阿佐田哲也
ヤバ市ヤバ町雀鬼伝1
目 次
東一局 代打ち稼業
東二局 三〇〇分一本勝負
東三局 都にカモの降る如く
東四局 ふうてんパイオニア
南一局 おしまいツネ公
南二局 さがっちゃ怖いよ
南三局 不幸の神さま
南四局 恍惚のギャンブラー
解 説 色川孝子
東一局 代打《だいう》ち稼業《かぎよう》
一
朝十時半、こんな時間に起きている奴は堅気《かたぎ》だけだろうが、場外馬券売り場でオレンプとぶつかった。オレンプは大分前に、殺人で刑務所にぶちこまれていたはずだが、ほとんど老《ふ》けても居らず、長身に外国製らしい春のコートを恰好よく羽織って、あいかわらずおっとりした物腰だった。凄《すご》いな、とフウ公などは尊敬してしまう。器量のある野郎はどう転んでも目があるんだからな。
「やあ、オレンプ――」
とフウ公は愛想笑いを浮かべていった。
「よッ、色男――!」
たちどころに奴は笑顔でそういい返した。
「どうですね。いいところ、ありますか。一手、ご教授してくださいよ」
「冗談じゃねえ。お前さんにクーパツなんか教えられないよ」
クーパツというのは空八百長《からやおちよう》のこと。いい加減な偽情報を流してスポンサーに銭を使わせる。車券《しやけん》は呑《の》んじまうから、来なければ旦那の車券代はそっくり懐《ふとこ》ろに入る。たまに偶然でも当ると御祝儀になるというやつだ。フウ公はそれで辛《かろ》うじて世間を渡っていた。
「ハハハ、そうでもないでしょう。何かいいことがありそうな顔してるよ。ここ一番という狙《ねら》いはどこ?」
むろん、社交辞令にきまってる。フウ公は話題をそらすように手近かの喫茶店を指さした。
「寒くて道端《みちばた》に立ってるのもおっくうだよ。モーニングでもやろう。俺、おごる」
実際、おごるだけの値打ちはあるように思えた。オレンプは、前科四犯、だか五犯のはずで、いずれも一季通し、つまり春夏秋冬を刑務所ですごしまくってきた奴だ。向かい合っていると、フウ公は自分も大物になった気分になってくる。
「ところで、十年ぶりかな」
「そうだね。そうなるかもしれない」
「ちっとも変らんね。オレンプは」
「そうじゃないよ。もう若い衆が活躍してて、俺なんかの時代じゃない。隠居ですよ」
「隠居ができりゃァ、いいご身分だ」
「隠居しか引く目がないのよ。下手《へた》に一人歩きすりゃァすぐコロされちまう」
フウ公が厄年《やくどし》の四十二。オレンプはたしか五ツ年上だから、もう少しで五十に手が届くはずだ。遊び人の五十歳は、普通の市民の七十歳くらいに当るだろうか。
「それで、あれかい、フウちゃんは、まだお仕事、続けてるんでしょう」
「クーパツ屋かい。まァなんとかね」
「いい旦べエをつかまえてるんだろう。うらやましいね」
「見りゃわかるだろう。御用を喰わないだけがめっけもので、相場通りの不景気さ。昔なァ、焼跡ヤミ市の頃のボロい稼《かせ》ぎが、夢みてえだなァ。お互いさまによ、といいてえが、あんたはあいかわらず、暖かそうだねえ。なにかい、おいしいコレでも掴《つか》まえてるかい」
「もう、銭を出さなきゃ女が寄ってこないよ。淋《さび》しいがそういう年頃ですよ」
「あんたの男前《おとこまえ》でもかい」
「そうだ、それで思い出したんだけど、フウちゃん、あんた顔が広いから、誰か、いい打《ぶ》ち手《て》を知りませんか」
「――打ち手って、あんた以上の?」
「あたしは駄目。気力も、反射神経も、もう駄目さ。ばくちは四十までですよ。それすぎたら、隠居しなくちゃ。隠居して、別の役をやるのさ。女郎が遣《や》り手婆《てばば》ァになるようにね」
「なるほど、遣り手婆ァか」
「それが安全。安全運転が第一さ」
フウ公はちょっとがっかりした。
「オレンプがねえ。遣り手婆ァねえ」
「早速だけど、居るかい、打ち手。若くたって、銭無《ハイな》しだってかまいませんよ。銭はこっちがつけます。ただね、昔のあたしより弱くちゃ困る」
「種目は何」
「麻雀」
「仕事《イカサマ》かい」
「自動卓だからね。それに、寒《ヤバ》いことはしたくないから。平打《ひらう》ちで結構」
「つまり、代走選手だね」
「ひと晩、一千万はあげられますよ」
「――居ないこともないが、なんだいそりゃァ、どんな麻雀?」
「きわめて普通のさ。東風《トンプウ》戦だけどね。どこでもやってる麻雀」
オレンプはそういって、ニッと笑った。男前のせいもあって彼の笑顔はとても魅力的だ。なんだかうさん臭そうな話だが、オレンプとなら、相棒になってもいい。
「その、一千万だがね――」とフウ公はいった。「まさか、空発《クーパツ》じゃあるまいね」
「話によっては、五百万は前金で渡してもいいですよ。もっとくわしく話さなけりゃ信用しないかもね。ま、簡単にいえば、うちの社長がね、大きい麻雀でカモられてるのよ。それで誰かに代打ちさせて、損害を少しでも回収しようということですよ。お前が代走しろっていわれたんだけどね、そりゃあたしだって使われている身だから、なんかのお役に立ちたいけれど、隠居の身だからねえ」
「わかった。心当りに当ってみよう」
「そう願えますか。へへへ、なんとか、フウちゃん、ここ一番助けてください」
オレンプが掌《て》を合わせて拝んだので、よせやい、とフウ公はその掌を叩き、新米《しんまい》の遣り手婆ァよろしく店の外に飛び出していった。
二
押樫《おしがし》鉄雄、というおそろしく固い名前の名刺をくれたので、フウ公ははじめてオレンプの姓名を知った。もっともこれが本名かどうか、保証は一つもない。肩書のところには、ただ、支配人、と記してある。よく透かしてみると、Windserと薄桃色の透《すか》し字が入っている。多分、ソープランドの店名だろうか。
電話を入れると、はたしてそれらしき空気が伝わってきた。
「ああ、どうも。早速ご配慮を願ったそうで、感激ですね。それじゃ、委細面談といきますか、ねえ、善は急げで、これからというのはどうでしょう」
オレンプはいつも愛想がいい。
フウ公は受話器をおいて、打合せた喫茶店にその男を連れていった。
「ねえ、背中が丸まってるよ。少し強そうに見せてくださいな。なにしろ面接なんだからね。あんたももう若くねえんだから、自分を売る工夫をしないと駄目だぜ」
フウ公が連れてきたのは、本気かシャレか、麻雀業者という看板をあげている変り者。日本広しといえどもこの看板をあげているのは自分一人だ、というだけで、どこで何をしているのかさっぱりわからない。
「ねえ、オレンプ、この人なんだがね。俺も焼鳥屋で会うだけなんで、よくは知らないんだけども、どうでしょうねえ」
オレンプは、魅力的な微笑を消さなかった。
「ああ、そうですか。結構ですよ。お願いいたしましょう」
「――面接をするってことだったが、いいのかな」
「あの、昔――」とオレンプがいった。「カミ旦のところの賭場《とば》で、打ち合いましたっけね」
「そんなこともありましたかね。あの頃はあたしも若かったから。馬鹿をやりましたよ」
「お互いさまにね。まだ現役とはうらやましい」
「なァに、引退したいんですがね。いつまでも未練を残してみっともないです。もうこうなると賭場でくたばるのを待つだけでしょう」
「早速、場の手配をしますが、日取りはいつでもよろしいですか」
「お引受けした以上、いつでも」
「それじゃ――」とフウ公がすかさず声を入れた。「前金で半分というのを――」
オレンプは笑みをたたえた唇を、それ以上に曲げて頷《うなず》き、懐中から封筒をとりだした。
「それじゃ、これは一応、フウちゃんにお渡ししときますが、よろしいですか」
フウ公は、讃嘆の思いで、くろぐろと恰好いいオレンプの髪のあたりを仰ぎ見た。周旋《しゆうせん》料をこの中から勝手にとれという意味だろう。やっぱり此奴《こいつ》は、器量があるわい。
「それじゃア、フウちゃん、ありがとう。あとはちょっと打ち合せがあるんでね」
オレンプがそういって、フウ公をその店から押し出してしまう。
残った二人、それからしばらく黙って煙草をくゆらしていた。
「大丈夫かな――」と業者。
「フウ公? 大丈夫でしょう。使っちまったら使ったでいい。あのくらいの金」
「いや、俺がさ。役に立つかな」
「その看板が続いてきたんだから」
「ほとんどは素人衆の麻雀だからね」
「しかし、驚ろきましたよ。あんたが現われるとはね」
「こっちもさ。あんたが雇い主とは」
「あたしは雇い主じゃない。単なるプロデューサーですよ」
「なぜ、打ち手をやめたの」
「その方が、安全だから」
「そうかねえ。あんたは面白い打ち手だった。誰とやっても面白い勝負をしたね。ホンビキでいえば、ヤマポン張りの名手だな。一発逆転の手を絶えずやってくるんだ。もっとも、面白い勝負ってのは、最高の技術がともなってないとできないがね」
「あの頃はね。あたしもいろんなことをやってきたが、結局、博打《ばくち》が生き甲斐《がい》だったんですね。今は駄目だ」
「老いたのかね。そんなふうにも見えないけど」
「それもありますがね。博打も変りましたよ。この前、八年、喰らいこんでるうちに、何もかも大変りだ。今、うちの社長がやってる麻雀、いくらのレートだと思いますか」
オレンプはちょっと顔をひきしめた。しかし笑いの気配が顔のどこかに残っていて、それがかえって酷薄な表情に見えた。
「千点百万円。三万点通しでハコ三千万円。場ウマが五の一五だから、二着で五千万、トップが一億五千万。別に差しウマをやらなくても、せいぜい二十分くらいの東風戦にそれだけの金が動くんですよ。堅気の人なら誰も本気にしないでしょう」
「どんな奴がそんなレートで打てるんだろう」
「金貸しか、いわゆるピンクゾーンの経営者たち。収入をきちんと申告しないから、銀行預金にもできないし、現金のまましこたま握ってる連中ですよ。とてもあたし等、そんな博打につきあえませんや。以前はね、博打は博打うちがやるもんだったけど、今はちがうんです。銭のある豚《ぶた》がやるものなんだ」
「すると、その豚どもと打つわけかな」
「待ってください。豚は自分じゃ打ちゃしませんよ。選手を雇って、酒を呑みながら見てるんです。銭のやりとりだけ、自分たちでやってね」
「なるほど――」
「我々はただのサイコロですよ。いやだねえ。ま、そのいやな役をあんたにさせるんですがね」
「それで――」と自称麻雀業者はいった。「これまでは、あんたのボスは、自分で打ってたの」
「いや――」
「誰かが代打ちしてたわけだね。そいつはどうした」
「どうも、結果がまずくてねえ。選手交代ですよ」
車が停まる音がして、大柄な、派手な化粧の三十女がつかつかと店の中に入ってきた。オレンプはスラッと立ちあがって、騎士のように恭《うやうや》しく彼女を坐らせた。
「うちの社長です――」
オレンプはそれから、麻雀業者のことを昔の知人だといって紹介した。
「大丈夫――? 貴方」
オレンプが、男同士の眼差しで、チラッと合図をよこした。
「今まで、どのくらいのレートで打ったことがあるの」
「さァ、まちまちだね。レートは特に関係ない。あたしの場合はね。打つのが好きなんだから、賭けなくたってやるよ」
「そうもいかないのよ。あたしたちのレートだとね。大概《たいがい》はびびるのよ。レートをきいてね。そこらへん、しっかり覚悟してもらわないと」
「いくらだろうと、あんたの銭だろう。俺の銭が動くわけじゃないから」
「そりゃそうだけどねえ。いざやってみるとお金の力は大きいわよ」
「気にしてたら代走なんかできないよ。気にいらなきゃ雇わなければいい」
麻雀業者はそこではじめて笑顔を見せた。
三
東風戦(東風だけの戦い)。
但《ただ》し、ワレ目あり。
ワレ目というのは近頃流行のルールで、サイの目が出た牌山の主が、他家《ターチヤ》の倍の計算になる。和了《ホウラ》すれば倍の収入、ツモられても放銃しても倍払う。ツキの要素が濃くなるともいえるが、ともすれば小競《こぜ》り合いになりがちな東風戦が、波乱の色が強くなって面白い。
メンバーが揃ってみると、意外なことに、いずれも老けこんでいて、麻雀業者がもっとも年下かと見えるほどだった。隠居と称するオレンプが、口先とは逆にひどく若々しく見える。
颯爽《さつそう》としたオレンプに比して、選手たちは年齢以上に疲弊《ひへい》していた。一番年長らしい玉ちゃんという選手は、戦後、パチンコ王といわれたほどの成金の時期もあったらしいが、今はただの貧相な老人だった。彼は派手なスキージャケットを着こんでいて、自分は指導員だと自慢したが、これ以上ちぐはぐな恰好が考えられないほどだった。
カマ秀という選手は痩《や》せこけた初老で、眼だけが光っており、いかにも金のやりとりしか考えていないようなタイプだった。しかしときおり、いやな咳《せき》をしている。もう一人のノロちゃんという選手は、脂ぎった大男だったが、歯が一本もなかった。
四人が揃うと、医者と看護婦が来て、採血したり心電図をはかったりした。それから静脈に、注射を一本打った。オレンプが、甲斐甲斐しく業者の左腕をもんでくれる。
「やらでものことなんですがね、がまんしてください」
「ヒロポンを打つってことは、契約の中に入ってたかな」
「こんなことまで契約しなきゃいけないですか」
「やっぱり、煙草とは少しちがうからね」
「馬主《オーナー》たちの注文なんですよ。それに、一人だけひそかに打ってきたりすることを避けられますからね」
「ときどき、ちがう薬を打つんじゃないのかな」
「なぜ――?」
「八百長のために」
「それはない。誓って」
「返事が生き生きしてたね。昔もあんたはそうだったな。とてもいい顔でシャミセンをひくんだ」
打ちつけない薬が身体を廻ったせいか、牌が常より間近かに見え、錯覚でぐらぐら揺れて見えたりする。肩に力が入りかかるのを押さえて、■を一鳴きし、まず千点であがった。東風戦では(特に・飛び・といってハコテンになるとそこで終了になるので)序盤の千点が二着をひろう因をなすことがある。(早い話が、ワレ目の親に満貫を放銃する者があると、一本場だった場合、二万四千点プラス千五百点、もうそこで・飛び・なのだ)
いつのまにか隣室に人が集まっていて、ガヤガヤいっている。これも意外に、女が多い。ピンクゾーンの経営者か、それとも馬主の愛人か。初上り、カモ、と甲高《かんだか》い声がきこえる。
業者はその方を一顧《いつこ》もしないで、一心に卓上をにらんでいた。先刻までとちがって選手はいずれも無言で、びし、びし、と打ってくる。こんな麻雀を、はたして、皆が、真剣に打っているのかどうか。
親がワレ目のせいもあったが、序盤の捨牌はいずれも正攻法でおとなしい。翻牌《フアンパイ》の殺し打ちも作法通りで、どこにも浮わついた気配はない。第一、業者自身が、ごく自然に真剣になっていた。
で、相手もそれぞれ最善を尽くそうとしていることが肌でわかる。博打うちは、やっぱり、博打だけは真剣に打つんだな。彼は三人の相手に、束《つか》の間《ま》、仲間意識を持ったほどだった。
親が早リーチをかけたとたんに、カマ秀が喰いを入れ、捨てた牌でノロがあがる。
「やれやれ――」
ノロがチラッと眼で笑いかけてきた。ワレ目の早リーチを未然に防いだという意味だ。しかしノロの手はドラ一丁の二千点プラスリーチ棒で、現在|僅差《きんさ》のトップ。
東三局、ワレ目が業者に来た。ワレ目は攻撃に有利だが、接戦のケースではかえって始末がわるく、ツモられ、ラスをひく因にもなりかねない。
ところが、配牌でドラの■が二枚来ていた。四十年近くも牌を握っていて冷静を標榜《ひようぼう》しているはずの彼が、血の騒ぎを感じたのは薬のせいか。
七巡目
■■■■■■■■■■■■■
という手にまとめて即リーチをかけた。ハネ満を必要とする局面ではなかったが、ワレ目のリーチだけにこの点差のすくなさでは、誰も向かってくるまい。リーチで足止めにしてゆっくりツモればよし、ツモれずに流れても、ノーテン棒の収入でリードを保ち得る。
案の定、四海波静かな進行に見えたが、十巡目、不意に玉ちゃんがドラを打ちだしてきた。
ロン、の声がかかって、八千点の倍、一万六千点が卓上を移動したが、勝負はここまでで、ラス場は終戦処理の安上り。
それで、一戦ごとに五分の休憩だという。
玉ちゃんのドラ打ちの時点から、隣室の馬主たちはシーンと静まってしまった。
「玉ちゃんの手牌をあたしは見ていなかったけれど、勝負手だったのでしょう。この場合、ドラはさほどの暴牌ともいえないのですよ――」
オレンプが、馬主たちに向かって、解説者もどきに話しかけている。
ややあって、一番年若と思える女性がいった。
「玉ちゃん、どんな凄い手だったの」
「いや、凄い手じゃなくとも――」とオレンプ。「手の値段よりも、この局に誰があがるかが、緒戦の勝負所なのでね、ワレ目か、自分か、決戦の条件がありながらここで防戦に廻るのは、むしろ良策とはいいがたいですね」
「でも、ドラ牌よ」
「結果的にわるかったから、いかにも暴牌に見えますが、この際は、リーチと来た以上、出にくいドラでは待たない、という考え方もあります。ドラが他の牌より危険だというケースは、リーチしなければあがれない手、ですが、リーチの捨牌から、玉ちゃんはそのケースではないと判断したのでしょう。もちろん、結果がわるい以上、弁解にはなりませんがね。すくなくとも、不明朗なプレーじゃありません」
玉ちゃんは一人だけ、唇をへの字のように結んで、卓から離れずに居た。彼は自分の気持を呑みこもうと努めていたようだったが、二戦目にも動揺が影響したらしく、ノー和了《ホウラ》だった。
「あたし、やめる。帰るわ」
と若い女が立ちあがった。
「まだ、はじまったばかりなのに」
「今日は気が進まない。じゃ、またね」
「そうだね、気のないときはやめるに限る。へへへ、ケリーちゃん、それじゃ、あとで電話しますからね」
オレンプは残った馬主たちの方に、にこやかな顔を向けて、
「どうしましょうか。補充を呼びますか、皆さん」
「誰か、急に都合がつけられるの」
「といってもね、なにしろ、オーナーと選手と、両方呼ばなくちゃならないから」
オレンプは二三ヵ所に電話をかけていたようだったが、やがて、
「思いきって今日はお開きにしましょう。いつだってできるんだし。明後日はどうですか。出井《いずい》さんがね、明後日なら、といってるんですが」
玉ちゃんはいつのまにか姿を消していた。カマ秀もノロちゃんも、会釈もしないで卓のそばから去った。麻雀業者は、わざとそのまま坐っていた。
思ったとおり、オレンプが、すっと近寄ってきて、
「ご苦労さま。いいスタートだったのにね」
「面白いことを考えたものだね」
「べつに、珍らしくはありませんよ。碁将棋の世界じゃ、昔からやってます」
「おてん(テラ銭)はどのくらいとってるの?」
「一回につき、勝金の五分」
「なるほど、レートが高いほどいいわけだ」
「そうじゃないが、負けがこんでる方が、どうしても釣り上げますからね」
酒はどうか、とオレンプがいった。そうして馬主たちの席の方からスコッチの瓶《びん》を持ってきた。オレンプは、博打うちらしい長い指を使って氷片を二個、グラスにいれ、麻雀業者の方に、差し出した。麻雀業者は瓶を持って自分で注いだ。
「それで――、俺はただ勝ってるだけでいいのかい。もしかしたら、他にも注文があるんじゃないのか」
「どうぞ、ただ、やっててください。あたしは命令はしません」
「じゃ、どうやってプロデューサーは儲《もう》ける――?」
「目論《もくろ》みはありますがね。流れに沿って自分で造りますよ」
「オレンプ――!」と犬を呼ぶような声で彼の女性《ボス》が呼んだ。「帰るわよ」
「はい。――はい、はい」
小走りに飛んでいったが、オレンプの場合、さほど卑屈に見えない。やはり、元殺人犯の貫禄かもしれない。
オレンプがこちらを見て手招きしている。近づいていくと、
「新馬戦一勝ね。ありがとう」
「改めて紹介します。現女房です」
それには応えず、彼女はいった。
「麻雀業者って、もっと他の名前はないの。業者は貴方だけじゃないでしょ」
彼が黙っていると、
「まァいいわ。ご祝儀に女をあげる。うちのお店にいらっしゃい。どれでもいいわよ。ねえ支配人」
「うん。どうぞいつでもかまいませんよ。殺しさえしなければ、何やってもいいですから」
とオレンプは軽快にいった。
四
フウ公の探索してきた噂によると、Windserは彼女の前亭主が持っていた店で、亭主が人手にかかって殺されたあと、彼女の持物になり、この一年ほどはオレンプが、ツバメのような亭主のような恰好で入りこんでいるということだった。
すると、加害者はオレンプかもしれない。盛り場、特にピンクゾーンでは、そういうことはさほど珍らしいことではない。彼と彼女は最初から仇敵《きゆうてき》ではなしに、利害一致する関係だったかもしれない。
「けどさ、あのオレンプが――」とフウ公はいう。「ピンクの年増なんぞに満足してるわけないさ」
「そうかね」
「オレンプの方が格上だよ。女は喰われる」
「いいさ、他人の事だ。俺は麻雀を打つだけだ」
麻雀業者はもう一言、自分にいいきかせるようにいった。
「玉ちゃんも、そう考えればいいのにな」
「玉ちゃん。昔、パチンコ成金だった玉置のことかね」
「そうらしいな」
「まだ生きてたのかい」
「一昨日まではね」
二度目は、カマ秀、ノロ、麻雀業者、に和夫というイカレたような若者が来ていた。馬主席に例の若い女は居たが、玉ちゃんは来ていない。
その日はノロが終始ツイていて、麻雀業者も苦戦をしいられた。ワレ目の麻雀は、ツカない日はエラーをしなくとも、展開だけで負けがこんでしまう。
ノロがいきなり、リーチ一発でツモり、二局目に早いメンホンイーペイコウドラ二丁という手をヤミテンで和夫からあがった。そのときノロがワレ目の親で、和夫が飛び=B麻雀業者が起家《チーチヤ》だったために、三着に甘んじることになる。
例の若い女が、そこで現金《キヤツシユ》が足りない、といいだした。
「小切手でもいいんですよ。約手じゃなければね」
「小切手は持たせてくれないわ。廻銭を出してよ」
「弱ったな。こんな大きなレートに廻銭の出せる奴は居ませんよ。居れば、貴女方のように馬主《オーナー》になって遊ぶでしょう。皆さんお知り合いなんだから、お仲間うちで都合しあってくださいな」
勝っているノロの馬主《オーナー》の岸本という金貸しがいった。
「ちょっと廻すのは無理だね。旦那の方にならともかく、ケリーじゃね」
「オレンプ、あんたが廻してくれたっていいわ。ヨシ子にそういってよ」
「あたしはまったく関係なし。場代《おてん》はこの家の人がとってるんだし、最初からいってるでしょう」
「とにかく、もう無いわよ、あたし。誰かが介錯《かいしやく》をつけてくれなくちゃ」
彼女は開き直ってしまったらしい。
「先月、十億以上勝ってるくせに、なによ、あんた」
「冗談じゃないわ。通算でもうどのくらい負けてるか。あたし、旦那《おやじ》から捨てられそうなのよ」
「とにかくね、ケリー――」とオレンプが間に入って、「つめないと進まないから、介錯します。岸本さん、あたしが責任持ちますから、一瞬、待ってやってください」
オレンプはそういってから電話を一本かけた。
「今、ケリーの旦那が来るそうですから。それでよろしいですか、皆さん」
次の一戦の三局目に、麻雀業者はこんな手で張っていた。
■■■■■■■■■■■■■
■はオタ風だが、■がドラ牌で、■を打った和夫はワレ目だった。一万六千点の手だったが、麻雀業者は和了の声をあげなかった。オレンプが四人の手をのぞいて見廻っていて、流局したとき、彼と眼が合ったが、微笑が消えていた。
「困りましたね。どうしたんです。あたしが、あんたのオーナーに黙ってるとでも思うんですか」
「しかし、あの若い衆からあがったんじゃ、また揉《も》めるだろう」
「そんなことはあたしの仕事だ。選手はちゃんと打ってればいい。いいですか、あの一撃で、あんたのオーナーは、差しウマを含めて二億近い収入をパーにしたんですよ」
「そんなこと俺に関係ない」
「今日の手当は、払えないな」
「いいよ。しかし、君は怒ったね」
と麻雀業者はいった。
「試してみたんだよ。君がどう出るか。君の目論《もくろ》みがどこにあるのか、俺は君にしか興味がないからね。君が怒ったとすると、君の女性《ボス》と本当に一心同体になって稼《かせ》ごうとしているのかな。それとも、ケリーという子をコロしにかけてるのかな」
「どっちもはずれてますよ。博打ってものは自然体が必要なんです。なにしろ破滅の可能性といつも向き合ってるんですからね。自然体のきびしさ、これで破滅を納得させるより仕方がないんです。誰かの作為が加わったら、運命というものの説得力が減るばかりですよ」
「むずかしいことをいうなァ」
「うまくいえないですよ。あたしなんかにはね。ほら、ケリーにしても、うちのカミさんにしても、ピンクゾーンの成功者なんですよ。それでね、こんな遊びしてるうちに、おそかれ早かれコロされちまう。ここのレートじゃ、三日間負けて一家離散しちゃう人だって居ますよ。早いです。営々と身体を売って貯めこんできて、大幸運も加わって、やっと少し遊べる境遇になったのが、すべて、パア。しかも女の身じゃ、もう若くもなし、もう一度やり直して復活は利かないですよ。実際かわいそうです。あたし、何度も刑務所《ろうや》に入ってるうち、そういうこと考えるようになったなァ」
「だって、そのかわいそうなことを仕掛けてるのは、あんたじゃないか」
「あたしはやりますよ。これがあたしの自然体だから。せめてね、自然体で、納得させてコロしてやりたいよ。納得はしないかもしれないけど。あたしたちの小知恵や配慮で、もともとの運命に手を加えられるなんて、そんな甘くはないし、自然というものを侮辱してるよ。我々は神さまじゃないです。あたしたちだって、末は誰かにコロされるんだから」
「わかるような気がするね。わかりにくいが――」
オレンプの眼もとに、笑みの気配が戻った。
「サイコロに徹してくださいよ。そうでないと、玉ちゃんみたいに脱落しますよ。オーナーのことなんか考えないこと」
五
翌週の火曜日、東風二十回戦で、ひとまずお開きとなったとき、麻雀業者はさっさと帰るふりで、少し離れた道ばたに立っていた。
十分ほどしてケリーが出てくる。
「タクシーですか」
彼女はチラッと此方《こつち》を見て首を振った。
「旦那《おやじ》さんが迎えに来るわ」
「じゃ、俺も乗せて貰おう」
「どこまで――?」
「話がすんだら降ります」
ケリーは、いかにも人を信用しない眼で探るように見て、
「じゃ、どうぞ、お早く」
「貴女の馬は、お知り合い――?」
「いいえ、オレンプがみつけてきたの」
「和夫は駄馬ですよ。あれじゃ勝てっこない。馬を換えなきゃ」
「そう――。でも、もうよすわ。旦那《おやじ》さんに、よすようにいわれたの」
「本当は、オレンプを雇うといい。でも、それはむずかしいな。Windserの亭主だから」
「オレンプはやらないわよ。彼は打つより、もっとおいしいことがあるから」
「どういうこと――?」
「潰《つぶ》れそうな店に金を廻して、乗っとってから、新らしい女経営者に売り渡すのよ。ソープで小金を貯めた女なんていくらでもいるからね。あたしだって狙われてたろうけど、それで駄馬を廻したんだろうね。でも、あたしは旦那《おやじ》さんが話のわかる人だから、銭も持ってるし」
白いジャガーが近づいてきた。
「乗るの――?」
「いや、話はもうちょっとだから」
麻雀業者は、開いた扉に手をかけたままだった。
「すると、オレンプは、けっこう資本家なんだな」
「背後《バツク》があってその尖兵《せんぺい》かもね。多分そうでしょう。だってあの人、出て来てまだ二三年だもの」
「じゃ、旦那に話して、もう一回だけ、やってみなよ」
「なぜ――?」
「俺が、君のところにトレードされよう」
「あんたなら勝てるの」
「俺は麻雀業者だよ。日本でたった一人の。誰も信用しないがね」
「つまり、あたしを助けてくれようってわけね」
「まァ、そういうことになるかな」
「で、何が望みなの」
「べつに――。キザにいえば、もちっと迫力のある麻雀が打ちたいのさ」
「旦那《おやじ》さんは多分、許してくれるでしょうよ」
とケリーはうす笑いしながらいった。
「でも、負けたら泣きつけないわ。負けた場合、あんたが払ってくれるのね」
「勝ったら――?」
「そうねえ。半々かな」
「相当に図々しいね」
「あんたからの提案なんだもの。あたしはもうやめたいんだから」
麻雀業者は一人で歩きだした。おっちょこちょいな提案をして、結局女からさえ馬鹿にされる。これでも業者といえるのか。
その火曜日、ケリーは多分来ないだろうと思った。来なければ、例の提案なんぞさっぱり忘れてしまおうと思っていた。
ケリーは誰よりも早く、いつもの応接間に来ていた。麻雀業者を見ると立ってきて、
「あたし、旦那《おやじ》さんに愛想をつかされたわ。でも本当はどうかわからない。最初からの筋書で、オレンプと組んでたのかもね」
この前とは眼の色がちがう。
「だから、真剣よ。この間の夜のことは、実行してくれるんでしょ」
「もっとも、ツキ次第だ。勝つか負けるかわからんぜ」
「今、ほとんど無一文よ。だから負けられないの。あんたにしか、こんなこといえないわね」
麻雀業者は黙ってオレンプのそばに寄っていった。
「俺、今日から所属を移ろうと思うんだ」
「所属――?」
「うん。ケリーの馬になるよ」
「――うちのカミさんの方は?」
「君がやれ、オレンプ」
オレンプは珍らしく口先を尖《とが》らせた。
「なにかまた余計なことに気を遣いましたね」
「うん。どうもね」
「ケリーのどこが気に入ったんです」
「いや、ケリーなんかどうでもいいんだよ。俺は君と打ちたかっただけだ」
「あたしと打ちたい、だって? こんなレートで、道楽をしようというんですか」
「道楽だな。まさしく。でもね、俺たちはとにかく麻雀打って、五十年も生きてきたよ。そのことが急に大きく胸に来たんだ。ねえオレンプ、何の仕事をしようが、やっぱり君は麻雀打ちだし、勝負というものを一筋に信じてるよ。俺たちが出会って、他のことしてたんじゃ駄目。やっぱり麻雀しなくちゃ」
突然に業者が所属を変え、和夫がふくれて帰ってしまったので、
「じゃァ、今日だけのピンチヒッターにあたしが出ましょう。――ママ、臨時だから、気がなかったら差しウマやめさせて貰えばいい」
オレンプは微笑を浮かべていたが、内心は渋面だったにちがいない。そこへ追い打ちをかけるように、業者がいった。
「オレンプ、俺たちも差しウマ行こうじゃないか」
オレンプもたちどころに片手を伸ばしてきた。
「いいですよ。じゃ御教授をねがいましょうか。それで、いくらのウマ?」
「現金じゃ、君たちみたいには賭けられない。親から貰ったたった一つの財産、今住んでいる家と土地を賭けるよ」
「それは、すると、一つ負けるとおしまいのわけね」
「だから一回の勝負じゃない。オーナーがやめるというまでの今夜のトータルでいこう」
「じゃァ、あたしもそれに見合った不動産を賭けましょう。あとでそちらの持物の時価を教えて貰えれば」
なんとかして、オレンプを本気の麻雀に誘いこみたい、と業者は思っていた。面白く打つためだ。同時にまた、オレンプが内心の目論《もくろ》みに沿って適当にさばいたりすることを防ぐ意味も含まれていた。
ケリーが立ってきて、麻雀業者の背後に腰をおろした。業者は柔らかくいった。
「向こうに行って」
「手を見たいわ。向こうじゃじっとしてられない」
「君の表情に、手の模様が反射してしまうんだよ。向こうに行ってくれ」
劈頭《へきとう》に業者がいきなり■と■を鳴いたが、オレンプはワレ目で、ほとんど渋滞もせず何枚か強打してきた。まだ勝負を軽く見ているのか、それとも、本気合をいれて鋭く来ているのか。
やがてオレンプが■をツモあがった。捨牌から見てほとんど直線《ストレート》の仕上げだった。
この一手で先取点をとられた恰好で、それから二三回はオレンプのペースだった。彼は削《そ》げた頬を笑み崩しながら、
「今に誰か追いあげてくるんだろうから、それまでトップ引きをやっていますよ」
儀礼的なことをいった。しかし、いつもとちがう血の気配が現われていて、充分昂揚しているようだった。
「やっぱり、打ってる方がいいだろう」
「さあ、まだわかりませんよ」
「そういえば、あんたは注射を打たないの」
「あたしはね、体質に合わないらしい。アレ打つと、かえってダルくなるんですよ」
六
ツキの風が、オレンプからノロちゃんに移っていた。二回ほどノロちゃんの連勝が続く。ケリーがまた卓のそばにやってきて、オレンプにいった。
「小切手を書いてよ。旦那《おやじ》さんが、オレンプに一時、立替えて貰えって」
「今夜は打ってる最中だから、あとにしてください」
「だって、向こうじゃ待ったはきかないわ」
「いいよ、あたしがわかってるからっていってさ」
「面倒くさいなら、あたしやめてもいいわよ。やめて帰ろうかな」
「あたしもいいですよ、やめたって」
オレンプは麻雀業者の方をみながら、くすんと笑った。そこで一呼吸あった。
「でも今やめちゃ、皆さんに情《じよう》が悪いね、ケリーちゃん。いつもの二十回とまでいかなくとも、せめて十回までくらいやりましょうや」
彼はきちんと着こなしたスーツのズボンの中をまさぐり、毛糸の胴巻をひっぱりだして小切手帳をとりだした。
麻雀業者は無表情で、自分の手牌を眺めていた。
■■■■■■■■■■■■■
このへんが風の移り目かなァ、と思っていた。終了ということになれば、この手は闇に葬られてしまう。オレンプが小切手帳をとりだしたとき、あがれると確信した。
しかも誰かが暗カンをして後ドラが■になった。そうして■のざらざらした感触。■打。うまくいくときは変なもので、オレンプが■をツモ切りした。ワレ目ではなかったがハネ満だった。
オレンプの頬にチラと苦い影が宿った。しかしそれは一瞬で、次局、たちまちリーチがかかり、順調にツモあがった。彼は親だった。
次の局、業者は第一ツモをツモらずに、上家《カミチヤ》の■をチーした。
ここは上り点の問題じゃない。主導権争いだ。オレンプの方も二打目に■を捨ててきている。親リーチがかかり、剣ケ峯になったが、
■■■■■■■■■■■■■
辛うじて■であがった。
「片眼があいたか、きついなァ」
麻雀業者は苦笑したが、この一勝で追い上げが成功したように思っていた。これからしばらくは牌運五分で戦える。
実際、二人のしのぎが次第に白熱してきて、常時主導権争いをしていた。一方がドラ入りチートイツをあがれば、一方はタンヤオチートイツをリーチ一発でツモる。二人ともピンフのテンパイが早くなった。そうして逆にトイツ手の仕かけも早く、フットワークも冴えてきた。東風戦は普通の半チャン麻雀に比して、仕かけの早さが倍も必要といわれる。しかしそう思っていても、後方凡走している状態では、鳴きたい牌がなかなか出てこない。
ノロちゃんもカマ秀も、けっして凡な打ち手ではなかったが、それだけに、二人の競り合いを眺める恰好で、この時期、無駄な戦争をしかけてこない。仕かけが失敗すればラスを引くおそれが出てくる。順位ウマが大きいルールでは、ラスをひくことがなによりいけない。
またたく間に、九回、十回と終った。東風戦は普通一回が二十分くらいである。ケリーは、もう、やめて帰るとはいわない。オレンプも、十回で打ち切ろうかといったことなど忘れたような顔つきだ。
何人かが勢いが拮抗《きつこう》していて、一方に主導権が片寄らない場合の打ち方は骨が折れる。いい手が来たときだけ攻めるなんてことでは、風をこちらに吹かすわけにはいかない。高腰で、どれが危険度が多いか少ないかを確かめながら、危険牌を打っていく。オレンプも業者も、オリて手を崩すことをほとんどせずに限界まで突っ張った。二人はしばしばお互いに放銃したが、実にまたよくあがる。
・・・■
ソウズが各家とも極端に高い。ハイテイで■を持ってきて、■を強打した。このときは、この局のノーテン罰金の出入りが着順を定めた。
ツモり四暗刻《スーアンコウ》のシャンポン手が、オレンプから出たことがあった。
「ああ、なるほど――」
しかし次の局で、オレンプも一鳴きのトイトイ手をツモり三暗刻にしてあがった。
「駄目だなァ、後手をふんでる――」とオレンプはいった。「それにツモってしまうんじゃ、敵を有利にするだけだ。あたしは直撃で打っちゃうんだから」
いつの場合も逆転の手を仕かけてくる、往年のオレンプを思い出す。
「風が変りゃ、逆になるよ」
「そう、ほんのひと風だけ吹けばね」
「そうはさせない。こっちも必死さ。面白いね、麻雀は」
「面白いな。でも、こんなに面白くちゃ、いけないんだろうな」
オレンプがリーチをかけた。十四回戦目だ。
・・・■(リーチ)
こんな捨牌で、まさしくピンチだった。放銃すれば、彼我の勢いがいれかわる。首をひっこめてだけいれば、ツモられるのを待つ感じだ。
■が二丁、雀頭《ジヤントウ》になっていたが、かまわず、■を打った。下家《シモチヤ》のカマ秀が、何かをツモって長考した。カマ秀の眼がリーチだけでなく、業者の方にもチラチラきている。二重の敵を意識しているのだ。
それから業者は丁寧に■を二枚おとしていった。次に、■を強打した。これでまたヤミを張ってると思う奴が居るかもしれない。
結局、■をカマ秀が打った。オレンプの■はカンの三色手だった。
ここはしのげたと思った。業者にとって和了するよりも大きいことだった。
