阿刀田高
ぬり絵の旅
目 次
1982・春 東京駅
1973-74 新宿・高円寺・上高地・水戸・鴨川
1982・夏 原宿
1982・秋 会津
1982・冬 志摩・名古屋城
1983・春 長崎・雲仙
1983・秋 鳥取・島根
1984・冬 秋田
1985・夏 御巣鷹山
1986・春 魚津
1988・春 南楽園
1989・夏 和歌山
あとがき
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1982・春 東京駅
人ごみの中にいると、岡島中彦はよく馬鹿らしい想像をめぐらす。
――今ここで懐《ふところ》に一番たくさん金《かね》を持っているのは、どいつだろう。その金がストンと俺《おれ》のものにならないだろうか――
金額はどれほどか。
一千万円……。まさか。昨今は多額の現金を持ち歩く人は少ない。たった十万円くらいだったりして。
同じように、
――今ここで一番美しい人はだれだろう――
当然その女性が自分と親しい関係になってくれることを考える。
なんの現実性もない。ただ思いめぐらすだけ。それが楽しい。ささやかな遊びになる。何百人かの人間が集っていれば、いろいろな人がいる。思いがけない才能の持ち主もいるだろう。見ただけではわからない。英語のめっぽううまい人。天才的なギャンブラー。一番寿命の短い人。今日のうちに死ぬ人だっているかもしれない。想像はどこまでも広がって行く。
東京駅の地下道。たくさん集って来ている。みんなせわしなく動いている。中彦は新幹線の改札口に向かいながら、頭の片すみでいつもと同じような思案をめぐらしていた。
たとえば、一番おしゃれのうまい人。
眼は女性に向く。
しかし、東京駅はこのテーマにあまりふさわしいところではないようだ。旅に出るとき、だれしも少しは着飾るだろうけれど、ここは田舎《いなか》の人も多いところ。やっぱり銀座か、青山あたり。
――おしゃれってのは不思議なものだな――
頭の働きとたしかに関係があるはずなのに、きっかりと一致していない。とても賢い女性なのに、着る物のセンスが極端にわるい人がいる。反対に、馬鹿のくせに、おしゃれだけはうまかったりして……。本当にわからない。
――きれいな黄色だな。あの人がこの地下道で一番おしゃれ上手かもしれない――
一瞬眼を向けると、それに応《こた》えるように黄色のスーツがツツンと近づいて来て、立ち止まり、ゆっくりと笑った。
「……やあ」
戸惑《とまど》いながら声をあげた。
眼の焦点を女の表情にあわせ、四、五秒をかけて朋子《ともこ》だとわかった。
「お久しぶりね」
そう、八年ぶりかな。いつかこんなことがあるかもしれない、心の奥にそんな思いがないでもなかった。
人ごみの中に身を置きながら、
――これだけ大勢いるんだから、俺《おれ》の知人もきっといる――
これも中彦がよく思う癖の一つである。ぼんやりと朋子のことを考えていたかもしれない。
「どうしてるの?」
「どうしてるのって?」
「たとえば……お子さんとか」
「結婚、やめちゃった」
「えっ、離婚?」
「まあ……そうね」
「思いきったこと、やるなあ」
「あなたは?」
「俺は独りよ、あい変らず」
「大学の先生に……なった?」
通路のまん中に突っ立っていては通行の邪魔になる。壁際に寄りながら、
「なるわけないだろ」
と答えた。
「だって、大学院に行ってらしたじゃない」
「就職がなかったからだよ。時間、ある?」
「私はいいけれど。どこかへ行くところなんでしょ」
朋子はボストンバッグに眼を止めて言う。旅仕度《たびじたく》らしいと気づいたのだろう。
「名古屋へ」
「お仕事?」
「そう。予備校の教師をやってるんだ」
「予備校って……受験の」
「そうだよ。えーと、一台遅らせる。そこでお茶を飲もう」
構内にビュッフェがある。
「いいんですか」
「十一時ジャストのひかり≠ノ乗れば、ギリギリ間にあう。二十分くらいある」
「ええ」
連れだってビュッフェに入り、
「コーヒーでいい?」
「はい」
コーヒーを二つ頼んだ。
「大学院へは行ったよ。知ってるだろ。ろくな就職がなかったもん」
「勉強家でしたもんね、岡島さん」
「そりゃちがうよ」
誤解をされては困る。むしろものぐさで、好きなことを好きなようにやって生きている。けっして勤勉ではない。一昨年母が死んで、だれに心配をかけるわけでもない。自分さえよければそれでいい。勝手気ままに暮らしている。三十代のなかばに達し、つくづくそんな生き方が自分にあっているとわかった。
「でも、英語がすごかったじゃない」
「そうでもない。英語なんかアメリカに行けば乞食《こじき》だってできる」
「そりゃ、そうでしょうけど」
子どもの頃から英語が好きだった。たしかに勉強はしたけれど、勤勉とはちがう。テレビが好き、タバコが好き、昼寝が好き、それと同じ次元の問題だ。四六時中熱心にテレビを見ていて、勉強家とは言うまい。のべつタバコを喫《す》っているのは、ただのヘビイ・スモーカーだし、やたら昼寝をしているのは勉強とはもっとも遠い性癖と見なされる。
中彦の場合は、たまたま英語が好きだったから、せっせと読んだ。ほかの教科には、なさけないほど興味がなかった。
さしたる考えもなく英文科に進み、就職もままならず、漫然と大学院へ進んだ。
実情を知らない人は、大学院と聞くとすぐに学者を連想するらしいが、けっしてそうじゃない。現に学者になる人の数なんか限られているし、中彦のように自己流の生き方を捨てきれず、人生の決断を意味もなく先に延ばしているだけの手合いもたくさんいる。
「東京で教えて、週に一回、名古屋へ行く」
「そうなの」
朋子は少々不満らしい。
「これが本職」
と、テキストの入った鞄を叩《たた》いた。
「おもしろい?」
「とくにおもしろくはないけど、俺には合ってる。分相応。もしかしたら天職かもしれない」
「まさかあ」
「本当だ。武芸者みたいなもんだから」
「武芸者?」
「そう。宮本武蔵とか佐々木小次郎とか」
「予備校の先生が?」
テーブルの上にコーヒーが並び、朋子がシュガーの袋を切って、まず中彦のカップに注ぎ込む。
「うん。俺はまだそんなに強くないけどサ。予備校の先生はみんななかなかの実力者だよ。高校の先生なんか足もとにも及ばないんじゃないのか。だけど、組織に属してチャンとやるのが下手《へた》くそなんだ。仕官して殿様に仕えてみても、根が正直で、わがままで、オベンチャラ言ったりすることできないから、すぐにしくじっちゃう。あとは腕をたよりに、あっちの道場、こっちのお屋敷、用心棒みたいなことやって生きてるわけよ」
「そこが宮本武蔵なのね。岡島さんらしい。あい変らずおもしろいこと言って」
「大学なんてとこは、古手のボスがやたら威張ってて、助手になるのも、講師になるのも、地方の三流大学に飛ばされるのも、みんなそういう連中の胸先三寸だもんな。だから若いのはボスの鼻息ばかりうかがってるよ。顔つきまで卑屈になる」
「むかないわね」
「むかない」
「痛いめにあったみたい」
「そうでもない。もともとそっちのコースに色眼を使ってなかったからな。一人でそっぽ向いてたよ」
「じゃあ、今は勝手やってていいわけ?」
「まあな。力があって、ちゃんと教えてれば文句は言われない。やくざみたいな背広着て来る講師もいるよ」
「そうなの」
「だれの顔色うかがうこともないもん。第一、予備校って、今、一番いい学校じゃないのか」
「どういうこと?」
「うん? 大学なんか最低だよ。生徒は勉強したがってないし、教師のほうも教えたいわけじゃない。学校ってのはサ、習いたいです、はい、教えましょう、それが原点だよ。習いたくもない奴を集めて、教えたくもない奴が出席とったり、私語を禁止したり、試験でおどかしたり……。俺、自分もろくでもない生徒だったから、偉そうなこと言えないけどな、あんな連中に教えたくないよ。態度わるくて。高等学校だって似たようなもんじゃない。タバコ喫《す》うな、髪染めるな、エスケープするな、そんなとこまでいちいち面倒みる気ないよ。予備校はちがうもんな。習いたくない奴は来る必要がないんだから。本当。もっとも教育的な環境だよ、あそこは」
「あなたらしいわ」
「それよりあんたのこと聞こう。どこに住んで、なにをしてるんだ?」
コーヒーに砂糖を入れすぎてしまったらしい。ただ甘いだけ……。風味もなにもない。
「デパート、やめたわ」
「それは知ってる。で、あのあと、すぐに結婚したわけだ。好きな人だったんだろ、当然」
「うーん、どうかしら。父が昔風で、簡単にさからえるような家じゃなかったのよ、私んとこ。もちろん相手もそうわるくはなさそうだったんだけど」
「ふーん」
「いろいろゴチャゴチャあって」
「わからない」
「短い時間で説明できることじゃないわ」
「そりゃそうだ」
「話しにくいわ」
「まあ、よかった……んだろ」
「そうね」
「で、実家へ帰って……」
「そうでもないの。そのあと父が亡くなっちゃうし、兄の家族とは一緒に居にくいでしょ。今は東中野のマンション。お友だちと原宿《はらじゆく》にアクセサリーのお店を持つの。私は店員をやるだけですけど……。お時間よろしいの?」
と時計を見る。
「ああ、行かなきゃ」
と伝票を取って立ちあがった。
「すみません。送って行くわ。いい?」
「いいけど」
地下道を早足に歩いた。
朋子が入場券を買い、新幹線の改札口をくぐる。
「何番線?」
「十九番かな。自由席だから」
「毎週行くんですか」
「そう。ビジネス・ホテルに泊って、明日の早い列車で帰って来る」
「大変ね」
エスカレーターを昇り、
「ちょっと待って。すぐ出て来る」
あいているシートにボストンバッグを放り投げ、プラットホームに戻った。
「乗り遅れないで」
「あと五分はある。いいね、女性に送ってもらって旅に出るのは」
「私じゃ役不足じゃないかしら」
「いや、いや、わるくない」
「名古屋かあ。行ったことない……みたい」
「このまま乗せちゃうかな」
「怖いこと言わないでくださいな」
「あはは。で、地図のぬり絵は完成した?」
中彦は指先で鉛筆を動かすような仕草を示して尋ねた。
朋子の顔を見たときから尋ねたいと思っていた。二人だけのあい言葉……。まさか朋子は忘れてはいないだろう。
「ああ」
と、朋子はいたずらっぽい表情で笑ってから、
「駄目。ぜんぜん。まだぬり残しがいっぱいあるわ」
プラットホームのアナウンスメントが乗車を呼びかけている。
「じゃあ、また再開するか」
しかし、周囲のさわがしさに消されて、声がよく届かなかったらしい。朋子は小首を傾《かし》げる。再会≠ニ聞こえたのかもしれない。
――それならそれでもいい――
同じことだ。
「またゆっくり会おう。どこに連絡をしたらいい? 電話番号を教えて。俺のほうはここだ」
中彦がポケットをさぐり、名刺を取り出す。朋子がハンドバッグを開け、
「メモありません」
「じゃあ、ここに」
もう一枚名刺を抜いて渡した。
朋子が走り書きをする。中彦は車両に乗り込んで、それを受け取る。
「行ってらっしゃいませ」
「うん。連絡する」
ドアが閉まった。
列車の進行にあわせて朋子が歩く。
その姿もすぐに見えなくなり、眼の中にスーツの色だけが残った。
――ほとんど変っていないな――
会った瞬間には、
――少し年を取ったかな――
と思ったけれど、たちまち以前のままの面《おも》ざしに戻った。表情も身ぶりもまるで変らない。言葉遣いも初めのうちは、少し丁寧な言い方をしていたけれど、すぐにくだけた調子に戻ってしまった。
中彦はボストンバッグの中から文庫本を取り出したが、それをシートの網袋に放り込み、ノートを出して膝《ひざ》の上に広げた。
窓の外は多摩《たま》川。舟が航跡を残して、ゆっくりと昇って行く。
――うまく描けるかな――
白いページに日本の地図を描き、北から順に都道府県の名を書き入れた。
北海道から東北地方までは図柄も簡単で、略図の中に地名を収めるのもやさしい。関東地方に入ると、もういけない。
――朋子は結構うまく描いていたけどなあ――
小さなスペースに無理に押し込むようにして関東地方から中部地方へと移る。地図が小さすぎて県の名を書き入れるのがむつかしい。棒線を引いて陸地の外に書く。
――いけねえ――
岐阜県を忘れるところだった。
――ほかに落としているところ、ないかな――
確かめてみる。急ぐことはない。名古屋までたっぷりと時間がある。よい暇つぶしになるだろう。文庫本の推理小説もちょうどおもしろいところにさしかかっているのだが、その楽しみはあとに取っておこう。
――せっかく朋子に会ったのだから――
しばらくは朋子の記憶をたどってみたい。
――変だな――
一都二府一道四十三県のはず……。一つ足りない。調べなおして……佐賀県が抜けていた。
「俺の場合は……」
とつぶやいてから、行ったことのある都道府県の名前を丸で囲んだ。
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1973-74 新宿・高円寺・上高地・水戸・鴨川
三十分で小田原《おだわら》、一時間で静岡、一時間半で浜松、それぞれの駅をおおむね規則正しく通り抜けて、二時間で名古屋へ着く。
今日は雲が厚く垂れこめていて、富士山は見えそうもない。中彦の脳裏に、朋子《ともこ》と初めて会った頃のことが浮かび、飛び去って行く。
中彦は大学二年生だった。夏休みの少し前、デパートへアルバイトに行き、雑貨売り場に配属された。ツチノコの縫いぐるみが売り出され、人気の商品になっていた。
朋子はその売り場にいて、
「このくらいの箱には、このくらいの包み紙がいいの」
「はい」
「右効きでしょ」
「そう」
大小さまざまな箱を包装紙で上手に包む包み方を教えてくれた。
肌の色が浅黒く、眼も黒く、大きい。視線がキュンと飛んで来る。南国風の面《おも》ざしだな、と思った。
外国人の客が来ると、たいてい朋子が応待する。英語で話す。
中彦はそばで聞くともなしに聞いていた。
ウインドウ・ケースと棚とに挟まれた細いすきまに並んで立って、客の様子に眼を配りながら、
「何科なの? 大学」
と、朋子が尋ねた。
「英文科」
「厭《いや》あね。だったら、今度、あなた話して。外人さんの前主のとき」
前主≠ニいうのは、このデパートの隠し言葉である。お客のことを言う。前に立っている主人という意味だろうか。ほかに遠方≠ェトイレット喜左衛門≠ェ食事のこと、たしかそうだった。
「話すのは駄目。読むだけ」
「嘘《うそ》」
「嘘じゃない」
「私なんかここに勤めてから習ったんですもん、英会話」
「でも、うまい」
朋子の発音はきれいだった。
「聞かないで、あんまり。意識しちゃうから」
「うん」
「どんな作家を読むの?」
「スタイン・ベックとか、サリンジャーとか、モームとか」
「まじめなのね」
「ぜんぜん」
ポーノグラフィをせっせと読んでいたりして……。
「シェクスピアなんか、やっぱり読むのかしら」
「読む。本格的に読むのは三年になってからだけど」
「むつかしい?」
「さあ。慣れれば、そうむつかしいこと、ないんじゃない」
「いいわね」
こんな会話がきっかけで親しくなった。
一度、タイプライターで打った英文を見せられて、
「これ、どういう意味ですか」
と、アンダーラインを引いた五、六行を訳させられた。
案外、朋子は中彦の実力を試そうとしたのかもしれない。きっとそうだろう。中彦のほうは、会話は不得手だったが、解釈だけなら多少の自信がある。
「エッセイかなあ」
「そうみたい」
知らない単語が一つ……。
だが、おおよその見当はつく。仮定法の使い方が鍵《かぎ》になっている。そこのところを注意しながら訳した。
「すごいのね」
朋子は正解を知っていたにちがいない。テストは合格だったらしい。
「一応英文科だから」
「ほんと」
アルバイトが終る頃になって、食事を一緒にしようという話になった。言いだしたのは中彦のほうだったが、朋子がそう仕向けたような、そんな気配がなくもなかった。
デパートには女性が大勢働いている。きれいな人もいる。
当初、朋子についての中彦の評価は、
――中の上か、上の下――
と、これはほとんど容姿だけを対象にしての判断である。たしか日記に書いたはず。よく覚えている。捜せば今でも押入れのすみに記録が残っているだろう。
だが、朋子はどこか周囲の女性とちがっている。少しずつそのことに気づいた。
――センスがいいのかな――
すぐ隣の売り場に上の上≠ェいたけれど、頭がわるそうだった。もう一人上の上≠ニ認定した店員は、はすっぱな感じで、若い中彦がつきあえそうな相手ではなかった。
いつもは制服を着ているのでわかりにくかったけれど、朋子は着る物も垢《あか》ぬけているし、小柄《こがら》ながらスタイルもわるくない。
――ウェストのくびれなんか、かなりいいんじゃないのかな――
わるい人じゃなさそうだし、知的なところも感じられるし、いつのまにか上の中≠ュらいに評価が変っていただろう。
「なにを食べる?」
「なんでもいいわ」
新宿《しんじゆく》のイタリア料理の店。ビールを一本飲み、あとは小さな皿にいろんな料理が載って現われるコースだった。
「これなんだろう?」
「蛸《たこ》をボイルしたんじゃないかしら」
「蛸なんか食べるのかな、イタリアじゃ」
「食べるんじゃない。烏賊《いか》を食べるくらいだから。スパゲティにもよく入っているし……烏賊墨のスパゲティもあるでしょ」
「うん」
料理の知識はとぼしかった。
「蛸って、足はおいしいけど、頭はずっと味が落ちるわね」
「そうかな」
「きらい、蛸?」
「いや、好きだよ」
「私、わりと好きよ」
「足がうまいのは、よく足を動かしているからだろ。だいたいよく使っているところがおいしいんだ」
「あ、ほんと」
「蛸は足をよく使っているだろうけど、頭はあんまり使ってないんだ。だから頭はまずい」
「言えそう」
朋子は、ナイフで切ったポテトを口に運びながら頷《うなず》き、それから首を傾《かし》げて、
「でも、頭のおいしい蛸もいるはずよ。人間に掴《つか》まったりする蛸は、頭がわるいからなの。だから、まずいの。海の中には、ものすごく頭のおいしい蛸がいるかもしれないわよ」
「ジレンマだなあ」
「どうして」
「頭のいい蛸は掴まらないから食べられないし、食べられる蛸は頭がわるくて、まずいわけだし。人間は永遠に頭のうまい蛸にめぐりあえない」
「そういうこと」
ゆっくり考えてみれば、蛸の頭と呼んでいる部分は本当は胴体なんだろうけど……。この会話はわけもなく楽しかった。なんだか朋子がひどく身近に感じられた。
「おいしかった」
「本当ね。私のほうが月給をいただいてますから」
と、朋子が財布《さいふ》を出して中彦に渡す。
「わるいなあ」
赤いバックスキンの財布だった。
「送っていく」
「ええ」
朋子の家は高円寺《こうえんじ》にあった。北口の商店街を抜け住宅街に入ったところで、
「これでおしまい?」
と、中彦は今後のことを尋ねたつもりだったが、
「もう少し……コーヒーでも飲みます?」
朋子は腕首の時計を街灯の光に当てながら道を引き返した。
ひいらぎ≠ニいう名のコーヒー・ショップ。木目《もくめ》を生かした内装。ここは、その後もよく使った。
カテリーナ・ヴァレンテの情熱の薔薇《ばら》≠ェ鳴っていた。
「これエリーゼのために≠フメロディなんだな」
「ええ……。なんだかべつな曲みたいに聞こえるけど」
店にはそう長くいなかったろう。コーヒー代もサッと朋子が払う。最前の街灯の下まで来て、
「すっかりご馳走《ちそう》になっちゃったなあ」
と中彦が言えば、
「いいのよ」
と朋子が首を振《ふ》る。
「今度は僕がおごる」
この台詞《せりふ》は……おごる≠フ部分に力点が置かれているのではなく今度≠ェあるかどうか、そのほうが大切だ。
「ええ。楽しみにしてるわ」
「店に電話をかけていい?」
「いいけど。家のほうがいいかしら」
と、自宅の電話番号を言う。
「わかった」
中彦が手を伸ばし、握手を求めた。
「おやすみなさい」
「さようなら」
朋子のうしろ姿が路地の角でふり返り、一度手を振って消えた。
――あれはどういう謎々《なぞなぞ》だったかなあ――
道を戻りながら中彦は自分の掌《て》を見た。前に聞いた謎々のこと……。
そう、たしか「男は立って、女はすわったまま、犬は片足をあげてするもの、ナーニ」だった。たいていの人は、よからぬ姿を想像する。しかし、答は握手。
察するに、握手とは、男は立ちあがってやらなければいけないものなのだろう。女はすわったままでもよいのだろう。犬の場合はお手≠ニいっても、あれは足でもある。握手と認められるかどうか。
――馬鹿らしい――
笑いが浮かぶ。心が浮き立っているからだろう。知らない街がひどく近しいものに感じられた。
男と女の仲は、少しずつ手続きを踏んで深まっていく。女は受け身でいることが許される。と言うより、男が仕かけなければ、なにも始まらない。
中彦は、よく言えばシャイ。実は面倒くさがり屋で、慣れないことは第一歩を踏み出すところで、
――どうするかなあ。明日でいいか――
と、ためらってしまう。ぐずぐずと意味もなく日時を費してしまう。
朋子に対しても一か月あまり迷って、ようやくダイアルを廻した。
「もし、もし」
「もし、もし、岡島です」
「あら、めずらしい」
「元気ですか」
「ええ」
「忙しい?」
「えーと、普通ね」
と朋子は答え、電話のむこうで黙って待っている。中彦のほうがなにかを語りかけなければいけない。
当たりまえだ。電話をかけたほうが用件を告げるのが普通である。
「ご飯、食べませんか」
あんまり気のきいた台詞《せりふ》ではない。
――一か月あまり、俺《おれ》はなにを考えていたのか――
われながらもどかしい。
「はい」
「来週くらい」
「来週のいつでしょう」
「火曜か、水曜か、金曜でもいい」
月曜でも木曜でも土曜でも、もちろん日曜でも中彦のほうは都合がつかないこともなかった。
朋子が選んだのは何曜日だったか。
先日と同じレストランで食事を取り、送って行ってひいらぎ≠ノ立ち寄った。なにもかも、一回目のコピイ。
――朋子はどう思ったろう――
三度目には少し考えて映画に誘った。
ライザ・ミネリのキャバレー
「字幕を見なくてもわかるんでしょ」
「そんなことないよ」
映画はわるくなかったけれど、たまに会って映画を見るだけではもったいない。
――映画なんか一人で見ることができるんだし――
とはいえデートのときには、なにをすればいいのか。
「旅行に行きません?」
と朋子に言われたときには驚いた。
「どこへ」
「店の人たちと上高地《かみこうち》へ行くの。一緒にどうかしら。岡島さんの知ってる人もたくさんいるわ」
と、朋子は夏のアルバイトのとき、近くの売り場にいた店員の名前を二つ三つあげた。
「俺《おれ》なんかが行っていいのかな」
「平気。喜ぶと思うわ。デパートって閉鎖的でしょ。少しはほかの世界の人と接したほうがいいのよ」
「そうかなあ」
「日曜日が休めないってことだけでも、ほかの人とスケジュールがあいにくいでしょ」
「うん」
ものぐさな中彦だが、旅はきらいではない。誘われるままに上高地《かみこうち》へ行った。
二泊三日の旅。男が三人、女が五人。部外者は中彦だけである。ほとんどみんな同い年……。うちとけてはくれたけれど、やはり違和感はあった。いくら年齢が近くても社会人と学生では、生きている世界がちがう。
「将来は学者になるんですか」
ボストンバッグの中に原書が入っていたから、そんなふうに見えたのかもしれない。
「ぜんぜん」
「英文学なんて、お金持ちのお坊っちゃまがやるもんでしょう」
と、これはいつもひとこと気がかりな台詞《せりふ》を吐く男だった。
言われてみれば、そうかもしれない。みんなが汗水流して働いているのに、シェクスピアだかサリンジャーだか知らないけれど、実生活とはなんの関係もない横文字を読んで、ああでもない、こうでもない……と、ほざいている。
「そんなこと、ない」
中彦自身はもちろんのこと、教室の面々を思い浮かべてみても、お坊っちゃまと呼べるようなやつはいない。
せっかくの上高地だが、雨にたたられ、はかばかしい行動がとれない。二日目の午後、雨の小止みを狙《ねら》って明神池《みようじんいけ》まで歩いた。
朋子は人気者だった。
と言うより同行の男性は二人とも、朋子が好きだったのではあるまいか。男たちにしてみれば、中彦に対して、
――変なのを連れて来たな――
と、そんな思いを当然抱いていただろう。
朋子は、なぜ中彦を誘ったのか。深い意味はなかっただろうけれど、一種の牽制球……。つまり、
――私、いろんなお友だちがいるの――
と、職場の男たちにデモンストレーションを示していたのではあるまいか。
朋子のほうはほとんどなんの屈託もなくふるまっていたが、中彦は、
――やっぱりちがうな――
朋子との距離感を覚えずにはいられない。梓《あずさ》川にそって歩きながら、
――俺はこちら側じゃなく、むこう側に属している――
と思わないわけにいかない。
早い話、中彦以外はみんな結婚を意識していた。女たちは適齢期に入っていたし、男たちもそう遠くはない。学生とは決定的にちがう。無駄には男と女が仲よくなったりはしない。中彦は、結婚なんて、
――俺、するのかなあ――
自分に関する現実として本気で考えたことなど、一度もなかった。あとになって考えてみれば、あの頃、朋子は自分の一生について、
――どう生きようか――
いくつかの道を描いて思い悩んでいたらしい。穂高、焼岳、大正池、見ている風景は同じでも二人の意識はずいぶんかけ離れていただろう。
上高地から帰って、あい変らず二か月に一度ほど顔をあわせるような仲が続いた。くつろげるようにはなったけれど、なんの進展もない。
