阿佐田哲也
ばいにんぶるーす
目 次
フリーランサー
荒れ模様
クーパツ
老骨
侵蝕
誰が死ぬか
穴ぼこ
喰うか喰われるか
ゴーサイン
ドリンク会社
泥道
死んでもラッパ
フリーランサー
電話のベルが鳴ったのは午后八時頃だった。
ウェイトレスが受話器をちょっと振って、ロッカの方に合図してくれる。水曜をのぞいて毎晩、この時間にこの喫茶店に来ているから、店主も女の子も彼の通称を知っている。
ロッカは眺めていた前夜版の予想紙をかたわらにおいて、ゆっくり立ちあがった。
「女かい――?」
ウェイトレスは笑いもせずに首を振った。
「立花さんにきまってるでしょ」
「ふうん――」
ロッカは貧相だ。小柄だし、着たきり雀で、靴だってもう相当に痛んでいる。どう見たって女から番がかかってくるガラじゃない。
が、これでも、一年半ほど前には、肩で風切って一ダースほどの女とつきあっていたのだ。
「――はい、ロッカです」と彼は受話器にいった。「どうしたんですか。明日は松戸と川崎。もう前夜版がすりあがって今買ってきたところですよ」
「ああ、それがね、今ちょっと行けないものだから――」
「ああそう。優勝戦なのにね。それじゃここには来ないんですね」
東京は、飯田橋と根岸に、競輪の予想紙を刷るところがあって、マニアは前夜のうちに刷ったばかりの予想紙を買い求めて明日のレースを検討する。
立花も、ロッカも、その連中の一人で、同じ喫茶店に寄ってコーヒーをすすりながら、お互いの買い目などを話し合う仲だった。
立花はもう中年で、元お役人。厚生省関係の仕事をするための事務所を持っているえらい人だし、ロッカは空ッ尻の若者だ。
それでも、ウマが合えば、ギャンブルは仲間を造る。
「僕は松戸に行きますよ。狙い目があるんだ。明日は儲《もう》けるよ」
「うん。それでね、お願いがあるんだが。君、このあと空いてるんでしょ。僕はちょっと手が離せなくてねえ。わるいけど、僕の分の前夜版を買って届けてくれませんか」
「届けるって、どこに?」
「上野。ちょっと面白いところだよ。君にも遊ばせるから」
「まァいいですよ。持っていってあげます」
ロッカは、ビルの名前と電話番号を書き記した。
バーやキャバレーではないらしく、店の名前はいわない。ビルの入口に赤電話があるから、そこから電話をかけてくれれば、迎えの男が行くはずだ、という。
もっともロッカだって、夜の空気は充分吸いなれていて、ものおじはしない。
うすべったい雑居ビルの前に行って、電話をかけた。
蝶ネクタイをした若い男が、やがて近寄ってきた。
「ロッカさんですね――」
うなずくと、どうぞ、といってビルの中のエレベーターにうながした。
エレベーターの天井に黒いお皿のようなものが張りついている。
「テレビですよ――」と男がいった。「誰が上ってくるか上に全部写ってます――」
そのビルの最上階でエレベーターを降り、階段を一ブロックだけあがった。そこは屋上に一部屋だけ突き出た、つまり屋根裏のような部屋だった。
案内してきた男がベルを押し、ややあって、中からカチッと音がしてドアが開かれた。
緋の厚いカーテンが内部をさえぎるようにたれさがっている。
なんとなく緊張して、ロッカはおずおずと入っていったが、入口のドアが閉められ、ロックされてしまうと、それまでの物々しさとは打って変って、軽快な空気が流れはじめた。
大きなルーレット台が二台。
隅の方にブラックジャック用の五人掛けの変則テーブルが一台。
蝶ネクタイの若い男たちが三、四人。
しかし、客は二人しかいない。立花さんと、もうひとりサングラスをかけた三十男がルーレット台に向かって、色変りのチップを張っている。
ディーラーとさかんに軽口をいいあっていて、いうならばビリヤードに似たムードだ。
「はいそこまで、手をとめてください」
「よし、いいコースだ、四六八に落ちろ」
「へへへ、いいとこ狙われちゃったな、やられるかな」
「あ、あ、あ、行きすぎやがった――!」
「トニーシックス、黒26番です」
「35番で停まりゃいいじゃないかなァ。弾んで流れたんだぜ。ツイてない」
運ばれてきたウイスキーの水割りを呑みながらロッカが眺めていると、やがて立花氏は手元のチップをなくし、ぽんぽんと両掌をはたきながら、ソファーの方に来てロッカのそばに坐った。
「ご苦労さん。明日は松戸へ行くって――?」
「ええ、僕はね」
「狙い目ってどれだい」
ロッカは七レースを指さした。
「ふうん――」
サングラスは一人ルーレット台に残って、両手にチップを持ち、球が盤面を廻っている間にすばやく方々に張り散らしている。七五三《しちごさん》だとか、四六八《ようろつぱ》だとか、専門語らしき言葉を口にしている。
「七レース、自信あるかね」
「ええ、まァね。とにかく僕は勝負だと思ってます」
「君はめったにそういうセリフをいわない男だからな。信用するとするか」
立花氏はふところから財布をとりだした。
「俺も乗るよ」
「乗るって――、ギャンブルだから絶対はないですよ」
「わかってる。俺は明日行けないから、同じ物を買ってくれ給え」
立花氏は何枚かの一万円札を渡した。
「責任が重いなァ。はずれたら勘弁してください」
「かまわないよ。どうせルーレットだって、そのくらいアッというまになくなってしまう」
それじゃ、といってロッカは立ちあがった。
「なんだい、遊んで行きなさいよ。君、ルーレットやるんだろう」
「僕は競輪以外のばくちは知りませんよ」
「そうか。でもせっかくここまで来て貰ってさ。それじゃ小さいチップで少し遊んでいきなさい」
立花氏は店の男に一万円札を渡して、小チップ百枚をロッカにくれた。
これが一万円分なら、一枚百円ということだ。
立花氏は自分の分として、少し大きいチップを百枚買う。これは一枚千円の由。
立花氏も、もう一人の客サングラスも、ディーラーが盤面に球を投げ込むまで、チップを張らずに身構えている。
「球を投げる前に張っちゃいけないんですか」
「そんなことはない。向こうはその方が喜ぶよ。だが、それじゃ張り場所がひと眼でディーラーに見えちゃう。オープンリーチみたいなものだな」
「ああ、なるほど」
「ディーラーは此方の張りそうもないところに球を投げこむ。此方はそのディーラーの考えを読んで張る。そういう遊びだよ」
立花氏も、サングラスも、二分の一の確率の赤や黒、奇数、偶数などというところは見向きもしない。数字一つ、つまり三十六分の一の確率のところばかりに張っている。
大穴狙いなんだな、とロッカは思う。
彼も真似して、一番手近の34、35、36、というあたりに何度か、チップをおいてみた。
ゼロ――、ゼロ――、とロッカとしては意外な数字に、二度続けて球が飛びこむ。
ロッカはもちろんだが、立花氏もとれない。
「あ、畜生、真裏だ――」
とか、
「また流れやがった――」
とかいって舌打ちする。
立花氏はまたたくうちに百枚を消費し、次の百枚を店側に請求した。
「ツケだよ、いいね、明日の晩来るときに払う」
「結構ですよ、どうぞ――」
立花氏の身なり、恰幅、年齢からいって、誰が見たって上客ということはわかる。
ロッカは自分の手を停めて、しばらく眺めていた。
立花氏は一段と荒い張りになって、両手で鷲《わし》づかみするようにチップを張り散らす。そうしてすぐにその百枚も失った。
「おい、オール(百枚)もう一丁――!」
二十枚ずつのチップの山が五本、すぐに立花氏の前に来た。
俺が見ているから――とロッカは思った。立花さん、いいとこ見せようと思って、荒張りになっているな。そういうときってのは駄目なもんだ。いいかげんにやめりゃいいのに。
ロッカも、女友達を競輪場に連れていって、見栄を張ってさんざんな眼に合ったことがある。
立花氏が、ついに荒い鼻息を吐きだしていった。
「どうも、ツカんなァ」
「でも社長は――」とディーラーが甘い声を出す。「ツクと怖いからねえ。油断はできませんよ。ひとつ当りゃァトントンとくるんだから――」
ロッカは手元の残りチップを立花氏の方に返して、いった。
「僕も帰ります。当りそうもないから――」
「そうかい、じゃ俺もひと息入れるか。ちょっとそこらに一杯呑みに行こう」
立花氏は隅にかけてあった上着を着て、ロッカと一緒にエレベーターで一階までおりた。
そうして二三軒先のビルの地下のバーに行った。
そこでも立花氏は顔だ。
とにかく厚生省の元お役人で、現在は外部の仕事をやっている社長さんだ。
大柄で、二枚目とはいえないが充分人眼をひくような、貫禄のある風貌をしている。
ロッカはチビで着たきり雀の風来坊。
妙な取り合わせだった。はた眼には、ポン引きとスケベエなお客のように見えたかもしれない。
が、ロッカはその種のインチキ男ではなかった。こう見えても少し前までは、ロックバンドでギターをひいていたのだ。
地方巡業のときに、ふっと競輪場に顔を出した。何もわからずに買った車券が、二万六千円という大穴を当てた。
よくある奴である。百円券たった一枚、大穴といっても、バンドで貰う一日のギャラとどっこいぐらいのわずかな儲けであったのに、その感激が、彼のその後を狂わした。
競輪にほれこみ、競輪場に居るときだけが生甲斐に思えるようになるまで、半年とかからなかった。
バンドはとうに離れている。親もとを離れ、妻子も居ない身で、気軽ではあったが、彼はろくすっぽ喰う物も喰わずに、ただ一心不乱に競輪のことだけを考えて暮す毎日だった。
元ロッカビリー――、だが、ビリはいやだぜ、ロッカだけにしてくれ。
そういうセリフが受けて、ロッカという愛称になった。
不思議な取り合わせだが、この二人は存外に仲がよくて、競輪場で会うといつも一緒に立花氏の車で帰ってくる。
立花氏は貧相なロッカの服装などまるで気にせず、よく夜の街を連れ歩いた。
「なかなか当らないでしょ、ルーレットって」
「いや、そうでもないよ。競輪と同じさ。よかったりわるかったりだ」
「そうかな。三十六分の一の確率だなんて、分が悪いな」
「そのかわり三十五倍だ。当ればね。ギャンブルはなんだって同じさ。うまくできてる」
ところでね、と立花氏はいった。
「そりゃそうと、信用で口張りできるノミ屋を知らんかね。精算は一週間とか十日とか、あとで一括することにして――」
「口張りといっても、たいがいのノミ屋はそうでしょう。電話で申しこむだけだから」
「そうだがね、競馬だと土曜と日曜の二回だけで、月曜はもう精算しなくちゃならない。それじゃ早すぎる。挽回するヒマがない」
「長くなれば、挽回できるんですか」
「そりゃもちろんわからないさ。しかし、スプリントじゃあ、勝つか負けるか、どっちにしろすぐに答えが出ちまう」
と立花氏はいう。
ロッカはちょっと黙っていた。
答えが出て、どうしていけないんだろう、と思う。ギャンブルというやつは、プロセスが微妙で、答えだけが明快なところが特徴なのだ。そこが面白い。
「――だからさ」と立花氏は弁解するように続けた。「やったり取ったり、いちいち面倒くさいじゃないか。どこかに、ひと月ぐらい放っといて気長に張らしてくれるところはないかなァ」
「そんな太ッ腹なノミ屋は居るかなァ」
立花氏は社会的信用があるからまさか支払いをトボける気だとは思えない。
「まァ、知合いに当ってみましょう」
とロッカはいった。それから、さっき預かったお金をポケットから出して、
「これ、お返ししましょうか」
「どうして――?」
「ルーレットがつかなかったみたいだから」
「いいんだよ。それで当てて、明日はきっと配当をおくれよ」
立花氏は、それじゃ、といって立ちあがった。
「俺、もう一度、ルーレットで勝負してくる」
「今日はツカないみたいですよ。こんな日は深入りしないでお帰んなさいよ」
「いや、このままじゃ口惜しいからね。どうせあとは口張りなんだから――」
「現金じゃないと、無責任に張るようになって、かえって怪我が大きくなると思うけどな」
「心配するなよ。俺だって子供じゃない」
アングラカジノに引返す立花氏の後姿を、ロッカはしばらく見送っていた。
がっしりした体躯で、堂々たる歩き振りだが、なんとなく面やつれしているようにも思える。
そういえば、近頃とみに、立花氏の遊び振りに拍車がかかりだしたようだ。
競輪場でロッカが知り合った頃は、品よく遊んで居た人だった。好調な日は大きな皮の財布から分厚い札を出して度胸のいい買い方をするが、普通は小張りで、それも何レースもじっと買わずに機会を待っている。
その点をロッカは尊敬し、見習いもしてきたのだった。父親が外国の大使として有名だった人で、立花氏自身も外国の大学を出ており、若いうちからよく遊んだらしく、ギャンブルも骨っぽい。
まちがっても口張りなどする人ではなかった。
(――家庭か、仕事かに面白くないことでもあって、気持が荒れているんだろうか)
そういえば、立花氏は、役人をやめて現在の事務所を開いたあたりから、平日も競輪場にいりびたるようになっている。
翌日、松戸競輪場に行ってからも、ロッカはチラチラと立花氏の昨夜の姿を思い描いていた。
ロッカは狙ったレース以外は車券を買わない主義だったから、早くから出かけても、お目当てのレースが来るまで、ただじっとスタンドに坐ってレースを観戦しているだけだ。
自分の眼にうつった選手の調子などをメモしたりしている。そういうことをして、それで百発百中になるわけではないが、しないよりはましである。
なにしろこの道は、自分の努力より他に頼るものはない。これは立花氏に教わったことだ。
第四レース、はじめて車券を買ってみたが、惜しいところで一着三着、パーになった。
千円券三枚を一点に賭けたのだった。当れば、四倍近い配当がついて、ロッカにとっては一週間分の食事代が出るところだったが、もちろんはずれれば元金も消えてなくなる。
彼は肩を落して歩いて行き、売店でホットドッグを一本買って、むしゃぶりついた。
欠損の日は、一日二回、ホットドッグのみ、食事のための出費はそれで押さえている。自分で定めたことだから、それはそれでよろしい。
だが、欠損が続けば、ホットドッグすら喰えない日が遠からずやってくる。それがこわい。
競輪場のホットドッグは安いけれども、細くて小さい。まるでロッカ自身の生き方のように、子供だましだ。
お目当ての七レースが近づいてくる。この三日間のシリーズのうち、最高の狙い目に見える。
ロッカは△印の遠征マーク屋に眼をつけている。彼は前二日間、あまり好気配を見せていないが、もともとスタンディングのよい選手で、着を狙う気ならば、ここらで一発あってしかるべきだ。
しかも、遠征の逃げ屋が一人居る。人気はその逃げ屋と、関東のマーク屋と、二人に割れているようで、遠征筋といっても、八百円からつくように思う。
来るか、来ないか、それは賭けだが、だまって見送る手はない。
が、ロッカは、第四レースをはずしたせいで、ちょっと気持が消極に傾いていた。
ひとつ、気にかかることがあるのである。
昨夜の立花氏、なんだかツイていない人物が、これに乗ってきたということだ。
このところの立花氏とは、運命をともにしたくない。
あの人とは親しいし、充分尊敬もしているけれど、それとこれとはべつだ。
ギャンブルは、強い者、ツイている者に沿っていき、弱い者とはなるべく軌を一にしない、それが常道なのである。
六レースの車券を買い終った人たちが、ぞろぞろとスタンドに戻ってくる。
このレースも見《けん》をしているロッカには、群衆がすべてあぶない橋を渡っている人間に見えてくる。自分だって次の七レースにはそうするつもりできたのだけれど。
六レースは本命がスッ飛んで大穴になってしまった。場内騒然。あぶない橋を渡った過半数が、橋と一緒に落下したことになる。
そこで七レースだが――。ロッカは煙草に火をつけて、あらためて考えこんだ。
(――買って、はずれれば、買った分だけ損をする)
(――買わずにはずれれば、買わなかった分だけ、プラスというふうにも思える)
(――買わなくて、狙い目が来てしまった場合、とりそこなった配当の分を損したことになるが、しかし懐中は減っていない)
当り前のことであるが、ロッカはいつもこう考える。買わなかったら狙い目が来てしまった、という場合でも、買ってはずれるよりはいいのではないか。
ギャンブルにのめりこんでいく人間にも、さまざまなタイプがあって、ロッカはまことに消極派だった。
けっして一攫《いつかく》千金を夢見ない。大きな利益、大きな傷、ともに負わないようにする。そうやって苦心してバランスをとりながら、小さくとも着実な利益をギャンブルから得て、それで生きていければ最高に嬉《うれ》しい。
大きな利益を夢見ないからといって、執着が小さいわけではないのである。むしろ、スケールが小さいだけに、一個のエラーもできないという緊張にささえられており、ロッカのような男には、それが何物にも代えがたい執着になってくるのである。
(――買わなければ、損をすることはない。しかしまた、買わなければ勝利の機会もない)
それも当り前のことで、しかしこの二律背反《にりつはいはん》にいつもなやむ。
七レース、自分は勝負だと思ったが、諸事、落ち目の立花さんが同じ車券に乗ってくるようでは、当る気がしない。
落ち目の人の逆を行け、これはギャンブルの鉄則だ。
自分は今日は勝負を控えよう。
立花さんの金を預かってきたが、その分はどうするか。
昨夜のルーレットを見たって、なんだかあせって張り急いでいるようだし、あれでは札びらをばらまくのと同じだ。
立花さんの分も、買わないで見て居よう。
他人から頼まれた車券を買わずに居て、はずれた結果が出たときに、預かった金を懐中に入れてしまえば、それが呑む≠ニいう行為である。
しかしこのときロッカは呑む°Cではなかった。はずれた場合は、手違いで買えなかったといって、元金を立花氏に返してやろう、負けがこんでいる立花氏は、たとえ数万円でも戻ってくれば、喜ぶだろう、そう思ったのである。
スタンディングは、ロッカが狙っていた赤帽子の遠征マーク屋がとった。
ところが関東方の本命マーク屋である白帽子がすかさず二番手を取りに行き、赤帽をインに押えこむと、やや揉んだのち、赤帽がすっと退る。
が、四番手あたりで脱けだし、また上昇して白帽にせりかける。
白帽はいったん相手を前に入れ、すぐまた内に押えこむ。そこで赤帽が退る。
白帽マークの三番手がインに突っ張っていたせいもあるが、赤帽はそんな動きを二、三度くり返したのち、ずるずる最後尾まで退ってしまった。
最後尾には遠征の逃げ屋が、じっと控えている。
隊列にスピードが加わり、ジャン前のあたりで逃げ屋が一気に上昇していった。赤帽は一瞬ダッシュがおくれ、逃げ屋との間に中団から乗りかえた青帽がわりこむ。
ジャンで、トップ引きのうしろに遠征逃げ屋、そのうしろが内に白帽、外に青帽で烈しくセリ、赤帽はいつのまにかこみやられ、中団に落ちている。
(――やっぱり、見《けん》が正解だった)
圏外に居た九番車の赤青がまくりあげていって、逃げ屋に追いすがった。内の白帽、外の赤青帽にはさまれた青帽が、頑強に退かない。
三列になったまま三コーナーまで行き、そこで大きく揺れ、あっというまにばたばたとひっくりかえった。
逃げ屋がたった一人で四コーナーを曲がる。
十車身ぐらい差があいて、辛うじて落車を避け、踏みなおした数人が続く。
その中に赤帽が居た。
赤帽の前に、黒帽がよろよろと走っている。
しかし四コーナーから直線で、赤帽がぐんぐん追いこんできた。
(――あ、来るな、来るな、そのまま、そのまま!)
ロッカが声にならない叫びをあげたが、黒帽と赤帽の身体が横一線に重なるようにゴールした。
一着は遠征の逃げ屋。これははっきりしている。
二着は――?
赤帽は三着になっていてほしい。
けれども、ゴール前、車輪ほど、赤帽が出ていたように見える。
一瞬のことだが、毎日のようにレースを見ているので、自分の眼に狂いがあるとも思えない。
ロッカの胸が早鐘のように鳴りだした。
赤帽二着なら、自分の狙った本線なのだ。
自分が取り損なったことはしようがないとして、立花さんの分の配当を渡さねばならない。
落車に関する失格審議の赤旗もあがっていないようだ。
待つほどもなく、確定のアナウンスが耳にひびいた。
一着、七番、二着、三番――。
万事休す。
配当は七百三十円だった。
立花氏の分は五→三を二万円だったから、十四万六千円ほどつけなければならない。
次のレースのために穴場に向かう人波が、眼の前をぞろぞろ歩いていく。
もともと、今日は七レースだけを勝負して帰ろうと思っていたのだけれど、なんとなくじっとしていられなくて、ロッカも特券売場の方まで歩いていった。
――こんなときに限って、当るんだからなァ。
買って、はずれたのならまだあきらめもつく。とにかく勝つチャンスに挑んで、負けたのだ。
この場合はひたすら守り腰になって、しかも負けた。買いもしなかった他人の配当を弁償しなくてはならない。
――自分にはギャンブルの才能が無いんじゃなかろうか。
ロッカはときどき、みずからそう思う。そうして、今のロッカにとって、ギャンブルの才能がないということは、生きる才能がないということにひとしい。
「――どうしたの」
特券売場のそばで、不意に陽気な声がかかり、ロッカの眼の前が急に派手やかになった。
紫色のキュロットスーツに網タイツをはいた美女が、しなやかに笑っている。
「あいかわらず不景気な顔してるわね。またはずれたんでしょう」
ロッカは唇をかんだ。
「――本当は、狙いどおりにきたんだ」
「そんな顔じゃないわよ。やめなさい、やめなさい。こんなところに来ないで、またギターでもおひき」
「第一本命だったんだよ。昨夜から、ここが勝負だっていってたんだ」
「でも、とらなかったのね。予想なんか誰だってできる。キャッシュを、ばさっと、穴場に突っこめるかどうかよ。それが博打《ばくち》よ」
「そうだ。俺はたしかに臆病風に吹かれたよ」
美女はまんざら嘲笑という感じでもなくにっこりした。
「昔からだものね、あんたの臆病は。でも、どうして博打なんかに惚れちゃったんだろう」
「それだけじゃないんだよ。実際ツイてないんだ」
「だから、やめなさいよ。博打なんか、あぶく銭でなくちゃやれないわよ。明日の飯代のことなんか思ってたら怖くて張れるもんか。でも、あぶく銭が入るようになったら、あんたは博打なんかやらなくなるだろうね」
「落ち目の男が居てさ、そいつが俺の目に乗ってきたんだ。落ち目の奴と一緒に勝負する手はないだろう。それで、見《けん》してたんだ」
「そうしたら、狙いが来ちゃったのね」
「ああ――」
「皆そうなのよ。他人の好不調は注意して見てるけど、自分の好不調は見ることを忘れるんだから。その落ち目の人より、あんたの方がずっと落ち目だったのに、それを意識しないんだもの。まァ、ひとつひとつ勉強だわよね」
〆切五分前のベルが鳴る。美女はいい捨てて歩きだしたが、ロッカは思わずそのあとを追った。
「ねえ、おい、山口――」
美女は立ち止まって、ちょっと顔をしかめた。
「色気がないなァ。その、山口ってのはやめてくれない」
彼女は六本木で名門≠ニいうゲイバーのママにおさまっているが、田舎の小学校で、ロッカと同級生だった。山口昌広というのが本名で、小さい頃はガキ大将で喧嘩が強かった。
それをいうと彼女はいやな顔をする。けれどもその小学校から東京に出ているのはたった二人。だから二人の間柄にはどことなく情緒のかけらみたいなものがつきまとう。
「山口はいやよ。ベベ、って呼んでよ」
「ベベ、このレースは何を買ったね」
「教えない」
「1→6か、それとも1→4か、どっちにしろ、1の頭だろ」
「今自分でいったでしょ。落ち目に乗られたらいやだからね」
「どうせ俺は買わないよ。こんな日はろくなことはない」
「日当が出ないんでしょ。まだチャンスがあるわよ、十レースまで」
「日当どころか、十四万六千円のマイナスさ」
「どうして」
「落ち目の人が乗ってるっていったろ。金を預かってるんだ。配当をつけなくちゃ」
「つまり、呑んだわけね」
「いや、落ち目だからどうせ来ないと思ったんだ。それで金を返してやる気だった」
「嘘、自分が買うより呑んだ方が確実に儲かると思ったんでしょ。ざまァカンカンよ」
「十四万六千円、俺にとっちゃ、大金だぜ」
「どうするの」
「うん――」
「トボけちゃうんでしょ」
「しかし、またどうせどこかで会う。トボけるわけにはいかないしトボけたくもない」
「相手は誰、バンドの仲間?」
「いや、元お役人だ。もうかなり年齢《とし》の人さ」
「ははァ、カモね」
「友達だ」
「つまり、カモにしてるんでしょ。そりゃ払っときなさいよ。こんなことで切れちゃつまらないわよ」
「俺を信用して金を預けてくれたんだよ。裏切るわけにはいかないんだ」
「ご立派。好きなようにすればいいわ」
「ねえ、ベベ、金を貸してくれないか」
とロッカは自分でも思いがけずすらっといった。競輪場のような雑然たる雰囲気のところだったればこそで、別の場所だったらこう簡単にはいえなかったろう。
「金を貸せ、ですって」
「無担保だけど、利子は高くていい。もしなんなら、君のお店でギターでもひいて、身体で返すよ」
「要らないわよ、ギター弾きなんか。でも、その客に配当をツけるために借金するの」
「そうさ」
「いい恰好しいねえ、あんたって。そんなことしたって誰も賞めないわよ」
「きっと返すからさ。俺トボけるのって嫌いなんだから」
「まァちょっと待ってよ、今、勝負中なんだから」
「わかった。十レースが終ったらもう一度来るよ」
ロッカはスタンドの最上段まであがって、鉄柵によりかかりながら群衆を眺めた。そうして額にこってりにじみでた汗を拭った。
とにかく、借金のあてがついてよかった――。
だが、どうやって返そうか。
二度とやるまいと思ったバンド稼業だが、これをきっかけに、しばらく古巣に戻るか。
ベベ山口のいうとおりで、ギャンブルなんて、銭なしでやっていたって、怖い思いをしてじり貧になるばかりだ。少し他職で金を貯めて、いい条件を作ってやり直そうか。
元手さえ豊かならば、俺だってもう少し大きな博打ができるかもしれない――。
紫のキュロットスーツは群衆の中でひときわ目立つ。豪華だけれども、どこか、普通の女性の服装とちがうのである。
ゲイの奴等ってのは、自分の好みで生きてるからな。その好みでなんでも統一しすぎるんだ。それでエキセントリックになってしまうんだ――。
ロッカはついでに思った。
――俺の生き方も、そんなところがあるかな。
最終レースが終ったとき、ロッカはもう一度、小学校の同級生のそばに寄っていった。
「どうだった。とれたかい」
「駄目――」といって彼女は笑った。「二百六十万の損――」
「二百六十万――」
といってロッカは絶句した。
「じゃァ、俺の十四万六千円くらい、貸してくれたってなんてことないな」
「冗談でしょう。それとこれとは別よ。あんたに貸したって投資にはならないからね」
「だって二百六十万――」
「取り戻すときもあるわ。それにあたしが競馬や競輪に来るのは遊びだけじゃないからね。新らしいカモを探しにくるのよ」
「お店の客をかい」
「まァいろんな意味のカモをね。あたしが大口の勝負をするでしょう。するとね、大金を張る男ってのは、そういう者同士で親近感を持つのよ。それで親しくなるの。今日び、ただ誘ったって、誰も信用なんかしないからね」
「でも、そのために何百万も負けて、元がとれるかい」
「あたしのは狙ったレースだけ、一日に一鞍か二鞍だから。ただ目立つように張っているだけよ。そうしてれば通算してそれほど損はしないわ」
ベベは預けてあった紫色のベンツのそばに行って扉をあけた。
「なにしてんの。さっさと乗りなさいよ」
垢まみれのロッカはおずおずと助手台に乗る。
山奥の小学校の同級生が、十年するとこれだけ変るのだ。といわんばかりに、ベベはしばらく発車させずに、ロッカの身装《みな》りをじろじろ眺めている。
「――じゃあ、貸してくれないのかい」
ロッカは、ベベの視線を見返した。貸してくれないなら、こんなベンツなんか飛びおりて、一人で電車で帰る。
「貸さない、とはいわないわよ」
彼女はしばらくロッカを値ぶみするように眺めてから、アクセルを踏んだ。
「条件があるわ」
「いいとも、多少の利子は覚悟してるよ」
「利子なんかいらない。それに、お金はひとりでに帰ってくるようになってる」
「――?」
「あんたから利子をとったり、月賦で返してもらったり、そんなことを当てにして貸すんじゃないのよ。あんた、フリーランサーでしょ。あたしだってそうだけどさ。フリーランサーは誰も保証してくれないから、本当は借金なんかできる身分じゃないのよ」
「まあ、ね」
「あんた、甘いわよ」
「だから俺だって、借金を口にしたのは君がはじめてだよ。君とは幼なじみだし、僕がトボけたりしない男だってこと、知ってるだろう」
「皆、トボけたくてトボけてるわけじゃないわよ。やむをえず、そうなるんだわ」
「俺がそうなるかどうか、見てくれ、どんなことをしてもきっと返すよ」
「いやよ。そんな無駄な賭けはしないの。フリーランサーは、無駄なことなんかいっさいできないのよ」
そういいながら、ベベは、信号待ちを利用してバッグを押しひろげ、銀行の袋から手の切れそうな新らしい一万円札を並べた。
「持ってらっしゃい」
「いいのか。本当に貸してくれるのか」
「幼なじみのよしみで、いい方法を教えてあげる。無尽《むじん》をおやり」
「無尽――?」
「ええ、元のバンドの連中を仲間にひきいれてもいいし、あんたのアパートの人たちを勧誘してもいい。とにかくあんたが親(プロデューサーの如きもの)になって、十人から十五人くらいの一座を組むの。あんた、無尽は今までやったことあるの」
「ない――」
「じゃあ教えてあげる。十人、会員を集めて、わかりやすく十万円の無尽をはじめるとするわね。毎月一人一万円ずつ持ち寄って、集まった十万円を、会員の中の一人に渡してしまうの。誰だって早く貰った方がいいから、いきおいセリになるわね。Aは自分なら九万五千円でいいと書く。Bは九万四千円と書くと、すくない額を書いた人に落ちるの」
「わかった。頼母子講《たのもしこう》だな。田舎で親父さんたちがやってた」
「無尽の親になりなさい。ね、親ってのは肝入《きもい》りのことよ。肝入りになると、第一回は無条件に肝入りが落すことができるの。だから十人ぐらいの知合いを集めて、満期二十万円くらいの少額な無尽をはじめるのよ。で、まず満額のキャッシュを手にして、それで私に返せばいいわ」
「そうすると、親(肝入り)だからということで、初回に満期分の金を貰っといて、それで君に返すんだな。そうして俺は、毎月、なしくずしに無尽の方に払いこんでいくわけだ」
「そうよ。それを約束すれば貸してあげる」
「無尽というのは、何人ぐらい集めればいい」
「まあ、十人は要るでしょうね」
「十人か。集められるかな」
「遊び人なら皆やってるわよ。特に博打《ばくち》をやる人たちはね。今どき二十万の無尽なんて小さすぎて、奥さん連中だってへそくりでやってるわ。遊び人たちのやるのは、普通は百万ね。五百万のもあるし一千万円のだってある」
「百万として、十人で毎月十万ずつか」
「親は最初、無条件で、まるまる貰えるけれど、あとは入札制になるから、早く貰おうとすればどうしても六割五分か七割ぐらいの額で我慢しなければならないでしょ。その差額が、残りの人たちに利子として配分されるのよ。十万払いこむところを利子天引きで、七万かそこいらでいいわけね。貯金する気で放っておけば、七、八十万円の払いこみで、最後には百万貰えるということになるわ」
「うまくできてるんだね」
「ええ、先に金を受けとった人はもちろん利子の配分にはあずかれないけれど、親は世話焼き料として、終始、利子の配分がくるの」
「なるほど」
「そのかわり、毎月、入札のために集会を造ったり、集金したり、途中で集金がコゲついたら、責任上立て替えたりしなければならないわ」
「危なっかしい人間は誘えないねえ」
「関西ではね、利子配分はないかわり、初回の百万は、まるまる貰えて、あと入札にも参加できるスタイルが多いわ。あんたの話の持ちかけ方次第で、関西方式でもやれる」
「すると、初回と、あともう一回お金が貰えるわけか」
「そう。一人分の掛け金でね」
ロッカはかなり心を動かしていた。今まで、まったく考えがおよばなかったが、無尽の親になればまとまった金がすぐ手に入る。あとから月賦みたいに返していくとしても、それで競輪の資金ができるのだ。
とにかく、博打だって、やっぱり資本主義みたいなもので、資金がまとまっていれば、非常に条件がちがう。今までとちがって、百万近い金を大切に運転していけば楽に車券で喰べられそうな気がした。
「でも、途中で掛け金を払えなくなったら、どうしよう」
「そのときはまた、別の一組で無尽を造って、親になればいいじゃないの、そうやってどんどん何組でも増やしていくのよ」
「そんなことができるかな」
「あんた次第よ。大きな団地でもひとつ捕まえれば、奥さん連中を主にしていくらでもできる。無尽で喰えるわよ。競輪なんかで喰おうとするより、ずっと安全よ」
その翌日、つまり水曜日は競輪ホリデイで、東京周辺の競輪場は全部お休みである。
そのせいで、立花氏は前夜版を買いにこない。
ロッカは水曜日の昼間、電話をかけて、立花氏の事務所にはじめて行った。
虎の門の大通りから裏道にひとつ入ったところの瀟洒《しようしや》なマンションの一室で、立花氏のデスク、応接セット、秘書の小机、大きな本棚とがあり、なかなか重厚な構えだった。
立花氏は、若い秘書に肩をもませているところだった。
「頼まれたレースの配当を持ってきました」
「ありがとう。今日でなくたってまた今度会ったときでいいのに」
「でも、他人のお金を持っていると、使っちまいそうで気が気じゃないから――」
落ち目の立花氏のために、はずれたら、買えなかったといって元金だけでも返してやろうと思った好意が陽の目を見ない。はずれればその好意も通じたし、すべてよかったのにと、ロッカはあらためて思う。
十四万六千円、立花氏はいったん受けとり、それから十万だけ財布に入れて、残りをロッカの手に握らせた。
「いいですよ、僕だって儲かってます」
「でも君の判断に乗ったんだからね、俺はこれだけで充分だ。ありがとう」
「そうですか。それじゃごちそうさま」
ロッカは競輪場で商売人がよく口にするセリフを真似ていった。
「立花さん、それでひとつお願いがあるんですが」
「なんだね」
「無尽に入ってくれませんか。つきあいだと思って、ひと口乗ってください」
ロッカは無尽の仕組をくわしく説明した。ついでに自分が親になれば、まとまった競輪資金ができて自分も助かるのだ、といった。
「ふうん、しかし無尽は一応、法律違反だがね」
「へええ、無尽は法律違反なんですか」
「なんだ、そんなことも知らなかったのかね」
「でも、銀行や信用組合は似たようなことやってるみたいだけど」
「競輪だって個人でやるのは許されてない」
「でも――、先夜の地下ルーレット、あれだって、警察に知れたらまずいんでしょう」
「まあ、そうだな」
「客はどうなります」
「捕まれば、始末書ぐらい書かされるかな」
「じゃあ立花さんだって法律違反ぐらいしてるじゃないですか」
「はっはっは」
と立花氏は笑った。
「まあいいさ。つきあいだ。入るよ。しかしあくまでも法律違反なんだから、ドジってくれちゃ困るよ」
「ひと口百万で、毎月十万の掛け金です。初回の集りのときはお知らせします」
とロッカは張り切っていった。
荒れ模様
ロッカが事務所から出ていくと、立花氏は秘書のくるみ嬢に優しく声をかけた。
「三時すぎだろう。少し早いけどお帰りなさい。もう客は誰も来ないから」
「はい。――それじゃァ、お茶をいれて行きましょうか」
「ああ――」
立花氏は近頃新調した平べったい老眼鏡をかけて、競馬新聞を眺めている。
「くるみちゃん、君、土曜日の大阪は、つきあってくれるんだね」
くるみ嬢はなんとなくあいまいな微笑を浮かべた。
「また、この前の山陰のときみたいにですか」
「山陰のときって、あのときは君の方が行きたいっていったんじゃないか」
「――だって、ボーナス前だったんですもの」
「おや、おっしゃいましたね。するとあのときは、私とじゃなくてボーナスとアベックしていたのかね」
「ごめんなさい。でも、ボーナスも社長さんも、両方すてきだったわ」
「当り前だ。ダイヤモンドの指輪なんてボーナスは、そうざらにはないよ」
「やっぱり、あたし、行くべきですね」
「強制はしないがね。ただ君がその気になってくれることを祈るばかりだよ」
立花氏は両手を背広の襟に当てて、芝居気たっぷりに部屋の中を二三歩移動した。彼はいつでもこういう仕草が大好きで、自分を芝居の主人公のようにあつかう。
「わかりました。お供しますわ。今度のボーナスを楽しみにしてますから」
「君さえよかったら、帰りに南紀の方にでも廻ってみよう」
「それじゃ、お先に失礼します」
「はい。涼しくなってきたから風邪をひかないようにね」
くるみ嬢が窓のブラインドをひいていったので、部屋の中に夕景の感じが濃くなっている。
立花氏はおちつかない手つきで小さな手鏡に向かい、髭《ひげ》を剃りだした。
が、髭が生えているわけではない。
小鋏で、鼻毛を整える。
机のひきだしをあけて、栄養剤を呑む。
が、すぐにそれらの動作をすべてやめてしまい、怒ったような顔つきで、誰も居ない部屋の中を眺めだした。
事務所――。たしかにここは事務所であり、彼は代表者だったが、その内容はほとんど無に近いのである。
彼が厚生省を勇退し、野で自立しようと思い定めたとき、なかば儀礼的に元の上役や同僚たちが、花むけの仕事を手配してくれた。
何人かの学者や医事評論家を引き連れてアメリカへの視察の旅をプロモートする。それは仕事ではあったが、ほとんど官費であり、実際にはただ随行していればよかった。
アメリカには留学時代の人的つながりが、まだ方々にある。立花氏にとって、まことに打ってつけの楽な仕事に思えた。
それがいけなかった。シアトルの地下賭場で、ポーカーに手を出して、誘われてついていった同行の評論家ともども、痛い出費になった。
せっかくの仕事が、そのため大きな赤字になったのはまだいいとして、帰国したのち、同行者たちの噂でそのことがひろまり、諸方に、なんとなく好ましからざる人物のような印象になった。
多分、それは決定的なものでなく、立花氏がさまざまな操作をしてこれまでの関係に傷をつけないようにすることは、それほどむずかしくなかったろう。
彼は外交折衝は上手だったが、自分自身のために卑屈に頭をさげることができない男だった。
最初の仕事につまずいたことを意識すると、これまでのように役所の元同僚たちの前に顔を出しづらくなった。
こういう場合、疎遠ということがもっともいけない。
一日、日がたつごとに、彼と役所との間柄が遠のいて行く。
もちろん、一気に態勢を挽回するつもりで、大きな仕事を計画し、関係者の間を説得してまわったこともあった。
それが空疎な大言壮語のように受けとられてしまって、誰も本気でからんでこない。
立花氏のそのような存在は、厚生省から生えた茸のようなものであって、根元がしっかり密着していなければ、誰の眼にも心もとなく映ってしまうのである。
肝心のその根元に水をやろうとしない。むしろそういう根元にすがりつく生き方を変えようと思って自立したところがある。
知能も才腕も、他人にさほど劣っているとは思えない。五十年生きてきて、自分の風格のようなものもできている。飯を喰うぐらいのことがやれないわけはない。
芝居気たっぷりにいえば、彼は自由を欲していた。それからまた人と生まれてきた以上、なんとか自分のペースで生きていきたいとも思っていた。
そう思っていたのは役所に居た頃のことで、今は、そのことに極力触れまいとしている。だが、心の底に暗いものが溜っていた。
立花氏は一人になることを恐れるようになった。とにかく、誰や彼やとしゃべりあっていたい。街でなにかをやっていたい。一人きりで思いに沈むということが、怖い。
事務所は毎月、そっくり赤字になっている。家族の生活費もそっくり持ち出しである。そのうえ、一人になりたくなければ、それ相応の出費がかさむ。
立花氏は恒産の持主ではない。
では――。どうやって暮しているのか。
その答をねじふせるようにして、彼は外出するべく立ちあがった。
電話のベルが鳴った。
「モシモシ、お父様――?」
今年大学に入った長女の、せきこんだような声がきこえてきた。
しばらく間をおいたのち、立花氏は受話器の中に、やっと父親らしい声を送りこんだ。
「――ああ、ミーちゃんかね」
「お母様がね、様子がおかしいんです。バルコニーで干し物をしてらして、急にうずくまっておしまいになって」
「――眼まいでもしたのかね」
「それから部屋の中に這っていらして、頭が痛いって、こめかみを両手でおさえていらっしゃるの」
「風邪でもひいたんだろう」
「ええ。風邪薬を呑ませたんですけど、でも、変よ。眼がまっ赤。痛いィ、痛いィ、って身体を海老《えび》のように曲げたっきりで、他のことはおっしゃらない。風邪とは少しちがうかもしれないわ」
「いつからそうなんだね」
「干し物をしてらしたのが、三時少し前かしら。今は少しうとうとしてらっしゃる。でも電話の声で眼がさめちゃったかもしれない」
「とにかく大木先生を呼んで見せなさい」
「はい。お父様すぐお帰りになれる」
「ええと、今日は何曜日だったかな」
「水曜日よ」
「ああ、じゃ、帰る。定夫は帰ってるのか」
「ええ――」
「皆でママのそばに居ておやり」
立花氏は土曜と日曜は、原則として家庭から一歩も外に出ない。ウイークデイのなかでは水曜日、この日だけは事務所を出ると我が家に直行して、家族と一緒に夕飯を喰うことにしている。
但し、月曜、火曜、木曜、金曜、これらの日は、朝帰りになったりまるきり帰らなかったりだ。それは役所に居るときからで、それでも水土日の三日間があるために、立花氏は自分でも、家長としての責は果たしていると思っていた。
今日は水曜日で、だからもちろん、電話がなくとも帰るのだ。
彼の住居は千葉県側の大団地の中にあるが、地下鉄を利用すれば都心から四十分ほどで行ける。だから夕方のラッシュとぶつかるときは、車をおいて電車にする。
帰宅してみると、高校三年の定夫が台所でぼんやりしていた。
「ママは――?」
「大木先生のところに姉さんが連れていったよ」
「じゃ、俺も行ってみよう。定夫、巨人大洋戦、見ててくれよ」
「俺、勉強があるよ」
「うん、何対何でどっちが勝ったか、最後のところだけでいい」
同じ団地の大木医師のところに行くと、立花夫人は救急車でT綜合病院に行って貰ったという。
「救急車で――?」
「ええ、まあ、大事をとってね。近頃は検査の方法がいろいろ発達してましてね。設備の整った大病院に行かれるのが一番いいです。特に脳関係はね」
「すると、ただの風邪やなんかじゃないんですな」
「わかりません。疑いは相当にあります。今からお行きになれば、向うじゃもう答が出ているかも知れませんよ」
立花氏は重い足どりで医師の許《もと》を辞した。
こんなことなら車を転がしてくればよかったと思う。
団地で客をおろして近くの駅前に戻るタクシイをむりにつかまえた。
「T病院――? 道がわからないんですがねえ」
「俺がくわしい。指示するよ、頼む」
立花氏は元の職業柄、方々の病院に明かるいが、T綜合病院については特にくわしい。病院ができる前からのつながりで、理事たちには友人が何人も居る。
車内ラジオが野球の放送をしている。巨人西本、大洋平松。四回表で早くも巨人に二点が入っている。
「このまま楽勝かな」
「今年は大洋ひどいからね。でもわかりませんよ、二点ぐらい。巨人だって――」
今夜の巨人大洋戦は、1半2、という奴である。
なんのことかおわかりにならないかもしれないが、野球博打のハンデの名称で、巨人が一点差の勝ちならば賭金は大洋側の方につけられる。二点差で巨人勝ちならば半勝ち、配当が半分しかこない。
だから巨人で丸勝ちするためには、三点以上の点差になる必要がある。
普通、巨人戦だと一点以下のハンデなのであるが――。
運転手のわるい予測が呼ぶような感じで、五回裏、大洋の福島、平松の代打中塚と下位でヒットが二本続いて、上位打線に戻ったところで、立花氏は後ろ髪をひかれるようにして車をおりた。
今夜の試合に、五十万、放りこんである。
しかし、それと妻の病状とは、もちろん比較になることではない。
立花氏は受付できいた病室に急ごうとし、思い直して夜勤の医者の部屋に行った。
「やあ、お世話になります――」
「あ、立花さん――」
若い医者がちょっと慌てたように立ちあがってそばに来る。その気配で、立花氏も固い顔になった。
「まずいですか」
「ええ、まずいんですよ」
「すると、脳内出血?」
「くも膜が大きく汚れてます。出血の場所がわるいですね。今、堀部教授にお願いして、直々の執刀をしていただくように取り計らいました」
「堀部先生が、そうですか」
「あの先生なら最高です。今、手術の技術は非常にあがっていますから、脳溢血の死亡率はずいぶん減ってますよ。だからまあ――」
「ふうん、くも膜、ねえ」
医者はレントゲンの写真板を持ってきて、立花氏に示した。
「しかし、場所が場所ですから」
閑散とした廊下を伝って病室に近づいていくと、長女の美津子がぽつんと坐って、大きな眼で父親をみつめた。
「母さんは、寝てるか――」
美津子の眼から涙が溢れる。
「大丈夫だよ。こんなに簡単に一人の人間が死んでたまるか」
立花氏は静かに病室に入って、鼾《いびき》をかいている妻の寝顔を眺めた。
翌朝は雲ひとつない晴天で、病室でまんじりともしない夜をすごした立花氏の眼に朝の光がまぶしい。
夜の間、仮寝に帰った美津子が立花氏用のサンドイッチとコーヒーの魔法瓶と新聞を持ってくる。
緊急手術をすませた気配がないのを見て、美津子はぎょっと立ちすくんだ。
「手術は――?」
「場所がわるくてできないんだそうだ」
美津子は掌を自分の口に押しあてた。
「――そうすると?」
「絶望的、かな」
「――定夫も呼ばなくちゃ。一緒に連れてくればよかったわ」
「ああ、電話して呼びなさい」
娘がダイヤルを廻している間、立花氏はぼんやりスポーツ新聞に眼をおとしていた。
しばらくして、美津子のすすり泣きがきこえる。彼女はベッドのわきにしゃがみ、眠りからさめない母親の掌を両手できつく抱きこむようにしている。
女房が死の床にあるというのに――立花氏は思った。どうしてかな、俺はまるで悲しんでいないみたいだ――。
最愛の妻、とふだんから立花氏は人にいっていた。アメリカ人流に妻子の写真を名刺入れに入れてあって、初対面の人などにすぐ披露する。お美しいですな、と皆がお世辞抜きにそういう。美人にかこまれた御家庭で、お幸せでしょう――。
立花氏の腰かけている所に朝日が当ってきて、彼は椅子ごと身体を移動させた。そうして手にしていたスポーツ新聞を折って片づけた。
巨人大洋戦のスコアが一面に大きく載っている。五回まで2対0だった試合が、その後交互に点をいれて、最終的には3対2だ。
巨人は勝ったけれど、ハンデは1半2だから、一点差では賭金の五十万円を失なったことになる。
――幸子、と立花氏は胸の中で女房の名を呼んだ。――お前はいいときに、死んでいくのかもしれないよ。
――だが、美津子や定夫は残されて気の毒だ。ひょっとしたら破滅の味を味わうかもしれないんだからな。
いや、そうはならない。そうなってたまるか。
「定夫が来たらね――」と立花氏は娘にいった。「二人で母さんのそばについていてあげておくれ。私はちょっと、事務所に出てこなければならない」
「今日、これから? でも、それはいけないわ。お父さま、ここに居てあげて」
「そうしていたいがね。事務所に手代りがないんだ。今日は大切なお客さまを呼んである」
「大切って、お母様より大切なお客なの」
「母さんより大切なものはないさ。だが、そうばかりもいっていられないんだ」
「日を替えていただけば――」
「こちらで呼んだお客だからね。とにかくいったんは出てくる。何かあったらすぐ電話するように」
立花氏はトイレの手鏡で手早く髭を剃ると、娘の美津子のとがめるような視線を背に受けながら、病室を出た。
昏睡している妻の細くとがったような鼻梁《びりよう》がチラと眼の隅に入った。今生の見おさめになるかと思うと、さすがに胸が迫る。
が、今日の客をしくじるわけにはいかない。
客を呼んでいるのは夜だが、夜まで病室に居て、妻に万一のことがあればもう外出はできなくなってしまう。
そうなったら、客の方に事情を話して日を延期してもらうという考えは、常識的ではあるが、この場合適当でないように思う。
客は外国人で、日本滞在の日数も短かく、日程が混んでいる。立花氏としてはやっとの思いでとりつけた約束なのだ。
彼等はインドネシアから、半官半民の大病院をジャカルタ郊外に建てるについて、日本に応援を請いにやって来た。厚生省の窓口への紹介をひき受けたのは立花氏で、最初の段階では、彼がインドネシア側のお客だった。
しかし、立花氏としては単に便宜を計らうだけでなく、日本の資本家を捕まえ、自分もひと口乗って彼自身の仕事にもしたい。いやそうしなければならぬ。
でなければ、オープンして一年以上にもなる事務所が、ただむなしく金を喰っているだけだ。
団地の住人たちが毎月積み立てている生活協同組合の資金に、もうかなり手がついている。もちろんはじめは、かなり少額、しばらくの間の流用のつもりだった。その穴が、もう二千万円近い。
事務所の維持費と生活費、そのほとんどを、なすすべもなくそこから盗用している。
団地側の委員は全部で五人居るが、いずれも学者か固い勤め人で、元役人のくせに諸事にくわしく、洒脱《しやだつ》な立花氏が一番信用がある。蓄積資金を大幅に喰われていることなど誰も夢にも知らない。
発覚すれば、もちろん不名誉な事件になる。妻を襲った病魔は大きな出来事にはちがいないが、これはそれと比較にならない。妻の名誉も、家族、娘や息子の将来もすべて呑みつくすような凶事になるのだ。
立花氏としては、臨終寸前の妻のそばにおちついてつきそっていられない気持になるのである。
車を事務所においてきたので、ラッシュの電車にひさしぶりで乗った。疲労のせいであろう。血圧が高くなっている自覚がある。
しかし、事務所についたら、すぐに用事を造って、夜まで外出してしまおう、と立花氏は思っていた。
妻君の病態がわるくなった電話を事務所に居て受ければ、駈けつけざるをえなくなる。
そんなことにならないように、姿を消してしまうにかぎる。
――母さん、許しておくれ、今どうしてもひと働らきしなきゃならないんだ。
若い頃から遊びなれて、世間の裏表に通じているつもりだったが、いざフリーランサーになってみると、自分が赤ん坊のように無力に思えてくる。
女秘書だけだと思った事務所に客が一人居た。
和合《わごう》克治と名乗るまだ三十そこそこの若い男で、立花氏にとっては野球博打のノミ屋だが、正体不明。地下カジノの世界の一方のボスだという説もあり、またかつての学生運動の闘士で、地下に潜っている一人だという説もある。
「おや、早いね」
「早くはありませんよ。もう十時です。僕は毎日六時には起きてるんですから」
「しかし、夜もおそいんだろう」
「三時間寝れば充分」
和合は白い綺麗な歯を見せて笑った。
「それより、昨夜は残念でしたね」
「巨人か。サガっちゃ怖いよ、だね」
「九回裏のエラーの一点なんか、ほんとにやらずもがなでしたね。あれでこっちは助かった。昨夜は巨人に入れた客が多かったから」
3対2で巨人の勝。しかしハンデが1半2だから、1点差では巨人組は負けになる。立花氏も五十万円の損である。
「しかし今日は集金日ではないだろう」
「冗談じゃない。集金なら若い者を来させますよ。そんなこと気にしないで今夜の試合でとり戻してください」
「そうか、集金じゃないのか」
「精算以外に、来ちゃいけませんか」
「そんなことはないがね」
「腹がへったな。社長、下の喫茶店でモーニングといきましょうよ」
「いいとも」
立花氏もあまり事務所に居たくない。
和合は靴を鳴らして大股に歩を運び、同じビルの喫茶店に立花氏を先導する形になった。せまいテーブルに向かい合うと、長身の和合の脚がこちらに出張ってきて、ぴたっと張りつくようになる。
「どこか遊ぶところはないかな。今日は夜までヒマなんだ」
「これですか――」
和合は牌をツモる真似をした。
「いいですね、遊ぶのも。しかし社長はこのところ、ずいぶん負けがこんでるね」
「たしかに野球はツカないな」
「うちばかりじゃないよ。ルーレットでもアシ(借金)があるでしょう。ペイ抜き(麻雀)もよくない。この前は、アキラたちとホンビキ(花札)に行ったね」
「なんでも知ってるんだな」
「この世界のことは皆入ってきますよ。Tホテルのポーカーはどうです」
立花氏は黙って笑った。
「よくないね。そうでしょう。俺にもおぼえがあるが、駄目なときは皆駄目さ」
「競輪で、昨日、十万ちょっと、受かったよ」
「ロッカが受けたやつね。きいたよ」
「ほう、あの男も知ってるのか」
「まあ、うまく遊んでくださいよ。社長はそんなことよくわかってるだろうけど、あせっちゃ駄目ですよ。前のめりになっていいことないんだから」
「しかし――」
といって立花氏は苦笑した。
「君がそんなこと心配してくれようとは思わなかったな」
「心配してるよ、社長」
「集金の心配かね。博打の負けくらい、ちゃんと払うよ」
「ええ。――ですがね、俺が心配してるのは、社長の生活のことだよ」
「何故――?」
「長いつきあいにしたいからさ」
「それじゃあ、俺が野球博打で勝って、君んところから銭をがっぽがっぽと取った方がいいのかね」
「その方がまだむしろいい。今はね。どんどん勝ってくださいよ。お互いに時期があって、客が勝ってくれた方がいいときもある。負け続けて死んじゃうよりはね」
「そうかね」
「長い目で見て此方が勝たせてもらうときもある。長いつきあいになれば、トータルではドリンク業の方が勝つんだから」
「ドリンク――?」
「ノミ屋のことさ。で、今は勝って貰いたい客に限って、のめって負けるんだな。そうなりゃ俺たちにとったってろくなことがない。これは社長のことじゃありませんがね。負けて苦しくなりゃ、警察にチックリする客も居る。そうでないまでも、払えなくて離れていくよ」
「ふうん――」
「俺たち、もっと深く考えてるんですよ。すくなくとも俺はね。ただ客の銭をはぎとりゃいいってもんじゃねえ。そんな時代じゃないよ。いえ本当、非合法ってのは弱い商売なんですよ。どんなノミ屋だって、今、サービスのことばかり考えて頭をなやましている。俺が考えるにね、ドリンクってのは綜合サービス業だからね。客が面白く遊べるように、メッセンジャーとコンサルタントと両方兼ねるべきだと思うよ」
「ご忠告はありがたいがね。私も昨日今日、博打をおぼえたわけじゃないから――」
「そればかりじゃないよ。客の生活に対するあらゆる手助けをやらなくちゃならないと思うよ。それでこそ商売が大きくなる。俺たちがどのくらいそういう力を持つかだけれども、今、ドリンクってのはそんな意味で、唯一面白い商売だからね」
「理想論だな」
「そうとばかりもいえないですよ。だいたい、これまでの非合法が野心がなさすぎるんだ。俺は非合法で天下をとるよ」
「その手はじめに、私を救う気でいるのかね」
「ああ、そうです。社長、ちょっと調べましたがね。はっきりいってあの事務所、業績ゼロですね」
「――まだ開いてまもないからねえ。しかしそんなことどうしてわかる」
「わかりますよ。調べる気なら。今、暗黒街の調査が一番確実さ」
立花氏はちょっと顔をこわばらせた。
「今、大仕事があるんで、その客を今夜招んでるんだがね、インドネシアの人なんだが。そういえば二次会に連れていく面白い所、ないかな」
「二次会ってえと、トルコ風呂ですか」
「うむ、いや、そのウ、酒が気軽に呑めて、目先きがかわって面白い店さ」
「だったら六本木の名門≠ノ行くといい。面白く遊ばせるのはうけあうよ。接待はゲイバーに限るからね」
「ゲイバーか――」
「ツケでいいですよ。自由に呑んでください」
「君の店かね」
「そうじゃないが、遊ぶところならまかしてくださいよ。トルコだろうがムービーだろうが、自由自在さ。そんなことで社長が助かるんならいくらでもお役に立ちますよ」
和合《わごう》と別れて、立花氏は事務所に戻らずに、まだ客もまばらなパチンコ屋に入ってタマをはじきだした。
一生を終えかかっている妻の青白い顔が眼に浮かぶ。
今頃は、事務所に悪い電話が入っているのではないか。
不安定な気持を象徴するようにタマは少しも入らない。
――和合の奴、調査する気ならなんでもわかる、といったが、すると、あのことも嗅ぎつけて知っているのではなかろうか。それであんなに人をあわれむようなことをいったのかもしれない。
――まさか。帳簿は家の机の中だし、預金通帳は私の内ポケットだ。だいいち、和合が知るくらいならその前に団地の委員たちが知って、使い込みを騒ぎたてるはずだ。
――しかし、それにしても、あ奴、本気であんなこといってるのだろうか。
立花氏の頭の中から妻の顔が消えて、しばらく、和合克治の眉根の濃い、男っぽい顔に独占された。
全学連Q派の幹部だったという噂をきいたあとでも、和合のことを、立花氏は、いずれどこかの筋につながっているインテリやくざだろう、と軽く考えていた。近頃は猫も杓子も大学に行くから、大学出のやくざが居たって少しもおかしくない。
しかし、和合が中退したという大学は一流校で、立花氏が元居た厚生省にも同じ大学出身の役人がたくさん居る。多くはエリートで栄達への道を歩いて居る。
和合は一介の遊び人で、彼等とくらべれば虫けらみたいな存在にすぎない。
今までは、簡単にそう思っていた。立花氏自身、自由な遊び人気質を持ちあわせていたから、気さくに誰とでもつきあってきたが、それでも、大学まで行ってノミ屋になる気持がわからなかった。
ところが、なんとなく、役人の栄達なんか、干からびたお供え餅のように思えてきたのである。
――非合法で天下を取る、だって。
立花氏は心の中で苦笑した。しかし、そういう和合の気概が、ばら色の人生のように思えてくる。
――裏街道の生き方というのも悪くないのかもしれないな。だいいち、俺自身がもう今は、まぎれもなく非合法の人間だものな。
すると、ザーッ、ザーッ、とタマが受け皿にこぼれだした。
赤坂で日本料理をおごって、立花氏が二人のインドネシア人を、六本木の名門≠ノ案内したのは夜の十時近かった。
和合にきいてきた、というと、カンカン踊りの衣裳をつけた受付の子が「立花社長さんでしょ、お待ちしておりました、どうぞ――」
予約、という札をおいてあったテーブルに案内してくれた。
さほど広い店ではないが、テーブルもカウンターもぎっしり客で埋まっている。
眼のさめるような紫のコンビネーションタイツに白くて長いショールを羽織った女が、奥でピアノを叩きだした。
するとあちこちから化粧の濃い男の子たちが駈け集まって一列に並び、ラグタイム曲に合わせ、白い足を高々とあげて踊りだすのである。
ラインダンスのボーイズたちは顔に似合わぬドラ声でコーラスし、客たちも大合唱。二人のインドネシア人は立ちあがって腰をくねらせながら彼等の中に参加した。
ミルクで育った兄ちゃんが
がんこ親爺を寝かしつけ
ツートンカラーの拳銃に
黄色いリボンを巻きつけた
ビールの呑めない弟は
ポーカーフェイスでウインクし
マミーに貰った拳銃に
バラの香水ふりかけた
兄弟仲良くヒトゴロシ
ヘイ!
