暗黒館の殺人(上)
綾辻行人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暗黒館《あんこくかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)影見の|堤《つつみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(外字説明の数字は、JIS X 0213面区点コード、ページ-段-行)
(例)掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、105-10]

:カバー・挿絵・図説等
一応smoopy準拠のhtml形式画像タグを使用。
"扉"だと画像が一ページおきに表示されるかも。
=F縦書用引用符はフォントによって字形が錯綜している。
二重引用符には「=v(JIS X 0213面区点1-13-64、1-13-65)ダブルミニュートを用いたが、これは機種依存文字らしいので不適切かも。一応Mac OS Xでは表示できた。
半角英字の二重引用符には「“”」を使用した。
太字:太字部分は入力者注で対応した。
(例)[#ここから太字](……この車は)[#ここで太字終わり]
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ブックデザイン=熊谷博人
カバーデザイン=京極夏彦+坂野公一(|welle《ヴェレ》 |design《デザイン》)
図版作成=小野不由美
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――亡き父に――
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目次
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前口上 ――――――――― 15
第一部 ―――――――――― 19
第 一 章 蒼白の霧 ―――― 21
第 二 章 |誘《いざな》いの囁き ――― 44
第二部 ―――――――――― 69
第 三 章 墜落の影 ―――― 71
第 四 章 空白の|時間《とき》 ――― 100
第 五 章 緋の祝祭 ―――― 129
間奏曲一 ―――――――― 162
第 六 章 異形の寸劇 ――― 170
第 七 章 惑いの檻 ―――― 192
間奏曲二 ―――――――― 231
第 八 章 兆しの色 ―――― 244
第 九 章 午後の無惨 ――― 267
第 十 章 迷宮の調べ ――― 317
第十一章 闇の宴 ――――― 345
間奏曲三 ―――――――― 383
第三部 ―――――――――― 409
第十二章 混沌の朝 ―――― 411
第十三章 疑惑の扉 ―――― 450
第十四章 無音の鍵盤 ――― 484
第十五章 無意味の意味 ―― 520
間奏曲四 ―――――――― 577
第十六章 宵闇の迷走 ――― 607
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*主な登場人物
|江南《かわみなみ》|孝明《たかあき》………出版社に勤務。単身「暗黒館」へ向かう。
|鹿谷《ししや》|門実《かどみ》………推理作家。|中村《なかむら》|青司《せいじ》の「館」に執着を持つ。
|浦登《うらど》|玄遙《げんよう》………「暗黒館」の初代当主。
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ダリア……その妻。
|桜《さくら》…………玄遙・ダリア夫妻の娘。
|卓蔵………その夫。
カンナ……卓蔵・桜夫妻の娘。柳士郎の先妻。
|美惟《みい》………その妹。柳士郎の後妻。
|望和《もわ》………同。征順の妻。
|柳士郎《りゅうしろう》……カンナの夫。カンナと死別後、美惟と再婚する。
|玄児《げんじ》………柳士郎・カンナ夫妻の息子。
|美鳥《みどり》………柳士郎・美惟夫妻の娘。
|美魚《みお》………同。美鳥とは双子の姉妹。
|征順《せいじゅん》………望和の夫。
|清《きよし》…………征順・望和夫妻の息子。
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|小田切《おだぎり》|鶴子《つるこ》……「暗黒館」の使用人。
|蛭山《ひるやま》|丈男《たけお》………同。
|宍戸《ししど》|要作《ようさく》………同。
|鬼丸《おにまる》……………同。
|羽取《はとり》しのぶ……同。
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|慎太《しんた》………その息子。
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|諸井《もろい》|静《しずか》…………「暗黒館」の使用人。
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|忠教《ただのり》………その息子。
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|首藤《すとう》|利吉《りきち》………卓蔵の甥。
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|茅子《かやこ》………その後妻。
|伊佐夫《いさお》……利吉とその先妻の息子。
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|村野《むらの》|英世《ひでよ》………浦登家の主治医。「|野口《のぐち》」と呼ばれる。
|市朗《いちろう》………………中学生。独り冒険に出る。
「私」……………大学生。「|中也《ちゅうや》」と呼ばれる。招かれて「暗黒館」を訪れる。
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前口上
