暗黒館の殺人(下)
綾辻行人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暗黒館《あんこくかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)影見の|堤《つつみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(外字説明の数字は、JIS X 0213面区点コード、ページ-段-行)
(例)掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、105-10]
(例)1[#「1」は底本では○付き数字]
(例)この[#「この」に傍点]

:カバー・挿絵・図説等
一応smoopy準拠のhtml形式画像タグを使用。
"扉"だと画像が一ページおきに表示されるかも。
=F縦書用引用符はフォントによって字形が錯綜している。
二重引用符には「=v(JIS X 0213面区点1-13-64、1-13-65)ダブルミニュートを用いたが、これは機種依存文字らしいので不適切かも。一応Mac OS XとWindowsでは表示できる。
半角英字の二重引用符には「“”」を使用した。
太字:太字部分は入力者注で対応した。
(例)[#ここから太字](……この車は)[#ここで太字終わり]
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ブックデザイン=熊谷博人
カバーデザイン=京極夏彦+坂野公一(|welle《ヴェレ》 |design《デザイン》)
図版作成=小野不由美
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目次
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第四部 ――――――――――― 15
第 十七 章 追憶の炎 ―――― 17
第 十八 章 暴虐の残像 ――― 67
第 十九 章 抜け穴の問題 ―― 104
第五部 ――――――――――― 141
第 二十 章 墜落の影 ―――― 143
第二十一章 妄執の系譜 ――― 189
第二十二章 暗黒の眷属 ――― 245
間奏曲五 ――――――――― 283
第二十三章 無明の夜明け ―― 306
第二十四章 分裂の明暗 ――― 357
第二十五章 真昼の暗雲 ――― 399
第二十六章 欠落の焦点 ――― 441
間奏曲六 ――――――――― 493
第二十七章 暴走の構図 ――― 506
第六部 ――――――――――― 609
第二十八章 封印の十字架 ―― 611
蛇足 ――――――――――― 640
あとがき ―――――――― 644
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*主な登場人物
|江南《かわみなみ》|孝明《たかあき》………出版社に勤務。単身「暗黒館」へ向かう。
|鹿谷《ししや》|門実《かどみ》………推理作家。|中村《なかむら》|青司《せいじ》の「館」に執着を持つ。
|浦登《うらど》|玄遙《げんよう》………「暗黒館」の初代当主。
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ダリア……その妻。
|桜《さくら》…………玄遙・ダリア夫妻の娘。
|卓蔵《たくぞう》………その夫。
カンナ……卓蔵・桜夫妻の娘。柳士郎の先妻。
|美惟《みい》………その妹。柳士郎の後妻。
|望和《もわ》………同。征順の妻。
|柳士郎《りゅうしろう》……カンナの夫。カンナと死別後、美惟と再婚する。
|玄児《げんじ》………柳士郎・カンナ夫妻の息子。
|美鳥《みどり》………柳士郎・美惟夫妻の娘。
|美魚《みお》………同。美鳥とは双子の姉妹。
|征順《せいじゅん》………望和の夫。
|清《きよし》…………征順・望和夫妻の息子。
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|小田切《おだぎり》|鶴子《つるこ》……「暗黒館」の使用人。
|蛭山《ひるやま》|丈男《たけお》………同。
|宍戸《ししど》|要作《ようさく》………同。
|鬼丸《おにまる》……………同。
|羽取《はとり》しのぶ……同。
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|慎太《しんた》………その息子。
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|諸井《もろい》|静《しずか》…………「暗黒館」の使用人。
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|忠教《ただのり》………その息子。
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|首藤《すとう》|利吉《りきち》………卓蔵の甥。
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|茅子《かやこ》………その後妻。
|伊佐夫《いさお》……利吉とその先妻の息子。
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|村野《むらの》|英世《ひでよ》………浦登家の主治医。「|野口《のぐち》」と呼ばれる。
|市朗《いちろう》………………中学生。独り冒険に出る。
「私」……………大学生。「|中也《ちゅうや》」と呼ばれる。招かれて「暗黒館」を訪れる。
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第四部
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第十七章 追憶の炎
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1
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立ち込めた蒼白い霧の中をまた、私は|彷徨《さまよ》っている。気が遠くなるほどの長い時間……自分が何者なのか、何のためにここでこうしているのか、そういった基本的な認識すら満足に持てず、彷徨いつづけている。
けれどもやがて、ついに霧の途切れる時がやってくることを、私は意識の片隅でぼんやりと予感している。おもむろに開けた視界に、そうして姿を現わすものが何なのかもぼんやりと予感している。
あの洋館[#「あの洋館」に傍点]だ。
高い赤|煉瓦《れんが》の塀。青銅の格子扉が閉まった門。その向こうに建つ、二階建てのあの古びた洋館。――くすんだ象牙色の壁に|這《は》う珈琲色の木骨。|紺青《こんじょう》に塗られた急勾配の屋根と秘密めいた屋根窓。|途轍《とてつ》もない謎を秘めた異国の城のような、あの……。
今はもうあるはずのないあの建物との、ありうべくもない再会……ああ、そうだ。私はまた夢を見ているのだ。その中での、これは出来事なのだ。昨夜見た夢と同じ、いや、昨夜だけではない、覚えていないだけで、これまでにきっと何十回も何百回も見たに違いない夢と同じ。今から十一年前、私がまだ八歳の時の、あの夏の終わりの日の。
霧が消え去り、空には赤黒い夕焼け雲が広がる。どこからか|蜩《ひぐらし》の鳴き声が聞こえだす。振り向くとすぐ後ろには、三つ年下の私の弟が……いない[#「いない」に傍点]。
弟はいない。
私は独りだった。
――どうしたの、そんなどろどろになって。
今はもう会うことの叶わぬあの人の――母の声が、ふと耳の奥で。
――何をして遊んでいたのです。
――いけませんよ。
――いけませんよ。 さん。
……母さま。
――兄のあなたが、そんな……。
……ごめんなさい、母さま。
――|他人様《ひとさま》の家に勝手に入るなど。
……でも、あのお屋敷には今は誰も。
――口答えは許しません。
……はい、母さま。
優しく美しい、冷たく恐ろしい、すぐ近くにいてとても遠い……どうしようもなくそこ[#「そこ」に傍点]で固定されてしまっている、あの人の記憶。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
……ごめんなさい、お母さま。
――今度同じようなことがあったら、お父様にきつく叱ってもらいますからね。
……はい、母さま。
父の名は|保治《やすはる》という。母の名は|暁子《あきこ》といった。和服の似合う美しい人だった。
……ごめんなさい、母さま。
「ごめんなさい」と弱々しく|呟《つぶや》きながら、私は門の格子扉に手を伸ばす。扉に絡まっていた鎖はすでに断ち切られている。さしたる力を加えるまでもなく、かすかな|軋《きし》みを発して門扉はゆっくりと開き、私を敷地内へと招き入れる。
荒れ果てた前庭を突っ切る赤煉瓦の小道。ふいと吹き過ぎる乾いた風に、道を覆った枯れ葉が|囁《ささや》き合うように鳴り……そこで私は、はたと気づく。
季節が、違う。十一年前の、これは夏の終わりではない。秋もかなり深まり、木々の葉が色を変えて枝だから落ちはじめた頃の……。
……ああ、母さま。
|拭《ぬぐ》い去れぬ罪悪感に|苛《さいな》まれつつ、私は恐る恐る足を踏み出す。
小道の奥に建物の玄関が見える。茶色い両開きのその扉の前にそして、柳色の着物をまとったあの人の後ろ姿が見える。
……母さま。
物に怯えたように突然、蜩が鳴きやむ。頭上に広がる夕焼け雲の赤が、するとやにわに鮮やかさを増し、私の心には冷たい戦慄が走る。
……いけない、母さま。
叫ぼうとしたのだけれど、どうしても声が出なかった。追いかけようとしたのだけれど、どうしても足が動かなかった。
……いけない、母さま。
……戻って、母さま。
必死の想いはとうとう届くことなく、あの人は扉を開け、洋館の中に姿を消してしまう。
……母さま。
私は無力感に打ちひしがれて立ち尽くす。夕焼け雲の赤はいよいよ鮮やかさを増しつづけ、雲そのものの空全体を覆い尽くさんばかりに膨れ上がり、やがてそこから地上に向けて、毒々しいまでの深紅に彩られた雨が降りはじめる。雨……いや、雨ではない。雨ではなくて、あれは炎だ。燃えたぎる無数の炎が、まるで火山弾の群れさながらに、あの人の入っていった洋館めがけて降り注いでくるのだ。
火は見る間に建物に燃え移り、建物を包み込む。夕焼け空はいつしか光を失い、夜空の暗黒に取って代わられている。非情に燃え上がる巨大な赤黒い火炎が、周囲の闇を激しく焦がす。
――駄目だ、近寄っちゃあ。
誰かの声が、すぐそばで。
――危ない。ほら、下がってなさい。
火災現場に集まった大人たちが、建物に近づこうとする私を押しとどめて放った命令だった。
……母さま。
私は泣きながら叫んでいた。
……ああ、母さま。
母さま、母さま、母さま……。
……そう。そうだ。こうして十一年前のあの秋の夜、私の母は帰らぬ人となってしまったのだった。享年三十一。まわりの者すべてにとってあまりにも早すぎる、それは唐突な死であった。
あの日の真実は、いったいどこにあったのだろうか。
あの秋の日の夕刻から夜にかけて、私の実家の近所にあったあの洋館で大きな火災が発生した。全焼した建物の跡から翌朝、私の母と|思《おぼ》しき女性の焼死体が発見された。――誰しもに共通して了解されている事実は、恐らくそれだけだろうと思う。
無人のあの屋敷で何故、そんな火災が起こったのかは判然としない。放火だったのか、自然発火だったのか、それとも何らかの事故だったのか。原因は穴居のところ不明のまま、時間は過ぎ去った。
あの人は――母は、すでに火の手が上がっている建物の中に独り飛び込んでいったのだという。ひどく切羽詰まった様子で、しきりに何事かを口走りながら……と、これは彼女の行動を現場近くで目撃した幾人かの証言である。私が火事の騒ぎを知ったのは、その何十分か後だった。それまでの間、自分がどこで何をしていたのかはよく覚えていない。家にいなかったことだけは確かだ。一人でどこか外に出ていたと思うのだけれど、それ以上の具体的な記憶は残っていない。
私が現場を見にいった時にはもう、火勢は駆けつけた消防隊員たちも怯むほどに激しくなっていた。その場にいた誰かから母が中にいるらしいと聞かされて、私は驚き、混乱し、建物に近づこうとするのを大人たちに止められ、そうしてただ泣き叫ぶしかなかった。救助のため屋内に突入することは、どれほど訓練を受けた消防士にももはや不可能な状況だった。
もしかすると母は、この私を探して建物の中に飛び込んでいったのかもしれない。
|密《ひそ》かに私はそう考えた。
同じ年のあの夏の終わりの日、弟の告げ口のせいで母に厳しくたしなめられたあとも、私は一人でこっそりとあの洋館に忍び込みつづけていた。ひょっとして、母はそのことに気がついていたのではないか。だからあの人は、火災が発生したあの夕刻も、家に姿の見えない私がまたあの中で遊んでいるのではないかと思って、それで……。
こんなふうに考えるのは、あるいは私の愚かな願望の現われなのかもしれない。
あの人がもしも本当に、みずからの命の危険も顧みず、我が子の――弟ではなく私の[#「弟ではなく私の」に傍点]――身を案じてそのような行動に出たのだとしたら。
そうであってくれたら……と、密やかに望む貧しい心の一方にはしかし、当然ながらまったく逆の想いも強く存在する。もしもそうであったなら、それはつまり、私のせいで[#「私のせいで」に傍点]あの人は、あの火災に巻き込まれて命を落としてしまった、ということに他ならないわけだから。私のせいで[#「私のせいで」に傍点]。あの人の云いつけに|背《そむ》いて、あの洋館に忍び込むことをやめなかった、この私のせいで……。
……こうして。
あの人の記憶はそこ[#「そこ」に傍点]で固定されてしまったのだった。優しく美しい、冷たく恐ろしい、すぐ近くにいてとても遠い……そんな引き裂かれた形のまま。どんな修正も受けつけようがない、硬い厚い殻に包まれて。
今年五月のあの夜、|白山《はくさん》の|玄児《げんじ》宅のそばで起こった例の火災。あの時の光景が、状況が、当時まだ事故の後遺症で記憶をなくした状態でいた私に、十一年前のこの出来事を思い出させるきっかけとなったことは云うまでもない。
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2
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終わらない夢の中で、非情な炎は|猛々《たけだけ》しく燃えつづける。
――いけませんよ。
炎の奥から響きだしてくる母の声。無惨に焼け|爛《ただ》れ、原型を失っていく母の顔が、闇を焦がす|紅蓮《ぐれん》の揺らめきに重なって浮かぶ。
――いけませんよ。 さん。
その声が、その顔が、やおら母とは違う、別の女性の声と顔に移り変わる。
――お元気で、 さん。
……ああ、これは。
――くれぐれもお|身体《からだ》には気をつけて。
この声は。この顔は。
これは、そう、彼女[#「彼女」に傍点]の声だ。彼女[#「彼女」に傍点]の顔だ。故郷の町に住む、私よりも二つ年下の……。
昨年の春、私の十八の誕生日に機を合わせて、私と彼女は将来の結婚を約束した。古いしきたりに則って両家の間で取り交わされた、確かに今時にしては珍しいような早い婚約だった。
彼女は私の母方の|従妹《いとこ》に当たる娘で、現在は地元の女子高校に通っている。私が東京に行ってからは、二週間と空けずに長い手紙を書いてよこす。事故のあと玄児の許に転がり込んでいたあの時期は、いくら手紙を出してもまったく返事が来ないものだから、ずいぶんと心配をかけたらしい。
――お元気ですか、 さん。
これは彼女の声。これは彼女の顔。
――大学のお勉強、頑張ってくださいね。
これは彼女の……いや、待て。彼女は……彼女の名は何というのだったか。彼女の苗字は、彼女の名前は……ああ、どうしてだろう。どうして思い出せない。夢の中だから、か。それともまさか、私はまた記憶を失ってしまったのだろうか。
何故かしらその姓名を思い出すことのできない彼女の顔がそこで、十一年前の母の顔に戻る。だが、私が「母さま」と呼ぼうとするとその瞬間に、それは再び彼女の顔に変わってしまい……。
……|戸惑《とまど》う必要はない。
今さら深く考えてみるまでもなく、そう、私はとうに気づいている。母方の従妹である彼女。その顔に、その声に……もしかしたらその存在全体に、自分が亡き母の面影を見出そうとしているのかもしれないということに。――分っている。自覚はできている。
――あのね、 さん。
私の名を呼ぶ声。将来を約束した彼女の声。それは同時に、今はもう会うことの叶わぬあの人の声でもあり……。
――あのね、 さま。
透明な|硝子《ガラス》細工の鈴が鳴るような。あるいは小鳥の|囀《さえず》りにも似た……。
――あのね、|中也《ちゅうや》さま。
……違う。これは。この声は。
――びっくりしちゃった? 中也さま。
――お怒りになった? 中也さま。
炎の揺らめきに重なって浮かぶその顔が大きくたわみ、それからおもむろに分裂して二つになる。
――あのね、中也さま。
――あたしたち、中也さまにお願いがあるの。
|美鳥《みどり》と|美魚《みお》。美しい|畸型《きけい》の姉妹の、二つのまったく同じ顔が、二つのまったく同じ声で。
――駄目? 中也さま。
――あたしたちのこと、お嫌い?
……私は一人で、あなたたちは二人だから、そういうのは許されないんですよ。
私はあたふたと答える。
……一人の男性が二人の女性と結婚すると、重婚といって罪になるんです。
――それなら大丈夫よ。
――だって、あたしたちは二人で一人だから。
――そうそう。二人で一人だもの。
……二人で一人。脇腹から腰のあたりで二つの肉体が結合した、世にも|稀《まれ》なる「完全なH型二重体」の彼女たち。
――そしてずっと一緒に……ね、中也さま。
――いつまでも一緒に……ね、中也さま。
怪しい無邪気さで|微笑《ほほえ》む双子が、ふと思い出したように投げかけた|眼差《まなざ》しの先に、長い黒髪の女性が姿を現わす。色白のほっそりとした面立ちの、心ここにあらずといった面持ちの……あれは双子の母、|美惟《みい》だ。
――あたしたちを産んだ時にお母さま、凄くびっくりしちゃったの。
――それでずっと……今でもずっと、びっくりしたままでいるのよ。
そんな自分たちの母親に対して、美鳥と美魚は実のところどんな想いを抱いているのだろう。どのように引き裂かれた形で、二人の心は母親のことを捉えているのだろう。
考えるうちに双子の二つの顔は消え、物云わぬ彼女たちの母の姿も消え、代わって今度は、まん円に見開いた両の目に涙を溜めた女性の顔が現われる。|望和《もわ》だ。
震える長い|睫毛《まつげ》。赤く泣き腫らした|瞼《まぶた》。柿色の紅が引かれた小振りな唇から絞り出される。
――どこに行ったの、|清《きよし》ちゃんは。
かぼそく悲しげな声。
かぼそく悲しげな声。
――あの子は病気なの。
――わたしがいつもちゃんと見ていてあげないと……でもね、それはわたしのせいなのよ。
――あの子の病気はわたしのせい……だからね、わたしが代わってあげたいのに。
――ほんとよ。わたしはほんとに
いきなりぷつんと途切れる言葉。その原因は明らかであった。望和の首に巻かれていた薄紅色のスカーフが、白く柔らかな彼女の喉に深々と喰い込んでいるのだ。
見る見るうちにそして、望和の顔つきが変わっていく。悲しみと|憂《うれ》いに満ちていた表情が、醜く白眼を剥いた苦悶に。血の気の少ない蒼白の肌が、急激な|鬱血《うっけつ》による赤紫に。
その|惨《むご》たらしい変貌を、炎の届かない闇の中空に浮かんで立ち、じっと見守っている者がいる。禿げた頭に灰色のベレー帽を|被《かぶ》った、あれは清か。老人の顔をした九歳の少年。その干からびた唇がかすかに動き、
――お母さん……。
|嗄《しわが》れた声を呟き落とす。
――もう……そんな……。
この少年はいったい、ああして自分自身を責めつづける母親に対して、実のところどんな想いを抱いていたのだろう。どのように引き裂かれた形で、彼の心は母親のことを捉えていたのだろう。その母親が何者かに殺害されたと知った時、彼はどういう気持ちでその事実に向かい合うのだろうか。
燃えつづける炎の勢いは、いつしか目に見えて弱まりつつあった。望和の顔と清の姿はやがて、輪郭が溶け散るようにして闇に同化していき、その時には炎もほとんど消え失せようとしていて、私は夢の中の意識の片隅で、この夢の終わりを漠然と予感したのである。――ところが。
予感はあえなく外れた。
消えた炎に代わって眼前に出現したのは、|漆黒《しっこく》の闇を背に座した異国の美女だった。
胸元まで伸ばしたその髪は背景の色が流れ出してきたかのような黒。鋭くこちらを見据える|双眸《そうぼう》の、その虹彩は濃い褐色。病的なほど白い肌の色にすっきりと高い鼻梁……明らかに日本人の顔立ちではない。鮮やかな紅色の唇が、|妖艶《ようえん》とすら云いたくなるような、美しく官能的な笑みを|湛《たた》えている。
私はすぐさま思い出す。
これは昨夜、〈西館〉二階の〈|宴《うたげ》の間〉で見たあの肖像画だ。初代|玄遙《げんよう》がイタリアより連れ帰り、妻とした女性。玄児の、そして美鳥や美魚、清の曾祖母に当たる女性。――ダリア。
――食したまえ。
動くはずのない肖像画の美女の唇が、不意に動いて声を発する。響いたのはしかし、ダリアその人の声ではなく、昨夜の〈宴〉の席で聞いた、|浦登《うらど》家の人々による異様な唱和であった。
――食したまえ。
――食したまえ、それを。
――食したまえ、その肉を。
途端、これまでずっと見る側≠ナありつづけてきた私の、自身の立場に劇的な変化が起こる。炎上した洋館の門のあたりに独り立っていたはずが、瞬時にして場を移し、〈宴の間〉に据えられたダイニングテーブルの、昨夜と同じ席に着いている自分に気がつく。
部屋には私の他に誰もいない。昨夜と同様、赤い|蝋燭《ろうそく》がそこかしこに灯され、甘ったるいような酸っぱいような、それでいて苦いような、何やら不思議な香りが漂っている。
テーブルの真ん中には、白い布をかけられた皿が置かれている。半端な大きさではない。長円形の皿である。布の膨らみが、皿に盛られた料理の大きさを物語ってもいる。いったいどんな料理がそこにあるのか……好奇心と恐れが複雑に入り雑じった気持ちで、私はその膨らみを見つめる。
だぶだぶの真っ黒な服に身を包んだ生ける影=\―|鬼丸《おにまる》老が、やがて音もなく部屋に入ってくる。目深に被ったフードに隠れていて、相変わらずその顔は見えない。
テーブルのそばまでやってくると、鬼丸老は大皿に掛けられた布の端を両手で|掴《つか》[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、26-下-16]む。そうしながら私に向かって一言、
――お召し上がりなさいませ。
ごわごわに嗄れた声で云うと、布をするりと皿の上から取り除く。
私はそして、それ[#「それ」に傍点]を見た。
――食したまえ。
肖像画のダリアの唇が動き、そこからまた浦登家の人々の声が流れ出る。
――食したまえ、その肉を。
黒塗りのその大皿の上には、かつて一度も見たことがないような料理が載っていた。
全体の大きさは、たとえば豚の丸焼きに似たようなものなのだが、それ[#「それ」に傍点]は決して豚ではない。深緑色の大振りな|鱗《うろこ》に覆われた、巨大な魚の尾のような部分が手前にあるのだが、それ[#「それ」に傍点]は決して魚でもない。鱗で覆われているのはそれ[#「それ」に傍点]の下半身だけで、上半身には鱗どころか、体毛の一本すら生えていない、滑らかな肌がある。二本の腕もある。手には五本の指もある。――ああ、何ということか。これは、この異形の生き物はいったい……。
「人魚」という言葉が、ややあってようやく私の頭に浮かんだ。
人魚?
これは人魚なのか。これが人魚なのか。
|影見湖《かげみこ》に|棲《す》むという伝説の人魚。それが、その「肉」が、年に一度の〈ダリアの宴〉で|饗《きょう》される食材の正体だというのか。
人間で云うと三歳児くらいの体長を持つ、それは確かに「人魚」の姿形をしたものであった。どのような調理がすでに施されているのか、それとも何も施されていないのか、見ただけでは分らない。少なくとも焼いたり煮たりした様子はない。まるでまだ生きているかのようにも感じられるが。
首から上の部分は、さっきまで掛けられていた布とは別に、黒い頭巾のようなもので覆われている。その下にあるのがどんな顔なのか、想像しようとすると震えが走った。
男性なのか女性なのか、露わになった上半身は子供っぽい中性的な体型なので、どちらとも判断できない。人魚と云えば普通、思い浮かぶのは女性だけれども、あの頭巾の下に隠されているのは、するとあどけない少女の顔なのか。それとも、ヒトと魚が溶け合ったような、半魚人めいた恐ろしい面相なのだろうか。
いったん部屋の隅の暗がりに退いた鬼丸老が、再びテーブルのそばまでやってくる。手には刃渡り二十センチばかりの肉切り包丁が握られている。
私は席に着いたまま身を硬直させ、息を詰めてその動きを見守っているしかなかった。
包丁の切っ先が、皿の上の人魚の腹部――ちょうど鱗と肌との境目あたりに近づき、いささかの|躊躇《ちゅうちょ》もなく突き立てられる。びくん、とその一瞬、尾の先が跳ね上がるようにして動いた。一方、上半身にはまるで動きはないから、この反応は恐らく神経の反射みたいなものなのだろう。
まだ生きているというわけではないのだ、きっと――と、私は己に云い聞かせる。まだ生きているわけではない。生きたまま、これから|捌《さば》かれようとしているわけでは……。
鬼丸老の包丁の動きに従って、皮膚の切れ目からじわじわと血が|滲《にじ》み出す。私たちと同じ赤い血液だった。尾の先が跳ね上がったのは最初の一度だけのことで、時間の経過とともに人魚の腹部は丁寧に切り開かれていき、肉の下からはぬらぬらと光る内臓が現われはじめる。むかし理科の授業でやらされた鮒や蛙の解剖実験を、嫌でも私は思い出さざるをえなかった。
仕事≠終えると鬼丸老は、血と|脂《あぶら》で汚れた包丁の刃を黒衣の裾で拭い、再び部屋の隅に退く。
――食したまえ。
肖像画のダリアの唇からまた、人々の声が流れ出す。
――食したまえ、その肉を。
私はしかし、椅子に坐ったまま動けずにいる。大皿の上の、腹を切り開かれた人魚のその姿があまりにも生々しくて、おぞましくて、いくら「食べろ」と命じられてもとうていそんな気にはなれない。
皿から顔を背け、私は目を閉じる。早くこの悪夢が覚めてくれるよう願いつつ、ゆるゆると幾度も首を振ってから、恐る恐る目を開けてみる。
するとそこで、部屋の様子に大きな変化が生じていた。
これまで私以外には誰もいなかったテーブルのまわりに、昨夜の〈宴〉の際と同じ席順で、浦登家の面々が勢揃いしているのである。当主の|柳士郎《りゅうしろう》がいる。美惟とその双子の娘たちがいる。|征順《せいじゅん》と望和に挟まれて清がいる。そして玄児もいる。
――食したまえ。
八つの唇が同時に動き、一つの言葉を放つ。
――食したまえ、その肉を。
八人は一斉に立ち上がり、テーブルの大皿に各々の手を突き出す。皿の上の人魚の、丁寧に切り開かれた腹部を素手で掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、29-下-1]み、ある者はそこから肉を引きちぎり、ある者は内蔵を引きずり出す。ただ一人、それに参加できず身を凍らせている私の許へと、そうして彼らは無言の歩みで集まってくるのだった。
――食したまえ。
柳士郎が云って、手に持った肉片を私の口に押し込んだ。
――食したまえ。
玄児が云って、手に持った内蔵の切れ端を私の口に押し込んだ。
どうしても抵抗することができなかった。征順の手から、美惟の手から、望和の手から、美鳥と美魚の手から、そして清の手から……次々に肉片や内蔵が押し込まれてくるたびに、私は猛烈な吐き気と戦いながらそれらを|咀嚼《そしゃく》し、|嚥下《えんげ》していくしかなかった。途中で呼吸がままならなくなり、涙が|溢《あふ》れ出してもきた。が、それでも私はひたすら食べつづけないわけにはいかなかった。
生臭い、鉄臭い、少しばかり渋みがあって、それでいてどこかしら甘ったるい……これが人魚の肉の味なのか。この肉を食べて、食べ尽くして、私は彼らの「仲間」になってしまうのか。
――では、ここで。
元の席に戻った屋敷の主人が、白濁した双眸で一同を眺め渡し、威圧感に満ちた低い声を響かせた。
――今宵の顔≠ご覧に入れるとしよう。
そう云い放つや、彼みずからが立ち上がって大皿に手を伸ばし、人魚の首から上を覆い隠していた黒い頭巾のようなものを取り去る。
そこに表われたのは、人間の顔だった。しかも、私がよく知っている……いや、よく知っているどころではない。生まれた時からずっと最も近くにあって、恐らくはこの世界の誰よりもその特長を知り尽くしている……ああ、何ということだろう。あれは――あそこにあるのは私の、この私自身の顔ではないか。
驚愕と恐怖に憑かれ、私は叫ぶ。叫び声を|迸《ほとばし》らせたのはしかし、ここ[#「ここ」に傍点]にいる私の口ではなく、大皿の上に血まみれで横たわっている、私と同じ顔をした人魚の口だった。
――びっくりしちゃった? 中也さま。
双子が云って、くすくすと笑う。
――びっくりさせられるのはお嫌い?
私はなおも叫びつづける。人魚の口から叫び声が迸りつづける。半狂乱になって、私は椅子から立ち上がる。一刻も早くこの場から逃げ出そうと、部屋の扉に向かう。するとその途端、足許でごろりと何か[#「何か」に傍点]が動いた。
見ると、そこに転がっていたのは泥で汚れた頭蓋骨だった。それだけではない。そうと分って見渡してみるまでまったく気づかずにいたのだが、この部屋の床には一面に、|夥《おびただ》しい数の白骨が散乱しているのである。これは――これらはすべて人間の骨なのか。それとももしかして、この〈宴の間〉で過去に食された人魚たちの……。
あまりのことにそれ以上一歩も動けなくなってしまい、私は|怖気《おぞけ》をふるいながらまた叫ぶ。皿の上の血まみれの人魚が、そしてまた叫び声を迸らせる。私と同じその顔は凄まじい恐怖に歪み、ぎりぎりまで大きく口が裂け……と、その口の端から突然、もぞもぞと|蠢《うごめ》き出してくるものが。黒い、てらてらとした細長い生き物が……。
……|蜈蚣《むかで》だ、あれは。
そう認識するや否や、人魚の口がさらに大きく、文字どおり耳まで裂け広がった。そうしてその中から、まるで真っ黒な油が噴き上がるように、無数の蜈蚣が迸り出てくるのだった。
ほとんど瞬時にして、テーブルが蜈蚣の大群で溢れ返った。見る間にそれは床に|雪崩《なだ》れ落ち、部屋中に広がり、立ち|竦《すく》むわたしの身体にまでぞろぞろと這い上がってきて……。
……鋭い痛みを感じた。
右の腕に。
右の腕の、肘の内側あたりに。――またか。また私は、あの忌まわしい節足動物の|毒爪《どくそう》に……。
「……わっ」
短く叫んで、上体を跳ね起こす。ようやくそこで、私は長い悪夢から目覚めたのだった。
「大丈夫だ、中也君」
間近から玄児の声が聞こえた。
「大丈夫。動かないで」
「――玄児さん」
「さあ、元どおり横になって」
どこかの部屋のベッドの上に、私はいた。厚手の毛布を身体に掛けられていた。少なくとも上半身には、何も衣服をつけていないことが分かった。
「さあ、中也君」
|促《うなが》されるままに私は、状態を倒して枕に頭を沈める。
玄児は私のすぐ傍らにいた。同じベッドの端に腰掛け、何故だろうか、左手で私の右腕をしっかりと掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、32-上-2]んでいる。
「玄児さん?」
嫌な痛みがあった。
今さっき夢の覚め際に感じたような鋭い痛みではないけれど。――玄児が掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、32-下-6]んでいる右腕に。掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、32-下-6]まれて右腕の、肘の内側あたりに。
「ああ玄児さん、何を」
「大丈夫だよ。じっとして」
そう云って玄児は、腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、32-下-10]んだ手にいっそう力を込める。私は痛みの原因を確かめたくて再び上体を起こし、玄児の手許を覗き込み、そして見た。
掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、32-下-13]まれた右腕の、肘の内側あたり。生白い皮膚に青く浮かび上がった静脈から、今しも引き抜かれようとしている銀色の針を。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
その針の本体が、玄児が右手に持っている注射器であることはすぐに理解できた。気を失っていた私のために何か薬剤を注射してくれたのか。何とも云えぬ違和感を覚えつつも、いったんはそう考え、納得した私だったのである。
握っていた私の腕を放し、玄児はベッドの端から立ち上がる。その際、注射器のシリンダーの中に少量の液体が残っているのがちらっと目に入った。私が急に跳ね起きたせいで、用意したすべてを注入できなかったのだろうか。――にしても、ああ、あの液体の色は何だろう。濃厚な、とろりとしたあの赤い色。まるで、そう、人の生き血のような。
とっさに若干の不審を覚えたものの、それ以上そこで疑いを深めることはしなかった。いや、できなかったというのが正直なところだろうか。目が覚めたばかりでまだ、半ば意識が|朦朧《もうろう》としていたから。悪夢の余韻がじくじくと頭にまとわりつき、なかなか思考を目の前の現実に集中させられない状態だったから。
私は自分の右腕に視線を移す。注射針が抜かれた静脈からぷつんと赤い|雫《しずく》が滲み、膨らみ、今にも弾けて流れ出しそうになっている。かすかに漂うエタノールの臭気。冷感とともに鈍い痛みがまだ、そのあたりにある。
玄児の手が伸びてきて、注射の痕に脱脂綿を押し当てる。|絆創膏《ばんそうこう》を貼り付けてそれを固定すると、玄児は私に肘を曲げさせて、
「しばらくこのままで」
と命じた。
「さあ、横になって」
云われるままに、私はは再び枕に頭を下ろす。
「ずいぶんうなされていたねえ、中也君」
ベッドの脇に置かれていたストゥールに坐り直しながら、玄児が私の顔を覗き込む。
「どんな悪い夢を見ていたのかな」
答えようとして、声を詰まらせた。徐々に|曖昧化《あいまいか》しつつあったさっきの悪夢の記憶が、やおら生々しい形を取り戻して心に広がってくる。言葉にして説明したらその途端、また同じ悪夢の中に引きずり込まれてしまいそうな気がして、私は玄児の目から視線を|逸《そ》らした。枕に頭を載せたまま小さな一度、首を横に振った。
玄児はすると、「まさか」と呟いて鋭く眉をひそめた。
「まさか君、中也君……何があったのかは憶えているね」
問いかけながら、逸らした視線を追うように顔を近づけてきて、
「自分が何者なのか。ここがどこなのか。今がいつなのか。気を失う前に何があったのか。まさか全部忘れてしまっては……」
ああ、そうか。この四月に私たちが出会った例の事故のあとの状況を、やはり玄児は思い出してしまうわけだ。意識を取り戻した私が、あの時のようにまたすべての記憶を失ってしまっているのではないか、と。|覚束《おぼつか》ない私の反応を見て、急に心配になってきたのだろう。
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記憶といふものが
もうまるでない
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|中原《なかはら》中也の「昏睡」の断片がおもむろに脳裡に浮かび上がってき、水に滲むようにして消えた。
[#ここから2字下げ]
往來を歩きながら
めまひがするやう
[#ここで字下げ終わり]
「ここはどこですか」
と、そこで私が|訊《き》き返したのは、別に玄児の心配を|煽《あお》ろうと思ったからではない。
「今はいったい……」
額面どおりの、それは質問であった。自分が何者なのかはちゃんと憶えているし[#ここから太字](……自分[#「自分」に傍点]は何者なのか。ふとそれが、明確な疑問の形となって|迫《せ》り出してきたが)[#ここで太字終わり]、ここが|暗黒館《あんこくかん》の名で呼ばれる浦登家の屋敷の中であることも分っている。気を失うに至った経緯も委細に思い出せる[#ここから太字](すぐにまた|混沌《こんとん》に呑み込まれてしまい……)[#ここで太字終わり]。けれどもそのあと――あのおぞましい人骨の沼≠前にしてぬかるみの中に倒れ、意識が現実から遠のいてしまったあと――の出来事については、当然ながらすべてが私の記憶の埒外[#「記憶の埒外」に傍点]にあるわけだった。だから……。
「ここはどこですか。この部屋は?」
言葉を補って、私は玄児に訊き直した。
「今はいったい……私はどのくらいの間、意識をなくして?」
「〈北館〉二階の、俺の寝室だよ」
玄児はちょっと安心したように表情を緩め、近づけていた顔を離した。
「今はね、日が変わって二十六日、金曜日の午前一時過ぎ、だ。かれこれ五時間ばかり、君は眠りつづけていたか計算になる」
「五時間……」
長いのか短いのか[#ここから太字](日が変わって二十六日……九月二十六日の、今は……)[#ここで太字終わり]、判断に苦しむ空白である。その間ずっと、玄児は私のそばに付いていてくれたのだろうか。――いや、それはあるまい。諸々の状況を考え合わせるにつけ、そんなことはありえないはずだが。
「気分はどうかな。熱っぽいとか吐きそうだとか、そういう自覚症状はない?」
訊かれて、意識的に自身の感覚を探ってみる。熱感も吐き気もない。寒気もしないし、頭痛も感じない。とりあえず「ええ」と答えた私だったけれど、十全に気分が良好であったわけでは決してない。
曲げた右肘の内側の、注射の痕の鈍痛が徐々に薄らいでくるのと入れ違いに、反対側――左手の甲のあたりを中心にして、思い出したように別の痛みが顕在化してきていた。我慢できないほどのものではないのだが、ずきずきとひどく痛む。何故そこがそのように痛むのか、原因は考えるまでもなかった。
「そっちの手は痛いだろう」
すかさず玄児がそう云ったのは、私が毛布の下でごそりと左手を動かしたからか。その際に私が、不快感のあまり顔を|顰《しか》めたのを見て取って、だろうか。
「蜈蚣に咬まれていたのは、手の甲と手首の二箇所だ。それだけで済んで幸いだったとは云えるね。俺が目にした限りでも、でかいのが五、六匹はいたから。よりによってそんなにたくさんの蜈蚣が集まっていたところに、運悪く手を突っこんでしまったんだな」
私は思わず「うう」と|呻《うめ》いた。その時の情景を少しでも具体的に思い出すだけで、全身に激しく鳥肌が立った。
幼い時分に一度、蜜蜂に足を刺された経験はあるが、蜈蚣はこれが初めてだった。その瞬間の激痛はどちらも似た感じだったと思うのだけれど、視覚的な衝撃度という点では比べるべくもない。当分の間私は、あの醜怪な蠢きの群れと遭遇する悪夢に、繰り返し悩まされる覚悟をしなければならないのかもしれない。
「野口《のぐち》先生が|然《しか》るべき手当てをしてくれたから、まず心配は要らないと思う。下手をすると|壊疽《えそ》を起こしたりすることもあるらしいがね、少なくとも蜈蚣の毒で命を失った例はないというから。発熱もないようだし、まあ大丈夫だろう」
「…………」
「しばらく腫れと痛みが続くが、遠からず治まる。それまではちょっと辛抱、だな」
「――ええ」
|頷《うなず》きながら、毛布の下で再び左手を動かしてみる。甲と|掌《てのひら》から手首にかけて、厚く包帯が巻かれているのが感触で分った。腫れている感じも分るし、痛みの源が二箇所にあるというのも、そう云われてみると確かにそのように感じ取れる。
「蜈蚣は……多いのですか、この島」
我れながら間の抜けた質問だと思いつつ私が尋ねると、玄児は苦笑混じりに、
「こんな山奥だからねえ、この島の中だけでも蜈蚣の百匹や二百匹、いたって全然おかしくないさ。建物の中にもたまに入ってくるから、家の者はみんなけっこう慣れっこなんだが。しかし、いつ見てもあんまり気持ちのいい生き物じゃないな」
「――はあ」
「君が咬まれたのは、ありゃあ|鳶頭蜈蚣《とびずむかで》だね。頭の部分が濃い鳶色をしているから、そんなふうに呼ばれる。よく似たので|青頭《あおず》蜈蚣ってやつもいるが、鳶頭の方が大きい。全長十五センチ、とかね。日本に生息する最大の蜈蚣だよ」
十五センチ、か。紛れもなくそのくらいの体長はあったように思う。いや、もっと大きかったようにも思うが。
全身にまた鳥肌を立てながら、私は「もういいです」と云うように、枕の上で首を振り動かした。けれども玄児はお構いなしに、妙に得々とした調子で蜈蚣に関する講釈をつづける。
「蜈蚣ってやつはああ見えて、たいそう愛情深い生き物でもあるんだぜ。雌は初夏に数十個の卵を産むんだが、幼虫が|孵《かえ》っても無事に巣立つまでは、二ヶ月間も飲まず喰わずで守りつづけるっていう。何とも感動的な母性愛じゃないか」
「…………」
「もちろん本能レヴェルでそのように行動することが決定づけられているんだろうから、『母性愛』なんていう人間的な価値観を持ってきて語るのはナンセンスなんだが。それにしても、ねえ中也君、こういった自然界のあれこれと引き比べてみると、俺たち人間というのが生物としていかにいびつな、畸型的な存在なのかがよく分る。今さらながら、ではあるがね」
「――はあ」
「ま、それはさておき」
玄児はベッドに向かって前|屈《かが》みになっていた身体を伸ばし、|尖《とが》った|顎《あご》に右の掌を当てながら私の頭を見据えた。黒いズボンに黒い長袖シャツ、黒いカーディガンという変わらぬ黒ずくめの出で立ちだが、着衣のそれぞれは五時間前とは物が違っている。あれだけ外で雨に濡れたのだから、館内に戻ってきてすべてを着替えたのは当然のことだった。
「大変だったんだぜ、あそこで気を失ってしまった君を建物まで連れ帰ってくるのは。四月のあの事故の時の方が、救急車で運べた分まだしも楽だったかもしれない」
「――申し訳ありません」
私は弱々しく息をついた。
「自分でも、まさかあんな……」
「仕方あるまいさ。どうなってしまうことかと心配はしたが、初めに恐れたほど深刻な事態には至らなかったようだしね。――良かった」
「良かったよ」と繰り返して玄児は、顎に当てていた手を外し、おもむろにこちらへ伸ばしてくる。そうして私の、寝乱れた横髪に中指の先を絡ませたかと思うと、つーっと動かしてそのまま|頬《ほほ》をゆっくりと撫で下ろした。
生きている人間のものとは思えないような、何だか異様に冷たい感触であった。
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4
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「もう一度訊いておくが中也君、左手が痛む以外には、とりたてて不調はないんだね」
「――ええ。大丈夫、だと思います」
玄児は「よし」と頷いて、
「君の服は全部、しのぶさんに洗濯を頼んだ。腕時計はそこ――そっちのサイドテーブルに。シャツのポケットに入っていた煙草は、ぐしょ濡れでどうしようもなさそうだったから捨てちまったよ。吸いたければ、俺のを」
「ああ、はい」
「着替えはとりあえず、俺の寝間着でも使えばいいだろう。それとも、君の荷物から取ってきてやろうか。何なら新しい煙草も」
「ああ、いえ。それはあとで、自分で」
煙草を吸いたい気分ではとてもなかったし、着替えの服も別にどうでも良かった。それよりも当面、ひどく喉が渇いている。からからになりすぎて、唾液もうまく飲み込めないほどに。そのせいでまともに声が出せなくなってしまいそうなほどに。
そう訴えると玄児は、ストゥールから立ち上がって壁際のサイドボードの前まで行き、その上に置いてあった水差しの水を湯呑みに注いで持ってきてくれた。左手の痛みをこらえつつ、私は上体を起こした。右肘はもう伸ばしても構うまい。そうして受け取った湯呑みの水をすべて飲み干し、ようやく人心地がついたかというところで――。
私はふと気づいたのだった。
玄児と私、二人の息遣いと、この部屋のどこかで時を刻みつづける時計の歯車の動き。それ以外の物音がいっさい聞こえてこない、この夜の静寂に。
耳を澄ましながら私は、ゆっくりと室内を見まわす。
玄児の寝室、ということは確か、一階の音楽室の真上に当たる部屋である。窓は一つもない。扉は、私の居場所から向かって見て右手に一枚。二階の主廊下に通じているはずだから、あちらが南側か。とすると、このベッドのヘッドボードが接している背後の壁の向こうは、〈赤の広間〉の回廊だという位置関係になる。
「嵐は収まったのですか」
と、私は訊いた。いくら耳を澄ましてみてもやはり、夜を包み込んだ静寂に揺るぎはなかった。雷鳴はもちろんのこと、雨の音も風の音もまったく聞こえてこない。
「うん、やっと静かになったね」
答えて玄児は、さすがに彼も疲れているのか、薄く|隈《くま》の出来た目許を|擦《こす》った。
「雨のやんだのが二時間ほど前かな。もっともラジオの予報によれば、天気はまだしばらく不安定だろうってことだが」
「そう云えば、停電は?」
例によって何から何まで|艶消《つやけ》しの黒で統一された部屋の中、据えられているのは美鳥と美魚の寝室にあったのと同じような、二人でも三人でもゆったり眠れそうな大きさのベッドである。ベッドの両脇に置かれたサイドテーブルの上で、赤土色の笠の付いた電気スタンドが灯っている。その柔らかな光を見やりながら、私は尋ねた。
「停電はもう解消されたのですか」
「思ったより早くに。自家発電に切り替えるまでもなく、ね」
「電話の方は、相変わらず?」
「ああ。通じないままだ」
覚醒後の半朦朧状態から脱し、悪夢の余韻からも解放され、ようやくいくらか気持ちが落ち着いてきた私であった。そうすると今度は、空白の五時間の間にはいったいどんな出来事があったのか、何がどうなって現在に至るのか、そんな諸々の問題が当然気に懸かりはじめる。知りたい、あるいは知っておかねばならない事柄が次から次へと頭に浮かび、どうにも止めようがなくなってくる。
「あの少年は?」
と、私は訊いた。
「何者だったのですか、あの少年は。どこから何のためにやってきて、どうしてあの時あの広間に。私たちが追いかけて、追いつめて……あのあと彼はどうなったのですか。今はどこで何を」
「だからねえ中也君、大変だったって云ったろう」
玄児は口許に微苦笑を含む。こちらを見つめる眼差しはしかし、にこりとも笑ってはいない、|眉間《みけん》には深い|縦皺《たてじわ》が刻まれている。
「あの少年を放ったらかしにして、君だけを助けるわけにもいかない。逆に、君をあそこに放っておいて、あの少年だけ先に連れ帰るわけにもいかない。ましてや、二人を残して助っ人を呼びに戻るわけにもいかない。待っていても、誰かがやって来るとは望めない」
「――確かに」
「実際問題としては、とにかくまず君の様子を見に駆け戻ったさ。蜈蚣どもを払いのけて、ぐったりした君を抱え上げて、とりあえず手近な木の下の、多少なりとも雨がかからない場所に運んでおいて……で、それからすぐに、泥沼みたいになったあの水溜りで|足掻《あが》いていた少年の方へ向かった。幸い少年はすっかり取り乱しながらも、何とか自力であそこから這い上がってきていてね、それでもとにかく俺のことを物凄く怖がるものだから、|宥《なだ》めるのが一苦労だった。どうにかこうにか気を落ち着かせて、怖がらなくてもいい、逃げなくてもいい、と云い聞かせてね、一緒に屋敷に戻ろう、というところまで話を持っていって……」
――助けて。
くずおれるようにしてあの泥溜り[#「泥溜り」に傍点]の中にしゃがみ込んだ少年の、フードの下から洩れだした弱々しい声を、言葉を、私は思い出す。たかだか五時間ほどしか経っていないのに、何故だかもう幾日も前の出来事であるような気がした。
――助けてください。お願い……おれ、おれは、何も……。
「気を失ったままの君を背負って、少年の手を引っ張って、懐中電灯一本の明りを頼りにね、あの雨の中を濡れ|鼠《ねずみ》になって、ようやくの思いで〈北館〉の裏口まで……いやはや、本当にありゃあ大変だったんだぜ」
「――すみません」
「そう何度も謝る必要はない」
玄児は微苦笑を蒼白い頬まで広げ、私の心の内を見通そうとするように目を細めた。
「結果、こうして君は無事に意識を取り戻したんだからね。困った後遺症もないようだし、まずは苦労が報われたってことさ」
「――はあ」
「館内に戻ったところで、やっと応援が集まってきてくれた。その時点で停電が解消していたのも助かったな」
玄児は煙草を|銜《くわ》え、マッチで火を|点《つ》ける。例の愛用のオイルライターは、雨に濡れて使えなくなってしまっているのか、あるいはオイルが切れてしまったのだろうか。
「君をこの部屋まで運び上げて、野口先生に|診《み》てもらってね。美鳥と美魚もたいそう心配して、しばらくは付きっきりだったんだぜ」
「ああ……」
「あの少年の方は、裏口を入ってすぐのところに食堂があるんだが、とりあえずそこに落ち着かせて、俺が行くまでは|鶴子《つるこ》さんに見張っていてもらうことにした。そのうち君の方の容態が分ってきて、心配したほど危険な状態じゃないと判断がついたものでね、食堂に降りていって少年と話をしたんだが」
「それで? 何者だったわけですか」
と、私は答えを急がせた。あまり|美味《うま》くもなさそうに紫煙をくゆらせながら、玄児は答えた。
「名前は|市朗《いちろう》というらしい」
「いちろう……」
「市場の市に明朗の朗。紙に書かせて確かめた。苗字は|波賀《はが》。まだ中学一年で、I**村にある雑貨屋の一人息子だというんだが」
「何でそれが?」
「いろいろとまあ、彼なりの切実な事情があるようだな。いかんせんすっかり怯えきっていて、頭も混乱しているみたいでね、なかなか話が要を得ない。何とか順を追って聞き出そうとしたんだが、ある程度の筋道は見えてきたものの、まだまだよく分らないことがたくさんある」
少しく言葉を切り、玄児はみずからを納得させるように「うん」と呟いてから、
「ただ、俺が思うには、少なくともあの少年――市朗は望和叔母さんを殺した犯人じゃあないだろう。とてもそんな大それた真似をできる奴には見えないし、動機もまったく考えられないしね。本人の弁によれば、たまたまあの硝子の破れ目を見つけて〈赤の広間〉に忍び込んでいたところを、俺たちに見つかって逃げ出したんだっていうのさ。I**村ではどうも、この浦登家の屋敷と住人について、相当以上に恐ろしげな噂が伝えられているみたいだねえ。いったいどんなふうに聞かされてきたものか、この家の者に見つかると、それこそ捕って喰われるとでも信じ込んでいた模様でね」
そんな屋敷の人間に追いかけられて、暗闇と風雨と雷鳴の中を必死で逃げて、逃げまわって、|挙句《あげく》の果てに行き当たったのがあの人骨の沼≠セったのだ。少年の心中は察して余りある。並大抵の恐怖ではなかっただろう。あまりの恐ろしさに、それこそ気も狂わんばかりであったことだろうが――。
「それにしても、どうして彼はここへ」
私はヘッドボードに背中を|凭《もた》せかけ、玄児の口許に視線を流しながら疑問を並べ立てた。
「いつ、どのようにして、何の目的で……」
「村を出発したのは一昨日――いや、もう|一昨々日《さきおととい》になるのか――、二十三日の朝だったという。君が来たのと同じ日だね。秋分の日で中学は休みだったわけだ」
「一人で?」
「らしいね。迷って偶然ここに|辿《たど》り着いたとかいう話じゃなくて、最初からこの屋敷をめざして村を出たそうだ。あの年頃の男の子ならではの、ちょっとした冒険のつもりだったんだろう。恐ろしい噂のある謎の屋敷を一目見にいこう、という」
「冒険、ですか。なるほど」
「|百目木峠《どうめきとうげ》を越えてここまでずっと歩いてきたんだとしたら、そりゃあかなりの道のりだ。どの程度の見通しを立てて出てきたのか知らないが、無茶なことを考えたものさ」
「まあ、確かに」
「その日の夜になってやっと、市朗は影見湖のほとりに到着した。雨はまだ降りだしていなかったし、天気は下り坂だったと云っても、その後まさかあんなひどい嵐になるとは思っちゃいなかった。けれども……ああそうだ、何でも途中で土砂崩れがあって道が埋まってしまったとか、そんなことを云っていたな。そのせいで、引き返そうにも引き返せなくなってしまったんだと」
「土砂崩れ?」
「うん。地震があって、土砂崩れが起こって……と口走っていた。本当だとしたら、俺たちも万事休す、かもしれないな。このまま天気が回復して、何とか策を練って湖を渡ったとしても、その先の道がそんな有様じゃあね」
「どのくらいの規模の土砂崩れなんでしょう」
「さあ。そこまで詳しくは聞き出せていない」
玄児はサイドテーブルの灰皿に、今にも崩れ落ちそうになっていた煙草の灰を落とす。私は質問を重ねた。
「湖畔に辿り着いたまでは良いとして、島にはどうやって渡ってきたのでしょうか」
「ああ、それね」
「二十三日の夜と云えば、例の手漕ぎの船はあの|江南《えなみ》という青年が乗ってきて、そのあとはもう湖に流れ出してしまっていたでしょう。エンジン付きの方は次の日に|蛭山《ひるやま》さんが乗って、そこであんな事故が起こってしまったわけだし」
「俺も不思議に思って問いただしてみたさ。そうしたら、二十三日は湖畔の駐車場で、ジープの荷台に潜り込んで夜明かしして、翌日の午後になって、湖の裏手に回り込んでみて例の浮き橋を見つけたと云うんだな。で、市朗はあの橋を渡って……」
「ははあ」
それで一つ、話の|繋《つな》がりが見えた気がした。
「そのせいであの浮き橋が、あんな」
「老朽化して危ない状態だったのを、立札の警告に背いて無理に渡ったものだから、あのとおり壊れてしまったってわけだ」
「それが、二十四日の午後」
「|辻褄《つじつま》は合うな。――島に上陸したあとは、ずっとどこかに隠れつづけていたらしいんだがね、その辺のことを詳しく訊こうとしたあたりで、市朗の方に限界が来てしまった」
「限界? と云いますと」
「体力的な限界。もちろん精神的な限界というのもあるだろう。君と同じで、がっくり気を失ってしまったのさ」
「ああ……」
「慌てて野口先生を呼んで診てもらったんだが、とにかくひどい高熱でね。島のどこで、どんなふうにしてさらに一晩を過ごしたのかは分らないが、ろくに物は食べていなかったろうし、雨風を|凌《しの》ぐのも大変だったろうし。疲労しきったところへ風邪をひいてこじらせて……という、まあそんな具合だったみたいでねえ。彼にしてみればぎりぎりの力を振り絞って俺の質問に答えつづけるうち、とうとう精も根も尽き果ててしまい……」
「危険な容態なんですか」
「どのくらい危険なのかは知らないが、野口先生によれば、今晩はもうこのまま眠らせておいた方がいい、と。絶対安静とまでは云わなかったが、無理に目覚めさせてこれ以上あれこれ問いただすことについては、医者としては反対しなければならない、とね」
玄児は|大仰《おおぎょう》に肩を竦めてみせ、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。
「|茅子《かやこ》さんと云い、江南君と云い、君と云い……まさに死屍累々といった様相だな、今この屋敷の中は。おまけに本物の死体も二つ、すでに転がってる」
「――まったく」
「市朗少年は食堂から隣の予備室に移して、あそこにはベッドがあるものだから、とにかく寝かせてある。例によって野口先生が解熱剤やら鎮静剤やらを与えていたから、このまま朝まではぐっすり眠りつづけるだろう」
「――他には?」
私が先を促すと、玄児は大仰にまた肩を竦めて、
「とりあえずそんなところだよ、あの少年を巡っては。朝になって彼の容態が悪くなければ、もっと突っこんで訊かなきゃなるまいね」
「彼は――市朗は、何かを見はしなかったのでしょうか」
半ば独り言のように放った私の言葉に、玄児はすかさず、
「〈赤の広間〉で、かい」
と応じた。
「ええ。たまたまあそこに忍び込んでいたというのは認めるとして、その時間、これもたまたまですけれど、あのアトリエで望和さんがあんなことになったわけでしょう。犯人は部屋の扉からは出られなくって、隣の休憩室から硝子を破って〈赤の広間〉に逃げ出した。その時すでに市朗があそこにいて、その様子を目撃していた、ということは……」
「ありうるね、充分に」
「訊いてみたんですか」
「ちらっとだけね」
玄児は思わせぶりに片頬で微笑した。
「これも、どうにも要を得ない答えしか返ってはこなかったんだが」
「見たのですか、市朗は犯人を」
「それらしきものの影をほんの一瞬だけ、と云っていたが」
「じゃあ……」
「人相や風体は、暗かったのと動転していたのとでよく分らないらしい。いきなり硝子が割れて何か[#「何か」に傍点]が飛び出してきた、としか。びっくりして隠れるのがせいいっぱいで、とても相手の様子を見る余裕などなかったんだろうな。それでも逃げ出さずに〈赤の広間〉の中をうろうろしていたのは、よっぽど外の嵐の中に戻りたくなかったのか。あるいは、二階部の回廊に昇ってみたりもしたようだから、そこに何か、たとえば新たな隠れ場所を探すとか、そういった活路を求めようとしたのか。――まあ、どれもこれも、彼が目覚めてちゃんと話ができるようになったら、改めて問いただせばいいことだろう」
「そうですね」
玄児は一息つき、新たな煙草を銜える。口許にはわずかに皮肉めかしたような笑みが浮かんでいるけれど、眼差しは相変わらず厳しい。眉間の縦皺もずっと消えていない。
市朗という少年の件に関しては、今の話でだいたいのところは把握できたような気がする。だが、それでもまだ、知りたいこと、訊きたいこと、知らねばならないこと、訊かねばならないことは山のようにあった。
たとえばその一つは、市朗を追いつめたあの沼≠ノ溢れていた、大量の人骨の問題である。元々あのあたりの地中に埋められていたものが、激しい雨で|抉《えぐ》り出されて、あんな状態になってしまったのだろうと考えられるわけだが――。
あれはいったい何なのか。誰の骨なのか。何故にあれほど多くの人骨が、あんなところに埋まっていたのか。
「ねえ、玄児さん」
思い切ってここで質問してしまおうと決め、私は玄児の顔を見やった。するとそこでふと、玄児が坐るストゥールの横、電気スタンドと灰皿が置かれたサイドテーブルの端に、先ほどの注射器が無造作に転がっているのが目に留まったのである。
目覚めた直後、右腕の静脈からあの銀色の針が引き抜かれた光景が、あの時に心を掠めた何とも云えない違和感が、ここに来てじわりとまた首をもたげてきた。あの注射器で玄児は、何を私の体内に注入したのだろう。野口医師の指示によることだったのか。それとも玄児の、独自の判断による行ないだったのか。
注射器のシリンダーの中には、さっきも目にしたように少量の液体が残っている。濃厚な、とろりとした赤い色の。あれは……。
「ねえ玄児さん」
今さらながら無性に気になってきて、私はやや語気を強め、尋ねたのだった。
「その注射器ですけど。さっき私に何か……」
「ん? ああ、これか」
献辞はテーブルの方に|一瞥《いちべつ》をくれる。ほんの少し返答をためらったように見えたが、すぐに口許を引き締めて、
「君の身体がどうにも心配だったものでね。念のためにと思って、俺の判断で」
「中に残っている、その赤い液体は?」
私は注射器を指さして訊いた。
「そういう色の薬なんですか。それとも……血、なんでしょうか。だとしたら、さっきのは何かを注射したんじゃなくて、私の血を採ろうとして」
でなければ単に、静脈中の血液がシリンダーの中に逆流して、薬剤の残りに混じってしまっただけのことなのか。
「君の血を?」
そう云って玄児は、くっ[#「くっ」に傍点]と口の中で笑いを噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]み殺した。
「違う。逆だ」
「――逆?」
「そう」
頷いて、玄児はテーブルから注射器を取り上げる。そうして中に残っている液体を、電気スタンドの光にかざすようにして眺めながら、
「変に隠し立てしても意味がないことだからね、教えてやるよ」
私は身を硬くして玄児の手許を見つめる。玄児はそんな私に、何かしら訴えかけるような、微妙に熱を帯びた眼差しを向けて、
「確かに血だよ、これは」
と云った。
「しかし、君の血を採ろうとしたんじゃない。その逆だ。つまりね、君の身体にこの血を注入したわけさ[#「君の身体にこの血を注入したわけさ」に傍点]」
「血を、私に?」
包帯の下の傷と腫れの痛みも忘れて、私は思わず左手で右腕の注射痕を押さえた。
「それは、いったい誰の」
「俺の――浦登玄児の血さ」
注射器のピストンに親指を当て、銀色の針先にひとしずくの赤い液体を押し出しながら、玄児は薄い唇の端でにやりと笑った。
「初代玄遙とダリア、その直系の子孫であるこの俺のね」
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5
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私は絶句した。
彼の――玄児の血を? それを私に? あの注射器で、この私の身体の中に?
どういうことなのか。何故そのような行いを、玄児はしたのか、せねばならなかったのか。
「心配だったものでね」と彼は云った。心配だから、念のために……と。その意味を、そこにある意図を、私はどう受け止めれば良いのか。――ああ、どうして玄児はそんなふうに笑う? 唇に浮かんだその笑みはいったい、彼のどのような感情の表れなのだろう。
強い当惑の中から唯一、状況に対する常識的な理由付けとして浮上してきたのは、「輸血」という言葉であった。だがしかし、私は別に、緊急のそれが必要であるような大怪我などしていない。していないはずだ。現に今、蜈蚣に咬まれた左手の傷以外には何も、肉体に感じる痛みはないのだから。
「血液型は合っているよ」
玄児は笑みを消し、何やら取って付けたように説明を加えた。
「君はA型だったね。俺も同じAだから、溶血性の副作用を起こしたりする心配はない」
「――何で」
右腕の注射痕を押さえたまま、私は|喘《あえ》ぐような声で訊いた。
「何でそんな、輸血が必要だったんですか。私はどこにも、それほど大きな怪我は……」
「蜈蚣の毒にはね、中也君、|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、178-下-17]鼠《むささび》の生き血が特効薬なのさ」
「…………」
「というのは冗談だがね」
玄児はまた唇の端に笑みを作り、すいと私から目を逸らす。そうして注射器を元のサイドテーブルに置くと、それ以上は何も云わずに新しい煙草を銜えようとするのだった。
私は、もちろんその「冗談」に応えて笑うことなどできるはずもなく、テーブルに戻された注射器を横目で見つづける。シリンダーの中にわずかに残っている、赤い……あれは血。あれは浦登玄児の血。恐らくは玄児自身が、あの同じ注射器で、あの同じ銀色の針をみずからの欠陥に突き刺して抜き取った……それが、さっき私の静脈に注入され、その中を流れる私の血と混じり合って、私の肉体の隅々にまで、もう……。
嫌な、そして妙な気分だった。
異物の侵入に対する、ほとんど生理的な抵抗感と嫌悪感――蜈蚣の毒も他人の血液も「異物」ということでは同じなのだから――。その結果、すでにして自分が自分ではないものの支配下に置かれてしまっているような、もはやどうにも取り返しがつかないところにまで追い込まれようとしているような、そんな感覚が|疼《うず》く。ひどく屈辱的な、被虐的な。けれど一方で、ややもするとそのことにある種の甘美感を覚えてしまいかねないような、この妙な……ああいや、いけない。いけない、それは違う。
違う。そんなふうに感じるのは違う。そんなふうに感じて、そこに呑み込まれてしまって良い局面では、今はない。ないと思う。
私はした唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みしめ、強く小さく首を振る。
ここで呑み込まれてはいけない。ここで踏みとどまらなければならない。ここでしっかりと、自分の感情をあるべき形[#「あるべき形」に傍点]に持ち直さなければいけない。でないと私は……。
注射痕を押さえる左手に、意識的に力を込めた。倍加する包帯の下の痛み。思わず呻き声が洩れそうになるのをこらえつつ、肉体的なその苦痛を心中に流し込むことによって、放っておくと緩やかに分裂してしまいそうな感情を制御する。私は――。
私はもう、我慢できない。
明確な言葉にして、そう思った。思うや否や、これまで心の内に到るところに|蟠《わだかま》りつづけてきたさまざまな想いが|縒《よ》り合わさって一つの流れとなり、それこそ|堰《せき》を切ったように溢れ出してきて、感情を激情へと|昂《たか》ぶらせた。
我慢できない。もうこれ以上、我慢できない。
声には出さず、私は|捲《まく》し立てた。
これではまるで、良いように|蹂躙《じゅうりん》されているだけではないか。蹂躙……そう、まさにそうだ。一方的に踏みにじられ、|弄《もてあそ》ばれ、侵されているようなものではないか。わずかな予備知識のみでこの秘密だらけの屋敷に連れてこられて、あんな|胡散臭《うさんくさ》い儀式≠ノほとんど無理やり参加させられて、そのくせ肝心なところは何も知らされないまま、かと思うと館内で二件もの殺人が発生する異常事態に巻き込まれてしまい、外部に連絡を取ることもできず、許されず、挙句の果てにはこんな……。
「玄児さん」
|眥《まなじり》を決して、私は年上の友人を|睨《にらみ》み据えた。内心の激情とは裏腹に、喉を震わせた声の色は冷え冷えと硬く、当たり前な抑揚を欠いていた。
「玄児さん、私はもう……」
「おやおや」とでも云うように眉を上げると、玄児は火を点けていない煙草を口の端に銜えたまま、ベッドに片手を突いて私の顔を覗き込み、
「どうした、中也君」
聞き分けのない、年の離れた弟を宥めすかすような調子で云った。
「君らしくないねえ。そんな怖い声で」
「子供扱いはやめてください」
と、私は突き放した。
「前にも云いましたよね。必要以上に子供扱いされるのは嫌いなんです」
「おお、怖い」
ベッドに突いた手を上げ、玄児はわざとらしく苦笑する。
「怒ってるね、中也君」
「怒る?」
「ああ、やっぱり怒ってる」
「怒りもするでしょう、普通」
と云って、私は見開いていた目を|眇《すが》めた。
「気を失った私をここまで運んでくれたことには感謝します。けれどいったい、これは」
「俺の血を注射されたのが、そんなに気に入らないのかい」
「ですから、何でそんなことを」
「必要だと思ったからさ」
「必要? でも私は……」
「昨日は起きた時からずっと具合が悪そうだったろう。だからよけいに、ね」
「それは、前の晩に|葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲みすぎたせいで」
「うん、きっとそうなんだろうが。しかし一応、念のためにと思って。悪気があったわけじゃあ、もちろんない」
そう云って玄児は、緩く小さく首を振る。心なしかその動きは、どこかしら少し寂しげに、あるいは哀しげにも見えたのだが、そんなことで私の気持ちは収まらない。
「ねえ玄児さん」
と、むしろいくらか声を尖らせると、上体を起こしたまま身体の向きを変えて坐り直す。ストゥールの玄児と、ほんの数十センチの距離を置いて向かい合った格好になって、
「今だけの話じゃありません。これは……ここは、ここで、いったい私は何をされたのですか。されようとしているのですか」
「別に君を捕って喰おうってわけじゃないさ……って、はあん、これじゃあまるであの市朗少年とおんなじだな」
「はぐらかさないでください」
私はぴしゃりと云った。
「いい加減、教えてくれてもいいでしょう。私はもう、これ以上こんな状態が続くのは……」
「何を? そんなに目を吊り上げて俺を睨みつけなきゃならないほど、君は何を知りたい」
「云うまでもないことでしょう。この家の秘密、そのすべてを、です。それを知る権利が私にはある。あるはずだと思います」
「――ふん」
玄児は銜えたままでいた煙草を口の端から抜き取って、シャツのポケットに落とした。それからちょっと背筋を伸ばし、
「権利は、確かにあるだろう」
半眼で私の顔を見据えながら、含んで聞かせるような調子で云うのだった。
「だからね、中也君、俺は別に、ことさら隠し立てをして、君を困らせようなんてつもりはないのさ。話すタイミングと話し方を考えているだけでね。遅かれ早かれ、君のこの家に対する疑問はすべて解消されることになる。夕方に俺の書斎で、そう云ったろう。決して悪いようにはしない、ともね」
「…………」
「信じてくれないのかな」
私は何とも答えられなかった。
信じる、信じないの問題では、これはないのだ。玄児の言動や人格そのものを積極的に疑っているわけではない。疑いたいわけではない。彼が嘘をついているとか、私を騙そうとしているとか陥れようとしているとか、そのように考えて怒っているわけではない――と思うのである。
ただ、そう、私は不安なのだ。知らないでいること、知らされないでいることが、どうしようもなく不安でたまらないのだ。根本にあるのは、やはりそう、それだ。もはや私にできる許容の限界まで膨れ上がってしまったその不安ゆえの、きっとこれは怒りなのだ。だから……。
玄児は静かにストゥールから立ち上がった。
私の沈黙をどう受け取ったものか、黒い天井を振り仰ぎながら「そうだよなあ」と一言、私にもはっきり聞こえるような声で呟くと、サイドボードの前までつかつかと足を進める。先ほど私に与えてくれた水差しの水を別の湯呑みに注ぎ、二口か三口で一杯を飲み干す。そして――。
「『この家の秘密、そのすべてを』と云ったね。それはつまり」
こちらを振り返りざま、玄児はそう云いながら、ズボンのポケットから何やら白い紙切れを引っ張り出し、
「これ――ここに記してあるような問題だね」
四つに折りたたんであったのを開いて、ひらひらと振ってみせるのだった。その一瞬には何だかわけが分らなかったのだけれど、次の一瞬には私は気がついた。あれは、あの紙切れは……。
「|階下《した》の図書室で見つけたんだよ。机の上に放り出してあったから」
玄児は紙切れを両手に持ち直し、私の方へ突き出してみせる。
「君が書いたんだよね、中也君。アトリエの様子が変だと云って俺が呼びに行く前に」
手にとって確かめてみるまでもなかった。それは私が昨夕、図書室の書き物机でしたためた例のメモだった。あの時点で私が抱いていた多くの疑問を、思いつくままに書き並べていった、あの。
「『疑問点の整理』――相変わらず几帳面な、まるで活字みたいな字を書くねえ」
云って、玄児は唇の端にまたぞろ、にやりと薄笑いを浮かべる。不敵な、とも見えるその笑みの裏に隠された彼の本当の心情を深く推し量ることは、しかし私にはできなかった。そんな心のゆとりはまだまだ持てなかったのだ。
「一通り読み上げてみようか」
玄児が云うのに、私は一拍子遅れて「いえ」とかぶりを振り、
「それには及びません。私は……」
「まあそう云わずに」
と私の|台詞《せりふ》を|遮《さえぎ》って、玄児は元の場所に戻ってくる。ベッドの脇のストゥールにまた、私と近距離で向かい合う格好で坐り、メモ用紙を膝の上に開いて置いて視線を落とした。
「ざっと目は通してあるが、俺自身ももう一度ここで確認しておきたいから」
「確認?」
「君にとってこの家の何が謎であり、疑問であるのか、それをね。俺の口から今後、何をどのように話していくべきか、その指針にもなる」
玄児はそして、私がそこに列記した疑問点を一つ一つ、低く抑えた声で順番に読み上げていったのである。
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○疑問点の整理
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*あの〈宴〉は何なのか?
*あの料理は何だったのか?
*ダリアとはいかなる人物だったのか?
*玄児は何故〈十角塔〉に幽閉されていたのか?
*あの青年は何者なのか?
*〈|惑《まど》いの|檻《おり》〉とは?
*|諸井《もろい》|静《しずか》とはどんな女性だったのか?
*十八年前、|卓蔵《たくぞう》は何故玄遙を殺したのか?
その現場で起こった「人間消失」とは?
*影見湖を染めた「人魚の血」が「吉兆」である、とは?
*|早老症《そうろうしょう》は浦登家に生まれる者にとって宿命的なリスクである、とは?
*望和について玄児が述べたこと。「死にたいと願っても彼女は死ねない」とは?
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読み上げを終えると、玄児はシャツのポケットからさっき戻した煙草を摘み出し、銜え直して火を点ける。そうして彼が黙々とその一本を灰にしてしまうまで待って、私は尋ねた。
「答えてくれるつもりがあるのですか、これらの疑問のすべてに」
「すべてに、というわけにはいかないが」
膝の上からメモを取り上げ、玄児は私に向かって差し出す。「君が持っておけ」ということか。
「つまりだね、この中には俺にもちゃんと答えられない項目もあるって話さ。具体的には、特に『あの青年は何者なのか?』っていう問題。江南君のことだよね、むろんこれは」
「――ええ」
「彼の件は俺にとっても謎だからねえ。知っている人間がいるのなら、誰でもいい、ぜひとも教えてほしいものだよ」
「まあ、それは」と相槌を打って、私は差し出されたメモを受け取る。青いインクでそこに記されたみずからの字の、玄児の云うとおり確かにまるで活字のような筆跡を目で辿りながら、
「その他の問題については、では?」
と迫った。玄児は「そうだな」と呟いてから、
「俺の知る範囲で、という条件付きであれば、その他にはだいたい答えられると思うが。――たとえば十八年前の例の殺人事件については、俺にしたって伝聞でしか知らないわけさ。その頃の自分自身の記憶が、そもそも失われてしまっているわけでもあるから。『諸井静とはどんな女性だったのか?』についても、事情は似たようなものでね」
「〈十角塔〉の件も?」
すかさず私は訊いた。
「最上階のあの部屋に子供の頃、玄児さんが閉じ込められていたという」
「そう……それも同じだな」
玄児は顔を伏せ、いくぶん声を|籠《こ》もらせた。
「事の経緯は聞かされて知っているが、俺自身がその体験を覚えているわけじゃない。――しかしこの件に関しては、もしも生々しい記憶が残っていたとしたら、とても今と同じように父と接することはできないのかもしれないしね。ま、これはこれで良かったんじゃないかと思っている。憶えていないからある程度、他人事みたいに捉えることができる。このくらいには冷静を保つこともできる」
「教えてください、玄児さん」
と、私は喰い下がった。
「どうしてお父上は、実の息子のあなたにそんな仕打ちをしたのですか」
すると玄児は、伏せていた顔を一瞬だけ上げて、
「云ったろう。父は最初の妻であったカンナを、とても愛していたから――さ」
「それは聞きましたが。でも、どうして」
「父はカンナをとても愛していた。だからこそ、俺のことをそんなにも憎んだんだよ」
「憎んだ?」
玄児は溜息混じりに「ああ」と答えてから、
「話してしまおうか、もうここで」
観念したようにそう云い、身を横に向けて足を組む。部屋の隅の何もない空間へと目をやると、それっきり私の方にはいっさい視線を戻そうとせず、
「今から二十七年前の、八月五日のことだ」
と語りはじめた。「八月五日」というその日付には憶えがあった。確かそう、玄児の誕生日である。
「二十七年前の八月五日。――その日もちょうど、昨夜までのようなひどい嵐だったという。それよりさらに二年前に父と結婚した母カンナの腹には、そのとき初めての子供がいて、臨月を迎えていた。そしてね、出産予定日まではまだだいぶ日があるはずだったんだが、よりによってその夜、彼女は急に産気づいてしまったんだ。聞くところによると、数日中には病院に移って、そこで出産する手筈になっていたらしいんだが……。
とにかく急を要する容態で、嵐の中を車で病院まで移送する余裕も、産婆を屋敷に呼ぶ余裕もなかったっていう。それで窮余の策として、父がみずからの手で赤ん坊を取り上げることにしたんだ。彼は野口先生と同じ医学校の出身で、カンナと結婚して浦登家に入るまでは現役の医師としても仕事をしていた男でね、だからそういった決断をした、せざるをえなかったんだろう、と思う。旧〈北館〉のカンナの寝室において、そうしてそれは執り行われた」
言葉を切り、玄児は長い溜息をつく。それでも横を向いた身体は微動だにさせず、視線を私の方に流すこともなく、どこか苦しげな重々しい声で「ところが――」と続けた。
「詳しくはどういう状況だったのか、俺は知らないし知りたいとも思わない。何が原因でそうなったのか、実際問題として誰にどのような責任があったのか、なかったのか。その辺のところも分らないし、今となっては確かめようもない。
結果として残った事実はしかし、はっきりしている。夜が更け、嵐がいよいよ激しくなった頃、館内には産み落とされた赤ん坊の泣き声が響き渡った。だが、その子を産んだ母の方は、父の努力の|甲斐《かい》もなく同じ夜に息を引き取ってしまった」
「…………」
「とまあ、そんな悲劇があったのさ」
云って、玄児はこちらに一瞥をくれる。とっさに応じる文句を見つけることができず、私は黙って目を伏せた。玄児は続けた。
「父は、だから憎んだんだよ。最愛の妻の死と引き替えに生を得た、もっと云うなら、妻を殺して生き残った[#「妻を殺して生き残った」に傍点]その赤ん坊を」
「…………」
「妻を助けられなかった自責の念もあったことだろうがね、もしかしたらそれを打ち消すためにこそ、よりいっそう赤ん坊を憎んだのかもしれない。そこで彼は……」
「妻の敵として憎んだその子を、あの塔に幽閉してしまおうと考えた?」
「そういうことだ――と、俺は聞いている」
「でも玄児さん、いくら何でも……」
喉が詰まりそうになって、私はゆっくりと唾を飲み込んだ。
「それを――その話を、玄児さんは誰に聞いて」
「おおよそのところは、鬼丸老に」
と、玄児は答えた。
「訊き方次第であの人は、自分の知っている事実を必要最低限、答えてくれるから」
――それはわたくしへのご質問ですか。
まるで生ける影≠フような、男女の別さえ定かでない黒衣の老使用人の、ごわごわに嗄れたあの声が耳の奥に|蘇《よみがえ》ってきて、
――どうしても答えよと云われますか。
私は思わずぎゅうと目を閉じた。
「あとは父に直接、聞いてもみたさ。彼は認め、事情を打ち明けてくれた。悪いことをした、という謝罪もその際に聞けたからね、俺としてはとりあえず納得している」
そう云いつつも、玄児の声は相変わらず重々しく苦しげであった。面持ちもいつになくこわばっている。極度の緊張に耐えているようにも見える。無理もないだろう、と思いながら、
「本当に?」
私は首を斜めにして問うた。
「本当に玄児さんは、それで納得しているのですか。カンナさんの死は、確かに柳士郎氏にしてみればひどいショックだったことでしょうが……にしても、だからと云って我が子をそんな、何年もの間あんなところに閉じ込めてしまうなんて」
いくら何でもそれはないのではないか、という、これはこのとき抱いた率直な疑問であった。
玄児はしばらく押し黙った後、「確かにね」と答えてわずかに頷き、何か言葉を続けかけたのだが、そこでふと思い直したように「いや」と左右に首を振って、
「この件については、あとでまた」
右の|蟀谷《こめかみ》あたりに指先を押しつけながら、やはり重々しげな声で云った。
「さすがにちょっと踏ん切りがつかなくてね。焦らすつもりはないんだが、中也君、もう少し待ってくれないか」
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玄児の願い出に対して、私は神妙に頷きを返す。今の話を聞くうち、当初の、怒りの形をした感情の昂りは徐々に収まってきていた。玄児が先を云いあぐねるのも、事が事であるだけに致し方ないだろう、と思った。――が。
ここで気を緩めてはいけない、と私は己に云い聞かせる。聞かねばならないことは、他にもまだたくさん残っているのだから。
「しかし中也君」
口調を改めるとともに、玄児は組んでいた足を下ろしてこちらに向き直った。私が手に持った例のメモに視線を投げかけ、
「そうやって疑問点を書き出してみたりして……君にしても多少はもう、気づいたり想像がついたりしていることがあるんじゃないのかな」
気づいていること。想像がついていること。――ああ、それは……。
「分らないことはもちろん多くあるだろう。そのせいで不安や|苛立《いらだ》ちが|募《つの》るのも、当然と云えば当然だと思う。普通怒りもするだろう、と君は云ったが、まったくそのとおりだ。――すまない」
ふっと短い息を落として、玄児は上目遣いに私を見据えた。
「俺だってね、悪かったとは思ってるんだ。ことに事態がこんなふうになってしまった今となっては、もっと早くに然るべき説明をして、君の理解を求めておくべきだったと反省するところも少なくない」
そうして玄児は、「すまない」ともう一度云って殊勝に頭を下げるのだった。
別にそういった謝罪が欲しかったわけではないので、私は内心たいそう|狼狽《ろうばい》してしまった。だが、今それを玄児に悟られると、またしても話をうやむやにされてしまいかねない。そんな懸念がどうしても捨てられないものだから、私は無言で、なるべく心中を見透かされないよう表情を取り繕う努力をしなければならなかったのである。
そのまま何秒か、いや、何十秒かの時間が、雨の音も風の音もない深夜の静寂の中で過ぎた。
気持ちが落ち着いてくると、左手の傷と腫れが、これまで以上に痛みを主張しはじめた。裸の上半身が肌寒くもなってきた。痛みをこらえ、毛布を引き寄せて掛ける。
「想像がついていることは、あります」
と、そこで私の方が口を開いた。
「確信を持っているわけじゃなくて、何となくそう思う、という程度なんですが」
「ふうん。それはどの項目について」
訊かれて、私は手許のメモにそっと目を落とし、
「『あの料理は何だったのか?』です」
言葉に出してそう答えた途端、先ほどの悪夢で見たあの光景が、どきっとするほどの生々しさで脳裡に映し出される。〈宴の間〉に据えられた黒いダイニングテーブル。その上に置かれたあの、長円形の黒い大皿。その皿に盛られ、大きな白い布で覆われていた、あの異様な……。
玄児は「ふふん」と鼻を鳴らし、すぐに「で?」と先を促した。
「何であると想像するわけかな。君はあれを、〈宴〉で出されたあの料理を」
「それは……」
私は即答をためらった。
「それを、私に云わせたいのですか」
「聞きたいな」
と、玄児は真顔で詰め寄ってくる。
「君が独自にどんな想像に辿り着いたのか、大いに興味がある」
問う者と問われる者の立場が、この時点であっさりと逆転してしまっていた。私はゆっくりと一度目をしばたたき、気を強く持ち直して玄児の顔を睨み返しながら、
「云えば、それが正しいかどうかも含めて、玄児さんの知っていることを全部話してくれますか」
「そのつもりでいるよ」
玄児は躊躇なく答えた。
「今すぐここですべてを、というわけにはいかないが。さっき云いかけた件もあるしね、順を追って、少なくともそう、この夜のうちには必ず」
「今夜中、ですか」
「きちんと説明するためには、いくつか君に見てもらわなきゃならないものもあるんでね」
なるほど、そういうことか――と、一応の合点はいった気がした。こう云っておいて、いざとなったら話をはぐらかすような真似は、よもやするまい。そこでとにかく、私は玄児の要求に従うことにしたのである。
「『肉』という言葉を、この家に来てから私は何度か耳にしています」
なるべく冷静な声を保つよう努めながら、私は自分の「想像」を話しはじめた。
「一昨夜の〈宴〉の場でもその言葉が出たはずですし、その前にもあとにも、私は|伊佐夫《いさお》さんの口から同じ言葉を聞いています。彼のお父上、|首藤《すとう》|利吉《りきち》さんが『何とか肉にありつこうと必死になってる』だの、『今年も肉にはありつけなくて残念でした』だの……」
「伊佐夫君がねえ。はん。いかにも彼の云いそうな皮肉だな」
「この『肉』の件については、美鳥さんと美魚さんにも尋ねてみたんですよ」
「おや、そうなのか」
「そうしたら、伊佐夫さんの云う『肉』とは、〈宴〉の際に出されたあの料理を指していることに間違いはない、と。そしてそれは『とっても特別なもの』なのだ、とも」
「あの子たちは教えてくれなかったのかい、その『特別なもの』の正体を」
「訊き出そうとしてみたんですけどね、彼女たちが云うには、それは玄児さんから聞いた方がいいと。ですから……」
「それで君は、あれこれと想像を巡らせてみたわけだ。あの料理は何だったのか。そこに使われていたらしい『肉』とは何なのか」
「そういうことです」
「で、君の想像によると?」
ストゥールから身を乗り出し、私に顔を近づけて問う玄児の表情は真剣そのものだった。こちらを見つめる双眸はもちろんのこと、その唇にも頬にも、わずかな笑みも緩みも見られない。さっきみずからの出生にまつわる話をした時とは、微妙に質の異なる緊張が|漲《みなぎ》っている。
「私の想像によると――」
脳裡に映し出されたテーブルの大皿の、料理を隠していた広い布がひらりと取り去られる。深緑色の大振りな鱗で覆われた魚のような尾≠ニ、二本の腕が付いた白い肌の上半身が表われる。これは、そうだ、これこそがきっと……。
「人魚なんですね[#「人魚なんですね」に傍点]、あれは[#「あれは」に傍点]」
覚悟を決めて、私は云った。
「影見湖に棲むという伝説の人魚。その『肉』が、〈宴〉のあの料理には使われていたわけなんじゃないのですか」
玄児はいささか驚いたように|瞠目《どうもく》して、「ほう」と低く応じた。私は続けて、
「スープの具として入っていたあの、がさがさした妙なものが『肉』だったのですか。パンに塗ったあのペーストみたいなものも、あるいは。最初に出された葡萄酒には、ひょっとしたら人魚の生き血が混ぜてあったのかも」
「ははあ」
「そう考えると、湖を染めた『人魚の血』が『吉兆』であるという話にも説明がつくと思うんです。要するに玄児さんたち――この浦登家の人たちは、昔から影見湖に棲む人魚の実在を信じていて、それは云わば人魚信仰≠フようなものであって……だから、湖の水が赤く染まるという、『人魚の血』を想起させるような現象を、浦登家にとって歓迎すべき出来事――『吉兆』として受け止めようとするのだ、と」
「なかなか巧い説明をするねえ」
「もう一つ、あります。望和さんについて玄児さんが、『死にたいと願っても、彼女は死ねない』と云ったのは、あれはこういう意味ではありませんか。毎年の〈ダリアの夜〉の〈宴〉で、浦登家の人たちは皆、あのようにして『人魚の肉』を食することになっている。人魚の肉と云えば、当然のようにそこに結びついてくるのは不老不死の効能[#「不老不死の効能」に傍点]、ですよね。望和さんもまた、人魚の肉を食したことによって、すでに不老不死を得ているはずである。ゆえに彼女は、死にたいと願っても死ねない」
そこまでで私は言葉を切り、玄児の口許に目を据えた。さて、どんな反応が返ってくるか。肯定か否定か、それとも……。
「ふん、分った。人魚の肉か。確かにねえ、君にしてみればまあ、そのように想像をしてしまうのも無理からぬことかもしれないな」
そんなふうに云う玄児の声と表情、そこには今さっきまでのような緊張は|窺《うかが》えなかった。どことなくほっとしたようでもあり、見ようによっては何やら愉快そうですらある。
「――違いましたか」
口惜しさと徒労感が入り雑じった心地で私が云うと、玄児は「いやいや」と首を振って、
「まったくの的外れというわけでもない。鋭いところを突いてはいる」
「じゃあ……」
「けれども残念ながらね、中也君、影見湖の人魚なんていうのはあくまでも伝説上のものであって、現実には存在しないのさ。少なくとも今の浦登家には、誰一人としてそんなものを信じている者はいないはずだよ。一昨日も云ったろう。世界各地に人魚の伝説はあるが、どれもこれも人間の想像の産物でしかないって。あちこちに残る人魚の|木乃伊《ミイラ》にしても、全部人間がこしらえた紛い物だって」
「それは……ええ、確かに」
「この湖に人魚なんていやしないよ」
玄児はきっぱりとそう云いきった」
「従って当然、人魚の肉なんて|代物《しろもの》もここにはないさ。ひょっとすると君と同じように、伊佐夫君や首藤のおじさんたちは、あれ[#「あれ」に傍点]が人魚の肉だと誤解しているかもしれない。その可能性は大だがね。しかし違う。あれは――〈ダリアの宴〉で饗されるあの料理は、人魚の肉を使って作られたものなんかでは決してない」
「でも、それじゃあ……」
何だと云うのか。
私とて、人魚などという生き物がこの世に実在すると積極的に信じたかったわけではないのだ。そのくらいの科学的常識は持ち合わせているつもりである。しかしそれでも、いま自分がこの暗黒館において直面している問題については、そうとでも考えるより他に説明のしようがないと思ったのだった。
「人魚ではないのなら、いったいあれは何の『肉』だったというのですか」
「知りたいかい」
そう問い返す玄児の唇にはまた、例の薄笑いが浮かんでいた。
「約束だからね、今夜中にはそれも教えてやるが、その前に――」
ベッドの縁を軽く叩いて、玄児はストゥールから立ち上がる。
「まず一つ、片づけておかなきゃならないことがある。どうだい、中也君。もう起きて歩きまわれるかな」
「――たぶん」
「よし。それじゃあね、とにかく何か服を着て、今から俺に付き合ってくれ」
「どこへ、ですか」
「望和叔母さんのアトリエだよ」
真顔で答えて、玄児は黒いカーディガンの前を掻き合わせた。
「第二の殺人事件が起こってしまったが、依然として警察は来てくれない状況だ。今度は家族の者が殺されたというのに、父は相変わらず、いや、前以上にかたくなに、外部への連絡を拒否している。いま一度あの現場へ行ってみて、俺たちにできる検証と検討をしておきたいんだが」
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第十八章 暴虐の残像
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時刻が午前二時に近づいてきた頃、私たちは玄児の寝室を出て望和のアトリエに向かった。
衣服はとりあえず、玄児の寝間着を借りることになった。黒い|繻子《しゅす》織りのパジャマである。中背の私にはちょっと大きすぎるが、着心地は悪くない。その上に、これも玄児が貸してくれた黒いカーディガン――いったい彼は同じようなものを何着持っているのだろう――を羽織る。腕時計は包帯を巻いていない右の手首に|嵌《は》め、靴はまだ濡れていて使い物にならなかったので、素足にスリッパを履いて廊下に出たのだった。
電話室がある〈東館〉寄りのホールに設けられた階段を降り、東西に延びる主廊下を突っ切って目的の部屋の前に辿り着くまで、私たちの間に会話らしい会話はなかった。
玄児が先に立って、薄暗い階段や廊下を黙々と進む。私はそのあとを何歩か遅れて追う。――ある種病み上がり同然とも云える身体は、辛いというほどでもないのだけれど、何でもない時のように軽くは動いてくれなかった。左手の包帯の下の傷が痛むのもやはり不快だったし、考えてみればそう、かれこれもうまる一日、私は水以外のものは何も口にしていないではないか。それだけからしても普通、まともに力が出るわけがない。
そんな私の状態を気遣ってだろう、玄児は幾度か立ち止まっては振り返り、私が追いつくのを待ってくれた。だが、先ほどの一連のやり取りで、彼にしても多少の気まずさがあるのかもしれない。私が追いついてもそのまま肩を並べて歩こうとはせず、いくぶん早足でまた先へ進んでしまうのだった。
途中で誰かと会うことはなかった。図書室やサロンの前を通った時も中からは何の気配も伝わってこなくて、時間帯を考えればそれは当たり前のことではあるのだが、ふいと私は、自分を取り巻くこの夜の静寂に云い知れぬ薄気味の悪さを憶えた。
長く続いた嵐が収まり、雷鳴も雨や風の音もいっさい聞こえてこない静寂。私自身と先を行く玄児以外、動くものの何一つない静寂。今こうしているうちにもこの異形の館は、その存在自体においてこの夜の暗黒に溶け込み、世界の裏側に向かって深く深く沈み込みつつあって……と、そんな空想を密やかに呼び起こす静寂。もしもここで歩みを止めて立ち尽くしたならば、途端に「私」という存在のすべてが弾け散って無数の粒子となり、建物の真っ黒な天井や壁や床に吸い込まれ、同化させられてしまうのではないかと、そんな|埒《らち》もない幻惑にすら取り憑かれてしまいそうな静寂……。
|迂闊《うかつ》に呼吸をすると、その静寂が空気とともに体内に流れ込んでくるような気がして、それが何とも恐ろしく感じられて、私は思わず両手で口と鼻を塞いだ。が、折りしもその時こちらを振り向いた玄児の物問いたげな視線で、はっと我れに返る。「何でもありませんから」と答えるつもりで首を振ったものの、それでも少しの間、呼吸は止めたままでいつづけた。
アトリエの扉の手前には、もう六時間以上も前のことになるのか、私たちが倒れていたのを起こした例のブロンズ像が、あの時と変わらぬ位置に変わらぬ姿で立っていた。玄児はその胴体に巻きついた蛇の一匹を、左手の指先でつっと撫でながら、
「こいつを倒したのやっぱり伊佐夫君だったよ」
と云った。
「君が意識を失っている間に、本人に問いただしてみた。〈東館〉の部屋に戻って寝ていたのを叩き起こしてね。野口先生が云っていたとおり、さんざん酒を飲んでへべれけな有様だったんだが、どうにか必要な話を聞き出すことはできた」
「――はあ」
「この像のことは相変わらず『蛇女』と呼んでいてね、彼。こんなところに一人で突っ立ってるから、相手をしてやろうと思って話しかけたのに……なんてふうに云っていた。なのに何も応えないものだから、無性に腹が立ったと。それで、たとえば両手でこう、肩を突き飛ばしでもしたんだろうな。ちょっと押しただけなのに、と云っていたけれども、もちろんそんなはずはあるまい。さぞや思い切り良く力を加えたんだろう」
「――でしょうね」
「かくして像は倒れ、アトリエの扉を外側から塞いでしまったわけだ。そのあと伊佐夫君が、野口先生のいるサロンに立ち寄ったっていうのも、先生がそう云っていたとおり間違いのないことみたいだね。先生の記憶によれば、それが午後六時半を過ぎた頃……」
「私が図書室に引っ込んで少しした頃です」
「ふん。そのあたりの時間関係は重要だね。分った範囲で整理してあるから、あとで見てくれ」
そう云って玄児は、ズボンの右のポケットを軽く叩いてみせる。先ほど寝室で、私がしたためた例のメモを取り出したのとは反対側のポケットだった。「分った範囲で整理」して、すでにそれを何かに書き留めてあるのか。
「それからもう一つ、ちょっと面白いことを云っていたな」
「伊佐夫さんが、ですか」
「ああ」
玄児はブロンズ像から一歩離れ、建物の西翼に伸びる袖廊下の奥に向かって腕を差し上げた。
「この突き当たり――裏口手前の小ホールに、階段室の扉があってね。二階へ上がる階段と、それから地下の|葡萄酒庫《ワインセラー》に下りる階段があるんだが、伊佐夫君が云うには、ひとしきり葡萄酒を漁って地下から上がってきた時、そこに『子羊』が迷い込んできていたらしい」
「子羊?」
私は首を傾げたが、すぐに思い当たった。これはそう、野口医師の口から聞いた言葉である。伊佐夫が泥酔状態でサロンに現われた際、「無愛想な蛇女」とともに彼の話の中に出てきたという……。
「伊佐夫さんが『お説教してやった』っていう『迷える子羊』ですか」
「それだ。時間的にはこの像を倒す前の出来事だったみたいなんだが、『迷える子羊』と彼が云う、どうやらそれは、見たこともない顔の子供だったらしいのさ。何でそんな子供がそこにいるのか、妙には思ったが深く考えることもなく『お説教をしてやった』と云うんだな。で、子供はびっくりして裏口から飛び出していったそうなんだが」
「見知らぬ子供……と云うと」
考えて、行き当たった可能性は一つだけだった。
「あの少年、でしょうか。市朗という、あの」
「ああ、俺もそう思う。市朗は昨夜まず、あそこの裏口からこの館内に忍び込んだ。ところが、運悪くそこで泥酔した伊佐夫君に出くわして、何をどんなふうに『お説教』されたのか知らないが、怯えていったん外へ逃げ出してしまって……そのあと改めて〈赤の広間〉に忍び込んだんじゃないか。そんな想像ができるね」
「――ええ」
「まあ、このあたりの経緯は、市朗がまともに話をできるようになれば、おのずと明らかになるだろうから」
と云って話題を切り上げると、玄児はアトリエの扉の前に足を進める。そうして黒く塗られたノブに手を伸ばしながら、
「気づいているかと思うが、この部屋の扉には鍵がない。元々はあったらしいんだけれども、今は外からも内からも施錠はできないようになっている」
「そのようですね」
「清がああいう病気だと分って、望和叔母さんがあんな具合になってしまって……以来、施錠装置そのものを取り外してしまったんだよ。万一、叔母さんがこの中に閉じこもって出てこなくなってしまうと大変だから、という理由で」
「――なるほど」
「従って当然、それが誰であろうと、この部屋――犯行現場への侵入自体は何の造作もないことだったわけだ」
云って玄児は、握ったノブを回す。艶のない黒い扉が、そしてゆっくりと開かれる。
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あちこちの筋肉が意思とは関係なく緊張し、心臓の鼓動が速さを増してきた。
死体が、それも無惨な絞殺死体が転がった殺人現場に、再び足を踏み入れようというのだから、これは別に恥じる必要のない、人としてごく一般的な反応だろうと思う。できれば中には入りたくない、とも思う。入ったとしても、死体には決して目を向けたくない。
「どうした、中也君」
いささかの躊躇もなく室内に歩を進めた玄児が、扉の前で|佇《たたず》む私を振り返り、
「さあ、入ってこいよ」
事もなげにそう云って手招きする。私は「はあ」と力のない返事をし、それからようやく覚悟を決めて玄児のあとに続いた。
アトリエの様子は、最初に私たちが踏み込んだあの時のまま、何も変わったところはないように見えた。――が。
いや、そんなことはない。
部屋の左手奥――灰色のスモックを着た望和が倒れ伏していたあたりに、恐る恐る視線を差し向けてみて私は気づいた。その場所に今、彼女の死体がないのである。
これはどうしたことかと私はひどく慌てたのだけれど、すかさず玄児が事情を説明してくれた。
「望和叔母さんの遺体は、二階の寝室に運んでベッドに安置してある。こんなところにあんな姿のまま放っておくのは忍びないという、征順叔父さんの意向でね。当分の間まだ、警察がやってくる見通しはない。叔父さんの気持ちを|蔑《ないがし》ろにしてまで現場保存≠ノこだわることもないだろうから」
「清君は?」
気に懸かっていたことを、そこで私は尋ねた。
「お母さんの死を知って、あの子はどう」
「さすがにこの部屋には立ち入らせなかったが、叔母さんを寝室に運んだあと、何が起こったかを話して聞かせて対面させたよ」
険しく眉根を寄せながら、玄児は答えた。
「遺体に取りすがって、声を上げて泣きつづけていた。あんなふうに泣きじゃくる清を見たのは、俺は初めてだな」
私は応じる言葉に詰まった。早老症という不治の奇病に冒されたあの少年の、泣き濡れた皺だらけの顔がまざまざと目に浮かんで、どうにもいたたまれない気持ちになった。
「頭のいい子だからね、清は。母親が死んでただ単に悲しいだけじゃなくて、きっとそうだな、こんなことになってしまって、それじゃあ自分がこんなふうである意味がないじゃないかと、そう思ってよけいに|辛《つら》いんだろう」
「そうですね」と答えてしまってから、私はいったい玄児が何を云わんとしたのか、微妙な引っかかりを覚えた。
「こんなことになってしまって」というのが、望和の死を指すのは明らかである。しかし、それに続く「自分がこんなふうである意味が無いじゃないか」というのは? 「自分」とは清のことで、「こんなふう」とは彼の病気を示すのだろうけれども、何故にそれが「意味がない」という言葉に繋がるわけなのか。「よけいに辛い」という感情に繋がるわけなのだろうか。
「ともあれ――」
部屋の奥へと一人足を進めながら、玄児が云う。
「この犯人を許すことはできないな。断じて……いろんな意味で」
蛭山|丈男《たけお》が殺された際にはあまり窺えなかった強い怒りの色が、その言葉にも声音にも露骨に滲んでいる。そこでまた、私は微妙な引っかかりを覚えるのだった。
「いろんな意味で」とは、具体的にはどういう「いろんな」なのだろう。今度の被害者は一介の使用人ではなく、この浦登家の家族だから、か。だから「断じて」許せないと云うのか。だからそんなに怒りを露わにするのか。あるいは……。
「玄児さん」
私は口を開いたが、そうして投げかけたのは、ちょっと違った角度からの彼への質問だった。
「お父上は――柳士郎氏はどうして、警察を呼ばないという態度を崩されないのでしょうか。『前以上にかたくなに、外部への連絡を拒否している』とも云っていましたよね、さっき玄児さんは」
「ああ、うん」
玄児は足を止め、両手で横髪を撫で上げた。
「それは……」
「望和さんが殺されたとなると、もはや使用人同士のいざこざがどうのこうの、とは云っていられないはずですが。事ここに至ってもなお、柳士郎氏は内々で事件を処理してしまおうというつもりなのでしょうか」
「それは……ああ、どうするつもりなんだろうね、あの人は」
こちらを振り返らぬまま、玄児は云った。
「自分の|義妹《いもうと》が殺されたんだ、そりゃあ心穏やかでいられるはずはなかろう。俺にしたって同じさ。ありていに云って、蛭山さんが殺されたのとはわけが違う」
「違うのですか、わけが」
「そう。――いやしかし、これは感情的な問題だけじゃなく、ね」
「と云いますと」
「蛭山さんが殺されたのも、むろん重大な事件であると俺は認識しているさ。だから昨日の父の対応には少なからず疑問を抱いた。だから君にも付き合ってもらって、あれこれと探偵まがいの行動を取ってもきた。しかし何と云えばいいんだろう、望和叔母さんというこの浦登家の、一族内部の人間が殺されたっていう話になるとね、同じ『人殺し』でもその、かなり含みを持つものが違ってくるわけで」
「感情的な問題だけじゃなく、ですか」
問いかけながら、私は玄児のすぐ後ろまで歩み寄っていき、
「よく分りません、私には。どうしてそんな」
「父にしても、基本的には俺と同じように、犯人を許せないと思っているはずなのさ。誰が望和叔母さんを殺したのか、一刻も早く突き止めて、然るべき対処をしなければならないともね。ところが――」
玄児は言葉を止め、おもむろにこちらを振り向いた。蒼白いその顔には、これは私がそう感じただけなのかもしれないけれど、相反する方向へと心が引き裂かれる苦しみに耐えているかのような、何とも云えず|物憂《ものう》げな|翳《かげ》りがあった。
「それでも父が外部には連絡するなと命じるのは、恐らくそう、あの骨が出てきてしまったから[#「あの骨が出てきてしまったから」に傍点]」
「――ああ」
私は|額《ひたい》に手を当て、短く呻いた。
「骨」と云われれば、思い当たるものはただ一つしかなかった。市朗少年を追いつめた石塀の手前で遭遇した、あの泥溜り[#「泥溜り」に傍点]――あのおぞましい人骨の沼≠オか。
「あそこは〈十角塔〉の裏手に当たる場所なんだが――」
玄児は声を低くして続けた。
「あんなふうにしてあんな骨が出てきてしまったんだ、もしも警察が本格的な捜査にやってきたなら、彼らは当然ながら興味を引かれることになる。敷地内であんなものが見つかったなんていう事実は、いたずらに公になってほしくはない。あまつさえあれは、この浦登家の秘密に深く関わるものでもある。部外者に知られることは可能な限り避けねばならない。よって当面、外部への連絡はしない。――と、屋敷の当主として父がそういった判断をしようというのなら、俺も一概にそれを否定するわけにはいかない」
「何なんですか、あれは」
私は声を高くして詰め寄った。
「人間の骨、でしたよね。私にはそうとしか見えませんでした。しかも、一体や二体どころじゃなかった。もっとたくさんの、あれは……」
「そうさ、中也君」
玄児は吐息とともに答えた。
「白骨死体だよ、複数の人間の。あそこに埋めてあったのが、ああして出てきてしまったんだ」
「何なんですか。いったい誰の白骨死体が、あんなところに」
「どこの何ていう人間のものなのかは、俺にも分らない。ただ――」
「ただ?」
「あのようなものが[#「あのようなものが」に傍点]、この島のどこかに埋められているんじゃないか[#「この島のどこかに埋められているんじゃないか」に傍点]。そのことは以前から知っていたのさ。噂のレヴェルで、だがね」
噂のレヴェルで……ああ、これと同じような物云いを私は、この屋敷を訪れてから少なくとも一度、同じ玄児の口から聞かされている。あれはそう、最初の夜に二人で〈十角塔〉に昇った時……。
――人を閉じ込めておくための場所[#「人を閉じ込めておくための場所」に傍点]だったんだよ、ここは。塔の上の座敷牢、ってとこだな。
黒い格子の向こうで蝋燭の炎が揺れていた。あの最上階の部屋の中央に立って、あの時。
――この塔が建てられた当時のことは、俺にしたって確かな話を聞いてるわけじゃないんだ。ある秘密の目的のために使われていたらしい[#「ある秘密の目的のために使われていたらしい」に傍点]というのも、まあ噂のレヴェルでしかないわけでね。
「噂……と云うか、この屋敷の者ならたいてい耳にしたことのある云い伝え≠ンたいなものだな」
相変わらず声を低くしたまま、玄児は語った。視線は私の方を向いているが、どこかしらそれは虚ろで、現実の上には焦点が結ばれていないようにも見えた。
「実際にあれだけ多くの人骨が見つかった以上、その云い伝えは真実だったってことになりそうだが、だとすると、あの白骨死体はどれも相当に古いものだよ。君や俺が生まれるよりもずっと前に死んだ人間たちの、云い伝えを信じるとするなら、全部で十三体分の」
「十三体……」
何なのだ、その数は。
あまりのことに私は、驚きを通り越して半ば呆れ返ってしまい。
「何なんですか」
さっきから幾度目かの同じ文句を、ほとんど|譫言《うわごと》めいた調子で吐き出した。
「十三体って、何でそんな数の死体が」
「云い伝えによれば――」
玄児もまた、半ば譫言めいた調子で答えた。
「殺されたんだよ。彼らは昔、ここで」
「何ですって」
「昔、君や俺が生まれるよりもずっと前に、この暗黒館で殺された十三人の人間、その死体があの場所に埋められていたってことさ。数については、あそこを全部掘り返してみないと確認できないが」
「殺された……って」
軽い息苦しさを覚えつつ、私は訊いた。
「本当に殺されたと云うのですか、玄児さん。そんなに大勢の人々が、かつてこの屋敷で」
「――ああ」
「でも、じゃあそれは――そんな|殺戮《さつりく》を行ったのは、いったい誰だったと」
すると玄児は、虚ろな瞳にふいと、何やらぞくりとさせられるような妖しい光を宿らせ、「それはね」とさらに一段声を低くした。
「ダリアさ」
「――はい?」
「ダリア、さ」
そう答える玄児の視線はやはり、現実の上には焦点を結んでおらず、どこかありえない彼方に広がった――あるいは私には感知できないだけで、すぐ間近に大きく口を開いた――深い闇に向かって、その暗黒の奥で|蠢《うごめ》く何ものかに向かって、じっと注がれているように思えた。
「ダリアだよ」
慄然とする私をよそに玄児は、まるで禁じられた呪文でも唱えるようにその名を繰り返した。
「初代浦登玄遙がかの異国より連れ帰って妻とした女性。俺の曾祖母。今から三十年前、みずからの狂おしい願いを皆に託して虚無に身を投じたという魔女……ダリア」
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……ダリア。
玄児の放った呪文は、催眠効果を持った怪しい振り子の揺らめきにもどこか似て、私の頭の中の隅から隅までを何でも行き来した。行き来しながらそれは、心臓の鼓動に合わせたリズムで音≠フ形を取り戻す。レコード針の針飛びのいびつさで、途切れ途切れの声≠ェ再生される。
……ダリア。……ダリアさ。
頭蓋骨の内部が本当にがらんどう[#「がらんどう」に傍点]になってしまったかのような、それはいやに生々しい響きの繰り返しでもあった。
……ダリア、さ。……ダリアだよ。
〈宴の間〉のあの肖像画の、あの異国の美女の顔が、がらんどうの中に浮かび上がる。繰り返される響きとともに、
……ダリア。……ダリアさ。
その表情が大きく変化する。
……ダリア、さ。……ダリアだよ。
妖艶な微笑が、狂気を|孕《はら》んだ哄笑に。
……ダリアが。
唇の鮮やかな紅色が裂けるように開き、その間から毒々しい深紅の舌を覗かせる。鋭い視線を放つ双眸の、濃い褐色の虹彩もまた、それと同じ異様な深紅に色を変えはじめ……。
……ダリアが。
ああ、いったい玄児がいま云ったことは真実なのか。そんな云い伝えが、本当にあるというのか。彼女が――浦登ダリアが、昔この屋敷で十三人もの人間を殺したと。その死体をあの場所に埋めたと。しかし何故だ。何故ダリアはそんな真似をしたのか。
そのダリアが皆に託したという「狂おしい願い」とは何だったのか。「虚無に身を投じた」とはどういう意味なのか。何故ダリアは「魔女」なのか。何故、何故、何故、何故……。
激しく渦巻く幾多の疑問とは裏腹に、私は慄然と目を見張ったまま一言も発せられずにいた。文字どおり身体中が凍りついたような気分だった。
「――玄児さん」
やがてようやくの思いで私は声を絞り出したが、すると玄児は、「この件はこれまでに」というようにゆっくりと首を横に振って、
「話を戻そうか、中也君」
口調を改めてそう云い、部屋の奥へと向き直るのだった。そうして「ここで――」と、望和が倒れていたあたりに視線を投げかけ、
「ここで望和叔母さんは、誰かに殺された」
つかりと一歩、足を進める。
……ダリアが。
がらんどうの中で響きつづけるその名前を、私はとにかくいったん脇に退けようと努力する。むろんこの件については、あとできちんと説明を求めねばならない。うやむやにされてしまってはいけない。決してそういうわけにはいかない。強く自分にそう云い聞かせながら。
……ダリア。
「おさらい[#「おさらい」に傍点]をしておこう」
両手を腰に当てて、玄児は云った。
「望和叔母さんは昨夕この場所で、何者かに殺された。蛭山さんと同じく、絞殺だった。狂気として使われたのは、叔母さん――被害者自身の持ち物であったスカーフ。それが首に巻きついたまま残っていた。ここで絵を描こうとしていた、あるいは描いている最中に襲われたらしくて、死体のそばにはそのとおり――」
と、右手を腰から外して床を指し示し、
「絵筆とパレットが投げ出されていた」
それらは両方とも、死体発見時と同じ場所に転がったままだった。絵筆の先には朱色の絵の具が付いていて、床にもわずかにその色が散っている。パレットの方は、たまたま投げ出され方[#「投げ出され方」に傍点]が良かったのか引っ繰り返ってはおらず、付近を大々的に絵の具で汚してしまう事態を免れていた。
「みたところ、死体に激しく抵抗したような形跡はなかったが、犯行時かその前後に、犯人もしくは被害者の身体が触れて暖炉から落ちたと思われる時計があって――」
と、玄児は炉棚の上に戻してあった例の、黒い箱形の置時計に目を向ける。
「落下のショックで壊れたらしく、君も知ってのとおり、針は六時三十五分を指して止まっていた」
「――はい」
「落下とは別の原因で元から動かなくなっていた可能性も考えてみたんだが、征順叔父さんによれば、それはないという。昨夕、望和叔母さんがこのアトリエに引っ込んだ際、一緒にいた叔父さんもちらりとだけここに立ち寄ったそうでね、その時この時計が正しく動いているのを見たって云うんだな。念のためにあとで調べてみて、|發条《ぜんまい》が切れて動きが止まってしまったわけでもない、と確認できた」
「なるほど、周到に調べていますね」
と、私は感想を述べる。今さっきのショックからはどうにか立ち直りつつあって、自分の頭を「がらんどう」と感じることもやっと無くなっていた。
「従って――」
玄児は続ける。
「この時計の針が指し示した六時三十五分という時刻を犯行時刻と見なすことに、とりあえず大きな問題はないと思う。可能性を云い出せば、この時計の破損自体が犯人の偽装工作だったということもありうるけれども、前後の状況などを考えると、犯人がわざわざそんな工作をする必要や必然性は認められないわけだから……」
死体を発見したあの時と違って、このアトリエのどこかでは今、換気扇が回っているようだった。かすかにその作動音が聞こえる。が、室内に立ち込めた絵の具の臭いは、それでもやはり充分に濃厚さを保っていて、私はその濃厚さの奥につい、もはやここにはあるはずのない死臭を感じ取ろうとしてしまうのだった。もしも本当にそれを感じ取ったならば、きっとすぐにまた胸が悪くなってこの場にうずくまってしまうのだろう。そんな自虐的な想像でみずからの心を|弄《もてあそ》びつつ――。
「望和さん――被害者にはその、激しく抵抗した形跡はない、という話でしたけれど」
思いつくままに、私は云った。
「とすると、犯人は被害者とごく親しい間柄の人間だったということになりはしませんか」
「――ふん」
「すぐそばまで近づいていって、不意を|衝《つ》いて首を絞めた、という感じなんですよね。いくら彼女があんな、心が壊れたような状態であったと云っても、さほども親しくない人間がいきなり部屋に押し入ってきて近寄ってきたなら、それなりに身構えたはずでしょうし、さらに相手が殺意をもって襲いかかってきたりしたなら、きっと強く抵抗したことでしょうし」
「『さほども親しくない人間』というのは?」
玄児は私の方を振り返り、首を傾げてみせる。
「具体的には中也君、誰と誰を想定している」
「それは」
若干戸惑いつつも、私は答えた。
「実際のところはどうだったのか分りませんが、たとえば伊佐夫さんとか、茅子さんとか。同じ使用人の中でも、|宍戸《ししど》さんとか鬼丸老だったら……彼らが突然このアトリエに入ってきたら、警戒とは云わないまでも、何だろうと不審に思うのじゃないでしょうか。もっと云えば、それこそこの私にしてもそうだし、あの江南青年も当然そうですし」
「なるほどね。しごく常識的な考えだな」
玄児はいったん頷いたが、すかさず「しかし」と続けて、
「望和叔母さんは君も云ったように、この数年来はあのとおり『心が壊れた』ような状態だった。起きて活動している時間のうち、多く見積もって半分近くは、清を探して屋敷や島の中をうろうろして、誰かれ構わずあんなふうに問いかけ、訴えかけてまわる。それ以外の時間はここに閉じこもって、ひたすら一人で絵を描いていたわけだが――」
玄児は言葉を切り、望和が死の寸前に向かっていた――あるいは向かおうとしていた――部屋の北側の壁面に視線を上げる。壁一面を巨大なキャンバスに見立てて描かれようとしている例の奇態な絵が、そこにはあった。
「絵筆を握って作品に取り組んでいる間は、彼女は本当に、とことんその作業に没頭してしまうたちでね。たとえば征順叔父さんが部屋に入ってきて話しかけても、まったく気がつかないような没頭のしようで……」
玄児の視線を追って、私も改めて壁の絵に目を向ける。
何とも異様な|趣《おもむき》の、未完成の大作。ほとんど子供の落書きに近いような無秩序、無頓着、計画性の欠如。裏返せばそれらは、何かしら破壊的な衝動の表出とも受け取れる。――と云っても、あちらにひとしきり、こちらにまたひとしきり、といった具合で随所に為された細密な描き込みのそれぞれは、決して子供の絵のように稚拙なものではない。
「俺も実際に目の当たりにしたことがある」
視線を下げて、玄児は続けた。
「必要があって、このアトリエに籠もっている叔母さんを呼びにきたんだが、ノックをして部屋に入っても、全然そのことに気づいた様子がない。いくら声をかけてみても、まるで耳に入っていないのか、イーゼルに向かったまま振り返りもしない。近くまで行って、呼びかけながら肩を叩いて、それでやっと……」
「ははあ」
「そんなわけだからね」
と、玄児は結論を述べた。
「君が云った考えは、この場合にはまったく通用しないことになる。何者であろうと――極端な話、それが完全な部外者で、彼女が顔さえ知らない市朗少年のような人間だったとしても、ここにやって来て彼女の背後に忍び寄って、抵抗らしい抵抗をする暇も与えずに絞め殺してしまうことは困難じゃなかったはずなのさ。分るよね、中也君」
「ええ。そういうことなら、もちろん」
「よし。それじゃあ――」
玄児はもう一度ちらっと壁の絵を見やってから、やおら|踵《きびす》を返し、私の前に戻ってくる。そうしてズボンの右ポケットに手を潜り込ませ、
「これを」
と云って、一枚の紙片を取り出した。
「さっき云ったように、重要と思われる時間関係を分った範囲で整理してみた。そんなに複雑なものでもないんだがね、まあないよりはましだろう」
差し出されたその紙片を、私は両手を伸ばして受け取る。大学ノートの一頁を破り取ったものらしかった。同じ向きに二度、向きを変えてさらに一度、折りたたんである。
開いてみると、そこには黒いインクで時間表≠フような箇条書きがしたためられていた。一見してその特徴的な筆跡は、玄児のものに間違いないと分る。白山の家に|居候《いそうろう》していた頃に幾度も目にしたことがあるが、あまり達筆とは云えない、極端に右上がりの鋭角的な文字が並んでいるのだった。
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1[#「1」は底本では○付き数字]5時50分
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望和、アトリエに入る。
征順、書斎にはいる。
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2[#「2」は底本では○付き数字]6時00分
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中也、サロンで野口と遭遇。
その後、中也は図書室に移動。
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3[#「3」は底本では○付き数字]6時?分
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伊佐夫、葡萄酒庫から上がってきたところで市朗と遭遇。
市朗、裏口から館外に逃走。
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4[#「4」は底本では○付き数字]6時30分
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伊佐夫、ブロンズ像を倒す。
伊佐夫、サロンに立ち寄り、野口と言葉を交わす。
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5[#「5」は底本では○付き数字]6時35分
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犯行。
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6[#「6」は底本では○付き数字]?時?分
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市朗、〈赤の広間〉に侵入。
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7[#「7」は底本では○付き数字]?時?分
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犯人、〈赤の広間〉に脱出。
市朗、犯人の影を目撃。
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8[#「8」は底本では○付き数字]7時00分
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玄児、二階から降りてきてブロンズ像の異常を発見。
アトリエ内から応答なし。
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9[#「9」は底本では○付き数字]7時10分
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玄児、中也、野口、アトリエに向かう。
三人でブロンズ像を起こす。
征順、書斎から出てくる。
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10[#「10」は底本では○付き数字]7時20分
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死体発見。
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[#表は再現性が低いのでスキャン画像を添付した "暗黒館の殺人(下)P083玄児メモ.jpg"]
「ざっと見てみて、どうかな」
と、玄児が訊いてきた。
「何か間違っているところとか、付け加えるべきこととかは?」
「2[#「2」は底本では○付き数字]の『その後、中也は図書室に移動』ですけど、たぶん時間は、六時半になる少し前だったと思います。この表で云えば4[#「4」は底本では○付き数字]の前ですね。3[#「3」は底本では○付き数字]と重なるか、そのあとか」
紙片に目を落としたまま、私は答えた。
「他には別に」
玄児は「ふん」と軽く頷き、
「まず確認しておかねばならないのは――」
私の手許を見据えながら云った。
「犯人はいつこのアトリエに侵入したのか、だが」
「ええと、それは1[#「1」は底本では○付き数字]と4[#「4」は底本では○付き数字]の間、ということになりますね。望和さんがアトリエに入った五時五十分、それよりもあとで、伊佐夫さんがブロンズ像を倒して扉を塞いでしまった六時半よりも前」
「普通に考えればそうだな。しかし、五時五十分よりも前、という可能性もあるだろう」
「五時五十分より前……あ、そうか」
「望和叔母さんがアトリエに引っ込むよりも前に忍び込んで、たとえば隣の休憩室に潜んで待ち伏せていたわけだ。ありうるだろう」
「ありえますね」
「ただ、実際にそうであった可能性は非常に低い、と俺は思う」
「どうしてですか」
「叔母さんが何時にアトリエにやってくるか、犯人には予想がつかなかったはずだからさ。彼女の行動はとても気まぐれで、近しい人間でもパターンを把握できないでいる。たとえ大まかな予測を立てられたとしても、それが的中する確率は高くない。事前に忍び込んで待ち伏せするというのは、どう考えても効率が悪い」
なるほど、玄児の説はもっともだが、ここで「効率」という概念を持ち出すのはどうだろうか、と私は思った。すべての犯罪者が効率を重視して動くとは限らない。突発的に、発作的に、あるいは他者にはとうてい理解の及ばない独自の指針や論理に従って、時として信じられないくらい非効率的な行動を取ってしまうこともあるのではないか。
この事件の犯人の場合、そのあたりはどうなのだろう。もっと具体的な犯人像が見えてこないことには、何とも判断がつきかねるところではあるが。
「凶器の問題もあるしね」
と、玄児は話を進める。
「もしも犯行の機会を狙って待ち伏せしていたのだとしたら、もっと手頃な凶器をあらかじめ用意していても良かったんじゃないか。被害者のスカーフなんていう、その場でたまたま目に留まった代物で間に合わせなくても」
「ああ、それは確かに」
「だからね、やはり犯人は午後五時五十分よりもあとにこの部屋に来て、望和叔母さんがここにいるのを確認して、それで『今この場で犯行を』と決意した。だから凶器も、ここに来て見つけたあのスカーフを使うことにした。――というのが、最も確からしい線だと思うわけさ」
私は神妙に頷いた。「効率重視」という考え方には若干の疑問が残るものの、全体として玄児の論の妥当性はすこぶる高い。
「1[#「1」は底本では○付き数字]と4[#「4」は底本では○付き数字]の間――五時五十分から六時半までの間のある時刻[#「ある時刻」に傍点]に、犯人はこの部屋を訪れた。そして、絵を描く作業に没頭していた望和叔母さんの背後に忍び寄り、スカーフで首を絞めて殺した。それが、時計が落ちて壊れた六時三十五分前後のことで……」
仮に、六時半の手前ぎりぎりの時刻に犯人がやってきたのだとすると、犯人は部屋に侵入してほとんど間をおかず、望和に襲いかかったことになる。逆に、五時五十分からあまり離れていない時刻にやって来たのだとすると、犯行時刻と目される六時三十五分前後までの時間を、犯人は望和と二人で過ごしたことになるわけである。この場合、犯人はその間いったい何をしていたのか。侵入者には目もくれずに望和が絵を描き続けている様子を、だまって見守っていたのか。それとも、二人の間に|何某《なにがし》かの会話があったのだろうか。いずれにせよ……。
「……このあと犯人を見舞った不慮の事態と、それに対応して犯人が選択した行動については、改めてここで検討するまでもなく明らかだよね」
「――ええ」
「六時半、泥酔した伊佐夫君が廊下のブロンズ像を倒した。そのせいで扉が開けられなくなり、犯人はここに閉じこめられてしまう羽目になった。閉じこめられたままでいるわけには、むろんいかない。窮余の策として犯人は、休憩室のあの模様硝子を破って〈赤の広間〉へと脱出した……」
玄児の作成した表で云うと、機械的に考えれば5[#「5」は底本では○付き数字]と10[#「10」は底本では○付き数字]の間――犯行後から死体発見までの間――に、その脱出劇が行なわれたことになる。この時間幅はしかし、もう少し絞れるはずだ。硝子を破った際に発せられたに違いない大音響が、その鍵である。
仮に犯人が、〈赤の広間〉への脱出を思い立つのにもたもたして、その決行がたとえば、表の8[#「8」は底本では○付き数字]で示された午後七時を過ぎてしまったとしよう。
二階から降りてきた玄児がアトリエの異常に気づいたのが、その七時。私と野口医師を呼びにきて、三人でアトリエに向かったのがその十分後。このあたりのタイミングで、もしも犯人が休憩室から〈赤の広間〉へ脱出したのだとすると、その際に派手派手しく鳴り響いたに違いない硝子の割れる音を、誰かが聞き留めたはずではないか。
実験してみないことには確言できないが、あれだけの硝子を粉々に打ち破ったのだから、主廊下や袖廊下にまでその音が届いてもおかしくない。いや、届かなかったはずがないではないか。――なのに、玄児も野口医師も私も、誰もそんな音には気がつかなかったのである。
外の雷鳴に紛れて聞き取れなかったのだろうか。そういうこともありえたかもしれないが、だとしてもそれは、玄児が私たちを呼びにくるよりも前の出来事であったはずだ。記憶に残るほどの激しい落雷は、少なくともあの時間帯――玄児が階下に降りてきた頃から死体発見までの間――にはなかった[#「なかった」に傍点]、と私は記憶しているのである。とすれば――。
犯人の脱出は8[#「8」は底本では○付き数字]よりも前、すなわち午後六時台のどこかで行なわれたものと考えられる。表では「?時?分」と記されている6[#「6」は底本では○付き数字]と7[#「7」は底本では○付き数字]の時刻は、従って双方ともに、この配置どおり「6[#「6」に傍点]時?分」であったはずだ、とも。よって犯人の脱出時刻は、5[#「5」は底本では○付き数字]の六時三十五分よりあとで8[#「8」は底本では○付き数字]の七時より前の二十五分間、という幅に絞り込まれることになる。
「市朗少年がまともに話をできるようになったら、彼が〈赤の広間〉で犯人らしき人影を目撃した時刻を聞き出せるかもしれない」
玄児が云った。彼のことだ、いま私が考えたようなあれこれについては、とうに検討済みであるのに違いない。
「あの少年は腕時計をしていたからね。しかも夜光針の付いたものだった。だからひょっとしたら、要所要所の時間を覚えているかもしれない。だとすると、3[#「3」は底本では○付き数字]や6[#「6」は底本では○付き数字]7[#「7」は底本では○付き数字]の時刻も特定できる」
「かもしれませんね。ですが玄児さん、とりあえずここまで分った事実からだけでも、かなりはっきりと犯人の動きが見えてきたように……」
「ああ」
玄児は黒いシャツの胸ポケットを探り、煙草を引っ張り出す。一本銜えてマッチで火を点けると、ことさらのように悠然と煙を吐き出し、
「犯人のこの脱出劇を巡ってはね、実は一つ、非常に気懸かりな点があるんだが」
「と云いますと」
「いや、それはあとで改めて問題にするとして、その前に――」
云いながら玄児は、私の傍らを通り過ぎて部屋の真ん中に据えられた作業机に歩み寄り、そこにあった黒い陶器の灰皿を引き寄せてマッチの燃え殻を捨てた。そして、その動きを黙って見守っていた私に向かって、
「君も吸うかい」
「いえ」とかぶりを振って、私は手に持ったままでいた時間表の紙を元どおりに折りたたみ、玄児に返した。玄児はすると、受け取ったそれを無造作に作業机の上に放り出して、
「君がベッドで長時間、悪夢に|苛《さいな》まれている間にね、俺はこれでも探偵役≠ニして、けっこう精力的な働きをしたんだぜ」
「――はあ」
「今みたいに時間関係を整理・把握した上で、とにかく一通り、問題となる時間帯における関係者全員のアリバイを当たってみたのさ」
そういうと玄児は、今度はズボンの尻ポケットから、新たな一枚の紙片を取り出したのだった。
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5
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先の時間表と同じように、大学ノートを一頁破り取ったものらしき紙が折りたたまれている。そこにぎっしりと、玄児の云ったとおり「関係者全員のアリバイ」に関する覚え書きが、特徴的な彼の筆跡で記されていた。
柳士郎……
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〈西館〉一階の書斎にいた。六時から七時過ぎまでの間に、訪れてきた者はいない。5時半頃に一度、鶴子と伝声管で会話、呼びつけて身の回りの世話をさせたとのこと。
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美惟……
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〈西館〉一階の寝室にいた。5時過ぎに美鳥と美魚が訪れたが、眠っていて気づかなかった模様。
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美鳥……
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中也と別れたあと、5時過ぎに〈西館〉一階の美惟の寝室へ様子を見にいく。その後は〈北館〉二階の自室に戻り、美魚と二人で過ごした。七時半過ぎになって階下の様子がおかしいと気づき、降りてきて〈赤の広間〉を覗いてみたところ、玄児・中也と遭遇。直後に停電。
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美魚……
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美鳥に同じ。
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征順……
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5時50分に望和がアトリエにはいるのを確認して以降、向かいの書斎にいた。訪れてきた者はいない。うたた寝をしていた時間もあり、廊下でブロンズ像が倒れた音などには気づかず。7時20分頃に出てきて、玄児・中也と合流。