足並み揃えてヒトゴロシ
ピアノのママが横っ倒しになって鍵盤に両手をぶつけている。ボーイズは小さいお尻を客の眼の前で振りたて、客は唄いながらそのお尻にビールをそそぎだす。
すると、打ち合せでもしたかのように、入口のカーテンが開いて黒いサングラスをかけた和合克治が現われた。
「おニイちゃん――!」
まるでスターが登場したようにボーイズたちが歓声をあげ、皆で彼を抱きかかえるようにして奥のマイクの方へ。
「なんだよ、からかうなよ――」
しかし彼はすぐにリズムに合わせて、男っぽい声で一節唄った。
ミルクで育った兄ちゃんは
恋も喧嘩も大きらい
たった一丁の拳銃に
イチゴミルクをふくませる
あとは大合唱。
兄弟仲好くヒトゴロシ
ヘイ!
足並み揃えてヒトゴロシ
ヘイ!
物もいわずにヒトゴロシ
ヘイ!
朝から晩までヒトゴロシ
ヘイ!
明日を信じてヒトゴロシ
ヘイ!
インドネシア人はわけもわからずご満悦で、ワンダフル、ワンダフル、とくりかえし、立花氏の肩を抱いてキスしたりした。
ボーイズは一列縦隊で片手を前の者の肩にかけ、尻をくねらせながら客のテーブルの間を練りまわる。
客たちは、男も女も、千円札を細長く折って、それぞれお好みの男の子のブリーフにはさんでやるのだ。
肉色のブリーフの中に手を突っこんで奥深く探ろうとする客が居る。ブリーフをはぎとろうとする客も居る。ボーイズたちが悲鳴をあげて逃げ廻る。
立花氏が気を利かしてテーブルの上においた千円札を、インドネシア人がつかんで、金髪のボーイのブリーフにはさんだ。
髭をくろぐろと生やした年上の主客の方は、小柄で本当に女みたいに見えるボーイを抱きしめてキスの雨を降らしている。
立花氏は彼のかわりに千円札を相手にはさんでやった。それから他のボーイズたちにも、一枚ずつ全員にはさんでやる。
インドネシア人が英語で立花氏にいう。
「ユーは全部に気があるのか」
「ノー、しいていえば、俺の気のあるのは、あの紫色だ」
立花氏はピアノの女をさした。
「それでは無駄だろう。気のない奴にあげることはない」
「いや、楽しませてくれたお礼だよ。やるなら皆にやりたい」
「なるほど。日本人は景気がいいな」
いつのまにか、ピアノの女がそばに坐っていた。
和合も来ていて、
「ベベです。ここのママだが、テレビなんかには出ない夜のスターですよ」
「よろしく、社長さん。それから外国のお客さま」
「それで君は――」
と立花氏は笑いながら和合にいった。
「ここのタレントでもあるらしいな」
「ちがうわよ、この人は王さま。いつかきっと日本の王さまになる人よ」
「ヒトゴロシをしてかね」
「ええ。あたしがかなわないのは、個人では、和合克治だけね」
「私もそうなりたいものだが、この年じゃ駄目かな」
「年齢は関係ないけど、社長さんはヒトゴロシができないでしょ」
「――どうかな」
立花氏はいくらか声を落した。今頃、妻があの世に旅立っているかもしれない。
和合は流暢《りゆうちよう》な英語で、インドネシア人たちと、ゴルフの話に興じている。
「でも、世の中はそんなに簡単じゃないのよね――」
とベベは、和合の方に視線をやりながらいった。
「あの人も王さまにはなれない」
「何故――」
「名前を無くしちゃったから。何でもできるけど、名前がなくちゃどのポストにも坐れないでしょう」
社長、と和合が叫んだ。「明日、ゴルフに行こうよ、彼等も行きたいといってる」
「ああ、いいけど、俺は会員じゃないから」
「何いってるんです。俺が招待するんですよ」
立花氏は少し汗ばんできた両手でグリップをきめ、軽いスイングをくりかえした。
いつもにくらべると、飛びがわるい。寝不足のせいで、ショットも手元が狂うし、プレーに執着がおきない。
ゴルフは若い頃から自信があったのだが、今日のところはほんとのおつき合いということになる。
もっとも、二人のインドネシアのお客が居るので、レートもほんの形式程度で、完全な親睦ゲームだった。
「どうしたんです。ふるわないですね」
と和合が4番のロングコースにさしかかるときにいった。
「ああ。しかし今日は、こんなところでツキを使いたくないから、ちょうどいいんだ」
「レートが安いから――?」
「女房が入院してるんでね。そっちの方でツキを使いたいんだ」
「ひどくわるいんですか」
「今日か、明日か、だな」
和合はチラと立花氏を見た。
「それじゃァ、ゴルフどころじゃなかったんですね」
立花氏も、インドネシアの客の方に視線を当てながらいった。
「男はつらいよ、だな――」
二人のインドネシア人のうち、正客の髭もじゃの方が、格段にうまい。そうツイている感じではないが、わるくてもボギーあたりでこなしていって、すでに何ストロークも離してトップだ。
「ひょっとするとシングルかな、初コースをうまくさばいてるね」
「シングルは楽でしょう」
と和合。
「こんなオープン戦だし、腕は隠してると思わなきゃ」
「それじゃ、俺は調子が良くてもかなわない」
12番のコースで、髭もじゃがバンカーにいれた。
彼は両肩をすくめてみせて、
「おう、マイペースに戻った」
そういって笑う。
ところが和合も、そこではバンカーだった。しかもアゴだ。
「ゴリッパ――!」
と髭もじゃがそこだけ日本語でいった。
「ユーは客をもてなす術を心得ているよ」
和合はちょっと笑ったが、すぐにまじめな顔になって、髭もじゃの手元を注視している。
髭もじゃはグリーンの端に、砂と一緒にボールを乗せたが、和合はわるびれずに、アゴからボールを手前に引いた。
「くやしいね――。よし、あいつに挑戦してみようかな」
「シングルとかね」
「握ればまた別ですよ。気合が入る。ばくちになったら奴は筋が吊っちゃうさ」
「じゃァまァやってみるといい。俺は今日は観戦するがね」
「社長、その気ならあっちへ乗ってもいいですよ」
「いや、見てるよ」
インドネシアが勝てば、和合の金で奴等を喜ばせることができる。
もし髭もじゃが負けても、その金を立花氏が出してやることで、彼等との仲にくさびを打てる。立花氏はこう考えた。
「ヘイ、ミスター――」
と和合がいった。
「それじゃひとつ、ホールマッチをねがいましょうか」
髭もじゃのインドネシアは大仰に頭を振った。
「ノウ、ワタシはそんな腕前じゃない」
「バカいっちゃいけない。ユーはチャンピオンクラスだよ。でも、挑戦しなくちゃ上達しないからね、ひとつ教えてください」
「レートはいくらでやるの」
「まァ、普通は二千ドルぐらいですがね」
「ワンホールが――?」
髭もじゃは眼をまるくしてみせた。
「それじゃまるでプロだ」
「ユーは日本じゃプロ級だよ」
チラッと、髭もじゃが立花氏の方を見た。すかさず、立花氏がいう。
「大丈夫、ユーは負けっこないですよ。だが、もし負けたら私が立替えときましょう」
髭もじゃは、ことあらためて陽ざしの具合や風の様子に眼をそそいだ。そうして気をひきしめるように帽子をかぶりなおした。
和合がすかさず、コインを握って、表か裏かを訊ねる。
裏、と髭もじゃがいった。そうしてオナーになった。
14番のショートホールから。
15番、16番、17番、18番、とあと五つ。
かりにインドネシアが負けるとしても、ストレート負けはあるまい。わるくても3対2か、そんなところだろう――と立花氏は考える。彼の眼には、髭もじゃが負けるとはとても思えない。
(――あれでまだ、腕をかくしてるというんだからな)
14番は二人ともパーであがった。
「持ち越しOK?」
「キャリーオーバー、倍かね!」
「常識ですよ」
「君はなんだぞ。確実にワタシの心臓をわるくしようとしているぞ!」
髭もじゃは言葉ほど、びっくりしたようにも見えず、さっさと先に立って無雑作に振った。
15番は右ドッグレッグ。
無雑作に見えたが、見事なショートカットでグリーンのきわまで転がった。
和合が唇をかんでグリーンの方をじっとみつめている。彼は自分のコースだから打ちなれているはずで、差しウマのタイミングも得意のコースまで待って挑戦したであろうと思われる。
だが、なかなか打たない。
右手を額に押し当てて、気持を統一しているかに見えたが、
「コン畜生――」
一閃――。ボールは髭もじゃのコースをなぞるようにしてまっすぐ飛び、ほとんど同じところに飛んだ。
「なんだ、君は――」と立花氏が叫ぶ。「いつもは遊んでたのか」
和合はニヤッと笑って、
「相手が強いと気合が入るよ」
15番は二人ともバーディで再プッシュ。賭け金は八千ドルだ。
ところが16番のショートコースの髭もじゃが凄かった。ワンオンでピンそば1メートルのところに転がったのだ。
打球の行方を見ていた髭もじゃが、ひょいっと肩をすくめた。
「ツイてるな――」
彼はもう和合の方を見ようともしない。
立花氏がいった。
「貴方、元プロゴルファーじゃないんですか」
「ノー――」
髭もじゃは淡々といった。
「こんなことってないんだ。神さまが我々に応援してくれたんですよ」
和合が、その神さまに挑むように、じっと立って片手を額に当てている。
再持ち越ししているから、ここで負ければ八千ドルの支払いだ。
相手の打球はワンオンで、ピンそば1メートル。
若い方のインドネシア人も、立花氏も、自分たちのプレーそっちのけで眺めている。
すると和合が、立花氏をチラッと振り返っていった。
「俺はいつもこうなんだよ、社長。なにかに手を出すと大勝負になっちまうんだ」
「それで、勝って来たかね」
「どうやらこうして生きてるからね。負けたら一発で死んでるさ。ところが勝ち続けてきたともいえないんだ。博打ってそういうものらしいね。お互いに勝つことはできない。負けない競走なんだよ。辛抱、辛抱――!」
彼の打球は、髭もじゃのよりずっと高くあがり、最初はちょっと届かないように見えた。実際、落下地点は手前2メートルほどで、それも右へ少しそれていたのだった。
ところがそのボールが大きくイレギュラーして斜めに飛び、グリーンに乗って転がった。スピンが利いていないためにホールより大分先に転がったが、とにかくワンオンだった。
「失礼――!」
と和合がいった。
髭もじゃは無言。
グリーンの上なら、大きな崩れはない。
もし、髭もじゃがバーディで仕上げなければ、勝負はわからない。
ところが和合のロングパットがまるで生き物のようにスルスルと伸び、気持よくカーブし、ホールに吸いこまれてしまったのだ。
一瞬にして、髭もじゃがピンチになった。彼は慎重に傾斜を見定めたのち、パターを軽く振った。
若い方のインドネシア人が、彼等の言葉で何か叫んだ。
コン――、と軽い音をたてて打球がホールに飛びこむ。
「ミスらないな」
「そりゃそうだよ、奴ならこんなもの軽い」
「また持ち越しか――。一万六千ドルだな」
立花氏は溜息をついた。
「俺は払えんぜ――」
「いいじゃないですか。そのかわり、奴に対する立場はぐっと強くなるでしょう」
「なんだ、応援してくれてるつもりなのかね」
「最初からそういってるよ、社長。すくなくとも俺は奴の味方じゃないさ」
「しかし、こうなったら君は負けるわけにはいくまい。勝てば私から取るつもりだろう」
「社長がそういったからね」
立花氏は苦笑した。
「それで、どうして私の味方かねえ」
「社長はあのインドネシアの眼の前で、一応小切手を切るとするわね。俺がそれを銀行に持ってなんかいくもんか。だが、俺はもう社長へ、それだけ投資してることになるよ。投資家は味方にちがいないでしょうが」
「それで、君が負けたときは?」
「小切手を切ります」
「ほう。大変な自信だね」
「平気ですよ。小切手なんか鼻ッ紙みたいなもんだ」
「そうもいくまい」
「俺は負けないよ。まあ見てらっしゃい」
和合の荒っぽい鉄火場ルールで三度持ち越しになり、17番ホールは一万六千ドルの勝負になっている。日本円にして、約四百万近い。
その17番が両者パーで終ったとき、立花氏はじっとして居られず、二人のそばに行って英語でこう叫んだ。
「おい、もうわかった。二人ともすばらしいよ。ドロンゲームにしたまえ」
「なぜ、もうあと一つ残ってるだけだ」
「またキャリーオーバーだろ。三万二千ドルだ。いくらなんでも素人の賭けの域をハミ出してる」
「素人って、ゴルフは素人だが賭け事は素人じゃないぜ」
立花氏はインドネシアの髭もじゃにもいった。
「残念だが、こんなレートになってしまっては、ユーが負けたとき私は代行しにくい。いったんドロンにして、続けるなら最初のレートに戻してやってくれませんか」
「ワタシは負けない――」
髭もじゃも同じことをいう。
「そうだろうが、万一ってこともある」
「ノウ。面白いゲームだ。続けましょう。ワタシ、旅行中だから今ここに持ち合せはないが、国へ帰ったらすぐにユーのところまで送金します。ユーは保証をしてくれればいい」
立花氏は今度は和合に日本語でいった。
「やめてくれないか。どっちが負けても私は気が重い」
「心配するなよ、社長」
「私のメリットがないよ。あっちが負ければ、奴は私の顔を見るのもいやになるだろう」
「それなら勝てばいいだろう」
「え? どっちが?」
「向うが勝つように祈りなさいよ。一仕事やろうと思ったら、そのくらいの儲けは当然だよ」
立花氏は息を呑んで、この学生くずれの遊び人を眺めた。そりゃどういう意味だい――。
髭もじゃはすでに、ロングアイアンを握って、ぶんぶん振り廻している。
二人とも、もう獣のようにはやっていて、勢のとめようがない。
立花氏はしかたなしに、この最終ラウンドもセームになってくれるのを祈るよりほかなかった。
最終18番のロングホールは、途中に右ドッグレッグがあり、正面は林、右側が崖、左側は斜面でゆるくさがっている。
堅実策としては、ドッグレッグのところまでロングアイアンで運び、二打目を伸ばしてグリーン手前まで持っていくのであろう。
スライスボールを打つ手もあるが、失敗すればまず負けを呼ぶようなことになる。初コースの髭もじゃは、特にその手に踏みきれるかどうか。
なにしろ、ワンショットの差で勝負が決する公算が大きいのだから、危険はおかせない。
しかしまた、同じ理由で、危険をおかさなければ、リードできないともいえる。
安全策か、それとも勝負か。
髭もじゃは、来たときに貰ったコースの図面を、若いインドネシアと一緒に熱心にのぞきこんでいる。
が、思い決したようにロングアイアンをにぎりなおした。
立花氏はこのとき、ちょっとした賭けをやっている。
「相手は3番アイアンだな」
和合にそう語りかけたのだ。
「君はどうする――?」
和合は髭もじゃの打つ構えをじっとみつめている。
「君ならスライスだろう。コースも手に入ってるし、リードのチャンスだな」
髭もじゃの打球が、ドッグレッグの途中のところにおちた。
和合はにやりと笑って、ドライバーをにぎった。
立花氏の賭けは、和合の見栄を誘って、スライスボールの失敗を期待したものだったが、このときふっと不安になった。
和合の自信ありげな様子を見ると、苦もなく変化球を打てそうに思えてくる。彼がここまでキャリーオーバーを続けて、強気に賭け金をつりあげたのは、最終のここでリードする自信があったからではないのか。
和合の打球は崖をまくようにして消えた。
皆が先を争うように歩いた。
立花氏の不安が現実のものになって、和合の打球はドッグレッグの先のフェアウェイ中央からやや左寄りにおちていた。
髭もじゃが、ひきしまった表情になって、ウッドを小脇にし、グリーンの方をにらんでいる。
彼のところからは直接グリーンにオンさせるのはむずかしい。ひとつ手前におとして、それからオンであろう。
もし、和合が二発目をまっすぐ伸ばしてオンさせれば、ワンショットのリードになる。
立花氏がいった。「コースに出てこんなに疲れたのははじめてだよ」
「そうですか――」と和合。「週末はいつもこれですよ。今日だって他の旦ベエとのゲームもあったんだけど」
髭もじゃの打球がグリーン手前のいいところに落ちた。
和合もウッドを振る。これも鋭く伸びたが、わずかに足りなかったようで、グリーンエッジの模様だ。
髭もじゃはアプローチで、楽々とオンさせ、ピンそば1メートル半ぐらいのところでとめた。ここまでで三打。
和合は二打でグリーンエッジまで来たが、ここではやはり一発ではしとめられずに、打球はピンを越えて約2メートルの地点。
両者バーディは必至だが、やはりまた同点で、勝負が決しないことになる。
立花氏は、やっと肩がほぐれる思いだった。どうなることかと思ったが、引き分けが一番のぞましい。
髭もじゃが負ければ、和合がなんといおうと実質的に負債が生じる。
和合が負けて、髭もじゃに三万二千ドル払うという事態になっても、金額が大きすぎて、立花氏としては精神的負担がかかる。
勝負なし、が一番いい。
立花氏はそう思っていたが、二人の選手は、あきらかにそうは思っていなかった。
和合のパターがきまって、ボールがコトンと穴に落ちる。
皆の眼が、髭もじゃの残りの一打に集中する。
ワンパターできめて同点。ミスれば負け。
だが1メートル半のところまでボールは来ている。ここまでミスのなかった髭もじゃが、万が一にもミスるはずはない。
髭もじゃが慎重に芝の目を読んだのち、構えた。
そのとき、陽ざしがかげり、地上に不吉なものが忍び寄ったようだった。
「おや、鴉《からす》だ――」
と和合がいい、その声につられて髭もじゃがふっと気を抜いた。和合は英語でいいなおした。
「でけえ鴉だ。不吉だね」
「ワタシの国では、鴉は勇気の象徴さ。守り神だよ」
実際、大きな鴉がすぐそばの木に舞いおりたのだが、そのわずかな時間のずれが致命傷だった。
髭もじゃが構え直し、打球はスルスルと軽く地を這ってまっすぐ穴に向かったのだが、どうしたことか、途中で急に回転が変り、三十センチほど手前で、止まってしまったのだ。
髭もじゃが飛びあがった。
「なぜだ――!」
彼はボールが這った跡にかがみこんで、その理由を知ろうとした。
「おお! ――信じられない!」
彼はそう叫んで、皆の顔を順々に眺めた。
「これはミスボールじゃない。こんなミスなんかするわけがない。教えてくれ、どういうわけなんだ!」
誰も答えられない。
和合すら、黙ったままだ。
打球のコースも、転がり具合も、申し分なく、皆が引き分けだと思ったのだ。
若い方のインドネシア人が、おずおずといった。
「地震、じゃないか――。今、ボクはそんな気がした」
「地震、だって――!」
そういえば、立花氏も、一瞬、かすかな地鳴りをきいたように思う。いずれにしろ、立花氏はこの一打で、地が揺れるほどのショックを受けたのだった。
クーパツ
ロッカがツキの波に乗りだしたようだった。
なにしろ、競輪場で、勝負レースがおおむね来るようになったのである。
妙なもので、すこし気持に余裕ができると、これはぜひとも当てる必要はないが、まァすこし遊んでやろう、というレースまで当ってしまう。
ツイていないときは、アパートでひと晩じゅう考えて買い目を定め、競輪場についてからも、さんざん迷って大半のレースを見送り、もうこれだけは迷いようがないほど固いと思って、手を出したやつが、スベってしまう。
もっともロッカは、今の好調をただツキのせいだとは考えていなかった。
名門≠フベベに教わったとおりに、彼が住んでいるアパートの住人のうち、比較的親しくしている誰彼を訪ねまわって、満期五十万の小さい無尽を造ったのだ。
毎月五万円ずつ、十回満期で、十人集めた。小規模だが、このくらいの額なら主婦のへそくりでもできる。そこがよかったのであろう。
常識のルールを踏んで、初回は文句なしに世話人のロッカが、五十万全額を受けとる。
つまり、毎月五万ずつ返金するが、無利子で五十万という金がころがりこんだわけである。そのかわり、満期まで責任を持って無尽を進行させなくてはならないし、途中で脱落者があれば、その分の入金も代行しなければならない。
五十万のうち、ベベに立替えてもらって立花氏につけた分を返した。が、とにかく彼の懐中は、これまでにない余裕ができた。
ロッカはあいかわらず競輪場に日参していたが、日によって一レースも車券を買わずにただ見送っていることがある。それでも懐中に金があれば、すこしも怠屈じゃない。
(――資本があればあせらないからな。自然に目も見えてくるんだよ)
彼はそう思っていた。
そうしてすっかり味をしめて、もうすこし規模の大きい無尽のグループを造ろうとしていた。
ロッカは元所属していたロックバンドの連中が出ているライブスポットなどに行って、旧交をあたためだした。
彼等と酒を呑みながら、無尽のことを切りだしてみると、意外に皆、簡単に話に乗ってくる。
若いミュージシャンや芸人はよく遊ぶから、収入があるわりに年じゅうぴイぴイしている。だから無尽は魅力的なのだ。
他のバンドや歌手たちも入りたいといってきたが、同じプロダクション以外の者はことわった。
彼等は離合集散が烈しく、すぐにバンドを移ってしまう。それでは勧進元のロッカが困るのだ。
ある日、ライブスポットのせまい楽屋に居ると、ロッカが元居たバンドの社長のウィリー八田が姿を見せた。
「よう、どうしてるんだ」
「ええ、まァ元気でやってます」
「音楽なしで喰っていけるかい」
「今ね、皆で無尽をはじめるところなんですが、ああそうだ、社長もひと口つきあってくださいよ」
「無尽――? いくらの奴だ」
「ええと、百万で、十回満期ぐらいですが」
「毎月十万か。なあんだ、それっぱかり、何にもならねえだろ」
「若い連中ですからね。気楽にやれる額でないと。社長なんかあとまで落さないだろうから、銀行利子なんかよりずっといいですよ。よかったら二口でも三口でも入ってくださいよ」
ロッカはここを先途と喰いさがった。
「このプロダクションの者だけでやるんですから」
「そうかい、じゃ、まァつきあうか。ひと口でいいがね」
「すいません、恩に着ます」
「しかしお前、競輪にこってるっていうが、あんなものやめた方がいいぞ」
「社長だって、競馬ウマ持ってやってるじゃないですか。競馬はよくて、競輪はいけないんですか」
「俺は馬券は買わないもの」
「へええ、買わないんですか」
「すくなくとも競馬場じゃ買わんよ。あんなもの二割五分もテラ銭をとられるんだ。馬券で儲けようなんて、アホだよ」
まァなんでもいい、とロッカは思った。社長が加わってくれれば、この無尽はできたも同然だ。
八田プロダクションの連中は、社長も一員ときいて、みんな入ってきた。人数が多くなりすぎて、もう一つ新無尽をやろうか、という話にもなったほどだ。
毎月八日の日に事務所に集まって、金を集め、セリをやる。
それはいいが、無尽の集まりというと、きまってその後、麻雀だのポーカーだの、ギャンブルになるのである。
ロッカは競輪以外の勝負事は、かじったくらいでほとんど手を出さない。けれども世話人のロッカが何にもやらずに愛嬌なくそっぽを向いているわけにもいかないのである。
しかたなしに、彼はチンチロリンの組に加わった。これはドンブリに三個のサイを落すだけのことで、ツルツルのドンブリである以上イカサマはなさそうだったし、技術らしいものもなく素人でも運次第で勝てそうに思えたからだ。
懐中に、金はある。
競輪でも儲かっているし、何もさしせまっての心配事はない。
事務所で元の仲間とやっているかぎり、テラ銭もとられない。
ところがどういうわけか、チンチロリンをやると、負ける。
三個のサイを、ドンブリに落して、二個同数の目が出たらそれを台とし、他の一個の目で勝負をきめる。多い数が強い。他に役があって、四五六は倍とり、一二三は逆に倍つけ。ゾロ目は文句なしの勝。五ゾロは倍、一《ピン》ゾロは三倍。
偶然としか思えないのに、やっぱり強い弱いができる。
ベースの仲川はいつも勝ち役で、チンチロキングといわれている。
そう大きい賭けではないが、いつも十五万、二十万と勝っていくのだ。それに対して、ロッカは出ると負けである。
ロッカはときどき、ベベの月島のマンションに遊びに来る。無尽方式がうまくいくようになって以来、ロッカはこのかつての幼馴染《おさななじみ》に一目おくようになっていた。
彼自身の大きな似顔絵がれいれいしく飾ってあったり、カーテンや応接セットが紫だったり、かなりエキセントリックなたたずまいではあるが、そういうものに慣れてしまうと、ベベのような人間も、ただ珍奇なだけの存在ではなく、ごく普通の感情が流れていることがわかる。
ロッカには特に、山奥の小学校の同級生だったベベがときおり見せる旧友意識が快かった。
昼さがり、二人でサウナに行って、それから佃《つくだ》島の商店街をぶらつき、もんじゃ焼を喰べに入った。
もんじゃ焼は、関西流のお好み焼と似て非なる下町らしい喰べ物で、鉄板の上で勝手に焼くのだが、ソースと混ぜたうどん粉が柔らかくといてあって、お好み焼のように固まらない。
小さなへらでかきまわすと、形が自由に変化し、なんじゃもんじゃ、という名称の出どころが実感できる。
「金、貯めるってのは大仕事だね」
「そりゃ、なんだって簡単にはいかないわよ。だけどね、ペースができればあとは自然にふえていくわ。面白くもなるし」
「ペース、か――」
「目標を造ることも大事よ。あんた、お金貯めて、どうする」
「競輪で大勝負する」
「駄目ね。それじゃ貯まらない。やらずぶったくり、ギャングの気分にならなくちゃ」
「ギャング――?」
「ええ、そう。フリーランサーってのは、つまりギャングじゃなけりゃね。あんたもじきそうなるわよ」
「俺は駄目だな。つい、打っちゃうから」
「まだ車券を買ってるの」
「いや。無尽のあと、打っちゃうんだ。それでツカねえんだ。いつも」
ベベは笑った。そうして、あんたは気が弱くて、まじめなんだから、ばくちはよした方がいい、という。
「ばくちをやめて、何をする。俺はばくちをするためにギターを捨てたんだぜ」
「素質がないわよ。誰だって向き不向きがあるのに、皆、向いてないことをやりたがるんだから」
「俺は何が向いてるんだろう」
「そうねえ、そりゃ自分で判断しなくちゃ。でも、ばくちは打つもんじゃないわよ。相手に打たせてテラ銭をとるものよ。なんだってそうよ。自分で遊んだら、遊び代を払わなきゃならないでしょう。利口なギャングはそんなことやらないわ。遊び場に居ても、自分は遊ばないで、ひとを遊ばせるの」
「ベベみたいにか」
「そう。あたしみたいに」
「それでベベは幸せかね」
「幸せなんてあるもんですか。あたしは幸せになろうなんて思っちゃいないわよ。ただ闘かっていくだけ――」
あんたは気が弱いから、素質がない、というベベの言葉をロッカは思いだしていた。
サイの目が少しも思うように出ない。毎回、祈るように、心をこめて振るのだが、大事なときに限って一二三《ひふみ》が出てしまう。
一二三と出れば、張った倍額を支払わなければならない。親のときに出せば、子方全員に倍額をつけるのである。
だから、親になると怖い。しかしまた、親をやったときにツカなければ勝てない。
ベースの仲川が振ると、きれいに四五六が出る。四五六を出せば倍とりである。
銀暁美という歌手のマネジャーで玉島という若者は、一一一《ピンゾロ》を出す名人だ。ピンゾロは三倍とれる。
はじめのうちは、多少の負けは覚悟していた。皆、無尽につきあってくれたんだから、そのうえ自分が勝ってはわるいような気もしていた。
けれども、負けがこみすぎる。せっかく初回に貰った無尽のタネ銭が、こんなことでなしくずしに消えていきそうだ。
ロッカだって、競輪にこったときと同じように、日夜研究しているのである。四五六と目を揃えておとすと、その裏の一二三が出易いとか、一《ピン》を出さないためには、横倒しにした目二三四五を上にしてドンブリにおとす、とか。
しかし、やっぱり一二三が出てしまう。イカサマで負けるなら、ことは簡単。やらなければよいのだ。ただ、呪われたように不運が続く。だからカッカときてしまう。
こういう勝負事では、ひとたび弱いと思われたら三割方の損である。カサにかかって攻められてしまう。
ロッカが親になると、一度や二度いい目を出してカッぱいでも、誰も怖がらない。
この次はもう、奴なら、カキ目は続くまい――。それで、張り額が倍見当になる。
そこで必らず、わるい目が出てしまう。
「いやだよなァ、俺の胴(親)っていうと、張りが多いんだ」
「いいじゃねえか――」と玉島はいう。「そこで勝ちゃァ、儲けが多くなる。張ってくれるのを感謝しなければいけねえぜ」
ロッカはつくづく思うのだ。金ってやつは、入ってくるのもチョロイが、そうなると出ていくのも簡単だなァ――。
ある日、無尽に顔を出していたプロダクションの社長の八田がいった。
「ロッカ、お前、昼間なにしてるんだ。まだ競輪か」
「いいえ、この頃はあまり行ってません」
「じゃ、あいてるのか」
「ええ、まあ――」
「よし。明日、浦和に行ってきてくれ。浦和競馬だぞ」
「社長の馬券を買いに行くんですか」
「いや。馬券は買わなくていい。ただレースが終るごとに、その結果を電話で俺に報告してくれりゃいいんだ――」
八田の使いで、ロッカははじめて浦和の競馬場にやってきた。
ロッカは競輪にしびれて競輪場にばかり行っていたから、競馬はほとんど知らない。
競輪よりも上品なギャンブルというイメージがなんとなくあったが、来てみるとべつに変ったところはない。競輪と同じように予想屋がやかましくがなりたてている。
ロッカは彼らしい慎重さで、よくわからないものに手を出す気はなく、ただ見物していて、八田にいわれたとおり、レースの簡単な展開と結果を、そのつど赤電話で報告するだけにしていた。
とにかく、入場して最初のレースで、成績からはどう見ても力量不足の無印の馬が、堂々と五馬身も差をつけて逃げ切り、しかも配当が四七〇円と、異様に安かったことにおどろいた。
そうしてどのレースも、予想新聞の印と配当額がまったく無関係のように見える。第一本命が入って千三百円もつけたりする。
まるで、客が推理する基準が、予想紙のデータとはまったくちがうところにあるように見えて、これでは素人の自分などには手が出せない、とますます思った。
場内をうろうろしているうちに意外な人物に出会った。元役人の立花氏である。
「おや、草競馬もやるんですか」
「なあんだ、君もかね」
「いや、僕ははじめてです。知合いに頼まれてちょっと見に来たんですが」
「こっちも久しぶりなんだ。競輪も行ってないよ」
「いそがしかったんですか」
「いや、実は、カミさんに死なれてね」
「ああ、それはどうも」
「クサクサするから来て見たが、やっぱりこんなときは駄目だね、まるで当らない」
ロッカはひとつ疑問を提出した。
「社長、予想屋が出走馬の名前の下に○や×や、妙な印を書きこんでいるのは、あれは何ですか」
「ああ、あれはハカセ≠セな」
「ハカセ――?」
「こういうところじゃ、馬にはかせる蹄鉄《ていてつ》に何種類もあってね、日によって鋭角的なのや、丈夫だけど鈍い角度のや、いろいろ変えてくるんだ」
「ああ、なるほど」
「鋭角的なのは砂に強く喰い込むから蹴りが強くなってスピードが出るんだ。そいつは当日、曳馬場に出てくるまでわからない。予想屋はそれを素早く見て、ファンに知らせるんだよ」
「すると、鋭角的なのをはかせた馬が、勝負だということですか」
「いや、そうとも限らんよ。馬主側の作戦で、そうやって人気をつけておいてトボける手もある。反対に今日は走らないぞという顔つきを蹄鉄に現わしておいて、目一杯やる手もあるしね。なにしろ草競馬は賞金が安いから馬主も馬券で稼がないとカイバ代も出ない。なかば公然と馬主作戦が容認されているんだよ」
「客はダマされてるわけですか」
「いや、客も知っていて、その駆け引きを逆に推察しながら買うんだ。だから予想紙の印と場内人気はべつだよ。これはそういう遊びなんだ――」
ロッカは予想紙を眺めていて、第七レースの一頭を指さした。
「おや、この馬はウチの社長の持ち馬だ。馬主欄に社長の名前が出ています」
「社長って、どこの社長?」
「元居たプロダクションの社長ですよ。今日はその社長の使いで来てるんです」
立花氏は急に、ロッカのそばに顔を寄せてきた。
「ふうん、それで、社長は何を買えといったんだね」
「いや、べつにきいてません」
「だって、代走じゃないのか」
「代走だけど、馬券は買わないです。ただレース結果を電話で報告するだけで」
「なあんだ――」
立花氏はがっかりしたらしい。
予想屋のハカセの印を見ると、八田の馬には○がついている。
「一応、ヤリの形なんだな」
と立花氏は考えこんだ。
「だが、はかせて来たってヤリとは限らない。ロッカ、社長に電話してきいてみろよ。ヤリかヤラヌか、どっちなのかを」
そういわれるとロッカもその気になって、いそいで赤電話のそばに行った。
「――モシモシ。ロッカですが、七レースに社長の馬が出ていますね。あれは、ヤリですか、どうなんですか」
「ばか、また変な気をおこしてるな。いいから黙って見ていろよ、ちゃんと日当は払うから、馬券など買うな。馬券なんか、テラ銭を払うだけばかばかしいって、この前いったろ」
「僕は買いませんよ。でも、気になるじゃないですか。教えてくださいよ」
「そんなこと俺は知らんよ。調教師にでも聞きな」
ロッカは立花氏にそのとおりを復唱した。
立花氏は、一応、買ってみようといいだして、八田の馬から流している。
「来たとき、ばかを見るからね。せっかく情報をきいたんだから」
ロッカは、結局見送った。馬主の思惑は、要するに人気と逆行させて、配当額をおいしくすることにあるのだろう。その点からすると八田の馬は、場内ですでにかなりの人気になっている感じなのである。
(――こんなもの、だましあいだからな。俺はだまされないぞ)
無尽の胴元の経験が、ロッカを少し変化させていた。競輪の車券で喰おうと思って日夜研究していたあの熱っぽさが、今はかなり失せている。
(――他人にだまされないだけじゃ駄目だ。こんな世界で生きるんなら、自分から他人をだましていかなくちゃ。――そうやって、いけないなんて理由はないんだからな)
八田の馬は連勝にからまなかった。六頭立ての四着だった。
「クーパツなのかな――」
と立花氏が呟《つぶ》やきながら、馬券を破り捨てる。
「クーパツって何ですか」
「なんだ、競輪やってて、クーパツも知らないのかね」
ロッカは八田の事務所に戻ってからも、同じ質問をしてみた。
「社長、クーパツって何ですか」
「――何故?」
「皆がよくそういってるから」
「一発やるぞ、というだろう。パツは一発のパツだ。クーは空という字。つまり空《から》八百長だな」
「すると今日、社長の馬にうすい蹄鉄をはかせたのは、あれは本当に勝たせる気だったんですか。それともクーパツですか」
「俺は知らんよ、そんなこと」
八田は笑った。
「じゃあ、社長は今日、馬券を買わなかったんですか」
「買ったさ」
「僕以外に、現場には買い係が居たんですか」
「俺は現場じゃ買わない。ノミ屋に全部いれる。お前にもいったろう。二割五分の税金は払わない。ノミ屋なら一割元引きがある」
「それで、今日は受かりましたか」
「おい、誰を見ていってるんだね。俺は馬券に手を出してカスるようなことはない」
「じゃあ、社長の馬は買わなかったんですね」
「今日は消したよ。はじめから消すつもりだった」
やっぱり、クーパツだ、とロッカは思った。
「まあいいじゃないか、そんなこと。ヒマがあるようならこれからちょいちょい頼むよ。ほい、こりゃあ駄賃だ」
一万円札が五枚、ロッカの手元に投げられた。
帰る道々、すごいなァ、とロッカは鼻をふくらませて感嘆した。
多分、現場で馬券を買わないのは、監視員の眼に不正投票とうつることを避けるためなのだろう。そのうえ、ノミ屋から買っていれば、いくら大量に買おうとも、配当額に影響することはないのだから、一石二鳥だ。
社長の馬はクーパツだったが、そうすることによって、他の馬によるパツが成立したのだ。
(――そうしちゃいけないって理由が、どこにあるんだ?)
ロッカは馬主でもないし、パツを運営するほどの金もない。
けれども、競輪にぞっこん惚れこんで、レースの結果に一喜一憂していた頃の自分が、もうすでに遠いものに思えた。
彼はアパートに戻ると、四、五冊の大学ノートを破り捨てた。四千人以上居る競輪選手の走り癖を克明に記録しておいたノートだ。
彼はしかし、競輪や競馬をやめようとは思わなかった。一度ふみこんだこの世界を捨てて、また元のしみたれた固気《かたぎ》の世界に戻る気はない。
それどころか、ギャンブルの坩堝《るつぼ》の底を泳ぎ抜いてみることに、烈しい意欲が湧いてくる。
(――よし、今に俺流の泳ぎを考えついてみせるぞ)
当面は無尽の運営と、八田の使いで貰う駄賃とで、喰うに困らない。だが無尽で先取りした金は、運営しなくては何にもならない。
ロッカは、今までとちがって、車券を買うためでなく、連日競輪や競馬に出かけて、群衆の様子をうかがっていた。
その日、立花氏とロッカは連れだって、船橋のオートレースに行った。
競輪はちょうど日程の切れ目で東京周辺はどこもやっていない。競艇は戸田が開催していたが、都心からの足の便を考えて、船橋にしたのだ。立花氏も近頃は往復に車を使わなくなっていた。
二人は一般スタンドの隅っこで陽に当りながらレースを見物していた。
「昔、川口のオートレースは走路が舗装していなくて、カントもなかったし、土煙をあげて走るんだ。カーブの所は車ごと身体を横倒しにして走る。靴から火花が散ってあれは凄かった。落車があると大怪我が出てね」
「立花さんはそんな昔から、こういうところで遊んでたんですか」
「まあ、若かったからね」
「でもその頃はお役人だったんでしょう」
「役人という肩書を背中にくっつけていくわけじゃないから」
六レースの連単になる頃、立花氏が立ちあがった。
「さあ、一丁買ってくるかな」
ロッカはうずくまったままだ。
「君はまだ見《ケン》かね」
「ええ――」
「しかし、たまに来るんじゃ、どれが勝負かわからんだろう」
「あまり、こういう勝負に興味がなくなったんですよ」
「へええ。どうして」
ロッカは黙って笑った。
立花氏は〆切間際に車券を握って戻って来、ロッカに見せた。
「それじゃあ、僕の奴が来るように祈っててくれたまえ」
「――穴だな」とロッカは車券を一枚ずつ見ながらいった。「このレースは穴っぽいんですか」
「知らん。私だって久しぶりだ。出目を見ててね、ケントク買いをしてきたんだ」
朝からの出目は、2→1、1→5、3→5、2→3、3→6。
「ホラ、数字がひとつだけ重なるだろう。しかも斜めが多い。日によって出目のクセがあるんだ。だから今度は6の頭流し」
「科学的根拠はないんでしょう」
「科学的根拠なんか、どんな買い方だってないさ」
「まあ、そうですね」
といってから、ロッカは思いきって、立花氏に相談してみようと思っていたことを切りだした。
「立花さんの住んでる団地は大きいんでしょう」
「ああ、まるでシベリヤにできた都市みたいだよ」
「そこに僕、もぐりこめませんかね」
「ほう――」
「もちろん正式にじゃなくていいんです。又貸ししたい人も居るだろうし、事情で一時留守番がほしい人も居るでしょう」
「しかし、団地なら申しこめば、近頃はそんなに競争率もすごくないぜ」
「でも、どうせなら立花さんの団地がいいんですよ。立花さんは団地自治会の委員なんでしょう。いつかそういってましたね」
「――君は独身だろ」
「ええ。でも正規でなければ問題ないでしょ。立花さんの顔で、そういうところを紹介していただけませんか」
「あの団地は、方々のギャンブル場に行くのには便利とはいえないぜ」
「ギャンブル場がよいはもう足を洗おうかとも思ってるんです」
「ほう――」
六レースは、重ハンデの本命が簡単に追いこんで、4→1で低配当だった。
立花氏はしけた顔つきで車券を破り捨てた。
「やっぱり駄目かな。出目も当てにならんね」
「実は僕、あの大きな団地に住みこめれば、無尽のグループをもっと開拓できると思ったんです。それに、もうひとつ、だんだん顔見知りをふやして、団地の中の競馬好きを集めて、ノミ屋をやろうかと思って」
「おやおや。ギャンブル場がよいをやめて、固気《かたぎ》になるかと思ったが」
「お礼をしますよ。軌道に乗ったら分《ぶ》を定めてお礼します。当面は資金がそうありませんが、団地サラリーマンの土曜日曜の遊びの相手ぐらいなら、できると思います。一方で無尽をやって、初回の金を落してもらうわけですから、いうならば、彼等の金を僕の手許にプールしておいて、その金を資本に商売するようなもんですよ」
モーターの爆音をあげて、一車ずつ試走をしている。隣りの客はストップウォッチを握って、一車ずつのラップタイムをつけている。
「ねえ、どうですか。今の話」
試走が終ったところで、ロッカはまた切りだした。
「あんなに大きな団地を、放っておく手はありません。本当は立花さんにすすめたいけれど、まさか立花さんがあの団地でノミ屋をやるわけにはいかんでしょう。僕が代りにやると考えてくださっても結構です。なんなら、表面に出ない共同資本でも――」
「君もなかなか、隅におけないことを考えるね」
といって立花氏は笑った。
「僕はむろん、参加するわけにはいかないが、その話は知らんことにして、誰か部屋を又貸ししそうな人をきいてあげてもいいよ」
「おねがいします。僕も、せっかくこの道をおぼえたんだから、一発やりたいですよ」
(――そうしちゃいけないって理由が、どこにあるんだ!)
