新麻雀放浪記
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年十一月二十五日刊
(C) Takako Irokawa 2002
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目 次
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新麻雀放浪記
|申《さる》年生まれのフレンズ
夢のように年月がたってしまって、私も四十歳になっていた。夢のように、というのは、バラ色だったという意味じゃない。なんだかんだと揉んでいるうちに結局は|埃《ほこり》っぽく小忙しく、なしくずしに日が過ぎてしまって、気がついてみたら夢の跡のように何も残らず、もう盛りがすぎていたということだ。
私はすっかり中年男になって、腹がふくれ、|禿《は》げあがり、途方もなく長い時間眠るようになっていた。もう誰も、坊や哲、などとは呼ばない。それどころか、昔、骨と皮だけになって打ちまくっていた頃の写真を見せても、それがこの私だと誰も信じない。
実際、遊び人やごろつきの四十歳は、普通の市民の還暦ぐらいの年齢にあたる。不節制と不身持がたたってここまで元気にしのぎとおしてくる者がすくない。特に私たちの世代は、戦後の悪質な酒と薬が間接に影響して、三十代でばたばたと|斃《たお》れていった。
生き永らえているだけでめっけものか――、私自身もたまに気弱くなったときそう思うことがある。私はとっくに|打《ぶ》ち|稼業《かぎよう》を放棄していて、もう|賭場《どば》に顔を出すこともめったになかった。昔、ばくちの張り取りに心を燃やしていたことが嘘のように思われる。
では、|打《ぶ》たずに、何を生甲斐にしていたかというと、そこのところを一言でいうのがむずかしい。妻子をつくらず、定職ももたず、顔も洗わず、床屋にも行かず、居眠りしてだけいたわけではないけれど、何をしたといえるようなことはいっさいしない。たったひとつ、私には、生家と老いた両親があって、生まれた家の片隅に転がりこんでいたのだ。味噌汁と冷たい飯くらいなら、誰にもことわらずに喰える。ときおり、父親か母親の配慮で、茶の間のテレビの上に五十円か百円が乗せてある。私はそれを持って魚屋に行き、小魚と|あら《ヽヽ》を買い、|あら《ヽヽ》は内庭に|撒《ま》いて野良猫にやる。小魚はうまく煮たきして親に喰わせる。
安酒を呑むときは街に出かけて借り倒す。煙草は、できるだけ倹約していたが、必要になると、煙草屋から|ぎ《ヽ》ってくる。ときおり気弱くなったときをのぞいて、私は自分を贅沢な身の上だと思っていた。贅沢すぎると思っていたし、そのうえ、できることなら当分この生き方を変えたくない。
朝、国電沿いの土手公園まで散歩し、斜面の|草叢《くさむら》に坐って、満員電車を眺めている。ずっと以前、まだ若かった頃、ここに居ると私一人だけおいてきぼりを喰ったようでたまらなく不安になったものだ。だが今は、満員電車も遠い風景に見える。
私は新聞を読まなかったし、テレビも見なかった。万年床の中で眼をさますと、そのままの姿勢で天井を眺めている。退屈がべつに嫌でない。むしろ退屈中毒におちいりこんで、退屈していないと生きた心地がしないようですらあった。そうして一日横たわったままでいると、|捌《は》け|口《ぐち》を失った血が逆流して頭のほうに噴き昇ってくる。
「――いいよ。病人を抱えているよりましさ。お前は手もかからないし」
母親がそういった。そういうよりほかなかったろう。
私は四十歳だった。自分の年齢を思いだすたびに私は一人で笑った。四十年も生きながら何ひとつ|恰好《かつこう》がついていないというのが面白い。こうしているといつまでも生きそうに思える。死は他人の運命で、私だけは、あらゆる浮き世の約束事を超越して、きりなくのらくらしていけそうな気がするから不思議である。
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一
「シンガポールに、行ってこないか――」
と、|かる《ヽヽ》源と呼ばれている知人がいってきた。その頃はまだ当今ほど、国外バカンスが一般に滲透していなかった。
「何故――?」
「金が、儲かる」
「何をするんだ」
「べつに、何もしなくていい。だまって、百や二百にはなる。ひょっとすると、五百というところまである」
「何もしないでか」
「ああ、行って、帰ってくるだけだ」
「お前は、行くのかね」
「俺は行けない。だから、代りに行ったらどうだ。いい話だと思うんだが」
私はちょっと笑った。
「|薬《ヤク》の運び屋は嫌だぜ。あれは三ン下の仕事だ。それもやくざのな。俺はこう見えても、組から盃を貰って働こうとは思わない」
「|薬《ヤク》の運び屋が何がわるい――」と|かる《ヽヽ》源はいった。「|今日《きよう》|日《び》、いろんな職業の人がやっている。大学を出て一流の企業に勤めながらやっている奴もいる。最初から気にいった仕事ばかりあるわけはない。三年も辛抱すりゃ別の仕事に廻れる」
「だが、俺は嫌だ。気がないんだ。性格でね。他人の仕事の手伝いはごめんだ」
「まァそれはいい。だが、この話は、|薬《ヤク》じゃないぜ」
「そうかね」
「|薬《ヤク》じゃない。税関が怖い種類のものじゃない」
「じゃァ、何だろう」
「向うへ行けば、女も酒も、お好み次第だ。それにお前の好きなばくちもできる」
「シンガポールにカジノはないはずだ」
「公営のはないが、|地下賭場《アングラ》ならどこの土地だって事情は同じさ。いえば、すぐに案内してくれるだろう」
「飛行機が、嫌いだね。俺は高所恐怖症だ」
「飛行機じゃない。貨客船で行って貰う」
「時間がかかるな」
「船の旅も味なものだ。俺は経験があるが、一度行くとまた乗りたくなるよ」
私は|かる《ヽヽ》源の顔を眺めていた。万年床で汚ない私の巣に、存外いろんな奴が訪れてくる。|かる《ヽヽ》源は、私より少し年齢は下だが、ずっと前に遊び人の道をあきらめて、カミさんと二人で小さな呑み屋をやっていた。私は彼の店に行って呑んで、いつも勘定を借りてくる。
「貨客船が、ネタか」
「まァ、そうだ」
「乗っ取るのか」
「まさか。映画じゃあるまいし」
「積み荷を抜くのか」
「何もしなくていいんだ。お前に働かせやしない」
「それで――?」
「沈めちまう」
わかった、と私はいった。まァ考えてみよう。
|かる《ヽヽ》源は、一服つけながら、乱雑な部屋の中を見廻した。
「人間、身体を動かさなくちゃいけない。お前みたいにのらくらしていていいことないよ。親がいて、こんな家があるからいけないんだなァ。ヒモは見苦しいぜ。女のヒモはまだ女をつくるだけ甲斐性があるが、お前はただのぶるさがりだもの」
「しかし、気楽にこうしてるわけでもないんだ」
「いや、気楽さ。俺たちから見りゃあな。飛行機が嫌いだと。俺たちに飛行機が嫌いな奴なんか居ねえさ。居ねえが、たとえ嫌いでもな、乗れって話が来たら乗るぜ。何にもやらねえじゃいられねえ」
「父親は年|老《と》っていて、家の中に坐っているだけさ。母親は、やっぱりいい年をして、彼女の弟の店の女店員だ。お荷物あつかいされながら、遠いところを毎日かよってる。収入というのはそれだけだ」
「じゃァ、やるか」
私は笑って首を振った。
「多分、やらねえだろう」
「じゃァ、どんなことならやるんだ」
「それがな――」といって私は絶句した。
「ケチな酒代を貸してるからいうんじゃねえが、本当をいって、お前には盃いっぱいだって貸してまで呑ませたくねえよ。俺は怠け者はだいっ嫌えだ。怠け者のうえに、身のほど知らずときたら、もっと嫌えだ。古い交際でなけりゃァ、面も見たくねえくらいさ」
「ところで――」と私はいった。「安の話をきいたかい」
「フーテンの安坊のことか。知らねえ」
「ついこの間きいたんだが、安が、国鉄電車区に入って、共産党のオルグをやっているとさ」
「あの安を、国鉄がやとったのか」
「やとったかどうかまでは知らない。|臨時《トラ》でいって、入り混じっちゃったのかもしれない。とにかく、このところの安保破棄の騒ぎで、安がオルグしている電車区は一番強力な組合になっているそうだ」
「そりゃどういうことだ」
「なんだかしらねえが、面白い奴だな。あいつはオルグに向くよ。ばくちだって、要するに人集めだ。まちがえば財産をすっちまいそうなところへ呼ぶんだからな。あいつと一緒なら、ひとつやってやろうという気にさせるものをまちがいなく持ってる」
「まァよかろう。なんだって身体を動かしてりゃァいい。安坊の話じゃねえぞ。覚えていてくれよ。また他の話が耳に入ったら持ってくるぜ――」
二
ハイライトの箱がひとつ、手の中へ入って、そのまますいっと店の外に出ようとしたとたんに、肩をつかまれた。生家のそばの、よく|流行《はや》るマーケットでのことだ。
煙草専門店とちがって、うしろに蓋のない小さなショーケースが台の上においてあるので、店員が他の客を応接しているすきを狙ってケースの中に手をつっこむことは造作がない。
今まで、一度も仕損じたことはなかった。そのときは初老の店主が偶然、外出から戻ってきて視線の中心に私の姿が入っていたらしい。
「お客さん、冗談しないでくださいよ。煙草持ったでしょ。お金おいてってください」
私は足を止めて店主を見た。むらむらっと腹が立った。多分、自分に腹を立てたのだろう。昔、麻雀牌をすりかえようとして相手に手をつかまれたことがあるが、そのときは腹が立たなかった。負けた、と思っただけだ。
煙草一箱で、こういう失策を演じるようになった自分を、正視できない。
「金なんぞ、ねえよ」
と、気がついたとき私はいっていた。事実、一銭も持っていない。
店主が困ったような表情になった。
「だって、あんた、買い物に来たんでしょ」
「いや、煙草を|奪《と》りにきたんだよ」
「そりゃァ困るね。冗談事じゃすまない。あんた、煙草一箱でも、物を奪りゃ、泥棒ですよ」
「物を奪っちゃ、いけねえのか」
「いけねえのかって、酔ってるわけでもないんでしょう。どうも弱ったね。それじゃァまァ、ついでのときに代金を持ってきてください。今はいいからね。でもあんた、子供ならともかく、いい年して只持ってっちゃいけないよ」
「嫌だね。俺は銭を払う気なんぞない。只持ってかれるのが嫌なら、俺を殴れ。力ずくでとりかえしな」
店主がそれに対して何も言葉を発しないうちに、若い店員が飛びだしてきて立ちふさがり、私を殴った。それで私も一発殴り返した。私は骨太なうえに肥ってきていて、自分で思っていた以上にパンチが重かったらしい。若い店員は倒れこみ、うしろの陳列棚とぶつかってガラスに幾筋かのひびをいれた。
それで、その場がおさまらなくなった。
パトカーが来、私は手錠をかけられ、背中をこづかれながら車中の人となった。商店街の人々や買物客が人垣をつくって私を眺めている。
そうなってはじめて、実に久しぶりで、私は眼をさましたのだった。どういうふうに、と訊かれて、うまくその感じを伝えることがむずかしい。つまり、一言でいえば、食欲を起こしたのである。
私を異人種のように眺めている街の人々や、警察の人々、その他ここに居ない諸々の人間たちが、うまそうな喰い物に思えてきた。
あの戦後の混乱の時代に、御同様一人ぼっちで腹を減らし、人を見れば喰い物に見えたものだ。味方とか敵とか思う前に、喰えるか喰えないかを値ぶみした、ああいう顔つきに、パトカーの中で、やっと戻ったのだった。もっとも、パトカーに乗らなければ、荒々しい気分にならないというところが、年をとった証拠なのであるけれども。
私の罪名は窃盗傷害の他に、営業妨害とか器物破損とか強盗容疑とか、おぼえきれないほどキャッチフレーズがついているが、現行犯だし、本人が認めているし、警察もこんな小事件にかかずらっているのがあほらしいという様子で(なかなかそうでもないのだが)、型どおり調書をとられて、豚箱へ。
久しぶりの豚箱だが、私の巣とくらべて一長一短あり、結局は似たようなものだ。安保デモが騒がしい頃だったので、混んでいるかと思ったが、意外に閑散としていた。
私の房には、学生服を着た先客が一人居た。痩せて貧弱な野郎で、膝を抱えて壁に寄りかかったまま、こちらを見向きもしない。
「にィさん、やっぱりこの、学生運動かね」
「いや――」
「なんだい」
「万引き――!」
へええ、と思った。
三
「昔、戦後の頃に入ったときは、パージされた共産党の大物が、入ってきてな」
「ここにかい」
「ここじゃない。別の署だ」
私は、若い先客と、房の中で小声でしゃべっていた。先客も、私が万引き、しかも煙草一箱の万引きと知って、にわかに心安さを感じたらしい。
「そのときは、なんで入ったの」
「俺かい、ばくちさ」
「若かっただろう」
「ああ。お前、いくつだ」
「――|申《さる》さ。猿みたいに見えないか、俺」
「手長猿か――」と私は笑った。「俺は|巳《み》だから、いくつちがうかな。まァ今のお前より若かったな。未成年といっても通用した頃だな」
「それじゃ、そういえばよかった」
「俺は顔を知られていたからな。ばくち常習で」
「有名人だったんだね」
「――俺のことより、そのときさ、大物が独房に入っていたとき、一団がどやどやっと別の房に入ってきてな、赤の、若い連中なんだ。ところがその中に偶然、小学校の同級生がいやがんのよ。そいつは韓国人でな。小学校の頃から、明るい、人見知りしない奴だったが、そのときも俺を見て、こんちは、しばらくだねえ、と笑いやがった」
「――こんちは、ってのはいいねえ」
「俺はどうしてか、ちょっとはずかしくてな。向うは、手前の国のため、人のため、と思ってやってる。こっちはばくち、いうならば私事さ」
「――─」
「俺たちは金網越しに、看守の眼を盗んで話し合ったよ。俺はこういった。おい、お前、俺で役に立つことはねえか。俺はどうせすぐに出る。なんでもやってやるぜ。連絡することがあれば、今のうちにいいねえ。奴は微笑を消さずにこういった。せっかくだが、放っといてくれ、俺たちは、外部の人間の手は借りないことにしてるんだ――」
痩っぽちの先客は、貧弱な顔をゆがめていった。
「つまらねえ話だなあ――」
私は苦笑した。
「そうかもしれねえな。じゃ、お前の話をしろよ」
先客は、しばらくしてこういった。
「俺、この前、週刊誌に書かれちゃってね」
「お前も、有名人か」
「そういうわけじゃないんだけど、大学じゃ珍しい事件なんだ」
「お前、ほんとに学生なのか」
「こう見えても、国立大学さ」
「よし、それでどうした」
「俺は留年しちゃったんだ。卒業論文を出さなかったから。それで友だちもどうするかと思って、ためしに、卒論なんかやめろ、とくどいてまわったんだ。そうしたら、卒論を出さない奴が十五六人出てきてね。皆、留年しちゃったんだ。俺がそそのかしてまわったっていうんで、週刊誌が書いたのさ」
私は、国鉄電車区でオルグをやっているフーテンの安坊のことを思いだした。奴も、申年じゃなかったろうか。
先客は、私の顔を見て照れたように笑った。
「つまらん話だろ」
「まァ、面白い話とはいえないな。だが、お前が万引きをしたってのが、それでわかったよ」
「どうして――」
「お前は要するに、ロマンチストなんだろう。自分でいつも何かしてなきゃ気にいらんし、また自分にはできると思いこんでいるんだろう」
「そうかねえ。とにかく万引きだけは年期が入ってるよ。餓鬼のときから手癖が悪くゥ、だね」
「ばくちはどうだ。国立大学じゃ、やらないか」
「いや、やる。ただ、学生の範囲だから、大きなことがいえないんだ」
「やれば、のめりこむだろうなァ」
「そうだろうねえ。俺、好きと嫌いがはっきりしてるんだ」
「そいつは自慢にゃならねえな。ただの思いこみだから。だがね、お前、ちょっと面白いよ。万引きのかわりに、ばくちを教えてやってもいい」
私は大仰な罪名のわりに、簡単に示談が成立し、先客の方も何日かの宿泊でケリがついて、私たちは連れだって、表に出るような|恰好《かつこう》になった。
四
房に入る前に看守にとりあげられた自分の持ち物、たとえばズボンのバンドだの財布だの定期入れだのを、奴さんが返して貰っている。
その少し前に私も自分の持ち物を受け取ったが、それがなんと、警察のご厄介になる原因になったハイライトたったひとつだった。私のポケットにはそれだけしかはいっていない。
奴さんのお出ましを待っている恰好の私を発見して、奴は一瞬、げたッ、というような響きの笑顔を見せた。
国立大学の学生にしちゃ、いい笑顔をする奴だな、と私は思った。
「――さて、どうしよう」
と奴はいった。
「何が――」
「まだ陽は高いよ。どうにかするんでしょう」
「学校にでも行けよ。学生だろ」
「まずコーヒーでも呑もうか。でも警察のそばはいやだな。うまい店なんかないだろう」
私はハイライトを一本抜いてくわえた。
「マッチを貸してくれ」
「ない。煙草は吸わないんだ」
「お前いくつだ。煙草も吸えないのか」
「コーヒーは呑めるぜ。それから、女も知ってる」
道路の向うが騒がしくなってきて、デモ隊の長い列がやってきた。奴さんはその隊列と逆にずんずん歩いていって、警察もデモも見えない横丁にまがり、そこの一軒におちついた。
私は煙草に火をつけ、実にひさしぶりのコーヒーを味わい、表通りのシュプレヒコールの声をきいていた。
「――お前、ああいう真似をしたことがあるか」
「いや、俺はノンポリだよ。純粋のノンポリ――」
「――ふむ」
「どうしたの」
「あの列の中に俺が居ないのはどうしてかな、と思って考えてたんだ」
「へええ、だって豚箱に居たんじゃ、参加できるわけはないじゃないか」
「そうかもしれないな」
「劣等感があるのかい。あんたはそういう感じがしなかったけどな」
「劣等感はあるさ。何に対しても。ただそいつはあまり意味のあることとも思えない。それに、今の主題は劣等感じゃない」
「豚箱に入るのが馬鹿な生き方だなんて俺は思ってないよ」
「豚箱のことなんかいってないぞ。お前も学生のわりに頭が悪いな」
「じゃァ何だよ。――年齢かね」
「ああ――」
と私は二本目の煙草に火をつけていった。
「若い頃にな、自分にはなんだって可能性があると思える頃があるもんだ。一生懸命にやればなんだってできるんだから、何をしたっておんなじだ。それで、悔いなくすごしているつもりで、ふと気がつくと、自分がやらずに来たことが多すぎる。他の人が当り前のことのようにやっていることをどうして自分はしなかったんだろう。今、やろうと思っても、たいがいのことはもうできないのさ。で、ときどきこう思うんだ。俺は、天の神さまにだまされて、何かを思いこんで暮していたぞ。一生懸命、思いこむまいとしてきたのに、それがなんにもならなかったぞ――」
「まだ、そんな年齢じゃないだろう」
「自分の年齢は自分にしかわからない」
「ねえ、今日、どうする。俺はなんにもすることがないよ」
「だから、何だ」
「今日一日、一緒に居たいね。ねえあんた、なんて呼んだらいいの」
私たちはもうちょっとで、おたがいの名前を名乗り合うところだった。つまらねえことはよせよ、と私はいった。
「|賭場《どば》じゃあな、皆、印象で、勝手な呼び名をつけるもんだ」
「本名は、駄目かい」
「|手入れ《ド サ》を喰ったときに、おたがいに名前を知ってると、何かと不便なんだ。俺たちは誰も、紹介なんてことをやらないよ。戸籍でつきあってるんじゃない。まァそれもあるがね、本名や肩書で呼ぶよりしょうがねえのはカモの|旦那《だんべえ》か、まだ一人前にあつかえない青二才か、どちらかさ」
「でも、なんて呼べばいいだろう」
「好きなように呼びな」
五
奴さんは、店の女の子にスポーツ新聞を持ってこさせてギャンブル欄をひろげた。
「競馬や競輪は昼間やってるんでしょう。行ってみないか」
「お前、やったことあるのか」
「中央競馬なら友だちと行ったことがある」
「金は持ってるのか」
奴は財布を出して、中を拡げて見せた。学生相応の札が入っている。
私は頬杖をついて黙っていた。
「ばくちを教えてくれるっていったじゃないか。若い頃になんでもやっておいた方がいいんだろう。年とってからじゃ何もできない、さっきそういったぜ」
友だちが欲しい。ずっと以前、ばくちを打ち暮していた頃からそう思っていた。私はいつも一匹狼だったから、底意なしの無邪気な言葉をかけあう間柄に餓えていた。
今だってそうだ。単に友だちという言葉ではいいつくせない親身な相棒、たとえば賢くてかわいい女、そんなふうな相棒が居たらどんなにいいだろう。
奴さんじゃ、無理だった。年齢がちがう。若すぎるのは我慢するとしても、頼りなさすぎる。コクがないだけならまだいいが、別れてしまえば、もう会うきっかけがない。
それなのに、私一人でさっさと帰る気になれなかった。なんというのかな。一言でいえば、奴に対してちょっと、食欲がわいたんだ。
私たちは連れだって電車に乗った。水曜日だったので、ほとんどの公営ギャンブルがやってない。ボートが一カ所、草競馬が一カ所。手近なのは平和島の競艇だった。
正面の入口に、第四レース発売中、の札がかかっている。奴さんは一人前に予想紙なんか買って、しげしげと眺めている。
「いけねえ、もう三分で、四レース〆切だ。何を買います?」
「知らねえよ」
「教えてくれるといったぜ」
「俺は予想屋じゃねえや。ばくちというものを教えてやるといったんだ。ゴール前のあたりに立ってるよ」
「じゃ、ちょっと買ってくるかな」
ど|素人《しろうと》奴。
素人はこれだからな。来て一分もしないうちに、もう手を出しやがる。
だいたい、奴等はばくちを馬鹿にしてやがるんだよ。あいつ等だっていつもはおっちょこちょいじゃなくて、実人生では慎重に安全策をたてたりするが、ばくちは所詮一か八だと思っている。それで、ばくちを馬鹿にした分だけ簡単に出血するのだ。私は、ゴール前のコンクリートの上に風に吹かれながら立っていた。
〆切のベルが鳴り、奴さんがひょろひょろ歩み寄ってきて並んで立った。
「何を買ったの」
「何も買わない」
「どうして――」
「――買わなきゃいかんかね」
「買いに来たんでしょう」
ゆるく円を描いていた各艇が|轟音《ごうおん》をあげてスタートラインに直進しはじめた。そうしてほぼ横一線にスタートしたかに見えたが、たちまち水の差があいて最初のターンをしたときには順列ができていた。1コースと5コースが他をリードしている。奴さんは昂奮して人垣のうしろでぴょんぴょん飛びあがった。
周回を重ね、順列が変らずゴールしたとき、奴さんは、うん、うん、と|頷《うなず》き、
「そうです。そう来なくちゃね」
といってポケットから五枚の千円券を出して見せた。12、13、14、15、16。奴の持っている予想紙をのぞくと、1枠は無印になっている。
それはいいが、さっき財布をのぞいた感じでは、千円札五枚は持ち金の三分の一ぐらいに当るはずだ。
場内アナウンスが、四千二百円という配当を告げた。頭の狂いにくい競艇で、しかも連勝複式でこの配当は、大穴に属する。
「四万二千円か――」と奴は呟いた。
「幸先いいぞ。ねえ、俺の勘も捨てたもんじゃないでしょう」
「お前は、ロマネスクだからな。思いこみで何でもやれる」
「当れば正解さ」
「そりゃそうだ」
「ピーンときたぞ。次のレースは、32さ」
と、奴さんはいい捨てて穴場に行った。
六
そうしてそのとおり第五レースは、32だった。連複で裏目の23でもよかったのだが、3が大差で一着だった。人気の中心は6枠で、配当は二千五百六十円つけた。
「五十万だよ、五十万――」
と奴さんは上気した顔で叫んだ。
「捨てたつもりで、二万円、一点勝負したんだ」
「うん、なかなか見所のある奴だな」
「ちょっと待って――」といって奴は予想紙を注視した。
「わかった。次は5→6だ。5→6」
「今度は連勝単式だぞ。大丈夫か」
「こうなったら迷わずいくよ。5→6さ」
「おい――」
と私はいった。
「ちょっと、二万円、貸してくれ」
「あ、いいとも」
私も穴場の方に歩いていった。そうして払戻し窓口から戻って舟券を買っている奴の挙動を眺めていた。奴は言葉どおり迷わずに5→6の穴場に手を突っこんだだけで、さっと離れていった。
第六レースは人気を背負った5枠がまず一艇身飛び出し、4枠が続いた。しかし第一ターンで内枠から6がしゃくうようにからみ、4と6が|束《つか》の間もみあうような恰好になった。そうして何故か4枠が大きく後退した。
「5→6、きまりだ――!」
奴さんが叫ぶ。まるで奴の|恣意《しい》に各艇が染まったかのように、そのまま5→6でゴールした。
「どうしたんだろう、怖いみたいだ」
「こういうこともあるさ」
配当は、千百三十円だった。
「ふうん、六百円ぐらいかと思ったが、対抗の3枠からも相当売れてたんだな」
「また二万円、一点だから、今度は二十万だ。この調子じゃ蔵が建つね」
「次は、何と出る――?」
「次かい――。次は、1→4だな」
私は奴の予想紙を見た。1→4は第一本命の印がついていた。
次のレースの地乗り(スタート練習)がはじまっている。ゴール前で、ストップウォッチを六個はめこんだ器具を手にした熱心なファンたちが、各艇のタイムをとっている。
「あれは何をしているの」
「エンジンの調子を見ているのだ。競艇はエンジンのレースだからな」
「研究すれば当るかい」
「何をすれば当るという保証はないね。しかし、何もしないわけにはいかないし、また何もしないよりはいくらかましなんだ」
「俺は、何もせずに当ったけどな」
「うん、そういうこともある。だが、今日一日で終りじゃないからな。ばくちは通算打率だ。ここにかよっている以上、彼等はそれなりにそのことを知ってるよ」
穴場に行こうとする奴さんに、私は自分の当り舟券を渡した。
「払戻し場に行くんなら、俺のも替えてきてくれ」
「あれ、あんたも俺に乗ったんだね」
私のも、奴さんと同じくちょうど二万円分あった。「なるほど」と奴は笑った。
「さすがだね。次は買わないの」
「買わない」
奴の1→4という次レースの勘を私は信用していなかった。奴はもう財布がふくらみ、同時にこの事態を空恐ろしくも思いだしていて、余分な感情がいろいろ混じりだした。さっきまでの純一な直感に浸っていない。予想紙の本命を口にするのがなによりの証拠で、つまり、できるだけ当りそうなところをいったにすぎないのだ。
そんないいかげんなものに金を賭けることはできない。
ふらふらと戻ってきた奴に、1→4を買ったかね、と訊くと、結局何も買わなかった、と答えた。
「だって、あんたも、買わないっていったし――」
「そりゃよかった。じゃ、もう帰ろう」
「まだあとのレースもあるけど」
「いいじゃないか。いつ帰ろうと自由だろう。豚箱とはちがう」
私たちは第七レースの結果も見ずに場外に出て、大衆食堂でビールを呑んだ。
「なんだか変だな――」と奴さんがいう。「俺が当っちゃったもんだから、何も教えて貰えなかったね」
「いや、教えてやったつもりだよ」
「――そうか。今のレース、もし1→4が来てなかったら、ひとつ教わったことになるな。そんな気がしてきた」
「まだあるさ」
「なんだろう」
「帰ろうって、いったじゃないか」
「――そうか、俺一人なら、はずれるまでやってるね」
「それじゃ、今日のお前の批評をしようか」
「批評――? 批評なんてできるかい。総当りだぜ。満点だろう」
私は眼の前の貧弱な国立大学生を、眼を細めて眺めていた。若者に、ときどきこういうのが居るんだ。痩せっぽちで、見映えがしないが、気合がよくて、自分の生命力を全開するみたいなことをときどきする。かりに競走をさせると、此奴は一着か、着外だ。二着はすくない。三着はほとんどない。だが、頭どりができる。
「今日は、お前が一着、俺が二着、そう思うだろう」
「まあね。五千円投資して、約七十万になった」
「しかし、お前は内容が甘い。五十万の配当があった時点で、次に二万しか買わない。俺ならもっと買ってるよ。俺でなくても、ばくちを知ってる奴なら、すくなくても十万は買ってる」
「はずれることもあるぜ」
「しかし、迷わず勝負したんだろう」
「七十万になればいい」
「ばくちに限度なんかない。一円が百億円になることもある。百億円がそっくりなくなっても不思議じゃない。それがばくちだ。現に俺はゼロを二十万にした。浮き銭なしの俺ですら、借りた金を二万突っこんでいる。お前が同額の二万しかとらないという手はない」
「――─」
「誰だってたまにはツクことがある。いや、馬鹿にしてやしない。たしかに最初の1流しはいい勘で、決断がよかったよ。しかも二度重なった。あそこで押さなくちゃいかん。ばくちはそういうもんだ。当りだすと先が見える。見えているうちはバランスの限度までいけ。見えなくなったら一銭でも惜しめ。誰だってツクことはあるが、問題はツキを利用していくら勝てるかだ。ツカないときはどんな名手でも勝てないのだから、勝てるときの勝ち方の問題が通算打率をあげていくのだ。おぼえておけ、これがセオリーだぞ。お前は、自分の懐中に入るべき金を、現場に残してきたんだ――」
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一
私はまだ、貧弱な相棒とつるんで歩いていた。競艇の帰り道だ。大井町の駅の前で、じゃァな――、といって手を振れば、それで片がつく。
そうしようと私は思っていた。友人は欲しいが、此奴は友人にふさわしくない。友人でもない者にべたべたするのは下品だ。
腹がへった、と奴さんがいった。うん、そこらの店に入るか、と私もいった。
レバーの刺身で、酒を呑んだ。豚のじゃない。鳥だ。奴は、肉が嫌いだといって、椎茸を串にさしたのを焼いて貰って喰い、まずそうに酒を呑んだ。それから、ひょこっと外へ走っていって、グレープフルーツを二個抱えて来、一人で|剥《む》いて喰った。
「さっきの話だがね――」と奴がいった。
「あんたのセオリーどおり十万買ったとすると、あのレースで約百十万、総計で約百五六十万の浮きか。今、実際に七十万浮いてるから、俺はあそこにもう七八十万おいてきたわけだな」
「お前のレース内容からいけば、七八十万の沈みということだ」
「沈みなのか、ああそうか。――でも普通はそうはいわないね」
「いわない。普通の人は結果から考えるからな。勝てば官軍負ければ賊軍だ。だが実は、結果というやつは、単なる結果というだけのことなんだ。問題はプロセス。プロセスをきちっと管理して、いつどんな場合でもセオリーにのっとった動きをする。今日のお前の状況なら、本職のばくち打ちなら三流どころの奴だって、本能的に、最低十万は手が動くよ。それがフォームだ。ばくち打ちはそのフォームを身につけるために骨身をけずるんだ」
「でも、それで、はずれることもあるね」
「ある。そこがばくちさ。さっき競艇場でいったろう。何をすれば当るという保証はない。だが、セオリーを身につけないかぎり、通算打率がわるくなる。ばくちは、強い者が勝つとは限らないが、しかし通算して、弱い者は絶対に勝てない」
「そうだろうか――」
「ことわっておくぞ。セオリーといったって、強い選手が勝つはずだ、などというさまざまの思いこみで成りたった常識のことをいってるんじゃないぞ。そんなものと混同するなよ」
「いってることはわかる。勝負事の原理原則、つまり認識論だろう。しかし、具体的につかむのがむずかしい」
「ここにサイコロがあるとする。丁か、半か、答は二つに一つだ。次の目は丁かな、半かな、どっちだろう、そう考えるのは例外なく素人だ。素人は次の目を当てようとする」
「|玄人《くろうと》は、どうなの」
「玄人もそれをまるで考えないわけじゃない。しかし、そのことにさほど信はおかないね。理屈抜きの単なる偶然に金なんか張れるもんか」
「ふうん――。すると」
「かりに千円を、どっちかに張る。はずれてとられてしまう。また千円を、どっちでもいい、どっちかに張る。はずれてとられる。今度は三千円をどっちかに張ったら、当った。さァ、収支はどうなってるね」
「うん、千円のプラスだ」
「だろう。三回に一回しか当らない。それで千円のプラスになっている」
「三千円張ったところで当ればね」
「ここまでは簡単な理屈だ。だがセオリーは理屈じゃない。張り手は人間、結果は偶然、肉づけが|要《い》るね。ばくち打ちはまず何より先に自分の状態の認識からはじめる。今、自分が張って、三回に一回、当る状態かどうか。――答は二つに一つだから、二回に一回当って不思議じゃないな。そういう状態もある。今張れば総当りというベタツキの状態もある。今日のお前みたいに」
「うん――」
「三回に一度という見きわめがついたときに、はじめて、一、一、三、と手をおろすのだ。二回に一度なら、一、三、だな。二、六、でもいい。これは原則で、実戦は常に応用問題だが」
「その逆もあるね」
「ああ、四回に一度なら、一、一、三、七、だな。しかし、二つに一つの答を、四回も五回もはずすような状態のときは、|見《ケン》、なんだ。最初の千円から、張らない」
「なるほど――」
「その見きわめなしに、たとえ千円でも勘張りするのは、結果は当ろうがはずれようが、エラーなんだ。交通標識を無視して走る車みたいなもんだ」
「今日の俺の最初の1流しが、当ったけれど、それだといいたいんだろう」
「そのとおり。十回勝負すると、素人は、六勝四敗を狙う。玄人は、極端にいえば、一勝九敗でも勝つように張る。丁半みたいな単純に見えるばくちでも、これだけのちがいがあるんだ――」
二
「面白いね。面白いけど――」と奴さんがいった。「俺はそういうふうには考えたくないよ」
「そうかね。だが、お前の考えなんか、興味ないぜ。俺はそうやって生きてきたといってるだけだ」
「ねえ、これから麻雀やりにいかないか」
私は、痩せっぽちの学生野郎を眺めた。グレープフルーツなんかしゃぶりやがって、麻雀やろう、だと。
「気がないね」
「七十万、そっくり|奪《と》ってもいいよ。あんたになら、奪られてもいい」
「俺がお前なら、今日はもう打ち止めにするよ。おとなしく帰れ」
「何故――」
「運はそう無限にあるもんじゃない。お前はさっき、買いを伸ばさないで、当然プラスになっているはずの七八十万をとり残した。つまり、エラーをしたんだ。ここが峠で、これからは下り坂さ」
「そうきまっていることなのかね」
「むろん、そうきまってやしない。だが、下り坂と思う必要がある。麻雀で、特殊な理由がないかぎり、カンチャンを嫌って三面待ちに持っていくだろう。カンチャンの方がくることだってありうるが、そうする。それと同じだ。今夜はもう、守備にまわる時期だよ」
「そうかどうか、試してみるよ」
「まァ、よせよ、わるいことはいわない」
「やろうよ――」
私はだまった。
奴さんも、じっと私をうかがっている。
「おい、ヒヨッ子――」と私はいった。
「――俺のことかい」
「立って帰りな。子供のお守りはもうあきたよ。俺はここでもう少し酒を呑む」
ヒヨッ子は、口をへの字にまげ、ひしゃげた顔つきで、じっとしていた。そうしてときおり、身体をぶるっと震わした。
「面白いし――」と奴さんは、ぶつぶつ呟いた。「あんたのいうことはいちいちわかるよ。だが――」
「守備とは守ることなり、そんな言葉の意味がわかったってしょうがねえんだ。守るとはどういうことか、どんな具合に守るのか、そうしてその要点に沿って身体がどう反射的に動くか、そこまでこなきゃわかったとはいえねえんだ。もうひとつ、これも大事なことだがな、俺は、大部分のセオリーを自分で考えた。すくなくとも、学校で教えるようなうすっぺらい知識を信用したことはねえ」
私はヤケに煙草を吹かしていた。せっかくの一箱がもう種切れに近い。他人に会ったり街で何かしたりするのは面白いが、自分の持ち物をてきめんに消費する。
「――俺は、いくらかちがうことを考えてるんだ」
「そうかい。だがお前の意見なんぞきいちゃいねえや」
「ばくちが、|技巧《わざ》できまるものなら、それがあんたのいう深い意味のセオリーできまるとしても、勝ったって負けたってそうたいしたことじゃないような気がするんだ。いや、それも誤解されたくないけれど、たとえばだね、頭を刈ることは床屋の店員にかなわない。彼は本職だからね。技巧も立場もちがう。彼と競うなら、床屋になるつもりで本格的に勉強すればいい」
「――─」
「ギャンブルはそれとちょっとちがうでしょう。あんたがなんといおうと、技巧プラスアルファ、運の部分があるからね。だから俺はギャンブルに興味を持つんだよ。それもギャンブルの運の部分にね」
「――─」
「|技巧《わざ》なら、俺は俺の本線で精を出すよ。だから技巧で負けるのなら、あんたに七十万そっくりとられたって俺は納得する。そのうちこっちも修業を積んで、いつかばくちで、或いは本線で、あんたから、或いは誰かから、とりもどすこともあるだろう。でも、運の勝負となるとそうもいってられない気がするんだ」
「――─」
「なんというか、運で負けると、自分に弁解がきかないんだ。生き方すべてをパーにされたような気がするんだね。運で負けた七十万は、それでケリがついてしまって、つまりあんたのいう通算打率みたいなものに組みこめないんだ。あとまた再勝負する折りがあっても、そのときどきでケリがつく。前の敗戦はどうあっても消えない」
「――─」
「だから、運では負けられない。技巧ではともかく、俺は、運では絶対に負けないよ、あんたに。――運の領域で、守備にまわることなんかあってはならないんだよ」
ヒヨッ子は、再び口をへの字にして、押しだまった。
私は笑った。
「国立大学生ってのは、ずさんだが、運の強い連中なのか」
「どうかな――」
「特にお前は、運に関して、ずさんだな」
「――だろうな。運というのは、俺にとって、生き方の強さ、烈しさ、みたいなことを意味するんだな」
「生き方、生かされ方、表があれば裏もある。まァいい、半チャン二回、やってやろう」
「半チャン四回さ。二回じゃ技巧も運も出しつくせないよ」
「二回でいいよ」
「四回さ。俺の七十万を技巧で奪るには二回じゃ無理だよ」
「俺はお前の金なんぞ欲しくない」
「何故、本職なんだろう」
「思いこみ野郎奴。まず、俺を不特定の人間だと思え。そうして人間をみくびるな。お前のその運が、そういうところから脱線するぜ――」
三
私たちはその夜、付近の地味な雀荘に入って、見知らぬ地元の人たちと卓を囲んだ。
むろん、レートは安い。ヒヨッ子は私に、大枚の差しウマを挑んできたけれど、私は受けなかった。
「何故、本気で打ってくれるの」
「賭けなくたって、勝負は勝負だ。煙草一箱で豚箱にだって入るよ」
「それはまァ、そうだね」
その夜の麻雀を詳述はしない。
ただ一局だけ、恥をしのんで、手筋を記しておく必要があるかと思う。私のようにばくちを本線にして生きた過去を持つ男が、その一局のために、その夜どれほど暗澹たる気持になったか、まァそれは、同じ環境に居ないとおわかりになりにくいだろう。
たとえていえば、落語を途中で忘れてしまって、高座で立往生してしまった落語家の味わう気持に近いといえようか。
それは二回戦の南一局だった。その回は小ぜりあいで、点棒に大きな動きはない。
私は親だった。配牌で、場風のと、それにドラのがそれぞれトイツできた。細工したわけではない。偶然だが、一見して勝負手だった。
ほとんど迷いなくを打った。次巡をツモって、打だ。一巡おいてがアンコになったとき、を打ち、をポンして打。ここまでは手順だ。
そこでヒヨッ子にリーチがかかった。五巡目だ。
ヒヨッ子の捨牌は、
(リーチ)
私の手牌は、こうだった。
(ポン)
とたんに、すっぽり、ドラがアンコになった。瞬間、考えたが、相手リーチのの早切りが目立って、が打ちづらい。一発役もぶつけたくない。丁寧にをはずしてテンパイにとった。
次のヒヨッ子のツモが。
私のツモが。動揺を隠してツモ切り。
下家からが出て、ポン。トイトイで親ハネになる。打。
そのまま何巡かすぎて、今度は上家から、が出て、ヒヨッ子が、ロン、といった。
奴の手はこうだった。裏ドラもなしの千三百。
全面勝負の手牌を持っており、手牌の進行も迫力があり、ピンズ手ハネ満の方向にツモが来ていて、何故、を勝負していけなかったか。一瞬のためらいがなければで親ハネをあがっているところであった。そうしてこれは、結果論ではない。奴さんが二連勝したあと買いを伸ばさなかったと同じく、多少のリスクを冒して勝負にいくべきところであって、本能的に指先きがそう動くはずだった。そのフォームが私の唯一の財産だったはずなのだ。
――俺も年をとった。もう駄目だ。
私は無言で手牌を伏せ、|河《ホウ》の中へ崩した。このことについては誰にも口外する気はなかった。
半チャン四回やって、ヒヨッ子が三回トップをとった。私は最終回にやっと軽い一勝をひろっただけだ。
終って深夜の路上に出たとき、いうまでもなくヒヨッ子は上機嫌だった。
「どうだった。批評をしてくれよ」
「――自分で、感想をいいな」
「運で、勝たしてもらった」
「つまり、完勝といいたいわけだな」
「ねえ、あんた――」と奴はいった。「ほんとになんて呼んだらいいのかな。あんた、って呼び方は好かないな。ああ、そうだ、師匠、がいいや。ねえ、師匠――」
ヒヨッ子は、学生というよりは、まるで幼い子供のような表情になって、ポケットの中から札束をとりだした。
「この七十万、使っておくれよ。俺は学生下宿に居るから、こんな金、使い道がないんだ。これで勝負するといい。師匠には、きっと生きる金だろう」
奴さんは、勝った者が往々にしてみせる優しい表情になっていた。そうして、案に相違して鋭さを見せなかった私の麻雀に触れまいとし、私を傷つけないために手段をえらばない決意をしているらしかった。
「見そこなうなよ。この野郎――」と私はゆっくりいった。「欲しけりゃ、俺は、腕ずくで奪るよ」
「ああ、俺も、そうだ」
「俺は学生じゃない。ばくちをやってる人間だぞ」
「俺だってそうだよ。学生だが、万引き常習だ」
「じゃあ、別れようか」
「運を大事にしなよ」
私は先に、タクシーをとめた。走りだしてから振りむくと、奴さんはうすら寒そうにポケットに手を入れたまま、こちらを見ていた。私は、我々がひどく情緒的になっていることにおどろいた。
四
いつもの自分と、べつに変りないつもりだったけれど、ヒヨッ子は、知らぬまに彼の日常とはかなりへだたった因子に染まって気持を昂ぶらせていたらしい。
まずもって、一人で留置場に居てもろもろの威信と対し、不必要に揺れないために、肩をそびやかしている必要があった。見知らぬ中年の万引き男の出現はそこで救いになったが、同時に、中年男に対して、別種の緊張を持って臨まなければならない。多分、彼にとって、その方が都合がよかったのであろう。なぜならヒヨッ子は、これまでの約二十年を絶えず緊張してすごして来、おかげで緊張感と馴染みすぎて、それなくば充実を感じられないような体質になっていたからである。
留置場から直接、彼の日常に戻っていったならば、緊張のやり場、処理に困ってしまうところだったろう。そうして普通人の例のように、もう二度と豚箱に入るまい、と思ったり、無難に月日が過ぎていけばいい、と思ったりしたことだろう。
ヒヨッ子は都合よく、中年男のペースに乗った。ケーキのように、別種の緊張を重ねあわせることによって、気持に起承転結をつけることができたのだった。
中年男と別れると、ぐったり疲れていた。そうして、不意に、その日が彼の誕生日であることを思いだした。
ヒヨッ子は、急に足を速めだした。そのことを、ぽっかり忘れていたのが自分でも信じられない。誕生日に感傷的になっていたわけではないが、マーヤと二人で部屋で乾盃することになっていたのだった。もう十一時を廻っている。マーヤは部屋で、ずっと彼を待っていただろう。三日も四日もマーヤに無断で外泊するなんて、これまで一度もなかったことだ。
ヒヨッ子はひしゃげた顔で国電に乗り、高田馬場で私鉄に乗りかえた。競艇場に居たときとも、麻雀を打っていたときとも、べつの顔つきになっていた。そうして学生下宿への道をぽくぽくと歩いた。
騒然となった気配は駅前の道を折れたときからあった。下が濡れており、昂ぶった人たちがまだ路上で立ちつくしている。
学生下宿は、炭のようになった何本かの柱だけを残してなにもなかった。
ヒヨッ子は、一瞬、呆けた表情になり、眼鏡をずりあげて、焼跡を眺めた。
同じ留年生の西島が、そばに来た。
「K病院に行け」
「――K病院?」
「マーヤが入ってる。お前の部屋から、道に飛びおりたんだ。火のまわりが早かったから」
「――やけど、か」
「いや、それはたいしたことはない。尾骨を打ってる」
ヒヨッ子はもう一度、焼跡に視線を向けてから歩きだした。西島も並んでくる。
「どうしたかね」
「階下の予備校生が居眠りしてドライヤーをつけ放しにしたらしい。今ところの噂じゃね。俺は階下で麻雀していて、外へ飛びだしたときは、もう二階のお前の部屋の窓から|紅蓮《ぐれん》の焔が出てたよ」
「嘘つけ、お前は自分だけ逃げて涼しい顔してたんだろう」
「マーヤがお前の部屋に来てること知らなかったからな」
「他人の女なんか、ほっとけ、か」
「ホラ、これを見ろよ――」と西島は、ポケットからをとりだした。「これがズボンの折り返しの中に入ってた。俺が持ちだしたのはこれだけさ」
本も、着かえの衣類も、すべて焼けて身ひとつになった。今夜寐るところさえない。けれども、そのことより前に、マーヤのことで頭がいっぱいだった。
病院では、せっかく注射で寐ついたところだから明朝来てくれ、といわれた。
(――悪かった、悪かったよ)
彼は胸の中でそうくりかえした。彼女との約束を忘れなければ、怪我などさせなかった。すくなくとも、競艇のあとすぐ帰れば、約束にまにあったのだ。
「どうする――」
「しゃァねぇ、朝になったら行ってやるよ」
「ちがう。今夜の寐場所だ。――俺は、紅中荘に行って打つよ」
「麻雀か」
「他に手はないだろう」
「じゃ、そうしろよ」
「お前は――」
「俺は俺だ。勝手にする」
西島は島根県のパチンコ屋の息子で、別の大学だが、暗い男だった。育った環境のせいで、ごろつきの世界で生きるのはまっぴらだが、さりとて小市民の中に入ると自然にはずれてしまう。
焼けた下宿屋では、西島とヒヨッ子が留年組で、ボスであり、下宿屋の婆さんが、早く卒業して出て行ってほしいと神仏に祈っていたのもこの二人だった。
五
ヒヨッ子は、K病院の横手の路次のところに腰をおろして両膝に顔を埋めた。夜ふけになると、もうすこしうそ寒い。
二階の病室の窓が頭の上に並んでいる。みんな灯が消えていて、どこが彼女の病室かわからない。
しかし、マーヤの病室の下で、今夜をすごしているつもりだった。
(――これで、彼女と、結婚して所帯を持つということになっていくんだろうなァ)
そう思う。それはけっして不愉快なことではないが、昨日までは、特にそう思っていたわけではなかった。
マーヤとは同級生だったけれども、彼が留年した関係で、彼女がひと足先に卒業し、すでに学校の中の図書館に就職していた。彼女の両親は、揃って東京生まれで、物堅い、格式ばった家庭だ。
(――結婚すれば、俺はきっと、亭主の責任を果たそうとするだろうな。やろうと思いたつと、俺はどんなことをしてもがんばるからな)
本音をいうと、結婚など、誰ともまだ考えたくなかった。そんなことを考えるには、彼の考える未来は、間口も奥行きもありすぎた。自分の行く手に枠をつけたくなかった。たとえどんなことでも、今は、何からも縛られたくない。自分はなんでもできる。どこまでも大きくなれる。努力次第で。そう思いたい――。
(――だが、所帯を持ってしまう。今、もう、そんな気になってる。それで、何をするにせよ、彼女の夫でしかなくなるんだ)
不意に、俺がお前なら打たずに帰る、といった見知らぬ中年男のことを思いだした。
運は無限にあるものじゃない。お前はひとつエラーをしたから、今度は守備を固める時間だ。誰でも、汐のあげさげがある。ツイたときにどう勝つか、ツカないときにどう負けるか、それが差なんだ――。
たしか、あの中年男は、ばくちにかこつけて、そんな意味のことをいった。
残念だが、自分は、|出る引く《ヽヽヽヽ》を心得ないで、上調子になっていた。
あの男は、このざまを見てきっと笑うだろう。
(――笑うなら、笑えよ)
ヒヨッ子は、頭上の星をにらんだ。
(――運なら、負けないぞ。運でなら負けてたまるか。それが俺のモットーさ。こんなことで、運に歯止めをかけられてたまるかい。俺は、オンリはしないよ。マーヤをひっかついでだって、リーチツモ親ッパネといってやるさ)
× × ×
「――どうしてたの」
とマーヤがいった。
「考えてたんだ。――君のことを」
とヒヨッ子は答えた。
「ごまかさないで――」
「本当さ」
「三日も、四日も、どこで何を考えてたの」
「昨夜は、この窓の下にしゃがんで居たよ」
「――ひと晩じゅう?」
「ああ、ひと晩じゅうだ」
「どうして、火事のとき、自分の部屋の窓の下に居てくれなかったの」
「悪かった。――昨夜から、百万べんもそういってたよ。この窓の下で」
マーヤは窓の方に顔を向けた。それからこういった。
「お誕生日、おめでとう――」
「ねえ、マーヤ、怪我が直ったら、結婚しよう。結婚しておくれ」
「――それも、昨夜から、練習したの」
「誕生日の夜にいえればよかったんだ。ほんとだよ。俺、君のこと、責任持つ」
「怪我をしたこと、だったらいいのよ」
「怪我もそうだが、この先、どんな小さなことでも、大きいことでも、責任を持つ。責任を持ちたい。ごまかしじゃなくそう思ってるよ。本心だってこと、誓ってもいい」
「女なんか足手まといだっていってたわね」
「ああ。足手まといだが、それでも君が好きなんだ。それが昨夜よくわかったよ。だから俺、こういうよりしようがないんだ。結婚しようぜ」
「――で、あたしたち、どうなるの」
「どうってことない。マーヤは今までと同じことさ。ただ、俺が、責任を持つだけだ。君の幸せを――」
「昨夜は一人で待ってたわ。あなたの部屋に行って一人で居ることなんか珍しくないのに、花を飾ったせいかしら、特別な夜に思えたわ。でもあなた、結婚て、大変よ。あなたには合わないわよ」
「そうだろうね。でも、ちゃんと式をあげよう。それから籍もいれよう。昨日までとはちがう。改めて宣戦布告だ」
「本格的な戦争なのね」
「ああ、そうみたいだね。二人だけのね」
「それで、今夜はどこに寐るの」
「ここに居るよ。マーヤが動けるようになるまで、ここに居る」
六
焼けだされた学生たちは誰も保険に入っていなかった。下宿屋の婆さんは、なにがしかの保険料が入ったかもしれないが、老人一人の消極商売で、急には復旧しそうもない。
火元の予備校生は、その親もとまで含めて、弁償する能力がない。止宿人たちはスクラムを組んで、賠償金をとろうとしたようだが、ヒヨッ子はその列に加わらなかった。
「どうせ取れそうもないんだし、わずかばかり月賦で払ってもらったって、しゃァないじゃないの」
というのが、そのいい分。
そのくせ、火事の前まで、その取れそうもない予備校生に麻雀をおぼえさせて、毎月小づかいをとりあげていたのは、ヒヨッ子と西島だった。特に西島は、強そうな相手はいっさい避けて、もっぱら|年齢《とし》下の学生からかなりの額を巻きあげていた。予備校生は大学に入った者より、きちんと小づかい銭を持っていたし(使うところがないから)、おとなしくていい、と西島はよくいっていた。
西島のやり方は、相当にあくどかった。国士無双など一日に一度はできる。エレベーター(牌の握りこみ)をやっているのだから当然で、そうでないときは、同じ手段で、数牌を二枚、握りこんでおり、合計十五枚の手牌で戦っているのだった。だから手牌の進行も早いし、片面三色ということがすくない。
という手で、、、あたりを握りこんでいれば、ツモ牌をスリ変えるだけで、高目あがりができる。
下級生や予備校生がそれを発見して、遠慮がちに文句をいったりすると、|癇性《かんしよう》な西島は烈しくどなりつけた。だから、誰も怖がってしかといわない。
ヒヨッ子は、いくらかロマネスクで、やむをえない金欠のとき以外は腕の立つ者を相手に廻して、恰好よく勝ちたがる。
けれども、ときどき二人は同じ穴のむじなになって、つるんで行動した。相馬という、やはり留年組の私大生は、痩せて病気持ちの男だったが、毎月二十五六日になると、ご多分に洩れず、送金が届く。
するとあわてて下宿から姿を消そうとするが、ヒヨッ子と西島が待ち伏せていて、むりやり麻雀部屋にひきずりこむのである。
一度などは、相馬が柱に両手で抱きついて、必死でひきずられまいとするのを、大声で脅しつつ、手とり足とり、指一本ずつを柱からひき離すようにして、卓の前にひき|据《す》えたことがある。
西島も学業はよくできたが、ヒヨッ子は特に幼時から優秀で、中学、高校、ともに夜間部で働きながら通い、東京の国立大学に入った。その地方の町では、昼間の県立高校からすら、国立大学に入った例はない。まことに画期的で、その地方の新聞は大きくニュースとして流し、町ではパレードをして合格を祝った。
逆境で育ちながら、だからヒヨッ子は、いわゆる苦学生のタイプとひと味ちがっていた。小学校から高校まで、生徒会の会長であり、級の者の中心だった。そうして町の英雄でもあった。
ヒヨッ子は、いつの頃からか、逆境をマイナス条件と感じず、かえって誇らかに思うようになった。同時に、逆境を含めたもろもろの状況を、軽く見るようにもなっていた。
自分ではそう思っていたのだけれど、意識していないところに、ひょいとその影響が現われる。
女を知るのが早かった。
中学を出た頃、故郷の町で、家に帰らずに女のところに居た。八つも年上の女だった。高校のときも、ちがう女ができた。女と身体を触れあわしているときが、安心できる|刻《とき》のように思えた。
そのくせ本当は人見知りで、これまでのどの女に対しても、人間の屑だと思っていた。最初にスポッと慣れてしまって、簡単に女をあつかうようになったが、そういう折りに恵まれなかったら、後年までまったく近寄ろうとしなかったかもしれない。
西島にもそういうところがあって、彼も女好きであり、二人とも麻雀などで得た金を女遊びに使ったが、そのくせ世慣れないところはそのまま残っていて、一見すると、内弁慶のようにも見えた。
ヒヨッ子は、生徒会の会長である時代もけっして品行方正な生徒でなく、特技の万引きがあやうく表沙汰になりかかったときもあったが、町の人々は、彼に限って、その品行をいつも大目に見てくれていた。
ヒヨッ子は、自分をすぐれている人間だと思ったことはなかった。しかし、がんばり屋だと思っていた。がんばって、できなかったことはこれまで何もない。そうして、運をむさぼるようにして生きてきたのだ、と思っていた。
運は、すぐれた人間や、良い人間に与えられるわけではない。ただの風向きのようなもので、誰にでも吹いてくる。だから、むさぼる奴が運をつかむのだ。――それは彼の自信であり、これまでのところ、彼の原動力にもなっていた。
で、身ひとつで焼けだされても、まるでくじけなかった。くじけそうなのを、そうならないように努力するということもなかった。
ただ、いつもよりもなお緊張していた。大好きな緊張状態に自分で鞭をいれる。
三日ほど、終日、病院に居たが、その間、わずかな|伝手《つて》を頼って、アルバイトの口を探した。こういうことは幼時から慣れている。
下川という学校の先輩が網にかかった。下川は三つほど年上で、大きな法律事務所に勤めていた。
旧家の息子で、学生時代からいつも小づかいが潤沢であり、後輩にたかられていた。
ある時、月末の送金直後の皆が懐中の比較的豊かなときだったが、大勢ではずみがついて、学生にはかなり高そうな女の居る店に入った。そうして呑み喰い、女をからかった末、下川がトイレに立った隙に、皆でしめしあわせてその店をずらかってしまった。
筋向かいの焼鳥屋に居流れて、様子を見ていると、いつものように金を持っているとばかり思った下川が、文字どおりパンツ一つの丸裸に|剥《む》かれてその店から追い出されてきた――。
[#改ページ]
一
懐中に、金は、七十万余ある。競艇でとってきた金だ。