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清……
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〈東館〉二階の客用居間及びその近辺にいた。この間、誰とも遭遇していない。
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伊佐夫……
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〈北館〉近いの葡萄酒庫を物色後、裏口付近で市朗と遭遇。6時半頃にブロンズ像を倒し、その直後にサロンで野口と遭遇。その後は〈東館〉に戻ったり、〈北館〉二階へ茅子の様子を覗きにいったりした模様。
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茅子……
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〈北館〉二階の客室で眠っていたと思われる。伊佐夫が覗きにきたことには気づいていない模様。
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鶴子……
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5時半頃に一度、柳士郎に呼ばれて〈西館〉へ行く。その後は〈南館〉に戻り、二階の自室及びその近辺にいた。この間、誰とも遭遇していない。
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宍戸……
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6時過ぎ頃より〈北館〉一階、東翼の厨房にて、夕食の準備に取りかかっていた。6時45分頃、様子を窺いにきたしのぶと若干の会話。
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しのぶ……
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6時すぎまでは〈南館〉一階の自室にいた。この時は|慎太《しんた》も一緒に。その後、食卓の準備のため〈北館〉一階の正餐室へ。6時45分頃、厨房の様子を窺いにいって、宍戸と若干の会話。
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慎太……
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6時過ぎまでは〈南館〉一階の自室に、しのぶとともにいた。その後は部屋を出ていた節もあるが、詳しくは不明。
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鬼丸……
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〈南館〉一階の自室にいた。誰とも遭遇していない。その間に一度、中庭の墓所へ行ったとのこと。
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野口……
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〈北館〉一階のサロンにいた。6時に中也がやって来、しばらく会話。中也が図書室に移動したあと、6時半頃に伊佐夫と遭遇。7時過ぎに玄児・中也と合流してアトリエへ。
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中也……
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6時に〈北館〉一階のサロンで野口と遭遇。その後、一人で図書室に移動。7時過ぎに玄児・野口と合流してアトリエへ。
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江南……
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〈東館〉一階の座敷にいた模様。詳しくは不明。
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市朗……
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〈北館〉一階の裏口付近で伊佐夫と遭遇し、いったん館外へ逃走。その後、〈赤の広間〉に侵入。
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「さっきの検討の結果に従うと、望和叔母さんがアトリエに入った午後五時五十分から俺たちがアトリエの前に駆けつけた午後七時過ぎ、だいたいこの時間帯のアリバイが問題となるわけだが――」
私が目を通しおえるのを待って、玄児が口を開いた。
「この中で、ある程度以上確かなアリバイが成立するのは、中也君、君と野口先生の二人だけということになるな」
「――はあ」
曖昧に応じつつ、私は手許に視線を落とす。一部分、裏面にまではみ出して記されたアリバイ表≠見直しながら、
「玄児さんの分は書いてないのですね」
「うん?」
「いえ、別に疑うわけじゃあ」
「いやいや、ここで疑いを消さないのは結構なことさ。探偵の基本だからねえ」
微笑んで玄児は、短くなった煙草を作業机の灰皿で揉み消した。
「二階の書斎で君と話をしたあのあと、俺はまず〈南館〉へ|赴《おもむ》いて、宍戸さんとしのぶさんに食事の用意をしてくれるよう伝えた。八時頃を|目処《めど》に〈北館〉の正餐室で、と。それが六時過ぎのことだな」
そう。確かに玄児は、私が書斎を出ていく前に、夕食についてはそのように取り計らおうと云っていたから……。
「俺の要請に従ってそのあと、二人は〈北館〉に移動したわけだね。宍戸さんは東翼の厨房へ。しのぶさんは正餐室へ」
「玄児さんが行った時、しのぶさんの部屋には慎太君もいたのですね」
「ああ。しのぶさんから、今日はもう部屋から出るなと命じられたようでね。慎太本人は出歩きたくてうずうずしていたみたいだったが」
「『その後は部屋を出ていた節もある』と?」
「後にしのぶさんが戻った時、いなかったらしい」
「『詳しくは不明』というのは」
「本人に訊いてみても、要を得ない答えしか返ってこなかった、ってことさ。まあ、相手が慎太だから仕方ないだろう」
「なるほど」
「――で」
玄児はいくぶん口速になって続ける。
「俺はそのあとまた元の書斎に戻って、しばらく一人で過ごしてから階下に降りてきた。そこで例のブロンズ像の異常に気づいた。それが七時頃だね。だからまあ、俺には充分なアリバイを主張することはできないわけだが」
ちょっと唇を尖らせるようにして、玄児は私の反応を窺う。私は何とも云わず、再び手許の覚書に視線を落としながら、
「宍戸さんとしのぶさんには、一応アリバイらしきものがあるとも云えますね。六時四十五分頃、二人は厨房で会って言葉を交わしている」
二人以上の人間が互いの行動を保証している、という意味では、美鳥と美魚の双子姉妹もそうだが、彼女たちはあのとおり「二人で一人」の身体なのである。当然のことながら、特殊な例外として考えねばならない。
「その二人についても、充分なアリバイとは云えないだろう」
玄児は淡々と意見を述べた。
「六時三十五分の犯行後、すかさず〈赤の広間〉に脱出して何喰わぬ顔で厨房に戻った、あるいは厨房を訪れた、と考えれば」
「それを云いだせば、私にしたって同じことかもしれませんね」
「ほう」
「私が野口先生と別れて図書室に引っ込んだのが、仮に六時二十五分だったとして、その直後、サロンの先生に気づかれないよう直接廊下に忍び出た。そして伊佐夫さんがブロンズ像を倒してしまうまでにアトリエに侵入し、犯行後〈赤の広間〉に脱出、何喰わぬ顔ですぐに図書室に戻った、と」
「ははん。――で、君はそんな行動を取ったわけかい」
「まさか」
私はゆるりと首を振った。
「ですが、取っていないという証明はできません」
「冷静な態度だね。頼もしい相棒だ」
そう云われて私は、「相棒」というその言葉にかなりの居心地悪さを覚えざるをえなかった。これが今回この館を訪れる前の話であれば、こんなふうには感じなかったのだろうけれど。
「確かなアリバイがあるのは野口先生だけ、ということになりますね」
云うと、玄児は「うむ」と軽く頷いたあとで、
「もっとも、無理やり野口先生の仕業だとこじつけるやり方もないではない」
「と云いますと」
「さっき否定したことだが、置時計の破損が犯人による偽装工作で、実際の犯行時間がたとえば、五時五十分から六時の間だったとしたら?」
「その間に、野口先生が?」
「叔母さんがアトリエに入った直後に押し入って殺し、すぐにサロンに戻って君と会った」
「その時点ではしかし、伊佐夫さんが六時半にブロンズ像を倒したり、そのあとサロンに立ち寄ったりするなんてことを予測できたはずがありません。私がサロンに現われることも、です。だからつまり、さっき玄児さんも云っていたように、『前後の状況などを考えると、犯人がわざわざそんな工作をする必要や必然性は認められない』わけですね」
「そういうことだな。それに、仮に野口先生がそんなふうにして犯行をなしたのだとすると、休憩室の硝子を破って〈赤の広間〉に脱出する必要もまったくなかったはず。あの硝子が割れ落ちているというのがそもそも変だし、硝子を割って飛び出してきた人影を目撃したという市朗の話とも矛盾する」
「ですよね」
「従ってやはり、野口先生のアリバイは成立すると見るのが正解だろう」
要するに、玄児と私も含めて、野口医師以外のすべての関係者に犯行の機会はあった、ということである。少なくともアリバイという観点からのみ考えるならば、柳士郎も美惟も、美鳥も美魚も征順も、清すらも……。
「もう一つ、疑いだせばこんなふうにも云えるが。伊佐夫君が実は真犯人で、ブロンズ像を倒した時刻も含め、すべてにわたって嘘をついているという可能性もある、と」
「ええ、それはまあ」
「だが、あの酔っ払いぶりが演技だとはとうてい思えないしね。この事件が泥酔者の仕業だとはおよそ考えにくいし、市朗との遭遇についても事実のようだし……そこまで疑ってしまうと、何も決定できないという話になってしまいかねない」
「そうですね」
頷いて、私はいま一度手許の覚書に目を落としながら尋ねた。
「江南青年についても『詳しくは不明』とありますが、これは?」
「かれこれ四時間ほど前になるかな、〈表の座敷〉へ江南君の様子を見にいったのは」
腕時計で時刻を確かめ、玄児は答えた。
「その時には彼、布団に入って眠りこけていたよ。衣服は枕許に脱いで、肌着だけになって。声をかけてもなかなか目覚めなくて……何やらひどく夢にうなされているふうだったんだが」
「無理に起こして訊いてみた?」
「ああ」
玄児は眉根を寄せ、私の視線を受け流すように斜め横を向いた。
「そうしてはみたものの、口が利けない状態にはやっぱり変わりがなくてね。簡単に事情は説明したんだが、寝起きで朦朧としていたようだから、どこまで理解させられたものか心許ない。問題の時間帯、どこで何をしていたかとも訊いてみたが、曖昧に首を振るばかりでね、慎太と同じで要を得ず……」
さもありなん、とは思った。
いまだに正体不明のままでいるあの青年だが、いったい彼は、一昨日以来この屋敷で起こっている諸々の事件について、どれほどの把握ができているのか。蛭山丈男が何らかの事故で重傷を負ったことは、搬送の現場を目撃したのだから知っていたはずだ。が、昨日その蛭山が殺された件は、いまだ知らされていなかったのではないか。望和殺しの件も同様である。とすれば、いきなり玄児に叩き起こされてあれこれ質問されたところで、混乱がいや増すばかりだったに違いない。
「……にしても」
玄児が低く呟くのが聞こえた。
「彼のあの……」
「はい?」
と、私は玄児の顔を窺い見て、
「あの青年に、何か」
「あ、いや」と言葉を濁しつつも、玄児は私の視線を受けて、
「眠っている彼を起こす際に、何だか気になるものが目に留まってね」
「気になるもの?」
「何と云うかな、ちょっとした肉体的特徴のようなものなんだが……いや」
玄児は目を閉じて小さくかぶりを振り、
「まあ、それはともかくとして――」
私の質問を宙吊りにしたまま、話の流れを切り替えた。
「第二の事件に関わる皆のアリバイは、ざっとこういったところだ。容疑者を絞り込む役にはあまり立たなかったけれども、とりあえずこうやって各人の動きを把握しておかないことには、どうにも検討の進めようがないからね」
「――ええ」
応えて私は、玄児が作成したアリバイ表を、今度は元どおり折りたたむことはせずに差し出す。先の時間表と同様、玄児は受け取ったそれを無造作に作業机の上に放り出すと、
「ところでね、中也君」
そう云って机から離れ、部屋の奥の方へと向き直った。
「君の率直な意見を聞いてみたいんだが」
「何でしょうか」
「あそこの――」
と、玄児は右手の斜め前方を差し上げる。
「あの絵を君、どう思う」
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部屋の北側の壁を――そこに描かれようとしている例の奇態な絵を、玄児の手は示していた。
元々は単なる黒塗りの板壁であったに違いないその壁面をまるまる巨大なキャンバスに見立てて描かれた、さまざまな人や物や建物らしきもの。子供の落書きにも近いような無秩序、無頓着、計画性の欠如……これは。
――叔母さまはね、普段はアトリエに閉じこもってずっと絵を描いてらっしゃるの。
一昨日の夕刻にサロンで聞いた、美鳥だったか美魚だったかの言葉が耳に蘇ってくる。
――何だか怖い、変な絵ばっかり。
下塗りも施さず、チューブから絞り出した絵の具をそのままナイフで厚塗りしたような乱暴な線が何本か、縦横に斜めに引かれているかと思うと、天井近くにぽつりと、黄金色の渦状星雲のようなものが繊細な筆致で描かれていたりする。床面すれすれの位置でぐねぐねと波打ち紺色の海=Bその上方に浮かんだ朱色の球体は、波間に沈もうとしている夕陽のようにも見えるが、無数に走った網目状の黒い|罅《ひび》我が何とも|禍々《まがまが》しい。さらには線。
白く下地を塗った扉一枚分くらいの一画に、幾本もの尖塔が突き出した黒い建物のいびつな影が、まるでその部分が画面の焼けこげであるかのような|風情《ふぜい》で描かれていたり、闇に漂うしゃぼん玉のようにあちらに一つ、こちらに二つと点在させた円形の、あるいは楕円形の枠があって、それらの内部に淡い色遣いで人物画が描き込まれていたり……。
そのような具体的な絵の内容を、私はこの時になって初めて把握していった。「ここは殺人事件の現場なのだ」という認識が何よりも先に立って行動を支配していたためだろうか、これまでは、そこにそういった絵が描かれていることを意識しつつも、内容の把握は満足にできないでいたのである。細部への観察の目をみずから封じ込めていた、とでも云えば良いか。
しゃぼん玉のような円形や楕円形の内部に描き込まれているのは、よく見てみるとたいがいが年端も行かぬ子供か、あるいは赤ん坊の絵だった。身を丸めて揚水に浮かぶ胎児の絵もある。子供や赤ん坊の顔つきは、とりたてて現実に存在する誰かに似ているふうにも見えないのだけれど、中の一つには、明らかに美鳥と美魚を意識したに違いない双生児の姿が描かれている。腰のあたりで二つの肉体が結合した、畸形の赤ん坊の姿が。ということは、どこかに清を意識して描かれた絵もあるわけだろうか。
どの子供も赤ん坊も、顔に浮かんだ表情は子供らしさや赤ん坊らしさとは程遠く、一様に暗い。今にも苦しげな呻きか悲しげな|啜《すす》り泣きが、各々の口から洩れ出してきそうなほどに……。
……何なのだろう、と私は思った。
これは何なのだろう。
彼女は――望和は、ここでいったい何を描こうとしていたのだろう。ここに何を描き上げようとしていたのだろう。
ことさらのように考えてみたところで、明確な答えはもはや、決して得られるはずのない疑問であった。そもそもそこに答え≠ネるものが存在したのかどうかすら、怪しい問題でもあった。
「望和叔母さんがこの壁画を描きはじめたのは、今年の初め頃からだったと聞いている」
話す言葉を失ってしばし立ち竦んでいた私に、玄児が云った。
「それまではずっと普通のキャンバスに描いていたのが、征順叔父さんによれば、別にどんなきっかけがあったわけでもなく、ある日突然こんな……」
「この壁画以前には、どんな絵を」
「描きかけの作品が、ここにも一つ二つ残っているが――」
と、玄児は部屋の何箇所かに置かれたイーゼルの方を見やり、
「まあ、どれも基本的には同じようなモティーフの絵であるとは云えるかな」
「同じような?」
「この屋敷、暗黒館のあちこちを素材にしたような建物の絵や、身近な人物をモデルにしたと思しき絵や。人物画はやはり、子供や赤ん坊の絵が多かったみたいだが、現実の我が子の姿をそのまま写すようなことは、彼女は決してしなかった。清をモデルに描いたものであっても、それは例の奇病が顕在化する前の健康な赤ん坊の姿だったり、その子が真っ当に成長した場合の、ころころと太った男の子の姿だったりね」
「――なるほど」
「自分自身を、子供の生命を吸い取って生きている怪物めいた存在として描いたような絵も、確か見たことがあるな。そういった解釈をいっさい寄せつけないような、まったく意味不明の奇怪な作品もたくさんあった」
「…………」
「それでね、中也君」
と云って、玄児は改めて壁画の方へと右手を差し上げるのだった。
「意見を聞いてみたいと云ったのは、あっちの隅に描かれているあの絵[#「あの絵」に傍点]についてなんだが」
玄児が指し示したのは、こちらから見て右端の一画であった。手前の床には、足場を使うための脚立が一つ置かれている。望和が死の間際、絵筆とパレットをもって向かっていた、あるいは向かおうとしていたと思われるあたりの……。
そこ[#「そこ」に傍点]にまっすぐ視線を投げかけながら、私はそろりと足を進めた。
最初に目に留まったのは、私の身の丈ほどの高さに描かれた幾輪かの花だった。くすんだ黄色の花弁が三、四枚ずつ合わさり、|艶《あで》やかな大輪の花を咲かせている。――馴染みのない花ではない。名を知らぬ花ではないはずだが……ああ、これは何の花だったろうか。
黄色い花弁のうちの幾枚かには、花芯から滲み出した血のような深紅によって、何やら怪しい縞模様ができている。すべてが深紅に染まってしまっているものもある。
「――これは?」
呟いて、私はそろりともう一歩、足を進める。
「これは……」
闇に裂いたそれらの花々の下方に、玄児が云う「あの絵」の主要部があった。私は上体をやや低くしながら、さらに一歩足を進める。
白く下塗りが施され、縦横一メートル余りの面積を持たせた一面。そこに見えるのは、同じ壁面に散在する他のものたちとはまた趣の違う、なんとも異様なある光景[#「ある光景」に傍点]であった。
若い女が一人、地に横たわっている。身にまとった|濃鼠《こいねず》の和服が乱れ、白蝋のような肌が露わになっている。そして――。
その身体の上に、無理やり女を組み敷くようにしてのしかかっている全裸の何者か[#「何者か」に傍点]。
それ[#「それ」に傍点]はおおむね人間の姿形をしてはいるが、同時に決して尋常な人間とは思えないような、奇怪な特徴を有している。
黄土色の背中から生えた、二本の赤黒い木の枝のようなものが、その第一だった。私にはそれが、その者[#「その者」に傍点]の翼≠ノ見えた。いまだ然るべき機能を獲得してはいないが、いずれその羽ばたきによってその者[#「その者」に傍点]が闇夜に舞い上がるための、異形の、そして邪悪な翼――。
特徴の第二は、その者[#「その者」に傍点]の足にあった。
女の両手首を握って己の下に組み敷いたその者[#「その者」に傍点]の、画面手前に向かって伸びてきいる二本の足。女を押さえつけるため、地に足先を付けて踏ん張っている様子や、どす黒く汚れた足裏の細部までが、そこには描かれているのだが――。
問題はその足指の数だった。
普通に五本の指が生えているのではない。三本しか[#「三本しか」に傍点]、それがない[#「それがない」に傍点]のである。親指に該当する指が、左右とも内側に一本。その他に二本、これも左右ともに、常人の足指よりもずっと太くて長い、何やら怪物じみた指が……。
「何なのですか、玄児さん」
見ているうちにだんだん気分が悪くなってきて、私は喘ぐような声を洩らした。
「この絵はいったい」
「何に見える」
と玄児が訊き返すのに、私はわずかに|脂汗《あぶらあせ》の滲んできた額に掌を当てながら、
「女の人が、何か人間じゃない化物に襲われている……そんなふうにしか、私には」
「人間じゃない化物、か」
応えて、玄児は深々と息をついた。
「ああしかし、ここまではっきりと細部が描かれた絵は、俺も初めて見たな。特にあの三本指の足、それにあの髪……」
女に襲いかかっている「化物」の相貌は、見るからに凶悪かつ凶暴だった。獣のような鋭い歯が剥き出された口に、凶器じみた欲情を|漲《みなぎ》らせてぎらぎら光る目。逆立つように振り乱された白髪……。
一方、襲われている女の顔には、ひょっとすると私の気のせいかもしれないのだが、何故かしら微妙に引き裂かれた表情が読み取れる。瞠目し、大きく口を裂き広げてはいるものの、必ずしもそれは、恐怖や嫌悪に衝かれて絶望の悲鳴を上げているというふうでもなく……。
「どうして望和叔母さんは、こんな絵を描いたんだと思う」
玄児の質問が、背後の間近から聞こえた。
「まったくの空想で、あるいは妄想でこれを描いたんだと思うかい」
「えっ」
私は思わず振り返る。息が吹きかかってくるほどすぐそばに、玄児の顔があった。
「そうじゃないと云うのですか」
「こいつと似たような構図の絵を、叔母さんはこれまでにもいくつか描いているのさ。ここまで露骨な表現ではないが」
「それじゃあこれは……」
何か現実のモデルがある、と云いたいわけか。そうなのか。
まさか――と思いつつ、私は壁の絵に向き直る。そうして恐る恐る想像の網を広げてみる。
望和がかつてどこかで実際に目撃した、何らかの忌まわしい光景。心の底に焼き付いたまま消えぬその残像。それを元にして描かれたのが、この奇怪な絵であるというのか。――とすれば。
襲われているこの女は何者なのか。襲いかかっているこの化物は何者なのか。異形の翼≠ニ三本指の足を持つ、この悪魔めいた化物は。
不吉な気配に満ち満ちた沈黙と、それを包み込んだ深夜の静寂。――換気扇の回るかすかな音と、背後に立つ玄児の、心なしか荒い息遣いだけが聞こえる。
私は暗澹たる心地で、改めて目の前の壁画を――その全体を、その部分を見渡す。
罅割れた夕陽の砕け散る音が、焼け焦げのような建物の崩れ落ちる音が、しゃぼん玉の中に閉じ込められた子供や赤ん坊の声が、女の悲鳴が、化物の|雄叫《おたけ》びが……今にもこの沈黙の静寂の中に、堰を切って流れ出してくる。――そんな幻惑に囚われる。囚われ、取り込まれ、そのままどこか彼方へ連れ去られてしまいそうになる。
「玄児さん」
私は慌てて壁画から視線を逸らし、再び玄児の方を振り返った。
「ねえ玄児さん、何なんですか、これは」
結局のところ、疑問は同じような言葉の繰り返しでしか表わせなかった。
「これは、この絵は」
「分らないのかい、中也君」
「――はい?」
「あそこに描かれたあの花さ」
そう云って、私の肩越しに壁の絵を指差す玄児の目には、何やらぎりぎりまで思いつめたような暗い光があった。
「あれが何の花なのか、分っているかい」
「いえ、それは……」
「あれはね」
玄児は溜息とともに吐き落とした。
「カンナだよ、あの花は」
[#改ページ]
第十九章 抜け穴の問題
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「中也君、こっちへ」
再び壁の絵に視線を吸い寄せられて立ち尽くす私をよそに、玄児はつっとその場を離れ、隣の休憩室の扉の前へと向かう。そうしてその扉を開けたところでこちらを振り返り、私を手招いたのだった。
「こっちへおいで。さっきあとまわしにした問題について、ここで明らかにしてしまおう」
「――はあ」
私は生返事をして、のろのろと玄児の招きに従った。「あとまわしにした問題」と云われても、私にしてみれば、未解決のまま放置されている「問題」はまだまだたくさん存在する。どれを指して玄児がそう云うのか、すぐにはぴんと来なかったし、それより何より、今はやはり目の前の壁画の方が気になって仕方なかったのだ。
闇に咲いた幾輪かの黄色い花……あれはそう、云われてみれば確かにカンナの花である。花芯から滲み出した血のような深紅が濡らす花弁の、その下で展開される悪夢じみた暴虐の図。――これは何なのか。この異様な絵が示すものは、いったい何だと云うのか。さっきの口振りからすると、玄児にはおおよその見当はついているようだが。
「カンナ」と云えばそれは、亡き玄児の母親の名でもある。先ほど玄児自身が語ったところによれば、二十七年前の八月五日深夜、この屋敷で玄児を産み落とした後に命尽きたという、彼の実母。当主、浦登柳士郎の最初の妻。その父は浦登卓蔵、その母は浦登|桜《さくら》。その祖父は浦登玄遙、その祖母は浦登ダリア……。
あそこに描かれているのがカンナの花で、その花の名が文字どおり玄児の亡母の名を表わしているのだとすると――。
では、絵の中であの三本足指の化物に組み敷かれている女性は、浦登カンナその人であるということになるのか。殺された望和の実の姉、カンナ。彼女は果たしてどんな女性だったのだろう。
卓蔵と桜夫妻の間にできた、カンナは長女で望和は末娘だったはずだ。夫妻は他に、清と同じ奇病で早くに死んだという次女の|麻那《まな》と、三女の美惟をもうけたわけだから、長女と末娘の年齢はかなり離れていたことになる。もしも望和がかつて、この絵に描かれているような光景を実際に目撃したのだとしたら、ではそれはいつのことだったのか。いつどこで、どのようにして彼女は……。
「中也君、こっちだ。さあ」
強く促され、私はどうにかこうにか気持ちを切り替える。先に一人休憩室の中に入っていった玄児のあとを、覚束ない足取りで追う。
「あの、玄児さん」
部屋の奥に造り付けられた、煙道の備わっていない形だけの[#「形だけの」に傍点]暖炉。その前に立っていた玄児の横に並ぶと、私は彼の顔を窺い見ながら尋ねた。
「『あとまわしにした問題』というのは?」
玄児は「うん」と頷いてこちらに目を流し、
「犯人の脱出劇を巡って、一つ非常に気懸かりな点があると云ったろう、さっき」
「ああ……はい。そうでしたね」
私は暖炉の上の壁面に作られた、例の窓へと視線を向ける。元来そこに嵌め殺されていた赤い模様硝子が粉々に割れ落ち、黒い枠組みだけを残して長方形の穴≠ニ化している。暖炉と同じほどの横幅と一メートル余りの高さがある、大人が二人肩を並べても楽に通り抜けられる大きさの。
望和の死体を発見した直後にここを調べにきたあの時と比べて、状態に特筆すべき変化はない。違っているのはただ、あの時のような外の嵐の音が今はもう聞こえてこないことと、窓の向こうの〈赤の広間〉の照明がめいっぱいに灯されていること――そのくらいだろうか。
「廊下に出る扉が、伊佐夫君が倒したブロンズ像のせいでどうしても開かなかったので、困り果てた犯人は窮余の策として、この窓から〈赤の広間〉へと脱出した。元々この部屋にあったその椅子で硝子を打ち砕いて……」
それはすでに明々白々な事実だった。折りしもその時〈赤の広間〉に侵入してきていた市朗少年が、その光景を目撃したともいうのだから、疑う余地はどこにもないはずである。――なのに。
いったい玄児は、その「脱出劇」のどこにどんな「気懸かり」があると云うのか。「明らかにして」おかねばならない、どんな「問題」があると云うのだろうか。
考えあぐねる私の横で、玄児はおもむろにその場に片膝を落とした。そうして、いつの間にどこから取りだしたものか、右手に握った懐中電灯を点けて暖炉の中を照らしはじめたのである。
「どうして……何をしているのですか」
戸惑いつつも私は、玄児に|倣《なら》って床に片膝を落とす。
「ねえ、玄児さん」
「まあ、ちょっと見てろよ」
そう云って玄児は、そのままもう片方の膝も床に落として身を屈めると、ほとんど四つん這いの姿勢になって、懐中電灯の光を差し向けた炉室の中へと上半身を潜り込ませるのだった。
そんな玄児の様子を目の当たりにするにつけ、蘇ってきた数時間前の記憶があった。あれは、あの時――暖炉の上の窓が破られているのを見つけ、一刻も早く向こうの〈赤の広間〉を調べてみた方が良いと考えて行動を起こそうとしていた、あの時の。
――妙だな。
そう呟いて玄児は、難しい顔で顎の先を撫でまわしていた。
――ここには確か……。
そう。そんなふうに呟いていたのだ、彼は。そして今と同じように、行動を急がねばと焦る私を|後目《しりめ》に、懐中電灯を点けて暖炉の中を覗き込みはじめたのではなかったか。
「これ[#「これ」に傍点]か」
と、玄児の声が聞こえてきた。
「中也君、君も来て、見てごらん」
その指示に従わないわけには、もちろんいかなかった。
私は玄児と同様に両膝を床に付けると、包帯の巻かれた左手をかばいつつ、玄児の隣に身を潜り込ませた。結果、狭く|埃《ほこり》っぽい炉室内で私たちは、肩と肩を密着させ、相手の息の温もりが感じられるほどに頬を寄せ合った格好になる。
「いいかい、中也君」
云って玄児は、懐中電灯を左手に持ち替え、右手を炉の奥に伸ばした。
「ここに小さな棒状の突起があるんだ。こいつをこう、押し上げてやると」
かしっ、きしっ……と、何やらかすかな金属音が間近で響いた。
「よし。これでロックが外れた」
呟くと玄児は、懐中電灯を前方に向けたまま下に置き、その光線を頼りに両手を炉室の最奥部まで突き出す。そこには黒い鉄製の背壁が立ち塞がっていたのだけれど、玄児が両の掌をその真ん中あたりに押しつけ、ぐいと力を加えると――。
がらがらという低く鈍い音とともに、鉄板の一部分が動き出すのが見えた。縦横六十センチか七十センチか、そのくらいの大きさの正方形が、引き戸が開くようにして真横へ滑っていくのである。
開いた鉄の扉≠フ向こうには、新たに黒い板が表われた。これは木製の一枚板だと思われる。位置関係からして、隣室の壁の裏側に当たることになるが……。
玄児は躊躇なく、その板に両手を伸ばす。
さっきの金属音とはまた質感の異なる物音がかすかに響いたかと思うと、黒い木製の板が、今度は片開きのようにして向こう側へ押し開かれていき[#ここから太字](……ああ、ここにもこんな)[#ここで太字終わり]……とともに、そこから射し込んでくる柔らかな光が。〈赤の広間〉で灯されている照明の光である。
「ああ」
私は思わず[#ここから太字](ここにもやはり、という認識がまたぞろ、昏い混沌の中から浮かび上がってはきたものの……)[#ここで太字終わり]喘いだ。
「玄児さん、これは」
「見てのとおりだよ」
玄児は懐中電灯を拾い上げ、スイッチを切る。そしてそのまま、炉室の奥の床すれすれに開いたその真四角の扉≠ノ向かって、ごそごそと這い進んでいくのだった。
「さあ中也君、君も。こっちにはけっこう硝子が散らばっているから、気をつけて」
程なく扉をくぐり抜けて、〈赤の広間〉への「脱出」を終えた玄児が、暖炉の中の私を覗き込んで云った。
「分っただろう。要はこういうことでね。この〈北館〉にも、十八年前の焼失後の再建を請け負ったかの建築家氏[#「かの建築家氏」に傍点]によって、いくつかの子供じみた仕掛けが造られている。その一つがすなわち、これ[#「これ」に傍点]――この秘密の通路≠セというわけなのさ」
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玄児に命じられるままに、私は秘密の通路をくぐり抜けた。
暖炉の側では床すれすれに位置していた扉の下端は、〈赤の広間〉の側では床上三十センチ余りの高さにあって、散らばった硝子の破片に注意しつつ、なおかつ負傷している左手を極力使わないようにしつつ、それを成し遂げるのにはかなりの苦労を要した。せめて扉がもう少し大きければ、さほどでもなかったのだろうが。玄児が途中で手を貸してくれなかったならば、いったん身体の向きを変え、足から先に出る形でやり直さなければならなかったかもしれない。
「手は大丈夫かい。無理強いするつもりはなかったんだが」
「ちょっと痛みますけど……まあ、どうにか」
玄児の胸に寄りかかるようにしてようやくその場に立ち上がると、私は着衣に付いた埃を軽く払いながら、いま自分が這い出してきた扉の様子をよくよく見直してみる。正方形の一辺はやはり、六十センチか七十センチか、その程度のものだった。が、これだけの広さがあれば普通、大柄な男性でも充分に通り抜けられるだろう。
「見たとおり、暖炉の側は背壁の鉄板が一部分、引き戸になっていて、こっちの広間の側は壁の一部分が、こういった外開きの扉に……」
説明しながら玄児は、開いている広間側の扉を静かに閉める。
炉室内から見たこの扉の裏側は木製の一枚板だったけれども、表側にはこちらの壁面の|造作《ぞうさく》に合わせて、黒いごつごつとした石が貼り付けてあった。当然、扉は相当の厚みを持っているが、きちんと閉めてしまうとそれは、石積みが剥き出しになったこちらの壁に違和感なく溶け込んでしまう。一見しただけでは、そこにそんなものがあるとはまず分らないだろう。
「この広間には、これと同じ仕掛けがあっち側にもあってね」
と云って、玄児は「あっち側」に視線を飛ばす。この広大な吹き抜けの〈赤の広間〉の、方角としてはこちらが西、あちらが東になる。
「音楽室の暖炉とこの広間とが、同じ仕組みの秘密の通路で繋がっているのさ。あっちの暖炉はこっちよりもだいぶ大きいから、そのぶん通路も広くてくぐり抜けやすいんだが、どちらも扉は暖炉側からしか開けられないようになっている」
「一方通行の抜け穴、ですか」
「ああ。ついでに云ってしまうと、ここの二階部の回廊にも、ちょっとした仕掛けが造られているんだよ。二階の主廊下との間に一箇所、君が〈東館〉で見つけたのと同じようなどんでん返し≠フ壁があって……」
「まるで忍者屋敷ですねえ」
わざと冗談めかして、私は云った。
「機械仕掛けで天井が下がってくる部屋とか、刃の付いた巨大振子と落とし穴のある地下室とか、あったりはしないでしょうね」
「ははあん」
玄児は肩眉を上げて薄く笑い、
「俺が知らないだけで、ひょっとしたらどこかにあるのかもしれないな」
「|乱歩《らんぽ》や|正史《せいし》と云わず、当代の探偵小説作家をみんな招待してみては?」
なおも冗談めかして私が云うと、玄児は「ふん」と鼻を鳴らし、
「いずれ父に相談してみよう」
道化るように軽く両腕を広げて見せたが、すぐにそれを下ろして真顔に戻る。黒い石壁の一部分として閉じられたさっきの扉に、そして厳しい視線を投げかけるのだった。
「この抜け穴の存在を、俺はむかし望和叔母さん自身に教えてもらったんだ。暖炉に潜り込んで、実際に隠し扉を開けてみせてもくれて……『何だってこんな、子供の|悪戯《いたずら》みたいな仕掛けを造ったのかしらねえ』なんて云って笑っていた。まだ清が生まれる前のことでね、叔母さんもまだあんなふうじゃあ全然なくって、アトリエで描いていた絵にしても、もっとまともな作品が多かったように思う。俺にはたいそう優しくしてくれて、気が向くと絵の描き方を教えてくれたりもして……」
「音楽室にあるという抜け穴の方は? それも望和さんに教えてもらったのですか」
私が訊くと、玄児は「いや」と小さく首を振り、
「あっちの方は、しばらくして自分で見つけた憶えがある。美鳥と美魚は、確か鶴子さんが教えてくれたと云っていたな」
「じゃあ、彼女たちも以前から知っているわけですね。音楽室の方だけじゃなくて、こっちにも同じ仕掛けがあることも」
「そうだね」
「征順さんや清君も?」
「もちろん知っているだろう」
「ははあ。――なるほど」
望和殺しの犯人の「脱出劇」を巡って、玄児は何がそんなに「気懸かり」なのか、ここに至ってさすがに私にも呑み込めてきた。つまりそれは――。
「昨日蛭山さんが殺された事件の、云ってみれば裏返しの理屈[#「裏返しの理屈」に傍点]が成り立つんじゃないか、ということですか。そうですね、玄児さん」
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「犯人は何故、廊下の扉が開けられなくなった現場から脱出するのに、わざわざ休憩室の嵌め殺し窓を破らなければならなかったのか」
落ち着いた、けれどもどことなく必要以上に冷ややかな口振りで「問題」を提示すると、玄児は|鹿爪《しかつめ》らしい面持ちで腰に両手を当てた。
「そんな真似をしなくても、部屋の暖炉の奥にはこの〈赤の広間〉に抜けられる秘密の通路があった。炉棚にはあの時、見つけやすい場所に懐中電灯も転がっていたから、暗くて多少は分りにくかったにせよ、さっき俺がやったような|塩梅《あんばい》でロックを外して隠し扉を開けることは決して難しくなかったはずだし、そこから広間に脱出することも容易だったはずだね。どう考えても、わざわざ椅子で硝子を打ち破って、炉棚の上に昇って、硝子の破片に注意しながら窓をくぐり抜けて飛び降りる――といった乱暴な脱出法よりは労力が少なくて済む。かかる時間も大差がないか、むしろ短い時間で済むだろう。それに何より、硝子が割れる大音響を誰かに聞き咎められる危険がまったくない。しかるに――」
玄児は壁に背を寄せて立っていた私の方に身を向け、問いかけた。
「しかるに犯人は抜け穴を使わず、窓を破る方法を選んだ。これは何故か」
「ですから――」
唇の乾きを舌で湿してから、私は答えた。
「蛭山さんの事件の場合とは話が逆、ということなのでしょう?」
玄児は黙って頷き、腰に当てた手を腕組みに変える。私は続けて、
「昨日未明に蛭山さんが殺された〈南館〉一階のあの寝室には、廊下の物置との間にああいった隠し扉があった。犯人はしのぶさんに気づかれる危険を回避するため、それを使って現場に出入りしたと思われるわけで、従って当然、『犯人は物置の隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人間である[#「犯人は物置の隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人間である」に傍点]』という結論が導き出される。――そうでしたよね」
「ああ、そのとおりだ」
「今度の事件の状況は、ちょうどその逆です」
と云って、私はもう一度唇を湿す。埃で汚れているせいだろうか、わずかに苦い味がした。
「事件現場には今回も、隠し扉と秘密の通路が存在した。なのに犯人は、より手軽で諸々の危険も少ないはずのその抜け穴を通らずに、窓の硝子を破って逃走した。いったい何故そんな行動を取ったのか、取らなければならなかったのか。――答えはすなわち、犯人はこの抜け穴の存在を知らなかったからである[#「犯人はこの抜け穴の存在を知らなかったからである」に傍点]、と考えられます」
「そう。ごく単純かつ明解な理屈だね」
玄児は満足げに顎を撫でながら、
「ここにこんな抜け穴があることをそもそも知らなかったのであれば、脱出のためには窓を破るしかない。だから犯人はそうした」
「で、結論として、蛭山さんの事件――第一の事件とは逆の条件が、第二の事件に関しては出てくるわけですね。『犯人は暖炉の奥の抜け穴の存在を知らなかった人間である[#「犯人は暖炉の奥の抜け穴の存在を知らなかった人間である」に傍点]という」
「そういうことだな」
「第一の事件と同様、誰と誰がこの条件に当てはまるのか、を検討する必要がありますね」
「今ここで、やってみようか」
どこかしらやはり冷ややかな口振りでそう云い放つと、玄児は腕組みを解かぬまま私のそばから離れた。回廊に上がる階段の昇り口まで黙って歩いていったかと思うと、やおらこちらを振り返る。そうして階段の手すりに背を|凭《もた》せかけながら、
「抜け穴の存在を知っていたはずの人間は誰か、と云う方向からはじめた方が、話はすっきりするだろう。いいかな」
これまでと大して変わりのない調子なのに、玄児の発したその声は、嵐が去った深夜の静寂の中、吹き抜けの大広間の高い天井の効果もあって、何やら気味が悪いような反響を伴って私の耳に届いた。
「まず――」
玄児は云った。
「この屋敷に長らく住んでいる部内者≠ノついては、〈南館〉のあの隠し扉と同じで、ほぼみんなが『知っていた』と見るべきだろう」
「でしょうね」
「実名を挙げていこう。当主である父、柳士郎や征順叔父さんは知らなかったはずがない。|継母《はは》の美惟も、今現在はあんな状態だけれども、元々は知っていたはずだと考えて間違いないね。さっき云ったとおり、俺は昔から知っていたし美鳥と美魚も知っていた。清も同じだ」
「ここに住む浦登家の人々はやはり、全員が『知っていた』と」
「そう思う。屋敷の使用人についても、〈南館〉の隠し扉と同じで、誰もが『知っていた』と考えて差し支えないだろう。鶴子さんにしのぶさん、宍戸さん、鬼丸老」
「知らなかったかもしれない[#「知らなかったかもしれない」に傍点]のは、じゃあ慎太君くらいのものですか」
「そうだな。〈南館〉のあの隠し扉は、一人で遊んでいてたまたま見つけたようだが、場所がこの〈北館〉となると、あの子がこの島であちこちを探検してまわる範囲からは外れている。誰かに教えてもらうこともなく自分で発見することもなく、『知らなかった』という可能性の方が高いかもしれない。しかしはて、あの慎太をここで容疑者≠ノ含めてしまっていいものかどうか」
「確かに。ですが玄児さん、ここはとりあえず、『知っていたか、知らなかったか』だけに問題を絞り込んで進めた方が……」
「ああ。賛成だね、とりあえず」
玄児はそして、その場でくるりと広間を見まわしながら、「次に――」と言葉を続けた。
「次に、いま挙げた家族と使用人以外の者たちについてだが」
「初めてこの屋敷にやって来た私はもちろん、ここにもこんな抜け穴があるなんて、ついさっきまでまったく知りませんでした」
先手を打って、私は自分が今回の犯人の条件≠ノは当て嵌まる人間であることを申告した。玄児はにこりともせずに、
「不意の来訪者である江南君も当然、君と同じで知っていたはずがない」
「そうですね。――伊佐夫さんと茅子さんは? 〈南館〉の隠し扉に関しては、彼らは十中八九かそれ以上の確率で知らないだろう、ということでしたけれど」
「あの二人は、さて、どうだろうねえ」
「少なくとも首藤夫妻は、屋敷に来るとこの〈北館〉に泊まっていくのでしたよね。だったら、何らかの機会に抜け穴の存在を知った可能性も」
「まったくないとは云えない、か」
「伊佐夫さんはいつも、夫妻からは離れて〈東館〉の方に部屋を用意してもらうという話でしたが」
「ああ。しかしそれにしても、飲んだり食べたりする時は、たいてい〈北館〉の方にやって来るしね。現に昨日は、勝手に地下の葡萄酒庫を漁ったりしていただろう?」
「ええ、確かに」
「茅子さんが何らかの機会に知った可能性を|云々《うんぬん》するのなら、伊佐夫君についても同様の可能性があったかもしれないと考えるべきだろう」
「ということですね」
「だからまあ、あの二人が『知っていたか、知らなかったか』に関しては、『どちらとも云えない』というのが、ここで下すべき客観的な判断なんだろうな。もっとも、俺の個人的な洞察によれば、どちらかと云えば彼らは『知らなかった』可能性の方が高いと思えるんだが……」
いずれにせよ、私と江南青年に加えて首藤茅子と伊佐夫の二人も、さしあたりは犯人の条件≠満たしうる人物として勘定に入れなければならないことになる。
「最後に野口先生だけれども」
と、玄児は続ける。
「先生については、これまたいささか判断が難しい」
「あの先生が『知らなかった』という可能性もあるわけですか」
「なきにしもあらず、だろう」
「でも先生は、家族同然の長い付き合いなんでしょう。この屋敷にもたびたびやって来て、〈北館〉に泊まっていくわけですから」
「ああ。〈南館〉のあの隠し扉でさえ、先生はその存在を誰かから聞いたことがあった、と云っていたからねえ。〈北館〉のこの抜け穴についても、『知っていた』と考えるのが妥当かとは思うんだが、しかし本当のところはどうなのか、これは当人に確認してみないと分らない。何せ、屋敷中にいろいろと造られた仕掛けのうちの一つだからね、他は知っていてもこの一つは知らなかった、ということも充分にありうるだろうし……」
そうだとすると、野口医師もここでは一応、条件≠ノ当て嵌まるかもしれない人物として残ることになる。
「さて中也君、そこでだ」
階段の手すりから離れて、玄児は再び私のそばに歩み寄ってくる。みりっ、と床に散らばった硝子の破片を踏み鳴らしながら、いくぶん声を低くして云った。
「第一の事件から導き出された犯人の条件≠ニ、いま検討した第二の事件の犯人の条件=Bそれぞれの条件を双方ともに満たしうる者のうちにこそ、犯人はいる――という理屈になる。どうだい、誰がそれに該当する」
「それは……ええと」
第一の事件における「犯人は物置の隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人間である」という条件を満たすのは、屋敷に住む浦登家の人々――柳士郎、美惟、征順、望和、玄児、美鳥と美魚、清の八人と、使用人の四人――鶴子、しのぶ、宍戸、鬼丸老。これに慎太と野口医師も加えるとして、全部で十四人。殺された望和を除くと十三人、か。
一方、第二の事件における「犯人は暖炉の奥の抜け穴の存在を知らなかった人間である」という条件を満たす、あるいは満たす可能性を持つのは、私自身と江南青年、慎太、茅子、伊佐夫、そして野口医師の六人である。従って――。
「慎太君と野口先生の二人、ですか」
「そう」
玄児は鋭く眉を寄せながら頷いた。
「二つの条件がともに当て嵌まるのは、その二人しかいない」
「ですが、野口先生には確かアリバイが成立していましたね」
「そうなんだ。さっき検討したとおり、先生には第二の事件で確かなアリバイがあって、犯人であるとは考えられない」
「とすると、残るのは慎太君一人」
「という話になるが、どう思う、中也君。あの子の仕業だと信じられるかい」
「…………」
「まだ八歳の、しかも知恵の遅れた子供が、二人の人間をつづけて殺した犯人である、と」
「――信じられませんね、やはり」
「俺もそう思う。知的能力の問題だけを考えても、あの子にはとうてい無理な犯行だろう。できたはずがない」
さらに鋭く眉を寄せて、玄児は断言した。
「慎太は犯人ではありえない」
「じゃあ、いったい……」
私も玄児と同様、眉を寄せざるを得なかった。
誰も残らない[#「誰も残らない」に傍点]、ということか。これまで延々と私たちが辿ってきた論理に従うと、犯人たりうる人間は誰も残らない、誰もいない、という結論になってしまうのか。――そんな。
そんなはずはないのに……と、私は困惑しつつ幾度も目をしばたたき、そうするうちにやがて一つの解釈に行き当たった。
「同一犯ではないのかもしれない、とは思いませんか」
若干のためらいを覚えつつもそう尋ねると、
「安易な逃げ道だね」
と、玄児は答えた。それについてはとっくに検討済みだ、とでも云いたげな、実に素っ気のない口振りである。
「関係者≠フ一人としては、あまり積極的に支持したくない可能性でもある。自分が生まれ育ったこの家に今、別々に二人の殺人者がいるなんてね、普通は考えたくないものだろう」
「ですが……」
「それにね、そういった心情的な理由だけで云うんじゃなしに、どうも俺には、この二つの事件は同じ一人の人間の手に成る連続殺人であるとしか思えないんだよ。実は二つが別々の事件だとか、あるいは共犯者がいるとか、そういう感じじゃないんだな」
「…………」
「何と云えばいいだろう」
玄児は蟀谷に右手の人差指を押しつけて、
「分析的に説明するのは難しいんだが、事件そのものの形≠るいは|臭《にお》い≠ェ似ている、とでも云うのかな。全体の問題なのかもしれないし、細部の問題なのかもしれない。その両方かもしれない。とにかく二つの事件には、何か共通の形≠るいは臭い≠感じてしまう。だから――と云ってもなかなか納得してもらえないだろうがね、俺はやはり二つは同一人物の仕業だと考える、考えたいのさ」
「いえ、それは分る気がします」
と応えて頷いた。それは私の本心だった。
「確かに二つの事件には、共通した何か[#「何か」に傍点]がある。玄児さんが云うように、形≠ゥ臭い≠ゥ、それとも手触り≠ネのか……何となく私も、そんなふうに感じてはいましたから」
「そうか。だが、そうすると……」
「じゃあ玄児さん、ここでちょっと検討の対象を変えてみましょう」
思い切って私が提案すると、今度は玄児が幾度も目をしばたたき、
「と云うと」
「決して避けて通れない問題について、です。何故――どうして、第二の事件の被害者が望和さんなのですか。いったいどんな理由があって、彼女は殺されなければならなかったのでしょうか」
「動機の問題、か。謎だな、それも」
玄児は深々と溜息をつき、いとも口惜しげに下唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]んだ。
「望和叔母さんは、清の病を悲嘆するあまりあんなふうに心が壊れてしまっていたが、誰かに恨まれるような人じゃなかった、と俺は思う。仮にあの人の言動を不愉快に感じる者がいたとしても、だからと云って殺してしまうなんてことは」
「これが連続殺人だとすると、蛭山さんと望和さん、どちらに対しても強い殺意を持っていた人間がいるはずなんですよね」
「そのとおりだよ。そのとおりだがしかし、そんな人間は俺の知る限り……」
云いかけて、玄児は「いや」と呟き、みずからの感傷を抑え込むように強く首を振った。
「当たり前な話になってしまうが、結局のところ、動機は犯人のごく内面的な問題だからね。他人には窺い知れない心の深い部分にこそ、真に重大な、切実な歪みが隠されているものだろうから」
「真に重大な、切実な歪み……」
「現に二人が殺されている。二人を殺した犯人がいる。ということは、少なくとも犯人自身にとっては然るべき、もしかしたらやむにやまれぬ理由が、そこにはあったわけだ。あったはずなんだ」
「――そうですね」
アトリエの床に倒れ伏して事切れていた浦登望和の姿を、私は思い出す。さらには昨日の朝、ベッドの上で動かなくなっていた蛭山丈男の、間近に見た死顔を思い出す。あの|傴僂《せむし》の玄関番の死の「無意味の意味」を巡って昨夕、玄児の書斎でひとしきり議論した時のことを思い出す。――と。
そこでおのずと迫り出してきたのは、|時間《とき》を隔てた彼方の、怪しげに漂う濃霧の中からの怪しげな手招きであった。私はそろりと云った。
「ひょっとして玄児さん、これも――望和さんが殺されたのも、十八年前の事件と何か関係が」
玄児は意表を衝かれたように「うん?」と声を洩らしたが、すぐに「ああ」と力の抜けた頷きを返して、
「どうしても気になるわけか、その件が」
「ええ、まあ」
と、私もあまり力強くはない頷きを返し、
「玄児さんとしてはやっぱり、十八年前の事件はあくまでも無関係だと? 説得力に欠ける、焦点がずれている、みたいな云い方でしたけれど」
「十八年前の事件に関して、蛭山さんが何か重大な秘密を握っていて、その口封じのために殺された、という説だったね。望和叔母さんの場合もじゃあ、同じように十八年前の事件に関する何らかの口封じだった、と云いたいのかな」
「いや、それは」
云いだしてはみたものの、どうにも考えにまとまりがつきそうになかった。過去の事件と現在の事件との、時間を超えた有機的な繋がり。そんなものはやはり存在しないのだろうか。
私は口を|噤《つぐ》み、さまざまな疑問が散乱した頭の中を何とか整理しようと努める。思い出したように左手の包帯の下が疼きはじめた|忌々《いまいま》しさに、たまらず顔を顰めつつ。玄児は玄児で、私の云いだしたことが大なり小なり気には懸かるのかもしれない。私と同様に口を噤んだきり、しばらく何も話そうとはしなかった。
しょせんは――と、私は少しばかり投げやりな気分で考える。
いくら素人がこういった、ある意味でしごく探偵小説的とも云えるような理屈を|捏《こ》ねまわしてみたところで、現実問題としてはどうにも埒が明かないということか。警察が来て、現場や死体の検分を行なって、凶器や指紋や足跡などの専門的な分析をして……と、そういった本来なされるべき操作の手順がまったく抜け落ちているのだから、これは致し方のないことなのか。それとも――。
私たちはいたずらに、事をややこしく捉えようとしすぎているのだろうか。もっと|大雑把《おおざっぱ》な見方で、あるいはもっと別の角度から、事件と向き合うこともできるはずではないか。
たとえば、犯人は犯行直後の気の動転のため、あの休憩室の暖炉に抜け道が存在することをすっかり失念してしまっていただけなのだ、とか。あるいは、そう、第一の事件におけるしのぶの証言にそもそも嘘があるのではないか、とか。美惟が|陥《おちい》っているあの慢性的な茫然自失状態が、実は詐病であるという可能性はないのか、とか。――いや、しかしこんなふうに考えるのは正しくない方向性かもしれない。何事も疑ってみるのは探偵の基本だけれど、やみくもにあらゆることを疑えば良いというものではないだろう。それがかえって、問題の本質を捉えにくくしてしまう場合もあるわけで……。
私は低く息をついて、背後の石壁を振り返った。そうしていま一度、「抜け穴の問題」に関する検討を心中で反芻してみる。
さっきの論理の流れに従うと、二つの犯人の条件≠二つとも満たしうるのは慎太と野口医師の二人だけ。ところが、慎太は能力的に見て不的確であり、野口医師には確固たるアリバイがあり……誰も残らない。犯人たりうるものが誰も……いや、しかしそんなことはあるはずが……。
……そこに抜け穴の扉が隠れているとは、よくよく目を凝らしてみないことには分らない、ごつごつとした黒い石積みの壁。その上方に四角く口を開いた、硝子の割れ落ちた窓。行き詰まってしまった推理に苛立ちながら、幾度か両者に視線を往復させるうち――。
思わず私は、あっと声を|零《こぼ》した。
犯人は秘密の通路の扉を開けず、窓の硝子を破った。抜け穴を通らず、窓をくぐり抜けて部屋から脱出した。それは……。
「まさか……」
小声で呟き落とし、玄児の方を振り向く。彼はいつの間にかまた私のそばを離れ、広間の中央付近まで移動したところで二階部を巡る回廊を見上げていた。今の私の声や態度に感づいた様子は、どうやらないようだが。
「まさか」
と、今度は喉の奥だけで呟きながら、私は強く両の目を閉じた。すると当然の結果であるかのように、瞼の裏に浮かび上がってくる影が……。
それまで考えから抜け落ちていたある可能性[#「それまで考えから抜け落ちていたある可能性」に傍点]に、このとき私は思い至ってしまったのである。だが、そのことを今ここで玄児に告げるのには、何故かしら強い躊躇を覚えたのだった。
もしかしたら玄児もまた、その可能性[#「その可能性」に傍点]についてはすでに承知しているのかもしれない。承知していながら、私には云わないだけなのかもしれないが……いや、それでも今はまだ黙っていることにしよう。そうしよう。
ささやかな決意をして、私は壁際を離れる。
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蛭山丈男は何故、殺されたのか、殺されねばならなかったのか。
浦登望和は何故、殺されたのか、殺されねばならなかったのか。
玄児が云ったように、犯人の動機というのは|畢竟《ひっきょう》、その者の心の内側に深く根ざす問題である。たとえばそれが金≠竍色≠ニいった明白な形でもって表出していれば話は別だが、そうではない場合、第三者が外側からその問題を正しく探り当てるのは、往々にして非常に困難な|業《わざ》だろう。確かにそれはそのとおりだと思う。
蛭山と望和は何故、殺されたのか。殺されねばならなかったのか。十八年前の事件との関連の有無が依然として気に懸かりつつも、現在の事件の動機に関してはやはり、私には「分らない」としか云いようがない。――が。
この事件の犯人像に関しては、少なくとも一つ、見えてきてしまったものがある。
二つの犯行現場に存在した「抜け穴の問題」――そこから導き出されるある可能性[#「ある可能性」に傍点]。気がついてみればひどく単純な、しかしながら私としてはとても信じがたい、信じたくないような一つの答え=B
玄児にはそれ[#「それ」に傍点]が分っているのか、いないのか。分っていたとして、では彼はそれ[#「それ」に傍点]にどう対処するつもりなのか。
さしあたり黙っていようとは決めたものの、心中の同様はどうしても隠しきれなかった。
「|冴《さ》えない顔色だね、中也君。気分が良くない? それとも何か新たな気懸かりでも」
玄児にそう訊かれた時も、ほとんど上の空で曖昧に首を振っていた。そんな私の反応に、玄児はちょっと眉をひそめながらも、
「とりあえずこれで、事件については一通り検討が済んだことになる。俺たちに当面できるのは、市朗の回復を待つこと、くらいだな。彼にはまだ、いろいろと訊きたい問題が残っているから」
「――そう云えば」
「何だい」
「首藤さんの奥さん――茅子さんはその後、相変わらず?」
「ああ、二階の部屋で寝込んだままだが。――そうだな、彼女にも一度きちんと話を聞きたいところだね。首藤のおじさんの行方も、気になると云えば気になる」
「何か『|悪巧《わるだく》み』があった、とか」
「らしいね。まあ彼らのことだ、どうせ『肉』が目当てで何事か考えていたんだろうが。いったい何を目論んでいたのやら」
半ば|嘲《あざけ》るように云って、玄児は軽く肩を竦めてみせる。
「あとはもう、父が警察への通報を許すかどうか、だな。あの調子だとそうそう簡単に首を縦に振りそうにはないが。――みんなで強引に説き伏せて、ということも考えなきゃならないかもしれない。幸い嵐は去ったようだ。夜が明けて天候に変わりがなければ、何とか湖を渡って、ということも」
「土砂崩れは?」
と、私が訊いた。
「途中の道が土砂崩れがあったと、市朗少年が云っていたのでしょう」
「ああ、そうだよ」
鼻筋に皺を寄せて、玄児は頷いた。
「そのせいで完全に道が塞がっちまっているとなると、大いに困りものだね。せめて電話だけでも復旧してくれればありがたいんだが」
「警察への通報云々はさておき、このままずっと屋敷の孤立状態が続くという事態もありうると?」
「充分にね。しかしまあ、父も云っていたように食料はふんだんにあるから、少なくとも飢え死にの心配はない。極端に長く音信不通が続くようなら、たとえば野口先生の病院もそうだが、〈|鳳凰会《ほうおうかい》〉のどこかがじっとしちゃあいないだろう。陸路がどうしようもない状態なら、ヘリコプターなり何なりで救出にくる。その辺の問題については、俺はけっこう楽観的だよ。父にしても同じだろう」
玄児は吹き抜けの高い天井を見上げ、それからすとんと手許に目を落とす。腕時計を確認して「もうすぐ三時か」と呟くと、私の顔を見やり、
「さて、行こうか中也君」
唐突に口調を改めてそういった。私は少々どぎまぎしつつ、
「次はどこへ行こうと」
尋ねると玄児は、先ほどの紙片以外にもまだ何か入っているのだろうか、右手をズボンのポケットに突っこんでそこを探りながら、
「君の要求に応じなきゃならないからね」
と答えた。
「朝までにはまだだいぶある。約束どおりそれまでに、君の知りたがっていることを全部教えてやろうってわけさ」
「ああ……」
そうして間もなく玄児がポケットから取りだしたもの。それは二本の鍵であった。どちらもずいぶん型の古い品のようだが、物自体は新しい。目立った汚れも錆びもなく、鈍い銀色の光沢を湛えている。
「それは?」
私の問いに、玄児は神妙な声で答えた。
「この屋敷の中には、禁断の扉≠ニでも呼ぶべきものが二つあってね。この二本は、その二つの扉を開くための鍵なのさ」
掌の上に並べて示した二本の鍵を、玄児はかちゃりと音をさせて握り込む。
「親鍵は常時、父の書庫に保管されている。それを依然、こっそり拝借して型取りをして、この合鍵を作らせた」
「合鍵……」
「こいつを使って、これから君を案内しようというのさ。禁断の扉≠フ向こうの禁じられた場所≠ヨ。――いいね、中也君」
思わせぶりなその台詞に、いやが上にも私の緊張は高まる。「はい」と答えようとしたが、生唾が喉に絡んでうまく声が出せなかった。
「行こう」
玄児は云った。
「まずは君がしきりに気にしている、十八年前の事件の現場へ」
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私が知る日常世界からはおよそ懸け離れた空間である、とも云えるこの館の異界≠ゥら、さらなる異界≠ヨ――。
実際以上、必要以上に隔たり≠ェ強調された先窄まり[#「先窄まり」に傍点]の渡り廊下を、再び私は抜ける。向かう先は暗黒館〈西館〉、一名〈ダリアの館〉――〈表〉の〈東館〉と並んで最も古くに作られたという、この館の〈奥〉である。
一昨夜――二十四日の夜、鶴子に先導されて同じ廊下を通ったあの時とは打って変わり、あたりはひたすら静寂に押し包まれていた。あの時の雷鳴や風雨の音が心地好かったなどとは決して思わないけれど、この夜のこの静寂はある意味、吹きすさぶ嵐よりかえって恐ろしげにも感じられてしまう。
先ほど玄児の寝室からアトリエへ向かう途上で取り憑かれたような、この静寂そのものに対する漠然とした気味の悪さや恐れも、いまだにある。あまつさえ――。
耳をそばだてれば、この静寂の後ろに潜んだ何ものかの息遣いがふと聞こえてきてしまうのではないか。何秒かの後には突然、この静寂を粉々に破壊し尽くすような何ものかの絶叫が|轟《とどろ》き渡るのではないか。そんな予感を|否応《いやおう》なく胸中に芽生えさせられ、増幅させられてしまうのである。
先を行く玄児のあとに従いながら私は、形の見えない恐怖を少しでも紛らわせようと、一昨日に陽の光の下で見た〈西館〉の外観、その記憶を脳裡に呼び出す。
〈東館〉と同様の、いびつな|合成獣《キマイラ》めいた擬洋館だった。急勾配の方形屋根を載せた塔屋が、南よりの端に突き出していた。|黒海鼠《くろなまこ》の外壁に黒い屋根、黒い|鎧戸《よろいど》の閉まった小さな窓。老朽化による塗りの剥げや地面から這い伸びた|蔦《つた》のせいで、黒とも灰色とも緑ともつかぬ一種異様な色合いを湛えつつ、それでも全体の印象はあくまでも「黒々とした」であった、あの……。
この屋敷の「ある意味で中心」であり「核心」であるともいうあの建物の中にこそ、いまだ私の知らぬ浦登家の秘密の多くが隠されている。――やはりそういうことなのだろうか。
一昨夜とは違い、〈西館〉に入ってすぐのところにある吹き抜けの階段ホールに灯されていたのは|燭台《しょくだい》の蝋燭ではなく、薄暗く調整されたシャンデリアの明りだった。あの蝋燭は〈ダリアの夜〉のための特別な儀式≠フ一環なのだろう、という私の想像は正しかったようだが。
――食したまえ。
地の底から湧き上がってくるような当主柳士郎の声がやおら、
――食したまえ。
耳の奥で幻聴じみた反復をはじめる。
――ためらうことなく食したまえ。
――食したまえ。
〈宴の間〉に集まった人々の異様な唱和が、主人の声に合わさって。
――食したまえ、それを。
――食したまえ、その肉を。
――食したまえ……。
「おいで、中也君」
玄児が小声で私を招いた。ホールに入って左手にある黒い両開き扉の前まで、彼は足を進めていた。強くかぶりを振って耳の奥の声たちを打ち消しながら、私は慌てて彼の後を追う。
開かれた扉の向こうには、黒い|絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた薄暗い廊下が待ちかまえていた。
「さあ」と云って玄児が踏み出す。私は無言でそれに続く。廊下はすぐ二手に分れている。玄児が選んだ南方向へ伸びる袖廊下には、進行方向右側の手前に一枚、いくらか離れた奥にもう一枚、同じような黒い片開きの扉が並んでいる。
「こっちは父が現在、居間に使っている部屋だ。奥の書斎と二間続きになっているが、昔は初代玄遙の第一書斎だったらしい。例の伝声管はそこに集まっている」
手前の扉を示し、玄児が云う。
「そしてこの隣、あそこに見えるあの扉が昔の第二書斎で……」
そう。一昨夜、私は〈宴〉の途中で小用を足しにいった際、酔っていて帰り道を間違えてしまった。二階へ上がることを失念し、元の〈宴の間〉に戻るつもりで迷い込んできてしまったのが一階のこのあたり……そうだ、ここがあの時の場所。あそこにあるあの黒い扉が、あのとき開けようとして叶わなかった〈開かずの間〉の……。
――おやめなさいまし。
ごわごわに嗄れた鬼丸老の、男女の別も分らぬ声が、今にも間近から聞こえてきそうな気がした。
――ここ[#「ここ」に傍点]はなりませぬ。
あのとき握った禁断の扉≠フノブの感触。「おやめなさいまし」と静止されて鬼丸老に腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、129-下-3]まれた感触がそこに重なって……。
――ここは、なりませぬ。
――なりませぬ、この部屋に近づいては。
「玄児さん」
一足早くその扉の前に行き着いた玄児の背に、私はそっと問いかけた。
「禁断の扉≠ヘ二つあると云いましたよね。あと一つはどこに」
玄児は私の方を振り返り、それから黙って廊下の奥に向かって顎をしゃくった。見ると、突き当たり正面にもう一枚、そのあたりに蟠った薄闇に溶け込むようにして黒い片開きの扉がある。
「あれは?」
訊くと玄児は、「あれはね」と少し|勿体《もったい》をつけるように間をおいてから、
「〈ダリアの部屋〉の入口だよ」
と答えた。
「この暗黒の館の、云ってしまえば真の支配者がかつて暮らしていた部屋が、あの向こうにはある」
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時刻は午前三時を回ったところだった。
玄児がさっきの鍵をポケットから取り出し、一本を選んでノブの下の鍵穴に差し込む。斜め後ろからその動きを覗き込んでいた私もぎくりとするような、大仰な鈍い軋みとともに鍵が回り、錠が外れ……そして黒い禁断の扉≠ェ、手前に向かってゆっくりと開かれた。
室内は真っ暗であった。
先ほど暖炉の抜け穴で使った懐中電灯を点け、玄児が中に踏み込む。すぐに付いて入ることがためらわれ、私は開いた扉の手前に留まってその様子を見守っていた。
やがて、室内の暗闇が徐々に薄まりはじめる。電灯が点けられたのではない。壁面の何箇所かに造り付けられた燭台の蝋燭に、玄児がマッチで火を灯してまわっているのである。十何年も使われていない部屋のことだから、電灯はあっても電球がとうに切れてしまっているのかもしれない。
ある程度の明るさが確保されたところで、玄児が扉のそばに戻ってくる。そうして、部屋の外――廊下の中程に佇んだままでいる私を見ると、
「そう、中也君、そこ[#「そこ」に傍点]だ」
いきなりそんな、意味不明の台詞を吐いた。
「はい?」
私は面喰らい、首を傾げる。玄児は懐中電灯の光をこちらに差し向けながら、
「君がいま立っているその場所だよ。十八年前の〈ダリアの夜〉に、当時九歳だった俺、浦登玄児がどうにも不可解なものを目撃した――それがまさにその場所から[#「その場所から」に傍点]だったらしいのさ」
「ここから?」
私はあたふたとあたりを見まわしながら、
「ここから何を……どこに」
「この部屋の中に[#「この部屋の中に」に傍点]、さ」
ちらと背後を振り返って、玄児は答えた。
「その年の〈宴〉が終わって夜も更けた頃のことだった、と聞いている。この第二書斎において例の事件が起こった、どうやらその直後に、たまたま俺は一人でここにやってきたらしくてね。瀕死の状態で床に倒れ伏した玄遙の姿とともにその時、室内に何者かがいるのを目撃したんだ[#「室内に何者かがいるのを目撃したんだ」に傍点]」
「ここから、ですか」
扉の向こうに建つ玄児をまっすぐ見据え、私は訊いた。
「それは――目撃したのは、事件の犯人を?」
「そうだったのかもしれない。いや、それ以外には考えられないという話なんだがね」
何やら微妙な云いまわしだな、と私は思った。玄児はすかさず「ところが」と言葉を繋ぐ。
「ところがどうにも不可解なことに、俺がその目撃をした一瞬後にはもう、そいつ[#「そいつ」に傍点]の姿は消えてしまっていたというんだ。折りしもそこへやって来た父、柳士郎と一緒に中に入り、部屋中を調べてみたんだが、どこにも誰もいなかった。室内にはただ、頭から血を流した玄遙の動かぬ身体だけが……」
「ははあ」
それが昨夕玄児の云っていた、十八年前の事件における「人間消失劇」の具体像なのか。なるほど確かに、「探偵小説で云う不可能状況」さながらの出来事ではあったようだが。
「たとえば窓から逃げた、などとは考えられなかったのですね」
私が確認すると、玄児は黙って頷いたあとで、ちらとまた背後を振り返って、
「窓は内側から錠が下りていて、外の鎧戸もしっかり閉まっていた――らしい」
「家具や何かの陰に隠れていたということは」
「それもありえない――という話さ」
そういった諸々の事実が自分の記憶の埒外にあることが、彼にしてみれば当然もどかしくて仕方がないに違いない。玄児は掠れた溜息をつき、懐中電灯を消してズボンのベルトに挟み込んだ。
「要は人間が一人、文字どおり煙のごとくこの部屋から消え失せてしまったというわけでね。もっとも九歳の子供の云うことだから、相手にしてくれない者も多かったらしい。まあ、そりゃあそうだろう。そんな中で一番真面目に取り合ってくれたのは、意外にも父だったそうなんだが」
「――で、玄児さんが目撃したその何者かというのがつまり、同じ夜に自殺した卓蔵氏だったと?」
「そういうことになるのかな」
答えながら、玄児は心許なげに首を横に振り動かしていた。
「それは誰だったのか、という質問にはしかし、俺は終始『分らない』と答えつづけたんだそうだ。誰だかは分らないけれども、確かに部屋の中に誰かがいたんだ、と。いくら繰り返し問われても、頑としてそのように言い張り続けたと……」
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記憶といふものが
もうまるでない
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思い出せぬみずからの過去の経験を苦々しげに語る玄児の声に合わさるようにして、
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往來を歩きながら
めまひがするやう
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件の詩の断片がまた私の脳裡を流れ過ぎる。私は発する言葉を見失い、薄暗い廊下の同じ場所に立ち尽くす。
「入ってこいよ、中也君」
そう云って玄児が、その場から一歩退きながら私を手招いた。
「もっと詳しいところが知りたいだろう」
「――ええ」
「話してやるよ。十八年前の九月二十四日――〈ダリアの日〉の夜にこの屋敷で発生した忌まわしい事件の|顛末《てんまつ》について、いま俺が知る限りの詳細を、ここですべて」
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三十畳分ほどもありそうな広い洋間だった。
この真上――二階の同じ位置にあるのが例の〈宴の間〉のはずだから、単純に考えて、一昨夜浦登家の人々が一堂に会したあの部屋と同じだけの広さを、この第二書斎も有することになる。
合鍵を作ったのがいつのことかは知らないが、以来玄児は何度となく、禁を破って独りこの部屋に忍び込んでいたのだろう。恐らくは、記憶の外に置き去りにされてしまったみずからの過去に少しでも近づきたいという、そんな想いにかられて。
玄児のような侵入者が存在したとはいえ、ここが十何年もの長期間、人が足を踏み入れぬように閉ざされつづけてきた部屋であるという事実には変わりがない。その内部の有様はだから、〈開かずの間〉という言葉から何となしに想像していたとおりの荒れ果てようで……いや、「荒れ果てた」と云うより「放り出された」とでも表現した方が、この雰囲気にはそぐうだろうか。「捨て置かれた」「忘れ去られた」などと云ってみても良いかもしれない。あるいは――。
長年にわたって閉ざされ、誰も立ち入らぬよう封じられてきたことで、云ってみればこの部屋は、部屋としての呼吸を停止しつづけてきたのだ。拍動数を落とし体温を下げ、完全に動きを止めて眠りつづけてきたのだ。不器用な|喩《たと》えになるけれど、私にはそんなふうに感じられた。
備わった燭台のすべてに火が灯されたわけではなく、明るくなったとは云っても、室内にはそこかしこに大小の闇が居座っている。怪しげに揺れる蝋燭の炎。その|仄暗《ほのぐら》い光の中でも、黒い板張りの床に積もった埃の厚さが分った。歩むごとに残っていく自分の足跡が分った。
書棚に飾り棚、書斎机。書斎机に付属の椅子とは別に置かれた安楽椅子、サイドテーブル、寝椅子。昔のままの状態で残してあるのだろうと思われるそれらの家具に、埃よけの布は一枚も掛けられていない。いつかまたこの部屋や家具を使おうという意思がないことの、これは表われだと受け取って良いのだろうか。
床をはじめ、壁も天井も調度も、基本的にはやはりすべてが黒一色である。電灯にも燭台にも、金銀の光沢はいっさいない。窓は正面奥の中央――裏庭に面した西向きの壁面に一つ、例によって磨り硝子の入った上げ下げ式の窓が設けられているだけ。その並びに背の高い柱時計が掛けられているが、針は当然のごとく、でたらめな時刻――十二時二十三分か――を指して止まっている。
歩くと床板がかすかに軋んだ。埃と|黴《かび》の臭いが鼻腔にまとわりついた。湿っぽく|澱《よど》んだ空気は冷え冷えとしていたが、先ほどまでいた石造りの〈北館〉におけるそれとはまた感触の異なる、皮膚に貼り付き染み込んでくるような冷気であった。
いったん奥まで足を進め、錠の下りた窓の様子を間近に観察したあと、私は玄児が腕組みをして立つ部屋の中央あたりまで戻る。そこでふと、奇妙なものの存在に気がついた。
「あれは」
指差して、私は玄児に問うた。
「額縁、ですか」
廊下から入ってきて左手――南側の壁に、それはあった。黒く塗られた板張りの壁面の、真ん中よりもいくぶん扉寄りの位置に、大きな額縁がかかっているのである。
横幅は二メートルほどもあるだろうか。高さは大柄な大人の身長くらいまで。百二十号のキャンバスが充分に収まりそうな大きさのその額縁には、しかし何故かしら何も収められていない[#「何も収められていない」に傍点]。壁と同じような黒塗りの、まさに「額縁」のみが、そこにあるのだった。
「どうして何も入っていないのでしょう」
私は問いを重ねた。
「元々は何かの絵が?」
「いや、これは元からこうだったらしい」
答えて玄児は、腕組みを解きながらその額縁に近づいていき、
「分るかい、中也君。これは本当に縁だけの額縁[#「縁だけの額縁」に傍点]なんだよ」
「と云いますと」
「硝子が入っていないのはもちろんのことだが、背板のように見えるこの部分も全部、背板じゃなくて後ろの壁なんだ」
玄児はそう云って、右手の指先でそこ[#「そこ」に傍点]を軽く叩いて見せた。
「云い換えれば、額縁の縁だけを直接造り付けてあるわけさ。壁に掛けてあるんじゃない。釘でしっかりと打ちつけられている」
「何でそんな」
私は首を|捻《ひね》らざるをえなかった。何もない黒い壁面を四角く取り囲んだ黒塗りの「縁」には、絡み合う|蔓草《つるくさ》を|象《かたど》った|瀟洒《しょうしゃ》な細工が入っている。
「ここを書斎に使っていた玄遙氏が、わざわざそんな代物を造り付けさせたわけですよね。何で……」
「さあて。――ま、想像するのはさほど難しいことでもないが」
「そうなんですか」
「とにかくこの奇妙な額縁は、昔からここにこうしてあった。それは間違いのない事実だ。鬼丸老に訊いて確かめてもある」
玄児はそして縁だけの額縁≠フ前を離れ、私の傍らを通り過ぎて部屋を横切っていくと、反対側の壁際に据えられた寝椅子の端に腰を下ろした。サイドテーブルの上にあった灰皿を引き寄せ、おもむろに足を組みながら煙草を銜える。
「いま『鬼丸老に訊いて』と云いましたね」
私は玄児を追い、寝椅子のそばに立った。
「するとつまり、玄児さんがこの部屋に忍び込んだことがあると、鬼丸老は知っているわけですか」
「ああ、恐らくそうだろうね」
と、玄児は何でもないふうに答える。
「咎められはしなかったのですか。勝手に禁断の扉≠開けて中に入ったことを」
――おやめなさいまし。
「その場に居合わせたら、咎めるのかもしれないね。しかし、そうじゃなかったから」
――ここ[#「ここ」に傍点]は、なりませぬ。
「鬼丸老は――」と、そこで言葉を切って、玄児は|泰然《たいぜん》と煙草の煙を吐き出す。|円《まろ》やかな香りが、澱んだ空気に漂う埃と黴の臭いを包み込んで揺らめく。
「あの人は、訊かれたことにただ答えるだけだ。よけいなことは訊き返さないし、訊かれたことを他の誰かに話しもしない」
「口が堅い、と」
「まあ、そういうことだな。少なくとも今ここで生きている者に対しては、だが」
「どういう意味ですか」
「すでにこの世の者ではないある人物[#「ある人物」に傍点]に対しては、あの人はきっとすべてを報告しているんだろう、ということさ」
「玄児さん、それは」
誰を指して云っているのか、と尋ねようとして、その前に思い当たった名前があった。
「――ダリア? 三十年前になくなったダリア夫人が、その人物だと」
玄児は「そうさ」と真顔で頷いて、
「鬼丸老が仕える真の主人はね、死んだ浦登ダリアだけなんだよ。初代玄遙にすら、あの人は決して従属しちゃいなかった。現在の主人である父に対しても、もちろんね。あの人の忠誠心は昔からずっと、一人ダリアに対してのみあったし、今もそうありつづけているのさ」
「…………」
「坐れよ、中也君」
と、玄児は寝椅子の手前に置かれた安楽椅子を顎で示す。
「服が汚れるのは気にしなくていいから」
指示に従って私が椅子に腰を下ろすと、玄児は組んでいた足の左右を入れ替えながら、
「憶えているかい」
と問いかけた。
「最初の夜、島の桟橋を調べにいった時に話したことを」
「どの話でしょうか」
「影見湖で昔、屋敷の人間が溺れ死んだことがあるって云う、あれさ」
「ああ、はい。それなら」
「俺が生まれるよりもずっと前……当時この家に住み込んでいた使用人の親子が、その犠牲者だった」
「子供が水遊びをしていて溺れて、母親がそれを助けようとしてもろともに、でしたか」
「ああ。ところで実は、溺死したその母と子が、他ならぬ鬼丸老の家族だったという噂を耳にしたことがあってね」
私は思わず「えっ」と声を洩らし、細かく目をしばたたいた。
「本当に?」
だとすると、鬼丸老は湖で死んだ子供の父親であり、母親の夫であったということか。だとすると当然ながら、あの生ける影≠フ性別は男性であると判明したことにもなる。
「本当かどうかは分らない。当人に訊いてみたんだが、この件についてはあっさりとはぐらかされた。『そのような大昔のことは憶えておりませぬ』だとさ。嘘に決まってるんだけれどもね、憶えていないなんていうのかは」
立て続けに幾度も煙草を吹かし、一気に根本まで灰にしてしまうと、玄児はそれをゆっくりと灰皿で揉み消しながら、
「あの人は何でも、どんなささいなことでも、ちゃんと憶えているのさ。この屋敷に付属の精巧な記憶装置みたいなもの――と、俺はそんなふうに見ているんだが」
「…………」
「ともあれ、俺のような立場の人間にしてみれば、あの人の存在はなかなかにありがたいものであるわけでね。父をはじめ他に誰も知る者のいない、あるいは知っていても人には話したがらない過去のあれこれを、あの人は知っている、憶えている。そしてそれを、こちらの訊き方に応じて、よけいな感傷や思い込みを差し挟むことなく教えてくれるんだから……」
――それはわたくしへのご質問ですか。
ああ、そうだ。確かにあの老使用人は、誰に対してもそのような態度を一貫させているふうだった。たとえその相手が、私のような初対面の来訪者であったとしても。
――どうしても答えよと云われますか。
「どうしても答えてほしい」と命ずれば、鬼丸老は必ず口を開く。逆にそこで「別にどうでもいい」というような応じ方をしたならば、その口は永遠に噤まれたままなのだろう。
玄児は「この屋敷に付属の精巧な記憶装置」と云ったけれど、私の頭にはふと、それとはまた別の喩えが思い浮かんだ。鬼丸老――〈惑いの檻〉を守るあの生ける影≠ヘ、もはやこの暗黒館という屋敷そのものの、その全体の影≠、人の形に凝縮したような存在なのであって……。
「……鬼丸老がこの屋敷に住み込むようになったのは、玄遙とダリアの間に長女の桜が生まれた、その何年か後からだったと聞いている。今から六十年ほども昔のことになるか。当時、玄遙は|齢《よわい》五十前。ダリアは三十過ぎで、人々を魅了するその美しさにもまだまだ翳りは見られなかったに違いない。鬼丸老はその時点で三十歳手前。妻子を湖の事故で失ったのがいつだったのか、それが事実なのかどうかはさておき、当時の女主人ダリアの美しき魔性と強烈なカリスマ性に、彼がすっかり心酔してしまったとしても不思議はない」
「魔性……」
思わず唇が、|蠱惑的《こわくてき》なその言葉をなぞっていた。
「さっき玄児さんが云った『この館の真の支配者』というのは、あれもつまりダリア夫人のことだったわけですね」
「むろんそうさ」
頷いて、玄児は新しい煙草を銜える。寝椅子の背凭れに寄りかかって斜めに天井を見上げながら、
「とにかくまあ、そんな次第でね」
と先を続けた。
「表向きの、もしくは通り一遍の事実については、父やまだ正気だった頃の叔母さんたちから訊いて知ることができたし、それによって俺は、旧〈北館〉の大火災で真っ白になってしまった記憶を修復し、浦登玄児としての同一性を再獲得していったんだけれども、この屋敷と浦登家の過去にまつわるそれ以外の、もしくはそれ以上の知識はおおむね、鬼丸老の口から聞き出してきたものだと云ってしまっていいだろう。そして、三十年前にこの世を去ったダリア一人をいまだ忠誠の対象としているあの人が語る言葉には、|恣意的《しいてき》な嘘は絶対に含まれえない。俺はそう思っているし、その判断に狂いはないと信じてもいるわけでね。――分るかい、中也君。俺の云わんとするところが」
「ええ……たぶん」
「よし。それじゃあ――」
と、そして玄児は、静かに身を乗り出して語りはじめたのだった。彼自身の記憶の埒外にある十八年前の過去――〈西館〉のこの第二書斎で勃発した忌まわしい事件の詳しい模様を。それを取り巻く当時のこの家の状況を。事件が一応の解決を見るに至った経緯を。その後の展開と結果を……。
……語り進むにつれて、玄児の顔が、表情が、この部屋のそこかしこから密やかに流れ出してきた闇の粒子によって徐々に覆われていった。
もちろんそれは私の気のせいに違いないのだが、いくらそう云い聞かせてみても、目に映る変化は止まってはくれない。闇の粒子は加速度的にその密度を増し、やがては完全に玄児の姿を押し包んでしまうのだろう。過去を語る玄児の声だけがそして、この夜の静寂を淡々と震わせ続けることになるのだろう。――そんな、およそ狂気じみた予感あるいは妄想にすら取り憑かれそうになる。
私の方はもはや、質問を差し挟んだり相槌を打ったりすることもなく、ただ黙って玄児の話に耳を傾けるばかりだった。そうするうちにきっと、この私自身も、部屋のそこかしこから密やかに流れ出してきた闇の粒子に包み込まれていくのだろう。それによって私は、私の肉体をここに残したまま意識のみの存在になり、十八年の時間を超える遙かな旅に連れ出されてしまうのかもしれない。――そんな妄想に取り憑かれそうにもなる。
玄児は語りつづけ、私は耳を傾け続ける。
この暗黒の夜に潜むすべての悪夢を、今この場に呼び集めて手なずけるとことができないものか。ふとそう考えたのは、それもまた、この時の私に降りかかった狂気じみた妄想の一つだったのだろう。
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第五部
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第二十章 消失の夜
九月二十六日、午前三時三十分。
暗黒館〈西館〉一階の一室で友人の話に耳を傾ける「私」の現在を離れて視点≠ヘ、夜を包み込んだ深く柔らかな闇の|直中《ただなか》へと滑り出す。分裂の後、村から来た少年と塔から落ちた青年、それぞれの自我に寄り添って不安定な浮沈を繰り返していた視点≠烽ワた、これを機に両者を離れて同じ闇の直中へと滑り出し、元々の視点≠ニ一体化する。
一体化した視点≠ヘ、|螺旋《らせん》状に|捩《ね》じれながら|虚空《そら》に舞い上がる。大きく小さく、激しく緩く、不規則でいびつな旋回運動を続けながら、やがて――。
世界≠|統《す》べる密やかな、そして冷ややかな悪意の存在を感知できるはずもなく、視点≠ヘいとも容易に法則を超え、|時間《とき》を|遡《さかのぼ》る。十八年前の九月二十四日――〈ダリアの日〉の、その夜へと、その場所へと舞い降りる。
……山深い森に囲まれた小さな湖[#ここから太字](……これは十八年前のあの湖、影見湖の)[#ここで太字終わり]。湖に浮かんだ小島[#ここから太字](これは十八年前のあの島の)[#ここで太字終わり]。小島に黒々とうずくまる異形の館[#ここから太字](これは十八年前のあの館、暗黒館の……)[#ここで太字終わり]。
視点≠フ主体となるはずのもの[#「もの」に傍点]は、依然として昏い混沌の中にいて、半透明な隔壁の向こうで展開する現実≠見つづけている。そうしてやはり、時折り活性化する感覚や認識や思考のたどたどしい断片[#ここから太字](……十八年の時間を超えて、今ここに)[#ここで太字終わり]によってしか、それを把握することができずにいるのだが……。
……広大な中庭を取り囲んだ、東西南北の四つの棟[#ここから太字](ああ……そうだ。〈北館〉は十八年後のそれとは形が違っている。この年の冬に起こる大火災で、これは消失して)[#ここで太字終わり]。それらのうちの一つである〈南館〉の中へと視点≠ヘ滑り込む。
建物一階の廊下に|悄然《しょうぜん》と立つ少年の姿を捉え、接近し、重なり合い、その現在進行形を共有する。
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……九月二十四日日曜日、午後十一時十分。
少年は〈南館〉一階のその部屋[#「その部屋」に傍点]を訪れていた。
黒い扉の脇には、「諸井」と毛筆書きで記された木札が掛かっている。部屋に住む諸井静は浦登家の使用人の一人で、この屋敷で働きはじめてかれこれ十年以上にもなる。ともに浦登家に雇われていた、|甚助《じんすけ》という名のひとまわり年上の夫は、七年前に四十五歳で他界した。腎臓の病だったという。以来、この部屋に住み込んでいるのは静とその息子、|忠教《ただのり》のふたりだけである。
そういった家族の事情については静本人の口から一通り聞かされていたが、少年がそれを十全に理解できているとは云えない。諸井静という「使用人の一人」のこの屋敷における立場、彼女と自分との関係性、さらには自分自身の立場や境遇などについても、正しい把握ができているとは云えない。〈南館〉のこの部屋を訪れれば「諸井のおかあさま」に会える、彼女はいつも、他の誰よりも優しくぼくに接してくれるから……という、まずはそんな認識が、少年の行動の基底にはあるのだった。
少年の名前は玄児[#ここから太字](……玄児。この子が十八年前の、浦登玄児)[#ここで太字終わり]。浦登柳士郎の亡妻カンナが、九年前の嵐の夜に産み落とした一粒種である。
先月の初め、玄児は満で数えて九歳になった。八月五日というその誕生日の日付を最初に教えてくれたのは、父ではなく祖父や曾祖父でもなく、昔から玄児の「乳母」のような役割を努めてきた静であった。その頃はまだ、玄児は屋敷から離れて建つ十角形の塔に住んでいた。塔の最上階に作られた座敷牢において、人並みとはとうてい云いがたい幽閉生活を送らされていたのだ。
もっとも玄児自身は、そんなみずからの境遇をことさら異常≠セと考えたこともなかった。「人並み」の正常≠ネ境遇がどのようなものなのかを、そもそも知るよしがなかったから。「座敷牢」とか「幽閉」とかいった言葉にしても、この頃の彼の語彙の中にはまだ存在しなかったのである。
玄児が〈十角塔〉から出され、〈北館〉の二階に新しく部屋を与えられたのは、九月も半ばを過ぎてからのことだった。その日から今日まで、まだ一週間ほどしか経っていない。
物心ついた時にはすでに、玄児はあの薄暗い塔上の部屋に独りいた。それから何年もの間ずっと、原則として外に出ることは許されず、寝起きも食事も排泄も、遊びも学習も運動も……何もかもをあの閉ざされた部屋の中で行なってきた、行なわされてきた。玄児にとってはだから、あの部屋の内部と、たまに静が鍵を外して開けてくれる窓から望む景色のみが、自分を取り巻く世界≠フすべてでありつづけてきたのである。
それが突然、きちんとした理由の説明もなしに部屋から引っ張り出され、長年の、ある意味で安定していた「幽閉生活」に終止符が打たれたのだ。そこで玄児が覚えたのは、空間的な自由を手に入れた解放感ではなく、むしろ大きな戸惑いと不安、そして恐れであった。
これまでとはまるで様相の違う、外の世界≠ナの生活――。
そこには広大な屋敷があり、広大な庭があり、たくさんの人々がいた。さまざまな家具や道具や玩具があり、本や絵や像があり、空があり土があり草や木があり、人々の口から放たれるたくさんの声、言葉があった。玄児の知らない事や物や概念が、それこそ洪水のように溢れ返っていた。
いきなり、これまでの何十倍、何百倍、いや何千倍にも広がった世界=Bあまりにもはなはだしい落差に玄児は途方に暮れ、不安を、そして恐れを感じざるをえなかった。さもなければ、なるべく心を内側に向けて世界≠ニの接触を避けるようにしているしかない、という状態でもあった。
広すぎる世界≠フ、いったいどこに目を向ければ良いのかが分らなかった。どこに耳を傾け、何を感じ取り、何をどう考えていけば良いのかが分らなかった。無理にすべての事物と真っ向から対峙しようとすると、途端に激しい眩暈のような違和感に苛まれてしまう。
そういう時に思い浮かぶのは、いつだったか静が塔の部屋に持ってきてくれたある玩具[#「ある玩具」に傍点]であった。ばらばらに切り離された厚紙の破片を枠の中に並べていって、一つの絵柄が完成するように組み上げるという、いわゆる|合わせ嵌め絵《ジグソーパズル》のごく初歩的な品だったが、玄児にとって外の世界≠ヘ、完成前のその嵌め絵に似たものとして感じられた。
世界≠構成する破片の多くが、あちこちで抜け落ちている。
目に見えるものも耳に聞こえるものも手に触れるものも、人々が浮かべる表情も話す言葉も露わにする感情も……何もかもに、何か[#「何か」に傍点]が不足している。抜け落ちている。欠け落ちている。――けれどもきっと、欠落は世界≠フ方にではなく、そこに放り出された自分自身の方にこそあるのだろうと、子供心に薄々気づきはじめている玄児ではあった。
〈十角塔〉の座敷牢から解放されて一週間ほどが経った今でも、だからつい、事あるごとに静の許へと足を運んでしまう。彼女に会って、彼女の顔を見て、彼女と話をすれば……そうすれば多少なりとも、この戸惑いや不安や恐れが|癒《いや》される。そんなふうに思えたから、だから今夜もこうして……。
……ところが。
「お食べになったのですね」
ノックに応えて細く扉を開いた静は[#ここから太字](……静。この四十がらみの女性が、諸井静)[#ここで太字終わり]、室内に立ったまま玄児の顔を見据え、訊いた。いつもと比べて硬い表情、硬い声であった。
「お食べになったのですね。今宵の〈宴〉の席に用意されたお料理を」
玄児は唇を結び、小さく頷いた。一時間ほど前にお開きになったあの〈宴〉での一連の出来事を、何だか妙に朦朧とした頭で思い返しながら。
「お食べになったのですね、玄児様」
「――うん」
「『はい』とお答えなさいませ」
「あ……はい」
今まで一度も飲んだことがない赤い水――「ぶどうしゅ」というものらしい――と、何やらどろどろした赤黒いスープ、パンとそれに塗るバターのようなもの。パン以外はどれもこれも、やけにしょっぱくて変な味がして、ほんの一口ずつしか食べることができなかった。集まった他のみんな――「おとうさま」に「おじいさま」に「ひいおじいさま」、それから二人の「おばさま」たち――は、黙々と全部を平らげていた。こんな変な味のものを、どうしてみんな平気な顔で食べられるのだろう、と思った。この夜の〈宴〉のための何か特別な食べ物だという話だったけれど、これだったら塔の部屋にいた頃、静が毎日運んできてくれたご飯の方がよっぽど美味しいのに、とも思った。
葡萄酒という赤い水はとりわけ変な味で、ちょっと飲んだだけで顔が熱くなって、何故だか胸がどきどきしてきた。テーブルの上や壁では赤い蝋燭が燃えていて、部屋中に立ち込めた甘ったるい臭いに目が回りそうになった。
〈宴の間〉と呼ばれるその部屋の壁には、大きな絵が飾ってあった。今夜初めて見る、とてもきれいな女の人の絵だった。
――ダリアじゃ。
嗄れた声でそう教えてくれたのは、あれは「ひいおじいさま」――曾祖父の玄遙だったか。
――玄児の|曾祖母《ひいばあ》様に当たる人でな。
云われても、まるっきりぴんと来なかった。茫然とするばかりの玄児を、落ち窪んだ目を細めてねっとりと見据えながら、玄遙はさらに、
――血は争えぬものよな。
ぼそりとそう呟いた。
――子供ながらにもその顔に、いよいよダリアの面影が滲んできおった。カンナの面影も……なあ、柳士郎よ。それでお前も……。
柳士郎というのは「おとうさま」の名前だった。曰くありげに投げかけられた玄遙の言葉に、柳士郎はきっ[#「きっ」に傍点]と|面《おもて》を上げ、険しい眼差しで玄遙を、そして玄児をねめつけたが、すぐに「ええ」と低く答えて頷いた。
――否定はしません。この子はやはり……。
そのやり取りにしても、玄児にはまるっきりぴんと来ないものだった。――「血は争えぬ」とはどういうことなのだろう。「おもかげ」というのは、そもそもどういう意味なのだろう。
「玄児様」
静の呼びかけで、はっと我れに返った。
「どうなさいました」
玄児は黙って首を横に振る。目を上げると、そこには「諸井のおかあさま」の、心配げに眉を寄せた顔がある。――が、彼女は室内に立ったまま、細く開いた扉をそれ以上開けようとはしない。
何でだろう、と玄児は素朴な疑問を感じ、
「おかあさま」
静に向かってそっと声を送った。
彼女が自分の「本当のおかあさま」ではないことは、そのように教えられて知っている。知っているつもりでいる。「本当のおかあさま」はカンナという名前で、九年前に玄児を生んだあと間もなく「死んで」しまったのだ、と。静はこの浦登家の屋敷の「使用人」で、「使用人」は「家族」ではないから「本当のおかあさま」にはなれないのだ、と。
すべては、これもまたかつて静から教わったことであった。
「諸井のおかあさま」あるいは単に「おかあさま」と、それでも玄児は静をそんなふうに呼ぶ。〈十角塔〉にいた頃はずっとそうだったし、塔から出されたあとも、他に人がいないところであれば今までどおりでいいから、と彼女も認めてくれていたのだ。ところが――。
「いけません」
そう云って、静はゆるっとかぶりを振ったのである。
「そのように呼ぶのは、もう」
「…………」
「あたしは玄児様の母上ではありません。赤ん坊の頃から長年、我が子同様に思ってお世話をしてまいりましたが。玄児様があの塔からお出になって、しかも今宵の〈宴〉に参加されたあととなっては、もはや……」
「どうして」
訊かずにはおれなかった。云われたことの意味がよく呑み込めなかった。どうして急に、彼女はこんな……。
「どうしても、です」
と答えて、静はまたかぶりを振る。
「柳士郎様のお怒りもやっと解け……」
そう云いかけたところで「あ、いえ」と慌てて言葉を濁し、
「玄児様も九歳……子供から大人になられるお年です。それでもう、あの塔のお部屋からはお出になる運びとなったのです。自由の身となられ、そうして〈ダリアの夜〉の〈宴〉にも参加されました。浦登家の跡取りとして正式に認められたのです。
「…………」
云われたことの意味は、やっぱりよく呑み込めなかった。ほとんどわけが分らなかった、と云っても良い。考えるほどに頭が混乱し、返すべき言葉が出てなかった。
「ですから、これまでのようなつもりで会いにこられてはいけません。こちらの棟にはあまりおいでにならないように。引き続き身のまわりのお世話はさせていただきますが……どうぞあたしのことは、『諸井』なり『静』なりとお呼びください」
硬い表情、そして硬い声。けれどもどこかしら寂しげな色が、響きが感じられた。
何故? どうして? と、玄児は心の中で問いつづける。
昨日まではこんなふうじゃなかったのに。この部屋に来ればこっそり中に招き入れてくれて、塔にいた頃と同じように遊んでくれたのに。いろんな話を聞かせてくれたのに。いろんなことを教えてくれたのに。この部屋の奥の押入にある秘密の扉≠フ仕掛けだって、ぼくに見せてくれたのに。それなのにどうして……。
「よろしいですね、玄児様」
と云って静は身を屈め、目の高さを玄児に合わせる。するとそこで、その視線がふと玄児の足許に落ち、
「おやまあ」
彼女は小さく声を洩らした。
「また履物を――」
みずからの足許に、玄児も視線を落とす。
「脱いでしまわれたんですね、また」
「あ、うん……はい」
両足には黒い靴下を|穿《は》いているだけだった。静が玄児の足の形に合わせて作ってくれた特別な靴下≠ナある。履物はさっき、こちらへ来る前に脱ぎ捨ててしまっていた。
「いけませんよ、玄児様」
「でも……」
……窮屈で歩きにくいから。履物を履くと。
「もう塔のお部屋だけで過ごされているのではないのですから。ちゃんと履物をお履きにならないと、足や靴下が汚れてしまいます」
「…………」
「よろしいですね」
「――はい」
「では、さあ玄児様、もうお戻りになって。〈北館〉のご自分のお部屋へ」
「…………」
玄児は不承不承、頷いた。その時、室内に立つ静の背後に人影が見えた。――忠教だ、あれは[#ここから太字](……忠教。あの子が、諸井静の息子の)[#ここで太字終わり]。
玄児と同じくらいの年頃のその男の子は、何も云わずにこちらを見つめていた。玄児よりもいくぶん背が低くて、生白いおとなしそうな面立ちをしている。これまでに幾度か顔を合わせ、いくらか言葉を交わしたこともある相手だが、静に対してのようにうち解けた気持ちにはなれないでいる。
あの子と初めて会ったのはいつだったろう。
確か、そう、最初は静に連れられてあの塔の部屋にやってきたのだ。最上階の十角形を外≠ニ内≠ノ仕切った格子の向こうで、静の後ろに隠れるようにしながら、顔だけを突きだしてこちらを窺っていた。まるで何か怖いものでも覗き見るような感じで……。
あれはどのくらい前のことだったろうか。
――息子の忠教です。
そう紹介した静の声を、表情を何となく覚えている。いつもと比べて硬い声、硬い表情……ああ、そうだった。あの時も、今と同じような……。
――さ、忠教。玄児様にご|挨拶《あいさつ》なさい。
物心ついた時から――実際にはそれ以前から――ずっと塔の部屋の中だけで暮らしているのは、玄児が「まだ子供だから」なのだ、と静に教えられていた。「子供から大人になるまで」はそうしなければならない、それがこの浦登家の「決まり」なのだ、と。
自分より一年遅れの冬に生まれたという忠教は、なのに何故外≠ノいるのか。
湧き上がってきた当然の疑問に対して、静は「この子は使用人の子供ですから」と答えた。「浦登家の子供」と「使用人の子供」とでは「身分」も違えば「決まり」も違う、だから……と、そんな説明だったように思う。
――こんにちは、玄児さま。
と、忠教は母親に倣って玄児を「様」付けで呼んだ。それからおずおずと静の後ろから歩み出、格子のそばまで近づいてきて、
――かわいそう……玄児さま。
――これ、忠教。
静が慌てて叱りつけたのを憶えている。
――失礼なことを云うんじゃありません。
――けど……。
――ごめんなさいね、玄児様。この子がどうしてもお会いしたいと云うものですから。
静はそう云って、我が子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、152-下-2]んだ。
――よく分っていないのです、この子は。
――さあ、忠教。もう行きますよ。
――すぐにまた参りますからね、玄児様。
以来、玄児は忠教に対して、ささやかな|羨《うらや》みを憶えるようになった。それは部屋の外に出られる出られないの問題ではなく、むしろ「諸井のおかあさま」が忠教の「本当のおかあさま」であるという事実を目の当たりにした、そのことによって芽生えた感情だったのだろう。
「さあ、玄児様」
と、静が促した。後ろにいる忠教の影は消えていた。玄児は肩を落とし、部屋の前から離れた。その背中に向かって、
「ダリア様の祝福を」
静の声が、どこか寂しげな響きを含んで投げかけられる。先ほどの〈宴〉でも、同じようなことをみんなが云っていたけれど――。
「しゅくふく」とはいったいどういう意味なんだろう、と玄児はこの時も思った。
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薄暗い瓦敷きの廊下を、玄児はとぼとぼと引き返す。建物の出入口がある小ホールで一度振り向いてみたが、静の部屋の扉はもうぴったりと閉められていた。
短く溜息をつき、玄児は〈南館〉をあとにする。
〈東館〉に続く渡り廊下に出ると、深まりゆく夜の濃厚な闇が彼の身体を包み込む。外ではいつの間にか雨が降りはじめていた。まだほんの小雨だけれども、吹く風は嵐の前触れのように強い。屋根が掛けてあるだけの渡り廊下にはその強風が横殴りに吹き込んできて、玄児の髪を|千々《ちぢ》に乱した。
逆立つほどに乱れる髪を手で押さえつけることもせず、玄児は暗い渡り廊下を進む。そうしながらまたぞろ、いくぶん朦朧とした頭で今夜のあの〈宴〉を、そこでの一連の出来事を思い返す。あの場に集まった人々の顔を思い出す。
……玄児は真新しい黒い洋服を着せられ、長いテーブルの手前の端に席を与えられた。
向かい合った奥の端の席から、ねっとりと絡みつくような眼差しをこちらに向けていた男。その顔は|皺《しわ》だらけで、その髪の毛は真っ白で、その目はひどく落ち窪んでいるが、他の者たちにはない怪しい眼光を湛えていた。――あれが「ひいおじいさま」の浦登玄遙[#ここから太字](……玄遙。この年、すでに九十二歳だった初代当主、浦登玄遙の)[#ここで太字終わり]。
玄遙は「老人」だった。
「子供」は年を取ると「大人」になり、「大人」はさらに年を取ると「老人」になるのだ、という。これもまた、塔の部屋で静が教えてくれたことの一つである。
――「老人」になって、それがもっと年を取ると次は何になるの。
そんな質問をした憶えがある。
――次は、そうですね、普通は「死んで」しまいます。死んで、この世からいなくなってしまうんですよ。
そんなふうに、静は答えたのだったと思う。「死ぬ」ということの意味は、いくら聞いてもまだうまく理解できないでいたのだが、玄児は重ねて質問した。
――じゃあ、ぼくの「本当のおかあさま」も「老人」だったの? それで死んでしまったの?
――いえ、カンナ様はそうではなく……。
「事故」だったのだ、と静は云っていた。「老人」にならなくても、「事故」や「病気」で死んでしまう場合もあるのだ、と。彼女の夫も昔、「老人」になる前に「病気」で死んでしまったのだ、と。
玄児の「ひいおじいさま」であり「老人」である玄遙は〈宴〉に集まった「家族」の中でも抜きん出て異様な、見るからに気味の悪い、恐ろしげな顔つきをしている。しかしながら玄児は、年老いたこの曾祖父のことが決して嫌いではなかった。
塔の部屋にいた頃、「乳母」の静に次いでよくやって来たのが、他ならぬ玄遙なのだった。
たいてい一人で塔に昇ってきては、とりたてて何を話すでもなく、格子に身を寄せてこちらを見ていた。何度かに一度は中に入ってきて、嗄れた声で玄児に語りかけることもあった。
――玄児、というのは|儂《わし》が考えた名前でな。
そう云われたのは、あれはいつだったろうか。
――玄児……何とも|不憫《ふびん》な子よなあ。これも致し方なしと思い定めたのは儂じゃったが、それにしても……。
「ふびん」とはどういうことなのか、その時には意味がよく分らなかった。後に静に尋ねてみたのだけれど、すると彼女はちょっと困ったように、
――難しい言葉ですね。
そう云って、玄児の顔から目を逸らしていた。
――あたしにはうまくお教えできませんが。いずれお分りになる時が来ます。今はまだ、お気になさらないのがよろしいかと。
……〈宴の間〉のテーブルの、玄児から見て右側には「おじいさま」と「おとうさま」がいた。浦登卓蔵、そして浦登柳士郎である。
卓蔵もまた[#ここから太字](……卓蔵。この年、齢五十八だった玄児の祖父、浦登卓蔵。この男が今夜)[#ここで太字終わり]、玄遙ほどではないけれど、「大人」ではなくてもう「老人」だ――と、玄児には思えた。その顔にはやはり皺がたくさんあって、その頭には髪の毛が一本も生えていない。斜めに曲がった分厚い唇を、しきりに舌先で舐めまわしている。顔色は何だか青黒い感じで、ぎょろりと飛び出した目が落ち着きなく動き、周囲を――中でも特に玄遙の様子を――窺っていた。
玄遙と違って卓蔵は、塔の部屋には一度としてやって来たことがなかった。〈北館〉に部屋を移されてから初めて、玄児は名のみ知らされていたこの「おじいさま」と対面したのである。その時も卓蔵は落ち着きなく目を動かしながら、玄児に対しては何をいうでもなく、傍らにいた玄遙の様子ばかりを気にしていたように思うが……。
柳士郎は[#ここから太字](……柳士郎。この年、まだ四十歳だった浦登柳士郎。九年前に妻を失ったまま、いまだ再婚はしておらず)[#ここで太字終わり]卓蔵と並びの席で、凍りついたようにまったく表情を変えることなく、テーブルの上で揺らめく蝋燭の炎を見つめていた。
玄遙や卓蔵と違って、その髪は黒々と長い。玄遙や卓蔵と違って目立った皺もなく、背筋もぴしっと伸びていて、顔立ちそのものには異様なところも恐ろしげなところもない。まだ「老人」ではない「大人」なのだ、と一見して分った。――だが。
実を云うと玄児は、屋敷に住むすべての人々の中で、みずからの「おとうさま」であるこの柳士郎のことが最も苦手なのだった。
こちらを見る時の、あの目が苦手だった。
まっすぐ視線を向けているのに、本当はそこに何か別のものを映しているかのような、冷たいあの眼差し。何を思っているのか、何を感じているのか、まるで窺い知ることができない、冷ややかなあの眼差し。ひたすらに冷たくて冷ややかで、見つめられているとどこかへ逃げ出したくなるような……。
低く重々しい響きで発せられる、あの声が苦手だった。
玄児があったことのある人間の中でも一番低くて重々しくて、訊いただけでぞくりと身が震えてしまいそうな声音だった。――もっとも、その声が、言葉が玄児に向かって直接投げかけられたことは、憶えている限りこれまで一度としてない。
「本当のおとうさま」だというのに、塔の部屋には数えるほどしかやって来たことがなかった。一人で来た時にはいっさい何も喋らず、中へ入ってきもせず、格子越しにただじっとこちらを見ているだけだった。幾度かは静と一緒だったが、その時は玄児に対してではなく、静に対して一言二言、何かを云っていた。塔から出されたあとも同じだった。決してあちらから玄児に声をかけてはこないし、誰かがそばにいれば、たとえそれが玄児に関する話題であっても、その誰かに向かって話すのである。
何でなんだろう、と玄児は悲しくなる。
何で「おとうさま」は、ぼくと話をしてくれないんだろう。ぼくを、何だか「無視する」みたいなことをするんだろう。
忠教の「本当のおとうさま」は昔「病気」で死んでしまったと云うけれども、「本当のおかあさま」は静で、彼女は死んではいない――生きているのだから、あの子はいい。そう思えた。ぼくも「おとうさま」じゃなくて、「本当のおかあさま」に生きていてほしかったのに。そうも思えた。
――柳士郎様のお怒りもやっと解け……。
さっき静が云いかけてやめた言葉が、無性に気に懸かってくる。
「柳士郎様のお怒り」とはどういうことなのか。「おとうさま」はこれまで「お怒り」だったわけなのか。――何に対して。誰に対して。
きっとそれはぼくなんだろう、と玄児は考える。何故かは分らないけれど、「おとうさま」はぼくに対してとても「お怒り」だった。ぼくのことをずっと怒っていた。静は「お怒りもやっと解け」と云っていたけれど、本当は今もまだ怒っているのかもしれない。それでいつも、あんなふうに……。
……テーブルには、玄児から見て左側の席に、あと二人の人間が坐っていた。一人は浦登美惟、もう一人は浦登望和――二人の「おばさま」たち。男たちは皆、玄児が着せられたのと同じような黒い洋服姿だったが、彼女たち二人は鮮やかな赤い服を身にまとっていた。
美惟が「おねえさま」で[#ここから太字](……美惟。浦登美惟。この年、彼女は二十三歳。死んだカンナとは六つ年の離れた姉妹であり)[#ここで太字終わり]、望和が「いもうと」なのだ[#ここから太字](……望和。この年、まだ二十歳の若さだった浦登望和)[#ここで太字終わり]と聞かされている。どちらも静より若くて華やかな雰囲気で、どちらも肩より長く髪を伸ばしていた。仲の良い姉妹らしく、二人で一緒にいてお喋りをしているのを何度も見かけたことがある。そんなところへ、たとえば玄遙や卓蔵が現われて話しかけてきても、まるで聞こえないふうに二人だけで喋りつづけていたりもする。
美惟と望和、どちらの「おばさま」にも玄児は、〈十角塔〉を出るまでは一度も会った記憶がなかった。〈北館〉で暮らしはじめてからも、ほとんど面と向かって話をしていない。静と違って、積極的に一緒に遊んでくれることもないし、積極的に何かを教えてくれることもない。玄児はだから、どらちが美惟でどちらが望和なのか、いまだにはっきり区別をつけられないでいる。
「本当のおかあさま」のカンナは、この二人の「おねえさま」だったというが、では、カンナも美惟や望和のような、華やかで髪の長い女の人だったのだろうか。それとも……。
死んだ母の写真の一枚すら、玄児は見せられていないのだった。
……ぼくが嫌いなのかもしれない。
そう思ってしまうこともある。
「おじいさま」も「おとうさま」も「おばさま」たちも、みんなぼくがあまり好きじゃないのかもしれない。嫌いなのかもしれない。だけど、どうしてそんな……。
〈東館〉の中を抜けて〈北館〉に戻るまでの間に、幾人かの男女とすれ違った。静と同じようにこの屋敷で働く使用人たちだったが、玄児はまだ、彼らの顔や名をほとんど把握してはいなかった。
「おやすみなさいませ、玄児様」
玄児の姿を見ると使用人たちは皆、立ち止まって廊下の脇に退き、深々と頭を下げる。そして――。
「おやすみなさいませ、玄児様」
まったく同じ挨拶を、同じような調子で発するのだった。
そう云えば――と、玄児は思い出す。
諸井静以外に顔と名を憶えている使用人が、たった一人だけいる。鬼丸という名の[#ここから太字](……鬼丸。鬼丸老。この年、齢七十過ぎだったはずの)[#ここで太字終わり]、あの「老人」だ。
マントのような黒いだぶだぶの衣服で身を包み、頭には黒いフードを被っている。会ったのは〈十角塔〉を出たあとの二度か三度だけだが、いずれの時もまったく同じ格好をしていた。その風変わりな名の響きとその特徴的な出で立ちが、忘れえぬ印象として心に残った。
今夜の〈宴〉の場にも、その鬼丸の姿があった。
黒いだぶだぶの服にフードという、これまでに見たのとやはり同じ出で立ちで、みんなに葡萄酒を注いでまわったり、器にスープを入れてまわったりしていた。席には着かず、何も飲まず食べず、最初から最後まで結局何一つ喋ることもなく、部屋の隅の薄暗がりに溶け込むようにして立っていたが……。
……あの人は何なんだろう。
この屋敷に住み込んでいる数多くの使用人の中でも、何か特別な役目を担わされた人なのかもしれない。そんなふうにも見受けられた。
午後十一時半を過ぎた頃、玄児は〈北館〉に帰り着いた。
東西に延びる長い主廊下をふらふらと歩いていくと、途中で前を通りかかった部屋から楽器の音が聞こえてきた。そこは「音楽室」と呼ばれている広い部屋で、幾種類もの楽器が置かれている。玄児も静の案内で一度だけ中に入って、「ピアノ」の鍵盤に触らせてもらったことがある。
「楽器」という言葉は以前から知っていたが、実物はそれまで、いつだったか静が持参して吹いて見せてくれた「笛」しかみていなかった。「オルガン」や「ギター」や「ヴァイオリン」「トランペット」など、他にもいろんな名前の付いた、いろんな形や音色の楽器があるのだ、と静は教えてくれた。
今、音楽室から流れ出してくるのはピアノの音だった。奏でられているのは[#ここから太字](甘く軽やかな、そのくせどこかしら薄暗く物寂しい響きを含んだ三拍子の……)[#ここで太字終わり]、玄児が初めて聴く調べだった。[#ここから太字](ああ、これは「赤の|円舞曲《ワルツ》」。あのからくり時計のオルゴールに入っている……)[#ここで太字終わり]。
部屋の扉が少し開いているのに気づき、玄児はその前に足を進める。息を殺し、隙間からそっと中を覗き込むと、ちょうどそこで曲が終わって楽器の音が鳴りやんだ。
室内には二人の「おばさま」たちがいた。
ピアノの前に坐っているのが、きっと美惟の方だろう。「美惟様はとっても楽器がお上手で……」と静が云っていたから。望和の方は部屋の真ん中に置かれた揺り椅子に座り、美惟が鍵盤の蓋を閉めるのを見守ってた。
「……お父さまはもうお休みのようね」
椅子に坐ったまま、望和が云った。彼女たちの「おとうさま」は玄児の「おじいさま」であり、つまりそれは浦登卓蔵である。
「ずいぶん酔ってらしたから。でなきゃ、お姉様の演奏を聴きにいらっしゃるはずだし」
「柳士郎お|義兄《にい》様は?」
立ち上がって、美惟が云う。
「さあ」
望和は首を傾げて、
「それにしてもお義兄様、どういう風の吹きまわしかしらね。何で今になって急に、あの子を」
……あの子[#「あの子」に傍点]?
「最終的にはお義兄様の決断だったわけでしょ。あの子をあの塔から出して、しかも〈ダリアの夜〉の〈宴〉にまで。あれほど憎んでいらしたのに」
ぼくのことではないか――と気がついて、玄児は身を硬くした。
「今夜お祖父様がおっしゃっていたでしょう。ダリアお祖母様や、亡くなったカンナお姉様の面影が、最近になってますます……」
「あの子がカンナお姉様に似てきたから? ほんとにそうなのかしら」
「…………」
「わたしは知ってるのよ。お義兄様はどう思ってらっしゃるのか分らないけれど、あの子はね、ほんとは……」
「そのことは云わないで」
ぶるりと首を振ったのは美惟である。
「そのことは、もう」
「わたしはあの子、やっぱり気味が悪い」
「…………」
「何を云ってもにこりともしないし、いつも、どこを見ているのか分らないようなぼんやりした目をしてるし……何を考えているのかも全然分らない」
「九年間もあんなところに閉じ込められていたんだから」
「分ってるわ。あの子自身には何の罪もないんだしね、可哀想と云えば、そりゃあ可哀想なんだけれど……」
「お義兄様のお気持ちを考えるとね」
「そうねえ」
「あたしたちだって、この九年間ずっと、玄児なんていう子はここにはいない[#「ここにはいない」に傍点]ものとして暮らしてきたんですもの」
「静さんがいろんな面倒を見てくれていたわけでしょう」
「あの人にそんな役目を押しつけるなんて、あたしはどうかと思ったけれど。お義兄様も何を考えていらっしゃるんだか」
「あらお姉様、ひょっとして|妬《や》いてらっしゃるの」
「そんな……やめてちょうだい」
…………
…………
……何なんだろう。
どういうことなんだろう。
息を殺したまま扉の前を離れながら玄児は、頭の中で乱れ舞う疑問に強く戸惑った。
――あれほど憎んでいらしたのに。
「憎む」というのは「怒る」とはまた違う、もっと激しい言葉でないか、と思った。「おとうさま」は、そんなにもぼくのことを「憎んで」いたというのか。でも……それは何故?
――九年間もあんなところに閉じ込められていたんだから。
――可哀想と云えば、そりゃあ可哀想なんだけれど……。
「可哀想」というのは、初めて忠教と会ったあの時に云われたのと同じ言葉だ。「あんなところに閉じ込められていた」のが「可哀想」だったと、美惟や望和もそう思っているのか。
だけどそれは――「子供が大人になるまで」はあの塔の部屋に一人でいることが、この家の「決まり」ではなかったのか。浦登家の子供は皆、たとえば美惟にしても望和にしても、同じようにある時期まであの部屋で暮らしていたのではないのか。そうではなかったというのだろうか。とすれば、静にこれまで教えてもらってきたそのあたりの事情は、実は「本当のこと」ではなかったという……。
長く薄暗い廊下を再びふらふらと歩きはじめながら、玄児は惑いつづける。
……どうして。
どうしてぼくは嫌われているんだろう。
どうしてぼくは憎まれているんだろう。
どうしてぼくは「あんなところに閉じ込められていた」んだろう。
どうしてぼくは……。
すぐにでも〈南館〉へ駆け戻り、静に会って問いただしてみたかった。そうして「本当のこと」を教えてほしいと思った。――が。
きっと彼女は教えてくれないだろう、という気がした。きっと彼女はとても困った顔をするだろう。そして、「あたしには何も云えません」と首を振るのだろう。きっと……そう、そうに違いない。
そこでふと、玄児は思いついたのである。
「ひいおじいさま」ならばもしかしたら、と。
あの人ならば、思いきって訊いてみたら教えてくれるかもしれない。ぼくの知らない「本当のこと」を、すべて。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
視点≠ヘいったん玄児を離れ、同じ夜の別の場所へと飛ぶ。
……午後十一時三十七分。暗黒館〈西館〉一階[#ここから太字](ここ[#「ここ」に傍点]は……)[#ここで太字終わり]の第二書斎[#ここから太字](……あの書斎[#「あの書斎」に傍点]だ)[#ここで太字終わり]。
視点≠ヘそこで、現実には存在しない第三者の視点≠ニして空間に浮かびつつ、その場の光景を捉える。
いくつかの燭台で蝋燭が燃えている。仄暗いその明りの中、室内には今、二人の人物がいる。
一人は館の初代当主、玄遙[#ここから太字](……浦登玄遙)[#ここで太字終わり]。部屋の中央あたりに置かれた安楽椅子に坐り、泰然とパイプをくゆらせている。
もう一人は[#ここから太字](ああ、この人は……)[#ここで太字終わり]今しがた、この部屋に入ってきたばかりのようである。入口の扉付近から一歩二歩、玄遙の顔を見据えながら、南側の壁に沿ってゆっくりと足を進める。右手を|鳩尾《みぞおち》に当て、左手は身体の後ろに回している。
「何の用かな」
と、玄遙が嗄れた声で問うた。
「折り入って話がある、とは」
「立っていただけますか」
と、もう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]は云った。
「立って、こちらに来ていただけますか」
その人物[#「その人物」に傍点]の背後の壁には、大きな額縁[#ここから太字](あの額縁[#「あの額縁」に傍点]だ)[#ここで太字終わり]があった。中に絵も何も収められていない、ただ黒い壁面を黒い「縁」が四角く取り囲んでいるだけの、奇妙な額縁である。
玄遙は訝しげに眉をひそめつつも、パイプを銜えたまま椅子から立ち上がる。九十二歳という高齢にしては、すこぶる|矍鑠《かくしゃく》とした動きだった。皺だらけの顔や真っ白な髪や眉をはじめ、肉体の部分部分は明らかに老人のそれだが、腰が曲がっていたり足取りが|覚束《おぼつか》なかったりといった様子はない。
もう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]は額縁の前から脇へと退く。そうして額縁の、向かって左横に少し離れて造り付けられた燭台の蝋燭を吹き消す。
「こんなもの[#「こんなもの」に傍点]が何故、ここにあるのか」
と、もう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]が云う。
「こんな、何も入っていない額縁が」
「ん?」と玄遙はさらに眉をひそめ、
「何をまた、急に」
語気を強めて問い返そうとするが、その面差しにはいくばくかの狼狽が隠せない。
「分っておりますよ、もちろん」
満足げな微笑を滲ませながら、もう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]は頷く。そして――。
右手をおもむろに鳩尾から離すと、たったいま自分が蝋燭の炎を吹き消したばかりの壁の燭台に伸ばすのだった。
玄遙の目からは見えないよう、身体の陰に回されたままのその人物[#「その人物」に傍点]の左手にあるもの[#「あるもの」に傍点]が握られているのを、そこで視点≠ヘ捉える。
一メートルほどの長さの、頑丈そうな黒い鉄の棒[#ここから太字](……火掻き棒?)[#ここで太字終わり]。それを握りしめる手は、緊張と興奮のためか、じっとりと汗ばんでいる。
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
……午後十一時四十五分。
玄児は〈北館〉二階の自分の部屋には戻らず、そのまま〈西館〉へと向かった。曾祖父の玄遙に会って「本当のこと」を教えてもらう、という目的のためである。
暗い渡り廊下を抜け、吹き抜けになった〈西館〉のホールに入ったところで、しかし玄児は立ち竦んでしまう。〈宴〉の時はここから階段で二階へ上がったのだったが――。
玄遙は今、どこにいるのだろう。玄遙の部屋はどこにあるのだろう。
静が〈南館〉に住んでいるのと同じように、玄遙はこの〈西館〉に住んでいるのだということは知ってた。だが、この建物のどこにどんな部屋があるのかは知らないし、どの部屋に今、玄遙がいるのかも玄児には分らないのである。
来てはみたものの、どうしたらいいのか。一つ一つ全部の部屋を当たってみるのだろうか。――そう思って動きあぐねていると、折りしもその時、ホールの階段を音もなく降りてくる人影があった。
「いかがなさいましたか」
だぶだぶの真っ黒な服で全身を包んだ、それは老使用人鬼丸の姿であった。頭にはやはりすっぽりとフードを被っており、その影になって顔はよく見えない。
「いかがなさいましたか、玄児様」
鬼丸は繰り返し問いかける。ごわごわに嗄れた、何とも気味の悪い声だった。
「あ、あの……」
玄児はしどろもどろで、
「ひいおじいさまの、あの……」
「玄遙様の? はて、何でございましょうか」
「ひいおじいさま……どこに」
「玄遙様はどこにいらっしゃるか、と」
「うん……あ、はい」
「それはわたくしへのご質問ですか」
「あ……はい」
「どうしても答えよと云われますか」
続けざまの問いかけに|気圧《けお》されつつも、玄児はもう一度「はい」と頷いてみせた。
「玄遙様のご寝室とご書斎は、この建物の一階にございます」
抑揚の乏しい、まるで心にまで同じ黒衣をまとってみずからの感情を包み隠しているような口調で、鬼丸は答えた。
「おられるとしたら、恐らく書斎の方だろうと。この時間にはまだ起きておられるはずですので」
「しんしつ」が寝るための部屋だということは知っていたが、「しょさい」というのは初めて耳にする言葉だった。どんな部屋なのだろう。そこで今、玄遙は何をしているのだろうか。
「ご案内いたしましょうか」
と、鬼丸が申し出た。玄児が返答を少しためらっていると、鬼丸は重ねて、
「わたくしがご案内いたしましょうか」
玄児は黙って頷きを返した。
「承知いたしました。ついていらっしゃいまし」
鬼丸はすっと背を向け、左手奥に見えていた両開きの扉へと歩を進める。玄児はおっかなびっくりでそのあとに従う。
扉を抜けると、右手――西方向に延びる薄暗い廊下があった。あちらに一本、こちらに一本……という具合に、壁の燭台で蝋燭が燃えている。
鬼丸は無言のまま、廊下をまっすぐに進む。足音はなく、かすかに|衣擦《きぬず》れの音だけがする。
突き当たりの手前左側に、黒い片開きの扉が一枚あった。鬼丸はその前で足を止めると、玄児が追いつくのを待って、
「ここが玄遙様の第一書斎でございます。お呼びしてみましょうか」
「――はい」
「では」と云って、鬼丸は扉をノックする。
こつっ、こつっ、と二回。ほんのちょっと間をおいて、こつこつこつっ、と今度は三回。――が。
中からは返事はなかった。
「ここにはおいででないようで」
「…………」
「続き間になった居間のほうにおられるのかもしれませぬ。いかがなさいますか」
「あ……」
「行ってごらんになりますか」
「あ……はい」
「ご案内いたしましょうか」
「――はい」
「では、こちらへ」
鬼丸は静に踵を返し、来た廊下を戻りはじめる。玄児はあたふたとそのあとを追う。
先ほど出てきたホールの両開き扉の手前に、右手――南方向への分岐があった。鬼丸は廊下をそちらに折れると、折れて少し行った右側にある黒い扉の前で再び足を止める。
「こちらが居間の扉でございます」
そう云うと、今さっきと同じようなノックを繰り返した。しかしやはり、さっきと同じで中から返事はない。
「玄遙様」
と、鬼丸が扉越しに呼びかける。
「いらっしゃいませんか、玄遙様」
それでも返事はなかった。
「こちらにもおいでではないようで」
ごわごわに嗄れたその鬼丸の声は、玄児にはどうしても、何だか人間のものではないように聞こえ、ほとんど生理的な気味の悪さを感じてしまう。先ほどからずっと、鬼丸が何か云うそのたびに、腕や首筋や背中に寒気のような震えが走り、皮膚が粟立ちさえしていた。
「はて。そうしますと――」
呟きながら、鬼丸は玄児の方を振り返り、
「この隣にもう一つ、玄遙様の書斎がございます。そちらにおられるのかもしれませぬ」
玄児は薄暗い廊下の奥へと目を向ける。同じ右側の壁の、いくらか離れたところにもう一枚、片開きの黒い扉があるのが見えた。――あれか。
「ご案内いたしましょうか」
云われて、今度は大いに返答をためらった。
「わたくしがご案内いたしましょうか」
迷った挙句、玄児は小さく首を横に振って、
「――いえ」
おずおずとそう答えた。
「ぼくだけで……」
この人はやっぱり気味が悪いから、と思った。もう一緒に来てくれなくてもいい。いなくなってくれた方がいい。ほっとする。その方がいい。
「ひいおじいさま」はきっと、隣のあの部屋にいるのだろう。だからもう、ぼく一人でも……。
「さようでございますか」
鬼丸は存外にあっさりとそう応え、「それでは」と云って黒衣を|翻《ひるがえ》した。そして、その場から立ち去り際に一言。
「ダリア様の祝福を」
鬼丸の後ろ姿がホールの方へ消えるのを見送ってから、玄児は「もう一つの書斎」の扉へと歩を進めた。よく見てみると、その扉の下の隙間からは|仄《ほの》かに光が洩れ出している。中に人がいるからだ、と思った。それで明りが点されているのだ、と。
こうして間もなく、玄児は独り第二書斎の扉の前に立ったのだった。
こつっ、こつっ、と二回。ほんのちょっと間をおいて、こつこつこつっ、と三回。先ほどの鬼丸を真似て、そのように扉を叩いてみた。――が、期待に反して、ここでもやはり返事はない。
「ひいおじいさま」
思いきって声をかけてみた。
「ひいおじいさま……」
返事はない。しかしその代わり、かすかに何か、ひゅう、というような音が扉の向こうから伝わってきた。
ひゅう……ひぃ……ぃ……
なんだろう、今の音は。
聞きようによっては、人間の声のようにも聞こえる。掠れた口笛のようにも聞こえるし、苦しげな息遣いのようにも聞こえる。それとも、外で吹く風の音が?
「ひいおじいさま」
いま一度声をかけてから、玄児は意を決して扉のノブを握った。回してみる。回った。押してみるが動かない。手前に引いてみる。扉はすると、すんなりと開いた。――と、そこで。
まったく予想だにしていなかった光景が視界に飛び込んできて、玄児は驚きのあまり、思わず後ろに――廊下の中ほどにまで――飛び|退《の》いてしまった。
部屋の中には、床に倒れた人間の姿があった。
前方少し右手――南側の壁際から一メートル余り離れたあたりに、右腕をその壁に向かって突き出し、顔面をこちらに捩じ曲げた不自然な姿勢で倒れ伏している。醜く歪んだその皺だらけの面相と真っ白な頭髪から、それが曾祖父の玄遙であることはすぐに分った。
さらに――。
倒れ伏したまま動かない玄遙とは別に、蝋燭の灯りだけが揺れる仄暗い部屋の、その奥の方に今、何者かの姿がある[#ここから太字](……いる[#「いる」に傍点])[#ここで太字終わり]。何者かがこちらを向いて、そこに立っているのが[#ここから太字](あれ[#「あれ」に傍点]はいったい)[#ここで太字終わり]見える。
……誰かが[#「誰かが」に傍点]、いる[#「いる」に傍点]。
背後の黒い壁に紛れてしまいそうな、黒い服を着ているのが分る。ぼさぼさに髪が乱れているのが分る。――知らない顔だ[#「知らない顔だ」に傍点]。暗くて細かな造作までは見て取れないけれど、何だかとても恐ろしい形相をしている。こちらを睨みつけている。
誰なんだろう、あれは。そして――。
「ひいおじいさま」はいったい、どうしてしまったんだろう。いったいここで何があったんだろう。何が起こったというんだろう。
「あぅ……」
声を出そうとしたが、喉が引き|攣《つ》ってまともな言葉にならなかった。
「あぅ、あ……」
その時、突然――。
倒れ伏した玄遙の右腕が、びくっ[#「びくっ」に傍点]と動いたのである。あっと思った瞬間、今度は目の前の室内とは別の方向から音が――扉を開く音が聞こえ、続いて聞き憶えのある人の声が響いた。
「玄児か」
浦登柳士郎の、低く重々しいあの声だった。
玄児はびっくりして声の方を振り向いた。廊下の突き当たりにもう一枚黒い扉があって、それが今、開かれている。そこから出てきた柳士郎が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
「あ、ああぅ……」
「おとうさま」と云おうとしたが、やはり喉が引き攣ってまともな言葉にならない。
「どうした、玄児。そんなところで」
訊かれて玄児が、いま自分が開けた扉の方に身を向け直した時、ちょうどそのタイミングで低い鐘の音が鳴りはじめた。部屋の中にある柱時計の、午前零時の時鐘であった。玄児は室内に向かって片手を差し上げながら、
「あ……あぅぅ……」
「ひいおじいさま」がそこに倒れている。部屋の奥に見知らぬ何者かがいる。――そう伝えようとしたのだが。
「あ……ああっ!」
思わず声が、驚愕の叫び声になった。
玄遙の身体は同じ場所に倒れ伏したままだった。今さっき動いた右腕の位置以外、何も変化はないように見える。醜く歪んだ面相にも変わりがない。白眼を剥きだした両の目。半開きになった口の端には泡が溜っている。ところが――。
ほんの数秒前までは確かにそこに――部屋の奥に立っていたはずの何者かの姿が、今はどこにも見当たらない。いなくなってしまっているのだ。
「どうしたんだ、玄……」
玄児のそばまでやって来たところで、柳士郎も室内の様子に気づいたらしい、「何ぃ?」と吠えるような声を発した。
「お祖父さん、どうなさったのですか」
倒れた玄遙のそばまで、一足飛びに駆け寄っていく。玄児は恐る恐るそのあとに続いたが、扉から一歩中へ入ったところで足が竦んでしまい、そこから柳士郎の動きを見守っているしかなかった。
「お祖父さん……」
柳士郎は玄遙の顔を覗き込み、手首を取り、さらには仰向けにして胸に耳を当てる。その間、玄遙の身体は微動だにしなかった。白い頭髪の一部が赤黒く染まっているのが、玄児にも見えた。
……血?
今さらのように玄児は、激しい胸騒ぎを覚えた。
……頭から、血が。
「お、おとうさま」
やっとの思いで、声を言葉にすることができた。
「ひいおじいさまは……」
「――死んでいる」
玄遙の棟から耳を離し、柳士郎は云った。
「誰かに殺されたようだ」
「死んで、いる……」
呟き、玄児は|悄然《しょうぜん》と立ち尽くす。
今そこで玄遙が、頭から血を流して倒れ、動かなくなっている。それが「死んでいる」ということなのか。「この世からいなくなってしまう」ということなのか。しかし、「殺された」というのは?
