳味噌の中の判定は、国会議事堂のようにそう簡単に数値を計ることはできないが、たとえて言えば、それほどきわどい意志量の差で一つの行動を取るよう意志決定がなされるときもあるはずだ。
決定は五十一の側に下り、行動はそれに従って取られるだろうが、四十九の側には不満が残る。なんとか自分たちの存在を明らかにしたくなる。そうでもしなければ、とても精神のバランスが円満に保てない。抑圧されたコンプレックスは、こうしていつか蜂起のチャンスを狙い始める。
私のハートは本来、優柔不断に満ち満ちているのだが、いざ行動を取るだんになると清水《きよみず》の舞台から飛び降りるようにサッと決断をすることが多い。優柔不断を支えているのが自分で苦しくなって、それから逃れたい一心であたふたと行動を起こし一つの既成事実を作ってしまうのだ。それだけに心の中に残る鬱憤《うつぷん》も多い。コンプレックスには厭《いや》でも関心を持たざるをえないのである。
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マイ・コンピュータ
この頃《ごろ》自分が子どもであった頃のことをよく考える。
私自身が人の子の親となり、毎日否応なしに自分の子どもを眺めているので、それが引き金となって昔のことを思い出すのだろう。
六歳の時に太平洋戦争が始まった。当時はたしか大東亜戦争と呼んでいたと思う。
私は極楽と地獄の存在を信じていた。
戦争が始まれば敵が攻めて来ることもあるだろう。そうなれば爆弾に当たって死ぬこともあるだろう。
ところがわれとわが胸にかえりみて、私はあまり善良な子どもではなかった。嘘《うそ》をつくとか、小遣いをくすねるとか、盗み食いをするとか、どうせたいした悪事を働いていたわけではあるまいが、子ども心としては反省してあまりりっぱな人格と頼むことはできなかった。
――このまま死んだら地獄へ行かなければならない――
おおいに恐れおののき、十二月八日の開戦を境にして庭掃除をしたりお使いに行ったり、たとえ死んでも地獄に行かないですむように善行に励んだ。
ところが開戦当時の日本軍はすこぶる景気がよかった。次々に敵地を占領し、領土を広げ、このぶんではとても内地まで敵軍が攻めて来るとは考えられない。善行は十日坊主≠ュらいで終了し、もとの木阿彌《もくあみ》に戻ってしまった。
なぜ極楽や地獄の存在を信じたのだろうか。この理屈が今考えても笑いが止まらないほどおかしい。
近所に結婚した人がいて、これは当時の習慣に従って神前結婚であった。新郎新婦は神の前で手を合わせ、結婚を報告した。
それから一年ほどたって子どもが生まれた。少年はこの現実をつぶさに観察して、
――なるほど。神様に報告したおかげで子どもがさずかったんだな――
と考えた。
神が存在するものなら、当然地獄も極楽もあるだろう。まことに明快な論理であった。
当時私の父は鉄工所の経営者で、家庭は、まあ、裕福であった。
裕福と言ってもたかがしれている。せいぜい中産階級の上ぐらいのところ。とりたてて裕福さを自慢できるほどの状態ではなかったが、とにかく父は社長の肩書を帯びていたし、家屋敷も花崗岩《かこうがん》の塀をめぐらした見苦しからぬたたずまいだった。
子どもとしてはわが家は金持ち≠ニ信じていたのだろう。
ところが野口英世の伝記を読んでも、二宮金次郎の伝記を読んでも、みんな貧乏の人ばかりである。
少年少女のための伝記作者は、いかなる見識のなせるわざか知らないが、現在でも偉人は子どもの頃貧しい生活を送り、その苦しみによく耐えた、と書くのがお好みのようである。戦時中はさらにこの傾向が顕著であったように思う。
私はおおいに失望した。
どの伝記を読みあさっても貧乏の話ばかりだ。楠正成《くすのきまさしげ》、中江|藤樹《とうじゆ》、山本|五十六《いそろく》、みんなそうだった。
――ああ、ボクはとても偉い人にはなれない――
花崗岩の塀を眺めて、何度失意のため息をついたことか。
しかしこの落胆は、間もなく近衛文麿《このえふみまろ》の伝記を読んで解消された。
子どものための読み物の中にどうして近衛文麿の伝記があったのか、単行本だったのか、それとも雑誌の中の一つの記事だったのか、そのへんの事情はなにもかも忘れてしまったが、とにかく近衛文麿という華族の末裔《まつえい》が、金持ちの子であるにもかかわらず一かどの人物になったという記録が少年の私を励ました。その事実は今でも明晰《めいせき》に思い出すことができる。