その回は早い純チャンのカンをひきあがっていたこともあって、オレンプの圧勝に見えた。
ラス場で業者にワレ目が来た。ずいぶん点差があったはずだが、ノロちゃんからハネ満の二万四千をとって、トップが転がりこんだ。
オレンプの女性《ボス》がこちらにやってきた。
「小切手貸して」
「なんだい。君のがあるだろう」
「いいから貸して。ゲンを変えるのよ」
「そんなに負けたのか」
「ウマを倍行ったのよ。ケリーと」
「ケリーもこっちへ来たぜ。君たちは、負けりゃみんなあたしが払うとでも思ってるのか」
「どうせ、あたしの金でしょう。あんた、一文無しでうちへ転がりこんできたんじゃないの」
オレンプの額に青筋が立った。が、彼は辛《かろ》うじて自制して声を出さなかった。
「嫌なの。じゃ仕方ないわね」
女性《かみさん》が鈍感にいった。
「あたし、やめる。今夜はここまで」
「やめようよ、あたしも眠くなったわ」
ケリーもいった。
人を殺すときの眼はこうなんだろう、という表情で、オレンプは虚空《こくう》を見ていた。
「はい、はい、そうしましょう」
彼は案外静かな声を出し、口だけ微笑を浮かべた。
「皆さんがやめるというなら、ご命令に従いますよ。ね、業者さん」
「俺はどっちだっていいよ」
「まいりました、恐れ入りましたよ――」
オレンプは見切りよく立ちあがった。
「お宅の地価相場をうちの者に調べさせて、必らず見合う物件をさしあげます。あたしはばくちの金だけはトボけませんから」
「俺はそんなものいらないよ。ケリーにでもやってくれ」
「ケリーに――?」
オレンプは意外そうにいった。
「すると、本当に、ケリーのために働らいたんですか」
「ちがうよ、冗談じゃない――」
麻雀業者は煙草に火をつけてから、
「あの女にやったって、どうせ持ち切れやしまい。物件はまたオレンプのところに戻るさ」
「だから、いったでしょう。おっちょこちょいな真似をしたって結局は同じだって」
「俺は、あんたといい麻雀が打ちたかっただけさ。はじめからそういってるだろう」
「完敗ですよ。一点差だが、これが負けってもんです」
「ああ、今夜はね。でも、明日はわからない」
オレンプは胴巻の中に、丁寧に小切手帳を突っこんだ。
「それで、帰るんですか」
「なぜ――?」
「よかったら、もう少し打ちませんか。馬主《オーナー》なんか、どうでもいい」
麻雀業者は笑った。
オレンプは改めて場所|定《ぎ》めの支度をしながら、こういった。
「どうもね、今夜帰ると、あたしはまた刑務所に行きそうな気がするんでね」
――刑務所に入ったからって、全部が全部、人間が練れるわけじゃありませんがね、ときどき、そういう人間が居るものです。オレンプなんかはそのタイプらしくて、フウ公とともに筆者も彼を敬愛している一人なんです。腰が低くって、愛嬌たっぷりで、親切で、年齢のわりに若々しくて、おシャレで、すばしこくて、しのぎが鋭くて、実にどうも、練り固まった練羊羹のように、容易なこっちゃ歯が立たないというやつですね。こういう人物が、組織の人たちとはべつに、どこの盛り場にも居るというのが近頃の特長でして、一見しただけじゃわかりませんからね、煙草屋のおっさんかもしれないし、新聞の売り子さんかもしれない。まァ、彼が居て、流れるゴミがそこにぶつかってきて、盛り場の裏側というものが面白くなるんですな。
東二局 三〇〇|分《ぷん》一本勝負《いつぽんしようぶ》
一
ピンクゾーンのはずれのマンションの一室に、今夜も男たちが寄ってきた。といっても、いわゆるやくざ者とか、ばくち専業の遊び人とかという種族ではない。皆、一応は立派な職業や肩書を持っている。一流会社の重役も居るし、弁護士や医者や僧侶なども居る。うさん臭いごろつきたちとちがうところは、彼等が誰よりもはるかにばくち好きだということだ。
最初は週末の土曜日を定例日として、三々伍々《さんさんごご》集まっていたものだった。仲間が醵金《きよきん》して共同でマンションを借り、自分たち専用のクラブとして自由に遊ぼう、金は賭けるが無理はしない、お互いの懐中の程度もわかっているから、たとえ世間相場からすると高額でも、健全娯楽の範疇《はんちゆう》であろう。
大変結構な趣旨だったが、数が重なり、おいおいと負ける者の傷が深まると、都合をやりくりして土曜以外も場を開くようになり、すると他の者も放ってはおけず集合する。メンバー不足の日はゲストに声をかけるなどして、いつのまにか会員は倍以上になり、連夜の開催も珍らしくなくなった。
すると、いろいろの意味合いで、健全でなくなる。本業は仮の姿で、こっちの方に重心をかけている者が混じる。いずれも長く遊んでいる者たちだったから、末がわるいと知りつつ、このあたりで歯止めをかけるのが実にむずかしい。
僧侶、家電製品販売業、株屋の愛人、学生、予備でセックス産業支配人、医者、その夜はこの六人が集まっていた。
東風《トンプウ》戦を六回ほど打ちあげたところで、
「一瞬――!」
家電屋がこう叫んだ。
ばくち場でもそうだが、この一室でも、負けて現金がなくなった場合、一瞬と称して、次の勝負まで借りがきく。その勝負で勝って現金収入があり、借りを返せばそれでよし、又負けて借りが重なれば、他からの融資がない限り、そこで退場しなければならない。
だから、家電屋の一瞬は規定上許されることではあったが、このときは学生から一言あった。
「駄目だよ、一瞬が早すぎるよ」
「早いもおそいもないよ。一瞬だ」
「まだ十二時前だぜ。おっさんはいつも一瞬ばっかりなんだから」
「ゲンがわるいんだよ。一瞬だからいいじゃないか。ポケットに銭がないわけじゃないんだ」
「じゃァ、これ、払ってくれよ」
学生は家電屋の小切手を出して突きつけた。家電屋はじろりと見て、
「そりゃァ約束手形だろ。日付けを見ろよ。その日付けになったら払ってやる。それでいいとあのとき納得ずみだぜ」
学生は一座を見渡した。言葉には出さないが、平均負けている家電屋の懐中状態の苦しいのを見越していて(現にその夜も懐中から十万円余しか出てこないでもう一瞬になった)暗に一座を自分の味方にしようとしている。
けれども一座は、それぞれ素知らぬふうで様子を見守っているだけだった。
家電屋はうす笑いしてこういった。
「おい、ヤー坊、君なんかはまだ若いからわかるまいがな。世の中、現金《キヤツシユ》なんかで動いてやしない。大部分はすべてこれ一瞬で、信用と実力による借金で成り立ってるんだ。一瞬がなにがはずかしい。一人前の大人ってものはな、いかに借金が利くかできまるんだよ。現金を持ってなきゃ歩けないのは子供なんだ」
「そのとおりだろうけど、おっさんの一瞬はいやだよ。俺はおっさんには貸さない。他の方はどうですか」
「どうですかって――」と株屋の愛人がいった。「貸さないとどうなるの」
「おっさんにはすぐ退場してもらう。でなければ俺が退場する」
「――じゃァ、俺が出て行って、すぐに他から銭を都合して払いに来たらどうなんだ」
「いいよ、立派なことさ。それなら文句ない」
「同じことじゃないか。一瞬が二瞬になって、それから銭を都合しに行くのと同じだろ。すぐ立つのは面倒くせえ。敗者復活のチャンスが一度ある。一瞬てなァそういうことだ」
「同じことなら、今、都合しに行ってもらいたいな」
「ヤー坊、お前は、俺の集金能力を疑がってるんだな」
「俺は勝金を回収したいだけだ」
「お前みたいな、親の臑《すね》かじりで、自分の信用で世間を渡ってない奴はな、借金なんぞ気が重いだろうが、このおじさんを一緒にしてくれるなよ。はばかりながら、何百億だって廻してくれる銀行の支店長さんを二人や三人は抱いてるんだ」
「俺だって、借金ぐらいできるよ。必要があればね」
「必要がないか。親が居るからな。必要がない間は皆がいい顔をしてくれるかしれないが、いざとなりゃァ、当てにならねえんだぜ。子供に誰も貸しゃァしないわな」
「おっさんよりは、信用はあるさ」
「おい、それじゃどうだ、一番、行くか。これから、どっちがたくさん銭を借りられるか、試してみるか」
「いいとも――」
「いいとも、か。ヘッ。冗談事じゃない。本気の勝負だぜ。ちょうどいい。あと四人居るから、このまま四人で東風戦を続けてもらって、ついでに立会人になって貰《もら》おう。それで、オレンプ――」
と家電屋は、セックス産業支配人の通称を呼んだ。
「お前さん、立会人の代表になってくれや」
「いいけどね、どういう勝負なんだい」
「もちろん、現金を一銭でも多く持って来た奴が勝ちさ。ええと、今、十二時か。よし、明け方の五時まで、あと五時間、それまで駈けずり廻って銭を集めてくる。ここに居るメンバーは助けちゃ駄目だぜ。この顛末《てんまつ》を知らない外部の者なら、どこに行って、どういう方法を使ってもかまわない」
「それで、負けたらどうなる」
「もちろん、勝った者が、ここに集まった銭をカク(総取り)のさ」
「うん、面白いね。ヤー坊、やるかい」
「いいとも、だろう」
学生は無言でうなずいた。
「だがね、借りる先がないからって、強盗なんかやらないでくれよ。ヤー坊」
「面白い、面白い。それじゃァね、早速はじめますよ」
オレンプが、茶碗をチーンと鳴らした。
二
家電屋のおっさんは、早くも出かけて行った。
「なんだい。あんなこといって、逃げちゃったんじゃないんですか」と僧侶。
「いや。けっこう本気でしょうよ。おっさんがね、他人を勝負に誘いこむときのいいかたですよ、あれは」と医者。
「そうすると、自信があるのかしら」と株屋の愛人。
「でしょうね。ヤー坊、ひっぱりこまれたね」
「おっさん、かなり苦しいはずよ。そんな自信があるなら、ふだんもっと融通《ゆうずう》がつくんじゃないのかしら」
「いや、それは甘い。借金というものはな、借りまくって首が廻らないときの方が、どうかすると借りやすいものでな。そのへんはおっさんも心づもりがあるでしょう」
「銀行の支店長の二人や三人、っていってたわね」
「銀行は関係ない。今日は土曜の夜だし、土曜じゃなくても夜中じゃ無理だ。ありゃはったりだがね」
「あ、そうね。――ヤー坊、なにしてるのよ。早く心当りを廻ってきたらどうなの」
「ゆみちゃん――」
と学生は、株屋の愛人に顔を向けて、
「旦那がいつも金を廻してもらう金貸しを紹介してくれよ。無担保で一千万や二千万軽いっていってたろ、大物の金貸しらしいね。俺は担保を入れてもいいから」
「あたしはその先方を知らないわ」
「だから旦那にちょっと訊《き》いておくれ」
「彼は東京に居ないわよ、今夜は」
ヤー坊はちょっとしょげたふうだった。
「弱ったな。その線を当てにして、勝負を受けたんだぜ。居場所はわかるんだろ」
「大阪に行ってるはずだけど」
「ホテルに電話してくれよ。こんなわけだからっていって」
「うーん――」と彼女はしぶった。「どうせ彼が保証人になるんだろうし、そんな話、電話でねえ。――それに、ヤー坊からの頼みだってきいたら、きっといい返事しないと思うな」
ヤー坊と彼女はこっそり出来ている。それは一座の全員が知っているし、当の株屋だって感じているはずだ。
「先方の名前ぐらいはゆみちゃんだって知ってるんだろう。すまん、巣へ戻って電話番号だけ教えてくれよ。俺一人で行ってみる。旦那の名前は出さない」
「学生が一人で突然行って、貸す相手じゃないわねえ」
「じゃ、俺――」
といって学生は眼を伏せた。
「簡単じゃありませんか――」
とオレンプがいう。
「負けると思ったら、一銭も都合しないことですよ。負けたというだけで、金額的損害は受けません」
学生は黙っている。
負けたくはない。面目も潰《つぶ》れるが、それ以上に、持金《タネ》が尽《つ》きたとき、金銭を都合する能力がゼロと思われるのは損だ。今度は自分の一瞬≠ェ利かなくなる。
オレンプが笑った。
「まァ貴方だって、当てが一つってことはないでしょう。勝負を受けた以上はね」
「おっさんは、大体いくらぐらい、集めてくるかな」
「予想ですか。予想を買ってくれるの」
学生は一万円札を一枚、卓の上に投げ出した。
「わたしの考えではね――」とオレンプがいう。「無担保の烏金《からすがね》(一日一割以上の利子がつくこと)を貸す金貸しは、大体一件が二百万程度とふんでるでしょう。一夜に二件成立として、四五百万は現金を持ってるな。二ヵ所を廻れば一千万円弱ですね。あと少々のおまけを入れて、一千万の下じゃ、勝ち目はないでしょう」
「あたしの考えは少しちがうね」と僧侶が片掌《かたて》を出しながらいう。「今どきの一千万じゃ、勝負する金額じゃありません」
「明け方の五時までに――? 小切手なら軽いが、現金の一千万はむりだろう。五百万から六百万が勝負とみるね」と医者。
「いや――」と僧侶がいう。「勝った方が全部取れるんでしょう。その顛末を金貸しにしゃべれば、かなり貸します。利子の条件が更に高くなるかもしれないが、どんなに高くたっていいじゃありませんか。一瞬で、勝てばそっくり自分の懐中に流れこむんだから。私なら八割ぐらい利子でとられたっていい。まァ、二千万の上を行かなくちゃ勝てないですよ」
学生は苦笑した。
「じゃァ二千万を造りに行ってくるか」
「途中の情報代も、一万円で特別にサービスします。電話、いつでもください」とオレンプ。
そのとき、戸があいて小柄な三十男が飛びこんできた。この盛り場に手広く自動車置場をやっている土地持ちである。
「面白え、面白え――!」
身を慄《ふる》わせて喜こんでいる。
「どっちが有利なんだい。ハンデはいくら。もちろんまわりも賭けてるんだろう」
三
学生は外に出たが、はっきりした当ては、実は一つもなかった。こんなとき、商売をやっておらず、平生、仕事で他人と交わらない者は、ひっかかりがすくない。なるほど、他人から借金をしたことがないということは、誇るべきことではないのかもしれない。
彼は知っている女をあれこれ思いおこした。それから、小博打で知り合った男たちのことも。知人の大半は堅気《かたぎ》で、堅気が平常持っている現金はたかの知れた額だから、こんなときの頼りにはならない。
小切手じゃいけないか。
駄目だろうな。現金をかき集めてくるところがこの勝負の勘どころで、そのためには、いつもかなりの額の現金を持ち歩いている奴をたくさん知ってなければならない。
金貸し、ばくち打ち、税金を払いたくなくて利益を銀行に預けようとしないセックス産業の経営者たち。ソープの女ぐらいでは、せいぜいその日の売上げを持っているくらいだろう。
いくら考えても、心安い人間が思い当らない。学生の父親は歯科医で、銭はかなり貯めこんでおり、おかげで麻雀の仲間に加えてもらっているけれど、土曜の夜中に泣きついていっても、現金はほとんどないだろう。
(――まいったな)
早いところ頭をさげて、無条件降伏してしまおうか。オレンプがいうとおり、半端《はんぱ》な銭をこしらえて、そっくりとられてしまうよりはいい。
「おい――」
ぽんと肩を叩かれた。
「どうしたィ、坊ちゃん」
空発屋《クーパツや》のフウ公が立っている。
「不景気な顔してるな。サウナに行くところなんだが、一緒にどうだい」
学生の父親が、土曜日曜の競馬をフウ公に入れている。それで学生も一緒に買う。フウ公にとって親子二代の顧客筋《こきやくすじ》である。
歩きながら、学生は今の顛末を話した。
「ああ、そりゃァ、今の坊ちゃんには荷が重いなァ――」とフウ公は笑った。「どうしてそんな賭けをしたんだよゥ。俺が現われなかったら、坊ちゃん、手も足も出なかったろうに」
「応援してくれるかい、フウちゃん」
「任しとき。そういうことは俺たちじゃなくっちゃ駄目だよ」
「そうかい、助かったよ」
「で、金額としては、どのくらい必要なんだい」
「今のところの予想では、テキは一千万円は集めるだろうってのさ」
「チッチッチッ――」とフウ公は舌を鳴らした。「一千万が二千万でも、驚く俺じゃないよ。日日《ひにち》があればな。今夜が今夜ってのは、さて、どうしたもんかな。サウナで考えようぜ」
学生は時計を見た。
「悪いけど時間があるんだ。少しだって助かるんだから、一軒だけでも教えておくれよ」
「一軒も二軒もないよ。まァ待ちなよ。サウナへ入って――」
学生は一万円札を何枚か折って、フウ公に渡した。
「ああ、そうか――」と彼はいった。「そこの新聞売りの婆さんがね、ときどき小口を貸しつけてるんだよ。とても一千万とはいかねえが、ああいう婆さん、いろんなことを知ってるからね。ちょいと打診してみるか」
フウ公は学生を駅前の喫茶店に置き、眼の前の新聞スタンドで何か話しこんでいた。
彼は喫茶店に入ってきていった。
「まァ、俺が相談役になるについてはだねえ、よくてもわるくても一蓮托生《いちれんたくしよう》だからね。そうだろ。わるけりゃァ俺だって口利いた手前、いろいろとまずいやな。それで、条件だがね――」
学生はなかば観念していた。
「何割くれるね」
「勝った場合かね」
「まァ、そうだ。けれど負けたって金利はつけなきゃならないがね」
「何割ほしいの」
フウ公はだまって指を三本立てた。
「三割? 冗談だろう。口利くだけでかい」
「コーチ屋の謝礼は三割が常識さ。いやならやめるぜ」
「よし、儲《もう》けの三割だね」
「吉田屋さんて人がこの裏に住んでいてね、元親分だそうだ。吉田屋さんに行ってみな、って婆さんがいってるよ」
「どのくらい借りられるんだろう」
「いや、そりゃわからねえ。吉田屋さんは金貸しじゃねえからな。仁侠道《にんきようどう》で、相談に乗ってくれるんだろう」
「で、三割かい」
「どうだかな。ま、できるだけ値切りなよ。あわれっぽく持ちかけてな」
「せいぜい烏金だろう。一晩一割」
「金貸しじゃねえ、元親分だからな。一割ですむかどうか。いやなら別に――」
「わかったよ、それじゃ、俺はここで待ってるから、フウちゃん行ってきてくれよ。そのくらいは働らいてもいいだろう」
「俺じゃ貸すもんか。坊ちゃんが歯医者の息子だから、話になるんだよ」
フウ公のかわりに、学生は不承不承に立ち上って、新聞スタンドの婆さんのところに行った。
家電屋のおっさんは、二人の金貸しを連れ、えびす顔で歩いていた。もちろん笑顔で安心させるためだったが、内心でもほくそ笑んでいる。少し前に、マンションに電話を入れてみると、学生もどこかへ金策に出かけたという。棄権《きけん》が怖かったが、張り合う気になっているらしい。そうなれば勝負はこちらのものだ。なんてうまい思いつきだろう、家電屋は自分で我が身に拍手したいくらいだった。
彼は、ビルにおさまっている大きな中華料理屋に、二人を連れて入った。
「ついでに、ソバでも喰ってきましょうや」
金貸し二人を卓に坐らせ、家電屋は調理場の奥に入っていった。
コック帽をかぶったダブダブ肥りの主人が、支那鍋をほうりだして、
「ああ、おっさん、駄目だよ、いくら電話しても、居ないじゃないの」
「申しわけない。ちょっと旅に出てましてね」
「――で、持って来たかい、お金」
「それがね、明け方の五時に、お返しできるんです。面白いことになりましてね」
家電屋は経過を説明しながら、主人を押し出すようにして、金貸したちの卓にやってきた。
「そんなわけで、このご両所にも助けていただいてね。五時に面白い物を見せるからってんで」
「つまらんことをするね」
「いえ、つまらなくない。こんな濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の勝負ってないんですよ」
「負けたら、こっちがパーなんでしょ」
「負けるはずがない。相手は坊やだもの」
「わからないよ、そんなこと。眼の前に居ない相手は、何をしてるか見えないからね」
「見張りをつけてるんですよ。どんな様子かね」
「借りた金額まではわからないだろ」
「でも、大体の想像はつくよ」
「大体じゃ駄目。一銭に負けることだってある。とにかく、このうえ、あんたに投資したくないね」
「そうかなァ、こげつきが払えるいいチャンスなんだけどなァ。最後の最後にね、おじさんに待機してて貰って、相手の上を行く銭をちょっと出して貰うんだ。たったそれだけのことでさ、ガボッと入るんだけど。残念だなァ」
「行くことは行くよ。五時に、見に行く」
「しめた。それで勝ちがきまったぜ。この界隈《かいわい》で現金王は、なんてったっておじさんだもんなァ。待てよ――」
と家電屋のおっさんは、ソバをすすってる二人の方を見た。
「ヤー坊の奴、こうなったら半端な額じゃ許してやらんぜ。情報を流してやろう。二千万、三千万がいいかな、そのくらいはかき集めないと勝負にならん、てな」
おっさんは店の電話でマンションの連中に、景気のよさそうな話を伝えはじめた。
「――こうなったらね、俺だって男一匹さ。セコい勝負じゃ恥をかく。ケタちがいの銭を集めて突き放してやりてえぜ。今んところまァ、二千五百かな。まァ三千は越すな。ヤー坊から連絡はあったかい。――ない、か。まァがんばれといってくれよ」
四
セックス産業支配人という肩書のオレンプが、マドロスパイプをくわえて、通りの暗がりに立っていた。
彼は鼻の横に皺《しわ》を作って微笑した。
「ヤーちゃん、ご苦労さま、どうですか、様子は」
オレンプは、学生の背後に居る二三人の人影にさりげなく眼を配っていた。
「おや、フウちゃん、珍らしい、意外なところに現われてますね」
「どういうものかねえ、この一帯で何かあるとすぐ聞こえてくるんだよね。弱っちゃうよ」
「弱ることないでしょう。犬も歩けば棒に当る」
フウ公は、殺人前科のあるオレンプをまぶしそうに眺めた。
「オレンプほどじゃないけどね」
「ところで。ヤーちゃん、今、一時だけどねえ、まだ時間はたっぷりありますが」
「おっさんのほうはどんな様子ですか」
「なんだかねえ、情報によると、当初の見込みをだいぶ上廻ってるみたいだな」
「一千万じゃ不足だね」
「二千五百、三千、なんてことをいってるようですね。もっともまだ現物を見たわけじゃないけどね」
学生は平静を装っていたが、身体をカッとあつくしていた。
駄目だ。とても勝てそうもない。
しかし、勝てずに懐中の銭をとられてしまえば、吉田屋さんに合わせる顔がない。現に今も二人、身内の若い衆がくっついて成行きを眺めている。元親分というけれど、雰囲気は現役のやくざと同じだ。
「ヤーちゃん、ちょっと――」
長身のオレンプが、ひょろりひょろりと二三歩動いた。
「勝つ見込みがありそうですか」
学生は黙っていた。
「人が居るから失礼して手短かにいいますよ。投資してもいいです」
学生はやはり黙っていたが、眼だけあげてオレンプを見た。
「貴方の集めた額を、約束どおりの金利をつけて、今返しましょう。私が支払います。それで、全面的に私が融資をしましょう」
「――というと?」
「だから、ヤーちゃんが勝負をするんだけれど、実質的には私の金なんです。もちろん、名目はどのようにも作れるでしょう」
「それで――?」
「二割です」とオレンプはいった。「一割といいたいところだけど、ヤーちゃんのことですからね、知らない仲じゃないから」
「ちょっと待ってください。二割って、金利じゃないんですか」
「金利って、どういう意味?」
学生はまた押し黙った。
「実質は私が勝負するんですよ。それでヤーちゃんは二割の小遣いになる。わるくないと思うけどねえ。もちろん、勝つ自信があればいいんですがね。貴方、恥かきたくないでしょう」
二割、三千万の二割で六百万。わるくはない。しかし、あとの二千四百万はオレンプに取られてしまう。それじゃまるで、自分は小僧あつかいだ。
俺だって勝負にかけてはハンパな男じゃないんだ。こうなったら、金より、名誉だぞ。俺は小僧じゃない。ばくち場に年齢なんか関係あるものか。
「無理にってんじゃないんですよ。困ったらお助けしようかと思ってね。ただそれだけのことです。三時に、私は店のほうに居ますから、もし何ならおいでください。相談をいたしましょう」
「東風戦はどうなってるんですか」
「タクシー会社の今田社長があとから来てやってますよ。あたしはどうも、麻雀も嫌いじゃないが、一発に賭ける方が好きでね」
フウ公が近づいてきていった。
「オレンプがなんていったんだい」
「自信がなかったら、三時に相談に来い、って」
「行っちゃいけねえぜ。奴は、そりゃたいした野郎だがね、交際したら損するよ。坊ちゃんなんか気がいいからいちころだよ」
「坊ちゃんは、やめてくれよ」
「遠慮するなよ。べつに尊敬していってるわけじゃねえ」
一時十分。
オレンプがマンションの一室に帰ってきた。
「どうだった、様子は」と医者。
「まァまァ、がんばってうろついてるようですね。うるさそうな男衆が二三人ついてましたがね」
「ほう、やくざ者に泣きついたか。方寸としちゃよくないね。あの衆が参加してくると、ろくなことはないよ」と僧侶。
「しかし、オレンプ――」と医者がいう。
「あんたまさか、どっちかに肩入れしてきたんじゃなかろうね。ルール違反だぜ、そいつは。俺たちも馬券を買ってるんだからな」
「まさか、そんな金はありませんよ。しかしヤーちゃんも不思議だねえ。やくざのところへ行くくらいなら、なんでソープ街に来ないのかしら。あそこは現金がダブついてしようがないところなのに」
「オレンプ、ラス親だから、今度交代して」
「なんで。ゆみちゃんやればいい。あたしはべつに予備で来てるだけなんだから。やってくださいよ」
「ううん、交代したいの。疲れちゃった」
その回が終わると、株屋の愛人は、
「ちょっと、お金《タマ》をとってくるわ。ツイてないのよ」
ハイヒールを突っかけて出ていった。
入れかわるように、フウ公と二人の若い衆が入ってくる。
卓にすわりかけていたオレンプは、さすがに平素の愛想が声音から消えていたが、「おや、いらっしゃい、フウちゃんがまた、どういう風の吹き廻し」
「わるいけどオレンプ、金利を払ってもらいたい」
「なんの金利――?」
「そういったんだろう。金利は自分が払うから、ヤー坊に金を返せって」
「ヤーちゃんにはそういいましたよ」
「賭けなんて当てにならねえ。今、金利をくれるんならその方がいいんだ。俺たちは意見が一致したんだよ」
二人の若い衆は無言だ。そう言いふくめられているらしい。フウ公がここを先途《せんど》と一人でしゃべっている。
「わかりましたが、肝心のヤーちゃんが居ないね」
「マンションの入口にいるよ」
「どうして来ないのかな」
「今、どこかのおねえちゃんと話してる」
「ヤーちゃんの意見がわからないね」
「奴の意見なんかどうだっていいんだ。一千万、吉田屋さんで出した金は、まだこの兄さんが持っているし、銭は奴の手に渡ってねえんだから」
オレンプは笑いだした。
「銭が渡ってないのに、金利をとるって、フウちゃん――」
「吉田屋さんの手は離れてるんだよ」
「ま、話を整理しましょう。とにかくね、ヤーちゃんがここに来ての話さ。その女の人と、ゆみちゃんだな、ずっと話してるわけでもないんだろうから、まもなくここへ来るでしょう。それで話をつけましょう」
しかし、学生はなかなか姿を見せない。
「おかしいね、ちょっと見てきましょうか」
オレンプを先頭に、ぞろぞろ一階におりた。ヤー坊は、二三軒先の道路の隅で、株屋の愛人とひそひそやっていた。オレンプたちを見て、こっちへ来ようとする。
「やめなさいよ――」
株屋の愛人が片腕をつかんで引き戻そうとした。
「オレンプ、やめさせてよ。どう考えたってヤー坊に勝ち目なんかないわよ。皆に突っつき廻されて、簓《ささら》にされてしまうわ」
「考えとしちゃ、大差はないけどね――」とオレンプはいう。「ヤーちゃんだって男だもの。あたしは手綱《たづな》をひっぱるようにはできませんがね」
オレンプはヤー坊に向かっていった。
「しかしヤーちゃん、この人たちに金利を払っていいんですか」
「謝まっちゃいなさいよ」と彼女。
「いや、その話とは別筋ですよ。こっちは吉田屋さんの一件だから」
「そうさ――」とフウ公がいう。「吉田屋さんの一千万に対して、百万。俺に三百万」
「おや、フウちゃん、そんなにお金を用立てたの」
「俺のはコーチ料だよ。コーチ料の謝礼は三割。こりゃ常識」
「フウちゃん、それは、あたしは聞かない」
オレンプは厳然といった。
「この場合は、借方と貸方の双方から、周旋料を五分ずつ、その辺がいいとこでしょうね」
「不動産屋じゃねえぜ。冗談じゃない。それじゃァ俺はおさまらないね。なァ兄さん」
「待ってくれ――」とヤー坊がいった。「まだ俺は、何も返事してねえぜ。オレンプ、その件は三時に来いっていったでしょう。まだ考えてるところなんだ」
五
それからしばらくして、学生と株屋の愛人は、行きつけのホテルの一室に居た。
「ヤー坊、あんた学生でしょ。ごろつきじゃないでしょ。こんなことで謝まったって、恥でもなんでもないわよ。誰だって、できることとできないことがあるわ。裏の金が作れたって誰も賞《ほ》めやしない。あの連中にできないことを、いつかヤー坊がやればいいんだから――」
「黙っててくれよ。考えごとしてるんだ。少しうるさいよ」
彼女は学生の胸の中で裸身をかわいくくねらせて、
「――じゃ、小さい声でいうわね。あたしだって立派な女じゃないけど、でもヤー坊にそうなってもらいたいってことだってあるのよ。あたしはヤー坊が悪《わる》になってほしくないわ。せめてね、自分の好きな人ぐらいはね、尊敬していたい。遊ぶぐらいいいのよ。ばくちだっていい。でも、悪にならないで」
「――――」
「今夜はひと晩じゅう、あたしは空家よ。朝までこの部屋に居ましょう。他のことは忘れちゃって。――だって、居なきゃそれまででしょ。あとで謝まればいいわ。お互いの作ったお金が賭金になっているだけだから、一銭もできなかったっていえば、それまでじゃない」
「そいつは女の考え方なんだよ、ゆみ。男はそういうわけにいかないんだ」
「そんなの映画のセリフだわよ。いい恰好しないで」
「ごろつきとか堅気とか、そんなことじゃないんだ。勝負ってのは、やっぱりちゃんとやらなくちゃね。うまくいえねえが、あとで謝まりゃいいってわけにいかない。そりゃその方が安全だろうけどね」
「そう。じゃ、やればいいわ。負けたら後始末を誰がするの」
学生は突然、半身をベッドの上に起こした。
「ちょっと、出てくる」
「あてがあるの」
「あるさ――」
彼は外へ飛び出すと、すぐにタクシーをひろった。何故か今まで頭にのぼってこなかったが、自分の家を思い出したのだ。お金は、借りて作るとは限らない。親もとに帰れば、何か金目の物が目につくかもしれない。それを持ち出してオレンプの所へ行き、現金に一時、替えて貰おう。土地の権利書でもいい。歯科医の免状でもいい。相当な金額になる物が何かあるはずだ。
学生の住所はタクシーで片道三十分ほどのところだった。
三時。
オレンプは麻雀を打ちながら、ちょっと焦《じ》れていた。株屋の愛人が戻ってこないので、座をはずすことができない。この回が終ったら、メンバーが崩れても、ちょっと店に戻ろうと思う。東風戦だからすぐ終るはずなのに、こんなときに限って、医者が連チャンしている。
三時二十分。
Windserの支配人室に戻った。
「あたしを訪ねて誰か来なかった?」
夜勤の小母さんは首を振るばかりだ。もっとも客はしょっちゅう出入りしている。
「弱ったな、約束してたんだけどねえ」
「男の人ですか、それとも――」
「学生だよ。男の学生」
ヤー坊が、のぞいて、帰ったか。
来なかったとなると、少し面倒くさい。
一番悪いのは、勝負を断念して逃げてしまった場合だ。オレンプも、思惑があって、急場の現金を借りている。ヤー坊が棄権して勝負がおこなわれなければ、無駄な金利を払わなければならない。
こういう場合の金利はほぼ烏金《からすがね》だから、一晩だって馬鹿にならない。
株屋の愛人が棄権を勧めていたようだから、彼女と一緒にどこかへしけこんでいる場合がある。もっともホテル群を一軒ずつ探すのは不可能に近い。
オレンプはパイプの煙草を詰めかえた。そうしてあわただしく夜の道に出た。
三時半。
中華料理屋では、家電屋と二人の金貸しが時間をもてあましたように酒を呑《の》んでいた。
「しようがねえなァ。ここの親爺が請合《うけあ》ってくれたら、もうすることがないものなァ。これだったら五時なんていわずに、もっとゴールを早くするんだったよ」
家電屋は、おや、といって隅のテーブルをみつめた。株屋の愛人がそこに坐っている。
「どうしたい、ゆみ、麻雀は終ったのかい」
「まだ、やってるわよ」
「じゃァ、敵状視察か。こりゃァね、ヤー坊とできてるんだから」
「変なこといわないで。焼ソバ喰べに寄っただけなんだから」
「まァ、いいよ。ホラ、もう三時半だ。今からジタバタしたって、どうにもならんよな。ヤー坊、どうしてる」
「今、現金《キヤツシユ》に替えに行ってるところよ」
「へええ、何を現金に替えるって」
「何だか知らない。ヤー坊は家に帰って、何か持ってきたみたいよ」
「ヘッ、美術品か何かか。そんなもの、今どき、銭にならねえよ」
「一億だっていってたわよ。これで一億だって」
二人の金貸しが、姿勢をかえて株屋の愛人の方を見た。
「はったりかますなよ。なにが一億だい」
「だから、あたしはよくわからない。信用しなくたっていいのよ。はったりかもしれないし。でも、歯医者さんだから、そのくらいの質物はあるでしょうね」
「あったところでさ、現金だぜ。どこでかえる」
「あたしが電話したわよ。うちの旦那が株でしょっちゅう使う金貸しに。あんたたちとはちがうわよ。あそこなら、一億が十億でも現金が揃《そろ》うわ」
「ゆみが、電話したって。そんなに簡単にな、お前、一億って金が――」
「勝ったら折半だって。それで承知してくれたわ。五時に二人で来るわよ。でも一億ぐらいじゃ、危ないかもね」
家電屋は不意に笑い出した。
「ゆみ、やったな。お前の男想いもたいしたもんだな。芝居だろう。俺たちがそんなセリフで驚いたりするかよ。お前の気持はわかるがね」
「五時になってみればわかるわよ。今頃になってはったりかましたってしようがないじゃない。現金を揃えてみなくちゃ、勝負はつかないんだから」
家電屋はともかく、二人の金貸しはあきらかにうろたえはじめていた。それに、もっと悪かったのは、コック帽をかぶったデブデブ親爺が、調理場の入口から半身を現わしていたことだ。
「親爺さん、気にしないでくれよ。こりゃはったりだからね。勝負中の掛けひきは、こんなこといくらだってあらァ」
「はったり、だろうね。一億なんて現金が、そうごろごろと転がってないよ」
「ああ、ヤー坊だってじたばたするからね。まァ、無視しましょうよ」
「けど、私、考える。うちは固い商売だからね。万に一つも危ないことはやらない」
家電屋がパクッと口をあけた。
「やらないって――?」
「負けてもお前さんが返してくれるんならいいよ。お前さんじゃ返せないね。勝ったときはよくても、負けりゃ元金まで消えちまうんじゃ、固い商人のやることじゃない」
「すると、なにかい――!」
家電屋も荒い声になった。
「この女の子のハッタリの一声で、俺ァ負けちまうのかい。たった一声のために!」
二人の金貸しも立ち上った。
「私たちもお役に立てないようだなァ。残念ですがね。一億ということになると、我々の手持ちではね」
「ちょっと待ってくれ。なにはともあれ、ゆみの一声がハッタリか、そうでないか、もう少し探ってみて、それから定《き》めてもいいじゃないか。勝ち目があるかどうかもわからんうちに降参は口惜しいよ」
「どうやって調べる?」
「もう四時近いよ。我々もそろそろ眠らなくちゃ」
家電屋が、株屋の愛人のそばに寄った。
「よし、ゆみに責任を取って貰う。その大金貸しに、俺も紹介してくれ。一方だけに便宜《べんぎ》を計ることは反則の筈だよ。俺も紹介して貰わなければ、反則失格だ」
「おっさんは駄目よ。親もとが歯医者じゃないもの」
「紹介できないんだろう。大体ゆみが旦那のそんな筋を知ってるわけがないよ。ほら、ハッタリがばれた。ねえ皆さん、一億なんて、大嘘もいいところなんだよ」
ひょっこり、オレンプが入ってきた。
「ひょっとしたら、と思ってね。皆さん居てちょうどよかった。僕にもラーメンください」
「うちはもう、おしまいよ。おしまい、おしまい。他の皆さんも出て行ってください」
と親爺がテーブル掛けを剥《は》がしだした。
六
中華料理店を追出されるとすぐに、家電屋は、株屋の愛人が学生を手助けしたことを反則としてオレンプに訴えた。
「そうすると、一億円の現金をヤーちゃんが揃えたということですか。そうときまったわけじゃない。ハッタリかもしれないんでしょう。反則かどうか、まだわかりませんね」
「あたしは、ヤー坊から聞いたことをしゃべっただけよ」
「わたしの情報ではね――」とオレンプがいった。「ヤーちゃんは、一千万円造った金をパーにして、ほとんどゼロに近い状態のはずですよ」
家電屋はあわてて周囲を見廻したが、二人の金貸しはもう姿を消していた。
「いやんなっちゃう。これだから困る」と彼はくりかえした。「こういうときは、誰もそばに居ないんだからな」
「おっさんの方は、どうなんですか」
「俺の方は、まァ、その、何ですがね」
「もう四時二十分ですよ。直線の追込に入ってください。五時を一分でもすぎてからのお金は無効ですから」
いつのまにか小雨が降っている。霧雨に近いが、この季節ではまだ冷たい。
しっとり濡れた路上を、家電屋がバタバタと駈け出して行った。
四時三十分。
ソープの支配人室に、眼を血走らせた学生が坐っている。そのそばに、五十恰好の口髭《くちひげ》を生やした紳士が居る。