玄遙が「死んだ」のは、彼が「老人」であるがゆえの「死」なのか。あるいは、母カンナのように「事故」だったのか。あるいはまた、静の夫のように「病気」だったのか。――それとも。
「殺された」という、「事故」でも「病気」でもない「死」の原因があるわけなのか。
玄児が持つ乏しい知識と経験では、とうてい容易には理解しえない事態であった。いったい何がどうなっているのか、いくら考えても分らない。分りようがない。ただ、何かとても異常な、そして深刻な事件≠ェ起こったのだということだけは、柳士郎の反応を見るまでもなく感じ取れた。
「人が」
と、玄児は柳士郎に訴えた。
「人が、そこに」
そう云ってまっすぐ、部屋の奥を指さす。
「何? 人がどうしたって」
玄遙の身体を|俯《うつぶ》せに戻すと、柳士郎は立ち上がって玄児に問う。玄児は|物怖《ものお》じしつつも、
「そこに、人が」
自分がついさっき目撃したままのことを、懸命に伝えようとした。
「誰かが、いたの……いたんです。そこにいて、こっちを見てた」
「誰かって、お祖父さん以外に?」
「――はい」
「誰が」
「分らない……分りません」
玄児はのろのろと首を振り動かした。
「でも、ほんとに」
「誰かお前が知っている人間か」
「…………」
「見たことのある顔だったのか」
「…………」
「どうなんだ、玄児」
「見たこと、ない……怖い顔。怖い顔で、こっちを……」
柳士郎は不審そうに首を捻り、ぐるりと部屋の中を見まわす。玄児が立っている場所からでも、室内の様子は隅々まで見渡せた。どこにも何者の姿もないことを、だから玄児もすでに了解していた。
「ほんとにいたの……いたんです」
玄児は繰り返し訴えた。
「おとうさまが来るまで、ほんとに、そこに。なのに……」
「いなくなった、と? 一瞬で消えてしまった、とでも云いたいのか」
「――消えた」
「莫迦なことを」
「――でも」
「莫迦な」と吐き出すように呟きつつも、柳士郎は玄児をその場に立たせたまま、室内を隈なく調べはじめた。施錠された窓の状態を確かめ、机の下や椅子の影などをすべて覗き込み……そうしてやがて明らかになったこと――それはすなわち、この第二書斎には今現時点で、柳士郎と玄児、「殺された」玄遙の三人以外の人間は誰一人としていない、存在しない、という事実なのであった。
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[#ここで字下げ終わり]
浦登玄遙は後頭部及び側頭部を鈍器で殴打され、「死」に到った模様であった。玄児が扉を開ける直前に聞いた「ひゅう……」というような音は、恐らく死線を彷徨う玄遙の口から洩れた最期の喘ぎだったのだろう。先ほどいきなり右腕が動いたのは、扉を開けた玄児が、そんな玄遙の姿と部屋の奥の何者かの姿を認めて発した声に反応しての、最期の動きだったのかもしれない。
柳士郎によって「死」が確認された玄遙の身体のそばには、二つのものが落ちていた。
その一つは、長く使い込まれて独特の飴色になった|海泡石《かいほうせき》のパイプである。頭の部分に|蜷局《とぐろ》を巻いた蛇の彫刻が施されていて、これは玄遙自身の愛用の品だった。もはやまったく動くことのない玄遙の、脇腹に肘をつけて縮こまった左手の近くに、それは転がっていた。膝らの中にはまだ火種が残っている様子で、従って玄遙は、襲われてその場にくずおれる間際まで、このパイプを手にしていたものと思われる。
いま一つは、頑丈そうな黒い鉄製の棒。長さ一メートル足らずのもので、これは玄遙の足許から少し離れたあたりにあった。
「火掻き棒、か」
黒い床の上に無造作に放り出されたその鉄の棒を覗き込みながら、柳士郎が呟いた。
「これが凶器なのか。――ああ、先に血が付いている」
「きょうき」とは何なんだろう、と考える玄児の心を見透かしたように、
「誰かがこの火掻き棒で頭を殴りつけたのだ。それで……」
こちらに横目を流しながら、柳士郎が云った。
「この部屋には暖炉がない。どこか別の部屋から持ち込まれたものだということになるが」
それから柳士郎は、改めて玄児の方に向き直り、
「さっき云ったことは本当なのか」
低く押し殺した声音で問うた。
「私がやってくるまで、この部屋の中に誰かがいたというのは」
記憶にある限り、これまで一度として直接話しかけてきたことのない「おとうさま」が、こうして今、面と向かって自分に質問してくる。そのこと自体にも大いに戸惑いを覚えつつ、玄児は「はい」と小声を返した。
「そしたらその時、ひいおじいさまの手が、びくっと動いて……」
「何だと?」
「そしたら、あっちからおとうさまの声がして、それで、こっちを見た時にはもう……」
「誰もいなかった、と?」
玄児は神妙に頷いた。
「私が来る前に、扉から出てきて立ち去った、というわけではないのだな」
「――はい」
「あくまでも、ほんのわずかの隙に姿を消してしまったと?」
「――はい」
「ふうむ」
柳士郎は鋭く眉をひそめて玄児の顔をねめつけ、続いてまたぐるりと室内を見まわす。
「単純に考えれば、消えたその何者かが犯人だったという話になるが。それにしても、いったいどうやってこの部屋から……」
「はんにん?」
思わず玄児が首を傾げると、
「この火掻き棒を使って、この人を――お前の曾お祖父さんをこんな目に遭わせた人間のことだ。それを『犯人』という」
柳士郎は目を戻し、噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、176-上-3]んで含めるような調子でそう説明した。
「つまり玄児、お前はその犯人を――犯人かも知れない人間をさっき、目撃したことになる」
「もくげき……」
「見覚えのない顔だった、とお前は云ったが、それは確かに?」
「…………」
「本当に見たことのない、お前の知らない人間だったのか」
厳しい詰問口調だった。
たじろぎつつも玄児は、先ほど扉の外から「目撃」した光景を、懸命に心の中で再現しようと努める。そうしてやがて、こちらをねめつける柳士郎の目からはちょっと顔を背けながら、
「そう思う……思います」
「男だったか女だったかは?」
「――男の人」
「どんな服を着ていた」
「――黒い服」
「確信をもって、そう証言できるか?」
「かくしん?」
「絶対に間違いない事実だと、自信をもって云いきれるかどうか、ということだが」
「…………」
そこまで云われると、果たして本当のところはどうだったのか、いささか心許なくなってくる。
確かに見た、とは思うのだ。けれどもひょっとしたら、薄暗くてよく分らなかっただけで、本当は自分の見知った相手だったのかもしれない。そうとは分らなかっただけで、実は男ではなく女の人だったのかもしれない。ひょっとしたら、そもそもが何かの見間違いか気のせいだったのかも……いや、そんなことはない。そんなことは決してないはずだけれど……。
玄児は何とも云わず、混乱がいや増すばかりの頭をゆるゆると振り動かす。それをどう受け止めたものか、柳士郎は大仰に一つ溜息をつくと、倒れ伏した玄遙の背中をもう一瞥してから、玄児が佇む部屋の入口まで戻ってきた。
「とにかく皆に知らせねばなるまい」
廊下へとあとずさる玄児の両肩に左右の手を置いて、柳士郎はみずからの動揺を鎮めようとするように、ゆっくりと一語一語を区切りながら云った。
「第一書斎の伝声管を使って、皆を呼び集めよう。この現場にではなく、そう、とりあえず〈北館〉の広間あたりが適当だろう」
「…………」
「そこで玄児、お前がここで目撃した――見聞きした事実をもう一度、皆に話してもらわねばならないが。良いか」
「はい」と声に出して応じるだけの気力、あるいは自信が持てずに、玄児は黙ってかすかな頷きを返すしかなかった。
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九月二十五日水曜日、午前零時三十分。
暗黒館旧〈北館〉一階の中央に位置する広間に集まったのは、全部で九人の者たちであった。
浦登柳士郎に玄児、美惟と望和の姉妹。使用人では諸井静と鬼丸以外に、玄児が顔と名前をはっきり覚えていない三人の男女がいた。屋敷にはその他にも多くの使用人が住み込んでいるが、当面は柳士郎の判断により、それだけの人間が呼び集められたのである。
いったい何事が起こったのかと、集まった者たちの顔には不審と不安の|気色《けしき》が隠せない。場の主導権は終始、柳士郎が掌握していた。先ほどから半ば茫然自失の状態でいる玄児を椅子に坐らせておいて、みずからはその傍らに立って一同に対面し、低く重々しい例の声で事の次第を告げた。
「今からおよそ三十分前、午前零時頃に〈西館〉の第二書斎において、この屋敷の当主浦登玄遙が死んだ――息を引き取られた」
「死……って」
真っ先に、短く叫ぶような声を発したのは美惟だった。
「お祖父様が、死……亡くなった? ほんとに? ほんとにそんな」
「ああ」
柳士郎は深々と頷き、
「本当だ」
「そんな……死ぬだなんて、まさか」
「そんな……」と、同様の台詞が望和の口からも零れる。姉妹はともに、突然の凶報に肉親として衝撃を受けた、と云うよりもむしろ、義兄から知らされた「死」という事実そのものに強く狼狽しているようだった。
「そんな、まさか」
「そんなはずは……」
美惟はすがるような眼差しを柳士郎に向け、
「だってお義兄様、お祖父様は……」
「殺された[#「殺された」に傍点]のだよ、誰かに」
柳士郎が放ったその言葉で、場は一瞬、それこそ水を打ったように静まり返った。
「病死ではもちろんない。事故でもなく自殺でもなく、あれは明らかに他殺だ。撲殺だった。何者かにあの火掻き棒で頭を殴られ、致命傷を負って死んだのだ」
「――そんな」
美惟がまた短く叫んだ。
「殺されたなんて」
「最初に見つけたのは玄児だった」
柳士郎は冷静な口調で経緯を説明した。
「何故だかは知らないが、玄児は一人で〈西館〉へ行き、第二書斎の扉を開けて、そこで事件を発見した。その直後に私が、〈ダリアの部屋〉での用を済ませて出てきて、廊下に佇んでいた玄児に気づき、異状を知り……すぐに調べてみたが、その時にはもう呼吸も脈も止まっていたのだ。――確かに死んでいた」
「ああ……」
「そんな話は聞きたくない」とでも云うように、美惟は激しく何度もかぶりを振る。振り乱された長い黒髪の幾筋かが、血の気の引いた頬と唇に貼り付いた。
「お祖父様が死んでしまうだなんて、そんな」
「だから、『殺された』と云っている」
柳士郎はまっすぐに美惟の顔を見据え、語気を強めた。
「いくら〈ダリアの祝福〉を受けた浦登家の人間であろうとも、不慮の事故にあったり殺されたりすれば死ぬ[#「不慮の事故にあったり殺されたりすれば死ぬ」に傍点]。私たちは、決して死≠ゥら切り離されているわけではないのだ。美惟も望和も、その辺は充分に承知しているだろう」
妹と並んでソファに腰掛けていた美惟は、義兄の言葉を遮るように「ひぃ……」とかぼそい声を洩らした。そうしてその場でく[#「く」に傍点]の字に身を折り、両手で頭を抱え込む。
「……怖い」
「お姉様」
と、望和が肩に手を添えて宥める。
「しっかりなさって、お姉様」
「怖い。死ぬのは嫌……怖い」
「誰が殺したの」
取り乱す姉の肩に手を添えたまま、望和が柳士郎に尋ねた。
「誰がお祖父様を」
「それは……」
柳士郎は傍らの椅子に掛けた玄児を横目で示し、
「この子が、部屋の中に|曲者《くせもの》の姿を見たと云っている。しかし、それが誰だったのかは分らない。見たことのない人間だった、という話だが」
「どこまで信用できたものかしら」
と、にべもなく望和が云った。玄児に向けられた彼女の目には、あからさまな不信と同時に、ささやかな敵意とも取れる色が滲んでいる。
「その子の――そんな子の云うことなんて」
「|鵜呑《うの》みにはできないが、私は嘘だと思わない」
と、柳士郎が意見を述べた。
「玄児には、そのような嘘を述べ立てる必然性がない。そもそも『嘘をつく』という概念が、この子の頭の中に存在するのかどうかすら、私には疑問に思えるが」
「それじゃあ、お義兄様」
と云って望和は、唇を結んで俯いたままの玄児から目を逸らし、
「仮にその子の云うとおりだとしたら、誰か|余所《よそ》者が屋敷に忍び込んできて……と?」
「そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない」
「でも、『見たことのない人間』がいたって云うんだったら……」
「玄児が〈十角塔〉から出されて、まだ一週間ほどにしかならない。それまでの九年間は、ごく限られた者としか会う機会がなかったのだ。外≠ナ暮らしはじめてたかだか一週間で、今この屋敷にいる人間の顔をすべて把握できているものかどうか」
「じゃあ……」
「どうだね、玄児」
と、そこで柳士郎はおもむろに玄児の方を振り向いて、
「今ここに、お前があの部屋の中にいるのを目撃したという曲者の姿はあるか」
これはつまり、玄児がよく知る静と鬼丸以外の三人の使用人について、彼らのうちの一人が「曲者」であるか否か、を暗に尋ねる質問であったと云えるだろう。玄児の反応はしかし、まことに要を得ないものだった。
伏せていた顔を上げて柳士郎を見、美惟と望和を見、それから使用人たちをざっと見ていって、しばし首を傾げる。何も云わず、何も表情に表わすことなく、やがてのろりと首を横に振る。
「ここにはいない、と?」
柳士郎が問うと、玄児はのろりのろりと首を振りつづけながら、今にも消え入りそうな声で「分らない」と呟いた。
「分らない……分りません」
「――ふむ」
低く|唸《うな》って腕組みをする柳士郎に、
「あのぅ、お医者様をお呼びには?」
おずおずと問いかけたのは静であった。美惟のように取り乱してこそいないが、ひどく青ざめた顔色と、細かく震えうわずった声の調子が、内心の動揺の大きさを如実に示している。
「それにその、そんな大それた事件が起こったということであれば、さしでがましいようですが、やはりその……」
「云わんとするところはむろん、分る。分るが、しかし――」
ぴしゃりと応えて、柳士郎は眉間に刻んだ縦皺の数を増やした。
「元々は私も医者だった。生死の境にある患者を緊急に治療しなければならないという話ならばともかく、ここで新たに医者を呼んでみたところで、状況には何ら変わりはないだろう。事件の発生を当局に通報するかどうかに関しては、そうだな、とにかくお義父さんにも相談して、慎重に……」
「そう云えば、どうしてお父様はここにいらっしゃらないの」
場を見渡し、そこで初めてその事実に気づいたかのような口振りで、望和が云った。柳士郎は「そう」と頷いて、
「私もそれが気になっていてね。〈宴〉のあとは早々に自分の部屋へ引き上げられたようだったから、伝声管で真っ先に事態を知らせようとしたのだ。ところが、いくら呼び鈴を鳴らしてみてもいっこうに返事がない」
「ぐっすりお休みになっていて、気がつかれなかったのかしら」
「かもしれない。あるいは……」
「見てまいりましょうか」
と、それまで一言も口を利かずにいた鬼丸が、ごわごわに嗄れた声で申し出た。
「わたくしが見てまいりましょうか」
「ああ、そうだな。頼む」
柳士郎が承諾すると、鬼丸は「お任せを」と頷いてだぶだぶの黒衣を翻す。足音もなく広間の出入口へと向かう。すると柳士郎は、ふと思い直したように「いや、待て」と呟き、
「私も一緒に行こう」
厳しい面差しでそう宣言して、老使用人のあとを追った。
「どうも嫌な予感がする」
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7
[#ここで字下げ終わり]
旧〈北館〉二階の浦登卓蔵の寝室において、無惨に変わり果てたその部屋の主が発見されたのは、それから数分の後のことである。――視点≠ヘもはや、玄児の現在進行形に囚われることなく、自在に時間と空間を跳躍しながら、十八年前の現実≠――さまざまな場面を、出来事を、事実を、情報を――拾い、繋ぎ合わせていく。
柳士郎と鬼丸が卓蔵の寝室を見にいった際、真っ先に目を引かれたのは、部屋の扉に貼り付いた紺色の紐であった。ノブを起点として、艶消しの黒い鏡板を這うようにしてまっすぐ上方に伸び、扉の向こう側へと消えている。その様子が、まるで「貼り付いている」かのように見えたのだった。
それはどうやら着物の|兵児《へこ》帯らしく、片方の端がノブに硬く結びつけられていた。扉に鍵は掛かっておらず、ほんのわずかに内側へ開いた状態だったのだが、押してみると尋常ならぬ重い手応えがある。明らかに何か、本来はあるはずのないもの[#「本来はあるはずのないもの」に傍点]の重みが扉にかかっていると察せられたのだが……。
柳士郎たちが押し開いた扉の向こう側には、察せられたとおりのもの[#「察せられたとおりのもの」に傍点]があった。廊下側のノブに片端を固定して扉の上部に掛けられた帯――その反対端に作られた輪を首に巻きつけた卓蔵の身体が、全体重をかけてぶら下がっていたのである。
二人は急いで帯をほどき、卓蔵の身体を床に下ろしたのだが、すでに手遅れの状態であることは明白だった。彼は完全に事切れていた。死因は帯で首を|縊《くく》ったことによる窒息。柳士郎によってそう診断が下された。
寝室には暖炉が造り付けられていた。注意深く義父の「死」を確認した後、柳士郎はこの暖炉及び暖炉の周辺を調べた。そうしてその結果、元々そこにあったはずの火掻き棒がなくなっている、という事実が判明したのだった。
さらに――。
ベッドの脇の小机に一冊の書物が置かれているのを、二人は見つけた。それは|堀口《ほりぐち》|大學《だいがく》の翻訳によるポール・ヴェルレーヌの詩集で、本の中ほどに一枚の紙切れが挟み込まれているのが、すぐに目に留まった。そして、日記帳か何かの一頁を破り取ったものと思われるその紙切れには、筆者の激情を表わすかのような赤いインクで、次のような走り書きが残されていたのである。
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桜のもとへ
われもゆかん
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「桜」とはすなわち、卓蔵の妻の名である。玄遙とダリアの間に生まれた一人娘の名であり、柳士郎の亡妻カンナや美惟、望和らの産みの母の名である。
この年より九年前――玄児が生まれ、カンナが逝った年の秋に、その浦登桜が齢三十九にして、やはりこの旧〈北館〉の彼女の自室において、同じように着物の腰帯で首を縊ってみずからの命を絶とうとしたという事実。それはもちろん、この家の者の誰しもが知るところであった。
見つかった走り書きは卓蔵の手に成る「遺書」と目され、彼の「自殺」を裏付ける証拠の一つとして扱われることになった。寝室の暖炉からなくなっていた火掻き棒の一件も、当然ながら重要な状況証拠となりえた。
こうしてこの時点で、この夜に起こった事件の真相は、およそ誰の目にも明らかなものとなったわけである。ただ一つ、玄児が現場で目撃したという正体不明の曲者とその消失≠巡る問題を除いては。
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8
[#ここで字下げ終わり]
結果として、事件の発生が捜査当局に通報されることはなかった。
当夜の風雨は幸いそれ以上激しくはならず、明くる朝には清澄な秋空が広がった。浦登玄遙と卓蔵、両名の正式な死亡診断はこの日の夜、柳士郎に呼ばれて屋敷に駆けつけた外科医|村野《むらの》|英世《ひでよ》によってなされた。当初「他殺」と見なされた玄遙の肉体には、その段階で実に驚くべき変化が生じていたのだが、それでもとにかく玄遙は「病死」として、「自殺」と見なされた卓蔵は「事故死」として、内々に処理されることとなる。玄遙を「殺した」犯人が卓蔵であり、その卓蔵が犯行直後に「自殺」を図った――という事件の構図が世に知られ、一大不祥事として取り沙汰される事態を、浦登家としては何としても避けねばならなかったのである。柳士郎とは旧知の仲であった村野医師は、詳細な事情説明と強硬な説得を受けた末、この|隠蔽《いんぺい》工作への荷担を承諾したのだった。
これまでの浦登家の慣例に則り、通夜及び葬儀が執り行なわれることはなく、中庭の地下に設けられた墓所――〈惑いの檻〉にまず、浦登卓蔵の「自殺体」が納められた。事件発生から四日後の夜のことである。
浦登玄遙が同じ〈惑いの檻〉に入れられる運びとなったのは、そのさらに四日後の夜のことで、これは義理の祖父と父の跡を引き継いで浦登家の次代当主となり、ひいては〈鳳凰会〉グループの最高権力者ともなるべき柳士郎が冷酷な判断の下に提案し、美惟と望和の同意を得てなされた処置であった。
この後、長年〈惑いの檻〉を守りつづけてきた鬼丸には期せずして、それまでにはなかった新たな務めが課せられることとなった。以来、とりたてて不満を示すでもなく、彼は黙々とその務めを果たしつづけている。これもまたなきダリアの思し召しである――と、そのような解釈が、この老使用人の中では成立しているわけなのだろう。
ともあれ――。
こうして十八年前の〈ダリアの夜〉に起こった事件は、一応の解決と決着を見たのである。
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9
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事件から二ヶ月後。同じ年の十一月末日――。
秋も終わり、冬の到来が確かなものとして感じられるようになってきたその日の朝、新たな惨事は起こった。
旧〈北館〉の厨房を火元として、大きな火災が発生したのである。出火の原因、責任の所在は明らかでない。火は文字どおり瞬く間に燃え広がり、〈北館〉の木造家屋すべてと〈西館〉との間の渡り廊下の大半を焼き尽くす結果となった。
この時、視点≠ヘまず影見湖の上空にあって、湖に浮かんだ小島で炎上する屋敷の遠景を捉えた[#ここから太字](……|角島《つのじま》、|十角館《じゅっかくかん》炎上)[#ここで太字終わり]。が、次の瞬間にはめくるめく速度で地上に降下し、そのまま館内に滑り込む[#ここから太字](……全員死亡)[#ここで太字終わり]。燃えさかる炎をかいくぐって移動しながら[#ここから太字](館を包み込んだ赤い炎のイメージが、おのずからその記憶と響き合い……)[#ここで太字終わり]、さまざまな光景と遭遇していく。
激しい火の手と煙に巻かれて逃げ惑う者たちの姿が、広大な館内のそこかしこに見られた。その多くは、朝の仕事のために〈北館〉にやって来ていた使用人たちだった。
早々に異常を察知して脱出した者もいれば、ぎりぎりまで気づかずにいたため窮地に陥っている者もいた。どうにかして火を喰い止めようと|躍起《やっき》になっている者もいれば、為すすべもなく|火達磨《ひだるま》になってのたうちまわる者もいた。崩落した建材の下敷きになって苦悶する者もいれば、それを助け出そうと必死になっている者もいた。逃げ場を失ってただ泣き叫ぶばかりの者もいた。いったんは無事に逃げ出したものの、わけあって再び炎の中に飛び込んでいく者もいた。
そんな中に、浦登玄児の姿もあった。
何分か前に二階の寝室で目覚めた時、すぐに臭気の異状には気がついたのである。何だか変な、異様に焦げ臭い|臭《にお》いが漂っていることには。
しかしまさか、そんな大火災が起こっているなどとは夢にも思わず、服を着替えて靴下を穿いて……と普段どおりの|身繕《みづくろ》いをするうちに、異臭はどんどんと激しくなってきた。加えてやがて、扉の下から白い煙が流れ込んできはじめ……。
部屋の外から女性の金切り声が聞こえてきた。美惟か望和か、どちらかの声だったような気がする。最初は何を叫んでいるのか分らなかったけれど、そのうちそこに「火事」という言葉を聞き取ることができた。
「……火事よ!」
あれは美惟の声だったのか望和の声だったのか、あるいはもしかして二人とは違う、誰か女の使用人の声だったのか。結局のところ、それは分らずじまいとなったのだが。
「火事……逃げてっ」
玄児が慌てて部屋から飛び出した時、すでに二階の廊下は、立ち込めた煙でほとんど先の見通しが利かないような状態になってた。
とっさに口と鼻を掌で押さえ、階段のある方向へと駆け出した。目を開けたままでいると涙が溢れてきて止まらず、下手に呼吸をすると喉が痛んで咳込みが止まらなかった。それでもやっとの思いで階段に辿り着き、転げ落ちるようにして一階まで駈け降りたものの、そこに待ち受けていたのは[#ここから太字](館を包み込んだ赤い炎の……)[#ここで太字終わり]、怪物じみた勢いで壁面や天井を舐めまわし、這いずりまわりながら、恐ろしくもいびつな渦を巻いている紅蓮の炎であった[#ここから太字](このイメージは。この記憶は。……そう、これは)[#ここで太字終わり]。あまりのことに玄児は、その場に立ち竦んだまま一歩も動けなくなってしまった。
ところが、そこで――。
渦巻く炎の向こうに、誰かの影が見えた。その影のさらに向こうに、白い外の光が見えた。
あれは……あれが出口か。あそこまで行けば、外に出られるのか。
異臭と熱気で朦朧としてきた頭を強く振ると、玄児はせいいっぱいの勇気と力を絞り集め、そうして一気に炎の中へと……。
…………
…………
…………
「……玄児さま」
誰かの声が、聞こえる。
「玄児さま、しっかり」
……ああ、この声は確か、あの[#ここから太字](……あの少年の?)[#ここで太字終わり]……。
「玄児……」
不意に途切れる、その者の声。
激しく響き渡る物音ともに、何かが落ちてくる。身体の上に倒れかかってくる。動けない。動かせない。……耐えられないほどの異臭、煙、熱気。喉が焼ける。息が苦しい。あちこちが熱い、痛い。熱くて痛い。苦しい。熱い。痛い。ああ、このままだとぼくは……。
……だれかの声が、どこかからまた聞こえる。
さっきの声とはまた違う、泣き|喚《わめ》くような、吠えかかるような……これは[#ここから太字](これはきっと、あの人の……)[#ここで太字終わり]。この声は。この悲鳴は……。
激しく響き渡る物音とともに、再び何かが落ちてくる。
それは炎で燃え崩れた一本の太い木材だった。直撃こそ免れたものの、斜めに崩れ落ちてきたその木材の先端は、倒れ伏していた玄児の頭部を掠め、それだけで凄まじい衝撃を脳に与えた。
泣き喚くような誰かの声が、どこかからまた……ああ、これは[#ここから太字](……この声は)[#ここで太字終わり]。この声は[#ここから太字](この悲鳴は)[#ここで太字終わり]。この……。
玄児の意識はそこで途切れた。そこまでの彼の過去をすべて呑み込み、覆い消してしまうような巨大な空白に向かって、ぷつりと。
同時に視点≠焉Aこのとき寄り添っていた浦登玄児の現在進行形から弾き飛ばされる。弾き飛ばされた視点≠ヘ、これ以上この時代の現実≠ノ留まることなく、螺旋状に捩じれながら|虚空《そら》に舞い上がる。大きく小さく、激しく緩く、不規則でいびつな旋回運動を続けながら、そして――。
視点≠ヘ再び法則を超え、|時間《とき》を超え、十八年後の暗黒館へと――そこで同じ暗い夜を過ごす者たちの現在へと舞い戻る。
[#改ページ]
第二十一章 妄執の系譜
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「……この火災で、幾人もの使用人が負傷したり焼け死んだりした。浦登家の人間は、俺を除いてはほぼ無傷で助かったわけだが――」
玄児は終始、向かい合って坐った私の姿を見据えながら、そのくせどこか遠くを望むように目を細めて語りつづけていた。話が十八年前の冬の大火災に及んだ時には、その目はいっそう細められ、とともに不思議なほどに静かな表情が宿った。ちょうど、そう、四か月前のあの夜――白山の玄児の家の近くで火事があったあの夜、闇を裂いて燃え盛る炎を見つめていたあの時と同じような。
あの時、私は玄児の傍らで同じ炎を見ながら、みずからがむかし母を失ったあの洋館の火災の記憶を取り戻そうとしていた。玄児は玄児で、彼自身の記憶のどこかに埋もれているはずの、十八年前の火災の炎を、そこに重ねて見ていたのだろう。
「諸井静と忠教の母子も、どういう状況でそうなってしまったのかは分らないが、やはりこの火災に巻き込まれたらしい。特に忠教の方はかなり危険な目に遭ったともいうんだけどね、幸い命を落とすことはなく……」
そこで玄児は[#ここから太字](……玄児、か)[#ここで太字終わり]、吸いかけていた煙草の煙に|噎《む》せたのか、寝椅子に掛けたまま身を折って激しく咳込んだ[#ここから太字](あれから十八年後の、これが……)[#ここで太字終わり]。私は[#ここから太字](……中也)[#ここで太字終わり]長い夢から覚めたような心地で、はっと上体をのけぞらせた[#ここから太字](みんなから中也の名で呼ばれている、この「私」は……)[#ここで太字終わり]。相槌も質問も差し挟むことなく玄児の話に耳を傾けつづけるうち、いつしかまるで金縛りに遭ったかのように身じろぎ一つできずにいたのである。玄児が語る過去≠ノすっかり引きずり込まれてしまっていた意識が、ここに至ってようやく現在≠フ自分自身に立ち戻った――と、何だかそのような心地でもあった。
「……こうして」
咳込みが治まると、玄児は姿勢を正して言葉を続ける。
「こうして十八年前の冬、旧〈北館〉は消失してしまったんだが、その年も明けてしばらくして、まだ春が来ないうちに、生き残った使用人の大半が暇を出されることになった」
「暇……解雇されたと」
「そう。残されたのは鬼丸老一人だけ。で、それまで島には畑があったり家畜が飼われていたりもしたんだが、これを機にほとんどやめてしまうことになる。この話は確か、前にしたよね」
「あ、はい」
「諸井静も例外ではなかった。同じ頃、彼女も忠教を連れてここから出ていったという」
屋敷を去っていく母と子の姿が、ふと影絵のように脳裡に浮かぶ。何故かしら背景は夕焼け空の茜色で、二人の影はやがて|陽炎《かげろう》のように揺らめきながらその茜色に溶け込んで消えた。
「ですが玄児さん、その時期にそれほど大勢の首を切ってしまうというのは……」
当時の社会状況を考えてみるにつけても、ずいぶんとまた非情な決定をしたものだな、と思う。
「確かにまあ、いきなり解雇された側にしてみれば殺生な話さ」
組んだ膝の上に片肘を載せて頬杖を突きながら、玄児は宙を睨みつける。
「新たにこの屋敷の当主となった父、柳士郎の、これは独断だったんだろうが、その当時から美惟叔母さん――|継母《はは》は父のことをたいそう慕っていたというし、望和叔母さんにしてもやはり、云ってみれば父の味方≠セつたらしいしね。玄遙や卓蔵がまだ健在だった時分から、それはそうだったらしい。だから二人とも、そんな父の決定にも強く反対はしなかったと。父が美惟叔母さんと再婚したのはその年の秋――事件から一年後のことだったんだが、感情的な下地はきっと、もっと前から二人の間に出来上がっていたんだろう」
「それで、玄児さんは?」
私はそろりと口を挟んだ。
「玄児さんも十八年前の大火災に巻き込まれて……その結果そんなふうに、それ以前の記憶を全部失ってしまったわけなんですよね」
「ああ、そういうことさ」
カーディガンの袖で隠れている己の左手首に、玄児はちらっと目をやりながら、
「俺は家族の中でただ一人、逃げ遅れて悲惨な目に遭った――らしい」
「危うく命を落としかけた、と?」
すると玄児は、案に相違して「いいや」と首を振り、こう云うのだった。
「それどころじゃなかったんだよ[#「それどころじゃなかったんだよ」に傍点]」
「――はい?」
「云わなかったっけ、中也君」
玄児は煙草を揉み消し、すこぶる真剣な面持ちで身を乗り出した。
「俺は十八年前の火災で逃げ遅れて、そこで一度死んだんだ。一度死んで[#「一度死んで」に傍点]、そのあと蘇ったのさ[#「そのあと蘇ったのさ」に傍点]。ねえ中也君、そう云ったろう」
「あ、ええ。それは……はい」
確かにそのようなことを昨夕、玄児の口から聞かされはしたが――。
「実際のところどんな状況で炎に巻き込まれて、どんな目に遭って、どんな状態でそこから助け出されたのか、その辺の記憶は全然ないんだ。激しく燃え上がり、渦巻く炎のイメージが、心のどこかにちらちらと見え隠れすることはあるんだが、明確に自分自身の記憶として認識できるのは、そうだな、火災後半年から一年近くも経った頃から、かな。鬼丸老以外の昔の使用人はとうにみんな屋敷から去っていて、入れ替わりで鶴子さんや宍戸さんが来て、焼け落ちた〈北館〉の再建話もそろそろ具体化しはじめていた頃。そのあたりからやっと……」
「でも、玄児さん」
私は訊かずにはおれなかった。
「『一度死んで蘇った』というのは、それは要するに、ショックのあまり過去の記憶をすっかり失ってしまうような瀕死の重傷を負ったけれども、何とか一命は取り留めることができたと、そういう意味なのでしょう」
「ふん。まあ普通はそう、そんな具合に受け取られるんだろうねえ」
玄児はわずかに目許の緊張を緩めたが、すぐにいよいよ真剣な面持ちになって、「だが――」と続けるのだった。
「だが、俺はそのようには教えられなかった[#「俺はそのようには教えられなかった」に傍点]」
「どういうことですか」
「文字どおりの意味を持った[#「文字どおりの意味を持った」に傍点]事実[#「事実」に傍点]≠ニして[#「として」に傍点]、それを教えられたのさ。お前は一度死んで蘇ったんだ、とね。炎と煙に巻かれて逃げ惑ううち、焼け落ちてきた建材の下敷きになったりもしたらしい。当然ながら身体はあちこち怪我や|火傷《やけど》でぼろぼろになっていて……で、どうにか救出された時にはすでに、俺は完全に息がなかったんだという。つまり本当に死んでいた[#「本当に死んでいた」に傍点]わけだな」
「…………」
「ところが驚いたことに、そのあと俺は突然に息を吹き返した――蘇った、復活したというのさ」
「復活?」
冗談や何かの比喩で云っているのではない。私はやっとそう了解したが、同時にもちろん激しい戸惑いを覚えざるをえなかった。
「信じられないだろう」
と云って玄児は、半ば私の反応を楽しむように目を眇め、口許に笑みを広げる。そうしていくぶん声を昂ぶらせながら、
「それはまさに『奇跡』だった――と、父は興奮気味に語っていた。『成就』なんていう言葉も使っていたが、いかんせん俺自身は、火災によるみずからの死≠熈復活≠烽ワるで記憶にないんだから、父や叔母たちからいくらそんなふうに教えられてもいっかな実感が持てない。かと云って、父たちが大真面目にそう話すのを強く疑ってかかれるはずもなかろう? だから、とにかくこの件についてはそれを信じることにしている、信じるしかない……」
「成就」という言葉が心に引っかかった。似たような意味合いの文句を、この屋敷のどこかで誰かから聞いたような気がする。あれは……。
――成功の方はまだおられないのねえ。
「成就」ではなくて、そう、「成功」という言葉だったか。あれは昨夕、美鳥と美魚の部屋における彼女たち二人のやり取りで。
――玄児さまは特別なのね。
――特別だけど、失敗なんでしょ。
……そう。そんな会話だった。確か私が、中庭にある例の墓所――〈惑いの檻〉について彼女たちに質問した際の。
――お父さまも失敗なのかしら。
――どうかしら。
――玄児兄さまは特別でいらっしゃるそうだけど。
――あたしたちはどうなのかしら。
――どうかしら。
二人が何を云っているのか、云おうとしているのか、私にはさっぱり分らなかった。「特別」とか「成功」とか「失敗」とか、それらの言葉の意味するところもまったく理解できず、あの時はますます頭が混乱するばかりだったのだが……。
玄児は十八年前、「一度死んで蘇った」のだという。冗談でも何かの比喩でもなく、文字どおりそれが起こったのだという。その「奇跡」が「成就」であり、だから彼は「特別」だということなのだろうか。だがしかし、「成功」の者はいまだにいないのだともいう。ここで云う「成功」と玄児の「成就」とは、では別の概念なのか。十八年前に殺された玄遙も「特別」だったのだというが、彼は「特別」ではあっても「失敗」だったらしい。それはどういうことなのか。何を意味しているのか。美鳥と美魚、彼女たちはいったい……ああ、考えれば考えるほどにまた頭が混乱してくる。
――あたしたちはどうなのかしら。
――どうかしら。
双子姉妹の声が、耳の奥で妖しく|谺《こだま》しつづける。私はきつく目を|瞑《つぶ》り、それを止めようとする。
――あたしたちはどうなのから。
――どうなのかしら。
――玄児兄さまと一緒だといいわねえ。
――そして中也さまも……ね。
――そうね。中也さまも……。
――中也さまも……。
――中也さまも……。
――中也さまも。
――中也さまも。
「どうした、中也君」
玄児に訊かれて、ようやく双子の声が止まった。私は「いえ」とかぶりを振り、ゆっくりと肩で息をしてざわめく心を落ち着かせる。
「ええとですね、いくら説明されても、どうもうまく呑み込めないのですが」
玄児の特殊な立場を考えると、父親らに知らされた事実≠「信じるしかない」というのは分らないでもない。しかし、私には信じられない。信じられるわけがないではないか。
「ええと……玄児さんのその、左手首にある古い傷ですけど」
意識的に深い呼吸を続けながら、私は玄児の顔に目を上げ、訊いた。
「その傷も、十八年前の火災の時に負ったものなんですよね」
「らしいね」
と、玄児の答えはあくまでも伝聞≠フ形で返ってきた。
「助け出された時、左手は手首のところで半ばちぎれかけていたらしい。当然、出血も半端じゃなかったろう。そいつが今ではこうして元どおりくっついていて、指も普通に動かせる。これもまさに、奇跡的な回復≠果たしたってことさ」
「…………」
「結果として、ここにはこんな傷痕が残ってしまったわけだが――」
玄児は左手を差し出し、カーディガンの袖を少し捲り上げてみせる。腕時計のバンドが巻かれている下に、幾度か目にしたことのある例の引き攣れのような古傷が覗いた。
「この傷はね、父によれば聖痕≠ネんだそうだ」
そう云う玄児の口許にまた、笑みが広がる。薄い唇が三日月型に裂けるのと同時に、広がった笑みが大きく鋭く歪む。私には一瞬それが、この世には決してありえない、あってはならない歪みの形[#「歪みの形」に傍点]であるように思えた。
「――聖痕」
呟いて、私はぶるりと首を振った。
「何で、そんな」
「キリスト教で云う|聖痕《スティグマ》とは別物だぜ、むろん。つまりこれは……ああいや、このあたりの事情はもっとちゃんと、順を追って話していかなきゃなるまいな。この浦登家と暗黒館のそもそもの成り立ちにまで遡って、そこから順に。でないと、とうてい君には納得してもらえないだろうから」
玄児は再び片肘を載せて頬杖を突き、ちょっと疲れたような短い息を落とす。その口許からはもう、鋭く歪んだ笑みは消えていた。
「さて、どこからどう話したものか」
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長年〈開かずの間〉でありつづけてきたこの部屋の、黒い壁のそこかしこで炎を揺らめかせつづける燭台の蝋燭。薄明りの|狭間《はざま》に居坐った大小の闇は相変わらずで、今にもまた、その闇の粒子が密やかに流れ出してきて私たちを押し包んでしまうのではないかという、そんな幻惑に囚われそうになる。
玄児はしばし口を噤み、「どこからどう話したものか」を考えあぐねている様子であった。私は時刻が気になって時分の腕時計を確かめる。――もう午前四時が近い。
「それはそうと中也君、十八年前の事件については君、どう思う」
さらにしばし沈黙が続いた後、おもむろに玄児が質問してきた。復活≠セの聖痕≠セのを巡る問題については、例によって「あとまわし」にしようというわけか。
「今回の殺人事件との間に、やっぱり何か有機的な繋がりがあると考えるかい」
私は溜息混じりに「さあ」と答え、首を捻った。
「それは何とも」
玄児の話を聞いた限りでは確かに、十八年前の事件はそれ自体で「一応の解決と決着」がついているようである。玄遙がこの第二書斎で撲殺され、卓蔵が旧〈北館〉の自室で首を吊った。玄遙を殺した犯人は卓蔵であり、彼の死は犯行直後の覚悟の自殺だった。玄遙殺しの凶器として用いられた火掻き棒が卓蔵の部屋の備品であった事実と、卓蔵の遺書と思われる走り書きの存在が、すこぶる明快にそういった事件の構図を示している。
この過去の事件が、果たして十八年後の現在に起こった二つの殺人に関係しているのかどうか。一見したところ、それはない[#「ない」に傍点]ように思える。仮にあったとしても、では具体的に何がどう関係しているのか、正直云って私には見当がつかないが……。
「いくつか訊きたいことがあります」
こちらを見据える玄児の視線をまっすぐに受け止めて、私は云った。
「事件に関する単純な疑問と、それから確認と」
「何なりと」
玄児は即座に頷いた。
「俺が知っている範囲のことであれば、包み隠さず答えよう」
「まず――」
前髪を掻き上げて額に掌を当てながら、私は質問を繰り出した。
「卓蔵氏は何故、玄遙氏を殺したのですか。どんな動機が彼にはあったのか、という疑問です」
「卓蔵は玄遙を密かに憎みつづけていたんだろう、という話だ。長年の間、積もりに積もったその憎しみが十八年前のあの夜、とうとう抑えきれなくなった爆発したんだろう、と」
「何故そんなに、殺すほどに憎まなければならなかったわけですか」
玄児は「それは……」と少し口ごもり、
「それを説明するためには、さっきの問題と同じでね、きっちりと順を追って話していかなきゃならないと思うんだが」
「あとまわしですか、また」
ささやかな皮肉を込めて私はそう云ったのだけれど、玄児はいささかも表情を|和《やわ》らげずに、
「心配しなくていいよ。わざと君を焦らそうとか、このままはぐらかしてしまおうとかいう気は、さらさらないんだ。かなり込み入った話になるから、あまり細切れで説明するのは良くないだろう、かえって君の混乱が増すばかりだろうと思ってね。だから……」
「分りました」
私は神妙に頷いた。
「でも玄児さん、この夜のうちにはすべてを話す、ということでしたよね」
「約束は守る」
「分りました」ともう一度頷いてから、私は次の質問に移った。
「卓蔵氏の奥さん――桜さん、でしたか。玄児さんのお祖母さんに当たる人になりますけど、彼女も以前、自殺を図っていたのですね。十八年前のさらに九年前、というと今から二十七年前ですか。卓蔵氏と同じように、自室で首を縊って?」
「ああ、そうだったらしい。扉に帯を掛けて、というやり方も同じだったらしいな」
「桜さんは何故、自殺を」
「錯乱状態で発作的に、と聞いている」
みずからの祖父、さらには祖母の、そんな尋常ならぬ形での死にまつわる話である。淡々と答えているようには見えても、玄児の心中は云い知れず複雑なものであるに違いない。
「遺書はあったのですか」
「なかった、と聞いている」
「二十七年前というと、ちょうど玄児さんが生まれた年ですね。ダリア夫人が亡くなったのが三十年前でしたっけ」
「そうだな」
「錯乱状態で、とは云っても、何か自殺に到る動機はあったはずですよね。たとえば重い病気に苦しんでいたとか」
「いや、それはない」
と、玄児はきっぱりかぶりを振った。私は「じゃあたとえば――」と続けて、
「桜さんにしてみれば初の孫であった玄児さんが、お父上の怒りを買ってあの塔の座敷牢に閉じ込められてしまうことになった。その残酷な仕打ちを悲しんで、とか」
「いや、それもないだろう」
と、玄児はやはり、きっぱりかぶりを振って否定する。
「それじゃあ、いったい何故」
「この件も、卓蔵が玄遙を殺した動機の問題と同じでね、込み入った一連の事情をきちんと話した上でじゃないと、どうにも説明しようが……」
「あとまわしですか、これも」
「おいおい、そう突っかかるなよ。一、二時間後にはきっと、たいがいの疑問は解消しているだろうから」
「…………」
「ただ、そうだな、これだけは今ここで云っておこうか」
「何でしょう」
「この浦登家では、自殺という行為は極めて重大な罪≠ナある、とされている。世間一般で考えられているよりも、遙かに重大な」
そう語る玄児の口振りは、こちらが思わず気圧されてしまうほどに重々しい――と云うより、物々しい感じであった。
「最大級の|禁忌《きんき》事項、と云ってしまってもいいだろうな。この浦登家の屋敷においてその|禁忌《タブー》を犯した最初の人間がすなわち、今から二十七年前の桜だった。十八年前の卓蔵がそして、その二番目となったわけで……」
「自殺は大罪である」というのは、たとえばキリスト教においても存在する考え方である。だが、それを「最大級の禁忌事項」とまで云いきる玄児の、いや、この浦登家の規範は、いったい何を――どんな精神を規定として形作られているのか。
それも遅からず――玄児の言を信じるなら今から一、二時間後には――、私の前で明らかにされることになるのだろう。なるはずだから……と、自分に云い聞かせつつ、私は事件に直接関係する質問に戻った。
「卓蔵氏の遺書には、『桜のもとへ われもゆかん』と記されていたんですよね。素直に受け取ればこの『桜』はかつて自殺した桜さんのことで、彼女を追って自分も死のう、という決意を書き残したのだと考えられる、と」
「そうだね」
「その遺書の筆跡は、卓蔵氏のものに間違いなかったのでしょうか」
「彼の筆跡だった、という話だが」
「でも、専門家が筆跡鑑定をしたわけじゃないのでしょう。身内の者が見比べてみて、単に似ていたから同じ筆跡だと判断したのでは?」
「それはまあ、そうだったんだろう。当局には事件の発生を通報しなかったというんだから」
「ですよね」
私はゆっくりと頷き、いくぶん語気を強めて云った。
「問題を指摘するとすれば、やはりそこ[#「そこ」に傍点]でしょう」
「と云うと」
「確かに、いくつかの状況から『何が起こったのか』は明らかであるように見えます。ですが、この事件の捜査には結局、警察はいっさい介入しなかった。現場検証も検屍も鑑識も……本来専門家の手によって行われるべきことが、何も行われていないわけです。
凶器の火掻き棒を調べれば、あるいはそこに卓蔵氏の指紋だけ[#「だけ」に傍点]が発見されたかもしれない。卓蔵氏の死体のどこかにわずかな血液が付着していて、それが玄遙氏のものであると判明したかもしれない。遺書の筆跡も当然、鑑定されたことでしょう。ところが実際には、それらは何一つなされなかった。つまり、事件の真相を保証する客観的かつ決定的な証拠は、実は何もない」
「ふん。それはそのとおりだが」
「ということはですね、一見明らかと思える事柄についても、いろいろと疑問を差し挟む余地があるわけです。そうでしょう? たとえば卓蔵氏の自殺が実は自殺じゃなかったという可能性。本当は誰かが彼を絞殺して、そのあと部屋の扉に吊るして自殺に見せかけたのかもしれない。この場合、遺書と見なされている走り書きも、その誰かによる偽造だったことになります。卓蔵氏の筆跡を真似てその誰かが書いたのか、さもなければ何らかの策を|弄《ろう》して、遺書のようにも読める文章を卓蔵氏本人に書かせておいたのかもしれない。桜さんの自殺と同じように死体を扉に吊るしたのも、そうすることによっていかにも後追い自殺≠轤オく見せかけようという狙いがあった」
「なるほど。探偵小説読者の面目躍如、といったところだな」
今度は玄児の方が、私の話しぶりに多少なりとも気圧されたようだった。内心の当惑を隠すような微苦笑を頬に作りながら、
「要するに、犯人は卓蔵ではなかった、彼以外の誰かだったのかもしれない、という可能性をもっと検討すべきだろう、と?」
「そうは思いませんか」
私はじわりと詰め寄った。
「そもそもやはり、十八年前も今回と同様、事件の発生を当局に通報しなかったというのが問題なのであって……」
「まあ、確かにねえ」
微苦笑を貼り付けたまま、玄児は頷いた。
「当時の使用人たちにも、硬く口止めをしたに違いないしね。――とすると、あくまでも事件は当局に知らせず、内々に処理するべきだと主張した父、柳士郎が最も怪しい人物だということになるが?」
「そのようにも考えられますね」
「しかしね、中也君、仮に十八年前に殺されたのが父であって、家の実権は玄遙が掌握したままであったとしてみよう。その場合でもきっと、玄遙は父と同じ判断を下しただろうと思うんだよ。むしろ彼の方が強行に、すべての揉み消しを図ろうとしたかもしれない」
「それは、そこまで家の名誉が大事だったということですか。殺人や自殺などという不祥事が外に知られては絶対に困る、ご時世がご時世だけになおさら……と」
「そういうことなんだろうな」
玄児は新しい煙草を銜え、マッチを擦った。
「まあ、たとえ事件が表沙汰になったとしても、どこか当局の上層部に働きかけて握り潰させてしまうなんていう工作も、その気になればできたのかもしれないが。しかし俺が思うには、名誉とか世間体とかいった問題以前に、何よりもまず、見知らぬ部外者が大勢この屋敷に踏み込んできて、土足であちこちを嗅ぎまわっていくこと自体が耐えられないと、そんな気持ちが強かったんじゃないか。君もよく知ってのとおり、この家にはもともと部外者には知られたくない秘密≠ェ多くある。〈十角塔〉の裏手から出てきた例の白骨死体の件も、そんなものが埋められているという云い伝えを父がどのくらい信じていたのかは不明だけれど、当時から懸念事項の一つとしてあったはずだし……」
「ええ、それは分りますが」
玄児が吐き出す煙草の煙がいつになく不快なものに感じられてしまい、私はそれとなく顔を逸らしながらささやかに反論した。
「分りますが、でもやっぱり私には納得がいきません。よりによってこの屋敷の当主が殺されたというのに……」
玄児はお構いなしに煙をくゆらせながら「ふふん」と鼻を鳴らし、
「じゃあ、もっと君を混乱させるようなことを云ってみようか」
「何ですか、今度は」
「十八年前の事件はね、仮に|速《すみ》やかに当局への通報がなされていたとしても、結果的にはそれが殺人事件として成立することはありえなかった[#「結果的にはそれが殺人事件として成立することはありえなかった」に傍点]んだよ」
「――はあ?」
玄児の予言どおり、確かに私の頭は大いに混乱した。
「どういう意味なのか、よく分りませんが。殺人事件としては成立しない? いったい何で」
「あとまわし――だよ、これも」
わざとらしい澄まし顔で、玄児はそう答える。またか、と思って私は|憮然《ぶぜん》と唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して云った。
「もう一つだけ、十八年前の事件に関する質問をさせてください。事件の直後に玄児さんが、この部屋の奥にいるのを目撃したという人物について、なんですが」
「ああ、うん」
「普通に考えれば、その人物が玄遙氏を殺した犯人だったということになりますね。だからつまり、それは卓蔵氏だった、と」
「そう。ところが、当時の俺は『誰だか分らない。見たことのない顔だった』と主張した――らしい」
「もしもその人物が卓蔵氏だったのなら、『見たことのない顔』とは云わなかったはずなのではありませんか」
「――確かに」
「そのあたり、当時はどんなふうに辻褄が合わされたのでしょうか」
「玄児のような子供の云うことだから当てにならない、というのが大半の意見だったんじゃないかな。この部屋に何者かがいた、というのがそもそも俺の幻覚か妄想だったんじゃないか、と」
幻覚か妄想[#ここから太字](……違う)[#ここで太字終わり]……そう片づけてしまえばなるほど、話はすっきりと筋が通るのだろうけれど[#ここから太字](……違う。あの夜のあの時、確かに玄児はそれ[#「それ」に傍点]を見たのだ……という思考が不意に、これまでになくはっきりと)[#ここで太字終わり]。
「さっきの話だと確か、その人物は黒い服を着ていて、髪の毛はぼさぼさに乱れていて……ということでしたね」
「ああ。そのような証言≠、俺はしたらしい」
「ですが玄児さん、これもさっきの話でちらっと出ましたけど、卓蔵氏は齢五十八にしてすっかり頭が禿げ上がっていた、と。彼には髪の毛がなかったわけでしょう」
「――そう」
「なのに、玄児さんが目撃した人物は『ぼさぼさに乱れた髪』だったという。大いなる矛盾ですね」
「そう。まったくそのとおりさ」
玄児は深く頷いた。
「もしも九歳の俺の証言≠そのまま信じるとするならば、俺が見たのは卓蔵じゃない誰かだったってことになる。そうすると玄遙を襲った犯人も、さっき君が可能性を指摘したように、卓蔵ではなかったという話になるね。卓蔵以外の何者かが玄遙を襲い、卓蔵を自殺に見せかけて殺した、と。それなら卓蔵が殺されたのは、ひょっとすると玄遙が襲われるより前だったのかもしれない。――いや、実を云うとね、俺もその可能性についてはずっと考えつづけていたんだよ」
「そうだったんですか。――しかし、たとえそれが誰であったとしても、玄児さんの目撃したその人物が、ほとんど一瞬にしてこの部屋から姿を消してしまったという謎≠ェ存在する事実には変わりがないわけで……」
「ということだな。密室状況からの人間消失。いかにも探偵小説的な謎≠セろう」
「ええ、まあ」
「そそられるかい」
と、これは一転して軽い口振りで訊いてきたのを無視して、私は掛けていた椅子から腰を上げた。そうして後ろを振り向き、部屋の南側の壁に視線を投げる。
「あっちの壁際から一メートル余り手前に、玄遙氏は倒れていたんですね。壁の方に向かって俯せに、でしたか。顔面を扉の方に捩じ曲げて、右腕を前に突きだして……」
云いながら、そろそろとそちらに足を進めた。
「するとちょうど、右腕はこう、その額縁のあるあたりに向かって突き出されていたことになるのでしょうか」
十八年前に玄遙が倒れていたと思われる場所に立ち、私は改めて、壁面に造り付けられた例の縁だけの額縁≠ノ注目する。玄児が寝椅子から立ち上がる音が、背後で聞こえた。
「――で、玄児さんはあそこにいた」
部屋の扉の方へ目を移す。あの扉の外の、廊下の中ほど――ここに入る前、玄児に「そこ[#「そこ」に傍点]だ」と云われたあの位置――から、十八年前に玄児は不可解な人間消失劇を目撃したのだ。
「問題の何者かはそして、あっちの奥に……」
と、私は向かって右手奥――部屋の南西の隅に該当するあたり――を見やる[#ここから太字](……そうだ。そのあたりに)[#ここで太字終わり]。他の箇所と何ら変わるところのない、黒く塗られた板張りの壁。その付近には、調度品の|類《たぐい》は何も置かれていない。
「あのあたりに立っていて、恐ろしい形相で玄児さんを睨みつけたんですね。それが、柳士郎氏の登場に気を取られたほんのちょっとの隙に、いなくなってしまった――消えてしまった、と」
私は腕組みをし、思わず「ううん」と唸った。
何故にそんな不可解な現象が起こったのか。幼少時に異常な幽閉生活を送らされた玄児の、それは単なる気のせいか、あるいは幻覚、妄想のようなものだったのだろうか[#ここから太字](違う。幻覚でも幻想でもなく、あれは……)[#ここで太字終わり]。だがそうではなくて、もしも現実にそのような出来事があったのだとすると――。
不可能を不可能でなくする何某かのからくり[#「からくり」に傍点]が、トリックが、そこにはしかけられていたはずなのではないか。この場合それは……。
私は腕を組んだまま、再び例の額縁に視線を向ける。何も収められていない縁だけの額縁=B二メートルほどもある横幅に、上の縁は大柄な大人の身長くらい、下の縁は床から十センチか二十センチの高さにある。
額縁の左横には少し離れて、燭台が造り付けられている。今、この燭台には蝋燭の炎が灯されているが……。
「気になるかい、そいつが」
私の傍らに進み出てきた玄児が、額縁の方へ顎をしゃくって云った。
「ええ。――教えてくれないのですか、この奇妙な造作の意味を」
「それは……ああ、それもあとでね」
例によって例のごとくのそんな返答に、私はもはやほとんど|諦《あきら》めの境地で肩を竦め、「ところで」と話題を横にずらした。
「そこにある燭台なんですけど」
「うん?」
「十八年前に玄児さんが事件を発見した時、その燭台の蝋燭には火が点いていたのでしょうか」
「ほう。急にまた、なんでそんなことを」
「いえ、何となく気になって」
と、私は曖昧な答えを返したのだが、すると玄児は、私とは逆にめっきりはっきりとした調子で、
「分らないんだよ、そこに火が灯っていたのかどうかは。父に訊いてみても鬼丸老に訊いてみても、『憶えていない』という答えしか戻ってこなくてね」
「はあ」
「けれどもね、十中八九、蝋燭の火はそのとき消えていた[#「蝋燭の火はそのとき消えていた」に傍点]んじゃないか、と俺は思う」
「――はあ」
私は少々|呆気《あっけ》に取られて、玄児の横顔を窺う。
「どうしてそんなふうに」
訊くと、玄児は右手の人差指を伸ばして自分の|蟀谷《こめかみ》をつつきながら、
「推理だよ、推理」
わざと冗談めかしたようにそう答えた[#ここから太字](……確かにそう、あの時[#「あの時」に傍点]この火は消されて)[#ここで太字終わり]。が、すぐに口調を元に戻して、
「今になってこんなことを云うと気を悪くするかもしれないが、中也君、十八年前にこの部屋で起こった人間消失の謎はね、実はもう、俺には解けているんだ」
「えっ」
「合鍵を作って何度かここに忍び込むうちに、解けたと云うより、分ってしまったのさ。分ってしまえば本当にどうってことのない……ああ、それでもしかし、問題が完全に解決したわけじゃないんだが」
「玄児さん、いったいそれは」
「まあまあ、焦るんじゃない」
あっさりと受け流して玄児は、目の前の壁に向かって一歩、足を踏み出す。そうして燭台で燃えつづけている蝋燭の炎を、狙い澄ました一息で吹き消した。
「この件についても、あとでまとめて教えてやるから」
何とも応える気になれず、半ば茫然とその場に佇む私の肩を軽く叩いて、玄児は云う。
「さて中也君、場所を変えようか」
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
〈開かずの間〉――かつての第二書斎の扉を閉めると、玄児は元どおり鍵を掛けることはせずにその前を離れる。廊下の突き当たりにある黒い片開きの扉――現在この暗黒館に存在するもう一枚の禁断の扉=\―へと、そして足を進める。この館の「云ってしまえば真の支配者」の部屋が、その向こうにはあるのだという。
「あの、玄児さん」
合鍵をズボンのポケットから取り出す玄児に、私は訊いた。
「十八年前の事件の夜、お父上――柳士郎氏はこの部屋から出てきて、さっきの扉の前に立ち尽くしている玄児さんと出くわしたんでしたよね」
「――ああ」
「柳士郎氏はそれまで、この部屋で何をしていたのでしょうか。何か用を済ませて……という話でしたが」
「その夜の〈宴〉の後片づけだの何だのを、玄遙に命じられていたらしい」
「〈宴〉の?」
私は思わず小首を傾げ、
「〈宴〉が催されるのは二階のあの部屋なのに?」
「主に食器類の片づけだったんだろう」
と、玄児は答えた。
「〈ダリアの宴〉で使われる食器類は昔から同じものに決まっていてね、その保管場所がこの部屋なんだよ。保守管理は基本的に当主の仕事とされているんだが、時と場合によっては他の者が代行することもある。ここ二、三年は、父の健康の問題もあってだろう、鬼丸老がお役目を仰せつかっているようだな。それから――」
玄児はさっきの部屋の扉をちらと振り返り、
「当時はあの第二書斎もこっちの部屋も、今みたいに扉に鍵を掛けておく習慣はなかったらしい。日常的に施錠されるようになったのは事件よりもあとの話で……」
玄児は目の前の扉に向き直り、合鍵を鍵穴に差し込む。〈開かずの間〉の扉とは違って、こちらはさほど大仰な軋み音を立てることもなく、すんなりと鍵が回って錠が外れる。
私は玄児の斜め後ろに立ち、|固唾《かたず》を呑んでその様子を見守っていた。――ああ、いよいよか。
首藤伊佐夫が云っていたこの家の「核心」、それがこの〈西館〉すなわち〈ダリアの館〉を示していたことによもや間違いはあるまい。そして恐らく、その中でもとりわけ重要な意味を持つ場所――「核心の中の核心」とでも云うべき場所が、この〈ダリアの部屋〉なのだ。そこに今、いよいよ私は踏み込もうとしているのか。
――ところがだね、僕は違うんだなあ。
ふとそんな台詞が思い出された。初対面の際に伊佐夫の口から聞かされた、これは……。
――僕が芸術家である目的は、神の不在を証明することにこそあるのさ。
……神の、不在を。
――取り憑かれないように気をつけるんだよ。
……ああ、だがしかし、私はすでにして「取り憑かれ」てしまっているのではないか。玄児や征順や、その他の浦登家の人々と同じように。――そう。きっとそうなのだろう。私もまた取り憑かれ、もはや逃れられないところにまで来てしまっていて……けれど、それは何に?
何に取り憑かれているというのか。
――悪魔、かな。
玄児はそう、そんなふうに云っていたが。
――少なくとも神じゃないことは確かだろう。
「この部屋は〈西館〉の南端に位置していて」
扉を開けながら、玄児が説明する。
「〈ダリアの部屋〉と呼ばれることもあれば、中は部分的に三階建ての塔屋になっていてね、それで〈ダリアの塔〉と呼ばれたりもする」
玄児が壁を手探り、電灯のスイッチを入れる。真っ暗だった室内にぽつぽつと淡い明りが灯る。同じ禁断の扉≠ナはあっても、先ほどの第二書斎と違って、こちらは〈開かずの間〉として封印されているわけではない。たとえそれがごく稀なことだとしても、人の出入りがあるのを想定して、切れた電球は取り替えられているのだろう。
「一階はダリアの居間として使われていた。二階が寝室。――そっちが塔の部分だね」
と、玄児が指さす。部屋の東南の角に相当するあたりだった。上階へ向かう階段を含めて、方形の塔屋部が大きく外側に張り出した形になっている。
〈東館〉二階の窓から望んだこの建物の外観を、私は記憶から引き出し、目の前の光景と突き合わせてみる。地面から這い伸びた蔦が壁にびっしりと絡みつき、黒とも灰とも緑ともつかぬ一種異様な色合いで全体を覆われた擬洋館。その南よりの端に、急勾配の方形屋根を載せて突き出していたあの塔……。
玄児について〈ダリアの居間〉に入り、室内を見まわしてみてまず目についたのは、塔屋部とは反対側――西側の壁面に造り付けられた重厚な暖炉と、その上方に飾られた油彩画であった。私は思わず息を呑み、引き寄せられるようにしてそちらへ足を進める。
表面を粗削りの仕上げにした黒大理石の暖炉。〈北館〉のアトリエにあったような形だけ[#「形だけ」に傍点]の暖炉ではなく、上方の壁は煙道が通っている分、四角く手前に出っ張っている。そこに、その油彩画が掛けられていた。
見覚えがある――と云うよりも、たった一度見ただけで鮮烈に心に焼き付いてしまっている人物の姿が、その絵の中にはあった。
漆黒の髪に白い肌、鋭く見開かれた褐色の相貌、すっきりと高い鼻梁に尖った顎、美しくも官能的な笑みを湛えた唇……見まごうはずがない、これはダリアだ。〈宴の間〉に飾られていたあの肖像画と同じ……浦登ダリアの、若かりし日の姿ではないか。
見にまとっている衣装が、〈宴の間〉にあった肖像画では黒いドレスだったのだが、この絵は違う。〈宴〉の席で美鳥と美魚が着ていたのと同じような、艶やかな緋色のドレスである。取っているポーズも違う。あちらは両手を膝の上に重ねて安楽椅子に坐っている図だったけれど、こちらはテーブルを前にして坐り、左手で頬杖を突きながら上目遣いに正面を見据えている。
「これは、〈宴の間〉にあった絵と同じ頃の?」
傍らにやってきた玄児に、私は訊いた。
「そうだね。どちらも、ダリアがまだ二十代の終わりの頃の。玄遙が懇意にしていた画家をここに呼んで、ずいぶん時間をかけて描かせたらしい」
|藤沼《ふじぬま》|一成《いっせい》、という例の画家の名が一瞬、頭をよぎった。が、それはない――とすぐに否定する。ダリアが二十台終わりと云えば、計算すると今からもう六十年以上、七十年近くも前の話である。藤沼一成とは全然、時代が違う。
「ほら中也君、これを見てごらん」
暖炉のそばまで進み出て、玄児が指し示した。
「この絵の、この左手」
「はい?」
「頬杖を突いたこの左手の手首だよ」
玄児の云うその部分には、材質は何だろうか、黒い蛇が何匹か|縺《もつ》れ合ったようなデザインの腕輪が嵌められている。
「その腕輪が、どうか」
「腕輪自体が問題なんじゃない。問題はその下に隠されているものでね」
そう云われて、私はやっと思い当たった。
「もしかして玄児さん、腕輪の下――その左手首には、玄児さんと同様に傷痕が」
玄児は「そう」と頷いて、みずからの左手首を右手で握りしめた。
「ダリアの左手首のまわりには、そのむかし玄遙が彼女と出会った時からすでに、古い傷痕があったというのさ。そもそも何故、彼女がそんな傷を負ったのかは不明らしいが」
「――それで」
私は肖像画に描かれた腕輪に目を上げたまま、玄児に云った。
「それで聖痕≠セと? 十八年前の火災に巻き込まれて玄児さんが負った傷――それがまさに、ダリア夫人の傷痕と同じ左手首に、同じような形で残ってしまったから?」
「ああ、そういうことだな」
玄児は真顔で頷いて、私の方を振り返る。
「そんなものは単なる偶然だと切り捨てることも、むろんできるだろう。けれどもね、その偶然に過剰な意味を見出し、付与してしまう――この場合、復活≠オた俺の左手首の傷痕を聖痕≠セと意味づけてしまうような行為こそが、あらゆる宗教的現象には付き物の、不可欠と云っていい特質なのであって……」
「宗教、ですか」
ここに来て初めて、その決定的な言葉を玄児の口から聞いた気がした。
ダリアのそれと同じ部位にできた傷痕を聖痕≠ニ規定するのならば当然、玄児の云う「宗教的現象」の教祖≠ノ当たる人物はダリアその人なのだということになる。彼女がこの館の「真の支配者」であるという弁も、すると納得がいく。
たとえばそう、「ダリア信仰」とでも呼ぶべき邪宗がこの浦登家には存在し、長きにわたって人々の精神及び行動の拠り所となっているわけだろうか。そうして人々を「支配」しているわけなのか。しかし、それはいったいどんな……。
「もっとも、この世界――と云うか社会――における人間の営みのたいがいは、さまざまなレヴェルや局面で、講義の宗教現象として捉えることができるものだ。その辺を考察した社会学や何かの論文を、わざわざ引いてくるまでもないだろう。戦前のこの国の全体主義は云わずもがな、ナチズムにしてもマルクス=レーニン主義にしても……ねえ。もっと云うなら、敗戦後に連合国からいただいたご立派な民主主義にしても、世界や宇宙の仕組みをあくまでも科学的≠ノ解明しようとする自然科学主義にしても……どれもこれも、基本的な構造を宗教現象として捉えることはいとも|容易《たやす》い。そうだろう?」
「…………」
「とまあ、そのくらいの距離感を持ったスタンスで俺は、この浦登家に独自の宗教≠ノ対しても接しよう、接するべきだろうと思ってきた。思おうとしてきたんだが――」
玄児は眉根を寄せ、軽く下唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、176-上-3]み、何とも物憂げな表情を見せた。
「しかしねえ、中也君、いくら頭ではそう考えていても、どうにも仕方のないものなんだよ。これは何と云うか、本当にどうしようもない……」
「と云いますと」
「逃げられない。自由になれない。――とでも云うんだろうな」
逃げられない。
自由になれない。
似たような話を、これはそう、昨日〈北館〉のサロンで征順がしていた。
――『飛べる』というのは自由≠フ象徴なのでしょうね。その伝で云うと私は、元々は『飛べる』――『飛べた』のに、今は『飛べない』。自由を失ってしまっている、というふうに……。
――羽根が折れていて『飛べない』のではなく、鎖で繋がれていて『飛べない』のです。
――玄児君にしても、実のところは私と同じ……。
それは何に、と私は問うたように思う。あなたたちは何に繋がれているのか、と。
――私や玄児君だけではない。望和も彼女の姉も……他ならぬこの屋敷の当主、義兄の柳士郎からして、その一人なのでしょう。
あの時、そうだ、征順はこんなふうに答えたのだった。
――身体や心が、というだけでなく……そうですね、私たちの|生命《いのち》そのものが、暗黒館というこの屋敷に繋がれ、囚われてしまっているような。
――呪縛、などという言葉で云い換えてみてもいいかもしれません。
「冷静に相対化してみれば、こんなもの[#「こんなもの」に傍点]は世にあまたある宗教現象の一例でしかない。それこそ科学的≠ノ考えたなら、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]は決してありうるはずがない、起こりうるはずがない。――そうさ。まったくそのとおりなんだ。そのとおりなんだが、しかし……」
どうしても逃げられない、と云うのか。
どうしても自由になれない、と云うのか。
だからこそ、征順はそこに「呪縛」などという言葉を使ったわけなのか。
「ねえ玄児さん」
私はそっと尋ねた。
「さっきダリア夫人のことを『魔女』というふうに云ってましたよね。あれは?」
玄児は「ああ」と唸って、再び暖炉の上の肖像画を振り仰いだ。
「彼女は――ダリアは魔女だった。彼女自身がそう認めていたという話さ。まあ、何をもって『魔女』と呼ぶかを厳密に論じようとすれば、そこにもいろいろと問題は出てくるんだろうがね」
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
改めて室内の様子を見まわしてみると、先ほどの第二書斎と同じで、この部屋の家具にも埃よけの布は掛けられていない。だが、その事実の意味するところが両者で異なることは明らかだった。というのも、この〈ダリアの居間〉はあちらと違って、家具にも床にもあまり埃が溜っておらず、傷みや汚れが目立つ箇所もなく、いつでもまたここで人が暮らせるような状態が保たれているのである。
誰かが定期的に部屋の清掃をしているのだ、と察せられた。そうして恐らく、その作業は鬼丸老が行っているのだろう、とも。
それにしても――と、私は思う。
これほどきちんと片づけられ、掃除もされている様子であるにもかかわらず、この部屋に漂う雰囲気に、強い荒廃≠感じてしまうのは何故なのだろう。どこがどう、とは説明できない。強いて云うならば、〈ダリアの部屋〉〈ダリアの塔〉というこの空間全体あるいは空間自体に、ずっと昔からそれが――荒廃≠フ色が、臭いが染みついてでもいるような……。
部屋の北側の壁際には、幾本かの書棚と飾り棚が据えられていた。どれも皆、黒塗りの家具である。書棚には古い外国の書物が並んでいる。主にイタリア語の原書のようで、中に英語やドイツ語のものも混じっている。日本語の本もちらほらと見受けられたが、ざっと眺めてみたところ、それらの背表紙には「魔術」や「神秘」「錬金術」「異端」などなど、ある種の傾向性を持ったいかがわしげな単語が少なからず目につく。
「その右端にあるのが――」
と、玄児が飾り棚の一つを示して云った。
「さっき云った、〈宴〉で使われる食器類がしまってある棚だよ」
形状は普通の飾り棚だけれど、観音開きの扉に入った硝子がすべて磨り硝子なので、「物を飾る」という役にはほとんど立っていない。棚の中に何が収められているのか、扉を開けてみないと分らないのである。
私は棚のそばから一歩退き、両手を腰に当てながら扉の磨り硝子を見つめる。そうして〈ダリアの夜〉のあの〈宴〉の席で使われた食器類の形を、心中に再現しようと努めた。
鬼丸老が葡萄酒を注いでまわっていた、あの赤い|壜《びん》――とろみのある濁り硝子で作られた、人間の心臓をモティーフにしたと思しき形状のデカンター。私たちの使ったグラスもすべて、そう云えば赤みがかった濁り硝子で出来ていた。不思議な香りを立ち昇らせながら燃えていた蝋燭もすべて赤。テーブルに敷かれたランチョンマットは黒だったか。――薄切りのパンが盛られた黒い大皿があった。各自の席に用意された黒い小皿と、例の赤黒いスープが入っていた蓋付きの黒い器。木製のスプーン、同じく木製のナイフ。茶色っぽいペーストのようなものが入った黒い小壺もあった……。
あれらのすべてが今、この棚の中で眠っているのか。一年後の〈ダリアの日〉にまた開かれるのであろう〈宴〉の夜まで、ずっと。
あの夜、半ば無理やり食べさせられた料理の、間違っても美味とはいえないあの味を思い出しつつ、今さらのように私は、何やらとても嫌な予感に苛まれはじめる。腰に当てた手を外して頭の後ろに回して、その予感を追い払おうと意識的に深い呼吸を繰り返しながら、そっぽを向くようにして棚の前から離れた。――と、そこで。
何故かそれまで、目には入っていたはずなのに気づかないでいたそのもの[#「そのもの」に傍点]の存在に、私はようやく気づいたのだった。
「――あれは」
私は玄児に尋ねた。
「あそこにある黒い蓋……鉄の蓋ですね、あれは何なのですか」
部屋の奥――南西の隅に当たる位置だった。黒い板張りの床に、暖炉の前には黒い敷物が敷かれているのだが、その向こうに、これもやはり黒い、その「鉄の蓋」らしきものがある。大きさは一メートル四方ほどだろうか。存在に気がついてみると明らかに周辺とは質感の違う、かなり分厚そうな鉄板で、手前の端には二つの把手が付いている。
「見てのとおりだよ」
そちらに歩み寄りながら、玄児が答えた。
「鉄製の上げ蓋――と云うよりむしろ扉≠セな」
「床下に収納庫か何かが?」
「いや、地下室と云った方がいい規模だろう。ちゃんと階段があって、下へ降りられるようになっている。俺は降りてみたことがないけれども、中はけっこう広いらしい」
近づいて見てみると、鉄の扉には頑丈そうな錠前が、ご丁寧に二つも取り付けてあった。
「この鍵は、部屋の鍵とは別の場所に保管してあるみたいでね、合鍵は作れなかった。昔も今も、常にこうして厳重に施錠されている」
「ということは、何か特別に大事なものが、この下には……」
「そうだよ」
私は膝に両手をつけて身を屈め、半ば恐る恐る床の扉に目を寄せる。黒い鉄板の表面には、どこかで見た憶えのある|浮き彫り《レリーフ》が施されていた。人間の|肋骨《ろっこつ》を模したような幾本もの曲線と、そこに絡みついている二匹の蛇……これは? 確か、そうだ、この図柄は……。
「このレリーフですが、中庭の墓所――〈惑いの檻〉の扉にも、同じような図柄があったような」
玄児は「ふうん」と目を細め、
「なかなかよく観察してるねえ」
「骨に蛇……」
玄児は「そう」と云ってさらに目を細め、
「骨は復活≠フ象徴、蛇は永遠≠フ象徴さ。古代バビロンにギリシャ、インド、中国に欧州諸国、古くから世界各地でそのように見なされてきた」
「復活、永遠……」
「ちなみに、中庭の〈檻〉のまわりは|一位《いちい》の植え込みで囲まれていたろう。一位の木は死≠象徴するものだというね」
なるほど、そういう含意があったわけか――と得心しつつ、私は膝から手を離して上体を起こし、「それで?」と玄児の顔を見やった。
「この下には、いったい何が」
「知りたいかい」
私は迷いなく「ええ」と頷き、
「何があるのですか」
「この地下室が造られたのは今から三十年前、ダリアの死後のことでね。彼女の存命中は、ここにはこんなものはなかったんだ」
足許の鉄扉を見下ろしながら、玄児は語った。
「地下室といっても普通の部屋じゃなくて、そうだな、たとえば葡萄酒蔵みたいなものを想像してくれればいい。通常よりかなり深く掘り下げてもあるらしくてね、中の気温を低めに保ったまま、外気の温度変化にあまり左右されないよう工夫されている。そしてそこには、たくさんの壺が置いてあるのさ」
「壺?」
「蓋の付いた黒い壺が、たくさんね。原則としてこの下には、屋敷の当主しか降りてはいけない決まりになっている。だから、実際にそれをこの目で見たことはないんだが」
「その中には?」
私はすかさず訊いた。
「壺の中には、何が」
「小分けにして、貯蔵してあるのさ」
「ですから、いったい何が」
問いを重ねながらも、この時点で私はすでに、薄々ではあるけれど勘づきはじめていたように思う。玄児の表情を窺うと、彼は私の視線をまっすぐに受け、口許にじわりと笑みを広げた。
「〈肉〉だよ」
と、玄児は答えた。薄い唇がそして、三日月形に裂ける。
「むろん人魚の肉じゃないぜ、中也君。そんな空想の産物じゃない。もっと現実的なものの[#「もっと現実的なものの」に傍点]肉がね」
「――何の」
私は喘ぐような声で問いを重ねた。
「何の肉だと云うのですか」
問いながら、知らず右手で鳩尾を押さえていた。頭の中では「まさか、まさか……」という悲鳴が、いびつな渦を巻いて響きはじめていた。
口許から頬にかけて広がった玄児の笑みが、大きく鋭く歪む。先ほど〈開かずの間〉の第二書斎で、左手首の聖痕≠ノついて語ったあの時に見せたのと同じ歪みの形[#「歪みの形」に傍点]が、そこにまた……。
玄児は云った。
「壺の中身はね[#「壺の中身はね」に傍点]、〈ダリアの肉[#「ダリアの肉」に傍点]〉なのさ[#「なのさ」に傍点]」
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いくら薄々勘づきはじめていたこととはいえ、「やはり」という納得よりも、「まさか」という衝撃の方にまず、私は打ちのめされた。当然だろう。
これまでさんざん思い悩まされてきた「肉」の正体はすなわち、〈ダリアの肉〉だったというのだ。玄児の曾祖母である浦登ダリアの……三十年前の死者の肉だったというのだ。それを私は、あの夜の〈宴〉で食べさせられたという話なのだ。
あまりのことに、どう反応したら良いのか分らなかった。鳩尾を押さえた手に力が入るが、不思議と吐き気は込み上げてこない。その代わり、身体には|胡乱《うろん》な痺れが広がってきていた。病的な麻痺感ではない。何と云えば良いだろうか、そう、この春に玄児と出会って以来、さらにはこの暗黒館を訪れて以来、ずっと私につきまといつづけている奇妙な現実感の希薄化、世界の輪郭の曖昧化、それがいっそう押し進められたような感覚が、肉体にこの痺れをもたらしているのだ――と、そんなふうに思えた。
「――どうして」
私はやっとの思いで口を開いた。
「どうしてそんなことを」
「それがダリアの遺志だったからさ」
と、玄児が答える。口許から頬にかけて広がった笑みは、
――ダリアの切なる願いを受け止め……。
大きく鋭く歪んだままだった。
――残されたその言葉を信じ……。
「自分の死後、自分の肉体を何らかの形で〈肉〉として保存・貯蔵して、毎年の自分の命日の夜に皆で食するように、とね。ダリア自身がそう、玄遙に命じた。命日は誕生日と同じ九月二十四日と定めたのも、彼女自身だった」
私は思わず「えっ」と声を洩らし、
「じゃあ、ダリア夫人は自殺を」
「いや、違う」
と、玄児はかぶりを振った。
「自殺は浦登家における最大級のタブーだからね」
「ということは、病気で? 死期を正確に予測したわけですか」
「それも違う」
とまた、玄児はかぶりを振る。
「病気では死なない[#「病気では死なない」に傍点]」
「それじゃあいったい」
狼狽して視線を宙に泳がせる私に、玄児はあっさりとこう云った。
「殺したのさ、みんなで」
「ええっ」
「当時の家族みんなで、この二階にある寝室のベッドで」
「そんな」
「当時の家族というと、玄遙に卓蔵、桜、カンナ、美惟、望和……望和叔母さんはまだ八歳だった勘定になる」
「そんなことって……」
「それもまたダリア本人の指示だったのさ。誰も逆らうことはできなかった」
「…………」
「その後の最大の問題は、死んだ彼女の〈肉〉をどのようにして保存するか、だったわけだが」
慄然とする私をよそに、玄児は語りつづける。
「三十年前に死んだ人間の肉を、そのままの状態で現在に至るまで保存できるはずは、当然のことながらない。たとえば冷凍による長期保存は、当時は技術的に困難だった。どうすれば長期間に及ぶ〈肉〉の保存と貯蔵が可能か。畜産加工の専門家や何かにも、こちらの事情はもちろん伏せた上で相談し、検討したらしいんだがね、結果として取られた方法は|塩蔵《えんぞう》だった」
「塩蔵?」
「塩漬けのことだよ」
玄児はにやりともせずに云った。
「塩分の濃度が十パーセント以上になると、ほとんどの細菌は繁殖できなくなる。腐敗というのは微生物の作用によって起こるものだからね、それを止めることができれば、理論上は何年、何十年もの長期保存が可能となる」
どこやらに江戸時代に作られた梅干しが残っていて、今でも食べられているという話を聞いたことがあるが、梅干しも塩漬けの一種だろう。原理的にはそれと同じ、ということか。
「死体の解体後、各部位の肉を適度な大きさの切り身にして、塩漬けにした。内臓や脳みそなんかも、可能な部分はすべて塩漬けに。血抜きをして集めた血液は、充分に乾燥させた上で粉末にした。骨も同様に粉末に……と、具体的な方法や手順の詳細は聞かされていないが、まあそんな具合だったんだろう。それらを小分けして壺に入れ、そのために作ったこの地下室に貯蔵してある、というわけさ」
「…………」
「〈宴〉の料理について君が話してくれた仮説は、食材が人魚の肉だと誤解した点を除いては、おおむね正しかったことになる」
鳩尾を押さえた手に、おのずとまた力が入る。これほどにおぞましい事実を突きつけられながらも、しかしやはり|嘔吐《おうと》の発作に見舞われることはなく、身体には依然、胡乱な痺ればかりがあった。
「あのスープの具として入っていたあれ[#「あれ」に傍点]がつまり、〈ダリアの肉〉だ。三十年間ずっと塩蔵されてきた代物だから、味も風味もあったもんじゃないがね」
広がる痺れの中で、私は思い出す。
――食したまえ。
赤黒いどろどろのスープに入っていたあの、形の崩れきった具。やたらと塩辛くて、どことなく生臭くて、舌触りはいやにがさがさしていて、何だか塩気を染み込ませた|塵紙《ちりがみ》の切れ端みたいだった。
――食したまえ、それを。
「パンに塗ったペースともね、あれに混ぜ込んであったのは内蔵の塩漬けを磨り潰したもので……」
私は思い出す。
――食したまえ。
やたらと塩辛くて、少々生臭い。あれもそう、やはりそんな味だった。
――食したまえ、その肉を。
「それから葡萄酒。あの中には血液と骨の乾燥粉末が溶かし込んであって……」
私は思い出す。
――ダリアの祝福を。
飲み干したあと、舌に絡まるようにして、何だかざらざらとした感触が残った。どちらかと云うと甘めで口当たりは良かったが、一方で、わずかに金臭いような錆臭いような味が……。
――ダリアの祝福を、我らに。
「そうそう。ちなみに、〈宴〉の席に灯されていた赤い蝋燭には、阿片に似た成分が少しばかり練り込まれていてね。これはダリアが生前、愛用していたものらしいんだが……中也君、君には存外に効いたようだったねえ」
私は思い出す。
――ダリアの祝福を。
〈宴の間〉に漂っていた、甘ったるいような酸っぱいような、それでいて苦いような、何やら不思議な香り。うっすらとではあるが、部屋全体に白い|靄《もや》がかかっているようにも感じられたが、そうか、あれは単なる香ではなかったのか。それで私は、あの夜あんな……。
――ダリアの……。
「〈宴〉で皆が食するあの料理を作るのもまた、当主の仕事と決まっていてね、十八年前までは玄遙が、その後は父が、毎年それを行ってきた。どうしてもやむをえない場合にはやはり、鬼丸老が代行することになっている。他の使用人はいっさい関わってはならない」
玄児は言葉を切り、ゆっくりと唇を舌先で舐めまわした。そして――。
「分ったね、中也君」
声を失い、|木偶《でく》のように佇む私の顔を覗き込みながら云うのだった。
「君はそれを食べた[#「君はそれを食べた」に傍点]。〈ダリアの夜〉に〈ダリアの館〉にて、ダリアに見守られ、その許しを受け、皆の大いなる祝福の下に……ね」
「…………」
「君はこうして、俺たちの仲間になったんだ。『仲間』なんていう云い方には抵抗があるかい。だったらこう云い直そうか。あの〈宴〉で〈ダリアの肉〉を食したことによって君は、紛れもなく浦登家の関係者の一人に[#「浦登家の関係者の一人に」に傍点]――それも最も核心的なところで繋がった関係者の一人になったんだよ。――分ったね。いいね」
私は声を失ったきり、何とも答えられなかった。「分った」とも「分らない」とも、「いい」とも「嫌だ」とも。
例の胡乱な痺れが、肉体だけでなく精神にまで広がってこようとしていた。現実感の希薄化、世界の輪郭の曖昧化はなおいっそう進行し……いや、希薄化や曖昧化どころか、それらがもはや根こそぎ剥奪されてしまったような感覚に、私は襲われていた。心中に湧き出し、立ち込めていた霧が、その感覚に伴って色を変える。冷ややかな蒼白から、まるで血煙を浴びたかのような薄紅に……。
玄児はそんな私の肩を抱き込むようにして腕を回すと、「あっちへ」と云って塔屋の方に誘導する。塔の内壁を伝って上階へと向かう階段を、そして私たちは昇りはじめる。
〈ダリアの塔〉の窓には分厚い深紅のカーテンが引かれていた。心中に立ち込めた霧の薄紅に、目に映ったそのカーテンの色が溶け込んでくる。霧は赤味を増して怪しく蠢く。私をどこか、決して近づいてはならない秘密の園へと誘うように。
二階の〈ダリアの寝室〉に昇り着くと玄児は、一階と同じ西側の壁面に造り付けられた暖炉の前まで私を引っ張っていった。部屋の真ん中には、美鳥と美魚の寝室にあったのと同じような天蓋付きのベッドが据えてあって、これには黒|天鵞絨《ビロード》のベッドカヴァーが掛けられている。
「さあ、中也君、ここに」
暖炉の前に置かれていた黒い革張りの肘掛け椅子に、玄児は私を坐らせた。カーテンと同じ深紅の布が被せられた小振りな円卓を挟んで、みずからも椅子に腰を下ろして足を組む。
「大丈夫かい、気分は」
玄児は私に訊いた。
「|蜈蚣《むかで》に咬まれた傷は? まだ痛む?」
「はい」とも「いいえ」とも声を返さず、私は相手の顔から目を逸らして首を振る。左手の傷は相変わらず思い出したように痛んだが、それどころではない心理状態だった。どうにかしてこの胡乱な痺れを振り払い、多少なりともまともな思考力を取り戻そう、取り戻さねば――と、むきになって何度も首を振りつづける。
「ショックなのは分るが……」
云いかけて、玄児は「いや」と言葉を止め、
「今の段階で弁解はよそう。とにかくまあ、話を聞いておくれ。――いいね、中也君」
そうして玄児は語りはじめたのだった。ある程度常識的な世界観を持った人間――少なくとも私自身は、自分はそうであると思ってきたのだが――の目から見ればあまりにも狂気じみた、まさに悪夢のようなその、妄執の系譜を。
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「初代玄遙は確かに、ある種の天才と大変な強運の持ち主だった。あの時代に、若くしてほとんど独力で事業を立ち上げて成功を収め、莫大な財産を築き上げた後もさらに、事業は拡大の一途を辿った。三十代に入った頃にはすでに、後の〈鳳凰会〉グループの土台が出来上がっていたというんだから、立志伝のいくつかもあって然るべき人物だろう。ところが実際には、それらしき記録はまったく残っていない。玄遙自身が、その手のものを断固として拒んだからだという話なんだがね、これなんかも一つ、彼の偏屈ぶり、変人振りを示すエピソードだと云えるんじゃないか。
普通、そんなふうにして功を成し名を遂げた人間というのは、多かれ少なかれみずからの|足跡《そくせき》を体裁の整った形で残したがるものだし、あまつさえみずからの家計を遡り、往々にしてそれを渦状に飾り立てて語ったりもしたくなるものだろう。しかし玄遙は逆に、ある時期以前の自分の来歴を積極的に語ろうとはしなかった。自分の親や家柄についても同様で、だからこの浦登家の、玄遙より前の家系がいかなるものだったのか、これはおおかた謎であると云っていい。あるのは真偽の不確かな、断片的な情報ばかりでね。
曰く、浦登家はそもそも|肥前《ひぜん》長崎にあって、有能な蘭学者を排出したこともある一族で、玄遙もその影響で蘭学を学び、早くから世界に目を向けるようになったのだ。曰く、いや、そもそもは|肥後《ひご》熊本藩下の、武士的な身分まで保障されていた大庄屋だったのだとか、いや、漁村の網元だったのだとか。玄遙の祖父が蘭方医だったという説もある。その関係でかねてより浦登家は、大阪の薬種問屋なんかとも密な繋がりがあって……とかね。実のところ玄遙は天涯孤独の流れ者だった、浦登という|苗字《みょうじ》自体が彼の創作だったらしい、という説もある。他にもまだまだいろいろある。もっともらしい話もあれば、いかにも眉唾ものの噂もあって、しかし誰が玄遙にそれらの真偽を問うてみても、彼はいっさい肯定も否定もしなかったというんだな。ただ――。
ただ、そういった玄遙以前≠フ混沌とした情報を見渡して検討してみた結果、これだけは恐らく確からしい、確かだろう、と考えられそうな事柄が二つある」
玄児はそこで言葉を切り、私の方を見る。視線を察知して私は伏せていた顔を上げたが、それ以上は何も反応できなかった。
「一つは――」
と、玄児は続ける。
「浦登家は短命の家系だったらしい[#「浦登家は短命の家系だったらしい」に傍点]、ということなんだが」
「短命……」
思わず私は呟いた。
「そうなんですか」
「ああ。近いところだと、玄遙にはもともと多くの兄弟姉妹がいたというんだが、彼らはことごとく早くに他界している。四十まで生きた人間は一人もいないらしい。子供のうちに死んだ者もいるし、二十代、三十代で死んだ者もいるが、そのたいていが病死だった。玄遙の両親も短命だった。息子の成功を見届けることもゆめゆめ叶わず、二人ともやはり病でなくなったらしい。――と、こういった傾向が昔から、浦登家の一族全般について見られたという話でね。恐らくそれは事実だったんじゃないかと俺は思っている」
「でも玄児さん、当の玄遙氏は――彼は十八年前の時点で確か、九十二歳だったと」
「そうだよ」
玄児は深々と頷いて、
「代々続いた短命の家系にあって、玄遙はその第一の例外[#「その第一の例外」に傍点]となったわけだ。短命の血筋を克服した、と云ってもいい。そこのところで大きな役割を果たしたのが他ならぬダリアだったわけなんだが、これはもうちょっとあとの話になるとして――。
いま一つ、玄遙以前≠フ浦登家の過去にまつわる情報の中で、恐らくこれは事実だろうと俺が見ているものがある。それはね、江戸時代のある時期まで浦登家には、そのむかし|耶蘇《やそ》会のフランシスコ・ザビエルによってこの国にもたらされた異教に対する信仰があった――つまり|切支丹《キリシタン》だったらしいということだ」
「切支丹……」
思わずまた、私は呟いていた。
「本当に?」
「と、俺は思う。この件については父も、それから征順叔父さんもだいたい意見が一致している」
「しかし、切支丹と云えばその時代、ひどい弾圧と迫害を受けて……」
「そう。始まりは|豊臣《とよとみ》|秀吉《ひでよし》が出した|伴天連《バテレン》追放令だね。|徳川《とくがわ》の世になっても禁教政策は踏襲され、一六一二年には幕府直轄領に禁教令を発令、翌年にはそれが全国に及んで、本格的な切支丹の弾圧が始まった。三代将軍|家光《いえみつ》の時、有名な|天草《あまくさ》・|島原《しまばら》の乱が起こって、これを機に弾圧はいっそう強化される。ことに九州地方は、もともと信者の密度が高かった分、禁圧が徹底されたというね」
「例の|踏絵《ふみえ》とか、ですか」
「ああ。長崎に始まって九州の各地で制度的に実施されたのが、踏絵――絵踏み制だ。マリアやキリストの描かれた聖画像を踏ませることで、その者がもはや切支丹ではないことを照明させた。転び証文の徴収が行なわれ、全国的には宗門改めが実施され、寺請制度が始まり……そうしてもなお残存する信者に対しての検挙事件――いわゆる崩れ≠ェ、各地で幾たびも起こった。
そんな中、当時の浦登家のご先祖は、それがいったい何代前のいつの話であったのかは不明だけれども、もともと熱心な切支丹だったのが、摘発されて転んだ[#「転んだ」に傍点]――棄教したらしい。そうしなければ拷問の挙句に処刑、という時代だったわけだが、それでも臆さず死を選ぶ殉教者が大勢いたことも厳然たる事実であって……」
玄児は大きく息をつき、組んでいた足の左右を入れ替える。
「……で、ここからはおおむね俺の想像、仮説になってしまうんだが」
そう断った上で、玄児は言葉を|接《つ》いだ。
「絵踏みによって転んだ切支丹の中には、それを偽装的な棄教として、密かに信仰を続ける者たちも多くいた」
「――隠れ切支丹?」
「そう。潜伏切支丹とも呼ばれる。厳密には『隠れ』と『潜伏』は明確に区別されるべきだという話もあるが、ここではまあいいだろう。
転んで、そのまま本当に信仰を捨てた者も少なくなかったんだろうが、いずれにせよ、弾圧を受けた切支丹たちにとって、本来最も信仰に忠実な身の処し方は殉教だったはずだ。それができずに転んだ末、『隠れ』になった者たちは、だから否応なく、棄教者・背教者としての恥や劣等感、罪悪感を大なり小なり心に背負い込むこととなったに違いない。
浦登家のご先祖は、ではどうだったのか。彼らは殉教の道は選ばず、選べず……転んだ。転んだ後、『隠れ』として信仰を続けることもなかった、できなかった。かと云って、完全にそれまでの信仰を切り捨ててしまい、そこから自由になることもできず……」
「どうしたと云うのですか」
「反動だよ」
と、玄児はいくぶん口気を強めた。
「元々が熱心な信者であった分、その反動が生じたのさ」
云われてもすぐにはぴんと来ず、私は細かく目をしばたたいた。
「繰り返すが、これは玄遙以降≠フこの浦登家のありようを踏まえた上で、俺が想像・推測したことであって、一つの仮説にすぎない。だが、恐らくさほど的外れな考えでもないとは思っている」
念を押すようにそう云って、玄児は続ける。
「背教によって信仰を――神を裏切ったことに対する強い罪≠フ意識、それが高じて激烈な絶望となり、絶望は反動へと繋がっていった。こんな具合にだ。――我れらは神を裏切った、そんな我れらの罪≠神は許さない、許すはずがない。神は我れらを見放すだろう、いや、もはや見放したに違いない。あるいは、こうなることを見越して神は、以前から我れらを見放していたのではないか。我れらは最初から、神に見放された存在だったのではないか。ゆえに我れらの類縁には、かねてよりこんなにも短命の者が多いのではないか。――ならば。
ならばいっそ、我れらは神に背いて生きよう。神が我れらを許さず、見放したのであれば、我れらは我れらが見放された存在であることをみずから認め、それを引き受け、反逆の道を歩もう。光≠ナはなく闇≠フ中にこそ、我れらの楽園を見出そう。
――とね、そういった反動的な宗教的自我が芽生え、育ち、受け継がれていくことになったとは考えられないだろうか」
「光より、闇に」
私は暗然と呟き落とした。
光よりも闇に[#「光よりも闇に」に傍点]……。
ああ、それはまさにこの屋敷の、この異形の館の在り方そのものではないか。
「玄児さん。するとそれは、たとえば――」
云いながら私は手持ちの語彙を探り、かろうじてそれらしき言葉を一つ取りだした。
「たとえば悪魔崇拝≠フようなものに?」
玄児は「そうだな」と眉をひそめ、
「隠れ切支丹がそうだったのと同じように、神に見放された存在としての闇≠ヨの系統が、伝統宗教や土俗信仰、迷信その他の影響を受けながら変容を重ねた末、一種異様な我流の|悪魔崇拝《サタニズム》を形作っていった、という図式は考えられるが」
「玄遙氏も、じゃあそれを信仰していたと」
「いやいや、そうじゃない」
と、玄児はすぐさまに否定した。
「今のはあくまでも一つの仮説……と云うか、一つの可能性として、どこかでそういう図式が具象化することもありえただろう、という意味で云ったわけでね。実際に玄遙が、具体的な宗教としてそのようなものを信じていた形跡はないんだ」
「――はあ」
「つまりね、精神的な下地あるいは背景として、浦登家の――玄遙の中には元からそういった傾向性[#「そういった傾向性」に傍点]があったに違いない、と俺は云いたいわけさ」
「精神的な下地……なるほど、分ります」
戸惑いがちにではあるが、私がゆっくり頷くのを見ると、玄児は「さて」と背筋を伸ばし、
「ここからは想像や推測ではなく、玄遙以降≠フ現実に即した話になる。――二十六歳の時、玄遙は最初の結婚をした。相手は七つ年下の女性で、名はすずといった」
それは初耳であった。ダリア夫人は、では玄遙の二番目の妻だったのか。
「間もなくして、玄遙とすずには二人の子供が生まれた。一人目は男の子で、|玄太《げんた》と名付けられた。二番目は女の子で、名は|百合《ゆり》。玄遙は夫として妻を、父として二人の子供を、他の何ものよりも|愛《いつく》しんだという」
「なのにその後、夫妻は離婚することに?」
私が口を差し挟むと、玄児は憮然と首を振り、
「違う。――死別だった」
「死……」
「結婚して十年も経たないうちに、三人は死んでしまったというのさ。すずと玄太と百合、三人が同じ流行り病で、ほとんど同時期に」
「それは……」と呟いたきり、私は返す言葉を見失った。間をおかず、玄児は続けた。
「玄遙はここで――最も己に身近なところで、『浦登家は短命の家系』という宿命的な現実を突きつけられることになったわけだ。すずは違うが、二人の子供は紛れもなく浦登の血筋を引く者だ。その二人が、云ってみればすずまで巻き添えにして、幼くして死んでしまった」
「…………」
「この時の玄遙の嘆きは凄まじいものだったろう。事業の方はこの頃も順風満帆で、彼は揺るぎない富と社会的地位を確立しつつあった。そんな状況の中で――そんな状況であったにもかかわらず、最愛の妻と子を一度に奪われてしまったんだ。さっきの伝で云うと、この時こそ彼は心底、自分たちを見放した神の非情を恨んだに違いない――と思う」
これまでとさほど大きくは変わらない口振りで語りつづける玄児だったが、なのにその声がふと、ひどく凄みのある響きを帯びて感じられた。私はいまだに続く例の胡乱な痺れの中で、今現在の自分の気持ちをうまく把握できないまま顔を伏せ、上目遣いに相手の口許を見つめる。
「妻子を失った翌々年、傷心を癒すためでもあったんだろう、玄遙は日本を離れ、欧州諸国を巡る旅に出る。玄遙、三十七歳の年……今から七十三年前の話だ。そして――」
それとなく視線を斜め上方に向けながら、玄児は云った。
「そして彼は、ダリアと出会った」
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「ダリアは元の姓をソアヴィといって、イタリアはフィレンツェ近郊の田舎町で生まれたという。どのような家庭でどのように育ったのか、その辺はいっさい定かでない。両親の素性も分らなければ、兄弟姉妹がいたのかどうかも分らない。彼女自身の履歴も詳細は不明だ。玄遙と出会った時、彼女は二十三歳で独身、生まれ故郷を離れてヴェネツィアで暮らしていた」
「ヴェネツィア……」
イタリア北部のその街の名を聞いて心に浮かぶのは、ほとんど通り一遍の知識でしかなかった。
水の都、ヴェネツィア。百を超える小島がモザイク状に集まり、無数の橋で結ばれて形成された商業とし。水の中から直接立ち上がったヴェネト・ビザンティン様式の建物。サン・マルコ広場。シェイクスピアの喜劇。|硝子《ガラス》工芸。……|運河《リオ》を行き交うゴンドラの、いつか何かの写真で見たことのある姿が、風情はたいそう異なるにもかかわらず、影見湖を渡る舟の姿と徐々に重なり合ってくる。
「『東方見聞録』を著わしたマルコ・ポーロがそもそもヴェネツィアの商人だったり、|信長《のぶなが》・秀吉の時代に送られた天正遣欧使節の少年たちがヴェネツィアの総督を訪問したりとかね、まんざら日本と縁の薄い土地でもないわけだが……ともあれ玄遙は、欧州にも滞在し、そこでダリアと知り合った。東洋の島国からやって来た傷心の実業家と、かの地の美しき魔女≠ニの間に、いったいどんな運命的な恋愛物語があったのか、今となっては詳しく語れる者もいない。――ただ」
と、玄児はおもむろに目を上げ、
「二人の出会いに関しては一つ、ちょっとした逸話が伝えられていてね」
そう云う彼の視線は、円卓を挟んで対面した私にではなく、私の背後にある何者かへと向けられていた。振り返るとそこ――北側の壁――には、薬箪笥のような中背の棚が造り付けられている。そしてその棚の、向かって左脇に空いた黒い壁面に、何だろうか、怪しい微笑を湛えた仮面が二枚、並んで掛けられているのだった。
「――あれが、何か」
日本の能面のようなものではない。一見して西洋由来の品であると分る|仮面《マスク》だった。
二枚のうちの右側の一枚は、額から鼻にかけてが白に、口許から顎にかけては灰色に塗り分けられている。左側は深みのある真鍮色。どちらも両眼は|檸檬《レモン》形にくり抜かれていて、鼻には空気孔が|穿《うが》たれているから、実際に着用することを想定して作られた仮面だろう。素人目にも洗練された美しい造形で、基本的には端正な人間の顔立ちなのだけれど、同時にそれが、何故かひどく非人間的な、悪魔めいたものにも感じられる。湛えられた微笑も、どこか冷え冷えとして不気味……奇怪ですらあった。
「あの仮面が、何か」
繰り返し問うと、玄児は私の顔に目を戻し、
「両方ともヴェネツィアの仮面だよ」
答えて、すぐにこう問い返してきた。
「ヴェネツィアのカルネヴァーレについては?」
「カルネ……カーニヴァルのことですか。謝肉祭、ですね」
「そう。キリスト教では復活祭の前の四十日間を四旬節という。その直前の数日間に行なわれる祝祭が謝肉祭、カルネヴァーレだね。四旬節での禁欲的な肉断ち生活を前に、街ぐるみで飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎが演じられた」
「――はあ」
「どこの国でも概してそうだが、仮面というのはそもそも、伝統的な祭事で使われる呪術的な道具だったと云われる。仮面を付けることによって神や悪魔が降りてくる、というふうな。ところが中世のヴェネツィア共和国では、それが名前や身分を伏せて娯楽に打ち興じるための隠れ蓑≠ニして利用されるようになり、|爛熟《らんじゅく》する都市文化に定着していった。
さらに文化の爛熟・|頽廃《たいはい》が進むと、仮面のもたらす匿名化の機能は、おのずとさまざまな不道徳や不品行、犯罪に結びついていったりもしたわけだが、当然のようにこれは、カルネヴァーレの莫迦騒ぎにおいても大いに活用されることとなる。議会や教会のお|咎《とが》めもよそに、それはどんどんエスカレートしていって、十八世紀には最盛期を迎える。最も極端な時には、一年のうち数ヶ月にもわたって祭りが続けられていたというね。その間、街は種々の仮面と衣装で身を包んだ人々で溢れ返った」
「ヴェネツィアの仮面祭。――そう云えば、何かで読んだ憶えがあります」
「十八世紀末のナポレオンの侵攻で、千年の栄華を誇ったヴェネツィア共和国は崩壊し、とともにカルネヴァーレも一気に衰退することとなった。だが、それでもヴェネツィアの仮面文化は生き長らえ、十九世紀半ばのイタリア統一後、徐々にまた興隆へと向かいつつある。
玄遙がヴェネツィアを訪れた頃も、公の行事としてのカルネヴァーレは姿を消していたけれど、謝肉祭の時期になると随所で小規模なイヴェントやパーティが催されていたという。参加者はやはり、思い思いの仮面で顔を隠し……」
「じゃあ」と、私は再び背後を振り返り、
「あの仮面は、その頃の」
「とあるパーティに玄遙は紛れ込み、そこで初めてダリアと出会った。その時に二人が付けていた仮面なんだそうだ。それを記念に持ち帰ってきたという……なかなかロマンティックな話だろう」
壁に並んだ仮面の表情を真似たような怪しい微笑を、玄児は湛えた。
「昔――ダリアが健在だった頃には、この屋敷でも時たま仮面舞踏会が催されたらしいね。〈鳳凰会〉の関係者をはじめ、各界で親交のあった人々を招いたりもしてこんな山奥によくも集まってくれたものだと思うが……」
――このお部屋、今は何にも使われてないけれどね、昔は舞踏室だったんですって。
例の秘密の階段を見つけて行き着いた〈東館〉一階の広間で、美鳥と美魚の双子姉妹と初めて会ったあの時の、これはどちらの台詞だったか。
――いろんな人が招かれて、パーティが開かれて……お父さまやお母さまも、ここで踊ったんですって。
――あたしたちが生まれるよりずっと前のこと。
三十年前のダリアの死後も、しばらくはあの舞踏室で、同じようにパーティが催されていたということになるが、それは――それもやはり、仮面舞踏会だったのだろうか。双子の父や母もそこでは、ああいった奇怪な仮面を付けて……。
――素敵よねえ。
幻の楽団の演奏に合わせて双子が踏む不思議なステップが、それ自体が不思議な幻となって目の前に浮かんだ。
――素敵ねえ。
「……とにかくそうして二人は出会い、熱烈な恋に落ちた。そう伝えられている」
玄児は話を続ける。
「何ヶ月かのヴェネツィア滞在の後も、玄遙はダリアと行動をともにすることにした。いずれ日本に行きたいとの希望も、当初からダリアは口にしていたという。みずからが生まれ、暮らしてきた祖国の環境に対して、どうやら彼女は長らく強い違和感を抱きつづけていたらしいんだな。自分は間違ったところに生まれてきた、自分のいるべき場所はここではない、といったふうに。何故だかは分らない。あるいは彼女が魔女≠ナあったことも、そこには関係していたのかもしれないが」
「魔女……」
呟きながら、私はのろりと頭を振っていた。
「そんなわけで、玄遙の旅の後半はダリアとともにあった。決定的な事件が起こったのはその途上でのことだった。玄遙が突然、原因不明の高熱に襲われて倒れたんだ」
「病気に?」
「ああ。医者にもかかったがまったく手に負えず、何日もの間、玄遙は生死の境を彷徨った。熱に浮かされながら彼は、自分もか、と思ったというね。浦登家の宿命に従って自分もまた、若くしてこの異国の地で果てるのか、と。ところがそれを――」
玄児の顔から微笑が完全に消えた。
「ダリアが救ったんだ」
「救った……どうやって」
「自分の血を玄遙に飲ませたのさ[#「自分の血を玄遙に飲ませたのさ」に傍点]」
そう答える玄児の目つきは真剣そのものだった。
「それによって玄遙は、医学的な常識を超えて命を取り留めたんだよ」
「――そんな」
私はまたのろりと頭を振りながら、
「そんなのはきっと、何かの……」
偶然ではないか、と云おうとしたのを、玄児が鋭く遮った。
「ダリアの血は不死の血[#「ダリアの血は不死の血」に傍点]」
異端の狂信者が唱える呪文のようなその言葉は、しかし有無を云わせぬ何かしらの力を持って、胡乱な痺れに侵された私の脳髄に響き込んでくるのだった。
「〈ダリアの血[#「ダリアの血」に傍点]〉を受けた者は不死を得る[#「を受けた者は不死を得る」に傍点]。玄遙は与えられた[#「玄遙は与えられた」に傍点]。だから病気では死ななくなった[#「だから病気では死ななくなった」に傍点]」
「病気では死なない……」
「ダリア・ソアヴィが〈闇の王〉と取り交わした契約によって、それは成り立ったと伝えられている。ダリアが十四歳の時のことだ。彼女は〈王〉に誓いを立て、その結果〈不死性〉を獲得した」
「〈闇の王〉……とは?」
「彼女が自分を魔女≠ニ規定しているのだから、やはりね、いわゆる悪魔≠フ|範疇《はんちゅう》に入るものなんだろう。キリスト教的な悪魔≠フ概念とは必ずしも一致しないようだが」
「契約とは、どんな」
「光よりも闇を愛す[#「光よりも闇を愛す」に傍点]、と」
「ああ……」
「|魂《たましい》を売り渡せとか悪徳をなせとか、そんな約束をさせられたわけじゃない。光よりも闇を愛す。基本的にはそれだけの誓いによって、ダリアは〈王〉から不死を与えられた。その一点において彼女は魔女≠ナあった、とさしあたり云っておいてもいいだろう。
キリスト教的な神≠裏切ろうという具体的な誓いを立てたわけではない。しかしながら、彼女の存在の基底としてあるそういった魔女性[#「魔女性」に傍点]が、さっき話した玄遙の、『我れらは神から見放された一族である。従って……』という精神的な下地、思想の傾向性と強く共鳴し、お互いに影響しあったであろうことは疑うべくもない」
「――玄児さん」
私は喘ぐように云った。
「それを――そんな話を、本当に玄児さんは信じているのですか」
「信じたいわけじゃない。しかし信じざるをえないのさ。そう云ったろう」
「ええ。――でも」
「君の戸惑いは当然のことだが、まあ、もう少し黙って聞いてくれ」
そう釘を刺して、玄児は続きを語った。
「〈ダリアの血〉を与えられた者は、ダリアと同じ〈不死性〉を得る。玄児は得た。血を受け〈不死性〉を得た者は、ダリアと同じ誓いを立てなければならない。玄遙は立てた。光よりも闇を愛す、と。二人はさらに、その後の永遠の生をともに過ごすことを誓い合う。そうして玄遙はダリアを日本に連れ帰り、妻とすることに決めたわけだ。
帰国した玄遙は、当時熊本市内に構えていた屋敷に住まい、間もなく正式にダリアを妻とする。玄遙四十、ダリア二十五の年だった。いきなり外国の女性を連れ帰ってきて再婚を云いだした玄遙に、周囲は当然のように驚きと戸惑いを禁じえなかった。昔のことだから強硬に反対する者も少なくなかった。玄遙はしかし、それらいっさいの声を無視して、異を唱える者については躊躇なく関係を切り捨てていったという。
それからしばらくして玄遙が着手したのが、この屋敷――暗黒館の建造だった。湖を中心に付近一帯の土地をごっそりと買収し、それこそ金に糸目をつけずに大量の人手を動員して、この島にこの屋敷を建てはじめた。
「どうして、ここに」
私はそろりと口を挟んだ。
「こんな|辺鄙《へんぴ》な場所に、わざわざ」
「いったん関心を持った物事に関しては、尋常じゃないほどの執着を見せる。そんな玄遙の性格があったからこその決定だったんだろうが――」
一呼吸置いて、玄児は云った。
「理由はもちろん、あった。それはつまり、影見湖の人魚伝説[#「影見湖の人魚伝説」に傍点]さ」
「人魚……ああ」
「この湖にまつわる風変わりな人魚伝説を、玄遙は以前から伝え聞いていた。そして少なからず関心を持ちつづけていたんだな。浦登家の縁者がことごとく短命に終わっている事実を、むろんのこと玄遙はよくよく承知していたし、最初の妻や子供たちを亡くす前からずっと懸念を抱きつづけてもいたはず。日本では、人魚と云えばまず不老長寿の霊薬が連想される。だから……ね。〈鳳凰会〉では早くから製薬業にも手を広げていたが、それも玄遙の、どうにかして短命の宿命から逃れたい、そのための薬を作りたい、と云った悲願がそうさせたのだろうとも想像できる。
で、玄遙はダリアにも|件《くだん》の人魚伝説を話した。すると彼女もまた、それに強い関心を示したというわけだな。そして彼女は、人魚が棲むというこの影見湖の小島を、云わば不老不死の聖地≠フような場所と見なし、そこに自分たちの住まう屋敷を建てることを希望した。玄遙はその希望を実現させた」
「――でも、玄児さん」
私はそろりとまた口を挟んだ。
「仮にさっきからの話を信じるなら、ダリア夫人はすでに不死を得ていたのでしょう。その〈血〉を受けた玄遙氏も、です。だったら何もその上、伝説の人魚なんかに頼る必要はなかったのでは」
「確かにね。彼らとて、本気で人魚の実在を期待したわけではなかったろうし。不老不死の聖地≠ニいうのは、そこには云ってみれば、|験《げん》を担ぐ、みたいな意識があったんだろうと思う。人魚を不老不死の象徴として捉え、そのそばに身を置くことで、よりいっそう自分たちの存在の特異性が保証される、というふうに。影見湖の水が人魚の血で染まる、という例の云い伝えについても同じさ。それが浦登家にとって吉兆であるとされるのは、乱暴に云ってしまえばまあ、これも他愛のない験担ぎの一種なわけでね」
「ですが、それにしても……」
なおも疑義を示そうとする私に、
「ダリアの[#「ダリアの」に傍点]〈不死性[#「不死性」に傍点]〉はね[#「はね」に傍点]、まだ完成されたものではなかったんだよ[#「まだ完成されたものではなかったんだよ」に傍点]。だから、なのさ」
と、玄児は答えた。その目つきの真剣さは、先ほどからずっと変わっていない。
「未完成の、不死?」
何やら急に息苦しさを憶え、私は天井を振り仰いで深く長い呼吸をする。
肉体と精神に広がった例の痺れが、ここにきていかがわしい粘性を持ちはじめていた。赤い霧はさらに赤みを増していつしかどろどろの液体となり、それが肉体と精神のあちこちでゆっくりと歪んだ渦紋を描こうとしている。――そんな心地だった。
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「伝えられるところによると、〈不死性〉には大きく云って三つの段階がある」
玄児は語る。
「第一の段階は、単純な――単なる不死[#「単なる不死」に傍点]の獲得。ダリアが〈闇の王〉に与えられたのがそもそもそうだったわけで、これは〈ダリアの血〉や〈肉〉を体内に取り込むことによって他者にも|伝播《でんぱ》する。この段階の不死を得た者は、いかなる病気によっても死なない。老いはするが、いわゆる老衰による自然死もない。事故で致命的な傷を負うか、あるいは誰かに殺されるか、いずれかによってしか死は訪れない。
第二の段階は、単なる不死だけでなく、事故その他で死んでしまった場合の再生・復活をも可能にする。この〈再生性〉〈復活性〉にも段階があって、一般的な死の後に息を吹き返すといったレヴェルから、それこそ燃え尽きた灰の中から完全に蘇るといったレヴェルまで、さまざまな達成がありうる――とされている」
聞きながら私は、何なのだろう、と自問する。
何なのだろう、これは。この異様な定義は。
冷静に考えれば、こんなものはすべてがまったくの妄想、妄言でしかない。何十年も昔に異国の魔女ダリアの狂える心が産み出した、現実には絶対に正当性を持つはずもない〈不死性〉の定義、いびつな妄念によって組み上げられた莫迦げた理論……そう、もちろんそうとしか考えられない。だが――。
玄児は今や、何のためらいもひるみもなく、それを語りつづけるのだった。
これまで多少なりとも感じ取れた自照や|韜晦《とうかい》の色は、もはや|微塵《みじん》もない。「信じたいわけじゃない。しかし信じざるをえないのさ」と訴えたさっきの弁が空々しく思えるような……いま私の眼前にあるのは、「何か何でも信じて疑わない」という、抑制機構の壊れた狂信者の顔に他ならなかった。
「そして第三の段階は――」
玄児は語る。たとえば亡きダリアのしたためた教義書≠フごときものが残っていて、まるで暗記したその内容を読み上げていくような調子で。
「これは必ずしも、第二段階の達成を前提としない。第二を踏まえず、それを飛び越して達成されることもありうる――とされる。この段階に至った者は、〈不死性〉に加えて〈不老性〉をも得ることになる。老いもせず、死にもしない。文字どおりの不老不死が具現されるという……」
「ちょっと待ってください」
と、そこで私が話を遮った。
「不死を得た者は、事故か他殺でなければ死なない……じゃあ自殺は? 事故に遭わなくとも殺されなくとも、自殺をすれば死んでしまうのでは」
「だからね、中也君、自殺はここにおいてはタブーなんだよ」
と云って、玄児は眉間の縦皺を増やす。
「でも現に、桜さんや卓蔵氏は自殺で死んだことになっているのでしょう」
「――まあ、そうだが」
「自殺のタブー視はやはり、かつて熱心な切支丹であったという浦登家が、その頃の掟を引きずってきたものなのでしょうか」
「そういった部分がまったくなかったとは云えないだろう。けれどもそれだけじゃない。自殺を最大級のタブーとする考えは、これも元からダリアの方にあったものでね」
「と云いますと」
「簡単に述べてしまうと、こうだ。〈不死性〉の獲得というのはそもそも、生≠ヨの飽くなき執着に由来する。その生≠みずからの手によって絶つ行為は、〈闇の王〉との契約においても、決して許されざる重大な罪≠ニされる」
「――はあ。しかし」
「大いなる罪≠犯した者は大いなる罰≠受けねばならない。それが|理《ことわり》だろう」
「罰=c…とは?」
私のこの問いには答えず、玄児は「さて」と話を進めた。
「ダリアが欲したものはすなわち永遠≠セった。より高度に永遠≠ニ一体化する生≠セった。そのためには、いま説明した第二、第三の段階へと自分の〈不死性〉を向上させねばならない。〈王〉への誓いに忠実に、光よりも闇を愛する、愛しつづけることによってね。
十八年前に旧〈北館〉が消失した際、いったん死んで蘇った俺の『奇跡』を父が『成就』と評したのは、だからそういう意味だったわけさ。〈ダリアの血〉を引き、例の〈宴〉においてその〈肉〉を食した俺が、ごく素朴な形でではあるが、めざされてきた第二の段階を達成したという。しかも、左手首に聖痕≠ワで伴って」
「ああ……それで」
私は上目遣いに友人の顔を見据えた。
「それで玄児さんは『特別』だと?」
「――ん?」
「美鳥さんと美魚さんが昨夕、そんなふうに云っていたんですよ。『成功』の人はまだいないけれど、玄児兄さまは『特別』なのだ、と」
玄児は「はあん」と頷き、
「あの子たちが『成功』といったのはつまり、第三段階――不老不死の達成のことだな。俺は第二段階――一時的な死からの再生を実現させているから『特別』だと……」
「ええ、そういうことですね」
得心したところで、私の脳裡にまた、あの時の双子のやり取りが響く。
――玄遙さまは。
――玄遙さまは特別なのね。
ああ、そうだ。そんなふうにも云っていたではないか、彼女たちは。
――特別だけど、失敗なんでしょ。
――成功の方はまだおられないのねえ。
「玄児さん」
私は瞬間、何かしら慄然とするものを覚えつつ、
「美鳥さんと美魚さんはこうも云っていました。玄遙氏も『特別』だと。『特別』だけれども『失敗』だと」
「ははあ」
「どういうことなんでしょうか、この場合の『成功』と『失敗』の意味は」
玄児はすぐに答えない。私は重ねて問うた。
「彼女たちは、お父上――柳士郎氏も『失敗』なのだろうかと云っていました。これは?」
「それは――」
尖った顎をゆっくりと撫でながら、玄児は口を開いた。
「それはね、ここ最近、目立って父の肉体が衰えてきているから――老化が進みつつあるからさ。君も目の当たりにしているだろう。彼のあの白濁した眼球……老人性の白内障の進行が、その端的な現われだと云える」
――急激な肉体の老化というのはやはり、俺たちにとって悪い|徴《しるし》だから……。
これはそう、重態の蛭山丈男が運び込まれた〈南館〉のあの部屋で、私が柳士郎と初めて対面した、そのあとのことだったか。〈東館〉の食堂に戻ったところで、玄児が父親の健康状態について語ったひとくさり。
――弱気になっているんだろうな、と思う。
「すでに彼は、俺たちにとって最も望ましき〈不老性〉の獲得を逸してしまっているのではないか。このところの顕著な肉体的老化によって、その可能性が濃厚になってきた。不死ではあっても不老ではない。希求されるべき第三の段階にはとうてい至れそうにないと。それどころか、はなはだしく急激な老化の進行は、本来の〈不死性〉が良好に維持されていないかもしれない恐れにも結びつきうる。そういった意味での『失敗』、ということだな」
――混乱、落胆、そして恐れ……今の父の心中を察することは難しくない。
――父はまだ五十八だ。その年齢であの状態だというのは……。
「父のこの『失敗』と、さっき君が訊いた玄遙の『失敗』、二つは別物だね。あの子たちはごっちゃにして、同じ言葉で表わしてしまったみたいだが」
私は黙って頷き、舌に粘りつく唾を飲み込む。
そうなのか。――では、玄遙の「失敗」とは? それに先立つ彼の「特別」とは?