子どもというものが、いったいどんな思考をめぐらすものか、一般的な傾向は私にはよくわからない。ただ、以上のようなエピソードを思い返してみると、私はかなり合理的な――すこぶる手前勝手な、子どもらしい合理性にはちがいないのだが――少なくとも形式論理としては合理的な思考傾向を持った子どもだったような気がしないでもない。
そのせいかあらぬか、ある年齢までは科学を専攻するつもりだった。技術者として身を立てるつもりだった。
それがどこでどうして小説家への道を選んでしまったのか、その経緯を説明するゆとりはないけれど、奇妙な理屈をこねる癖は今でも変わっていない。小説の中にもその傾向は見られなくもない。
人間の脳味噌というものは、相当に幼いときから一定の思考プログラムを持っていて、そのコンピュータは容量を変えることはできるとしても、本来の機種をなかなか変えがたいもののように私は思うのだが、これは教育学の理論にもかなうことなのだろうか。
このごろ私は自分の子どもたちの脳味噌の中をつぶさにのぞいてみたい、と思うことが多い。
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恋の曲がり角
――映画の中の思い出の一場面は?
と、尋ねられると、私はいささか古い話ながら太陽がいっぱい≠フ中の一シーンを思い出す。
監督ルネ・クレマン。主演は世紀の美男子アラン・ドロン。ヒロインを演ずるマリー・ラフォレも、助演のモーリス・ロネもそれぞれによかった。
映画の歴史の中にはこの役はこの人以外に絶対にない≠ニいうほどの、はまり役がいくつかあるものだが、太陽がいっぱい≠フ主役は、未来|永劫《えいごう》にアラン・ドロン以上の人は出ないだろう、と私は思う。
育ちの悪そうな美男子。野心と卑屈さ。いくらかゲイっぽいところもあって、あの映画が成功した理由の一つは、なにはともあれ、これほどうってつけの役者を見つけて来てその位置に据《す》えたことだったろう。
名場面にもこと欠かなかった。とりわけエンド・マークも近くなって、アラン・ドロンが目のくらむような青い海を眺めながら「太陽がいっぱいだ」と叫ぶシーンは実感があった。音楽のすばらしさは言うまでもない。
だが、あまり映画評論家などが指摘しなかった場面だが、私にはやけに心に残るシーンが一つあった。
ラフォレの扮するヒロインと婚約した男が失踪《しつそう》し、自殺したらしいことがほぼ確実となる(実はドロンが殺したのだが)。かねてからそのヒロインに惚《ほ》れていたドロンはドサクサの空き巣|狙《ねら》い、このチャンスに女をいただいてしまおうと考える。女は悲しみのドン底に突き落とされていて、彼女自身はどれだけ意識していたのかはわからないけれど、だれか新しい恋人を見つけて、その愛にすがりたい気持ちを心のどこかに宿している。しかし、それはむしろ潜在的な願望だ。当面は消え去った恋人に対する激しい慕情だけがふつふつと心を満たしている。
こんなとき男はその女をどう口説いたらよろしいか。やさしいようで案外むつかしい。
こんな場合の女には、去った男に対する愛の深さを悲しみの深さで裏づけたい心理が働くから、そうあっさりとチェンジング・パートナーの心境にはなれないし、また弱みに乗ぜられまい≠ニいう保身の意志も働く。心の奥底では新しい恋を求めているくせに、素直に手を伸ばせない情況なのだ。
これは現実にもよく起こることですね。
たとえば私にA君という友人がいて、このA君の恋人がB嬢だったとしよう。私はかねてからひそかにB嬢に惚れている。だが親友の恋人だから我慢しているわけ。ところがB嬢はA君に振られてしまい、泣く泣く私のところに相談にやって来た。うちあけ話をしに来たと言ってもよい。彼女はどれほど自分がA君を愛しているか≠告白し、でも、もうなにもかも駄目になってしまったの≠ニ訴える。
私としては、その苦しい胸の内を聞いてあげるのにやぶさかでないけれど、さんざんそれを聞いたあげく、
「ま、それはそれとして、今度はボクと仲よくやりませんか」
とは切り出しにくい。彼女の話を聞けば聞くほどそういう心理情況ではないことがよくわかる。だからと言って、「あの野郎、ひどい奴だ。前にもひどいことをチョイチョイやってたんだ。麻雀屋の娘をはらませたこともあるし、よその奥さんには年中ちょっかい出してたし……」