中彦のほうは、多少のもどかしさを覚えながらも、とにかく朋子と会って話していれば、それでいい。将来のことなどほとんどなにも考えていなかったし、考えようにも生活の基盤さえできていない。卒業までまだ二年もあったし、卒業してどうするか、それもはっきりとしたイメージを描いていなかった。
「翻訳でもやるかなあ」
「いいわね」
しかし、英文科を出たからといって、いきなり翻訳家になれるわけではない。
「三十くらいまでになんとか恰好《かつこう》がつけばいいんじゃないのか」
中彦は本当にそんな気分でいたのだから、朋子は……たとえ好意を抱いてみたところで当てにはできない。かなり早い時期から、
――この人は、そういう人――
と決めてかかっていただろう。朋子のほうから「ねえ、結婚を考えて」と強く言われれば、中彦も少しは真剣に考えたかもしれないが、朋子にはそんな気持が少しもなかっただろう……。
煮えきらない関係が二年ほど続いた。
そのうちに二人の心が、少しずつ、微妙に変った。
中彦はあい変らずものぐさで、自分の生き方を大きく変えようとは思わない。ただ好きな英語を読んでいるだけ……。
――就職ってのも面倒だなあ――
父が健在だったから、住むのと食べるのはなんとか保証されていた。父自身が三十近くまで仕事を持たなかったから、中彦に対してもあまり強くは干渉しなかった。
――怠け者の家系なのかなあ――
家庭教師のアルバイトでもやっていれば、現状維持はできる。朋子と一緒に暮らすことなんて、想像が飛躍しすぎている。
――このくらいの女性、この先いくらでも会えるだろう――
と、一方で朋子の魅力を認めながらも、中彦は気楽に考えていた。
一番最初に親しんだ異性がもっともよい相手だというケースは、けっして少なくはない。しかし、初めてであればこそ、その本当の価値がわからない。
――朋子はきっと職場のだれかと結婚するんだろうな――
そんな気配は充分に感じられたし、それが無理のない生き方だろう。朋子とは、今だけの親しさ。かたくなにそう思っていた。
――袋小路の散歩みたいなもの――
二人の関係をそう解釈した。
一緒に歩いて行っても、遠からず行き止まりになる。でも、しばらくは仲よく歩いて行ってみよう。
――男と女は、そんなのがいいな――
と、中彦は考えていただろう。呑気《のんき》と言えばすこぶる呑気だった。
「今度のお休み、水戸へ行かない?」
「へえー。なんで」
「公孫樹《いちよう》がものすごくきれいなんですって」
季節は秋。イエローは朋子の好きな色だった。
「梅じゃないのか、水戸は」
「梅はたいしたことないけど、公孫樹は本当にきれいなんですって。日帰りで行けるでしょ。いっぺん行ってみたいの」
「うん」
デパートの休日に出かけた。
鄙《ひな》びた町並みだった。町のところどころに公孫樹の老木があって、仁王の腕みたいに太い、節くれ立った枝を延ばしている。
ちょうどよい時期だったろう。眼の奥に染み込むほどの鮮明な色が空にも地にも溢《あふ》れていた。とりわけ美しかったのは、市の中央部にある城址《じようし》のあたり。石塀の下が深い壕《ほり》になっているのだが、水はなく、見渡すかぎり公孫樹の落葉で、凹地が埋め尽《つ》くされていた。
「これを見に来たの」
「すごいな」
「よかった」
偕楽園《かいらくえん》にも廻ってみたが、梅林は思いのほか小ぢんまりしている。これでは、盛りの頃に何万人もの人出となると、ずいぶんちっぽけな風景に映ってしまうだろう。公孫樹の黄の色に包まれて、人気のない町を歩くほうがきっとすばらしい。
水戸から帰って間もなく、
――もう袋小路の行き止まりもそう遠くはないな――
と感じている頃、朋子がいっぷう変った計画をうちあけた。
ひいらぎ≠フ窓際の席。
「日本の都道府県の名前、全部言える?」
「都道府県? 言えるだろ。どうして」
朋子は大ぶりのノートを持っていて、それを開く。唇を尖《と》がらせながら、北海道から順に日本の地図の略図を描き始めた。
絵はうまい。
「これが青森でしょ。こっち岩手、宮城、こっちに秋田、山形。その下が福島ね」
正確な地図ではないけれど、図柄がデザインになっている。
「ちょっと胴体のあたりが太すぎるんじゃないか」
中部地方は県の数も盛りだくさんだから、どうしても本州が太めになってしまう。
「本当ね」
「一都二府一道四十……」
「三県」
「ちゃんとあるかな」
描きあげたところで、
「ぬり絵をするの」
とつぶやいた。
「ぬり絵?」
「そう。行ったことのあるところは、黒く塗るの」
鉛筆を持ちなおし、芯《しん》をななめに当てて北海道を薄黒くぬりつぶした。
「なるほど」
「通過しただけじゃ駄目よ。ちゃんと降りてなにか用をたしたところ。目的があって行ったところだけ消していいの」
そう言いながらどんどん黒くぬっていく。
「俺、山形へは行ったことないな」
「私、行ったわ。子どもの頃。父の転勤が多かったから。長野県は、上高地《かみこうち》へ一緒に行ったわね」
「ああ」
「水戸へ行ったのはネ、茨城って行ったことなかったの」
「作戦か」
「そうよ。公孫樹《いちよう》も見たかったけど」
「きれいだった」
「本当に」
あの日、水戸の町は日暮れが早かった。影の多い街並みだった。まばらな街灯が闇《やみ》をくりぬいて鮮かな黄の色を映し出していた。
「計画的にやってるのか?」
ぬり絵のところどころに白い部分を残して朋子は鉛筆を置く。
「子どもの頃、お父さんに言われたの。一生かかって全部ぬれるかな、って。お父さんも自分の頭の中でやってたんじゃない、同じぬり絵を」
「完成した?」
朋子の父親は病気がちらしい。
「駄目みたいよ。沖縄と、それからどこかしら。二つくらい残ってるみたい」
沖縄が返還されたばかりの頃だった。
「それで、あなたが替りに?」
「どうかしら。計画ってほどじゃないけど、ちょっとおもしろいでしょ。あなたは、どう?」
「結構白いとこがたくさんあるんじゃないか」
「全部行ったって人、めずらしいわよ」
「全部ぬりつぶすと……なんか、いいこと、起きるかなあ」
「起きる、起きる、きっと」
と、朋子は無邪気に笑う。
「秋田、福島……。えっ、千葉も行ってないの? 東京に住んでて千葉に行ったことないのって、いるかな」
「どう考えてみても行ってないのよ」
「総武線に乗って少し行けば、もう千葉県だろ」
「ええ」
「フェリーで木更津《きさらづ》に行くとか」
「行ってないんだもん。あなたは千葉のどこへ行った?」
「木更津にも行ったし、御宿《おんじゆく》の海水浴場とか、いろいろ行ってるよ」
「男の人とちがうのよ」
「関東地方にブランクがあったら、ちょっと恥だよね。栃木県は大丈夫?」
「日光って、そうでしょ」
「うん、うん。修学旅行で行くよな。群馬はどこへ行ったの?」
「通過はしたんだけど、行ったのはお店の旅行で渋川温泉」
「俺も茨城は、このあいだの水戸が初めてだったかもしれない」
「そうでしょ、案外行ってないところがたくさんあるのよ、いくら思い出してみても」
「四国はまるで行ってないのか。俺も高知だけかな。いや、香川もちょっと」
「西のほうはやっぱり。九州も白いとこ多いでしょ」
「うん」
朋子の地図には、ざっと二十近い県が空白のまま残っている。
「行きたいわね、旅行に」
「行こうよ」
「近いとこじゃないと……」
ほとんどが一泊しなければ行けないところばかりである。
「千葉なら行ける」
「そうねえ」
「いいじゃないか、一泊くらいしたって。休暇は取れるんだろ」
学生のほうはどうにでもやりくりがつく。
「そりゃ取れるけど」
男と女が泊りがけで旅に出るのは、そう簡単なことではない。
――俺は……野心なしでもいいけどな――
寝具を遠く離して、あいだに衝立《ついた》てを立てて……。ホテルに泊って、べつべつに部屋を取ることは、なぜか頭に浮かばなかった。そういう旅のやりかたに慣れていなかったからだろう。
頬杖《ほおづえ》をついていた朋子が、
「千葉に行く?」
と言う。
「行こう。千葉のどこ?」
「一番先っぽ。海が見たいの」
「計画を立ててみる。日帰りで?」
「ええ……」
中彦にしては、めずらしくすぐにスケジュールを作った。
朝早い外房《そとぼう》線で鴨川《かもがわ》まで行く。新しくレジャー・センターのような施設ができたらしい。
遊覧船も出ている。そして遅い列車で帰って来よう。
「出発は十時くらいで、どう?」
「少しきついけど……いいわ」
房総の荒い海くらいは充分に見られるだろう。それに……この旅は行き帰りの車中が楽しい。
あとで考えてみれば、少々配慮の足りない計画だった。子どもの遠足じゃあるまいし、もう少し気のきいた旅があっただろう。
朋子は東京駅の乗り場に、黒いスラックス、赤いスニーカー、ハーフ・コートのようなジャンパーを羽織って現われた。
快晴。しかし、風は少し冷たい。
鴨川まで急行で二時間半。どこかの駅のプラットホームに古い柱時計が立ててあって、文字盤にローマ数字が記してある。
「すごいアンチック」
「うん。アイ一、ヴイ五、エックス十、エル五十、シー百デ五百、エムが千なり、って言うんだろ」
「なーに?」
「知らない? ローマ数字。Iが一を表わし、Vが五、Xが十、Lが五十、Cが百で、Dが五百で、Mが千」
「ホント」
「だから一九七三年は、こうか」
と、中彦がキップの裏に、MCMLXXIII と記した。
「恰好《かつこ》いい」
「そうかな」
「なんでも知ってるのね」
「そんなことない。ブッキッシュなのかな」
「ブッキッシュ?」
「ブックの形容詞形。本好きとか……」
「すごいわ」
「いい意味ばかりじゃない。机上の空論なんかばっかり言ってる奴とか。この頃はスポーティングのほうがいいんじゃない」
「スポーティングって言うの? 岡島さんと話していると、いい勉強になるわ」
「なんか厭だなあ、そういう言いかた」
「あら、どうして。本当にそう思ってるんだから。もう一度教えて。さっきの合言葉」
「なに?」
「数字の覚えかた」
「ああ、あれか。アイ一、ヴイ五、エックス十、エル五十、シー百デ五百、エムが千なり」
「アイ一、ヴイ五、エックス十……」
朋子が首を上下に動かしながらくり返した。
「四と九は、左側に一つ下の数を書いて引き算になる」
「どういうこと」
「Vの左にIを書いて四。Xの左にIを書いて九。Lの左にXを書いて四十……」
中彦がローマ数字のシステムを書いて教えた。
「へーえ」
「初めは、指とか、木の枝とか、そういうので数を表わしてたんだろ、きっと」
「ええ」
「未開民族の中には、一と二と、その次がいっぱい≠ノなっちゃうのがあるらしい」
「三より上がないわけね」
「そう。それでべつに生活に不自由しないんだろ」
「おもしろいわ」
「前に俺《おれ》んちで雌犬を飼っててサ。子どもを生んだんだ」
「仔犬《こいぬ》?」
「そりゃそうだ。仔猫を生むわけないだろ」
「厭あね」
「三匹生んで、全部取りあげちゃうと、わかるんだ。でも、一匹、二匹隠してもわからない」
「本当に?」
「うん。少し変だな≠ンたいな顔をしていたけど、必死になって捜したりはしない。ゼロといる≠フとの区別はつくんだ。しかし、数はよくわからない」
「そういうことになるわね」
「いつ頃なのかな。人類がキチンと数を考えるようになったのは……」
「大昔ね」
「ローマ数字は、多分、初め、木の枝でも並べたんじゃないのか」
あの頃、中彦はタバコを喫《す》っていた。マッチ棒を抜いて、揺れる車両の窓辺に並べた。
「一が一本、二が二本、五が五本、十が十本……。しかし、これだと、やたらたくさん並べなくちゃいけない」
「そうね」
「それで五とか十とかを一まとめにするようになったんじゃないの。かける印にして十。それを半分に切って五」
「あら。VってXの半分ですものね」
「そう考えたかどうかはわからんよ。木の枝で簡単な記号を作るとなれば、VとかXとかLとか、だれが考えてもそのへんに落ち着くよ」
「じゃあ、それより上のCとかDとかMとかは?」
朋子は知的な好奇心が強い。
「わからん。ただ、フランス語じゃ千がミルだし、ドミが半分だし、百がサン。頭文字がそれぞれM、D、Cになる。関係あると思うな」
「フランス語もできるの?」
「ほんの第二外語だよ。できるなんてもんじゃない」
「うらやましいわ」
「そんなこと、ない。指を出してごらん」
「はい」
と、朋子が両手を膝《ひざ》の上に並べた。節高の細い指。
「一、二、三、四、五……十本ある」
「よかった。足りなくなくて」
「指輪しないの」
「あんまり好きじゃない。ろくなの持ってないし。指、細いの。十番くらい」
「数の小さいほうが細いのか?」
「そう」
「手の指が十本あるから十進法が始まったって言うけど」
「ええ?」
「そうかなあ。少し変だと思わない?」
「どうして」
「十本なら十一進法になるわけじゃないかな。算盤《そろばん》だって、一つ、二つ、三つ……五は上の玉で表わし、九まであって、それで桁《けた》が一つあがる。指だって九本のほうが、十進法に都合がいい」
中彦が子どもの頃にふと気がついて、ずっと抱き続けている疑問だった。
「でも十一進法なんて不便じゃない」
朋子がどこまで中彦の疑問の意味を理解したか、わからない。
鴨川に着き、新築のホテルに併設されている水族館や遊園地を見て歩いた。
「船に乗ろう」
「乗って、どこへ行くの」
「鯛《たい》を見る」
ガイドブックによれば、日蓮《にちれん》上人が殺生を禁止したために、このあたりで鯛の群棲《ぐんせい》が見られるようになったらしい。船頭が船べりを叩《たた》き餌を撒《ま》く。たちまち水の底から何匹もの鯛が浮かびあがって来る。とてつもなく大きな鯛。海が灰色にうごめく。
「すごいな。あいつ、一メートルくらいあるぞ」
「食べられるのかしら」
「漁《と》っちゃいけないんだろ」
朋子は少し船に酔ったようだ。
海岸に戻り、少しずつ暮れて行く海を眺めた。
「昔、初めて海を見た人、感動したでしょうね」
「このむこうになにがあるか、やっぱり確かめてみたくなるだろうな」
水平線に指をさしながら答えた。
やがて夜がとてつもなく大きな帳《とばり》を広げる。沖には船の灯一つ見えない。すぐに風が冷たくなった。
ホテルの食堂で海の幸の天ぷらを食べた。
「もう一本飲む?」
「そうね」
いつもより少し多く飲んだ。朋子の頬《ほお》が赤く染まっている。
「最終は何時?」
「もう急行には乗れない」
千葉まで行って、その先電車があるかどうか。
「星がきれいみたい」
「うん」
「もう一度、さっきのところへ行かない、星を見に」
「いいけど」
「最終で帰れば、いいでしょ。困る?」
「いや、俺は困らない。ただ、千葉から先が……」
「行きましょ」
朋子が先に立って海岸に出た。
みごとな星空だった。おびただしい数の星が空に散っている。
「こんなの、見たことない」
「いつも隠れているのね」
空が近くなったみたい……。
「数えたら」
「無理だね」
寒い。時間も気になる。しかし、朋子のほうは落ち着いている。
「どうする?」
「どうします?」
「泊ろうか」
朋子は黙って星空を見あげている。
「こんな夜は、もう二度と来ないな」
「そうかしら。まだ若いのに」
星の輝く夜はこの先もあるかもしれない。だが朋子とこんなふうに過ごす夜はもう来ないだろう。わけもなくそう確信した。
「寒いから戻ろう。ティルームからも海は見える」
「ええ」
結局二人は終電車には乗らなかった。さいわいホテルには空室があった。
「いいのか、明日の勤め?」
「始発で行こうかしら」
朋子は家族にどう言い訳をするのだろう。
部屋に入り中彦がシャワーを使っているとき、朋子が電話をかけていた。
海はあい変らず暗い。
「変ね」
と朋子が両掌で頬を包んでいる。
「いいんじゃない、こういうのも」
「慣れてる?」
「慣れてるわけないだろ」
むしろ朋子のほうが慣れてるのではあるまいか。
「これで千葉県が埋まったわけだ」
「そうね」
「動物園キャラメルってのが、あっただろ」
「知らない」
「うちの近所の駄菓子屋だけだったのかなあ。そんなわけないよな」
「おいしいの?」
「味はともかく、箱の中に動物の絵が一枚入っている。虎とか猿とか河馬《かば》とか。五種類集めると、一箱もらえるんだ」
「おまけ?」
「そう。猿や河馬がよくあるんだけど、ライオンが滅多にいない。そういうふうに作ってあるんだよな、あれは」
「でしょうね」
「県は、どこが最後になるかな」
「あなたはどうでした?」
「うん? 調べてみるか」
メモ用紙を持って来て都道府県の名を書いた。
「男の人はいろいろ行ってるでしょ」
「そうでもない。北海道まる。青森まる……」
「あら、新潟は行ってないの」
「うん」
「私は行ったわ」
「三重と滋賀。たしか君も行ってなかった」
言葉がぎこちない。初めて朋子のことを君≠ニ呼んだ。
「ええ。四国は全部行ってないわ」
「俺は高知へ行った。香川も一応行ってるな」
「九州は……たしか子どもの頃あっちにいらしたんでしょ」
「ずっと小さいときだよ」
「動物園キャラメルの頃?」
「そりゃもっとあとだ。ほとんど覚えてないけど、大分と熊本は行ってるはずだ。記憶がなくても確実に行っていれば、ぬり絵をぬっていいんだろ」
「ええ」
二人とも行ってない土地が十一ほど残った。
秋田、福島、滋賀、三重、和歌山、鳥取、島根、徳島、愛媛、佐賀、長崎。
「まだまだ埋め甲斐《がい》がある」
「本当に」
窓の右手に漁村の灯が見え、それが一つずつ消えて行く。
「お風呂《ふろ》へ入って来るわ」
「うん」
布団《ふとん》の位置はこのままでいいのだろうか。
部屋のあかりを絞り、中彦は入口に近い布団に寝転がってバスルームの水音を聞いた。
「いいお風呂。よく眠れそう」
バスルームを出た朋子はまっすぐに布団の位置に進む。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
十二時を少し過ぎていただろう。
――これでいいのだろうか――
朋子を抱きたい、と、その欲望はほとんどなかった。
いや、そうではない。強い願望はあったが、体の欲望ではなかった。体の欲望だけなら我慢ができる。我慢ができるのは、もともとその欲望がさほどのものではないからだろう。
――朋子を逃がしたくない――
二人の絆《きずな》をしっかりと結びつけたい。そのためには今抱きあうことがきっと役立つだろう。その願いが強かった。
だが、それとても朋子がなにを望んでいるか、そこにかかっている。
朋子は初めから、
――今夜は泊ってもいい――
と、そう考えて家を出て来たのではあるまいか。帰りの時刻をほとんど気にかけていなかった。明日の休暇もあらかじめ取ってあったりして……。抱かれることも予測しているのかもしれない。もしかしたらそれを望んでいる……。第一、こんな情況になって、それでなにもないとしたら、
――この人、意気地がなさすぎる――
朋子がそう思うのではあるまいか。抱きあって当然だろう。
――そうでもないか――
これまでの交際の中で、中彦は、はっきりと口に出したことこそなかったが、いつも心の中で考えていることが一つあった。
あえて言葉で表現すれば、
――男と女が一つ部屋に泊ったからって、それが即体の関係≠ニいうことでもないさ。おたがいの意志を信じてもっと自由につきあったらいいんじゃないのか――
そんな気持ち。恰好《かつこ》よすぎるかもしれないけれど、半分までは本当の気持ちである。暗にそんな考えを朋子に、ほのめかしたこともあっただろう。
――朋子と一緒に旅に出るだけでいい――
行く先が遠方ならば宿泊をしなければなるまい。体を交えるような間柄ではないから宿泊もできず、だから遠方の旅にも出られない、というのは、不自由すぎる。一緒に旅をするだけの親しさがあってもいいはずだ。
中彦はこれまでずっとそんな考えを抱いて来たのだから、朋子にもその気分がきっと伝わっているだろう。
だとすると……ここで急に態度を変えていいものかどうか。朋子には裏切りに映るのではあるまいか。
――眠ったのかな――
きっと起きている。寝息は聞こえない。たしかに起きている。まっすぐ上を向いて。
中彦が左手を伸ばせば、きっと朋子の右手に触れることができるだろう。手を握ることくらい許されていい……。
ためらいの時間が闇《やみ》に流れた。
ためらったすえ、
――まあ、いいか。やめよう――
と、そうなってしまうのが中彦の癖である。いったんはその方向へ傾いたが、
――こんなこと、もう二度とないな――
降るような星空は、この前ぶれだったのかもしれない。
そっと腕を伸ばし、隣の布団の下を探った。
朋子の腕は思いのほか近くにあった。それが中彦を勇気づけた。二の腕から肘《ひじ》を経て掌を握った。反応はなかったが、眠っているわけではあるまい。
いくばくかの時間が流れた。
少しずつ体を寄せ、中彦はそっと畳の上に肩を滑らせた。掌の握りを解き、今度はゆっくりと肘から二の腕へと戻る。
小さな肩があった。
骨の小さい、柔かい肩だった。初めて朋子の体が少し動いた。朋子は素肌に浴衣《ゆかた》をまとっている……。
さらに腕を伸ばすと、すぐに胸のふくらみに届く。
朋子は浅黒い。細く、引きしまった体である。乳房もけっして大きくはないが、堅く脹りつめているだろう。
「起きてる?」
声をかけた。
首の動きだけが答えた。
またいくばくかの時間が流れ、乳首のありかを捜そうとすると、朋子が体を捻《ねじ》る。それを追って中彦は朋子の布団になかば体を入れた。
朋子は少し抗《あらが》う。
「あなたが好きだ」
言ってはみたが、この場にふさわしい言葉のようにも思えない。
肩を抱いた。
乳房が掌の中に包まれる。指と指のあいだに乳首があった。
朋子の体が熱い。
初めて口をきいた。
「長くはおつきあいできないわ」
声がかすれている。
――死ぬのだろうか――
中彦はわけもなくそんな突拍子もないことを考えた。重い病気を隠していたりして……。
もとよりそんなはずはない。
ただ……なんと説明したらいいのだろう、人はみんな死ぬものだ、長いの短いのと言ったって、百年もたてばみんないない。いっさいの記憶が消滅し、だれそれが生きていたという事実もあらかた消えてしまう。なかったに等しい。喜びも悲しみも罪悪も、なにもない。ほんの百年前、だれかが感じたであろう痛切な情熱も葛藤《かつとう》も、今はなんの痕跡も残さない。
――だったら、今、ここで抱きあうことも許されるだろう――
心が高ぶり、理性はどの道正しくは作動していなかったろう。論理に飛躍があっても不思議はない。死ぬことと愛しあうこととは、とても深い関係があるのかもしれない。鮭《さけ》の授精が死のすぐ隣にあるように……。
「結婚するのか?」
現実的な思案を口に出した。
ここ数か月、朋子の対応にはそんな気配が感じられた。
「もしかしたら」
「うん?」
「いけない?」
「そんなことは、ない」
とっさに答えたが「いけない」と言うべきだったろうか。
――それはあなたが決めることだ――
だれにも「いけない」と言う権利はないし、とりわけ中彦には、なんの準備もなかった。
心のうちを計るような沈黙が続いた。
朋子が指をからめる。
長くはつきあえないけれど「今夜はいいわ」と、そう伝えている……。そんなふうに感じられた。
中彦の愛撫《あいぶ》がさらに深い部分へと伸びて行く。朋子は抗いながらも少しずつ迎え入れる。
帯を抜き、肌をあわせた。
慣れてはいない。おたがいに……。
ぎこちない交りだった。
「初めてじゃない?」
質問のような、感想のような、もしかしたら配慮の足りない言葉を中彦は口走った。
「あなたも?」
と、朋子は笑うようにつぶやき、それから、
「初めてだと思ってた?」
と尋ね返す。
そうは思ってはいなかった。だが、答えない。答えないのは、どちらの意味にとられるだろう。
「星空がきれいだったわ」
朋子は体を上向きに直してつぶやく。この闇《やみ》の上には今もみごとな星空が広がっているだろう。
――あのときから始まったんだ――
今夜、こんなふうになることが……。
「本当に」
いつまでも体を寄せあっていた。
「もう眠りましょ」
「うん」
なかなか眠れない。
中彦が起きて窓の外を見ると、海も空も暗かったが、沖を目指す漁船の灯が二つ三つ動いていた。朋子の寝息が聞こえる。中彦が眠ったのは、もう朝も近い頃だったろう。
「おはようございます」
中彦が眼をさますと、朋子はもう化粧も終えていた。
「お風呂、入った?」
「ええ。海が見えて」
「俺も入って来るかな。朝風呂」
「いいわよ、とっても」
朝の光を受けて、海は明るく輝いている。水平線が視界をまっ二つに区切っていた。
「どうしよう」
「夕方までには帰りたいわ」
「うん」
バスの時間を確かめ、海岸を南へ下って、野島崎の燈台を訪ねた。房総半島の最先端を守る光である。海は岩礁に寄せ、白く這《は》い、不思議な生き物と化して荒れ狂っている。
「白い動物みたい」
「ススーッと走って来てな」
そこからまたバスに乗って館山《たてやま》へ。内房《うちぼう》線で木更津《きさらづ》に出て、フェリーに乗った。フェリーは川崎へ着く。港から川崎駅までが、やけに長い。二人とも居眠りをした。
もう旅の終りも近い。
「楽しかったわ」
「うん」
「あなたも?」
「もちろん。いろんなところへ行きたいね。ぬり絵を一つずつぬりつぶして」
「そうよねえー。もう行こうと思えば、どこにでも行けますものねえー」
と言ってから、
「そうもいかないか」
と、首をすくめる。
――一度抱きあってしまえば、どんな遠くの旅にでも行ける――
男女の仲とはそういうものらしい。朋子も同じことを考えていたのだろう。
「そうもいかない?」