けれども、まるでそれとひきかえのように、寐る場所がなくなった。本も、衣類も、夜具も、残らず焼けてしまった。
おまけに、マーヤは、怪我。
不思議なものだと思う。ヒヨッ子は、県の奨学金が頼りの身だから、七十万の金は大金だが、下宿の焼失、マーヤの怪我と差しひきして、金の方が軽い。もしこれを運というならば、ヒヨッ子の運の持ち量は、こんなものなのであろうか。
競艇場で、ヴェテランの勝負師のごとく、セオリーを踏まえて、倍の金に増やしていたとして、どうか。
たとえいくらだろうと、競艇でツイたぐらいで、こんな災いがふりかかってはかなわない。
もっとも、火事による損失は、自分のありようでもっとすくなくてすんだかと思う。火事そのものは防げなかったにしても、競艇のあと、あんなにむきに麻雀などやらずにまっすぐ帰っていれば、マーヤは怪我させなかったし、持ち物も出せた。
ヒヨッ子としては、そこが気にかかる。留置場で知りあった中年男が、にくいことをいった。
「――エラーをひとつした以上、今夜のお前はもう下り坂だ。麻雀などやらずに、守備をかためろ。家に帰れ。俺ならそうする」
あいつなら、ほんとにそうしただろうか。
そこが、知りたい。あいつに、もう一度、会ってみたい。ひょっとしたら、自分は、ごく当り前の大人の知恵をまだ心得ていなくて、あの男から、というより世間から、教わることがあるかもしれない。
焼けだされた学生で、保険に入っている者は一人も居ない。彼等は結束し、火元とみられている予備校生に向かって、なにがしかの補償をとりつけようとしていたが、ヒヨッ子はその動きに加わらなかった。予備校生の親もとも余裕があるわけではなく、むりやり志をたてて上京している形で(この下宿はそういう者が多かった)、揉んで不愉快な思いをするわりに、いくらにもならない。
ヒヨッ子自身が、火を出した場合を考えても、さかさに振っても血も出ない。また、自分が火元になる可能性だっておおいにあった。目くそが、鼻くそをいじめるのは好みでない。
下宿屋の婆さんは、多少の保険はかけているだろうが、一人暮しで、この機会にいくばくかの金を握って養老院にでも入りたいところだろう。
災難は、自分でまかなうよりしかたがない――。ヒヨッ子は、なにか|凶《わる》いことに出会うたびに、内心でまずそう思う。苦労して育ったわりにくよくよしない。ずっと、生徒会長などをして、リーダーシップをとる位置に居たせいか、貧窮すら、自慢に思っているようなところがある。
焼け出されても、彼は次の下宿を定めようとしなかった。夜は、マーヤの病室に詰めて仮眠する。
そうして、先輩の下川が勤めている法律事務所を訪ねた。
「――先輩」
下川はちょっと|怯《おび》えた表情をした。此奴等のためにパンツ一枚に剥かれた夜を思いだしたのかもしれない。
「なにか、アルバイトはありませんか」
「ないね。アルバイトに危険人物は使わない――」
「それじゃ、本採用でもいいんです。学校やめてきますから」
「――何かあったのか」
「火事。――下宿がパアです」
「丸焼けか」
「目下、まだ宿なしです」
下川は、好人物らしく、遠慮なしに相好をくずした。
「それじゃ、ますます駄目だ。身元が不確かで哀れっぽいのときたら、お話にならん」
「でも、火事場のクソ力ってのがありますよ。こんなときはよく働きます」
「君は麻雀でせっせと稼いでいたんだろう。その方がリツがいいぜ」
「ええ、でも、学生のわずかな食費や本代をとりあっていたんじゃね。社会人、それも、肥えている社会人をむしった方がいいです」
「するとだな、君のいうアルバイトってのは、麻雀のメンバーを紹介しろってことか」
「いいえ。そうじゃありません。僕はあくまで法科の学生です。ただね、アルバイトをしながら、その事務所のボスや、出入りする人たちを、喰えれば、いうことなしです」
「――待てよ。筆耕や封筒書きの雑用ならあるかもしれない。金にはならんがね」
「お願いします」
「ずるけたら、一回で切るぞ」
「ええ、下川さんにはいつもお世話になっちゃうな」
「よし、|定《き》めた。もう変更はきかんぞ。いっとくがな。この事務所には賭け麻雀などやる人は居らんし、俺も学校を出てからやったことはない。貴様が思うほど社会人は堕落しとらんし、甘くもないのだ。ざまァみろ。純粋なアルバイトだけで、こき使ってやる」
二
ある日、若造りしてちょくちょく事務所に遊びにくる大山夫人が、かんだかい声でこういった。
「下川さん、今夜ちょっとつきあってくださらない。あなた麻雀できるんでしょ」
隅の机に居たヒヨッ子が、ひょいと鎌首をあげた。
「どうしてもメンバーが一人足りないのよ。どうせ用事はないんでしょう」
「いや、ぼくは駄目です。ずっとやめてるんです」
彼女は、この事務所のボスで、元判事、代議士も一期つとめたことのある大山長作氏の正夫人で、だからここでは勢威がある。
「いいじゃないの、たまには。――まさか、この前負けてこりたっていうんじゃないんでしょう」
「法律を専門にする身で、ギャンブルは今後もいたしません」
「僕では、如何でしょう――」
とヒヨッ子は、叫んでみた。
「――あの人、誰」
「馬鹿、君は仕事をやってろ――」と下川はかみつくようにいい、夫人の方に向き直った。「学校の後輩で、アルバイトの学生です」
ヒヨッ子は、いつものように、下川の言に耳もかさなかった。
「僕でよかったら、お相手ぐらいできると思いますが――」
「いいけど――、貴方、負けてお金払えるの」
ヒヨッ子は、つかつかと進んでいって、内ポケットから、七十万の札束をそっくりとりだしてみせた。
「――今月の小遣いです」
と彼はいった。
「そっくり負けても、どうということはありません。これで足りるでしょうか」
「こんな金、どうしたんだ。盗んででもきたのか」
「ええ」
「――ええとはなんだ。はっきりさせろ」
「いいじゃないか。個人的な問題ですよ。アルバイト学生が金を持ってると法律にひっかかるんですか」
「だって、君は、火事で丸焼けになったんだろう」
「七十万で、火事を買わされちゃったんですよ」
「――まァ、なんでもいいわ。いらっしゃい。使っちゃいけないお金なら、あたしがたてかえてあげてもいい」
下川は、みるみる不機嫌になった。下川自身の損得にかかわることではないが、腹が立ってしかたがない。ヒヨッ子もヒヨッ子なら、夫人も夫人だ。
ギャンブル好きという奴は、物事の手続きも順路も無視する。行き当りばったり、その場の勘や思いつきで事に当る。そのくせ一番不平不満を抱いているのも奴等なんだからな。そんなことで真の調和が保てるものか。お前たちこそこりるがいい。
奴の小生意気な鼻っ柱がへし折られるといい。そうして夫人も、うんと不愉快な思いを味わうべきだ。どだい、麻雀で誰も勝っちゃいけない。今夜の四人に、不幸が訪れますように。
退社時刻になって立ちあがるヒヨッ子に、下川は精一杯の嫌みをいった。
「学生相手とはちがうぞ。小ばくちの金のやりとりで社会はとりしきれない。勉強してくるんだな」
ヒヨッ子は、夫人の車に乗りこんだ。
「君、名前は――?」
彼は本名をいおうとして、いつかの中年男のセリフを思いだした。ばくち場じゃ、戸籍の名前で呼ばれるのは、スポンサーの|旦那《だんべえ》か、一人前に思われてない奴か、どちらかだ――。
「ヒヨッ子、って呼ばれてます」
「かわいい名前ね。誰がそう呼ぶの」
「師匠です。ギャンブルの師匠」
「貴方もギャンブラー志望なのね」
「いいえ。奥さんたちが、生花や茶道を習うようなものですよ」
「面白そうね。その人を今度紹介して頂戴」
どぎつい香水の匂いがたちこめている。ハンドルを握る夫人の指先きが、少し骨ばっている。しかし、新しい車の運転席に、夫人の肢体はいかにも折り合ってみえる。
彼女は、ミラーの中に彼の視線を捕えながらいった。
「ギャンブラーのヒヨッ子さん、それで、貴方の興味はギャンブルだけなの」
「もちろん、他にもたくさんありますよ」
「たとえば――」
「そうだな、お金持の世界。率直にいって、今夜はそれをのぞきにいこうと思ったな」
「あたしたちのこと? あたしたちはお金持じゃないわ。質素なものよ」
「質素なんですか」
「喰べるには困らないわね。でも贅沢はできないの。亭主は商売人じゃありませんからね。この車だって事務所のものだし、家だって借りてるのよ。もっとも家主は事務所ですけどね」
「いい仕組みですね」
「着る物もアクセサリーも、あるものを使ってるだけ。お金持になりたいわ」
「なるほどね、喰べるだけは困らないってのが、お金持なんだな」
「貴方の方がよっぽど豊かよ。たくさんお札を持ってて、なぜ、アルバイトするの」
「働くのって、楽しいですよ」
「そう。若いのね。うらやましいわ」
三
「レートは、どのくらいなんですか」
とヒヨッ子は訊いた。
「千点百円よ。それに、ウマっていうのかしら、多少の飾りがつく程度ね」
なァんだ、それじゃァ、学生麻雀とたいしてかわらないじゃないか。
雑誌のグラビヤでしか見たことがないような豪邸だったが、子供だましのレートで意外だった。けれども、考えてみれば、金に困らない人種が、大きな賭けをする必要はない。ばくちは、貧乏人か、|乃至《ないし》は金銭に関して欲求不満な者同士のものかもしれない。
この家の主人は旅で不在で、鬼の居ない間の洗濯だという。
「あたしの楽しみは夫の旅行だけ。その間にパーティをやったり、遊んだりするの」
夫人は、ラメのドレスに着かえてきた。しかし、大柄なせいか、どことなくやっぱり骨ばってみえる。
「どう、似合う――?」
「ええ、お若いですよ」
「おせじいっても負けてあげないわよ」
遊び好きらしい中年の女性が二人現われて、卓を囲んだが、ヒヨッ子の意欲は、みるみるうちに失われていった。
学生にも初心者はいるし、無茶な打ち方をする奴も珍しくない。しかし、彼等はそのために負ければ、乏しい小遣いを失うという形で自分に犠牲を課し、罰に服していた。
このメンバーはそうでないのである。それそれが恣意をとおし、それぞれの我意で混乱をきわめているが、何ほどの代償を払おうともしない。
たとえ百円でも、立派な代償になりうるが、この女たちは何もしなくても暮すに困らないのである。小銭など、なにほどの値打ちもない。ただ、無料で恣意をとおしているのではないというほんのいいわけにしているだけだ。
誰も、他人のしていることなど見ていない。他人との関係の中でしか、ゲームは成立しないという認識すら、あるかどうか疑わしい。あるいは、そこをわざと踏み破って遊んでいるのか。
上家の女が、とをポンした。は初牌。このときはさすがに視線がそこへ集まった。
「アレがあれば、役満でしょ」
「あるの――?」
「どうかしら、振ってごらんなさい」
じゃァ、振るわ、といって下家の女がを振り、上家が|凱歌《がいか》をあげて牌を倒した。
さすがに、親でホンイチをテンパっていた大山夫人がなじった。
「どうしてそんなものを振るのよ」
「だって、あたしだって、ドラが三枚だもの――」
ヒヨッ子は、ほとんどあがれなかった。どの半チャンも、暴牌に恵まれた誰かが、一方的にツキだしてあがりまくってしまう。
ヒヨッ子が、誰かの暴牌に恵まれることは、あまり無い。なぜなら、彼はすこし恰好をつけて、仕上りのおそい手を狙っていたからである。彼の手が形になる前に、誰かが誰かに振りこんでしまう。
むろん、これではいけないと思っていた。自分は遊びに来ているのではない。彼女たちがそうなら、自分も一緒にその泥にまみれなければならない。
けれども、たとえば、場風のを一鳴きして、あとはまっしぐら、不要牌をすべて叩き切って千点であがるという麻雀が打てない。
自分はこの女たちとはちがう。自分は貧しい。貧しいだけでなく、人並みの能力を持っている。ただ喰えるというだけの此奴等とはちがう。
ヒヨッ子は、長所も短所もおしなべて、自分の持ち物を誇らしく思っている男だった。彼の当夜の勝をさまたげていたのは、この誇りであろう。
それに、誇りを捨ててまでして勝ったとて、なにほどの収益があるか。アルバイトで昼間働く時間給と大差ないではないか。彼女たちの野放図な甘えを許して、|幇間《たいこもち》のようにつきあって、やっとそれだけの収益しかおさめられないとしたら、なるほど下川のいうように社会は甘くない。
四回目の半チャンがはじまるとき、ヒヨッ子は大山夫人にこういった。
「奥さん、差しウマやりませんか」
「いくらの差しウマ?」
彼は内ポケットの札束を、皆の視線の前に出した。
「この範囲ならいくらでもいいです。十万でも、二十万でも。これ全部でもいいですよ」
「嫌よ。必要ないわ。そのお金があったら着物を買うわよ」
「勝てば、買える――」
「坊や、そうアツくならずに、身分相応のことを考えなさい」
「身分相応のことを考えるくらいなら、勝負事で夜なんか潰すもんですか。今頃、病院に行ってますよ。カミさんにする女が入院してるんです」
「じゃ、そちらにいらっしゃい」
と夫人は動じずにいった。
「あたしたちも少し疲れたわね。あっちの部屋でお酒でも呑みましょうか」
ヒヨッ子は、一人、卓のそばにとり残された。もう誰も、彼の存在を気にとめていない。麻雀が終れは、四人である必要はないのである。
彼は屈辱にまみれながら、負けた金をおいて立ちあがった。
四
私の巣には、存外に来訪者が多い。誰も来ないように望んでいるわけでもないけれど、彼等とつるんでしゃべくりあって日を送っていてもどうにもならない。彼等は何かしている合い間に、退屈なときだけくる。私は何もしていないからいつも退屈だ。
だからといって、私の時間を彼等に喰われて、笑ってばかりもいられない。誰かがくると、私はたいがい寐たふりをしていた。出窓があって、巣の中がのぞける。来た奴は出窓をがんがん叩く。私はむろん起きない。
寐たふりが、そのうち本当に眠ってしまうこともある。これではならじと、誰かが来そうな時間になると、銭湯に出かけてぼんやりしている。結局、無為である。
世の中が組織で動くようになると、私のようにひとりぼっちでは、獣にも鳥にもなれない。
しかし、また何か、やってやろうと思っていた。何がやりたいというわけではないが、まァ、何かやってやろう。ひさしぶりに留置場に入って以来、私はそう思いだしていた。
それにこの前、偶然つかんできた二十万がある。金を懐中にしていると、不思議なことに、その金を払いたくなる。何か買って、金をおいてきたりするのだ。
これではいけない。金があって、閑があるのでは、来る連中のみならず、世の中から喰われてしまう。金をなくすか、閑をなくすか、どちらかだ。
|かる《ヽヽ》源が、私の油断をついて、黙って巣にあがりこんできた。
「いい話があるよ。どうだね」
「――この前の、貨客船の話か」
「あれとは別件だ。千葉県に、今、新築中の家がある。そこに行って、住め」
「――住んで、どうする」
「住めばいいだろう。無料だ」
「俺が、一人でか」
「ひょっとしたら、建て主の一家も来るかもしれない。そうしたら、建て主のカミさんが飯をつくるのを喰えばいい。食住と解決だ」
「建て主が来たら、俺をどかすだろう」
「お前は、どくかね」
私は|かる《ヽヽ》源の煙草を一本貰って火をつけた。
「しかし、それで誰が|儲《もう》かる」
「そんなこと知らねえ。とにかく、怠け者にはうってつけの話だろう。|ぐたくさ《ヽヽヽヽ》して、ふんぞりかえっていりゃァいいんだ」
「そんな、人を嫁に行かせるような話に、乗れるかい」
「じゃァ、貨客船か」
「その方がまだしもだが、それも嫌だ」
「選り好みしやがって、畜生」
私は、|かる《ヽヽ》源の店の|借金《つけ》の額をきいた。
「じゃ、こんなのはどうだ。働くからお前向きじゃねえが、練馬区の方の小児科の医者を、バットで殴る役だ。マスコットバットでね」
私は|かる《ヽヽ》源の眼の前に銭をおいた。溜っていたといっても、金額で二万と少しだ。
「おや――」
といって、|かる《ヽヽ》源は絶句した。
「やっぱり、俺が何かやるとしたら、ばくちだろうな――」と私はいった。「もっとも、ばくちがやりたいというわけじゃないんだがね」
「タネ銭はあるのか」
「あるよ」
「だったらよしねえ。ばくちはタネなしでやるもんだ」
私は笑った。
「そりゃわかってるがね。|年齢《とし》だし、反射神経もなまってるだろう。だいぶやってないから。まず身体をほぐさなくちゃならない。身体が仕上るまではヨチヨチ歩きだ」
「駄目だ。負けるよ。ばくちでスプリングキャンプを張る奴は居ねえ」
私はまた笑った。
「そんないいぐさが駄目の証拠だ。わかってるだろう。俺は足を洗った。俺だって、やることで何が一番年期が入ってたかっていやァ、ばくちだ。だが、もう二度とやらねえ」
「お前とはちがう」
「ちがやしねえよ。お前がそう思いたいだけだ。いいかね。ばくちで勝てるとすれば、二つのタイプだ。一つは巨額のタネを持ってる奴」
「タネが大きいからって、勝てねえぜ」
「そうだ。大方はタネをなくす。だがその中に、たまに、タネを利して勝つ奴も居る。もう一つのタイプは、タネ無しだ。――お前、いくら持ってる」
私は、笑わなかった。
「五億か。十億か」
「ばかいえ」
「じゃァ駄目だ。半端なタネを持ってる奴は、それを無くすだけさ。そのくらいなら俺に預けといた方がいい」
私は息を吸いこんで天井を眺めていた。反撥できない。此奴のいうとおりだ。そんなことはわかりきってる。
だが、いつまでも、何もやらないというわけにもいかない。ずいぶん長く眠っていたが、つい先だって、眼をさましちゃった。何かがしたい。それも、執着できることが。
「ばくちばかりじゃねえ。世間てえ奴がそうだぜ。大タネで、世間そのものを吸うか、それができなきゃァタネ無しでできる仕事をするかだ。そうだろう。だからお前、千葉県にな――」
五
ある夜、新宿に出て酒を呑んだ。私は女と会ってきた帰りだった。
その女というのが、十五六年前に知り合って、まだ形が煮定まらず、平行線のままときおり会っているという冴えない関係だった。
私が麻雀ゴロの足を洗って、やや市民的な半端な仕事を転々としていた時分、知り合ったのだ。
彼女は大きな会社のタイピストだったが、妻子のある公認会計士の愛人で、ほとんど同棲していた。男は、彼女のことを、ハピイ、と呼んでいた。美しかったし、明るかった。
私は、業界紙の駈けだし記者。どうしてこんないい女が、囲い者みたいな境遇で満足しているのだろうか、と不思議に思っていた。
あるとき、男の留守に、新劇の俳優と一緒に並んだ写真を示して、
「あたし、この人のファンだったの。――貴方と、似てるわ」
私はその俳優と自分が似ているとは思わなかったけれど、一瞬、心がおどった。
それからしばらくして、会計士の本妻が自宅でガスを吸って死んだ。男はその夜もハピイのところに居たが、八方手をつくして醜聞を防いだ。けれども噂がすぐに流れ、彼女は会社をやめていった。
男はその夜以来、ハピイのところに現われなかった。三カ月くらいして、突然、私の勤務先に、ちがう住所から手紙をくれた。
街で落ち合った彼女の口から、親もとに帰っていて、男とはあれきりだときいた。彼女が二十四、私も同じ二十四の頃だ。
実をいうと、なんとか世間と融和して、市民のコースでがんばろうと思ったのは、その頃だ。私は、あまり市民的でない業界紙をやめて、転々と職場を変えた。
彼女と暮すには、生まれかわった自分にならなくちゃ、というふうに思いつめていた。私はその時分、牌もカードもサイも、いっさいさわらなかった。だって、ハピイは本当に、ハピイな女だったからだ。
何度も逢う瀬を重ねているのに、手も握ろうとしない私を、彼女は解しかねているようだった。ある晩、私はいった。
「俺、ハピイを、尊敬してるんだよ」
尊敬、というその場にそぐわない言葉が彼女を驚かせたらしい。けれども私は、私の屈折した気持をうまく言葉で伝えられない。
私は自分の来歴をのべた。戦争が終った十六の年からばくち歴ばかりで、学歴、職歴、なんにもなし、ということを。
「自分を卑しめていってるんじゃないぜ。俺は俺の生き方で生きてきた。燃えたし、今でも忘れられないことばかりだよ。だが、君にはマッチしないし、もう過ぎたことなんだ。野球選手が、野球をやめたようなもんだな。なにもできないで、傷だけが残る」
「偉いわよ、貴方――」と彼女はいった。「なにもできなくたって、あたしが魅かれてしまうんだもの。偉いわ」
「俺は普通の人は怖くない。でもどうしてかな、君は怖いんだ。君が偉くて、俺がうす汚なく見える」
ハピイは顔を寄せてきて、そのときたった一度、彼女としては大胆なことをいった。
「貴方の臭いはもうよく知ってるわ。それだけ。でもあたしは知ってるのよ。貴方の臭いを」
その次に会ったとき、彼女はまっすぐに私を自分の家に連れていった。
一軒家だったが、戦争で焼け残った一帯の天井の低い腐りかけたようなところだった。
老いた両親が居た。ハピイは女ばかり五人の末っ子で、長姉は生まれつきの病人、次姉は戦争未亡人、すぐの姉は未婚。嫁に行って外へ出ているのは三姉だけで、親たちが老い、すぐの姉の頃から娘の行末の世話まで力がまわらなくなりだした気配が見えていた。
七十の坂を越えた父親は、本業をとうに捨てて、映画のエキストラに出ていた。未婚の姉はミシンを踏んでいた。不思議なことに、皆、明るいよい人たちで、動けぬ病人の長姉すら冗談ばかりいって家内に笑声を湧かせた。私が来ているせいで明るくふるまっているのではないのだった。そうして、多分、屈託もあろうに、姉妹仲もしっくりいっていた。
だが、皆が協力しているにせよ、稼ぎ手の中心は一番若くて器量のいいハピイなのだった。私はなぜ彼女が並みの結婚をしなかったか、諒解した。
彼女はその点を口にしない。ただ、状態を見せただけだ。私も、話題としては避けていた。しかし、彼女の扶養家族の多さを見て、遠ざかったりはできない。
私たちはごく自然に深まになり、彼女の家族たちも私をそのような眼で見るようになった。
ハピイはタイピストで再就職し、夜は銀座の酒場に出た。長姉の他に、母親が心臓病で寝つくようになっていたから。
私は転々と、職を変えてみたものの、収入のうえでも、市民らしさの点でも、あまり変り映えがしない。
ハピイはよくよく不幸な女で、母親を見送ったあとでも、次姉の交通事故があり、それと前後して、元気そうに見えた父親が卒中死した。
そうして、身体の不自由な長姉が、精神の平衡を失って、眼が離せなくなった。
金だけでもなんとかしたいと思って、私は友人たちには隠していたが、ちょいちょいとまたばくちに手を出していた。主として競馬や競輪だ。素人のような破綻はおこさないにしても、もともとすくないタネ銭で、貢ぐに足りるほどのものは出ない。
私は、次第に消極的になった。卑怯なのは承知していて、心にこたえる。だからますます気が重い。
いいよ、俺が全部、引き受けるよ、一緒になろう――、それがどうしてもいえない。そのくせ、縁を切る気もない。
ハピイは身体を触れ合わすだけで、それ以上のことを一度も要求しない。その話題には触れないが、彼女の方からは何もいえないのだと痛いほどわかっている。
(――それで、どうしてこんな優しい笑顔ができるんだろう)
私はいつのまにか、眠るだけの男になっていた。どうせ、市民にはなれない。男にもなれない。
そんなふうにして年月がたった。私が四十。彼女も四十だ。ハピイは以前のハピイのままで少しも老けこんでいない。だが、四十なのだ。
六
家族が減ったのにともない、ハピイの一家は近くのアパートに移っていた。
私が扉を叩いても、しばらくは応答がなかった。扉の中で、足音が移動する気配がし、ややあってハピイが、みづくろいを直しながら扉をあけた。
私はその瞬間に、何かを感じた。
男が居る。しかし、居たって、私が文句をいう筋合いはない。
私は足早にあとずさった。
「又来るよ。客だろう」
「客、どうして――?」
「いいんだ。又来る」
木の階段をおり、ハピイも追ってきた。その途中で私は気がついた。男が居るとしても、狂った姉の居るところへ彼女が連れこむはずはない。
「姉さんが、わるいのよ」
「どの姉さん――?」
彼女はすぐの姉の名をいった。未婚で、ミシンを踏んでいた姉だ。入院させていたのが自宅に帰された。胃癌だが、早くも全身にまわってしまって手のつけようがないという。
「入ってよ。でも、そんな顔しないで」
「いや、ここでいい」
私はすぐの姉よりも、狂った長姉に会うのが怖かった。
だまって、彼女の服のポケットに、十万円、入れた。
「すみません――」
「ひょっとしたら、今度、まとまって金が入るかもしれない。シンガポールに行ってくるよ」
「シンガポール――?」
「すぐ帰ってくる予定だがね。帰れたら」
「仕事なの――?」
「生命保険をかけて、貨客船に乗るんだ。貨客船にも、誰かがたくさん保険をかけてある。で、外海に出て、沈めちまうんだ」
「誰が、沈めるの」
「誰かがさ」
「どうして――?」
「船の保険金が、誰かの手に入る。俺も、災害に会った分の保険金が貰える。それに、多分、誰かからも割前が出るよ」
「何故なの――?」
「目撃者が必要だろう。人災で沈んだんじゃないという目撃者がいろいろ居た方がいい」
「だって人災なんでしょう。そんなにうまくいかないわ」
「よく知らないが、日本の保険会社はそれでも損しないんだ。イギリスに大きな組織があって、保険会社は皆、自分のところの保険の保険をそこにかける。損をするのは大元だけさ」
「貴方泳げないんでしょ。前そういってた」
「ボートで逃げるんだろう。まァね、手筈がちょっとでも狂ったら、まずいね。面倒なことになったら、俺たちも沈んじゃった方がいい。誰かさんはね」
「――─」
「だから、死ぬまである」
私は笑った。
「さよなら。死ななかったら、また会おう。死亡の場合、保険金の受取人は君だ」
「冗談でしょう。冗談ね」
「ああ。冗談だといいね。でも賭けてみるよ。これはタネ銭なしでできる」
私はキザな芝居の主人公のようなセリフをいった。
そうして新宿に出た。まだ懐中に多少の金は残っている。この金をみんな使ってしまいたい。誰かとばくちを打ってもよい。
いろんなことができそうでいて、事実やってできなくはないが、|かる《ヽヽ》源のいうとおり、実りはあるまい。
そうだ、どうせなら、ばくちで散財してしまおう。負けるものなら友人がいい。
私は若い友人のフーテン安坊を誘おうと思ったが、出先きで電話番号がわからない。
歌舞伎町は深夜でも若者が出盛っている。だが、私自身が若かった頃とちがって、顔見知りは居ない。ドサ健も、上州虎も、ピン六も、達兄ィも、どこかへ消えてしまった。
「師匠。――いやァ、師匠!」
いきなり肩を叩かれた。この前の留置場のヒヨッ子が、眼を輝かせて立っていた。
[#改ページ]
一
私は奴を忘れていなかった。
それどころか、師匠――と声をかけられたとたんに、あのヒヨッ子だとわかった。それが、あまり愉快でない。
私は、十八九の時分にすでに、表面は友人だが実質的には|手下《おヒキ》だった者を十数人従えていた。中にはずいぶん年長だった者も居る。その頃、私の方では知らなくとも、どこの土地に行っても、向こうで私の顔や通り名を知っている者が居た。
こういう盛り場だったら、おうい――! と叫べば、たちどころに何人か、男たちが寄ってきた。
いや、それは嘘で、そんな大きな顔をして歩いていたわけではない。ただ、長くそういう世界をうろついていると、どこかで顔を見合っていて、隠微な知り合いが増える。
それでなまなかの関係では、こちらはなかなか|面《つら》をおぼえられない。一度、つきあっただけのチンピラ学生をすぐにわかるというのが、威勢が乏しくなった証拠に思える。
ヒヨッ子の方は、そういうことに頓着しない。
あはは、あはは、やたらに笑って、
「おどろいたでしょう――」
「べつに――」
「こっちが、あんたのことを考えてるときに、いきなり出てくるんだものなァ」
「なにか、俺に用かね」
私の弾まない声を知って、ヒヨッ子は笑いをおさめた。今日は学生服じゃなくて、うすいジャンパーだったが、両手をポケットに突っこんだ。
「用はないが――、俺、宿なしですよ」
「何故――」
「あんたの辻占が当ったよ。で、もう一度、会おうと思って探してたんだ」
ヒヨッ子は、立ち話で、火事のことや、アルバイトのことを手短かに語った。
「それで――、どうした」
と私はいった。
「あんたに興味があるんだ。でも、あんたの方じゃお呼びでないらしいね」
「そうとも限らんよ。俺はヒマ|人《じん》だからな。そこの風呂屋に行こう。その気があるならついてきな」
「サウナかい」
当時、今日のトルコ風呂はまだほんとに特殊な存在だった。
「ちがうよ。普通の銭湯だ。あすこは安いし、話が素ッ裸になっていい」
私たちは元青線の花園街(現在のゴールデン街)の裏手にある銭湯に行った。
「どうしよう。俺、銭を持ってる」
「番台に預けたらいいだろう」
「そうか、そうするよ」
ヒヨッ子は私の眼の前で、ポケットから無造作に六十万の札束を出して、番台に持って行った。
「この前より少し減ったな」
「マーヤの入院費にかかったからね」
「アルバイトをしているんだろう」
「それは俺の喰い|扶持《ぶち》。マーヤの分は他のことで稼がなくちゃ」
「すると、あれ以来、ツキ目が来ないわけだな」
ヒヨッ子は一瞬、沈黙した。
私たちは裸になって湯槽につかっていた。
「――俺はそうは思わないけど。だって、火事がどん底じゃないのかい」
「さァ、どうかな。べつに理屈でツキが変るわけじゃない。ツキ、というのは科学用語じゃないからな。理屈じゃ量れないものを、かりにそう呼んでいるだけだ」
「俺は落ち目なんかじゃないよ。ただ機会に恵まれないだけだよ」
「ツキという奴は風向きみたいなものでな、なんの公式もない。ホラ、歌にもあるだろう、風の中の羽のように――」
「でも俺は今まで全勝だったよ。勝負事ばかりじゃなくて」
「それじゃこのあとは全敗かもしれない」
「――落ち目になったら、どうすればいいんだろう」
「ふん、それがわかりゃァ俺は今ごろ蔵が建ってる」
私は身体を洗いながら、ヒヨッ子の貧弱な肢体を眺めていた。此奴は発育不全だ。しかし、それはあながち悪い条件じゃない。すくなくとも余分なものがついていない。
それに、奴の雄々しい男根。
私は自分の身体に眼を落したくなかった。ついこの前、煙草一箱で留置場に入ってきたばかりだというのに、そんなことと関係なく脂肪がつきはじめている。
「おい――」と私はいった。「出ようか」
「出てどうする」
「勝手にしろよ。病院にでも行きな」
「師匠は――」
私は打てそうなところを一カ所思い出していた。
「俺は、打ちに行くよ」
ヒヨッ子は眼を輝かした。
「じゃ、俺も行く」
「学生麻雀とはちがうぞ」
「マーヤの入院費以外はあの金に手をつけない。でも、ばくちで負けるんなら本望だよ」
「しかしな――」と私は笑った。
「ツキを流すといってな、打つつもりなら、風呂はゲンがわるいんだ――」
二
私が思いだしたのは、新宿のはずれの一軒の寿司屋だった。そこは元赤線で、昔は遊客のたまり場になっており、主人が麻雀が好きなところから、|手練《てだ》れのメンバーが集まって毎晩のように場が立っていた。
今は赤線がなくなって、店の繁昌は昔ほどではないが、二階はあいかわらずだと誰かからきいたことがある。
私は十七八年ぶりにその寿司屋に入って、ツケ台の前に坐った。
「おう――、生きてたんだね」
「どうやらな――」
「しぶといねえ、立派だなァ、いや、頭がさがるね、へええ、あんたが、生きてたかい」
「死ぬきっかけがないだけだよ」
「こちら、息子さんかい」
私もヒヨッ子も、笑いだした。
「二階はやってるかい」
「二階?――あ、ははァ、なるほど」
私たちは寿司を喰ってから、帳場の奥へ行った。
「すまねえ。現金をね、コマに替えてくんねえ。なんぼ勝ったって帰りにちゃんと金に替えるよ」
私は、ほぼ十万円をコマに替えた。ヒヨッ子は六十万そっくり、主人に渡す。
馬鹿、素人奴――。適当に二十万ほど替えりゃいいんだ。あるだけの底を見せてしまいやがる。
素人なのは結構だが、素人の無知は見ちゃいられない。
「いや、テラは取らないよ。うちは商売じゃない。俺が好きでやってるんだから呑み喰いしてくれるだけでいいんだ。ただ、ときどき|無銭《ハイナシ》が来るんでね」
「昔の俺みたいにな」
「まァそういうわけじゃねえ。客同士でもめるだろう」
二階の小座敷では、二卓、やっていた。
私は柱を背にして、両方の卓をまんべんなく眺めていた。
三十前後から中年が多い。見知った顔は居なかったが、眼のくばり、気合、それぞれによく、賭場に来た感じがひさしぶりにする。
「お前なら、どの馬券を買うね」
私は小声でヒヨッ子に話しかけた。
「馬券って、誰が勝つかってことかい」
「まァ、そうだ」
「俺だよ。そう思うよりない」
「どの選手をマークするかってことだよ。人を見る眼は大切だよ」
「そうだね、タイプからいうと――」とヒヨッ子はいった。「左卓の|小豆《あずき》色のシャツ、右卓のキンキン声――」
小豆色のシャツは|筋者《ヤーコー》風で若かった。キンキン声は五十近い感じだが、背筋がしゃんと伸びており、顔つきが風格がある。
「それに、あの、片眼――」
黒い眼帯をかけた痩せた三十男が、身体が小さいわりに態度が大きい。烈しく笑ったり、身体を|海老《えび》のように曲げて考えこんだりしながら、気合をこめて打っていた。
私はしばらく眺めてからいった。
「上げ汐なのは、左卓の二枚目だろうな。眼が光ってるし、|摸打《ツモ》が早い。考えずに勘に乗って打ってる。しかし、誰と打ちたいかといえば、やっぱり、あの片眼だな」
「片眼か。――でも奴は面がわるい。きっと思考にかたよりがあるよ。学校でも、あんなのは、結局上位には来ない」
「しかし、贅肉がないな。あの指を見ろ。長くはないが、がっしりとしたいい指だ」
「本職だろうかね」
「どうかな。多分ちがうだろう。|商売人《バイニン》なら、あんなに威勢よく打ってない。もっと、煮えたか煮えないかわからんように打つ」
とを、片眼が鳴いていた。
三元牌はいずれも切れていたが、とが一枚も場に出ていなかった。むろん、他の三人はいずれも、役満までを警戒している。
片眼の上家の小豆シャツは、一打ごとに考えこみ、慎重だったがオリている気色はなかった。
リーチはかけないが、テンパっているふうだ。
私たちは片眼の対家の二枚目の手の方から眺めていた。
これが二枚目の手牌だった。彼はテンにもとれるを持ってきたが、手が動かせなくてひきぼりをしていた。片眼の捨牌は、最初からホンイチ志向ではない。こんなときはその方が怖いのである。字牌を二つ鳴いて、ホンイチ志向でなければ、ドラ含みか、トイトイか、役満の因子が初手からある場合だと思う必要がある。
ドラは。これも初牌。
すると片眼が何かをツモってバタリと手前に伏せておき、手牌の中からを切った。彼のたったひとつの眼が、細く笑った。
「あきらめた|おとこ《ヽヽヽ》――?」
と小豆シャツがいう。
「オリリリスの|おとこ《ヽヽヽ》――」
と片眼が答えた。片眼はもう一度、「ヨワイ|おとこ《ヽヽヽ》よ――」と自嘲した。
こちら側の二枚目にが入り、バシッ、とを切った。ツイている。が出れば準九連宝燈だ。
片眼の視線がすばやく二枚目を捕えた。
「うむ、気合のいい|おとこ《ヽヽヽ》、現わる――」
私は、ドラのは、小豆シャツにかたまっているのだろうと想像していた。
片眼がまた一枚ツモリ、手牌から続けてを切った。
「二丁切りの|おとこ《ヽヽヽ》ね――」と小豆シャツ。
「安全運転の|おとこ《ヽヽヽ》――」
こちらの二枚目の方には次にが来た。二枚目は、しばらく場を注視したのち、むしろ小豆シャツにいった。
「これか、当ってもしようがねえ――」
が捨てられたとたんに、片眼の表情から笑いの筋が消えた。
「ご苦労さん――!」と彼は叫んだ。
「今テンか――」
「いや、一巡前まで単騎だったよ」
「だって、を二丁切りしたぜ」
「今のツモはだからな」
三
二枚目が帰って、私が卓についた。
ヒヨッ子はやや不服そうに、私の横で眺めている。しかしこういう場所では、連れ立ってきた二人は同卓につかせないし、またそうしないのが礼儀だ。
もちろん、オール伏せ牌のサイ二度振り。
|劈頭《へきとう》の回に、が二丁あって、ドラ含みの一気通貫になる手だったが、私は一鳴きしなかった。
ヒヨッ子が私の打ち方を眺めているのがどうもいけない。この程度の手で一鳴きするほど軽っぽくはないぞ、という見栄がある。
実は、卓につきはじめの序盤戦は大切なのだ。大まかに打ってはいけないのである。
片眼の動きは私と対照的だった。
喰いタン、ポンドラ一丁、ヤミのタンヤオピンフ、と彼はすばやく回を廻した。
私の視線を感じたように、唇をにやっとまげて、はじめて私の方に眼を向けてきた。
「ごめんね。ちょっと、相手に慣れるまでね、見ててくださいよ――」
奴はいい指をしていたけれど、それ以上に、眼がいい、と私は思っていた。
眼が乾いている。セリフは愛嬌がないでもなかったが、眼がすこしもゆるんでいない。|和了《ホウラ》したとき、他人の和了を眺めているとき、それが同じ眼だった。何も揺れる気色がない。
昔、ドサ健がこれに似た眼をしていた。けれども奴は、全体に、もっと燃えていた。
片眼のせいだろうか。この男のは表情に乏しく、陰気だ。その分をおぎなうように、明るくふるまう。
かなり鍛えられているな、と私は思った。麻雀の技のことではない。勝負事に対する身のこなしがだ。そうして、それはばくちでよりも、もっと他のことで鍛えられるのだ。
たとえば、ハングリー、というような条件で――。
ラス場まで奴があがりきったとき、ヒヨッ子が身体を揺らし、吐息を洩らした。
私はなすところなく、持ちゴマの半分ほどを吐きだしていた。
店をしまった主人も、あがってきて私のうしろで観戦している。
私は座布団を裏返し、坐り直した。
二回戦目の第一打を、力をこめて卓に叩きつけた。
第一打。第二打。第三打。第四打で、私はリーチをかけた。
完璧な手だと思っていた。
ドラは
捨牌にどこも弱味はない。まずチートイツ系の変則待ちを予想させることができる。メンツ手として対応してこられた場合も、不自然な逆切りがない。、、ドラそばの、と軽い順に捨てている。
多分は、チートイツがありそうで、かえって出てこないだろう。だから、あがれば高目だ。
「リーチの|おとこ《ヽヽヽ》か、へええ――」
と片眼がいった。
片眼は、どうだ、とでもいうように、を捨ててきた。それから、。
奴が次に捨てたのはだった。それから。
見た眼は強気だったが、指先きも、眼も、すこしも|逡巡《しゆんじゆん》していなかった。
たった一度、ちょっと考えこんで、これは本当に、勝負、という感じで、を捨ててきた。そうして奴も、リーチ、といった。
三巡ほど、五分に打ち合った。
四巡目に私がを持ってきて、負けた。
私も、表情を変えなかった。
けれども、眼に悲しみが出ていたかもしれない。
ツモリハネの手を逸したからではない。綜合的な地力の差を感じたからだ。
「ふうん、うまくいかんものだね、あんたでも――」
と主人がいった。
私はそのセリフを無視したつもりで、やはり苦笑を返していた。
そうして、気合を入れているつもりで、さっぱり身体が燃えていないのを感じていた。
四
オール伏せ牌のサイ二度振りだ。焼跡ヤミ市の頃の麻雀のように小汚ない真似は、お互いにできない。
私の点棒は、一万四五千点。リーチ負けで満貫を打っているから、現在ラスだ。
そのあと、東場の親のとき、小豆シャツに満貫をツモられた。
私にできることは、とにかく苦笑することだった。私は呟いた。「まァ、面白いな――」
「面白すぎるね――」と背後で眺めているヒヨッ子。
私は負け惜しみにとられないように、さらりといった。
「ひさしぶりだが、こういうものはやっぱり面白いな。もっとも、面白がってちゃいけねえ。仕事にしなくちゃな」
「――面白すぎる、|おとこ《ヽヽヽ》、か」
片眼が、ぽっつりという。
前の半チャンで、持ちゴマを半分とられて、今度ラスを喰えば、空ッ尻になる。ヒヨッ子は控えているが、いいところなしに彼の懐中に寄っかかるようなみじめな真似はまっぴらだ。
すると、だから、この半チャンは、|鉄火《だしきり》で打っているのだ。
昔は、身体が燃えた。こんなときにリーチ負けなどしようものなら、怒りで頭がしびれたものだ。今は、負けると逆に余裕をつくってバランスをとろうとする。
東ラスで、ヤミテン|三九《さんきゆう》をあがった。
南に入って、ハネる手を二度テンパった。二度とも、片眼の無駄のないしのぎのせいで実らなかった。
あっというまに、ケリがついた。私は三着と二千点差で、やはりラスだった。
「――もう一回、やらせろな」
「いいとも――」
ヒヨッ子の顔から不服の色が消えていて、むしろ優しさとも憐れみともつかぬ色が浮かんでいる。
選手が一人、交代して、休んでいたキンキン声が入った。ヒヨッ子は私の連れで初会なので、同じ卓には入れない。
「もう一人、呼ぼうか――」
店の主人が二三カ所に電話を入れたようだが、いい返事がとれないようだ。
私はもはや手造りに見栄を張っていない。先手がとれるきっかけがつかめるなら、翻牌の一鳴きでもやろうと思っていた。だが、前二回より手材料が落ちてきていて、低迷期の様相が濃い。
おとなしく、エラーをしないように丁寧に打っていれば、どこかで風がくる。だが、どこかでではまずい。こっちは|鉄火《これまで》なのだ。
東の親の配牌が、クズ牌八種九牌。
が二枚だったが、出てこない。クズ牌を切り並べているうちに早リーチがかかって、簡単に親をおとされた。
私はヒヨッ子に、牌山を並べておいてくれ、と頼んで席を立ち、階下へ行った。
便所に行くふりで、実はそうでなかった。
(――こいつは、見切りだ)
その手より他になし。ここで又負けて、ヒヨッ子に負け代を出させてすごすご帰るよりは、あとを奴に押しつけてしまえ。
野郎とは、もう会わないだろう。一夜の恥のかき捨て。
店土間におりて、捩じ鍵のかかっているガラス戸をそっと開けようとした。
誰かが階段をおりてくる音がする。私はとっさに、店の飯台の方に寄って、いかにも小腹をすかせた恰好で、
「もう、シャリはねえのかな――」
と呟いた。
「――師匠」
おりてきたのはヒヨッ子だった。
奴は、私の様子をちょっとうかがい、それからすっと近づいてきて、ポケットから出した自分のコマを、私の手に握らせた。
「二十万円分だよ。一応、これだけ、預けとく――」
私はヒヨッ子の面を眺めた。
「おとこ気を出す癖をつけると、ろくな目は見ないぞ」
「なんでもいいよ。このままずらかる手はない。一発、いいところを見せておくれよ」
私は吐息をついた。
「俺も、駄馬になったなァ」
「反省しちゃいけない。手を出した以上、まっしぐらだ。でなければ最初の千円を張らない。そうだろう」
「まァ、そうだがな」
「まだ|弾丸《たま》は四十万ある。全部使ってくれてかまわないんだよ」
五
相手リーチで、また苦しい態勢になって手を廻しているうちに、ひょこっとカンをツモリあがった。三本五本。それでひと風無駄に進行させたように見えるが、この展開は風の方向として見た目ほどわるくない。
南入り。手牌はあいかわらずよくならない。キンキン声の五十男が、親で、ドラ入りチートイツのヤミテンをあがり、トップコースに立った。放銃は小豆シャツ。
一本場。私は片眼がこの回はかぶせ打ち(親の先手をとって早あがりのみを狙う打法)をしてくると思っていた。片眼とキンキン声は大五枚の差しウマをはじめている。片眼はラス親だから、点差を離されすぎないように、ここは親落しに出てくるはずだ。
私は、翻牌をしぼって捨てなかった。片眼のフットワークをできるだけとめたい。麻雀は狙ったあがりかたができると、そのあとがうるさくなる。下家の片眼が喰えそうな牌も捨てない。
私はこの半チャンを、二着で上々と思っていた。頭狙いにいけば、落馬の可能性も増える。この回が二着で大過なくいくようなら、風を一歩こちらに近づけたことになる。まだ夜は長い。頭狙いは、風が来てからでいい。
二着を確保するためには、片眼の動きをとめなければならない。キンキン声はあがってもよろしい。たとえ安手でも、片眼をあがらせてはならない。
はっきり落ち目の兆の小豆シャツが、また親のヤミテン三色にぶつけた。放銃役が自分以外に出てくるのは、自分がどん底を脱した証拠になる。私の点棒は変化がないが、なんとなく、一条の光がさしこんできたようだ。
二本場。私はを一鳴きした。
片眼が、じろっと、開かれたに視線を当てる。奴も私とのセリ合いを意識しているはすだ。
ここで私にあがられるようなら、|趨勢《すうせい》として、トップ走者を追いこむはずみがつきにくくなる。
(ポン)
ドラは。
で、鳴きにくいと思ったがアンコになったときに、思いきって私は、をおとしていった。
は初牌で片眼の風牌。もうすこししぼってみる。は親が捨てており、片眼も、あたりを切っていた。あとでおとすはめになっておとしづらいのはワンズで、私は、この手は伸びると見ていた。
がアンコになり、そのあとすぐに小豆シャツからもう一枚のが出る。
私は安全牌のを持ってきたが抱かなかった。
(ポン)
誰もリーチと来ない。おりているというほどではないが、初牌がめだって出なくなっている。ツモの具合と手の恰好を見て、それぞれ、トイツ手に対する腰のかまえになっているのだろう。親さえ、やや慎重策だ。もっとも彼としては、もうオリて流してもいいのである。
ドラ()のありかがわからないので、誰も強く出られない。しかし、それは同時に、ドラのトイツを誰も持っていないということかもしれない。
私は片眼の表情の底をうかがっていた。腹の動きを見て呼吸の張り方をたしかめ、ツモる指先きの力のこもり方を眺めた。
片眼が何かをツモって、ふうッと太い息を吐いた。
「|扼腕《やくわん》の、おとこ――」
「やくまんのおとこだァ――?」
「ちがう、切歯扼腕のおとこ」
「なんだい、そりゃァ――」
「くやしがってる、おとこだ――」
彼は、ひとつの眼で、穴のあくほど場をみつめ、手牌の中からをひとつ、叩きつけるように捨てた。
私は次のツモがであることを祈った。
だが、――。むなしくツモ切り。
片眼が何かツモって、また手の中の。
次の私のツモが、だった。
はやる心を押さえ、じっと考えこむふりで、ゆっくりと、打。
片眼は、安全牌のツモ切り。
はトイツ切りか、それともアンコでもう一枚手に残っているのか。
次の私のツモが、ドラのだった。瞬間的にツモ切りした。
誰も声を出さない。ドラは山に寐ている可能性が強い。危険をおかさずドラを手においてツモにかける手をさっきまで考えていたのだ。
片眼は手の中から、打――。
はトイツ切りのわけはない。トイツなら切り落せる牌ではないのだ。必ずもう一枚ある。手が詰まり、直前にとおった安全牌がなければ、必ず出てくる。
私は懸命に突っ張ってツモ切りした。待ち遠しかった。
流局ひとつ前に、片眼がを出した。
六
それがひとつの山場だった。すくなくとも私はそう考えていた。
南二局、小豆シャツの親。ここは親に威光がないので、必然的に片眼は長打を狙ってこよう。私も長打策。これに対してトップ走者のキンキン声が、穏健な逃げの手。
しかし、私の帆は風を受けてはらんでいるはずだった。私はもう二着で満足する気はない。
通貫手のペンで、強引にリーチをかけた。
片眼は、どすぐろい表情のまま、無言。
さっきまでとちがって、ツモる手が軽く動く。
親の小豆シャツか、片眼か、どっちかが追っかけリーチに来るかと思ったが、声が出ないうちに、気持よくをツモった。
そうして私の親。
私は喰い仕掛けに出なかった。風が来ているときは安手で動かない方がいい。ツモっているうちに自然に重い恰好ができてくる。
それに、相手の気配もみないで、安手の連チャンなどに精を出していると、そのうちに相手に一発、大物手のチャンスが来てしまう。
「あんた、商売は何――?」
私は、気をはずすためもあって、むだ口をきいた。
「俺か――、予想屋」
「――競馬のかい」
「いや、競艇。競輪もするよ」
「堅気なんだな」
「何故――」
「なかなかできるね。これが本職かと思った」
「予想屋の方が儲かる。他人に張らせるおとこだ。その方がまちがいないおとこ――」
「予想は、当るかね」
「どうかな。気にしちゃいない」
キンキン声がリーチしてきて、流局。私は形式テンパイ。
ヒヨッ子は安心したらしく、店の主人と、休んでいた痩せっぽを誘って、隅でチンチロリンをやりだした。
一本場。のっけにドラのがアンコできた。が二丁。
だが、そのが現われない。風に乗ってるときは軽く鳴けるものだが。
「あんたは、何屋――?」と片眼。
「俺は、無職――」
「無職というと、ばくち打ちのことか」
「いや、ヒモだ」
「ふうん。――ヒモは面白いかね」
「べつに。望んでなった職じゃない」
「じゃ、予想のサブにならねえか。月に三場所、十八日間の働きで飯が喰える。今、手が足りないぜ」
「俺は、張った方がいいな」
「張っちゃ喰えねえ。わるいが、お前さんの腕じゃな」
なにをこの野郎、と思った。俺は、ずっと、この道の男だったんだ。
「張っちゃ喰えねえさ。俺だってそうだよ――」と片眼はくりかえした。「この人の商売を知ってるかい」
片眼は、眼顔でキンキン声の五十男を示した。
「この人はばくちが飯よりすきだ。腕もいい。だが商売はちがう、大学の先生さ」
片眼の捨牌は、序盤から|中張 牌《ちゆうちやんぱい》のめった打ちで、
私は心中で苦慮していた。国士か、チャンタか、トイツ手か、たとえブラフで流局目標だとしても、こんな局は安連チャンでもして早くふりだしに戻したいのである。
は依然出ない。中盤以後もっと出にくくなるだろう。面前で行こうにも、ツモがわるい。
「で、この先生、マンションを買ったおとこよ。大学のギャラじゃない、これでさ」
片眼は案外能弁だ。
「だがね、あんた、大学をやめてこれ専門になったら、逆にマンションをなくすよ。大学があるからいいんだ。商売ってものはそうしたもんだと思うな」
「リーチ――!」
とキンキン声が相手にならずに、そういった。彼はトップを確保するために、ここでもうひとつあがらねばならない。それはそうだが、普通なら、ちょっと不気味な場を押してリーチする必要があるかどうか。
ドラはこっちに三枚。では、ゴミ手でドラ使いのリーチではない。変則待ちの感じか、もうひとつは、片眼の国士の牌を手牌の中でころしているか。
私の手は、こうだった。
つもれば、あがれる。なら出あがりもできる。だが、リーチが持ってくる以外むずかしい。
「俺は前に、川崎で立ちん坊をやってたことがあるが――」と片眼。「そのとき思ったね。まず、定収入だ。これがなきゃ何もできねえ。それで生活保護を貰った。さァそれから、ギャングになろうと思ってね――」
私は、を強打した。
片眼が、。これも強い。私は眼をみはった。
リーチが、。初牌。
小豆シャツが、。
「それでまず小さいことからやった。パチンコのプロだ。これは喰えた。最低保証があったから――」
私は、を握っていた。
打――。一瞬、このセリ合いをおりた淋しさが胸をよぎった。昔なら、こんなところでなんぞつかまなかったんだ。
次の片眼が、無言で、しかし気合をこめてツモ切り。
ポン――、といって、私は空ポンの千点を出しかけ、えい、ままよ。そのままポン。
打――。これはリーチが捨ててる。
片眼が次のツモ牌を、パシッと叩きつけた。だ。
ダブ南なので倍満だった。私が鳴かなければキンキン声が打っていた牌だ。
「俺の親父は駄目だった。最低保証をつける手をしなかったから。最後まで、ツキが来なかったさ――」
「親父は何をしてたんだね――」と私。
片眼はごっそり点棒をかき集めながら、私の方を流し見た。
「ヒモで保証をつける手もあったな。だが駄目だったんだ。ヒモになれるような女が居なかった」
「田舎だったのか」
「刑務所さ――」
と片眼がいった。
[#改ページ]
一
私たちは夜明けを待たずに寿司屋を出て、力士が花道をひきあげるように、元赤線裏の太宗寺まで歩いてきて、墓場の中に腰をおろした。
私は負け力士だった。途中で借りたヒヨッ子のコマは喰いこまなかったが、自分のコマを戻すにいたらなかった。そうしてヒヨッ子も、不戦敗といった恰好だった。私は苔の生えた墓石に肘を乗せて、煙草を吸った。
「――今思いだしたが、空襲が華やかなりし頃だ。墓石と墓石に焼けトタンをかぶせてね。その下でしゃがんで寐ている人が居た。ある大学教授とその夫人だ」
「――それで?」
「――いや、それだけさ。俺は不良中学生だったが、不意にその夫人に惚れてね。毎朝早く、様子をのぞきに行ったもんだ」
「うん、わからんでもないね」
「戦後まもなく大学教授は死んでね。夫人が一人残された」
「墓場にかい」
「ああ。だが夫人もしばらくしてどこかに行っちまったよ。赤錆びたトタンが二枚、墓場に残ってた」
「――大学教授もいろいろだなァ。さっきの、キンキン声、あれは大学教授が本職なのかしら。それとも、ばくちが本職で、大学はアルバイトなのかしら」
「大学が本職だろう。あの程度の力じゃ、ばくちじゃ喰えない」
「――しかし、奴は勝ってたぜ」
「うん。俺が弱すぎたんだ」
私は、ひと息ツカなかった。そのため昔のように危ない橋を渡れず、野球でいえば待球しすぎてしまった。
特に、自分の風向きを我が手で消すほどの凡失をしたとは思えない。ツキの風は気ままに、誰にでも吹き変る。では何故、私にだけあまり吹かなかったのだろう。
「あんなつまらん麻雀を、長いことよう見ていたなァ。退屈だっただろう」
「――俺もやっぱり、小学生の頃を思いだしていたよ」
とヒヨッ子がいった。
「授業と授業との間の短い休み時間は、ドッジボールと相撲だった。野球は放課後さ。あっちでもこっちでも、村の中の住む方角によってグループを作ってやっていた。俺はよく、定まったグループの相撲を眺めていたんだけどね――」
「観戦することが、もともと好きなのか」
「どうなのかな。俺はチビだったから、自分でやるより、見る方にまわっていたのかもしれないな。それで最初は陰気に眺めていたんだが、まもなくグループ一人一人の取り口や個性がわかってきて、面白くてね。だまってむすっと眺めているんだけど、実はそれぞれに感情移入してるんだ」
「意気地なしだったんだな」
「そうかもしれないな」
ヒヨッ子はさほど不快そうでもなくいった。
「俺は、親が居なかったから」
「みなし児か。それはすごい」
「親戚の家に預けられていたんだ。だから、俺は何事に対しても、小さいときから天真爛漫じゃいられなかった。俺はどのグループにも加わらなかったよ。誰も、眺めてだけ居る奴なんか、居ないんだ。俺だって、みっともないからね。それに、どうしてお前はやらないんだ、と問われたりしたら答えにくいからね。しばらく眺めていて、立ち去るふうを装うんだが、一人一人に感情移入してるもんだから、遠くからこっそり眺めてるんだ」
「ふむ――」
「どうしてあんなに面白かったんだろう。休み時間になるのが待ち遠しくてしようがない。立ち去ったり、近寄ったりしながら、結局全部見ている」
「へんな奴だと、いわれなかったか」
「そう思ってはいただろうな、皆――。俺は自分じゃやらなかったけど、どうすれば勝てるか、そのコツはさとっていた」
「それはどうかな。まちがってはいないにしても、多分、思いこみだがね。実際のところは、手を出してファイトしてみなくちゃわからない」
「――池田という上級生の子が居たんだ。痩せてて実に身体がやわらかい。ただ、体力も|膂力《りよりよく》もないもんだから、ねばりこむんだが、いつも勝ったり負けたりさ。身体を弓なりにそらしてね、得意は|打棄《うつちや》り。白墨で円を描いただけの土俵だから、俵でふんばれるわけじゃなし、打棄りなんて決まり手はあまりないんだ。そいつはいつもそり身になってね、相手と一緒にもつれて、地面に叩きつけられる。それで怪我ひとつしないでゲラゲラ笑ってる」
「好きなんだな、そいつも」
「そうだ、好きなんだろうな。結局、強くはないんだけど――」
二
「それは、お前の財産だな――」と私はいった。
「なにが――?」