と、あることないこと並べたてて彼女の心をA君から引き離そうとしても、そうは問屋がおろさない。彼女の心の中ではA君は、いまなおいとしい人として生きて≠「るのだから、その彼を悪く言うような奴などにとても好感を抱いてくれるはずはない。
彼のことを話題にしすぎても駄目、またしなくても駄目。スムーズにこっちに向かせるには、なにかうまい方法を考えなければならない。
わが親愛なるアラン・ドロンも同じ立場にあった。そこで彼はどうしたか。
薄暗い部屋にポツンと独りすわっているラフォレに背後から近づいた。消え去った男についてなんかひとことも話さない。そして、うしろから肩を抱くようにして、ギターを彼女に抱かせた。
男の体のぬくもりが傷心の女の膚を暖かく包んだにちがいない。そこでラフォレの手を取ってギターをつまびかせた。ポロン、ポロンと断続的な音が響き、それが少しずつまとまった曲になり、まるで炎がメラメラと燃え立つように妖《あや》しい音色が響き、その高まりの中で女の心が前の男から新しい男へと移っていく。その微細な心理の変化がなにかジーンとするほどしっとりと理解できた。ドロンはこの間なにもしゃべらない。理性を楽《がく》の音《ね》で殺し、膚から膚へ無言のムード作りで気持ちを伝えたのであって、さすが名匠ルネ・クレマン、心憎い演出をするものだと私はひとり感じ入った。
現実生活では、これほどうまくいくとは限らない。そばにあいにくギターがなかったり、ギターがあっても彼女がひけなかったりして、まことに実生活は演出が行き届いていないものだ。
私の場合はどうだったか。もう何十年も昔のことなので、いい加減忘れちまったけれど、たしか彼女の悲しいのろけ話≠タップリ聞かされて、私はなにも言い出せなかったのではなかったか。
恋の道は繰り返すものとか。あなたにも似たような体験はありませんか。
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パンドラの箱
ギリシャ神話の中のエピソードパンドラの箱≠ノついては、たいていの人がある程度の知識を持っているだろう。
プロメテウスが神々の国から火を盗んで人間に与えたので、これに怒ったゼウスが、人間たちをこらしめる意図で贈った贈り物、それがパンドラ≠ニいう名の女だった。
パンドラのパン≠ヘ、今でもパン・アメリカン航空≠ネどの名称に用いられているパン≠ニ同じで、全《すべ》ての≠ニいう意味である。そしてドラ≠フほうが贈り物≠フ意。パンドラはその名の通り神々からの全ての贈り物を身に帯びて人間世界へ舞い降りて来た。たとえば、美貌《びぼう》、器用さ、知恵などを。
しかし全て≠ニ言う以上、よいものばかりではない。外見の美しさとはうらはらに、彼女は邪悪な贈り物を持参の箱の中に隠し持っていた。
プロメテウスの弟エピメテウスは、かねて兄よりゼウスの贈り物にはろくなものがないから気をつけろ≠ニ言われていたが、パンドラの美しい声と美しい姿に惑わされ、つい、つい迎え入れてしまう。
一方、パンドラは、ゼウスからこの箱はけっして開いてはいけない≠ニ言われて来たのだが、そう言われれば言われるほど開けてみたくなるのが人情だ。
とうとう我慢ができなくなり、封を切ると中からムラムラと怪しい煙が立ちのぼり、病気、災害、戦争、悪意、嫉妬《しつと》など、ありとあらゆるこの世の悪が飛び出した。
人類の不幸はこの時から始まった、とギリシャ神話は説いている。
箱の中から諸悪が飛び出すのを見て、パンドラはあわてて蓋《ふた》を閉じた。時すでに遅く、諸悪の根源はみんな飛び散ってしまったが、かろうじて箱の底に一つだけ残ったものがあった。それは希望≠ナあった。
このへんがギリシャ神話のよくできているところだ。パンドラの箱の話を知る人は多いが、この最後の部分まで知る人は少ない。もろもろの悪にさいなまれながらも、人間が希望だけを一縷《いちる》の救いとして持ち続けられるのも、このせいなのだ。
こんな昔話を思い出したのは、ほかでもない。総選挙がめぐって来るたびに、私はいつもパンドラの箱≠考える。
解散の声と同時にセンセイがたが選挙区に飛び散る。さながらパンドラの箱の中からパッと黒い煙が飛び散ったように。とてつもない金額の札束が闇《やみ》から闇へと動き、いまわしい取引が交わされ、これが諸悪の根源となる。選挙民に残されているのはただ今度はもう少しましになるんじゃないだろうか≠ニいった希望だけ。
違うだろうか?