「うん」
こっくりと頷《うなず》いた。
「福島なんか、わりと行きやすいんじゃないかな」
「見るとこ、あるかしら」
「わからん。あるんじゃない?」
「そうね」
「鳥取もいいけど、遠いな」
「寝台の特急かなんかで行くんでしょ」
「うん」
「砂丘があるんでしょ」
「そうらしい」
中彦としては、
――もう一度くらいどこかへ行くこともあるだろう――
と思い、そう思いながらも、
――本当にこれでおしまいかもしれない――
とも考えた。
中彦のほうがもっとはっきりとした決断を示すべきだったろう。そうでなければなにも始まらない。たとえば「結婚なんかやめちまえ」とか……。
――まあ、いいか――
ぐずぐずしているのは、いつもの癖である。
東京へ帰り、それでも間をおいて何度か旅の候補地をあげて朋子を誘ったが、
「いいわねえ」
と、朋子は口では言うけれど、本気で行こうと思っているわけではない。
会うことも次第に間遠くなり、中彦も四年生になって就職や論文の準備で忙しい。
朋子がデパートを退職した。
「いよいよ?」
「まあ、そんなとこ」
「どういう人だ?」
「普通の人よ。眼があって、鼻があって」
「口があって、耳があって」
「そう。就職、どうなりました?」
中彦のほうは、よい就職がない。もう少し学生生活を続けていたい。
「うーん。うまくない」
「どうするの」
「どうするって……どうしようもないから困っている」
「呑気《のんき》なのね」
「呑気じゃないけど、ないのは仕方ない」
「まるでないってこと、ないんでしょ」
「それに近いなあ」
英文科なんて就職先は限られている。
「英語を生かせば」
「俺くらいの奴、いくらでもいるよ。ま、大学院にでも行くか」
「すごい」
「すごかあない。どこにも行けずに行くんだから」
本当にその通りだった。
大学の卒業も間近い頃、いつもの通りひいらぎ≠ナコーヒーを飲み、店の前で別れ、
「さよなら」
「さようなら」
それが最後だった。
――俺はどうなるのかな――
とりあえず大学院へ行くことにはなったが、見通しがあるわけではない。朋子の面倒なんてみられるわけがない。だが心配ご無用。朋子は身のふりかたを決めている。
「いいんじゃない、これで」
中彦はそれからしばらくのあいだ、自分自身に対して同じ台詞《せりふ》をつぶやいた。まるで口癖のように。朋子を思い出すときは、いつもそうだった
[#改ページ]
1982・夏 原宿
八年の歳月なんて、経ってしまえば信じられないほど短い。
「正確に言えば、七年と九か月ね」
朋子は節高の指を折りながら数える。
「そうなるかな」
東京駅で朋子と再会し、中彦は名古屋から帰ってすぐに連絡をとった。
「飯でも食おう」
「いいわよ」
「なにがいい?」
「なんでも。静かにお話のできるところがいいわね」
「じゃあ、またもや、イタリア料理」
「はい」
中彦は西麻布《にしあざぶ》のカルネ≠告げた。
「あ、知ってる。行ったことはないけど」
朋子の声が電話の中で笑っている。中彦にしてはしゃれた店を言ったからだろう。八年経てば少しは変化する。学生から社会人になった。
カルネ≠ヘ、普通の家を改築してレストランとした店である。天井が高く、廊下ぞいに小部屋がいくつか並んでいる。行くたびに入る部屋が異なる。
中彦は広尾《ひろお》駅からゆっくり歩いて、約束の時間に着いた。ドアの前で、
――この店なのかしら――
戸惑っているグリーンのスーツが朋子だった。
「このあいだはどうも」
「びっくりしちゃった」
連れだってドアを押し、奥まった部屋に案内された。
「よくいらっしゃるの、ここは」
「いや、二度目だ。まだ新しい。建物は古いけど」
「これからは、こういう感じの店、増えるんじゃないかしら。銀座あたりで豪華にやるんじゃなくて……。お値段も手ごろで。ちがう?」
「その通り。どうしてかな、イタリア料理ってかかげると、フランス料理より二、三割安い」
「言えるわ」
とりあえずドライ・シェリイを頼んだ。
「ここは小皿で、少しずついろんなものが出て来る」
「それがいいわね」
料理はおまかせ。白いイタリア・ワインをこれもお勧めのボトルを選んだ。
「結婚をして、子どもを塾に通わせてる頃かと思ってたよ」
「お友だちはみんなそうよ」
「この先はどうする?」
「まだ先のことを考える段階じゃないわ」
「店をやってるんだって」
「自分の店じゃないけどね。デパートに戻るわけにもいかなかったし、アパレル関係の仕事をやったり、アクセサリーや宝石の勉強したり……いろいろやってたの。その縁で原宿《はらじゆく》のお店の経営者と知りあって、週に四日まかせられているの」
「なるほど」
「あなたは、なにをしてらしたの?」
と、フォークを止めて尋ねる。
「だからサ、今は予備校の教師だよ。わりと気に入ってんだ」
「本当に?」
「そりゃ女性の前じゃ、大学の講師ですとか、そういうこと言ったほうが恰好《かつこ》いいだろうけどサ。大学は厭なとこだよ。サラリーマンよりもっとオベンチャラ使って生きなきゃ駄目なんだ」
「へえー、そうなの」
「予備校は収入もまあまあだしな。大学の講師じゃ、なかなかイタリア料理だって食えないぞ」
「恰好つけること、ないわね。気ままにやっていけるのなら、それが一番。本当にそう思うわ」
「イタリア人なんか、うまいものたらふく食べて、女性と適当に遊んで、それで一生送れれば一番幸福だって思ってんじゃないのかな。社長になるとか、後世に名前を残すとか、それで一生苦労のし通しじゃ、かなわんよ」
「明るいわね、連中は」
海の幸のスパゲティを選んだ。
「で、あれ、どうなった」
と、今度は中彦が手を止めた。
「なーに」
「地図のぬり絵。続けてる?」
「実際にぬり絵をするわけじゃないけど。でも、頭の中ではやってるわよ。それほど本気じゃないけど。少し減ったわ、白いとこが」
「いくつになった、残り?」
「まだたくさんあるわよ、えーと、十三くらい」
「君の癖が移っちゃって、俺《おれ》も頭の中で少しやっている。まだ七つ、八つ残っているんじゃないかな」
「一桁《けた》になってからは、なかなか減らないわね。行くとこって、案外決まってるでしょ。年齢より少ないのは、社会性がとぼしいんじゃないかしら。世の中に出て活躍している人はやっぱりいろんなところへ行ってるわ」
「一都二府一道四十三県だから……全部で四十七あるわけだろ。俺たちの年齢なら十六、七残してていいわけか」
「女性の場合よ。男性はハンディキャップがなくちゃあ」
「職業にもよるな。交通公社あたりに勤めていたら……」
「プロは標準にならないわ」
「そりゃ、そうだ」
会話が弾む。
中彦はだれとでもこんなによく話すわけではない。教室で喋《しやべ》りまくっているから、むしろ普段は無口になる。ワインの酔いのせいもあるけれど、朋子が聞き上手なのではあるまいか。朋子は自分もよく喋るが、それ以上に楽しそうに聞く。眼を輝やかせ、頷《うなず》いたり、首を傾《かし》げたり、半畳を入れたり、皮肉ったり……。朋子と話していると、中彦は自分がやけに話し上手になったような気がする。
薄い網焼きのステーキ。
「肉の名前って、フランス語から来てるって、本当?」
人の噂《うわさ》が話題になることはめずらしい。共通の知人がいないせいもあるだろうが、朋子はいつも知的なものを求めている。
「ビーフとかポークとか、そういうやつ?」
「ええ」
「マトンもそうか」
「動物そのものを言うときは、ちがうでしょ。カウとかピッグとかシープとか」
「フランス語では牛がベーフ、豚がポルク、羊がムートンだ」
「みんな肉の呼び方に近いわ」
「そう。昔、イギリスの上流階級はフランス系だったから。家畜を扱うのは下層階級だったろうし。動物そのものを言うときはアングロサクソンの言葉で言い、料理に使う肉はフランス語風に言ったんじゃないのか」
「料理教室で、そんな話、聞いたわ」
皿の上にフォークとナイフを揃《そろ》えて置き、ナプキンで口を拭《ぬぐ》ってから、
「さっきの話だけど……」
と、朋子の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「なにかしら」
「旅に行かない? ぬり絵の旅」
「ああ……いいわね」
「どこが残っているかなあ、二人とも行ってないところ」
「いくつかありましたよね」
「四国なんか」
「うわーッ、遠い」
「飛行機を使えば、とくに遠くはないだろ」
「いいんですか、そんなことしてて」
「俺《おれ》? いいよ。気楽に生きるために今の仕事やってんだもん。授業があるのは一週間に四日だけ。あとはどうせ映画みたり、本を読んだりしているんだ。君のほうこそどうなんだ」
「前よりは時間が作りやすいけど、そうひまだらけってわけじゃないわ。食べて行かなきゃ駄目だし」
「そりゃ、そうだ。地図をすっかり埋めたら……なんかいいことが起きるんじゃなかったっけ?」
「なにが起きるかしら」
「天変地異かな」
「そうかもしれないわよ」
「どこがいいかな。愛知県、まだだったろ」
「名古屋ね」
「そう。それから三重県。近いよ。俺も行ってない」
「そうねえー」
と、ためらう。
「無理かなあ」
「なんだか昔より……」
「昔より、どうなんだ」
「積極的になったみたい。前はもっと……どういうのかしら」
「ぐずぐずしていた」
「うーん。ゆっくりしていたわ」
「そんなには変ってないサ。ただ楽しいことは遠慮なくやったほうがいいと思って」
「そりゃそうね」
「だから行こう。無理かな」
「あんまり急だから。少し考えさせてくださいな」
「それはいいよ。名古屋なら俺は毎週行ってるし」
「それじゃつまんないでしょ」
「名古屋を起点にして三重に行く。あるいは滋賀。まだだろ」
「滋賀へは一昨年、行ったわ。北のほうがいいんじゃない、暑いから」
「言える。北と言うと……よし、ぬり絵を作ろう。どこへ行ってないか、チェックをして」
「ええ……」
と、朋子は煮えきらない。
「まずい?」
「特にまずいことはないけれど……あんまり急だから」
と、同じことを言う。
「うん」
中彦は朋子の心にあるものを推し計った。
考えてみれば当然かもしれない。なにしろ八年ぶりに会ったのである。昔の親しさがすぐに戻って来るはずもない。気持ちの問題ばかりではなく身辺のさまざまな事情が障害となる。ぬり絵の地図なんて……ただの遊びでしかない。
「どうして独りなの?」
と朋子が聞く。
「特に理由はない。なんとなく……」
おそらくこの答は九十パーセントくらい正しいだろう。だが、若干の説明不足が含まれている。
一つは……ここ数年、何人かの女性と親しくなる機会がなくもなかったけれど、いつも中彦の心の中で、
――朋子のほうがよかった――
と、そんな意識がうごめく。
相手の女性をそれほどよく知っているわけでもないし、朋子の人柄だって知らない部分が多いのだが、それでも野島崎を訪ねた頃の親しさだけを考えてみて、
――やめておこう――
と、なってしまう。
もっと納得のいく相手とめぐりあうまで無理をすることもあるまい、と思う。そのくり返し、そんな側面がたしかにあった。
そして、もう一つ。そんなふうにして三十のなかばまで来てしまうと、
――このほうが俺にあっている――
と、環境の変化を回避する気持ちも生まれて来る。
周囲を見まわしても、みんなが幸福な結婚をしているとは限らない。不幸な、とは言わないまでも、とくに魅力的とは思えない結婚も多い。いっときの楽しさのために、ずいぶん窮屈な思いをしている奴もいる。結婚なんて、腹の底からその気になれるときまで待ってもいいだろう。
だが、どちらの理由も朋子に告げるのはためらわれた。どんな言い方をするにせよ「あなた以上の人がいなかったから」と答えるのは抵抗がある。あまりにもなまぐさ過ぎる。朋子の気を引き過ぎる。少しはしたない。さりとて「独りでいるほうが好きなんだ」と、言い切ってしまうのも、なんだか今後の可能性をまるで否定してしまうようで気が進まない。
「どうなさったの?」
「いや、べつに。少しずつ仲よくなろう。あなたに支障のない範囲で。俺のほうはいいよ。もともとあなたが好きなんだから」
「ありがとう。うれしいわ。久しぶりだなあ、そんなこと言われるの」
「そう?」
「そうよ」
「出ようか」
「出ましょう」
「広尾駅の近くにスナック・バーがある。そこでもう少し飲もう」
朋子は時計を見てから、
「いいわよ」
と頷《うなず》いた。
肩を並べて狭い歩道を歩いた。
「あのね」
朋子が独り言のようにつぶやく。
「うん」
「離婚をしたって言ったけど、正式に届けを出したわけじゃないの。どう言ったら、いいのかしら。とても中途半端な状態なのよ」
「へえー」
「主人は遠縁の人で、父の会社の幹部だったの」
「絵具とか額ぶちとか、そういうのを扱う問屋さんだったよな」
「ええ。問屋って言うか、商社って言うか、小さな会社だったけど」
「うん」
「父が彼を信頼していて、まあ、私の結婚もそれと関係があったんだけど……なにもかもくっついているのって、よくないわね。私の父が死んで、彼が会社の責任者になって、やっぱり若いから失敗しちゃったのね。不渡りだとかなんだとか、いろいろまずいときに、彼の女性問題がばれちゃって、仕事も家庭ももう目茶苦茶」
「なるほど」
「彼、一時姿をくらましちゃって……たいした人じゃないのよ。彼のほうもめんつが立たなくはなるし、私のほうも釈然としないし、それでずっとべつべつになっちゃって……」
「子どもはなかったんだよな」
「ええ。よかったのか、わるかったのか。もう少しましな人だと思っていたけど」
「ふーん」
ずいぶん大ざっぱな説明だが、情況はおおよそ見当がつく。仕事のトラブル、家族のトラブル、女性のトラブル、みんな一緒に持ちあがって対処の策を講じるより先に情況がどんどんひどくなり、どうにも取り戻せないほど夫婦の気持ちが離れてしまったのだろう。
「いずれ離婚するでしょうけど、まだ母がいて希望を持っているから」
それもわかる。
朋子の母親にしてみれば、娘の夫が会社を継いで一族に繁栄をもたらしてくれるだろうと、その夢をずっと抱き続けていたのだろうから……。いつか朋子たちのよりが戻って、会社も家族も順調になることを心待ちにしているのではあるまいか。
「お元気なんだろ、お母さん?」
「少しぼけが始まっているけど」
「あまり自由にはやれないわけだ、君としては?」
「そうでもないわ。私は、いずれ一人っきりになるんだし、自分の生き方をちゃんと確保しなくちゃね」
「まったくだ。今の仕事はどうなの?」
「とてもいい。やり甲斐《がい》があるし、その気があれば、ずっとやっていけるでしょう、きっと」
「いっぺん覗《のぞ》いてみるかな」
「どうぞ。男の人におもしろい店じゃないけど」
「スポンサーは……男の人?」
だれかが資金を出して、朋子が手伝っているような話だった。
「厭だ。男の人じゃないわよ。アパレルの仕事をやってた頃の問屋の人で……私のこと、ものすごく買ってくれてたの。そのかた、独身なんだけど、ものすごくやり手で衣料品の問屋をやりながらもう一つ店を始めたのね」
「ああ、そうか。ここだ」
スナック・バーのドアを押した。
「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか」
「うん」
奥まった席に二人並んで腰かけた。椅子《いす》が高く、足がブラブラと宙に浮いている。
「きれいね、洋酒の壜《びん》て」
形も、ラベルの色あいも、とりどりの壜が行儀よく棚に並んでいる。
「なににしましょう」
「なにがおいしいのかしら」
「俺はマンハッタン。ウィスキーはバーボンで作ってくれないかね」
「かしこまりました」
バーテンダーは三人。白いシャツに黒いチョッキ。一人は女性である。
「君はマルガリータなんか、いいんじゃない」
「名前がすてきね。じゃあ、それ」
「かしこまりました」
朋子は店の中を見まわし、それから中彦の顔を覗《のぞ》いて、
「わかりましたか? 私のこと」
と聞く。
歩道を歩きながら語った件についてだろう。
「だいたいわかった」
「いつか言ってらしたわね。日本人は七のことを説明するのに一から順に説明して七まで行こうとする。初めに十を言って、三を引くという説明はあんまり得意じゃないって」
たしかにそんなことを言ったかもしれない。
「うん。大ざっぱに言えば、こうだ、しかし、こことここがちがう、そういう説明のほうがわかりいいときが多いんだ。初めに十を言って、少し引き算をする」
「そうよね。こうではなくって、ああでもなくって、こういう条件もあるけど、ここがちがって、あそこもちがって、つまりこうであるってのは、わかりにくいわね」
「そう。しかし、よく覚えてたなあ、そんなこと」
野島崎からの帰り道ではあるまいか。
「そのあとの説明がおもしろかったから。日本語は構造的にそうなってるって、それは岡島学説なの?」
「いや、いろんな人が言ってることだ。めずらしくもない」
「初めて聞いたわ」
「日本語は大切なことを、あとに言う。この店はおいしいけど、高いんだ。この店は高いけど、おいしいんだ。あとに言ってることのほうが大事なんだ。英語は大事なことを先に言う。あとから、それに条件をつける。だいたいそうだな」
「駅のこと、言ってたわ」
「ああ、言ったかもしれない。この列車は新横浜、小田原、熱海《あたみ》、三島、静岡、浜松、豊橋《とよはし》、名古屋……。一生懸命聞いていて、最後に止まります≠るいは止まりません∴齡ヤ大切なことが出て来る。みんな大きな駅だから、知ってる人は止まります≠フほうだと思うけど、知らない人はわからないし、知らないからアナウンスメントが必要なわけだろ。英語ならジス・トレイン・ストップス≠ゥ、ジス・トレイン・ダズ・ノット・ストップ≠ゥ、先に言うから、聞きやすい」
「おもしろいわ」
「で、どうなんだ。ややこしい従属文はべつにして、今はほぼ離婚しているんだろ」
「そう。だから、そう言ったの、東京駅で。大ざっぱに言えば自由の身ね。こまかく説明すれば、いろいろくっつくけど」
「じゃあ、ぬり絵の旅に行こう」
「少し考えさせて。近々にお電話するわ」
「俺も、この八年のうちにあちこち行ったし、君も行っただろ。とにかく君が行ってないところを教えてくれ」
「うん? エート、北からね。岩手、秋田、福島……」
中彦がメモ用紙をもらって記す。
この夜はこれで終った。
中彦は翌日わざわざ神田の大きな書店にまで赴いて新聞紙ほどの白地図を買った。県境を細い線で記しただけの白い日本地図である。赤と青の色鉛筆を用意し、まず自分が行ったことのある都道府県に青の斜線を入れた。次に、赤鉛筆をとって朋子の行ったところに赤の斜線を入れる。床屋のシグナルのように赤と青の線が交錯していれば、そこは二人とも行ったところだ。逆に福島、和歌山、愛媛、長崎、まっ白いところが四か所だけ残った。
中彦自身の空白は……青の斜線のないところは、そう多くは残っていない。
――行くとしたら、赤の斜線のないところ――
この計画はもともと朋子が言いだしたことなのだから。地図が隈《くま》なく赤で埋まるとき、
――なにか起きるかな――
中彦はぼんやりと考えた。
三日たって朋子から電話がかかって来て、
「思いきって、気晴らし、やりましょうか」
と、弾んだ声で言う。
「本当に。行こう、行こう。俺、考えたんだけど、こういうことできるときって、一生のうちでもそうチョイチョイはないんじゃないのか」
「そうかもしれないわね」
「白地図を買って来て、本当にぬり絵を始めたよ。君のぶんと俺のぶんと」
「私もやろうかしら。どこに売ってるの、白地図って」
「俺は神田で買った。大きな書店で……文房具も扱っているようなところ」
「ああ、そう」
「二人で一つずつぬりつぶしていこう」
「うまくいくかしら」
「君次第だ」
「前途|遼遠《りようえん》ね」
「そうでもない」
「一つだけお願いがあるの」
「なんだ」
「わざわざ言わなくてもいいんでしょうけど」
「なんだよ、言ってごらん」
「ええ……。旅に出たら、途中でおもしろくて、ためになること、かならず一つ、聞かせて。私、好きなの。あなたの、そういうお話」
「へーえ。おもしろくて、ためになる?」
「そうよ」
「たとえば」
「いろいろ話してくれたじゃない。ローマ数字のこととか、日本語はあとで言うことのほうが大切だとか」
「聞いてどうする?」
「おもしろいから。ためになるから」
「どういうテーマがいいんだ」
「わざわざお願いするほどのことじゃなかったみたい。あなた、いつもそんな話をしてくれるから……。気にしないで。今までとおんなじでかまわない」
「うん。しかし、どこへ行く」
「おまかせ」
「会津《あいづ》かなあ、とりあえず。どっちも行っていないよな、福島県は」
「そうね。近いし、手ごろかもしれない」
日取りだけを決めて中彦が計画を立てた。
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1982・秋 会津
上野駅で待ち合わせ、リレー列車に乗り込み、大宮駅で東北新幹線に乗り換えた。開通してまだ数か月。東北・上越の両幹線が、まだそういう接続をしなければいけない時期だった。車中はほとんど満席に近い。
「初めてだわ、この列車」
「俺もそうだ」
車両も新しい。内装も従来の新幹線の車両と少しちがっている。
「郡山《こおりやま》で乗り換えるんでしょ」
「うん」
「どのくらい?」
「一時間半かな」
畑の中に新設の工場らしいビルが見える。
「なにか話して」
「弱ったな。それがノルマか」
「そう。そんなに堅く考えなくてもいいけど」
朋子に頼まれ、用意して来たことがないでもない。中彦は顎《あご》を撫《な》でてから、
「実存主義の話でもしようか」
「うわーッ、むつかしそう」
「たいしたことない。教室では生徒に話す程度のことだから」
「英語だけじゃないの、教えるのは?」
「ついでにいろんなことを話す。結構熱心に聞いている」
「あなたの話、おもしろいから」
朋子は傾聴しましょう≠ニばかりに膝《ひざ》の上に両手をそろえた。
「たとえば、ここにさきいかがある」
中彦は大宮駅のキヨスクで買ったさきいかの袋を切って、中身を二、三本頬張《ほおば》る。
「ええ……。お行儀のわるい授業なのね」
朋子はウーロン茶を飲んでいる。
「うん? まあ、いいだろ。さきいかは、原料となるするめをどう切り裂いて、どう塩味をつけて、その目的がなんなのか、つまり、おつまみになるためだって決まっているんだ。さきいかとはいかなるものか、先に定義があって、そのあとでさきいかとして存在するんだ」
「はい」
含み笑いを浮かべて頷《うなず》く。
「新幹線だってそうだろ。どういう設計で、どこを走って、なんのために存在するか、みんな決まっている。この世の中のたいていのものは、そういうふうに先に定義があって、それからあと、存在しているんだ」
「そうかしら。ナマコなんて、なんのために存在してるの? 人間に食べられるため? 魚屋さんで見るたびに考えちゃう。だれがあんな姿、考えたのかしら」
「ナマコねえ。いきなり難問が出ちゃったなあ。しかし、神様の目から見れば、なんか理由があって、この世に存在しているんだ。人間だって昔はそういうふうに考えられていたんだけど……二十世紀に入って、まあ、もっと古い時代にもそういう考え方あったけど、とにかく、人間はちがうんじゃないか、偶然この世に存在しちまって、これから定義をくだすものなんじゃないか、そういう考え方が二十世紀になってはっきりと出て来たんだな」
「わかんない」
「ナマコだって同じだと思うけど、ナマコは哲学のテーマにはなりにくいから……とりあえず人間について言えば、キリスト教なんかの考え方じゃ、人間はなぜ、なんのためにこの世に生を受けたか、決まっているわけだよな」
「なんのためなの?」
「神の国を実現するためなんじゃないのか、理想的に営まれた……」
「ああ、そうか」
「だけど……。そうじゃない、人間は、偶然、この世に放り出されて、存在しちゃって、なぜ、なんのためかはこれから決めるんだって、それが実存主義の根本よ、平たく言えば。ほかのものは……つまりさきいかや新幹線は、みんな定義が先にあって、そのあとで生まれて、その定義に適応すればいいんだけど、そうでないものもある。少なくとも人間はそうじゃなく、先に存在しちゃって、定義はこれから決めていく」
「で、どうなるの?」
「人間だけじゃなく、この世界だって、造物主がなんか目的を持たせて創ったものじゃない。ただ偶然存在しちゃったんだ」
「ええ……」
「ほら、ジグソーパズルってのがあるだろう。組み合わせて行くと、モナリザの絵になったりするやつ」
「あ、さっき売ってたわよ。東北新幹線が走ってる絵の……」
「あ、そう。あれがバラバラになっている状態を考えてみればいいんだ。この世の中はなかなかうまくいってない。戦争はある、病気はある、飢餓がある。目茶苦茶で、救いようがないほど矛盾に満ちているけど、なんとかうまい方法を見つければ、スッキリするものなのかどうか。ジグソーパズルをこわしてガチャガチャにしたみたいな状態……。しかし、本当にジグソーパズルなら、今はガチャガチャになっているけど、もともと設計図のあるものだから、工夫さえすればちゃんとモナリザの絵にもなるし、東北新幹線にもなる。この世の中もそうなんだ、と、十九世紀くらいまでの思想はだいたいそういう考え方だったんだ。なんかこう造物主みたいな人がいて、その人が設計図を作っておいてくれたんだから、今はバラバラで、矛盾だらけで、うまくいってないけど、設計図となるものさえ発見すれば、やがてうまくいく。キリスト教だってマルクス主義だってみんなそうよ。それに対していや、そうじゃないってのが、実存主義よ、簡単に言えば」
