阿佐田哲也
先天性極楽伝
目 次
履歴書
ガーピー塾
雪の進軍
プクプク爺さん
名馬カン子
黄金の香り
黄金レディ
乱戦
東京不夜城
チン夫人
南へ
天国乱歩
もっと南へ
銭よいずこ
愛してる
履歴書
この野郎、どこでどうして生まれ育ったか、誰も知らない。
知っているのは野郎ひとり。
秘密かい、というと、
いやァ、全然――、といってペラペラしゃべりだす。
なんでも野郎の誕生した日は、昔は日本じゅうが国旗をあげて祝ったそうだ。
「もっともその日が天長節だったんだがね」
「古いギャグだなァ。この頃は天長節だって旗なんかあげやしねえぜ」
「そのくらい古いことなんだよ。語学の才があって、四つのときはペラペラだった」
「なにが――」
「日本語」
「四つになりゃァ皆ペラペラだぜ」
「八つで、小学校に入ったんだ」
「どこの――」
「家のそばのさ」
「小学校はたいがい家のそばだな」
「親は教育大学の附属に入れたかったんだ。あそこはトコロテン式で上るから」
「でも、いかなかったんだろ」
「落ちたさ、試験に」
「それで――?」
「どうしてそんなこと訊くの」
「まあいいさ。ところで、父親は何をしてた」
「俺と一緒に暮してたみたいだな」
「商売は――?」
「知らんよ」
「じゃ、母親は?」
「知らねえ」
「どうやって喰ってたね」
「俺は、稼いでたよ」
「お前の小さい時だよ」
「小さい頃から稼いでたぜ」
「どうやって――」
「そりゃ、ひとくちにいえねえ」
「教育大学の附属を受けたって、さっきいったな。相当な暮しをしてたんじゃないのか」
「どうかなァ」
「かくすなよ。かくすほどのことじゃないだろ」
「しゃべる気分になれないなァ。それに過ぎたことは忘れちまう性分でよ」
「少年鑑別所には、三回、行ってるな」
「それっぱかりかよ。なめるんじゃねえや」
「小学生のときにだよ。あとは別だ。以後、教護院二回、少年院は、中等少年院と特別少年院《とくしよう》に行ってる」
「あんた誰だい」
「みんな期間が短かいから、喧嘩傷害か恐喝でもしたか」
「大きなお世話だ」
「まァそうだ。だが、俺もこれで元は少年保護司だったからね。今は、家裁とは縁が切れてるがね」
「クビになったか」
「いや、自分でやめたよ。やめなくたってよかったんだが、俺もこれで生き方をはっきりさせたい方の人間でね」
「じゃァ、今はなんでもねえんじゃねえか」
「今は、まァ、スカウトだな、もっともスカウトしなくても若え奴等が自然に寄ってくる。皆は俺のことを、ガーピー先生というよ」
「おっさんの前だがよ。保護司を怖がってたら、俺たち、生きちゃいけねえからね」
「ああ、俺もそうだ。この世に怖いものなんかねえ」
「それで――、俺をスカウトしようってのかい」
「そうさ」
「野球かなんかやらせようってのか」
「ちがうよ」
「――ボクシングだな」
「ちがう」
「じゃ、何だい。俺を喰い物にしようたって、むずかしいぜ」
「俺は、皆に手に職をつけてやりたいんだ。学歴も何もない若い奴等が、将来、喰うに困らないように、いろんなことを仕込んでやりてえのよ」
「おせっかい焼きだなァ。俺はべつに、喰うに困らないよ」
「お前、小学校の六年生で、結婚したってな」
「――結婚じゃねえ。同棲だよ」
「式をあげて、部屋を借りたってえじゃないか」
「誰にきいたい」
「気にいったよ。俺はそういう、他人の考えつかねえことをする奴が好きだ」
「一人にきめねえと、他の女がうるさくてね」
「もうひとつ気にいったことがある。身の上話が好きな子と、いっさいしゃべらない子が居るが、しゃべらない子の方が強いな。お前は合格だよ」
「合格って、なにさ」
「まァ俺んところに来てみな。仕事もあるし、友だちもできるぜ。銭を稼ぎながら、世間さまのことを勉強させてやる」
ハルこと春巻信一と、大名《だいみよう》おカンこと木野カン子が、「一緒に暮そうか――」
「いいわよ――」
となったのは、小学校の六年生の夏の頃だが、二人の仲は五年生の頃から皆が認めていた。もっとも熱くなっていたのはカン子のほうで、ハルの居るところには必らず影のように寄り添い、大名マークをしているというので、子供らしくない仇名だが、大名おカン。
ハルの父親は郵便局に勤めていた。一見、ものがたい勤め人だった。けれども郵便局は、途中入社で、その前は何をしていたか、ハルは知らない。
母親は、ハルがまだ小学校にあがらない頃、近所の呑み屋で働らいていた。これも、どういう事情だかわからない。ハルの直感では、借金があって毎月すこしずつ返していたのではないかと思う。
母親が男をつくって出て行くときに、
「借金だけはなんとかきれいになくなったでしょう。それだけで、あたしを許してちょうだい」
といった。父親はだまって、母親を見送っているだけだった。母親は、ハルの方は一度もふりむかなかった。
ハルは、そのとき以来、どうしてか、自分も早くこの家を出て行こう、と思っていたのだった。
ハルは、家の中では無口な子だった。外に出ると、陽気になった。反射神経がいい。相手の態度に敏感に反応するので知らない者が見ると、頭のいい子に見える。ハルが笑うと、歯並びのわるいところに赤い歯肉がチラと見えて、かわいらしい、と女の子たちがいう。
普通、こういう子は、おっちょこちょいとして、仲間から軽々しくあつかわれがちだが、ハルは身体もわりに大きく頑丈だったので、常に皆から一目おかれていた。それに口ばかりでなく、手も早かった。
市ケ谷のお濠で釣りをしていて、隣りの子の股に手を入れたと思うと、逆さに持ちあげて水の中にほうりこんだ。そういうときの決断が早い。相手が身がまえる前に仕かけるので、実際の腕力よりも鮮やかに見えたかもしれない。
ハルはまた、女の子に対しても、手が早かった。小学生が、大人たちが味わうようなセックスをすることが可能かどうか。ハル自身は笑いながら、
「いっぱしのことはできたよ」
といっている。
あるいは、大人の真似ごとのような段階であったかもしれない。しかし相手の女の子も小学生であり、双方がそれで満足するなら、真似ごとであろうと前戯だけで終ろうと、それが愛の行為といってさしつかえなかろう。
ハル自身がいっているとおり、彼のまわりには追随する女子生徒が絶えなかった。多分彼は、女の子を手に入れるための苦労も手順も、ほとんど知らなかったろう。ハルにとって女の子は、道に落ちている消しゴムをひろうようなものだった。
ハルは、劣等生であったにもかかわらず、学校に行くのが楽しくてしかたがないように見えた。もし可能ならば、一生でも小学校に行っていたい。卒業してしまえば、カスバを出たときのペペルモコみたいに、マイペースで生きていけるかどうかわからない。
小学校当局のほうは、なんとかしてハルが大事件を起こさないうちに、卒業させてしまいたいと、それだけを待ちのぞんでいた。
六年生のとき、ハルは、ひとつ、失敗をやった。ハルが小学校に行く楽しみのひとつは、学校内の子供たちを相手に、一枚十円単位の馬券を売っていることだった。中央ケイバは土曜と日曜しかないが、メインレースのメンバーは、一日前にわかる。日曜日のレースは土曜の下校時に注文をとる。
ハルがノミ屋をやっていることは、子供たちの間でかなり広く知れわたっていて、級友ばかりでなく、小学校のOBまで買いを入れている者もあるくらいだ。ハルがガーピー先生に、小さい頃から稼いでいたぜ、といったのはこのことをさしている。
その年のダービーの前日に、二千三百円という中穴が出て、これがどういうわけか、まるで気を揃えたように、たくさん買いが入っていた。そのレースの売上げの合計が、六十七枚で、当りが三十五枚ある。
一枚が十円単位の馬券でも、配当金の合計は八千円余になる。しかも一人の子がまとめて買ったんじゃなくて、皆がバラバラに買っているのに、気が揃ってしまったのである。こういうことはよくあることで、大人のノミ屋は損害が出ないように、同業者と結んでお互いにかたより馬券を融通《ゆうずう》しあっておく。
ハルは子供で、しかも一匹狼でやっているから、融通しあう相手が居ない。
「――当っちゃったよ。死んだァ」
とハルはいって白い歯を見せた。
「なにが――?」とカン子。
「馬券」
「何かが当るのは、当然なんでしょう」
「そうだけど、これだけ当てられちゃ、つける銭がないや」
「あらあら、どうするの」
「ずらかっちゃうかな」
「どこへ――?」
「それとも、誰か張り倒してやるか」
「そうするとどうなるの」
「一人、張り倒せば、あとの奴は配当よこせっていってこない。そうでもねえかな」
「ばかねえ。今までの稼ぎ、少しは残ってるんでしょう」
「無いよ」
「貯金は?」
「無い」
「家にも――?」
「無いさ」
「どうするのよ。ごたごたして、学校なんかに知られたらまずいんじゃないの。ノミ屋は大人だって、御用だ喰うんでしょう」
「大人のノミ屋なら、八千円ぽっち、どうってことない額だがなァ」
「八千円ぐらいの貯金もないの」
「おやじにいえるかい。明日のダービーで切っ返せればね。月曜精算だから」
しかしそのダービーも、ちょうど取り頃のところが来て赤字になった。
「おじさんに、やくざの親分が居るわ。話して、お金借りてこようか」
「駄目だよ。これはやくざに知られちゃまずいことなんだ。もぐりでやってんだから」
「子供のあそびでも?」
「ひっかかりつけない方がいいね」
二日ほどして、別のクラスの番長から呼び出しがかかった。
ハルは、彼の客たちにとりまかれて、明日、必らず払うよ、と断言した。カン子は遠くからそれを眺めていた。
「明日、なんとかなりそうなの」
ハルは、ウフフ、と笑って首を振る。
「じゃァ、どうする気なの」
「そういわなくちゃしょうがねえもの」
「だめねえ。男の子って、無計画で」
カン子のその件に対する処理がおもしろい。
別のクラスの番長のところに最初に行って、
「あたしの、あそこ、いじっていいわ」
といったのである。
「なんだ、お前――」
「配当金よ」
「配当って、ケイバのか」
「そうよ。あンた、何枚買ったの」
「五枚――」
「十円券を五枚ね。じゃ、配当は、千百五十円でしょう。安いもんじゃない」
「――いじるだけか」
「――できるの?」
「やらせろ」
「いいよ、やったって。減るもんじゃないし」
学校の便所の裏側の汲取口のそばで、ちょっと臭いのを我慢しながら、番長はまだ細いやつを懸命に挿入しようとした。
カン子は、まるで身内が尻ぬぐいをするように、そうやって小さな債権者たちを一人残らず沈めてしまったのである。
彼女はハルには何もいわなかった。笑顔も見せない。ツンとしているようにも見え、あたしの手際を見てよ、と誇っているようにも見えた。
「――いろんな手があるもンだなァ」
「いろんな手なんかないじゃないの」
「女は便利でいいや」
ハルが、一緒に暮しちゃおうか、といいだしたのは、夏の頃だったから、その小事件から二ヵ月ほどたっている。
「いいわよ――」とカン子はいってから「でも、なぜなの」と訊いた。
「あたし、いろんな男の子にさわられちゃったよ」
ハルは、そのことには返事をせずに、
「その方が、便利だと思うよ」
「そうね。どうせ一緒だものね」
とカン子もいった。
ハルは、そのとき、カン子を自分の家にひっぱりこむつもりだった。父親と二人だけの生活は、ますます嫌気がさしていたから。
ところがカン子は、妙に先廻りして、どういうふうに話したのか、叔母が持っているアパートの空室を、権利金なしで借りる算段をしてきた。
「部屋、だって――?」
「一緒に暮そうっていったじゃないの」
「お前、部屋代が払えるのか」
「ケイバで稼ぎなさいよ」
「だめだよ、俺、むだ使いするからな、残らねえよ」
「世帯を持ってみようよ。子供だってできるわよ。ね、面白いと思わない」
「面白いったってなァ」
「やってみよう。続かなくたってもとっこよ」
カン子がどのくらいハルに執着していたか、よくわからない。おそらく新世帯を持つことへの好奇心や興味の方がうわまわっていたろう。しかし、ハルの方がもっと、軽い気持だった。彼はただ、カン子を便利だと思っていただけだ。ハルが思っている女の像というのは、やはりまだ母親の方が濃かった。そうしてハル自身にもまだよくわからなかったが、女(母親)というものに対する憎しみや憤りが気持の底の方に横たわっていた。
ハルとカン子の新世帯は、仲間の子供たちにはひどく受けた。
ある夜、子供たちばかりが学校の講堂に集まって、パーティをやった。それがいうところの結婚式だった。
用務員は、番長たちの手で部屋に閉じこめられ、酒屋の子は酒を、パン屋の子はパンを、花屋の子は花を、いろんなものを持ち寄った。パーティは盛会だったが、良家の子供をおどして金品を寄附させたことがバレて、パーティの主役たちは警察に呼ばれた。そうして、二人の新婚旅行は、練馬少年鑑別所だった。
ハルとカン子の新世帯は、そういうわけでしばらくお預けだった。そういうわけというのは、つまり、新婚旅行がネリカン(練馬少年鑑別所)だったからだ。
鑑別所は、ヒヨコの雌雄を見分けるように、子供たちの将来を鑑別したのだろうが、どういうわけか、(多分、女の子だったからだろう)カン子の方がひと足早く出所した。
もっともハルの方も三週間だ。それで保護処分《さつばい》にされて、出所して、カン子の叔母のアパートの一室にやっと坐って、カン子がたどたどしく作ってくれたチキンライスを喰べ終ったとたんに、パトカーが来たのだった。
二人の事件が評判になって、小学生の親たちから続々と被害届が出ているのだという。一件終れば次の一件で、当分、盥廻《たらいまわ》しされる可能性がある。
「冗談じゃないわよ、ハル、あたいたちいつになったら一緒に暮せるの」
「そうだよなァ。恐喝でパクられるんじゃァ、俺たち、何して喰ったらいいのかなァ」
ハルはとうとう、奇妙な質問をした。
「刑事《デカ》のおじさん、悪いことしちゃ、いかんのかなァ」
「――法律があるぞ。子供だって法律は守れ」
「だから、ネリカンでもどこでもいきますよ。法律は守るさ。――だけど、悪いことしちゃ、なぜいかんの」
刑事は、黙って乗れ、といった。
今度は少年保護院というところに収容された。しかし、ネリカンも保護院も刑務所とはちがうから、四六時ちゅう見張られているわけではない。少年たちは夜間外出も比較的たやすくできる。かりに逃走する者が居ても、少年たちの戻り場所はおのずから限られているし、収容期間が短かいから、逃走せざるをえないほどの理由はすくないのだ。
ところがハルは、十日ほどで、ひょっこり帰ってきたのだった。
例のアパートは窓も閉まり、扉に鍵がかかっていて無人の様子である。
ハルは、グループだった級友の一人に電話をし、カン子の実家にその子から電話をしてもらった。
カン子は小走りにアパートの前までやってきた。
「――どうしたのよ」
「盲腸炎だってさ。病院に廻されたよ」
「それで――?」
「出て来た。あんなとこ居られるかい」
「盲腸は?」
「知らない。飛び出したら痛くなくなった」
カン子はそれでも女の子らしく、部屋に入って雨戸をあけ、湿めった空気を外に追いだした。
「クレゾールの臭いがするよ、ハル」
「麦飯だから、麦が盲腸の中に入ったんだってさ」
「ここに居たら人が来るね」
「すぐには来ねえよ。病院から保護院に連絡が行ってからだから」
「どうするの」
「俺、南国へ行きたいな」
「南国って――?」
「南さ。俺、暑いところで暮したい。前からそう思ってた」
「どうやって行くの」
「インドやアフリカの話じゃないぜ。日本の南の方だ。わけねえだろ」
「知ってる人、居るの」
「いや――」
「どうやって暮す」
「いちいち訊くなよ。裸でな、汗をだくだくかいてさ。何したっていいだろ。きっと面白いよ。南の奴等はちぢこまってねえから。――おい、銭、なんとか持《ギ》ってこれねえか」
カン子は、インスタントコーヒーの瓶の中から、まるめた札束をとりだして、ハルに見せた。
「どうしたんだ」
「きまってるじゃないの。ハルがやってたことを、あとをついだのよ」
「ケイバのノミ屋か」
「土曜日曜と、あれから二週分やったわ」
「それで、こんなに儲かったのか」
「まじめな子にばかり売ったもン。皆、お金持ってきたわよ」
「誰も当らなかったんだな」
「当った子には、お金で払わないの。あたいの、いじらしたもン」
「――――」
「この前だって、そうしたじゃん」
ハルは笑った。
カン子も笑った。
「お腹すいてるわよね。パンでも買ってこようか」
「いいよ。じゃ、行こう」
「どこへ――?」
「南へさ」
「このまま――?」
「ここに居たってしようがねえだろ」
おばさん、すいません。ハルちゃんと二人で、ちょっと旅をしてきます。むこうへついたらまた手紙を書きます。あたしたちのことは心配しないでね。家へもよろしくいってください。
カン子
カン子は包み紙の裏に叔母宛の簡単なメッセージを記して、小さな卓袱台《ちやぶだい》の上においた。さすがに親には書きにくかった。
東京駅に行き、運賃表を眺《なが》めた。汽車賃というものは思ったより高くてびっくりした。
「南国へ行くのよねえ」
「うん、暑いとこ」
「駅でいうと、どのあたり?」
「鹿児島とか、高知とか――」
「足りないねえ、ちょっと」
「うん、足りないなァ」
遠いところに行くには、特急に乗らなくちゃならない。鈍行は短距離ばっかりだ。東京から四国や九州まで行くのは寝台特急で、寝台料金や特急料金も必要になる。
「伊豆なら、行けるがなァ」
「遠足じゃないものねえ」
「伊豆だって南だぜ。下田にちょっと知ってる人が居るんだ」
「じゃァ、下田に行くの」
ハルはちょっと考えて、嫌だよ、といった。下田のどこかに、男と出て行った母親が居るときいていた。
「乗っちゃえばなんとかなるんじゃねえか」
「切符買わずに?」
「見つかったら、下りりゃいいんだからな。そうやって順ぐりにおりたり乗ったりしてりゃ、行っちゃうぜ」
二人は国電の最短距離の切符をまた買って、改札口を通った。特急のホームの上り口にある検札では、カン子が、あどけない声を出して、「ママたち、あとから来るのよ」といって通った。
オール寝台だけに、列車に乗ってからちょっとまごついたが、横浜をすぎるまでトイレの中にかくれていた。
「ずうっとこの中に居るの」
「いや、俺たち子供だから出てった方がいいな。車掌にぶつかったって、うろうろしてるふりすりゃいいさ」
「なにかいわれたら――」
「ママたちを探してる、っていえばいいさ」
「ひと晩じゅう探してるの」
「ちがう列車に俺たちだけまちがえて乗っちゃったことにしようぜ。そうすりゃどこかでおろしてくれるだろう」
「頭がいいわね、ハル。あんた勉強できなかったけど」
「勉強じゃねえよ。こういうことは、才能だよ」
「才能があるんだねえ」
「あるったって、輝やいてるぜ。いい男と一緒になったろう」
まだ日が暮れないので、乗客も立って談笑していたり、食堂車に移動したりしている。
「空いてる寝台を見とけよ」とハルはしかつめらしい顔で小声でいった。「あとで空いてるとこにもぐりこもうぜ。だけど、駅に停まったら客が乗りこんでくるから、眠るな」
二人は食堂車に入って、大人のようにサンドイッチと紅茶を呑んだ。
二人は顔を寄せて窓外を眺めていた。
「南へ行って、どうするの」
「働らくよ」
「どうやって――?」
「なんかあるよゥ。心配するな。南国だもの」
サンドイッチはまたたく間に食べてしまったので、カレーライスを追加して、まずカン子が半分食べた。
ところがそのへんから、ハルが苦しげに顔を伏せてしまって、カレーにも手を伸ばさない。
「――腹が痛いよ」
という。半分残ったカレーにも手をつけないで、じっと痛みをこらえている。
「ハル。まさか――」
「なんだよ」
「あんた病院から逃げてきたんでしょ。盲腸じゃないの」
「――なんで、今まで痛くなかったんだい」
「知らないわよ。あんたの身体だもの」
ハルは海老のように身体をくねらせてもだえた。
「痛え、痛えーッ、カン子、なんとかしろよ」
「男の子でしょ。ハル」
「死んじゃうぞ」
「死んじゃえば」
カン子が突然笑い出した。
「いいことがある」
ハルは吠《ほ》える気力もおとろえて、食堂車のテーブルの上に顔を伏せていた。
「車掌さんのところへ行って、病気だっていうわ」
「勝手にしろよ」
「今度停まる駅でおろしてもらうのよ。それで駅で、病院を紹介してもらう。それくらいのことやってくれるわよ。お客なんだもの」
「――――」
「うまい具合じゃない。切符どころじゃないわよ。それでさ、ハルは手術」
「ほんとに盲腸かなァ」
「盲腸じゃなけりゃ、なおいいじゃん。あたしはね、病院の請求書を持って、東京に帰るわよ」
「どうして――」
「ハルのお父さんのところへ行って、お金もらってくるわ。だって、病院代払えないじゃないの」
「おやじが、銭、出すかなァ」
「出すわよ。病気なんだもの」
「怒るぜ、きっと」
「怒ったって、あたいのことじゃないもの。それでさ、手術したら、あんた、病院をズラかっちゃえばいいわ。少年院だってそうしたんだもの、できるよねえ」
「お前、帰ってくるのか、こっちへ」
「――そうねえ」
「銭、持ったら、ふわふわしちゃうだろ」
「そうね。そのときの気分ね」
「おやじが自分で来るよ。きっと」
「うまくやるわよ」
「おやじは怒って、また俺を少年院に入れちゃうよ」
「じゃ、入んなさいよ」
「うまく行けば、俺たちの銭は増えるわなァ。なにしろ銭がなくちゃ、心細いからなァ」
「ねッ、あたい才能あるでしょ」
「ばれてもとっこだもンなァ」
食堂車のボーイに訊くと、今度の停車駅は静岡だという。喰べたものの精算をすませて、カン子がハルをかつぎあげようとしていると、様子を見ていたボーイが、早くも車掌を連れてきた。
カン子はまたあどけない声を出した。
「盲腸らしいんですけど、すぐおろしてください」
「すぐといっても、あと十分ほどで静岡だから、そこでなんとかしましょう」
「すぐには駄目ですか。早くしないと」
「ですから、十分、あと十分ね。貴方がた、お連れの人は」
「あたしたちだけです」
「――ふうん。で、お席は、何号車の何番?」
ハルがことさららしい唸《うな》り声をあげる。
「ええと、何号車だったかなァ。でも、歩いて行くの無理みたい。ここで横になってます」
「それじゃね、とりあえず、喫煙室で」
車掌がおぶるようにして、ハルを喫煙室に運び、乗客たちをどけて寝かせた。
「お嬢ちゃん、荷物は」
「ありません」
「無い――」
「だって、ママたちがすぐ明日の列車で来るんですもの」
「そう。それじゃね、駅で病院を手配して貰いますからね」
静岡駅で、車掌に負ぶわれ、荷物のように駅員にリレーされて、駅長の車で病院に運ばれた。誰も、切符のことなど念頭に浮かばないようだった。ハルの苦悶の色が、かなり迫力があったからだ。
待合室の窓が、近くのネオンで赤く染まっている。
カン子は受付けのツンと澄ました女の人に訊ねた。
「まだ東京に戻る列車はあるでしょうか」
「――ええ、あるわよ。でも、東京につくと夜中よ」
「一度東京に戻って、お金を持って明日来ます。だってあたしたち、余分のお金を持ってないから。病院の証明書みたいなものと、いくらかかるか費用を書いてください」
「そうねえ。まだ処置をしてみないと、はっきりした費用はわからないけど」
「それじゃ、少し多目に」
「先生に伺がってみないとねえ」
「でも、急ぎますから」
「では大体の見当をね。――それからこの用紙に、患者さんの住所や名前を書きこんで頂戴。貴女のこともね」
カン子が書きこんだ用紙を女の人に渡し、病院の書きつけを貰って、駅へ戻ろうとすると、
「あら、これ、なァに――」
「なんですか」
「春巻信一、妻カン子、って、これ貴女のこと?」
「そうなんです」
「だって、貴女いくつ? まだ子供でしょう」
「でも、あたしたち、そうしちゃってるんです」
「そうしちゃってる、って、どういうことよ」
「どうってことないのよ。区役所に届けたわけじゃないもの」
「それじゃ、何なのよ」
「面白いからそうしてるだけなの」
「こんな冗談おやめなさい。病院に来てまでふざけることないでしょ」
「でも一緒に暮してるもの」
「まァ呆れた。早熟ね」
「許嫁《いいなずけ》ってのあるじゃない。大人になってちゃんと結婚すればいいんだわ。しなくたっていいけど」
カン子は東京に戻って、真夜中、ハルの父親に事のあらましを告げた。父親はじれったくなるほど呑みこみがわるかった。それはそうだろう。彼は、伜《せがれ》が少年院に居るとばかり思っていたのだから。
「それで、あんたと二人で、南へ行くといってるのかね」
「ええ、そうよ」
「南へ行って、どうする」
「わからないわ」
「――よし」といって父親は奥に行き、財布を持って来た。「好きなようにさせてやる。そのかわり此方《こつち》はもう面倒は見ない。手切金の代りだといってくれ」
カン子は封筒をポケットに入れ、ペロッと舌を出して小走りにアパートに帰った。
ガーピー塾
ハルとカン子は、結局、南の国では新世帯を張れなかった。どうしてかというと、つまり、カン子が、静岡の救急病院で盲腸を手術することになったハルのところに、ハルの父親から預かった金を届けに行かなかったからである。
カン子はアパートに駈け戻って一人きりになると、事態を順序立てて考えはじめた。彼女は小学校でも、仲間と一緒に街をのたくって居るときも、よくそういうふうにして気持の整理をつける癖があった。
(――この金を、ハルに手渡すべきかどうか)
(――べきであろう)
(――でも、自分も持って居たい)
(――そればかりでなく、ハルにも手渡してやりたい)
(――どちらにするか、この件は、そう簡単には定《き》められない)
(――ハルの父親は、多分、少年保護院に電話をして、ハルの所在地を告げるだろう)
(――行くなら、保護院の人間より早く、すぐ行ったほうがいい)
(――だけど、ハルと一緒に南国に行って、ハルはどうやって生きていくつもりだろう。あんまりいいことはないような気がするな)
(――南に行く途中で、ハルが保護院の人に捕まってしまう場合は、あたしが届けた金は、ドブに捨てたようなことになる)
(――やっぱり、金は、あたいが持って居ようか)
(――それも、なんだか、気に染《そ》まないことをするような感じだな)
(――あたいがお金を届けなくとも、ハルは身体が回復すれば、どのみち病院を逃走するから、手術代がなくたって当面は困らない)
(――それで万事うまくいくのなら、お金を届けた方が、あたいも快適だし、そうしたい。でも、うまくいきそうもないのなら、ここはようく考えるべきだ)
(――やっぱり、自分で持って居よう。うまくいかなくて、ハルが東京に戻ってくるかもしれない。そのときになんとかしよう)
子供らしくない、というお方があるかもしれない。しかし、子供というものは大人に負けず劣らず考えに沈む子が珍らしくない。現に作者《わたくし》なども、小学校六年生の頃、この程度のことはいつも考えていたと思う。作者がこの年齢で考えつかなかったことは、結婚という発想で、人がなかなか考えつかないほどのことを考えつくハルとカン子を、この一点で尊敬してしまう。
したがって作者がカン子ならば、ここはひとまず、静岡のハルのもとに立ち戻ったろう。
結局、カン子はそのまま東京に居坐ったが、ハルは立ち戻らず、音信も絶えた。
(――なんだい、ハル。怒ったら怒ったで、なにか言ってくるがいいじゃない)
(――あたい、ただ小面倒だっただけだよ)
(――水くさいよ。あたいたち夫婦なんだろう。女房がズラかったと思ったら、飛んできて殴りゃいいじゃないか)
(――あんたなんか、もともと好きじゃなかったよ。バカ)
ハルが帰ってこないので、カン子までどこかへ行きたくなっちゃった。
(――あたいも、南へ行こうか)
(――南といったって、南のどこだかわからないんだものね)
(――あたいだって面白くないよ。アパートだって一人じゃ無駄だもン。親ンところへ帰っちゃうから。それで、中学へでも行っちゃうよ)
(――行きゃァいいんでしょ。あたいも行くわよ。だから、どこだかわかんなくたっていいわよッ。中学よりはそっちの方が面白そうだからね)
(――ハルちゃん、行くわよ。どっかで会ったとき、あたいのこと、怒っちゃ駄目よ)
ハルの行方は、それから五年ほど誰にもわからなかった。小学校の同級生たちは、ときおり寄り集まると、きまってハルのことを話題にした。
彼等の意見では、あいつは只者《ただもの》じゃなかったから、きっと、末はひとかどの人物になるにちがいない。末はそうなるが、とりあえず、ひとかどのことをやって新聞に登場するのではあるまいか。誰も彼もが口をそろえてそういった。
同級生たちは中学から高校へ進んだ者、家業についた者、寿司屋、デパート、美容院、さまざまだったが、いずれも親もとに居て、隅から隅まで想像のつく態の暮しをしている者ばかりだった。ハルだけが、正体不明で、伝説の人間になりかけていた。
新聞で、派手な事件がおこると、誰もが、ハルを犯人像に見立てて、しばらくの間、楽しむのだった。
けれどもハルの方は、皆の期待にそむいて、ろくなことはやらなかった。その五年間、主として関西の街々で、皿洗い、新聞販売店員、キャバレーのボーイ、予想屋の助手、そのときどきでなんでもやった。少し小遣いがたまるとのんびり遊んで暮す。だから流れているだけで、どのコースにも深入りしない。
盲腸を取って以来、どうしてか、背がすくすくと伸び、肩巾もたくましくなって、年齢よりは一人前の男に見える。
五年目に消息がつかめたのは、つまり、喧嘩傷害でまた保護院のご厄介《やつかい》になったからだった。そのとき本籍を洗われて、東京の方の噂のもとになり、ハルの方も父親が病死していることを知った。
ハルは今度は保護院を所定どおり勤めて、いったん東京に戻ってきた。父親の墓に線香をあげる気だったのかもしれない。
ハルは身ひとつで生家のある町に戻ると、まず、おにぎり屋に寄って、大きな稲荷《いなり》鮨《ずし》を五つ喰った。その店の息子が同級生だった。
「実《みの》ちゃんは居るかい」
と女に訊いた。女に呼ばれて二階からおりてきた息子が、
「――お前、本当に、春巻か」
「実ちゃん、変らんな」
「一人前の面《つら》つきになったなァ。街で会ったってわからんぜ」
息子はビールを出してきて栓を抜いた。
「まァ、よう戻ってきたな。一杯いこう」
「――親父が死んだってからな」
「そうだ。ちょうど一年ほどになるかなァ、まだ帰ってないのか」
「今、電車をおりたその足よ」
「早く行ってやれ。親父さんも心配しとっただろうからな」
「行ってやれ、って、親父が死んだら誰も居らんわ。あの家だって他人が住んでるンだろう」
「それがお前、お袋さんが戻ってるよ。お袋さんが戻ってきて半年ほどで、亡くなったんだ」
「そうか――」
ハルは、たいしてショックを受けた様子もなく、
「伊豆の男はどうしたかな。一緒か」
「一人さ。お袋さんは一人。別れて戻ったのとちがうか」
「――まァ、呑もう。勘定は払うよ。ビールをもう少しおくれ」
「お袋さんに会うのは、嫌か」
「――用事もないしな」
「そうか、それじゃァ仲間でも呼ぶか。なんだったら、今夜はうちに泊れや」
「ありがとう」
息子は同級生たちに電話をかけ、まもなく物見高い連中が何人か集まった。
「おい、関西で何をやったんだ。だんだん貫禄《かんろく》がついてきたな」
「向こうの新聞に出たか」
「セコいことだよ。喧嘩だ」
「組同士の出入りか」
「そんなんじゃない。組織には入ってないぜ」
「薬《ヤク》打ったことあるか」
「女はどうだい。何人ぐらいやった」
「面白えだろうなァ。日本じゅう廻ったか」
「今までのところは――」とハルはいった。「面白くもなんともねえよ。うろうろしてるだけでね。でもそのうち、面白いことをみつけるさ。俺はきっと、働かねえで遊ぶだけで、面白おかしく暮してやる」
「お前ならできるかもしれねえよ。俺たちは皆駄目だがな。セコく生きてくだけだろうから。まァお前だけでもせいぜい発展してくれよ」
「――お前」と一人がいった。「カン子をおぼえてるか。大名おカン」
「――カン子か」
ハルは遠い眼つきをした。
「お前、会ったらびっくりするぞ」
「何故」
「えらい美人になりやがった」
誰かがくねくねと手を動かして、身体の線を空中に描いた。
「お前もでっかい魚を釣りおとしたな。あのまま世帯を張ってりゃ、お前の女だったんだ」
「べつに、別れたつもりもねえぜ」
「お前がそういったって、本人はもう忘れてるだろう。一緒に居なきゃ駄目さ」
「じゃ、誰の女になったんだ」
「そりゃ知らねえ。おい、誰か知ってるか」
「この頃、見かけないじゃないか」
「なんだか、最近は親もとに居ないらしいぜ」
「そうだ、あの女なら、俺たちの中で、面白い人生を送れる一人かもしれねえな」
「いくらいい女だって――」とハルは笑っていった。「いい女ぐらいどこにだって落っこちてらァ」
「そうかもしれねえが、俺たちの手の届くところには、居ねえぜ」
「――タレントでいえば、誰に似てる」
「まァ自分の眼で見てみろよ。毛虫が蝶になるってえが、本当だぜ」
多摩川の流れに沿った堤を歩いてきて低い草地の方におりてきた男が、小さな倉庫のような家をみつけて、やっと探し当てたように汗をふいた。
二、三台の小型トラックが、その家の前に停まっている。
「ガーピーって仇名《あだな》の野郎が、ここに居るかい」
トラックを洗っていた若者が、無言で家の中を指さした。
男はのっそりと家の中をのぞいた。
修理工のようなズボンをはいたガーピー先生が、ちょうど表に向かって歩いてくるところだった。
男はうっすら笑った。
「ハルだけど、忘れてるかね」
「――どこのハルだ」
「一回、会ったことがある。あんた、ばかにくわしく俺の履歴を知ってたが」
「何の用だね」
「――来てどうってこともねえんだな。来さえすりゃ仕事があるようなことをいってたが」
「俺が、スカウトに行ったのか」
「そうだよ。俺が小学生の頃だ」
「まァ、入んな」
ガーピー先生は、うすぐらい土間のベンチにハルを坐らせた。
「それで、お前いくつになった」
「十七――」
「十七か。少しトウがたってるな」
「――――」
「四、五年前ならな、仕こみがいもあっただろうが」
「子供の仕事なのか」
「なんだって小さい頃から教えなくちゃな。大人になっておぼえたって、ハンチクになるだけさ」
「仕事は何なんだ」
「仕事じゃない。教育だ。ここはよそじゃ教えねえことを教えるんだ」
「大工や運転手の見習いなら、教わりたくねえぜ」
「すぐそういうことをいうからな。だからトウのたった奴は嫌いなんだ」
「それならいい。どうしてもここに来たかったわけじゃねえ」
「――待ちなよ」
とガーピー先生はいった。
「お前、なぜ、ここに来ようと思ったんだ」
「なぜってこともねえ。いつか、スカウトされたことを思い出したからな」
「家出か」
「五年前」
「それで、親は」
「死んだよ」
「ふうん。じゃ、居る気がありゃァ、居てもいいぞ。そのかわり、基本のいろはからおぼえろ」
「何の基本――?」
「いちいち質問するな。小うるさい野郎だ。物事すべての基本だよ」
「泊らしてくれるのかね」
「ああ、泊りと食事は無料。芸能プロダクションみたいなもんで、優等生はどんどん出世する」
その晩は、特別にガーピー先生と一緒に寝た。べつに有難くもなんともなかったが、この五年の間に、どこでも寝られるような訓練はできている。
朝になると、意外にたくさんの若者たちが居た。小学生くらいの小さな子も混じっている。
そうして、小学生から中学生くらいの子が大部分の初級クラスの部屋に、ハルは坐った。
「――いいかい」とガーピー先生が大きな声を出す。
「いつもの奴を、全員で合唱するよ。はじめッ」
全員が、
「おじさァん――」
と声をそろえていった。
「もう一度」
「おじさァん――」
「ちょっと待て。今日は新入りが居るからね。ハル、これは大事な基本のひとつだ。どんなことにでも役立つから、ぜひマスターしなくちゃいけない。俺がひとつやってみるからね」
ガーピー先生は、見本のように、気分を出して、おじさァん、とひと声鳴いてみせた。
「これは親戚のおじさんじゃない。隣近所のおじさんでもない。見ず知らずの、はじめて声をかける、単なる男の人だ。そのおじさんに頼みごとがある。物を買ってもらうかもしれないし、使いを頼むかもしれない。いずれにしても、相手は見ず知らずの人なんだから、せいぜいかわいく、相手の心をひと声である程度つかまえなきゃいけない。ハル、一人でやってみろ」
「おじさァん――」
「駄目だ。お前のは、眼をさましてるよ。そんなこっちゃ誰も油断しない。もう一度」
「おじさァん――」
「声に愛嬌《あいきよう》がない。もう一度」
「おじさァん――」
「駄目だ。おい、サーカス、お前やってみせてやれ」
小さな子が立ちあがって、思い入れをこめた、おじさァん――をやった。
「うん。これから毎日、プロの声が出るまで練習するぞ、ハル、あとで一人でくりかえせよ。よし、次にいこう。今度はニコーッとする」
一同が、今度は声を出さずに、ニコーッと愛嬌のある顔をした。
「そうだな。この笑顔は大事なんだ。人の気持をここでつかむんだからな。はい、もう一度、ニコッ――」
号令では、なかなかニコリとできない。
「ハル、お前のは、カメラの前で、チーズ、というあれだ。そんなこっちゃ、人はだませないぞ」
サーカスという子は、かなり小さかったが、母親はサーカス団の綱渡りだそうで、なかなかはしこそうだった。
もう一人、泥水《でいすい》というデブがハルの相棒だった。泥水は坊主の息子で、ハルと同じく少年保護院の常連らしい。
三人は小型トラックに(運転はサーカスだった)マットレスを積んで埼玉や千葉の方を毎日売ってまわった。
マットレスといっても、表面は美麗な布が張ってあり、寝心地がよさそうに見えるが、実はひどい粗悪品で、一度でも寝ると中のアンコが片寄ってしまって使用に耐えなくなるのである。
多摩川べりのガーピー先生のところを出るとすぐに、運転台で三人声をそろえて、基本の復習をする。それはガーピー先生のきついお達しである。
「――おじさァーん」
「――おじさァーん」
「――おじさァーん」
そうして、精一杯あどけない、相手をトロッと油断させてしまうような笑顔を作るのである。
「――マットレス、買ってよ、か」
「駄目だよ、お前の声はまだ凄みがあるよ」
「なぜ、おばさんじゃ、いけねえんだ」
「お百姓さんのとこじゃ、財布《さいふ》を握ってるのは、たいがいおじさんの方なんだってよ。おばさァん、じゃ、もう一回、おじさァん、をやらなくちゃならねえ」
「そうじゃないよ、男の方が、甘いんだよ。マットレス見ると、ホレ、いいこと思い出すんだろう」
「泥くせえカミさん抱いたってしようがねえだろうにさ」
「サーカス、お前ボーイソプラノだからな、お前がはじめにひと声やれよな」
畑地へ来ると、一軒ずつ入っていって、おじさァん、にこッ――。
「駄目だよ、この前もなァ、へんなもの売りつけに来やがって、高い羽毛布団をなァ。あとでよく調べてみたら、羽毛のかわりに、けずり節が入っていやがったぞ。もうへんなものは買わねえ」
「おじさん、そんなのじゃないよ。よく見てくださいよ。デパートの問屋から直接持ってきたんだよ。ほら、ここんとこに、三越と入ってるだろ。デパートじゃこんなに値引きしないよ。足賃だってかかるしさァ」
「うちはいらねえ」
「そんなこといわないで、買ってよ。まだ朝一番で、ゲンがいいんだよ。ちょっと晩酌やめりゃ、すぐ買えちゃうぜ」
「晩酌の方がいい」
「かァちゃんが喜ぶよ」
「俺ァ、フワフワしたものァ嫌いだ」
泥水が、にこッと笑っていった。
「そりゃそうだね。俺だって晩酌の方がいいや」
「そうだろう。布団なんか、カミさんの嫁入りのときに作ったもんでいいさ」
うるせえな、こん畜生、おとなしくいってるうちに買っちまえ、なんてことはいっちゃいけない、それが人間、修業なんだ、とガーピー先生がいう。
で、次の家に行って、
おじさァーん、にこッ――。
けっこうぽつりぽつりと買ってくれる家がある。小型トラックの荷台に積んだ品物を、半分以上さばいて、帰れる日もあるし、一日かかってほとんど売れない日もある。
「――ねえ、ガーピーの大将」
「大将じゃない。先生だ」
「先生。マットレスが飛ぶように売れた時代というのもあったんだろうがね。もうちょっとズレてんじゃねえかな。他の商品があるだろう。輸入物のアクセサリーとか、インテリヤとか」
「生意気なことをいうな。べつにたくさん売れなくたっていいんだ。これはお前たちの基本訓練のためにやらしてるんだぞ。毎日が授業と思え」
「いかさまの基本かい」
「生きていくことの基本。いいか、なんでも基本をしっかり身につけておけば、応用が利《き》くんだ。基本は理屈じゃない。身体におぼえこます。そうしてだんだんと自分のフォームを作っていく。こんなことは学校じゃ教えない。広い世間で俺のところだけだ」
「えらくしかつめらしいが、要するに、俺たちはインチキ品の売り子じゃないか」
「インチキ品でなけりゃ、修業にならんわい」
「インテリヤなんかの方が、同じインチキでもばれにくいと思うがなァ」
「ばれなけりゃインチキじゃない。いいか、お前たちは純粋のインチキ品を売りに行ってるんだ。そこのところを誤解するな。だから、売れなくたっていい。これが飛ぶように売れてみろ。世間がざわざわ騒ぎだすぞ。そういうときのあしらい方を、お前たちはまだ習得しておらんだろう。でかい面《つら》をしやがって。そういうことだから、保護院を出たり入ったりするんだ。だまって勉強しろ」
「いいか、お前たち――」
とガーピー先生がいった。
「お前たちは、何のおかげで、生きておるか」
「ガーピー先生が、飯を喰わしてくれるからです」
「馬鹿。おあいそをいうな。お前たちの親は、たいして面倒を見てくれなかった。世間もまた、たいして面倒を見てくれない。国家はどうだ。国家はお前たちを、消耗品と思ってるだけだ」
「お天道《てんと》さまのおかげさ」
とハルがいった。
「お天道さまと米の飯はついてまわる。どうってことはねえよ」
「昔はみんなそう思ってたよ。草を喰って、動物を殺して生きていた頃はな。なぜ、泥の中から草がはえたり、動物が子を産んだりするのか、誰にもわからなかった。今はそうじゃねえ。お天道さまが家を造ってくれるか。お天道さまが、ビルやジェット機をくれるか」
「それがどうしたんだ」
「お前たちを生かしてくれるのは、誰でもない、お前たち自身だ」
「当り前だ」
「いや、当り前じゃない。それがわかっておらん。だから、親がどうだとか、世間がどうだとかいって、すねてるんだ。俺は以前、十何年も少年保護司をやってきたから、よく知ってるが、誰も面倒みてくれないといってぶウたれるのは、お前たちの甘ったれだぞ。みんな手前のことしか考えない。だからお前たちも、他人を当てにせずに一人で生きていくフォームを身につけなけりゃならん」