ロッカは自分に鞭をいれるように、内心でまたそう叫んでいた。
「しかし君、無尽も、ノミ屋も、法律違反だぜ。そのことは承知なんだろうね」
立花氏はそういいながら、実は自分こそその業務をやってみる必要に迫られた男であることを、あらためて痛感していた。
ストップウォッチを握って熱心に試走を見ていた隣りの客が、
「駄目だ。3番車のタイムはわるいな」
と誰にともなくいい捨てて、穴場の方に立ちあがっていった。
3番車はこのレースで、かんかんの本命になっている遠征の格上位車である。
オートレースは、エンジンの調子を見るうえで試走は大事で、スピードの乗り具合、ダッシュのかかり具合はわりに正直にレースに反映するとみてよい。
が、浦和のハカセと同じく、そこにまたどんな人為的な作戦が含まれているかわからない。
隣りの客が立ったあとには、破き捨てられた車券が累々《るいるい》と転がっている。そういえば彼はまだ一度も、快哉を叫んだことがない。
ロッカはそう気がつくと、本能的に立ちあがって穴場の方に歩きだしていた。
右往左往する人影の中に、隣りの男を探した。
いい案配に、それほど混んでも居ないので、そのおっさんはすぐみつかった。
彼は1→4の穴場から、1→5、1→6と買っていっているところだった。そして2の穴場に移って2→1から2→4、2→5、2→6、と買う。本命の3枠は見向きもせずに飛ばし、4から1256と4点、5から1246と4点、同じように6から1245と買った。
要するに3がからんだ車券を皆捨てているのだ。しかし、そこでじっと考えて、3からうす目の3→1、3→2、と買った。
本命の3→4の穴場では長いこと考えていたが通りすぎた。
そのかわり5→3、6→3、と買い、席に戻っていった。
穴ならば、なんでも持っているということになる。もう残り一レースを余すのみとなっていて、彼もなんとか当りたいのであろう。
しかしまた、こういうときこそ皮肉にも本命が出るのだ。
「立花さん、なんと買いました?」
「3→5、3→6、それからその裏目が押さえ」
ロッカは隣りの客と立花氏と、二人ながら自分の客であればよいと思った。
二人の買いを受けていたら、今日なんかふとい儲けだった、と思う。ノミたくて喉から手が出そうだ。
そうしてまた一度そういう気になると、車券を一枚も買わなくたってとても面白く見ていられる。
号砲と同時にスタートし、前方スタート位置から飛び出した軽ハンデの二車がまず逃げる。それをはるか後方からスタートした重ハンデの3番が、コーナーを利用して徐々に一車ずつ追込んでいくのである。
軽ハンデ逃げ切れば穴。重ハンデ追込めば本命レース。
ところが、一周半前の三コーナーで、3番は内側の車に振られ、大きく脱落した。ロッカはいそがしく予想紙と走路を交互に眺める。
3番が消えかかると同時に、場内からオーッという溜息が洩れる。
1番の軽ハンデとそれに続いた2番が相変らず先行している。
「――見なさい。3番車は不調といったんだ、こりゃァ穴だ!」
と隣りのおっさんが叫んでいる。
総立ちになったスタンドの、ウオーッという溜息のうちに、1番車と2番車がゴールした。
「万だぞ、こりゃァ――!」
隣りのおっさんが、くしゃくしゃに握りしめたたくさんの車券を一枚一枚調べている。なにしろ彼は3番を蹴とばして、穴という穴をみんな買っているはずなのだ。
ところが、おっさんが急に静まった。彼はゆっくりと、手の中の車券を見なおしはじめた。
ロッカも、穴場で後をつけまわって知っているから、熱心にのぞきこんだ。
1の部は、1→6、1→5、1→4、1→3、それだけ。1→2がない。
3をのぞいて、2からも4からも、5も6も、最低一枚は持っているはずである。
それが1→2だけ、一枚もないのだ。
彼は同じ動作と知りつつ、また一枚一枚丹念に点検している。
ロッカが彼を追って穴場の方に行ったとき、たしかおっさんは、1→4の穴場に居た。それから、1→5、1→6、と移動して買っていったのだ。
その動きから1→2、1→3は買ったとばかり思っていたが、そういえば買ったところをこの眼で見ていない。
おっさんは、あとで買い足したが、3の二着車券もはじめは蹴っていた。だから1→3は、あとからの2→3、5→3、6→3とともに(4→3は本命の裏なので買っていない)1の二着車券として一緒にあるべきなのに、最初の1流し車券の中にある。
察するに、おっさんは、1→2を買ったつもりで、隣りの1→3を買ってしまったのだろう。
場内アナウンスが、1→2の確定を知らせ、七千三百八十円、という配当額を告げている。
おっさんがそれを、呆然とした表情できいていた。
しかしロッカは、ツイていない彼の買い方を参考にするために後をつけ廻したのだ。以前のように車券で生きようと思っていた頃なら、すかさず最初からマークしていて、1→2だけ抜かしている事実をつかんでいただろう。
そうしてロッカは、試しに1→2だけは買っていただろう。
まァしかし、それも特に口惜しくはない。というのは、左隣りの立花氏、右隣りのおっさん、なんとなく落ち目の二人が何十通りも車券を買っていて、それでもザルの目から洩れていくように当らない。そのおそろしさをまざまざと見たからだ。
車券買いはおそろしい。逆に、やるなら、カモを集めてノムに限る。もっともこのロッカの考えの中には、カモだけが集まってくるのかどうか、それが確かめられていなかったが。
立花氏と一緒におけら街道を歩いて、船橋駅から国電に乗った。
オートレース帰りと一見わかる客と一緒にどやどやと乗りこんだ立花氏が、びくっ、と一瞬、身体をとめた。
「――どうしたんですか」
とロッカが小声できいた。
「いや――」
立花氏は苦笑し、急に混んだ車内を、少しずつ移動していった。
「わたしはべつに、オートでもボートでも競輪でも、公認されたギャンブル遊びをわるいことだなんて思ってないがね――」
と立花氏は、やや声をひそませるように、ロッカにいった。
「しかし、妙なもので、ああいうところで穴場を駈けまわっているときに、子供たちとばったり会う夢を見るんだよ――」
「ああ、僕も見ますよ。競輪場に入ろうとすると、お袋に呼びとめられるんです。お袋は出稼ぎで、付近の道路のごみを整理してるんだ――」
「それもわかるね。しかし、親御さんよりもね、こういうことは子供には見られたくないものでね。どうしてかな、やっぱり怠けているような気がしてるからだな」
ロッカは笑った。彼はべつに、怠けているという意識はなかったけれど――。
「何度も何度も、少しずつシチュエーションが変って、つまりは同じ夢を見るんだ。大穴が当って、思わず、ばんざい! と叫んで飛びあがると、うしろの席に娘が居るのを見つける――」
「ははは――」
「今、あっちに居るんだよ。その娘が」
「え? どこに?」
「同じ車の中だ。今はだいぶ離れてるがね」
「それで、向こうも気がついたんですか」
「さァ、わからない――」
「オートレースの帰りとは思わないでしょう。あそこから乗ったって、べつの用事の人がたくさん居るし――」
立花氏は返事をしない。
ロッカも、今さらのように自分の服装を見直した。彼にとっては普通の恰好で、普通にふるまっているにすぎないが、元役人の立花氏の伴《つ》れとしては、年齢といい、風態《ふうてい》といい、奇妙な感じに見えるかもしれない。
「事務所に戻るコースをとらなければならないな――」
立花氏はそういっただけで、あとはずっと黙っていた。
秋葉原で、たくさんの乗客と一緒にホームにおりた。そうして乗りかえのための階段をおりようとすると、
「――おとうさま」
悪夢のように、背後から声をかけられた。
しかし立花氏はもう、わりに冷静だった。
「ああ、美津子、どうしたのだ。どこへ行ったんだね」
「千葉大でフランスの偉い作家の講演会があったの」
「お前はフランス語がそんなに達者だったかね」
「もちろん、通訳がつくのよ」
「うん。それで、家へ帰るんじゃないのか」
「ええ、これから家庭教師のバイトよ」
美津子はチラとロッカを見、きわめて自然にすぐ眼をそらした。
で、おとうさまは――? という質問を美津子はしなかった。
そのかわり、こういった。
「今夜は、おそくなるんですか」
「あ、いや、そうだね、事務所に寄ってすぐに帰る。たまには家で飯を喰おう」
ロッカは気をきかして、社長、といった。いかにも車内で会った知人のような感じで、
「それじゃこれで――」
「ああ、どうも――」
二人は右と左に別れる。
「ところで美津子、団地で、又貸しをしたい人が居るかね」
「――ついこの間も、隣りの棟の加藤さんが転勤で、しばらく誰かに貸したいというようなことをいってらしたけど、何故?」
「借りたいという人が居るから」
「あら、それじゃちょうどいいわね。お知り合い?」
「――今の男だ」
美津子は返事をしないで黙っていた。そうして父親と別れてちょうど来た内廻りの山手線に乗りこんだ。
――あの男の人、どういう人かしら。
特別に眉をひそめるような点があったわけではない。街にたくさん居る若い人のようだ。
けれども、どこか崩れている。崩れているというより、暗闇で身がまえているようなとげとげしいものがあって、なんだか安心できない。
若い娘の直感で、美津子はロッカに好い印象を持たなかった。
しかし、あの若者がどんな人であろうと、部屋を世話するというだけならなんということもない。
問題は、父親とどういう間柄なのか、だ。
ただの顔見知りだろうか。
父親が若い人と接触する機会はいろいろとあって不思議はないけれども、ただの顔見知りが、電車の中でいきなり部屋の相談をしたり、また父親もその件をすぐに娘に糾したりするだろうか。
美津子の顔のすぐ前に、競艇の車内広告があった。
父親の脱ぎ捨てた上衣のポケットから、ときどき馬券らしいものが出てくることがある。
美津子は小さいときから、父親がその職業に似げなくいろいろな遊びをすることを知っていたし、ずっと以前、競馬場に連れていってもらったこともある。
競馬に行くくらいでいまさらおどろきはしない。
けれども、これも一種の勘で、なんにも確たる理由はないのだが、近頃の父親が、なにか苦しみなやんでいるような気がしてしかたがないのである。
事務所の経営が思わしくないことでもあって、一人でじたばたとしているのではないか。
中小企業の経営者が悶々とした末に自殺したりするケースは新聞の上だけでも珍らしくない。
父親に感ずる不可解な部分に、娘として深入りできず、なんの手助けにもならず、逆に穿鑿《せんさく》するような眼にひとりでになっていくだけなのが、悲しく思えてならなかった。
老 骨
ある夏の朝、中野刑務所の裏門を、もの慣れた足どりで出てきた一人の老人があった。
門のところまで送ってきた所員に対して、振り向かずに片手をあげて別れを告げ、老人は少し歩いて煙草屋をみつけると、ポケットに手を突っこんで小銭を探した。
そこに紫色のスポーツカーが近づいてきた。
「波目井の爺つぁんですね」
助手台から声がかかる。
老人は渋い表情で振り返った。
「お勤めごくろうさん。まァ乗ってください――」
「あんたは誰――?」
「和合克治です」
「和合――?」
「まァとにかく乗ってください。べつに人さらいじゃありません」
和合はうしろ手でドアをあけて、老人を招じ入れた。そうしてふところから封筒を出して渡した。
「ツケですよ」
「ほう、ツケというと、競馬のツケかね」
老人はゆっくりと封筒を開いて中の札をとりだし、枚数をかぞえた。
「こりゃァまァ几帳面なことだ。競馬のツケを払いに裏門で待っていてくれたのかね」
「うちはどんな場合でも信用第一なんですのよ。ツケをおくらしたりはしないんです」
ゲイボーイのベベが運転しながらいう。
「当り三十六万八千円、まちがいないですね」
「たしかに――」
「もっともね――」と和合。「刑務所に居るお客で、トータルプラスで出てくる人はめったに居ませんや。なにしろ皆、それ相当に期間が長いからね」
「それじゃァ、マイナスしていたら、やっぱり迎えに来て取るのかね」
「まさか。洋服屋の月賦じゃあるまいし。払いはお客が落ちついてからでいいんですよ」
「煙草をくれんか」
「さァどうぞ。お客さんは三週目で、もういかんと思ったがね。ドリンク(ノミ屋)やってるとそいつはわかりまさァ。一週勝つ客は怖くない。二週続けて勝つ客もたくさん居る。だが、三週続けて勝たれたら、トータルで持ってかれるのを覚悟しますよ」
「刑務所は不便なところで、予想紙もおおっぴらに読めないんだ。看守が普通の新聞の切抜きをこっそり見せてくれるだけだからね。それもメインレースだけさ。わしは昔からメインの重賞などはやらん男だった。ありゃァ素人が買うレースだからな。だから小遣銭しか賭けられん。野球はその点、朝刊だけ見てりゃいいのだから皆賭けてるがね。わしは野球は趣味に合わない。遊ぶなら競馬さ」
「まァいいですよ。お目にかかって光栄だ。波目井鉄五郎、昔から名前だけはきいていたパツ師だが、もっといかつい人かと思ったよ」
「ところで、わしはもういいよ。どこか国電の駅でおろしてもらおう」
「いいじゃないですか。べつにあてはないんでしょう。精進落しに昼飯でも喰いましょう」
三人は新宿の高層ビルの前に車をとめて、レストランに入った。
「何にします」
「まず、ワインを貰おう。赤がいいな。ボジョレの、喉に当らない柔らかい奴を」
「それから――?」
「肉だ。もっとも歯がわるいんでね。噛む奴は苦手さ。生肉があったら」
「刑務所は何回目なんですか」
とベベ。
「忘れた。もっともわしのはそう長いこと入っていないからな。ちょこちょこ、出たり入ったり、おちつかんよ。定期券があれば便利だが」
「休養になるでしょう」
「そうだな。しかし年をとると、寒い」
波目井老人は、きょとんとした表情でワインの赤を呑んだ。
「世間はどうだね。あいかわらず不景気か」
「景気はもう永久によくならないでしょう」
「結構だ。技術屋(ゴト師)は不景気に限るよ」
「ところで、今夜は早寝しますか」
「早寝はあきたよ。刑務所じゃ毎晩早寝だ」
「それじゃァ遊びに行きますか。ええと、今夜は赤坂のホテルでポーカーがひとつ、六本木のマンションで手ホンビキが一つ、どっちがいいですか」
「ゼニがない」
「爺つぁんが何をいうんです。廻銭で遊ぶんでしょ。俺たちと行けば保証はつきます」
「あんたは親切だな。何故だい」
「先人に学ばなくちゃ」
「わしなんか古くて駄目だよ。参考にならん」
「もちろん真似はしませんよ。研究材料です。それに、爺つぁんを味方にしたい」
「何故――」
「俺のところは手傷を受けない。他のノミ屋をコロして貰う」
「ははは、そううまくはいくもんか。勝ち負けなんか容易につくもんじゃない。皆、しのいでいくだけだ。しのぎきれなくなると刑務所に避難するんだから」
「刑務所に行かないとどうなります」
「共倒れだな。皆が疲弊して力が鈍る」
「すると勝つ奴は居ませんか」
「本人の受けとり方次第だが、どうもそうらしいな。勝つ奴は居ない。負ける奴と、負けない奴が居るだけだ」
「爺つぁんは負けなかったんでしょう」
「そうかもしれないが、成功者に見えるかね」
「ある意味でね」
「お前さんもばくちでしのいでいくつもりか」
「逆ですよ。俺はドリンク業だ。ばくちを喰うんです。ただしかしばくちで勝つ人が見えないと都合がわるい。誰もばくちをやらなくなるから」
「ばくちを喰うというと、組織かね」
「まァ組織にしたいですね。しかしやくざともちがいます」
「わしも刑務所で考えたが、今度は少し別のことをやる。余生をばくちでないことに使いたい」
波目井鉄五郎はタルタルステーキをきれいにフォークですくいとり、ワインで流しこむように腹の中に入れた。
「食後のコーヒーを一杯貰いたいな。うんと濃い奴を」
「エキスプレッソを――」
と和合がボーイにいう。
「ばくち以外のことに余生を使うというと、何をします」
「年齢的にもう打ち止めだろう。ばくちじゃ、よくいって負けないというだけだから、老人にはつらい。勝てることをやって楽に暮したいね」
「サラリーマンにでもなるか」
「できればな――」
と老人も笑った。
「しかし、爺つぁんは若々しいですよ。生肉にコーヒーだ。若い連中より精をつけてる」
「わし等遊び人は他人に頼れないからな。他人のためになることを何もしてないんだから。自分で自分の仕末をつけなきゃならん。そうだ、いい病院を知らんかね。近いうちにドックに入りたい」
「まかしといてください。これからは遊び人も団結しなくちゃいけない。俺、皆のお役に立ちますよ」
「フフフ、選挙にでも出る気かね」
「いや、この道で勝ち抜きたいからですよ。爺つぁんがいうとおり一人でばくちを打っているだけじゃ世の中に勝てやしない。結局周囲に吸われちゃうんですからね。俺は遊びながら、この道を企業にしていきたいんです」
「どうやって――?」
「まず人を集めますよ。この道でしのいできた大勢の人材を。企業はオーケストラみたいなものでね、腕っこきの演奏家が集まって、チームワークを固くしなくちゃ成功しません」
「君の前途は暗いな」
「そうですか」
「もっとも、我々の前途はどうせ暗いが。わしは一人でやる」
「フリーランサーは一人でやるより仕方がない、なんて思ってるんですか」
「この道はソロ(独奏)だ。ハーモニーじゃない。そして、ソロというのは個の主張さ。誰とも提携できない。君の思いつきが絵に描いた餅になる第一の理由だ」
「それが昔の人の思いこみなんですよ。ジャズだって昔はせいぜい一人か、数人のブラスバンドだったのが、今は立派にハーモナイズされているでしょう。約束事を重んじて全体の調和を保ち、しかもソロのパートでは自由に個の主張をするんです」
「第二に人が集まらんね。人材というものは皆、自分以上に信用できるものはないと思っている」
「そうとも限りませんよ。大きな力を持っている男が居れば」
「それが、君かね」
「ええそうです。俺です。まず、力があって、それともうひとつ、他人を包容できる大きさがあること。この二つが両方なくちゃいけない。昔はこんな男はこの道に入ってこなかったんだが、今はちがいます。だって有望企業なんだから」
「ふうん、それじゃまず、君の力を見てみようか。今夜ひとつ、どこかに行ってみよう」
と老人はいった。
昔の作法どおり、
「はいります――」
小声でいって、背中に廻した片手でフダをくり、膝前においてあるカミシタ(手拭い)の中にいれた。
胴は商店主らしい四十男だ。
十二、三人の子方が、咳ひとつせず、じっと胴の動きに視線を集めている。手ホンビキという遊びは1から6までの手フダのうち、どれか一枚を胴がえらぶ。そのえらんだフダを子方が当てる、というだけの単純な遊びに見えて、心理のかけひきが重なり、意外に考える部分が多い。と同時に、動作のはしばしにその特長をとらえようとして、皆、一心に胴の動きを追う。この一瞬はいつも静寂の気がたちこめる。
「さ、はいりました、さくさく張ってください――」
「胴前はたっぷりあるよ。一番、取りにいきましょう」
胴の両側の合力《ごうりき》の声に釣られて、子方がそれぞれフダをおろし、金を張る。
やがて、
「はい、手をとめて。――勝負」
の声でカミシタがあけられる。
波目井鉄五郎は隣りに坐っている和合に、そっといった。
「見切りを見せてごらん」
見切りとは、手の中に残した二枚のフダである。計六枚のうち、普通は四枚を張り、二枚を捨てて手に残す。むろん、四枚もおく位置によって配当が変る。
和合は見切りを老人に見せた。
二と六だった。
老人も自分の見切りを見せる。やはり二と六である。
「――勝負!」
の声で、和合の中(二番手)、老人の大(一番手)が当った。配当は老人が一・二倍、和合が〇・六倍で少しちがうが、考え方の筋としては同じなのである。
その次も、老人は見切りを見せろといった。
「試験してるんだな」
と和合は笑う。
「一点は見切り。もう一点は突っつきでわかりません」
突っつきとは一点をのぞいて他の五点をシャッフルして張る。四枚おくので、自動的に五枚目は見切りのフダになるわけだ。
老人の見切りは六と二、前回と同じだ。
和合の方は六が見切り。もう一点は三。
が、勝負、であけた胴の目は、三だった。
三は老人の六に張られている。
和合はちょっと顔をしかめて、
「突っつきで突きあがっちゃったな、ツイてない」
「チョキチョキ(突っつき)をしないで、一枚ずつ張ってくれ。君の考え方を見てるんだから」
と老人がいう。
「いいですよ、それにしても」
と和合がいった。
「よく開きますね。大ばっかり」
「刑務所でしばらく運を使わなかったからな」
胴の順番が廻って、波目井老人の番が来た。
「じゃ、一番ひかせてもらうか。ひさしぶりだが――」
新規の初ヅナ(一番最初に出す目)二番ヅナ(次に出す目)などは、特に初手合せの胴師なんかだと、検討するデータがないので、ほとんど偶然の勝負といってもよい。
しかしまた、手ホンビキという遊びには、その夜を通じて、胴と子がかけひきしあって築いてきたストーリイが積み重ねられているもので、それはメンバー一人一人の頭にかっちりおさまっている。
1から6まで、数字自体は同じ単数だけれども、戦いのプロセスの中では、1も2も3も、それぞれ独自の印象になっている。
その印象を裏切っていくか、裏切ると見せて踏襲していくか、あるいはまた、ストーリイにまったく関係しない新らしい打ち出し方をしていくか、いずれにしてもイニシアチブをとる胴師は、ある選択をしなくてはならない。
波目井鉄五郎の胴は、初ヅナが2、二番ヅナが5。いずれも当面の子方の印象としては強い存在の数ではなかった。
初顔の場で、用心深く、無難なところを引いていったというべきであろう。胴前に出した所定の金額がほとんど増えも減りもしていない。
次の戻り(ひとつ前の目に戻ること。この場合は2)がいい目になった。しかし次に新目に飛んだ6がやや悪かった。
すでにモク(目安札、出目表のようなもの)が開いていて、皆の視線がモクの上に集まっている。数字の性格もそうだが、むしろ目安札の順列の位置によって次の目を推察していくことの方が濃い。
鉄五郎は、その目安札の位置でいえば、奥に当る部分、すなわちあまり出さなかった目を次々と引いた。今出した目は目安札の一番右端につける。したがって左端は競馬でいえば死に目に当るわけである。
ロッカが元所属していたプロダクションの八田社長が、よく開いていた。
彼は顔面を紅潮させて、大きく張りこんでくる。
とおり――! という声が飛んだ。とおり、とは八田の張りと同じに乗ったという意味である。
「はい、とおり、聞きました。合切《がつさい》ですね」
「そう、合切――!」
和合は、鉄五郎を連れてきた立場上、側《がわ》(子方のこと)を遠慮して、合力《ごうりき》(出方のこと)を買って出ている。
「大中逆に、半どおり――!」
こういう声も飛ぶ。
八田の張った大と中を逆にして八田の張り額の半分を乗るという意味である。
「君は、浜松ルールというのを知っとるかね」
じっと瞑目していた鉄五郎が、かたわらの和合に、小声でいった。
「浜松ルール――?」
「昔、流行《はや》ったんだ。浜松は怖いところでね、あそこへ行くとあのルールで皆コロされる。要するにスイチしか張れないのさ」
スイチとは、一点張りのこと。六点の目のうち、一点しか張れないわけで、そのかわり配当も四・五倍と大きい。
「どうだい、この目――」
と鉄五郎がいった。
「君も、別計算で、張ってみないかい」
「浜松ルールで――?」
「ああ――」
鉄五郎は眼で笑った。が、その眼が和合の力を試してやろうという挑戦の気で光っている。
和合は、こんなときに引く男ではない。
「胴前(胴を引くために事前に出す所定の金。胴は所定の金額の範囲内で側師と戦かう)とは別計算ですね」
「もちろん。二人だけの別ウマだな」
スイチ(一点張り)だけしか張れない浜松ルールとは、普通に考えれば挑戦された方が圧倒的に分がわるい。
しかし、この場合、胴は、眼の前にたくさん並んだ側師《がわし》(子方のこと)をおとすために、工夫して目をえらんでいるのだ。
しかも、当りに当っている八田をおとすために。
こういう場合、誰かが八田にとおりをかけてくることは眼に見えているので、なおのこと八田をマークしていっているだろう。
この遊びも手なれてくると、眺めているだけで、子方の張りがどういう考えに基づいて、どういう順序になっているか、推察がついてくるのだ。
多くの側師は、四点張りで入ってきている。
勝負の声とともに、側師は張った四点の中に当り札があれば、それだけ開く。他は、見せない。
が、そのフダがその位置にあると見えただけで、セオリーの上からいくと、伏せたフダが大体はわかる。
最初から和合一人を目標にして目をいれられ、一点張りでこいといわれたのならわからないが、この場合は推察の材料はかなりある。
問題は、鉄五郎が挑戦してきた以上、八田をおとす目的の目なのか、そう見せかけて和合をひっかける目なのか、どっちなのだろうか。
和合は素直に、八田をおとすための目と考えた。金額がその方が大きい。
和合に負ければ、鉄五郎としては恰好がわるい。側師の方を犠牲にしても、ハメ手でくるかと考えたいところだが、ばくち打ちならば、名誉よりも、金をとるはずだと思った。
和合は、両手でチョキチョキとフダをくり、裏向きの一枚を、中央の盆茣蓙《ぼんござ》の上に投げだした。
「それじゃァ、別計算で、十万、張らしてもらいます」
「はい、聞いた――」
鉄五郎がうなずいた。
「――勝負!」
という声とともに、作法どおり鉄五郎は目安札の方へ手を出さずに、あっさりとカミシタ(目を入れた手拭い)に手を伸ばした。
「根です。根の四――!」
和合はそういって側の気配を見た。根とは前回と同じ目の意味である。
八田が落ち、側の大半も落ちて張り金がぞろぞろと胴前に集まった。鉄五郎は和合の気配を眺めている。
「どうかね――」と鉄五郎がいった。
「開けてみてください――」と和合が答える。
それで鉄五郎が破顔一笑した。
「そうか、しくじったか」
開けてみるまでもなかったが、和合が伏せて投げだしたフダは、四。鉄五郎の目も四の根。見事に一致している。
鉄五郎は側師《がわし》の方に向かって軽く一礼し、
「わるいことしました。これでいったん洗わしてもらいます」
といった。そうして胴前の金をかき集めてズク(十万円の束)をつくり、テラを切ったあとで、和合の膝前に四十五万円を投げた。
「はい、おめでとうさん――」
それから鉄五郎は隅の方にしりぞいて、寿司の折りをあけてひとつふたつつまみ、熱い茶をすすった。
「爺つぁん、坐る場所なら空いてますよ――」
と和合がいっても、
「休憩だよ。年老《としよ》りはそうは働らけんて」
笑って、そのまま加わろうとしない。さりげなく一座のなりゆきを隅から眺めている。
いっとき破竹の勢いで開いていた八田が、鉄五郎の洗い目あたりを境いに落ちはじめ、かわってそれまでやや不調に見えた和合が上昇しはじめていた。
何人か胴が移って、和合が胴座に坐ったとき、寝っ転がっていた鉄五郎がむっくり起きあがった。
和合がいたずらっぽい眼を、鉄五郎に向けた。
その挑戦を受けるようにして、
「どれ、それじゃァ復帰するか――」
側《がわ》の空いたところに坐りこんだが、すぐには張らず、楊枝をせせりながらぼんやりしている。
和合の初ヅナは、五。
二番ヅナは、六。
いかにも上り目の親らしく、順調に胴前が増えている。
三番目の、一、は少しわるい目になったが、次の目に賭けて、鉄五郎がフダをおろしはじめた。
五、六、一とストレートに新目三本をひいて、次はいったん旧目に戻るか。それとも依然新目の二、三、四、あたりに手が伸びるか。
ここいらでいったん戻っておくのが常道に思えるけれども、どう出てくるかわからない。張る方としては、ちょっとまだ勝負をかけにくいところである。
鉄五郎は慎重な手つきで、定めどおりの形に四枚、伏せたフダを並べ、軸に十万円の金をおいた。
「ああ、それからね――」
と彼は胴座の和合にいった。
「さっきのお返しだ。別計算でスイチをいっていいかね」
「そろそろ来る頃だと思った。どうぞ――」
鉄五郎は別張りで、フダを一枚伏せて中央にほうった。
「別計算で、スイチ十万――」
「はい、聞きました――」
勝負の声で、和合はぐっと眼に力をいれ、新目の三をひいた。
そのときもう鉄五郎の手が伸びて、中央の一枚を開けていた。
鉄五郎のスイチは、むろん親と同じく、三。
しかしそれだけではなかった。彼の膝前に張ってあった四枚のフダを、全部開けてしまった。四枚すべて、三ばかりだった。
四点張りのように見せかけて、結局これもスイチ(一点張り)と同じことなのである。
和合は苦笑した。
「なんだ、一番わるいツナひいちゃったのか」
彼は素直に、自分の財布から四十五万円、胴前から四十五万円、計九十万円を鉄五郎の膝前に投げた。
「はい、倍づけでお返しします」
「ありがとう。なに、預かるだけだよ」
なかなか当てにくい目であったはずだが、鉄五郎が喰った四十五万が影響して、和合の胴前は赤字になり、負け目になっていた。和合はしかし、屈せずに軽々と次の目を入れた。
鉄五郎は前と同じ形に四点を膝前に伏せておいてから和合にいった。
「もう一番、スイチを受ける気があるかね」
「ああ、いらっしゃい。なんぼでも受けますよ」
「それじゃ、同じく十万――」
和合は今度こそ力をこめて、あくまで新目の二をひき、上眼使いに鉄五郎の眼を見た。
そのときすでに、スイチの方が開けられて、二だった。
そうして鉄五郎は四点張りの方も開けた。これもオール二。
和合はちょっとけわしい眼になり、場主の方に顔を向けた。
「ちょっと、百、放ってくれないか」
すぐに百万円のズクが飛んでくる。廻銭である。
和合の胴は結局潰れた。
側《がわ》に戻ってから、和合は鉄五郎に小声でいった。
「うまくひっかかったな」
「わしは何もひっかけんよ」
「いや、さっきとは条件がちがうでしょ。爺つぁんは、ここで張ってみるかと指定してきた。俺の胴のときは爺つぁんがいつ張ってくるかわからないから、遊びヅナが振れなかった。俺の条件の方が不利だ」
「じゃ、受けなければいい」
「そんな情のわるいことできないでしょ。さっき、取ってるんだから」
「受けなければいいんだよ。勝負に情もクソもあるものか」
「いや、俺は受けますよ。挑戦されれば――」
「しかし、二度目は、なぜ、受けたね。俺なら絶対に受けないよ。俺はスイチを当てて気をよくしてるんだ。当てた奴の眼は見える。そんな相手の気合を受ける奴が居るもんか」
「二度目は、正直、当てられると思った」
「じゃ、受けるな」
「俺は今まで、受けないで謝まったことなんかない。ドリンク(ノミ屋)で生きてるんだ。俺が受けなけりゃ、取り柄はないよ」
「だが、受けちゃいかん。君はそれで死ぬよ」
「うるさいな。これが俺の生き方なんだよ」
朝になって、灯洩れを防ぐために窓にはりつけてあった襖をとりはずして陽光をいれたとき、部屋の中には八人ほどの客が残っていた。
昔から、上出来の者は残っていない、といわれているように、敗者戦の様相を呈しており、その中から和合がやっと胴を実らせて、浮きにまわったようだった。
もっともこの遊び、テラ銭が高いので、結局は場主の方に金が流れこんでしまい、十五人客が居るとすれば、明瞭に勝ったと見えるのは二人ほどで、あとは大なり小なり負けになってしまう。
当夜の勝ち組は、関西弁の四十男と、波目井鉄五郎、これは誰の眼にもあきらかだったが、関西弁は夜明け前に帰り、鉄五郎は隣室の長椅子でぐうぐう眠っていた。
「和合ちゃん、うわになっただろう」
と八田が疲れた声を出した。
「うーん、どうかな。行って来いぐらいじゃないですか」
「いや、百近くいいんじゃないかね」
「冗談じゃない。それなら今の胴をもっと前に洗ってますよ。辛抱して原点まで戻したつもりなんだから」
「今の胴、百六十のたちだろう。いやァ、俺の見るところ、百はうわだよ」
「いいよ、そう思ってくださいな、勝った勝ったっていわれて税金がかかるわけじゃねえんだから」
「和合の克ちゃんがそんなわけねえな。この人は入ってきて三十分ほどで、もうこっちのポケットに五十万か百万、ギってるよ」
うわっと笑声があがる。
「連れの爺つぁんは、五百万もよかったかな」
「そうですかね」
「どこの人だい」
「面白い人ですよ、馬券の玄人なんだが、八田さん知らねえかな。波目井の爺つぁんというんだが」
「波目井、すると、グズ鉄、あれがかい!」
八田はちょっと顔をひきしめた。
「そいつぁヤバい。この人は見張りがついてるよ」
指で小さな円を作って額のところに持っていき、
「大物だからね。連れてきちゃ駄目だよ。こんなのが出入りしたらすぐにガサ(手入れ)を喰っちまう」
「大丈夫でしょう。昨日出てきたばかりだから」
「昨日出てきたばかりって、俺たちは固気でとおってるんだからねえ」
「そんなに大物なのかい」
とタクシイ会社の社長が好奇心に燃えて質問する。
「もう死んじまったがね、ホラ、大物馬主の浪川ね、ホラ、名前だけは皆知ってるだろう。あの人は徒手空拳、ばくちと詐欺だけでつかんだ銭でウマを買って、一代の馬主王になった立志伝中の人だ。あの浪川さんが死んだとき、なんにも残ってなかったっていう。この爺つぁんに負けちまったって噂だ。俺がこの眼で見たわけじゃないがね」
「やっぱり、ホンビキかね」
「いや、最初はポーカーでパツ一喰ったって話だが――」
「グズ鉄の伝説は、まだいろいろあるんだよ。たしかに馬券師でとおっているが、実体はそんな簡単なもんじゃないはずだよ」
「俺はドリンク(ノミ屋)の連中から名前をよくきいてたんだ」
と和合がいった。
「ノミ屋ゴロシで有名なんだよなァ、このおっさん。しかしホンビキがこう使えるとは思わなかったね。まァいいじゃないですか。長年の敢闘をたたえて、我々で文化勲章を送ったようなもんだ」
「賞金五百万か――」
「でも、そうやって稼いだ金はどうしたんだろう。見たところ、御殿に住んでるようにも思えないが」
とタクシイ屋。
「がっちり貯めているんだぜ。ばくち打ちによくあるじゃねえか。小さなアパートに住んで、現金だけしこたま持ってるのが。押入れをあけると、ズク(札束)でぎっしり埋まってるんだ」
「どうかな。悪銭身につかずって女にでもずるずる持ってかれてるんだろう」
「女って感じじゃねえな」
「外見でわかるもんか。何喰わぬ様子で、根っこ、根っこ、とくるんだから」
「――そうか、まだ生きてたんだなァ」
隣室の鼾《いびき》がいつのまにかやんでいた。
と思ったらスラリと襖があいて寝起きの顔の鉄五郎がフラフラと出てきた。
「すんません、お酒、冷やでいっぱいください」
湯呑み茶碗をぐっと呑み干して、
「おや、もう終ったんですか」
「ああ、爺つぁんの優勝だよ」
「文化勲章だ」
「――年とるといけねえな、身体が駄目になった。まだ戦かうつもりだったんだが、勝ち寝入りって奴ですんませんね」
それじゃァ、と鉄五郎は和合の方を見ていった。
「面白く遊ばせて貰ったな。またどっかで会うかもしれねえが、今度は俺がお返しするよ」
「一緒に出ますよ。俺も行く」
廊下に出ると鉄五郎は、すぐにいった。
「場主は何だ。お前さんの兄弟かね」
「いや――」
「じゃ何だい。お前さんも場主に半分乗ってるな」
「半分なんてとんでもねえ。ほんの二分さ。でも、わかるかね」
「わかるとも。張り方でな。勝ちを狙ってないで、そこそこに戦かってるのがわかる」
「爺つぁんに油揚げさらわれた」
「ははは。すると、場主は、助かりか」
助かり、とは不調選手のマイナスをカバーしてやるために、臨時に肝入りをやらせて、テラ銭を稼がせることをいう。
「ケイバの客でね。ここちょっと曲がってるんだ。今、商売も危ない。債権者が血まなこになって探している。助けてやろうと思って」
「なるほど。それで債権者ってのはあの中には居ないのかね」
「居るよ、一人――」
「わかった。お前だろう」
鉄五郎は笑った。
「そういう奴だ。お前らしいよ」
地下の駐車場までエレベーターでおりて、和合の車の助手台に、鉄五郎は乗った。
「どこか、一番近い国電の駅でおとしてくれよ」
「駅なんていわずに、送るよ。爺つぁんの家まで」
「いいよ。駅でいい」
「また、連絡する必要もあるし、覚えておこう。家まで行くよ」
「家って、わしが家なんかあるわけないじゃないか」
「マンションかね」
「そんなもの持つのは貧乏人だ。わしは巣なんかつくらない」
「じゃ、どうしてる」
「寝るところなんかいっぱいあるよ。どこだって寝られる」
「家族は」
「ないよ」
和合は、ははは、と笑った。
「水臭いぜ。かくさなくたっていいじゃないか。べつに強盗に入りゃしない」
「お前さんが、わしのところに強盗に入るってのか」
「しこたま銭をかくしてるんだろう。用心深いのは結構だが、俺はべつに爺つぁんの銭に興味はないよ。欲しけりゃばくちで取る。うんと作戦に凝ってね」
「――ああ、疲れた」
と鉄五郎はいった。
「もう手ホンビキもやめだ。体力が続かん。あれは四十までの遊びだな。気力、集中力、勘、すべてわしはもう持続しない。もう引退だ」
「やめられるもんか、爺つぁん、やめられやしないよ」
「いや、やめだよ。もうずっと前からそう思ってたんだ。わしの体力でやれることをやる」
「俺の事業に加わってくれる件はどうなってる」
「それも、ことわる」
「何故――」
「わしだってもう長いことないさ。いまさら他人の手伝いをしたってしょうがない。――それより、病院を知らんかね。身体をちょっと見て貰いたい」
「知らんこともないよ」
「居心地がよくて、信用のおける医者が居るところをな」
「早速、手を打っておこう。しかし、どうやって連絡する?」
「わしの方から電話をかける」
「電話がなけりゃ、これっきりかね。そりゃァねえや。せっかく、知り合ったのに」
「ああ、ここでいい。ここでおろしてくれ」
と鉄五郎はいった。
「それから名刺を一枚もらっとこうか。電話番号のある奴をな」
「爺つぁん、あんた、ほんとに一人ぼっちなのかね」
「そうだよ――」
出勤するサラリーマンの人なみに混じって、波目井鉄五郎はおぼつかない足どりで駅の中に入っていった。
浜松町だ。
鉄五郎は羽田空港まで直行の電車で行き、名古屋までの席を買った。
そのまま機内に乗りこむと、ゆったりしたシートに坐り、はじめてくつろいだ表情になった。
「お嬢さん、わしは呑み物も喰べ物もいらんよ。少し眠るからそっとしておいてくれ」
飛行機の中でほんの三十分ほど眠り、ブランデーを一杯呑むと、波目井鉄五郎はもうほとんど元気をとり戻したようだった。
小牧空港で名古屋版のスポーツ新聞にさっと眼を通すと、タクシイで笠松競馬場に行った。笠松は岐阜県と愛知県の県境に近いところにある小さな競馬場だ。
小柄なうえに背中がまるくなった鉄五郎が、ゆっくりと競馬場に入っていくと、入場門のあたりにたむろしていた男たちの中から二、三人が、小走りに正面スタンドの方に飛んで行った。
競馬場でも競輪場でも入口付近には、たいていパツ師だとか、地《じ》の若い衆なんかがそれとなくたたずんでいて、特に早い時間など、入ってくる客を眺めている。
彼等のカモである馴染客が来るのを網をはっているのであるが、それだけならダフ屋の兄ちゃんたちと提携するだけで足りる。
もうひとつは、他場《よそば》からくる馬券師やパツ師を、すばやく発見するためでもある。
彼等は自分たちの客にニセ情報ばかりかませているように見えるが、それは次善の手で、彼等にしても本筋の八百長情報があれば、喉から手が出るほど欲しいのであり、他場からの注目すべき人間たちをマークして、その動きから何かを知ろうとするのだ。
彼らは商売柄、実に人の顔をよく覚える。自分が他場に出かけて仕かけレースをやった場合、そこの地の人間にどうしても顔を知られてしまうことが多い。というのは、入場門と同じく、メインスタンドの配当場にも彼等の油断のない眼がそそがれているからだ。
見知らぬ旅人が、なんとなく不自然に見える配当を受けとっているとする。蛇《じや》の道は蛇《へび》でその直感はめったにはずれない。地の人間が寄っていって、たかったり、そうでないまでも顔を見覚える。旅人の方も、同じことである。
そういうふうにして、同種の人間はだんだん顔を知り合う。一度他場に行けば、すぐにマークされて彼がどんな馬券を買うか、逐一眺められる。それが本当にパツ臭いとなると、パツ師からやくざに、或いはコーチ屋にたちまち伝わりそれは彼等の客にささやかれて、方々で買いがおこなわれはじめる。自分たちの八百長は目立たないように抑制して買うのであるが、他人の八百長に乗るときは無責任だから、ワキの買いが烈しい。異常売上げなどと騒がれるのはこんな場合が多い。
もちろん旅人の方はそれを警戒して、いろいろと作戦を使う。自分は全然関係のない穴場に手を突っこみ、本筋の券は別のスタンドで妻君に買わせたり、〆切間際に買ったり。
波目井鉄五郎のように高名になりすぎてしまった古手のパツ師になると、全国どこにいっても、各方面のマークがつくだろう。
そういう気配などにはまるで無頓着の顔をして、彼はすたすたとメインスタンドを登り、まるで自分の家のように馬主席に入っていった。
馬主席には入ったが、まだ早いせいもあって誰も知った顔が居ない。
皆さりげなくしているが、何者だろう、という眼ざしがときおり集まってくる。
しかし鉄五郎はおちつきはらって煙草を吹かしていた。お茶を運んできたメッセンの女の子に、
「数井くんは、元気でかよってるかね」
「はい、いらっしゃいます。もうそろそろお見えになると思いますが――」
「ああ――」
予想紙もレースも、見向きもしない。
地元の予想記者の殿村が馬主席にやってきた。
「よォ、あんたが来てるってから――」
鉄五郎は、政治家が新聞記者を見るときのような眼つきになった。
「わざわざご出張かね。あんたもあいかわらず達者だなあ」
「この競馬場も変らんね――」
と鉄五郎はいった。
「たいがいの人は故郷の山や河、小学校の喧嘩友達なんかを思い出すらしいが、わしはまずこの競馬場だ。もっとも子供のときの思い出は別にあるがね。まったく、夏はまっ黒に焼け、冬は酷寒の戸外で、よく戦かったもんだ」
「ははは、だが、故郷が恋しくて来たわけじゃあるまい。お目当ては何レースだね」
「いや、馬券を買いに来たわけじゃない」
「水臭いぞ。教えろよ。もっとも場内じゃ、ちょっとツブのたつ奴はもうあんたを注目してる。穴場に行けばすぐバレるよ」
「馬券を買う気なら競馬場などへ来ないさ。ノミ屋に入れるよ。場内で買ったらすぐに配当がさがっちまう」
「じゃ、何しに来たんだね。まさか、墓参りでもあるまい」
「わしみたいな人間は不便でな。ちょっと知り合いに会うんでも、競馬場か博打場に行かないと用が足りん。知り合いがどこに住んでるか、家を訪ねたりはしないから」
そのとき背後で声がかかった。
「やあ、存外元気そうだな――」
中京地区ばかりでなく、関東公営や関西までも手広く顔を利かしている馬主で、数井彦七という老人が立っている。
鉄五郎は振り向いて、笑いもせずにこういった。
「お前さんも、まだコロされないで居たか」
「にくまれっ子は強いからな」
「それはそうだ。まァその調子で末を完うしそうだな」
「ちょっと、パーラーにでも行こうか」
数井は鉄五郎を助けおこすようにそばに来て、小声でいった。
「また入ってるときいたが、出てきたのか」
「昨日、な」
「そっちこそ、しぶといな」
「そうでもない。もう年を老《と》ったよ。近々、病院にでも入ろうかと思ってる」
「どこか悪いのか」
「なんということもないが、予感がするんだ。俺の予感は当る。そろそろ、はずれ馬券をつかみそうだな」
「それで、なんだ――?」
数井はコーヒーを呑みながらいった。
「金かね――?」
「金だと――?」
鉄五郎はにやっとした。
「わしが金を貸せなどといったことがあるかね。金なら借りん。ふんだくるよ」
「気の弱いことをいうからさ。しかし、俺に用があるんだろう」
「ああ、まァしかし、なつかしくもあってな。刑務所でずいぶん昔のことをいろいろ思い出した。お互い長いつきあいで、いろんなことがあったな」
「誰とだっていろんなことはあるさ。我々に限らんよ」
「お前は川浚《かわざら》いだった」
と鉄五郎はいった。
「戦争中だ。今でもお前が大きなザルを持って川にはまりながら、金属の切れっ端などしゃくってる姿が眼に浮かぶよ」
「他人のことばかりいうな。お前だってその頃はクズ鉄集め業、簡単にいえばクズ屋だ」
「俺はダメさ。お前みたいに働らき者じゃないから。階段をひとつひとつ昇らないで、横這いだ」
「横這いでもしのいでいればいいぞ。あの頃、働らいちゃよくばくちを打ったものだが、もう誰も消息がわからん」
「戦後、名古屋の鉄鋼屋を二人でコロした。ポーカーだったな。当時の金でいくらだったかな、百万じゃきかなかったろう。俺は女につぎこんじまったが、お前はあの分前で馬を買った。あれが運のつきはじめだったな。今じゃ、名古屋の繁華街のビル持ちだ」
「お前はお前で、たんといい目を見たじゃないか。銭ばかりあったって、地獄まで持っていかれん」
「ああ、まったくだ。死んじまえばそれっきりだ」
「ところで――、用事は何だね」
「いや、用事はないんだ。病院に入る前に、一度会っておこうと思ってな。お前、孫は何人だ」
「孫か。四人さ。案外すくない」
「それは正規のだろう。外には何人居る」
「外はわからん。孫となるとな。子供というなら見当くらいはつくがね」
「孫となると、どこで何してるかわからんか」
「わかった。お前、子供のことが気になってるんだろう」
「子供か、わしは子供すら、よくわからんな。無茶な一生を送ったものだて」
「ほれ、お前の郷里の、伊吹山塊の方のなんとかいう村に、くれてやった子供が居たな。男の子が。あれはもう二十くらいになってるんだろう」
「生きていればな」
「行ってみればいいじゃないか」
「そうもいかん。刑務所帰りじゃあな」
「名乗らなきゃいい。ただ村に行ってみるくらいなら」
「お前、若い衆を多勢使ってるんだろうから、ひとつ頼まれてくれないか。奴がどうしてるか。固気《かたぎ》か、それとも、俺の血に染まってグレてるか」
「そのくらいはお安い御用だが、どうなっていようが、お前は口出しできんぞ」
「もちろんだ。わしは口なんかはさもうなんて思わない。奴がどうなっていようと、わしがしてやれることなんかあるもんか」
と鉄五郎はいった。
数井彦七と鉄五郎は馬主席に並んで、レースを見おろしながら語り合っている。二人とも、レースがはじまると黙ってグランドに眼を走らせ、そうして予想紙を眺めた。立ってパドックに馬を見にいくこともあった。その合間に、ぽつりぽつりと、同じ話題を口にするのである。
「親子の名乗りが、したいのじゃないのか」
「冗談じゃない。人間、結局一匹狼さ。わしは一人で死ぬ。それでいい」
「じゃ、何故、あの子の様子を探らせたりするんだ」
「うん。――刑務所に居るといろんなことを考える。わしも年だからな。それでこの先どうするか、考えた。奴が、しちッ固く育っていて、固気で暮しているなら、わしもこれ以上、刑務所と親しくするのはやめよう」
「おそいよ、いまさら、なんだ」
「おそい。しかしまァ、考えることは自由だからな。引退して、おとなしく、ケチケチ暮そう。わしは今保釈の身だからな。ここで何か一仕事すれば、今度は新聞をにぎわしてしまう」
「いいじゃないか。本人がそれでよければ」
「いや、倅は知らなくても、養い親が知るだろう。もしそれで倅が影響をうけたらまずい」
「また馬鹿に、殊勝な気になったものだな」
「何かが気になりだしたら、仕事はうまくいかんよ。そういうものだろう。集中力が欠けたら何をやっても駄目だ。やらない方がずっといい」
「あの子が、固気じゃなかったらどうなんだ」
「もうグレちまってるようなら、誰に遠慮もいるものか。最後にひと花咲かせてみせる」
「何をするんだね」
「何をするか、いろいろ考えたよ。刑務所でな。場合によっては、お前さんの助けが必要なときがあるかもしれない」
「なんでも話しな。お前と俺との間柄だ。但し、あぶない話ならことわるぞ」
予想記者の殿村がまたやってきた。
「おい、焦《じ》らさないで教えてくれよ、何を買いに来たんだい」
「最終レースの二だよ。もっとも絶対かどうかはわからんがね」
鉄五郎がまじめな顔でいった。
「そうか――!」
殿村が一気に記者席にもどりかけて、
「おい、本当か――。簡単にいうところを見ると怪しいな」
「嘘だよ――」と鉄五郎はにやりとした。「わしは馬券を買いに来たんじゃないよ。――数井、それじゃこれで帰る。さっきのこと、頼んだよ」
「よし、わかった――」
と数井も片手を振った。
「様子がわかったら知らそう。お前の住所は――?」
「なに、わしの方から電話をかける」
侵 蝕
ロッカは首尾よく団地の住人におさまって、着々と業務を開始していた。
彼が発心した仕事は二つある。つまり、無尽屋とドリンク(ノミ屋)だ。その二つともに最初のきっかけこそむずかしかったが、何人かと知り合いになってみると、口から口に伝わってわりに造作なく開業することができた。
もっとも無尽の方は、開業したから即黒字というわけにはいかない。これはまァ無利子の運転資金を造るための方策である。
ロッカははじめ、無尽は主婦族向けに考えていたが、サラリーマンである亭主族の方にも結構うけていて、女房に内緒で、無尽サークルができたりした。
なにしろレジャー資金をわりに簡単に貸してくれるサラ金の悪評判は新聞に連日出ていて、入用なときに即座に金が天から降ってくるわけはないと、誰しも思いはじめていたときだからでもあろう。
無尽なら、自分たちのやりくりで、必要なときにある程度まとまった金を入手できる。もちろん、そのために毎月、掛金をおさめていくわけだが、一種の自治制で、利子に当るものが外の業者に流れず、自分たちに還元されてくる。
そうして、彼等の必要な小遣い銭は、麻雀や競馬の負けにしても家庭サービスの出銭にしても、おおむねそれほど値の張った額ではなく、したがって小規模な無尽ですむ。
おなじく小規模な無尽が、主婦たちの方でも流行しはじめた。亭主も主婦も、お互いに秘密でやっている。ロッカは、世話人として第一回の満額を受取るかわりに、集金からセリの事務までひきうけて働らく。
亭主たちは主として土曜と日曜の中央競馬を、ロッカに電話で発注して、家でビールを呑みながらテレビ観戦し、ささやかな賭けを楽しんだ。
ロッカは、この仕事を円滑に進めるために一生懸命だった。
団地内の雑用や、お得意先の小用を進んで足してやる。親切、愛嬌、明朗、この三つを旨とする。政治家だって自分の地盤を強固にするためには、絶えまないサービスと、よいイメージを売らねばならぬ。
なんでも同じで、まず人々に気に入られることだ。特に、ロッカの商売は、主婦層の人気を得ることが必要だった。
それは無尽の仲間にひきいれるという理由ばかりではない。ドリンク業として、亭主が赤字を出したときに、一番警戒すべき相手は主婦たちなのだ。彼女たちに、ノミ屋こそ敵、と思われたら、ことあるたびに警察に電話される。
当分、この団地を動かずに商売しなければならないロッカとしては、主婦たちを敵にまわすことはできない。
もうひとつ、ロッカよりも先にこの団地でノミ屋をしていた先住の人間が居るはずで、彼等も敵には廻せない。彼等の職場を荒らせば、必らず密告されるはずだ。
ロッカは、もうすでにノミ屋を利用している客は、どんなに欲しくても手を出さなかった。
要するに、フリーランサーは、どこにも敵を作れないのだ。
大きな団地をあてにして、私鉄の駅前にスーパーが三つもできている。
ロッカはそこで、立花美津子とよくぶつかった。彼女は死んだ母親の役目を果たすために、近頃は学校も休みがちらしい。
顔をみかけると、たいがいロッカの方から短い言葉をかける。美津子はそれに対してチラと微笑し、小さな会釈《えしやく》を返すだけだ。
聡明そうではあるが、ロッカにとっては苦手な娘だった。ひとつには最初の出会いがオートレース帰りの国電の中で、彼女にうさんくさく思われたらしい弱みを意識するせいだ。
ところがある日、美津子の方から突然、声をかけてきた。
「ロッカさん、今、少しおヒマある」
「ええ――」
「だったらお茶でもつきあってくださいませんか」
ロッカはなんとなく坐りのわるい表情で喫茶店までついていった。
「どうして皆、ロッカって呼ぶんですか」
「元ギター弾きだったからさ」
「ギター弾き――?」
「ロックンロールのギターを弾いていたんだ。ロッカビリイのロッカさ。あるとき、ビリはいやだっていったらね、ビリイがとれてロッカだけになっちゃった」
「あたしはまた、わるいけど、やくざか何かかと思ったわ」
「やくざじゃないが、固気《かたぎ》ともいいきれないところがあるな。ギター弾きはやめちゃったから」
「どうしてやめちゃったの」
「ギターより好きなものができちゃってね。しかし、ギター弾きは固気で、ノミ屋は固気じゃないのかな」
「――よくわからないけど、今、貴方のやってることは、ノミ行為も、無尽も、すくなくとも法律違反ね」
「そうだね、やっぱり俺は固気じゃないんだな」
「ギャンブルも、厳密にいえば法律違反でしょ」
「そうだが、お国で運営してるのはいい。ノミ屋がやると、取締りに会う」
「何故なの」
「暴力団の資金源になるとか、いろんなことが可能性としてあるからだろう」
「貴方も暴力団につながっているの」