「わかるみたい」
「むつかしいことじゃないよ。バラバラになった、ジグソーパズルの断片。しかし、もともと設計図なんかない。ただ偶然山になっているだけ。どう組み合わせてみても、こりゃモナリザになんかならないよな。もともと設計図なんかないんだから。これから設計図を考えなきゃいけない」
「どう考えればいいの」
「かなり絶望的なんじゃないのか。どう努力してみても、もともと設計図がないんだから。設計図のないジグソーパズルの断片を、もしかしたらモナリザになるかな、新幹線になるかな、いろいろ試行錯誤をくり返してみたって無理だろ。すっきりした形になんかならないサ」
「悲しいのね」
「悲しいって言えば悲しい。それを不条理って言ってるわけだよな。ちぐはぐで、道理にあわない。今までは、人間も、この世界も、なにかに支えられていると、そう信じられていたのに、それは錯覚だとわかって、うろたえてる。二十世紀はそういう時代なんだ」
通路をしきりに売り子たちが往復する。列車内販売というものも、ちょっと不条理だ。必要なときに必要なものを売りに来ない。用がなくなると、売りに来る。
「どうすればいいの?」
「あははは。簡単に解決できるなら、だれも悩んだりしない。そこからいろんな考え方が出て来るわけなんだけど、なんて言うのかな、どうせモナリザの絵になんかならないとわかっていても、それでもせっせせっせと断片を組み合わせてみる。その作業に情熱を注ぎ、精いっぱい自分を燃焼させる、それっきゃない。よい結果をだすために頑張るんじゃなくて、自分の燃焼そのものが目的となるって言うか、そこに価値を見出そうとする。ヘミングウエイとか、カミユとか」
中彦は首をすくめ、照れくさそうに笑った。
列車の中でさきいかを頬張《ほおば》りながら語るテーマかどうか……。しかも少々雑駁《ざつぱく》な論理で。
しかし、朋子のほうは、
「わかったわ」
と頷《うなず》く。
「まあ、こんなとこ」
当たらずとも遠からず。
窓の外の畑がいつのまにか町に変り、郡山《こおりやま》駅が近づいていた。
「もう着いた」
網棚の荷物を取った。
「早いわね」
新幹線の駅はどこもよく似ている。
磐越西線《ばんえつさいせん》のプラットホームへ向かう客の数はそう多くはない。こちらは、うって変って短い車両。堅い椅子《いす》。窓を開いて風を入れた。
走り出すと、すぐに山の風景に変る。まだ紅葉の季節には少し早い。
列車はガタゴトと音を響かせて走る。踏切では赤いシグナルをつけた警報機がカンカンと鳴り、子どもが手を振っている。
「どこで降りるの?」
「猪苗代《いなわしろ》」
「どこへ行くの?」
「車でスカイラインを走って浄土平へ。景色がいいはずだ」
「雲が切れて来たわ。いいお天気になるんじゃないかしら」
「しかし、行ったことないんだから本当にいい景色かどうかはわからない」
「檜原湖《ひばらこ》とか五色沼とか」
「俗化しているらしいんだ。キャンプをするならともかく……。宿は檜原湖の近くだけど」
「すべておまかせ」
「不安だなあ」
予備校の同僚に会津の出身者がいて、その男が立ててくれたプランである。
「タクシー?」
「そう」
「いるかしら」
「大丈夫。それは確かめておいた」
列車の数はそう多くはない。到着時刻に合わせてタクシーが駅に集って来る。
季節はずれのウィークデイ。観光客らしい姿はまばらである。
「スカイラインを走って浄土平あたりへ。夕方までに檜原湖の青山ホテルに。行けますね」
と、タクシーの運転手に尋ねた。
「あ、充分行けるね」
東北|訛《なま》りは、わけもなく人柄がよさそうに響く。わるい人だっているだろうに……。
しばらくは鄙《ひな》びた町を走った。
そっと朋子の手を握る。朋子は、
――なーに――
とばかりに首をまわし、それから、首をすくめ、笑いながら、
「とうとう来ちゃった」
「そう。鴨川《かもがわ》以来……アフター・エイト・イアーズ・インタバル」
「なんだか英作文みたい」
「その通りだ。一つ一つぬり絵をつぶして行って……最後は本当にどうなるかなあ」
結婚かな。
日本沈没だったりして……。
「なんにも起きないわね、きっと」
「まあ、そうだろうけど」
「さっき、あなたのお話を聞きながら、考えていたの」
「なにを?」
「ぬり絵をすっかりぬってみたところで、なんにも起きやしないわ。目的にするほど大層なことじゃないもん。だから、なにかのために頑張るんじゃなくて、一つ一つぬり絵をぬって行くことが大切なの。一つ一つを大切にして行く……。うまく言えないけど」
「わかるよ。いいこと言うなあ。まったくその通りかもしれない」
人生なんて大きな目的を掲げてみたところで失望を味わうばかりだろう。そんなりっぱな目的があるかどうか、あったとしても実現できるかどうか。
――俺《おれ》たちはけっして英雄じゃあないんだし――
ロスト・ジェネレーション。希望を抱くこと自体に倦怠《けんたい》感を覚えてしまう。
形ばかりの目的を据《す》え、目的そのものの価値は問わない。それに向かって燃焼すること。ぬり絵の旅はいかにもそんな考え方にふさわしい。
道はスカイラインに入り、坂を登るたびにぐんぐんと展望が広がる。
「あっ、磐梯山《ばんだいさん》」
「うん。多分」
と、小声でつぶやく。
知らないところを走るのだから、はなはだ心もとない。
「いい形でしょう。あれが吾妻小富士《あづまこふじ》、あっちが一切経山《いつさいきようやま》」
と、無口な運転手が説明してくれた。
見る角度によって趣きが異なる。眺望は雄大で、粗々しい。ところどころに火山の痕跡が残っている。
「不動沢橋まで行って、引き返しますか」
「はい」
朋子が膝《ひざ》を突つく。
――わからないんでしょ――
と、目が笑っている。
左手にレストハウスと駐車場が見えた。右手は急な勾配《こうばい》を作って山が迫っている。細い道があるらしく、登り降りしている人の姿が見える。
「あとで、登ったらいいでしょ、若いんだから」
「はあ」
通り過ぎ、一気に坂を下ると靄《もや》が濃くなり、硫黄の臭いが鼻を刺す。
車が止まった。
深い沢の上に橋がかかっている。
「怖い」
ずいぶん下のほうに、水の流れが見えた。
中彦が橋の上でピョンピョンと弾ねる。そのたびに橋が小刻みに揺れる。
「わざとそういうこと、やるんだからあ」
「こわれやしないよ」
「そりゃそうでしょうけど」
車に戻り、いま来た道を返した。
「登って来なさいよ。ここで待ってますから」
「これが吾妻小富士ね」
朋子がガイドブックを見ながら尋ねる。
「そう。登ると火口があるから」
ここに来た以上、この山に登るのが観光のコースなのだろう。
「よかった、ペチャンコの靴を履いて来て」
「うーん。スニーカーのほうがよかったかなあ」
中彦が先に立ち、朋子の手を引いて急斜面《がれ》を登った。
「いいねえ」
「きれい」
たしかに登って見るだけの価値はある。
コニーデ型の火山。山は盆地の中にポコンとお碗《わん》を伏せたように突出し、てっぺんまで登り着くと、山頂はすり鉢状の大きな火口になって凹んでいる。火口の直径は一キロくらいありそうだ。山頂には火口を巻いて一周する道がついている。火口の底まで走り降りて行く人もいる。
「右まわりで行く?」
「いや、左まわりで行こう」
左右に別れて進み、対岸のあたりでめぐりあう方法もあったが、それでは離れ離れで歩く道のりが長すぎる。散策の楽しみがそがれてしまう。手をつないで歩いた。
なにしろ山そのものが周囲から孤立して隆起しているから、文字通り三百六十度の眺望。
湖が見える。
町が見える。
雲のむこうに、また山が連なって見える。空気がやけにうまい。
「星、きれいかしら」
朋子がつぶやいたのは、鴨川の夜を思い出したからかもしれない。
「晴れてれば、よく見えそうだなあ」
「でも、夜は怖いわね」
「この付近の宿に泊まっていれば、来れるな」
道をゆっくりと一めぐりしてもとの位置に戻った。
「お待ちどおさま」
「グルッとまわりなさったかね」
「ええ。とてもすてきでした」
さっきまで見えていた太陽は、さっさと山の陰に隠れてしまった。付近一帯が灰色の影に包まれ、高原はたちまち夕べの気配を帯び始める。
山は夕暮れも美しい。
五色沼は、どれがどの沼だったのか、車を止め、二つ、三つ覗《のぞ》いたが、名前までは覚えられない。
五色とは言うけれど、まあ、ほとんどが青の系統である。青い沼ばかりを見ていると、檜原湖《ひばらこ》は灰色に淀《よど》み、薄汚れて映る。
――これが普通の湖の色なんだよな――
と納得するまでに、少し時間がかかった。
湖畔の宿に着いたのは、六時前だった。
「疲れた?」
「ううん、そうでもない」
温泉につかり、夕餉の席にすわった。
「お酒、毎晩飲むの?」
「いや、そんなことはない」
「このあいだのカクテル、おいしかったわ」
「マルガリータだったっけ」
「グラスのふちに塩がついてるの」
「じゃあ、そうだ」
テレビはあまりよく映らない。
「地方に来ると、NHKの実力をまざまざと感じさせられるな」
「ほんと。民放は少ないし、よく映らないところもあるわ」
ニュースが三越デパートの社長解任を報じている。社長と親しい関係にあった女性も脱税の嫌疑で逮捕されたらしい。
「この人、知ってるわ」
「あ、そう。同業者だもんな」
「ランクがちがうわよ。ものすごいやり手」
「そうなんだろうな」
宿泊客も少ないらしく、ひっそりとしている。障子を開けると、黒い夜が窓のきわまで押し寄せていた。
あかりを消した。
朋子が眼をあげ、眼を伏せた。
――どんな体だったろう――
乳房のふくらみ、恥毛の感触。ほとんどなにも思い出せない。鴨川では本当に稚拙な交わりだった。
肩を抱き、布団《ふとん》の中に崩れた。
――こんなとき……女はなにを考えるのかな――
やはりきれいに抱かれたいと思うのだろうか。
愛の仕草には、どうしようもないほど散文的な部分がある。美意識にそぐわない動作がある。
――ウェスト・サイド物語≠ヘすごかったな――
この瞬間に、どうしてそんなことを考えてしまうのか、中彦はわれながらおかしい。あの映画では、少年たちのちょっとした悪戯や喧嘩《けんか》までもがみんなダンスになっていた。美意識に適っていた。
――ああはいかない――
朋子の浴衣《ゆかた》を脱がせて脚をからめる。踊りみたいに滑らかにはやれない。
――こんな乳房だったろうか――
本当になにも記憶がない。
指を伸ばすと女体はすでに潤《うる》んでいた。その発見がうれしい。
――慣れている――
朋子が……以前よりずっと……。
当然のことだ。アフター・エイト・イアーズ・インタバル。朋子は結婚生活を体験しているんだから。
――どんな結婚だったのか――
いっときは愛しあったにちがいない。それがどうして別れることになったのか。
――その男にも同じように抱かれただろう――
何度もくり返して……。しかし、体の関係なんて些細《ささい》なことなのかもしれない。心が変ってしまえば、抱き合ったことの意味なんて、なにも残らない。
「朋さん」
と、小さく呼んだ。
この呼びかたも初めてだった。朋子は体を緊迫させて応《こた》える。
しばらくは手を握り合ったまま寄りそい、
「眠くなった」
「そう。眠りましょう」
「うん」
中彦が隣の布団に移った。
――なにかもう少し優しい言葉を吐くべきだったろうか――
いとおしさを示す言葉が浮かばない。英語なら思い浮かぶのだが……。
朋子がバスルームに立つ。
水音が聞こえた。
そのうちに中彦は眠ったらしい。短い眠りだったろう。眼をさまし、
――ここはどこだ――
ああ、そうか。朋子の寝息が聞こえる。安らかな響きをくり返している。
――朋子はなにを望んでいるんだ――
結婚ではない。はっきりと言葉で聞いたわけではないけれど……そんな気がする。結婚願望は一つのエネルギーだ。たとえ顕著に見えなくても、心の中に存在していれば、かならずなにかの形で作用をもたらす。それが朋子からは感じられない。
――俺のほうはどうなんだ――
皆無ではないが、ほとんどその願望はない。二十代のどこかに置き忘れて来てしまったらしい。
好きな女性と知りあえば、一緒に暮らしたいとは思う。もちろん朋子に対してもその気持ちはある。
だが、結婚というのは一人の女性を選ぶということだ。選び続けるということだ。一緒に暮らしたいと思うことと結婚とはよく似ているけれど、少しちがう。この先、同じくらい好きな女とめぐりあうこともあるだろう。心の奥底から、しみじみと、
――この人じゃなきゃ、いけない――
と、ふくれあがってくるような納得があって、そのときにこそ決断をすればよい。中彦は、ほかのことでも、
――もう少し待ってみるか――
ふんぎりの遅いたちである。
ぬり絵の旅を続けているくらいがほどのよいところかもしれない。
そのうちに眠ったらしい。
翌朝、眼ざめると朋子の姿が見えない。湖畔に出たらしい。
中彦もサンダルを借りて湖畔の散歩道に出た。
――右へ行くか、左へ行くか――
朋子の行方はわからない。
左の道を選んだ。
この道を行って朋子とうまく出合うようならば、朋子との今後の関係もきっとうまくいく。反対に、朋子が右の道を行っているようならば、遠からず破綻《はたん》に見舞われるだろう。そんなジンクスめいた思案を課してみた。
灰色の湖だが、水そのものは澄んでいる。透明な水の底に病葉《わくらば》が層を作って堆積している。
ガサッ、ガサッ。
丈の高い水草のあいだから黒い水鳥が一羽飛び立ち、それを追って二羽が水面をかすめる。追いかける鳥の羽が青く鮮かに輝く。
逃げたのが雌。追ったのが雄。きっとそう。すぐにから松の繁みのむこうに消えてしまった。
朋子の姿は見えない。
道を引き返した。
ホテルの近くまで来て、遠くを指さしている朋子に会った。
「噴煙かしら」
ここから見る磐梯山は、さながら山頂を鈍器でなぐったように疵《きず》つき、えぐれている。霧も流れている。少し黒ずんで見えるのは噴煙かもしれない。
「うん。どこへ行ったの?」
「散歩。あなたがよく眠ってたから」
「起こしてくれればいいのに……。いないから湖畔まで行って来た、捜しに」
「私も行ったわ」
「道が二つに分かれてただろ。右と左と……。どっちへ行った?」
「どっちかしら」
「右のほうだ、きっと」
「ボートの桟橋のところ」
「なんだ」
朋子はどちらの道も選ばなかった。
――まだ神様が二人の運命を決めていないんだ――
苦笑が浮かぶ。
「どうして」
「いや、べつに」
ジンクスのことは言わない。
「ボート、九時からですって。貸し自転車もあるみたい。乗れる?」
「自転車に乗れない男って、いるかな」
「いるんじゃない」
「とにかく朝食を食べよう」
「ええ」
朝食のあとでボートを借り、湖の中ほどまで漕ぎ出した。ボートが進むたびに磐梯山の風景が雄大になる。湖を一望するようにそびえ立つ。
岸に戻り、タンデムに乗って湖畔の道を走った。中彦が前、朋子がうしろ……。初めはなかなか呼吸がうまくあわない。
「朋さんはなにもしなくていい」
「でも……」
「そう、そう、その調子」
男が操る。女が従う。
中彦はわけもなく昨夜の抱擁を思い浮かべた。
――脳味噌ってやつは、まったくヘンテコな連想を浮かべるな――
間もなく調子がよく漕げるようになった。
「ああ、いい運動」
汗ばんでも、ひとふき風に吹かれればたちまち汗が引いてしまう。
バスの時間にあわせ正午すぎにホテルを出た。
「短い旅だったけど」
「でも、楽しかったわ」
「本当に?」
「本当よ。嘘《うそ》のわけないでしょ。あなたは?」
「もちろん俺は丸だよ」
朋子の膝《ひざ》に花丸を描いた。
「二日泊まれると、いいんだけど」
「結構いそがしいから」
「こんなことなら、俺、時間表にもう少しあきを作っておけばよかった」
「駄目よ。ちゃんと働かなくちゃあ」
「ちゃんと働かなくてもいいように、今の仕事を選んだつもりなんだけどなあ」
「いけません。生徒さんたちは必死なんでしょ」
「むこうは一生に一度のことかもしれないけど、こっちは毎年だからなあ」
「そんなひどいこと言って」
「本当だよ。もちろん、こっちだってそれなりに一生懸命やってるよ。みんなかわいいし」
「でももう半大人でしょ」
「背はでかいし、髭《ひげ》なんか生えてるし、見かけはごついけど、子どもだよ。俺だって、そうわるいことは考えてはいないさ」
「ええ……」
「眼をまるくして、俺のあやしげな話を聞いている」
「あやしいの?」
「少しな。昨日の話だって……。俺流の実存主義」
「よくわかったわ。また聞かせて」
「今度はどこへ行こう」
「うまくスケジュールがとれるかしら」
むしろ朋子のほうがむつかしそう。
「そこをなんとか。ぬり絵が完成する日まで」
「そうねえ」
猪苗代《いなわしろ》から郡山《こおりやま》へ、郡山から大宮へ、大宮から上野へ、二人で行く旅の時間の経過が早い。
「さよなら」
「また会おう」
「そうね」
朋子は銀座で人に会う約束があると言う。
東京駅で別れた。
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1982・冬 志摩・名古屋城
「楽しいことは、楽しいんだけど」
と、朋子は口ごもる。
「だけど、どうなんだ?」
「こんなことしてて、いいのかしら」
「いい。ぬり絵を完成させよう」
しぶっている相手に、くり返して誘いをかけるのは、中彦としてはむしろめずらしいことだったろう。
ぬり絵の地図を完成してみたところで、なにかメリットがあるわけではない。子どもじみた、馬鹿らしい挑戦かもしれない。だが朋子と一緒なら充分に価値がある。人生の意味なんて、結局のところ、その道中でどれだけ充実した時間を持ったか、その総和で評価されるものだろう。たとえ些細《ささい》な旅でも朋子と一緒なら。
――あれはすてきだったな――
輝いた時間としてなつかしむことができるだろう。
「女は迷うものなのよ」
その通り。
迷う女性を強引に誘い出すのも男性の役割の一つらしい。三十代のなかばになって中彦はようやくそのことに気づいた。
「政治家とレディはちがうんだ。正反対なんだ」
「えっ?」
「知らない? 政治家は、不確かなときでもイエスと答える。まるで可能性がないときでも、プロバブリィって答える」
「多分ってことね」
「うん。税金を安くできますか。自信がなくてもイエス。無理だなと思ってもプロバブリィ」
「あ、そうね」
「ノウと決定的に答えるようでは、政治家とは言えない。嘘《うそ》でも希望を持たせなくちゃあ」
「レディはどうなの」
「レディは不確かなときにはノウって言うんだ。その気があるときでもプロバブリィ」
「どういうこと?」
「男性に誘われたときのことだよ。今夜どう? 迷っているときはノウと答える。その気があってもプロバブリィ」
「イエスは?」
「すぐにイエスなんて答えるようじゃ、もうレディではない」
「つまり、態度を曖昧《あいまい》にしておくわけね」
「そう。どう、来週あたり、旅に行こう」
「プロバブリィ」
「つまり、いいってことだ」
「厭だあ、そんなの」
女性が迷っているときは、少なくともノウではない。男は蛮勇を持たなければいけない。
「あんまり時間がないのよ。せっかく出かけて行っても、あわただしいのは厭でしょ」
「俺はかまわない。志摩《しま》へ行こう。なかなかいいところだ。適当な時間に新幹線に乗ってくれればいい。英虞《あご》湾と大王崎と、見物はそれだけでもいい」
「そうねえ」
「じゃあ、決定」
中彦が名古屋で授業をする、その翌日を選んだ。朋子は朝の新幹線で一人東京を発ち、中彦は名古屋で一泊して朋子を待つ。
――本当に来るかなあ――
プラットホームのアナウンスメントが、約束の列車の到来を告げる。巨大な蚕のような新幹線が滑り込んで来る。
――来た――
窓越しに朋子の姿が見えた。
「おはようございます」
もう十二時を過ぎている。地下道を通って近鉄の改札口へ。
「飯は?」
「列車の中で食べたわ。朝昼兼用。あなたは?」
「うん。俺もホテルで。朝昼兼用だ」
「どのくらい乗るの?」
「二時間くらいかな」
特急の指定席に腰をおろした。旅はいつもこの瞬間に胸が弾む。
「いい旅にしよう」
「ええ」
「これで三重県が埋まる」
「あなたは初めてじゃないんでしょ」
「うん。このあいだ伊勢に行った」
屋根を接する家並みを割るようにして電車が走る。
「なにか……おもしろいこと、ありました?」
「このあいだ夕なぎ≠ニいう映画を見た」
「あ、ほんと」
「見た?」
「ううん」
「ロミー・シュナイダーとイヴ・モンタンと、もう一人の若い男、なんていう役者なのかな。女一人を挟んで三角関係のドラマなんだけど、男二人が仲よくなっちゃう」
「わあ、困るじゃない」
「困ると言えば困る。しかし、それが自然に描かれてんだよな。同じ女を好きになったってとこに共感があるみたいな感じで……男同士の友情の物語にもなっている。日本じゃむつかしいんじゃない、ああいうのは」
「わかんない」
「だってイヴ・モンタンは四十代くらいの役柄だと思うんだ。男のほうは若僧だもん。それだけ年の差があって、同じ女を好きになって、それで男同士、対等につきあうって、ほとんど不可能だろ、日本じゃ」
「そうねえ」
「年功序列型の社会だから。十歳も年齢がちがえば、友だちにはなれないよ」
「言える」
「年齢にこだわるんだよな。もともとは中国の影響なんだろうけど、年齢を表わす言葉がたくさんあるもん。英語にはほとんどない」
「年齢を表わす言葉?」
「そう。たとえば、還暦とか古稀《こき》とか」
「還暦って六十歳?」
「そう。古稀が七十。人生、七十古来稀なり。昔は七十歳はめずらしい年齢だったんだろ。みんな早死したから。あと喜寿が七十七。傘寿が八十、米寿が八十八、卒寿が九十、白寿が九十九」
「年寄ばっかりね」
「老人は偉いんだもん。長く生きたぶんだけ。みんな漢字遊びみたいなもんだろ。喜ぶっていう字を略して書くと七十七になるし、傘の字も略して八十、米の字を分解すれば八十八だし、卒業式の卒は略して九十と書くもん。百から一本引けば白になって、これが九十九」
指先で前のシートの背に字を書きながら説明する。
「もっと若いのは?」
「ある、ある。ちゃんと調べて来たんだから……。われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順《したが》う。七十にして心の欲するところに従えど、矩《のり》をこえず、てなものよ。あんまり若くないか」
「聞いたことある」
「あるさ。孔子の言葉だろ。十五歳で学問に志して、三十歳で、まあまあになった。四十歳で惑わなくなり、五十歳で天命を知るようになった。自分のやるべきこととか、限界とかをわかるようになったってことかなあ」
「五十歳で?」
「うん。六十歳で、耳順う。これは他人の意見にすなおに耳を傾けるようになったということだろ。それまでは肩肘《かたひじ》張っていたわけだ。そして、七十歳で心のままに行動しても道をはずすことがなくなった。これは俺《おれ》なんか到底無理だね」
「そうかしら」
「欲望がいっぱいあるもん。それで……」
「はい?」
「それで十有五にして学に志す、つまり志学が十五歳。三十にして立つ。これはにして≠フところをこんな字で書くんだけど」
と、また指先で而≠フ字を大きく書く。
「丙みたいな字ね」
「そう。で、而立《じりつ》。これが三十歳。四十にして惑わず。不惑が四十歳。天命を知るのが五十歳で、これが知命。六十歳の耳順《じじゆん》まで。ちょっと古くさいか」
「あ、これが今日のお勉強なのね」
「お勉強ってのは、どうもなあ。おもしろくもないし、ためにもならない……」
朋子との旅には、なにかしらおもしろくて、ためになる§bをしなくてはならない。昨日の夕刻、予備校の職員室で思い出し、とりあえず辞書を引いて用意した。
「なるわ。おもしろいわよ。せっかくだからちゃんと教えて。字を書いて」
朋子はハンドバッグの中を覗《のぞ》いて赤い手帳を取り出す。
「えーと、まず志学、而立」
中彦の父は、いま考えてみると言葉に関心のある人だった。幼いときから、よくこの手の話を聞かされた。子どもにはわかりにくい。だが、よい影響もあったろう。英語が好きになったのも、きっと幼いときから培われた言葉への関心とどこかで繋《つなが》っているだろう。
「不惑、知命、耳順」
「さっきのも書いて。喜寿とか、引き算するのとか」
「わかった」
朋子は漢字の一覧表を眺めて、
「やっぱり年寄が多いわ。昔はこんな言い方してたのね」
「今でもよく使う言葉があるよ。青春」
「青春て……青い春?」
「そう」
「あれもそうなの? いくつのこと?」
「いくつって、はっきりはしないけど、青春時代さ。人間の一生の中で、青く芽吹いて、若さいっぱいのときだよ。つまり春だね」
「ええ」
「青春だけがよく使われる言葉になっちゃったけど、このあともある。朱夏。朱《あか》い夏だな」
「それも年齢のこと?」
「年齢って言うか、世代って言うか。青春の次だな。心身ともに成熟して夏のように赤くたぎっている時代。二十代から三十代にかけてかな」
「私たち?」
「ちょっと過ぎたかな」
「じゃあ、次はなんなの」
「白秋。もう秋に入る。髪も少し白くなるしな」
「厭あねえ」
「そして、最後が玄冬。玄は黒のことだろ。冬は黒なのかな」
「暗くて、さびしいのね」
「昔なら四、五十代か。奥深く、静かで、チャラチャラしていない」
「なんでも知ってるのね」
「そうでもない。国語の先生から聞いて来た。本来は季節を言う言葉なんだけど、青春が十代から二十代の若い時期なら、あとも順番で三十代、四十代、五十代くらいになるんじゃないのか」