話は少し変わるが、私は自分の略歴を書くときに、いつも東京生まれ≠ニ記す。
だが本当のことを言えば、これは正確ではない。実際の出生の地は新潟県の長岡市だ。当時、私の父は東京と長岡に家を持っていて、母は常時行き来していた。私は長岡で生まれ、間もなく東京へ移り、小学校も東京で入学した。本籍も東京にある。戦争中に疎開をしたが、育ったのは大部分東京である。そんな事情もあって東京生まれ≠ニしているが、もう一つ主体的な理由がなくもない。
長岡市は衆議院の選挙区で言えば、新潟三区で、ここからはその名を言えば日本中だれでも知っている大物政治家のT氏が出ている。
T氏は目下ある疑獄事件の被告として裁きを受けている。これも天下周知の事実だ。解決までにはまだ何年か日時がかかるだろう。
私はT氏の政治的手腕を疑わない。T氏のおかげで新潟県はずいぶんと豊かになった。雪国の生活は――私も経験があるのでよくわかるのだが――なかなか厳しいものである。
選挙民がそういう苦境から自分たちを救ってくれる存在としてT氏に傾く理由も実感としてそれなりによくわかっていると思う。
しかし、国の最高のポストまで極めた人間が、その周辺にあれほどいまわしい噂《うわさ》を立てられ、それで平然としているのは、どうなのか。不思議と言えば不思議である。
昔風の言葉で言えばしめしがつかない≠ニいう気がしてならない。
他の政治家も似たようなことをやっている、というのは多分本当だろう。
だが、せめてそんないかがわしさが明るみに出た場合くらいは、おそれいっていただかないと、本当にしめしがつかない、と私はごく控え目ながら考えてしまう。
当人の政治的業績、あるいは地元の期待がどれほど大きいものであったとしても……。
私は政治的関心はすこぶる薄い人間だが、いかがわしい噂のある人物がいっこうに批判を受けることもなく、選挙のたびごとに当選してしまう事実を不思議に思う。そういう選挙民に対して、これでいいのかな、と思わないわけにはいかない。
なんとなく東京生まれ≠ノしてしまったのは、そんな事情からでもある。
このこととパンドラの箱とどう関係するのか、無関係であることを願ってはいるのだが……。
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流行語
流行にはフラフープ型とパチンコ型とがあるそうだ。
十何年か前みんなでまわそうフラフープ≠ニかなんとか言って、合成樹脂の輪をしきりに胴の周囲でまわす遊びが流行《はや》った。合成樹脂の輪はその後しばらく物置きのすみなどに置いてあったが、今は見る影もない。
一時的にパッと流行し、その後あとかたもなく消えてしまうのが、フラフープ型の流行現象である。
そこへ行くとパチンコは根強い。多少の浮き沈みはあったのだろうが、インベーダーの出現にもけっして侵されず、今なおにぎにぎしく玉をはじいている。ある一時期に幅広く流行し、その後もそれなりに流行り続けるのが、さしずめパチンコ型の流行というものなのだろう。
言葉にも流行がある。
兵隊の位に直すと∞ご清潔で、ご誠実で∞ハイそれまでよ≠ネどなど、大部分がフラフープ型の流行で、いっときはあちこちでさかんに口の端にのぼった言いまわしも、今聞くとああ、昔、そんなのがあったな≠ニ、苦笑まじりに聞き留めるだけだ。
はかない命にはちがいないのだが、それが国民的な広がりで流行《はや》っていくときには、なにかその時代の人間関係に鮮烈に響く要素を含んでいるようだ。
今日この頃では、幼稚園の先生が困っている。
※[#歌記号、unicode303d]カラスなぜ鳴くの
と歌い出せば、子どもたちは、例外なくいっせいに、
※[#歌記号、unicode303d]カラスの勝手でしょ
と歌うからだ。
テレビの人気番組で歌い始められたものらしいが、どことなくおかしい。
そのおかしさがあればこそ、たちまち広がって、一種の流行語めいたものになってしまったのだ。
言われてみれば、その通り、カラスの鳴く理由は、カラスでなければわからない。カラスは山にかわいい七つの子があるからよ≠ニ考えるのは、それこそ詩人の勝手なイマジネーションであって、とても正鵠《せいこく》を射ぬいているとは思えない。