「その、池田って子を、好きになったことさ」
「そうだ、俺は彼が好きだったよ。あの|蒟蒻《こんにやく》みたいな身体や、笑顔や、もうなにもかもが好ましいんだ。どうすれば勝てるか、俺はみんな知ってはいたけどね、でも俺は、本当は池田くんみたいになりたかった――」
「お前は存外まっとうな奴なんだな」
「そうだろうか」
「弱い俺を見て、その池田って子を思いだしたのか」
ヒヨッ子は笑った。
「まァ、そうだね」
「畜生奴」
「いや、師匠の負けたところを見ておいてよかったと思ってるよ。これは慰めでいってるんじゃない」
「弱いが、わる好きで、ばくちから手をひけない、そう思ってるか」
「そこまではね、まだわからない」
「俺は手に職といったら、ばくちだけさ。ある期間、楽々とじゃないが、それで生きてきた。だが考えてみると、このところずっと、十年以上もばくちから遠ざかっていたんだ。しかし餓え死はしてない。なんで生きてきたんだ――? ともかく餓え死しなかったのはどうしてだ――?」
私は自分に問いかけるようにいった。
「ツイていたからさ」
「餓え死しないのが、ツキかね」
「ああ。はずかしいが、俺には親が居て、このところ親の家の隅っこで残飯を喰わしてもらって眠っていたよ。俺はただのばくち打ちで、世間が俺を生かしてくれるわけがない。俺が餓え死しなかったのは、運のせいだよ。親、住居、運よくそういうものがあったからだ」
「親も、住居もなかったら、もっとツキを呼びこんでいたかもしれないな」
「だが、とにかく、ばくちを打たずに、つまり何にもしないで生きているというのは、その面ですごくツキを使っているんだ。たまに麻雀をやって、風が吹いてこなくとも、ことさら不運とはいえないな」
「いや、やっぱり不運さ」
「不運だが、不服はいえない」
「他で運を使うと、売り切れになるのかね」
「さァな。それはわからんが、何もかもツクというわけにはいくまい」
「俺は、学校ではずっとツイたぜ」
「ああ、お前は、勝ちしのいできたようだな――」
「山中の親なし児が、自力一本で、いっちゃなんだが、官学の学生だからね」
「そうだな」
「力だけでこうなるもんじゃないぜ。ツキだろう」
「いや、お前の場合は、それなりに力なんだろう」
「いや、ツキさ。学校でもツイたし、麻雀でもツキっぱなしだ。今までのところはね」
「いや、力だよ」
「どういう意味だろう」
「親なしだろう。それで、肉親というものに、あるいは肉親がないということに、ひりひりした感度を持ったろう」
「うん――」
「それで、たとえば、池田という子を好きになる。その好きになりかたが、お前の持っている下敷の条件のせいで、やっぱりひりひりした感度でそうなっているんだ。愛する、愛される、そういう大事なことというものは、恵まれた条件の余光を浴びるというだけでは、やっぱりどこか不備なものになってしまうものでね。それからまたお前のように、恵まれない条件でひりひりしても、観念だけじゃやっぱり曲がってしまうんだ。できるだけ早い折りに実践して、自然体で身につけることなんだな。その池田という子、ばかりでもなかろうが、その子を好きになっておいてよかったんだよ」
「そうかねぇ」
「一事が万事、というほどじゃないが、今までの人格形成期の途上としては、お前は物事に対して、実に微妙な、ほぼ完全に近いバランスを保持して感じとることを自然に身につけたんだ。理屈などでは生涯わからんようなことをね。それが俺のいう“力”さ」
「それも運じゃないのか」
「いや。親なしは、配牌だ。池田という子は、ツモさ。ここまでは、運。吉にも凶にも出る。その原材料にかかわるお前の態度、それが力に育っていくんだ」
「まるで、学者みたいだな」
「冗談いうない。学問がこんなことを教えたら、お前は俺なんかのいうことを聴いちゃいまい」
「そりゃそうだな」
「ただし、お前は自然体でしのぎ勝ってきただけだし、まだ若いから、頭ではたえず勘ちがいをするんだ。思いこみばかりで、認識力がだめだ」
「うん――」
「いいか、これは大事なことだぞ。どうすれば勝てるか、それを知ったなどと二度というなよ。お前が頭でわかってるつもりになってることなどは、おおかたは浅はかなことで、国立大学もへちまもないぞ。お前がこの先、どの道でも大きく育っていくためには、せっかくの感度のいい自然体を、思いこみでそこなわないようにするしかないんだぞ」
三
「眠らなくていいのか――」
「何故――?」
「アルバイトに行くんだろう」
「毎日ほとんど寐てやしない。それに、アルバイトは、ばくちだけにする」
「大言壮語だな」
「朝になったら、マーヤの病院に行って、それから山手線にでも乗って少しうとうとして、夜はまたあの寿司屋に行くよ。今度は俺が自分で打つ」
「ふうん――」
「師匠は――?」
「俺はシンガポールだ」
「シンガポール――?」
「もっとも明日のことじゃないがね」
「何しに、行くの」
「金が貰える、ことにはなってるが」
「いくら――?」
「百か、二百か、五百もあるかな」
「百ってのは――?」
「百万。うまくいけばの話だ」
「誰がくれる」
「保険屋かな。それとも、ギャングかな」
私は、沈む船に乗る件を、手短かに語った。
「うまくいく確率は?」
「ほとんど無い。だいいち、話の表面が甘っちょろすぎる」
「じゃ、まずくいくと――」
「死ぬまであるな」
「何故、行くと定めたの」
「まだはっきり定めたわけじゃないが、今のところ、他にすることがない」
「そうか――」とヒヨッ子はいった。「じゃ、俺も行こう」
「――大学を捨ててか」
「行って、帰ってくるだけだろ」
「死ねば、帰れないぜ」
「そのときはそのとき」
「まァよせ。つまらんよ」
「だって、師匠は行くんだろう。俺も行くよ。つまり、自然体でそう思うんだ」
「マーヤはどうする」
「だから、結婚資金だ」
「そうはいかない。話の表面だけで乗るな」
「なんでもいい。俺が行けば成功するさ」
「まだそんなことをいってる。思いこむなよ」
「思いこみが何故わるい。すくなくとも、思いこみは攻め技だよ。守り腰じゃ勝てやしない」
「はっきりいっとくぞ。お前なんかを連れていくもんか」
「師匠はツモがわるいよ。昨夜だって見てていらいらする。俺が行かなきゃ駄目だよ。それに、何をするにしても、資本がいるだろ。師匠は文なしだ」
「文なしだから行くんだ」
「いいかい、師匠はもう若くないんだ。勝負師として、俺みたいな若いのが必要なんだよ。ほんとはそう思ってるんだろう。それで、誘ってるんだろう。率直にいいなよ。一緒に賭けてみようじゃないか、って。そうすりゃ俺だってこういうぜ。――それじゃァ、ツキの勉強をしに行って、博士論文でも書くかな、って」
私は言葉を切って、なんとなく笑った。
するとヒヨッ子は、墓の陰から顔をこちらに突き出して、くしゃっと顔をゆがめて見せるんだ。
「じゃ、明るくなるまで、少し眠るか」
と私はいった。
「どうやって、眠る」
「上体をこっちの墓石に預けて、足をそっちの墓石に乗せるんだ」
「それで、上にトタン板か」
「ああ。大学教授夫人の夢でも見よう」
「――そりゃいいけれど、朝になったらどうするの」
「俺は、ハピイのところへでも行くよ」
「ハピイって――」
「お前のマーヤみたいなものさ」
「――そこで本格的に寐るんだな」
「寐ない」
「それじゃ、何しに?」
「あいつにやった金を、ひとまず取り戻す」
「金か。金なら俺が持ってる」
「お前は、俺の女じゃない」
「率直にいえよ。年上だからって|恰好《かつこう》つけるなよ。いくらよこせって。――俺が、困ったりすると思うかい」
「お前の金が欲しけりゃ、お前を喰うよ。その気ならわけはない」
「どうかなァ。結局、俺が師匠を喰うんじゃないのか。そうしたくないけどね。ところがこのままいくと、そうなるんだよね」
「まァいい。いうのは勝手だ」
「それで、連絡はどこにすればいい」
「住所不定さ。どこに居るかわかるもんか」
「親の家は――?」
「あそこへは、二度と帰らない」
「そうか、二度と帰らないのか」
「俺は、眼をさましたぞ。ちびちびと肉親を喰っていたってはじまらない」
「でも、俺の方から連絡をいれたいね」
「そんなにしたきゃ、|かる《ヽヽ》源の店に電話をいれろ」
私は|かる《ヽヽ》源の店の所在地と電話を教えた。そうして頭上の夜空に眼をやった。
暗かった空に、いくらか白い光が混じりはじめたようにも思える。
「――おい、ヒヨッ子」
と私はいった。
「俺は、いつか、ツクぞ――」
「そうだろうね――」
「恰好つけてるわけじゃない。ツイて、大勝するかどうかはべつの話だ。だがとにかく、風が吹くときがある。まァ見てろよ。そのときにお前との根本的なちがいを見せてやる――」
四
翌日の昼日中、私は年齢に似わない馬鹿なことをやった。ハピイのところへ行って、前の日にキザなことをいって渡したばかりの十万円を、借り出したのだ。
私はうっすらと冷汗をかきながら、ことさら|仰 々《ぎようぎよう》しい借用書を書いた。
「へんだと思ったわ。突然お金なんかくれて――」
「うん。面目ないが、これはすぐに返すあてがある。今までとはちがうんだ。でなきゃ、いい年齢してこんな真似をするもんか」
「いいのよ。貴方のお金なんだから」
「いや、君の金さ。あくまでそのつもりだよ」
ハピイは例の微笑を見せた。
「一度、姉さんを見舞いに来てね」
「ああ。よろしくいってくれ」
「ツクように、握手」
私は笑いにごまかして、その掌を握らなかった。彼女に触れて、幸運がくるとは思えない。
「それから、君にも、よろしく」
「あたしによろしくって、どういうこと」
「よろしく、さ。とにかく、いいことがあるように」
私はピンク映画の三本立てを見て時間を潰してから、一人で|かる《ヽヽ》源の店に行った。そうして酒を註文する前に、奥の帳場の前に立って、こういった。
「例の件は、受けることにしたよ」
「例の件――?」
「シンガポール――」
「ああ、あれはもう船が出たよ」
「ふうん。――次はいつだい」
「またあるだろうが、あれはやめときな」
「――この前は、すすめたぜ」
「お前に貸金があったからな。この前、返して貰ったから、もう、お前の保険の受けとり手を俺にはしないだろう」
「そりゃそうだ。お前のために働くわけじゃない」
「やめとけ。つまらん話は忘れろ。俺だって古い友人をなくしたくない」
店土間の方で若い男がこっちを見て笑いかけている。おう、といって私もその男の隣りに坐った。安といって、近頃珍しい本寸法のフーテンだ。
「お稼ぎかね」
「ええ、まァ。ごぶさたしてます」
「なんか、うまい話はねえか」
|かる《ヽヽ》源がそばに来ていった。
「しかし、何かする気になったのかね」
「手ならしに、このところ麻雀を二度打ったよ」
「仕事になったか」
「うん、まァ、負けた」
|かる《ヽヽ》源は笑った。
「お前の時代じゃなかろう。よォし、これで面白くなった。お前がくたくたに突っつかれて、どんなふうにコロされるか、それを見る楽しみが増えたってもんだ」
「手ならしだといったろう。とにかく、手ならしにはなったんだ」
「そうだろうよ。いっぺんにコロされやすまい。お前が何かする気になったって、ばくちしかできねえんだし、精一杯がんばるだろうよ。ところが、勝ち目は結局ねえんだ。がんばる奴にかぎって、怪我が深いから面白い」
「俺はコロされないよ。負けたって死なない。十五六の頃からやってるんだ」
「うん。だから惨めな最期をとげるんだ」
「だいいち、俺は最初から身ひとつだ。いつだって、とられる物なんかない」
「知ってるくせに。なくす物は金とかぎらない。身体、心、それだけじゃない、血縁、友人、女、未来、何もかもなくすんだ。だって本当に無一物になるまでやめねえんだからな。そうしてずたずたになった命だけが残るんだ。お前がそうなるまで、他の仕事なんかさせねえぞ。俺の眼の黒いうちは、足を洗わせやしねえ」
「お前はそれが怖くて足を洗ったんだからな。呑み屋の女をたらしこんで亭主になりさがったんだ。それで、お前ができなかったことを見たいんだな」
「俺とか、お前とかってことじゃねえ。誰でもだ。ばくちで末がいい奴は居ねえんだ」
「ところが俺はそうじゃねえ」
「もう一度、お前の時代が来たら、なんでもくれてやる。この店をただくれてやってもいいよ」
「年齢を喰って、反射神経がにぶくなる。そいつァ誰でもだ。ばくちをやらなくたって、呑み屋の亭主だって、不如意な生き方になるだろうよ。誰だっていつか死ぬ。そういう運命から足を洗えるものか」
「ああ、それでせいぜい踊ってみろ」
「やってみるよ。足が洗えた気になって、眠っているのよりはいい」
「ところで、そっちのにィさん――」と|かる《ヽヽ》源がいった。「たしかに今はにィさんの時代だが、お前もこいつをよく見ておくといいぜ。十年や二十年は、あっというまだ」
五
おとなしく酒を呑んでいたフーテン安が、それで遠慮がちに口をはさんだ。
「たしかにね――」と彼はいった。「時代は変ったようですね。昔の遊び人の世界は生きるも死ぬも面白かったんでしょう。今は、阿呆な奴がすくない。それから、むちゃくちゃな奴も居なくなった。一律に、ずるがしこいです。餌がないから共喰いの状態でね。俗にいう遊び人じゃ、遊び人の世界を乗り切れなくなっちゃった」
「そりゃ堅気の方も同じさ」と|かる《ヽヽ》源。
「いわゆる堅気じゃ、競争に負けちまう」
「だからあたしなんかもね、勤勉がモットーですよ。他人の十倍働いて、気を使う。でなきゃドリンク(ノミ屋)だってやっていけない。だもんねぇ、フーテンがこんなじゃ、世の中おかしいよ」
「勤勉か、しかしそりゃ昔からそうだぜ。遊び人がふわついてりゃ、すぐ立ち往生だ」
「そうですか。でもあたしなんかね、土日と祭日は一応ドリンクを受けるでしょ。その客の集金、支払いが月火水くらいあって、これが昼間の仕事。夕方から飛行機で名古屋か大阪へ行って、朝一番で帰ってくる。ほとんど毎日ですよ。飛行機の定期券てのがあったら買いたい心境だな」
「何しに行くの」
「麻雀の客が居るんですよ。東京のケイ太郎(カモ)とはやってもしようがない。これはコロさないで、せいぜいドリンクの客になってもらう。だから、ばくちじゃせっせと地方を廻らなくちゃ」
「紹介しろよ、その名古屋を」
「名古屋、行きますか?」
「そりゃ行くさ。飛行機代なんか安いもんだ」
「いいですよ。見せ金さえあれば」
「そうだ、こいつを連れてってやれ」と|かる《ヽヽ》源もいった。「なに、勝てやしないんだから、タマ
がつきたらおっぽりだせばいいんだ」
「いつでもいいのかい」
「ええ。向こうも客は大歓迎です。正確にいうと、岐阜のキャバレー屋ですがね」
「その人の家か」
「そうですよ。大豪邸に住んでます」
「キャバレー王か」
「まァそうだけど、半分はばくちで建てたんでしょうね」
「勝ってるんだな」
「ポーカーと、麻雀。でもあたしは麻雀しかやりません。それも短期戦でね。せいぜい半チャン三回ぐらい」
「せっかく名古屋まで行ってか」
「ええ。それ以上やるとヤバイんです」
「ヤバイ――?」
「まァね。長くやると向こうが勝つでしょうね」
「強いのか」
「そう。向こうじゃ無敵だろうな。上|顧客《とくい》にしてるのはあたしぐらいのものでしょう」
|かる《ヽヽ》源が笑ったが、私は笑わなかった。
「麻雀牌の中に、予備のパイパンがあるでしょう――」とフーテン安がいった。「彫り屋に持っていって、彫らすんです。四枚あれば四種類、たとえば、、、と寸分ちがわない大きさの牌が余分にできるわけでしょう。そういう牌を、何十ケースも持っているんですよ」
「なァんだ、わかった。|仕事師《ごとし》か」
「しかし、やくざでもなんでもありませんよ。もともとは親ゆずりの土地持ちです」
「なんだってイカサマなら今さらびっくりしないよ」
「まァ、きいてください。四種類、彼が余分に握ってるとしますね。伏せ牌二度振りですから、牌山にべつに細工をするわけじゃないんです。彼がやることは、ときどき、ドラ牌をスリかえるだけです」
「なるほど――」
「自分の前の牌山から、配牌をとるとしますね。彼はドラ牌を開けずに、自分の配牌をとってしまいます。配牌に、たとえばがトイツ|乃至《ないし》アンコであって、しかもも一枚来ているとする。彼が芸をやるのはこんなときです。余分のを一枚手の中に吊って、ドラ牌をあけるときにスリかえてしまう。それはうまいもんですよ。年期が入っていて、さながらそこにもとからが乗っていたように見えるんです」
「べつにびっくりしないよ。そのくらいは駈けだしにだってできる。|万度《ばんたび》、そのスリカエをやるわけか」
「万度じゃないです。四種類しか余分な牌はないし、たとえがアンコでも、が一枚来ていなければ、やりません。でないと、が五枚になって、かりに相手のところへのカンができるかもしれない」
「それはそうだ」
「だから、をスリかえたらば、今度は手牌の中のをひっこめて、本来ドラのところでめくれるはずだった牌を手牌に加えるのです。それで牌の枚数が合うわけだから、なんの証拠も残らない」
「配牌の途中で、上家か下家かが手を伸ばして、ドラをひっくり返してしまえばいい」
「先輩、しっかりしてください。この話は、イカサマ防止がテーマじゃないです」
といってフーテン安は笑った。
六
「わかった。テキはそういうイタズラをする。我々は何もやらない。それが条件ということだな」
「そうです」
「テキのイタズラをやめさせてしまうと、場が立たなくなるわけだ」
「そうですよ。近頃、我々を歓迎してくれるカモは、そんなのしか居ませんよ」
「地の腕は、達者なのかね」
「まァ一応はね。しかし、一発入れば長打が来ますからね。そいつをはずしながら打つわけで、長丁場になると、どこかで|炸裂《さくれつ》してきますからね。それで半チャン三回まで」
「しかし、勝ってすぐ立てるかね」
「あたしは仕事の関係で、徹夜はできないといってあります。いつもそうしてるんです。だからもしうまく行かなくても、半チャン三回で立つんですよ」
「わかった」
「ひとつしくじっても、挽回はできない。それでいいですか」
「明日、行くかね」
「明日は土曜日だな。夜、こっちでちょっと仕事があるんです。日曜の晩にしましょう」
私は日曜日の五時に、羽田で待っていた。シンガポールのかわりに、名古屋だ。どちらも特に|美味《うま》そうには思えないが、こっちは生命までとはいうまい。危険牌を打たなければテンパイは張れない。昔からそうだったはずだ。だとすれば、特に今回が危険というわけじゃない。
フーテン安は、まだ若いくせにいくらか贅肉のついた身体をふうふういわせながら、定刻きっかりに現われた。
「――きびしいなァ、きびしい」
「なにが――?」
「今日のメインレースでね、|発一《ぱついち》喰いました」
「――競馬か」
「本命ウス目で、千八百円。こんなところが一番辛いんですよ」
「たまには客がいい目を見なくちゃな」
「そりゃ以前ならね。客が取ってくれた方がよかったでしょう。長い目で見りゃ結局こっちが勝つんですから。この頃は辛いんだ。こっちの支払いは現金、客の方はツケですからね」
「――うん」
「少しきつい催促をすると、すぐ警察にチックリ(密告)される。ツケが溜まった客はヤバイから、なんとか当てて貰ってツケを減らしてくれりゃいいと思いますよ。それでも駄目な客は、麻雀やってわざと負けたり、道楽息子の機嫌をとってるようなものでね。やっちゃいらんないなァ」
「いやならやめりゃいいんだ。べつに世間で歓迎してるわけじゃない」
「あたしはその味は知らないけど、昔は、やっちゃいけないことってのが世間に漠然とあって、フーテンはその治外法権みたいな場所で生きてたんでしょう。今はもう、やっちゃいけないってことがないからね。誰も彼もなんでもやりますよ」
ドリンク業というものは、賭場の貸元を変形したようなものだから、遊び人にとってもっとも無難な生活形態である。したがって、ほとんどの遊び人が、大なり小なり、この業種に手を出している。自分で看板をあげないまでも、|分《ぶ》で乗ったり、手数料をとったりして、客を紹介している。
安も、多分、大々的に看板をあげているのではないだろう。けれども、昔からの|老舗《しにせ》ドリンク屋が、時代に即応しなくなって、かえって軒並みいけないときく。昔なら、ドリンク屋の破産など考えられなかったが。
「一レースから買いを入れてくるでしょ。途中で当ってプラスになると、そこでピタッとやめちゃうんですよ。あたしは先輩からそうきいてなかったね。客ってものは、取っても取られても、趣味で最後までやると思ってた」
「まだいいんだよ。今に客が皆、ドリンクを副業にするようになる」
「そう、それでこの商売おしまいだね。今だって、会社や病院で、ドリンクの自治組織を造ってるところがありますからね。それにね、今、新しい客を増やせないんだ。新規に入ってくる客は、たいがい他のノミ屋で問題をおこした要注意人物ですからね」
飛行機はもう中空を飛んでいる。なんにしろ、私が現役だった頃は、股旅姿こそしていないが、一軒一軒、街道筋のばくち宿を流していったものだ。
飛行機で毎日毎夜、あちこちを駈けまわるという発想は、ビジネスマンのもので、遊び人の考える筋とはすこしちがう。
「それで思いだしたが、君はこの前の安保の騒ぎのとき、国鉄電車区に潜入してオルグをやったそうだな」
「ええ――」
「あれは、ひょっとすると、ドリンクの客を固く捕まえるためだったかな」
「まァそうですね――」といって彼は笑った。「働き者でしょう。あそこはあたしの持ち場にしたかったですよ。でもね、オルグしてるうちにこっちもアツくなっちゃってね。あの連中とは今も、ドリンクの客なんてものじゃなしに、つきあってます」
「そこが面白いな。俺も考え直さなくちゃいかんかな。俺なんかは、ばくち一筋にこだわって生きてきたから」
「ええ。昔の人は皆、ロマネスクだったみたいですね。今は、堅気もフーテンも境い目がない。東京都に住んでいるか、埼玉県居住かってちがいでしょう。あたしは自分でフーテンの看板だけはあげてますがね」
「君はいくつ――?」
「|申《さる》ですよ」と安はいった。
「俺と、たいしてちがわないのか」
「冗談じゃない。一廻り下の申ですよ」
私はヒヨッ子のことを思いだしていた。奴も、たしか申だ。ヒヨッ子といい、フーテン安といい、新合成品種のようなところがある。私はさしずめ、重たいだけの鉄のようなものか――。
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一
タクシーをおりたところで、私は唸った。
「――この家か、まさかな」
「この家ですよ」
「こりゃすげえ、豪邸だ。こんな家に住んで、なぜ麻雀なんかやる」
「他にすることがないんでしょ」
フーテン安はこともなげにいった。
「いいですか、テキを呼ぶときは、センセイですよ」
「キャバレー屋じゃないのか」
「土地持ちだし、キャバレーもやってるが、趣味で作曲もするんです。東京からきた歌手に自分の店で唄わせる」
それでピアノに似合う顔をなんとなく思い描いたが、卓に向き合ってみると、ジャガ芋面の五十男だった。私よりひと廻りも上に見える。
まずのっけに、キャバレーの親で、しかも奴の山からとりだした。私の配牌にはドラが二枚ある。フーテン安の配牌にはドラなし。私たちは|符牌《とおし》で、奴の山からとったときだけ、お互いの配牌のドラ枚数をたしかめあうことにしていた。
私に二枚なら、奴には最高にあって二枚だ。トイツぐらいでのっけからスリかえるだろうか。
だが、なんでもいい。私は二巡目にをポンした。喰いタン|三九《さんきゆう》のイーシャンテンだ。三巡目、四巡目ツモ切り。
ロン、と安がいった。初あがりカモかな、と笑いながらピンフのみの千点。
次が私の顔で、二回ほど安連チャン。フーテン安は手牌を崩すとき、わざと名残り惜しそうに、
「そうか、失敗したな――」といった。
それは、この調子、という符牒だ。ただし近頃は符牒を濫発すると目立つので、テンパイの通しなど、よほどの時以外はやらない。この相手のために我々が新しくとりきめた配牌時のドラ枚数のサインは、咳の回数、指の関節の握り方、手牌をいじくる枚数など、なんでも数字を表現するものを流動的に使うので、同じ動作がそう重ならない。
私の親の二本場で、客Aがリーチをかけた。こういう仕掛けありの麻雀で、リーチを濫用するようでは、もうそれだけで格下。多分、キャバレーの仕掛けも見破っていないのだろう。フーテン安がうまく喰い散らしてあがる。
安の親の東ラスで、私に早い三色手がはいり、むろんヤミテンで、客Aに放銃させた。
上々のすべり出し、のはずだった。
「駄目だな、手が重い――」とキャバレー。
「うまいこといって、油断しませんよ。センセイは強いからね」と安。
南入りで、キャバレーの親は、おあつらえ向きに客Aがリーチ、五二ツモあがり。
私の親は安がポン、ドラ二丁の三九。
客Aの親で、サイの目がキャバレーの山に出た。ドラ標示牌は。つまりドラはだ。安と私の配牌に一枚ずつある。しかし、点棒の動きが小さいので、相手にドラトイツとして一発成功させてはまずい。
飛行機の中で安がこういった。
「普通、予備牌のパイパンは四枚でしょ。それを細工するとして、スリかえられる牌は四種類。何と何かを見覚える必要もありますね」
「四種類とは限るまい。他の牌だって、形や大きさが似ていれば使える」
「でも、微妙にちがいますよ。むろん負けはじめたら強引にいろんな牌を使う可能性はあるけど、これまではそこまでしないな」
「四種類が何と何かがわかるほど相手にチャンスがあるときは、我々の負けだな」
今夜はまだ一種類もわかっていない。このがそうかどうか。
しかし、キャバレーがリーチをかけてきたので、はスリかえ牌でないと判断する。仕込み手ならヤミで、スラッとあがる。それとも、ツモリハネか倍を狙ってまくってきたのか。
その局は流れた。
大きな手だったが、リーチ後、をツモり捨てていた。
「こんなもんじゃ、あがれないものな」
「そうですね。でツモ倍だから」
ここのルールは裏ドラはない。これもキャバレー屋の都合で定められたものであろう。自分がドラ標示牌をスリかえられるので、他種類のドラはない方がよいのである。
二
これに救われて、第一戦は私の小トップだった。小トップでも、とにかく勝っていればいい。
三回戦だから先行して序盤を大過なく運び、相手の土俵に一歩でも半歩でも押し進んでいる方がかなり有利なのである。出おくれればそれだけ戦法に枠ができる。序盤で破綻があれば、調子をとり戻す時間的余裕がない。まくり追込は長期戦でないとなかなか決まらない。
ところが第二戦がはじまろうとしたとき、客Bが現われた。雲つくばかりの大男で、プロレスか力士あがりの感じだ。
安も初めてらしかったが、当家の店のマネージャーだそうで、立ちしぶる客Aを強引にどけて卓についた。
我々はともかく、これまでどおりの運び方で回を進めるしかない。
東三局ぐらいまでひらひらと二人であがってきたとき、デカブツがいった。
「なんだかコセコセした麻雀だなァ、もうすこしおちついてやらんかい。手を楽しもうよ」
「楽しんでますよ、これでも」と安。
「そっちのお客さん、どうです、東京じゃこんな麻雀ばかりやってるのかい」
「――これが普通じゃ、ないんですか」
「好かんねえ、ポンチーばかりだ。これじゃ二翻しばりにでもせんといかんなァ」
ボスのキャバレーは、貫禄を見せて笑っているのみ。
そういわれたって、なんのその。
我々がペースをゆるめたわけではないのだが、ちょうどこのとき、私は手もツモもわるくて動けず、デカブツがリーチ。続いてキャバレーが追っかけリーチ。
うっかりしていたが、配牌はデカブツの山から取っている。フーテン安は予備牌は四種類というが、|仕事《ごと》に手を染めたキャバレーとすれば、同じメーカーの同じ種類の牌を一度にたくさん買いこんで、形と大きさが同じ予備牌を彫りに廻したものを何十枚持っていて不思議はない。安はいつもうまくしのいでいたから、そこまでの印象を持っていなかったのだろう。
だとすると、マネージャーのデカブツも同じ穴のむじなで、こっちの山のドラ標示牌はスリかえられているおそれがある。
私は眼線を安に当て、それから誘導するようにデカブツの山に移した。こういう場合、ヒヨッ子とちがってフーテン安は麻雀のスレッカラシだから、ツーカーである。
「センセイ、これが当りですか」
彼はデカブツの現物で、キャバレーにとおってないを切った。
「フフフ、強いな――」
デカブツの捨牌が、
(リーチ)
キャバレーの捨牌は、
(リーチ)
申し合わせたようにリーチ二人の共通安全牌がない。我々が迎えた最初のピンチだ。唯一の安全牌は私の手にない。
ドラは。
このドラは一応、デカブツに固まっていると見よう。キャバレーが字牌の前の第一打にを捨てているのもこれを見越してと思える。
すると、キャバレーが勝負手なら、手役だ。特に三色にブチ当ててはいけない。三色ならば下メンツ(一二三)の可能性はうすい。多分、安もこの考え方で、を捨ててきたのであろう。
私は、打。
デカブツ、。安、強打。
安から、テンパイのサインが出ている。これも符牒で、だという。狙い打ちはやさしいが、デカブツに当る場合がある。私としてはどうもならない。
一巡して、安は危険牌を抱きこんだらしく、テンパイ解消のサイン。
そうして、十巡目、デカブツがをツモりあがった。
ついで、キャバレーの親のときも、デカブツの山から配牌をとる。デカブツはおちつきはらって、大きな指でドラ標示牌をひっくりかえす。
大きな、無骨な指だが、大きいだけに牌はかくしやすい。
ドラはだった。
安がすかさずとペンチャンをおとしてくる。そうして彼の風のを一鳴きした。
「リーチ――」
と私がいった。
安は、私をじっとにらんだ。何故、という眼だ。相手にドラが入っているとして、防禦できないリーチを何故するのか。まだ満貫一発ツモられただけだ。満貫といっても我々二人の被害は六千点なのだ。
けれども私は気持を荒くしていた。
危険が買えなくて、勝てるものか。
僅差でもデカブツが先行している以上、彼に打たせる必要がある。私がリーチすれば、彼は追っかけリーチしてくるだろう。もしテンパイの構えでリーチしてこないなら、私の安全牌で当りになっている場合だ。
私は一応、安にテンパイを通しておいた。私を怖がるな。狙い打ちの必要はない。ただし、私を怖がってデカブツに当てるな。
デカブツが、を強打してきた。
が、リーチは来ない。ヤミテンと見る。
私の手牌はこうだった。
これで負けるわけがない。デカブツが強くくるのを幸い、奴から放銃させて出鼻をくじかなければならない。
私のツモ牌、、、初牌の。
いずれも危ない牌だ。特にドラのを持ってきたときは観念した。が、当らなかった。そうして次に、デカブツが小首を傾げながら、を切った。
三
ラストでキャバレーに一発を造られたが、結局、デカブツの放銃がたたって、今度も私の辛勝だった。
「さァ、最終回ですね――」と安が、腕時計を見ながらいった。
「なんだ、もう終りかね、まだ十二時前だ」
「いや、明朝一番の飛行機で東京に戻らなきゃ、私たちも仕事がありますからね」
「一番なら、まだたっぷり時間はある」
「徹夜はしない主義ですよ」と安はおだやかにいった。「こんなもので身体をこわしたってしようがない。いつだってまた飛んできますよ」
デカブツは口惜しそうにいった。
「ふうん、あんたたちはまるで、名古屋までチビリ糞をしに来たみたいだな」
しかし第三戦は、あきらかにキャバレーが戦法を変えてきたようだった。彼は私たちと調子を合わせて、よく鳴き、動いた。自分の山からとった手牌ではなかったが、三つほど喰い散らしてドラ雀頭の五八(親)をあがる。三色手を喰い仕掛けにして二千点であがる。を一鳴きする。
けれども、私たちも早かった。安が二巡目、五巡目、と早いヤミテンで二度あがり、ほぼ|拮抗《きつこう》させた。
あっというまに南入りだった。
私の配牌にとがトイツで入り、が一枚あった。
四巡目にがもう一枚来た。
トイツが増えるようならチートイツ、と思っているうちに、がアンコになった。そうしてポン。私は迷わずを切った。
その二丁切りがうまい効果になって、キャバレーからのであがった。あがり点はたったの二六だった。
「失敗してるんじゃないの――」
と安が笑う。むろん、その調子、という意味である。現在まで我々はリードしているのだから、このペースでいくのが至当で、長打を狙って場を荒す必要はないのである。
ラス前のキャバレーの親で、自分の山にサイが出、あきらかにドラ標示牌がすりかえられて、がドラになった。
それなのに、三巡目でキャバレーはを一枚捨ててきた。早いが、ドラ入りチートイツか、と私は見ていた。
デカブツが、不意にをカンした。
新ドラは。
四巡目にデカブツが打でリーチ。ほとんど同時に私が、ロン、を叫び、安もいきおいよく手牌を倒した。二人とも、クズ手のあがりだった。そうして私も安も、自分の手など放置して、上体を倒し、キャバレーの手をのぞきこんだ。
テキは手牌をさっと崩したが、私はすばやく確認した。は一枚カン切りでアンコ。もアンコ――。
これが怖い。カンがあり、手牌にアンコがあれば、標示牌がまたすりかわって、二種類のドラが固まるのである。
待ち牌まではよく見えなかったが、多分、デカブツのリーチは当て馬で、待ちはではなかったか。
私たちはこの時点でなお緊張をとかず、ラストも千点で蹴った。
「――ああ、疲れた」
と安がいった。
私はもう少し打ち続けられる自信はあったが、安と一緒にさっと立ちあがった。
「さっきのあの手ね、あれはどうして――?」
とキャバレーが私に訊く。
「何ですか」
「二丁切りのあの手。大三元を切ってきたんだろう」
「あの手は小三元にしかならんです」
「それでもさ、ワンズをおとして、普通はホンイチに伸ばす」
「だから、センセイがを打ってくれた。ワンズを切ってりゃ出ませんね」
「まァね」
「メンバーがきついもの。半端な長打はムリでしょう」
「なるほど――」
といってキャバレーは、小切手を書いた。
「面白かった。またおいで――」
嫌われるかと思ったが、常勝している者の余裕であろう。それに、長くやれば私たちにも勝てると信じている。
外に出てから、安がいった。
「俺もひとつ、質問がありますよ」
「どうぞ――」
「二戦目のリーチ、ありゃ何ですか」
「あまり二人揃ってリーチしないんじゃ、おかしいだろ。打合せてきたみたいだ」
「向うじゃどうせコンビと思ってますよ。それに、安全圏に入ってからなら、いつもリーチもかけてるんです。ただ、あの場合はね」
「そこが、俺と君とのちがいさ」
「逆に、向うに打ちこんだら――」
「打ちこまない。現に打ち勝ったじゃないか」
「そんなこと、はずみですよ」
「地力の差だよ」
「いや、はずみ。先輩ははずみなんかで打つ人じゃないでしょう。逆にいえば、ああいうとこに、年が出るんだな」
「何故――」
「ハッタリかましたんでしょう。本筋はあんなことしませんよ。あれやるんなら、次からコンビはことわります」
あれ、この野郎、自分が主で、私をおヒキに使ってるつもりでいやがる、と思った。
四
私はしばらくフーテン安とつるんで、頻繁に飛行機旅行をした。名古屋ばかりじゃない。大阪、札幌、博多――。
世間の表面から隠れてはいるけれど、どこにだって相手が居ないわけじゃない。適当に揉んでいれば、なんとなく日がすぎていく。
ただし、安が開拓したところばかりだから、当然、安が主役で、私は脇役だ。最初、私は甘く考えて、あがりは五分五分と思っていたが、実際は七分三分だった。安が、七だ。
それでいいという考え方もある。年をとったら若い者をたてて、適当にいくらかにしていけばよろしい。
が、私だって、世間の表街道でいえば、まだこれから働きざかりに入ろうという年齢なのだ。三分貰っておちついているわけにはいかない。もし安とずっと組んでいくなら、どこかでこっちのペースに逆転させなければならない。
「ね、|兄《あに》さん、広島へ、一度行ってもらいたいですが――」
「いいよ、どこだって同じだ」
「向うの知り合いがね、一度遊びに来てくれってんですよ」
「ばくち打ちか」
「まァね。|賭場《どば》の人間です。実直な野郎でね、組でもわりにいい顔になってるっていいますよ。つきあいだから、奴の働いている賭場で遊んでやりましょう」
「行ってやれば、よろこぶね」
「ええ、それで麻雀のいい客をね、紹介してもらえればね」
しかし、飛行機に乗ってから、安はこういった。
「――ただね、ちょっと、ヤバイかもしれないです」
「ヤバイ、――賭場の種目はなんだい」
「サイホンでしょう」
「大丈夫、負けやしないよ」
「いや、そうじゃないんだ。これを見てください。主要都市のばくちの検挙件数ですがね――」
彼はポケットからノートを取りだした。
「広島は、もう一年近くも、一件もあがってないんですよ。先月、ガサを喰ってるのが横浜と名古屋、ここらは安全ですがね」
「こんなもの、どうやって調べるの」
「レーダーですよ」と彼は笑った。「所轄署へばくちの客がひっぱられてくると、ピッピーと鳴るんだ」
「嘘をつけ」
「麻雀とちがって、もともとヤバイ筋ですからね。東京だって、ノートを見ると、新宿、赤坂、六本木、アングラルーレットがどこかの地区で月一はあがってますよ。今月はどの地区の番か、うっすら見当はつきます」
「まァ、それをヤバがってたんじゃ、この道で生きていかれないなァ」
「あんまり来い来いいうもだから、うっかり、行く日を知らしちゃったんです」
「うーん、そいつはちょっとな」
「寒いでしょ。俺のミスだな」
「突然、行くという感じがよかったな」
賭場は、弱い稼業だから、ときどき警察に検挙される必要があるのである。そうでないと警察とうまくやっていけない。警察と摩擦を生じると、もっとも検挙してほしくないときに検挙されるという事態がおこりかねない。最近は暴力団狩りが警察の大きなテーマになっているから、この種のなァなァは減っているかもしれないが、一方また、地区によっては、あまりに取締りを強化しすぎると町の勢いを削いでしまうことにもなって、町の実権者たちがよろこばない。
だから、検挙される賭場には、本当にレギュラーの|上客《だんべい》は居らず、あまり場を潤さない客やゲスト組で構成されているのが普通である。
「ひと晩ずらそうか。広島なら、他にも遊び方はあるだろうぜ」
「いや、明日は東京で競馬を受けなくちゃならねえから」
「じゃァ宵のうちに行って、さっとひきあげよう。顔を出して遊べば義理はたつんだろうから」
安と一緒に行った賭場はなかなか本寸法で、三十畳ぐらいの長細い部屋。胴座の左右に八人ほど若い合力(配当係)が並んでいる。サイホンビキは、壺の中のサイの目を当てる遊びで、客は手ホンビキと同じように一から六までの六枚のフダを手に持ち、普通、そのうちの四点を定式どおり伏せておく。その中にサイの目と同数があれば当りである。並べた四枚のうち、上の二枚の中に当りがあれば十割の配当が貰える。下の二枚は、ほぼ保証の意味で、元金元返しに近い。サイの目が手に持った二枚の中にあれば、張り金をとられてしまう。
技術中心の手ホンビキとちがって、偶然のサイの目を当てるのだからツキが物をいう。素人でもツケば勝てるところが受けて、西の賭場ではほとんどサイホンが主体となっている。
どういうわけか、サイホンの胴は女性が多い。|経営者《ハウス》に所属しているが、自分の胴番に|分《ぶ》で乗っていて、勝てば収入になる。この点も手ホンビキの胴師と同じで、なかなか勝負強い女性が多い。
五
私たちが入っていくと、若い合力が畳をぽんぽんと叩いて、自分の前に坐れと合図する。色白の、女にモテそうな若者である。
「おおきに。遠いところをすまなんだな」
「なァに、飛行機だから近いよ。ベンちゃんもたまには東京に出といでよ」
「行きたい思うてんのやけどな、こっち、まだ一年ちょっとやろ、なんやかやでな」
「同期生ですよ――」と安がいう。
「なんの同期生?」
「ははは、ばくちの――」
私のことは、東京の紙屋の若旦那だ、と安は紹介した。
「おおきに。顔がようなります。広島の銭、ばっちりひろうてってください」
安は、一万円札の|札束《ズク》を出して、張り流している。遊び人はこういう場合、見栄坊である。私も見栄を張りたいが、三分の取り分ではたいして恰好がつけられない。
中央の女胴師が壺をあけ、前におかれた六枚のうち一枚を最右翼に並べかえる。それが今回の目で、すると左右の合力が、膝前にある木札を同じく並べかえて客に示す。
サイは二個の合計数で、合計数七は一に戻る。八は二である。
やや強目の張りを二度続けてとられて、安は、
「ふらふらだよ――」と笑った。「まァ一服しよう」
私の方は、わりにあいて(当って)いる。なにしろこの遊びは、サイの目に理屈はないので、あくまでもツキが頼りである。したがって、当りはじめたら、張りコマを増やしていくのだ。その逆に、はずれてきたら亀の子みたいに手足をひっこめる。
婆さんの女胴師が洗って(胴を交代すること)、今度は若い女胴師が登場した。
「広島は面白いだろ」
「酒もうまいし、ええ女も居るな、ま、地獄や。なかなか抜けられん」
「うらやましいぜ、こってり地獄だな」
安は、両腕を駈足のように振って、
「|これもん《ヽヽヽヽ》のベンちゃんが居坐ってるんだから」
「わしも、銭残したらまた歩こう思うてんのやが、歩けんのや」
「残してるよ、この人は。今にきっと優勝だよ。広島カープと同じさ」
「残らへんたら」
ベンちゃんは大仰に手を振った。
「あこのな、女胴師、居るやろ。若いがきついぜえ。みんな取られてしまう。わしもふらふらよ」
「ばくちかい」
「ああ。麻雀でござれ、ポーカーでござれ。あかん。あれに手ェ出したら、死ぬよ」
安はその女胴師を眺めている。
私はそれよりも、一座の客を値ぶみしていた。広島弁の客が多い。それはいいが、大張りが居ないで雑魚ばかりというのが気になる。まだ宵の口ではあるが。
若い女胴師になってから、目立って胴前に金が集まりだした。サイホンは、どうしても目の人気がかたよるのである。いっせいに客が勝つときと負けるときがある。
偶然が基調になっていて、あまり複雑な推理ができないのであるから、ちょっと慣れれば客の考えはほぼ似てきて、六つの目が平均に出るとは考えない。事実、目の出方には濃淡があり、たとえば、一の目が出盛るときというものがある。出なくなると奇妙に出ない。
だから胴師の前の木札の右四枚、つまり比較的近くに出た目の中から勝負目を探していく。しばらく出ないからもうそろそろ左側の新目だろうと追って張っていく客はほとんど居ない。左の目は一度出るまでおおむね捨てられていく。そのかわり一度出てからは再度の勝負目になることが多い。
したがって、木札の左翼の方から目がよく出るときが、目が荒れるといって胴の勝ちどき。逆に右翼の方からの目が続いて、客がとりやすいのを、目が馴染むという。
若い女胴師は、三度続けて左翼から目を出した。では新目の連続かと思えば、すかさず旧目に戻る。客がおずおずと旧目に張り、目が馴染んだと見て、そのうちどっと大張りになると、また新目が出る。
彼女は絶好調で客をほとんど総なめにし、胴前をたっぷり増やして洗った。私も安も、張る手をとめてただ眺めていた。
「ベンちやん――」と安がいった。「彼女、今夜はここにずっと居るの」
「いや、今日は早番やし、もうこれであがりや思うで」
「彼女に麻雀を挑戦したいな。番をかけてくれないかしら」
「ええよ。ほな、ちょっと話してくるわ」
安は、一石二鳥という顔をしている。どっちみち、我々にはサイホンは、長時間やるほどの熱はないのである。
六
半チャン二回という約束で、ドライブインに部屋をとった。
「ドライブインなら、|手《ガ》入|れ《サ》は喰わんでしょう」
「そりゃそうだが、来るかな」
「来ますとも。東京のカモですよ。我々は」
「ベンちゃんは、お前をカモとは思ってないだろう」
「|兄《あに》さんは紙屋の若旦那だもの」
「半チャン二回で大丈夫かな。出足がわるければ戻せないぜ」
「いいですよ。顔つなぎだ。負けたって」
「へええ、珍しいな、相手が女だと眼がトロンとしてるぜ」
「好みのタイプなんですよ、勘弁してください」
ベンちゃんに連れられて来た女は、化粧をおとしているせいか、賭場で見た感じより若かった。
「花枝、いいます。よろしゅう」
美人というほどではないが、さすがに眼が大きくて鋭く動く。
「勝負事、いつ頃おぼえたの」
「両親がこの世界の人ですさかい、小さい頃から」
「広島――?」
「いえ、大阪」
「じゃァ、ベンちゃんと一緒か」
「いえ、彼は南でしょ、うちとこは北」
「面白いだろう、勝ってると」
「ええ。でも若いうちだけとちがいますか、勝てるのは」
彼女は、伏せ牌を洗牌して、一枚もひっくりかえさなかった。そうして、しなやかによく|反《そ》る指で、すらりと音もたてずに積んだ。私は、彼女にあまり色気は感じなかったが、その手つきには眼をうばわれた。牌を積む手つきを、美しいとか、見事だとか思ったのは、長年の間に二人しかない。二人とも男で、一人は、ゲンロク積みの名手で常という中年、もう一人は戦後わずかの間、私の|助手《おヒキ》だったシューシャインボーイのシュウ坊。
しかし、彼女は、牌山に気を持つ感じはなかった。
最初の半チャンの|劈頭《へきとう》で、彼女がリーチ。我々はいきなり、パンチを喰った。
(リーチ)
一発で、安がを捨てた。
「アラ、トタやから、ハネるかしら」
がドラ。
安も親で、をトイツで抱き、素直にまとまりそうな手だったという。それにしてもイーシャンテンで、完全安全牌を一牌持ちながらの放銃で、ハネさせてしまったのは凡失というほかはない。
が、は私も打っていたかもしれない。
捨牌の気配はチートイツの色もあり、は安全という保証はどこにもなかった。ただ彼女はストレートで来ているという頭があり、むしろ字牌や上メンツの方がいやだった。そうして八枚の捨牌のうち、、この三枚が手出し、あとはみんなツモ切り。以後の三巡をツモ切りで廻している。
この点も迷彩になっていた。彼女はをひこうと思って廻したのだろうが、普通、この捨牌でカンなら、よろこんで即リーチにいくところである。
初巡の切りも、下メンツの三色手としては効果を持っている。
「いやァ、弱い、弱い――」
安は力なく笑った。
「一発でこんなもの持ってくるかねえ」
「駄目よ、女だからなめてはるんとちがう」
だが、その夜の勝負がそこでついてしまったも同然だった。花枝は、そのあと、親で連続満貫をツモった。
女の麻雀だな、よう燃えさかるわい、と私は思っていた。本気かどうかは知らないが、負けてもいい、と安がいってるのだし、この回は追いつけなくても、次の半チャンで一勝すれば私のマイナスは戻せる。
ところが二回戦も花枝のヒキが抜群で、男三人、手をつくるヒマがなかった。
リーチ一発、タンピン三色ツモ。
ホンイチチートイツツモ。
ドラ三丁、三アンコツモ。
なんでもツモってしまう。すこし出来すぎの感じがしないでもないが、たとえ仕掛けをされていたとしても、こう手が出ないのでは、バイニンとして面白なくてアヤもつけられない。
「今夜はツイてるわ、バカツキね」
「ツキいうのはこんなもんやないで。今夜はまだ並の方や」
「これが並だと、上の方はどうなるの」
「今頃、三人ともハコテンやろな。ほんまやで」
「あんまりおだてないで、ベンちゃん。ほんまに強いんと錯覚するねん」
「強いよ。だがな花枝、男がアホや思うたらまちがいやで。この安さんいうのんはな、負けてるときが怖い兄さんや」
「どんなふうに怖いの」
「どうやって喰おうか、考えてる」
「アラ、怖い」
「そやろ、安さん」
安は笑っていたが、連続トップで勝負が終ると、花枝の前に両手を突いて頭をさげた。
「花枝ちゃん、実は、ちょっとお願いがあるんだ」
「――負け銭、借りとちがう。そんなのかまへん。この次広島へ来たとき払うて頂戴」
「いや、負け銭は払うよ。本当は噂をきいてきたんだ。週一でいいから東京へ来ておくれ。勝負しにさ。週一なら、こっち、休みとれるやろ」
「一日くらい、身体はあいてるけど」
「飛行機で送り迎えするよ。俺と契約してくれ」
安は私など無視して、花枝をスターあつかいしている。
[#改ページ]
一
私は頭にきた。こんな若造の|助手《おヒキ》に使われて、|収入《みいり》があるならともかく、女にカモられてニコニコしてはいられない。しかも負け散らした安は、花枝を東京にひっぱって相棒にしようという。
翌朝、上機嫌で徳山の飛行場に駈けつけようという野郎に、私はいった。
「おい、安、俺はもう一日、広島で遊んでいくぜ」
「そうですか――」
此奴はフーテンのくせに、言葉遣いだけは|丁寧《ていねい》だ。
「それじゃ、昨夜の割前をください。あとになるとまた忘れてわかんなくなっちゃうからね」
「割前ってなんだ」
「負けた分――」
「お前が負けたんじゃないか」
「どっちの責任なんていわないで分担する。いつもそうしてたでしょ」
「いや、お前は新規の相棒をみつけてわざ負けしたんだろ。俺は知らん」
「ああいわなしようがないでしょ。あんな女、貯金したようなもんだってば」
「とにかく俺はいやだ。それに、コンビも解消したい。俺は自由に一人で打つよ」
「じゃァ、割前」
「いやだ」
「――まァいいですよ。割前はとりますがね。俺はとにかく東京へ帰ります」
「それじゃ、さよなら」
時計を見ると、八時半だ。そうときまればもうひと眠りしたい。
いくらか腹がへっている。私は、コーヒーを呑みに、ホテルの一階のパーラーに行った。
巡業で来ているらしいロカビリーの歌手が朝飯を喰っていて、女の子たちがそのまわりを取り巻くようにテーブルについている。
その一団から離れて隅の卓に坐って、おや、と私は呟いた。
手近の卓に居る女連れの客が、よく見るとヒヨッ子なのである。
「あれ――」
と向うも立ちあがって、こっちの卓にきた。
「どうしたの、こんなところで――」
「俺の方がききたいね」
「俺は広島から山の方に入ったところが|故郷《くに》だからね。結婚式をあげた帰りですよ」
「すると、あれは、マーヤか」
「マーヤと、マーヤのお袋さんですよ」
「なるほど――」
私は、朝食をとっている二人の女に眼をやった。私などが一度も触ったこともないような知的な若い女と、やや小柄ながら似た顔立ちのモダンな母親だった。
そうしてヒヨッ子も、新調らしい合服にネクタイ。ああ、此奴は、遊び以外の生活も持っていてうらやましいな、と思う。
「マーヤは、怪我は直ったんだな」
「ええ、もう元気一杯。とにかく大変ですよ。郊外に小さな家を借りてね。今度はマーヤのお袋さんも一緒に住むから、アパートで四畳半ひと間ってわけにもいかないしね。あの新宿の寿司屋で、目いっぱい稼がして貰ったから」
「ほう、稼げたのか」
「まァ全勝ね。それでなきゃどうにもならなかった」
「片眼はどうした」
「俺のこと、名人、ていいますよ」
私は笑った。
「いいかげんなこというな」
「ほんとだよ。来てごらんよ。でもね、マーヤやお袋さんにそういうわけにはいかない。俺は月給とりになるよ」
「それもよかろう。卒業はいつだったかね」
「いや、学校はやめる」
「もうちょっとのところなんだろう」
「いいんだ。未練はないよ」
「卒業するために入ったんじゃないのか」
「こうなったら、マーヤの方が大事さ」
「マーヤが、それで喜ぶかね」
「国立大学ってのは、卒業して大エリートをめざす連中と、余裕|綽々《しやくしやく》、学問を深めていこうとする連中と、二通り居るんだ。俺は|伝手《コネ》がないから大エリートにはなれない。余裕もないしな。ただ、自分の力を試すために入ってみただけさ。民間会社にでも就職して、じわじわと、点棒を増やすよ」
「マーヤのためにか」
私は、反射的に、ハピイのことを思い浮かべた。そうだ、あいつから金をふんだくったままになってる――。
「ところで、師匠は――?」
「野暮用で来たんだが、面白くねえから、今夜は広島のうまい酒でも呑もうかと思ってる」
「それじゃ、そうしよう」
「そうするっていうと」
「だから、広島で遊ぶよ」
「マーヤたちは――」
「東京へ帰す。しゃァねえだろう」
「しゃァねえって――」
「部屋でひと眠りしとってくださいよ。俺はマーヤたちを汽車に乗せてくるから」
二
広島は、歓楽の色の濃い都市になっていた。どこもかしこもネオンが重層的に光っていて、そういうところを歩いていると、原爆の炸裂したところとは思えない。
もっともこの町は、昔から遊び人気質の濃いところで、私が現役の頃も、室内ギャンブルの、西の拠点のひとつだった。
「今夜は、打たないの」
「そこらの雀荘で、ごみばくちをやっても、それこそ、しゃァねえだろ」
「ごみだってなんだって、勝ちゃァやらないよりいい」
私たちは紙屋町で呑み、金座街で呑んだ。
「俺は少し考え方を変えたよ。お前を見習ってな」
「どういうことだい」
「麻雀打ちの足を洗おうかと思ってる」
「――で、何をやるの」
「何をやってもいい。いずれ考える」
「へええ。それこそ、せっかくの芸が、惜しいだろ」
「どうも、麻雀というやつは、すっかり貧相になっちまったな。誰も彼も牌を握ることを覚えちまって、特殊な芸人の持ち芸じゃなくなっちゃった。お前みたいな奴がたくさん出て来て、ツキで打つんだと|吐《ぬ》かしやがって、それこそ学校へ行ってる片手間にやる。そうなっちゃもう終りだ」
「麻雀はますます盛んだぜ」
「だが、|玄人《くろうと》芸はもう終りさ」
「ああ、それはそうだね。麻雀はもう悪事じゃなくなったものね。皆がやる健全なスポーツみたいなもので、|素人《しろうと》でもツキで勝てる」
「俺はこいつを覚えて、なんとかして、これで生きていこうと思ってたよ。べつに麻雀が人一倍好きだったわけじゃねえ。だがこいつをえらんだ以上、生涯これでしのいでみせる、それが玄人ってもんだ。そう思ってた。それで意地になって他のことは何もしなかった。だがもうそういう時代じゃねえな。そいつはわからねえじゃなかったんだが、俺は、これ一筋で生きられねえくらいなら、これで死んでもいいというくらいに思ってたんだ」
「ばくちで死んじゃァ、ゼロだろ」
「学校を中途でやめるのは、どうだ」
「なるほど」
「たしかに、ばくちでコロされるのは、このくらいつまらんことはない。だが誰かがコロされる。ばくちは|生死《いきしに》の世界だからな。生きなけりゃァ話にならんが、|半端《はんぱ》に生きて、ばくち打ちともいえない恰好でばくちを打つくらいなら、コロされた方がまだましさ。それが玄人ってもんだ」
「そういうもんかね」
「そう思ってたんだ」
「半端なばくちってのは、俺のような奴のことだね」
「ところがな、考えてみりゃァ、人間てのは職業に殉じて生きてるわけじゃねえ。そんなのはただの思いこみで、なんだって生きていけりゃァいいんだ。へんなこだわりを、俺は捨てたよ」
私は名古屋のキャバレー屋の話をした。ただドラ牌の操作をするという単純な仕かけだけで麻雀を打っている。それで平均してリツになる。
それから、昨夜の花枝。
「この女は、引きが強い。ただそれだけだ。もちろん今はそれだけで勝てるんだからいい。だが、いつかはくたびれてツキも落ちるだろう。そうなったとき、いや、そうなる前にあの女は勝負事から身をひいてるね。勝てる間はやる。勝てなくなったら転業。その気持が見え見えだ」
「それがどうして悪い」
「悪くない。だが、みじめだ」
「その女がかい」
「いや、その女と戦ってる俺がだ。俺は一生をひきずってやっていて、その女に勝てない」
「ぐちだな」
「ああ。その女に勝つ方法はただひとつだよ。彼女と同じく、麻雀を一生の道具と考えないで、無責任になることだ。その晩の自分の力だけで打つこと」
「無責任というのは、何に対してなの」
「これで生きていこうと思うことにさ」
「俺の考えをいっていいか」
「いいとも」
「俺は簡単だよ。ばくち打ちは、ただ勝つことさ。負けるようになったら、やることはただひとつ、ばくちをやめること」
「それでどうする」
「死ぬなり、他のことをするなり、すればいい」
「それが、貧相だな」
「貧相ってどういうこと」
「百円しかない奴が、百円のばくちをするのは貧相じゃない。一万円持ってる奴が、百円のばくちをするのは貧相だ」