人の気配を感じて、学生が背後を向いた。マドロスをくわえたオレンプが微笑して立っていた。
「やあ、お疲れさま。心配してたんだけど、それで、いくら、ご用立てしましょう」
「いや、考え直しまして――」とヤー坊まで改まった口調になった。「お世話にならないで、勝負してみようと思います」
「ほう――。で、いくら集まりました」
「それは、まだ、いえません」
「水臭い。すぐにわかることでしょう。あたしも心配してるんだから、教えてほしいな。実はヤーちゃんの馬券を少し買ってるんでねえ」
「これ、父親です――」
かたわらにいた紳士は、立ち上って名刺を出した。
「はじめまして、水野明宏です」
「あ、どうぞ、なに名刺をいただくほどの男じゃございません。この店の支配人でして、まァ馬鹿なことばかりやっております」
「伜《せがれ》に叩き起こされましてね。どうしても一緒に来てくれといわれまして――。どうもとんでもない無鉄砲な奴でして、今からこれじゃ、末を案じているんですが、私もこれで、嫌いな方じゃありませんでしてね。子供の勝負に親が乗り出すという、馬鹿な血が流れてるんですよ」
「そうですか、はっはっは。馬鹿な血はお互いさまで。それでお父上が、資金をカバーしてくださるんで」
「いや――」と学生がいった。「うちは現金はほとんどありませんから」
「ほう――」
「はっきりいって、ゼロで、戦ってみようと思って。ゼロなら、負けたって元ッこなだけですから」
オレンプは自分で茶をいれて二人に出した。
「ただ、親父に、俺の親じゃなく、ゆみが紹介してくれた金貸しの役をやって貰うんです。ゆみがはったりをかましたらしいから、俺が二人で来ていると知ったら、おっさんは現われないんじゃないかと思って」
「ふうん――」
「一か八かですがね。やって来ちゃって銭を見せろといわれたら、しようがない、謝まっちまう」
「そうすると、おっさんが棄権した場合、つまり勝っても、収入にはなりませんね」
「面目はたちますよ。それでいいです」
「負けてもゼロ、勝ってもゼロか」
オレンプは腕時計を見た。そうして立って大きなバッグを学生の前においた。
「もう時間がない。これをお使いなさい。おっさんが現われたときだって勝負にはなるはずです」
「でも、なまじ金を持ってたら、負けたとき迷惑をかけるから」
「いいですよ。わたしだって勝負です。遠慮しないで」
「それで、二割ですか。俺の取り分は」
「ええ――」
「八割、儲かるといいですね」
学生は、おずおずとバッグに手を伸ばした。
四時五十五分。
医者、僧侶、タクシー会社の社長、それに株屋の愛人、オレンプ、皆が集まっていた。すでに麻雀牌は片づけられていて、勝負の刻を、それぞれの思惑で待っている。
家電屋が、一人で入ってきた。
「ご苦労さま――」とオレンプがいった。
「手ぶらですか」
「いや、そこまで、資本家が来てる。五時きっかりに現われるよ」
「勝算は、どうですか」
家電屋が何か応えようとしたとき、扉があいて、大きなバッグをさげた学生と、初老の紳士が現われた。
「皆さん、お邪魔します」
学生が二人連れと見たとき、家電屋は一瞬青ざめたようだった。
「三分前――」
と誰かがいった。
「まいった――」
家電屋が、さっと立ち上った。
「まいったよ。俺の負けだ。いやァ、三千万ほど作ったんだがね。自信が持てなくて返しちまったんだ。まァよかったよ。負けたが、実害はない。俺の方は、ゼロだからね」
皆、誰も言葉を発しなかった。
「よかった――」と学生がいった。「これで俺も面目がたった」
「そうだ、よかった」と家電屋も言った。
「負けてたら、後始末で首をくくるところだったぜ」
学生はオレンプの前につかつかと歩み寄って来て、
「お世話になりました」
と頭をさげた。そうしてバッグの中の札束を算《かぞ》えた。
「お約束どおり、八割はお返しします。貴方の取り分です」
オレンプは日頃の愛想を忘れたような表情で、
「それは何のことですか。勝金の八割ですよ。勝金が無いんだから、ヤーちゃんは二割も何も、取るところはないでしょう」
「じゃ、貴方の八割もないわけですね」
「そうなりますかね。しかし、途中で出した金利の百万は貰わなくちゃ」
「あれは、払ってやるといったんでしょう」
オレンプは苦い顔で何もいわなかった。
学生の父親は、汗を拭《ぬぐ》いながら、
「さァ、家へ帰って寝なくちゃ。お前も遊んでばかり居ないで、早く帰りなさい」
馬鹿な父親で、彼も自然にほころびる笑みを隠そうとしなかった。
株屋の愛人は、凱歌《がいか》を奏する親子に、ちょっぴり哀しそうな視線を送った。
不思議なことなんですが、家電屋のおっさんみたいに、しょっちゅうあっぷあっぷして、泣き入りそうなのが、存外に、ばくちの世界では長続きするんですね。反対に、大資産を抱えて、余裕たっぷりに遊んでるなんてのが、どうも、大破滅をしたりします。銭はもちろん、最重要の武器なんですが、その有り方がむずかしい。有りすぎても駄目、無くても駄目。
ところで、警官も、前科者と同じく、庶民の一人であります。やっぱり、趣味が先行することがあるのです。
東三局 都《みやこ》にカモの降《ふ》る如《ごと》く
一
現今の警察、つまり警察官諸氏の風紀は非常に清潔になった。これは筆者一人の感想ではない。暗黒街を含めて盛り場一帯にたむろする下層庶民たちが、口を揃《そろ》えてこういうのである。
「もう、金じゃ駄目ですよ。金で買収できる警察官なんて、一人も居ませんな」
「なるほど、そうすると、何なら買収できるんですか」
「――何ならって、貴方、素人《しろうと》には不可能ですよ。そんなこと訊《き》いてどうするの」
いや、今回のテーマは買収ではない。それどころかほとんど反対といってもいいくらいのお話だ。
まず、勤続三十数年を誇るれっきとした警察官梶井梅治氏をご紹介しよう。彼は一見、小企業の持主のごとく、色は黒かったが、銀髪、小でっぷりしていて、ごく少数の近しい者をのぞいて誰もが、鉄工場の親方ぐらいに思っていた。肥っているからといって、もちろん、こそこそ話などには応じない。
「梅さん、わるいね、あんたの顔でひとつなんとか――、これ、すくないけど気持だけ」
なんて、近しい者がいおうものなら、
「私をなんと心得る」
一途《いちず》に大声を出されてしまう。
「ばくちはやるが、買収などされない。警官としての性根は腐っとらん」
ここいらが独特な言葉だけれども、そういわれて不思議に思った者は、界隈《かいわい》では今のところない。
彼の唯一の道楽は、ばくちで、強いが、まことに綺麗な勝負をする。負け銭を滞《とどこお》らせたこともないし、気持のいい人柄だ。だから、彼が警官だということを知っている者も、出した手を払いのけられて、なるほど不明朗なことが嫌いなんだ、筋が通ってる、と納得してしまうのである。
彼は梶井という姓の方でなく、飛び梅、という愛称で知られていた。もちろん私服に着かえて、管轄区域の外にやってきて遊ぶ。すくなくとも自分では、心にやましいところがないから、きりっとしている。
ばくち事の上で不義理をしたことがないというのは、通算して負けていないということでもあるが、勝ち金を他の事で費消せずに、負けたときのためにきちんと取っておくからだ。そればかりでなく、自分の分を知っていて、懐中の銭の範囲を越すような大きなばくちにはけっして手を出さなかった。非番の日の競馬、競輪、それから夜の麻雀、ごく稀《ま》れにコイコイ、これだけが梅さんの種目で、余《ほか》のことは、黙って頭を振って通りすぎてしまう。
昔、後楽園の競輪場があった頃、あと二レースを残すくらいの頃合いに、私服に着かえた梅さんがあたふたとやってきて、ほんの小一時間、レースを楽しんで、また小走るように帰って行く姿をよく見かけたものだった。
そういうときでも、けっして彼は大枚を賭けない。競輪欄だけを破った皺《しわ》くちゃのスポーツ紙をポケットから出して、人気のうすい枠を一つ選び、その枠から百円ずつ流し買いをする。たまに少し多く買うときでも、二百円か三百円ずつにするくらいのものだ。
後楽園は十二車立てだったから、比較的、穴が多く出る。そうして配当もいい。六千円から一万円くらいの穴を彼はよく当てたが、漁師がよく知っているツボに網を張って待っているように、ニコニコ顔でポケットにねじこむ。彼の期待に反して穴が出なくとも、ヤーハッハッ、と笑いながら小走りに消える。子供の遊びのようなばくちだが、考えてみると、終りの一二レースならはずれても損害軽微だし、最小の資本投資で夢を買っていることになる。
「犯罪ってのは、被害者が居て、加害者が居る、そういう図式でしょう。私はどうも、ばくちってのは犯罪とは思えないんだねえ。負けを覚悟の連中が集まって、運一つで、被害者にも加害者にもなる。私にいわせりゃァ、うらみっこなしだね。こんなの犯罪っていえますか」
彼はまた、こうもいう。
「だけども、私は法律は守りますよ。法治国の人間だから。ばくちで検挙されたら、どんなひどい処罰を受けても、文句はいいませんねえ」
法律にも柔順だったろうが、梅さんは妻君にも頭があがらなかった。どうも気の毒な人で、自分は病人なのだと常々いいきかせていたらしい。普通は、病人ならば療養費もかかるし収入も途絶える。それなのに、自分はとにもかくにも給料を貰《もら》っている。ばくち病なのだから、ばくちをするのは仕方がないが、それ以外の日常は自粛《じしゆく》して病人並みにおとなしくすごさなければならない。
もっとも家族は、不治の病いに冒されているとは思っていないから、優しく放置するということをしない。妻君も一人娘も口をそろえて彼を正道に立ち戻らせようとする。
「おとうさん、いつまであたしたちを泣かせておくつもりですか」
「うん――」
「いつかは罰が当って、新聞にのるようなことになりますよ。そのへんのことも考えてくださいね。おとうさんは、覚悟の前でやってるかもしれないけど、残されたあたしたちはどうするんですか。人にうしろ指さされて暮すくらいなら、今から出ていきますからね」
「本当よ、おとうさん、嫁の口もないようなことにしないでね」
「うん――」
「うんって、どうなのよ。やめるの、やめないの」
「やめる」
「二度とやらないって、誓う」
「誓う」
それで、すぐに朝帰りをする。
「いやァ、ごめん――」
「ごめんですみますか。気狂い」
「そうだ、私は気狂いだ」
「もう勘当よ、おとうさん、二度とここに帰らないでちょうだい」
「いやァ、もうしない。きっぱりやめる」
しかし、その晩、また帰ってこない。
身体が頑健なせいで、一晩か二晩、寝なくたって、勤務にさしつかえをおこすことはない。ただ、自責の念で、いくらか青白くしおれてみえるくらいだ。
そんなに自責をしているならば、答は簡単、ばくちをやめればよろしい、と思う読者も多かろう。しかし、人生はそうすっきりと割りきれてまとまらないのである。実感をこめて筆者も申しあげるが、もうやめようと思ったが最後、いかにしてもやめられはしない。哀しくいじらしく、自責の念に溢《あふ》れかえりながら、勝負の坩堝《るつぼ》にひきこまれていくという、この味がまたひとしおこくのあるところなのである。
二
「――被告人山崎仙三、前に出なさい」
と裁判長がいった。
「本法廷は、法律の定むるところにより、被告人に懲役六ヵ月、執行猶予二年を科す――」
裁判長のいいかたに格別の感情はない。この程度の量刑の被告人は長蛇の列で、感情をはさんでいたらさばききれない。
申し渡されたヤマ仙の方も、猶予刑である以上、昨日までの日常とほぼ変りない日が暮せる。当今は、特別な極悪刑以外の被告は、初犯なら、ほとんど身柄を拘束されることはない。
しかし、前科は前科である。今度、何かをして検挙されるようなことがあれば、うむをいわさず実刑がつくのである。ヤマ仙は、それが癖のせかせかした足どりで地方裁判所を出ると、タクシーをつかまえた。とりあえず、親分のところへ今日のことを報告しなければならない。
それはまァ儀礼のようなものだった。ヤマ仙の罪名は、賭博開帳図利同|幇助《ほうじよ》というのである。むずかしい名前だが、ひらたくいえばばくち場の従業員だったということだ。ばくちを打つ客よりも、テラ銭をとって利をはかる場主側の方が罪が重い。ヤマ仙のような合力《ごうりき》(配当をつける係)はその従犯ということになる。してみれば主犯は親分であるはずだが、普通は現場責任者である代貸が責任を背負ってしまう。
昔は、賭場が検挙されると、客たちのはもちろん従業員の保釈金や罰金まで場主側で持ったものだが、近頃は頬かぶりする親分が多いらしい。
親分の家の前には、クライスラーとベンツが停まっていた。ヤマ仙はせかせかした足どりでそれらの横をすり抜け、門からゆるい傾斜になっている石畳を昇った。紅梅がぽつんと咲いている。彼は眼鏡をとってちょっとそれを眺めてから、母屋《おもや》の横の細道を通って裏口に行った。
「おやっさんは――?」
「上澄町の別邸だす」
「はァ、そうだっか」
「仙さん、裁判所からなの」
「へえ、執行猶予だす、おかげさんで」
別邸は幹部だけが集まる場所である。ヤマ仙は仕方なしに、明日、出直してくる旨《むね》いい残して引き返した。
バスが砂煙をあげて通りすぎる。そのあとに何台かライトバンや小型トラックが続き、それからさっきのタクシーが折り返してくるのをつかまえた。
「西成まで――」
(――糞《くそ》、五百万)と思う。それくらいの金は、ちょっと太い客なら、ひと晩で張り取りする額だ。ヤマ仙自身、賭場に出れば、十万二十万は気合で張ってしまうことも珍らしくない。しかし、賭場を一歩出れば、金額の重みがまるでちがう。
カミさんが五百万の保釈金を払いこんだ。その金は、ずいぶん長いことかかって貯めた虎の子だ。
息子の太郎が、今年、大学を受験する。そのことがなければ金なんぞ貯める気になる男じゃない。五百万は、保釈金なんかにするつもりで貯めこんだわけじゃないのだ。
その金が戻ってきても、亭主よりずっと大事な息子の学費のために、カミさんはもう放さないだろう。
ヤマ仙は大通りで車を捨て、同じ間取りの小住宅が汽車長屋ふうに続いている小路を歩いて自分の巣に戻った。
上《あが》り框《かまち》の三畳に坐って、カミさんを相手に茶を喫した。
「それで、もうすっかり終ったのね」
「終ったさ。あんなものなんてことはない。うつむいていれば、上の方をつっと通っちまう」
二人とも関東出身なので、家の中では関西弁を使わない。
「でも今度やったら実刑でしょ。もうやめてちょうだい。年なんだから、固く生きるよりしょうがないわよ」
ヤマ仙は紙きれのようにうすい表情で黙っていた。
「太郎のことがあるのよ。あんた、太郎に顔向けができないでしょ。あれが学校を出て就職するまでは、変なことをして貰っちゃ困るのよ」
「俺はべつに遊んでたわけじゃない。仕事に行ってたんだ。遊んでる奴《やつ》より、仕事してる奴の方が刑が重いってんだから」
「息子にいえるような仕事をしてよ。うちの商売、学校にいえないでしょ。そんな父親ってないわよ。今度、こんなことになったら、あたしたち、二人で死にますからね」
女は勝手な生き物だと思う。警察沙汰にさえならなければ、だまって彼の持ってきた金で暮していたのだ。
ヤマ仙は翌日、昼になるのを待ちかねて、親分のところに行った。彼は何の肩書もない一兵卒だが、方々転々してこの社会の経歴は古い。格はなくとも奥まで自由に出入りし、わざと勝手にふるまって、親分は特に俺のことを眼にかけてくれるのさ、などといっている。
「すんまへん、ヤマ仙だす。入ってよろしゅうおまっか」
「おう、ええよ、ごくろうさん」
幹部たちは居ない。紫檀《したん》の大きな卓の向うで親分が磊落《らいらく》に笑っている。月々のテラ銭だけで億とあるような一家を張っているのだから、どこかで怖い顔になるだろうと思わせておいて、なかなかそうならない。だから笑顔にも貫禄がある。
「皆、びっくりしとったでえ。お前が、初犯やとは思わなかったいうてなァ。なんで、隠しとったんや」
「べつに、隠しとったわけやおまへんが、体裁《ていさい》わるいよって」
「あっはっは、安吉なんぞ、前科二十犯くらいの顔つきや、いうとったで」
「おかげはんで、猶予刑がつきまして」
「おう。お前の年でな、前科なしなんて、考えられん。童貞の五十男みたいでうす気味わるいわ。まァよかった、なんにしても、童貞が破れて、めでたい」
ヤマ仙は仕方なく、こっくりと頷《うなず》いた。
「明日から気軽やろ。前科なんちゅうもんは、一つついてしまえば、あとはなんぼつこうと同じもんや。身ィ入れて働けるんとちがうか」
「へえ――」
それから、ヤマ仙はようやくいった。
「――明日から、ちィっと、休ましてもらいてえんで」
「ほう、なんでや」
「なんでって、わしも考えましたんやが、息子が今年、受験ですねん」
「そんなに小さかったかな」
「いえ、大学の受験で」
「大学の」
「へえ、おやじが伜《せがれ》に自分の商売いえへんようなことじゃ、あかん思いましてな」
「なんでいえへん。立派な稼業やで」
「ところが、嫁はんや息子はそう思うてはりません。なんやこう、ネクタイでも締めて歩くような男になってほしいンですわ」
「締めたらええがな。ネクタイでも首でも」
「人を堅気《かたぎ》のようにいうな、いうてわしもどなってやるんで。せやけど、嫁はんはともかく、息子を困らせとうもない。保釈の二年だけでも、なにかまっとうな職、探してみよう思うてます。親分、長いことお世話をかけました」
「なんや、子分のお前の方から、盃返そうてわけか」
「一時の方便や思うて、堪忍しておくれやす」
「おう、勝手にせい。おのれの都合ばかりいいくさって。勝手にせいやが、退職金はやらんで。餞別《せんべつ》もやらん」
三
「――おや、珍らしい。まだ生きてたの」
支配人室に入ってきた男を見るなり、オレンプはいつもの笑顔で、大仰《おおぎよう》にいった。
どんな人間が入ってこようと、この男は物驚ろきというものをしない。
「仙ちゃんでしょう。どうした風の吹き廻しなんだろう。しかし、よくここがわかったじゃないですか」
「そこの麻雀屋に入ってたら、客があんたの噂してた。あんた、有名人だね」
「どうせよくない噂だろうね。アハハハ」
「いや、わるくはなかったよ。昔からあんたのわるい噂はきいたことがない。それで、羽振りがよさそうだね」
「冗談じゃない、ソープランドの雇われ人ですよ。ばくち打ちも年齢《とし》とっちゃ形《かた》なしさ」
「いやいや、立派なものだよ。それに若いじゃないか。昔とちっとも変らん」
「仙ちゃんこそ、一財産作ったでしょう」
「オレンプさんのようなわけにいかない。いや、たいしたもんだ」
「まァまァ、余裕充分で人をからかうからなァ」
優しい言葉はこの社会のジャブみたいなもので、ジャブを喰っているうちにフットワークが乱れたりするから油断がならない。
「ところで、オレンプ――」
「遊ぶ気ならいろいろ居ますよ。仙ちゃんは若い娘《こ》より、ねっとりしたコクのあるのがいいんだろうね」
「大阪から、俺、出て来てね」
「ふんふん――」
「なにか東京で、うまいことないかと思ってね」
「盆ですか。ご心配ご無用」
「いい客でも居るの」
「いい客って、仙ちゃんがいい客になってくれなくちゃ困るじゃないですか。ハハハ」
そこに私服の飛び梅が入ってきた。
「おやァ、さすが梅さん、臭いをかぎつけるね。仙ちゃん、早速一戦いきますか」
「いや、俺は今日は、打っていられない」
ヤマ仙は口ごもった。打てばなんとかしのげるだろうが、オレンプたちと本格にやってしまっては、ずるずるとその道筋に埋まりかねない。では、何のために上京したのかわからなくなる。ヤマ仙は、とにかく志をたてたのだ。
「あれ、お前、仙ちゃんじゃないのか」
飛び梅がそういったときも、ヤマ仙は驚ろかなかった。
「ああ、そうだよ。どこかでお手合せしたかな」
「いや、山崎仙三だろ。T小学校の」
「T小学校――?」
「俺だよ。梶井梅治だ。屋根屋の息子の」
「――梅公かね。ああ、そうだ。梶井だ。へええ、ほんとだ。ずいぶん年齢《とし》をとったなァ」
「お前だってそうだ。ははは、此奴、洟《はな》たらしてたがなァ」
「下町の空襲で、お互い焼けた。あの頃以来じゃないのか」
「学童疎開でなァ、山梨の方の山寺に居たんだ」
「そうだ。お寺になァ。蚕《かいこ》の蛹《さなぎ》を皆喰っちゃったっけ」
「古い話をしてるなァ」とオレンプが笑う。
「要するに、小学校の同級生ですか」
「そう。お互いに、優等生だった」
「嘘つけ。どういう教育をしたんだろうね。その学校の先生は」
「それで仙ちゃん、今何してる」
「いやァ、おはずかしい。ばくちをやってるうちに、うかうか年齢を喰った」
「まァ、こっちも同じさ」
「息子が今年、大学なんだ。それでね、大決心をしてね。父兄の職業欄なんてところに書けるような定職につこうと思ってさ。思いきって東京に出て来たんだがね」
ヤマ仙はチラと自嘲の笑いを浮かべた。
「いいな。そりゃァ、いい」
と飛び梅がいう。
「まァしかし、思い立つのがおそかったよ」
「おそくはないさ。そりゃァ息子さんも喜ぶだろう。それで何をやるね」
「うん――」
ヤマ仙はここで、チラッと見栄《みえ》を張った。この老骨を受け入れてくれそうな職業は、梅公の手前、口にしにくい。上京する車中でなんとなく空想していたことなのだが、
「出版でも、やってみようかと思って」
果然、二人が眼をみはった。
「出版でもって、そりゃァたいしたことじゃないか」
「仙ちゃん、やるなァ、出版か」
「いや、出版といったって、銭がたくさんあるわけじゃない。ゾッキ本まがいのお粗末なことだがね」
「でも、たいしたもんだよ。出版業なら、どこに出たって堂々としてられる」
「やっぱり、何かい。エロ本みたいなものかい」
「いや、此方《こつち》は素人だからね。誰もやってないことを狙うより手はない。ギャンブルの雑誌というのは無いだろう。ギャンブル人口は多いぜ。それに、俺は他のことはともかく、ばくちは専門さ。自分の得意技を生かすのが一番だろう」
「なるほどねえ、面白いことを考えたねえ」
とオレンプが笑った。
「だけど仙ちゃん。ギャンブルってのはやるもんだろう。読むものじゃないな」
「いや、わからんぜ。無いから読まないんだろう。俺はね、寝る前によく、もう終っちゃった予想紙なんか読むぜ。新聞は読まないけどな。あんたたちだってそうじゃないのか」
「まァ、俺たちもその雑誌、買うかもしれないね」
「そうだろう。それに、ギャンブルのことなら筆者に頼まなくたって、俺が書ける。銭がかからねえよ。あんたたちにも評論家になって貰《もら》うさ。オレンプのところのメンバーなら、強力なスタッフができるだろう」
「どうだい、梅さん、警察の方は」
「そうだなァ。サイコロだって花札だって、ばくちの道具だが、売るだけは許されてるんだからなァ」
「競馬、競輪、競艇、オートレース、公認のばくちだってたくさんある。記事は困らねえよ」
ヤマ仙自身が、しゃべっているうちに、だんだん熱っぽくなってきた。もっとも、だからといって本当にそれができると思っていたわけじゃない。あくまでも、茶うけの馬鹿話のつもりだったのだ。
ところがヤマ仙が立ち上ると、飛び梅も一緒に出て来た。
「仙ちゃん、久しぶりだ。ちょっと一杯、つき合わないか」
そういって焼鳥屋に連れこまれた。
「お前さん、よく決心したな。えらいよ。俺も長年、ばくちが病気と思ってきたが、お前みたいな気持にはなかなかならなかった」
「なに、そういう状態に追いこまれただけさ。実をいうとな、俺、パクられて、今、保釈の身だよ。今度やると実刑がつく。息子にも顔向けができない。だからばくちはできねえんだ。賭場で合力《ごうりき》やる気なら喰うのは簡単なんだがな」
「えらい。なにしろえらい。俺は感動したよ。ぜひ成功してくれ。俺にできることならなんでも応援するから」
「とにかく梅ちゃんには、評論家として活躍して貰わなくちゃなァ。案外、ギャンブル評論家で売り出すかもしれねえぜ」
「俺に、原稿なんか書けるかなァ」
「原稿は素人かもしれねえが、オレンプにしろ、他の奴にゃ書けねえことがいっぱいあるだろう」
「まァそうだがね」
といって飛び梅も笑った。
「仮の名前を作ればね。ふーん、ギャンブル雑誌か、なるほどねえ、仙ちゃん、お前も案外、頭がいいんだね」
四
だらだらと日がすぎた。ヤマ仙はその間に、オレンプたちの盛り場とはずっと方角ちがいで、麻雀屋のメンバの口をみつけた。メンバとはマネジャー的存在で、店主にかわって客の整理をし、半端《はんぱ》な卓には自分も入り、一方また公安官まがいにもめごとを仕末したりもする。雀力があって、凄《すご》みと愛嬌《あいきよう》が要求される。勝ちすぎれば客を散らすし、負けすぎても自分の懐中が痛む。むずかしい商売だが、その店は若者相手でレートも低く、取締りの対象にもならない。ただ住込みなので便利なだけだった。
それで、当面の大阪に居る妻子への送金を果たすつもりだった。もっともこの商売、病気すればパーだし、徹夜が続くので、初老のヤマ仙には定着はむずかしい。
一人暮しの淋しさもあって、あまり足を向けまいと思っていたオレンプのところに顔を出した。
「ああ、仙ちゃん、待ってましたよ」
とオレンプがはずんだ声を出した。
「この前の話、どうなった。少しは具体化したの」
「うん、まァ、おいおいとね」
「皆に話したらね、当りそうだよ。大穴だが面白いって。それでね、ここにはどの種目でもプロが居るからね。競輪であれオートであれ、ポーカーであれ、ホンビキであれ、評論家はすべてまにあいますよ。失礼、ホンビキは仙ちゃんが自分で書けばいいか」
「はじめはあまり、原稿料も払えんがね」
「なんたって、能書《のうがき》をいいたい連中ばかり揃ってるんだから。今日一戦やりますか。皆に紹介するけど」
「そうだな。――ヤバい種目かい」
「麻雀だよ、遊びの。取締りの対象になんかならない本当の家庭麻雀」
「レートはいくら」
「ほんの、雀の涙くらい」
「そうだなァ。やると癖になるからなァ」
「あ、忘れてた。仙ちゃん、それで編集者が要《い》るでしょう。もう決めたの」
「いや、まだだ」
「居るんだけどねえ、ちょうど今、頼まれてるんだけど、女子大生だよ。ムチムチした娘なんだが、雑誌が好きなんだって、もちろんギャンブルもね。ちょうどうってつけだと思うがなァ」
「女子大生か、安く使えないなァ」
「軌道に乗ってからでいいんじゃないの。はじめは心づけ程度で。なんだったら、一発やってさ、女にしちゃえば」
「俺ももう若くないからねえ」
「親に買って貰ったマンションにね、住んでますよ。この近くなんだがね。そうだ、そこを事務所代りに使ったらいい」
「大丈夫かい、そんなことして」
「そこは仙ちゃんの持ってきようさ。お金使ってやるなら、誰も感心しないものね」
「おい、それじゃ詐欺《さぎ》だぜ。俺は詐欺はやらない。ばくち一本でこの年まで来たんだ」
「あたしもですよ。だってこりゃ詐欺じゃない。刊行準備事務所だからね。娘はジャーナリストになりたくてしょうがないんだし、八方いいでしょう」
冗談、とまではいかないが、出した舌のひっこみがつかないようになってくる。もっとも受験が迫っているので、何か定職を作らねばならない。大阪に送金したついでに、出版をやるつもりだ、と葉書を出したら、折り返し麻雀屋に返事が来て、大風呂敷を拡げてないで、さっさと生活費を送れ、といってきた。
ヤマ仙はそれでちょっとファイトが湧いた。オレンプが紹介した娘を見て、どうしてもやる気になった。
彼は額に汗を浮かべてしゃべりまくった。
「ギャンブルの雑誌ったって、馬鹿にしちゃいけない。これは文化研究誌だからね。人間の歴史とともに、ばくちはあったわけだから、研究することはいっぱいあるよ。例えば、手ホンビキだ。あの遊びには張り方の種類がたくさんあって、その配当率が実にうまく計算されている。あれは高等数学を使わないと出てこないらしい。江戸時代の博徒に、高等数学なんかできる奴が居たなんて信じられるかね。実に奥が深い。それだけ書いたって何冊もできる」
娘はムチムチと熟《う》れた身体をもてあますように、貧乏ゆすりをしていた。
「ところであんたは、雑誌を作った経験はあるのかね」
「もちろんよゥ。高校のときからやってたわ。評判よかったわよ。校内誌で、表紙に男のヌードを使ったの、うちぐらいだもン」
「校内誌か、まァとにかく校正や割付も、それじゃァできるね」
「校正って何?」
「ははァ、校正を知らないか」
「平気よ、友だちにやらせちゃうから」
「そうだな――」とオレンプもいう。「仲間を皆呼んでこいよ。編集おニャン子クラブだ。おニャン子が作るギャンブル雑誌、話題になりますよ」
「それであたしを社長にしてェ」
「いいだろう、ねえ仙ちゃん、名義だけの雇われ社長は必要でしょう。キャバクラだってデートクラブだって、皆そうなんだから」
「あたし、いいカメラマンを知ってるわ」
「安く撮《と》ってくれるかね」
「あたしならね、前から撮りたいっていってるもの」
「ガーンと、ヌード行くか」
「――おい、あんたは」とヤマ仙は念を押した。「自分のヌードを表紙にする気かね」
「いいじゃない。こう見えてもポルノ映画に主演しないかって、誘われたことあるのよ」
「――しかし、ギャンブル誌だからなァ」
「大穴特集って、いいじゃないこの企画。わッ、あたしって、すごいなァ」
翌日から、ヤマ仙は麻雀屋をやめ、緑色のベレー帽をかぶってきた。さすがにオレンプが窘《たしな》める。
「そいつはどうかなァ、出版社にベレー帽って、昭和のはじめだよ。センスが古い」
「そうかね」
ヤマ仙は素直にベレー帽をやめ、古着屋で買ったらしい中国服を着てきた。
創刊号が出るまで、女子大生のあけみのマンションが仮事務所になった。彼女のクラスメートががやがや出入りする。それに魅かれるようにオレンプの仲間が来る。学生のヤー坊は、いち早く競走馬の血統に関する蘊蓄《うんちく》を原稿にしてきたし、フウ公は原稿は書けないが、競輪の裏表をテープに吹きこんでいった。フウ公が紹介してきた予想屋たちで座談会もやった。ヤマ仙自身、手ホンビキについての連載読物にとりかかって毎日机の前で苦闘していた。
昼間はそれでよかった。なんとか気がまぎれる。夜になると息苦しくて眠れない。銭が払えなくて、皆に糾弾《きゆうだん》される夢を見る。結局は詐欺で、訴えられるかもしれない。そうなれば、万事休すだ。
(――まァ、やれるところまでやって、せっぱつまれば蒸発するまでだ)
そう思うよりしかたがない。
ある夜、むりに誘いこまれた大きな麻雀で勝って、百万余の現金を手にした。誰にもかくしていたが、彼はこのときはじめて、簡易旅館から小さなアパートに越したのだ。
それで女の子たちにもいくらかバイト代を払うことができた。
オレンプの肝入《きもい》りで、ギャンブル誌創刊記念ホンビキ大会を仮事務所で開いた。廻銭を負担したオレンプと二人で、あがりを山分けした。
「毎月一回、定期的にやろうぜ。そうすりゃ皆の原稿料もパーになる」
「いいアイディアだが、サムいね。特に俺は保釈中だから」
「大丈夫。ガサ喰うのはね、落ち目のときさ。今、仙ちゃんは旭日《きよくじつ》のような勢いだから」
「まだわからん。雑誌が売れてみないことにはね」
「だからさ、二面作戦。ホンビキなら、かりに雑誌が赤字でも、すぐ埋められる」
女子大生のあけみがすっかりホンビキを気に入ってしまって、二回目の開催を自分から提案したほどだった。そうしてケラケラ笑いながら沈み頭《がしら》になった。これで当分彼女にはギャラを払わなくてもいいことになった。
「平気よ。あたしは社長だもの。ギャラなしだって働くわ」
彼女は親の送金で何不自由なく暮しているのである。
オレンプが、精算は雑誌発売後という奇特な印刷屋をみつけてきた。印刷と紙が後払いでいいのなら、本当に無一文だって雑誌というものはできてしまう。
が、ここまできたら後戻りはできない。是が非でも、ヒットさせなければならぬことになってしまった。ヤマ仙はもともと実直ではないが、見栄っ張りだ。やくざ社会で出世しはぐれた人物に、こういうタイプがわりに多い。
スタート地点のことを思うと、奇跡のような具合だが、見本誌ができあがってきた。
早速駈けつけてきたオレンプの仲間が、争って手にした。
「面白え――!」
と異口同音《いくどうおん》にいった。自分たちの原稿がのっているのだから、面白くないわけがない。
「こりゃァ売れる。頭は固いよ。有金勝負だ――!」
とフウ公などははしゃぎまわった。
皆でビールで祝盃をあげた。誰もが自分の雑誌のような表情になっているのが不思議で、オレンプさえ、
「仙ちゃんのおかげで、あたしまで固い仕事をしたような気分になりましたよ」
とまでいったほどだった。
ヤマ仙は早速その見本誌を一冊、大阪に送った。
そんな金があるのなら此方に送れ、受験代はサラ金から借りた。返金してくれないと夜逃げをしなければなりません。という返事が来た。
大手の取次店が受けてくれるほどの部数でもなし、知人も居ないので、神田の小さな取次店に小型三輪を借りて運び込んだ。
それから、これもオレンプの発案で、東京周辺のギャンブル場で立売りをすることにした。女子大生(というのは怪しかったが)に雑誌を持たせて、色眼と一緒に売ろうというのである。オレンプは女の子の日当に一万円を要求した。
「高いね」
「いや、彼女たちは普通ならもっととりますよ。すごい宣伝じゃないの。本当ならタダで雑誌を配ったっていいんですよ」
日当一万円では、売上げがほとんど日当に消えそうだ、と思っていたら、実際にはほとんど売れなかった。宣伝、宣伝、とオレンプはくりかえすが、
「駄目だよ、雑誌より皆女の子の方を見ちゃうよ」
とタクシー屋さんなどはいう。
取次店を通して全国に配った方の売行きがもっとも気にかかるところだったが、これはすぐには実態がつかめない。返品をのぞいた実売の精算は、三ヵ月後にまた三ヵ月先の先付小切手で支払われるという。そこまで印刷屋が待ってくれるかどうか。
そのうえ、月一回発行の雑誌である以上、次をすぐ作らねばならない。ヤマ仙はそろそろ、頭が痛くなってきた。
五
あけみとヤマ仙は、とうにつるんでいる。つるむなといったって無理な話だけれど、ヤマ仙はもうほとんど自分のアパートに帰らない。これが悪弊《あくへい》となって、彼女が会社の伝票をぼんぼん切り出した。
給料もろくに払っていないのだから、ヤマ仙にも弱みが重なっている。あけみは彼女なりに、この雑誌を利用して世間にアピールしようとしたらしいが、あまり反響がないので、その欲求不満が無駄遣いの方に行く。
あれこれ考えると、大破綻《だいはたん》が眼前のようにも思え、ヤマ仙は脂汗が出てくる。息子のことがなければ、すぐにでも全部おっぽり出してトンズラしたいところだ。
私服の飛び梅がある日訪ねてきた。
「ようやったなァ、仙ちゃん、俺は本屋で買ったが、素人にしちゃたいしたもんだ」
「いや、駄目だよ。未決で監房に入っているような気分だ」
「どうして」
「売れてるのか売れてないのか、さっぱりわからん。取次店の精算は、六ヵ月先だそうだ。つまり、六冊、雑誌を作らなくちゃ、最初の売上げが入ってこない」
「いいじゃないか。そのあとは順ぐりになるんだろう」
「俺はそんなに金を持ってないよ。梅ちゃん、半端やくざが、やることじゃなかった」
「弱気をおこすな。がんばらにゃ駄目だよ。精算が半年先なら、支払いも半年待って貰えばいい」
「どうすりゃ待ってくれるかな」
「オレンプを使えばいい。あの男は社交の天才だよ」
「オレンプだって、ただじゃ動くまい」
「いや、今のところ、皆、仙ちゃんに好意的なんだ。あの連中が共同作業をするなんて、むしろそれが信じられないよ。皆、どうしてか生き生きしとる。ばくちもいいが、固い仕事もいいんだ」
「先行きがパーと知れたらそうはいかないよ」
「だからパーにしないでくれよ。俺は、俺にできなかったことをやっているお前さんがうらやましいよ。それにな、他人が浮かびあがっていくのを見るのは、いいもんだ」
「浮かびあがりゃいいがね、土左衛門かもしれねえ」
飛び梅が、ヤマ仙の出版社に投資したという噂が流れて、皆をびっくりさせた。
「なんだい、あいつにそんな余分な銭があるんなら、もっと早く溶《と》かし(負かす)とくんだった」
机を叩いて口惜しがる者も居たが、実際は退職金を前借りしたらしい。
「凄いことをしましたねえ、梅さん」とオレンプがこっそりいった。「すッ堅気じゃ真似はできない。といって遊び人でもない。梅さんでなくちゃね。いや、恐れ入りました」
「なァに、どうせそのうちオレンプにコロされるんだから、それにくらべりゃね」
「あたしも梅さんをコロすのを楽しみにしてたんですがね。楽しみが減ったな」
飛び梅の停年は三年先である。その頃までにはヤマ仙の事業もなんとか恰好がついているだろう。ぜひそうなってくれなければ困る。
それも駄目で、すべてがパーなら、警察官のくせにばくちで捕まったと思って、あきらめよう。その先のことはあまり考えたくない。
「だがね、オレンプ。あまり表向きにしないでおくれよ。なにしろカミさんに内緒だからね」
二号目にも、皆が書いた。あけみは一人で焦ってますます煽情《せんじよう》的なポーズをとる。
その頃、読者から、たった一通、葉書が舞いこんだ。