「俺はつながっていない。まだ素人同然さ。つい先日、開業したばかりだからね。この商売をやっている人たちも、暴力団員でない人はたくさん居るけど、多くは何かの形でそういう組織と提携しているようだね。たとえば、いくらかの上納金をおさめたり、外郭で親しくしていたり。というのは、そうしないとすぐに警察に通告されちゃうし、ごたごたが起きたときなんか面倒だから」
「やっぱり、うしろ暗いのね」
「俺はそうしたくないし、もっと誠意をこめてやっていきたいと思ってるけどね」
「お父さんは、そういう世界とどのくらい接触しているのかしら」
美津子ははじめて本題に入ったように訊いた。
ロッカは、美津子の大きな若々しい瞳をみつめながらいった。
「君のお父さんは、むろん、いわゆる暗黒街との接触なんかないだろう。ただ、ギャンブル場が好きだね。ごくなんでもないギャンブルファンさ、それだけだよ」
「本当――?」
「嘘なんかいってないよ。俺もこの間まではただのギャンブルファンだったんだ。君は俺とお父さんが、どういう知り合いなのかうさんくさく思ってるようだけど、本当にただのスタンド仲間だったんだぜ。君のお父さんは元は偉いお役人だったらしいし、俺はしがない元ギター弾きで、中学校もろくに行ってない。だけど、ギャンブル場では誰も彼も、学歴も、職歴も、年齢も服装も関係なく友達になれるんだよ。そこがああいう世界のすばらしいところなんだ」
「でも、それで皆、負けていくんでしょう」
「そうだな。多少はね。個人差があるけれども、たとえば酒を呑んだって、映画を見たって、多少はお金が減っていくだろう。遊ぶんだから、ただってわけにはいくまい」
「ギャンブル場は昼間やってるんでしょう」
「ああ――」
「父も昼間行っていたわけね。他のたいがいの人が働らいている時間に」
ロッカは急に沈黙した。そういえば、立花氏は、ほとんど毎日のように、あちこちのレース場のスタンドに現われていたのだった。そうしてロッカも、ギター弾きを放棄してギャンブル一途になっていたのだ。
「父は、とにかく働らきに出ていたんです。毎日、昼間、ギャンブルをして遊んでいられる身分ではなかったわ」
「――それはそうだろうね」
「ずいぶん負けたんでしょう」
「お父さんがかい」
「ええ――」
「いや、それはそんなふうには見えなかったよ。なにしろ二五パーセントのテラ銭をとられるんだから、長い眼で見れば負けだったろうけれど」
美津子の鋭い視線がロッカにそそがれていた。
「いや、俺は嘘をいっていない。何故かっていうと、俺も、一生懸命バランスをとろうとしてケチケチ張っていた方だからね。俺たちは、スタンドで熱くなって気狂いのような大銭を張りこんでいる連中は無縁の存在だった。それは誓ってもいいよ」
「貴方は、父と知り合ってどのくらいになるの」
「さァ、この一年くらいかな」
「その間に、どのくらい負けたと思う」
「――他人の懐中をいちいち勘定してないからな。でも、そうだなァ、最悪の日で、一日十万円も負けるとやめてたんじゃないかな。むろん勝つ日もあるからね」
美津子が黙っているので、ロッカの方から反問した。
「何故、そんなことを訊くの」
「是非、訊いておきたいのよ。できれば、役所をやめてからの父のことが、全部知りたいわ――」
「…………」
「なんだかいろんなことを訊いてわるいけど、ギャンブル以外に、特にお金を使うようなことが、父にはあったかしら」
「――というと」
「たとえば、女のひと、とか」
「俺は主に競輪でのつきあいだったから、他の面はよくわからないなァ。もし俺が、立花さんのそういう面をいろいろ知っていたら、同じ団地に来させたりしないだろうよ。だからよく知らないけど、俺の感じでは、女にアツくなってるような気配はなかったなァ」
美津子は黙って膝の上に眼を落している。
「なにか問題でもおきたのかい」
「いえ、そうじゃないけど」
「立花さんは、わりに遊びなれている人じゃないのかなァ。長く遊んでいる人は、それなりに抵抗力ができていて、のめりこみすぎないような工夫を自然にするものだって、前に居たプロダクションの社長がいってた。立花さんのギャンブルを見ていると、大怪我をするような感じではないからね」
「もうひとつ訊くけど、かりにロッカさんが他人のお金を預かっていて、ギャンブル好きだったら、そのお金で賭けをしてしまいたい誘惑にかられるでしょう」
「もちろん――」
「で、使ってしまう?」
「俺は、他人の金も自分の金も区別しない方さ。お金はお金だ」
「ずいぶん目茶苦茶なのね」
「でも、他人のお金を使いはたして、そのままにしてしまうわけにはいかない。お金の不義理は一番ばかばかしいエラーだよ。逆にいえば、お金の不義理さえしなければ、ほかの点は多少至らなくても世間の中でなんとか生きていけるだろう。お金は一番簡単なパスポートさ。だから、他人の金を流用したいが、不義理は極力しない」
「――そうなの。男の人って、そういうふうに考えるものなの」
「いや、これは俺の考えで、男が皆そう考えるかどうか、そいつは別問題さ」
「でも、ギャンブルに使ってしまえば、不義理は避けられないでしょう」
「ただ遊びたいというだけで、だらだら流用してしまえば、ギャンブルでなくたってそうだろうね。それはその人のやり方さ。たとえば、銀行。他人の金を流用して立派に営業してる」
「そんなことを訊きたかったんじゃないんだけど」
「何が訊きたいの」
「わからない。本当は、父に直接訊いてみるべきなのよね」
立花氏は、今、インドネシアに行っている。向こうに病院を建設する例の件がどう進行しているかたしかめるためだ。電話や手紙ではなかなか埒《らち》があかない。
そうして明後日、母親の四十九日に間に合うように帰ってくる。
ところが父親の留守中に、団地の委員会が開かれ、これまで一度もそうした前例はないが、帳簿の監査をするので、拝見させていただきたい、といってきた。
父親が留守の旨をつげて、待って貰ったが、そのあとで父の部屋に入って、団地から預かっている書類や通帳を見ているうちに、美津子の動悸が早くなってきたのだった。
まるで、競馬場を出ておけら街道を歩くときみたいに、立花氏は背中をまるめて、成田空港の長い廊下を歩いていた。
同じ飛行機でおりた客たちは、それぞれ持ちきれないほどの土産物を抱えている。立花氏はスーツケースひとつで、ほとんど手ぶらだ。だから通関も早い。
「よッ、お帰り――」
和合が迎えに来ていた。
立花氏はちょっと笑っていた。
「――日本は寒いね」
「ああ、気候不順でね。しかしこの建物の中はエアーコンディションができてるからな。疲れて、風邪でもひいたんじゃないですか」
「そうかな――」
「で、インドネシアはどうだった。あの髭もじゃと会いましたか」
「うん――」
和合は立花氏を振りかえって、のぞきこむようにした。
「どうしたんです。元気がないよ。向こうの話がサムくて、風邪をひいたかな」
サムい、というのはヤクザ言葉で、危ない、とか、怖い、とかいう意味である。
「いや、まァ、出かけていっただけの意味はあるんだが――」
「お茶でも呑みますか。それともすぐ車を出そうか」
「車の中で話をしよう。実は、今日が女房の四十九日なんでね。家に坊さんを呼んであるんだ」
「あ、それじゃァまっすぐ送りましょう」
和合は駐車場から手早くポルシェを転がしてきた。
「いつかのゴルフで、髭もじゃが俺に負けた金、米ドルで三万二千、あれは立花さんが立替えてあるんだ、ということを奴に確認させましたか」
「ああ、完全な貸借とはいわなかったが、今度の件が進行していけば、あの金なんか棒に引いてもいい、とはいっておいた」
「そうしたら――?」
「奴はもう一度やりたがってたよ。君とゲームをな。さかんにくやしがっていた」
「で、病院建設の方は?」
「彼等はもちろんその計画を続行中だ。しかし彼等も民間人だからね。政府側との折衝《せつしよう》のひとつひとつがはかどらないらしいんだ。お国柄というのかなァ。政府側の役人は、金を積めば会ってくれる。そうでなけりゃまるっきり要領をえない」
「どこの国だってそうですよ。奴等は金を積もうとしないんですかね」
「毎度のことであきあきしてしまうんだろう。私が行っている間でも、無理して札びらを叩いて二、三度、役人を呼んでみたが、連中、酒を呑んで女を抱くだけさ」
「立花さんはインドネシアははじめてじゃないんでしょう。前もそんな調子だったんですか」
「前は日本の厚生省から公式に派遣されていた。今は民間人だ。こいつは弱いよ」
「前と同じく、厚生省から来た、といえばいい」
「うむ、そりゃァ君の流儀だな」
「誰の流儀だろうと、そうしなきゃハカがいかないんでしょう」
「…………」
「要するに――」と和合がじれったそうにいった。
「収穫なし、ですか」
「そんなことはない。彼等が、どこか別筋と結んで、病院を建てはじめているとか、そんなことじゃないんだ。彼等はこっちを、当てにしているよ。その点は今度行って、確認できた」
「しかし、それは、いいニュースか悪いニュースかわからんなァ。だって、他の筋と組んでいないというのは、組もうとしても組めないという見方もできるでしょう。もともと彼等のはったりで、彼等ではちょっと実現不可能なことをしゃべりまくっていたのかもしれない」
車は流れるようなスピードで、高速道路を走っている。成田から千葉までの間は人家もほとんど見えない灌木地帯で、未開発国のような趣きもないではない。
立花氏は黙って窓外を眺めている。
「いったいぜんたい、あの髭もじゃは、向こうで何をしている奴なんだろう」
「それが、ジャカルタでビルを訪ねてみたがね。思ったより小さな事務所だった。医薬品の輸入をやってるとかいってたが、まァ私の事務所に毛が生えたくらいかな」
「大きな仕事はできそうもないですか」
「しかし、奴はこの件の代表ではないからね。ただ日本に派遣されてきただけだ。黒幕は大きいのだろう」
「希望的観測だな。立花さん、どうも貴方は、まだ本当に民間人になりきっていないね。民間人の仕事ってものは、サシでやる勝負と同じでね、かけひきの世界ですよ。勝負事ならなんでもそうだが、眺めているだけじゃ駄目だ。こちらから攻めていかないと」
「私もこの段階では、まったく報告がしづらいんだが、しかし、といって、連中を今見限ってしまえば、ゼロに戻るだけだ」
「ゼロじゃないよ。立花さん、貴方は我々にもうかなりの負債を負ってるんですよ」
「ああ。――私の観測でいえば、希望的観測かもしれないが、けっして悪い方向には行ってない。ただ、進行がのろすぎる。時間がかかりすぎるというのが、どうも気に喰わないんだ。どんな仕事だって、時間の枠は重要だからね」
「俺はそうは思わないな」
「そうかね」
「貴方の顔つきを見ていればわかる。貴方は必死で、希望的観測にすがろうとしているだけだ。俺はそんなものにつきあいませんよ」
「それじゃ、君ならどうする」
「俺ならどうする、だって? 立花さん、しっかりしてください。ピアノを弾いてるのは貴方だぜ。俺はトランペットだ。お互い持ち場持ち場があるんだ。ピアノ弾きが、ラッパ吹きに向かって、おいちょっと、君ならどう弾くかね、なんていいますか。ピアノ弾きがうまく弾けなきゃ、別のピアノ弾きを連れてくるだけさ」
立花氏は苦しそうに押し黙っている。彼の不快は溜りに溜っているが、立花氏自身、それをどうやって処理してよいかわからない。
団地の前で車をとめて、和合も一緒におりてきた。
「奥さんの四十九日でしょう。お焼香させて貰いますよ」
「ああ、そりゃ、ありがとう」
坊さんは、午後一時に呼んである。まだ十二時前だ。
外は明かるい陽光が充満しているのに、立花家は暗かった。二人の子供たちがひとつところにかたまって坐っている。仏壇の蝋燭の灯が淡く姉弟たちを照らしている。
「どうしたんだ。雨戸をあけないか。もうお客が来てしまうよ」
子供たちは、背後に続いて入ってきた和合を見た。
立花氏が線香をあげたあと、仏壇の前の座を和合にゆずる。
「あのゥ、ちょっと――」
美津子が小声でいって席を立った。立花氏が書斎に使っている洋間に入っていく。
「――なんだね。お客さまに喰べていただくものは、手筈ができているんだろう」
「ええ、それは、もう届く頃だわ。身内しかお呼びしないから、手近な店ですませてしまったけど」
「ああ、それでいい」
「一昨日ね、お父さま、団地の自治委員の方が見えたの」
そういって、美津子は眼をあげて父親を見た。
「なにか、監査があるとかで、書類や通帳類を見せてもらいたい、そういわれたの」
立花氏は黙って椅子にかけたままだ。
その父親の無言が、かえって美津子を緊張させた。
「――それで、どうしたね」
「今旅行中で、今日帰ってくるといいました。それであちらもすぐお帰りになったし」
「ああ、それでいい」
「でも、あたし、通帳を見てしまったわ」
「――うん」
「それで心配になったわ。あれは自治会のお金をお預かりしてあるものなんでしょう。それにしてはとても心細い額だったわ」
「いや、それはどうということはないんだ。私が事務所の方の通帳に移し変えたんだからね。その方が金利の点でも自治会のためにもなる。ただ、区切りのときには一応、戻しておかなくちゃならん」
「戻せるんですか――」
「何故。戻せないと思うのか」
「そうじゃないけど。お父さまはいらっしゃらないし、一人で気をもんでしまったわ。それじゃ、心配することはないんですね」
「お前も、物のいいかたが、お母さんに似てきたな」
立花氏はそういって白い歯を見せた。
しかし、同時にすばやく立ちあがって、客間に行き、和合を眼で探した。
彼はまだぽつんと坐って、茶をすすっていた。
「和合さん――」
和合は立花氏の方に視線を向けて、その表情から何かを感じたらしく、
「それじゃ、私はこれで、いそぐもので――」
子供たちに会釈して玄関に向った。その背中に、和合さん、ともう一度立花氏が声をかけた。
立花氏は先に立つようにしてエレベーターでおり、団地の前においた和合の車のそばに来た。
二度も和合に呼びかけたのに、あとはいっさい無言だった。
和合も、そういう不審な行動には慣れているとみえて、だまってついてくる。
「――ちょっと、乗ってくれませんか」
和合は自分の車にキイをさしこみ、運転台に乗ると、立花氏も助手席にすべりこんだ。
「――どこへ行くの?」
「私――? どこへも行かない。もうすぐ坊さんが来る」
立花氏は助手席からあたりを見廻しながらいった。
「ここなら大丈夫だ。いや、団地というやつは内緒話をするところがなくてね」
「フフフ――、俺はまた、あんたが警察へでも出頭するのかと思った」
「警察――? 何故」
「冗談ですよ。話ってのはなんです」
「もうお察しかもしれないが、金です。ちょっとの間、融通をおねがいしたい」
「いくらほど?」
「どうしても不足しているのは、二千四百万ほどだが――」
「だいぶ大きいね。返せるあてはあるんですか」
「もちろん――」
「もちろんだって? 立花さん、急な金を借りる人というものは、そんなセリフはいえないはずだよ。もちろんなんていえるくらいなら、人にすがらなけりゃいい。無責任なことをいって一日一日ごまかしていくと、あとで泣きますよ」
立花氏は無言でうなだれていた。たるんだ頬に、急に髭が伸びてきたように見えた。
「ちょっとの間、といいましたね、それはどういう意味?」
「融資という意味で長期にお貸し願えたら、これに越したことはないけれども――」
「あたし等のは利子が高いからねえ、融資用には不適当ですよ」
「ええ。だから、それなら、ちょっとの間でもいい、という意味です。とにかく、数日間、ぜひともその金が欲しい。でないと私は破滅だ」
「数日間――?」
「団地の自治会の委員として、会費の蓄積を私が預かっていたんです」
「ああ、それを横領したんだ」
「事務所を開いたとき、仕事がうまくいっていればそんな気は毛頭なかった。計画的に横領したんじゃない」
「同じことさ」
「遊ぶために使いこんだんでもありませんよ。私のは生活費だ。私たち四人が餓えないために、やむをえず、少しずつ借りていったんだ」
「事務所の費用も喰いこんだんでしょう」
「そう。私はまったく無能だったね。皆がやっていることが、ひとつも満足にできない。事務所を開いて一年半、ひとつも仕事がとれなかった。こんな男って居るだろうか。何度も、転向を考えたが、年だからねえ。子供たちのことを考えると、守衛や雑役もできない」
「守衛も雑役もできないから、居喰いか」
「そう――」
「しかし、居喰いというのは自分の金がある場合だね。立花さんのは団地の金を居喰いしたんだ。もっとも俺は、他人に説教なんかできる男じゃないがね」
「とにかく、監査があるというので、私の留守中に帳簿類を見に来たらしいんだ。今まで何年も、そんなことは一度もなかったのに」
「ほう。すると、ヤバい噂でも流れたのかな」
「――いや、前々から、形どおりに監査をやらなくちゃ、という委員も居たし、特に銀行が調べられた気配もない。まァ、偶然のことでしょう。しかし私にとってはどっちでも同じだ」
「わかった。つまり見せ金というわけだな」
「ああ、そうです。二千四、五百万を、いっとき、銀行口座を移して私の通帳に動かして貰えばいい。監査が終ったらすぐにそのまま口座を戻します」
「なるほど、立花さんも人並みに悪知恵は働らく」
「和合さん、助けてください。そのかわり、あんたのために、私のできることはなんでもする」
「できることって――あんたは事務所を開いて一年半も仕事をまとめられなかったほど、無能な男なんでしょう」
「いや、死んだ気で働らく。これまでどうかしていたんだ。体面や見栄にこだわっていた。過去を、もう忘れる。私が習い育った道徳も忘れる。どのみち、委員の交代期までに私の力で金は埋めなければならんのだから」
「担保は、あるんですか」
「――長年、うかうかと、遊び暮したからね」
と、立花氏は、苦い声を出した。
「こんなことに対する防備がまるでできていない。馬鹿な男だったよ」
「すると、利子が高くなるね」
「数日間だが――」
「数日間が、乗るかそるかなんでしょう。あんたにとっては」
「それはそうだ。――で、利子はどのくらい?」
「金とは限らない。立花さんの、死ぬ気になってという、その気持でもいいですよ。但し、そうなると甘い話ではなくなりますね」
「働らけばいいのか。和合さんがこうして私とつきあってるのは、私にもなにか魅くものがあるからだろう。それに応えればいいのだね」
「簡単にいえばそうだ。立花さん、俺はもうこの前、あんたに大金をお貸ししてますよ」
「――ゴルフの金?」
「忘れてなければいいんだ。あの金は当然、俺が受けとるべきなんだが、催促はおろか、利子も請求しない」
「――私だって、今度のインドネシアでの出費は、すべて自費だった。あけすけにいえば、団地の金を借りて、政府のクソ役人どもに渡したりしたんだ」
「つまり投資をしたんでしょ。問題は収穫だ。俺にとっても収穫が問題ですよ。そしてこれは念を押しますが、立花さんとちがって、俺たちは必らず、どんな形でも仕事にしますよ」
「…………」
「それで、立花さん、その監査とやらは、何日ぐらいですむんですか」
「さァ、一週間もあれば充分と思いますがね。もともと帳簿といったって、普通の会社とちがって簡単なものだから、そうもかからないかもしれない」
「よろしい。それじゃ、十日間、無利子で、三千万、貴方の指定銀行に送りこみましょう。貴方名義だが、印鑑その他は此方のものを使いますよ。十日たったらその金は引き上げます」
「助かりますよ。ありがとう。それでも私は少し生きのびられる」
「そのかわり、やっていただくことがある」
立花氏は、判決をきく被告のように、身を固くして和合の言葉をきいていた。
「なに、たいしたことじゃありません。第一に、インドネシアの方をこれまでどおり推進してもらうこと。これはこの前のゴルフのとき以来の契約だ。第二に、近々のうちに、どこか適当な病院の理事におさまっていただく」
「理事に――。そいつは簡単なことじゃないな」
「しかし、お知り合いの病院は多いのでしょう」
「それはそうだが、貴方、知り合いだからといって、そう簡単に入りこめるものじゃない」
「たとえば、奥さんが亡くなったあの病院、あそこの理事はご存じですね」
「理事長は知っている。理事も、全部ではないが、個人的に知っては居ます」
「あそこは、理事は全部で、何人ですか」
「五人。理事長を含めて、全部、創立時の理事です。あそこはあまり増やさない方針でね」
「ベッド数は」
「百ベッド。そう大きくはないが今の郊外病院として、中級のところでしょうな」
「理事は全部医者ですか」
「医者は四人。それも理事長をのぞいて、あとの三人は他の大学病院に居たり、開業したりしている医者で、あの病院に直接は関係していない」
「もう一人は」
「あそこの地主でしょう。土地を提供して理事の一人におさまったわけだ」
「すると、医者でなくても、理事にはなれるわけですね」
「それはそうです。運営者と経営者はちがうから」
「立花さんがなってもおかしくない」
「だが、順当な理由が要る」
「ええ。――一度、その地主理事に紹介して貰えませんか」
「いいですよ」
「どういう人です、その人は」
「地主だから、この土地に古い人なんだが、一時は画商をやったり箱根で旅館をやったこともあるらしい。まァ、資産をだいぶ減らしたらしいがね」
「その人と立花さんが交代してください」
「交代してくれといっても」
「きっとうまくいきますよ。我々が応援しますから」
そういって和合は、にやりと笑った。
「しかし和合さん、病院経営という奴は素人眼ほど、儲かるもんじゃないですよ。今は医療機械が進歩してる過程で、設備投資もしなきゃならんしね」
「ははは、そんなお定まりのセリフにはごまかされませんよ。機械が必要なら別会社をこしらえて、リースでいれりゃいい」
「まァ、なんでも貴方式でいけば損するところはないだろうけれどね」
「いや、俺式じゃない。ざらにあることでしょう。それに、立花さんの肩書きがつけば、インドネシアにだって」
「ははァ、インドネシアに対する布石ですか」
「あっちの方が大きいでしょうがね――」
二人は急に黙った。ロッカがトコトコ歩いて、この棟に近づいてきたからだ。
「じゃあ、これで――」
と立花氏は車の外に出た。
「もう法事ははじまってるんですか――」とロッカ。
「もうそろそろだよ」
「線香だけあげさせて貰います」
「おい――」と和合が窓から声をかけた。
「儲かってるか。団地の商売は」
「まァまァです」
とロッカは低姿勢でいった。
「商売なんていえないくらい、チビっちゃい稼ぎだから」
「気をつけてやれよ。特に君なんか客筋の関係で場所を移れないだろうから、事を起こしたらおしまいだぞ。すぐパクられる」
「眼に立つようなことは何もしてませんよ」
「そうでもないぞ。いくら小さくやってたって、眼に立つのは同じだ。むしろ、小さい方が狙われるよ。狼の餌には小さい方が適当だからな」
「それはどういうことですか」
「お前、どこかの筋と提携してるか」
「いいえ」
「完全独立か」
「そのかわり、サービス第一です。客には喜こんで貰ってますよ」
「客じゃない。問題は組織だ。団地はたいがい、どこかの組が入って縄張りを造ってるぞ。誰がこんなご馳走を見逃すものか。その組とうまく話をつけていかなけりゃ、風前の灯だ。確実にチックリ(密告)される」
和合は額のところで掌を丸めて見せた。
「この旦那がすぐに現われるよ。小さくやってたって、誰も遠慮してるとは思わない。小さな独立国は犠牲《いけにえ》にされるんだよ」
「――気をつけます」
「お前のやり口は、ちょうど二十年ぐらい前の俺たちの商法だな。ま、しっかりやんな」
ロッカは階段を昇りながら考えた。立花氏には、絶対誰にも内緒にしておいてくれ、と頼んだのにいつのまにか、和合にしゃべっているらしい。
あの人は年齢を無駄に喰ってるだけで、気がいいから駄目だ。誰よりも、あの和合という人に、自分は急所を握られてしまうようなことになってしまった――。自分だけならこんな不仕末にならないのに。
同じ棟の二階に居る競馬の客のところで集金をして、今度はエレベーターでロッカが立花氏の部屋の階まで昇ると、美津子が部屋の前に立っていた。
「お父さんと会わなかった?」
「あ、さっき、下で会ったけど」
ロッカは不思議そうに彼女を見た。
「僕はてっきりもう戻ってると思ってた」
「和合さんと、どこかに行ったのかもね」
「法事だっていうのに?」
「お母さんが亡くなった時も、どこかに行っていて、居なかったわ」
「いいじゃないですか。それが大人ってものでしょ。むしろ立花さんには、もう少し大人っぽくなってほしいくらいだよ」
そういいながらロッカは、駅前であったときの美津子の案じ顔を思い出して、はっきりわからぬながら、立花氏の身辺に多少の暗雲がとり巻いているのをチラチラと感じていた。
立花さんがエラーをしていくようならば、此方も自衛上、そのエラーに巻きこまれないようにしなければならない。場合によっては先手を打って立花氏を攻めなければならないかもしれぬ。小なりといえども、自分は独立独歩のフリーランサーである。
ロッカが焼香をすませ、坊主が現われて読経が半分ほどすむ頃に立花氏が帰ってきた。
美津子の視線に応えて、
「――ちょっと銀行に行ってきたもんだからね。通帳の件、すましてきた」
と小声でいっているのがきこえた。
ロッカは入れかわりに立花家を辞したが、バス停で風に吹かれていると、
(――こうなると車が欲しいな。車があれば動きの能率があがるんだがな)
買って買えないことはないが、歯を喰いしばって我慢している。
ロッカはこの団地では、失業中のバンドマンという触れこみなのだ。けっして、本職のドリンク業に見えてはならない。そうして、これまたけっして、買いを入れてくれるお客よりも楽そうに見えてはならない。
いうならば、失業中にやむをえず、客のメッセンジャーボーイをやったり、無尽の世話をしたりして、かつかつにしのいでいる風情でなければならぬ。
(――実際そのとおりなんだからな。リアリティがあるはずだよ)
ロッカはそう思っていた。そうしてまた、目下のところ、誰からも憎まれていないという自信があった。
和合がいうように、同業者に密告されるということはありえても、客からはあるまい。
実際にノミ屋をはじめてみてわかったのだが、客という奴が、実にまたわがまま勝手なものなのである。
勝てば大威張りで金を受けとるわりに、負ければ機嫌を損い、人を悪者あつかいにして、払いしぶる。二、三週負けが続くと、だから機嫌をとりむすぶ策をいろいろ工夫しなければならない。
ロッカの経験によれば、勝ったり負けたりしながら、通算では適当に負けてくれる客は、安心していられる。
負けてばかり居る客は、骨が折れる。いや気がさして止めてしまうのは困るし、無理が生じて恨まれてはなお困る。そうならないように一生懸命気を使わなければならない。あまり親密になりすぎても、客の方が甘えてきて、口張り(現金を張らずに遊ぶこと)が多くなったりするから具合が悪い。
だが、数はすくないが、勝ちとおす客が居て、これは敬遠しなくてはならない。特にロッカのような小さい業態は、一人、こんな客を喰わえこんだために、破滅を呼ぶおそれがある。
中央競馬だけを入れてくる客が一番多いのだけれども、これは土日開催で、二日間受けて普通は月曜日に精算である。ノミ屋は一般に、最初の一週、客が勝って配当をツケても、かえって内心で喜こんでいる。
ノミ屋は誰でも、長い目で見れば此方が有利だと思っている。
それはそうであろう。税金で天引される二割五分を、ノミ屋は懐中におさめてしまうのだから。そのためにおとし≠ニいって一割を客に戻したり、いろいろなサービスをするのだ。
次に二週目に、また客の方が勝った。それでもノミ屋はニコニコして配当金を持ってくる。
「強いですねえ、お客さんには負けたよ――」
などといいながら、まだ、なあに、ツキが変れば逆転していくさ――、と思っている。
三週連続して勝つ客に対して、はじめて敬遠の準備をはじめるのである。一、二週勝つ客はざらにあるが、三週連勝する客はめったに居ない、ということの証明でもあろう。
ノミ屋をコロしてしまうような客は、どこでも敬遠されがちで来ているのであり、したがって最初から目立つような大張りはしないものだ。だから小張りの客だからといって、けっして油断はならない。
そういうことが、ロッカにもだんだんわかってくる。
和合にチラッといわれたようにひとつの団地だけを頼りに商売していると、不都合が生じるということもわかっていた。
この商売、一ヵ所に永住するようではまずいのである。どうしても、噂が、よけいなところまで拡がる。そうなる前に、転々と居を変えて、あまり近隣に正体をさとられない方がよい。
だが、ロッカのやり方では、団地を離れるわけにはいかない。
彼は、この団地で商売がしにくくなったときのことを考えて、団地以外の客をつかむことも心がけた。
けれどもそれもうまくはいかない。近頃の不景気も反映して、新らしくロッカの客になるような者は、たいがい他のノミ屋で不義理を重ね、鞍替えしてくるような客ばかりだったからだ。
そんな場合、暗黒街を背後に持たないロッカでは、客の方が一枚上手になってしまって、骨折り損になることが多いのである。
団地の客で西谷というギャンブル好きが、肝臓を患らってT綜合病院に入った。西谷はわりに大きな建設会社の中堅社員で、子供がないせいもあり、磊落《らいらく》に張る。ロッカにとっては最上の客である。
西谷の病室に、ちょこちょこと出入りしているうちに、ロッカはこの病院の患者に注目するようになった。スケールのちがいはあるが、和合の考えることと質は似ているのである。
肝臓や腎臓の患者は比較的、入院日数が長い。怠屈しきっている。
入院日数の短い軽患者でも、中央競馬なら土日やって月曜精算だから、小張りである限り、とりはぐれはない。とにかく相手はベッドに釘づけなのだから。
「西谷さん、患者の中で競馬をやる人が、たくさん居るでしょう」
「そりゃァいるよ。だが、予想紙が買えねえからなァ。データがわからねえから、皆、テレビを見るだけで我慢してるんだろう」
「予想紙を買ってきて配りますから、客を紹介してくださいよ。そうしたら分《ぶ》で西谷さんの方にお礼しますから」
「分って、何分だ」
「そうですね、二分なら、どうかしら」
「あがりの二分か、儲けの二分か、どっちだ」
「――あがりの二分」
「ばかやろう、素人奴。あがりの二分ったら大きいぞ。お前、そんなに儲かってるのか」
「ああそうだ、ばかだな俺も。儲けの二分ですよ」
「そりゃいいが、儲けがいくらだか、どうやって俺にわかる」
「毎週、紙にきちんと書いてきますよ。会計簿みたいに」
「お前を信用するのか」
「――じゃこうしましょう。この病院の分だけ、西谷さんのところで一度まとめてください。そうすりゃ、ガラス張りでしょう」
「それも、俺が何かしてるみたいでね、不体裁だなァ。俺は表面に出たくないよ。じゃ、こうしよう、俺の入院費、お前が持ってくれ。それでどうだい」
「――入院費って、いくらかかるんです」
「たいしたことないよ、こんなもの、健康保険があるんだ。部屋代だけだよ。それだって四人部屋だもの」
「部屋代なら部屋代だけってのがわかりやすいな。入院費っていうと、手術代とか――」
「おい、俺をそんなに悪くしたいのか」
「だって、何があるかわかりやしない」
「大丈夫だよ。肝臓なんて、じっとして寝てるだけだ。それに見合うくらいの働らきはするよ。見てるとな、医者だって好きなのが居るし、婦長だってやりそうだぞ。この部屋の人だって、俺以外の三人のうち、二人はやるんだ。ずいぶん頭数は居るぜ。どんどん紹介してやるから」
次の週になると、早くも同室の二人の患者と、医者が一人、西谷を通じてロッカの客になった。同室の残る一人も、怠屈だから、といって入ってきた。
西谷のそつないPRか、或いはこういう噂は特別な伝播力があるのか、他の病室の患者たちも、ほどなく何人かがロッカの客になりだし、まだ増えそうな雲行きになった。
西谷の隣りの病室は、ここも四人部屋で、本名が楠正成《くすのきまさしげ》という患者が居て、これが大の競輪好きだということだった。
楠正成氏は大きな料理屋の板前のチーフで、昼間、閑があるために競輪場に顔を出すのが日課だったという。
ロッカもスタンドに日参していた頃には、指定席の常連の顔はたいがい見覚えていたものだが、楠は名前と裏腹に小柄で目立たない人物で、面と向かってもまったく記憶に浮かんでこない。
楠はもう三ヵ月も前から不調を訴えて入院しているのだが、今だにどこが悪いのか、医者にも見当がついていなかった。
というのは、猛烈に気が弱くて検査のひとつひとつにつまずいてしまうのである。
胃カメラを呑むとする。大概の患者は多少苦しくとも、あきらめて医者のいいなりになるものだが楠はあくまで怖がって、必死で拒否してしまう。何度も透視室に連れられていくが、悲鳴をあげ、転げまわり、ついに医者がサジを投げて日延べをする。そんなことで胃カメラだけでひと月以上もかかってしまう。
近頃は機械が進歩して、病気を発見するための検査方法が多様化しているが、胃カメラで死ぬほどの眼に会った楠は、その恐怖が身体に浸みこんで、検査室に運ばれ医者に身体をいじられただけで、血圧が半分にさがり、検査どころではなくなって、気息えんえんとした様子でむなしく病室に戻されてくるのだった。
それで一週間ほどは、ほとんど食欲も起きない。
自分は病気だが、そのために検査をすれば、そのショックで命を落すかもしれない。そのくらいなら病気のままの方がよい、と思っている。
しかし落ちついてみると、身体の方も具合がわるい。どうしてよいかわからずに、悶々として一日じゅう毛布をかぶってじっとしている。
板前としての腕は良いらしく、料理店も入院費をそっくり保証してくれていたし、病人としてはのん気な身分でもあった。だから病院の方も、わがままを許容しているふしもある。
ある日、顔までかぶった毛布をはねのけるようにして、病室に来合わせていたロッカにかぼそい声でいった。
「山口健治から尾崎雅彦、フラワーラインで特券十枚――」
「え――?」
とロッカは訊き返した。
「楠さん、競輪をやるんですか」
「松戸の記念をやってるでしょ。それから滝沢の二着を押さえに五枚――」
「大丈夫ですか。はずれてショック死しても知りませんよ」
「何かやってなきゃ、あたしゃ死ぬ。とても寝てなんかいられるものですか――」
ロッカはひどくいそがしくなった。土日開催の競馬だけでなく、毎日どこかでやっている競輪や競艇の予想紙まで、T病院に毎朝届けなければならない。
楠正成氏は、医者の廻診のときや、看護婦がそばに寄ってきたりすると、瀕死の病人のようにほとんど物をいわなくなるが、ロッカの姿を見ると、むっくり起きあがったりする。
「あたしはこれが一番の薬だ。これがなけりゃ生きてられません」
「それじゃ病院なんかに入る必要がないでしょう」
「そうですがね、家じゃやっぱり不便ですよ。女房や子供たちの眼があるから」
楠の場合、その日の買いは翌朝精算だった。集金は医者の廻診が終った頃を見はからって行く。もちろんツケの場合も、予想紙と一緒にきちんと届ける。
「君は珍らしく律義なんだね」
と楠はロッカを大分信用したらしかった。彼は枕の下に、きちんと折りたたんで、小遣銭をかくしていた。
その隣りのベッドに、波目井鉄五郎が入っていた。
ロッカがはじめて鉄五郎から声をかけられたのは、楠が穴をごっそり当てて、二十七万ほどの金を運んでいった朝のことだ。
「お前さん、ドリンク(ノミ屋)か。そうか。俺も一丁、買いを入れていいかね」
ロッカはちょっと微笑してみせてからいった。
「勘弁してください」
「何故――」
「だっておじさんは、ただドック入りしてるだけでしょ。すぐに出ていってしまって、もうどこに行ったやらわからない」
「大丈夫だよ。わしは長い」
「ドックは長くて一週間ですよ」
「いや、わしはここに逗留する。そいつはもう定めてるんだ。こりゃァなかなかいい病院だよ」
「そりゃ医者が定めるんです」
「わしの年齢になって、わしぐらい不摂生してれば、どこか悪いところがあるよ。悪いところがあれば居ることになるだろう」
「どこも悪いところがなかったらどうします」
「それでも行く所がないんだ。――自分のことは医者よりわかる。ここが死場所だ。死ぬまで精々楽しむさ」
ロッカはとりあえず反問した。
「それで、何をやるんです。競馬ですか」
「いや、競馬はあきた。第一、予想紙を見るのが面倒くさい」
「ああ、野球ですか」
「いや。――こういうのはどうだね。この部屋で誰が一番先に死ぬか、そいつを投票する」
楠正成がびくっと身体を固くして、鉄五郎の方を見た。
「楠さん、気にしなさんな。あんたが死ぬとはいっとらんよ。わしかもしれん。いや、わしが本命だな。四対一だから、こうしよう、当ったら三倍だ。どうだね。わしが紙に名前を書いて封をしてお前に渡しとく。金と一緒にな」
ロッカはしばらく考えてからいった。
「で、いくら、張るんです」
「百万――。受けるかね」
張り額をきいたとたんに、ロッカは、ちょっと笑った。
冗談だと思ったのである。
そういいだしたのが、いくらかうす汚ない、どうみても金持の旦那には見えない爺さんなのだ。
爺さんは百万張るという。百万という金は、当節ではびっくりするような大金ではないけれど、ロッカの商売の規模としては、三倍の三百万は、かなり緊張する額である。
この商売、法律の裏をくぐっているだけに、どうせ多少の危険は避けえないと覚悟していた。けれども、欲に眼がくらんで、その危険をみずから背負いこむのはばからしい。当店は、利はすくなくてよろしい。着実に、つまずかずにいきたい。
「おい、どうなんだい、受けるのかい」
と波目井鉄五郎がいう。
「エヘヘ、どういうことなんですかね」
「なんだと――?」
「だって、もし、お爺さん自身が最初に亡くなっちゃったら、誰に払うんですか」
「いいんだよ。そのときは受取人を指定しておくから」
「――それで、本気かなァ」
「本気だよ」
「あとになったら、ありゃァ冗談だ、ばかだなァ、なんて――」
「張るといったら、本気なんだ。お前、ばくち打ちを知らねえな。じゃ、こうしよう」
鉄五郎はベッドからおりて、衣裳入れのズボンのポケットから、一枚の小切手をとりだした。
それに、さらさらとボールペンで書きこんで、ロッカに渡した。
金額のところに、金壱百万円也と記してある。隅に二本の横線がある。
「こりゃ、金額だけで、名前も日付もないですね」
「当り前だ。全部書けば、今すぐ銀行に持ってっちゃうだろうが。結果が出たら、それを持って俺んところに来いよ。名前と日付を入れてやる」
ロッカは再び、ちょっと思案した。
「それじゃ、俺は紙に名前を書いて、封をしとくからな。そいつを二人で持ってよう」
「弱ったな――」
とロッカはいった。
「こんなことはじめてだからな」
「おや、受けたんじゃないのか」
「――勘弁してください。こっちは病人に関してデータがないし、いつ答えが出るかわからないし、ちょっと受けられません」
「あ、受けねえのか。そうか、わかった。行っていいよ。なんだ、近頃の若い衆は骨がねえな」
ロッカは唇をかんだ。しかし、ノミ屋はばくち打ちとちがって、英雄的行為ではない。あくまで商売だ。恰好わるくたって、危険は避けるべし。
すると、戸口の方からこのとき突然声がかかった。
「なんだか知らねえが、こっちで受けてもいいですよ」
和合が元気よく、話の中に割って入ってきたのだった。
誰が死ぬか
「――ああ、お前さんか」
鉄五郎は戸口に現われた和合の方を見て、小さく頷ずいた。
「お前さんなら嫌とはいわないだろうな。いつか、遊んでる最中に、受けるかといわれてことわったことがねえとかなんとか、たんかを切っていたからな」
「受けるよ。受けますよ。受けさしてください。だが、いったい何を受けるんだね」
鉄五郎はもはやロッカを無視して、病人を見廻しながらいった。
「この四人部屋で誰が一番早く死ぬかってんだけど、四人だから当れば三倍さ。受けるだろう」
「ああ、受ける。だが、自分も四人の中に入ってるのかね」
「もちろんさ。俺が一番、早いんじゃないかと思うくらいだ」
「ただドックに入っただけで、よくいうぜ。それで爺つぁんが死んだ場合、自分でも当てたとして、誰に金をやったらいいんだ」
「ちゃんと紙切れに書いておくから安心しな。名前をいえばむろん知ってるだろうが、その人は俺の後見みたいなものだから――」
「但し、自殺では当てたことにならない」
「へええ、自殺は駄目か」
「火災保険だって、自分で火をつけたら、あかんだろう」
「皆さん、きいたかい、自殺はなしだとよ」
「いや、他の人の自殺はいい。自分が張ってねえんだから。どうぞ気にしないでやってください」
「あの坊やとちがって、お前さんなら五百はいけるだろう。額は五百万と訂正するよ」
「はい、聞きました。五百万の買いで、当り千五百万だね。もしおっさんが急に死んだら、それで他の人に張っていたら、誰から貰えばいい。やっぱりその後見人からかい」
「前もってこの紙を渡しておく。金額だけ書き入れてあるが、名前と日付けが入っていない。死にそうになったら記入するよ」
「急に脳溢血で、ということもあるぜ」
「よし。院長に預けておこう。名前を投票した紙と一緒に封筒に入れてな」
「なんだい、その紙は――?」
「小切手さ――」
鉄五郎は一枚のサラの小切手をひらひらと振って見せた。
和合は笑っていった。
「だろうと思った。でも小切手じゃ駄目なんだ。俺っちは、小切手はいっさい信用しない。現金だけしか受けない」
「何故、お前さん、約束手形みたいなもんじゃない。パーソナルチェックだ。銀行へ持っていきゃ、すぐ銭になるんだぞ」
「うちは現金だけだよ。残念なんだが、ルールなんでね」
「前金で、五百万よこせってえのか」
「いや、前金じゃなくていい」
「妙な野郎だな。外国じゃ、現金なんかよっぽどじゃないと使わない。パーソナルチェックでなんでも通用する」
「じゃァ外国へ行って、ノミ屋を探してくれ。そのかわり現金でなら、一億が二億でも、おどろくこっちゃねえ」
「とにかくこんなものはしまっときねえな。見せ金にもなりゃァしないんだから」
和合は、サイドテーブルにおかれた一枚の小切手を、ベッドの上の鉄五郎の方にほうった。
そうしてかたわらに居るロッカの方にいった。
「お前もこの道に入ったんなら、こんなことぐらい覚えとけよ。この商売はキャッシュ以外は、いっさい信用しないこと。ごたごたが起きたって、俺たちは、恐れながらと訴えて出る場所なんかねえんだからな」
「こいつが贋《にせ》の小切手だってのかな」
「そうじゃねえが、よくある手だろう。空口座を作っといて小切手帳を貰い、そいつを一枚一枚売って歩く手合だって居るんだ。こっちは万一の場合を想定してるんですよ」
「それじゃァ――」と鉄五郎がいった。「勝負がついたとき、どっちかが、ありゃァ冗談さ、とトボけたら」
「一応、紙きれに但書してお互いにサインし、交換しとけばいい。借用証書と同じさ」
「ふむ、なるほど――」
「それで同室のお方、ご迷惑でしょうが、ひとつ証人をお願いいたします。そのかわり、勝負がついた場合、勝者の方から、お亡くなりになった方へ香典代りに、五十万差しあげることにいたしましょう。その場合の死者が爺つぁんだった場合は、三人の方に二十万ずつ、差しあげます」
二人はそれぞれ同文を記してサインし、その紙片を交換した。
「そりゃそうと、爺つぁん――」
と和合がいった。
「男の契約で、これで双方文句はないはずだが、まァもうちょっといわせてもらおうかな」
「いいとも。なんなりと唄ってみな」
「何の仲にも礼儀ありで、やっぱり、テッポウ(一発勝負)ってことはなかろうと思うんだな。爺つぁんがもし勝ったって、テッポウで千五百万、はいさよならじゃ、情がわるいと思うだろう」
「もう一発、やれってのかい」
「いや、この勝負、いつになって定まるのか見当がつかない。ひょっとしたら皆さん恢復して病院を出てってしまうかもしれない」
「そうでもないだろう。この病院は入ったら二度と出られねえって噂だ」
「へええ、そんな噂があるのかね」
「まァそれは冗談だが、なんとなく皆さん影がうすいよ。ゴール前横一線ということもありうる」
「とにかく一回ケリがつくまでに手間がかかるよ。だからそれまでチビチビ張っていて貰いたいンだがね。そうすりゃお得意様だ。俺の方だって万端トボけねえよ」
「張るって、競馬だの野球だのをか。あんなものはトーシロの遊びだよ。俺ァもうあきた。これから死のうってときにやる遊びじゃねえ」
「競馬や野球と限らねえさ。俺の方じゃなんだって受けるぜ」
「ふむ、チビチビ張りをか。まァどうせ怠屈してるんだから、気のあるところなら張ってみてもいいぜ」
「それじゃあ、何に張るかな」
「お好きなものをどうぞ」
鉄五郎はベッドの上に起きなおり、和合は相手の正面に自分の身体がくるように、椅子をひきずっていって、がっちりと坐った。
「そっちで定めてくれれば、つきあうよ」
「俺は受ける方だからね、客がこれといったら、なんでも受けるのがノミ屋のモラルだ」
看護婦を先導にして、医者が病室に入ってきた。廻診の時間なのであろう。
入口寄り右側の腎臓患者から順に、カルテを見ながら何かささやいている。
「わかりやすいものがいいな」
と鉄五郎。
「わかりやすいって、当りやすいって意味かね」
と和合。
「いや、当りはずれがはっきりしてるものさ。どうせここから動けねえんだから、レース場なんかじゃなくて、ここで完全にできるものがいい」
「するとまた、この四人を選手に見立てるか」
「この四人でなくたって、病院の中を材料にするならいくらでもできるぜ。今度の死人は何号室から出るか。奇数室か、偶数室か。看護婦に頼んどけば教えてくれるだろう」
「だが、俺にはわからねえよ。ちゃんとした正解が、俺のところに報告されなくちゃ話にならねえ。それに、爺つぁんは情報を仕入れようと思えばできるしね」
「俺はそんな子供だましなインチキはやらねえが、まァそれじゃ、他のことを考えるか」
「生き死にじゃなくたっていいじゃねえか」
「いや、生き死にが一番はっきりしてるよ。ねえ先生」
医者は振り向きもしない。
「じゃァ、こういうのはどうだ。患者じゃなくて、お医者さんが死ぬか、どうかだ。爺つぁんが入院してる間にな。それなら俺にだってわかるさ」
「――医者は、数がすくねえからな」
「看護婦さんを入れてもいい。死にそうもないのが、存外、行くもんだよ」
医者は三人の患者を見て、部屋を出ようとした。
「おっと先生、わしには何も声をかけてくださらねえのかね」
と鉄五郎。
「あんたはまだ検査の結果が出ていない。数日中にはわかるからね、そうしたら――」
「いや、そうじゃねえ。わしの顔から視線をそらしたぞ。ひょっとしたら、わしは――」
「あんたはただドック入りしてるだけでしょう。おとなしくしてらっしゃい。続いて今夜、糖の検査をするからね。怠屈でも他の患者さんの邪魔にならんように」
和合が笑っていった。
「爺つぁんは医者に見放されてるよ」
「そうだろうな。わしもそう思ってる」
「こんなところでは、重い患者ほど医者が丁寧な口を利くもんだ。爺つぁんは口を利いても一銭にもならねえほど、ぴんぴんしてるのさ」
「もしそうなら、見立てちがいさ。医者はよく見立てちがいをするからな。わしは見立てちがいの方に賭けるよ」
「すると、さっきの買いは、爺つぁん自身に賭けたのかい」
和合が、ポケットに入れた封筒を出そうとした。
「まァ見るなよ。フフフ、ばくちは別だ。誰を買ったか、お楽しみさ。わしの身体も悪いが、悪いのはわしだけじゃない。自分のことだけに気をとられて他人を忘れるようじゃ、配当だけ気にして、当り馬券が見えなくなるのとおんなじさ」
「それで、どうするね、医者と看護婦で、やるかね」
「――もうひとつ、気が乗らねえな。それなら、こうしようじゃねえか。新聞の死亡欄でいこう。あれなら正解がちゃんと誰にだってわかる」
「死亡欄を、どう使う」
「皆が知ってるような有名人を、お互いに十人ずつ選んで、名前を書いておく。で、死んだ奴を当てたら、勝ちだ。一件につき五十万、二人死ねば百万さ」
「俺も、十人選ぶのか」
「そうさ」
「すると、呑み行為じゃなくて、純粋な賭けだな」
「いやかね」
「いや、面白い。やるよ。だいいち、警察にあがったときだって、その方が軽くてすむ」
「それじゃ、おい、小僧さん――」と鉄五郎はロッカに声をかけた。
「ご苦労だがね、ひとっ走り本屋に行って、紳士録でもなんでもいい、人の名前のうんと出ている本を買ってきてくれないか」
「タレント名鑑でもいいぞ。少し大きい本屋に行けばあるさ」
ロッカは鉄五郎から一万円札を渡されて、気にいらない顔つきで出て行った。
「六十歳以上は、除外だな」
「そりゃもちろんだ。死にそうもない奴の中から当てるんだ」
「期限が要るな」
「ああ、わしが退院するまで、いや、そいつはいつになるかわからんから、向う一週間としよう」
「一週間で誰も死なないかもしれん」
「そうすれば再試合だ。もう一度十人選び直す。前の奴を続けて選んでもいいし、新しいのを入れてもいい。再試合のときは一翻つき。倍になって一件百万だ」
「ちょっと待ってくれ。爺つぁんが退院した場合は、居所がわからなくなるな」
「いちいちうるさい奴だな。そうなったら保証金をおいたっていいよ」
「しかし――、これは案外に面白い遊びだぜ」
「そうだろう――」
と鉄五郎が会心の笑みを洩らした。
「銭が賭かってるとなりゃァ、当てずっぽうで十人選ぶわけにはいかねえ」
「俺も同じことを考えていたよ。こりゃァ、どうしてコクがある。誰が死ぬか。なるほど、こいつァ簡単なようで、深いぞ。麻雀の裏ドラを当てにするのとは、少しちがうな」
ロッカが買ってきた二、三冊の文化人名鑑やタレント名鑑を二人ともパラパラとめくりはじめた。
「ええと、――六十歳以上はオミットだっけな」
「そうだ――」
「子供は――?」
「いいだろう。俺たちが名前を知ってる子供なら」
「女はどうだね」
「女も人間だろう。いいことにしよう。但し、現在入院中とか、明瞭に病気だとわかっている者は男女を問わず駄目だ」
「――こうしてみると、死にそうな奴は居ないな」
「だからこの遊びは、病人を探し当てようと考えたって無理だ。当てずっぽうのゲームでもねえ。そんなことで十人の網に入るわけもねえし、宝くじを当てるみたいでつまらねえやな」
鉄五郎はそういうと、和合の表情を、いたずらっぽい眼で眺めていた。
「お前、何を考えてるんだ」
「――ちげえねえ。爺つぁんのいうとおりだ。こいつァ、当てっこだと思ったら負けるぞ。俺ァドリンク業(ノミ屋)だ。受け屋だがね。この勝負は爺つぁんが出した問題だ。こいつを受ける以上、どこかに爺つぁんがしかけたトリックがあるにちげえねえ。そいつを考えてるんだ」
「トリックなんてねえさ。他人の生死に、俺が仕込みをかけられるかい」
「トリックというのがまちがいなら、急所みたいなものだな。爺つぁんはきっと、この種のゲーム、これがはじめてじゃあるまい」
鉄五郎は笑った。
「わしは長いこと生きてきたからな。いろんなばくちをやってきたさ。日本が敗けたときは南支に居てな。なんでも賭けてみんな勝った。うわっはっはっ、敗け戦に賭けて大儲けしたのはわし一人だろうよ」
「南支那に居たときはヘナチョコの兵隊ばかりで自由自在だった」
と鉄五郎はご機嫌で続けた。
「ドイツやイタリアが降伏した頃でな。皆、ムソリーニとかゲーリングとか、負けた方の大将にばかり賭けるんだ。わしはルーズヴェルトを当てたよ。奴が大統領四選のすぐ後だったな。一対十六ぐらいだった。わしはおかげで皆の公用休暇をひとり占めにしたもんだ。引揚船で帰ってきたときも、空ッ尻だがなけなしの物を賭けてやった。皆きまっていやがる。東條英機だ、近衛文麿だ、――わしはそんなものに張らん。もっともこのときはわしも当らなんだが」
「誰に張ったね」
「誰に張ったと思う」
「――天皇か」
「――まァ、そうだ」
「そりゃ俺だって張るぜ。その頃なら当然人気の線だ。日本の敗戦だってやさしいぞ」
「お前等今だからそういうんだ。その頃は、内心で思ってたって張る奴は居ない」
「素人相手じゃな」
「スターリンは当てたぞ」
と鉄五郎は胸を張った。
「そのときは蒋介石が人気だったんだ。十人ほど居て、当てたのはわし一人だった」
「今まで一番儲けたのは、力道山だったな。あれは我ながら見事だった。なにしろそのときは、北九州の川筋の本職のばくち打ちたちがあッと驚ろいたんだ」
「わかったよ、爺つぁん、少し考えさせてくれ」
「いくらでも考えろ。なんなら明日まで〆切を伸ばしてもいいぜ」
「爺つぁんはもう定まってるのかね」
「わしは気楽さ。お前さんが当るはずはないんだから、何を書いたっていい。まァひとつ、ぶつかり稽古するつもりで来い」
鉄五郎はベッドからずりおちると、すでに勝ったかのように意気揚々とトイレに立っていった。
いきなり和合は笑いだした。
「爺つぁん奴、嘘ばかりついていやがる」
和合はロッカを振り返って言葉を続けた。
「お前、ひとつ教えといてやる。ばくち打ちは勝負のときは、無駄な動きはしないぞ。爺つぁんが、なんの意味もなく唄ったりするものか」
「孔雀が羽を大きく拡げるようなものですか」
「それもある。威嚇だな。だがそればかりじゃねえ。なんであれだけ唄ったのか、そこをよく考えてみることだ」
和合は自分自身にいいきかせるように、眼をつぶってしばらくじっとしていた。