「俺はまた、だらだら負けていくのが貧相なのかと思った」
「お前は学生だからな、そう考えるだろう。俺はばくち打ちだから、本職だからな、もっと|大事《おおごと》に考えるよ」
「ところで、その女と打ちたいね」
「素人同士でか」
「なんでもいい。俺は玄人芸なんてそう大きく思わないから。――彼女のツキと、俺のツキがどうしのぎあうか、打ってみたい。それこそ大勝負だと思うよ」
三
私たちは、名前もよく知らぬ女二人を同伴して、モーテルに行った。流れ流れた末に場末のスナックに行って、そこの客と、結局そういうことになってしまったのだった。
ヒヨッ子は、新妻をおっぽりだしてどういう気持かわからぬが、ほとんどマーヤにこだわっていないようだ。
私の女は二十七八、ハイミスのOL風で、スナックでは一人前に映画論などしゃべっていたが、部屋に入るとき、ほとんど躊躇しなかった。
私は、ズボンを脱ぐ自分の姿を、チラリと鏡の中に見た。
「風呂に入るかい、お嬢さん」
女はだまって、シャワーだけ使ってきた。
「あたし、どういう女か、わかる」
「わからんね――」
「――じゃァ、どんなつもりでここへ来たか、わかる」
「わからんさ。俺は|旅人《たびにん》だ、わかりたいとも思わん」
「――あたし、はじめてよ」
「モーテルがか、それとも、男がか」
私は、軽い会話のつもりだった。
「――男がよ」
酔眼を見開いて眺めると、女がひしゃげた醜い表情になっていたので、まんざら口先きのセリフではないのかもしれないと思った。
私は、缶ビールを女にさしだしながらいった。
「何故、その気になった」
「いいかげんに、捨てたいから」
「――邪魔かね」
「――邪魔ね」
「――それもよかろう」
「――そう思うでしょ」
考えてみると、私もひさしぶりだった。実にひさしぶりのことで、この前、いつ、どんな女とやったか、はっきり思いだせない。男は吐きださなければ居られないというが、生家で|逼塞《ひつそく》している間、ほとんど夢精もしなかった。
この女が、もし本当に処女なら、私はこれまで処女というものを知らない。
どういうふうにあつかうべきか、いささか厄介なものをつかまされたような気がする。
そうして、酒のいきおいでここまで来たが、処女であろうとなかろうと、なんとなく大儀になってきた。
ちらと、ハピイのことが頭の隅をかすめる。
女は自分からベッドに横たわって、眼をつぶった。
私はゆっくりと、女の下着を脱がしにかかる。
「――優しくしてね」
女は身体を石のように固くしていた。
私は不意に、激情にかられた。
「何故、俺がお前さんに、優しくなくちゃいけねえんだ――」
女が眼を開いて、何かいった。
ハピイに、何ひとつ優しいこともしないで、俺は、こんなところで何をしてるんだ、こんな女に優しくするくらいなら、ハピイにどうしてそれをしない、俺はいつもやることをまちがえてる、俺はごみだ、うす汚れた鼠だ、こんな女とちちくりあうのがお似合の、とんま野郎だ――。
私は声や行為に現わしたつもりはなかったが、女は続けざまに何か叫び、私を押しのけて手早く衣服を身につけると、扉の外へ飛びだしていった。
私はモーテルの軒下の暗がりで、ヒヨッ子が終えて出てくるのを待った。
煙草を、つづけざまに吸った。
ハピイのことを、どうしてあんなに烈しく思いおこしたのかわからない。
若い頃は、こんなふうに我が身を押さえられないような激情にかられることなど覚えがなかった。それを自慢にしているわけではさらさらないが、私はいつも冷静で、自分の感情をうまく制御できていると思っていた。
ばくち場では、コントロールが最大の武器なのだ。
東の空がうっすら白む頃になって、ヒヨッ子たちが出てきた。
奴は、私一人が所在なさそうに立っているのを見て、意外そうに、
「彼女は――?」
「逃げてったよ」
「逃げられたのか」
「アラ、あの人、どうしたんだろう」
ヒヨッ子の女が、私をじろじろ見ながらいった。
私は、二人分の金を渡し、女をなだめてるヒヨッ子を眺めていた。
その女を帰し、私たちのタクシーに乗ってから、私はいった。
「お前もいい玉だな。マーヤとは、結婚式の帰りだったんだろう」
「俺は、マーヤを愛してるよ」
「マーヤは本業、今のは趣味か」
「そうだね。俺はどうせ一途になんてできやしない。師匠のいうド素人の愛で結構だよ」
「ふうむ――」
「マーヤの知らないところでたっぷり楽しむからいい」
「――おい、今、何時だ」
「――午前四時半」
「サイホンをやりにいこうか」
「なんだい、それ――」
「そこに、昨夜の女が居るかもしれない」
「おっ、それ一丁いきます。連れてってください」
「ことわっとくが、俺はもうコンビ打ちはしないぞ。お前とも、場に行ったら敵だ」
「きまってるじゃないですか。でも、俺はその女には負けませんよ」
四
あの女、花枝の姿は賭場にはなかった。
例のベンちゃんが、
「ああ、あの子ね、今夜はもうあがりましてん――」
「また、勝ってかい」
「へえ、あげな女、居ませんわ」
「ぜひ、麻雀したい、いうのが居るんだが、あの子の電話番号、わかるかな」
「そら、わかりますけどな。――もう、寐とるやろ」
「いや、なにも今が今というわけじゃないんだ。また今度のときでもね、こっちへ来たら電話してみる」
ベンちゃんは、ちょっと渋った。
「ここじゃ、まずいな――」
「ああ、わかった――」
合力の若い衆は、客とメモの交換はあまりしたくないのである。現金をツケる役目だけに、多くツケて、あとで客と喫茶店で、などという手があり、痛くない腹をボスに探られたくない。
「すんまへん、わしにいうてくれれば、今度行かせますけん」
ベンちゃんの言葉は、大阪と広島がちゃんぽんになっている。
「あんたの女か――」
彼は額に手をやって笑った。
ヒヨッ子はだまって、私を見習いながら、チラチラと張っている。
胴に坐っているのはこの前も居たおばさんだが、適当に目が荒れている感じで、胴前がだいぶふくらんでいる。
二三回、続けてとられて、私は手をとめた。花枝が居ないとわかれば、このまま帰ったっていいのである。
「安夫は、ご一緒じゃにゃあですか」
「あれはもう東京、とんぼ帰りさ」
「あいつ、喰えとるんやろか」
「まァいそがしいね。いそがしがってる点もあるが、当節、なかなかやっとるよ」
4の目が出て、ヒヨッ子がはじめて大の目があいた。
そうして、彼は六枚の手札のうち、張った四枚をそのまま、チョキチョキとシャッフルして、|盆茣蓙《ぼんござ》の上においた。
胴の目は、また4。
ヒヨッ子の張った四枚の中にあるが、一番下のツノの位置にあると、当っても張りコマの二割をとられる。
そっとめくると、ツノは6だった。
「よォし、お銭になったぞ」
次のトマリは3、中が1。
「大の目だね。こう来なくちゃ」
ヒヨッ子は張りコマを倍にして、張り札の方は手をつけない。そのまま置きっ放した。
「――師匠」
と私の膝を叩く。
「乗らなくていいんですか」
私はちょっと笑って、無視した。
が、胴の目は、また4。二番根ッ子という奴だ。
「――師匠、師匠!」
ヒヨッ子がはしゃぐ。若者の体熱みたいなものが、私の方にも伝わってくる。
ツケの十割を、ヒヨッ子はそのまま張り足した。そうして、フダの方は置きっ放し。
「おい、図に乗るなよ――」
「いや、押すよ、師匠。競艇のときになんといった。取れる銭をおいてくるなっていったろう」
珍しいことに、胴の目は、まだ4だった。胴のおばさんが、チラと此方を見た。
ヒヨッ子の張りは、全体の中で見ればたかが知れている。三番根ッ子で、まわりの客が落ちているから、胴は受かっているが、フダに手をつけない見え見えのところに三番ストレートにとられるのは面白くなかろう。
いくら見え見えでも、手ホンビキとちがって、サイホンビキは、ポーンと二個のサイを壺の中にいれて振るまったくの偶然だから、胴の才覚が利かないのだ。
彼はツケの十割を、今度もひっこめない。
私は笑ってヒヨッ子の張りコマに手を出し、その半分をとって、彼の膝前にほうった。
「余計なことしないでくれよ」
ヒヨッ子はすぐに、その銭を張り戻す。
また、4――。
「こりゃァ面白いや。俺向きだね。ほんとのツキ勝負でしょ。何故、こいつを早く教えてくれなかったの」
ベンちゃんが笑いながらいった。
「花枝と打ちたいってのは、この人だっか」
「ああ、無鉄砲同士だ」
「もう二時間前なら、居てましたんや。残念やね」
私は自分のフダをチョキチョキと切って、張る四枚を眺めた。4が入ってない。それで結局、|見《ケン》――。
胴の目は、連続五番の、また4だ。
「ありがとうござんす――」
とヒヨッ子は張りコマをかき寄せ、ベンちゃんに祝儀をほうった。
「それじゃ師匠、そろそろホテルに戻りましょうか――」
五
近ごろは、ばくちといえば賭けゴルフのことになりつつあって、気の利いた遊び人は、週末は街に居ない。
|かる《ヽヽ》源もほとんど客が居ない。
「おい、不景気だな――」と|かる《ヽヽ》源。
「そうかい――」
「お前のことだよ。年齢を喰った相撲取りにそういうのが居る。やめて喰えそうなことが何かないかな――」
「ところが俺は、もうみつけたよ」
「ほう――」と|かる《ヽヽ》源はかなりの興味を示した。「どんなことだ」
「報告するほどのことじゃねえや」
|かる《ヽヽ》源は、背中を向けて自分の酒を注ぎながらいう。
「こっちにも、求人はひとつ、あるがな」
「シンガポールか」
「いや、新物だ」
「どうせろくな口じゃあるまい」
「銭にはなるよ」
私は乗らぬ風情を示しながら、彼の言葉を待っていた。
「ただ、物を預かってくれるだけでいいんだ。すると、請け出しに来る男が金をおいていく。お前みたいに親の家がある奴は恰好だぜ。荷が少し大きいんだ」
「荷はなんだね」
「いろいろさ。子供とか、女とか、婆さんとか、大の男の場合もあるだろう。要するに生き物だ」
けっ、と私はいった。
「俺はばくち打ちだぞ。ばくちに関係のある職を探してこい」
フーテン安が現われた。
「ほうら、来やがった――」
と私は、ヒヨッ子を振り返った。
「俺を訪ねて、お嬢さんが訪ねてこなかったですか、マスタ――」と安。
「お嬢さんじゃねえや」と私はいった。
「ありゃァ、ベンちゃんの女だぞ」
「知ってますよ。だから彼女の噂をきいてたんじゃないですか」
「今夜、来るんだな」
「ええ、まァね――」
「すまねえが、一人、場に乗っけてやってくんねえかな。そっちの客の居るところにわるいんだが」
「――だけどね、先輩。この前、いい挨拶をきいちゃったからね。コンビ解消だって」
「いや、コンビでなくていい。遠慮なく取ってくれ。この男なんだがな。学生だがね」
「メンバーは多分、足りてるんですがね」
「悪いな。この前の割前、払うよ」
ヒヨッ子も立ちあがって、
「なんだったら、俺も、権利金をお払いします。連れてってください。その女の人と打ちたいです」
「先輩は、どうするんですか」
「邪魔なら、俺はオリてもいいよ。ヒヨッ子を頼む」
「ご迷惑はかけませんよ。権利金はいくらおいたらいいですか」
「権利金はいりませんがね――」
とフーテン安はいった。
「今夜のは、ちょっとね、特別興行なんですよ。お金は賭けないんです」
「賭けない――」
「そのかわり、参加者には、一律に十万円の車代が出ます」
「誰が出すんだ」
「妙な人が居て、スポンサーです。彼自身も打つんですがね」
「ギャングかい」
「いや、一種のマニアでしょうね。金持ですよ。その人の邸の葡萄酒倉で、食通家のパーティをやるくらいだから。ただし賭けてないからといっていい加減な麻雀を打ったら怒りだして、途中で叩き出されますよ」
「大丈夫です。ぼくはお金じゃありません――」とヒヨッ子がいう。「とにかく、勝てばいいんです」
「メンバーは、俺がまかされてるんですがね――」と安は抜け目のない眼つきで私をチラと見た。
「先輩の口ききもあることだし、いいですよ。そのかわり、車代の十万円は俺が貰います」
「でも、ぼくはいいけど、賭けないで、皆、ちゃんと打てるのかなァ」
「その金持は真剣に打ちますね。金持だから、賭けたってしようがないんでしょう。金じゃ緊張は買えないんですよ」
「なんだったら、こっち側だけでこっそりレートを定めといて、あとで精算したっていいじゃないか」と私。
「しかし、おそいなァ――」
と安が時計を見る。
「広島のお嬢さんかい」
「今夜の目玉商品なんだがなァ」
まもなく、女から電話がかかってきた。
場所がわからなくて、近くの国電の駅前に立っているらしい。
「よし、それじゃ俺の車に乗ってください。途中でひろっていきます」
ヒヨッ子がフーテン安の車に乗り、続いて私も乗ろうとした。
「あれ、先輩も――?」
「俺は、いけねえのか」
「だって、さっき、オリるっていったけどね。まァいいや、先輩の分の十万円も、俺が貰いますよ」
六
塀がこいは大きいが、金持といってもお城みたいな家に住んでるわけじゃない。みたところは、洋風の平凡な二階家に見える。
が、家の中にあがりこんでいくと、地下室が広くて、ビリヤード、ポーカー室、映写室、完全防音の部屋がずらっと並んでいる。
麻雀室はセットの他に、一方の隅が少し高くなっていて、見物席が設けられている。そこが珍しい。
主人は三十五六の白面の青年で、土地持ちの二代目であるとか。
「とりあえず、四人。もう一人二人、あとから来るでしょうが」
と安。この若者はフーテンといっても、組合のオルグから遊休資本家まで、行動範囲が広い。
「いや、ごくろうさまでした。ときどき、好き同士で集まって、まったく賭けない麻雀を打ってるのですがね。今回はちょっと特別な企画がありまして、というのは、近く賭博ツアーと名づけて、メンバーを組んで外地に出かけるのです。それで、今夜のこの中から私が評価した人物を、ギャンブルコンサルタント兼パートナーとして一行にご招待したい。その条件に当てはまる人物をということで、安さんに設営して貰いました」
「招待というと、総額を持っていただけるわけですか――」と私。
「もちろんです。外国にはベストフレンドみたいな形で、一定の人にいつも影のごとく寄り添っている職業がありますが、ちょっとあれに似ていますね。もちろん、お受けになるならないはご自由です」
「それはこの中から一人ですか」
「一人とは限りませんが、多分、一人ということになるでしょう」
「それじゃ、まず、社長おやりになりますか――」と安。
若社長がうなずいたので、私がまず観戦を申し出た。私以外はいずれも、卓につきたくてうずうずしているのがわかる。
「あ、それから安さんからおききでしょうが、念の為。ゲーム中は私語一切禁止。もちろんルール外の行為は即座にこの家を退去してもらいます。もうひとつ、これはいささか越権とは思いますが、私の判断で、凡プレーが三度重なった方にも、やめていただくことにしています」
扉があいて、男が一人入ってきた。こういう場所で顔見知りとの再会には慣れているけれども、それでも、ほう、と思う。
新宿に居た、片眼である。
「おや――」とヒヨッ子も声をあげた。
「へええ、名人、ここに居るとはな」
片眼は笑いながら一座を見渡した。
「なるほど、世代交代か、皆若いね」
私は、ヒヨッ子がいつか自分でチラといっていたが、名人と呼ばれていることにすくなからず驚いた。
もっとも、本当に名人の域に達している相手を、名人とはなかなか呼ばない。特に片眼のようなヴェテランは、|賞《ほ》め口は一種の|蔑称《べつしよう》で、甘く見られていると思えばよい。
片眼は見物席に来て、私の隣りに坐った。
「初回かね」
「ああ――」
「じゃァ、単勝を当てよう」
「この半チャンのか」
「そうだよ。俺は、社長の単」
片眼の手が私の背中に廻っていて、人差指が三回、上から下に動いた。多分、三万のウマということだろう。
それはいいが、社長の単、というのは、世辞が半分なのか、どうか。
「俺は、|見《ケン》だ、わからん」
片眼はニヤッと笑って、それ以上何もいわない。
私たちの見物席は、花枝の背中を見る位置だった。だから彼女の表情は見えないが、打牌の音は男たちに負けずに快く響く。
五巡目で、
「――当りです」
と花枝。ヤミだが、三暗刻のみ。
放銃はヒヨッ子。奇妙な場で、が序盤に二丁、出切っていた。
ヒヨッ子が、いくらか上気した表情だ。
私は、片眼との外ウマに、ヒヨッ子、といって乗らなかったことを喜んだ。
ヒヨッ子にとって辻占がわるい。
もっともマークしていた花枝にまずぶつけたということで、彼はちょっと揺れている。若い彼には、マイナス条件である。
はたして、ヒヨッ子の打牌の音が少しきつくなった。
私は眼をつぶって、音だけきいていた。
リーチ――! と花枝がいう。
すぐ追っかけて、リーチ、と社長。
今度もあっけなく、ヒヨッ子がをつかんで、社長に振った。
ヒヨッ子が、何度もうなずいて、手牌を崩そうとする。
「失礼――」と社長がいった。「その前に、初牌のが出たね」
「ええ」とヒヨッ子は手牌のを三つ倒していった。「これはカン切りなんですが」
「なるほど。テンパイですね」
ヒヨッ子は、口惜しそうに笑った。
「アハハ、それはもちろんです――」
手牌を見せたあとで、彼は、
「一言、私語をしていいですか」
「どうぞ――」
「失敗しました。をツモる前に、実はあがっていたんです」
ヒヨッ子は自分の捨牌の、の二丁切りを手で示した。
「三暗刻をぶちこんだから、もうひとつ高い手でとってやろうと思って――」
彼はあきらかに、花枝にいっているのだ。
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一
半チャン三回が終っていた。
最初が、若社長、花枝、フーテン安、ヒヨッ子、という顔合せ。
二回目が、若社長、花枝、ヒヨッ子、それに片眼。
三回目が、若社長、花枝、片眼、そうしてフーテン安の復帰。
どの顔合せも、なかなか好ゲームだった。広島|姐《ねえ》ちゃんの花枝が二勝して一ラス。あとの一勝は若社長で、フーテン安が三着、四着と振るわず、落ち目のブルースと嘆いていたが、安は当夜の顔ぶれの|肝煎《きもい》り格、改めて見せ場を作る必要もないはずで、適当に打っていたのかもしれない。
私は、ずっと加わらずに眺めていた。四人のうしろをぐるぐる廻って見ていたわけではなく、見物席に腰をおろして、一角にじっとしていただけだが、まァなんとなく、データをたくわえていた。
特に、若社長、花枝、ヒヨッ子、この三人に関しては、データが物をいいそうな気がした。何故ならば、まだ本当に、ばくち麻雀になっていない点があって、そこが長所でもあり短所でもあると思えたからだ。
安と片眼は、前の三人にくらべて多少すれているはずで、私に見られていることを意識しているだろう。この二人は|膂力《りよりよく》では花枝やヒヨッ子におよばないかもしれないが、はるかに装うことを知っている。私が眺めたしのぎ振りを|鵜呑《うの》みにすることは禁物である。
具体的にいって、私が他人の麻雀を眺める場合に、いくつかのポイントがある。
まず、その人の麻雀に対する概念。その概念にどれくらい縛られているか。
初歩的なことをいえば、これはピンフ手だとか、一色だとか、が二枚あるからポンして安くいこうだとか、これらの概念に単純に染まっていれば手のうちは見えやすい。
もう少し一人前の打ち手を見る場合、たとえば、、このをどんなとき、どこではずすかを見る。
なら、をどこではずすか。
、この形ならどこでをはずすか。他の未完成部分がどの程度の形のときにはずすか。
ベンチャンは、どの段階ではずしていくか、これを見る。
もちろん、他者の具合、場との対応、全体の手恰好、これらを眺めて条件に組みいれたうえでの話である。
、この形を、他の未完成部分がどんな程度のとき、整理していくか。から打つか、から打つか。
片眼は、同じ形が二度三度来て、から打ち出す場合、から打ち出す場合、まちまちであった。あきらかに私の眼を意識している。私でなくとも、見学者が一人でも居る場合、そこまで気を配っている。
もし、いつもという順序で切りおろしていくのなら、という形の場合とは、切り出しが逆になる。
見学者が居ても居なくても切り出しが同じというのは、ひとつには概念にしばられているからである。もうひとつは、なりふりかまわず、その場の勝ち負け、手造りに心を奪われているからである。
笑っていれば上機嫌、しかめ面をしていれば不機嫌、そういうふうに思ってもいい人間というのは町の中ではすくなくて、皆もう少し装っているけれども。麻雀をやらせると、わりにこういうタイプは多い。
もちろん、を相手二者が捨てていて、後刻、安全になる率が多いなどという場との関係をたえず考慮しなければならないが。
、とある形のとき、をまず切りだすか。を捨てるときのタイミングはどのへんか。
をまず切りだしていく人なら、、、とあって、という切り順にはなるが、という順序にはならない。もしこの人が、の次にが手から出てくるような場合、トイツ手か、下メンツ(一二三のメンツ)にこだわる手役志向の手なのである。
大ざっぱにいって、メンツ選択の手順を見るのである。
たとえば、、、という牌が手の中で浮いていて、メンツの卵がまだ足りないとする。どの牌から打ちだしていくか。これもまたメンツ選択の一種であるが、いつもから切りだす人か、あるいは意図的にやから切り出していく人かどうか――。
ヒキの強さや、大物手の入り具合や、ただ素朴に手の成り立ちを見ているのではないのである。
今までのところでは、花枝やヒヨッ子は、私の眼の前で平素とちがう切り順になっていない。若社長も大差がない。
、、、と浮いているとき、字牌をどこで切っていくか。
初牌のやが浮いていると、どこでどんな順序でおとしていくか。
人が見ているときとそうでないときと、そうちがわないのは、概念にしばられているせいもあるが、身体の魅力さえあれば、人前を裸で歩いて生きていけると思っている娘ッ子のような打ち手なのである。
二
「貴方は、おやりにならんのですか」
と若社長が私にいった。
「いや、そんなこともありませんが、私は、賭けてないゲームは苦手なのです」
若社長はやや顔をくもらした。
「そうですか。しかし、麻雀は、賭けてなくても面白いですよ。これは賭けの道具ではないと私は思いますね」
「そうですか」
「ええ。さらにいえば、お金のやりとりならば、他のことでいくらでもできるでしょう。お金でなしに、全力を傾けるというところが私は好きだな」
「私はべつに、お金を賭けなくてもいいのです。たとえお金を賭けるにしても、はした金では賭けていないと同じことですから」
「そうすると、大金を賭けるスリルが、貴方のお望みですか」
「スリルとはいいませんが、私にとって必須条件ですね」
「それは私の趣味ではないな」
「趣味というと、趣味で大金を賭けるのですか。それじゃ、はした金と同じだな。だから私は、金でなくてもいっこうにかまわないのです。大事なものを賭けるなら」
「金以外の物を賭けるとなると、何があります」
「なんでも結構。名誉でも、人間でも、自分の身体でも賭けにくいものならなんでもいいのですが」
若社長は、露骨にいやな顔をした。
「残念ながら、私はそういうものを賭けようとは思いませんね。それでは貴方にはおつきあいねがいませんな」
「ええ、そんな気が、私もしますよ」
と私も、充分に年齢相応の礼儀を払いながらいった。
「ですが、この部屋の麻雀は、ゲームとしても贋物ですな」
若社長は自分を押さえるように、少しの間黙っていた。
「お帰りなさい。しかし、その理由をはっきりいってください。なぜ贋物ですか」
「何も賭けていないからです」
「私は賭けていますよ。自分の全力を。私はいつもそうしていますし、皆さんも、私の見るところ、そうしてくださっている」
「若社長はそう思いこんでいるのです。現に、他の人たちは、皆が皆、全力で打ってはいませんよ」
「皆さん、そうですか。これがいいかげんな麻雀なのですか」
誰も発言しなかった。
「若社長は、ゲームというものを、よくご存じないのです」
「それは、どういう意味ですか」
「さァ皆で真剣に打ちましょう、そういって、たとえその気になったとしても、本当に真剣になることはむずかしい。物事は観念ではありませんからね。身を粉にするものが具体的に必要です。オリンピックでもその程度の名誉がかかっていますよ。高校野球またしかり。エース級には彼自身の未来が、他の選手にとっては名誉が、眼の前にブラさがっています」
「この部屋にだって名誉がありますよ」
「ゲームを左右するほどの名誉ではありませんね。私のいっているのは、ゲームを左右するほどの賭けです」
「ゲームを左右するほどの賭け――」
「失礼ですが、若社長はそういうゲームをおやりになったことがない。ですから、ただの観念で真剣に打ってると思いこんでいるだけなのです。一度ためしに大金を賭けてやってみてください。外国にカジノ旅行にいらっしゃるところを見ると、賭博は家憲に反するというほどでもないらしいから」
「しかしね、たとえば、ここに居られる若いお嬢さん、学生さん、この人たちの大金と、私の大金とは同一に計れないでしょう。私がレートをきめれば、皆さんを苦しめることになる。私は皆さんに過剰な痛手をおわしたくない」
「そうお思いなら、資産に応じて、それぞれが大金と思える額を賭けたらいいでしょう。貴方が負ければ一千万、学生が負けたら百万、十対一でも、百対一でもいい。若社長は賭けが目的ではないのでしょう」
「私は真剣な麻雀が望みです。それだけだ」
「だから、そうするべきです。金には限らないが、金が一番簡単な痛手なんですよ」
「納得のいく理由であれば」――と若社長はいった。「そうしてもよろしいが――」
三
「ではご説明します。よろしいですか。昔から、鉄火場では、馬鹿げた大金が賭けられてきました。誰も、金がくさるほどあって遊んでいるのではありません。高利貸しに借りたり、女房子を抵当にしたり、四苦八苦して大金を都合してくるのです。彼等は他に、命とひきかえにできるような名誉を持っていませんでしたから」
「何故、そうしなければならないんですか」
「そこで、はじめて本当のゲームが成立するからです。初心者はのぞいて、その種目に通じてしまうと、それ以外にはゲームはできないのです」
「だから、何故です」
「たとえば、煙草銭では、一投一打が無責任になるのです。ひとつの打牌が無責任になれば、お互いに相手を確かめられないのです。を捨てるか、を捨てるか、まァどっちにしても煙草銭の問題だ、相手はそう考えているかもしれない。そうして捨てられたは、全力を傾注したではない。極端にいえば、掌の中でカラカラと混ぜて、ひとつポトンと落したのと同じですよ。こういう基準では本当のいいゲームはできません」
若社長は沈黙してきいていた。
「鉄火場では、何の種目でも、一投一打に命まがいのものを張るのです。だから、いい加減なことはできない。皆、全身で考えた結果なのです。そうして、ここのところが肝心なのですが、だから、お互いに、相手を推理することができるのです。ちがう生活をし、他人にはわからない個性を持っている同士が、そこではじめて、真剣という同じ場を持って、会話することができるのです。煙草銭では、個別的な思考や、個別的な条件が混ざりすぎてしまって、早い話が、昨夜下痢したから、今日は無考えで目茶苦茶にやっちゃった、なんていうことがでてくるのです。無考えほど推理しにくいものはありませんからね。ばくちといわず、ゲームは、自分の分にすぎる物がかかっていなければ、皆が同一条件にならないのです。大金は、皆が会話するための橋がかりなのです」
「――なるほど」
と若社長はいった。
「一応はわかりましたが――」
「いや、まだおわかりになってない。先程、若社長は自分は真剣に打っているといわれましたが、本当にセオリーに忠実に打っておられましたか。本当のセオリーとは相手に対応するものです。相手が真剣に打っているかどうかも確かめないで、真剣のおつもりになるのは、真剣という概念に浸っているだけなのですよ」
「他の皆さんは――」
「他の皆は、適当に真剣にやっているだけですよ。私は、ひょっとすると一番真剣だったかもしれません。賭けてないときいて、しばらく相手を眺める気になったのです。相手がどのくらいに真剣に打ち、どのくらい適当に流して、あるいは装って打っているのか。それを見ないうちはちゃんとした対応ができないからですよ。大金がかかっていれば、最初から参加していたでしょう。確かめなくても、相手の力量に応じて信用しあい、対応しあうことができるからです。ゲームはそのうえでしか成立しない。今、捨てられたは、今捨てられなければならないぎりぎり結着のでなければならないのです。そこで彼我の手を認識しあい、またそれを裏切っていくことができるのです。実人生の上ではそんなことはたくさんあります。お互いの生活がかかっていますから。しかしばくちは、その条件を、人為的に造られなければいいかげんなものになりがちなんです。特に麻雀のように偶然の要素の多い種目はね。いいかげんなことをする時間ほどもったいないことはないでしょう」
「他の皆さんは――」と若社長はくりかえした。「この方の提案に賛成なさいますか」
一同は、やっぱり黙っていた。
「賛成です――」と、ヒヨッ子がややあっていった。
「では、規約を破って、とりあえず今回だけ、試しに賭けてみましょう。貴方も残って参加してください」
「ええ、喜んで――。私は、誓いますが、負けた場合身を売っても、いわれた金額は、お払いします」
「身を売ってもとは申しませんが――」
「いや、駄目です。ばくちに関する限り、暗黒街のやり方は、一種の知恵なのです。そうでなければ、最初からやらないのが最上です」
「ははあ、貴方がゴッドファーザーみたいになりましたね。では私は――」
と若社長はいった。
「皆さんの十倍、負けたらツケましょう。レートを定めてください」
「十倍となると、若社長は狙われますよ。ただし、そんな余裕があればの話ですが」
「結構ですよ。負かせるものなら私を負かしてください」
「では、我々も誓いましょう。千点一万円、我々は負けに関して、ばくちを打つ者の名誉に賭けて、卑怯な真似をしないことを」
私はまっ先に、片眼を見た。彼はひとつだけの眼で、|傲然《ごうぜん》と正面を見ていた。
フーテン安は、無表情だった。彼は、いつもの奥行きで、とにかく表情を現わすまいとしていた。
花枝は、ニッと笑ってみせた。私は最後にヒヨッ子を見た。彼は、チラと弱い色を見せてうつむいたが、言葉だけは威勢がよく、やりましょう、といった。
「ああ、やっと――」と私はいった。「ばくちらしいばくちが打てます。もうこんなことは不可能かと思っていましたが」
「では私は一回、眺めましょう」
三回連続出場の若社長と花枝がおりようとした。
「待てよ、そっちの二人は一緒に入っていいかな。いつかもツルんでいたが――」
と片眼。
「お望みなら、ぼくはもう一回|見《ケン》します。若社長どうぞ――」とヒヨッ子。
「そうですね。我々は組んでないが、皆さんの納得のいくまで、同時に入らなくてかまいませんよ」
私は心中、チラッと舌を出していた。
いずれにしろ、私のこの提案は、私にとって不利ではない。
四回目は、若社長、片眼、フーテン安、私の四名。
起案の若社長が、いきおいよくサイコロを振った――。
四
若社長の振ったサイコロのひとつが河を飛びだして卓の端でようやく止まった。彼はあきらかに、肩に力が入りすぎている感じ。
仕掛人の私は内心で微笑していた。
千点一万円――、私の提案のこのレートを皆が呑んだが、若社長をのぞいて、負けた場合、払いおおせる者が(たとえその気があったとしても)この一団の中に居るとは思えない。皆、自分が負けるとは思っていないだけだ。そうして、結局負けてしまった者はなんだかんだといって決算しないだろう。
まァそれでいいのである。もともとなんにも賭けてない麻雀をしようということだったのだから。
勝負が終ったとき、場合によってはこういってもいい。
「――ほら、レートを定めたおかげで面白い麻雀が打てたでしょう。それじゃ、このレートは|洒落《しやれ》ということにして、最初の当家の規則どおり、賭けてなかったということにしましょう」
けれども、途中の段階では、負けたってどうせ払わないのだから負けてもいいということにはならない。誰だって、負けて恥をかきたくない。
その気持が、微妙にしのぎに影響する。特に、前半に展開のうえで恵まれなかった者は、気持がそこにとらわれがちになる。心理的な重荷を背負って正確な判断をしていくのはかなりむずかしい作業である。
私はもはや若くはない。各人がのびのびとノーハンデでたたかったら、その地力において一番劣るのは私だったかもしれない。だから私は彼等にハンデを課したのだ。
読者諸氏もおぼえておいて損はなかろう。自由で無原則な条件で戦えば、必ずしもどちらが勝つかわからない。特に麻雀のような偶然の要素の強いゲームは、多少の地力の差は無に等しい。だから、私が|滔々《とうとう》と若社長に述べた理由とは裏腹に、専門業者はできるだけ相手の気持の自由を束縛するような条件をこしらえるのである。ばくちにおけるハンデは、精神を束縛する形でしかつけられない。
(――よおし、ますます束縛を強化してやるぞ)
私はリーチをかけた。テンパイ即リーチで、ペン待ちだった。
なかなかツモらなかったけれど、相手三人から危険牌が一枚も出てこなかった。
流局して、三人ノーテンだったとき、若社長がホーッと太い吐息をついた。
「どうもね、疲れる」
「そうでしょう。ばくちってのはお互いに疲れてどろどろになるものですよ。戦争ごっこですから。もっとも、負ける気になっちまえば簡単なんですがね」
「そうだ、負けてもええんなら、こんな楽なもんはないさ」
と片眼もいった。
次の局、私がまたリーチした。今度は型どおりの手が入っていた。メンタンピン、高目ので三色。
片眼もフーテン安も、強打はしてこないがスッスッと変らぬペースで打ってくる。若社長のみ、ときおり手がとまる。
「失礼、どうも手づまりになってね」
若社長の打牌は現物がほとんどである。彼は場読みに踏みきれずに、現物だけに頼って守っているので、それでは打つ手が窮しがちになる。そうして、先刻まではこんな打ち方ではなかった。
今度は私は素知らぬ顔で眺めていた。
私はそのをひきあがった。
次の局、フーテン安が三巡目でを一鳴きした。
(ポン)
序盤で、、、がバラ打ちされている。早仕かけとなると、か、彼の風のがアンコで、手の内三暗刻が目標の手か。
私は早目に、初牌を次々と捨てて見た。もう一つ鳴かせてしまえば、三九か五二の手とわかって、かえって楽なのである。(この家のルールで、ドラ牌は一切つけていない)
安は鳴かなかった。六巡目で、片眼がリーチを宣してくる。そのとたん、バシッ、と安がをツモりあげた。
(ポン)
手を開いたとき、安はチラリと私を見た。
(――先輩を、楽にするよ)
一瞬の気配だが、そういう眼である。
まだ東場だが、一応、私の先行を盛りたてて、片眼のチャンスを崩した。それでひとつ恩を売った形にしておいて、自分が沈んだときの保険にする腹であろう。むろん三暗刻目標だったろうが、この状況で、をツモった一瞬に、安はそういう計算をしたのだ。
私は、フーテン安のそういう視線を、見て見ぬ振りをした。
五
私は一勝して、快いペースで回を進めていた。若社長と片眼に代って、若い男女が加わっている。
花枝とヒヨッ子が初参加なので、大金のレートに変更されたしこりがまだ場に残っており、私にとって打ちやすい。
安と私が交互にあがって東場を廻す。前の半チャンが小場廻しだったせいもあって、今回は皆に相当の手が入っている。
私は、もう大物手は要らなかった。安くていいから柔軟な手が欲しい。そうして小上りのペースに持ちこんで、相手の大物手を流したい。
そういう処理は実際は意外にむずかしいのである。此方が安手で、相手が大物で、五分に突っ張らなければならぬ。ひとつまちがえば致命傷だ。私は、昔の自分に戻ったような気分になっていた。
どの回も、大物手に伸びそうな手材料になっていて、ヒヨッ子たちと一緒にガメりたい気にそそられる。昔、放っておけば高得点になってしまうのを、技をためてむりやり早廻しをし、トップ取りに専念した。あの頃の自分が蘇ったようだ。
ヒヨッ子はノー|和了《ホウラ》で、唇をかみしめたまま。
「手がまとまらんか」
「――うーむ、ひとつ、おくれてるね」
「いつだってそうだよ。負けるときは、間髪の差なんだ」
ヒヨッ子は苦い顔でまた押し黙った。
南二局で、フーテン安からヤミの三九をとった。
けれどもその次の親で、足止めのつもりで私がリーチした後、花枝が珍しくを強打してきた。
「――おや」と私はいった。
「ええ――」と花枝も笑った。「強打しないと、あたし、駄目なんです。ようやくそれを思いだしたの」
私は危険を直感した。瞬時に、気持が、往年の私から現在の自分に戻っていた。トップ目の親でリーチなんて調子に乗りすぎている。自分は打点力でこの連中と争うわけにはいかんのだ。まともに打ち合うな。かわしの麻雀に徹しろ。
いや、それよりも、この回をまとめたら一応退いて見物席に戻るべきだ。
フーテン安が終盤をまたガードしてくれて安くあがってくれ、私は連勝したが、席を離れた。
「社長どうぞ。ここは場所がいいですよ」
腕ぐみしたまま、じっと見入っていた若社長が、逡巡しながら席についた。
私とフーテン安が抜けて、私の見物席の目前には、若社長とヒヨッ子、二人の不調者が坐っていた。
東場の若社長の親のときだ。
私はひっそりとその配牌を眺めていた。
打ち出しは、。
ところが、その向こうの片眼が、ばたッ、と手をあけたのだ。
「これは――」と片眼がぽつりといった。「役満あつかいだろ」
花枝もヒヨッ子もその手を眺めたまま無言だったが、ヒヨッ子は、自分の配牌にぽつりと浮いているを手に持って、卓に叩きつけるようにした。
|見《ケン》のフーテン安が、ややあっていう。
「――やだねえ。こんな役満があるから、ばくちは怖いよ。くわばらくわばらだ」
若社長は、わずかに私の方に首をねじまげながらいった。
「やっぱり、からでしたかな」
「――しようがないでしょう」
「しようがないって、ここがわからないんだ。どうすればいいのかな」
「いつもなら、打ちですか」
「さァ――。とにかく最初に手が行ったんです。それが、いろんなことを考えてにしてしまった。エラーですかね」
「エラーじゃない。社長の麻雀なら、エラーはめったにありませんよ。ですが、勝敗はそれでもつくんです」
「ええ――」
「それが麻雀というものなんですね」
六
私は内心で、若社長はやっぱりエラーをしていると思っていた。
若社長は、前回の一戦を私のうしろでじっくり観戦していた。私は、自分で打っていたせいもあるが、ヒヤリと危険を感じ、そのヒヤリとしたものは片眼に対してではなく花枝に対してであったが、とにかく、退こうと決意した。
若社長は、じっくりと、どこを眺めていたのか。
打ち手と等しい触角は持てないにしても、それぞれの風向き、手牌の勢いなどを察知する角度で眺めていたら、むくっと頭を持ちあげてきた花枝の気配をつかまえたであろう。そうして、連勝はしたが、けっして圧勝でなかった私の手の勢いも、計算に入れただろう。
私なら、大切な試合で、この回、参加したかどうか。たとえすすめられてもこの場所には坐らない。
若社長は、あるいはそのへんをうっすら感じていて、私の言葉を拒みきれなかったのかもしれない。なにしろ彼は物持ちで、当夜の主人役であったから、いい恰好をしがちになり、他の連中のようになりふりかまわずというわけにいかない。
そこが敗因になる。同時に、エラーでもある。私たちはいずれも、俗にいうエラーはめったにしないのだ。だから、直接、牌と関係のない卓外の心理部分にエラーの芽が内包されているのだ。
もうひとつ、私は、難をまぬかれた花枝とヒヨッ子のこのあとの動きを注目していた。特に、を手牌に浮かしていながら失点にむすびつかなかったヒヨッ子の動向を。
片眼の上り親は、連チャンできない。彼もまた、ペースの調整にひそかに苦しんでいるようなふしがある。
あがったのは花枝だった。
を一鳴きし、
(ポン)
理想的なをツモった。
そうして次の花枝の、これまた上り親。
ヒヨッ子の手がわりに早くまとまってきたが、その前に若社長にリーチがかかっていた。
これも理想形だが、私ならヤミでを待つ。
ヒヨッ子の手は、
若社長のリーチ後の第一ツモが。
手はいいが、打ち廻しに骨が折れる。若社長に対する現物がない。彼はの筋を頼りにへ手をかけた。それから思い直して、を振った。打では次にまた手がつまることを考えたのであろう。
次がツモ切り。これは現物。
私は、が振り切れない以上、二五万をひいてメンツに使うのがむずかしいと見ていた。
次のツモが。彼はその牌をバタッと卓に打ちつけて、打。
若社長が淡々とツモるが、を持ってこない。
花枝から、安全牌でないが出ている。
ヒヨッ子の次のツモは。
長考した後、
「――!」
と声をはげまして打った。するとが来た。ヒヨッ子のつもりではがもう一二枚出てくるのを待って、を振り切るつもりだったのだろう。
だがを握って、その計画は一頓挫した。こわごわ、を振った。
次にをツモって、打。
花枝が手を倒した。
「今テンです――」
「――はい」といってヒヨッ子は点棒を払った。
若社長は今度は何もいわずに手を崩した。
花枝がもう一度、ダブポンの二九をあがり、片眼に徐々に迫っている。
ヒヨッ子は南入りの親で、三暗刻トイトイをテンパイし、
「よっしゃ、やっと一発来たぞ――」
色めきたった気配があったが、その親マンのあと、一発が出なかった。
片眼が子満貫、花枝が子のハネ満をツモって、若社長の一人マイナスの恰好でその回を終えた。
「どうも今夜は疲れた。私は一応、寐ますが、皆さんよかったら続行してください」
彼はそういって奥に行き、金額を記入した小切手を持ってきて、脇テーブルの上においた。
皆、その小切手に書きこまれたゼロの列を眺めていた。
「――それから、最初に申しあげた、ベストフレンドの件ですが――」と若社長は、まっすぐ私の顔を見ながらいった。
「阿佐田さんを指名したいと思います。ご都合がよろしければ、私たちの一行にぜひギャンブルコンサルタントとしてつきあってください。それでは、お先に失礼」
すると、花枝が立ちあがっていった。
「あのう、その旅行には、自分で費用を持てば誰でも参加できるんですか」
「――今ならまだ余地はあるでしょう」
「あたしも参加させてくださいません」
「じゃァ、ぼくも――」
とヒヨッ子もいった。
私は、若社長のおいていった小切手に手を伸ばそうとした。
「おっと、そいつはまだ早い」
片眼はニヤニヤ笑いながらいった。
「あんたの取り分がまだ確定したわけじゃないからね」
「まだ、やるのかい」
私は一同を見廻したが、花枝もヒヨッ子も、もちろん、という顔つきだ。
「場所を定めるか――」
小切手は一枚だし、その額面を現金で割れる者は誰もここには居ない。
すると、どういう形で終るのか。
片眼がを引いて、一応、|見《ケン》に廻ったが、
「さァこれからが、準決だな」
彼は見物席に足を投げだして、このヒマにちょっとでも眠っておこうという形になった。
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一
小切手はたった一枚、ゼロが七つもついた額面が書きこまれて、紐をつけられた餌のように小卓の上に投げだされている。
金を賭けた三戦のうち、私が二勝して土つかず、あとの一勝は片眼で、今のところほとんど取り分は私のものである。
その片眼が休憩して、沈んでいるヒヨッ子と花枝、それにフーテン安と私の四人が卓についている。私にとってこんな阿呆らしい組合せはない。
この三人をこれ以上沈めたところで、千点一万円というレートでは、払いきれるわけがない。
私が沈めば、確実に自分の取り分を失う。
要するに、千点一万円というレートは、当家の主である若社長に対しての取りきめだったにすぎない。若社長が小切手を書いて退いた今、こだわっている必要などないのだ。
小切手は一枚。誰も、この額面を割って分配するほどの現金を持っていない。
では最後に誰かが一人勝ちをするまで、やるつもりなのだ。体力的に持続力のない私が、とことん打ち合って一人勝ちする公算がすくない。
「おい、ばかばかしいぜ――」
と、東一局の配牌をとりながら、私はいった。
「要するに、この小切手の取りっこなんだろう。半チャン小一時間もかけて一回ずつ勝負を仕切るなんて、まだるっこくてやっちゃいらんねえや」
「だって、やめるわけにはいかんでしょう」
とヒヨッ子。
「しかし、皆、麻雀がやりたくてしようがないわけでもあるまい。とにかく勝負がつけばいいんだろう」
「勝負はまだついてませんよ」
「ああ、ついてない――」と私もいった。「小切手をわけようがないんだから、むろんやめるわけにはいかないさ。ただ、もうすこし手っとり早くしようといってるだけだ」
見物席に横になっていた片眼が、うす笑いしながらいった。
「つまり、種目変更しようというのだろ」
「そうだ。勝負の結着を主眼に考えれば、麻雀なんぞ、ばくちじゃねえや。チンチロリンだっていい、ポーカーだっていい。そこで俺ァ今考えたんだが、あまり単純な奴も適当じゃないし、牌を使える種目がいい。牌ホンなんか、どうだね」
片眼は、ニヤニヤ笑いをやめなかった。花枝は黙って自分の前の牌を指でもてあそんでいる。
「面白くて、手っとり早い」
「たしかに――」と片眼がいった。「面白くて、手っとり早いな」
「一応、今の時点でこの小切手を点棒に替えてみよう。赤棒が一万円、黒棒が千円、連隊旗が十万円だ。それで、浮いている俺が三分の二、そっちのおっさんが三分の一を取る」
「不賛成。今はまだプロセスですよ。はじめに数字で書いた以上、あんたたちが急に決定させてしまうことはない」
「むろん、プロセスだよ。だからかりに点棒を持つんだ。点棒なんかいくら持ったって帰れるわけじゃない。ただ、点棒が一人に集まったとき、勝負がつく。ただし、面倒くさいから、あとの沈みの三人は、沈み分をパーにしてやるよ。それでどうだ」
ヒヨッ子は、なかなか納得しなかった。
「他の人は、賛成なんですか」
「俺は何だっていいよ――」と片眼がいった。「とにかく、結着がつけばいい」
「そうだな――」とフーテン安もいう。
「麻雀で、一人勝ちまでやるのは大変だろうね、俺も明日、昼間用事があるから――」
「花枝さんは――?」とヒヨッ子。
彼女はしばらく黙っていた。
花枝は、サイコロを使ったホンビキの胴師である。牌ホンはサイホンとちがって、運勝負ではなく、あくまで技術がものをいうのであるが、彼女なりにこの種目も手の内に入れているだろう。
けれども、花枝は目下、麻雀に上昇気運の芽が出ている。それは彼女自身が敏感に捕えていて、このまま続けていれば、彼女に有利に運ぶだろうと思っている。
それで、迷う。私が彼女なら、ここは麻雀にこだわりたいところだ。
「麻雀なんかまだるっこいって、皆さんがいうのなら、しかたがないですね」
彼女はそういった。多分、ホンビキの方にも自信があるのだろう。
「おい、ヒヨッ子――」と私はいった。
「なんかいうけど、この中ではお前の沈み分が一番大きかったんだそ。それがパーになったんだから、文句いわずにこれから勝てよ」
「俺、牌ホンて、知らないよ」
「簡単だよ、教えてやる」
二
、、、、、、以上六枚の牌を持つ。
親を一人定める。親は麻雀と同じく交代で順に廻る。そうして親は一定額を前におく。たとえば十万円が胴前の額としよう。簡単にいえば、その十万円と、あと半分の五万円、計十五万円負けたら親交代である。浮いてきたら、いつでも任意のときにやめられる。
親は六枚の牌のうち一枚を選んで、適当なところに隠す。子方は、親が何を選んだか、それを当てるのである。
子方は一点張りでもいいし、二点、三点、四点でもよろしい。五点張りだってかまわないが、当っても配当率がわるい。四点の場合、一万円賭けるとその四点のどれかが当れば配当がついて返ってくる。あとの二点ならば一万円がそっくり取られてしまうわけである。四点には、大、中、トマリ、ツノ、と順位がついていて、当った場所によって配当率がちがう。大なら一割二分、中が六分、トマリが二分、配当がつく。三点張りなら大で一割五分、中で一割、トマリで三分、と配当額は増えるが、残りの三点の場合、張り金は全部とられてしまう。ツノが当った場合は、張り金の二分とられる。張り方にはこの他、いろいろなヴァリエーションがある。
しかし、結局は、六点のうちの一つを当てるというだけだ。ちょっと簡単に見えるが、実はこれも心理ゲームなのである。
片眼が椅子をひっぱってきて、卓のまわりに五人坐った。
サイコロで、最初の親が、安。
安は|一回《テン》目にを、次にを出した。最初のこのあたりは選択するデータに乏しいから、皆、小張りで様子を見ている。
三回目、私はとを見切って、残りの四枚を伏せて張った。もちろん、出したばかりのかをまた親が選ぶ可能性もあるが、現時点では残りの四点のうちのどれかを親が選ぶと思う。何故ならば、選択するためのデータは、最初が、次がというだけのことであって、この二つには今出たばかりという個性がある。それに対して残りの四点は無個性に近い。
個性のデータがもっと重なっていけば別だが、今のところ、個性からくる先入観にはひっかかるまいと子方が用心しているだろう。したがってやで成功する率はすくないと親が判断すると思う。
残りの一三五六も、均等に無個性なのではない。は、二三四と、カンチャンすっぽりという個性がある。は、二四六と、偶数目が揃うという個性がある。完全な無個性は一と五であるが、完全な無個性はそれ自体が個性だ。
こういう具合に、わずか三回目にして、六枚の牌は、同列には論じられなくなった。この遊びは、こういうお互いの思惑を裏切り競う遊びなのである。裏切り、裏切られなくするためには、まずその手前で、一枚ずつの個性をしっかり認識しなければならぬ。ばくちはすべてそうだが、この遊びは特に、認識ごっこなのである。
親の目は、。
さァその次が、親も子も、少しむずかしい。二四五に対して、一三六がまだ出ていない。はわりに成績がよく、胴前が増えた。旧目か、新目か。旧目ならば、どの欲が子方の思惑を抜けるか。
勝負――で、を出し、安は、子方の当り具合をたしかめて、一応はわるい目でないと知ると、
「最初だから、タチ(勝ち)がすくないけど、ひとまず洗わしてもらいます」
とひきさがった。
次が、ヒヨッ子の親である。彼は十万円分の点棒を卓の上におき、むずかしい顔つきで六枚の牌を握りしめ、背中の方に隠した。
盲牌で、一牌をえらび、点数箱の中に隠す。胴前には一から六までのピンズが、あらかじめ横一列にならべられてあり、勝負、と声がかかれば、自分の選んだ目をまず右端に移す。点数箱の中の目とその数が合っていれば、はじめて成立である。
ヒヨッ子は、勝負、の声で、をぬきとった。
私はゆっくり手を伸ばして、大の目をあけた。他の連中もそれぞれ牌をあけている。落ちた者は一軒もない。
一回で親潰れである。
「テンパン(初回の潰れ)はタケるぜ(もう一度続けて親ができる)」
「いいよ――」
とヒヨッ子は気弱くいって親を私にゆずった。
はじめの親の安が新目を続々とひいていったので、その趨勢で、新目の一と六は、親としてはひきにくい。だからここは旧目が狙われる。旧目のうち、安が胴前を増やした五は、子方は見切るわけにはいかない。しかし親の方も、ゲンをかついでなんとなく遊びたくなる。
子方にこういう判断をくださしたデータの主たるものは、先刻、ヒヨッ子が口にした、ぼくはこの遊びを知らない、という一言である。初心者というものは、大体ひとつの概念でその心理をくくることができる。
私は、親の最初の目に、その五を選んだ。
前の親が失敗し、挫折した目の五を、次の親がすぐまた選ぶことを“ひきずり根ッこ”と呼んで、たいがいは悪い目になる。
失敗した目だからすぐには出さないだろう、という思惑の裏を行って、やはり普通は失敗するのである。盲点の可能性は、逆に狙い所の可能性にもなる。この遊びは、個性的で意味のある目をえらぶより、むしろ無個性に近い目をえらぶ方が無難である。しかし、だから、タイミングさえよければ、意味のある目は大勝の因をつくるのだ。強打者のウィークポイントは、その打者がもっとも好むコースのすぐそばにあるのである。
今、素人と目されたヒヨッ子が、もっとも素人が出しそうな目を出して失敗した。今度は、古狸と目されている私の親で、皆がそうした構えになっている。
そこを逆に突いて、素人風の“ひきずり根ッこ”に行った。
いい目になっている。同じ五という数が、たった一回の条件のちがいで、生きる目になったり、死ぬ目になったりする。
三
私はしつこく十数回ひいて、三十万円分の胴前を増やし、親を洗った。
次は花枝の親である。
ヒヨッ子がポケットをまさぐり、現金を小卓において、新しく手にした点棒を残らず張っている。
彼女に対して、ヒヨッ子ははじめから闘争心を燃やしていたらしい。
花枝の一発目は、私の最後の目の六。つまり、同じくひきずり根ッこである。私が奇襲で成功した同じ作戦を、今度はとるまいという子方の思惑をまた裏切った。
ヒヨッ子は、自分の手の二個の牌をチラと眺めた。とだった。そうして、卓においた四点を残らず引き揚げる。
張り金は、音たてて花枝の方に移る。全体的にいっても胴前が増えている。
花枝は勝気そうな眼で正面を見据えたまま、背中で牌を選んでいる。
ヒヨッ子は、彼女が一牌を点数箱の中に入れるまで、ソヨとも動かなかった。それから、片手をポケットの中に突っこんだ。
私は、ひそかにヒヨッ子を眺めていた。
(――お前、突っ張りをやめて、|見《ケン》をしていろ――)
ヒヨッ子は、完全な|死体《しにたい》になっているのだ。先刻、不承不承ながら種目変更を諒承したとたんに、それが決定しているのである。
彼は、この種目に通じていない。
一見、子供だましのようであるが、この遊びは認識の争いである。認識は、勘や生命力では決してない。経験を重ね、ポイントをつかみ、何物にもだまされない判断力が武器になっているのである。
はっきりいって、ヒヨッ子は、皆の眼にはすでに脱落者に見えている。まず最初に若社長のフットワークをとめ、一人おとした。今度は、ホンビキ初心者のヒヨッ子が落ちる番なのである。
そうやって一人ずつ、脱落していく。片眼がさっきニヤニヤ笑っていたのは、私のそういう企てをいち早く見破ったからであろう。
(――|見《ケン》だぞ、ヒヨッ子、ひとわたり親を眺めていろ。そんなに前のめりになることはないんだ)
私はいつのまにか、胸の中でそうくりかえしていた。そうして、そのことに自分で呆れた。
今は、勝負中なのだ。誰だろうと、自分一人が残るためにたたかっているのだ。ヒヨッ子のことなんか考えるな。
昔、いっぱしに戦っていた頃は、自分一人だった。いつも、独立国で居て、まわりは全部敵だったのだ。
何故、そうしていられない。
ヒヨッ子は、自分からはどうせ引き退らない。奴は、一応、ここで死んで行く。それしか仕方がない。私自身が造ったお膳立てなのだ。
花枝が親を大過なく終えて、片眼の親に移っている。彼は慎重に、新目、新目と選んでなかなか大の目を当てさせない。
ヒヨッ子をのぞいて、皆が、親を立たしている。ということは、親で稼いだ連中も、子方に廻って多かれすくなかれ喰われているということだ。
まだ勝負は当分決しない。
タネ銭が尽きたら、立って姿を消さなければならない。
(――ねばりこむんだ。ヒヨッ子。もう少し地味に張って、ある程度までこの遊びに時間をかけたら、種目変更を主張しろ。それしかお前の生きる道はない)
ヒヨッ子は鎌首を立てるようにして、じっと片眼をにらみ、ひとつひとつ考えて、四点を張っている。
ヒヨッ子は、とを手に残している。
私はとを大、中に張った。他のなんの理由もない。ヒヨッ子が見切ったからだ。
勝負、という声で、片眼がを右に動かした。
ヒヨッ子が、じっと掌の中のを眺めている。
(――種目変更だ、そう叫べよ、ヒヨッ子――!)