心中で波紋状の広がりを続ける私の疑問を置き去りにしたまま、
「おおよその輪郭はもう見えてきただろう」
そう問いかけて玄児は、口許に例の鋭く歪んだ笑みを浮かべた。
「さっきも云ったように、ダリアはより高度に永遠≠ニ一体化する生≠欲した。彼女を愛した玄遙もまた、彼女とともに同じ夢を見た。『成功』はいつになるか分らない。が、〈不死の血〉を持つ二人には長い時間がある。いずれそれは実現できる。そう信じつつ二人は、そのための場としてこの地を選び、この屋敷を――この暗黒館を建てたんだ」
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第二十二章 暗黒の眷属
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「ダリアが〈王〉との契約の時点で、〈不死性〉の良好な維持のために望ましいものとして示された枠組がある。それに沿うようにして作られたのが、実はこの屋敷でもあったわけだが――」
椅子に掛けたまま玄児は、ゆっくりと広い室内を眺め渡す。その視線を追いながら私は、自然と頭に浮かんできた言葉の組み合わせを声にした。
「光よりも闇を愛す、愛しつづける……そのために造られた家。光よりも闇に……そんな傾きを徹底させた家」
「ああ、そうだ」
玄児は満足げに頷いて、
「『暗黒館』とはね、最初に誰が云いだしたのかは知らないが、よくぞ云ったものさ。建物の外装はすべて、光を呑み込み光を打ち消す暗黒色。内装や調度も原則として、同じ艶消しの黒」
「それと赤、ですね」
「そう。血の赤、さ」
玄児はにやりと唇の端を曲げる。
「建物の規模のわりに窓が少ないのも小さいのも、日中でもたいてい鎧戸や雨戸が閉め切られているのも、すべては光を|厭《いと》うためだ。屋内の人工的な光についても、わざとなるべく薄暗くしてある。明治期の後半になって、最も古い〈西館〉と〈東館〉が建てられた当初から基本的なこの枠組は変わらず、〈十角塔〉や〈北館〉〈南館〉の新築や増改築においても踏襲された。ジュリアン・ニコロディという例の建築家の影響とはまた別の次元でね。三十年前にダリアが逝ったあとも、これは変わっていない。十八年前の焼失後に再築された〈北館〉にしても、もちろん例外ではない」
「光を厭い、闇に身を|潜《ひそ》め……」
「〈宴〉の最初の乾杯をした祭の、父の口上だね。ちゃんと憶えているかい」
「あ……はい」
――ダリアの切なる願いを受け止め、遺されたその言葉を信じ、我れらは我れらの永遠をめざす。
「……憶えています」
――光を厭い、この世界に偏在する闇という闇の中に密やかに身を潜め……そうして永遠の|時間《とき》へと我れらが命を繋げるのだ。
「光は――特に太陽の光はよろしくない。|無粋《ぶすい》この上ない性質を持った曲者さ。我が物顔でどこにでも入り込んできて、闇の静けさと安らぎを侵す。ねえ中也君、そうは思わないかい」
「はあ。いや、でもあの……」
答えあぐねながら私は、この春に玄児と知り合った当時、白山のあの家で彼が語った言葉を思い出さざるをえなかった。
――太陽の光というのは曲者さ。
あの時もそう、玄児はそのように云っていた。
――陽光の下に出ると、人はおのずから動く≠烽フだろう。これが実はよろしくない。必要以上の動き≠ヘ、いたずらに生命の燃焼を加速させる。だから……。
だから彼は、「あまり明るいのは苦手」だと云ったのだった。だから白山のあの家も、天気の良し悪しに関係なく、外出時の用心のためというわけでもなく、一日のほとんどの時間、雨戸が閉め切られていたのだった。
あれは――あれも結局は、ダリアの昔から受け継がれてきた考え方だったということか。それともそこに、玄児の独自な解釈を加えた理屈だったのだろうか。
――これはまあ、俺が育ってきた環境のせいだと云ってしまった方がいいかな。何せ実家があれ[#「あれ」に傍点]だからね、今さら宗旨替えをしようと思ってもなかなかできるものじゃない。
まさにそのとおりだったというわけか。
玄児が「育ってきた環境」とは、すなわちこれ[#「これ」に傍点]なのだ。光を厭い、闇に潜み、〈不死の血〉をもって永遠をめざす。この浦登家の屋敷を離れて独り東京で暮らしていても、彼はやはりそこ[#「そこ」に傍点]から自由にはなれないのだ。逃げ出せないのだ。征順の言を借りれば、|生命《いのち》そのものがそこ[#「そこ」に傍点]に繋がれ、囚われてしまっているのだ。
それにしても、ああ、これではまるで……。
「……何だか、玄児さん、まるで『ドラキュラ』じゃないですか。『吸血鬼ドラキュラ』」
この夏に観た英国のあの怪奇映画の題名を、私は思わず口に出した。――そう云えば、浦登柳士郎との初対面のあの場でも期せずして、私は同じその映画のことを思い出したのではなかったか。
長身に黒いスーツをまとった暗黒館当主の、あの有無を云わさぬ威圧感。蒼白く彫りの深い顔全体に浮かんだあの笑い、白濁した相貌を大きく見開き、鼻筋に深い皺を寄せ、口を左右に裂き広げ……それでいてまつたく声を出さない、あの異様な笑いを間近に見た時、私はとっさに連想したのだった。あの怪奇映画の一場面であってもおかしくないような、と。まるでこの初老の紳士は、あの映画の主人公ドラキュラ伯爵[#ここから太字](……クリストファー・リーの? という唐突な疑問が、このタイミングで今さらのように)[#ここで太字終わり]のようではないか、と。
「ドラキュラねえ」
玄児は苦笑混じりに応えた。
「俺も観たよ、あの映画は。なかなか愉快な出来だったね。トッド・ブラウニング監督作品のベラ・ルゴシの怪演の方が、俺としては好みだが」
「…………」
「しかし中也君、これまで俺は一度も君の首筋に噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、176-上-3]みついたりはしてないぜ。美鳥や美魚にも、そんな真似はされていないだろう」
あえなく返答に窮する私の目を、覗き込むように見据えながら、
「吸血鬼じゃないよ[#「吸血鬼じゃないよ」に傍点]、俺たちは[#「俺たちは」に傍点]。そんなアイデンティティは持っちゃいない」
玄児はきっぱりと云った。
「吸血鬼なる魔性の概念はそもそも、スラヴ世界の土俗信仰、民間伝承に端を発すると云われている。生き血を吸って蘇る、彷徨える死者の亡霊。概してそれは人々に災いや死をもたらす存在として恐れられ、ロシアではヴァンピール、ルーマニアではストリゴイ、ギリシャではヴリュコラカスとかサルコメノス……と、地域によってさまざまな名称で呼ばれた。やがて英語のヴァンパイアという言葉が生まれて、吸血鬼の概念は西欧圏にも広まっていき……などと講釈を垂れはじめたら切りがなくなるから、ここではやめとおくがね。世界各地の吸血鬼伝説については、俺もひとしきり調べてみたさ。分権的な知識なら君の百倍以上はある。映画の原作となったブラム・ストーカーの小説も、図書室にあった原書をざっと読んだ。よくできた作品だと思うが、むろんあれは、一応歴史上の人物に材を取りながらも、作家が旺盛な空想を膨らませて書いた娯楽小説に過ぎない。ドラキュラ伯爵なんていう化物はこの世には存在しないし、あれを地で行くみたいな吸血鬼の一族がどこかに生息しているとも考えられない。
云ってみればね、『吸血鬼』というのはもはや俗化した記号にすぎないのさ。活字や映像といったメディアによって加工・育成され、広く共有されるようになった文化的ジャンルの一つ。あるいは、血と生、血と死、死と再生、光と闇、聖と魔……などなどにまつわる、ある種の傾向性の代名詞。たとえば吸血鬼性≠ニでもいったような」
何とも応えられず、私は相手の眼差しから目を逸らす。
「俺たちは吸血鬼ではない」
再びきっぱりとそう云いきったあと、「ただし」と玄児は続けた。
「ただし、根幹を流れる思想や傾向に、ある程度の類似性・親近性があるという事実は認めなければならない。そうは思っている。何よりまず、『光よりも闇を』といった核心部分が両者では共通しているね。それは確かなことだが……。
しかしやはり、繰り返して云っておこう。俺たちはいわゆる吸血鬼ではない。大きな傾向性としては同じ範疇に入るかもしれないが、少なくとも君が観た映画に登場する連中や、そこから君がイメージを広げて考えるものどもとはまるで別種の存在だ。誤解してほしくない」
「はあ。――ですが」
「現にね、中也君」
云いながら椅子から立ち上がると、玄児は暖炉の前を離れる。そうして、黒天鵞絨のカヴァーが掛けられた天蓋付きのベッドの手前まで行ってこちらを振り返り、
「現にダリアは、人の生き血を啜らなければ生きていけなかったわけじゃない。〈ダリアの血〉と〈肉〉を受けた俺たちにしてもそうさ。光を厭うと云っても、これは程度の問題でね、別に直射日光に|晒《さら》されたからと云って、見る見る肉体が滅んでしまうこともない。俺を見れば分るだろう。東京でもここでも、昼間にまったく外を出歩かない生活を送っているわけじゃなかろう?」
私が狼狽顔で頷きを返すと、玄児は少々冗談めかしたふうにこう付け加えた。
「理想型はあるいは、まったく陽に当たらないことなのかもしれないがね」
理想型? ――ああ、ここへやって来た最初の日の夕食時にも、確か似たような文句を聞かされた憶えがある。玄児は続けて、
「〈不死の血〉を持っていても殺されれば死ぬが、別に心臓に杭を打ち込まなければ駄目だと云うこともない。棺の底に腐った土を敷いて眠るようなこともしない。生き血を吸うための牙もないし、蝙蝠や狼に変身などできるはずもない。|大蒜《にんにく》も苦手じゃなければ、十字架を抱き締めて眠ることだってまったく平気さ。どうかな」
「――分りました」
ゆっくりと頷いて私は、どうにか「吸血鬼」の一語を頭の隅へ追いやろうとしたのだが、すると玄児は「ただね、中也君」と言葉を接いで、
「ただもう一つ、そうだな、世の吸血鬼伝説に広く見られるある要素[#「ある要素」に傍点]と妙に共通した特製が、ダリアに始まるこの家の〈不死信仰〉にはあってね」
「共通した特性?」
「そうさ」
玄児はベッドの端に浅く腰掛けながら、
「この屋敷の特徴とも密に関係している問題なんだけれども、君にはなんだか分かるかい」
さっきまでの狂信者じみた気配は影を潜め、ちょっとした謎かけを楽しむような口振りで、そんな質問をしてくるのだった。
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吸血鬼伝説のある要素[#「ある要素」に傍点]と妙に共通した特性。この屋敷の特徴とも密に関係している問題。――はて、いったいそれは何なのだろうか。
私は両手を首の後ろで組み合わせ、椅子の上で少し身を反らしながら頭上を仰いだ。黒漆喰の天井。天井から吊り下がった電灯が放つ弱々しい明り。この電灯のまわりにもやはり、透明硝子や金銀を用いた装飾はいっさいなく……。
「どうかな、中也君」
と、玄児が答えを促す。
「君がこの屋敷に来て足かけ四日になる。とうに気づいていてもおかしくないようなことなんだが」
「――と云われても」
私は視線を下ろしてベッドの方を見やり、
「ねえ玄児さん、勿体ぶるのはもうやめにしてください。お願いですから、もう」
玄児は低く鼻を鳴らして真顔に戻ると、短い沈黙の後、「それじゃあ」と口を開いた。
「たとえばね、ここに来て君は妙に思わなかったかい。こんな湖の小島が敷地だというのに、島の周囲には途切れなく高い石塀が巡らされていて、庭からも屋敷の窓からもまったく湖面が見えない。〈十角塔〉の最上階からも見えないし、この〈ダリアの塔〉の三階に昇ってみても同じだ。角度的に湖面が見えないよう計算した上で、窓やバルコニーが設けられているのさ。これは何故だ?」
「…………」
「建物の内装に目を向けようか。壁の黒も床の黒も天井の黒も扉や窓枠の黒も、黒はどれも艶消しの黒だ。石造りの部分は荒削りの、やはり艶消しの仕上げ。調度類も皆これに準じている。窓などに使われている硝子は、基本的にすべて磨り硝子か模様硝子だろう? 食器類も同様だ。硝子製のものはたいてい濁りや曇りが入っている。陶器はあるが磁器は置いていない。金属製ではなくて木製のスプーンやナイフ。照明装置や何かの金具や装飾にも、光沢のあるものはまったく使用されていない。
「ああ……」
呻くような声を洩らしながら、私は再び部屋の天井と伝統を振り仰ぎ、続いて壁や窓や床、家具の様子に目を巡らせる。そうやって今さら確認してみるまでもないことではあった。すべては確かに、玄児の云うとおりなのである。
「それよりも何よりもね、もっと分りやすいところでこの屋敷には一つ、決定的な欠落[#「決定的な欠落」に傍点]がある。分るだろう、中也君。普通の家には必ず複数備わっているものが、この屋敷にはない[#「ない」に傍点]。いっさいない、と云ってしまうと嘘になるんだが……つまり、最近になって初めて、例外的に取り付けられたそのもの[#「そのもの」に傍点]があってね」
「最近になって、初めて……」
そう訊いて、思い当たる節が一つだけあった。「最近になって初めて」取り付けられたのならば、まわりの他の調度類に比べて、それ[#「それ」に傍点]は明らかに新しく見えるはずではないか。
「玄児さん。もしかしてそれ、その例外的な一つというのは、〈東館〉の、あの」
「ようやく気づいたかな」
「〈東館〉一階の洗面所にある、あの――」
二日目の朝、最初にそれを見た時すぐに、それだけがいやに新しい品である[#「それだけがいやに新しい品である」に傍点]と分った。どうしてこんな……という、あのとき感じた一瞬の疑問が、ささやかな違和感として心に残ってもいた。
「あの鏡[#「あの鏡」に傍点]、ですか」
「そう。あの鏡だ」
玄児は薄く笑った。
「来客用の棟の洗面所に鏡がないというのは、やはりまずかろうと思ってね。君が来ることになってから、急いであれを取り付けさせたんだが、あのとおり、観音開きの扉を閉めれば鏡面はすっかり隠れてしまうようになっている」
「確かに……ああ」
私は溜息とともに呟いた。
「この家には鏡が[#「この家には鏡が」に傍点]、ない[#「ない」に傍点]。あの洗面所以外の場所では、一枚も見かけたことが……」
「ないはずさ[#「ないはずさ」に傍点]、一枚もね[#「一枚もね」に傍点]。それがすなわち[#「それがすなわち」に傍点]、この屋敷の決定的な欠落なんだから[#「この屋敷の決定的な欠落なんだから」に傍点]」
そう云って玄児は、ベッドの端に突いていた両手を持ち上げ、大きく腕を広げてみせる。芝居がかったその動きに黒いカーディガンの袖と|身頃《みごろ》が揺らめき、それを見て私は、何故かしら急に胸の鼓動が速くなってくるのを無冠自他。
「吸血鬼は鏡を嫌う[#「吸血鬼は鏡を嫌う」に傍点]。自分の姿がそこには映らないからだ。映らないことによって第三者に正体がばれてしまうのを恐れるわけだな。ここではしかし、それとは逆の心理[#「それとは逆の心理」に傍点]が強く俺たちを支配しているんだ」
「逆の心理?」
「ああ。これは、さっき話した〈不死性〉の三つの段階と関係する問題でね」
広げていた腕を下ろし、玄児は右手の指先で前髪を掻き上げる。そして云った。
「第三の段階、すなわち不老不死達成の段階に至った者は、その時点で鏡に姿が映らなくなる――と、そう伝えられているのさ。そんな莫迦な、とはもう云わないでくれよ。ねえ中也君、いいね」
こちらを見る玄児の目にはまた、先ほどと同じ狂信者の色が宿っていた。私は何とも答えず、かと云って俯いたり顔を背けたりもせず、まっすぐな視線でその目を受けた。
「自分の〈不死性〉が望むべき高みに達すれば、自分の姿は鏡に映らなくなる。逆に云えば、鏡に自分の姿が映っている限りは、いまだ自分はその高みには達していないということだ。日々、鏡の中に自分の姿を認めるたびに、俺たちは否応なくその事実を突きつけられてしまうわけさ。
今日も映っている、今も映っている。明日も明後日も、来月になっても来年になっても、何年経っても何十年経っても……いつまで経っても自分は『成功』に到らず、このまま映りつづけることになるのではないか。鏡の前に立つたび、必ずそんなふうに思う、思わされてしまう。それは落胆であり苦痛であり、恐怖や絶望をすら呼び起こすものだろう。おのずと鏡は|嫌忌《けんき》の対象となり、ダリアと玄遙の身辺から排除されることとなった――。
この屋敷には、だから鏡がない。建造当時から意図的に、その欠落は組み込まれた。鏡と同じように姿を映すもの、姿がはっきりと映り込んでしまうもの――たとえば普通の透明な硝子、たとえば光沢のある金属や石、たとえばぴかぴかに磨き上げられた家具……それらも極力、建物から排除するように配慮された。こうしてこの暗黒館は造りあげられた。増改築や再築に際してももちろん、このルールは厳格に守られてきたわけで……」
ここだけじゃない――と、私は今さらながらに思い返す。東京で玄児が住むあの白山の家。あそこにも、そうだ、洗面台の鏡の一枚すら備えられていなかったではないか。
知らずのうちにまた、「ああ……」と呻くような声を洩らしていた。何故だろうか、全身の力が急に抜けていく気分だった。
「庭や屋敷の窓から湖面が見えないというのも、同じ理屈ですか」
緩慢に頭を振り動かしながら私が問うと、玄児はわずかに目許を緩め、
「理解してくれたようだね」
と答えた。
「影見湖の『影見』は『鏡』の語源だとされているが、そんな名称が付けられたくらいだから、かつてこの湖は現在よりももっと透明度が高くて、湖面は文字どおり鏡のように周囲の風景を映していたに違いないのさ。だから、そんな巨大な鏡はどこからも見えないようにと、切れ目なく高い塀が巡らされ、屋敷や塔の窓の位置も然るべく|塩梅《あんばい》されたんだな。その湖も今や、君も目撃したとおり、『人魚の血』で赤く濁ってしまったけれどね」
「なるほど」と呟いたところで、ふと思い出したことがあった。あれは最初のよる、玄児と二人で〈表門〉の外の桟橋を調べにいった、あの時……。
「ひょっとして、玄児さん」
私はすぐに訊いてみた。
「『鏡』のような湖面だけじゃなくて、湖の『水』そのものも、ここでは嫌忌の対象となってるわけですか」
「ん? どうしてそう思う」
「最初の夜、桟橋から流れ出してしまった舟を見つけたでしょう。江南青年が乗ってきたと思われる、あの手漕ぎの船です」
「ああ、うん」
「あの時、舟はまだそれほど岸から離れていなかったから、泳いでいって捕まえるのも難しくはなさそうだなと思ったんです。なのに玄児さんは、|端《はな》からそんなことは考えていないふうで」
「ははあ。それで中也君、吸血鬼は清涼な水が苦手だから、とでも?」
「いえ、そういうわけじゃあ」
「云ったろう、あの湖で泳ぐのは危険なんだと。むかし溺れ死んだ使用人親子の話も、確かあの前にしていたよね」
「ええ。ですが、あの時の状況を考えると……」
云いだしてみてもこれは、あまり意味のないことだったかもしれない。そう思い直して、私は発言を曖昧にしたまま口を噤んだ。ところがそこで、玄児がぼそりと云った。
「水は苦手なんだ」
「――はい?」
「いや、これは俺の個人的な事情でね。浦登家全体の問題じゃない」
「はあ」
「泳げないんだよ。生まれてから一度も泳いだことがない。正確に云えば、その記憶がない。九歳の秋までは、あの塔から一歩も外へ出たことがなかったわけだしね」
玄児は自嘲気味に頬を引き攣らせる。
「その後も泳ぐことはなかった。ここの湖ではもちろん、他の場所でもまったくね。今も泳げない。だから水は苦手なのさ。怖いんだ」
そういうことだったのか、と納得する一方で、しかし私の脳裡には瞬間、先ほどいったん頭の隅に追いやろうとしたはずの言葉がよぎらざるをえなかったのである。
吸血鬼。
さまざまな点で形≠ェ異なりはするが、そう云ってみずから否定してみてもやはり、玄児たちはその|眷属《けんぞく》なのではないか、と。
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玄児はベッドから立ち上がると、滑るような歩みで暖炉の前に戻ってくる。そして椅子の肘掛けの部分に腰を載せ、右手を背凭れの上に突いた。
私に対しては真横を向いて左の半身だけを見せた格好で、まったくこらちに目をくれようとしない。部屋の反対側――東側に張り出した塔屋の方へと視線を投げながら、そのまましばし動きを止める。私に考える時間を与えようとするかのように。みずからの心の波立ちを鎮めようとするかのように。
「最初に建てられたのはこの〈西館〉と〈東館〉だった。旧〈北館〉の建造はその何年かあとになる」
やがて口を開いた玄児の声は、さっきまでよりもずっと静やかに、冷ややかに響いた。
「当初は熊本の屋敷が本邸、こっちの屋敷が別邸という位置づけだったが、程なくダリアは一年の大半をここで過ごすようになった。玄遙の方は当時すでに〈鳳凰会〉の会長職に|就《つ》いていたが、その関係もあって、けっこう頻繁に本邸と別邸を行き来する生活が続いたというね。
そんな中、玄遙とダリアに第一子が生まれた。玄遙四十四、ダリア二十九の年のことだ。ダリアに似た美しい女の子で、名は桜と付けられた。
二人の間には実は、その翌々年だったかにもう一人子供が生まれていてね。|玄徳《げんとく》と命名されたこの男の子はしかし、生後数年で死んでしまったらしい。後に桜が生んだ麻那という女の子や、君も知っている清と同じ病気で」
「早老症、ですか」
「ああ」
玄児は真横を向いたまま頷いて、
「〈ダリアの血〉を引く者に死をもたらす、唯一の病気さ」
「早老症は、この浦登家に生まれる者が背負うリスクの一つ……と?」
「そういうことだな。玄遙のようにダリアから直接〈血〉を与えられたり、ダリアの子孫という形で〈血〉を受け継いだりした者は、原則として皆、少なくとも第一段階の〈不死性〉を獲得するわけだが、一方で時として、清のような早老症の子供が生まれてしまうことがある。そしてこの病気の子は、いかに手を尽くしても決して人並みには長く生きられない。幼くして急速に肉体が老化し、死に至る。清もいずれそうなる。これはまさに、浦登家に生まれることのリスクと云えるだろう」
「何故そんなことが」
「皺くちゃのお猿さん」のようなあの少年の顔を、|藁半紙《わらばんし》のようなあの手の感触を思い出しながら、私は訊いた。
「何が原因で、そんな」
「分らない」
と答えて、玄児はゆらりと首を横に振る。
「分らないから、どうにも仕方のない定めとして、これは受け入れるしかない。望和叔母さんはそれが耐えがたくて、あんなになってしまったわけだが」
「ですが、玄児さん」
「分らないんだよ、本当に。医学的にはまったく原因不明だし、助ける方法もない。清はあれで、長く|保《も》っている方だろう」
玄児は首を振りつづけながらも。
「しかしたとえば、俺はこんなふうに考えてみたことがある。かなり強引な理屈になるけれども」
そう云って一瞬だけ、私の方に目を流した。
「この世界、宇宙においては、生命――生≠ニいうものの総量・絶対量が定まっている、といった前提をまず置いてみる。人間から虫けらに到るまで、世のすべての生≠足し合わせていくと、そこにはある一定の量が存在する、とね。そしてこの膨大な量の生≠ノは、実は何か目に見えない繋がりとでもいうようなものがあって、定められた枠の中で常に増減の帳尻を合わせようとしている[#「定められた枠の中で常に増減の帳尻を合わせようとしている」に傍点]。過剰な|偏《かたよ》りを正し、量的均衡を保とうとしているんだな」
「――はあ」
「そんなところへ、〈不死性〉を獲得した人間たちが表われる。これはつまり、生≠フ量的均衡を崩す現象に他ならない。〈ダリアの血〉を受けた者には、病死や自然死は訪れない。本来ならば然るべき死に方をして、他に配分されるべき生≠ェそうはならず、ずっとひとところに留まりつづけることになるんだから。いまだ実現は叶っていないが、恐らく俺たちのどこかに潜在しているはずの〈不老性〉の素因も、むろん大きな問題となってくるだろう。
こういった偏りを正そうとする力が、ここで働くわけさ。不死や不老の具現をめざす血族の中に、ある確率でそれとは|真逆《まぎゃく》の素因を持つ、つまり早老症の人間が生まれてしまう、という形でね。云い替えれば、不死や不老を達成しうる〈ダリアの血〉には、ア・プリオリに相応のリスクが組み込まれているってわけだな。分るかい」
「はあ、何となく」
「いったいこれが何者の配剤なのかは知らないがね。まさかここに神≠フ概念を持ってこようという気もないし……」
私は沈鬱な気分で玄児の横顔を見据え、「いずれにしても」と呟いた。
「犠牲になる、ということですか。一族の〈不死性〉を存続させるために、誰かが犠牲になって帳尻を合わさせる」
「尊い犠牲だと云えるな」
「清君は事情を全部、知っているのですね」
「ああ。あの子は頭のいい子だから」
ことさらのように平然とした調子で、玄児は答える。
「いま話したような理屈で理解しているかどうかは分らない。けれども、自分がこんな病気を背負って生まれてきたのは、自分の父親や母親が長く生きるための代償なのだろう、といった程度の認識は持っているはずだよ。望和叔母さんがあんな死に方をしてしまって、だから清はよけいに辛いわけさ。せっかくの自分の犠牲が、これじゃあ報われないではないかと」
「…………」
「話を戻そう」
と云って玄児は、一瞬だけまた私の方に目を流した。
「ダリアの〈不死の血〉を受け継ぐ娘として桜は、この屋敷で育てられた。二人目の子、玄徳を早老症で失うという不幸はあったにせよ、おおむねこの時期の浦登家には平穏な日々が続いた。玄遙にとってもダリアにとっても、当時の屋敷の使用人をはじめとする彼らのまわりの者たちにとっても。
中庭の地下に墓所が作られたのは、玄徳が死んだ時のことだったというね。その際、玄遙の最初の妻と二人の子供たちの遺骨もこっちに移されたそうだが、この時にはまだ、あそこも〈惑いの檻〉なんていうふうには呼ばれていなかったんだよ」
「そうなんですか。じゃあ……」
「そんな異名が生まれたのはもっとあと――二十七年前に桜が自殺したあとの話でね」
「二十七年前……」
どういうことなのだろう、と首を傾げる私をよそに、玄児は「それはともかく」と言葉を接いで、
「成長した桜は十八歳の時、卓蔵と結婚した。卓蔵は当時二十八歳、前途有望な青年官吏だったというね。どんないきさつがあったのかは知らないが、それが玄遙と知り合って目をかけられ、この屋敷に招かれるようになり、ダリアや桜と引き合わされた。つまりはお眼鏡に適って娘婿に選ばれた、というわけさ。卓蔵はそれに応える決断をした。家や経歴のいっさいを捨て、桜と結婚して浦登家の一員になろう、という。その見返りとして彼には、ダリアの〈不死の血〉と〈鳳凰会〉における相応の地位・役職が与えられる約束だった。――ところが」
玄児は心持ち険しい声音になって、
「ところが、そうして二人が夫婦になった時点で、すでに問題は発生していたんだな」
「問題……と云いますと」
「桜の腹の中に赤子が宿っていたのさ」
私は「ええっ」と当惑の声を洩らした。
「それはどういう」
「卓蔵との間に婚前交渉があって妊娠していた、なんていう話じゃないぜ。そうじゃなくて……」
「その赤子は卓蔵氏の子ではなかった[#「その赤子は卓蔵氏の子ではなかった」に傍点]、と?」
「そういうことさ」
「じゃあ、いったい誰の」
疑問を言葉に出してしまってから、私はある忌まわしい答えに突き当たった。
「――まさか」
突き当たったその答えを口にすることには、しかし強いためらいを憶えた。それを察知したのか、
「考えているとおりだよ、中也君」
ゆっくりとこちらに顔を向け、玄児は吐き出すように云った。
「桜が|孕《はら》んでいたその赤子がつまり、死んだ俺の母カンナだったわけだが、父親は卓蔵ではなくて[#「父親は卓蔵ではなくて」に傍点]、実は玄遙だった[#「実は玄遙だった」に傍点]――というのが、誰も表だっては云わないけれども、この件についての定説さ」
「それは、鬼丸老がそう?」
「鬼丸老は――」
玄児は静に眼差しを下げ、
「断言はしなかったが、否定もしていない。最初は酔っ払った野口先生が俺に洩らした話でね。先生は父から聞いたんだろう。父は、ひょっとしたら卓蔵から聞かされたのかもしれないし、あるいは玄遙本人から、だったのかもしれない」
「…………」
「玄遙が何故そんな、己の娘を身ごもらせるような真似をしたのか。もはや本人に問いただすことも叶わないから、これは無責任に想像を巡らせるしかない。桜があまりにも若い頃のダリアそっくりな美しい娘に育っていったから……などとね。その時期、玄遙は六十過ぎ、ダリアは四十代の終わりに差しかかり、容色も衰えはじめていたに違いない。遠い異国で出会い、劇的な恋に落ちた頃の妻の美貌や色香を、玄遙は成長した娘の上に見出してしまい、噴き上げてくる衝動を抑えきれなくなり……」
「それで桜さんを犯した、というのですか」
「尋常な行為とはもちろん云いがたい。少なくともその時点で、玄遙が真っ当な精神状態じゃなかったことは確かだろう。獣まがいの衝動で自制できない状態。ある種の狂気に一歩踏み込んでしまったような状態。――と思う一方で、俺はこんなふうにも想像してみる。
実の娘と交わり、子を孕ませる。明らかにこれは神≠フ許すまじき悪行だ。あるいは、浦登家の末裔たる玄遙の中に存在していた『我れらは神に見放された一族である』という意識が、本人もそうとは自覚できないままに彼を支配し、神への反逆≠フささやかな一環としてそれを行なわせたのかもしれない、と」
玄児は意見を求めるように、ちらとこちらに目を向ける。私がすぐには何とも応じられずにいると、再び眼差しを下げながら先を続けた。
「ともあれ、この時期から浦登家は――と云うか、玄遙とダリアを中心とするこの家の中の人間関係は、徐々にいびつさを増しはじめるわけだが……」
「あの、玄児さん」
私は聞いた。
「卓蔵氏はそのことを――桜さんが自分以外の男の子供を宿していたことを、あらかじめ知らされていたのですか」
「知らされていた。それが玄遙の子であるということまでね。すべてを承知の上で、彼はこの家の婿に入った――という話なのさ」
「すべてを承知で……」
「〈不死の血〉と〈鳳凰会〉における地位・役職の保証を条件に、卓蔵はすべてを呑み、義父となる玄遙への服従を誓ったわけさ。浦登家の財力や権力をいずれ己の手の内に、という野心もそこにはあったに違いないが、結局のところそれ以降の卓蔵の人生は、ただ玄遙の|傀儡《かいらい》としてのみあった。命じられた仕事や役割を忠実にこなすといった点においては、卓蔵はまことに優れた人材だった。玄遙にしてみれば、いかにも扱いやすい、御しやすい相手だったということだ。だからこそ玄遙は、娘婿として彼という人物に白羽の矢を立てたのであって……」
「十八年前の事件の動機に関して、卓蔵氏は玄遙氏を密かに憎みつづけていたから、と云っていましたよね。あれはつまり、このことで?」
先ほど「あとまわし」にされた問題の一つが、とりあえずこれで解決したように思えた。玄児は「そうだな」と頷いて、
「みずから選んだ|途《みち》だったとはいえ、何十年もの間玄遙の傀儡でありつづけるしかなかったことへの不満が積もりに積もり、怒りとなり憎しみとなり、とうとう爆発したのだろう、と。二十七年前の桜の自殺についても、その真相はどうあれ、やはり彼なりに思うところがあったのだろう、と」
「まさか玄児さん、その後の桜さんの子供たち――美惟さんや望和さんも、本当の父親は卓蔵氏ではなく……」
「いや、それは違う」
即座に否定して、玄児は椅子の肘掛けから腰を浮かせる。
「玄遙が桜に産ませたのは最初の子、カンナだけだったと聞いている。その他の娘たちは、美惟も望和も、早老症で死んだ摩耶もみんな、間違いなく卓蔵の子であったと。さすがに玄遙も、そこまで|無体《むたい》な真似はしなかった、そこまで狂ってはいなかったということだが――」
玄児は立ち上がり、額に掌を当てながら私の方を向き、そして云った。
「その時期、狂っていったのは玄遙ではなく、ダリアの方だったのさ」
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「ダリアの玄遙への想い、執着はそれほどに深く強いものだったのだ――と伝えられている」
玄児は滑るような歩みでまた、今度は私の傍らを通り過ぎて部屋の北側へと向かった。薬箪笥のような黒い中背の棚の横、二枚のヴェネツィアの仮面が飾られた壁の前まで行って立ち止まる。振り向いてその姿を追う私に背を向けたまま、彼は続けた。
「卓蔵と結婚した後、桜は宿していた赤ん坊を産んだ。カンナと名付けられたその女の子が、実は玄遙と桜の間にできた罪の子≠ナあったことを、ダリアがいつまでも知らずに済んだわけがない。彼女は激しく嘆き、|憤《いきどお》った。憤りは当然まず玄遙に向かい、娘の桜にも向かい、さらには罪の子カンナにも向かったことだろう。だが、やがてそれはいびつな屈折を繰り返してダリア自身に跳ね返ってき、彼女の内面を焼き尽くしていった。
単純化していってしまえば、こういうことだ。若い頃の自分にそっくりな美しさを備えた娘の桜に、仮にそれがいっときの気の迷いであったとは信じるにせよ、玄遙は心を奪われ、狂おしい衝動を抑えられなくなった。その原因はすなわち、自分にある。自分がもはや若くはないこと、かつての美しさが衰えてきてしまったことにあるのだ、とね。そこでダリアの心に生じたのは――」
言葉を切り、玄児はこちらを振り返る。そして「分るね、中也君」とでも云うように、私の口許に視線を注いだ。
「それはつまり、〈不老性〉の獲得に対するこれまで以上の切望だった。〈不死性〉の第三段階に到って実現されるはずの不老不死、その〈不老性〉を何としてでも早く手に入れたい、と。そうしてみずからの老いを止め、あまつさえ若返って往年の美しさを取り戻すことまでを、彼女は狂えるほどに欲するようになったのさ」
「狂えるほどに……」
「そう。文字どおり、狂えるほどにだ」
玄児は壁の方に向き直りながら、
「中也君、こっちへ」
と、私は招いた。私はおっかなびっくりで椅子から立ち上がり、玄児の背後に歩み寄る。
「ここにも実は、こんな仕掛けがある」
そう云って玄児は、黒い壁面に並んだ仮面の片方――白と灰色に顔が塗り分けられた右側の一枚――に手を伸ばす。檸檬形に穿たれた両眼の穴に人差指と中指を差し入れ、何をするのかと考える間に、仮面全体を壁に沿って数センチ押し下げた。
かすかな金属音が響いたのは、壁の中からだったように思う。続いて、ごとっ、と重い音がして、横の棚が動いた。棚そのものが後ろの壁と一体となって、扉のように前方へ迫り出してきたのである。
「隠し扉だよ」
と、玄児が云った。
「解錠装置と連動したレバーの先に、この仮面が取り付けてある」
玄児は迫り出してきた棚の端に両手を掛け、手前に引いた。幅一メートル足らず、高さは私の背丈と同じほどの扉≠ナある。鈍い軋みとともに開かれたその扉の向こうには、わずかに黴臭さが漂う真っ暗な空間が待ち受けていた。
玄児が先に入り、明かりを点け、
「おいで、中也君」
と、私を呼ぶ。私はやはりおっかなびっくりで、その招きに従う。
畳敷きにして六畳かもう少し広いくらいの、長方形の部屋であった。窓は一つも見当たらない。艶消しの黒とくすんだ赤に塗られた背の高い衣装棚らしきものが、何本も両側に並んでいる。正面奥の壁に向かって、両袖に抽斗が付いた低い机とストゥールが置かれている。衣装室兼化粧室、とでもいったところか。本来ならば当然、机の上には鏡が備わっているはずだろうが、ここにはそれは、ない。
隠し扉を元どおりに閉めると、玄児は私の肩に軽く手を置いて、
「中也君、これを」
と注目を促す。
示されたのは、閉じた扉の横手の壁だった。例のヴゥネツィアの仮面が飾られている、そのちょうど裏側に当たる箇所だが、そこにも寝室側と同じように二つの仮面が飾られている。しかしながらそれらは、寝室側の仮面とはまるで趣の違う、ひどく異様な代物だった。
見た途端に浮かんだのは、「鉄仮面」という言葉だった。材質が鉄そのものなのかどうかは分らないが、それらはどちらも黒ずんだ金属でできている。
一つは頭からすっぽりと被るタイプのもので、龍だか獅子だか鬼だか、どれともつかぬ恐ろしげな怪物の顔が造作されている。もう一つは顔だけを隠すタイプのものだが、面を固定するため頭の後ろに巻きつけるベルトが、これも革や紐ではなくて金属製だった。まん円に穿たれた両の目に鋭く尖った耳、鍵形に曲がった大きな鼻、いびつに裂け広がった口……こちらは人間の、それもたぶん女性の顔だけれど、その形相はやはり何とも恐ろしげである。
「いわゆる『不名誉の仮面』の一種だろうと思うんだがね」
と、玄児が注釈を加えた。
「『不名誉の仮面』?」
「中世の欧州諸国で使われた、|晒《さら》し刑のための刑具さ。醜悪で屈辱的な仮面を無理やり被らせ、往来に立たせて晒し者にしたんだな。『がみがみ女の|轡《くつわ》』とか『|驢馬《ろば》の耳と豚の鼻の仮面』とか、聞いたことないかい」
「――さあ」
「大きく云えば、これはその流れを汲むものなんだろうと思う。どちらの仮面も、自由に着脱できないよう鍵が掛かる仕組みになっている」
「鍵が……」
「いつの時代に作られたのかは不明だ。古い品に見えるが、複製品である可能性も高い」
「何か特別な由来が?」
「あるのかもしれないし、単にダリアが趣味で手に入れただけのものなのかもしれない。俺たちにはもはや知るよしもないことさ」
そう云って玄児はわずかに肩を竦め、
「いずれにせよしかし、象徴的じゃないか。玄遙と出会ってこの国に来て、この屋敷に住みはじめた頃のダリアが表の魔女≠セったとすれば、桜がカンナを産んで以降のダリアは裏の魔女≠ニなっていった。ちょうどこの壁の表と裏のように、ね。寝室側に飾られた仮面が表の仮面=A隠し部屋側に飾られたこの仮面が裏の仮面=c…」
黒い壁面に並んだ鉄の仮面。奇怪な二つのその顔がいよいよ恐ろしげなものに見えてきて、思わず目を背ける。傍らで腕組みをする玄児に向かって、そうして私は云った。
「文字どおり狂えるほどに……ダリア夫人は、いったいどんな」
「今から四十五年前――」
答えながら、玄児は物憂げに目を細めた。
「ダリアが五十歳の年にそれは始まった――と伝えられている。あまりにも忌まわしいことなので、本当にそんな出来事があったのかどうか、誰も明言しようとはしない。当時を知る鬼丸老にしても、この件についてはかたくなに口を閉ざして語らない。だからこれは、あくまでも噂のレヴェルの話……だったんだが」
誰かに聞き咎められるのを|憚《はばか》るかのように、玄児は声を押し殺す。聞き咎める第三者など、むろんここにはいるはずがないのに。
「光よりも闇を愛す、愛しつづける……それだけでは間に合わない、と焦ったんだな、ダリアは。その挙句、彼女は始めてしまったんだ。〈不老性〉の早急な獲得をめざした。その恐ろしくも忌まわしい試みを」
「恐ろしくも、忌まわしい」
「研究、もしくは実験と呼んでもいいだろう。『悪魔的な』なんていう形容を、あえてそこに付けてみてもいい」
玄児はさらに声を押し殺す。私は息を呑んで耳を傾ける。
「ダリアの云うがままに動く下男が当時、鬼丸老とは別に一人いた、という話がある。彼女はその下男に命じて、峠の向こうの村から村人をさらってこさせたんだ。若い女や子供が、もっぱらその標的となったという。さらわれてきた村人はまず、〈十角塔〉に監禁されたものらしい。俺が幼少期を過ごした、最上階のあの座敷牢に」
「ああ……」
私は呻いた。玄児は押し殺した声の色を変えることなく、
「ダリアはそして、監禁した村人を材料にしてさまざまな実験を行なった。と云ってももちろん、まともな科学的・医学的実験ではない。実験と云うよりもむしろそれは、虐待や拷問に近いような所業だったという」
「…………」
「この時ダリアの頭にあったのは、古くより生命の源とされてきた血≠フ神秘的効用だった。若い女性や子供の血液を飲み、その生命力を己の肉体に取り込もうという。――〈闇の王〉と交わした本来の契約を逸脱して、彼女の狂える心はそこに、一日でも早く第三の段階を達成するための活路を見出そうとしたんだ」
「血……なのですか、やはり」
「それ見たことか、とでも云いたげだねえ」
「あ、いえ」
「確かにね、君の好きな吸血鬼、さ」
皮肉めかして云うと、玄児は片頬を引き攣らせるようにして笑む。
「本質は違う、とあくまで俺は云いたいが、この時期のダリアについては、そう云ってみても説得力がなさそうだね。吸血鬼……そうだな。彼女は期せずして、みずからをその域に追い込んでいったとも云えるだろう」
「…………」
「もっとも彼女は、ただ単にさらってきた者たちの血を抜き取って飲んだだけじゃない。たとえばその者に悲しみや恐怖を与えた時の血、たとえば快楽を与えた時の血、絶望や苦痛を与えた時の血……恐怖や苦痛と云っても、さまざまな恐怖や苦痛があるよね。仮に肉体的な苦痛に限定するにしても、それが与えられる部位によってもその程度によっても、実に多種多様な苦痛の形≠ェありうる。そういった多種多様な条件下での血液を、彼女は準じ、試していったというのさ。そのうち血≠セけでは飽き足らず、さらってきた者たちの肉≠ノまで、その試みの対象は広がっていったという噂もある」
「まるで――」
頭に浮かんでくる光景のおぞましさに身震いしながら、私は喘ぐように云った。
「まるでそれはあの、ハンガリーの女吸血鬼……」
「ハンガリーの……はあん、エリザベート・バートリかい。よく知ってるねえ」
「いつか、何かで読んだことが」
「三百年以上も昔の話だな、さらに昔の話になると、かのフランスのジル・ド・レ公もまた、夜な夜なおぞましい血の|饗宴《きょうえん》を繰り返していたわけだが」
玄児はあからさまに顔を顰めながら、「ふん」と低く鼻を鳴らし、
「どちらも血≠フ神秘に魅入られ、破滅的な狂気に呑み込まれてしまった異常者だね。しかしダリアの場合は、確かに彼らと形が似てはいるが、そこまで凄まじい殺戮に到ることはなかったはずだし、彼らのような過剰な変態性欲とも無縁だったはず……と、彼女の血を引く人間としては考えたい、信じたいところだな。最終的にダリアの犠牲になった村人の数は十三人と云われているけれども、たとえばバートリ伯爵夫人の場合、チェイテ城で発見されたのは実に六百人分以上の虐殺死体だったというからねえ。数千人分という説もある。桁違い、どころの差異じゃない」
「…………」
「とは云っても、ダリアの研究・実験においてもやはり、回を重ねるに従って行為の残虐度はエスカレートしていったに違いない――と思う。〈十角塔〉の地下にはそのために部屋が作られていて、そこには犠牲者たちに恐怖や苦痛を与えるための拷問具が種々、置かれていて……という噂もある。今は地階への入口が完全にコンクリートで塞がれてしまっていて、中の様子を確かめることはできないんだが。さらわれてきた村人たちは結局この地下室で、あるいは最上階の座敷牢で、一人また一人と息絶えていった――という話だ。
そういったダリアの狂乱は十年以上もの間、続いたという。結果として、その間に拉致された十三人の村人たちは、一人として生きて村に帰されることはなかった。全員が〈十角塔〉の地下室か座敷牢で命を落としてしまい、その遺体はこの島のどこかに埋められて……と、そんなふうに云い伝えられていたのさ」
「それが、あの人骨の沼≠フ?」
「そうだよ。まさか今頃になって、しかもあんな状況の下で出てこようとはね」
「…………」
「市朗というあの少年が、あれほどに俺たち浦登家の人間が怖がるのは、今でも村にその昔の噂が伝わっているからなんだろう。かつてのある時期、若い女やら子供やら、何人もの村人たちが行方不明になった。それはどうやら、密かに『峠の向こうの浦登様のお屋敷』へ連れていかれたものらしい。あの屋敷にはきっと、人をさらって喰う、恐ろしい怪物が棲んでいるのに違いない……なんて具合にね」
「それを――そんなダリア夫人の所業を、誰か家の人は止めようとしなかったのですか」
「誰も止めなかった、ということになるね。止めようにも止められなかった、というのが実情だったんだろう」
「しかしそんな……」
「表面上、浦登家の最高権力者であった玄遙にも、それは止められなかった。彼は彼なりにダリアを愛しつづけていたが、同時に彼女をたいそう|畏怖《いふ》していたともいうから。実の娘と交わり、あまつさえ子まで産ませてしまったという己の|過《あやま》ち、裏切りの負い目もむろんあったことだろう。だから恐らく、見て見ぬふりをしているしかなかったのさ」
「…………」
「十年以上の歳月が過ぎ、犠牲者は十三人にも上ったが、それでも結局のところ、ダリアが切望してやまぬ〈不老性〉の獲得は実現されえなかった。どんな人間のどんな血≠飲んでみても、肉≠食してみても、彼女の老いは止まらなかったし、若い頃の美しさを取り戻すことも叶わなかったんだな。――そこで」
低く押し殺されてきた声が、不意に色を変えた。それまでより幾段も高く鋭い響きを持たせて、玄児は云う。
「そこに到って、狂える魔女ダリアの心には大きな変化が生じた」
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「くたびれたろう、中也君」
そう云って玄児は、傍らに立つ私の背中に掌を当てた。
「その椅子に掛ければいい。話は後もう少しだ」
「――はい」
云われたとおりに私は、正面奥の机の前に置かれた黒い布張りのストゥールに、玄児の方を向いて坐る。玄児はその場に立ったまま両手を腰に添えて、
「十数年にわたる悪魔的な研究・実験、そしてその失敗の末、ダリアは悟ることとなった」
今度は必要以上に押し殺しもしない、昂らせもしない声で、続きを語りはじめるのだった。
「これでは駄目だ、と彼女は思ったのさ。こんなことをいくら続けていても駄目だ、とね。こんなことで第三の段階の達成を早めようとしても、とうてい無理な話だったのが。それどころか自分は、〈王〉との本来の契約にそぐわぬ、大変な間違いを犯してしまったのではないか。その間違いをもってしてすでに、自分は永遠≠ニの一体化をめざす資格を失ってしまったのではないか、と。
そこで彼女の内面に生じた変化。これを『正気に戻った』と見るのか『さらなる狂気に取り込まれていった』と見るのかは、解釈次第だろうと思う。かつてのダリアの心は、玄遙の過ちに対する失意や憤り、それとは裏表の関係にある玄遙への執着、『死にはしないが老いていくこと』への恐怖や焦燥といった感情に強く支配されていた。桜と卓蔵、カンナらに対してもやはり、同様なネガティヴな、引き裂かれた想いを抱きつづけていたに違いないわけだけれども、この時点に到ってそれが、文字どおりみずからの血を分け与えた同類・同族への寛容≠ノ転化した――と、そんなふうに考えることもできる。長年にわたる狂いの果てに、狂える魔女の心に生まれた母なる慈愛、とでも云うんだろうか」
「慈愛」
何とも意外な言葉を聞いた気分で、思わず私はそれを反芻していた。
「母なる慈愛、ですか」
玄児は神妙な顔で頷いてみせると、心持ち口調を和らげて「その結果――」と続けた。
「その結果、ダリアは一大決心をするに到った。それが今から三十年前、ダリアが六十五歳でこの世を去った年のことだ。ちなみにこの時、玄遙はすでに齢八十。卓蔵は四十六、桜は三十六か。カンナは十七になっていた。美惟と望和はまだ十歳前後の子供だった。
もう分るだろう、中也君。彼女の決心とはすなわち、みずからの不死の生≠ノ終止符を打つことだったわけだ。ただし、自殺は絶対に許されない。だから、当時の家族全員の手を借りて自分を殺させたのさ」
「ああ……」
「寝室のベッドに|仰臥《ぎょうが》したダリアの胸を、六人が短刀で一人一刺しずつしていったという。ダリア自身の命令で、彼女が暴れ出さないよう手足をベッドに縛り付けた上でね。短刀もダリア自身が用意したもので、その刃の部分は真っ黒に、柄は真っ赤に塗られていたらしい」
「さっき玄児さんが腰掛けていたあのベッドの上で、だったのですね」
「そうだよ。今でもあの|天鵞絨《ビロード》のカヴァーの下には、その時の血の痕が残っている。黒々とね」
玄児は右手を腰から離し、シャツの胸ポケットを探る。煙草を取り出そうとする仕草だったが、そこで部屋に灰皿がないことに気づいたらしく、口惜しげに小さく舌打ちをすると、下ろした手をカーディガンのポケットに潜り込ませた。
「こうして〈ダリアの肉〉は生まれた」
と、そして玄児は結論を述べた。
「彼女はつまり、こんなふうに考えたわけだな。〈王〉とのそもそもの契約を交わした自分自身の血≠ニ肉≠アそが、他の何物にも勝る力≠備えたものであるはずだ。そのすべてを、玄遙をはじめとする家族の者たちに分け与えよう、と。そうすることで必ずや、果たせなかった自分の願いがいつか、彼らにおいて実現されるに違いない。個体としての自分は、この時この場で不完全な不死の生≠捨て、その代わり愛する同類・同族たちの中で、その血として肉として、永遠≠ニの望ましき一体化をめざそう――とね」
――ダリアの切なる願いを受け止め、遺されたその言葉を信じ、我れらは我れらの永遠をめざす。
〈宴〉で聞いた暗黒館当主のあの口上が、今ここでまた、私の脳裡に響き渡る。
――光を厭い、この世界に偏在する闇という闇の中に密やかに身を潜め……そうして永遠の|時間《とき》へと我れらが命を捧げるのだ。
「こうして〈ダリアの肉〉は生まれた」
と、玄児は結論を繰り返した。
「以降、母なるダリアの遺志に従い、毎年の〈ダリアの日〉の〈宴〉において、浦登家の者たちはその〈肉〉を食すこととなった。それによって、すでに〈ダリアの血〉を受けているものについてはその〈不死性〉が強化され、いまだ血を受けざるものは新たに〈不死性〉を得る。そう信じられ、この三十年間、この家の最大の秘儀≠ニして綿々と続けられてきた……」
……そうか。そういうことか。
そして私は――私もまた、招かれたあの〈宴〉の席で、それを食してしまったわけなのか。〈ダリアの肉〉を。狂える魔女が遺した、不死をもたらす肉を、血を。ああ、しかしそんな……。
私は膝に両手を突き、上体を屈めてのろのろと頭を振り動かす。肉体と精神に広がり、いかがわしい粘性を持ちつつあった例の胡乱な痺れは、いつしか消え去っていた。いや、消え去ったのではなくて、それはもはやこの身体と心にすっかり溶け込んでしまい、違和感を自覚することすらできなくなっているのかもしれなかった。
「父――柳士郎がカンナと結婚して浦登家の一員となったのは、ダリアが死んだ翌年のことだった」
玄児の話はなおも続く。
「聞くところによると、柳士郎と浦登家との付き合いはダリアの死以前からのものだったという。〈鳳凰会〉系列の病院に関係していた、将来を|嘱望《しょくぼう》される若き医学者として玄遙の目に留まり、屋敷に招かれたのが始まりだったらしい。カンナとの出会いもそれがきっかけだった。初めて会った時、まだ十代の半ばだった彼女の可憐さに、一目で彼は魅了されたのだというね。機会が重なるごとにやがて、彼女の方も彼のことを憎からず想いはじめ……おのずと彼は玄遙らの信頼を得、家の内情にも通じるようになっていった。
ダリアの死に際して、その死亡診断書を作成する任を負ったのも、実は柳士郎だったという話だ。もちろんありのままを書くわけにはいかなかった。その時点でどの程度まで事情が明かされたのかは知らないが、あくまでも『病死』ということで、彼は偽の診断書を作らされたわけだな。
次の年――今から二十九年前の秋の初め、柳士郎は卓蔵がかつてそうしたのと同様に、医学者としての将来を捨てて浦登家の婿に入る。もっとも、卓蔵のそれがしたたかな打算に基づく行為だったのに対し、柳士郎の場合はまず、心からカンナを愛し、カンナからも愛された、それゆえの決断だった。後の征順叔父さんと同じさ。カンナはその時、十八歳。彼女もまた桜と同じく、若い頃のダリアに良く似た美しい女性に成長していた」
語りながら玄児は、私の背後の壁と天井の境目あたりに視線を投げかけ、静かに目を細める。一度として見たことのない母カンナの姿を虚空から呼び出し、その瞳に映そうとするかのように。
「カンナと結婚した柳士郎は、直後の〈ダリアの日〉の〈宴〉で〈ダリアの肉〉を食べた。『〈肉〉を食する』という方法によって新たに〈不死性〉を受け継いだ最初の人間が、すなわち彼だったんだ。そして――」
視線の向きはそのままに、玄児は瞼を閉じた。
「その翌々年の夏、八月五日の深夜に俺が生まれ、カンナが――母が死んだ。同じ年の秋には桜が、齢三十九にして自殺の禁忌を犯した」
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瞼を閉じたまま玄児は、ふっつりと口を噤んだ。長く続いた話も、ようやく終わりを迎えようとしているのか。そう思いながら私は、そんな玄児の姿を見つめていた。やがて――。
薄い下唇を軽く噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、276-上-18]んだかと思うと、玄児はやるせなさそうな長い溜息とともに目を開けた。そうしておもむろに私の前まで歩み寄ってき、「中也君」と呼びかけながら床に|跪《ひざまず》くのだった。
「眠っている君の腕に俺の血を注射したのは、必要だと思ったからだ。そう云ったよね。あの言葉に嘘はない」
云いながら玄児は、膝の上に置いていた私の右手の甲に、そっと自分の両掌を重ねる。血の通わぬもののようなひんやりとしたその感触に、私は思わず身を硬くした。
「君は一昨日の夜、〈宴〉のあの席で、皆の大いなる祝福の下に〈ダリアの肉〉を食した。それによって君もまた、ダリアの〈不死の血〉を受け継いだはずなんだ。信じられないだろうが、君はもう病で死ぬことはない。年老いての自然死を迎えることもない。――なのに翌日、朝から君はずっと体調不良を訴えていただろう」
「ですからそれは、あの葡萄酒を飲み過ぎて……」
右手を|拳《こぶし》にしながら、私は小さく首を振る。
「元々あまりアルコールには強くないんです」
「ああ、もちろんそう了解はしていたさ」
応えて、玄児はいったん掌を上げたが、すぐに今度は私の右手首を両手で握りしめた。彼が貸してくれたパシャマの、黒い繻子織りの布地の上から、ちょうど私のその腕の、あの時の注射針の痕が残るあたりに視線を突き刺しながら。
「了解はしていたが、そこへあの蜈蚣騒ぎだ。気を失ったきり何時間も目覚めない君を見て、俺は無性に心配になった。無性に不安になった。もしかしたら、〈ダリアの肉〉によって受け継がれたはずの〈不死の血〉が、君の中で正しく機能していないのではないか、と」
玄児は私の顔に目を上げ、ふっと寂しげな笑みを見せる。
「何ともはやね、我れながら元医学生にあるまじき行動だとも思うが、それで俺は、自分の血を――ダリア直系の子孫である自分の血を直接、君に与えることにした。念のためにそうしておかなければ、と考えたのさ」
「玄児さん……」
……何故だ、と玄児の目をねめつけながら私は、乱れやまぬ心の中で問う。
いったい何故、玄児はこの私をこの屋敷に呼び寄せたのだ。この私をあの〈宴〉に招いたのだ。この私にあの〈肉〉を食べさせたのだ。いったい何故、玄児は……ああ、そして私は……。
「俺の血はA型だ」
唐突にそう云って、玄児は私の手首を握る両手に力を込めた。
「中也君、君と同じA型だ」
何を云い出すのか、と訝しむうち、玄児の手がすっと私から離れる。そうして彼はその場に跪いたまま、力なく面を伏せた。
「どうして自分は九年もの間、〈十角塔〉のあの座敷牢に閉じ込められなくてはならなかったのか。諸々の事情を教えられたあとも、俺はずいぶんと思い悩んださ。最愛の妻カンナを死に至らしめた子。母親を殺して生を得た子供……そんな俺が、父は憎かったのだという。しかし本当にそれだけの理由なのだろうか、と。君もこの話をした時、同じような疑問を口にしていたよね」
「ああ……はい」
「俺は思い悩んだ。美惟と望和、二人の叔母たちや野口先生にも話を聞こうとしたが、彼らは何も答えちゃくれなかった。鬼丸老にもっと突っこんだ質問をしてみようかとも考えたが、なかなかその踏ん切りもつかなくてね。悩みつづけた挙句、俺は自分で調べてみたんだ」
「調べる? ――何を」
「血液型さ」
「あ……」
「病院の記録を当たったりもしてね。そんなに難しいことでもなかった」
「――で?」
「俺の血液型はA。柳士郎はB。そして、死んだカンナもBだったと判明した。これが何を意味することなのか、分るね」
玄児は上目遣いに私の反応を窺いながら、
「B型の父親とB型の母親の間に、A型の子供は生まれえない。中学か高校で習ったろう。遺伝学の初歩だ」
私は「え、ええ」と返事を詰まらせ、
「それじゃあ、玄児さんは」
「十八年前に自殺した卓蔵の血液型はAだった」
と、玄児は吐き出すように云った。
「――まさか」
「事実さ」
玄児は再び面を伏せると、まるで抑揚の失せた、紙のような声で語った。
「これは卓蔵の玄遙に対する、十八年前のあの事件に先立つ復讐≠セったんじゃないか。俺はそう思った。玄遙が我が子を犯して生ませた娘を、今度は自分が犯す。結果、生まれたのが俺だった。母と同様、俺もまた許されざる罪の子≠セったわけだ。だから、その事実を知った柳士郎は、激しく俺を憎んだ。俺という存在がどうしても許せなかった。そして恐らく、当時まだこの家の実権を握っていた玄遙にそれを訴え、卓蔵の罪を認めさせ、俺を〈十角塔〉に幽閉してしまうことを了解させたのさ」
「――そんな」
「当然ながら彼は、卓蔵を憎みもしただろう。卓蔵の方がそれにどう答えたのかは、今や柳士郎本人に聞いてみないと分らないことだが。俺が生まれた年の秋に桜が自殺したのも、きっとこのあたりの歪みきった人間関係に、直接の原因があったんじゃないかと思う」
「そんな」と繰り返し呟いたきり、私は二の句が継げなかった。
玄児は柳士郎の血を引いた息子ではなかった。彼の祖父であったはずの卓蔵が、娘のカンナ――彼女は彼女で実は卓蔵の血を引いた娘ではなかったわけだが――に生ませた罪の子≠セった。――確かに何といびつな、罪深い構図だろうか。
どうにもやりきれない気分で、私は|項垂《うなだ》れた友人にかけるべき言葉を探したが、それが見つかるよりも先に、
「俺は――」
と、玄児の方が口を開いた。
「この何年もの間ずっと、俺は自分が、いま云ったような出生の秘密を背負った人間だと、そう思って――思いこんで過ごしてきたんだが」
最後の「が」の逆説の意味が分らず、「はい?」と目をしばたたく私の前で、
「違ったのかもしれない[#「違ったのかもしれない」に傍点]」
喉の奥から絞り出すようにそう続けて、玄児は床に突いていた膝を伸ばした。
「違う?」
私は驚いて首を捻る。
「どういうことですか、玄児さん」
「ひょっとするとね、話はまったく違っていたのかもしれないんだ」
立ち上がると、玄児はその場でひらりと私に背を向けてしまう。と同時に、両肩を|痙攣《けいれん》のように震わせながら、くっ、くっ……と低い声を洩らしはじめた。どこかしら調子が狂ったような、聞く者の神経をざらざらと撫でつけるような、それは笑い声であった。
「玄児さん」
私はストゥールから腰を浮かせて、
「どういう意味ですか。何がどう違っていたと」
肩の震えと笑い声が、ぴたと止まる。
「望和叔母さんの絵だよ」
こちらに背を向けたままで、玄児は云った。
「アトリエの、あの未完成の壁画だ」
「あの絵が? いったい」
「君に意見を求めただろう。あの壁画の隅に描かれている、あの異様な暴虐の図について」
「あ、はい」
そのことはむろん憶えていた。
闇に咲いた大輪の黄色い花。花心から滲み出た血のような深紅。その下で、和服姿の若い女が、異形の翼≠ニ三本指の足を持つ悪魔めいた化物に組み敷かれている、あの……。
「あそこまで露骨で細密な表現ではない、もっと抽象度の高い小品ばかりだが、あれと似たような構図の絵を、望和叔母さんはこれまでにもいくつか描いていた。それらは皆、彼女が昔、たぶんまだ十歳かそこいらの自分に目解したある光景[#「ある光景」に傍点]をモティーフにしたものなのではないか。以前から俺はそう考えていた」
「あの黄色い花はカンナだと……」
「そう」
「だからあの、化物に襲われている女性はカンナさんである、と?」
「そのとおりだ」
「それじゃあ……」
「女に襲いかかっているあの化物こそが、今から二十八年前にカンナを犯して俺を孕ませた男だ、ということさ」
玄児は吐き捨てるように云った。
「望和叔母さんは昔、姉の寝室を尋ねるかどうかした際に、たまたまそれを覗き見てしまった。姉の身体にのしかかったその男の姿が、子供の目にはきっと恐ろしい悪魔に見えたことだろう。その時に焼き付いたおぞましい記憶が、清の不幸を嘆くあまり心が壊れてしまった彼女に、ああいった絵を描かせはじめたわけだな」
「…………」
「で、俺はこれまで、彼女の絵の中の化物の正体は卓蔵であると思っていた。そうとばかり思いこんでいたんだが、昨日あの壁画を見て初めて、それは違っていたのではないか[#「それは違っていたのではないか」に傍点]と悟った。悟らざるをえなかったんだ」
「卓蔵氏ではない[#「卓蔵氏ではない」に傍点]、と?」
浮かせていた腰を座面に戻し、私は問うた。やにわに心臓の鼓動が速くなってきた胸に、知らず、さっき玄児に握られた感触がうっすらと残る右手を当てていた。
「玄児さんの本当の父親は、卓蔵氏でもなかったのだ、と?」
「ああ、そういうことだ」
こちらを振り向くことなく、玄児は頷いた。
「仮にカンナを犯して身ごもらせたのが卓蔵だとして、二十八年前のその時期、彼は四十八歳だった計算になる。十八年前、五十八歳で自殺した時の卓蔵は、下の第二書斎で君にも話したとおり、頭がすっかり禿げ上がっていたんだが、毛髪の脱落は彼の、若い時分からの悩みだったらしくてね。四十代の終わり頃にはもう、薄くなった髪を全部剃ってしまっていたというのさ」
「髪を、全部……」
「しかるに、アトリエの壁画に描かれているあの化物の頭はどうだった。髪の毛はどんなふうだった」
「――それは」
玄児の問いかけに対する答えを探り寄せながら、私はおろおろと視線を彷徨わせる。するとそこで、こちらから見て左手――部屋の東側の端に当たる場所に、階下へと伸びる狭い階段があることに気づいた。立ち並んだ衣装棚の陰に隠れていて、今の今まで気づかないでいたのだ。
「あの化物の髪は――」
……ああ、あんなところに階段が。
「逆立つように振り乱された、真っ白な……」
この下にまだ、部屋があるのか。
「そうだ」
強く頷いて、玄児はやおら私の方に向き直る。私はびくりと背筋を伸ばす。
「カンナを襲っているのは、白髪を振り乱した[#「白髪を振り乱した」に傍点]異形の化物だった。だからつまり――」
勇気のように蒼ざめた顔を、これ以上ないほど冷たくこわばらせながら、玄児は云った。
「玄遙だったのさ[#「玄遙だったのさ」に傍点]。当時八十二歳、カンナの祖父であり、なおかつ実の父でもあった彼――初代玄遙こそが、この俺の本当の父親だったんだ」
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間奏曲 五
変化が、起きようとしていた。
何が決定的な引き金となったのかは定かでない。「これこそが」と云えるような、明らかな契機が存在したわけではなく――。
このような状態[#「このような状態」に傍点]に陥ってからの絶対的な時間の経過が、あるいは大きな要員の一つだったのかもしれない。その中で視点≠ェ捉えつづけてきた情報の総量がついに総和に達したから……と、そういうことだったのかもしれないし、そのような一切合財とはまったく無関係に、ただ単に[#「ただ単に」に傍点]それは起きはじめたのかもしれない。
とまれ、確かに変化は起きようとしていた。
急激な変化ではない。劇的な変化でもない。視点≠ェ十八年前の過去≠離れ、十八年後の、同じ夜を過ごす者たちの現在≠ノ立ち戻ったあたりから、徐々にではあるが、着実に。
本来この視点≠フ主体となるはずのもの[#「もの」に傍点]――半透明の隔壁の後ろで、昏い混沌に沈みつづけてきたそのもの[#「そのもの」に傍点]――は、出来事の積み重ねのうちに少しずつ、そこから抜け出しつつはあった。それがここに到ってようやく、一つの自律的な形≠取り戻しはじめたのである。
[#ここから太字](この学生は、いったい)
(この男の子は、いったい)
(ああ、これ[#「これ」に傍点]はいったい)[#ここで太字終わり]
複数の自我に寄り添い、多くの体験を共有してきた視点=Bその後ろ側で、時折り首をもたげる感覚や認識、思考のたどたどしい断片。
[#ここから太字](……この看板)
(これは何故、こんな……)
(……あの車は)
(……あの男は)
(……あの建物は)
(……お母さん?)
(ああ……お母さん)[#ここで太字終わり]
これらの断片は|何処《いずこ》から湧き出してくるのか。それすらも、昏い混沌に沈んだそのもの[#「そのもの」に傍点]は把握できずにいたのだが――。
[#ここから太字](……薄暗い廊下)
(……不審そうな表情)
(……の老人)
(……甲高く)
(……窓の外で)
(……見知らぬ顔ばかり)
(……中性的な声)
(……呼んでいた)
(……前の長椅子に)
(……ぽつんと坐っていて)
(……何なのだろう。この妙な)[#ここで太字終わり]
だが今、ようやくここに自覚≠ェ生まれつつあるのだった。これらの感覚や認識、思考の主体はすなわち、ここにあるこのもの[#「このもの」に傍点]なのだ、と。
[#ここから太字](これは? という一瞬の……)
(ああ、これはいったいどういう……)
(……この少年は)
(……市朗か)[#ここで太字終わり]
これらの主体はこのもの[#「このもの」に傍点]である。それはすなわち、ここにあってすべてを見つづけてきた「自分」なのであり……。
[#ここから太字](……自分[#「自分」に傍点]は何者なのか。ふとそれが、明確な疑問の形となって迫り出してきたが)
(すぐにまた混沌に呑み込まれてしまい……)[#ここで太字終わり]
……そう。この時には一瞬、「自分」という主体が意識化されたのだったが。
[#ここから太字](日が変わって二十六日……九月二十六日の、今は……)
(……ああ、ここにもこんな)
(ここにもやはり、という認識がまたぞろ、昏い混沌の中から浮かび上がってはきたものの……)[#ここで太字終わり]
分裂していた視点≠ェ一体化し、十八年前の過去≠ヨと跳躍した後も、基本的な状態に大きな変わりはなかったのである。しかし、今――。
[#ここから太字](……これは十八年前のあの湖、影見湖の)
(これは十八年前のあの島の)
(これは十八年前のあの館、暗黒館の……)
(……十八年の時間を超えて、今ここに)
(ああ……そうだ。〈北館〉は十八年後のそれとは形が違っている。この年の冬に起こる大火災で、これは焼失して)[#ここで太字終わり]
これらの断片の主体は「自分」なのだ――と、そのもの[#「そのもの」に傍点]は理解しつつある。そのもの[#「そのもの」に傍点]とはそして、彼[#「彼」に傍点]のことに他ならなかった。
[#ここから太字](……玄児。この子が十八年前の、浦登玄児)
(……静。この四十がらみの女性が、諸井静)
(……忠教。あの子が、諸井静の息子の)
(……玄遙。この年、すでに九十二歳だった初代当主、浦登玄遙の)
(……卓蔵。この年、齢五十八だった玄児の祖父、浦登卓蔵。この男が今夜)[#ここで太字終わり]
……そう。
[#ここから太字](……柳士郎。この年、まだ四十歳だった浦登柳士郎。九年前に妻を失ったまま、いまだ再婚はしておらず)
(……美惟。浦登美惟。この年、彼女は二十三歳。死んだカンナとは六つ年の離れた姉妹であり)
(……望和。この年、まだ二十歳の若さだった浦登望和)
(……鬼丸。鬼丸老。この年、齢七十過ぎだったはずの)[#ここで太字終わり]
……そうだ。
[#ここから太字](甘く軽やかな、そのくせどこかしら薄暗く物寂しい響きを含んだ三拍子の……)
(ああ、これは「赤の|円舞曲《ワルツ》」。あのからくり時計のオルゴールに入っている……)[#ここで太字終わり]
そうなのだ――と、彼[#「彼」に傍点]は追認する。
「自分」はずっとここにあって、視点≠通してすべての出来事を見つづけてきた。十八年前の過去≠フ出来事も、十八年後の現在≠フ出来事も。
[#ここから太字](ここ[#「ここ」に傍点]は……)
(……あの部屋[#「あの部屋」に傍点]だ)
(……浦登玄遙)
(ああ、この人[#「この人」に傍点]は……)
(あの額縁[#「あの額縁」に傍点]だ)
(……火掻き棒?)
(……いる[#「いる」に傍点])
(あれ[#「あれ」に傍点]はいったい)[#ここで太字終わり]
では、いったいここにあるこの「自分」とは何なのか。何者かなのか。
[#ここから太字](……角島、十角館炎上)
(……全員死亡)
(館を包み込んだ赤い炎のイメージが、おのずからその記憶と響き合い……)[#ここで太字終わり]
……何なのか。
[#ここから太字](館を包み込んだ赤い炎の……)
(このイメージは。記憶は。……そう、これは)[#ここで太字終わり]
……何者なのか。
[#ここから太字](……あの少年の?)
(これはきっと、あの人の……)
(……この声は)
(この悲鳴は)[#ここで太字終わり]
この世界≠ノ満ちた冷ややかな悪意と、それが含み持ついかがわしいしいを感じ取ることは、やはり決して叶わぬまま――。
[#ここから太字](……玄児、か)
(あれから十八年後の、これが……)
(中也……)
(みんなから中也の名で呼ばれている、この「私」は……)[#ここで太字終わり]
これはいったい何なのか[#「これはいったい何なのか」に傍点]、という根源的な疑問に、そして彼[#「彼」に傍点]は突き当たるのだった。昏い混沌の中からようやく浮上し、緩やかに機能を回復しはじめた能動的・自律的な意識の下に――。
[#ここから太字](……違う)
(……違う。あの夜のあの時、確かに玄児はそれを見たのだ……という思考が不意に、これまでになくはっきりと)[#ここで太字終わり]
これは何なのか[#「これは何なのか」に傍点]。
[#ここから太字](……そうだ。そのあたりに)
(違う。幻覚でも妄想でもなく、あれは……)[#ここで太字終わり]
何がここで起こっているのか[#「何がここで起こっているのか」に傍点]。
[#ここから太字](……確かにそう、あの時この火は消されて)
(……クリストファー・リーの? という唐突な疑問が、このタイミングで今さらのように)[#ここで太字終わり]
遠からず、彼[#「彼」に傍点]はすべてに気づき、すべてを了解することになるだろう。
今はただ、その時機が来るのを待つしかない。これまでどおりここにあって、視点≠ェ捉える世界≠フ展開を見守りつづけるしか。
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
……九月二十六日、午前四時過ぎ。
〈東館〉一階にある座敷の薄暗がりの中で、江南はこの夜何度目かの夢から覚めた。
塔からの墜落の際に負った傷は、たいがい良くなってきている。左手に巻かれた包帯の下にも、もうさほど傷みはない。頭の芯にへばりついた例の痺れるような感覚は相変わらずだけれども、二日目の夜のように、眠ろうとしても眠れないということはない。――なのに。
この消耗感は何だろう。
身体も心も、ひどく疲れているのが分る。眠っても眠っても、なかなかそれが取れない。むしろ眠れば眠るほど、心身ともに疲労が募ってくるような気もする。
夢のせい、だろうか。
二日目の夜とは違って、布団の上に横になって目を閉じれば、すぐに眠りに引き込まれるのだ。けれど眠りはどれも浅くて短くて、夢ばかりを見る。あまり見たくはないような夢ばかりを、何度も見てしまう。
今さっきの眠りで見たのは、炎の悪夢だった。
激しく燃え猛る凶暴な炎の夢[#ここから太字](……角島。十角館炎上)[#ここで太字終わり]。その中で独り逃げ惑う夢。熱気と煙に巻かれつつ[#ここから太字](……全員死亡)[#ここで太字終わり]、必死で助けを呼びつづける夢……。
……これは?
これはもしかして、僕自身の記憶の一部分なのだろうか。
目覚めてなお生々しく残る炎のイメージ。その向こうには広大な空白がある。迂闊に触れると今現在の自分の存在までが呑み込まれてしまいそうな、これは僕自身の記憶の空白……か。
その前の眠りで見たのは、確かそう、死んだあの人[#「あの人」に傍点][#ここから太字](……お母さん?)[#ここで太字終わり]の夢だった。
少年の頃の僕があの人に手を引かれて、どこかの街の埃っぽい道を延々と歩きつづける夢。真夏の青空。照りつける陽射し。……けれどもいつしか、僕たちは離ればなれになってしまう。気がつくと僕は独り、しゃぼん玉みたいな透明な球体の中にいて、あてどなく宙を漂っている。そのうち突然、彼方で光が弾ける。目も眩むような、恐ろしいほどに巨大な、怪物めいた閃光が……。
……これは[#ここから太字](何だろう、この光景は)[#ここで太字終わり]?
これもやはり、僕自身の記憶の一部分なのだろうか。
時が経つに従って少しずつ、昏い混沌の海の底から浮かび上がってきた記憶。それらはしかし、ばらばらに散乱したパズルの破片のようで、整合性を失った数式の羅列のようで、本来あるべき全体の形はなかなか見えてこない。
やがていくつかの破片同士が寄り集まり、部分的なまとまりを持ちはじめ……とともに、みずからを取り巻くこの世界の大まかな輪郭は掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、289-上-4]めてきたように思えた。自分が何者なのかはいまだにはっきりと分らない。だが少なくとも、なぜ自分がここに存在しているのか、その基本的な意味合いは分ってきたようにも思えた。
そんな中で、江南は夢を見る。
浅く短い眠りの繰り返しのうちに、さまざまな夢を見る。
一つ夢を見るごとに、新たなパズルの破片が現われる。それらをどうにかして、全体の中の然るべき位置に嵌め込んでいかなければならない。――そうだ。そうすればきっと……。
「……江南君、起きろ。起きるんだ」
と誰かに揺り起こされたのは、あれは――あれも夢だったのか。いや、違う。あれは夢ではなくて、そう、現実の出来事だ。
「望和叔母さんが死んだ。誰かに殺されたんだ」
声の主は浦登玄児だった。江南はその時、シャツもズボンも靴下も脱いだ肌着だけの格好で、湿っぽい掛布団にくるまっていた。
夜もだいぶ更けてきた頃だったと思う。建物の外ではまだ、騒々しい嵐の音が続いていた。
「望和叔母さんが……分るかな。君が夕方、舞踏室で出会ったあの女性だよ。彼女が……」
望和叔母さん……望和……浦登望和。清というあの哀れな少年の母親の。
「君はどうしていた」
玄児に訊かれ、江南はうろたえた。
「ここにいたのか。だいたい六時から七時くらいの犯行だったんだ。その時間、君は?」
答えようにも、相変わらず声が出なかった。「よく分らない」と答えるつもりで江南は、枕に頭を載せたまま首を横に振ってみせた。
「夕方以降はここで休んでいたんだね」
さらに聞かれて、今度は曖昧に頷いてみせた。
「いま俺に起こされるまでは、ずっと眠っていたわけかい」
これにも曖昧な頷きで答えた。
「――そうか」
玄児は呻くように呟くと、それからなおもしばらくの間、黙って布団の脇に座し、横たわったままでいる江南の身体を見下ろしていた。何だかひどく物思わしげな面持ちだった。
……あれは。
あれは現実だった。頭は朦朧としていたけれど、夢ではない。実際にあった出来事だ。
清少年の母親、浦登望和の死。彼女は死んだ。蛭山というあの男と同じように、殺されて……そう、きっと死の安らぎを得たのだ。
|気怠《けだる》い身体を起こすと江南は、明りを小さくした座敷の薄闇に長々と溜息を落とす。溜息とともに閉じた瞼の裏側に、するとまたぞろ、あの病室の光景が浮かんでくる。
薬臭いベッドにやせ衰えた身を沈め、疲れ果てたような目をこちらに向けるあの人の姿。――これはもう、確かなものとして蘇り、固定された僕自身の記憶。あの夏の日の、あの……。
長期にわたる|患《わずら》いだった。決定的な治療法もないまま、彼女の肉体は日々、理不尽な病魔に|蝕《むしば》まれていきつつあった。医師は絶望的な見通しを語った。彼女はそれを信じようとしなかった。決して信じようとはしなかったが、しかし……いや、それゆえに……。
江南は強く頭を振って瞼を開く。
病室の光景は薄闇に溶け散り、代わって脳裡に別の光景が映し出される。これはそう、今から何十時間か前の……。
この浦登家の屋敷――暗黒館をめざして、長い道のりを走ってきた。あの黒い車に乗って。霧深いあの峠を越えて……。
……そうだ、と江南は思い出す。
山道に入るよりずっと前、街中のどこかで、そう云えば喫茶店のような場所に立ち寄ったのを憶えている。珈琲を飲み、トーストを食べ、煙草を吸うのに店のマッチを貰って……。
あの時は、そうだ、僕は札入れを持っていた。焦茶色の札入れを、ジャケットの内ポケットに。中にはいくらかの現金が入っていた。それから確か、あの中には昔あの人と二人で撮った写真も[#ここから太字](……一九七五年十一月七日 |孝明《たかあき》十一歳の誕生日に)[#ここで太字終わり]……。
あの札入れはどこに行ったのだろう。
江南は周囲を見まわす。
座卓の上に散らばった千代紙と折り鶴。筆談用のノートとボールペン。灰皿の傍らに煙草があるけれど、あの店のマッチはない。変わりに別のマッチ箱がある。家の誰かが置いていってくれたものだ。
札入れは見当たらなかった。
どこかに落としてきてしまったのだろうか。それとも……。
枕許から消えた懐中時計の件も、むろん忘れてはいなかった。時計が勝手に消失してしまうはずがない。何者かがこっそり持ち去ったとしか考えられないけれども、いったい誰が、何故そんなことをしたのだろうか。
江南は座卓のそばに身を移し、潰れた煙草の箱に手を伸ばす。残りが少ない中から一本を取りだし、茶色いフィルターを噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、276-上-18]みしめながら[#ここから太字](……この煙草は? という違和感がふと、彼[#「彼」に傍点]の意識に)[#ここで太字終わり]火を点ける。煙の味はひどく苦くて、二口も吸うと頭がくらくらしてきた。
薄暗がりに立ち昇る紫煙。今度はその狭間に、蘇った記憶の一部がまた投影される。
……森に突っこみ、大破したあの黒い車。
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
……車を捨て、森の間に伸びた一本道を独り歩いてきた。うまくは思い出せないけれど、この頃からもう、僕の心は当たり前な状態ではなかったような気もする。自分の意思でそうしたと云うより、まるで自分ではない何かに操られて[#ここから太字](……さあ行きなさい、と囁く声がどこかに)[#ここで太字終わり]動いてきたような。
道は湖のほとりに出た。桟橋に船が|一艘《いっそう》つながれていた。どんよりと曇った空の下、湖面は暗い|鈍色《にびいろ》に[#ここから太字](……鈍色に?)[#ここで太字終わり]澱んで見えた。夕闇が忍び寄る中、その舟に乗って湖に漕ぎ出した。舟を漕ぐのにそれなりの苦労はあったものの、やがてどうにかこうにかこの島までたどり着いた。そして――。
そして僕は、あの塔へ[#ここから太字](……あの上へ)[#ここで太字終わり]向かったのだ。黄昏の中に黒々と|聳《そび》え立っていたあの塔――あの十角形の塔へと。
思い出せるのは、そこまでだった。
どうして塔に向かったのかは分らない。どうしてその中に入り、最上階に昇ったのかも分らない。ただ、これもまた確かな自分の意思に従ったわけではなく[#ここから太字](……さあ、あの塔の上へ)[#ここで太字終わり]、おのずと身体がそのように動いてしまっていたような……。
そのあとの出来事――塔上からの墜落前後のことについては、これは依然として、まるっきり思い出せない。バルコニーに出た際に地震が起こって、そのせいで落ちたのだと聞かされたが、まるで憶えていない。完全にその部分の記憶は抜け落ちてしまっているのだった。
――あなたはね、あたしが産んだ子じゃないの。
唐突にまた、病室でのあの人の声が[#ここから太字](……四月一日、エイプリルフールの?)[#ここで太字終わり]。
――あたしが産んだ子じゃないのよ。あなたは昔……。
……ああ、これもいつだったかの、確かに僕自身の記憶。
――あなたはね。
――あなたはね、実は……。
長々とまた溜息を落としながら[#ここから太字](……どういうことなのだろう、これは)[#ここで太字終わり]、江南は再び瞼を閉じる。すると今度は――。
「うふ」
「うふふ」
透明で軽やかな、それでいて忍びやかな笑い声とともに、赤い花柄模様の浴衣を着た二人の少女の姿が、瞼の裏に滲み出す。
「うふふ」
「うふ」
その笑い声が聞こえてきた時、最初は一瞬、幻聴かと疑った。この座敷でこれまでにも幾度か耳にした、例の奇妙な物音や声の類だろうか、と次には思った。事実はしかし、そのどちらでもなく――。
「江南さまね」
「こんばんは、江南さま」
座卓の向こう、四間続きになった座敷の一番奥から、ぴたりと身を寄せ合うようにして並んだ二つの人影が、こちらに向かってくる。それが声の主であった。
「お加減はいかがかしら」
「〈十角塔〉から転落されたのでしょ」
「あの塔の中はどんなふうなのかしら」
「あたしたち、入ったことがないの」
二人の声の色は驚くほどにそっくりだった。そして間もなく江南は、そっくりなのが声だけでないことを知ったのだった。
……あれは。
あれも夢ではなかった。あれも、そう、現実だ。玄児がやって来て立ち去って、そのあとまた浅い眠りに落ちかけた時の。
現われた二人は玄児の妹たちだった。「みどり」、そして「みお」と名乗った。美しい鳥と書いて美鳥、美しい魚といて美魚。声だけではなく顔立ちも瓜二つの双子の姉妹で、しかも彼女たちは、肉体の一部が結合した状態で生まれてきた、いわゆるシャム双生児なのだという。云われてみると確かに、身を寄せ合った二人のまとう浴衣は、脇腹から腰のあたりで一つに縫い合わされているようだった。
「あたしたち、二人で一人なの」
「そうよ。二人で一人なの」
「びっくりした? 江南さま」
「びっくりしちゃった?」
江南はもちろん驚くばかりだったが、異形の双子姉妹はまるで屈託のないふうにくすくすと笑って、
「声が出なくて、お話になれないんですってね」
「可哀想な江南さま」
「大変ねえ」
「中也さまも大変だったのよ。蜈蚣に咬まれて、気を失ってしまわれて」
「でも、もう大丈夫だって、野口先生がおっしゃっていたから……」
「……何だか大変なことばかりねえ」
「蛭山さんは殺されちゃうし……」
「望和叔母さまも殺されちゃうし……」
双子姉妹はそこで、二人同時にふいと眼差しを鋭くし、
「ね、あなたが殺したの?」
「あなたが犯人なの?」
いきなりのそんな問いかけに、当然ながら江南は大いに狼狽した。だが、声を出してそれに答えることは、やはり彼にはできない。双子はお構いなしに続けて、
「だってね、江南さまはどこの誰だか分らない人だから」
「ご自分が誰なのかも思い出せないのでしょ」
「だから、怪しまれても仕方ないわ」
「ひょっとしたら江南さま、頭のおかしな人なのかもしれないし」
「頭がおかしくて、ほんとは病院に入ってなきゃいけないのに……」
「それが間違って出てきちゃったのね」
「ひょっとしたら……そうよねえ。頭がおかしいから、誰でも良かったのね、殺す相手は」
「そういうの、殺人狂っていうんですって」
「そうね、殺人狂ね」
「それで、ついふらふらあっと……」
「ついふらふらあっと、人を殺しちゃうのね」
「怖いわ」
「怖いわねえ」
二人して「怖い」と云っておきながら、すぐにまたくすくすと悪戯っぽく笑う。
どこまで本気で云っているのか。まったくの冗談のつもりなのか。――判じかねて、江南はただおろおろと視線を彷徨わせるしかなかったのだが。
あの娘たちは結局、何をしにきたのだろう。正体不明の|闖入者《ちんにゅうしゃ》のことが気になって、単に様子を窺いにきたのか。気まぐれにそして、僕をからかってみただけなのか。それとも何か、もっと深い意味があっての……。
指先に焼け付くような熱と痛みを感じ、江南はぎょっと瞼を開く。煙草が根本まで灰になり、茶色いフィルターが焦げはじめていた。
目を開けても座敷の薄闇に、双子の姿がかすかに滲んで見えた。煙草の火を灰皿で揉み消すと、それでようやく残像も消え去る。
……僕は。
僕は何者なのか[#ここから太字](……何者なのか)[#ここで太字終わり]。
座卓の端に両肘を突き、うっすらと汗ばんだ額に掌を当てながら、江南は改めてその問題と向き合ってみる。
僕はいったい何者なのか。僕はここで何を[#ここから太字](……何を)[#ここで太字終わり]しようとしているのか。ここではいったい何が[#ここから太字](……何が)[#ここで太字終わり]起こっているのか、起ころうとしているのか……。
パズルの破片はまだ揃っていない[#ここから太字](……曖昧な記憶)[#ここで太字終わり]。肝心な部分が欠け落ちたままで[#ここから太字](曖昧な自己認識)[#ここで太字終わり]、いまだ完成には程遠い気がする。眠ってまた夢を見れば[#ここから太字](ああ、どうしてこんな……と、彼[#「彼」に傍点]は戸惑いつづける)[#ここで太字終わり]、新たな破片が現われるのだろうか。それを幾度も繰り返していったなら[#ここから太字](……何て曖昧な、この世界の輪郭)[#ここで太字終わり]、いずれこのパズルは完成するのだろうか。そうしたら僕は……。
掌を額から外してのろりのろりと首を振り動かしながら[#ここから太字](……何て曖昧な、この)[#ここで太字終わり]、江南は布団に戻ろうとした。その時である。
嵐が収まり、暗黒の館を包み込んだ圧倒的な夜の静寂の中、不意に――。
かた、と物音が響いた。廊下の方からだった。
振り向くと、並んだ黒い板戸のうちの一枚が、ゆっくりと開いていくのが見えた。背後の闇と同じ色のガウンを着た背の高い男がそして、戸の向こうの上がり口に立っていた。
「起きていたか」
低く重々しい声だった。男の右手には黒い杖が握られており、その先端で足許を探りながら、一歩二歩と座敷に踏み込んでくる。江南は畳に尻と両手を突いた格好で、思わずずるりとあとずさった。
「恐れることはない」
と、男は云った。有無を云わせぬ威圧感が、男の放つ言葉にはあった。
「私は浦登柳士郎。この屋敷の当主だ」
うらど・りゅうしろう……この人が、この暗黒館の?
「江南――というのだね、君は」
さらに一歩二歩と足を進めて、男――柳士郎が問いかけてくる。江南は黙って頷いてみせる。
「下の名前は、何という」
この問いには、左右に首を振って答えた。いまだにそれは、江南自身にも思い出せないのである。
「何故ここに来た」
と、柳士郎は問いを重ねる。
「何が目的で、君はこの屋敷に」
この質問にも、左右に首を振るしかなかった。
「一人で来たのか。それとも……」
柳士郎は言葉を切って「ふうむ」と不機嫌そうに唸り、
「事故のショックで記憶を失った上、声を出すこともできぬと聞いたが。本当なのかね」
この質問には、ためらいなく頷きを返した。
柳士郎は再び不機嫌そうな唸りを洩らすと、杖で足許を確かめつつ、さらに間を詰めてくる。畳に尻を突いたまま、江南はずるずるとあとずさりつづけたが、やがて背中が|障子《しょうじ》に突き当たり、それ以上の退路を失ってしまった。
「このところ目の具合がよろしくないものでね」
と、柳士郎が云った。やはり不機嫌そうな口振りだった。
「この明りでこの距離だと、ほとんど君の顔が見えないのだ」
ならばもっと明るくすればいい、と江南は思ったが、どうやらそれも相手の望むところではないらしい。部屋の照明は薄暗いままにして、なおも何歩か江南との間を詰め、そこで畳に片膝を落とす。
「時計はどこに」
と、そして柳士郎は訊いてきた。
「君の所持品の中に懐中時計があった、と玄児から聞いたのだが。――どこにある」
初めは曖昧に首を振って応じたのだけれども、それでは答えになっていないことは明らかだった。少しく迷ってから江南は、座卓の上にあったノートに手を伸ばすと、そこにボールペンで返答を書き記して、恐る恐る相手に手渡した。
ノートを受け取った柳士郎は、間近まで顔を寄せて記された文字を読み取ろうとする。なるほど、目の具合がよろしくない――視力に問題がある――というのは本当らしい。
「『ない』」
江南が記した返答を、柳士郎は眉をひそめて読み上げた。
「『なくなった』――と?」
顔を伏せ、江南は頷いた。
「なくなってしまった、と云うのか」
柳士郎はいささか語気を荒げ、
「どうしてそんなことが」
と詰め寄ってくる。江南は顔を伏せたまま、細かくかぶりを振るしかなかった。
「どうしてそんな……」
ノートを座卓の上に放り出して、柳士郎は憮然と口を噤んだ。それから何秒間かの、重苦しい沈黙の後――。
柳士郎はその場に立ち上がると、右手に握った杖をやおら、江南の喉許に突きつけた。江南は驚き、身をこわばらせた。杖の先端は江南の喉をゆっくりと撫で上げ、顎へと移動する。「顔を上げろ」という、それは指示らしかった。
「江南……か」
斜め上方を振り仰ぐような格好になった江南の顔を、柳士郎は上体を屈めて覗き込む。その際、江南も初めて相手の顔をまともに見ることができた。秀でた額に骨張った頬、大振りな鷲鼻……それらはほとんど反射的に、江南の心に恐れと怯えが入り雑じった激しいざわめきをもたらしたのだったが――。
かっと開かれた両の目。その黒眼の部分が城っぽく濁っている様子にも、江南は気づいた。何か重篤な眼病を患っているのか。こんなに濁った目で、いったいこの人には何が見えているのだろう。
「江南……か」
低く重々しい声で繰り返すと、柳士郎は杖を下ろして江南のそばから離れる。
「そう云えば利吉の奴が、何やら折り入って話があると云っていたが。――なるほどな」
独り言のような呟きが聞き取れた。
りきち[#ここから太字](……利吉)[#ここで太字終わり]? 利吉……首藤、首藤利吉……ああ、これは確か、どこかで聞いた憶えのある[#ここから太字](……何故?)[#ここで太字終わり]名だけれど。
「江南君」
と、やがて柳士郎が云った。相変わらず不機嫌そうな――と云うよりも、何だかひどく物憂げな口振りであった。
「まずは自分が何者なのか、よくよく考えて思い出すことだ。ゆっくりと話をするのはそれからが良かろう。よもや急ぐ必要もあるまい」
そうして暗黒館の当主が座敷から立ち去ると、江南は収まらぬ心のざわめきを持て余しつつ、ぐったりと布団の上に身を投げ出した。
今のは現実だ。夢ではない……。
声にならぬ声でそう云い聞かせながら、この夜の闇をたっぷりと塗り込んだような黒い天井を睨みつける。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
同じ頃〈北館〉一階、西翼の予備室にて――。
柔らかなベッドの上で、市朗は目を覚ました。粘りけのある液体に意識が|搦《から》め|捕《と》られたような、深く長い眠り。その合間にぬらりと訪れた、短い覚醒であった。
目を開けた途端、大声で喚き出しそうになったのは、心の芯の部分がまだ、激しい恐怖におののきつづけていたからである。思わず両手を突きだし、枕から浮かせた頭をしゃにむに振り動かす。今にも何かが襲いかかってきそうな、切迫した恐れに囚われてしまったのだった。
――大丈夫だ。怖がらなくてもいい。
耳の奥で、そんな声が響いた。
――誰もお前に危害を加えたりはしないから。恐れなくていい。逃げなくてもいい。
……ああ、これは。この声は。
――心配は要らないから。さあ。
乱れた呼吸と動悸が徐々に静まってくる。己が置かれている今現在の状況――それを把握するのにはしかし、さらに何秒もの時間がかかった。
――大丈夫だ。助けてやるから。さあ、こっちへ……。
この声の主は、「玄児」と名乗ったあの男だ。浦登玄児。この屋敷の当主の息子なのだと、そう云っていた。
安心半分、不安半分の溜息をついて、市朗はそろそろとあたりの様子を窺う。
見知らぬ洋間だった。ベッドの脇に立てられた電気スタンドだけに明りが点されており、室内は薄暗い。人の姿はなかった。横たわった市朗の身体には厚手の毛布が掛けられている。汚れた衣服はすべて脱がされ、浴衣に着替えさせられていた。
……助かった。
市朗は吐息を繰り返す。
助かった……のだろうか。本当にぼくは、助かったのだろうか。
身動きをしようとすると、ずしんと頭部全体が痛んだ。怠い、と云うよりも、重く痺れるような不快感が全身に巣喰っている。寒気はだいぶましだけれど、熱はまだまだ下がりきっていない。深く息を吸うとすぐ咳込みそうになる。総じて、ほとんど最低と云いたくなるようなひどい体調だった。
……ぼくは。
なかば朦朧と|霞《かす》んだ頭で、市朗を思い返す。
ぼくは、あの時……。
激しい嵐の中、硝子が割れ落ちたあとに出来たあの四角い穴から、建物の中に潜り込んだのだ。あれが確か、そう、六時四十五分頃のことで……。
潜り込んだ先は、吹き抜けの大広間だった。幅広の階段が二本、二階部に巡らされた回廊に続いていた。大きな長方形の窓が二枚、入って右手の壁面に見えた。窓の向こうには明りが点いており、透過してくるその光で、そこに嵌め込まれているのが赤い模様硝子だと分った。ところが間もなく――。
稲光が瞬き、雷鳴が轟き……突然、二枚の模様硝子のうちの片方――向かって右側の――が割れたのだった。そして……。
……あのあと、すぐにまた外へ逃げ出そうかとも思ったのだ。けれど、もう一度あの嵐の中へ引き返すきにはどうしてもなれず、|怯《ひる》む心を奮い立たせてあの場に踏みとどまった。階段を昇って回廊を忍び歩いてみたりもしたが、そうこうするうちに誰かがやってきた。玄児と、それから「中也君」と呼ばれていたあの男と……二人が広間に乗り込んできた時には、赤い天鵞絨の布が掛けられた長細い机の下に身を隠した。やがて折りしも発生した停電に乗じ、机の下から駆け出して、侵入に使った硝子の破れ目から建物の外へ脱出したのだったが……。
二人に追われて嵐の中を逃げつづけた挙句、あの泥沼のような場所に追いつめられた。もう駄目だと諦め、必死の想いで助けを乞い……玄児の命令に従って動こうとした途端、落ち込んでしまったあの泥の深み。そこにうじゃうじゃと溜っていた、あのおぞましい人骨の群れ……。
あまりの恐怖に、気が変になりそうだった。
泥の中から次々に浮かび上がってくる骨、骨、骨骨骨骨……まるで生きているように身体にまとわりついてきて、振り払っても振り払っても振り払いきれなくて、このまま泥の底へ引きずり込まれてしまいそうな気がして……。
慎太はきっとここ[#「ここ」に傍点]からあの頭蓋骨を拾ってきたのだ、と思った。そのむかし浦登家の「鬼」にさらわれ、喰い殺された犠牲者たちの、これは骨なのだ、とも。祖母からさんざん聞かされたあの話は真実だったのだ。この暗黒の館には本当に、良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が――世にも恐ろしい「鬼」が棲んでいて……。
――大丈夫だ。怖がらなくてもいい。
玄児には何度もそう云われたけれど、その言葉をそのまま信じる気にはとうていなれなかった。それでも、これ以上逃げまわったところで逃げきれるものではない、もはや自分にはどうにも抵抗のしようがないと観念し、彼の指示に従ってこの建物に戻ってきて……。
そうして連れていかれたのは、裏口を入ってすぐのところにある部屋だった。今いるこの部屋ではない。大きな黒いテーブルと、そのまわりに何脚もの椅子が置かれた、食堂か何かと思われる広い洋間だった。市朗は椅子の一つに坐らされ、やって来た白髪の女――「鶴子さん」と呼ばれていた――が、乾いたタオルと毛布を与えてくれた。彼女は何も話さず、冷たい無表情をまったく変えることなく、部屋の入口付近に立ってこちらを見張っていた。市朗はタオルで髪や顔を拭いただけで、あとはほとんど濡れ鼠のまま毛布にくるまり、独りがたがたと震えつづけていた……。
しばらくして玄児が現われ、入れ違いに鶴子が出ていった時には、何となくほっとしたものだった。玄児はしかし、|憔悴《しょうすい》した市朗の額に手を当てて「熱があるな」と云っておきながら、その後のかなりの時間、文字どおり市朗を質問攻めにした。
根掘り葉掘り、いろいろなことを訊かれた。
お前は何者なのか。どこから来たのか。何のために来たのか。いつ、どうやって来たのか。島にはどのようにして渡ってきたのか。島に着いたあとはどうしていたのか。何故あの広間にいたのか。何故あんなふうに逃げ出したのか。何故……。
休む間もなくあまりにもたくさんの質問をされたので、とても全部を憶えてはいない。なるべく正直に答えようと努めたのだが、云い足りなかったことや云い忘れたこともずいぶんあるように思う。具体的に何が足りなかったのか、何を忘れたのかは分らない。あの時点で市朗は、体力も気力もとうに限界を超えつつあったから、とりわけ後半、精根尽き果ててとうとう気を失ってしまうまでのやり取りについては、ほとんど満足に思い出すことができない。「野口先生」と呼ばれる熊のような巨体の医師がやってきて、何か注射をされたことが、途切れ途切れの記憶の中にかろうじて残っている。――が。
最後の方に受けた質問の中で、はっきりと憶えているものが一つあった。
――隣の部屋との間の硝子を破って、そこから飛び出してきた人間がいただろう。
「……いた。いました」
そう答えたこともよく憶えている。
――そいつはどんな奴だった。とても大切な問題なんだ。お前はそいつを、そいつの顔や姿格好を目撃したんだろう?
「それは」
答えようとして、言葉に詰まった。
「あれは……でも」
稲光が瞬き、雷鳴が轟き……突然、二枚の模様硝子のうちの片方――向かって右側の――が割れた。それは確かに目撃したのだ。けれども、破られたその窓から何者かが飛び出してきた時にはもう、市朗は驚きと恐れのあまり、吹っ飛ぶようにして広間の隅の暗がりに逃げ込んでしまっていたのである。だから――。
硝子の破片が払い落とされる音、広間の床に降り立った何者かの気配、足音……それらを市朗は、逃げ込んだ暗がりにうずくまり、頭を抱え込んだ状態でしか感じ取ることができなかった。そして、どうにかこうにか勇気を奮い起こして顔を上げてみた時には、その者[#「その者」に傍点]は今しも広間から立ち去ろうとしていたところで……そこで初めて、ほんの一瞬、その者[#「その者」に傍点]の影らしきものを見た――ように思う。「目撃した」とは云っても、たったそれだけのことだったのだ。だから――。
だから……いや。
ここに到って市朗の脳裡に、ふと蘇ってきたものがあった。
本当にそうだったのだろうか。本当にそれだけだったのだろうか。
……確か。
確かその前に、ぼくは……。
稲光が瞬き、雷鳴が轟き……あの赤い模様硝子が割れたあの時――。
確かそう、続けざまにまた稲光が瞬いたのだ。そしてほとんど間をおかず、硝子が砕け散る音に覆い被さるようにしてまた、激しい雷鳴が轟いたのだった。
あの時あの一瞬の赤い閃光の中で[#「あの時あの一瞬の赤い閃光の中で」に傍点]、ぼくは見はしなかったか[#「ぼくは見はしなかったか」に傍点]。割れ落ちる硝子の向こうにいたその者[#「その者」に傍点]の姿を、顔を。
直後の展開があまりにも慌ただしくて、そのせいで奇妙な空白に落ち込んでしまっていたけれども、今ここで改めて記憶を探ってみると……ああ、やっぱりそうだ。確かにぼくはあの時、稲光で赤く照らし出されたあの姿を、あの顔を……。
……見ていた[#「見ていた」に傍点]。
ぼくは見ていたのだ。
朦朧と霞む頭で、市朗は思い出そうとする。
あのとき見えたのは、どんな姿だった? どんな顔だった?
たとえばあれは、玄児の顔だったか。いや、彼ではない、彼ではなかった――と思う。では、鶴子というあの女だったか。いや、彼女でもなかった――と思う。百パーセントそう云いきれるのかと訊かれて、迷いなく頷ける自信までは持てないけれど。
最初に裏口から忍び込んだ時、廊下で出くわしたあの、恐ろしげな言葉を吐き散らしていた男……いや、あいつでもなかったと思う。玄児と一緒にぼくを追いかけてきて、蜈蚣に咬まれて気絶してしまったあの男――「中也君」と呼ばれていた――は? 違う。彼でもないと思う。――けれど。
いつかどこかで見たことのあるような[#「いつかどこかで見たことのあるような」に傍点]……。
そんな気もするのだ。強い確信は持てない。うまく思い出すこともできない。けれどもどこかでぼくは、あの顔を……。
それにしても、「とても大切な問題なんだ」と玄児は云っていたが、いったいこれは何事に関わる問題なのか。何かよほどのっぴきならない出来事が、事件があったわけなのだろうか。あの時、あそこで――あの広間の隣の部屋で。
身動きをすると襲いかかってくる頭痛に耐えながら、市朗はいま一度あたりの様子を窺う。
外は静かだった。雷鳴はもちろん、雨の音も風の音も聞こえてこない。嵐はようやっと過ぎ去ったらしい。
窓に閉まった黒い鎧戸。その隙間から射し込んでくる光は一筋もない。――嵐は去っても、この夜はまだ続くのか。夜明けはまだまだやって来ないのだろうか。
そう云えば、慎太は今頃どうしているだろう。ぼくがここにいることを、あの子は知っているのだろうか。――ぼくはこれからどうなってしまうのだろう。無事に家へ帰ることができるのだろうか。それともまさか……。
幾多の疑問が不安とともに浮き沈みする中、市朗はやがて再び、全身に重く粘りついてくるような眠気に搦め捕られていった。
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第二十三章 無明の夜明け
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玄児の本当の父親はこの館の初代当主、浦登玄遙だった――。
あまりに常軌を逸した、狂気の沙汰としか思えぬような総監の構図に、私は戦慄を禁じえなかった。
玄遙が実の娘である桜と通じて生まれた罪の子≠ェカンナだった。そのカンナをまたしても玄遙が犯して生まれた、さまに二重の罪の子≠ェ玄児だったというのか。いったいそんな……。
「カンナはかつての桜と同様、若き日のダリアとそっくりな美しい娘に成長しつつあった。そういう時期に、玄遙が愛し畏怖しつづけてきたダリアが、不死の生≠ノ終止符を打った。歯止めを失って玄遙は、それが許されざる、恥ずべき行為だとは承知しつつも再び、己の悪魔的な欲望と衝動を抑えられなくなり……」
「……そんな。いくら何でも、そんな」
「ありえないって?」
そう云ってすぐに、玄児はみずからかぶりを振ってみせた。
「ありえないことじゃないさ。八十歳を過ぎた老人と二十歳前の娘。考えるだにグロテスクな組み合わせだがね」
「ですが、玄児さん」
「玄遙の血液型はきっとAかABなんだろうな。調べてみれば分ることだ」
蒼ざめこわばった顔に、玄児は場違いな笑みを作る。ひどくいびつな、精神の均衡に狂いが生じたかのような笑みだった。それを見て私は一瞬ぞっとしたが、すぐに何ともいたたまれぬ気分になり、彼の顔から目を|逸《そ》らす。
「玄遙とカンナ、二人が最初に関係を持ったのがいつだったのか」
玄児はことさらに冷然と、自信の傷口を抉るように語りつづける。
「カンナと柳士郎が結婚する前だったのか、あとだったのか。仮にあとだったとして、それは一度限りの過ちだったのか、あるいは柳士郎の目を盗んで繰り返し行われたことだったのか……」
望和が遺したあの壁画の暴虐の図が、嫌でも生々しく頭に浮かんでくる。
白髪の異形に組み伏せられた若い女。濃鼠の和服が乱れ、露わになった白い肌が艶めかしく……そしてそう、女のあの、微妙に引き裂かれた表情。恐怖や嫌悪に衝かれてただ悲鳴を上げている、というふうには必ずしも見えなかった。恐怖だけではなく嫌悪だけでもなく、かすかにではあるがどこかしら陶然としたような……と、そう見えてしまったのは私の気のせいだったのだろうか。それとも……。
いけない、と私は強く首を振る。亡き玄児の母に対するこんな|冒涜的《ぼうとくてき》な想像を、ここでこれ以上してはいけない。そんなことをしたくはないし、しても意味がないと思う。
「玄児さん」
逸らしていた目を戻して口を開いたものの、続けるべき文句が見つからなかった。玄児はいびつな笑みを貼り付けたまま、
「父……いや、柳士郎はこの忌まわしい事実を、いつ知ったのだろうか」
自問するように云って、みずからまたかぶりを振ってみせた。
「本人に訊いてみないことには、これは確かめようがない問題だ。ひょっとしたら当初から気づいていたのかもしれないし、俺が生まれて何年も経ってから初めて知ったのかもしれない。後者の可能性の方が、俺は高いと思うんだが」
「…………」
「つまりね、柳士郎が当初疑いを向けた相手は、やはり卓蔵だったんじゃないかと思うわけさ。玄遙がそのように仕向けた、ということも充分に考えられる。たとえば玄遙は、生まれた赤子の父親について疑念を抱いた柳士郎に、カンナと卓蔵が通じていたという偽りを吹き込む一方で、卓蔵にはそれを認めるように云い含めておいた。そうやって、己の恥ずべき罪を卓蔵に押しつけてしまおう、とね。どこまでも玄遙の傀儡でありつづけるしかなかった卓蔵には、その命令に逆らうことができなかった。
間もなくして桜が自殺を図ったのも、そういった事実を知った結果だったのかもしれない。彼女自身がかつて、実の父である玄遙と罪深い関係を結んで産んだ娘が、あろうことか同じ玄遙と同様の関係を持った挙句、さらなる罪の子≠産んでしまったという、そんな、あまりに耐えがたい現実を目の当たりにして……」
「…………」
「ともあれ、どこかの時点で柳士郎もまた、事の真相に気づいたはずだ。玄遙本人や卓蔵を問いただして突き止めたのか、望和叔母さんから目撃談を聞き出したのか。あるいは他に何か、きっかけがあったのかもしれないが」
言葉を切って、玄児は目を閉じる。大きく肩で息をしてからゆっくりと目を開き、冷ややかな――いや、それこそまるで凍りついたような声で続けるのだった。
「事実を知って柳士郎は、〈十角塔〉の座敷牢に閉じ込めた子供の存在をよりいっそう呪ったことだろう。狂気じみた近親相姦の果てに生まれ出た、世にも汚らわしい怪物……まさにね、彼の目にその子供は、そんなふうに映ったに違いない。汚らわしい、おぞましい、呪わしい……」
いびつな笑みが、さらにいびつさを増す。気の|狂《ふ》れたような哄笑が、今にもその歪みきった唇の間から|迸《ほとばし》り出てきそうにさえ思えた。――が。
玄児はふっと口を噤み、同時にその顔から笑みが消え去った。不意に眼差しを険しくして足許に落とし、苦痛をこらえるかのように下唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、276-上-18]みしめる。そうして低く一言、
「化物め」
唾を吐くようにしていった。
すべての元凶とも云える初代玄遙――玄児の曾祖父でありながら、なおかつ祖父でもあり父でもあるという男――に対する、これは|罵《ののし》りの言葉なのか。それともひょっとして、そんな玄遙の血を濃厚すぎるほどに受け継いだ存在である自分自身を呪い、嘲る言葉なのか。
昨夕あの壁画を見て初めて真相を悟ったのだという玄児の、その瞬間から現在に至るまでの心の内を想像すると、それに同調してこちらの精神状態までがおかしくなってしまいそうだった。私は何も云わず、何も云えず、どんな表情をしたら良いのかも分らずにただ、黙り込んだ友人の姿を見つめているしかなかった。嵐が去ったあとの静寂に重なって、私たちの間にはしばし暗鬱な沈黙が流れた。
やがて玄児は、思い切りをつけるようにぶるっと頭を振ると、
「ねえ、中也君」
いくぶん眼差しを和らげ、口調も改めて私に問いかけた。
「そんな呪わしい子供を、どうして父……いや、柳士郎は十八年前、あの塔から出すことにしたんだろうね」
「それは……」
[#ここから太字](それは……と、彼[#「彼」に傍点]は思う)[#ここで太字終わり]。
「主導権を握っていたのは柳士郎だったはずだと思うのさ。卓蔵はもちろん玄遙も、子供の処遇については強く口出し出来ない立場にあったはずだと。少なくともこの件を巡っては、そういう力関係だったに違いないとね。ならば柳士郎は、子供を一生あそこに閉じ込めておくこともできただろうに。それをどうして」
問われても、私には何とも答えられなかった。
[#ここから太字](血は争えぬものよな――と、そう云っていた)[#ここで太字終わり]
「成長した子供に、死んだ妻の――カンナの面影が強く見えはじめたからだ、という話を聞いたことはある。だから怒りが薄らいだのだ、と」
[#ここから太字](子供ながら二その顔に、いよいよダリアの面影が滲んできおった。カンナの面影も……なあ、柳士郎よ。それでお前も……)
(……そうだ、と彼[#「彼」に傍点]は思い出す。十八年前のあの〈宴〉の席で、玄遙がそんなふうに)[#ここで太字終わり]
「しかしね、それにしても」
そこまで云って、玄児は少しく口を閉ざす。そしてまたぶるっと頭を振り、「まあいい」と呟いた。
「ここでいくらあれこれ考えてみたところで、詮ないことだ。いずれ彼に――柳士郎に直接、すべての疑問をぶつけてみるさ。そうしないわけには、もはやいかないから。――それにね」
と、玄児は私の顔を見据え、
「それに、俺の本当の父親が卓蔵ではなくて玄遙だったとなると、さっき|階下《した》で話した十八年前の事件についても、解釈に大きな変更を加えなければならないことになる。そうだろう」
同意を求められ、私は「えっ」と目をしばたたいた。玄児は「そうだろう」と繰り返し、
「最も強い動機を持っていた人間は誰か[#「最も強い動機を持っていた人間は誰か」に傍点]、という基本的な問題さ。当時この屋敷にいた者の中で、誰が最も玄遙を憎んでいたか。殺してしまいたいと思うほどに」
「ああ……」
そうか、そうだ――と、ようやく私の思考の中でも話が繋がった。
浦登玄遙を最も憎んでいたのは誰か。
それは卓蔵ではない、他の誰かでもない。柳士郎その人だったのではないか。事実の隠蔽に荷担した共犯者≠ニして、彼は卓蔵をも強く憎んだに違いない。だから自殺に見せかけて殺し、玄遙殺しの犯人に仕立て上げようと考えた。二人を亡き者にしてしまえば、その後の浦登家の実権は完全に彼の手中に落ちることになる。事件の発生をまったく当局に通報せず、内々に処理するように話を持っていくのも容易であったわけで……。
……そうだ。浦登柳士郎こそが、十八年前の事件において最も疑われるべき人物なのだ。動機を一番に考えると当然、そういう話になってしまうのである。ああ、だがしかし……。
「もう六時か。夜明けまで間もないな」
と云って、玄児が足を踏み出した。
「行こうか、中也君」
「――はい?」
しどろもどろで首を傾げる私に、
「下だよ」
答えて玄児は、階下に伸びる例の階段の方へ顎をしゃくった。
「この隠し部屋の真下にもう一つ、秘密の部屋があってね。そこの階段だ。気づいていたろう」
「あ……はい」
「『あとまわし』にした問題がまだいくつか残っているからね。さあ中也君、行こう」
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階段は途中で一度直角に折れ、一階へと続いていた。そこにあったのは二階と同じ広さの、窓も扉もない小部屋だったが、上と違って家具の類は何も置かれていない。黒い板張りの床には敷物の一枚も敷かれていない。ただ……。
玄児のあとを追って階段を降り、階下に辿り着いた途端、私は息を呑んで立ち尽くした。その部屋の奥――北側の壁面の様子に目を奪われてしまったのである。
「――絵が」
私は思わず声を洩らした。
「この絵は、いったい」
大きな油彩画が一枚、そこには飾られていたのだった。先ほどの第二書斎の壁に造り付けられていたのと同じような、黒い額縁に収められて。
「どう思う、これを」
と、玄児が訊いた。私はそこに描かれた一種異様な風景に目を釘付けにしたまま、
「これは……あれは時計、ですか」
と訊き返した。玄児は頷いて、
「そう、時計だ」
「――懐中時計?」
「ああ、そのように見えるね」
異様な、そして不思議な絵であった。
大きさは優に百号以上、少なくとも百二十号はあるだろう。画面の中央下よりの位置に、その円い文字盤が描かれている。十二個のローマ数字が並んだ古びた時計の文字盤。「12[#「12」は底本ではローマ数字]」が真下に、「6[#「6」は底本ではローマ数字]」が真上になるよう逆さまに置かれ、なおかつ時計全体はやや上向き加減に倒れている。フレームは黒ずんだ銀色で、そこから同じ色の何本もの鎖が、放射状・網目状に画面の隅々まで広がっている。夜明け前の空を思わせるような暗い赤紫色を背景に、まるで|蜘蛛《くも》の巣のように……いや、どう見てもその形状は、蜘蛛の巣そのものだった。
銀の鎖で編まれた巨大な蜘蛛の巣。時計はその罠に捕われた獲物のようでもあるし、逆に時計の方が罠を張り巡らせた蜘蛛のようでもある。
「六時半、ですね」
気がついて、私が云った。
「あの時計の針が指している時刻……」
「そう。出来すぎた偶然だろう」
懐中時計と云えば当然、思い浮かぶのは江南青年が持っていた例の時計である。〈十角塔〉のバルコニーに落ちていたのを玄児が発見した、あの時計。落下の衝撃で壊れ、動きを止めたその針が示していた時刻がまさに、同じ六時半であったという……何なのだろう、いったいこの偶然は[#ここから太字](何なのだろう、いったいこの……)[#ここで太字終わり]。
絵の前まで足を進めた玄児が、振り返って目顔で私を招いた。応じて私が傍らまで行くと、
「見てごらん、中也君。ここに画家のサインが書き込まれている」
と、玄児は絵の右下隅を指さす。覗き込んで、そこに見憶えのある署名を認めて、私は「ああ」と驚きの声を発した。
「これは――」
〈東館〉の応接間で見た「緋の祝祭」や〈北館〉のサロンで見た〈兆し〉にあったのと同じ、ローマ字の署名。――“Issei”。
「藤沼一成という、例の画家の?」
「そうさ。その筋では天才の誉れ高い幻想画家、藤沼一成。この隠し部屋を見つけてこの絵と対面した時にはね、俺もたいそう驚いたよ。まさかこんなところに、藤沼画伯の作品があるなんて思ってもいなかったから」
「柳士郎氏がわざわざ、この場所にこの絵を飾ったというわけですか」
「いや、そうではないんだ」
と、玄児はきっぱり首を振り、
「描かれた絵をここに運び込んだんじゃない。そうではなくて、ここでこの絵を描かせたんだ[#「ここでこの絵を描かせたんだ」に傍点]」
「えっ」
「よく見てみれば分る」
玄児は再び絵を指さしながら、
「額縁と絵が接している部分を、ほら」
「――あっ」
「この絵は額縁に納められて壁に掛けられているんじゃない。直接壁に描かれているのさ[#「直接壁に描かれているのさ」に傍点]」
「直接、壁に?」
「そもそもこの額縁なんだがね、こいつは第二書斎にあったあの縁だけの額縁≠ニ同様の代物なんだよ。蔓草を象った細工も同じだろう? 元々この壁には、あれと同じ空っぽの額縁だけが造り付けられていた。その『空っぽ』の部分に、画家が直接この絵を描いたものと思われる」
「――そう云えば」
と私は玄児の横顔を窺った。
「『あとまわし』の問題の一つでしたよね。あの妙な額縁には、どんな意味があると? 想像するのはさほど難しくもないと云っていましたけれど、私にはまるで……」
藤沼一成の幻想画――題名を付けるとしたら「時の罠」とでもなるのだろうか――を縁取った目の前の額縁は、横幅がだいたい二メートル、上の縁は大柄な大人の身長くらいまで、下の縁は床から十センチか二十センチの高さにある。第二書斎で見たあの額縁と寸分変わらぬ大きさ、造りであった。
「さっき話しただろう」
玄児が応えて云った。
「この屋敷の決定的な欠落、について」
「欠落……この家には鏡がない[#「この家には鏡がない」に傍点]という、あの話ですか」
「もちろんそれだよ」
頷いて玄児は、その場から何歩か後ろへ退く。そうして額縁の輪郭を両手で宙に描いて見せながら、
「壁にこう、こんな大きさの四角い縁≠ェ掛かっていて、中は空っぽ――黒い壁板が剥き出しになっている。その前に立った人間の目に、それは何に見えるだろう」
「何って……奇妙な空っぽの額縁としか」
「そうじゃなくてね、ほら、そんな縁取りが壁にあったなら、普通そこには大きな姿見が貼ってある[#「普通そこには大きな姿見が貼ってある」に傍点]と思うんじゃないか」
「姿見?」
「そう、姿見だ。実際にはしかし、そんなものは貼られちゃいない。そこに姿見があるつもりで[#「そこに姿見があるつもりで」に傍点]その前に立ってみても、そこには何も映らない。縁取りの中に見えるのは黒い壁板だけ。部屋の内装や調度を考え合わせると、前に立った人間の背後にあるのも同じ黒い壁板だから、あたかもその仮想上の姿見は背後の壁だけを映して[#「あたかもその仮想上の姿見は背後の壁だけを映して」に傍点]、前に立った者の姿は映していないかのように見える[#「前に立った者の姿は映していないかのように見える」に傍点]。どうかな」
「――ははあ」
「つまりね、あの空っぽの額縁は姿が映らない姿見[#「姿が映らない姿見」に傍点]∞姿を映さない姿見[#「姿を映さない姿見」に傍点]≠ニして、あそこに造り付けられたのさ」
「姿が映らない……」
「思うに、屋敷から鏡の類を徹底的に排除したのと同じ理屈さ。実際に姿が映ってしまうようなものは念入りに排除する。一方で、そういった特殊な造作を部屋に組み込み、折りに触れてその前に立ってみることで、めざすべき〈不死性〉の第三段階――鏡に姿が映らなくなる[#「鏡に姿が映らなくなる」に傍点]という段階の達成を、ささやかなりとも疑似体験しようとしたんじゃないか。そのための、あれは装置だったんじゃないか」
「――なるほど」
私はゆっくりと頷いた。
「分るような気はしますが」
「同じ装置が、この隠し部屋にも作られていたというわけだな」
と、玄児は改めて壁の額縁を見やる。
「本来はこの額縁も、姿が映らない姿見≠ニしてここにあった。ところが後になって、藤沼一成がそこに絵を描いた。画伯がこの屋敷に招かれたのは、確か今から十五年ほど前のことだと聞いているが、その際、柳士郎が画伯をここに案内して、彼の滞在期間中にこの絵を……」
どうして柳士郎はそんな真似をしたのか、と私は思う。当然の疑問だろう。
この秘密だらけの屋敷の最奥部の、しかもこんな隠し部屋にわざわざ赤の他人を招き入れて、なおかつそんな特殊な意味を持った額縁の中に絵を描かせてしまうなど……それほどに柳士郎は、藤沼一成という幻想画家とその手に成る作品に心酔していた、魅入られていたのか。そういうことなのだろうか。
「ところでね、中也君」
玄児が云った。
「この部屋の位置は把握できているかい。今いるここが〈西館〉のどのあたりになるのか」
「それは……」
私がすぐに答えられないと見ると、玄児は再び壁の額縁に歩み寄りながら、
「上の隠し部屋は〈宴の間〉の南に隣接した位置にある。一階のこの部屋は、だから第二書斎の南隣だね。つまり、この北側の壁は第二書斎の南側の壁の裏側に当たることになるのさ」
「――そうなんですか」
「さて、そこでだ」
と云って、玄児は額縁の前から大きく一歩右横へと移動し、壁に向かってすいと右手を差し上げた。それを見て、私はやっと気がついた。板張りの黒い壁面の、額縁から少し離れたその場所に、古めかしい燭台が一つ造り付けられていることに。
「その燭台は……」
「第二書斎にあったのと同じものだよ。額縁との位置関係も、左右が逆である以外は同じだ」
燭台に立てられた蝋燭はない。差し挙げた手で玄児は、燭台の支え[#「支え」に傍点]の部分を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、316-下-9]んだ。
「もしもここに、火の点いた蝋燭が立てられていたなら――」
云いながら玄児は、手首を左方向に捩る。
「恐らく誰も、こんなふうにこれを回そうとはしないだろう。単純だけれども気の利いたカムフラージュだな」
玄児の動作によって燭台そのものが、壁から突き出した取り付け部を軸に半回転した。玄児は支え[#「支え」に傍点]を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、316-下-18]み直し、さらに半回転、燭台を回す。きっちり一回転して元の状態に戻ったところで、かすかに鈍い金属音が響き、同時に壁の額縁に動きが生じた。
額縁全体のうちの右半分が、絵の描かれた壁ごと手前に迫り出してき、左半分が奥へと引っ込む。〈東館〉二階の廊下の、あの突き当たりと同じ動きだった。額縁の中央を回転の縦軸とした動き。つまり……。
「どんでん返し≠セよ」
と、玄児が云わずもがなの説明を加えた。
「ごく初歩的なからくり[#「からくり」に傍点]仕掛けさ」
「――ええ」
「第二書斎の側の燭台は、ちょうどこの真裏にあってね、これと同じように回転する仕組みになっている。今みたいに一回転させるとロックが外れて、この秘密の回転扉≠ェ開く」
玄児は額縁の左端に両手を伸ばし、どんでん返しの扉≠押し開けた。こちらの部屋の明りが射し込んで、扉の向こう側をささやかに照らす。確かにそこは、先ほど玄児から十八年前の事件の詳細を聞かされたあの部屋のようだった。
「要はこういったことだったわけさ」
開いた扉を抜けて隣室の暗がりへと足を進めながら、玄児は云った。
「十八年前の人間消失劇――事件現場から曲者が姿を消したのは、この秘密の扉を通って逃げたのだという、それだけの話だったんだな。分ってしまえばね、本当にどうってことのない真相だが……」
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「合鍵を作って幾度かこの〈開かずの間〉に忍び込むうちに、俺はこの仕掛けを見つけた。〈ダリアの部屋〉にも、だから最初はこちら側から入っていったんだよ。君を案内してきたのとは逆の道順でね、この向こうの隠し部屋から二階へ上がって、さっきの寝室に出て……と」
第二書斎に移動すると、玄児は燭台のいくつかに火を灯して部屋の明りを確保してから、私のそばに戻ってきていった。私は秘密の回転扉≠ゥら出たところで立ち止まり、頭の中の上方を何とか冷静に整理しようとしていた。
「先刻ここで、君はこの燭台を見て――」
と、玄児は額縁の左横に造り付けられた例の燭台に視線を投げ、
「十八年前の事件発見時、この蝋燭に火は点いていたのかと訊いたね。あの時点で、何か思うところがあったわけかな」
「何となく、だったんですが」
私はおずおずと答えた。
「こんな、いかにも奇妙な額縁があって、その横にこんな燭台があって……という状況ですから。何かここにも、隠された仕掛けがあるのではないかと。〈東館〉二階の廊下に、同じようなどんでん返しがありますね。あそこの壁にもやはり燭台が造り付けられていて、その陰にあの隠し扉を開くためのレバーがあったことを思い出したりもして……それで、何となく」
「なるほどね」
何やら満足げに頷くと、玄児は壁の燭台に再び視線を投げかけながら、
「この蝋燭に火が点いたままの状態だと、さっきみたいに燭台全体を回転させづらいからね。だから、扉を開けるに先だって火は消しておいたか、あるいは火の点いたままで燭台を回したとしても、回転時の風圧で消えてしまったか、どちらかだろうと。最初から火は点いていなかった、という可能性もむろん考えられる。君の質問に『十中八九、蝋燭の火はそのとき消えていたんじゃないか』と考えたのは、そういう推測に基づいてのことだった」
「――はい」
「で、あのとき云ったとおり、十八年前にこの部屋で起こった人間消失の謎は、この隠し扉の存在が明らかになったとろこで、おおかた解けてしまったというわけさ」
玄児は隠し扉に目を移す。それは今、元の状態から百八十度回転し、藤沼一成の絵が描かれた面をこちら側に向けて閉まっていた。
「見てのとおり、このどんでん返しにはばね[#「ばね」に傍点]仕掛けか何かが組み込まれていて、開いた扉は自動的に閉じるように出来ている。完全に扉が開いた状態、つまり扉と壁面とが直角に交わった状態でも、そこから左右のどちらかに角度の|偏《かたよ》りが生じると、扉は角度の狭まった側へと勝手に閉じていって、閉じた勢いでロックも掛かってしまう」
「元々は、どっちの面がこちら側を向いていたとしても同じだったわけですね」
「そういうことだ。藤沼画伯のこの絵も、だから隣の小部屋ではなくて、この第二書斎の側で描かれたのかもしれない。その可能性は低くないと思う」
藤沼一成が屋敷に招かれた当時、すでにこの部屋は忌まわしい殺人事件の発生現場として封印されていたはずである。だが、さっきの隠し部屋までわざわざ画家を案内して……と考えるよりは、まだしも納得の余地がありそうな話だった。
「十八年前の〈ダリアの日〉の夜、この部屋で何が起こったのか。幼い日の浦登玄児――俺は何を目撃したのか。ここで一応、確認しておこう」
そう云うと、玄児は隠し扉のそばから離れ、先ほど事件の詳細を語った時と同じ壁際の寝椅子に腰を下ろした。倣って私も、先ほどと同じ安楽椅子に身を落ち着ける。
「その夜の〈宴〉のあと、犯人はこの第二書斎にいた玄遙を訪れ、隠し持ってきた火掻き棒で襲いかかった」
煙草に火を点け、深々と煙を吸い込んではゆっくりと吐き出しながら、玄児は語りはじめた。
「玄遙は頭部を強打され、致命的な傷を負って倒れ伏した。犯人は凶器をこの場に残して立ち去ろうとしたが、たまたまそこへ俺がやって来た。犯人がそのことを察知したのはいつだったか。鬼丸老に案内されて北隣の居間の前まで来たあたりで、壁越しに俺たちの声を聞き留めたのかもしれないし、一人になった俺がこの部屋の扉をノックした時点で初めて気づいたのかもしれない。いずれにせよ犯人は、予期していなかった窮地に立たされ、結果、さっきのどんでん返しを開けて隣の隠し部屋に逃げ込むことを余儀なくされたわけだ。しかしそれを実行に移す前に、俺が部屋の扉を開けてしまった。
犯行現場にいる姿を目撃されて、犯人にしてみれば万事休す。ひょっとすると、その場で俺の口を封じることも考えたかもしれないな。ところが、折りしもそこで、父……いや、柳士郎が〈ダリアの部屋〉から出てきて、俺はそっちに気を取られた。その隙を衝いて、犯人は隠し部屋に逃げ込んだ。そんな仕掛けの存在など知らなかった俺には、わずかの間に目の前から人が消えてしまったようにしか見えなかった」
隠し扉が開閉する音や動きに、そのとき玄児は気づかなかったのか。――少し疑問には思ったが、突然の事態に気が動転していたから、ということは十二分に考えられるだろう。
「犯人のその後の行動も、容易に想像がつくね。二階に上がっていったん〈ダリアの寝室〉に出て、正規の階段で一階の居間に下りてくる。柳士郎と俺がこの部屋に踏み込んで状況を調べている間に、こっそりと前の廊下を走り抜けて逃げ去った」
そう。それで一通りの辻褄は合う。
十八年前の玄児の目撃証言によれば、この現場にいた曲者は「ぼさぼさに乱れた髪」の持ち主であったという。それを信じるとすると、少なくともやはり、その曲者は卓蔵ではなかったことになるわけだが……。
「柳士郎氏は?」
と、私は訊いてみた。
「彼は、この部屋の秘密の扉の存在を知っていたのではないのですか。なのに事件の際、そのことを云わなかったのは……」
「十八年前のその時にはまだ知らなかった、と考えられる。そういうことも充分にありえただろう。彼が扉の存在を知ったのは、もっとあとになってからだった。その時点でそれを取り沙汰したところで、すでに落着した事件の話を蒸し返すだけだから黙っていようと決めた、と」
「なるほど。――ですが」
「彼を――柳士郎を疑っているのかい」
率直に訊き返されて、私は即答をためらった。
「俺の本当の父親が誰だったのかというさっきの話を聞いて、彼に対する疑いが一気に膨れ上がった。そういうことだね」
「――ええ、まあ」
「玄遙を最も激しく憎んでいた者は誰か。最も強い動機を持っていた者は誰か。それを第一に考えるとね、浦登柳士郎こそが最も疑われるべき人物である[#「浦登柳士郎こそが最も疑われるべき人物である」に傍点]ことは確かだ。俺もそう思う。玄遙を殺そうとしたのが本当に彼で、卓蔵の自殺もまた彼の手による殺人であったと判明したとしても、俺は微塵も驚かないよ。むべなるかな、とでもいったところさ」
突き放すような調子でそう云ってから、玄児は「しかし――」と続けた。
「しかしね、他の誰かならともかく、彼だけは[#「彼だけは」に傍点]――柳士郎だけは決して玄遙殺しの犯人ではありえなかった[#「柳士郎だけは決して玄遙殺しの犯人ではありえなかった」に傍点]という、それもまた確かな事実なんだな。物理的にそんなことは絶対ありえない状況だった」
「――ええ。そうなんですよね」
そうなのである。
十八年前の事件の夜、当時九歳の玄児がこの部屋の中に怪しい何者かの姿を目撃した時、玄遙にはまだかろうじて虫の息が残っていた。つまり、犯行後さほどの時間は経っていなかったことになる。曲者はその直後に現場から消え失せたわけだが、当の柳士郎はと云うと、それとほとんど時を同じくして〈ダリアの部屋〉から廊下に出てきたのだ。従って当然、曲者=柳士郎という等式は成り立ちえない。
玄児が云うとおり、動機面で最も疑わしい人物は柳士郎である。けれども物理的には、彼は決して玄遙殺しの犯人ではありえなかったはずなのだ。
――では。
では、いったい誰が犯人なのか。
当時の関係者のうち、現在に至るまでこの屋敷に住まいつづけてきた人間は、柳士郎を除くと四人しかいない。美惟に望和、玄児、そして鬼丸老。このうち玄児は端から除外されるとして、他の三人のうちの誰かが真犯人だったのだろうか。
鬼丸老については、事件発見の少し前まで玄児と行動をともにしていたというアリバイが一応、成立する。彼もまた除外されるとなれば、あとはもう美惟と望和の二人しか残らない。むろん、後に屋敷を離れた多くの使用人たちの中にこそ犯人がいた、という可能性も皆無とは云えないわけだが……。
|翻《ひるがえ》って、十八年の時間を隔てて起こった、今回の二つの殺人事件の犯人は誰なのか。
過去の事件と現在の事件との間には、最初に私が思ったように、何らかの有機的な繋がりが存在するのか、しないのか。たとえば、過去の事件も現在の事件も同じ犯人の仕業だという可能性はあるのか。それともやはり、それぞれに別々の犯人が存在すると考えるべきなのだろうか。
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時計の針は午前六時を回り、日の出の時刻をとうに過ぎていた。嵐が去り、長い夜がようやく夜明けを迎え……それでもしかし、天はまだ厚い雲で覆われているのだろう、窓の鎧戸の隙間から射し込んでくる光はほとんどない。
暗鬱な沈黙がしばしまた、私たちの間に流れた。
玄児は押し黙ったまま、続けて何本もの煙草を灰にしていく。立ち込めた煙の向こうに見える、相変わらずの蒼ざめた顔。眉間に刻まれた深い縦皺とは裏腹に、俯き加減の眼差しは何かしら放心したような虚ろさだった。
ひっきりなしに吐き出される煙草の煙で、部屋中が薄白く靄のかかったようになっていた。このあともしも、たとえば柳士郎がここに足を踏み入れたとしたら、仮に灰皿の吸い殻を処分しておいたとしても、室内に残った匂いで、誰かが禁を破ってこの〈開かずの間〉に入ったと勘づくに違いない。玄児としてはもはや、そうなったらなったで構わないと考えを定めているのかもしれなかった。
対する私はと云うと、〈ダリアの居間〉で〈肉〉の正体を知らされたあの時に始まって、徐々に肉体と精神に広がっていった例の|胡乱《うろん》な痺れの行方について、思うともなしに思いを巡らせていた。心中に立ち込めた蒼白の霧が薄紅に、さらには深紅へと変わり、とともにやがて、痺れはいかがわしい粘性を持ちはじめ……いつしかそれが消え去ったように感じられたのはやはり、それがすでに私の肉体と精神に溶け込んでしまって、違和感を自覚することすらできなくなったためだったのか。やはりそうだったのだろうか。
だとすれば私は、伊佐夫の言葉を借りるなら、もはや完全に「取り憑かれて」しまったということになるのか。取り憑かれてしまって、取り込まれてしまって……もう決して引き返せないところにまで、私は来てしまっているのか。本来私が所属していたはずの現実世界にはこのまま二度と戻ることができず、そうして私はこの暗黒の館で……。
いや、と私はむきになって否定する。
そんなことはない。そんなはずはない。私は取り憑かれてなどいない。取り込まれてなどいない。私はまだ……。
「玄児さん」
私は|眥《まなじり》を決し、沈黙を破った。
「玄児さん、あなたは……」
新たな煙草に火を点けようとしていた手を止め、玄児は「うん?」と眼差しを上げる。
「怖い顔をしてるねえ。まだ怒っているのかい」
「怒るとか怒らないとか、そういう問題じゃなくて――」
私は真顔で相手を見据え、問うた。
「あなたは本当に信じているのですか。さっき話して聞かせてくれたような、この家を支配してきた不死≠ノまつわる幻想を」
「幻想、か。――ふん」
玄児は鼻を鳴らし、ちょっと|戯《おど》けるように肩を竦めてみせたが、表情には笑みのかけらもない。思い詰めたような目つきで、指に挟んだ火の点いていない煙草の先を見つめながら、
「確かにまあ、君にはまだ、どうしてもそうとしか見えないんだろうな。自分たちを不死の一族≠セと思い込んでいる者たちの、愚かな幻想としか」
「信じたいわけじゃない、とも玄児さんは云っていましたよね。信じたいわけじゃないけれど信じざるをえないのだと、そんなふうに。あの言葉は」
「本心さ」
ためらう様子もなく、玄児はそう答えた。
「本心だよ、あれが俺の」
「じゃあ……」
「君の気持ちは分るよ、中也君。〈闇の王〉だの〈不死の血〉だの、こんな話を延々と聞かされて、お前も信じろと云われたってすぐに信じられるはずがない。分ってるさ。分っているが、しかし……」
先を云いあぐねて、玄児は煙草を銜え直す。ゆっくりとマッチを擦り、炎を移す。そうして物思わしげに紫煙をくゆらせる彼の顔には、少なくとも先ほど〈ダリアの寝室〉で見せたような狂信者の色は窺えなかった。
「どうして俺が、初め医学部に入ったんだと思う」
と、やがて玄児はそんな室もんょをしてきた。私は昨夕の野口医師との会話を思い出しながら、
「それは、お父上――柳士郎氏も医学校の出身で元々は優秀な医学者だったという……」
「ああ、それもあるが、けれどもね、何よりもまず俺は、大學で専門的に医学を学ぶことによって、否定してしまいたかったんだよ」
「否定……何を」
「それこそ、いま君の云った不死≠ノまつわる幻想をさ」
「えっ」
「〈不死の血〉や〈肉〉なんてものは世にあるはずがない。このいびつな屋敷に住むいびつな人間たちの心の中で長年、自己増殖をつづけてきた妄想の産物に過ぎないのだ、とね。現代医学の名の下に、そのいっさいを否定してしまいたかったんだ」
私は意表を衝かれて口を噤んだが、しかしそう、そう云えば昨夕、野口医師もこんな推測を述べていたではないか。自分が生まれ育ったこの家の呪縛から逃れたくて、玄児は医学を学ぶことにしたのかもしれない、と。同時にそれは、父の柳士郎に対するささやかな抵抗だったのかもしれない、とも。
「無批判に一切合財を鵜呑みにしてしまうほど、俺も頭の悪い人間じゃない」
そう云って玄児は、瘠せた頬にいかにもぎこちない微笑を作った。
「成長して、年相応の知識や教養を身につけていって、多少なりとも自分の脳みそでものを考えられるようになった段階で、当然のごとく大いなる疑問に囚われたさ。それまで自分が教えられてきたこと、この家の皆が信じて疑わない、特殊な死生観や世界観、価値基準……ひっくるめて〈ダリア信仰〉の教義、とでも云えばいいのかな。それらは果たして真実なのか、と。
神も悪魔も、そして魔女なんていうのも、そんなものは玄児には存在しないはずだと俺には思えた。〈闇の王〉と契約を交わしたというダリアの話も、その〈血〉や〈肉〉が俺たちに不死をもたらすという話も……何もかもに疑いを抱くようになった。ある意味で伊佐夫君と同じさ。それらの不在を証明するためにこそ俺は、本格的に医学を学ぼうと決めたわけでね。大学に合格して単身上京し、白山のあの家で暮らしはじめた時点では、だからもう、この浦登家の屋敷からは自由になる、なれるつもりでいたのさ」
「…………」
「この家の、不死≠ノまつわるいっさいを否定するということは、しかしながら当然、俺という人間が今ここにいる、その存在の根拠をすら否定してしまうことに直結する。つまり――」
と、玄児はみずからの左手首に視線を落とし、
「旧〈北館〉の大規模火災で俺は一度死に、手首の聖痕≠ニともに再生・復活したのだという……その事実自体をまず、現実には起こりえないこととして否定してかからなければならないわけでね」
「――それで?」
私は静に問うた。
「否定は、できたのですか」
玄児はすると、視線を落としたまま緩く首を振りながら、
「できなかったさ。だから、今もここにいる」
「しかしそれは……」
「現代医学は、科学は、もちろんすべてを否定してくれる。光を厭い、闇を愛す。光ではなく、この世の闇によってこそ不死の生≠ヘ|育《はぐく》まれる。そんな理念自体がそもそもナンセンス極まりない、と。不死も再生も復活も、そのような現象は医学的に考えてありえない。不老不死を達成すると鏡に姿が映らなくなるなんて、もってのほかの|戯言《たわごと》さ。たゆみなく進歩を続ける医学は、もしかすると未来のどこかで人間の不死を可能にするかもしれないが、だとしてもそれはそんな、非科学的な理念や方法によってではない。決してない。――とまあ、そういった具合にね」
そうだ――と、私は声には出さずに呟く。そうだとも。それが当然の考え方だ。それこそがしごく当然の……。
けれども玄児は、いったん上げた視線を再び手許に落とし、再び首を、今度は強く幾度も振り動かしながら「だが――」と言葉を接ぐのだった。
「だがそれでも――いくらそうやって医学的なあれこれを学んでいっても、最新の研究論文を読み漁っていっても俺は、何と云うんだろう、いっこうにそれらに対してリアリティを感じられない自分に気づいたのさ。解剖実習ではさんざん、ある意味で最も現実的な人間の死≠ノ触れさせられた。医療現場に潜り込んで、実際に患者の生死を目の当たりにしてもみた。が、見える世界は変わらなかった。
どれにもリアリティがない、感じられない。このままいくら医学に関わりつづけたところで、自分には何の意味もない。やがてそう思うようになっていってね、だから卒業後は、同じ大学の文学部に入り直したんだ」
医学部を出たのにどうして医者にならないのか。知り合って間もない頃、私がそう質問した時、
――自分には向いてない気がしてきてね。
玄児はそんな答えを返した。云うほど単純な理由ではない、とは思ったものだったけれど、それはこういうことだったのか。
「どうして文学部だったのですか」
と、私は訊いた。
「その方が、この問題を考えるのにふさわしい場である気がしたのさ。もっとも君も知ってのとおり、講義にはほとんど出ちゃいないがね」
そう答えて玄児は薄く笑うが、頬に浮かんだのはやはり何ともぎこちない笑みだった。
「野口先生とも、この問題については幾度か話をしたことがある。現役の医師である彼の考えを聞いてみたくてね」
「先生は事情をすべて承知しているのですね」
「ああ。おおかたのところは」
玄児は煙草を脇机の灰皿で揉み消すと、さらに一本、箱から取り出そうとして小さく舌打ちした。もう中身が尽きてしまったらしい。
「かつての父……柳士郎も同じだった、と云ってくれたよ。彼も最初は、なかなかこの家の現実≠受け入れられなかった。いくら信じたくても信じられない、信じられるわけがない、というのが本音だったらしいね。けれどもその後、彼もまた信じるようになった。何が彼の心理にそう云った変化をもたらしたのかは分らない。カンナに対する深い想いゆえの自己変革だったのか、それともこの家との接触が密になるに従って、徐々に心が搦め捕られていったのか。いずれにせよ――。
事の本質は『何が正しいか』にあるのではない、と先生は力説していたな。『何が正しいか』ではなくて、『何を正しいと信じるか』にあるのだと。そう云いつつあの先生は、かつて柳士郎がかけたお誘い≠辞退しているんだがね」
「ええ、それは聞きました」
昨夕の医師の言葉を思い出しながら、
――彼らが信じておるものに文句をつけるつもりは、私にはさらさらないのです。むしろ私自身、そうですな、何せ長い付き合いでもあるし、どちらかと云えば彼らの側[#「彼らの側」に傍点]にいて、この世界≠ニ向き合っている人間のうちに含まれるでしょう。
私は神妙に頷いた。
――だがしかし、ずいぶんと迷った末にですが、自分の立ち位置はこのあたりにしておこう、というふうにも考えたわけですな。ここ[#「ここ」に傍点]より先には踏み込むまい、少なくともしばらくはここ[#「ここ」に傍点]に留まって、彼らの側でそれ[#「それ」に傍点]を見ているだけにしようと。
「先生の立場も微妙なところみたいだね」
わずかに皮肉を含ませたような口振りで、玄児は云った。
「まあ、あの人の心を引き裂いてやまないのは、この家の在り方そのものよりもむしろ、美鳥と美魚の存在なんだろうが」
美鳥と美魚の存在? ――はて、どういう意味なのだろうか。
とっさに疑問を感じたが、それを口に出すのはここではやめにして、私は質問を重ねた。
「そして結局、玄児さんは信じることにした、というわけなのですか」
「ああ、そういうことになる。――と云ってもね、現代医学が示すものを全否定するわけじゃない。それはとりあえず正しい、一般的な諸問題に対しては有用である――と認めた上で、あくまでもその上位に[#「あくまでもその上位に」に傍点]、極めて例外的な現象として浦登家の不死≠ヘ実在すると、そう考えるのさ」
「私にもそれを、信じろと?」
「すぐにとは云わない。無理強いをするつもりもないが――」
玄児は低く息をつき、切れ長の目を細めて私の顔を見据える。
「いずれ君も理解してくれると信じたい。そう思っている」
「――と云われても」
私は視線を逸らし、|抗《あらが》った。
「ただ信じろと云われても、私には」
「無理だと?」
「せめて何か、それを――不死≠フ実在を証明するような、確かな証拠が示されなければ、やはり私には信じられない。信じたいという気にも、とてもなれません」
「確かな証拠……ふん」
「たとえば玄児さんの、十八年前の復活≠フ件にしても、それ自体が実はまったくの偽りだったということだってありうるでしょう。〈不死性〉の第二段階の達成――その奇跡を信じたいがゆえに、柳士郎氏らがでっち上げた……」
「才能の乏しい探偵の物云いだな。そんなふうに疑いだせば、そりゃああくらでも疑えるだろう。この世のすべてについて、無限に」
と、玄児はいくらか声高になって反論した。
「たとえば中也君、君の存在にしたってね」
「――私の?」
「云ってしまおうか。この春の事故で失ってしまった記憶、それを君はその後の一ヶ月ほどで完全に取り戻したと思っているが、実はそうじゃない[#「実はそうじゃない」に傍点]。すべてはまやかし[#「まやかし」に傍点]なのかもしれない」
「まやかし?」
「君の心に蘇ったのは全部、本物の記憶じゃなかったということさ。もっともらしい偽の記憶を、最新の催眠医療を応用した画期的な手法によって、外から植え付けられた[#「外から植え付けられた」に傍点]んだ。あの日君が意識を取り戻した、あの病院でね。同時に、俺が〈鳳凰会〉の力を駆使してあちこちに手を回してね、君の家族や友人を演じるための大勢の人間を雇って、書類やら何やらも巧妙に|改竄《かいざん》・|捏造《ねつぞう》して、実際とはまったく違う架空の個人史を作り上げて……」
「――まさか」
「思い出せないだろう」
と云って玄児は、唇の端を急角度に吊り上げて笑う。さっきのようなぎこちない微笑ではない。これまで一度として見たことがないような、恐ろしくも冷酷な笑み。
「よもや君には思い出せるはずがないのさ。君が本来、どこのどういう人間だったのか」
思わず目を瞑った私の耳の奥に、
――いけませんよ。
遠い過去から響いてくるあの声。幼いあの日、あの洋館の炎の中に消えたあの人の。亡き私の母の。
――いけませんよ、 さん。
これは私の記憶だ[#「これは私の記憶だ」に傍点]。紛れもない、この私の。
――兄のあなたが、そんな……。
……ごめんなさい、母さま。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
……ごめんさない、母さま。
――お元気で、 さん。
この声も、そう、私の記憶だ[#「私の記憶だ」に傍点]。故郷の町で私を待っている、結婚の約束を交わした彼女の。
――くれぐれもお体には気をつけて。
間違いない。まやかしでも偽りでもない。これは確かに、ここいにいるこの私の……。
「冗談だよ、もちろん」
玄児の声で、目を開いた。
ほんの一、二秒のことだったが、私は何とも苦々しい気分で息をつき、そんな内心を悟られないよう表情を取り繕いながら、
「分ってます」
と応えた。
「証明するものが必要だと云ったね」
煙草の空箱を捻り潰し、玄児は改めて私の顔を見据えた。
「不死≠フ実在を証明するような、確かな証拠が必要だと」
「――ええ」
「それなら[#「それなら」に傍点]、ある[#「ある」に傍点]」
「ええっ」
「あるんだよ、証拠が。どうしてもと望むならば、その目で見て、その手で触れることもできる」
「どこに、何があるというのですか」
震える声で問う私に、
「中庭の地下に」
と、玄児が答えた。
「例の〈惑いの檻〉の中にね」
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「〈惑いの檻〉?」
意味を測りかね、私は首を傾げた。
「あの中にって、それはどういう」
「まだ『あとまわし』にしたままだったね、〈檻〉の件については」
「――ええ」
「あれが作られたのは、さっきも話したように、ダリアと玄遙の間に玄徳という第二子が生まれて、その子が早老症で死んだ時のことだった。玄遙の最初の妻と二人の子の遺骨も、その際あそこに移されたが、当時は単に墓所と呼ばれた。今みたいに〈惑いの檻〉の異名で呼ばれるようになったのは……」
「二十七年前に桜さんが自殺したあと、という話でしたね」
玄児は「そうだ」と頷き、一呼吸置いてからこう続けた。
「自殺は浦登家における最大級の|禁忌《タブー》だ。それを犯すという大いなる罪≠ノは、大いなる罰≠ェ下される。そう云ったろう」
「――ええ」
「大いなる罰≠ニは何か」
先ほど二階の〈ダリアの寝室〉で私が問うて、答えの得られなかった問題である。その答えを、ようやくここで玄児は示そうというのか。
「それはつまりね、自殺ではちゃんと死ねない[#「自殺ではちゃんと死ねない」に傍点]、ということなんだよ」
と、玄児は云った。
「――ちゃんと死ねない?」
「〈ダリアの血〉と〈肉〉を受けて〈不死性〉を獲得した人間は、自殺では決して完全な死≠迎えられないのさ。伝えられるダリアの言葉によれば、自殺した者は死ぬことも生きることも許されず、未来永劫、生と死の狭間を彷徨いつづけなければならない」
「――と云われても」
私はやはり意味を測りかね、首を傾げざるをえなかった。
「死ぬことも生きることも許されず……」とは、はて、いったいその言葉をどう受け取ればよいのだろうか。たとえばそれは、魂が救われるか救われないか、成仏できるかできないか、といったレヴェルでの話なのか。それとも……。
「二十七年前、桜が首を縊ったのを最初に発見したのは娘の美惟だったという。当時まだ十三、四歳だった彼女の悲鳴で、大人たちが駆けつけた。大急ぎで助け下ろしたが、すでに桜の息はなかった。そこで、医師の資格を持つ柳士郎が応急の心肺甦生術を試みたところ、呼吸が戻ったというんだな。いったん停止していた心臓もまた動きはじめた」
自殺を図ったものの、発見が早かったおかげで九死に一生を得た、ということか。けれども、だったら何故……。
「ところが、そのあといくら処置を続けてみても、桜の意識は戻らなかったのさ。一時的な呼吸停止と心臓停止のせいで、脳が酸欠状態に陥って重大な損傷が生じてしまったため――と、医学的に解釈しようとすればそういう話になるんだろうな。とにかく病院に搬送して、可能な治療を続ける、というのが常識的な対処だろう。しかしながら、三年前のダリアの死後、名実ともにこの家の最高支配者であった玄遙が下したのは、およそそういった常識からは懸け離れた判断だった」
「常識から懸け離れた……どんな」
「これは[#「これは」に傍点]惑い[#「惑い」に傍点]≠ナある[#「である」に傍点]、と」
玄児は真顔で答えた。
「桜は最大の禁忌である自殺の罪≠犯した。その結果として彼女に降りかかるのは、亡きダリアの言葉どおり、『死ぬことも生きることも許されず、未来永劫、生と死の狭間を彷徨いつづけなければならない』という大いなる罰≠ノ他ならない。今のこの桜の状態こそがすなわち[#「今のこの桜の状態こそがすなわち」に傍点]、それなのだ[#「それなのだ」に傍点]、と。
呼吸はしているが生きているのではない。意識は戻らないが、死んでもいない。これはつまり、生でも死でもなく[#「生でも死でもなく」に傍点]、その狭間にいてどちらへも行けずにいる[#「その狭間にいてどちらへも行けずにいる」に傍点]――惑っているのだ[#「惑っているのだ」に傍点]、とね」
「…………」
「そんな玄遙の厳然たる裁定に従って、結局のところ桜は、その状態のまま[#「その状態のまま」に傍点]墓所に入れられることになった。棺に収められ、地下の簿室の一つに安置され……」
「生きたまま?」
と、私は思わず口を差し挟む。玄児は真顔を崩さずに、
「だから、生きているわけではなかったのさ、もはや桜は」
「ですが、死んではいない」
「そう、死んでもいない」
と、玄児はすかさず応える。
「生きても死んでもいない。生きも死にもできず、ただ行き惑っている。そういう状態なのさ。それで以来、完全な死者≠葬るだけではなく、そういった惑い≠フ状態に陥った者を閉じ込めておくための場所としても、あの地下墓所は使われるようになった。いつしかそして、〈惑いの檻〉の異名で呼ばれはじめ……」
「ちょっと待ってください」
と、思わずまた私は口を挟んだ。
「棺に入れて墓所に置いて、そうしてそのまま放ったらかしにしておいたのですか」
「ああ。そう聞いている」
「それじゃあどのみち、間もなく桜さんは棺の中で息絶えて……」
「だからね、中也君」
玄児はちょっと苛立たしげに眉をひそめ、
「彼女はそれでも[#「彼女はそれでも」に傍点]、死んではいないんだよ[#「死んではいないんだよ」に傍点]。誰も棺を開けて確かめた者はいないが、たとえとうに肉体が朽ち果てていたとしても、それは死んでいるんじゃない。惑いつづけている[#「惑いつづけている」に傍点]んだ」
「――莫迦な」
「理解しがたいかな」
と、玄児はさらに眉をひそめた。
「じゃあ、こういう云い方ならどうだろう。この世のあらゆる事象がそうであるように、これもまた、つまるところは定義≠フ問題なのだ、と。何をもって死≠ニするか、という」
「…………」
「簡単なようでいて、こいつがけっこう厄介な問題でね。人間の個体死に限ってみても、医学上の死と法学上の死、宗教上の死、生物的な死と社会的な死……といった具合にさまざまな局面があって、それらが必ずしも同一の定義を共有しているわけではない。時として|齟齬《そご》や対立が生じることもある。分るだろう?