「このゲームは、人の運気を当てるゲームなんだ。そいつは確かなことさ。今の爺つぁんのセリフをきいていてもわかるだろう。いろんな人間の綜合の力、運気を見ていく。こいつァサイコロの目と同じさ」
「サイコロと同じですか」
「ああ。サイコロの目という奴は永久にあがりっ放しでいるわけはねえ。反対にまた、永久にさがりっ放しでいることもねえ。どんなに上昇していても、どこかで下降に変るときがある。それがどこで変るかを見るんだ。そいつには公式はない。だが、ひとまず売切れという瞬間がある。充填《じゆうてん》されてむくっと起きあがる瞬間もある。それがどこかだ。そいつを見ねえで実績だけで張ってると、いつも後手に廻る。勝負は、後手に廻るか、先手を取るか、それできまる。ふうん、こいつはチンチロリンと同じだぞ」
「へええ、チンチロリンですかねえ、これは」
「お前等若い奴は、丁半やチンチロリンみたいな単純なゲームを馬鹿にするが、一見単純なものほど綜合そのものなんだぞ。綜合を見る眼がなければ、ああいうゲームはカモになるばかりなんだ」
「ルーズヴェルトは四選した直後っていったな。それで勝ちが見えてきて、いい目ばかり出て――」
ロッカはいいつのった。
「力道山だってそうだ。とんとんと最高の目が出たところで――」
「馬鹿、お前がわかるようなところで勝てるんなら、誰もばくちなんかに一生を入れあげないよ」
「だって、爺つぁんがそういいましたよ」
「爺つぁんがそんな無駄なことをしゃべるわけはねえんだ」
鉄五郎がトイレから戻って、だるそうにベッドに這いあがったが、和合はおしゃべりをやめない。
「第一に、爺つぁんのさっきのほら話は、いずれも動乱期だ。人の運気の上下が、外側に典型的にあらわれやすい。一足飛びに今と比較したって無駄さ」
「わしのほら話だと――?」
と鉄五郎が口をいれた。
「なんのために、お前さんたちにほらを吹かなきゃならねえんだ」
「第二に――」と和合は相手にならずに続けた。「人の運気そのものが、それほど単純なカーブを描きゃしねえ。そんなことは稀さ。粗雑な頭で考えたら、片っぱしから誤解していってしまうだけだ。競馬でも競輪でも、専門予想紙があるだろう。あそこにはデータが出ている。専門家の予想もある。誰だってデータなしに、レースを解明することはできない。だが同時に、データは誤解する原因にもなる。予想紙は絶対に必要だが、その予想紙のために、買いが曲がってしまう」
鉄五郎もロッカも、患者たちも沈黙したままだ。和合は一人でしゃべり続けた。
「麻雀でもそうだ。お互いに捨牌を見て相手の手を読む。誰だってあがるために、手牌の中の不要牌を捨てていく。その足跡からテンパイを読む。だがまた誰だって、迷彩を考えながら捨てているだろう。素朴に眺めてるとすぐ嘘のニュースにひっかかってしまう。それでは捨牌はまるっきり信用ならないかというと、そうじゃない。あがりに向かうためには真実のニュースも捨てなければならん。どれが嘘で、どれが真実か、そこを選りわけなければ、データは何の役にも立たねえからな」
「――――」
「爺つぁんは、さっき、たしかにデータと受けとれるようなことをしゃべってくれたよ。だが、そこが落し穴だ。パクッと粗雑に喰いついたら、銭がいくらあったって足りねえや。いいかいロッカ、予想紙は誰にだって見える。麻雀も誰にだってできる。考えどころはこの先なんだぞ」
「能書《のうがき》はそれくらいにして、そろそろ投票したらどうかね」
「まァ待てよ。さっき自分で、〆切は明日でもいいっていってたじゃないか」
「へたの考え休むに似たりだ」
「爺つぁんはもう定《き》めたのか」
「トイレで書いてきたよ」
「十人全部か」
「わしは十人なんていらねえ。ハンディをつけてやる。わしは半分の五人だ」
「見せてみな」
「馬鹿。餓鬼の遊びとはちがう。真剣にやれ。こいつァ他人の生死を賭けてるように見えるが、お前さんが生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぜ」
和合はメモ帳をとりだしたまましばらく黙っていた。
「復習してみよう。さっき爺つぁんのしゃべったほら話をな。このゲームはたしかに運気を見ていくんだ。それで当るとはいいがたいが、その他に判断の材料は考えつかねえ。まず方法論を作らなけりゃ、きつい張りはできねえからなァ」
「まずルーズヴェルトだ――」
と和合は自分にいいきかせるようにいった。
「奴はたしかに、オイチョ(8)かカブ(9)を連続出していた。サイの目が上りっ放しだった。だが、それが、オイチョだ、カブだとどうしていえる――? いい目に見えたって奴にとっちゃ、ナキメ(7)ぐらいで、まだまだ上り目があったかもしれねえ。上り目のどんづまり、次は下りとどうしてわかった――?」
病室に看護婦が入ってきて、患者一人一人に体温計を配り、それから和合とロッカに向かってこういった。
「面会時間がもうそろそろ終りです――」
だが誰も返事をしない。
「爺つぁんは、しかしそう見たんだ。オイチョ、カブ、カブ、と続いて、今度は急落とな。そいつは確かだ。爺つぁんの出題はいつもタイミングをはかってトリックを造ってある。皆は敗戦国の、いかにも明日も知れないムソリーニやゲーリングを買った。爺つぁんのルーズヴェルトは穴だった。だが、爺つぁんは当てずっぽうの穴狙いなんかするもんか。ある程度の確率がある。オイチョ、カブ、カブ――、もう上り目はない。爺つぁんにはそう見えた。なぜ、そう見えたんだろう」
別の看護婦が通りすがりにドアをあけて顔をのぞかせた。
「アラ、もう面会時間が――」
看護婦は途中で絶句した。ふりむいた和合の顔がすさまじい形相になっていたからだ。
和合が立ちあがって叫んだ。
「お前等、ここをどこだと思っていやがるんだ――!」
「むりをいっちゃいけねえ。ここは病院だよ。まァ今夜の宿題にして、明日でも持って来ねえ」
と鉄五郎。
「いや、もう少しだ。五分で帰るよ。この用件をすましたら帰る」
看護婦が顔をひっこめた。
「日本の負けに賭けて、勝ったといったっけな」
「そうだ。南支でな」
「日本はたしかに上り目のどんづまりだったな。待てよ。サイの目だけがデータじゃないぞ。運気は綜合だからな。日本はあのとき、補給路が伸び切ってた。武器や食糧や兵隊が補給できなかっただけじゃなくて、運気の補給ができなかったんだ。こいつは参考になるぞ。オイチョ、カブ、カブ、といい目を続けていっても、そいつを踏み台にしてまだ伸びていく奴もある。同じいい目を出していても伸び切ってしまう奴もいる――」
「もう五分たったぞ。競馬なら、穴場が閉まっちゃうところだ」
「落ちこんでる奴がすぐ死ぬとは限らない。そういうときは油断をしないし、運気自体にも粘着力がある。だが上昇してる方は、ややもするとペースを見失うんだ。足もとが危ない。七分三分、六分四分で身構えてるかどうかだな。世間に名前が出ている奴は、たいがいどこかでいい目を出した奴ばかりだが――」
「うるさい男だな、お前さんは」
と鉄五郎が呆れたようにいう。
「そんなに考えつめたって、当らねえときは当らねえよ――」
和合は眼を三角にさせて、二、三冊の名鑑をパラパラとめくり、人眼にふれないようにしながら書きこんでいった。
「――さァ、できたよ。これ、どうする」
「二通作って、おたがいにサインして、一通は交換するのさ」
「わかった――。封はするかね」
「好きなようにしな」
「あのう、ちょっと――」
と楠正成から突然声がかかった。
「すみませんが、あたしもついでに参加させて貰えませんか」
「へええ、あんたもやりますか」
和合が、ギャンブル狂はどこにでも居るもんだわい、という顔つきで、声の方に身体を向けた。
「ええ、――その最初の、この部屋で誰が死ぬかって奴、そっちの方、よかったらやらしてくださいな」
「ああそうか。この部屋のね」
「あたしは銭がないから、そうあんたたちみたいな大きな賭けはできませんけど、五万円くらいでよかったら、張りたいんですが」
「五万円ね――」
「かまいませんか」
「あたしンとこは、おことわりします。競馬や競輪ならどんなに細くたって受けますがね、これはあんた、人の命を賭けるんですからね。子供の遊びとはちがうんだ」
「けど、あたしにとっちゃ、五万は大金ですぜ」
「いや、そうにしたところで五万円は五万円さ。ばくちというもんはね、あんた、そっちも真剣、こっちも真剣、そうでなくちゃ成立しないよ。最低百万、そこからにしましょう」
「そんな銭、ないわ。病気の最中ですもん」
「それじゃ僕の方で受けましょうか」
とロッカがいった。
「にィさんの方でか」
「ええ、よかったら、僕だってドリンク業ですから、なんでも受けますよ」
「すんませんな。それじゃ五万円だけな。楽しみだから」
鉄五郎をのぞくとあとの二人の患者は、憮然とした表情で眺めている。楠正成が誰を投票しようとしているのかわからないが、自分たちの命かもしれない。そうなら彼のいう楽しみのために一人ずつの生命が競馬ウマのかわりになるのである。
「当れば、三倍ですな」
「ええ、三倍」
「もし、あたしが死んだら」
「楠さんが亡くなって、投票が当ってるなら、ご家族に香典がわりに送りますよ」
「えへへ、まァ誰かわかりませんが、前金でお渡ししときます」
楠は封筒に現金と紙片を入れ、封をしてロッカに渡した。
「たしかにな――」
「はい、聞きました」
和合はロッカと連れ立って病院を出たとき、阿呆、といって笑った。
「あんなの受ける奴が居るか」
「どうしてですか」
「自分に張ったのにきまってるわい。そうでなくて誰が張るもんか。あれは当るぞ――」
新聞の死亡欄に出るような有名人で、誰が死ぬか、それを当てるわけで、当れば一件につき五十万。二件当ればもちろん百万だ。最初の期限は向う一週間で、双方ともその間に当らなければ、再試合ということになる。新らしく十人を選び直してもいいし、前のをそっくり続行してもいい。
再試合の場合は一翻増しで、一件につき百万。
すると、二週延長の場合は二百万。三週なら四百万、四週なら八百万と増えていくわけだ。
最初の一週間は、たちまちすぎたが、誰も死なない。新聞に出ているのは爺さんか婆さんばかりだった。六十歳以上はオミットだから、爺さん婆さんが死んでも、少しも実にならない。
で、延長戦で、一翻がつく。
「新らしく投票し直すんなら、選びな」
「いや、俺はこの前のままでいいよ。爺つぁんは――?」
「俺もそのままだ。延長戦で一件百万だぞ」
「わかってる――」
そうして、もうひとつの同室の四人の患者のうち、誰が一番先に死ぬか、という方も勝負がつかなかった。
但し、これは期限がない。文字どおりのデスマッチである。
患者は四人とも、いずれも元気で、なんの変ったところもない。
鉄五郎のドックの結果は、肝臓と腎臓がともども少し悪いほか、たいして異状は認められなかったらしい。
医者は、これで全部終ったから退院していってよろしい、といった。
鉄五郎が頷ずかなかった。「いや、わしはもう少しここに居ますよ」
「居る必要はありません。酒と煙草と食事に気をつけて、不摂生をしなければ、もう十年は固い」
「そんなはずはない」
「はずはないといったって、そういう結果が出たんですよ。医者を信用しないのかね」
「そりゃお医者さんはプロだから信用してますよ。でもね、自分の身体に関する限り、わしは専門家でさァ。わしの身体はこわれてるんです。そいつァ確かだ」
「どこがわるいんですか」
「そりゃわからねえ。お医者さんに調べて貰わなきゃ」
「だから調べましたよ。もう一度調べろというんですか」
「ええ、そうしてください。とにかくわしは、当分ここに居るつもりで来たんだから。金ならいくらでも払いますよ。何度でも調べてください」
医者はもてあましたように苦笑しながらいった。
「それじゃ、どこがどういうふうにおかしい気がするのか、それをくわしく説明してください」
「いや、今のところは、なんともないです」
「今、こわれてるといったが」
「ええ。予感がするんですよ。もうすぐ何かあるなって予感が」
「貴方、予感を、医者より信用するの?」
「もちろんですとも――」
と鉄五郎は胸を張った。
「わしは予感を武器に、これまで長いことメシを喰ってきたんだから」
と鉄五郎は、医者にいった。
「ほう、予想屋かね」
「ちがう。勝負師だよ」
「そうすると――」と医者は鉄五郎をしげしげと見た。「将棋指しかな。それとも碁打ちかな」
「なんでもいいがね。とにかくわしの予感は、プロの技なんですよ。それもただの才能てえんじゃなくて、ちゃんと鍛えてあるんだ。お医者さんが学校で勉強するようにさ。だから、しょうがないでしょう。自分の予感を信用しないで、なにか他のものを信用できるもんか」
「まァ勝手にしなさい。そのかわり、おとなしくしてないとつまみだされるよ」
医者は苦笑しながら行ってしまう。
病院側でも問題になったらしいが、とにかく支払いが悪いわけではないし、自分で身体が悪いと主張している者をむりに退院させるわけにはいかない、という意見が多かった。
そうして、それが正式な決定を見ないうちに、ある夜、鉄五郎が痛みの発作を起こして、ひと晩苦しみ、モルヒネの注射をするやら大騒ぎになった。
発作は五、六時間くらいで治まったけれど、他の病室の患者まで、すぐに噂は飛んだ。
多分、石が身体のどこかに溜って痛みを起こしているんだろうが、結石なんかレントゲンですぐわかるのに、と不思議がる患者が多い。
いや、痛みは胸だったらしい、という者も居る。心臓かもしれない。心臓だって、心電図でわからないはずはない――。
なんにせよ、鉄五郎の予感という奴の勝利だった。医者は渋面を作って、再診察し直した。
ところが、何の異状も発見されない。
本人は、発作がおさまったあとは、ケロリとして、食欲も普通以上にある。
「とにかく、異状は見当らないんですがね――」
と医者は、少し丁寧な口調になっていた。
「このままここに居ても、病院としてはすることもないし、費用もかさむばかりだから、一応、出られて、様子を見てみたらどうですか」
「いや、ここに居ますよ――」
と鉄五郎はいった。
「わしは当分、ここで暮しますから」
「まだ、その、予感がするんですか」
「しますとも。身体ン中で、ジャンがなってまさァ。そうでしょお医者さん、どこもなんともないのに、七転八倒するわけがない」
「まァ、そりやそうだが――」
ロッカは毎日のように病室に顔を出す。
鉄五郎の発作のことも知っているが、彼を案じるというより、自分が楠から受けた五万円の結果を案じているようなところがあった。
そうして、今度は楠の容態が、急変したのである。
楠正成は、夜の間に急変して、朝までもたなかった。
ロッカはそのことを、午前中に病院に行ったときに知った。
病室に入ったときは、奥のベッドは綺麗に片づけられ、患者が居た気配はあとかたもなかった。
遺体は暗いうちに霊安室に運ばれていき、今頃は遺族の手で、自分の家に戻されたであろう。
いずれにせよ、同じ病室の他の三人は、遺体がこの部屋を出ていったと同時に、つながりが切れたも同様だった。
ロッカは、しかつめらしい表情で病室に来て、内ポケットから封筒をとりだした。
「これは、誰に渡せばいいんでしょう――」
「何だい、それは」
「当りです。ツケ(配当)が入ってます」
「ああ、いつかの賭けか。早速持ってきたとは、お前さん、実直だな」と鉄五郎。
「ぼくはそんなトボけるようなことはしませんよ」
「ここにはもう遺族も来るまいから、受付で住所をきいて送ってやんな。香典だということにすればいいだろう」
鉄五郎は、若いロッカを苦笑しながら眺めた。
「お前さんもとんだ災難だった。あんなところで受けなきゃいいものを。飛んで火に入る夏の虫、という奴だ」
「みんな経験です。ひとつひとつ勉強していきますよ」
「しかしお前、勝負事は、千通りも万通りも公式があるぜ。こんなふうにひとつずつ勉強していったんじゃ、勉強だけで終っちゃうんじゃないか」
「勉強しないよりは、ましでしょう」
「勉強なんかそれなりに皆やってるさ。それより、予知することが問題だな。いくらセオリーを知っていたって、予知することができなきゃ何もならん」
「勉強しても駄目ですか」
「勉強の方法がないよ。同じ展開はそうそう起きやしない。我々はいつも応用問題を解こうとしているんだ」
夕方近く、和合が病室に入ってきた。
鉄五郎は、からかうように笑って、片手を出した。
「さあ、おくれ――」
「いそがなくたって払うとも」
和合は、車の中で鉄五郎の投票紙を眺めたらしかった。
「当ったろう。俺の投票用紙にはなんと書いていたっけ」
「わかった。今、小切手を切る」
「小切手じゃいやだ。現金でおくれ」
「千五百万の現金なんてない」
「しかしお前がいったんじゃないか。現金じゃなくちゃ受けねえよ、って」
「千五百万の現金なんて、あるかなァ」
「なくても、持ってこい」
「無茶いうなよ。とにかく、当っただけでたくさんだろう」
「冗談いうない。当るだけなら誰だって当る。早く持ってこい」
「明日だな。現金なら――」
と和合は珍らしく弱い声でいった。
穴ぼこ
立花氏の事務所に、和合が訪ねてきた。
出迎えたのは立花氏の娘の美津子である。立花氏の使いこみを知って以来、緊急態勢として秘書のくるみ嬢にやめて貰い、美津子が無給の事務員として毎日出社している。
無給ではあるが、監視役だから立花氏も以前のようにのんびり競輪などへ行っていられない。
「お父さんは――?」
「厚生省の方に会うといって出かけていきました。夕方までには戻るそうですけど」
「ちょうどよかった。わるいけどちょっと、場所を貸してもらいたいんだ」
「場所を――?」
「ここをさ。客と話がしたいんだが、あまりタチのよくない客なんでね。人眼にたちたくないんだ」
「どうぞ、お使いになってください。お茶をいれるくらいしか、おかまいできませんが」
「ありがとう。あまりかまってくれても困るんだ」
美津子からすると、自分たちの世界の人ではないように見える和合が、タチがわるい客、というのはどんな怖い人なんだろう、と思う。
二人の話があまりきこえないように隅っこに居ようと思うが、せまい事務所で、どこに居たって全部きこえてしまう。
秘密をきかれたから、といってあとで銃殺される映画の場面などを思い出した。
「あたし、ちょっと外に出てましょうか」
「いいんだよ。なに、話はたいしたことはないんだ。ただそいつはいろんな筋と悪いひっかかりがあるもんでね。俺たちの世界の人間に妙にかんぐられたくないんだ」
和合の電話で、まもなくその人物が現われた。
どんな怖い人相の人物かと思ったが、美津子がかよっている大学の先生にとてもよく似ている。
もし、白い襷《たすき》をかけてトラックの上で手を振っていたら、選挙の候補者かと見えるだろう。
「やあやあ、しばらくだね」
その人物は和合に向けて、あいそよく笑った。
「どうかね、景気は」
「駄目さ。ふらふらだよ。今景気がいいなんてのが居るのかね」
「ははは、そうでもなかろう。和合ちゃんのせいで、ふらふらにされてる人間にばかり会うよ」
「カクさんの方に、全部、オモチャ(金)が集まっちゃうんだ」
「ああ、俺の方にばかり集まってくるよ。そういうことにしておこう。いうだけじゃ税金はかからないからね」
「ところでその金を、千五百万ばかり貸して貰いたいんだ」
カクと呼ばれた人物は、ちょっと黙ってから、前よりも小さい声で笑った。
「――ハハハ、冗談だろう」
「何故――」
「俺を試してるんだろう。そういえばどんな顔をするかと思って」
「何故、試す必要があるんだ」
「俺はべつに、何も含んでねえぜ。和合ちゃん、俺はお前に迷惑をかけられたことはないからね。何か妙な噂でもきいたのか」
「いや、そんな持って廻ったことじゃないんだ。言葉の額面どおりきいて貰いたい。明日、ちょっと金がいるもんでね」
カクは、貫禄のある外見にも似ない仕草で、ちょっと鼻をすすって和合を見た。
「ほう、珍らしいね」
「千五百万。どうだろう」
「現金かね」
「現金なんだ」
「もちろん、無担保だね」
「ああ。俺を信用してもらうしかないんだ」
「――お前さんだからくどくはいわない。だが俺たちの金は、そんなにまとまった額じゃ、借り手が不利だぜ。利息が大きい。一日か二日、用立てる金ならともかく――」
「昨日の今日という緊急の銭なんだ。他じゃまにあわねえんだよ」
「いったい、どういう金なんだ。ヤバい筋がひっかかってるのか」
「いや、なんでもねえよ。ただ、客に配当をツケるんだ」
「現金でか」
「ああ、客がそういうんでね」
「待たせりゃいい。親身になっていうが、俺たちの銭を使ってろくなことはないよ」
「わかってる。だが俺はノミ屋だからな。客にツケる金は、どんなことをしたって作らなくちゃならねえ」
「客は、筋者かい」
「いや、一匹狼だ」
「じゃ、簡単だ。一匹狼に見栄を張って、筋の方の負担を背負うことはないよ。その客、小切手で勘弁して貰いな。でなけりゃ、銀行に払いこむといっとけばいい」
「いや、客が待たねえといってるんじゃないんだ。俺が払いたいのさ」
「ほう、払いたいのか」
「そうなんだ。すぐまた取るけどね。一発、貸してくんねえ」
「――よかろう」
とカクさんはいった。
「だが、お前、いい恰好のしすぎだよ。いい恰好して生きていかれるものなら、誰だって、そうやって生きるよ」
「不義理はしない。カクさんもさっきいってたな。俺はお前に迷惑をかけたことは一度もないんだ」
「ああ、友好国だったよ。お前さんは。ぜひ今後も、そうしたいもんだな」
茶が出てこないうちに、カクさんは立ちあがった。
身を固くしてきいていた美津子は、
「アラ、お茶を今、入れるところでしたのに」
「いいんですよ、お嬢さん――」
とカクさんは美津子にもあいそよくいった。
「それじゃ和合ちゃん。そのうち一杯呑もうじゃないか。お互いによ、昔話もたくさんあるからな」
「ああ、そうしよう。カクさんもどんどんお稼ぎ」
「ありがとう。じゃ、明日、ここへ持ってくればいいか」
「頼むよ――」
和合は、カクさんが出ていったあとのドアを、長いことにらんでいた。
美津子は、熱い紅茶をひとつ、和合の坐っていたテーブルの上においた。
和合はカクさんを送りだすと、ソファに戻って一人で紅茶を呑んだ。
「和合さん――」
と美津子はいった。
「このたびは、父がいろいろとお世話になったようで、ありがとうございました」
「なんだい、あらたまって――」
美津子は、やや突っ立ち気味の硬そうな和合の髪のあたりを眺めていた。
「それで、父のことが負担になって、和合さんまで、苦しいことになってきたのではないか、そう思って、あたし――」
「俺が、苦しいって――?」
「ご迷惑をおかけしているんでしょう」
「俺はいつだって苦しいさ。皆せり合って生きているんだから、苦しくない奴なんか居ない。気にしなさんな」
「でも――」
「男は借金ぐらい誰だってするよ。それに、お父上に廻した一件とは関係ないんだ。大丈夫だよ。俺がヘコたれてるように見えるかい。そう見えないだろう。今は借金できた奴の方が勝ちさ」
「でも、危ないお金なんでしょう」
「危なくない金なんてない。それにね、お父上の一件だって、あくまでビジネスだからね。俺は同情や親切なんかで動きゃしないよ。だから、礼をいわれる筋合いなんかないんだ。お父上ががんばってくれれば、握手。そうでなけりゃ」
和合はそこでちょっと言葉を切った。
「――それまでさ」
和合は煙草に火をつけ、自分の前から立ち去ろうとしない美津子を、あらためて見た。
「どうした。気に入らんかね」
美津子は、腹のあたりで両掌を組み合わせたまま、うつむいていた。
「俺はやくざ語でしゃべるから、怖そうにきこえるかな。しかし美津子さん、やくざだって固気《かたぎ》だって、本質的にはそうちがわないよ。もっとも全然そっくりでもないがね」
「あたしに――」と美津子はいった。「何かお手伝いできることがあったら、いってください」
和合は、ほう、といった。
「俺のやることを手伝うって、貴女がかい」
「ええ、そうしたいと思います」
「俺は、うさん臭いぜ」
「でも、生きることって、そういうものなんでしょう。もしそうでなくたって、今の私たちは、手を汚さなくちゃ生きていけません」
「よし、それじゃひとつ頼みたいことがある」
「なんでしょうか」
「T綜合病院ね、あそこに理事が五人居る。その五人のことをいろいろ調べてもらいたい」
「素行調査ですか」
「まァそうだね。専門の調査員なんか使っても、不正確でね。その点、貴女は調査技術はまずいだろうが、嘘はつかないだろうから。どんな小さなニュースでもいいんだ。聞きこんだことがあったら知らせてくれ」
素行調査というのは、わかりやすくいえば、秘密探偵だ。夫の浮気を尾行して、妻君に報告するとか、結婚相手の来歴を調べるとかいう話をきいたことがある。なんとなく、陰険な感じのする仕事である。
もっとも美津子に、尾行して連れこみホテルまで追っていくようなことができるわけはない。
和合は、T綜合病院の五人の創立理事の素行調査をしろという。
どうしたらいいだろうか。
この設問に対して、自分にできることは何か。
しかし美津子は、和合に頼まれたことを一生懸命考えている自分に驚ろいていた。
ついひと月ほど前の自分なら、彼等と無関係に生きようとしただろう。父親が、自治会の預り金を使いこんでいるという事実を知らなかったら――。
新聞の社会面でよく見かける大小の犯罪が、自分にぐっと接近してきた。自分はこの世の汚れを知らずに生きてきたと信じてきたけれど、昨日まで生活を維持してきたものは、他人のお金であったのだ。
美津子は、しかし父親を恨んだり、憎んだりしていたわけではない。不思議にそういう気持ちはうすい。父親がそういうふうにしか生きてこれなかったのなら、それが自分たちというものなのだろう。
誰だって苦しくない奴は居ない――、と和合はいった。誰だって汚れていない人は居ないのではないか。もしそうなら、汚れているか、いないか、が問題なのではなくて、どんなふうに汚れているか、その内容や度合が評価の物差になるのではないか。
美津子はこの件を父親に相談しようとは思わなかった。父親のために、和合に協力しようという心算《つもり》も建前にすぎないようだった。
そのことは美津子をもっと驚ろかした。
その夜、帰宅してから、父親の部屋に呼ばれた。
「突然だがね、美津子、ちょっとお前の気持をきいておきたいことがあるんだ」
「なんでしょう、お父さま」
「お前、好きな人、あるかい」
美津子は父親の顔を見た。
(――今あたしがそんなのん気な気持で居るように見えるの?)
「――どうして?」
「好きな男の心当りがあるんだったら、それでいいんだ。私はなんにもいわない。私に関係なく、お前が一番望む人生を送ってもらいたいから」
立花氏はちょっとうつむいてから、思いきったようにいった。
「もしそうでなくて、だね。いずれはどこかに嫁に行くという気持があるんなら、だが、そろそろ見合いなどしてみないかね」
「――そんなお話があったんですか」
「ああ。お前は大学をやめてしまった。お父さんの事務所を手伝ってくれている。その気持はありがたいけどね。お父さんとしては、お前の生き方を曲げてしまったようで心苦しいんだよ。お前が私の犠牲になって、悶々としながら日を送っていることを考えると、たまらない気がする――」
見合い、という言葉が父親の口から洩れたのが、美津子には意外に思えた。
父親が娘の未来を気使うのは不思議でもなんでもないけれど、今が今、そんなことを案ずるのが、いかにも唐突に思える。
自分はまだ若い。そんなことより今のこの家は、もっと大きな問題に直面しているはずだ。そのために家内全部が力を合わせて災いを未然に防ぐべきときなのだ。
「――お父さまはどうごらんになっていらっしゃるか知らないけれど、あたし、悶々としているばかりじゃないのよ。それは大学で勉強したいこともいろいろありました。でも、大学に居なくたって、勉強になるわ。現に、あたしずいぶん大人になったような気がするもの」
「実社会を知ったということか。しかしそれは、若い娘にとってプラスになることかどうかわからない」
「いいえ、そうは思わないわ」
美津子はどうしてか強くいった。
「あたし、今、緊張しているの。大学ではこんなに緊張していなかった。そういうふうにいっていいことかどうかわからないけれど、とても面白いわよ」
「ふうん――。すると、見合いする気持なんか、ないというわけかね」
「第一、あたしがお嫁に行っちゃって、お父さま、お一人で大丈夫なの」
「お前たちに心配かけたくない」
「ええ、それはありがたいけど、あたしは現実にもう心配しちゃってるわ。お嫁に行けば、その心配がなくなるというわけじゃないもの」
立花氏は、しばらく沈鬱《ちんうつ》に黙りこんだ。
「もちろん、お前の判断を第一にして定めることだ。私は強制はしないよ。どんな場合でも、本人次第だ。私も娘に大きな顔ができるような父親じゃないしね」
「どうしてまた急に、お見合いの話なんかなさったの」
「いや、ただそういう話があったからだよ。それに、私にはいい話に思えた。むろん、すぐ結婚に結びつけてるわけでもないし、嫁に行けと命令してるわけでもない。ただ、お前だっていつかは誰かと一緒になってこの家を出て行くんだろうからね」
「お母さまが亡くなったし、まだ当分は駄目よ。あたしはいろんな意味でお父さまの助手にならなくちゃ――」
「わかったよ。この話は、それじゃ、ないことにしよう」
美津子は立ちあがらずに、なんとなく父親を眺めていた。父親がなにか思い切りのわるい表情をしていたからだ。
立花氏は、娘が部屋を出ていかないので、呟やくようにいった。
「T病院の槇村《まきむら》さんの息子さんなんだがね」
「T病院の――?」
「ああ。槇村さんはあそこの創立理事の一人で、家柄も申し分がない。息子というのは三年ほど前に大学を出て、渋谷のマンションに一人で住んでいる。高校の教師だそうだが、跡とりだから、いずれ生家に戻るんだろうよ」
「ちょっと、写真でも見てみるかね――」
「いいえ、その必要はないんですけれど――」
相手がT病院の理事の息子ときいて、美津子は父親の魂胆のようなものを、うっすらと感じとることができた。
父親も、和合との提携を強いられて、T病院に楔《くさび》を打ちこもうとして、この話に乗ったのであろう。ひょっとしたら父親の方から働らきかけて、見合いの話まで持っていったのかもしれない。
どうも父親の話し方が、やや口ごもるふうで、けっして強制ではないということにこだわったり、そんなこともこの話の根底にある計算に、気がさしていたからなのであろう。
あたしは嫌だ――、と美津子は思った。家の事情で売られていくような縁談なんか、まっぴらだ。
嫌だけれども――、と美津子は考えた。そういうふうな自分を、ずいぶん変ったものだなァ、と感じながら、すばやく計算した。
父親の魂胆のようなものに乗せられるのは嫌だけれども、結婚のことなんか考えず、ただ見合いをするだけなら、かまわないではないか。
見合いをして、先方の理事の家庭をいくらかでものぞいてみれば、素行調査員としては、収穫があるかもしれない。いや、きっとあるだろう。
見合いを道具にして仕事をするなんて、たしかに汚ないやりかただと思う。ひと昔前なら、厳粛であるべき婚姻を、こんなふうに利用する気持が人に知られたら、どんなにひどい悪口をいわれたかしれない。
でも、厳粛で、神聖なことなんて、この世にあるのだろうか。
そう思うよりなにより、美津子は調査のとっかかりが、天から降ってきたような気がして、この件を見送る気持になれなかった。
「あたし、お見合いやってみてもいいわ」
「ほう。気が変ったかね」
「結婚する気なんてないのよ。でもどうせこれから、お見合いさせられたりするでしょうし、練習しておいてもいいわね」
「そうだな――」
「それくらいの楽な気分でやってみたっていいでしょう」
「まあね、できるだけたくさんの男の人を見ておいた方がいいな。それじゃ早速、先方にそう返事しておくからね。それにしても、お前、写真くらい見ておく方がいいんじゃないか」
「ノンノン、必要ないわ」
美津子はわざと蓮っ葉にそういった。
父親の部屋を出て、風呂の水を張っているとき、高校の教師をしているという相手の男性の姿が、脳裡にチラチラと浮かんだ。
会ったこともない、槇村という姓だけで名前も知らないその男性が、思いがけなく、和合そっくりに描かれていた。
美津子は自分でもひどく驚ろいて、まったく別の男性像を描こうと努めた。
和合は、ちょうど麻雀の牌ケースぐらいの大きさの金包みを手にして鉄五郎の病室にやってきて、投げつけるようにおいていったまま姿を現わさない。
次の一週間がすぐに終ったが、二人の投票した人物は誰も死なないようだった。
するとまた延長戦で、もう一翻増し、一件が二百万ということになる。
一週間目の夜、和合から電話がかかってきた。
「――爺つぁん、まだ元気で居たかね」
「どうやらな。しかし楽観は許さない。もうそう長い命じゃなさそうだ」
「どこがわるい?」
「そんなこと、わしにわかるものか」
「医者はどういってるんだ」
「どこもわるくないといってる」
「ふうん。――それじゃ、病気じゃないんだろう」
「今はそうかもしれんさ。だがもうすぐ病気になるんだ。医者なんかは、いつだって患者が実際に病気になってからでなくちゃ、何もわからない。予知ということをやろうとしないからな。ところがわしは、先のことがわかるんじゃ。本人がそういうとるのに、医者はわしを信用せんがね」
「大きなことをいって、爺つぁんだって、例の投票は当ってないんだろう」
「今に当る。そうだ、また期限が切れて一翻増しだが、このまま延長するかね」
「いや。新らしく投票しなおしたよ。今、速達で出したから明日じゅうには届く。封を切らずに預かっといてくれ」
「今、どこに居るのかね」
「東京だよ。東京の道ばただ」
「道ばたとはどういう意味だ」
「AとBの二つの地点のまんなかに居るのさ。俺たちはいつもそうだ。つまり、Aは客、Bは胴元だな」
「お前が胴元じゃないのかね」
「ああ。近頃は胴はヤバい」
「どうでもいいが、こっちへは来られないんだな」
「今、手がはなせないことがあってな。それで、投票の件、念を押すが、俺たちがよく知っている人物なら誰でもいいんだな」
「そうだ。六十歳以下に限るが」
「外国人でもいいな」
「もちろん。名を知っていて、生死がはっきりわかる人物なら」
「ふふふ、俺はだいぶ、このゲームを流行させたよ。お客をひっぱりこんだ」
「勝手にしな。とにかく俺に払うキャッシュを用意してれば、それでいい」
和合の電話はそれで切れた。鉄五郎は澄ました顔で、夕刊を読んでいる。
「おじさん、今度は誰の名前を書いたのかね」
鉄五郎は老眼鏡をはずして、ぎろりと眼をむいた。
「さァ、誰かな。誰か死んでみればわかるさ。そのときまでのお楽しみさ」
「口外すると、ゲンがわるいのかね」
「そうじゃねえが、自分の考えをタダで知らせる理由がない」
和合が十日ぶりで、立花氏の事務所に姿を現わしたとき、カクさんという、例の小でっぷりした髭の紳士がひと足先に来て待っていた。
「やあ、ご機嫌さん」
和合もあいそよくにっこりした。
「待たせちゃったかな。道が混んでいてね」
「いや、今来たところだ。和合ちゃんみたいなスピード違反の常習でも、道が混んでると、渋滞につきあっちまうんだな」
「俺だって、他の車を飛び越えちゃ来られねえさ」
「いつだったか、一車線で渋滞していたとき、対向車の車線を猛烈に素っ飛ばしたことがあったじゃないか」
「ああ、歩道があれば、歩道を飛ばして来るんだが――」
二人は笑った。
「さあ、それじゃ、この前の一件を、片をつけて貰おうか」
「うん、それなんだが、カクさんよ、もう少し待って貰おうか」
カクさんは笑いを消さずに、和合の表情を値ぶみするように眺めた。
「ほう。――珍らしいことがあるもんだね」
「もちろん、利息はいれる」
「いい目が出なかったか。和合ちゃん」
「まァそうだ。しかし、不思議なことはねえさ。いい目と、わるい目と、二つしかねえ。どちらかだからな。またすぐ目が変る」
「しかし和合ちゃん、今までは、いい目のときしか、借金などしなかったぜ。わるい態勢で無理なんかしなかった。そこがお前さんのいいところだったが。俺はお前さんが好きだったよ。どうも不思議だな」
「昨日は昨日さ。昨日と同じことをやっちゃいらんねえ。今日は今日のやり方がある」
「いや、昨日までと同じことをやれ。今はそういう時期だ。短気はいけねえ。お前はまだ先が長い」
「馬鹿いっちゃいけねえ。一生は短いよ。先へ先へとばくちを打っていくんだ」
「どうもわからねえな。お前さんが千五百万ぐらいの銭で、ひイひイいうわけはねえんだが」
「ひイひイなんかいってやしねえぜ。俺がそんなふうに見えるか」
「スートロの親分さんは、どんな具合かね」
「――死んだよ」
「――潰れた、ってわけか」
「潰れやしねえだろうが、手を引いた。負けが一億に達したら手を引くと、前からいってたんだ」
「そうか、それでわかった」
とカクさんは頷ずいた。
「そういうわけだ――」と和合もいった。「だがすぐ復活するさ。心配しねえでくれ」
「――俺は鬼カクだ。心配する柄じゃないがね、お前さんのことは何だか気にかかる」
「ありがとう。あんたは鬼だから信用できる。俺だって鬼だよ。その点は信用してくれ」
美津子が紅茶を運んできたとき、この前と同じように、カクさんは立ちあがって扉の方に歩きだした。
「お邪魔しました、お嬢さん」
とカクさんはいった。
「紅茶より、奴に酒でも呑ましてください。気合が入るようにね」
カクさんを見送ってから、心配そうに突っ立ったままの美津子を見て、和合は破顔一笑した。
「どうしたいお嬢さん、元気だったかい」
「――紅茶より、お酒にしましょうか」
「カクがそういったからかい。いいよ。しかし、紅茶にブランデーを落すとうまいがね」
「じゃ、そうします――」
美津子は急ぎ足で事務所を出ると、瓶をかかえて戻ってきた。
「なんだ、買ってきたのか。そんなことしなくていいのに。どうも固気《かたぎ》はまともに受けるから、なにもいえなくなるよなァ」
和合はレミマルタンを紅茶にちょっと落しながら、
「こいつは高いぜ。よく小遣いがあったな」
「お酒を呑むと、元気が出るんですか」
「だから、へこたれちゃいないよ。カクがそういってるだけだ」
「心配してるんです――」
「心配なんかするな。一文の徳にもならないし、身体にわるい。若い娘がブルーな顔つきをしてるものじゃないよ」
和合は、ふっと美津子を見上げた。
「どうした。坐りなよ」
「スートロの親分て人が、どうしたんですか」
「――うん、いいんだ。固気のお嬢さんに話してもわからねえ」
美津子は坐ろうとしないで、呟やくようにいった。
「あたしは、大人じゃないんですねえ」
「いいじゃないか。そのかわり俺には天使に見える。かわいいよ」
「――報告します」
と美津子は眼を伏せたままいった。
「何の報告――?」
「素行調査――」
「あ、何かわかったのかね」
「T綜合病院の理事は現在五人。これは賛否問う場合のために、いつも奇数にしておくそうです。理事は経営者だから、医者でなくたっていっこうかまわないんだけれども、実際には、医療金融金庫から借金したり、医者集めをしたりで、医者の方が有利だそうです」
「ふふふ、大学生がノート取ったみたいな調査だな」
「いけないでしょうか」
「いや、とんでもない、冗談だ。きわめてわかりやすいよ」
「最初は他土地で開業医をしている医者理事三人、土地を提供した地主理事二人、それが途中で二名交替があったそうです。病院内の医者が一人、理事に昇格したのと、もう一人は不動産屋をやってる人だそうです」
「その交替は、金で権利を買ったんだろうね」
「そうだと思います。株式会社ではないけれど、株方式だから、自分の権利だけは、譲渡できるわけです。実際に理事の中には息子が医者になっている人と、他方面に進んでいる人とあって、その後者は、条件次第で充分譲渡する気持を持っているといいます。病院創設以来二十年もたって、資産的には大きく伸びていても、設備投資などで現実には借金も増えているわけで、もうこの辺で権利を金に換えたいということでしょう」
「それで、現在の理事の中で、息子が医学方面に行って居る人は二人だそうです」
「残り三人は、金で譲る意志ありということか」
「三人が三人ともかどうか、それはわかりません。権利だけ息子に譲りたいと思っている人もあるでしょうし」
「なるほど――」
美津子はやっと椅子に腰をおろして、あとを続けた。
「T病院の現在の含み資産十億。その内借金三億。これは健全な状態だそうです。けれども、辞めたいといっても病院から金でくれとはいえません。その権利を他の人に売るという形になります」
「現実の資産七億として、一億四千万か、一人分が」
「それも折衝次第でしょうけど、あたしのあたった範囲でいえば、表に出ない金なら、一億ぐらいでも可能性がありそうですね」
「――しかし、驚ろいたなァ」
と和合はいった。
「とても大学生のノート取りとは思えないよ。まだ半月もしないうちに、よくそこまで調べあげたね。固気のお嬢さんを見直したよ」
美津子は、ちょっとはずかしそうに笑った。
「あたし、もう、固気じゃありません」
「おや、いつからグレたのかな」
「そう見えませんか。普通の娘の顔をしてないでしょ」
「俺にはちっともわからん。もっとも俺は、固気の娘なんて、あんたしか知らないからね」
「あたし、自分でもわからないんです。自分が悪い女なのか、それとも、成長して大人になったのか」
「朱に交われば赤くなるというからな。俺がいけないんだろう。きっとそうだよ。いやだったらはっきりことわってくれ。俺の仕事なんか手伝うもんじゃない」
美津子は眼を伏せたまま、少し沈黙していた。
「――それで、調査はまだ続けますか」
「――君の気持次第だな」
「続けた方が、いいんでしょう」
美津子は和合をみつめたまま、いった。
「それじゃ、やります」
「いや――」と和合も彼女を見返しながら言葉を返した。
「やって欲しくない。やらない方がいいよ」
エレベーターの扉があく音がして、立花氏が事務所に戻ってきた。
「やあ、高速道路が渋滞して、えらい目にあった。雨が降ってきたもんだから」
「雨か、本降りのようですか」
「どうやら今夜はあがりそうもないね」
「週末の競馬が、また荒れるな」
「美津子――」と立花氏は上着を脱いでから、上機嫌でいった。
「先方は、かなりお前を気に入ってるようだよ。仲人さんをとおして、また会いたいといってきている」
「仲人――?」と和合がいった。
「いや、まァ、見合いをさせたのさ。嫁に行かせるにはまだ少し早いんだが」
「見合いね――」
と和合は、美津子の方をチラッと見ていった。
「へえ、こりゃ驚ろいた。そんな気配はちっともなかったが、固気の娘さんの気配は、競馬ウマよりむずかしいな」
「なに、ただ見合いをしたというだけで、本人も本気になってるわけじゃないんだよ」
と、立花氏もいった。
「しかし、冗談からコマが出たってかまわない。どうせ一度は嫁《い》くんだし、なにしろこれはいい話だからね」
「金持かい」
「まァ、そうだな」
「色男なのか」
「そいつはどうかな。好みにもよるさ。T病院の理事の息子だがね」
和合は今度はまっすぐ美津子をみつめた。
「なるほど。それで大学ノートか――」
「なんだね」
「いや、――さァ、俺も行かなくちゃ。立花さんまた明日。美津子ちゃんももう帰る時間じゃないのか。なんなら地下鉄のところまで乗せていくよ」
美津子をうながして、車の置き場に歩きながら、和合はいった。
「固気の娘のやることは、中途半端だなァ」
「――どういう意味ですか、それは」
「俺のためにもなり、父親のためにもなり、なおかつ自分のためにもなることを考える」
和合は美津子を車に乗せた。
「だがそれは結局、半端なのさ。皆とうまくいくことなんかない。誰かを敵に廻さなくちゃね。お前さんに味方はできないよ」
「だから、あたし、敵を造りました」
「誰を――?」
「見合いの相手」
「どうして敵かね」
「結婚する気なんかありません。最初から」
「ほう――」
「それに、父は敵ではないけれど、でも父のためでもありません。だって結婚しなければ父のためにはならないでしょう」
「――すると」
「あたし、調査員です。見合いじゃなくて、取材記者」
「俺のために見合いをしたっていうのか」
「そうよ」
「女は怖いな」
「でしょう。あたし、自分でも怖い、いやな女だと思ってるの。ねえ、あたし、いやな女ですか」
和合は灯のつきはじめた街を眺めながら煙草に火をつけた。
「さっきは、やって欲しくないようなことをいったが、もう少し手伝って貰うよ」
「――はい」
「その息子ともう少しつき合って見てくれ」
「そのつもりです」
「高校の教師をしているとかいったな。するとまるっきりの固物だろうね」
「そう見えますね、すくなくとも外見は」
「しかし、金持の息子というのは固いわけがないがなァ。親父の方はどうだろう」
駅の前で、和合の車から降りしなに、美津子はいった。
「要するに、五人の理事のうち、固くなさそうな人を、見当つければいいんですね」
「そうだが、固くたってかまわない。固ければ固いなりに、その特長がわかればいいんだ」
「ギャンブルをやる人なんかは居ないんじゃない。うちの父なんか珍らしい方の部類でしょう」
「そうでもないが、よろしく頼むよ。それからもうひとつ」
「もうひとつ?」
「赤く染まらないように」
「え――?」
「いっただろう。朱に交われば赤くなるって――」
美津子は愉しい気持で地下鉄に乗った。
朱に交われば赤くなる、って和合がいった。朱に交われば――、普通は悪友とつきあって悪くならないように、という意味だが、この場合の朱は、見合いの相手の理事の息子のことをさしているのにちがいない。
息子とつきあって、息子の色に染まらないように、彼がそういったのだ。
それでは和合も、あたしを他の男に渡したくない、そう思っているのだ。
電車の中というものは不思議にいろいろな空想が湧く。学校にかよっている頃、美津子もずいぶん突飛なことを考えたものだ。
けれども、いくらなんでもこんな空想が湧いたのははじめてだった。
自分が、和合と一緒に暮しているのだ。
和合のためにコーヒーを沸かしパンを焼いてやる。
和合は大きな葉巻を吸う。
パンを喰べ終ると、防弾チョッキを身につけ、重たいガンベルトを腰に巻きつける。
そうかと思うと、警察に追われて、和合と二人、地方の小さな旅館を転々としている。和合は人相を変えるために髭をはやし、眼鏡をかけている。夕刊をひろげると、和合とその情婦A子は――というような記事が出ている。
俺たちに明日はない≠ニいう映画を思いだした。映画を見たときは、どこか下品で好きになれなかったフェイ・ダナウェイに、そっくり自分を当てはめて考えはじめる。
クラシックなギャング映画は、他人のストーリイだと思って面白おかしく眺めていたが、今、ちょっと自分がそれに染まりかけてみると、あんなふうに家を捨て世間を捨て、結局生命までも捨ててしまえるだろうか、とも思う。
面白おかしい運命にぴったりと添えきれなくて、もっとぶざまに騒ぎたて、世間ばかりでなくギャングたちからも、あいそをつかされるのではなかろうか。
地下鉄から私鉄に乗りかえ、団地のある駅でおりると、現実の冷めたい空気がひやりと身体に触れた。
空想の反動で、美津子はひしゃげた寒々しい顔つきになり、スーパーで夕食のための買い物をこそこそとして帰った。
「お客さんが来てるよ――」と出迎えた弟がいう。「インドネシアの人だよ――」
美津子はまだ会ったことはなかったが、インドネシアの人、ときいて、すぐに父親の一件だろうと思った。
しばらく頭におかなかった英語を、いそがしく思いださなければならない。
リビングでテレビを見ていた髭もじゃの色の黒い男が立ちあがって、美津子に手を差しだしてくる。
「ユア、ウェルカム――」
と美津子はいった。それに対して相手は、片言だが日本語ではっきりいった。
「オジャマ、シテマス――」
「どうぞお楽にしてください。父も、おっつけ、戻ると思いますので」
「オッツケ――?」
「――スーン、――ええと、インナ、ショートタイム」
「オゥ、ワカリマシタ」
美津子は手早くコーヒーを入れた。
インドネシアの人が来たということは、父親が望んでいた例の一件が、いくらかでも進展の気配を見せているということであろう。
これは粗相がないように、もてなさなければならない。
なにしろ、この一件がまとまるかどうかに、自分たちの命運がかかっているのだから。
「ホテルは、どちらにお泊りですの」
「オゥ、今日着いたばかりで、まだ定めてないのです――」
と髭もじゃは、ほとんど英語でしゃべった。
「なにしろ今度は、私一人で、個人的な用件で来たものですから」
「――個人的な?」
「はい、本当は、貴女のパパにも喜こんでもらえる話を持って、正式に訪問したかったのですが、なにしろ、私の国の役人はスローモーで、おまけに手続きが複雑でしてね、まだ少し先の話になりそうなのです。それで、私のプライベートな用事を、先にケリをつけようと思いました。私にとっては、これもまた、大きな問題なのです」
美津子は少しがっかりして、だまりこんだ。
「和合という人、元気ですか」
「和合さん――? ええ、元気ですけれども」
「それはよかった。あの人に会わなければ」
「和合さんに御用がおありなんですの」
「ええ――。もう一度、戦かうんです」
「戦かう――?」
「私は死んでも勝ちます。そのためにまた東京に来ました」
美津子は一瞬、ギャング映画の決闘の場面を頭に浮かべた。
「この前も、私が勝っていた。アクシデントが無ければ、私の勝ちだったんです。私はこれまで、勝負を争そって負けたことがありません。私はプロフェッショナルじゃないから、もちろん誰にでも挑戦するわけじゃない。ですが、私が受けたゲームでは、不敗だったのです。あのゲームをのぞいて」
「貴方はギャンブラーなのですか」
「そう見えませんか」
「さァ、あたしには何もわかりませんけれど、でも、和合さんに挑戦なさるのでは、お強いんでしょうね」
インドネシアの髭男は、いくらか声をひそめていった。
「私が日本に来ていることを、しばらくの間、和合には内緒にしておいてください」
相手の真剣な顔つきにつりこまれて美津子もなんとなく頷ずいた。
「ミスター和合が、ふだん行っているコースを調べて、よく研究しておきます。本当はゴルフの勝負は初コースでなど受けるべきでないのです。今度は相手を見くびらずに、充分研究する。そのうえで挑戦します。この前のときは、貴女のお父上にもご迷惑をおかけした。その損害をとり戻さなけりゃならない。まァ見ていてください。私は勝ちますよ――」
そういって大声で笑う。
彼は自分がいかに天才的なゴルファーであるかを、縷々《るる》と語った。
インドネシアでは、ゴルフの天才はプロにならずに、アマチュアにとどまるのだそうである。そうして自分の実力を隠して、賭けゴルフをやる。
実業界にわたりをつけて、上流階級や金持連とプレーすることができれば、その方がよほど稼ぎになるらしい。なにしろゴルフは、ハンデをごまかすことができる。
髭男の話は多分に大仰で、武勇伝じみた飾りが多かったが、ハスラー≠ニいう映画に出てくる玉突きのプロに似た賭博師と思っていいのであろう。
もっとも日本でも、最近はこの辺の事情が似てきて、アマチュアの賭けゴルフが盛んになってきたので、ばくち打ちにとってゴルフは必須課目といわれている。目下はゴルフの賭けが一番大きいようである。
したがって、ずいぶん腕を隠した名手が居る。彼等はたいがい身体が小さい。
ビッグボーイでスケールの大きい打ち手ならば、プロの方向に行っていたのかもしれないが、スケールで及ばず、しかし捨てがたい技術を身につけていて、ハンデ2だの3だのというのが居る。こういうのが、ばくちとしての芸を身につけてアマチュア然として徘徊している。
このへんは碁将棋の世界の真剣師と似ている。
賭けゴルフの人にきいてみると|タテ《トータル》ではおおむね二着でまとめるのがコツで、けっして目立たない。そうして|ヨコ《ホールマッチ》の差しウマで稼ぐのだそうである。
いずれにしても美津子にはあまり興味がない。父親が早く帰って来ないかと思う。
弟が、
「姉さん、ちょっと――」
と手招きしたのをしおに、美津子は席を立った。
玄関に、親しくしている階下の主婦が来ていて、ホットニュースを知らせてくれたという。
「ロッカさんが、警察にひっぱられたんだって――」
「警察に――?」
美津子は驚ろいたが、考えてみると、彼の商売は法の外にあるわけで、警察が介入してきて別に不思議はない。
けれども、近頃の自分の日常にひやりとしたものを当てられたようで美津子はドキッとした。
喰うか喰われるか
「どうにもこうにも、ダレてしょうがねえな」
と鉄五郎がいう。
「誰もクタバらねえ。せっかく投票してやってるのによ。これじゃァテラも切れねえ」
「そりゃァこっちのセリフだぜ。最初にとられたっきりで、いつになったら、もうひとケリつくのかわからねえ。これじゃァばくちにならねえな」
と和合。
「まァ負け急がなくたっていいやな」
「冗談じゃねえよ。お預けしてある銭が腐っちゃう」
三週間がすぎて、四週目の延長に入るところである。したがって翻数も重なって、一件につき二百万になっている。
「すこし方式を変えようじゃねえか。勝負がつきやすいように」
「どうすりゃ、そうなるんです」
「六十歳以上もいいことにしようよ。但し、投票の時点で、病気でないことがわかってる奴の場合に限りだ」