誰もべつに気をいれてきいていない。それはまァそうで、この種の話は彼等の関心の要点をはずれている。
「――そこでだ」
とガーピー先生は続けた。
「お前たちが好き勝手に生きるために、怖いものは、今のところたった一つしかない。お天道さまなんぞ怖くないぞ。神さまも仏さまも怖くない。人間だって、お前たちのフォームがしっかりしていれば、怖くなんかない。ただひとつ、面倒なのは、国家だ。日本は法治国だから、法律がある。法律に違反すると、自由を拘束される。これが仕末がわるい。日本は島国で、四方が海だから、犯罪人にとってまことに不利だ。逃走経路が便利でない。そのうえ、語学に不充分の者が多いから、突然の外地生活に適さない。ヨーロッパやアメリカより何倍も、法律が枷《かせ》になっておる。本塾の講義の眼目は、第一に、法律に違反しなければ、何をやってもいいのだ、ということを身体に叩きこむこと。第二に、法律に違反していることを、どうやって処罰を受けずに遂行するか、だ」
誰もほとんど反応を示さない。ただ、ガーピー先生がどうしてこんなに長いことしゃべりだしてしまったのか、その真意をはかるように、様子をうかがっている。
「わかったか、泥水《でいすい》」
「全然――!」
「よし。では、今日から第二項、ミスディレクション。ミスディレクションとはどういうことかというと、まちがった誘導、とでもいうかな」
聴いている証拠のように、ほぼ全員がガーピー先生の方に視線を集めており、なかには吹き出す者も居た。
「ただ、まちがってるわけじゃない。あらかじめ、別の目的があって、わざとまちがった方に誘導していく。あるいはまちがった方に視線を向けさせる」
今度は、ほぼ全員が、ゲラゲラ笑いだした。
「――そうだ。俺のことをいいたいんだろう。もちろん俺は、いつだってミスディレクションを使ってる。だが、俺だけじゃないぞ。どんなことにもこの方法は使われていて、大勢の人間を自由に動かしている。あるいは、眼を向けてほしくないところを隠して、べつの方向にみんなの眼を集めようとする」
ハルは、念のため、自分の背後をふりむいて眺めた。右も左も見渡したが、べつに変ったことはない。
――この野郎、なんだってあんなに大声でしゃべりまくるんだろう、なんの魂胆《こんたん》があるのかな。
「だまれッ、静かにしろッ」
とガーピー先生は一段と声を荒らげていった。しかし、誰も騒いでいる者は居ない。
「ほウら、びっくりしたろう。騒いでいるときにこんな声をかけたって効果がない。静まっているときはいう必要がないと思うだろうが、この瞬間が印象的で、次に俺がいうことが、皆の頭によく入るし、記憶される。これも一種の言葉の誘導だ」
「能書《のうがき》はいいから、早く本題を唄ってみろィ」
と連中で一番|年嵩《としかさ》の肉太郎がいった。
「一番簡単なミスディレクションを説明する。手品師がよくやるやつだな。左手を、突然、大きく動かす。何をするのかと思って、みんな、俺の左手を見るだろう。右手が小さく動いて仕事をするのはそういうときだ。手品師は、舞台に出てくる以上、始めから終りまで計算している筈だから、どんな小さな動きだって無意味なことはない。それは見物もよくわかっている。けれどもその瞬間、うっかり左手を見てしまうものだ」
「今度は、手品をやるのか」
「さァ、明日から、この方法を自分でそれぞれ考えて、仕事に使ってみろ。第一段階は、相手を油断させ、気持を開かせた。第二段階は、相手の注意をあらぬ方に向けさせてみる。今夜ひと晩、よく考えるんだぞ。このくらいの知恵が出てこないようでは、お前たちみたいのは楽しく生きていけないぞ」
ある夜ふけ、タクシーが近寄ってくる気配がした。
ガーピー塾は多摩川べりで、畑地の中に建っている恰好《かつこう》だから、タクシーも畑の中の細い泥道を入ってこなければならない。
「また来やがった。例のスケだな」
とサーカスがいう。
「火曜と金曜に、毎週やってくるんだ。ガーピーのスケだろうな」
「ガーピーが、女なんか抱くのか」
「そりゃ、ガーピーだって、女ぐらい抱くだろうさ。肉太郎の話じゃ、なかなかの品物《ブツ》らしいぜ」
「若いのか」
「若いらしい」
「見に行くか」
「他人のスケをか」
「俺一人で行ってくるか」
「俺も行くよ。お前、見るだけじゃねえだろう」
ガーピー先生は連中とはべつに、離れに住んでいる。
「一応、どんなふうか、遠眼《とおめ》に拝んどくかな」
畑の中の柿の木に昇って、明かるい室内をのぞいてみた。
長椅子に、若い女が両脚を投げ出している。上着を脱いだらしく、ノースリーブのワンピースから、遠眼にも、むっちりとした肉の盛りあがりが見える。
ガーピー先生が酒のグラスを女に手渡している。
「――いいスケだなァ」
「――ハンパじゃねえな。あの野郎」
「ミスディレクションだからなァ」
ハルが一番先に、柿の木をおりた。
「ちょっと、訪問してやろうぜ」
「へえ、直接かね」
「直接じゃないってえと、どういうことになる」
「帰りを狙って待ち伏せするって手があるぜ」
「あの野郎と寝たあとをかい。そんな汚ねえことはできない」
「じゃ、野郎の前に、しちゃおうってわけか」
「前も後も、野郎にはさせねえ」
「ばかに力が入っちゃったな」
離れの戸は鍵がしまっていない。三人が次々と入りこんで、階段を昇った。
二階の話し声が、ふっと止《や》んだ。
「――誰だ」
しばらくして、ガーピー先生が立ってきて、廊下に出てきた。
ハルが一人で立っている。
「――なんだ、ハル」
「ミスディレクション――」
といってハルは笑った。そのときはもう、ガーピー先生の背後から、サーカスと泥水《でいすい》が笑いながら、両肩に手をかけた。
「――ここは、お前たちの入ってくるところじゃないんだ。俺の住居だからね」
「女は入ってきてるぜ。俺たちは入っちゃいけねえのか」
「あの女は、客だ」
「俺たちは身内さ、ガーピー塾のね」
「身内ならおとなしく寝てろ。今は大人の時間だ」
ハルは、ガーピー先生の額に指を当てて、押した。
「大将が大人なら、俺だって大人さ」
「お前は未成年だ。少年保護院だろ」
「だがチンポにゃ毛が生えてる。保護院じゃ、お前みてえにデッカイ奴は、大人にも居ねえっていったぜ」
サーカスと泥水は、もう部屋の中に入っていた。ガーピー先生は、ハルに押されながら、身がまえた。
「お前等、何しに来たんだ。俺に敵意を持ってるのか」
「お前さん家《ち》の便所掃除に来たんじゃねえんだ。ちょっと女をなめてみたいと思ってね」
サーカスと泥水が飛びかかろうとするのを、ハルが制した。
「殴り倒すなよ。俺たちのボスだ。ただ縛りあげるだけにしようぜ」
そのとき中の女が、ひと声いった。
「ハルちゃん――」
ハルはキョトンとして女を見ていた。
「あんた、こんなところに居たの」
「俺を、どこで知ってるんだ」
「いやだなァ。カン子よ。あんたの女房よ」
ハルはびっくりしたように、女を見直し、ガーピー先生を見た。
「お前、おカンか。よく化けやがったなァ。どこでそんなに綺麗になった。――こいつのせいか」
ハルは、次の瞬間、ガーピー先生をまっ向から殴り倒していた。
雪の進軍
どうしてだか、ハルのパンチは見事に痛烈にきまって、ガーピー先生の身体は一瞬、空中に浮いたようになってすっ飛んだ。
こういうことがたまにあるんだな。必殺のつもりのパンチが肩に力が入りすぎて空振りしたり、気楽に打ったのが、偶然ヒットしてしまったり。
ハルもちょっと驚ろいたが、やってしまえばそれまでよ、だ。
「子供だと思ってなめると、痛い目を見るんだぜ」
カン子が、ガーピー先生を助けおこしながら、
「なにすんのよ、ハルちゃん」
「なにすんのとはなんだ。こいつは、俺とお前が小学校の頃、いい仲だったってことを知ってやがるんだぜ」
ガーピー先生は、
「ばかやろう――」
と一言いったきり、ちょいと骨休みをするような恰好で、カン子の身体の中に崩れこんだ。
「それじゃハルちゃん――」とカン子。「あたいが、このおじさんと、できてると思ったの」
「ちがうとでもいうのか」
「そりゃちがうわよ。いくらなんだってこんなおじんと――」
「馬券のツケの代りにさわらせちゃったりする女だからな」
「あンたのためだろ。なんだい、あンときは、助かった助かったいってよろこんでたくせに」
「じゃ、ガーピーとやるのも、俺のためか」
「ガーピーとは、やっちゃいないよ。いやな性格ねえ。あたいたちはねえ、仕事の打ち合せで会ってたんだから」
「身体を売るのがお前の仕事だろ」
「売ろうたって買えないくせに、えらそうなこというんじゃないよ」
「どこの世界に自分の女を買うやつが居るかよ」
「自分の女なら、それらしく銭ぐらい送ってこい。なんだい、手紙一本よこさないでさ」
「手紙だと。ああそうだ、手前、静岡の病院に、銭を持ってったんだろうな」
「忘れたよ、そんな古いこと」
「おい、皆、きいてくれ。この女はな、俺が子供のときに、結婚した奴なんだ」
「――誰と」
「俺とよ。きまってるじゃねえか。その亭主がだよ、病院で苦しんでるときに、銭をとりに東京に戻って――」
「戻ってこなかったのか」と泥水《でいすい》。
「多分、な」
「それでお前はどうした」
「俺は手術が終ったとたんに、ずらかったから」
「それじゃ、どうってことはない」
「まァそうだ。でも俺は亭主さ」
「あたいが何かわるいことしたのかよ」
「気に入らないよ。夜中にガーピーに会いに来た。よりによって、こんなデブ野郎にな」
「待て。ガーガー騒ぐな」
と、ガーピー先生が眼をさましたようにいった。
「まず、俺と話《ナシ》をつけろ。ハル、これはただじゃすまねえ出来事だぞ」
ハルは、それでまたガーピー先生に視線を戻した。
「この野郎、お前が一番ふざけてやがるんだ。ぐずぐずいうともう一発行くぞ」
ガーピー先生は、躄《いざ》ってカン子の身体を離れ、念のため、木製の一メートルもある飾りのスプーンを抱えこんだ。
「俺が、何をしたって」
「何をしたか知るかい。ひとの女房を夜中にひっぱりこんで――」
「女房も亭主もねえ。ここは俺の部屋だぞ。ハル、俺が一一〇番すりゃ、不法侵入と暴力で御用を喰うぞ」
「一一〇番しておくれ。俺だってここの住人さ」
「そうだろう、お前はここで飯を喰ってるんだろう。恩を仇で返したわけだな」
「恩か。笑わせるない。俺の辞書には恩なんて字はないぜ」
「そうか。仁義を知らねえ奴は、アウトロウの世界においとくわけにいかねえ。たった今、ここを出ていけ」
「出て行くが、この件は、どう解決してくれるんだ」
「そいつは俺のセリフだぞ」
「ようし、それじゃどっちが泣いて謝まるか、この場でケリをつけてやろう」
「よしなさいよ、ハルちゃん――」
とカン子が中に割って入った。
「よしなさいよじゃないよ。お前は俺と一緒にこの家を出るんだ。二度とこんなところに来るなよ」
「いやよ」
「アレ、お前、今、なんていった」
「いやだわよ」
「俺より、このおじんがいいのか」
「だからいったでしょ。ガーピー先生とは、乗りかけた仕事があるんだって、これはビジネスなのよ」
「やめちまえ」
「そうはいかないわ。仕事がデカいんだもの。子供に馬券を売りつけるのとは、ちがうのよ。途中じゃやめられない」
「じゃ、一人でやれ」
「駄目よ。資本も要るし知恵も要るわ。あたい、ガーピー先生にいろんなこと教わってる最中なのよ」
「どんな仕事だい」
「いえないわよ」
「亭主にもか」
「亭主って、あんなもの、おままごとでしょ」
「――じゃ、勝手にしろ」
とハルはいった。そうして暗い外に出て行った。
「ハル――」とガーピー先生が追い討ちをかける。「お前、このままじゃすまないんだぞ。俺たちの世界はそんなに甘くねえぞ」
念のため、ハルは東京を離れて北九州に行ったが、ガーピー先生のいう嫌がらせの気配は感じられなかった。ハルは一文無しに近いから、こんなときは一番強い。相手がファイトを燃やしてかかわりあってこない。
小働らきをしたり、遊んだり、ごろちゃらしているうちに、女と借金でどうにもならなくなったので、二年ほどしてまた東京に帰ってきた。
叔父さんが、小さな不動産屋をしていて、だいぶ景気がいいときいていたので五反田の店に身ひとつで飛びこんで、やとってもらった。
もっとも不動産屋の全盛は、とうに過ぎてしまって、長期の不景気の到来とともに、物品がさっぱり動かなくなってしまっている。土地の値上りが頭打ちになったので、投資で不動産を買う者がすくない。玄人《くろうと》は、まだ底値があろうと思って買い控える。
各方面で面白いように札びらが舞った時代はとうにすぎて、またいつ来るか見当もつかない。ハルのような年齢は、大きくおくれてやってきた世代といってもよかった。
「お前、ボロもうけする気でこの商売に入ったら、駄目だぞ」
と叔父さんがいう。
「これからは守りの時代だ。しっかりガードを固めるんだ。気持のうえで堅気《かたぎ》にならなくちゃいけない。それができるかね」
「叔父さんはいくらか残しちゃったからそれがいえるけど、俺は一文無しだからね。守ってなんか居らんない。攻めなくちゃね」
「攻めなくていいんだよ。素人《しろうと》の攻めほど当てにならんものはない。とにかく月給とりのつもりで、いろんなことをおぼえなさい」
ハルは一応、その不動産屋の社名を刷りこんだ名刺を持ったが、肩書もないし、持ち場の名前も入っていない。
「いいかい、お前」と叔父さんはくどくいった。「なにも手柄をたてる必要はないよ。叔父さんに迷惑をかけなけりゃいい。それだけ頼んどくよ」
そういわれても、じっとしてただお茶をくんでるわけにいかない。また不動産屋の店の中というものは、じっとしていてあまり面白いところじゃないのだ。
「叔父さん、皆、ときどき地方に飛んだりしてるけど、あれはやっぱり、攻めに廻ってるんでしょ」
「攻めというほどのことじゃないよ。土地がありゃ買いという頃とちがってね。今、うっかり背負いこんだらにっちもさっちもいかない。ずっと寝かせとける大店《おおだな》ならいいが、うちみたいな小さいところはね、とても手を出せない」
「そうはいっても、なんかあるんだろ」
「ま、こういう時だから、めったに手は出せないが、それだけに投げ売りの土地を安く叩けりゃァな。同業に売れるようなひろい物なら、かえってうまいネタにもなるがな。まァそりゃァ、宝くじで当てるようなもんだ」
「俺、ちょっとフラフラしてきてもいいかい」
「――よしなよ。素人で、お前みたいな小僧ッ子がふらふらしてひろえるもんじゃないんだ」
「小僧ッ子っていうけど、俺はずいぶん方々歩いてて、いろいろ知り合いも居るからね。並みの大人とはちがうぜ」
「うーん、だがもう少し修業を積んでからにしろや」
「少年院にはね、方々の生まれの奴が居るからね。そいつ等にあたりをつけとくよ。この店の地方後援会を作ろう」
「おい、お前、何か考えるんじゃないよ。じっとしててくれ。実直に、掃除でもしててくんな」
「おじさーん――」
といって、ハルは、にこッと笑った。
「なんだい、そりゃ」
「外交のコツは呑みこんでるんだよ。売るよりは、買いに廻る方が楽だろう」
「いや、お前、買う方が大変なんだよ」
「もちろん俺が買えるもんか。何かあったらニュースを知らせるよ。叔父さんにすぐ電話をする。俺が一人で定《き》めるもんか」
「おい、そういうことはね、五年早いンだよ。駄目だったら、おい――」
ある日、叔父さんが気がつくと、財布の中の大きいお札《さつ》がだいぶ減っていて、失礼、と書いた紙片が入っていた。
「――モシモシ、叔父さんか」
叔父さんは、握った受話器をあわてて右手から左手に持ちかえた。
「この野郎、何をしてるんだ。今、どこだ」
「北海道――」
「北海道だと。俺に捕まらないように、遠いとこから電話かけてきたな」
「支笏湖《しこつこ》だよ。支笏湖温泉――」
「温泉で、俺の銭を気持よく使ってるのか。あきれた野郎だ。箸にも棒にも、というのは手前のことだ」
「ぐずぐずいうなよ。電話代が高くならァ」
「俺の銭だ。お前の指図を受けるかい」
「とにかく、用件をいわせてくれ」
「遊び代が足りねえってのか。警察沙汰になっても叔父さんは出さないぞ」
「ニュースだ。叔父さん、ニュースなんだよ」
「ニュースぐらいテレビで見るわい」
「土地があるよ。土地だよ」
「ばか。土地なんてどこにだってある。安い土地がないんだ」
「それが、いくらでもいい。云い値でいいってんだ」
「――嘘をつけ」
「嘘じゃないよ。ただね、広いぜ。見渡すかぎりだ。何十万坪だか、俺には見当もつかねえ」
「おい、銭を盗んで、ごまかそうたって駄目だぞ。俺はそんなに甘くねえ」
「気がなけりゃいいんだよ。俺はニュースを知らせただけだからね」
「――土地はどこだ」
「だから、支笏湖温泉」
「ふうん、それで――」
「こっちの娘に惚れられちゃってよ。もっとも俺はどこだってそうなんだ。叔父さんは知らねえだろうが」
「娘なんかどうだっていい。もっとくわしく話してみろ。土地の件をだぞ」
「こっちに、少年院で知り合った友だちが居るんだよ」
「そりゃァ、その不良にだまされてるんだ」
「冗談いうない。不良仲間のつきあいは固えぜ、堅気社会なんかとくらべものになるかい」
「まァいい。それで」
「もう四日ほど、ここに居るんだ。その友達に紹介されてよ。いい娘なんだよ。それが附近の村の有力者の娘でね」
叔父さんはまた左手から右手に受話器を持ちかえた。
「有力者の娘か――」
「結婚してくれっていうがね。俺ァその気はねえんだ」
「わかった。北海道の狐にたぶらかされてるんだ。お前、頭を冷やして寝ろ」
「いいよ。もう一ヵ所、話を持ちかけるところがあるからね。ガーピー先生って奴で、こういう話は大好きな男だよ」
「せっかくだから、もう少しきいてやるがな、支笏湖なんざお前、別荘景気時代に不動産屋がさんざん突っつきまわした土地なんだ。今頃お前が行って、うまい話が転がってるかい」
「そうだよ。そういってた。娘の親父がね。その村の人たちは不動産屋って奴が大嫌いになって、以前の土地ブームの頃に、いっさい商売人を入れなかったんだとさ。村の人が一致団結してね。それで土地がそっくり手つかずに残っているんだ」
「どうしてお前になら売るんだ」
「俺は商売人じゃないとさ」
「たしかにお前は商売人じゃないな」
「娘の親父がいうんだ。若いがスケールが大きい。お前さんになら、土地のことはまかせてもいい。――だが、俺はそのかわり娘の婿にならなくちゃいけないかもな」
「その土地ってのは、どんな具合だ」
「いいところだよ。温泉は出るし。叔父さんは銭がねえから駄目だが、もっと大物が開発すれば、大観光地帯になるな」
支笏湖なら、千歳空港からも近いし、ひょっとしたら、大仕事になるかな、と叔父さんはとっさに思った。
「だが、まず第一に値段との相談だな」
「だから云い値でいいってんだ。一発、開発計画をぶちかましたからね。向うはただ土地を売るだけじゃなくて、そのことでずっと、ここに金が落ちりゃいいんだろう」
「そういってるのか」
「今のところは乗ってる。だが、いつ気が変るかわからねえぜ」
「よし、なんとか話を進めろ。どのくらいの広さか知らねえが、手金ぐらいは、明日の朝、すぐそっちの銀行に送る」
その夜、もう一度、電話が入って、坪十円なら話になりそうだ、といってきた。
「買えッ、買えッ――」
と叔父さんは絶叫した。いくら北海道でも、湖と温泉が、坪十円で買えればすごい。
「大手柄だ。お前、見どころあるぞ」
そういって叔父さんは金の支度に飛び廻り、一人で祝盃をあげたが、ほとんど同時に、不安も胸をよぎって、飛行機で現地に飛ぼうと思いたった。
飛行機は速い。当り前だが、このときの叔父さんの気持に即すれば、蟻の歩みのようだった、といえようか。
つい、うっかりして、あの不良少年に全権を任したが、どうも、このめっきり不景気のご時世に、夢のような話が転がっているのがおかしい。野郎が何かにひっかかったか、それとも、野郎が策を立ててこの叔父をハメこもうとしているか。そのどちらかの可能性がないとはいえない。
いずれにしても、金と手形を送ってしまったのは迂闊《うかつ》だった。もちろん、自分の金ではないのだ。ハルの話に酔って、いくらでも買えと絶叫してしまった。この件がうまくいかなければ、たちどころに玉砕するほかはない。
千歳空港からタクシーで、運転手の尻を鞭《むち》で叩くようにしてブッ飛ばした。ハルの奴は迎えにも出ていない。
(――野郎、銭を持って、ズラかりやがったか)
フロントで訊くと、スイートルームで酒を呑んでいる、という。
(――わかりゃせんぞ。フロントなんか信じられん)
部屋をノックすると、扉が開いた。
「こらッ――」
「――なんだい、叔父さん」
「高い部屋に泊りやがって。この不良少年が」
「ケチケチするない。大仕事をやってやったんだ。こりゃァ俺しかできない仕事だったんだぜ。今まで、どこの不動産屋だって指一本つけられなかった土地なんだ」
「まァそれはいい。それで、話はどこまで行った」
「どこまでっていうと――?」
叔父さんはまだ部屋の入口に立ったままだった。
「まァ坐りなよ、叔父さん。祝盃をあげよう。遠慮するな」
「馬鹿。とにかく最初から順序だてて話をしてみろ。祝盃はそれからだ」
「だから、いったろう。俺の仲間《ダチ》にシゲってのが居て、それがここの出身でよ。温泉のすぐそばから見渡すかぎりの原始林だってから、ピーンと来てね。一発、デカイ話はころがってないかと思ってここに来たんだ。それで娘《スケ》に紹介されてね――」
「そんなことはどうでもいい。土地だ。本当に、坪十円の土地が転がってるのかね」
「まさか、それは冗談さ」
「なにッ――」
「いくらなんだって、坪が十円で買えるわけはないだろ」
「――!」
「そういえば叔父さんが喜こぶと思ってさァ」
「かんじんのところを、お前!」
「本当は、百十円。百がその上につくんだ」
「お前は小さい時から変っていたが、最初から百十円となぜいわない。もうその上につかないだろうな。千百十円とか」
「つかない。百十円だって大安だろう。なにしろ温泉から道がついていて、その道沿いの土地もそっくり入ってるんだから」
「まァ百十円でも買い物だな。道沿いなら八百や千はするよ」
「喜こんでくれ、叔父さん、話に不確かなところは全然ないんだ。ただ、俺を婿にって話が、まだ返事をしてないんだけどね。うまいこといって、婿の方は返事をしないまま、契約をすませた」
「――それで、お前、どのくらいの坪数になるんだ」
「とりあえず、百万坪」
「ええと――、百十円が百万坪として、――一億一千万か」
「その気なら、まだ土地はあるといってるよ、娘の親父はね。村有地も一緒に売ってもいいそうだ」
「もういい。一億一千万円でも、叔父さんには一生一度の大勝負だ」
ハルは窓をあけて、月光に照らされた雪山や、豪壮な湖の夜景を指さした。
「叔父さん、見てみな。今はただの観光地だが、今にグランドキャニオンのようなでっかい遊び場になる。飛行機の回数券を作って、東京の客をそっくりさらおう」
「のぼせるな。俺は三井三菱じゃない」
「借りればいい。金は借りて使え。ここがそっくり叔父さんのものになる」
「そっくりって、山ばかりじゃないか」
「山だからいいんじゃないか。平地が坪百十円で買えるか」
「そうすると、お前のいう土地は、あの山の方か」
ハルは誇らしげに、まっ暗な湖の対岸を指さした。
「そうさ。まだ何百万坪もあいてる。坪というよりひと山いくらでいいとさ」
「おい、おちつけ。つまりお前は、山林を買ったのか」
「山林とはいえないな。この辺は草も生えないんだ。岩山だからね」
「岩山だと――!」
「だからグランドキャニオンになるんじゃねえか」
「この野郎、お前、契約をしたと!」
「ああ」
「登記所には行ってないだろうな」
「もちろん。予定契約だよ。叔父さんのいうとおり、現金を一千万渡して、あとは二ヵ月、四ヵ月、半年の手形。その間に開発に手をつければいい」
「この野郎、この野郎、この野郎!」
叔父さんは喉仏《のどぼとけ》まで見せて、ハルを丸呑みしそうな顔になった。
現金が一千万円消えて、あとは三千万、三千万、四千万、と手形を振り出したという。
そのうえハルは平然とした顔で、叔父さんに気がないなら、買主を探して、高く売りつければいい、といった。
(――ああ、とんま野郎奴、少年院から出て来なけりゃよかったんだ。少年院の無期懲役というものがあれば――!)
しかし叔父さんはもう声が出ない。
ところが四、五日すると、ハルは叔父さんの店に現われて、
「出張旅費、接待費、少し余分におくんなさい」
「この野郎。よくもおめおめとここへ来られたもんだな」
「カモがみつかったぜ。静岡県で一といって二とさがらねえ山林王だ。その爺さんを支笏湖に連れていくからな」
「――あそこを買うっていうのか」
「一度見ようってさ」
「お前がなぜ、山林王を知ってるんだ」
「少年院の友達《ダチ》が教えてくれたんだよ。とにかくあの土地を売らなきゃ、破産なんだろ」
「そうだ。まァしっかりやってこい。――だがな、新らしいことにはもう手を出すなよ」
官費で、北海道と東京を行ったり来たりである。こんないい稼業はない。
「ねえ、プクプク爺さん、おたがいに、こんないい身分はないね。ただで温泉に行けて」
「わしは温泉にはそれほど興味はない」
「俺もだぜ。だがなにしろ官費だ。ひとつ今夜は、うわッと騒ぎましょう」
その晩、支笏湖で、芸者を呼んで呑めや唄えの大騒ぎ。
プクプク爺さんは、兎を皺くちゃにしたような、まことにユニーク、かつ奇怪なご面相の老人だったが、さすがに山林王らしく、七十を越してなお壮年をしのぐ元気さで、
♪雪の進軍 氷をふんで
どれが河やら 道さえ知れず――
芸者が唖然として、
「――なんの唄なの」
「知らん。明治の頃の唄だろ」
♪馬はたおれる 捨ててもおけず
ここはいずこぞ 皆敵の国
雪の進軍 氷をふんで――
「大丈夫なの。血圧が高くならないかしら――」
「だまってろ。山林王だ。大金持だぞ。あのな、今夜はぜひ、猛烈にサービスして、トロトロにしちゃってくれ」
♪どれが河やら 道さえ知れず
馬はたおれる 捨ててもおけずゥ
ここはいずこぞ 皆敵の国ィ
雪の進軍 氷をふんでェ
どれが河やら 道さえ知れずゥ
「――誰かなァ、プクプク爺さんを今夜相手にしてくれないかなァ」
とハルがいっても、すぐには答えが返ってこない。
「なァに、あのプクプク爺さんって」
「だから大金持だよ。本名をいいたくないから、シャレたつもりなんだ」
♪馬はたおれる 捨ててもおけず
ここはいずこぞ 皆敵の国ィ
雪の進軍 氷をふんでェ
「あたし、番になりますわ」
「影千代さん、大丈夫? あんなお化けみたいな人と――」
「あたし、お爺さん好きだもの」
「よし、影千代さんかね。頼んだぜ。銭はいくらふんだくってもいい。とにかく生まれてまだ、女の人に優しくされたことがなくて、七十いくつになっちまった人だからな。うんとサービスしてくれ」
♪どれが河やら 道さえ知れずゥ
馬はたおれる――
「こりゃ、終らん唄ですな」
「いやァ、よかった。いいね。ご苦労さま。息が切れたでしょう。まァ一杯、行きましょう」
翌朝。芸者買い、振られた奴が起こし番、というけれども、ハルの部屋に、プクプク爺さんが、改まった表情で乗りこんできた。
「――春巻さん」
「なんですか。影千代、来ませんでしたか」
「いや、来た――」
「来ましたか。それで、あまりお気に入らなかった。それじゃね、もうひと晩、泊って、今度はお名ざしの妓《こ》を――」
「いやァ、いや、春巻さん――」
そういって、プクプク爺さんは、ほろりと涙をこぼした。
「実に、わしは感激しました。影千代は優しい、気持の美しい娘です。父さんを早くなくしたそうで、わしが父さんみたいな気がするといってな。それで、こうもいいましたわい」
「――――」
「自分は、父さんみたいな人と結婚したい、いうてな」
「そりゃ、よかった」
「気に入りました。この土地、わしは死ぬまで忘れることができません」
「じゃ、今日は、土地を見に行って――」
「いや、もう見んでよろしい。買いましょう。百万坪、そっくり。わしの恋の記念として、碑でも建てたい」
「そ、それじゃ、早速、仮契約を――」
「ええ、それでね、わしもこの年で女房を亡くしとるし、いろいろ考えるとね、影千代をね――」
とプクプク爺さんがいってるのを振り捨てて、ハルは東京のダイヤルを廻していた。
「――モシモシ、叔父さんか、支笏湖の土地、売れたよ。ええ、全部。簡単なもンだよ――」
「おい、もういうな――。なんでもいいから戻ってきて、おちついたところで、くわしくきかせてくれ。それまで、なにもきかんぞ――」
「大丈夫だってば。相手は大山林王だもの。――ねえ、プクプク爺さん、契約は大丈夫でしょう」
「契約――? 影千代との契約?」
「おや。――叔父さん、ちょっと待ってくれ。いずれ東京でくわしく話しますから」
プクプク爺さんは、契約は東京の自分の邸で、正式にしたいという。もちろん登記所の問題もあり、とにかく東京に帰らなければならない。
影千代はなかなか勤め気のある娘で、翌日、飛行場まで送りにやってきて、ハンケチを振ってくれた。
「春巻さん、わしは白内障で、遠くがかすんでいる。まだ、影千代は居ますか」
「居ますよ。こっちを見てさかんにハンケチを振ってる」
「そうですか。まだ居ますか」
「居ます、居ます」
「ああ、あれが現代の若い女だろうか。実によくできた人だ。北海道の花だ。まだ居ますかな」
「まだって、もう飛んでますから――」
叔父さんは、ハルの帰りを病院で待っていた。とうとう心悸《しんき》が亢進《こうしん》して、店に立って居られなかったのだ。
「――ハル、ハル」
「なんだい。臨終のような声を出すなよ。東京に戻ってきましたよ」
「――それで、契約は」
「それがね。東京で、すぐにでもすませるといってたんですがね」
「――気を持たせないで、一気にしゃべってくれ」
「いざとなったら、どうしても、もう一度、支笏湖へ行って、そこで印を押したい、そういうんだ。出張のお金をおくれよ」
「――それで、坪の値段は」
「値段なんか、あの爺さん、どうでもいいんだ」
「どうでもよくない。お前はわかってないが、そこが肝心なんだ」
「だから、三百円といっといたよ。坪三百円」
叔父さんは、ふうっとひと息、大きく吐いた。それからベッドの上で飛びあがった。
「いや、――いや!」
と叔父さんは叫んだ。
「安心しないぞ。俺は絶対に安心しない――!」
さて、また北海道支笏湖畔である。この物語は大急ぎで運ばないと、定められた期間にお話が入りきらないおそれがあるのだ。
支笏湖畔――。
プクプク爺さんは、フロックコートにシルクハットの礼装で、兎のような顔を精一杯ひきしめて、ホテルにやってきた。
フロントに向かって、大声で、
「影千代は居ますか。影千代にいうてください。父さんが来た、と――」
「おちついて、今はまだ、お昼すぎですから、ひと風呂浴びて、それから――」
「いや、わしは待てん」
「でも、土地を見なくていいんですか」
「土地なんかどうでもいい」
「ほら、それだから俺も困っちゃうよなァ。土地のことも少しは考えてよ」
「影千代を、すぐ呼んでください」
「わかった。そのかわり、契約ね」
ハルが置屋に電話をすると、すみません、影千代はもう居ません、という返事である。
「他の妓で、いかがでしょうか」
「冗談いうない。影千代のために、ここまで来たんだ。あの妓はどうしたの」
「それがねえ。男が居たらしいんですよ。今は芸者といっても、自由ですからね。この前のお客からまとまったお金をいただいたからって、札幌に出て行きましたよ。男と世帯でも持ったんじゃないんですか――」
ハルは足どり重く、部屋に帰った。プクプク爺さんが、一瞬早く、契約書にサインしてくれていることを祈りながら。
でも、爺さんは正座したまま待っていた。ハルの話をきくと、爺さんの顔からスーッと血の気が引いていくのがわかった。
プクプク爺さん
地下がトルコ風呂、一―三階が信用金庫、四階がサラ金、五階が貸事務所、という変てこなビルがあった。そのビルの持主は、六階に住んでいる。
最上階の大きな会議室に、ある夜、全部で十三人ばかりの人々が集まった。年齢も服装もまちまちだったが、いずれも初対面の人々で、しかし、目礼し合っただけで、誰も名乗り合わない。
中央の椅子に陣どったガーピー先生が肥った身体を反《そ》らすようにして、やおら開会を宣した。
「――本来ならば、はじめての総会で、当組織の定款に等しい印刷物をお手もとまでお配りするところでありますが、当組織の性質上、記録として残すことをいっさいいたしません。したがって、発起人である私から、口頭でご説明いたします」
「声が小さい――」
という野次が飛んだ。
「私は意図的に小声にしております。かような場では、大声を発することになんのメリットもありません。ご静聴くださることでお聴きとりをねがいます」
「早く本題に入れ」
「一、当組織は、株式会社ガーピー連盟と称す。二、当連盟は、若者たちが幸せな生活をつかむように誘導し、またその技術方法を研究開発する。そのうえ右に付帯する一切の事業を営むことを目的とする」
「面倒ないいかたはよせ。もっと素直に――」
とサラ金社長がいう。
「黙って。三、当連盟は本部をこの場所におき、必要に応じて支部を設けることができる。四、当連盟の株式は、記名式額面株式とし、株券は一株五十万円で、一株券、十株券、百株券の三種とする」
「今、何株くらい集まっとるのかね」
と階下の信用金庫の代表者。
「百三十四株です」
「この十三人でか」
「これは誰にでも売るわけではないのですからね」
「しかし、百三十四株というと、百株を買った者が一人居るんではないのかね。それが誰かわからんが、どうもその者にふりまわされるような気がするね。ガーピーさん、百株はお前さんかね」
「冗談いっちゃいけない。私は発案者。株を買わなくとも、あくまで中心に居ります。そして、当連盟の仕事《ビジネス》の性質上、株はあくまで利益配分の場合の単位であって、発言権は百株も一株も同じです。現に一株もない私が、一番発言しているくらいですから」
「ということは――」とこの辺を縄張りにする某組織の若頭《わかがしら》がいった。「ヤバイ場合でも、ガーピーさんがすべてを背負ってくれるわけだな」
「ヤバイとおっしゃるが、当連盟は犯罪行為はいっさいやりません。したがって司直の手が入るような可能性はゼロであります」
「犯罪行為にならないボロいことというものがありますかな」
とトルコ風呂経営者。
「あります。現に貴方も――」
「いや、あたしの店はボロくない」
「よし、もっと具体的に説明してくれ」とサラ金がいう。「今、すでに何をやっているか」
「承知しました――」とガーピー先生はアルコールで喉をうるおしてからいった。
「今、私の手もとに、三人の若い娘が居りまして、それぞれ、社会の中に飛びこんで行きました。さしあたり、私どもはこの三人の若い娘の今後の生き方を見守りたいと思います」
「――それで」
「彼女たちが、いかにして幸福をつかんでいくか、私どもは注意ぶかく見守りながら、さまざまなコーチをしなければなりません」
「――すると、どうなるのかね」
「娘たちは幸福になるでしょう」
「うん。それで俺たちも幸福になるのかな」と若頭。
「なりますとも」
「どんな具合に?」
「配当が来ます」
「さっぱりわからんね。誰が配当をよこすんだ」
「わかった。高級トルコだ――」とトルコのオーナーが叫んだ。「もったいぶったいいかたをしてるが、そんなものは珍らしくもないし、我々が一堂に集まるほどの企画ではありませんぜ」
「お黙ンなさい――」とガーピー先生が一喝《いつかつ》した。「私は娼婦は嫌いだ。そんなうす汚れた発想で、ガーピー塾をやってはおらん。この際申しあげるが、この私を信頼できなければ、即刻、お金はお返しする。株券をひきあげてください」
ガーピー先生は、眼をつぶり、激情を押さえるようにしばらく黙っていた。そうして、眼を開くと、卓上の皿の上の大きな葡萄を一粒口の中に入れ、ペチャペチャと噛んだ。
誘われるように、二、三の者が葡萄に手をのばした。
「ヤバくない。うす汚れてもいない。それで配当は充分にある。その話をただ鵜呑みに信じろというのかね」
「そうです。今のところそれしか申しあげられない。もちろん状況に応じて、株主会でつぶさにご報告いたしますが、これは原案がポイントなので、今、原案そのものを申しあげるわけにいかない」
「その娘さんに会うわけにもいかないのかね」
「今は、それぞれ職場についていますから。それに、問題は第一陣の娘たちだけではないのです。我がガーピー塾の優等生たちが、幸福になるために、たくさん待機しているのです」
「わかった。私は一応保留させていただこう。中間の状況発表で納得がいかなければ、原価で株券をひきあげる。よろしいか」
「けっこうです。あ、それから、これはぜひ申しあげておきたい。利益は、まず半分を、発案者の私がいただく。あとの半分を株主配当にする」
「待て。そんなことを一方的に定《き》められてたまるか」
「いや。それでも、多分、配当は多すぎてびっくりなさるでしょう」
「君はびっくりしないのか」
「私だって個人でいただくわけじゃありません。ガーピー塾のかわいい若者たちがおります。不承知なら、ここですぐに退っていただく」
運転手つきの大きな車に、プクプク爺さんは一人で乗っていた。
静岡の本邸の、爺さんの書斎のヴェランダに、その大きな車が待機していて、食事だとか、トイレに行くときは、車で庭を突っ切って、家族たちの棟に行く。
あまりに家屋が大きくなりすぎて、車を使わないと、七十を越した爺さんの歩行速度では、食卓に行きつくまでに三時間くらいかかってしまうからだ。
もちろんトイレは、家の各所に備えてあったが、爺さんのもっとも気にいっているトイレは、亡き妻君の寝室の隣りのトイレなのだった。で、小便は、各所ですますが、一日一回の大のときは、車で亡妻の寝室のそばにかけつけなければならない。
爺さんの邸の庭の中には、標高六百メートルほどの山が、山裾をのばしていてその山のてっぺんには爺さんも登ったことがない。だいいち、いつだったか母屋の隅を歩いていたら、おや、この廊下ははじめて歩くな、と思ったところがあったくらいだ。
爺さんは、しかし、家にも土地にも山林にも興味ない。車なども、他人から、これはサンダーバード、などと教えられるが、何度きいてもおぼえられない。
こういう大金持にはありがちなことだが、七十の坂を越えるまで、自分が幸せだと思ったことは一度もなかった。
ありとあらゆるものを手に入れることができたけれど、本当に欲しいものに、手が届かない。他人は信じないだろうけれども、爺さんは、七十年も、劣等感になやみ、望みを内向させてすごしてきたのだ。
プクプク爺さんが、兎のような顔を恥じて、男としてのおおらかな喜びを、ほとんど味わわなかったなんて、誰が思うだろう。
けれども、爺さんの胸の中には、そのためにほとんど噴火したことのない青年の熱い血が、たぎりたっているのだ。外側こそ老人だったが、内部は未成熟な青年だった。
もっともそのことを、爺さんは固く押し殺して、人前になかなか見せない。
眼をつぶると、見知らぬ若い娘が艶然とほほえみながら、瞼の中に現われる、その娘は、ほほえみながら唇を近寄せてくるのだ。
爺さんは哀しい笑顔で、その唇を避けようとする。
「いけないよ、私の口は年寄り臭いからきっとお前さんは、嫌な気分になってしまうよ」
「いいのよ、お爺さん――」とその娘はいうのだ。「あたし、お爺さんが好きなんだから」
娘の白い歯が、爺さんの眼にしみる。だが、その白い歯をあけると、黒い叢《くさむら》が口の中に見え、中の柔らかな肉の間から白い汁がしたたり落ちるのだ。
別の娘が、一糸まとわず、若い豊満な身体をねじれさせながら、風船のように空中に浮かんでいる。腰のあたりが、爺さんの眼近《まぢ》かにある。彼女の叢のあたりがクローズアップされて、蛇のようにパクッと口を開く。
大きな車の後部座席に、背中を丸めて一人乗りながら、爺さんがそういう幻を見ているとは誰も思わない。
誰もが、あの大金持なら、飽きるほど面白いことをやっているだろう、と思っている。そこが素人のあさはかさで、トルコ風呂も、花柳界の女も、金で買えるものには、爺さんの気が向かない。
爺さんは、内向させている劣等感と同じくらいに、自尊心もあった。金で女を買うなど、自分のすることじゃない。特に、飢えている自分が、蠅のようにたかる恰好を思うだけで胸くそがわるい。
爺さんが望んでいるのは、まごころだった。優しく通じあう一体感だった。
だが、それは高嶺の花だ。誰も、金以外に、自分に眼を向けてはくれないだろう。
爺さんは淋しい顔つきで、大きな車に乗って、黙々とトイレに行くのである。
爺さんの東京の別邸は、静岡の本邸よりだいぶ小さかった。
正門の前に、バスの停留所がある。バスは塀沿いに走って、次の停留所に停まり、そこからやはり塀沿いにうねうねと行って、裏門のところにある停留所に着く。そうして結局、別邸を見捨てるように離れ去ってしまう。
もし本邸の方だったら、山手線のように塀のぐるりを廻るだけで路線が一つできるだろう。
別邸は小さかったけれど、そのかわり東京には、爺さんが創立し、縁辺の者がひきついでいる二つ三つの会社がある。
一週間に一度、爺さんは、会長としてその会社に顔を出さねばならない。
ただし、東京では、大きな車のかわりに、ヘリコプターを使っている。爺さんは、ヘリコプターの中でも、背を丸めて無言で居る。
ビルの屋上に、幹部たちが並んで出迎えている。ヘリコプターから天皇のように爺さんがおりると、今のこの会社の代表者である爺さんの亡弟の息子が、先導役になって会長室に案内する。
「何か、変ったことはありましたか」
「いえ、べつに。すべて大過なく運んでおります」
「そうですか。ええと、私のやることは、それではありませんね」
「はい。どうかご安心ください。しかし会長、この前の北海道は、お楽しみはございましたか」
「ああ、支笏湖ね――」と爺さんは苦い表情になった。「よかったね。ああ、たまには遠出もいい」
「なにか、土地をお買いになるとか――」
「いいや、そこまでの気持にはならなかったが」
「そうでしたか。もう日本内地では、土地もうまみはなくなりましたなァ。そこで会長、これは内々なんですが、カナダにね、安い土地が――」
「カナダって、山ばかりだろう」
「ええ、もうすごい山で。かと思えば湖があり、氷河がこの――」
「もう山はあきたね」
「ははァ――」
「ああそうだ。今度の土曜の夜にね、うちの葡萄酒倉でパーティをしますから。有名な食通たちをご招待しますからね。接待の娘たちを、少し調達してほしいんだが」