≪――ギャンブル雑誌だっていうから、ためしに買ってみたが、あまり役に立たないね。ただ、一生懸命作ってるみたいなのがいい。俺も一生懸命、ばくちをやってるよ。なんでも一生懸命やらなきゃ面白くないよ――≫
たった一通というところが不吉だったが、やがてドッと返品が押し寄せて、終日その整理に追い廻された。
返品は毎日きりなく来た。うっかりすると刷り部数を上廻る勢いである。この様子では精算を待つまでもなく、敗戦は明らかである。
「まァいいさ。なにしろはじめての号だからな。初ヅナははずれたっていい。この次大と開《あ》けばな」
フウ公もそういう。そうだそうだと皆がいい、早速反省会を開こうといった。反省会はすぐに手ホンビキの場に変ったが、その場で大勝ちした株屋が、百冊ほど、返品を引きとるよ、と申し出た。
「俺の名前が目次に出てるんだ。親戚に配ってやる。そのかわり半値にしておくれ」
「ギャンブル好きがバレるぜ」
「俺が書いたのは株の記事だぜ。株屋が株のことを書いて何がわるい」
二号目はさらにひどい返品で、九割は売れ残ったのではなかろうか。そうなると借り倉庫代も大変だから、ゾッキ本屋に潰《つぶ》し値で持っていって貰う。それで焼芋と焼酎《しようちゆう》を買って皆で呑んだ。
(せめてこの連中にだけは、迷惑をかけたくないな――)
ヤマ仙はなんとなく本気でそう思う。ということは、蒸発を本気で考えはじめたことにもなる。すでに印刷、紙代は、取次の精算の時期がきても払いきれない。俗に三号雑誌というが、三号で終れば、まだ不義理の筋がうすかったのである。
「あけみ、もう駄目だ。お前の切った伝票も払えなくなったよ」
「お金が、ないの」
「逆さに振っても、もう血も出ない」
「じゃ、明日からどうするのさ」
「おじさんのことより、お前、どうする」
「あたしは平気よ。その気になれば裏ビデオだって使ってくれるし。ねえ、裏ビデオから認められてスターになった娘も居るんだからね。おじさん知ってる」
「しかしこの部屋は、逃《ず》らかった方がいいぞ。お前は名前だけでも社長なんだし、借金とりがここへ押しかけてくる」
「逃らかるっていっても、この部屋、あたしの物よ。そうだ、ここを売っ飛ばせば、まだ続けられるんじゃないの」
ヤマ仙は哀しそうな顔をした。
「ありがたいが、遠慮しよう。これ以上突っこんだって同じさ。それより、これからはもっと自分を大事にしなよ。俺が説教たれる身分じゃねえが」
「おじさん、でもトクしたでしょ。あたしみたいな若い子が抱けて」
「そうだな。皆に迷惑かけたが、俺はちっとも損したような気がしねえ。考えてみたらそうだな、俺ァこれからどこに居ても、元出版業者だ。息子だってそう書ける。嘘じゃねえんだものな」
六
それから一年後、大阪駅に、うすいレーンコートを羽織って背中を丸めた飛び梅が、トボトボとおり立った。彼はゆっくり階段をおり、改札口を出ると、大きな屑《くず》入れ箱に近寄り、比較的汚れていない新聞を何枚も拾い出し、ポンポンと埃《ほこり》を叩く仕草《しぐさ》をしてから小脇に抱えた。
着ている物もそう崩れていなかったし、顔色だって赤味がさしている。けれども荷物は何も持っていない。
彼はいくらか迷いながら、地下道に入って行った。そうして広告のはまった大きな壁面の段になったところに新聞紙を敷き並べて腰をおろした。
それでもう自分のすることはすべて終ったように動かなかった。通行人も見上げなかったし、小用に立とうともしない。といって眠っているのでもなかった。彼はコンクリートの一点をじっと見つめて、自分の一生を反芻《はんすう》しているようだった。
夜ふけて通行人がまばらになってから、人影が彼を見て立ち止まった。その人影は一瞬立ち去ろうとし、思い返したようにたたずんで、じっと彼を眺めていた。
飛び梅が、やがて眼をあげた。
「梅ちゃん――」とその人影がいった。
「悪かったなァ。お前さんもとうとうここに来たかい」
こちらは汚れが立派に身についたヤマ仙だった。
飛び梅はのろのろと視線を伏せた。
「大阪なら、誰にも会わんかと思ったが、仙ちゃん、お前もここかい」
「俺のせいだな」
「お前のせいともいえんよ。勤めをクビになったら、カミさんが、出て行け、いうもんだから」
「そうか――」
ヤマ仙もしゃがんだ。
「それで、身体は悪くないのか」
「ああ、元気だ。なァに、陽気がいいから、当分ここに居るよ」
「それもよかろう。いったんおちついちまえば、ここは呑気《のんき》さ。はずかしいのも二三日だけだな」
「はずかしいことはないよ。俺ァなんにも悔いてない。警察官のくせに、あれだけばくちを打たせて貰ったし」
「警察官――、お前、警察官だったのかい」
「いつかはこうなると思ってた。これで元っこさ」
「俺もなァ――」とヤマ仙は述懐するようにいった。「いつも不運で、悔いばかり多かったが、最後の大失敗な、あれだけは不思議に悔いとらん。どうしてかなァ。あれが一番いい思い出じゃ」
「俺ァ今がいい。今が一番気楽だ」
「おい――」とヤマ仙は笑いをかみ殺すようにしながら、手提げの中から割れ茶碗を出した。
「一丁行くか――」
黒光りしたポケットから三個のサイコロが出てきた。
「チンチロリンか」
「これならサシでできる。時間はたっぷりあるし、お前はもう警察官じゃないし、のびのびできるぜ」
「銭がないわい」
「お互いさまだ。出世払いといこうじゃないか」
「出世って、俺たち、これから出世できるか」
「わからんわい。出世したら払えばいい」
二人は床に敷いた新聞紙を千切って、お互いに金額を書きこんだ。
「さァ、いいだしっぺが先に親やれ。目無しで親交代だぞ」
「いいとも」
ヤマ仙が三つのサイコロを茶碗に落すと、
「おや、なんじゃい、これ!」
三個ともピンだった。
「仙ちゃん、ツイとるなァ、五倍か」
「今頃ツイてもなァ」
はじめのうちはヤマ仙がぐんぐん勝って、威勢がよかった。けれども、さし勝負のチンチロリンはいつもどちらかに目が片寄る。飛び梅の方が調子がよくなって、ヤマ仙は貯めこんだ紙片をぐんぐん吐き出していった。
とうとう勝ちがすべて消えて、ヤマ仙の方が新聞紙に記入しはじめた。
「こりゃァなんだね」
飛び梅が奪った紙片に、ただ、あけみ、と記してあった。
「あの女はいい子だ。案外にな。ズベ公のわりにすれてない。負けたらあけみをお前にやるよ。俺はお前には借りがあるからな」
そういってヤマ仙は、先輩ぶった表情で笑った。
ピンクゾーンには、ときどき大事件みたいなものが起るんです。殺人だの強盗だのじゃなくて、そんなものは日常茶飯なんでね、つまり、女の子がスターに出世しちゃったりするんですよ。それから、大金をかけてPRしてスターを造ったりね。なにしろここの子たちも皆有名になりたがってるんでして。
ところで、大ブスってのが最近は居なくなりましたね。筆者の若い頃は、女の七割まではブスだったんだが。そのかわり、皆、同じような顔して、同じ化粧で、どれが誰だかわかりゃしない。これじゃァ誰か一人を好きになろうとしてもむずかしいんじゃないかな。
東四局 ふうてんパイオニア
一
「ええ、本夕《ほんせき》は――」
とオレンプが口を切った。五十に手の届きそうな年齢には見えない若々しい顔に、いつもの人なつこい微笑を浮かべて、
「おいそがしいところを、というところですが、内輪の集まりで、儀礼のパターンは省略させていただきます。かねて皆さま方からご期待を寄せていただいた件が、ようやくに実現の運びに至りまして、これから皆さまにお目通りをさせるわけであります」
場所は界隈《かいわい》一の現金王と噂される中華料理屋満月楼≠フ奥の間。集まっているのは一帯のピンクゾーンの店長たち。
「ええ、この鬼ケ島ピンク街のイメージガールとして、かねてから全国津々浦々を探し歩いておりました我が共同スカウト隊が、北海道は札幌において遂に発見いたしましたる大美女。清く明るくセクシーで、おまけに花も恥じらうまだ十八歳という、いや、こんなキャッチフレーズよりも百聞は一見にしかずで、まもなくこの部屋に現われると思いますが――。いや、私も実は、まだ会ってないんですよ。なにしろ今日の午後、極秘|裡《り》に羽田に着いて、Tホテルに入ったきり、スタッフ以外には誰にも会わせないんです。なにしろ彼女は方々のピンクゾーンからも狙《ねら》われてますからね」
一座はなごやかにざわめいている。もちろん商売仇《しようばいがたき》ではあるが、近頃はピンクゾーン一帯の名をあげるために共同作戦をとる場合が多く特にPR作戦は熾烈《しれつ》を極めている。つい先年、新宿歌舞伎町がイヴという娘をピンク映画のスターに仕立てて名をあげて以来、各地ともにおニャン子スターの発見に全力をあげてきた。立ちおくれていた鬼ケ島ピンクゾーンも、大金を投じて一人のタレント嬢をスカウトしてきたというわけだ。ま、新手《あらて》のように見えるが江戸の昔の花魁《おいらん》作戦と同じことであろう。
「――ただ今、彼女がちょっとショッピングに出ておりますそうで、おっつけ現われますが、どうぞ料理などでそれまでつないでいただきます」
「マスコミには手を打ってあるのかな」
「ええ、明日二時から、スポーツ新聞、週刊誌の共同記者会見をやります。これもピンクゾーンとしてははじめてでしょう。すでに十何社からの参加の通知が――」
「十八というのは本当ですか」
「ええ。彼女の母親が、そういったそうで」
「母親はわからんよ。母親がいったんじゃ信用できない」
「もちろん戸籍抄本もとってあります。まァ本人を見てください。大丈夫、二年はたっぷり使えますから」
「いや、虫がつくのも早いからねえ」
誰かが写真を見ながらいった。
「男関係はどうなの。この身体はもう虫がついてるねえ」
「高校二年が初体験だということですね。しかし、ボディの感じなんか、いいですよ。やっぱり、るーとこの子とはちがいますね」
「テレビはどうです。帯ドラ主演みたいな手は打てませんか」
「澪《みお》つくし、なんてのに出た子が鬼ケ島に居るなんて、いいね」
「考えてみましょう。映画の方はもう一本きまってますがね。今年の秋から撮影に入る予定です」
「しかし、おそいな。どっかにツバをつけられたんじゃないか」
「よしてくれ、縁起でもない。大金がパーになるぜ」
「ご安心ください――」とオレンプは自信ありげにいった。「本人がね、今度のイメージガールの件には一番燃えてるんですよ。すでに契約金も渡してることだし」
「名前はどうする」
「そうです。名前を、ひとつ皆さんが考えてやってくださいな」
「遊、ゆうってのはどうだい。遊子か」
「清純でいこう、さぎり、狭霧――」
「むずかしいね。若者受けしない」
「蘭ちゃん、あさみ、愛ちゃん、なんてありふれたのでないのがないかな。カタカナがいいね、やっぱり、モダンで今ふうでなくちゃァ」
「オードリィ」
「長いね」
「リズ――。世界一の美女だぜ」
「居るんだよ、すでに。ウチにも居るし、女王蜂さんにも居る」
「ええ皆さん――」とオレンプがやっと声を張りあげた。「彼女が到着いたしました。ひとつ盛大な拍手をください」
皆、拍手をした。拍手だのお辞儀だのは商売柄いずれも出し惜しみをしない。しかし、その拍手が尻上りに烈しくなった。
まことに、ピンクのイメージガールにふさわしい、チョコレートのように甘く、クッキーのように肌のなめらかな美女だった。
彼女はやや緊張した表情で一礼し、
「これからお世話になります。よろしくお願いしまーす」
といった。
二
彼女の名前は、キャンディ、ということになった。やっぱりどこにでもありそうな名前だが、現金王満月楼≠フおやじが現金百万円を投じて名付け親の権利を手にしたのだ。
「キャンディ、いいよ、忘れられない名前だ。私、はじめての女が、キャンディ、だったよ」
満月楼のおやじは、すっかり特別スポンサーのような顔つきで、その日、彼女をTホテルまで送っていった。それで、二日ほど、行方不明になっちまった。
「おい、あのビヤ樽《だる》が、戻ってこないって」
「そうらしいですね」
「そうらしい、って、オレンプ、おちついてちゃいけない。あんたらしくもない手抜かりじゃないか」
「だって、あたしは中華料理屋の番頭じゃありませんよ。ビヤ樽がどこに行こうと関係ありません」
「ビヤ樽はいいよ。キャンディはどうした。せっかくの玉が、もうビヤ樽なんぞに――」
「彼女はホテルに居ますよ」
「――誰と?」
「一人で」
「じゃ、ビヤ樽はどうした」
「ビヤ樽がどうしたか知らないが、彼女はちゃんと記者会見もすましたし、約束を守って外出もしない。非の打ちどころがありませんね」
彼女は鬼ケ島ピンクゾーン全体の専属として、当分はPR写真や対外用の仕事が多くなる。けれども特別指名料を出せば、界隈のどのキャバクラでも招《よ》んで席に侍《はべ》らせることができる。
「まァ、ビヤ樽がとことんまで立ち入っているんじゃなけりゃ、いいんだがね」
これも特別指名客の一人をもって任ずる医者が、わざわざチャーシューメンを喰いに立ち寄って問いただした。
「やァ、ススキノのお友だちと麻雀打ってた。私、すぐ熱くなる性分でね。でも、麻雀であんなに負けたの、はじめてだ」
それで医者は再び怒髪《どはつ》天をついた。
「ススキノのお友だちが、ついて来てるっていうがね。三人も!」
「三人ねえ。スカウトからはそんな話きいてませんがねえ。自主参加じゃありませんか」
「プロ野球じゃないからね。花も恥じらう十八歳が、男三人連れて東京見物にやってきたのかい」
「調べてみましょう。東京に知り合いは居ない筈《はず》だし、ただのお客じゃないですか」
「ただのお客が泊りがけでくっついてくるのかね。いいよ。こっちで調べるから」
医者も、それから三日帰ってこない。家族が警察に届けを出す寸前に、よれよれになって戻り、風呂につかって三時間も眠った。
問い糾《ただ》すと、やっぱり麻雀だという。
「駄目だよ。三人どころじゃない。とっかえひっかえ男が出てきやがって、女に手が届かないうちに、とうとうダウンさ」
医者は眼に隈《くま》を作っている。
すでに週刊誌や新聞が、まるで神話の主人公のような扱いで、キャンディ嬢をPRしている。どのキャバクラからも外注できるという目新しさも手伝って、キャンディ目標の客足も上々だ。
オレンプは、はじめてTホテルの彼女のプライヴェートルームに足を運んだ。二間続きのスィートで、ハリウッドスターのようにたくさんの花で飾られている。宿泊費は彼女の自弁だが、鬼ケ島との契約は、月額二百万なのだ。
「どうですかね、東京は――」
「オレンプさんでしょ。お噂はずっときいているわ」
「あまりいい噂じゃないだろうね」
「前科四犯だか五犯で、人殺しもしてるんでしょう」
オレンプは笑い出した。
「そうなんだがね。怖いかい」
「貫禄があるわァ。素敵だわァ。それに、恰好いいし」
「応援団が居るそうだね」
「ええ、後援会ね」
「何人居るの」
「七人よ」
「キャンディ嬢と七人の小人か。後援会としては、すくないね」
「だって、一週間は七日だもン」
「なるほど。しかし、そいつは初耳だな」
「訊かれないもの」
そういって彼女はニッと笑った。
「入れてあげましょうか、オジサマも。でも、一人、セリ落さなくちゃ駄目よ。あたしは七人が限度」
「その七人は、ヒモかね。それとも、スポンサーかね」
「どっちでもないンじゃない。勝手についてきて、自分で生活してるんだから。ただ、会費が一人五十万よ。毎月それだけは、ノルマね。それ以上は一銭もいただかないの」
「君は本当に、十八かね」
「どうして――?」
「あたしが十八の頃は、そんなこと思いつかなかったな。もっともあたしは男だったが」
「あたしが思いついたンじゃないわ。彼等が勝手にそうしてるだけ」
「やれやれ。君の後援会のことがバレたら、我々は大損だな」
「お勤めはちゃんとやるつもりだけど」
「イメージがわるいよ。清く明るくセクシーで、だ」
「誰だってしてるじゃない。オレンプさんが前科七犯だって、誰もなんとも思わないでしょ」
「この世界じゃね。前科は五犯だが」
「そうよ。この世界よ」
「しかしなァ、七人で満員というのはなァ。東京の客も、入りこむ余地がなくちゃァ」
「もちろん、単発オーケイよ。レギュラーだって、差別なんかしないわ。ただ、先輩とチェンジしてくれればいいんですもの」
「どうすれば、チェンジできる」
「あたしに従《つ》いてこれなくすればいいんじゃない。経済的にね。皆、お金持じゃないし」
「皆、麻雀で稼《かせ》いでるのか」
「麻雀、競馬、競輪ね。だって、そうするより仕方ないンじゃない。あたしがぴょこぴょこ他土地《ほかとち》に移動するから」
「なるほど」
「オレンプさんは、ギャンブルやるの」
「あたしは、あまりやらないね」
「前科七犯でも」
「まるで知らないわけじゃないがね。まだ五犯だから」
「会費ぐらいは軽いでしょ」
「いや、月五十万なんて、大変だよ」
「残念ねえ。でもさっぱりしたおつき合いの方がいいのかもね。あたしもあんまりセックスは好きじゃないから」
「そうすると、小人たちをギャンブルで破産させればいいわけだな」
「あ、そうね。その人から巻きあげていけばいいんだものね。でも、そのあとはどうするの」
「一人一人、コロしていけばいいさ」
「アラ、かわいい。そういういいかた、好きよ」
三
キャンディファミリーの七人衆は、精力的な外交員のように、鬼ケ島ピンクゾーンのあちらこちらを飛び廻り、次から次へと上客の血を吸った。上客ばかりではない。彼等に麻雀で巻きあげられて店を閉めたサウナの経営者も居る。もっとも最初から整然と襲撃してきたわけではない。あとになって、結局あれが七人衆だとわかったのだ。
鬼ケ島としては、自分たちが吸いあげるべき客を奪われ、自分たちもカモられて、そのうえ月に二百万ずつ上納しているのだから、非常に困る。
といって、簡単にキャンディ嬢をクビにするわけにもいかない。すでにいろいろな方面に先々の契約を結んでいる。
こうなると、立案者のオレンプに非難の視線が集中してくる。あれはグルで、オレンプが陰であやつっているという者も現われる。
さて、日本に唯《ただ》一人という阿呆な看板をかかげる麻雀業者の事務所に、オレンプが現われたのは以上のような理由だった。
「なるほど、小面憎《こづらにく》い女の子だね」
「いや、かわいいんですよ。すばらしい子です。あたしも娘があったら、あんな子に育てたいですね」
「ははァ、君好みなのかね」
「彼女は北海道に広大な土地を買ってましてね、彼女自身、強烈なローンで毎月ひィひィいってるんです。あと二年、二十歳になるとそのローンが完了するので、そうしたら引退して牧場をやるんだ、というんですがね。年甲斐もなく感動しちゃってねえ」
「君はわりに感激家だったね。ばくち打ちには珍らしく。しかし、どこに感動したのか僕にはさっぱりわからん」
「だって、女の子って結局は、我々ピンク商人の道具になってるだけでしょう。近頃みたいにピンクゾーンが盛んになればなるほど、花の命は短かくて、二十一、二になればもう廃物ですよ。そのあとの長い一生をどう暮していくか、誰も責任なんかとらない。女の子だって人を喰う権利はあるんですからね。こういう子は教科書にでものせたらいいと思いますがねえ」
「まァ、そうだね。美人というのは、それだけで安心して、ぽーッとしちまうもんだが、この子はちがうね。苦労して育ったのかな」
「本当は、あたしも応援してやりたいですよ」
「応援してあげなさいよ」
「ところが、それを喰うんです。何故かね」
「君はいつもそれなんだ。もっとも、僕にもわからんわけじゃないがね」
「それで、仕事の話なんですが」
「ちょっと待ってくれ。その七人の小人に、キャンディ嬢の牧場の話を伝えてくれたかい」
「もちろん、いいましたよ。ばかばかしいじゃないか。女の子の貯金の手伝いをして、君たちは将来どうするんだい、とね」
「ほんとにどうする気だろう。いい若い者がさ」
「皆、その件は知ってました。それで、俺たちも一緒にその牧場で暮すんだって」
「どこまで馬鹿だろうね、近頃の若い連中は――」
「あたしよりはいいですよ。あたしはそんな目標さえなくて、だらだら遊んじゃったから」
「天才は別さ。だが、天才が他にもう七人も居るとは思えないがね」
「やって貰えますか」
「君はどうする。一緒に打つかい」
「あたしはもう年老《としよ》りだから。でも相手は七人だから、長期戦になれば、ピンチヒッターぐらいには出ますよ」
「よし。タッグを組むという約束なら、やろう」
その先は、話が手っとり早かった。七人とも人見知りをしなかったし、第一、大きいレートをする客は、ピンクゾーンといえども、そうたくさんは居なかったから。
会場は、例の場所。例によって医者と看護婦が来ていて、全員にヒロポンを打つ支度をしている。
七人衆はニコニコしながら、国際試合の選手のように、列を作って入ってきた。全員、若い。いかにもキャンディ嬢を喜ばせそうな体形だ。
一人一人が、名乗りをあげる。
オレンプが、業者の背を押して、
「こちらは、麻雀業者」
といった。連中がちょっと物足りない顔つきになった。
「業者はわかりますが、お名前は?」
「いや、そういう名前なんです。何故かね」
「鞍馬天狗みたいなものかな。覆面《ふくめん》はしていないがね」と業者も笑顔でいった。
「お一人ですか」
「ええ。疲労の度合によって、あたしが代打ちします。だから常に、ゲームは貴方たちが三、対する一です」
「それは損ですね。三人の方がリツがわるい。二対二になりませんか」
「しかし貴方たちは自由に交替できる。それでちょうど五分五分でしょう」
「通し《サイン》は黙認します。但《ただ》し、リーチ後のあがり選択はなし。はじめに出るなりツモったりした時点であがらなければチョンボとします」
「我々も、組行為はしないよな」
といって一番|年嵩《としかさ》らしい頬ヒゲが笑った。
「ええ。ファミリーといったって、団体の名誉なんかありませんから。個人プレーに徹するだけです」
東風《トンプウ》戦でワレ目あり。レートは5の15(千点五千円、場ウマオール五万円)。
東風戦だから一回勝負が二十分平均だ。夜を徹して三十回から四十回できる。ハコ三十万のレートでは負け続けても一千万の大台に達することはむずかしい。そのうえ相手は入れ替り立ち替りだ。
最初の休憩のときに、別室で残りの四人とポーカーをやっていたらしいオレンプが、一杯呑みますか、と立ち上ってきた。
「ウイスキー?」
「ああ、バーボンロックを」
氷片を入れたグラスを渡しながら、
「どうですか、調子は」
「可もなし不可もなし」
「七人をやっつける必要はないですね。まず一人を狙いましょう」
「そうだけれど、不調と見れば交替しちゃうだろう。それに、まだ積極的に仕かけられる状態じゃない」
この休憩で、意外にも相手は三人総入れ替えをした。
「誰がこの中で、番長なんですか」
オレンプがあいそよく訊く。
「番長は居ません。居たってまとまらんですよ」
「だから皆平均して出ますよ。よっぽどでないかぎり、不調だからってひっこみませんね」
「なるほど、よほど揃ってるんですね。皆さん勝ち続けてきたんでしょう」
「他に仕方がないでしょう。我々が自力で稼げるのはギャンブルだけだし」
「ギャンブルはどこの土地でもできるからね」
「ああ、そうだ――」とオレンプ。「今日は何曜日?」
「木曜日でしょう」
「木曜はどなたの番だったかな」
「あたしです――」
と一人だけまだ出ていない小肥りがいった。
「今日ははじめから欠場のつもりでした。明け方にでも電話して、必要とあらば駈けつけますが」
「いや、大丈夫。安心して我々にまかせなさい」
と一番若くてオッチョコチョイ風がいった。
四
「ツモ、四暗刻《スーアンコウ》――」
と、もっとも負けがこんでいる色眼鏡の男がいった。
さもあろう、と業者は思っていた。それでワレ目の親が飛び(ハコになること)、一戦のケリがついたが、こういう四暗刻は怖くない。東風戦は、要するにその場で一番必要な手がくるのが好調の印なので、状勢が望んでいる以上の高い手がくるのは、むしろ歓迎できない。どうしても仕上りがおそく、あがりがすくなくなるからだ。上りやすい中堅手がくるのが望ましい。
そういう意味で、色眼鏡も苦慮しているらしく、役満をあがってもニコリともしなかった。
それにしても、と業者は経験で思う。おそい四暗刻をあがらせるくらいに、誰もが早い攻めに出られなかった。手が中だるみになっていたので、このあとの攻防がひとつのポイントになって、好不調の差が出てくるのかもしれないな。
新らしい回の東一局、業者はフル回転でなんでもない手に賭けた。
■■■■■■■■■■■■■
■はかなり早く初物を鳴き、■のアンコを切った。クズ手がやっとこうなったのは八巡目だった。■はすでに場に三枚出ている。ドラは■。ホン牌ドラでは後方待機していられない。ワレ目は対家《トイチヤ》。どこかにリーチがかかればたちまちツマりそうな手だ。
ツモる手に力が入る。折悪しくワンズが高い。と思う間もなく最後の■をツモってくる。が、気をふるいたてるようにツモ切りした。
ワレ目の対家が一瞬考えながら牌を倒した。ピンフのみの千点は二千点。彼も一四《イースー》万待ちだ。しかし大事な局面とさとってあがりにかける。スプリントだから先行好位が有利なのだ。
救いは相手も同じことを考えていて、会心のあがりになっていないことだった。次は親がワレ目。業者はここでも仕掛けを早くし、
■■■■■■■■■■■■■
こねくってどうやらテンパイした。このまま動かぬうちに、ワレ目の親にリーチがかかる。もし勝負事に意志というものが必要ならこういう場合であろう。業者は瞬時に、ここは突張り気味に行く覚悟をきめた。親のワレ目リーチというのは、ツモにかける自信のある待ちか、足止め策のクズ手が多い。
■ツモ切り(■がポンされていたので)、■ツモ切り。二巡したとき思わず吐息が出る。この二局ともに、消極策をとっていたらレースに加われていない。それがだんだんと手材料をわるくしていく因になる。たとえラスを引こうとも、戦争に加わっていなければならない。
それが絶対のセオリーではない。ただ経験でその判断に踏み切っただけだ。どうしても三枚の■を落していきたい誘惑に駆られる。
その回は流局で、双方あがれなかった。但し、打ち負けなかったことで、勝ちしのいだと思った。そう思うことに努めた。
次の一本場、また早リーチがかかった。前回に四暗刻をあがった色眼鏡だった。今度は完全にオリてガードを堅くした。態勢を立直しにかかって来た相手に放銃するのは点棒以上に拙《まず》い。
その回は決定打が出ないまま接戦でラス場になった。そこでドラ入りチートイツの早いヤミ点がワレ目から出て、六千四百は一万二千八百。ひろい物のトップが転がりこんだ。
勝つときはこんなもので、手そのものはおおむね偶然だ。ただその前の段階で心をくだくのだ。
業者ははじめて微笑した。
それから一気に三連勝する。勝てるときは、経験でめったにしくじらない。
「いかん。代ってくれ」
敗戦打を打った頬ヒゲがそう叫び、若いオッチョコと替った。
「東風戦は、本当に、展開がすべてですからねえ」
とオレンプがベンチであいそをいう。彼も、ポーカーでチップをかなり集めている。
「あの業者さん、いい打ち手ですね。ただ、強くはないな」
頬ヒゲがこちらにきこえるようにそういっている。オレンプはエヘエヘと笑って、
「年ですからね。我々はもう打点力はありませんよ。反射神経も鈍ってるし」
「強くはないが、負かすのは骨ですよ。そのかわり、我々も負けないでしょう」
頬ヒゲが何をいわんとしているか、わかる。セオリーの打ち手なら怖くない。怖いのはノンセオリーの相手がツイているときだ。
味方よ、セオリーだけで行くな。一番調子のいい奴が代表で、ノンセオリーでごしごし行け。あとの奴はセオリーでガードに廻る。
それだけのことが、ツーカーと伝わる連中なんだろう、と業者は思う。
では、こちらがノンセオリーの代表となってやろう。当分、攻めに徹するのだ。
自分がワレ目になったときは、フットワークで小あがりをする。ワレ目でないときも、大物手は狙わない。誰もこちらに不用意な危険牌を捨ててくるわけはないのだから、色気のわかりやすいホンイチは捨てる。
状況と手材料をマッチさせる、それが重要だ。リーチしなければあがれない手は作らない。大物手は不要。追込に廻るな。先行好位で行け。
それができるうちは五分以上に戦える。場況と手恰好がチグハグになってきたら、リーチしなければあがれないような手が来はじめたら、そのときにまた考えよう。
朝方、オレンプがこういった。
「どうやら、あたしの出る幕はなさそうですね」
「うまくしのがれましたね――」と頬ヒゲもいった。「でも、まだまだ。誰もダメージを受けてないからね」
「どうやら長期戦ですね。いいじゃないですか。毎晩あたしも、ポーカーで楽しめる」
五
三日目から、株屋の初ちゃんが加わった。彼は公称の愛人を持つ身だし、その愛人の手前も、キャンディ嬢が目当てとはいえなかったので、
「僕はただ、揉《も》んでるのが好きなだけだよ。面白そうな麻雀だから、加わらしてよ」
と入ってきたのだった。
もう十年近く、街の高利貸しから借りた金だけで、株を売買し、それだけでしのいでいるすごい人物。しかしすこしもそんなふうには見えないほど柔和で明るくて、彼の参加でずいぶん場が打ちとけた。
この日は麻雀業者がベンチに引いて、オレンプが先発し、ファミリー側も、頬ヒゲが欠場し、小肥りが復帰している。
いきなり初ちゃんが、|W《ダブ》を鳴き、若いオッチョコが■、■、ドラの■とポンした。
手拍子で、初ちゃんが■をツモ切り。
そのすぐあと二千九百点で初ちゃんがあがったが、
「おい、■と■を摸牌《モーパイ》ちがえしちゃったよ。慄《ふる》えたね。なんで■に思えたんだろ」
眉を八の字にして笑った。オレンプも笑って、
「すみませんねえ、この人、ときどき暴牌が出ますから、悪く思わないでください」
しかし、攻撃型の若いオッチョコが、それで呑まれたように牌運をなくし、その夜はずっと冴えなかった。しかも初ちゃんはオレンプに十万円の差しウマを挑戦し、それがきっかけでほとんど全員の間で差しウマ契約が飛び交った。
初ちゃんがまず二連勝、ファミリー側の一番の長身、オレンプ、再び長身、とトップをとり合い、ここでオレンプが業者をうながしに来た。
「替ってやってください。初ちゃんと」
「ははァ、彼と替るのか」
「あの人、糖尿病なんです。四五回なら効果的な打ち手ですよ」
そこへキャンディ嬢がワインの白を三本、差し入れに持って現われた。
「お世話になってまーす」
彼女は手早く全員にワインを注いで廻り、
「乾杯――!」
といった。
「誰に乾杯したの――?」とベンチの初ちゃん。
「皆さんに――」と彼女はいい、彼とグラスを合わせて、「でも特に貴方かもしれないわ」
初ちゃんは眉を八の字にして笑った。
「お店のセリフだな。しかしキャンディ、貴女のファミリーで、すでにダウン寸前の人が居るよ、といったらどうする」
「仕方がないわね。勝負だもン」
「あ、そうか。七人居れば、どの七人だっていいわけだな」
「そういうわけでもないわよ。だって、仕方がないじゃン」
「そりゃそうだ。君は素直だね」
「貴方はどう。勝ってるの」
「僕は勝っても、キャンディはいただかない」
「あ、そう。嫌いなタイプってわけね」
「いやいや、すでに妻と愛人が居ましてね」
「愛人は何人――?」
「――七人は居ないよ。僕は病人だし」
「何の病気なの」
「腎虚《じんきよ》――」
「腎虚って、何?」
「インポテンツになる病気」
キャンディ嬢は、笑わずに、
「いい病気ね」
「どうして」
「好きよ。そういう人」
初ちゃんは又眉を八の字にして笑った。
「君はいい子だね。誰からも好かれるだろう。皆がついて来てるのもわかるよ」
「また来るわねえ、がんばって――」
彼女が立ちあがると、色眼鏡が、
「なるべくホテルに早く帰っておやりよ」
といった。
「いいねえ、あの子。俺もファイトを出してファミリーに加わろうかな」
初ちゃんは、いいねえ、をそれからしばらく連発した。
麻雀の方はシーンと静まりかえっている。
その回は、色眼鏡がワレ目で満貫をツモりあがってリードしている。
業者はベンチに居た関係もあって、新たなる差しウマ戦争に参加していない。業者はどちらかといえば、賭金そのものよりも、麻雀の内容の方に淫《いん》している。
東風戦は何よりも展開だとオレンプもいった。今、ラス前で色眼鏡との点差は八千五百点。ワレ目ありなので一|和了《ホウラ》で射程距離には入っているが、但しラス親がオレンプだ。差しウマのやりとりを考えると、自分がトップではウマの総合でファミリー側の方が分《ぶ》がよくなってしまう。
それでもメンタンピンをツモりあがってしまう。一三、一三、二六、の計五千二百点の収入。
オレンプは黙って手牌をくずした。彼もテンパイしていたかもしれぬが、いっさい無言。
もう一あがり、でトップだが、オレンプがラスになる。よし、いってやろう、と業者は思った。この回は味方を殺しても、その方があとの展開が楽だ。
ラス場、■を一鳴き、これから手を整えにかかろうとするオレンプからあがった。ドラ一の二千点は四千点だ。
「うまく立ち廻られちゃったな。今の親はあがれそうな気がしたんですが」
「そうだろうな。こっちも必死だった。ごめんよ」
「なにをおっしゃいます」
次の回は、業者の先行を、色眼鏡に逆転された。ワレ目麻雀は、ワレ目の主にいつも逆転のケースがある。
ここで先日来から調子のわるいオッチョコが出てきた。一局目で色眼鏡から軽くあがる。色眼鏡が励ましに一つ放銃してやった感じだ。ファミリー側では、頬ヒゲと色眼鏡がトス役らしい。
その犠牲打が功を奏して、オッチョコの打棒が伸び、二連勝した。彼は相当な気分屋らしく、ツキ出すと手がつけられないだろう。
三戦目も、
「あっ、ツカンなァ」
といいながら、ドラ二丁メンタンピン、三色不成の安目を親でツモり、三本まで積んだ。小肥りが、
「今日はお前の日かなァ」
といいながら嬉しそうだ。この連中は個人プレーに徹してるようで、やっぱりお互いの落伍を案じても居るらしい。
ところが、その三本場、四巡目でオッチョコが■を振ったとたんに、オレンプがガタッと牌を倒した。
「ええと、ワレ目だから、いくらになるのかな」
国士無双だった。
「きまってるよ。六万四千点じゃないか」
オッチョコはそういって、ふうッと吐息を洩らした。
あとで業者が、あれはまさか、仕事じゃあるまいね、と訊いたとき、オレンプは照れ臭そうにこういった。
「冗談じゃありませんよ。自分の指先が慄えてるのがわかって嫌だった。昔ならねえ、冗談の一つも出るところなのに」
とにかくその場では、色眼鏡はじっと卓上に視線を落していたし、ベンチも何も声を発しなかった。誰もが忘れたように次の局面に熱中していたが、オッチョコ自身が野獣に狙われた生贄《いけにえ》の足どりになっていた。
もちろん彼がこれで息の根をとめられたわけではない。倒れるまで、まだ長いプロセスがあるだろう。ところが、ここでよほどの長い休息に入るか、出直してこの局面を知らない相手とやるのでもないかぎり、この劣勢はとり戻せない。実力の問題ではないのだ。大きなポカでもあって、風の変るきっかけでもつかめばともかく、誰も彼に対してだけはポカをしない。一度生じたラスト走者をそう簡単に蘇生させるメンバーではないし(この場合ファミリー側も彼にチャンスを与えにくい。その場合、自分が代ってラスト走者になる覚悟を要する)、彼が打ち出しそうな牌で待ち受ける。勝負とはそういうもので、もがいても差はつまらない。
オッチョコ自身もそれを感じているから、ますます屈託が生じて、判断が狂ってしまう。彼はその回でベンチに退ぞき、朝方近くにまた出場したが、依然不調だった。
六
オッチョコがキャンディ嬢を所有できるのは、月曜日だった。
月曜の晩、彼は念入りにキャンディ嬢を抱き、そのあとで封筒を出した。
「何さ、これ――」
「今月の五十万だよ」
「まだ早いわよ」
「いや、俺、ひとまず田舎に帰る」
「どうしたの――?」
「負けたよ。いや、まだ完全に負けたわけじゃないが、俺が居ない方が他の連中も立ち直りやすい」
「あっさり、あきらめちゃうの」
「君のファミリーに加わって、七ヵ月かな。ひどく楽しかったよ。こんな生き方があるなんて知らなかった。勝負事、というより人生のこともずいぶん勉強したし」
「女のことも覚えたでしょ」
「ああ――」
オッチョコはいい表情で微笑した。挫折したときは誰しも深い顔つきになるが、若いから惨《みじ》めっぽくない。
「あたしって、どうだった」
「これまでのどの女の子より素敵だった。君は、なんというか、宇宙人みたいだな。きっと全然年とらないで、そのまんまで居るだろうよ」
「まだあたしのこと、本当に知ってるとはいえないわよ」
「俺、田舎に帰っても、なんとかしてノルマは送るよ。牧場が出来たら俺も呼んでおくれよ」
「月曜日は、あたし、どうすればいい」
オッチョコは歯ぐきを見せて笑った。
「そんなこと、俺に訊いたってしょうがないだろ」
キャンディ嬢が、突然、イメージガールをやめて引退したいといいだして、オレンプをびっくりさせた。
「え、どうしたって――?」
オレンプは優しい声音《こわね》になっていった。
「なにか嫌なことでもあったかい」
「いいえ――」
「突然、思いたったんだろう。よくそういうことがあるよ。でも明日になると、また別のこと思うんだ」
「貴方が人を殺したときもそうだったの」
「――妙なことをきくね」