医学的な死の判定基準にしても、なかなか一筋縄ではいかない。どうすれば死を確実に証拠付けられるか、というのは長らくの間、医師たちにとって大きな課題だった。夜は夜、昼は昼であるように、死は死である。それほど単純な話では済まない。前世紀末から今世紀初めにかけての欧米では、いわゆる早すぎる埋葬≠フ発覚する事件が頻発して、人々の不安と恐怖を掻き立てた。そこで、確実な死の判定方法に関する議論が、かつてなく盛んに行われたというね。指の透視検査によって間違いなく死が確認できるという説とか、死後硬直こそが死の確実な証拠だとする説とかね。腐敗だけが唯一信頼できる死の兆候である、と強弁する専門家もいたりした。つい何十年か前までは、大真面目にそんな議論が戦わされていたわけさ。
現在では、心拍動停止、呼吸停止、瞳孔散大の三大兆候によって臨床的な死の判定が成される。『個能喪失』という定義に則った判定基準だが、これにしたって、近い将来変更を迫られる可能性は大いにあるだろう。人工的な延命装置によって、たとえば能は不可逆的に機能を喪失しているけれども心肺は生かされている、という状態が生じた場合、これを生とするか死とするか」
「境界線をどこに引くか、ですね。――ええ、それは分ります。しかし惑い≠ニいうのは」
「同じことさ」
玄児はぴしゃりと遮った。
「生死の境界線というのは、実はたいそう曖昧なところにある。線[#「線」に傍点]ではなくて域[#「域」に傍点]である、と見るべきでもあるね。浦登家における自殺者は、その曖昧な境界域[#「境界域」に傍点]に嵌まり込んだまま、永久に惑いつづけなければならない。世間的にはとうてい受け入れられない考えだろうが、この家ではあくまでも、そういった定義が共有されているんだよ。いくら諸々の医学的・科学的常識と|乖離《かいり》していようが、これはその上位にある[#「その上位にある」に傍点]例外的な真実である、と俺たちは見なしているわけでね」
「…………」
「もう一度云おうか。二十七年前に自殺を図った結果、惑い≠フ状態で中庭の〈檻〉に閉じ込められた桜は、二十七年後の今現在もあの中で惑いつづけている。それは十八年前に自殺した卓蔵も同じだ。桜のように呼吸や心拍動が戻ることはなかったが、それでも自殺である以上、たとえ見かけ上は死の様相を呈していたとしても、それは完全な死≠ナはなかったと考えられる。彼もまた、桜と同様に〈檻〉の中で今なお惑いつづけているのさ。
もっとも、卓蔵の自殺が実は自殺じゃなかったのなら――実は真犯人に殺されたのであれば、話はおのずと変わってくる。彼が死んでいるように見えたのは本当に死んでいたからだ[#「彼が死んでいるように見えたのは本当に死んでいたからだ」に傍点]、ということになるわけだな。逆に、自殺したはずの卓蔵が桜のような惑い≠フ状態を示さなかった事実、それが取りも直さず、彼の死が実は自殺じゃなかったことの証拠になるのではないか、という理屈も成り立つ」
言葉を切り、玄児は「いかがかな」というような眼差しを私に向ける。唇を硬く結んだままわずかに首を左右に動かして、私はそれに応えた。「何と云ったら良いのか分らない」という意味を込めたつもりだった。
「望和叔母さんについて、俺が云ったことがあったよね。死にたいと願っても彼女は死ねない、と。君も例のメモで疑問の一つに挙げていたけれども、もう分ったろう。
彼女は清の病を嘆き、産んだ自分にその責任があるのだと思い詰めた挙句、いっそ自分が清の代わりに死んでしまいたいと欲していた。が、いかに強く死にたいと願っても、〈不死の血〉を受けた彼女に病死や自然死はありえない。みずから命を絶とうとしてみても、それは死ではなく惑い≠ノしか繋がらない。自殺では死ねない。たとえば食事を断って餓死しようとしてみても、それは自殺のうちにはいるだろう。だから彼女は……」
要は定義≠フ問題である、というだけの理解の仕方ならば、私にもできる。自殺という行為を厳しく|戒《いまし》めるために設定された、いわば宗教的なレトリックとして惑い≠ニいう概念を受け止めればよいのか、とも思う。だがしかし、それを医学的・科学的常識の上位に実在する現象として受け入れることは、いくら云われても私にはできそうになかった。
二十七年前に自殺を図った後の桜は、やはりまだ生きていたのだ。仮死状態から甦生したものの意識は戻らなかったという、それが現実なのだ。その彼女を生きたまま墓所に入れて放置してしまったという彼らの行為は、どう考えても異常である。たとえ助かる見込みがほとんどなかったとしても、病院に運んでできる限りの手当てを続けるべきだったのではないか。――もちろんそうだ。
が、私がここでそういった異議を述べ立ててみたところで、玄児の考えが変わるはずはない。それはもうよく分っていた。信じるか信じないか、いま選択を迫られているのは私の方なのだ。
「惑い≠フ意味は、了解しました」
とりあえず頷いてみせてから、「ですが、玄児さん」と私は続けた。
「どうしてそれが、不死≠フ実在を証明する確かな証拠なのですか。墓室に安置された桜さんと卓蔵氏の棺の中には今、きっと二人の朽ち果てた遺体が入っていることでしょう。いくらそれを指して『これは死んでいるのではない』と力説されても、誰もすんなり納得などしませんよ。私にしたって当然、そんな……」
「そりゃあそうだろうね」
「じゃあ、いったい」
「証拠というのは桜や卓蔵のことじゃない」
室内を照らす蝋燭の薄明りさえも厭うように目を細めながら、玄児はぼそりと答えた。
「それは玄遙なのさ[#「それは玄遙なのさ」に傍点]」
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「――はい?」
私はまたしても意味を測りかね、首を傾げざるをえなかった。玄児は云った。
「〈惑いの檻〉の中にはね、玄遙もいるんだ」
「――はあ。十八年前に殺された玄遙氏の遺体も、当然あの中に納められて……」
「違うんだよ、中也君」
と、玄児は細めていた双眸を大きく見開く。
「美鳥と美魚が云っていたんだろう? 玄遙は『特別』だけれども『失敗』だ、と」
「あ、はい」
「俺がこの部屋で云ったことも憶えているね。十八年前の事件は、仮に速やかに当局への通報が成されていたとしても、結果的にはそれが殺人事件として成立することはありえなかった、という」
「――はい」
「あれがどういう意味だったのか、分るかい」
訊かれて、今ここで改めて考えてみても、然るべき答えは思いつかない。私が黙ってかぶりを振ると、玄児はすぐにこういった。
「結果的に殺人事件としては成立しない、とはすなわち、厳密に云うとあれは殺人事件じゃなかった[#「厳密に云うとあれは殺人事件じゃなかった」に傍点]、殺人未遂事件だった[#「殺人未遂事件だった」に傍点]、ということなのさ」
「――えっ」
「玄遙はね[#「玄遙はね」に傍点]、死ななかったんだ[#「死ななかったんだ」に傍点]。いつたんは確かに死んだが、そのあと彼は復活≠遂げたんだよ。だから……」
「どういうことなのですか」
肺の中に真っ黒な水が湧き広がってくるような、何とも云えぬ息苦しさを覚えつつ、私は問うた。
「どういうことなのですか、それは」
「十八年前の事件で、玄遙は火掻き棒で頭を殴られて殺された。幼い日の俺が瀕死の玄遙を見つけ、柳士郎が現場に駆け込んで調べた時には、彼はもう息絶えていた。これは一つ、確かな事実だ。ところが――」
玄児は再びさっきのように目を細めながら、
「ところが、翌日の夜に野口先生が屋敷に駆けつけた時点で、驚くべき変化が玄遙のみには起こっていた。最初の死亡確認を行なったのが元医師の柳士郎であったにもかかわらず、それからまる一日近くも経ったその時点で、玄遙は息を吹き返した――生き返ったんだ。呼吸も心拍動も正常に戻り、ただ意識だけがないという状態に……」
「本当ですか」
「ああ。玄遙の死は明らかに他殺による死だった。なのに、一日近くも時間が過ぎてから甦生したわけだ。驚きとともに皆は、これはその当時まだ実現例のなかった〈不死性〉の第二段階――復活≠フ成就なのではないか、と考えた。
それからまず三日間、傷の手当てをしたり栄養剤の点滴を行なったりしつつ様子を見るうちに、玄遙は目を開いた。だが、その目には何が見えているふうでもなく、誰が声をかけてみても、肌に触れてみても、いっさい反応はなかった。何も喋らず、何の表情も示さず、ただ目を開けているだけの廃人。床に伏したきり身動きの一つもしないまま、さらに四日が過ぎた。それでも玄遙の様子には、何の変化も現われなかった。そこで――」
「そこで?」
「こんな判定が、柳士郎によって下されたというのさ。玄遙のこの[#「玄遙のこの」に傍点]復活[#「復活」に傍点]≠ヘ失敗である[#「は失敗である」に傍点]、と」
「失敗……」
「真に復活≠ェ成就したのであれば、それはただ肉体のみでなく、その者本来の精神活動の甦生をも伴うはずだから、と。その兆候が、玄遙にはまったく見られない。むしろ彼のこの状態は[#「むしろ彼のこの状態は」に傍点]、かつて桜が自殺を図った後の状態にそっくりではないか[#「かつて桜が自殺を図った後の状態にそっくりではないか」に傍点]。だからつまり、玄遙は何らかの問題があって復活≠ノ失敗し、その結果惑い≠フ状態に――それそのものではないにせよ、限りなくそれに近い状態に――陥ってしまったのに違いない、とね」
玄遙は「特別」だけれど「失敗」――と双子が云っていたのは、なるほどそういうことだったのか。
旧〈北館〉の大火災後に奇跡的な復活≠成就した玄児は、浦登家において「特別」な存在であるとされる。彼の場合、記憶を失ってはいたものの、「その者本来の精神活動」が著しく損なわれたわけではなく、だから「失敗」とは見なされなかった。同様に玄遙も、十八年前の事件後に一応の復活≠果たしていた。その意味で玄遙もまた「特別」であるとは云えるのだが、一方で彼の場合は、それが充分な成就ではなかった――ただ肉体のみの甦生でしかなかった――という点において「失敗」だったのだ、と。
「そんな状態に陥った玄遙をどう処遇するか」
と、玄児は続けた。
「今度は柳士郎が、それについて冷酷な決断を下すこととなった」
「――まさか」
「そのまさか、だよ」
それこそ「冷酷な」と形容したくなるような冷え冷えとした声で、玄児は云った。
「復活≠ノ失敗した玄遙のこの状態は、これもまた惑い≠ナある。従って、このまま〈惑いの檻〉に入れてしまうべきだろう、と」
「それが、実行されたというのですか」
「ああ」
「誰も反対はしなかったのですか」
「美惟と望和は、当時から柳士郎の味方≠セったらしいからね。野口先生にしても同じさ。使用人たちには当然、口出しをする権利などなかった」
「でもそれは、あまりにも無茶な」
「無茶? ――ふん、まったくそのとおりさ。強引な意味付けによる残酷極まりない仕打ち。俺もこの話を知った時にはそう思ったものだったよ。自殺の禁忌を犯したわけではないのに、何故? ともね。だが今となってみれば、柳士郎がそんな無茶を通そうとしたことにも十二分に納得がいく。玄遙に対して彼が抱いていたに違いない、憎しみの大きさを考えれば……」
確かに――と、私も思い直す。
玄遙こそが、カンナに玄児を孕ませた張本人であったという呪わしい事実。それを知って、柳士郎は殺しても飽き足らないほどに玄遙を憎んだことだろう。その玄遙が、もはや何の力も権威も持たない廃人と化して目の前にいるのだ。たとえ柳士郎自身が玄遙殺害――正確には殺害未遂[#「殺害未遂」に傍点]になるのだろうか――の犯人ではなかったとしても、憎むべきこの怪物をこの世から抹消してしまいたいという想いは抑えられなかったに違いない。
「じゃあ、玄児さん」
治まらぬ息苦しさに耐えながら、私は云った。
「惑い≠ノ陥ってしまった失敗者≠ニして、玄遙氏もまたあの〈檻〉に入れられ、そのまま放っておかれたということですか。でも、それじゃあ結果は桜さんと同じで……」
やがて棺の中で完全に息絶え、今やそこには朽ち果てた肉体の残骸が残っているだけだろう。それではやはり、何の証拠にもならないではないか。
「まあ聞けよ、中也君」
と、玄児は私の追求を受け流し、
「君の云うとおり、玄遙もまた桜と同じように棺に納められ、墓室に放置されることになった。ところがね、そこでさらに驚くべき事態が発生したのさ」
「――と云いますと」
「〈惑いの檻〉に入れられて間もなく、その中で玄遙は、自発的な運動能力を取り戻したんだ」
「何ですって」
「いち早くそのことに気づいたのは、かねてより墓所の管理全般を一任されてきた鬼丸老だった。玄遙が自力で棺から起きだして、墓所の中をふらふら歩きまわっているのを見つけたのさ。文字どおり、生ける|屍《しかばね》さながらに……」
両腕の皮膚が粟立つのを感じながら、私は「まさかそんな」と繰り返し呟いていた。玄児はよりいっそう冷え冷えとした突き放すように声音で、
「鬼丸老からそのことを知らされた柳士郎は、捨て置け[#「捨て置け」に傍点]と命じたらしい。いくら起き上がって動いていようとも、それが惑い≠ナあることに変わりはないのだ、と。実際、玄遙が取り戻したのは単純な運動能力のみで、人間的な精神活動はどうしようもなく損なわれたままだった。何を話しかけても何も応えず……と云うか、そもそも言葉というものがまったく理解できなくなっていて、顔には喜怒哀楽の表情もなく、身振り手振りで意思を伝達することもままならず……ただ獣のように唸って空腹と乾きを訴えるばかりだったというから。
捨て置け、と柳士郎は命じた。そこにいる玄遙はもはや玄遙ではない。かつて玄遙であった者の肉体が、ただ単に動いているにすぎない[#「ただ単に動いているにすぎない」に傍点]。無理やり棺の中に戻して、蓋を釘付けにして出てこられないようにしてしまえ、とも命じたらしいが――」
尖った顎の先に手を当て、ほんの少しの間をおいてから、玄児はこう続けた。
「鬼丸老は、その命令に従おうとしなかったんだよ。なりませぬ、と云ってね」
――なりませぬ。
黒衣の老使用人の、ごわごわに嗄れたあの声が、時空を超えて耳許に響いてくる気がした。
――それはなりませぬ、柳士郎様。
「ダリアが健在の頃からずっと、鬼丸老はあの墓所の管理を任されてきた。その頃から現在に至るまで、鬼丸老以外の人間は、たとえ浦登家の一員であっても、|妄《みだ》りにあそこへ近づいてはならない決まりになっていてね。これはそもそも、ダリアがそのように定めたことだったという。
新たな死者や惑い≠フ者が出たりして必要が生じない限り、地下の墓室に降りることが許されているのは鬼丸老だけだ。階段の手前には鉄の扉があって、外から施錠されている。その鍵は鬼丸老だけが持っていて、屋敷の当主といえども勝手な出入りはできない」
聞きながら、私はのろのろと思い出していた。あれは二日目の昼頃だったか、霧雨の中を独り中庭に出て、あの|祠《ほこら》のような建物の中に足を踏み入れた時のことを。
穴蔵めいた狭い空間の奥に閉まっていた、あの黒い鉄の扉。太い鉄格子の嵌まった小窓が付いた、あの扉。〈十角塔〉の入口にあったのと同じような、頑丈そうな南京錠が掛かっていた。小窓の向こうの暗がりに、床に口を開けた四角い穴と、その中へ潜り込んでいく石の階段が見えた。そして……。
「つまりね、あの墓所は云ってみれば、この屋敷の中にありながら当主の力の及ばない治外法権区域みたいなものなのさ。そこでの権限は、ダリアの名の下に[#「ダリアの名の下に」に傍点]鬼丸老が握っている。そんなわけだから――。
柳士郎は捨て置けと命じたが、鬼丸老はそれに従わなかった。そうすることが、亡きダリアの意思にそう行動である、と彼は判断したんだろうな」
「どうしたのですか、鬼丸老は」
と、私は訊いた。知らず、わずかに声が震えてしまっていた。
「柳士郎氏の命令に従わずに、何を」
「〈檻〉の中の玄遙に、毎日の水と食事を与えることに。それを新たな仕事として、鬼丸老はみずからに課したのさ」
と、玄児は答えた。私は弱々しく息をついた。
「分っただろう、中也君」
蒼ざめた頬に冷たくこわばった微笑を見え隠れさせながら、玄児は云った。
「以来、鬼丸老は十八年間、欠かさず〈檻〉に食事を運びつづけている。桜や卓蔵とは違って、だから玄遙は[#「だから玄遙は」に傍点]、今でもあの中で生きている[#「今でもあの中で生きている」に傍点]。浦登家の者だけが共有する特殊な定義においてではなく、世間一般に云うのと同じ意味でね、彼の肉体は生きている――生きつづけているんだよ」
あの時――独り中庭を散策したあの時、私は〈惑いの檻〉から出てきたと思しき怪人物、すなわち鬼丸老の姿を見かけた。その手には、把手の付いた黒い箱のようなものがあった。あれは、あの中に玄遙に与える水や食事を入れて運ぶための入れ物だったわけか。そして……。
「〈檻〉の中で今も、玄遙は生きつづけている。今年、百十歳になった。最低限の食事の面倒だけは鬼丸老が見ているが、その他は恐らくほとんど放ったらかしだろう。一筋の陽の光も射し込まず、空気も澱みきった不衛生な地下の牢獄で、生ける屍さながらのそんな老人が普通、十八年もの間生きてこられると思うかい」
問われて、私はまた弱々しく息をつく。
あの時――独りあの建物の中に足を踏み入れたあの時、鉄扉の向こうから伝わってきた微妙な空気の動き。地下に延びる階段の下から漂ってきた、湿っぼく黴臭いような、あるいは腐臭めいたような、あの不快な臭気。ああ、そして……。
「玄遙は今も生きている」
と、玄児は繰り返した。
「この先もずっと、あの地下の闇の中で彼は、同じように生きつづけるんだろう。――どうかな、中也君。この事実こそがまさに、ダリアの〈不死の血〉が実在し、機能していることの証拠だとは思わないかい」
……あの時の、あの声。
ほんのかすかにではあるが、何か……垂れ課の声が地の底から聞こえてきたような気がした。低くかぼそく呻くような、何とも気味の悪い声が。
幻聴などではなかったということか。あの階段の下に広がる暗闇の中で今なお生きつづけている玄遙が発した、あれは声だったのか。あれは……。
……不意に。
何か恐ろしい気配を間近に感じてしまって、私はびくりと背後を振り返る。――が。
それはもちろん、まったくの気のせいだった。部屋には私と玄児以外、何者もいない、いるはずがない。ところどころで揺らめく蝋燭の薄明りの中、例の額縁の内側に描かれた藤沼一成の幻想画だけが、不思議な存在感をもって浮かび上がって見えた。
「玄遙は今も生きている」
と、さらに玄児が繰り返す。まるで呪詛のような禍々しい響きを、私はその言葉に聞き取った。
「こっそりとあの建物に忍び込んで、俺も幾度かそれを目撃したことがある。鉄扉に付いた覗き窓の向こうに、その時たまたま地下から上がってきていた玄遙の姿があった」
「それは、いつの」
「初めて見たのは十四歳の時。最後に見たのは、さて、いつのことだったかな」
そう答えると玄児は、おもむろに寝椅子から立ち上がって片手を腰に当て、ざわめく心を鎮めようとするかのように天井を振り仰いだ。
「伸び放題に伸びた白髪や|髭《ひげ》は汚れきって、腐った苔のような色になっていた。もはや衣服とは呼べないような、ぼろぼろの布が痩せ細った身体に貼り付いててね、骨と皮ばかりの|木乃伊《ミイラ》のみたいな顔は、醜い出来物や|瘡蓋《かさぶた》だらけで……ひどい悪臭がした。俺がいることには気づいたはずだが、何の反応も示さずに突っ立っていた。ひたすらに虚ろな、知性のかけらも感じられない目をしていた。口から洩れるのは、とうてい人のものとは思えないような、獣じみた呻き声ばかりだった。完全に精神の壊れた、ただ生きていて動くことができるというだけの化物だったよ、あれは」
「化物……」
「それでもね、中也君、あれが玄遙の肉体であることに変わりはない。俺の本当の父親、初代玄遙の」
慄然とする私の顔に、玄児は目を戻す。胸の内に溜ったどろどろの汚物を吐き出すように、そして彼は云った。
「どうしてもと君が望むなら、その目で見て、その手で触れることも可能だ。やろうと思えば、血液を採取して型を調べることだってできるのさ」
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7
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時刻は午前七時を回っていた。
長い夜は明け、浦登家にまつわる数々の謎も、その真否をどう判定するかはさておき、たいがいが明らかになったように思える。「この夜のうちにはすべてを話す」という玄児の約束は、これで果たされたことに……いや、まだだ[#「まだだ」に傍点]。
まだだ――と、私は首を振る。
まだすべてが語られたわけではない。玄児がいまだ明確な答えを示していない、私にしてみれば最も重大な謎が、切実な疑問が残っているのである。
「何故なのですか」
その疑問を、私は改めて玄児に投げかけた。
「何故あなたは、私を……」
最後まで云わせまいとするように、玄児はすいと顔を背ける。寝椅子に腰を戻すことはせず、黙ってその場から離れてしまう。私は立ち上がり、そんな彼の動きを目で追った。
「ねえ、玄児さん」
呼びかけても応えず、こちらを振り向きもせず、ゆっくりと室内を巡りながら玄児は、燭台に灯った蝋燭を一本ずつ吹き消していった。一つ炎が消えるごとに、その分の光が闇に置き換わる。暗黒色の壁に暗黒色の天井、暗黒色の床、暗黒色の調度……それらから直接、闇の微粒子が空間へ染み出すようにして。
しかしながら、そうしてやがて最後の一本が消されてしまっても、部屋が闇に覆い尽くされることはなかった。窓の鎧戸の隙間から、かすかに外の光が忍び込んできているのためである。確かにもう、夜は明けているのだ。
「出るよ、中也君」
隠し部屋に通じるどんでん返しの扉は、藤沼一成の絵がこちら側を向いた状態のままだった。失念しているのかわざとなのか、それを元に戻そうとはせず、玄児は廊下への扉に足を向ける。
「疲れたろう。とりあえず君は、少し休んだ方が」
「答えてくれないのですか」
私は玄児の側へと歩を進めながら、
「何故あなたは、私をこんな目に」
「こんな目?」
と、玄児振り返る。暗がりの中、黒ずくめの彼の姿は厚みを持たぬ影のようで、こちらに向けられた顔の表情もほとんど見て取れなかった。
「こんなひどい目に遭わせたのか、って?」
「『ひどい』と云うつもりはありません。――害意や悪意があってのことではなかったのでしょう」
「害意や悪意……ふん、君を傷つけたいとは思ったこともないから、前者はないね。後者については微妙なところだが」
「悪意はあったかもしれない、と」
「――さて」
玄児は軽く肩を竦めてみせながら、
「何を悪意と呼ぶかだな、これもまた。なかなか答えの定まりにくい問題だねえ」
皮肉めかした調子でそう云ったが、顔にはそれとは裏腹に|真摯《しんし》な、そして恐らくは哀しげな色があるのだろう。何となくそう思えた。
「何故なのですか」
と、私は詰め寄った。
「何故、私なのですか。私だったのですか」
「そんなに不本意かい」
と、玄児は訊き返した。
「俺が君の意向も聞かず、〈ダリアの宴〉に君を招いたことが。あまつさえそこで饗されたものが、不死をもたらす〈肉〉などという、いかがわしいことこの上ないものであったことが」
「それは……」
「あらかじめ話していたら、とうてい『うん』とは云ってくれなかっただろう? すべてを説明したいまでもきっと、半信半疑ではいるだろうが」
「――幻想だ、と」
表情の見えない玄児の顔を見据え、私は可能な限りの|毅然《きぜん》さを表に立てて云った。
「やはり私は、そう思います。そもそもはダリア夫人や玄遙氏の、不死への妄執が生んだ悪夢的な幻想にすぎなかった。それがこの異様な館の中で異様な増幅を続けながら、現在に至るまで受け継がれてきたのだと」
「――ふん」
「〈惑いの檻〉の中で玄遙氏が今なお生きているというのは、それも決して〈不死の血〉ゆえの奇跡などではない。ただ生きるべくして生きているのだろう、と。百十歳と云っても、その年齢の老人は世界中に何人もいるでしょう。絶対に生存が不可能な高齢じゃないわけで……」
「なるほど。そんなふうに受け止めるのも、むろん君の自由だが」
声を昂ぶらせたり語気を荒げたりすることもなく、玄児は云った。
「しかしね、たとえ今は否定しても、否定しきれなくなる時が来るさ。現実問題として、君はすでにあの〈宴〉で〈ダリアの肉〉を食してしまったんだからね。君自身の身をもって、いつか……」
……ありえない。
ありえない、そんなことは――と、むきになってかぶりを振りながらも、思わず私は両手を鳩尾に押し当てていた。
左手の包帯の下には、蜈蚣に咬まれた傷の痛みがまだ、さして和らぐ気配もなくある。右手の肘の内側にもまだ、かすかな違和感がある。玄児に彼自身後を注射された時の、あの痛みの名残が。
「質問に答えよう。約束だからね」
と、玄児は云った。
「父……いや、柳士郎の言葉にもあったように、元々〈ダリアの夜〉の〈宴〉に参加する資格は、玄遙と〈ダリアの血〉を引く浦登家の人間、及びそれらと婚姻関係にある人間のみが有するはずのものだった。場合によってはそこに例外を認めるべきだと表だって云いだしたのは当の柳士郎で、その実践として彼は、かつて野口先生にお誘い≠かけたこともあった。
どうしてそんな例外を認めるべきなのか。明確な理由を聞かされたことはないが、彼の心中はおおよそ想像がつく。彼自身がそもそも血縁ではなく、婿入りして〈肉〉を食すことによってダリアと繋がった人間だから、と云う事実はやはり押さえておかなきゃなるまいね。その上で柳士郎は、たぶん浦登家の血≠ノある種の限界を感じているんだろうと思うのさ。だから、必ずしも婚姻にはこだわらずに外部の血≠導入する必要があると考えた。ありていに云ってしまえばまあ、そういうことだろう。でないと、美鳥と美魚がああいった畸型に生まれついたり、清が早老症だったりというこの家の現状を見ても……ああいや、しかしそれよりもむしろ、柳士郎はいっそこの浦登家のこの血を絶やしてしまいたいのかもしれないな」
「血を絶やす?」
「玄遙への消し去りがたい憎しみゆえに、さ。ダリアの〈不死性〉は〈肉〉によって、選ばれた者たちに受け継がれていけばいいが、浦登家の――玄遙の血はいっそのこと絶やしてしまいたい、とね。それこそがもしかすると、彼の本音なのかもしれない」
暗くて表情の窺いしれない中、玄児は間近に立った私の顔を、斜め横から覗き込むようにしてみる。
「分るよね、中也君。俺は――俺も、似たような気持ちでいたんだよ。さっき話したような、浦登家のいびつな歴史・系譜を知るにつれて……この家の血は救いようもなく|穢《けが》れている、と。あまつさえ、男と女が交わり、子が生まれ、血が受け継がれる――といった営みそのものに対して、どうしても強い嫌悪感を抱かざるをえなかった。俺の中にも流れているこの汚れた血。この呪わしい血。こんなものをこれ以上、増殖させたくはない。俺を限りに途絶えてしまえばいい。そういった気持ちが抑えようもなく膨らんできてね、それでもう、妻や子といった形で自分の同類を増やすことについては関心が持てなくなっていったのさ。柳士郎ではなく卓蔵が自分の父親だと思い込んできた昨日まででさえ、そんな具合だったんだ。玄遙こそが実の血親であると知ってしまった今となると、それはなおのこと……」
「使用人はどうなのですか」
ふと気になって、私は質問を差し挟んだ。
「柳士郎氏の云う『例外』が、屋敷の使用人について認められたことはあったのでしょうか。たとえばそう、鬼丸老は?」
「鬼丸老か」
玄児はちょっと考えてから、「可能性はあるだろう」と答えた。
「俺の知る限り、鬼丸老が〈宴〉で〈肉〉を食したことはない。けれどもダリアの生前、彼女から直接〈血〉を受けたということは考えられる。本人は何も云わないがね」
「他の人たちは? そもそも彼らは、不死≠巡るこの家の秘密をどの程度知らされて……」
「だいたいの事情はみんな知っている。あるレヴェル以上踏み込んだところまで正しく理解しているのは、鬼丸老を除けば鶴子さんくらいだろうが」
「|小田切《おだぎり》さん……ああ」
「彼女は、十八年前の火災後に柳士郎が|直々《じきじき》に選んで屋敷に呼び寄せた人材だったというから。当初から相当の事情を知らさせた上で、恐らく彼女はその事情に惹かれてやって来たのさ」
「惹かれて?」
「そう。つまりね、彼女は〈肉〉を欲しているんだよ。忠実にこの家に仕えることで、いずれ自分にも〈ダリアの祝福〉が与えられる機会が巡ってくるものと期待しているのさ。いまだにそれは叶えられてはいないが」
ああ、それで……と、私は今さらながらに思い至るのだった。〈ダリアの日〉のあの夜、〈宴の間〉まで私を案内してくれた鶴子が、別れ際に投げかけたあの眼差しの意味に。
端正な白い顔の無表情から、じっと私の手許を見つめていたあの目、その色、その光……痛いほどに鋭く突き刺さってきた。まるで私のことを憎んで出もいるかのように感じられた、あの。
あれはまさに、彼女の私に対する嫉妬であり増悪であり、そして怒りの表われだったというわけか。長年この屋敷で忠実に務めを果たしてきた自分を差し置いて、どうしてこんな、たかだか数ヶ月前に玄児と知り合ったばかりの学生が〈宴〉に招かれるのか、というやり場のない|憤懣《ふんまん》が、あの時の彼女の眼差しには込められて……。
「……何故なのですか」
と、そしてまた私は問わずにはいられなかったのである。
「何故、選ばれたのが私だったのですか。よりによってこの私が」
「出会ってしまったから、だよ」
玄児はそう答え、静かに腕を組んだ。
「この春に君と出会って、俺は……」
口ごもる玄児の顔に、私はじっと視線を注ぐ。暗くてやはり表情は窺い知れない。玄児の方から私を見ても、きっとこれは同じだろう。――私は今、いったいどのような表情をしているのだろうか。ふと降りかかった疑問が、やみくもな不安と混乱を呼び起こす。この暗がりの中で今、私は自分がどんな顔をしているのかも分らなくなっている。この暗がりに紛れて、そして今、私は自分の心の内側までも見えなくなってしまって……。
「君の中に俺自身の一部分を投影して見てしまうんだと、そう話したろう」
短い沈黙の後、玄児は続けた。
「あの時の君が一時的な記憶喪失状態に陥っていたことも、むろんその理由の一つとしてあったわけだが、それはきっかけにすぎない。記憶がすっかり戻ったあとも、君に対して俺が抱く感覚は変わらなかった。言葉で説明するのはとても難しいんだが、何と云うんだろうか、中也君、君はね、俺と存在の形≠ェ似ていると、そんなふうに感じられて」
「存在の、形」
はっとさせられる表現だった。が、私はそれをまともに受け止めることができず、目を伏せてゆるゆると首を振りながら、
「と云われても、私には」
「美鳥と美魚も云っていたんだろう。君は|木菟《みみずく》で俺は|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、353-下-18]鼠《むささび》。どっちも夜行性で、空が飛べる……お仲間[#「お仲間」に傍点]だ。あの子たちの直感と洞察はね、なかなか鋭いんだぜ」
「…………」
「存在の形≠ェ似ている――なんてね、他人に対して生まれて初めて抱いた、これは感覚だった。特に、この屋敷を出て東京で暮らしはじめてからというもの、俺にとって世界はいつも、何故かしらひどく輪郭の曖昧な、ぼんやりとした[#「ぼんやりとした」に傍点]ものでありつづけてきた。何もかもがリアルじゃなかった、とでも云えばいいのかな。それはもしかしたら、十八年前の死≠ニ復活≠経たことで、俺の心のどこかがすでに滅んでしまっていて、そのせいなんじゃないかと思うこともしばしばあった。
そんな中で中也君、君と出会ったのさ。あの事故の夜、気を失った君を介抱したあの時からもう、俺は君の中に俺自身を見ていたように思う。相も変わらずぼんやりとした世界にあって、俺には君という存在の輪郭がはっきりと見えた。君はリアルだったのさ。あの時も、あのあとも、君は……」
「…………」
「だから――だからね、中也君、俺は君をこの屋敷に招いて、俺の――俺たちの仲間にしてしまいたいと考えた。〈ダリアの祝福〉を君にも与え、永遠の時間を共有する仲間として、俺と――俺たちとともに……」
何とも応えられずに、私は立ち尽くす。玄児の話す声に重なるように、どういうわけかまた中原中也の例の詩が脳裡に滲み出てきて、
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亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
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昏い余韻とともに消えていった。
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亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
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「俺のことが嫌いかい、中也君。すべてを聞いてしまって、嫌いになっかい」
今度は唐突にそんな質問をされたが、私にはやはり何とも反応できなかった。しばし答えを待った後、玄児は短く溜息をついて腕組みを解き、
「変な誤解をされたくないから云っておくと、君に美鳥と美魚のどちらかと、あるいは両方と結婚すればいいと提案した、あれはあながちまったくの冗談でもない話でね」
「――何をまた、急に」
「もしも君がそうしてくれるなら、こんなに喜ばしいことはない。俺は本気でそう思っているんだよ。どうかな、中也君」
「それは……ですから、駄目なんです」
語気を強めて抗いながら、私はその場から一歩、後ろへ退いた。
「玄児さんのことは嫌いじゃありませんし、嫌いになりたいとも、嫌われたいとも思いません。彼女たちのことも、私は……でも私には、すでに将来を約束した相手がいて」
「繰り返さなくても分っているさ、そのことは。そんなにむきにならなくてもいい」
そう云って玄児は一歩、退いた私を追うように足を踏み出す。
「今回の事件がどんな決着を見るにせよ、近日中に君はこの屋敷から去っていくことになるだろう。それを引き留めるつもりはない。だが――」
と、玄児はさっきと同じように斜め横から私の顔を覗き込む。そして、二人のまわりに漂う闇の微粒子だけを震わせるような低い声で囁きかけるのだった。
「いったんは去っても、いつか君はここに帰ってくる。俺には分る。今は否定し、拒否しようとしていても、いずれはすべてを受け入れ、帰ってくる。時間はたっぷりあるからね。それまでの間、たとえ十年でもたとえ百年でも、中也君、俺は君を……」
「やめてください」
私は小さく叫び、さらに何歩かその場から身を退けた。心臓の鼓動が異様に速くなっていた。蜈蚣に咬まれた左手の傷の痛みが、不意に強さを増した。
「私は、そんな……」
「分った。分ったよ」
と云って、玄児は|蝙蝠《こうもり》のように両腕を広げた。
「今はここまでにしよう。君は疲れている。一人で考える時間も必要だろう」
ゆっくりと腕を下ろすと、玄児は扉の方に向き直る。その黒い影の動きを見ながら――。
私はふとまた、悪夢じみた妄想に囚われてしまうのだった。暗がりに紛れた玄児の顔の、その双眸は今、先決を流し込んだような毒々しい緋色に染まっているのではないか、と。まるで、そう、件の怪奇映画の中の吸血鬼さながらに。
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第二十四章 分裂の明暗
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玄児に云われたとおり、私は疲れていた。心身ともに、もはや限界寸前まで疲れ切っていることが、自分でもよく分かった。
十八年前の事件現場を出ると、私たちは〈西館〉をあとにして〈北館〉に戻った。時刻はとうに午前七時半を過ぎて八時に近づき、さしもの暗黒の館にも、そこかしこの隙間から外の光が洩れ込んできている。もっとも、空模様はやはり台風一過と云うには程遠い曇天らしく、それらの光はどれも暮れ時のように弱々しかった。
〈北館〉に入ると間もなく、私たちは建物を東西に貫く主廊下と西翼の袖廊下に分れた。玄児はいま一度望和のアトリエを覗いてみて、そこでちょっと確かめておきたいことがあるのだという。
この上まだ何を確かめようというのか。気にはなったけれど、問いただすことはしなかった。それほどにもう、私は疲れ果てていたのである。とにかくいったん〈東館〉二階の客室に落ち着いて、少しでも良いから仮眠を取りたかった
玄児と別れ、私は重い足を引きずるようにして主廊下を進んだ。途中、かすかにオルゴールの音が聞こえてきたのは、遊戯室にある例のからくり時計が八時を告げたのだろう。午前中だから、曲は「黒の|円舞曲《ワルツ》の方か……。
遊戯室の東隣、主廊下沿い南側中央のサロンは手前の扉が一枚半開きになっていたが、室内に人がいる気配はなかった。家人はまだ誰も起きだしてはいないのか。そう思いつつさらに廊下を進むうち、静寂の中にふいと流れ出してきた調べがあった。今度はオルゴールではない、ピアノの音である。この先の音楽室で誰かが今、ピアノを弾きはじめたのだ。
とっさに思い浮かんだのはもちろん、美鳥と美魚の双子姉妹の、何から何までそっくりな二つの顔であった。奏でられているのは、一昨日の夕刻に聴いたサティの「グノシェンヌ」ではない。私の知らない曲だった。緩やかなテンポの仄暗い旋律だけれど[#ここから太字](シューベルトだ、と彼[#「彼」に傍点]には分った)[#ここで太字終わり]、「グノシェンヌ」のような陰鬱さや気怠さはなく、どこかしら悲劇的で哀切感の漂う[#ここから太字](……フランツ・シューベルトの「ピアノ・ソナタ 第二十番イ長調」、その第二楽章)[#ここで太字終わり]……。
音楽室の入口は、東翼に延びる袖廊下を左に折れてすぐのところにある。見ると、その黒い両開きの扉には合わせ目に少し隙間が残っていた。一昨日の夕刻と同じ状況である。
あの時はここで、たまたま向かいの部屋から出てきた望和に呼び止められたのだったが、その望和はすでにこの世にいない。そう思うと、今さらながらではあるがひどく|暗澹《あんたん》とした心地になってしまう。
死というのは理不尽で不可解で、そしてやはり何と残酷な現象だろうか。
本来なら彼女よりもずっと先に命を失うはずだった息子の清を残して、望和は死んでしまった。玄児の云うところの〈不死性〉の第二段階――復活≠フ奇跡が起こりでもしない限り、もう二度と彼女が私の前に現われることはありえないのだ。清を探して屋敷中を|彷徨《さまよ》い歩くこともなければ、清の不幸を嘆いて激しく我が身を責めることもない。死は残酷だが、しかしそれによって彼女の心はようやく安息をえられたのか――と、見方を切り替えればそんなふうにも思えてしまう。
私は忍び足で音楽室の扉に近づき、淡い明りが漏れ出す室内をそっと覗き込んでみた。
向かって左手奥に、黒いグランドピアノが置かれている。ご丁寧に、これも本体の表面には、映り込みを避けるための艶消し加工が施されている。鍵盤は部屋の奥側にあって、その前に椅子を二脚並べて坐っている双子の姿が、ちらりと見えた。
私が覗いていることに気づく気配もなく、二人は生真面目な面持ちでピアノを弾きつづけている。あまり巧みとは云えない演奏だった。ところどころで音やリズムが外れたり途切れたり、同じ楽句を弾き直したりしている様子を見ると、これは新たに練習中の曲なのだろう。
一瞬、声をかけようかと思った。彼女たちにはぜひとも訊いておきたいこと、訊いておかねばならないことがあるから。――が、ここではやめておこうとすぐに思いとどまる。あまりにも今、私は疲れている。考えの整理もまだ充分にできていないし、踏ん切りもつかない。
――あたしたちは二人で一人よ。
――だから中也さま、あたしたちと結婚しましょ。
昨日、彼女たちの寝室に招き入れられた際に受けた唐突なプロポーズの言葉を、怪しい胸のざわめきとともに思い出しながら、
――そしてずっと一緒に……ね、中也さま。
――いつまでも一緒に……ね、中也さま。
私は音楽室の前を離れた。|訥々《とつとつ》と流れつづける悲劇的な旋律を背に、〈東館〉へと向かう。電話室のあるホールから渡り廊下に出たあたりで、ピアノの音は聞こえなくなる。胸のざわめきはしかし、なかなか消えてはくれなかった。
独り〈東館〉に戻ると、とりあえず私は手洗いに立ち寄って用を足し、洗面台で顔を洗った。私の来訪に先だって取り付けたという、観音開きの扉が付いた例の鏡を覗いてみると、そこには予想以上に憔悴した自分の姿があった。
それこそ生き血を吸い取られたかのように蒼ざめた顔色。目の下にはうっすらと隈が出来てしまっていて、心なしか頬もこけて見える。分け目の曲がった髪とまばらに生えた無精髭が、何やら重病人めいた全体の印象をいっそう強めている。
思わず、がらがらの溜息が零れ落ちた。
髪を整えたり髭を剃ったりしようと云う気力も湧かず、渇いた喉を少し冷水で|潤《うるお》してから、重い足取りで廊下に戻る。すると、その時――。
「あ、中也さま」
意想外の声が飛んできて、私は立ち止まった。
「中也さま、やっぱり……」
渡り廊下の扉が開いており、そこに美鳥と美魚がいた。驚きうろたえる私の許へ、ぴたぴたと足並みを合わせて小走りにやってくる。
「さっき音楽室にいらっしゃったでしょ、中也さま」
と、向かって右側の美鳥が云った。
「いらっしゃったでしょ、中也さま」
と、向かって左側の美魚が繰り返した。私はしどろもどろになりそうなのをかろうじて抑えつつ、
「気がついていたのですか」
「何となくね」
「――ね」
「最後まで聴いていてくださると思ったから、続けていたのに」
「途中で行ってしまわれるなんて、ひどいわ、中也さま」
「いや、そういうつもりでは」
「まだうまく弾けないから、別にいいんだけれど」
と美鳥が云うので、私は尋ねた。
「あれが、云っていたサティの連弾曲ですか」
「ううん、さっきのは違うの。他の曲よ」
「シューベルトのピアノ・ソナタ。ご存じなぁい? 中也さま」
美魚に訊かれて、私は「いえ」と首を振る。
「後半が凄く難しいの。鶴子さんはとても上手に弾かれるけれど、あたしたちには無理かもしれないわねえ」
「お母さまは、鶴子さんよりもっと上手に弾かれたのかしら」
「どうかしら……」
今朝の双子は着物ではなく、黒い長袖のブラウスに黒い膝丈のスカートという洋装だった。服は例によって、脇腹から腰にかけての部分で縫い合わされている。初めて見る二人の黒ずくめの衣装だが、これは殺された望和の喪に服してのことなのか。
「中也さま、どこに行ってらしたの」
と、美鳥が訊いた。美魚がそれを受けて、
「そうそう。玄児兄さまの寝室にいらっしゃらなかったから……」
「玄児兄さまとご一緒に、どこかへ?」
「――ええ。まあちょっと、いろいろあって」
私は目を伏せ、言葉を濁した。
「気を失っていた時、そばに付いていてくれたそうですね。玄児さんから聞きました。――ありがとう」
「とっても心配したのよ、中也さま」
と、美鳥が云った。
「|蜈蚣《むかで》に咬まれたところは、もう大丈夫?」
「まだ痛みますけど……でも大丈夫。蜈蚣を見るのはもう一生ご免ですけどね」
「兄さまからこの家のこととか、詳しいお話はお聞きになった?」
と、これは美魚が質問してきた。
「ええ、まあ」
私はまた言葉を濁し、すぐにこちらから質問を返した。
「あなたたちは、眠っていないのですか」
「眠ろうとしたんだけれど、すぐに目が覚めちゃって……」
「気になることがいっぱいあって、うまく眠れなくって……」
「――そうですか」
そこで会話を切り上げて、私は黙って廊下を歩き出す。双子は少々慌てたふうにあとを追ってきて、
「もうお疲れかしら、中也さま」
「もうお休みになるの、中也さま」
「――ええ」
「ね、その前に少しお話ししましょ」
「そうそう。少しだけあたしたちとお話しましょ。いいでしょ、中也さま」
そうして彼女たちは、ちょうどすぐそこに見えてきていた舞踏室の扉を開け、抵抗らしい抵抗もできないでいる私の手を取って引っぱりこむのだった。二人のそんな強引さは、|我《わ》が|儘《まま》と云うよりもやはり無邪気なものとして私には感じられ、彼女たちに対する引き裂かれた想いをよりいっそう引き裂いた。
窓の鎧戸の隙間から弱々しい外光が洩れ込んでくるだけの、薄暗くてだだっ広い舞踏室。明りを半分だけ点けて、部屋の中央付近まで私を引っ張っていくと、双子はおもむろに私から離れ、黒と赤茶色の市松模様の床の上で、くるくると奇妙なステップを踏みはじめた。二日目の朝、初めてここで二人と言葉を交わしたあの時に見たのと同じ、不思議な異形の舞い……。
「中也さまは、踊りはお好き?」
動きを止めて、どちらかが云った。ほとんど呆気にとられて立ち尽くす私の様子を見て、愉快そうにくすくすと笑う。
「今度遊びに来られたら、一緒に踊りましょうね」
と、どちらかが云った。
「その時は玄児兄さまもお誘いして、四人で踊りましょ。鶴子さんにお願いして、ピアノも弾いてもらいましょ。ね」
「ね、中也さま」
「楽しそうでしょ、中也さま」
「あ……ええ、そうですね」
|無下《むげ》に否定するわけにもいかずそう答えると、双子は満足げに微笑んで、今度は静かな足取りで西側――中庭に面した壁に向かって移動していく。何歩か進んだところで、二人揃ってくるりとこちらを振り返り、
「ここにいるとね」
と、これは美鳥の方が云った。すいっと右手を挙げ、掌を耳の後ろに当てる仕草をしながら、
「ここにいると時々ね、幽霊の声が聞こえるのよ」
「幽霊の声?」
とっさに心当たりを感じつつも、私は首を傾げて見せた。
「本当ですか」
「ほんとよ。お屋敷に棲む幽霊の声がね、聞こえてくるの。ね、美魚」
「そ。男の人の声だったり女の人だったり、いろいろなのよ」
「古いお屋敷だから、いろんな幽霊がいるのねえ」
「それならたぶん、私も聞きましたよ」
と、私は打ち明けた。
「最初にこの広間であなたたちと会った、あのあとに。誰もいないのに、どこかからかすかに、掠れたような罅割れたような声が聞こえてきて」
「男の人の声だった?」
と、美魚が訊いた。
「ええ、たぶん」
「じゃあ、あの男の人の幽霊ね。あたしたちも何度も聞いたこと、あるわ」
「幽霊って……それ、本当なんですか」
相変わらず西洋の骨董人形を思わせる二人の美しい顔を見据え、私は大真面目に質問した。
「本当にそんなものが」
すると双子は二人して、さも可笑しそうにころころと笑いはじめた。透明な硝子細工の鈴を鳴らすような、あの軽やかな声で。
「冗談よ、中也さま」
と、やがて美鳥が云った。
「この世に幽霊なんて、いるはずないもの」
「そうよ。いるはずないもの」
と、美魚が相槌を打った。
「中也さまは信じていらっしゃるの? 幽霊」
「いや、それは……」
私はのろりとかぶりを振って、
「では、あの声はいったい」
と訊き返した。
「実際に私も、この耳で聞いたんですから。最初に聞いたあのあとも、やっぱりこの広間で、同じような感じで」
「それはね、中也さまがお聞きになった男の人の声は、きっとお父さまのお声ね」
と、美鳥が答えた。私は再び首を傾げながら、
「柳士郎氏の?」
「そうよ。お父さまが〈南館〉の誰かとお話をなさっている声を、たまたまお聞きになったの」
「どうしてそんな声が」
いくらか口調を強くして、私は尋ねた。
「どうして、そんな」
「伝声管よ」
と、そう答えたのは美魚の方だった。
「天井の上を通っている伝声管がね、古くなって傷んでるの。傷んで、きっと破れ目が出来ちゃってるのね。だから、声が――お父さまが〈西館〉の居間から〈南館〉の人たちに連絡を取る時の声がそこから漏れて、ここでも聞こえることがあって」
「お屋敷が出来た時からあった古い設備だから、それであちこちが傷んじゃってるのねえ」
「女の人の声が聞こえるっていうのは、鶴子さんかしのぶさんね」
「――ははあ」
一昨日、重態の蛭山丈男が運び込まれた〈南館〉のあの部屋――かつて諸井静と忠教の母子が住み込んでいたというあの部屋。あそこで実際に使用されるのを見た、|喇叭《らっぱ》の朝顔≠フような形をした例の器具を思い出しながら、私は大きく頷いた。
「他にもいくつか、幽霊の声が聞こえる場所があるのよ」
「そうそ。急に聞こえてくると、何だかほんとに幽霊がいるみたいに思えたり」
「なるほど……」
……そうか、と私はそこでやっと思い当たった。
あれは昨日のことである。蛭山の死体や犯行現場の検分を終えて、玄児と野口医師と私の三人で〈北館〉へ向かう途中、この棟の〈表の座敷〉に清がいたのに出会った。あの時のあの、清と玄児の奇妙な言動も、ひょっとすると……。
独り思案を巡らすうちに、双子の姿が視界から消えていた。部屋の隅に立てられた例の|衝立《ついたて》障子の後ろに、二人して隠れてしまったのである。初めて彼女たちと会ったあの時と同じ状況を、ここで再現しようとでもいうのか。
「中也さま、こっちよ」
と云って、衝立の右側から美鳥が顔を覗かせた。
「こっちよ、中也さま」
と云って、左側から美魚が。
ぎくしゃくとした微笑でそれに応えながら、私は衝立に向かって足を進める。「あたしたちは|蟹《かに》よ」と云ってその陰から二人が姿を現わしたあの時の驚愕が、衝撃が、あれからまだ二日ほどしか時間が経っていないというのに、何だかとても懐かしく思い出された。
「ねえ中也さま」
「ねえ中也さま」
私が衝立の手前まで行くと、双子は左右からそれぞれの顔を覗かせたまま、不意に声音を鋭くして同じ質問を投げかけてきた。
「望和叔母さまを殺したのはだぁれ?」
「望和叔母さまを殺したのはだぁれ?」
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浦登望和を殺した犯人は誰か。
双子の突然の問いかけに、私の想いはさらにまた引き裂かれざるをえなかった。理性と感情と、論理と情緒と、客観と主観と、否定と肯定と……いくつもの対立項が|鬩《せめ》ぎ合い、心を掻き乱す。
本当に詰まりつつも私は、そんな内心の動揺と狼狽を|気取《けど》られぬよう、なるべく自然な表情を取り繕おうとした。それがどこまで功を奏したのかは分らないが、少なくとも双子が私の絶句に対して、必要以上に不審を抱く素振りは見られなかった。
「ねえ、中也さま」
と、美鳥が云った。
「誰が望和叔母さまを殺したの。玄児兄さまと中也さまが、それを突き止める探偵さんなんでしょ」
「ねえ、中也さま」
と、美魚が云った。
「誰が犯人なのか、まだ分らないの? 見当くらいはついているのかしら」
私は瓜二つの美しい顔を交互に見やりながら、
「あなたたちは?」
と、逆に質問を振った。
「あなたたちはどう思うのです」
「あたしたちは……」
「あたしたちは……」
「蛭山さんを殺した犯人については、しのぶさんと清君を疑っていましたよね。望和さんの事件も、やはりそのどちらかが怪しいと考えるのですか」
「まさか」
「まさか」
同時にそう云って、二人は目を円くした。
「望和叔母さまと蛭山さんとじゃあ、話が全然違うもの」
「清君が叔母さんを殺すはず、ないわねえ」
「清君は叔母さまのこと、ほんとは大好きだったと思うし」
「しのぶさんでもないわねえ」
「しのぶさんも叔母さまのこと、ひどく嫌ったりはしていなかつたと思うし」
「では、二人を殺した犯人は別々だと?」
「そうじゃないわ。叔母さまも蛭山さんも、どっちも首を絞められて……おんなじ殺され方だったんでしょ」
「おんなじ犯人だからおんなじ殺し方なのよねえ」
「ははあ。――それでも、望和さんと蛭山さんとでは『話が全然違う』んですね」
と、私は鎌を掛けてみた。双子は各々に大きく頷いて、
「だって、望和叔母さまは家族だもの。蛭山さんは使用人で、他人だし」
と、これは美魚の方が答えた。
「叔母さまはあたしたちと同じで、特別な祝福を受けた方だもの。蛭山さんは普通の人だし」
と、美鳥が続ける。私は訊いた。
「『特別な祝福』というのは、あなたたちや玄児さんと同じように、ダリア夫人の〈不死の血〉を受け継いでいること、ですね。とにかくまずその点において、望和さんと蛭山さんとは違うのだというわけですか」
「そうねえ」
「そうよねえ。だけど中也さまはもう、あたしたちと同じなのよ」
「そうよ。中也さまはもう同じ……」
「それは、私があの〈宴〉で〈ダリアの肉〉を食べたから?」
確認すると、双子は邪気のない笑みを満面に広げながら、各々にまた大きく頷いた。
望和と蛭山とでは話が違う。――玄児も同じようなことを云っていた。望和が殺されたとなると、蛭山が殺されたのとはわけが違うと、確かそんなふうに。あの時はその物云いに違和感を覚えたものだったが……そう、要はそういうことなのだ。
家族か使用人か、近親者か他人か、といったレヴェルの問題だけではなく――。
彼らにしてみれば、望和と蛭山とではそもそも命の重み[#「命の重み」に傍点]が絶対的に異なるのだ。〈ダリアの祝福〉を受けている人間とそうでない人間。不死の命とそうでない命。――同じ「人殺し」という行為でも、玄児も云っていたように、おのずと「含み持つものが違ってくる」のである。
浦登望和と蛭山丈男、二人の死を巡る状況を改めて思い返し、引き比べてみる。
殺害方法は確かに同じだった。蛭山はズボンのベルトで、望和はスカーフで、どちらも首を絞められて殺されていた。犯行現場はどちらも館内の一室。誰も目撃する第三者のいない場での犯行だった。だがしかし……。
放っておいても程なく死ぬと分っていた蛭山。
放っておいたら決して死ぬことはないはずだった――とこの屋敷の者たちが信じている――望和。
そんな云い方で、二人の被害者を対比することもできる。蛭山にはほんのわずかな未来しか残されていなかった。望和には永遠に続くはずの未来があった。ある意味、まったく質の異なる二つの命……なのにその両方を、犯人は同じ方法で奪ったのだ。
いったいどんな動機があって、犯人は二人を殺したのか。殺さねばならなかったのか。
結局のところそれは、玄児の言葉を借りるなら「犯人のごく内面的な問題」である。「他人には窺い知れない心の深い部分にこそ、真に重大な、切実な歪みが隠されているものだろうから」というのは、確かにそのとおりだと私も思うけれど、にしてもやはり考えないわけにはいかない。真に重大な、切実な……果たしてそれは、どのような「歪み」なのだろうか。
「怪しいのはやっぱり、あの人ね」
と、美鳥が云いだした。
「そうねえ。やっぱりあの人ね」
と、美魚が応えた。
「あの人?」
私は訊いた。
「誰が怪しいというのですか」
すると二人は即座に、そして同時に、こう答えたのである。
「江南さまよ」
「江南さまよ」
「――えっ」
私はおもわず幾度も目をしばたたかせて、
「どうして彼が」
「だって」
「だってねえ」
「ゆうべ〈表の座敷〉へ行って、ちょっとお話をしてきたんだけれど」
「あの人は何も喋らなかったけれど」
「そもそも勝手にここに入ってきたっていうのが怪しいわ」
「怪しいわよねえ」
「どこの誰かも分らない人なんでしょ」
「ほんとは記憶をなくしてなんかいないんじゃないかしら」
「ほんとは口も利けるんじゃないかしら」
「あれは全部お芝居で、もともと何か悪さをするために来たのかもしれないわ」
「頭がおかしくなっちゃってるのかもしれないし」
「殺人狂ね」
「そ。殺人狂なの」
「はあ。――殺人狂、ですか」
彼女たちには聞こえないよう、私はそっと溜息をついた。
「まあ、彼が怪しい人物であるということは確かでしょうけれども」
けれども――と私は、声には出さずに反論する。けれども蛭山殺しの状況を検討するにつけ、あの青年が犯人であるとはまずもって考えられないのだ。
犯人は、犯行現場となった〈南館〉のあの部屋と廊下の物置との間に例の隠し扉があることを知っていて、そこから現場に出入りしたと分っている。不意の闖入者である江南青年が、あらかじめあの隠し扉の存在を知っていたはずがない。彼は知らなかったはずなのだ。だから……。
私が少しく口を閉ざしている間に、美鳥と美魚は二人とも衝立の向こうに顔を引っ込めてしまった。かと思うと、隠れていた一繋がりの身体をおもむろに衝立の左側から現わし、
「中也さまはどう思われるの」
「中也さまは誰を疑っていらっしゃるの」
美鳥は右に、美魚は左に、それぞれちょこんと小首を傾げて問いかけてくる。
「さあ……」
私は二人の異形から目を逸らし、ゆるりとかぶりを振った。
「私には、まだ何とも」
嘘だ、と心の中では呟いていた。嘘だ、「まだ何とも」などというのは。――私は。
私は疑っている[#「私は疑っている」に傍点]。
玄児と二人で望和の殺害現場を再検証した後、例の暖炉の抜け穴から〈赤の広間〉に出てみて、ひとしきり事件の犯人像に関する検討をした、あの時からずっと私は疑っている。疑いつづけている。いま目の前にいるこの双子こそが実は犯人なのではないか[#「いま目の前にいるこの双子こそが実は犯人なのではないか」に傍点]、と。美鳥と美魚、彼女たち姉妹こそが蛭山と望和を殺したのではないか、と。だからこんなにも、私の思いは引き裂かれてやまないのである。
「あなたたちが殺したのですか」という、それがつまり、私が彼女たちに「訊いておかねばならないこと」なのだった。どのような答えが返ってくるにせよ、その際の二人の様子を観察すれば、多少なりとも確かな何らかの感触が得られるのではないか。そう考えてもいた。――が。
私は結局、その質問を口に出すことができなかった。訊くのが怖いというのもあったし、心身ともに疲れ切っている今の自分に、二人の反応を正しく観察できるものかどうか、非常に心許ないというのもあった。
「ところで――」
と、私は話を切り替えた。彼女たちに対してはもう一つ、これは事件とは直接的な関わりのないところで「訊いておきたいこと」があったからだ。
「ずっと気になっているのですけど、美鳥さん、美魚さん、あなたたちは――」
「なぁに?」
「なぁに? 中也さま」
と、二人はそれぞれにまた小首を傾げる。私は思いきって訊いた。
「あなたたちは今後も、今のまま変わらない状態で……つまりその、そんなふうに身体の一部分を共有したままの状態で生きていこうと、そういうつもりなのですか」
「それって、どういうことかしら」
「どういうことなの、中也さま」
「どういうことって……ですからね、要するにあなたたちは、結合したあなたたちの身体を外科的に切り離す手術を受けるつもりはないのかという」
「切り離す?」
私の言葉を断ち切って、美鳥が叫ぶような声を上げた。美魚もほとんど同時に、
「切り離しちゃうの? あたしたちを」
と、やはり叫ぶような声を上げた。その剣幕に気圧されつつも、私は答えた。
「野口先生が云っていましたよ。あなたたちの場合は、共有している器官もさほど多くないから、分離手術も決して困難な話ではないと。不可能ではないと。だったら……」
「切り離されちゃうの?」
「ばらばらにされちゃうの? あたしたち」
二人の反応は、何となく予想していたよりも遙かに激しいものだった。叫ぶように発せられる声だけではない。その顔は見る間に蒼ざめ、その目は瞼が避けんばかりに見開かれて涙に潤み、その唇は恐怖におののくように細かく震えはじめ……総じて、私の言葉が彼女たちに与えたショックの甚大さを如実に物語っていた。
「そのまま一生、身体が結合した状態でいるわけには、いかないのではないかと思うのです」
私はまっすぐな視線を二人に据え、なるべく落ち着いた口調を保つよう努めた。
「これから先、あなたたちが外の世界へ出ていくこともあるかもしれない。それこそ誰かと恋をしたり結婚したりすることもあるかもしれない。そう考えるとやはり、今のままでは……」
「――嫌」
「――嫌」
最初は小声で、二人は答えた。私が「しかし」と云いかけると、
「嫌よ、そんなの」
「嫌よ、そんなの」
いくぶん昂った声でそう繰り返す。「しかしですね」とさらに私が云おうとすると、二人はいきなり最大限まで声を昂ぶらせ、
「嫌よっ!」
「嫌っ!」
吠えるように叫んだ。美鳥は左手を美魚の右肩に伸ばし、美魚は右手を美鳥の左肩に伸ばし、二つの胸を合わせるようにして抱き合う。そうしながら、|艶《つや》やかな黒髪を振り乱して幾度もかぶりを振る。
「そんなの、絶対に嫌よ」
「絶対に嫌……」
「何て恐ろしいことをおっしゃるの」
「何てひどいことを……中也さまも、野口先生も」
「あたしたちはね、二人で一人なの」
「あたしたちはずっと二人で一人……」
激烈な拒否反応、とでも云おうか。双子は涙声になって、喚き立てるように訴えつづけるのだった。
「切り離されるなんて嫌っ」
「ばらばらになんかされたくない」
「切り離されて、二人がばらばらになっちゃうくらいなら、死んだほうがましだわ」
「そうよ。ばらばらになるのなら、いっそ死んでしまった方が……」
まさか彼女たちがこんなふうに取り乱すとは思ってもみなかったもので、私はたいそう狼狽し、訊いてしまったことをいささか後悔もした。とともに、野口医師が一昨日、双子の分離手術の件について語った際に付け加えた言葉が、
――肉体よりもむしろ、あの子たちの問題はあの子たちの心の方にあると、私はそう了解しておるのですが。
ふと思い出される。
肉体よりも心の方に[#「肉体よりも心の方に」に傍点]……。
なるほど、それはこういうことだったのか。
何があっても決して引き離されまいとするように強く抱き合った二人の姿を茫然と目に映しながら、私はしばしその場に立ち尽くすしかなかった。
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取り乱す双子をどうにか|宥《なだ》めすかしつつ、私は独り逃げるように舞踏室を出、二階の客室に戻った。時刻は八時半を回っていた。
問題は肉体よりも心の方にある、という野口医師の言葉の意味が、今さっきの彼女たちの反応を見てよく分った気がした。要は先天的な肉体の結合・癒着よりも、二人の心の結合・癒着の方が、問題解決に当たっての大きな壁である、ということなのだ。
きっとこれまでにも、彼女たちの未来を憂慮した柳士郎や野口医師から、彼女たちの先天奇形に対する外科的処置の提案はなされてきたことだろう。そしてそのたび、彼女たちはあのように激烈な抵抗を示したのに違いない。
――あたしたちはね、二人で一人なの。
――あたしたちはずっと二人で一人……。
そう。彼女たちにしてみれば、比喩でも何でもなく、それこそが自分たちのあるべき形[#「あるべき形」に傍点]なのだ。
野口医師をして大いに感嘆せしめるような「完全なH型二重体」として生まれついた二人は、この閉ざされた屋敷の中で、自分たちの異形をごく自然なものとして受け入れ、そこに無用な劣等感や被差別意識を抱いたりすることもなく育ってきた。そうであるだけに、なおさら壁は大きいということか。二人はもはや肉体のみならず、精神的にも分かちがたく一つに繋がった存在なのである。
二人で一つの身体。
二人で一つの心。
結合した身体をばらばらに切り離されることは、だから彼女たちにとって、死≠ノも増して大きな恐怖なのだろう。それでもなお、二人の将来のためにと云って分離手術を受けさせる権利は、恐らく誰にもない。ないはずだから……。
彼女たちはやはり、これからもずっとあの姿のままで、彼女たちの一生を生きることになるのか。十年後も二十年後も……いや、百年後であっても二百年後であっても、ダリアの〈不死の血〉を受け継ぐ彼女たちは永遠にあのまま……ああ、違う。それは違う。いけない[#「いけない」に傍点]。取り込まれてはいけない[#「取り込まれてはいけない」に傍点]。
私は慌てて首を振る。平手で軽く頬を叩く。
いけない。
ここで取り込まれてしまってはいけない。
玄児から聞かされた不死≠巡るあれこれに関しては、あくまでも浦登家の者たちの共同幻想であると捉え、とりあえず脇に置いておくべきだろう。そうした上で今は、考えなければならない。放っておくといともたやすく混沌に呑み込まれてしまいそうな心を落ち着けて、できるだけ客観的な視座に立ってもう一度、まずは今回の事件について。
ベッドの端に腰掛け、旅行鞄から取り出した新しい煙草の封を切りながら、私は考える。
私は――。
私は美鳥と美魚の二人を疑っている。
彼女たちが蛭山殺しと望和殺し、二つの事件の犯人なのではないかと疑っている。
それは、各々の事件を取り巻く状況を検討した結果、どうしても突き当たらざるをえない一つの論理的帰結なのだった。
改めて筋道を整理・確認しておこう。|要《かなめ》となるのはもちろん、二つの事件の両方に存在した「抜け穴の問題」である。
第一の事件――蛭山丈男殺しにおいて、犯人は現場への出入りに物置の隠し扉を使った。従って犯人は[#「従って犯人は」に傍点]、その隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人物である[#「その隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人物である」に傍点]ということになる。――これが、第一の事件における犯人の条件=B
第二の事件――浦登望和殺しにおいて、犯人は休憩室の窓の硝子を打ち破って隣の〈赤の広間〉へと脱出・逃走した。同じ部屋の暖炉の中に、例の秘密の抜け穴があったにもかかわらず、である。従って犯人は[#「従って犯人は」に傍点]、暖炉の抜け穴の存在を知らなかった人物である[#「暖炉の抜け穴の存在を知らなかった人物である」に傍点]ということになる。――これが、第二の事件における犯人の条件=B
第一の条件を満たす人間は、殺された望和を除くと十三人いる。屋敷に住む浦登家の者たち――柳士郎、美惟、征順、玄児、美鳥と美魚、清。屋敷の使用人たち――鶴子、宍戸、鬼丸老、しのぶとその息子慎太。それから、来訪者である野口医師。この十三人である。
一方、第二の条件を満たす、もしくは満たす可能性のある人間は六人いる。私自身と江南青年、慎太、茅子と伊佐夫、そして野口医師の六人である。
よって、第一と第二、双方の条件を満たすのは慎太と野口医師の二人だけということになるが、医師には第二の事件におけるアリバイが成立する。残る慎太は、年齢的・能力的に考えて犯行不能であると判断せざるをえない。犯人たりうる人間が、すると一人もいなくなってしまう。
と、ここまでで、私たちの推理は暗礁に乗り上げてしまったわけだった。――しかし。
そこで私は、ある可能性[#「ある可能性」に傍点]に思い至ったのである。それはつまり――。
第二の事件において犯人は、暖炉の抜け穴があるにもかかわらず、窓の硝子を破って部屋から脱出した。抜け穴を使えばより容易に脱出できたはずなのに、わざわざ硝子を打ち破り、その破壊音が誰かに聞き咎められるかもしれない危険を冒してまで、窓からの脱出を敢行した。
これを私たちは、「犯人は抜け穴の存在を知らなかったから」と解釈したわけだけれど、果たしてそれは本当にそうだったのだろうか[#「果たしてそれは本当にそうだったのだろうか」に傍点]。
本当はそうではなく、犯人は実のところあの抜け穴の存在を知っていたのではないか。知っていてなおかつ[#「知っていてなおかつ」に傍点]、そこからの脱出を見送ったのではないか[#「そこからの脱出を見送ったのではないか」に傍点]。
なぜにそんな行動を犯人は取ったのか、取らねばならなかったのか。――と、このように考えて、私はその可能性[#「その可能性」に傍点]に行き当たったのだった。
犯人はあの抜け穴の存在を知っていた。にもかかわらず、そこからは脱出しなかった。何故なら、いくらそこから脱出したいと思っても[#「いくらそこから脱出したいと思っても」に傍点]、犯人にはそれが不可能だったから[#「犯人にはそれが不可能だったから」に傍点]――なのではないか。
知っていたか知らなかったか、という事件の問題ではない。犯人には物理的に[#「物理的に」に傍点]そうすることが不可能だったのである。
暖炉の中の抜け穴は、縦横六十センチか七十センチか、そのくらいの大きさの正方形だった。大人が一人、腹這いになってやっと通り抜けられるほどの広さしかない。一方、暖炉の上の窓を破れば、そこには大人が二人肩を並べても楽に通り抜けられるような穴≠ェ出来る。
犯人は窓からであれば脱出できた。しかるに、暖炉の抜け穴からは脱出できなかった。穴が狭すぎる[#「穴が狭すぎる」に傍点]ため、通り抜けることができなかったのだ[#「通り抜けることができなかったのだ」に傍点]。それはすなわち、犯人が普通の身体ではなく、たとえば二人分の肉体が一つに結合したような――美鳥と美魚のような[#「美鳥と美魚のような」に傍点]――特別な|体躯《たいく》の持ち主であったからに他ならないのではないか。
第一の事件で使われた物置の隠し扉の方は、彼女たちのあの身体でも、それこそ蟹のように横歩きをすれば難なく通ることができたはずである。が、第二の事件で期せずして追い込まれてあの休憩室の抜け穴の方は無理だった。いくらその存在を知っていても、物理的な問題として、彼女たちにはどうしても通ることができなかったのだ。
このように、「抜け穴の問題」から論理的に導き出される解答は、彼女たち姉妹が犯人であることを指し示している。――そう。そうなのである。
玄児はいったいこの事実に気づいているのか、いないのか。彼のことだから、まったく気づいていないはずはないと思うが……。
乾いた唇の端に銜えた煙草に[#ここから太字](この茶色いフィルターは、と彼[#「彼」に傍点]は今さらながらに気がつく)[#ここで太字終わり]、私はマッチで火を点ける[#ここから太字](座敷にいるあの青年のものと同じ……)[#ここで太字終わり]。何時間ぶりの喫煙になるだろうか。身体に染み渡る久しぶりのニコチンは、緩やかな眩暈とともに軽い吐き気をもたらした。
快とも不快ともつかぬその感覚に、半ば自虐的な気分で酔いながら、私は考えつづける。
私は――。
私は彼女たちを疑っている。彼女たちが蛭山と望和を殺したのではないかと疑っている。疑いたくはないけれど、どうしても疑ってしまう。
「抜け穴の問題」を論理的に考えるなら、犯人は彼女たちでしかありえない。だがしかし、その結論に拮抗して、あの美しい少女たちが人殺しなどをするはずがない、という想いが消えずにある。理性と感情と、論理と情緒と……いくつもの対立項が依然、私の心の中では鬩ぎ合いをやめないのだった。
しかしながらやはり、ここは感情よりも理性に、情緒的な判断よりも論理的な考察にこそ、重きを置くべき局面だろう。――分っている。それは十二分に分っているから……。
犯人は美鳥と美魚である、と私は考えねばならない。その可能性がすこぶる高いということを認めねばならない。が、それにしても――。
それにしても何故、彼女たちは蛭山と望和を殺さなければならなかったのか。その動機はいったい何なのか。
――肉体よりもむしろ、あの子たちの問題はあの子たちの心の方にあると、私はそう了解しておるのですが。
一昨日の野口医師のあの言葉を、再び私は思い出す。
肉体よりも心の方に[#「肉体よりも心の方に」に傍点]……。
ひょっとしてこの言葉には、もう一つの含意があるのではないか。身体を切り離されることを極度に恐れる、「あたしたちは二人で一人」という思い込みの「問題」の他に、それとは別の事件でも、彼女たちの心には重大な「問題」があるのだと、そんなふうに考えられはしないだろうか。
さっき彼女たちは、江南青年を評して「殺人狂」という云い方をした。もしもそれがそのまま、彼女たち自身に対しても当て嵌まるとしたら……。
どうにもやりきれない気分で、私は恐ろしい想像を膨らませる。
彼女たちの心の深みに隠されている「真に重大な、切実な歪み」――それは恐らく、ある種の狂気なのだ。何らかの事由で顕在化したその狂気の暴走が、彼女たちをして蛭山と望和を殺害せしめたのだ。
放っておいても程なく死ぬはずだった蛭山を殺した理由については、昨夕の玄児の説が的を射ているのだろうと思う。犯行の時点で美鳥と美魚は、蛭山の容態が「朝まで|保《も》つかどうか」というほど深刻なものだとは知らなかった。説明可能な動機の有無はさておき、だから彼女たちはわざわざ彼を殺したのだ。「弱ってるから、この機会に殺してしまえ」とでも思って。
望和殺しについては、たとえば狂人ならではのこんな短絡的動機がありうるのではないか。哀れな従弟の清を母親の過度な執着や感傷から解放してやるために、というような……。
フィルターが焦げはじめた煙草を灰皿で揉み消すと、私は羽織っていたカーディガンを脱いだ。腕時計を外し、パジャマの胸ポケットに突っこんであった例の「疑問点の整理」のメモと一緒にサイドテーブルの上に置いて、ベッドに横たわる。身を起こしているのも考えつづけるのも、本当にもう限界ぎりぎりのようだった。横たわった途端、全身からすっかり力が抜けてしまい、そのままベッドの中に沈んでいきそうな心地になった。
蜈蚣に咬まれた傷痕が左手で、注射の痕が右肘の内側で、交互に疼いた。痛みの程度は当然、左手の方が強い。けれどもむしろ、気になるのは右肘の方だった。
あの注射器で私の体内に注入された、彼の――玄児の血。異国の魔女ダリア、その直系の子孫である玄児の血。今なお〈惑いの檻〉の闇の中で生きつづけているという玄遙、その呪わしい血を濃厚に受け継いだ玄遙の血。それが今や、私の中にも……。
――君はね、俺と存在の形≠ェ似ていると、そんなふうに感じられて。
……ああ、どうして玄児はそのような。
――君は|木菟《みみずく》で俺は|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、379-下-15]鼠《むささび》。どっちも夜行性で、空が飛べる……お仲間[#「お仲間」に傍点]だ。
……どうして玄児さんは、この私を。こんな私を。
――いけませんよ、 さん。
……母さま?
――兄のあなたが、そんな……。
ああ、母さま。私は――私はいったい……。
――ねえ、中也君。
――口答えは許しません。
――分るよね、中也君。
――中也さまはもう、あたしたちと同じなのよ。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
――分ってくれるよね、中也君。
――そうよ。中也さまはもう同じ。
……瞼が重い。どうしてももう、開けていられない。
今この瞼を閉じればきっと、何秒もしないうちに私の意識は眠りに滑り落ちてしまうだろう。恐らくは夢の一つもない、ひたすらに深い闇の暗黒に覆い尽くされた眠りの底に。
それで良いのか。それでも良いのか。――と、不意に強い不安と恐れが湧き起こる。
このまま眠りに落ちてしまって良いのか。
今ここで眠ったら最後、待ち受ける暗黒の中で私のこの存在は、何か決定的な変性を遂げてしまうのではないか。〈宴〉で食したあの〈肉〉によって。玄児に注入されたあの〈血〉によって。もはや決して後戻りが許されぬほどに。もはや「私」が「私」ではなくなってしまうほどに。そして――そして私は……。
……瞼が、とても重い。どうしてももう、開けていられない。
抵抗しきれず、とうとう私は瞼を閉じる。予想どおり何秒もしないうちに、私の意識は眠りに滑り落ちていく。が、その滑落の中で本の一瞬――。
私は見た気がした。
暗い赤紫色の空間に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた銀の鎖[#ここから太字](……どうしてこんな)[#ここで太字終わり]。その中心に浮かぶ円い時計の文字盤[#ここから太字](あの懐中時計が、ここに……)[#ここで太字終わり]。――たぐい稀な幻視の力≠持つという画家、藤沼一成の描いたあの不思議な風景が[#ここから太字](……一成という画家は、確か)[#ここで太字終わり]、何故かそこにある。それが突然、何かしらおぼろな白い光を……。
……行き着いた眠りのそこにはやはり、ひたすらに深い闇の暗黒だけがあった。
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字](……何だろう)[#ここで太字終わり]
彼[#「彼」に傍点]は大きな疑問に囚われる。「私」が眠りに落ちたあともしばし、同じ現在に寄り添って目覚めつづけていた視点≠フ後ろ側で、ふと。
昏い混沌の縁からようやく浮上し、緩やかに機能を回復しつつある能動的・自律的な意識。しかしながら、視点≠ェ捉える現実≠ノ対する認識や思考はまだ断片的にしか働かず、全体を統合的に把握することは叶わずにいる。そんな中で――。
[#ここから太字](……何だろう)
何だろう、と彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返す。
何なのだろう、この違和感は。[#ここで太字終わり]
視点≠通してこれまで、彼[#「彼」に傍点]は世界≠ナ展開するすべての出来事を見つづけてきた。統合的な把握はままならずとも、今やある程度の自律性をもってそれらを振り返り、認識や思考の対象として取り出してみることは可能であった。そうすると疑問はいよいよ大きく膨れ上がり、増殖し……。
[#ここから太字]……何なのだろう、と彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返さざるをえない。
何なのだろう、この違和感は。このいくつもの違和感は。このいくつもの、到るところに散らばっている違和感は。[#ここで太字終わり]
あるものは密やかな、あるものはあまりにもあからさまな。意識が正常なレヴェルにあったなら、すぐにでもその意味を解することができるはずの。けれども今の彼[#「彼」に傍点]にはまだどうしてもそれができない、この数々の……。
[#ここから太字]……たとえばそれは、と彼[#「彼」に傍点]は具体的な問題の抽出を試みる。
たとえばそれは、そう、天候のことだ。
たとえばそれは、色や形のことでもある。名前や顔立ちのことでもあるし、映画やTVのニュースのことでもある。火山の噴火や地震のことでもあるし、風変わりな建築家や著名な探偵小説作家のことでもあり……。
他にもある。まだまだたくさんある。[#ここで太字終わり]
いったん気に懸かりはじめると次から次に、さまざまな場面からさまざまな問題が拾い上げられてきて、いまだ完全に本来的な機能を回復していない彼[#「彼」に傍点]の、いまだ不安定な明滅のやまない意識の中に溢れ返っていくのだった。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
「……中也さん。中也さん」
甲高くて線の細い、それでいて妙に|嗄《しわが》れたその声によって、私は眠りから引き上げられた。
「中也さん。起きてください」
聞き覚えのある声だった。甲高くて線の細い、それでいて妙に嗄れた……ああ、これはあの子の――清の声か。
「起きてください。ねえ、中也さん」
清はベッドの横に立ち、なかなか目を覚まさない私の身体を両手で揺すっていた。パジャマの布地を通して伝わるその掌の感触は硬くて小さくて、その力は哀しいほどに弱々しかった。
「……あっ」
私が目を開けたのに気づくと、清は慌てて私の身体から手を離し、
「あの、あの……」
その手をもじもじと背中に回しながら、言葉を詰まらせた。
私はゆっくりと上体を起こし、瞼の上から目を擦る。小刻みに頭を振り動かす。本当に夢の一つも見ることなく、熟睡していたようだった。
「どうしたの、清君」
と、そして私は訊いた。早老症の少年は黒い長袖のシャツに長ズボン、そして頭にはやはり灰色のベレー帽といった出で立ちである。明りの点いていない部屋の薄暗がりの中、どんな面差しなのかはよく見て取れない。
「あの、中也さん」
清はおずおずと答えた。
「玄児さんに云われて、ぼく」
「玄児さんに……何て?」
「中也さんを呼んでくるようにって。ここで寝ているだろうから、起こしてすぐに……」
「すぐに?」
「〈北館〉のサロンに来るように、って」
「サロンに……何かあったのかな」
そう呟いてから、私は急に何とも云えず不吉な予感に囚われてしまい、
「まさか、また事件が」
と声を尖らせた。すると清は首を横に振って、
「ええと、外から来た市朗さんっていう人がサロンにいて、玄児さんはその人と何か話をしていたみたいで……」
「あの少年が?」
市朗という名のあの少年は確か、ひどい熱を出していたので西翼の予備室に寝かせてあるという話だったが。一晩眠って、ある程度体長が回復して、玄児の質問にも答えられるような状態になったということか。
「とにかくすぐに来てほしい、って。いろいろ分ったこともあるからって」
「――ありがとう」
ベッドを出ようとしたところで、建物の外から聞こえてくる細かな音に気がついた。サイドテーブルから取り上げた腕時計は正午過ぎを示している。かれこれ三時間余り眠っていた勘定になるが。
「また雨が降っているの?」
鎧戸の閉まった窓の方に視線を投げかけて、私は訊いた。
「あ、はい。ちょっと前から、また」
「嵐は通り過ぎたようだったのにね」
「あまり強い雨じゃありませんけど。でも空には一面、真っ黒な雲が」
何とも云えず不吉な予感が、再び首をもたげてくる。私は「そうか」と低く応じてから、
「とにかく着替えるから。ちょっとまっていてくれるかい」
「――はい」
持ってきていた替えの服を鞄から引っ張り出し、手早く身繕いを済ませる。腕時計はまた右の手首に巻き、そのあと少し迷って、ベッドの隅に放り出してあったソフト帽を取り上げた。扉の脇で待っていた清の目の前で、それを目深に被ってみせる。
「玄児さんのお気に入りでね、この帽子」
云って私は、少年にそっと微笑みかけた。
「君のベレー帽も、なかなかお似合いだよ」
「あ……ええ。でもぼくは……」
ちょっと困ったふうに、少年は「皺くちゃのお猿さん」のような顔を伏せる。
「大丈夫かい、清君」
私はそろりと問いかけてみた。
「お母さんがあんなことになってしまって。君の気持ちを思うとね、いったい何と云ったらいいか、その……」
「大丈夫ですから、ぼく」
顔を伏せたまま、清は答えた。
「いくらぼくが悲しんだって、お母さんは戻ってきませんから」
「征順さんは――お父さんはどうしているの」
「――悲しんでます、とても」
「そう……」
「お父さんはお母さんのこと、きっと大好きで……とっても愛していたから」
九歳の子供とは思えないような、気丈で大人びた受け答えだった。が、そうであればあるほど、よけいに私の胸は痛んだ。昨夜、清は母の遺体に取りすがって泣きじゃくっていたという。一晩でその悲しみを乗り越えられるはずなど、絶対にないのだから――。
「あのね、中也さん」
と、今度は清の方から、何だか思い詰めたような口振りで訊いてきた。
「お母さんは、ぼくの身代わりで死んでしまったんでしょうか」
「身代わり? 何でそんな」
「だって、いつもお母さん、清ちゃんの代わりにわたしが死にたいって」
「お母さんが死んだからって、清君の病気が治るわけじゃないよね。それは分っているだろう」
「――はい」
「『身代わり』なんて云い方は、だから当て嵌まらないな。お母さんはね、誰かに殺されたんだよ。分るね。清君には何の責任もない。責任は全部、殺した犯人にあるんだから」
そう語る私の脳裡には、いやが上にも美鳥と美魚の顔が浮かんでくる。今この場でだけはそれを――双子が犯人である可能性を――考えまいとしても、なかなか消えてはくれない。ああ、いったい本当に彼女たちが……。
「中也さん、ぼく――」
さらに思い詰めたような口振りで、清が云った。
「ぼくは、生まれてこなかった方が良かったんでしょうか」
「何を、莫迦なことを」
私は思わず声を強くして、
「人が生まれてきたことにはね、必ず意味があるんだよ。生まれてこなかった方が良かった命なんて、この世には一つも……」
……ないのか[#「ないのか」に傍点]?
真に、そのような命は一つもないのか。ないと云いきれるのか。
つい口を衝いて出てしまった台詞だったが、すぐに私はひどく自嘲的な気分に陥ってしまい、最後まで言葉を続けることができなかった。――生まれてきたことの意味? ある[#「ある」に傍点]とも云えるしない[#「ない」に傍点]とも云えるような、それは問題だ。そもそも何を持って「意味」とするのか。誰が何を基準に規定する「意味」だというのか。――生まれてこなかった方が良かった命? 何をもって「良い」とするか云々を持ち出すまでもなく、そんなものはこの世にいくらでもある[#「そんなものはこの世にいくらでもある」に傍点]。あるに決まっているではないか[#「あるに決まっているではないか」に傍点]。
……といった内心を、ここで|曝《さら》け出すわけにはもちろんいかず――。
私たちは部屋を出た。
「清君、一つ教えてくれるかい」
並んで廊下を歩きはじめながら、私が訊いた。
「何ですか」
「昨日の昼前だったかな、下の〈表の座敷〉に君がいて、私たちと会ったよね」
「――はい」
「あの時、私たちが先に座敷を出ようとしたところで、急に君がはっとして、望和さん――お母さんのことを云いだしただろう。お母さんが君を探している、とか何とか。それで玄児さんが引き返して、君を宥めて……」
「ああ、はい」
「あれは何だったの。どうしてあの場で、急にあんな」
「あれは、ええと、あの時あそこでお母さんの声が聞こえてきたんです。ぼくを探している、悲しそうな声が」
「私には何も……」
「あ、きっとあれ、伝声管から洩れてきた声だったんだと思います。この家、古いから。ところどころであんなふうにして、離れた部屋の声が聞こえてくることがあるんです」
やはりそうか、と私は納得した。双子の云う「幽霊の声」が、あの時あそこでも聞こえたというわけである。〈西館〉と〈南館〉を結ぶ伝声管が、あの座敷の天井裏かどこかにも通っていて、老朽化したその管にちょっとした破れ目ができていて……。
玄児にはそれが分っていた。だからあのあと、同じような管の損傷がある場所にいずれかに望和がいると見当をつけて、まっすぐあの舞踏室を覗きにいったのだ。
「なるほどね。私は廊下に出ていたから聞こえなかったわけか。――それともう一つ、清君、同じあの時のことなんだけど、憶えているかな」
「何でしょうか」
「あの時ね、座敷でお母さんの声が聞こえてきたっていう、その直前に君、何か云いかけたろう」
「ぼくが?」
清は頃もとなげに首を傾げ、
「どんなことを」
「あの江南という青年のことさ。確か何か、彼のことについて云いかけて、ちょうどそこに声が聞こえてきたんじゃなかったっけ」
「――ああ、はい。ええと、それは」
とその時、ざらざらに掠れた誰かの声が飛んできて、清の口を噤ませた。私たちは廊下を曲がり、吹き抜けの玄関ホールに設けられた折れ階段の手前までやって来たところだった。
声の主は、前方左手にある客用の居間の、開け放たれた両開きの扉から顔を覗かせていた。――首藤伊佐夫である。
[#ここから6字下げ]
6
[#ここで字下げ終わり]
「ご機嫌よう、お二人さん。台風一過かと思いきや、天気は何だかまだ怪しげだねえ」
廊下に出てきた伊佐夫は、とっさに予想したとおりのだらしない風体だった。皺だらけになった服、ぼさぼさの髪に無精髭……眼鏡のレンズの汚れも目立つ。おおかた昨夜も、一昨日の初対面の時と同じように居間の寝椅子で眠り込んでいたのだろう。今日は今日で、起き出すなりまた一人で飲んでいたのか。――案の定、その右手には葡萄酒の壜が握られている。
「確かに中也君、そうやってその帽子を被っていると、あれだね。今は亡き詩人の趣だねえ。汚れっちまったぁ、悲しみにぃ……なぁんてね、君は詩を書いたりはしないの」
声が掠れているのは、酒の飲み過ぎで喉が焼けるかどうかしたのだろうか。こちらに向かって歩いてくる足取りはしかし、存外にしっかりしていて、|呂律《ろれつ》もちゃんと回っている。
「『汚れつちまつた悲しみは
[#ここから2字下げ]なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
|倦怠《けだい》のうちに死を夢む』[#ここで字下げ終わり]
ううん、やっぱりこのくだりが|白眉《はくび》だなあ。『倦怠のうちに死を夢む』だよ。こういう気持ちになること、あるよねえ」
途切れなしに喋りながら私たちのそばまでやって来ると、
「――で、どうだい」
いくぶん語勢を抑えつつ、伊佐夫は私に尋ねた。
「例の〈肉〉を食べて、その後何か身体に変化は起こった?」
「いえ」
私は素っ気なく首を振って、
「別に、何も」
「はあん。それなりに時間がかかるのかな。あるいは本人が自覚できるような変化はないものなのか」
伊佐夫はいささか鼻白んだように肩を竦め、右手の壜の口から直接、中の液体を喉に流し込む。それから今度は清の方に目を向けて、
「母上はお気の毒にねえ」
と云った。
「魔法の〈肉〉を食べた身であっても、首を絞められれば死んじゃうものなんだねえ。それとも何日か経ったら、吸血鬼みたいに蘇るのかな」
清は何とも応えず、並んで立っていた私の後ろに隠れるように身を動かした。私はさすがに腹立ちを覚え、伊佐夫の顔を強く睨みつけた。いくら酔っているからと云って、母親を亡くしたばかりの九歳の子供を相手に、今のような軽口が許されるものか。
「いやあ、ごめんごめん」
私の怒りに気づいたのか、伊佐夫はちょっと慌てたふうに頭を掻きながら、
「母上の死を冒涜しようなんてつもりは、毛頭ないんだよ。遠縁とはいえ、血の繋がった叔母さんが殺されたんだからねえ、こう見えても僕だって、たいそうショックを受けているさ。だからこうして、昨夜からはアルコールも自粛してる」
そう云って、葡萄酒の瓶を振ってみせる。
「これ、中身は水なんだよ」
なるほど。それで足取りも呂律もしっかりしているのか。――しかし、血中のアルコール濃度が低くても、この自称芸術家氏の話しぶりは基本的にあまり変わらない。云い換えれば、酒が入って著しく人が変わるタイプではない、ということになるが。
「ところで中也君、君も玄児さんに呼ばれていくのかい」
壜の中身をまた一口飲んでから、伊佐夫がそう訊いてきた。「君も」ということは、彼も玄児に呼ばれているわけか。それとも、すでに行って戻ってきたところなのだろうか。
「僕ぁもう、あの子羊君との対面は済ませてきたんだけどね」
と、伊佐夫は云った。
「子羊……市朗と会ったのですか」
「ああ、うん」
伊佐夫は何やら不自然な薄ら笑いを浮かべながら、
「ありゃあつまり[#「ありゃあつまり」に傍点]、首実検ってやつだな[#「首実検ってやつだな」に傍点]」
「首実検?」
私が驚いて聞き直すと、伊佐夫は薄ら笑いを消してこくりと頷き、
「犯人の顔を見たらしいんだよね、あの市朗っていう少年」
「犯人……望和さんを殺した?」
「そう。何でも彼、たまたま〈赤の広間〉に忍び込んでいて、そこで誰かが現場から逃げ出してくるのを見たんだってねえ。でもって、その際に一瞬だけ目撃した顔がね、彼によると『見憶えのある顔』だったんだってさ」
「見憶えのある?」
「一度は見たことがある、っていう意味だね」
「ということは、つまり……」
あの少年は確か、二十三日の夜に影見湖のほとりまで辿り着き、一夜を車の荷台で過ごしたあと、翌二十四日の午後にあの浮き橋を使って島に渡ってきたという話だった。この屋敷を訪れるのは当然、今回が初めてに違いないし、以前に屋敷の関係者と顔を合わせた経験もないはずである。その彼が「見憶えのある顔」というのなら、それに該当する者は[#「それに該当する者は」に傍点]、今回彼がここにやって来て以降に顔を見た人物の中にいる[#「今回彼がここにやって来て以降に顔を見た人物の中にいる」に傍点]、ということになるわけだが。
「幸いにも僕は『違う』って云われて、無罪放免とあいなったんだけれどね。でもあの少年、やたりとおどおどびくびくしててねえ、あんまり頼りになる目撃証言でもなさそうな感じだったなあ」
いったい市朗は何者の顔を見たのだろう。
無性に気になりつつも、私は「そうですか」とだけ応え、伊佐夫には別の質問を振った。
「茅子さんの具合はどうなのですか」
「はん。さてねえ」
と、伊佐夫は顔を顰める。あからさまに不愉快そうな反応だった。
「いい加減、一人で寝込んでいるのにも飽きてきた頃じゃないの。――それよりもさ、いつになったら僕たち、ここから出られるんだろうね。警察も呼ばないわけにはいかないだろうしねえ。そろそろ真面目に脱出の算段でも立てた方がいいんじゃないのかなあ。どう思う、中也君」
「確かにまあ、そのとおりですね」
私にしても、当初の予定では今日で滞在を終え、いとまを告げるはずだったのである。そうして、せっかく九州まで来たのだから、東京に戻る前に大分の実家にも立ち寄るつもりでいたのだけれど。
「そう云えばね、伊佐夫さん」
と、そこで私はふと思いついて、珍しく鹿爪らしい面持ちで腕組みをする事象芸術家氏に向かい、こちらもわざと同じような鹿爪顔を作りながら問うてみた。
「私も今朝方からずっと考えているんですけどね、教えてくれませんか」
「はて、何だい」
「悪魔の不在というのは、いったいどうやったら証明できるのでしょうか」
伊佐夫は面喰らったように、汚れたレンズの向こうで目をぱちくりさせたが、すぐに「あははぁ」と笑って踵を返そうとした。――その時。
「あっ、中也さまだわ」
「中也さま、お目覚めになったのね」
と、階段の下の方からそんな声が飛んできた。見下ろして確かめてみるまでもない。美鳥と美魚の双子姉妹である。
私の心には思わず緊張が走った。
彼女たちはもう市朗と対面したのだろうか。伊佐夫の云う「首実検」を済ませたのだろうか。
「中也さま」
「中也さま」
嬉しそうに呼びかけながら、二人は幅広の階段を並んで昇ってくる。
「中也さまぁ」
「あ、清君も一緒なのね」
「畸型の姫君たちのお出ましぃ、と」
伊佐夫が茶化すように云うのを無視して、私は階段に向かって一歩、足を踏み出した。すると、いきなり――。
どん! という鈍い衝撃が足許から突き上げてきて、ほとんど同時に建物全体が、まるでその衝撃におののいて身じろぎするかのように揺れ動いた。これは――。
地震か。また地震が?
即座にそう理解するや、私は階段の手すりを両手で掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、392-下-2]み、腰を低くした。清は床にうずくまった。壁に身を寄せた伊佐夫の手からは葡萄酒の壜が取り落とされ、壜は黒い絨毯の上をごろごろと転がった。階段の下からは、「きゃっ」という双子の声が聞こえてきた。
揺れは何秒かで収まった。三日前に経験した二度の地震に比べて、さほど大きな揺れではなかったのだが、それでも少しの間、建物のそこかしこでは軋むような音が鳴りつづけていた。
「大丈夫ですか」
手すりを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、392-下-12]んだまま身を立て直し、私は階段の下を覗き込む。
「大丈夫ですか、二人とも」
美鳥と美魚は、ちょうどあと一段で、折れ階段の途中の踊り場に昇り着こうかというところだったようである。美鳥が左側の手すりに左手を、美魚が右側の手すりに右手を伸ばして掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、382-下-18]まり、二人揃ってその場にしゃがみ込んでしまっていた。
私の問いかけに応じて二人はこちらを仰ぎ見、
「大丈夫よ、中也さま」
「大丈夫よ」
「急に……びっくりしたぁ」
「嫌ぁね、地震」
手すりからそれぞれの手を離して立ち上がると、踊り場までの一段を昇って、口々に「はぁ」と息をつく。――ところが。
そこで私は気がついたのだった。
揺れが収まったあとも、そこかしこで鳴りつづけていた軋むような音。そのうちの一つが今なお鳴りやんでいないことに。この空間のどこかで何かが、不穏な音を発しつづけていることに。
ぎりっ。
ぎっ、ぎりっ……という、それはややもすると聞き逃してしまいそうな、かすかな物音ではあった。何だろうか、錆びついた金属が擦れ合うような。あるいはそう、もっと比喩的な想像で表わすならば、明治期に建造されたというこの古い館自身が、何らかの苦痛に耐えかねてかぼそい呻きを洩らしているような……。
……なんだろう。どこだろう。
漠たる胸騒ぎを覚えつつ、私は上下左右に視線を巡らせる。やがて――。
物音の正体を悟ったのと、それが非常に危険な事態の発生可能性を示していると理解したのが、ほぼ同時だった。
「危ない」
と、私はとっさに声を上げていた。踊り場にいる双子に向かって。
問題の音の源は、吹き抜けの天井から吊り下がった大きなシャンデリアにあった。ちょうど踊り場の真上に当たる位置で、光は灯っていない。それが、地震が収まった今もまだ不安定に揺れ動いている。そしてその動きに合わせて、車輪のような形状の重厚な本体を吊るした長い鎖が、不穏な軋み音を発しつづけているのである。
「危ない」
私は繰り返し声を上げた。
「そこから離れて……」
ぎりっ、という軋みが、鈍い断裂音に変わった。あとはもう、ほんの二、三秒の出来事だった。
「ああっ」
私は叫んだ。
「逃げて!」
鎖が断ち切れ、残った細い電気コードだけでは全体の重量を支えきれず、次の瞬間シャンデリアは踊り場めがけて落下していた。まともにこれが双子の身体に命中したら、むろんただごとでは済まない。凄まじい大音響が、昼なお薄暗いホールの空気を長々しく打ち震わせる。
私の警告が奏功したのか、幸い双子は間一髪で身をかわし、落ちてきたシャンデリアの直撃を免れることができた。だがしかし、身をかわした弾みで今度は、二人して階段から大きく足を踏み外してしまう。
「きゃあっ」
「きゃああっ」
叫び声とともに、私の視界から双子の姿が消えた。二人の身体が階段を転がり落ちていく激しい音がひとしきり続き、途切れ途切れの悲鳴がそれに重なって響き……間もなく、ひときわ激しく重々しい物音。何かしら布が裂けるような甲高い音が、その間に聞こえた気もした。
「美鳥さん! 美魚さん!」
大声で二人の名を呼びながら、私は階段を駆け降りる。電球の破片をあたりに飛び散らせたシャンデリアの、黒々とした残骸が、踊り場の床を埋めている。それを飛び越え、まろぶように残りの階段を降りていったところで――。
信じがたい光景を、私は目の当たりにすることとなったのである。
たかだか十九年ではあるが、これまでの人生でこの時のような驚愕を経験したことが、果たしてあっただろうか。まったく夢想だにしていなかった、あまりにも衝撃的なその光景に、私は言葉を失い、次に取るべき行動も見失ってしまって、|惚《ほう》けたようにしばし立ち竦んだ。
玄関ホールの黒い瓦敷きの床に、階段を転がり落ちた美鳥と美魚が倒れている。
私から見て右寄りの、階段の最下段から一メートル余り離れたところに美鳥が、頭をこちらに向けて俯せに。私から見て左寄りの、美鳥よりもさらに二、三メートル離れたところに美魚が、足先をこちらに向けて仰向けに。
ありえない、あるはずのない光景であった。
あたしたちは二人で一人……そう云って譲らなかったシャム双生児の姉妹の身体が今、ばらばらに分裂した形で[#「ばらばらに分裂した形で」に傍点]目の前に転がっているのだ。二人は今朝会った時と同じ黒いブラウスとスカートを身につけているが、脇腹から腰のあたりで一つに縫い合わされていたそれらの服は無惨にも破れ、一繋がりになっていたはずの二人の身体と同様、完全に引き裂かれてしまっている。――ああ、これは。
何なのだ?
これは何なのだ?