山に残して来た七羽の仔《こ》ガラスの身を案じて鳴くというのは、ロマンチックな空想にはちがいないが、詩人のそうした思い入れがいくぶん馬鹿らしいと考える感情が、受け手の側になくもない。
世間はやたらにいそがしく、あわただしくなっているから、現実をはるかに飛翔《ひしよう》した詩的な想像にそれほど愛想よくつきあってはいられない。
カラスの勝手でしょ≠ニいう短い文句に対して、なにか現代的なおかしさを感ずるのは、おそらく私たちの感情の中に、そうした乾いた∴モ識が内在しているからであり、この文句が、さりげなくその部分に触れているからにちがいあるまい。
そう言えば、もう一つ、手をあげて横断歩道で死んでいた≠ニいう、奇妙な標語(?)も、ひところよく耳にした。
出どころはツービートなる漫才師。言うまでもなく手をあげて横断歩道を渡ろうよ≠ニいう、まっとうな標語のパロディーである。
内容的にはブラック・ユーモアなのだろうが、このパロディーもよくできている。
かつて飛び出すな、車は急に止まれない≠ニいう、もう一つの交通標語が人口に膾炙《かいしや》していた頃この標語は間違っている、同じ言うなら、飛び出すな、子どもは急に止まれない、とすべきではないか≠ニ、異論を唱えた人のいたことを私は思い出す。
子どものほうに注意をうながすより先に、車の運転者に対して、子どもはもともと活動的なものなのだから、それを予測して急激な運転をしないよう忠告するのが先決なのではないか、という主張であった。
手をあげて横断歩道を渡ってみたところで、無謀な運転者がいれば歩行者の安全はけっして保証されない。なまじ手をあげてさえいれば安全だと思っているだけ、かえって危険なときもある。
現実に、手をあげて横断歩道を渡っていたにもかかわらず事故にあったケースは、数限りなく実在する。
私たちは感覚的にそのことを知っている。手をあげて横断歩道を渡ろうよ≠ニいった楽天的な標語に対して、全面的に愛想よくつきあっていられない理由がそこにある。
ツービートのパロディーは、こんな感情に鋭く響くところがある。
先にも触れたように、流行語はおおむねフラフープ型の現象だ。カラスの勝手でしょ≠熈横断歩道で死んでいた≠焉Aさながら野をかける火のように全国に広がり、やがてその寿命もつきてああ、昔、そんなのがあったな≠ニ、記憶の片すみに残るだけのものとなってしまうだろう。
だが、それが広がっていく、その短い期間には、時代の微妙な心理的必然性を担っているような気がしてならない。
それがなければ、そうたやすく愛用されるはずもないのである。
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我慢比べ
むかし、白兵戦の経験を持つ軍人から興味深い話を聞いたことがあった。
塹壕《ざんごう》の中に敵味方が対峙《たいじ》している。
その時、
「突撃!」
の号令がかかる。
一番最初に塹壕を飛び出した男は、まず十中八、九、敵の銃弾の集中攻撃を受けて死ぬ、というのである。
兵隊は体験的にこの事実を知っている。だから「突撃」の命令が下っても、だれもがまっ先には飛び出したがらない。だが、だれかが飛び出さないわけにはいかない。
時間にすれば、ほんの一秒か、二秒にすぎないのだろうが、仲間たちのあいだで無言の戦いが起こる。
「お前、行け」
「お前こそ行け」
いや、仲間同士の争いと言うより自分の心の中の葛藤《かつとう》かもしれない。
「行かねばならない」
「いや、一歩でも遅れたい」
極度に緊張した焦燥感の中で、とうとう我慢ができず、いたたまれずに、フイと飛び出す者がいて、それが死ぬ。
「なんていうのかな、精神的にどこか弱いところのあるやつがヤッパリ耐えきれなくなって、飛び出すんですね」
という話であった。
私には、この心境が――いたたまれずに我を忘れて飛び出してしまう男の心境が、身に染みてよくわかる。私もまたジリジリと追いつめられた情況に置かれると、もうやみくもにその情況から逃れたくなってしまい、
「えいっ、もういいや」