「明日になると、別の考えが浮かぶと思っても、やっぱり殺《や》っちゃったんでしょう。あたしもそうなのよ。それでいつも迷うんだけど、結局自然に任せちゃうの」
「やめて、どうする」
「一応、あの人の田舎に行ってみるわ」
「あの人って――?」
「負けちゃった人」
オレンプはしばらく黙っていた。
「――それで、結婚でもするのかね」
「ばかね。そんなことまで考えてないわよ」
「映画の件はどうする。ビデオの話も来てるよ。それより、牧場のローンは、どうやって払う」
「そういうことも全部、考えなくちゃいけないの」
「しかし君は、今まで、先のことまで考えに考えて、そうやってきたんだろう」
「そうね。牧場の夢も楽しかったし」
「捨てちゃうのか、全部。君のファミリーの六人も」
「だって、そうなっちゃうんだもン」
「軽はずみだよ。まァ今日何も決めなくていいんだから、よく考えなさい」
「考えたら、こんなこと、できないわよ」
「ふうてんだな、君も」
オレンプはそういいながら、ひょいと洟《はな》をすすった。何がそうさせるのかしらないが、例の感動を催しそうになったのだ。
「よし、とにかく二三日の休みをあげるから、その男の田舎へでも行ってごらん。こっちはお母さんが急病だとかいっとくから。それで戻りたくなったら、あっさり戻ってこなくちゃ駄目だよ。君は自分だけで生きてるんじゃない。ずいぶん資本がかかってるんだからね」
そんなことをオレンプがいった。
オレンプはその晩も会場に行った。麻雀業者も株屋の初ちゃんも、六人のファミリーたちもむろん来ている。彼は業者だけには、彼女のことを告げた。
「しかし、わからないもんですね。一番オッチョコチョイで、見栄《みば》えのしない野郎を選んじゃうんだものねえ。もっとも選んだっていうより、ちょっとそんなことをやってみたかっただけらしい。まちがいなく、すぐ戻ってきますがね」
「オレンプの国士無双が発端だね。あれが仕事《イカサマ》だとしたら――」
「まだそんなこといってる。自動卓ですぜ」
「積みこみとはいわない。自動卓の裏芸もそろそろ出来る頃だからな」
「あたしは隠居ですよ。裏芸ができたら現役に戻ってます」
オッチョコが脱けたあと、また元に戻ってしのぎ合いが続いている。成績は多少の凸凹《でこぼこ》があるが、はっきりおくれた一人がまだ産まれていない。
けれども、いつか必らず、誰か一人が次第に編隊を離れていくのだ。積もり積もった不運のために。編隊を離れたとたんに、孤独な仔羊となって、ついには皆の胃袋におさまってしまう。それが誰だか、今のところはわからない。
ワレ目のときはフットワークを生かして小あがりをし、ワレ目でないときも、リーチはかけずに中堅手を狙う。業者はそれをフォームにして、絶えず好番手を確保する。それが自分のフォームである以上、三月続こうが半年続こうが、そうやって踏みこたえているしかない。いずれにしても辛気《しんき》くさい話だ。
キャンディ嬢からはさっぱり音沙汰がない。その間に麻雀業者が、頬ヒゲのこれも早い大三元にひっかかって放銃し、漁網にかかった真鯛のようになったが、辛うじてワレ目のハネ満をあがり返して、孤独な仔羊には至らなかった。
その次のピンチは長身に来て、ほぼ六七時間、あがりから遠のいていたが、これも必死にもがいて二馬身くらいの差から離れない。長身はこの一晩でげっそりやつれた。
キャンディ嬢が戻ってきたのは、五日後だった。オレンプは複雑な表情で、Tホテルの彼女の部屋に行った。
「やっと気がすんだかね。田舎のおねえちゃん」
「ごめんなさい。あたし、向うに住みます。契約を解いてください」
オレンプは、しげしげと彼女をみつめたままだった。
「するとどうなるのかな。北海道の牧場は。君の人生計画はおジャンですか」
「ごめんなさい」ともう一度彼女はいった。
「結婚することになっちゃったもンで」
「それじゃァちょっと面倒になるな。契約違反料も、ピンク映画の件も、生ビデオの件、駅前の立看板の件、それから次のイメージガールをまた探さなきゃ」
「映画は、もし必要なら、その期間だけ東京に出てきます。できることはなんでもしますから、堪忍してください」
「牧場はどうするんだい。これまで払いこんだローンは」
「なんとかして続けます」
「どうやって」
「汽車で一時間ばかりのところに道庁所在地があるんです。そこにファッションパブだの、ソープランドだのあって、コンパニオンを募集してるの。一流じゃないだろうけど、あと二年、なんとか働くわ」
「オッチョコが、いや、彼がいいといったのかい」
「仕方がないじゃン、今までだってやってたんだもン」
「結婚てのは別だぜ。男はうるさいし、ごめんなさいじゃすまないかもね」
「でも、今度は月曜日だけじゃないから」
「わからんね。君のことだから、またファミリーを作って、七人ぐらい集めちゃうよ」
「そうなったらまたそのときよ。そんなとこまで考えてないもの」
「そうか。考えてないんだよねえ。俺もそうだったよ」
オレンプはなんとなく笑った。
「結局、俺たちは何のためにやってるんだね。この麻雀」
「だってまだ誰も潰《つぶ》れてないんだから、やめらんないでしょう。誰かが潰れるまで」
「そんなことまで考えていられないわ、か」
「まァ、いつだって何のためだかよくわからないじゃないですか」
色眼鏡がすかさず牌を倒す。メンタンピン三色だ。ワレ目じゃないので決定打とはならない。
「彼女が居なくなったら、俺たちファミリーの旗色がよくなってきたな」
「勝ちこんできたら送ってやろう。ローンの足《た》しに」
「そうだ、俺たちだって牧場に加わる権利はまだあるからな」
「邪魔にするぜ、あの二人」
「そんなことはさせねえ。皆ファミリーだ」
と頬ヒゲが野太い声でいった。
私、思うに、一番いい死に方は、呑まず食わずでばくち場に居続けて、精根つきて、ばったりたおれてしまう、これが理想的な自殺の方法じゃないかと思うんですねえ。
もう年もとってきているし、持病もあるし、私なんかそう手間もかからずに死ねるような気がします。好きなことやって死ぬのが一番いいので、この前、一度その練習をしようと思って、なじみのばくち場で、ううッ、と発作をおこす真似をしたら、居合せた友人たちが駈け寄ってきて、
「こりゃ、いかんようだぞ!」
皆で私を二階の窓から道路に放り捨てようとする気配がありましたが、まァ、ばくち場で急死されちゃァ本当に困るんですな。私の友人も、これは本当に脳溢血で、道路に捨てられて死んだ奴が居りました。
南一局 おしまいツネ公《こう》
一
競輪場の正門脇の、場内テレビをかこんだベンチには、存外にその道のプロがうずくまっていることがある。特に客が続々入場してくる正午《ひる》前など、さまざまなプロが居坐っていることが多い。
ドリンク屋(ノミ屋)は、旦那衆が入場してくるのをいち早くみつけて喰い下りに行く。フウ公のような空発屋《クーパツや》は、それと少し意味がちがうが、やはり入場してくる客の一人一人に眼を据《す》えている。長い経験で、地方在住の車券師が入場してくるのを、ピタリと眼で捕まえてしまうのである。といって、挨拶をしに行くわけではない。たとえば中京地区の車券師が来ていれば、出走表を眺めて、遠征してきている中京地区の選手のあれこれを確かめ、その選手たちの出ているレースでは特に車券師の動きをマークして、彼がどの車券を濃く買っているか確かめる。買う車券の量によって、少しでも臭いと思えば自分もそれに同調する。
もちろん、その間に、自分が持っている特定の客たちに、出来レース(八百長)がありますよ、と触れて廻って買わせもする。はっきりした根拠があろうとなかろうとかまわない。そこが空発《クーパツ》の由来であり、当ればご祝儀、当らなければ、ごめんなさいですんでしまう。大体、八百長の源たる者は、発覚を怖れてそれほど極端な買い方をしない。しかもなお不自然な売れ方をして発覚したりするのは、源の周囲に思惑で乗ってくる空発屋たちのせいなのである。空発屋は自分が仕組んだわけでないから無責任で、客に大量に買わせようとするわけだ。
で、車券師たちも(これはお互いさまであるが)工夫をして空発屋のマークを振り千切《ちぎ》ろうとする。〆切《しめきり》寸前に買う者、穴場に手だけ突っこんで買った振りをする者、自分をわざと目立たせておいて、代役を別のスタンドにおき、その者に買わせる者。現在のように機械発売になる前は、穴場にとっついている時間で、どのくらいの量を買ったかピタリと当てる者も居た。
そこの部分だけを書いても一編のお話はできるのであるが、ま、それはともかく、フウ公がその日、正門横に居たのはもう七レースの発走寸前で、おそい時間だったから、そういう網を張っていたのではない。長年の習性で、湯茶接待所で貰《もら》った湯呑みを片手に、そこのベンチに腰をおろしていたのだ。
一人の客が、駈けこむようにして入場してきた。途端にフウ公の顔が、ぱッと輝いた。もっとも彼は、次の瞬間くるりと身体の向きを変えて、相手に背中を向けてしまった。
(――ツネ公だ。ツネ吉の野郎だ)
と胸の中で叫んだ。
(野郎、まだ東京をうろうろしてやがった。いい度胸だなァ――)
ほとんど本能的に、相手の行方をまた眼で探した。レースを観に、たいがいの客がスタンドの方に行っている。ツネ吉は売店で煙草を買い、ライターで火をつけたりしている。駈けこんできたわりに、このレースには関心がないらしい。
あと二三レースしか残っていない時間に駈けこんできて、いったいどのレースを買うつもりなんだろう。どこか、勝負レースがあるのかもしれないぞ。
フウ公は真顔になり、一応、尾《つ》けてみる気になった。七レースが終り、どっと人波がまた穴場の方に散ってきたが、ツネ吉はその波を切るようにして特券売場の方に歩いて行く。テレビのオッズをちょいと眺め、ニヤッと笑みを浮かべて穴場に寄った。穴場嬢に何かいいかけた瞬間、フウ公が手練の足並みですッと背後に近寄った。彼の買い目はたしかに聞いたが、さすがに彼も、いい終らぬうちにくるッとふりむいた。
「おや――」
フウ公は、仕方なく、むりやり笑った。
「しばらくだなァ、ツネちゃん」
「なァんだ――」とツネ吉も笑った。「元気だったかい、フウ太よ」
「そりゃ俺がいうこったぜ。逃《ず》らかってもう六七年だろう。死んだって奴も居るくらいだものな」
あッはッは、と大きく笑って、
「元気じゃねえが、とにかくまだ生きてるよ」
「ずっと、東京だったのか」
「いや、東北の温泉に隠れてたんだがね。少し前にまた出て来たんだ」
「それで、今日はこれが勝負か」
「おう、そうだよ。これ一鞍《ひとくら》のために来たんだ。一→六、押さえ一→四、この二点でいいよ」
フウ公は予想紙を拡げた。人気とはまるでちがう。車券師が大口に勝負しそうな目ではない。
「一|枠《わく》が、やるのか」
「やるよ」
「確かな情報か」
「情報――? そんなんじゃない。八百長じゃないよ。だが、一→六、一→四だね」
「誰がそういったね」
「誰もいわねえ。俺がその気なんだ」
「なあんだ。お前、度胸張りか」
「笑うのはいいがね、俺はこのところ、連戦連勝だよ。昔なじみだ。わるいことはいわねえ。お前も買いな。在金《ありがね》勝負だ」
オッズでは、一→六で三千円台、一→四なら五千円からある。フウ公は、さんざんうながされて、千円札を丸めて穴場に投げこんだ。
「おい、それっぽっちか。俺を信用しねえな」
「当り前だ。俺たちは誰も信用しない。お前が誰かを信用するかね」
「好きにしろイ。じゃ、俺は帰るよ」
「レースを見て行かないのか」
「仲間が麻雀屋で待ってるんだよ。あ、それからな、フウちゃんにも、借金《あし》がいくらかあったよなァ。この車券、来たらそれでパーにしてくれ」
そのレースが、一→六で来た。三千二百四十円、という配当だった。
二
「へええ、ツネ公がねえ――」
場外馬券のそばの喫茶店でカフェオレを呑みながら、オレンプが顔をほころばせた。
「そうですか、元気で居ましたか」
「いくらか老《ふ》けて、痩《や》せても居るようだったけどね、連戦連勝だって、唄ってやがんの」
フウ公はあれ以来、誰かに会うたびにこのニュースをしゃべりまくっている。なにしろツネ吉は、六七年前、ばくちでコロされて、四方八方に借金を残したまま、行方不明になっていたのだ。
「――ホラ、この名刺」
とフウ公は、あのとき貰った名刺を出して、
「山形県、これ何と読むんだ、とにかく温泉だよな。ここにひっこんで、温泉芸者か何かとできてたらしいんだ。それでこの肩書を見てよ。江戸文化研究会――、おかしいだろ、田舎だもんでその看板出して堂々としてるんだが、手ホンビキを研究する会なんだってさ。あっちの奴等にホンビキを教えて、カモにしながら新人養成をしてるらしい」
「ツネ公らしいね」
オレンプも笑った。
「笑ってるけど、あんただって相当に貸しがあるんだろ。ヤバい組の方まで含めて、あいつに貸しの無い奴は居ねえよな。よくずうずうしく東京に戻って居られるもんだ」
「まァ昔の話だしねえ。お互いさまいろんなことがありますよ。それでも、復活してきたんならいいじゃないですか。こっちにも遊びに来るように、今度会ったらいってやってくださいよ。あの人、打ち折れたけど、いい打ち手だったよ。気合がよくてね、いつ遊んでも面白かった」
オレンプがそういうと、なんとなく貫禄がある。殺人前科以来、此奴《こいつ》は俺なんかと格ちがいの遊び人になってしまいやがった、そう思いながらフウ公は、笑顔のオレンプを畏敬《いけい》の眼で見た。
それから三日とたたないうちに、また競輪場でツネ吉と会ったのだ。
「おい、この前はご馳走さま」
「だからいったろう。在金《ありがね》勝負だって」
「けどね、俺の貸金はあんなもんじゃ足りねえぜ」
「馬鹿いっちゃいけねえ。素直に買えば何百万でも儲《もう》かったぜ。それだけの利権を教えてやったんだ。はした金にしかならなかったのはそっちがわるいんだ。すべて帳消しで手打ちさ」
「ちぇッ。ところで今日も、狙《ねら》いがあるのかい」
「あるよ」
「どれだい」
「八レースの四→二、一点勝負だ」
「なぜ」
「なぜ、だと。俺がそういうんだから、まちがいねえんだ」
その八レースの四→二が、綺麗に入ったとき、フウ公はもう一度、穴のあくほどツネ吉の顔を見た。
「教えろやい」
「なにをだよ」
「おまじないさ。どういうおまじないをすりゃ、当るんだ」
「おまじないなんかじゃねえや。わけを教えてもいいけどよ。俺にしかできねえよ」
「できるかできねえか、ひとつ教えてみてくれ。四柱推命か」
「ちがうんだよ。きいたって無駄だ。だまって俺のいうとおり買ってればいい」
「だって、毎日ツネちゃんの尻《けつ》をついて歩くわけにもいかねえや」
「しょうがねえ、教えようがないんだよ。俺ァ手前の身体を犠牲にしてるんだから」
「身体を犠牲にしてるってのは、どういうことだい」
その日はツネ吉のそばに、ちょっと粋《いき》な感じの女性がついていて、はじめて口を出した。
「いいじゃないの、そんな話。もうおやめなさいよ」
「やめろ、って、姐《ねえ》さん、意地悪しないでおくれよ。ぜひ、ききたいね」
「俺ァ、癌《がん》だよ」
「――?」
「血液癌だ。もう半年かそこいらしか保《も》たねえんだとよ」
「――冗談だろう」
「冗談じゃねえんだ。山形でたおれて、仙台の大学病院に運ばれたんだよ。もちろん医者は病名なんか教えねえ。ところがさ、看病に来てたこの女が、うっかりして医者からの手紙を病室におき忘れやがってさ、そいつを俺ァ読んで、知ったね。血液癌だってことを」
「ふうん――」
「しめたッ、と思った」
「――そうかい」
「そうだろ。命ってことじゃァ、もう運は使えねえ。そっちの方で使えねえなら、ばくちの方で使えるはずだ。ようし、あと何ヵ月の命か知らねえが、その間、打って打って打ちまくるぞ、と思った」
「――なるほど」
「病院なんか脱走しちゃってさ、東京に出てきたよ。それから何をやっても連戦連勝さ」
「本当かい――?」
フウ公は女に訊《き》いた。
彼女は黙ってかすかにうなずいた。
「この人は誰が何をいってもきかないから、好きにさせてるんですけど、本当は病院の無菌室に隔離しとくんです。感染症が怖いから。それなのにこんな埃《ほこり》っぽいところで――」
「冗談じゃねえや。病院で何もしねえでおしまいまですごせってのかい。そうと定《き》まりゃ一分だって時間が惜しいや。俺、ほとんど寝てないぜ。夜通しばくちだし、昼間は競輪だ。思ったとおりツキっぱなしさ。ふっふっふ、癌さまさまだよ」
「そういったって、お前、死んじゃっちゃ、つまらねえぜ」
「誰だって死ぬよ。ただ俺のは、もうそれほど長くねえってだけだ。競輪場で競輪だけやってるのはもったいねえな。フウちゃん、車券買ったら、レース見ながら、ちょいとこれ、やらねえか」
ツネ吉はポケットから湯呑とサイコロを出して見せた。
「嫌なこった。どうせお前が馬鹿ツキするんだろ」
「わからねえぜ。どっちがツクか。フウちゃんだって先はそんなに長くねえだろ」
「よせやい」
「最終をもう一鞍、やりてえんだ。こりゃァ来るかどうか、自信ねえんだがな」
「毎レース、ツネちゃんの思いどおりに買ってきゃいいだろ。みんな当っちまうんじゃねえか」
「そんな簡単なもんじゃねえよ。やっぱり俺が、気を張りつめて、勝負ッ、と出て行ったもんじゃなくちゃな」
「どうしてさ」
「どうしてってことはねえよ。だが、そうなんだ」
「死んじゃう奴が、銭を稼《かせ》いでどうするんだよ。遺産でも誰かにくれてやる気か」
「冗談じゃねえ。俺ァ、一度コロされてるからな。懐中《ふところ》が少しできたら、もう一度、大ばくちに出ていくぜ。あの頃の仕返しに、勝ちまくってやるんだ」
「よし、俺も一丁乗ろう、セコンドになってやるよ」
三
ピンクゾーンのはずれの、皆で銭を出し合って借りたマンションの広間に、連中が集まっていた。オレンプ、家電屋、カマ秀、株屋の星、金貸しの岸本、ソープランドのオーナーのケリー、なんとなく常よりたくさん集まっている。
コンクリートの廊下をひきずるような足音がきこえて、まず、フウ公が顔を見せた。
「どうしたい。おそいじゃねえか」と家電屋。
「今、来るよ。301号室っていったから大丈夫だ。奴は歩くのがおそくてね」
もう一度ゆっくりした足音がきこえて、皆しんとなった。看護婦役の姐さんを従がえてツネ吉がうす笑いしながら顔を出す。
「よう、よう、ツネちゃん、また会えるなんて、嬉しいねぇ」
そういうオレンプに、ちょっと片手で会釈《えしやく》して、ツネ吉は中央の椅子に腰をおろした。
「新顔が多いねえ。これが目下の最強メンバーかね」
「そういうわけじゃありませんよ。ツネちゃんが来るってから、面白く遊ぼうと思って手近に声をかけといたんだ」
「昔の奴等はどうしたい」
「うん、それぞれやってるんじゃないの」
「奴等とやりたいね」
オレンプが肩を揺すって笑った。
「いい気合ですね。だからツネちゃん好きだよ。でも、ほら、いっちゃわるいが、まだ方々に借金《あし》があるだろう。誰に勝っても借金《あし》で引かれるんじゃ、つまらないじゃないか」
「いいよ、借金なんか払わねえ」
「無茶をいっちゃいけません」
「俺ァどうせ死ぬんだ。怖いもんなんかねえや」
「ウフフ、死ぬのはいいがね、死んだって取るものは取りますよ」
「そういえば、オレンプにもあったな」
「でもいいよ。古いことだもの。水に流してまた仲よく遊びましょう」
「有難いこといってくれるが、まァ、どうせおんなじなんだよな」
「そう、同じですよ。どうせ、在る銭を取るだけだ。借金《あし》だろうと新精算だろうと、無いところまでは取れない」
「この野郎――!」
とツネ吉が、いきなり十五|糎《センチ》ばかりの厚みの札束を卓の上に乗せた。
「さァ来い。皆さん見せ金《がね》してください。誰か一人、打ち折れたらやめだ。そのかわり、種目、ルールはそちらにまかせるよ」
「うちは今のところ、東風《トンプウ》戦、ワレ目、飛びあり。レートはまちまちですがね」
オレンプは、ツネ吉の出した札束を上から掌で押さえて、
「この見当だと、千点一万円くらいかな。千点五万にすると、あっけなさすぎるでしょ」
ツネ吉は負けずに我が身に鞭《むち》を打つようにいった。
「小切手はおことわりだよ。キャッシュにかぎる」
「いいですよ。私が責任持って替えるから」
株屋の星が、まず卓についた。ポケットから純金の延板を出して、
「これでどうだい。札《さつ》より有利だが、割るわけにいかねえか」
といってキャッキャッ笑った。彼はこのところ麻雀で勝つたびに、円高を当てこんで純金に替えてしまう。
家電屋も入りたそうだったが、見せ金が少し貧弱らしく、出てこない。
「カマさん、やってよ」
ケリーがカマ秀をうながし、札束を積んだ。
「さァ揃《そろ》った。入りますよ」
フウ公がすかさずいった。
「俺ァツネちゃんに乗るよ。外ウマ、彼から五万ずつ」
「はい、何でも受けますよ。もう外ウマ、ありませんね」
初回、ワレ目の星が早リーチしたが、オレンプがスイスイとツモ切って屈せず、結局カンで通貫手をあがる。そのうえ、二局目、ワレ目でヤミの満貫で一万六千点。
■■■■■■■■■■■■■■
ドラ■。打ったのはツネ吉で、この時点でフウ公は、外ウマ五万ずつ三軒、計十五万の出銭《でぜに》を覚悟したほどだ。あのオレンプがこれだけの先取点をとって、トップを守りきれないわけはない。
ところが東三局、ツネ吉の親が流局で一本場になったあたりで、初牌《シヨンパイ》の■を抱きすぎて攻めに廻れなかったのが痛く、|W《ダブ》アンコのツネ吉が二千オールのツモあがり。ワレ目が一軒居るので計八千点(プラス一本場)の収入。
二本場、ここで蹴《け》るか、蹴りそこなうか、オレンプもツネ吉も勝負どきだったが、ワレ目のカマ秀がいきなり■と■をポンする。オレンプのところに■が二枚あったが、それだけ彼としては動きにくい。そのうち親のツネ吉がタンピンをヤミで張り、カマ秀が放銃。カマ秀の手もとのシャンポンまできていた。
ドラ一丁で五千八百、しかし打ったカマ秀がワレ目なので一万一千六百(プラス二本場)。
三本場、ここはオレンプが喰いタンで逃げる。ラス親がオレンプ。しかしワレ目が来ている。沈んでいるときのワレ目は重宝だが、トップコースで、しかもラス場のワレ目というのは、逆転されやすくてあまり気持のいいものじゃない。
フウ公の表情は変らないが、ツネ吉の手牌に注ぐ視線にやや力が入っている。ドラがアンコになっているからだ。オレンプの浮き分が二万一千六百点(一本場五百点の計算なので)。ツネ吉の方が八千百点のプラス。それはもちろんフウ公の頭にも入っている。
直撃ならもちろん、ツモったって親がワレ目だから逆転だ。他家《ターチヤ》からの出あがりでは、無理。
十巡目に、ようやくこういう手になった。
■■■■■■■■■■■■■
むろんヤミテン。
一方オレンプの手は、タンヤオ手で、
■■■■■■■■■■■■■
ドラの■が姿を見せないから、これもヤミテンだ。ツネ吉の方に手変りがあれば放銃になる。■が二丁出ているので、■を持ってきてもシャンポンにはとるまい。
オレンプがかを持ってくると、なおさら手が大きくなる。
フウ公はただ一心に、ツネ公の癌だけを信じて両手を合わせた。
■をオレンプがツモ切り。
「カン――!」
とツネ吉が不意に叫んだ。リンシャンから一牌ツモって、
「どうだい――!」
とフウ公をかえりみる。■だ。
しかも、カンドラのところに■がひっくりかえって、プラスドラ七丁。
「アハハ、まいったまいった」
オレンプは軽くいった。が、次の一戦のスタート前に、
「ツネちゃん、お互いの差しウマいくの忘れましたね」
「なんでも受けるよ。いくら?」
「それじゃ、五十万」
「聞いた」
「ドンデンでいきましょうか」
「ドンデンてなんだい」
「お互い、トップをとったら差しウマを倍つけるというやつ」
「いいとも――」
「じゃ、俺も――」とフウ公もいった。「ドンデンにするよ、オレンプ」
四
フウ公はつくづく、勝負事の恐ろしさのようなものを味わった。そうしてツネ吉に沿って運命主義者になった。
だって、それからツネ吉がトントンと四連勝したのである。各自がおいた見せ金が、ツネ吉のところだけ一方的に高くなった。
それはまだよろしい。ワレ目麻雀は、展開で運が左右されることが多いから、ツキ麻雀ともいえる。思惑が成功してカンをツモり勝ったあとなど、一気に波に乗るものだ。ところが次の回は、カマ秀が四暗刻《スーアンコウ》をツモりあがってダントツになったのだ。
このへんがフウ公を唸《うな》らせる。重厚で一気に崩れにくいカマ秀が、珍らしくいいところが少しもなくてラスが続き、見せ金が底をつきかけていた。誰かが無くなるまでという約束だから、この次、カマ秀以外の誰がトップをとっても、これでお開きという感じだったのだ。
カマ秀が盛り返したことで、レースが延びて、ツネ吉が勝つ機会が増えたのである。こういうところが、勝負の神がツネ吉を応援しまくっているような気がしてならない。
それというのも、ツネ吉の論理によれば、身体を蝕《むし》ばむ癌のせいということになる。彼がここで使う運は、確実に彼の不運に裏打ちされていよう。つまり、ツネ吉は墜落しながらトップをひろっているようなもので、哀れな奴だと思わざるをえない。同時に、彼に乗って差しウマを勝ち続けているフウ公自身も、ここで勝ち続けている分だけ、他で不運がやってくることになる。そう思って、ぶるッと背筋を慄《ふる》わせた。
ツネ吉の看護婦役の姐さんは、勝負に頓着《とんちやく》なく長椅子に横たわって眼をつぶっている。なにしろ昼夜をわかたず遊びまくっているのにつきあっていて、疲れても居るだろう。
(――ツネ公、此奴は疲れないんだろうか)
病気が病気だから、人一倍疲労感はあるはずだ。いくら気力で保たせていても、がくッと萎《な》えるときがあるはずで、そう感じたらすばやく外ウマをおりなければならない。
だが、その気配はほとんど現われなかった。最初は気力が呼んだツキにちがいなかったが、そのあとは順風満帆で、むしろツネ吉自身が驚くくらいの好運が続いた。こうなると展開に乗ってるだけでいい。そうして勝ちまくっていれば、意外に疲れない。
「いやァ、まいりましたよ、ツネちゃん、人がちがったようだね。今夜のツネちゃんは、滝沢正光だ」
「そうとも、滝沢さ。叩かれたってドン尻からまくり直すからな」
「東風戦でまくり返すのは珍らしいよ。ラップタイム十一秒フラットだよ」
と初対面の株屋の星までいいはじめる。
次の回がまたツネ吉のトップで終ると、
「ほんとにまいった。降参だよ」
とオレンプがいった。彼は残りすくない見せ金をさっさとポケットにしまって、立ちあがった。
「へええ、オレンプ、もう降参かい」
「ああ、降参だ。また後日、ご教授ねがいましょう」
「珍らしいね。そんなセリフを吐くオレンプじゃなかったがなァ」
「いや、そんなことはない。このまま負け続けるくらいなら、やめるよ」
「そんなに、俺、強えか」
「強い。一生で一度の運だろうね。こんなときは逆らっちゃまずい。もし逆転するつもりなら、この三倍の資金がいるよ」
「ところが、俺はこのままずっとツキッ放しだよ、オレンプ」
「そうかい」
「以前のメンバーを集めてほしいなァ。もっとでっけえのをやろうじゃないか」
「それはいいがね。明日や明後日というわけにもいかんだろう。居場所がわかってる奴ばかりじゃないから」
「いつでもいい。でもなるべく早くしてくれよ。俺も、タネ銭を貯めとくからね」
「ところで、ツネちゃん――」
とオレンプがいった。
「うるさい組のおにィさん方には、知らせるべきかね」
「――いいよ」とツネ吉も考えてからいった。「勝負をやってくれるんならな」
「ということは、前の借金《あし》を精算するってことだね」
「うん――。一度に全部、できるかどうかな。でも結局、俺が勝つから」
「勝ってから精算か」
「そうなる場合もあるだろうな。嫌なら嫌で、来なきゃいい」
「来るさ。知らせればね」
「オレンプ、何をいってるんだ」
と突然ツネ吉が笑った。
「俺がお前の借金《あし》を精算しねえとでも思ってるのか」
「とんでもない。そう思ってなんか居ないよ。だからちゃんと、つき合ってるだろう」
ツネ吉は自分の横の札束の山を、残らず卓の上に放り出した。
「取れよ。好きなだけ」
「好きで取るんじゃないぜ。ツネちゃん。貸しは貸しだ」
「ああ、いくらだっけ」
「これで足りるかな」
オレンプは端《はし》から札の山を算《かぞ》えはじめた。五百万まで算えたとき、
「もうこれでいいよ。かわいそうだ」
「冗談じゃねえ。取れよ。情けなんかかけないでくれ。金なんざ、俺ァ未練はねえんだ。ただ、勝ちゃァいいんだから」
「ツネちゃん、それがお前の傷だよ。以前だって、その気ッぷがハンデになったんだろう。陽《ひ》が照ってるときばかりじゃないんだ。ばくち打ちは銭を大切にしなきゃ駄目だぜ」
ツネ吉はしばらく黙って、太い指でこつこつ卓を叩いていた。
「オレンプ、どうでもいいが、また面白い勝負をやろうぜ」
「ああ、いつでもおいでよ。身体に気をつけて」
ツネ吉は頑丈《がんじよう》そうに見える身体を椅子から浮かしてケラケラと笑った。
ツネ吉が姐さんを起こして帰っても、フウ公は立ちあがらなかった。彼は讃嘆の眼をオレンプに向けていた。
「さすがだねえ、オレンプ、いい恰好だったよ」
「なにがさ」
「今夜のところはツネ公に花を持たせてさ。結局|現金《キヤツシユ》はオレンプのところに集まってるんだ。うまいなァ」
「花を持たせるなんてことできやしないよ。ありゃ本物のツキです。完敗ですよ」
「どうだい、ツネ公の病気、本当かね」
ウーン、とオレンプも考えこんだ。
「芝居じゃないかな。そのくらいの芝居はやるよ。この前だって、逃亡《ずら》かる前は、身体がぶっこわれたの、もうすぐ死ぬのって、いってたからね」
「でも、神がかりみたいなツキだったわね」
とケリー。
「病気になりゃツクんだったら、皆病気になっちゃうよ。病気とツキは関係ないだろ」
「ところが奴はそういってるんだよ。あっちで不運な分、こっちで運を使うんだって」
「そう思いこめば、怖いものがないだろうな。それでかえってツクんだよ。奴はその効果を狙ってるんだろう。きっと」
「どうかね、ケリー姐さんは」
「あたしなんか病気になったら、それだけでもう勝てないわね」
「いずれにしても――」と無口なカマ秀もいった。「今日の調子はいつまでも続きはしないだろうな。ああいうタイプは勝つときもひどいが、負けるときもひどいよ」
五
スタンドの入口に一番近い席に、ツネ吉はへたばるように坐っていた。眼の下に隈《くま》を作っている。
「六レースまでこのままちょっと眠るからね。そばを離れないでくれ」
「ああ、いいわよ――」と姐さんがいう。「お寝なさい。すこしは寝なきゃ」
「寝てるよ。タクシーの中で寝た」
「ねえ――」と彼女は話しかけたが「ま、いいから、寝る方が先だわ」
その六レースの勝負車券が、珍らしくはずれた。おや、とツネ吉はいった。
「そんなにいつも当る方がおかしいのよ」
ツネ吉は黙って考えこんでいた。
「――ねえ、もう帰ろうよ、山形へ。もういいかげん遊んだでしょう」
「帰ってどうする」
「向うは静かよ。こんなに埃《ほこり》っぽくないし、あんた、どんどんやつれていくじゃないの。向うでゆっくりお湯にでも浸《つ》かって――」
「お湯に浸かったって病気が直るわけじゃないぜ」
「わかりゃしないよ。ほら、あんたのツキでさ」
「お前、俺が重荷になったんだろう。いいよ、帰りな」
「じゃ、あたし、帰るよ」
「おう、そうしな」
「――あんた一人で、どうするんだよゥ」
「大きな声を出すな。まわりにきこえらァ」
姐さんは声をひそめていった。
「さっきね、タクシーの中で眠ってるとき、額に手を当てたのよ。あんた、大変な熱だよ。ほんとに、大変よ。感染症が一番怖いってお医者さんもいってたわ。このままじゃ、すぐ死んじまう」
「死ぬから、いいんじゃねえか」
「死んだら元も子もない。誰も喜びゃしないよ」
「いいか、俺ァ生命ととっかえっこにばくちをやってるんだぞ。身体がどんどん駄目になってくから、勝てるんだ。もしこのまま病気の進行が停まってみろよ。そんときゃァほんとにばくちでコロされちまう」
「生命を粗末にするんだねえ」
「俺が粗末にしてるわけじゃねえ。運わるくこの病気になっちまった以上、しょうがねえじゃねえか。だからな、お前ほんとに帰りなよ。俺のことなんか気にしなくていいよ」
姐さんは、誰も居ない走路の方に眼をやったまま答えない。
「お前、トンチキだから、医者の手紙を俺に読ませちまった責任を感じてるんだろう。それがまちがいだよ。俺ァ病気を知って喜こんでるんだ。もしあのまま何も知らずに、直るつもりで病室に閉じこもったまま死ぬんだったら、あきらめきれねえぜ。お前のおかげで病院を飛びだして、面白い日がおくれたよ。それを思えば、感謝してるよ」
「やだよ、そんなこといっちゃァ」
姐さんの声がまた大きくなった。
「それじゃせめて、昼間の競輪だけにしようよ。夜は寝ましょう。お金はあるんだもの。贅沢《ぜいたく》なところに泊って身体をやすめてよ」
「寝よう、寝よう、ってたてひいてやがる。だから芸者は嫌いだってんだよ。寝るなんてのは健康な人が長生きするためにやってるんだ。俺ァもう寝るひまなんかねえ」
「それじゃせめて――」
と姐さんは鼻声になっていった。
「あたしを抱いてよ。あたしのことも少しは考えてよ」
ツネ吉も同じく鼻声でいい返した。
「抱くたって、もうチンポが立たねえよ」
姐さんがついに涙を流した。
「嫌だねえ。チンポの力まで、ばくちに入れこんじゃって」
続けて勝負した七レースも、一着三着だった。ツネ吉は興ざめたように立上った。
「よし、帰ろう」
「帰るって、山形へ?」
「そうじゃねえよ。やっぱり熱があると、考えが集中しないな」
合乗りタクシーを停めて、二人で貸切にした。
「おい、赤電話を見たらな、オレンプのところへ電話してくれ。名刺があったろう。早くメンバーを揃えろって。早くしねえと、元も子もねえぞ」
「ツカなくなりゃ、帰るんだね、あんた。それじゃ早くツカなくなりゃいいのに」
「何もわかってねえな、お前は。男は戦《たた》かって散るものなんだ」
ガソリンスタンドでタクシーを停めて、電話をかけていた姐さんが、駈け戻ってきて、
「あんた、ちょっと替ってって」
姐さんの介添《かいぞえ》でよろよろ歩いて、ツネ吉は赤電話を握った。
「よゥ、オレンプ――」
「連絡は一応つけてみたがね。なかなかむずかしいよ。やるなら、前のを綺麗に精算しろっていうんだ。ツネちゃん、借金《あし》は全部でいくらぐらいあるんだね」
「覚えてねえや。ようし、そんなことをいうんだな。じゃ、俺が直接に交渉してみらァ。皆の電話番号を教えてくんな」
「そいつァやめた方がいい。喧嘩になるだけだから」
その言葉に対する返事がもう無かった。オレンプは、姐さんの悲鳴を受話器の向うでかすかに聞き、なにか異変を覚《さと》ったが、しばらくしてこちらから切った。どこに居るのかわからないし、何ができるわけのものでもない。
ツネ吉はそのとき、口から血をほとばしらせて倒れており、姐さんが必死に、ガソリンスタンドの人たちに、救急車を、と叫んでいた。乗ってきたタクシーの運転手も駈け寄ってきた。
ツネ吉は失神していたが、救急車のサイレンの音で、かすかに意識をとり戻したようだった。
「どこへ、行くんだ――」
と口が動いた。
「大丈夫よ、安心して」
「病院は、駄目だ。病院は――」
その病院に行くためにむりやり救急車に運びこんだ。救急病院だったが、精密検査をするまでもなく、貧血症状であり、血液を採ると1tあたり百万以上にも白血球が増えている。すぐに大きな綜合病院に運ばれ、無菌室に隔離される。その間に姐さんは、下着や日用品を買い整えて、病院で消毒をへたのち本人に手渡して貰う。
ブスルファン、メルカプトプリン、サイクロフォスファマイド、その他の薬を経口投与され、ツネ吉は昏睡《こんすい》していた。否応なしに、彼は本来の病人に逆戻りしたのだった。
姐さんから、オレンプのところに再び電話がかかってきた。
「駄目です。ツネちゃんが倒れて――」
「どうしたって――?」
「さっき、急に倒れて、病院に入れました」
「そう。でも彼奴、コロしたって死ぬ奴じゃないですよ。倒れたくらいじゃね。頭でも潰《つぶ》さなくちゃ」
「もう出てこれません。もう出てこれません――」
姐さんは二度くり返していった。
「どうして――?」
「白血病です。血液癌――」
「ふうん。あの、なんとかいう美人女優とおんなじ病気? じゃァ、噂は本当だったわけね」
「余計なことに運を使うから――」
「そうか。でも、すぐ死ぬわけじゃないでしょう。いいよ。今度は我々が病院に押しかけていって、勝負をやってあげますよ」
姐さんはなんにもいわずに受話器の前で烈《はげ》しく泣いた。
ところが、それから三日目、経口投与をしに来た医師と看護婦を、ツネ吉は必死の気力で、不意に殴り倒したのである。
肥った医師はベッドを飛び越して昏倒して起きあがらず、看護婦は仰天して失神した。
ツネ吉は手早く着替え、医師の白衣を剥《は》ぎとって羽織った。そうして、空を飛ぶ勢いで、実際はよろめきながら、病院を脱出した。白衣が患者と見えなかったし、偶然にも恵まれて誰にも咎《とが》められなかった。
もっともツネ吉はその偶然を意識していない。
(――チャンスだ、今なら勝てる――!)