「承知しました。新橋か赤坂あたりの妓を手配しましょう」
「いや、芸者は好かん。あれはどうも、まごころがなくてね。普通の娘さんがいいな。初々しい人たちをね。社内に居らんだろうか」
「ええ、近頃の娘は礼儀作法の点でどうかと思いますが。我が社にも美形はたくさんおりますから、おまかせください」
「ああ、じゃ、頼みましたよ」
それで爺さんの仕事は終りである。
ヘリコプターで、次の会社のあるビルまで行くのである。
幹部たちに見送られて、爺さんは空中の人となった。
お抱えの操縦士が居る。爺さんが後部座席にぽつんと居る。他に乗員は居ない。爺さんはいつも、おつきを嫌って一人で居る。
靴の踵《かかと》のあたりが、なにか荷物のようなものに触れた。荷物は柔らかくて弾力があった。
おどろいたことに、爺さんの座席のうしろに、えらく窮屈そうな恰好で、若い娘がひそんでいたのだ。
爺さんは、おどろきよりも、青年のように口ごもって娘をみつめた。
「――どうしたんだね。君は」
「ごめんなさい――」彼女は蚊の鳴くような声でいった。「すぐおりるつもりで居たら、会長が乗っていらっしゃって」
「君は、うちの社員かね」
「はい、まだ新米です」
「まァ、ここへ腰かけなさい」
爺さんは、瞬間、安心した。娘がびっくりするほどの美形だったからだ。これほどの美人は、自分の恋の相手としては考えられない。そして単なる路傍の人ではこの場面に情緒が湧《わ》くはずはない。ヘリコプターが地上につけば、別れてもう会わないというだけの話だ。
「――一度、乗ってみたかったんです」
「ヘリコプターにかね」
「なんでも、空を飛ぶものに」
「飛行機なら、皆、乗ってるだろう」
「あたしは乗ったことがないわ」
「君ぐらいの美人なら、スチュワーデスにだってなれる」
「従業員じゃ嫌。お客として、空に昇ってみたかったの」
「ほほう――」
「あたしの家は坂の下で、昔、沼があったところなんですって。いつも上の方に家があってね。一度、あたしが上から方々を眺めてみたかったんです」
彼女はそういって白い歯を見せた。
東京の真上の大空に突き刺さるような高層ビル。その二十七階に、ガーピー先生の個人事務所があった。事務所ではあるが、どういう性格の事務所であるか、どこにも謳《うた》っていない。
なぜならば、何が専門というわけにいかないからである。ガーピー先生は、昔、いろいろな肩書を持っていた。年齢をへるにつれて、その肩書をひとつずつはずしていった。人間は成長するにつれてわかりにくい生き物になる、というのが彼の持論で、したがって、もう今は、何屋さんだか当てる人は居ない。
彼は毎週、土曜と日曜、多摩川べりのガーピー塾からこの事務所に現われる。その他の日は弟がつめている。ガーピー先生は、以前、興信所をやっていたこともあるから、いろいろの調査を依頼にくる客も居る、そういう客は、ビルの中がすいている土曜日曜を狙ってくる者が多い。
もっとも、葉隠組《はがくれぐみ》のスットン親分は、こそこそとやってきたわけではない。鼻柱に横一文字に疵跡《きずあと》のある彼の顔は、覆面でもしないかぎり目立ちすぎる。そのうえ、ガーピー事務所を訪ずれる用件は、彼としては珍らしく、警察に配慮しなくてもよいまっとうな用件と思っていた。
つまり、スットン親分は、株式会社ガーピー連盟の百三十四株のうち、百株を占有する大株主だったのである。
だから、このさいは大株主らしい野太い足どりで、堂々と部屋に入った。
「やあ、おっさん、ご機嫌かい」
ガーピー先生の横に、若い美女が居たけれど、ひとまず、無視した。
「機嫌はいつもよくないよ。だが、俺は機嫌で左右されないから」
「そりゃよかった。それじゃ、配当をおくれ」
「――なんの配当?」
スットン親分の運転手兼用心棒が、ノックもせずに入ってきて、扉の横の壁によりかかった。
「この前、百株ほど買わされたろう」
「ああ、あれはまだ、ネタを育成中さ。いずれいい知らせが行くだろうがね」
「楽しみにしてるよ。それはいいが、ひとまず配当だけ貰っていこう」
ガーピー先生は机に両腕をおいて、相手の顔を見上げた。
「親分、駄々《だだ》をこねちゃ困る。あの件はまだ実《み》になってない」
「そりゃそっちの事情だろう。こっちは配当さえ貰えばいい」
「二歳|仔《ご》を買って、すぐ賞金を稼ぐかね。三歳まで待つだろう」
「すると、俺は、株じゃなくて、二歳仔を買ったのかね」
「二歳仔の株を買ったんだよ」
「ごまかすなよ。その二歳仔ってのは、どれだい」
「眼の前に居るよ」
親分はやっと、若い美女、木野カン子のプチプチした身体に眼をやった。
「彼女一人じゃないがね。あの件に関してはもう二人、二歳仔が居る。しかし、彼女が一番の有望株で、目下、すでにレースをやってるんだ」
「ほう、どういうレースを?」
「普通はしゃべらないよ。まァ親分だからいうがね。大金持で、爺さんで、妻君を亡くした人。淋しい人だな。大金持だからって、なんでも手に入るとは限らんよ。そういう人に理想の女を与える」
「フン、高級娼婦か」
「違う。理想の妻君をだ。まァ、理想の妾にとどまる場合もあろうがね。この娘たちが妻君におさまれれば、我々の配当も大きい。爺さんが死ねば資産を相続するからね。妾の場合は配当が落ちるが、そこはそれでやりかたもある」
「テキが射止められない場合もあるな」
「あるよ。競馬馬にだって、骨折薬殺というケースがある」
「お伽話《とぎばなし》だな。まァ十人に一人、成功すればみつけものだろう」
「そう思うかね」
「自信があるのか」
「俺は俺の牧場で、この仔を当歳から育てたぜ。この仔ばかりじゃない。たくさんの当歳馬がまだ居る。特別の教育をしてな、旦ベエたちの資料も揃えてある。どこをどう攻めて、どういう殺し文句が有効か、すべて判ってるよ。自信がなけりゃここまで時間をかけない」
「株の払戻しはできるかね」
「できない。一度売った馬券はひきとらないよ」
「じゃ、配当を貰おう」
親分の眼は、今度は笑っていた。
「お嬢さん、まだここに居るかね」
「いいえ、もう報告は終わりましたけど」
「じゃ、送るよ。俺の車は外車だ。でっけえもんだ」
「リンカーン・コンチネンタル――」
とガーピー先生もいって、笑った。
「やくざは皆、外車さ。国産の会社がいざこざを嫌がって売らないんだ。カン子ちゃん、お前も外人並みのチップを貰っといで」
土曜の夜の葡萄酒倉のパーティに、接待役を仰せつかった社内美人が五名、会長室にあらかじめお目通りにやってきたのを見て、プクプク爺さんは、ともかくほっと安堵の吐息を洩らした。
先日のヘリコプターにひそんでいた若い娘がその中に加わっていなかったからである。
誰か社内のおっちょこちょいが気をきかして、あの娘をわざと加えたかもしれない、老人はそう思って朝からおちつかなかったのだ。
「ああご苦労さま。せっかくの土曜の晩を、私用で使って申しわけないと思ってます。それに、ちゃんとしたお嬢さんをホステス代りにしてね。しかし、これはそうじゃないんだ。この頃の言葉でいうとコンパニオンといいますか。お客さまはそれぞれ知名の方で、日本人ばかりじゃありません。ひとつ、疎漏《そろう》のないように、おもてなしをしてくださいよ」
娘たちは頭をさげて会長室を出て行く。
「あ、ちょっと、総務部長――」
「は、何か御用で」
「御用じゃないんですがね。わたし、感心しました。この人選はとてもよいと思います」
「恐れいります。美形ばかりでなく、人格、能力、家庭状況、いろいろな方角から厳選いたしました」
「そうでしょう。いや、すがすがしい。ひょっとするとね、この間の娘、ホレ、ヘリコプターに乗っておった、あの娘も美人だったから、わたしが興味を持ったなどとかんぐって、人選に加えるんじゃないかと心配しておったが」
「ああ、あの娘ですか。しかし、ま、ああいう者は――」
「おべっかでね、そんなことをされちゃかなわん。わたしは一番おべっかが嫌いでね。――だが、ああいう者、と軽蔑するほどのことはないが」
「実を申しますと、あの娘を、という声もあったんでございますが。けれど、あの娘は正社員じゃございません」
「正社員じゃありませんか」
「最近、GP興信所の紹介で経理の方へ入りまして、まだ見習い中ですので」
「興信所さんの紹介なら、身もともしっかりしてるじゃろうが、しかし、わたしは社員に私情は抱きません」
「はい」
「ことに女性社員には、心を許しませんから。こう見えて、わたしは、亡妻以外は、女を女と思ったことがない。娘さんの方だって、わたしをまさか、男とは見ないじゃろう」
「ごもっともです」
「あの娘さんだって、ヘリコプターが好きで乗ってきたので、わたしをどうこうというんじゃなかった。そこを勘ちがいされると困りますからね」
「そういうことですな」
「よござんした、本当に。今度、私邸であの娘さんに会ったら、双方ともに困ります。私はこの年になって困りたくない。困るということを考えると、実に困る」
土曜の晩は、高名な保守党の代議士、囲碁の九段、N銀行頭取、大資本家の息子でアマチュアゴルファ、それに中国から来た食通、フィリッピンの船舶王、台湾の高名な女優、などが揃った。
プクプク爺さんの東京の邸には、大きな葡萄酒倉があり、いつも一定温度を保つようになっている。高価な葡萄酒が四方の棚に寝かされ、まん中の空間に卓と椅子があるので、客たちが坐るともう踊るスペースもない。もっぱら、各地の珍味を肴《さかな》に、ワインを味わってしゃべるのみのパーティである。
今夜のワインは、ブルゴーニュの白ル・モンラッシェ=Bそれにボルドー物のシャトー・ディケム=Bいずれも年代物で特別に抜いた逸品である。
空輸で届いた生フォアグラ。中国の食通が持参した揚子江で捕れる小蟹を生きたまま老酒に漬けたもの。キャビア。オマール海老。
五人のコンパニオンが揃いのエプロン姿で次々と皿を運んでくる。
心なしか、爺さんを見捨てて、いずれも客たちの接待に忙殺されているようである。それが当り前で、そのために出場してきたのだが、爺さんはなんとなく気持が浮きたたなかった。
宴がたけなわになった頃、
「おそくなりまして申しわけございません――」
と一礼して入ってきた娘があった。
プクプク爺さんは思わずワイングラスを乾盃でもするように高くあげた。
木野カン子が、高く盛りあがったお尻を左右に振りたてながら、まっすぐ爺さんのところに歩み寄ってきたのである。
しかも両手に、造花で飾った赤葡萄酒を持ってきた。
「とてもこのお部屋のワインにはかなわないでしょうけれど、興信所の所長が持っていけというものですから」
瓶は、シャトー・ド・ラ・リビェール≠ニ読める。
「どれどれ、あ、これもおいしいお酒だよ」
爺さんはひと口含んで微笑した。
「ごめんなさい。お口汚しで」
「いや、旨い。今日の酒でこれが一番さ」
「よかった。そういっていただいて。この前のヘリコプターのお詫びです」
まァかけなさい、と爺さんは手近の椅子を示した。
「いいえ、あたしは飛び入りですから」
「君は、正社員じゃないそうだね」
「ええ。毛並みも血統もわるいから」
「しかし、わたしだってろくな学校出とらんよ」
「会長は入社試験なんて、お受けになったことないでしょう」
「まあ、ね」
「試験て、いやよ。あたし、いつもいつも嫌で、試験のたびに熱を出してしまうの」
「でも、君みたいに若くて美人なら、怖いものなんかないだろう。わたしは君がうらやましいよ」
「じゃァ、会長とあたしと、そっくり入れかわりましょうか」
「ああ、いれかわりたいね」
「夢ですね。そんなこと」
カン子は、じゃ、これで、といって一礼した。
「あ、君――」
爺さんは思わず立ちあがったが、次の言葉を辛うじて呑みこんだ。これ以上親しい口をきいたら、ますます彼女に立ち入ってしまうだろうと思えたからだ。
ある朝、プクプク爺さんは、いつもより一時間も早くヘリコプターに飛び乗って、まっすぐ会社に出勤して一同を仰天《ぎようてん》させた。その時間は若い社員さえチラホラとしか現われていない頃だった。
「会長、どうかなさいましたか」
「いや、老人は朝が早くてね。家でじっとしていられません」
といったが、実は計画があったのだ。爺さんの手には都内の区分図がしっかり握られており、木野カン子のアパートが赤丸で囲まれていた。
つまり、カン子のアパートにヘリコプターで寄って、空中同伴出勤とシャレこもうとしたのだ。空《そら》狂いのカン子だから、どんなに喜ぶだろう。
もっとも、爺さんはそこで烈《はげ》しく反省もしたのだった。自分としたことが、なんというはしたない真似だ。自分は七十を越した醜悪な老人、相手は美女。のびのびとした振舞いは許されない。
夜、ベッドの中で、猛烈に昂奮《こうふん》することがある。闇の中に彼女が現われ、にこやかに近づいてくるのだ。爺さんは首をあげ、彼女の唇を吸おうとする。そうして片手で横抱きにして豊かな胸に顔を埋める。気がつくと年甲斐もなく懸命に腰を振っていることもある。
そのことについては、反省はない。三十年も前に亡くなった妻君にもう遠慮はないし、一人で、虚空《こくう》に向かって何をしようとこちらの勝手である。
しかし、それを現実化しようとは思わない。その気になっても、これまで現実にうまくいったためしがない。
爺さんは、恋する若者のように臆病になり、またそれと同じくらい無鉄砲にもなっていた。
次の朝も一時間早く邸を出発した。思案《しあん》のひまもなく、カン子のアパートの上空に際した。
そうして爺さんは、これは汚ない行為ではない、と自分にいいきかせた。これは、少女に玩具を買い与えるような性質のものだ。恵まれない少女に、靴下をプレゼントするサンタクロースが自分なのだ。
「――降りてくれ」
と爺さんは操縦士にいった。
「とても無理です。人家が密集していますから」
「いや、超低空でいいんだ。電線にひっかからない程度に。彼女を吊りあげるから」
超低空でたゆたっているヘリコプターの爆音に、アパートの窓々から住人が顔を出して見あげている。ついに、シュミーズ姿のカン子も、顔を出した。
爺さんは手を振った。それから両手を使って、こちらへ上ってこい、というしぐさをした。ヘリコプターから、下に足を乗せる金具のついた太い紐《ひも》がおろされた。
「どうしたの、会長さん――」
むろんその声はきこえない。爺さんはまた、紐につかまるしぐさをした。
カン子は諒解したように、笑って頷ずいた。
彼女はベッドのそばに駈け戻ると、
「ちょっと待ってね――」
といってから、また窓に戻った。
「待ってください。今、支度をしますから――」
しぐさ入りでそういった。
そうしてベッドに戻って、中の男にこういった。
「出勤よ。お迎えが来たわ」
「お迎えって、ヘリコプターか」
鼻柱に横一文字の傷のある男が笑った。
「どうやってヘリコプターに乗る」
「頭がわるいわね、親分。あれ見て」
窓に紐の先の金具がコチンコチンと当っている。
「誰が迎えに来たんだ」
「だから、レースの主よ。そんなひどい顔しないで。親分だって大株主でしょ」
カン子は元気よく、金具に両足をふんばり、上を向いて叫んだ。
「大丈夫よ。作動開始――!」
名馬カン子
「――どうだね、空の気分は」
ヘリコプターの中で、プクプク爺さんは兎のような眼を和《なご》ませた。
「最高よ。世間より高いところに居るってことが信じられないわ」
「よかったら、ときどきお乗り。迎えに来るよ」
カン子はかわいく笑ってみせて、
「ありがとう、会長さま。ヘリコプターの操縦ってむずかしいのかしら。免許がとれたら、あたしの操縦で送り迎えをしてさしあげたいわ」
「そう願えると、わたしも若返るねえ。しかし君は、あのアパートに一人で住んでるのかい」
「ええ、ボロアパートでしょ」
「ご両親は――?」
「父は早く死んだわ」
「ほう――」
「母は再婚」
「――なるほど。しかし君はまだ若い。これから自分でいくらでも幸せはつくれるさ」
「若いだけじゃね」
「若いうえに、君は美人だ」
「もうあきあき。早く死んじゃいたい。女の子一人のアパート暮しってどんなものか、会長さまはご存じないでしょう」
「恋人はおらんのかね」
「できないわよ。恋人なんて夢だわ」
「信じられんね」
「あのね、親もと離れてアパートに居る女の子って、男の人から見たらちょうど喰べ頃の玩具なのよ。ちょっと遊んで、捨てたってどこからも苦情はこないし」
「そんな男ばかりでもあるまい」
「いいえ、皆そうなの。どんなにまじめな男だって、本能的に知ってるわよ。これは、餌。結婚相手だなんて考えてくれない。女の子たちだって、孤独だし、安いお給料でつましく暮さなくちゃならないし、ラーメン一杯おごってくれた男の子でも、さよならっていうの淋しいものね。一緒のアパートにもそんな女の子たくさん居るわ」
「堅気《かたぎ》の娘さんを、結婚も考えずに手ごめにしようとする男が、本当におるのかねぇ」
「居るのかねぇ、って、やーだ、会長さまだって、昔、おやりになったでしょ」
「とんでもない。わたしは――」
とプクプク爺さんは、実に苦い表情でいった。
「生まれてからまだ一度も、そんなことを考えたことすらない」
「本当――? 信じられないわ」
「いや、男だっていろいろ居るよ。君は探し方が足りんのだ。わたしがいい男を探してあげよう。どんなタイプがいいんだね」
「若い男は嫌。優しくないんだもの。お年寄がいいわ」
「わたしが老人だと思って、おせじをいうのかね」
「ちがうわよ」
カン子はきつい眼で、プクプク爺さんを見返した。
「あたし、父が早く死んだから、お父さんみたいに甘えられる人がいいの。何度もそういう夢を見たもの」
「――よし。それじゃ、ルックスのいい優しい独身男性のリストを作らせよう。年齢は少し開いていてもいい、と」
「二枚目なんて嫌よ。二枚目は優しくないもの」
「――嬉しいことをいってくれるねぇ」
プクプク爺さんは老兎のような顔をくしゃくしゃにして笑った。
「君は優しい娘だ。君がわたしの娘だったらよかったなァ」
「本当のことをいっちゃおかな。あたしねぇ、男の人って駄目なの。どんな人だって駄目。肩が触れただけでも、ぞっとしちゃうんだから」
「おやおや、でも、どうしてだろう」
「小学校の六年生の頃よ。忘れもしないわ。駅前までお使いに行った帰りに、同級生に襲われてねぇ」
「同級生、だって」
「ええ、身体のいい子でねぇ」
「すると、相手も、小学生かい」
「そう。ずうっとあたしを尾《つ》けてたらしいのね。学校の中でも、運動場なんかでいやらしいことしかけてきたり、してたんだけど」
「――しかし、小学生に、そんなことができるのかね」
「できたかどうかわかんない。夢中だったもの。ただ、身体は痛いし、怖いし、だって獣とおんなじよ。ああいうときの男の子の顔って、口が耳まで裂けてるのよ」
「なんということだ。なんたることだ」
と爺さんはくりかえした。
「むろん、訴えただろう」
「訴えたってしようがないじゃない。それからその男の子と、一緒に暮してね」
「なに――!」
「知り合いの小さなアパートを借りて、そこで寝てたの」
「誘拐されたのか――!」
「ほんのちょっとの間だけよ。だって、その子、すぐに鑑別所に入れられちゃったから」
「当り前だ。死刑にしてやれ」
「とにかく男はもう嫌。素敵だな、って人が居ても、あの怖い顔になるかと思うとね」
「ずいぶん辛いことがあったんだね。しかし、もう忘れなさい。そうだ、ヘリコプターでも習うといい。――おい君」
と爺さんは操縦士に話しかけた。
「今度、この子に教えてやってくれんかな。どのくらいやれば、免許がとれるだろうか」
「さァ。プロになるのでなければ、百時間も飛べばいいんじゃないですか。お金はかかりますが。一時間六、七万として百時間で六、七百万、飛ぶだけでね」
「金はいい。わたしが出すから」
「会長さま、優しいのね。どうしてなのかしら。あたしみたいな見習い社員に」
「なに、人間はね、どこか一ヵ所くらい、わがままがいえるところがあっていいんだよ。君も遠慮なく、わたしのところでわがままをおいい」
「ねえ、会長さまなんていいにくいわ。会社の外に出たら、お爺さま、って呼んでもいい」
「ああ――」
「お爺さま。十万円、貸してくださらない」
「――十万円?」
「もう三日でお給料日よ。必らずお返ししますから」
「まァ、いいがね。何に使うのかね」
「秘密――」
といってカン子は笑った。
ジャタスカのスイ公は、その晩、かなり呑んでいた。ジャタスカというのは、当世流行のサラ金会社の名前で、スイ公はそこの新米社員である。もっとも昨年の暮までは、親ゆずりのれっきとした電機店の主人だったのだ。
ふっと、魔がさしたように、ばくち場にひっぱりこまれた。友達の酒屋の息子に誘われたのだ。それまでご両人とも、ほとんどばくちッ気はなかった。素人だってできる花札だからといわれて、それが数ヵ月で数億負けた。一ヵ月で一億のわりだが、むろん最初から大張りしたわけじゃない。いくらでもコマを廻すと親分にいわれて、挽回《ばんかい》しようとあせっているうちに、負けに加速度がついたのだ。
その時点から、スイ公の気分は、まっとうな現実のところに戻らなくなってしまったらしい。
ばくちに手を出して、丸裸になり、六畳ひと間にトイレも共同というところに妻子四人を詰めこんで、自分はサラ金にひろわれ、そこで悪い夢から、はっと醒《さ》めた、というのならまだわかりやすい。
だが、札びらを鼻ッ紙のように張り飛ばしているうちに、金の単位というものに麻痺《まひ》していって、百万、千万、という単位でなければ金じゃないように思えてしまう。スイ公は店までとられて、しかし他人《はた》で思うほど、くよくよしていなかった。
耳もとでは、まだ大勝負の札びらが舞っている。千万単位の勝負をくりかえしていれば、誰だって店など軽くとられてしまうのである。軽くとられるからこそまたひとつ目が出れば、軽く戻ってこようというものだ。もっとも、そう考えておかなければ、気が狂ってしまう。
現実には、煙草銭もケチらなければならない暮しに入ったくせに、スイ公はその名のとおり、スイスイと遊びまくっていた。勤め先がサラ金である。先のことを考えなければ、銭はどうにでもなる。
ガーピー連盟の株を、一株(五十万)だけだが買ったのも、ジャタスカの公金だった。およそ常識的でない、濡れ手で粟《あわ》式のその種の話をききこむたびに、スイ公は懸命に投資しておく。
それはいいが、今夜は足をとられるほどに酔っていて、タクシーの中でつい眠ってしまい、一丁ほど乗りすごしてしまった。そうして、目的地まで、電柱によっかかったり、煙草屋の看板にぶつかったりしながら、やっと到達した。
アパートの階段を昇りかけて、また表までひきかえし、二階に向かって投げキッスをした。なにしろスイ公は、破産してからあとの方が、よっぽど上機嫌だったのだ。
「おカンちゃん、カン子さん――」
廊下でちょっと、フレッド・アステアの真似をした。それからカン子の部屋の新聞受けの中にテープで張りつけてあるはずのキイを探った。
いつものところにキイが無い。その周辺を懸命にまさぐったが、無い。スイ公は、部屋の表札を見直した。それから、今日が水曜日であることを自問した。
(――おかしいぜ。水曜日は俺の日なんだが)
ドアを押すと、すっと開いた。
(――なんだ、もう帰ってやがるんだ)
六畳は暗いが、馴染《なじ》んだベッドの頭のところの豆電球がついている。風呂場でかすかな湯音がする。
(風呂か――)
スイ公は上衣を脱ぎ、ドターンとベッドにひっくりかえった。
「痛えッ――、誰だ!」
ベッドに倒れこんだスイ公が、毬まりのようにはずんで、畳の上に転がり落ちた。
パチッと電気がつけられた。
「あッ――!」
男が居たことにはさして驚ろかなかったスイ公が、やっぱり叫び声をあげた。
「――親分!」
葉隠組のスットン親分が、パンツ一枚で、ベッドの上に仁王立ちになっている。
「おや、お前さんは、ええと、電機屋のスイちゃんだったな」
「――ごぶさたしてます」
「なんだい。ここはお前さんの家かい」
「いや、そうじゃねえんですがね。そこのドアがあいてたもんだから」
「すると、泥棒か。ばくちで裸になって転業したかね」
ガラス戸をあけて、ガウン一枚のカン子が飛び出してきた。
「スイちゃん、なによ、こんなおそく」
「ほう、知り合いか。カン子、こいつがイロかね」
「サラ金よ。弱っちゃってるのよ。スイちゃん、もう少し待ってって頼んだでしょ」
スイ公は仕方なく、親分にジャタスカの名刺を出した。そうしてカン子に押されるように、廊下に出た。
「どういうわけなのよ、スイ公」
「水曜日だ。俺の日だぜ」
「なにいってんの。火曜日じゃない」
「――それにしても、お前、男はぞっとするっていってたろう。小学校で強姦されて、それで一生男なしで暮すつもりが、俺に会ってはじめて――」
「そんなこと、今になってどうでもいいじゃないの」
「ありゃ嘘かい。へッ、驚ろいたな」
「親分はお父さんみたいなものよ。それより、スイちゃん、五十万貸して」
「俺がそんな金、持ってるかい」
「ちがうの。ジャタスカで借りるのよ。あんたが保証人で。あたし、お客としていってるのよ」
「――――」
「そうでないと葉隠組がうるさいわよ。ね、明日行くわ。親分にはなんとかいっとくから。じゃ、サヨナラね」
会長室の大きな机の上に、リボンのついた贈り物の箱が乗っていた。
プクプク爺さんとしては、七十余年の生涯を通して、亡妻からの他に、こういうロマンチックな贈り物を貰った例がない。
お借りした十万円で、これを買いました。ずっと前から、一度こういうことをしてみたいと思って、眼をつけておいたものなんです。カン子の心を受けとってください。
爺さんは、小箱の中から出てきたカフスボタンを、じっと眺めていた。
それから、秘書にさとられないように眼頭《めがしら》を拭いた。
プクプク爺さんが、もともと多量に持っているのに、生涯押さえとおしてきた多感な血が、また逆流しはじめていた。
その日、帰りのヘリコプターの中で、爺さんは心から礼をいった。
「贈り物ありがとう。とても嬉しかった」
「嬉しかった? そう、よかった」
「しかし、あんな贅沢《ぜいたく》したら、あとが大変だろう。わたしはもっと安いものでよかったよ」
「それじゃ、カン子の心は安っぽいっていうの」
「ごめん。そういうわけじゃない。とにかく、十万円はわたしのプレゼントだ。お給料から返さんでよろしい」
「それじゃ、なんにもならないわ」
「いや、お金じゃない。わたしは気持が嬉しい」
「アラ、方角がいつもとちがうわ」
「うん、今日はひとつ、まっすぐ帰らないで、どこかで食事をしよう。それから君が一番楽しいと思う場所に、わたしを連れていっておくれ」
「あたしたちの遊び場所に?」
「そうだ。楽しい晩にしよう」
「だって、若い娘の行くところなんか、安っぽいわよ」
「いいよ。楽しそうな君を眺めて居たい」
爺さんがときどき行く和食の店で食事してから、六本木のディスコに行った。
食事のときには窮屈そうで、ろくに喰べもしなかったカン子が、ディスコでは別人のように張り切って、くるくると踊った。
爺さんには電気楽器の音が頭に痛く、煙草の煙で息がつまりそうだったが、しかし、全身をしなわせ、リズムに乗って踊るカン子の肢体は、まさに官能そのものだった。
爺さんは小さな椅子に腰をおろして、ただカン子だけを見つめていた。
「お爺さま、踊らない」
「わたしは駄目だ。踊れないんだ」
「大丈夫よ。動かなくたっていいの。あたしの身体を抱いて、足ぶみしてるだけでいいから」
爺さんはむりやりフロアにひっぱりだされた。
「すこウし、腰を振ってみたら」
「ギックリ腰になるといけない」
「でも、自然に動くでしょう。リズムに乗って」
カン子の身体は丸くて、弾力がある。爺さんの手が汗ばんできた。
(――どうしてかな)
と、プクプク爺さんは、大きな円型ベッドのうえで、しきりに首を捻《ひね》った。
(――どうして、こんなことになっちまったんだろう)
会社の帰りに飯を喰って、ディスコに行った。孫娘をともなって若者の世界を視察に行くぐらいのつもりだった。
それなのに、なんということか。プクプク爺さんの左の二の腕のところに、カン子の小さな頭がかわいく乗っかっているのである。
こんなに大きい、まん丸なベッドを私邸で購入するはずはないから、してみると、ここは噂にきくラブホテルなのであろう。
カン子が先に立って入るわけはないから、自分がカン子を誘ったのにちがいない。
ああ、なんたることだ。自分は血を逆流させたけれども、それは彼女のかわいい心根に感動したのだ。七十男の清純なものへの憧憬《どうけい》のはずだった。
ディスコで踊りまくるカン子の姿態を眺めてクラクラっとしてから、円型ベッドにたどりつくまでの記憶がまるで無いけれども、自分のみにくい欲望でカン子の身体を汚してしまったことは明瞭である。
カン子がなにか呟やきながら、ふっと眼を開いた。爺さんを認めると、うふんと鼻を鳴らして、すべすべした身体をすり寄せてくる。
爺さんは困惑し、自分の下半身の気配を右腕で探って、哀しい眼になった。そうしてカン子が本格的に眼をさますのを辛抱づよく待った。
「――ねえ、君」
「――お早よう。お爺さま」
「――すまない。こんなことになるなんて」
「なにもおっしゃらないで」
「昨夜は、わたし、気が狂ってたのだろう」
「黙って、お爺さま」
「――しかし」
「しあわせよ、あたし」
「君は、小学生のとき、男の子に襲われたんだろう。それ以来、男と肩が触れ合っても、ぞっとするんだったね」
「――ええ」
「わたしの口は、耳まで裂けていたかね」
「わからないわ。あたし、ずっと眼をつぶってたもの。でも、お爺さまも、怖い顔をなさっていたの――?」
「ああ、わたしは、汚れた、きたない生き物だ!」
「じゃァ、カン子を愛してくださらなかったの――?」
爺さんは、今さらのようにカン子の顔をじっとのぞきこんだ。そうして、若くて柔らかい膣に包まれたときを想いおこして、ズキンと身体をふるわせた。
「そんなことはない。わたしは、夢を見ているかのようだったよ」
「カン子は昨夜、とても愛したわ。生まれてはじめて、男の人が怖くなかったの。本当よ。あたし、処女ではないけれど、お爺さまが、はじめての男性よ」
「ありがとう。そういってもらえると、わたしも嬉しい。そんなことをいってもらえるなんて、はじめてだよ。こんな老人だがね、わたしも、君がはじめての女性のような気がする」
「わァ――、あたしたち、はじめて同士ね」
「――わたしはね、こんな不細工な顔なものだから、若いときからひがんでいてね。わたしのようなものに寄ってくる女は、財産目当てに思えてしかたがなかった。それで、一度本当の恋をしたかったけれども、いつも裏切られるのが怖くてね。気持を押さえつけてばかり居たのさ。この年になって、もうあきらめていたのに、君みたいな、かわいい、すてきな女性にめぐりあえるなんて、夢を見ているようだよ」
「あたしだってそうよ。お爺さまはお年のことをおっしゃるけど、昨夜、ご立派だったわ。あそこだけは、まるで高校生みたい」
「わたしは、亡妻以外は使ってなかったからね」
「もうお爺さまじゃなくて、お父さまにするわね。あたしは、父親みたいな男性が理想的だったの」
「――ああ、ずっと、こんなふうに一緒に居られるといいね」
「ええ――」
「君を拘束するなんて、わたしにはできないが――」
「あたしは平気よ。――でも、そうね、お父さまは会長さまですものね。あたしみたいな女の子を相手にしていられないわね」
「――いや、わたしはもう隠居も同然だよ。息子たちがみんなやってくれているから、居らんでもちっともかまわないんだ。――そうだ、君を連れて世界一周でもしたいな。世界じゅうを君に見せてやりたい」
「――アラ」
カン子は、爺さんの下半身をまさぐりながら、嬉しそうな声を立てた。
「お立派ね、お父さま、ご遠慮なさらずにお使いになって。あたし、いつでもお役に立ちたいわ――」
「おっさん、おい、ガーピー大先生」
と、スットン親分は、赤黒く充血した顔を振りたてていった。
「さァ、そろそろ三歳ステークスじゃないかね。配当を貰おう」
「うるさい人だね。配当のことばかり。サイクルが短かすぎるよ。それだから、やくざの親分で終ってしまうんだ」
「職業を侮辱するな。おっさんだって、うさん臭いことばかりじゃないか」
「とにかく、当連盟の三歳馬は、確実にクラシック路線を進んでおります」
とガーピー先生は、誇らしげに一座を見渡した。
「クラシック路線といいますと――?」
とガーピー連盟株主の一人、トルコ風呂経営者。
「大きな賞金に王手をかけたということです。特にその中の一頭は、ことによったら、ダービーを制覇するかもしれません」
「わからんぞ、此奴《こいつ》、口先きばかりだからな」
スットン親分は大株主として、威圧的な態度に固執したい。
「証拠を見せてみろ。でなけりゃただ時間を伸ばして、俺たちの資金を喰ってるだけかもしれん」
「証拠はない。私を信用していただくだけだ」
「なぜ、配当を少しずつでも払わない。配当があってはじめて、レースが成功してるかどうかがわかるんだ」
「配当は、最後――」
「最後におっさんだけ、ずらかるんじゃないのか」
「黙りたまえ」
「黙れだと。葉隠組に、黙れというのかね」
「まァまァ親分――」と信用金庫代表者がいう。「とにかく、詳細をきいてみましょう」
「証拠を示せといわれますが――」とガーピー先生。「事柄の性質上、現段階では、すべて明るみに出すというわけにいかんのです。ただ、概略を申しまして、あとはご想像していただくほかはありません」
「――――」
「ただ今、某資産家の老人に、当連盟の牝馬一頭がとりいっておりまして、首尾よく相当な段階まで進んだようであります。牝馬は、老人直属の会社の臨時社員でありましたが、これを退かされて、目下、系列会社に目立たぬように再就職しております。これは事態が進んでいることを示す一証拠でありましょう」
「どうしてそれがわかる」
「わかるのだよ。私もガーピー塾の塾長ですぞ。牝馬は完全に調教して、私の指令どおりに動いている。そのうえ、塾生たちが協力して、いろいろの手を打っているのです。なめてもらっちゃ困る」
「調教っていうと、やっぱり、性教育ですか」とトルコ屋。
「ちがいます。ちゃんとしたセオリーにのっとって、人を惹ひきつける法を身につけさせています」
「たとえば、どういうこと?」
ガーピー先生は、
おじさァん――。
にこッ――。
をやってみせた。
「これが初等第一科です。くわしくは本塾に入学すればおわかりになる」
「要するに詐欺教育だ。皆さん、ごまかされないように。配当以外を信じちゃいけませんぜ」と親分。
「詐欺を信じないで、何を信じろというのですか。皆さん、そのおつもりで株をお買いになったのでしょう」
「この野郎、詐欺師はやくざより上だと思ってるのが、腹が立つ」
「すると、牝馬が、老資産家の思いものになった。それは確かですね」
「眠り薬をかませて、塾生がラブホテルに運んだのです」
「そこまではわかった。収益は、どうして生まれますか」
「現段階でもいくらかの収益は出るでしょう。ただ、テキは大魚だし、釣糸をあげる時期が問題です。おそければおそいほどよろしい」
「たった一度の関係が、どのくらいの収益になりますか」
「一度ではありません。すでに、老人は夢中です。当連盟としては、ここでいろいろの出方があるのです。それについてご相談したいと思って、皆さんにお集り願ったわけです。まず、牝馬が、老人の囲い者になった場合。もうひとつは、もっと進行させて、老人の後妻におさまる場合。老人は妻君を亡くしておりますから」
「そううまくいくかね」
「当連盟の第一目標としては、一頭の牝馬から、最低、億。とにかく億単位の賞金を産み出そうというわけでした。現段階で、最低額は実行できると思います」
「妾に、億ですか」
「資産が大きいのです。億ぐらい、小遣銭ですよ」
「本当かね」
「なんのためにガーピー興信所をやっとるのですか。調査は完璧です。しかしですね、もう少し突っこんで、結婚させるとなれば、時間はかかるが、収益は大きい」
「可能性があるかな」
「この私の手口を信用してください。それに、籍に入ってしまえば、少しくらい乱暴に金を引き出しても、犯罪になりません」
「なるほど――」
「結婚までを狙う場合、時日もかかるうえに、技術も要いります。皆さんにもう一度、株券を買い足していただくことになりますが――」
スットン親分が大きな眼でガーピー先生をにらんだ。
土曜日の午後、スットン親分が例のリンカーン・コンチネンタルで、古くからの二号のところへ行こうとしていると、先夜の話題の焦点だったガーピー連盟の牝馬第一号が、ぴょいぴょいとはずむような足どりで歩いているのを見かけた。
「――カン子」
と親分は、車をすっと寄せて声をかけた。
「どこに行くんだ――?」
「会社よ」
「土曜日は休みじゃないのか」
「休みだけど、屋上に用事があるの」
「そうか。まァお乗り。送ってやる」
乗りこんできたカン子の指に、大きなダイヤの指輪が光っている。
「屋上に、なんの用事だね」
「ヘリコプターに乗るのよ。会長さまの静岡のお邸に伺うの。もうヘリの時代だわね。外車は古いわ」
親分はちょっとげんなりした顔になったが、
「そうか。テキとはますますうまくいってるんだな。まァ祝着《しゆうちやく》至極だ」
「親分、五十万貸して」
「な、何だ。いきなり」
「サラ金がうるさいのよゥ。この前の奴がさ、毎日取り立てに来るの」
「会長さまに出してもらえ。大金持だろ」
「そうはいかないわ。今、お金なんかたかったら、計画がおじゃんよ」
「まァ、そうだな。それじゃ、うちの若い衆をやって脅してやろう」
「駄目よ。今、事件をおこしたくないの。親分、あたしと親分の仲で、五十万くらい安いもんでしょ」
「そういうな。汗と涙で稼ぐ金だ」
「だって百株の株主さんでしょ。もう一株買ったと思えばいいじゃない。それに親分だって、本当はもっと出すべきなのよ」
「なぜ、俺が出すんだ」
「あたし、このところ、メンスが無いのよ」
「――会長さまのだ」
「いいえ、親分の。あたし、それはわかるわ。でもなんにもいわない。おろすわよ。大丈夫。あたしそんな女じゃないから」
「――しかし、俺のじゃないよ。俺のときはいつもピルを呑んでるだろう」
「なんなの。おぼえがないっていうの」
「しかし、ピルが――」
「五十万、貸して。ね、いいでしょ。返すわよゥ。あたし、この先、そんなお金に困らなくなるわよ」
親分はしぶしぶ財布を出した。
「キャッシュよ、五十万」
「サラ金に渡すんだろ。小切手でいい」
「駄目。キャッシュ。土曜日だって現金カードで引き出せるわよ」
「ガーピーのおっさんは、お前を抱くのも配当のうちだといったぜ」
「だからお借りするのよ。たったの五十万よ。葉隠組の親分でしょ」
親分は別のポケットから、十万円ずつの札束《ズク》になったのを五つ、とりだした。こういう稼業は、しょっちゅう現金を持ち歩いている必要があるのである。
「ありがとう。親分、またアパートでね」
カン子は颯爽《さつそう》とビルの前で車をおり、手を振りながら姿を消した。
屋上に、ヘリコプターが待っている。
プクプク爺さんが、手をさしのべてカン子を乗せる。
東京が、すぐに足もとに大きく拡がった。
「お父さま、内緒よ。操縦士さんにもきこえないように、お耳を貸してね」
あたし、メンスがしばらくないの、とカン子はささやいた。爺さんはくわえていた葉巻を思わず落した。
「でも、ご心配なくね。もしそうだったとしても、ご迷惑はかけません。ちゃんと自分で始末します」
「――君、君、そんな大事なことを、早まっちゃいかん」
「いいえ。お金も借りましたし、ご安心ください。ただちょっと、お知らせしただけ」
爺さんは、しばらく黙っていた。
それから不意に、唄い出した。
♪雪の進軍 氷をふんで
どこがどこやら 道さえ知れず――
「嬉しいとわたしは唄いたくなる性分なんだ。♪馬はたおれる 放ってもおけず、か――。どうもこの唄、いつも終らなくなってしまうんだが――」
黄金の香り
葉隠組のスットン親分は、火曜日の夜、いつものリンカーン・コンチネンタルを遠くの方で乗り捨てて、カン子のアパートの階段をエッチラ昇っていった。火曜日と土曜日の夜が、彼の日なのである。
ビーッ、とベルを鳴らす。
ビーッ、もう一度、ベルを鳴らした。
待ちきれなくて、ごくッと喉が鳴る。
カン子や――。
にこッ――。
を親分もやってみる。
だが、何の気配もなかった。
親分は太い掌でノブを押してみた。鍵がかかっている。そうして牛乳箱の中にも鍵はない。
彼はなんとなく、掌をぽんぽんと払いどうしようかと考えた。
火曜の夜が自分の日で、しかし鍵もあかず、カン子も居ない。どうしようか。
ま、どうすることもできない。親分はもう一度リンカーン・コンチネンタルに戻り、昔の二号の酒場で時間をつぶすことにした。そうして、一時間後、そこからアパートに電話をかけた。
二時間後、またかけた。いずれも何の反応もない。
親分はじっとしてられなくなって、もう一度、カン子のアパートに行った。そうして扉がビクともしないと見るや、ダダッと走り降りて一階の管理人の室を叩いた。
「32号室の娘はどうしましたね」
「――何故ですか」
「何故って、用事があって来たんだ」
「用事がね。それじゃァその用事を伺がっときましょう」
「いや――。こんな夜おそく、居ませんぜ」
「そうでしょう――」と管理人はおちつきはらっていった。「昨日、突然、引越していきましたよ」
「引越し――? どこへ」
「知りません。二、三日うちに連絡はあるはずですが」
昨日といえば月曜日だ。普通、お勤めの女の子などは、引越しといえば土曜か日曜にするのではないか。
なぜ、月曜に突然――。
親分は路上の公衆電話のボックスに飛びこんで、ガーピー先生を呼び出した。
「――寝とったかね。大変だ。我々の大事な三歳馬が居らんぞ」
「居らん、というと――」
「居らんのだよ。昨日、突然、引越したそうだ」
「そうですか」
「おちついてるな。なるほど、我々に株を売っておいて、君もずらかろうとするところだったのかね」
「何をいってるんだ、親分。しかしどうして今頃、それがわかったんです」
「うるさい。ずらかる前に、投資金と配当の精算をしろ。そうでないと、葉隠組が全国に廻状をまわすぞ」
「いいかね、親分。カン子がそこに居らんのは喜ぶべき現象で、なにも心配することはないです」
「なぜ、心配ないんだ」
「作戦どおりだから」
「いいかげんなことをいうな」
「予定より少し早いが、相手の老会長がどこかに囲ったんでしょう。いいことじゃないですか」
「――そんな証拠があるかね」
「大丈夫ですよ。ちゃんと調教がしてあるから。それより彼女がみごもったらしい」
「やっぱり!」
親分はその一言に衝撃を受けて、おもわず受話器をおいた。
みごもるなんて、馬鹿な――!