何が彼女たちの身に起こったのだ? 何が起こっていたのだ? 何がいったい……。
「――莫迦な」
私は喘ぐように喉を震わせた。
「こんな莫迦な……」
二人は倒れたまま少しも動かない。手前に俯した美鳥も、離れて仰向けになった美魚も、転落の際に頭を打って失神してしまったのか。それともまさか……。
「あああっ」
と、背後から嗄れた声が聞こえた。私を追って階段を降りてきた清の発する声である。
「あああああっ。おねえさんたちが、おねえさんたちが……」
「ひゃあっ」
と、頭上で掠れ声が響いた。振り仰ぐと、伊佐夫が二階の廊下の手すりから半身を乗り出し、こちらを見下ろしている。
「ああもう、何てことだろうね。姫君たちがばらばらになっちゃってるよ。何が何なんだか……ほんとにもう」
「ぅあ、ぅううああ……」
と、何やら人ならぬものの唸るような声が、今度は左手後方から聞こえてきた。振り返ると、砂色のジャケットを方に引っかけた江南青年がそこに佇んでいる。騒ぎに驚いて、座敷からこのホールに出てきてみたのだろう。美鳥と美魚の有様を見て、彼もまた少なからぬショックを受けたようだけれど、それをまともな声と言葉で表わすことが、やはりまだできないのか。このような獣じみた唸りを発することしか、まだ……。
「おねえさん、おねえさんっ」
清が私の横をすり抜けて、美鳥の元に駆け寄っていった。
「美鳥おねえさん、大丈夫? 大丈夫?」
倒れ伏した美鳥の背中に手を当てて、「おねえさん」と幾度も呼びかける。するとそれに応えて、美鳥の肩がひくと動いた。
「……う、うう」
苦しそうに呻きながら、そして美鳥は床に両手を突く。壊れかけのからくり人形のような動きで、上体を持ち上げようとする。それを見てやっと、私も行動を起こすことができたのだった。
清の傍らまで行き、美鳥の腕を支えてやる。右の腕だった。そうして彼女を立ち上がらせる途中、無惨に引き裂かれた服とその下の肌が否応なく目に飛び込んできて――。
私は見た。
服の裂け目から覗いた白い肌に、一目でそれと分るひどい傷痕があるのを。今の転落事故で負った傷ではない。もっと古い、ずっと古い、これは明らかに大がかりな外科手術の……。
「大丈夫? 美鳥おねえさん」
清の呼びかけに、彼女はのろのろと頭を動かしながら何事か応えようとしたが、そこではっと目を見開いた。私の手を振りほどいて、みずからの身体の右脇腹あたりをまさぐると、
「――えっ?」
かくり、と首を傾げる。わけが分らないというように、眼球だけをせわしなく動かす。やがてゆっくりと首を右横に捩じり、そこに生じている欠落を認めると、その表情は見る間に、当惑と狼狽から混乱へ、さらには恐怖へと変じていき……。
「何……何なの。どうして……これ」
譫言のように呟きながら、よろよろとその場に立ち上がる。
「これ……こんなの、こんなのって……美魚は? 美魚はどこ」
誰にともなく問いかけて、美鳥は身体ごと後ろを向く。そして、離れた場所に倒れている片割れの姿を見つけるや否や、
「ひっ……ひいいいいぃ」
両手で自分の頭を鷲掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、397-下-8]みにして、狂おしい叫び声を喉の奥から絞り出すのだった。
「美魚っ。美魚ぉ!」
縺れる足で美鳥は、美魚の許に駆け寄る。美魚はしかし、両手両足を投げ出して仰向けに寝転がったまま、微動だにしない。目も閉じたままである。見ると、ふわりと床に広がったその髪の周囲に、どす黒い液体が染み出している。頭部からの出血があるようだった。
美鳥は美魚の身体にとりすがって叫ぶ。が、それでも美魚は目を開かない。ただ、くぅ……というほんのかすかな声が、痙攣のような唇のわななきとともに洩れた。
「駄目……駄目よおっ。こんなの、こんなの、こんなの……」
美魚の服の裂け目からも、美鳥と同様の白い肌と大きな傷痕が覗いている。美鳥は美魚の上体を抱き起こすと、その左隣に並んで同じ姿勢で床に坐り、互いの服の裂け目を合わせてぐいぐいと身を押しつける。美魚の頭から流れ出た血が、美鳥の手や顔を赤黒く染めていく。それでも美魚は目覚めない。二つに分裂した二人の身体は分裂したまま、元に戻るはずもない。美鳥は「嫌よ、嫌よ」と泣き喚く。髪を振り乱して泣き喚く。このまま本当に気が|狂《ふ》れてしまうのではないかというくらい、激しく狂おしく泣き喚きつづける。
私は何もできず、またしても惚けたように立ち竦む。美鳥は泣き喚きつづける。清は私の傍らでおろおろしている。美鳥は激しく泣き喚きつづける。江南青年は同じ場所に佇んだまま呆然と目を見張っている。美鳥は狂おしく泣き喚きつづける。伊佐夫がどかどかと階段を降りてくる音がする。美鳥は激しく狂おしく泣き喚きつづける……。
いつ果てるとも知れず泣き喚きつづける美鳥の声によってやがて、私たちのいるこのホールの空間それ自体が、この館の孕む暗黒の、さらに裏側に潜んだいびつな異次元に向かって捩じれていく、歪んでいく。――そんな気が、ふとしてきた。
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第二十五章 真昼の暗雲
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「今から六年前のことになりますかな。その年の〈ダリアの日〉が過ぎて秋も深まり、あの子たちが満十歳の誕生日を迎える直前に――」
鼠色の|顎鬚《あごひげ》を落ち着きなく何度も撫で下ろしながら、野口医師は語った。
「熊本の鳳凰病院で、あの子たち――美鳥と美魚の分離手術が行われたのです」
〈東館〉一階の食堂に、私たちはいた。私と野口医師、そして玄児の三人である。長いマホガニーのダイニングテーブルの、前室に通じる扉がある側の一席に医師が坐り、対面して私と玄児が、椅子二脚分の間隔をおいて並んでいる。
「二人の身体を切り離そうというのは、それまでにも幾度となく検討されてきた問題でしてな。私は以前より、外科的な分離手術は不可能ではないという見解を示しつづけておったのです。結合の程度その他、諸々の条件を総合して考えるに、難しい手術ではあっても、極度の危険を伴うものとはならないはずである、と。
ですが同時に、私には大きなためらいもあった。あの子たちのように健康で聡明なH型二重体は、その存在自体が世界的にも極めて稀で、大袈裟に云ってしまえば、ほとんど奇跡に近いものですらあるわけで。本人たちが望まないのなら、ずっとこのままの状態でいても良いのではないかと、そんな思いも強く持っておったのです」
要は、切り離してしまうのが惜しかった、ということか。
一昨日、美鳥と美魚の得意な畸型に関して熱っぽく弁を振るった、あの時の医師の様子を思い返しながら、私は心中でそう呟いていた。
「しかしながら最終的には、父親である柳士郎氏の決断と要請に従い、私としてもあの子たちの将来を考えるなら、一人一人別々の身体を持って生きる方が良いと思いを定め、あの手術を行なうことにしたのです。柳士郎氏には恐らく、切り離された二人の姿を目の当たりにすれば、混迷状態が続く美惟さんの心にもあるいは何か変化が起こるかもしれない、というふうな考えもあったんでしょうな」
「俺も賛成したんだよ、あの時は」
と、玄児は口を添えた。
「当時俺は医学部の三年、今と同じで東京に離れて暮らしていたんだが、〈ダリアの日〉のためにこっちへ帰ってきた際、父に意見を求められてね」
「父」という言葉を発する時、その口許がわずかにこわばったように見えたのは、私の気のせいではあるまい。彼は続けて云った。
「美鳥も美魚も、そんな手術を受けるのは嫌だと云い張ったんだが。しかし真にあの子たちの今後を案ずるなら、やはり……と」
それで彼女たちの意向は無視して、分離手術が強行された。――そういうことだったのか。
地震、シャンデリアの落下、双子の転落そして分裂……悪夢じみたどたばた騒ぎから、一時間ほどが経っていた。あのあと、しばしの茫然自失上体から脱却した私が、狂乱する美鳥を何とか宥めようとしている間に、伊佐夫と清が〈北館〉へ走り、やがて玄児や野口医師らが駆けつけてきて、そこからやっと事態は収拾の方向へと向かったのだった。
幸い美魚は気を失っていただけで、玄児たちが来て間もなく、うっすらとではあるが意識を取り戻した。出血を起こした頭部の傷も命に関わるようなものではないだろう、という野口医師の見立てだったが、自力で歩けるような様子ではとてもないので、とりあえず美魚の身は玄関ホール近くの応接間――「緋の祝祭」という例の藤沼一成の絵が飾られている――に運ばれ、ソファをベッド代わりに使って当面の手当てがなされることとなった。
その間も、美鳥は美魚のそばから頑として離れようとせず、医師に鎮静剤を打たれてようやく狂乱は収まったものの、今度は外界からの刺激に対してまったく無反応な状態になっていった。そのうち薬の効き目でくたりと眠り込んでしまった彼女の、文字どおり魂が抜けたような虚ろな顔。痛々しさに加えて、薄ら寒いような不気味さと空恐ろしさを、私はそれを見て感じざるをえなかった。
玄児の指示に従って、私は先に一人この食堂に移動した。吸っても胸が悪くなるだけの煙草を何本か吸いながら待つうち、玄児が野口医師を連れてやって来た。双子には鶴子が付き添っているとのことだった。いったい何がどうなっているのか分らず動転するばかりの私に、とにかく医師の口から事情を説明させようと云う、これは玄児の取り計らいだったようである。
「執刀したのは私でした」
顎鬚を撫で下ろす手を止めることなく、野口医師は話を続けた。
「可能な最高の人員を集めて、万全の体制で手術に臨んだのですよ。シャム双生児の分離手術など、むろん初めての経験でしたが、成功させる自信はありました。これでも私、外科医としての腕は立つ方でしてな。事前の研究も検討も充分に重ねてあった。そして中也さん、あなたもさっきその目でご覧になったとおり、手術は成功裏に終わったのです。二人は分離され、完全に独立した二つの身体を持つようになった。
ところがですな、予想外の事態が、外科的な領域とは別のところで生じたのです。云ってしまえば、分離に成功したのはあの子たちの肉体だけで、それによって逆にあの子たちの心は、手術前よりもさらに強く結合・癒着してしまう結果になった、ということでしてな。手術が終わって傷が癒えてきても、あの子たちは決して、自分たちの肉体が切り離された事実を認めようとはしなかったのです」
赤ら顔の医師の禿げ上がった額が、語りつづけるうちにいっそう赤みを増していくのが分った。|鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡に飲む功でしばたたかれる小さな目が、わずかに潤んでいるようにも見えた。
「肉体が離ればなれになっていることは誰の目にも明白なのに、二人別々の新しい衣服を用意してもそれを着ようとはせず、以前と同じ特別あつらえの服を着て、あたかも今なお二人の身体が結合したままであるかのように振る舞うんですな。当初はそういった奇矯な振る舞いも、意に反して身体を切り離されてしまった現実に対する、あの子たちの意識的な抵抗の表現だったのかもしれんが、時間が経つにつれてそれは、収まるどころかますますエスカレートしつづけ……やがてはあの子たち自身、本気で自分たちの身体は今も結合したままである[#「自分たちの身体は今も結合したままである」に傍点]と信じ込むようになっていったのです。
そうではない、手術によって二人は切り離されたのだ、もう一つに繋がってはいないのだ――と、いくら言葉を尽くして説明しても、説得してみても無駄でした。あの子たちはいっさい耳を貸そうとはしなかった。自分たちが分離手術を受けさせられたという事実さえも、あの子たちの心の中ではもはやなかったこと[#「なかったこと」に傍点]になってしまっていたのです。
こうなるともう、問題は完全に精神科の領域なわけですな。外科医の私としてはまったくのお手上げで、専門医を呼んでその方面の治療を幾度も試みてはみたのですが……」
それでも|芳《かんば》しい結果は得られなかった、という話なのだろう。そうだ。だからこそ彼女たちは、今でもあんなふうに……。
「肉体よりも心の方に」問題があるという、その真意はこういうことだったわけか。六年前の分離手術以来、自分たちの肉体のありように対する認識という一点を中心にして、彼女たちの心は壊れてしまった――狂ってしまったのだ。
ようやくそのように理解を成立させつつ私は、今朝玄児が〈西館〉の〈開かずの間〉で、野口医師について述べた言葉を思い出す。
――まあ、あの人の心を引き裂いてやまないのは、この家の在り方そのものよりもむしろ、美鳥と美魚の存在なんだろうが。
一方で、たぐい稀な異形に生まれついた双子姉妹の存在それ自体を「ほとんど奇跡のような」とまで云ってしまうほどに、二人への過剰な愛着・執着を示して|憚《はばか》らない彼。その一方で、彼女たちの異形を解消する分離手術をみずから執り行ないながら、二人の精神的な結合までは分離できなかったという現実に対する無念さが、今の話しぶりからはひしひしと伝わってくる。玄児の云うとおり、確かにこの医師の心は、美鳥と美魚――あの美しい双子を巡って現在なお激しく引き裂かれてやまないのだろう。
「では、私はそろそろ――」
眼鏡のレンズの下に指を差し入れて軽く目尻を擦りながら、野口医師が椅子から腰を浮かせた。
「鶴子さんだけに任しておくわけにもいかん状況ですから、あたらへ戻るとしましょう。美魚の容態はとりあえず安定しておるようですが、予断は許しません。できればすぐにでも病院に連れていきたいところなのですが」
「嵐は収まったものの、屋敷の孤立状況に変わりはありませからね」
と、玄児が応えた。冷静な口振りだが、その顔にはさすがに隠しきれぬ苛立ちと焦りの色がある。
「父には俺が報告しておきますが、先生からも強く云っていただいた方が良いでしょう。昨日の二つの事件についても、やはりもうこれ以上放っておくわけにはいかない。何とかして、早急に外部と連絡を取る方策を考えなければ」
「同感ですな」
憂鬱そうな面持ちで頷くと、「では」と云って医師は、椅子から持ち上げた巨体を翻す。そうして足早に部屋を出ていく彼の姿からは、とにかく何よりも美鳥と美魚のことが心配で仕方ない、という内心がありありと見て取れた。
「そう云えば――」
扉が閉められ、医師の足音が聞こえなくなったところで、私は玄児に訊いた。
「清君たちは、どこに」
「清は征順叔父さんが〈北館〉へ連れ戻した。ずいぶんショックを受けていたようだったからね、あの子も」
「知っていたのですか、清君は。美鳥さんと美魚さんが、実はあんな……」
「知らなかったんじゃないかと思う。手術が行なわれた六年前と云えば、まだ清は三歳だからね。退院して屋敷に戻ってきてからもずっと、あの子たちはあのとおり、以前と同じように二つの肉体が結合しているものとして振る舞いつづけているから。誰かがその件に関する真相を、わざわざ清に説明したとも思えないし」
「伊佐夫さんは当然、知らなかったのですね」
「もちろん」
と云って玄児は、ほんの一瞬だけ口許に笑みを浮かべた。
「君と同じで、さぞかしびっくりしたことだろう。あのあとは、はて、どこへ行ってしまったのかな」
「江南青年は?」
「彼もそりゃあ、驚いただろうさ。ひたすら呆然としていてあの場から動こうとしなかったのを、しのぶさんに云って座敷に連れ戻させたよ」
「――そうですか」
呟き声で答え、懸命に考えを整理しようとしながら眼差しを伏せる私に、玄児はいくばくかの間をおいてから、
「さて、どうかな中也君」
と尋ねた。
「思うに、君は二つの殺人事件の犯人として、美鳥と美魚を疑っていたんだろう? 二人の身体が実はすでに切り離されていたという事実を知った今、じゃあ君は、事件の犯人についてどう考える」
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やはりそうか、と思って私は眼差しを上げ、ささやかな抗議の意を込めて玄児の顔をねめつけた。
やはり彼は、とうに気づいていたわけか。「抜け穴の問題」から導き出される答えが、犯人は美鳥と美魚である可能性を示していることに。その可能性に思い至りながら、私がそれを口に出さずにいたことにも。
「アトリエの休憩室から〈赤の広間〉へ脱出するのに、どうして犯人は暖炉の抜け穴を使わなかったのか。それは犯人があの抜け穴の存在を知らなかったからではなく、知っていても肉体的な制約があって通ることができなかったからじゃないかと、そう考えたんだろう? だから犯人はあの子たちなんじゃないか、と」
「――ええ」
「ところが、どうだい」
と、玄児はテーブルに片肘を載せて頬杖を突きながら、こちらに目を流す。
「美鳥と美魚のH型二重体は、実は六年前の手術で分離されていた。服を脱いでしまえば、物理的に二人の肉体を繋ぎ止めるものはない。従ってあの抜け穴にしても、ばらばらになって一人ずつ通ることができたわけさ」
「ええ。そういうことになりますね」
その理屈によって彼女たちへの疑いがすっかり否定されるのならば、それに越したことはない。もちろん私はそう思うのである。――しかし。
「ですが、玄児さん」
私はなお、疑問を抱かずにはおれないのだった。
「さっきの野口先生の話によれば、彼女たちはあくまでも、いまだに自分たちの身体は一つに繋がっていると思い込んでいるのですよね。六年前の手術自体を、そもそもなかったもの[#「なかったもの」に傍点]と見なしている、と。だったら、そんな彼女たちが、あの抜け穴を通るためにみずから服を脱いで、ばらばらになって行動するとは考えにくいのではありませんか」
「いや、それは違うんだな」
玄児はいささかの迷いもなく答えた。
「あの子たちが、自分たちは分離手術など受けていないと思い込んでいることは事実だ。いつもああして特別あつらえの服や着物を着て、あたかも以前と変わらず腰の一部分で繋がっているかのように振る舞いつづけている。君も見てきたとおり、とてもそうとは思えないくらい見事に、ぴったりと二人の動きを合わせて。まるで厳格なルールに則った演技のように、ともいえるな。だがこれは、そこに誰か第三者の目がある状況に限っての話[#「そこに誰か第三者の目がある状況に限っての話」に傍点]でね」
「と云いますと」
「第三者の目がない、あの子たち二人だけしかそこにいない状況では、必ずしもその『厳格なルール』は守られちゃいないということさ」
「…………」
「二人だけの場では[#「二人だけの場では」に傍点]、あの子たちは必要に応じてルールを破ることもある。眠る時や入浴の時、着替えの時……とね、切り離された別々の身体で、自分たちの動きやすいように動いて生活している。それが実情なんだよ」
「必要に応じて……動きやすいように」
「ああ。その現場を目撃したことのある家人は何人もいる。俺もあるさ。他意もなく訪れたあの子たちの寝室で、ばらばらになった二人のうちの片方がベッドに、もう片方がソファにいて、それぞれに本を読んでいた。俺が来たのに気づいた途端、大慌てで身を寄せ合って、毛布で身体を隠してしまって、あとは知らんぷりだったな。『どうなさったの、兄さま』とでもいったふうに、何事もなかったような顔で『二人で一人』の振る舞いを始めて……とまあ、そんな具合でね」
「はあ」と生返事をしつつも、私は首を傾げる。頬杖を外してまっすぐこちらを見据えながら、
「こういう解説が妥当だろうと思うんだが」
と、玄児は続けた。
「『自分たちの目に見える自分たちの姿』というのは、それが実際にはどのようなものであろうと、あの子たち二人の思い込み次第で、いかようにも形を変換して受け止めることができる。たとえ、実際には身体が離ればなれになっている姿を目の当たりにしていても、『いや、これは繋がっているのだ』と強引に現実を捩じ曲げてしまうという、そんな認識回路が、あの子たちの狂った心の中には出来上がってしまっているんだな。二人の主観のみで成立した世界として、これはこれで一つのバランスを保っていると云えるだろう。
ところがだね、ここに第三者の目が関わってくると、話はそうは行かなくなる。『第三者に見られている自分たちの姿』というイメージが、おのずとあの子たちの心中に喚起されるからだ。世界は二人の主観のみでは成立しえなくなる。多少なりとも客観的な視点の導入がここでは余儀なくされ、結果として『自分たちの姿は第三者の目にどのように映っているか』が、二人にとって大変に重要な課題となってくるわけさ。だから、そういった場においては、あの子たちは徹底して『身体が一つに繋がっている自分たちの姿』を演じなければならない。それが演技であるとは、あの子たち自身もまるで意識することなしにね」
「――ははあ」
理屈としては一応、理解できた気がした。
人目のないところでは、いくら身体がばらばらになっていても、二人はその狂った主観において「これはばらばらになっているのではない」と信じ込むことができる。人目があるところではしかし、それではいけない、と二人は無意識のレヴェルで判断するのである。「あたしたちはばらばらになってはいない」という自己認識をそこで維持するためには、人目にもそれが明らかであるような形≠作らなければならない、と。
「そんなわけだからね、中也君」
と、玄児は言葉を繋げた。
「あの子たちが仮に、殺人を犯してしまって逃げ場がない、狭い抜け穴を通らなければそこから脱出できない――という窮地に追い込まれたなら、さしたる抵抗もなく、着ているものを脱いでばらばらになって行動したに違いないのさ。特別あつらえのああいった服や着物を脱いだり着直したりするのも、二人にしてみれば手慣れた行為だ、そんなに時間も喰わないだろう。大音響を聞き咎められる危険を冒して窓の硝子を割る荒業に比べたら、遙かにそちらの方が選択しやすい行動だったはずなんだよ」
「けれども実際には、犯人は抜け穴は通らずに窓を破って逃げている。よって、彼女たちは犯人ではない――」
「ということだ。納得できたかな」
私が黙って頷きを返すと、玄児は再び頬杖を突いてこちらに目を流しながら、
「安心したかい」
「それは……」
「〈赤の広間〉で抜け穴の問題を検討したあと、君が美鳥と美魚を疑いはじめているんじゃないかとは薄々勘づいていたんだがね。その後の流れの中で、なかなか云いだすタイミングが掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、408-下-14]めなくて」
「…………」
「とにかくね、あの子たちは犯人じゃない」
と、玄児はきっぱり云いきった。一連の説明を聞いてようやっと、彼女たちに対する私の疑念もたいがいのところ|払拭《ふっしょく》されつつあった。
美鳥と美魚は犯人ではない。
彼女たちの心は確かに「問題」を抱えている。病んでいる。ある意味で完全に狂気の域まで踏み込んでしまっているとも云えるだろう。だがそれは、決して「殺人狂」などという言葉で表わされるような「心の歪み」ではないのだ。
しかし、ならばいったい――。
犯人は誰なのか。
誰が蛭山丈男と浦登望和を殺したのか。
この疑問がまたしても、大きく私の前に立ちはだかるのだった。
美鳥と美魚が犯人である可能性が否定された今、「抜け穴の問題」から導き出されるのは「犯人たりうる者は誰もいない」という困った結論でしかないのである。けれどもそんなはずはない。「犯人たりうる者」は必ずいる。いないはずがないのだ。ということはすなわち、「抜け穴の問題」を中心にこれまで進めてきた推理のどこかに、何か決定的な間違いがあるのか。何か見逃している可能性があるわけなのか。そうなのか。だとすれば、いったいそれは……。
私は黙り込み、どうにも|歯痒《はがゆ》い気分で思案を巡らせる。
答え[#「答え」に傍点]はきっと、そこ[#「そこ」に傍点]にある。すぐそこにあるはずだという気がして仕方ないのだけれど、なかなかその形が掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、409-下-9]めない。掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、409-下-9]み取ることができない。あと少し手を伸ばせば感嘆に届きそうにも思えるのに……ああ、何だろう。何が間違っている。何を見逃している。何を、私は……。
テーブルに突っ伏して頭を抱え込みたい気分になったところで、扉の開く音がした。西側の廊下に通じる両開きの扉だった。
「やあ、ありがたい」
と云って、玄児が立ち上がる。入ってきたのは|羽取《はとり》しのぶだった。湯気の立ち上るカップをいくつか載せた盆を持っている。玄児が頼んだのだろう、熱い珈琲か紅茶でも|淹《い》れてきてくれたものらしい。
「野口先生は応接間だから、一つはそっちへ持っていってあげて」
「――承知しました」
「江南君は座敷でおとなしくしているかい」
「――はい」
「やっぱり何も喋らないままで?」
「――はい、何も」
しのぶはおどおどした声で、相変わらず拍子遅れの応答をした。
「慎太はどうしている」
「――部屋にいると。外には出ないよう、厳しく云いつけてありますので」
「そうか。じゃ、あとで〈北館〉のサロンに連れてきてくれるかな」
「――あの子が、何か」
「別に悪さをしたわけじゃないよ、むしろその逆だな。困ってる人間を助けようとしたんだから。市朗というあの少年にしてみれば、慎太は恩人さ」
「――はあ」
しのぶは当惑顔で目をしばたたく。二人分のカップと砂糖壺をテーブルに置くと、心許なげに一礼して食堂を出て行く。――この間もずっと、私は頭の隅で考えつづけていたのである。すぐそこにあって、あと少しで手が届きそうなその答え[#「その答え」に傍点]について。「抜け穴の問題」から導き出される、双子=犯人説とは異なる解答の可能性について。
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しのぶが淹れてきてくれたのは紅茶で、黒い砂糖壺には砂糖ではなくて赤いジャムが入っていた。玄児は黒い木製のスプーンでジャムをたっぷりと|掬《すく》い取り、紅茶に入れて掻き混ぜる。
「君もたくさん入れるといい。昨日からほとんど絶食状態だろう」
「ええ。でも、まるで空腹感はなくって」
答えながら、私はじっと玄児の手許を見つめていた。黒い壺に黒いスプーン。そして血のように真っ赤な色をしたジャム……。
「心配しなくていいさ」
私の視線の意味を深読みしたらしく、玄児はそう云って唇の片端を吊り上げ、
「これは単なる|苺《いちご》のジャムだから。宍戸さんのお手製だ。妙な材料は混じっちゃいない」
「あ……はい」
どうしても思い出されてしまう一昨夜の〈宴〉の光景を無理やり頭から締め出しながら、私は玄児に倣って紅茶にジャムを溶かし、カップを口に運ぶ。存外にそれは美味であった。紅茶の香りと渋みがジャムの濃厚な甘みに包み込まれて口中に広がり、疲弊した神経が若干なりとも修復されていくような心地がした。
「玄児さんは、あれからまったく眠っていないのですか」
と、私は訊いた。玄児は、私より先にすっかり中身を飲み干してしまったカップを置きながら、
「一時間だけ仮眠は取ったんだが。――いろいろと忙しくてね」
「市朗というあの少年が目を覚ました、とか」
「ああ、うん。それでまあ、いろいろとね」
そう答えて玄児は思わせぶりな薄い笑みを浮かべるが、さすがに彼も疲れが溜っているのだろう、もともと蒼白いその顔はいよいよ蒼白く、唇の色も悪い。目もひどく充血していて、瞳は心なしかとろんと濁っているように見える。口には出さないけれど、相当に憔悴していることは間違いない。
「何か新しい事実が?」
私は続けて訊いた。
「伊佐夫さんからさっき、市朗による首実検の話を聞かされましたけど」
「首実検ねえ。ふん、それもある。どんなふうに聞いた」
「市朗が〈赤の広間〉で、逃げ出してきた犯人の顔を見ていたと。それが、彼にとって『見憶えのある顔』だったらしいと」
玄児は眉根を寄せながら「そう」と頷いて、
「今朝になって、はっきり思い出したらしい。稲光による一瞬の目撃だったそうなんだが、確かにその時、例の窓の硝子を割った人物の顔を自分は見た、見ていた、と市朗は云うのさ。見ていたことを思い出した[#「見ていたことを思い出した」に傍点]と」
「でもって、その顔には見憶えがあると?」
「そいつが少々微妙なところでね。目撃の際、すぐにそう思ったわけではなくて、今になって思い出すにつけ[#「今になって思い出すにつけ」に傍点]、あれはどこかで見たことのある顔のような気がする[#「あれはどこかで見たことのある顔のような気がする」に傍点]――と、そんな云い方をするんだな」
「はあ。するとつまり……」
「〈赤の広間〉での目撃よりも前に見て知っていた顔だったのかもしれないし、それよりもあとに見た顔のうちのどれかなのかもしれない、ということになる。問いただしてみたが、市朗自身もどうなのかよく分らないらしい。何とも曖昧な反応でねえ。断言する自信はあまりないと云った様子で」
「信憑性の問題はさておくとして」
私は云った。
「とにかくこういうことですね。市朗は昨夜〈赤の広間〉で犯人と思しき人物を目撃した。そしてその人物は、市朗がここにやって来てから今朝目を覚ますまでの間に顔を見た者の中にいるはずだ、と」
「そういう話になるな。それでまあ、彼がここに来てから会った人間は誰と誰なのか、順を追って訊き出してみることにしたんだが」
玄児は眉根を寄せたまま、何かしら不満げに唇を尖らせた。
「最初の日――二十三日の日暮れ時、湖畔に辿り着いた市朗はまず、船着場のそばのあの建物の中に蛭山さんがいるのを見たらしい。窓から覗いてみて、たまたまね。折りしもそこで地震が起こった。江南君が〈十角塔〉から転落した、あの日の二度目の地震だ。そのせいで建物の壁や天井が崩れ、蛭山さんは倒れてきた棚の下敷きになってしまったという」
「そんなことが……」
[#ここから太字](……あったのだ、と彼[#「彼」に傍点]は追認する)
(あの日の二度目の地震で、湖畔のあの建物が……しかし何故? 何故だろう、という、ここにもふと強い違和感を……)[#ここで太字終わり]
「市朗の目に蛭山さんは、いかにも恐ろしげな傴僂の怪人としか映らなかったようだね。彼は怖くなってその場から逃げ出し、一夜をジープの荷台で過ごした。翌日になって様子を見にいってみると、大怪我をしながらも自力で棚の下から脱出した蛭山さんがいた。市朗はまた怖くなってそこから逃げ出したんだが、その後、蛭山さんの乗った舟が猛スピードで島に突進していって岸に激突、大破してしまうところも、彼は湖畔から目撃していたらしい」
やはり――と、私は思った。
蛭山の事故の原因についてあの日、あれこれと推測・想像してみたことは、ほぼ|正鵠《せいこく》を射ていたわけである。舟に乗り込んだ時、すでに蛭山はかなりの深手を負っていた。その原因はやはり、前日の地震がもたらした災いにあったのだ。そのせいで彼は舟の操作を誤り、あんな大事故を……。
「それから市朗は、あの浮き橋を見つけて島に渡ってきたんだが、そこで身を隠す場所として使ったのが例の長屋跡だったんだよ。〈北門〉のそばにあっただろう」
「ああ、はい」
「そしてね、彼があの中に隠れて雨を凌いでいるところへやって来たのが、慎太だったというのさ」
「慎太君が」
「市朗は、家の者には内緒にしていてくれるよう頼んだという。慎太はそれを承知して、市朗のために食べ物を差し入れにきたりもしたらしい」
「なるほど。それでさっきしのぶさんに、慎太君は市朗の恩人だと……」
そう云えば一昨日――二十四日の午後、玄児に案内されて〈北門〉の外の船着場や浮き橋を見にいく途中で、あの長屋跡に慎太がいるのを見かけた。あの時すでに、あの壊れかけた建物の中には市朗が身を潜めていたということか。
「その次は昨夕以降の話になる」
空っぽのカップの把手に指を絡ませながら、玄児は話を続けた。
「長屋跡に隠れつづけていることに耐えきれなくなって、市朗はまず〈北館〉の裏口から館内に忍び込み、そこで酔っ払った伊佐夫君と出くわした。この時間も確認できたよ。六時半よりも前、六時二十分かそのくらいのことだったらしい。伊佐夫君に脅かされていったん外へ逃げ出したものの、もう一度〈赤の広間〉に忍び込み直したのが、六時四十五分を回った頃。硝子を打ち破って犯人が飛び出してきたのは、それから間もなくのことだったという。これで、君にも見せた例の、第二の事件に関する時間表≠焉A抜けていた時刻が埋まることになるね。
このあとの市朗の行動は知ってのとおりだ。俺たちに見つかって追いかけられて、とうとう捕まってしまう結果となった。で、蜈蚣騒ぎで気を失った君と一緒に〈北館〉へ連れ戻されてから、彼が新たに顔を合わせた人物は鶴子さんと野口先生、この二人だけだったはずなんだが」
「美鳥さんと美魚さんには会っていないのですね」
「ああ。〈赤の広間〉で市朗を見つけた時、ちょうどあの子たちがやってきて、そこで停電が起こったんだったね。だから市朗は、あの子たちの声を聞いてはいても、その場から逃げるのに必死で姿を見る余裕など無かったはずさ」
「そうですね」
「仮に市朗の目撃証言を信じるとすれば、そのことからもあの子たち二人は犯人ではないと分る」
「じゃあ……」
「蛭山さんは第一の事件の被害者で、死んでしまっているから論外として、市朗が会ったその他の者たちについては、もうあらかた首実検は済ませたよ。まず、俺ではない[#「俺ではない」に傍点]ということを確かめた上で、野口先生に鶴子さん、そして伊佐夫君をそれぞれ別々に市朗と引き合わせてみたんだが、どれも『違うと思う』という判定だった」
「…………」
「そんな次第でね、残っているのは慎太と君の二人だけなんだが、慎太の線はまず考えられない。もしも目撃した顔が慎太だったのなら、長屋跡に隠れている間に一度ならずあって顔も名も知った相手だ、市朗は初めから『あれは慎太だった』と云えるはずだろう。最後に残る一人は、従って……」
「まさか」
莫迦莫迦しい、と思いつつ私は大袈裟に肩を竦めてみせた。
「まさか玄児さん、私を?」
「さてねえ」
玄児は私と同じように肩を竦めて、何やら意地の悪い笑みを表情に含ませる。
「まあ、目撃証言とは云っても、いったいどこまで信ずるに足るものなのかは微妙なところだから」
そう云いながらも、ひょっとして玄児は多少なりとも本気で私を疑っているのだろうか。――いや、さすがにそんなことはあるまい。あるはずがないとは思うが。
「市朗にはこのあと、君にもあっちで会ってもらうとして――」
玄児はカップから指を離し、シャツのポケットから煙草を取り出しながら、
「昨夜の目撃証言とは別に、彼の話から若干の興味深い事実が判明してね」
と続けた。私は残っていた紅茶を飲み干してしまい、ちょっと居住まいを正して、玄児の言葉に意識を集中させようとする。
「まず、市朗が島に渡ってきてから身を潜めていたというあの長屋跡へ行って、この目で様子を確かめてきた。野口先生と鶴子さん、伊佐夫君の首実検を済ませたあとのことだ。雨が漏ったり吹き込んだりして内部は何ともひどい有様だったが、市朗の云ったとおりそこには確かに、リュックサックやランタン、食べかけのフランスパンなんかが残っていた。そして、これも事前に彼の口から聞き出してあったことだったんだが、許からそこに置かれていた机の|抽斗《ひきだし》の中に、なかなか面白い品がいくつか入っていてね」
「面白い……と云いますと」
「一つは例の時計だった」
「時計?」
「江南君が持っていた懐中時計だよ。裏にT・Eというイニシャルが入った、あの」
「どうしてそれが、そんなところに」
わけが分らず私が訊くと、玄児はすかさず、
「慎太の仕業さ」
と答えた。
「――は?」
「慎太は――あいつは決して悪い子じゃないんだけれども、多少素行に問題が……つまり、ちょっとした盗癖があってね。何か目を引かれる小物があると、『盗む』という自覚もなしについ手が出てしまうんだろうな。これまでに幾度か、見つかるたびに叱られているんだが。あの時計もきっと、江南君がいない間に座敷に入って見つけて、つい……ね」
「ははあ」
「いつの間にか時計が無くなってしまって、江南君もきっと不審がっていることだろう」
「――でしょうね」
「どうやらあの長屋跡は、もともと慎太の遊び場と云うか、秘密基地≠ンたいなものだったらしい。同じ抽斗の中には懐中時計以外にも、キーホルダーだの指輪だのネクタイピンだのといった雑多な品々がしまってあったよ。別の段には、|団栗《どんぐり》だの石ころだの蛇の抜け殻だののがらくた[#「がらくた」に傍点]がしまってあった。盗んだり拾ったりしたお宝≠隠しておく場所だったんだな、あの抽斗は。さらに別の抽斗の中には、古い人間の頭蓋骨が無造作に転がっていたりもしてね。これは〈十角塔〉の裏手に埋められていた例の人骨の一部を、たまたま見つけて拾ってきたんだろう。何も知らずに開けてみて、あれを発見した時の市朗の驚愕と恐怖やいかに、だな」
「――可哀想に」
と、私は本音を述べた。
「同情するしかありませんね、あの少年には」
「まったくねえ」
玄児は煙草に火を点け、ゆっくりと一吹かししてから言葉を接いだ。
「注目すべき品はあと二つ見つかった。懐中時計が入っていたのと同じ抽斗の中に、そのうちの一つはあった。焦茶色の札入れだ。もう一つは机の上に投げ出してあって、これは喫茶店のマッチだった」
「札入れとマッチ、ですか」
[#ここから太字](……札入れとマッチ、と彼[#「彼」に傍点]はまた追認する)[#ここで太字終わり]
「この札入れも恐らく、江南君のものじゃないかと思うんだよ。彼の所持品に財布の類は一つもなかっただろう。マッチもそうだ。彼は煙草を持っていたのに、マッチやライターは見当たらなかったね。妙だと感じなかったかい」
「――云われてみれば、確かに」
[#ここから太字](札入れとマッチ……)[#ここで太字終わり]
「抽斗の中にはライターも一個入っていたが、とうにガスが切れていてね、あれは確か、宍戸さんだったか蛭山さんだったかがかつて使っていたものだ。だからその、喫茶店のマッチの方が、煙草に火を点けるために江南君が所持していた品なんじゃないかと考えるわけさ」
「それも、慎太君がこっそり持ってきてしまったものだと?」
「少なくとも札入れの方はね」
と、玄児は答えた。
「ただし、慎太が札入れをくすねたのは、俺たちが江南君を座敷に運んだのよりも前のことだろう。座敷に寝かせた時点でもう、彼の所持品の中にあんな札入れはなかったから」
思わず「ああ」と声が漏れる。そこまでいわれてやっと、私は思い当たったのだった。
「それは、じゃああの時……」
バルコニーから墜落したあの青年の影を目撃して〈十角塔〉へと走ったあの時、現場の近くで私たちは慎太に出会った。彼もまた青年の墜落を目撃したのか、あるいはまったく偶然に通りかかってのことだったのか、私たちよりも先に塔の下までやって来て、私たちよりも先に墜落者が倒れている場所を見つけて、駆けつけた私たちにそれを知らせてくれたのだったが、あの時――。
あのとき慎太は終始[#「あのとき慎太は終始」に傍点]、穿いていた半ズボンのポケットに右手を突っこんだままでいなかったか[#「穿いていた半ズボンのポケットに右手を突っこんだままでいなかったか」に傍点]。玄児が慎太に近づこうとすると、彼はびくと身を震わせて一歩退いた。まるで悪戯を咎められでもしたかのような、あれは反応だったと記憶している。
きっとこういうことだったのだろう。
私たちよりも一足早くあの場に到着した慎太は、墜落に際して江南青年の着衣から零れ落ちた札入れを目に留め、ついついそれを拾って自分のポケットに入れてしまった。たがらあの時、そのポケットに手を潜り込ませたままでいたのだ。それを私たちに知られたら、また叱られるかもしれない。そういう自覚が彼なりにあって、だからあんなにびくびくしていたのだ。
「問題はマッチの方なんだけれども、これは『喫茶シマダ』という店のものでね。箱に印刷された店の所在地は熊本市内で、電話番号も付記されていた」
「それも慎太君が、札入れと一緒に拾ったと?」
「いや、そいつが違うんだな」
予想に反して、玄児は首を横に振った。
「マッチの方は、何でもここへ来る途中で市朗自身が拾った物だそうでね」
「ここへ来る途中……どこですか」
「上の峠道から折れて、森の中の道を歩いてくる途中で、という話なんだが」
「江南青年も同じ道を通ってここへやって来たはずだから、その際に彼が落としたマッチを偶然、市朗が拾ったと、そういうわけですか」
「その可能性は大きいと思う」
玄児は何故かしら仏頂面で、煙草の煙を天井に向かって吐き上げる。
「札入れの中身は?」
と、私は訊いた。
「運転免許証か何か、身元が分るようなものはなかったのでしょうか」
[#ここから太字](……ああ、そうだ。あの焦茶色の札入れ、あの中には……)[#ここで太字終わり]
「ざっと中を見てみたが、小額紙幣が何枚か入っているだけで、それらしきものは何も……いや、まだ詳しくは調べていないから、ひょっとしたら何か手がかりになるようなものを見落としているかもしれないな。――札入れもマッチも、懐中時計と一緒に長屋跡から持ち出してきた。あっちのサロンに置いてあるから、あとで君も見てみてくれ」
「――ええ」
私が神妙に頷くと、玄児は「さて」と呟いて煙草を灰皿で揉み消す。そして云った。
「長屋跡での収穫は以上だが、この他にもう一つ、市朗の話によって明らかになった新事実があるんだ」
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4
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「長屋跡から〈北館〉に帰ってきたところで、ちょうど二階から降りてきた清と出会ってね、俺の顔を見ると、向こうから『中也さんは?』と聞いてきたんだよ。それで、あの子に君を呼んでこさせることにしたのさ。もう正午になろうかという時間だったし、そろそろ起こしてもいいだろうと。くたびれ果てて熟睡中だったろうに……悪かったね」
いきなり真顔で詫びられて、私は必要以上に慌ててしまい、いったん「はあ」と応えたのを「いえ、そんなことは」と云い直して、こちらを見る玄児の目から視線を逸らした。間をおかず、彼は続けた。
「とりあえず俺は、サロンで待たせてあった市朗の許に戻って、もう一度最初から話を聞いてみることにした。昨夜に比べればずいぶん落ち着いてきた様子ではあったものの、まだ何か話しあぐねている問題があるように思えてね。で――」
「新たな事実が、彼の口から?」
「ああ」
玄児は思案顔で頷いた。
「二十三日の朝に村を出発した市朗は、夕刻までかかって影見湖のほとりに辿り着いた。その途上で彼は、ある車[#「ある車」に傍点]を目撃しているのさ」
「車……」
私は思い浮かぶままに訊いた。
「それは、私たちが乗ってきた?」
玄児は「いや」と小さく首を振って、
「車体の色からして俺たちのではない。市朗が見たのは黒い車だったんだ。黒い、五人乗りの乗用車。車種はよく分らないという」
「黒い車、ですか」
[#ここから太字](……黒い車)[#ここで太字終わり]
私を乗せて玄児が運転してきた車は、五人乗りのセダンではあるが色は薄いグレイだった。
[#ここから太字](あの車は……と、彼[#「彼」に傍点]はまた強い違和感を)[#ここで太字終わり]
「最初は百目木峠を越えてしばらく行ったあたりで、その車に追い抜かれたんだそうだ。どんな人間が乗っていたのかは見て取れなかったが、市朗はそれがこの屋敷に向かっていった車だと判断し、そのタイヤの跡を追って先へ進もうと決めた。そうして森の間に下りていく脇道に入り、やがて土砂崩れで退路を断たれてしまったというわけだがね、そこからさらにタイヤの跡を追って進んでいったところで、再び彼はその黒い車と遭遇することになった」
「遭遇……と云いますと」
「道から飛び出して森の中に突っこんでいたというのさ、その車が」
「――事故?」
「時間関係を考えると、あの日の一度目の地震に遭って、ハンドルを取られてしまったのかもしれないな。森に突っこんだ車は気にぶつかって止まっていたらしいが、車内に人の姿はなく……」
「いったいその車は、誰の」
身を乗り出して、私は訊いた。
[#ここから太字](……あの車は)[#ここで太字終わり]
「思うに――」
玄児は思案顔を崩さずに答えた。
「思うにそれは、首藤のおじさんの車なのかもしれないと。黒い五人乗りなら色も形も合う。おじさんが前の日に乗って出掛けていった車さ。それが帰り道でそんな事故を起こしてしまって」
[#ここから太字](あの車は……ああ、何がどうなっているのか、と彼[#「彼」に傍点]はしきりに自問するが)[#ここで太字終わり]
「江南青年が乗ってきたものだとは? そうは考えられませんか」
と、私は思いつくままに意見を述べた。
「黒い五人乗りというだけなら、同じような車は他にいくらでもありますよね。そもそもあの青年がどんな手段でこの山奥までやって来たのか、分っていないわけですし。市朗のように歩いてきたとは考えにくいでしょう。だったら……」
[#ここから太字](……そう。それはそうなのだ[#「それはそうなのだ」に傍点]。……ああ、だがしかし……)[#ここで太字終わり]
「そうなんだ。その可能性も大いにある」
と、玄児は答えた。
「さっき云った喫茶店のマッチだが、来る途中で市朗がそれを拾った場所というのが、実はこの事故車のそばだったらしいのさ。だからね……」
「ははあ」
「いずれにせよこれは、湖を渡ってその事故現場へ行ってみさえすれば、即座に確認できることだ。その意味じゃあ、解決は時間の問題ではある」
「確かに、まあ」
「この車の一件を話して、さらに何か市朗は云おうとしたんだが。たいそう怯えた顔で、云おうかどうしようか悩んでいるふうで……そのうち腹が決まったのか、やっと口を開きかけた。ところがそこへ、伊佐夫君が|息急《いきせ》き切らせて駆け込んできてね、美鳥と美魚が大変なことになった、と」
「あの伊佐夫さんが息急き切らせて、ですか」
「ああ。よっぽど彼も驚いたんだな。――とにかくまあ、それで俺も市朗の話はほっぽり出して、大急ぎでこっちに駆けつけたんだよ」
[#ここから太字](きっと市朗は……と彼[#「彼」に傍点]は考え、そしてやはり混乱してしまう。きっと市朗は、あの……)[#ここで太字終わり]
「そんなわけでね」と云って玄児はテーブルに両手を突き、椅子から腰を上げた。
「市朗はそのままサロンで待たせてある。話の続きも訊かなきゃならないし、念のために君の首実検もしなきゃならない。――いいかな、中也君。これから一緒にあっちへ」
「いえ、ちょっと待ってください」
玄児の言葉を遮って、私は云った。
「その前に一つ、私も確かめてみたいことがあるのですが」
すると玄児は、ちょっと意表を突かれたように「ほう」と目を細め、
「そいつはまた、何を」
「さっきからずっと考えて[#ママ]つづけていたんです。それを確かめるために、できれば今から……」
ややもすると腰が引けてしまいそうになる気持ちをどうにか奮い立たせながら、私は強い眼差しで友人の顔を見返した。
「一緒に来てくれますね、玄児さんも」
さっきからずっと――玄児との一連の会話の間もずっと――、頭の隅で考えつづけていた例の問題。すぐそこにあって、あと少しで手が届きそうだったその答え[#「その答え」に傍点]が、その形が、この時に到って不意に見えてきたのだった。
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「いったい何を考えていたと」
椅子から腰を上げたまま腕組みをして、玄児は首を斜めに倒した。
「俺を連れてどこへ……何を確かめにいこうと云うのかな」
「考えていたのは『抜け穴の問題』です」
そう答えて私も椅子から腰を上げ、玄児と視線の高さを合わせた。
「もう一度繰り返して確認しておきますが、第一の事件では、犯人は物置の隠し扉を使って現場に出入りしました。第二の事件では同じような隠し扉が暖炉の中に仕掛けられていたにもかかわらず、それは使わずに窓の硝子を破って逃走した。この事実から導き出される犯人像について――」
「はあん。どうしてもそこにこだわりたいわけか」
「さっき云われたとおり、私は美鳥さんと美魚さんに疑いを向けていました。『抜け穴の存在を知っているかどうか』ではなく、『物理的に抜け穴を通れるかどうか』という点に目を移せば、この問題は解けると考えたわけです。ところが、実は彼女たちにも暖炉の抜け穴は通れたのだという事実が分って、考えはまた元のところに引き戻されてしまった。
あくまでも『抜け穴の存在を知っているかどうか』を焦点として綱を引き絞るなら、犯人の条件≠満たす人物は野口先生と慎太君の二人だけです。しかしながら彼らはどちらも、別の理由から犯人ではありえない。犯人足りうる者が、すると誰もいなくなってしまいます。そんなことは決して起こりえないはずなのに」
「そういう筋道だったね。――で?」
「どこかで考え方が間違っているのか、何か見逃している可能性があるのか……というふうに、さっきからずっと考えつづけていたわけです」
「ふん。そしてそれが分ったと」
鋭く眉をひそめながら玄児が問うのに、
「一つ、可能性に思い当たりました。市朗少年の目撃証言はさておくとして、ですが」
答えて、私はなるべく冷静な口調を保てるように深く息を吸い込んだ。
「物置の隠し扉の存在は知っているけれども、暖炉の抜け穴は知らない。その条件を確かに満たす人物を一人[#「その条件を確かに満たす人物を一人」に傍点]、私たちは見逃していたんですよ[#「私たちは見逃していたんですよ」に傍点]。もっともそれは、〈赤の広間〉で玄児さんとこの問題を検討した時点ではまだ、私には気づきようのないことだったのですが」
「何を……」
玄児はいっそう鋭く眉をひそめながら、
「いったい誰を、君は」
問いかけようとして、ふっと言葉を止める。と同時に、その顔つきが目に見えて険しくなった。これまでは漠然と不満げだったり物思わしげだったりした表情に冷たい緊張が走ったかと思うと、見る間に張りつめていったその糸が突然に震え、驚きと恐れが綯い交ぜになった気色を弾き出す。
どうやら彼もやっと、私が云う「可能性」の何たるかに思い至ったようであった。
「ああ……まさか」
視線を宙に彷徨わせつつ、玄児は呟いた。
「まさか、そんなことが」
「分りましたか」
わななく玄児の唇を見据えて、私は云った。
「条件を満たすその人物が誰なのか」
「それは――」
言いかけてまた玄児は言葉を止め、目を瞑りながら弱々しくかぶりを振る。それからぽそりと、観念したような声で呟いた。
「浦登玄遙[#「浦登玄遙」に傍点]、か」
「そうです」
私はゆっくりと頷いた。
「その可能性がすっかり私たちの死角に入ってしまっていた、ということです。問題の焦点はやはり、『抜け穴の存在を知っているかどうか』にこそあったわけで……」
〈南館〉に作られたあの隠し扉の|在《あ》り|処《か》は当然、初代当主である玄遙が知らなかったはずはない。だがしかし、十八年前の例の事件で殺された[#「殺された」に傍点]彼は、奇跡的な肉体の復活≠成し遂げながらも、実質的にはこの世から葬り去られてしまった。その後に焼失し[#「その後に焼失し」に傍点]、建築家中村何某の設計で再建された新しい[#「建築家中村何某の設計で再建された新しい」に傍点]〈北館[#「北館」に傍点]〉についての知識は[#「についての知識は」に傍点]、だから彼にはまったくないのである[#「だから彼にはまったくないのである」に傍点]。あの暖炉の抜け穴の存在など、むろん知っていたはずがない。
復活′繧フ玄遙は、自発的な運動能力を備えてはいても、人間的な勘定や知性は完全に失った生ける屍のようなものだという。――が。
もしも彼が、現在はそうではなくなっている[#「現在はそうではなくなっている」に傍点]としたら。いったんはほとんどの機能をなくしてしまったものの、甦生後の長い時間経過のうちにもしも、肉体だけではなく精神の復活≠も成就していたとしたら。そうして密かに地上へ抜け出し、人知れず館内を徘徊していたとしたら……。
絶対にありえない話ではない、と私は思う。激しい戸惑いを覚えつつも、今やそう思ってしまうことを止められないのだ。
十八年もの間、近くの暗闇に閉じ込められてきた百十歳の老人が、今になってそこから抜け出して人を殺してしまわっている。
常識的に考えればあまりに非現実的な想像だけれど、あくまでもそれは常識的な世界においての話である。私が今いるここ[#「ここ」に傍点]はしかし、違うのだ。私が知っている「常識的な世界」の外側――あるいは裏側――にこそ、きっとこの暗黒の館は存在しているのだろうから。
「ですからね、玄児さん、これから確かめにいってみたいと思うんですよ」
そんな真似はせずにもうここから逃げ出してしまいたい、という内心の|怯懦《きょうだ》を抑え込みながら、私は云った。
「一緒に来てくれますね。――〈惑いの檻〉へ」
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時刻は午後二時。玄関ホールに置かれたロングケースクロックがその時鐘を打ち鳴らしはじめたのを背に、私たちは中庭に面したテラスに出た。
玄児に促されてその際、私はスリッパを外履き用のサンダルに履き替えた。昨夜の嵐でずぶ濡れになってしまった靴はまだ生乾きの状態で、〈北館〉の方に置いてあるという。
赤い色硝子が入ったファンライトの下の両開き扉を開けて、黒煉瓦敷きの照らすに一歩踏み出した途端、私は思わず足を竦ませた。
真昼だというのに、いったい何なのだろう、この暗さは。
光よりも闇に……。
かつて魔女ダリアが〈闇の王〉と交わしたという契約が、まるでこの世界全体にまで|敷衍《ふえん》されたかのように、外の風景すべてが巨大な影に包み込まれている。建物も木も土も……何もかもが暗く黒々と、そこにある。二日目――一昨日の昼頃に一人で出てみたあの時にも似たような印象を受けたものだったけれど、今日のこの暗さはその比ではない。
天を仰ぐと、ほとんど一面を真っ黒な雲が覆い尽くそうとしていた。雨の勢いこそまだ弱々しいが、いつこれが土砂降りに急変してもおかしくないような風情である。
「嵐は去ったはずだったのにな」
と、玄児が呟いた。
「何かやり残したことでもあって、引き返してきたのかもしれませんね」
と、これはほんの軽い冗談を含ませたつもりで、私が答えた。息苦しい緊張の連続に抵抗して、ささやかに強がって見せたかったのかもしれない。玄児はしかし、厳しい面持ちで唇を結んだままだった。
傘を用意しようとはどちらも云い出さず、私たちはテラスから中庭の小道へと飛び出した。その動きを捉えたようなタイミングで、突然の強い風が音を立てて吹き過ぎる。黒々と立ち並んだ木々の激しく長く震え鳴く声が、荒れ狂う海のどよめきにも似て聞こえた。
雨でひどくぬかるんだ小道を、私たちは走った。
玄児が先を駆け、その背中を私が追う。最初の日〈十角塔〉から墜落する人影を私が目撃したあと、二人して日没後間もない闇の中を駆けたあの時の記憶が、ふと生々しく蘇ってきて現在の自分たちの姿に重なり合う。
幸い雨は小降りのままで、さほども身体は濡れずに済んだ。一位の植え込みで取り囲まれた祠のような建物――〈惑いの檻〉の前に辿り着くや、玄児が入口の扉に飛びついた。例の「骨に蛇」の浮き彫りが施された、両開きの鉄の扉である。
鈍い軋み音とともにそれが開かれた途端、今度は遠くからどろどろと不穏な音が轟き渡ってきた。雷鳴であった。
ああ、いったん過ぎ去ったはずの嵐が、本当に戻ってこようとしているのだろうか。孤立状態に陥ったこの湖の小島を、この暗黒の館を、なおも世界から孤立させつづけるために。あるいは、そう、それこそやり残した何事かをここでやり遂げるために、なのか。
穴蔵めいた建物の内部は当然ながら、外よりもずっと暗かった。一昨日の探検≠フ時とは違って、
すでにここがどういう場所なのかを知らされているせいだろうか、踏み込んだその瞬間からもう、湿っぽく澱んだ空気にかすかな腐臭が混じっているように感じられた。
「明りはないのですか」
私が訊いてもすぐには何とも答えず、玄児は入って左側手前の隅へと足を進める。暗がりに目を凝らすと、前に来た時は気づかなかったのだけれど、壁に小振りな棚が幾段か造り付けられていた。
「電気は引かれていない」
と、棚の前に立ったところで玄児が答えた。
「懐中電灯が、確かここに」
やがてその言葉どおり懐中電灯を探し出すと、玄児は建物の奥へと光線を差し向ける。大人の顔の高さに鉄格子入りの小窓が切られた例の黒い鉄扉を、そして光は照らし出した。
低く息をついて、玄児はその扉に向かう。私は慌てて彼のあとを追う。
扉はぴったりと閉ざされていた。前に見た時と変わらず、頑丈そうな南京錠が掛かっていた。
玄児が懐中電灯を左手に持ち替え、右手を錠前に伸ばした。が、すぐに「ふん」と鼻を鳴らし、
「異状はないようだが」
私の方を見て小さく肩を竦める。
引き継いで私も、自分の手でその錠前を調べてみた。引っ張ってみたり揺すってみたり、目を寄せて扉側の金具の取り付け具合を見てみたりもしたが、確かにこれと云って異状はない。過去に無理やりこじ開けられたような形跡もない。
「もしかしたら、この南京錠や金具が壊れているんじゃないかと思ったのですが」
私は押し殺した声で云った。
「〈十角塔〉の入口に付いていたのと同じような錠前でしょう。あちらが老朽化のために壊れたんだったら、こちらにも同じことが起こっていても不思議はないと」
「なるほどね。しかしこのとおり」
錠前とその周囲の様子を改めて懐中電灯の光で照らしながら、玄児は云った。
「内側からこいつを開けて、外に出ることはまず不可能だろう。覗き窓の鉄格子を外して何か踏み台を使えば、どうにか手は届くかもしれないが」
そう云われて、私は恐る恐る、長方形の小窓に嵌まった鉄格子に両手を伸ばす。二本ずつ握っていって全部を確かめてみたが、外れそうな格子は一本もなかった。
「自力で抜け出すのは無理だとすると、誰かが外から鍵を開けてやって……」
「鬼丸老が、かい」
すかさず訊かれて、私はぐっと息を呑む。玄児は続けて云った。
「誰かが脱出の手引きをしたとすれば、それは鬼丸老しかいないだろう。今朝も話したように、この〈惑いの檻〉は云ってみれば、完全にあの人の特別管轄区≠ネんだ。この扉の錠前を外す鍵にしても、持っているのはあの人だけだからね」
「地下の墓室からどこかに抜ける秘密のトンネルがある、などという話は?」
「噂にも聞いたことがないな」
「ではやはり、鬼丸老が……」
あの黒衣の老使用人が、玄遙の共犯者だということなのか。
〈檻〉の中の玄遙に日々の食事を与えるため、鬼丸老は定期的にここへやって来、錠を外してこの鉄扉を開ける。屋敷でただ一人、彼だけがそれを許された人間なのである。
十八年もの間ずっとここに閉じ込められてきた玄遙が現在どのような状態にいるのかも、彼だけが正確に把握している。もしも玄遙が、今や肉体のみならず精神の復活≠も果たしていたとしたら、二人の間には少なくとも何某かの意思の疎通があるだろう。もはや生者≠ニしてはこの世に存在しない玄遙を秘密裏に地上へ解き放つことも、たとえばそれを鬼丸老が「亡きダリアの意思」であると見なしたなら……ああいや、ならばひょっとすると、実は鬼丸老こそが、すべてを背後から操っている黒幕なのかもしれないのではない。
私は憑かれたように、やみくもな想像を広げる。
玄遙の行動は何もかも、鬼丸老の指示に従ったものだったのかもしれない。動機や目的はまったく分らないが、蛭山を殺したのも望和を殺したのも、何もかもがあの老使用人の……。
――万事はダリア様の思し召しのままに。
そんな言葉が、男とも女ともつかぬあのごわごわに嗄れた声で、今にも耳許に囁きかけられてきそうな気がした。
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呻くような唸るような、何とも気味の悪い何者かの声が、その時かすかに響いてきて、やみくもに広がりつづける私の想像を断ち切った。
どこから聞こえてきた声なのか、それは考えるまでもないことだった。閉ざされた黒い鉄扉、その向こう側の床に大きく口を開けた、あの四角い穴だ。〈惑いの檻〉の暗黒の底へと延びる、あの石の階段の下から……。
「今のは」
呟いて、玄児が扉の小窓に光線を投げかける。
「今のはきっと、玄遙の……」
私たちは肩を寄せて、窓に嵌まった鉄格子の間から扉の向こうを覗き込んだ。
凄まじい湿気が立ち込める中、黴臭さと腐臭と汚物の匂いが入り雑じった、胸の悪くなりそうな悪臭が鼻を衝いた。玄児は腕を上げて懐中電灯の光を巡らせ、私は爪先立ってその動きを目で追いながら、同時に息を殺して耳をそばだてた。
階段の下の墓室がどういった構造になっているのかは知らないが、どれほど堅牢に作られていたとしても、とにかく建造物自体が古い上、湖の小島というこの立地である。よほどきちんと補修の手が入れられていなければ、現在に至るまで無事に防水が保たれているとは考えにくい。壁や床、天井から地中の水分が染み出してきて、さぞかしひどい状態であることだろう。今回のような嵐のあととなれば、それはなおさらだろう。
そんな〈檻〉の中で今もなお、玄遙は生きつづけているのか。浦登家の死者たちが眠り、自殺者が惑いつづけるという暗い地の底で、十八年もの長きにわたって独り生き長らえているのか。
そのさまをリアルに思い描こうとすると、今さらのようにぞわぞわと鳥肌が立ってしまう。何という惨い仕打ちか、とも思う。殺しても飽きたらぬほどにその玄遙を憎んでいたに違いない柳士郎や、己の呪われた出生の真実に気づいてしまった今の玄児の心には、こういった感情はついぞ湧いてこないものなのだろうか。
「――あれは」
と、やがて私が小声で玄児の注意を促した。気になるものがふと目に留まったのだった。
「ほら、そこに」
「――ん?」
「あそこです。階段の手前あたりの……もう一度ゆっくり照らしてみてくれますか」
「ああ、うん」
光がそして、私が指示した場所を捉えた。
たっぷりと湿気を吸った埃や泥で黒々と汚れた石張りの床。その上に……。
「あれは……ああ」
玄児は震える声を吐き出した。
「あの足跡[#「あの足跡」に傍点]か」
「ええ」
人間のものと思われる左右の足跡が一つずつ――どちらも爪先をこちらに向けている――、はっきりと原形を保ったままそこには残っているのだった。階段からこちらの扉までの間には、他にもそれらしき跡がたくさん見られる。だがしかし、でたらめに重なり合って入り乱れたそれらのうち、確かな形状が見て取れるのは、階段の手前にあるその一組だけであった。
「履物を履いていない……素足の跡だな。だから当然、鬼丸老の足跡ではない」
「玄遙氏の足跡、ですか」
「玄遙の足跡……」
懐中電灯の光を固定したまま、玄児は鉄格子に顔を寄せる。そうしながら「ああ」とまた震える声を吐き出し、「よく見てごらん、中也君」
と、今度は彼の方が私の注意を促した。
「あの足跡の形、普通じゃない[#「普通じゃない」に傍点]のが分るかい」
「普通じゃない?」
私も玄児に倣って鉄格子に顔を寄せ、暗がりを切り開いた光輪の内側にせいいっぱい目を凝らす。そして、そのこと[#「そのこと」に傍点]を見て取った。
「確かに変ですね。足の指が……」
「そう見えるよね、君にも」
云って、玄児は鉄格子から顔を離す。
「あの足跡には[#「あの足跡には」に傍点]、左右ともに指が三本ずつしかない[#「左右ともに指が三本ずつしかない」に傍点]」
「三本指の足跡……」
すぐに私が思い出したのは、云うまでもなく望和のアトリエで見た例の壁画である。玄児の実母カンナと思われる女性が悪魔めいた化物に襲いかかられている、あの忌まわしい暴虐の図。女を組み敷いたあの化物の両の足にも、そうだ、三本ずつしか指が描かれていなかったではないか。
「あの絵の三本指の造形は望和さんの創作ではなくて、彼女がむかし見たそのままの形をデフォルメして描いた[#「彼女がむかし見たそのままの形をデフォルメして描いた」に傍点]ものだったという?」
「そういうことになるな」
玄児は頷いた。
「五本あった指が後天的に欠損したとも考えられるし、元々が三本だったとも考えられる。実物[#「実物」に傍点]を見てみないことには確言できないが、あの足跡の感じからして後者の可能性が高いと思う。第一指――すなわち親指以外の二本が、普通の足指よりもずいぶん太いだろう」
「先天性の畸型だと?」
「そう。|欠趾症《けっししょう》、あるいは|合趾症《ごうししよう》か。これも確言はできないが、こうして見た感じ、恐らく|合趾の方だろう。第二指と第三指、第四指と第五指がそれぞれ癒着している形の」
「――珍しいものなのですか」
「合趾症自体は、それほど稀な異状じゃなかったはずだが」
と答えて、元医学生は再び小窓の鉄格子に顔を近づける。
「一口に合趾症と云っても、その出現の仕方は実に多様でね。どの指とどの指が癒着しているかもさまざまだし、癒着が皮膚だけに留まっている皮膚性の合趾もあれば、骨にまで及ぶ骨性の合趾もある。癒着が指先まで達する完全型もあれば、指の途中までの不完全型もある。あの足跡を見る限り、かなり程度の重い完全型の合趾のようだが、皮膚性か骨性かまでは判断がつきかねる」
「…………」
「外科手術で五本指に形成する治療も、今では一般的に行なわれているというが。玄遙はしかし、その手の処置は何もせずに放っておいたわけだな。彼が生まれ育った時代を考えるとまあ、不思議な話でもないだろう」
「玄児さんは以前から知っていたのですか。玄遙氏の肉体にそういう特徴があることを」
「いや。何も聞かされちゃいなかった」
玄児は私の方を振り向き、緩く首を振った。
「けれども望和叔母さんのあの絵を見て、何だか無性に気に懸かってね。あの絵の化物の足があんなふうに描かれていたことが。それで今朝、君と別れたあと、もう一度アトリエを覗いて絵を確かめておきたくなったのさ」
そうか。あれはそういうことだったのか。
「いずれにせよ……」
云いかけたところで、玄児ははっと口を噤む。さっきと同じような、呻きとも唸りともつかぬ気味の悪い声が、再びかすかに響いてきたのである。
私たちは黙って顔を見合わせ、そろりとまた小窓の向こうを覗き込む。
ひた、ぴた……と。
今度はそんな音が聞こえてきた。
ぴた、ひた、ぴたた……と。
少しずつ近づいてくる。
声ではない。声ではなくて、これは足音だ。泥でぬめった床を素足で歩いてくる、ゆっくりとあの階段を昇ってくる、その音が今……。
私は身を凍らせた。傍らの玄児も同様の反応であった。
足音の主はむろん玄遙だろう。彼が今、あるいは私たちの話し声や気配に気づいてだろうか、地下から上がってこようとしているのだ。あの階段を昇ってきて、私たちの前にそのおぞましい姿を現わそうと……。
……嫌だ。
もう嫌だ。逃げ出したい。
自分から〈惑いの檻〉へ行こうと云いだした私だったが、この時は切実にそう思った。
逃げ出してしまいたい。玄遙の姿など、今ここで見たくはない。見てしまいたくない。――見るのが怖いのだ。恐ろしいのだ。彼がこの〈檻〉の中で生き長らえているという現実に否応なく直面するのが、今さらながら恐ろしくてたまらないのだ。そうしてしまったら最後、きっと私はもう……。
……嫌だ。逃げ出したい。
そう思いつつもしかし、身体は凍りついたまま少しも動いてはくれない。――その時。
「何をしておいでですか」
いきなり背後から声をかけられ、私は――恐らくは玄児も――文字どおり跳び上がって驚いた。
「玄児様に中也様」
ああ、このごわごわに嗄れた声は。
「ここで何をしておいでですか」
振り向くと、いつの間に建物に入ってきたのか、私たちからほんの一メートルほどしか離れていないところに声の主は立っていた。だぶだぶの黒い衣服をまとい、深くフードを被った生ける影=\―鬼丸老である。
「玄児様」
黒衣の老使用人は云った。
「分っておいでですね。いかに玄児様といえども、妄りにこの場所に立ち入っていただいては困るのです」
「――あ、ああ」
玄児は狼狽を隠せなかった。
「分っているよ。――早急に確かめておきたいことがあったものでね、それで、悪いとは思ったけれども……」
「はて。何をお確かめになりたいと」
訊かれて、玄児は「この扉さ」と正直なところを答え、続けて老使用人に訊き返した。
「ねえ鬼丸さん、この扉に掛かった錠前の鍵を持っているのは、鬼丸さん独りだけなんだよね」
「さようでございます」
「つまり、この扉を開けられるのは鬼丸さん一人、ということだね」
「それは――鬼丸さんがこの扉を開けるのは、中にいる玄遙に食事や水を持ってくる時だけ?」
「さようにございますが」
「その他にはまったく?」
「まったくというわけでは。必要があれば、それ以外の場合にも開けることはございますし、墓室に降りてみることもございます」
「必要というと、どんな」
「地下の様子の点検や、最低限の清掃などを」
「なるほど。――そういう時、玄遙が勝手に外へ出てしまったりはしないのかな」
「そのようなことは、決して」
「鬼丸さんが外へ出してやったということは?」
「ございませぬ」
「これまでに一度もないと?」
「一度もございませぬ」
二人のそんなやり取りの間も、ひた、ぴた……という足音は途切れ途切れに続いている。
その音を耳の半分で聞き、迫り来るその者のおぞましい気配を背中で探りながら、私は身を凍らせつづけていた。
階段を昇りきって、もしから[#ママ]したらもうすぐそこにまで、玄遙はやって来ているのかもしれない。背後の鉄扉のすぐ向こうにもう、その幽鬼のごとき影があるのかもしれない。覗き窓越しに、その虚ろな目で私の後ろ姿を見ているのかもしれない。今にもそして、その生臭い息が鉄格子に吐きかけられ、間近であの不気味な呻き声が発せられ……。
全身が震えだしそうな緊張と恐怖を覚えつつも、しかし私は、振り返ってそれを確かめてみることがどうしてもできないのだった。
「分っておいででしょう、玄児様」
鬼丸老が云った。
「玄遙様はもはや生者≠ナはございませぬ。復活≠ノ失敗した挙句の惑い≠ニして、未来永劫この〈檻〉の中で彷徨うのが定め。決して外に出ることは許されませぬ。
かつて柳士郎様は、そんな玄遙様を捨て置けと命じられましたが、かりそめにもダリア様が命を懸けて愛されたお方ゆえ、自殺者同様の惑い≠ニして捨て置くには忍びなく……ささやかながら、わたくしがお世話をさせていただいている次第でございます。ですが、出過ぎた真似もあくまでそこまで。禁を破り、惑い≠〈檻〉の外に出すなどもってのほか……」
「本当に?」
と、玄児が訊いた。鬼丸老は「はて」とわずかに首を傾げ、
「玄児様は、わたくしの申しますことに嘘偽りがあるとお思いですか」
「信じていいのかな」
と、玄児は念を押す。鬼丸老は一瞬の躊躇も見せずに答えた。
「わたくしは決して偽りを申しませぬ。すべてはダリア様の思し召しに従い……」
「玄遙はずっと――この十八年間ずっと、〈檻〉から一歩も出たことがないわけだね」
「さようでございます」
「――そうか」
呟いて、玄児は傍らの私に目を向けた。
「そういうことだ、中也君」
「――はい?」
「鬼丸老が明言するからには[#「鬼丸老が明言するからには」に傍点]、その言葉に嘘偽りはない[#「その言葉に嘘偽りはない」に傍点]。それはこの屋敷における自明……疑う余地のない命題なんだよ」
何と応えたものか私には分らず、黙って曖昧な頷きを返す。
緊張と恐怖で凍りついていた身体が、この時にはようやっと普通に動かせるようになっていた。背後の扉の向こうから聞こえてくる足音は、もうない。声もない。玄遙の気配は、いつしかすっかり消え去っていた。
「行こう、中也君」
懐中電灯を消して玄児が云った。
「市朗が待ちくたびれているだろう」
口を閉ざした鬼丸老に軽く黙礼して、玄児は建物の入口へと向かう。私が慌ててそのあとを追おうとすると、彼はぴたと足を止めて老使用人の方を振り返り、
「ねえ鬼丸さん、もう一つ訊いてもいいかな」
と云った。鬼丸老は「はて」とまたわずかに首を傾げ、
「どうしてもそうなさりたいとお思いならば、どうぞお尋ねくださいまし」
「その扉の向こうに残っている足跡を見て知ったんだが、玄遙の足には指が三本しかなかったんだね。それは昔からそうだったのかい」
「さようでございます。そして――」
ごわごわに嗄れた声を潜めもせず昂ぶらせもせず、鬼丸老は答えた。
「ダリア様はそれが――玄遙様の足が三本指であることが、たいそうお気に入りのご様子でございました」
「――ははあ」
魔女を自称したダリアには、その魔女性[#「魔女性」に傍点]ゆえの、ある種倒錯的な感性、趣味嗜好があったとでも云うことだろうか。普通の人間の目には気味の悪い異形としか映らない逸脱的な肉体の特徴が、彼女の目にはむしろ妖しい魅力をもって映ったという……。
「この際だから、あと一つだけ」
と云って玄児は、黒衣の老使用人の、フードで隠された顔を見据える。そして訊いた。
「昨日からこの屋敷で、二人の人間が殺された。むろん承知しているね。被害者は蛭山さんと望和叔母さんの二人だが、いったい誰が、何のためにこんな事件を起こしたんだろう」
「それはわたくしへのご質問ですか」
「ああ、そうだよ」
「どうしても答えよと云われますか」
「ああ」
「わたくしは――」
云いかけて、鬼丸老は珍しく少し口ごもり、それからゆらりとかぶりを振りながら答えた。
「わたくしには分りかねます」
「何もおもうところはない、と?」
「それは――」
鬼丸老は再び口ごもり、何秒間かの沈黙を続けたが、やがて低く息をついてこう云った。
「万事はダリア様の思し召しのままに……」
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8
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字](……なんだろう)
何だろう、と彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返す。[#ここで太字終わり]
「私」の現在進行形に沿って展開する出来事の一部始終を、これまでと同じように視点≠通して見つづけながら――。
[#ここから太字]何だろう、と彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返さざるをえない。
何なのだろう、この違和感は。このいくつもの違和感は。このいくつもの、到るところに散らばっている違和感は。
たとえばそれは……と、具体的な問題の抽出をまた試みてもみる。
たとえばそれは衣服のことであり、たとえばそれは時計のことでもある。車や煙草やマッチのことでもあるし、札入れや立札や看板のことでもある。画家や署名本や流感のことでもあるし、富士の初冠雪や大分沖の貨物船事故や山形の|済生館《さいせいかん》本館のことでもあり……。
他にもある。まだまだたくさんある。
ああ、いったいこれは……。
(……何なのだろう)[#ここで太字終わり]
自問を繰り返すその一方で、しかし今――。
彼[#「彼」に傍点]は漠然と予感しはじめてもいるのだった。嵐の再来を告げる暗雲の広がりとともに、長かったこの物語≠焉Aようやく最終局面を迎えつつあるということを。
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第二十六章 欠落の焦点
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1
[#ここで字下げ終わり]
雨脚が、先刻よりいくぶん勢いを増してきている。空を覆い尽くした雲はいよいよ暗く重く、吹く風も強い。本当にもう、天候は再び嵐の様相を呈しはじめていた。
鬼丸老を残して〈惑いの檻〉を出ると、私たちはいったん〈東館〉へ引き返すことはせず、やって来た道の途中にあった分岐を左に折れて直接〈北館〉へと向かった。少しでも雨に濡れなくて済むようにという計算と先を急ぐ気持ち、その両方が、先導した玄児の頭にはあったのだろう。私は帽子を風でさらわれないよう片手で押さえつつ、幾度かぬかるみに足を取られそうになりながらも、友人のあとを追って駆けた。
中庭に面した〈北館〉一階のテラスは建物と同様の黒い石張りで、ちょうどこれはサロンの南側に設けられている。左右に細長く広がったその中央に、出入りのためのフランス窓があった。黒塗りの枠と桟に青い模様硝子が入った例の窓だが、外から見ると硝子の深い青味がよりいっそう深く見え、ほとんど黒と区別がつかないような感じだった。
強風に乗って降りかかってくる雨から逃れ、玄児がフランス窓に飛びついた。両手で把手を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、441-下-12]んで引き開けると、私の方を振り返って「さあ」と目配せする。
「履物はそのままでいいから、中へ」
「――はい」
汚れたサンダル履きのまま、玄児に続いて私が室内に飛び込んだその時、遠くでまた雷鳴が轟いた。心なしかこれも、先刻に比べてだいぶこちらとの距離が縮まってきているように思えた。
玄児がフランス窓を閉め、濡れた髪を掻き上げながら短く息をついたところで、
「困ったものだね、この天気の気まぐれも」
と、聞き知った声がした。浦登征順だった。見ると彼は、部屋の真ん中に据えられたソファの一つから腰を上げ、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「このままもっと風雨が激しくなって、また嵐に逆戻りなのかもしれない。何か天の怒りを買うような心当たりは?」
冗談とも本気ともつかぬそんな問いかけを、征順は玄児に投げかける。玄児はしかし、仏頂面で少し肩を竦めてみせただけで、何も言葉は返さない。
征順が座っていたソファとテーブルを挟んで向かい合った場所に、昨夜のあの少年の姿があった。市朗――苗字は波賀というのだったか――である。私たちの方を振り向くこともなく、ソファの隅で毛布にくるまり、身を縮めている。
「待たせたね、市朗」
少年に声をかけてから、玄児は近くまでやって来た征順に向かって、
「叔父さんは、彼とは何か話を?」
「いや」
縁なし眼鏡のブリッジを指で押し上げて、征順はかぶりを振った。
「清を落ち着かせて、今さっきここへ来たばかりだから。初対面の挨拶をやっと済ませたところでね」
「清はどこに」
「二階の寝室だよ。望和のそばに」
「叔母さんの……遺体の?」
「ベッドの横に坐って彼女を見守っている。死顔には布が掛けてあったんだが、それを取り去ってしまってね。時折り何か独り言を呟いたりもする。――生き返ることを祈っているのかもしれない」
「生き返るのを……」
ソファにいる市朗の耳が気になるのだろう、玄児は声を潜めて、
「叔母さんの復活≠?」
「絶対にありえないことではないはず、なのだからね」
同じように声を潜めて、征順は眉間に深く縦皺を刻む。
「この家には二つの実例がある。十八年前の浦登玄遙と、そして玄児君、他ならぬ君自身だ。清はそれを知っている。だから望和も……と思うのは無理からぬこと」
「――そうですね」
答えながら、玄児は物思わしげに|瞑目《めいもく》した。
「〈ダリアの祝福〉を受けている以上、そう、その可能性も皆無ではないはずです。願わくはしかし、玄遙のような不完全な復活≠ヘ起こらないでほしいものですが」
征順は「ああ」と何やら息苦しそうな吐息とともに頭を垂れ、それっきり黙り込んでしまう。遠くでまた雷鳴が轟いた。突風のような風が雨粒とともに騒がしく窓を叩いた。
立ち話を切り上げ、玄児は部屋の中央に向かう。征順を元のソファに、私をその隣に坐らせると、自分はテーブルのそばに立ったまま片手に腰を当て、
「さて、市朗」
と、少年を見据えた。
「中也君の顔は知っているね。ゆうべ俺と一緒に君を追いかけていって、あそこで気を失ってしまった彼だ。――中也君、帽子を取ろうか」
「あ、はい」
濡れたソフト帽を脱いで膝の上に置いた私を、市朗は毛布にくるまったまま、隠れた場所からそっと様子を窺うような目で見た。熱は下がったというけれど、その顔は重病人めいて蒼ざめている。くっきりと隈のできた両の目許と、罅割れた紫色の唇が何とも痛々しい。
「――中也さん」
掠れ声で呟いて、市朗はかすかに頷いて見せた。「念のため」の首実検、か。そう考えるとやはり妙に緊張が高まってきて、知らず私は帽子の鍔を両手で握りしめていた。
「それじゃあね」
玄児が続けて訊いた。
「お前が昨夜、忍び込んだあの広間で、隣室との間の硝子を打ち割って逃げ出してくるのを目撃した曲者は、この中也君だったかい。どうかな」
そんなはずがあるものか、と私は自分に云い聞かせる。――そんなはずはない。そんなことはもちろん、決してありえない。
市朗はしばし無言で私の顔を見つめ、無言のままで力なく首を横に振った。
「違う? 彼じゃなかったんだな」
玄児が確認すると、市朗は消え入りそうな声で「はい」と答えた。
「違う、と思います」
「そうか。ちなみに市朗、そっちの征順叔父さんとは、今さっきが初対面だったんだね」
「――はい」
「当然、昨夜目撃した曲者ではない?」
「――と思います」
「ふん。とすると、はてさて、いったい何がどうなっているんだかな」
玄児は腰に当てた手の左右を入れ替え、無精髭の目立つ尖った顎を指先でさすりながら、
「これで、お前がこの屋敷にやって来てから会った人間については、ほぼ全員との面通しが済んだわけだけれども、誰も該当者≠ェいない。あと一人、慎太が残ってはいるが。――お前の目撃したのがあの子だったということはないね」
「え? それは……はい。慎太じゃない、です」
「変だねえ」
「…………」
「こうなると市朗、お前の目撃証言そのものの信憑性に疑問をだかざるをえなくなってくるが」
「――おれは」
毛布の下でますます身を縮めながら、市朗は今にも泣き崩れそうなか細い声で訴えた。
「おれは何も、嘘なんて」
「嘘をついてはいなくても、思い違いということはあるだろう」
ぴしゃりと云われて、市朗はおろおろと目を伏せる。その視線の先を追って私は、ソファの前のテーブルに並べられているいくつかの品に気づいた。
懐中時計と札入れ、そしてマッチ箱。――先ほど玄児が云っていた例の品々である。市朗が身を隠していたというあの長屋跡から玄児が持ちだしてきたものが、ここに置いてあるのだ。市朗の足元を見ると、そこには汚れたカーキ色のリュックサックがある。これもきっと、玄児が長屋跡から持ってきてやったのだろう。
私はそろりとテーブルの上に手を伸ばし、懐中時計の鎖を摘んで引き寄せた。
鈍い光沢を放つ銀色のフレーム。円い文字盤に並んだ十二個のローマ数字。六時半で動きを止めた二本の針。裏面に彫られたT・Eというイニシャル。――間違いない。確かにこれは[#ここから太字](……あの時計)[#ここで太字終わり]、江南青年が持っていたあの時計である。
鎖を摘んだまま時計を目の高さまで持ち上げ[#ここから太字](どうしてあの時計が、こんな……)[#ここで太字終わり]、振子のように少し揺らしてみる。すると、その動きに重なるようにして、今朝眠りの底に落ちていく途中で垣間見たあの風景――〈開かずの間〉のどんでん返しの壁に描かれていた藤沼一成の絵と同じ――が浮かび上がってきて、白く瞬いた。心の中でいきなりカメラのフラッシュを焚かれたような感覚で、それとともに一瞬ぐらりと視界が歪んだような気もして、私は思わず強く目をしばたたかせた。
懐中時計をテーブルに戻すと、今度は札入れを[#ここから太字](……札入れ)[#ここで太字終わり]取り上げてみる。二つ折りにして使うタイプの、焦茶色の革の札入れだった。全体が何だか水気を含んでいるのは、墜落時に江南のジャケットかズボンのポケットから零れ落ちた際、付近の水溜りにでも浸かってしまったせいかもしれない。あるいは、長屋跡で雨漏りの被害にあって濡れてしまったのだろうか。
札入れの中には[#ここから太字](この札入れは……)[#ここで太字終わり]玄児の云っていたとおり、何枚かの小額紙幣が入っていた。これらの紙幣も全部、かなり水気を含んでしまっているが、はて、他に何かあの青年の身元を知る手がかりになるようなものは、この中には[#ここから太字](この中には、そう、あの写真[#「あの写真」に傍点]が……)[#ここで太字終わり]……。
「さっきの続きを聞かせてもらおうか」
私の動きを横目で捉えつつ、玄児は市朗への質問を続ける。
「森の中に車が突っこんで大破していたと、そこまで話してくれたんだったね」
「あ……はい」
「それで?」
と、玄児は語気を強めた。
「まだ何か、話していないことがあるんだろう。云おうかどうしようか、ずいぶんと迷っている様子だったが、あれはいったい」
市朗は伏せていた目を上げて玄児の顔を見、私と征順の方もちらちらと窺い見てから、罅割れた唇を「あれは」と振るわせた。
「あれは……おれ、見たんです」
「見た?」
玄児は眼差しと声を鋭くして、
「何を見たって」
「それは、あの……」
云いかけたものの、市朗は再び目を伏せて口ごもってしまう、ひどく怯えた様子だけれど、これは玄児の訊き方にも問題があるのかもしれない。
この場の状況、この場の雰囲気で、こんなふうに鋭く詰問されたら、物怖じしてしまってうまく答えられないのも仕方がないのではないか。私にはそう思えたのだが。
西隣の遊戯室から、例のからくり時計のオルゴールの調べが聞こえてきた。「赤の円舞曲」が告げる午後三時である。
「玄児君!」
と、折りしもその時――。
廊下に通じる二枚の扉のうちの、東側の一枚が騒々しい音を立てて開かれ、同時に野太い声が飛んできた。突然のことに驚いたのだろう、市朗は震え上がるようにして身を竦め、それでもう完全に口を閉ざしてしまう。
玄児はテーブルから離れて扉の方へつかつかと歩を進め、サロンに駆け込んできた相手を迎えた。
「どうしました、野口先生」
見るからに興奮気味の医師に向かって、玄児は尋ねた。
「美鳥と美魚の様子に、何か」
「あの子たちは先ほど、ここの二階の寝室に移動させましたよ。鶴子さんと宍戸さんの手を借りて、美魚を運んだのです。美鳥も目を覚まして、おとなしくついてきたのですが」
「美魚の容態は?」
「急な変化はないが、予断を許さない状況であることには変わりありませんな」
「そうですか」
「それより、玄児君」
野口医師はビヤ樽のような巨体をぶると震わせ、
「急ぎの報告を、と思ってきたのです」
「急ぎ? 何があったと」
「電話が――」
そう云って、医師は禿げ上がった前頭部に掌を押し当てた。
「電話が通じるようになっておるのですよ」
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字]……何だろう。
彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返す。
何なのだろう、この違和感は。このいくつもの違和感は。このいくつもの、到るところに散らばっている違和感は。
たとえばそれはイニシャルのことであり、たとえばそれは履物や毛布のことでもある。湖畔の建物とその瓦解のことでもあるし、扉や鍵やノッカーや肉体の特徴のことでもある。死んだ母≠フ記憶のことでもあるし、重なり合ういくつもの炎のイメージのことでもあり……。
他にもある。まだまだたくさんある。[#ここで太字終わり]
あるものは密やかな。あるものはあまりにもあからさまな。意識が正常なレヴェルにあったなら、すぐにでもその意味を解することができるはずの。
[#ここから太字]何なのだろう、と彼[#「彼」に傍点]は自問を繰り返す。具体的な問題の抽出を試みる。
そのたびに違和感はいよいよ強くなってきて、彼[#「彼」に傍点]にさらなる自問を促す。[#ここで太字終わり]
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
「美鳥と美魚を寝室に落ち着かせたあと、私は居ても立ってもおれず……つまり美魚の容態がどうしても心配でたまらず、さっき電話室へ行って試してみたのです。ひょっとして調子の悪かったのが直っておらんものかと。そうしたら――」
「回線が繋がった、と?」
応じる玄児の声からも、当然ながら相当以上の興奮が伝わってきた。顎鬚をぞろりと撫で下ろしながら、野口医師は大きく頷いて、
「それで、すぐに私の病院に連絡を」
「熊本の鳳凰病院に?」
「さよう。本来なら柳士郎氏の了解を取らねばならないところだが、そんな場合ではありますまい。とにかく救急車を一台、大至急こちらへ向かわせるように指示し……」
「警察には? 連絡したんですか」
「ああ、いや、それは」
当惑顔で返答に詰まる医師に、
「警察にはまだ連絡していないんですか」
と、玄児が重ねて問う。
「いや、それにはやはり、柳士郎氏の了解が」
そんな医師の反応を見て、私は苛立ちを禁じえなかった。先ほど〈東館〉の食堂では、もうこれ以上は事件を放っておけないと玄児が云うのに対し、彼も「同感ですな」と相槌を打っていたではないか。なのに、この|期《ご》に及んでまだ……。
「俺は――」
玄児は思い詰めたような調子で云った。
「俺の意見は、電話が通じたのなら一刻も早く、警察にも連絡するべきだということです。そこの少年――市朗の話が事実だとすると、二十三日の地震のあと土砂崩れがあって、途中の道は通れなくなってしまっている。捜索隊にせよ救急隊にせよ、すんなりとここへは辿り着けないでしょう。いざとなったら、ヘリなり何なりを飛ばしてくれるよう要請しなきゃならないかもしれない。そのくらいもう、事態は煮詰まってきているわけで」
「しかしですな」
「二人も――」
云いかけたところで、玄児はちらっとソファの市朗を一瞥し、心持ちまた声を潜める。
「二人も殺されているんです。蛭山さんだけじゃなくて、家族の一員である望和叔母さんまで。それでもなお、父は事件を隠しおおそうというつもりでいるんでしょうか」
そうして玄児は、今度は征順の方を振り返り、
「どう思いますか、叔父さんは」
と訊いた。
「私は……」
いったん答えかけて口を噤み、征順は眼差しを伏せた。だが短い沈黙の後、大きく肩で息をしながら腰を上げると、玄児と野口医師が向き合って立つそばまで足を進めて、
「君の意見は正論だろう、玄児君。しかし――」
「しかし?」
「しかしやはり、浦登家の秘密≠ヘ守らねばならない。たとえ事件の捜査のために警察を呼ぶにしても、私たちには隠し通さなければならないことがたくさんある。たとえば昨夜、〈十角塔〉裏手の地中から出てきた人骨の件もそうだし、〈惑いの檻〉にしてもね、もしも不用意にあの中を調べられでもしたら……」
十八年前、公的には「病死」したことになっている浦登玄遙が、今も生きていてあそこに閉じ込められている。その事実が知れただけでも、確かに大変な騒ぎになるだろう。
「だからね、そういった意味で、先生の判断は間違ってはいないと思う。ここはまず|義兄《あに》に相談して、警察に通報するにしても、然るべき対策を練ってからにした方が……と」
「なるほど」
玄児は険しく眉根を寄せながら、
「その意見の方がこの家では正論なんでしょうね。しかも、妻を失ったあなたがそう云うのならば……分りました。じゃあとにかく、今から父に会いにいきましょう。現在の状況をきちんと説明した上で、いかに対処するべきかの相談を。――それで異存はありませんね」
征順は神妙な面持ちで頷く。野口医師も同様の面持ちで「そうですなあ」と答えたが、そこで間をおかずに「玄児君」と呼びかけた。
「――何か」
「実はその、もう一つ話しておかねばならんことがありましてな」
「何でしょうか」
「これを」
と云って、医師は皺だらけの白衣のポケットから何かを取り出した。
「――これは」
訝しげに首を傾げる玄児を見て、私もソファから立ち上がり、足早に三人のそばへ向かった。そして玄児の肩越しに、医師の手許を覗き込んでみる。
野口医師が取り出して玄児に示したのは、一冊の手帳であった。黄色い表紙の手帳。――ああ、これには見憶えがある。
「茅子さんのものですね」
私が口を挟むと、医師は「さよう」と頷き、
「昨日中也さんに入れ知恵されたのが頭に残っておりましてな、今朝方、彼女の様子を見にいった際にこっそり拝借してきたのですよ。つもりその……」
「首藤さんの行方が分るかもしれないと?」
「そういうことです」
野口医師は玄児の方に向き直って、
「あの時は、玄児君はいなかったんでしたな。茅子さんがひどく取り乱して、どこかへ電話をかけようとしたのです。その際に彼女が握りしめていたのがこの手帳で。恐らくこれに電話番号がメモしてあるのだろう、と」
玄児は納得顔で「はあん」と呟き、
「おじさんの行き先の電話番号、ですか。ずっと気に懸かっている問題ですからね、それも。――で? その番号は見つかったんですか」
「ちょっと調べてみたところ、カレンダーの九月二十二日の欄に、それらしきメモが」
答えて、医師は手帳の頁を開いた。
「こう書いてあります。『利吉、|永風会《えいふうかい》へ。例の件にて。明夜までには戻る予定』。でもって、このあとに電話番号らしき数字が並んでおる。『永風会』というのは、永久の永に風の会、と」
「永風会……」
みずからそう呟いてみたところで、玄児ははっとしたように医師の顔を見直し、
「そんな病院が、確かあったような」
病院だと? 病院の名称なのか、「永風会」というのは。
「さよう。私もそう記憶しております。――福岡の永風会病院。県内外にいくつか系列病院があったはずで、しかもあそこは……」
「電話はしてみたんですか」
医師の言葉を遮って、玄児が訊いた。
「いや、それはまだ」
「確かめてみた方が良さそうですね。本当におじさんがそこへ向かったのだとして、わざわざそんな遠くの病院まで何をしにいったのか。――茅子さんの具合はどうなんですか」
「やっと熱も下がったようですな。薬はまだ与えてありますが、身体の方はもう心配要らんでしょう」
「普通に話ができる状態でしょうか」
「精神的に落ち着いてさえおれば、まあ大丈夫だろうと」
「なら、彼女にも事情を訊かねばなりませんね」
伊佐夫が云っていた首藤夫妻の「悪巧み」とは、果たして何だったのか。今回の事件と何らかの関係があるのかどうかは謎だけれど、それは私としても大いに気になるところであった。
野口医師が茅子の手帳をポケットに戻すと、玄児は「さて、それじゃあ」と云って医師と征順の顔を順番に見やり、
「とにかくまず、父のところへ。先生と叔父さんも同行してくれますね」
「ふむ。確かに、ここはもう……」
「分ったよ、玄児君。一緒に行こう」
「では。――中也君、君はここに残っていてくれるかい。いいね」
「あ、ええ。それは構いませんが」
私が答えると、玄児はそこでふと思いついたように踵を返し、ソファのそばへと戻っていった。そうしてテーブルに置いてあった例の品々の中から、黄色いマッチ箱を選んで取り上げる。はて、あのマッチをどうするつもりなのか。私が意味を計りあぐねていると――。
「市朗」
相変わらず毛布にくるまって身を縮めている少年に向かって、玄児は云った。
「悪いが、お前ももう少しここで待っていてくれ」
「…………」
「怖がることはない。ただし、今ここで耳に挟んだことは絶対に、誰にも喋っちゃいけないぜ。ゆうべ見たあの人骨のこともだ。さもないと、君のみの安全は約束しかねる。分ったな」
「お、おれ」
哀れなほどに怯えきった気色で、市朗はぶるぶると首を振り動かした。
「おれ何も、聞いてませんから。おれ、何も……」
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[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字]……何だろう、この違和感は。このいくつもの違和感は。このいくつもの、到るところに散らばっている違和感は。[#ここで太字終わり]
自問の繰り返しの果てに、彼[#「彼」に傍点]はようやく気づきつつある。
さまざまな場面の、さまざまな出来事の、さまざまな言葉の……どこか[#「どこか」に傍点]が違っているわけではないのだということに。
[#ここから太字]……すべてが[#「すべてが」に傍点]。
すべてがもしかしたら、違う[#「違う」に傍点]のか。違っている[#「違っている」に傍点]のか。だとしたら、ああ、いったい僕[#「僕」に傍点]は……。[#ここで太字終わり]
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
三人がサロンを出ていくと、私は重い足取りで元のソファに戻った。市朗はすっかり怯えきって、伏せた顔をほとんど毛布にうずめてしまっている。そんな彼にこちらから話しかける言葉も見つからず、|不味《まず》いばかりの煙草に火を点ける。
外では風がいよいよ強く、騒がしくなってきていた。惑乱する私の心をよりいっそう吹き乱そうとするかのように。荒波に翻弄される難破船さながらの心地で、それでもどうにか冷静さを取り戻して考えを整理し直そうと努めるが、なかなか思うようにはいかない。
時刻は午後三時を十五分ほど回っている。
自分の腕時計でそれを確かめたところで、そう云えば――と思い出したのは、美鳥と美魚の母、美惟のことだった。
あのような混迷状態に陥ってからも、毎日決まった頃合になると〈赤の広間〉に赴き、例の見えないオルガン≠演奏するのだという彼女。三時過ぎと云えばまさにその頃合だけれど、彼女は今日も広間に来ているのだろうか。それとも、双子があんなことになってしまって、いつものように迎えにいけないから来られずにいるのか。
昨日のこの時間、彼女たちとともに〈赤の広間〉に入って目の当たりにしたあの異様な光景が、
――お母さまはどんな曲をお作りになったのかしらね。
やおら脳裡に蘇ってくる。そして――。
――お母さまはどんな曲を弾いていらっしゃるのかしらね。
幻の楽器の幻の鍵盤に広げた美惟の白い指が奏で出す、無音の調べ……あれはそう、「虚像の|遁走曲《フーガ》」。誰にも聞こえるはずのない、どこにも存在するはずのないその楽曲が、何故かしら今、形あるものとして私の内に流れはじめるのだった。
文字どおり虚空から湧き出してきたような、物哀しくも荘厳な旋律。若干の戸惑いを覚えつつも、私は緩く瞼を閉じてそれに身を委ねる。
――ねえ、中也さま。
――ねえ、中也さま。
幻の旋律に重なって、硝子細工の鈴を転がすような双子の声が響く。二人は同時に問いかける。
――犯人はだぁれ?
――犯人はだぁれ?
犯人は……ああ、いったい誰なのか。
誰が蛭山丈男と浦登望和を殺したのか。
緩く瞼を閉じたまま、私はまたぞろその問題について考えはじめる。
美鳥と美魚ではない。玄遙でもなかった。あくまでも「抜け穴の問題」にこだわろうとすれば、またしても推理は「犯人たりうる者は誰もいない」という難儀な壁に突き当たってしまうことになるが。
この事態を、私はどのように受け止めればよいのだろうか。――「抜け穴の問題」にばかり囚われすぎているということなのか。そうなのか。もっと別の観点から事件全体を捉え直さなければいけないのか。あるいは……。
……玄児は?
彼は果たして、何をどんなふうに考えているのだろう。――今さらのようにふと、それが気になっている。
玄児は――彼もまた私と同様、「抜け穴の問題」こそが犯人を突き止める糸口になると見なしていたはずである。しかしながら、私と違って彼は最初から、美鳥と美魚が実は「二人で一人」の結合した肉体を持っていない[#「持っていない」に傍点]という事実を承知していた。だから、鷲のように彼女たちを疑うことはなかった。
私が玄遙=犯人説を云いだした時には虚を衝かれたふうだったけれど、先ほどの〈惑いの檻〉の検証によって、結局はそれも違うと判断せざるをえなくなった。もちろん、鬼丸老が背後から糸を引いているとしたなら、玄遙=犯人説が全否定されるわけではない。だが、鬼丸老が嘘偽りを述べることは決してありえない。この暗黒館における、それは「自明」であり「疑う余地のない命題」なのだという。玄児はそう信じて揺るぎのない構えだし、私にしても、彼がそのように断言する前提≠ノまでうるさい疑問を差し挟もうとは思わない。ならば――。
ならばしかし、玄児はいま誰を疑っているのだろう。これまで誰を疑ってきたのだろう。
改めて考えてみて、かろうじて思い浮かんだ名があった。それは――。
浦登柳士郎、である。
最初に蛭山が殺されて以来、私は幾度か、彼に対して軽い疑惑を抱いたものだった。それほどかたくなに警察への連絡を拒むのは、彼自身が犯人だからなのではないか、と。外部に知られたくはない浦登家の秘密の数々を聞かされた今でも、その疑惑が完全に払拭されたとは云えない。
玄児は――少なくとも現在の事件については――とりたてて強い疑いを柳士郎に向けているふうには見えなかった。むしろ私の疑念を否定する言辞の方が目立ったように思うが、その実、彼は密かに柳士郎を疑いつづけているのではないか。
市朗の目撃証言は、ここではとりあえず措くとしよう。もしも件の曲者が柳士郎だったなら、市朗はまだ一度も柳士郎とは会っていないのだから、「見憶えのある顔」とは云わないはずである。けれどもそれは、その証言の信憑性にそもそも問題があるのだと云うことにして――。
犯人は浦登柳士郎。
そう考えれば、こだわりつづけてきた「抜け穴の問題」に関しても一応、整合性のある説明が成り立つのではないか。
威圧感に満ちた全体の雰囲気とは裏腹に鋭さを欠く、暗黒館当主のあの双眸。白濁したあの眼球。齢五十八にして彼は、老人性の白内障を患っている。玄児によれば、この一年ほどの急な病状の進行で視力が衰えてきて、二、三ヶ月前からは歩行のためにあの杖を使うようになったのだという。
つまりはそれ[#「それ」に傍点]が、問題解決の要なのだとは考えられないだろうか。
第一の事件では、犯人は物置の隠し扉を使って現場に出入りしたと見られるが、この隠し扉はあのとおり、あらかじめ在り処を知っていれば、電球が切れた暗がりの中でも難なく探り当てて開けることができる代物だった。柳士郎にもむろん、それは可能だっただろう。ところが第二の事件では、少しばかり話が違ってくる。
犯人が、現場であるアトリエの生気の扉から外へ出られなくなったのは、酔っ払った伊佐夫が廊下のブロンズ像を倒してしまったことによって生じた突発的な事態だった。そのせいで|急遽《きゅうきょ》、犯人は別の脱出方法を取らねばならなくなり、結果、休憩室の窓を打ち破って〈赤の広間〉に逃げたのだ。その際、もしも暖炉の抜け穴の存在を知っていたならば、犯人はそちらを使って脱出したはずである、と私たちは考えた。従って犯人は、あの抜け穴の存在を知らない人間である、というふうにも。
双子が犯人かもしれないと疑いはじめた時、私はこの考え方をいったん転換した。「知っていたか知らなかったか」という知識の有無[#「知識の有無」に傍点]ではなく、「通れたか通れなかったか」という物理的な可否[#「物理的な可否」に傍点]こそが、実は正しい切り口なのではないか、と。
双子=犯人説が彼女たちの分裂≠ノよって否定され、次に玄遙を犯人と疑った時には、この問題についての切り口は再び知識の有無[#「知識の有無」に傍点]へと転換されたわけだが、それもまた否定されてしまった今――。
犯人はやはり、あの抜け穴の存在を知らなかったのではなく、知っていてなおかつそれを利用できなかったのではないか。またしてもそのような切り換えが必要とされるように思うのである。
暖炉の奥に造られた抜け穴の扉は、物置の隠し扉のように難なく開けられるものではなかった。そのことは、現場を再検証した際、玄児があの扉を開くのに要した手間を思い返してみても分る。懐中電灯を手に炉室の中に潜り込み、ひとしきり扉のロックを外すレバーを探してやっと……という具合だったではないか。つまり、たとえ抜け穴の存在を知っていたとしても、実際にそれを開けるためには、犯人もあのような努力をせねばならなかった、ということになる。何と云っても、あらかじめそこからの脱出を想定していたわけではなく、突発的にその必要が生じてしまった状況だったのだから。
柳士郎にはそういった行動が可能だったか。白内障で相当以上に視力が衰え、邸内の移動にも杖を使わねばならない彼に、暗い炉室の奥にあるレバーを見つけてあの隠し扉を開けることができたが。――できなかったのだ、彼にはそれが。肉体的能力の問題として不可能だったのである。だから……。
と、このように考えて玄児は、密かに柳士郎を疑っているのではないだろうか。
では――と、さらに私は考えを進めてみる。
では何故、柳士郎は蛭山と望和を殺したのか。その動機はいったい何なのか。
柳士郎と云えば、どうしても気に懸かってくるのは十八年前の事件である。玄遙を殺し[#「殺し」に傍点]、卓蔵に罪を着せて自殺させた[#「自殺させた」に傍点]犯人――その正体はいまだに不明だけれど、二人に対する動機からして、最も疑わしいのは柳士郎に他ならないのだ。現在の事件の犯人が柳士郎であるとすると、その動機にはやはり、十八年前の事件を巡る何らかの問題が絡まってくるのだろうか。それとも……。
不意にまた轟いた雷鳴――さっきよりもさらに近づいてきている――に驚いて、私は閉じていた瞼を開いた。向かいのソファの隅では相変わらず市朗が身を縮めていたが、彼も今の雷鳴に驚いたのだろうか、毛布から顔を上げておどおどとあたりを見まわす。その目と私の目とが一瞬、合った。
「あ……」
かすかな声が、少年の唇から洩れた。
「あ、あの……」
何事か云いかけたがすぐに口を噤み、再び顔を伏せてしまう。テーブルの上に落ちたその視線がその時、そこに置かれている例の焦茶色の札入れを捉えて、ふっと止まった。「あ……」とまた、かすかな声が洩れる。
「どうかしたのかい」
私はソファの背凭れから身を剥がし、少年の口許を見据えた。
「その札入れが、何か」
問いかけても、市朗は口を噤んだまま曖昧に首を振り動かすばかりだった。が、それでも視線は札入れから離れずにいる。
気になって、私はテーブルに手を伸ばした。さっき一度確認した品だったけれども、いま一度手に取り、中身を調べてみる。
じっとりと水気を含んだ二つ折りの札入れ。〈十角塔〉から墜落した際に江南青年が落としたのを、慎太が拾ってきて長屋跡の抽斗にしまっておいたという札入れ。中には何枚かの、これも水気を含んだ小額紙幣が……。
正確な枚数を数えてみようと思って、札入れから紙幣を取り出す。するとそこで、紙幣とは別にもう一枚、何かが入っていることに気づいた。それ[#「それ」に傍点]もまた水気を含んでいたものだから、妙な具合に紙幣の間に挟み込まれて貼り付いてしまい、ちょっと調べただけではその存在が分らないような状態になっていたのである。
貼り付いた紙幣からそれ[#「それ」に傍点]を引き剥がしてみて、私は思わず「これは」[#ここから太字](……これは)[#ここで太字終わり]と呟いた。
それ[#「それ」に傍点]は一枚の古びた写真[#ここから太字](この写真は……)[#ここで太字終わり]であった。
[#ここから5字下げ]
6
[#ここで字下げ終わり]
どこか屋外で、季節は冬だろうか[#ここから太字](……冬?)[#ここで太字終わり]、まばらに立った木々を背景に二人の人間が写っている。一人は着物姿の中年女性。もう一人は痩せっぽちの子供――年の頃は十歳そこそこだろう――。子供は女性の横にぴったりと寄り添っていて、見た感じ二人は母子のようである。
そんな古い白黒の写真が[#ここから太字](……どうして)[#ここで太字終わり]、札入れの中には紛れ込んでいたのだった。
「これは」
少し緊張したふうに唇を引き締めているその子供の顔を見つめながら、私はまた呟いた。
「これが、彼の……」
彼の――江南青年の[#ここから太字](……これが)[#ここで太字終わり]、子供の頃の写真だということか[#ここから太字](この子供が?)[#ここで太字終わり]。隣の女性がそして[#ここから太字](……これが)[#ここで太字終わり]、彼の母親だと云うことに[#ここから太字](この女性が?)[#ここで太字終わり]……。
裏面を見てみると、そこには何やら短い覚書が記されている。が、黒いインクで書かれた文字の大半が水で滲んでしまっていて[#ここから太字](滲んでいる?)[#ここで太字終わり]、全部は判読できない[#ここから太字](……インクが?)[#ここで太字終わり]。「……月七日……歳の誕生日に」という[#ここから太字](この文字は、このメモは……)[#ここで太字終わり]、どうにかそれだけが読み取れるが。
[#ここから太字]……ああ、どうしてこんな? と、今さらながらに彼[#「彼」に傍点]は戸惑わざるをえない。耐えがたい数々の違和感を巡って自問せざるをえない。[#ここで太字終わり]
写真を表返して、私はもう一度そこに写った子供の顔に注目する。
意識してみると確かに、これはあの青年の顔である。どこがどうとはすぐに説明できないけれど、確かに彼の面影が見て取れる。
札入れをテーブルに戻し、その上に写真を重ねておきながら、私は市朗の様子を窺った。彼はこちらの動きをちらちらと探っていたようで、札入れの上の写真に目を留めると、その途端にぴくりと肩を震わせた。
「君は知っていたのかな、こんなものがここに入っていたことを」
と、私が尋ねた。市朗は写真に目を向けたまま、黙ってわずかに頷いた。――その時。
室内が蒼白く瞬いた。フランス窓の模様硝子を透して突然、強烈な光が飛び込んできたのである。何拍か遅れて、どろどろと轟音が響き渡る。突然の光は、天を覆う暗雲の狭間に走った稲妻の閃光なのだった。
「――あっ」
市朗の口からまた、声が漏れた。視線はテーブルの上の写真に向けられたままだが、その目には何やら、これまでとは微妙に異なる感情が宿っているように見える。
何だろう、どうしたのだろう、と訝しむ一方でしかし、私の心中でもこの時、ちょっとした動きが生じていた。今の雷光と雷鳴によって、昨日の午後のある記憶[#「ある記憶」に傍点]が不意に首をもたげてきたのだ。
蛭山殺しの現場の検証を終え、玄児とともに〈北館〉に向かう途中、〈東館〉の舞踏室で望和と会った、あのあと。例の衝立障子の後ろに江南青年がいたのを見つけた、あの時――。
壁際の床に座り込み、ぐったりと疲れ切った様子だった彼。顔色は蒼白を通り越して、紙のように白かった。乱れた髪に虚ろな目、尖った顎。額と鼻の頭にはうっすらと汗が滲み、頬には何故か涙の伝ったような跡があった。
あの時、そんな彼の顔を見るうちにふと降りかかった、一瞬の閃きと戸惑い。
これは[#「これは」に傍点]――この顔は[#「この顔は」に傍点]、いつかどこかで見た憶えがある[#「いつかどこかで見た憶えがある」に傍点]。そんな気がした、あの時のあの[#ここから太字](いったいこんな……と激しく揺さぶられたものの、あの時はすぐにまた、彼[#「彼」に傍点]は昏い混沌に沈み込んでしまったのだったが)[#ここで太字終わり]……。
……あの奇妙な既視感は何だったのだろう。どうして私はあの時、あんなふうに感じたのだろう。
[#ここから太字]どうしてこんなことが? という彼[#「彼」に傍点]の戸惑い。耐えがたい違和感を巡る自問。その激しさは今や頂点に達しようとして……。[#ここで太字終わり]
再び雷光が室内を蒼白く瞬かせ、さっきよりも大きな雷鳴がそれに続いた。
市朗の口から、今度は「ああ」という溜息が洩れる。テーブルの写真に向けつづけていた視線を宙に上げ、何だかひどく思い詰めた表情で首を傾げる。
私は――私もまた長い溜息を一つつき、自分と市朗以外に誰もいない室内を、何かの助けを求めるような気分で見まわした。
廊下側の壁に掛けられた黒い額縁、そこに収められた藤沼一成の油彩が目に留まる。影見湖の水が「人魚の血」で染まるという、そんな伝説の実現を予見したかのようなこの絵。「兆し」という題名の付けられたこの風景画……。
[#ここから2字下げ]
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
[#ここで字下げ終わり]
この絵の前で一昨日、双子が|諳《そら》んじてみせた中原中也の詩――「北の海」という作品だったか――が、ざわめく私のここの内を流れ過ぎる。
[#ここから2字下げ]
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
[#ここで字下げ終わり]
――ね、素敵な詩でしょ。
そう云ったのは、あれは美鳥の方だったと思う。
――北の海には人魚はいないのね。ほんとに人魚がいるのは、きっとこの湖だけ。
[#ここから2字下げ]
曇つた北海の空の下、
浪はところどころ齒をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
[#ここで字下げ終わり]
いつ果てるとも知れない……呪い。
「呪い、か」
低く独りごち、それからまた一つ長い溜息をつきながら、私は「兆し」に描かれた赤い湖を眺めつづける。幻想画家、藤沼一成[#ここから太字](……一成。この画家は確か、そう……)[#ここで太字終わり]。彼はたぐい稀な幻視の力≠持った天才であるという。喜んでそう信じたいとは思わないけれども、「兆し」と題された彼のこの作品は、その幻視の力≠ェもたらした未来の予言図だったということなのか。――とすれば。
〈東館〉の応接間に飾られている「緋の祝祭」。あの怪しい抽象画はどうなのだろう。
キャンバスを斜めに分断した|搗色《かちいろ》の太い線――闇に浮かんだ一枚の長細い板=\―を突き抜けるようにして、天から地へと鋭い線が走っていた。蒼白に銀のきらめきが混じった……あるいは激しい稲妻を思わせるような。板≠支える土気色の左腕。はばたく鳥の、わずかに紅く汚れた白い翼。そしてあの、深い闇の奥から蠢き出すようにして広がっていた、不定形の赤=Bある部分は昏く、ある部分は鮮やかに、ある部分は秘めやかに、ある部分は猛々しく……。
ひょっとしてあれも、何らかの未来を予言した絵なのだろうか。もしもそうなのだとしたら、では〈西館〉のあの隠し部屋の、縁だけの額縁≠フ中に描かれていたあの絵も? 「時の罠」と私が密かに命名した、あの不思議な風景もまた……。
思いを巡らせるうちに私は、知らずテーブルから例の懐中時計を取り上げていた[#ここから太字](……この時計)[#ここで太字終わり]。先ほどと同じように鎖を摘み、目の高さまで持ち上げて振子のように揺らしてみる。すると、これも先ほどと同じように、その動きに重なるようにしてあの絵の風景が浮かび上がってきて、白く光った。
私はさらに時計を揺り動かす[#ここから太字](これは確かに、あの……)[#ここで太字終わり]。風景は幾度も白く光りつづけ、光るたびに私の視野をぐらぐらと歪ませつづけ……そうしてやがて。
昏い赤紫色の空間に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた銀の鎖と、その中心に浮かぶ円い時計の文字盤。そんな風景の全体にぴりぴりと細かな亀裂が走りはじめたかと思うと、ひときわ激しい白光とともに弾け散ったのである。
まさにその瞬間、だった。私の頭にある閃き[#「ある閃き」に傍点]が走ったのは。
えっ、という短い叫びが、抑えようもなく口から飛び出していた。いったい何事かと、必要以上に市朗を驚かせ、怯えさせてしまったかもしれない。だが、そんなことに気を廻している余裕など、この時の私にはあるはずもなかったのだった。
「――そうか」
独りごちて、深く強く頷いた。
「そうか。ああ……そういうことだったのか」
私の心はこの時、遙か十八年前の〈ダリアの夜〉に飛んでいた。その年の〈宴〉のあと、玄遙と会うため〈西館〉の第二書斎の前に立った九歳の玄児の目に、自分の目を重ね合わせていた。
中から瀕死の玄遙の喘ぎが聞こえてきて、玄児は扉を開けた。そうして彼が、部屋の奥の薄暗がりに立っているのを目撃した何者かの姿。見たこともないその顔、恐ろしいその形相……ああ、そうだ。そうだったのだ。間違いない。それはきっと……。
十八年前に起こった事件の謎がすべて、いま私には解けたように思う。玄児が目撃した何者かの正体も、人間消失≠フ真相も、そして犯人の名も。
[#ここから5字下げ]
7
[#ここで字下げ終わり]
「あ、あの……」
市朗がそろりと口を開いたのは、私が度の過ぎた興奮を鎮めるために新しい煙草を銜えた時だった。
「あの……中也、さん」
相変わらず毛布にくるまって身を縮めながらも、意を決したように伏せていた顔を上げ、私の方をまっすぐに見た。心なしか、これまでの怯えきった気色が薄らいでいるふうだが。
「何だい、市朗君」
マッチを擦ろうとしていた手を止め、私はできるだけやんわりと問いかけた。とはいえ、内心の興奮をどうしても抑えきれず、声が変にうわずってしまうのが分った。頬が上気しているのも自覚できた。
「何か話す気になったかな」
「あの、おれ……」
云いかけて、市朗はいくらか口ごもり、
「玄児さんっていうあの人、おれ、何だかおっかなくて。だから……」
「怖い人じゃないよ、玄児さんは。悪い人でもない」
と応えた、これはたぶん私の本心なのだろうと思う。市朗は少しほっとしたように面持ちの緊張を緩めて、
「中也さんは、外から来た人?」
「ああ、うん。玄児さんに招かれてきたんだ。あの人は東京の、同じ大学の先輩でね。それでまあ」
「東京……へえぇ」
市朗の目にわずかながら、この年頃の男の子らしい光が浮かんだように見えた。好奇心と|憧憬《しょうけい》。東京というこの国随一の|大都市《まち》の名は、地方で生まれ育った少年たちの胸に、自動的にそういった想いを抱かせるものなのだろう。
「あの……中也、さん」
とまた市朗が云った。
「それ……写真に写ってる人」
「写真? この写真かい」
札入れの上に置いた例の写真を示すと、市朗は何やら心許なげに頷きながら、
「その人、誰なんですか」
「この男の子の方? それとも女の人?」
「――男の子」
「これはね、これは江南という人で、君が村からやって来た日の夕方に、塔の上から落ちたんだ。けれども一命を取り留めて、その代わり記憶をなくしてしまって」
「お屋敷の中にいるんですか、今も」
「そうだよ」
市朗が何を考えてそんなことを訊くのか測りかねながらも、私はなるべく分りやすい言葉で質問に答えてやった。
「この札入れはね、塔から墜落した時に彼が落としたのを、慎太君が見つけて拾ってきたものらしいんだ。中に入っていたその写真は、彼の子供時代のものなんだね。横にいるのはお母さんかな」
私はマッチを擦り、煙草に火を点ける。立ち昇る紫煙の向こうで、市朗は何か云いたげに唇を震わせたが、結局は黙って再び顔を伏せてしまう。
「どうしたんだい」
と、私はすかさず尋ねた。同じ「外から来た人」だということで彼は、多少なりとも私には気を許そうとしている。そう思えたからである。
「云いたいことがあったら、ここで云ってしまえばいいよ。玄児さんには私が伝えてあげるから」
「うん……でも」
「その写真が何か気になるのかい。それとも」
と、そこで私は先ほどの彼と玄児のやり取りを思い出し、
「玄児さんに聞かれて、君が答えようとした問題があったね。あの話かな」
「…………」
「森の中に車が突っこんでいるのを発見して、それで? そこで何かを見たとか見ないとか、そんな話だったよね」
何秒かの沈黙が続き、私のこのような訊き方では埒が明かないのだろうかと諦めかけた時、やっと少年の唇が動いた。
「おれ、見たんです」
今にも泣きついてきそうなかぼそい声で、市朗は云った。
「見たんです、あの時おれ」
「何を見たんだい」
「…………」
しばしまた答えあぐねた末、市朗はぎゅっと目を瞑って呟き落とした。
「――死体」
「ええっ」
「死体、です。死体を見たんです、おれ」
今度は私の方が絶句する番であった[#ここから太字](……あの死体)[#ここで太字終わり]。
死体を見た? いったいどこで、誰の死体を見たというのか[#ここから太字](……そう。市朗はあの時、それを見たのだ。しかしどうして、あんな死体[#「あんな死体」に傍点]があそこに)[#ここで太字終わり]。
「黒い車が森の木にぶつかって壊れていて、中には誰も乗ってなくて、後ろの座席には毛布があったけど、そこにも誰もいなくって……」
[#ここから太字]毛布が……と、彼[#「彼」に傍点]は市朗の言葉を反芻する。毛布が……違う[#「違う」に傍点]。そんなものはどこにも……。[#ここで太字終わり]
「……車のそばであの黄色いマッチ箱を拾って、そのあと気づいたんです。森の中の、少し離れたところに死体が。あの男の人の死体が」
「男の死体?」
私は勢い込んで訊いた。
「どんな男の」
「中年の、太った男の人」
瞑っていた目を開けて宙を見据えながら、市朗は抑揚の乏しい声で答えた[#ここから太字](……違う[#「違う」に傍点])[#ここで太字終わり]。
「手足が折れ曲がってて、頭が割れていっぱい血が出てて。――凄く怖い、苦しそうな顔をしてた」
[#ここから太字]違うのだ[#「違うのだ」に傍点]、と今や彼[#「彼」に傍点]は確信する。あんな死体は、やはりどこにも……。[#ここで太字終わり]
「ぱっと見ておれ、車の事故で死んだんだと思ったんです。あの車を運転してた人が、衝突の拍子に窓を破って飛び出して、それで……って」
おぞましい記憶を払いのけようとするように、市朗は大きく強く頭を振り動かす。
「でも、違ったんです」
[#ここから太字]……違う。[#ここで太字終わり]
「違った?」
恐ろしい予感に苛まれつつ、私は首を捻った。
「それはどういう」
「事故で死んだんじゃなかったんです[#「事故で死んだんじゃなかったんです」に傍点]、あの人は[#「あの人は」に傍点]。だって……」
[#ここから太字]……違うのだ。[#ここで太字終わり]
「だって、何?」
「あの死体の首には[#「あの死体の首には」に傍点]、茶色いズボンのベルトが巻きついていて[#「茶色いズボンのベルトが巻きついていて」に傍点]……それが喉に深く喰い込んでいて[#「それが喉に深く喰い込んでいて」に傍点]。だから[#「だから」に傍点]、誰かがあのベルトで首を絞めたんです[#「誰かがあのベルトで首を絞めたんです」に傍点]」
……違っているのだ。
首を、ベルトで? ああ……そんな。
「誰かが首を絞めて[#「誰かが首を絞めて」に傍点]、あの男の人を殺したんです[#「あの男の人を殺したんです」に傍点]」
[#ここから太字]違うのだ、違っているのだ――と、彼[#「彼」に傍点]はここに至ってようやく完全な確信を得るのだった。
どこかが[#「どこかが」に傍点]違っているというわけでは、やはりないのだ。すべてが[#「すべてが」に傍点]違う。すべてが[#「すべてが」に傍点]違っていて、それでこんな……。[#ここで太字終わり]
[#ここから5字下げ]
8
[#ここで字下げ終わり]
それから程なくして、玄児が野口医師とともにサロンに戻ってきた。時刻は四時を回っていた。征順の姿は見えなかったが、あるいは清のことが心配で、その後の様子を見にでもいったのだろうか。
「柳士郎には会えなかったよ」
入ってくるなり、玄児は私に告げた。「父」とは呼ばず「柳士郎」と名前を呼び捨てたところに、彼の現在の心中が端的に表われている。
「〈西館〉の居間に閉じこもって、鍵を掛けて出てこないんだ。折り入って話があるからといくら呼びかけても、中に入れてくれない。叔父さんと先生も一緒に説得してくれたんだが」
そう云って玄児が野口医師の方を振り返ると、医師は憮然とした面持ちで、
「まるで取り付く島がありませんでしたな」
「美鳥と美魚の事故のことを報告して、電話が使えるようになったから病院に連絡をした、ついては警察にも事件の通報をするべきだろうと扉越しに訴えたんだがね、これもまともに取り合ってくれない。それでも繰り返し訴えつづけたところ、やっと返ってきたのは『好きにするがいい』という言葉だったよ。何と云うんだろう。やけに投げやりな、まるで思考停止状態にでも陥ったような……あんな反応を彼が示すのは、俺が憶えている限りこれが初めてのことじゃないかな」
「そうですな」
物思わしげに眉を寄せながら、野口医師が相槌を打つ。
「ここしばらく|鬱《うつ》の傾向が強かったとはいえ、私の知る限りでも、柳士郎氏のあのような態度は……」
「それで、どうしたのですか」
ソファから立ち上がり、私はこちらに向かってくる玄児に問いかけた。
「警察への連絡は」
「したさ」
短く答えてから、玄児はひどく憂鬱そうに蒼白い頬を撫でた。
「とにかく捜査員を急行させるとのことだ。途中の道がどうしても通れないような状態であれば、何か手立てを考えると」
「事件の詳細も話したのですか」
「いや。変死者が二名出て、他に怪我人もいるとしか、まだ」
玄児は微妙に口許を引き攣らせつつ、
「警官たちが来ても、この家の秘密をすべて晒してしまうわけにはいかない。浦登家の一員として、俺もやはりそう思うわけさ。彼らの到着までに、何を明かして何を隠し通すのか、そのあたりの方針をきちんと決めておかねばならない。当然、君にも協力してもらうことに」
「来るのですね、警察が」
と、私は玄児の言葉を遮った。
「とにかく来るわけですね」
「遅かれ早かれ、ね」
憂鬱そうにまた頬を撫でながらそう応じると、玄児は腰に両手を当ててぐいと背筋を伸ばし、
「ところで中也君、重大な事実を確認することができたよ」
と告げた。
「まず茅子さんの手帳にあった『永風会』だが、電話してみたらやっぱり病院だった。福岡永風会病院の系列でね、所在地は|大牟田《おおむた》だ」
「大牟田……」
「熊本との県境間近にある町さ。車で行って半日くらいの距離かな」
「――はあ」
「それからついでに、例のマッチの店――『喫茶シマダ』にも電話してみてね、そのあと茅子さんとも話をしてきた。強く問いただすまでもなく、意外にすんなりと喋ってくれたよ。首藤のおじさんと彼女が何を企んでいたのか、どんな『悪巧み』をしていたのか、それもおおよそ分ってきたが」
「首藤――利吉さんは、どんな体型の人だったのでしょうか」
と、そんな質問を私がいきなり差し挟んだので、玄児はいささか面喰らったような顔で、
「何? どうしてまた」
「太った人ですか、痩せた人ですか」
「それは……どちらかと云うと太っているが。はなはだしい肥満ではないけれども小太りで、特に顔立ちは体格以上にでっぷりした感じだな」
「ああ……それじゃあ」
私はソファで身を縮めている市朗に視線を移し、
「市朗君が三日前――|一昨昨日《さきおととい》の夕刻に、たぶんその首藤さんを見ているんですよ」
玄児は「ん?」と首を傾げる。
「そいつはいったい」
「ここへ来る途中の道で、大破した事故車の近くで……彼は死体を見たと云うんです」
「死体だって?」
「そうです。太った中年の男性[#「太った中年の男性」に傍点]の死体を」
「――はあん」
おどおどとこちらの様子を窺っていた市朗を、玄児は鋭くねめつける。それからすぐに私の方へ目を戻して、
「それが首藤のおじさんのものだと?」
「黒い五人乗りの乗用車。その運転手は首藤さんであった可能性が高いわけでしょう」
「――ああ」
「それだけじゃないんです、玄児さん。その死体の首にはベルトが巻きついていたらしいんです。思うに、恐らく首藤さん自身のズボンのベルトが。喉に深く喰い込むようにして」
「何ぃ」
玄児は小さく叫んだ。彼の後ろにいた野口医師の口からも、ほとんど同時に「何ですと」という驚きの声が零れる。
「おじさんは三日前に殺されていた[#「おじさんは三日前に殺されていた」に傍点]、と?」
「そういうことです」
「――なるほど」
一転して低く押し殺した声音で、玄児は呟き落とす。
「となると、こいつはいよいよ[#「いよいよ」に傍点]、だな」
何が「いよいよ」なのか。私にはなかなか話が見えてはこなかった。それ以前にまず、彼が確認してきたという「重大な事実」が何なのかもよく分らない。――が。
私は私で先刻からずっと、こちらの話[#「こちらの話」に傍点]を切り出すタイミングを測っていたのである。野口医師はともかく、玄児には一刻も早くこのこと[#「このこと」に傍点]を伝えたい、伝えねばならない――と、心の内では加速度的に、強い焦燥感めいた感情が膨らんできていた。
「それは?」
と、そこで玄児が目を留めて指さしたのは、テーブルの上に出ていた例の写真だった。
「札入れの中に紛れ込んでいたんですよ。玄児さんたちが出ていったあと、私が見つけて」
「ふうん。そりゃあ気づかなかったな」
玄児はつかりとテーブルに歩み寄り、写真を取り上げる。毛布にくるまった市朗が、気遣わしげな眼差しでそれを見守っている。
写真に視線を落とすなり、玄児は「ははあ」と唸った。何やら大いに納得のいった顔で市朗の方を見やり、かと思うと、すぐさま踵を返して野口医師のそばに向かう。
「先生、これを見ていただけますか」
そう云って示された写真を、医師はみずからの手にとって覗き込んだ。
「これは……ほほう」
鼈甲縁の眼鏡の向こうで、小さな目が幾度もしばたたかれた。せわしなく顎鬚を撫で下ろしていた手の動きが、ぴたと止まった。
玄児が医師に顔を寄せ、何事か耳打ちをする。医師は太い首をしきりに捻りながらそれに応えたが、私の立つ場所からでは全部は聞き取れないような、ぼそぼそとした小声だった。
「これ……この女性の……」
言葉の端々が、それでも耳に入ってきた。
「……間違いない、とは思いますが……私もその、少々……」
気にはなったものの、二人のそばまで行って話に加わろうとはしなかった。私としてはやはり、こちらの話[#「こちらの話」に傍点]をどのように玄児に伝えるかで頭がいっぱいだったのである。
「ただちに動くべきなんでしょうかな」
そんな医師の声が聞こえた。見るとしかし、彼の赤ら顔には強い戸惑いと迷いの色がありありと浮かんでいる。
「ここは思いきって……しかし、ううむ、それにしても……」
「何か手は打った方がいいでしょうね」
玄児が云うのが聞こえた。
「このまま放っておくわけには……」
「……そうですな」
ためらいがちに頷く医師の手から写真を取り戻すと、玄児は再びテーブルに歩み寄ってくる。私に無言の一瞥をくれてから、ソファの市朗に向かって、
「慎太はもう、ここにはやって来たか」
と尋ねた。
「――いえ」
かぶりを振ると、市朗は玄児の手にある写真にちらちらと視線を飛ばしながら、「あの、おれ」と口を開いた。だが、玄児はその先を続けさせず、
「そのうちここに来るはずだから」
と云った。
「そうしたら慎太と一緒に、しのぶさんの部屋へ行けばいい。ここよりは少しなりとも落ち着くだろうし、それに……」
「玄児さん」
と、そこで私が、声を高くして呼びかけた。
もうこれ以上、待ってはいられない。悠長にタイミングを測っている場合ではない。――膨らんできた焦燥が、どうにも抑えきれずに小さな爆発を起こしたのだった。
「玄児さん、お願いがあるのですが」
「うん?」
玄児は訝しげに眉をひそめて私を見、
「どうした、中也君。いきなりまた、何を」
「今からすぐに――」
私は真剣に訴えた。
「一緒に〈西館〉へ行ってくれませんか」
「〈西館〉?」
玄児は慰撫か時化にまた眉をひそめる。
「君が柳士郎を説得しようとでも云うのかな」
「いえ、そういうことじゃなくて――」
自分の内に残っている気力のすべてを込めて、私は玄児の顔を見据えた。
「例の〈開かずの間〉へ、もう一度。そこで確かめなければならないことが」
「確かめる? ――ふん。また何か親切を思いついたのかい」
「今度は間違いないはずです」
私は怯むことなく云いきった。
「十八年前の事件についてです。私にはすべての謎が解けたと思うんです。あの事件の真犯人が誰だったのかも、確信をもって云うことができます」
「何? どうしてそんな……」
玄児はたいそう驚いたふうに目を剥いて、
「本当か、中也君」
「さほど時間はかからないと思います。ですから玄児さん、お願いです。今からすぐに〈西館〉へ、あの〈開かずの間〉へ……」
[#ここから5字下げ]
9
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから太字]たとえばそれは――と、彼[#「彼」に傍点]は振り返る。到るところに散らばっている違和感の数々を、いま改めて。
たとえばそれは、そう、天候のことだ。
たとえばそれは、色や形のことでもある。名前や顔立ちのことでもあるし、映画やTVのニュースのことでもある。火山の噴火や地震のことでもあるし、風変わりな建築家や著名な探偵小説作家のことでもあり……。
たとえばそれは衣服のことであり、たとえばそれは時計のことでもある。車や煙草やマッチのことでもあるし、札入れや立札や看板のことでもある。画家や署名本や流感のことでもあるし、富士の初冠雪や大分沖の貨物船事故や山形の済生館本館のことでもあり……。
たとえばそれはイニシャルのことであり、たとえばそれは履物や毛布のことでもある。湖畔の建物とその瓦解のことでもあるし、扉の鍵やノッカーや肉体の特徴のことでもある。死んだ母≠フ記憶のことでもあるし、重なり合ういくつもの炎のイメージのことでもあり……。
……そうして彼[#「彼」に傍点]の確信は一つの理解に達し、その理解はこれまで彼が見つづけてきた世界≠フ意味を一変させるのだった。
これ[#「これ」に傍点]は、僕[#「僕」に傍点]が所属する一九九一年九月の現実≠ナはない。これ[#「これ」に傍点]は――ここにある現在≠ヘ僕の[#「僕の」に傍点]現在≠ナはなく、彼らの[#「彼らの」に傍点]現在≠ネのだ。[#ここで太字終わり]
[#ここから5字下げ]
10[#「10」は全角一文字]
[#ここで字下げ終わり]
〈西館〉の第二書斎、その黒い禁断の扉≠フ鍵孔に玄児が合鍵を差し込んだ時、ひときわ激しい雷鳴が暗黒の館を打ち震わせた。どこかすぐ近くに落雷があったような激しさであった。雨の音はほとんど聞こえてこないが、風の方は昨日以上に強く、この古い館を時空の彼方へ吹き飛ばしてしまおうとでもいうかのような唸り声を上げている。
大仰な鈍い軋みを響かせて、鍵がまわる。
私は薄暗い廊下の中ほどに立ち、玄児が扉を引き開ける動きを見守る。
ここ[#「ここ」に傍点]から――。
そう。ここから――この同じ位置から、十八年前の事件の夜、九歳の玄児は部屋の中に立つ何者かの姿を目撃したのだ。
背後の壁に紛れてしまいそうな黒い服を着た何者か。ぼさぼさに髪が乱れた何者か。玄児が知らない顔の何者か。恐ろしい形相でこちらを睨みつけていた何者か……。
「どうした、中也君。入ってこないのか」
玄児の声が飛んできた。
真っ暗だった室内が、彼が火を灯しはじめた蝋燭の光で仄かに明るくなってきている。速鳴る心臓の鼓動を意識しつつ、私は「すぐに」と答えて足を踏み出す。
私たちは二人だけだった。
市朗は玄児の指図どおりあの場に残り、慎太が来るのを待っているはずである。野口医師は私たちと一緒にサロンを出たが、廊下を反対方向へと去っていった。彼がどこへ向かったのか気にはなったが、それを玄児に尋ねる心の余裕は、私にはなかった。とにかく玄児をここに連れてきて、十八年前の事件の謎を解明しなければ――と、我れながら異常とも思えるほどに気持ちが昂ぶりきっていたのだった。
「さて、何をどう解き明かしてくれるのかな」
いくつかの燭台に明りを灯しおえたところで、玄児が問うた。軽い口振りを装ってはいるけれど、こちらを見つめる眼差しの鋭さで、内心の重みが窺い知れる。
「私は――」
答えながら、私はズボンのポケットを探った。中には、サロンのテーブルから拝借してきた例の懐中時計があった。それを引っ張り出し、玄児に示す。
「この時計のことが、今朝からずっと気に懸かっていたのです」
「ふん、それか」
玄児はいささかも表情を変えず、
「江南君の持ち物であるその時計が、どうして十八年前の事件と関わってくる」
私はソフト帽を目深に被り直すと、時計の鎖を摘んで目の前に持ち上げた。
「古風な円い文字盤に並んだローマ数字、六時半を指して止まった針。気に懸かっていたのはこれそのもの[#「これそのもの」に傍点]ではなくて、これと同じあの――」
そう云って、視線を完全の時計から部屋の南側の壁へと移す。
「あれです。あそこにあるあの絵の中の、あの時計のことです」
隣の隠し部屋に通じるどんでん返しの扉は、今朝私たちがこの部屋を立ち去った時のまま、藤沼一成の例の油彩が描かれた面をこちら側に向けた状態である。その絵に浮かぶ、あの巨大な懐中時計。いま私の手にあるこの時計と同じ時刻を二本の針が指し示した、あの……。
「もっとも、あそこに描かれたあの時計自体の意味を、ここでどうこう考えようというわけでもありません。あれはあれで非常に暗示的な……まるで画家が一つの未来を予見して描いたかのようなものだとも受け取れますが、それはさておくとして――」
額縁の中の不思議な風景に視線を注ぎながら、私は云った。
「核心的な問題は、あの時計が描かれたあの絵全体[#「あの絵全体」に傍点]にこそあるのではないか。私はそう思うのです」
「はて――」
玄児は腕組みをし、苛立たしげに唇を尖らせた。
「君が何を云いたいのか、俺にはさっぱり見えてこないが」
「そうですか。――じゃあ」
私は大きく深呼吸をしながら室内を見まわし、窓際に据えられた書斎机に目を留めた。
あの中になら、きっと何か使えるもの[#「使えるもの」に傍点]があるだろう。事前に用意してくる暇がなかったのだから、今この部屋で調達するしかない。
「何だ。今度はその机がどうかしたとでも」
玄児が突っかかってくるのを無視して、私は書斎机の前まで足を進め、抽斗を開けて中身を調べはじめる。思惑どおり、使えそうな代物はすぐに見つかった。一本の古びたペーパーナイフである。
細工の入った葡萄茶色の木製の柄に、刃の部分は金属製だが、例によって例のごとく黒い艶消しの塗装が施されている。相当な年代物で、切れ味にはかなり難がありそうだが、これでも充分に目的は達せられるだろう。
「元々その額縁は――」
と、私は再び南側の壁に視線を投げかけた。
「今はどんでん返しの向こう側に隠れているあの額縁と同様、壁面に直接造り付けられた縁だけの額縁≠セったという話でしたね。そしてそれは、ダリア夫人や玄遙氏が彼らの切望する〈不死性〉の第三段階の達成を疑似体験するための装置だったのだ、という」
「ああ。確かにそう話したが」
「けれども玄児さん、それは本当にそうだったのでしょうか。それだけ[#「それだけ」に傍点]だったのでしょうか」
「それだけ[#「それだけ」に傍点]?」
玄児は仏頂面で首を捻った。
「何を云おうとしてるんだ、君は」
私は懐中時計をポケットに戻し、代わりに抽斗にあったペーパーナイフを左手で取り上げて、南側の壁に向かっていった。そうして額縁の内側に描かれた藤沼一成の絵の前に立つと、右手にナイフを持ち替え、握り直す。
「この絵がどのくらい価値のある芸術作品なのか、素人の私には分らないので。――乱暴な真似をしてしまいますが、どうか目を瞑ってください」
「何を……」と口を開く玄児を後目に、私はナイフを絵に向かって突き出した。画面の中央下寄りに描かれた時計や蜘蛛の巣状に広がった鎖は避けて、暗い赤紫色に塗られた背景の一部に狙いを定め、ナイフの切っ先を押し当てる。
「何をする、中也君」
「見ていてください、玄児さん」
命じて、私はナイフを上から下へ、強い力を込めて動かす。乾いた絵の具が切り裂かれ、刃先が移動するにつれて、きりきりと甲高い音が鳴り響いた。異様な――と云うよりも、誰しもに生理的な不快感を催させる、ある種お馴染みの摩擦音だった。
「――この音は」
自問するように呟く玄児の声は、小刻みに震えていた。
「思ったとおりです」
と云って、私はナイフの操り方を変えた。
今の動きによって付けられた縦方向の傷――絵の具が削られてできた細い溝の内側に刃の先を差し込み、そこから横方向に力を加えて、まわりの絵の具を削り落としていく。ひとしきりその作業を続けた結果、やがて縦横十センチ余りの面から、塗られていた絵の具のおおかたが剥がれ落ちた。
玄児から聞いた話のとおりだとすれば、絵の具の下には黒い壁板――正確に云うとどんでん返しの扉の表板――があるはずだった。
だがしかし、そこにそれはなかった[#「そこにそれはなかった」に傍点]。
あったのは――。
「――鏡[#「鏡」に傍点]?」
玄児は愕然と目を見張った。
「それは鏡なのか[#「それは鏡なのか」に傍点]」
「そうですね」
削り落としきれなかった絵の具がこびりついて汚れている、ナイフで傷も付いてしまっているが、現われたのは紛れもなく、そこに貼られた大きな鏡の一部分[#「そこに貼られた大きな鏡の一部分」に傍点]であった。
「どんでん返しの片側――最初こちらを向いていたあの面には、玄児さんが云ったとおり姿を映さない姿見≠ニして、あのような縁だけの額縁≠ェ造り付けられています。けれども、もう片側――つまりこの面[#「この面」に傍点]に造り付けられた額縁の内側には、このとおり本物の姿見が貼り付けられていたのです。この絵はその鏡の上に[#「この絵はその鏡の上に」に傍点]、その存在を覆い隠すようにして描かれていた[#「その存在を覆い隠すようにして描かれていた」に傍点]」
「そんな……」
「この屋敷には決定的な欠落[#「決定的な欠落」に傍点]がある――と、玄児さんは私に説明してくれましたね。それはすなわち、最近になって〈東館〉の洗面所に取り付けられたものは例外として、屋敷内にただの一枚も鏡がないことである、と」
「…………」
「それが[#「それが」に傍点]、実はあったのです[#「実はあったのです」に傍点]。恐らくは最初に[#「恐らくは最初に」に傍点]〈西館[#「西館」に傍点]〉が建てられた当時から[#「が建てられた当時から」に傍点]、この額縁の内側に貼られたこの[#「この額縁の内側に貼られたこの」に傍点]、たった一枚だけが[#「たった一枚だけが」に傍点]」
「たった一枚だけ……ああ」
玄児は|瞠目《どうもく》し、喘ぐように云った。
「しかし何故だ。どうしてこんなところに、こんな一枚が」
「思うに――」
私はペーパーナイフをそっと床に置きながら、
「思うにこれは、〈ダリアの鏡〉とでもいうような存在だったんじゃないでしょうか」
「ダリアの、鏡?」
「そうです」
と、私は躊躇なく頷いた。
「今この裏側にあるあの額縁の方は、玄児さんの推測どおり、姿を映さない姿見≠ニいう疑似体験装置として設けられたもの。それに間違いはないと思います。――ですが、どうでしょうか。もしも真実、ただの一枚も屋敷内に鏡が存在しなかったなら、困ったことになりませんか。〈不死性〉の第三段階が、仮にダリア夫人なり玄遙なりに置いて成就されたとして、その際にはその事実を確かめるもの、すなわち鏡が必要です。鏡が一枚もなければ[#「鏡が一枚もなければ」に傍点]、本当に自分の姿が鏡に映らなくなっているかどうかを確かめるすべもない[#「本当に自分の姿が鏡に映らなくなっているかどうかを確かめるすべもない」に傍点]」
「――そういうことになるな」
「これはそのために、この暗黒館の中にたった一枚だけ置かれた鏡だったのですよ。置き場所が他ならぬダリア夫人の隠し部屋だったということがまた、この鏡の存在理由をそのように暗示しているとは思いませんか」
[#ここから5字下げ]
11
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「これでもう分ったでしょう」
絵の前から離れて部屋の中央に立ち位置を移しながら、私は云った。玄児は瞠目したまま微動だにせず、削り落とされた絵の具の下に現われた〈ダリアの鏡〉の一部分を見つめつづけている。
「十八年前の夜、玄児さんがこの部屋を訪れた時、実はこの秘密の回転扉≠ヘ、この鏡の面を廊下側の入口に向けて、壁面に対してほぼ直角に開ききった状態だったのです。扉はばね[#「ばね」に傍点]仕掛けか何かで、角度の狭まった方へ自動的に閉まる構造ですから、本来ならば、そういった状態で静止しているはずがない。ところが、その時はそこに――」
と、私は腕を差し上げ、入口から見て前方少し右手――南側の壁際から一メートル余り離れたあたりの床を指さした。
「そのあたりに、息も絶え絶えの玄遙氏が倒れ伏していました。右腕を壁に向かって突き出し、顔面を入口の方に捩り曲げた不自然な姿勢で、でしたね。だからつまり、本来なら自動的に閉まるはずだった隠し扉は、ちょうど玄遙氏のその、突き出された右腕に引っかかって止まってしまっていたわけです。そんなところへ玄児さんがやってきて、何も知らずに入口の扉を開けた」
「――じゃあ」
玄児の蒼白い頬が痙攣のように震えた。
「その時、俺が見たのは……」
「鏡に映った玄児さん自身の姿だった[#「鏡に映った玄児さん自身の姿だった」に傍点]、ということです」
何とも複雑な感慨に浸りながら、私は云った。
「玄遙氏が倒れているのに驚いて、扉を開けるや否や、玄児さんは思わず廊下の中ほどまで飛び退いてしまった。この時、この部屋では燭台の蝋燭が何本か灯っていて、こんなふうに薄明るかったわけですね。暗い廊下からまっすぐに室内を見ると、入口と奥の壁との間、中央やや手前に大きな鏡が立っている格好で、これがちょうど玄児さんの姿を映すことになりました。玄児さんの目からは、自分から鏡までの距離と同じ分だけ鏡の向こう側に離れた場所、つまりあのあたり――」
と、私は部屋の南西の隅を指さして、
「あそこに、何者かがこちらを向いて立っているように見えます。廊下もこの部屋のあの場所も、後ろは窓も調度品もない黒い壁ですから、違和感を与えることはまったくなかった。鏡を取り囲んだ額縁も同様に、まわりの黒に紛れてしまって目に入らなかったのです」
「しかしね、中也君」
ゆるりとかぶりを振りながら、玄児が云った。
「それでもしかし、気がついたはずじゃないのか。室内にそんな形で鏡があることにはすぐに気づかなかったにせよ、そこに映った人影が自分自身の姿だということくらい」
「気づかなかったのですよ[#「気づかなかったのですよ」に傍点]、それが[#「それが」に傍点]」
「莫迦な。顔を見れば嫌でも分ったはずだろう。なのに、どうして俺はそんな、知らない顔の誰かがいた[#「知らない顔の誰かがいた」に傍点]などと云ったんだ。たとえ薄暗くてぼんやりとしか見えなかったのだとしても、そんな……」
「気づかなかったのですよ、それが」
と、私は同じ答えを繰り返した。
「気づかなかった――と云うよりも、気づけなかったのですね[#「気づけなかったのですね」に傍点]、当時の玄児さんには[#「当時の玄児さんには」に傍点]」
「気づけなかった?」
「そう。気づくことができなかったのです。――無理もありません。だってね、当時の玄児さんはきっと[#「当時の玄児さんはきっと」に傍点]、この世に[#「この世に」に傍点]『鏡[#「鏡」に傍点]』というものがあることを知らなかったのでしょうから[#「というものがあることを知らなかったのでしょうから」に傍点]。人や物の姿を映す『鏡』という装置の概念自体が、そもそも当時の玄児さんの頭の中には存在しなかったのでしょうから」
一秒とかからず、玄児は私の言葉の意味を解したようだった。「あぅ」という、叫びとも呻きともつかぬ声を洩らしたかと思うと、放心したような視線をしばし宙に彷徨わせ、やがて「そうか」と呟いて長く深い息を吐き落とす。――私は続けた。
「生まれて間もなく玄児さんは、〈十角塔〉の最上階のあの座敷牢に閉じ込められ、九年もの間ずっとその中だけで育てられてきたのでしたね。母屋の棟々とまったく同様に、あの塔の中にも、鏡はもちろん姿が映り込むような硝子窓の類はいっさいありません。窓から影見湖の湖面が見えることもない。使われた食器や何かもきっと同じでしょう。
乳母の役割を担わされた諸井静がわざわざ教えでもしない限り、そんな場所に閉じ込められた子供には、この世に自分の姿が映る鏡という道具があることなど知りようがなかったのです。たとえば湯呑みの水に物が映り込むのを目にするくらいの経験はあったかもしれませんが、それが鏡という概念に結びついて知識に組み込まれることはなかった。そう考えられます。
十八年前、塔から出されてからの一週間についても同じです。鏡やそれに類するもののないこの屋敷の中で、誰かからそのことについて教わる機会もなく……依然として玄児さんは、鏡というものの概念も存在も知らないままでいた。当然ながら[#「当然ながら」に傍点]、鏡に映った自分の顔や姿格好を見る機会など一度もなかったはずです[#「鏡に映った自分の顔や姿格好を見る機会など一度もなかったはずです」に傍点]。だから事件の夜、この部屋のこの鏡に映った自分自身の姿と対峙した時、玄児さんはそこに『知らない顔』の何者かがいると認識するしかなかった。何者かが着ていたという黒い服は、そのとき玄児さん自身が着せられていた黒い服です。ぼさぼさに乱れていたという髪は、その時の玄児さん自身の乱れた髪。渡り廊下を通った際にでも、強風で吹き乱されたのでしょう。恐ろしい形相でこちらを睨みつけていたというのは、その時の玄児さん自身が驚きと恐れに憑かれた表情で鏡に向かっていたものだから、おのずとそのように見えてしまったわけですね」
「――なるほどな」
説明を聞いて納得して、いくらか気を持ち直したのだろう。玄児は幾度も小さく頷きながら、宙に向けていた視線を私の顔に移した。
「その後の人間消失≠ヘ、じゃあ……」
「玄児さんが部屋の中に何者かを目撃した直後、玄遙氏の右腕がびくっ[#「びくっ」に傍点]と動いたのでしたね。玄児さんがそれを認めた瞬間、廊下の奥の〈ダリアの部屋〉の扉が開いて柳士郎氏が出てきた。声をかけられて玄児さんがそちらを振り向いている間に、室内の人影は消えてしまった。
ここで重要なのは、玄遙氏の右腕の動きです。瀕死の彼がその時、最後の力で腕を動かした。どんでん返しの扉が引っかかって止まっていた腕です。それが動いて障害物がなくなり、扉は自動的に閉まることになった。玄児さんの姿を映した鏡は壁の向こう側に消え去り、鏡の貼られていない縁だけの額縁≠フ方がこちら側に現われて扉はロックされる。数秒後に玄児さんが目を戻した時には当然、室内にいた何者かの姿は完全に消え失せていたわけです」
「――そう。それですっかり話が整合するな」
「いみじくも玄児さんは今日未明、この暗黒館には鏡がないという決定的な欠落がある[#「この暗黒館には鏡がないという決定的な欠落がある」に傍点]、と私に語ったのでしたが、まさにそれが、十八年前の事件の謎を解く鍵だったということです。最も決定的な欠落はしかし[#「最も決定的な欠落はしかし」に傍点]、玄児さん[#「玄児さん」に傍点]、当時のあなたの中にこそあったわけですけれど[#「当時のあなたの中にこそあったわけですけれど」に傍点]。鏡そのものですらない。鏡という存在に関する知識の、根本的な欠落……」
閉ざされた黒い鎧戸の隙間で閃光が瞬き、ほぼ同時に物凄い轟音が館を|震撼《しんかん》させた。さっきよりもさらに激しい、それこそ天から怒りの鉄槌を振り下ろされたかのような落雷であった。
私は思わず身を竦めたが、その|刹那《せつな》、どこかから何か、ことっ、と硬い物音が聞こえたような気がした。この部屋の中ではない。そうではなくて、恐らくそれは開けっ放しになっている入口の扉の向こうの、あの廊下の暗がりから……。
……気のせいか。
今の雷鳴の、あまりにも激しい振動によってもたらされた空耳だろう。そう云い聞かせつつ、私は玄児の方に向き直った。
「玄児さんの目撃したものの正体と人間消失≠フ仕組みがこうして分ってしまうと、十八年前の事件の真相もおのずから明らかになってきますね。大筋のところは、今朝この部屋で玄児さんが語った推理で間違いないでしょう。ですが、肝心要の一点において、話は変わってくる。
「肝心要の一点、か。――ふん」
玄児は冷ややかに目を細めた。
「要するにそれは、彼のアリバイの問題[#「彼のアリバイの問題」に傍点]だな」
「そのとおりです」
神妙に頷いて、私は続ける。
「犯行後、本来ならば犯人は、入ってきたのと同じ扉から廊下に出て現場を立ち去るはずでした。けれどもそうしようとしたところで、玄児さん、あなたが鬼丸老に案内されて、北隣の居間の前までやって来ていることに気づいた。壁越しに二人の声が聞こえてきたのかもしれないし、居間の扉をノックする音で察知したのかもしれません。玄遙を探しているのなら当然、次はこの第二書斎に来るだろう。いま廊下に出るわけにはいかない。しかし一刻も早くここから逃げ出さねばならない。そこで犯人は急遽、どんでん返しの扉を開けて隠し部屋に脱出しようと決め、ただちにそれを実行したわけです。
繰り返しになりますが、開けた隠し扉は自動的に閉まる仕掛けになっています。そのことは犯人も承知していたでしょう。ところが期せずして、閉まるはずの扉が、玄遙氏の腕に引っかかって止まってしまった。犯人はそれに気がつく余裕もなく、隠し部屋の階段を駆け上がった。そこから二階の〈ダリアの寝室〉に抜け出すと、大急ぎで正規の階段を駆け降りてきて、そして――」
私が言葉を切ると、玄児は冷ややかにまた目を細めながら、
「そして、彼は廊下に出た[#「彼は廊下に出た」に傍点]」
と、続きを受けた。
「出てみると、開いたこの第二書斎の扉の前に佇んで、室内を覗き込んでいる子供の姿があった。彼は声をかけた。『玄児か』と。『どうした、玄児。そんなところで』と……」
「アリバイを考えると彼だけには犯行不能だったはずの事件が、一転してそうではなくなってしまう。むしろ彼こそがやはり犯人であったということで、すべての辻褄が合ってしまうのです」
「柳士郎が[#「柳士郎が」に傍点]――」
玄児は苦々しげに、その名前を口に出した。
「結局のところやはり、浦登柳士郎こそが十八年前の事件の真犯人だった――か。玄遙を殺そうとしたのも、その罪をなすりつけて卓蔵を殺したのも」
[#ここから太字](……そう)
そうだ、と彼[#「彼」に傍点]は思い返す。十八年前のあの夜に視点≠ェ飛び、ひれがいったん玄児を離れてこの部屋の光景を捉えた時――。
あの時、初代玄遙を訪れてここに来ていたもう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]。身体の陰にあの火掻き棒を隠し持っていたあの男は、あれは確かにそう、浦登柳士郎その人だった。[#ここで太字終わり]
「柳士郎氏が二人に対して充分すぎるほどに強い動機を持っていたことは、改めて論ずるまでもありませんね。事件発生への対処にしても、その後の玄遙氏に対する仕打ちにしても……何を見てみても、彼が犯人であれば取ったに違いない行動だろうと思えます。
柳士郎氏が玄遙氏や卓蔵氏をひどく憎んでいたことを、その背後にある事情も含めて、多かれ少なかれ当時のこの家の人々は承知していたでしょう。美惟さんや望和さんはもちろん、使用人の諸井静も鬼丸老も、それからきっと野口先生も。玄遙氏が殺され、卓蔵氏も変死したとなると、いくら卓蔵氏の遺書が見つかったとしても、柳士郎氏は皆から疑惑の目を向けられざるをえない。たとえ美惟さんや望和さんは味方≠ナあると分っていたにせよ、それでも彼にしてみれば、自分が義理の祖父と父を殺した犯罪者であるという事実を彼女たちに知られたくはなかった。彼女たちだけじゃない、他の誰に対しても決して自分の罪を認めたくはなかった。多少の疑いを抱かれることはやむなしとしても、事件の真相はあくまで隠し通したかったに違いありません。だから――。
だから彼は、玄児さんがそんなふうにしてこの部屋の中に怪しい人影を目撃した偶然を、有効に利用しようと思いついた。玄児さんが実際には何を見たのか、彼にはすぐに分ったはずです。が、あえてその錯誤を正そうとはせず、鵜呑みにしたふりをして皆に示すことによって、自分のアリバイを確実なものにしてしまおうと、そう考えたのです」
「――なるほど」
玄児は唇の端をぎこちなく曲げた。
「なかなかに要を得た説明だよ、中也君」
「ただ一つ、よく分らないのは――」
と云って私は、みずからの手で傷つけてしまった藤沼一成の幻想画を見やった。
「その絵のことです。事件の後、浦登家の当主となった柳士郎氏が、屋敷に招いた画家にそんな絵を描かせたのはどうしてなのか」
「隠してしまいたかったわけだろう」
冷えた眼差しを絵に向けながら、玄児が答えた。
「事件の真相を示す証拠となる鏡を、そうやってその上に絵を描かせることによって」
「わざわざそんな真似をしなくても、密かに割ってしまうなり外してしまう鳴り、他にいくらでも方法があったのではないでしょうか」
「浦登家にただ一枚伝わる〈ダリアの鏡〉だ。その存在自体をなくしてしまうことには、どうしても抵抗があったんじゃないか」
「だったら何も、赤の他人を呼んでそんな絵など描かせなくても、自分の手で塗り潰してしまえばいいのでは。秘密の|漏洩《ろうえい》を防ぐためにも、その方がずっと安全でしょう」
「彼はそれほどに、藤沼一成という画家の才能に心酔していた。そういうことだろう。鏡の秘密を共有する危険を冒してでも、一成の作品がそこにほしかった。それこそが〈ダリアの鏡〉を人目から隠すのにふさわしいものだと思ったのさ」
「――そうなのでしょうか」
「ともあれ、お見事だよ、中也君」
冷たくこわばらせていた口許に微笑を浮かべて、玄児は云った。
「大した名探偵ぶりだ。脱帽しよう」
茶化したり冗談めかしたりするような調子ではない賞賛だったが、真正面からそれを受け止めることもためらわれ、私は玄児の微笑から目を逸らす。風がひときわ強く鋭く、閉ざされた窓の外で唸り声を上げた。
「――ですから」
と、そして私は、今度はこちらが相手に探りを入れるつもりで言葉を接いだのだった。
「ですからね、玄児さん、今回の――十八年後の現在の事件についても私は、柳士郎氏が犯人なのではないかと思うのです」
玄児は「ほう」と目を見開き、微笑を顔全体に広げた。
「何でまた、そう」
「それは……玄児さんも同じように疑っているのではないのですか。例の『抜け穴の問題』を突き詰めて考えた時、最後に残るのは柳士郎氏が犯人である可能性だけだろうと」
「白内障のせいで視力が衰えているから、暖炉の奥の隠し扉は開けることができなかった、と?」
「そうです」
「ふん。いかにも、いっときはそのような仮説を立ててもみたが――」
広げた微笑を掻き消し、玄児はゆっくりと首を横に振った。
「しかし違うよ、それは」
「――どうしてですか」
「今回の事件もまた彼の仕業だというのでは、まるで辻褄が合わないだろう。ちょっと考えてみれば分る」
「…………」
「たとえばさっきの市朗の話だ、首藤のおじさんが森の中で殺されていたという。彼がそれを見たのは|一昨昨日《さきおととい》――二十三日の夕刻だね。俺たちがまだ嵐で島に閉じ込められる前のことだが、そんな離れた森の中まで、どうやって柳士郎が行けたと思う。邸内で移動するのにも杖が必要な彼が、いったいどうやって」
問われて、私はあえなく返答に詰まる。かろうじて思い浮かんだのは、その首藤利吉殺しだけは別の人物の犯行であるという説明だったが、口に出す前にみずから否定の判断を下した。
市朗が見た利吉の死体は、ズボンのベルトで首を絞められていたという。蛭山丈男もまた、自分のズボンのベルトで首を絞められていた。浦登望和は自分のスカーフで首を絞められていた。――どれも同じような殺し方だ。どれも同じ……。
――おんなじ殺され方だったんでしょ。
――おんなじ犯人だからおんなじ殺し方なのよねえ。
美鳥と美魚のあの言葉をそのまま認めるつもりはないけれど、確かにある意味、一貫した手口で犯人は犯行を重ねている。柳士郎=犯人説を主張したいがために、利吉についてのみ別の犯人がいるとするのは|牽強付会《けんきょうふかい》というものではないか。
「それにね、中也君」
玄児が云った。
「こいつは野口先生に訊いて確かめたことだが、彼の――柳士郎の病状はどうやら、俺が思っていた以上に深刻な段階にまで進んできているらしくてね。薄暗いところだともう、ほとんど目が見えないような状態で、日常生活レヴェルの行動にさえかなりの支障を来たすほどだというのさ。とてもじゃないがそんな彼が、今回の一連の犯行をなしえたとは考えられない。柳士郎は三人を殺した犯人ではない[#「柳士郎は三人を殺した犯人ではない」に傍点]」
「では――」
先刻の玄児と同じように、私は視線を宙に彷徨わせた。
「では、誰が」
[#ここから太字]……それは。[#ここで太字終わり]
「過去と現在を結びつけたくなる気持ちは分るよ。しかしね、十八年前の事件と今回の事件、両者は別物だ。犯人も違えば動機もまったく違う」
「誰が……」
[#ここから太字]……それは。[#ここで太字終わり]
「十八年前の柳士郎は、玄遙と卓蔵への激しい憎しみに心を支配されてはいても、みずからの行動をみずからの嗜好によってコントロールするバランスを保ちつつ、あの夜の犯行に及んだ。けれども今回の事件の犯人は違う」
そう云いきって、玄児は私を見据える。その面差しにふと、何かしらとても憂鬱げな、あるいは哀しげなとも取れる翳りがよぎった。
「彼[#「彼」に傍点]にはそんな、当たり前なバランス感覚がない。ある種の殺意が芽生えると、うまく自分の行動を制御することができずに暴走してしまう。彼[#「彼」に傍点]の心は壊れている。――狂っている」
――殺人狂ね。
「一種の殺人狂と云えるのかもしれないな」
――そ。殺人狂なの。
「玄児さん」
これもまた先刻の玄児と同じように、私は瞠目し、喘ぐように云った。
「あなたはいったい……『彼』というのはいったい……」
[#ここから太字]……それは。[#ここで太字終わり]
「重大な事実を確認してきたと云ったろう。――分ったんだよ、もう。恐らく間違いない。征順叔父さんも野口先生もすでに了解済みだ。今頃は、とりあえず彼[#「彼」に傍点]の動きを監視して……」
「誰なんですか」
[#ここから太字]……それは。[#ここで太字終わり]
半ば悲鳴を上げるようにして、私は問う。
「誰なんですか、その『彼』とは」
[#ここから太字]それは……と、彼[#「彼」に傍点]はみずからに云い聞かせる。[#ここで太字終わり]
「あいつさ」
答える玄児の面差しにふとまた、哀しげな翳りがよぎる。
「三日前の日暮れ時に[#「三日前の日暮れ時に」に傍点]〈十角塔[#「十角塔」に傍点]〉から墜落したあの青年[#「から墜落したあの青年」に傍点]、江南某[#「江南某」に傍点]」
[#ここから太字]……そう。あの青年だ。[#ここで太字終わり]
「下の名前も分っている。忠教[#「忠教」に傍点]という」
[#ここから太字]あの青年は……。[#ここで太字終わり]
「忠教ぃ?」
と、思わず私は叫ぶような声を上げる。
[#ここから太字]そうだ、もう分っている――と、彼[#「彼」に傍点]はみずからに云い聞かせつづける。[#ここで太字終わり]
「十八年前の旧[#「十八年前の旧」に傍点]〈北館[#「北館」に傍点]〉の大火災のあと[#「の大火災のあと」に傍点]、この屋敷を出ていった諸井静の息子[#「この屋敷を出ていった諸井静の息子」に傍点]、忠教さ[#「忠教さ」に傍点]」
[#ここから太字]あの青年は[#「あの青年は」に傍点]、僕ではないのだ[#「僕ではないのだ」に傍点]」[#ここで太字終わり]
「|江南《かわみなみ》忠教。それが彼の、現在の姓名なんだよ。イニシャルはT・E」
[#改ページ]
間奏曲 六
暗黒館〈西館〉一階の一室において友人と対峙する「私」こと「中也」の現在進行形に視点≠ニして寄り添いながら。今やすっかり昏い混沌の縁から抜け出し、その本来的な機能を十全に回復させた意識の下で――。
[#ここから太字]……たとえば。
たとえばそれは――と、彼すなわち江南孝明[#「彼すなわち江南孝明」に傍点]は考える。到るところに散らばっている違和感の数々を改めて振り返り、拾い出し、その意味を検証しようとする。
たとえばそれは、そう、天候のことだ。[#ここで太字終わり]
九月も下旬に入り、例年になく冴え冴えしい好天が続く中[#「例年になく冴え冴えしい好天が続く中」に傍点]、僕がレンタカーを借りて暗黒館に向かったあの日――九月二十三日も、天は高く[#「天は高く」に傍点]、空気は清澄そのもの[#「空気は清澄そのもの」に傍点]で……そうだ、百目木峠であんな濃霧に襲われるなどとはとても想像できないような晴天だったのだ。夕刻になって影見湖のほとりに辿り着いた時には、いっとき垂れ込めていた雲も薄れ、空は鮮やかな夕陽に染まりはじめていた[#「空は鮮やかな夕陽に染まりはじめていた」に傍点]。
ところが、同じ九月二十三日の日没過ぎ、〈十角塔〉から墜落する人影を認めた「私」たちが外へ出た時の空模様はと云えば、雲が多くて星明りも申し訳程度[#「雲が多くて星明りも申し訳程度」に傍点]。前日までの長雨[#「前日までの長雨」に傍点]で、地面は柔らかくなっていた。同じ日、暗黒館をめざして独り百目木峠を越えてきた市朗はその途上で、相変わらずどんよりと雲の広がった空[#「相変わらずどんよりと雲の広がった空」に傍点]を振り仰ぎ、このあとまた天気が崩れてきそうな[#「このあとまた天気が崩れてきそうな」に傍点]予感を憶えている。地面はやはり、前日までの長雨[#「前日までの長雨」に傍点]のせいで、方々に水溜りやぬかるみが残っているような状態だった。
[#ここから太字]この相違は、齟齬は何なのか。
……たとえば。
たとえばそれは――と、|江南《かわみなみ》|孝明《たかあき》は考える。
たとえばそれは、色や形のことでもある。「色」とはすなわちあの湖の色であり、あの服の色でもあり……。[#ここで太字終わり]
影見湖のほとりに辿り着き、桟橋に繋がれていた舟に乗り、扱い慣れない|櫓《ろ》を操って独り僕は島に渡ってきた。あの時、湖は赤い水面を妖しく輝かせていた[#「湖は赤い水面を妖しく輝かせていた」に傍点]けれども、あれは夕陽が映えてそう見えたわけではない。湖面自体が[#「湖面自体が」に傍点]、湖水自体が赤く染まっていたのだ[#「湖水自体が赤く染まっていたのだ」に傍点]。
ところが、同じ九月二十三日の午後、「私」たちが同じ湖を渡った時には、湖面は深い緑色を湛えていた[#「湖面は深い緑色を湛えていた」に傍点]。塔から落ちた青年の回想の中でも、湖の色は違っている。彼が桟橋から独り舟に乗って島に渡ってきた時、どんよりと曇った空の下[#「どんよりと曇った空の下」に傍点]、湖面は暗い鈍色に澱んで見えた[#「湖面は暗い鈍色に澱んで見えた」に傍点]のだ。
湖が赤くなったのは、浦登家の伝説にあるように「人魚の血」に染まったわけではなく、地震のせいで崩れだした大量の赤土による変化であったと思われる。「私」たちや市朗は翌日になって初めて、湖面の一部が赤茶色に変わってきていることに気づいたのである。なのに何故[#「なのに何故」に傍点]、僕が島に渡った時に見た湖の色は[#「僕が島に渡った時に見た湖の色は」に傍点]、すでにして赤かったのか[#「すでにして赤かったのか」に傍点]。
島に上陸し、何かの囁きに導かれるようにして僕は、あの十角形の塔に昇った。そうして最上階のバルコニーに出てみたところで、あの日二度目の地震に見舞われたのだったが、その直前、塔から見て一番手前の棟――〈東館〉二階の窓辺に立つ人影を目撃した。茶色い服[#「茶色い服」に傍点]を着た男だった。時刻は午後六時半になろうとしていた。
一方、〈東館〉二階の居間の窓から「私」は〈十角塔〉のバルコニーに人影を目撃している。その直後、午後六時半に発生したその日二度目の地震のさなか、人影が塔から墜落する光景も目撃している。僕が塔上から見た窓辺の人影は、従ってこの「私」だったことになりそうだけれど、しかしこの時の「私」が着ていたのは、鼠色の長袖シャツに濃紺のヴェスト[#「鼠色の長袖シャツに濃紺のヴェスト」に傍点]だった。茶色い服ではなかったのだ[#「茶色い服ではなかったのだ」に傍点]。
[#ここから太字]これらの相違は、齟齬は何なのか。
……たとえば。
たとえばそれは――と、江南は考えつづける。
たとえばそれは、立札や看板のことでもある。車や毛布や、それからもちろん、あの森の中にあった死体のことでもあり……。[#ここで太字終わり]
影見湖のほとりに辿り着くまでの道の脇に立っていた、あの古い立札。「これより浦登家私有地 無断で立入るべからず」――そんな文句が、すり切れた四角い木製の札にくすんだ赤い塗料で[#「くすんだ赤い塗料で」に傍点]記されているのを、僕は見た。
ところが、同じ道でその立札を市朗が見た時、彼はそこに並んだ文字の、どきっとするほどに鮮やかな赤[#「どきっとするほどに鮮やかな赤」に傍点]から血の色を連想してしまい、怖気をふるっているではないか。
くすんだ赤と鮮やかな赤。――加えて、そう云えば僕が見たあの立札は、半ば倒れかけていると云っても良いほどに大きく傾いて立っていたけれど、市朗が見たそれは必ずしもそのような状態ではなかった。これはだから、「色」だけではなく「形」の問題にも含まれることになる。
看板とはつまり、僕がI**村で立ち寄ったあの雑貨屋「波賀商店」の看板のことだ。何十年も前からずっと取り替えられることなく、風雨に晒されてきたのだろう。そう思わせるくらいにあちこち塗りが剥げ[#「あちこち塗りが剥げ」に傍点]、四方の角はすっかり丸みを帯びている、そんなひどく古びた[#「ひどく古びた」に傍点]看板だった。
ところが、波賀商店の一人息子である市朗の回想によれば、店の看板は決してそんなふうではない。この夏[#「この夏」に傍点]、彼の父がみずからの手でペンキを塗り直して[#「彼の父がみずからの手でペンキを塗り直して」に傍点]、仕上がった看板はまるで新品をあつらえたかのように見えた[#「まるで新品をあつらえたかのように見えた」に傍点]というのだから。
[#ここから太字]これらの相違は、齟齬は何なのか。[#ここで太字終わり]
やっとの思いで濃霧の百目木峠を越え、波賀商店の主人が教えてくれた分岐を見つけて脇道に折れた後、僕はあの日の最初の地震に見舞われて運転を誤り、森に突っこんでしまった。|山毛欅《ぶな》の大木に衝突して止まった車。フロントグラスは至るところが罅割れて白くなり[#「フロントグラスは至るところが罅割れて白くなり」に傍点]、砕け落ちている部分もある[#「砕け落ちている部分もある」に傍点]といった有様だった。
ところが一方、市朗が見た例の事故車はどうだったか。
同じような黒い五人乗りの乗用車だった。同じように森に突っこみ、大木に衝突して止まっていた。しかしながら問題はまず、そのフロントグラスの状態である。砕け散った全面の硝子[#「砕け散った全面の硝子」に傍点]……そうだ、あの車のフロントグラスは、「砕け落ちている部分もある」といった程度の破損ではなく、粉々に砕け散ってしまっていた[#「粉々に砕け散ってしまっていた」に傍点]ではないか。
問題は後部座席の様子にもあった。
市朗が見た事故車の後部座席には、灰色の毛布が一枚[#「灰色の毛布が一枚」に傍点]、無造作に丸められて置いてあった[#「無造作に丸められて置いてあった」に傍点]るけれども僕が乗ってきたあのレンタカーの後部座席には、そんなものが積まれてはいなかったはずだ[#「そんなものが積まれてはいなかったはずだ」に傍点]。何かがそこにあったとすれば、それは飲みかけのミネラルウォーターが入ったビニール袋くらいのもので……。
そしてそう、決定的なのはもちろん、森の中にあったあの死体である。
事故車から少し離れたところに、下草に埋もれるようにして倒れ伏していたあの死体。気味の悪い角度に折れ曲がった手足。|夥《おびただ》しい血に濡れた頭部。それでいて、何者かにベルトで首を絞められて息の根を止められていた、あの男の死体。市朗の見つけたそんな死体が[#「市朗の見つけたそんな死体が」に傍点]、僕が事故を起こしたあの付近にあっただろうか[#「僕が事故を起こしたあの付近にあっただろうか」に傍点]。――なかった[#「なかった」に傍点]。少なくとも僕が車を乗り捨てたあの時点では、断じて。
[#ここから太字]これらの相違は、齟齬はいったい何なのか。[#ここで太字終わり]
あるものは密やかな、あるものはあまりにもあからさまな。意識が正常なレヴェルにあったなら、すぐにでもその意味を解することができたはずの。
[#ここから太字]まったくそのとおりだ――と、江南は思う。
今となってみると、どうして最初からすべてに気づかなかったのかと呆れてしまうくらい、答え≠ヘこんなにも歴然としているのに……。
……たとえば。
たとえばそれは、湖畔の建物とその瓦解のことでもある。あの建物の扉やノッカーのことでもあり……。[#ここで太字終わり]
影見湖のほとりに辿り着き、桟橋の袂に建てられた石造りの四角い建物を見つけて僕は、その入口のドアを叩いた。声をかけてみたが何の返事もなく、ドアには鍵が掛かっているようで開けようとしても開かなかった[#「ドアには鍵が掛かっているようで開けようとしても開かなかった」に傍点]。ドアの横に取り付けられたインターフォン[#「ドアの横に取り付けられたインターフォン」に傍点]に気づき、スピーカーの下の赤いボタンを押してみたものの、中でチャイムやベルが鳴った気配はなかった。
どこかに窓はないものかと反対側に回り込んでみて、そこで僕は目の当たりにした。建物の壁の一部がごっそりと崩れ落ちてしまっているのを[#「建物の壁の一部がごっそりと崩れ落ちてしまっているのを」に傍点]。瓦礫の隙間から中を覗き込んでみたが、真っ暗で何も見えなかった。他の窓にはどれも黒い鎧戸が閉まっており、内部を窺うことはできそうになかった。――そうだ。そんな有様だったのだ、あの建物は。時刻は確か午後五時半を過ぎた頃だったと思う。
ところが、同じ日の、時刻は午後六時をいくらか過ぎた頃、市朗が湖畔に辿り着いた際のあの建物の様子はどうだったか。入口の扉には鉄製のノッカーが付いていたけれども[#「入口の扉には鉄製のノッカーが付いていたけれども」に傍点]、そんなものは僕が叩いたあのドアにはなかった[#「そんなものは僕が叩いたあのドアにはなかった」に傍点]。逆に[#「逆に」に傍点]、ドアの横のインターフォンなどというものは[#「ドアの横のインターフォンなどというものは」に傍点]、市朗の目にはまったく留まっていない[#「市朗の目にはまったく留まっていない」に傍点]。
建物の裏手に回り込んでみて、市朗は明りの漏れだしている窓を見つけた。中に一つ、鎧戸の合わせ目に隙間の残っている窓があったので、彼はそこから建物の内部を覗き込み、流し台の前に立って包丁を研ぐ蛭山丈男の姿を目撃したのだが――。
要は、その時点ではまだ[#「その時点ではまだ」に傍点]、あの建物は壊れていなかった[#「あの建物は壊れていなかった」に傍点]のだ。建物の瓦解はそのあと、午後六時半に発生したその日二度目の地震のせいで起こったのである。
壁や天井の一部が崩れ落ち、蛭山が倒れた棚の下敷きになっているのを認めて市朗は、とにかく建物の入口へと駆け、扉を開けて中に飛び込んだ[#「扉を開けて中に飛び込んだ」に傍点]。つまりこの時、入口の扉には、僕が開けようとした時と違って、鍵が掛かってはいなかった[#「鍵が掛かってはいなかった」に傍点]ことになる。
それから――。
僕が影見湖に辿り着いた時、湖岸の桟橋には手漕ぎの舟が一艘だけしかなかった。その舟に乗って島に渡った時、島の桟橋にはエンジンの付いたボートが一艘、繋がれていた。
だがしかし、玄関番の蛭山は午後四時前に「私」たちをエンジン付きの舟で島に渡したあと、遅くとも五時頃にはもう[#「遅くとも五時頃にはもう」に傍点]、島から湖畔に戻っていたはずなのである[#「島から湖畔に戻っていたはずなのである」に傍点]。なのに何故[#「なのに何故」に傍点]、僕が湖畔に着いた五時半過ぎの時点で[#「僕が湖畔に着いた五時半過ぎの時点で」に傍点]、あの桟橋には二艘の舟が揃っていなかったのか[#「あの桟橋には二艘の舟が揃っていなかったのか」に傍点]。
[#ここから太字]こういった相違は、齟齬は他にもある。まだまだたくさんある。[#ここで太字終わり]
たとえばそれは、塔から落ちた青年が着ていた上着の「形」であったり、シャツの「色」であったりする。彼が履いていた、どろどろに汚れた灰色のズック[#「どろどろに汚れた灰色のズック」に傍点]であったりもする。札入れの中に入っていたはずの運転免許証や社員証などがなかったり[#「札入れの中に入っていたはずの運転免許証や社員証などがなかったり」に傍点]、もはや崩壊寸前の状態であるはずのソヴィエト連邦に関して、何故かその「平和共存路線」だの「中ソ対立の深刻化」だのがTVで報じられていたり、故人であるはずの|江戸川《えどかわ》乱歩や|横溝《よこみぞ》正史が屋敷に招待されるべき「当代の[#「当代の」に傍点]探偵小説作家」として語られたり……他にもある。まだまだたくさんある。今のこの、本来的な機能が十全に回復した意識の下に思い返してみれば、それこそかぞえきれないくらいたくさんの違い≠随所に見出し、拾い出すことができる。
[#ここから太字]当然だ、と江南は思う。
どれかが違っているのではない[#「どれかが違っているのではない」に傍点]。すべてが違っているのだから[#「すべてが違っているのだから」に傍点]。[#ここで太字終わり]
同じ「黒い五人乗りの乗用車」であっても、その「形」が違う。同じ「焦茶色の札入れ」であっても、やはりその「形」が違っている。中に入っている「小額紙幣」の「形」も違っている。そして――。
何よりもまず違っているのは、〈十角塔〉から転落して「私」たちに助けられた青年――「江南」という人間そのもの[#「人間そのもの」に傍点]なのであって……と、今だからこそ[#「今だからこそ」に傍点]江南には認識することができるのだった。
服や靴や持ち物が違っているどころではない。
そもそもその顔立ちが違う[#「そもそもその顔立ちが違う」に傍点]、肉体的特徴が違う[#「肉体的特徴が違う」に傍点]。僕とは違う。まるで違う。彼は違う。彼は――。
[#ここから太字]彼は僕ではないのだ[#「彼は僕ではないのだ」に傍点]。[#ここで太字終わり]
視点≠通して江南孝明が見つづけてきたこの世界≠フ、至るところに散らばっている違和感。それはしかしながら、こういった相違や齟齬のみで成り立っていたわけではない。
あるものは密やかな、あるものはあまりにもあからさまな違い≠フ一方で、機能不全に陥った江南の認識や思考をいたずらに混乱させるばかりの、奇妙な一致や類似[#「奇妙な一致や類似」に傍点]が、そこにはいくつもあった。
[#ここから太字]……まるで。
まるで僕を|欺《あざむ》くためにわざわざ仕掛けられたかのような。まるで何ものかいかがわしい悪意がこの世界≠弄んででもいるかのような……。
……たとえば。[#ここで太字終わり]
たとえばそれは、二度にわたる地震の発生日・発生時刻の一致であり、地震の原因としてとっさに連想された火山の噴火にまつわる一致である。六月には、その火山活動の激化によって数多くの死傷者が出る惨事があった、という事実。けれども地理的に考えれば、それとその日の地震とを単純に結びつけてしまうのは無理があるのではないか、という判断……。
たとえばそれは、塔から落ちたあの青年が僕と同じ年格好で、僕と同じ懐中時計を持っていたという一致であり、僕と同じように左手を負傷してハンカチを巻いていたという一致であり、彼の思い出したみずからの姓がよりによって「江南」であったという一致でもある。彼の心の内に蘇ってきた「おかあさん」にまつわる記憶、それを構成する場面や言葉の一致や類似、という問題もむろん挙げなければならない。
[#ここから太字]……しかし。
それでもやはり違う。違っているのだ。
僕は彼ではないし、彼は僕ではない。僕たちは同一の人間ではない。僕の現在≠ニ彼の――彼らの現在≠ニは違う、違っている。[#ここで太字終わり]
だから――だからこそこんな、数え切れないほどたくさんの相違が、齟齬が、ここには溢れ返っているのではないか。
一九九一年の九月二十三日[#「一九九一年の九月二十三日」に傍点]、月曜日[#「月曜日」に傍点]。
それが、暗黒館を訪れた僕の現在≠セった。けれども、彼らのそれは違う。「私」こと「中也」が友人の招きに応じて暗黒館にやって来た彼らの九月二十三日[#「彼らの九月二十三日」に傍点]は一九九一年ではなく、別の年の九月二十三日だったのである。
[#ここから太字]その証拠に――と、江南は考える。[#ここで太字終わり]
これまで視点≠ェ捉えてきたいくつかの日付と曜日に関する仔細な検証が、そして始まる。まるで突然サヴァン症候群の特異能力が身に付いてしまったかのような、それはその検証行為の主体たる江南自身にとってもすこぶる異様な感覚であり、体験であった。
[#ここから太字]――入学式から一週間余りが過ぎた、あれは日曜日のこと。日付は確か四月二十日だったと思う。[#ここで太字終わり]
「私」こと「中也」は友人との出会いの日を、そんなふうに回想している。旧|古河《ふるかわ》男爵邸に足を運んだその日の夜、彼は|小石川《こいしかわ》植物園のそばで不慮の事故に遭い、意識を失ってしまった。彼が病室のベッドではっきりと意識を取り戻したのは翌々日、四月二十二日の朝のことで、この火を彼は火曜日だったと記憶している。――が。
一九九一年の四月二十日は日曜ではない[#「一九九一年の四月二十日は日曜ではない」に傍点]。その日は[#「その日は」に傍点]、
[#ここから太字]……土曜日だ。[#ここで太字終わり]
土曜日なのだ[#「土曜日なのだ」に傍点]。四月二十二日は火曜日ではなくて月曜日[#「四月二十二日は火曜日ではなくて月曜日」に傍点]。「私」の記憶に間違いがないとすれば、当然のことながら彼らの現在≠ェ一九九一年であるはずはない。
[#ここから太字]――今はね、日が変わって二十六日、金曜日の午前一時過ぎ、だ。かれこれ五時間ばかり、君は眠り続けていた計算になる。[#ここで太字終わり]
これは蜈蚣騒ぎで失神した「私」が目覚めたあの時、友人から聞かされた言葉。
[#ここから太字]――日が変わって二十六日、金曜日の……。[#ここで太字終わり]
考えるまでもなく、一九九一年の九月二十六日は木曜日であって金曜日ではない[#「一九九一年の九月二十六日は木曜日であって金曜日ではない」に傍点]。逆算すれば、彼らの九月二十三日は火曜日になるけれど、一九九一年の九月二十三日は月曜日であって[#「一九九一年の九月二十三日は月曜日であって」に傍点]、もちろん火曜日ではない[#「もちろん火曜日ではない」に傍点]。
さらには、そう、視点≠ェ時間を遡って捉えた過去の事件。その発生は「十八年前のダリアの日、すなわち九月二十四日の夜」だった。現在≠ェ一九九一年であるならば、十八年前は一九七三年。この年の九月二十四日は[#「この年の九月二十四日は」に傍点]、
[#ここから太字]……月曜日だ。[#ここで太字終わり]
月曜日だ[#「月曜日だ」に傍点]。ところが事件発生の夜、当時九歳の浦登玄児の現在進行形に寄り添った視点≠ヘ、云わば所与の事実として、その日を[#「その日を」に傍点]「火曜日[#「火曜日」に傍点]」と認識しているではないか[#「と認識しているではないか」に傍点]。
これもまた、彼らの[#「彼らの」に傍点]現在[#「現在」に傍点]≠ェ一九九一年にはならない[#「が一九九一年にはならない」に傍点]ということを示す証拠に他ならず……。
[#ここから太字]……山形の旧済生館本館についての問題は。[#ここで太字終わり]
不意にそこで、そんな言葉が江南の思考に割り込んできた。
[#ここから太字]――山形市の|七日町《なぬかまち》に建つ済生館本館は、全国各地に残る明治期の擬洋風建築の中でも、とりわけ特異な形状を持った傑作として知られる。私があの建物を訪ねて東北へ旅したのは、高校三年の夏休みのことで……[#ここで太字終わり]
これは「私」こと「中也」の、浦登征順との初対面の場で話題になった件の擬洋館に関する独白である。ところが――。
[#ここから太字]山形県七日町の済生館病院は、一九四九年に失火で病棟部分を全焼、本館は類焼を免れた後、六六年には国の重要文化財に指定される。それを受けて六九年[#「それを受けて六九年」に傍点]、旧済生館本館は七日町から霞城公園に移築され[#「旧済生館本館は七日町から霞城公園に移築され」に傍点]、七一年以降は市郷土館として……。[#ここで太字終わり]
要するに、彼らの現在≠ノおいては、済生館本館はまだ七日町にあり、|霞城《かじょう》公園には移築されていなかった。そういうことか。
[#ここから太字]それにしてもこれは――と、江南は戸惑う。[#ここで太字終わり]
これは、僕自身の記憶の底に眠っていた知識なのだろうか。
[#ここから太字]……「昨年度の流感」についての問題は。[#ここで太字終わり]
続いて、今度はそんな言葉が。
[#ここから太字]――昨年度の流感は全世界的に猛威を振るい、日本でも人口の半数が罹患したとかいう話だったが。[#ここで太字終わり]
これも「私」こと「中也」の独白の一つだけれども、一九九一年の現在≠ゥら見た「昨年度」に、それほどの規模で|流行性感冒《インフルエンザ》が猛威を振るったという記憶は、少なくとも江南にはなかった。
[#ここから太字]一九五七年[#「一九五七年」に傍点]、アジア風邪が世界的に流行[#「アジア風邪が世界的に流行」に傍点]。中国で発生したこの流感は地球上の全域を冒し、日本でも人口の半数が感染したと云われ……。
……ああ、これも。[#ここで太字終わり]
これもまた、僕自身の記憶の底に眠っていた知識の一つなのか。こんな上方をいつどこで、僕は自分のものにしていたのだろうか。
[#ここから太字]――また台風が近づいているらしい。テレヴィで云っていました。海の方は大荒れの模様ですね。何でも昨日は大分沖で貨物船が沈んだとか。[#ここで太字終わり]
これは――これも確か、「私」と浦登征順との初対面の場での話題だ。あの時、征順が告げた痛ましい海難事故の知らせ。
[#ここから太字]――ずいぶん大勢の乗組員が行方不明になっているそうですが。[#ここで太字終わり]
するとそこで、またしてもその問題に関する委細な情報が、
[#ここから太字]一九五八年九月二十三日[#「一九五八年九月二十三日」に傍点]、火曜日[#「火曜日」に傍点]。大分沖にて貨物船「|津久見丸《つくみまる》」が沈没。乗組員十二名が行方不明に……。[#ここで太字終わり]
江南の思考に流れ込んでくるのだった。
[#ここから太字]――ブラウン管の中では几帳面な声の男性アナウンサーが、本日富士山に初雪が降ったと告げていた。昨年よりも四日遅く、平年よりも三日早い冠雪であとのこと。[#ここで太字終わり]
これは二十四日の夜、「私」が〈北館〉のサロンで見たTVのニュース。そして……。
[#ここから太字]一九五八年の富士山の初冠雪は九月二十四日[#「一九五八年の富士山の初冠雪は九月二十四日」に傍点]。
……ああ、いったい。[#ここで太字終わり]
いったいこの僕の記憶のどこに、これら諸々の知識が、情報が眠っていたというのか。
江南は戸惑い、そして訝しまざるをえない。
サヴァン症候群の特異能力が、本当に僕には備わってしまったのだろうか。そんなことが起こりうるのだろうか。それともこれらはすべて、実のところ僕自身の記憶ではなくて……。
[#ここから太字]僕自身の記憶ではなくて、では何ものの?[#ここで太字終わり]
……戸惑い、訝しみつつも。
[#ここから太字]いずれにせよ――と、江南は結論づける。[#ここで太字終わり]
彼らの[#「彼らの」に傍点]現在[#「現在」に傍点]≠ヘ一九五八年にある[#「は一九五八年にある」に傍点]。
一九五八年――昭和三十三年。僕の[#「僕の」に傍点]現在[#「現在」に傍点]≠ゥら見れば三十三年前の九月に暗黒館で起こった[#「から見れば三十三年前の九月に暗黒館で起こった」に傍点]、これは事件なのだ[#「これは事件なのだ」に傍点]。「十八年前の事件」の発生は、従って一九四〇年の九月だったことになる。一九四〇年――昭和十五年と云えば、太平洋戦争勃発の前年である。この年の九月二十四日は、
[#ここから太字]……火曜日だ。[#ここで太字終わり]
火曜日だ。そう。これで日付と曜日の齟齬はすべて解消される。と同時に――。
「私」をはじめとする彼らが、その時代について述べたいくつかの印象的な言葉[#ここから太字](殺人や自殺などという不祥事が外に知られては絶対に困る、ご時世がご時世だけになおさら[#「ご時世がご時世だけになおさら」に傍点]……と)(その時期に[#「その時期に」に傍点]それほど大勢の首を切ってしまうというのは)(当時の社会状況を考えてみるにつけても[#「当時の社会状況を考えてみるにつけても」に傍点]、ずいぶんとまた非情な決定をしたものだな、と)(それこそ十七年前、望和と出会った頃には、本拠地は東京に。もちろん今とは違って[#「もちろん今とは違って」に傍点]、日本中どこにいてもいろいろと大変な頃でしたが[#「日本中どこにいてもいろいろと大変な頃でしたが」に傍点]……)[#ここで太字終わり]についても、おのずとその含意が見えてくるのではないか。
彼らの[#「彼らの」に傍点]現在[#「現在」に傍点]≠ヘ一九五八年[#「は一九五八年」に傍点]――今から三十三年前の九月にこそある[#「今から三十三年前の九月にこそある」に傍点]。
結論を反芻する江南の思考に、
[#ここから太字]……一九五八年六月二十四日、火曜日の午後十時十五分。[#ここで太字終わり]
不意にまたそんな、およそ彼が知るはずもないような情報が流れ込んでくる。
[#ここから太字]一九五八年六月二十四日、火曜日の午後十時十五分、|阿蘇山《あそさん》|中岳《なかだけ》が大噴火。これによって十二名が死亡、二十八名が負傷、山上施設は全滅……。
……ああ、これは。
暗黒館が建つ熊本県Y**郡のこの山中から、直線距離にして、|雲仙普賢岳《うんぜんふげんだけ》まではおよそ五十五キロメートル、阿蘇山中岳まではおよそ五十キロメートル……。
……そうか。[#ここで太字終わり]
驚きと戸惑いと訝しみと、そしてそれらとは裏腹な、何とも名伏しがたい不思議な開放感の中で、この世界≠弄ぶいかがわしくも冷ややかな悪意の存在に改めて思いを馳せながら――。
[#ここから太字]そういうことなのか、と江南孝明は得心する。[#ここで太字終わり]
雲仙ではなくて阿蘇だったのだ[#「雲仙ではなくて阿蘇だったのだ」に傍点]。三十三年前の彼らの現在≠ノおいて、その活動の激化によって数多くの死傷者を出す惨禍をもたらした火の山は。
[#改ページ]
第二十七章 暴走の構図
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
……忠教?