というのが彼の意識のすべてだった。
身体の状態がどんづまりに近づいていることはおおむね感じていたけれど、それだからこそ、これが打たずに居られよか。
ここで静かに隠居してしまうくらいなら、なんのために病気になったのかわからない。
街で、ツネ吉はドリンク剤を買い求め、タクシーの中で二三本立て続けに呑んだ。
六
テレビが、ツネ吉の写真と本名を何度も放映し、くりかえし病院に戻ることを呼びかけていた。街を走るパトカーはすべて、その旨《むね》を呑みこんで探している。
けれども、連中は誰もテレビを見ないし、パトカーにも親しみを持っていない。
もし知ったとしても、それはツネ吉自身の問題で、死のうと生きようと、彼等が口を出すことでもない。
弁護士の神山、興行師の沢田、土建の大将の松江、三人とも、ツネ吉にとっては債務《さいむ》がある。先に精算しろ、と一応はいってみても、勝負して万一負ければ債務を履行《りこう》させればよいし、勝てばそのまま現金《キヤツシユ》でとれる。この前のオレンプ同様、わるい条件じゃない。
但《ただ》し、ツネ吉以外の者に大勝させるのはつまらない。そういう状況設定を呑みこむ速さにかけては、ばくちをやる連中は異様に鋭い。
ツネ吉に対しては、他の連中は暗黙に、共通の利害にのっとった打ち方をしている。同時に、お互いの中の誰かを大勝させないという意味でも、共通の牽制《けんせい》をしている。
ツネ吉はそういう意味では無心だ。銭すら、もう彼にとってはどうでもよいものになりつつある。ただ、ひたすら勝てばよろしい。この点で、ツネ吉もまた、悪い条件とはいえなかった。
しかし第一戦は沈黙。ほとんどチャンスを見出せないままの三着。
第二戦の中盤、親のとき、あッ、と声を出した。■と■を切りちがえたという。それ以上はいわなかったが、もう視力が乱れていたかもしれない。
その回もあっけなく、土建が飛びで終ると、ツネ吉は立って顔を洗いに行った。
オレンプと弁護士がトップをとりあって居るが、まだ形勢動かずといった方がいい。
「大丈夫かね、ツネ公」と興行師。
「ああ、――」
買ってきたドリンクをまた呑む。
「どっか痛いのかね」とオレンプ。
「頭がわれるように痛い。だが、こいつがいいのさ。ツキの神だ」
三戦目、初回にツネ吉からリーチの声が出た。下家《シモチヤ》のオレンプがすかさず一発《ドタ》をケアして喰いを入れ、すんなり、■打。
「へ、強いな」
「お世話になってるからね、ツネちゃんにも――」
次の巡目も、ツモ切り。
「大当り――!」とツネ吉。
「いかンかったかな」
「なめるなよ、オレンプ」
「香典代りさ」
「なるほど、そいつァいい」
ツネ吉も一緒に皆と笑った。
五千二百のあがり。
ところが次局、リーチの喧嘩でオレンプが打ち勝ち、ツネ吉からすぐに三千九百をとり戻した。
「いやに積極的じゃないか、オレンプ」
と弁護士。
「今夜はね、少し強打ちしてもいい気分になってるんだ」
「どういう意味だい」
「面白く打とうってのさ」
オレンプの成績はその言を反映してか、三戦目ラスト、四戦目三着、五戦目トップ。
ツネ吉は、二着が三回続いて、まだトップなし。東風戦だから一戦平均二十分、たちまちのうちに札束が飛び交う。レート以外にお互いが総ウマ五十万。
六戦目、ツネ吉がワレ目で満貫をツモりあがって、
「さァ来たぞ――!」
すぐ続いて、ドラ二丁入りのチートイツをヤミであがる。
「待ってたんだ、この風を! ここでツカなきゃ、おかしいもんな」
笑い崩れたツネ吉の声が、ふっと止まった。あッ、と彼自身がいった。
皆の視線が、開いた彼の手牌に落ちている。
「いけねえ、どうかしてるんだ」
自分で自分の手牌を宙に放った。
トイツの一つが、■と■になっている。チョンボである。
「手牌を見てて少しも気がつかねえんだ。あがったとたんに気がつくんだからな」
誰よりも、ツネ吉自身が信じられない表情だった。彼のこれまでの計算では、ツク、ツカナイ、勝つ、負ける、それ等はあっても、チョンボという現象は考えの外だった。
ツネ吉の気合が混乱し、その痛々しさを彼はもろに打牌に現わした。
六戦目が終ったとき、
「疲れてるんだろう――」とオレンプがいった。「休憩したっていいんだぜ。ツネちゃん――」
「酒くれえ――」
とツネ吉は吠えた。
「酒はまずいだろう、ツネ公」と土建。
「なぜだい」
「お前、病人なんだろう」
「酒だ。ケチるなよ、酒ぐらい」
その回、外野に居た興行師が、ウイスキーをコップについで渡した。
ぐっとあおって、
「ええい――!」
気合をかけたが、あきらかに手材料が落ちていて、後手に廻ってばかり居た。脇テーブルに積んだ札束が見る見る減っていく。
抜け番が来たが、抜けない。
「こんなこっちゃ、死に切れねえぞ!」
誰も無理に抜けろといわない。すくなくとも現状では、やって勝てないことは眼に見えていたから。
七戦目、八戦目、九戦目、ラスが続いた。ツネ吉はふらふら立ちあがって、脱いだ上衣の別のポケットから、札束を出してきた。
「さァ、増資だ。こいつ、負けたら裸だぞ」
十戦目もまたラス。まるであがりの声から遠のいた。
「出直すかね、今日はいかんようだな」
と弁護士。
「冗談いうない。明日はねえや」
だが体力が限度まで来たらしく、配牌をとりちがえたり、ツモをこぼしたりしだした。ツモ番が来ても、ググググ、とかすかに鼾《いびき》をかいたりしている。
「ツネ公、ツネ公――」
「此奴、病院に返した方がいいんじゃねえか」
「なに――!」と起きあがって、「勝ち逃げする気か」
十四戦目のラス場だった。もうその頃は、一投一打、ええい、ええい、と叫びながら打つようになっていた。
興行師がトップで、■を鳴いて逃げにかかっており、土建が逆転狙いのリーチをかけている。
突然、ツネ吉が両手でバタッと手牌を倒した。ツモ牌をその横において、
「さァこの野郎、ツキの神だ、とうとう来やがった――!」
■■■■■■■■■■■■■ ■
ドラが■だった。
「大逆転だろ。ワレ目だ」
「ああ、逆転だ」
誰も点棒を見ない。計算は頭の中に入ってる。
「おかしいと思ったんだ。さァこれからだ。やっとツキの神が来たからな」
嬉しそうにそういったのがツネ吉の最後のセリフだった。点棒をとりおえて、十五戦目の初回の牌山が自動卓の表面に浮かんできたとき、彼は血を噴きながら崩れ折れた。
「おい、ツネ公、ここでやるなよ」
「ここじゃ、まずいぞ」
四人が抱えおこしたが、失神している。心臓がまだ動いているかどうかわからない。そんなことの前に、四人、一瞬顔を見合せ、すかさず一人が廊下をのぞいて人気《ひとけ》のないのを見すまし、四人で抱えてすぐ隣りのエレベーターに乗せ、一階でも一人が先に降り、ツネ吉の両手をそれぞれの肩にかけ、酔っぱらいを介抱する恰好で、裏通りに出て行った。
線香をあげて拝むかわりに、連中がしたのは道ばたに捨てたことだけだった。
近頃の若い者は、あまりグレなくなりましたね。けっこうアルバイトの口があって、適当に銭は入るし、女には不自由しないし、グレる必要がないんですね。
「おい、いくら、銭があればいいと思う」
「あ、三百五十万もあれば、いいです」
なんて。だいそれた望みというものを抱かないですな。高望みをすれば、落車すると醒《さ》めて思ってる。小説が書きにくくなりました。筆者の知ってる若い者で、働くのが嫌だ、といってばくちをしない奴が居ます。親の建てた家に住んで、母親に飯を造って貰って、女の銭で酒呑んで。
呆れかえってものがいえません。
南二局 さがっちゃ怖《こわ》いよ
一
■■■■■■■■■■■■■
こんな手になったとき、家電屋はそっと小さな吐息《といき》をついた。■を序盤で捨てている。■が四枚、■が二枚、場に捨てられており、肝心の■は一枚も切れていない。こういう恰好《かつこう》のときはとかくトイツ、それもアンコまで敵手にあるときが多いもので、どうも強気になれない。
――ここんとこ、落ち目だからなァ。
ワレ目ありの東風《トンプウ》戦である。ワレ目がリーチをかけている。出あがりできないフリテンでは、リーチの喧嘩も損だ。もちろん好調時なら、オープンリーチで強引に■をツモってしまう手もあるのだが。
家電屋は静かにそのまま廻し、■をツモるにおよんで■打。すぐその次に■をツモってきた。彼は哀しく眼を伏せ、そっとを■二枚続けて切り、一服つけた。■をツモってきて再度テンぱったがそこまでだった。
今夜も、やっぱり、低調の夜だと思う。
ワレ目ありの東風戦は、なんといっても展開がものをいうので、ツキに左右されることが多い。ツイている日は大勝できる。ツカない日は、マイナスを小さく喰いとめるのが精一杯で、そのうえどっと疲労がたまる。
なにしろ、レートが馬鹿にならないのである。五十万や百万は三四十分で無くなってしまう。セクシー産業でもやくざでもない家電屋としては、楽なレートではない。だから、ちょっとツケば、大金が転がりこんでもくる。
家電屋だって昨日今日の出来星の打ち手ではないのである。勝負事のかけひきはひととおり知っている。
ただ、懐《ふとこ》ろが細い。往年はかなりの実績をあげたこともある店だが、勝負事に気が入ってしまうと、どうしても本業がお留守になる。で、女房の監視も一段ときびしくなって、通帳も印鑑もとうにとりあげられてしまっている。
近頃、家電屋はツキの波の研究に没頭している。いかにして、低調時を事前に察知してこれを避《さ》け、ツイているときだけ出かけていくか。自分のツキの波は、半日交替だと思っていた時期があった。長時間続けてやっていると、ツキのリズムはそんな感じに思える。昼間ツカなくて夜ツク。それなら夜だけ出かけて打てばいい。
ところが実際には、例外がたくさんある。もう少しサイクルが短かそうだ。彼は色鉛筆で八時間おきぐらいにカレンダーを塗りわけて、その時間帯に出かけたが、それでもツカない周期にぶつかってしまう。
その次に考えたことは、ツイて居そうだったら長く居坐り、ツカない感じだったら早々とひきあげる、これは常連の誰彼がやっていることで、それなりに効果をあげてはいたのだが、近頃のように懐ろがきびしくなると、はじめの負けがすでにして惜《お》しくなってしまうのである。
今夜だって、一晩一割という利子の烏金《からすがね》を借りて来ている手前、低調とわかっても元金が減ったままでは席を立ちがたい。なにしろ店の方から埋めるわけにいかないのだ。
では、低い姿勢でなんとかしのいで、相手エラーを待つなりして、風の変るのをなんとかつかまえるよりしかたがない。
「おうい、家電屋さんが停電してるよ。口もきかなくなっちゃったよ。お茶でも持ってっておやり――」
家電屋は哀しく眼で笑って、
「お茶はいらない。ビールだ――」
■■■■■■■■■■■■■
リーチが二人かかっている。こういうときは呪《のろ》われたように手がつまるもので、このあと、■、■と入り、あがりをめざしても居ないのに、強い牌を打たなければならないことになる。
そうかと思うと、ダブルリーチが相手にかかって、第一打の■が当ったりする。
この失点で、がくっと手牌がくさって、メンツが一つやっとできたあたりで、相手がもうテンパイしているという具合。
ラスをひいて、メンバーチェンジして、別室の長椅子にぐったり横になる。
「家電屋さんも、しばらく芽が出ないようですね」
会員制クラブの代表マネジャーを買って出ているオレンプが、すかさず慰《なぐさ》めにくる。オレンプは殺人前科などあるわりに、愛想がよく、まめに気を遣う。
「サウナにでも入ってきたらどうです。ゲン直しに」
「サウナで、ツキを流してかい」
「エヘヘ、そういっちゃ何もできませんね」
「いやァ、もう死んだよ。さがっちゃ怖いよ芝居の幽霊、だ」
内心では、今夜は駄目、と見通している。被害がすくないうちに引くに越したことはない。烏金《からすがね》の件がなければだ。
七十万余の現在のマイナスを、どう埋めるか。女房をごまかして金を引出す方法をあれこれ考える。もっとも女房をごまかしたくらいですめばよろしい。目下は、店の運用資金も借金のやりくりで、彼が無駄遣いする余裕は無い。
それよりも、一回か二回、トップをとれば、まことに簡単に問題は解決する。ばくちは、いつもそうだけれども、濡《ぬ》れ手で粟《あわ》、のような好運が眼の前に絶えずちらついているので、その幻をふりはらうのが容易でない。
家から電話がかかってくる。女房が心配してあちこち探しているのだ。
家電屋は両手で×の字を作って、ビールの残りをガブッと呑《の》みこんだ。
「今夜はお見えになっておりませんが――」
店の者が電話口でそう答えている。
七十万余――。
七千万とはちがう。
このくらいの借金で、トボけるわけにはいかない。店の信用もある。この界隈《かいわい》をうろつけなくなる。
もちろん、販売に気を入れれば、七十万くらい半月で浮かすことはできるだろう。けれども、
――おっさん、七十万で落車休業だとさ。
と、ばくち仲間にささやかれるのが辛《つら》い。
そうなると道は一つだ。石にかじりついても、卓上にとり戻すのだ。
家電屋は、西部の一匹狼のように寒々とした表情で、
――神さま、とうに俺は見放しちゃっただろうけれど、俺だって男だ。そう簡単にはまいらねえぜ。降参もしねえ。この両腕が動くかぎり、逆《さか》らって打ってやる。
二
結局、三百万ちょっきり、烏金を借りてきた分が残らず無くなった。気持はますます冴《さ》えて、ファイトは残っていたが、五十をすぎた体力が底をついていて、反射神経がじれったいほど鈍《にぶ》っていた。
「少し、コマを廻しましょうか」
オレンプがそういってくれたが、さすがに家電屋も立ちあがった。
「いや、もう堪能《たんのう》した。また日を改めて来るよ」
「そうですか、どうもどうも、またとり戻してください」
家電屋は、かなり無理して笑顔を作り、
「お疲れさま、お休み」
手を振ってクラブを出た。
三百万――。
三千万とはちがう。
しつこくそう思った。三百万くらいで、じたばたする様子を見せたくない。
なじみのスナックへ寄って、日本酒の冷やを呑む。ポケットを探しても、煙草はおき忘れてきたようだし、小銭もない。
「さがっちゃ怖いよ、か」
そのうち、むらむらと気が立った。ツカない麻雀で、気持を抑制しつづけていたせいだろうか。
「おい、ママ、現金《キヤツシユ》を五万ばかり貸しておくれ」
「――どうしたの」
「急に、風呂へ行きたくなったんだ」
「いやァねえ、お風呂のお金ぐらい持って出てきなさいよ」
「急に行きたくなったんだから、しょうがねえだろ」
「五万もするの。もっと安いところ、あるでしょう」
「冗談いうねえ。いいおやじが、セコなところへ行けるかい」
「いいおやじは、こんなところで借りないわよ」
「なんだ、駄目か。ママとの間もそんな程度なのか」
「持ってきなさいよ。早く返してよ。うちだって忙がしいんだから」
「――情けねえったらなァ、ありゃしねえ」
半分自分にそういいながら、家電屋はピンクゾーンに入っていった。もっとも気持をそっちに向けてしまえば、屈託《くつたく》はどこかに消えて、すぐにデレッとした気分になる。家電屋はもともと、楽天家なのである。
三十分後、彼の好みどおりのスリムな若い娘に上機嫌で身体をもませていた。
スリムだけれど、胸も大きいしお尻も充分に発達していて、商品価値が納得できる。
「いいね、理想的な身体だな」
「痩《や》せてるでしょう」
「そこがいいんだ」
「肥《ふと》れないのよ。病気があるから」
「なんの病気かね」
「ば、く、ち――」
おや、と思った。
「内緒《ないしよ》よ、支配人に叱《しか》られるから。今日も夕方まで、ずっと通してやってたの」
「ますますいいね。俺もばくちが病気だ」
「もう中毒ね。いくら負けてもやめられないの」
「なんだ、負けてるのか」
「あたし、馬鹿だから、駄目なの。見切りがわるいからね。でも負けてアツアツになってる方が面白い」
「種目は何だね」
「なんでもやるわよ。麻雀、ポーカー、花札、近頃は横浜が面白いわ。中華街のそばの支那ばくち」
「なんだい、それは」
「知らない? 面白いわよ。おはじきを山に積んでね、長い竹べらで四つずつ取っていくの。それで終りにいくつ残るか。三つか、二つか、一つか、ゼロか」
「面白そうだな。今度、おじさんも連れてってくれよ」
「いいわよ。会員制でね。はじめての人は保証金が要《い》るけど。五十万くらいかな」
「簡単そうだけど、やっぱり技術があるのかね」
「あるんでしょうね。なれてる人は山が半分くらいなくなったあたりで、答えがわかっちゃうらしいわ」
家電屋はお風呂のおかげで、その夜屈託なく眠ることができた。しかし烏金の利息は、ひと晩たてば、確実に一割増えていく。
朝飯を喰って、店を開け、神妙に伝票を眺《なが》めていたとき、ふっと天啓《てんけい》のようなものがひらめいた。が、そのときは単なる思いつきで、友人にしゃべって笑い飛ばしてしまうような性質のものだった。
彼は昼すぎも、その思いつきをひねくっていた。錬金術、という言葉を思いだした。
そうだ、錬金術だ、昔の人は、こういうことを思いつく力を、錬金術といったのにちがいない。
まァしかし、はたして自分にそれが実行できるかどうか。
空想しているだけのかぎり、それはゲームみたいなもので、限りなく楽しい。何度も何度も彼はその場面を思い描き、小さなディテールを積み重ねていった。
それで、その発想のどこにも欠陥《けつかん》というものが見当らなかった。刃物をふりまわすわけではない。警察|沙汰《ざた》になるわけでもない。それで、かなりの現金が手に入る。素人にだってできそうなことだ。
家電屋は、店の売上げをいくらかくすねて、またピンクゾーンに出かけていき、昨夜のあけみという娘に今度は指名をかけた。
「昨夜の気分が忘れられなくてね」
「そうなの。昨夜は疲れてたから、手抜きしちゃったのに」
「土曜日に行く支那ばくちの件だがね、あれ、なんてホテルだっけ」
「横浜Xよ。Xの204号室。部屋も毎回同じだわ。なぜかってえとね、角《かど》部屋でもう一方はエレベーターなの」
「それについて相談があるんだがね――」
家電屋は声を低めた。
「一緒に連れてって貰う約束をしたが、それよりもっと面白いことを考えたんだよ」
「ほんと? へええ」
「君はいつものとおり一人で行って、遊んでりゃいいんだ。それで国電の始発が出る頃だな、おじさんたちが行って、御用だ、そのままそのまま、という」
「――おじさん、刑事さんなの」
「ちがうよ。私服刑事のふりをするわけさ。それで取調べをしているうちに、その場のお金を押収して、スタコラ逃げてくる」
「――――」
「で、おじさんと助手と君とで、山分けさ」
「ふうん――」
「さァ、いくらあるかなァ。一千万かなァ、二千万かなァ、こいつァ相当あるぜ。でも皆ばくちをしてるんだからな、警察沙汰にはできない」
「――おじさんて、そういう人なの」
家電屋は風呂から出て、あけみに身体をゆだねた。
「変な顔をするなよ。おじさんはやくざじゃないし、前科者でもないよ。ばくちは病気だがまじめな市民で、テレビや洗濯機を毎日売ってるのさ。でも、そういうことを考えついちゃったんだよ。どう、面白いと思わないかい」
「――うん、面白い」
「だろう。やってみようよ。お前さんだってばくちで相当とられてるんだろう。一度くらい、やったっていいよ」
「でも、ドキドキしちゃうなァ」
「君はなんにもしなくていいんだ。ただ、ドアに近い方に居て、俺がブザーを押したら、ドアのそばに来る。ロックがかかってるだろう。俺が常連客の誰かの名前をいって、遊びに来たんだという。ロックをあければしめたもんだ。手帖をね、警察手帖のふりして君に見せるからね、笑っちゃいけない。それでもう部屋の連中は観念するよ」
「――バレたらどうしよう」
「君が手引きしたってことがかい。そんなことはない。おじさんと君とは、昨夜まで知らない仲だったんだし、今だって、誰も知っちゃいないよ。現に、おじさんの名前だって知らないだろう」
「なんだかいやだなァ」
「だって、誰も怪我《けが》するわけじゃなし、こんなの、ほんの災難ですんじゃうよ」
「あたし、ばくちが生甲斐《いきがい》なのよ。勝った日はとっても嬉しい。こんなに幸福でいいのかしらと思っちゃうわよ。お仕事で貰ったお金とはくらべものにならないもんね」
「ひょっとしたら五千万はあるかもしれないぜ。五千万だよ。部屋じゅう札束で埋まっちまう」
「でも、ばくちで勝ったお金じゃないわね」
「いいんだ。ばくちで勝ったんだよ。ばくちってものはな、全面戦争なんだ。ばくち場の中じゃァ、どんなことであれ、だまされた方が負けさ」
「やろうか。でも一度っきりよ。仲間裏切る女だなんて思われたら、誰も相手にしてくれなくなるものね」
「俺だって、一度きりさ。まじめな電器屋なんだから」
三
家電屋は、もう一人の相棒を誰にしようか考えこんだ。刑事はやはり何人か居た方がいい。大勢だと山分け分が減るから、最低自分ともう一人だ。
うさん臭くちゃいけない。クルクルパーでも困る。大事を打ち明けても信用できて、性格が破綻《はたん》してなくて、演技力があって、俺より年下で、銭を欲しがっていて、できれば育ちがよくて、仕事にまじめで――、となるとむずかしくて居やしない。
いつかの夜、借金レースをした歯医者の息子を思いだした。あいつなら、恰好さえ作れば若い刑事に見えないこともない。演技力もあるし、育ちもいいし、あいつとなら、組んでもいいかな。
彼は今度は泣き落しの手で出た。
「ヤー坊、お前を男とみこんで、頼みがあるよ」
「借金はおことわりだよ」
「それなんだが、金を貸してくれってんじゃない。儲《もう》け話だ。それもまァ、シャレみたいな話なんだが、一丁、乗ってくれよ」
「話によってはね」
「こんなこと、誰にもいえないんだ。お前さんを信用して話すんだから、いやだ、となると困るんだ」
「だから、話してみなよ」
「やってくれるかい」
「変な人だなァ。ばくちのコンビ打ちかい」
「ちがうよ」
「まさか、人殺しじゃないだろう」
「そんなんじゃない」
「いいなよ。いわなきゃわかんないよ」
家電屋は計画を逐一《ちくいち》話した。
ヤー坊はいきなり吹き出した。
「なァんだ、そんなことぐらいで暗い眼つきになったりしてよゥ」
「じゃァ、やってくれるな」
「その盆は、どのくらいの銭《コマ》が動くんだろう」
「わからない。俺だって行ってみたことはないんだから」
「一千万の下ってことはないだろう」
「そりゃァない。中華街のそばで、華僑《かきよう》なんかも多いんだそうだ。奴等《やつら》ァ銭を持ってるっていうからなァ」
「ひと口乗るよ。山分けだね」
「ああ、三等分だ」
「もう一人居るのか」
「場《シキ》を教えてくれた奴が居る」
「ああそうか。車が要るんだろう」
「タクシーじゃヤバイから、国電が通る時間がいいと思うんだが」
「車で逃げよう。車はバンとした奴を友だちから借りるから。ジャガーかなんかがいいな」
「有難え。素人《しろうと》の計画でもだんだん恰好《かつこう》がついてくるな。いや、俺もね、ここんとこ商売が案配《あんばい》よくないうえに、ばくちで奪《と》られ続けだろう。かといって、ばくちの銭だけはトボけたくねえや、なァ、外資導入してこなきゃしょうがねえべ」
家電屋とヤー坊は、土曜日の午后、横浜Xホテルの部屋《ツイン》をとって、早々と入った。夜更《よふ》けに外から乗りこむよりは、失敗がないと思ったから。それで早寝をして、夜爛々《らんらん》と眼を光らせているはずだったが、結局時間がうまく埋まらず、宵《よい》のうち呑みに出かけたりして、いつのまにかトロトロと眠った。
起こしたのはヤー坊で、起こされて飛び起きたのは家電屋だった。
「しまった。寝すぎたか」
「もういい時間だと思うぜ。仕事にかかろうよ」
「何時かな」
「四時半だよ」
「行こう」
行かなくちゃしょうがない。家電屋は緊張で蒼《あお》ざめながら、テキの部屋のブザーを鳴らした。やがてロックされているままの扉が細目に開く。
「誰――?」
いい案配にあけみの声だ。
「李《り》さんの知合いですが」
「お名前は――?」
「ええ、黄《こう》です」
いくらか間《ま》があって、ここが、こくのある一瞬なのだろうが、ロックのはずれる音がした。家電屋はすかさず、インチキ手帖を彼女以外の誰にもはっきり見えないように、あけみの顔に押しつけるようにしながら、
「失礼します――」
押し入ったときは、手帖をしまう恰好だけ見せて、
「皆さん、そのまま、そのまま――!」
「はい、動かないで。頭に両手をあげて」
ヤー坊も機敏に動いて部屋の奥に立ちはだかる。無言だが、不意にパンチを浴びたような表情で、一同が見守っている中を、
「私語はいけない。そのままじっとしていてください」
二人きりでちょっと手不足だが、ヤー坊が写真をとり、家電屋は持参した紙袋に、卓上のおはじきや札束《ズク》を入れる。
「これは、テラ箱だね」
ボール箱の中の札もそのまま押収。
ヤー坊がフロントへ電話を入れて、向いの部屋が空《あ》いていることをたしかめ、
「警察の者だが、ちょっとその部屋を使わせて貰う。――いや、穏便《おんびん》にするから、君たちも騒がないように。目立つとホテル側もまずいんでしょう」
あッというまに段どりが進むと、思っていた以上に一同は羊の群れで、二人の指示に誰も逆らわない。
「あとで一応、署まで来て貰いますが、とりあえず、ここで一人ずつから話をききます。ええと、君はここに居てくれ。それで一人ずつ順番に向いの部屋に来て貰う。私語は駄目ですよ。じゃ、まずあんたから――」
中央に位置を占めた年配の中国人を、まず促《うな》がした。懐中がもっとも太いと見たからである。
大体の常識の線に沿って、今夜の種目とその内容、場主の素姓《すじよう》、レート、他の客の名前と素姓、定期開催とすれば何回ぐらいやっているか、などを訊《き》き、
「ええと、それから懐中の物を出してください」
他の物には眼もくれない。財布をとりあげて中をのぞく。案外にうすいのでがっかりしたが、
「この、札束《ズク》になっている分だけはね、ばくちに使用したとみなして、押収します。あとはどうぞ、しまってください」
いれかわりにヤー坊が送りこんできたのは、めかしこんだ老女で、一見したところやっぱり懐中が太そうだ。
が、これもやっぱり、財布の中はほとんど空っぽ同然で、
(――ヤー坊の野郎、勘がわるいなァ、懐ろのふくらんでる奴を寄越《よこ》せよ)
三人目の大柄《おおがら》で口うるさそうな中国人にとりかかっているところへ、扉をあけてホテルの支配人が顔をのぞかせて、家電屋をびっくりさせた。
「ご苦労さまでございます。あの、何か必要なものは、お飲物などは――」
「いりません。顔を出さないで貰いたい」
さっきヤー坊がフロントに電話したのは、やらずものことだったかな、と思う。部屋の連中は禁足させているが、フロントの方は行動自由だから、ひょっとして、所轄署《しよかつしよ》に電話などされたら、すべてバレてしまう。
そう思い出すとおちつかない。大柄な中国人に対する訊問《じんもん》は、ひどく時間が短縮した。
そのうえ、支配人が不意にまた入ってきて、家電屋は椅子から飛びあがりそうになった。
「ええ、深夜で何もありませんが、コーヒーなどお持ちいたしました」
「何をしてるんだ、君――」
と家電屋は怒鳴った。
「ええ、どうぞなるべく穏便に願いたいと思いまして」
「駄目だよ君、ちょこちょこしちゃ。定期開催だとすると、ホテル側も加担していることだって考えられるからね。あとで署に来て貰うかもしれないよ」
まだ部屋には十人以上の客が居る。場主側だって、油断のできない奴ばかりだ。ヤー坊が一人で、うまく取りしきっているだろうか。
とにかく早いところ、なにかヘマをしないうちに逃《ず》らかるに限る、と家電屋は思った。
彼はわざと受話器をはずしておいて、大勢が禁足されている部屋に首だけ出し、ヤー坊を手招きして、
「ああ、君、署から電話――」
「あ、そう。じゃ皆さん、そのまま、動かないで」
それからはまさに疾風迅雷《しつぷうじんらい》の勢いだった。現金の入った紙袋だけ抱き、エレベーターで一階にさがり、フロントを避けて裏口から飛び出すと、ヤー坊のジャガーにのめるように乗りこむ。
深夜で、車の数もパラパラの路を、全速力で飛ばした。サイレンがあれば信号無視しても突っ走りたいほどだった。
やがて、横羽線に乗っかってしまう。
その頃になってヤー坊がやっと笑い出した。
「ああ、面白かったな。連中の顔ったら。写真とってあるから、早速焼いてみよう」
「まァとにかく成功ってわけだ。ええと、もう一度考えてみよう。なにもヘマはしなかったろう」
「ヘマはしないさ。こいつァ面白いよ。ちょくちょくこの手が使えるんじゃないか。他の賭場《とば》で」
横羽線から首都高速一号線へ。ヤー坊はカセットの音量をあげて、がんがん響かせる。
「おい――。おい――!」
うしろの座席の家電屋がヤー坊を小突いた。
「カセットを止めろよ――!」
「どうしたい――?」
「今、数えてみたんだがな、あがりがすくないぜ」
「あがりって、現金《キヤツシユ》かい」
「ああ、六百万と少しっかない」
車のスピードが急にゆるんだ。
「そんな筈《はず》はねえだろう」
「六百万と少しだよ」
「一千万の下はないっていったぜ。あの感じなら一千万じゃきかない。けっこう銭は張られてたもんな」
家電屋はむっつりと考えこんだ。冗談じゃない。三人でわけたら二百万じゃないか。
俺が欲しいのは三百万だ。それだけじゃない。こんな働きをして、借金を返すだけじゃばかばかしい。最低だって、五百万の分け前はなくちゃ嫌《いや》だ。
「不愉快だなァ、俺――」とヤー坊。
「俺だってそうだ。嫌ンなるよ、まったく」
「――俺は別室の方にまったく関与してねえんだから、いくら銭が集まったかわかんねえ。これだけだっていわれればなァ、そうかいっていうだけだが、おっさん、明朗《めいろう》にいこうよなァ」
「おい、俺がギったとでもいうのか。じゃ調べてみろ。俺のポケットから何から、全部調べたっていい。そんなヒマはあるものか」
「だから、そうかい、って此方《こつち》はいうだけさ」
「フン、俺だって、ギリてえくらいだ」
家電屋は屈託の濃いいつもの顔、いつもの声に戻っていた。
「大体ヤー坊がね、勘がわるいんだよなァ、どうせ全員を調べやしねえんだから、ごそッと持ってる奴から先によこせばいいのに、来る奴来る奴、皆財布にろくすっぽ銭がねえんだ。負け組ばっかり選んでるんだよ」
「しょうがねえよ。持ってそうな奴をこれでも選んでたつもりだよ」
「ばくちはな、服装のいい奴なんか、持ってるとは限らねえんだ。そいつ等は負け組で、小汚ねえすばしこそうなのが、勝ってるんだよ。少し気を利《き》かしゃわかるはずだぜ」
「それじゃ、なぜ、引きあげたんだ。予定の銭になるまで、もう何人でも呼べばいいんだ」
「それがゆっくりしてられねえよ。いつなにがあるかわからねえんだ」
「何があるかわからねえって、六百万ばかりで――」
「テラ箱にもう少し入ってると思ったんだよ。お前だってそう思うだろうが」
「俺ならうまくやるさ」
「よくいうよ。お前がフロントに電話なんかするから、ホテルの奴がちょこちょこしやがって」
「だって、あれは打合せどおりだぜ」
こういうことになると、あれもこれも難癖《なんくせ》をつけたくなってきりがない。
「俺は二百万じゃ嫌だぜ。ジャガーの借代だって高いんだ」
「誰がジャガーを持ってこいって頼んだよ」
四
「おい、ヤー坊、お前さんこの頃、ばくちの調子はどうなんだい」
「可もなし不可もなし」
「ふうん。じゃ、特に、銭にいそがしがってるわけじゃないんだろう。お前さん家《ち》は金持だもんな」
「どういうことだい」
「わるいがね、この分け前のうち、百万は、ちょっと貸しといてくんないか」
「駄目」
「わるいけどさァ――」
「駄目」
「――駄目かい」
「おっさんが甘いこというから、俺だって買い物の予定をたてちまったよ。とても予定に達しねえや。百万なんて貸すどころじゃないよ」
「俺ァ、烏金《からすがね》を借りてるんだよ」
「そんなこと、俺ァ知らねえ」
「だって、お前のはたかが買い物なんだろう。今日明日ってところで必要な銭じゃあるまい」
「なんだろうと俺の分け前だ。自由に使うよ」
「――この仕事は、俺が発案者だぜ。主役は俺だ。お前は脇役なんだから、少しはゆずってくれたって」
「勝手なことをいうなよ、おっさん。こういうことはね、きちっとしといた方があとあともいいよ。とにかく俺の分け前、おくれ」
「そうか――」
家電屋はジャガーのうしろの席から、きっちり二百万を放った。
「じゃァまァしょうがねえな。けど、俺も二百万じゃ半端《はんぱ》で、どうしても三百は欲しいんだ。ヤー坊も、予定よりすくなくて困る、とこうなんだろう」
「そうだよ」
「じゃ、こうしよう。お互い百万ずつだして、勝負をしようじゃないか。そんなら、どっちが勝っても怨《うら》みっこなしだ」
ジャガーが道の端に寄って、するすると停まった。
「勝負って、麻雀かね」
「面倒くせえから、今この車の中でできるものがいいな」
「いいよ、だけどおっさん、何やったって勝率なら俺の方がいいよ」
「勝率じゃねえよ。一本勝負だよ」
「へええ、百万の一本勝負か」
ヤー坊が運転席からうしろに身を乗りだした。
「まさか、にらめっこなんてえのじゃないだろうな」
「いいかい、トラックの末尾番号てのはどうだ。最初に来た奴が俺の番号さ。二番目に来たトラックのが、ヤー坊のだ」
「いいとも――」
二人とも一方の窓に寄って身がまえた。
「追い越していくのじゃなくて、トイメンから来る奴だね」
高速道路からはとっくにおりて、彼等の縄張りのピンクゾーンにもう一息という地点。朝の六時前だから、さすがにまだトラックの姿はすくない。
が、待つほどもなく一台目が来た。末尾番号は7だった。家電屋は会心の笑みを洩らした。7に勝てるのは、8と9しかない。
「ツイてるね、おっさん」
「まだわからねえよ。チンチロリンだって5貧乏というのがある」
小型トラックの一トン車が向うから来た。
「あれもトラックかね」
「駄目だ。二トン車も駄目。でっかい奴だけさ」
近づいてみると、一トン車の末尾番号は8だった。チェッ、とヤー坊がいった。
「アヤがついちゃったなァ。小型だってトラックじゃねえか」
「駄目だよ。定《き》めたんだから」
「おっさん、遠目が利くんじゃないかい」
「黙って待ってろよ。すぐ来るから」
「俺、百万張ったっていったかい。五十万にしとこうかな」
「駄目だよ。男が一度張ったんだ」
やがて新車を何台も積んだ大型のが驀進《ばくしん》してきた。これは文句なしだ。ところが、そいつも末尾が8だった。
「やった! オイチョだよ、オイチョ!」
「さがっちゃ怖いよ、か。しかし、新車の陸送車はトラックというかね。トラックってのは、何でも運べるやつで、ああいうのはトラックとはいわねえんじゃないか」
「駄目だよ。自分で認めたじゃないか」
家電屋は情けない手つきで、百万を運転席に放った。
二百万のうちの百万が、あっというまに飛んだ。
「さァ、ここで降りてくれよ。送っていってもいいが、俺も眠いや」
「おい、きびしいこというなよ。俺は家に帰ったって、そっと寝るだけだ。ああ、眠い」
「じゃァ送ってってもいいや。タクシー代貰ったから」
「待ちなよ、ここはちょうどいいなァ。車の通り具合が」
「もう三十分したら大ちがいだよ。ラッシュがはじまる」
「もう一回やろう。なァ、一回だけってのはないだろう。愛嬌《あいきよう》がないよ」
「一本勝負だっていったぜ」
「競馬だって11レースか12レースあるんだ。十回戦やろう」
「そんなに張る銭がないじゃないか」
「ヤー坊が三百万だろう。で、俺が三百万」
「女の分は――?」
「だからよ。三百万同士で面白くねえ。甲乙がつけたくなるじゃねえか」
「よしなよ。せっかくやった仕事じゃないか。いくらかでも持ってって、おカミさんに渡しなよ」
「渡さねえ。こりゃ借金を返す金だ」
「なんでもいいから、俺は帰るよ。ここで降りてくれよ」
トラックが轟々《ごうごう》と走りすぎた。末尾番号は9だった。
「見ろ、カブだ。俺はまた運を失ったよ。ヤー坊がぐずぐずいうからだ」
「じゃァ、もうやめろよ。どうせ勝てねえよ。今のカブを逃がしたら」
「誰がそうさせたんだ。おい、責任をとれ」
「よし、おっさんの店の前まで行くよ。そこでお別れだぜ」
ヤー坊は車を発進させた。皮肉にも、999と9が三つ並んだトラックとすれちがった。
「さァ、着いたよ。オリてくれ」
「オリねえ。俺はオリるのは嫌いだ」
「おい、俺ァ怒るぜ」
ヤー坊は車の外に出て後部座席の扉をあけた。
「頼むよヤー坊――」と家電屋は弱い声を出した。「帰るんなら、さっきの百万を貸してくれ。きっと返すからよゥ。これじゃ、何のためにやったかわからねえじゃないか」
五
家電屋は自分の部屋で、こっそりと三百万を眺《なが》めていた。
こうしている間も烏金《からすがね》の利子は刻々と増えていく。利子だけおさめて複利で増えるのを防ぐという手があるが、インチキ刑事をやる前ならともかく、危険な思いをして利子だけ稼いだというのはいかにもばかばかしい。
しかし、この三百万のうち、百万しか自分の物ではないのだから、折角の好企画がほとんど効果をあげえなかったことになる。
余計なことを考えずに、手元の三百万で、とりあえず烏金の方を片づけてくるとするとどうか。
彼女に分け前をやれない。
大体、こんな場合、彼女に三分の一の分け前を、馬鹿正直に届ける悪党が居るだろうか。
こっちの名前も住所も、彼女は知らないのだ。このままあのソープランドに行かなけりゃ、彼女としてはどうする術《すべ》もない。もともと他人の金をふんだくってきたのだから、彼女の取り分をふんだくったって、たいしてちがいはない。
「どうってことはない。そうなんだよな――」
と家電屋は一人で呟やいた。
そうと定まればことは速い。あれこれ考えなやむよりも、こんなときはとりあえず行動してしまうことだ。
借りた金は三百万。最初の一晩の利子が三十万で、次の日から複利になる。あれから四日たっているから、利子だけで百数十万になるはずだ。だがとにかく元金の三百万を返してしまおう。それから先は、なんとかヤー坊にでも喰い下がってやろう。
彼はひと眠りすると、ピンクゾーンのそばの時計屋に入って行き、そこの主人に挨拶し、靴をスリッパにはきかえて階段をあがった。もちろん看板は出していないが、時計屋の二階に、烏金を貸す男が部屋借りしているのだ。
不似合な重い木の扉をがらがらとあけた。家電屋は一瞬、棒立ちになった。ソープランドのあけみがそこに居たのである。
化粧っ気なしで、眠ってもいないらしい彼女は、笑顔も見せず、じっと彼の方をみつめた。
「お――、お――」
とうろたえてまだ満足な言葉が出ないまま、家電屋は奥の主人にちょっと会釈《えしやく》し、彼女の手をひっぱって、木の扉の外に出た。そこの廊下に立ったまま、
「あわてちゃって、たいして銭にならなかったんだよ」
あけみはほとんど反応を示さなかった。
「初体験なもんだからな、もっとあるだろうと思ったところが、六百万とちょっとぐらいしかなかった。ツイてねえんだ」
「ええ、被害額は大体わかってるわ」
「そうか。じゃ、信用してもらえるだろう」
家電屋はなぜか、考えをころッと変えて、ポケットの銭を算《かぞ》えると、二百万を彼女に渡した。
「取り分だよ」
彼女はその札束を握ったままいった。
「駄目よ。白状させられちゃったわよ」
「――俺たちのことをか」
「あたしが引きこんだってこと」
「――じゃ、俺たちのことは」
「どこの誰だかわかんないからね。店の客だっていっただけよ」
「どうしてまた――」
「あたしが扉をあけたんだもの。一番はじめに疑がわれるわよ」
「だって、証拠はないし、トボけられなかったのか」
「そんな相手じゃない。シンジケートだし」
「ふうん――」
「分け前をちゃんとくれたから、忠告してあげるけどね、あんたお店に来なくてよかったわよ。このへんもうろつかない方がいいわ。あたしが見張られてるから」
「それで、ここへは何しに来たんだ」
「とりあえず、六百三十万、あたしが弁償させられるわけよ」
「烏金を借りてか」
「他じゃ、すぐは貸してくれないもの」
「だって、どうやって返すんだ」
「高飛びしちゃうわよ――」と彼女は声をひそめていった。「どうせ、九州か、北海道に、住みかえちゃうから」
「そうか、気の毒だな、高飛びするのか」
「しょうがないわね、あたしも乗っかっちゃったんだから」
「それじゃ、お願いだよ。その六百万の上に、いや、ここに二百万あるから、借りるのは四百万だろ。それにもう三百万足して、七百万借りてくれよ」
「あんたも相当、ずうずうしいわね」
「ずうずうしいが、俺もこれじゃ百数十万の利子しか払えねえんだ。どうせ高飛びするなら、いくら借りたって同じだろうが」
「そうだわねえ、シンジケートの手で国外に売り飛ばされることを考えりゃァねえ。国外に行ったらもう日本に帰ってこれないっていうからねえ」
「な、だからよゥ、おじさんだってピンクの支配人で知ってる人居るから、証明書書いてもらってきてもいいよ。たしかにこの店で働いてるって奴を、な。そうすりゃいくらか借りやすいだろう。俺ァ、ひとっ走り、その人のところに行ってこうか。ちょっと待ってなよ」
家電屋は本当にオレンプのところに行って、何か書いてもらうつもりで、どうしてそういうことになったのか自分でもよくわからずにピンク街に駈けこもうとしたが、
「ああ、昨夜は失礼――」
背の低い若者がソフトをとってにっこり挨拶して来、そのときはうしろにも男が近寄っていて、
「どうぞ、どうぞ――」
そばの大きな外車に、あっという間に乗せられる。運転席に三人、後部座席にも二人、男が居て、家電屋はホットドッグのソーセージのようにぎゅっと左右からはさまれた。
「さァ、昨夜の銭を、まず返して貰おうか、刑事さん」
中国なまりのある日本語が、それだけに一層恐怖心を駆りたてる。家電屋は大童《おおわら》わになって申し開きをしようとして、舌がひきつったようになって低く唸《うな》るばかりだった。
「おい、どうしたよ、トボけると、もうこの街に帰れないよ」
「東京湾の鮫《さめ》も腹|空《す》かしているでよゥ」
ガハハ、と皆が笑う。外の通行人に怪しまれないためでもあるらしく、誰か一人が絶えず半畳《はんじよう》を入れて、誰かが笑い役になる。
「――こ、これだけしかありません。ポケットに手を突っこんでください」
家電屋は、やっと小声でいった。すぐに手が伸びて百万円が奴等の手に戻った。
「あとは、どうした――」
「今、そこで、あけみに二百万――」
「それから――?」
「もう一人、歯医者の息子に三百万」
「その男はどこに居る」
「さァ、親の家で、まだ寝てるんじゃないかな」
「地図を書け――」
すぐ眼の前に、オレンプが支配人をしているソープランドが見える。あそこへ駈けこむことができれば、なにしろ得体《えたい》の知れない貫禄のある男だから、こんなときは心強い味方になってくれそうな気がするのだが。