と、みすみす損な道に自ら飛び込んでしまう性癖がある。やはり、これは生来の気の弱さのせいなのだろうか。
話は変わるが、先日、ある麻雀大会で名手の手さばきを背後から観戦した。
彼は次の打牌の時に捨てる予定の牌を、手牌の右隅に置いておく癖がある。
私もいくらか麻雀を知っているから、
「ああ、あれは危険牌だな。捨てるのかな」
と、思う。
名人は打牌のたびごとに、その捨てる予定の危険牌≠ノ指先がかかるのだが、なかなかそれを捨てない。そのうちに、だれかが同じ牌を河に捨てる。
「ロン」
叫ぶ者がいて、予想通りその危険牌は当たり牌であった。
名人は、いかにも危なかったといった表情を作り、
「ヤッパリそうか。オレもこの次に捨てようとしてたんだよなあ」
と、つぶやく。
この場面を見る限りでは、名人も私もさして腕前に差がないように思えたのだが、何度か同じ場面に遭遇しているうちに私は気がついた。
危険牌を危険牌だと覚ることは、それほどむつかしい技術ではない。少し経験をつめばだれにでもわかることだ。だから、問題は手の中に余分な危険牌があるときそれをどう処理するか? 処理するうまい方法がないとき、それをどこまで我慢して持ちこたえているか、その我慢の強さにこそ名人の名人たるゆえんがあるのではないのか。
私などは、
「どうせ使えない牌なんだし……えいっ、男は度胸、女は愛敬、あとで後悔すればいい」
などと叫んで、いさぎよく突撃してしまうのだが、これが命取りになるのはご推察の通りである。
名人は口先でこそ、
「次に捨てようと思ってたんだ」
と言うけれど、果たして本当に次の打牌のときに捨てたかどうか、あやしいものである。
だれかが大きな役を聴牌し、虎視|眈々《たんたん》と和了を狙っているときは、言ってみれば、あの塹壕の中で突撃≠フ命が下ったときと類似している。
我慢できずに飛び出した者が討ち死となる。そうと知りながらも、精神力にもろいところがある者は、つい、つい、飛び出して後悔のホゾを噛《か》む。
今どき、この太平の世の中では塹壕の白兵戦の話など時代錯誤の匂《にお》いがするだろう。麻雀の話も、たかが遊びごと、たとえ役満貫を振り込んでみたところで、さほどに深刻に悩むことでもない。
だが私は毎日の平凡な生活を送りながら、時折、今述べたこととよく似た現実にめぐりあうときがある。つまり、我慢の能力の差が――ほんのわずか我慢ができるかどうかということが、決定的な差異を生むような、そんな事態に遭遇することがある。
そう言えば、野球でも球ぎわの強さ≠ニいう言葉があるけれど、あれも同じことではないのか。守備の名人は、ほかの人よりもほんの〇・何秒か長くタマから目が離れない。ほんの何ミリかグローブの手が長く伸びる。また、打撃の名人も、タマを追う視線が〇・何秒か長いだけのことだろう。
こうした人たちは、一つは訓練の賜物として、一つは天性の能力として、凡夫よりもほんのわずかだけ多く苦しさに耐えて自分の能力を広く、長く発揮できるよう自分の体を作っているのだろう。
「英雄は普通の人より勇気があるわけではない。ただ五分間だけ勇気が長続きするだけなのだ」
と、言ったのは、たしかエマーソンだったと記憶するけれど、私はこの言葉の中にも同じ意図を読む。
なにかに優れている人とは、凡夫に比べてほんのわずか持続の精神力が……力学的とも言ってよいような我慢の強さが勝っているだけなのではなかろうか。
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一時、夢の中でものを食べる練習をしたことがあった。
食べ物の夢はだれでもよく見るだろうが、どなたも体験があるように実際に食べるところまではなかなか行かない。箸《はし》がなかったり、蛆《うじ》がたかっていたり、あるいはお客を待たなければいけなかったりして、たいてい食べる直前で他の夢に変わってしまう。目が醒《さ》めてしまう。私は食い意地が張っているせいか、これが残念でたまらなかった。
なんとか夢の中でご馳走《ちそう》が食べられないものか。
なにはともあれ暗示を与えてやるのが一番だと考えて、布団の中で、