彼は不意に、私を振り返った。じっとヒヨッ子を眺めていた私は、思わず眼をそらした。
「師匠――」
と彼は、私に小声でいった。
「点棒を、十万円分、廻してくれないか」
私はだまっていた。
「――すぐに返す。いいだろう。もしとられても、この次会うとき、きっと返すよ」
「駄目だ――」と私はいった。「お前だってわかるだろう。この場の点棒をさらった奴が一人、勝ち残るんだ。いつもとはちがうぜ」
ヒヨッ子は、辱しめられたように、ぐっと顎をひいて黙った。
それは彼だってわかっている。でも、いつかの夜、自分から私に現金を融通してくれた。そのことを考えているにちがいない。
(――何故、金を使いはたしたのだ。勝てないゲームは張り急ぐな。そんなこともわからずに、一人前の仲間のような顔をするな)
私は、それでもヒヨッ子を無視することにした。
四
ここの家のお手伝いさんが、洋風のおじやを造って持ってきてくれる。もう朝食の時間である。
そうしてこのとき、点棒はすっかり片眼の方に寄っていた。三四十分ほど前から胴を続けて、いっかな洗おうとしない。
ヒヨッ子はとうにハコテンで、こわばった表情のまま、むなしく卓上を眺めている。
フーテン安は、片眼の親を一気に潰そうとかかって大張りしたのが裏目に出て、三番続けて|空《から》オチし、残る点棒はたった一本。その一本を大事そうに抱えて、しばらく|見《ケン》だ。
花枝は、その前の胴を潰したのが痛く、これも数本残すのみ。
私のところは赤棒(一万円)が十本近くと、連隊旗(十万円)が二本ある。
趨勢としては、片眼と私の争いということになっていきそうな感じだ。
「さァ、早く張ってこいよ。見はもうなしだぜ。一本持ってただ眺めてるんじゃ、いつまでたっても片づかない」
「そうだな――」と私。「もう、さっきの若社長が起きてくるかもしれない。麻雀でなく、こんな種目をやってたんじゃ|拙《まず》いだろう。安、思いきって張っちまいな」
たとえ一本でもあれば、負けが確定したわけではない。が、そういわれて安も、四点の牌を慎重において、最後の一本を張った。
続いて花枝も、四点をおき、持っていた三本の赤棒を全部おく。
片眼がこれまでに振った目は、三、一、六、六、五、六、二、二、五、四。
したがって片眼の前に並んだモクおき(出目表の代り)は、右から、、、、、、と並んでいる。
ずっと|口《くち》(今出たばかりの目に近い二点)で勝負してきて、一転、死目にしていた一番奥(左側)のを出してきた。
これでまた口の方に戻るか、それとも奥を続けるか。
(――片眼が点棒を残さず勝負しろといってきた以上、自信のある目だな。普通なら、皆が見切ってしまうような強い目だ――)
それは、六点のうち、何か。
まん中のとは、無難な目だが、誰でもが押さえによく入れておくところだ。
では、奥のを続けて引くか。
口から奥へ飛んだと見せて、また口へ戻るか。
通念というものは裏切られるためにあるようなものだけれども、普通は、口でしつこく勝負したあとは、また口かと見せかけながらそこへは戻らないものだが――。
いずれにしても、ここで私がはずしてしまえば、片眼の圧勝が眼に見えてしまう。
私はチラリと、ヒヨッ子を見た。奴は眼を伏せたままだ。ヒヨッ子はハコテンになったときに一度便所に立ち、皆が席をつめたので、花枝と片眼の間の半端なところに坐っている。
片眼が牌を選んで点棒箱へしまう間、皆は両手を卓の上においてじっとしているが、張らないヒヨッ子だけは、片眼の牌に眼を入れていたかもしれない。
が、サインが飛んでくる気配はなかった。
私は、、、、と三点をえらんで、連隊旗一本を張った。
「勝負――」
胴の眼は、根ッこのである。
片眼はまず私の張りに視線を当てる。
私はだまって三枚の牌だけ引き、片眼が連隊旗一本を持っていった。安も、はずれ。
ところが、花枝は卓上においた四枚の牌を上から順にあけていった。
要するにオール四で、四のスイチということだ。配当が四・五倍つく。
「やっと、一発きたわ――」
次の胴の目一も、花枝は、
スイチで見事に当てた。今度は十三本の赤棒をそっくり張っていた。四・五倍だから、六十本近くなったわけで、片眼に溜まっていた点棒が瞬時に移動してしまった。
「なんだい、お化けだな、二回ともスイチかい」
花枝に胴が移る。
「じゃァ、面倒くさいから、これっきりの勝負にしません」
と花枝が勝ち誇っていう。
「これっきりというと――」
「種目変更よ。チョボ一にして。そのかわりあたしが振った目を当てた人が、一人勝ちでいいわ。この点棒そっくりあげる。お二人とも当らなかったら、小切手はあたしの物よ」
片眼が私にいった。「いいのかい」
「まァ、仕方ないだろう。挑戦されたんだ」
チョボ一は、牌ホンとちがって、推理の要素はない。勘である。私は広島で、彼女のサイの目の強さを目撃している。
しかし、片眼は、スイチ二回の打撃で当然落ち目、ここは目が当るところではない。花枝と私の勝負だ。
花枝は、おじやの器を鼻紙で丁寧に拭いて、サイをひとつ、中におとした。カラカラと振って、はい――と伏せる。
私は、|五《ぐ》に張った。五は私の好きな目だ。
片眼は、六。
「よし――」と安が現金を十万出して、|一《ぴん》に張った。「当ったら五十万だな」
「俺も張りてえな――」とヒヨッ子。
「銭がありァ、三だがな」
「勝負――!」
花枝が、さっと碗をあけた。
三の目が、威勢よく光っていた。
五
ヒヨッ子が花枝と同じような方角に歩きだそうとするのを見て、
「おい、ヒヨッ子――」と私は笑った。
「喫茶店かね」
「なんだい、喫茶店って」
「いや、まァいい」
賭場でにわかに組んでおいて、あとで帰り道などで利益をわけるのを、喫茶店という。
「ぼくはしばらく、このおねえさんをマークするよ――」
ヒヨッ子は、私にきこえるように声を張っていった。
「ホテルも知りたいし、明日からの予定も知りたい。この小切手のある間はね」
「アラ、これからまっすぐ、広島へ帰るわよ」
「へええ、それじゃ、ぼくも広島へ行こう」
花枝は、あたりを見廻して、本当に喫茶店に入った。
ヒヨッ子と向かいあって坐ると、ハンドバッグを開いて、十万円の|札束《ズク》を五つ、とりだした。そうしてヒヨッ子の眼を見ながら彼の前においた。
「――なんだい、これ」
「喫茶店よ――」
「あ、このことか」
「取っといて」
「要らんよ」
花枝は、解せぬ顔でヒヨッ子を見た。
「そんなつもりじゃない」
「照れることはないわ」
「いや、本当なんだ。あの小切手が、花枝さんの物になればいいと思っただけさ」
「――何故なの」
「あんたと勝負して、ぼくがその小切手を巻きあげるから」
花枝は笑った。
「そんなにこの小切手が欲しいの」
「ああ。ぼくはまだ、ばくちで百万円も勝ったことがない」
「そう、でも、金額なんか同じよ。勝てば、何億円だって入ってくるわ」
「そうだね。しかし、あんたに勝ちたいんだ。他の人になら負けたっていい」
花枝は、今度は笑わずに、だまってコーヒーをすすった。
あのとき、卓の下で、この坊やの足指が不意に重なってきたときの感触を思いだしていた。足指が、四回、押してきた。その次は、たった一回だった。
「ぼくは技巧派なんか、敵だと思ってないんだ。花枝さんは技巧派じゃない。運が強いよ。運の強い人には負けたくない」
「――あんた、最後の三の目、当てたわね、あれはどうして?」
「張る銭がないときは、当るもんだよ。ねえお願いだ、ぼくと再勝負しておくれ。いつでもいい。出直してタネ銭を造ってくるから」
「わかったわ――」と花枝はいった。
「なんだかよくわからないけど、やりましょう。それまでこの小切手はこのままバッグの中にいれておくわ」
「ありがとう――」
とヒヨッ子は率直にいった。
「それまで、あんたをチャンピヨンとしてあつかうよ」
「チャンピヨンだと、どんなふうにあつかわれるのかしら」
「女だと思わない」
花枝はまた笑った。
「へんな人ねえ。まだ坊やのくせに」
「勝負と混ぜこぜにはしないよ。そのかわり小切手を取りあげたら、手ごめにしてやる」
「取れると思ってるの」
「ツキなら負けられない」
「ヒヨッ子って、誰がつけたの」
「さっきのあの人だが、俺は気にいってるよ。永久にヒヨッ子で、親鳥にはならない」 花枝は伝票を握って立ちあがった。
「今度、上京したら電話をかけるわ。住所と本名を教えて」
六
私は新宿に出て、映画館の中で眠った。
熟睡したわけではないが、身体が痺れたように疲れていて、休憩を二つはさんでも椅子から立てなかった。
映画のセリフや音楽が、うっすらと頭にひびいてくる。そのくせ、こちらも間断なく夢を見ていて、なにか寐言をいっては隣りの客に小突かれる。
|茹《ゆ》でた海老が大皿にたくさん盛られていて、ハピイの一家が皆でその海老を喰っている。
頭をもぎられ、殻をむかれて、ハピイたちは楽しそうに喰べてしまうが、もぎられた頭の中にわずかに残った身がうごめいていたり、殻についた足が空をかいていたりする。
海老の殻たちは、寐ている私の身体を越えて逃げようとし、私の身体に爪を立てる。
それで結局、殻たちは庭に捨てられてしまうのだが、それは私の生家の庭なのだ。
蟻たちがぐるり取り巻いて、散らばった海老の殻を眺めている。蟻たちは、慎重だ。頭や殻がすべて動きを停止するまで行動をおこさない。
だが、だんだん包囲の輪がせばまっていく。動かない殻に、決死の一匹がとりつくと、たちまち輪が縮まって、殻は黒い粒々で埋まってしまう。
抜け殻みたいになった海老はぶざまに虚空に足を伸ばし、蟻たちに次々に運び去られていく。
あの蟻を蹴散らさねば、と私は思う。けれども身体が動かない。
私は寐返りを打つように身をおこして、渋い眼でしばらく、面白くもない映画を眺めている。
――|打《ぶ》ち一本じゃ、もう無理だな。
そう思う。それはもうとっくにわかっていることだが、ただくりかえしてそう思うだけだ。
――いまさらそう思ったって、どうなるものか。どんな仕事だって盛りをすぎれば辛いことだらけだ。そうやって生きてきたのだから、泣いたってしようがないぞ。
私は無理に立ちあがって、廊下に出、売店で茹で卵を買って喰った。
ヒヨッ子は、映画館に入ると、必ず、オナニーをするという。
――へッ、国立の大学生が、映画館でオナニーか。
私は陽ざしの明るい表に出た。昔なら、すぐに麻雀屋に飛びこんだところだ。
――しかし、俺はほんとに、ばくちしかできないんだろうか。
私は、まだ老人というわけではない。杖を突いているわけでもないし、眼や耳がおとろえているわけでもない。自分で眺めてみても、いくらか肉がたるんだという程度だ。
女の人が、私の眼の前で立ちどまった。
「――アラ」
私も、すぐに思いだした。
「ああ、マーヤですね」
ヒヨッ子のスケだ。広島のホテルで、会ったことがある。
「あのゥ、一緒じゃなかったんでしょうか」
「ヒヨッ子ですか。ええ、昨夜は一緒だったが、朝方、別れましてね」
「そうですか――。家に戻って来ないんで、探してたんですが、前によく来ていた麻雀屋がこのへんにあるものですから」
「貴女は、お勤めだったね」
「ええ――。母が、昨夜から、変なんです。それで今朝、勤めを休んで病院に連れていったんですけど――」
「貴女のお母さんか――」
私はホテルで朝食をとっていたマーヤと、彼女の母親らしい品の良い老女を思いおこした。
「入れちがいに、戻ってるんじゃないかな」
「そうかもしれません。何度も電話はかけてるんですけど。なにしろ、いったん寐たら、てこでも起きない人ですから」
「それで、お母さんは、悪いの」
マーヤは、いかにも優等生のような整った顔をうつむけた。
「まだはっきりはわからないんですけど――」
「悪い可能性もあるんだね」
「――ええ」
「じゃ、こっちも探しときますよ。貴女はとにかく家に戻ってごらんなさい」
私は急に大股に歩きだした。
ヒヨッ子を探す――、ただそれだけのことだけど、今の今まで|無為《むい》だった気分が、とにかく用事ができて、しゃんとなっている。
「いえ、結構なんです――」
と背後でマーヤがいっている。
「あたしの母親のことですし、自分でなんとかいたしますから。あの人にお会いになっても、黙っていてください」
「そうもいかんでしょう」
「いえ、本当に。あの人に負担はかけたくありません――」
私はそれに答えず歩き続けて、二丁目のそばの寿司屋に向かった。片眼たちがふだん寄っているところだ。
たとえ場が立っていても、自分で打つ気はない。ヒヨッ子だって、今頃は花枝と会っていて、こんなところに来ているわけはない。
けれども、一応寄ってみなければ気がすまない。どう考えてもそれ以外に、私は今、用事がない。
私の顔を見て、寿司屋の主人が、おや、という顔つきになった。
「なんて日だい。近頃は皆、ばくち打ちが朝起きになったのか」
「――来てるんだな」
「学生だろう。さっき、アベックで来たよ」
「片眼もか――」
「ああ、奴は一番乗りだ」
私は階段を昇って二階の小座敷に行った。
ヒヨッ子が、私を見た。
「おい、家へ帰れ、お前は堅気だろ」
「さっき帰ったよ。それで出直してきたんだ」
「銭を持ってか」
「ああ――」
私は、同じ卓に居る花枝を見た。
「じゃァ、きくが、母親は居たか」
「――そっちの部屋はのぞかなかった」
「マーヤがお前を探している」
ツモった牌をそのまま切ろうとして、ヒヨッ子の手がとまった。
「――マーヤが」
「お前は、大事なときに巣に居なくて、この前悔やんだろ。行ってやれ」
もしヒヨッ子が素直に立たなかったら、私の仕事がもっと増えるところだったが、彼はすっと立ちあがった。
「俺が、あとは打っていてやるよ」
ヒヨッ子が何もいいださないうちに、
「いいわよ、行きなさい――」
と花枝がいった。
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一
駅前で買い求めたらしい稲荷鮨と|海苔《のり》巻が、|卓袱台《ちやぶだい》の上でやや干し固まったようになっている。多分、マーヤが、昨日の日曜日に買っておいてあったのだろう。
ヒヨッ子は、誰も居ない自分の家に帰って、おそるおそる家内を見廻した。
四日ぶりの帰宅である。
マーヤが、新宿で自分を探していたという。勤めがあるマーヤが休日でもないのに自分を探していた以上、何か大変なことがあったのだ。
また、火事ではないか――。その心配は家に戻って消えた。
しかし、どうも、自分が外で遊んでいる間に、何かが起きる。定量の運を外でダラダラと使ってしまうので、家内の運量が乏しくなるのか。
ヒヨッ子は卓袱台の前に足を折って坐り、子供のように、少し固くなった稲荷鮨をパクついた。二つ三つ喰って、それからちょっと、溜息をついた。
ふと振り向くと、戸口のところにマーヤが立っている。
「――どこに行っていたの」
ヒヨッ子はそれには答えずに、
「どうかしたのか」
マーヤは暗い顔つきで部屋の中に坐った。いったん坐ってから、また立ちあがって電気をつけた。
「――お母さんはどうした、一緒じゃなかったのか」
ヒヨッ子はマーヤの母親の姿が見えないことに気がついた。
「困ったことになったわ。あたし、どうしたらいいかわからない」
「お母さんがどうかしたのか。交通事故か」
マーヤは黙って首を横に振った。
「それじゃ何だ。早くいえよ」
「――病気よ」
「病気なら医者に見せろよ」
「――もちろん、病院には連れて行ったわ」
「それで、――どうしたらいいかわからないというのは、どういうことなんだ」
「だって――」
「君の健康保険がきくんだろ」
マーヤの眼に涙がたまっている。
「そんな大変な病気なのか」
「脳血栓の疑いが濃いっていわれたわ」
「脳血栓――」
「この前、ここの階段のところで、お母さん、転んだでしょ。あれから、手がしびれるっていいだしたとき、あたしそう思ったんだわ。子供のとき、そういう人を知ってたの。一昨日も、昨日も、眠れないで考えちゃった。お母さんを殺して、あたしも死にたい――」
「――金がかかるんだな」
「お金もそうだし、そればかりじゃないわ」
「いいじゃないか。金なら俺にまかせろよ。君が心配することはないよ」
マーヤは大きな眼でヒヨッ子を見たが、何もいわなかった。結婚して以来、学校も放りだしたまま、定職につくわけでもない。それどころか家にも帰らず、ばくちばっかりやっている。俺にまかせろといえる条件はひとつもない。
そんなヒヨッ子に、意見がましいことをひとつもいわないところが、マーヤの実によいところだった。
「あたしが子供の頃にねえ、駅前でスナックをやっている女の人がお隣りに住んでいたの。離婚して、あたしよりずっと小さい女の子と、年|老《と》ったお父さんと三人暮しでね。そのお父さんがある日、転んだ拍子に|尾骨《びていこつ》を打ってね、それがもとで脳血栓になったの」
「――─」
「彼女はずいぶん一生懸命だったわ。いろんなところのリハビリテーションに連れていってね。でも二三カ月ぐらいで、ことわられてしまうの。なおる見込みがないって」
「すると、リハビリでなおる人も居るのか」
「そのお|爺《じい》さんの場合は駄目だったわ。彼女が家に来て、あたしの親の前で泣いてね。結局、二年ほどして、手だけでなく足までしびれが来てしまって、離島の収容施設に捨てに行ったわ」
「捨てた――?」
「お爺さんは、いい、といったそうよ。でも辛かったでしょうよ。彼女がお爺さんを背負って、お隣りを出ていくところを、あたし、見て居たわ」
「なぜ、捨てる――?」
「そんなこと訊けるもんですか。そうする以外に方法がなかったからでしょう」
「しかし、俺の家じゃそうはしないよ。俺と君と、働ける奴は二人、病人は一人だ。面倒が見られないわけはない」
「――でも、|長患《ながわずら》いの病人が居たら、あたしたちの暮しなんか成立しないわ」
「そんなことはないよ。それに応じて働けばいいさ」
「貴方はまだ育ててくれたご両親が居るわ。いつご病気になるかわからない。そのための力を貯めなくちゃならないでしょう。あたしの母親のことで、厄介をかけたくないわ」
「家の中の誰が患ったって同じことだよ。俺は君と一緒に暮してる。君のお母さんとも一緒に暮してる。お母さんが病気なら、俺も役に立ちたい。俺だけのけ者にされる方がよっぽど不愉快だぜ」
「あたし、お腹の子おろすわ。とても産んでなんかいられない」
「子供も産めよ。心配するな。君は病人をこれ以上、気を使わせないようにそばについていてやればいい」
二
ヒヨッ子は、天下国家のことはひとつも考えないが、こういう部分ではまことに|真摯《しんし》で、そのうえ行動的な男だった。
話をひとわたりマーヤからきくと、すぐに病院に駆けつけて、診察してくれた医師に会っている。
「脳血栓ということに、まちがいないのでしょうか」
「ひとわたり、身体全体を調べてみているんですが、まず、まちがいないと思います。しかしまだ初期ですから、急にどうということはないでしょう」
「脳血栓というと、つまりどういう病気なんですか」
「普通は脊椎を打ったりすることのショックでおこるんですが、小脳の機能が故障してしまうんですな。精神の動きを司っているのが大脳。運動神経を司っているのが小脳。したがって、視力とか、頭脳とかはおとろえないで健全なんですが、身体がだんだん麻痺してくるんです」
「苦しむのですか」
「精神的に、辛いですね。長くかかりますし――」
「直す方法は?――」
「リハビリテーションで、麻痺しないように絶えず刺激をあたえるのです。ごく初期にはそれで進行を喰いとめる例もあります」
「よかった。希望はあるんですね」
「ええ。ごくすくない例ですが」
「この病院で、それをやっていただけるんですか」
「うちは脳外科だから、もちろんやりますが、今、ベッドがあいてないですよ。通院なら可能です。なにしろこの病気は数が多いものでね。一年も待っていただいている病人も珍しくありません」
「リハビリテーションの部屋を拝見させていただいていいでしょうか」
「どうぞ――」
ヒヨッ子は、病室を見舞う前に、板張りの大きな部屋をのぞいた。
赤ン坊が歩きはじめのときに使うような輪状の鉄の歩行補助器の中に入って、懸命に歩こうとしている人が居る。一二三四、普通は手足が順序に動くが、一一一一、手足ばらばらで、見ていても苦しそうだ。
「あの人は、発病してどのくらいですか」
「さァ、まだ初期に近いんじゃないかしら」
と付添婦がいった。
「すると――」
「そのうち、とても立てなくなりますよ。腰の自由が利かなくなるの。舌の動きが不自由になれば、もう一人前よ。舌は動かなくなると固くなってまるまってしまってね、喉のところにひっからまって窒息してしまうから、毎日、舌のマッサージをやるのよ。指先もまるまって動かなくなる。人間の身体って、機能がとまると、どこもかしこも、まるまろうとするみたいね」
「――─」
「そのうち眼もつぶれなくなるわ。視力はあるんだけど、まぶたの方は小脳の管轄ですからね。重症病棟に行ってごらんなさい。ベッドのところに、子供が数遊びをやるときの玩具があるでしょう。棒に球がついているやつね、あれを動かない指で、やっと一つ動かすと、おシッコ、二つ動かすと、横を向かして、三つ動かすと、食事、とか、みんな器具で意志を伝えるのよ」
「――大変な病気だなァ」
「この病気だけはなりたくないわね。皆さん、病人は気持だけはしっかりしてるんだから、手足が動かなくなってから半年くらいの間は、精神的に地獄でしょう。それがすぎると、ほんとにあきらめきってしまって、お坊さんのような顔になる人が多いわ」
「それで、費用はどのくらいかかるものなんでしょう」
「そうですね、まァ、中小企業の社長さんになったぐらいの覚悟が必要でしょうね。あたしたちは八時間ずつの交替制だから、夜中も含めると、付添三人をやとわなければならないでしょう」
「夜中も必要ですか」
「下の物が垂れ流しになるから。大部屋だと他の人が嫌がるしね、臭いやなにかを。また大部屋でなくて、個人部屋じゃ発狂するわよ。貴方も病人さんがあるなら大部屋になさい。その方が気が休まるわ」
ヒヨッ子は、その病院ばかりでなく、専門のリハビリテーションのところや、郊外の比較的安価で評判のいい病棟などをあちこち廻って歩いた。
三
私は私で、また生家に戻らす、競輪場で知り合った男の事務所の応接間の長椅子で寐ていた。|暢気《のんき》なもので、下着が汚れると十日に一度くらい買い替えて、トイレの屑箱に捨てる。ビルの中で、夜半は冷暖房がとまるが、窓をあけ放して寐ると、夜風が涼しい。
冬になるまでに、どうせ出て行こうと思っていた。朝は、女事務員が、パンを買ってきてくれる。三日に一度くらい、事務所のボスも泊りこんで徹夜麻雀をやる。
ある日、ヒヨッ子が、不意にそこへ訪ねてきた。|かる《ヽヽ》源に場所を訊いてきたという。
「何か用かね――」
「師匠、働いてみる気はないの」
「ばくちか」
「いや、といっても、べつに特別な仕事をすすめているわけでもないんだけど。今度ね。ぼく、スクラップ屋をはじめることになったもんで」
「ほう、また突然だな」
「うん。それで、一緒にやりませんか」
「俺とか。冗談だろう。俺はばくちしか打てないよ」
「例の社長もいってたじゃないか。ばくち旅行のコンサルタントをお願いするって。商売のコンサルタントにも、貴方は有益だと、ぼくは思うよ」
「そうか、忘れていたな、あの社長の旅行についていく約束をしたんだっけ」
「それはそれ、これはこれで、一丁乗ってみない。スクラップ屋なんて、がさつな商売で、要するに出る引くの問題さ。ばくちと同じ要領と神経が要ると思う」
「俺は、何をするんだ」
「べつに何もしなくてもいい。でも、いつかぼくにいってくれたろう、今、やめどきだぞ、とか、ここは残らずはぎとれ、とかさ。あれを参考にしてれば、すくなくともあのときぼくは、部屋が焼けるのにまにあったんだ」
「お前が、素直にきくかね」
「きくよ。師匠でなくちゃわからないってことが、たしかにあると思う」
私は笑った。
「馬鹿いえ。俺は一文無しのルンペンだ。もしそんな力があれば、今頃は、もうすこしどうにかなってる」
「コンサルタントが自分で財閥になるとはかぎらない。まァ面倒くさいことはいいよ。俺は自分で働くから、皆、一緒に飯を喰っていこうよ。それで、客を集めて、ばくちでコロして、商売と二本棒でやっていけばいいだろう」
「そんなに調子よくはいかねえぞ」
「いかせるのさ。かりに師匠が何も役に立たないとしたって、俺はこう思うな。誰かに教わった知識の切り売りをして、しゃァしゃァと喰ってる奴等も居るんだから、師匠みたいにばくちを長いことやって、自分で考えたセオリーを持ってる奴は、それだけで飯を喰うぐらいのことはあって当然だよ」
「よし、行ってやろう。給料なんかいらねえぞ。そのかわり、事務所に簡易ベッドをひとつおいとけ」
「いいとも。あの社長も、俺の考えを面白いといってくれたよ」
「あの男と、また会ったのか」
「ああ。スクラップ屋の計画を話して、応援して貰おうと思って押しかけたんだ。駄目でもともとだからね」
「奴は、うんといったのか」
「ぼくは、来歴を|合切《がつさい》話した。今の家庭状況も。マーヤのお袋が脳血栓で、長く入院しそうなんだ。勤め人の給料じゃまにあわない。何かやらなくちゃならない。死ぬ気でやるよ。今まで、ぼくは何かをやって失敗したことはない」
「国立大学を通過して、スクラップ屋か。しかし、よく奴が金を出したな」
「金は、学校の先輩の線で、銀行から借りる。あの社長には保証人になって貰った。といったって、ビル・スクラップ屋にそれほど|弾丸《たま》はいらないんだ」
「だが、商売となりゃァ、一応はまとまるだろう」
「特殊自動車や器材はリースで大丈夫。先輩や社長の顔で、仕事の口もなんとかなりそうだ。要るのは人件費と事務所の借り賃だけ。それでボロイよ。|粗利《あらり》で五割近くにはなる」
「まァ、失敗してもとっこだ」
「いや、失敗はできないんだ。病人が居るからね。それに、大きな仕事よりは、裏道の小さな建物をこわしていた方がボロイんだよ。養父が建築関係だったから、まんざら知らない世界じゃない」
「まァ、いい方にだけ考えてろ」
「表通りの大きなビルなんかこわすのはね、ルートも大資本に直接つながっていなくちゃまずいし、なかなかとれない。それでいいんだ。表通りは規制がうるさかったりして、何をしちゃいけない、いろいろとやりにくいし、日数ばかり喰う。日数を喰えば人件費に消えるからね。こっちは裏道専門」
「お前一人でできそうだぜ。話だけはな」
「ばくちよりはやさしい。万引きよりはむずかしい。そんなところじゃないかな」
私はヒヨッ子をいくらかうらやましく眺めていた。私の時代は、一芸に打ちこむのがプロの|矜持《きようじ》だった。
ヒヨッ子はそうじゃない。無制限、無規範にクロスオーバーしていく。ばくちも、商売も、ごっちゃにしている。
考えてみれば、人間にレッテルなどない。私にしたって、ばくちを長く表芸にしていたものの、ばくち打ちでなければ不適合だというわけではない。ただ、長年月の間に自分で思いこんでいって、自分が昨日までに歩いた道しか歩けなくなるだけだ。そうして、自分からにっちもさっちもいかなくなる。
建物解体業も、なって悪いということはひとつもない。
私は、転業を定めた。もっとも私の場合は、ばくち打ちを一応やめて、転向するわけだが、ヒヨッ子は、解体するかたわらばくちもやるつもりでいるらしい。それなら、この線がもし成功するようなら、ヒヨッ子を肥えさせておいて、そばに居るついでに、あとでコロすという手もある。
四
ヒヨッ子は青山の裏通りに仕事場をひとつ借りた、といった。
「仕事場ってえと、事務所のことか」
「ああ、そうだよ。ちゃんと電話もついてる。師匠は身ひとつで行ってくれれば、とにかく寐られるようになってる」
「まァそりゃァいいが、師匠はよせ。お前も仕事をはじめるとなりゃァ、社長だろ」
「社長もくそもないよ。ぼくはヒヨッ子のままでいい」
「他の奴等の手前もあるぞ」
「他の奴等っていうと――?」
「事務員が居るだろ」
「居ない」
「事務員、なしか」
「なし」
「女事務員なんか、居ないのか」
「居ないよ」
「経理はどうする」
「帳簿つくらない。銭は目分量で数えて、あるだけ持ってっちまう」
「税金がかかってくるぞ」
「かからないよ。申告しないんだから」
「そうすると、会社ってわけじゃないのか」
「会社じゃなくたっていいだろう。仕事さえあって、儲かれば」
「お前一人で、やれるのか」
「いや、これまでの友だちに、フリーで手伝って貰うよ。師匠だけは別だ。住むところがないんだからね。喰う寐る住むは、やっぱり必要だよ。だから仕事場だけは確保しなくちゃ」
「なんだか俺のために部屋を借りるみたいだな」
「そうでもないけどさ、だって、電話は必要だろ。仕事があったら高田馬場へでも行って労務者を集めて、あとはリースだから万事それでまとまる。現場はぼくがつくし、車の運転もぼくがやればいい」
「免許証はあるのか」
「ないよ。でも動かしたことはある。親父の線でね、小さい頃から現場を見てる」
「違反だな」
「そうだね」
私は吹き出した。考えてみれば、奴は万引き、私は煙草のかっさらい、それが知り合ったきっかけだ。それ以来、私たちのやってきたことは、主として法律に違反している。
「それで、お前の友だちは、皆、身体があいてるのか」
「いや、身体がそっくりあいてる奴なんて、この時代に居やしないだろう。部屋は二十四時間、あいてるし、昼間でも夜中でも、身体があいてるときに来て、働いてくれりゃいい」
「うまくいきそうかね」
「どうかな。いくもいかないも、もともとこれという形があるわけじゃないからね。うまくいかなけりゃ、それまでだ」
「だが、銭を銀行から借りてるだろう」
「それくらい、ばくちをやったって返せるだろうよ」
「お前の考えは、妙だな。万引きをやるような具合に、仕事をやるつもりなんだ」
「そうだよ。ぼくはいつも真剣だ」
私はとにかく、地方の小都市から苦学して国立大学に入り、万引きとばくち常習の若者のあとにくっついて、青山に借りたという仕事場に行った。
四階建のマンションの二階で、エレベーターの隣りの角部屋だった。ドアのそばに、突進組、という看板がぶらさがっている。
「これは何だい」
「社名だよ。突進組、いいだろう」
中は少し汚れた|絨毯《じゆうたん》の張ってあるリビングルームと、四畳半の畳敷き。それに小さなキッチン。
それはいいが、麻雀の座卓が二つおいてあり、その座卓の上に強力な室内ライトがそれぞれ天井から下がっている。
「友だちが選んでセットしてくれたんだよ」
「お前、スクラップ屋をやるんだろう」
「ああ――」
「麻雀屋をやるんじゃあるまい」
「しかし、麻雀だって、どうせやるだろう。麻雀卓は事務机にもなるし、ポーカーだってなんだってできるけど、事務机じゃ麻雀はできないぜ」
「で、どっちが主なんだ」
「どっちも主さ。だいたい、何が主という考えはないんだ。なんだってやるよ。突進組だから」
「ふうん――」
私は畳敷きの四畳半をのぞきこんで、
「おや――」
といった。
「布団一式、揃ってるでしょ。いつでも寐られるよ」
それはいいが、敷かれた布団の中で、広島のツキ女の花枝が、スヤスヤ眠っている。
「俺はなんだか、お前に質問ばかりしているが、あれも突進組のメンバーか」
ヒヨッ子は、あはあは笑った。
「そうなんだよ、彼女は勝負強いからね。仕事をやるなら運勢の強いのを集めなくちゃ」
「で、彼女は、スクラップ業の何に使えるんだ」
「なんだっていいんだよ。そんなことをいえば師匠だって――」
五
「で、俺に彼女と一緒に寐ろってのか」
ヒヨッ子は困ったような顔をした。
「べつにそうはいわない。彼女はぼくと寐たがってるからね」
「それで、もう寐たのか」
「――ああ」
「彼女は広島にベンちゃんが居たはずだぜ」
「うん――」
「こんがらからないか」
「ぼくだって、マーヤが居るよ」
「ああ、そうか。しかし、彼女もここに泊るとすると、俺が手を出すかもしれないぞ」
「大丈夫だろう。ぼくも泊るから」
「なんだかムチャクチャだな」
「ムチャクチャだけど、ぼくはイカサマはしないよ。一生懸命働いて、一生懸命遊ぶ。そうしてぼくの好きな人たちを一生懸命愛そうと思う」
「子供っぽいな」
「ああ、ヒヨッ子だ。いい名前をつけてもらったよ。ぼくはヒヨッ子でいい。そのかわり、ムチャクチャにかっぱぐよ」
「よし、わかった――」
と私はいった。
「それじゃァまず、俺も役に立つコーチをしてやろう。俺流の運に関する考え方の序だ。ヒヨッ子、お前はまず、女房のお袋かなんかが病気になって、負担を背負ったろう」
「ああ――」
「その分だけは突き進んで大丈夫だ。きっとツクよ」
「その分だけ、か」
「まァ、とりあえずはそうだな」
「その分というのは、どのくらいのことだろうね」
「それは微妙だがね。お前が負担と感じている分、というほかはないな。これは病人の運についてじゃない。お前の運に関することだから」
「マイナスの分だけ、ツクのなら、収支はゼロじゃないか」
「ゼロじゃないにしても、ゼロそこそこだろう。ツキというものは長く計っても短く計っても、いつもそうしたものだ。ただし、マイナスを背負ってるだけで、手をつかねて眺めていてもどうにもならんぞ」
「ぼくはジタバタしてるよ」
「うん。俺は麻雀打ちだから、麻雀でいう。その分ぐらいは、攻めに廻ってどうにかなるということだ。リーチをかけるのもいい。危険牌を強打してみるのもいい。守り腰では、勝ちをとれないのだから、勝つためには仕掛けなければいけない。そうして、仕掛けには時機というものがある」
花枝が起きてリビングの方に出てきた。
「腹がへった。何か喰い物を造ってくれよ」
とヒヨッ子。
「いいわよ。下手くそな料理でよかったら」
彼女はパンをトースターに入れ、卵とハムをフライパンにおとしこんだ。
「なんだ、炊事道具も一応はあるんだな。万引きで集めてきたか」
ヒヨッ子は笑った。「いや、彼女の寄付なんだ」
「普通、人は、負けがこむと張りを縮小し、勝ちだすと気楽に大張りになる。それはまァそれでいいさ。だが、ある時点から、逆に考えていかねばならない。負けにめげちゃだめだ。かえって鉄の意志で張りを強くする」
「それがきついわな」
「うん、きつい。負けの途中では、無駄負けはできるだけ避けなければならない。誰だって多かれすくなかれ、その気でやっているはずだ。負けてもいいと思っている者はない。だが、負けまいとしてやって、負けてしまうときがある」
「うん、勝てないときというものが、あるみたいだね」
「そうだ。負けるときというより、勝てないときだ。そのときに地力の相違が出てくる。勝てないときに、むろん出費をすくなくするわけだが、いつまでも勝てないときが続くわけじゃない。眼に見えない県境みたいなものがあって、いつのまにか、ふっと、そこを乗り越えている」
「それは、どうやってわかるの」
「そこが問題だな。ばくち打ちは、そこの感覚を磨こうとして、みんな苦労するんだ。それは言葉で簡単にいえることじゃないから、このあとでじっくり説明するが、まず序論を頭に叩きこめ。勝てないときの向う側に、勝てるときがある。そこで、実をとりはぐれてはいけない」
「ああ、いつかの競艇場のようにね」
「そこでどのくらい取れるか。縮小作戦のままで少ない実をとるか。すばやく感じて大張りに出るか。これが、腕だ」
「そのタイミングは何で定める」
「だから、お前の実人生でいうと、今、お前はあらたに病人を抱えた。それから、俺、この厄介な隣人を抱きこんだ。それから、花枝さんもだ。マーヤも入れてもいい。マーヤのお腹の子もかな。とにかくお前が背負ってしまった荷の分は、ここで確定したマイナスということができる」
「ぼくはべつに、師匠や彼女は、荷物と思ってないぜ」
「いや、お前は、勝ち運を一緒にひきこんだつもりかもしれないが、それぞれの勝ち運はそれぞれの勝ち運でしかないよ。お前は自分の勝ち運をうまく使うことでしか、しのげやしない。ところが、俺たちという荷がお前の負に作用しているために、ちょうど俺たちの勝ち運を吸収したような恰好で、お前は今、ある程度の勝ちをおさめるだろうよ」
「じゃァ、荷物を抱きこめばいいのか。そんな簡単なことかね」
六
私たちはハムエッグを喰い、インスタントのコーヒーを呑んだ。
花枝はさかんに卑下したが、卵はけっこう半熟にまとまっていたし、パンもねっとりと口になじんだ。
「簡単なことじゃないさ――」と私は説教をつづけた。
花枝は、遠慮するかのように話に加わらない。
「又、話をばくちに戻そう。勝てないプロセスの中で、無駄な出費があれば、つまり本質的な負け以外の負けがあれば、切り返せるときに、いかに立ち直っても勝ちがおよばないだろうな。ばくちは無限に近く無駄張りができる。負けは無限の可能性があるが、勝ちは無限とはいかない。相手の意思があるし、大張りの限界もある」
「それはわかってる」
「いや、ちゃんとわかっている奴は居ないよ。もしわかっていれば、負けるプロセスの間は一銭も張らずに|見《ケン》をしていればいい。ところが|見《ケン》をしていたんでは、県境がどこかを見逃してしまうんだ。逆説のようだが、負けるべき負けは、負けてしまわなければならない。そうでなければ勝てるべき勝ちをちゃんと|掬《すく》うことができない」
「すると――、師匠の説を手短かにまとめると、勝負というものは、負けたり勝ったり、でしかないということになるね」
「そのとおりだ」
「全勝はできないのか」
「普通はできない。それは理想だ。一生を通じて、災いに会わない者は居ないよ。そのかわり、全敗もない」
「多くの人は、負け越すぜ」
「ああ。本来は皆、トータルでは五分五分そこそこの筈だが、大部分は負け越す。それには二つの理由がある。一つはテラ銭(ゲーム代及び税金)だ。もう一つは、本来の星にエラーが加わる。四勝六敗ですむはずのものが一勝九敗になる」
「そうだとしても、ぼくが背負った荷の分だけは勝てるというなら、結局は原点じゃないか」
「さっきからいってるだろう。五分五分そこそこが本来だと」
「勝てるというのは、原点になることか」
「そうだよ。負けるというのも、本来は、原点になることのはずだ。勝ち進んで、ふっと県境を越してしまうと、今度はまるでバランスをとるように、ツキが離れてしまう。息を吸ったり、吐いたり、だな」
「なんだ、原点なのかね」
「原点でいいじゃないか。それが生きるということだ。また、生きていくために、人は誰でも、しのいでいかなくてはならないから、ばくちをやろうとやるまいと、ツイたりツカなかったりしているんだ。ただ、さっきいったように、エラーというものが|介在《かいざい》するから、そのへんが微妙な収穫になって、原点そこそこでも多少の相違がある。で、そこを狙って、いずれも辛抱をして、自分はエラーをしないように、相手のエラーを待つか、あるいは積極的に誘発するようになる。その方がレースが楽だからね。だが、手が揃えば、エラーはすくない。そこで辛抱ごっこのような観を呈するよ」
「勝って原点、負けて原点、か。なんだかあまり鼓舞されないな」
「正確にいってるだけだ」
「それじゃァ結局ペシミズムだね。技術なんてものの余地はないわけだ」
「わかりのわるい奴だな。というより、お前は俺のいうことを諒解したくないんだな。皆が知っている技術なんか、技術でもなんでもないよ。技術というのは、本質を認識してちゃんと対応していくことだ。皆より一歩でも深くな」
「それで、師匠は、いいとこ原点のつもりで、若い頃からこの道一本に賭けてきたわけかい」
「この道だろうとどの道だろうと同じだが、むろん俺だって、いいとこ原点が目標じゃなかったさ。なんとか勝ちこもう、なんとか生き残ろうと思ってやってきたんだ」
「それで、年齢を喰ってみたら、いいとこ原点とわかったわけか」
「そうともいえるな。ところが原点というやつが、ひととおりじゃなくて、千差万別、人間の数ほど種類があるんだ。若い頃は俺もな、物事は勝ちと負けがあると思っていたんだが、だんだんそれの実態が見えてくる。勝ちといったって、無限に近く形があるんだよ。早い話が、トップをとって勝ちだと思う奴も居る。べつの奴は、充分楽しめたからこれでいいと満足してる。不ツキのわりに負けなかったなと喜んでいる奴も居る」
「そんなことないよ。勝たないで、何が嬉しいものか」
「客観的にいってもだ。その夜のことが原因で身体をこわす奴だっている。まァいろいろだよ。今の俺の実感でいえば、お前にエラーをさせたくない。人生は所詮、いいとこ原点だが、それ以下の人生はたくさんあるからな」
ヒヨッ子は、花枝の方を向いていった。
「どうだい、そう思うかい」
花枝は笑って、ただ首を横に振った。
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一
「あたしも何かいっていいの」
私は笑って花枝を見た。
「お前さんのいうことは想像がつくが、まァ唄ってみな」
「どっちにしてもいいとこ原点だ、というこのおじさんの意見は、わからないことはないわね。意見としてならむしろわかりやすいわ。だってあたしが今まで見てきた人たちも、誰一人、ばくちを打ってああよかった。なんて思っている人居ないもの。皆、これで勝ったなんて思ってないわ。相当に強い人でも、まだ続きがあって、結果なんてほんとにやめるまでわからないと思ってる。そうして、多分、年をとったり、負けたりして、ある日やめざるをえなくなるんでしょう」
ヒヨッ子は私の隣りで、だまってコーヒーを飲んでいた。
「おじさんは何十年もばくちを打ってきて、いいとこ原点だ、というひとつの囲いをつくったわけよね。それは一種の悟りだわ。でも悟りってのは、実用的じゃないわね。すくなくともあたしは無関係」
「それで――?」と私。
「あたしは勝ってるし、勝つからやってるんだわ。とことんまでやれば、あるいはいいとこ原点かもしれないけれど、勝てなくなったら、ばくち、やめちゃうもの」
「そりゃァいい。お前さんは女だものな」
「ええ。でもこれがあたしの方法論よ。それ以外に方法なんてありっこないわ」
「皆そういうんだ。いざとなったら死ねばいいんだ、ってな。だが、簡単に死ねやしねえさ」
「おじさんも頭がわるいわね。これは方法論よ。あたしは認識なんていってないわよ。勝てなくなったら、やめる。そう思って、その計算でばくちを考えてるのよ」
「やめて、どうする」
「やめたときのことなんか考えるもんですか。だからあたしは、負けっこないわ。正確にいえば、一回だけ負けるの。それで終り。そこまでは張っていくの。丁にでも半にでも、どしどし張るわ。だって負けっこないんだもの。それではずれたら、おしまい」
「お前さんの考えは、ちっとも目新しいところなんかないんだよ」と私はいった。「そうだろう、ヒヨッ子。お前もまァ大体、この女の子と一緒の線だろう」
「――俺は少しちがう。でも、師匠からみると、一緒に見えるだろうな」
「世の中にはたくさんのヒヨッ子たちがいて、大体そういう線で争っているんだ。だからな、おねえちゃん、お前さんのその方法論というやつは、大勢がそうやっている以上、技術でもなんでもないんだよ」
「じゃァ、何故、あたしは勝ってるの」
「知るもんか。どんな勝負にだって刻一刻の勝ち負けはあるさ。十五日間の土俵で、五日目まで全勝の奴も居る。逆に一勝四敗で、あとで勝ち出す奴も居る」
「それはどうかしらね。データはデータよ」
「いや、単なるデータさ。勝てば上位とぶつけられる。俺はたしかに、おねえちゃんが現在、勝ち続けているのを見て、そのつもりで警戒しているよ。だがそれは、お前を相手にする俺の問題としてそうしてるんだ。お前さん自身の問題として考えてるわけじゃない」
「あたしはとにかく勝ってるわ。それはたしかよ」
「ところがお前さんが自分のことを考えるときは、トータルの問題で考えなければならないんだ。トータルで勝つために、今どうするかだ。五日間勝ち放しというのは、相手側の俺たちが見るデータで、お前さんとしては、十五日間で結局八勝七敗にこぎつけることなんだよ」
「あたしはとにかく、一敗でやめるのよ」
「五勝一敗でか」
「ええ、そうよ」
私はヒヨッ子に眼を移した。
「お前はそういかないだろう。お前は男だからな」
「そういかないだろうな。というより、そうはいかないと思って、戦っていかなくちゃならないだろうな」
「強いとか弱いとか、お前たちはいってるが、それは予選の考え方なんだ。ヒヨッ子同士なら、まァ強い弱いもあるだろうね。だがそうやって準々決勝、準決勝と進んでいくうちに、弱い奴なんか居なくなる。強いというのは特徴じゃない。かりにあるとすれば、現在のおねえちゃんのように、初日からたまたま勝ち放しの奴だ。だがこれは、どこまでも連勝できない。これに勝つのは、すぐにでなければ、そうむずかしくない。いつかは勝てる」
「なにもかもうまくいくことはない、というのが師匠の唯一の物指らしいね」
「まァきけよ。逆にいうと、刻一刻の勝ち負けが出るのは、おねえちゃんみたいな存在が準々決勝あたりには混じっているからだ。ヒヨッ子の高走りがな。あとは、勝ち負けなんか、つかねえんだ」
「勝負なしかね」
「ああ。正確にいうと、負ける奴は居るが、勝つ奴が居ねえんだ。木刀を持って、ただにらみあってるんだ。いつまでも。それで、バランスを崩した方が負けさ。何が尺度になるかというと、時間だよ。時間稼ぎだ。そのうちに、時間切れで、おのおの、トータルが出てしまう。刻一刻の状態でいえば残る奴は居るんだが、トータルの成績を比較すると、自分も相手も似たり寄ったりなんだ」
二
「――こうやって三人で居ると」
とヒヨッ子がいった。
「もう一人、呼びたくなるな」
「呼べばいいじゃないの」
と花枝。
「ところが、今はまずいんだよ」とヒヨッ子は時計を見ながらいった。「今日はじめて、解体屋としての入札があるんだ。ぼくはもうそろそろ行かなくちゃならない」
「それで、落ちそうなの」
「多分ね。というのは、ゴミみたいな小さな仕事なんだ。どの解体屋も今は景気がいいから、そんな仕事にさほど執着してないからね」
「安上りを狙うのね」
「ところが安上りの方が、その規模なりに儲かるんだ。規制がうるさくないから。――じゃァ、ぼくはちょっと行ってきます。二三時間で帰ってくるから、それから誰か呼んで、一戦やってもいいな」
私は畳の上に、ごろりと転がっていた。大通りから少し入っているので、車の音もほとんどきこえない。
「――おじさん、眠るんだったら、毛布かけてあげましょうか」
「ああ――」
しばらくの間、ここに居るのも悪くはない。なんといっても、持主と諒解がついたところに居るというのは、平和な空気がただよっていて気持が安らぐ。
けれども、晴れやかな気分からは遠かった。私は、喰う寐る着るの三つともに、安定させたいなどと思わない。そう割り切って迷いがないわけではないが、さしあたって、喰う寐る着るはどうでもいい。
私は、その方角ではないことで、充足したかった。
これが自分だ、と納得できるような、何かをやりたい。
けれども、私は今、何もやることがない。
ばくちで勝てなくなったら、やめる、と花枝はいう。
やめて、どうするか。
私はそれを、もう長いこと、自問自答している。
答えは、ありそうで、ない。画に描いた餅のような答えならば、ある。けれども、人間というやつは、そう思ったからといって、おいそれと何でもできるというわけではない。
「おじさん――」
と花枝がいった。
「寐てないの。眠れないの。まァそれはどっちでもいいけれど、ひどく疲れてるみたいよ。眠れれば眠った方がいいわ」
「おねえちゃんは、いったい何故、ヒヨッ子一座に加わったんだね」
「一座――? べつに座員のつもりじゃないわ」
「そうかね。それじゃどうして、ここに居るんだ」
「ホテルに泊るより面白いでしょ」
「じゃァ、広島に帰れば忘れちまうか」
「どうかしらね。でも広島には、どうせ帰るわよ」
「帰って、ベンちゃんの嫁になるか」
「そんなこと、考えたこともないわ」
「じゃァ、お前さんは、何なんだ」
「あたしは――、今のところ、ばくち場の女ね。但し、勝ってる女よ」
「そらみろ――」
と私は気弱くいった。
「五勝一敗でやめられるもんか。五勝四敗でも、五勝六敗になっても、そう簡単に、一度深くなってしまったものを、やめられやしねえよ」
花枝は何も答えずに、じっとしていた。
「悪いことはいわねえぞ。今、やめろよ」
私はちょっと言葉を切って、もう一度くりかえした。
「ばくちをやめな。今がやめどきだ。全勝だと思っているうちにやめるんだ。一敗でもしてしまえば、もうやめられやしない。あとはずるずるべったりだ。今ならやめられる。やめることで、お前さんの勝ちが確定するんだ。ばくちで勝つたったひとつの道は、全勝しているときにやめることだよ」
私は毛布をはねのけて、起きあがった。
「それでな、男をみつけろよ。男と一緒になったからって、幸福になんかならねえぞ。結局は、原点そこそこだ。だがそれでも、ばくちを打ってるよりはいい。原点を守りやすい。ばくちじゃ、お前さんは死ぬよ。なぜかってえと、勝つ味を知っちゃったからだ。今が一番危ないのさ。勝つ味を知っちゃって、負け方を知らねえ。そこそこ原点だということがわかってない」
「ありがとう――」
と花枝はいった。
「年上の人の言葉って、やっぱり実感がこもっているわね。でも、おじさんも、大事なことをいってくれないわ。やめて、どうするの。どうやって男をみつけるの。ばくちで勝っちゃってる女が、ばくちを捨てるくらいの男をみつけられると思うの」
「しかし、お前さんは女だ。女にはまだ、この男のために生きよう、って道があるだろ」
「そうかしらね。男も女も一緒じゃないかしら。むしろ女の方が困るわよ。ただでさえそんなに簡単に生甲斐なんかみつからないのに、行き方が限られてるんだものね」
「そう思うなら、絶望だな。お前さんは群を離れた|縞馬《しまうま》だ。喰いころされちまうだけだ」
「おじさんはどうなの。なぜ、いつまでもそんなことをしてるの。さっさとやめて、もっと平凡な、誰でもしているようなことをして生きればいいじゃないの」
「うん――」
今度は私が、言葉をつまらせる番だった。
三
私は、のろのろとダイヤルを廻していた。先日の若社長と称する金持の家だ。電話番号を記した紙片が、まだ私のシャツのポケットに入っていた。
「べつに、ことさら当てにしているわけでもないんで、御用がなければいいのですが――」
と私は口ごもりながらいった。
「あのとき、カジノ旅行のコーチをおひきうけしたような気がするんで、一応かけてみたわけです。ただし、私は志願しているんじゃありません。退屈まぎれにお電話しただけですから」
「ええ、こっちでも探していたところなんです。貴方の居所がわからなかったものですから、連絡なしですみませんでした」
「いや、こちらこそ――」
「一応、私の都合もあって、今月の末に出発と定めました。もちろんこちらは当てにしておりますから、そちらのご都合さえよければすぐに旅券をとる手続きをしてください」
「お邪魔でなければね」
「邪魔どころか、貴方が来てくださるのを楽しみにしていたところです。それから、あのときの娘さん、何といったかな、同行申込みを受けましたが、彼女はどうなんでしょう」
「ちょっとお待ちください。今、ここに居りますので――」
私は受話器に掌で蓋をして、花枝にいった。
「おねえちゃん、カジノに勝負しに行くのかね」
「この前の話ね。もちろん、行くわよ」
「行くそうです――」と私は受話器に言った。
「では早速、旅行社に連絡してください。向こうの宿の問題もあって、もうぎりぎりの日限です」
「早速そう伝えます。それから、この前の若い学生がお世話になってるそうで」
「ああ、あの若者ね。なに、こちらは負担にしておりませんよ」
「彼も同行するといっていましたか」
「いや。行かないでしょう。彼はこっちで自分の勝負がはじまりかけたところですから」