「こっそり情報を仕入れる場合もあるぜ」
「わしは出歩けないから、情報は仕入れにくい。お前の方が有利だろう。まァそれくらいのハンデはつけてやろう」
「俺もなめられたもんだな。だがそんな情報源はねえや」
「そのかわり、死亡記事の中で、投票以前に入院していたことがわかれば無効だ」
「有名人でなくても、共通の知人ならいいといったっけな」
「そうだよ」
「たとえば、爺つぁんでもかい」
「わしは、このとおり入院してるじゃねえか」
「ドック入りしてるだけだろう。俺の見たところじゃ、今は健康そのものだよ」
「よせやい。もう死病にとっつかれてるよ。わしは除外」
「ふうん――」
鉄五郎も、和合も、新規の十人を投票するために、鉛筆をくわえて考えこんでいる。
和合はこのとき、ある人物のことを思い浮かべていたのだった。なんとはなしの勘で、たしかに臭ったのだが、ある理由からその人物の名を書くことを遠慮してしまった。
「できたかい――」
「できねえ――」
「先週どおりにしておくかね」
「いや、新らしく投票しなおす」
和合に電話がかかってきた。ゲイハウス名門≠フベベからで、
「弱ったな。すぐ行かなくちゃならねえんだが――」
「それじゃいいよ。明日まで延ばそう」
「よし。来られなかったら速達で送る。郵便局の受付時間が押してあるはずだからいいだろう」
「いいとも。しっかり考えてやりなよ」
和合が病室を出ていくと、鉄五郎はベッドからおりて、廊下の赤電話のところに行き、タレント名鑑などあやつりながら、ちゃっかり方々へ電話をかけまくった。
「モシモシ、お宅の事務所の○○○○さん、病気だってききましたがどうなんですか――」
どこにもここにも、そういってカマをかけまくっている。
ベベの月島のマンションは鍵がかかっていた。
だがまだ店に出る時間ではないはずだ。店には夜の九時すぎでなければ出かけない。
美容院でも行ったんだろう、と和合は思った。
合鍵を使って中に入る。
(――そういえば、ここしばらくベベにもごぶさただったな)
和合は、ステレオの上に乗っていたビートルズのレコードを低く流し、以前、彼がよくひっくりかえっていた紫色の寝椅子に転がった。
LPが終らないうちに、ベベが帰ってきた。
「どうした、美容院じゃなかったのか」
「今日からしばらく、お店はお休みよ」
「――何故」
「冬休み――」
「ゲイバーってのは、夏冬休むのか。いい商売だな」
「べつに休みたいわけじゃないわよ。あたしたちってのは働らき者だからね。世間さまとちがって」
ベベは和合のための酒を運んできて、グラスについだ。しかし和合は眼をつぶったままで、手を出さない。
「それで、克ちゃんこそどうしたのよ」
「――なにが」
「近頃お見限りね」
「そんな用事で呼んだのか」
「そうじゃないわよ。これでも心配してるの」
「なにをさ」
「スートロの親分と、何かあったの」
「――べつに」
「一昨夜、お店に来たわよ」
「来たって不思議はねえだろ。前だって来たことがある」
「克ちゃんと一緒にでしょう。自分から人を連れて来たのははじめてだわ」
「いいじゃねえか。歓待してやりな」
「歓待したわよ。それで、キャッシュで払ってったわ」
「――珍らしいな」
「でしょう。冬休みは、それが原因よ」
和合は眼をあげてベベを見た。ベベはステレオのそばまで行ってビートルズを片づけ、ピアノトリオのジャズをかけた。
「何か、あったのか」
「あったじゃない。スートロの親分が、わざわざやってきて、現金で払ったのよ。普通じゃないわ」
「それで、休業か」
「本当に何かあったら、困るからね。弱い商売だもの。チックリされたらイチコロよ」
「スートロが、チックリ(密告)するって、何故」
「何故だか知るもんですか。だから克ちゃんを呼んだんじゃない」
「――お前、ヤクをやってるか」
「――趣味程度ならね」
「そうじゃねえ、ヤクバイしてるかってんだ」
「あたしは売っちゃいないわよ。でもウチの子はわからない」
「ヤクがからんでると、仕末がわるいがなァ」
「あたしは素早いからね。新聞沙汰になんかさせない。ウチの子もしばらく散らしたわよ」
「それにしても、早手廻しじゃねえか。スートロが店に来て、おべっかをいったというだけで」
「だって、――安藤が捕まったでしょう」
「――安藤って誰だ」
「ほら、ロッカっていってる男の子よ。あたしと田舎の小学校の同級生」
「お前でも小学校へ行ったのか」
「いやねえ。彼が安藤幸夫で、あたしが山口昌広」
和合は噴きだした。
「山口って顔じゃないな」
「チックリされたんじゃないの」
「どうして、奴があがったのを知ってる」
「警察から電話がかかってきたわよ。身許引受人だって――。それこそ、あたしがそんなガラかい」
和合はベベの顔から眼をそらして、はじめて酒のグラスに手を出した。
「――だから、お前のところも、ヤバいってのか」
「そうと限らなくたって、一応、守りは固めるわよ」
「スートロの親分が、ロッカを知ってるかい」
「そんなこと、蛇《じや》の道は蛇《へび》でしょう」
「いや、スートロは、さしちゃいないよ」
「どうしてわかるの。だって、あんたに対する嫌がらせかもしれないじゃないの」
「スートロは俺のことを不愉快に思っている。それはたしかだ。しかし、怒ってるわけじゃなかろう。怒ったってしょうがねえさ」
「スートロの親分と、何があったのよ」
「奴が、ノミ屋の胴元をしたいっていうから、俺が使い奴《やつこ》になって、胴をやらせてやったんだ」
和合はグラスをベベに渡して、お代りを催促した。
「で、奴がパンクしたのさ」
「胴が、パンクしたの、へええ、珍らしいわね」
「珍らしくなんかない。近頃はもう胴元の時代じゃないよ」
「かなりやられたのね」
「一億ほど――」
「一億!」
「現金でな」
「それじゃ怒ってるでしょう」
「だって勝負さ。時の運だ。それに俺もつきあって、三分は乗ってる」
「でも、怒ってるわ」
「ロッカをさしてどうなる。奴が怒ればもっと別口でくるよ」
「じゃ、誰?」
「ロッカの件か」
「そうよ」
「そいつは、俺さ。俺がやったよ」
ベベは部屋の中央に突っ立ったままでいった。
「そうなの。――ちょっと意外だったわね」
「そうかい」
「克ちゃんのやることって、いつもわかるようで、もうひとつわからない。あたし、ずいぶん呑みこんでいるつもりだけれど、あんたがチックリするとは思わなかったわ」
「冗談いっちゃいけねえ。俺は何でもやるぜ。善いことも悪いこともだ。ソバテンだってフリテンだってする。あれはやらないってことがあると弱みになるからな」
「それじゃ、何故、ソバテンしたの」
とベベがいった。
「ロッカのことか。そういうめぐりあわせになったからさ。あいつはどうせ、誰かにチックリされて検挙される。それなら俺がやった方がいい。俺がやって、俺が面倒みてやる。つまり、ロッカを一人前の商売人と認めてやったわけさ」
「じゃ、スートロの親分は、どうしてうちの店に来て、勘定を払っていったの」
「そいつは知らない。スートロとは今日の夜会うよ」
ベベは真剣な表情になって、和合の顔を見た。
「ヤバいんじゃないの」
「何故――?」
「あんたがチックリされないって理由はないわ」
「俺をチックリして奴に何のトクがあるんだ。警察に犠牲《いけにえ》になるのは、そうしか喰いようがない奴だよ」
「だってあんたがソバテンもフリテンもやるなら、相手だって何でもやるでしょ」
「今夜は俺が奴の客なんだ。店が休みなら、行くかい、お前も」
「どこへ――?」
「闘犬」
「闘犬て、犬の勝負?」
「ああ。奴が今夜の集まりの胴元だ」
「賭けるの?」
「表向きは賭けてない。犬のオーナーが全国から集まって、手前の犬を闘わせる。ただ見てるだけでも刺激になるよ。お前、見たことないだろう」
「写真でならあるわ。土佐犬ていうのかしら、ブルドッグの大きいのみたいな犬が、横綱の土俵入りみたいな恰好してるの」
「あれより強いよ。アメリカンピットブルといって、世界最強の種類の犬だ。喧嘩用だけに仕立てあげているからね、ライオンを喰い殺すといわれてる」
「何時からなの――?」
「夜中さ。十二時から夜明けまで」
「――ちょっと、面白そうね」
「そう思うだろう。お前はきっと好きになるよ」
「あんたは行くと決めてあるの」
「だって、俺の客も呼んであるんだ。スートロのためにな」
酒のグラスがまた空になっている。和合がまたお代りを所望した。
「お前は呑んでないな」
「家じゃお酒は呑まないの」
「肝臓にわるい、か。フフフ、健康にわるいことばかりやってるくせに」
ベベは寝椅子の端に腰をおろしていた。
「ばかにおとなしいじゃないか」
「いつだっておとなしいわよ」
「借りて来たお嬢さんみたいだ」
ベベはうす赤い歯肉を見せて、ちょっと笑った。
「あんたが、燃えろっていわないから」
「俺が手を出さなきゃ、動かねえのか?」
「そうしてるべきでしょ、あたしたちって。あんたが来いっていうまで、隅っこにいるわよ」
「何故――」
「――女じゃないんだもの」
和合はベベの手をつかんで引き寄せ、彼の唇を吸った。いくらか造作の大きいベベの鼻から甘い空気が烈しく洩れた。
六本木を出たときは車の洪水だったが、高速道路を郊外でおりて暗い凍てついたような道路を走っていくうちに、ベベの車だけになった。
「まだなの。ずいぶん不便なところでやるのね」
「東京都を出て、隣県に入らなくちゃな。東京都は闘犬を禁じているから」
「東京は賭け事はうるさいのね」
「いや、賭けてなくてもだ。闘犬そのものが禁止なんだ」
「東京でなければいいの」
「まァね。しかしなるべく人眼に立たない方がいい」
和合は地図を出して、現在地点をたしかめようとしている。
私鉄が走っているらしい単線の線路があった。
「ああ、この電車の駅にDというのがある。その駅にまず出てほしい」
車はやがてひとつの駅の前に出て、駅員にDを訊くと、三つ先の駅だった。それで県道らしい道を疾駆した。
D駅のそばの踏切のかたわらに小型の国産車が停まっていた。
「よし、ちょっと停めてくれ」
和合は停まっていた車の中に手を振った。
「知り合いなの――?」
「お客さんだといったろう」
相手の車の助手台から美津子が現われ、続いて背の高い青年が運転台から出てきた。
「待ちましたか」
「いいえ――。でも、寒いわ。夜中は相当に冷えるでしょうね」
「雨が降らないだけ、めっけものですよ」
美津子は青年を紹介した。B高校の英語教師で、槇村という。
和合もベベを紹介した。ベベは今夜は化粧も落し、ジーンズ姿である。
「――何時頃までやるのですか」
「いつもは夜明け頃までです」
「ぼくは先に失礼するかもしれません。明日学校がありますので」
「あたしも、多分失礼します」
「どうぞ――」と和合はいった。
「しかし、ラストがいいですよ。デスマッチですから」
和合が先導役になって、二台の車はうねうねと細道を何度も曲がり、やがて深閑とした乗馬クラブの中に乗り入れた。
広い馬場のそちこちに、乗用車やトレイラーカーがおいてある。狂おしいような犬の鳴き声が方々できこえる。
「――星がたくさん見えるかと思ったら、曇っていて駄目ね」
と美津子はいったが、槇村はもう少し昂奮気味で、空など見上げなかった。
「アメリカで、噂はきいていたけど、ピットブルって犬は凄いらしいですよ。一度、見たいと思ってたんだ」
「槇村さん、こんな趣味がおありに見えないけど」
「いや、興味はありますよ。アメリカじゃ皆が賭けるんだそうで、どこの州でも禁止になってるんだって。FBIがみつけ次第どしどし摘発してしまうんだけど、そのときまず犬を殺してしまうらしいです」
「まァ、かわいそうに」
「犬を殺したって後は絶たない。どんどん生産されるものね」
試合開始は夜中の十二時からの筈だったが、犬のオーナーが全員揃わないらしくて、到着するまで待っている気配だった。
乗馬クラブ側は会場を貸しただけで、催し自体にはいっさい関知しないという表情で、かたく主家《おもや》の門を閉ざし、誰も姿を現わそうとしない。
したがって屋根のある雨天馬場の中に五、六十人の人が集まっているが、火の気もいっさいなく、夜更けの寒気が身にしみた。
屋根のない本馬場の方には、小型のトレイラーカーがあちこちに停まっており、その中で小さな檻に閉じこめられた犬が、早くも気配を察して昂ぶっているらしく、
クゥウォォォーン――!
クワゥ、クワゥ、ウォーン!
さかんに鳴き交している。
ベベが美津子の手に紙コップを渡してくれた。茶色の液体が少し入っている。
「これ、何――?」
「ブランデーですよ。寒さよけに呑んどいた方がいいわ」
「あたし、お酒、呑めません」
「野ッ原だから、零度以下になるよ――」と和合もいう。
「大丈夫。寒くて酔いなんか吹っ飛んじゃう。湯タンポだと思って呑んどきなさい」
東京都以外では、別に条令違反ではないというが、どことなく、集りそのものに人眼を避けた秘密遊びの臭いがする。観客の側でいえば、そこのところがたまらない刺激になるのであろう。
槇村は美津子の手をひっぱっていって、檻のそばに近寄り、星明りの中で熱心にすかし見た。
「犬はね、狐みたいに顔のとんがっている種類が強いんだ。特にこの犬は、喧嘩させるために、選りすぐった血だけを残して改良し、ファイターに仕立てあげた種類だから凄いよ。放っとけば死ぬまで闘うんだって」
「人間なんかひとたまりもないでしょうね」
「ああ。しかし人間には襲ってこない」
「何故――?」
「たまに仔犬の頃にはそういうのも居るらしいがね。一度でもその気配があると、すぐ殺してしまうらしい。癖になるからね」
「人間て勝手ね。残酷だわ」
「そこを厳しく管理しないととりかえしがつかない。猛獣だから」
「猛獣にしたのは人間でしょ」
「まあね。主人というものはいつでもそうです。だから、ファイトは犬同士だけで、そういうふうに長年月かけて改良してきたんだろね」
「だいぶ、くわしいですね」
と和合が寄ってきた。
「ええ。本で読んだ知識ですけどね」
「賭けにも興味あるんですか」
「これは、賭けるんですか」
「いや、賭けません。オーナーが出し合う賞品だけです。表向きはね」
そのとき、世話役らしい男が大声で、さあ一発、はじめましょうか、と触れまわった。
主催者側の簡単な挨拶がすみ、雨天馬場の中央に、板囲いされた三坪ほどの中にレフェリーが入った。
「最初は九州の畑さんの愛犬ゴンと、東京の三ちゃんのところの愛犬チュージ――」
かすかな笑声と、ぱらぱらと拍手がおこる。
犬の鳴き声が近づいてきて、東西でそれぞれの主人が引き綱をとり、抱きあげて板囲いの中に落しこんだ。
たちまち、うゎおッ、という唸り声とともに、二頭が烈しくぶつかり合い、相手の顔や頭部に噛みつこうとする。
四肢をふんばり、あるいはフットワークを使って先手をとろうともみ合う。頬にかみついた方は、死んでも離すまいとし、一方はまた動いてふりほどき、自分も有利に噛みつこうとする。
主人が一人ずつ、板囲いの中に入ることを許されており、犬に手は触れられないが、絶えず自分の犬に声をかけて叱咤《しつた》している。
「チュージ、ホラ行け、いいぞ、チュージ、チュージ、ファイトですよ、ファイトだよ――」
「ゴンちゃん、はい、ゴンちゃん、さァそこだ、さァいいぞ、休まない休まない、さァゴンちゃん、はい、ゴンちゃん――」
犬たちは砂の中を転げまわり、鞭がわりの主人の声に励まされて一瞬の息を入れるまもなく、押し合う。
噛みついた方は、口をふさがれて荒い呼吸ができず、鼻孔だけでわずかに空気を吸いながら動きまわらなければならない。その苦しさに負けて噛むのをやめると、相手がすかさず攻撃してくる。
血と唾液が飛び、犬たちの体毛が血で赤く染まりだした。
美津子は立ちすくんだまま、この無意味な争いをみつめていた。それからまわりの男たちに視線を移した。
ジャンパーや厚い毛のオーバーで着ぶくれた男たちが、板囲いにもたれこんで、争いの成行きに声をあげ、一喜一憂していた。
まるで、男たち自身の日常を、戯画して楽しんでいるようにも思える。
チュージが相手の喉もとを攻撃し、ゴンの方は顔をのけぞらせて後退しがちになっている。ゴンの喉の皮膚が痛々しく血しぶいている。
「駄目か――」
「冗談じゃない、まだまだ――」
「だが、かなり深く噛んでるぜ。もう離さんだろう」
「まァ見ていろよ。こんなくらい、かすり傷だよ」
槇村は、和合に訊いた。
「見たところ、賭けてる様子はありませんが、これはまだ前座だからですか」
「いや、おおっぴらじゃありませんから、主催者だって気がついてないことが多いです。でも、あすこ、ごらんなさい」
雨天馬場の一隅に、中二階のようになったコーチ室があり、そこから馬場を見おろすような恰好で数人の男が眺めている。
「あの男に向かって、手をあげるだけでいいです。グウか、チョキか、それと指何本で金額――」
チュージも、ゴンも、お互いの血で上半身の体毛を赤く染めている。態勢はあきらかにゴンが悪い。片耳の先を喰い千切られ、鼻のわきと喉もとと前肢のつけ根のあたりから血がしぶいている。そうしてある時期から次第に、身体全体で圧せられ、チュージの下敷きで苦しむことが多くなった。
それでもゴンは、下からチュージの喉に噛みついたまま放さなかった。
主人の叱咤が絶えず飛ぶ。
二頭はねじれるように砂地を転がり、チュージは新らしく相手の耳のうしろにかぶりついた。
うう、きゃん
とゴンが鳴く。
ファイト、ファイト、と板囲いの外の人間たちが騒ぐ。
「駄目かな、もうアカンか」
「まだまだ、こいつ等がこんなことでまいるもんか――」
レフェリーが手をあげて、二頭を引き離すように命じた。第一回目の判定である。
オーナーがそれぞれ自分の犬の尻尾と身体を持って力一杯に引き離し、自分のコーナーに戻る。水を含ませたたわしを犬の顔に当ててやる。
二分の休憩の後、敗色の濃いゴンの方から、飼主の手を離す。ゴンが相手にまだ挑戦していくようならそのまま続行である。
が、ゴンはオーナーが手を離して、ゴー、と叫んでも、先刻の勢いを見せず、コーナーをふらつきまわり、ひと声悲しそうに鳴いた。
それで勝負が定まる。チュージの勝ちである。
飼主が抱きあげて板囲いの外に出し、引き綱をつける。勝った方も負けた方も、ほとんど足をふらつかせながら、獣医のところへ引かれていって応急処置を受ける。
日頃の鍛練でまったく贅肉のついていない腹が烈しく波打っている。
獣医がカンフルを打ち、千切れかけた耳を手早く針で縫い合わせる。
ベベと美津子は獣医のそばで並んで眺めていた。
「かわいそうだわ」
「そうね。でも犬だけじゃない。人間だって同じようなことやらされてるわ」
「人間には報酬があるでしょう。犬は何を貰うの」
「おかげで生かして貰ってるわ。負けてばかりじゃ飼いたくなくなるもの」
「遊びの道具にされて、生きるのね。楽しくもないでしょうに」
「だって、よほど幸運に恵まれなきゃ、誰だって楽しくは生きられないわよ」
ベベは水商売の男特有の屈折した眼で、美津子を眺めて笑った。
「貴女方、いいわね。家庭に守られて、生きているのが当然みたいに思っているんでしょう。でも、生きる権利なんか誰にだって無いのよ。皆、何かして、やっと生かして貰ってるの。犬がかわいそうでなんかあるものですか」
あたしだって、家庭に守られているわけじゃないわ、と美津子は思う。
だから、犬を見るのが嫌だ。
板囲いの中では第二試合がはじまっていたが、美津子は獣医のそばを動かず再び寒い小さな檻に投げこまれる犬を見送っていた。
「もし、どっちかに賭ける気があったらいってください。お取次ぎしますよ」
と和合がいう。
「いや――」
槇村は笑って答えた。
「賭ける気はありません。とても興味はありますが」
「ええ、おすすめはしませんよ。犬の能力もわからずに当てずっぽうに賭けたって面白くない」
和合は槇村の紙コップにブランデーを注ぎ足した。
「しかし、今度の犬、あの黒い方ですが、もうヴェテランで、十何勝しています。かつては日本のピットブルとしては代表的な名犬でした。今はちょっと衰えていますがね」
「やはりアメリカ産ですか」
「ええ、あっちの名血を輸入してくるのです」
「なるほど、風格がありますね」
「片眼ですがね」
「へええ、片眼ですか。それでよく勝てますね」
「強い頃は両方揃ってましたからね。眼の玉に噛みつかれて試合中に潰されてしまって以来、ちょっと手許が、というより眼もとが狂ってきましたな」
コウタロウ、とその犬は呼ばれていた。観客もすでに馴染みで、彼の試合運びまで知られているらしく、うまい動きをするたびに拍手がおきる。
一方は、ジョンという新犬。だがその親はアメリカの有名な種犬らしい。ヴェテランに臆せず向かっていき、序盤はむしろ優勢に見えた。
「――ほら、ジョンや、ファイトですよ、ジョンや」
と声をかけながら、オーナーは観客に向かって軽口をいった。
「どうもこの犬、歯が弱くてね、いいファイトしてるんだが、噛みが弱いもんだから、極め手がないんだよなァ」
「カルシウム不足だろ!」と声がかかる。「簡単だよ。今、餌ですぐ直せる」
「いや、噛みの力はなかなか直らないよ。餌で直るならいいが」
両者もみ合っているうち、白い小さな物が宙を飛んだ。
オーナーがそれをひろっていった。
「ほうら、これだからなァ、牙が折れちまったよ」
板囲いの外から笑声があがる。
「歯なしと片眼じゃなァ、試合にならんのとちがうか」
槇村は中二階のガラス張りの中の人影を見上げていた。
「皆、どのくらい賭けてるんですか」
「さまざまですよ、人によって。何百万と張るのも居るし、二万とか三万、ご祝儀代りという人も居る」
「胴元は儲かりますか」
「これじゃァ儲からないね。儲けるためにはレースを作らなくちゃァ。まァお客さんサービスで、ときどき目先を変えたイベントをするんですよ」
「やっぱり、ハンデをつけるんでしょう」
「ええ。この試合は五対一です。しかし貴方、くわしいね。高校の先生にしちゃ」
「高校教師だって、教室の中でばかり生きてるわけじゃないですから。酒も呑むし、トルコにも行くし――」
「ばくちも打つか――」
「僕は打ちませんがね。プライベイトでギャンブルをやったって不思議はありません」
「なるほどね――」
と和合はうなずいてから、槇村にいった。
「じゃ、こう訊くべきなのかな。なぜ、打たないんですか」
「ははは、体質でしょうね。自信もないし。興味はあるが、僕は高校教師で、半分は親のスネをかじって、それでのんびり暮します」
悲鳴に近い犬の叫び声がきこえる。どちらか一方に敗色が濃くなったらしい。
板囲いのまわりの人たちも、さかんに声を出している。
板囲いに近寄ってのぞきこんでみると、歯なしの方が、残った片方の犬歯で、片眼の鼻頭に鋭く噛みついていた。片眼の鼻梁の中ほどのところに歯が突き刺さり、ちょうど片眼の鼻面を半分ほど呑みこみかかったような形になっている。
歯なしの方はますます深く噛みこんでいき、勝ち誇ったように顔を左右に振って、相手の鼻面ごと噛み千切ろうとする。もうこれではどんなことがあっても、噛みをはずすことはない。
片眼の顔面から血が滝のようにしたたりおちた。
「勝負は見えたな。これまでだろう」
「しかし、もう離れないぜ。ああまで深く刺さっちゃ、引き離せない」
「すると、どうなる。このままかね」
「しょうがないんじゃないか。デスマッチだな」
片眼が物狂おしく鳴き叫ぶが、レフェリーもちょっと手をつかねた恰好だ。片眼の飼主は、腕を組んだまま、やんぬるかなという表情だ。
「打つ方は駄目として、受ける方はどうですか」
と和合がいう。
「受ける方といいますと」
「たとえば、ああいうふうに」
和合は中二階のガラス張りの中の男たちを示した。
「胴元ですか」
「ええ――」
「あれはどういう人ですか」
「俺たちは、スートロの親分といってますがね」
「やくざですね」
「いや、とんでもない。スートロというのは通称で、本当は鉄鋼会社の社長ですよ。れっきとした固気です」
「固気が、胴元になれるのですか」
「もちろん、今、そういう人が多いですよ。金があれば、スポンサーになれるんです。テレビだってそうでしょう。胴元は皆、素人ですよ」
和合は、さらにこういった。
「どうです。貴方もひとつ、胴元になってみたら。今、投資の方法として、唯一の穴ですよ。とにかくギャンブルは手っとり早くて、荒い稼ぎができます。もちろん、その気があったらの話ですがね」
「――なんだか、あんまり突然でまったく答えようがありませんが――」
と槇村はいった。
「そうでしょうね。普通の人はそう思う。昔はギャンブルの胴元なんて、やくざ者の専業みたいに思われていたものね。しかし、昔流のやくざは例外をのぞいて、大体落ち目でね、多量の金を運転できない者が多い。だから昔どおりのスケールの小さいことしかできないんです。この世界も近頃は、新興資本の進出でね。一番目立つのは、一般企業の経営者たちの進出ですよ。スートロの親分のようにね」
「法律違反なんでしょう」
「もちろん。外国では、アメリカやイギリスのように許可されているところもあるんですが、日本ではまだね。闇の種目です」
「摘発されるおそれがあるでしょう」
「ええ。けれど大概、代人をおいていて、警察用のキャプテンが居るんです。キャバレーやギャングバーと同じで、スポンサーは影に居るだけでいい」
「儲かりますか」
「槇村さん自身で考えてみて、どうです。儲かると思えますか」
槇村はしばらく黙っていた。
「――でしょうね」
と呟やくようにいった。
「もし、胴元が儲からないとしたら、誰が儲けます? 客ですか、客は平均して損するでしょう。ギャンブルで倉を建てた人はないようだから。すると、その他には胴元しか居ない。どうしても、胴元が儲かる理くつですな」
「なかなか、わかりがいいですね」
和合は笑った。
「普通、競馬でも競輪でも、正規に買えば二割五分の税金を払っているんです。ところがノミ屋を通せば、その税金分が利益に加わるんです。そのうち一割を落ち≠ニして客に戻しても、一割五分、トータルではこれは大きいです。そのうえ、ギャンブルは何でもそうだが、客は常に買い目を自分で判断しなければならない。欲にからんで、なかなか冷静になれずにどうしても狂いがくる。胴元の方は単に受けるだけだから、自分で判断することはない。この点も、条件としては有利ですね」
「面白いお話です――」
と槇村も、闘犬の方をそっちのけにして話しこんでいた。
「だけれども、まァ今日のところは、単に面白いお話として伺がっておきますよ。なにしろ、まったく考えてもみなかったようなことなので」
「ええ、それに、むりにおすすめしているわけでもないんです。スポンサーはいくらでも居るし、それに、なんといっても品のない行為ですからね」
「汚なく儲けて、綺麗に使え、と関西の方じゃいうらしいから、どのみち、商売に品格はいってられないでしょうね」
ようやく引き離された犬が、飼主に抱き上げられて板囲いを出て来た。犬は昂ぶりの極になっていて、数人がかりで引き綱をつけても、虚空に向かって吠え立て、突っ走ろうとする。
反対側から長々と伸びた一頭が戸板に乗せられて獣医のそばに運ばれてきた。
鼻梁に大きな穴があいている。血汐に染まった負け犬を、人々は犠牲者を見るように見送った。
ゴーサイン
闘犬の夜の印象は、美津子の中からなかなか去らなかった。
鼻面を血まみれにした犬たちのあさはかで哀しい姿が、なんとなくよそごとに思えなかったから。
特に最近の彼女自身をふりかえると、これまでの自分の美意識、生活感覚からは、考えられないことをしているように思う。
もうひとつ、印象に残っているのは、ゲイボーイのベベがあの夜美津子にささやいた言葉だった。
「――貴女なんか家庭に守られてるから、生きてるのが当然に思ってるんでしょう。でも生きる権利なんか誰にだってないのよ」
奪いとらなければ、生きる権利も手に入らないという。
検挙されて警察に何日か留めおかれたロッカは、帰宅すると、これまでの生き方を改めるどころかなおファイトを燃やしはじめたようだった。
「今までは甘かったですよ。これで、俺もプロの烙印を押されたようなもんだ。畜生、今度はエラーなんかするもんか」
立花氏にそういったという。
ロッカも、鼻面を血に染めて物狂おしく吠えたてている犬のようなものなのであろう。
けれども美津子は、そういうロッカを笑うことができなかった。
ならずにすめば、自分は犬になりたくない。でも、そうはいかないだろう。生きている以上、誰かと闘かわなくてはならないだろう。
それ以上にうとましく思えるのは、犬にもなれず、手を汚さずにじりじりと後退しているように見える父親の存在だった。
美津子の頭の中には、自分でも気づかぬうちに、いつ頃からか、血泥にまみれて勝ちを手に入れる男の姿が、父親の像を追い出していきつつあったようだ。
事務所の扉がノックされ、静かに開いた。そうして、髭もじゃのインドネシア紳士が現われた。
「アラ――、よくここがおわかりになりましたのね」
「ひどく迷いました。日本語はむずかしい。町の人の地理の案内はワタシにはよくわかりません」
髭もじゃは、立花家に二日ほど泊っただけで、あれ以来一週間ほど、姿を現わさなかった。
「パパは――?」
「風邪をひいたらしくて休んでいます。近頃は、あたしにまかせているらしくて、事務所にもあまり来ないんです」
「それはいけない、お大事になさい。ところで、もう一人の男ですが――」
「和合さん」
「はい。彼に会いたい。ミスター和合はどこに居るでしょう」
「さあ、あの人は神出鬼没ですから」
「神出、鬼没――?」
「どこに居るか、あたしにもよくわからないんです。日によって二度も三度もここに現われるときもあるんですけれど」
「早く会いたい。こうなったら一日でも早く。ワタシも国の方で仕事も控えていますのでね」
「例の試合ですか。もう準備は整いましたの」
「はい。彼の行きそうなコースはすべて調べました。今度は負けません。十回やって十回とも勝ちます――」
その夜名門≠フ開店第一号の客は、例のインドネシアの髭もじゃ紳士だった。
近頃では名門≠フような高級ゲイバーは東京を代表するナイトライフの店としてガイドブックにも登場しているから、外人客は少しも珍らしくない。世界じゅうのどの国のどの民族だろうと、誰もたじろがない。
むしろ、この種の客の方を大歓迎する。
「――こちら、たしか前に一度お見えになったでしょう」
と見覚えていた若い子がそばについてくれて、髭もじゃはかなり気をよくしたらしい。
外人には珍らしく、その子にも高い酒をおごった。
「ママは、どこに居ますか」
「ママ? そう、ママがお目当てだったの」
「お目当て――?」
「ラブコールでしょ。ママは重役出勤だけど、もう来ると思うわ。それまであたしで我慢して」
「ミスター和合は来ますか」
「和合ちゃんはたいがい顔を出すけどね、まだ早いわ。とにかく一杯お呑みになって」
「どこに居るかわからないかな」
「誰――? ママ、それとも、和合ちゃん?」
「ミスター和合――」
「アラ、どうなってるの。ママにラブコールなんでしょ」
「用事があります。和合にね。今夜、会いたい」
その若い子は立っていって、店の子にきいてまわったようだが、要領をえない。
そのうちチラホラと客が入り、一回目のショータイムがはじまった。
髭もじゃのブランデーグラスがもう空になっている。
二杯目をつごうとするのを押さえて、彼はいった。
「ミスター和合が本当にここに来るなら、いただくが、そうでなければ、帰るとするか」
「来るわよ。来ますとも。ここは和合ちゃんのホームグラウンドみたいなものですからね。まァゆっくりしてらっしゃいな」
いい案配に、ベベがいつもより早く入ってきた。
「ああ、ママ――」
髭もじゃは立ち上がって一礼した。
「アラ、ええと、どなたでしたかしら」
「ミスター和合、和合って、さっきからいい続けてるのよ、こちら」
ベベはとりあえず、髭もじゃのそばに腰をおろした。
「前にゴルフを一緒にやってね」
と髭もじゃ。
ああ――とベベは、その一言でひらめいたようだった。
「わかりました。インドネシアのお客様――」
「ぜひ、もう一度、ミスター和合に会いたくて、日本に来ました。今夜、彼はどこに居ますか」
「ポーカーをしてますよ。場所はわかってますが、いらっしゃる」
「ポーカーか――」
と髭もじゃはいった。
「私はポーカーはしないが、彼には会いたい。一言、話があるのです。場所を教えてください」
ベベは相手の表情を探る眼になったが、とりあえず電話してみるから、と立ちあがった。
「気が向いたらどうぞ、といってるわ」
ベベは席に戻ってきて、そういった。
「遠いのですか」
「いいえ、車でほんのひと息のところよ。東京タワーのそばだから――」
髭もじゃはすっかり堅い表情になって立ちあがった。
「いくらですか」
「結構です。またおついでのときにお寄りくださいな」
「ワタシはなかなか来れないよ。遠い国だから」
「いいのよ。そのままどうぞ」
「何故――?」
「和合に負けた方からはいただかないの。お気の毒だから」
「それじゃ、この次はうんと高い勘定を払わされるな」
若い子が送り出てきてタクシイを停めてくれる。
教わったビルはすぐにわかった。髭もじゃは両手をポケットに突っこみ、殺し屋のような表情で、エレベーターから出た。
扉をノックした。
中で足音が近づき、内鍵をはずさずに、扉が細めに開かれ、彼を確認した後に大きく開けられた。
扉のところに名札らしいものは何もかかっていない。
扉を開けたのは、和合だった。
「やあ、いつかは失礼――」
髭もじゃも笑顔になった。
「こちらこそ、面白いゲームだった」
部屋の中には、和合の他に二人の男が居て、丸テーブルにへばりついていた。
カードが、テーブルの上に散っている。
「ごらんのとおり、ゲーム中なので、手短かにいってください。ご用は何です」
「また、ゴルフをご一緒にやりたいと思いましてね」
「ああ、なんだそんなことか。俺はまた、病院の話が進んできたのかと思った」
「それを待っていたんだが、待ち切れなくてね。先にゴルフの件だけでも、片づけたいと思って」
「片づけるというと」
「ひとつ、星が預けてあります」
「なるほど。お安いご用ですよ。そんなことならわざわざ来られなくとも、電話で、明日はどうだねといえばいいのに」
「わざわざインドネシアから来たんですから、正式に手続きをしようと思ってね。ルールやコースも定めたい」
「東京附近ならどこでもいいですよ。どこだって顔は利きます。貴方のルールでどうぞ」
髭もじゃは、あいている椅子に腰をおろして、苦笑した。
「一度勝ったからって、そう尊大になっちゃいけない」
「そうじゃないんだ。俺はいつでもこうだよ。考えたってしようがないじゃないか。ところでポーカーはいかが」
「結構ですな」
「ベベの電話では、ポーカーはおやりにならないとか、きいたが」
「そういわなけりゃ、ここに来るまでにどんな仕かけをされるかわからない。なにしろ、地震を呼んでしまうような人だから、油断できませんね――」
「お言葉だが――」
と、和合でなく、その左手に坐っていた初老の紳士がいった。
「この場は、長いこと仕掛けをやってたために、倦きてしまった奴の集まりでね、そのご心配はないと思うよ」
「知らない人とカードをやるな、という言葉がワタシの国にありましてね、気をわるくしないでください」
「いや、日本でもその言葉はありますよ。もちろん無理におすすめはしない。我々だけでやってるから」
「いや、もちろん、坐らせてください」
髭もじゃは両掌をこすり合わせて、予備運動でもするようにしながら席についた。
「ドロー――? スタッド――?」
「ファイブ・スタッドです」
と和合がいう。
「その他の飾りはいっさいなし。ローカードもやりません。我々は、これが一番、正攻法の勝負だと思っています」
「ローなんか、裏ドラマージャンみたいなもんや」
ともう一人の大学の先生みたいに謹厳そうな男がいった。
初老の紳士が、スートロの親分と称される鉄屋の社長。
大学教授風が、金貸しのカクさん。
インドネシアの髭もじゃも頷いた。
「同感です。スタッドのファイブゲームは、一番実力が要る」
「但し――」と和合がいった。
「張りはキャッシュだけ。旅行小切手などはあらかじめ換金していただく。キャッシュ以外はレイズできません」
「よろしい」
「では、この際、フェアにするためにカードも新らしくしようか、席も改めて定めよう」
カクさんが鞄から、封をしたままの青と赤のカードを、十個ずつとりだした。いずれもアメリカの大手の製品で、世界中でもっとも信用のあるメーカーのものだ。
「これは我々三人が、はじめる前にそこのホテルの地下街で買い求めてきたカードです。さあ、一組ずつ、貴方がとってください」
髭もじゃは無雑作に手を出して青と赤を一組ずつ取った。
スートロが箱からカードをとりだし、髭もじゃに渡す。
髭もじゃは、セロファンを剥きかけて、鼻に近づけ、臭いをかいだ。
それから、人差指と親指で一組ずつ、カードを持って、横から灯にすかした。
「結構です――」
と彼はいった。
スートロがカードデッキをとり、入念にシャフルしてから、一枚ずつオープンで配った。
数字が一番上のカードを持ったカクさんが坐る場所をえらび、高目の順に、髭もじゃ、和合、スートロ、と並ぶ。
髭もじゃはなおも両手をこすり合せ、鼻音をさせて大きく息を吸いこみ、
「面白い晩になりそうですな、どうも」
「そうだといいですね」
と和合もいった。
ドローポーカーは、手札を伏せたまま相手に見せず、自分だけが見て戦かう。そうして、カード交換ができる。
それに対してスタッドポーカーは、交換できず、配られたカードがそのまま定着する。そうして最初の一枚以外はオープンする。
七枚|乃至《ないし》八枚配って、その中の五枚を使うやり方もあるが、ファイブスタッドは五枚しか配らないので、融通がつかず、したがってもっともきびしいルールである。
くりかえすけれども、ゲームはハイカードだけを基準にし、ローはとりあげない。
最初に伏せカードが来、もう一枚オープンカードが配られたときに、髭もじゃが思いついたようにこういった。
「念の為、このゲームは時間制限がありますか」
「いや、今のところ、定めていません」
「それはよかった。明日の勤めがあるからなどといって、二時に帰る、三時に帰る、などといわれては、困る。最低十時間は続けてプレイすることを提案したい」
もっともだ、というように和合が頷ずいた。
「黙っていてもそうなるでしょうが、俺は承知ですよ。ですが――」
和合はちょっと笑った。
「貴方にタネ銭が残っていた場合の話です」
髭もじゃはまた大きな鼻音をさせて息を吸いこんだ。
「面白い晩になりそうで、感謝します。どちらにしても、今度はぜひ私の国に来てください」
髭もじゃは、オープンカードと伏せカードをぴったり揃えて横にし、重々しい動作でわずかにずらして端の数字を眺めた。そうしてテーブルの上に元通りにそっとおいた。
「――チェック」
と一番大きい数字のカードが見えているスートロから声を発する。
チェック、というのは、様子見、というほどの意で、先に賭けずに後で大勢に従うわけだ。
続いてカクさん、髭もじゃ、和合、それぞれ、チェック、だ。
ファイブスタッドは手札の融通が利かないので、役が出来にくく、最初の二枚がペアーになっているか、エースのような有利なカードがある場合以外は、まずチェックでスタートすることが多いが、この場合は髭もじゃという新手を加えて、慎重策をとったのであろう。
結局、二発目でキングをとった和合がベット(賭け)しはじめ、各人それに習った。
和合――■、4、K、9。
スートロ――■、J、8、Q。
カク――■、10、3。
髭もじゃ――■、7、A、5。
カクさんは三枚目で順当にダウン。しかし髭もじゃは、四枚目でしばらく考えた。そうして、
「――ダウン」
といって手札を伏せたまま投げ出した。
和合が、じろりと髭もじゃをにらんだ。
「――なるほど」
「私はこういう主義でね」
「まァ、聞いておきましょう」
髭もじゃは声のない笑みを浮かべて、和合を見返した。
和合――■、4、K、9。
スートロ――■、J、8、Q。
カク――■、10、3、ダウン。
髭もじゃ――■、7、A、5。
髭もじゃのエースを見下ろして和合の張りがきつくなった。むろん、この段階で、髭もじゃの伏せカードがエースなら勝ちであり、そうでなくてもエースと思わせて|ブラフ《はったり》でいけば勝機はある。
また双方にペアーがなくて、数カードの勝負なら、エースの方がむろん勝ちだ。
和合の強気の張りも、Kペアーでなく、ただのブラフでの強気と受けとれぬでもない。
が、髭もじゃは、この強気に応じなかった。
いつぞやのゴルフの印象でいうと、和合という男は、簡単にブラフをかけてくるような男ではないという気がしたからだ。
ポーカーというゲームは、ブラフでも戦かえるという点が、実に面白い。しかしまた、多くの場合、ブラフが敗因になる。強い相手ほど、単純なブラフはしてこない。
敗因を造ることが多いブラフは、逆にうまく使えば、勝因を造ることも多いのである。
髭もじゃは、とにかく前哨戦では、自分はブラフを使わずに、手材料で堅実に戦かっていこうとしていた。
「私はこういう主義でね――」
という発言はその意味である。
そうして、彼は相手もそれぞれひとかどの打ち手ならば、そう考えているだろうと思っていた。
但し、わざとそう発言したのはその印象を相手に植えつけるためで、発言と内心とは微妙にちがう。
「まァ、聞いておこう」
と和合が答えたのはその意味である。
その勝負ではストレート狙いのスートロが残り、彼は苦しそうに考えて、和合の強気の張りコマにコールしていった。
五枚目で、結局、スートロがダウン。
和合は一人でチップをかきあつめ、カードはそのまま崩された。ポーカーではダウンした場合、或いは相手のダウンで勝ちをひろった場合、いずれも手持ちのホールカード(伏せカード)は誰にも見せない。
和合のホールカードがキングだったかどうか。髭もじゃはキングと読んでいたが、そうでない場合もありうる。ブラフはやらないはずだというお互いの常識はあるけれど、緒戦の第一戦だけは、意表を突いてブラフチャンスだともいえるのである。
この場合、キングペアーか、ブラフ気味のノーペアーか、いずれにしても、和合が先手を打ってベットしはじめたのが大きな勝因であった。あとの三人は和合に対する受け構えという形になってしまった。
もっとも苦しかったのは、スートロで、こういうストレートとかフラッシュとか、最後まで引いてみないと完成かどうかわからぬ手は、ファイブスタッドでは特に苦しい。
このルールでは、待ちカードは損なのである。その損を承知でスートロがコールしていったのは、四枚目とホールカードが、9と10で、ストレートに対する待ちが両面になったからであろう。
それから五時間ほど、ゲームは一進一退で、特に誰かが傑出しているということもなかった。
テーブルの上の各自の金は、多少の高低がある。だがそんな程度の差は、ひとつ風が吹けばなんなく逆転してしまう。
途中の金の状態などひとつも気にすることはない。それよりも髭もじゃは、三人の相手の戦かい振りを注意深く眺めていた。
ファイブスタッドは、ブラフチャンスはあまりない。では手材料だけの勝負かというと、そうでもないのだ。
手材料は、長時間やれば結局平均してしまうものだ。いいカードばかり引く奴はいない。逆に悪いカードばかりがくるわけでもない。
このゲームのポイントは、カードよりも、張り方の技術なのだ。五枚のうち四枚がオープンされてしまうのだから、よほどの馬鹿でないかぎり、手恰好はお互いにほぼ見えてしまう。
だからいい材料が来たときに、相手をどのくらい巻きこんでいくか、また自分が無駄な張りをどのくらい慎しむことができるか。十万円勝てるゲームで、五万円しか勝てないとすれば、それは五万円のエラーということなのだ。
そういう眼で見て、髭もじゃは三人の中で、スートロの親分という男が、ややゆるい相手であるような気がした。
こういう場合、ポーカーでは、まず弱い者を倒していくことに皆が気を合わせる。その段階で誰が勝っていたっていいのである。まず一人を倒し、彼の持ち金を吐きださせておいて、次の一人を倒すことに集中する。
弱いと目されてしまうと、実はもうほとんど勝ち切ることはむずかしい。なぜなら、その男は個人で組織を相手にしているような案配になるからだ。
髭もじゃ――■、K、Q、4。
スートロ――■、10、K、10。
四枚目までがこんな恰好で、二人はにらみ合った。スートロは三枚目から急にレイズしはじめた。多分キングペアーが出来たのであろう。だから四枚目の10で、ツーペアーになっているはずだ。
髭もじゃのオープンカード三枚、K、Q、4は、いずれもハートだった。フラッシュチャンスではあるが、ファイブスタッドでフラッシュは至難の役だ。
スートロは、特に三枚目、四枚目とかさにかかったように張ってきていた。10のワンペアー、実際はK10のツーペアーが見え見えの感じできている。髭もじゃはただコウっていっただけだ。
そうして最終カードは、スートロが3。髭もじゃが6。但しハートだった。
スートロの眼が一瞬大きく見開かれて、ハートが並んだ相手カードを見た。
百円玉をひとつ、スートロが卓上に投げた。
百円張って相手の出方を見ようというわけだ。
「レイズ――」
と髭もじゃはいい、百円玉の他に万円札を十枚、並べて張った。
和合もカクさんも、無言で両者のカードをにらんでいる。
レイズバックは、卓上に張られている総額の半分まで、という定めになっている。
髭もじゃのレイズした十枚は、その限度ぎりぎりの額だった。
スートロはじっとその金額をみつめていた。
フラッシュなら、もちろん見下しでスートロの負けである。見えたところだけでいえば、行く手はない。
しかし、ホールカード(伏せカード)が一枚ある。ポーカーは見えているところだけの勝負ではない。髭もじゃの二枚目、三枚目の張りは、フラッシュ狙いではなかったはずだ。ファイブスタッドでは最初から至難なフラッシュなど狙ってコマを張りつめない。
では、キングハイカードを当てにして来ていたか。それともホールカードがキングで、キングのペアーで来ていたのか。その場合フラッシュはない。
あと四枚がハートで、どんなにフラッシュに見えようとも、ホールカードがハートだという保証は何もない。
おそらくスートロもそこを考えているな、と髭もじゃは思っていた。これがポーカーの醍醐味《だいごみ》だ。
「――ダウン」
といって、スートロがカードを投げだした。
誰も何もいわない。髭もじゃは金をひろい、カードはまとめられてシャフルされていく。
スートロの手は、いかにもそう見えたが、はたして、キング10のツーペアーだったろうか、と髭もじゃも考えていた。そう見えただけで、実際は10のワンペアーだけだったかもしれぬ。
いずれにしろ、四枚目のスートロのレイズの額が、少し甘くて張りこみすぎていたのだ。10のワンペアーならもちろん、ツーペアーでも逆転を喰うおそれを見取って、ここはやや押さえる必要があったろう。
三枚目でコールしてきた以上、四枚目で強圧的に出ても、やはりついてくるだろう。
もう一枚最終を見て、強圧はそれからでもおそくない。
そのほんのわずかの張り額の大小が、こういうゲームではエラーになってしまうのだ。
髭もじゃのホールカードは、スートロが疑がったとおり、クラブのキングだった。
このあたりからスートロの親分が眼に見えて退潮した。そうなると皆が連合して、スートロが好手をつかんで張りに出てくると、オリてしまい、半端な手で揉みにかかると賭金を吊りあげて彼がオリざるをえないようにする。
朝の八時頃、スートロはついに生あくびをかみ殺しながら、
「今日はまいった。俺はまた日をかえてやろう。いいだろう、朝までつきあったんだから」
「どうぞ――」
と和合がいった。
髭もじゃも、もうスートロの方へは視線もくれない。三人でまた数時間、もみ合って、昼近くなった頃、来客が一人、部屋に入ってきた。
高校教師の槇村だった。彼はベベに聞いたといって、しばらくかたわらでゲームを眺めていた。
インスタントコーヒーを入れに立ちあがった和合が、ふと発見したように、見学者の槇村の方を見た。
「ポーカーはお好きですか」
「いや、まァ――」
「高校の先生でも好きなものは好きか。よかったらどうぞ、入ってやってください」
「高校教師だからって、堅ブツとは限りませんが、僕はまァやりません。ただ、見ているのは面白いです。僕はどうも、自分でやるより見ている方が好きなタチなようで――」
といって槇村はちょっと笑いを見せた。
「それじゃ、なにか俺に用事でもあったんですか」
「ええ、ちょっと、相談したいことがなくもないんですが、今日でなくてもいいんです。どうぞ気にしないでやってください。僕はもうちょっと、見学させてもらいますから」
カクさんの前に、だいぶ金が集まっている。このところうまく三連勝してカードの寄り方も上昇気運にある。
和合はすこし低迷気味で、見《けん》が多い。
髭もじゃが最初の暗雲にとざされたのは、その日の二時頃だ。
和合がペースメーカーになってカクさんと髭もじゃが、コールしていった。
が、あいているカードには誰もペアーができていない。常識的にいえば、和合のホールカード(伏せカード)がエース、つまりエースバックで、ハイペースにしていると眺められる。
髭もじゃは、ハイカードが見えているところでは、ジャックだった。しかしホールカードはキングを隠し持っている。
カクさんは、クィーンのハイカード。
両者はあくまでレイズバックせずに、コールのみでついていっている。
もし和合がエースバックでなく誰の手にも隠しペアーができてないとすれば、髭もじゃのホールカードのキングがハイで、ものをいう。
最終の五枚目は、皆がしぼり見るので一応伏せて配られる。
その五枚目を伏せたまま見ないで、和合は、卓上に張られたコマのきっちり半分、八万五千円ほどをレイズした。
「――コール」
とカクさん。
「――レイズ」
と髭もじゃがいった。そうして八万五千に加えて、手元から十万ほど放った。
和合がはじめて五枚目に手を出し、しぼって見た。
ハートの7だ。
「ふうん――」
和合はくわえ煙草のまま、背後の槇村をチラと見た。
カクさんの五枚目は3。髭もじゃは8。いずれもローカードだ。
和合がさらに十万円。さらに、レイズ、といって、百円玉を一つ放り、にやっと笑った。
カクさんは、和合のより髭もじゃのカードを一心に眺めている。
そうして少し間をおいて、
「ダウン――」
といった。
ブラフか、それとも、それなりの手材料で来ているのか、それはわからないが、カクさんとしては含むところありそうな二人にはさまれた恰好で、クィーンハイであるかぎり、ダウンが順当であろう。
もしどちらか一方とだけの勝負なら、カクさんもとことんまで来たにちがいない。
ファイブスタッドでは、ノーペアーのハイカード勝負が多いのである。いいかえれば、手なしの勝負を着実にひろっていくことが勝つための必須条件で、このあたりが重要なポイントなのである。
さて、今度は髭もじゃが考えに沈む番となった。
最終カードを伏せたままノンルックで、和合が張ってきたとき、エースバック(伏せカードがエース)ではないと直感した。最終カードに関係なく張るというのは、この場合、エースバックであるというポーズ歴然で、かえって怪しい。
むしろ、隠しペアーができていた場合のカクさんが怖かったのだが、彼がダウンした今、髭もじゃはかえって戦かいやすくなっていた。
カクさんがペアーがあれば、ダウンするわけはないから、彼もノーペアー。
ということは、和合がエースバックではなく、ブラフと読んでここまで来たことになる。和合のカードに対する読みは二人とも合致していたのだ。
糞ッ、と思った。髭もじゃは、冷えたコーヒーをがぶりと呑む。ポーカーは辛抱だ。怖がるな。揺れるな。
百円玉一つのアップは、相手の出方を見る弱気と見せて、この場合は挑発的な戦法に見える。
挑発して、最大限に張らせようというのか。
それとも、ペースメーカーを髭もじゃにゆずって、相手の出方を見るというのか。
髭もじゃは百円玉一つを放り、
「レイズ――」
といって、手元のキャッシュに手を伸ばした。
「レイズなら――」と和合がいった。「どうですか。面倒くさいから、百万といこうか。それでお互いに手早く勝負ということで、どうです」
髭もじゃは、このときまた、和合の強気の姿勢を感じた。なんでありありと見えるような強気の言葉を発するのだ。
「行きたいが、旅行小切手がそんなにない」
「いくらあるんです――」
「いや――」
と言葉を濁して、髭もじゃは不快な表情になった。
糞ッ、百万などに揺さぶられてたまるか。異国の旅行者だと思って、金で横ッ面を叩くようなことをする。ここで持ち金の額をいえば、相手はそれに合わせて張りこんでくるだろう。
それでブラフが圧倒的に有利になる。なにしろ、持ち金の限度になってしまえば、どんなブラフにも対抗できないのだから。
「いや、ホテルに戻ればもう少しなんとかなるが――」と髭もじゃはいい直した。「有金はたいてするほどの手じゃない。ここはちびちびといきましょう」
「それはかまわないが、しかし」と和合がいう。
「チビチビとレイズバックして、結局百万になれば同じことでしょう」
「とにかく、私は最初のルールどおりに、レイズバックする」
と髭もじゃはいって、卓上の自分のコマから、きっちり十万円を追加した。
「レイズ――」
和合はその十万円にさらに二十万円アップする。
和合――■、10、5、8、7.