なんのために、ピルを呑んでるんだ。
彼はまたダイヤルを廻したが、今度は区会議員のニカドブのところだった。ニカドブは元は葉隠組の幹部で、今度の株も十株ほど持っている。
「――おい!」
「なんだよ親分。夜おそくおどかさないでくださいよ」
「あの牝馬に、子ができたんだ」
「誰に――?」
「木野カン子という小娘さ」
「――!」
「そんなことがありうると思うかね」
「――私じゃない!」
「俺のでもないよ。誰であろうとかまわんが、そんな子を産ませるわけにいかない。我々の大事な配当がおじゃんになる」
「――相手の爺イのかもしれませんが」
「爺イはもう七十いくつだ。子ダネなんかあるもんか」
「それじゃ簡単だ。堕ろせばいい。明日行ってそういいましょう」
「彼女は居らんよ」
「居らん――?」
「とにかく、アパートは越しちまった。俺の子分を使うとこと面倒だから、お前の方で手配して、行方を探せ」
彼等の間にカン子に関するニュースがたちまち広まって、翌日、早速、ガーピー先生をのぞく十二人の株主たちが集合した。
「七十爺さんだって、子ダネがないとは限りませんぜ。ガーピーのいうとおり、これで配当が何倍にもふくれあがるかもしれない。昔の江戸城だって、若君をみごもればお部屋さまだからね」
と信用金庫理事長。
「それに、爺さんがかりに子ダネがないとしても、自分の子だと爺さんが思えばおなじことでしょう」
とトルコ風呂経営者。
「そううまくいくかねえ――」とサラ金ジャタスカの社長。「うっかりすると、彼女の浮気がバレた結果になって、すべてがおジャンということもありうる」
「そうか、それでズラかったか」
とスットン親分は舌打ちした。
「とにかく今、ニカドブに調べさせては居るんだがね。早いとこ、手を打った方がいいかな。ガーピーもズラかったかもしれん」
「いや、ガーピーはさっき電話したら居ましたぜ」とジャタスカ。「べつにあわててる様子はなかったが」
「信じられねえな。どうもこいつァ信じられねえ」
と元電機屋でジャタスカ社員のスイ公が唸った。
「だって俺は、前に堕ろし料をとられたんだからね。五十万も」
「いつ――?」
「ふた月前。ちゃんと医者に行ったはずですよ」
「五十万はちょっと高いじゃねえか」
「高えが、やったんじゃない。会社で借りてくれればいいってから」
「すると君は、我々の三歳馬を孕《はら》ませたうえに、会社の金を流用したのかね」
「いや、ちゃんと正規に彼女名義で手続きをとりましたよ。保証人は俺だが」
「その五十万は返しとるよ。俺が払ってやった」と親分。
「いや、返ってませんよ。利子も入ってない」
「なに――?」
「親分はまたなんだって、そんな金を渡したんだ。気前がいいね」
「火曜日と土曜日は、親分の日なんですよ。俺は知ってる。他にも居るよ。べつに俺だけが手をつけたわけじゃないし、孕ませたのが誰かわかるもんか」
「孕んだと彼女がいっただけだろう。実際に孕んだかどうか、わからんね」
「ほう。するとあの牝馬は、かなりあばずれということになるな」
「ガーピーの野郎の調教だからな」
「あんたたちはまだ五十万ぐらいですんでるからよろしい。私は二百万、とられたよ」と信用金庫がいった。
「二百万、またどうして」
「なにかわけありげな様子だったしね。貸してくれというんだ。そうしたら、日曜日に、競馬に一緒に行こうっていう。それで派手に買いやがってね。二百万、全部買っちゃって、一回も当らずだ。最後に、パッパッと手を払って、ああ面白かった、だとさ」
「ばかだねえ、理事長、あんた自分の金をパッパ使われて、だまってみてたのか」
「二十万、四十万、六十万、八十万、アッ、アッ、というまに四鞍でパアさ。だって一鞍《ひとくら》でも当ったら返してもらおうと思うから――」
「俺の五十万は株を買ったことにしてもらおう。俺は都合二株だ。それで我慢するよ」
「私の二百万もそうしよう。これは秣料《まぐさりよう》だ。私は四株増える」
「冗談いうない。自分が馬を喰っといて何が秣料だい。そんなものは認めませんよ」
「スイちゃん、親分、理事長、皆さんのは勝手に楽しんでやった金だ。そりゃ認められない。だがあたしのはちがう。死んだ親父さんの墓を買うんだって、きっちり五百万――」
「なんだ、トルコの大将も金を出してるんだとさ。何曜日だね」
「あたしは夜商売だ。皆さんみたいに遊んでられない。それに女の子はゲップが出てる。だから日曜の昼間に、たまに」
「そうすると区会議員も手を出してるなァ」
「手も金も出してるよ。あの野郎、今度の選挙のときにバラしてやるから」
「皆さんのんきなことをいってちゃいけない。我々の投資がどうなってるのか。牝馬はどこに居るか。これだけははっきりとさせなくちゃいけない。ひとつガーピーのところへ押しかけてみよう」
「わからんなァ、しかし、どうもわからん――」
とスイ公がまた首をひねっている。
「あの子はね、小学生のときに強姦されて、男は怖いからいやだって、そういってたが――」
「それはあたしもきいたよ」
「俺もきいた」
「私もだ――」
「皆にしゃべってやがるな」
「――あんただけは怖くない。不思議だ。あんたは例外、ってそういわなかったかい」
木野カン子は、その時分、プクプク爺さんが買ってくれた三LDKのマンションの花模様のベッドカバーにちょこんと腰をかけていた。
その彼女の前に、爺さんが両手を突いてハラハラと落涙したのだ。
「すまない。申しわけがない――」
爺さんはそういった。
「わたしは君を、養女にするつもりだった。本当にそう思っていたよ。それが、先夜、あんな仲になってしまい、そのうえ、子までできたかもしれないなんて、ああ、わたしはなんて馬鹿なんだろう。君をもうわたしの養女にすることはできない。君をわたしの家に連れこむこともできないんだよ」
「パパだけがいけないんじゃないわ。あたしだって、抱かれて嬉しかったんですもの」
「いや――! 君は若くて、このさきどんな幸せでも手に入れることができたんだ。それがこんな爺イのタネを宿して、陰の女にならなければならん」
「あたし、なんだってかまわないのよ。パパと一緒に居られれば」
「そうもいかん。ああ、君を家族にしたかった。すべてわたしがわるいんだ。かわいそうに、こんな小さなマンションで小鳥みたいに暮すなんてねえ。晴れて養女にできたら、家の者にことわって伊豆半島くらいの大きさの邸をあげられるんだが」
「いいのよ、家なんて。前のアパートだって充分だったの。あたし、幸せよ。だってパパが好きだもン」
「一生一度の失策だ。いや、一生一度の幸運だ。どういったらいいかわからんが、とにかくここで我慢しておくれ。子供が産まれたら、認知だけはなんとかするから」
カン子は花模様のベッドの上に爺さんを坐らせた。
「でも、あたし、幸せな気分に浸ってられないの」
「どうして――?」
「働らかなくちゃ。働らきたいの」
「今度の会社が気に入らんかね」
「いいえ。もっとお金になる仕事をね」
「お金ならいくらでもあげるよ。そうお言い」
「ううん、自分のことは自分でするわ。パパにはご迷惑かけない」
「いってみたまえ。なぜお金が要る?」
「借金よ」
「ほう――」
「父親の借金」
「なるほど」
「いろいろな事情があるのよ。不幸だったっていったでしょう」
「お父さんの借金はどのくらいかね。何億ぐらい――?」
「まさか、億はないわ」
「いくらでもいい。すぐ小切手を書こう。払っておいで」
「パパ、あたしね、お金が目的で、こうなったんじゃないのよ」
「わかってるよ。お金なんか、些細《ささい》なことさ」
爺さんは本当にすぐさま立ち上って小切手帳を持ってきた。そうして一枚千切って彼女の手に握らせた。
「いくらだかしらないが、サインをしておくから、金額だけ書きこんで相手にお渡し。ほかに心配なことはないかい」
カン子はその白い紙片を持って、しばらくじっとしていたが、やがていった。
「やっぱりお返しするわ。あたし、がっついてるとパパに思われたくないの。どうしてもってときに、おねだりします。それよりパパ、こっちにいらして」
カン子がどうして小切手を受けとらなかったかというと、白紙に金額を書きこむとき、どうしても、つい、わりと安い金額を書いてしまいそうで、後で悔いるにちがいない、と思ったからだった。
(――あたし、貧乏性だから)
そうして、自分では、欲のない方だと思っていた。
彼女は彼女なりに、本格的なおねだりは、たった一度、と心にきめていた。
たった一度、決行して、すぐにズラかるのだ。
だらだらとプクプク爺さんのところに居て、たとえどのような利益を手にしたとしても、ガーピー先生にしぼりとられるだけなのはよくわかっている。
(――あたしはキリストじゃないわ。救世軍でもない。ただの若い娘よ。ガーピー先生や株主たちにお金をバラまくわけにいかないンだわ。人生は長いンだもの。あたしが一人で使うべきよ)
欲のない方ではあるが、人生は長いのだから、お金はたくさんあった方が万事に快適だ、という明快な結論を彼女は持っていた。
だから、プクプク爺さんが、今月のお小遣い、といって一千万円をおいていったとき、くらくらッとして思わずこの金を持ってトンズラする衝動に駆られたけれど、わずかに理性がそれを喰いとめたのだった。
(――一千万円ぐらいで何よ。パパは今月の小遣い、っていったじゃない)
ある日、爺さんが小さな手提げカバンを忘れていったことがある。その中に小切手帳と、現金が三千万円ほど入っていた。もっとも小切手帳は盗ったって使うわけにいかない。
(――まだまだ、まだよ)
カン子は下腹に力をいれて、相撲の行司のように踏んばった。こんな小銭で、大名おカンがあたふたするわけにいかないわ――。
ある日、プクプク爺さんが会長室で、昼食のざるソバをたぐっていると、おそろしくむずかしい顔をした現社長が入ってきた。現社長は爺さんの亡弟の息子である。
「会長――」
「――はい」
爺さんは大きな音をたててソバをすすりこんだ。その音が消えるのを待ちかねるように、
「会長――」
「なんですか」
爺さんは箸をとめて、現社長の顔を見た。
「昨夜、内々《ないない》で、家内にお話しくださったことは、本当ですか」
「ああ、そのことですか。内々だがね。こういうことは隠しといてはいけないと思ってね」
「すると、ご冗談ではなかったので」
「冗談でいえることではないからね。わたしはむろん本気です」
現社長は身をもむようにして、前に乗り出した。
「信じられませんが、念のため、もう一度伺がいます。会長は、本当に、御再婚を決意されたのですね」
「そうですよ」
「二十一だか二になる若い娘と御再婚、つまり、その娘を外に囲うというのではなく、御再婚ということに――」
「世間の常識でいえば、愛人として囲うというのが穏当なところでしょうなァ。しかしわたしはそうしない。どうせなら正式に結婚してしまおうと決心したのです」
「どうも弱りましたなァ。ご再考をお願いするというわけにはいきませんか」
「もちろん二考も三考もしましたよ。この年になって、五十以上も若い娘にのぼせあがってみっともないでしょう。だがね、この年だから、遊びでなく、きっちりとしておこうと思うのです。わたしももう先がないからね。これからの数年は大事な最後の時間なんですよ」
「それはわからないではありませんが、そんなに大げさなことですかね。早い話が社員に手をつけたということでしょう」
「いや、わたしの気持としては、はじめて本当の恋をしたんです」
「相手はどうなんですか」
「相手もね。そこの見きわめがついたので、わたしも決心したわけだから、まァ老人にひとつわがままをさせてもらいましょう」
「しかし、――面倒なことになるでしょうなァ」
「もしも資産の問題ならばね、わたしは隠居をして、会長もやめてただの老人になるつもりですよ。わたしとカン子の生活に要する多少のもの以外は、すべて一族間の裁量にまかせます。公式の遺書を書いてしかるべきところに預けておきますから、これまでと事情が大きく変るわけではない。面倒もおきないでしょう」
「相手の娘さんもそのおつもりですか」
「そうですとも。彼女は、今の娘に珍らしいくらい、金に執着を持ってない。それはもうよくわかっています」
「失礼ですが、七十の老人を、物質以外で愛するなんて、そんな天使のような女が居るでしょうか」
「カン子を疑うのですか」
「いや、まァ――、それに、万一、もしものことですが、そんなことはないといっても、その娘さんにお子さんができるようだと、これは――」
「いや、もうできているのです」
「――!」
現社長は一瞬、絶句した。
「だからこそ、わたしも再婚を考えたんですよ。カン子と、産まれてくる子供にわたしの誠意をプレゼントしようと思ってね」
「そ、そ、それじゃァ、これは事件だ。もう目茶苦茶《めちやくちや》だ。いいですか会長、法令ではね、会長に万一のことがあれば、奥さんと子供に、資産は行ってしまうのですぞ」
「遺書がものをいう」
「しかし、お家騒動だ。これは由々《ゆゆ》しきことです」
「わたしは隠居して、子供が産まれる前に、資産を皆にゆずってしまいますよ。わたしはカン子だけあればよい。何も問題はないでしょう」
「ああ、こんなことで、プクプク産業が大揺れになるなんて思わなかった。会長、なんとかその件は、早まらないでください。私どもでじっくり話し合いましょうよ。お願いします」
「早まるなといっても、もうすでにみごもっているのでね」
「いえ、入籍の問題です。会長が生きておられる間はいいが、今日明日でも、ぽっくりといかれたら――」
「わたしは生きます。カン子のためにもね。七十何年もたって、やっとおそい青春を迎えたのだから――」
カン子の居るマンションのエレベーターに、只今点検中、という札がかかっている。
プクプク爺さんは、すこしもあわてずに、老人とは思えない足どりで、階段を一歩ずつ昇っていった。
♪雪の進軍 氷をふんで
どこが河やら 道さえ知れずゥ
カン子の部屋のベルを押して、
「只今、帰りましたよ」
出迎えたカン子はいつもどおりの笑顔である。
「お客さんかね――」
「――なぜ?」
「その靴は、わたしのじゃないよ」
「すばらしい注意力だわ。パパは若者みたいねえ――」とカン子は叫んだ。
「今、叔父さんが来てるの」
「ほう――」
「あたしの身許保証人よ。でもあんまり好きな叔父さんじゃないの。早く帰しちゃうからね」
カン子は叔父なる人物をひきあわせるために奥の部屋に行こうとしたが、爺さんは彼女の手をつかんで身近にひきよせた。
「その前にね、いっておくことがあるんだ――」
「そう――」
「わたしはね、今日、家出をしてきたんだよ」
カン子は、その意味を解《げ》しかねて、爺さんの顔をみつめた。
「――家出、ですって?」
「そう。家出さ――」爺さんはさすがに苦笑した。「まるで青年のようだろう」
「本当ね。――でも、家出って、どういうこと?」
「今日からわたしも、ここに住むよ。わたしの家は、ここだけだ」
「へええ、本当――?」
「嬉しいかい」
「嬉しいわよ。もちろん――」
「まだ報告があるんだよ。区役所に寄って、申告書を貰ってきた。明日にでも、結婚をしよう」
「――結婚ですって!」
「子供もできたことだしね」
「子供――? ああ、まだはっきりしないのよ。たしかに生理はないんだけど」
「うん。だからわたしたちは結婚しなくちゃならん。子供のためにもね。それが一番いいだろう」
爺さんは気がついて、奥に立っている男に会釈した。
「ああ、叔父さんですか」
「はい、どうもはじめまして」
男は、ガーピー興信所所長、という名刺を出した。
「改めて叔父さんにも、ご諒解いただきたい。わたしとカン子は、結婚をすることになりましてな」
「それはそれは、どうも、ふつつかな姪ですが」
「こんな老人とで、びっくりなすったでしょうが、深い仔細はカン子からおききいただくとしましょう。まったく、なんですな。本当の恋というものは、年齢を忘れさせますな」
「今、ちょっと伺がいましたが、家出をなすったとか――」
「そうよ、パパ。家出ってのは、どういうことなの」
カン子とガーピー先生が、額《ひたい》を揃えるようにして訊く。
「いや、まァね、愚痴になるから多くは語らんが、家出であり、かつまた隠居でもあるんだ。カン子、わたしはね、裸一貫になって飛び出してきたよ」
「ははァ、なるほど――」とガーピー先生。「早い話が、この再婚をご家族から反対されたわけですな」
「わたしはこのとおり挫《くじ》けなかった。ごらん、若々しいだろう」
「パパ、すてきだわ。でも、裸一貫って何のことなの」
「わたしはこのところ二十年ほど若返ったよ。もう一度人生をやり直すつもりでなんでもして働らく。線路工夫でも、運転手でも」
「運転手っていうと、タクシーの?」
「そうだよ。そのくらいの覚悟だ。それでね、カン子――」
プクプク爺さんは小さな鞄の中から袱紗《ふくさ》に包んだものをとりだして、彼女に手渡した。
「これをお前に預けておく。わたしの全財産だ」
「えッ――!」
「といっても、ほんのわずかだよ。わたしはもう全資産を家族にゆずりわたすことにして、着のみ着のままで飛び出してきたのだ。そうでないと、いろいろと面倒なことがおきそうだったからね」
「全資産を譲渡なすって――」とガーピー先生が念を押すように訊いた。「この包みだけになったんですな」
「はい。手続きはまだだが、家族たちにはそう発表しました」
「ははァ。それで会長は、運転手を?」
「まァね。カン子はお金に恬淡《てんたん》としておるけれど、お腹の子はそうはいかん。それでね、通帳を一つだけ持ってきた」
「それが、この包みなんですね」
「ああ、三億円ある。これを定期にすれば、利息でなんとか喰えるだろう。迷惑だろうがカン子や、ちょっと預かっといておくれ」
ガーピー先生はカン子と顔を見合わせた。
「ああ、すがすがしい夜じゃ――」
とプクプク爺さんは深呼吸して、
「生まれてはじめての幸せな生活がこれからはじまる。実にどうも、わくわくするねえ――!」
結婚式は翌日の朝、早々とはじまった。ご苦労にもガーピー先生は、前夜帰ってまた朝早く、唯一の立会人として現われたのである。
「では、叔父さんに仲人をおねがいしましょう」
と青年のように積極的になったプクプク爺さんがいった。
「わたしは、新郎と牧師の役をつとめます。もっともわたしは無宗教だからね、牧師でも坊主でも神主でも、同じだ」
爺さんは誓いの言葉を自身も復唱し、大きな指輪をカン子の指にはめた。そうしておごそかに、キスをした。
三人で、シャンペンで乾盃した。
「叔父さんに恐縮だが、ひとつ、カン子に向かって、奥さん、と呼んでやってくださらぬか。カン子が喜ぶと思うんで」
「なるほど――」
ガーピー先生は素直に、
「奥さん、おめでとう」
「さァ、これでよし。どういう形でも式は式だ。どうもいい心持ちだな。それじゃカン子、わたしは区役所に行ってくるからね」
爺さんが出ていくと、ガーピー先生はシャンペンを再びグラスにそそいで、カン子のグラスにカチッと合わせた。
「おめでとう。プクプク夫人」
カン子はきびしい表情になって、上眼使いに相手を見ている。
「袱紗の中の通帳を、見たかね」
「――ええ」
「まちがいなく、三億円か」
カン子は頷ずいた。
「爺さんは嘘をいうような人じゃないだろう。すると、あとの資産は、もうすぐ家族名義になってしまう。いそがなくちゃね」
「何を、いそぐの」
「何をって、家族名義になってしまえばこちらで手をつけにくい」
「先生は、あの財産を根こそぎとろうという気なの」
「できればね。十億の賞金を三億しかとれなければ、七億の損害だ。七億、泥棒に盗られたのと同じ理くつさ」
「それなら気長にしなけりゃね。いそげば、エラーも多くなるわ」
「いや、信じなさい。私のコーチどおりやれば、絶対に勝つ」
「もう、勝ったわ」
「ああ、勝った。だからこれからも勝つよ。そのために毎日、練習に明け暮れたんだ」
「いいえ、もう勝負はついたのよ。だってあたしは女房だもの。女房が家の中で何をしたって、刑事問題にはなりにくいでしょう」
「そうだよ。君はたしかによくやった」
「大名おカンだものね」
「さァ、それじゃ通帳をおくれ。賞金はひとまず私が管理する」
「昨夜の今日で? 早すぎるわ。まだすこし時間が必要よ」
「爺さんが咎《とが》めたら、盗まれたように見せればいい」
「駄目よ。うまいやりかたじゃないわ。あたしがそのうち、うまいこと現金化しておくから」
「君は本当に優秀な牝馬だったな。普通は実行者の配当は二割なんだが、もう少しボーナスを出してもいい」
「二割っていうと、三億円の二割?」
「そうだよ」
「あとの八割は、どうなるの」
「株主たちへも配当しなければならないし、ガーピー塾の後輩たちの育英資金にもなる。お金はいろんな使い道があってね」
「大変ね。そうすると、あたしの取り分は、六千万円か」
「大金だろう。若い娘がそんな大金を持っても、ろくなことはない。なんだったら、私に預けておけば、利が利をうんでいくがね」
「でも、あたしにはまだ他の道もあるわね。今の三億に眼をつぶって、このまま居坐っているとして、爺さんが死んだらどういうことになるの」
「つまらん。相続税をがっぽりとられるだけだよ。それに爺さん、あの調子じゃ二十年はまだ生きるぜ。ことによると半身不随でいつまでも生きるかもしれん」
「そうねえ――」
「君の性に合わんだろ。本当は、そうしてもいいんだが、君を無理させてもよくない。ひとまずこの作戦は、ここで打ち切ろう。それでまた別のレースに参加してくれたまえ」
「いいわ。でも、一ヵ月は最低必要ね。通帳から三億円もいっぺんにひきだすわけにいかないから」
カン子は、キラキラとした瞳を宙に浮かして、考えこんだ。
――今、三億円しか手元にないんだから、この三億円を、そっくりいただくことに集中しなけりゃならないんだわ。そのために、小さいときからグレてたんだもの。あたしは誰にも負けるわけにはいかないんだからね――。
黄金レディ
こちら、長崎――。
活字は便利で、東京から長崎の場面転換が一行ですんでしまう。これからどんどん舞台が変るが、そのたび一行ですませたい。
長崎は風光絶佳な坂の町だが、町はずれの小さな山の中腹の雑木を切りひらいて、チン夫人が溺愛《できあい》する鯉の養魚池がある。
長崎には、古くからの貿易港らしく、並みの日本人には想像もつかないような国際的な金持ちが何人も居るが、チン夫人(正確には未亡人)もその一人で、香港やシンガポールにいくつものビルを所有し、映画製作にまで投資するという女実業家だ。
チン夫人の趣味のひとつが、錦鯉で、ヒマをみつけては、新潟や奈良に行き、鯉の稚魚を買いつけてくる。上物は一匹何十万、うまく美麗に育てば骨董品のように何百万、何千万という値がつく。しかしそのほとんどは屑と化して、ただの池の魚になってしまう。高い趣味だ。でもそれだってかまわない。夫人にとっては、一匹一匹が我が子のように思えてくる。
春巻信一ことハルは、ジーパンに長靴をはいて、長い柄のついた柄杓《ひしやく》で鯉を掬《すく》っては予備池の方に移していた。ときどき、池の水を替えるのである。たいした労働ではないが、陽はまだ高いし、急ぐ必要もない。
携帯ラジオを耳にはさんで、草むらに坐り、煙草を吸う。低い山並みの向こうにまっ青な大村湾が見える。池のように静かな海で、ビートがきいているのはラジオの音楽だけだ。
甲高《かんだか》いエンジンの音をたてて、細い山道をまっ赤なスポーツカーが疾駆《しつく》してくる。あたりに人は居ないし、道はここで行きどまりだ。
チン夫人はあんなに乱暴な運転はしない。
と思っているうちに、養魚池のすぐそばで車はとまり、女が運転席の窓から白い手を振った。
「ハル――!」
ハルは愕然とした。そういう名前で呼ぶ人間は、ずっと以前の知り合いだ。
「ハル――! こんなところで、なにをぼんやりしてるのよ」
ハルも大きい声を出した。
「――カン子か!」
「そうよ。ほかに女が居るとでもいうの――!」
「この野郎――。お前また、なんだよ、そのざま!」
「こっちこそいいたいわよ。ずいぶん探したよ。なんでこんな田舎でくすぶってるのよ」
「まァ、おりてこいよ」
「乗んなさいよ。ゆっくりもしてられないんだから」
ハルは誇りを捨てて、スタスタと車のそばに行った。
「お前、景気がよさそうだな」
「そっちはまた、ひどいねえ。山男ね」
「しょうがねえんだ。叔父さんのとこに迷惑かけちゃったからな」
「その叔父さんのとこで訊いてきたんだけど」
「北海道の土地が仕末できなくてさ。日本じゅうの金持ちのところを歩いてるんだけどなァ。でも、ここは脈があるんだ。なにしろ度はずれた金持ちだからなァ。しばらくよいしょ――――をしてるうちに、うまいこと売りつけちゃう」
「男は駄目ねえ。やることが手のろくって」
「なんだ、お前は、一発かましたってのかい」
「かましたどころじゃないわよ」
「冗談じゃねえ、俺だって、あの湖の土地の仕末さえつきゃァ、叔父さんになんぞ渡すもんか。その銭持って、外国へでもずらかって――」
「そんなことしてるひまないわよ。あたしと一緒に来て頂戴。ずらかるのよ」
「まァ聞けよ。お前のケチな仕事とはちがうんだ。北海道の一件は何十万坪って土地だぞ。そりゃァ草も生えないところだが――」
「あたしのは三億円よ。三億円」
ハルは一瞬、絶句した。
「――三億円というと、銀行強盗か」
「ちがうの。だから乗りなさいよ。くわしく話すから」
「――現金か」
「いいから乗りなさい」
「お前一人で、やったのか」
「そうよ」
「へええ、お前一人でか」
「そう」
ハルは助手席に飛びこんだ。
「お前、まさか忘れてないな。子供の頃俺たちは結婚したぜ」
「そんなこともあったわね」
「離婚したおぼえはないぜ」
「だからここまで来たんじゃないの」
「そうか、よく来た。話をきいてやる」
「ハル、口のききかたに気をつけてよ。三億円はあたしが持ってるのよ」
「俺は亭主だぜ」
「小学校の頃でしょ。籍だって入ってないわ。あたしは木野カン子」
「籍だとゥ。お前、籍が欲しいのか」
「とにかく、亭主らしいことなんか、ひとつもしないじゃない」
「お前が病院からズラかったんだ」
「なんでもいいわ。亭主面はごめんよ」
「じゃ、俺はなんなんだ」
「――用心棒ね」
ハルは、カン子からプクプク爺さんの一件をくわしくきいたのち、彼女の指のダイヤの指輪だの、真珠の首飾りだのを見た。
「それで――、三億円はキャッシュか」
「ええ――」
「どこにある」
「後部《うしろ》のトランクの中よ」
「――お前、アホか」とハルはいった。「その銭で、指輪や車をばんばん買ったのか」
「指輪は爺さんに貰ったんだし、車はレンタルよ」
「こんな派手な車をか。お前、追われているんだろう」
「そうかもしれない」
「かも、じゃないよ。その爺さんが訴えているだろう」
「でも、あたしは奥さんよ」
「奥さんだって、三億円は大きいよ。ただの小遣銭じゃない」
「そうかなァ。姿を消して半月にもなるけど、毎日、新聞を隅から隅まで見てもあたしのことは記事になってないわよ」
「大金持ちは、表立って警察に通報しないんだろう。そのかわり、お抱えの私服に追わせてるかもしれない。いずれにしろ爺さんがだまってるものか」
「そうね」
「お前だって、だから、用心棒が必要になったんだろう」
「むしろあたしはね、ガーピー先生たちが追ってくると思うのよ」
「ああ、あいつ等な」
「とんびに油揚げをさらわれたんだものね。ここまできて、ガーピー先生になんか渡せるものじゃないわよ」
「ああ、一銭だってな」
「あんたもそう思うでしょ。でも一人じゃないからねえ、彼等。どういう連中とコネがあるかわからないし、――ひょっとしたら、ハルちゃん、あんただって」
「まァな。そういうこともあるわさ」
「――本当なの?」
「俺がガーピーと合うわけないだろ。あいつを張り倒したんだから」
カン子はスポーツカーを道ばたに停めて、シートの背にもたれた。
「こうなってみると、頼れる人間って、そう居ないしねえ。あんた、本当に用心棒になってくれる」
「用心棒か――。亭主兼業ならな」
「亭主って、どういうこと?」
「まず、俺が欲しいときに、いつでも、身体を自由にさせる」
「身体なんか、いつだってあげるわよ。減るもンじゃないし」
「それから、ほかの男と寝るのを許さない」
「あら、そんなことで嫉《や》くの」
「なにか最低のルールがなくちゃな。亭主だか女房だかわからねえぜ」
「いいわよ。ハルだけの女になってあげる」
「それから――」
「まだあるの」
「俺が欲しいときに――」とハルはいった。「銭をよこせ。亭主を養なわなくちゃいけねえ」
「あたしが――」
「三億円も持っていやがって、ケチケチするな」
「それじゃあたしもいうわよ。あたしの持ち物は、全部あたしの物。亭主だって関係ないわよ」
「三億円もか」
「もちろん。命令はあたしがする。だってあたしが所帯主だものね」
ハルはうすく笑った。
「あんまり突っ張るなよ、カン子」
「あんたは後からついてくるだけ。用心棒だものね。そのかわり、喰わせて、月給ぐらいあげる」
「俺のギャラは少し高いぜ」
「いいわよ。働らきぶりによってね。役に立たなきゃ、すぐクビだから」
「クビにしたって、お前、俺がそのトランクを持ってずらかったらどうする」
「いいわよ。ずらかってごらんなさい。あたしはすぐ訴えるわよ。あんたの指紋は警察台帳にものってるし、公けになったらあんたこそ動きがとれなくなるでしょう。どうする。ここで車をおりて別れる。それとも一緒に行く」
「――もちろん、別れる手はないだろうな。幼な馴染《なじみ》の女房に会ったんだ」
「さァ、どうするかな――」
とハルはいった。
「どこに逃げるね」
「あわてることはないわよ。まさか、ハルのところに来てるなんて、誰も思いつかないでしょう。日本だって、そうせまくはないわ」
「長崎へはどうやって来たね」
「飛行機よ」
「警察も、ガーピーも、空港はチェックするだろうな。本名を使わなくたってそれらしい若い娘を追うぜ」
「あたしみたいな若い娘はたくさん居るわ」
「偽名を使ってるのはそう多くない。ガーピーだって若い者は大勢居るから、手わけすればな」
「心配したらきりがないわよ」
「じゃ、勝手にしな。但し、トランクは今のうちに俺が預かっとく。俺はまだお前の相棒と思われてないからな」
「冗談じゃないわ。あなたが持ってズラかったらどうするの」
「じゃ、なぜ俺を用心棒にしたんだ」
「とにかくトランクはあたしが持ってるわよ」
「な、ここはお互いに最低のルールを定《き》めとこうじゃないか。これはお前の仕事だから、その点に敬意を表して、お前が俺を信用してるかぎり、俺も銭に手を出さねえ。信用しないと何もできないぞ」
「命令はあたしがするわよ。不満ならあんたなんか要らない。ここでおりなさい」
ハルは山道が街並みになりかかる信号のところで、ゆっくり車からおりた。
「わるいことはいわねえ。これが俺の住所だ。ホテルよりはまだ安心だぞ。それから、この車、もう少し地味なのに換えな」
発車する車を見送ってから、ハルはタクシーを停めた。
「前の赤いスポーツカーについていってくれ。街なかだからそうスピードも出せねえだろう」
カン子の車は、ホテルに寄らずに長崎駅へ。汽車にでも乗るのかな、と思って見ていたが、そうじゃなくて、ロッカーにトランクを入れている。サングラスをかけ、ケバケバしいマリンルックのカン子が身をひるがえしてまたスポーツカーのところに戻ってくる。
(――ばかやろう、目立つようにばかりふるまってやがる。女ってのはどうしてこうパアなのかな)
(――ほんとに、あいつ、三億円なんて持ってやがるんだろうか)
カン子はそれからまっすぐホテルに飛びこんだ。フロントで宿泊カードを書きこんでいる。
ハルはそれだけたしかめて、まっすぐ自分のアパートに帰った。チン夫人に世話してもらったアパートである。
だが、じっとしていられない。嘘でも本当でも、三億円が自分の手近かに転がりこんできた気分はわるくなかった。
一度脱いだズボンをまたはいて、近くの馴染《なじ》みのスナックに出かけた。
「マスター、東京から来た女の子が、今ホテルに泊ってるんだがな。ちょっとからかってやりたいんだ。俺の声じゃシャレにならねえ。かわりに電話してくれないか」
「いいよ。誘い出しかい」
「いや。ガーピーの社員だが、カン子さんかね――。これだけでびっくりするはずだが、何かいったら、ちょっとこれからお目にかかりたい、ってな」
「ガーピーの社員、なんだいそりゃ、やくざか」
「いや。興信所の所長さ。旦那《おだん》を振って逃げてきちまったんだ」
「よし、引き受けたよ」
「標準語だぜ。九州なまりを出すなよ」
ハルはウイスキーロック一杯で、すぐにアパートに戻ってきた。
思ったとおり、カン子が三十分ほどして、ハルのアパートのベルを押した。
「どうした、気が変ったのかい」
「――やっぱり、一人じゃ淋しいわ。久しぶりに夫婦の真似ごとでもしようかと思って――」
カン子は大きな眼をつぶって、しなをつくってみせた。
「入っていい――」
「まァ入れよ。よくここがわかったな」
「タクシーで来たのよ」
「あの車は――?」
「もう返したわ」
「なぜ――」
「だって、目立ちすぎるもの」
「でも、車は必要だろう」
「また借りるわ。速くて地味なのを」
カン子は部屋の中を見廻して、
「――ひと部屋だけなの」
「臨時の住いだからな。どうせ長く居ない」
「思い出すわね。小学生の頃――」
「思い出すほど長く居ねえよ。こっちはすぐねりかんだもの」
「ねえ、あたし、綺麗になった」
「――おっと、そうだ、トランクはどうしたね」
「ねえ、綺麗――?」
「ホテルにおいてきたのか」
「あんなもの、人に呉れてやっちゃったわよ」
「呉れてやった――?」
「三億円なんて冗談よ。あたし、ずっとあんたを探してたんだってば。ひさしぶりで照れくさいから、あんなこといったのよ」
ハルはカン子の身体を両手で受けとめて撫でさすった。
「おや、これ何の鍵だ?」
「――ホテルのキイ」
「邪魔だぜ。寝ると痛いよ」
「よしなさいよ。他人のポケットなんか探って――」
その夜、ハルとカン子は、はじめて成熟したお互いの身体を知ったことになる。
「二人とも、十三だったわよ、あのとき――」
「ああ、小学校の講堂で、みんなが結婚パーティをやってくれたっけな」
「長かったわね。寄り道が」
「結婚が、俺たち、ちょっと早かったのさ」
カン子は腹ばいになってシーツに半分顔を埋めながらいった。
「――よかったわよ」
「うむ――?」
「よかった。ハルちゃん」
ハルは鼻の頭を指でこすった。
「やっぱり、あたしたち、夫婦よ。こんなにいいんだもン」
「用心棒じゃないのかね」
「うん、もう離れられない」
「――お前、今まで、何人と寝た?」
「――ハルちゃんは?」
「俺か、俺は――、金で買った女をいれると、十八、かな」
「あたしはねえ、ええと――」
カン子は壁の方を向いて考えた。
「――おい、長いぞ。そんなにたくさんなのか」
「フフ、大丈夫よ、ハルちゃんよりすくない」
「何人――?」
「一人、よ」
「嘘つけ」
「本当」
「俺以外に一人か」
「一人すくないだけ――」
ハルは煙草に火をつけて、
「――じゃ、そこで停めろ。俺より数が多くなったら承知しないぞ」
カン子はナンバーのついた鍵をほうり出した。
「朝になったらね、駅のロッカーに取りに行ってきて。トランクよ」
「――俺がそのまま持って逃げちゃったら」
「もう夫婦だもの。信用してるわよ。二人で協力して逃げましょうよ。一人じゃやっぱり手にあまるわよ」
「お前、駅のロッカーなんかによくおいとけるな。あんなもの合鍵で一発だぜ」
「他にしょうがないでしょう」
朝になって、ハルはシャツを着ながら、
「ほんとに一人で行ってくるぜ」
「男の方がいいわよ。あたしはヤバイもの。でも、怪しいのが居たらそのまま帰ってきてね」
「銭を少しよこしな。ついでに車を借りてきてやる」
「たてかえといて」
「無いよ。そんな金」
「水臭いわねえ、夫婦なのに」
「ケチケチするなよ、大金持だろ」
ハルは出ていって、まもなくレンタカーで帰ってきた。
トランクを、どさっと卓の上においた。カン子はもう身仕度を整えていた。
「変な奴、居なかった――?」
「ああ――」
「さァ行きましょうか。邪魔が入らないうちに」
「こんなものに、三億円が入ってるのかな」
「そうよ」
「トランクの鍵を貸しな。一度、札束を拝みたいぜ」
「ただお札が詰まってるだけよ。行きましょう」
ハルの借りてきた車は、白いソアラだった。スピードは申し分ないけれど、日本の道路はどこも車が多すぎて、カーチェイスはできそうもない。
「どこへ行く――?」
「どこでもいいわ」
「――雲仙の方へでも、行ってみるか」
雲ひとつない上天気で、絶好のドライブ日和《びより》。
しばらく二人とも黙って、まわりの風景に眼を遊ばしている。
ええと、俺はこのさい――とハルは考えていた。――あんまり自由というわけにいかないな。トランクを奪って女を捨てちまうのは簡単だが、それじゃ、犯罪になっちまう。日本みたいな島国じゃ、広い世界に高飛びしにくいから、犯罪は利口者のやることじゃない。ガーピーがそういってたからな。法律に触れないやりかたで、面白い目を見なくちゃ。
それにはどうすればいいかな。このまま女のヒモってのもつまらねえな。第一、銭が、カン子のところに停まっている保証がない。そのくらいなら、奪って逃げちゃおうかな。
でも、カン子が銭を持ってるかぎり、事情なんぞ訊かずに、知らん顔して使っちゃうのもわるくないな。持ってっちゃうのも、使っちゃうのも、似たようなことだからな。俺は善意の第三者ってことで――。
いや、やっぱり駄目だ。ガーピーが黙ってないよ。あの野郎は鼻も利《き》くし、手下も居るし、きっと追いかけてくる。そうすると、その前に、なんとかしちゃわなくちゃな。
車の列が渋滞しはじめた。警官が何人も立ちはだかって、一台一台車の中をのぞきこんでいる。
「――まずいな」
「そうお、平気よ」
「どうして」
「だって、どの車も停められてるじゃない。あたしを探してるなら女の子の乗ってる車だけ停めるわ」
ハルは助手席のカン子をチラリと眺めた。
「お前、度胸がいいな。例の爺さんが警察に訴えてるとは思わないのか」
「新聞記事になってないし、多分ね、パパは表沙汰《おもてざた》にしないわ」
「三億円も盗られてもか」
「勘だけどね。あたしがどこかへ遊びに行って、そのうち帰ってくると思ってるんじゃない」
「チェッ、甘いぜ。何かあったら、俺はただの運転手だよ」
「ただの運転手なら助手席に乗らないわ」
「それじゃ、長崎で知り合ったばかりの仲さ。事情はなにも知らないぜ」
警官が来て、ハルの免許証を見た。チラッと助手席のカン子を見て、それからゴーのサイン。
ほら、ね、という顔をカン子がしている。
「勘、か――」
とハルはいった。
「お前がそう思うんなら、なにか根拠があるんだろうなァ。だが、それじゃなんで、怯《おび》えてるんだい」
「ガーピーの一党よ」
「まァ、あいつ等も仕末はわるいな」
「ガーピー先生たちは、絶対に、金目当てで追っかけてきてるわ。だってあたしをおとりにして、獲物は自分たちがとるつもりで居るんだもの」
「始末はわるいけど、警官みたいに全国にうじゃうじゃ居るわけじゃないから、警察よりはいいな」
「そうでもないのよ」
「そうかい」
「ガーピーの株主たちってのが居てね。やくざの親分も居るわ。やくざだってやっぱり、全国組織でしょう」
船津のあたりで、眺望台から海を眺めながら、缶ビールを呑んだ。
爆音がして、山沿いにヘリコプターが飛んでくる。
「あ――」
小さく叫んで、カン子は足早に、売店の軒下に飛びこんでいった。
ハルは、サングラスの顔をあげてヘリコプターを見送ってから、屋根の下で土産物のショーケースを眺めているカン子のそばに行った。
「なんだい――」
「あたし、ヘリコプター、嫌い」
「なぜ――」
「パパが、自家用のヘリコプター持ってるわ。今の、どんな人が乗ってた?」
「そこまで見ない。ヘリコプターなんかたくさん飛んでるよ」
「とにかく、嫌。もう行っちゃった? また帰って来ないかしら」
「爺さんは、怒ってないンじゃなかったのか」
「そうは思うけど、わかンないじゃないの。パパは変にまじめな人なんだから」
「そりゃまじめになるさ。三億円も取られりゃな」
「もしかしたら、あたしが誰かに誘拐されたと思ってるかもしれない」
「そうすると、どうなんだ」
「表沙汰にはしないけど、一生懸命、あたしを探してるかもね」
「それじゃ、今は、さしずめ俺が誘拐犯人てわけか」
「そういうことになるわね。パパに捕ったら、しょうがないから、この人がわるいの、ってあたしいうわよ」
「冗談いうない。冗談だろう」
爆音はもうきこえない。
が、ハルがそのあたりをたしかめるまで、カン子は出ようとしなかった。
「出てこいよ。いい天気だ――」
ハルが背のびをしながら、車の方に歩いていく。
「しょうがねえな、それじゃ、ガーピーの一味に会ったら俺もいおう。探し物はみつけておきましたぜ、ってな」
「あんたはそういう人じゃないわよ」
「おや、どうして」
「お金を持ってるあたしを、むざむざ渡すもんですか」
雲仙の観光ホテルのスイートルームで食事をして、そのあとカン子を部屋に残して、ハルは一人でバーにおりた。これが、非常に運がよかった。
ハルにとっても奇遇ともいうべき人物が、そのバーに居たのだ。
止まり木に腰かけようとして、連れと一緒に居るその人物を見かけ、一瞬どうしようかと考えたが、大金持に声をかけない手はないと思い、ボックスの席の方へつかつかと歩み寄った。
「――やあ、プクプクの会長さん!」
プクプク爺さんは、老眼鏡をはずしてハルを見定めた。
「――どなただったかな」
「忘れましたか。北海道の支笏湖の夜。芸者の影千代。ほら、不動産屋の春巻ですよ」
「おお、なるほど――」
ハルは、爺さんの連れを無視して、椅子に腰をおろした。
「その後どうですか。ははァ、今度は雲仙の芸者ですか。あいかわらずお元気ですね」
「いや、そうじゃない。もう芸者なんぞに興味はない」
「そうですか――」ハルは連れの男をチラと見て「そうすると、この火山をそっくり買いつけに来たとか――」
「春巻さん、わたしも今度、再婚しましてな」
「再婚――。へええ、影千代をとうとうものにしたってんじゃないんでしょ」
「いや。――それで、ちょっと取込んでいますのじゃ」
ちょっと失礼、といって爺さんは地図を見ている連れの方にいった。
「――わたしはどうも、九州のこのへんが臭いと思うんでね。なに、ただ勘がするだけなんだが、明日は島原から天草の方へでも行ってみますかな」
「そういたしましょう。ご自分で納得されるまで、廻ってみるのがよろしいと思います」
「探し物ですか」とハル。
「うん。おはずかしいがね」
「何ですか」
「――嫁さん、なんだ」
「ははァ、逃げられましたか。影千代みたいに――」
ハルは笑いかけて、ふと顔をこわばらせた。
「逃げたのなら、まァ仕方がないが、どうも信じられないんだな。彼女にはいろいろと不幸な過去があったようなのでねえ、なにかわたしにいえないしがらみで辛い用事をはたしているとか、あるいは悪くすると、誘拐されたとか、そんなことまで考えてねえ。夜も寝られん仕末ですよ」
「――そ、それで、警察には?」
「まだその段階じゃない。わたしにも、調査をしてくれる人間はかなり居りますがね。誰にも頼んでおらん。できれば、わたしが一人で、自分の手であの子を探し出して、助けてあげたいと思ってね」