私が受話器をおくと、待っていたように花枝が切りだした。
「ヒヨッ子さんて、ひとつ魅力があるわね。あの人はばくち以外にも、することがあるわ」
「ちょうどうまい条件があったからな。それでなければあぶないところだったろう」
「あの資本家に気に入られたこと――?」
「いや。資本家はべつに、ただ気に入ったわけじゃない。彼に何かを与えたわけでもないさ。ああいう関係は一見そう見えても、よくいって原点そこそこだ。もっともヒヨッ子は好運と考えているだろうけどね」
「好運でしょう」
「そうだな。進路を切りひらいてもらって、有形無形の借りを背負う。ヒヨッ子はそれを返していかねばならない。もちろん当然だな。しかしその当然のことでまた借りを背負う。それを返す。また借りができる。次第にその関係が大きなスケールになる。それが成功というやつさ。失敗したらどうかというと、やっぱりほぼ同じことなんだ。借りが増えていって、だからその借りを埋めなきゃならない。いくらか手順がちがうかな」
「それは仕方がないわね」
「それが人生だともいえなくはないな。すくなくとも現状では」
「じゃァ、何がうまい条件なの」
「女房の母親が病気になったんだよ。実の母親じゃないが、それだからこそかえって、彼はその気になったんだ。自分のことになるとそうもいかないが、他人のために何かするというのは張り合いのあることでね。勇気や決断がわりにすんなり出てくる。自分の母親だったら、まだいくらか甘い気分で、ばくちに勝とうなんて考えてたかもしれないな。女房の母親だから、さっと動けた。病人を抱えること自体は災いだが、そこそこ原点にはしてるよ」
「おじさんは、そういかないの――?」
「うん――」
私はまた口ごもった。
「家族や友人や、愛する人たちを持つということは、こういう点でいいんだな。俺は、うっかりして、お荷物を背負わなかった。そうして、年をとってしまったよ。俺はもう楽しい日は来ない。縞馬を一撃で倒したり、虎や象と全身で戦ったり、そういうことはできない」
「そう思ってるだけじゃないの」
「今のままじゃ変身するきっかけがないからな。何ができるかというと、逃げ隠れができるだけだ。隠れて、くそ面白くもなく長生きする。それが手順だよ」
「それならいっそ、死んじゃったら」
「いや、それが手順だ。なぜかってえと、原点そこそこを持続させること、それが俺のこれからの生き方なんだからな。今度一緒にカジノへ行くんなら、見ていろよ。俺のやり方は徹底的に、持続がポイントだよ」
私はそういって苦笑した。
「どうしてかな。俺は市民になろうとしないが、ばくちの場では、もう、小市民のやり口しかできないんだ――」
四
ヒヨッ子は夕方近く、元気な足どりで戻ってきた。
「どうした。入札はすんだのか」
「それがね、大笑いなんだ」
とヒヨッ子はいった。
「飯はまだだろう。今、|鰻屋《うなぎや》に寄って三つ持ってくるようにいったから。開通を祝って鰻で乾盃しよう」
「開通とはなんだ」
「開通式さ。会社が動きはじめたんだ」
「つまり、落札できたんだな。へええ、そんなにチョロいものなのか」
「テキは三階建の小さなビルだが、持主の女がばくち狂いでね、ばくちならどんな相手でも無鉄砲無差別。俺たちと今夜やろうというんだ。鰻を喰って出かけよう」
「調子のいいことばかりいいやがって。落札は本当か」
「本当だよ。ぼくは仕事では適正利潤しかみない。二割五分の上乗せしかしない。これはもう非常識な安さなんだ」
「二割五分でか」
「ああ、大体は三割五分から四割かかってるよ。|解体屋《こわしや》なんて商売は特殊だから、素人にはどれくらい実際にかかるかわからない。業者はボれるだけボってる」
「しかし、それじゃ他の業者が怒るだろう」
「怒るだろうな」
「適当に足なみを合わさないと、やりにくくなるぞ。どの商売でも安売りは秩序無視だといってとっちめられる」
「今はいくらでもこわすところがあるからね。連中はこんな小さな仕事なんぞにこだわらない。それほど気にしてないよ」
「まァいい。どうせ俺の知ったことじゃない」
「そういわないでくれよ。師匠だってこの会社の一員だぜ」
「俺は入社しないよ。ただの居候だ」
「入社したんじゃない。師匠の人生に会社の方が入ったのさ」
「お前、わりに口がうまいな」
「国立大学だからな」
「国立大学って――」と花枝がいった。「口が達者になるところなの」
「国立大学すら落札したんだ」
私たちは鰻を喰い、ガソリンを|充填《じゆうてん》した気になった。
「よし。お前はビルをこわしな。俺はその女をこわそう」
「種目は何なの」
「麻雀――」
「とはいうものの、この三人だって真剣勝負(ヒラ)だろう」
「もちろん――」といってヒヨッ子は花枝を見た。「今度は負けないよ」
「お前は楽天的だなァ――」と私はいった。
「三人で行けば、負けるのはその女ばかりじゃない。こっちの三人のうちの一人も負け組に入るだろう」
「そうだね」
「お前は自分の会社に勝ち運をつけるつもりで俺たちを引き入れたんだろう。三人がいつも勝つようなメンバー構成を考えなくちゃ、会社に負け運がつくぞ」
「なんでもいいんだ。どうせぼくが一番勝つんだから」
「ヒヨッ子さんはビルをこわす。おじさんはその女の人をこわす。じゃ、あたしは、この突進組をこわすわ。ヒヨッ子さん、この会社は開通式だけで、破産よ」
私たちは青山通りを|上《かみ》から|下《しも》に流れて、そのビルに向かった。
「女ってのは、若いのか」
「若ければ娘っていうよ。つまり、女、としかいいようがないな。亭主と最近別れてそのビルを貰ったんだ」
「なかなか豪勢な亭主なんだな」
「いや、もともとは、彼女の母親の持物で、結婚と同時に亭主が相続したんだな。師匠、師匠にお似合いかもしれないよ。どう、彼女をハメたら」
「いやなこった。俺はヒモにはなれないよ。わがままだから」
なるほど、そのビルは小さかった。ビルというより洋風マッチ箱住宅だ。エレベーターもないので、三階まで階段を昇った。そうしてヒヨッ子がベルを押し、私たちは請じられて部屋にあがった。
「――うっふっふっふっ」
と笑う声がする。部屋の主ではなくて鳥籠の中の九官鳥が笑ったのである。
「うっふっふっ。ヤバイよ。ヤバイよォ――」
九官鳥がそういった。
家政婦らしい中年の女が牌を運んで来、奥の部屋の卓に、タロットカードの女王のような恰好で女が居た。
「いらっしゃい。それじゃ早速はじめましょうか」
私は九官鳥を眺めていた。
「――うっふっふっ。往生さ。往生さ」
九官鳥はご機嫌のようだった。
五
妙な麻雀だった。
私が卓を囲む相手は、レース駈引きに通じたヴェテランが多い。全員がそうでなくともそうした相手が必ず含まれている。なにしろ並みのレートではないことが多いから、無鉄砲な打ち手はすくない。
ところがこの夜は、相手三人とも、ばんばんと勘打ち、荒打ちをしてくる。女主人は以前に麻雀なんとか連盟の段位を貰ったことがあるそうで、それ自体はこの場合なんの意味もないが、多分、戦闘的になるばかりでもない打ち方だってできるのだろう。ところがその夜は、ヒヨッ子と花枝が競うように危険牌を打ちだしてきて、しかもそれが当らないものだから、すっかり気を立ててしまって、彼等の手の仕上りの早さに負けずに、ストレートの荒打ちでくるのだった。
私としては、もう少し行儀のよい麻雀を打ってもらった方がありがたい。行儀のよい麻雀というのは、荒打ちしないで、しぼるべき危険牌は停め、お互い廻りっこをするような麻雀である。相手にそう打って貰って、しかるのち、私が積極的に出ていきたい。
普通は、荒打ちしてストレートにテンパイしたから勝つとは限らないのである。むしろ、オリないのであれば、負ける方が多い。ただ、ツイていて自分ペースになっているときは攻め勝ちする。ツイていなければ大敗だ。しかしこの場合、勝つのは他の三人のうちで一番ツイている人である。
ツキ麻雀のペースになってしまえば、誰が勝つかわからない。私がツイていればよいが、そうとは限らないし、ツキに関しては最盛期に入っている若い連中が居る。
私はなるべく、私が勝てる麻雀をしたい。そのためには、私を怖がって皆がオリに廻ってくれるのがよい。以前はそういうパワーが私にもあった。また、そのパワーを目立たせるためのイカサマ芸もできた。
今はそれができない。しいて汚ないことをやるだけの気力も失せたが、それよりなにより、一般に|技倆《ぎりよう》があがって、イカサマなど通用しなくなった。
多分、若い二人は、部屋の主の女の次にカモりやすいのは私だと思っているだろう。私を苦戦に追いこむには、豪速球でびしびし押さえつけるに限る。カーブなどの技巧的な球は、私はうまい負けしないからなんとかミートしてしまう。
はじめの半チャン二回は、私が出おくれてわるかった。花枝とヒヨッ子が一度ずつトップをとっていたが、女主人もけっして見劣りしなかった。ほんのちょっとしたリーチ負けなどで、二度とも二着に止まっていた。
「うっふっふっふっふっ――」
と彼女は九官鳥と同じような笑い声をたてた。そうしていかにも遊んだらしいかすれた声でこういった。
「ほんとに牌ってのは生きてるみたいねえ。思いどおりにならなくて、かわいいよゥ」
彼女は手牌をひろげてみていった。
「ホラ、この、見て」
彼女はを捨てている。そうしてその局ツモあがりした花枝は、を切ってリーチして一発であがったのだった。
「これだからあたしはばくちがやめられないのよ。ここでの待ちにどうしたってとれないものねえ。それで結局、最後のが出てくるんだから。きっとそうなのよ。ああ又、そうなるんじゃないかなァ、と思いながらを打てずに常識の線を行っちゃう。コクがあるわねえ。現実ってのは偉大ねえ。ゆきさん、水割り持ってきてちょうだい」
次の局、私は国士無双を狙っていて、わりに早くにイーシャンテンになり、何種類か字牌をあましていた。
けれども相手三人ともそれを意識のうちに入れていて、字牌や一九牌に関して神経が張られていた。
私はずっとツモ切りしていた。十巡目をすぎた頃、ヒヨッ子が、やはりツモ切りのまま、不意にリーチをかけた。
下家の女主人のところで、ちょっと手がとまった。彼女はヒヨッ子の捨牌を|一瞥《いちべつ》して、とが捨てられているのを見て、を切った。
「ロン――」
とヒヨッ子がいった。
「アッ――」
と女主人は小さく叫び、ひしゃげたような笑いを浮かべた。が表ドラ、が裏ドラだった。
国士無双の色が濃い場で、|変《ヘ》則|待《ン》|ち《タ》は当然予想される。けれども、国士に打ちこむかもしれない危険を冒してリーチをかけてきた以上、タンヤオ手ではなかろう。端牌や字牌をかなり使って手役を造っていると見る。端牌に神経が行っている分、中メンツ(四五六)の筋に対する警戒がおろそかになってくるわけである。
私は眼を光らせて、女主人の打ったを眺めていた。
すばやく場の色を読んで、ハメ手のリーチをかけてきたヒヨッ子のワザを祝福したわけではない。ワザあり一本で、やっと本ペースの麻雀になってきたな、と思ったのだ。女主人は、このあたりから後退するだろう。
次の局、女主人はリーチをかけ、ヒヨッ子がすぐに追っかけリーチに行った。ヒヨッ子は自信に満ちた動作で勝負に行ったのだろうが、三巡後に女主人の当り牌を持ってきた。「それ――」と彼女はいった。「アツイねえ。ツモらなくちゃしようがないのよ。出りゃァただの満貫さ」
彼女の手はツモリ四暗刻だった。
すぐ次の局に、今度は女主人が、ヒヨッ子の面前ホンイチヤミテンに放銃した。
私は女主人にならって、このへんがコクのあるところだなァ、と思っていた。
五分に打ちあっているように一応は見えるが、飾りをとってみると、女主人の敗色歴然たるものがある。彼女は急坂を転げるように衰運に向かっているのである。
けれども何事もそうだが、昇るにせよ、落ちるにせよ、表面はジグザグコースに見えるのである。
六
女主人の手もとの水割りのグラスが、さかんにお代りされた。
あとの三人は誰も呑んでいない。
彼女は敏感に落ち目を意識したらしく、いっとき手を廻しておりるようになったが、ヒヨッ子と花枝が早い手で攻めるので、そうなると私以上にあがれなかった。
彼女は勝気らしく、若い連中に挑むように、すぐにまた突っ張りだした。
ヒヨッ子と花枝と二人リーチの局面で、
「ヤバイか――!」
女主人が、ばしッとを切った。
「ヤバイ――」
といって、ヤミで張っていた私が手を倒した。ほとんど同時にヒヨッ子も手をあけた。
私がタンピンドラ二丁。ヒヨッ子が穴の三色で裏ドラ二丁。二塁打ありのルールである。
「――さがっちゃ怖いや」
女主人はそう呟いて、束の間、自分の手牌に眼を落していた。ヒヨッ子がすばやくその手をのぞき、チラと女主人の顔を見あげた。
「いいんですよ。あたしは泣かないの。はい、おいくら――」
ヒヨッ子は私たちの方を向いて、
「また、ツモリ四暗刻だ――」
といった。
けれども私は彼女の手に無関心だった。誰にだって同じようにいい手は入る。彼女のところにはいい手が入るだけで、当分主導権はとれない。彼女の手など見る必要はない。
もし毎回、のぞきが許されるならば、ヒヨッ子と花枝の手を見たかった。|場況《ばきよう》と見くらべて、次の場面でヒヨッ子が現在の主導権を持続していくのか、それとも花枝が上昇運をたくわえていて次の場面をさらいそうなのか、それが知りたい。
「お前さんたち――」と私は二人にいった。
「今日はいやにおとなしいが、この前みたいに差しウマは行かないのか」
「あたしはなんだって受けるわよ。でもヒヨッ子ちゃんが来ないでしょ」
「――行くよ」
とヒヨッ子は私の方をチラリと見ながらいった。
「でも今はぼくのペースになってるからね。ぼくからはいえない」
「それじゃ、次の回から行かしていただきます」
花枝が片手をさしだして、ヒヨッ子と握手した。
「その片手、いくらなの――?」
女主人が金額をきいて、
「とおり――!」といった。
「受けました」
「聞いた」
若い二人がそろって答えた。とおり、というのは同じ条件で自分も参加するということだ。
「総ウマにしようか――」
三人がいっせいに私を見たが、私は乗らなかった。
「俺はいいよ。年寄りだから。持続してればいいんだ」
差しウマ、それもお互いの功名心が大きくからんだウマが有ると無しでは、場況が非常にちがう。
八方破れの女主人はともかくとして、ヒヨッ子と花枝はお互いの直撃を狙ってヤミテンが多くなるはずだ。リーチは特殊な手か、変則待ち、三面待ち。ワザが仕組まれたリーチと考えて対応していけばよい。問題は、ヤミテンに対する処理だ。
どこで、テンパイしたか、それだけを注意していく。完全安全牌が手のうちから出た時点。あるいは、お互いに危険と思える牌をひっそりと強打してきた時点。そこからテンパイと考える。
ウマを行った以上、女主人はもちろん、花枝もヒヨッ子も、将来の大計のために足をためていることはできない。どちらもワザをとりに行って、相手のワザに落ちこむ可能性をはらんでくる。
こうして徐々に、ストレートの速い球は姿を消していって、カーブ中心の投げ合いになる。場が技巧的になってくる。そうなれば、私にチャンスが生まれてくるのである。
相手三人の中では、なんといっても、ヒヨッ子が、物を見通す眼を持っている。最初に会った頃にくらべて、格段に進歩しているのをみとめざるをえない。
彼はバリバリ強打してくるが、それと同時に場を見切ることができる。ばくちのワザのコツは|出る引く《ヽヽヽヽ》を不徹底にしないことだ。勝てると思うときは徹底して出る。勝てないと思えるときは、絶対に出ない。この二つの判断さえ当をえていれば、大体よろしい。
女主人はけわしい眼になって、出づっぱりの役者のように、勝負しまくった。多分、女がもう一人入っていなかったら、これほど突っぱらなかったろう。
私たちはふっつり沈黙して打っていたが、ただ箪笥の上の九官鳥がときおり強烈な声を出すのだった。
「――往生か。往生かァ――!」
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一
羽田空港(まだ成田空港などケもなかった頃だ)に私は、着のみ着のままでいった。一応、ポケットに所持金はある。今のところこれが私の持ち金すべてだ。しかし荷物は何もない。
この旅に関する限り、若社長なるものが、私の経費をすべて背負ってくれることになっている。それに対して私は、カジノでの一行のしのぎをコーチする約束になっている。
しかし若社長を中心にして、一行は十何人も居る。ちょうどこの頃から、カジノ旅行がさかんになってきている折りで、その九割九分が、現地に金を落しに行っているようなものだ。
アジアには発展途上国を中心にして公認カジノが数カ所あり、そのほとんどは国情を反映して、極端にいうと、やらずぶったくり方式をとっていた。
ひとつの特徴をあげると、客が持参する通貨は、国際的に信用のあるものである限り、どこの通貨も受けつける。つまり、客は、ドルでも円でも、マルクでもポンドでも、チップを買える。むろん現地通貨でもだ。
けれども客が勝った場合、おおむね、現地通貨でしか支払わない。多くの場合、発展途上国の通貨は、その国の中でしか通用しない。勝っても、持ち帰って自国の銀行が換金してくれないので、やむをえず、旅行中に現地で使ってしまうことになる。負ければむろん手元から消え失せる。つまり、勝っても負けてもその国を潤すことになる。
中には、観光客がチップを買った分だけの外国紙幣は戻してくれる所もある。しかしその場合でも勝ち金は現地通貨であって、したがって客は、負ければパーだし、勝っても自国通貨が増えることはない。
裏道はある。しかしその裏道を踏みだすと、表立っていえば、さまざまの法律違反を犯すことになる。
発展途上国の方からいえば、外国通貨をかき集めるために、カジノを開いて外国人観光客を誘致しているのであって、客の望みどおりいちいち外国通貨を支払っていたのではカジノを許可する意味がないのである。
要するに、国際的な通貨がきちんと通用する先進国のカジノとは、成立条件がちがうのだ。そうして、自国通貨であっても、勝ち金を支払っている以上、ルール違反ではない。また多くの観光客は大銭を賭けるわけではないから、小遣いや土産物を買う範囲の現地通貨を受けとって、それで不服はいわない。外地に来てひと晩のスリルを味わうだけでよろしい。
そういう風潮の中にあって、今回の一行が目指すポルトガル領マカオのカジノは、歴史もわりに古く、娯楽社交場としての先進国カジノ的存在に近かった。
もっとも、先進国であっても、公認賭博場は、現地の人々の生活上の何等かの悪条件を埋める政治的産物であるから、利潤のほとんどは税金に吸いあげられる。一説によると利潤の平均八割強は税金に|醵出《きよしゆつ》し、その残りの三四割は暗黒組織に吸われ、さらに|曖昧《あいまい》な献金やらなにやらがあって、その残りで運営していく。だから、カジノは、存外によく潰れる。潰れないところも運営母体が変ったりする。
やらずぶったくり方式であっても、カジノ自体もまた必死なのである。入場する客の懐中の八割から九割をかっぱいでしまうことを目標としているそうである。
そういうところに十何人の集団を引率していって、全員無事に帰還させるというのは土台が無理な話である。が、とにかくギャンブルコンサルタントとして参加した以上、なんにも手を打たないというわけにはいかない。
私は空港の待合室で、以上のようなカジノの成立条件を説明したのち、こういった。
「外国遠征を試みられる以上、皆さんはふだんからどういう形かでギャンブルに手を出しておられるでしょう。一人前の大人で、ギャンブルにもそれなりの自信をお持ちの方に、私がいちいち手を添えて誘導するわけにはいきません。かりにそうしようとしても、皆さんが承知なさるまい」
「ですから、要は皆さんの心の持ち方ひとつにかかっているのです――」と私は続けた。
「皆さんの所持金の九割を、カジノに落してくるのが普通だとすれば、全体で、その半分、四割から五割の赤字で喰いとめることにしましょう。向うで面白く遊ぶ以上、トータルでそのくらいの赤字はやむをえません。ただし、個人的な成績は別です。一人一人が、自分だけは負け組に入るまいとすればよろしい。負けは隣りの人に負担して貰って、自分は勝って帰る、これは可能性があります」
「必勝法はありますか」
「必勝法はありません。ただ、勝つことができないわけではありません。事実、勝って帰る人が皆無だったら、カジノは客を招くことができなくなって、とうに潰れているでしょう。これを要約すれば、カジノ側は、トータルで勝とうとしているのであって、一人一人を全滅させようとしているのではないのであります」
ツキ女の花枝が、私の発言を聴きながら、チラと笑いを浮かべたようである。若社長は、一応、耳を傾けていてくれる。彼が指名したコーチであるから、聴くのが当然といえよう。それ以外の客の半分は、花枝と同じように、内心で私を嘲っていただろう。
私はべつに気にしなかった。どうせ大半はスッテンテンになって帰る。私としては、責任のがれのためにしゃべっているだけである。
二
私ははじめ、この一行を集めたのは旅行社で、添乗員が引率していくのかと思っていたが、そうではなかった。大川と名乗る初老の男が、この一行のマネージャーなのだった。彼は旅行社の社員ではなく、かといって、若社長の配下でもなかった。
大川某という名刺はくれて、日本語をしゃべってはいたが、どこかに異国の臭いを持っていた。
といって何国人にも見えない。顔は日本人である。我々の言葉で話し、笑う。けれども平素我々が親しんでいる共通の表情というものがほとんど無い。ばくち打ちという奴は、本質的にアナーキーな種族だが、それでもこんな顔を私はこれまでに見たことがなかった。それは故国喪失者の顔といえようか。
大川は、若社長のそばに立って、さりげなく私の発言をきいている。
「――したがって私は、勝つコツを具体的にお教えできません。あえていえば、私が申しあげることは負けないコツですらないのです。ただ、怪我をしないコツ、ということになりましょう。こういうと、いかにも頼りない、改めて口にするほどのことではないように思われるかもしれません。けれども、勝負の要点は、怪我をしないことにあるともいえましょう。私は、免許皆伝の巻物を差しあげる気でしゃべっております」
私は、無表情な大川の眼をじっと眺めながら、語りをつづけた。
「すべて物事というものは、本質的には、興ざめになるくらい物理的であります。ロマネスクに見える場合もあるでしょうが、それは細部現象にすぎません。たとえば、無人島にたった一人で上陸した場合、携帯した食糧は独占できます。しかし二人になると、おのおのは半分ずつしか食べられません。これはもう数理でありまして、それが数理だけでなく見えるのは、全体に眼が行きわたっていないからであります。もちろん食糧だけに関していえば、強弱|乃至《ないし》かけひきによって、六四にも七三にも配分することが可能でありましょう。けれども、食糧は重要であるが我々は食糧のためにだけ生きているわけではないので、他のもろもろの面とつながって得失を考えなければなりません。食糧を六分得るということは、外敵処理の責任を六分負うということになる可能性が強いでしょう。住居の確保にも六分の努力を払わなければならなくなるでしょう。食糧が六分で、他の責任は五分五分という場合にはじめて、利が確定するわけですが、それはかなりむずかしい」
「また、こういうこともいえます。一人の生活が二人になって、一片のパンを二人で半分ずつ喰わねばならなくなったが、一方、会話ができ、愛が生まれ、共同防衛ができるようになった。一人ずつの側からいえば、貿易のようなもので、輸入できたかわりに輸出しなければならない。逆に、また、輸出できたから輸入することもできる。細部ではともかく、トータルでは、一方に偏したままで終るという事象はめったにないのであります。これは原則であります。正確にいえば、これを原則として考えた方が安全度が高まるというものであります。ばくちという奴は、我々の行為の中では熾烈な方に入ることでありまして、熾烈な分、特徴も烈しく現われる。したがって我々は、|片刻《かたとき》も原則を無視することはできません。くりかえしますが、何もかも|都合《つごう》よくはいかないのです。そう思えたら、木を見て山を見ない類の認識と思ってよろしい」
聴き手の中から、総論はよろしい、各論に入れ、という声があった。
「――はい」と私はいった。
「何もかも都合よくはいかない。では、どの面の都合をとり、どの面の都合を捨てるか、その取捨の差引きで利害得失を計算するのであります。これが勝負というものの本質であります。勝った、負けた、と他者に見えるのは、見えた面の細部現象にすぎません。本当に勝ったか負けたかは、本人自身が、トータルで計算しなければわかりません。この旅行の帰路、皆さんはギャンブルの結果をそれぞれ懐中になさっているでしょう。勝ったと思っておられる方も居ると思います。けれども私のようなばくち打ちの計算と、同じ計算かどうか。単に所持金が増えたということだけでは、私は計りません。まず旅行の諸経費、これは当然、元金の一部です。カジノに行かずに、日本で仕事をしていた場合の利益、これも計上しなければならない。元金と一緒にそれらを差しひいて、なお所持金が増えているときにはじめて、利益というものが生まれてくるのです」
「どうせ遊びなんだから、そこまで厳密に考えなくても、とにかく金がいくらか増えているんだからいいや、という方は、勝ちの気分になりたいために、自分の現実を恣意的にまげている人です。ギャンブルは、それ自体が認識ごっこでありますから、細部に至るまでまずもって認識をおろそかにはできません。私はとにかく、この道一本ですごしておりますがね、まず最初にこういいますよ。楽しく遊ぼうとすれば、マイナスは当り前ですな。どのくらいのマイナスで食いとめるかが、勝ったか負けたかということです。その線はあらかじめ、皆さん一人一人が想定してください。但し、楽しく遊ぼうとすることを完全に拒否して、しかもカジノで勝負を続けることがきたら、勝つことも不可能ではありません」
「賭博場とはそういうところです。もし勝とうとするなら、遊ぶ欲望をぴったりと押さえることです。しかも、そのことが、はたして勝ったということかどうか、実際の判定はむずかしいのです」
三
私はそこまでで一応打ち切って、各論は現地でのべるといった。
そうして機上の人となった。私の席は、若社長の隣りだった。
「さっきの演説は見事でしたが、遠征の出発に当って士気を高めるという点で、どうかと思いましたな」
と、若社長がいう。
私は笑った。
「なァに、誰も本気できいてやしません。遠足のときに教師の注意をきいてる奴が居るもんですか」
「しかし、かなり重要なことではありましたね」
「いや、言う必要もないことに近いです。私は団体客をコーチすることなんか、はじめからできないと思っていますから」
「カジノはしょっちゅう行かれるんですか」
「いや、今回がはじめてですよ」
若社長はちょっと黙った。
「――はじめてで、あの演説が出てくるのですか」
「あれはカジノ用のものではありません。ばくちの総論ですから」
「そうだろうが、貴方はカジノに関しては、未経験なんですね」
「しかし私は、ばくちに関しては初心者ではありませんよ。そうして、総論を呑みこまなければ、各論などいかにくわしくなっても意味はありません」
「それじゃ、各論に関しては、僕の方がまだしも知ってるんだな」
「どうですかね。カジノでやってる種目は、未経験ではありませんから。ただ、外国に行ったことがないだけです」
「日本にはカジノはないでしょう」
「進駐軍時代にはたくさんありましたよ。未公認のものが」
「ああ、そうか。それで勝ちましたか」
私はまた笑って見せた。
「とにかく、私は若い頃から裸一貫でしたからね。今もずっとそうですが。すくなくとも負けているようではこの稼業の持続ができません。勝ちらしい勝ちはなくとも、なんとかかんとか今日まで喰いつないできたんです」
「日本のアングラカジノとは、ルールがいくらかちがうでしょうな」
「そうでしょう。しかしどの道、基本は同じですよ。ばくちに祖国はありませんからね」
花枝が背後の席で、そんなに唄って大丈夫かという表情をしているのがわかる。
「それじゃァ、向こうでお手並みを拝見しましょう」
「ええ。私が勝つにしろ負けるにしろ、社長は勉強になるでしょうよ。今回は、せっかくやとわれたんだから、社長個人に的をしぼって、勉強させてあげます」
「僕だって、これまでの成績はそう悪くはないんですがね」
「でも、すくなくとも、賭博場に行って、プロがどういうふうに物事を処すか、実際に見たことはないでしょう」
機内では同行の人たちが、もうポーカーやドボンに打ち興じている。
わずか五六時間、香港につくまでのいっときの間もじっとしていられないらしい。
大川は、まっ白なパナマを顔にのせて眠っているのか、身じろぎもしない。そういえば、大川などという簡単至極な名前も、仮りの名のように思えるが、私は若社長に彼のことは何も訊かなかった。訊いても具体的な彼の実体を、知ってるわけはなかろう。
私は大川に向けていた視線を、ふたたび若社長に向けた。
「――各論に入ります」
「おや、こんなところでまた講義ですか」
「ええ。私は個人教授ですから」
今度は若社長が笑った。
「それなら、どうぞ――」
「カジノは、カジノの都合でやっているのです。けっして客の都合を主体にしているわけじゃありません。ただ客をおびき寄せるために飾っているだけですから」
「また、総論の続きですね」
「いいえ、各論ですよ。我々は、ただ勝手にカジノの都合のまん中に、みずから飛びこんていくわけです。我々としては、ちょっとロマンチックにすぎますね。わざわざ出かけなくたって、日本の国内でもばくちはできるのに」
「貴方から見ると、もったいないと思うでしょうな。わざわざ外国へ金をおとしにいくなんて」
「ええ。本当にそうですよ。でも仕方がないでしょうね。ぼくにはカジノを開くことなんかできっこないんだから」
「我々は、客になることしかできない」
「ええ。ですから我々も、カジノの都合の側から、各種目を一度、検討してみる必要があります。まずはじめに、客を呼ぶための化粧をはがし、次にカジノの都合をすかして、ゲームの素顔を眺めていくのです――」
四
マカオのカジノに行きつくのは案外に面倒臭くて、|香港《ホンコン》からの交通が海路しかない。一番速い水中翼船は一時間余。シーズンには切符がなかなか手に入りにくくなる。
そのため香港でいやでも一泊しなければならない。たとえカジノを目標にしている旅行者であっても、香港に居るうちに、なんとなく多少の金を落してしまう。
若社長の一行も、多分、浮かれて遊んだ人が多かったろう。まァそれは個人の勝手であるし、私の知ったことじゃない。
花枝も、|九竜《カオルン》で十六枚麻雀を打ったとかで眼を赤くし、水中翼船の中では眠っていた。
「――カジノにインチキがあると思いますか?」
若社長が、そばに来ていう。
「組織としては、ないでしょうね。すくなくとも詐欺として客から訴えられる可能性のあるようなことでは、商売として安定しないのでかえって損です。賭博場としてはね、どこの国でも、テラ銭収入に徹することを一番望んでいるのです。つまり、カジノ側が客と勝負する形ではなくて、客同士で遊んで貰って、ゲーム代をとる。日本の鉄火場がそうですね」
「テラ銭だけで運営ができますか」
「ええ、税金その他に吸われるから、そうなるとひどく高額のテラ銭を申し受けねばならない。あるいは、ひどく高額を張って貰わなければならない。テラは分でとりますからね。それでは客を誘致する条件にはまらないでしょう。そこで、テラ銭を申し受けないかわりに、客とカジノが勝負する形の種目を造る必要が出てくるのです」
「客とカジノが勝負すると、カジノ側が勝つのですか」
「ええ――」
「専門家だから?」
「そうです」
「しかし、貴方も専門家でしょう。すると客が専門家と等しいくらいに熟練すれば、カジノは商売にならなくなるのですか」
「うーん、そうとも限らないんですねえ。というのは、客とカジノは五分五分ではありませんから」
「――なにか仕掛けがあるのですか」
「仕掛けといえば仕掛けですねえ。インチキとはいえませんが。昨日、カジノは彼等の都合で開設されているのだ、と申しあげたでしょう。客は、彼等の都合に合わせて戦わなければなりません。我々はこれをハウスルールと呼んでいますが、テラ銭を申し受けない種目は、すべてハウスルールになっているのです」
私たちは、マカオで一番大きいホテル・リスボアのフロントから、暗い海のようなカジノを眺めていた。
「ごらんなさい、社長。バカラとポーカーをのぞいて、他の種目はゲーム代を取っていないでしょう。勝手に遊んでください、といっています。ルーレット、ブラックジャック、大小、スロットマシーン、これらはすべて賭金の小さい大衆ゲームです。このレートで、たとえば五分のゲーム代をとったところでいくらにもならないし、そのくせ客にとっては痛い出費として目立ってしまうのです」
「ですが、それ以上に出費するのでしょう」
「ええ。負けるという形でね。負けるのは自分の責任だから、自分で納得する。しかも、ハウスルールはそれぞれ工夫されて、一見、客の方が有利な条件にできているように見えるのです」
「なるほど、|賭金《レート》の大きいバカラは、五分のテラ銭をとっていますね」
「賭金が大きければ、テラ銭で充分採算が合うのです。そのかわり、客の頭数が限られますがね。どこのカジノでも、バカラをやる客を一番大事にしますよ」
「しかし――、私もバカラで遊んだことがあるが、テラ銭もとるけれど、ハウス側が勝負に関連しますよ」
「いや、勝負には結局、深くは関わりません」
「そんなことはない。あれは丁半賭博で、両方の賭金の額を合わさないから、差額だけハウス側が勝ったり負けたりします」
「それはそう見えるだけで、ルールの化粧なのです。まァそれはあとでゆっくりと説明しますが、社長は、いつも主に、どの種目で遊ぶのですか」
「私はブラックジャックですね。あれは、ツケば勝ちやすいですから」
「ブラックジャックね――」と私はいった。
「それじゃ、まず、ジャッキーから各論に入りましょう。その前に、この室内の景色をぐるッと見てください」
「室内を、ですか」
「ええ。何かわかりましたか」
「わかったかとは、何がですか」
「ここの特徴をいってください」
「特徴、ね――」
「賭博は徹底的に認識の遊びですからね。実体というものは、いつも認識の先を行っているが、それだからこそ認識も深める必要があるんです。さァ、特徴をいってください」
「――ふうむ。まだ、着いたばかりでね」
「むずかしく考えることはありませんよ。ここはホテルです。ホテルカジノです。私たちは、身柄をすっぽり、何日間かここに預けてしまったので、一時間やって、ツイて勝ったからといって帰るわけにはいきません」
「なるほど、そうです。東京で麻雀をするのとはちがいますな」
「もう、ハウスルールがはじまってますよ。社長は今、ツケば勝てるといわれたが、三日も五日もべったりツキどおしということはむずかしいでしょう。だから、偶然のツキを当てにするわけにはいきませんね」
五
一行揃って食事をし、この旅の前途を祝してから、野球選手がグラウンドに散るように、皆、思い思いの方向に散った。
若社長は、ブラックジャックの卓につこうとした。
「ちょっと、運だめしに――」
「まァまァ、まァ――」
と私は若社長の手をひっぱるようにして、卓から身体を離した。
「ホテルカジノですからね、慌てることは少しもありません。出立の朝に浮いていればいいんでしょ。今ツイたって、なんにもなりませんよ」
それにね、社長――と私はいった。
「それに、ツイてるようなときには、やらない方がいいです」
「な、なんですって――!」
「今のところ、ブラックジャックに関する社長のキャリアでは、自分のツキに即応することができにくいんではないですか」
「それじゃ、ツイてない方がいいんですか」
「まァ、普通の状態のときが一番やさしいんですよ。セオリーはそこを基準にして考えてあるんですから」
「そうですかねえ」
「さて、ブラックジャックです。もちろんカジノではどこも国際ルールでしょう。国際ルールというのは、カジノのハウスルールという意味ですがね」
「日本のドボンとは、遊び方は同じでも、手役がすくなくて地味ですね」
「そうです。日本でいうトッピン(二枚で二十一になる組合せ、つまり絵札とエース)が、一・五倍、これしか役はなくて、あとは数勝負です」
ブラックジャックをご存じない方のために簡単に説明すると、家庭ゲームでいう“|二十一《トニーワン》”という奴である。親と子があり、両者にカードを配って、合計二十一に近い目が勝つ。絵札は全部10に数え、エースは1乃至11に数えられる。何枚ひいてもよいが二十一をオーバーすればゼロである。
「手役をすくなくした方が、ツキの比重がすくなくなりますね、それはわかります」
「そのかわり、親(ディーラー側)は十六以上に達しないと勝負できません。子(客側)はこれが親の不利な条件に見えるのですが、実はここのところがトリックです」
「ほう――」
「はじめに配った親札の一枚をオープンしますね。この親札が、絵札、10、9、1、などだったら、伏せたもう一枚と合わせて、二枚で相当に強い数になっている可能性がある。逆に1以外の小さな数だったら、二枚で二十一に近い数になるのは不可能で、もっとひいて三枚以上の組合せにしなければならない。一枚見ることで手札の強弱がある程度は予想できる。子はそれを見て自分の手札の数をどのへんでまとめたらいいか作戦を立てるわけでしょう」
「そうです。それは少し慣れれば誰でも考えられる」
「ええ。だから親の手札が弱く見える場合、子は十三でも十四でもそこで止めてまとめてしまう。無理してひいて二十一を越えればそこで文句なく負けですからね。それで親のひきすぎのドボン(ゼロ)を期待するわけです。親は十三や十四では勝負ができなくて、十六以上になるまではどうしても引かなくちゃならないのだから、ひきすぎのドボンがありうるわけです」
「そうです。だからその場合親は損だ」
「いや、だからトクなのですよ。親札のオープンの一枚がたとえ絵札だとしても、かくれているもう一枚が二か三だとしたら、やはり同じことで、それを期待して十六や十七で止める子が必ず居る」
「ええ――」
「ブラックジャックの卓は、一卓七人掛けになっています。これもトリックの一つです」
「なんでもトリックなんですね」
「これは戦争ごっこですからね。どんな些細なことでもすべて仕組みになっていますよ。無意味なことなんかありません」
「七人掛けは、どういうトリックですか」
「客はディーラー一人が相手です。しかしディーラーは七人の敵を相手にしているわけです。つまり、綜合、が相手なのです。七人の中にはツイてる客も居るでしょう。その客には負けてよいのです。七人のトータルで勝てれば」
「なるほど――」
「客は、十六以上でなければ親が勝負できない、というルールの印象が強くて、自分の手を思う存分伸ばさずにバランスをとろうとする。七人の客のうち、十六以下の手でとめて、親のドボンを期待している者が居る。十六七でとめている者も居る。親が十六以上で数勝負した場合、二十や二十一が一人二人居ても、七人綜合ではいつもプラスになるはずなのです」
「なるほど、親が負けるのは、ドボンしたときだけだ」
「そうですよ。長い目で見ると、ドボンの回数は存外にすくないのです。それに、ディーラー側はルールにのっとって、機械的に札をひいていきますが、客側はいつも、とめるかひくか、判断をしなくてはならない。勘といいますかね。このため墓穴を掘ってしまう。イカサマはないのにディーラーの方が強く見えるのは勘を使うというハンデがないためです。なァに、実際は多少慣れてるというだけで天才など居ません。ルールに守られているのです」
六
「すると、ツイて勝ったときも、ディーラーに勝ったわけじゃないんですね。なぜってディーラーも負けてないんだから。客の張り流したチップを食ってるわけだ。ハウスの勝ちのおすそわけにあずかってるんですね」
「そのとおりです。そしてそれも効果として計算されているわけです。勝つ客が居なかったら、客が寄りつかなくなりますからね。したがってカジノ側は客を全滅させようとしていません。ただ綜合で、利潤が目標額に達すればいいのです。ジャッキーという種目はそのことの縮図ですよ。さて、そこで社長、今までのところでご感想をきかしてください」
「感想というと――?」
「それで、どうすればよいか――」
「ああ、それはですね。ええと――、七人掛けに二三人しか客がついてない卓がありますね。ああいうところは綜合が利かないでしょう。どうなります」
「いいところに眼がいきました。客がすくなければ、どっちが勝つかわからんのです。ディーラーは一生懸命になりますね。ひょっとすると、イカサマが加わることがあるかもしれません」
「イカサマは無いはずなんでしょう」
「ええ、組織としてはね。しかし雇い人の個人事情などで、皆無とはいえないでしょう。どこの国の経営者もこの点でむしろ頭を痛めているのです。日本の鉄火場は、テラ銭をとるだけで、ハウス側は勝負に参加しないんですが、それでも雇い人サイドは、裏技があります」
「どうやって――?」
「一例をあげれば、配当をつける連中が、旦那衆にまちがったふりをして多く配当をつけてしまうんです。それであとでたかる――」
「ははは、なるほど」
「ディーラーは二人ずつコンビになっていますね。正副と居て、一方がツカなければすぐに投手交代してくる。しかし二人居るということはその点の利だけではありません。客の視線はいつも正の方に集中している。けれども、積みこみ式の仕組みをやるとすると、使ったカードを掃除したりしている副の方でしょうね」
「ははァ、そっちを見なければいけませんか」
「たいていは大丈夫でしょうが。正の方でいえば、カードを手撒きする卓は敬遠した方が無難でしょう。やはりシューターボックスを使っているところがいいです」
「貴方、カジノがはじめてとは思えないね」
「いや、どこでも同じなんですよ。カードはその気ならごまかしが楽でしょう。だから客を含めて、手の動かし方、札のめくり方、ちゃんと方式があって、変則な動きは制限すべきです。日本の鉄火場では厳しいルールが一動作ごとにありますね」
「そうすると、七人掛けに客七人なんてところでは、ディーラーは内心は鼻唄まじりなんですね」
「それほどでもないけれど、適当に客を遊ばせながらやってるでしょう。特にツカない場合以外は」
「じゃァ、混んでる卓に入るべきだな」
「そうです。そうですよ。しかしそれだけでは、敵の綜合にひっかかってしまうでしょう」
「でも、すくない卓ではディーラーが全力投球するんでしょう。敵に全力を使わせるのは得策ではないな」
「そのとおり。さァそこから、考えてください。どうすればいいか」
「――私は、コンサルタントではありませんからね。それは貴方の役目だ」
「ええ。実をいうと――」
と私はポケットに忍ばせていたカードを一組とりだして見せた。
「香港で、ひと晩、考えましたよ」
「へええ、勝つ方法が、それで考えついたんですか」
「私が一人で勝負するのなら、いろいろな方法があるのでしょうが、今回は、はっきりいってド素人の社長が使える方法でなければならない。それで必死で考えたんです」
若社長は苦笑した。
「私だって、初心者じゃありませんよ」
「ええ。この種目に一通りは通じている社長が、使える方法です。といっても、公式をただなぞっていけばよいなんて必勝法は、ギャンブルですからありませんよ」
「とにかく、それを教えてください」
「惜しいなァ。実は教えたくありません」
「それはそうでしょうね」
「商売人は、絶対に口外しませんよ。私がそれを社長にしゃべる気になったのは、多分、年齢を喰って、プロのギャンブラーとして失格しているところがあるんでしょう」
私は本音に近いことを口にして、周辺でそそくさと戦っているディーラーたちの姿を眼に入れた。私とすれば、他人の方法を簡単に教わろうという男よりも、敵であってもディーラーたちの方が、親近感があるような気がする。
「しかし、ばくちの面白さはここまで。苦労して方策を、考えるところまでです。あとは、ビジネス。どのくらい揺れずに、方策を実行できるかどうか。勝ち負けなんてその結果にすぎません」
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一
私はブラックジャックの卓が並んでいるところをひと廻りして眺めてみた。
卓によって、レートがちがう。単位は香港ドルで、これは日本円にして一ドルが六十円ぐらいのところであろう。
安いレートの卓ではミニマム五ドルからというのがある。十ドル、百ドル、そしてミニマム三百ドルからは別室になる。
「安いレートの卓で私が見本をお見せしましょう」
「安いレートの方がいいんですね。ディーラーも弱いんでしょう」
「さア、それは――。普通はそう考えるでしょうけど、ディーラーの強弱なんて実はあまり関係ないでしょう。ツキの問題ですから」
「でも、高いレートの卓は強いですよ」
「そう感じるだけですよ。この種目はハウスルールで勝てるんですから。その証拠に女性ディーラーを使ってます。ちょっとした技術と頭脳がいるアメリカンスタイルのルーレットは、女性ディーラーを使いません」
「そうでしょうかね」
「七人掛けのところが一人空いたら私が坐りましょう。しかしその前に、他の六人の客の腕前を検分しとく必要があります」
「慎重ですね」
「ええ、初心者が居てセオリー無視をやられたのでは、判断の基準がこわれますから、一応、並みのセオリーに沿っておこなわれている卓がいいのです」
「途中で客が交代していくけれども」
「初心者が入ってきたら、いったん中止して退場です。なァに、時間は充分あるんですから」
「あそこが一人空きましたよ」
「ウーン、まだもうすこし、|見《ケン》です」
「どうして――?」
「席の位置が気に入りません」
「ビケ(ラストバッター)がいいんでしょう。自信のある人はビケに坐りたがる」
「いや、この場合、ビケは駄目です。ビケは自分の勘が直接親にひびくわけだから、遊びとしては面白い位置ですがね。勝負としては不要なハンデになります。またビケの手前も、ビケが二枚でOKならば、ビケと同じく勘で親と戦わねばならない。だから、一番いいのはトップですよ。トップは、カード運がもっとも端的に現われる位置です」
ぶらぶらしているうちに、その条件に適した席があいて、私はそこに坐った。若社長は背後に立って眺めている。
私は五ドルの最低チップを二十枚、百ドルチップを十枚、手もとにおいた。
そうして五ドルチップを一枚ずつ、賭けた。私は勝ったり負けたりで、五ドルチップがディーラーとの間を往復している。そうやって十回ほど戦ううちに、私の五ドルチップは二三枚減っていた。
若社長は、憮然としてそれを眺めていた。
「つまり、どういうことなのですか」
「どういうことって、これだけのことです」
「――他の客のやり方と、どこがちがうんですか」
「まァ、短気をおこさず見てらっしゃい」
ディーラーの目があがってきて、私は続けてまた二枚、五ドルチップをとられた。そのあとも、ディーラーは三丁びきで21、次がトッピン(絵札とエース)。
その次は見せカードが3とよくなかったが、ツキにまかせて19にひきあがり、あらかたの子がとられた。
若社長がいらいらしているのがわかる。
私は次に、百ドルチップを二枚張った。
「おや――」
「――なんですか」
「――ほほう」
私に配られた最初のカードは絵札だった。次に来たのも絵札だ。合計20。
ディーラーの見せカードはまた小さく6。次が7、またひいて3、計16では勝負できない。またひいて絵札。ドボンだ。
私のところに二百ドルついた。私はそれをさげずに、計四百ドル、おきっぱなしにした。
私は19だった。そうしてディーラーは18でとまった。
また四百ドルの勝ち。
しかし私はチップを残らずさげて、かわりに五ドルチップ一枚を張った。
次の勝負も私の勝ちだったが、張りは増やさない。私はそれからまたしばらく、五ドルチップ一枚の勝負を続けた。
「楽そうに見えるでしょう」
「――ふゥむ」
「実際、こうやってれば疲れないのです。五ドルチップぐらい、どうなったってかまわないんですから。ただ、少々退屈ですが」
「――なるほどね」
「社長も退屈だったら、私が大張りするときだけ、すかさず乗ったらどうです」
しばらくして私はまた百ドルチップを出した。すかさず社長が乗った。
その回は|同点《セーム》で駄目だったが、おきっぱなしにした次回に、トッピンが来て、一・五倍の配当を貰った。そこで私はまた五ドルチップに戻った。
「なにかおわかりになりましたか」
「百ドルチップと五ドルチップ一枚と――、勝負のときとそうでないときの張りの差額が大きいですね」
「困りましたな。それじゃまだ充分におわかりになってない」
二
私は百ドルチップが二十枚ばかり増えたところで席を立った。若社長も私に乗って、十数枚の百ドルチップを増やしていた。
「順調じゃないですか。今立つのは惜しいでしょう」
「いや、大体このペースに近くいきますよ。まだ時間は充分あります。それに、カジノへ来たら、本勝負はバカラで、ジャッキーなんか、小手調べです」
「そうですかな」
「ディーラーにはもうこの方法がわかっていましたね。ルールに反しているわけじゃないから文句はいえないが、いやな顔をしてましたよ。特に社長まで、うしろに立って乗ってくるからね」
「乗れっていったじゃないですか」
「ええ、いいんですよ。ただ、向うをあまり刺激しないように、一応ひきさがっておきましょう。まだあとのこともあります」
「しかし、貴方は――」と若社長がいった。
「まだ私がわかっていない、といいましたね。それはどういうことですか」
「そのために、ここに来るまでに、しつこくこまかく、この種目の特徴を申しあげたのです。ハウスルールであること、綜合でカジノ側が勝てる仕組になっていること」
「ええ――」
「ディーラーの強弱は、実はそれほど関係ないだろう、ということも申しあげましたね。さァそこで、私がかりに勝負強くても、以上の利点が相手にあるのでは、偶然以外に勝ち目はありません。そのうえ、現在の私は勝負強くなんかないのです」
「ふうん――」
「それではなんとかして相手の利点をコロさなければならない。特に、綜合で勝つ、という利点を無にさせる。私が香港で、寐ないで考えたのはこの点です」
「――というと」
「綜合とは、横の線で考えた場合、七人掛けの卓に坐る七人の客との勝ち負けのトータルですね。ですが、縦に考えることもできます。私なら私が一時間、ゲームをすると、そのトータルも、縦の綜合であって、ハウス側が有利になるのです」
「ええ。ツイているときばかりではないから、長時間やっていれば、ハウス側に喰われてしまう。勝っているうちにやめろ、とよくいいますね」
「さて、横の綜合は、他の客の問題でもあるのですから、これはなんともなりません。私は私の縦の綜合のバランスをとらなければならない。そうする方法としては、|見《ケン》があります」
「形勢がわるいときは参加しない」
「しかし一度や二度ならともかく、しょっちゅう見はしにくいですね。またそういうムードにハウス側は持っていきます」
「わかりました。それで最低単位で張るんですね」
「ええ。五ドルチップの勝ち負けは問題でないくらいの額を勝負のときだけ使うのです。すると、五十回、戦ったとしても、そのうち四十五回は五ドルチップなので、|見《ケン》と同じです。それも全敗ではありません」