「でもね、あけみの話じゃ、彼女が銭を作って弁償するんだそうで、もうすぐ時計屋から出てくるから、それで勘弁してくれませんか」
「勘弁できないね。虫のいいこというな」
「あたしもねえ、本当に落ち目で、借金で首が廻らないんですよ。出来心なんですから、大目に見てください」
「さァ、お前の家に行こう」
「あッ、それはいけない。女房にバレちまう」
「大丈夫、手荒なことはしないよ。道を説明しな」
「すぐそこですよ。歩いたって行けらァ」
三筋目を右に曲がって、皮肉なことに誰も居ない派出所の前が、彼の店で、
「なんだ、電器屋か」
「刑事は内職なんだな」
「お願いです。女房には内緒にしてください。あたしでできることならなんでもしますから」
「よし、家に行って金を持ってきな」
「金って、それが落ち目で――」
「無いとはいわせない。これだけの店だ。居抜きで売ったっていくらかにはなる」
「そんなこと、今すぐに――」
「早く行って来い」
家電屋はスゴスゴとおりた。一人だけ、若い男がくっついてくる。
女房が店の土間に居たが、家電屋はしおれ返って何もいえない。
「奥さん――」と若い男が代りにいった。「旦那にお金を渡してください」
「――お金って、いかほど?」
「全財産ね。五千万でも、一億でもよろしい。あたしたち、旦那とばくちします」
女房は、眼を伏せた亭主の顔を見、なんとなく警戒態勢で、
「どこのお人ですか。うちにはお金なんて一銭もありませんよ」
「作って来なさい。旦那の命がないです」
「――だって、脅《おど》しても無いものは無いわ。警察に電話しますよ」
「警察には電話できない。旦那が困るんです。旦那がはじめにそうしたんで、あたしたちは警察抜きでおつきあいをはじめたんですよ」
「――ねえ、あんた」と女房は亭主の顔をのぞきこんだ。「どこへ行けば、お金ができるの」
「――ああ、もう借りられるところはないなァ」
「お金ができないと、面倒なことになります」
「どうとでもしてください。逆さに振っても血も出ないよ」
「あ、そうしましょう」
と若い男はいった。
「明日の朝、汚穢《おわい》を四斗|樽《だる》で三杯、お店の中にぶっこみましょう」
「あんた、何をしたのよ。こんなこといわれて、黙ってるの」
「さがっちゃ怖いよ。ツイてねえんだよ、お前」
「だから、いってるでしょ。ばくちをやめないから」
泣き顔の女房が眼の前に迫ってきて、後ずさりしようと思うが身体が動かない。ああ、もう、女房に喰われる。助けてくれえ。
と思ったとたん、眼がさめた。
「夢か。――夢だ。ああ助かった」
家電屋は、はじめて呼吸をしたように、ほっと吐息をついた。
それから、ふっと楽天的になって、こう呟やいた。
「もう失敗はしねえ。今度はうまくやってやる――!」
ばくち打ちはたいがい誰でもゲンをかつぐもので、あのオレンプだって、勝負事のときは必らずアイスクリームをなめるのです。オレンプは酒を呑みませんから。
ゲンをかつがない奴がもし居るとしたら、ゲンをかつぐとゲンがわるいと思っている奴なのでしょう。
でも、お守りを持っている奴というのはこれまた珍らしいでしょう。ばくち打ちは、無神論者です。でも、自分にはばくちの神さまがついていると思っています。ばくちの神さまって、いったいどういう姿形をしているのか、訊いても誰も打ち明けてくれません。
それはきっと、姿形じゃないのでしょう。自分とともに生まれ、自分とともに死ぬ、影法師のようなものなのでしょう。
南三局 不幸《ふこう》の神《かみ》さま
一
「おばさん――」
地下室へのせまい階段をおりかけながら、ゲンが声をかけた。
「よゥ、おばさん――」
今、白髪の掃除婦が足を曳《ひ》きずるようにしながらおりていったところだ。
ゲンはかまわず階段を駈けおりた。地下室には変圧器や空気調整機があり、鉄パイプを通して湯も出るようになっている。かなり広いが、昼でもうす暗い。
「耳が遠いのかい。婆《ばあ》さん――」
「きこえてるよ。なんだね」
婆さんはパイプから出る湯を大きな薬缶《やかん》に注いでいた。
「あれをおくれ。あの、例のおまじない」
婆さんはすぐには返事をしなかった。
「おまじないじゃないよ。お守り札だろ」
「いくらだい」
「おあいにくだね。あんなものはもうやってないよ」
彼女ははじめてゲンの方に首を廻したが、手入れをしない白髪が逆立《さかだ》ってゆらゆら揺《ゆ》れた。
「じゃ又やれよ。急いでるんだ」
「やらない、っていったよ」
「やるんだよ。俺ァ気が短かいぜ」
ゲンはハンカチでもとりだすように簡単に、懐中《かいちゆう》から短銃をとりだした。ばかりでなく、両手で銃身を持って、慣れぬ手つきながら、一発、暴発させた。
四方の壁に反射して轟音《ごうおん》になったが、昼さがりの一番、人のすくないときで、誰もおりてこようとしなかったし、ゲンも振りかえってみようともしなかった。
「いうとおりにしろよ。弾丸《たま》はまだ入ってるぜ」
婆さんは前掛けで手を拭《ふ》き、小さく仕切られた自分の控《ひか》え室の方へのろのろと動いた。
「誰に訊《き》いたんだね。坊や」
「――女。前にこの階上《ソープ》に居た女さ」
「なんでもしゃべるんだね。こういうとこの女は」
「けっこう評判になって、神さまとかいわれて悦《えつ》に入ってたんだろう」
「あたしは神さまでも仏さまでもない。宗教なんかと関係ないよ」
「じゃ何なんだい」
「ただの念さ。あたしの念力」
「なんでもいいや。効《き》いてくれりゃいいんだ。早いとこ頼むぜ」
「三十分はかかるよ。そのへんでお茶でも呑《の》んでな」
ゲンは階段を昇ろうとした。
「ちょいとお待ちよ。目的は何なんだい。何に効いてほしいんだよ」
「ばくちをするんだ――」ゲンは胸を張っていった。「生まれてはじめて、大ばくちに行くんだよ」
婆さんは苦笑した。
「そんなことぐらいで、ピストル騒ぎかねえ。まったく近頃の若い者ときたら」
「ばくちに効くんだろう。そう聞いたぜ。ばくちとか、受験だとか、縁談とか、そんな程度のことなら、どういうわけか、ツクんだってな。馬鹿なって笑ったんだ。俺ァ信じなかったぜ。婆さん、俺が信じてなくても、効くかね」
「神さまとちがうから、お前さんが信じようと信じまいと関係ないよ。ただ、あたしは念をこめるんだから、ひどく疲れるし、身体も弱るけどね」
「人助けってわけか。あんまり人助けするような余裕もねえだろうに」
「じゃァ、これも知ってるね。効めがあったら、そのあと、なるべく早くお守り札を身体から離すんだよ。ただ捨てちゃいけない。有難うございましたといってね、土の中へでも丁寧《ていねい》に埋めるといい」
「どうして――」
「おや、肝心《かんじん》なことをきいてないんだね。願い事はなるべく欲ばらないで、小さめなことにするんだね。一つ二つ効いたら、それで手を離さないと、今度はわるいことがあるんだよ」
「うん、それも聞いたな。だが、何故、わるいことがおきるんだい」
「これは神さまじゃない。あたしの念だからさ」
「何故、婆さんの念だと、わるいことがおきるんだ」
「いちいちそんなことわかるもんかね。そうだからそうだっていってるんだよ。たとえばさ、ヒロポン打つだろう。一気に昂奮するだろうが。それで薬が効かなくなると、今度はガクッと落ちこむだろう。つまり、念の前借りみたいなものなんだよ。そう思ってればいい」
「ばかばかしいが、まァ聞いといてやらァ。効かなくなったら、また新らしいのを貰《もら》いにくるぜ」
「簡単にそんなこというもんじゃない。一回きりだよ」
「ケチケチするない。たかが念くらいで」
「あたしの身にもなってごらん。一枚出すごとに、念を吸いとられていくんだから。そんなに人助けがやってられるものかね。あたしは神さまじゃないんだから」
「当り前だ。神さまなんて居るもんかい」
「くれぐれもいっとくが、そのばくちで勝ったら捨てるんだよ。――坊や、まさか、ピストルなんか使うつもりじゃないね」
「ちがうよ。こいつァ趣味芸さ。いつも持って歩いてる。じゃ、三十分したらくるよ。いくら払えばいいんだ」
「お金はいらない。ここにおいとくから勝手に持っていきなさい」
「だからしぼんじまうんだ。商売にしてどんどんお稼《かせ》ぎよ」
「冗談じゃない。そんなことしたらもうとっくに死んでるよ」
二
ゲンは、三十分後、婆さんのいうとおり、まるでヒロポンを打ったあとのように、頬《ほお》を紅潮させて歩いていた。どうしてそんなふうに元気が出てきたのか、神さまだの念力だの、興味はなかったはずだが、オカルト映画の見すぎで、いつのまにか体質が少しずつ変っていたのかもしれない。
ぐっとひと睨《にら》みすると相手が血を吐いて倒れてしまう、少女の不思議な神通力《じんつうりき》。咬《か》みつくと相手も吸血鬼になってしまう怪紳士。ああいうものになったような気がする。
まァ何にしても、そういう気分になったことはマイナスではない。ゲンは立喰そばで、うどんに生卵を二つ割ったやつを一気にかっこんでから、ミヤの病院に行った。
ミヤは集中治療室に入っていて、面会禁止だが、ゲンのほかに面会人など居ないから気を遣わずにズカズカ入っていく。ミヤは眠っていた。明日、いや明日といわず、緊急事態になれば今夜にも腎臓剔出《じんぞうてきしゆつ》手術をやらねばならない。
「ミヤ、万事、これだぜ」
ゲンは指で円を作った。すると彼女が眼をつぶったまま、こっくり頷《うなず》く。
「なんだ、眠ってろよ。用のないときは寝てるに限るぜ」
集中治療室は二《ツウ》ベッドある。あいてる方にゲンもごろっと転がった。準備はすんで、あとはばくちを打つだけだ。外が暗くなるまで眠ってればいい。
看護婦の声で眼がさめた。鼾《いびき》が大きい、と看護婦がいってる。
「本当は入れない部屋なんですから、静かにしていてください」
「疲れてるんだ。勘弁しろよ」
八方駈けまわって、いくらかの銭を作った。競輪場にも競艇場にも行った。いずれも度胸が乏《とぼ》しくて、たいした稼ぎにならなかった。ばくちは度胸だ。思いこみの強さだ。そう思う。思いこみが強くなければ、勝負、のときに金が伸びない。
ギャンブルをやり続けて、長く遊ぶ気なら、最大のポイントは自己規制だ。バランスをとることだ。あらゆる恣意《しい》的な欲望を押し殺して、転覆《てんぷく》を避《さ》けなければならぬ。
だが、ギャンブルで勝つ気なら、話は逆だ。自分の意志でバランスを失調させること。バランスを崩さなければ、勝ちも負けもない。ビルの屋上から、ひょいと身体をダイヴィングさせる、その勇気だ。大きく勝つには、大きくバランスを崩すことだ。その勇気がなかなか出ない。どうやって、大きくダイヴィングして、破滅の穴を飛びこえるか。
ゲンはそう思う。多分、若気なのだろう。だから自分だけでは、自分を信用できない。
オカルティックなものに気をひかれたのは、そうしたことの延長だった。
暗くなってから、病院を飛び出した。ゲンは、婆さんに示した表情とちがって、一人になると胸に吊《つ》るした守り札に、わりに本気で頼っていた。
顔なじみの学生のヤー坊が記してくれた地図を頼りに、例のピンクゾーンに入っていった。
Windserというソープランドの看板をみつけ、入口の横のエレベーターにかまわず乗り、最上階に行った。そうして白木の厚い扉を押した。
「――ヤー坊は来てますか」
人が大勢居て、入口のそばの誰かが答えた。
「来てないよ。誰?」
「友達です。今日ここでヤー坊と落合う約束をしたので」
ゲンはあいているソファに坐った。
痩身《そうしん》のオレンプがすぐに近寄ってきた。
「やあ、やあ、どこかでお会いしましたかな」
「はじめてです。ですがオレンプさんでしょう。ヤー坊からいつもお噂《うわさ》をきいてます」
「そうですか。結構。それで、今日は――?」
「馬になるつもりできました。もちろん、普通の麻雀がメンツが揃《そろ》えばその方がいいですが」
「なるほど、おっしゃることはよくわかりますよ。ですがね、馬になる場合は馬主《オーナー》がつかないとね。わたしから無理にお願いするわけにもいかないから、ね、しばらく様子をみましょう。できるだけ愉快に遊んでてください。自力打ちの方は、今日はまだメンツが揃わないんじゃないかな。場外で乗ってる方が楽だからね。たとえば一局だけ乗ることもできるんですよ。一局前に紙に書いてわたしに示してくださればね」
「馬主《オーナー》がつかなければ、一晩じゅうでもベンチですか」
「それは仕方がない。だったら、ちょこちょこ乗って遊んでってください。その場合、事前に現金をチップに換えてね」
ゲンは麻雀がおこなわれている部屋と、馬主《オーナー》たちの居る続き部屋とを見渡した。皆、自分が乗っている馬の動向に夢中で、ゲンの方に視線をよこす者は居ない。
「お酒は、呑みますか」
「軽いものを、水割りかなにか」
「結構――」
バニーガール風の女の子が銀盆に、ウイスキーと氷を持って来た。
ゲンは立ちあがって、懐中から例の短銃を出した。両手で持って上に高くあげ、腕を突っ張ったまま、一発、天井に射った。
牌《パイ》の音がやみ、馬主《オーナー》の女たちが静まっていっせいにこちらを見た。
「失礼します――」
とゲンはいった。
「初出走の三歳馬です。名前はジャンコルトー、只今、丸抱えのオーナーを募集中です。興味のある方は、日当をご提示ください」
ドッと笑声がおこった。すかさずオレンプが、
「元気のいい三歳馬です。走らせてみようと思う方がありましたらどうぞ」
ソープランドのチェーンの一つをこの盛り場にも持っている綾《あや》という脂《あぶら》っこいマダムがいった。
「ジャンコルトーさん、拳銃が射てるのはわかったけれど、麻雀はどのくらい打てるの」
「まだ十八で、高校生です。一人で来た以上、それなりの理由と自信があります。そのうえ、絶対に勝てる守り札まで持ってきました」
また、笑声がおこった。
「皆さん笑うけど、この守り札については、おしまいまで笑っていられないはずですよ」
ゲンは胸に吊るした守り札を高くあげた。
馬主で一番若いケリーがいった。
「それじゃ、貴方の方で条件を提示してくださいな」
「三百万プラス儲《もう》けの一割です」
ゲンはすかさず考えてきたとおりのことをいった。
今度はドッとは来なかった。少しガヤガヤした。三百万というのは一晩の日当だが、評価の高い馬は一千万を軽く越すことも珍らしくない。それに見合うレートになっている。
「面白い。面白いね。この場でピストルを射った人ははじめて見たよ」
なんでも面白がる株屋のピーさんが前に出てきた。
「皆さんが使わないなら、あたしが試しに走らせてみましょうか」
ピーさんは、駿という名の名馬を持っていて、今夜も勝ち頭《がしら》だった。
「但《ただ》し、三百万は高い。二つの理由で云い値を少し叩きます。第一は、見習い騎手で彼に関するデータがないこと。第二は、守り札、こんなところに守り札なんか持ってくるそのこと自体が減点です。両方五十万ずつ引いて二百万、それで手を打ちましょう」
ゲンは不満だった。自分は神がかりではない。自信を、いやがうえにも軌道《きどう》に乗せたいだけだ。この馬主は、勝つにはどんなふうにすればよいか、その方法に暗いのだろう。
しかし、他に誰も声をかけなかった。
「じゃァ、まとまりましたか」とオレンプ。
「いや、もう一点」
誰も声をかけないと見て、ピーさんがまたいった。
「順調にいけばプラス一割は結構です。そのかわり惨敗《ざんぱい》と見たら日当は無し。試運転ならそれが常識でしょう」
一同が静まっているので、ゲンも黙っているほかなかった。
「では定《き》まりました。いつもの定《き》めで、契約の一割を場代《おてん》としていただきます」
オレンプがにこやかにやってきた。
「ラッキーですよ。すぐ馬主《オーナー》がつくなんて。普通は出場するまでに手間どるんです」
「ええ、運は強いんですよ。守り札のおかげで」
「なるほど。大活躍して場を面白くしてください。ルールその他は――」
「ヤー坊に大体きいて、知ってます」
「東風《トンプウ》戦、ワレ目あり、ね。それじゃどうぞ――」
例のごとく、馬主《オーナー》たちと一緒になって酒を呑んでいた医者と看護婦が来て、採血し、心電図をとり、注射《ヒロポン》を一本打った。
卓のまわりから、駿がベンチに退《さが》って、金壺眼《かなつぼまなこ》のカマ秀、大男のノロ、それに前田というタクシーの運転手が控《ひか》えている。
三
東《トン》一局、ヤミテン千三百でゲンのあがり。すると小あがりペースになって、ジャブの応酬《おうしゆう》のうちにたちまちラス場になった。幸いなことにラス親じゃない。ワレ目やオープンがある以上、ラス親は逆転される率が高くて損だ。
配牌はさほどよくなかったのだが、すっすっとまとまって、
■■■■■■■■■■■■■
一瞬、リーチを躊躇《ちゆうちよ》しているうちに、思いがけず■をツモってきた。
(しまった――)
ヤミでは千、二千という手で、ゲンの計算では対家《トイチヤ》に黒棒何本かおよばない。雀頭《ジヤントウ》■を切って出ようかと思ったくらいだ。自力の麻雀なら或いはそうしてヤミの満貫にしていたろう。ここでは失敗すると馬主《オーナー》に何をいわれるかわからないと考えて、二着どりであがったのだった。
「ああ、逆転だな――」
とカマ秀がいう。
いや、二着どりですよ、といいかけて、卓上に三人から、千、二千、二千、という点棒が出ているのを見た。
そうか、ワレ目だから一人は倍払いが居るんだ――。顔にも口にも出さなかったが、ゲンは虚空《こくう》にピョコリと会釈《えしやく》した。
東風戦一回終るごとに十分の休憩があって、その間に臨時馬主たちの投票がおこなわれる。
ヤー坊がいつのまにか来ていた。
「お前、馬をやってるのか」
ゲンは頷《うなず》いた。
「よく馬主《オーナー》がついたな。お前みたいなチンピラに」
「やっぱり固くなってたんだな。ワレ目を忘れて終戦処理をしちゃった」
「トップだろう」
「ああ、恵まれたんだ」
「ツイてるのか」
「必勝の守り札があるからな」
ゲンは胸の守り札を高くあげて見せる。
「なんだ、それは――」
「神通力だよ。ヤー坊、お前も臨時馬主になれ」
二回目は、東三局に早いホンイチ手が来た。六巡目で、すでに、■をあまり捨てている。
■■■■■■■■■■■■■
ゲンはワレ目。相手を廻らせてツモ回数を多くするためもあって、リーチをかけた。ここは押すところだ、と彼は本能的に感じていた。第一ツモを、わざと摸牌《モーパイ》をせず、指でつまんで守り札にこすりつけた。
「それ――!」
開いてみると■だった。その回はこの一撃で勝負がついた。
ピーさんがそばに寄ってきて、野球の監督のように、
「ご苦労さん、まだ行けると思うかね」
「ええ、行けますよ。なんぼでも」
とゲンは答えた。
「ふうん――」
ピーさんはちょっと考えて、
「よし、もう一回行ってみよう」
しかし次の回はもっと簡単だった。東一局に、国士無双《こくしむそう》をテンパイ即、ワレ目の親から出たのだ。もちろん親はハコテンを割り、その一回で飛ぶ。
ゲンは手拭《てぬぐ》いで顔の汗を拭った。
「ツイてるな。何を喰ってきたんだ」
とノロ。
「喰い物じゃないですよ。さっきからいってるでしょ、このお守り」
「どこのお守りだい」
「秘密。これはそう簡単に教えられない」
「けッ、三十何年打って来て、お守りに負けるんだとよ」
「ヤー坊、俺に乗ったか」ゲンは大声でいった。「まだなら、これからでも投資しなよ」
ヤー坊は笑顔のまま顔を横に振った。
「オレンプさん――」とまたゲンはいった。
「自分で自分の馬に乗っちゃいけませんか」
「はい、受けますよ」
「じゃ、次は十万ずつ、三方と差しウマを挑戦します」
「一局じゃなくて、一回ですね。はい、ききました。チップを買ってください」
三方に十万で三十万、それがゲンのポケットにある現金のすべてだった。
四回目は烈しい打ち合いになった末、ラス場で打ち負けて三着。十万のチップが出た。
「やあ、上出来だった。ご苦労さん、さァ交替しようか」
とピーさんが手招きして、二百万の小切手をくれた。
「分割《ぶわ》りの方は今計算するよ」
「もう少し、やらせてくれませんか。今、ようやく肩が暖まってきたところで」
「うん、しかし、うちのエースがベンチを暖めてるからね。君は充分走ってくれた。これからまた勝ったって分割りの一割が入るだけだろう。このへんで退った方がいいよ」
「今日はとことん打ってみたいんです。どのくらい勝つか。貴方に蔵を建てさせますよ」
「さァ、それはどうかな」
ピーさんは眼を細くして笑った。
「気持はわかるけどね。ご苦労さんだった」
「残念だなァ。せっかく、お守りがあるのになァ」
「なんのお守りかしらないが、君が勝ったのはツキのせいだよ。そういつまでも続くもんじゃない」
「ええ、ツキならばね。でも、ツキじゃないんですよ。これの神通力なんです」
ゲンは半分以上本気で、そういった。
「しかし、今、三着だったじゃないか」
「そりゃァ全勝とはいきませんよ。今は、三着でも、次はまた、トップ、トップ、とハネてみせます」
「せっかくの気分のところを何だけどね、僕は背後で見ていたが、駿なら、今の回はちがうまとめ方をしている。同じ手材料であんなに打ち合わない」
「俺が甘いっていうんですか。じゃァもう一回打たせてください」
「馬主《オーナー》のいうことをききたまえ。君は勝利投手なんだから、べつに不服はないだろう」
ゲンは気持がおさまらなかった。ここに来るまでの思惑など忘れて、一途《いちず》に自分流の打ち方を証明してみせたかった。
金の問題じゃない。駿という人なら、なるほどバランスをほどよくして打つかもしれない。だが、自分はちがう。勝つ麻雀をしているのだ。今夜の調子で、神通力のお守りまである以上、バランス打ちはしない。戦かって、主役になって、充分に打ちこなせる。そのつもりで打っているのだ。
駿という人は、このあと大過《たいか》なく打つだろう。しかし、今夜のトータルでは、自分の方が高得点を叩き出しているだろう。
水割りをぐっとあおった。それから少し離れたところに立って、駿という人の様子を眺《なが》めていた。
小声で、ヤー坊を呼んだ。
「どこに乗ってる――?」
「駿、だよ」
「俺のときには乗らずにか」
「いや、最初に間に合ってれば乗ってたかもしれない。途中からじゃいやだよ。ツラは途中からじゃなかなか乗りにくい」
「いやな奴だな。俺をなめてるんだ」
「ばくちにセンチメントは禁物だ。俺はここでそのことを学んだよ。慣れればその方がお互いにさっぱりする。学生の麻雀とはちがうからな」
四
せまい階段をおりて、小さく仕切られた控え室にゲンは入った。地下室に人影はない。彼は折り畳み式の椅子に腰をおろし、煙草に火をつけた。
この一本、吸い切るまで、居てやろうと思う。
「誰――?」
婆さんはゴム靴のせいか足音がない。
ゲンは煙草をねじ消して、一万円札を十枚、机の上に抛《ほう》った。
「お礼だよ。ばくちで受かったから」
婆さんはゲンを思い出したようだった。そうして机の上の十万を鷲《わし》づかみにしてゲンのポケットにねじりこんだ。
「とんでもないよ。余計なことをしないでおくれ」
「なぜだい。せっかく持ってきてやったんじゃないか」
「冗談《じようだん》じゃないよ。お金なんか貰《もら》ったら、あたしの方に凶《わる》いことが来ちゃう」
「そうかい。要《い》らねえんなら貰っとくがよ」
とゲンはいった。
「怖がることはないだろ。それ以上凶くもなるまいに」
「――そう見えるだろうがね」と婆さんもいった。「落ちぶれたのもみんな、あたしの念のせいなんだよ。以前は調子に乗っていてね、頼みにくる人にいちいち念を入れてやってたものさ。あんたと同じに、ものを恐れるってことを知らなかったもんだからね」
「そんなに、一つ一つ、凶いことがあったのかね」
「一つ一つってわけじゃないけれど、結果として、こうなっちまったんだよ」
「念のせいかどうかわからないな」
「じゃァお前さん、ばくちで勝ったのは何のせいだと思ってるのさ」
ゲンはちょっと黙った。
「皆、虫がいいからね。お札で儲《もう》けて、坊主丸儲けみたいに思うんだよ。ところがこの世の中、ただで儲かることなんてそうそうあるものかね。二つある饅頭《まんじゆう》を一つ喰えば、どうしたって一つしか残らない。元の二つにするには、必らず一つ補充しなくちゃね。その補充を忘れるんだ。あたしの念じゃ、饅頭は増やせないよ。ただ、その人の運を集中させるだけ。補充するのはその人自身さ。そこがわからずに、あたしがただ饅頭をくれたと思っちまうから、そのあと薄い運でしのがなくちゃならないことになる」
「で、凶いことがおこるわけか」
「そうだよ。その人も、あたしもね」
「まァいいや。あれだけばくちで受かればね。本当をいうと生まれてはじめての大勝さ」
「なにをいってるんだい」
と婆さんは苦笑した。
「いいことがあった分、そのスケールで凶いこともくるよ」
「――たとえば、どんなふうに」
「それはわからないよ。生まれてはじめての吉なら、生まれてはじめての凶かもね」
「それが定《き》まってるのかい」
「定まってやしない。理くつじゃないからね。ただ、そうなって不思議ないって話」
「来るとすれば、いつ頃来る?」
「それもわからない」
「婆さんの念は、どのくらい持つんだい」
「電気の球じゃあるまいし、わからないよ。使い方にもよるだろうし」
「いっぺんに使えば、それでおしまいか」
「わからないよ。でも、もう使ったのなら、できるだけ早く、手から離しなさい」
「捨てちゃえばいいのかい」
「さァ、それもわからない。やったことがないからね」
「うんと離れた神社にでも、おさめてくるとか」
「――神社に関係ないからねえ」
「教えてくれよ。気になるじゃねえか」
「どうすればいいってものでもないのよ。あんただって、幸運を味わったんだから、今度は自分で工夫おしよ。とにかく、その幸運の分だけ、あんたの運は今うすくなってるよ」
「早い話が、饅頭が一つになってるんだろう。じゃ、もう一つどこかから、かっさらってくればいいんだ」
「そういうことかねえ。でも、どうやって――?」
「チェッ、始末のわるいお札を貰っちゃったなァ」
「始末のわるくないお札じゃ、効かないよ」
ゲンはチラチラと、病院に居る女のことを頭に浮かべていた。生まれてはじめての不幸、というのがちょっと不気味だ。
女は、彼より四つも年上で、文字どおりソープランドの女だった。半年ほど前に廃《や》めさせて、自分の女のようにしているが、正直のところ、ずっと先までのことは考えていない。多分、若い自分が勲章《くんしよう》のようにして持っているだけだろう。
彼もそう思い、周囲もそう思っている。彼女が病気にならなければ、普通によくある例のように、そう遠くない将来に関係を清算して離れ離れになっていたかもしれない。
彼女の病気で、ゲンは突然、ある種の決断を迫《せま》られたようになった。彼女の腎臓はかなり損なわれていて、透析《とうせき》の必要もあり、そうなると長引くのみならず、経済的にも重荷になる。ゲンの年齢で背負うことは不可能に近い。離れるか、心中するか、二つに一つとなると、どう考えても離れざるをえない。
ところがなかなかそれが実行できなかった。ずるずるべったりに病院でつきそい、彼女の唯一《ゆいいつ》の関係者として費用も負担した。惚《ほ》れた、という感情など特に意識しなかったし、そんな感情で我を忘れるほど純情だとも思っていない。
ところが実際は、はじめての女に対するように、純につくしていた。そう思うのは面白くないから、近頃の自分の一連の行為を、シャレだ、と友人にはいっていた。たまには英雄的行為も面白いもんだぜ――。
これまでの病院での費用をそっくり払った。百万をはるかに越していたが、少しも惜《お》しくなかった。生まれてはじめて、人を救った。それも自分の女を。それはまた格別な気分だった。
しかし、それで心の中に何も残らないわけではなかった。これですべてが終ったわけじゃない。まだ過程《プロセス》だと思う。だから百何十万が惜しくないのだ。
「おい、あの守り札、婆さんのところへ行ってみたが、駄目だったぜ」
とヤー坊がいう。
「もうやめてる、というんだ。頑固《がんこ》な婆ァで、とりつくしまもない」
「そうだろうな」
「どうすりゃいいんだ。お前に口添《くちぞ》えをして貰えばいいのか」
「いや、俺でももう駄目さ」
「なんとかしろ。銭は払うぜ」
「お前、あんなものをマジで信用してるのか」
「――お前は信用してただろ」
「冗談じゃない。効果に使っただけだよ。誰がお守りなんか――」
「お前がどう思っていようと、俺はちょっと気にするな。普通で、お前があのメンバーにストレートで勝てるわけがない」
「勝手にそう思えよ。だが、オカルト映画じゃあるまいし、お守りで勝てるなら誰も苦労しない」
「そりゃそうだ――」とヤー坊もいった。そうして「じゃ、お前のをちょっと貸しな」
「おことわりさ」
「お守りのせいじゃないんだろう。貸せよ。あそこを紹介したのは俺だぜ」
「馬主《オーナー》や他の人たちも、お守りのせいだと思ってるかもしれない。今度、お守り無しで行ったら、俺を買う人が居ないと困る」
「なんだ、又行く気なのか」
「どうして。こんないい稼《かせ》ぎ場を捨てると思うのか」
「ちぇッ、勝手な奴だなァ」
「だから、俺に乗れよ。臨時馬主でいくらでも稼げる。一生懸命走るぜ」
ひと晩の契約代が二百万。今度はもう少し高く売れるかもしれない。もし負けたって、最悪日当がパーになるだけで、こちらの懐中が痛むわけじゃない。
病院代が出たからって、一回でやめる馬鹿は居ないだろう。
五
土曜の夜、きっと開催しているだろうと行ってみたら、はたして部屋の中が活気をおびていた。
しめた、まだツイてるぞ――。
ゲンは堂々とした足どりで、オレンプに近づいて行き、軽く頭を下げた。
「おうおう、来ましたね。三歳馬」
「今日は俺の出番があるでしょうか」
「うん、あとで皆にはかってみるから、その辺で酒でも呑んでいて」
ケリーという若い女がゲンのそばを通りすぎていく。が、彼の方を見向きもしない。
ゲンはピーさんをみつけて近寄った。
「よォ、よォ――」
というだけで、打っている駿の方に顔を向けてしまう。
ゲンは一瞬、ひるんだ。
「ええと、ピーさん――」
オレンプがささやくようにいった。
「彼はお宅の契約選手と見なしていいの」
「いや――」
ピーさんが答える。
「この前は、臨時だから――」
「ああ、そうね」
オレンプはどこまでも表面|柔《やわ》らかく、ゲンにいった。
「それじゃね、また馬主《オーナー》を募集してみましょうね。どうせ夜は長いんだから、そこらでお酒でも呑んでてくださいよ」
オレンプが座の空気を邪魔しない程度にあちこち移動して、ささやいて歩いている。
ゲンはわざと無関心を装おって、じっとしていたが、心中穏やかでなかった。何故か、先夜の働きが評価されておらず、自分は軽くあつかわれているようだ。
まさか、二走ボケで、今回は走らずとされているんじゃなかろうな。俺は競走馬とちがうぞ。例の守り札だって、ここにこうしてあるんだ。
彼は胸の守り札に手をやり、それからこうも考えた。
(なにか、この前とちがう感じが俺にあるんだな。お守りの効力がうすれていて、今夜は頼りなく見えるのだろうか。お守りばかりでなく、俺の方にもこの前ほど切迫した感じがないのかもしれない)
パドックでは、気合を見せなければ損だぞ、と思って、ゲンはわざと胸を張り、ゆったりと酒を口に運んだ。
念のため、隣りの女性にきいた。
「駿は、好調ですか」
「まァまァね。まだ拮抗《きつこう》してる状態よ」
オレンプが近づいてきた。
「どうもね、まだ時間が早くてねえ。そのうち不調選手が出てきたら、代打のチャンスもあるだろうから、ゆっくりしてらっしゃい」
ヤー坊が、こちらを見て見ないふりをしている。
今夜は、打っても、負けるかな、という気がゲン自身もしはじめた。
しかし結果として負けたってかまわない。損失は馬主《オーナー》にかかってくるだけだ。ダンピングしてもいいから、こちらは契約をとってしまえばいい。
壁に、馬たちの星取表が掲《かか》げてある。ジャンコルトーに白星が一つついている。駿は、五勝三敗だ。一つ一つの星の内容は知らないが、駿だって勝ったり負けたりなのだ。
もうひとつの部屋もガヤガヤしているようなので、ヤー坊にきくと、あっちはセブンポーカーだという。ベンチを暖めている馬や、ヤー坊みたいに小口で張る臨時馬主のようなのが集まっているらしい。
ゲンは、現金をチップにかえて、すぐにそっちに行こうとした。
「おい、あんまりのめるなよ」とヤー坊。
「誰がのめってるんだ」
「短気をおこすな。ばくちはまだ何十年でもできる」
「ぐずぐずするとお守りが効かなくなるよ」
人見知りしないのがいいところで、ゲンはすぐにポーカーの中に割りこんだ。
(ここでまたデモンストレーションをして、お守りの威力を見せてやろう――)
最初、二三番、わざと途中でオリた。四回目に、はじめの裏カードに■が混ざっていた。
■・・・
そこまで引っ張った。最後の■は見ないで、胸の守り札にこすりつけると、そのままおいた。はじめの二枚の裏カードは■だった。
残った相手は一人。
見えているところはこうだ。
■・・・
表面はフラッシュ戦だ。ゲンの方は弱役ならストレートの恰好もあるし、エースが効いている。もしフラッシュ同士なら、追ってくる以上相手もエース持ちと思わなければならない。相手にはキングスリーカードで来ていることもあろう。ということは、その上のフルハウスまで可能性はある。
この手は(たとえ負けるにしても)勝負に行く手だとゲンは思う。最終ノンルックで相手動ぜずなら、深追いする手なしと見て、二度のアップで合わせた。
一番わるいケースで、相手はフルハウスだった。ゲンは自分の最終カードをそっと見た。フラッシュは入っていた。ということは、お守りは裏切らなかったことになるのか。
お守りは効力を発したが、自分の戦い方がわるい、そういうことだろうか。
それでなんとなく気がしぼんで、以後、大きい勝負に出なかった。
思いがけず、オレンプが肩を叩いてきた。
「打ちますか」
「え――?」
「それとも、ポーカーで遊んでますか」
「打ちます、もちろん」
とゲンは勢いこんでいった。
「で、誰か馬主《オーナー》になってくれたんですか」
「ええ。あたしがなりましたよ」
「オレンプさんが?」
「若い人が好きなんですよ」
ゲンは思わずピョコリと頭をさげた。
「それじゃこうしましょう。東風戦三回と限りましょう。そのあとはまた考えるとして、百万でどうです。安いみたいだが、三回なんて小一時間ですよ。ベンチよりはいいでしょう」
ゲンはにっこりとして、お守りを強く握った。
「お守りより、あたしの方が効きますよ。あたしが乗ったということの方がね」
オレンプがそういって笑う。
注射を打って貰ってから、ゲンは勇んで本場に出て行った。
相手は、駿、ノロ、中国系混血のペキンという若者。
株屋のピーさんの大きな笑声がきこえる。
しかし、この前のように手が軽くなかった。ひどい手というほどではないが、いくら力をいれてツモっても、テンパイがおそくて攻めのチャンスがみつけられない。
ラス場もせっかくドラをアンコにしてヤミテンまでいきながら、トップのペキンに逃げ切られた。
ゲンは額《ひたい》に汗を浮かべていた。
「すみません――」
「そんなこと気にしないで、自由に打ってよ。あたしは勝手に乗ってるんだから」
「エンジンのかかりがおそくて」
「そうだね、気持、肩に力が入ってるかな。一回、振りこんじゃうんだよ、そうすると気ラクになるから」
バニーガール風がやってきて、ゲンの本名をいった。
「電話がありました。××大学病院から」
ゲンは無言で先をうながした。
「すぐお出でください、そういう伝言で、看護婦さんらしい人からです」
「ありがとう――」
「病人――?」
とオレンプがちょっと眉をひそめた。
六
ひょっとしたら、お守りの凶が病院の方に出たかもしれない、すぐにそう思った。
しかしこの場を放り出してしまうわけにはいかないし、その気もない。
なァに、彼女はお守りには無関係だ。無理にそう思おうとする。
どうやら今夜は、この前のような調子にはいかないらしい。お守りが神通力を失なって、オレンプの信頼を失なうし、馬としての将来性が損なわれる。凶と出ればそんなことにちがいない。今夜の百万で失業か。
二回戦のはじめにタンヤオピンフの手がワレ目の相手からポロッと出て、ゲンはわずかに生色をとり戻した。オレンプがいうように、放銃か、あがるか、どっちかすれば気持がぐっと定まる。
この点棒を大事にしていこうと思う。東三局、ドラをトイツにして、タンヤオ手をテンパイしたが、相手リーチに打ち切れず、廻ってしまった。慎重にすぎたかもしれない。この前なら、お守りにかこつけて強引に打って出るところだ。背後で見ているオレンプが舌打ちしているかもしれぬ。
その牌は、結局、当たらなかったらしい。ゲンはちょっと首をひねり、反省の形をオレンプに見せた。
ゲンのラス親、サイの目が五と出た。ラス親でワレ目だ。この勝負どころで、あがりやすい早いよい配牌が来てくれ。婆さんの念がここを助けてくれたらあとでどんな凶いことがあったっていい。
■■■■■■■■■■■■■
■打。■ツモ、■打。■ツモ切り。■ツモ切り。■ツモ、■打。
ここまで夢中で打った。次にドラの■をツモり、■打。
■■■■■■■■■■■■■
しかし、トップ傾向のノロからも、油濃《あぶらつこ》いチューチャン牌が捨てられている。ノロは手つきはわるいがなかなか勝負強くて、強引な打牌《ターパイ》に見えるわりには放銃をしない。多分この局もまっすぐ来ていようから、ヤミで張っている可能性が強い。
■ツモ切り。ああ駄目かな、と思った。ちがう手造りならあがっている。
■ツモ、少し考えて■打。幸運にも通る。■の上がくっつけば理想的な恰好だし、■が来ても■打だ。そのとおりに来るかどうか、もう一度お守りを握り直したとたん、ペキンがノロのヤミテンに放銃した。
もう一息だ。しかしその一息がきまらない。三回しか打てないのだから、初回三着、今回二着で次にトップをとらなければ敗戦投手になってしまう。
「おい、病院に行かなくていいのか」とヤー坊。
「冗談いうない」
「俺が代走してやろうか」
「馬主《オーナー》が居るんだ。そんな勝手はできない」
この一回で百万かかってる。いや、この職場を失なうかどうかだ。ヤー坊の奴、自分が売り出したくて余計なことをいうんだろう。
今度は起家《チーチヤ》だった。あまり調子がよくないようだから、なおさら先制したい。親のチャンスを無駄にしたくない。
■■■■■■■■■■■■■
ここまでは早かったが、ここからが動かない。ワレ目のペキンに早いリーチがかかっている。駿からも珍らしく強い牌が打ち出されている。常のゲンなら、消極的になるところだが、ひるまなかった。ここはどうしても、切り抜けてあがるぞ。
■ツモ、■打。この手恰好では、どうしてもピンズが一つあまることになる。ワレ目リーチに打っていけるか。
■をツモったとき、汗で牌が濡《ぬ》れたほどだった。
(死ねッ――)
と腹の中でいって■を捨てた。通ってから、死ね、とはどういう意味かと思った。
■、来い。来れば追っかけリーチだ。ワレ目から出れば最低ピンピンロクある。
その■が来たとき、夢ではないかと思った。リーチ、といった。
駿はあいかわらず、無言でツモ切り。
しかしゲンが握った■がペキンのリーチに当り。
「三九は、割れ目で七八――」
七千八百の失点。ゲンは唇をかんだ。ここも、オレンプからみると、批評が出そうに思える。切りにくい方のピンズ受けにしていればあがっていたところだ。
東二局、駿が二度連チャンし、ペキンに追い迫っている。二本場でノロがペキンから五千二百をとる。戦いの場がゲンから遠ざかったところに行ってしまって、後方|凡走《ぼんそう》という恰好。
半チャン戦とちがって、こうなると立直しがなかなかききにくい。
バニーガールがまたゲンの名を呼んでいる。
「お宅のお母さんからですよぅ」
「用件をきいといてよ」
とゲンはそのままの姿勢でいった。
「病院へ行っておやりなさい、ですって」
「死んでくれ、もう――」
と今度ははっきり口に出してゲンはいった。死ぬ病人は、死んじゃえばいいんだ。いや、死ねというわけじゃないけれど、それで風が変るかもしれないんだからなァ。
東三局、あいかわらず、勝負に行ける手ではない。それでもただオンリしているわけにもいかなくて、中盤すぎ、初牌の■を強打して、駿のあがりを誘ってしまう。
ラス場、もうゲンは勝負をあきらめていた。名馬だという駿のトップコースでは、終戦処理にも疎漏《そろう》があるまい。
配牌を見て、ゲンは大きく眼をあけた。ドラの■が三枚ある。ワレ目は駿だ。ゲンは慌てて暗算をはじめ、駿から直撃をとれば逆転を確かめた。ハネ満ツモでどうか。駿はワレ目だが、親でないだけにちょっと不足だ。
■■■■■■■■■■■■■
■ツモ、■打。■ツモ、■打。
不意にツモがよくなってきた。
(初枝――)
と女の名を胸の中でいった。
(ここだけは助けてくれな。俺だってお前のためにあたふたしたんだからよ)
また■ツモ。しまった、と思う。■を捨てるんじゃなかった。
決断して、■打。当ればもうしょうがない。
皆、無言だ。誰もポンチーしないし、リーチの声も出ない。不思議な凪《な》ぎ方だった。
■ツモ、あッと思う。ツモ切りだがこれも当たらない。
■が入った。■打。
■■■■■■■■■■■■■
出ればヤミハネだ。ツモったらどうするか。リーチをかけるか。かければ駿からは出ない。一巡する間、迷った。次に危険牌をツモ切りするようなら、テンパイは見え見えで、リーチの一手。
しかし安全牌のツモ切り。
ゲンは必死に祈った。凶の目がこっちに出ないでくれ。病院の方へ、凶と出ろ。頼む。
駿が、ポロリと■を出した。その瞬間、眼から血が噴き出るかと思った。
「ほう――」
開いたゲンの手牌を見て、駿が声を出した。ゲンはトイレに走った。じっとしていられなかった。オレンプが片手をさしのべてくる。
ピーさんが負けて面白がっている。
「若者にやられたよ。大穴だな」
ゲンは百万を受けとって、上衣を着た。
「病院に行くのか」とヤー坊。
「ああ、とにかくな」
「じゃ、お守りをゆずれよ。高く買うよ」
「もう効力がうすれてるぜ」
「そうでもないさ。お前があの手で勝てるなんて」
「俺の地力だよ」
「地力は三連敗だよ」
「ようし、それじゃお前、打ってみろよ」
「ゲンは知らんだろうが、オレンプの乗り方を見てみろよ。三回トータルの勝ち負けを、二―一でお前に張ったんだ。お前がプラスすれば倍づけ。しかも、あとは全員、お前のマイナスの方で、オレンプは一人受けだったんだよ。お前の客観的評価はそんなもんだ。とにかく少しでも浮けたのはお守りのせいさ」
「勝手に、好きなように考えろ」