「カ、会長は、ヘ、ヘ、ヘリコプターをお持ちでしたね」
「ああ、この人が操縦士ですがね」
「そうですか。空から行けばね。そ、それで、なにか手がかりでも――?」
「いや、残念ながら、まだなにもね」
「日本は広いですからね。それに、海外ということだって考えられますよ。近頃のやくざはね、すぐにホンコンだの、シンガポールだの、ロスだの、国外に持っていって売りさばくから」
「そんな、かりにもわたしの大切な人ですぞ。不謹慎なことをいってもらっちゃ困る」
「やくざならそうするって話ですよ。ヘリコプターで、東南アジアの方をひとまわりなさってみたらどうです」
「そりゃァ、世界じゅうでも行きますがね。どうも、長崎か雲仙、このへんのところが頭に浮かんできてね」
「なぜです」
「なぜですかなァ、なぜだろう。恋する者の直感ですかね」
「気持がわるいね。で、その女性は金を持ってるんですか」
「それです」
「ええ、どのくらい――?」
「いや、それが、そうたいした金は持っとらんはずなんですよ。だから心配なんじゃ。どんな理由かしらんが、もし一人で旅してるのなら、お小遣いを渡したいくらいでな」
「――ははァ、銀行の方もお調べになった?」
「調べるまでもない。何かあれば銀行の方からすぐいってきますからな」
ハルは、スイートルームに駈けあがって、ガウンを羽織っているカン子をにらみつけた。
トランクを開けたらしく、ベルトがゆるんでいる。ハルはその蓋を手荒く開けた。思ったとおり、カン子の着がえや下着類で埋まっていた。
「――これが、三億円か!」
「――そりゃそうよ、あたしだって着がえぐらい要るわ」
「じゃ、金はどこなんだい」
「銀行よ」
「この野郎、うまいことばかりいいやがって、お前はプクプク爺イの思い者で、爺さんがいやになって逃げ出しただけのあばずれじゃねえか」
「あばずれでわるかったわねえ」
「あばずれならあばずれらしくしろ。なにが三億円だ。銭で男を釣りやがって、そううまくいくかい」
「銭で釣られたのはどっちなのよ。それにあたしだって、銭なしじゃないわよ」
「いくらあるんだ。いってみろ」
「三億円よ。銀行にね。そりゃここには持ってないけど、ハンコと通帳は持ってるわよ。ただ銀行に行けばいいのよ。あたしはパパの奥さんですもの」
「じゃ、なぜ、怯おびえるんだ」
「パパの奥さんでこのままおさまってたら、ガーピーに喰いつかれちゃうもの。それで一度、デモって、事件みたいにして、金盗りが失敗したことにして、ガーピーの喰いつきをあきらめさせたいのよ」
乱戦
ハルはこのさい、頭に昇った血をさげて、できるだけおちつこうと思い、部屋の魔法瓶の冷水をぐっと呑んだ。
そうして、カン子をにらみつけた。
「ガーピーの野郎が怖くて、それでデモンストレーションの逃避行をしたってんだな」
「そうよ――」
「俺は、怖くなかったのか」
カン子はふてくされたように、煙草に火をつけて手荒く吸った。
「おい、なめるなよ。俺だって、特別少年院《とくしよう》じゃ名を売ったおにイさんだぜ。お前、ガーピーは虎だが、俺ならチワワみたいに飼い慣らせると思ったのか」
「――――」
「はっきりいってみろ。俺がチワワのように見えたのかよ」
「――ハルちゃんは、とにかく、夫婦になった仲じゃないの」
「勝手なこというなイ。夫婦だって、俺が病院に入ったら、すぐにズラかったくせに。それで困ったときだけ、銭で釣ってよ。四つん這《ば》いになれったら、俺が這い這いするとでも思ったか」
「だって、――身体ひとつで転がりこんで、抱きとめてくれるような男なの」
「――――」
「あたし、これでもずいぶん探したのよゥ。逃げ出して、すぐにハルちゃんのところへ行こうと思って。――あんたしかないもんねえ。なにかの因縁なのよ。悪縁でもいいのよ。あたしが本当に頼りにしてるのは、ハルちゃんなんだもの」
「このホテルに居るよ」
「誰が――?」
「プクプク爺さん」
「あんた、パパを前から知ってるの?」
「あれも鼻の利く爺さんだな」
「あのヘリコプターね――!」
「話によっちゃ、お前を引き渡してもいいよ。俺は、当て馬は嫌いだからな」
「――あんたに誘拐されたっていうわよ」
「俺は長崎で会っただけさ」
「警察でもどこでも行ってそういってごらん。特別少年院《とくしよう》の顔役が、潔白ですなんていって信用されると思うの」
「――そうすると、お前はまだ、爺さんのところへ戻らねえ気か」
「できれば、ずっと戻りたくないわね」
「できればな。だが、銭なしじゃそうもいくまい」
「ハルちゃんの出方次第よ」
といってカン子は、白い歯を出した。
ハルは冷水の残りを呑み干してから、カン子の腕をつかんで、ベッドの上にあがった。
「――どうしたの。パパに渡すとなったら、急に欲しくなったのね。あたしが」
「悪いか。夫婦だぞ」
「悪かないわよ。いくらでもお使いなさい。ハルちゃんなら」
「一服吸って、考えるよ」
「煙草――?」
「いや、お前の身体」
「どうぞ――」
しばらくして、ハルがいった。
「条件があるよ」
「なんの条件――?」
「お前の用心棒になる条件」
「用心棒になりきれる自信があるの」
「約束手形を書きな」
「手形なんか持ってないわ」
「ハンコと紙片があればいい」
「いくらなの――?」
「一億円」
「一億円と、あたしの身体――?」
「そうだ」
「あたしの身体なんて、附録なのね」
「お前自分でいったろう。身体なんかいくらでも使えって」
「たいした亭主ね」
「女房もだぜ。それで、明日、銀行からひとまず一千万円だけおろせ。小出しにな。通帳と印を持ってるんだろう」
「でも、銀行に停めが入ってたら」
「いや、爺さんは心配してた。金を持ってないから、小遣いをやりたいくらいだって。銀行に停めは入ってないよ」
「じゃ、三億円でも受け出せるのね」
「阿呆。そんな現金、いくら銀行だってすぐに揃えられるものか。一千万だって右から左は怪しいよ。それで引き出してみて、しばらく様子を見るんだ」
「一千万円、どうするの」
「俺だってチワワじゃないぜ。若い男が一人で居て、借金なしですませるかよ。サラ金に四、五百万、あるんだ。そいつ、綺麗にしないと、用心棒に全力をつくせないだろう」
「――やってみてもいいわ。だけどあたしだってチワワじゃないわよ」
とカン子はいった。
「まずくいけば、あんた、誘拐のうえに金を脅し取ったことにもなるんだわよ」
「とにかく、このホテルは明日早く発とうぜ。それで、どこへ行くかな」
「島原、天草、なんて近いんでしょう」
「駄目だ。そっちは爺さんが鼻を利《き》かしてやがった。長崎にいったん帰るさ。サラ金のかたをつけてな」
長崎空港におりたった人波の中に、本篇に関係の深い人物が、三人居た。先頭をボス然と歩くのは、通称ガーピー・ストロガノフ卿、又の名、保護司のガーピー、白いパナマ帽に麻のスーツ、口髭など生やしていやにシャレのめしている。後に続くのは、ガーピー塾の肉太郎とサーカスという塾生。
「さァ、長崎に来た。ここでお前たち、まず何をすればいいと思う」
「人探しでしょう」とサーカス。
「むろんそうだが、誰を探す」
「大名おカン――」
「阿呆。我々は、プクプク爺さんの動向を注目してきた。後学のために話してきかすが、爺さんのヘリコプターがこちら方面に来たことを察知しておる。さ、それでどうする」
「警察ですか」
「阿呆!」
「カン子じゃないんですか」
「阿呆――!」
「そんなことがわかりまっかいな」
と肉太郎。
「当分は爺さんマークだよ。はっきりするまではな。爺さんがなんで長崎に飛んだのか知らんが、今のところの手がかりはこれだけだからな。お前たち、さァこのあたりで、一刻も早く爺さんをみつけろ」
「長崎のホテルかな」
「長崎とはかぎらんぞ。長崎方面ということだ。まァ、爺さんの泊りそうな贅沢なホテルのあるところだろうな」
「承知しました」
「スピード第一だぞ。まごまごしとったら、敵はヘリコプターでまたどこかに飛んでいきよるからな」
サーカスはこのときすでに、ちょこちょこと走り出していた。肉太郎が追っかけながら、
「おい、どこへ行くんだ」
「航空局さ。ヘリコプターなら前もってフライトプランを航空局に提出してるはずだぜ。第一、燃料だって飛行場で補給しなくちゃ」
「ああ、そうか。爺さんのヘリがまだここに居るかどうか、だな」
「でもな、肉太郎、そいつは俺一人で用が足りるよ。お前、ついて来なくたっていい」
「おい、手柄を一人じめにする気か」
「手柄――? できれば、俺だって、銭を一人じめにしてえやな」
「あッ、この野郎」
「できれば、だぜ」
肉太郎も、急におちついていられない気分になった。それで彼は反対の方角に走って、ロビーの電話にとりついた。
長崎のホテルを、片っ端からかける。それから、雲仙、島原、諫早、大村、と電話帳をくっていく。
サーカスと、肉太郎が、ガーピー先生の待っている空港内ソーダファウンテンに駈けつけたのが、ほとんど同時だった。
「おい、お前、なにかわかったのかよ」
と肉太郎。
「そっちこそ、慌てて、どうしたんだよ――?」
とサーカス。
二人とも、キョロキョロとガーピー先生を探したが、店の中に姿がない。
先を争って、他の店をのぞいたり、ロビーを見回したが、居ない。
サーカスは、プクプク爺さんのヘリが長崎空港到着後、島原、天草方面に向かって、まだ帰航していないことをキャッチしていた。
肉太郎の方は、雲仙の或るホテルに、昨夜、プクプク爺さんらしき人物が泊っていたことを調べあげた。
二人はお互いに、その収穫を大事に抱きこんでいた。そうして、ガーピー先生がどうしても見当らないとなると、サーカスは、航空局の方へ飛んで行ったし、肉太郎は、タクシー乗場の方に走った。
ところが、ガーピー先生は、ちょうどその頃、四、五人のアロハシャツの若い衆にとりかこまれて、大きな外車に押しこめられ、長崎の街中に向かっていたのである。
車は、三階建てだが間口の広いビルの前に停まり、ガーピー先生が若者に押されるようにして階上の事務所のような部屋にあがった。
さすがにガーピー先生は、じたばたはしなかった。
正面のデスクに坐った腹の突き出た中年男が、机のひきだしをあけて名刺をとりだした。背広の上着は着ていたが、下はステテコ姿だった。
「ケンケン組の、こういう者です」
「親分ですか」
「いや、代理でね。とにかく、あんたも名刺をください」
「――ええと、ケンケン組ね。どの名刺がいいかな」
「なんでもええ。あんたがここに居たという証拠になればええから」
「じゃ、ガーピー興信所長、という肩書のをあげよう」
「東京の、葉隠《はがくれ》の親分から、あんたが来たら、しばらくこちらでかくまっているように通達が来たんでね」
「葉隠組から――? わたしはこんなことをされる覚えはないがな」
「とにかくあたしどもは、縄張りの内でまちがいがあっちゃ困るんで、ひとまずあたしどもの宿舎に来てもらいますから――」
「いや、あたしはまちがいというものをおこさない男でね、昔から」
「あんたがどうだろうと関係ないんだ。こちらは仁義に基づいているだけなんだから。安心しなさい。客分としておもてなしするから」
ステテコは、若い衆たちに向かって、声を荒げていった。
「丁寧ていねいにご案内しろ。途中まちがいがあったら、全員に責任をとらせる――!」
「――おい、若い衆さん、護送はわかったけれどね。この手錠だけはやめてくれないか」
「いや、お客さん――」
刑事のように隣りにぴったりつきそった若い衆は、前方を見たままいった。
「豚箱へ行くわけじゃないんだから、こらえてください。宿舎につけば、一級待遇です」
「一級というのは、いい待遇なのかね」
「三級、二級、一級、特一、とお客によって四段階あるんでさァ。三級は酒呑まして宿舎。二級は高級バーとトルコ風呂へご案内して、宿舎」
「一級は――?」
「トルコじゃなくて、宿舎に女を派遣します。当地の最高級の玉ですぜ」
「よろしい。それじゃまず、盛り場に行こう」
「駄目です」
「高級バーで遊ぶんだろ」
「お客さんの場合は、宿舎の中で全部やってもらいます」
「散歩は――?」
「駄目」
「それじゃ、ちょっと運動をしよう。スポーティングクラブはないかね」
「駄目」
「――ま、コーヒーでも呑もうか」
「ええ、宿舎で」
「なんだ、どこが豚箱とちがうんだ。宿舎でも、まさか手錠をはめてるんじゃないだろうね」
「ごらんなさい。窓の右側、原爆の慰霊碑です」
「どうでもいいんだ。そんなもの」
「あ、動かないで、大きく動くと、ドスが行きます」
どうにもしようがない。ただ車の走るにまかせるのみである。
あの畜生奴。ガーピー先生は内心で舌打ちした。葉隠組のスットン親分奴。この俺がうまく動いて、女の銭を一人占めにする気だと読んでいるのだろう。
それはまァ、そうでないとはいわないが、ただこの俺を禁足しても、銭がスットン親分の方に寄っていくわけではないのだから、なんにもならないのだ。これではまったく同士討ちで、ただ感情的なだけだ。俺を野放しにしておいて、女から銭を奪ってから、それから俺に挑戦してくればいい。第一、それがこの件に関する礼儀というものだ。主役は俺で、親分はただの株主にすぎないのだから。
ところがそのスットン親分は、すでに彼流に行動を開始していて、板付空港まで来、そこからヘリコプターをチャーターして長崎方面に飛来してきていた。
同行者、トルコ風呂経営者、信用金庫代表者、サラ金社長、それからわずか一株の株主のスイ公まで、ガーピー連盟の株主たち。
「どうだい皆さん、うまい考えでしょ。ヘリを探すにはヘリに限る。これなら向う様と同じくどこにだって行かれるからね」
「しかし、我々が捕まえたいのは、女であって――」
「だから、わからんサラ金だな。プクプク会長が女を探しとる。だから会長のヘリをマークすれば、女を探しとることになるわけさ」
「でも、その爺さんより早く女を捕まえなけりゃ、意味ないでしょう」
「競輪だよ。ゴール前でチョイ差しだ。爺さんは猟犬。我々は狩人さ」
「ガーピーの野郎は、そうすると、何かな」
「ガーピーは、論外。こりゃもう日本全国どこに行ったって、我々の横の連絡で手も足も出させん。我々の組織というものはね、警察よりも強いからね。あッはッはッ」
「あんな悪党は消しちゃえばいい。ねえ親分。一人二人消すのは簡単でしょ」
「まァ今はね、とにかく銭だ。しかし、いいかね、皆さん――」
スットン親分は、ウイスキーの小瓶を口の中に流しこんでから、いった。
「ガーピーに限らず、抜け駆けはいけませんよ。手前一人でいい思いをしようなんて、そうなると此方《こつち》も、そのつもりになるからね。我々の組織に消されないように、一致協力してくださいよ」
「親分もそうですよ。行動は皆で一緒にしましょう」
「では私が、とりあえず、キャップになります。皆さん私のいうことをよく守って」
「冗談いっちゃいけない。選挙で代表を選びたいね。信用できる人物を」
ヘリコプターは山沿いに低く、上下しながら飛んでいる。連中は思い思いに窓外を見て、すれちがいのヘリが居ないかどうか確かめている。新幹線じゃあるまいし――。
銀行の何軒か先の道ばたに、ハルはギアーを入れっぱなしで車を停めていた。
バックミラーの端に銀行が見える。もしなにか妙な気配がしたら、すぐにそのまま逃走できる態勢だ。
「よォ、ハル――!」
「おやァ、こんなとこに居たのかァ」
明かるい声がして、二人の若者が窓に飛びついてきた。
「おい、何してんだよォ」
「ソアラだな。これ、お前の車かよ」
「いいことしてやがるンだな」
サーカスと肉太郎である。
まずい――。此奴等《こいつら》が現われた以上、近くにガーピーが居ると思わなければならない。
「見ればわかるだろ――」とハルは弾まない調子でいった。「レンタル車だよ。いいことなんかあるわけねえや」
「女でもひっかけようってのか。長崎の女はどうなんだ」
「ガーピーと一緒なのか」
「ああ、そうなんだが――」とサーカスが顔をしかめる。「空港ではぐれちまってよ」
カン子が銀行からもう出てくる頃だ。此奴等と会わしちゃまずい。けれども、場所を移動するわけにもいかない。なにしろ、カン子は現金をおろしてくるはずで、ここで彼女とはぐれてはハルも動きがとれない。
「空港ではぐれたって――?」
「どっちがはぐれたのかわからねえけどね」
「そうだ。今頃はガーピー先生が探してるのかもしれねえ」
「ガーピーはなんでまた、長崎に?」
「ヤボ用さ――」
といいかけて肉太郎は、
「そりゃそうと、ガーピー塾に来てたカン子っての、見かけねえか。長崎に来てるはずなんだがな」
銀行からカン子が出てきたのが、バックミラーに映る。カン子はこちらに来ようとして、サーカスたちを見ると、すっと方向を変えて喫茶店に入っていった。サーカスも肉太郎も、いい案配《あんばい》に銀行に背を向けている。
「カン子がどうかしたのか」
「いや、お前、気があったんだろ。ちょうどいいじゃねえか。どっかでみつけてものにしちゃえよ」
「もう、やってるんじゃねえかな」
サーカスが冗談めかしていいながら、ハルに視線をそそいでいる。
「ははァ、そうか――」と肉太郎もいった。「お前がこの町に居るとすると、カン子はお前を頼って来たのかもな」
「なんだか知らねえが、俺は女に不足しちゃ居ねえぜ。カン子なんかいつまで覚えてるもんか」
「そうかね」
「さァ行くぜ。俺ァ時間で待ち合わしてるんだ。またな」
ハルは車を発車させた。二人は道ばたに立ったまま、こちらを見送っている。多分、追ってくるだろう、とハルは思った。で、四つ辻を二つほど曲がった道筋の喫茶店の前に車をつけた。
店の女の子に、さっきの銀行の隣りの喫茶店の店名を聞き、電話帳で調べていそがしくダイヤルを廻した。
「木野カン子という客を呼んでよ。――カン子か、俺。ああ、あの二人はガーピーの塾生だ。とにかく店で車を呼んで貰って、大村空港はヤバイし、鉄道もちょっとなァ、そうだ、茂木から船で行こ。運転手に茂木といいな。俺もあとから行く。あ、ひょっとしたら一人はそのへんをうろうろしてるかもしれんぜ。気をつけてな」
窓ぎわのボックスから見ると、少し離れたところにタクシーが一台停まっている。多分、あれで尾行しているつもりだろう。
「ねえちゃん、ここ、裏口あるかい」
「ええ――」
「別の道に出られるか」
「いいえ、裏口は路地なんで、表の通りしか出られません」
「そうかい。ありがとう」
それでは仕方がない。ハルは煙草をくわえながら悠々と店を出て、車を長崎駅の方に駆った。あんのじょう、さっきのタクシーが後を来る。
駅の構内で、長距離の時間表をわざとにらみ、ゆっくりとした足どりで切符と急行券(指定席券)を買う。そうして博多行に乗って連結のあたりに立っていた。あくまで尾行する気なら奴等も乗りこんでいるだろう。
列車は二十分ほどすると、第一停車駅諫早に着く。一分停車。そして再びドアが閉まる寸前に、閉まりかけるドアを押し戻すようにしてハルが下車した。ホームを走って、駅前のタクシーに飛び乗る。
「茂木港まで――。急いでくれ」
港の待合室で、カン子は心細そうに待っていた。けれども、ハルを見ると、当然のような顔をして船券を買いに立った。
「これは、天草に渡る船なのね」
「心配したか」
「――来ると思ってたからね。だってあんた、文なしでしょう」
「四百三十万、サラ金に送金してくれたな」
「ええ――」
「そうすると、あと五百何十万か、現金は」
「それ、なんのこと――?」
「一千万円、おろしたんだろう」
「いいえ、サラ金に送金しただけよ。そんなに簡単に、おろせやしないわ」
「手前の銭なんだろう。通帳と印があって――」
「そうでも、ぴょこっと来て、いきなりじゃァ、銀行だって現金に困るだろうし、いろいろ訊かれちゃうわよ」
「訊かれたっていいじゃないか」
「面倒はおこしたくないわ。どうせ銀行においとけばなくならないもの」
ハルは疑がわしそうにカン子を眺めながら、
「それで、旅はできるのかね」
「小銭ならあるわよ」
船の中でもハルはいった。
「そうすると俺は、文なしの生徒を引率して歩く学校の先生みたいなもんだな」
「そうね」
「近頃の先生は、遠足を嫌うそうだぜ。事故がおきるかもしれないことには手を出さねえんだそうだ」
「だってハルちゃんは、あたしの亭主でもあるんでしょう」
二人は小さな船室の中に、窮屈そうに並んで坐っていた。
「条件がある――」とハルがいう。「印形か、通帳か、どっちかを俺に渡せよ」
「――何故?」
「追手に君が捕まっても、二人一緒でない限り、奴等にゃ金がとれないだろう」
「あんたも安心ね。あたしが一人で銀行に行けなくなれば」
「印形は大事だろう。俺に通帳を預けるか」
カン子は吹き出した。
「それで、印鑑の変更届を出すの。そう簡単に乗っとれるもんですか」
「それじゃ、印形を預けるか」
「嫌よ」
「嫌なら、俺も嫌だ。こんな仕事、誰がやるもんか」
かすかな爆音が遠くからきこえはじめた。船のエンジンの音ではない。ハルは窓から外をのぞいた。
「ヘリが一機、飛んでくる」
「あ、パパのだわ!」
カン子は飛びあがって、ハルの身体を窓ぎわから離した。
「駄目、かくれてなくちゃ」
「ヘリはたくさん飛んでるよ。爺さんがいくら鼻が利いても――」
「パパのよ。音でわかる」
「嘘つけ」
「雲仙でそうだったじゃないの。さ、隠れて!」
「甲板《かんぱん》に出て手を振ってもいいんだぜ。俺は別に、逃げる筋なんかない」
爆音は近づいてくる。先日よりも高く飛んでいるようだが、海上は見渡しがきくから、どこで視界に入っているかわからない。
二人はとにかく、船室の中央に位置をずらせて小さくなった。
ビリビリビリビリ――、と頭の上を、そう思えばなんとなく気持のわるい音が通りすぎていく。
「――給料を出すわ」とカン子がいう。「だから、このまま居て頂戴」
「いくら――?」
「あんたが使う小遣いを負担する」
「俺は金使いが荒いぜ」
「使うヒマなんかないわよ」
「そうでもないぜ。使おうとすれば、三億ぐらい、わけないよ」
爆音が、徐々に遠のいていく。
「もし本当に鼻が利いているなら、またすぐ引返してくるな」
「この船の上を、ぐるぐる廻り出したらどうしよう。怖い」
けれども、まもなくきこえなくなった。
「天草から熊本に渡る。そこまでで、前金をおくれ。そうでないなら、印形だ。俺だって、只働きはしたくない。お前が明日にでも、プクプク爺さんの所へ帰る気をおこしたら、俺は百にもならないんだ」
富岡という港に着いて、定期バスを待っている間、待合室がわりのうどん屋でうどんを喰った。
「やっぱり、連中の眼を避けるには、都会の方がいいかなァ」
「そうね。小さい町じゃすぐ人の眼についちゃうものね」
「しかし、どこまで逃げりゃいいんだ。どっかでのんびりできないのか」
「ガーピーの奴さえ、なんとかなれば、ねえ――」
カン子が耳を澄ます表情になった。
気のせいか、またヘリの音がかすかにする。
「神経だよ。お前、ヘリ恐怖症だな」
とハルは笑ったが、その言葉が終らないうちに、現実音になって頭上に迫ってきた。ブルブルブル――空気を震わすようにして、高度をさげてくるのがわかる。
ハルも卓の端を握りしめて身構えながら、
「なんだ、おい、ここに降りてくるのかな」
「――パパだわ!」
「降りるとしたら、この店の前の広場しかないな」
カン子はうどんの銭をおくと、
「おばちゃん、トイレ貸して頂戴」
奥に駈けこんだ。ハルがすかさずおいかけて、
「駄目だ。この店に入って来たら出られなくなるぞ」
カン子の身体を押すように裏口に出ると、眼の前の灌木の茂みに飛びこんだ。
そうしているうちに、つむじ風をおこすようにしてヘリコプターが舞いおりてくる。漁民たちが何事かと、埠頭《ふとう》のある広場に集まってくる。
アフリカ探険隊のようなヘルメットをかぶったプクプク爺さんが、まずおりたち、続いて操縦士がおりて、あたりを見廻し、二人とも足早にうどん屋めざして歩いてくる。
爺さんはうどん屋に入って、
「まことに申しかねますがな、お手洗いを貸してくださらんか。ヘリの中では用が足せんのでな」
「今、お客さんの使っとるけん、ちょっと待っとってくれんね」
「ああ、それじゃァ、うどんを二つ、貰いましょうか」
爺さんはいったん腰をおろして、渋茶を呑みかけたが、我慢ならぬように半分腰を浮かした。
「おばさん、お手洗いはひとつですかな」
「そうとよ」
「どうも年とると、括約筋がゆるんできてね」
操縦士も、
「そこらで、やってきましょうか。その裏の方でも」
「そうですか。立小便とはねえ、昔、学生時代にはやりましたが」
二人で裏の灌木の茂みのところに出てきて、
「しかし会長、カン子さんがご無事で生きておられることがわかっただけでも、よろしゅうございましたね」
「うーん、長崎の銀行に引き出しに来た女性は、ほんとにカン子にまちがいないんですかな」
「年頃といい、大ざっぱな感じといい、カン子さんですよ。第一、印形と通帳を持ってるってのが」
「一人だったのかな」
「銀行の話では、窓口に来たのは女性一人だったそうです」
「まァよかった、といいたいが、まだ安心できません。多分、面倒な事情があるんでしょう。背後に妙な人間が居るんだろうし、そんな人間にあやつられて、苦しんでいるのだろう」
「会長、だいぶ溜っておいでですな」
「ああ、朝からしてなかったからね。でもねえ、お金で解決するなら、こんないいことはない。お金なんかどれほど使ってもいいから、カン子、無事でわたしのところに帰ってきておくれ――!」
「そうすると、警察への手配は、まだ先に伸ばしますか」
「ああ、カン子が生きてることがわかったんですから、ぜひ、わたしの手で救いたいね」
「しかし、誘拐でなく、カン子さん一人で逃げているというケースも、考えられなくはありませんが」
「何をいうんです。カン子はわたしの妻ですぞ。無礼なことをいうものじゃありません」
二人が立ち去ると、濡れた草の中からハルとカン子が立ちあがって顔を見合わせた。
爆音がきこえだしたので、あわててうどん屋の中に飛びこんだ。
「鼻が利いたんじゃない。小便がしたかったんだ」
「それが、鼻が利いたってことじゃないの」
「そうかね。しかし、ははァ、爺さんは銭ならいくらでも使え、っていってるんだな。銭はいくらでも引き出せるんだ」
「でも、引き出した銀行はすぐわかるから、あたしたちの居場所もバレるわね」
「東京に行けばいい――」とハルはいった。「さっきまでは、そう思わなかったが、東京に限るよ。東京は銀行がいっぱいあるからなァ。少しずつ、方々で引き出して、なるべく早く、三億円全部現金に換えちまおう」
「それじゃ結局ガーピーたちに奪われちゃうわよ」
「いや、お前は、爺さんのところに泣いて帰るんだよ」
「アラ、あたしが――?」
「爺さんは本気でお前に惚れてるよ。銭は無くしたって、お前は奥さんだ。ありゃ大金持なんだから、爺さんが死ぬまで待てば、どっちみちめでたしめでたしだぜ」
「それで、引き出したお金は、全部ハルちゃんのものになるのね」
「俺はその間、ガーピーたちを避けながら保管しといてやる。それで爺さんが死んだら、本当に結婚しよう」
「そんなうまいこといかないわよ。あたしが爺さんが死ぬまで待つつもりなら、はじめからこんなことするもんですか。三億円はあたしの物よ。いくらハルちゃんだって、そこのところははっきりさせといてよ」
東京不夜城
東京新宿の高層ホテルの、ふた部屋続きのスイートルームに、ハルとカン子は泊っていた。むろん、偽名である。
交換台に電話には出ないと告げてあるし、部屋に内鍵をかけてルームメイド以外は入れないので、二人が外に出ないかぎり誰にもみつかるおそれはない。
ウイスキーやワインをボトルで取り寄せた。そうして、喰っては、寝た。
「しばらく、こうして居ましょうね。あたしだって、少しのんびりしたい」
「そうだな。お金持の気分をゆっくり愉しむといい。カン子のお金なんだから、もちろん、俺が何かいう筋合いじゃないよ」
「ハルちゃんだってそうでしょう。あたしたち、小さい頃から、一度だってゆったりしたことないものね。いつもチャカチャカしてたんだもの。こんなときがあってもいいわよ」
「まァ、そうだな。だがね、おい、ここで一生すごすわけにもいかないしな」
「かまわないじゃないの、それだって」
「だって、銀行にも行かなきゃならないだろう」
「大丈夫よ。小切手《パーソナルチエツク》を持ってるわよ。全財産を持って歩いてるっていったでしょう。紙きれでね」
「ふうん――」
呑んで喰って、抱き合っているぶんには、少しも不都合なところはない。本当に、寝たいだけ寝て、喰いたいだけ喰ったが、それでもなにか不充足の塊りが胸の中に残る。
「――おい、これじゃ豚みたいに肥っちゃうぜ。運動不足だ」
「ヘルスクラブがホテルの中にあるでしょ。ハルちゃん一人なら目立たないから行ってくれば」
「うん、だがよ、いったいいつまでここに居る気だい」
「出て、どうしようっての」
「それもそうだが、まごまごしてると三億円がホテル代で消えちゃうぜ」
ある日、ふっと眼ざめたカン子が、おびえたように窓を見ながらいった。
「――夢見ちゃった。いやな夢」
ハルは隅の小机のところで頬杖《ほおづえ》突いてぼんやりしている。
「ね、ヘリコプターが飛んで来てね、ホテルの窓すれすれに部屋の中を眺めていくのよ――」
「俺、ちょっと考えたぜ」
「なにをよ――?」
「珍らしく考えた。あのな、銀行に連絡して、現金をそっくり用意して貰う。銀行は午前中に電話すれば、何億だろうと明日までには揃えてくれるよ」
「――それで?」
「俺は長崎に電話する。ほら、長崎のチン夫人さ。俺が土地でカモろうと思ってた大金持」
「――――」
「彼女はな、香港やシンガポールにビルや土地をたくさん持ってるんだ。彼女に助けて貰おう。むろん礼金はとられるだろうが、彼女の伴れということにして、香港あたりで、しばらく隠れてる。こりゃいい思いつきだぜ」
「現金をかついで?」
「彼女はあっちじゃ王さまみたいな暮しらしいからな。めったな人間は近づけねえ」
「現金をかついでなの――?」
「――かついだままじゃなくたって、チン夫人の取引銀行にいれてカン子の口座を作ればいい」
「それじゃ、もしその話がうまく運びそうなら、銀行から銀行に移して貰えばいいわ」
「彼女の取引銀行がわからんぜ」
「電話で訊けば――?」
「そんなことまで電話で話せるかい。第一、長崎に行ってからじゃ、カン子の取引銀行に誰が行くんだ」
「今日、銀行に電話して、明日、現金を貰いに行ったとき、パパが来てるわよ。銀行はパパのところに電話するでしょ。金額が大きいもの」
「名義はお前さんなんだろ」
「でも、住所が元の部屋だものね」
「じゃ、俺だけ先に行って張っていてやる。爺さんが来たら中止すればいい」
「それに、理由はどうするの。三億円もおろすのに」
「土地を買うのに相手が外国人で、現金でなくちゃといってる、とでもいえばいい。そのくらいの取引きは爺さんしょっちゅうやってるだろう」
「どっちにしても、危険ね」
「じゃ、預けっぱなしか」
「あたしはそれでいいわよ。必要なときに小切手を切るから」
ハルは鼻の穴をふくらませて、そっぽを向いた。
「ハルちゃん、あんた、現金が好きね」
「嫌いな奴が居るかね」
「でも、小切手じゃ、あたしのサインがなくちゃお金にならないものね」
四日間、外出せずにいたけれど、それが限度だったらしく、ハルは一人で呑みに出て行った。
それで、朝帰り。
しらしら明けの頃、ブザーの音で飛び起きて、扉のそばに行ったカン子が、
「――誰?」
「――俺さ」
ハルにはちがいなかったが、もう一人若い男がついていた。続いて入ろうとする男を制しながら、ハルが、
「ちょっと、小切手を書いてくんな」
「――ツケ馬なの」
「ああ。三百万――」
「――何をしたのよ」
「ルーレットだよ。地下《アングラ》カジノ」
カン子はそれよりも、廊下の男に顔を見られたくなくて、寝室《ベツドルーム》に入った。
「乱暴ね、あたしの金だと思って」
「そのつもりじゃなかったんだ。でも、すぐ取り戻すよ。まァ、用心棒代だと思って」
「サラ金に払ったばかりよ」
「ケチるなよ。もっと大きい気持で居なきゃ、金持らしく見えねえぜ」
ハルがすぐそばに立って、バッグから小切手帳を出すのを眺めている。カン子はサインをするとき、ふっと不安がかすめた。
「もう絶対、出ちゃ駄目よ。これ一度きりよ」
「わかったよ――」
けれども、翌日の夜、カン子が風呂を使っているうちに、ハルは部屋からそっと出ていった。
贅沢な部屋、贅沢な食事と酒、女はそれで満ち足りるのかもしれないが、男はそういくもんか。閉じこめられているんじゃ、ホテルも少年院もたいして変らない。
地下カジノは、八時からと聞いた。
それまで、カワイ子でもひっかけて、ディスコにでも行くか。
俺だって、ただのヒモじゃ役不足さ。末は大物って男だからな。
八時すぎ、必勝の信念に燃えて、ハルは地下カジノの扉を押した。
「――さァ、昨夜預けた分を、返して貰いに来たぜ」
昨夜の若い男が、ルーレット台のそばでニヤッと笑った。
「ああ、お客さん、ツクといいね」
「なんだい、まだ誰も客は居ないのか」
「まだ早いからね。もうすぐ来ますよ」
「じゃ、待とう。コーヒーでもくれ」
ハルは、ディスコでひっかけた若い娘のヒップを抱くようにして、隅の長椅子に腰をおろした。
「コーヒーより酒がいいでしょ。なんだって只だから」
「いや、コーヒーだ」
まもなく、鼻の頭に横一文字の傷のある大男が来、それから縁なしの眼鏡をかけた能吏のような男と、ジャンパーをひっかけた初老の男が入ってきた。
ルーレットはもちろん、客対|店側《ハウス》の勝負であるが、客一人では完全に目標になってしまって条件がわるい。やはり、ルーレット一台に対し、六、七人で遊ぶのが理想的人数であろう。しかし東京の地下カジノはそれほどカモが集まらない。
今夜のハルはたしかに気が入っていた。当初から14のビンゴ張り(もっとも配当の多い張り方)が当り、次の勝負の29の大張りが当った。
「へえ、お客さん、ツイてるね」
縁なし眼鏡がハルのそばにすり寄ってきて、ハルに習って張りはじめた。
二人一緒に18が大当りしたときは、隣り同士で固い握手を交したほどだ。
「チェッ、サラ金奴、お前は乗り――がうめえなァ」とジャンパー。
「俺はいっときだよ。帰りはお前さんがいつも浮いてるだろう。トルコはしぶといからなァ」
若い娘っ子が、ハルがチップをとりこむたびに、背後から歓声をあげる。
「おい、お前も遊びなよ」
ハルは鷹揚《おうよう》に、大きいチップを二、三枚放った。そうして、いつのまにか横の小卓においてあったウイスキーのグラスを口に運んだ。
ハルだってばくちを知らないわけじゃないから、ここが攻めどきと思って大きく張る。三回に二回は押さえが当り、あとの一回は本線が当る。
ディーラーが汗をタオルでふいて同僚と交代した。が、ハルのツキは落ちなかった。大きいチップが小山のように彼の前に溜った。目分量でも、昨夜の負けを凌駕しているのがわかる。
昨夜の若者が、せっせと酒を運んでくる。
「お客さん、好調だね」
「そうかい、こんなものツイてるうちに入らねえよ」
それから三度続けて当てた。四度目は意気がって、一点だけ、4にチップを積みあげたが、ストンとその4に入った。
「なんだお前等、このにいさんとなアなアじゃねえのか」
鼻きずの大男が、張っても張ってもとられる様子で、不機嫌そうにいう。
次の一点ばりは5。しかしボールが飛びこんだのは17だった。盤面では、17は5の隣りだ。
「ウーン、勘は良かったんだがなァ」
次の一点張りは9。ハルは大チップをどっと積んだが、これは32で大はずれ。
このへんが立ちどきかな、と思ったがハルは立てなかった。女の子が見てる。恰好よく立ちたい。
それに、昨夜、ツケ馬の若者にみっともないところを見せている。俺は、ただのヒモじゃねえぞ。小勝ちで立てるもんかい。
酒がかなり回っていた。脇にのけておいた昨日の負け分のチップに、すでに手がついている。ルーレットというものは当らなくなると奇妙に当らない。
通算で負けだっていいや。どうせカン子の小切手だ。今日の勝ち分だけ、俺に現金が入るってことだ。
引きあげよう。
「なァんだ、つまンないの、あんた、ちっとも当らない」
と女の子がいう。それでハルはまた坐り直す。
大チップが二枚、手元に残ったとき、ハルは思いきって、それをディーラーに放った。
「チップにやるよ。帰る――」
「いいじゃない、お客さん、まだ早いよ」
「いや、面白く遊んだよ。昨夜の負け分はもう少し預けとく」
女の子をうながして帰りかけたとき、お客さん、というしわがれ声がした。鼻きずの大男だ。他の二人の客もいっせいに手をとめてハルを見ている。
大男は、一枚の小切手を両手で握っている。
「この昨夜の小切手ねえ。木野カン子ってサインがあるが、これ、お客さんの連れだね」
「そうだよ――」とハルはとっさに隣りの若い娘を顎でしゃくった。「この娘《こ》だけどね」
「あんた、この人とホテルで一緒かね」
「――いいえ、ちがうわ」
「木野カン子さんじゃないね」と大男。「そうだろう。わしはカン子を知っとるんだからね」
大男は無表情でハルに近づいてきた。
「ちょっとカン子に用があるんだ。一緒にホテルまで行こう」
「用ってなんだい」
「部屋はわかってるんだから、俺たちだけで行ってもいいんだが、ま、騒ぎは起こしたくない。一緒に行こうぜ」
ディーラーたちが従って来そうになるのを、大男は手で制した。
「いいよ、お前たちは店を守れ。俺一人で行ってくる」
「いや、俺も行くよ。親分」
「そうだ、俺も行く」
眼鏡とジャンパーは、大男のすぐあとに続く。ハルはひきずられながら、
「おあいにくだな。あの娘とは今朝別れた。ホテルにはもう居ねえぜ」
「無駄足だっていいんだよ。さ、行こう」
エレベーターで一階に昇り、ホテルの密集している方に少し歩いた。車の置き場に行くらしい。
頃合いをはかって、ハルは不意に身をおどらせ、大男にフックを狙い打った。
「野郎ッ――」
たちまち、ガンとお返しが来た。もう一発、頭にも。
ハルはもんどり打って路のまん中に倒れ、ビクとも動かなかった。
「面倒かけやがって、ほっとけ。ホテルの方が先だ」
いい案配《あんばい》に車がちょっと途切れてる。ハルは路上に押しつけた顔のまま、片眼をそっと開いていた。
大男たち――ハルは知らなかったが、スットン親分とサラ金ジャタスカ社長、それにトルコ風呂経営者、ガーピー連盟の株主たちが、倒れたハルのそばを車で駈けすぎる。
ハルはやっと尻をあげ、そろそろと這いだしたが、車が角を曲がるや、一気に走って、眼の前のホテルに飛びこんでいった。
「電話、貸してくれ。電話――!」
返事も待たず、ダイヤルを廻してホテルのカン子の部屋にかけた。
「おい、すぐに出ろ。すぐにだ! 今、面倒なのが行くぞ!」
カン子が何かいう前に、
「テキは今、新宿大ガードぐらいだ。数分で行くぞ。身体ひとつで逃げるんだ。――ホテルの勘定なんか、俺があとで仕末つけてやる。早く――!」
「どこへ逃げるのよ」
「渋谷駅前、タクシーでだ。俺もすぐに行くよ。おい、通帳類だけは忘れるな」
ハルもすぐにタクシーに飛び乗った。渋谷駅というのはとっさに出た言葉でほとんど意味はない。
渋谷についたが、どっち側の出口を見ても、カン子の姿はない。
野郎たちにつかまったか。
それとも、俺を避けて他へ一人で逃げたか。
だが、カン子が来なきゃ、ハルも動きがとれなくなる。
(――待てよ、カン子が俺から離れた場合、なんか金にする手だてはないかな)
「おい、ハルじゃないか」
いきなり声をかけられた。相手を見てハルは具合のわるい顔になった。例の迷惑をかけた不動産屋の叔父さんだ。
そうか、叔父さんの店は渋谷だったんだっけ。
「――ハル、お前、長崎に行ってるとばかり思ったが、どうした?」
この叔父さんには、ハルは北海道の件以来、頭があがらない。
「そうだよ。長崎のお金持のチン夫人が上京してきたんだ。それで俺も、用心棒としてついてきたのさ」
「用心棒って、お前はまだ俺の店の店員のはずだぞ」
「用心棒兼私設秘書さ。なんだっていいんだよ、くっついてりゃァ。そのうち夫人があの土地を買ってくれる」
停まったタクシーの中からカン子がこちらを見ている。
「じゃ、叔父さん――」とハルはタクシーのカン子に片手をあげて「チン夫人が待ってるから」
「あれがそうか。若いな」
「ああ、うまくいったら婿に入るかもね」
「馬鹿、大金持ならお前なんか相手にするか」
ハルはタクシーに乗りこむと、横浜、といった。
「横浜のNホテルまで――」
「あれは、誰――?」とカン子。
「叔父さんだよ。――やくざたちには会わなかったんだな」
「そのはずだけど。やくざってどんな奴――?」
「鼻のところに傷のある大きなおっさんだ」
「ああ、スットン親分ね」
「尾《つ》けられてるんじゃヤバイぜ」
ハルはさかんに後方を気にした。
「トンマねえ。小切手なんか書かせるから。もう二度と、借金なんか作ったって知らないわよ」
「そうだ。叔父さんに頼もう」
「なにを――?」
「小切手を書けよ。一億円ぐらい。それで叔父さんに金を都合させて、八千万ぐらいの現金で割ってもらおう」
「なぜ――」
「そうすりゃ妙な口実を造って銀行に行かなくたってすむ」
「現金がどうして必要なのよ」
「通帳と印を持ってたって、プクプク爺さんの気が変って警察にでも通報されれば、金に変えられなくなるぜ。早いとこいくらでもいいから現金にしなくちゃ」
「それで、ハルちゃんがまたばくちにでも使っちゃうんでしょ」
「いや、そのかわり、それだけの見せ金があれば、チン夫人に頼んで、香港にでも連れてってもらう。あっちで、少しのんびりしよう。彼女のそばなら警察だって誰だって手が出せないよ。よし、明日、俺、両方に連絡をとる」
「あたし、誰も信用してないわよ」
「それじゃこのまま、通帳だけ持って逃げ廻ってるのか」
横浜のホテルはいい案配《あんばい》に、デラックスツインが空いていた。ハルはいつものように、カン子を抱いた。二人きりになると、二人だけの情感がうまれる。この瞬間は、ハルもカン子も、余分なことを考えていない。
「――なァ、外国へ行ったことあるか」
「――ない」
「香港まで出ちゃえばどこにだっていける。ヨーロッパだってアフリカだって。カン子の好きなところへ行けばいい」
「ヨーロッパは行ってみたいな。スイスとか、パリとか――」
「そうだろう。スイス銀行あたりに預金して、うんと景色のいいところに一軒買って住もうぜ」
翌朝、ハルは渋谷の叔父さんのところに電話をした。
「叔父さんか、昨夜、例の件を話したらね。チン夫人が、一度、その北海道の土地を見たいというんだ」
「よし。でかした。今度こそは抜かりなく話をつけろよ。――だがね、土地は見せない方がいいんじゃないか。なにしろ草もはえないってところだからな」
「いや、あれは大観光センターになるところだよ、叔父さん。ところで、今、横浜なんだけど、来てくれるかな、夫人を紹介するよ」
「お前、チン夫人になるんだぞ――」とハルはカン子にいった。「できるだけおちつきはらって、年増らしく、金持らしく見せろよ」
叔父さんは喜んで飛んで来た。
「早かったね、叔父さん」
「善は急げ、だからな」
「それでね、ちょっと小切手、割ってくれないか」
「――額面はいくらだ」
「一億円」
「冗談だろう」
ハルは、木野カン子というサインで、一週間ほど先の日付の入った小切手を見せた。
「そんな銭があるかい」
「現金なら八千万でいいよ」
「それで、北海道の方は――」