車窓の風景が少しずつ鄙《ひな》びたものへと変る。
志摩半島の地形は複雑に入りくんでいる。細い水路が見え、川かと思うと、実は内陸にまで入り込んで来た入江である。つまり海なのだ。地形がそうなっていれば、海は当然そこまで浸入して来るだろう。
「さっきの話だけど」
と中彦が言った。
「なーに」
「心の欲するところに従えど矩をこえず。年を取って人格が円満になり、好きなことやってもけっして人の道を踏みはずさなくなった……つまり個人としての自由と社会の道徳とが最高にうまくシンクロナイズするようになって、これが究極の理想だって、そういうことなんだろうけど」
「ええ?」
「ただ単に欲望が小さくなっただけじゃないのか? そう言いたくなるよな」
「どういうこと?」
「人間、じいさんになれば、だれだって体力もなくなるから、たいてい欲望が小さくなるんじゃないのか。自分はもうやることやっちゃったんだし……。若い頃、自分はさんざん遊んでおきながら、近頃の若い者は、なんて言っちゃってサ」
「よくいるわね」
「いるよ。若いうちは欲望がたくさんあるから、心の欲するところに従っちゃったら、かならず矩《のり》を越えちまう」
「矩って、道徳?」
「まあ、そんなとこじゃないの」
「あなたもそうなの? あんまり欲望がギラギラしてないじゃない」
「我慢してるんだ」
「そうなの?」
「うん」
おたがいに眼の中を覗《のぞ》いて、ほとんど同時に笑った。
――朋子は、もっと欲望をギラギラさせてほしいと望んでいるのだろうか――
それとも、
――ギラギラしない俺が好きだと言ってるのだろうか――
わからない。
賢島《かしこじま》で下車してタクシーで大王崎まで走った。岬を囲んで、冬の海が騒いでいる。
「千葉の先端へ行ったわね」
と、朋子が東の方角を指さす。
「そう。野島崎」
初めて朋子を抱いた旅だった。
「燈台があったわ」
「うん」
背後に立って柔かい肩を両手で挟んだ。手を伸ばすと乳房のふくらみに触れる。
「だれかが見てる」
「いけないかなあ」
「いけないんじゃないかしら」
「すぐに矩を越えてしまう」
「ほんと」
白波の立つ海を見たまま、
「わりと近いんだ、ここと野島崎」
「嘘《うそ》っ。だって……」
「いや、本当。距離は遠いけれど、海路を行くと、まっすぐ行けるから。黒潮も流れているし、大昔の出土品なんか紀伊半島と房総半島と、似ているものがたくさん出ている」
「小舟に乗って流されると、千葉に着くわけね」
「うまく行けばね」
マリンランドを見物し、海浜のホテルに入った。
「あ、きれい」
部屋の窓から英虞《あご》湾がよく見える。真珠貝を養殖する棚が海の上に格子状の模様を描いて浮いていた。
「これでまた朋さんの地図が一つ埋まった」
「そうね」
屋上のレストランでゆっくりと食事をして、
「一階に行ってみようか」
「ええ」
みやげもの類を置く店を覗《のぞ》いたが、めぼしいものは見当たらない。
部屋に戻り、すぐに唇を重ねた。
「欲望が少ないかなあ、俺は?」
「気にしてるの?」
「そうでもないけど」
欲望のありかを示すように朋子をベッドに押し倒した。ブラウスの下の乳房をさぐった。
「汗を流しましょ」
「うん」
ポンと弾ねて身を起こし、
「じゃあ、俺、先に入る」
「どうぞ」
中彦が出ると、替って朋子がバスルームへ消える。
ひどく待ちどおしい。
バスルームのドアの下に二センチほどのすきまが横に光っている。中彦は床に身を横たえ、そのすきまにそっと眼を近づける。
――矩を越えてるなあ――
心の欲するままに行動をすると、すぐにこんなことをやってしまう。
視界は扁平で、細い。
足先が一つ、もう一つ……。バスタブを出て鏡の前に立った。見えるのは、せいぜいくるぶしのあたりまで。
――その上にどんな脚が伸びているのか――
ドアの向こうでは鏡が隈《くま》なく朋子の裸形を映しているだろう。
いつドアが開くかわからない。中彦は身を起こし、ドアの前を離れた。
「ああ、さっぱりしたわ」
朋子は白いバスローブに体を包んでいる。浅黒い肌によくあっている。BGMのスウィッチを押し、髪を整えている朋子を背後から抱いた。
ベッドの上でバスローブの紐《ひも》を解いて奪った。
――このくらいの乳房が好きだ――
中彦はわけもなくそう思った。
ただの現実肯定主義。眼の前の乳房がもっと大きければ、その大きさをいとおしいと思うのではあるまいか。
脚を割り、体を重ねた。
ベッドがかすかに軋《きし》む。耳ざわりな響き……。もう一つのベッドのほうがよかったかもしれない。
背中が二つ、手足の八本あるけだもの……。
そう表現したのはだれだったろう。
「汗が流れてる」
「ええ」
二つの生き物に分かれて上がけを引いた。
「ゴムとガム、同じ英語なのに日本語じゃ発音もちがうし、意味もちがう」
照れ隠しなのだろうか。おかしなことをつぶやいてしまう。
「ええ……」
喋《しやべ》らないほうがよかったかもしれない。しばらくたってから、
「本当ね」
と朋子が頷《うなず》いた。
「サイダーとシードル。ストライキとストライク」
もう少しロマンチックな台詞《せりふ》がないものか。うまい言葉が見つからない。黙って手を握った。
――なんのためなのか――
こうして抱きあっていることが……。
――愛を確認するため――
本当にそうかなあ。
とりとめのない思案が浮かぶ。
男と女の魔の時間……。最前の情熱はなんだったのか。しらじらとしたものが心に昇って来る。
男と女なんて……目的はなにもない。抱きあっていること、それ自体に意味がある。高まりが去ってしまえば、目的のあやうさが心を蝕《むしば》む。欲望がなくなってしまえば、周囲の風景が変ってしまう。心が変ってしまう。
――今ならば矩を越えることもあるまい――
少なくとも性の欲望に関しては……。
「ちょっと」
つぶやいて朋子がベッドを立つ。バスローブをかぶってバスルームへ走る。
汗を流すため……。
しかし、朋子も心に広がる虚しさをのがれるためにベッドを離れたのかもしれない。
――地図を一つ一つ埋めて行く――
そのたびに美しい景色を眺め、きっと抱きあう。それ自体は喜びにちがいないが、あとには、色をぬられた地図しか残らない。ほとんどなんの意味もない終着点……。
――それでいいじゃないか――
人生そのものがそうなんだから。要は、
――朋子もそう思ってくれるかな――
その点にかかっている。朋子がそれなりに満足してくれれば、それでいい。
手を伸ばし、テレビのスウィッチを入れた。
時代劇らしい。若い男が殺され、みんなが死骸《しがい》に取りすがって泣いている。
「なんですか」
朋子が戻って来た。
「わからない。水戸黄門かな」
「ちがうみたい」
「見てるのか、いつも、家で?」
「ううん」
中彦の隣に体を滑らせながら、
「親戚の子に、とてもおもしろい子がいるの」
「ふーん?」
「テレビの時代劇で人が死んで、みんなが泣いていたらでも、泣いてる人もみんなもう死んじゃったんだよね≠サう言うのよ」
「ちがいない」
子どもは時代劇を本当のものとして眺めている。だれかが死に、みんなが悲しんでみたところで、その連中も遅かれ早かれ、今はもうみんな死んでしまっている。どんなに激しい喜怒哀楽だって、百年もたってしまえばあとかたもない。
「死なないうちに」
と、中彦は朋子の唇に触れ、胸をさぐった。
欲望が少しずつ甦《よみがえ》り、また心に映る風景が変った。
――俺だけがそうなのだろうか――
とりわけ性の欲望……。その多寡により世界を見る眼が微妙に異なる。女性が美しく見えたり、それほどでもなくなったり……これは本当だ。たしかにそんな気配がある。
だが、それだけではなく、もっと不思議な変化、大げさに言えば世界観のちがいかもしれない。生きて行く意味、それは当然、性とかかわりがあるにちがいない。
もちろん中彦は、男盛りの年齢、さしずめ朱夏のあたり、性の欲望にこと欠かないが、交接のあと、ほんの短い時間ではあるけれど、空白の意識が心をよぎる。
――生きるなんて、たいしたことじゃないな――
虚無的な思考が芽ばえ、努力とか闘争への意志がはっきりとしぼんでしまう。世界観が変ったようにさえ感じてしまう。
一過性の虚無感。すぐに回復する。
眠りは深かった。
翌日は名古屋へ戻り、
「城を見ないか? ほんの一時間ばかり」
「ええ。でも、どうして」
「愛知はまだだろ」
「通り過ぎただけ」
「だから」
「でも、あなたは何度も見たんでしょ」
「中へ入ったのは一回くらいだろう。いいよ、行こう」
二時間後の指定席を用意してタクシーを走らせた。
「名古屋は、わりと見るところがなくてね」
「明治村……。たしかここよね」
「うん。犬山のほうだから、少し遠い」
「まだ行ってないの?」
「まだだ」
城郭への道はすでに冬枯れて落葉が風に舞っている。城門をくぐり、天守閣に昇った。
城についての知識はとぼしい。説明を聞き、説明を読んでも、
――ああ、そうですか――
頭の中を通り抜けて行って、ほとんどなにも残らない。
記憶というものは、脳味噌《のうみそ》がそのことにどれだけ悩まされたか、苦労の量と関係があるらしい。苦労をしなければ覚えられない。
「生徒たちによく言うんだよ。試験場を出て来て、今日はどんな問題が出たが、あらかた思い出せるようなら入っているって」
「そうなの?」
「ああ。鉛筆を倒して丸をつけて来た奴は、Aに丸をつけたが、Bに丸をつけたか、問題そのものをよく吟味してないから記憶に残らないんだ。ちゃんと考えたあとでAに丸をつけた奴は、なぜAで、なぜBでないか、迷ったあげく、なにかしら自分でAを選ぶ理由を見つけ丸をつけるわけだろ。そこを覚えている。悩んだぶん記憶が残る。ちゃんとした理由で選んだときのほうがよく頭に残るし、それが正しんだよ。たいてい入るね」
「そうなんでしょうね」
「碁打ちや将棋指しが、終ったあとみんな覚えているのも同じことじゃないのか。漫然と手を選んでいるわけじゃない。この場面ではこの手、これが先で、これがあとで、相手はこう来るはずで……理屈がちゃんとあるんだ。行きあたりばったりで指してる奴は、理屈がなにもないからあとで思い出せない」
「道なんかもそうね」
「道?」
「ええ。知らないところを、自分で本気で捜しながら行くと、一度でしっかり覚えるけど、だれかに連れてってもらうと、何度行ってもここ曲がるんだったかしら。もう少し先だったみたい≠「つまでも覚えられないの」
「あるねえ。とくに女の人。だれかと一緒に行くと、本気で覚えてないんだ」
「そう、漫然と歩いてるの」
「人生も同じかもしれんぞ」
「同じよ。絶対に同じよ。全部自分の判断で、全部自分の責任で……それならしっかり身につくけど、半分くらいだれかを当てにしていると、いくらたくさん経験しても駄目」
天守閣のてっぺんから市街地を展望し、急な階段を降りた。
「そうかもしれない。城なんか日本中にたくさんあるし、結構いろんなとこで見てるんだけど、こっちになんの知識もないから、きちんと見てないんだな。どこを見ればよいか、ほかの城とどこを比較すればいいのか、なんにもわからない。漫然と見ている。だから、なんの記憶も残らない」
「あなたもそう? 私なんか完全にそう。桜が咲いてたとか、道が泥んこだったとか」
「水戸のお壕《ほり》の……公孫樹《いちよう》はきれいだったな」
「あれは忘れられないわ」
「またどこかで城を見るよ、俺たち」
「今度はどこかしら」
「どこだろ」
帰りの道が混んでいた。
予定の列車にギリギリ馳《か》け込む。
「もう厭っ。こういうの」
「次のに乗ったって、いいんだけど」
「そうよねえ」
静岡のあたりで暮れ始め、東京はネオンの輝く夜だった。
「さよなら」
旅の終りは、いつもよく似ている。
「また今度。楽しかった」
「ええ……」
今夜も朋子は仕事があるらしい。
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1983・春 長崎・雲仙
原宿界隈《はらじゆくかいわい》は新しい繁華街として急速に開け始めていた。
もともとビルや店がなかったわけではない。東京の中心部に位置する街として、そこそこににぎわってはいたのだが、なにぶんにも明治神宮の参道として発達したところだから銀座や新宿《しんじゆく》とは異っている。少なくとも盛り場ではなかった。それが、ここ数年、大手のファッション・メーカーがつぎつぎにこの付近に本社を持つようになり、竹下通り周辺がなぜか若者たちの人気を集めるようになった。街の様子が少し変った。
若者はいつだって新しいものを追いかける。昨日はやっていたものが、今日はもう古い。必然的に新しいシンボルを作りださなければいけない。
――前にも似たようなことがあったな――
そう、グループ・サウンズが流行したのは、中彦が中学生の頃だった。
「スパイダースなんか、古い、古い」
「タイガースだもんねえー」
「馬鹿あ。テンプターズだろうが」
つぎつぎに新しいグループが誕生し、人の知らない名前を言うのが、自慢のたねだった。
「新宿なんか汚えよ」
「六本木《ろつぽんぎ》がいっちゃんいいね」
「お前、古いなあ。原宿、原宿よ、今は」
街のほうはグループ・サウンズほど手軽に新しいものを作るわけにはいかないが、新しいものを捜して愛《め》でて得意がる心理は共通している。
竹下通りはともかく、原宿駅から青山通りへと向かう道筋はグレードの高い繁華街として注目を集め始めていた。青山通り付近も、どんどん開発が進む。
中彦にはなじみの薄い街だったが、朋子の店があるので関心を持つようになった。
「いいタイミングで店を開いたみたい」
アクセサリーと身のまわりの小物類を扱う店。アクセサリーは宝石と呼べるほど高価なものではない。小物類はちょっと垢《あか》ぬけている。
「いつも混んでるもんなあ」
「ハイとミドルの、まん中くらいを狙《ねら》ったのがよかったんじゃない」
ちょっと高い。ちょっといい。しかし、手が届かないほど高いわけではない。日用品よりはリッチな感じがする。
「そうらしい」
朋子はいつもいそがしい。心が仕事に向いている。
「もう少し楽ができると思ったんだけど」
「月に二回くらいは会いたいな」
「会ってるんじゃない、それくらいは」
「先月は一回だった」
「あら、そうだった?」
東京で会うのさえ、ままならない。
「ぬり絵がはかどらないなあ」
「大丈夫。一生のうちにはなんとかなるんじゃない」
「とにかく最低月に一回は会おう。そうでもないと、俺たち、なにをやってるのかわからん」
「ええ……」
恋愛なんて、結婚を目ざしているのならばともかく、その目標がないとなると、なにをやっているのかわからないところがある。まして月に一度も会わないと……すこぶる心もとない。
「ぬり絵のほうは、ゆっくりやるとして」
「ごめんなさい」
会う機会はそれほど繁くはなかったが、会うときはいつも睦《むつま》じかった。
「ニュースよ」
「へえー、なんだ」
「大ニュース……ってほどじゃないわね。仕事で盛岡へ行ったの。新しい感覚で木彫を作る人がいて」
「言ってくれれば一緒に行けたかもしれないのに」
岩手県は朋子がまだ行っていない県だった。
「急に決まったの。日帰りだったし。木曜日、駄目だったでしょ」
「先週? 木曜なら無理だな」
「でしょう。そう思った。でも、一つ消えたわ。あなたのところのぬり絵をぬっておいてくださいな」
「わかった」
コーヒー店で待ち合わせ、一緒に食事をする。いつも似たようなコース……。限られた時間の中では、大きな変化は望めない。
「青山はおいしいコーヒーが似あう街なんですって」
と、朋子がいたずらっぽい顔で言う。
「へえー」
なにか仕かけがありそうだ。
「だって、青山はブルー・マウンテンでしょ」
「なるほど。生徒に話してやる」
「喜ぶ?」
「うん。そういうこと、なぜか喜ぶんだよな、連中は。授業の中にちょっとでも笑いがあったほうがいい。アイ・スクリーム・フォア・アイスクリームなんてね」
「なーに、それ」
「スクリームっていう動詞、フォアとくっついてなになにがほしいとせがむ≠チて意味になる。で、アイ・スクリーム・フォア・アイスクリーム。駄じゃれだね。しかし、これ一つで、英作文のたしになる」
「パチパチパチ」
朋子は掌をあわせて音のない拍手をした。
「なにを食べる」
「東京には、ほとんどの国の名をつけた料理店があるんですって」
「そうかな」
「フランス料理、イタリア料理、ロシア料理、インド料理、中国料理、韓国料理、タイ料理……」
「本当だ。スイス料理とかスペイン料理とか、そんな看板も見たなあ」
「ほかにポリネシア料理とか北欧料理とか」
「ある、ある。台湾料理なんてのもある」
「アメリカ料理って、あんまり聞かないわね」
「うまくなさそう。わらじみたいなステーキが出て来て。イギリス料理もないな」
「ないことはないんでしょうけど……あんまり言わないわね」
「一つ一つまわってみるか」
「それもぬり絵をするの。厭。もうたくさん」
「まあな」
アルコールの強さは、二人ともほとんど同じくらい。深刻なテーマは滅多に話題にのぼらない。おたがいに避けているふしがあった。
それでもたまには話す。
「私たち、似ているみたい」
「そうかな、どんな点が?」
「あんまりまじめじゃないとこ」
「うーん」
「人生に対して一生懸命生きていないでしょう」
「俺はそうだけど、君はちがうだろ。今の仕事、結構一生懸命やってるじゃないか」
「見かけはね。でも……なんて言うのかしら。人生の目的があって、それに向かって一生懸命生きるって、そういうところないわ」
「そんな人、いるかな」
「いるわ」
「そりゃ主義主張を掲げて生きてる人もいるけど、たいていの人は漫然と生きている」
「子どもを育てようとか、サラリーマンとして出世しようとか、一生を賭《か》けた仕事を持っているとか……みんななにかしら目的みたいなもの、持っているわ。私、なんもないもん。仕方ないから、目先のことに夢中になって気を紛らせているだけ」
「それはわかる」
「いつか話してくれたでしょ。実存主義? そんな大層なものじゃないんでしょうけど、なにをやってもたいして意味がないみたい」
「わるい病気をうつしちゃったかな」
「そうみたいよ。あなたもちゃんと結婚して、人並の家庭でも持ったら」
「結婚なんてものは、なんかこう、腹の底からしたい≠チて、そういう気が湧《わ》いて来なきゃ、しないほうがいい」
「湧いて来ないの?」
「今までのところはね。わるいけど」
「わるいけどって……私に対して?」
「まあ……そうかな」
「いいのよ。気ままで。私、こんな関係もあっていいって、本当にそう思っているの。あなたにはご迷惑かもしれないけど」
「いや、べつに迷惑じゃない」
「それなら、よかった。男と女なんて……愛って言ってもいいのかもしれないけど、とっても不確かなものでしょ。結局、自分しか愛していないんだし、そんなにりっぱなもんじゃないわ。それが恥ずかしいもんだから、みんな愛がものすごくりっぱで、自分もりっぱなことやってるみたいに演技をするのね」
「わかる」
「それも一つのやり方でしょうけど、ありのままに、自分の感情のまんまに親しみあうってのも、わるくない。うまく言えないけど」
「ラブ・レターなんか書くと、自分の恋愛がものすごくりっぱなものになっちゃうだろ。こんなに愛していて、こんなに純粋で、こんなに真摯《しんし》で……しかし、フィクションなんだよな、あれは。自分で自分を酔わせている」
「酔える人はいいけど、私、少しヘンテコだから」
「ヘンテコ同士でいいんじゃないのか」
「だから似てるのよ」
はたから見れば訳のわからない関係だったろう。
そんな状態のまま数か月が過ぎて、中彦が朋子のマンションへ電話をかけると、
「もし、もし」
と、声が笑っている。
「どうした?」
「なんでもないの。ちょうど私も電話をかけようかなって思っていたとこだったから」
「なにか用?」
「でも、あなたがかけてよこしたんだから、あなたのほうの御用から先に言って」
「そう言われても困る。このところしばらく会っていないから」
一か月に一回、そのペースを守るのがようやくだった。
「そうね。じゃあ、私のほうの用件」
「うん?」
「ちょっと九州あたりにまで飛んでみませんか」
「いいねえ」
朋子のほうから誘いがあるのはめずらしい。
「来週」
「来週のいつ?」
「木曜日から日曜日まで」
「ちょっと待って」
スケジュールを記したノートを開く。
電話口で下唇を突き出しながら、
「木曜日がまずい。どうしても」
今は入試のシーズン。勤務先の予備校に詰めて、模範解答を作る仕事が入っている。ほかのだれかに頼むわけにもいかない。
「じゃあ、次の月曜日は?」
「それもむつかしい。わりとひまな時期のはずなんだけど……こんな誘いがあるとは思わなかった」
「金、土、日は、いいのね」
「うん。それは大丈夫」
まるっきり予定がないわけではないけれど、なんとかやりくりはできるだろう。
「唐津《からつ》と、それから長崎と雲仙《うんぜん》に行きたいの」
「うん?」
「唐津には仕事があって、それは一人で行くわ。あなたは佐賀県にいらしたこと、あるんでしょ」
「ずっと昔ね」
「だから、いいじゃない。金曜日に長崎でお会いしませんか。その日の午後は市内を少し見て、翌日は雲仙。日曜日に帰って来るの」
「いいよ」
「じゃあ、ホテルの手配は私がします。飛行機は……帰りはANAの十五時二十分。行きは午前の、十時二十分くらいかしら。ご自分のぶんだけ用意してくださいな」
「わかった」
航空券の予約には搭乗者の名前が必要だ。夫婦ではない二人の旅には都合がわるい。
――ホテルのほうは、どうするつもりかな――
疑問を覚えたが、朋子にまかせることにした。
「無理を言って、すみません、迷惑じゃなかった?」
「ぜんぜん」
「もう一度、ご連絡します。ご自分の切符、ちゃんと取ってね」
「すぐに手続きをする」
「じゃあ」
「うん」
電話を切り、口笛を吹きながら航空券予約センターの電話番号を捜した。
「もしもし、長崎への往復なんですが……」
「はい。何日の、どの便でしょうか」
希望通りの便が予約できた。
地図のぬり絵は……長崎はどちらにとっても白い未踏の地域である。佐賀は、朋子だけぬることになる。
――しかし、帰って来てから――
まだ色をぬるわけにはいかない。
約束の金曜日、午前十時二十分のANA機で中彦は長崎へ出発した。朋子は唐津で仕事をすませ佐賀市で一泊して長崎本線の急行に乗る。一時間半くらいの旅程らしい。午後一時を目安に長崎市内のGホテルで会うことにした。
大村の空港から長崎市内までバスで一時間あまり。中彦は大幅に遅刻してしまった。
「ごめん、ごめん」
朋子は紺のスーツ、襟もとの白いステッチがしゃれている。
「このくらいの時間になると思っていたわ。ここは空港から遠いって聞いてたから」
「で、どうする?」
「お食事は?」
「まだだ」
「じゃあ、このすぐ近くにおいしい皿うどんを食べさせるところがあるの」
「そこへ行こう」
裏通りの小さな中華料理店。昼の時間を過ぎているのに客が一組入口のところで待っている。メニューはチャンポン、皿うどん、そして湯麺《タンメン》と限られている。
テーブルのあくのを待って皿うどんを注文した。
「白菜がおいしい」
「うどんそのものもおいしいわ」
「調べて来たのか」
「ええ。お友だちに長崎のこと、くわしい人がいるの」
もう三時に近い。散策の時間は限られている。タクシーを拾い、市内の名所をめぐり歩いた。
「細長い町だな」
「山が迫っているから」
丘陵地に貼《は》りつくように家並が続いている。
大浦天主堂、グラバー園、オランダ坂、出島の商館跡……。
「これが眼鏡橋?」
「ただの橋だなあ」
浦上天主堂から平和公園へ着いたときにはもう日が暮れかかっていた。
「あと二十六聖人の記念像だけ見ましょうよ」
「いいよ」
駅に近い公園。薄闇《うすやみ》の中に二十六人の殉教者たちが立って並んでいる。宙に浮いている。
「子どももいたのね」
「みんなが空を見つめている」
「天国があるのよ、あのへんに」
と、朋子が振り返って天の一角を指さす。
「そうだろうなあ」
「殉教って、なんなのかしら」
ホテルへ戻る車の中で朋子がつぶやく。
「信ずることだよ。信ずるから殉死することもできるんだろ」
「そりゃそうでしょうけど、どうしてそこまで信ずることができたのかしら」
「うーん。パスカルじゃなかったかなあ。哲学の授業で習ったよ」
「どんなこと」
「ゆっくり説明する。チェック・インをして……夕食はどこだ」
「このホテルのレストランがすてきなんですって。夜景を見ながら」
「わかった」
「チェック・インは……私たち夫婦よ。岡島中彦と岡島朋子」
小声で囁《ささや》く。
「それもわかった」
ツインベッドの部屋。荷物をほどき、屋上のダイニングルームへあがった。
窓際の席にすわり、
「あれが海?」
街の光を割って黒い入江が見える。
「そうらしい」
お腹《なか》はあまりすいていない。注文はパンとビーフ・シチュウ。
「さっきの話だけど」
「ええ」
「たしかパスカルだと思うんだ。人間は考える葦《あし》だ≠チて言った人」
「知ってるわ」
「科学者だったから、ものごとを論理的に考えたんだ」
「ええ……?」
朋子はフォークの先で肉と骨とを器用に分ける。
「神様がいるかいないか、だれにもわからない。パスカルにもわからない。神様がいる可能性を一としたら、いない可能性はどれくらいか。わからないけど、とにかく有限の数で表わすことができる。〇・五とか、二・八とか……。つまりそれをMで表わすと、神様がいるかいないかは一対Mになる」
「厭だあ、数学みたい」