「いくらで売る」
「ただでやるよ、どうせただのお守りだ」
外の道に出ると、熱した頭が急に冷めた。終ってみれば、どんな勝負だってたかだか銭で片がつくことで、人の生命とは別次元のことだ。
(おい、本気じゃないぜ。さっきの言葉はよう――)
しかし、本気みたいなものだった。ゲンは思わず、ぶるッと慄《ふる》えた。今となってはお守りを手放してしまったことが、わずかな救いで、ゲンは急に心配になり、表通りのタクシーのところまで走った。
かくてピンクゾーンの灯は今日も消えず、オレンプもなんだかんだと仕事が絶えません。こういう社会では、いずこもそうで、地主みたいに頑張っている何人かが栄えるのですが、かといって皆が地主になるわけにもいきません。
割りこんでくる奴が居ると、そこでなんとかお話ができるのですが、オレンプなんかはそういうしのぎの専門家なんですよ。碁将棋のタイトル戦でも、タイトルを守る方が有利だし、ばくちでも親が有利。それはそうなんですが、ときどきは番狂わせがおこるんですよ。
南四局 恍惚《こうこつ》のギャンブラー
一
ニューキャバロザリイ≠フランちゃんが男にズブズブにされているという。しかも、その男が、ばくち打ちだという。
ランちゃんはテレテレズブズブで、その結果、お店をやめちゃって、単なるお嫁さんになってしまうんだそうである。
水商売のコだから、男の一人や二人、居たって不思議はない。けれども、引退しちゃうというのが、店側にとって、おだやかなことでないのだ。何故なら、ランちゃんは、ひと晩平均指名三十本という、ロザリイ≠フトップアイドルなのである。
「ズンベって男、知ってる?」
ロザリイ≠フ店長の小池が、オレンプのところにわざわざやってきた。
「知りませんね」
「本名はわからない。ズンベってしかきいてないんだけど」
「何ですか。そりゃ――」
「ばくち打ちだってきいてますがね」
オレンプは笑った。
「ばくち打ちなんか、掃《は》いて捨てるほど居ますよ。東京は広い」
「東京は広いが、俺たちの眼の前をぶんぶんされてかなわんのよ」
「なるほど」
「うちのランにささっちゃった。ランがまた、結婚するんだって、いいだしてね」
「結構ですね。今日日《きようび》、結婚しようなんて男はめったに居ませんよ」
「オレンプさん、うちとお宅の店は職種がちがうよ。うちが潰《つぶ》れたって、お宅の客が増えるわけじゃない」
「そりゃ、どういう意味ですか」
「商売|仇《がたき》のような顔をしないでよ。あのくらいの子を仕立てるには、どのくらい資本をおろしてると思いますか」
「でも、あたしは別に、お宅の社長に義理があるわけじゃありませんからね」
「ランの父親でもないでしょう。助けてくださいよ。この不景気に、今ランにやめられちゃ、三割は客が減るよ。いや、もっとかな」
「女で儲けてるんだから、女で損もしましょうよ。ばくちだって、勝ったり負けたりが普通ですよ」
「なんてことを。この街に居て、そんなこといいだしちゃおしまいだね」
「あたしはもう年老《としよ》りですからね」
「そりゃ、すっ堅気《かたぎ》の銀行員かなにかなら、こっちも協力しますよ。ばくち打ちじゃ、玉の輿《こし》ってわけにいかないね。ヒモで喰いつかれて、しぼりコロされるぐらいが落ちでしょう」
オレンプは黙ってパイプを吹かしていた。しかし相手も言葉を切って、オレンプが何かいうのを待っている。
「――で、どうしろってんです」
「ばくち打ちなら、蛇《じや》の道は蛇《へび》だ。ひとつ、ばくちで奴をうんと負かしてくださいよ。懐中が空《から》ッ尻《けつ》になるまで。そうすりゃ、所帯を持ちたくたって――」
「そりゃどうかなァ。女にだって稼ぎはあるんだし、ますますアツくなって入れあげるかもしれない」
「そこまで馬鹿じゃないでしょう。ランだって、銭でこの世界に来た子なんだし。とにかくランはうちの功労者だしね。もうすこしましな男と一緒にさせたいよ」
「逆にあたしが負けるかもしれない」
「あんたの名前は昔からきいてますよ。格ちがいさ。あんたとすれば、ズンベからもとれるし、うちの店からもギャラが届く。うまい話でしょうが。ギャラはあたしが社長にかけ合って、不足のないようにしますよ」
「駄目だな。あたしは負ける」
「なぜ。相手はチンピラだがなァ」
「チンピラに負けるんですよ。皆、そうなんだ。いつかわからないがね、年を老《と》って、雑兵《ぞうひよう》に槍で突かれるんです。あたしは、できたら、チンピラとはやりたくないね」
二
ズンベが入ってきたとき、誰も今夜の相手がこの男だとは思わなかった。すでに卓についていた株屋のピーさん、略して株ピーは、新聞の集金人がのそのそ入ってきたかと思ったほどだ。
「麻雀が打てるって、ここかね」
とズンベはいった。飯場《はんば》にでも居そうな体格で、陽焼けした黒い顔にニキビが無数に出ている。そのわりに若くもない。そろそろ三十に手が届くか。
「貴方がズンベさん。ああそう――」
オレンプが片手を差しだした。
「ウェルカムですよ。まァ面白く遊びましょう」
「俺、呑みこみがおそくてね。頭がわるいからッ。ルールなんか、しつこく教えてよ」
ときどき、土臭い地方弁など使って、トボケ顔して入ってくるバイニンが居る。そんな手にひっかかるヤワな者はここには居ないし、一局打ってみれば、手つきですぐわかることだ。
けれども、顔つきやニキビまで、作ることはできない。
東風《トンプウ》戦、ワレ目、オープンリーチ、飛び(ハコテン終了)あり。
それで、株ピー、学生のヤー坊、家電屋、この三人の中にズンベが入った。
長椅子に転がりながら気配を眺めているオレンプの眼には、ズンベが抜群に大きく見える。実際、身体も野球選手みたいにがっしりと大きいのだが、四人で打っているのに他の連中がなんだかひどく頼りなく見えるのだ。
昔、似たようなことがあったな、と思う。小山のように大きくて、二十卓くらいある店で、そいつ一人しか眼に入らなかった。案のじょう大勝ちしていて、いいところで立ち上ったが、帰りかけるときに眼をやると、その男が一番背が低い。
そういうことがあるから、ひょっとしたら、ズンベという男もかなりの打ち手かもしれない。オレンプは新聞を読むふりをしながら、内心でニヤニヤした。ズンベがカモのようならそれまでの話。勝ちこむようだったら、どうやって料理してやろうかと思う。長い経験で、料理の方法は何通りもある。
ほとんど無言で牌音だけさせていた四人が、鳥の群がはじけるように、むらむらッと立ちあがった。一回終了だという。ヤー坊が飛びで、途中で終ったらしい。精算のために卓上に出た銭を、ズンベが鷲《わし》づかみに掴《つか》んだ。
「ありがたい、ツイてる。今、銭が要《い》るんでね」
「ロザリイ≠フランと所帯を持つんだって?」と家電屋。
「アレ。きこえてるかい」
「きこえてるとも。しかし、大丈夫かい。水商売の子は派手だぜ。よっぽどうまくあつかわねえと、長持ちしねえよ」
「それは、あるかもね」
「あんた、いくつ――?」
「三十一――」
「じゃ、どうせ妻子があるんだろう。おメカ(妾)にするのか」
「いや、はじめてだよ。はじめて身を固めるんだ」
「ふうん、はじめてか。そういえばそんな感じだな」
ヤー坊が遠慮なく笑う。
「それで、女も生娘《きむすめ》だと思ったかい」と株ピー。
「さァ、それはどうかな。処女でなくたってかまわない」
「ちがうよ。もしだね、女に悪い虫がついてたらどうする。よく調査したかね」
「ランは、そんな女じゃねえ」
皆、呆れ返って黙った。ヤー坊が、ワレ目で、ロン、といった。タンヤオドラ入りチートイツ。
「さっきのお返しだな」
「ハイよ、一万六千点」
「この街に、独り身の女なんか居たかな」
「よくあるんだぜ。誰も居ないと見せかけて、一緒になろうとすると、恐いおにィさんがひょっこり出てくるんだ。俺の女房《ばした》をどうしてくれるんでえ、有金巻きあげられて、泣き寝入りさ。それもみっともないからなァ」
ズンベがまた放銃した。
「へんな話をするから、ツキが逃げるなァ」
「だから、用心しなよ。そんな奴にふんだくられるくらいなら、麻雀で負けた方が、まだいいさ」
「ランにそんな男が居るのかね」
「そりゃわからん。でも、居ると思わなけりゃ、いけねえだろうなァ。お前さん、ばくち打ちのくせに、そんなことも知らねえのか」
「いいよ。男が居ても――」とズンベはいった。「それでよけりゃ、ランと一緒に抱えこんじまうから」
皆がまた口をつぐんだ。
「俺ね――」とズンベは嬉しそうにいった。
「故郷《くに》へ帰ってね、ホテルを建てるんだ。最初のプレゼントに、ランにそれをやるよ」
オレンプの手の新聞の動きがとまった。
株ピーも、ヤー坊も、家電屋も、なんにもいい返さない。
「オープンリーチ――!」
とズンベが叫んだ。
「ラス場だろ。勝負だよ」
「なんだよ、それ――」
と株ピーがいった。
ズンベは手牌を伏せて、たった一枚、ドラの■だけを開いてみせたのだ。
「待ちは、これだよ」
「――単騎ってわけか」
「ああ、これでないとトップにならねえ」
三人は顔を見合せた。
「ランとうまくいくかどうか、こいつがツモれりゃな」
三人は無言で、それぞれの手を進行させた。裸単騎《はだかたんき》のオープンリーチでは、こんな処理しやすい場はない。すぐに、株ピーが、一四七《イースーチー》万三面待ちで、追っかけリーチに来た。むろん、これもオープンリーチだ。
要するに、株ピーとズンベと二人で、一四七万をツモるような案配《あんばい》だった。
「ありゃ――」
とズンベがいった。
「こんなモンが来たぜ。幸先《さいさき》いいな――!」
彼はツモった■を、ばしんと場に叩きつけた。
三
一人勝ちして帰ったズンベの力量について、三人の対戦メンバーの評価は、いずれもそう変らなかった。
「引きは強いな」
「ああ、引きは強い。もっとも、ばくち打ちだっていってるんだから、あの程度は引かなくちゃな」
「そうだ。特別甘くはないが、どうってことねえよ。何度もやりゃァ、カモだぜ」
「ちょうど頃合いのカモだな。本人、自信あるんだろうから、多少負けたって退却しねえだろうし」
「面白え奴だよ。トボけてやがってな。感じわるくねえ。大切にしてやろうじゃねえか」
ズンベは、帰るとき、
「ここは、毎日、できるのかね」
「いや、そうとも限らないが、あんたが来りゃァ、メンバーを呼ぶよ。またいらっしゃい――」
オレンプが笑顔でそういった。
だから、又来るだろう。なにしろ、女にホテルを一軒やるってんだから、話半分としたって、なかなかの上客だ。
ヤー坊は、翌《あく》る晩、すばやくロザリイ≠ノ行って、ランを指名した。なかなか番が廻ってこなかったけれど、ねばりこんで、閉店近く、やっと彼女をつかまえて、しまいまで指名延長、といった。
彼は自分が気に入っている方の顔を見せるようにし、微笑を含み、初心《うぶ》を装ってぽつりぽつり話しかけた。そうして、店で皆がやるようなことを何ひとつ要求しなかった。
「君は、どんなタイプの男が好きだい」
「――優しい人。お客さんみたいにね」
「いや、そんなお店用のセリフじゃなくて、本気できいてるんだよ。どんなタイプだい」
「わかんない。だって毎晩たくさんのお客さんに会うもの。どの人も、いいところもあるし、わるいところもあるし――」
「こういうところに居ると、キザな奴はあきあきするだろ」
「そうねえ――」
「存外、もっさりしたのがいいんじゃないのか。ニキビ面《づら》の田舎者なんてどうだ」
「田舎の人、好きよ。あたしも田舎者だから――」
「俺もだぜ。東北だ」
「そんなふうに見えない」
彼は、注射の痕《あと》や、煙草の火を押しつけられたりした痕がないかどうか、それとなく吟味していた。そうして、蛍の光の曲が流れると、
「どうだい、このあと、つきあってくれないか」
学生証をちゃんと見せた。
「俺、ニセ学生じゃないよ。君と、ちゃんと交際したいんだ」
「ごめんね。あたし、疲れちゃってるの。またお店に来てちょうだい」
「初回じゃ駄目か。もちろん、何度でも来るけれど――」
ランは笑ってちょっと会釈《えしやく》し、身をひるがえすようにして駈け去った。
その次の夜は、株ピーが、ロザリイ≠ノ入ったらしい。株ピーとヤー坊は、同じことを考えたのだった。すばやくランの情人になりすまし、ズンベの出方を見て、いくらかにしようというわけだ。
家電屋は、連日、彼等の麻雀の巣のあるマンションに来て、ズンベの現われるのを待っていた。ヤー坊は株ピーとロザリイ≠ナ鉢合せして、お互いにあまり収穫のなかったことを覚《さと》り合い、家電屋は他のメンバーと卓を囲んでまた負けて、ぶうぶうこぼしていた。
そうして、その翌晩、ランは珍らしく店を休んでいた。
ロザリイ≠フ店長が、オレンプのところにまた現われた。
「おい、頼んだ一件、やってくれなきゃ駄目じゃないか。早くしないと、本物になっちゃうよ。ズンベがランを連れて、国元の親のところに行ったそうだ」
「一回来て、それっきりですよ。いくら俺だって、牛じゃあるまいし、鼻面《はなづら》に紐つけてひっぱってくるわけにはいかないからね」
「しょうがないな。やっぱり、組織の手を借りた方が早いかな」
「組織を使ってトクなことはあんまりないでしょう。今はうるさいし」
「一回来て、勝って帰ってそれっきりじゃ、オレンプだって沽券《こけん》にかかわるだろう。なんとかしてくださいよ」
四五日して、ズンベが店に来ている、と店長から電話が入った。
「しょっぴいてってさ、足腰立たないほど取っちゃってよ」
オレンプはふらりと出かけていった。
ズンベがいかにも泥臭く、奥の小卓にランを侍《はべ》らせて坐っていた。
「よォ、よォ、色男。今夜もツイていそうな顔つきですね」
「ああ、オレンプさん。ちょっと乾盃してやってください。俺たち、正式に婚約しました」
「それは、おめでたい。ランちゃんも、おめでとう」
「俺は、幸せです」
「そうでしょうな」
「三十年、苦労した甲斐がありました」
「三十年も」
「ばくち一本で、金を貯めこんだんです。ろくすっぽ喰うものも喰わずに」
「それじゃ、ホテルは親御さんの遺産かなにかじゃないんですか」
「親は、水呑み百姓だもの」
「そうですか。ばくちの成功者なんだな」
「次の目標は、病院だな。それも、ランに贈るよ」
「その病院も、ばくちで――?」
「ええ、うまくいけばね」
「そりゃ、うまくいきますよ。ホテルができたんだから」
「あたし、勉強しなくちゃ――」とランがいった。「ホテルのこと、なんにも知らないんだもの。泊ったことは何度もあるけど」
「しかし、病院のためにばくちをやって、もし失敗したら、ホテルを手放すんですか」
「ない、とはいえないね」
「それじゃ、あたしもホテルのことを勉強しよう」
といってオレンプは笑った。そうして内ポケットからカードを出した。
「ひとつ、どれでも一枚、抜いてください」
「どうして――?」
「カード占いですよ」
「じゃ、ラン、お前がひけよ」
「いや、ズンベさん、ひいて」
「俺はランを手に入れて、運を使い切っちゃったね。当分、いいカードは来ないだろう」
「じゃ、あたしだってよ。あたしももう運を使い切ったわ」
「まァ、まァ、押えて、押えて。あっはは。こんなもの、シャレだから、とにかく一枚」
ランがひくと、ダイヤのキングだった。
「呆れたなァ――。じゃ、色男も一枚」
ズンベが手にしたのは、ダイヤのクィーン――。
「まいったね。あたしはもう帰ろうかな」
「まだ運が残ってるわね、あたしたち」
ランはダイヤのクィーンに口づけして、ズンベに渡した。
「一緒に持っててね。ずっとよ」
オレンプは全部のカードを開いてみせて、
「まァこれは、ダイヤのキングとクィーンだけで一組作ってきたんですけどね。ゲンのものだから差しあげますよ。どうぞ」
それから、別の一組をとりだして封を切り、全部オープンした。
「これは本物。ヴァイスクル社製のです。もっとも最近はヴァイスクルも当てにならなくて、ガンのアンチョコまで出ているそうですがね。さっき、この店に来る途中で、そこの本屋で買ってきたものだから、ご心配ならあとできいてみてください」
オレンプは、シャフルしてくれ、とズンベにカードを渡した。
「これも、手品――?」
「いや――」とオレンプは笑った。「これは、勝負」
ズンベが入念に切ると、オレンプはカードに手を出して、自分の前とズンベの前に、十三枚ずつ配った。
「さァ、何を賭けますかね」
「これは、何――?」
「ご存じない? 簡単なんですよ。十三枚あるでしょう。それを三ブロックにわけてください。五枚、五枚、三枚とね。ポーカーと同じ役作りで、上、中、下。但し、下から強い役ができてなくちゃいけません。下からですよ。中、上、と順に弱い役。こっちも同じようにします。それで見せっこして、上は上、中は中、と勝負します。それで二勝一敗の方が勝。ストレート三勝なら倍どりです」
手を出そうとしたズンベを、オレンプが制した。
「但し、手を見る前に賭けること。さァ、何を賭けますか」
「何を賭けようかな」
「何でも結構。ホテルですか」
ズンベが笑い出した。
「一直線に、ホテルをとる気になってるな」
「じゃ、こうしましょう。ホテルの一室を、私の所有物にくれるってのはどう?」
「オレンプさんは、何をくれる?」
「あたしは、しょうがないね。るーとこの一室を、女の子つきでさしあげましょう」
「結構。だが、ホテルはランの物だからね。ランに訊いてみなくちゃ」
ランはズンベをみつめたまま、
「ばくち打ちって、そんなことするの」
「どんなことをすると思ったね」
「怖い。あたしは嫌《いや》」
「シャレですよ」とオレンプがいった。「あたしの物になったって、ランちゃんに贈りますよ」
「ラン、やってごらん」
「嫌ァだ。手がふるえちゃう」
「お前のホテルだよ。最初のお客だ。おことわりしちゃいけない」
「いいですか。何通りも組合せができる場合がありますからね。二勝しなくちゃいけないというところが、ミソですよ」
ランは十三枚のカードを、掌の中であっちこっちに動かしていた。
「これで、いいのかしら」
「自分の思うとおり、やってごらん。君の運で勝負するんだ」
三組ずつ、裏に伏せて、上中下とおいた。ランはなお迷ったように、何枚かを動かした。
「いいんですか、それで」
「ちょっと待って――」
「慎重にやってくださいよ」
店長が背後に立って眺めている。
「怖い。店長、教えて」
「大丈夫だよ。ランちゃんの運だ。負けやしない」
「じゃ、勝負――」
ランの方が、
下 キング三枚、10二枚(フルハウス)
中 10、9、8、7、6(ストレート)
上 4二枚、2(ワンペア)
オレンプの方が、
下 ダイヤ五枚(フラッシュ)
中 A《エース》、キング、クィーン、ジャック、10(ロイヤルストレート)
上 4二枚、8(ワンペア)
「ああ、これはね、10のペアを、4のペアといれかえて、上にしていれば、ランちゃんの勝でしたね。さァ、それじゃァちょっと、場を変えますか」
四
ランがしぼんだような顔になっていた。男たちは笑い合っていたが、彼女だけは沈黙したままだ。ズンベの代りの勝負に負けたのみならず、自分の不手際のせいだときかされて、ショックを受けてしまったのだ。
「ラン、どうした――」
「ランちゃん、こんなこと、あまり大きく考えない方がいいですよ。シャレなんだから。大げさに考えるとね、そこからギャンブルにこだわりだすんです。ばくち打ちは皆そうですよ。こんなことが、世の中で一番重要なことみたいに思えてきちゃうんですから」
しかし彼女は、オレンプのその言葉を半分もきいていなかった。
男たちが立ちあがると、ランも席を立った。
「あたしも行きます。ギャンブルをやりに行くんでしょう」
「眠くなるよ。朝までだから」
「帰ったって眠れないわ。ねえ、ズンベさん、お部屋の代りに、あたしの貯金で精算してもいいんだけど、いくらぐらいなのかしら」
「いいんだよ、心配しなくても」
「そうですよ――」とオレンプもいった。「まだ勝負はこれからですから。一部屋ずつ賭けてって、しまいにホテルはそっくりあたしのものになってるかもしれないし」
「ズンベさん、ごめんなさい。あたし、おしまいまで応援します」
ランは、ズンベの腕の中に自分の身体を巻きこんで、頬にキスをした。
「ああ、おいで――」とズンベもいった。
「一緒にやろう。もうこれからは二人の運だからね」
ロザリイ≠出ると、四人連れになっている。
「おや、店長、あんたも?」
「乗りかかった船ですから」
「お店を賭けますか」
「冗談じゃない。あたしはオーナーじゃありませんよ」
例のマンションに行くと、ズンベの来襲をあんなに待っていた家電屋が居ないで、空発屋《クーパツや》のフウ公が一人で冷麦《ひやむぎ》なんかすすっている。
「なんだい、ぞろぞろと。こんなに早くお祭《ホンビキ》の帰りかい」
「ははァ、なるほど――」とオレンプがいった。「ええと、フウちゃん一人なの」
「俺じゃまずいのかい」
「いや、こちらのズンベさんに、この前負けた人がいると、リターンマッチでちょうどいいな、と考えたものだから」
「いいよ、俺、見《ケン》でも。誰か呼べばいいじゃないか」
ばくち場の人は、こういう空気を察するのが実に早い。自分の懐中では間に合いそうもないメンバーだと、もう覚《さと》っている。
「ええと、種目は何にします。麻雀は面倒くさいねぇ」
「今のカードのでもいいんじゃないの。面白そうだよ」と店長。
「あれも、長くなると疲れるんだよ」
「なるべく、運だけの勝負の方がいいな。俺は運で勝つ方だから」
とズンベ。
「じゃ、スタッド・ポーカーか」
「こうしよう。牌《パイ》で引こう。三つ作るよ。ワンズならカード、ピンズなら麻雀、ソウズならダイス」
オレンプは牌をかきまわした。
「さァ、お客人、恐縮ですが、引いてみてください」
ズンベはランを振り返った。
「ラン、引きな」
「また、あたし――?」
「引きなよ。ランの運に従う」
ランは一枚つかんで、指でさわって、
「まっすぐだわ――!」
ソウズである。フウ公がすぐにダイスカップとダイスを持ってきた。
「面倒だから、ワンシェーク勝負だね」
「いいとも――」
「で、何を賭ける」
「部屋をとり戻したいかい。ラン」
「――ええ」
「じゃ、さっきと同じで結構だよ」
オレンプは店長の顔を見た。
「あたしは見《ケン》――」
「フウちゃんは――?」
「さっきは何を賭けたんだい」
「ホテルの部屋を一つずつさ」
「じゃ、見《ケン》だな。ホテルは持ち合せがねえや」
先行定《せんこうぎ》め。ランはまたうながされて、
「どうして、あたしが?」
「ランのホテルだもの。俺が後見でついてるよ」
「そうね。あたしが奪《と》られたんだものね。がんばらなくっちゃ」
■――。
「アラ、6よ。勝った?」
「こいつは勝も負もねえんだ。しいていえば勝たねえ方がいい」
「そうなの」
オレンプは、■。
「さァ、先へ振りな、ラン」
「振る、って?」
「サイを五つ入れちゃって、ドサッとあければいいんだ。誰でもできるよ」
ランは鼠の死骸を見るようにダイスカップをみつめた。
「運なのね」
「ああ。ランは運が強い。二十歳《はたち》でホテルのオーナー。三年もすりゃ病院のオーナーも兼ねるんだ」
彼女は放り出すように、サイを散乱させた。
■――。
「凄い。6スリーだ」
「強いの――?」
「そうだね。いいとこだ」
「うん、負けたよ、こりゃァ。さっきの部屋はお返ししますよ」
オレンプは無造作にカップをさかさまにして、サイが乗らないように少しずらした。
■――。
誰も声を出さない。
「勝ったの――?」
「惜しい――」
「――じゃ、あたしはまた」
「ラン、まだ最初だよ。一振りしただけじゃないか。そんな顔をするな」
「もう嫌、あたし――」
「嫌でも、振るんだ。それが仕事さ。ラン、綺麗だよ」
「あたしが、全部負けてしまったら、どうするの」
「いいんだよ。また稼いで、ランにプレゼントするから」
「ズンベさん、あたし、そんな贅沢《ぜいたく》な女の子じゃないわ。そんな値打ちもないし」
「負けた方が先行だよ、ラン」
「駄目。あたしもう振れない」
「俺が振っても同じだよ。こんなもの、風でね。さ、振りなさい。気にしないで」
ランはカップを握って、今度は両手で慎重に振り動かした。
■――。
「一杯呑ませて――」とランが叫んだ。「ねえ、同じ数が出ればいいの?」
「そうさ。■はどの数にもなるんだ」
「じゃ、■が四個ね」
オレンプが振った。
■――。
「失礼。■に■取ると勝ですね」
ズンベが白い紙に大きく正の字を三画まで書いた。
「なんだ。帳面ばくちかい、これは?」
とフウ公。
「セコいことやってて、すまないね。ホテルがまだ土地だけで、建つのに半年かかるもんだからね。だが、俺はトボけねえよ。人を突っ殺したって、負けは払う」
「あたしもそうですよ――」とオレンプもいった。「なァに、ばくちの銭だったら、二人や三人――」
「そうだ。オレンプはもう、一人、殺《や》ってるんだものね」と店長。
「ははは、それはいいっこなし」
「やっぱり、ばくちでかい」とズンベ。
「まァね。銭が余ってるくせに、払い汚ないから」
「相手は、やくざ?」
「るーとこのオーナーですよ」
「なるほど――」
「その縁で、未亡人にハマリましてね」
チラッとオレンプは、ズンベを見た。
「さァ、テキの大将が出てくるんじゃないかな」
「ああ、それじゃ俺が振りますよ」
とズンベがいった。
彼はざくっとサイを掬《すく》いとって、恰好よく一列にまいた。
■――。
「お見事――!」
とオレンプが叫んだ。
「ああ、えらいことになったな。こりゃ全部|挽回《ばんかい》されそうだ」
■――。
「アリャ、ついてる。助かったぞ、これは」
ズンベがにやっと笑った。
「商売人《ばいにん》だなァ、さすがに」
「どういたしまして、あたしはもう十年、こいつは振ってないですよ。それに、もう年老《としよ》りでね」
「ラン、見ててくれよ。俺、こういう人に会いたかったよ。とことんまで、今夜はやるからね」
五
白い紙の正の字が、※と※になった。ズンベが三連勝したのだ。
「ねえ、なにか呑まない――」とランがいう。「ばくちやるときは呑まないの」
ズンベもオレンプも無言。
■――オレンプ。
■――ズンベ。
「――今夜は駄目かもなァ」
ズンベが静かにいった。
「あたしのせい――? あたしが口出しちゃったから――?」
「ちがうよ」オレンプが答える。「追いついたところでもう一勝できればなァ。ここでまたリードされるのは、負けるパターンだ」
「じゃ、やめましょう。負けるんなら、あたし見てられない」
ズンベは眼で笑った。
「君はきっと、素敵なオーナーになるよ」
「ケチでいってるんじゃないわよ。あんたが負けるところ、見たくないの」
「でも、此奴《こいつ》をやらないと、俺は稼げないんだよ」
「じゃ、負けないで」
「ばくちはいつも、負けたり勝ったりさ。ただ、負けるのが惜しいときと、惜しくないときがあるんだ」
ズンベはダイスカップを振った。
■――。
オレンプが続いて振る。
■――。
「クズ手で恵まれてるなァ、今夜は」
とオレンプ。
■――ズンベ。
■――オレンプ。
ズンベはしばらくその目を見ていた。
「呑み物おくれ」
「何がいいの」
「バーボンロックだ。――ちょっと、息を入れていいかい」
「ああ、どうぞ」
ズンベは椅子をずらした。そうして店長とフウ公を眺め、
「あんたたち、手も出さねえでよく退屈じゃないね」
「乗っていいなら、乗るがね」と店長。
「俺にかい」
「どっちかにさ。ただ、こっちは銭しか張れないけど」
「銭、かまわないよ。銭でなぜいけない?」
「じゃ、俺も銭を張ろう――」とフウ公。
店長が二十万、フウ公が五万、オレンプの方に張った。
「オレンプさんは――?」
「あたしは部屋だけでいい。ホテルに自分の部屋があるなんて、いい気分ですからね」
「田舎町だからな」
「ランちゃんは、この間、ズンベさんのホテルというのを、見てきたの」
「ええ、まだ土地だけだったけど」
「いい場所かい」
「駅のそばよ」
「まだ訊いてなかったな。田舎はどこ、ズンベさん」
「北陸さ」
「北陸、か。北陸も広いけど――」
「一応、市なのよ」とランがかわって答えた。「なんて市だっけ」
「俺の町はね、ばくちが盛んなんだよ。市長は一代の成功者でね。朝鮮戦争の頃までは、ばくち打ちだった。市会の議長をやってる爺さんは、その頃、市長の所の代貸《だいが》しだった」
「ズンベさんも、市長になる気かい」
「いや、俺は駄目さ。このままがいい」
「このままといったって、むずかしい。一日ごとに老いていくからね。どうしたって、その日をしのぐことに、つい全力を使っちゃうよ」
「早くホテルを造って、職業変えをする」
「振らないのかい。ズンベさん」
「おう――」
といってズンベは再びサイ粒をひろった。
■――ズンベ。
■――オレンプ。
ズンベはバーボンロックを呑み干した。そうして店長とフウ公に銭をつける。
四つ、差が開いた。
ランが身じろぎもせずに、ズンベを眺めている。
「今度は、スィートルームだ。俺が勝てば、部屋《シングル》二つ分」
■――ズンベ。
「ツカんなァ――」
■――オレンプ。
ズンベは坐り直した。
「ズンベさん――」
「言葉をかけないでくれ――」
彼はすぐに言い直した。
「そこで横になってなさい。おやすみ」
ランは動かない。
■――ズンベ。
■――オレンプ。
「よし、差は五つか。じゃ、二階のルームはもう全部あげよう」
「二階は何部屋あるの」
「七つさ。スィートを入れて」
「じゃ、残りは三つ分だね」
ズンベは気持を統一させるようにしばらく眼を閉じていた。
それから凄い眼つきで卓をにらんだ。
■――ズンベ。
■――オレンプ。
ズンベは不意に立ち上って、酒の棚のそばに行った。
「バーボンはゲンがわるいんだ」
「――じゃ、何にするの」
「――水くれ。氷のたくさん入った水」
ランが運ぶと、その水を頭からかぶった。そうして残った氷をシャツの中に入れた。
ランはそのまま、卓の方に近づいた。
「今度は、あたしがやるわ――」
オレンプは、どうぞ、といっただけだった。
■――ラン。
■――オレンプ。
ランはズンベのそばに走り寄った。
「一つ返したわ。さァ、ゲンがよくなったわよ」
ニキビを水で光らしたまま、ズンベはランに助けられるようにして卓に戻った。
「ラン、そばに居てくれ」
それから彼は、オレンプに向かって軽く頭をさげた。
「失礼。これから出直しだ」
「ええ、なんだって受けますよ。今度は幾つ――?」
六
白い紙には、
正正正正正 (オレンプ)
正 (ズンベ)
という成績になっていた。
ズンベは汗に濡れた顔をあげ、
「現金《キヤツシユ》のお二人さん、もう張らんでね。今日はハコテンだから」
ズボンのポケットの裏生地を両手で出してみせた。それから、あいかわらずまじまじとみつめているランの方に笑いかけた。
「さっぱりしたな、ラン。勝負はこれからだよ。心配しないで」
「あたしが悪いのよ。あたしが最初に負けたからこんなことになってしまったんだわ」
ランはそういった。
「負けたのはズンベさんじゃないわよ。自信をなくさないで」
「まだ負けてやしないよ。勝負は終ったときじゃなくちゃわからない。安心してそこで寝ておいで。このオジさんは強いけどね、俺だってがんばる。いつもそうなんだが、最後は勝つよ。でなくちゃ今まで生きてやしない」
「神さまに祈るわ」
「神さまじゃない。俺だよ。俺ががんばるんだ。俺を信じてるだろう。ランのためにがんばるから」
「あたしもついてるわ」
ランは自分から口づけをした。
「それでね、大将――」とズンベはオレンプにいった。「わがままいうようだが、ダイスはどうも目が出ない。ちょっと種目を変えてくれないか」
「いいですよ。カードにするかい」
「いや、サイコロでいい。三粒で投げサイはどうだい」
「なるほど――」
ズンベは別の円卓に移動した。絹のテーブル掛けがかけてある。掌で布の感触をあらため、滑り工合を調べている。
「俺、これならなんとか勝負になると思うんだ。でも、無理にとはいわない。俺のわがままなんだから」
「いいんじゃないの。種目は何だって。どうせあたしのツキもそろそろ落ちる頃ですよ。ランちゃん、勝負はまだ本当に互角みたいなもんですからね」
「あんたにはまいったよ。だがね、俺、今日は負けると思ってた」
「どうして」
ズンベはランの方に顎をしゃくった。
「あれを捕まえたから。運をすべて使っちまったよ。わかるだろ」
「うらやましい。本当ですよ。じゃ、その投げサイというのをご教授願いましょうか」
「俺のわがままだから、賭ける方はオレンプさんにまかせるよ。あと何部屋欲しい」
「そうですね。十六勝ってるわけか。それじゃ、三階のフロア全部といきましょう」
「聞いた――」
ズンベはしばらく掌でサイを揉《も》んでいたが、はッと放った。三粒が同じように転がって■が三つ出た。
「なるほど――、チンチロリンとも少しちがうし、ドンブリじゃなくて平面ですからね。でも、この方が技術《わざ》がものをいいそうだな」
「そうだね。まァ、こっちは振りなれてるから、もし俺が勝ったら、そちらの得意種目に切り替えてもいいよ」
オレンプが振ると、これも三つ■。
「出た――」
「出たね。じゃ、再勝負」
掌の中で揉むのは、感触でサイの目を揃えているのであろう。
ズンベの掌から形よくサイが流れて、まったく自然に■が並ぶ。
オレンプの番、まん中の一つが一廻転早く止まったが、三つとも、■。
「どうでしょう。もう一つサイを増やしましょうか」
「――オーケイ」
ズンベは大きく一つ息を吐いて、
「やッ――!」
あとの一つが、■。
「弱いな、オール5だ」
「オールなら強いでしょう」
オレンプは、オールを出して、■■■■
「これも面白いな。やっぱりさっきのように五個使ってやってみましょうよ」
ズンベは苦笑した。
「でも、もう幾つも部屋が残ってないよ。あと四つかな。貴賓室《きひんしつ》をいれて」
「後日に持ち越しますか。今日はツイてないみたいだものね」
ズンベは固い顔つきでいった。
「いや、やるよ。四ルームと、宴会室、レストラン、バー、喫茶店、その他|合切《がつさい》だ」
「合切ね。聞きました。あたしが負けたら、二フロアお返ししましょう」
「五個だね」
「五個。面白いな」
■――ズンベ。
■――オレンプ。
「ツキの波に乗りましたね」
ズンベは立ち上って、ランに笑いかけた。
「負けたよ。お疲れさん」
彼女は声も出なかった。
「負けたものは、また勝ち戻せるよ。でも、すまなかった。君へのプレゼントは、ちょっと延期さ」
ズンベは上衣をまさぐり、ペンを出した。隅《すみ》の机の紙片をとって、
一金五億円
×月×日 たしかに借用いたしました。
オレンプ様 ズンベ
と書いた。
「今日は小切手も持ってきてないし、トボケると思うかもしれないが、前にいったとおりばくちの金は、俺は絶対に払います。俺はすぐ勝ち戻す。あんたじゃない人からね」
「結構ですよ」
「それからオレンプさん、ホテルはもちろん五億じゃ足りない。あとは銀行や信金から借りる筈だった。その分の方は勘弁してください。これが俺の持金の全額です」
「ズンベさんは、神川一郎って人、知ってますか」
「神川――? いや。上川という名前は北陸にありますがね。どうして?」
「昔の知合いですよ。北陸っていうから、あなた、神川の息子さんじゃないかと思って」
ズンベは笑った。
「神川はあんたでしょう。神がかりだものねえ」
ズンベとランが出て行くと、フウ公がいった。
「さすがに格ちがいだなァ」
「まったくねえ――」と店長。「五億、あいつ、本当に払うんだろうか」
「鼻ッ紙ですよ。そんなもの――」
オレンプは笑った。
「鼻ッ紙? すると、ホテルってのは」
「ホテルも鼻ッ紙。病院もね。昔、似たような手で女をハメてた遊び人が居たんですよ。当時だから、家一軒とか、店とかいってね」
「それが神川――?」
「そう。でもズンベさんは、神川以上に見事でしたよ。ランちゃんみたいな子を、かっちりものにしちゃったものねえ」
「俺たちに負けた現金は、この前の勝金だろ。すると野郎は、文なしかい」
「あの野郎――」とフウ公もいきまいた。「俺なら片腕一本、ぶった切ってやるがな」
「あたしだって同じですよ。るーとこは、あたしの名義じゃない。こっちの賭け物も、フウちゃんじゃないけど、クーパツさ」
「なんだい。どっちも、何にも賭けてないのかい」
「病院といいだした頃から、そうじゃないかと思って、あたしは気楽だった。だからツイたんだね」
「でも、オレンプ、一晩かかって、只働《ただばたら》きだったね」
「いや、店長のところのオーナーから、ギャラが出ますよ」
「だって、ランは野郎と――」
「いや、出来てたって、ランが働かなくちゃ。彼女は店をやめませんよ。あとで請求書書きますからね。大負けに負けて、五百万というところかな」
オレンプは、そういって低く笑った。
「でも、ズンベさんての、あたしは好きですよ。なかなかの若者です」
その頃、タクシーの中で、ランは心底からこういっていた。
「ホテルなんか、あたし要《い》らなかったわ」
「ごめんよ。でも、ランをオーナーにしたいのは、俺の夢だ。まァもう少しかかるからね。その間、待っててくれないだろうなァ」
「何いってるの。あたし離れないわよ。ズンベさんが好きだもの。ホテルが好きなんじゃないわ」
「今日、君のところで寝かせてくれるかい。泊り賃も、ないんだよ」
「もちろんよ。ずうっとあたしのところに居て。あたし一生懸命、働くから」
「それじゃ、俺、ヒモじゃないか」
「なんでもいいわよ。どうせお婆ちゃんになったら、喰べさせて貰うから」
「ヒモは俺、いやだよ。わがままだから」
「ヒモじゃないってば。あたしの王子さまよ――!」
解 説
色川孝子
初めて書いた本『宿六・色川武夫』(文芸春秋社より出版)について慣れない取材を受けているときに、「リーン、リーン」電話の鳴り響く音。
「はい、色川です」
「阿佐田哲也さんの『ヤバ市ヤバ町雀鬼伝』の文庫のあとがきを孝子さんの自由に書いていただけますか」
「はい、ぜひ書かせて下さい」
一分一秒も考慮せず、ためらいもなく応じさせていただいたのです。講談社の旧知の編集者の方は、「自由に」と強い口調でおっしゃったように感じられ、私が色川との塀の中の懲りない(実は、懲り懲り)二十年間の生活をよく把握していらっしゃるのか、せめても活字の世界で自由奔放にのびのびと行動させてやりたいという同情心もあってか、いずれにせよ暖かい配慮として受けさせていただきました。
文章を書くことに縁遠かった私のようなものが、文庫のあとがきという責任の重いお仕事に軽くお返事してしまうなんて、時間がたつにつれ後ずさりしてしまうほどに何とおこがましいと思いつつも、書かせていただくことになりました。どうぞ、不慣れな手つきではございますが、お許しください。
三つ星のレストランで二百グラムのステーキを口にする心地よさとは訳が異なる、一種独特の快感とでも言ったらよいのでしょうか。なんだか、ウ、フ、フ……お言葉に甘えて、遊ばせていただこうと思います。
我が身に鞭を打ち色川との二十年間も生きた人生から脱皮できることを願いつつ、私なりに精一杯努力しようとしているのでしょう。近頃、色川の夢などは薄らいでいるようです。時に、あの世での生活ぶりを勝手気ままに空想し、思わず笑みを浮かべ、色川の姿が目にと映り彷彿としてくることがしばしばあり、私には余裕すら漂う日々が訪れてきた気配を感じないでもない今日この頃なのです。
天国での色川は、静かに定住しているようです。「天にまします、我らの父よ」などと、天国では神父という不幸な神を演じ、やはりこちらの世界と同じく「色川神父様は良い人、やさしい人」と多くの人々に愛され、慕われているのではないでしょうか。
しかし、歴史上これまでも、またこれからも、完全無欠な聖人のような人間が存在することなど、あの世でもこの世でも皆無に等しいのではないかと思うのです。こちらでは(奇病を持っていたがため)講演など一度すらお受けしたことがないのですが、あの世ではナルコレプシー(突然、睡眠発作や脱力症状に襲われ、幻視、幻聴、幻覚などが現れる奇病。この病気にかかると食欲が無限になり、肥満体になってしまう)という病とは縁が切れたのか、講演料で稼ぎに稼ぎまくっているらしいのです。
地獄においては、ヤバ市ヤバ町で博打打ちというヤバイ男を演じ、講演料を博打で使い果たしお財布の中身がさみしくなったならば、天国へ出稼ぎに大忙し。いずれにせよ、色川武大・阿佐田哲也ではないけれど、あちらの世界でも怪人二面相の顔をもち活躍しているそうです。
生前、「オレは、三百年でも四百年でも生き続けたい」と口癖のように言葉していたことをあらためて思い出します。とみに気にかかるほどこの台詞が印象に濃く残っており、私の中に不吉な予感がみなぎったのです。なぜならば、こちらでバランスがくずれあの世へと、あちらでバランスがくずれこの世へと、行ったり来たりの繰り返しの意味をさし、三百年、四百年という数字を告げていたのではないのでしょうか。
そんなばかな、あるわけがない。しかし、色川ならば、なきにしもあらずかも……ひょっとしてこちらへ再び現れることがあり得るならば、是が非でも私だけは同居人としては拒否させてほしいのです。
またもや、生前、「君は人を疑うことを知らない女だ」と何回となく吐いていたことが、喪明けのコーヒーとともに脳裏にひらめき、すでに遅かりしとは思うのですが、ついにこの台詞が解明される時期がきたのです。どこでどう迷ったのか、この世に紛れ込み、六十年間住み着いてしまい、あの世に戻りたくとも思うにまかせず、もがき苦しんでいたのでしょう。ほっとしたあの遺体の顔を想像するに、そうとしか判断できないのです。
要するに、色川はもともとこの世の人間ではなかったのです。いまだに多くの友人・知人たちの間のお酒の席で色川のことが語られているそうですが、みんなみんな悲しむことなどないのです。「色川さん、あの世に戻れてよかった、よかった」と喜びの涙を流すべきなのです。
だって、色川が望むところのあの世に戻れたのですから。私をも含め、まわりの人々も見事に小説書きである騙しの天才にまんまとはめられていたのですから。色川をおおいにほめたたえるべきでしょう。あっぱれ、あっぱれ。
となると、私は死者とともに二十年間同居していたことになるのでしょうか。そうこう思うと鳥肌がたつほどに不気味さが体内に走るのですが、私とて色川と同類なのではないかと疑わざるを得ない現在なのです。
近々、死者から愛をこめてのメッセージが、色一〇〇〇〇〇〇〇〇〇番(『宿六・色川武大』にも書かれた天国の電話番号)より送られてくるかも知れません。
●本作品は「小説現代」一九八六年三月号〜十月号に連載されました。
●単行本は、一九八六年十月、講談社ノベルスとして刊行されました。
●本電子文庫版は、一九九〇年九月刊の講談社文庫版を底本としました。
*
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。