「綜合で、二三割がた負けるという程度ですからね」
「五十回の綜合では、たしかにハウス側が勝っているのです。しかし向うは、客の張り額まで指定できません。ここが穴でしたね。私は五十回戦ったけれど、実際には四五回しか、戦っていないのです」
「それで、どこが勝負か、それが問題だ」
「いや、ここまでが急所で、この先は慣れればやさしいです」
「そうですかね」
「え、急所はここまでですよ。お聞きになってみると、なんてことはないとお思いでしょうが、手品でもなんでも、ネタはみんなそういうものです」
「しかし、私にはこのやり方は操れません」
「どこが勝負か、ということをお話ししましょうか。これはブラックジャックの技巧というより、ばくちの基本なのです。目の変り方をマスターすること」
「目の変り、ですか」
「丁半博打が基本ですが、麻雀だって何だって、やや複雑なだけで、コツはそこにあるんですよ」
「教えてください」
「といっても、数学のように公式はありませんがね。一言でいうと、どんな人でも、生涯いい目を出し続けるわけじゃありません。全勝はない。そのかわり全敗もない。いい目と、わるい目と、線であらわせば、山、谷、山、谷、というふうに、うねうねとします。ただ、そのペースがちがうだけです」
「なるほど――」
「三回、いい目が続いて落ちる人もある。五回、いい目が続く人もある。人というより、これはそのときのツキでしょうね。むろん相手のエラーによる恵まれもペースを変えていきますが。とにかく、どこかで目の勢いが変る。どこで変るか、それを判断するのです」
三
「わかりやすく、数字を使いましょうか。一方が順調に勝ちを積み重ねている、この状態を、七、八、とします。一進一退の並みの状態は、五、六、です」
「ええ――」
「並みの状態であれば、いい目の頂点にあがりつめた次が、落ち目に入るのです。ジャッキーでいうと、21、21、と最高点が続いた次は、落ち目の率が高い」
「なるほど。私たちは、ディーラーがいい目を続けて出すと、萎縮して張りを小さくする傾向がありますね」
「そういうときもありますよ。いい目が簡単にドンドン出てしまって、一方的にかっぱぐような状態、これを九、十、とすると、この場合には、21、21、21、21、ときりなく続くようになります。そうしてツキは固定していませんから、一応、変化をたしかめる必要がありますね」
「なるほど――」
「これは本勝負のバカラでは、特に基本になりますから、覚えておいてください。21、21、21、連続して出ているうちは、手控えましょう。18とか19とか、21のラッシュからはずれたあとが、狙い目です。山を越えて、谷の状態に向かうのですから」
「つまり、まず第一に、ディーラーが、今、五か、七か、九か、どの状態にあるかということを測定するわけですね」
「ディーラーだけではありません。ご自分もです。今いったことは、そっくり自分にも当てはまるのですよ。自分は例外というわけにはいきません」
「落ち目が続いたら、どこで上向きになるか、それを予知するわけだ」
「そうです。ばくちは予知できなければなんにもなりませんからね。さて、ディーラーの、山、谷、山、谷、というカーブがある。また自分の、山、谷、山、谷、というカーブもある。ディーラーの谷、自分の山、これがぶつかる地点が、勝負のタイミングです」
「そういうわけですね」
「ディーラーの山、自分の谷、はもちろんですが、自分の山でも、ディーラーも山であれば、辛抱するんです。急ぐことはありません。そのための五ドルチップです」
「よし、わかった」
「いや、思いこまないでくださいよ。出目は理屈ではありません。ヴァリエーションは無限に近くて、千変万化です。21が十回続くことだってあります。やってると、常識の枠を越えたことにどんどん出っ喰わしますよ」
「脅かさないでください」
「いや、私は基本をいうだけで、たくさんのヴァリエーションをいちいち説明できません。ただ、基本はあくまで基本です」
「ちょっと、やってきますかな」
「本当をいうと、社長は理屈としてわかっただけで、今すぐうまく対応できないでしょうね。どんなばくちでも、自分がセオリーをしっかりつかんでいたとしても、自在に勝てるようになるまでは、みっちり五年はかかります。何故かというと、ばくちはいつも瞬間の決断を強いられるからです。理屈じゃなくて、身体がすぐ対応できなければね。だから非常識な事態に対する経験をうんと積まなくては」
「――勝てませんか」
「勝ち方がちがってきますね。でも、社長はもう素人とはいえませんよ。まァ、やってごらんなさい」
若社長は、空席をみつけて坐りこんだ。さっきとはちがう卓だ。
そこのディーラーはツイていた。私の数字でいえば、九か十の状態で、しかもいつまでたっても落ちなかった。
若社長は、最初に買った五ドルチップをはたいてしまって、また買いなおした。けれども百ドルチップを張るチャンスがない。
若社長はそばに立っている私の顔を見上げた。
「――辛抱」と私はいった。
「ええ、辛抱ね」
「相手が、九か十を続けているなら、一時間でも二時間でも、五ドルチップで遊んでいてください。相手はただ無駄に勝っているだけです。そう思えば、あせることは何もありませんよ」
カジノ全体に人が満ち満ちて、騒音に包まれている。若社長は、当分この種目で遊んでいるだろう。
私は彼のそばを離れて、ぶらぶらと歩いた。やはりブラックジャックの一番安いレートのところで、一行の世話役の大川が、五ドルチップを賭けている。
「――どうですか」
「あたしは|閑《ひま》つぶしだもの。どうもこうもないですよ」
私は大川の手元にあるチップを眺めていた。五ドルチップと、百ドルチップが、きちんと整理されて並んでいる。
四
私は大川のプレー振りを横眼に見てジャッキー台を離れ、ルーレットのブロックの方にぶらぶら歩いていった。
私としては、若社長にブラックジャックのツボを教えたことで、今度の旅の役目を果たしたような気になっていたが、一行の世話人大川の張り方は、私の案出した方法とほぼ同じスタイルをとっている。
大川という男には、どことなく無国籍に近い雰囲気があって、マフィア組織の一端に連なっているのではないかと思えるが、そういう玄人の間には、私の方法はすでに常識化しているのであろうか。
それとも、私が若社長にコーチしているのを眺めて、早速自身も実行にとりかかったのだろうか。
私にはどうも、後者のように思えてならない。この方法が玄人の間には目新しい知識ではないとしても、それならなおさら一般の客の前で、そのツボをひけらかすようにやってみせることはない。ブラックジャックは小博打なのだ。大銭を張るわけでもないこんなことに、内側の人間が精を出すのはむしろマイナスに近い。
そうして、大川あたりに常識化しているような方法ならば、カジノ側はとうに、それを防ぐようなルールを考案するだろう。
ルーレット台では花枝が、戦っていた。
「どうかね。当ってるかい」
「――まァね。一進一退よ」
しばらく見ていると、花枝も、一般の客と同じく、ディーラーが盤面に投球する前に、張り板の方にチップを先張りしている。
「面白いかね」
「そうねぇ、閑つぶしに近いわね。あたし、ルーレットは初心者だから、ここで覚えていくつもり」
「それなら先張りしない方がいい」
「でも、皆、そうしてるわよ」
「しかし、それではオープンリーチしているようなもので、テンパイが丸見えだ」
「そうなの。だって、ときどき当るわよ」
「それはディーラーが遊ばしてくれてるんだ。見給え、この卓の客はいずれも小張りだろう。だから向うも無作為に投げているんだよ」
「アラ、ルーレットって作為的なことができるの」
「君みたいな女ばくち打ちがそんなことをいっちゃ困るな。ちょっとこっちへ来給え。少し基本的なことを教えてあげる」
私は花枝を連れて中央のソファのところへ行った。
「ルーレットは確率のゲームというだろう。歴史の古いヨーロッパでは、事実、客は皆そう思って、確率を重んじ、出目を控えてなんとか確率のリズムに乗っかろうとする。五年間の出目を印刷した本まで出ている」
「そうね。赤が五回続いたから、今度は黒だろうと、黒にばかり張って財産をなくしたなんて話をきくわね」
「客が、ルーレットは確率のゲームだと信じているうちは、カジノ側は安全なんだよ」
「じゃア、それは単なる宣伝なの」
「宣伝ばかりでは本当は信じさせることはできない。実際、無作為に投げているときも多いんだ。客が小張りで、マークする相手が居ないときは、作為が利かないからね。客の全員をはずすことはできない」
「そうでしょう」
「だから、自然に投げているときは、確率のゲームといえないこともないね。永久に赤ばかり出ていることはないから。そうして、それがなによりのリアリティになるんだ」
「本当はそうではないの」
「大張りの客が来たら、その客をはずそうとするだろうね。それから物日かなにかで、今日は客が詰めかけるから、新陳代謝を早くしようというとき、こんな日は目を片寄らせるんだ。赤なら赤ばかりに投げ入れると、客は確率からして黒にどっと張るだろう。それでも赤ばかり出る。客は忽ちハコテンになって席を立つ。確率が、客をコロしていく」
「なるほどね」
「さて、ここのはヨーロッパスタイルとちがって、0と00がある。盤面の数字の配列もちがう。これはカジノ側が、ヨーロッパスタイルの数字の配列を、ディーラーが作為をしやすいように並べ直して造ったものだ。アメリカンスタイルといって、アジア、アメリカ圏は大体これだがね。このスタイルは特に素朴な遊びじゃないんだ」
「――というと」
ディーラーと客との推理ごっこだよ。またそうしなくちゃ面白くない。
ホラ、36の目があるだろう。これを6ブロックにわけると、六ツのうちの一ツを当てる、つまり君のとくいな手ホンビキと同じだ」
「へええ」
「どこの国だって考えることは一緒だよ。ただ日本の手ホンビキの方が簡にして要を得ているがね。親が先にフダをえらび、子がそのフダを当てる。ルーレットも、ディーラーがどの目に今度は投げ入れようかと思案し、子はその思案を当てればよろしい」
「ディーラーは思うところにタマを投げ入れることができるのかしら」
「ああ、それは半年もみればできる。すくなくとも、三つぐらいの隣りの目まで含めればね」
「そう。それじゃわかった」
「ディーラーにとってむずかしいのは、狙った目に投げ入れることじゃない。次はどこの目に入れるのか、それを考えることだ」
五
「いいかい。張り板は数字が1から36まで三ブロックにわけられて、順序よく並んでいるが、盤面の数字の配列とはちがうぜ。そいつをよく呑みこむことだ」
「そうね。0(シングル)と00(ダブル)が北極と南極にある」
「うん。0を北極とすると、右へ28 9 26 30 11 7というふうに、一見順不同に並んている。この盤面の数字の配列を暗誦して、パッパッとチップを張る手が動かなくちゃ駄目なんだ。なにしろディーラーが投げてから、球がぐるぐる廻っているうちにブロックを押さえなくちゃならないからね」
「それなら大丈夫よ。ひと晩やってればおぼえるわ」
「一見順不同だが、ハウス側の計算によって並んでいる。ばくちに無意味なことなんてないんだ。よく見てごらん。張り板の一列と三列は、盤面では比較的近いところにある。二列は二列同士で近いところだ」
0 28 9 26 30 11 7 20 32 17 5 22 34 15 3 24 36 13 1 00 27 10 25 29 12 8 19 31 18 6 21 33 16 4 23 35 14 2、そうしてまた0に戻る。これが盤面の順序である。
「たとえば1と3は近いが、2は正反対。横一列を一点で張れるが、一つ飛びの二点張りはできない。2と4とが近いからといって斜めの一点張りもできない。その場合は四点張りになってしまって、不必要な1や5が混ざる。その分だけ配当率がわるい」
「一点張りだけでいけばいいんでしょ」
「そうだ。しかし、隣り同士が近いところにあるのも無いわけじゃない。張り板の縦隣りを見てごらん。17と20は縦隣りだが、盤面では32をはさんで一つ飛びだ。たから32にチップ一枚おいて、17と20のハーフに一枚おくと、二枚のチップで盤面の並び三点を押さえたことになる」
「18と21もそうだわ。盤面では18621になってる。同じ関係ね」
「ああ。10と13は、盤面では三つ飛びだね。まだあるかどうか、探してごらん」
「――斜めはあるけど」
「うん。ところが対極線上にある数字がたくさんあるだろう。今出た例でいえば5と6、17と18は対極で隣り同士だ。そうすると5と6のハーフに一枚、17と18のハーフに一枚おくことによって、二枚で対極の四点を押さえることができる」
「そうすると32と31の対極で、今のブロックと隣り同士だから、ここのハーフに一枚おくと、三枚で六点押さえられることになるわ」
「面白いだろう。数字遊びじみてるが」
「本当。あたし、ぼんやり張っていて損しちゃったわ」
「そういうところは、まだたくさんある。ゆっくり研究してごらん」
「表にうつしとって、部屋でじっくり眺めてみるわ」
「まだ覚えなければならないことはたくさんあるよ。アメリカンスタイルのルーレットは数字の比重がみんなちがうんだ。ただ36の数字が並んでいて、その上に0と00があると思っちゃいけない」
「どういう意味なの」
「セオリーを知っている客はちゃんと考えて張ってくるし、ディーラーもでたらめに投げているわけじゃない。だから、手ホンビキのように、数字それ自体に個性があり、特徴がある」
「ああ、そうなんでしょうね」
「まず、もっとも比重の重いのは、0と00だ。投球の五六割は、ここを軸に考えて投げこむと見てよい。|0《シングル》ライン、|00《ダブル》ラインなんてその道ではいうが、もっと正確にいうと、シングル、ダブルの前で落とすか、越えて落とすか、ということだ」
「五六割ですって――」
「だから、アメリカンスタイルのルーレットでは、|欄外《らんがい》、つまり赤黒や奇数偶数に張るのは、ド素人以外に居ないよ。赤黒に張ってツイていてチップが増えるとするだろう。ディーラーにマークされるぐらいに増えれば、すぐに0や00に続けて落とされる。一本勝負で、バッと張って退く以外にないね」
「あたしはどうせ赤黒は張らないわ。|一目《ひとめ》狙いよ」
「うん。そうやって遊ぶものだよ。外国版手ホンビキなんだからね」
「ダブル、シングルラインが五六割として、あとはどこがポイントになるの」
「17と18。つまり時計でいうと三時と九時だよ。0と00から一番遠いところ。張り板を見てごらん。上から二列目、下から二列目、まん中の二列、この四つの列には、三時と九時に位置する目がかたまっているんだ」
「5、17、32、20、19、31、18、6、21、33、16、ほんとにそうだわ」
「それに対し、0、00ラインは、上から四五列目、大の目の上二列、ここにかたまっているね」
「30、26、9、28、0、2、14、12、29、25、10、27、00、1、13、ほんとに、ほとんどそうね」
「ダブル前の俗にいう3ブロックは、三列が多い」
「36、24、3、15、アラ、ほんと」
「シングル前の四点は皆、中の二列」
「2、14、35、23、そうね」
「だんだんおぼえやすくなっていくだろう」
六
ふと見ると、隣りに、いつのまにか大川が坐っている。
「おや――」
「いや、私はカジノじゃ本勝負をやらないから、今日のお小遣いをちょっといただけば、もうやめですよ。あとは女です」
「なるほど――」
「こういう所はいつ頃からですか」
大川がそう訊いてきた。
「いや、今日がはじめてですよ」
大川は不思議そうな顔をした。やっぱり私の能書を、横で盗み聞きしているのである。
「はじめて――?」
「ええ」
「貴方はカジノのコンサルタントだとききましたが」
「ばくちのコンサルタントです。ばくちは万国共通ですからね」
「ははァ――」
「大川さんは、この世界は古いんですか」
「いや、私は――」と大川は珍しく表情を変えて苦笑しながらいった。「ばくちはやらないんです。ただ、ガイドだけ」
「へええ。しょっちゅう来ていて、やらないんですか」
「ばくちは率が悪い。ガイドに限りますよ」
「何のガイドです」
私は一つ斬りこんだ。
「ははは――、おのぞみなら、なんでもご案内します。但し、必勝法は売りません」
「ははは――」と私もなんとなく笑った。
「実は私もね、必勝法を売っているわけじゃないんです。さっき貴方が真似していたジャッキーだって、あんなもの小手先芸ですよ。あの形式をとらなくたって、もっと簡単にできるんです。大川さんだからご説明しましょう」
私はニヤニヤ笑いながらいった。
「ブラックジャックの卓をぐるっと一周して、誰でもいい、知合いのうしろに立つんです。だまってゲームを見ていて、ここぞという要所だけ大銭で乗ればよろしい。同じ理屈で、自分で一ドルチップを張る手数がはぶける。ただ社長には、素人にわかりいいようにああいったまでです」
大川は、やや口惜しそうに、だまって軽くうなずいた。
花枝が、あとの説明を催促する。
「ねえ、0と00の他に、比重の重い数字は何なの」
「まアそのときの場の状況によるよ。早い話、大銭打ちが、0と00にいつもどっさり張っていたら、0と00ラインはかわしにかかるだろうね」
「それはそうよね」
「だから状況によって比重は変る。ただ、要領だけ教えるよ。9と12、縦隣りだな、26と29、これも縦隣りだ。ハーフに一つずつチップをまずおいてごらん」
「9と12、26と29、ははあ、対極線ね。四点がハーフ二枚で押さえられる」
「対極のことをこの遊びでは、裏、というよ。裏と表は、正反対ではあるが考え方としては一つなんだ。この9、12、26、29、は0乃至00を越えたところの二点ずつなんでね」
「わかったわ。ここがポイントなのね」
「すくなくとも場所的にポイントの一つだな。そうして少ないチップで押さえることができる」
「他にもあるわけね、ポイントは」
「あるよ。チップ四枚を使う気なら、2と3、14と15、23と24、35と36、この四カ所にハーフをおけば、0と00の前衛をほとんど押さえることができる」
「なるほど、面白い――」
「まん中の二列、16の列と19の列を中心に攻めることもできる。大別するとそのくらいなんだが、ヴァリエーションはたくさんあるよ。一人で研究するといい」
「はい、わかりました」
「くりかえすけど、先張りはだめだよ。ディーラーは張り方で、客の腕がすぐわかる。投球したあとで張ること。それからチップはできるだけ大チップを使うこと」
「何故なの」
「どうせ他の客は小張りだろう。ディーラーは無作為で投げてきてしまう。相手が無作為では推理のしようがない。ツキだけの勝負だ。そんなゲームはつまらないだろう」
「|相手《デイーラー》を考えさせて、その考えを見破るわけね」
「ちがうよ。相手にこちらをマークさせて、こちらの考えをはずしてこさせるんだ。大銭打ちをマークしてくるからね。それからが本当の勝負さ。こちらの考えをマークしてくるようになったら、そういう向うのイメージを裏切っていけばいいんだ」
「むずかしいのね」
「剣道と同じだよ。まずスキをつくる。相手がそのスキをついてくる。そこで待ちかまえる。先張りをしないから、ディーラーは一回前までの君の張り方を見ていて、次の目を定めてくるんだ。つまり、リーチの手を捨牌で推理するように、安全牌を振ってくる。だが君は、突如、その安全牌で待っている。相手の考えを追っかけようとしたって、後手になるだけだよ。ばくちのコツは、相手の考えをこちらのペースにまきこむこと。そのために戦法を考えるんだ――」
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一
「じゃ、あたし、もう一度挑戦してみるわ」
と、花枝が立ちあがった。
「おや、部屋に行って研究してみるんじゃなかったのか」
「そう思ったんだけど、勉強嫌いなのよ、子供のときから」
花枝はさっきのルーレット台に近づいて、千ドル(香港ドル)を数枚ほうりだし、二十五ドルチップと交換した。他の客はおおむね一ドルチップを使っているのである。
「もっと大きいチップの方がいい?」
「いや、まァいいだろう。試し張りだろうから」
花枝は他の客が張っているのをただ眺めていて、ディーラーが球を盤面に投げこむのを待っていた。
「何してるんだ。張らないのか」
「アラ、先張りするなといったじゃない」
「そうだがね。キャンブルは教えられたとおりにやってれば勝てるというもんじゃないよ。当意即妙さ。今、君は自分の張り筋をディーラーに印象づけて、スキを見せていきたいんだろう。それなら先張りしたっていいんだ。はじめは甘く見せかけてね」
「わかったわ」
「あ、ちょっと待った」
と私は彼女の手の動きを制した。
「大チップなんだから湯水のように張り流しちゃもったいないぜ。二三カ所で充分だ。シフト張りをしてごらん」
私たちの背後に、大川が立って無表情に眺めている。
花枝は、0と00、1と2、のハーフに一枚ずつチップをおいた。ハーフだが二十五ドルチップがそこにおかれたため、全体の中でも|0 《シングル》|00《ダブル》のところが非常に重い張り額になった。
ディーラーが球を投げこむ。
11――。時計でいうと0を十二時として、二時の角度に球が入る。
花枝は今度は、9と12、26と29にハーフを一枚ずつおいた。
ディーラーが投げた目は、34。四時の角度だ。
花枝が次においたのは、13と14、35と36にハーフを一枚ずつ。
「なかなかうまいね」
「誰が? あたしがうまいの」
「うん。|囮《おと》りの張りこみだから、000の一本槍でもいいんだけど、少しずつ数字をおきかえながら、結局は000周辺に張っていく。その調子でいいよ。さァ今度は、先張りをやめて、後張りにして見給え」
花枝は、ディーラーが球を投げこむまで待っていて、球が盤面の上部の溝をぐるぐる廻っているうちに、チップを張ろうとした。
「ノウ――」
ディーラーが花枝の動作を拒否する。彼はそのあと中国語で何かいった。
「先張りでなくちゃ駄目だ、といってるみたいだわ」
「そんな馬鹿なことはない。世界じゅうどこのカジノだって、球が廻っているうちは張っていいことになってるんだ。よし、それじゃ、祝儀を一枚ほうってごらん」
花枝が、二十五ドルチップを一枚、ディーラーのそばに投げた。
「チップよ、あげるわ――」
ディーラーは、投げられた意味をのみこむと、彼等の作法らしく、その二十五ドルチップで卓をコンコンと叩いて受けとった。
それで折り合いがついたつもりになって、花枝が後張りしようとした。
「ノウ――!」
ディーラーがやっぱり頑として拒否するのである。
花枝は憤然としてルーレット台を離れ、私は苦笑しながら背後の大川をチラリと見た。彼はあいかわらず水のように無表情に立っている。
花枝はカンカンで、スナックのカウンターに坐ってスコッチソーダを呑んでいた。
「立派なコーチね。二十五ドルチップを七八枚、無駄に張らして、おまけに祝儀まで渡して来たわ」
「大川が、忠義面で何か合図したんだろうよ。あんなディーラーばかりじゃない。あとで他の台でゆっくり試してごらん。ホンビキをやるつもりで遊んでればいいんだ」
「でも、あのディーラー、人を喰ってるわ」
「ばくち場らしくていいじゃないか。面白い根性をしてるよ」
私は昔、ドサ健と知り合ったばかりの頃を思いだしていた。ドサ健と二人で|無銭《ハイナシ》で出かけたばくち場で、最初の勝負で勝った奴は、負けてヘドモドしている私を横眼に眺めながら、お先に失礼、とぬけぬけと去っていった。そういうドサ健に私はずいぶん鍛えられたのだ。
若社長が私たちをみつけて、スナックに入ってきた。
「どうです。これをごらん」
彼はポケットから、大きな百ドルチップをひとつかみ出して我々に見せた。
「名コーチですな。あの方法は絶対です。カジノの金を全部勝ちとれるような気がしてきましたよ」
「ほう、勝ちましたか」
「貴方がびっくりしてちゃいけません。当然の勝ちなんでしょう」
「とんでもない。私は口から出まかせをいったまでですよ。そう簡単に必勝法があってたまるものですか。社長はツイてたんです」
「おや、そうですか」
「それと、もうひとつ、自信ですな。必勝法だと思ってるから、のびのびとやれたんでしょう」
二
私は一人で、バカラの卓に坐っていた。
どこのカジノでもそうだが、バカラはカジノの華なのである。観光を主体にして、ルーレットやブラックジャックを小遣いの範囲でやるのも、それはそれなりの遊び方だが、本式の勝負をやるなら、バカラ卓に坐らなければならない。
カジノの種目の中で、ポーカーと並んで客同士が主体になって運ぶゲームである。したがってテラ銭(ゲーム代)を払い、一見そう見えるけれども、ハウスルールではない。そのかわり、テラ銭を五分取る関係上、最低チップ百ドルとレートが高い。うっかり無計算に張っていると、テラ銭で喰われてしまう。
私は坐ってからしばらく、百ドルチップ一枚をチビチビ張りながら、場全体の様子を眺めていた。
バカラは日本風にいえば、オイチョカブ、乃至バッタ(あとさき)とほぼ同じである。9が最高に強く、ゼロが一番弱い。三枚のカードをひいて合計ゼロ(10、20、30も同じ)だとバカラという。
バンカー(親)とプレイヤー(子)とあり、いずれか一方にチップを賭ける。自分が賭けた方のカードの合計数が多ければ勝ちである。プレイヤーに張って勝てばテラ銭は不要だが、バンカーに張って勝った場合、勝金の五分をハウスに払う。そのかわり、細かいルールがあって、バンカーの方がいくらか有利になっている。
マカオのバカラは他とちがって、親が輪番制でなく、バンカー、プレイヤー、いずれもチップを一番多く賭けた者が代表してカードを引く。
だから特に、一人一人の客のツキ、勝負強さを測定してかからなければならない。何事もそうだが、ツイてる方に乗っかった方が有利なのである。
多くの客は、ツイている客がどちらへ張るかを注視している。その反対に、ツカなくてアツくなっている客がどちらへ張るかも眺めている。ツイている客は、自分が目標になっていることを意識しつつ、誇らしげに先頭に立って張る。するとバタバタと右へ|倣《なら》えする者が出てくる。
日本のバッタ巻きとちがって、バンカーとプレイヤーの張り銭を同額にする必要はない。不足分はハウスが埋めてくれる。極端にいって客全員がバンカーに張り、プレイヤーが勝てば、張り金はすべてハウスにとられてしまう。もちろんその反対もありうるわけである。
若社長が祝儀にくれた五百ドルが、私の元銭だった。私は五枚チップを手元におき、丁寧に一枚ずつ張っていた。
ツイていて、チップを山積みにしている客が何人か居る。その何人かが、皆一緒の方に賭けてくれれば問題はないが、それぞれ対抗意識を持って反対に賭け、客同士で勝負しようとする。どちらに乗るかがむずかしい。
私は、むしろツカない客を目標にしていた。ちょうど私の右隣りの禿げ頭が、一万ドル分くらいのチップを頻繁に買い足しては、ごそッごそッ、と取られていく最中だった。
汗の粒が額に浮かび、断末魔の苦悶がむっと臭ってくるようだった。
私は慎重に考えるふりをしながら、その男がバンカーに張ればプレイヤーに張り、先方がプレイヤーならバンカーに行くようにして、いくらかのチップを増やした。が、禿げ頭はまもなく、卓を手荒く叩いて立ち去ってしまった。
一方で中々好調だった四十がらみの中国人が、千ドルチップの山を押し出すようにしてバンカーに張り、ほとんどの客がそれに倣ってバンカーに張りだした。
禿げ頭のあとに私の隣りに坐った男が反対のプレイヤーに、三枚のチップを張った。
フト見ると、大川だった。
私は瞬間考えた。大川は飛びこみでいきなり席について張り出すような男ではない。おそらくは、しばらくじっと勝負の様子を見守っていたことだろう。それで坐ったとたんに、人気うすのプレイヤーに張る。
バンカーが三回連勝し、ツラであった。ここしばらくの出目は、バンカーの連勝は二回乃至三回に限られ、長期の連勝は記録されていない。その点ではプレイヤーの番かとも思えるが、三連勝したバンカーの目は、7、7、7、と泣き目で辛勝しており、まだ目が上りそうに思える。
私の個人的判断なら、大勢に沿ってバンカーに張るところだった。大川が坐った場所はなにしろ腐り男が居たところだ。
けれども禿げ頭の腐り男は、ずっとプレイヤーに張り続けて取られていたのだった。そういう場合、腐り男があきらめて去ったとたんに、プレイヤーが出たりするものだ。
(――急いで勝負することはないや)
私はバンカーに張りかけていた手を停めて、|見《ケン》することにした。
8、7、とバンカーは二枚引きで一応15。
プレイヤーを代表してカードを引いた大川の手元に、10、6、というカードが来た。
バンカーが三丁びきを要求する。目があがればバンカーの勝ち、さがれば負けが確定する。
四十がらみの中国人は、ディーラーが飛ばした一枚のカードを、慎重に、隅から少しずつあけた。
スペードの7だった。
中国人の積んだ四十枚ほどの千ドルチップが音たてて崩れ、右へ倣えした他の客のチップもハウスの方にかき寄せられた。
しかし大川は無表情そのもので、張りチップを全部自分の手元に引き寄せてしまい、次の勝負に張ろうとしない。
三
「|見《ケン》ですか。何故?」
と私は大川に話しかけた。
「何故って、わかりませんよ、こんなもの」
「じゃァ、今のプレイヤーはわかってたんですか」
「今だってわかりません。運だめしです」
「私なら、運を信用してまた張るな。勝っている間は目が見える」
「いや、今はもう三百ドル|儲《もう》かった。さっきとはちがいます。部屋に帰ろうかどうしようか、迷ってるところですよ」
此奴、心にもないことをいってやがる、と私は思った。
話している間に、私はプレイヤーに張って百ドル取られていた。
「ホラ、百ドルの損だ。貴方、つまらんことをしたね」
「いや、ばくちの最中はそんなこと考えない」
「だって、いくら香港ドルでも百ドルは大金ですぜ」
「鼻ッ紙ですよ。プロセスの間はただのチップです。終ったところではじめて金になるんだ。そう思ってなければ大きな張り取りはできません」
「私はそこまでばくちを信用してませんからね。二度やって二度とも勝つなんて思えません。だから、この三百ドルで女を買った方がいい」
「まァそれも悪い考えじゃないな。同じようなことではあるが」
私は真剣に場を読みはじめ、しかし大川のいうようにそれほど勘も当てにならず、一進一退をくりかえしていた。
ちょうど場も、ツラ傾向がおさまって、小戻り傾向(バンカーとプレイヤーが交互に出さかって目が落ちつかない傾向)になっていた。張り手としてはむずかしい時期である。
立ち去るかと思った大川は、思いきりわるそうに、私の張りざまを眺めていたが、しばらくして不意にまた張り場に手を伸ばしていた。
百ドルチップ六枚を、バンカーに張った。
「おや――」と私はいった。
「ええ。女を買ったつもりです」
今、バンカーが出たところで、小戻り傾向になってきたために、客たちの多くはプレイヤーに張っている。
此奴、とぼけやがって、さっきの三百ドルもブラックジャックの儲けをそっくりおいたのだろう。今度もそっくり鉄火に張った。普通なら、勝った三百ドルだけを張るところなのに――。
私は一瞬おくれて、前においてあった八百ドルを全部バンカーに張った。
なんだろうと、ひと張りして勝った奴が、それから長く|見《ケン》していて、再登場したんだ、ここは文句なしに奴に乗るべきだ。
バンカー代表はでっぷり肥ったアメリカ人、これもわりに健闘している。
プレイヤー代表は例の四十がらみの中国人。
ところが勝負はまことにあっけなく、バンカーのアメリカ人が、
「ナチュラル――!」
ひと声叫んで二枚のカードを明示した。絵札と9で、二枚びきで8か9だった場合、文句なしに勝ちになる。
大川は六百ドル、私は八百ドル勝ち、五分のテラ銭を払った。そうして大川は立ちあがった。
「私は戻ります。これ以上は望みませんからね」
「ありがとう――」
私は百ドルチップを一枚、大川にほうった。
「なんですか――」
「おかげさまで、というわけさ」
私は張り場においてある百ドルチップの塊りをバンカーからプレイヤーの方に移動させた。
今勝った大川が、もう一度戦う気ならばおそらくバンカーに置きっ放しただろう。このゲームで勝ちこむコツはバンカーの連チャンに乗って置きっぱなしていくことで、それは常識的セオリーになっている。
大川がその気にならなかった以上、バンカーの連チャンはないのだ。では、プレイヤーに張る以外にない。
そのとおり、プレイヤーが勝った。
もちろん理屈じゃない。私に勝ち運がいくらかついてきたのだろう。だが、理屈を自分でつくっていかないと、強い攻めができない。
フト振りむくと、大川が立ち去らずに、私のあとに立って観戦している。
「ありがとう――」
と私はいって、また百ドルチップを渡した。
「もうおやめなさい。貴方、そのへんでいいでしょう」
「いや、ちっともよくない。落ちてる金はひろって帰らなくちゃ」
「ギャンブルですよ。落ちてるように見えるだけです。それに、勝ちすぎるとろくなことはありませんよ」
大川は笑顔も見せずにそういった。
四
勝ちすぎるとろくなことはない、と大川がさりげなくいったが、おそらくそれは彼の本心からの忠告であろう。私が二度にわたって彼の手に握らせた祝儀の百ドルチップのお返しだと思う。
というのは、私もよくそんなような、つまり、百ドルチップぐらいに相当する教訓を知人にたれることがあるからだ。たしかに世の中にはまちがいのない教訓というものがいくつかあって、お中元のように包装して用意されているものだ。
――勝ちすぎると、ろくなことがない。
それは私自身も、ばくちのひとつの真実としている言葉だ。ビギナーズラックにぶつかった初心者に対しても、矢|瘡《きず》刀瘡の多い|古強者《ふるつわもの》の場合でも、いつもどこででも使える。
けれども私は、かま首を持ちあげるようにしてディーラーの方を注視していた。
眼の筋が水で洗ったようにすっきりとして、周辺がすがすがしく眺められる。中年を迎えてからの私は、いつも疲労をまず第一に眼に感じてしまうのだ。それが今日は、ほとんどない。そうして背中が快い弾力感をともなって、すっと伸びる。
自分が、豹のように見えた。もちろん、ただの思いこみだ。けれども私のような年齢になると、そんなことはめったにない。そうである以上、いつもとちがう自分だと思うよりほかはない。自分のいいところばかりが思いだされる。勝ち負けが、怖くない。
私の前に積みあげられた百ドルチップから半端だけをひっこめて、二十枚、またプレイヤーに張った。
これまでとちがって、今度は何も根拠にしなかった。ただ自分の自然な勘を信じただけだ。
(――負けたらまたチップを買って、再挑戦すればいいんだ)
と思っていた。
(――大川さんよ、ばくちは勝ちすぎると、ろくなことがない。そりゃそうだがね、徹底して勝とうとするのがばくちだ。徹底的な勝ち以外、勝ちじゃないんだ。俺はとにかく勝ちこんでみせるぜ。それでろくなことにならなくて、本望だ)
カードをひく代表は、バンカーがでっぷり肥ったアメリカ人。プレイヤーは、ヒステリックな声をあげる中国人の中年女性だ。私の見るところ、彼女はだいぶ負けがこんでいて、木枠に入った二十万ドル相当の千ドルチップがもう残りすくない。
アメリカ人もそのへんは充分観察しているはずで、彼は配られたバンカーカードをのぞいて、
「セブン――!」
といいながら、カラリと投げ返した。8と9だ。
ほとんど同時に、
「ナチュラル――!」
彼女が叫んだ。絵札と9。
私はうつむいて、じっとしていた。トントンと肩を叩かれた。振り向くと花枝がいつのまにか立っていて私の前方を指さしている。
「チップがついてるわよ――」
「わかってる」
すでに次の勝負のカードが配られはじめている。私はプレイヤーにおきっぱなしていたのだ。
中国人の女性は今度はバンカーに|鞍替《くらが》えしていた。
プレイヤーに張っているのは、私を含めて三人ぐらい。ほとんどの客はバンカーに張っている。
大体、バカラはバンカーを主体に考えて張っていくのが通常のやりかたで、そのうえ今はプレイヤーが二連勝したあとなのだ。けれども私は、プレイヤーの目が、まだ一つは残っていると思っていた。
あまりツイていない女性が、好調のアメリカ人と争って勝った。その点もある。もうひとつの根拠は、目の流れだ。
こういう|相対《あいたい》(二つの目のいずれかに賭けて競う種目)のばくちでは、目の流れに対する感覚こそが頼りになる。
A(バンカー)とB(プレイヤー)の二つの目の流れがある。一言で、ごく雑にいうと、どちらにも山あり谷あり、あがってはさがる曲線の連続になっている。永久にあがりっぱなしの目はない。また永久にさがりっぱなしの目もない。ではそのリズムを予知していけばよい。
今、プレイヤーが二連勝して、その二連勝目がナチュラルナインで勝った。9は最高の目である。ではここを頂点と見るかどうか。頂点と見るなら、次は下降していくと見なければならない。
しかし、頂点にもいろいろの形がある。富士山のように頂きがほぼとんがっている山もあれば、山脈のようにうねうねと頂点らしきものが続いていく場合もある。その判断はこれまでの出目の綜合から推量していくわけである。
単純にいえばいくらでもいえるけれど、そのかわり雑で不正確にもなってくる。いうにいわれぬ微妙なつかみかたと経験のつみかさねなのであるが、とにかく私はプレイヤーの高目がもうひとつあると判断した。
結果は、やはり、プレイヤーが連続のナチュラルナインであった。
「絶好調――!」
と耳もとで花枝が叫ぶ。
「いくらになったの。ねえ。八十枚? 四千ドルか。ええと、香港ドルが一ドル六十円として、四十八万円か」
私は黙って自分の前に積みあげられたチップを眺めていた。花枝のように金に換算していたわけではない。まだ|道中《プロセス》だ。チップはただの木札にすぎない。
テーブルについた客の視線が、チラチラと私に集まっているように思う。私の連勝が、皆の頭に入っているのだ。バカラは、強い客、ツイている客に沿って張っていかなければならない。同時に、弱い客、ツイてない客をマークして、逆張りしていく。つまり、客同士が絶えずお互いの勢いの具合を認識しあっていく遊びだ。
私は今度は、チップを手もとにひき寄せてしまって、なかなか張らない。
私が先張りすれば、必ず私にならって、私の張った方に同調する客が出てくる。特にツイていなくて自分の判断に自信を失った客が乗ってくる。そういうツイていない客を荷物に背負って張る気はない。
私が張らないので、|焦《じ》れたように他の客が張りだした。私は今度は、今、プレイヤーに張って勝った三人のうち、まっ先に早く張ってしまった客と反対の方に、チップを押しだした。
五
もうすこし、目のことを記そう。目の流れについては、専門のばくち打ちは皆、内心ひそかに自分の条理を造って持っているが、めったなことでは口外しない。おそらく、活字になるのもはじめてであろう。
だからこれは、人の口から口に語り伝えられたセオリーでもない。ばくちをやる者が、自分でこのポイントに気がついて、経験によって練磨していく。逆にいえば、このポイントをつかめない者は、特に相対ばくちでは生き残ることができないといってよい。
さて、目の流れは、高目と低目の間をうねうねとする曲線の連続だと前章で記した。
しかし、勝負は二筋の目の流れがある。その一方の曲線だけで判断するわけにはいかない。もう一方の曲線との関連を見ていかなければならない。
二つの曲線がごく対照的に、一方が高目のときは一方が低目、そのあとでそれが逆転する。こういうときは判断がやさしい。
もしも二つの曲線がいつも同じようなテンポで上り下りしているのだったら、永久に対照的であるはずだが、風向きと同じに、途中でテンポが少しずつ狂うのが普通である。また、一方のテンポと、別の曲線のテンポは同一ではない。
すると、二本の曲線が、同じように高目になったり、また二本とも低目に落ちこんだりすることがあるはずである。こういうときが一番むずかしい。
バカラの勝負の流れは、三つの基本線がある。
バンカーの勝ちが連続するツラ目。
プレイヤーの勝ちが連続するツラ目。
どちらも連続しないで、交互に勝ったりする小戻り目。
このケースが、つまり、曲線上下がほぼ平行に動いているときなのである。こののケースは、目の流れでは判断しにくい。私は、よほどツイているとき以外は、自重して|見《ケン》をする。あるいは他の判断材料、客同士の様子を見ていて張る。
一般には、客が勝ちやすいのはのケースだと思われているが、私はとと、どちらのケースもある程度張りこめる自信がある。
バカラの客は、初心者をのぞき、ほとんど全員が、星取表をつけている。用紙があって、バンカーが勝つと赤丸を、プレイヤーが勝つと青丸をつけている。星取表によって、ツラ(連勝)の具合がひと目でわかる。
けれども実はそれだけでは、勝負の上ッ面しかわからないのである。9と0(ゼロ)で勝っても、9と8で勝っても同じ勝星になってしまう。
私は、勝負の丸のほかに、一回一回の両方の数字を書きこむ。それによって、二本の曲線がわかるのである。
一般の法則としては、バカラは、一度勝ったら置きっぱなせ、二度勝ったら、三度目には、最初に張った分の半分までチップを減らして同じところに置いておけ。そのあとは連勝がとぎれるまで、チップを増やさずに置いておけ、という。
たしかに、ツラという点だけを見れば、わりに無難な置き方といえよう。
けれども私はそれとすこしちがう。今、9、9、とプレイヤーのナチュラルが二つ続いた。まず第一に、プレイヤーの下降線を予測する。しかしツラ目の勢いによっては、9、9、9、9、と四度くらい続くときがある。
わりに多いのは、9、9、8――、或いは、9、9、7――、という線である。これらの場合は一般にプレイヤーの人気が次も高い。が私はこの時点で、プレイヤーは一応見限る。つまり、9、9、のあとは様子を見て小張りにし、9が続く限り行く。8以下が出てきたら矢印下降と見て、見限りが濃くなる。
ツラ目の勢いが全体にわるいときは、9、9、6――という感じになる。とにかく、8、9――と、9、8――とは矢印の方向が逆になっているのである。
ところが問題はもう一方のバンカーの曲線で、0、2、ぐらいの下目であれば上昇の気運が現われてくるはずなので、迷わずバンカーにいくけれど、5、6、あたりだともうすこし前の出目の様子を判断材料に持ってこなければならない。
9、6、6――と来て、次が3になった。ところが一方が2であって、3でも勝ってしまう。ここが星取表だけではずさんになる点である。目の流れは勝ち負けと別で、上昇気運か下降気運かという判定が重要なのである。9、9、7――と来て、相手も7で、セームというときがある。ここのところがむずかしい。セームの目のリズムが変るきっかけになることが多い。
したがって長いツラ目というものは、必ず、途中の要所で3や2の下目で勝っていたり、セームがまじっていたりする。下目になったときのセームは、長いツラ目をある程度予測できる。
もちろん、目の流れは理屈ではない。例外もある。むしろ、例外的要素を、自分本来の条理の中にどのくらい含んでいけるかというところが急所なのである。
だからばくち打ちは、経験を積んで反射神経を養うのである。結局、例外も含めて、数多くのケースを経験し、瞬間的に身体がそれに対応して動かないといけない。
ここがむずかしいところであるが、反射神経で現象に器用に対応していくだけでも、駄目なのである。根本的に自分の条理がなければ勝ち切ることはむずかしい。何故かというと、なにはともあれ、方法論なしには重たい張りができないからである。
六
とにかく私はツイていた。百ドルチップの山を移すと、移した方に目が出るし、移さなければツラ目になる。
バカラは六組のカードを使うので、三百十二枚のカード(頭と尻の任意の枚数を残すが)を巻き終ると、改めてシャッフルする間、小休止になる。
その小休止がくるまで、私は一度もはずれなかった。
なんだかんだと能書をいったところで、目が出れば、すべて偶然である。有機的なつながりが目の流れにあるように考えるのは、こちらの方法論のための勝手な思考にすぎない。
勝てるのは、正確にいえば、ただ、ツキのせいなのである。
しかもなお、ツキというものの実体が漠然として分析できない以上、ツイていたかどうかは、やはり結果でしかわからない。今の今までツイていても、突然ガラリと不調の波に襲われるかもしれない。
常連客たちはそれぞれ席に鉛筆とチップを残したまま、姿を消している。そのため空いた隣りの椅子に花枝が坐って、私のチップを愛しげに撫でている。
私は、すべて千ドルチップにかえてしまっていた。
「これだから、いやになっちまうんだ」
と私はいった。
「なにが――?」
「勝ちこめるときはアホでも勝てる。勝てないときは、この道一筋に鍛練してきて、その身を粉にして全力をつくしても勝てない」
「でも、いいじゃないの。これだけ勝てたんだもの。社長がくれた百ドルチップ五枚が資本なんでしょ。あの資本でこれだけ増やせる人はめったに居ないわ」
「まだ道中だよ。崩れるときも、アッという間だ」
「千ドルチップが、ビルみたいに建ってる」
「ああ――」
「今、止めれば、このビルの持主になれるんだわね」
私は笑った。方々の別の席で、あらかじめ用意されたビルが、勝負の推移の間に崩されている。
「あたしは鉄火場で育った女だから、知ってるわよ。釈迦に説法でしょうけど、いうわよ。ばくちは立ちどきだわ。いつ立つかで、勝ちがきまるのよ」
「もう止めろというのかい」
「指図はできないけど、立ちどきを、もちろん考えているんでしょう」
「安心しな。俺は、このチップを、アッという間に崩すような真似はしない。ここまでがむずかしいんだ。ここから先は楽さ」
「そうかしらね」
「いい態勢になったら、あとは自然のままで身体を相手にあずけていればいいんだ。特に技をふるわなくとも、エラーさえしなければよい」
「そうね。百円を二百円にするのはむずかしいけれど――」
「これだけ先取点を取ってしまったら、俺の経験や反射神経が物をいうよ。俺はこうなったら致命的な失策はしない。それは自分で太鼓判を押してもいい。俺の地力が発揮しにくいのはここまでの間なんだ」
勝負再開である。戻ってくる常連客に混じって、空席に新入りの客が坐る。
ディーラーが手に持つ|大箆《おおべら》が美しく空中に舞って、七枚のカードが切り捨てられ、続いて最初の目が出た。
私は張らずに黙ってその目を眺めていた。
ふと気がつくと、対角線の席に、若社長が坐っている。その他、一緒に来た一行の中の一人二人がメンバーに混じっている。私が受かっているのを見て、皆、やる気になったらしい。
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一
たとえホテルカジノでも、他ではちょっと考えられないが、マカオのリスボア・ホテルのカジノでは、客さえ煮えたっていれば二十四時間ぶっとおしにだってやる。
最初の日、私は部屋に戻らなかった。際限なく勝ちつづけたからだ。小説ならどんなことだって書けらァ、とお思いになるかもしれないが、しかしこういうことは、それほど珍しいことではない。現に作者にだってあるので、その実感で記しているのである。
ただし、たとえどんなに地力があろうと、大勝しようと思って大勝などできるものではない。前章で記したとおり、勝ちこむに至るまでの過程が問題で、ツキだとか、心理的態勢だとか、相手の条件だとか、いろいろのものに恵まれてその芽が生じる。逆にいえば、夢物語のような大勝に至る芽は、誰の場合も随所に起きているのだ。そうして、今回はそこからの物語である。
ホテルカジノは二十四時間営業であるが、おおむね朝の七時頃から十一時頃までは、客がほとんど居なくなるのが普通である。この時間、ジャッキーもルーレットも、ほとんど申しわけのようにわずかな台数が動いているばかりだ。
ところがバカラのブロックは珍しく、熱気が溢れていた。その理由ははっきりしている。私が立たないからだ。
当初は私とは|桁《けた》のちがう大銭を賭けていた他の客たちの眼にも、私の大勝は強く印象されていて、レギュラーの皆が昂奮の状態におちいっており、ほとんど誰もが席を立たなかった。
途中から、私の張る方へ、レギュラーのほとんどが右へならえして張るようになる。だから配当は、ほとんどハウス側がつけることになるのである。
それゆえディーラーも、疲労を忘れて、烈しい闘志をかきたてながら札を配っていた。
私自身はといえば、張れば勝てるというような状態は、最初の七八時間くらいで終っていることを意識していた。手元のチップの数にまかせて毎回出場していたら、負越しを重ねていただろう。
こういう種目は、立ちどきが要点だ、と花枝がいったが、通常の場合でいえば、とっくに立ちどきが来ているのだった。
つまり、大漁の汐どきがすぎて、これからは雑魚しかおらず、勝ちもむずかしくなるし、労多くして功すくない季節になるので、席を立ってしまう方がよいのである。
けれども、ここはカジノで、種目はバカラなのだ。バカラは客同士のしのぎ合いではあるが、不均衡な場合でもハウスが受けてくれる。つまり、私にとっては無尽蔵に見えるカジノ側を相手にしているのと同じことなのである。そうしてこの相手は、あいつは勝ちすぎるからもうやらない、などとはいわない。
私はときどきしくじったが、それでもたまにしか負けを喰わなかった。どうしてかというと、その分、|見《ケン》を多くしていたからだ。
すでに他の客は、ほとんどが私を目標にして張り目を定めており、私が他の客を目標にするわけにはいかない。頼りの綱は、目の流れだった。
二三番から四五番、見をいれては、目の流れでここが張りどきと思えるとき以外は、勝負に出なかった。
私が張らないときは、ぽつりぽつりと他の客が小張りして、小さな勝負になる。私が張ると、待っていたとばかり他の客も、同じところに大きく賭けてくる。ディーラーが躍起となり、四番に三番はハウス側がほとんどの客に配当をつけることになる。
昼前に、珍しく私がかなりの大銭をバンカーに張って取ったことがあって、私はそのチップをそのまま、プレイヤーの方に移動させた。このところの私の張りは、一万ドルチップ一枚ぐらいのものだったのが、そのときは五枚積んで勝って、十枚にしてプレイヤーにおきかえたのだ。
すると見物するように立っていた大男の外人が、空気を揺するように前に出てきて、私が避けたバンカーの方に、ドサッと札束を投げだした。
早速、その札束をディーラーが|算《かぞ》え、五万ドルほどのチップに替えておいた。
私は配られた二枚のカードを見た。絵札と7だった。外人の方は三丁びきで、4と2と6。
私は計二十枚の一万ドルチップを一応とり下げて、大男の出方をうかがった。大男は小切手帳を出し、一〇〇〇〇〇ドルと書きこんで、再びバンカーにおいた。
ディーラーが|恭《うやうや》しくその小切手を取りあげ、ピットボスに見せ、しばらくしてチップを持ってきた。
外人が、チラリと私を見た。
私は、豹のような自分を意識しながら、一万ドルチップ十枚を、プレイヤーに張った。
私は配られた二枚のカードを素直にそのまま開けた。絵札と絵札だった。
外人はカードを卓につけたまま、端をへし折るようにして中の数字をのぞきこみ、そのまま伏せていた。
私は三枚目のカードを、日本風に、先の一枚のカードと重ね合わせて、じりじりとずらし、端の数字を息をつめてにらんだ。
(――まァるくなれ!)