「数学なんだ。パスカルは数学者でもあったんだ」
朋子との会話は、いつもこんな調子になってしまう。朋子は肉を頬張《ほおば》りながら、
「あ、そう」
と頷《うなず》く。
「神様がいるならば、これほどしあわせなことはない。つまり、人間が偶然|塵《ごみ》みたいにこの世界に放り出されているわけじゃなく、神の国が約束されているわけだから。これは至上の幸福、無限大の喜びだってパスカルは考えたわけだ。わかる?」
「わかる……みたい」
「神様がいなければ、人はせいぜいこの世の快楽を味わうだけなんだから、たかが知れている。これは有限の幸福にしかすぎない。幸福の量を計ってみると、神様がいるときは無限大。いないときは有限だから、この量を今度はNで表わす。無限大の記号は知ってるだろ。8を横にしたみたいなやつ」
「ええ」
中彦はポケットからボールペンを抜き、紙ナプキンに薄く、
1 : M
∞: N
と記した。破けそうな紙ナプキンを朋子の眼の前に移し、
「上のほうが神様がいるかいないか、その可能性を表わした式、下のほうは、そのことで得られる幸福の量を表わした式。で、これをかけ算すると、神様がいるほうに賭《か》けたほうがいいか、いないほうに賭けたほうがいいか、当てにできる幸福の総量がわかる。つまり、こうだよ」
1 ×∞ : M × N
こう書き加えてから、
「一かける無限大は、やっぱり無限大だし、MかけるNは、どっちも有限な数だから、かけ算をしても有限の数になる。つまり、神様がいるほうに賭けたほうがずっと幸福の量が大きいんだから、そっちに賭けよう、神様を信じたほうが得だ、と、そう結論をくだしたんだ」
「わからないわ、むつかしくて」
「言ってることは、そんなにむつかしくはない。はっきりわからないことについて、どっちを選ぶか、だれしもが毎日の生活で直観的にやってることだよ。たとえばサ、子どもがお小遣いをもらいに行くのに、おじいちゃんのほうへ行こうか、おばあちゃんのほうへ行こうか。おじいちゃんは、くれるときはたくさんくれるけど、いそがしいので忘れられることも多い。おばあちゃんは額は小さいけど、ほとんど忘れない」
「あるかもしれないわね」
「おじいちゃんが忘れずにくれる可能性を一とすれば、おばあちゃんのほうは二くらいになる。くれる金額はおじいちゃんだと三千円、おばあちゃんだと千円。幸福の可能性と総量を計算すると、おじいちゃんが一かける三千、おばあちゃんが二かける千、おじいちゃんのほうへ行こう、となる」
「数でうまく表わせないこともあるでしょ」
「もちろんそうなんだけど、頭のどこかで数量的な判断をしているわけだよ、俺たちは、いつも。魚を釣りに行く。あっちの岩場のほうが、よく釣れるけど大物は少ない。こっちの岩場は一日釣れないこともあるけど、釣れたときはすごい。どっちにしようか、女の人なら、デパートのほうが気に入ったものが見つかるけど、値段が高い。スーパーは安いけど、気に入ったものが見つからないかもしれない。可能性の大小と、そこから得られる満足の大小とを考えてどっちが得か、俺たちはいつも心の中でかけ算をやってるんだよ。無意識のうちにも」
「そうかもね」
「だから、神様の有無についても一対M、それによって得られる幸福は無限大対N。MとNとは有限の数だから、神様がいると信じるほうが得ってことになる」
「どっちが得か、よーく考えてみよう。CMがあったわね」
「うん。パスカルは十七世紀の人だろ、たしか。神様って言っても、ヨーロッパの場合はキリスト教なんだけど、その前までは、あんまり疑いも持たず、みんなが信じてたわけだろ、神様の存在とか、神の国とかを」
「ええ」
「十七世紀あたりからほんまかいな≠チて少しずつ疑いが現われ始めて、それでパスカルがこんな論理を思いついたんじゃないのか。神様を信ずる理屈として。ゆっくり考えてみると、パスカルの理屈も信じるか信じないか、そこにかかっているわけで、早い話、神様がいない可能性を無限大にしちゃうと、この数式、ぜんぜんちがって来るもんな」
「殉教者は信じてたわけね」
「あの彫像はよくできてたな。天国を信じてじっと見てるって顔だったもん。無限の喜びに比べれば、ひとときの地上の苦悩なんか、ちっぽけなマイナスでしかない」
「そういう境地に達するんでしょうね」
「しかし、二十世紀になって、そう単純には信じられなくなったんじゃないの。神様もいなければ究極の使命もない。人間はただこの世に放り投げられただけ。とるにも足りない目的を自分で捜し、自分で設定し、励むよりほかにない。ぬり絵をやるとか。これで佐賀と長崎が埋まったわけだ」
「そう。ものを知ってる男って、いいわよ、やっぱり。歩く百科事典みたいな人」
「それは無理だ」
「コーヒー飲みたい」
「うん」
中彦がコーヒーを飲み、料理の残りを口に運ぶ。
「哲学の先生が、ガマ蛙みたいな顔をしててサ」
「ひどいわ」
「本当なんだ。パスカルの説明を始めたとたんに人間は考える葦《あし》だって言われていますけど、本当は人間は考えるガマなんです≠チて、ガマ蛙みたいな顔で言うんだよな」
「冗談?」
「ちがう、ちがう。大|真面目《まじめ》で。今まで葦だ≠チて訳されていたけど、それは誤訳で本当はガマ≠ネんだって……。葦とガマ蛙じゃ、ずいぶんちがうだろ」
「ちがうわねえ」
「いくらなんでもそんなひどい誤訳がずーっとまかり通って来たなんて、信じられないだろ。俺、このガマ蛙、なに言ってんだ、そう思って聞いてたら……」
「ええ?」
「ガマって、ほら、蒲《がま》の穂ってのがあるだろ。川岸なんかに生えてる……」
「ああ。因幡《いなば》の白うさぎ。その上に寝転がって」
「そんなのあったな。蒲田《かまた》とか蒲郡《がまごおり》とか、みんな蒲が生えてたんじゃないのか」
「そうかもね」
「葦と訳しているけど、本当は蒲だって……なにせ当人がガマ蛙の顔で言うもんだから、てっきりガマ蛙のことだと、俺、思ってしまって」
「馬鹿らしい」
朋子は体を揺すって笑う。コーヒーが今にもこぼれそう。
「顔はガマ蛙だったけど、授業はよかった。わかりにくい哲学を自分なりに大胆に説明してくれるから学生にもよくわかるんだ。少し言いすぎのとこもあったのかもしれないけど、いつかも言っただろ、七のことを言うのに、はじめ十を言って三を引く、そのほうがわかりやすいんだ。そういう感じだったな、ガマ蛙の授業は」
「ゴチャゴチャ、ゴチャゴチャ、なにを言ってるか、よくわからない説明って、よくあるもんね」
「そう。人間は考える葦だ≠チていう言葉だって、人間なんて水辺にそよいでいる、かよわい一本の草だって、そういう意味に解釈されている場合が多いけれど……」
「ちがうの?」
「ガマ蛙の説明はちがったな。かよわい水辺の草にしかすぎないけれど、考えることができる。だから強い。しかし、強いと言っても、所詮水辺の草みたいなものだから、絶対の強さを持っているわけではなく、すぐに折れてしまう。やっぱり弱い。弱いけど、考えるから強い。強いけど、かぼそくて弱い。強いけど弱いし、弱いけど強い……。弁証法的って言うのかな、矛盾をくり返していく存在として人間をとらえたところが、この言葉の本当の意味なんだって……」
「結論がないわけね」
「そう。断定のできないこと、いっぱいあるもん」
「これが今回のお勉強?」
「いいんじゃない、このくらいで」
「ありがとうございました」
「お粗末様でした」
ディナールームを出てエレベーターに乗ったところで朋子の手を握った。
「話したいことがあるの」
と、朋子は上眼使いで見る。
「なんだ」
「でも明日。今晩は……ね、散歩に行かない?」
「いいよ」
日中は暖かかったが、夜は風が冷たい。思案橋のあたりまで歩き、
「夜の早い街ね」
「どことなく暗いな」
酒場のたぐいを除くと、商店はあらかたシャッターをおろしている。
「寒い」
「コートを着てくればよかった」
タクシーを拾ってホテルへ戻った。部屋のぬくもりがここちよい。
「おみやげを買って来たの」
朋子がボストンバッグのジッパーを引きながら言う。
「俺に?」
「そう。唐津《からつ》で見つけたの」
二つの箱から二つの同じグラスを取り出した。
「ギヤマン風だな」
絵柄は、薄い暗緑色の海に古地図が記してある。
「モーニング・カップなのね、きっと」
「うん」
「一つ持って帰って。牛乳くらい飲むんでしょ、朝」
「飲む、飲む」
「私もこれで飲みますから」
「なるほど。分身みたいなものかな」
「分身? ああ、そうね」
手触りが滑らかでやさしい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
朋子が丁寧に包んで箱に戻した。
「明日は早いんだよな」
「九時三十二分の列車で諌早《いさはや》へ行くの」
「そこからは、なに?」
「バス」
「九時出発くらいだな」
「ええ」
中彦がドアに近いベッドを採った。
「さっき、話したいことがあるって言ってたけど……」
「だから、明日。明日の夜に」
「わかるような気がする」
「きっと当たっているわ」
ベッドサイドのあかりを一つずつ消し、フットライトだけの薄暗い部屋。
――いつかもこんな夜があったな――
と、中彦は思った。
朋子と過ごす夜は、いつもみんなこんな感じだった。いや、そうではない。どの夜も少しずつちがっている。
「行ってもいい?」
尋ねながら動作はすでに立ちあがり、朋子のベッドへ滑り込む。肩を抱きながら、
「平安朝スタイル」
と笑った。
「なに?」
「うん。平安朝スタイルだと、男が女のところへ訪ねて行く」
ツインベッドの場合は、どちらが作法に適っているのだろうか。
「反対はなんて言うの?」
「なんだろう。通い妻スタイルかな」
「そういうのも、あったの?」
「あったんじゃないか」
乳房のふくらみも、恥毛の感触も、掌がしっかりと覚えている。
抱きあうたびに体が少しずつなじむ。
――でも、少しちがうかな――
一瞬、微妙な変化を感じた。
たとえば、自分の部屋。留守中にだれかが入って、ほんの少し机の上のものを動かす。戻って来て、
――変だな――
漠然とした気配。どこがちがっているのかわからない。気のせいだとも思う。
女はきっと抱擁の最中にこんなよそごとなど考えたりはしないだろう。一途《いちず》に没頭しているのではあるまいか。
堰《せき》を切って興奮が流れ出す。
男は急速に萎《な》え、女はゆっくりと静まる。
中彦は自分のベッドへ戻った。
夢を見た。
地図がつぎつぎに色をぬられていく。
――あともう一息――
全部ぬり切ってしまうと、どうなるのか。それを楽しみにして来たのだが、
――いけない――
なにかわるいことが起きるらしい。
今までよいことばかりを想像していたが、それは大変なまちがいだった。
もうどうしようもない。最後の県が半分ほどぬられている。怖い。とても怖い。
眼をさました。
カーテンのすきまが白い。時計を見ると、七時を過ぎている。
――おかしな夢だったな――
夢の中身は、いかにもこんなときに見そうな内容だった。だけど、そこで感じた恐ろしさがただごとではなかった。真実怖かった。
――怖いことなんか、なにもないのに――
ぬり絵が完成して……おそらくうれしいことも起こるまい。
――ほとんどなんの意味もない目標――
人生そのものと同じように。ぬり絵を一つ一つぬって行く、その道筋にだけなにほどかの意味がある……。
もう眠れそうもない。
起きて、そっとバスルームへ入った。
コックを押すと、お湯がバスタブの中にザザッと流れ込む。タオルをコックにかけて水音を消した。
バスタブに全身を沈め、脚を伸ばす。
「たかがセックス、されどセックス」
水の中に沈んだ自分の裸を見つめながら、つぶやいてみた。
男の凸起を女の凹みの中にさし込む。そのことにどれほどの意味があるのか。
――生命を作る営みだから――
それゆえに厳粛である。
「それはわかる」
だが、現代ではかならずしもそういう営みだけとして機能しているわけではない。
むしろ愛の証しとして。快楽として。
体液を好きな女の中へ流し込むという行為には、たしかにえも言われない喜びがある。心の満足がある。征服欲も微妙にからんでいるだろう。
一方、女のほうは、それを許し、それを受け入れる、そこに喜びがあるにちがいない。同化の喜び……ちがうだろうか。
バスローブを着てバスルームを出た。
「起きたの?」
と、朋子が白いシーツの中から眼だけを覗《のぞ》かせている。
「うん」
「天気はどうかしら?」
「まだよく見てない」
カーテンをなかばほど開いた。
転げるようにまばゆい光がさし込んで来る。
「開けてくださいな。私も起きますから」
「快晴だ」
中彦は眼をしばたたきながらベッドの中の朋子をさぐった。乳房のふくらみが掌にここちよい。
「さ、朝ごはんを食べて」
「よかろう」
朋子がバスルームへ駈《か》け込んで行く。
シェバーで髭《ひげ》を剃《そ》った。
朝食は和洋折衷のバイキング。朋子がパンを食べ、中彦は茶碗の飯、しかしコーヒーだけは飲む。
タクシーで長崎駅へ。
改札口を抜けると始発列車が車両を連ねて待っている。朋子はスラックス姿に変わっていた。
「諌早《いさはや》って、どこにあるんだ」
中彦がガイドブックの地図を広げる。
「この県は形が複雑ね」
「長崎県の子どもは、ちゃんと自分の県を描けるのかな」
「描けるんじゃない」
「昨日もらったグラス……」
と網棚の上を顎《あご》で指す。朋子の贈り物がバッグの中に入っている。
「ええ?」
「九州なんかずいぶんひどい形だったな」
「いつ頃の古地図なのかしら。でも、北海道なんか、もっとひどいわよ」
「なんとなく眺めてるけど、作るとなると大変だよな、地図は」
「でしょうね」
長崎から諌早までは三十分足らず。そこで島原鉄道のバスに乗り込む。
「長崎って雨が多いんだろ」
快晴の空を見ながらつぶやいた。
「どうして」
「そういう歌が多いだろう。長崎は今日も雨だった……とか」
「でも、ある晴れた日に、って、そういうのもあるじゃない。あれは長崎のわけでしょ」
と、朋子が蝶々《ちようちよう》夫人≠フアリアを口ずさむ。
「じゃあ、晴れてる日もあるわけだ」
「そうよ」
右手の窓に海が浮かんだ。
「どこの海だ」
と中彦がまた地図を開く。
「あなたって知識欲が旺盛《おうせい》なのね、本当に」
「ここにはいろんな海があるんだよな。昨日ホテルのダイニングルームから見たのは、長崎湾だろ、当然。飛行機が降りたのは大村湾だし、あれは橘《たちばな》湾だよ。あと有明《ありあけ》海ってのもある」
「あっちゃこっちゃにいろんな海があるのね」
水平線の上に浮かぶのは、島原半島なのか、それとも天草《あまくさ》の島なのか。
途中で朋子が眠り、中彦もまどろんだ。眼を開けると雲仙の街に着いていた。
「きれいな街並だな」
「本当に」
いわゆる温泉街のイメージとは少しちがっている。広い舗装道路を挟んで、ホテル、旅館、郵便局、ポリス・ボックスまでが整然と、一定の調和を保って並んでいる。
「作られた街だな」
「実存主義じゃないのね」
「そう。先に定義があって、そのあとで存在した街だよ、これは」
それははっきりとわかる。
Kホテルは木造のクラシック・ホテル。これも風格があって美しい。
「上高地《かみこうち》のTホテルでコーヒーを飲んだな、ずっと昔」
「高級すぎて泊まれなかったけど」
「ちょっと似てるな」
「そうね」
「今日は、これからどうする?」
「仁田《にた》峠へ行くの。今日はいいと思うわ、きっと」
荷物を置いてタクシーを呼んだ。
ゴルフ場の脇《わき》を走る。
「ここは日本で一番最初にできたパブリック・コースなんだね」
と、運転手が言う。
「へぇー」
「上海航路の船が長崎港へ入ってたりしたから早くから外人さんが来てたんですよ。夏だって涼しいし、景色はいいし……」
「本当に」
「ここはほかの温泉場みたいに歓楽街がないから……いいんじゃないの、こういうとこも」
仁田峠にはロープウェイが設置され、ゆらゆら揺れながら頂上駅まで昇った。さすがに風が冷たい。このあたりは霧氷でよく知られているところらしい。今年は暖冬で、春の訪れが少し早いようだ。
山頂駅からさらに数十メートル登ると、そこが妙見岳の山頂。岩の上から展望ができるようになっている。
「すごい」
本当にすごい。
「これは有明海だな」
東の海が太い入江を作り、その対岸に遠い山、近い山、そして町が見える。
「熊本かしら」
「方角はそうなる」
「じゃあ、あれは阿蘇《あそ》山?」
「そうかな」
ゆるやかなカーブを描いて突出する山並みがあった。
それよりももっと雄大なのは、南の海の風景である。
これも海をへだてて三角《みすみ》港、そして天草《あまくさ》の上島《かみじま》、下島《しもじま》、その薄黒い姿が水平線上に湾曲してどこまでも続いている。
「桜島が見えるときがあるんですって」
「まさか」
「でも、お友だちが……長崎のことをよく知ってるお友だちが、そう言ってたわ」
「見えるかなあ」
天草の島のむこうに、さらに高い山の稜線がうっすらと映っている。しかし、噴煙らしいものは見えない。桜島にしては近すぎる。
西には青い湖と遠く光る橘《たちばな》湾あたり……。そして北の方角には島原半島の山々が、視界をさえぎっていた。
近くに国見岳《くにみだけ》、普賢岳《ふげんだけ》、同じくらいの高さの山頂があって、それぞれが見ごとな眺望を誇っているにちがいない。先に来ていた家族連れが立ち去り、絶景が二人だけのものとなった。
「これだけの眺めって、めったにないだろ」
「会津《あいづ》もよかったけれど」
「いや、こっちのほうが上じゃないか」
「海が見えるから」
山登りで汗ばんだ体も、今はむしろ寒い。
中彦が朋子の肩を抱いた。
「寒い」
コートのボタンをはずして、朋子を胸の中にくるんだ。マフラーをほどいて朋子の首に巻く。
「行きましょうか」
「もう一回グルーッと見まわして」
不思議な恰好《かつこう》のままでトコトコと体を回転させて歩いた。
「もっと暖かいかと思ったわ」
「同じ九州でも、まん中の山を挟んで西と東じゃ大分ちがうんじゃないのか。このへんと宮崎じゃまるでちがう」
山を一気に降りて雲仙地獄へ。白い蒸気がいとおしい。硫黄の匂《にお》いが強く鼻を刺す。灰白色の岩場はあちこちに熱い湯溜《ゆだま》りを作り、細い流れとなって動いているところもある。散歩道が敷かれ、ゆで卵を売っている。摂氏百三十度以上。卵を籠に入れて湯溜りの中へ浸けておけば、すぐにおいしいゆで卵となる。
昔はもっと凄絶《せいぜつ》な風景だったにちがいない。阿鼻叫喚も木々の梢を縫って聞こえただろう。キリシタン殉教の記念樹も建っている。
「たまらんなあ、こんなところに投げ込まれたら」
「どうしてそんなことしたのかしら」
と朋子が眉《まゆ》をひそめる。
キリシタンの弾圧は、巨視的に見れば、新しい文化に対する島国日本の直観的な恐怖に由来するものだったろう。裁く者と裁かれる者とのあいだには、狂気に近い憎悪と石のような抵抗とがあったにちがいない。人間は人間をどこまで憎むことができるのだろうか。
ホテルに戻った。このホテルには大浴場があるらしい。
「私はお部屋のお風呂《ふろ》でいいわ」
「もったいない。俺は行く」
汗を流したあと、ダイニングルームで遅い夕食を取り、部屋でくつろいだ。
テレビがタンゴを奏でている。どっしりとした体躯の女性歌手が歌っている。
その番組が終ると、朋子がテレビのスウィッチを切り、つぎつぎに部屋のあかりを消した。
「どうした?」
「抱いて」
声で告げたのか、それとも動作で示したのか。中彦は朋子のそばによって唇を重ね、ベッドに二人の体を横たえた。
やはり……ちがっていた。
朋子はぎこちない。女体の反応が滑らかに感じられない。
――いつもなだらかなカーブを描いて高まっていたのに――
仕草の中に、かすかに堅い緊張がある。
だが……突然、腕をからめ、体をすり寄せ、女体は興奮をあらわにした。いつもとはちがった意志が潜んでいるように感じられた。
「話したいことがあるんだろ」
「そう」
「なんだ」
「終りにしてほしいの。ごめんなさい。一方的に……勝手なこと言って」
薄闇《うすやみ》の中で、朋子の眼が中彦の表情をうかがう。
「どうして」
予期せぬことではない。多分そんな話だろうと思っていた。それ以外に朋子がことさらに「話したい」などと前置きをして語るテーマは考えにくかった。それに……なによりも愛の仕草がそれを予告していた。
「怒らないで」
「怒りゃしない」
「あのね……。もとの鞘《さや》に収まることになったの」
「ご主人と?」
意外ではあったが、言われてみれば、それが一番ありうることのようにも思えた。
「ええ。いろいろ事情があって……」
「うん」
あまり上等な連想ではないけれど、中彦は、
――ああ、最近、彼と抱きあったんだね――
と、そのことをまず思った。
女体のぎこちなさは、短い期間のうちに二人の男に抱かれる、その戸惑いを表わしていたのだろう。
朋子の夫について……会ったこともないし、あまり話も聞かなかった。ほとんどなんのイメージも湧《わ》かない。
だが、二人は離婚をしていないはずだ。夫婦なのだから、会えば抱きあうことも充分にありうるだろう。
その男は、朋子の父親に信頼され、朋子の父親が築いた会社をまかせられ、そして失敗した。面目を失い、姿をくらましていた時期もあったらしい。そうしたいざこざが夫婦のあいだに溝《みぞ》を作った……。
――朋子はどのくらい好きだったのかな――
それなりに好きだった。好感くらいは充分に抱いていただろう。そうでなければ、どんな事情があったにせよ、朋子が結婚に踏み切るはずはない。むしろかなり好きだったのかもしれない。
ところが会社がいけなくなり、そんなときには人間の弱さや醜さが実際以上に見苦しく露呈されるから、
――この人、なんなの――
そんな感情を朋子は持ったのではあるまいか。女性関係のトラブルもあったらしい。好きだったのが嫌いになることも充分にありうる。第一、一番大切なときに当人が姿を隠してしまうなんて、あんまりほめられたことではないし、残された者はどうしていいかわかるまい。しばらく中途半端な情況が続き、朋子としては、
――離婚ね――
と、考えていたのも本当だったろう。
ところが、その男が力を盛り返した。
会社の負債を返却するとか、会社の立て直しに成功するとか、なにかしら明るい展望が見えて来たのではあるまいか。
朋子の母親の立場も見のがせない。
「別れたわけじゃないんだし、せっかく会社も軌道に乗り始めたんだし……」
母親にしてみれば、自分の夫が築いた事業であり、一家の支えであった会社が存続してほしいと願わないはずがない。娘婿《むすめむこ》に委ねることができれば、それが一番うれしいことだろう。もともと朋子の結婚には、そうした思惑がからんでいたのであり、昔に戻れるものなら、そのほうがよい、と、そう考えてもさほど不思議はない。朋子も母親のことをとても気にしている。あまり長い命ではないらしい。
そして、男は……きっと朋子が好きなのだろう。その朋子を妻に迎え、妻の父親の会社を引継ぎ、
――俺も男だ――
薔薇《ばら》色の人生を描いたときもあったのではなかろうか。若い者が張り切りすぎると陥穽《かんせい》に気づかない。力量も不充分だったろう。とんでもない失敗をやらかし、蒸発まがいの雲隠れまでやってしまったのは、なぜだったのか。
二通りの見方があるだろう。
恰好《かつこう》ばかりつけたがるが、そのわりに意気地のない奴。ただオロオロと逃亡してしまった……。
だが、けちがついたときには、ほとぼりのさめるまで現場を離れ、ゼロからの覚悟で捲土《けんど》重来を計ったほうがいいときもある。ここ数年、彼は無我夢中で頑張ったのかもしれない。
どちらも半分ずつ当たっているのではあるまいか。
朋子はそうくわしくは説明してくれない。ポツリポツリと事情の一端だけを語る。
「うまくやれるかな」
その男の女性問題はなんの支障もないのだろうか。
いったんは離婚しようかと思った男と、もう一度やり直してみようとそう考えた、朋子の中の本当の引き金はなんなのか。
「わからない」
中彦が、いまここで「俺と一緒になろう」と、そう叫ぶべきなのだろうか。中彦がそれを言わないから、朋子はよりを戻すことにしたのではあるまいか。
――今ではもう遅い――
言うならば、もっと前……。朋子は心を決めている。きっと……。堅く、堅く決心している。
「原宿《はらじゆく》の店はどうする? 続けるのか」
「それはまだ……。軌道に乗ったし、もう私がいなくても、どうってこと、ないんじゃないかしら」
「しかし、君の力で軌道に乗せたんだろ」
「たまたま原宿って街が、ぐあいよくなったからよ。私の力じゃないわ」
「そんなこと、ないよ」
「どうするか、まだ話してないし、決めてもいないの。ただ私がいなくても大丈夫。それはたしかなの」
朋子はむしろそっけない調子で言う。
――なにかあったのかな――
店のオーナーとのあいだに。朋子は雇われてる立場だからトラブルがあれば身を引くよりほかにない。
「まずいこと、あったのか、店で」
「ううん。なんもないよ」
と、少年のような言葉遣いで告げてから、
「私って、飽きっぽいから」
と、つけ加えた。
――飽きっぽいかなあ――
そうかもしれない。普通の飽きっぽさとは少しちがう。朋子にはなにがなんでもこれをやろう≠ニいったふうな意欲がない。目的意識が薄い。だから、いっときは一生懸命やるけれど、長く続ける理由がないから放り出すのもやさしい。そんなところがある。
――俺もそうなんだよな――
前にもそんなことを感じた。
シーツの下で朋子の掌をさぐり、
「俺が申し込むべきだったかな」
「駄目よ。その気もないくせに」