髭もじゃ――■、4、J、2、8。
そうして髭もじゃのホールカードはキング。
和合のホールカードは何か。エースか。10のペアーか。
和合は最初からアップしてペースメーカーになっており、途中でペアーができて急に勝負に出てきた気配はない。10のペアーは考えられるが、しかしそれならば髭もじゃにJのペアーが考えられるケースに、あくまでレイズバックしてくるかどうか疑問だ。
エースかキングのハイカードを最初に握って、あくまでノーペアー勝負と見て押し出している公算が強いが、しかしその場合でも、髭もじゃのホールカードが同数のハイカードなら、Jのある方が勝ちなのだ。
では、エースでもキングでもなく、ブラフの可能性がある。というより髭もじゃはそう読んだ。
本当は、まだレイズバックしたい。しかし、万一、読みがはずれた場合、懐中の底がやや見すかされた形になっているので、あとが戦かいにくい。
「――コール」
といって、髭もじゃは旅行小切手をとりだした。
髭もじゃがキングをあける。
和合のホールカードは、読んだとおり、エースでもキングでもなかった。だが、クラブの7だった。
なんとしたことか、五枚目の引きで、偶然のペアーができていたのだ。
「失礼――」
と和合はいって、二十万の旅行小切手を含んだ卓上の金をかき寄せた。
カクさんが煙草に火をつける。
テーブルから少し離れて観戦している槇村も、無表情で、身じろぎもしない。
カクさんがぽつりといった。
「風が吹いてきたかな。和合ちゃん」
髭もじゃも同感だった。こういう勝ち方は、ツキだすきっかけになるものだ。これからしばらくの間、戦かいにくくなるだろう。
しかしやめられない。髭もじゃは通算してもう五十万近く敗けている。
懐中の残り金は、旅行小切手が百万に足りない。このあとはぜひ一勝しなければならない。見下ろしで勝てるケース以外、出場しにくい。
異国で、ほとんど知合いもなく懐中の融通がつけにくい場で、ポーカーのようなゲームは、不利な条件を抱えこんでいる。それは最初から覚悟はしていたが、ここにきて、その不利が髭もじゃを痛く拘束しはじめていた。
それからしばらくの間、和合は終始攻め役だった。ファーストディール(最初の一枚)から、限度のアップをしてくる。逆にカクさんと髭もじゃは自分がハイカードの場合は、チェックである。
カクさんも、和合のツキ目と見ているらしく、じっと腰を低くして構えている。
ドローポーカーのようにチェンジもできず、セブンポーカーのように手の中で融通もつけられないファイブスタッドは、ほとんど見たままの手で、ペアー乃至スリーカード以外、前半で完成する手役はない。
限度までのアップは、だから高圧的ハッタリとわかっている。それがわかっていて、競合していけない。
逆に和合の方からいえば、レイズをきつくして、できるだけ早く相手をオロさせ、カードを配らせないことが常道であった。レイズがゆるく、カードが配られれば、それだけ相手に逆転のチャンスを与えることになる。
特に、沈みこんでいる髭もじゃは何度も、勝てそうな可能性を涙を呑んでオリた。可能性でなく、確かに勝てるチャンスのみをつかまえたい。それまでは隠忍自重である。永久にツク相手など居るわけはない。風の変るきっかけさえ見すごさなければ、いつかは風が変る。
小一時間ほどした頃、髭もじゃにこんな手がついた。
■、Q、Q。
彼のホールカードもQ。クィーンの三本《スリーカード》である。
それに対して和合は、
■、10、K。
「クィーンペアー、ベット――」
とディールしていたカクさんがいう。
髭もじゃは、無言で、ひさしぶりに自分からアップして張って出た。和合がむろん応じる。
二人が行くと見て、カクさんは、
「任かしたよ――」
とダウン。そうして四枚目を二人にディールした。
和合が、10。
髭もじゃが、6。
これは子供でもわかる。
和合のホールカードがキングなら、ツーペアー。10なら、スリーカード。
どっちの場合でも、クィーン三本の髭もじゃが勝っている。
たったひとつの危険は、和合が五枚目でキングか10をひいて、フルハウスになった場合のみ。
ファイブスタッドでは、三本が事実上の強手役で、それ以上はめったにできない。
ダウンしたカクさんの手に10が一枚あったのを眼にとめている。
とすればフォーカードという奇蹟は可能性がない。
髭もじゃは大きく息を吸いこんで、卓上に張られた金額を算えてみた。ここで行かねば、行くときはない。見下ろしで勝っているも同然なのだ。
きっちり、限度額まで張った。
いくらか考えこむだろうと思った和合が、簡単に、
「レイズ――」
といって、さらにアップして来る気配に髭もじゃは眼をみはった。
和合は十万円の札束《ズク》を三つ、静かに卓上に押しだした。
髭もじゃは半分あっけにとられて、彼の気合を眺めていた。
卓上の合計は約九十万。ということは、和合の張り金は四十万を越えている。
■、10、K、10――。
この四枚で、最高は三本《スリーカード》、普通はツーペアーだ。
髭もじゃのカードは、
■、Q、Q、6――。
でクィーンの三本という恰好。まずブラフはない。髭もじゃは先刻からオリつづけで、ここ一番という形で出て来たのだ。或いはそれが、逆を突いてブラフと見ているのだろうか。
しかし、和合の狙いはフルハウスにしても、それはもう一枚、五枚目を引いてみなければわからない。それに大きく賭けるというのは非常識だ。
和合が10の三本でも、こちらはクィーン三本で、勝ち。
まず、負けはない。
そこまで断言できないにしてもここでオリる手はない。
髭もじゃは財布をあけて、旅行小切手の残額を調べてみた。
三十万をまず合わして、あと残額を思いきりレイズバックした。
勝てるときに限度まで張れ、それが勝負の鉄則だ。
「レイズバック、五十万――」
すると和合は平気な顔で、五十万を合わせたうえに、アップ百万というのだ。
全体で二百二十万近い額が卓上に出ているのだから、ルールにはずれてはいない。
だが、どうせとことんまで行くならもう一枚引いてからにするがいいじゃないか。ハッタリもあまりに見えすいている。
和合は、百万円出して、じっと宙を見据えている。
髭もじゃはもそもそと立ちあがった。金はもう無い。
ポーカーはこれが困るのだ。実に困る。
立花氏の事務所に電話をかけてみた。いい案配に立花氏は居たが金を貸すという話になると、あきらかにへどもどしながら、無い、といった。
「キャッシュでなくていい。小切手でいいんです」
「何に使うんですか」
「ポーカーですよ」
「ポーカー、とんでもない、貴方ポーカーなんかで――」
「カードだからできるんですよ。勝ちが見えてるんです。相手は私が限度額に来ていることを知っていて、大張りに出ている」
「相手って誰です」
「ミスター和合」
立花氏は黙ってしまい、それきり話に応じなかった。そうなると髭もじゃとしては、この国に他に金を借りられそうな相手はないのである。
「仕方がない。あとの百万は貸しでいいよ。コールするなら」
「とにかく、もう一枚引こう」
最終カードが来た。ハートの10だ。髭もじゃは内心にやっとした。
10はダウンしたカクさんの手にもあったから、これで10のフルハウスはない。残るはキングだけ。
こんなときに10がこちらにくるのも強い運を感じさせる。
「コールかね」
髭もじゃは頷ずいて、五枚目のカードをオープンした。
和合も、いったんしぼり見てから、卓上に伏せてあった最終カードを開いた。キングだった。
髭もじゃ――Q、Q、Q、6、10。
和合――K、10、K、10、K。
カクさんが渋い眼をして、じっと最後のキングを見ている。
髭もじゃはだまって立ちあがって、ドアの方へ歩いた。
「百万は、どういうことになりますか」
「国へ帰って送金するよ」
「すると、例のゴルフの再試合の件は――」
「それも、改めて、です」
と髭もじゃは苦くいった。
「ゴルフだけでなく、ポーカーもね。これはまだプロセスだ。私はトータルでは負けないからね。但し、今度は私の国へいらっしゃい」
「ああ、そうさせてもらう。ぜひ行きますよ。病院も一緒にやりましょう」
「ええ、貴方がギャンブルで死ななかったらね」
和合は片手を差しだしたが、髭もじゃはその手を握らず、泣いたような表情で出て行った。
「ああ、面白い勝負だったな」
一緒に見送っていたカクさんに向かって、和合はいった。
卓のところに残った槇村が、和合の最終カードをしげしげと見ている。
K、10、K、10、J。
さっきはたしかに、キングフルハウスだったのに。
「ええと、それで、槇村さん、お話ってのは何でしたかね」
和合は、何事もなかったような顔つきでいった。
「私は、ギャンブルはやりませんし、やろうとも思いません」
と槇村はまだカードに眼をおとしながらいった。
「しかし、他人がギャンブルをやるのは、興味があります。いつかも申しあげたとおり」
「ええ、お好きと見えるね。なにしろ半日も、ただ見ているんだから」
「特に、他人がギャンブルをやって、それで私が儲かるんなら、面白いですね」
「それはそうだ」
「今、株はいけません。土地も高くなりすぎた。商売すべてうまみがない。第一、銀行だって危ない気配があるというご時世で、金の動かしようがありません」
はっはっは、と和合が笑った。
「高校の先生としては、シャレたことをおっしゃる」
「こいつは親父の意見なんです。親父は昔から、金を動かすだけで喰ってきた人間なんでね。それでこの間の話ですが――」
槇村はまだカードに眼を落したまま、つづけた。
「私どものような素人が、本当にギャンブルの胴元になれるのでしょうか」
「金次第ですな。それに度胸」
「要るのはそれだけですか」
「ええ、それだけです。あとは私が、うまく話をつけてあげます」
「貴方が、私どもの味方であるという保証は?」
「分《ぶ》をいただきますよ。もちろん只では働らきません」
槇村は、まっすぐな視線を和合に当てて、しばらく黙っていた。
「――もう少しくわしく話してください。業界の模様などを」
「業界というほどのものじゃありませんがね。裏の世界だから」
「機構がどうなってるか、全体的に頭に入れておきたいのです。投資する身としては当然でしょう。帰って親父に報告しなければならないし」
「ええ。普通の商売だと、大ざっぱにわけて、生産者―卸し―小売と三段階ありますね。ドリンクの場合、生産者が胴元になるわけですが、中間の卸しに当る集配所が関東で四、五ヵ所あって、ここにドリンク業者が受けたものが集まってくるわけです。手っとり早くいえば、この集配所から、水を引くようにこちらへわけて貰ってくるのです」
「どのくらい――?」
「どのくらいでも。胴元の予算に応じてね。但し、即日精算。夜の八時までに、現金精算をする。競馬なら土日、公営レースなら毎日ですね。野球はちょっと別口になります。ハンデの関係がありましてね、一概にいかないので」
「八時までに精算、それは銀行を使うのですか」
「夜間銀行も使えますが、できうれば現金決済が望ましいですね。証拠を残さないためにも」
「なるほど」
「集配所からは九十円で来ます。十円引きですね。ご承知のとおり百円の馬券で二十五円は税金、実際は残り七十五円を基準として配当が計算されるわけで、だから九十円でも、まだ十五円分がノミ屋の方に有利になっているわけですな。競馬場は七十五円をすべて配当にして勝者に払い戻すわけですから、毎レース原点のわけで、テラ銭の二十五円の中から諸経費を貰っているわけです。それに対してノミ屋は、九十円で受けてももう十五円分の利があるので、これが儲けになるといってもいいのですね」
「ええ、計算上はそうですが、当り券が多くても配当を安くするわけにはいかない。身銭を切って赤字分を払わなければなりませんな」
「その逆もあるわけでしょう。かりに現場と同じく七十五円で受けたとしても、長い目で見れば胴元有利ですよ。なぜかというと、簡単にいえば、客は自分で判断しなければならない。これが大きなハンデです。いつも冷静ではいられないし、判断で自滅するのです。それに対して受ける方は判断する必要がない。客が自分で曲がって自滅するのを待っていればよいのです」
「危険律はどうですか」
「トータルでは胴元の勝ちが眼に見えてます。ですが、その日その日の凸凹はありますよ。胴元自身がその凸凹に対して冷静で居られるかどうかです。それ以上は、勝負ですからいえませんな」
「ふうむ。――で、もうひとつの危険律は?」
「というと――?」
「警察――。すくなくとも条例違反でしょうから」
「こう見えても――」
と和合がいった。
「俺はまだ、前科というやつは一度もありませんよ。そう見えないでしょうが。その程度には安全です。しかし太鼓判は押せませんねえ。いつ何があるかわからない。但し、それに対しての手はもちろん打っておきます」
「どういう手ですか」
「形式の上での代表者を造ることです。その男にギャラを払わなければならないが。貴方がたはあくまで影の存在で、かりに検挙されても表側に出ることはないでしょう」
「――それで」
と槇村はいった。
「いくらぐらい、元銭を用意すればいいのですか」
「お気持次第だね。五千万でも一億でも。大きく張れば大きく儲かります」
「現金で、となるとなかなか大変ですな」
和合はそれ以上何もいうことないというように、そっぽを向いていた。
カクさんは、じっと押し黙ったまま、煙草をくゆらしている。
槇村は、決断しかねているように、おずおずと立ちあがった。
「おやじと相談してきます。私どものは、あぶく銭とちがうから、これでも相当な決心を要しますんでね」
「あぶく銭なんてこの世にありませんよ。銭に関するかぎり、みんな、それなりの苦労をしているんです」
槇村が姿を消すと、まず、カクさんが、ふっと笑った。
「なんだね、あのネクタイ野郎は――」
「スートロの後つぎだよ。俺たちの米ビツだ」
「たいして持ってそうもないが」
「いや、親父は郊外の地主だ。近頃の旦ベエはあんな恰好してる奴が多いよ」
「まァなんでもいい――。おい和合ちゃん、帰るんなら挨拶があるんじゃねえのか」
「挨拶――?」
「わかってるじゃねえか。ポケットの中の銭を出して行きな。この前のアシ(借金)があるんだから」
「まァカクさん、そいつァちゃんと覚えてるよ。今勝ったばかりてえのに――」
「今勝ったばかりだからいってるんだ」
「――百万少々だぜ」
「なんでもいいから出しな」
和合は、渋々ながら、旅行小切手の混ざった金をポケットからひきずりだした。
「カクさん、見てのとおり、新スポンサーが現われたが、あれに一丁いかねえかい」
「一丁とは――?」
「きまってるじゃねえか。俺が奴から、貰う分《ぶ》があらァ。そいつを三つにわけて、その一つ、三割を進呈しよう。そのかわり、奴が赤字を出して俺に分《ぶ》が払えねえ日は、かわりにお前が三割分、俺にくれる。な、長い眼で見りゃ胴が勝つ、お前もわるくない商売だろ」
「そうすると、毎日の成績を、俺が見張ってなきゃならねえのか、ふざけるない」
ドリンク会社
立花氏の事務所に和合が現われたのはその翌日だった。彼は、ちょっと皺ぶかいような笑顔を見せながら入ってきて、手にぶらさげた四角い皮の小物入れから、外国製のハッカ煙草をとりだして吸いはじめた。
「強い煙草をぽんぽん吸いまくるのはやめて、なんとかヤニっぽくならないようにしようと思ってるんですが、どうも、うまくないですねえ」
「ほう、君でもそんなことを考えるかねえ。天下に怖いものなしという顔をしてるが」
「死ぬのはかまわないが、落ち目が怖いねえ。特に身体がきかなくなって落ちるのがねえ。ばくちは反射神経と気力、幾つまでできるかわからないが、なんとか少しでも長く保たせたいからねえ。そうして、落ちる前に足を洗わなくちゃね」
「まだそんな年齢でもないだろうよ。インドネシアの例の髭を、ポーカーでやっつけたそうじゃないか」
「ははァ、なるほど。途中で奴が電話したのは貴方の所ですか」
「金を、といわれたけど、こっちもそれどころじゃないしね。しかし、奴は気分を害したんじゃなかろうか」
「いや、あいつはこの方がいいですよ。下手にご機嫌をとったりすると、ますます動かないね。昔の暴力団のやり方がいいんだ。責めつけといて、いやおうなしに働らかせましょう。場合によっちゃ、俺がインドネシアまで行って、うんと叩いて、病院の件も促進させますよ」
和合は、立花氏にとも、美津子にともつかず、両方に話しかけるような恰好でそういった。
「ところで、ロッカ君はここへ来るんでしょう」
「ああ、呼んでる。もうそろそろ来るだろう」
和合は美津子に、コーヒーを一杯、と所望した。
「コーヒーだって、身体によくはないぜ」
「そうか。じゃ美津子さん、ミルクをたくさん入れてください。カフェオーレという奴、ああいうのがいい」
立花氏が笑いだした。
「いや、俺たち遊び人はね、衰ろえが早いですよ」
「不摂生してるからねえ」
「ええ。それから、気持が疲れてくるからね。三十の声をきいたら普通の人の四十だから」
扉が開いて、ジーンズ姿のロッカが入ってきた。
そういう話をしていたせいか、美津子の眼には、ロッカも年齢よりずっと老けこんできたような気がする。そうして、心なしか、警察で訊問にあっているときのように、眼つきにいくらか陰が出てきたようだった。
「やあ――」と和合がいった。
「この前は、お勤めごくろうさん」
ロッカはにこりともしないで、こう答えた。
「やっと水揚げをすましてきましたよ。一人前になったでしょ」
「威張るほどのことはないよ。俺はまだ一度もぱくられてないぜ。こんなことは何の意味もないんだから、まァ忘れろよ。前科が勲章だなんて、組織が健在で、遊び人がそこの人足だった頃の話だよ」
ロッカが検挙されたのは、和合の密告によるものだということを本人はもちろん、立花氏親娘も知らない。
もし知っていたら、和合とロッカの以下の対話ははたして成立したかどうか。
「一度経験したんで、ぱくられるのはもう平気になったけど、お客さんに捨てられるのが辛い。あの団地も病院も、前のようには商売ができなくなったんでね」
「そうだろう。しばらくおとなしくしていなくちゃ」
「ええ。でも近いうち、巣を移して、また新規のシマを開拓するつもりです」
「しかし、どこももう他のバイニンがツバをつけてるからなァ。今度みたいにハジかれることが多くなるよ。どうだい、美津子さんの友人がはじめる仕事に参加してみないか」
ロッカは美津子の方をチラリと眺めた。
「どんな仕事ですか」
「いや、やっぱりドリンク(ノミ屋)なんだがね。いちいち註文を取って歩くわけじゃない。集配所から買い≠廻してもらって胴元になるだけだ。ただ金主は高校の先生だからね、表に立つのはまずい。誰か実際に事務所に居て、しのぎをつける人物が欲しい」
「つまり、雇われ社長ですね」
「ああ。俺は君がいいと思って、当てにしてるんだがね。集配所から買い≠貰って連絡するのは俺がやる。君は、現金をいれた金庫のそばで、金主に代ってその買いを受けてくれればいい。こいつは、いいかげんな奴には任せられない」
「なぜ、俺がいいかげんじゃないと思うんですか」
「勘だよ。それに、君は働らき者だ」
「他人のために働らく気はそれほどありませんね」
「他人のためじゃないさ。自分のためだよ」
「給料ですか」
「どちらでも。給料でも、歩合でも」
「――やっぱり、宮仕えだな」
「そうじゃないんだよ。ここに金主が、なにがしかの銭を出す。利益を当てにしてね。儲かるか損するかわからんが、とにかく、現金が出てくるんだ。たとえば、五千万あるとする。こりゃ、面白いじゃないか。そう思わないかね」
「ぎれというんですか」
「いや。――皆が儲かれば一番いいさ。それが理想的だ。だが、そういかなくても、とにかく現金が出てくるんだから、おのおののやり方がいくらでもあるだろう。あとは君の知恵ひとつだ」
「和合さんのツバをつけたあとでは、草も生えそうにないな」
「そんなことはない。誰だって皆先人がツバをつけたあとを歩いてなんとか仕事をしてるんだ。フリーランサーなら、そのくらいのことができなけりゃだめさ」
「じゃ、やらして貰いましょう」
とロッカはいった。
和合は、微笑しながらロッカの肩を叩いていった。
「うん。この仕事はきっと面白いことになるよ。じゃ、明日、槇村さんに紹介する」
立花氏の事務所を出てから、ロッカは彼なりに、今の話をじっくりと考え直してみようと思った。
和合が、なぜか、親切に自分の仕事を世話してくれるという。
なぜだろう。
そのへんで、ロッカはいつも迷うのだ。東京に出てきて、バンドの世界に飛び込んだときも、よく迷ったものだ。
バンドの連中は、山の中から飛びだしてきたロッカの眼から見ると、いずれも無茶苦茶で、嘘と冗談ばかりいう。うっかり本気にしたりすると物笑いのタネになることが多い。
けれども、案外に他意はないので、陽気で親切な連中ばかりだった。
またそう思っていると、チクリと刺されたりする。親切な男が、そのままの表情で、別にまわって悪口をいっていたりした。
都会の男たちというものは、どうも一色にきめにくい。信用できそうで、信用できないところがある。
暗黒街の男たちはそれ以上につかみづらい。ピストルこそ持っていないが、映画に出てくるギャングたち以上に、怖い面がある。
かと思うと、まるで陽気で、えへらえへらしており、バンドの連中以上に結束が固く、義理固い半面がある。
それが織りまざっていて、どちらなのかわかりにくい。
和合が、自分をひきいれて、そのポストに据えることで、和合自身もプラスになることがあるのだろう。だが、なぜ、俺を指名したのか。俺でなくちゃいけなかったのか。
たとえば、(店をやっているにしても)ベベではどうしていけないのだろう。彼の方がよっぽど気心も知れ、使いやすいだろうに。
誰か相談する人が欲しい。だが一匹狼ときめたからには、自分でなんでも判断していかなくてはならない。
それで、和合に喰われないで、しのいでいけるだろうか。
ロッカはそのときひょいと、T病院のベッドに横たわっているばくちの神様、鉄五郎という老人を思いだした。
あの人なら、和合に対抗できる。あの老人にちょっと意見をきいてみよう。ロッカはぱくられて以来病院にしきいが高くなって顔出ししてはいない。
その頃、鉄五郎のところに、小肥りの老紳士が訪ねてきていた。鉄五郎が笠松競馬場で出会った馬主の数井彦七老人だ。
「びっくりした。お前が病院に入っているとは思わなんだ」
と彦七老人は厚いオーバーを羽織ったままいった。
「それで、どこが悪い」
「いや、今のところはどうってことはないが、もうすぐ悪くなるだろう。そんな気がする」
「すると、悪くないのに病院に入ってるのか」
「他に居場所もないしな」
「ははは、お前らしい。だが、病院じゃ、しんきくさいだろう」
「刑務所よりはましだ。それに、わしは病気という馬券を買ったんだからな。わしの誇りにかけてもこの馬券を当ててみせる」
「ところで、いつかお前に頼まれていたことだがね――」
と数井彦七老人がいった。
「ほう。わしがなにか頼んだかなァ」
「アレ、自分で頼んだことを忘れちまったのか。呆れた奴だ。こんなことなら調べてきてやるんじゃなかったよ」
「いや、憶《おぼ》えてる。息子のことだろう」
鬼の鉄五郎としては珍らしく弱い笑いを浮かべて、首を振った。
「だが、もうどうでもよくなったよ」
「何故だ。お前はたしかあのときに、くれてやった息子が固気に育っているなら、自分もばくちはやめておとなしく隠居する、といってたじゃないか」
「どっちみち隠居だ。病院の中じゃ、盆茣蓙《ぼんござ》を敷くわけにもいかない」
「じゃあ、その件は報告におよばないわけだな」
鉄五郎の返事はない。
「もちろん、一度他人の手に渡した息子だから、どうなっていようとお前には関係ない。それじゃ俺はこのまま帰るぞ」
「生きてはいたわけだな」
「気になるかね」
「山ン中の百姓で、そこらの土臭い娘でも手ごめにしているか」
「いや――」
と彦七老人はいった。
「河西村にはもう居ないぜ」
「居ない――?」
「出奔して東京に行ったそうだ。それで、バンドマンかなにかになっているらしい」
「ふうん――。まァとにかく元気では居るんだな」
「わからん。東京のことが、あの山の中でわかるもんか」
「死んでは居ないな――」
と鉄五郎が静かな声でいった。
「死ねば、俺の夢の中へ出てきて死んだ、ということぐらい報告するよ。わしはそう思う。奴は一度もそんなことをいわん」
「奴って、夢の中に出てくるのかね。だって顔も知らんだろう」
「うん。だから、昔見た少年倶楽部の絵みたいな少年だったりするな。それから、ちがう顔をしてるときもある。それでも奴だってことはわかるんだ」
彦七老人は笑った。
「お前も人の子だなァ。やっぱり息子の夢を見るか」
「他に見るものもないでなァ。ところが夢の中じゃ、いつまでたっても大人にならん。いつだって少年のままさ――」
鉄五郎は、ふと顔を動かして、彦七老人の背後を見た。
「ああ、どうした、しばらく顔を見せなかったな」
そこにロッカが立っていた。彼はちょっと固い微笑を浮かべて二人の話をきいていた。
「いいんですよ。どうぞそちらで話していてください。僕の用事はどうせいそぐ話じゃありませんから」
「しかし、バンドマンで東京で働らいているなら、調べればわかる。名前がわかってるんだから」
「そうだ、君はたしか――」と鉄五郎がいった。「元バンドといってたな、安藤幸夫ってのを知らないかね」
河西村というのが自分の生まれ育った村で、安藤幸夫というのは自分の本名だ、それはもちろんわかっているが、ロッカは二人の老人の話を、なんだか他人の物語であるかのように耳にとめていた。
自分に幻の父があったということも初耳だった。
自分は安藤の家の息子だとなんとなく思いこんで育ったので、したがって出奔の理由も、そうした血縁の問題となんの関係もない。
ロッカは、ただ、一度しかない人生を、自分流にすごしてみたかっただけだ。
そうして、今は、本名にしろ偽名にしろ、名前などと何も関係ない生き方をしている。
誰の息子だって同じことだ。人間はみんな、木の股から生まれるわけじゃなくて、誰かの息子なんだから――。そう思って黙って立っていた。
ただ一言、こう訊いた。
「そうすると、爺つぁんは、なんて名前なんですか」
「俺か、俺はな、波目井鉄五郎ってえんだ」
ロッカはどうしてか、ちょっと笑った。
「変った名前ですね」
「しかし、何故だね」
ロッカは笑ったまま、なんでもない、というふうに首を振った。
彦七老人がとりなすようにこういう。
「まァ、ぽちぽち探せばいい。お前もまだちょっと死にそうにもないし、いそぐことはないだろう」
「そうでもないんだ。身体の方はもういかんと思うよ。もっとも用事は何もない。ひと眼、息子が生きているところを見ればいいんだから」
「息子のために、貯めこんでるんじゃないのか」
「いや。もし現金があればくれてやるがね。俺は現金以外は何もないし、その現金だって、明日は全部鼻ッ紙になってしまうかもしれん。大体はだな、残すだけのものはもうくれてやってる」
「ほう、何をやったね」
「俺の血さ。息子の身体の中に流れてる血だ」
「そいつはかえって迷惑かもしれんな。お前の血じゃ、おとなしくは暮せない」
「そうかもしれん。が、わしの血がなくちゃ存在しないんだからな。それもまた人生さ」
ロッカは名乗りをあげようとは毫も思わなかったが、なんとなく今までとはちがう視線が、鉄五郎の方へ向かうのを意識していた。
そういえば、鼻筋や顎のあたりとか、眼の感じに似たところがある。顔全体としては少しも似ていないのに。
彼は二人の老人の話が一段落つくのを待って、自分の用件を口にした。
「実は僕、ぱくられてました」
「ほう、それでしばらく姿を見せなかったのか。警察ははじめてかね」
「ええ――」
「こたえたか」
「いいえ。でも、しばらくは病院の客はヤバくて取れません。他へ移動する気だったんだけど、和合さんが今日、仕事をくれましてね」
ロッカはくわしく、和合と槇村がやる胴元業のことを話し、自分が代表というポストに坐ることを引受けた方がいいかどうか、訊ねた。
「つまり、わしに判断をしろというのかね」
「ええ。他に相談する人もないし、爺つぁんが一番、いい答をくれそうな気がしたから」
「わしなら、その馬券は買うね」
「そうですか」
「まァとにかくやってごらん。お前はまだ若いんだから、見《けん》はあまり意味がない。いろんな場に出てもまれることだ」
「やっぱりね。じゃ、引受けてみます」
「但し、お前の位置は、傀儡《かいらい》だよ。それはわかってるだろう」
「傀儡だと、どうなりますか」
「立場を貰うかわりに、奴等の嫌な役まわりを全部引受けねばなるまいな。たとえば、パクられるときは、奴等は居ないで、お前が一身に背負うのだ」
「ああ、水商売にはよくそういう手がありますね」
「損な役だが、一概につまらんとはいえないよ。人にはまず、利用されることだ。そうして関係をつけていって、お前がその人たちを利用し返せばよろしい。利用されるのを嫌がってたら、いつまでたっても関係はつかないからな。問題は、利用されながら、お前がどんなふうに逆襲していくかだね」
「僕に、それができるでしょうか」
「お前次第だがなァ。もしまだどうしても力の相違がはっきり見えていて、利用し返すことができないというなら、この話、最初からことわった方がいい」
ロッカは考えこんだ。
「――どうだね」
「――わかりません」
「じゃあ、やってみろ。怪我したって今のお前ならたいしたことはない。いくらでも立直れるよ。その時期に一番ためになるのは、強い相手と戦かうことさ」
「和合と――?」
「和合とでも、誰とでも」
「それはそうですけど――」
「金主が居て、和合が居るんだろう。その会社は、ぱくられなくても、多分潰れるよ」
「会社が潰れるって、胴元会社なんですよ」
「胴元が大儲けできた時代は、とうに過ぎちまったよ」
「胴元は儲からないんですか」
「よっぽどうまくやらんとな。現にお前がドリンク屋をやっていて銭が残ったか」
「喰えてはいけました」
「それは業態が小さいからさ。大きくなれば、危ない。特にその話のように、集配所から大口をノムようなケースは、中途半端な資本じゃ危ないね。もう今は資本主義の時代さ。商売はなんでもそうだが、中小企業は、いいところただ喰えるだけだ。つまみ喰いして甘く利を出そうなんて思ってもできやしない」
「すると、儲かるのは誰です。客ですか」
「客は十中八九、無理さ」
「じゃあ、誰が儲かるんだろう」
「大もとの大資本。それとブローカー」
と鉄五郎はいった。
胴元会社はとりあえず、立花氏の事務所の机の一つを借りて発足した。
代表はロッカ。けれども槇村は実際の事務処理を美津子に頼みたいといった。
「こんなことで高校教師の職をほうりだすわけにはいかない。そうなると僕は眼が届かないから、誰か信用のおける人に、タッチしていて貰いたいんだ」
毎日、どのレースで何をどのくらい受けたか、そのかんじんの成績を彼等まかせにしていたくないだろう。
それはわかったが、立花氏はやっぱりいやな顔をした。
「うちの娘にノミ屋の真似までさせなくても――」
立花氏はそういってことわったが、美津子は、やる、といった。
「お父さん、あたしだってもう子供じゃないわよ」
「わかってる。しかし、大人だからって、好んで手を汚すことはない」
「なにをいってるの。手を汚さなければ、お金はできないわ。うちは今、大変なところなんでしょ」
和合が集配所から、電話で、各レースごとに、受けた枚数とその内わけを伝えてくる。
それをコピーにとって、綴じこんでおき、ラジオをかけはなしにして、ロッカが成績をつける。
さしあたり国営競馬だけなので土曜日は夕方から、日曜日は槇村も早くから事務所に来ている。
最終レースが終ったところで、コピーした内わけは、万一のときのために燃やした。
第一日は、ほぼトントンで、四百万余のプラスだった。
翌日の日曜日、七レースの中穴が大きく当てられて、結局千二百万ほどの赤字になった。
和合が事務所に飛んで帰ってきて口惜しがった。
「一発やられたなァ、ついてないよ。七レースさえかわしてればかなりのプラスだったのになァ」
「危なかしそうなところは避けてとおるわけにはいかないの」
と美津子。
「いや、配給と同じで、任意の票を貰ってくる。そうでなけりゃ俺がたまらんよ。俺に万事の責任がかかってしまう」
「それもそうね」
「ただ、こういう手はある。途中で一発とられたら、あとのレースを予定以上に受けるとか。でもそうしない方がいい。最初の予定を変えずに、無表情にいった方が長い眼では有利だ。ツイてない日はじたばたするだけ悪い目が出る」
「和合さんでも、ツカないときがあるんだな」と槇村。
和合はじろりと彼を見た。
「プロセスは誰だって山あり谷ありだよ。いちいち感情的になってちゃ駄目だ。胴の有利な点は、客とちがって判断をくださずに機械のようになるところだ、といっただろう」
夜の八時前に、集配所の使いが来て、現金千二百万円余を、金庫から出して手渡した。
「たしかに――」
その三十男は郵便物でも受けとるようにして帰っていったが、槇村の指先きは小さく震えていた。
「三週間たって、都合六日、勝負したんですがね――」
とロッカが病院にきて話した。
「いやァ、驚ろきましたね」
「利がうすいか」
と鉄五郎。
「うすいどころか、黒字になったのは初日の四百万だけで、あとはよくてトントン、喰われ続きで、ハコはもうパンク寸前ですよ」
「そういうこともありうるな」
「何か仕かけがあるんですか。和合が、喰われるような馬券ばかり持ってくるとか」
「発走時間前にきちんと連絡が来ているんなら、そういうことはありえないな」
「八百長があるとか――」
「いや、多分それはない。和合だってそんな危なっかしいパツに賭けるような素人じゃない」
「だって、喰われてたんじゃ和合だって歩がとれないし、彼がだまって喰われているような男ですかね」
「和合はちゃんと喰ってるよ。お前の所には百円の馬券が九十円で入ってるんだろう。その十円のうち、集配所と話し合って四分六くらいの率でさやをとっているはずだからな。成績に関係なく、受けた枚数の六分は和合が懐ろに入れているはずだ」
「なるほど。大元とブローカーが儲かるってのは、そのことか」
「ただ、胴が儲かればそこからも歩が貰えるわけだから、和合も、胴が喰われない方がいいんだ。多分、受けてくる馬券に仕かけはないよ。ただ、近頃の大口買いは皆プロ馬券師の誘導に右へ習えするから、プロの誰かがツイているときは苦しいんだな。昔みたいにバラ買いじゃないから、胴もやりにくいよ」
「それじゃ、大元も儲からないわけですね」
「資金が大きければ、長い目の通算で持ちこたえられる」
「うちみたいなところは駄目か」
「もう底が見えてきたかね」
「槇村という人の親父さん、もう七十ぐらいのヨボヨボのおっさんが出張ってきましてね。事務所の中でどなりまくってますよ。結局最初の五千万に、もう同額ぐらい出資するんじゃないですか――」
槇村の父親は、神経痛がひどくてずっと家の中で寝ているということだったが、胴元会社が赤字続きと知ると、ケロリと直ったばかりでなく、ハイヤーを雇って連日事務所に出てくるようになった。
そうしてレース毎にラジオにかじりついて、一人で昂奮して騒ぎまくった。
「お父さん、まァおちついて坐っていてください。疲れて身体にさわりますよ」
「ほっとけ……」
と美津子まで突き飛ばしそうな勢いである。
「競馬は好かん。こんなやさしいレースに配当がつきすぎる。もっといろいろなものがあるだろう。毎日やっているレースが。もっと勉強して誰も当らないようなものをやれ」
「毎日受けてたら、もっと早くパンクしちまう」とロッカ。
「何をいう。パンクするなら早いもおそいもない。私の銭を、こんなことでなくしてたまるか」
「いったいこりゃ、どういうことかね――」
と槇村の父親は、ある夜たまりかねて、ステッキの先を和合に押しつけるようにしながら、がなりたてた。
その夜も、胴元会社としては、七、八百万の損害だった。
「来る日も来る日もマイナスだ。こんな商売ってあるかね。さァ、儂《わし》の納得のいくように説明してくれ」
「ゴリラ二世という若いプロが、今ツキ目に来てるんだ」
と和合が答えた。
「京浜線の沿線に住んでいる奴でね。かなりの客が彼の買い目に頼ってるんですよ。それがツキ目なものだから、他の客までいっせいに右へ習えしてる。近頃の客は、大口で張る連中は皆、投資のつもりで買いやがるからね。プロの買い目に沿ってくるんだ。今は、うちばっかりじゃない、どこの胴も喰われてるよ」
「喰われてるよって、おちついてちゃ困るねえ。よその胴の話じゃない。これは我々の問題なんだからねえ」
「胴の運命に技術は加えられませんや。よそが悪けりゃ、うちも悪い。よそがよければ、うちも儲かる。それだから貴方たちも胴元に魅力を感じたんでしょう。悪いときは、じっと辛抱すること。無表情になること」
「ふん――」
老人はステッキを荒々しく床に打ちつけながら、皆の顔を見わたした。
「お前さんたちは辛抱できるだろうよ。だが、儂は金を出しとる。毎日散らばってどこかへ行ってしまうのは儂の金なんだ。儂が一生かけて守ってきたものを、そのゴリラとかって奴が、喰っちまうんだ。それで無表情でいろっていうのかね」
立花氏が何かいいかけようとして、思い直したように口をつぐんだ。美津子もロッカも、じっと坐っているだけだ。
「――金、金、っていうが」
と和合が口を切った。
「あんたはただ、金を出しているだけだろ。他に何ができるっていうんだね。え、他に何もできないから、金を出した。それだけのことじゃないか」
槇村老人は唇をわなわなと震わせた。
「すると、君は、何を出しているんだね」
「俺はすくなくとも、金なんか出さない。俺たちは、そんなものじゃない力を、一生かけて身につけて、それでしのいでるんだ。金しか出せねえような奴は、一番の格下だ。一人前の面《つら》をして貰っちゃ困るね」
「それじゃァお前さんは、金なしで何ができるんだ!」
「いいかね、爺さん、俺は負けたって、金輪際、手前の金なんか出さねえぜ、あんたもそういってみな。俺は銭なんぞ払わねえ、ってな。そういえるかい。そういえなくちゃ、力とはいえねえ」
「お前等、ギャングだな。息子をたぶらかしおって、儂等をはめたな」
「いやなら退くがいい。銭を払わなけりゃ、退散するより手はないだろう。格下ってのはそういうことさ」
ロッカが病院にやってきて、和合のタンカを語りおえると、鉄五郎が笑いだした。
「あの野郎らしいことをいうわい――」
「爺さんは卒倒せんばかりでしたがね。ところが今週の土曜日に、百八十万ばかり浮いたんですよ。そうしたらもうケロリとして、和合と握手したりして、あの爺さんも意外にしぶといところがあるんですね」
「いったん金を出したら、退くわけにはいかんだろうからな」
「見ているだけでも面白いです」
「うん。――だがね、ロッカ、君は何をしてるんだ」
「え――?」
「面白がるのは見物さ。君は見物じゃなくて、一丁かんでいるんだろ。眺めてるだけじゃ、それこそ和合式にいえば、金も出さない、ワザも使わない、ただの人足でしかないわな。ぱくられたときの人形の役だけで居ることになる」
ロッカは黙りこんだ。
「そんなこっちゃ、生きていけないぞ。どうだね」
たしかに鉄五郎のいうとおりだった。槇村の息子が、美津子に事務的なことを依頼してしまったので、ロッカはただ事務所につめているだけで、今のところ宙に浮いた存在なのである。
学歴もなく、固い職場に居たこともないロッカは、事務所の中に居ると、ただでさえ何をしていいかわからない。そこへもってきて美津子にだって、元ノミ屋と思われているだけなので、誰にも問題にされていない。
それは実に腹立たしいことだったけれど、うまい思案が浮かばなかったのだった。
鉄五郎は、沈黙しているロッカを、じっと眺めていた。
ロッカはその眼を見返しながら、なんとなくドキッとする。
これは父親の眼ざしなのではなかろうか。
いや、そんなことはない。いくら鉄五郎が勘が良くたって、俺たちが親子だなんて、さとるはずがない。
「昔ならこんなことはいわなかったんだがな――」
と鉄五郎はいった。
「わしはもう年老《としよ》りで、長いことないから――」
ロッカはわざと磊落《らいらく》に笑った。
「一人で死ぬ死ぬっていってるけど、ぴんぴんしてるじゃないの。爺つぁんがどこか悪いなんて信じられないよ」
「ある日突然に来るものなんだ。結果というものはな、なんでもそうだ。レースの前は、誰も負けるなんて信じないさ」
「死ぬ死ぬいってる人が、死んだためしがないっていいますよ。爺つぁんがそういい暮してるのは、そういうゲンをかついでるからかな」
「なんでもいい。とにかく若い衆に、教訓を垂れてやろう。わしの人生で、何がわかったかといえばだな、人生のコツは、勝ったり負けたりってことだ。攻めたり守ったり、奪《と》ったり奪られたり、喜んだり悲しんだり、そのどっちか一方だと、続かない。いつも両方をやっていく。それが大事さ」
「…………」
「――わしはばくちを業にしてきたよ。だから、ばくちでは、負けられない。けれども勝ったり負けたりでなければ人生は保てないんだから、どこかで負けなけりゃならん。そこで、他のところで不幸を背負うんだ。ばくちで勝つのとちょうど見合うくらいの、まァ少し差し引きプラスになるくらいの不幸をな。こいつァなかなかむずかしい。不幸ってのはできれば買いたくないし、ばくちにしろ、それで生きていくってのは大変なことで、なまじっかな不幸じゃ見合わないんだ。それでわしは、警察に捕まって刑務所にいれられるたんびに、ありがたいと思ったよ。あそこは寒い、ひもじい、そのうえ人間あつかいされない最低のところだが、あそこへ入るたびに、ああこれでまた少し生きのびられると思うんだ――」
鉄五郎は珍らしく長いおしゃべりをはじめた。
「だがまァよくしたもんでな。生きていると、刑務所以外にも、適当な不幸というものがいろいろついてまわってな。それでわしもここまで生きられたよ。だが、人生は勝ったり負けたりでなければならないと気がつかなかったら、わしは勝ちばかりむさぼって、ばくちには勝っても、もっとずっと早く他のことでへし折れていたろうよ。――こんなことは、お前のような若い衆には、ぴんとくるまいがね」
ロッカは少し考えてから、こういった。
「一生懸命きいてるけど、正直いって、よくわかりませんね」
「そうだろう。ところで話がお前の場合に飛ぶが、お前はまだ若いんだから、わしと立場が逆だ。仕掛けていってちょうどいいんだ。つまり、勝つことばかり考えていればいい。お前はまだ、放っておけば他人に仕掛けられてしまうばかりなんだからな。どこかで攻めこまれる。これは仕方がない。誰にも攻めこまれないって、かえって悲劇だよ。それは誰にも相手にされてないってことだからな。どこかで攻めこまれる。そこがチャンスで、同時にお前もどこかで攻めこむ。それで人生というものが成り立つ。何かをやるということは、お前の場合、相手をどうやって喰うか、それだけを考えてちょうどいい」
「そこまではよくわかってるつもりですけど」
「そうだ、言葉ではな。だが人生は言葉じゃない。和合から誘われて、胴元に参加しようと定めたとき、相手をはめる手段を何かひとつは考えなきゃならん。それなしに、ああ、引き受けました、なんてセリフは馬鹿でもいえる。お前は、子供じゃないし、一本立の男なんだから、そんな馬鹿なセリフをいっちゃいかん。相手を喰う手筋ができたときに、はじめてそういうんだ。そうして、相手を喰うことができたら、相手に自分も喰って貰うこと。それで相手と自分との国境線というものができる。そのどっちかひとつを怠たったらどこまでも敵が侵入してくるぞ」
ロッカは頷ずいた。そうしてこういった。
「それじゃ、爺つぁんにひとつ相談があります」
「…………」
「いつかの死人の賭けで、爺つぁんは和合から千五百万、巻きあげたでしょう」
とロッカはいった。
「僕がいうのも何ですが、その勝ち分を、投資してくれる気はありませんか」
鉄五郎は笑いだした。
「早速、坊やが何か考えたな。まァ、その考えというやつを唄ってみな」
「投資といったって、他人のやる事に金を出すわけじゃありませんよ。爺つぁん自身の能力に賭けて貰うんです」
「わしがその胴元会社に資本を出すとか、そういうことじゃないんだな」
「ええ、そうじゃありません。その千五百万を使って、馬券で勝負してください。僕等が受けます。つまり、ウチの会社のおとくいになってもらうんです」
「はっはっは、わかった、わかった――」
と鉄五郎はいった。
「こういうわけだな。和合と同じく、九十円で会社に受けさせて、君は十円のカスリをとる。同時に売上げの面で会社の中でも君の存在を主張できる、こういうわけだろう」
「まァそうです。それで爺つぁんも馬券で儲けてください」
「そう簡単にはいかん。わしはこのところウマを見てないし、病院住まいで現場に出かけるわけにもいかない。データが何もないからな。神さまみたいにピタピタ当てることなどできるもんか」
「だって、爺つぁんは、張り取りで生き抜いてきたプロなんでしょう。五十年も六十年も、勝負でしのいできたんだもの、素人とはちがう。その力を見せてください。明日からとはいいません。少し調べれば、データなんかすぐ追いつきますよ」
「そうはいかんよ。ばくちは手品とちがう。どんなプロだって、勘やヒラメキよりも、フォームを大事にしてひとつひとつ積み重ねていってるんだ。わしはもう馬券を買う気はないから、練習をやっとらんよ。身体がナマっとる」
「何故、やめたんですか」
「年齢を老《と》ったからな。さっきもいったように、人生は、勝ったり負けたりで行かねばならん。昔はばくちで勝って他で負けをひろった。それでなんとかバランスがとれた。今はばくちで勝つわけにはいかないんだ。何故って、他の部分がひどく弱体になっているからな、そっちの方に兵力を補強しなければならん。もし、ばくちなどで不必要に勝ったら、他の部分で大敗を喰うだろうよ」
「他の部分て何ですか」
「他のいろんなことだ。ばくち打ちだって、ばくちだけ打ってるわけじゃないからな。今は、危ない国境の方で運を使うよ。ばくちはやらない」
鉄五郎はいつのまにか真顔になっていた。
「ばくちをやって敗ければいいがな。わしはきっと勝とうとするだろうよ。習い性になってるから」
「それが見たいんです。僕はこの眼で、爺つぁんの力を見たいんですよ」
「そう思うかね――」
と鉄五郎はロッカを見返した。
和合が、ちょっと肩を落した恰好で、事務所に戻ってきた。
そのとき、事務所には立花氏と美津子と槇村の息子が居たが、灯もつけず、ブルーな空気が満ちていた。
「現金は用意してあるかね」
「千百三十万ね。金庫に揃えてあります」
と美津子。
和合は自分で部屋の隅にいってスイッチをつけた。
「どうした、えらい不景気だね」
「景気がいいとはいえないね」
と立花氏が応じる。
「だが、ショボくれてたってツキは来ないぜ。槇村さん、もっと元気を出せよ。胴元の親分てものはどこだってもっと油ぎってるよ」
和合は槇村の隣りの椅子に腰をおろした。
「今日は、がんこ親父はお休みだな」
「家で寝てますよ。頭をかかえてね」
「先週は千二百万浮いて大はしゃぎだったがね。いいかい、こいつはプロセスなんだからね。途中の浮き沈みは、気にしないことだ。そう万度《ばんたび》一喜一憂されてたんじゃ、俺もやりにくくてしょうがないよ」
「しかし、胴元がこんなに芯が疲れるなんて、思ってもみませんでしたよ」
「そりゃ戦争だからね。買い手の客の方だって、ありあまる楽な金で勝負してるんじゃない。買い手はもっと深刻さ。なんだって、楽に儲かることなんかないよ。それにさ、第一、商売は結果だけがすべてなんだ。喜んだり悲しんだりは、最終的に結果が出たときにしてもらいたいね」
「この調子じゃ、もうすぐ結果が出ちゃうでしょうね。私たちは金のなる樹じゃありませんから」
「手を引くってのかね。ふうん、負けたまんまで」