諸井静の息子?
それがあの青年の正体だというのか。そうしてなおかつ、彼こそが蛭山丈男、浦登望和、首藤利吉の三人を殺害した犯人であると?
黒い|泥濘《でいねい》の中からいきなり、ぬらりと異形の怪物が起き上がるのを見てしまったような心地で、私はその場に立ち尽くす。束の間、完全に言葉を失い、身動き一つままならなかった。ことっ、とその時また、どこかで――恐らくは開けっ放しの入口の扉の向こうで――何か硬い物音が響いたような気がしたのだが、振り向いてみることもできなかった。
玄児がゆっくりと近づいてくる。シャツの胸ポケットから、そして彼は、サロンから持ち出してきた例の写真を取り出し、
[#ここから太字]……違う、と江南孝明は確認する。[#ここで太字終わり]
私に示した。
[#ここから太字]この写真も、もちろん違っている。そもそも僕が札入れに入れていた写真は色褪せたカラー写真だったのに[#「そもそも僕が札入れに入れていた写真は色褪せたカラー写真だったのに」に傍点]、これは白黒ではないか[#「これは白黒ではないか」に傍点]。背景は秋の紅葉だったのに[#「背景は秋の紅葉だったのに」に傍点]、これは冬枯れの木々ではないか[#「これは冬枯れの木々ではないか」に傍点]。[#ここで太字終わり]
「ここに写っているこの女性が諸井静だということは、さっき野口先生に見せて確かめたよ。たぶん彼女に間違いないだろう、と」
[#ここから太字]この女の人は僕のお母さんではない[#「この女の人は僕のお母さんではない」に傍点]。並んで立つこの子供も――。[#ここで太字終わり]
「子供の方が忠教だということも?」
写真を見つめたまま私が訊くと、
[#ここから太字]これは子供の頃の僕ではない[#「これは子供の頃の僕ではない」に傍点]。[#ここで太字終わり]
「むかし見た憶えがある顔だ、とは云っていた」
と、玄児は答えた。
「かなり記憶に不安はあるらしいが。先生もその頃はまだ、ごくたまにしかこの屋敷に来ることがなかったんだな。柳士郎以外の家人との付き合いもあまりなくて、だから確言はできないという。塔から落ちた彼を介抱した時に一瞬、どこかで見たような顔だという気がしたともいうんだがね、それは本当に一瞬のことで、すぐに気のせいだろうと思い直したらしい」
「玄児さんは? 諸井静や忠教のことは、やはり記憶の埒外なのですか」
「さっき写真を見て、この女性の顔にはかすかに見憶えがあるような……軽い疼きみたいなものを感じはしたんだが」
「子供の方には感じない?」
「それは……どうだろう」
玄児は、物思わしげに寄せた眉間の縦皺に人差指の先を押しつけながら、
「感じるような感じないような、何とも微妙な……というのが正直なところさ」
そう云うと、今度は写真を裏返して私に示す。例の「……月七日……歳の誕生日に」という覚書が、
[#ここから太字]……このメモも。[#ここで太字終わり]
そこには記されている。
「インクが滲んでいてきちんと判読できないが、これは写真が取られた日付のメモだね」
[#ここから太字]このメモも違う、と江南は確認する。[#ここで太字終わり]
「十七年前、二人が屋敷を出ていって何年後かの、忠教の誕生日に撮ったんだろう。見た感じ、子供の年齢は十一、二歳といったところだな。忠教の誕生日は知らないが、俺よりも一つ年下で、季節は冬のようだから、たぶん十二月七日……」
[#ここから太字]僕が札入れに入れておいた写真の裏には、「一九七五年十一月七日 孝明十一歳の誕生日に」というメモが付されている。文面は似ているけれど、これは明らかに違う。そもそも僕の写真のメモはインクではなく[#「そもそも僕の写真のメモはインクではなく」に傍点]、鉛筆で書かれていたのだ[#「鉛筆で書かれていたのだ」に傍点]。水に濡れても滲むはずがない[#「水に濡れても滲むはずがない」に傍点]……。[#ここで太字終わり]
「――それにしても、玄児さん」
友人の顔に目を上げ、私は問うた。
「仮にあの青年が本当に諸井静の息子だとして、どうしてその彼が犯人だと」
「確認してきた重大な事実を話そう。聞けば、君も充分に納得するだろう」
写真を胸ポケットに戻しながら、玄児はそう答えた。この時ちらりと一瞬、彼の視線が入口の扉の方へ飛ぶのを私は認めたのだけれど、その意味を深く考えようとはしなかった。いったい何故、あの青年が犯人だということになるのか。その疑問にばかり気持ちが囚われていたためである。
「その一は、大牟田の永風会病院に電話して判明した事実だ。首藤利吉の身内の者だが、彼が先日そちらに|伺《うかが》った件について……と切り出してみたところね、案の定、おじさんの行く先はそこに間違いなかった。彼は三日前、二十三日の朝に病院を訪れていた。ある入院患者の身元引受人として[#「ある入院患者の身元引受人として」に傍点]、ね」
「入院患者の?」
「ちなみに、これは野口先生が知っていたことなんだが、永風会というのはもともと精神科で有名な病院らしい。昔流に云えば脳病院だな。最近では綜合病院色を前面に押し出して経営を展開しているが、系列病院の中でも、大牟田の永風会病院は現在も精神科の専門院でね」
「精神病院の入院患者……」
私は暗然たる気分で呟いた。
「それがあの青年だと[#「それがあの青年だと」に傍点]? そういう話なのですか」
「そう。そういう話だよ」
玄児は冷然と頷き、写真を戻したのと同じシャツのポケットから煙草を取り出す。
[#ここから太字]……これは、と江南は確認する。
この両切り煙草は「ピース」。今で云うショートピースだ。三十三年前――一九五八年当時、恐らく最もポピュラーだった国産煙草で……。[#ここで太字終わり]
「問題の患者の名前を確かめてみて、俺もたいそう驚いた。最初は訊いても答えちゃくれなかったんだがね、こういう時に浦登の名は便利なものさ。こっちの素性を明らかにして強い態度に打って出たら、効果は|覿面《てきめん》だった。院長だか誰だかが電話口に出てきて、じきじきに教えてくれたよ。患者の氏名は|江南《えなみ》忠教。どういう漢字を書くのかも確認した。
去年の夏から入院していたのを今回、首藤のおじさんが身元引受人になって退院の運びとなったらしい。おじさんが浦登家の縁者だということも先方は重々承知していて、このたびのことは何とぞご内密に……などとね」
「このたびのこと?」
「訊いてみたが、向こうは慌てて|誤魔化《ごまか》していた。しまった、口が滑った――という内心が見え見えだったな」
「何で忠教が精神病院に入っていたのか、その理由は」
「それも訊いてみたが、当たり障りのない返答で誤魔化されたよ。この頃はずいぶん状態も落ち着いてきたから心配は要らないだろう、という説明ばかりでねえ。おじさんが事情はよく分っているから、詳しくは彼から訊いてくれ、と。電話でのやり取りでもあるし、こっちもそれ以上は強く問いただせなかったんだが……」
「…………」
「ともあれ、必要最低限の事実はこれで判明した。四日前この屋敷を発って大牟田に向かった叔父さんは、向こうで一泊して翌二十三日の朝、永風会病院へ行き、かねてからの予定どおり、そこに入院していた江南忠教の身柄を引き取った。そうして彼を車に乗せ、屋敷への帰途についた」
唇の端に煙草を銜え取って、「その二は――」と玄児は説明を続けた。
「『喫茶シマダ』に電話して押さえた情報だ。三日前――二十三日に、小太りの中年男と二十代半ばの青年、そんな二人連れが店に立ち寄らなかったか、という問い合わせをしてみたわけさ。二人は黒い車で乗りつけたはずだが、と。
幸いにも、電話に出た店主はすぐに思い出してくれた。確かに|一昨昨日《さきおととい》の昼前頃、そういう二人連れの客があった、とね。若い方の男が砂色のジャケットを着ていたことや、彼が煙草を吸うのに店のマッチを持っていったことまで憶えていてくれたよ。要するにこれは、首藤のおじさんが忠教を車に乗せてこの屋敷に向かったという事実の傍証さ」
玄児はカーディガンのポケットをまさぐって問題の黄色いマッチ箱を摘み出し、
[#ここから太字]……これも。[#ここで太字終わり]
中身を確かめるように軽く振ってみせる。それから、おもむろに箱を開けてマッチの一本に点火すると、銜えていた煙草に炎を移した。
[#ここから太字]このマッチも――と、|江南《かわみなみ》は確認する。
そう。もちろん僕はこんなマッチを持ってなどいなかった[#「もちろん僕はこんなマッチを持ってなどいなかった」に傍点]。煙草を吸うのにはいつもライターを使っていたから[#「煙草を吸うのにはいつもライターを使っていたから」に傍点]……。[#ここで太字終わり]
勿体をつけるようにしばし言葉を休め、玄児は紫煙に身を浸す。つられて私も自分の煙草を取り出したのだが、
[#ここから太字]この煙草は――と、江南は確認する。[#ここで太字終わり]
加えて火を点ける寸前で思いとどまった。空腹と寝不足、疲労に加え、絶え間なく続いてきた緊張のせいで、今にもまた、昨日のような|悪心《おしん》が込み上げてきそうな気がしたのである。
[#ここから太字]茶色いフィルター[#「茶色いフィルター」に傍点]の、これは「ホープ」だ。ショートホープ。
……一九五七年、国産初のフィルター付きシガレット「ホープ」が発売され、人気を博す。
これと同じ銘柄の煙草を[#「これと同じ銘柄の煙草を」に傍点]、塔から落ちたあの青年は持っていたのだ[#「塔から落ちたあの青年は持っていたのだ」に傍点]。けれども僕は[#「けれども僕は」に傍点]、そんな煙草を吸ってはいない[#「そんな煙草を吸ってはいない」に傍点]。僕が持っていたのはショートホープではなくてマイルドセブンであって[#「僕が持っていたのはショートホープではなくてマイルドセブンであって」に傍点]……。[#ここで太字終わり]
「――さて、その三だが」
煙草の中ほどまで灰にしたところで、玄児は話を再開した。
「その一、その二を踏まえた上で、茅子さんに会って問いただしてみたわけだ。どうしておじさんがわざわざ忠教の身元引受人になって、この屋敷に連れてこようとしたのか。詳しい事情を知るのは、今ここにいる人間の中では彼女だけだろうから」
「…………」
「野口先生と征順叔父さんにも口裏を合わせてもらって、おじさんからはさっき電話があった、と嘘をついてね。予定どおり戻るつもりが、途中の道が土砂崩れで塞がってしまって通れないんだ、と。――で、病院に電話して分った事実を小出しにしながら、いったいあなたたちは何を企んでいたのか、と問いつめてみたのさ」
煙草の灰が折れて床に落ちる。が、玄児は気にする素振りもなく、それどころか短くなった煙草を足許に捨てると、ことさらのように荒々しく靴底で踏みにじって消した。
「首藤のおじさんは、息子の伊佐夫君が軽蔑の対象にするような大いなる俗物だけれども、その分なかなかにしたたかなやり手[#「やり手」に傍点]でもあって、各方面にいろいろと太い人脈を持っているらしい。それこそ地元の政治家から警察関係者、暴力団関係者に至るまでね。茅子さんによれば、今回の件は、以前より懇意にしていた福岡永風会病院の院長だか副院長から相談を持ちかけられたのが始まりで、という話なんだが、そいつはどうだか怪しいものだと俺は思う。むしろおじさんの方が何らかの筋からその情報[#「その情報」に傍点]を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、511-下-15]んで、恐喝とは云わないまでもそれに近い意図を持って、病院側に接触していったんじゃないか。そう|穿《うが》ちたくもなるところだが」
「その情報[#「その情報」に傍点]、とは?」
「福岡永風会病院で去年の夏、大変な不祥事があったという情報さ」
「不祥事……と云いますと」
「内科病棟の入院患者が病室で殺されたんだよ」
献辞は冷え冷えとした声で答えた。
「犯人は殺された患者の息子で、病院内を心神喪失状態で徘徊しているところを保護された。警察沙汰になるのを嫌った病院は事件の|湮滅《いんめつ》を図り、犯人は大牟田の精神病棟に移送され、そこに隔離されてしまうこととなった」
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
「殺された患者は|江南《えなみ》静という女性で、かつて浦登家の屋敷で働いていたことがあるらしい、犯人はその息子の忠教……と、そんな情報が入ってきたところで、おじさんは少なからず興味をそそられたんだろう。悪党の勘が働いた、とでも云うのかな」
母親の静をその手で殺した、というのか。息子の忠教が? ああ、そんな……。
……母さま。
震撼する私の心の奥でやおら、みずからの遠い記憶が疼く。
……いけない、母さま。
十一年前のあの秋の日、炎の中に消えたあの人の――母の、実際には垣間見ることすらできなかった後ろ姿が、今なお拭い去れぬ罪悪感とともに脳裡に浮かび上がってきて、
……戻って、母さま。
私は思わず額に手を当て、よろめきそうになる足を踏ん張った。
「おじさんは、何でもわざわざ探偵まで雇って、二人の素性を詳しく調べさせたそうだ。そして、女性の前の姓は諸井といって、戦前のある時期までの長期間、確かにこの浦登家の屋敷に住み込みで勤めていたことや、その間に前の夫を亡くしたこと、息子の忠教と二人で屋敷を出たあとは生まれ故郷の長崎に戻り、程なく島原出身の江南|某《なにがし》と知り合って再婚したものの、今度は戦災でその夫を亡くしてしまったこと……そういった諸々の事実が判明した。終戦後、彼女は息子を連れて福岡に移り住んだが、やがて重い病を患う。この何年かは永風会病院の内科で治療を受けていたが病状はいっこうに好転せず、入退院を繰り返した挙句……」
「それは、どんな病気で?」
私が質問を差し挟むと、玄児は目を閉じて首を横に振りながら、
「白血病、だったらしい」
と答えた。
「どうやら終戦直前の八月九日、彼女は長崎で被爆したらしいんだな。爆心地からはかなり離れたところにいて、爆風や熱線などによる直接的な被害は免れたというが、|撒《ま》き散らされた放射能の影響から逃れることはできなかったんだろう。何年も経ってから白血病が発症してしまい、治療の甲斐もなく病状は進行の一途を辿った。去年の夏の時点でもう、余命いくばくもないようなところにまで病状は悪化していてね、忠教はずっと母親のそばに付きっきりでいたという」
なのに忠教は、その病室で母親を殺したというのか。いったいどうして、そんな……。
……いけませんよ、 さん。
[#ここから太字]……死なせて。[#ここで太字終わり]
……ああ、母さま。
[#ここから太字]虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で……。[#ここで太字終わり]
どうしてそんな恐ろしい罪を、彼は犯してしまったというのか。
[#ここから太字]もういいから、殺して……。[#ここで太字終わり]
……戻って、母さま。
「忠教の方も、被爆を?」
「それはどうだか分らない。少なくとも今のところ、彼の肉体がその手の病に冒されている様子はないから。原爆投下の時期には、母親と離れてどこかに疎開していたのかもしれないな」
「…………」
「とまあ、そういった背景を調べだして把握した上で、首藤のおじさんは大牟田まで足を運び、精神病棟に閉じ込められている忠教と面会した。それが今年の昼のことだったという。その頃には忠教の精神状態もたいがい落ち着いていて、彼自身の口からあれこれと情報を引き出すこともできた。
中でもおじさんの興味を引いたのは、病床の静が忠教に云い遺した言葉だった。将来、どうしても困った時には熊本の浦登家の屋敷へ行け、そこで主人の柳士郎と会え――というね。そして、その時には必ずこの懐中時計を持っていくように、と云われていたそうなのさ。『この懐中時計』とはつまり、彼が持っていた――いま君のポケットの中にある、その時計のことだな」
「ああ……はい」
先ほどズボンのポケットに戻した懐中時計を、私は再び引っ張り出す。蝋燭の炎に揺らめきを反射して、ぎらりと鋭く光る銀色のフレーム。
[#ここから太字]……この時計も。[#ここで太字終わり]
その裏側に彫り込まれたイニシャルに、そして私は目を凝らす。
T・E
江南忠教という氏名の、確かにこれは頭文字である。再婚して江南姓となった諸井静は、息子の忠教にも姓を改めさせ、その後にこの時計を彼に贈って改姓後のイニシャルをここに彫らせた。――そういうことなのだろうか。
[#ここから太字]この時計も違う。違っているのだ――と、|江南《かわみなみ》は確認する。
もの[#「もの」に傍点]は同じだが、その「色」が、「色合い」が違っているではないか。僕の持っている時計は、こんなふうに鋭くフレームが光ったりはしない。長い年月のうちにすっかり汚れ[#「長い年月のうちにすっかり汚れ」に傍点]、黒ずんでしまっているから[#「黒ずんでしまっているから」に傍点]……。[#ここで太字終わり]
「ここまで事実が出揃ったところで、さて、首藤のおじさんは何と考えたか」
玄児は続けた。
「いささか短絡的とも云えるが、彼はこんなふうに推測したわけさ。すなわちね、忠教というこの青年は、かつて浦登柳士郎が使用人の静に産ませた隠し子なのではないか、と。その時計はきっと、忠教が確かに浦登家の筋の者であることを|証《あか》すための品として、静が柳士郎から譲り受けたものなのだろう、と」
「――ははあ」
ようやっと話の繋がりが見えた気がして、私は懐中時計を握った手に力を込めた。
「なるほど。首藤夫妻の『悪巧み』というのは、では……」
「今年の〈ダリアの日〉の集まりに機を合わせて、忠教の身元を引き受けてこの屋敷に連れてくる。そして彼を柳士郎に引き合わせ、隠し子であることを認めさせ、それを種にして取り引きを持ちかけようと企てたのさ。忠教が静を殺して精神病院に入れられていたということは、浦登家並びに柳士郎の名誉を|慮《おもんばか》って公にするつもりはない。その代わり、自分たちにも今年の〈宴〉に参加して浦登家秘伝の〈不死の肉〉を食する資格を与えろ、との。もっとも中也君、君と同じで彼らはやはり、〈肉〉とは人魚の肉だと思い込んでいたようだが……」
「…………」
「さあ、どうかな。これでもう、筋書きがはっきりしてきただろう」
云いながら、玄児は両腕を広げた。黒いカーディガンのたっぷりとした身頃が、蝙蝠の翼のように左右に開く。
「途中で『喫茶シマダ』に立ち寄ったあと、おじさんは一路、車をこの屋敷めざして走らせた。助手席か、あるいは後部座席に忠教を乗せてね。ところが、たとえばこれはあの日の最初の地震が何らかの災いを及ぼしたのかもしれないが、あと少しで湖畔に到着するというあたりでおじさんはハンドル操作を誤り、致命的な事故を起こしてしまった。森に突っこんだ車は木にぶつかって大破し、推測するに、衝突の衝撃でおじさんは前の硝子を突き破って車外に投げ出され、大怪我を負ったんだろう。同情していた忠教の方はしかし、幸運にも左手の負傷だけで済んだ。ショックから立ち直って独り車を降りた際、喫茶店で貰ったマッチを落としてしまい、それから倒れているおじさんの許へ行き、瀕死の重傷に喘ぐ姿を目の当たりにし、そして――」
低く息をつき、玄児は言葉を接いだ。
「そして、おじさんの首を絞めて殺した。君が云ったように、恐らくはおじさん自身のズボンのベルトを引き抜いて、それで」
「どうして」
と、私ははやり問わずにはいられなかった。
「どうしてそんなことを、彼は」
「それについてはね、本当に無責任な想像を広げてみるしかないんだが」
憂鬱げに目を細めながら、玄児は語った。
「そもそも何故、忠教は去年の夏に病室で静を殺したんだろうか。長い患いで弱り切っていた自分の母親を、何故……」
[#ここから太字]……死なせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で、彼女はそう云った。
もういいから、殺して……楽にして。
確かにそう云ったのだ、彼女は。[#ここで太字終わり]
「もしかしてそれは、彼女の病苦を見かねてのことだったんじゃないか、と想像するわけさ。回復の見込みもなく、ただ苦しみの中で死を待つばかりの彼女を間近に見つづけ、彼自身もさんざん苦しんだ挙句、いっそ今すぐに[#「いっそ今すぐに」に傍点]、自分のこの手で楽にしてやった方がいいのではないか[#「自分のこの手で楽にしてやった方がいいのではないか」に傍点]と、その方が彼女にとって幸せなのではないかと、そんなふうに思い、思いつめ、追いつめられ、とうとう実際の行動に結びついてしまい……」
[#ここから太字]……ああ、こんな。
今さらながらに江南は狼狽せざるをえない。
こんな偶然の一致が、いったい……。[#ここで太字終わり]
「いっそ今すぐに[#「いっそ今すぐに」に傍点]……ああ」
冷たい鉛の|塊《かたまり》を呑み込まされたような心地で、私は云った。
「安楽死≠フために、ですか。それが犯行の動機だったと」
「無責任な想像さ、あくまで」
そう云って、玄児はまた低く息をついた。
「だが、あながちでたらめな想像でもないんじゃないかと思う。彼が病室で母親を殺した方法も、きっと手近にあった紐状の凶器を用いての絞殺だったんだろう。寝間着の帯とか自分が巻いていたズボンのベルトとか、あるいは電気機器のコードとかね。
ぎりぎりまで追いつめた末の、最後はほとんど発作的な行動だったんだろうと思う。しかしそうして実際に母親を殺してしまったがために、彼の精神はある種の破綻[#「ある種の破綻」に傍点]を来たすこととなった。もともと彼の中にそう云った素因が潜んでいたのでは、とも考えられるが、仮にそうであったにせよ、それが顕在化する引き金になったのが去年の母親殺しだったことに変わりはない。
病院に身柄を拘束され、事件の湮滅のため精神病棟に閉じ込められ、治療を受けるうちにやがて、彼の精神状態は安定を取り戻していったかに見えたが、結果としてはそれはそう見えただけで、いったん生じた破綻が修復されるには至っていなかった。云ってみれば、彼の心にはその根深いところに、ある種の[#「ある種の」に傍点]暴走の回路[#「暴走の回路」に傍点]≠ェ出来てしまったんだな」
「暴走の、回路?」
「そう」
玄児はゆっくりと頷いた。
「だからさっき、あえて『殺人狂』なんていう言葉を使ったのさ。いったんその回路へのスイッチ≠ェ入ってしまうと、彼はみずからの行動をうまく制御できずに暴走してしまう。
首藤のおじさんを絞め殺したのも、このスイッチ≠ェ入ってしまったからだった。瀕死の重傷を負って苦しむおじさんの姿を間近に見て、彼はこう思ったんだよ。いっそ今すぐに楽にしてやった方がいい[#「いっそ今すぐに楽にしてやった方がいい」に傍点]。自分のこの手で殺してやった方がいい[#「自分のこの手で殺してやった方がいい」に傍点]。そうするべきだ[#「そうするべきだ」に傍点]。そうしなければならない[#「そうしなければならない」に傍点]……」
「……ああ」
「犯行後、彼は事故現場をあとにして独力で影見湖のほとりまで辿り着き、桟橋にあった舟で島へ渡ってきた。その間の彼の心中は知るすべもないが、とにもかくにも島に上陸すると、むかし屋敷に住んでいた頃の記憶を頼りにしつつ、まず〈十角塔〉を見つけて昇ってみたわけだな。そこでたまたまあの地震に遭い、バルコニーから転落してしまい……」
「ショックで記憶を失ったというのは?」
と、私は訊いた。
「あれは嘘だったのでしょうか」
「いや、嘘ではあるまい。声が出せないというのも芝居ではないだろう。十七年ぶりに戻ってきたこの屋敷の様子をあちこち見てまわるうち、徐々に記憶が戻りつつあることは確かだと思うんだがね。少なくとも意識を取り戻した当初は、本当に何がなんだか分からなくて、文字どおり茫然とするばかりだったんじゃないかな」
「…………」
「そんなところへ、今度は蛭山さんの事故が起こった。一昨日の午後、大怪我をした蛭山さんが担架で運び込まれてきた時のことを憶えているかい。あの時の彼の――忠教の反応は?」
「あの時の……」
私は懸命に記憶を|手繰《たぐ》り寄せる。
「蛭山さんを〈南館〉へ運ぶのに〈表の座敷〉の前を通ったところで、彼が出てきたんでしたね。担架の上の蛭山さんの姿を目に留めて、そして……」
突然その顔に強い驚きの色が浮かび、同時に大きく口を開いたものの満足な声が発せられることはなく……そう、彼は喰い入るような視線を怪我人に注ぎつづけていた。そこで蛭山が血泡を噴いて苦しみだし、その様子を見守っていた彼の喉からは掠れた呻き声が洩れはじめ……。
「首藤のおじさんの場合と同じさ」
と、玄児は云った。
「あの時、瀕死の重傷で苦しんでいる蛭山さんの姿を目の当たりにして、またしても彼の壊れた心の中でスイッチ≠ェ入ってしまったんだ。ただし、おじさんの場合とはずいぶんと状況が違っていた。つまりあの時は、まわりに多くの人目があったという……」
「だからスイッチ≠ェ入ってもすぐには行動を起こさなかったと?」
「そういうことだ。去年の夏に母親を殺してしまったあと、その犯人として病院に身柄を拘束された経験もまた、彼の心の深いところに刷り込まれているわけなんだろう。苦しんでいる人間を楽にしてやることは必要だが、それはできるだけ誰にも知られないよう、咎められないように実行しなければならない。そんな教訓≠ニなってね」
「だから、夜遅くになるのを待って蛭山さんを殺しにいったということですか。しかも、隣室でうたた寝をしていたしのぶさんに気づかれないよう、現場の出入りにはあの物置の隠し扉を使って……」
「凶器にはやはり、その場にあった蛭山さんのベルトを使ってね、それまでの二件と同様に首を絞めて殺した。どこまで意識的にそのような行動を取ったのかは、しかし微妙なところだと思う。犯行自体は発作的な衝動に駆られてのものだが、そこに半ば無意識のレヴェルで、過去の経験や教訓≠ノよる抑制が働いて……と、そんなふうにも考えられる」
玄児の説明にある程度の納得をもって頷きつつ、「では」と私は次の質問を差し出した。
「望和さんの場合は? 彼女は首藤さんや蛭山さんのように大怪我をしてはいない。不治の病に冒されてもいません。なのに、どうして」
「それは――」
玄児はほんの少しだけ迷いを見せたけれども、すぐにこう答えた。
「それはね、望和叔母さんが死にたがっていたから[#「望和叔母さんが死にたがっていたから」に傍点]、じゃないかな」
「死にたがっていたから……」
[#ここから太字]……死なせて。[#ここで太字終わり]
「清の早老症を自分の責任だと思い込んで、自分を責めつづけて……君も見ただろう。叔母さんはいつもああやって、誰かれ構わずに訴えていた。わたしが代わってやりたい。わたしがあの子の代わりに死んでしまいたい。お願いだからわたしを、あの子の代わりに死なせてくれ、と」
[#ここから太字]もういいから、楽にして……殺して。[#ここで太字終わり]
「昨日の昼過ぎに、〈東館〉の舞踏室で叔母さんと会った時のことはもちろん憶えているね。あの時、あの部屋の衝立障子の後ろに忠教がいたことも」
「ええ、それはもちろん」
「俺たちがそれに気づいた時の、彼の様子はどうだった。ぐったりと疲れきって、蒼白な顔で床に座り込んで……あれは、何かひどいショックを受けてああなったようには見えなかったか」
[#ここから太字]……そう。[#ここで太字終わり]
「――確かに」
[#ここから太字]そうだ、と江南は考える。
だから彼は、きっと……。[#ここで太字終わり]
「老朽化した伝声管の悪戯で、離れた部屋の話し声が洩れ伝わってくることがあるのは知っていたっけね。あの一件の直前、忠教がいなくなっていた〈表の座敷〉で、俺と清は叔母さんの声を聞いたんだ。清を探しまわっている声、それから誰かを相手に、いつものように『わたしを代わりに……』と訴えている声を。その相手がつまり、あの時あそこにいた忠教だったということさ」
「なるほど。ですが、だからと云って……」
「それで彼の中のスイッチ≠ェ入ってしまった、とは考えられないかい。瀕死の重傷を負ってはいなくても、不治の病に伏してはいなくても、目の前に『いっそ死にたい』と苦しんでいる人間がいる。しかも、これは忠教の知るところじゃないかもしれないが、望和叔母さんは〈ダリアの祝福〉を受けた人間だった。病気では死なない。自殺も出来ない。いくら死にたくても死ねないという、そんな苦しみの中にいた人間だったわけで……」
「だから彼は、望和さんも『いっそ自分のこの手で楽にしてやる』ことにした、と?」
「考えられない話じゃあるまい。叔母さんが望んだのも、云ってみれば一種の安楽死≠セったんだから。肉体的な苦痛ではなく、心理的・精神的な苦痛の解消のみを目的とした安楽死≠ウ。忠教の狂える心はそう受け止め、スイッチ≠ェ入ってしまったんだよ。――で、夕刻になって彼はこっそり叔母さんのアトリエを訪れ、犯行に及んだ。ここでもやはりまた、その場にあったスカーフを用いて、壁画の制作に熱中していた叔母さんの首を絞めて……。アトリエの場所は、前夜に〈北館〉をうろうろしていて見つけたのを憶えていたんだろう。叔母さんがそこに閉じこもって絵を描いていることは、舞踏室での俺たちの会話を衝立の後ろで聞いていて知ったのかもしれない」
「――はあ」
「納得しがたいかな」
「――いえ、分ります」
私はためらいがちに頷いて、
「分るような気もしますが……」
すると玄児は「ふん」と低く鼻を鳴らし、
「しかしね、どうだい」
と、私に問いかける。
「犯人は何故、放っておいても程なく死ぬと分っていた蛭山さんをわざわざ殺したのか。何故そんな無意味な殺人を行なったのか。――一番の謎≠ナあると君も認めていた、動機に関するこの問題が、これで氷解するだろう」
「ああ、それは」
「もうすぐ死ぬと分っている人間を殺す必要は、普通ない。なのに、犯人は殺した。ということはつまり、犯人はその人間がもうすぐ死ぬとは分っていなかったんじゃないか。――確か俺はそういう解釈を述べたと思うが、あれはまったくの間違いだったことになる。真相はその逆で、もうすぐ死ぬと分るような重傷を負っている姿を見たからこそ[#「もうすぐ死ぬと分るような重傷を負っている姿を見たからこそ」に傍点]、犯人はその人間を殺した[#「犯人はその人間を殺した」に傍点]。云い換えれば、放っておけば程なく死ぬような状態だったからこそ[#「放っておけば程なく死ぬような状態だったからこそ」に傍点]、蛭山さんは殺されねばならなかった[#「蛭山さんは殺されねばならなかった」に傍点]、というわけだな。
同様に、望和叔母さんについてはこんな云い方ができるだろう。放っておいたら決して死なない[#「放っておいたら決して死なない」に傍点]、けれども本人は切実に死にたがっている[#「けれども本人は切実に死にたがっている」に傍点]。だからこそ彼女は殺さねばならなかった[#「だからこそ彼女は殺さねばならなかった」に傍点]、と」
「…………」
「それからね、中也君、君が一貫してこだわりつづけてきた例の『抜け穴の問題』も、忠教が犯人だとすれば、きれいに片がつくだろう?」
「そうですね。それは確かに・」
十七年前までこの屋敷の、しかも〈南館〉のあの部屋に済んでいた忠教なら、当然あの物置の隠し扉の存在を知らなかったはずがない。一方でしかし、十七年前に屋敷を出ていって、その後に再建された〈北館〉を今回初めて訪れた忠教が、暖炉の奥にあんな秘密の抜け穴が造られているのを知っていたはずがないのだ。浦登玄遙が犯人ではないかと疑った時と、これはよく似た理屈である。
結局のところこの問題は、一番最初に考えたとおり、「抜け穴の存在を知っていたか、知らなかったか」という知識の有無[#「知識の有無」に傍点]にこそ解決の焦点があったことになるわけか。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
「市朗の目撃証言についても、これで筋の通った説明がつく」
と、玄児はさらに話を続けた。
「市朗の?」
意味を取りかねて、私は目をしばたたいた。
「それは昨夜の、〈赤の広間〉に逃げ出してきた何ものかの顔を一瞬だけ見たという……」
「むろんその件さ」
玄児は軽く頷いて、
「首実検の結果、市朗が目撃した曲者は、彼がここにきてから会った人間の中にはいないと分った。にもかかわらず彼は、その曲者は『見憶えのある顔』だったと云う。証言の信憑性自体に問題があるのかとも疑ってみたが、どうやらそれは濡れ衣だったようだな」
「――と云いますと」
「分らないかい」
「…………」
「つまりだね、中也君。間違いなく市朗は昨夜〈赤の広間〉で、『見憶えのある顔』の曲者があの窓を打ち破って逃げ出してくるのを見ていたんだよ。ただし、『見憶えがある』と云っても、実際に本人と会ってその顔を見たわけじゃない。その人物の面影を宿した、これ[#「これ」に傍点]を」
と、玄児はシャツの胸ポケットを指先で弾いてみせた。
「この写真に写った忠教の昔の顔を[#「この写真に写った忠教の昔の顔を」に傍点]、市朗は事前に見ていたのさ[#「市朗は事前に見ていたのさ」に傍点]。それが記憶の隅に残っていたがために、市朗自身もよく自覚できないまま、ああいった証言が生まれたんだな」
「ははあ、なるほど」
と、これには私も素直に納得するしかなかった。
「十七年前に屋敷を出ていった当時の忠教の顔をはっきりと知る人間は、今や少ない。昔の使用人はほとんど解雇されてしまっているしね。野口先生の記憶は曖昧だというから、他に憶えている可能性があるのは、柳士郎と美惟、望和、そして鬼丸老、この四人だけだろう。が、美惟叔母さんはあのとおりの状態だし、望和叔母さんは殺されてしまったから確かめるすべもない」
「鬼丸老は気づいていないのでしょうか」
「まだ一度も彼に会っていないんじゃないかな。もっとも、あの人のことだ、仮に気づいていたとしても、こちらから訊かない限り何も云わないんだろうがね。柳士郎は、江南という苗字には何の反応も示さなかったけれども、その懐中時計のことを知って少なからず気懸かりを抱いたふうだった。もしかしたらすでに、不意の闖入者が忠教である可能性に思い至っているのかもしれないが……」
そこまで語ったところで玄児はいったん言葉を休め、腰に両手を添えて背筋を伸ばした。外では相変わらず風の音が騒がしい。時折り激しい雷鳴が轟き渡ってもいる。
部屋の中央に発つ私のそばから何歩か離れると、玄児はちらりとまた一瞬、入口の扉の方へと視線を飛ばした。この時は私も、その視線を追ってそちらを振り返ってみたのだけれど、扉の外にはただ廊下の薄暗がりが見えるばかりだった。やがて――。
「ところでね、中也君」
と、玄児が口を開いた。
「首藤夫妻は忠教を、柳士郎がむかし静に産ませた隠し子だと思って今回の計画を立てたわけだが、この件に関しては、俺はまったく違う考えを持っているんだよ」
「はい?」
私はちょっと意表を衝かれた気分で、
「まったく違う……どんな意見を」
「昨夜、蜈蚣騒ぎで気を失った君を俺の寝室に運んだあとのことだ。俺は〈東館〉の座敷を覗きにいって、そこで彼に――忠教に少し質問をしてみたんだが、その際に初めて気がついた。彼にはある肉体的特徴[#「ある肉体的特徴」に傍点]があって……」
「そう云えば、ちらっとそんな話が出ましたっけ」
今日未明に玄児のベッドで目覚めて以降の記憶をのろのろと探りつつ、私は訊いた。
「彼のどこに、どんな特徴があったのですか」
[#ここから太字]……違う。[#ここで太字終わり]
「足だよ」
険しい眼差しをみずからの足許に落としながら、玄児は答えた。
「彼の両足にはね、何やら外科手術を受けた痕らしき古い傷があるのさ」
「外科手術の?」
[#ここから太字]これも違う――と、江南は確認する。
そんな肉体的特徴は[#「そんな肉体的特徴は」に傍点]、僕にはない[#「僕にはない」に傍点]。僕の足にはそんな手術を受けた痕などない[#「僕の足にはそんな手術を受けた痕などない」に傍点]。[#ここで太字終わり]
「見たところあれは、足指の形成手術の痕のようだった。もっと具体的に云うなら、もともと何本かの指が癒着していたのを[#「もともと何本かの指が癒着していたのを」に傍点]、切り離して五本にしたような[#「切り離して五本にしたような」に傍点]」
「ええっ」
私は驚きを禁じえなかった。
「それはつまり……」
「忠教には生まれつき、両足の指に畸形があったのさ。恐らく、初代玄遙と同じような、ね」
「玄遙氏と同じ……三本指の[#「三本指の」に傍点]?」
〈惑いの檻〉の鉄扉の向こうに見たあの異様な足跡をまざまざと思い出して、私は身を震わせた。
「じゃあまさか、彼は」
「玄遙の子なんだよ[#「玄遙の子なんだよ」に傍点]、忠教も[#「忠教も」に傍点]」
凍えるような声音で、玄児は吐き捨てた。
「そんな……まさか」
玄遙の狂気じみた暴虐は〈ダリアの血〉を引く娘たちだけに留まらず、使用人の静にまで及んでいたってことさ。その結果、生まれたのが忠教だった。あいつと俺とはね、だから、呪わしい化物の血を分けた兄弟なのさ」
浦登玄遙と諸井静の間に生まれた子……あの青年が? 忠教が? ――ああ、しかし。
しかし――と、私は若干の居心地の悪さを覚えるのだった。
昨日の昼過ぎ、舞踏室の衝立障子の後ろに坐り込んでいた彼を見つけた際、どろどろと低く轟く雷鳴の中で感じたあれ[#「あれ」に傍点]は? あの時のあの、一瞬の閃きと戸惑い。いつかどこかでこの顔を見た憶えがあるような[#「いつかどこかでこの顔を見た憶えがあるような」に傍点]……あの妙な既視感は、いったい何であったことになるのか。
「俺にできる解説は以上だ」
と云って、玄児は長い溜息を落とした。
「野口先生と征順叔父さんには大まかなところだけを説明して、とりあえず忠教の様子に注意を払っていてくれるよう頼んである。スイッチ≠ェ入りさえしなければ、あいつはあのとおりおとなしくしているからね、当面は大した危険があるとも思えないが……」
……そうだろうか。
黙って頷きつつも、何故かしらこの時、私は漠然とした胸騒ぎを抑えられなかった。
そうだろうか。本当に当面、大した危険はないのだろうか。
「さて――と」
私の不安をよそに、玄児は低くそう呟いたかと思うと、開けっ放しになっている入口の扉の方に向かって一歩、足を踏み出す。そして――。
「そろそろ入ってこられてはいかがですか」
いきなりそんな言葉を、廊下の薄暗がりめがけて投げかけたのである。
「外で立ち聞きを続けるのも、いい加減お疲れでしょう。ねえ、お父さん」
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
玄児の呼びかけに応えて、かつっ、と硬い音が響いた。そうしてやおら、入口の扉の向こうに人影が現われる。長身に真っ黒なガウンをまとい、右手には黒い杖を握り……その杖の先で軽く床を打ち鳴らして、悠然とこちらに進み出てくる。
紛れもなくそれは、暗黒館当主、浦登柳士郎その人であった。
玄児が云ったように、これまでずっと廊下で私たちのやり取りを立ち聞きしていたのか。先ほどから二度にわたって聞こえたあの物音は私の空耳ではなく、彼の杖の音だったということか。
「視力が弱った分、耳は鋭くなっていてな」
室内に足を踏み込むと、柳士郎はそう云って私たちを|睥睨《へいげい》した。幾本かの蝋燭の炎が揺れるだけの薄明りの中で、病み衰えたその目に今、この場の情景がどのように映っているのかは知るよしもないが。
「壁越しにお前たちの話し声が聞こえてきた」
と、これは玄児に向かって、柳士郎が云った。
「誰も立ち入るはずのないこの部屋から、だ。気になって様子を窺いにくるのは当然だろう」
「そうですね」
玄児は動ずる気配もなく頷いて、
「あなたが隣の居間にいらっしゃることは、むろん承知の上でしたから。自分たちの声が聞き咎められるかもしれないことも、重々に」
「ほう。承知していて、すべてを私に聞かせてしまおうという腹だったのか」
「ご想像にお任せします」
柳士郎の目を真っ向から睨み返しながら、「ところで――」と玄児は言葉を接いだ。
「どのあたりから、あなたは話を聞いていらっしゃったのですか」
「中也君の謎解きもしっかり拝聴したよ」
と、柳士郎は答えた。地の底から響きだしてくるようなその低い声は相変わらずの威圧感に満ちていたが、どこかしらそこに虚勢めいたものを感じるのは気のせいだろうか。冷たく厳しく引き締められたその面持ちも、見ようによっては内心の動揺を懸命に取り繕っているふうに受け取れる。
「いや、君がなかなかの|慧眼《けいがん》の持ち主であることはよく分った」
柳士郎は視線を私のほうに移す。
「建築家の学生だということだが、進路を考え直してみてはいかがかな」
蒼白く彫りの深いその顔全体で、そして彼は笑う。白濁した双眸を大きく見開き、鼻筋に幾本もの皺を寄せ、口を左右に裂き広げ……何とも異様な、声なき笑い。
……ああ、これは。
私は身を竦ませながら、一昨日この主人との初対面の場で、これと同じ笑いを目の当たりにした時のことを――あのとき唐突に浮かんだ連想を――、今また思い出さずにはおれなかった。
これはやはり、そう、まるでこの夏たまたま|有楽町《ゆうらくちょう》の映画館で観た、英国製のあの怪奇映画――『吸血鬼ドラキュラ』の一場面であってもおかしくないような……。
[#ここから太字]……クリストファー・リーの? と、江南は今さらながら自問する。
テレンス・フィッシャー監督、クリストファー・リー、ピーター・カッシング主演の映画『吸血鬼ドラキュラ』が英国ハマー・プロダクションによって制作されたのは一九五七年。日本では翌一九五八年の八月に劇場公開されて[#「日本では翌一九五八年の八月に劇場公開されて」に傍点]興行的成功を収め……。
そうなのだ――と、江南は確認する。もちろんこれは、クリストファー・リーがドラキュラ伯爵を演じたあの映画のことであって……。[#ここで太字終わり]
「お認めになるわけですか」
気圧され、何も云えなくなってしまうそうになるのをどうにか踏みとどまり、私は切り返した。
「十八年前の九月二十四日夜、この部屋で浦登玄遙氏を殺そうとしたのはあなたである、と。同じ日に浦登卓蔵氏を、自殺に見せかけて殺したのもあなたである、と」
屋敷の主人は、すると一瞬にして表情から笑いを消し、
「ここで白を切ってみたところで、もはや意味があるまい」
淡々とそう答えた。
「仮に私がすべてを認めたとしても、この国の方ではとうに時効が成立している。私の罪が裁かれることはない。それに――」
柳士郎はおもむろに瞼を閉じながら、
「十八年前のあの時、私が最も恐れたのは美惟と望和の目だった。中也君、君も想像したようにね、誰よりもまずあの二人に対して、私は自分が殺人者であることを隠し通さねばならなかったのだ。多少の疑惑を抱かれるのはやむなしとしても、決してそれが確信になってほしくはなかった。たとえ彼女たちが、凶行に至った私の心情を十二分に理解してくれるだろうと分っていても、だ。どれほど非道な人でなしであったにせよ、二人にしてみればやはり、玄遙と卓蔵は実の祖父であり父だったのだから。
だからそう、予想だにしなかったあの時の玄児の目撃を、これ幸いとばかり自分のアリバイに利用しようと思いついたりもしたわけだが――」
柳士郎は瞼を閉じたまま、こっ、と杖で小さく床を打つ。
「しかし、その美惟は十六年前に美鳥と美魚を産んで以来、あのとおりみずから硬い殻の中に閉じこもりつづけている。恐らく今後もずっと、私に心を開くことはあるまい。その後、望和もまた別の形で心を病み、挙句に昨日、殺されてしまった」
「認めるのですね。確かにあなたが十八年前の事件の犯人であった、と」
繰り返し私が問うと、柳士郎は静かに両の瞼を開き、こわばらせていた口角にふと、自嘲めいたかすかな苦笑を滲ませながら、
「何故、とは訊かないのかね」
と云った。
「何故、この私が玄遙と卓蔵を殺そうとしたのか、とは」
「それは……」
「それもおおかた察しがついていると、そういうことなのかな」
と、柳士郎は私と玄児の双方を順にねめつける。玄児は無言で深く頷いた。私は何とも答えられずにいた。
柳士郎は「そうか」と呟き、左手を口許に当てて渇いた咳払いをする。それから改めて玄児の顔を見やりながら、
「私は、あの二人を」
そこまで云って、ふっと言葉を呑み込んだ。
「――いや、やめておこう。ここであの時の私の心中を、くだくだ述べてみたところで仕方あるまい。それこそお前たちの想像に任せるとしよう」
「あ、待ってください」
思わず口を開いたのは私だった。
「待ってください。――質問を」
「ほう」
柳士郎は片眉の端を鋭く吊り上げ、白濁した目をこちらに向けた。
「何かね、中也君」
「どうして十八年前、だったのですか。玄児さんが生まれ、カンナ夫人が亡くなって九年も経って……そんな時期になって、どうして急に」
「どうして急に、あの二人を殺す決意をしたのか、と?」
云って、柳士郎は口角にまた苦笑を滲ませる。
「昔のことだ。もう忘れたな」
「…………」
「と云いたいところだが、いや、忘れてはいない。忘れたつもりでいても、実は忘れてはいない。時とともに薄れたり消えたりするようでいて、実のところは薄れも消えもせず、しっかりと心のどこかに残っている。何かの弾みでそれが、恐ろしいほどの鮮明さで眼前に浮かび上がってくることもある。少なくとも私の経験においては、記憶とはそういう厄介なものだ」
玄児が何か云いたげに唇を震わせるのが、視野の隅に映った。「記憶とは」という問題に関しては、彼にはきっと彼自身の経験において[#「彼自身の経験において」に傍点]思うところがあるのだろう。そしてそれは、今の柳士郎の弁とは必ずしも一致しないものであるのに違いない。私はそう察した。
「十八年前のあの日、あの夜……」
再び瞼を閉じながら、屋敷の主人は語った。
「それに先だって玄児を〈十角塔〉の座敷牢から出してやることにしたのは、成長するに従ってあの子の顔に、死んだカンナの面影が色濃く表われはじめたからだった。カンナの面影とはつまり、生き写しと云っても良いほどに似ていると云われた、若かりし日のダリアの面影でもあったわけだが」
若かりし日の、ダリアの。
私は思い浮かべる。一昨夜、〈宴の間〉で見たあの肖像画を。さらには今日未明、〈ダリアの居間〉で見たあの肖像画を。二枚の油彩に描かれた妖艶な異国の美女、ダリア。その面影を色濃く映した少年――ああ、それは……。
「そんなあの子をあのままあそこに閉じ込めておくのが忍びなくなった、という気持ちの変化が、やはりあったのだよ。だが同時に、あの頃すでに私は、玄児の本当の父親が玄遙であるということを確信してもいた。それまでは長らく、カンナを|陵辱《りょうじょく》してあの子を産ませたのは卓蔵だと思い込まされていたのだがね、ある事実[#「ある事実」に傍点]を知ったことが契機となって、真相はそうではなかったと悟ったのだ」
「ある事実?」
私の問いかけを無視して、柳士郎は続ける。
「二人への殺意は、玄児を塔から解放した時点で固まっていたように思う。私はカンナを愛していた。彼女が死んでからもずっと……あの頃も、そして今でも、思いは変わらない。実の祖父であり、なおかつ父でもありながら、玄遙は彼女を陵辱し、罪の子を孕ませ、あまつさえその出産が原因となって彼女は死んでしまったのだ。カンナのために復讐を、と思った。むろんそれは私自身のための復讐でもあったわけだが、一方で私は、|義妹《いもうと》の美惟が自分に思いを寄せていることを知り、いつしか彼女に心引かれるようにもなっていた。それだけによけい、憎むべき玄遙と卓蔵、二人をいっそ亡き者にしてしまえばという気持ちが膨らんでいき……」
柳士郎は瞼を開け、白濁した目で宙を見据えながら重い溜息をつく。そして――。
「もう良いだろう、このくらいで」
苦々しげにそう云いつつも、さらに言葉を続けるのだった。
「十八年前のあの夜、十一時半を少し過ぎた頃だったか、私はこの第二書斎にいた玄遙を訪れた。折り入って話があるのだが、と云ってな。手には、卓蔵の部屋から持ちだしてきた火掻き棒を隠し持っていた。玄遙は私の殺意を察知する気配もなく、それ、そこの安楽椅子に坐って、泰然とパイプをくゆらせていた……」
[#ここから太字]……そうだ、と江南は思い返す。十八年の|時間《とき》を超えて視点≠ェあの夜に飛んだ際、この部屋で目撃したあの光景を。
――何の用かな。
と、玄遙が嗄れた声で問うた。
――折り入って話がある、とは。
――立っていただけますか。
と、もう一人の人物[#「もう一人の人物」に傍点]ん柳士郎は云った。
――立って、こちらに来ていただけますか。[#ここで太字終わり]
「私は玄遙を椅子から立ち上がらせ、そうしてそこに――」
と柳士郎は、先ほど私が傷つけた藤沼一成の絵を杖の先で指し示す。
「あの時、このどんでん返しの扉は、額縁だけの面[#「額縁だけの面」に傍点]をこちらに向けて閉まっていた。その前に玄遙を立たせて……」
[#ここから太字]……柳士郎は脇へと退き、額縁の横手に造り付けられた燭台の蝋燭を吹き消した。
――こんなもの[#「こんなもの」に傍点]が何故、ここにあるのか。
と、柳士郎は云った。
――こんな、何も入っていない額縁が。
玄遙は「ん?」と眉をひそめ、
――何をまた、急に。
――分っておりますよ、もちろん。
満足げな微笑を滲ませながら、柳士郎は頷いた。そして、たったいな炎を吹き消したばかりの燭台に右手を伸ばし……。[#ここで太字終わり]
「私は扉を開け、裏側に隠されていた鏡の面をこちらに向けて見せた。玄遙はたいそう驚き、うろたえていたよ。あの男は己だけの秘密にしていたつもりだったようだが、私は以前からその仕掛けに、その鏡――〈ダリアの鏡〉の存在に気づいていたのだ。玄遙が夜な夜なこの部屋でその前に立ち、恐らく亡きダリアがそうしたであろうように、そこに映る己の姿を確かめては落胆の嘆息を繰り返していたことにもな。
ダリアによって己にもたらされた不死≠、むろん玄遙は信じていたし、それに関してダリアが残した言葉の数々を信じてもいた。〈不死性〉の段階が上がっていけば、いずれこの鏡に己の姿が映らなくなる時が来る、とも。ゆえにあの男は、焦ってもいた。いったいいつになれば、そのような成就≠フ時が訪れるのか、と。扉の表側にある何も入っていない額縁[#「何も入っていない額縁」に傍点]は、いつ叶うとも知れぬ成就≠疑似体験するために考案された姿の映らぬ姿見≠セったのだろうな。
だからあの夜、私はまず玄遙に〈ダリアの鏡〉を見せつけ、相も変わらずそこに年老いた己の姿が映りつづけていることを確認させ、そうやってあの男の心を存分にいたぶってやろうと考えたのだ。直接ダリアから〈血〉を受けてもう何十年も経つというのに、いまだにあなたはこう[#「こう」に傍点]なのだ。この分では、あなたの望む成就≠ネど夢のまた夢ではないか。――と、そんな具合に。
初めは驚き、うろたえていた玄遙だが、間もなくひどく怒りだした。あの怒りはしかし、明らかに激しい動揺の徴だった。私はすかさず、隠し持っていた火掻き棒で玄遙の頭を殴りつけた。抵抗らしい抵抗もできぬまま、あの男は床にくずおれた。何とも呆気ない、呆気なさ過ぎるほどの復讐劇だったよ。翌日になって、確かに死んでいたはずのあの男が息を吹き返した時にはさすがに驚いたがね、あのおぞましい復活≠惑い≠ニ断じて〈檻〉に葬ってしまうことには、いささかの迷いもなかった」
くつっ[#「くつっ」に傍点]……と喉の奥で笑ったかと思うと、柳士郎は杖の先を私に向けながら、
「玄遙を襲ったあとの行動は、ほぼさっき中也君が語ったとおりだ。卓蔵の方はここへやって来る前に殺し、すでに部屋の扉に吊るしてあった。遺書はむろん、あらかじめ用意しておいた代物だ。もとより当局に操作を委ねるつもりはなかったから、私が卓蔵の筆跡を真似てでっち上げた。ヴェルレーヌの詩集にそれを挟んでおいたのは、あの愚劣な男には上等すぎるかとも思ったのだったが」
柳士郎はそこで口を噤み、とともに場は冷え冷えとした沈黙に包まれた。
玄児はさっきからずっと、腕組みをして押し黙ったままでいる。私は云うべき言葉が見つからず、足許に視線を落とす。外で吹きすさぶ風の音だけが、十八年分の埃の匂いが染みついた〈開かずの間〉の空気を震わせつづける。
「そう云えば一つだけ、今ここで正しておかねばならないことがある」
と、やがて柳士郎が沈黙を破った。右手に握った杖の先で、そして再び〈ダリアの鏡〉に描かれた幻想画を指し示し、
「その絵だ。その、藤沼一成が描いた絵についてなのだがね」
私ははっと目を上げる。玄児も同様の反応であった。柳士郎は続けて、
「それはね私が藤沼画伯に頼んでそこに描かせたものではない」
「――と云いますと」
玄児がしばらくぶりに口を開いた。柳士郎は杖の先をそろりと床に下ろしながら、
「お前が考えたとおり、この家に伝わる〈ダリアの鏡〉の存在自体をなくしてしまうことに、私は強い抵抗を覚えざるをえなかった。私もまた、魔女ダリアが夢見た暗黒の夢に魅入られ、その深みに取り込まれてしまった人間の一人なのだから。
だからその鏡は、取り外したり割ってしまったりはせずに、そのままの形でそこに残すことにしたのだ。この部屋を〈開かずの間〉として封印し、〈ダリアの塔〉にも鍵を掛けて自由な出入りを禁ずることにすれば、誰も気づく者はいないはずだ、という計算もあった。ところが――。
あれは十五年前のことになるか。ちょっとした縁があって藤沼画伯を屋敷に招いた際、何の予備知識も持たぬはずの彼の方から、いきなり云いだしたのだよ。この家の〈西館〉に、何か|謂《いわ》れがあって封印されている部屋があるだろう、と。できればその部屋を一度見てみたいのだが、と」
[#ここから太字]……藤沼一成。
江南はみずからの記憶を探る。
幻視者、藤沼一成。その心の目≠ノ映る非現実の風景を、映るがままに描いたと云われる不世出の幻想画家。岡山の山中に建つ|水車館《すいしゃかん》にはかつて、息子の藤沼|紀一《きいち》によって、ほとんどすべての一成作品が収集されていたというが……[#ここで太字終わり]
「藤沼画伯の絵には何とも奇妙な魅力があってね、幻視者とまで呼ばれるその特異な才能に、私は以前から大いに心を惹かれていたものだから、突然の話に驚きながらも、彼をこの部屋に案内することにしたのだった。すると画伯は、一歩ここに足を踏み入れるなり、額縁だけの面[#「額縁だけの面」に傍点]をこちらに向けてあったその隠し扉に目を留めて、この裏側には大きな鏡があるだろう、と云い当ててしまったのだ。呆気にとられる私に、そして彼は有無を云わさぬ調子で申し出た。その鏡に自分は絵を描いてみたい、とな。
だからつまり、その絵は私が藤沼画伯に頼んで描かせたのではない。画伯自身が云いだしてそこに描いたものなのだよ」
[#ここから太字]……藤沼一成は。
江南はみずからの記憶を探る。すると、そこにまたしても、これが本当に僕自身の知識なのかと訝しみたくなるような情報が
藤沼一成の没年は一九七一年[#「藤沼一成の没年は一九七一年」に傍点]。
流れ込んできて、江南に答え≠確認させるのだった。
仮にこの[#「この」に傍点]現在≠ェ僕の現在≠ニ同じ一九九一年だったとすれば、柳士郎が一成を暗黒館に招いた「十五年前」は一九七六年ということになる。だがその年にはもう、一成は死んでいたはずなのだ。実際にはしかし、彼らの現在≠ヘ一九五八年で、その時点で一成はまだ存命中である。だからこそ彼らは皆、一成を過去の画家≠ナはなく、今なお活動中の画家≠ニして語るわけで……。[#ここで太字終わり]
「そうして藤沼画伯が、数日の間ここに籠もって一気に描き上げたのがこの大作だった。一目見て、私は震撼したよ。いったいあなたは何を知っているのか、と喰ってかかった記憶もある。画伯はしかし物憂げに首を振って、ただ分ったのだ、と。ただ見えただけだ、ただここにこの風景を描きたくなった、それだけなのだ……と」
「――ははあ」
玄児が感じ入ったような声を洩らした。
「幻視者、藤沼一成。彼がそう呼ばれるのは、確かにそれだけの力≠ェ彼にはあるからだという、そういうことですか」
屋敷の主人は何とも答えず、私が絵の具を削ぎ落として傷物にしてしまった藤沼一成の作品の、何とも暗示的な幻想風景を、しばし身じろぎもせずに見つめていた。が、そのうち渇いた咳払いをまた一つしたかと思うと、「さて――」と呟いて絵から目を逸らす。
「十八年前の事件に関する真犯人の告白は、ここまでにするとしよう」
そう宣言した後、柳士郎は「中也君」と私の方を振り返り、
「君が持っているそれを――その時計を、ちょっと見せてくれるかね」
「これを、ですか」
私は右手に握り込んでいた例の懐中時計の鎖を左手で摘み、おっかなびっくりで柳士郎に向かって差し出す。杖で足許を探りながら何歩か進み出てきて時計を受け取ると、柳士郎はそれを顔の高さまで持ち上げて目を寄せ、
「――やはり」
と声を震わせるのだった。
「この懐中時計は亡きダリアの形見の品でね、〈ダリアの時計〉と呼ばれていた。そもそもは彼女が日本へ来る時、本国から持ってきたものだという謂れがあって、ダリアの死後はカンナが譲り受け、所持していたのだ」
語りながら柳士郎は、〈ダリアの鏡〉に描かれた不思議な風景に再び目をやって、
「確かにこの時計を私は、十七年前に諸井静がこの屋敷を出ていく際、持たせてやった。裏のイニシャルは後になって彫り込まれたもの……」
十五年前に初めてここへ招かれた藤沼一成が〈ダリアの時計〉の存在を知るはずはなかったのだ、ということか。にもかかわらず一成は、まるでその実物を見てきたかのように、あの鏡にあんな絵を描いてしまったのである。それを目にした柳士郎が「震撼した」と云うのも無理はない。
「これを、〈十角塔〉から落ちたあの青年が持っていたというのだな」
「そうです」
と、玄児が答えた。
「最上階のバルコニーに落ちていたのを俺が見つけて……彼自身も認めましたよ。これは自分の持ち物であると」
「なるほど。イニシャルはT・E。静があのあと再婚した相手が、|江南《えなみ》という男だったわけか。それであの者は忠教だと……そして、蛭山や望和を殺した犯人も彼なのだと?」
「ええ。すべてはさっき、あなたが廊下でお聞きになったとおりです」
「なるほどな。――あの者には今朝、夜が明ける前に会ってきた。確かに記憶はいまだ不確かで、口も利けない様子だったが、あれは……」
その先の言葉は濁してしまい、柳士郎は時計を持った左手を下ろして、こんっ、と杖を鳴らす。そうして云った。
「ともあれ、蛭山や望和を殺した犯人もこの私ではないかという中也君の疑いを晴らしてくれたことには、大いに感謝しよう。しかし――」
「何でしょうか」
「しかしお前は一つ[#「しかしお前は一つ」に傍点]、どうしようもない誤解をしている[#「どうしようもない誤解をしている」に傍点]」
「――誤解?」
玄児は瞬間、痙攣のように頬を引き攣らせ、
「どういうことです。いったい何が」
柳士郎は玄児の刺すような眼差しから顔を背けながら、「それは」と答えかけたが、軽い咳払いとともにその台詞を中断し、
「場所を移そう」
と云い直した。
「私の部屋へ。ここは埃が多い。立ち話にももう疲れた」
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
云われるままに私たちはかつての第二書斎を出、その北側に隣接する主人の今へと移動した。
この間、玄児は険しい表情で一言も口を利かずにいた。今さっきの柳士郎の言葉の意味を考えつづけているのに違いない。
――しかしお前は一つ、どうしようもない誤解をしている。
もちろん私もその意味が気に懸かりはしたけれど、一方で何故だろうか、柳士郎がそのように云い出すのを自分は待ちかまえていたような気もする。現在の事件の犯人は江南忠教だという説明を玄児から聞かされ、だいたいにおいてそれに納得はしながらも、どこかに何か、まとわりついて消えない違和感があったからだ。だから……。
玄児はどうしようもない誤解をしている。
柳士郎の指摘は、恐らく正しい。私にはそう思える。何をどのように誤解しているのか、そのはっきりとした形は、見えそうでいてなかなか見えてこないのだが――。
初めて足を踏み入れるその部屋の中央には、正八角形の黒いテーブルが据えられ、赤い布張りの肘掛け椅子が何脚か、それを取り囲んでいた。電灯の光は弱々しく、隣室の蝋燭の明りと大差のない薄暗さである。その上、あるいは長引く荒天の影響で電力の供給が不安定になっているのだろうか、ちかちかと断続的な明滅を繰り返してもいる。
柳士郎は私たちを椅子に掛けさせると、自身は奥の壁際におかれていた黒い革張りのソファに深々と腰を下ろす。杖を身体の正面に立てて両手で柄を握り、白濁した両の目を私たちに向けながら、
「さて、話さねばなるまい」
おもむろにそう口を切ったところで――。
ちりりん……と、どこかで音が鳴った。
聞き憶えのある、これは鈴の音だ。いつどこで聞いたのだったか。確か同じような音を、この屋敷に来てから一度ならず……。
ちりん、と続けて鈴が鳴る。この部屋の中で出はない。正面奥に見える黒い扉――続き間の書斎に通じるあの扉の向こうから。
伝声管か、と私は思い当たった。
一昨日の夕刻、重症の玄関番が運び込まれた〈南館〉のあの部屋で、私はこの音を聞いたのだ。昨日も同じあの部屋で聞いた。扉横の壁に取り付けられた茶色い朝顔=Bその情報にぶら下がっていた鈴。――通話の相手を呼び出すための、あの伝声管の呼び鈴ではないか。
柳士郎は何も云わずにソファから立ち上がり、奥の書斎へと姿を消した。あちらにきっと、〈南館〉のいくつかの部屋と通じ合う伝声管の通話口が集まっているのだろう。
しばらくして居間に戻ってきた屋敷の住人は、心なしか今しがたよりも冷たくこわばった面持ちで、再びソファに腰を下ろす。そのまま一秒、二秒と無言でいた後、
「小田切からの報告だった」
低く溜息混じりにそう告げた。
「鶴子さんから?」
玄児がすかさず|質《ただ》した。
「何か不測の事態でも」
「〈南館〉に落雷があったらしい。何十分か前にそのせいで電気が落ちてしまい、あたふたしているうちにさっき、火が出ていることに気づいたと」
「火が?」
叫んで、玄児は椅子から腰を浮かせる。
「建物が燃えているのですか」
柳士郎はしかし、ソファに身を沈めたまま微動だにせず、
「慌ててみても仕方なかろう」
すげなくそう言い放った。
「〈南館〉が全焼してしまえば、蛭山の死体も灰になる。後々のことを考えれば、むしろそれは好都合というもの」
「そんな……何を」
「火災自体はむろん憂うべき事態だが、実際問題として、いったん火の手が上がってしまったらこの強風だ、よほど迅速に対処しない限り、我々の手では消し止めようがあるまい」
「――放っておくのですか」
「対処は任せると云った。が、無理だと思ったらすぐに〈北館〉へ避難するようにとも命じた。石造りのあの建物までは火も燃え広がるまい」
そう述べてから柳士郎は、みずから「いや」と小さく首を振り、
「いっそのこと屋敷中に燃え広がって、すべてが灰になってしまうのも良いか」
独りごつように履き落として、弓のように唇の両端を吊り上げるのだった。
〈南館〉炎上の方に、私も玄児と同様、思わず椅子から腰を浮かせていたのだが、屋敷の主人のその言葉を聞き、その狂的な笑みを見て、何だか身体中の力が抜き取られていくような気分になった。
柳士郎の現在の胸中を、正確に推し量ることは難しい。だが、そこにはたぶん、彼自身にも制御できないような虚無感が広がりつつあるのではないかと思う。不用意に覗き込もうものなら、覗き込んだこちらの心までがその深淵に引きずり込まれてしまいそうな……。
「あなたは――あなたは混乱している」
玄児が喘ぐように云った。
「何でそんな……」
「そんな? 何かな」
「何でそんな、投げやりな態度を取るのですか。もはや何がどうなろうと構わない、知ったことじゃない、とでも」
「――それはどうかな」
「あなたの過去の罪が裁かれることはない。さっきそう云いきったではありませんか。たとえ十八年前の事件の犯人があなたであると今になって暴かれようとも、あなたの地位や立場が脅かされることはない。確かにそうでしょう。なのに、そんなふうに捨て鉢になるのは――それは、ご自分の肉体の状態に対する不安、不信のせいですか」
「白内障の悪化、老化の進行……その辺のことを云いたいのか。――ふん」
柳士郎は鼻白んだように眉をひそめ、
「このところの憂鬱の一因としてそれがあるのを否定はしないが、だからと云って、お前が考えるような意味で捨て鉢にはなっていない。そういうレヴェルの話では、これはないのだ。分るか」
「…………」
「先刻も云ったが、私は――私もまた、魔女ダリアの暗黒の夢の深みに取り込まれてしまった人間の一人だ。〈ダリアの祝福〉によってもたらされる不死≠フ実在を、私は信じている。〈ダリアの血〉を受けるか〈肉〉を食すかした者は不死≠える。〈檻〉の中で今なお惑いつづける玄遙の存在が、その何よりの証左だとも云えるだろう。
私は信じて疑わない。疑うことなど、よもやできない。できるはずがないのだ。――分るか。いくら老化が進行しようが、目が見えなくなろうが歩けなくなろうが気が狂おうが……それでも私たちは死なないのだ[#「それでも私たちは死なないのだ」に傍点]。誰かに殺されるか、致命的な事故に遭うしかしない限りは」
「…………」
「しかしはて? と私はこの頃、考えるようになった。ダリアが〈闇の王〉と契約を結んで得たとされるこのような不死≠ヘ、果たして〈王〉の祝福であったのかと。それはあるいは祝福ではなく、悪意に満ちた呪いだったのではないかと」
「呪い、ですか」
「死なない、しねない、死ぬことが許されない……そんな呪いだ」
……呪い。
まるで彼自身が何かに呪いをかけようとしているかのような暗黒館当主の言葉を聞きながら、私は思わず心の中で呟いていた。
いつ果てるとも知れない……呪い。
「――ふん。お前の云うとおり、私は少々混乱しているのかも知れないな」
柳士郎は「しかし」と続けてまた、唇の両端を吊り上げる。両手で握っていた杖を片手に持ち替え、かつかつと床を鳴らしながら、
「いっそすべてが灰になってしまえば、というのはあながち冗談でもない。このままずるずると、老いはすれども死ぬことの許されぬ不死≠生きつづけるよりも……と、そう思うわけだ。かつてダリアが自らの不死の生≠ノ終止符を打とうと決めた、その時の想いとはまた別の次元でな」
「どういうことですか」
と、玄児が塔。柳士郎は杖の動きを止め、
「この身もこの心もすべて灰になって、そこから復活≠果たしてこそ、真の成就≠ヘあるのではないか、とな。完全な死≠ゥらの完全な復活≠ェ成功して初めて、ダリアが私たちに託した不老不死の夢は果たされうるのではないか、と」
「それは違うでしょう。第三段階の成就≠ヘ、第二段階の達成を前提とはしないはずであって……」
「その点については、ダリアの残した言葉に誤りがあったのだろうと、私には今そう思えてならないのだ。だから……」
「やっぱりあなたは混乱している」
げん゛はテーブルに両手を突いて立ち上がり、
「玄遙の場合は失敗≠セったかもしれませんが、復活≠フ成功は、そのあと俺が」
「そうだ。それがまず問題なのだ」
柳士郎はぴしゃりと云った。
「お前は十八年前の旧〈北館〉の火災で一度死に、後に蘇った。火災以前の記憶を失ったお前に、そう教えたのは他ならぬ私だ。が、そこには少なからぬ誇張があったと今頃になって打ち明けてみても、すぐには信じてくれまいな」
「誇張?」
玄児は当惑の眼差しを柳士郎に投げかける。
「いったい何を、あなたは」
「あれは――あの時のお前の甦生は、実のところ復活の奇跡≠ニ呼べるほどの現象ではなかった。そういうことだ」
「何を……今さら」
「お前があの火災に巻き込まれ、危うく命を落としかけたのは事実だ。しかしながら、呼吸や心拍動が停止するような状態に陥ったのは、ほんの短い、それこそ数十秒程度の時間に過ぎなかった。私が施した初歩的な甦生術によって、すぐにお前は仮死状態から脱したのだよ。これは、医学的な常識で充分に理解可能な現象でしかない。
それを私は、ダリアの云うところの復活≠ェお前の肉体において成就≠オたものであると、意図的に誇張してまわりの者たちに告げ、お前にも徹底して思い込ませるように仕向けたのだ」
玄児は絶句する。柳士郎を見据えていた視線が、おろおろとテーブルの上に落ちる。
「お前の左手に残っているその傷痕についても同じだ。実際には手首がちぎれそうなほどの重症ではなかったのを、そのように誇張して伝えた。たまたまダリアと同じ左手首の傷だったからだ。それを聖痕≠ニ呼ぶことで、復活の奇跡≠ノよりいっそう信憑性を持たせようとしたのだ。
細かく肩を震わせながら、玄児は右手で自分の左手首を握りしめる。テーブルの上に視線を落としたまま、「――どうして」と消え入りそうな声で呟くのを受けて、
「どうしてそんな真似をしたのか」
柳士郎は自らにそう問いかけ、少しの間をおいてそれに答えた。
「まわりの者たちやお前にそのように信じ込ませることで、私もまた信じたいと思ったからだ」
「信じたい? 何を信じたいと」
「〈ダリアの肉〉によってもたされた不死=Aそれは確かに復活の奇跡≠起こすことがある、と。従ってその奇跡≠ヘ、この私自身の上にも起こりうるはずのものである、とな」
「――分らない」
玄児は|項垂《うなだ》れ、力なく何度もかぶりを振る。
「俺には分らない。あなたの云うことが分らない。あなたの云うことが真実なのかどうか、俺は――俺には……」
そうして玄児は、すがるような目を私に投げかけてくるのだった。
「助けてくれ、中也君」という切実な訴えを、私はその目に読み取る。けれど、私にも答え≠ヘ分らない。分るはずがないではないか。
玄児の主張どおり、柳士郎は確かに混乱しているように見える。今の主人の話よりも、浦登家の秘密を巡って今朝、玄児から延々と聞かされた説明の方が、それを信じるかどうかは別として、よほど筋道が立っているようにも思える。
何でもないという態度を取り繕いながらも実は、十八年前の罪を暴かれたことがよほどのショックだったのか。自分自身の不死≠フありように対する不安や不信が募って、もはやのっぴきならぬところにまで追いつめられてしまっているのか。――いずれにせよやはり、今の柳士郎の心の内に広がっているのは、とどめようのない虚無感なのだと思う。彼の白濁した双眸は今、ひたすらにその深淵を見つめているのだろうと思う。――が。
一方で彼の語る言葉が、そういった混乱ゆえの妄想ばかりで成り立っているとも、私には思えないのである。はなはだしい作為や虚言がそこにあるとも思えない。彼はある意味、極めて真摯に真実≠語っている、語ろうとしている。そして――。
そして恐らくはそれこそが[#「それこそが」に傍点]、この暗黒の館で起こった一連の事件の入り組んだ謎を解き明かす、パズルの最後の一片なのではないか。
私にはそんな気がしてならないのだった。
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どのくらいの沈黙がまた続いただろうか。
時刻は午後五時半を回り、六時に近づこうとしていた。日没がもうすぐそこまで迫っている。
この間にも、〈南館〉で上がった火の手は刻一刻と勢いを増し、燃え広がりつつあるのか。直接棟が繋がっていないとはいえ、場合によっては強風に煽られた炎がこの〈西館〉にまで飛び火してくる恐れもあるだろう。
屋敷の主人はしかし、ソファに身を沈めたまま何の行動も起こそうとはしない。奥の書斎で再び伝声管の呼び鈴が鳴るのを聞いても、応答に立とうとすらしなかった。
落雷、そして館の炎上――。
突然のこの事態は私に、〈東館〉の応接間に飾られているあの絵――藤沼一成の「緋の祝祭」を想起させずにはおかなかった。
闇に浮かんだ板≠天から地へと突き抜ける、蒼白に銀のきらめきが混じった鋭い線は、あれは館を貫く激しい稲妻。闇の奥から蠢き出すように広がる不定形の赤≠ヘ、あれは館を呑み込もうとしている炎で……ああ、そういうことなのか。やはりあの風景も、異能の画家が今日の日のこの事態を幻視して描いたものだったというのか。
「聞かせてもらえますか、お父さん」
死人さながらに血の気の失せた顔を上げて、玄児がやっと口を開いた。
「お父さん――と、俺にこう呼ばれるのは、あなたにしてみれば苦痛かもしれませんが。俺がいったいどんな誤解を、どんな『どうしようもない誤解』をしていると、あなたは云うわけですか。聞かせてもらえますか」
「それは――」
柳士郎は静かに瞑目する。杖を握っていた両手を離し、ゆっくりとガウンの前を掻き合わせながら、これまでついぞ見せたことのないような沈痛な面持ちで、
「忠教の出自について、だ」
と答えた。
「忠教の?」
「先ほどお前は中也君を相手に、忠教もまた玄遙の子だと――あの男が諸井静を犯して孕ませた子だったのだ、と云った。だが[#「だが」に傍点]、それは違う[#「それは違う」に傍点]」
「違う?」
「違うのだよ、それは」
「しかし彼は……」
呻くような声を絞り出しながら、玄児はぶるりと首を振る。
「彼の、あの……」
「忠教は玄遙の子ではない[#「忠教は玄遙の子ではない」に傍点]、私の子だ[#「私の子だ」に傍点]。私が静と密かに関係を持ち、その結果生まれた子供なのだ。間違いない」
柳士郎はきっぱりと云いきった。
「二十七年前の夏に最愛の妻カンナを亡くし、その上、生まれた赤ん坊、玄児が実は自分の子ではなかったと悟って、悲しみと怒りに打ちひしがれていた私に、彼女は――静はたいそう同情してくれてね。半ば自暴自棄になりつつ、私はそんな彼女と関係を持ってしまったのだ。静の方はもとより、そのようなつもりで私に接近したわけではなかったのかもしれぬが、私の求めを強く拒みもしなかった。静の夫である諸井甚助は当時まだ健在だったが、彼は三十代の終わり頃から腎臓に病を持ち、それもあって長らく夫婦の営みは絶えていたらしい。
翌年の春になって、静の妊娠が判明した。それ以前からすでに、玄児は〈十角塔〉の座敷牢に閉じ込めてあった。私の怒りを鎮めるため、玄遙がそうすることを認めたのだ。カンナを孕ませたのは父親の卓蔵だった、という偽りの真相≠私に吹き込んだ上でな。そんな中で静は、自分から玄児の乳母役を務めようと申し出たりもした。思えばあれは、生まれてきた子供自身には何の罪もないはずだ、と私を|諫《いさ》めたかったのだろう。
で、その年――二十六年前の、あれは十二月七日だったか、静は無事に男の子を産んだのだ。玄児よりも一つ年下という勘定になる。その子に忠教という名を付けたのも、この私だった」
そんな柳士郎の告白を、けれども玄児はまるで信じようとはせず、
「あなたがそう思っているだけなのでは?」
と突っかかる。
「実のところは、静の身にもまた玄遙の手が伸びていた。そうも考えられるでしょう」
すると柳士郎は目を見開き、間髪を入れずに「考えられんな」と言葉を返した。
「あの男は――玄遙は結局、どこまでもダリアという女の魔性に魅入られていたのだから」
「どういう意味です」
「最初にあの男の犠牲となった桜にしろ、そしてカンナにしろ……どちらもダリアの面影を色濃く宿した娘であった、ということだ。あの男はやみくもに女を求めたわけではない。あの男の狂える欲望の対象となったのは常に、若かりし日のダリアの美貌をその上に見出した相手だったのだ」
「…………」
「その点から云っても、玄遙と静の間に知られざる関係があったとは考えられない。おおよそありえない話なのだ。分るか」
「――しかし」
玄児はなおも反論しようとするが、柳士郎はそれを無視して続けた。
「二十六年前の十二月七日、忠教は生まれた。諸井甚助はすべての事情を知った上で、忠教を自分の息子として育てることを承知してくれたが、持病の思わぬ悪化で、その翌年には帰らぬ人となった」
「しかし……」
「まだ疑うのか」
柳士郎は哀れむような表情をふと滲ませ、
「忠教は間違いなく私の子だ。たとえば血液型を見てみても何ら問題はない。忠教の血液型はA型だった。私はBだが、静はABだったはずだから、二人の間にA型の子供は生まれうる」
「玄遙は?」
と、玄児が訊いた。
「玄遙の血液型は分っているのですか」
「調べてある。あの男はAだ」
「だったら、忠教が玄遙の子ではないという証明にはなりませんね。A型の父親とAB型の母親の間にも、A型の子供は生まれるでしょう。それに――」
と、玄児はいくぶん声の調子を強めて、
「それに第一、あの青年――忠教の両足の指には、玄遙と同じ畸型が」
「そうだな。その事実は確かに一つの証拠となりえよう」
柳士郎は動ずることなく頷いた。
「塔から落ちたあの者の足には、合趾症を直す形成手術を施した痕がある、とお前は云っていたな。だがしかし――」
と、柳士郎は玄児の顔を見やり、
「しかし[#「しかし」に傍点]、お前の足の指はどうだろう[#「お前の足の指はどうだろう」に傍点]」
「俺の?」
まったく予想外の問いかけだったようで、玄児は瞬間、惚けたように唇を半開きにして返答に詰まってしまう。柳士郎は問いを重ねた。
「お前の足にはそのような畸形があるか。そのような手術の痕があるか」
「何だってそんな……そんな質問は何の意味もないことでしょう」
けれども柳士郎は、言下に「いや」と否定して、
「そこにこそ意味があるのだ[#「そこにこそ意味があるのだ」に傍点]」
と断言するのだった。
「だからこそお前は、どうしようもない誤解をしていると云うのだ」
「――と云われても」
玄児は途方に暮れたように面を伏せる。
「分らないのか」
「俺には、まるで」
「まだ分らないのか」
と、柳士郎は玄児を睨み据える。
「分らないのか。分ってくれないのか」
畳みかけるような柳士郎の言葉に、うろたえるばかりだった玄児の表情がふいと凍りついた。このままその顔が、さらにはその全身が、冷たい氷の塊と化してしまうのではないかとさえ思えるような、そのさまを見ている私までがぞっと鳥肌を立ててしまうような、それは変化であった。
「――まさか」
凍りついた唇が、怯えるようにわなないた。
「まさか、あなたが云おうとしているのは」
「やっと呑み込めてきたようだな」
屋敷の主人は沈痛な面持ちで深く頷き、そうして云った。
「塔から落ちたあの者は[#「塔から落ちたあの者は」に傍点]、私が静に産ませた忠教ではない[#「私が静に産ませた忠教ではない」に傍点]。あれは[#「あれは」に傍点]――あれが本物の玄児なのだ[#「あれが本物の玄児なのだ」に傍点]。本物の忠教はだから[#「本物の忠教はだから」に傍点]、お前自身なのだよ[#「お前自身なのだよ」に傍点]」
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凍りついた顔で「まさか……」と繰り返す玄児の声に重ねて、思わず私も同じ言葉を発していた。けれどもその一方で、「そうだったのか」と棟に落ちるところがあったのも確かである。
忠教は玄児。
玄児は忠教。
これまで江南忠教=諸井忠教と思われてきたあの青年が、実は本物の浦登玄児だった。――そう。もしもそれこそが[#「それこそが」に傍点]真実≠ナあるのならば、昨日〈東館〉の舞踏室であの青年の顔を見た際に覚えた、あの奇妙な既視感の意味も、おのずと明らかになるのではないか。
あの時どうして私は、あの青年の顔を「いつかどこかで見た憶えがあるような」と感じたのか。
蒼白を通り越して、紙のように白くなっていた顔色。乱れた髪に虚ろな目。伸びてきた無精髭のせいでいやに尖って見えた顎。――あの時の彼の顔に、その全体に、あるいはそのどこかの部分に、きっと私は前夜〈宴の間〉で見たあの肖像画の美女、ダリアの面影を見出してしまったのだろう。
柳士郎の話によれば、十八年前〈十角塔〉から解放された時点で、玄児の顔にはいよいよ亡き母カンナの、ひいては曾祖父ダリアの面影が色濃く表われはじめていたという。十八年後の現在においても、それが失われずに残っていたとしても不思議ではない。いや、むしろ残っていて然るべきだろう。だから私は……。
そう考えれば、あの前に〈東館〉の座敷であった清の、あの気懸かりな発言についても、
――あのね、あの人……江南さんなんですけど、何となくぼく。
その意味がおおよそ想像できる。
もしかしたら清もまた、あの青年と差し向かいで折り紙を折ったりしているうちに、ふとその顔が、〈宴の間〉の肖像画に描かれたダリアに似ているような気がしたのではないか。それをあの時、告げようとしたのではないだろうか。
「さっき私が話したことを憶えているか」
もはやほとんど聞き取れないような小声で、なおも「まさか……」と呟きつづける玄児を見据えながら、柳士郎が云った。
「長らく玄児の父親は卓蔵だと思い込まされてきた私が、ある事実[#「ある事実」に傍点]を知ったことが契機となって真相を悟ったという」
「――ええ」
「その事実とはつまり、玄遙の足にあのような畸型があること、だったのだ」
「…………」
「お前がさっき、忠教が玄遙の子である根拠として持ち出したように、ある種の先天異状は遺伝性を有すると考えられる。合趾症の原因については不明な点が圧倒的に多いが、そんな中でもたとえば、『水掻き足指』などと呼ばれる症例の、ある家系に関する研究によると、それがいわゆる限性遺伝の形で起こるという報告もあってな」
「限性遺伝?」
「伴性遺伝、すなわち性染色体上の以上遺伝子に起因する遺伝の一型だ。聞いたことはもちろんあるだろう」
「赤緑色盲や血友病がX染色体上の原因遺伝子によるもので、これは劣性型であるという、その程度の知識なら……」
それなら私も知っている。学校の授業で教わったのか、あるいは何かの本で読んだのか。
女性の性染色体はXXだから、劣性型の場合、その両方に問題の遺伝子がない限り、以上は発現しない。男性の場合はXYだから、一個だけあるそのXに問題があれば発現することになる。赤緑色盲や血友病に男性の患者が多いのはそのせいだという。
「限性遺伝とは、それとはまた違って、男性か女性か、どちらか一方の性についてのみ以上が発現する遺伝型のことだ。いま云った『ある家系における水掻き足指』の症例では、問題の遺伝子がY染色体上にあると考えられ、男性のみにこれが発現する。云い換えれば、異状を持った父親の男児には必ず同じ異常が現われる[#「異状を持った父親の男児には必ず同じ異常が現われる」に傍点]、ということだな。
果たして玄遙の合趾症――あの奇怪な三本指の畸形についても、同じような法則が当て嵌まるのかどうか。いくつかの症例報告があるだけで、合趾症全般についてとなるとむしろ、これに当て嵌まらない場合の方が多いというのが現実だ。しかしながら、そもそも玄遙が持つあのような畸形は、普通に見られる同種の異状と比べてみて、すこぶる特徴的なものだった。だから私は、その|蓋然性《がいぜんせい》も相応に高いのではないかと直感したのだが――」
柳士郎は相手の反応を待つように言葉を切った。だが玄児は、再び面を伏せてしまって何も云おうとはしない。
「玄児の両足の指には生まれた時から、第二指と第三指、第四指と第五指における、非情に特徴的な合趾が見られた。そう云えば静は、そんな足にも合うような靴下をわざわざ作って穿かせてやったりもしていたようだが……とまれ私は、時間が経つにつれてどうにもそのことが気に懸かってきたもので、いま話したような遺伝学的事実を調べ上げたわけだ。
私自身の身体にはもちろん、そのような異状はない。カンナにもなかった。カンナを孕ませた張本人であるはずの卓蔵にもそれはない[#「それはない」に傍点]ということが、やがて分った。さらにその後、卓蔵にではなく玄遙にこそ[#「卓蔵にではなく玄遙にこそ」に傍点]、それが――玄児と同じ足指の畸型があるという事実に、私は突き当たったのだ。そこで――。
思い余った挙句に私は、〈惑いの檻〉に忍び込んでみることにしたのだよ。鬼丸が保管している鍵をこっそり拝借してな」
「〈檻〉に?」
驚いたように一瞬、玄児が目を上げる。
「何でそんな」
「目的は、地下の墓室に安置されている棺の一つを暴くことだった」
と、柳士郎は答えた。
「むかし早老症で死んだ玄徳という子供の棺だ[#「むかし早老症で死んだ玄徳という子供の棺だ」に傍点]。中の遺体を調べてみようと思ったのだ」
「玄徳……」
その名前はかろうじて私の記憶にも残っていた。ダリアと玄遙の間に生まれた最初の子が、二十七年前に自殺した桜。そのあと生まれた第二子の名が、確か玄徳である。清と同じく早老症を患った男の子で、生後数年にして死んでしまったという話だったが……。
「玄徳の遺体は、|荼毘《だび》に付されてはいないはずだった。棺を開けてみると、これを幸いと云って良いものかどうか、中の遺体は白骨化せずに残っていた。湿度や温度などの条件がたまたま整ったせいで、腐敗せずに|屍蝋化《しろうか》していたのだ。私はその遺体の足を調べた。そしてその指に、玄児や玄遙と同様の異状があったことを確認したのだった。
分るな。つまりはこれで、あの足指の畸型はやはり、限性遺伝によって父から子に伝わるものだということがほぼ証明されたわけだ。同時に、私は確信するに至った。玄児の本当の父親は卓蔵ではなく、玄遙である。それが真相なのだと」
柳士郎はソファから立ち上がり、私たちがいるテーブルのそばにそろそろと歩み寄ってくる。無言で俯いている玄児を哀れむような面差しで見下ろしながら、「分ったか」と云って杖で床を打つ。
「お前の身体にはその畸形がない。お前の父親が玄遙だとしたら、男の子供であるお前には必ず同じ畸形が受け継がれているはずなのに、だ。その事実が取りも直さず、お前が玄遙の子ではないことの証拠だろう」
「…………」
「お前の血液型はA型だな。B型同士だった私とカンナの間には生まれるはずのない血液型だが、それはお前が私と静の間に生まれた子供であるからに他ならない。ちなみに、本物の玄児の血液型はABだった。これもまた、私とカンナの間には生まれえぬ血液型だったわけだが、その事実をこの目で確かめた時の私の心中は、きっとお前にもよく理解できるだろう」
「…………」
「お前は玄児ではなく[#「お前は玄児ではなく」に傍点]、忠教だ[#「忠教だ」に傍点]。分るな。お前は紛れもなくこの私の、実の息子なのだ」
「……ああ」とようやくかすかな声を洩らしながらも、玄児は依然、伏せた顔を上げようとはしない。無理もなかろうと心底から思いつつ、私は黙って友人の姿を見守る。柳士郎もまた、テーブルのそばに立ったままじっと玄児の、いや、彼の息子忠教の姿を見守っていたが、やがて深々と長い溜息をついた後、再び語りはじめた。
「十八年前、玄遙と卓蔵に対する復讐を果たしたあと、十一月の末になって旧〈北館〉のあの大火災が起こった。出火の原因はいまだ判然としないが、その際、逃げ遅れて炎と煙に巻かれた挙句、重傷を負った子供が二人いたのだ。一人は玄児、もう一人が忠教だった。
どういうわけか、二人は建物一階の廊下の同じ場所に、身を寄せ合うようにして倒れていた。それを静が見つけ、他の者たちの協力を得て必死に助け出し、二人は九死に一生を得ることとなった。ところが間もなくして、二人ともが火災に巻き込まれたショックで、各々の過去の記憶をすっかり失ってしまっていることが分ってきたのだ。私の心に、そこである考え[#「ある考え」に傍点]が浮かんだ。つまりはそれが、この状況に乗じて、玄児と忠教、二人の子供を入れ替えてしまおうという計画だったわけだ」
玄児の肩がひくりと動いた。広げていた両手の指を拳にしながら、ゆっくりと面を上げる。
虚ろに見開かれた切れ長の目が、まず私の顔を捉えてわずかに揺れ、それからテーブルを挟んで立つ柳士郎の顔に向けられた。紫色の唇が震えるように少し開いたが、発せられる言葉はない。
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亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
[#ここで字下げ終わり]
この春――あれは確か四月の二十九日だったか、事故後の私がまだ自分の過去をまるで思い出せずにいたあの日の夜、白山の家の居間で初めてその詩を|諳《そら》んじてみせた時の玄児の声が、
[#ここから2字下げ]
記憶といふものが
もうまるでない
往來を歩きながら
めまひがするやう
[#ここで字下げ終わり]
ここでまたぞろ耳底に蘇り、眼前の彼の姿に重なり合いながら流れ過ぎた。
「玄遙と卓蔵の存在が排除され、すでに浦登家の実権は私の手中にあった。その計画を実行に移すことは、だからもはや、さしたる難事でもなかった」
屋敷の主人は語りつづける。
「憎むべき玄遙の血を濃厚に受けた子を|放逐《ほうちく》し、代わりに私の実の子を浦登家の跡取りとして育てる。そうやってこの家の|嫡流《ちゃくりゅう》を、玄遙の呪わしい血から切り離してしまうことで、私の復讐は完成する。そんな考えに私は取り憑かれていったのだ。
問題はいくつかあった。すでに玄児と忠教、双方の顔をよく見知っている者たちをどうするか、というのがその第一だ。考えた末、美惟と望和に対しては、私の気持ちを偽りなく伝えることにした。むろん今のような云い方ではなく、もっと言葉を和らげて、だったがね。最初はさすがに彼女たちも驚き、戸惑いやためらいを隠せなかった。しかし、元々あの姉妹は玄遙を好いてはいなかったし、さらにはその玄遙が自分たちの姉を犯して生ませた玄児を忌まわしい罪の子≠ニ見なして嫌悪していたから、たぶん強硬な反対はあるまい。そう私は踏んでいたのだ。結果的には期待どおり、彼女たちは協力を約束してくれた。
二人を知る当時の使用人たちについては、旧〈北館〉の消失を機に、ということで全員に暇を出してしまえば済むと考えた。当時からたまに屋敷に出入りしていた村野君は、玄児はもちろんのこと忠教ともほんのわずかな接触しかなかったはずだから、入れ替え≠敢行したところで気づかれる可能性は低い。火災後の二人の介抱や治療にも、幸い彼はほとんど関わっていなかったのでね、たとえ多少の疑念を抱かれたとしても、何とでも誤魔化し通せるだろうと判断した」
鬼丸老は? と、私は思わず心の中で問いかけていた。すると柳士郎は、まるでそれを聞き取ったかのように、
「鬼丸は――」
と言葉を接いだ。
「あれは、ああいう人間だ。暇を出すと云っても決しておとなしく出てはいくまいと分っていたが、私が何を企てようと何を実行しようと、見て見ぬふりをするのみだろうとも分っていた。あの男の忠誠心はただ亡きダリアに対してのみあり、初代当主の玄遙ですら二の次、三の次の存在に過ぎなかったのだから。それこそダリア本人が蘇って私を咎めでもしない限り、つまらぬ口出しをするはずがなかった。よけいなことを誰かに話したり、勝手に嗅ぎまわったりする心配もなかったから……」
鬼丸老は二人の子供の入れ替わり≠知っていた、ということか。もしも玄児があの老使用人に対して、「どうしても答えよ」と云って「俺は本物の浦登玄児なのか」という質問をしていたならば、その時には彼の口から嘘偽りなく真実≠ェ述べられたはずだったわけか。――そんなふうに考える一方で私は、
「ちょっと待ってくださいますか」
今度は声に出して屋敷の主人に問うた。
「おっしゃったように、忠教が本物の玄児であり玄児さんが本物の忠教であったのだとすれば、旧〈北館〉の火災で重傷を負った時点ではまだ、忠教の方は〈ダリアの祝福〉を受けていなかったということになるのでは?」
「いや。それが実はそうではなかったのだ」
柳士郎は首を振った。
「禁を破り、忠教には私がすでに〈肉〉を食させていたのだよ。玄遙と卓蔵をこの世から葬り去ったあとのことだが」
「――ははあ」
「云ってしまえば、これは静の望みでもあった。どうか我が子にも、不死≠もたらす〈ダリアの祝福〉を――と、彼女は私に懇願したのだ。私はそれに応えてやることに決め、忠教を〈宴の間〉に連れていって〈肉〉を与えた。十月も半ばを過ぎたある夜のことだったか。皆には内緒で……と云っても、後になって美惟と望和には事情を打ち明けることになったが。むろん本来ならば〈ダリアの夜〉の〈宴〉の席において、であるべきところだったが、これは仕方のない特別な例外として……。
……だから。だからこそ私は、忠教の復活≠ノこだわったのだ。分るかね。浦登家の血族でなくとも――ダリアや玄遙の血とは何の関係もない者であっても、〈肉〉による祝福によって不死≠ヘ得られるし、それが復活≠もたらしもする。――そう信じたかった。そう信じる拠り所としたかったのだよ。そもそも私自身が、この家において初めて〈肉〉のみによって〈祝福〉を受けた、浦登の血族外の人間だったのだから、それでよけいに……」
なるほど、そういうことか――と、今度はまた声には出さずに私は呟く。玄児は相変わらず無言のまま私たちのやり取りに耳を傾け、相変わらず虚ろな目で柳士郎の顔を見上げていた。
「あとの話はもう、あまり長々と述べずとも良いだろう」
私に向けていた視線を玄児の方に戻し、柳士郎は続けた。
「私は忠教を『浦登玄児』としてこの家で育てることにし、本物の玄児は静に託して、『諸井忠教』として育ててくれるよう頼んだ。そうして充分な金銭を彼女に与えた上で、玄児を連れてこの屋敷を出ていくように命じたのだった。
結果として静はそれを承諾してくれたわけだが、そこで彼女が提示した条件が二つあった。一つは、屋敷を出る前に自分にも〈ダリアの肉〉を食させてほしい、という申し出だった。畢竟、彼女もまた取り憑かれた[#「取り憑かれた」に傍点]人間の一人だったということだ。長年この屋敷に勤めて浦登家の不死≠フ秘密を知っていくうちに、とうとうみずからもそれに囚われ、取り込まれてしまったという……。
もう一つは、彼女が連れて出る子供が浦登家の縁者であるということを証す品物を、何か一つ持たせてほしい、という願いだった。屋敷を出て、この子を我が子として育てると決めた以上、将来のこのこ[#「のこのこ」に傍点]と戻ってきて迷惑をかけるつもりはない、と静は云った。ただ、自分にもし万一のことがあった時、そこでこの子がどうしようもない苦境に立たされるような場合があったなら、せめて浦登の家を頼っていけるように……と。でないと、あまりにこの子が不憫だから、とな。九年もの間、塔に閉じ込められた玄児の世話を続けるうちにすっかり情が移ってしまっていたのかどうか、覚悟を決めた静には子を想う母親のひたむきさがあった。私には理解の難しい感情だったが。
そしてそう、静のその願いを聞き入れて私が持たせてやったのが、ダリアの形見であるこの懐中時計だったいうわけだ。カンナの形見でもあるこの時計は、私にとっても大切な品だったが、しかし考えてみれば、玄児を産んだ母親は確かにカンナだったのだからな」
ガウンのポケットから〈ダリアの時計〉を取り出して握りしめながら、「あの時――」と柳士郎は続ける。
「あの時、私は密かに恐れを抱かないでもなかったのだ。いつの日か、もしかしたら本当にこの時計を持った玄児が、この屋敷に戻ってくることがあるかもしれない。その際、私はいかに対処すればよいのか、と。自問してみたが、答えは出せなかった。その時はその時だ、とでも思いきるしかなかったのだが、まさか……」
柳士郎はゆるりと首を振り。深々とまた長い溜息をついた。
「……屋敷を出ていった二人のその後については、私はいっさい関知しなかった。二人のその後の動向を追跡させたり、時間が経ってから調査させてみたり、といった真似もいっさいしていない。――何と非情な、と思うかね」
そう云って主人は私の方を一瞥し、
「確かにそうかもしれない。だが私は、静に対して相応の感謝の念を抱き、恩義を感じこそすれ、彼女を愛したことは一度もなかったのだ。私が愛した女性はただ一人、カンナだけだ。美惟には心を惹かれたし、結婚して子をもうけもしたが、それは彼女がカンナの実の妹であり、どこかにカンナの面影を宿していたからに他ならない」
カンナの、面影?
私はこの時、何ともやりきれない気分で、暗くざわめきつづける心中に疑問を吐き出さずにはおれなかった。
それはすなわち、ダリアの[#「ダリアの」に傍点]、ということになりはしないか。浦登柳士郎――彼もまた、殺しても飽き足りぬほどに憎んだ玄遙と同じく、結局のところは亡きダリアの魔性に魅入られた男であったと、そういう話ではないのか。
「静が屋敷を出た後、江南某なる男と再婚したことも、私はまったく知らなかった。終戦前に長崎で被爆していたことも、白血病のことも、ましてや去年の夏にそんな事件があって命を落としていたということも……」
玄児がその時、のろりと身を動かした。拳にしていた右手を開いてシャツの胸ポケットから例の写真を探り出し、そっと覗き込む。虚ろに見開かれていた双眸に、そしてふと、何とも云えず哀しげな光が揺らめいた。
「これが、この女の人が静……俺の本当の母なのですか」
そう云って、玄児は写真を柳士郎に――彼の本当の父親に差し出した。柳士郎はテーブル越しにそれを受け取り、病み衰えた目をその間近まで寄せてしばらく見つめた後、
「――そうだ」
低く呟いて頷いた。
「これが静だ。そしてこの隣に映っているのが、彼女が連れて出たあの子――玄児だ」
「写真の裏に、メモがあります。『……月七日……歳の誕生日に』と。『七日』ということは、忠教の誕生日である十二月七日ですね」
「そうだな」
「その子供は本当に『玄児』なのに、あくまでも静は彼を『忠教』として育てようとした。そういうことですか。火災のショックで失われてしまった記憶の空白には、彼女が知る『諸井忠教』の過去を埋め込んでいって、誕生日まで本物の『忠教』の誕生日を教えて、再婚後にはその時計にわざわざ『江南忠教』のイニシャルを彫り込んで。そこまでして彼女は、彼の中の『玄児』を消し去ろうと……」
「そこまでして、この子は我が子であると思い込もうとした、ということなのだろうな。それはしかし、お前についてもまったく同様だっただろう」
「――ええ。そうですね」
答えて、玄児は泣き笑いのように顔全体を引き攣らせた。
「お前は『諸井忠教』として生まれ、『忠教』としてあの火災の前までは静の手で育てられたが、入れ替え≠フ後はあくまでも『浦登玄児』として、この私が育ててきた。静が玄児に行なったのと同じように、本物の玄児が経験したままの過去を、お前の記憶の空白に埋め込んで……」
「十八年前の事件の目撃体験までも、ですね」
「そういうことだ。美惟と望和も、この教育≠ノは積極的に協力してくれたよ。あくまでもお前には浦登家の正当な跡継ぎとして、その自覚を持って育ってもらわねばならなかった。入れ替え≠フ後に屋敷にやって来た者たちに対しては、小田切や蛭山らの使用人は云わずもがな、望和の夫となった征順に対してすら、この秘密を守り通すよう徹底してあった。もちろん村野君に対してもだ」
柳士郎は「これはもう見たくはない」とでも云うように写真をテーブルに投げ出し、その上に〈ダリアの時計〉を重ねておいた。いくらかの冷たい間があって、玄児がそれら二つの品にゆっくりと手を伸ばす。――と、その時だった。
「助けて!」という甲高い女性の悲鳴が、部屋の外から聞こえてきたのである。
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8
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あれは美鳥か。美鳥の悲鳴か。
とっさにそう思った。
鶴子やしのぶの声ではない。茅子でもないし、美惟であるはずもない。美鳥か美魚か、双子のどちらかの声に違いないのだが、頭にあんな怪我を負った美魚の方が、一人でこの〈西館〉までやって来るとは考えにくい。だからきっと、あれは美鳥の方だ。――けれども、どうして彼女がここに。どうして「助けて」などという悲鳴を……。
「しまった」
と次の瞬間、私は小さく叫んでいた。
先ほど〈開かずの間〉で、柳士郎が姿を現わす直前に感じた漠たる胸騒ぎ。あの正体は、これ[#「これ」に傍点]だったのか。
真っ先に部屋から飛び出したのは私だった。何拍か遅れて、玄児――いや、十七年前の入れ替え≠フ事実が分ってしまった今、「玄児」ではなく「忠教」と本来の名で呼ぶべきか――が席を立ち、私に続く。
廊下に出てすぐ、かすかな異臭を感じて足を止めた。が、その原因を確かめる暇もなく、「助けて」とまた悲鳴が聞こえてくる。
「嫌っ……来ないで」
左手――階段のある吹き抜けのホールの方からだった。ああ、やはりそうなのだ。彼女は――美鳥は何者かに追いかけられて、それで……と思う間に、ホールの両開き扉が開き、廊下に転がり出てくる人影。勢い余って正面の壁に肩をぶつけ、どんっ、と鈍い音を響かせる。
美鳥は白っぽい寝間着のような服に着替えさせられていた。南方向へ延びたこちらの袖廊下に私がいることに気づかず、まっすぐ建物の西の奥へと走っていく。足取りは酩酊してでもいるかのようにふらついている。野口医師が与えた鎮静剤がまだ効いていて、そのせいなのかもしれない。
「美鳥さん」
一声発して、私は彼女を追った。
廊下の角を曲がると、薄暗がりの中、向かって左手奥にある扉に取り付いている仄白い影が見えた。あれは、さっきの居間と続き間になった主人の書斎の扉か。
「お父さま」
鍵が掛かっているらしい。美鳥は両手でノブを握り、右に左にと音を立てて回しながら、
「お父さま……助けて」
「美鳥さん!」
大声で呼びかけて、私は彼女の許に駆け寄った。こちらを振り向いて私の姿を認めると、彼女は油の切れた自動機械のようにぎこちなく首を傾け、
「中也、さま?」
かぼそく喉を震わせた。
「――中也さま」
「どうしたのですか。まさか、美魚さんが」
私が問うと、途端に美鳥は「ひぃ……」と掠れた声を洩らした。左手でおろおろと自分の右半身をまさぐり、そこに双子の片割れが存在しない現実を確かめ、そして――。
「美魚が、美魚が」
狼狽と混乱、さらには激しい恐怖の色を湛えた目をあらぬ方向に彷徨わせながら、荒らいだ呼吸で訴えはじめるのだった。
「美魚が、美魚が美魚が美魚が……」
今にも完全に正気を失って喚き出しそうなその様子に、私は「しっかりしなさい」と語気を強め、それから自分自身にも云い聞かせるつもりで、
「いいですか、美鳥さん。大丈夫。落ち着いて」
と続けた。
「落ち着いてください。美魚さんの身に、何かあったのですね」
「美魚が美魚が、美魚が……」
美鳥は|瘧《おこり》がついたように細かく頭を振ったかと思うと、突然ぴたと動きを止め、
「死んじゃったの」
と、涙のひとしずくのように云い落とした。
「殺されちゃったの、あの人[#「あの人」に傍点]に。あたし、ぼうっとしてて、気がついた時にはもう……」
ああ、やはり――と、私は無力感に打ちひしがれつつ暗い天井を仰ぐ。
美魚が殺された。恐らくは〈北館〉二階の双子の寝室で。恐らくはそこに置いてあった何かで首を絞められて……。
「美魚が?」
とその時、背後から玄児――いや、忠教か――の声がした。
「本当か、美鳥。それでお前……」
「あたしも、殺されそうになったの。のしかかられて、凄い力で首を絞められて。必死で逃げ出したんだけれど、助けを呼んでも〈北館〉には誰もいなくって……ああっ!」
叫んで、美鳥が左手を前方に差し上げる。人差指をぴんと突き出す。私を指さしているのではない。私の後ろを。私の背後にいる玄児――もとい、忠教の、さらにその後ろを。
私は振り返った。
開け放たれたホールの扉の影から廊下の薄暗がりへ、今しも現われ出ようとしているその者[#「その者」に傍点]の影が見えた。
玄児、いや忠教が壁のスイッチを探り、廊下の照明をすべて点灯する。不安定に明滅する明りに、そうして照らし出されたその者[#「その者」に傍点]の顔。それは紛れもなく彼[#「彼」に傍点]の――三日前〈十角塔〉から墜落したあの青年の――顔であった。
「嫌あっ!」
黒髪を振り乱して美鳥が叫んだ。
「――あの人が」
両手で頭を抱え込み、心底怯えきった気色であとずさりしながら、彼女は訴える。
「あの人が、殺したの。美魚を殺したの。あの人が、あの人があの人が……」
美魚が殺され、美鳥もまた命を狙われようとしている。――この事態は、そう、先ほど〈開かずの間〉において、現在の事件の真犯人とその動機を知らされたあの時、すぐにでも予想できて然るべきことだったのだ。なのに私は……。
彼[#「彼」に傍点]、すなわち忠教、本来の名は玄児……いや、当面はやはり「江南」と呼ぶことにしよう。玄児についてもやはり「忠教」ではなく、これまでどおり「玄児」と呼びつづける方が良いだろう。
彼は[#「彼は」に傍点]――江南は昨夜[#「江南は昨夜」に傍点]、美鳥と美魚に会っている[#「美鳥と美魚に会っている」に傍点]。〈表の座敷〉で休んでいた彼を二人が訪れ、「ちょっとお話をしてきた」ということだった。彼女たちがあのような異形の双生児――事実は見せかけの異形≠セったわけだが――であることを、だから江南は、少なくともその際に自分の目で見て知りえたわけである。これがまず、事態の把握に必要な前提となる。
次は今朝、夜が明けてからの出来事――。
玄児と別れ、仮眠を取るために〈東館〉に戻った私は、洗面所から出たところで双子と出会い、舞踏室に立ち寄って話をした。今回の事件を巡ってひとしきり二人の意見を聞いたりもしたあと、私は思いきって「結合した身体を分離する手術を受けるつもりはないのか」というような質問を繰り出した。あの時のあの、彼女たちの激烈な反応……。
――嫌よっ!