「そうとは限らない」
「うれしいけど、駄目よ。私たち、似ているから。近親結婚は駄目なの」
朋子が手を握り返す。
「好きなんだけどなあ」
「ウフフ。ありがとう。でも、いいの。あなたは無理をしちゃいけない人なの。思った通り、感じた通り、はっきりしないことははっきりさせないで気ままに生きてるほうがいいの。私、そんなあなたが好きよ。もっとちゃんとした仕事につけるのに、ごめんなさい、今のお仕事がわるいってわけじゃないけど、無理をしたくないから、自分の気持ちにすなおでいたいから、やってるわけでしょ、やくざな先生を。それがいいのよ」
朋子はよく知っている。
「うーん。でも、なんだか変だな」
「なにが?」
これから一人の男と……夫にはちがいないけれど、しばらく別れていた男と一緒に暮らす女……。それを目前にして、もう一人の男と旅に出る。朋子の気持ちはどこにあるのだろうか。
――短い日時のうちに二人の男に抱かれるのは、どんな感じかな――
しかし、なまなましすぎて尋ねられない。
「罪ほろぼしかな」
と中彦がつぶやいた。
「なーぜ」
わからなければ、説明するのも気が進まない。
「いや、いい」
「ああ。旅行に誘ったことね。私、目茶苦茶ばっかりやってるから。ごめんなさい。迷惑だった?」
こう問い返されると、中彦としてはますます答えにくい。迷惑ではない。旅は最高に楽しい。いつも楽しかった。失うのが惜しいほどだ。ただ……どう説明したらいいのだろうか。男女関係も一つの契約であるならば、一方的に朋子が破棄をした。罪ほろぼしの気分が朋子の側に少しあるのかな、と、そう思ってみただけのことだ。
とはいえ、中彦と朋子のあいだには、なんの契約もあるではなし、中彦がプロポーズをしない以上、朋子がどう動こうと、なにをしようと、それは朋子の勝手であり、罪ほろぼしなどという言葉を考えつくこと自体、中彦の思いあがりかもしれない。
「そんなことはない。とても、いい」
「こうしたかったの、最後は」
「わかる、わかる。しかし」
「なーに」
「ぬり絵はどうする? まだ少し残っている」
「そうね。島根、鳥取、秋田、愛媛、富山、和歌山……。私はあと六つね」
「もう一息なのに」
「こういうことって、最後の一つを残したところで、たいてい駄目になるんじゃない」
「そうかな」
「ほら。弁慶も九百九十九本、刀を集めて」
「うん」
「小野小町のところへ通った人、だれだった?」
「忘れた。九十九夜で駄目になるんだ」
「そう」
「まだ先は長い。一生のうちには完成するよ」
「私、わりと早く死にそうだから」
「そう言いながら百まで生きたりして」
「それはないわ。どこが最後になるかしら」
「君が結婚しているあいだに、わりと俺いろんなとこ行ったからな。行ってないのは、あと山形と和歌山だけだ」
「和歌山が残りそう」
「わりと用がなさそうだもんな、和歌山県は」
「温泉があるんじゃないかしら、有名な」
「南紀白浜《なんきしらはま》?」
「そう」
「でも、東京に住んでいる者がわざわざ行くところじゃないだろ」
「そうね」
「残念だな。二人で最後までぬり絵を完成するつもりだったのに」
なんの意味もない、無償の行為。目的とするほどのことではない。ただ……そんな些細《ささい》なものに賭《か》けている心理が中彦の中にないでもなかった。
「この先、自分でやります」
「うん、成果を報告してくれ。俺のところに君の地図があるんだから」
「そうね」
朋子の乳房に手を伸ばした。
――たかがセックス、されどセックス――
こんな瞬間に中彦はいつもこの言葉を思ってしまう。
それほど重大なことではない。重大でないと思うならば……。
とても大切なこと。そう思うならば……。
恥毛を割って指を進めた。つい最近もう一人の男が触れたところ……。
――それがどうした――
女は思いのほか繁く、大胆にこんなことをやっているかもしれない。
もう一度体を重ねて中彦は自分のベッドへ戻った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
翌日は島原を訪ね、帰路に着いた。大村の空港から羽田《はねだ》へ。
「さよなら」
「さようなら」
こうしてこの旅も終った。
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1983・秋 鳥取・島根
朋子は間もなく原宿《はらじゆく》の店をやめた。
中野区の哲学堂に住まいを変え、引越の挨拶《あいさつ》状に、
遅ればせながらまた人並みの暮らしを始めました
と、ペン書きの細い文字で記してあった。
中彦の生活は変らない。あい変らず勝手気ままに暮らしている。暑い盛りに盲腸炎の手術をして一週間ほど休んでしまった。こんなときには女性がいてほしいと思う。
書斎の壁には、ぬり絵用の地図がそのまま貼《は》ってある。
時折、朋子からの絵葉書が届く。
旅先からの短信。地名が赤いインキで囲んであれば、それは新しいところへ行った合図である。ぬり絵をぬってくださいという印である。
鳥取の砂丘で駱駝《らくだ》に乗りました。背中がゴツゴツしていて、とても楽だ≠ネんてものじゃありません。砂丘は日本の風景じゃないみたい。山は紅葉の盛りです。県境を越えて鳥取県に入り、夕暮れの宍道湖《しんじこ》は墨絵の風景です。今夜は玉造《たまつくり》温泉に泊まります
一人で行ったわけではあるまい。温泉は女が一人で行くところではない。
――うまくいってるのかな――
夫婦の生活は……。
いささかの嫉妬《しつと》もない。
――嫉妬がないのは、それだけ愛情がないから、かな――
正しいような、正しくないような……。
たしかに嫉妬の量と愛情の深さは無縁ではあるまい。だが、嫉妬深い人もいれば、淡白な性格の人もいる。たくさん嫉妬をしたからと言って愛情が深いとは限らない。人間がちがえば、おのずと嫉妬の量も異なる。
――俺は執念が足りないもんなあ――
どう計ってみても嫉妬深くはあるまい。朋子が本当に今の生活の中で幸福になってくれればいいと思う。
しかし、その夜、おかしな夢を見た。
強い雨が降っている。玄関のブザーが鳴る。ドアを開けてみると、ずぶ濡《ぬ》れの朋子が立っている。
「逃げて来たの」
「そうだと思ったよ」
レインコートの下には、なにも着ていない……。
眼をさますと、強い雨だけは本当だ。窓のすぐ近くに隣家の金属板の屋根が迫っていて、雨の様子が鳴り物入りでよくわかる。
――馬鹿らしい――
心のどこかで朋子が逃げて来てくれることを願っているのだろうか。
――ちがうな――
そんなことになったら面倒でやりきれない。それを望むくらいなら、もっと早い時期にやるべきことがあったはずだ。
頭の中には、いくつものユニットがある。どこかのユニットが勝手な妄想《もうそう》を描いて、それを夢にして映す。それだけのことだろう。
――朋子が逃げて来てくれればいい――
と、頭の中ですべてのユニットがこぞってそう考えているわけではない。
鳥取と島根がぬりつぶされて、残りがあと四つ……。
中彦自身は山形と和歌山と、あと二つを残すだけだ。
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1984・冬 秋田
秋が冬に変り、雪が降って年が変った。そして久しぶりに朋子からの絵葉書が届いた。
お友だちと一緒に秋田のスキー場に来てます。スキーをやるなんて、何年ぶりかしら。デパートに勤めていた頃が最後です。でも滑ってみると、わりと滑れる。地図のことはだれにも話してません。子どもみたいね。おいしいおせんべえがあったので送りました
秋田≠フところが赤い枠で囲んである。
去年の暮、部屋の掃除をしたときに壁の地図をはぎ、畳んで本棚のすみに差し込んでしまった。それだけ朋子への思いが薄くなった。
――とにかく最後まで――
捜し出して秋田県の部分を丁寧に赤い斜線でぬりつぶした。
その直後にたまたま恩師の葬儀が山形であり、同窓生を代表して中彦が雪国まで赴いた。
中彦自身は和歌山を残すだけとなった。
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1985・夏 御巣鷹山
この夏、日本航空のジャンボ機が迷走のすえ、群馬県の御巣鷹山《おすたかやま》に墜落。五百二十人の死者を出す大惨事となった。
中彦は名古屋のホテルにいて、夜通しテレビで事故の報道を眺めていた。
飛行機は羽田《はねだ》発の遅い便だったらしい。
五百二十人の死者は、事故当日の朝から飛行機に乗るまでどんな一日を過ごしたのか。今夜死ぬなんて本気で考えた人はだれもいまい。魅入られるように、引き込まれるように、一歩一歩死の淵《ふち》に向かって歩み寄ったにちがいない。五百二十個の、それぞれの一日があったはずである。
――たしかアメリカのノンフィクションにそんな作品があったな――
タイトルは忘れた。
どこかの航空会社の大事故。もちろん実際にあったことである。ライターは克明に、死者たち一人一人の一日を取材した。
孫たちに送られ手を振りながら迎えの車に乗った大実業家、夫婦喧嘩《げんか》の気まずい気分のまま家を出たサラリーマン、前夜、恋人と真剣に論じあい、ようよう堕胎を決意した看護婦。さまざまな日常生活がいきいきと描かれていた。
それが突然消えてしまう。
――朋子は無事だろうか――
ときどき旅をしているようだけど。
夏が終る頃、朋子から少し長い手紙が届いた。
知人がボーイング747機に乗っていました
と書いてある。墜落した飛行機だ。
原宿《はらじゆく》でアクセサリーを売っていた頃の知りあいらしい。
――どの人かな――
女性らしいが、女性の乗客も少なくはなかった。あんなとき知人の名をテレビの画面に見つけて、人はどんな驚きを覚えるものか。最初になにをするだろう?
その女性は……朋子の手紙から察すると、まことに運わるく≠V47機に乗ってしまったらしい。本来なら新幹線で大阪へ行く予定だった。たまたま蒲田《かまた》の取引先でトラブルが生じ、出発を一日延ばすつもりで取引先を訪ねた。トラブルは無事解決。
「大阪へ行こうと思ってたの」
「わるかったですなあ。ちょうどいい飛行機があるんじゃないかな。ここから羽田は近いし」
家に帰って、明日また出るより、今日このまま飛行機に乗ったほうがいい。そのつもりで出て来たんだから……。あまり会いたくもない義妹一家が泊まりがけで家に来ていることも思い出した。
とても微妙な心の動きで決まった決断……。問いあわせの電話を入れると、キャンセルの切符が手に入った。
――なぜそうしたのか――
だれしもが考えてしまう。朋子は書いている。
……あなたがおっしゃるように、私たちは偶然この世に放り出されたのかもしれません。なんの目的もなく、なんの予定もなく、どのように生きたらよいか設計図もありません。きっとその通りでしょう。でも、そう思いながらも、まったく矛盾する心理なんですが、この世のことはみんな初めから決まってること、と、そう感じたりするときもあります。たとえば、今度の場合なんか……。事故で死んだ彼女は、生まれたときから昭和六十年八月十二日飛行機の墜落にあうと、そう決まっていた……。ただ、そのことをだれもが知らないだけ。そういう設計図がちゃんとあったのだと……。なぜそう思うのか、わかりませんけれど。そして、人生はみんなそんなものなのかなとも思います。どこかでまた偶然お会いしたいですね。私たちの設計図はどうなっているのかしら
二度読み返した。
朋子の気持ちはわかる。
あまりにも不思議な偶然にめぐりあうと、それがあらかじめ予定されていた必然であるかのように思いたくなってしまう。中彦にもそんな体験がある。
だが……それとはべつに、
――朋子はしあわせなのかな――
それが少し気がかりだ。
――なぜ夫のところへ戻って行ったのかな――
中彦と一緒になるチャンスは何度もあっただろう。中彦は、自分の心の中を探《たず》ねてみて、そのすぐそばまで行ったことが幾度もあった、と、そう断言できる。つまり朋子と一緒に暮らそうと、その決断のすぐ付近まで……。朋子の心の中だって同様だったろう。
――あと一歩足りなかった――
おたがいの意志と言えば、意志だった。
でも、設計図がそうなっていなかったから、と、そんな気もする。
――朋子は俺に会いたがっているのかな――
手紙の最後は、読みようによっては、そう読むこともできる。
――俺も会いたいけど――
これから先の設計図はどうなっているのか。これまでに何度もくり返したような、はっきりしない関係を続けるために朋子に会ったりしてはなるまい。
ときどき朋子を思い出し、それもそうしょっちゅうではなかったが、また何か月かが流れた。
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1986・春 魚津
郵便受けを覗《のぞ》くと、柱の太い、豪壮な民家を写した絵葉書が立っている。字を見ればすぐにわかる。
――今年は年賀状をもらったかなあ――
とにかく久しぶりの便りであることはまちがいない。
小さな字で書いてある。
またアクセサリーの仕事を始めました。翡翠《ひすい》のよい細工があるということで、糸魚川《いといがわ》から魚津《うおづ》へと来てます。蜃気楼《しんきろう》は残念ながら見えません。そう、魚津は富山県。残りは、あと二つになりました。愛媛と和歌山。もう少しです
二、三日、日を置いて、
――もう旅から帰っているかな――
と、電話をかけてみた。
しかし、ベルが鳴っているだけ……。
――どこかに勤めているのかな――。
葉書にはそんな一行が記してあった。夜の電話には、男の声が答えるかもしれない。中彦としては、とくにやましいことはないけれど、朋子の夫に対してはなにほどかの気詰まりを感じてしまう。
それに……朋子は、会いたければなにかの方法を講ずるはずだ。さしでがましいことは、あまりしないほうがいい。ぐずぐずと行動を先へ延ばすのは、中彦のむしろ気質に適っている。
それでも時折思い出して何度かはダイアルをまわした。その都度、朋子が不在だったのは、ただの偶然なのか、設計図がそうなっているからなのか、わからない。
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1988・春 南楽園
表参道の四つ角を根津《ねづ》美術館のほうへ曲がって四、五十メートル。青いスレートを貼《は》ったティルームはすぐに見つかった。花水木《はなみずき》の白い花が散り始めている。
十日ほど前、朋子から美しいガラスの器を描いた絵葉書が届いた。エミール・ガレの作。そこに短い文面で、
お変りありませんか。私のほうは……離婚しました。今度は本当に。一昨年、母を亡くしまして、いよいよ独りです。コーヒーでも飲みませんか。古いフランス映画みたいに。でも、ゴメンナサイ。いつも身勝手で
と書かれてあった。
――どうしようか――
迷ったのは、他人が聞いたら「お前も人がいいなあ。よっぽど惚《ほ》れてんのか」と笑われそうだから。あまりたやすく応じてしまっては、朋子がひどく身勝手な女であると、そう断定することになりそうだから。人にそう言われても反論ができそうもないから……。
しかし、だれかに知られるはずもない。
朋子はけっして身勝手なだけの女ではないし、もともと二人の関係は、世間の思惑とは少しはずれていた。
中彦がダイアルをまわすと、今度は電話口になつかしい声が響いた。
「お変りもなくて?」
「変らない。こんな会話が多いな、俺たち。そちらは雲行きが少し変ったみたい?」
「そう。かなり変っちゃった」
「会おうか」
「いいんですか」
「わるい理由は、ないだろ」
「まあ」
「青山あたり」
青いスレートのティルームを告げたのは朋子のほうである。
中庭を挟んだシンメトリックな建物。半分がティルーム、半分が洋菓子を売る店舗になっている。
とてもしゃれた店構え。
ドアを押すと、奥まった席で女性が手を挙げた。朋子だった。
――あれっ――
少し老《ふ》けた。
と言うより少し器量が落ちた。肌の色に艶《つや》がない。照明のせいかもしれない。いつか東京駅で会ったときには、八年ぶりだったのに、ほとんど変っていなかった……。
今度は五年ぶり。
どうやら女性の顔というものは、同じリズムで老けて行くものではないらしい。あるときガクンと老ける。顔の種類によってもちがうだろう。二十五歳で老ける顔、三十歳で老ける顔、三十五歳で老ける顔などと。朋子はちょうどこの五年のうちにそんな節目を通り抜けたらしい。
「やあ」
「ちっとも変らないわね」
朋子の眼には中彦がどう映ったか。
中彦は、英語のテキストで読んだ二人の煙突掃除人≠思い出した。二人の男が煙突を掃除する。仕事が終り、顔を見あわせたとたん洗面所に走ったのは、少しも顔の汚れていないほう。顔をまっ黒にした男は、それを不思議そうに眺めていた。話のおちは……つまり、顔の汚れた男は、顔の汚れていない男を見て、
――俺も汚れていない――
と考えた。一方、汚れていないほうは、その逆。だから洗面所へ走った。
――今も同じかな――
もし中彦が昔と少しも変っていなければ、朋子は自分も変っていないと思うのではあるまいか。
面ざしはともかく朋子の声は少しも変っていない。眼の動かしかたも。
「また独りになったんだって」
「そう、駄目ね」
「で、なにをしてんだ」
「アクセサリーの問屋さん。今、ものすごいブームなの。売り手も買い手もゴチャゴチャになってるのね」
「うん?」
「そんなに高価なものじゃなくてもいいわけよ。加工技術が進んでいるから、材料が宝石や金でなくても、いいものがたくさんあるのね。デザインのほうが勝負なの。安くて、いろんなものが買えたほうが、いいでしょ。若い人たちは、とくに」
「そうだろうな」
「だから……いそがしいの。こっちのほうが向いてるみたい、主婦より」
「すっかり片づいたのか」
「うん。もうなんもなし。母も亡くなったし父の会社もなくなったし。そちら様は?」
「ぜんぜん変らない」
「あい変らず武芸者で……」
前にそんな話をしたことがある。
「しかし、四十代に突入したからな、武芸者としてはもう老兵のほうだ。おいしいね、このコーヒー」
「いい店でしょう。初めて?」
「うん」
「富山の人らしいの、ここの経営者」
「このあいだ、富山から絵葉書をもらった」
「ええ。富山の人って、お風呂《ふろ》屋さんが多いんですって」
「そう言うね。東京のお風呂屋さんは、あらかた富山の人だって」
「この店、とってもきれいだけど、ちょっとお風呂屋さんに似ていない?」
「あははは。シンメトリックで、中庭があって」
「ね? とってもセンスのいいお風呂屋建築。タイル貼《ば》りだし」
「富山県は強盗になるんだよな、たしか」
「なに、それ?」
「越中強盗、加賀|乞食《こじき》、越前詐欺で、若狭《わかさ》は首吊《くびつ》る」
「あい変らずへんなこと知ってるのね」
「生活にいよいよ困ったとき、どういうビヘビアーを採るか。富山県は強盗になる。石川県は乞食になる。福井県は……越前のほうは詐欺師になって、若狭は首を吊つちゃう」
「県民性なの?」
「そうじゃないのか」
「ふーん」
朋子はコーヒーの香りを嗅《か》ぎながらゆっくりと飲む。
「ぬり絵、あと二つだろう」
「そうね」
「愛媛と和歌山」
「愛媛はいらしたことあるんでしょ」
「松山にね」
「宇和島《うわじま》って、愛媛よね」
「多分そうだろ」
「宇和島の近くに南楽園って、とってもすてきな庭園があるんですって」
「あんなところに」
「ええ。すごくきれいなんですって」
「行ってみようか」
「わざわざ?」
「いいだろ? 再会を記念して」
そう誘いながら、中彦は、
――いいのかな、旅になんか行って――
かすかなためらいが、心をよぎるのを覚えた。
――新しい関係が始まるかもしれない――
この十数年間、中彦は朋子以外の女性と親しい仲になったこともあったけれど、朋子ほど気のあう人はいなかった。これは本当だ。恋愛なんて熱病のようなところがあるから、短い期間をとってみるならば、朋子以上にボルテージのあがった関係も皆無ではないけれど、長い眼で見れば朋子が断然|睦《むつま》じい。
――一緒に暮らしてもいいかな――
と思う。
独り身になった朋子も同じことを考えるのではあるまいか。だが、
――今さら、朋子と――
と、その思いも強い。
なれあいのような関係。心の底からふつふつとたぎって来るようなものはもはやほとんど見当たらない。春の日の陽なたぼっこ。心地はよいけれど、ときめくものがとぼしい。
そういうことなら、今あらためて旅になど出かけてはいけない。
――ちがうだろうか――
そう思うあとから、
――まあ、いいか――
曖昧《あいまい》さが特徴であるような関係だった。それが中彦にもよくあっていたし、朋子もそれでよかった。ほかの人ならともかく、朋子と中彦だからこそそれができたような気もする。だったら、今までのまま曖昧さを貫くことも許されるだろう。
「行きたいわね」
「行こうと思えば行ける。思わなければ行けない」
「なにしろいそがしいの」
「君の都合にあわせるよ」
「二日とればいいのねえー。土。日を挟めば……」
「うん」
「ここまで来たら、ぜひともぬり絵をすっかり完成させたいわ」
「そうだな」
「わりと本気なの」
「いいんじゃない」
「少し考えさせて」
「うん」
朋子がいそがしいと言ったのは本当だった。
朋子の生活をすみずみまで観察したわけではないけれど、時折電話をかけてみるだけで見当がつく。一日十五、六時間労働。起きているときはほとんど働いている。人に会うことが多いようだ。ファッション関係の雑誌に原稿まで書いている。直接製作者を訪ねて、一品一品、こまかい買いつけのような仕事もやっているらしい。ものすごくエネルギッシュ。もともと朋子は中彦のような怠け者ではなかったけれど、これほどエネルギッシュに働く人ではなかった。なにかにとり憑《つ》かれたみたいに……。
――さびしさを忘れるためかな――
結婚に破れて、今度は仕事にうち込もうと考えたのだろう。
だが、あとで考えてみると、それだけではなかったらしい。
「行ってくれる? 愛媛に」
突然の電話でそう言われた。
「いいよ」
「あと二つだから」
朋子の言い方には、とても大切なことを完成するような、そんな響きが感じられた。
「そう」
目的は人それぞれが自分で作るもの。それが多大なエネルギーを注ぐに値するものかどうか、吟味することよりエネルギーの燃焼そのものに心を奪われてしまう、そんなことはだれしも体験しているだろう。
間もなくこの旅は実現した。朋子の望むままに。
五月なかばの土曜から月曜まで。春は充分に深まっていた。
「疲れてるんじゃないのか」
「そうねえ」
朋子の化粧が濃くなった。
だから一瞬の表情は、むしろ若い頃より華やかに映るけれど、疲労は隠せない。なにかの折にふっと面ざしに浮かぶ。
「働きすぎだな。よくはわからんけど、もう少し楽にしたほうがいいんじゃないのか」
「もうあとちょっとね」
「あんまりつきつめた気分で生きないほうがいいよ」
「そう思っているわよ」
羽田空港からも、搭乗のまぎわまで仕事の電話をかけている。
「ごめんなさい、落ち着かなくて」
「いいけど、べつに」
「仕事なんか、忘れたい」
そう言いながら旅の途中でもよく東京へ電話を入れていた。
松山はいかにも地方の古都らしいのどかさをたたえた町である。濠《ほり》と城址《じようし》が市街地の中心部を占め、道後《どうご》温泉に向かう市電がガタンゴトンと敷石の道を走っている。新しい街のところどころに古い家並みを残している。
正午過ぎに到着し、道後温泉から子規記念博物館へとまわった。
「日本をいくつかのブロックに分けて講習会とかコンクールとかをやるとき」
「ええ?」
「北海道は札幌でいいし、九州は博多で、まあ、いい。土地の人はみんな納得する」
「ええ」
「北海道じゃ、だれがなんと言っても札幌がキャピタルなんだ。九州も、熊本の人なんかちょっとおもしろくないらしいけど、博多が九州の代表と見なされても、そう大きな苦情は出ない」
「そうでしょうね」
「ところが、四国はちがう。高松なんかでやるとなんで高松や≠ニなる。松山や高知がうるさい」
「自分のほうが四国一だと思ってるわけね」
「高松にはろくな空港もないしね。昔は宇高連絡船が入口だったけど、今はたいてい飛行機で入って来るもん、四国へは」
「橋ができたでしょ」
「東京から来るのに、そう便利になったわけじゃない」
「ここは大きいみたい」
「だろ? 人口は四国で一番だし……松山はわりと自信を持ってんじゃないかな。四国のキャピタルは、おらっちだって」
「おもしろいわ」
「教育熱心だし、受験熱もかなりフィバーしている」
城山に登り、海に落ちる夕日を眺めた。
朋子があらかじめ魚のおいしい店を調べておいてくれた。
「疲れちゃった」
「結構登ったもんな」
「あれくらい、昔は平気だったんだけど。やっぱり年ね」
「馬鹿なこと、言うんじゃないよ」
「でも、もう朱夏を過ぎて、私たち白秋でしょう」
「寿命が長くなってるからな」
「明日は早いわ」
朋子はどうしても南予に新しくできた南楽園を見たいと言う。それが旅の目的だった。
「何時だっけ」
「八時半の列車」
「今夜は早く休もう」
「そうね」
しかし、久しぶりに出た旅の夜である。
「抱きたい」
「えっ?」
とばかりに眼をあげたが、抗《あらが》いはしなかった。
短い抱擁のあとで体を重ねた。
女体はまた少し変っていた。あえぐように、すがるように、腕をからめ、体をより深く密着させ……なんと説明したらよいのだろうか、性に対する執着心のようなものが、はっきりと感じられた。