「あのゥ、明日、カナダに発たなくてはならないんで、ちょっと急ぐんです。銀行は、どうしてもその日というわけにいきませんでしょう」
「それじゃ、こうしましょう。これは北海道の土地の先渡金ということに――」
「駄目なんだよ。今日、現金がいるんだから。叔父さん、その道はくわしいだろう。叔父さんなら、現金を夜までに揃えられるよね」
「そういったって、お前――」
「サインの主の木野さんというのはね、やっぱり東京の大金持だ。なんなら、振り出し銀行で口座の金額を調べてくれてもいいよ」
「で、北海道の土地は」
「カナダから帰りましたら、すぐ拝見します」
「ね、叔父さん、たった数日で、二千万になるんだぜ。叔父さんにはこの前迷惑をかけちゃったから、なんとかお返しをと思ってさ」
叔父さんは面喰ったままで、東京に立ち戻ってきた。それはまァ、裏に廻って金貸しもしてるから、いい仕事と見れば火事場で力を出すように、一気にまとまった金を取り揃えられないことはない。
だがしかし、甥のハルからの話ということが、実にどうも不吉な予感がする。あの野郎がおいしい餌をちらつかせるときは、必らずハンチクなんだから。
念のため、木野カン子の取引銀行に、人を使ってさぐりをいれてみた。たしかに、預金はある。
そうすると、どうなるか。小切手を割る。一週間して、銀行に持っていく。すると二千万円のプラスだ。揃えた現金の金利を払っても、ちょっとした稼ぎだ。
叔父さんはもう一度、最初から考え直し、どこにも不安な点はないことを確かめた。
それから、長年の交際のあるサラ金のジャタスカ社長のところへ行った。
「今日じゅうに、どのくらい現金を用意できるかね」
「どうした。頭から湯気を立ててるぜ」
「仕事があってね。一週間ほど、廻してくれないか」
「金額は――?」
「八千万さ。――利子の五分をひくとして七千六百万あればいい」
「無理だね。銀行に行ったって、右から左に現金にならんよ」
「ホラ、トルコの大将ね。あそこは現金が唸ってるだろう。税金が怖くて銀行に預金できないんだから――」
「トルコはトルコで利子をとるぜ」
叔父さんが事のあらましを物語る途中で、ジャタスカ社長は、うっ、と叫び、叔父さんの話が終るのを待ちかねてこういった。
「小切手の振出人は、木野カン子といったかね」
「そうだよ」
「その人に、これから会うのか」
「いいや、俺が会うのは小切手の持主でチン夫人という長崎の大金持だ」
「ふうん――、長崎か」
社長はエンピツをなめながら、便箋に走り書きし、事務員のスイ公を呼んで、
「この手紙をトルコのおっさんのところへ持ってってくれ。至急だぞ」
銭はどうにかなりそうかね、と叔父さんが訊く。
どうにかしなくちゃなるめえな、と社長は鋭く答える。
で、横浜の港の見えるホテルだ。
フロントから、二人の部屋に電話があった。
「渋谷の叔父という方がお見えになりましたが」
「部屋に来てもらってください」
今朝は直接、部屋に来たのに、とハルは思ったが、ノックの音で扉をあけるとガーピー先生が、にんまりと笑いながら立っていた。ジャタスカのスイ公が、注進におよんだのだ。
「やあ、しばらくだったね」
ガーピー先生は、入ってきてすぐにカン子にも会釈した。
「あいかわらず、綺麗だよ」
「綺麗でも、お金はないのよ」
「いいよ。しかし、居場所はいつも知らしてくれなくちゃ困る。時間が無駄になるからね」
ガーピー先生は、ハルの方に顔を向けた。
「お前は、こんな役は十年早いよ。少年院にでも戻って、味噌汁でツラを洗って出直して来い」
ハルは黙って睨《にら》み返していた。
「俺のセリフがきこえたかね。さっさと消えろ、といってるんだぜ」
ハルはしぶしぶ、ホテルの浴衣を脱いで、服に着かえた。それから浴室に入って顔を洗った。万一のときのために、浴室の屑籠の中にかくしてあった紙封筒を取ってポケットにいれた。
ハルは、カン子にいった。
「大丈夫だよ。この小父さんは、金の卵を生む鶏には、ひどいことをしない。またすぐ助けに来るぜ」
ハルは、できるだけしおたれた顔をして、部屋を出た。さすがに足が小躍りしそうになった。
エレベーターがこの階で停まり、扉があきそうになったので、とっさに脇のレストルームに飛びこんだ。
思ったとおり、トランクを持った叔父さんが、中年男二人を連れて、廊下を歩いていった。
扉をあけたのが、甥のハルでなく、異様な中年男だったので、叔父さんは部屋をまちがえたのかと思った。
ところが、サラ金とトルコが、揃って声をあげたのだ。
「ガーピー先生――!」
「ようこそ、皆さん――」とガーピー先生はおちつきはらっていった。「渋谷のおじさんも、どうぞお入りください」
叔父さんは本能的に、現金の入ったトランクを身体でかくすようにした。
「さァ、皆さん、椅子が足りませんからベッドにでも腰をおろしてください。叔父さん、お荷物はこちらにお預かりしましょう」
「いや、どういたしまして。軽いから――」
カン子は窓ぎわに立って、ふてくされたようにそっぽを向いている。そうして今までガーピー先生が点検していたらしく、カン子の荷物がベッドの上に散乱している。
ガーピー先生は、いそがしく部屋のあちこちに眼をくばり、隠し場所をみつけようとして、備えつけの調度品をいちいち調べ出した。ベッドのスプリングまで剥《は》いで見た。
「ふうむ。あの小僧を追い払ったのがまちがいだったかな。しかし、そんなことがありうるのかね。お前が、大切な通帳類を奴に預けるなんて――」
「だから、もともと持って歩いてないっていってるでしょ。通帳ごと、銀行に保管して貰ってあるわよ」
「――そんなわけはない。それは信じられんね。そうなると、お前の身体の中まで調べることになるがね」
「なんです、奥さんは、大金持じゃないんですか」と叔父さん。
「奥さん――? そういえば奥さんにはちがいないがね」
「チン夫人でしょう」
「木野カン子クンですよ。大金持でないこともないが、目下は一文無しです」
叔父さんは、ごくっと唾を呑みこんで、
「そうすると――?」
ガーピー先生は、ベッドの上の紙片を一枚手にとった。
「ここに小切手が一枚ありますな。これをその現金と替えるんでしょう。私も小切手より現金の方が好きだ。それじゃァ小切手とひきかえに、そのトランクをいただきましょう。一応、鍵をあけて、改めさせてください」
「あんたは、何者なんです」
「そちらのお二人がご存じですよ。お二人とも、我が社の大株主なのに、抜け駈けはいけませんな。ま、それは不問にするとして、この金もすべて、我がガーピー連盟の収入で、持株に応じて皆で公平に分配する性質のものです。会長たる私がお預かりすべきものですよ」
「あ、しかし私は、その連盟なんて知らない。お金は私が借りたもので――」
「だから叔父さんは、小切手を持っていらっしゃい。一週間後の日付で銀行に行けばいいのです」
トルコもサラ金も、ここは声をあげそびれている。
ガーピー先生は、トランクの中の札束をざっと見て、
「これっぽっちじゃ、私は我慢しないからね。カン子、すぐにあとのお金を私に差し出す義務があるよ。私はお前の師匠なんだからね」
「でもごらんのとおり、あたしは何にも持ってないわよ。無いものはしょうがないでしょ」
「よしよし。さァ私と一緒に行こう」
「嫌よ」
「嫌っていうことは、私たちの辞書にはないんだ。そんな言葉は教えなかったろう」
「フロントにいって、警察に来てもらうわよ」
「私は元刑事だからね。どの署だって融通《ゆうずう》はつくよ。お前の方がよっぽど履歴が汚れているだろう」
「あたしはどこも行かないわよ。さァ皆帰って。取引きがすんだら、もう用はないでしょう」
「いや、まだ取引きはすんでない。あと二億以上、私の眼の前に出てくるまではね。そうでしょう、ジャタスカさん」
ジャタスカ社長は、あいまいな表情でガーピー先生をみつめている。
「さァ、行こうよ。まだ手錠はかけないからね。取引きさえうまくいけば、かわいい弟子だ」
カン子が不意に窓をあけた。すると外の騒音に混じって、ヘリコプターの音がきこえる。
カン子は白い歯を大きく見せ、片手を振って叫んだ。
「パパ――? あたしはここよ。早くこっちに来て――!」
ヘリコプターは、プクプク爺さんしか持ってないわけじゃない。それなのに、カン子の声につられるように、ホテルの方に近づいてきて、超低空になった。
「素敵よ、パパ。すごい勘だわよ――」
ホテルに近接したヘリコプターから、細い竜巻のようにロープがするすると伸びてきて、部屋の窓に先の金具が、カチンカチン、と当った。
カン子が両腕でロープにすがりつき、尖端の金具に両脚をのせた。あッというまに、カン子の身体は空中高く――。
チン夫人
ヘリコプターの中で、プクプク爺さんは、カン子の身体を抱きかかえながら、しばらくなにもいわずに眼をつぶっていた。
「――パパ、ごめんなさい」
カン子は自分でも不思議なくらい、あどけない声を出した。
「まるで映画みたいだったわ。あんな連中に取りかこまれているときにパパが来るなんて。パパはターザンよ。スーパーマンだわ」
「生きていてよかった。カン子、わしのところによくまた戻ってきてくれたね。わしはもう少しで、ヘリから飛びおりて死のうかと思っていたのだよ」
「あたしのために――? あたしが居なくなったから――?」
「ああ。どんな事情か知らないが、お前さえ戻ってくれば、もう何もいわない。よかった、本当にばんざいだ」
カン子も涙で、爺さんの上衣の襟をぐしょぐしょに濡らした。そうして、なんだか素直な気持になって、今までのことをとぎれとぎれに話した。
ガーピー塾のこと。その手先になって爺さんの財産目当てに近づいたこと。爺さんが予想以上に自分に惚れこんで結婚を申しこんだりしてきたので、ガーピーの傀儡《かいらい》であることに堪えられなくなり、彼等の取り立てを避けるために姿を消したこと。
「だって、あたし、パパを愛してしまったんだもの。最初はちがったの。ただのお仕事だったのよ。でも、途中からそうじゃなくなったの。信じてね。パパのお金をあんな連中に渡したくなかったんだもの」
「もういいよ、カン子。もうその話は忘れよう」
「よくないのよ。通帳と印と小切手を、誰かが持っていってしまったわ。パパ、地上に降りたら、すぐ銀行に電話して、盗難届けを出して。でないと、パパは一文無しになってしまうわ」
「まァいい。それでもいいよ」
「よくないわよ」
「いいよ」
「よくない。わるい奴が、すぐに皆引き出してしまうわよ」
「それでおさまるなら、三億円なんか安いものだ。もしその金を、その人たちに渡さなかったら、その人たちはまたカン子を取り巻こうとするだろう」
「でも、大金を、わざわざ捨てなくたっていいじゃない」
「いや、わしはこの年になって、はじめてわかったんだ。六十年、営々と財産を築いてきたが、お金じゃ人生は豊かにならない。お金は欲しい人たちにあげちまおう。そのかわり、わしはカン子をもらう。それでいい」
「それもいいけど、お金もいいわ、カン子とお金と、両方持つべきよ」
「わしはもう決心しとるんだよ。裸一貫で、青年の気分で人生をやり直そう。わしはカン子のアパートに行くよ。今度はわたしの方が、家出をする番だ」
カン子はちょっと黙った。我ながら、スラスラといいのがれの言葉が出たが、嘘八百というわけでもなかった。彼女の気持の中でも、プクプク爺さんのすっ頓狂《とんきよう》なところに感動している部分があり、このまま爺さんが死ぬまで、その胸の中で暮してもいいと思っていたのだ。
考えてみれば、爺さんはけっして、彼女にとってうとましい存在ではない。大金持で、なぜかカン子には理解できないが童貞の青年のように純なところがあるし、もうそれほど長く生きるわけでもなかろう。正式に一緒になれば、その財産を受けつぐことにもなる。
もしガーピー先生にしぼられることさえなければ、事をおこす必要がないくらいなのだ。
けれども、爺さんが一文無しとなれば話はべつである。感じのいい爺さんはまだほかにも居るだろうし、好んで養老院の附き添いになるほど、カン子は浮き世ばなれしていない。
「パパ、あの三億円が無くなると、本当に一文無しになるの」
「安心おし、カン子に不自由はさせやしない。わしだってまだ、働けるよ。土方でもなんでもできる」
カン子は、爺さんの顔をまじまじと見た。それから、
「いやだわ、パパ――」
と笑った。
「あたしをためしてるんでしょ。お金が目当てだかどうか」
爺さんはニコリともしなかった。
「ためすってどういうことだね。お前のことは信じ切って居るよ。わしたちがお金を持っていなければ、誰もわしたちの生活を邪魔したりせんだろう――」
それから三日目の朝、ハルはレンタカーのソアラで東名高速を飛ばしていた。
時効になった例の三億円の犯人も、多分こういう気持を味わっただろう。銀行に日参したが、トランクの中に例の事件とほぼ同額の現金を詰めた二個のバッグが入っている。
このまま、長崎まで、天国への道を走るのだ。長崎に行ってチン夫人と会い、なんとか彼女の顔で香港まで現金を運び出せれば、それでOK。
偶然に恵まれたとはいえ、こんなにたやすく大金が手に入るなんて、夢ではないか。しかも、三億円の犯人とちがって警察に追いかけられる心配も、今のところないのだ。
ただし、長崎は、この前のこともあって、ガーピーの連中が眼をつけているだろう。
(でも、飛行機とちがって、車は無数にあるからな。一台一台チェックしてるわけにいかないだろう。なァに、みつかりゃしねえ――)
車の列の動きが鈍くなった。交通警官がメガフォンで何かいっている。一斉がおこなわれているらしい。
が、べつに恐れることはない。ハルは車を停めて免許証を差し出した。
「――どこまで?」
長崎、といいかけて、
「――大阪」
といった。警官は手旗信号のように片手をあげて、ハルの免許証を返し、よろしいです、といった。
昼少し前にドライヴインで、ハンバーガーとコーヒーをゆっくり喰べた。そうして車のそばに戻って、ドアにキイをさしこもうとした。
地面に影がひとつ、近寄ってきて、
「――いい天気だね、ハル」
ふりむくとガーピー先生がうす笑いしていた。ハルはとっさに身がまえたが、
「ピストルを持ってるよ。お前のパンチはもう喰いたくないからね」
ガーピー先生の片手がポケットの中に入っている。
「さァ、車に乗ろう。一緒にドライヴでもしようじゃないか」
ハルが運転席に坐ると、ガーピー先生もすかさず助手席に乗る。
「念のため、車のキイをよこしな。トランクのキイもな」
「何故――?」
「何故って、大金があるんだろう」
「大金? 俺が大金を持ってるって?」
「それともまだ通帳のままかね」
「カン子の金か? 冗談じゃない」
「まァいい。どうせお前と一緒に居ればな。すぐにわかることだ」
「見当ちがいだぜ。爺さんが封鎖しちまって金は一銭もおろせなかったよ。欲しけりゃ爺さんにかけ合うといい」
「お前が通帳も銭も持ってなかったら、改めて爺さんにかけ合うとしよう。発車させろよ、おい」
ハルはアクセルを踏んだ。
「しかし、俺がここだってこと、どうしてわかったね」
「わたしは警察に顔がきくからな。一斉で免許証を調べて貰うくらいは頼める。飛行機は多分避けるだろう。道路もいろいろあるが、本線はここだとにらんだな」
「それで、どこへ行くね」
「どこでもいいとも。好きなところへ行きな」
「ガーピー先生、物は相談だがね――」
「相談の前に、キイはどうした。俺をごまかそうとしても駄目だぜ。さァ、キイをよこせ」
ハルは、トランクのキイを二つ、ポケットの中から出した。そうして、ガーピー先生の見ている前で、窓の外に、ポンと投げた。
「あッ――、この野郎」
ハルはアクセルをぐっと踏んでスピードをあげた。
「停めろよ、おい、停めろ!」
「停めてどうするんだね」
「撃つぞ。おい、お前を撃ったって、俺は困らんぞ」
「停めたって、しようがねえだろう」
車は停まったが、ハルも一人、ガーピー先生も一人、手代りがない以上、キイをとりに行けば、車が発車してしまう。通行人は居ないから他人に拾われる心配はないが。
「取りに行きなよ、おっさん」
「――このまま、バックさせろ」
「無理だろう。車がたくさん来るぜ」
「いいから、バックさせな」
端へ寄って、そろそろとバックした。キイを投げたあたりまでやっと戻った。道路に光った小さい物が見える。
「二人で、おりよう」
「嫌だな――」
「撃つぜ」
「こんな通行の烈しいところでか」
「まァとにかくいうとおりにしろよ。じたばたしたってお前が一人じめになんかできない」
「俺はキイなんかどうだっていいんだ。おっさんにとられてしまえばパーだからね。それより、おっさんが欲しいんだろうから自分で取りに行きな」
「よし、しようがない」
ガーピー先生はピストルを出して安全装置をはずした。
「お前を殺すよ。いくらか危険だが、大金にはかえられん」
車から、ハルがのろのろとおりた。
「よし。それで車の切れ目を狙って飛び出せ。すばやくしないと、車にはねられるぞ」
ガーピー先生は運転席に席を移して、窓から首を出している。
車の切れ目を狙って、ハルは道のまん中に飛び出した。キイを拾う。そのままドライヴインの方向に走った。
撃つか――。撃つまい。いくらガーピーだってこんなまっ昼間、荒事《あらごと》はできない。
思ったとおり、ガーピー先生も車をおりて走ってくる。
「ハル、待てよ、どこへ行くんだ――」
走りっこなら若いハルの方が早い。ハルは少し足をゆるめて、ガーピー先生をひきつけるようにしながらチャンスを狙っていた。
大型トラックの列が来る。その寸前を危うくハルが横切った。そうして今度は逆に自分の車の方に走った。ガーピー先生もそれとみて後を追ったが、地響き立てて走るトラックの列にさえぎられて、道を横切ることができない。
ハルは身を泳がすようにして車にたどりつき、飛び乗ると必死でアクセルを踏んだ。
レーサーのようにいっぱいのスピードを出して走る。高速をおりるとすぐに車を捨てた。警察に顔が利くガーピー先生だから、この車はもう使えない。
バッグを二つ抱えて、通りかかった車に乗せてもらい、町なかでタクシーを発見すると、新幹線の駅まで、といった。
ハルは静岡の駅から「こだま」に乗り名古屋で「ひかり」に乗りかえた。
とにかく、長崎へ。チン夫人のところへ――。
その新幹線の窓から見ると、ヘリコプターが一台、飛んでいるのが見える。
奇妙に鼻が利くプクプク爺さんのヘリコプターを、ハルはすぐに思い浮かべた。
(――そうだ。爺さんは長崎まで追っかけてきたっけな)
ところが、あにはからんや、そのヘリコプターには、爺さんとカン子が乗っていたのだ。
もっとも今度は、爺さんとしては、ハルを追っかけているつもりはない。
もう一度、長崎に行きたい、といいだしたのは、カン子だった。
「――長崎、なにかあそこに忘れ物でもしてきたかね」
「美しい街だったわ。ね、パパ、新婚旅行よ、いいでしょ」
「新婚旅行なら、長崎でなくとも、もっと行きたいところがあるのじゃないかね。ハワイとか、ヨーロッパとか」
「いいえ、長崎。その方がよっぽど安上りよ。だってパパ、お金、あんまりないんでしょう」
カン子は、ヘリコプターの中で、じっと物思いにふけっている。
もちろん、ハルのことだ。
ハルのことだけれども、今は、必らずしも、ハルが持ち去った大金のことではない。
カン子にとって、実は予期せぬことが起こっていたのだ。
受胎――。まだはっきりとはわからない。しかし、どうもそれにまちがいないと思える。
もちろんプクプク爺さんは、その気配を察した様子はない。
いったんは、医者に行ってこっそり処置してしまおうかと考えた。
一文無しとはいっても、爺さんにはまだまだ、株券やら不動産やらがあるだろう。このまま、爺さんの正妻におさまってしまうのもわるくはない。
けれども、ハルの方だって、今は一文無しではないのだ。多分、彼は現金を抱いて、長崎のチン夫人のところへやってくるだろう。
大金を抱いたハルならば、乗りかえる値打ちは充分にある。もともと、小学生のときに夫婦になった仲なのだから。
「――あんたの子よ」
といったら、ハルはどんな顔をするだろう。
まさか、俺、知らねえよ、なんてことはいうまい。あたしのことだって、嫌いじゃないはずだし、香港へ一緒に連れていってくれるだろう。
あたしは、大金と、子供と、二つとも彼にプレゼントしたんだもの。
「ねえ、パパ、長崎のお金持で、チン夫人ていう人、ご存知?」
「チン夫人、さァ、知らないね」
「大金持らしいわよ。お金持は、お互いに皆お知り合いなんじゃないの」
「さァね。今はお金持といったって、クラブがあるわけじゃないからね」
「とてもすてきな人らしいの。外国にビルをいくつも持っていて、映画に投資したりしてるんですって」
「ふうん。しかしわたしは、あまり興味がないね。女の人は、カン子以外に知り合いたくない」
「でも、一度訪ねてみましょうよ。どんな女性か、会ってみたいわ」
「なんだ、カン子も会ったことがないのか」
「パパが行けば大丈夫、会えるわよ。だってパパは大山林王だものね」
「そうもいかないが、長崎の市会議員に知人が居る。どうしても会いたければ、その人に紹介してもらおう」
カン子は満ち足りた微笑を浮かべた。パパ、いい人だわ――。パパと、ハルと、お金と、三つとも全部、私の物になるといいんだけれど。
文化大講演会
二十一世紀の勝利者は誰
講師 東京××大学助教授
二十一世紀問題研究家
ガーピー先生
長崎市民会館での講演が終って、ガーピー助教授、控え室でつめたい麦茶など喫していると、
「ヘーッ、ハーイッ――!」
派手に入ってきた金髪の婦人がある。あとから追うように市会議員のQ氏が、
「当市の名誉市民でもあり、香港の名誉市民でもあるチン夫人です。いやァ、今日のご講演にしびれて、ぜひ紹介してくれとおっしゃるので」
チン夫人は小柄で楚々《そそ》たる美人だったが、見かけに似合わず声が野太い。
「すばらしいフィーリングでしたよ。日本人としては珍らしく、頭脳|明晰《めいせき》な方ですね」
「いや、恐れ入ります」
「今日の秩序はもう終末を迎えているというお説、ぜひもっと突っこんで拝聴したいわ。いかが、私の邸へお越しになって、晩餐《ばんさん》でも」
「やあ、それは光栄です。夫人のお名前は東京でも、よく話に出てまいりますのでね。ぜひお供したい」
稲佐山の中腹にあるチン夫人の別邸に直行。和風、洋風、唐風の入りまじった感じの大きな部屋で、大理石の円卓をかこんでの卓袱《しつぽく》料理。
「それで先生、核戦争というものは本当におこるんですの」
「さあ。我々庶民レベルでは、残念ながら核戦争を避ける手だてはないのでしょうなァ。聖書にもノアの方舟という話があります。汚れた者たちは死滅して、いくらかの選ばれた人間が生き残る」
「誰が選ぶんですか」
「誰がって、しようがない、自分で積極的に手を打っていく者が残るんですよ」
「といいますと――」
「土地です。いつの場合にも土地が必要です」
「――でも、地価はもう今頭打ちで、面白いこともございませんようですよ」
「何をいっとるんです、奥さん。それは日本の土地のことでしょう」
「日本の土地じゃなくて――」
「今や、各国の指導者、権力者たちは、争って地球の外に土地を求めているという話ですぞ。日本などは、核戦争がおこったら猫の子一匹生き残りませんからな」
「四十年ほど前に、この土地に核爆弾が落ちたばかりですわ。また、ああなるんでしょうか」
「何度でもなるでしょうよ。本当に懲《こ》りるまではね。そこで奥さん、これは実はまだ極秘にしておるのです。民衆が知ったら混乱が起きますからね。しかし奥さんのような、力のある方には申しあげますが、各国の学者が、今、あることを懸命に研究しております。――しかし、まだ申しあげる段階ではないかな」
「どうぞ、おっしゃってください。ここだけのお話としてうかがいますから」
「――それは地球上の大気の動きです。季節風というものをご存じでしょう。あのように、大気の動きというものは、大体においていつも同じような図式を描くものですが、研究の結果、極東のいかなるところで核戦争がおこっても、気流の関係で死の灰が流れていかない土地を発見したのですね」
ガーピー先生は、夫人の気を持たせるように、卓上のワインをおいしそうに呑み干した。
「つまり、その土地に居れば、核戦争にもぶつからないし、また、放射能汚染にも合わなくてすむ、というところがあるんですな」
「どこですか、それは」
「実はね、もう日本の実力者たち、政界や財界の一部が、動きはじめているのです。今、どんどん買い占められていますよ。実は私もね、なんとかその列に入りたいのです。庶民にだって生き残る権利はありますからな」
「それはどこなんでしょう」
「ただ、もう相当に地価があがっとる。日本国内ではありませんよ。それだけに買い占めも簡単ではない。国内国外を問わず、右から左に大金を動かせる力のある方でないといけない」
「どこなの! いってください。そのかわり、どんなことだってお申しつけどおりにいたしますから」
「東経百六十度、南緯四十度、いや、私も知り合いの学者にきいているだけで、正確な場所は知らないのです。タスマン海盆の東にあるガコガコ諸島ということですが――」
「タスマンの東の、ガコガコ――」
「それではお約束してください。私が責任をもって、学者たちを通じてその場所の土地を手に入れます。そのかわり、奥さんのお手に入った土地の三割を、私の権利にしてください。いや、土地さえあれば、財産はなんでもそこに運びこめますし――」
老人の家令が入ってきて、来客の旨《むね》を伝えた。
「静岡の山林王とおっしゃる方が、ご面会です。市会議員のW氏の紹介状をお持ちになってますが」
「今、それどころじゃないのよ。第二応接間にお通しして待っていただいて」
「かしこまりました――」
「ね、先生――」
とチン夫人は、ガーピー先生のそばに椅子をひき寄せていった。
「その島を買い占めるわけにはいきませんの」
「さァ、なにしろ、財閥が蠅のようにたかっていますからなァ」
「ぜひ買い占めていただきたいわ。お金ですむことでしたら、どんなことでもいたします」
「しかし、かなりの大金を覚悟していただかないと」
「かまいません。ノアの方舟のためでしたら、財産そっくりをはたいてもそうするべきでしょう」
「そのかわり、奥さんは、文字どおりの二十一世紀の覇者ですからな」
「ええ、――ご面会の方が」
とまた家令がやってきた。
「うるさいわね。お待ちいただいているんでしょ」
「いえ、今度はご本邸の方にで。東京から来た方々が、春巻さんを訪ねていらっしゃったそうで」
「ハル――? あの人は市内のアパートにでも居るんでしょう。ここしばらく、現われないけれど」
「どういたしましょうか」
「ハルのアパートでも教えてやってちょうだい」
家令が退ると、葉巻をくゆらしていたガーピー先生が、ぽつんといった。
「春巻信一か――。奴さんはこんなところでお世話になっていましたか」
「――不思議な方ね。どうしてハルをご存じなの」
「甥ですよ。できそこないの甥でね」
「アラそうなの。偶然ね」
「縁があるんですなァ。なんだかご当家と親類のような気がしてきました」
「ガコガコ島に行って、親戚になりましょうよ」
家令がまた入ってくる。
「奥さま、お電話で――」
「誰から――?」
「ハルさんからでございます」
「あら、噂をすれば、ね――」
チン夫人は軽ろやかな足どりで受話器を握った。
「モシモシ、ハル――? 今どこなの。――へええ、ずいぶん姿を現わさなかったわね。いい女でもできたんでしょ。――ごまかしたって駄目よ。え? 土地? 北海道の土地? ああ、あれもういらない。それどころじゃないの。日本の土地なんかいらないわよ。――でもいいじゃないの。顔が見たいから長崎へいらっしゃい。あ、そうそう、あんたの叔父さんがここにいらしてるわよ。できそこないの甥だっていってるわ――」
チン夫人は受話器をおくと、あわただしくガーピー先生のそばに戻ってきた。
「ええ奥さま、応接間のお客さまがお待ちかねですが」
「いそがしいからといって帰してください――」
とガーピー先生。
「どうせ、何かの寄附かなにかで来たんですよ」
「本当にいそがしいの。明日にでもお出直しいただけないかって、失礼のないようにいって頂戴」
それでね、先生、とチン夫人は意気ごんで訊ねる。
「当座に、お金、どのくらい入用でしょうか。運動費もいれてよ」
「いや、それはまァ、いずれかかってから、請求すべきものは請求します」
「ご遠慮なさらないでね。必要なら政治家も動かしますし、国際的な圧力をかけることもできます。だって東南アジアの財界は、あたしを無視したら成立しなくなるのよ。まァ、十億では――」
「十億――!」
「なんですの、びっくりなさって」
「十億、円の現金ですか」
「なんだかわからないわ」
「十億では、といわれましたな」
「中国では、よ」
「あ、なんだ、そうかァ」
「中国では、花がしぼまないうちに話をまとめろ、といいますわ。今日のお約束を、ちゃんと書類にとっておきましょうね。それから、今夜は、ゆっくりなさって――」
ガーピー先生は、食後のブランデーグラスを片手に、誘われるままに、チン夫人の居間に入っていった。
「こちらの方がくつろげるわよ」
「なるほど、とてもくつろげますな」
「先生の甥御さんはね、私の寝室にも来たことがあるのよ。あの人とてもいい身体をしてた。ノアの方舟に乗せるほどいい身体だったとはいえないけど。ほほほ――。叔父さんはどうですの。ご婦人にはきついご趣味がおありになるの」
「ええ、とてもきびしいんです。この年齢まで、それで独身を通したくらいでしてね」
「どういう女性がお好みかしら」
「それが奥さん、お世辞じゃありませんが、貴女のような方なんです」
「嘘、お金が好きなんでしょ。そういう眼をしてるわ」
博多の駅ビルの中のロッカーに、二個のバッグを入れて、ハルはふらふらと夜の街を歩いていた。
チン夫人に電話をしたら、叔父さんが居るという。叔父さんというと、渋谷の不動産屋の叔父さんのことだろうか。
そうじゃなくて、叔父と称する怖い男かもしれない。どっちにしたって、長崎に今行くのはヤバい。
まァ、誰かに追いすがられているのでないかぎり、急ぐ旅ではないのだ。
金はたっぷり、時間もたっぷり。
以前は、金とヒマが両方とも無尽蔵《むじんぞう》にあればいいな、といつも思っていたが、いざそうなってみると、満腹状態で料理屋に入ったような感じ。
チェッ、俺としたことが――。
遊ぶために生まれてきたってのによゥ――。
「あッ、ちょっと、そこで停まってください――」
いきなり若い女の声が降ってきた。
ぱッ、とフラッシュが焚《た》かれる。
「すみませーん。一枚、撮らせてもらいましたァ」
「なんだい。俺、映画スターじゃないぜ」
「ええ。バックととても合ってたものですから――」
「週刊誌かい」
「いいえ、写真学校の生徒なんです」
眼も大きいし、口も大きい。なんだか魚の化け物のような顔をしているが、なにしろ若い。若々しい感じが全身にみなぎっている。
「それで、どうすればいい――?」
「あ、住所教えていただければ、一枚お送りしまーす」
「いや、これからさ。どうする?」
「どうする、って。どうぞ行きたいところにいらしてください」
「じゃ、ホテルへ行こうか」
「どうぞ――」
「君も一緒にだよ」
「あたしも一緒。いやーだ」
「すみませーん、ちょっと一枚、ホテルで撮らせてくださーい」
「嫌ーッ」
「行こうよ。ホテルのバーで一杯呑もうぜ」
「バーでですか。バーだけですね」
「ああ、一杯つきあってくれれば、百万円あげよう」
「嘘。そんな嘘にひっかかりませんよゥ」
「じゃ、嘘でいい。行こう」
娘は、この街の私鉄の駅長の娘だといった。三人兄妹の末ッ子で、将来は写真家志望。東京に行って、広告写真をとるのが夢。
どこといって眼をひくようなところはなかったが、ハルのような男があまり交際したことのない固いよさがあった。
バーでジンフィーズを二杯おごって、階上の自分の部屋に連れこんだ。
娘は二間続きのスイートルームに気押《けお》されたように、彼が唇をつけても抵抗しなかった。
「――お金持なの?」
「まァね。突然、お金が手に入ったよ」
「遺産――?」
「どうかな、お金持の匂いがするかい――?」
「わからない。お金持なんて知らないもの」
その夜、彼女が帰ろうとしたとき、ハルは札束を手渡した。
「――冗談じゃなかったのね」
「高いカメラでもお買い」
「――いいです。こんなに要りません」
「べつに警察に追われるような男じゃないよ。一生に一度くらい、こんなことをしてみたかったんだ。そのかわり、明日銀行があくまで、俺は一文無しさ」
ハルは大遊びをしたつもりだった。映画のセリフのようなことをいって、いちいち相手の表情を眺めていた。
「明日もこの部屋に居るの」
「いや、明日は南に行く」
「じゃ、たったひと晩ね」
「そうだな。家で心配するだろ。お金を持ってお帰り」
「ここに、泊っちゃいけないかしら」
「――いいよ。でも、心配するだろ」
娘はベッドから離れたところの椅子にキチンと坐っていた。
「あたし、わるい女――?」
「いや、君はいい子だよ。わるい女はたくさん居るがね」
「一度、こんなことしたかったの。そのかわり、このお金はいただきません」
ハルは自分がポール・ニューマンになった気がした。そうして、この口の大きな娘と固い世帯を張っていく自分を想像した。
けれどもそうするためには、駅のロッカーに入れてある二つのバッグが不似合いなのだった。それから、少年院の常連で、学歴も職歴もない過去も、やっぱり不似合いだった。それなのに二個のバッグがぴったり身についているというわけでもないのだった。
南へ
翌朝、ハルはロビーに降りて、ドアボーイにチップの千円札と駅のロッカーの鍵を渡し、二個のバッグを取ってきてくれるように頼んだ。駅はホテルから歩いていけるところだ。
まもなくバッグが部屋に運びこまれてきた。
金がざくざくあって、ホテルからホテルに渡り鳥のように移りながら遊び暮していたって、破目をはずさなければ、一生困らないだろう。
本当に、これが現実かどうか信じられないような気持。けれどもハルは、この状態を天国だと思うには、少し年齢が若すぎた。
銭があるからって、隠居みたいにおとなしく暮すわけにもいかないぞ――。
どうせ、逃げ隠れしなきゃならないのなら、浮草は浮草らしく、がんがん好きなことをやってやろう。
ようし、アラブへ行って油田でも買うか。それとも、カジノでも乗っとるか。
電話が鳴った。
受話器をとったハルは、身体を固くして飛び起きた。
「――あ、ママ!」
ハルはベッドに腰をおろしている女流写真家の卵に視線を送り、あわてて背中を見せた。
「――どうして、ここがわかった?」
「長崎のホテルでなければ、博多で新幹線をおりたんだろうって、貴方の叔父さんが虱《しらみ》つぶしに調べたわ。叔父さんは警察に顔が利くんですってね」
「それは叔父さんじゃない。ガーピー先生といって、警察と正反対の方角の人物ですよ」
「何かあったのね。ずいぶんいろいろな人がハルを訪ねてここに来るわよ」
「皆、俺の金を狙ってるんだ」
「お金――?」
「ええ、お金」
「貴方が、お金を持ってるの?」
「突然、手に入ったんです。でも、警察に追われるような種類の金じゃない。誓ってもいい」
「いったい、いくらぐらいのお金」
「――約、三億円」
「現金で――?」
「ええ。現金に換えちゃったんです」
「そう――。今、そこに持ってるのね」
「ええ――。お願いがあるんだ。この件で、どうしてもママの力を借りたい」
「今、貴方がそこに持ってるんじゃ、たとえ事件になっていなくても、刑事に不審訊問されたら面倒ね」
「そりゃあね。俺はフーテンだから、弁解がむずかしい」
「きっと、ホテルの入口には刑事が張ってるわよ。ガーピーさんが頼んでたからね」
「あ――」
「もうそこに居ることはバレてるんだから、バッグを持ってたら捕まるわよ。それを頭に入れて、ホテルを出る工夫をしなさい。それでね、出たら、市内の徐さんという人のところに行きなさい。電話番号を教えるわ」
ハルは受話器をおいて、女流写真家の卵を見た。
「あたし、帰ります」
「ああ――」
「やっぱり、逃げ隠れする人だったのね」
「しかし、警察からじゃないよ。くわしく説明できないけど、ギャングたちに追われてるんだ」
「刑事が来てるといったわ」
「うん。ギャングは警察に顔が利くからね。頼みがあるんだ」
彼女は眼を伏せた。
「このバッグを二つ持って、一人でホテルを出ておくれ。君はまったく無関係なんだから誰も咎とがめやしない。びくびくしないで歩いていくんだよ」
「――――」
「やってくれるね。それで、俺、あとから君の家に行くから、住所教えておいてくれ」
「家の人を巻き添えにしないでね。父は固い人なんですから」
「もちろんだよ。俺、君が好きだ。俺がちゃんとしたサラリーマンかなにかだったら、君みたいな人と所帯を持ちたいなって、昨夜、考えてたんだ」
ハルは、彼女の額にキスした。そうしてずっしり重いバッグを二つ、彼女に手渡した。
頃合いをはかってハルはフロントで精算し、わざと正面出口から堂々と出た。荷物を持ってない以上、刑事が近寄ってきても平気だ。だがその気配はない。タクシーに乗ってから、すばやく周辺の人影に眼をやった。ハルを見て、人影が反応を示し動き出した様子もない。
徐、という男を訪ねるべきかどうか、ハルはちょっと迷った。チン夫人に援助を請いたいが、無条件に彼女を信頼すべきかどうか、判断がつかない。素寒貧《すかんぴん》のときと、大金を握っているときでは、まったく条件がちがうのだ。こういう場合に限っていえば、大金は逆に弱みになりかねない。
徐―→チン夫人、と身柄を預けていくうちに、すっかり彼女たちのペースになって、自分はただの傀儡《かいらい》になり、元も子もなくしてしまうのではないか。
繁華街で車をおりて、喫茶店に入り、とりあえず徐さんに電話をかけた。
「今、どこに居る――?」
思ったより流暢《りゆうちよう》な日本語だった。
「荷物も一緒かね」
「いや――」
「とりあえず、車でそこに行くよ。十五分で行く」
ハルは店で電話帳を借りて、徐という姓のところを見た。今かけた電話番号は徐という姓のところに無い。すると、ちがう姓で載っているか、番号を載せていないか、であろう。
ハルは突然決心して、喫茶店を出、タクシーに飛び乗った。
「小倉まで――」
といった。小倉から列車で、延々と終点の西鹿児島まで行った。そうして、鹿児島のホテルから、まず、例の女流写真家の卵の家に電話した。もう窓外はネオンが光っている。
「――どうしたの。心配したわ。どうしてバッグをとりに来ないの」
「ごめん。尾行されてると思ってね、君を巻き添えにしたくないし、取りに行けなかった」
「あたし、眠れないわよ。もし連絡がなかったら、警察に届けようかと思った」
「大丈夫だよ。君に絶対迷惑はかけないから。バッグはあるね」
「あたしの部屋の押入れの中よ」
「よし。ちょっと預かっといてくれ。必らずまた連絡するから」
「今、どこなの――?」
「鹿児島。Yホテル」
それからハルは、チン夫人に電話をした。
「――モシモシ、誰かそばに居る?」
「――ここはあたしの寝室よ。でも、どうしたの。徐さんと会わなかったようね」
「あの街はヤバかったし、尾けられてると迷惑がかかると思って」
「あたしを頼ってるんでしょ。はっきりなさい」
「もちろん、ママが頼りだよ。だからこうして電話してるんだ」
「今、どこなの」
「昨日は東、今日は西、さ」
「現金を持って――? 銀行にでもいったん預けたら」
「大金すぎて、俺みたいのが預けたら怪しまれるだろう。だから、俺、ママに預けようと思って一生懸命連絡してるんだよ。ママならこれくらいの金、動かしたって目立たないだろうし」
「あたしに預けて、どうするの」
「アメリカ系の国際銀行に入れて、香港で受け出すという手もある」
「あんたもそれなりに考えてるのね」
「一度国外に出してしまえば、動かしやすいし」
「――そううまくいくかしら」
「脅かさないでくれよ。ママだけが頼りなんだから。これができるのはママだけさ」
「――それで、今、どこっていったかしら」
「――どこだと思う――?」
「お金はしっかり持ってるのね」
「いや、ここにはないよ」
「どこにあるのよ」
「誰にもわからんところさ。もちろんママには教えるけど」
「あんた、あたしと駈け引きしてるつもりなのね。あたしはそういうの嫌い。面倒だからね。電話、切るわよ」
「――博多の、女友達のところだよ」
「じゃあ、そこへ電話して、お金を徐さんのところに運んでこさせなさい。話はそれからのことよ」
ハルは窓のところに行って、鹿児島の街の灯を眺めた。遠くに、対岸の桜島あたりの灯もチラチラと見える。その間のまッ暗なところは、錦江湾だ。
海は長く南に伸びて、遠く東シナ海に続いていくだろう。人間は、どこでも自由というわけにいかない。もっとも人間だけなら、パスポートとビザさえあれば海は越えられるが。
大分以前に、台湾に逃げ、南米に逃げた犯罪人が、途中で金品を奪われて身ひとつで窮死した一件を思い出した。
どうも日本は、海というものがあって犯罪者にとってまことに都合がわるい。ハルの場合はまだ犯罪として立件されてないはずだったけれど、弱みがあるという点では同じだ。
チン夫人を頼ろうとしたのは、甘かったかもしれない。こちらの都合を通せば向うの都合も通さなくてはならないとすると、頼みこんでいくだけハルの方が弱い。
では、どうすればよいか。国内で、この金を、どうやって保管するか。
翌日、さんざ迷いながら、博多の女の子のところに電話を入れた。留守、という返事だった。もう一度、午後にかけ直したが、やはり留守。
ハルは東京にも電話を入れた。例の不動産屋の叔父さんのところだ。
「叔父さん、ハルです――」
「――馬鹿野郎!」
「ええ、馬鹿野郎のハルですが」
「まだ生きていやがったのか。おめおめと電話なんかかけてきやがって。お前のおかげでな、山のような借金抱えて、こっちは往生してるんだ」
「すみません、迷惑かけて」
「この前の小切手、額面一億円のな。ありゃなんだ。そっくりひっかかったぞ。お前いったい、この俺をどうしようというんじゃ」
「いやァ、それがね、叔父さん、今、鹿児島なんだが」
「阿呆、誰がお前の話なんか聞くか」
「いや、金の話じゃないのだ。こっちの土地をね――」
「土地がどうしたァ。また草も生えないようなところか。北海道だの鹿児島だの、よう端っこばかり持ってくるわい」
「叔父さん、金はこっちにあるんだ」
「あったら、早う返せ。一億円」
「返しますよ。だけど、こっちにいい話がごろごろ転がってるんだよ。ホラ、現金があるから叩けるんだなァ。それでね、叔父さんのお店の名前を使わせてくださいよ」
「ホラ、はじめやがった。もう俺を巻きこむのはやめてくれ。第一、もう俺は鼻血も出ないよ」
「名前だけだったら。お金はこっちにあるんだ。これ以上損するわけがないだろう。叔父さんはこのことを頭に入れておくだけでいいのさ」
「頭に入れろって、何もかも忘れたいわい」
部屋の扉の外でブザーが鳴っている。誰かが、訪ねて来たのだ。
チン夫人か。まさか。彼女には方々から視線が当っており、自分で行動する愚はしないだろう。
手ぶらの自分を、マークしてくる者も居ないだろうし。
ブザーがまた鳴っている。
ハルはそっと扉のそばに近寄って、気配をうかがった。
「――ハルさん、ハルさん、居ないんですか」
ハルは眼をあげた。これは、女流写真家の卵の声だ。