「しょうがないでしょう。こんなことで裸になるわけにはいかないから」
「固気はそう考えるのかな。いや、固気だって商売やってる奴はそう考えないよ。だって、長い眼で見て胴が損するなら、誰もノミ屋なんかやらないもの。新らしい企画を会社で形にして、まず最初は出血だろう。その出血にどこまでふみこらえられるか。それが商売ってものじゃないのか。撒いたタネが芽を出して育ってくる期間というものがあるんだから」
「うちは、いかんながら中小会社でね」
「じゃァ、こいつはかなりのばくちだったね。最初受かるかどうかに、賭けていたわけだ」
「こうなってみると、そうですね」
「そいつァ甘いね。プロセスは千変万化なんだから」
「甘いというより、それしかしょうがないです」
「まだいくらでも兵糧はあるでしょう。見切りが早いよ。資産を担保にして、もがいてみなくちゃ」
槇村は頭を上げて和合を見た。
「明日、風が変ってデカイ浮きになるかもしれないんだぜ。そいつは誰にもわからない。こんなところで見切るなんて、銭を捨てるようなもんだなァ」
集配所の集金係が、そのとき扉をあけて例のごとく無表情な顔を見せた。
翌週の水曜日に槇村の息子が事務所に顔を出すと、ロッカがこういった。
「競輪を、受けますか」
「競輪――?」
「もしよければ、明日から買い目を入れたいという人が居るんですが、僕のお得意さんで」
「あれはウィークデイもやっているんだろ。美津子さんを休まずに使うわけにはいかない。競馬にしてもらってくれ」
「競馬はもうだいぶ長くウマを見ていないんで、買いにくいというんです。競輪なら選手の新陳代謝《しんちんたいしや》がすくないから、見てなくても買えるって」
「しかし、僕にはどうも様子がわからんからなァ」
「翌日の午前中精算で、日に二百万ぐらいずつ、集金もツケも僕がやります。いい客ですよ。但し一割落ちの九十円受けですが」
槇村は考えこんだ。
「あたしなら気にしないでください――」と美津子がいう。「電話で受けるだけなら毎日だって平気ですわ」
「毎日といっても、水曜日は大体どこもやってないし、雨風の強い日も休みです」
実際、その日のスポーツ紙の競輪欄を見ると、どこもやっていない。明日から、京王閣と千葉、平塚がはじまる。
「日に二百万。一週間で千四百万か――」
槇村は諒承した。
木曜日からはじめて、はずれ。
金曜日は、押えの一番わるいところが来て、百六十万の配当。つまり買い手は四十万の損だが、このうち二十万は毎日ロッカのふところに入っているわけだから、事務所の収入は二十万だ。
土曜日、はずれ。
三日続けて集金に行って、ロッカは鉄五郎にいった。
「まだ、調子が出ませんか」
「そうでもないがね。そんなに当るもんじゃないよ」
「当ててください。此方からお願いして買い目を入れてもらってるんだから、あんまり当らないと気になります」
鉄五郎はうっすらと微笑した。
「なあに、当らなくていいんだ。わしは銭を持ったまま地獄へ行けるわけじゃねえ。ばくちで取った銭だから、きれいさっぱりばくちに返そうよ」
「僕がサヤを貰ってるのが悪いみたいですね」
「かまわねえよ。商売だ。遠慮なく取りな。もっともな、どうせ、生み捨てた息子でも居りゃァ、そいつにくれてやろうと思ってたんだから」
事務所に行くと、槇村の息子が声をひそめてこういうのである。
「競輪の方な。和合にはまだ話してないからな」
彼は高校教師らしくもない姑息な眼つきで、
「これは別筋のこととして、会社の仕事とは一応切り離そう。な、毎週単位で利益配分を君にもするよ。二割でどうだい。二割は大きいぜ」
「――いいですよ」
「こっちで大赤字なんだから、少しは銭をひろわなくちゃな。親父に怒られちまう」
鉄五郎の方は、日曜日も、はずれ。
テレホンサービスで出目を訊き、はずれがわかると、槇村の息子はロッカの方に微妙な眼くばせをした。
しかしこの週は、競馬の方も、土曜日に一千万弱、日曜日は千六百万余と、連続して黒字になり、事務所は明かるいムードに満ちてきた。
夜になって集配所からあがりの札束を鞄につめて持ってきた和合までにこにこして、
「ゴリラ二世のツキが、やっと下向きになってきたようだな。これからは、ガッポ、ガッポだ」
などという。
槇村の息子は、帰りぎわ、さりげなく、
「ロッカ、一杯呑んでいこうか」
といった。ロッカに対する槇村のあつかいが、先日までとはまったく変っている。
日曜日でも、六本木のあたりはほとんどの店がオープンしているが、槇村は、その中で地味なカウンターの店を選るようにして入った。
彼は、ホーッ、と音になるような吐息を洩らした。
「やれやれ――。しかし、競輪というものは、当らんものだね。最初から競輪専門にやればよかったかな」
「そうでもないんですよ。固いところは固いんです。ただ――」
「その客が、甘いのかね」
「甘いってわけじゃないんですけど、一日二百万も買うんだから、甘けりゃ続きません」
「ツイてないということか」
「そうですね。ま、そういうことでしょう」
競輪のノミ屋は、競馬にくらべて、街の中では数がすくない。受ける場合でも、普通、一日一鞍という買い方は嫌がる。最低三鞍か四鞍ぐらいは買ってくれ、という条件をつけるだろう。
それだけ危険なのである。中央競馬ならば一ヵ所開催だから、十鞍か十一鞍のうちから、レースを選ばなければならない。
競輪は三場所も、時には四場所も共催している。三十レース、四十レースの中から、気の合うレースを選べるのである。
ロッカは、自分が頼みこんだ手前、一日一鞍、という鉄五郎の買い方を否定できなかった。それにロッカにとっては、買いが入るだけで分になるのだから、当っても槇村が損をするだけなのだ。
何故か、鉄五郎は、もっと楽に取れそうなレースを捨てて、難解な、中穴の気配のするレースばかり選んでいた。
だから、当る確率はわるい。
けれども、中穴ぽいところを一鞍三、四点にしぼってあるので、当れば配当がデカいのである。
本当は、寒いンだけどな――、とロッカは思っていた。
和合が知ったら、彼もきっとそういうだろう。
寒い、というのは、ヤバい、というほどの意味である。
案のじょう、月曜日に、ドカンときた。千八百円の配当が、七十万円分、入っていたのだ。
泥 道
ドカン、と来たとき、案のじょう、槇村の息子は、真ッ蒼になった。
ロッカですら、眺めていて、ああ、素人はやっぱりしょうがないなァ、と思ったほどだ。
「配当はいくらだって――? 千八百円、そんなにツイたのか」
蒼くなって、その次に、槇村の額にどっと汗の粒が浮いた。
「千八百円が、七十万円分。七十かけるといくらだ」
口の中でもごもごと計算をして、
「百二十、六万、か。いや、千二百六十万だ。千二百六十万――」
ノミ屋が一喜一憂していては、身がもたないのである。勝ったり負けたり、それで長い間に浮いていく、そこに確信を持たなければ商売をしている意味がない。
ノミ屋はただ何も考えずに客の註文を受けていればよい。一喜一憂するのは、絶えず買い目を選択しなければならない客の方だ。そうして客は憂いの塊りになって自滅していく。そこがノミ屋のつけ目なのだ。
「千二百六十万――、ロッカ、これはきついなァ」
「テキは長打狙いできてるから当ればきついですねえ」
「明日の朝、ツケ(配当)を持っていくのかい」
「そりゃァ、落ちのときにきちんと受けとってるんだから」
「きついなァ――」
「でも、この前、木土日と三日まるまる落ちて、金曜も二十万ほど落ちてますから、都合五百六十万ほどこちらに落ちてるものね。差し引き、七百万ですよ、赤字は」
「うん、大きいな」
「それに土日と、本線の競馬の方がだいぶ受かってるし」
「それは関係ないんだよ。会社の方と切り離してあるから、今さら競輪も受けてたとはいえないしねえ」
落ちたときに懐中に入れているのだから、それは当然である。ロッカは黙っていた。
「高校の教師に、七百万というのは、大きいよ」
「だって、受けるなら元銭があるわけでしょう」
「僕はもうとっくにスッカラカンよ。会社の金庫におさまってるのは親父の金でね」
「なんとかしてくださいよ。僕が困るんだから」
「困るって、そういってもね」
「落ちてるときだけ集金して、受かったら待ってくれじゃ、僕は殺されちゃいますよ。客だって冗談半分に賭けてるんじゃないんだから」
「その客は、筋者かね」
「むろん、筋に関係ありですよ。今、ただの固気が競輪を毎日二百万も買うもんですか」
「ふうん、やっぱり、筋の人か」
ロッカは頼りない金主を冷めたく見据えていた。
「明日までかね、なるほど」
「今夜ですよ。今夜、僕が受けとって、明日の朝、客に届けて明日の買い目を貰ってくるんだから」
「ふうん。今夜か――」
槇村はあわただしく飛び出して行って、眼を血走らせたまま戻ってきた。
「ほら、七百万だ。調べてくれ」
「…………」
「和合が来ないうちに、手早く算《かぞ》えちゃってくれよ」
五十万円ずつ封がしてある札束を、十四個、ロッカは算え終って手提げの中に詰め、
「残りは――?」
「残りの五百六十万は、今、僕が小切手を書く」と槇村。
「小切手じゃ駄目ですよ。双方現金です。特にツケは現金じゃないと駄目です。こっちが商売してるんですからね」
「君は――、君が集金してるような口をきくね」
槇村は悲鳴に近い声になっている。
「だって、最初の定めだから」
「じゃいいよ。どっかで小切手を割ってくる。パーソナルチェックでも、駄目かねえ」
「ここの金庫で替えたらどうですか」
「親父にバレちゃうよ。駄目だ」
「すぐまた回収できますよ」
「一日百八十ずつの買いで、三日で五百四十、四日で七百二十か。四日間だけ、なんとかそっくり落ちてくれないかなァ」
ところが翌日も、鉄五郎の買い目が来たのである。百八十万円の買いのうち、枚数はややすくないが、四十万円分が当っていた。配当は六千三百円の穴車券だった。
槇村の息子は、ひと声もあげずに、机に張りついたようにしていた。
「デカいのが来ちまったなァ」
とロッカもさすがに、弱い声になった。
六千三百円が四十万円分。――二千五百万円余である。
さすがに、鉄五郎の強靭《きようじん》な勝負勘を、内心で感嘆しないわけにはいかない。
そうしてロッカも、木曜日から火曜日までの六日間で、一日二十万ずつ、百二十万のサヤを確実に取っている。
ロッカは和合の顔つきを、いちいち思い出した。和合は土曜日曜の競馬だけだから、回数はすくないが、買い目が二千万ずつと、ケタがちがう。
――奴はいくらぐらい、サヤを取ってるんだろう。
槇村が不意にいった。
「俺は払えないよ」
「そりゃないですよ」
「だってスッカラカンだよ。もう借りるところもない」
「親父さんは、持ってるんでしょう」
槇村は、唇の端を震わせて泣くようにいった。
「逃げよう。とにかく払えないんだから」
「僕は殺されます」
「君は殺されるがいいよ。だいたい君が持ちこんできたんだ」
「僕だけじゃすみませんよ。貴方もですよ」
ロッカは自分でも意外なほど、残忍な気持に駆られていた。弱い生き物を見て、犬が逸走するように。
「こんなことで学校も家庭も捨てちゃうんですか。ここでおっぽりだしたら、今までのマイナスが確定しちゃいますよ。まだはじめたばかりじゃないですか。マージャンでいえば半チャンも終ってないのに」
「じゃ、どうするんだ」
「金を借りるところぐらい、いくらだって知ってます」
とロッカはいった。
「今夜の、明日でか――」
「ええ――」
「高利なんだろう」
「そりゃ、むろんですよ」
槇村の息子は宙を見つめたまま動かない。
「駄目だ。借金で窒息しちまう。高利貸しの餌になるだけだ」
「じゃ、自分で作ってきてください。親父さんにでもなんでも電話して。ぼくが電話しましょうか」
槇村は、再び、ほーッと音の出る溜息をついた。
「先生は固気の発想で考えるから身動きできなくなるんです。大丈夫ですよ。この客の買い方を見ても、そんなに当りゃしません。買いが落ちりゃ、高利なんか屁でもないでしょう」
「君は他人事だから、そういっていられるんだ」
「だって、この程度の赤字は、現象としちゃちっとも珍らしくないですよ。それよりも、一文無しで別筋をはじめるということが、無茶でしたね」
ロッカは勝利の快感に酔いながら、煙草に火をつけた。
槇村はもう蟻にべったりたかられてしまった芋虫だ。彼は結局、蟻たちの巣に運ばれていくだろう。
和合が、事務所に入ってきた。
すかさず、ロッカが槇村にいう。
「どうします――」
「――待ってくれよ」
「なんだね――」
和合がなんとなく二人を等分に見た。
「いや、僕は時間がないから、帰りますよ」
そう、念を押した。帰って明朝ツケ(配当)を客に届ける。そのためには、ロッカが金策をしていいかという意味だ。
「それじゃ、もう一時間したら、電話をくれ給え」
和合がキナ臭そうな表情になっている。
ロッカが出て行ったあと、槇村がこういった。
「和合さん、競輪や競艇の客は取れないのかな」
「それは、むろん取れるよ」
「あれは、毎日やってるんでしょう」
「ああ――」
「土曜日曜だけってのは、まだるっこしいね、こうなってくると。同じことなら毎日、もんだ方がいい。あとの五日がもったいない」
和合は小鼻をこすりながら槇村を見た。
「そうだが、今の資本じゃ、ヤバい気もするな。いいときはよくても、悪いとき踏みこたえられないよ。とにかくこの商売、長続きさせなくちゃ、ほんとのうま味が出てこないんだから」
「親父を叩いて、もう少し出させますよ」
「その気なら、よし、行ってみよう。明日でも集配所に話すよ。分量は同じく二千万でいいですか」
ロッカから、きっちり一時間して電話がかかってくる。
「よし、よろしく頼むよ」
と槇村は、それだけいった。
「それじゃ、下の喫茶店まで来てください。槇村さんの借用証がなけりゃどうにもならないから」
槇村は夢遊病者のような足どりで、階下におりた。もう、ことここに至っては仕方がないと思う。自分が自分でないようだが、このまま引き退るわけにもいかない。
ロッカは隅のボックスに隠れるようにしていて、片手をあげた。
「和合は――?」
「もちろん、彼には内証だ。話せることでもないよ」
ロッカは一時間の間に、便箋に文面を書き、封筒も用意していた。
「文面をたしかめてください。サインと印を貰えばいいようになってます」
「利子は――?」
「カラス金のところなら、話は簡単なんですが」
「カラス金というと――」
「一日一割です。カラスがカアと鳴いて夜が明けると利子がつくんです」
槇村は驚愕した。
「冗談じゃない!」
「ばくち場に出入りしている高利貸しはそういうのが多いですよ。一勝負ですぐに返せますから」
「おどかさないでくれよ。二千五百万借りて一日一割じゃ、二百五十万じゃないか。二百万の買いを受けて毎日そっくり落ちたとしても、利子だけで赤字になる」
「だから、僕が最初に話しにいこうと思ってる奴は、その類じゃありません。十日に一割です」
「――高いなあ」
「無担保で、今夜の明日ですよ」
「それはそうだが、高い。月計算じゃ、利子だけで七百五十万も払うことになるんだろう」
「十日に一回、まる落ちになればそれが利子分ですよ。十一《といち》のところは、なかなか急には貸しませんよ」
その翌日、ロッカは槇村名義の借用証をポケットに入れたまま、T病院の鉄五郎を訪ずれた。
「案のじょうです。胴元が泣きをいれて、払えないといいだしたんです」
「それで――」
「払わなければ殺されるといいました。奴は固気の学校教師だから何もかもパアにはしたくないでしょうし、結局、金策」
「なるほど」
「でも、奴に金策をさせちゃっちゃ面白くありませんからね。どうせ爺つぁん、浮き金なんだから、ここ一番遊んでくださいよ」
ロッカはきおいこんでそういった。
「この封筒です。これが今日のツケ(配当)ですが」
鉄五郎は、中の借用証を見た。
「僕が高利貸しに走って、金策したことになってます。だから、爺つぁんがこれを持っていてください」
「つまり、わしが胴元に貸しているというわけだな」
「そうです。その方が利子が上乗せしていくでしょう。十日で一割といいました。利子は山分けでどうですか」
鉄五郎は笑った。
「若い衆らしい攻め口だな。しかし、金が出なきゃ、絵に描いた餅で、なんにもならんがね」
「僕は、まだいけると思います。和合が吸ってるんですから、あいつにしのぎ勝たなくちゃ」
「あたし、毎日、事務所に出ていくのが辛くって――」
と美津子はテレビを消していった。
寝衣に着がえた父親のために、番茶をいれてやる。
寝衣でも、昼間のきちんとした背広姿でも、近頃急に父親が衰ろえて、くたんと寒々しくなったような気がしてならない。
「そう思うか。それならやめたっていいのだよ」
と立花氏はいった。
「代りはなんとかみつかるだろうし、なんだったら、わたしが電話番をやったっていい」
「槇村さんを、見ているのが辛いわ」
「むしろ、やめて家のことでもやってもらいたいと思ってるよ。年頃の娘がタッチする仕事じゃけっしてない」
「でも、やめるわけにはいかないわね」
「そうかね」
「だって――、あの人を和合さんに紹介したのはあたしですもの。槇村さんが破滅するとしたら、あたしもおおいに責任があるわ」
「そんなふうに考えることはないさ。これは戦いだし、男たちはいつも誰かと戦争していくものだ」
「それじゃァ、お父さまは平気なんですか」
「平気じゃないさ。しかし、槇村が善玉で和合が悪玉というだけのものじゃないよ。ただ、槇村が負けそうだから、哀れに見えるだけだよ」
「男って、大変なのねえ。もしあんなことが仕事というものだとしたら」
「しかし、それでお前も、ここまでなんとか育ってこれたんだ」
「お父さまも、戦争をずっとしてきたの」
「それは誰にしたってそうだろうね。ただ私の場合は、ずっと国家公務員だったから、最前線には出ないですんだような感じがあるがね」
「よかったわね。後方勤務で」
「いや、同じことだよ。誰しも、一生の間には大小の戦争を経験していくものだ。タダじゃお金はとれないからね。私はまァ、弱くていつも負け役だったが」
立花氏は、熱い番茶を顔をしかめてすすった。
「今だってそうだ。負け戦は辛いよ。お前にまでいろいろ心配をかける」
「――でも、お父さまが弱い人でよかったわ」
「そう思うか」
「ええ、今はね。前はそう思っていなかったの。ごめんなさい。今はちがうわ。成功者の娘でなくってよかった。そんな人の娘だったら、気が狂ってしまうわ」
「そう思ってくれるんなら、私にとって救いになるよ」
「槇村さんがもしこれで破滅したら、あたし、あの人と結婚してもいい」
「ちょっと待て、それは感情過多だよ。今そう思っていたって、またすぐ変るかもしれない。気持がおちつくまで、そんなことを口に出さない方がいい」
美津子は、胸の中の和合の幻を懸命に、自分の息で吹き消そうとしていた。
水曜日は競輪ホリデー。
木曜日、金曜日、と二日間、まる落ち(買い目が全部はずれること)で、ほっとひと息ついたのも束の間、土曜日にまた、ドカンと来た。
買い二百万円のうち、当りが、三十万円分。配当は二千四百円だから、七百二十万のツケ。
まァしかし三日間だけの計算なら買い合計が六百万だから、百二十万の赤字で喰いとまったわけだ。
このときは、槇村もなんとか赤字分の百二十万を、かき集めるようにしてなんとか都合してきた。
「心臓にわるいよ。こんなこと続けてたら、まず第一に身体がまいっちまう」
「不思議ですねえ。普通は、穴買いがこんなに当るはずがないのになァ。だって、買い目を見ると、かなりの穴ばっかりで、だァーッとまる落ちしそうなんだけどね」
「――僕はもうやめたい」
と槇村はあえぐようにいった。
「とにかく、やめたい。この商売が大変な仕事だってことがよくわかった。わかりすぎた。もういいよ、本当に、もういい」
「だって、それじゃァ借金だけが残りますよ。どうします」
「やればやるほど、地獄じゃないか」
「本線の会社の方は、順調になりだしたじゃないですか」
和合が集配所から受けてきだした競輪の方は、都合四千万ほどの黒字。競馬も土曜日は少し儲かっていた。
「もうちょっとの辛抱ですよ。本線みたいになると思うな」
「本線だってわかるものか。まだ三、四日だもの。ドカンとくれば消し飛んじゃう」
「悪い方にばかり考えりゃ、きりがないですよ」
「一人の客じゃ損だね。胴元ってのは、大勢のを受けて、平均で儲けていくものなんだろう」
「だから、最初から本線に組みこめばよかったのに」
「今さら、おそいよ」
日曜日は、まる落ち。
ところが月曜日に、また穴が当った。四千五百円の穴が、五十万円分入っていたのだ。
これで槇村は、文字どおり打ち倒された感じになった。
「おそい。僕のやることは、つくづくおそいね。昨日で、やめとけばよかった」
ロッカはさすがに声もなく、槇村をみつめていた。
ちょっと当りが急ペースすぎるようだ。落ち目の胴元が、弱いのか。鉄五郎が強すぎるのか。
しかし、レースを仕組んでいるわけではないのだから、当りを調整することはできない。
「仕方がない。とにかく二千二百五十万、なんとか手を打ちましょう」
「また、十一《といち》か」
「本線の金庫から流用すれば簡単なんですよ。利息もつかないし」
「ねばってれば必らず胴が有利になる。そういったのは君だな。君が責任をとれ。なぜ俺だけがこんなに苦しまなくちゃならない」
槇村はあえぐように続けた。
「僕は学校も休んでるよ。毎日毎日が怖くて、家にも居られない。誰がこんなふうにしたのかね」
「誰がこんなふうにした、と胴元が泣いてますよ」
とロッカは病院に来て、なかば痛快そうに告げた。
鉄五郎は眼を細めたが、案外に暗い声でいった。
「まァ、泣くだろうな。自分じゃ誰のせいかよくわかってるんだがね」
「こうなってから他人のせいにしてもしょうがない。勝てばいい思いをするんだものね」
「戦争をしているときは、皆、そういうんだ。負けてる方ばかりじゃないよ。わしだって、そういいたい」
「ごめんなさい」
とロッカは、注意深く、本来は父親であったはずの老人の表情を眺めながらいった。
「ツケ(配当)がいつもキャッシュじゃなく紙切れになってしまって。落ちるときは現金ですものねえ」
「いや、それはいいんだ」
「でも僕が責任をもって処理しますから。叩けばまだ充分に出てくるんです」
「わしはむしろ、紙切れの方がいいと思ってるんだよ」
と鉄五郎はいった。
「今、わしはあまり勝ちたくないんだ。車券の買い方を見てもわかるだろう。どうしても当てようって買い方じゃない」
「なぜですか」
「あんまりばくちの方で、ツキを使いたくないんだよ。特にここのところはね」
「へええ――」
「それなのにどうも当っちゃう。うまくないなァと思っていたら、ツケが来ないという。それならいい。銭の面《つら》を見なけりゃツキを使ったことになるまい」
「当るとなにかわるいことでもあるんですか」
「この前いったろう、人生は勝ったり負けたりだって」
「ええ――」
「そのとき大事なポイントで負けないために、そう大事でもないところでは負けなくちゃいかん。わしは今、健康を維持することがポイントだよ。この年齢になったらわしでなくたってそうだ。他でツキを使うわけにはいかんのだ」
「そんな、まさか、車券をとったからって――」
「まさかと思った車券が当るだろう。まさか、というのは無いということにならない」
「そうかなァ、僕にはまだよくわかりません」
「とにかく、すべて良いということはありえないんだ」
「そういう理くつですか」
「理くつじゃない。あとで理くつがついたって屁みたいなものだ。人生のことは先どりしてわからなくちゃな」
「車券を当てるようにですか」
「そうさ。君だって、そこを鍛えなくちゃ、戦死するぞ」
「じゃあ、僕がすすめて、運を無駄使いさせてるわけですか。それなら、ことわればよかったのに」
「そうもいかんさ。そこが人生の奇妙なところでね。いつも、ピチッと割り切れないんだ」
鉄五郎はなんとなくロッカの顔を見た。しかしロッカはひるまない。ゆくゆくは親でも喰い殺してしまう気構えになっていた。
十日たっても事態が好転するどころか、泥々になるばかりで、ロッカはとりあえず十一《といち》の利息はむしりとったが、借金の証文はもう一枚増えていた。
槇村は、事務所に出てこなくなった。
和合が電話で、その日の(本線の方の)成績を説明する。
和合には、風邪で寝ている、といったという。
「どういう意味かね――」
と、電話を切ったあとで、和合は部屋の中を見渡した。
「あんなに熱くなって、毎日来ていた槇村さんが、風邪ぐらいで休むと思うか」
和合は皆の顔を眺めたあとで、ロッカを見た。
「風邪ならしょうがない。近頃の風邪は烈しいから」
槇村は翌日も、その翌日も出てこない。
「何があったんだ――」
和合は、今度はまっすぐにロッカに訊いた。
「お前、小細工をしたな」
「べつに――」
「何をした、唄ってみろ」
「客を一人、つかまえてきただけですよ。日に二百万ずつの買いを入れる客をさ」
「こっちには、そんな買いは入ってないぞ」
「槇村さんが、別線でやろうといって懐中へ入れたんだ。最初落ちてたからね」
「それで――」
「客に当りが出だして、配当がツカなくなった。あの人は個人的には金なんか自由にならない。十一《といち》で借りてツケたよ。それでがっくり来てるかな」
「借りは、いくらある」
「そうだな、五千万は越してますね。利子ともで」
和合はじっとロッカをにらんでいた。
それから、突然、掌を伸ばしたまま横に水平に振った。
頬にあたったその一発で、ロッカは壁まで吹ッ飛び、歯を折ったらしく唇から血のような涎《よだれ》をたらした。
ロッカはしばらく両掌で口を押さえてじっとしていた。美津子がハンケチを濡らしてきて手渡してくれる。
「この仕事はなんといったって、槇村さんが旦ベエだ。旦ベエが死ねば、仕事もぽしゃる。この野郎は自分だけの都合で、旦ベエの首をしめようとしやがった――」
ロッカは黙っていたが、とぼけるない、和合――、と思っていた。自分だって、カスリをとって一人で甘い目を見てるじゃないか。
「馬鹿野郎――」と和合。
「コントロールも利かないくせに一人前に動こうとしやがって、全体がやりにくくなってしようがねえや」
それは鉄五郎がいけない、あの爺つぁんが当てすぎるんだ、とロッカは思っていた。
「赤字が、いくらだって?」
「細かくは覚えてない」
「概算だ」
「さっきいったろう。五千万と少しだ」
「その金は誰が都合した。父親にでも泣きつかないかぎり、槇村さんにはどうにもなるまい」
「僕だよ――」とロッカはいった。
「ふうん、お前か――」
と和合がニヤッと笑う。
「お前が五千万、都合したのか」
「槇村さんの証書で、業者に話して借りてあげたんだ。だって、ツケないわけには、いかないでしょう」
「その業者は、誰だ」
ロッカは黙った。
「誰だよ――」
和合は一歩また近寄った。
「いえないのか」
「いえないよ」
「なぜ――」
ロッカは黙って、ティッシュペーパーの中に、ペッ、ペッ、と赤い唾を吐いていた。
「それじゃ、客というのは誰だ」
「なぜ、いちいち、あんたに報告しなけりゃならないんだ。なぜだい。この一件は槇村さんと僕と二人の話で、あんたとは別線だぜ」
「俺には大体、想像はついてる。日に二百万も買いを入れる客を、お前がそう何人も知るわけはないからな」
「僕だって赤ン坊じゃねえぜ。商売をしてなにがわるい」
和合は大げさな恰好をして、あざ笑った。
「きいたふうなことを吐かすな。なぜ俺に報告しなけりゃならないかって、そりゃお前が赤ン坊だからよ。いいか、わからねえようだからよくいってきかしてやる」
和合はロッカをぐっとにらみつけた。
「お前はいっぱしの小動きをしたつもりかもしれねえがな、肝心の旦ベエがそのためにへし折れそうになって、家でノビている仕末なんだ。俺たちは旦ベエをへし折るために集まってるんじゃない。槇村さんが折れたらこの仕事は続かねえんだからな。そのへんをうまくコントロールして、事務所を続かせながら、手前もいい眼を見ていく、それができなけりゃ一人前とはいえねえんだぞ。俺たちの社会でいっぱしの真似をする権利はそのコントロールをする腕を身につけてからできるんだ。お前なんかまだ三年早えや」
和合は、そういってから美津子の方に顔を向けた。
「美津子さん、槇村の息子に電話をして、ロッカの客に喰われた金額をきいてみてくれませんか。貴女がきくのが一番いい。客に喰われた金額ですよ。高利貸しに借りた金利は別です」
「はい。今すぐですか」
「ええ、早い方がいいです。そうして、心配するな、といってください。和合が万事心得ていて、本線の方から金をたてかえておくからといってください」
美津子はうなずいて、早速電話した。和合はその金額をきくと、美津子に金庫をあけさせて、現金五千万余を袋に入れて、ロッカに渡した。
「さァ、これがツケだ」
「――利子の方は?」
「利子はやらない――」と和合はいった。「文句があるか」
「じゃ、なぜ、ツケを払う?」
「俺たちはドリンク業だ。これが商売だ。どんなことがあっても、ツケは払う。お前みたいにすぐ転業を考える小僧ッ子とちがって、俺たちは一生の道だからな。どんな場合でも客に不義理はできねえ」
槇村は一日おいて、事務所に現われたが、わずか一週間ほどの間に、頭髪が、染めたように白くなっていた。
立花氏も美津子も、その姿を見て、いうべき言葉をもたなかった。
槇村は自分でも頭髪に手をやりながら、
「この赤字が、自分の給料の何年分に当るか、それを考えたら、くらくらッと目まいがしました」
といって苦笑した。
「生まれてはじめての大きな経験でしたが、和合くんたちはずっとその中で生きてるんだからたいしたものだな。どうも僕は、固気の生き方しかできないようです」
「わかります。私も同感ですよ」
と立花氏がいった。
「しかし私の観測によれば、固気も無頼もその点では大差はなくて、商売をしているかぎり、皆大変なのだと思いますよ」
「そうでしょうか」
「固気と無頼の両天秤《りようてんびん》をかけるのがむずかしいのではないかな。固気なら固気一本、やくざならやくざ一本、それで通す以外にないですね。私は自分でそのことを反省しています」
「でも、もう気が楽でしょ。お父さまにすべてまかしておしまいになったんだから」
と美津子は慰めるようにいった。
「まァね、気が楽とまではいかないが、横から眺めていればいいんだから。もう少しして、最初の赤字がなくなりでもしたら、僕は学校教師一本に戻って、二度とここへは来ません」
「それがよろしいわ。早くその日が来ますように」
槇村は、これを機会にロッカの客を打ち切るように提案したが、和合はうなずかなかった。
「客の方から、やめるといってきたのではないかぎり、受けていきましょう」
「どうして――?」
「だって、我々はドリンク業なんだし、買いがくれば受けるだけですよ」
「しかし、これ以上赤字が増える危険は避けなければ」
「赤字といったって、長い目で見ればどうかわかりゃしません」
「和合さん、君のその考えは何度もきいたが、今までのところは、ちっともいいことなかったよ」
「それじゃァ、他の客が黒字ときまってるんですか。そんなことわかりやしない。もし赤字を怖がるなら、こんな商売さっさとやめちゃうよりしようがない。そうはいかないでしょ。だったら、私にまかせなさい」
ところが、その言葉が乾かないうちに、ロッカの客、つまり鉄五郎の買いが、三日続いて当りまくったのである。
槇村は隅の椅子に腰かけたままほとんど騒がなかったが、和合が苦渋の表情になった。
三日間の本線の収入を上廻ってさらに七百万ばかりの金が、事務所の金庫から出ていったのだ。
「まだ、続けますか」
「もちろんですよ」
と和合は叫ぶようにいった。
「しかし親父が何というかな」
「ここで打ち切るなら、俺が個人で受けてもいいですよ――」
死んでもラッパ
「あんたがそこまでいうなら、僕は何もいわない。今夜、親父に相談してみます」
槇村は声音を弱くして、そこで黙りこんでしまう。
ところがその翌日、槇村の父親が事務所に乗りこんできて、
「不良銘柄はすぐに切ってもらおう。うちの赤字の責任を君は痛感しとらん。客に義理を立てて、わし等を見殺しにする気かね」
「不良銘柄はあんたの息子さんが勝手に受けて背負いこんだんですよ。俺の責任じゃない」
「それにしても、赤字の原因とわかっていて、なぜ受ける」
「不良かどうかわかりません。それは昨日までのことだ」
「実績が不良なんだ。わしが命令するよ。すぐその客をことわりたまえ」
「いいですよ。俺が代って個人で受けます」
ロッカは見ていて、なぜ、和合がこれほど鉄五郎の買いにこだわるのか理解がいかなかった。
ロッカは、しかし黙って眺めているだけにした。この間のことがあってから、ほとんど和合とは口をきかない。
鉄五郎の買いを誰かが受けている限り、自分は一割のサヤをとれる。和合がどうなろうと知ったこっちゃない。
その日の鉄五郎の買いは、二百万すべてはずれ。
本線の方も、トータルで一千万余のプラスを見せて、事務所の金庫にはひさしぶりで札束が入ってきた。
「これ以上は負けられないところだからな。いいですか、事務所の皆さん――」
と槇村の父親はいった。
「もうぎりぎりのところです。そのへんをよくわかってくだすってがんばってください。ヤマト魂ですからな」
父親が帰ると、和合は吐き捨てるようにいった。
「駄目だ――」
「駄目っていうと、先行きは暗いってこと?」と美津子。
「ああ、駄目だ。そういう本人がヤマト魂なんぞ持っちゃいねえ」
「まだわからないでしょう。今日のような日が続けば」
「いや、あの親子には死相が出てるよ。明日はどっと、当りが来るだろう。連中が、どこで音を上げるかだな」
「それじゃァ――」と立花氏が静かな声でいった。
「そうなる前に、この商売、すべて打ち切った方がいいんじゃないか」
「そうですね。しかしそれができますか。立花さん、あんただってみすみす悪いと知りながら、やめられなかったんでしょう」
「…………」
「もし、やめられる可能性があるなら、立花さんから説得してみてください。俺だって、あの人たちの戦死を願ってるわけじゃない」
「しかし君は一番責任があるな」
「どうして――? はじめるときは死相など出ていなかった。勝負ですからね。勝つとはきまっていないが、勝つ公算がかなりあったんです。もし勝ってれば――」
「戦争責任とはそういうものだ」
「じゃ、あんたはどうです。あんたはここのあがりで、自分の穴を埋める気だったんでしょう」
立花氏は沈黙した。
「そんなことより、勝負ってものは面白いな――」
と和合は誰にともなくいった。
「俺は今、あの親子の落ち目に賭けてる。賭ける気なら、なんだって賭けられるんだからな」
「それは、どういう意味なの」
「ロッカの客さ。連中が受けなくなっただろう。そのとたんに、あの客の当りが停まるんだ。こいつは奇妙なもんだぜ」
和合は、美津子にもわかりやすいように、こんな説明をした。
ルーレットで、赤に張り続けている落目の客がある。赤か、白か、二点に一つ、五割の確率だというのに、出るのは白い目ばかりが続く。とうとうその客は財布をはたき、カジノ側に借りを作り、ついにあきらめて立ち去った。
そのとたんに、眺めていた客たちが先を争って、赤に賭けまくった。
目が変るのはそういうときなのである。これは理くつではない。本当に皮肉な事実なのだ。
「それで和合さんは、自分で受けるといったのね」
「そうだよ。あの客の当りはもうとまる」
「たしかにそうなの」
「絶対、ということはないさ。この世界は玄妙不可思議なものだからね。だが、ここが張りどきなんだ。ばくち打ちならここは逃がさない。たとえはずれても、納得、さ」
「他人の不幸をしゃぶって勝つのね」
和合は頷《うな》ずいた。
「不幸ばかりじゃない。幸福にも賭けるよ。幸不幸ってのは、俺たちにそれほど関係ないんだ」
「わかったわ。固気もやくざも似たようなものだというお説だったけど、そこがちがうのね。あたしたちはいつも、幸福に賭けるわ」
「それではずれるんだろう。はずれちまえば、つまらん考えだな」
美津子は、本当に神に祈るような心境で、翌日の成績を待った。
和合の立てた卦が当りませんように。槇村親子の死相だなんて、嘘でありますように。固気に幸福が訪ずれ、無頼が死に絶えますように。
けれども心のどこかでは、和合の説に頷ずいているようなところがあった。ああ、もう駄目だ、と思う。なにが駄目≠ネのかはっきりしないが、心が暗く冷え冷えとしてくる。
翌日の昼すぎ、あれ以来姿を見せなかった高利貸しのカクさんが、ふらりと現われた。
「やあ、景気はどうだね――」
禿鷹のようなその姿を見たときに、美津子ははっきり駄目だと感じた。
その日は土曜日で、競馬と競輪と両方あった。したがって、受けは二千万ずつで、合計四千万である。勝っても負けても大きい。大負けすれば、また資金の注射をしなければならないだろう。
いかなる勘を働らかせたのかしらないが、カクさんはなんとなく用事ありげに、空茶を呑みながら事務所に居坐っている。
昼すぎ、槇村の息子が蹌踉《そうろう》と現われて、ラジオの競馬放送にじっと聞き入った。
発走十分ほど前に、集配所に詰めている和合から買い目の電話が入ってくる。そうやって競馬は一レースずつのプラスマイナスが明瞭になっていくが、競輪の方は現場中継がないので、ダイヤルサービスで前半のレース結果しか、途中ではわからず、後半の結果は五時すぎになってしまう。
競馬は、かなりの赤になる模様だが、全体のトータルは日が暮れてみないとわからない。
レースとレースの間の三十分ほどは、ラジオの音をしぼっておく。その間、立花氏も、美津子も、沈黙したまま、判決を待つ被告のような表情で居る。
「こうしてると、気が狂う」
と槇村が、ぽつりといった。
「たとえ黒字になったとしたってもういやだ。こんな毎日、僕には耐えられない。もうやめたい」
「それがいい――」と立花氏が折り返すようにいった。「できたらそうなさい。今ならお金だけの損だ。これ以上続けたら、骨に傷がつきますよ」
「ええ。わかってるんだが、自分で説得したことだものだから、親父にいいにくくてね」
「仕方がない。終戦処理を、せめてまちがわないように」
窓外が暗くなって、競輪の後半の成績が入った。トータルで二千万を越す欠損が出ていた。美津子はその数字を、ゆがんだ字体で帳簿につける。
そこで意を決したように、槇村が立ち上った。
「親父に話してきます。とりあえず、明日からの受けを、すべて停止するように、和合くんにいっておいてください」
「手配はしておきます。なに、金ですむことだ。命までもというわけじゃないから、あまり気を落さないように」
「ええ、しかし、その金も、親父はもう注射できないと思いますがね。何かを処分しなければ」
槇村に続いて、美津子も廊下に出て、エレベーターに乗った。
「一緒に行くわ――」
槇村は、不思議そうに彼女を眺めた。
「お父さまのところに。あたしも一緒にお詫びします。もともと、あたしが闘犬にお誘いしたから」
「いや、君の責任じゃないよ」
「でも、一人で帰るの心細いでしょう。ついて行かせて」
「子供のときみたいに、叱られたり殴られたりして、それですむのならいいんだけどな。実際、夢みたいだ。ほんの一ヵ月もしないうちに、一文無しになるなんて」
「ええ。でも、何もかも、じゃなくてよ」と美津子はいって、上眼使いで槇村を見た。「あたしがおそばに居るわ。槇村さんさえよかったら――」
「とうとう、スポンサーがお手上げで、終りました」
とロッカは、鉄五郎に報告した。
「ほう、そんなにわるかったのかね」
「不思議ですねえ。常識的にはそんなわけはないと思うんだけど、胴元がはじめからしまいまで苦しみもがいていたようで、やっぱり落ち目の胴のせいですかね」
「いや、昔とちがって、今は胴もきついよ」
「それに、爺つぁんの買いが、手傷を負わせてますよ。立直りかけると足をひっぱる形で」
「わるいことをしたな。わしもそれほど当てる気じゃなくて、当っちまうんだ。まァしかし、これで止めならちょうどいい。毎日ゆっくり寝られる」
「ところが、爺つぁんの分は、和合が受けるといってますよ。もし爺つぁんさえよければ」
「べつに、わしはやめてもいいんだ」
「ええ。――和合はね、もうこれからは、爺つぁんの当りはとまるっていってます。落ち目の胴がオリたから、これからが受けどきだって――」
「ほう――」
「資金があれば、事務所の買いをそっくりひきつぎたいそうです。腐りの親をひきつがない手はないって」
鉄五郎は苦笑した。
「それじゃァ、もう一度、試してみようかな。胴の腐れ運のせいかどうか。わしはそうじゃないと思うがね。わしの買い目はわしのツキだ。それだから困るんだが」
「和合を、叩きますか」
「奴はこのところ、どのくらい鞘で稼いでいるだろう」
「さァ、二千万の買いの鞘が五分として、日に百万。このところは土日は四千万になってますから」
「それじゃァ、どれか一点にかけてみよう」
ロッカの持ってきた予想紙をひろげて、鉄五郎はやがて一つのレースを指定し、5→6に一千万、といった。
「――これ一点ですか」
「和合が受ければね」
それは本命ではなかった。来れば、千円以上の配当だ、とロッカは思う。
「これ一点なら、当って一億以上の配当ですね」
「当ればな――」
「和合には払い切れません」
「払えるだけ払えばいいさ。わしは配当はいらない。お前にやるよ」
ロッカは、実の父親であるらしき老人を上眼使いににらんだ。
「僕はいりません」
「どうして」
「僕は乞食じゃない。ノミ屋です。欲しけりゃ自力で喰いつきます」
「当ればの話だ。はずれりゃパーさ。気にするな。それにわしは、あまりツキを使いたくないから」
「当っちゃったらしようがないでしょう。金は邪魔にはならない」
「いや、もう充分儲かった。先の短かい命だから銭なんかいらん。お前にやるよ。今のところ、知合いといったらお前一人だからな」
ひょっとしたら、来るかもしれないな、とロッカは思った。要らないというこの老人の気持が、胴の落ち目を誘っているのかもしれない。
電話で和合に連絡して、鉄五郎の買い目を彼が受けたのを確かめると、さすがにロッカはおちつかなくなった。
金なんか貰わない、とツッぱったが、当れば一億以上の配当になる。和合がどんな顔になるか、自分が債権者になって、和合を圧迫してみるのも面白い。
その一鞍のために、松戸競輪場まで見に行った。
三十六通りの中のたった一点、しかも千円台の配当になりそうなところにぶちこまれた一千万円。
ところが、これは当りそうな予感で心が騒ぐから妙だ。当れば、和合は目茶苦茶になる。
ばくちの神さまのような顔をして、ここが受けどきだ、などと吠えたが、どうなることか。
そのレースがはじまるとロッカは興奮して人波を押しのけ、金網のそばまでにじり寄った。
三周目、ロッカばかりでなく、場内がどっとどよめいた。バックストレッチで数車がもんどり打って落ちたからだ。落ちた車の中に本命車も混じっていた。
レースは忽ち混乱して、後方車がのしかかるようにまくりあげ、先方車に追いすがるようにゴールした。
「5→6だ。5→6だー!」
ロッカは叫んだ。
ざまァ見ろ、大きいぞ、どうだ和合、さァ払え。
配当は千五百九十円だった。そうすると、一億と五千九百万円だ。
ロッカは全速力で電話ボックスに走り、和合を呼び出した。
「八レース、5→6です。千五百九十円也――」
一瞬、返事が返ってこない。
「――わかった。一千万だったな。まァ、おめでとう」
「とにかく、すぐそちらへ行きます」
ロッカはそれから病院の鉄五郎にも電話した。
だが、鉄五郎は出なかった。同室の軽患者が出て、鉄五郎は昼前に多量の血を吐いて、重患室に運ばれている、静脈瘤破裂という噂で緊急手術と思うが、自分にははっきりしたことはわからない、といった。
今度はロッカが絶句する番だった。
一方、事務所では、立花氏と美津子を前にして、和合が自嘲のうす笑いを浮かべながら、こういった。
「敗戦です。槇村親子のあとを俺が受けつごうとしたけど、それもできなくなった。俺はずらかります」
「負債はどうなりますの」
「今日の当りは俺が責任をもって話をつけていきます。爺つぁんはわかってくれると思う」
「槇村さんの負債は? 高利貸しが槇村さんを攻めるでしょう」
「いや、この会社の代表者はロッカです。槇村さんは陰の人で、表面は何も関係ない」
「すると、ロッカがかわいそうだな」と立花。
「ええ、しかし彼はそのためのポストで居るんですから。それにしても、奴、おそいな」
ロッカからの電話が事務所に入ったのは、夜になってからだった。彼は和合を電話口に呼び出してこういった。
「ツイてるなァ、和合さん」
「俺が、ツイてるって――?」
「さすがに勝負強い。今日の当り、一億五千九百万、これ、ツケる必要ありません」
「なぜ――」
「爺つぁんは死にました」
とロッカはいった。
「僕がコロしました」
「――どういう意味だ」
「静脈瘤破裂で血を吐いて、手術室でアウト。直接の死因はそうだけど、僕が爺つぁんの運を無駄に使わせてしまった。もう受取人が居ません――」
「ふうん――」
「今夜は爺つぁんのそばについていてやります。誰も附添が居ないから――」
「わかった。――しかし会社は解散だ。カクさんがうるさいからもうここへは来ない方がいい」
「和合さんにいわれたとおりでしたよ。僕はまだ一人前のフリーランサーじゃない。ひとつもコントロールができないで、あっちもこっちもコロしちゃった。これから修行します」
「俺はインドネシアに行くよ」
と和合は受話器に向かっていった。
「ちょうどいい折りだから出かけてみる。ロッカ、君も一緒に来ないか。俺がマンツーマンで鍛えてやるよ」
ロッカは電話口でちょっと笑ったようだった。
「それじゃ、今度は和合さんに喰いつくとするかな」
美津子は思わず和合の方ににじり寄った。
「インドネシアに、行くんですか」
「ああ、カクさんは泣くだろうがね。あっちであの髭もじゃを叩いて、例の病院の件も攻めて見るさ。今度はやくざ流儀であの野郎の首根ッ子を押さえつけてやろう。俺、そういうことは得意なんだ。それでカクさんにも向こうから金を送るよ」
「それじゃァロッカさんも、身代りの責任をとらなくてすむのね――」と美津子はいった。「インドネシアで、うまくことが運びますように」
「ああ。しばらくこの事務所にカクさんたちが現われるでしょうがね。立花さんは、デスクを貸しただけなんだから、責任はありません。そういっておいてください。そのかわり、これ――」
和合は懐から小切手をとりだして、三千万円の金額を書きこんだ。
「爺つぁんに払う金だが、これで団地の穴を埋めてください。俺、あんたも、美津子さんも好きだった」
「いや、貰うわけにはいかん。こっちはこっちで、なんとか自力でやるから」
「いや、やくざだってプレゼントはするよ。銭なんか、こっちもあっちもないんだ。勝負、のひと声でどうせ動いちまうんだから。インドネシアでまたすぐひろってくるさ」
和合はもうひとつ、封筒を出した。
「それから、これも、銭と一緒に爺つぁんに、配当の代りに渡すつもりだったが、俺が持っていたってしょうがない。美津子さんに預けていこう」
「なんですの、これ」
「T病院の株主の証書だ。槇村さんから受けとったんだが、俺たちじゃ株主ってガラじゃない」
美津子は封筒を受けとった。
「それじゃ一応お預りします。お父さま、いいでしょう」
「わし等だけがいいことずくめだな」
彼女は言葉と裏腹に、父親にでなく、和合の方を向いていった。
「これを、あたしの嫁入り道具にするわ――」
その言葉は和合に衝撃を与えたらしかった。
インドネシアに向けて発つとき、逡巡するロッカに彼はこういった。
「キョロキョロするな。どうせ誰も見送りに来やしねえ」
だが、機内に、一人、知合いが居た。おカマのベベだった。
「あたしも行くわよ。ロッカにとられてたまるもんですか。さ、あっちで稼ごう。進軍――!」
この作品は報知新聞(昭和56年9月1日から昭和57年3月11日まで)に連載、昭和57年5月小社より単行本として刊行されました