二人とも荒い息をつき、朋子の息遣いが静まるまでにはしばらくかかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
中彦はぐっすりと眠った。
ピピィ、ピピィ……枕《まくら》もとの時計が鳴り、それぞれのベッドから亀の子のように首をあげた。
七時を指している。
「よく眠れた?」
「ええ」
朋子の声はまだしっかりと眼ざめていない。
「さーて、起きるか」
中彦はばね仕かけのように起きる。
「元気いいのね」
洗面をすませ、朝食をとらずにタクシーで駅へ向かった。名前は予讚《よさん》本線だが、車両はローカル線みたい。駅弁を買い込み、浅い椅子《いす》にすわって包み紙を開く。
「かまぼこの名産地だろ、このへんは」
「蜜柑《みかん》もおいしいはずよ」
「どうして日本の蜜柑は外国に負けるのかな。外国のオレンジ類と比べても、甘いし、食べやすいし、わるくないと思うけど」
「食べやすいのは、いいわね」
内子《うちこ》、大洲《おおず》、八幡浜《やわたはま》……。
線路ぞいの広告板を見ながら、
「饅頭《まんじゆう》の広告が多いんじゃないかなあ」
「お茶が盛んなんじゃない。だから、お茶菓子も」
「ほら、また饅頭だ」
「本当」
「今回はなんにも用意して来なかったんだ」
「なーに?」
「ほら。おもしろくて、ためになる話」
「覚えていてくれた?」
「覚えてはいたんだけど……。もうすぐ西暦二〇〇〇年が来る」
「ええ」
「二〇〇〇年には二月二十九日があるかどうか」
「あるの?」
「このあいだ、アメリカの雑誌で読んだばかりだ。こまかいことは忘れちゃったけど、えーと、あるんだよな、たしか、西暦二〇〇〇年の二月二十九日は」
「うるう年なのね」
「うん。二〇〇〇年がもっと近づけば、きっと話題になるよ。うるう年は四年に一回、オリンピックの年に、西暦年が四で割れる年に来る」
「今年がそうだったわね」
「一年が三百六十五日より少し長いから四年に一回調節をしているわけだけど、四年に一日増やし続けて行くと、今度は時間のほうが少し足りなくなっちゃって……」
「本当に?」
「うん。その補正のために百年に一回、うるう年であるべき年をうるう年にしないんだ」
「へーえ、知らなかった。そんなの、あった?」
「西暦年が百で割れる年。百で割れる年は当然四でも割れるから、普通だとうるう年なんだけど、これはうるう年にしない。一九〇〇年がそうだった」
「生まれてないわ」
「もちろん。生まれてる人がめずらしい。で、まだ、これで終りじゃないんだ。こうやって調節しても、長いあいだにまた逆に時間の余りができちゃって、四百年に一回、さらに補正をおこなう。西暦が四百で割れる年、これがそいつで、二〇〇〇年はそれに当たる」
「ややこしい。頭がおかしくなりそう」
「むつかしいこと、ないサ。西暦年が四で割れれば、うるう年。しかし百で割れれば、うるう年にしない。さらに四百で割れれば、うるう年にする。二〇〇〇年は四百で割れるから二月二十九日はあるわけだ」
「へーえ」
「二〇〇〇年のときは、ちゃんと四年ごとにうるう年が来るわけだから、こんなルール、知らなくても、べつに困らない。おかしいぞと気がつくのは西暦二一〇〇年のときじゃないかな」
「生きてないわね」
「まあな」
「私は二〇〇〇年だって危いわ」
「そりゃ、ないな」
正午少し前に宇和島へ着いた。
「伊達政宗《だてまさむね》の子どもが、ここのお殿様になったんでしょ」
「あ、そう。よく知ってるね」
「NHKの大河ドラマでやってたわ」
「ああ、そうか。俺、あんまり見ないから」
「最悪のとき……よく見てた。彼とうまくいかなくて、イライラしてた頃」
「そういうこと、あるよ。連続ドラマと一緒に、その頃の感情が甦《よみがえ》って来るとか」
「そう」
「博物館があるらしいけど」
「いいわ。南楽園を見たいの。まっすぐ行きましょ」
「なんなんだ、それ」
中彦はまるで知識がない。最近造られたものらしく、ガイドブックにも載っていない。
「庭園。普通、庭園て言えば、金沢の兼六《けんろく》園だって、水戸の偕楽《かいらく》園だって、みんなお殿様の別荘かなんかだったんでしょ。でも、ここはちがうらしいの。愛媛県なのかしら、持ち主は? 県が作っちゃったのね、お殿様みたいに」
「ふーん。めずらしい」
「そうみたい」
タクシーで三十分ほど走って、
「あれかしら」
「そうです」
と、運転手の帽子が頷《うなず》く。
広い駐車場があり、観光バスが何台か停《と》まっている。
「へえー、やるもんだねえ」
「菖蒲《しようぶ》がいいですよ、今は。見どころがいっぱいありますから。一時間くらいは、らくにかかるんじゃないすか」
初老の運転手に教えられ、出入口に続く橋を渡った。
木組の、やんごとないお屋敷にでも入るような門構え。くぐって中へ進むと、
「なるほど」
パンフレットには池泉回遊式日本庭園と記してある。
「ああ,きれい」
早くも菖蒲の鮮かな紫が眼を刺す。
観光バスの台数のわりには、園内の人影はまばらである。庭園の広さのせいだろう。
「松山から来るとなると結構時間がかかるなあ」
「こっちは桜、こっちは梅。一年中なにかしら花が見られるように作ってあるらしいの。あれは萩《はぎ》かしら」
「みごとだな」
一面に菖蒲畑が広がっている。低い湿地帯の中に鉤《かぎ》型の板の通路が敷かれ、人は花の道を進む。
「紫はむつかしい色だわ」
「うん」
「ちょっとのちがいで品がよくもなるし、わるくもなるし」
葉の緑が花の色をさらに鮮明に映し出している。
周辺の山がほどよい借景を作り出している。充分に広い山野を切り開き、各地の名園の長所を取り入れ、造園技術の新しい知恵を集め、思い通りの設計で造られたものにちがいない。こんなところにこんな庭園があるなんて……唐突な感じはいなめないが、それだけに驚きがあっておもしろい。
東屋《あずまや》で足を休め、また新しい花の道を捜して歩く。朋子が本当にうれしそう。庭園の美しさを満喫した。
「来てよかったわ」
「そう」
「まだあんまり人に知られていないでしょ」
「うん」
これからは日本のあちこちで新しい名勝が作られていくにちがいない。
「お待ちどおさま」
車に戻った。
「とてもいい庭園ね」
「そうでしょう。南レクの公園へ行きますか」
と運転手が誘う。
「なにがあるの?」
「海の上を通るロープウエイとか、展望タワーとか。宇和海から高地の山までずーっと見えますよ」
朋子が小さく首を振って、
「でも……いい。見たい?」
と、中彦の顔を覗《のぞ》く。
「いや。じゃあ、帰ろう」
「今日はいい眺めだと思うがね」
運転手は残念そうにつぶやいたが、朋子の気が進まないならば、中彦は無理に行こうとは思わない。
「宇和島に戻ってください」
いま来た道を引き返した。
「このあたりは、大隅《おおすみ》、奄美《あまみ》、沖縄なんかへ渡る玄関口だったわけだな」
「ええ」
「だから、伊達政宗の子どもも、わりと大切なところへ封ぜられたんじゃないのかな」
「ええ」
「海賊の本拠地があるんだよな、たしか」
「はあ。日振島《ひぶりじま》、藤原|純友《すみとも》の本拠地ですわ」
と運転手が答え、朋子は中彦の肩に頭を預けて眠り始めた。
――疲れてるんだな、そんなに頑張ることもないのに――
やはり女が一人で生きて行くというのは、ずいぶん大変なことなのだろう。
宇和島のホテルに入り、夕食のあとは、
「ゆっくり休んだらいいよ。疲れてるみたいだから」
「散歩へ行きますか、町へ」
「なにもない町だもの。いいよ、話でもしていよう」
「ええ」
それぞれのベッドに寝転がって、とりとめのない話を交わした。
テレビが小さな声を流している。ときどきそれを見る。
「あと一つね」
「俺もそうなんだ。和歌山にだけ行ってない」
「足並をそろえてくれたのね」
「そうでもないけど、結果として、そうなっただけだよ」
意図的にそうした部分も少しある。
「やさしいのね」
「かならず行こう、一緒に」
「人間なんて偶然この世に放り出されたんでしょうけど、自分の一生のうちになにができるか、人それぞれ自分にあった設計図を考えるものなんでしょうね。すごい設計図もあるし、つまらない設計図もあるし……」
「うん?」
「ただ、自分の力でできるのは、このくらい……なんとなくわかるんじゃないかしら」
「そうかもしれん」
「本当に私のぬり絵、ぬっているの?」
「ああ」
いつのまにか朋子は眠りに落ちていた。
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1989・夏 和歌山
一年がまたたくまに過ぎた。
いや、そうではない。どの一年とも変りのない、昼と夜と二十四時間が三百六十五回くり返す型通りの一年であったが、たった一つの変化が、一年の長さにふさわしくなかった。
朋子の死は突然だった……。
事故死ではない。
――病気というものは、もう少しゆっくりと人を死に誘うものではあるまいか――
前ぶれはたくさんあったらしい。死に至る病人の足取りは相当に速かったけれど、さりとて前例のないほど異常な変化だったわけではない。段階を追って悪化したことはまちがいない。だから朋子の死は突然であった≠ニ、そう言ってしまっては正しくはあるまい。中彦が迂闊《うかつ》だっただけのこと……。
――人はそう簡単に死ぬものではない――
と、おおよそは正しいか、けっして絶対とは言いきれないテーゼに、中彦が盲目的に信を置いたのがいけなかった。
朋子の顔に薄く貼《は》りついているような疲労は何度も目撃した。宇和島への旅では、ずっとそれを見続けていた。
――仕事のやり過ぎ――
そうとばかり思い込んでいた。
だが、あとで聞けば、仕事をやり過ぎるのも、朋子に死をもたらした病いの特徴なんだとか。いまわしい細胞が増殖を開始し、そのために一時的のことながら生命力が高揚し、なにかにとり憑《つ》かれたように働きまくる。生体が若い命であるときには、とりわけそんなことがよくあるらしい。命の短いことを本能的に知って、精いっぱい生きようとする、そんな本能も働くのかもしれない。
宇和島から帰ったあと、
「和歌山へはいつ行こう」
「行きたいわね」
電話口からこぼれて来る声は、強い願望でありながら、かすかにネガティブなものを含んでいる……。そんなふうに聞こえた。
――行けない事情があるのかな――
また前の夫とよりを戻したりして……。
「だから、いつ」
「そうねえー。体調がよくないの」
「へえー、風邪《かぜ》かな」
「そうかもしれない。この頃、なかなか風邪がなおらないから」
「無理するなよ」
「ええ」
「早く元気になって、ジャーンと威勢よくやろう、最終回は」
「ええ、本当に」
行きたいのも本当ならば、体調がすぐれないのも本当らしい。
――急ぐことはない――
中彦はいつもそう思ってしまう。
こんなやりとりが二、三回あって、青山のコーヒー・ショップで会ったときには、
「ドックに入ってちゃんと診てもらおうと思うの」
「それがいい」
化粧がまた濃くなっていた。
素顔の表情は顕著に病んでいたのではあるまいか。
朋子は八王子の病院へ入院した。
――なんでそんな遠いところへ――
と思ったが、妹さんの家が近いからと、これはあとで知ったことである。朋子自身、
――長い療養になるかもしれない――
と、感ずるものがあったからだろう。
「中学生の頃、結核をやって、それが再発したらしいの」
「結核なんて、今ごろあるのかよ」
「あるらしいわよ。現にそうなんだから。腎臓もわるいらしいの」
「ふーん」
「二、三か月入院して骨休めね」
「そんなにかかるのか」
「そうみたい」
「まいったなあ」
これも電話で話したことである。
もちろん中彦は見舞いに行った。朋子の様子は……たしかにやつれてはいたが、命にかかわる病気だなんて中彦は天から考えていなかったから、
――腎臓は結構厄介だからなあ――
甘い視点で病気を見ていた。
「また来るよ」
「無理しないで。病気のとこ、見られるの、好きじゃないし」
朋子にはたしかにそんなところがある。いい状態の自分を見せたい……と、その気持ちには嘘《うそ》はない。
「わかった。まあ、ときどき」
八王子は遠い。行こうと思っても行きにくい。朋子は短い手紙を書いて寄こす。中彦も手紙を送った。日常の些事《さじ》を記して……。
――このほうがいいのかもしれない――
朋子の手紙には会いたい≠ニか見舞いに来てほしい≠ニか、その手の文句はなにも書いてなかったし、むしろ中彦の手紙を楽しみにしているようにうかがえた。この時期に病院を訪ねたのは、たった二度……。朋子の好きそうな本を選んで送ったりしたが、それもあまり読めないらしく、かえって負担になったのかもしれない。
そのうちに中彦がアメリカ旅行に出発する。ほぼ一か月のスケジュール。ハワイには行ったことがあったけれど、本土は初めてである。
帰ったら朋子に、
――こんな話をしよう、あんな話をしよう――
心づもりがたくさんあったのは、病気の悪化など、ほとんど頭の中になかったからだろう。アメリカは雄大で快適で中彦はその明るさに酔っていた。
だが、朋子にとっては、この時期が決定的だった。手術もしたらしい。
日本に帰って病院を訪ねてみると、これはもう、ただごとではない。顔色や様子を見れば、
――簡単な病気じゃないぞ――
初めて疑いを持った。
「ちょっと長引くらしいの」
「きちんと癒したほうがいい」
「ええ」
「和歌山はゆっくりでいい」
「行こうね」
朋子の口調は軽かった。自分の病気をどれだけ知っていたのか。なにもかも知っていたのかもしれないが、中彦に話したことは、
「悪性じゃないから大丈夫よ」
「元気そうだよ」
ただの見舞人なのだから、それ以上のことは聞けない。
――妹さんに会ってみようか――
そう思いながら果たせなかった。
それから死まで、あっけないほど早かった。この過程だけは本当に信じられないほど短かった。人の命なんて、たあいのないものだ。死ぬときは簡単に死ぬ。朋子の妹から連絡があって駈《か》けつけたときには、もう昏睡状態に陥っていた。そこで初めて、
「入院のときから、もう病気が相当に進行していて」
と聞かされた。
葬儀はさびしいものだった。親も子もいない。こんなときのために人は家族を作っておくのかもしれない、などと中彦は馬鹿らしいことを考えた。
白い花の中で朋子が笑っている。
朋子は色の鮮かな花が好きだった。
――どうせなら、そんな花で飾ってやれないものだろうか――
菖蒲《しようぶ》の花の鮮明な紫の色が、そして遠い日の公孫樹《いちよう》の黄の色が中彦の脳裏に映った。
奇妙なことに中彦が一番しみじみと感じたことは……表現をするのがとてもむつかしいのだが、
――損をしたなあ――
そんな実感だった。
ところどころにポカンと穴があいている。心の中にも、時間の中にも、空間の中にも……。本当にどう説明したらいいのか。今までは、
――うん、俺には朋子がいる――
心の奥底に、ほとんど意識のない感覚として、そんな期待があった。安らぎがあった。朋子の存在感があった。
それが急に消えてしまった。とても大切なものを失ってしまい……大切さをあまり強く意識していなかったから、失ってはじめてその損失にうろたえている。それが、
――損をしたなあ――
という実感の正体かもしれない。
まったくの話、日々の生活の中で、ふと気がつくとあちこちにうつろな穴があいている。
もちろん朋子の一生を……とくに不幸ではなかったかもしれないが、命の短さだけを考えてもけっして幸福とは言えない一生を、悼む気持ちは充分にあったけれど、それはむしろ、よそ行きの感情……そう思わなくては世間の習慣に反するから、そう思っているような部分も少なからず含まれている。
「無理しなくていいのよ」
朋子はいつもそう言っていたし、どちらにとってもそうであったことが、二人の関係の一番すばらしいところだったろう。
立場が逆になっていたら、
――やっぱり俺も無理するなよ≠ニ思うだろう――
よそ行きの感情ではなく、すなおに、
――損をしちゃったわ――
と、朋子に思われたら、それで満足、それで本懐、きっとそうだろう。
人間はこの世に投げ出され、なんの理由もなく消えて行く、朋子の死に直面してさらにはっきりと、さらにひしひしと、そのことを実感させられたが、それを追いかけるように、
――だからこそなにかをやりとげなければいけない――
と、あらためて強く考えさせられた。
たいしたことはできない。本当に価値のあることなんか、この世にありゃしない。自分にとっての価値。自分にとっての満足……。
――朋子は自分の命の長さにあわせて、ささやかな目的を作ったのかもしれない――
初めは気まぐれだった。旅を楽しむための口実だった。そのうちに体が警鐘を鳴らす。
「あなたはそう長くは生きられませんよ」と。無意識のうちにも朋子は、それを感知して、そしてなんの役にも立たないぬり絵の完成を生きた印にしようとする。そんな意識が脳の片すみにに宿る。
「南楽園を見たいの」
朋子にしては、めずらしいほど執着があった。
「和歌山へも行きたいわね」
切実な響きが感じられた。
――弁慶のことを言ってたなあ――
もちろんただの偶然だろう。弁慶は九百九十九本の刀を集め、最後のところで志を遂げられなかった。
「あと一歩のところで駄目になるんでしょ、こういうことは、昔から」
その通りになってしまって……。逆にぬり絵の旅など考えなかったら、朋子は死ななかったのかもしれない、と思う。
――まさかそんなこともあるまいけれど――
今となっては、せめてぬり絵の地図だけは完成させてあげなくてはなるまい。
ある朝、朋子がくれたモーニング・カップの古地図を見ながら、
――今日、行こう――
中彦は内ポケットに地図を入れ、午後の新幹線に乗った。
新大阪で降りて天王寺《てんのうじ》へ。天王寺から和歌山まで。
堺を通り抜け、しばらくは住宅地らしい街が窓の外に続く。
いつのまにか山が深くなり、大阪と和歌山はけっして一続きの平地ではないらしい。
阪和《はんわ》線の車両が県境を越えたところで内ポケットの地図を取り出し、一か所だけ残った白の部分を赤く、青くぬりつぶした。
和歌山駅に着く。
夜が街を黒くおおっていた。
駅の前こそネオンがまばゆく点滅しているが、思いのほか鄙《ひな》びた印象の町である。ここにも市街地の中心に城址《じようし》があるらしい。
――どこに行ったらいいのか――
ガイドブックも持たない。タクシーを止め、
「海の見えるところ」
「雑賀崎《さいがさき》の燈台かなあ。なんにも見えんけど、夜だから」
「行ってみて」
商店もあらかた、シャッターをおろしている。灯を消している。走るにつれ街がますます暗くなる。
「あれは、なに」
指をさして尋ねた。
「天満宮です」
「ちょっと止めてよ」
いくつもの階段。高いところに灯がともっている。白いものが揺れて消え、境内をだれかが……女が歩いているように見えた。
急な階段を昇った。
息が切れるほど急いで昇った。
影を含んだ光の中に、どっしりとした社《やしろ》がうずくまっている。だれもいない……。白いものを見たのは眼の錯覚だったろう。とりあえず神殿の前に立って手を合わせた。
――いま朋子とここに来ました――
短く告げ、境内を一めぐりし、階段のふちに立った。
だれかが降りて行く。ずっと下のほうを……。
まさか。
しかし、そんな気配を感じたのは本当だった。
階段を駈《か》け降りた。
息が切れるほど急いで……。
タクシーが、ひっそりと待っている。
「じゃあ燈台まで」
「はい」
旅館街を通り抜ける屈曲した道だった。
「ここですよ」
燈台と言っても、いつか朋子と訪ねた野島崎のように豪壮なものではない。小さな灯がクルクルとまわっている。海を照らすと言うより陸のありかを船に教えている。展望台をかねているらしい。
ゆるい螺旋《らせん》状の通路を昇った。
暗い海だけが広がっている。視線を凝らすと、海の上に黒い島があった。海面は十メートルほど下にあるらしい。
内ポケットから地図を取り出す。
――ようやく完成した、ぬり絵の地図――
こんな結末になるとは予想していなかった。手もとにだけは燈台の光が当たる。もう一度地図を眺め、中彦は一つ頷《うなず》いてから、ライターの火をつけた。
地図を海に向かってさし出し、火を移す。
炎が地図をなかばまで燃やすのを待って、指を離した。
炎が揺れながらゆっくりと海へ落ちて行く。
そして音もなくふっと消えた。
暗い海に一瞥《いちべつ》を送り、螺旋状の階段を降りた。
「なんも見えんでしょう。見えればいい景色なんだけど」
「見えた、見えた」
「もういいですか」
「もういい。みんな終った」
「はあ?」
海ぞいに散歩道のようなものがあるらしい。
「ここでいいよ。散歩をして、適当に宿を捜すから。いくら?」
運転手がメーターを覗《のぞ》き込む。
余分なお金を渡し、運転手が釣銭を取り出したときには、もう中彦は歩き始めていた。
「いい、いい」
「いいんですかあ」
「もういい。みんな終った」
海ぞいの暗い道を進みながら、眼を凝らした。何メートルか先をまた最前の白い女が歩いて行く……。
「朋さん。やっぱり来てたんだね」
声をかけ、中彦は足を速めた。
[#改ページ]
あとがき
――一都二府一道四十三県のうち、俺はいくつ足を踏み入れているだろうか――
三十歳を目前にして考えたことがある。そのことを今でもとてもよく覚えている。
私の場合は極度に少なかった。恥ずかしいほど少なかった。
幼い頃は、戦中戦後の苦しい時代に当たり、疎開を除けば、呑気に旅などをしているような世相ではなかった。十七歳で父を亡くし、家計は急に逼迫《ひつばく》する。余暇はアルバイトに当てなければいけない。そのうえ肺結核にかかって二年ほど療養所の生活を送った。大学を卒業して勤めた職場も出張や転勤など皆無に近いほど少ないところだった。前半生は本当に旅の少ない人生だった。
「行ったことのないとこがたくさんある人って、やっぱり社会的にあんまり重視されてないんじゃないかしら」
と、ずいぶんきついことを言うガールフレンド嬢がいて、言われてみれば、そんな気もする。
数えてみると、本当に少ない。十くらい……。社会的に重視されていないのだろうか。嘘をつきたくなるほど少なかった。
――それほど本質的なことじゃないな――
そう思いながらも気がかりで、今日に至るまで忘れられない。このテーマは、すでに断片的に小説やエッセイの中に書いているだろう。
小説家になって急に旅をする機会が増えた。意図的に旅に出るようにした。あらためて気がついたことだが、私は旅が好きなのである。若い頃はチャンスが与えられないだけだったらしい。心の中に一都二府一道四十三県の地図を描き、一つ一つぬりつぶしたのは、本篇の主人公に託した私自身の体験である。
ある編集者の言によると、
「小説家は、なんらかの形で自分のことを書くようですね」
「そうかなあ」
「絶対にそうですよ」
「うーん」
認めないわけにはいかない。
私は私小説の書き手ではないし、ほとんどの作品が作り物ではあるけれど、やはり自分の生活体験をおおいに利用している。身のまわりの人物もやっぱり登場する。
利用の方法はさまざまだが、なんらかの形で自分のことを書いて≠「ることは否定できない。このぬり絵の旅≠ヘ、年来のこだわりを真正面からテーマに据えたものと言ってもよいだろう。私の場合も最後に残ったのは、和歌山県だった。
――恋愛って、なにをするものかな――
一人の男性として、いや、むしろそれ以上に一人の小説家として、このテーマもよく考える。
結婚に至るプロセスとして考えるのはやさしい。世間にいくらでもある。ことの性質上、結婚に至らないケースはたくさんあるけれど、やっているときは暗黙のうちにもそれを考えている。ほとんどの恋愛が結婚の支配を受けている。もちろん、結婚ができにくい状態……たとえば一方が(あるいは双方が)すでに結婚をしている場合、そんなときにも恋愛は充分に成立するだろうけれど、これは行く末が見えている。結婚に負けるか、結婚に吸収されるか、この場合もやはりべつな形で結婚の支配を強く受けている。
配偶者を持たない男女が、長い年月に渡って、それなりの愛情を持ちあうとしたら、どんな感情だろうか。どんな生活になるだろうか。たまたま近いところにそんなモデルがいて、それがこの作品を書くもう一つのきっかけとなった。完全に結婚を離れた形ではないけれど、この世にありうる一つの男女の仲を描くことはできたと思う。
結婚とかけ離れた恋愛……。考えようによっては、無償の行為である。恋愛というものは、それほど強く結婚の支配を受けているから、結婚を取り去ってしまうと、
「私たち、なにをやっているのかしら」
「まったくだ」
楽しさはあっても目的意識がめっきりと稀薄になってしまう。目的のないことを長く続けているのは、人生になじみにくい。なにかしら目的を作らなければいけない心境に陥るものだが、それもむなしい。人生そのものがそうなのかもしれない。むなしいながらも、目的を作って生きて行かなければいけない。私の二十代、三十代はそうだった。今も多分そうだろう。
先にも書いたように、私の最後も和歌山県だったが、もちろん岡島中彦は私自身ではない。分身というほど近い存在でもないだろう。主人公と作者をできるだけ離して書く、それが私の方法なのだから。
二か月ほどかけてイメージをふくらませ、七月の暑い盛りに、一日十枚ずつ、三十日をかけて書きあげた。十枚を越えた日もなければ、欠けた日もなかった。
10×30 = 300(枚)
この数式通りに書こうと思い、その通り実行した。これも初めての試みだった。
[#地付き]著 者
一九八九年秋