ところが数字の頭はとんがっていた。それは|A《エース》だった。負けた――。ここが立ちどきかな、と思った。
ところが外人は三枚目もチラとのぞいて、伏せたまま、かすかに鼻を鳴らすと立ち去っていった。
ディーラーが|大箆《おおべら》でそのカードを開けると、三枚とも絵札だった。
二
「少し、休んだらどうです――」
と耳もとで、若社長がいう。彼も私の大勝に充分昂奮してはいたが、家族的気分にもなっていて、身体を案ずると同時に、一刻も早く大勝を確定させたがっているらしかった。
「いや、大丈夫です」
「しかし、貴方のその技倆ならいつだって勝てるでしょう。体調を整えてからまた続行した方が有利ではありませんか」
「技倆で勝ってるわけじゃありません。これはツキでしてね。技倆というやつは、負けないためのものでしかないんです」
もう午後三時を廻っていて、さすがに先夜のレギュラーたちも部屋に引きあげていた。そのかわりに新しい客たちが卓についている。
「それはわかりますが、どこかで眠らなくてはならないでしょう。だったら今眠っといた方がいい。身体にも毒だし――」
「放っといてください。いや、社長、心配して貰ってありがたいが、これはもちろん、身体などとるにたらん問題だし、金儲けの問題でもないのです」
「それじゃ、なんですか」
「といって、仕事、ともいえないし、カジノ荒しを目指しているわけでもない。まァ貴方がいくらギャンブルがお好きでも、おわかりにならないでしょうな。貴方には本業がおありになるから。ですが私は、これだけなのです。これがすべてなのです。ここで引き退るわけにはいきません」
「そうですか。せっかくのところをお邪魔はしないが。明朝の出発までに、まだ十五六時間ありますが、それまで身体が保ちますか」
「わかりません。とにかく身体の問題ではないのです」
私は昨夜から、わざとものを喰べていなかった。そのかわり、ひっきりなしにセブンアップのグラスを手元において、ガソリンのように水分をとっていた。
むろん、体力はとうに限界を越えている、出目と数字を控え、次は|見《ケン》、と思うと、椅子の背に背筋をもたせて、数秒間、眠った。たちまち、ぐぐっと眠るが、ディーラーの声が耳にきこえている。
中国語だが、数字は英語でいう。二丁引きのところで、まずプレイヤーの数字、そしてバンカーの数字。それから三丁びきして確定的な数をいう。私の手先が、出目表の上を動く。眼はつぶったままだ。
私はときどき、トイレに行って、両掌を碗のようにして水を満たし、その中へじっと顔を浸して、眼を冷やした。両眼が|腫《は》れて充血している。
私が立っている間は、花枝が坐って出目表をつけていてくれる。
花枝は、私が坐り続けていると、濡らしたハンカチを持ってきて、そっとそばにおく。
「――痛むの?」
私は打たれ続けたボクサーのような顔つきで笑った。花枝にも眼の腫れがわかっている。ディーラーにもわかっているにちがいない。こちらの体力の弱みを、あまりあらわにしたくない。
けれども眼ばかりではなかった。疲労の極で、私の身体の筋肉が全体的に硬直しており、歯が痛む。
血行が不完全になっているのだ。血が酸性になり、ざらざらと砂状にかたまってきて、肩がこるばかりでなく、身体全体がこっているようなものだった。私はトイレに立ったとき、両腕をぐるぐる廻し、体操のように身体を動かした。すると眼に見えて、歯の痛みが直る。
坐ってじっとしていると、またすぐにぶり返す。
もっとも十代の頃から、こういうことには慣れているはずだった。物事というものはなんでも、マラソンのようなもので、苦しく長い|過程《プロセス》があるだけなのだ。結果はトータルでしかない。そしてトータルは一生の終りに来る。それゆえどこがその地点なのか誰にもわからない。
(――なにくそ、がんばるぞ!)
どこまでがんばればよいのかわからないが、がんばる。
(――これでいいなんて、思うものか!)
身体の中の粒子の何割かが、まだたしかに荒れ騒いでいる。当初のように全面的とはいかないが、猛りたったものがまだおさまっていない。カジノを喰いつくすことができるかどうかわからないが、眼の前に肉がある間はひっこむわけにはいかない。
私の前には、一万ドルチップが何重にもうずたかく積もっている。千ドルチップは軍艦のような形に長々と伸びている。私は一度も、チップを換金していない。
それで、毎回のように勝負に参加していたが、千ドルチップ一枚か二枚の張りになっていた。つまり、|見《ケン》にも等しいような少額になっている。私はその張り方で、取ったり取られたりしていた。
しかし、十回に一回、あるいは二十回に一回、猛然と一万ドルチップが出動することがある。若社長にブラックジャックの張り方を教えた、あの方法と酷似した張り方である。
それで、やはり徐々にチップを増やしていた。この張り方で、場がちぐはぐになってチップが減るようになったら、ひと息いれてやろう、そう思っていたのだが、席を立つ時期がやってこなかった。
二日目の夜半がすぎ、朝方になったとき、フロアマネージャーが私のそばにやってきて、日本語でいった。
「明日が日曜日なので、朝の六時にひとまず区切りをつけたいと思いますが、よろしいですか」
「――次のオープンは何時?」
「九時には、早出のディーラーが揃っております」
六時になったとき、私は花枝に抱えられるようにして席を立った。
三
「|現金《キヤツシユ》でお持ちになりますか。それとも、ご希望によっては小切手を書いてもよろしいです」
「どういう意味だい」
「チップの始末です」
「いや、換金しないよ。九時にはやってきて勝負を続ける」
「オーケー。それじゃハウスでチップを預かります」
「ああ、そうしてくれ給え」
私の肩の下で、花枝が、
「恰好いい――」
といった。
私は一万ドルチップを一枚、ハウス側に放った。
「ありがとう。皆のボーナスの足しにしてくれ」
ディーラーたちが、半分屈辱に染まった表情で、サンキュー、サー、といった。
フロアマネージャーに千ドルチップを二枚やり、花枝に一万ドルチップを握らせた。それから自分のポケットに、千ドルチップを二十枚入れた。
ハウス側からチップ枚数を書きこんだ書付けを受けとると、抱きかかえてくれる花枝の身体を押し離して、一人で歩いた。
エレベーターの中へ入って、壁に背中を押しつけた。部屋まで、廊下を歩くのがやっとだった。私は着たままベッドに倒れこんだ。
花枝が、女房のように、私のシャツやズボンを脱がせてくれた。
「ねえ、いくらあったか知ってる。ハウスがくれた紙、見たでしょう」
「いや、見ない」
花枝は私のズボンのポケットから、その紙をとりだしてのぞきこんだ。
「じゃ、教えてあげようか」
「いいよ――」
「いくら勝ったか、知りたくないの」
「まだ、途中だ」
「それにしても、よ」
「金じゃないんだ――」と私はいった。
「結局は金の問題じゃない。あれはただのチップだよ」
「恰好いい――」
と花枝はまたいった。
「恰好いいってのは別の人間のことだ。こんな馬鹿げたことはないぜ。たかがチップのやりとりだ。こんなことで全力を使いはたしてしまう」
「馬鹿げてるかどうか、あたしにはわからない。でも、|見物《みもの》だったわ。師匠、お疲れさま――」
花枝は、ヒヨッ子が口にする、師匠、という呼び名をはじめて使った。
扉が軽くノックされる。
花枝が立って扉をあけると、ボーイがリボンで結んだブランデーの瓶をさしだして、ミスター大川から、といった。
「すぐに眠れるの。お酒、あげましょうか」
「ああ。まさか毒は入っていないだろう」
「お酒よりいいものもあるんだけど――」
私は濡れたタオルで眼に蓋をされていた。そうして、寝たまま、ブランテーを口に流しこんでもらった。
「ありがたいが――」と私はいった。「俺はとても、今君を抱く力はないよ」
「いいのよ。でもあたしは、そばにずっとついてるわよ」
まもなく彼女の熱い身体が、私の身体に添ってきた。
「君は、広島のベンちゃんのものなんだろ」
「そういえば、そうね」
「ヒヨッ子とも、寐たな」
「だからどうなのよ。あたしだってばくち場で育った女よ。誰の専属でもないわ」
「そうだ。誰の専属でもない。俺たちはな」
「社長たちは、朝、帰るわね」
「うん――」
「師匠は残るんでしょ」
「残るよ。まだ勝負が終ってない」
「いつ、終るの」
「さあ、な。いつ終るかな」
「あたしも残るわ――」と花枝がいった。「あたしたちはもともと、帰るところなんかないわね」
私はわずかに手を回して、彼女の|胸乳《むなぢ》に軽く触れた。
「君は、申年かい」
「何故――?」
「俺はどうも、申年と合性がいいらしいんだ――」
四
カジノ専属のカワイ子ちゃんが、ひっきりなしに私のそばに来て英語でいう。
「お酒は何にします――?」
私の答えはいつもきまっている。
「ノウ、セブンアップ――」
滞在三日目の午後である。
飲み物は無料サービスであるが、客はたいがい小さなチップを女の子に渡す。
しかし、酒がまわってくるにつれ、張りが乱暴になっていく客が珍しくない。そうしてせっかくのツキを逃がす。
バカラゲームの周辺には、俗にバカラガールと呼ばれる美女たちがたむろしていて、勝った客は、それらの美女をよりどりみどりということになる。
酒と女、かりにカジノ側がツイている客を酔わして、勝金を吐き出させようと策したとしても、それはアンフェアとはいえない。
勝ったら殴り倒されて勝金を強奪された、というような直接的暴力は別にして、間接的などんな手段だって、戦いの中に含まれていると思わなければならない。
金ピカに装われた事物いっさいが、無意味に造られてはいないのである。客に、|快く《ヽヽ》、持参金を費消させるためのものだ。
だから、勝てば勝つだけ、ほぼ無限に近く金が流れこんでくる。そうして、勝って金を掴んだことによって、なおさら孤立し、事物いっさいを敵に廻さざるをえないのである。カワイ子ちゃんは夜になっても、あいかわらず来た。
「お酒はいかが――?」
私は笑っていう。「酒はやらないんだ」
「じゃ、やっぱり、セブンアップ?」
「そう――」
若社長たち一行は、予定どおり帰国した。残るといっていた花枝も姿を見せない。
取り残されるのは一向にかまわない。その気になれば、|旅行者用《ウオーキング》ビザの利く三カ月以内なら、すぐに帰国できる。
ビザが切れて存在が宙に浮いたって、日本に帰らなければならぬ強い理由を見つけにくい。
私は千ドルチップ一二枚程度の張りで終始していた。当初から見ればほんの小張りである。最初の日のようなツラ(連勝)傾向の濃い、したがって大勝ちの客が出易い出目にならずに、連日、小戻り傾向の日が続いている。
ツラ傾向になっても、一巻きの中途から突然あらわれるか、最初ツラがあって続くかと思うと途中から小戻り傾向に変ったりして大勝負しにくい。
勝ちチップは、ハウス側に預けっぱなしである。したがって、しばらく増えもしないが減りもしない。
呑み食いや部屋代は、それでも張り額からすればほんの小チップですむ。
「いつ、帰るんだね――」
一巻きする合間に、ディーラーが言葉をかけてくる。
「帰らないよ――」
「居れば、いつかはチップがなくなるぜ」
「ああ。チップがなくなるまで居る。勝って帰ったって、どうってことないんだ」
「家族はどうする」
「そんなもの、ない」
「日本じゃ、何をしているんだ」
「ばくちさ――」
ディーラーは眼を細めるようにして笑った。それが、呆れた、という仕草だったかもしれない。
しかし、とにかくそういっとかなければならない。どんなにチップを稼ごうと、精算しなければ勝ちは確定しない。
つまり、カジノ側は、私がチップを金にかえて当地を発つまでの間に、挽回したいところだが、当分換金の意志がないとなれば、ただちに手を打つ必要はないわけだ。
カジノに限らず、ばくち場というところは、勝った客をなるべく席を立たせないように、総員が工夫するところである。ところが、客の方が、俺はいつまでも帰らないぞ、という。
ハウスの思うつぼであるが、同時にまた、なんとなく対策がたてにくく、うす気味わるくもあるだろう。
私は、また上げ潮になる時間がくるまで、|塹壕《ざんごう》で敵と|対峙《たいじ》するような形ですごしていた。ディーラーとたまに無駄口をきく以外は、一日ほとんど物をいわない。卓についたままサンドイッチを取り寄せて喰い、たまに寐に部屋へ帰って寐酒を呑む。
バカラガールも遠巻きにしているだけで寄ってこない。
毎日、ばくちだけに浸っていると、痛切に他のことをしたくなる。戦場に居る兵士と同じて、孤立しているだけまだ辛い。
もっとも私は、昔からこれが宿命で、麻雀の足を洗ってから以後、競輪で全国を流れ歩いていた頃があった。毎日、競輪場に出かけて、夜、旅館に戻り、酒を呑んで寐る。そういうふしだらで、のうてん気な日々というものは、反動で内省的な気分になる。これが実は、最大の敵なのである。
五
そうしているうちに、また嵐のようなツキが来た。
勝負の時期になったら、預けてあるチップを貰って華々しく張る気でいたが、そうする必要もなく手元のチップが一気に増えだして、また軍艦のように積みあげられた。
私は今度はそのチップを、次々に、置き物の虎が乗るような大きなチップにかえていった。
その馬鹿でかいチップを、ガサッ、ガサッと、積みあげて、プレイヤーに張って勝ったとき、ディーラーが、がくっと足を崩し、顔をゆがめた。
背後に、バレーボールのアンパイヤが坐るように高い椅子に腰かけた数人のピットボスが、無言で、しかし明瞭に身をもむようにしていた。
事務所から手押車で、大きなチップが運ばれてくる。
私は、もはや汗もかいていない。
毎日の、ただばくちだけの空虚さには弱り切っていたが、どれだけ勝とうともう同じことである。
その日の朝方、打ちあげて席を立つとき、私はまたハウス側に、チップを預かってくれ、といった。
「これも、換金しないのか――?」
とディーラー。
「もちろんだ」
「ずっと、換金しない気か」
「そうだよ。死ぬまでやるさ」
ディーラーはしばらく私の顔を見ていた。
「では、何のために張ってるんだ」
(わからない。ただ、戦ってるんだ)
私は実は、内心で必死にそういっていたのだ。この姿勢をかえれば、ただの客だ。腕がよかろうとわるかろうと、個人と組織の力関係で、ハウス側にもみつぶされるだけだ。
次の日、昼すぎにまた小さなチップに戻って様子を見ながら張っていると、私の隣りに中年男が坐って、いきなりチップケースを持ってこさせた。つまり千ドルチップ二十枚が五列並んでいるやつだ。
チラと見て、私はふっと緊張した。
まだ四十前の派手な顔立ちで、ブラシ髭をたくわえている。彼は中国語と英語を使い、私には日本語で陽気に話しかけてきた。しかし、例の大川と同じく、国籍というものを感じさせない。
彼は最初から荒々しく張り、一ケースをすぐにハコテンにして、二ケース目を取り寄せ、今度は逆にツキ出して、たちまち戻した。
だが私は彼を無視して、対面の老人の張りを標準にして勘案していた。その老人はもう何日も滞在していて、もはや底をついてきたらしく、張り額も水道の滴のように小さくなっていた。
「だいぶ勝ってるそうですな」とブラシ髭。
「ええ。しかし日本でこういいますよ。勝負は下駄はくまでわからない」
「なるほど――」と彼は|流暢《りゆうちよう》に応じた。
「だが強い人とご一緒できて嬉しい。なんといってもこの遊びは、客の手が揃わないとね」
注意してみると、その日の私の左右の四五人の客は、いずれもブラシ髭と同じ方にばかり気を揃えて張っていた。ブラシ髭ほど大張りではないが、張りが無造作すぎる。いっせいに同じ方に張るだけで、主体的な執着というものがほとんどない。
「特別室に行きませんか――」と突然またブラシ髭がいった。「ここの特別室はすばらしい。VIPしか入れないんですよ」
「そうですか」
「そこならおちついて、大きい勝負ができる。もしご存じないなら、ご案内したいですな」
「どこでも同じですよ。私はここでざわざわしているのがいい」
「そうですか。ここもいいです。雑魚が混じってるが、それがまたギャンブルの味ですな」
私の左右が、揃ってチップを積みあげている。ブラシ髭はひと張りごとに挑戦的に私を見る。私は千ドルチップ一枚きりだが、ディーラーも、ブラシ髭と同じ目つきで、しばらく私が張り足すのを待っている。
その日は疲れた。私は気にするまいとしながら、終始左右の客を気にしていた。まだ宵だったが、私はバーでひと息いれようと思って立ちあがった。
そのとたん、思わず顔が笑み崩れた。
いつのまにか、花枝が背後に立っている。彼女一人でなく、ヒヨッ子が来ていた。フーテン安も居た。片眼の大将も居た。そればかりでなく、|かる《ヽヽ》源まで来ていた。
私は煙草を思いきり吸って、元気よく煙を吐き出した。
「ははァ、揃ってやってきたな。俺の稼ぎを喰おうと思ってきたんだろうけど、そうはいかないからな――」
六
「――で、どうなんだい。様子は」
とバーで、ヒヨッ子がいった。
「むずかしいところだな」
そういって私はしばらく黙っていた。
「チップの具合はどうなの」
「チップは増えてる。こうなったら減るわけはない」
「だろうな――」とヒヨッ子。
「だが、そこまでだ。勝つまでは行くがね。犯罪でもそうだな。誘拐はやさしい。が、換金が問題だ」
「ふうむ――」
「とにかく、このままで立往生だ。だが、それもまたよかろう。換金しない限り、よほどのことでもなければ俺はここで喰いついていられる」
「換金を、カジノが渋るのか」と|かる《ヽヽ》源。
「いや、そうじゃない。換金したとたんに、世界じゅうが敵になる。それが怖い」
「襲われそうな気がするのか」
「なんだかわからない。だが、ものすごい重圧感だ」
「ガードマンを雇えばいい」
「俺は誰も信用しないよ。カジノの客も、周辺部の組織も、いや、そんなふうな形のあるものばかりじゃなしに、何もかもだ」
「俺が電報を打てば――」とフーテン安がいった。「新宿から組織の若い衆が大挙して来ますよ」
「敵が増えるだけだな。だからまァ、いいよ。俺はここに当分腰をおちつける。一番安全なのは、敵にチップを預けとくことだ」
私は、内心ではこの連中が来てくれたことを感謝していた。多分、花枝が、こうした状況を察して連中を引具してきたのだろう。
花枝を混じえて総勢六人、私一人の場合とでは、危険もだいぶちがう。
それで敵地を脱出して、この道中に収穫を奪われてしまったとしても、それだってよろしい。銭の問題じゃないはずだった。
ところが、もう一方で、そうはいかない気持の塊りがあるのである。銭の問題じゃないにしても、自分の獲物は誰にも渡したくない。そのくらいならチップに火をつけて燃やしてしまった方がいい。
私は、本当は、チップをこのまま換金しないで、永久にここに保存したいと思っているのかもしれない。
「スクラップ屋はどうだね」
と私はヒヨッ子に訊いた。
「うん。ボロい金になっている、といえるね。ところがやっぱり、儲かったとたんに、付随していろいろな条件ができて、うまみが減ってくる。結局は、やらないよりはいいという程度かな。いや、そこまでもいかないのか、今のところまだよくわからない」
「ははは、換金がむずかしいの類だな」
「しかし、換金はするよ。ぼくの場合はそれだけが問題なんだから」
私は、今夜は気を変えて、皆でルーレットでも遊ぼうかと思っていた。
ところがバカラテーブルを遠くから眺めて、たちまち気を変えてそちらに寄っていった。私の空席に、例の大川が腰をおろして隣りのブラシ髭としゃべっているのが眼にとまったからだ。
私が近づくと、大川は立ちあがって、うすく笑った。
「元気そうで、なにより」
「まァね。ここに居ればなんとか喰える」
「ところで、こちら、小川さん。今度の私のツアーのお客ですがね。いいばくちをしますよ。お友達になってください」
「大川さんに小川さんか」
「土地成金でね、めったなことじゃヘシ折れません。貴方とバカラで張り合いたがっています。特別室に行きませんか」
「バカラで張り合っても、両方同じ方に張れば、勝負がつかんでしょう。それより――」と私はいった。「小川さんは麻雀をやりますか」
「どんな麻雀ですか」
「どんな麻雀でも。麻雀なら、友人たちも今着いたところだし、メンバーは立ちますよ」
大川はブラシ髭の顔を見た。
「あたしはバカラがいい――」とブラシ髭がいう。「バカラで、大勝負したい。まァ貴方、ここにお坐りなさいよ」
「いや――」
と私は手を振った。
「今夜は友人たちと食事して遊びます。お気が向いたら、ご一緒に遊びましょう。べつに逃げやしません」
私たちはチップを預けたまま、マカオ名物の|海老《えび》料理店に電話して、車を呼んで出かけた。
「あれは大川の仲間なのね」と花枝。
「よくわからない。これからどんどんああいうのに取り囲まれるだろうね」
「だから、さっと帰るべきよ。居れば居るほど面倒になるだけでしょう」
「帰ってどうするんだ。また、やることもなくて居眠りでもするのか」
「ばくち以外に関心はないの」
「関心はあるが、俺にはなにもできないよ」
「何故――」
「ばくちを本当に知っちまったからな。本当に味をおぼえると、ぜいたくになってね。いいかげんなやり方ができなくなる。俺は偶然、ばくちを本当に知っちまったから、他のことには手も足も出ない。それで破滅さ」
久しぶりにサンドイッチでないものを喰ったせいもあるが、海老はうまかった。私はヒヨッ子にいった。
「マカオははじめてかね」
「ああ――」
「じゃ、明日でも街を見物するといい」
「街が面白いのかい」
「せまい街だが観光コースがある。どこに行っても、ゆで玉子や絵葉書を売ってる乞食同然の日本人が居るよ。カジノにとりつかれて喰われてしまった奴等だ。俺も多分、やがてあれになる。それ以外に生きようがない」
「なんだって人生だ。思うようにやるがいいさ」
「お前はそういうと思ったよ。お前はもう俺の弟子を卒業したな」
といって私は笑った。
「なぜかってえと、幸いなことに、お前は病人を抱えているからな」
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一
私の腹の中に、弾力性のある海老の片々とワインが満ちた。私はそのあとの肉の皿に手が出せなかった。酔うほどの量を呑んだわけでもないのに、背骨がだるく、生あくびばかり出る。そうして、しきりに汗が出た。
「疲れてるんでしょ、とにかく、ひとまず寐る一手よ」
と花枝がいう。
「なに、大丈夫だ。外をブラつけば醒める」
「休まなくちゃいけないわよ。カジノは逃げやしないわ」
「休んだらもう駄目だ。ツキが逃げちまう」
「だって――、むずかしいのはコマが増えるまでで、これだけ増えてしまえば大丈夫だ、沈みっこない、っていったじゃないの」
「そりゃ、あの時点ならそうなんだ。ところが、いつもそういくとはかぎらねえんだよ」
「なぜなの」
「なぜだか知るもんかい。ばくちは、そんな誰にもわかるように分析なんかできやしねえや」
私は癇癪をおこし、皆は笑った。
ヒヨッ子は笑わなかった。奴は、肉をゆっくり噛みながら、私がずっとつけ続けたバカラの出目表を眺めていた。
「そりゃこれだけ勝てばな――」と片眼がいう。「金持喧嘩せずだ、もう腹一杯になって、気が弱くなったんだよ」
「やるってんだから、やらせりゃいいんだ――」と|かる《ヽヽ》源。「なァに寐ることなんかねえよ。奴はついこないだまで、ずうっと居眠りばかりしていやがったんだから、たまには無理もいいんだよ」
「そんな、冷たいことをいわないでよ。はるばるマカオまで、師匠のバックアップをしに来たんでしょう」
「おや、お前さん、まるでカミさんみたいな顔つきじゃないか。へええ、そういうことなのかね」
「そうじゃないわよ。師匠一人じゃ、銭にするにも心細いだろうと思って」
「いや、鋭いんだよ、花枝ちゃんは――」
とフーテン安が笑いながらいう。
「要するに、師匠に稼がせた奴をそっくり、自分が喰いたいのね。外には一文だってこぼしやしない。全部自分が受けようってんだ。師匠もたまらないね」
「ヒヨッ子――!」
と私はいった。
「俺は帰るぞ――」
「うん、ちょっと待ってくれ。今、コーヒー一杯呑んでおしまいだ。ああよく喰った」
「そうじゃねえ。マカオをひきあげるっていってるんだ」
「――どうしてだい」と|かる《ヽヽ》源がいう。
「せっかく味方がこんなに来たんだ。いそぐこたァねえぜ」
「いそぐことはねえ――」と片眼もなぞっていう。「勝負したくねえなら、部屋でゆっくり寐てりゃいい。俺たちが今度は、集団でカジノを喰うよ。それで皆で一緒に帰ろうじゃねえか」
「俺はまだ信じられねえよ。この野郎がツキまくるなんてな。この眼で、恰好のいいところをゆっくり見せてくれよ」
「|かる《ヽヽ》源のマスター、勝ちは本物よ。あたしがこの眼で見てたわ」
「いや、とにかくまだ途中だろ。俺たちが来たから逃げるってんじゃなしに、思う存分戦って最後まで勝ちきって貰いたいね。なァに、途中でいくら勝ちやがったって、ほんとに勝って帰るってのがむずかしいんだ。ばくち打ちが、そんなにうまく、めでたしめでたしになってたまるかよ」
私の|悪寒《おかん》はまだとまらなかった。私の勘定を払うと、一人で先に店を出た。そうして夜風に吹かれながら煙草を吸った。
小さな町で、目抜き通りからそれほど離れていないけれど、星がたくさん見える。
まもなく連中が店を出てきた。
「どこかで、野郎、ドドド、とツカなくなって――」
「|かる《ヽヽ》源は感情的だよ。ハハハ、呪っちゃいけませんよ。呪わずに、協力してやって、それで結果的に喰っちゃうというのが、遊び人のいいところで――」
私は連中の声を背中にききながら、タクシーも|洋車《ヤンチヨウ》もひろわずに、ホテルまでゆっくり歩いた。
こんなとき車に乗れば、かえって悪い。しかしホテルまでたどりつくのがせいいっぱいで、私はそのままエレベーターに乗って自分の部屋に帰った。
それで、ものもいわずに眠った。
|鼾《いびき》をかいているのが自分でわかる。だが、眠りの底に落ちかけて、私は身慄いしながら、ぽかっと眼をあけた。
部屋の灯がつけっぱなしだ。連中は居ないが、ヒヨッ子だけが、隣りのベッドに転がって、あいかわらずバカラの出目表をにらんでいる。
「どのくらい、眠ったかね」
ヒヨッ子は腕時計を見た。
「二十分くらいかな。まだ恢復してないよ。せめて一時間、眠らなくちゃ」
私は、気つけのブランデーを呑み、水を呑んだ。
喉がかわいている。しかし汗は出ていなかったし、悪寒も止まっていた。
二
私がまた洋服を着だしたのを見て、ヒヨッ子も半身を起こした。
「どうするんだい。行くの?」
「ああ――」
「そいつはいい考えじゃないな。やっぱり休むときは休まなくちゃ」
私は返事をしなかった。
そのかわりに、遠い昔の友人、ドサ健のことを思いだしていた。
「師匠、身体がのめっているよ」
「そう見えるか」
「ああ。休んだ方がいい。いいコンディションでこそ、いいゲームができる」
「学校じゃそう教えるかね」
「しかし、ディーラーは交替で休んでる。客も、入れ代ってる。休んでないのは師匠だけだ」
「いいか。お前にもいろいろ教えたが、今の俺を見ていろ。大事なことがわかるはずだ。学校や世間が、簡単に教えてくれないことをな」
ヒヨッ子は、大きな眼で私を見ていた。
「オーケー。教えてくれ。まじめにきくよ」
「ディーラーは休んでる。客も入れ代り立ち代りだ。誰も俺みたいに無理してる奴は居ない。ここまでは誰でもわかる。だが、俺は、若社長に貰った祝儀の五百ドルで、手前のタネ銭なしで、一人で背負いきれないほどのチップを稼ぎだした――」
「そいつはわかってる」
「いや、わかってない。皆、そのことを軽く考える。俺は、めったに誰もやれないことをやった。休んで、体調を整えたディーラーや他の客が、俺のようなことがやれたか――。お前等は後から来て、体調がよければ自分もやれるようなことをいうが、世間てものはそんなもんだ。常に、やらない奴の思考で、やった奴のことを量る」
「じゃあ、無理すれば、できるのかね」
「やれるときは、身体が燃えているんだ。身体を冷やしてしまえば、もう駄目さ」
「じゃ、休んで、身体を燃やしなおせ」
「どうすれば身体が燃える。理屈で燃えるか。花枝にもいったが、勝つのはツキだ。ワザは守備にしか使えない。じゃ、どうすればツクか。昔、ドサ健という男が居てな」
私は、しばらく言葉を切って、鏡に映った自分の顔を眺めていた。
「性格破産者だったが、えらい奴だった。ドサ健は、どんなときでも、いつも身体を燃やしていた。そうして、もうこれでいい、なんて金輪際思わない男だった」
「強かったんだね。その男は」
「勝っても、負けても、強い奴だった。俺は奴にどうしてもかなわない。どこかで、気持が燃えつきてしまう。たとえば今だ。奴なら、どこまでも勝つ。だが俺はそうはいかない。手前を捨てられない。死ぬまで、心臓が破裂するまで勝ちこめない。俺は破滅はしないが、生涯に一度も、勝った、と思うことができないだろうよ」
「その人は死んだのかい」
「知らん。それが俺と奴との差だ。俺と奴は、ずいぶん似てるところがあるんだが、俺は本当に、勝つことも負けることもできなかった。つまり、一流じゃないんだ」
「面白いなァ、ばくちは。――ぼくはばくちを覚えてよかったよ」
「ところが、今考えてみると、俺はばくちも一流じゃないし、他の何をやっても駄目だが、ドサ健が持ってなくて、俺が持っているものもあるんだ。俺だって捨てたものじゃないぞ」
「そうだよ。師匠だって一流だ。いつかだいぶ前に、俺はどっかでツクぞ、っていったろう。ワザのことは知らないが、運についてなら、ぼくだって少しはわかる。師匠、これは偶然じゃないよ。運て奴は、力だよ」
「そんなことをいってるんじゃない。そんなこと、どうだっていいんだ。つまり、なんていうのかな。ドサ健は、強い奴だが、けっして人に教えようなんてしなかった」
「――─」
「俺は、お前に教えた。おい、大事なことはなんでも教えてやったよ。本当だ。もう教えることは何もないくらいだ」
「有難うよ。師匠」
「本気でいってるのか。まァいいや。俺もお前に教わったさ」
「ぼくが何を教えたろう」
「お前はマーヤと、マーヤの母さんを背負ってる」
「そんなこと、世間でありきたりのことだ」
「いや、背負いたいと思って背負ってるよ。そこがちがう。戦うことと、愛することを、ごちゃごちゃにして生きることができる。筋道でわけて、セオリーで生きていくようなケチなことをしない。俺はばくち以外何ひとつできないと思っていたが、俺の大事なことを人に教えてやった。お前だけにだがな。教えてやりたかった。こいつが俺のいいとこさ」
「有難う。師匠に会ったことを、ぼくは忘れないよ」
三
私は身仕度を整え、ヒヨッ子も洋服を着た。
「連中は、カジノに居るんだろう」
「そうだと思う」
「どうせ、俺のチップを当てにして、張ってるんだろう」
「ああそうか。そいつはまずいね」
「早く行かないと。――フフフ、お前は俺が、チップが減ることを怖がっていると思ってるだろうが、問題は、金じゃないぜ」
「ああ、金じゃない。そいつはわかる。金が軸になってるから、そう見えるが、金よりも大きなものだね」
「そいつは、何だ?」
「運、だろう。ぼくはそう思う。運にケチをつけられたくない。運さえ粗末にあつかわなければ、金なんか――」
私たちはエレベーターをおりて、カジノの賑わいの中に入っていった。
「どういえばいいのかな。俺の場合は――」
と私はヒヨッ子にささやいた。
「この展開で来て、ここで負けたくないな」
「わかる。わかる――」
「絶対、負けちゃいけないってときがある。勝負は勝ったり負けたりだ。そいつは誰だってそうなんだ。だが、負けたら大筋が狂う。今がそうだな」
「ああ、そうだね」
「俺の方からくれてやるのならいい。空からチップを撒いたっていい。だが、チップ一枚だって、この線から負けて出すのは嫌だ。俺はどんなことをしたって、この勝ちを日本に持って帰る」
「師匠、恰好いいよ」
「金のためじゃない。ばくち打ちは自分の勝ちに傷をつけないために戦う。そいつは俺もドサ健も同じだ。だが俺は、お前にそれをしゃべってる」
フフフ、と私は笑った。
「それで結局、お前に喰われるよ。それがドサ健とちがうところだ」
バカラの卓には、連中は居なかった。例のブラシ髭も、大川の姿もない。
私はピットボスに、預り証を見せて、チップを現金にかえたいと告げた。
「承知しました。香港ドルでよろしいですか」
「いや、米ドルにしてください」
「オーケー。だが、かさばりますよ。小切手じゃいけませんか。香港には、チェース・マンハッタンも、バンク・オブ・アメリカも支店があり、東京にもあります。その方が便利でしょう」
「いや、まだやるかもしれないので、現金で頼みます」
ピットボスは電話を事務所にかけた。
「では、この証書を持って事務所に行ってください。事故のないように気をつけて。グッドラック」
香港ドルで貰っても、日本で通用しない。また小切手では、証拠が残るし、いろいろな意味で都合がわるい。
私はヒヨッ子を伴って、ホテルの中の名店街に行き、アールヌーボーのスーツケースを、まったく同じ品を二つ買った。
そうしてその一つを部屋に置いてから、事務所に行って、現金をスーツケースに詰めて貰った。
「連中は居ないね。寐ちゃったのかしら」
「いや、特別室だろう――」
と私はいった。
「なぜ。最初からそんな大勝負はしないだろう」
「大川に誘われたんだろうな」
私たちは特別室をノックし、扉をあけた。思ったとおり、花枝が隅のソファに坐っており、片眼、フーテン安、|かる《ヽヽ》源、ブラシ髭、大川、とポーカーテーブルに坐っている。
「やあ、やってるな――」
と私は太っ腹に笑った。
「バカラはやったことがないからって、皆、ポーカーをはじめたわ」
私は花枝に、一万ドルチップ(香港ドル。日本円で一ドル=六十円)相当の米ドルを渡した。それからテーブルを廻って、片眼、フーテン安、|かる《ヽヽ》源、三人にそれぞれ五千ドルチップ相当の米ドルを渡した。
「ご祝儀だよ――。すくなくとも旅費は損をかけちゃわるい」
「ごちそうさん――」
とフーテン安がいった。
「まァ、がんばってくれ」
私はわざとその部屋からフロントに電話をして、明日の水中翼船の香港までの切符をとってくれるように頼んだ。
「おや、発つのかね」
「ああ、ひとまず、発つ」
「それは急ですな」と大川がいう。
「ええ、またすぐ戻ってきますよ。今度は、しばらく住みつく気でね」
「それはいいですな。しかし、明日お発ちとしても、今夜はできるんでしょう。お坐りになりませんか」
「ええ、有難う――」
と私ははっきりいった。
「しかし、疲れた。勝負はもう終りました。また今度来たとき、やりましょう」
ブラシ髭が、チラリと眼をあげて私を見た。
「なんだ、さっきはやるといってたじゃないか。やれよ」と|かる《ヽヽ》源。
「いや、もう換金してしまったから」
「まだ朝までたっぷり時間がある」
「うん。でももう仕上ったからな」
大川は、例によって無表情で、もう私の方に向けていた視線をテーブルに移している。
私は立ち去る前に、花枝のところに行って小声で訊ねた。
「戦況はどうかね」
「行ったり来たり、みたいよ」
「ファイブカードみたいだな」
「ええ、ジャックポットだわ」
「俺の祝儀はドブに捨てたようなものだな。しかし、これ以上負けても俺は知らんぜ」
四
私はそれからもしばらく、ポーカーの様子を眺めていた。
「誰がいいの――?」
「今のところは――」と花枝がいう。「|かる《ヽヽ》源のマスターかしらね」
ポーカーもいろいろなやり方があるが、私の経験では、七枚より五枚カードの方が、しかもスタッド(手札を替えない方式)で、一番シンプルなルールで常時しのいでいる人の方に強い選手が多い。
ジャックポットは、一回、|交換《ドロー》をするが、まァわりに素朴なやり方である。
私は、大川と片眼の間に腰をおろして、だまって眺めていた。
まず所定のアンティ(参加料)を皆が出し、カードを配る。但し、手を使わずに、小さな四角のカードボックスを使っている。ボタンを押すと一枚ずつカードが飛びだす奴である。
|親 《デイーラー》はブラシ髭。
左隣りの大川のところからカードを配りはじめて、全員に五枚ずつ、裏向きに配る。
そうして配り終ったところで、各自が自分のカードに手を出す。
大川は私の方をチラと振り向き、唇をまげて駄目だという表情をしてみせた。が、カードを見ない。指先きで盲牌でもするように一枚ずつを軽くこすり、
「――ドロップ(おんり)」
低くいって、手札を裏のまま投げ出した。
で、私には五枚のカードがどんな様子なのかわからない。もっとも、ジャックポットでは、ジャックのワンペア以上の投が、配牌で来ていないと、自分の手に賭けだすことができない。
次の片眼は、じっと考えている。
「貴方は、オープン?」
と、ブラシ髭が片眼をうながす。
片眼は、カードの端をずらしてたしかめたので、私にも見えた。Qが三つある。あとは8と3。つまり、クィーンのスリーカードだ。
文句なしにオープン(参加)できるのだが、チェック、といって様子を見る手もあるし、考える振りをするのは自由である。
片眼は、ゆっくりとした動作で、手元から二枚のチップをはじきだした。
次がフーテン安、二枚出してコール。
|かる《ヽヽ》源は、おり。
ブラシ髭の友人の蝶ネクタイが、二枚にもう二枚レイズ。
最後のブラシ髭は、煙草の煙を吐きだして眼にしみたような表情をした。そして、四枚出して、コール。
片眼が、もう一度、自分のカードを手元にうんとひいて、かすかに端をずらす。
むろん、カードは替っていない。クィーンのスリーカードである。
それからフカフカの廻転椅子に片肘を乗せて背筋を伸ばし、対面の蝶ネクタイを眺めた。
「――コール!」
と片眼もいう。二枚のチップが投げられる。
「――コール」
とフーテン安も無表情にいった。
それで、|交換《ドロー》である。
ブラシ髭が、カードボックスを持って、片眼をうながす。
「――二枚」
指を二本立てる。
ボタンが二度押され、片眼の方に伏せカードがすべって来た。片眼は楽しむように両手で二枚のカードをやや離し、まず最初に来たカードを横にして、端をそうっと、二ミリばかり折った。もちろん白いままである。
端に数字の出てこない方を、もう二ミリほど折る。
まだ白い。ピクチュアカードなら、枠組の線が見えてくる筈である。
そこで片眼は手をとめて、もう一枚の後から配られた方に手を出した。同じく横面をそっと折る。そうして斜めにもう少し深く折って見る。枠組の線が現われた。ピクチュアカードだ。片眼の手が、ぴたととまった。
片眼は元の最初のカードをまたつかんで、二枚を向き合わせに重ね、両手の中でじりじりとずらした。端の数字の頂点がかすかに現われる。赤い線が平べったく、ややカーブを描いている。察するに、2だ。
後のカードはピクチュアだが、キングか、クィーンか、ジャックか。
頭が丸い。その頭だけ見て片眼はカードを伏せた。
五
フーテン安は三枚替え。蝶ネクタイとブラシ髭は一枚替え。
片眼が千ドルチップ二枚、フーテン安がコール。蝶ネクタイがアップ三枚で計五枚。するとブラシ髭がさらにアップ五枚で十枚。
片眼は考えている。
ここまでコールしてきた安は、手元に残した二枚はエースペアであろう。あとの二人は一枚替えで、これは普通、フラッシュかストレート、もしくは二枚トイツのフルハウス狙いだ。ブラフもある。
こちらはクィーンのフォーカード。フルハウスまでの役は怖くない。万一、フォーカードがあってもエースはない。エースは安のところに二枚ある筈。負けるのはキングフォーのみ。
「コール――!」
と片眼はいい、|おり《ヽヽ》の|かる《ヽヽ》源の方に片手を出して、不足のチップを貸してくれといった。
勝負――。
片眼、クィーンフォー。蝶ネクタイ、エース入りフラッシュ。ブラシ髭、キングフォー。
私は立ちあがって、おやすみ、もいわずに部屋を出た。
ハートの2が、間に入っているのが曲者なのだ。最初、クィーンが三枚入って、ドローしたとき、最初に来たカードがクィーンだったら、片眼はひっかからなかったろう。はてな、こいつはうまく行きすぎるぞ――。
最初に屑カードの2がくる。そして、クィーン。これはいかにも偶然、ツキで来たように見える。
ばくち場の水を味わいなれているはずの片眼がひっかかるのだ。三人対三人だが、此方側に勝ち目はあるまい。せっかく進呈した一万ドルチップは、残らず奴等のものだろう。
まァ、それはそれで、しようがない。
私は部屋に帰って、ブランデーの小瓶をらっぱ呑みにした。
ヒヨッ子が、もうひとつのベッドに寐ている。
「下の様子はどうだった――?」
ヒヨッ子が眼をつぶったままでいった。
「思ったとおりだ。負けてるよ」
「安さんたちがかい――」ヒヨッ子は眼をあけた。「じゃァ、ぼくも行ってやろうか」
「よせ――」
と私はいった。
「無駄な勝負だよ。奴等に勝ったってしようがない」
「だって、ぼくはマカオに来て、まだ何もやってないぜ」
「お前はもう勝ってる。お前は運がいい」
「何故――」
「俺の勝った銭の半分は、お前のものだよ」
ヒヨッ子は|怪訝《けげん》な表情で私を見ている。
私も微笑を、奴の顔に返した。
「お前のそういう顔が、俺は好きだよ。お前は金のやりとりに身体を張るわりに、他人の銭に関心をもたないんだ」
「どういう意味だい」
「半分、くれてやるというのさ。もう少し嬉しそうな顔をしろ。こいつはいくらあるか、額なんか覚えちゃいねえが、とにかく大金だぞ。俺のツキがあらかたこれに固まってるんだ。これだけあれば、お前のマーヤも、マーヤのお袋も、充分すぎるだろう。お前だって、あくせくしないで、何か先の計画がたてられる」
「山分けか――」とヒヨッ子は呟いた。
「だが何故だい。俺は何も役に立ってないぜ」
「俺とお前の仲だ。それが理由さ。味方だなんて思ってないぞ。味方は誰も造らないが、とにかくお前は敵じゃない」
「でも、せっかく勝った金だぜ。師匠は、誰にもとられたくなくて苦労してるんだろう」
「金じゃねえんだ。俺ァ銭なんか、ほんとうはどうだっていい。いつかお前にいったろう。俺はどこかで、大勝ちするって。それでいいんだ。ただ、負けて手放したくないだけさ」
「それで、ぼくにもトランクを買ってくれたわけか」
「ああ――」
私はベッドに横になりながらいった。
「香港までは俺が銭を運ぶ。お前が空のトランクだ。香港で、俺とお前は、トランクをとりかえる。俺が空のトランク。お前が銭の入ったトランク」
「何故――」
「大川たちがついてくるよ」
「奴等はポーカーだろう。安さんたちは簡単にひきさがるもんか」
「いや。奴等は皆、俺たちと一緒にここを発つよ。こっちの方が魅力が大きい。下の勝負なんか時間つぶしだ」
「で、香港から、ぼくが狙われるのかい」
六
「いや、香港でお前だけ俺たちと別になるんだ。日を変えても飛行機は同じ飛行場についてしまってヤバいから、船でゆっくり来い」
「船――?」
「ああ、船だ。時間はかかるが、銭の入ったトランクを持ってるんだ。退屈はしないだろう」
「船は不吉だなァ。沈むよ」
「沈む――?」
「ほら。保険金をせしめる奴。組織が狙ってるんだろう。ひょっとしたら、師匠も俺が乗る船に保険金をかけるんじゃないのかね」
「それで銭の入ったトランクを海の中に捨てるのか」
「それはまァそうだなァ」
「沈みそうもない立派な奴に乗ってこいよ。元気を出せ」
「もし、奴等が、俺が別行動になったのを感づいたら」
「俺が銭を他人に託するなんて思いやしねえ。俺が誰も信じないことを知ってる。奴等だってそうだろうからな」
翌朝。思ったとおり、私がフロントで勘定をすませていると、フーテン安たちが玄関に立ってにこにこしていた。
誰も、ポーカーの話などおくびにも出さない。ポーカーでたとえ負けてたって、私のトランクがある。皆、なんらかの方法で、この銭をとろかして自分の物にしようと思っている。
マカオの水中翼船の波止場で、出国手続きの列に並んでいると、少し離れて大川やブラシ髭たちも来た。私は奴等の眼にたつように、わざと大きくトランクを振って歩いた。
マカオ湾の黄色く汚れた海がどんどん青く変っていく。
ヒヨッ子はわざと俺と離れたところに坐っている。
「何時の便ですか――」
「十二時半だから、きわどいね。船をおりたら飛行場に直行しなくちゃ」
「おや、同じ便だ。それじゃ機内で一戦できますね」
水中翼船が約一時間余。それで波止場から直接、何台かのタクシーに乗った。
フーテン安や片眼たちはエコノミー、俺だけはファーストクラス。
大川やブラシ髭たちもファーストだった。
この方がヒヨッ子が居ないのが目立たなくて、ちょうどよい。
ファーストクラスの階上には、サロン風の休憩室がある。
食事がすむと、大川たちはすぐにスチュアーデスに命じてカードをとりよせた。
「同じことなら日航で使っているカードがいいでしょう。こいつの封切りなら、インチキがなくて気持がいいです」
なんだっていいのである。私はもう大金など持っていないのだから、奴等のカモになりようがない。
いくら負けたって、借りである。トランクは小荷物で出したので手元にない。奴等は貸してくれるだろうが、取れやしない。
私は大川たちにとりかこまれても上機嫌だった。銀行強盗で成功した気分と一緒である。そのうえ、人も殺してないし、警察に追われているわけでもない。
× × ×
ところで、その時分、ヒヨッ子は例のトランクを片手に、クィーンズロードを歩いていた。免税店に入り、パスポートを見せて、今持っているのと似ても似つかない恰好の旅行バッグを買う。
そうして赤電話で、来るときに世話してくれた香港のガイドを呼び出した。
「ぼくだけ一人残ったんだけど、今夜の部屋を取って欲しいんだ。二流のホテルでかまわないよ。むしろマイナーな方がいい。もうあまり小遣いが残ってないんでね」
それから、こう言い足した。
「あのね、船の切符を一枚――」
「船――?」
「ああ、マカオ行きの水中翼船の切符さ。明日の午前中のでいいんだ」
「また、マカオへ行きますか」
「カジノで負けて、口惜しいからさ。引き返して取り戻してくる」
「オーケー」
ガイドに連れられてホテルに行き、部屋に入って、今買ったばかりの旅行ケースに札束を詰めかえた。万一を考えてだ。
それで、もうすることがない。今夜は、女を漁りに街へ出るつもりだった。
ひと晩、ゆっくり遊んで、明日から、勝負だ――。
彼は香港での夜の目的を、ほぼ順当に達した。そうしてトランクを捨て、旅行バッグひとつを持って水中翼船に乗った。
もうこうなれば、カジノで打って打って打ちまくるのみである。
日本でのスクラップ屋のことも、マーヤも、マーヤの母親のことも、ここに居る間は頭の中にない。
なにしろ軍資金は、ごまんとあるのである。ヒヨッ子はいつだって、とぼしい資金で、さまざまな枠を自分につけながら勝負してきた。のびのびと打ったことなんてなかった。
はじめて、他人よりよい条件で、ばくち場に入れる。ばくちは金が唯一の武器だ。これだけの豪華な武器を持って来る奴はめったに居ないだろう。
自分は負けるわけがない。ばくちは技術じゃない。運の勝負だ。運にならば、自分は命を賭けてもよい。
しょぼしょぼした中年の師匠が、これだけ勝ったのならば、自分はすくなくとも、これを倍にしなければならぬ。いや、倍にしただけでは賞められない。
三倍だ。最底三倍が目標だ。
ヒヨッ子は、貴賓百鳴、と書かれた特別室にまっすぐ入った。まず最初に二十万ドルのチップを替えた。
そうして馬車馬のように一目散に張りはじめたが、さて、どうなることやら――。
[#地付き](完)
初出誌
週刊文春昭和五十五年四月十日号〜十一月十三日号
単行本
昭和五十六年四月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
新麻雀放浪記
二〇〇二年四月二十日 第一版
著 者 阿佐田哲也
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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郵便番号 一〇二─八〇〇八
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