「きっと食べてやるぞ。食べられるはずだ。うまいはずだ」
と、念じてから眠ることにした。
ある程度効果はあった。私は寿司《すし》が大好物なのだが、夢の中で二、三度寿司の立ち食いをやり、上等の鮪《まぐろ》を食べた。事実おいしかった。
しかし、これを続けていると、今度は困ったことにあまり食べ物の夢を見なくなってしまった。
脳味噌《のうみそ》というものは、あれでなかなか防衛本能の発達したものらしく、気ままに食べ物の夢を見させていたあいだは結構一か月に一、二回くらい食べ物の夢を描いていたくせに、
「さあ、それを食べろよ」
と、命じたとたん、
「面倒だな。いちいち食べなきゃ駄目なのは疲れてかなわん。そんな注文を出されるんなら一層のこと食べ物の夢そのものをやめてしまえ」
と、サボタージュを決め込むようになったのだろう。
こうなると、もう夢でものを食べるわけにはいかない。しばらく忘れていたら、ようやくまたこの頃になって食べ物の夢を見るようになった。
私の書く小説は、現実と非現実の境目のあたりをテーマとすることが多いから、どこか夢と似通ったところがある。夢をそのまま主題とした作品もいくつかあるし、現実を描くその手法が夢の中の認識そっくりの作品も数多い。
当然のことながら私は夢におおいに関心がある。
ものを食べる夢を見ようと努めた頃と前後して、夢を記録してみたことがあった。
枕《まくら》もとに雑記帳を用意しておいて、朝起きたとたんに今見た夢を記録するわけだ。
夢というものは、比較的浅い眠りの段階で見るものであり、普通は目醒めの直前に見るものである。だから、目を醒ました瞬間は記憶もなまなましい。時間を置くと、現実で体験したこととちがって記憶が薄いらしく、すぐに忘れてしまう。とにかく要点だけでもいいから枕もとのノートに記すようにした。
朝の目醒めのときばかりではない。夜中に夢を見て、その直後に目を醒ますこともある。こんな時にもスタンドの灯をともして記録に努めた。
目的は小説の材料になることがあるのではあるまいか――つまり小説のタネ探しのためである。
一か月ほど続けてみたが、あまりおもしろい夢を見ない。そのうちやけに疲労を覚えるようになった。
察するに、夢を見ているときに脳味噌のどこかで早く目を醒まして記録をしよう≠ニいう意識が働くのではあるまいか。睡眠が浅くなり、熟睡感を覚えることが少なくなった。
材料探しのためにはさして効果もなく疲労ばかり溜《た》まるのではなんのたしにもならない。二か月ほど続けたところでやめてしまった。スチーブンスンは夢で見たものをヒントにしてジキル博士とハイド氏≠書いたということだが、どうも私にはそういう好運は訪れなかった。
夢の予見性ということがよく言われる。いわゆる正夢《まさゆめ》というしろものだ。夢で見たことが現実に起こるというケースである。
私は他人と比べてかなり豊富に夢を見ているような気がするのだが、こうした正夢のようなものはただの一度も感じたことがない。どうやら予見の能力には縁遠いのだろう。
人間の脳味噌のタイプとして未来志向の脳と過去志向の脳とがある、という話を聞いたことがある。未来志向の脳味噌はいつも将来のことに関心がある。古い恋人のことを考えるより、さあ、今夜はどうやって新しい恋人を得ようかと考える。過去志向の脳は、古い出来事のくさぐさを何度も心の中に反芻《はんすう》してこれを賞味する。失われた時を求めて≠書いたプルーストなどはどう考えてみても過去志向の脳味噌の持ち主だったろう。
私もまた明らかに過去志向のほうだ。小説家にはこのほうが向いているのかもしれない。行動人はおそらく未来志向のタイプだろう。夢に予見性がないのは、こうした脳のタイプと関係があるのではなかろうか。夢のノートを見返してみても過去の記録としての夢を見たケースが多い。
この章でこのまじめ半分≠ヘ終わりとなるけれど、ここで扱ったテーマも過去志向のものが多かったのではあるまいか。過去志向は老化現象のせいかもしれないし、いささか気掛かりである。
角川文庫『まじめ半分』昭和59年10月25日初版発行
平成9年6月10日30版発行