――嫌っ!
最大限まで声を昂らせて、二人は吠えるように叫んでいた。胸を合わせるようにして抱き合いながら、幾度もかぶりを振っていた。
――そんなの、絶対に嫌よ。
――絶対に嫌……。
――あたしたちはね、二人で一人なの。
――あたしたちはずっと二人で一人……。
涙声になって、喚き立てるように訴えつづけていた。
――切り離されるなんて嫌っ。
――ばらばらになんかされたくない。
――切り離されて、二人がばらばらになっちゃうくらいなら、死んだ方がまじわ。
――そうよ。ばらばらになるのなら、いっそ死んでしまった方が……。
……そうだ。
はっきりとそこまで云いきってしまったのだ、彼女たちは。切り離されてばらばらになるくらいだったら[#「切り離されてばらばらになるくらいだったら」に傍点]、いっそ死んでしまったほうがましだ[#「いっそ死んでしまったほうがましだ」に傍点]、と。
そしてその言葉はきっと[#「そしてその言葉はきっと」に傍点]、例の伝声管の破れ目を通して[#「例の伝声管の破れ目を通して」に傍点]、座敷にいた江南の耳にも届いたに違いないのである[#「座敷にいた江南の耳にも届いたに違いないのである」に傍点]。
ところが今日午後になって、彼女たちが会談から転落するというあの騒動が勃発したのだった。騒ぎを聞きつけてホールに出てきた江南は、そこで目の当たりにしてしまった。「二人で一人」だったはずの身体が二つに引き裂かれ、ばらばらになって階段の下に転がっている美鳥と美魚の姿を。
言葉にならぬ唸り声を発しながら、江南はあの場に立ち尽くしていた。その心の中であの時、玄児の云うスイッチ≠ェ入ってしまったのだ。
「ばらばらになるなら死んだ方が」とあんなにも強く訴えていた彼女たちが今、本当にばらばらになってしまって、ここにいる。片方は頭から血を流して失神し、片方は狂乱して泣き喚いている。こんな彼女たちを放っておくわけにはいかない[#「こんな彼女たちを放っておくわけにはいかない」に傍点]。いっそ自分がこの手で楽にしてやった方がいい[#「いっそ自分がこの手で楽にしてやった方がいい」に傍点]。そうするべきだ。そうしければならない……と。
この可能性に、玄児が思い至っていたのかどうかは分らない。けれども彼の指示で、江南の動向には征順と野口医師が目を光らせていたはずだった。彼が誰にも見咎められることなく行動を起こすのは難しい状況だったはずなのだが――。
恐らくはそう、そんなところに〈南館〉への落雷と停電、さらには火災が起こってしまったのだ。思わぬ非常事態の発生に、征順と野口医師の注意が否応なくそちらへ逸れた隙に、江南は座敷から抜け出して〈北館〉に忍び込み、双子の寝室を探し当て、そして……。
「江南君――いや、忠教と呼ぼうか」
と、玄児が声を投げかけた。
「やめるんだ。もう。もう殺さなくていい。美鳥は死にたいとは望んでいない。だからもう」
その言葉が耳に入っているのか否か、江南は何ら反応を示すことなく、一歩また一歩とこちらに向かってくる。右手には、あれでたったいま美魚を絞め殺してきたのだろうか、双子がいつだったか身に着けていた濃紺の兵児帯が握られていた。
「さあ、終わりだ」
玄児が声を鋭くする。
「止まれ。戻るんだ」
それでも江南は歩みを止めない。廊下の突き当たりまであとずさっていった美鳥を一直線に見据え、変わらぬ歩調で迫ってくる。
「やめるんだ」
と制して、玄児が腕に掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、569-上-12]みかかる。が、江南はあっさりとそれを振りほどき、歩みを続ける。
暴走の回路≠ニいう玄児の言葉が、否応なく思い出された。スイッチ≠ェ入り、いったん暴走を始めてしまった彼の狂気を鎮めるすべは、もはや何もないのか。
美鳥に向けられた江南の目は今、気のせいだろうか、涙で濡れているように見える。同時にしかし、そこには確かに危険な狂気が宿っているようにも見える。激しく燃え上がるような狂気ではない。むしろ静かな、悲しみや苦しみに心が押し潰された挙句の果ての、凍りつくような狂気が。
今きっと、江南のあの目に映っているのは美鳥の姿だけなのだろう。美鳥の上に重なって見える、彼の育ての母親――静の、末期の病床で死を待つ姿だけなのだろう。私や玄児の姿は見えてもいないし、声が聞こえてもいないのだろう。
「もうやめるんだ」
とまた玄児が制し、後ろから江南に飛びついて羽交い締めにした。江南はしかし、苦もなくそれを振り払う。狂気に憑かれた人間が時として見せるという常人離れした怪力が今、彼にも備わっているのだろうか。
私は、壁に背を付けてうずくまってしまった美鳥の許まで行き、両手を広げてその前に立ちはだかった。彼女を殺させるわけには、もちろんいかない。狂気と云っても刃物を持っているのではない。玄児と二人して飛びかかれば、いくら何でも取り押さえることができるだろう。――と。
さっきまで美鳥が取り付いていた書斎の扉が、勢い良く開かれた。そうして現われたのは云うまでもない、真っ黒なガウンに身を包んだ暗黒館当主、浦登柳士郎である。
「玄児」
現われるなり、柳士郎は呼びかけた。私の友人の玄児=忠教に対してではない。彼が十七年前にこの屋敷から放逐した玄児=江南に対して。
「玄児、私だ。柳士郎だ」
有無を云わせぬ威圧感を持ったその声に反応し、江南の目が初めて美鳥から離れた。彼の位置から見て左手前方に現われた柳士郎の方へと、吸い寄せられるように視線が移動する。
「私だ、玄児」
柳士郎は云った。
「何をしている。こっちへ来なさい」
不思議そうに首を傾げながら、江南は柳士郎を凝視する。柳士郎は杖を突いて一歩、部屋から廊下に踏み出し、「玄児よ」と相手の顔を睨み据えた。
「分っているのか。お前はこの屋敷に、私と会うためにやって来たのだろう」
江南は何も答えない。しかしこの時、彼の心の中で何か、微妙な変化が生じつつあることは確かなように見えた。
「憶えていないか。いないのなら思い出せ」
屋敷の主人は威圧的に言葉を重ねる。
「ここはお前が生まれ育った屋敷だ。お前は私と会うため、ここに戻ってきたのだ。お前がこの世で最も憎んで然るべき、この私と会うために」
何も答えず、身動きもしない江南に向かって、柳士郎はさらに一歩、足を踏み出す。空いた左手でそして、佇む江南の腕をむんずと掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、570-上-2]んだ。
「さあ、こっへ来なさい」
そう命じて、掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、570-上-4]んだ腕を引き寄せる。
「お前がこうしてここに戻ってきたのは、これもまた運命というもの……」
今度は独り言のように低く呟くと、両士郎は江南の腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、570-上-8]んだままあとずさり、書斎の中へ引き返そうとする。当惑を隠せない江南の視線が、柳士郎を離れて美鳥の方へと飛ぶ。それに気づいてか気づかずか、柳士郎はやにわに声を高くして、
「分っているのか、玄児」
と云った。道理の分らぬ子供に説いて聞かせるような口調で、
「分っているのか。お前が殺さねばならない相手はあの娘ではない。――私だ。この私なのだぞ」
いったい何を云い出すのか、彼は。
私が驚いて口を開き駆けると、その前に玄児が、
「何を」
と声を上げた。
「お父さん、何をそんな」
「さあ、玄児」
私たちの方には見向きもせず、柳士郎はただ江南の顔だけに病み衰えた目を据えて、
「分るか、玄児。私はもう、今のまま生きていたくはないのだ。普通に一度、死んでしまいたいのだ。だから、さあ、お前のその手で楽にしてくれ。私を殺してくれ。さあ、玄児……」
江南は依然、何とも応えない。だが、もはや美鳥の方に視線をくれようとはせず、柳士郎に逆らうこともせず、腕を引かれるままに書斎の中へと足を進めるのだった。
玄児が慌てて駆け寄ったが、その鼻先で、ばたんと扉が閉められた。美鳥のそばを離れ、私も扉の前へと駆ける。
「お父さん」
と、玄児が扉越しに呼びかける。
「柳士郎さん」
と、私も声を合わせた。ノブを回してみたが、すぐに鍵を掛けられてしまったらしく、どう回してみても扉は開かない。
「お父さん、開けてください」
「柳士郎さん」
二人がかりで扉を叩きながら呼びかけを繰り返すうち、しばらくして室内から応答があった。
「玄児……いや、忠教」
柳士郎の声だった。
「ここから離れなさい、すぐに」
「お父さん、あなたは何を」
「話すべきことは話した。お前はもうすべてを知った。これから先どうするも、お前次第だろう」
「お父さん……」
「私は……」
ぐっ、と声が詰まり、続いて激しく咳込むような音が聞こえた。
「私は、私のやり方で……」
と、そこまでで言葉が途切れる。
扉の向こうで何が起こりつつあるのか、私たちには知りようがなかった。彼は彼のやり方で、いったいどうしようというのか。江南に「殺してくれ」と云った、あれは彼の本心なのか。それとも……。
考えあぐねつつ、ふと足許に目を下ろしてみて、私は「うあっ」とあらぬ声を発した。
「煙が……」
扉と床の隙間から、だった。薄白い煙が|濛々《もうもう》と廊下に洩れだしてきているのである。
玄児が扉に耳を押し当てた。私もそれに倣った。何やら異様な音が中から伝わってくる。これは、ああ、もしかして火が燃える音でないか。
――いっそのこと屋敷中に燃え広がって、すべてが灰になってしまうのも良いか。
さっきのあの言葉どおり、柳士郎はみずからこの部屋に日尾はなったというのか。
「お父さん!」
玄児が叫び、扉を両の拳で叩く。肩から扉にぶつかっていく。
「お父さんっ!」
「居間の方から回り込んでは」
と、私が云った。頷くいとまも惜しんで、玄児はその場から駆け出す。私は廊下の突き当たりにうずくまったままでいる美鳥を振り返って、
「美惟さんのところへ」
と命じた。
「部屋を出て、早く〈北館〉へ逃げるようにと」
そして――。
玄児を追って廊下の角を曲がった瞬間、私はまたしても「うあっ」とあらぬ声を発さずにはいられなかった。南北に延びた袖廊下の奥、そこにある〈ダリアの部屋〉の扉の周囲から今、猛烈な勢いで灰色の煙が流れ込んできているのである。扉の一部がすでに燃えはじめてもいる。焦げ臭い臭いがあたりに立ち込めはじめてもいる。
美鳥の悲鳴を聞きつけて居間を飛び出した時に嗅いだ、あの異臭はこれが原因だったのか。あの時点ですでに、〈南館〉で上がった火の手が強風に煽られて〈ダリアの塔〉に燃え移り、刻一刻と燃え広がりつつあったのだ。
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市朗は|逡巡《しゅんじゅん》していた。
宵闇を赤く裂いて燃え上がる炎。その勢いはいよいよ激しく、黒々と地にうずくまった洋館の、すでに半分以上が呑み込まれようとしている。
今すぐあの中に引き返していくべきなのか。それとも、このままここで……。
…………。
……〈北館〉のサロンに独り残された市朗の許に慎太とその母、羽取しのぶがやってきたのが、かれこれ一時間半ほども前――午後五時を過ぎた頃だったろうか。慎太は相変わらず邪気のない顔で、訥々とした口振りで市朗に話しかけてきた。しのぶの方はどうやら、慎太は困っている他人を助けようとした偉い子だ、というふうに聞かされてきた模様で、それもあってだろうか。最初からずいぶんと暖かく市朗に接してくれた。
お|腹《なか》は減っていないか。喉は渇いていないか、寒くはないか……と、親身になって気遣ってくれるのは嬉しかったし、ほっとした。これは玄児の云いつけでもあったわけだが、わたしたちの部屋に場所を移して休めばいい、と進められた時にはさらにほっとした。
昨夜までとは違って、この屋敷には何かとても恐ろしい、良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が住んでいるのだ、という思い込みはもはや薄らいでいた。けれども玄児というあの男にしろその他の者たちにしろ、市朗にしてみればやはり打ち解けがたい、自分とはまるで種族の異なるような人間に見えてしまって、いくら怖がらなくてもいい、安心しろと宥められたところで、ほとんど気が休まることはなかったのである。唯一、彼もまた部外者≠ナあるらしい「中也」と呼ばれる大学生には、心を許してもいいように思えた。だから思いきって、それまでどうしても恐ろしくて口に出せないでいた、森の中のあの絞殺死体の件を話したのだけれど、その中也もあのあと、何だかひどく怖い顔をして、玄児らと一緒にサロンから出ていってしまったのだった。
しのぶと慎太に連れられて〈南館〉一階の母子の部屋に行くと、そこには市朗の知っている、ごく日常的な生活風景があった。雑然と散らかった手前の洋間、布団の敷かれた奥の和室。洋間には慎太の机があって、絵本だの色紙だの積木だのがその上やまわりに散らばっていた。
「この子、すっかり市朗さんのことがお気に入りみたいなのよ。これからもこの子の友だちでいてくれたら、とてもありがたいんだけど」
どこまで本気なのかは分らないが、しのぶはそう云って、けれどもその先はひどく心許なげに表情を翳らせて、
「でもねえ、このお屋敷はたいそう変わったところだから。旦那様も気難しいお方だしねえ、それに村からも遠いこんな山奥だし、なかなか会いにきてもらったりも……」
そんな母親の思惑など知らぬげに、慎太は終始楽しそうだった。机の中から剣玉を取りだして――市朗に差し入れてくれたものとは別にもう一つ持っていたらしい――、昨日の技≠またやってみせてほしいとせがんだり、画用紙にクレヨンで描いた変てこな絵――人の顔らしい――を見せてくれたり。変てこなその顔は、どうも市朗をモデルにして描いたものののようだった。
本音を云うと、まだ身体はだいぶ熱っぽくて怠くて、慎太の相手をしてやるのも辛い状態だったのだけれど、それでも市朗は、この四日間というもの張りつめどおしだった緊張からやっと解放され、安らいだ気分に浸ることができたのである。
今頃たぶんI**村の家は、市朗が行方不明だというので大騒ぎだろう。学校はもちろん、村中に騒ぎが広がっているかもしれない。帰ったらこっぴどく叱られるに違いないが、ちゃんと事情を話して謝れば、みんな許してくれると思う。天気が良くなって、土砂崩れで通れなくなったあの道も何とかなって、そうして無事に村へ帰ることさえできれば……と、そんなふうに楽観的な未来予想を立てる余裕が持てるようにもなってきていた。もう二度と今回のような体験をしたいとは思わないけれど、無事に元の世界へ戻ったならきっといつか、この四日間の冒険≠懐かしく思い出せる日も来るだろう。
だがしかし、羽取母子と過ごすそのような平穏な時間も、市朗が期待するほど長続きすることはなかったのである。
建物全体を打ち震わせるような物凄い落雷、そして停電が、続けざまに起こった。すべての照明が消え、一瞬にして視界が暗闇に覆い尽くされた。
しのぶが懐中電灯を探し出して点け、かろうじて闇は払われたのだが、それだけでどうなるものでもない。市朗たちに懐中電灯を渡すと、しのぶは蝋燭に火を灯して明りに使い、「様子を見てくる」と云って部屋を出ていった。「危ないから、二人ともここでじっとしているように」とその際に命じられたが、市朗も慎太もその言葉に従い、暗い室内で身を寄せ合っているより他に仕方がなかった。
それからどのくらいの時間が経った頃だったろうか。しのぶがまだ戻ってこないうちに、部屋の外のどこかから「火が!」という大声が聞こえてきた。誰か男の人の、驚きと恐れが綯い交ぜになった叫び声だった。
火が?
火が出たのか。さっきの落雷のせいで、この建物に火が……。
急いで逃げなければ、と思った。
懐中電灯を取り上げると、おろおろするばかりの慎太に「ついてくるんだ」と云って、市朗は部屋から飛び出した。外には誰の姿もなかったが、確かに火が、その時もう、何メートルか奥にある廊下の曲がり角あたりまで燃え広がってきていた。立ち込める異臭に思わず|噎《む》せ返りそうになるのをこらえ、
「慎太、速く逃げるんだ!」
ありったけの声で叫ぶや、火の手から逃れる方向へと無我夢中で駆け出した。後ろを振り返り、覚束ぬ足取りながらも慎太があとを追ってくることを確かめる。そのあとはひたすら、建物の表口をめざして駆けた。
〈東館〉との間を繋ぐ渡り廊下まで逃げ出したところで、ちょうど向こうの棟から|割烹着《かっぽうぎ》姿の女性がまろび出てくるのが見えた。あれはしのぶか。
闇を引き裂くような甲高い唸りを幾重にも重ねながら、風が吹き荒れている。雨のほうはしかし、よりによってこのタイミングで小やみになってしまっていた。まるで建物の炎上に機を合わせたかのような、悪意に満ちた天候の気まぐれ……。
この分だと、いつここまで炎が燃え広がってくるともしれない。そう考えて、市朗は渡り廊下から中庭へと駆け出したのだが、何歩も行かないうちにぬかるみに足を取られ、不甲斐なく地面に倒れ伏してまった。
「慎太は?」
と、間近で声がした。しのぶの声だった。
「慎太はどこに……市朗さん、一緒じゃなかったの」
「ええっ」
市朗はびっくりして身を起こし、たったいま自分が飛び出してきた建物の表口を振り返った。慎太の姿は、本当だ、どこにも見当たらない。
ぼくを追いかけて逃げてきたはずなのに。どこか途中で転ぶかどうかしたのか。自分が逃げるのにせいいっぱいでそれに気がつかなくて、中に置き去りにしてきてしまったのか……。
炎は先ほどよりも一段と激しく燃えさかり、〈南館〉を呑み込もうとしている。渡り廊下や表口付近にはまだ広がってきていないけれど、きっとそれも時間の問題だろう。
「慎太ぁ!」
取り乱したしのぶが建物に駆け込もうとするのを、「危ないっ」と誰かが引き留めた。野口先生と呼ばれているあの、熊のような巨体の医者だった。
「思ったよりも火の回りが速い。しのぶさん、気持ちは分るが、今から中に飛び込むのは」
「あああ……慎太ぁ!」
宵闇を赤く裂いて燃え上がる炎を前に、そして市朗は逡巡するのだった。
慎太はまだあの中にいる。表口から一階のあの部屋まで、それほどの距離はない。今すぐ助けにいけば間に合うかもしれない。しかし間に合わない可能性もある。戻っていって慎太を見つけることができても、その時にはもう炎がここまで……。
一秒、二秒……と逡巡の時が続く。だが、それを振り払ったあとの市朗の行動は素早かった。
決死の、というほどの覚悟を決めたわけではなかった。ただ、このままここでためらいつづけていたら、そうして慎太が炎に焼かれて死んでしまったなら、ぼくは一生後悔することになるだろうから、と思った。思うや否や、身体が動いていた。
飛んでくる制止の声を振り切って、市朗は建物の中へ駆け戻っていった。しのぶが持たせてくれた懐中電灯を右手に握りしめ、ポケットから引っ張り出した皺くちゃのハンカチを左手で口に押し当てて。
慎太は――あいつは、ぼくを助けてくれた。知恵が足りないあいつなりにいろいろと考えて、パンを持ってきてくれたり剣玉を持ってきてくれたり、「誰にも内緒に」という頼みを忠実に守ってくれたり……あいつは一所懸命になって、ぼくを助けてくれようとしたのだ。だから……。
受けた恩には報いなければいけない――と、これは幼い時分から、事あるごとに云い聞かされてきた祖母の言葉だ。あいつはぼくの恩人だ。だから今度はぼくが、あいつを助けないと。
視界を阻む闇と煙を懐中電灯の光線で切り開きながら、市朗は廊下を住む。拭っても拭っても溢れ出てくる涙。ヘタに大きな呼吸をすると、すぐに喉をやられて咳込んでしまう。
幸いなことに、炎はまだ羽取母子の部屋の前までは広がってきていなかった。あたりにはしかし、慎太の姿は見えない。――どこだ。どこにいる。ぼくのあとについて出てきたはずなのに、いったいあいつ……。
まさか、と思いつつ部屋の中を覗いてみた。
「慎太っ」
と、声を投げ込んだ。
「慎太、ここにいるのか」
返事はなかった。が、室内に巡らせてみた懐中電灯の光が、奥の和室の畳の上にうずくまっている小さな人影を捉えた。
「慎太!」
大急ぎで駆け寄った。
和室には小振りな窓が一つあったが、そこにはもう火が回ってきていて、近寄りがたい炎の壁ができている。室内に立ち込める煙もひどい。これを吸って、ここで気を失ってしまったのか。にしても、いったい何でこんなところに……。
「おい、しっかりしろ」
軽く頬を叩くと、慎太はうっすらと目を開いた。
「大丈夫か。さ、逃げるぞ」
「いちろう、さん……」
「立てるか。――立てないのか。なら、おれが背負ってってやるから」
ぐったりした慎太の身を引き起こし、後ろから肩に抱きつかせる。そこでふと、慎太の手がしっかり握りしめているものが目に留まった。
白木の枠に硝子が嵌め込まれた、それは小さな写真立てだった。収められている白黒写真には、三人の人物が写っている。一人は女性で、これは若い頃のしのぶのようだ。一人はそのしのぶの胸に抱かれた赤ん坊、これは慎太だろう。そしてもう一人は男性、市朗の知らない中年の男だった。
慎太の親父か――と、とっさに悟った。
どんな事情があるのかは知らないが、この写真はきっと慎太にとって、とてもとても大切な品なのだろう。だから、逃げろと云われていったん廊下に飛び出したものの、これを持ち出すためにここへ引き返してきて……。
慎太を背負い上げると、市朗はなけなしの力を振り絞って部屋の出口へと向かう。ところが、その時にはすでに、前の廊下の壁や天井を炎が舐めはじめていた。
渦巻くような煙とともに、激しい灼熱感が市朗をたじろがせる。だが、他に道はない。このままここを突っ切っていくしか……。
――どうしたの市朗。
一昨夜の悪夢に登場した母の声が、頭の中でわんわんと響いた。
――頑張れ市朗。
ああ……これは同じあの夢の中の、父の声。
――どうしたの市朗。
――頑張れ市朗。
二人の声に押し出されるようにして、市朗は部屋を飛び出す。煙と灼熱の中に飛び込む。
呼吸を止め、しゃにむに走った。凶暴に燃え猛る炎が、そんな市朗に追いすがり、背中の慎太もろともに搦め捕ろうとする。市朗は耐え、必死に走りつづけた。そうしてやがて、とうとう炎の牙から逃げおおせたと感じた、その時である。
突然、思いも寄らぬ衝撃と激痛に襲われた。
どこからどう飛んできたのかは分らない。今や建物のそこかしこで燃え狂う紅蓮の炎。その中から|爆《は》ぜ散った大粒の火の粉が、出口に向かって突き進んでいた市朗の顔面――その左の眼球を中心とした部分――を直撃したのだ。
あまりの痛みに耐えかねて、市朗は絶叫する。
――と、その途端。
市朗の現在進行形に寄り添いつつ、いかがわしい浮沈を繰り返してきた視点≠ヘ、弾き飛ばされるようにして虚空に舞い上がり、この夜の暗黒に|霧散《むさん》した。
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10[#「10」は全角一文字]
[#ここで字下げ終わり]
被っていたソフト帽を脱いで鼻と口を押さえながら、私は居間の扉の前まで駆けた。一足先に中へ飛び込んだ玄児は、しかしどうしたわけか、私の到着を待たずに扉を閉めようとしていた。
「玄児さん、何を」
ノブを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、580-上-3]んで引き戻そうとする私に、
「来るな、君は」
と、玄児は厳しく命じる。
「来るんじゃない。二人は俺が」
「何を云ってるんですか」
驚いて、私は抵抗した。
「〈ダリアの塔〉が燃えているみたいです。もうかなり、火が」
「分ってる。だから早く、君は逃げるんだ」
「逃げますよ。玄児さんも早く、一緒に」
「俺は大丈夫さ」
引き攣った顔でそう云い放ち、玄児はふいと扉にかける力を緩めた。これを機にと私が、締まりかけていた扉を引き開けると、その刹那――。
鈍い衝撃に見舞われた。扉の向こうから玄児が、私の腹部めがけて蹴りを入れてきたのだ。
たまらずノブを離し、腹を押さえて身を折る。その|間隙《かんげき》を衝いて、玄児が扉を閉めた。すぐに中から掛金を下ろす音がした。
「……玄児さん」
脂汗で滑るノブに取りすがり、私は呻いた。
「大丈夫さ、中也君」
と、扉か越しに玄児が応えた。
「俺は大丈夫。十八年前の大火災で一度死んだ身だからな」
そうして彼は笑った。くくっくっ……と、かろうじてそれがいびつな笑い[#「いびつな笑い」に傍点]だと分るような、押し殺した声で。
「美鳥と美惟叔母さんを頼む。いいね、中也君」
それが彼の最後の言葉となった。固く閉ざされた黒い扉の前に独り、私は取り残された。
立ち込める煙と異臭、建物のあちこちで鳴りはじめた異音と膨らんでくる炎の唸り。そんな中に呆然と立ち尽くしながら――。
何故だ、と私は問う。
何故、どうしてこんな……。
藤沼一成が「緋の祝祭」に描いた不定形の赤≠ェ今や、現実のものとなって世界≠ノ牙を剥いている。こうしているうちにも、炎はますます勢いを増して燃え広がり、燃え猛り、ついにはこの館のすべてを呑み込んで焼き尽くしてしまうのだろう。
そのイメージに呼び起こされるようにして、私の遠い記憶の中でもまた、
……母さま。
巨大な炎が燃え上がる。
……ああ、母さま。
十一年前のあの秋の夜、あの洋館を包み込んだ非情な赤黒い炎が……。
「……玄児さん」
くしゃくしゃになった黒いソフト帽を握りしめながら、私はもう一度だけ友人の名を呼んだ。私自身どう表現したら良いのかよく分らない、彼に対する引き裂かれた想いのすべてを込めて。
「私は――私はあなたを……」
「中也さまぁ」
私を呼ぶ美鳥の声が、煙と異臭の狭間に響いた。
「中也さまぁ、玄児兄さまぁ……どこにいらっしゃるの」
閉ざされた黒い扉から目を背け、私は踵を返す。このままここで出口の見えない感傷に浸り込んでいるわけには、やはりいかなかった。
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11[#「11」は全角一文字]
[#ここで字下げ終わり]
江南忠教――本来の姓名で呼ぶとすれば浦登玄児――は逡巡していた。
廊下の奥に彼女が――あの双子姉妹の片割れがいる。あれは美鳥の方だ。「嫌だ」「助けて」などと叫びながらここまで逃げてきたが、本心は違うと分っている。彼女はあそこで僕を待っている。邪魔者が二人いるが、彼らの云うことに耳を貸していてはいけない。迷ってはいけない。迷う必要などない。僕には分っている。自分が何をするべきか。自分が何のためにここに存在するのか。もうすっかり、僕には分っているのだから。
ところが今、いきなり手前の扉が開いて、中から現われた男がこちらに向かって「玄児」と呼びかけてきたのだ。「玄児、私だ。柳士郎だ」と……。
…………
……座敷を抜け出し、〈北館〉の二階にある双子の寝室に忍び込み、頭に包帯を巻いて寝込んでいる方をまず、部屋にあった着物の帯で絞め殺した。あれが確か美魚の方だ。途中で目を開いたものの、さほども抵抗がなかったのは、やはり彼女が心底、死の安らぎを望んでいたからなのだろう。
「二人で一人」の結合した肉体が切り離されることを、あんなにも恐れていた彼女たち。ばらばらになるくらいなら死んだ方がましだと、あんなにも狂おしい声で訴えていた彼女たち。なのに不幸にも、階段からの転落などと云うあんな事故のせいで、本当に二人の身体がばらばらになってしまったのだ。それがどんなに救いがたい絶望をもたらしたかは、あの時の片割れ――美鳥の狂乱振りを見ても明らかだった。だから――。
だから、彼女たちは死にたがっている。いっそのこと死んでしまいたいと願っているに違いないのだけれども……けれどもそう、彼女たちは死ねないのだ[#「彼女たちは死ねないのだ」に傍点]。いくら死にたくても死なない、死ねない。普通に病気で死ぬことは決してないし、かと云って自殺もできない。
昨日あのアトリエで僕が殺したあの女の人――望和と同じように。去年あの病室のベッドで僕が殺したおかあさん――静と同じように。
どれほど死にたいと願っても、美鳥と美魚は死なない、死ねない。
それは彼女たちが、この浦登家に伝わる〈不死の肉〉を食べた身であるからだ。望和というあの人もそうだった。おかあさんもそうだった。
……そう。僕は知っている。この記憶に、この認識に間違いはないはずだ。
すべてを完全に思い出せたわけではない。すべてが完全に分ってしまったわけでもない。パズルの破片はまだ全部が揃ってはいないように思う。欠け落ちている部分がまだたくさんあるように思う。
しかしながら、最大の問題である「自分は何者なのか」という疑問に関しては少なくとも、ようやくその答え≠ェ見えてきていた。
今日未明、座敷のあの男――浦登柳士郎がやって来た、あのあとの眠り……その中でまたいくつもの夢を見た。江南自身の記憶にまつわる新たなパズルの破片がそこで現われ、そうして――。
そうしてまず、江南は思い出したのだった。これまでどうしても分らないままでいた自分の下の名前を。それが「忠教」であるということを。
――いいわね、忠教。
という、これは今朝の夢に出てきたあの人の――おかあさんの言葉。なおかつこれはきっと、蘇ってきた僕自身の記憶でもあり……。
……いつのことだったろうか。
もうずいぶんと昔、確か僕の何歳かの誕生日に、おかあさんがあの懐中時計を僕に手渡して、そして云ったのだ。
――これはとても大切なもの。将来あなたがどうしようもなく困った時には、この時計を持って浦登様のお屋敷へ行きなさい。いいわね、忠教。
――いいわね、忠教。
そう。そうだった。僕の名前は忠教。江南忠教。だからあの懐中時計の裏側にも、T・Eというその頭文字が彫られて……。
――分ったわね、忠教。必ずこの時計を持って、浦登様のお屋敷を訪ねていくのよ。
浦登様の? とあの時、僕は首を傾げたように思う。「浦登」というその苗字に何故か、かすかに聞き憶えがあるような気がしたからだった。
――あたしがずっと昔、お勤めしていたところなの。憶えていないでしょうけど、小さい頃にはあなたも一緒に、そのお屋敷にいたのよ。熊本の山奥のね、小さな湖の島に建っている変わったお屋敷で、何もかも真っ黒な家だから『暗黒館』なんて呼ばれていて……。
・これが、一つの新たな破片。
夢から覚めてその意味をのろのろと考えるうち、今度は唐突に、だった。具体的な言葉や情景とそれらに関連する知識が、昏い混沌の海の底から浮かび上がってきたのである。
――あのね、忠教。凄い秘密を教えてあげましょうか。
と、これもまたあの人の――おかあさんの言葉。戦争が終わってもう何年も経った頃だった。今の医学では治療の難しい病気が彼女の身体を蝕みつつあるという、そんな事実が判明した頃……。
オトウサンハ戦災で早くに亡くなった。おかあさんは――静は、終戦間際の八月九日、長崎で原爆の投下を目の当たりにしたという。爆心地からは遠い街の外れにいたため直接的な被害は免れたものの、後になって彼女は、それが原因と思われる理不尽な病に苦しみはじめることとなる。江南の方はその時期、静と離れて|五島《ごとう》の方に疎開していて難を逃れたのだったが、心のどこかにはいまだ、目も眩むような巨大な閃光のイメージが残っている。昨夜の夢の一つでも見た、あのイメージだ。疎開先の島からたまたま海の向こうの爆発を目撃した、これはその記憶の欠片なのかもしれない……。
被爆の後遺症と思われる病気の事実が分かっても、彼女は当初、さほどそれを気に病むふうもなく「あたしは大丈夫よ」と云いつづけていた。そしてその「大丈夫」の根拠として、それまで江南も知らされていなかった「凄い秘密」の話を始めたのだった。
――信じられないかもしれないけれどね、あたしは病気では決して死なないの。
死なない? どうしてそんなことが……と、当然ながら江南は大いに疑問を感じた。
――それはね、むかし浦登様のお屋敷で〈不死の肉〉を食べさせていただいたからなの。
不死の、肉?
――そうよ。浦登様の家に伝わる〈不死の肉〉。浦登家の人たちはみんな、それを食べて死ななくなるの。本当よ。病気では絶対に死なないの。事故に遭ったり殺されたりしない限りはね。でも、自殺は駄目よ。自殺をしたら、死にも生きもできずに惑いつづけなきゃならないから。
彼女の表情は真剣そのものだった。声は異様に昂り、じっと江南を見つめる目は瞬きもせず、物に憑かれたように暗く輝いていた。
――実はね、忠教、あなたも子供の時、あたしと同じように〈不死の肉〉を食べているのよ。だからね、あなたも同じ。あたしと同じで、どんな病気に|罹《かか》っても決して死ぬことはないのよ。
急に云われてもとうてい信じがたい話だったけれど、彼女が嘘偽りを述べているとはどうしても思えなかった。その時はただ、「分ったよ」と頷くしかなかったのだが。
――このことは誰にも内緒よ。いいわね、忠教。絶対に秘密を守るからって、浦登の旦那様にお約束したことだから。もしも他人に知られたら、きっと大騒ぎになるから……。
……そう。僕は知っている。僕にはもう分っている。おかあさんと同じように〈不死の肉〉を食べている彼女たちは、普通には死なない、死ねない。自殺もできない。だから――。
だから僕が[#「だから僕が」に傍点]、この手で死なせてあげなければならないのだ[#「この手で死なせてあげなければならないのだ」に傍点]。
……すとう・りきち。
と江南はそこで思い出す。
今日未明、咲きにやって来た柳士郎の口から出た「りきち」という名前。聞いた瞬間、「知っている」と感じた。りきち……すとう・りきち。首藤、利吉。これはあの人の名前だ。首藤利吉。病院に僕を迎えにきてくれた、あの男の人の。
去年の夏、おかあさんが死んでしまって、僕はずっと独りぼっちだった。病院の狭い部屋に閉じ込められて、薬を飲まされたり注射をされたり、医者と話をさせられたり……という日々が続いていた。そんなところにあの男の人――首藤利吉が現われて、僕を「浦登様のお屋敷」に連れていってくれると云ったのだった。
三日前の朝の出発、だった。利吉の運転する黒い車で、江南は浦登家の屋敷――暗黒館をめざした。途中で喫茶店に寄ったあのあとは、後部座席で毛布にくるまり横になっていた。そうしてずっとうたた寝をしていたような気もする。慣れない長距離の移動で、すっかり疲れが溜ってしまっていたから。
そんな時だった、あの事故が起こったのは。
何が原因だったのか、江南には分らない。車は道から飛び出して森に突っこみ、大木にぶつかって停まった。後部座席に寝転んでいたおかげで、皮皆は左手に掠り傷を負っただけで助かったのだが、起き上がって運転席を見てみると、利吉の姿が消えていた。前の硝子が粉々に割れ、血で染まっていた。衝突の勢いで車外へ投げ出されてしまったのだ、とすぐに察した。
大破した車から少し離れた場所に、下草に埋もれるようにして首藤利吉は倒れていた。手足はいびつな角度に折れ曲がり、割れた頭からは大量の血が噴き出し……見るからに悲惨な有様だった。それでもまだ彼は意識があったようで、江南が近寄っていくとわずかに身動きをして、血まみれの顔をこちらに向けた。激しい苦痛に歪みきった表情で、力なく唇を震わせていた。
あの時――と、江南は思い出す。
あの時、僕の耳には聞こえたのだ。
死なせてくれ、早く楽にしてくれ、と呻く利吉の声が……いや、聞こえたのは彼の声ではなく、あの人の――おかあさんの声だったろうか。
――しなせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で。
――もういいから、殺して……楽にして。
確かにそう云ったのだ、彼女は。
外では激しい雨が降りしきっていた。あれはそうだ、去年の夏――七月のあの日の、あの時の。
[#ここから太字]ああ、これは……と、今さらながらに|江南《かわみなみ》孝明は強い|眩暈感《げんうんかん》を覚えざるをえない。
彼は僕ではない[#「彼は僕ではない」に傍点]。これは僕自身の記憶ではない[#「これは僕自身の記憶ではない」に傍点]。なのに、三十余年の時間を隔てて、いったいこんな偶然の一致が……。[#ここで太字終わり]
忌まわしくも理不尽な病魔に冒され、彼女の身体は日に日に弱っていきつつあった。医者はもう何も打つ手立てがないと云っていた。日々の苦しみの中で、それでも彼女は、自分は死なないと信じつづけていた。あたしは〈不死の肉〉を食べた身だから、病気で死ぬことは絶対にないのだ、と。
ところがある時点で、彼女は気づいてしまったのである。「死なない」ということと「病気が治る」ということは必ずしも同義ではない、と。
そうして彼女は恐れはじめたのだった。
不死≠得ているはずの自分は決して死なない。けれどもこの病が治ることも決してない。とすれば、自分は今後もこのままの状態で、永遠に苦しみつづけなければならないのか。回復して楽になることもなく、かと云って死ぬこともありえず、ここからさらに病状が進行して、よりいっそう身体が蝕まれてぼろぼろになり、日々の苦しみがますます増大していっても、それでもやはり死ぬことはありえず……そうやってただ、|日毎《ひごと》に増しつづける終わりのない苦痛の中でのみ、自分は今後の不死の生≠生きていかなければならないのか。
あたしには耐えられない、と彼女は思った。そんな過酷な未来にはとても耐えられない、と彼女は絶望した。だからあの時――。
――死なせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で、彼女は云ったのだった。
――もういいから、殺して……楽にして。
と、そして僕は……。
……気がついた時、僕は着替えのために病室に用意してあった浴衣の腰帯を使って、あの人の首を絞めていた。あの人は抵抗らしい抵抗をすることもなく、眠るようにして死の安らぎに落ちていった。息絶えたあの人の目尻からは涙が一筋だけ流れ出し、窶れ果てた頬を伝っていった。
その直後のことについては、切れ切れの記憶しか残っていない。
……病室から駆け出し、縺れる足で走り抜けた薄暗い廊下[#ここから太字](……薄暗い廊下)[#ここで太字終わり]。振り向いた看護婦たちの不審そうな表情[#ここから太字](……不審そうな表情)[#ここで太字終わり]。エレヴェーターを待つ車椅子の老人[#ここから太字](……の老人)[#ここで太字終わり]。階段を駆け降りる靴音がいやに甲高く[#ここから太字](……甲高く)[#ここで太字終わり]。救急車のサイレンの音が窓の外で[#ここから太字](……窓の外で)[#ここで太字終わり]。ロビーを行き来する大勢の人間たちは見知らぬ顔ばかり[#ここから太字](……見知らぬ顔ばかり)[#ここで太字終わり]。スピーカーから流れる院内アナウンスの中性的な声[#ここから太字](……中性的な声)[#ここで太字終わり]。誰かの名前を繰り返し呼んでいた[#ここから太字](……呼んでいた)[#ここで太字終わり]。総合受付の前の長椅子に[#ここから太字](……前の長椅子に)[#ここで太字終わり]青い服を着た男の子がぽつんと座っていて[#ここから太字](……ぽつんと坐っていて)(……青い服を着た男の子が[#「青い服を着た男の子が」に傍点]?)[#ここで太字終わり]……つんのめるようにして建物の玄関から飛び出したところで、やっと立ち止まったのを憶えている。そうしてそのあと僕は、激しい雨の中を傘も差さずに彷徨っていたところを、病院の職員に見つかって捕まってしまったのだった。
[#ここから太字]これもまた……と、またぞろ江南孝明は強い眩暈感を覚えざるをえない。
彼は僕ではない[#「彼は僕ではない」に傍点]。これは僕自身の記憶ではない[#「これは僕自身の記憶ではない」に傍点]。なのに、このような一致が……いや、けれどもここには同時に、あからさまな齟齬が一つ含まれてもいたのだ。
僕があの日、母の病室から飛び出して階下に駆け降りた時、総合受付の前の長椅子に坐っていたのは「青い服を着た男の子」ではなかった。それは「黄色い服を着た幼女」だったではないか……。[#ここで太字終わり]
……気がついた時、僕はあの男のズボンから引き抜いたベルトを使って、あの男の――利吉の首を絞めていた。そして彼もまた、抵抗らしい抵抗をすることもなく死の安らぎに落ちていったのだった。
そのあと僕は独り森の間に延びた道を歩いてきて、やがて湖のほとりに出た。桟橋にあった二艘の舟のうち一艘に乗ってこの島に渡り、それからあの十角形の塔に昇ったのだけれど、どうしてあそこで自分がまっすぐあの塔に向かったのか、その理由はよく分からない。おのずと身体がそのように動いてしまっていたような、としか思い出すことができないのだが……。
[#ここから太字]……それは彼が浦登玄児だったからだ[#「それは彼が浦登玄児だったからだ」に傍点]と、江南孝明は考える。
九歳の端序美までずっと、玄児は〈十角塔〉のあの座敷牢に住まわされていたのだ。十七年ぶりにこの島へ戻ってきた彼が、心の無意識の部分に残存していた当時の記憶に引かれてあの塔に昇ってみたとしても、何ら不思議はないだろう。[#ここで太字終わり]
その後、〈東館〉の座敷で目覚めるまでの出来事については、これは依然としてまったく思い出せない。転落時のショックで前後の記憶が完全に消し飛んでしまった。そういうことなのだろう。
意識を取り戻してしばらくのうち、なにがどうなっているのか本当に分らなかった。「江南」という苗字をはじめとして、ぽつぽつと蘇ってくる記憶の断片はあっても、それらがどのような意味を持って互いに結びつくものなのかがなかなか理解できず、その上ショックで声も出せなくなってしまっていて、ひたすら途方に暮れる状態が続いた。
蛭山という玄関番が事故で重傷を負って運び込まれてきたのは、そんな時だったる
あの時、座敷から出てみて目の当たりにしたあの男の様子。血と泥にまみれて醜く歪んでいた、あの顔。口から血泡を噴いてさんざんに苦しんでいた、あの……。
すでに蘇ってきていた病床の彼女――静にまつわる記憶の断片が、あの時そこに重なって見えたのは確かだ。虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で……あの男もまた、静と同じ言葉を自分に向かって投げかけているような気がした。それも確かだと思う。
そしてあの日の夜、〈北館〉を独りうろうろしていろいろな部屋を覗いてまわったあと、座敷に戻って眠れぬ時間を過ごすうち――。
頭の芯にへばりついて消えない痺れのような感覚が、おもむろに一箇所に凝集していき、ひしゃげた球体のイメージを形作った。それはゆっくりと回転を始め、徐々に速さを増していった。さまざまな色のさまざまな断片がその表面で混じり合い溶け合い、回転の速度が頂点に達した時にはもはや真っ黒にしか見えなくなってしまい……。
それがいったい何なのか、よく分らぬまま戸惑いつづけるうちにやがて、|江南《えなみ》はその回転の暗黒に否応なく巻き込まれていったのだった。
……気がついた時には行動を始めていた。日が変わり、夜もずいぶん更けた頃のことだった。
蛭山が運び込まれた〈南館〉の部屋を探し当てるのに、時間はほとんどかからなかった。あの建物の構造については、何故かしら以前から知っている気がした。昔おかあさんと一緒にここに住んでいたことがあるという、その頃の記憶が頭のどこかに残っていて、それで……なのかもしれない。最初は廊下から入ろうとしたのだが、しのぶというあの使用人が手前の部屋にいるのが分ったので、気づかれないよう、物置の隠し扉から直接忍び込むことにした。あんなところに隠し扉がある事実をどうして自分が知っているのか、あの時は我れながら不思議でならなかったのだけれど、思うにそれもきっと、昔ここに住んでいた頃の記憶がどこかに残っていたということなのだろう。こうして――。
こうして江南は、あの時は半ば無意識の内に潜む何ものかに操られるようにして、部屋にあったズボンのベルトを使って蛭山を絞め殺したのだった。昏睡状態にあった蛭山は抵抗のすべもなく、少し力を込めて締めつづけただけで呆気なく絶命した。これでこの人も絶望的な苦痛から解放され、死の安らぎを得ることができたのだ――と、そんな想いを心の隅に抱きつつ座敷に戻り、眠りに就いたのを憶えている。
その次は、清というあの早老症の少年の母、望和だった。
昨日の昼間、舞踏室と呼ばれるあの大広間で偶然であった時、彼女はまるで昔からの知り合いで出もあるかのように江南に声をかけてきた。清の居所を何度も尋ね、あの子の病気は自分のせいなのだとしきりに|捲《まく》し立て、そしてその挙句。
――だからね……お願い、お願いだから、ねえ、私をあの子の代わりに死なせて。
涙を流しながらそう訴えはじめたのだ、彼女は。
――お願いだから、私を死なせて。あの子の代わりに、この私を……殺して。
鬼気迫るような、けれども深い悲しみと絶望に満ちた眼差しを据えて詰め寄ってきた望和の顔に、避けようもなくまた病床の静の顔が重なって見えた。その声に、その言葉に、静の声と言葉が重なって聞こえた。そうしてまたしても形作られた、ひしゃげた球体のイメージ。その回転。その加速。その変形。その変色。その暗黒。その引力。その連結。その暴走。その……。
……行動を起こしたのは暮れ時になってからだった。
今頃は〈北館〉のアトリエ――画材や描きかけの絵などで散らかったあの部屋――にいるだろうと見当をつけ、誰にも見咎められぬようにこっそりと訪ねていき……作業に熱中していた望和の背後に忍び寄って、スカーフで首を絞めた。肉体的に弱っていたわけではない彼女は、それまでの相手に比べればかなりの抵抗を示したけれど、途中からは観念してまったく暴れなくなり、やがて息絶えた。こうして彼女もまた、望んでいた死の安らぎを得ることができたのだ。
アトリエから出ようとして、どうしたわけか扉が開かなかった時には大いに焦った。ここで見つかってはいけない、という気持ちが強くあった。見つかればきっとまた捕まって、あの病院の狭い部屋に連れ戻されてしまうから。そう思ったのだ。見つかってはいけない。誰にも気づかれてはいけない。どこか他に出口はないものかと探して隣室へ行き、そして結局は、あの窓の硝子を椅子で打ち破って逃げ出したのだった。
今朝になって蘇ってきた〈不死の肉〉にまつわる記憶によって、浦登家の人間である望和もまた、静と同じように「死にたいと願っても死ねない」身体だったのだということがはっきりと分った。と同時に、江南は一つの確信を得たのである。
きっとこれが、僕という人間の存在理由なのだ、と。彼女のような人々をこの手で死なせてあげるためにこそ、僕はここに在るのだ、と。
[#ここから5字下げ]
12[#「12」は全角一文字]
[#ここで字下げ終わり]
ところが今――。
いきなり現われた男――浦登柳士郎の、威圧感に満ちた自分への呼びかけに、江南は逡巡せざるをえなかった。
「私だ、玄児」
柳士郎は云った。
「何をしている。こっちへ来なさい」
玄児? ――と、江南は首を傾げた。
どうして。どうしてこの人は、僕をそんな名前で呼ぶのだろう。
柳士郎は杖を突いて一歩、部屋から廊下に踏み出してくると、「玄児よ」と江南の顔を睨み据えた。
「分っているのか。お前はこの屋敷に、私と会うためにやって来たのだろう」
いったい何を云っているのか、この人は。
僕の名は忠教だ。やっと蘇ってきたこの記憶に間違いはないはずだ。玄児ならば僕ではなく、いま僕の後ろにいる、その……。
「憶えていないか。いないのなら思い出せ」
柳士郎は威圧的に言葉を重ねた。
「ここはお前が生まれ育った屋敷だ。お前は私と会うため、ここに戻ってきたのだ。お前がこの世で最も憎んで然るべき、この私と会うために」
何も応えることができず、身動きもせず、ひたすら当惑する江南の心の表層に、そこでふと浮かび上がってきたパズルの破片。
――あなたはね、あたしが産んだ子じゃないの。
ああ……これはあの病室での、あの人の言葉。
――あたしが産んだ子じゃないのよ。あなたは昔……。
いつだったろう。去年の、あれは|梅雨《つゆ》の終わり頃だったろうか。
[#ここから太字]……違う。[#ここで太字終わり]
僕がこの手であの人を死なせてしまったあの日よりも十日ほど前の……そう、これは確かにあの人の言葉。
[#ここから太字]これも違う[#「これも違う」に傍点]。もちろん違うのだ――と、|江南《かわみなみ》孝明は確認する。
病床の僕の母が四月一日についたあの嘘とは別物の、これは……[#ここで太字終わり]
――あなたはね。
やせ衰えた身をベッドに横たえたまま、何だかとても思いつめた眼差しで僕を見据え、彼女はこう云ったのだった。
――あなたはね、実はあたしの本当の子供じゃないの。死んだお父さんの子供でもない。秘密にしておかなくちゃいけなかったんだけれど、やっぱりこのままずっと黙っているのは良くないと思って……。
――あなたは昔、浦登家の旦那様からお預かりした子なの。それをあたしは、忠教という名の我が子として……我が子だと思ってずっと育ててきたわ。でも、本当はあなたは忠教じゃない。
――あなたの本当の名前はね、玄児というのよ。忠教じゃなくて玄児。浦登、玄児……。
柳士郎がさらに一歩足を踏み出してきて、佇む|江南《えなみ》=玄児の腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、594-上-18]んだ。
「さあ、こっちへ来なさい」
そう命じて、掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、594-下-2]んだ腕を引き寄せる。
「お前がこうしてここに戻ってきたのは、これもまた運命というもの……」
……僕は玄児? 忠教じゃない?
江南=玄児は当惑の視線を、廊下の突き当たりにうずくまった美鳥の方へ飛ばす。
僕は、ああ、じゃあいったい……。
「分っているのか、玄児」
やにわに声を高くして、柳士郎が云った。
「分っているのか。お前が殺さねばならない相手はあの娘ではない。――私だ。この私なのだぞ」
「何を」
と、驚きの声が上がった。背後にいた玄児――これまで江南=玄児がそう認識してきた人物――の口から。
「お父さん、何をそんな」
「さあ、玄児」
柳士郎は江南=玄児を見据える。
「分るか、玄児。私はもう、今のまま生きていたくはないのだ。普通に一度、死んでしまいたいのだ。だから、さあ、お前のその手で楽にしてくれ。私を殺してくれ。さあ、玄児……」
低く重々しいその声音に、その口振りに、ふと心の底で反応するものがあった。そう云えば、今日未明に彼が座敷を訪れてきたあの時にも、同じような感覚に囚われたような気がする。
この人の云うことにはどうしても逆らえない。何故か無条件にそう思わせてしまう、恐れと怯えが入り雑じったような、激しい心のざわめき……。
掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、595-上-13]まれた腕を引かれるままに、江南=玄児はそして、柳士郎について部屋の中へと足を進める。入るなり柳士郎は扉を閉め、鍵を掛けた。
「お父さん」
「柳士郎さん」
扉越しに呼びかけてくる声を無視して、柳士郎は江南=玄児を部屋の中央まで引っ張っていくと、そこに置いてあった椅子に坐らせた。そうしてみずからは、右手に握った黒い杖の先端を使って、壁を埋めた書棚の本を片端から床に|薙《な》ぎ落としはじめるのだった。
……何だろう。この人はいったい何をするつもりなんだろう。
ぎりぎりまで張りつめていた緊張の糸が切れたような心地で、江南=玄児は茫然とその様子を眺めていた。するとやがて柳士郎はガウンのポケットからライターを取り出り[#ママ]、床に散乱した本の何冊かに、それで火を点けはじめたのである。
見る見る大きくなった炎が他の本に燃え移り、赤々と燃え広がっていく。それでもしかし、江南=玄児は椅子に坐ったまま、やはり茫然とその様子を眺めているばかりだった。
「玄児……いや、忠教」
柳士郎が扉のそばに戻り、外からの呼びかけに応えた。忠教? ――と、それを耳に留めて江南=玄児は首を傾げる。
彼が、彼こそが忠教だというのか。僕が玄児で、彼が忠教で……ああ、それじゃあいったい……。
「ここから離れなさい、すぐに」
と、柳士郎は扉の外に向かって声を放つ。
「話すべきことは話した。お前はもうすべてを知った。これから先どうするも、お前次第だろう」
炎はその間にも着々と燃え広がり、室内には薄白い煙が濛々と立ち込めていた。
「私は――」
と云ったところで柳士郎は声を詰まらせ、激しく咳込んだ。
「私は、私のやり方で……」
そまこでで言葉が途切れ、彼はさらに激しく咳込む。玄児は椅子から立ち上がり、そんな彼の元へそろそろと歩み寄っていった。
「お父さん!」
と、外から大声が聞こえてくる。扉を叩く音が鳴り響く。
「お父さんっ!」
本から書棚へ、書棚から壁や天井へ……炎は勢いを増しつつ部屋中に燃え広がっていく。その光景が玄児の中で、今日未明に見た夢の一つと共鳴する。
激しく燃え猛る凶暴な炎の夢。その中で独り逃げ惑う夢。熱気と煙に巻かれつつ、必死で助けを呼びつづける夢。
[#ここから太字]……違う。[#ここで太字終わり]
炎の向こうには広大な空白があった。迂闊に触れると今現在の自分の存在までが呑み込まれてしまいそうな……。
[#ここから太字]これも違う[#「これも違う」に傍点]――と、|江南《かわみなみ》孝明は確認する。
もちろんこれも違うのだ。僕の心の中に棲みついている「角島、十角館炎上」の、あの炎のイメージとはまるで別物の、これは……。[#ここで太字終わり]
そんな空白の彼方から、おもむろに滲み出してきたかすかな記憶があった。
息の止まりそうな思いで、玄児はそれを掬い上げる。そして次の瞬間、扉に倒れかかったまま喘いでいる柳士郎の方に、驚きの目を向けた。
「お……という、さま」
塔からの墜落事故以来、どうしてもまともに声を発することができなかった喉から、たどたどしい言葉が零れ出た。
「おとうさま……ぼく、ぼくは……」
苦しそうに肩を上下させながら、柳士郎がこちらを振り向く。白濁した双眸をかっと見開き、内心の葛藤に引き裂かれたように顔全体を歪め、
「玄児よ」
と答えた。
「私はお前の父親ではない。私は……」
そこでまた激しく咳込み、その場に跪いてしまいつつも、柳士郎は杖を支えにして状態を持ち上げ、
「さあ、玄児」
と、有無を云わせぬ調子で続ける。
「私を殺すのだ。呪われたお前のその手で、この私を」
何と応じたら良いのか、玄児には分らなかった。柳士郎の放った言葉の意味よりも、その形相が、その低く重々しい声が無性に恐ろしく感じられ、細かく首を振り動かしながらじりじりとあとずさる。
「お父さん!」
という大声とともにその時、再び扉が打ち鳴らされた。さっきの扉ではない。この部屋にあるもう一枚の……。
思う間に、その扉が蹴り開かれる。そうして勢い込んで部屋に飛び込んできたのは、玄児――いや、あれが忠教なのか――だった。
室内の様子を見まわすと、忠教はまず柳士郎に向かって「お父さん」と呼びかけ、続いて玄児の姿に目を留めて、
「ああ……玄児」
何やら感極まったように声を震わせた。
部屋中に広がった炎は今や、昨夜の悪夢で見た炎と同じ凶暴さをもって燃え猛っている。壁や天井を舐めまわし、這いずりまわりながら、恐ろしくもいびつな渦を巻き始めている。
――火事よ!
という金切り声がふと、どこかから聞こえてきたような気がした。誰だかは分らない、女性の叫び声だった。
――火事……逃げて!
ああ、これは――これも、僕の心の底に広がる空白の彼方から……。
――玄児さま。
と、今度はそんな声が。
――玄児さましっかり。
これは子供の――あの男の子[#「あの男の子」に傍点]の声だ。炎の中を逃げ惑った挙句、力尽きかけていた僕を助けようとしてやって来てくれた、これはあの……。
「玄児!」
遠い記憶の中の声に多いが去るようにして、現実の声が響いた。
「大丈夫か、玄児」
忠教の声だった。玄児は炎に取り囲まれ、その場に膝を折ってしまっていた。振り返ると柳士郎も、さっきと同じ場所にぐったりと跪いている。
炎のうねりが急激に高まり、灼熱の牙を猛然と剥き出しながら玄児に、そして柳士郎に襲いかかってきた。押しとどめようのない恐怖に憑かれ、玄児は絶叫する。柳士郎も絶叫する。二人に向かって突進してきた忠教も絶叫する。
――と、その途端。
江南=玄児の現在進行形に寄り添いつつ、いかがわしい浮沈を繰り返してきた視点≠ヘ、弾き飛ばされるようにして虚空に舞い上がり、この夜の暗黒に霧散した。
[#ここから5字下げ]
13[#「13」は全角一文字]
[#ここで字下げ終わり]
炎は結局、〈南館〉のすべてと〈西館〉の四分の三以上を焼き尽くした。火災が収束に向かったのは夜半前から激しくなった降雨のおかげで、もしもそれがなければ〈東館〉にまでも被害は及んでいたかもしれない。この間〈北館〉に避難して私たちは為すすべもなく、これ以上火が広がらないよう祈っているしかなかったのだった。
そして、翌九月二十七日の正午過ぎ――。
私は〈東館〉一階の玄関ホールから中庭に出るテラスに立ち、二つの棟が灼けたあとの無惨な風景を眺めていた。三日前――二十四日の同じ頃合、同じこのテラスに立って〈西館〉の外観をスケッチした時のことを、何ともやりきれない気持ちで思い出しながら。
嵐は今度こそ完全に去り、まるで地上のものどもの|脆弱《ぜいじゃく》さを嘲るかのように、天には清澄な青空が広がっている。降り注ぐ陽射しの目映さにはあまりにもそぐわない、荒れ果てた広大な庭。それを取り囲む黒々とした建物と、建物の残骸……。
〈東館〉二階の部屋の窓から、初めてこの中庭を望んだあの時、私はその荒廃の色を濃く湛えた佇まいに「神に見放されたような」という印象を受けたものだったけれど、いま目の前にある光景はそれどころではない。神の怒りを買って滅ぼされた廃墟さながら、とでも云おうか。
「あなたと最初にお会いしたのも、確かこの場所でしたね」
傍らに立って私と同じように風景を眺めていた浦登征順が、溜息混じりに云った。
「あれが三日前でしたか。ずいぶんと変わり果ててしまったものだ……」
征順にはすでに、私が知りえた事実を詳しく話してあった。十八年前の事件の真相についても、今回の一連の事件の真相についても、昨夕〈西館〉で何が起こり、柳士郎と玄児=忠教、|江南《えなみ》=玄児の三人があの火災騒ぎの中でどうなったのかも、すべてを余すところなく。
〈西館〉の焼跡からはまだ、一人の遺体も見つかっていない。鎮火後、夜が明けるのを待って、私と征順、宍戸で捜索を試みてもみたのだが、それだけの人手ではとても、焼け落ちた建物の、いまだ熱気を帯びた膨大な瓦礫を掘り返すのは無理な相談であった。従って目下のところ、三人は「生死不明」ということになるのだが……。
美鳥と美惟は私の誘導で〈北館〉に逃れ、事なきを得ていた。〈南館〉の火災では市朗と慎太が負傷した模様だった。何でも、逃げ遅れた慎太を市朗が助けに云って、間一髪で炎の中から脱出してきたものの、その際、市朗は顔面にひどい傷を負ってしまったらしい。慎太の方もあちこちに火傷があるという。野口医師が応急の手当てを施し、幸い二人とも命に別状はない様子だけれど、市朗の方は左眼球に深手があって、たとえすぐに病院に搬送して治療できたとしても失明は免れまいとのことだった。
「その後、警察から連絡は?」
私が訊くと、征順は中庭の向こうの焼跡に目を馳せたまま、
「今朝になってやっと、私が応対に出ましたよ」
と答えた。
「市朗少年の話どおり、途中の道が土砂崩れで通行不能になっているようです。捜査員の到着までまだしばらく時間がかかりそうだと」
「火災の件は伝えたのですか」
「ええ、それは。怪我人がいるから道の復旧も急いでほしい、とね。火はとりあえず収まったので、大々的な救援隊の要請は必要ない、とも云っておきましたが」
「あまり事が大袈裟に鳴りすぎては困る、という判断でしょうか」
「――そうですね」
「この家にはやはり、守らなければならない秘密≠ェあるから、と?」
征順は縁なし眼鏡のブリッジを人差指の先で押し上げながら、
「|義兄《あに》も玄児君も、もはやあの瓦礫の下で息絶えてしまっているとなると――」
そう云って、傍らの私に視線を流す。
「法的には、義兄が握っていた浦登家の財産その他は、妻の美惟と娘の美鳥が相続する運びとなるでしょう。しかし美惟はあのとおり心を病んでいて回復の見込みは薄く、美鳥も精神状態に問題がある上、満で数えるとまだ十五の未成年です。まずはこの私が後見人に立って、と腹を|括《くく》らねばならない」
暗黒館の次代当主の務めとして、この家の秘密はこれまでどおり、どんな手段を講じてでも守り通さねばならないと、そういうわけか。
「中也さん、あなたにも片棒を担いでもらうことになります。野口先生にも使用人たちにも、それから市朗というあの少年にも」
「茅子さんと伊佐夫さんにも、よくよく云い含めておく必要がありますね」
「それはもちろん」
「ですが、仮にそうしてみんなが口裏を合わせたところで、隠しきれない問題もあるでしょう。たとえば野口先生が、蛭山さんや望和さん、美魚さんの死亡に関して当たり障りのない診断と報告をでっち上げたとしても、外の森で発見されるであろう首藤氏の死因についてだけは、どうしたって誤魔化しようがないのではありませんか」
「――分っていますよ」
征順は厳しく眉根を寄せながら、
「それについては、首藤さんが精神病院から連れ出してきた江南忠教なる患者の犯行だった、ということで片をつけさせるしかないでしょうね。で、犯人の江南は昨夜の火災で焼死したと。実際、事実はそのとおりでもあるわけですから」
「まあ、確かに」
「幸いと云って良いものかどうか、警察の連中が来るまでにはまだ充分に時間があります。その間に皆を集めて、対策会議≠持たねばならない。庭に出てきた白骨死体を埋め戻したりと、やらねばならない作業もたくさんある。――あなたも協力してくれますね、中也さん」
「――ええ」
当たり前な一市民としての常識や規範に則って、ここで征順の意見や要請に否定的態度を示せるような気分では、とてもなかった。胸中に広がる何とも云えぬ無力感と脱力感、そして喪失感が、その原因だろうか。いや、それよりもまず、すでにして私の心の内には、彼らとの間にある種の共犯意識≠ェ芽生え、深く根付いてしまっていたから……。
「そう云えば」
私はズボンのポケットを探って、中から|煤《すす》で汚れた銀の鎖を引っ張り出した。鎖の先にぶら下がっているのは云うまでもなく、例の懐中時計――〈ダリアの時計〉である。
「これを、あなたに」
と云って、私は時計を征順に差し出す。
「美惟さんと美鳥さんを助けて〈西館〉から逃げる時、廊下で拾ったのです。恐らく玄児さんが、美鳥さんに向かっていく犯人を止めようとして揉み合った際、あそこに落としてしまったのでしょう」
「〈ダリアの時計〉ですか」
征順は時計を受け取ると、文字盤を上にして掌に載せ、感慨と困惑が入り雑じった眼差しでそれを見つめた。
「浦登家の誰かが持っておかれるべきものだろうと思いますので」
私がそう云ったのには何とも応えず、征順は時計を握り込んで上着のポケットに入れた。
それからまたしばらくの間、私たちは交わす言葉もなく、眼前に広がる無惨な風景を眺めつづけていた。澄み渡った空から照りつける陽光がいやに眩しくて、何やら暴力的にすら感じられ、それは私に「太陽の光というのは癖ものさ」という、いつだったかの玄児の台詞を思い出させた。緩く吹きつける秋風は、その涼やかさとは裏腹な異臭を、今なおうっすら煙の立ち昇る焼け跡から運んできた。
「ところで、征順さん」
被っていたソフト帽を脱ぎ、汚れた髪に軽く手櫛を通しながら、私が口を切った。
「ずっと気になっていたことをいくつか、この際お訊きしておきたいのですが」
征順はちょっと驚いたふうに私を振り向いたが、すぐに中庭の方へと視線を戻し、
「何なりと」
と答えた。私は云った。
「まず一つは、一昨日の午後でしたか、テレヴィの番組で流れていた映像についてです。|瀬戸内海《せとないかい》の|時島《ときしま》という小島に建つ、例の洋館について」
「――ほほう」
「〈北館〉の再建を手がけた件の建築家が、それ以前の昔、時島に楽園≠建設しようとしたとある[#「とある」に傍点]富豪の依頼を受けて設計した建物である、という話でしたが。――征順さん、どうしてあなたは[#「どうしてあなたは」に傍点]、そのハーフティンバーの洋館の木骨の色を知っておられたのですか[#「そのハーフティンバーの洋館の木骨の色を知っておられたのですか」に傍点]」
それはあの時、すぐさま感じた疑問であった。
テレヴィに映った白黒の映像を見ただけで[#「テレヴィに映った白黒の映像を見ただけで」に傍点]、征順はごく当然のことのように「銅葺きの屋根の、|緑青《ろくしょう》が吹いた色と同じ色合いにすべての木骨が塗られていたり……」と語ったのだから。あらかじめ彼はその洋館の木骨の特徴的な色を知っていた、としか考えられないではないか。
「実際に現地へ行って見たことがおありなのか、あるいは何らかの資料で情報を得られたのか。いずれにせよ、『単に知っていた』ということでは済ませられない発言であるように、私には思えたのです。そうしてみると、三日前にここで私のスケッチブックを見てあなたが述べられたひとくさり、あれも単なる素人の言葉とは思えなくなってきます。建築について、もともと相当以上の興味と知識を持っておられなければ、なかなかあのように語れるものではないでしょうから」
「ご明察ですね」
征順は横目でこちらを見ながら、唇に穏やかな微笑を含む。私は続けて云った。
「次はね図書室にあった|宮垣《みやがき》葉太郎《ようたろう》の署名本の件についてです」
「おや。あれをご覧になりましたか」
「一昨日の夕刻に。机の上に出ているのを見つけたもので。『迷走する詩人の家』の初版本です。愛好家としては手に取ってみないわけにはいきません」
「で、あの署名を目にされたと」
「はい」
「ではね事情はもうお察しでしょう」
「――たぶん」
私が真顔で頷くと、征順はまた中庭の方へと視線を戻しながら、
「あの本の著者、宮垣葉太郎は一度この屋敷に来たことがありましてね。本の書名は、その時に。あれはさて、いつのことでしたか。署名の日付は憶えておられますか」
「確か、昭和二十五年の十月何日かだったように」
「八年前になりますか、もう」
小さく息をついて、征順は上着のポケットにそっと両手を潜り込ませる。
「実は私、むかし東京を活動の拠点にしていた時期に、彼の――葉太郎君の父上と、ちょっとした付き合いがあったのです。家に招かれたことも幾度かあって、そこで、まだ十歳かそこいらの葉太郎君とも会っていたものですからね、彼が戦後間もないあの時期に若くして著書を|上梓《じょうし》した、しかもそれがあのような探偵小説だと知った時には、ずいぶんと驚きましたよ。もちろん大変に嬉しくもあった。その彼が八年前、私を訪ねてここにやって来てくれたのです。父上からこの屋敷の噂を聞いて、たいそう興味を引かれたそうで」
「ははあ」
「八年前と云えば、もう清も生まれていた頃です。私の苗字はとうに浦登に変わっていたわけですが、昔の私を知る葉太郎君にしてみれば『浦登征順』というこの名前には抵抗があったのかもしれませんね。それで、為書にはあのとおり[#「為書にはあのとおり」に傍点]、彼に馴染みのある私の旧姓を書いたのでしょう[#「彼に馴染みのある私の旧姓を書いたのでしょう」に傍点]」
「そういうことでしたか」
私は征順の横顔を見つめ、云った。
「その昔、時島に建つ件の洋館を設計した建築家。十八年前に消失したこの屋敷の〈北館〉再建を請け負った建築家。――中村某というその建築家とは征順さん[#「中村某というその建築家とは征順さん」に傍点]、あなたのことだったのですね[#「あなたのことだったのですね」に傍点]」
一昨日、図書館で見つけた宮垣葉太郎の処女作『迷走する詩人の家』。作家の署名に添えられていた|為書《ためがき》を見たあの時、私ははなはだ混乱せざるを得なかった。「|恵存《けいそん》」と書かれたその横に並んでいた贈り相手の名前、その苗字が[#「その苗字が」に傍点]「浦登[#「浦登」に傍点]」ではなく[#「ではなく」に傍点]「中村[#「中村」に傍点]」だったものだから[#「だったものだから」に傍点]。つまり「中村征順様へ」という為書が、そこには記されていたのである。
唇にまた穏やかな微笑を含んで「いかにも」と頷く征順に、
「ですが、それならばどうして」
と、私は訊いた。
「どうしてあなたは、最初にここで建築家中村某の話が出た時、あたかも他人事のように『もう死んでしまった男ですよ』などとおっしゃったのですか」
「嘘をついたつもりはないのですよ」
そう云って、征順は微笑を頬に広げる。
「十七年前、私は浦登柳士郎から〈北館〉再建の依頼を受けて、初めてこの屋敷にやって来ました。そしてそこで望和と出会い、恋に落ちてしまったわけです。私は彼女を愛し、一緒になりたいと願った。ところがその実現のためには、どうしても呑まなければならない条件があって……という話は、もうあなたにはしていましたね」
「――ええ」
「私の方が浦登姓を引き継いだ上で、それまで自分が生きてきた世界、それまでの自分の経歴をすべて捨て去ってこの屋敷に定住すること。云ってみればこれは、建築家中村征順という存在をこの世から葬り去ってしまうことに他ならなかった。悩んだ末、結局のところ私はそうする途を選んだのですから、そういった意味で『あれはもう死んでしまった男』だと云ったわけです」
「『一風変わった生き方を選んだ男』というふうにもおっしゃっていましたね。野口先生の口からは『ちょっと風変わりな建築家』というふうに聞かされましたが、あれは?」
「実際、そのとおりだとは思いませんか」
と、征順は訊き返した。
「あの当時、私はけっこう名の通った建築家として、まだまだ将来の活躍を期待されていた人間だったのです。仕事に対する意欲も情熱も決して衰えてはいなかった。それがいきなりすべてを放棄して、こんな山奥の奇妙な屋敷に引きこもろうと決めたのですから。望和と出会って、彼女を愛したことがそもそもの始まりではありましたが、同時に私は、暗黒館というこの異形の館そのものにも魅入られてしまっていた。不死≠もたらす〈ダリアの肉〉の存在を受け入れ、光よりも闇を愛すことを近い……つまりは取り憑かれてしまった[#「取り憑かれてしまった」に傍点]わけです。――どうですか。充分に風変わりな生き方でしょう」
けれども今や、彼が愛した望和はいない。望和との間にもうけた清は宿命的な奇病に冒され、あと何年生きられるかも分らない。かつてダリアが住んでいた〈西館〉は見る影もなく焼け落ち……ああ、そう云えば、〈ダリアの居間〉の地下に貯蔵されているという〈肉〉はどうなったのだろう。頑丈そうなあの鉄の扉の下にまでは昨夜の炎も及ばず、何とか無事に残っているのか。それとも……。
返すべき言葉がどうしても見つからないまま、目深に帽子を被り直した私に、
「では、中也さん」
何やら改まった口調で、征順が云った。
「私の方からも一つ、あなたにもお願いがあるのですが」
「――何でしょうか」
「焼けてしまった〈西館〉と〈南館〉を、あのまま放置しておくわけにはいきません。状況が許せば、なるべく早くに再建を、と思います」
「はあ……」
「あなたは建築家の学生さんでしたね。将来は建築関係の仕事に、とも思っておられる?」
「私なりの心づもりはありますが」
「それでは――」
と、征順は口許を引き締めて私を見据えた。
「今ここで、あなたに依頼したい。焼失した屋敷の補修と再築に手を貸していただけませんか」
「私に?」
思ってもみなかった「依頼」に、私はすっかり驚きうろたえてしまい、
「しかし、私はまだ学生で」
「むろん仕事は私が中心となって進めます。あなたにはそれを補佐していただきたい。意見も存分に述べてほしい。あなたにとってもきっと有益な経験になるはずです」
「しかし……」
「ねえ。そうすれば、清もあなたとしばしば会うことができる。美鳥もです。あなたが来てくれれば、美魚を失って滅んでしまったあの子の心も、いずれ蘇るかもしれない」
昨夜〈西館〉から脱出して以降、美鳥は美魚の遺体がある寝室に閉じこもったきりだった。硝子玉になり果ててしまったような目を宙に向けたまま、誰がどう話しかけてもいっさい応じようとせずに。
「ですが征順さん、私には……」
「ご心配なく。いつまでもずっとあの子のそばにいてやってくれ、などと無体なことは云いませんよ。あなたの|生命《いのち》をこの屋敷に繋ぎ止めようというつもりもない。――郷里に婚約者がいらっしゃるとか」
「――ええ」
「その方のお名前は」
「――|和枝《かずえ》。|花房《はなぶさ》和枝といいます」
「ほう」
征順は穏やかに微笑み、それからまた口許を引き締めて私は見据えた。
「引き受けてくれますか、中也……いや」
と、そこで征順は小さく首を振った。
「詩人の名で呼ぶのはもうやめにしましょうか。玄児君はもういないのだし」
玄児はもう、いない。――そう。玄児はいない。もう生きてはいない。昨夜あの炎に呑まれたまま今になっても姿を見せない彼が、もはや生きているはずがない。彼が私の前に現われることはもうない。それこそ〈ダリアの祝福〉による完全な復活の奇跡≠ェ、彼の身にもたらされでもしない限りは。
「どうです。力を貸してくれますか」
俯いて軽く唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、276-上-18]む私に、暗黒館の次代当主は云った。
「あなたの本名[#「あなたの本名」に傍点]……これもきっと何かの縁というものでしょうるねえ、中村――中村|青司《せいじ》さん」
[#改丁]
第六部
[#改ページ]
[#改丁]
第二十八章 封印の十字架
そして視点≠ヘ三十三年前のすべてから離れ、螺旋状に捩じれて|虚空《そら》に舞い上がる。大きく小さく、激しく緩く、不規則でいびつな旋回運動を続けながら、法則を超え、|時間《とき》を超え、三十三年後――一九九一年の現在≠ヨと舞い戻る。
……山深い森に囲まれた小さな湖[#ここから太字](……影見湖だ)[#ここで太字終わり]。秋めいた午後の陽射しの下、ささやかな波立ちの一つもなく静まり返った水面[#ここから太字](……赤い水面)[#ここで太字終わり]。ヒトに近い種類の動物が残した足跡にも似た形の[#ここから太字](「大猿の跡」と呼ばれる……)[#ここで太字終わり]、その|踵《かかと》≠フあたりに浮かんだ小島。島の一角に|聳《そび》える十角形の塔[#ここから太字](この塔の上から、僕は……)[#ここで太字終わり]。塔からは離れた場所に黒々とうずくまる洋館[#ここから太字](……これ[#「これ」に傍点]が)[#ここで太字終わり]。大きさや意匠の異なる四つの棟から成る、黒き異形の館[#ここから太字](これが、そう、暗黒館の現在の形[#「現在の形」に傍点]なのだ)[#ここで太字終わり]。これは死≠ノ抗う妄念が生んだ館。これは……。
舞い降りた視点≠ヘ瞬時にして、館の内部へと滑り込む。
見憶え[#「見憶え」に傍点]のある玄関ホール。見憶え[#「見憶え」に傍点]のある薄暗い廊下。見憶え[#「見憶え」に傍点]のある広い座敷……そこで眠る自分自身の姿[#「自分自身の姿」に傍点]を捉えた一瞬を最後に視点≠ヘ、館が孕む暗黒の底に霧散した。
[#ここから5字下げ]
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[#ここで字下げ終わり]
うっすらと目を開けた時、最初に飛び込んできたのはよく見知った顔だった。
「――あ、やあ。気がついたか、|江南《こなん》君。あまり僕がやきもきする間もなかったなあ。なかなか友だち甲斐のあるタイミングだねえ」
冗談めかした口振りだが、内心は言葉どおりではないのだろうと思った。この人はいつだってこんなふうだから……この人[#「この人」に傍点]? ああ、どうして今ここに彼がいるのだろうか。
「――|鹿谷《ししや》さん?」
|江南《かわみなみ》孝明は幾度も瞬きをし、相手の顔を見直す。こけた浅黒い頬に尖った顎、大振りな鷲鼻に若干垂れ気味の落ち窪んだ目、色黒のメフイストフェレス≠ニでもいうような、一見とても気難しげな……そう、確かにこれは鹿谷|門実《かどみ》の顔だった。
「――ここは」
呟いて、江南は息を呑む。
畳に両手を突いてこちらを覗き込んでいる鹿谷の背後に、|弁柄色《べんがらいろ》の|襖《ふすま》がちらりと見えた。情報には漆黒の天井が見えた。江南は布団の上に仰向けに寝かされていた。身動きをしようとすると、そこかしこが鈍く痛んだ。
「ああ、ここは……」
「暗黒館だよ、もちろん」
と、鹿谷門実が云った。
「自分の身に何があったのか、ひょっとしてし憶えていないのかい」
「――いえ」
枕に頭を載せたまま、江南は小さく首を振る。
「――でも」
どうしてその暗黒館に今、鹿谷がいるのか。不思議で仕方なかったけれど、それを問うよりも前に、江南には云わなければならないことがあった。
「鹿谷さん」
「何かな」
「僕は――僕はすべてを見てきたんですよ」
「うん?」
「かつて……三十三年前にこの屋敷で起こった事件の一部始終を、です。それを、僕は」
「ちょっと江南君」
「やっと分りました。中村青司にとって、この屋敷がいかなる意味を持つ存在だったのか。ここはね、鹿谷さん、この暗黒館は[#「この暗黒館は」に傍点]、青司にとっての[#「青司にとっての」に傍点]始まりの館[#「始まりの館」に傍点]≠セったんです[#「だったんです」に傍点]」
「おいおい、江南君」
鹿谷はきょとんと目を見張る。次には困惑の面持ちで、緩いウェーヴのかかった髪を掻き上げる。江南はしかし、お構いなしに続けた。
「三十三年前……一九五八年の九月二十三日、彼は――青司は初めてこの屋敷を訪れて……そうです、そこからすべては始まったんです。十角形のあの塔と出会い、イタリアの建築家ジュリアン・ニコロディの名を知り……藤沼一成の絵も、ここにはあったんです。宮垣葉太郎の署名本も、それからそう、|古峨《こが》精計社特製のからくり時計も。当時の古峨精計社の社長というのはきっと、あの古峨|倫典《みちのり》だったんですよ。|黒猫館《くろねこかん》のモティーフになった『アリス』にもね、青司はここで出会っているんです。他にもまだまだあったのかもしれない。後に青司が設計した館の出発点になるようなものが、ここには――この暗黒館には……」
「大丈夫かい、江南君」
鹿谷は心配そうに首を捻り、人差指を立てて自分の蟀谷を小突きながら、
「頭は打っていないと聞いたから、とりあえず安心していたんだけれども」
「大丈夫。気は確かです」
江南は大真面目な顔で答えた。
「でも、これで僕、世界観が変わってしまったかもしれない」
「おやおや、そいつはまた大仰な話だねえ」
「だって、ねえ鹿谷さん。僕は本当に見てきた[#「見てきた」に傍点]んですから。三十三年前、ここで三人の……いえ、途中の森で殺された首藤利吉も含めれば四人の人間が殺されたんです。そのさらに十八年前にもここでは殺人事件があって、不可思議な人間消失≠フ謎があって、だけどそれは青司が見事に解決して、そこへ犯人の柳士郎が……」
「分った。分ったよ、江南君。要は気を失っている間に、そういう夢を見てしまったわけだね」
「夢?」
江南は思わず声高になって、
「とんでもない」
と否定した。
「あれは違います[#「あれは違います」に傍点]。夢じゃない[#「夢じゃない」に傍点]。あれは現実です[#「あれは現実です」に傍点]。僕は三十三年前の中也、いや、中村青司の内面に潜り込んで、視点や思考を共有して、そして彼がこの屋敷で体験したことをすべて……」
「だからね、それが夢なんだよ」
あんな夢があるものか、と江南は思う。
あんなにも複雑に入り組んだ、なおかつおよそ日常的な現実からは懸け離れた出来事の連続でありながらも、それでいて全部の辻褄がきちんと合っている。その膨大なディテールを、目覚めた今も克明に思い出すことができる。語れと云われれば、細大洩らさず語ることもできるだろう。――これが単なる夢でなどあってたまるものか。
「違います」
と、江南はせいいっぱい口気を強めた。
あれが夢だというのなら、今ここにある現実[#「現実」に傍点]も夢と同じようなものだと云わねばならない。あれが夢だというのなら、この世界にはそもそも現実[#「現実」に傍点]などというものは存在しないのだと云わねばならない。あれが夢だと云うのなら……。
「違うんです、断じて」
江南は繰り返し否定したが、鹿谷は胡乱なものを見る眼差しで、
「しかしねえ、江南君」
「いや」
とその時、別の人物の声が割って入った。
「夢という安易な言葉で切り捨ててしまってはいけないようですね。少なくとも我々が知っているような形の夢ではないと、私も思いますが」
いくぶん嗄れているが、それでもよく通るテノールだった。穏やかな、一語一語を丁寧に噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、615-上-2]みしめるような話しぶりである。
鹿谷は「はあ」と首を傾げたが、その当惑顔にふと、「もしや」というような色がよぎった。
「どうしてまた、そうお思いになるわけですか」
「この屋敷は、そのようなことがあってもおかしくない場≠ナすので。昔からここでは、世の常識では満足に説明しきれぬようなことが、幾度となく起こってきたのです」
「はあ……」
江南はのろりと上体を起こす。
身体には節々が軋むような鈍痛があったけれど、そのせいで動けないというほどのものでもない。痛みよりもむしろ、長時間ひたすら眠りつづけていたためだろうか、必要な筋肉にうまく力が入らないことの方が気になる問題だった。
鹿谷の背後に見えた弁柄色の襖。それが開け放たれた向こう――続き間になった隣室の中央に黒い座卓が置かれており、声の主はその前に坐ってこちらを見ていた。あれは、あの人物は……。
「その若いお方、江南さんの訴えておられることはすべて、いま私がお聞きした限り、確かに現実にあった出来事[#「確かに現実にあった出来事」に傍点]のようです。三十三年前の今頃、本当にこの屋敷ではそういった事件が起こったのですよ。その他のことも間違いのない事実です。藤沼画伯の絵にしても、宮垣葉太郎の本にしても、古峨精計社の時計にしても。そして常識的に考えるなら、当家とは縁もゆかりもない江南さんが、それらの事実を知っておられるはずは決してない……」
声の主は老年の男性であった。見たところ、すでに八十歳前後の高齢だろう。その年頃にしてはすっきりと背筋の伸びた身体に、品の良い焦茶色のブレザーを着ていた。オールバックにした見事な白髪。髪と同様に真っ白な口髭をたくわえ、華奢な縁なし眼鏡を掛けている。「老人」というよりも「老紳士」という言葉が似合いそうである。
「これは江南さん、あなたの持ち物ですね」
と云って、その老紳士が卓上から取り上げて見せた品があった。
「〈十角塔〉のバルコニーに落ちていたのを、家の者が見つけました。あなたがあそこから転落する際に取り落としたものでしょう。文字盤の硝子は無事ですが、針は六時半で止まってしまっています」
江南は布団から這い出すと、そのままのろのろと座卓のそばに向かい、
「おっしゃるとおりです」
示されたその品を確認して、神妙に頷いた。
「それは――その懐中時計は、確かに僕の。ですがそれは、元々はこの浦登家に伝わる〈ダリアの時計〉……」
「そのようですね」
老紳士は手に持った懐中時計を|矯《た》めつ|眇《すが》めつ見ながら、
「この形も、昔と比べてだいぶ汚れてはいるが、この色合いも……裏にはT・Eというイニシャルも彫られている。間違いなくこれは、浦登家に伝わる〈ダリアの時計〉ですが。――しかし、どうしてこれをあなたが持っておられたのか」
「僕は祖父の形見として貰ったんです。祖父は大叔父の店でそれを見つけて、たまたま自分と同じイニシャルが彫り込まれていたので譲り受けたのだ、と聞いています」
「ほう」
「大叔父は|遠藤《えんどう》|敬輔《けいすけ》といって、何年か前まで熊本市内で古物商を営んでいました」
「熊本の古物商……ほほう」
老紳士はゆっくりと瞬きをして、
「もう二十年ほども前になりますが、少々思うところがあり、古い家財をまとめて処分したことがあったのです。あの時にやって来た古物商の一人が、あなたの大叔父さんだったのかもしれませんね。その際にこの時計も、たいそう迷った挙句ではあったのですが、手放してしまうことに」
「それが巡り巡って、この僕の手に渡ってきたというわけですか。ああ、だから……」
真っ当な理屈で説明しきれることでは、もちろんなかった。過去≠ニ現在≠ニの間に散在する、数々の過剰な一致。単に「偶然の一致」と云うだけではとても収まりがつきそうにもない、数々の過剰な……いや、しかし……。
「『時の罠』という不思議な絵が、かつてこの屋敷にはありましたね」
と、江南は云った。老紳士は白い眉をわずかにひそめながら、
「『時の罠』……ははあ」
「三十三年前に焼失した〈西館〉の一室に、〈ダリアの鏡〉と呼ばれていた大きな鏡があって、そこに藤沼一成が描いた幻想画です。その絵にはその〈ダリアの時計〉が描かれていて、針は六時半を指していて、時計の鎖がまるで蜘蛛の巣のように広がっていて……」
「私はこの目で見てはいませんが、そのような絵があったという話は、あの火災のあとに聞きました。彼の――青司君の口から」
「青司の……ああ」
ぐねりと視界が歪んだ。激しい一瞬の眩暈。江南は目を閉じ、大きく呼吸をする。
「そもそもはその〈ダリアの時計〉ゆえに……その時計を所有した僕が、かつて中村青司が関わったというこの暗黒館の存在を知り、興味を抱いてしまったがゆえに、だったのでしょうか」
半ばみずからに云い聞かせるようにして、江南は言葉を繋げていった。
「それで僕は、まるで藤沼一成が幻視した『時の罠』に搦め捕られるようにして……三十三年前の彼[#「彼」に傍点]と同じ日を選んでこの屋敷にやって来てしまって、島に渡り着くなり、自分でも何故なのかよく分らないままにあの塔に昇って、そして……」
三十三年前の過去≠フ出来事の方が、偶然にも[#「偶然にも」に傍点]僕の現在≠ニ一致したわけではないのだ――と、江南は捉え方の方向性を定め直してみる。
考えてみれば当然のことだった。先に存在したのは過去≠フ方なのだ。過去≠フ一連の現実≠ェまずオリジナルとしてあって、僕の現在≠フ方がそれをなぞらえるようにして展開していったのだと、そのように捉えるべきなのではないか。
こんなふうに考えることもできる。
遡ればまず、「江南」という苗字を持った僕が、中村青司の建てた|青屋敷《あおやしき》や十角館の事件と関わり合いをもってしまったという、最初の大きな偶然があったのだ。その僕がその後、祖父の形見として〈ダリアの時計〉を手に入れてしまうという偶然が続いた。さらには、時計館や黒猫館の事件に関わってしまうという偶然が重なった。そしてこの夏、母がああいう経過を辿った末に他界するという偶然が……ああ、きっとそう、その時点でもう何か[#「何か」に傍点]が発動していたのだ。だからきっと、彼女はあの病床で、あんな……。
「――なるほど」
手許の〈ダリアの時計〉を見つめながら、老紳士は頷いた。
「興味深いお話ですね。普通の人間なら一笑に付すところでしょうが。しかしながら、たとえ真実がそのとおりであったとしても、私はさして驚きますまい。そういうこと[#「そういうこと」に傍点]はあるものですから」
「そういうこと……」
「私がその昔、初めてこの屋敷を訪れることになったあの時にも、いま思い返すととても信じがたいような、数々の奇妙な巡り合わせがあったものです。それらが単なる偶然だったのか、それともそこに何か[#「何か」に傍点]の見えざる意思が働いていたのか、私にはいまだに分らないし、無理に分ろうとする気もない。ねえ江南さん、そういうことはあるものなのですよ」
江南は座卓に両手を突き、改めて老紳士の顔に目を向けながら、
「あなたは」
と呟いた。三十三年分、年齢を重ねてしまっているけれど、この顔立ちには見憶え[#「見憶え」に傍点]があった。この声にも、この話しぶりにも聞き憶え[#「聞き憶え」に傍点]があった。
「あなたのお名前は……」
「申し遅れました」
老紳士は取り澄ました面持ちで云った。
「私は浦登征順と云います」
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一九九一年九月二十七日、金曜日の午後一時半。それが江南孝明の目覚めた時刻であった。二十三日の日没直後に〈十角塔〉のバルコニーから転落して以来、まる四日近くの間、昏々と眠りつづけていたのだという。
「まともに落ちていたらとうてい助からなかったところですが、うまい具合に途中で庭木に引っかかって、地面に叩きつけられずに済んだのですよ。幸運にも軽い打撲傷と掠り傷だけで……」
浦登征順がそんな説明をするのに、江南はやはり何とも奇妙な心地で、
「三十三年前にあの塔から落ちた青年と同じように、ですね」
と確認した。暗黒館の老主人は口許にうっすらと笑みを浮かべて、
「そう。しかし、あなたの方がより幸運だったと云えましょう。ショックによる記憶障害もないようだし、そうしてちゃんと言葉も話せる。今は、ご気分は?」
「多少あちこちが痛みますけど……ええ、大丈夫そうです。――ご迷惑をおかけしました」
勧められて、卓上にあった水差しの水でからからに渇いていた喉を潤してから、江南は改めて周囲の様子を窺う。ここは……。
見憶え[#「見憶え」に傍点]がある。ここはあの〈表の座敷〉だ。
四間続きになった広い和室、その北端の一室に布団が伸べられている。三十三年前にあの青年が寝かされていたのと同じ場所だった。
枕許に、着てきた衣服が畳んでおいてある。砂色のブルゾンに露草色の長袖シャツ、色落ちした黒いジーンズ。――江南はパジャマに着替えさせられていた。色は黒だった。
昼間だというのに、縁側に面した障子を透して射し込む外光はない。今も変わらず、雨戸が閉め切られているのか。間仕切りの襖の弁柄色は、現在までの間に一度ならず張り直される機会があったに違いない、三十三年前よりもずっと鮮やかで、毒々しくすら見えた。
「あの時――地震が起きて塔から落ちる直前に僕、人影を見たんです」
江南は征順に向かって云った。
「あれはきっと、この座敷がある〈東館〉ですね。二階の一室に明りが点いていて、その窓辺に茶色い服を着た、たぶん男性の姿が。あの人は……」
「私ですよ」
と、征順が答えた。
「三十三年前の青司君の役どころを、期せずして私が果たすことになったというわけです」
先ほどから鹿谷門実は、二人のやり取りに黙って耳を傾けている。当面、自分が口を挟む余地はないものと判断したのだろうか。畳の上で|胡座《あぐら》をかき、膝に片肘を載せて頬杖を突いた彼は、まるでこの屋敷を訪問するためにあつらえてきたかのような、上から下まで黒ずくめの出で立ちだった。
「すぐに家の者を呼んで塔の下を調べにいかせて、あなたを見つけました。そしてこの座敷に運んだ。三十三年前のあの青年と同じように」
「…………」
「大きな怪我はなく、頭を打った様子もまったくないのに、あなたは気を失ったまま、いっこうに目を覚まそうとしなかった。どうしたものか、私たちは思案に暮れたのですが」
「結局、今日までずっとここに?」
「そうです」
「病院や警察にはいっさい連絡せず、ですか」
「生命に関わるような事態ではない、と判断した上でね」
「その辺の事情は、昔も今も変わりがないということでしょうか」
という江南の質問には答えず、
「家人に一人、優秀な医師がいるのです」
と、征順は云った。
「医学的な判断は、彼が。水分や栄養の補給には、彼の指示で点滴を」
「医師……と云うと、野口先生が?」
「野口? ああ、村野先生ですね。残念ながら、あの先生はもうお亡くなりになりました。十年以上も前に、ご病気で」
「じゃあ……」
その「優秀な医師」というのは誰なのか。野口医師亡きあとの、浦登家の主治医? それをしかし、普通「家人」とは呼ばないだろう。とすると、いったい……。
無性に気に掛かったけれども、館の老主人はそれ以上の説明をしようとはせず、「ともあれ――」と言葉をつづけた。
「無事に意識を取り戻されて、私も安心しました。ちょうどそちらの作家先生――鹿谷さんが来られたタイミングでというのも、これもきっとそのような巡り合わせだったんでしょう」
「巡り合わせ……ですか」
沈黙を続ける「作家先生」の方をちらと窺ってから、江南は云った。
「僕のブルゾンのポケットに、札入れが入っていたと思うんですが」
「入っていましたよ」
征順は口許にまたうっすらと笑みを浮かべ、
「三十三年前は違って、ちゃんと」
「札入れの中には、社員証や免許証があったはずなんですが。クレジットカードの類も」
「調べさせていただきました。おかげであなたが東京の出版社にお勤めの方であると判明し、その後、森に突っこんだレンタカーも見つかった。あなたが乗ってこられた車ですね」
「あ、はい」
事故の際に傷を負った左手には、あのとき自分で使ったハンカチの代わりに、きちんと包帯が巻かれていた。江南は訊いた。
「社員証を手掛かりに、会社の方へ連絡してくださったわけですか。それで鹿谷さんが、ここに?」
征順はしかし、「いや」と首を振って、
「申し訳ないとは思いましたが、こちらからの連絡は、警察や病院と同様、いっさい。よけいな連中がここに押しかけてくるのは好ましくない。極力そのような事態は避けたかったものでね」
「…………」
「命に別状はない、遠からず目を覚ますはずだという医師の見立てもあったものですから、とにかくそれまで待つことにしようと。このあたりの事情は、そう、さっきあなたがおっしゃったように、昔も今もさして変わりがないのです」
「この家には守らなければならない秘密≠ェ多くあるから、ですか」
「そうです。それに――」
と、そこで浦登家の老主人は少々口ごもり、縁なし眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「今回の出来事が、あまりにも三十三年前と似ていたものですから。日付の一致と云い、時刻の一致と云い、あの日に起こった二度の地震と云い……あまつさえ、塔から落ちて気を失ったあなたの苗字が、よりによって『江南』だと分ったのです。札入れの中身を調べてそれを知った時には、さすがに目を疑いました。同時に私は、不吉な予感も抱かずにおれなかった。何故だかはお分かりでしょう」
「――ええ」
「そんなわけですから、あなたをこの座敷に寝かせておくに当たっては、失礼ながら、ちょっとした策を弄させていただきました」
「――と云いますと」
「出入りのための一枚を除いて、戸や窓はすべて釘を打ちつけて開かないように。あなたが勝手に出歩けないようにするためです。出入り用の戸には、外から応急に鍵を取り付けて……そうした上でなるべく、誰かがこにいてあなたの様子を見張ることにしていたのですが――」
征順は薄暗い座敷をぐるりと見まわしてから、再び眼鏡を指先で押し上げて江南の顔を見据えた。
「幸いなことに、それは取り越し苦労に終わってくれたようです」
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「ところで――」
相変わらず黙りこくっている「作家先生」の方を振り返って、江南はさっきからずっと気になって仕方のない疑問を投げかけた。
「どうして鹿谷さんはこの屋敷に。こちらからは何も連絡がなされていないというのに、どうしてここに来ることができたんですか」
「留守番電話の録音を聞いてねえ」
軽く肩を竦めてみせながら、鹿谷門実は答えた。
「二十二日の夜に、君がメッセージを吹き込んでおいてくれただろう。『熊本の山中に暗黒館という青司の館≠ェある、明日一人で行ってみようと思う』って」
「ああ、はい」
「君にも確か、云ってあったんじゃないかな。僕はその時期ちょうど、野暮用があって大分の実家に帰っていたんだけれども、翌二十三日の午後に外から留守電をチェックして、君のあのメッセージを聞いて……どうにも嫌な予感に囚われたわけさ。今頃、君が単身その青司の館≠ノ向かっているのかと思うと、それでもう、居ても立ってもいられなくなってね」
ちょっと怒ったように唇を尖らせて、鹿谷は江南をねめつける。おのずから首を擡げてくる罪悪感に、江南は「はあ」と項垂れるしかなかった。
「とにかくまず、君の実家の連絡先を調べて連絡してみた。お母さんの四十九日で帰郷していることは聞いていたからね。電話はなかなか通じなかったんだが、二十四日の夕方になってやっと君のお父さんが出てくれた。聞いてみると、法要のあとの席で、君の大叔父さん――さっき話に出た元古物商の遠藤敬輔氏だね、彼が君を相手に、何やらそんなことを――『暗黒館』という奇妙な屋敷のことを熱心に語っていたようだと教えてくれたんだ。そこで次はその遠藤氏の連絡先を聞き出して電話をしてみたわけだが、これがまた、なかなか捕まらなくってねえ。痺れを切らして、とにもかくにも熊本へ行ってみることにして……結局、遠藤氏とコンタクトが取れたのは二十六日――昨日の朝だった」
一気にそこまで喋ると、鹿谷は「失礼」と云って座卓に|躙《にじ》り寄り、卓上の水差しに手を伸ばした。江南か使ったグラスに新たに水を注ぎ、彼もよほど喉が乾いていたのか、ぐいぐいと飲み干してしまう。それから上着のポケットを探って、黒い印鑑入れのようなものを取り出した。中には印鑑ではなく、煙草が一本だけ収まる構造になっている。鹿谷愛用の節煙用シガレットケースである。
「今日の一本」と呟いて煙草を銜えると、ケースに内蔵されているライターで火を点け、「――で」と鹿谷は続けた。
「遠藤氏に事情を説明して、彼の記憶に残っている暗黒館のおおよその場所と、『浦登』という持ち主の名前を聞き出したあとの動きは、江南君、四日前の君と似たようなものだよ。熊本市内でレンタカーを借りて、昨日の夕刻前には出発してね、昨夜のうちに何とかI**村までは来られたものの、そしたらやたらと霧が出ていてねえ。夜の間は動かない方がいいだろうと判断して、車中で一拍。夜明けには霧も晴れたから動きはじめたんだが、それでも百目木峠のあたりでまたひどい霧に見舞われて……と、そんなこんなでね、やっとの思いで湖畔まで辿り着いたのが二時間ほど前のことさ」
「――すみません。僕のために、そんな」
「ああ、うん」
鹿谷は少しはにかんだように鼻の頭を掻き、
「もちろん君の安否が心配ではあったんだけれど、しかしまあ、僕自身もね、暗黒館なる青司の館≠この目で見てみたいという欲求を、どうしても抑えられない部分があったから」
「でしょうね」
「そう云えば今朝、村の雑貨屋に立ち寄ってね、この屋敷の場所や道順なんかを尋ねてみたんだが、そこの店主が君を憶えていたよ。何日か前にも、車に乗った若者が同じようなことを尋ねていった、と。あんたも『峠の向こうの浦登様のお屋敷』へ行こうというのか、それならば充分に気をつけた方がいいぞ、あそこでは昔から何度も恐ろしい出来事があって……なんて、ずいぶん脅かされたなあ」
「鹿谷さんもですか。ええ、僕もあの店でここへ来る道を……あっ」
と、そこでようやく江南は思い至ったのだった。I**村の「波賀商店」――あの店の主人の顔にあった大きな古い傷痕のことを[#「あの店の主人の顔にあった大きな古い傷痕のことを」に傍点]。
「――そうか」
思わず、独りごちていた。
あの店主、年の頃は五十前後に見えたが、仮にもう少し若くて四十六歳だったとすれば、三十三年前には十三歳である。顔の古傷は確か、額から左の瞼、頬にかけて残っていた。左目は視力を失ってしまっている様子だった。
「浦登さん」
江南は屋敷の老主人に訊いた。
「もしかしてあの雑貨屋――波賀商店の主人が、三十三年前のあの、市朗という中学生なんですか。〈南館〉の火災で左の目に深手を負った」
「市朗……ほう、懐かしい名前が出てくる。憶えていますよ。――そう。彼は波賀商店の跡取り息子だという話でしたから。あのあと結局、左目は失明してしまったと聞きます」
「やっぱり……」
そうなると、江南が中村青司の名前を出したあの時、あの店主が示した微妙な反応の意味も察しがつく。記憶の片隅にきっと、その名前が残っていたのだ。三十三年前、皆に「中也」と呼ばれていた大学生の本名を、彼もどこかで耳にする機会があったのだろう。
やにわに鼓動が速くなってきた胸を掌で押さえながら、江南ははるばるここまで駆けつけてくれた作家の顔を見やり、
「鹿谷さんは、島にはどうやって」
「湖畔に小さな石造りの建物があっただろう。あの建物のインターフォンが、この島の母屋に通じていて――」
征順の方を横目で窺いつつ、鹿谷は答えた。
「応答に出たのは使用人だったみたいで、最初はにべもなく拒絶されたんだけれども、君の名前を出したら、すぐさま浦登さんに取り次いでくれてね。それでお迎えに来てもらったのさ」
「四日前、僕もまずそのインターフォンのボタンを押してみたんですが、あの時は何も……」
「おや、そうでしたか」
と、征順が応じた。
「屋敷の隅々にまで呼び出し音が鳴り渡るわけではないので、折り悪しく誰も気がつかなかったのでしょう。あるいはそう、あれももうだいぶ古い設備だから、動作が不安定になっているのかもしれない」
「まあまあ、何はともあれ無事で良かったよ。ねえ江南君」
からりと声の調子を明るくして、鹿谷が云った。
「気を失っている間に体験したっていう、その三十三年前の事件に関しては、いまだに僕は信じられない気持ちの方が強いんだけれどね。そいつはまあ、改めてゆっくり聞かせてもらうとして――」
「長い話になりますよ、とても」
「覚悟しておこう」
鹿爪らしく頷いてから、作家はにやりと唇の間から歯を覗かせる。そして、フィルターが焦げはじめた「今日の一本」を、卓上の灰皿で名残り惜しげに揉み消した。
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「あといくつかお訊きしたいことが。――構いませんか」
江南がそろりと尋ねると、暗黒館の老主人はまたうっすらと笑みを浮かべたが、そこには少しばかり苦々しげな、あるいは苛立たしげな色が混じっているようにも見えた。
「お答えできることであれば、お答えしましょう」
つまりは、答えられないことも多くある、というわけか。
それはそうだろう、と江南は思う。いくら三十三年前と現在との間に幾多の驚くような一致があると云っても、そしていくら三十三年前の出来事をすべて見てきた[#「見てきた」に傍点]という訴えを夢ではないもの[#「夢ではないもの」に傍点]として認めてくれたと云っても、征順にとって、ひいては彼を代表とするこの浦登家にとって、自分や鹿谷が|不躾《ぶしつけ》に押しかけてきた招かれざる客≠ナあることには変わりがないのだから。
「恐縮です」
しおらしく頭を垂れながらも、江南は思いきって質問を繰り出した。
「まず一つは、藤沼一成の絵のことです。〈ダリアの鏡〉に描かれていたもの以外にも、この屋敷には藤沼画伯の油彩画がありましたね。〈東館〉の応接間に『緋の祝祭』、〈北館〉のサロンに『兆し』と題された作品が」
「題名がどうだったかは記憶が曖昧ですが……しかし、藤沼画伯の絵があったことは事実です」
「今でも残っているのでしょうか」
「いや。それはもう、ここには」
浦登征順は眼鏡のレンズの奥で、老いた目をすっと細めながら、
「亡くなった藤沼画伯のご子息に、どうしても譲ってほしいと頭を下げられましてね。今から確か、十五年くらい前のことだったように……」
藤沼紀一か、と江南は了解する。白いゴムの仮面に素顔を隠し、岡山の山間に建つ水車館に|隠棲《いんせい》していたという藤沼一成の息子。彼が館に収拾した「藤沼コレクション」の中に、この屋敷にあったあの二枚も加えられていたわけか。
実際にその水車館を訪れたことのある鹿谷が、「ふうん」と低く唸るのが聞こえた。藤沼一成や紀一にまつわる江南の知識はすべて、そもそもは彼から話を聞いて得たものだった。
「作家の宮垣葉太郎氏とも、あなたはお知り合いだったそうですね」
江南は続けて訊いた。鹿谷がまた「ふうん」と唸った。征順は、今度は大きく目を見開きながら、
「知り合いと云っても、ずいぶん昔に幾度か会ったことがあるだけですが。――彼が亡くなったのは三年ほど前でしたか。病を苦にして自殺を、と聞きましたが……惜しまれるべき才能です」
「それでは、中村青司氏とは?」
と、すかさず江南は切り込んだ。
「三十三年前に焼失した〈西館〉と〈南館〉の再建に当たってあなたが、当時まだ学生だった青司氏に協力を要請されたんですよね。その後も、彼との付き合いは続いたのですか」
「青司君とは……いや、ある時期を境に、ぷっつりと親交が途絶えてしまいましてね」
眼鏡の奥で再び細められた征順の目にふと、深い憂いに満ちた翳りが宿る。
「彼もまた、何年か前に命を落としたと聞いていますが」
「はい。六年前のこの季節に、大分の角島で。そこに彼が建てた青屋敷と呼ばれる家の火災で」
「火災で……ああ、そういう話でしたね。――詳しい状況を私は知りませんが、しかし江南さん」
云って、暗黒館の老主人は江南を見据えた。目に宿った憂いの翳りがその瞬間、昏く妖しい光に変じたように思えた。
「私は信じてはいないのです」
「信じていない? 何を信じていないと」
「青司君の死を、ですよ」
江南は絶句した。老主人は静に続けた。
「あなたはお分かりでしょう。青司君は――彼もまた、私たちと同様、〈ダリアの祝福〉を受けた身なのですから」
「ああ……」
……ダリアの、祝福。
三十三年前の九月二十四日、〈ダリアの日〉の夜のあの〈宴〉で、そうだ、青司は饗された〈ダリアの肉〉を食し……。
けれどまさか――と、江南は強くかぶりを振る。
まさか、そんなことがあるわけがない。もちろんあるわけがない。
六年前の角島で、中村青司は確かに死んだのだ。妻和枝の|骸《むくろ》とともに、青屋敷を焼き尽くした炎の中で。その半年後の春、青司の実弟である中村|紅次郎《こうじろう》の家で出会った鹿谷と二人して突き止めたあの事件の真実に、紛れはない。決してないはずなのだから……。
「あと一つだけ、教えていただけますか」
逃げるような気分でもう一度強くかぶりを振り、江南は次の質問に移った。
本音を云えば、訊いて確かめたいことは他にも山ほどあった。たとえばそう、三十三年前のあの火災の後、「生死不明」の三人の遺体はどういった形で見つかったのか。一連の事件は結局どのように処理されたのか。現在この屋敷には、どんな人間が、全部で何人住んでいるのか。早老症の清はあのあと、やはり何年もしないうちに死んでしまったのか。美惟はどうなったのか。「二人で一人」の片割れを失ってしまった美鳥はどうしているのか。伊佐夫は。茅子は。鶴子にしのぶ、宍戸……当時の使用人たちは。そして慎太は。――〈ダリアの肉〉は今でも残っているのか。この三十三年間で、新たに「仲間」になった者は何人いるのか、それとも一人もいないのか……。
しかしながらそれらは、いくらここで訊いてみたところで、征順の口からは答えが得られない問題であるように思えた。今の自分が知ってはいけない、踏み込んではいけない問題であるようにも思えたし、知らないままでいた方が良い問題であるようにも思えた。
「あと一つだけ……それはつまり、三十三年前に焼失した部分の再築や補修によって、この屋敷の全体の形[#「この屋敷の全体の形」に傍点]に大幅な変化があったのではないか、ということなのですが」
「ほう」
「つまりその、僕があの塔のバルコニーから落ちる直前に見た屋敷の全体像が、三十三年前のそれとはずいぶん違っていたような気がして」
浦登征順は唇を結んだまま頷き、老人らしからぬしなやかな指先で白い口髭を撫でながら何秒か間をおいた後、
「お答えしましょう」
と云った。
「まず〈西館〉については、なるべく忠実に元の擬洋館を再現しようとしたのです。建物の南端には三階建ての塔屋を配して、壁には黒い平瓦に黒漆喰の海鼠壁を多用して。〈南館〉も、基本的には以前と同じ下見板張りの木造洋館に。どちらの建物にも、あなたはとうにご承知でしょうが、例によってあまり実用には適さないような趣向や仕掛けがいくつか凝らされています。総じて、各々の胸の構造や意匠に過剰な変更が加えられることはなかったと云って良いのですが」
征順は言葉を切り、幾度か目をしばたたかせてから「ただ一つ――」と続けた。
「これは青司君の提案を受け入れて、一つだけ以前とは大きく変わったところが」
「青司氏の提案で?」
「ええ。それは……そうですね、では江南さん、実際にご自分の目でご覧になりますか」
云われて、江南は思わず「えっ」と驚きの声を零した。
「いいんですか、そんな……」
「ここに至ってあなたに、むやみな隠し立てをしてみても仕方ありますまい」
と、館の老主人は答えた。
「それにね、江南さん、あなたや鹿谷さんがこうしてこの暗黒館にやって来られたのは、他ならぬ彼の――青司君の導きでもあったわけですから」
「…………」
「あなたが目覚める前に、鹿谷さんからお聞きしましたよ。あなた方と青司君との、浅からぬ因縁については。何故お二方が、青司君の関わった建物にそれほどの興味を持たれるのか、私なりに了解はしたつもりでいます」
そう云って老主人は、手元に置いてあった懐中時計を再び取り上げ、江南に向かって差し出す。「これはお返ししましょう」ということか。
「ただし江南さん、よろしいですね。元の世界に帰られても、ここに来て見聞きしたことは、くれぐれも他言なさらぬよう」
「――はい」
差し出された祖父の形見を受け取りながら、江南は居住まいを正して頷いた。征順は「では」と云っておもむろに立ち上がり、
「ご案内しましょう。歩けますか」
「あ、はい。大丈夫だと思います」
「行きましょう。――鹿谷さん、あなたもよろしければ、ご一緒に」
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5
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白髪の暗黒館当主は|矍鑠《かくしゃく》とした歩みで先に立ち、江南たちを〈東館〉の玄関ホールへと導いた。
座敷の前の長い廊下には黒い無双窓が並び、床には黒い平瓦が敷かれている。黒い両開きの扉を抜けて広いホールに出ても、空間に漂う光の弱々しさに大差はない。壁の黒、天井の黒、二階へ向かう折れ階段の黒……何もかもがやはり、光沢のない暗黒色で塗り潰されている。
明治期に建造されたという古い擬洋館のそんな内部の様子は、長い歳月を経ているにもかかわらず、江南が見てきた[#「見てきた」に傍点]三十三年前のそれとほとんど変わるところがないように思えた。
むろん老朽化の激しい部分には逐次、修理の手が入れられてきたに違いないし、細かく調べていけばきっと、あちこちに無情な|時間《とき》の爪痕が見つかるのだろう。そう考えつつもつい、江南はあらぬ妄想を抱いてしまう。異国の魔女ダリアの狂おしい〈祝福〉はもしかしたら、彼女が|終《つい》の|住処《すみか》としたこの暗黒の館そのものに対してこそ、最も有効に作用してしまったのではないか、と。
中庭に面して設けられた両開き扉の右手には、黒いロングケースクロックがあった。三十三年前と変わらぬ重厚さで、悠然と時を刻みつづけている。
扉の上方には、濃い色硝子の入った|半円形欄間《ファンライト》。三十三年前とは違って、そこから忍び込んでくる赤い光がまったくないことに、ふと気づく。
これは……と思う間に、征順がその下に立ち、黒塗りの扉を二枚とも押し開いた。
中庭に張り出した黒煉瓦敷きのテラスが、そこにはあるはずだった。が、開かれた扉の向こうを覗いてみて江南は、それがなくなってしまっている[#「それがなくなってしまっている」に傍点]ことを知った。我れ知らず、あっと声を上げていた。
そこには廊下が延びていた。
明り採りの一つもない、トンネルのような暗い廊下である。ファンライトから外の光が入ってこないのは、このせいだったのか。
征順が明かりを点けた。
これもやはりひどく弱々しい、今にも闇に侵されて|萎《しぼ》んでしまいそうな光が、長い廊下の黒い天井にぽつりぽつりと灯る。床には黒い石が敷かれ、壁には黒い腰板が張られている。壁の、腰板より上の部分の色は仄暗い赤だった。
「これは――こんな廊下は……」
「昔はありませんでした。〈西館〉と〈南館〉の再築に際して、新たに作った渡り廊下です。これがあるために、〈十角塔〉のバルコニーから望むと、屋敷全体の形が以前とは違って見えるのです」
そこまで云うと、館の老主人は静々と扉の脇に退き、「さあ」と江南を促した。
「行ってごらんなさい。あの突き当たりに見えているものが何か、お分かりですね」
「…………」
「私ここで待つとしましょう。さあ――」
神妙に頷いて、江南はそろそろと足を踏み出す。鹿谷が黙ってそのあとに続く。
廊下の突き当たりに見えるのは、左右の壁面とはまるで造作の異なる壁だった。大振りな石材を組み上げて造られたと思しき、ごつごつとした黒い壁。あれは――あの壁は、そう……。
まっすぐに前方を見据えて、江南はゆっくりと歩を進める。
一歩進むごとに、さまざまな光景が脳裡に蘇ってき、複雑に錯綜しながら流れ過ぎていった。それらは主として、三十三年前に飛んだ視点≠ェ中也こと中村青司の体験を通じて目撃した数々の光景だったが、中には波賀商店の市朗や、塔から落ちたあの青年――本物の浦登玄児の内面に潜り込んで目撃した光景も多くあった。三十三年前のさらに十八年前へと視点≠ェ飛び、忠教と入れ替わる前の玄児に重なって目撃した光景もあった。
……黒々と聳え立つ〈十角塔〉。最上階の暗い座敷牢の中。格子の向こうに現われる女性の影……諸井のおかあさま。おかあさま。ああ、母さま……炎が。〈宴の間〉で揺れる赤い蝋燭の炎が。肖像画の妖艶な美女が。異国の魔女が……祝福を。ダリアの祝福を。血の色の葡萄酒と赤黒いどろどろのスープを……お食べになったのですね、玄児様。玄児……ダリアの祝福を。食したまえ、それを。ダリアの。その肉を。ダリアの。ダリアの。ダリア様の……どうしても答えよと云われますか。どうしても答えよと……欠落が。決定的な欠落が、この屋敷には。目も眩むような巨大な閃光が弾け……おかあさま。欠落はきっとぼくの中に。いけませんよ、青司さん。燃え上がる非情な炎の中に……ああ、母さま。母さま。俺はね、中也君。びっくりした? 中也さま。俺は君を……亡びてしまつたのは 僕のこころであつたらうか 亡びてしまつたのは 僕の……母さま。ああ母さま。おかあさま。おかあさん。いいわね、忠教。実はね、忠教……病室の薬臭いベッドに横たわったあの人の。その苦しげな顔の。その声の。その言葉の。……どうしても心に焼き付いて離れない場面がある。どうしても心に……実はね、孝明。これは……これは僕の。僕の。あなたはね、あたしが産んだ子じゃないの。僕の、僕自身の記憶の中の……激しい雨。雨が。不穏な雷鳴。噴火した火の間の惨禍が……可哀想に。亡びてしまつたのは 僕の……僕の、この僕の。みんな可哀想……人も村も、木も、山も。激しい雨が……雨が。そして――そしてあの日の、あの時の……。
――死なせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で。
――もういいから、殺して……楽にして。
けれども僕にはできなかった。そんなことはできなかった。できずにあの病室から逃げ出して……そうだ、あれからさらに幾日も病に苦しんだ末、ようやく彼女は死の安らぎを……。
…………
…………
……目の前に現実を見失いそうになり、慌てて強く首を振り動かした時、江南は突き当たりの黒い石壁の手前まで行き着いていた。知らぬ間に、両の眦に少しだけ涙が溜っていた。この夏、最後に母と会ったあのとき以来ずっと、一度として込み上げてくることのなかった涙が。――廊下はそこで、左右に分れていた。
どちらへ進もうかと足を止める江南の耳にふと、かすかな音が聞こえてきた。かすかな……ああ、これはピアノの音ではないか。どこかで誰かがピアノを引いている、その調べが今……。
江南は分岐を右に折れた。音が聞こえてくる方向だった。
廊下は間もなく黒い石壁に沿って直角に左折し、左折すると間もなくまた分岐があった。石壁沿いに直進する廊下と、直角に右折して延びる廊下。後者は〈北館〉へと続いているのだろう、とすぐに察しがついた。前者は少し先でまた、石壁に沿って左に折れている。
ここまで来て、この渡り廊下の構造がおおよそ把握できたように思った。
これをこのまま壁沿いに進んでいけば、きっとそこには〈西館〉へと延びる廊下があるのだろう。最初に出会った左右の分岐、あれを左に折れていればそこには〈南館〉への廊下が。つまり――。
この黒い石組みの壁は、元々は四角い小さな建物の外壁だったのだ。それはすなわち、中庭の真ん中にあった例の〈惑いの檻〉である。恐らくこの廊下は〈檻〉の周囲を巡りつつ、それを中心に東西南北の四つの棟を十字に結んでいて……。
そうか、と江南は考える。
さっき浦登征順は、六年前の中村青司の死についてあんなふうに述べていたが、しかし――。
焼失した二つの棟の再建に当たって、ここにこのような渡り廊下を造ろうという提案をした際、青司の心の内にはいかなる想いがあったのか。――もしかしたらそれは……。
……立ち止まり、〈北館〉の方を向いて耳を澄ますと、流れてくるピアノの調べの形がはっきりと聴き取れた。緩やかなテンポの仄暗い旋律。これはサティの……いや違う。そうじゃない。
これはシューベルトか。
フランツ・シューベルトの「ピアノ・ソナタ 第二十番イ長調」、その第二楽章。屋敷を訪れた青司が三十三年前、四日目の朝に〈北館〉の音楽室の前で耳に留めた、あの曲だ。それを今、同じあの音楽室のピアノで誰かが弾いているのか。――いったい誰が弾いているのだろう。もしかしたらそれは……いや、けれどもそれは……。
「おやぁ」
と、鹿谷が発した声で江南は、紙に落ちた真っ赤なインクの|雫《しずく》のように滲み広がっていく思考を中断した。見ると鹿谷は、立ち止まった江南を追い越して、石壁沿いの廊下が分岐の先でまた左折するところまで足を進めていた。
「どうかしましたか」
「うん。たった今そこにね、誰かが――」
答えて鹿谷は、折れた廊下の奥を指し示す。
「誰かがいたんだけれども、こっちを振り向きもせずに云ってしまった。あの奥の角を、すうっと足音もなく曲がって……」
「それは、どんな……」
「ずいぶんと小柄で、真っ黒なマントみたいな服を着ていたなあ。頭にも黒いフードみたいなものを被っていて、何だかまるで……」
……まるで?
まるで生ける影≠フような、とでも? ――ああ、まさか。
「まさか」と呟いて、江南はわずかに汗ばんできた額に手を当てる。
鬼丸老――黒衣のあの老使用人が、今もここにいるというのか。三十三年前、すでに齢九十近かったはずの彼が現在なお生きていて、この〈惑いの檻〉を守りつづけていると……。
江南は鹿谷の脇を足早にすり抜け、石壁沿いに廊下を折れる。予想どおりその先には〈西館〉へと延びる右方向への分岐があり、そして左手の壁には、ちょうどその分岐のあたりに黒い扉があった。――間違いない。〈惑いの檻〉の入口である。
恐る恐る歩を進め、閉ざされたその古びた扉の前に立った。黒い鉄製の二枚扉。表面には、見憶え[#「見憶え」に傍点]のある「骨に蛇」の|浮き彫り《レリーフ》が……。
江南はそっと両手を伸ばし、扉のノブを握る。少しぬらりとした感触があった。力を込めれば開きそうな手応えがあった。
これは――ここは〈惑いの檻〉。浦登家の死者たちが眠る墓所であると同時に、生きることも死ぬことも許されぬ者たちの肉体と魂が、未来永劫に惑いつづけるところ。ここは……。
「どうした、江南君。開けてみないのかい」
鹿谷が訝しげに訊いたが、江南は何とも応えず、ノブを握ったまましばし動きを止めた。
この扉の向こうには狭い穴蔵のような空間があることを、江南は知っている。奥にはさらに一枚の鉄扉があり、それには鉄格子の嵌まった小窓が付いていて、その向こうの床に口を開けた四角い穴には、地下に降りる黒い石の階段が。そして……。
……ここは。
ここは、そうだ。ここは〈惑いの檻〉。浦登家の死者たちが眠る墓所であると同時に、生きることも死ぬことも許されぬ者たちの肉体と魂が、未来永劫に惑いつづける……。
「どうした、江南君」
と、訝しげに鹿谷が繰り返す。応じて、江南はノブを握り直し、思いきって扉を開けてみようとしたのだが、その刹那――。
びく、と激しく冷たい震えが心の芯に走った。
閉ざされた黒い扉の向こうから、地の底の闇を彷徨うもの[#「もの」に傍点]の異様な気配が伝わってきたように感じたのである。――いったい何が。いったい誰が。
江南は瞑目し、静かに深い息をつく。
「――戻りましょう、鹿谷さん」
低い囁き声でそう云って、江南は扉から離れた。
「ここは僕たちが近づいちゃいけない場所です」
〈惑いの檻〉を中心にして、東西南北の四つの棟を十文字に結んだ渡り廊下。屋敷の補修・再築に当たって中村青司が提案したというこの大胆な造作の意図を、江南は改めて思う。それは――。
それは青司のささやかな、そしてせいいっぱいの抵抗だったのではないか。死≠ノ抗う妄念が産んだこの暗黒の館の、振りほどこうとしても|執拗《しつよう》にまとわりついてくる呪縛に対する。
〈檻〉の中で惑いつづける救いなき肉体と魂を封印するために地に描かれた、そう、これはきっと巨大な十字架だったのだ[#「これはきっと巨大な十字架だったのだ」に傍点]。そんな青司の意図に、もちろん征順が気づかなかったはずはあるまい。承知の上でその提案を受け入れたのだ。つまりは彼もまた、長年みずからが囚われつづけてきたこの館の呪縛から、少しでも自由になれることを望んだわけなのだろうか。――しかし。
しかし、そんな青司の抵抗にもかかわらず、恐らくここには。この扉の向日の地の底には……。
江南の心にまた、激しく冷たい震えが走る。
茫然とするばかりの鹿谷を目顔で促して、そろりと踵を返す。〈北館〉の方向から流れてくる仄暗いピアノの調べは、その時にはもう消えていた。
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蛇足
○中村青司に関する若干の覚書――鹿谷門実のノートより抜粋
一九三九年
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五月五日 大分県|宇佐《うさ》郡(後の宇佐市)|大字《おおあざ》|別府《ぶう》の資産家、中村家の長男として生まれる。父、保治。母、暁子。
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一九四二年
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七月 中村家に次男、紅次郎誕生。
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一九四七年
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十一月 暁子、火災により死亡。
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一九五七年
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五月 花房和枝と婚約する。
[#ここで字下げ終わり]
一九五八年
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四月 状況。T**大学工学部に入学、建築学を専攻する。
四月末から五月下旬 東京の浦登玄児宅に滞在する。
九月 玄児に招かれて「暗黒館」を訪れる。
十月〜 浦登征順の要請により、「暗黒館」〈西館〉〈南館〉の補修・再築に協力する。
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一九六〇年
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|神代《くましろ》|舜之助《しゅんのすけ》教授に師事する。
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一九六二年
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一月 保治、急逝。
三月 大学卒業。大学院進学を断念し、帰郷。
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一九六三年
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「青屋敷」及び「十角館」を設計、角島に建設する。
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一九六四年
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六月 和枝と結婚。角島に移り住む。
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一九六五年
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十一月 長女 |千織《ちおり》誕生。
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一九七〇年
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H**大学助教授、|天羽《あもう》|辰也《たつや》の依頼により「黒猫館」を設計する。
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一九七三年
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古峨精計社会長、古峨倫典の依頼により「時計館」〈旧館〉を設計する。
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一九七四年
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画家藤沼一成の息子、紀一の依頼により「水車館」を設計する。
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一九七五年
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作家宮垣葉太郎の依頼により「迷路館」を設計する。
[#ここで字下げ終わり]
一九七九年
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古峨倫典の再度の依頼により「時計館」〈新館〉を設計する。
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一九八五年
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一月 千織、死亡。
九月十七〜十八日 和枝、死亡。
九月二十日未明 「青屋敷」炎上。青司、死亡。享年四十六歳。
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[#地付き]――了
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『IN★POCKET』二〇〇〇年三月号〜二〇〇一年三月号、五月号〜十一月号、二〇〇二年一月号、二月号、四月号〜八月号、十月号〜二〇〇四年五月号に掲載された連載作品を単行本化にあたって加筆・修正しました。
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あとがき
拙著『どんどん橋、落ちた』所収の短編「フェラーリは見ていた」の作中で、語り手である「僕」こと綾辻行人は、「館」シリーズの続編について「どんな『館』かはもう決まってるの?」と訊かれて、『奇面館の殺人』というタイトルをまず答えたあと、続けてこう述べています。
「別にもう一つ腹案があって、ひょっとしたらそっちを先に書くべきなのかなと迷っていて」
これが一九九五年十一月のお話。その「もう一つの腹案」というのがつまり『暗黒館の殺人』であったわけですが、次作はやはりこっちにしようと決め、諸々の事前取材を行い、プロットを練り込み、冒頭部を書きはじめたのが翌九六年の九月……で、以来およそ八年間、苦しみつづけるこことになりました。
ようやくここに完成形を上梓できて、とてもほっとしています。正直云って執筆途中、この物語はちょっと自分の手に余るのではないか、完成させるのは無理なのではないか……という不安にかられることも数知れず、だったのです。果たして八年という時間の重みを引き受けられる作品になったかどうか、いささか心許なく思いつつも、とにもかくにも長きにわたり閉じ込められてきた暗黒の館から解放されて、今はたいそう晴れ晴れとした気分です。
シリーズ七作目でこんなふう[#「こんなふう」に傍点]にしてしまって、いったいこのあとどうするの? といった声がすでにいくつか耳に入ってきていますが――。
御心配なく(……なのかな)。「館」シリーズはまだ続きます。けれど、今回のような身体に悪い仕事はもう懲り懲りです。もう少し軽やかに、まだいくつか残っているであろう中村青司氏ゆかりの「館」を訪ねてまわりたいものだと考えております。
執筆に当たってさまざまな形でお世話になった、多くの人々に感謝いたします。
中でもやはり、講談社の宇山日出臣さん(&慶子さん)、秋元直樹さん、堀山和子さん、里村考人さん、唐木厚さんには、ここに名を記してお礼を申し上げたいと思います。足かけ五年にわたる連載で毎回素敵な挿絵を描いてくださった喜国雅彦さん、故辰巳四郎先生のあとを引き継いで素晴らしいカヴァーをデザインしてくださった京極夏彦さんにも、大感謝です。
それからもちろん、親愛なる読者の皆様。『暗黒館』はまだか、まだか、まだか、まだか……というプレッシャーは大変に厳しゅうございましたが(笑)、そのような声がまったくなければ――待っていてくれる人たちの存在を信じられなければ――きっと、とてもこんなしんどい[#「しんどい」に傍点]お話を書き通すことはできなかったろうと思います。ありがとう、本当に。
――というわけで。
皆様すべての上に〈ダリアの祝福〉がありますように……って、嫌だよね、そんなの。
[#地付き]二〇〇四年 夏
[#地付き]綾辻 行人
[#改ページ]
○引用文献及び主な参考文献
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秋山裕美『図説拷問全書』原書房、一九九七年
乾克巳、小池正胤、高橋貢、鳥越文蔵編『日本伝奇伝説大辞典』角川書店、一九八六年
アンジェラ・ヴォルペ『隠れキリシタン』南窓社、一九九四年
梶井正、黒木良和、新川詔夫、福嶋義光『新先天奇形症候群アトラス』南江堂、一九九八年
坂本勝比古『ブック・オブ・ブックス 日本の美術51 西洋館』小学館、一九七七年
式場隆三郎『二笑亭綺譚』求龍堂、一九八九年
田中薫『西洋館漫歩』鹿島出版界、一九八四年
中原中也『中原中也全詩歌集 上・下』講談社文庫、一九九一年
中原中也『中原中也詩集』ハルキ文庫、一九九八年
中村一明、松田時彦、守屋以智雄『火山と地震の国』岩波書店、一九九五年
デイル・V・ハート 井桁碧訳『死の学び方』法蔵館、一九九二年
レスリー・フィードラー 伊藤俊治、旦敬介、大場正明訳『フリークス 秘められた自己の神話とイメージ』青土社、一九八六年
藤森照信『日本の近代建築』岩波新書、一九九三年
マルタン・モネスティエ 吉田春美、花輪照子訳『図説奇形全書』原書房、一九九九年
『南山堂 医学大辞典』南山堂、一九九〇年改訂第17版
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底本:「暗黒館の殺人(下)」講談社ノベルス |綾辻《あやつじ》|行人《ゆきと》著
二〇〇四年九月五日 初版第一刷発行
二〇〇四年九月三〇日 第三刷発行
【底本中の誤字等】
423-上-3 「考えてつづけて」→「考えつづけて」か?
436-下-9 「もしからしたら」→「もしかしたら」
595-下-11 「取り出り」→「取り出し」
【底本レイアウト】
「第一部」の前までは十八行×四十一字の一段組。
「第一部」以降は十八行×二十三字×二段組。
「目次」部分のページは底本表記ママ。
【太字表記について】
下巻五〇〇ページ近くまで作業を進めて気づきました。[#ここから太字]太字[#ここで太字終わり]として入力者注を付けてきた部分ですが、底本中この太字表現には二種類の書体が使い分けられていたようです。とてもすべてをチェックして修正する気力はないので、両者を同一の注記としたままにしておきます。
テキスト化 二〇〇四年十一月