扉をあけると、バッグを二つ、重そうに抱えた彼女が、ふらふらと部屋に入ってきた。
「――なんだ、君か!」
娘は憔悴《しようすい》した顔をしていた。
「思いきって、来ちゃったの。あたし、家でじっとしていられなかったから」
「いやァ、びっくりした。でもありがとう。まさか君が鹿児島まで来てくれるとはね」
「さ、バッグをお渡ししたわ。中を調べて」
「いいよ。それに、君が欲しいだけお小遣いにしてよかったんだ」
娘はソファに坐って、くたびれたわ、といった。
「お腹すいてるだろう。今、なにかおいしいものを取ってあげる」
「ここ、ベッドはいくつあるの」
「二つあるよ」
「――泊っていっていい?」
「ああ、もちろん」
「――あたし、家になんにもいわないで出て来たのよ」
「心配するかな、家の人たち」
「こんなこと、はじめてだものね。家に電話しなくちゃ」
「ちょっと待ってくれ。ここの場所はいわないで、ただ友だちの家に泊るって、そういいなさい」
「なぜ――?」
「鹿児島なんていったら、よけい心配するだろう」
本当は、ハルとしては、彼女の家にもうしばらくバッグを預かっていてほしかった。
博多の女友達、というだけでは、徐だって探しようがないだろうし、これ以上安全な隠し場所はないように、ハルには思えたのだ。
ここでまた、バッグが来てしまうとなると、弱みが生じる。それに、足手まといの彼女まで。
むッ、と黙ってしまったハルを見て、娘は不安そうに、
「迷惑だったの――?」
「迷惑だなんて、俺は大感謝してるよ。それに、また会えて嬉しいんだ」
ハルは彼女のソファに割りこむようにして、唇を吸った。
ああ、堅気《かたぎ》の味だな、と思う。身体の力を抜いてすがりついてくる彼女の、いくらか日向《ひなた》臭い匂いをかぎながら、
(――いい娘なんだよな。こんな娘をたっぷりいじれるなんて、これもやっぱり銭の力なんだろうかなァ)
それから、もうひとつ、べつのことを考えた。
(――こういう女の子が、この街にも居るといいな。大金に手もつけないで、そっくり預かってくれるような女の子がさ――)
娘が、なにか小声でいった。
「――え、なんていったの?」
「あたし、――もう、離れたくない」
ハルは、気どられないように、かすかに顔をしかめた。離れないたって、お前さんは、堅気なんだぜ――。
カン子も、プクプク爺さんも、ガーピー先生も、チン夫人の邸に留まって、しびれを切らしている。
「ハルは、北の方には行かないわ」
とカン子は力説した。
「逃げれば絶対に南の方よ。だって小学生のときから南で暮したいっていい続けてるんですもの」
「この長崎より南というと、どこだろうな。宮崎か、鹿児島か、沖縄か――」
とガーピー先生。
「外国もあるわね。香港、台湾、フィリピン、インドネシア、タイ、ニュージーランド――」
「なんだ、それじゃきりがない」
「ハルというのは何者だね」
とプクプク爺さんが口をはさんだ。
「パパのお金をあたしから奪った男よ。あのお金、絶対にとり戻さなくちゃ」
「なんだ、そんなことならもういいよ。わたしたちはね、新婚旅行に来ておるのだからね。もうすこしのんびりしよう。カン子や、二人だけでね」
「駄目よ、パパ」
とカン子は強くいった。
「この先のこともあるわよ。ハルというのはね、少年院をかけ持ちで歩いた大不良少年でね、小学生のときにあたしと結婚したのよ」
「小学生のときに、何――?」
「もちろんむりやりよ。まだよくできなかったけど、あたし、強姦されたようなもんだわ。それ以来、あたしの亭主のような顔してね。なんだかだとひっついてくるのよ」
「君の亭主のような顔してか」
「そうよ。だからパパのためにも、断固とした処置をとりたいのよ」
「それで君を誘拐したのかね。それなら警察に届ければよかった。今から届けたっていいよ」
「警察は駄目。パパの名前が新聞に出るでしょう。あたしはもう戻ってるんだし、あたしたちで捕まえましょう」
「ふうん――」
「そういうわけなんだから、パパもがんばってね。パパだってあたしに男がからんでるなんて、いやでしょう」
「その、以前の結婚というのは、どうなってるんだね」
「冗談よ。いえ、冗談に近いのよ。籍だって動かしたわけじゃないし。子供の遊びなんだから」
「子供の遊びかね。わたしの頃はそんな遊びは流行《はや》らなかったね」
チン夫人が部屋の中に入ってきた。
「貴方がたにも、一応、お知らせしておきます。今、博多の私の身内から電話がありまして、ハルが、パスポートをなんとかしてくれ、といってきたそうです」
「パスポートを――」とガーピー先生が一歩前に出た。「それで、仕立てておやりになりますか」
「それはまだ申し上げられません。私は貴方がたの味方ではありませんからね」
「それじゃ、ハルの味方とおっしゃるので――?」
「いいえ、ハルの味方でもありません」
チン夫人はにっこりとしていった。
「時と場合に応じて、どちらのご便宜《べんぎ》もお図りします。これは資本力のある者の常識でして、私もいつもそうしておりますのよ。ねえ、プクプクの会長さま」
「いや、わたしは今、その立場に居りませんじゃ。もう隠居の身でな」
ガーピー先生はもう部屋の外に飛び出していった。配下に指令を与えるためであろう。
「奥さま、あたしにはきかせてくださいな。ハルは奥さまの力で、国外に出られるんですの」
「ハルは、そう思ってるでしょうね」
「そうすると、香港ですか」
「わかりません。ハルがなんといってくるか」
「もしハルが国外に出たとして、出ただけでは困りますね。お金の始末もあるし、その点でも奥さまの力が必要でしょう」
「そうかもしれませんわね」
「どうなさいます?」
「あくまでも、時と場合ですわ。ハルは一時、私に預けたいといってます」
「でも、あれはもともと、パパのお金なんですの」
「そうあるべきだとか、べきじゃないとか、そういう筋道では動きませんのよ。資本主義の中で生きておりますとね。お金なんか、もともと誰の物でもございません」
カン子はプクプク爺さんを見返った。
「パパ、奥さまはね、お金というものは、自然の力関係でどこへでも流れていくものだとおっしゃってるのよ。どうお思いかしら」
「そうかもしれん。だが愛情はちがうはずだよ。わたしはカン子だけは、どんなことをしても離しませんぞ」
ハルはまだ、鹿児島のホテルで、女流写真家の娘とニャンニャンしていた。
「――ねえ、あたし、もう博多に帰らなければならないわ」
「どうして――」
「これ以上居たら、家に弁解しにくくなるし――」
「いいじゃないか、まだ居なさい」
「だって――、ハルさんだってパスポート受けとりに行くんでしょう。あたしも家に帰って、パスポートをとる手続きをしなくちゃ」
「おや、家がうるさいんじゃないのか」
「だから、今度はちゃんと家にことわってくるのよ。外国ってどこに行くの」
「でもね、せっかくだけど、俺はまだ外国行きは考えていない」
「パスポートは――?」
「チン夫人のところはうるさい連中がたまってるらしい。ああいっとけば、俺が海外に脱走すると思って待ちかまえているだろう。その分、ここは安全」
「つまんないの。あたしも外国へ行きたかった」
「その間にトランクのお金を、なんとかしなくちゃ。現金で持ち歩いてるんじゃ危なくてしようがないからね。さて、どうすればいいかな」
ブザーが鳴った。
写真家の卵は裸。
ハルがおよび腰で扉のそばに行って、
「――誰?」
「ハル、私だ――」
ハルは顔をしかめた。渋谷の不動産屋の叔父さんである。
「東京から来たんだ。ちょっとあけておくれ」
内鍵をあけると、叔父さんが、そのうしろから三人の男が、ぞろぞろと入ってきた。
一番後から入ってきたのが、鼻のところに横一本の傷痕のある大男。
ハルはとっさに身がまえた。
「――いや、いや、ハル、今日は喧嘩する気で来たんじゃないんだ。皆さん私のお友達でね」
叔父さんは三人を順々に紹介した。
サラ金ジャタスカの社長。
トルコ風呂パクリッチのオーナー。
広域暴力団ボッキー組系のスットン親分。
「親分からあらましの話は聞いたんだがね。皆がハルのお金を狙ってるそうだ。私はなかなか信じられなかったがね。しかし、皆さんが血眼《ちまなこ》になってるようだから本当なんだろう。まァ私だって今辛いところで、金は欲しい」
「叔父さん、そういわれてもこの人たちの前で、はいどうぞ、というわけにもいかないよ」
「そりゃそうだ。わかるよ。それに私たちは今日、お金を貰いに来たんじゃないんだ。つまりね、私たちはガーピーさんとちがって、ハルに害意を抱いてない。ただ私たちもこの件で、いささかのいい思いをすればいいんだ」
「そうだよ、ハル君――」とジャタスカもいった。「私たちはなるほどガーピー君と提携していたが、なに、敵だの味方だのなんてナンセンスさ。同じ日本人同士だものね。ただ、お金があるところと手を握り合っていく。これが私たちのセオリーで、お金がある同士、話し合ってうまく事を処するのが好ましい」
「そこでね、ハル――」と叔父さん。
「私たちは、君と友好的につきあうことを定《き》めたよ。ハルだって、うさんくさい金を抱えて逃げ回っていたってどうにもならんだろう。それだけの現金が、正規のルートで預金できるかね。投資するにしたって、目立つよ。お前だって処理に困っているだろう」
「そういうお金の生かしかたが、たった一つありますよ」
とトルコが身体を乗り出した。
「地下《アングラ》投資です。たとえば私どものようなトルコではね、税金の関係で、利益をほとんど帳簿では計上しないし、銀行にも預金しない。すべて資本は地下に眠っています。これがどう形を変えていると思います。たとえばこのサラ金の社長はもと私の店の支配人でした。私の店の利益は、今、サラ金の資本金となっています」
「ええ、そうしてサラ金の利益もまた、いったん地下に眠り、別途のコースをたどって生き返るんです。たとえばこのスットン親分」
「ああ、暴力団も地下投資でうるおっているね。まァ東京の下水道のようなものさ。地下をあっちにもこっちにも通路が伸びていて、金はそこを往復するたびにどんどん増えていくんだよ」
「なァ、ハル。お前の金も、その地下の下水道にほうりこみなさい。我々は、うさんくさかろうがどうだろうが、出所など問題にしない」
「信用できないような顔をしているが、ハル君、投資家と我々との関係は、神聖なものですよ。手続きも万端きちんとするし、責任を持って君の金を預かる」
「暴力団も昔とちがうよ。どんどん体質が近代的なものになっとる。やらずぶったくりではもう生きられない」
「ハル、但《ただ》し、お前が思ってるほどの金利ではないかもしれん。お前の金の性質も知ってるし、買い叩く感じにはなる。しかしそこがかえって信用できるところじゃないかね。我々も、便利、ハルも危ない思いをしない。どうだね」
ハルは黙ってきいていた。
「それにね、ハル――」
叔父さんがいう。
「私も、そうしてくれると助かるんだ。なにしろ借金でね」
「考えさせてください」
「うん。でも考えるところはないぜ。金をここに出して、きちんとした書類を交す。それだけのことだが」
「でも、金はここにありませんし、他に相談する人も居ます。もちろん、しかるべきところに預けてあるから、今、どうということはできない」
「鹿児島かね」
「ええ」
「じゃ、明日、定《き》めるということにしよう。ハル、念を押すが、それ以外に安全な方法はないよ」
叔父たちが出て行くと、ハルはボーイを呼んで、宿泊継続を告げ、二個のトランクをホテルの金庫に預かってもらうことを頼んだ。そうして、チン夫人に電話をいれた。
「――奥さん? ハルです。今、襲われたよ」
「そうなの、お金は?」
「それは安全。でも明日はわからない。こういうとき、奥さんならどうする」
「あたしなら、まず、お金を手放すね」
「手放すというと?」
「ちゃんとした紙片に換えるか、誰にもわからないところに隠すか。とにかく身を軽くするわ。それから、味方を増やす」
「味方なんて、居るわけないだろ」
「関係してる人の中で、一番強そうな敵と組むのよ」
「誰だろう」
「誰だと思う」
「奥さんだけど、今、そばに行けないだろう」
「あたしなら、クォーレンに会うわ」
「それは誰――?」
「外国人よ。あたしのお仲間。今、宮崎の別荘に居るわ」
宮崎なら、日帰りできる。
「ニャンニャン、もう博多に帰るかい」
「――ううん、もう少し居る」
「じゃ、ひと眠りしておいで。ちょっと出かけてくる」
「――帰ってくるのね」
「もちろん、トランクがある」
ハルはレンタカーで、霧島を越えて宮崎まで一気に飛ばした。
クォーレン氏の別邸を探すのに、そう手間がかからなかった。
そうして大デブのクォーレン氏と卓をはさんで向かい合ったとき、何国人だかわからないが、ひと眼で悪徳で肥りかえっているように見えて、なるほど、と思った。
「早速ですが、地下投資という言葉をご存じですか」
「地下投資――?」
「正規のルートでない投資先です。確実で、有利で、安全というところ」
「確実で、有利で、安全、――それは私も知りたいね」
「しかしチン夫人が貴方にきけ、というんです」
「投資をされたいのですか」
「ええ。法人でなくてもかまいません。個人でも」
「個人というと?」
「たとえば貴方のような」
「ふふふ。利はどのくらい、お望みですか」
「条件によっては、利はいりません。但し、元金保証」
「ほう。確実で、有利で、安全、といわれましたね」
「元金を預かっていただくだけでいいんです。どうお使いになろうと」
銀髪の若い娘が、銀盆にのせた飲み物を運んできた。
「それで貴方はどういうメリットがありますか」
「私が持っているよりはいいんです」
コーヒーにミルクをいれてくれる娘の指先をハルはみつめていた。
「なるほど、わかりました。それではゆっくりご相談しましょう。もちろん、今日は取引のご用意はないでしょう」
「はい――」
「食事でもしていらっしゃい」
「私のことは、チン夫人に訊いていただくといいと思います」
「しかし、無利子というのは、案外高くつくものですからね。さっき、条件とおっしゃったが」
「できれば、外国銀行に預金していただきたい。銀行利子はクォーレンさんにさしあげます。そして私も、国外に脱出したい。私の金を追う人が多くて、日本はうっとうしいです」
娘が部屋を出て行きそうになったのでハルは立ちあがった。
「ぼくは春巻といいます。中華料理の春巻です」
娘は一揖《いちゆう》して去った。
「マリアといいます。私の妻です」
ハルは思わずコーヒーを噴きそうになった。
「美しい方ですね。私は、できれば、あのお方に投資したかったのに」
「ご自由にどうぞ。投資家を疎略《そりやく》にはしないでしょう」
クォーレン氏は大きな腹を波打たせて笑った。
天国乱歩
ジョン・E・クォーレン氏は、大きなバッグを二つ、両手にぶらさげて、長崎の大浦飛行場を出るところだった。
彼はバッグを道の上におくと、うっとうしいような顔をあげて、快晴の空を眺めた。そうしてハンケチをとり出し、赤茶のソフトや、太い両肩や、突き出た腹のあたりを丁寧《ていねい》にはたいた。白い灰がぱらぱらと落ちた。もっともそれは煙草の灰であって、いくら長崎だからといって天から降ってきたわけではない。
それからクォーレン氏は、数日間も駐車してあった自分の車のところまで、肥った身体を運んだ。そうして迷わず、チン夫人の本宅に走らせる。
本宅の玄関でベルを押すと、中国人の老僕が迎える。
「あ、いいよ、荷物はわたしが持って行く。ただ先に立ってドアをあけてくれればいい。両手がふさがっているからね」
老僕は身内を迎えるような表情で、なんのためらいもなく、奥のチン夫人の居間に案内した。
「ああ、クォーレンさん。――やっぱりハルが宮崎にやってきたんですね」
「はい。それでこれがお申しつけの物です」
クォーレン氏はそういって、二つのバッグの口を開いた。百枚一束になった一万円札の山がぞろりと現われる。
「どうぞ中をお改めください。――あ、奥さん、ですがね、お話のとおりに三億円はありませんでしたよ。私もざっと数えてみましたが、少し欠けていました」
「そうでしょうね。だいぶ方々を持ち歩いたらしいから、多少は使いこんで居るでしょう」
チン夫人の計算では、百枚の束が二百六十六個。
「かなり欠けているんでね。お持ちするのに、私も少々弱りましたよ。しかし、こればかりはね」
「ええ。――でも三千四百万とはね、何に使ったのかしら」
「半端が出ているところを見ると、ハルもあたしを信用して、手持ちの現金をあらかた持ってきたように見えるけどね。四千万ちょっきり減ってるのなら、手元に取りこんだんでしょうけど」
クォーレン氏はあいかわらずうっとうしそうな顔で、少し語気荒くいった。
「奥さん、私はれっきとした顧問弁護士ですぞ」
「ええ、そういうつもりでおつき合いしてますわ」
「では、そういうおっしゃりかたはやめていただきたい。私が間で、うまいことしたかのようにきこえます」
チン夫人は床に膝を突いたまま微笑してクォーレン氏を見上げた。
「あたしはどっちみち関係ないから、どうでもいいことなんです。ただ、プクプクの会長さんにこのお金をお返しするときに、どういおうかと思ってね」
「いや、ことは私の名誉の問題ですよ。こんな用事を任されて、泥棒のような目で見られてはかなわん」
「クォーレンさん、何にしたってあたしの貴方に対する信頼は変らないんですから、いいじゃありませんか」
チン夫人は老僕を呼ぶと、
「お客さまがたはどうなさっているの」
「皆さん、鹿児島の方にお発ちになりまして、今、残っておられるのは、プクプクのご老人だけですが」
「そう。――では会長さんをお呼びして頂戴」
老僕が去ると、チン夫人は、クスクスと一人で笑いだした。
「あの方々は、ハルを追っかけるのに夢中なのよ」
「なるほど、鹿児島までね。それで鹿児島でどうなりますかな」
「もちろん、なかなか捕まらないでしょうね。ハルも必死だし。あの子、なかなかかわいいところがあるのよ」
「彼はバンクオブアメリカの銀行券と信じて、私のところから書きつけを持っていった。ハルがそれを信じている間は、この騒ぎは終らないでしょうな」
プクプク老人がやや憔悴した表情で部屋に入ってきた。
「あ、会長さま。貴方のお金が戻ってまいりましたわ。といっても、少し減っておりますけど、お改めくださいませ」
「わたしの金が――? ああ、そうですか。金がね」
「どうなさいましたの。お顔の色がよくありませんわ」
「いや、カン子が、私のカン子が居りませんのでな。金をとり戻すとかいって、一連隊に加わって鹿児島の方に行ったらしいです」
「まァ。ここにおちついていらっしゃればよかったのに」
「まったくです。が、金のことなど、わたしはどうでもよかったのに。わたしたちは新婚旅行に来たのですからな」
「お金はどうでもいい、なんておっしゃると、あたしたちが放っておきませんことよ。会長さま、無くしてしまったおつもりで、ご寄附をなんていいださないともかぎりません。香港でも、マレーシアでも、気の毒な人たちはたくさんおりますから」
「もちろん、カン子が私のところに戻りましたら、考慮させてもらいましょう。だが、今のところ、カン子がな――」
「カン子さんが、そんなにご心配ですの――?」
「ま、とにかく、鹿児島に行ってみるとしましょう」
ハルは鹿児島には帰らなかった。それには、もちろん当然すぎる理由がある。
ジョン・E・クォーレン氏が、バンクオブアメリカのある東京に飛んで、ハルの金を預金し、預金の利子を受けとるかわりに、ハルの後見人として金の安全管理を引き受けてくれたからである。
ハルとしては、大きな賭博のはずだった。
けれども彼は、クォーレン氏の好意をほとんど疑がっていなかった。
なぜといって、クォーレン氏の愛妻マリアが、この大きな別荘とともに、ハルの手の届くところに残っていたからだ。
クォーレン氏が東京に発った日の夕食は、マリアと二人で、中国人の召使いに傅《かし》ずかれながら食べた。ハルは、いつもクォーレン氏が使っているという椅子に坐り、クォーレン氏の葉巻を吸い、クォーレン氏が愛用しているというウイスキーをなめた。
けれどもハルにとってのなによりの御馳走は、銀髪のマリアの若く伸びやかな肢体だった。
「どうもわからない。貴方のご主人は、えらい人ですね。俺だったら、貴方を一緒に東京に連れていく」
「あの人は、出かけるときは、いつも一人です。私なんか、連れていきません」
「でも、俺という男が居るんですよ。現にこうして、ご主人の椅子に坐ってね」
マリアは髪を揺らしてかわいく笑った。
「私を、信じて居るんでしょ」
「でも、まさか、俺を信じてなんか居ないでしょう」
ハルは、手を伸ばしてマリアの掌の上においた。ハルの掌の方が汗ばんでいた。
「こんなふうなことを、俺がするとどうして思わないんだろう」
「わかりません――」とマリアも掌を引かずにいった。「あの人が戻ったら、訊いてごらんになったら――?」
その答えは笑みを含んでいた。ハルは自信を深めて、鷹揚《おうよう》に手を引いた。
「ごめんなさい。俺、礼儀を知らないものだから、いつもクレイジーだと思われてしまう」
「クレイジーだなんて思いません。貴方は、素敵よ」
「ああ、今夜は最高の晩だな。生まれてはじめての、最高の晩だ。俺、嘘なんかいわないよ」
マリアは微笑しながら、立ってヴェランダの方に行った。南国の夜風と月が、おあつらえ向きに外気を柔らげている。
「マリア――」
ハルはそっと近寄った。
「クォーレンさんと、何歳《いくつ》ちがう?」
「――二十八、かしら」
「どうして、そんな人と結婚した?」
「――お金持が、好きだったのよ」
「それで、幸せかい――?」
マリアは背後のハルを振り向いた。
「わからないわ。もうそんな話やめて」
けれどもハルを拒絶している色はなかった。彼女はあきらかに何かを誘っていた。
ハルが抱いて顔を寄せると、マリアの方から唇を開いた。
「ああ――、ハルマキ――」
マリアは肩を波打たせていった。
「やめて――」
ハルは無言だった。ますます自信を持って、唇を吸った。
「今夜、貴女のベッドルームに行くよ」
「駄目よ――」
とマリアがわずかにいった。
「俺、我慢できない」
ハルはもう一度いった。
「いいね――」
シャワーを浴びてから、バスタオルを腰に巻きつけたまま、夫妻の寝室に入った。
大きくて豪華なダブルベッドの中に、マリアが沈んでいた。彼女はくるりと寝返ってうつ伏せになり、顔を枕に埋めてしまう。
ハルはしばらく、立ったままその姿を眺めていた。それからベッドにそっと腰をおろして、注意深く銀髪を撫でた。
「マリアのいうとおり、金持っていいものだなァ」
ハルはシーツの中に身を入れた。
「あの肥ったおじさんが、いつもここに居るんだね」
「貴方だって、お金持でしょ」
「あ、そうか。俺も金持だ」
ハルは笑った。それからマリアの言葉の柔らかさに気づいて、勇気百倍した。
「そうすると、俺も君にチャレンジする資格があったんだな」
「そのつもりで、来たくせに」
ハルは生まれてはじめて、すべすべした白い肌を抱いた。
翌朝、クォーレン氏の電話を受けたのも、その豪華なベッドの中でだった。
「今日、帰るつもりだったがね――」
とクォーレン氏の何も疑がっていない声音が受話器に響いた。
「あいにく用事ができてね。二日ほど東京に居る。バンクオブアメリカの領収書を書留で送っといたからね。金の件は全部すませた。安心してくれ」
そのときも、ハルはまったく他のことを考えなかった。ただ、もう二日間、天国に居られる、と狂喜しただけだ。
マリアは向うを向いて、静かな寝息をたてている。
ハルは、彼女の裸の背中に、指でそっと、マリア、と書いた。アイ、ラブ、ユウ――。
マリアが、くっくっと笑いだした。
「くすぐったい――」
「起きてたかい」
ハルはいった。
「君のデブちゃんは、あと二日しなくちゃ帰ってこない」
「そうなの」
「哀しいかい。それとも嬉しいかい」
マリアは寝返りをうって、すっぽりとハルの腕の中に入ると、キスを迫ってきた。
文字どおりの天国は、そこまででひと区切りがついて、別の段階に入ったようだった。つまり、昼すぎに来訪者があったからだ。
例の駅長の娘、未来の女流写真家だった。
「買物に行くふりをして、ホテルを脱《ぬ》けて来ちゃったわよ」
「どうして――」
「だって、鹿児島に戻ってこないじゃないの。ハルが居ないホテルに居たってしようがないわ」
「クォーレンさんがね、あと二日しないと東京から戻らない。それを待って、泊めてもらってるのさ」
「あたしも泊めてもらう。いいでしょ」
「しかし、博多に帰らなくていいのか。家で心配してるだろう」
「それは最初からそうよ」
「俺、誘拐犯人にはなりたくないぜ」
「家には電話してるから大丈夫」
「しかし、君、あの連中に尾《つ》けられて来たんじゃないだろうな。俺の叔父さんたちに」
「大丈夫よ。そんなことより、お金はどうなってるの」
「外国の銀行に預けた。もう大丈夫さ。あとはパスポートを取るだけだ」
「じゃ、あたしもパスポートを取ってこようっと」
「おい、君ね、無茶いっちゃいかん」
「無茶でもいいわよ。乗りかかった舟だもの」
「だって、おやじさんは固いんだろ。これ以上ごちゃごちゃすると、本当に俺は訴えられるかもしれない」
駅長の娘はだまってハルをみつめていた。そうして、ホロリと涙をこぼした。
まずい、とハルは顔をしかめる。
ちょうどそこに、朝の入浴を終えたマリアが、濡れた髪のまま入ってきたのだ。
「アラ、お客さま――?」
ハルは仕方なくいった。
「鹿児島に残してきた伴《つ》れです。女流写真家で、越山マリといいます」
「まァ、それじゃ、あたしとハルを写していただこうかしら」
ハルはその言葉を無視して、駅長の娘にこう説明した。
「お世話になってるクォーレンさんの奥さんでマリアさんだ」
二人の女は、きびしい表情でお互いを眺めやった。
どう見ても駅長の娘の方が、見劣りがする。もっとも若い女の場合、完全無欠だからこれ一人で充分、というわけにはいかない。
ハルにとって、マリアは最高の星だけれど、人妻である。
「君、コーヒーでも貰うかい」
一応、駅長の娘の方に気を使った。
まだ青い果実のような彼女が、勇を鼓したようにいった。
「お綺麗な奥さまね。ハル、クォーレンさんがお留守のときにお邪魔していてはいけないわ。どこか別のホテルをとりましょう」
「なぜ。クォーレンさんがここに泊って待っていてくれといったんだぜ」
「でも、お邪魔でしょう。奥さま」
「いいえ、ちっとも。昨夜は久しぶりに楽しい夜だったわ」
「本当? 春巻さん、貴方も楽しい夜だったの」
召使が入ってきて、また来客を告げた。
「あたしに――? 誰でしょう」
「いいえ、奥さまでございませんので。春巻さんのお客さまですが――」
ハルは駅長の娘の顔を見た。なんて女だ。やっぱり尾けられてきたんじゃないか。
思ったとおり、渋谷の叔父さんを先頭に、トルコ、サラ金、スットン親分が、ぞろぞろと入ってきた。
「なんだい、叔父さんたち、こんなところまで何しに来たの」
「いや、高千穂峡にでも行って、金が落ちてないかと思ってね」
叔父さんが、銀髪のマリアに眼を走らせながらいった。
渋谷の叔父さん、トルコ、サラ金、スットン親分の四名は、応接間の椅子で仮眠するという。
駅長の娘は、クォーレン氏の書斎の寝椅子で寝てもらう。
ハルは昨夜と同じく階上の客用の寝室へ。
「はい、これがお部屋の鍵です。内鍵ですから」
ハルと駅長の娘は、それぞれ鍵を渡された。彼女はかなり不満そうだったが。
ハルは部屋に内鍵をかけ、ウイスキーをキュッと呷《あお》って早目にベッドに入った。マリアの魂胆《こんたん》はわかっている。彼女は女主人だから合鍵を持っているのだろう。
思ったとおり、香水の匂いで眼がさめた。
銀髪のマリアが、ごく当然の表情で、横に寄り添って寝ている。したがって、ハルもごく当然のごとく手を出さざるをえない。
「ハル――、もうどこにも行かないで、ここに居てね」
ハルはその言葉を閨房《ねや》の外交辞令と受けとった。
「ああ、そうしたいね」
「本当よ」
マリアは念を押した。
「東京にね、あたし、マンションを持ってるの」
「しかし君は、クォーレンさんの奥さんなんだろう。彼が帰ってくれば、こんなことはしたくたってできないな」
「大丈夫よ。あの人は忙がしくて、年じゅう飛び歩いてるもの」
「でもね、俺は、クォーレンさんとはまだ衝突したくないんだ」
「お金の後見人だからでしょ。でも、それはあたしに方法がないわけじゃないわよ。バンクオブアメリカならあたしだって預金があるし、あたしの方に移し替えることも不可能じゃないわ」
ハルは首をまげてマリアの顔を見た。
「日本を飛び出すつもりなんだろうけれど、ハル、英語ができる? あたしがついていた方が何かと便利じゃなくて」
「マリア、君は本当に、クォーレンさんの奥さんなのか」
「ひとつ、うまい話があるのよ。クォーレンがさかんに今、動いているんだけれど、マレーシアでね、新らしいカジノを造る話があるの。彼に話して、貴方のお金をそこに投資させてあげましょうか」
「カジノか」
「向うの政治家との折衝の段階に入ってるんだけどね。根まわしはクォーレンにさせて、あたしとハルが、現地に行ってしまうの。どう――?」
ハルは黙っていた。
「もちろんチン夫人もからんでるわよ。でもクォーレンは今のところ、日本でのビジネスも多いから、現地に行きっきりになれないの。クォーレンだって、あたしが役に立つと思ってるわよ」
「それで――?」
「ハルは日本じゃ、あのお金を使いこなせないんでしょう。マレーシアで生かすべきよ」
「俺がマレーシアへ行っても、まごまごするだけだな」
「だからあたしが居るじゃない。クォーレンに預金してるだけじゃ、お金が死んでるわ。マレーシアでお金を働かせて、どんどん増やすのよ」
「でも、クォーレンに預けちゃったぜ」
「国外に出るまではね、それでいいの。出てからは、自分でお金を動かさなくちゃ。自分のお金なんだもの」
「マリア――」
とハルは白い肌の感触をたっぷり味わいながらいった。
「君がそんなことを考えてるなんて、夢にも思わなかったよ」
「貴方のためよ」
「君は頭がいいし、実行力もありそうだね。アメリカで少年院に入ったかい」
「少年院――?」
「ああ、優秀な子供に特別な教育をするところ」
「あたしはただの元モデルよ」
「モデルでも、そういうことを教わるのか」
「ハル、本当に貴方のために考えたのよ。どうしたらハルと一緒に暮せるかと思ってね」
ハルは考えた。
チン夫人は大金持だ。
クォーレン氏も、チン夫人の顧問弁護士である以上、チン夫人の口ぞえに背《そむ》く気はないだろう。
この二人とは、友好関係を結んでおいてもいい。
マリアはどうか。クォーレン夫人で、生活に不足はなさそうだが、あの金に、魅力を感じているかもしれない。
彼女を文句なしに信じてはいけない。彼女はチン夫人ともクォーレン氏ともちがう。
そう思いながら、ハルは自分を突き放すように、マリアの身体にかぶりついていった。
クォーレン氏からの書留が、翌朝届いた。バンクオブアメリカの用紙に、英語のタイプが打たれてあり、ハルに読めるのは、金額とクォーレン氏のサインだけだ。もっともそれで当然であり、べつに疑がわしいところは何もない。
階下の応接間に皆集まっているらしくざわざわと話し声がきこえる。
ハルが顔を出すと、まっさきに駅長の娘が立ちあがって叫んだ。
「春巻さん、奥さんて人が見えたわよ」
ハルは思わず足をとめた。連中に混じって、ちゃんとカン子が来ている。
「ねえ、奥さんというのはどういう意味なの」
「プクプク財閥のご隠居の奥さんさ。爺さんと一緒じゃないかね」
「あら、お金持の奥さんだったの。それじゃ、もう結婚する権利はないのね。あたしが嫉《や》くことはないのかしら」
「君が嫉くことはないさ。君だって駅長の一人娘だろう。俺についてきたってどうもならんぜ」
「ばかねえ。一人娘なら嫁に行けないなんて大正時代の考えよ」
彼女は階段をおりてくるマリアに眼を走らせながらいった。
「すくなくともこの中では、未婚の女はあたし一人だわ。あたしがおりる手はないわね」
「俺はべつに未婚の女と結婚しようなんて思ってないぜ。結婚するなら人妻に限るって、少年院の先輩もいってた」
「ハル、なにを冗談いってるの」
とカン子がいった。
「あんた、小学生のときにあたしと結婚したじゃない」
「いいじゃないか、したって」
「いいわよ。でも子供のお遊びとはいわせないわよ。ちゃんとアパートも借りたんですからね」
「必要があればアパートぐらい借りる」
「それにねえ。子供もできたのよ。あたしたちの子供が――」
ハルはクォーレン氏の葉巻をくわえながら、カン子をみつめた。
「子供だって――?」
「そうよ。またアパートを借りる必要ができたのよ。こんなところでまごまごしている場合じゃないわ。行きましょう」
「どこへ――?」
「アパートのあるところへよ。それともいやなの」
「子供はべつに欲しくないな。カミさんなら何人居てもいいけど」
「そう――」とカン子はきつい表情になった。「じゃ、あれを返してよ」
「――あれは君のかね。プクプク老人のじゃないのか」
「パパのものは、あたしのもの」
「誰のものでもないさ。金なんて。落ちてるものを拾ったようなもんだよ」
「いいから頂戴。どこにあるの」
「クォーレンさんに預けてある」
「クォーレンさんはどこ」
「居ない」
カン子は、フン、といって一座を見廻した。
「皆さんお金で集まっていらっしゃるようだけど、あれはあたしのお金なのよ。ハルは一文無しです。あのお金に手をつけたら、泥棒として、ハルと一緒に訴えます」
「でも、その金はすでにお前さんの手元から消えてるんだろう。それじゃ何をいっても駄目だな。やっぱりハルが主役ですよ。金を持ってる奴がね」
と渋谷の叔父さんが甥にとりつくようにいう。トルコもサラ金もスットン親分も、それに和す構えだ。
「ところでハルさん――」とトルコがうす笑いしながら「例の地下投資の件を考えておいてくれたんでしょうね。鹿児島でははぐらかされちまったが」
「それはクォーレンさんに話してみてください。なにしろ彼に一任してしまったので。クォーレンさんは明日か明後日には帰ってきますから」
「あたしはそんな人に一任なんかしてないわ」
とカン子が烈しくいう。
「その人もハルも、お金には無関係なのよ。そんなこといってると、本気で刑事問題にするわよ」
「おい、姐ちゃん――」
とスットン親分がしわがれ声を出した。
「ガーガーいうなら出て行きな。俺たちゃ銭としか相談しねえよ」
自分用の寝室に、また一人、客が坐っていたので、ハルはギョッとした。
ガーピー先生だった。
「――あんたも来ていたのか」
「わたしはひと足おくれて、カン子を尾けてきたんだけどね。あんまり団体交渉は好きじゃないから、頼んでこっちへ通してもらったよ」
やあ、ハル、ひさしぶりだった、とガーピー先生は微笑しながら手をさしだした。
「よくやったよ、ハル。さすがわたしの教え子だけのことはある。おめでとう」
「あんたのために働いたわけじゃないぜ」
「いいんだよ。誰のためでもいいんだ。人から人の手に、銭が動いていきゃあ、わたしとしては満足なんだ。若い者が、大金をつかむというのはいいことだよ」
「そうですかね」
「ハル、わたしはもう君の銭を奪《と》ろうなんて思ってないよ。方針を改めた」
ガーピー先生は、コーヒーを二つ、頼んでくれないかね、といった。まもなく召使が銀盆にコーヒーをのせて、部屋に持ってきた。
「実はね、わたしの最終的な大事業があるんだ」
ハルはコーヒーを口にふくんだまま黙っていた。
「チン夫人にも話して、夫人も乗り気なんだが、ハルがわたしと組んでくれればことは一層《いつそう》手っとり早い」
「俺と組むって――?」
「ああ、今は全面的に君と組もうと考えてるよ。ハル、実はだねえ、南太平洋のタスマン海盆の東に、ガコガコ諸島というのがある。ここの土地を一気に買い占める動きが、今、世界中でひそかにあるんだ」
「石油でも出るのか」
「ちがう」
「ダイヤモンドか」
「ちがうよ。そんな顔つきをしないできいてくれ。タスマンだのガコガコだのいうから、冗談と思うかもしれないが、なまやさしい話じゃないんだよ。大気の動きというものは、どこも大体同じような図式を描くものでね。学者の研究によると、極東のいかなるところで核戦争がおこっても、死の灰が流れていかないという土地がある。それがガコガコ諸島だ」
「なるほど――」
「今はまだ秘密にしているから、ごく一部の者しか買い占めに走っていないが、もうすぐ庶民レベルで知られるようになるだろう。そうすれば、あの島の地価はどのくらい上ると思う。なにしろみんな戦争で命をとられるのはもうこりごりだからな」
「なぜ、俺にそんなことを話すんだ」
「共同出資者になれよ。俺としては、チン夫人より、気心の知れたハルの方が、パートナーとして組みやすい」
「金を半分、出せってのか」
「いや。金は君が出す。アイディアと、実行計画がわたし」
「なんだ、金は全部俺か」
「わるくない話だと思うがね。普通じゃわたしはこんなこと絶対にいいださないよ」
「皆、いろんな話を持ってきて、投資しろっていうぜ」
「そうだろう。お前は新米の金持だからな。なんとか喰いつけると思うんだ」
「あんたもだろう」
「わたしの話はちょっとばかりちがう。金を出させるからには、投資家を粗末には扱わないよ。わたしと一緒にガコガコ島まで来てもらう」
「ガコガコ島へ――?」
「ああ、その方がお前にもわるい虫がつかなくていい」
「パスポートも何もないぜ」
「心配するな。わたしと組んだ以上、お前に不自由はかけないよ。手に入りにくいものがあったら、遠慮なくいってくれ」
「それに、金はクォーレンさんに委任して、バンクオブアメリカに預けてあるんだ」
「国外に行くつもりだったな」
「そうさ」
「委任状や、その他の書きつけはとってあるかね」
ハルは委任状を見せた。
「よし。それでは逆に、俺の方から、当座の金を貸してもいい」
「いや、当座の金くらい持ってる」
この煮ても焼いても喰えそうもないガーピー先生と組んで、ろくなことはないとハルは思っていた。
ガーピー先生だけでなく、誰と組んだって、自分が金を握っている以上、喰われそうな気がする。できれば、一人が一番よい。
けれども、一人では何もできないということもある。
まず第一に、ガーピー先生が呈示してくれたパスポートというのが魅力だ。
しばらく、ガーピー先生をガード役に使ってみようかな。
「パスポートというのは、本当に手に入るのかい」
「ああ、そんなもの自由自在だ。お前の写真を張ればいいだけのを持ってきてやるよ。だから最初から、わたしに逆らわなければいいんだ」
「最初からヘイコラしてれば、いまだに小僧ッ子あつかいじゃないか」
「はっはっは――」
ハルとガーピー先生は握手した。
「では、早いところ連中から離れよう。目立たないように、サンダルでも突っかけて外に出てこい。わたしの車がおいてある」
マリア――、とハルは心の中で呼びかけた。――君は最高だが、連れていくわけにはいかないんだ。ごめんよ。
クォーレン氏の奥さんとだけは、かけおちするわけにいかない。
ハルがガーピー先生の車に乗ろうとすると、
「どこに行くのよ、ハル――」
マリアが生垣の中から顔を出していた。
もっと南へ
カン子がトイレから出てくると、応接間の気配がさわがしくなり、玄関の方に走って行く奴も居る。
哀れな渋谷の叔父さんなどはスットン親分に腕をつかまれて、護送犯人のようにひきずられていく始末。
「どうしたの――?」
「甥ッ子|奴《め》、またズラかったらしい。この家の銀髪も一緒らしいね。――あ痛ッあたしは逃げやしないったら」
「お前さんの命はハルにかかってるんだからな。ハルの金をひきだせなけりゃ、お前さんの身体で貸した金を払ってもらうから」
駅長の娘がハンドバッグを忘れて飛んで帰って来て、カン子にけわしい視線を走らせたが、すぐ玄関に走っていった。
ヘリコプターの音がきこえたのは、そのときだった。カン子はすぐに庭に出てみた。
あんのじょう、長崎から、鹿児島、宮崎と大|迂回《うかい》してきたプクプク爺さんのヘリコプターで、大きな鳥のように別荘の庭に舞いおりてきた。
機体からおりようとするプクプク爺さんを、カン子は下から両手で中に押し戻し、自分も乗りこんだ。
「すぐに東京に行って頂戴」
「東京に――?」
「ええ、東京よ。成田におりればいいわ」
「東京へ、何をしに?」
カン子は、茫洋とした爺さんの顔をあらためて見直した。
「ねえパパ、しっかりなさってね。パパのお金をとりもどすために、カン子は一生懸命なのよ。今、犯人を追っかけてるの」
「ああ、そのことなら、もういい」
「よくないわ。カン子の責任ですもの。いくらお金持だって、自分の物は自分の物よ。絶対、とりもどさなくちゃ」
「いや、お金はもう戻っているよ」
「――なんですって?」
「うん、もう戻りましたよ。クォーレンさんが長崎のチン夫人のところに届けてくださった。その一件はもう終りましたよ」
「じゃあ、ハルは――」
といいかけて、カン子はあわてていいなおした。
「あの連中は、空手形をじたばた追っかけてるの?」
「だから、もういいんだ。そんなことは忘れて、わたしたちの新婚旅行を楽しもう」
カン子はどうにもこらえきれずに、くっくっと笑い出した。プクプク爺さんの腕の中で、涙が出るほど笑った。
「お前にも心配をかけたがね。さァ、これからが本当の新婚旅行だ。どこへ行こうか」
「いいえ、もう終ったわ。とっても素敵な新婚旅行だったけど」
「東京へ帰るかい。それもよろしい。わたしはもともと、お前さえ居てくれればどこに居たって幸せなんだから」
爺さんは内ポケットから、通帳と印鑑の入った封筒をとりだした。
「これをあらためて、お前に進呈するよ。結婚の贈り物だ。今度はなくさないようにしなさい」
カン子は通帳の金額を一瞥《いちべつ》して、
「だいぶ減ってるわね」
「いいんだよ、それくらい。お前が戻ってきたんだから、安いもんだ」
カン子は、顔には出さなかったが、ひそかに勝利の味を楽しんでいた。
ガーピーも、スットン親分たちも、ハルも、右往左往したけれど、骨折り損のくたびれ儲け。
勝ったのは、あたしだけだ。あたしはこのままプクプク爺さんに寄り添って、お金持の生活が楽しめる。あとは爺さんが死ぬのをのんびり待てばいい。
それであたしの一生は薔薇色。貧乏なんて、ちがう世界の人間の話だわ。
「パパ、あたし、ずいぶん疲れた顔してるでしょ」
「いいや、天使のようだよ。顔が晴れ晴れとしているね」
「嬉しいのよ、パパ」
「うん、わたしも嬉しい。世界一の花嫁と一緒になれてな」
カン子は不意に、宮崎の別荘に居た白人の女を思い出した。
「マリアよりも、あたしの方が綺麗?」
「誰――?」
「マリア」
「キリストのお母さんかい。そいつは会ったことがないからなァ」
「パパは知らないんだわね。クォーレン夫人よ」
「わたしは信じてる。お前は誰よりも綺麗さ」
銀髪のマリアが、ハルと一緒にズラかってる、ということが、カン子の心をチクリと刺した。
それから、駅長の娘。
(――ハルのスケベエ。皆、あんたにお金があると思って取り巻いてるんだからね。あんたなんか、女に持てる男かい。あたしだけよ、お金を持ったとたんに、あんたのことを思い出したのは)
カン子は自分でも思いがけないことを内心で叫んで、びっくりしてプクプク爺さんの顔を盗み見た。
(ハル、お金はここよ。またあたしのところにあるのよ。どうする。それでもマリアなんかと遊んでるの――?)
「さァ、航空券が手に入ったぞ」
なんとなくマネージャー然となったガーピー先生が、部屋に入ってきた。
部屋、と簡単に記したが、帝国ホテルの続き部屋で、奥の寝室にハルとマリアがおさまり、ガーピー先生は第二寝室、というときこえがいいが、供待ち部屋のようなところに入っている。
「メルボルンまでいったん行って、そこから小さな飛行機に乗りかえる。メルボルンまでは南下するわけだから、時差もすくないし、楽な旅だよ」
「それが、ガコガコ島かね」
「そうだ。未来の地球の楽園さ。放射能も絶対に降ってこない南の島。そこにはダイヤモンドより高い地価で土地を手に入れることのできる選ばれた連中だけが集まってくる。ハル、わかるかい。ダイヤモンドより高くなるんだぞ。お前はそこの土地を手に入れるんだ」
「俺が手に入れて、ガーピー先生が土地を売るのか」
「誰が売ったっていいだろう。お前は資本家、俺はアイディアマンだ。二人で組んで、大儲けするのさ」
「ちょっと待って――」
とマリアがベッドの中からいった。
「あたしは日本語、むずかしいところはわからないけど、ハル、油断しちゃ駄目よ。この人は、わるい顔をしているわ。ユダの顔よ。あたしが生まれた国にも、こういう顔の人が居るの。一緒に仕事をしちゃいけないって顔の人がね」
「マリア、君はハルの女だから、ききのがすがね。無礼だよ。わたしの方こそ、今までハルに裏切られてばかりいたんだから」
「でも、ガコガコ島には放射能が降らないってことが、証明できるの」
「それは季節風の方向でね、今まで何度も方々でしゃべったから、もうくりかえすのも面倒だが、お望みなら大学の先生の研究論文をお見せしてもいい」
「それで、ガコガコ島の土地は一平方米でいくら」
「わからないよ。もう方々の国で、こっそり買いつけがはじまってるから、どんどんあがってるだろうな」
「ハル、あんた、この人の言葉だけで信じて、そんなところまで行く気なの」
「ハルとわたしとは、師であり弟子であり、ハルの子供のときからのつきあいだよ。君はなんにも知らないんだ」
「でも、誰も知らないガコガコ島で、殺されちゃったってわからないわよ」
「殺す気なら、今だってやれるさ。だが私は、法律にはずれたことは大嫌いだ」
「ハル、メルボルンに行く前に、ちょっとマレーシアに寄ってみましょう。あたしのカジノの話の方が、ずっと現実的だし、危険もないわよ」
「カジノだって、へッ」
ガーピー先生は冷笑した。
「カジノの話なんか最低だ。向うの政治家への献金、マフィアへの献金、方々に金をばらまかされて、そのあげく、話がうまくいかなかった、で、ポイさ。今までどれほどのカモが喰われたか。ハル、そんな話は詐欺師の初等科だよ」
「クォーレンさんの力を知らないでしょう。それに、あたしもマレーシア生まれなのよ。第一、ハルの後見人はクォーレンですからね。彼が首を縦に振らなければ、バンクオブアメリカから金をおろせないわ」
「だから、マリア、君にも協力してくれといってるじゃないか。ま、一度来てごらん。ガコガコ島を君も気に入るから」
ハルは、二人のやりとりをニヤニヤしながらきいていた。
彼だって、ガーピー先生を好人物と思っているわけじゃない。
それから、マリアのカジノの話も、簡単に話が進むと思っているわけでもなかった。
ただ、当面は、マリアの身体を抱き、ガーピー先生が珍らしく自腹を切ってこしらえてくれるお膳立てに乗っていようと思う。
なにしろ自分は現金を持っているわけじゃない。クォーレン氏が、うんといって、バンクオブアメリカの金をおろすのを同意してくれないかぎり、どうにもならない。それまで自分は安全だ。まさか金を掴まない前に、自分を殺すようなことをすまい。
そうすると、それならいっそ、いつまでもガーピーに金を払わせて、俺はノラクラしていればいいのかな。
それとも、国外に出たらマリアを連れて遁走してもいい。
いずれにしてもなりゆきまかせ。
ブザーが鳴って、まず、渋谷の叔父さんが哀しそうな顔をのぞかせた。
「ハルゥ――!」
しかし奥の寝室の扉はしまっている。ガーピー先生が家令のように、
「貴方はどなたでしたっけ――?」
「叔父ですとも、ハルのね」
「それで、ご用件は?」
待ち切れなくなったらしいスットン親分、トルコ、サラ金が顔を出した。
「よウ、ガーピー先生、久しぶりだな」
「なるほど、あんたたちか」
「いやな顔をするない。俺たちゃ大株主だぜ。配当はどうしたイ。ここで会ったんだから、まず配当からもらおうじゃないか」
「配当はね、株主総会で――」
「いいよ。これが総会だよ。あとはこまかい株主ばかりだ。それで、まず、何割くれる」
「業績不振でねえ。まだいくらも収入がない」
「約束とちがうぜ。おい。ガーピー、誰に物をいってるんだね。日本全国の暴力団を敵に廻そうってのか」
「まァまァ――」
とこういう場合の型どおり、サラ金がわって入った。
「その件はその件としてだね、ハルに会わせてもらいたい。俺たちは今日、ハルに会いに来たんだから」
「ああ、ハルのことはね、わたしが代理人として伺います。ご用件は?」
「ご用件はじゃないんだよ。ハルに会わせればいいんだ」
「私はガーピー連盟の代表ですからな。ハルのことは私をとおしてお訊ねください」
「うるせえ、この野郎」
とスットン親分が奥にふみこもうとする。ガーピー先生は受話器に手をかけて、
「ここは帝国ホテルですぞ。支配人を呼びます」
「なぜ、会わさない」
「今、婦人と同衾中です」
「ハルをどうする気かね」
とトルコが一歩前に出た。
「どうするといって、ガーピー連盟の方針どおり、海外の某所に投資してもらいます」
「それがねえ、こっちも困ってるんでねえ――」と叔父さんが哀訴した。「ハルのために八方大借金なんで。まずそれを返してもらわねえと――」
「海外ってのはどこだね」
「いえません。企業秘密でね」
「そこへハルを連れていくのか」
スットン親分がドスの利いた声を出した。
「連れて行かせねえよ。ハルは風来坊でパスポートなんぞとれねえはずだ。空港にチックリして出国させねえ」
ガーピー先生は、やんぬるかな、という表情になった。
「やれやれ、これは株主配当にも関係することなんだがなァ」
「そんなものいらねえ。ハルを、身体ごとよこせ。そうでなきゃ、全国のやくざを敵に廻すことになるぞ」
奥のベッドルームでは、ハルが、カン子からの電話を受けているところだった。
「モシモシ、ハル――」
その声だけで、カン子だとわかった。
「そうだが、どうしてここがわかったんだ?」
「スットン親分たちが押しかけていったでしょ。あたしは遠慮してロビーに居るわよ。どうせ美人が一緒でしょうから」
ハルはマリアをチラと見、受話器を持ちかえてから、
「爺さんのところに戻ってるのか」
「そうよ。あたしたちは幸福よ」
「そりゃよかった。じゃァ、爺さんはあの金のこと、もうあきらめたんだな」
「ハル、お金はもうあたしたちのところに戻ってるのよ」
「――そうかい。金も女も戻って、爺さんは大喜びだろうな」
「冗談じゃないのよ。お金はこっちにあるの。お知らせしなくたっていいんだけど、やっぱりハルのことが心配だったものでね」
「――どういうことだい。そりゃァ」
「クォーレンさんが、チン夫人のところへ届けてくださったのよ。それで夫人から、主人のところに戻ったってわけ」
「――よくきこえなかったぜ。なんだって?」
「それでね、主人がね、あらためてそのお金を、あたしにプレゼントしてくれたのよ」
ハルは受話器を耳から離して、じっと眺めた。
「ハル、気をつけないと駄目よ。あたしは黙っててあげるけど、一文無しってことがわかったら、皆、あんたを相手にしやしないわよ。殺されちゃうかもしれないわね」
「――そうかいそうかい。よかったね。おめでとう、カン子」
「あんたの銀髪美人にも黙っててあげるわ。でもね、あたしはもう、あんたの女房じゃないからね。それじゃ、お幸せにね」
ハルは別室からきこえてくるガーピー先生たちの声をききながら、一人で笑い出した。
「ハル、どうしたの、誰からの電話?」
「ああ、俺の昔の恋人からね、縁切り状がきたよ」
ハルはマリアの大きな乳房を愛撫しながら、遠くの方を見る眼になった。
豪州《オーストラリア》便のファーストクラスの椅子にゆったりと腰をおろして、ガーピー先生がいった。
「ハル、酒もタダだし、なんでもタダだ。遠慮しないでドンドンやれ」
ハルはしかし、成田で買い求めた大きな世界地図を、一生懸命眺めていた。
「ガコガコ諸島ってのは、地図に出てないぜ」
「そんな地図に出ているもんか。出ていたら俺たちの買う土地なんか、とっくに売り切れになってるさ」
ガーピー先生は苦もなくいった。
「地図にも出さないほど、秘密なのか」
「そうだ」
「放射能なんてものが天から降りだす前から、秘密だったのかい」
「ずっと前は無人島で、誰も知らなかったんだ」
スチュアーデスが三時のお茶とケーキを運んできた。ハルはマリアのために大きなショートケーキを取った。
「あたし、いらない」
「タダだぞ」
「俺が喰う――」とガーピー先生がいった。「苺《いちご》はゲンがいいんだ。勝負師はイザという前によく苺を喰う」
「それで、ガコガコ諸島にも、不動産屋が居るのか」
「行ってみなきゃ様子はわからん」
「なんだか、当てにならない話ね」とマリア。
「うまい話ってものは皆そうだ。どこかうさん臭いんだ。うさん臭くない話なんか旨みがあるもんか。マリア、君のカジノの件だってそうだろう」
そういうハルを、マリアは哀しげにみつめた。
「それは少しちがうと思うわ」
「どうして」
「マレーシアのカジノの件は、あたしがパートナーよ。ガコガコ島には、あたしは居ないわ」
「すると、俺がガコガコ島に投資したら君は俺から離れていくのか」
「哀しいけれど仕方がないわね。あたしはマレーシアに行かなくちゃ」
「ガーピー先生、こういってますがね。マレーシアのカジノも魅力的だなァ」
「お前は、アホか。ガコガコ島の地主になったら、石油王と同じさ。世界中から女なんか腐るほど呼べるわい」
「あ、そうか」
「今のうちにゆっくり眠っとけ。もうすぐ眠るヒマなんぞないくらい、いそがしくなるぞ」
メルボルンは豪州の南の端だから、日本人の観光客もここまではなかなか足を伸ばさない。ところがこの飛行機にはわりに日本人客が多かった。普通なら行く気などおこさない者が、すくなくとも七、八人乗っていたからだ。
ファーストクラスの前記三名。エコノミークラスの方に、スットン親分、トルコ、サラ金、渋谷の叔父さん、それに、駅長の娘。
彼等は彼等で、それぞれ思惑があるだろう。少し前とちがって、ハルは彼等の機嫌も損じないように努めなければならなかった。なぜといって、自分の内ポケットにあるのは、どうやら空手形で、自分はまた一文無しになっているらしい、とわかってきたからである。
しかしながら、たとえ空手形であっても、連中がそれを知らない以上、すこしも価値が減りはしない。あくまで、ポケットの書類は死守しなければならぬ。状況はまったく変っていない。だからハルは暢気《のんき》であった。
そうして、ハルにとって、とりついてくるお客さんは多いほどいいのである。彼等の思惑に、ハンモックのように乗ってたゆたっていればいいのだ。
だから、メルボルンの飛行場におりたったとき、ハルは、スットン親分たちに向かって、愛嬌よく手を振ったりした。
「さァ、ハル、いそがしいぞ」
とガーピー先生が、気むずかしい顔でいう。
「いったんここでホテルをとろう。島に直行する手もあるが、あの連中を始末しないとな。うるさくてかなわん」
「始末って、消すのか」
「オーストラリアは広い。日本とはちがう。街の外に出れば砂漠だ」
「そいつはまずいな。俺はね、人殺しは好きだが、犯罪者にはなりたくないぜ。銭があるのに臭い飯なんか喰えん」
「しかし、連中もそう考えてるよ。銃器も手に入りやすい。どっちが先手をとるかだ」
「俺を殺すのなんか、簡単だろうがね」
「お前は今のところ消せない。現金を手にするまではな。安心しろ、この私がちゃんと守ってやる」
なるほど、とハルは思った。こいつァ便利だ。内ポケットのものは現金にはかえられないのだから、堂々と、誰かによっかかっていればいいのだ。
例によって続き部屋で、ハルとマリアは主賓用のダブルベッド、ガーピー先生は従者用のシングル、と別れている。それで勘定はガーピー先生だから、彼も気張っているのである。
ホテルのフロントできくと、ガコガコ諸島への空路はないそうで、観光用の水上飛行艇を買い切るか、クルーザーを雇うかするしかない、という。
訊きに行ったマリアの話によると、ガコガコ諸島には飛行場がないのだそうだ。
「なんじゃ、それは――」
とハルはガーピー先生の顔を見た。
「飛行場もないような島の土地を買ってどうする」
「いや、きっと一切が秘密なのだろう。もう誰も押しかけてこないように、飛行場も教えないのだ」
「ガーピー先生は知ってるのかい」
「いや。――物入りだが、飛行艇を雇うかな」
ホラ、ごらんなさい、と二人っきりになると、マリアがいいだした。
「どうせいいかげんな話なのよ。あんな人のいうことなんかに乗らないで、マレーシアに直行すればよかったんだわ」
「しかし、どうせヒマなんだからね。観光旅行と思えばいいじゃないか。それにガーピー先生は敵に廻したら厄介《やつかい》だよ。ああやって、費用も彼持ちで、護衛までしてくれるんだから」
「でも、永久に守ってはくれないわ」
「そうだ。永久に味方ではないな」
「貴方が投資したとたんに、始末されちゃうかもよ」
「うん。しかし、ガコガコ島の件が駄目で、投資しないとわかれば、これまた怖いね」
「逃げる手よ、このへんで。あたし、マレーシア行きの旅券をとってきてもいいわ」
「そうだな。まァ、寝ながら考えよう」
ハルは、柔らかいベッドの中で、綿のように白いマリアを抱いた。これさえあれば、メルボルンだろうがマレーシアだろうが、どこだってかまわない。
翌朝、二人が寝室から出ていくと、早くもガーピー先生が一人でコーヒーを呑んでいた。
「えらい早起きだなァ」
「早起きというよりは、夜勤明けさ」
ガーピー先生は、テーブルの上を顎でしゃくった。
パスポートが五個、その上に乗っている。
ハルが一瞬、絶句した。
「五人ともか――!」
「そうさ」
「殺ったのか――!」
ガーピー先生はニヤッと笑った。
「殺ろうと思ったがね。私も荒事《あらごと》は嫌いだ。考えてみたら、これだって同じことだから。半月ほど足を停めておけばいいんだからな」
「なるほど。連中はパスポートを盗られちまったってわけか」
そういってから、ハルはあわてて、
「マリア、君のパスポートを調べてごらん」
「大丈夫だ。お前の恋人のものに手はつけないよ」
さァ行こうか、とガーピー先生はいった。
「連中が騒ぎ出す前に、出かけようぜ」
「飛行艇か」
「ああ、もう手は打ってある。ただ、通訳が居ないんだ。マリアさん、ここは頼りにしているよ」
ガコガコ諸島は、一応、仏領になっているので、乗りこむ前に小面倒な手続きをとらねばならない。パスポートの無い奴は来られないのである。
小型飛行艇に乗りこんでから、
「おや――!」
とハルが声をあげた。操縦士が金髪美人で、ハルの方を見て微笑を投げかけてくる。
「どうだい、シャレたもんだろう。観光用の飛行機だって女の操縦士はたんと居ない。苦心してみつけたんだ」
「いい眺めだな。気に入ったぜ」
マリアのみ、ツンとして横を向いている。
操縦士が前方を見たまま、なにかこちらにいっている。
「マリア、何をいってるんだい」
「――あんなところに、なにをしに行くんだ、っていってるわ」
「猛獣狩りだ、っていっておやり」
その言葉を伝えたマリアが、ふっと笑った。
「あそこには獣は居ない。生物はまったく生息していない、って」
ハルは、ガーピー先生の顔を見た。
「獣は居ないさ。けど人間は居るんだ。きっと高速道路ができて、獣が住めなくなったんだろう」
「どうかな。しかし俺も、ガコガコ諸島にだんだん興味が出てきたよ」
ハルは、以前に売りそこなった北海道の草も生えない岩地のことを思い出してなんとなく笑い出した。
「まァなんとでもいうがいいさ。原子戦争がおこってから、いくらでも笑え」
マリアが、あたしたち、ガコガコ島の土地を買いに来たのよ、と操縦士にいっている。
「土地――?」
飛行艇が一瞬揺れたほど、彼女は仰天した。
「あの島の土地をですって――!」
「あそこに売るような土地なんてあるかしら。もしあっても、今は誰も買えないわ」
「なぜ――?」
「国が禁止してます」
ほら、とガーピー先生が深くうなずいた。
「もう禁止命令が出てるのか。でも平気だ。抜け道は絶対ある。ただ、それだけ高くなっているだろうがな」
「でも、なぜなの」
「政府の高官や金持が買い占めてるんだろう。しめたぞ。噂はやっぱり本当だったんだ」
ガーピー先生が、直接、下手な英語で訊いた。
「それはやっぱり、放射能のせいかね」
「ええそうよ」
放射能のせいだといってる、とガーピー先生はハルに伝えた。
「あそこのあたり一帯は、原水爆の実験がおこなわれていたところで、まだ五十年くらいは、人が住んではいけないところにされているんです。だから、この飛行艇も、着水して三十分後には飛ばなくちゃいけないのよ」
今度は、ガーピー先生はなんとも答えなかった。
「話が逆ね――」とマリアがいった。「季節風で、放射能からは絶対安全だそうだけど、いつだって放射能でむんむんしているのね」
「そういってるだけだよ。そういっておいて、庶民には手を出させないんだ。よくある話じゃないか」
ガーピー先生の声も弱々しい。
そうして、眼下にガコガコ諸島が見えてきたときは、あまりのことに、ガーピー先生すらのけぞった始末だった。
「あの岩みたいのが散らばってるのがそうかね」
「そうよ」
「いや、これはちがうんだ――」と彼はいった。「君、ガコガコ諸島だよ。なんかまちがってるんだろ」
「降りるんなら、岩にぶつからないように降りますけど」
「女の操縦士は駄目だな。いやしくも、諸島と名のつくものが、あんなものじゃない。どこかに本島があるんだよ」
「水爆の実験前はね、もう少しあったのよ。もうそれは全部、海の中です」
ハルは、マリアのように笑い転げてはいなかった。ここまで、ガーピー先生に恥をかかしたとなると、このあとが、厄介なのである。
「とにかく一度、戻ろうか。――だがねえガーピー先生。俺も、これはなにかのまちがいだと思うよ。もう一度、メルボルンでよく調べてみよう」
ハルは、マリアにも、このことは絶対誰にもしゃべっちゃいけない、といった。
ハルの内ポケットと同じで、たいがいのことは、誰も知らなければ、どうってことはないのである。
メルボルンに戻ったとき、ガーピー先生の眼は、心なしかけわしくなっているように見えた。
「ガコガコじゃなかったのかな。似たような別の名だったかもしれない。なにしろこのへんは、まぎらわしい名前が多いからな」
「そうだろう。きっとそうだよ。もうすこしくわしい人を連れてくればよかったね」
「どっちにしたって、あの水域は水爆実験の場所だったのよ。そんな島、あるもんですか」
その晩、マリアがベッドの中で眼をさますと、ハルが居ない。
しばらく気配をうかがっていたが、トイレでもないようだ。マリアが不安になって半身をおこしかけたとき、素足のままのハルが静かに部屋に戻ってきた。
「さすがのガーピー先生も、今日は疲れたらしい。よく眠ってたぜ」
「どうしたの――?」
ハルは、パスポートを、ばらばらとベッドの上に撒まいた。
今朝の五個。それにもうひとつ。ガーピー先生のパスポートもだ。
「明日は、マレーシアに向けて発とう。このままガーピーと居たんじゃ、危ないからね」
マリアはにっこり微笑んで、ハルにくちづけをした。
「さァ、あとはこのパスポートをどこへ隠すかだな」
「警察に持っていくといいわ」
「警察に――?」
「ひろい物は警察に届けるのよ。でも、落し主が行っても、いろいろ手続きがあってすぐには返してくれないわ」
「よし。今から行ってくる。警察は二十四時間営業だろう」
マリアはそれで安心してベッドに埋まり、うとうととした。
誰かの気配がしたようで、
「お帰りなさい、ハル――?」
返事がない。枕元のスタンドをつけると、ガーピー先生が立っている。
「それじゃ、マリア。君のパスポートを預かっとこうかね」
銭よいずこ
「それで、ハルのパスポートは――?」
ガーピー先生は、身をすくませているマリアにいった。
「知らないわ。ハルが持ってるんでしょう。さっきどこかへ出かけていったけど――」
「この夜中にか」
ガーピー先生は昨日までの上機嫌の笑みを浮かべなかった。
「まあいい、奴のはどうせ贋《にせ》だからな。一人でどこかへ飛ぶようなら、すぐに当局に通報してやる」
スットン親分、トルコ、サラ金、渋谷の叔父さん、駅長の娘。それにガーピー先生のまで、六人分のパスポートを、ハルは警察に落し物として届けに行ったはずだ。
マリアのパスポートは、ガーピー先生が奪っている。
警察は、落し主が出て行っても、それが本人という確かな証拠を得るまで、おいそれとは渡さないだろう。
そうすると、皆が、しばらくこのメルボルンから動けないわけだ。
カチッとドアが開いて、ハルが入ってきた。ガーピー先生は蛇のような冷めたい表情で、ハルを見た。
「ハル、朝になったら、ちょっとつきあって貰いたいところがあるんだ」
「へえ、どこだい」
「ガコガコ島さ」
「そいつは昼間行ったぜ。あんなもの島じゃない。ガコガコ岩《ロツク》さ」
「あれはまちがいなんだ。操縦士がね、めったに観光飛行じゃ行かないから勘ちがいした。豪州領で、れっきとした奴があるんだよ。ひとつ二人っきりでそこへ行ってみよう」
ハルは、マリアをチラと見ていった。
「三人じゃ、いけないかね」
「いや、二人がいい。水入らずでね」
ハルは、ガーピー先生から眼をそらしていった。
「気がすすまないな」
「しかし、これが今度の旅の目的だからな。現地へ行ってみなくちゃお話にならん」
「あたしも行くわ――」とマリアがいった。「豪州領なら、パスポートがなくても行けるでしょう」
「マリア、パスポートがないのか」
「俺もないのさ。ハル、俺の奴は返してくれるな」
「たった今、警察へ届けてきたよ。廊下に落ちてたんでね」
「それじゃ、お前の贋のパスポートも通報しなくちゃならんな」
「そうしたまえ。そのかわり、俺はガコガコ島には一切、投資しない」
二人はそこで口をつぐんで、にらみあった。
「朝の十時に出発するよ。それまでよく寝ておけ。いやなら、贋パスポートの一件で豚箱入りだ」
ガーピー先生が自分の寝室にひっこむと、ハルはにやっと笑った。
「さァ、いよいよあいつと、決戦だな」
「ガコガコ島なんて嘘よ。二人で行けば殺されちゃう。きっと、委任状を書かされて、書類をとられちゃうでしょ」
「どうすればいいと思う。まず、書類を持っていかないことだな」
「あたしが預かります」
「君がね――」
ハルは頷ずいてからいった。
「君はパスポートさえとられちゃうんだから、書類だって安全とはいえないな。それに、こういう場合、味方が多い方がいい」
「どういう意味――?」
「渋谷の叔父さんに預けよう。叔父さんを泣かしてばかりいたからな。たまには彼を喜ばせなくちゃ」
「――あたしより、渋谷の叔父さんを信用してるの」
「大丈夫だよ。パスポートがないんだから、彼等はどこへも行きやしない。それに俺が居なきゃ、彼等じゃ現金にはならないんだから、俺を守ろうとするだろうね。スットン親分たちは、皆で俺の方につく」
ハルは電話に手をのばした。
「クォーレンさんは、本宅というとどこなんだろう」
「さァ、東京に事務所も住居もあるし、長崎のチン夫人のところかもね。宮崎にはめったに居ないわ」
「よし――」
ハルは国際電話を申しこんだ。日本と緯度はそうちがわないから、東京もまだ夜中であろう。
はじめに東京が出て、召使らしい男の声だった。
「クォーレン氏はただ今、長崎にいらっしゃいます」
ハルは長崎にかけ直した。
「――モシモシ、クォーレンさん。ハルです。今、豪州のメルボルンに来ています。僕の通帳の中から、二千万ほどこちらに送ってくれませんか」
「――君の金というと、何だっけね」
「バンクオブアメリカに預金していただいた金です」
「ああ、あれはプクプク財閥の金で、もう持ち主の手に返っとるよ。君の金じゃないんだ。それは君もよく知ってるだろう」
「ええ。でも、そうもいってられませんよ。今、マリアも一緒に来てるんです」
「マリアが――? そっちへかね」
「担保にお預かりしてます。それでマリアさんもちょっと危険なんですよ」
「危険というと――?」
「ガーピー先生にパスポートまでとられて監禁されてるんです。金がないと、マリアさんの命があぶない」
「なんだって――。マリアを出してくれないか」
「そうよ、クォーレンさん」
とマリアも冷めたくいった。
「あたし、殺されそうなんです」
昨日の小型飛行艇が軽快に海の上を飛んでいる。しかし今日は、女飛行士でなく、いかにもうさん臭げな中年のパイロットだ。
「あの島だ――」
とガーピー先生がいった。
「君、早速、おりてもらおうか」
断崖にかこまれた、樹木のないノッペラボウのような島が、大きく旋回した。
ハルが、操縦士の方に顔を近づけて、英語で訊いた。
「これが、ガコガコ島――?」
「そうだよ」
とガーピー先生が答える。
「本物のガコガコ島だ」
「なんだか丸裸で、人が住んでるような気配はないね」
「邪魔がなくていい」
「しかし、放射能が降らない島で、さかんに土地が売れてるといったね」
「土地だけは売れてる。今からここに来て住む奴は居ない。地球戦争がおこったらの話だ」
たった一ヵ所、入江があって、飛行艇はそこに着水した。
「さァ、二人で上陸してみようか」
「上陸しなくても、様子はもうわかったよ」
「いや、どこがいい土地か、調べる必要がある」
「でも、いったい誰からその土地を買うんだい。無人島だぜ」
「メルボルンに居るんだ。周旋屋がね」
入江に沿った陸地には、タガンタガンという雑草のような草が一面に生えていた。しかし道はない。二人は草をふみわけながら懸命に歩いた。
「どこまで歩くんだね」
「よさそうな土地がみつかるまでさ。ひょっとすると、外からは見えないが、高層ビルが建っているかもしれないぞ」
ふりかえると、いつのまにか高台に来ており、入江の飛行艇が小さく見える。
そこから少し降り坂になったところで頭上に爆音がし、飛行艇が飛んできた。
「おや――」
ハルは飛んでいって入江を見たが、自分たちの乗ってきた奴は、ちゃんと入江に停まっている。
「そうら、土地を買う奴がまた来たんだろう」
ガーピー先生はそういって、草むらの中にうずくまった。
「どうだい。あそこの高台がいいかな」
「気に入らんね。第一、こんなところで暮せるもんか。水だってあるかどうかわからない」
「開発するんだ。そんなこと朝飯前だろうぜ。それに土地ってものは、手をかけるほど高く売れるんだ」
「ロビンソンクルーソーだな」
「他に居たら放射能でやられちまうんだぞ。ああだこうだいってられるか」
「とにかく、俺は気がないね。こんな島を買うくらいなら、マリアのカジノに投資した方がいい」
「それが正式の返事か」
「そうだね」
「ここに来るまでの一切の面倒を見たぜ。パスポートも作ってやった」
「そりゃァ、案内人の義務だろう。資本家は見に来ただけだ。買うかどうか、見たうえで決める」
「じゃ、決めろよ」
「返事はしたぜ」
「おい、考えてみろ。俺を怒らせると、パスポートの件でお前は行き場がなくなるぞ」
「ガーピー先生が贋物を造ってくれたと警察でいうよ」
「そんな証拠がどこにあるんだ」
「さァ戻ろうぜ。ガーピー先生、まだいくらだってうまい話はある。マリアの件を共同でやってもいい」
「いや、まだ話は終っちゃいない。本当はな、お前がここに投資しようとしまいとそれはどっちでもいいんだ。ただお前のそのポケットのものを、俺に預からしてくれればな」
「ポケットのものって、俺は何も持ってきてないぜ」
「マリアに預けたか。まァそいつはいいよ。お前が、クォーレン氏あてに、あの件について俺に委任するという書状を書いてくれればいい」
ガーピー先生は、ポケットから短銃を出して、ハンケチで磨くようにした。
「こんなものを使いたくないがね。ここは一番、冗談でごまかされたくないからな」
ハルはなんとなく笑い出したい気分だった。委任状なんか百通でも書いてやるわい。どうせ、俺は一文無しで、ガーピー先生の狙っている書状は鼻ッ紙にすぎないんだから。
鼻ッ紙だってことをさとられないかぎり、一文無しほど強いものはない。何をしたって損はないんだ。たとえ誰だろうと、旦那《タニマチ》だと思ってりゃいい。
「今、書くよ。ガーピー先生。だけどひとつ条件があるんだ。マリアを連れてマレーシアのカジノを見学に行く。マレーシアから日本までの二人分の旅費を現金でほしい」
「よかろう――」
ガーピー先生はにやりとした。
「じゃ、書きな。委任状を」
「現金《キヤツシユ》をおくれ」
短銃をそばにおいて、内ポケットから財布を出した。
「おーい、こっちを見ろ」
高みの方で誰か叫んでいる。ハルが同時に、ガーピー先生の短銃を足で蹴飛ばした。
スットン親分、サラ金、トルコ、それから渋谷の叔父さんやマリアまで、メルボルンで買ったらしいピカピカの銃を持って草の中に一列に並んでいる。
彼等は銃をかまえたまま、笑いながら近づいてきて、素早く猿ぐつわをかませ、ガーピー先生をぐるぐる巻きにした。
「ざまァみろよ、ガーピー。だから俺たちに配当をよこして味方にしとけばよかったんだ」
ガーピー先生は両眼をはげしく見開いて、皆をにらんでいた。
「心配するな。俺たちは銃は使わない。皆、殺しの嫌いな奴ばかりなんだ。まァしばらくそこで休んでいてくれ」
ガーピー先生がちょっと身もだえをした。そのときはもう一同は、高みのところを越えて、入江の飛行艇に向かっていた。
ハルが乗ってきた飛行艇に飛び乗り、手まねで発進を示した。
「もう一人の男は――?」
「向こうの連中と一緒に乗った。こっちは俺一人だ」
多分、このガコガコ島には、当分観光の飛行艇も来ないだろう。ガーピー先生は、島の土地を一人占めにした気分を味わうはずだ。命があれば。
ところで、メルボルンに戻ってからも渋谷の叔父さんはまだ昂奮《こうふん》していた。
よかった、よかった、と彼は一人でくりかえした。
「ハル、お前がこんなに男らしい奴とは思わなかったよ。だがね、叔父さんは全額はいらない。当面の借金だけ埋めてもらう。あとはお前が自由にすればいい」
「そう簡単に考えてもらっても困るんだがね」
とサラ金がいう。
「俺んところから持ってった銭だけだって、相当にあるぜ。ええと、元金はいくらだっけな」
「あのときかき集めてもらったのが、一億さ」
「そうだ、一億だ。でも利子が複利になっていくからね。細かく計算してみなきゃわからないが、全部で二億は楽に越すんじゃないか」
「俺の配当も、忘れてもらっちゃ困る」
とスットン親分。
「そうだ、配当からまず分けなくちゃなァ」
トルコもいった。
「一人五千万としたって、三人で一億五千万だ。安く見積ってもだぜ」
「配当って、それはガーピー連盟のだろう。それはガーピーが払うべきだ」
「ガーピーは払えんさ。とにかくここに三億弱の銭があるんだから、まず焦げついてるところを精算しよう」
なにをいわれても、ハルは平気だ。どうせ鼻ッ紙さ。わけられるものならわけてみろ。
ハルはマリアにいった。
「さて、今度は叔父さんを哀しませる番だ。書状は叔父さんのところだから、とり戻すのは簡単だね。それで、マリアに投資しよう」
「じゃ、マレーシアに行くの?」
「ああ、二人っきりでね」
ハルは、縛られたガーピー先生のポケットから抜いてきたマリアのパスポートを彼女に返した。
「嬉しいわ。でも、書状は?」
「もちろん、とりもどすよ。奴等はパスポートがないから、すぐには動けない。今度は安心して旅ができる」
「マレーシアに着いたら、結婚したい。あそこの教会はとても簡単に式をあげてくれるのよ」
「クォーレン夫人が、結婚式かね」
「籍が入ってないの。夫人じゃないわ」
「どうだか、うまいこといってるぜ」
マリアは、そこで声をひそめて、しかし眼に充分感情をもたせていった。
「ハル――、愛してるわ」
「俺もだよ、マリア――」
そうして、ハルは心の中でちょっとつけたした。他の女も、全部、愛しているよ――。
「ハル――、シンガポールよ」
とマリアがいう。
緑の深い森林と、紺碧の海とにはさまれて、白い高層建築の塊りが見える。
もっともハルは、メルボルンだろうとシンガポールだろうと、さしたる感慨を示さない。どこだろうと、女と酒があって時間がつぶれていけば、それが人生としているところがある。
「いい街よ。しばらくシンガポールで暮さない」
「それもいいね」
「ここは査証《ビザ》もいらないし」
「現金《キヤツシユ》があればね」
「心細いこといわないで。新設のカジノの経営に首を突っこもうという人が」
「そりゃそうと、クォーレンさんが、ひょっとして、金をメルボルンに送ってくれたりしてると、もったいないことしちゃったな」
「なにいってるの。こっちのホテルに転送してもらうように、向うで頼んできたわよ」
驟雨《しゆうう》が去ったあとらしく、飛行場は濡れ濡れとした明るさを湛えている。
マリアのあとからトランクを持ったハルが、タクシーを停めようとして足早になったとたんに、
「マリア――」
白服にヘルメットをかぶった中年紳士が近づいてきて、彼女を両手で抱きしめた。クォーレン氏だ。
「多分、この便だろうと思った。無事だったかね」
「――ええ、元気よ」
クォーレン氏はハルをチラと見て、
「マリア、君の冒険旅行ももうこれまでだよ。危険な男もたまには魅力だろうがそろそろホームシックにかかっている頃だろう。さァ、迎えに来た。私のそばにおいで」
「残念だけど、パパ、ホームシックには一度もかからなかったわ。あたしの冒険旅行はまだはじまったばかり。放っといてくださいな」
マリアは自分から進んで、ハルのそばにぴったり寄りそった。
「あたしたち、お似合いでしょう。年頃も、毛並みも」
「マリア、その男は――」
「どこの馬の骨かわからないんでしょ。あたしもそうよ。父親だってどこの国の人かはっきりしないわ。それに、あたしたちは何から何までぴったりなの。こんなに合ってしまう人なんてはじめてよ」
「それはつまらん考えだよ、マリア」
「でも、ときめいてしまうのよ。どうすることもできないわ」
「マリア、私だって愛しているよ」
「でも奥さんもお子さんも居るわね、香港に。ハルには何もないわ。ちょうどあたしがすっぽり入る隙間があいてるの」
ハルは黙って、英語でやりとりする二人を眺めていた。しかし話の内容は、ハルの腕に巻きついてくるマリアの腕が、雄弁に物語っている。
「――だからね、パパ」とマリアは、微笑を湛《たた》えながらいった。「他にはなにもいりません。ハルが預けたお金を、バンクオブアメリカに行って、引き出してきて頂戴。それであたしは、パパに死ぬまで感謝するわ」
「あのお金はね、ハルの物じゃないんだよ。だから最初から無いも同然なんだ」
「じゃ、誰の物なの」
「マリアの知らない人の物だよ」
「まさか、パパの物になってるんじゃないんでしょうね」
「ちがうよ。とにかくその男は一文無しなんだ」
マリアはハルの顔を見た。そうして日本語でいった。
「貴方、一文無しなんですって」
「そうかい。彼はそういうかもしれないね」
「そういわれて、平気なの」
「俺は彼を信用して預けたよ。でも、今は、彼はなんとでもいえるんだ」
マリアは再びクォーレン氏を見た。
「パパ、悪い人なの」
「私は香港でも日本でも立派に通用する弁護士だよ。その男は何だね。肩書があるかね。ただの風来坊じゃないか」
「でも、メルボルンまで大勢の人が、ハルの金を当てにして追ってきたわ」
「それじゃ、その男を信用したらいいだろう。そのかわり、マリア、君は自分の金でその男を喰べさせなければならないよ」
「その方が、クォーレン氏第二夫人よりいいかもね」
ハルはわざと、タクシーを停めて、扉を開いて待っていた。
マリアがすぐにタクシーのそばに駈け寄る。
「――よろしい」とクォーレン氏がその背中にいう。「すぐに幻滅するだろう。私は待ってるよ」
それから動き出したタクシーの窓に吹きこむようにいった。
「ハル君も、ここでは好き勝手な真似ができないってことに、すぐ気がつく。素直に日本に帰った方がいいよ」
ハルは、あいかわらず自分の横に居て、夕食のときにはナイフを器用に使って肉を切りきざんでくれたり、英語ですべて代弁してくれたり、手足のようになってくれる銀髪の女性を、信じがたい気持で眺めていた。
クォーレン氏から、一文無しだときめつけられたのに、自分のそばを離れなかった女。
お互い気ままなフィーリングが軸になった関係で、それにふさわしいピカピカの女と思っていたのに、なんだかべったりの世話女房という恰好になってきたのが、どうもうっとうしい。
俺、そんなつもりじゃないんだぜ。俺たちはね、食堂の定食じゃない。たまに食べるレストランのフルコースなんだ。お互い、腹一杯になったら、それで終りさ。
マリア、君は結局、クォーレンさんのところに戻るんだよ。それで、末永く、お互いが飽きるまで、俺と浮気しよう。
俺はそれ以外のことを考えたくないんだよ。本当は君もそうなんじゃないか。だったらつまらん意地を張らないでおくれ。
ハルはいった。
「マリア、俺をいつまでも愛せるかい」
「愛せるわ。そう思わなければ、愛することなんてできやしないわ」
「だがね、クォーレンさんは俺の銭を預かってないという。すると、とりあえず奴のいうとおり、一文無しも同然だぜ」
「預かり証は渋谷の叔父さんが持ってるんでしょう」
「だが、ここにはない。俺は君の銭が頼りだ」
「カジノの投資は夢なの?」
「今の段階ではね」
「オーケイ。あたしがなんとかするわ」
「――どうやって?」
「あたしに働かせて。でも条件があるの」
マリアはハルにくちづけして、
「順序も逆だし、セリフも逆ね。でもいわせて。――結婚してほしいの。日本に帰って。それが条件よ」
やれやれ――。
マリアは電話をかけて、英語で話しこんだ。そうして受話器をおくと、
「明日の昼食をお約束できたわ」
「――クォーレンさんか」
「ノウ。チン夫人よ」
「こっちへ来てるのか」
「カジノの件も、あの奥さまとコンタクトをとらなければ、あたしには何も手がかりがないのよ」
「カジノなんかどうでもいい。どうせ俺は出資できない」
ハルが階下におりていくと、ロビーにクォーレン氏が屈託《くつたく》した表情で坐っていた。
「クォーレンさん――。相談があるんですが」
「――脅迫には乗らないよ。あの金は持主に返した。チン夫人の命令でね。脅迫するなら私にも、いくらでも君を追いつめる方法はある」
「俺は道徳家じゃないが、犯罪は好かんですよ。それで生きていられる間はね。脅迫じゃない。マリアをお返ししたいんです」
「――それで?」
「本来は、貴方の女を盗んだ恰好だから、俺が罰金を払うべきですね。でも俺は金がない。そこで、貴方に女を売りたいんだ。俺が彼女を説得します」
「――なるほど。マリアも頼りない男を選んだものだね。で、いくらで?」
「二千ドル――」
「よかろう。取引きは交換だね」
「ドルで、現金《キヤツシユ》で、今、ください」
「信じられない」
「俺は、消えます。日本に帰る。それが何よりも、彼女に対する説得です」
クォーレン氏は、それから二時間後、彼のホテルにマリアの訪問を受けた。
「――ああ、マリア」
クォーレン氏は扉をあけて彼女を招き入れながら、できるだけ柔らかく手をさしのべた。
「よけいなことはすべて忘れて、また以前の生活に戻ろう。私は本気でそれを望んでるよ。だから――」
「お願いがあるんです――」
とマリアがクォーレン氏の腕の中でいった。
「お世話になったうえに、こんなことをいうのが辛いのですけれど、お金をいただきたいんです。五千ドルほど――」
「それは、どういう意味かね」
「日本流にいえば、手切金というのかしら。もちろんそんなことがいえた義理ではありませんけれど、あたし達、この外地で一銭もなくて、身動きもできないので」
「あたし達というと――?」
「ハルが一文無しだし、あたしだってそんなに用意してません。パパはハルのお金を奪ったというし――」
「それはね、つまり、長くなるから省略するが、元の持主に戻しただけだ。第一あの男は一文無しじゃないよ。さっき、マリアをお渡しするからといって、二千ドル持っていった」
「ハルが、そんなことをいったの。あたしをパパに渡すって――?」
「だから君はもうあの男のことを心配しなくていい」
マリアは黙って部屋を出て行った。
クォーレン氏は彼女がホテルに戻らないうちに、いそいで電話をかけた。
「ハルかね。まだ居たのか。マリアが君と一緒になるつもりで手切金をとりに来たよ。約束を実行してくれなくちゃ困るじゃないか」
「今すぐ発《た》ちます。彼女が戻らないうちに。そちらのホテルに寄りますから、五千ドルください」
クォーレン氏は絶句した。
「俺が居れば、マリアに五千ドル渡すはめになりますよ。マリアを失いたくなかったら――」
クォーレン氏は翌日の昼食を、チン夫人の邸でとることにして、テーブルにハルとマリアがちゃんと坐っているので、髪の毛を逆立《さかだ》てるばかりになった。
「君たちは――!」
「ひどいパパ、汚ないパパ――!」
マリアは昂奮して涙をこぼしている。
「ハルを脅迫したのね。ハルのお金が他人の物だからって、脅迫したんでしょ」
「私はなにも、脅迫だなんて――」
「いえ。ハルがあたしを手放すわけはないわ。あたし、ハルがなんといおうと、絶対にパパのところへは戻りません」
「クォーレンさん――」とハルもいう。「タイミングがまずいですよ。そっとしといてくれれば、うまくいったのに」
「なにをいうんだ。私はただ――」
「クォーレンさん――」とチン夫人がおごそかな声を出した。
「貴方も充分にマリアを楽しんだのでしょう。奥さんの手前もあるし、もういいかげんに手放してあげてもいい頃ね。せっかく若いカップルができたんだから、祝福してあげましょう。マリアに相応のお金を与えてやるのが紳士ですよ」
「冗談じゃない――」
といったのはハルだった。
「俺は誰とも結婚する気はない。結婚したってマリアを幸福にはできません。マリアはクォーレンさんが責任をとるべきです」
「そうですとも。その点で私とハルの意見は一致してるのです。第一、この男の経済力でマリアが養えるものですか」
「わたしのところで働いてくれてかまいませんよ。たとえば、このシンガポールで」
「おことわりです」
「なぜなの」
「他人の下で働くのはもうこりごりです」
「それなら、今度この国で新設されるカジノに首を突っこんでみる?」
「それは面白そうですね。ただ、マリアと結婚はしませんが」
「マリアが嫌いなのね」
「いいえ――」
「わかりませんね」
「そうでしょう。人それぞれの生き方です。わかってたまるもんですか」
「その点ではハルの気持はわかります」
とクォーレン氏。
「私もマリアを愛してるが、結婚はできない」
「ええ、貴方と俺は金があるかないかのちがいですね。そこで改めてお願いします。こうなれば、はっきりと、俺もマリアに手切金を払いたい。貴方が渡すか、俺が渡すか、そのちがいだけで、結局は貴方のポケットから出るのですが。ぜひとも、一万ドルをマリアに渡してあげてください。それですっきりと元の形に戻れます」
どこか遠くできこえているように思えた爆音が、だんだん近づいてきて、会話が不可能の感じになった。
チン夫人邸の中庭に、大きなヘリコプターが舞いおりてくるのが、窓の外に見えたとき、ハルが一番キナ臭い顔になった。
まったく判で押したように、プクプク老人とカン子がおりてきたのだ。
召使いの案内で部屋に入ってきたプクプク老人は、冷めたいタオルで顔をふきながら、
「シンガポールといっても、どうということはありませんな。雲も空も、長崎と似たようなものだ」
カン子が続けていった。
「それで、カジノというのはどこにできるんですの」
「ずっと田舎の小さな保養地なのです。正式にきまってから、密林を切り拓《ひら》くのですけれど」
「カン子がひどく興味を示しましてね。カジノときいただけで昂奮して。どうも老人には、投資としては不安材料が多すぎますがね」
カン子は、まっすぐにハルをみつめながらいった。
「珍らしい人がおりますのね。奥さまがスカウトなさったんですの」
「いいえ、まだ今のところは、ただのお客ですけれど」
「カジノには首を突っこませてもらいますよ――」
ハルはカン子をいたずらっぽくみつめながらそういった。
愛してる
ええと、俺はそうすると、どういうことになるのかな。
ハルは、チン夫人邸の豪勢な部屋の中に立ちはだかる人々を眺めながら、頭の中で整理してみた。
もしも、カン子のカジノへの投資が実現するようであれば、カン子の情夫として、おちついて暮そう。
しかし、カン子の気持次第で左右されるような生活というのは健全でない。
マリアとも、穏やかな関係を保たなければならぬ。クォーレン氏を少しも不機嫌にさせることなく、マリアとつきあっていく。それには、マリアを通じてクォーレン氏にも投資をさせていくのが好ましい。
あるときはカン子と燃え、時来たればカン子のもとを去って、マリアのもとに行く。マリアと燃えさかり、速度計がリミットを越えようというときに、飄然《ひようぜん》とマリアを去って、カン子に行く。
一年の半分はカン子、半分はマリアでもよろしい。要するに燃えすぎず、醒《さ》めすぎず、そこのところを調節していくだけで、当分はなんとかなる。そのうちにプクプク老人か、クォーレン氏か、どちらかが死ぬさ。
ただし、自分は男妾ではない。あくまで、女主人に務める気はない。そんなことをしたら、女はどこまでも図《ず》に乗ってくる。
いいかね、おい、ハル――。と彼は自分にいいきかせた。お前は気ままに生きるんだ。気ままに生きるんでなければ、生きたことにならないぞ。そのために何も怖がっちゃいけない。
不道徳のそしりで、たまに臭い飯を喰うのはよろしい。が、それ以上の犯罪をやってはいけない。間尺《まじやく》に合わなければ人生じゃない。
それで、とりあえず、カン子とひっつき、マリアとひっつきして、生活が安定してきたら、他の女とも遊んでやろう。まず、基礎を作る。それから、世間並みの楽しみをおぼえる。
だが、この考えにはなにかまだ保険《インシユランス》が不足しているな。カン子とマリアだけでなく、もっとたくさんの人間とひっかかりをつけなければならない。大衆の中にまぎれこまなければ、これからはペースがムラになるぞ。
その考えは、メルボルンでパスポートを受けとったスットン親分たちがシンガポールに追いかけてきたので、あらかた充《み》たされた。
ハルは彼等の一人一人を、心から歓迎した。
「叔父さん、無事でよござんした」
「いや、私は死にたかった――」と渋谷の叔父さんは小声でこぼした。「死ねば借金の心配もなくなるし、お前の顔を見なくともすむ」
スットン親分、サラ金、トルコ、駅長の娘、旦那一家に一人の哀れな奴隷という感じの叔父さんだ。
「でも、もう安心なさい。ここにはチン夫人やクォーレン氏も来てるし、きっと叔父さんの立場もできますよ。シンガポールで不動産業でもやりますか」
「その前に、まず、せめて先付小切手でも書いておくれ。債務だけはなんとかゼロにしたいから」
「いいですよ」
「――ハル」とサラ金社長がいう。「小切手なんかより、我々への投資をね、頼みますよ。早く東京に帰ってさ」
「そうだ。喰い物がまずくってしようがないぜ」とスットン親分。
「チン夫人のところで日本食ができるよ」
「いや、東京がいい。外国での話は信用できん。ガコガコ島の件をみてもわかるだろう。東京の暗黒ルートの信用は君、世界一だぜ」とトルコ。
「カジノなんてやめろよ。みんなこっちの政治ゴロとマフィアに喰われちまうだけだ」と親分。
ハルはできるだけ胸を張り、微笑を湛えて連中と対していた。連中はまだ、叔父さんのポケットに鎮座している書付けを信用している。この友好関係はできるだけ長く維持しなければならない。
「ところで、ガーピー先生はどうしたろうか」
「ガーピー先生――? 知らんね」
とスットン親分がトボけた。
「まだメルボルンに居るんじゃないかな」
「いや、ガコガコ島で貴方たちに縛られたから、あの後、どうしたかな」
「俺たちが? お前も居たじゃないか」
「でも縛ったのは貴方たちさ」
「お前を助けるためにな」
「俺は犯罪は嫌いだからね。縛って一緒に連れて帰るのかと思った」
「そんな顔はしてなかったぜ」
「いや。昨日、チン夫人に頼んで捜索隊を出したんだ。生きてるといいんだがな」
スットン親分たちは、ちょっと絶句した。
「そうすると、俺たちがガーピーを殺そうとしたというのかね」
「死んでれば、そういうことになるね」
暗黒街の三人はそれぞれキナ臭い顔になった。
「――ハル」とトルコが代表していう。「するとお前も、危険な目に遭うことになるな」
「俺を消したって証人はたくさん居るがね。捜索隊の人たちとか、チン夫人たちとか」
「ま、いいだろう。お前がよけいなことをいわなければ、こっち(叔父さん)の債務はなくしてやってもいいぞ。そのかわり、暗黒ルートの投資はしてもらう」
「オーケイ、そのつもりでいるよ」
下町《ダウンタウン》の地下《アングラ》カジノで、ハルはバカラをやっていた。
背後に人が立った気配がしたが、酒を運んできたボーイだと思っていた。
「貴方たち、結婚するんですってね」
ハルが顔をあげると、いくらか人妻らしくなったカン子が立っている。
「俺が、誰と――?」
カン子は空いていた隣席に坐って、チップを買った。
「あの銀髪女よ」
「冗談じゃない――」ハルは笑った。「マリアはそんなことをいったかもしれないが、俺は結婚なんてまっぴらだ」
「ホテルでは、スイートの続き部屋をとって、二人で寝ていたんだって――?」
「そうだね。そんなこともあった」
「ハッピーね。銀髪女が抱けて」
「しかし、君だって、プクプク爺さんに抱かれてるんだろう。スイートルームで――」
「あたしは結婚してしまったわ」
「俺は結婚してない」
「じゃ、あたしの方が悪いっていうの」
「そんなこといってるもんか」
「小学生のときの結婚は、あれはおままごとだったのかしら」
「そうともいえないぜ。俺はあれ以来、ずっと結婚してない。おままごとがずっと延長してるさ」
「でも、おままごとはもう止めね」
「どうして――?」
「銀髪女ができたから」
「あれはクォーレンさんの女さ。俺だってつまみ喰いぐらいする」
「あたしは何も文句はいえないわね。人妻だから」
「そんなことないよ。人生というやつはそう単純じゃない。少年院で考えていたとおりだったな。カン子と俺は、縁が深い、そういう勘がした。子供の勘はいいからな。で、どこで会っても他人のような気がしないのさ」
ハルがバンカーに大張りしたので、釣られてカン子も張った。カードはプレイヤーのナチュラル8。二人のチップはハウスに吸いとられてしまう。
「そんなに縁が深いのなら、一緒に暮してもいいんだけどね」
「そこが単純じゃないところなのさ。プクプク爺さんみたいなのが居るから」
「あたしはまた、逃げ出してもいいんだわよ」
「金の入ったバッグを持ってか」
「ええ。ハルがそういうのならね」
「いや。いっぺんに銭をつかんだって、面白くもなんともねえ。俺たちはまだ、あんな大金を使いこなせないし、世間をせまくするばかりだよ」
「世間なんかせまくたっていいじゃないの」
「世間は広い方がいいさ。――おい、ちょっと、チップ貸してくんねえか」
ハルの前のチップがきれいになくなっている。
「ツカないのね」
「うん。こんなところでツイたってしようがない。それよりカン子、お前が福の神だよ。ツキは大事なところに使う」
「じゃ、チップの代りに、あたしを奪うの」
「奪わないよ」
「なぜ――?」
「愛してるから」
「変ね」
「愛してるよ。プクプク夫人」
ハルがプレイヤーに張った。カン子はちょっと考えて、逆のバンカーに。
プレイヤー7、バンカー7、セイムで再勝負。カン子は一考して張ったチップをとりさげてしまった。すると、3対4でバンカーの勝。
「君もツイてないね」
「最低ね。あたし、他の男でも探そうッと。ツキが変るように」
「愛してるんだよ、カン子――」とハルはくりかえした。「君を暗い女にしたくない。当分、プクプク爺さんとのブルジョア生活をお楽しみ。爺さんが死ぬまでね。それで爺さんが死んだら――」
「わかった。ハルの狙いはパパの遺産なのね」
「遺産を狙わない奴なんて居るかい。そのかわり、俺は誰とも結婚しない。俺の心を君にあげるよ」
駅長の娘が、不意に走りこんできた。
「ハル、逃げて――」
彼女は裏口の方を指さした。
「手入れか」
「ちがう。皆が怒ってるわ。店の前で張ってるわよ。早く逃げないと――」
「皆って、スットン親分たちか」
「そうよ――」と駅長の娘がいう。「捜索隊がガーピー先生を連れて帰ってきたの」
「生きてたのか」
「ええ。鳥に眼玉を突っつかれて、喰べられちゃったらしいけど」
「生きてるならいいじゃないか」
「でも、ハルが一文無しだってことを知っちゃったのよ」
駅長の娘は、はじめてカン子の方を見た。
「あら、あなた――」
「プクプク夫人だ。でもなァ、俺を殺したってしようがないぜ。逆さにして振ったって銭なんぞ出ねえ」
「それは、あの人たちにいってください」
そういってる間に、サラ金ジャタスカの社長がこちらに近づいてきた。
「ツイてるかね」
「いや、最低」
「じゃバカラなんかやめて、俺たちと遊ぼう。一緒に来いよ」
「どこへ行くんだい」
「ヨットハーバーまでさ。夜の海もけっこう楽しいぜ」
「警察にいうわよ――」と駅長の娘が叫ぶ。「一一〇番してやるわ」
「警察って、俺たちはヨットで遊ぶだけだぜ」
「嘘よ。きっと死人が出るわ。もしそんなことになったら、あたしが証人に立ちますからね。でも、ハルが殺されたら、何をいってもしようがないわ」
「頭がおかしくなったんじゃねえか、駅長の姐ちゃん。さ、ハルちゃん、行こうぜ」
「あんたたち、ヨットなんか持ってないでしょ」
「ちゃァんと借りたよ。ご当地の親分さんからな」
ハルはひきずられるように階段を昇っていった。
カン子と駅長の娘は、束の間、お互いをぼんやり眺めていた。
「どうして、ハルは殺されるの」
「あの人たちはハルのお金が目当てで、はるばるこんな外国まで来てるのよ。ハルが一文無しだったら、やっぱり腹を立てるでしょう。それに、ハルの叔父さんに一億円も貸してるの」
「それをハルが返さなくてはならないのかしら」
「そうなんでしょう。あの人たちはハルの投資を当てにしていたわ。投資といったって、ただお金を預かって、返さないのよ。そういってたわ。あたし、あの人たちと一緒に居る間に、ずいぶん勉強したわ」
「で、貴女はなんで、こんなところまで来たの」
「ハルと一緒になるんだもの。日本に帰ったら」
「ハルが、そういったのね」
「いいえ、あの人は何もいわないわ。でも、あたしはもう定《き》めてるの。だって、九州で、何日も一緒だったし」
カン子は立ちあがって、カジノを出て行こうとした。
「どこに行くの――?」
「べつに。ホテルに帰るだけよ」
「お願い。ハルを助けて――」
カン子は振り向きもしなかった。カジノを出るとタクシーを停めた。
「キング・ジョージ広場へ――」
広場の中にヘリコプターが停めてある。操縦を習っといてよかった、こんなときがあるなんて思わなかったけれど――。
空に舞いあがると、カン子は海岸線を低く飛んだ。ヨットハーバーがどこにあるかわからない。
こうして飛んでいれば、瞬時にどこまでも見渡せる。
まもなく、埠頭《ふとう》のそばを、ハルらしい男を囲んで歩く一団が見えた。
トルコらしい男が、小舟に飛び乗って後続を迎えようとしている。ハルとスットン親分がちょっともみ合っている。
カン子はぐっと高度をさげて、埠頭に舞いおりた。
「皆さーん、ちょっと待って。話をつけに来たわ」
一団が手をとめた。カン子は近づきながら、大声を出した。
「お金ですむことなの。それとも、そうじゃないの」
「金ですむことだよ。もっとも、金額にもよるがね」
「いくら――?」
「月賦かね、即金かね」
「即金よ」
「なら、二億円にしとこう。大サービスだぜ」
カン子は小切手帳を出して、二億円、と記した。
「これ、銀行に持ってらっしゃい。日本に帰ったらよ」
それからハルの手を握ってヘリコプターに戻った。
「愛してるよ、カン子」
「パパが死なないかしら。そうしたらすべてうまくいくのにね」
「俺たちはまだ若いし、爺さんはもうすぐだよ。あせっちゃいけない」
「そうね――」
「爺さんが死んだらね――」とハルはいった。「また次の爺さんと結婚しようね。カン子、俺はいつだって愛してるから――」
〔了〕
初出誌
「週刊現代」昭和59年6月30日号〜昭和60年1月26日号
本書は、一九八五年五月、講談社ノベルスとして、一九八八年九月、講談社文庫として刊行されました