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九州地方中部、熊本県はY**郡の山深い森の中に、その奇妙な|館《やかた》は建つ。
熊本市内からだと、まず列車とバスを乗り継いで三時間余り――バスの定期便は一日に二、三本しかない。そうして|辿《たど》り着いたI**という山村の中心部から、歩くとさらに数時間、車を使っても優に一時間以上かかるというのだから、平静の現代日本にあって、これは相当以上に|辺鄙《へんぴ》な場所であると云えよう。同じ県下の|五木《いつき》や|五家荘《ごかのしょう》といった秘境≠ノも比肩するような。そう評してみても、あながち間違いではあるまい。
「|百目木峠《どうめきとうげ》」と呼ばれる峠がある。そもそもが入り組んだ地形である上、ことに夏場はめっぽう霧が多くて土地の人間でさえ迷いやすい。この峠を越えてさらに、|蜒々《えんえん》と曲がりくねった|岨道《そわみち》をずいぶんと辿り……やがて行き着く|鬱然《うつぜん》とした森の中にひっそりと隠れるようにして、小さな湖がある。多くの地図にはその存在さえ記載されていない、だからあるいは「池」や「沼」と呼んだ方が適切なのかもしれないが、「|影見湖《かげみこ》」なる名前が一応、存在する。土地の者たちは「影見の|堤《つつみ》」だの「大猿の跡」だのとも呼ぶ。後者は文字どおり、巨大な山猿が地面に残していった足跡のような形をしているところから生まれた呼称だという。
この湖に浮かんだ小島に、その館は建つ。
そんな山奥のそんな湖の小島に何故、その館が建てられたのか。詳しい事情を知るものは今や数少ない。そもそもは何百年も昔に立てられた山城の跡を利用して……といった言い伝えもあるが、真偽のほどは定かではない。
その館の初代当主は|浦登《うらど》|玄遙《げんよう》なる人物で、財界や政界に対してもひとかたならぬ発言力を持ったたいへんな資産家であった。往年は軍部にまでその力が及んだともいわれるが、それでいてたいそう偏屈な、|畸人《きじん》の部類に属するような男でもあった。付近一帯の山林をまるまる買収して建てたその館に終日閉じこもり、人前に姿を現すことはほとんどなく、客人を招くことも滅多にせず……と、これもまたどこまでが真でどこまでが偽なのか判然としないが、そのような話が現在に至るも伝わっている。
この浦登玄遙の筋の者たちが代々、館には住み続けているという。だが実際に今、何という名前のどういう人間がそこで暮らしているのか、正確なところを把握する者はわずかしかいない。
百目木峠を越えてはならぬ。
地元I**村の古老たちは、子供たちにそう教えるという。
道に迷いやすくて危険だから、といった理由だけではない。峠の向こうのその森に、その湖に、その館に、子供たちを近づけたくないからである。
あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が|棲《す》むのだ――と、大真面目にそう語る老人もいる。
訪れる者には必ず恐ろしい災いが降りかかる。だから、|妄《みだ》りあの森へ入ってはならぬ。あの湖に近寄ってはならぬ。あの館の側へ行ってはならぬ……。
そういった警告を|鵜呑《うの》みにする者は今や決して多くはあるまいが、しかしそれを根も葉もない妄言と断じてしまうわけにもいかないようである。実際問題として、この土地では過去にいくつもの忌まわしい事件が起こっている。そして、それらの全てに対し、その館が何らかの形で関わりを持っていたらしいという事実が存在するからである。
その館が建てられたのは、もうずいぶんと昔のことである。明治時代の半ばとも終わりとも伝えられるが、何しろかなり特異な立地条件であるゆえ、相応の困難を伴った大工事であったろうとは想像に|難《かた》くない。その際にはいったいどれほど莫大な費用が必要とされたのかも、推して知るべしというものだろう。
湖の小島を丸ごと敷地とするその館は、全体が高い石積みの塀で取り囲まれている。さながら堅牢な城壁とでもいった|風情《ふぜい》である。
その内側に、いくつかの棟と塔とからなる怪しげな屋敷が黒々とうずくまっている。「黒々と」というのは決して比喩的な修辞ではない。文字どおり、何やら異形の巨大生物の複合体めいたその建物の外装ほとんどすべてが――壁も扉も屋根も煙突も――、光沢のない暗黒色で塗りつぶされているのだから。
この一見して異様な外観を第一の理由に、その館――「峠の向こうの浦登様のお屋敷」は、落成後間もない頃からひとつの異名を持つようになった。土地の者たちがその名を口にするとき、そこにはおのずから、ある種の|畏怖《いふ》と|嫌忌《けんき》の念が込められるともいう。
つまりはそれが「|暗黒館《あんこくかん》」なる名称である。
建造以来その館には、幾度か補修や改修の手が入れられている。単純な増築もあれば、不慮の火災で焼け落ちた棟を再築した場合もあった。最後に大きな手入れが行われたのは、今からもう何十年も前のことになるが、それはかなりの規模の補修・再築工事でもあったらしい。
ところでさて、その最後の大工事の際、そこに関わったある人物[#「ある人物」に傍点]について、我々はすでにいくばくかの知識を共有しているはずである。
後にいくつもの風変わりな館を各地に建て、世にも奇矯な建築家として知られることになった男。一九五八年の秋、九州は大分県の|角島《つのじま》に自らの設計によって建てた「|青屋敷《あおやしき》」にて、劇的な死を遂げた男。――その名を|中村《なかむら》|青司《せいじ》という。
あるところでは天才の名でさえ呼ばれた彼の、四十六年あまりの生涯にあって、かつてその補修・再築に手を貸した|件《くだん》の館――暗黒館とは、果たしていかなる意味を持つ存在であったのか。それを知る人間もまた、今となっては数少ない。
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第一部
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第一章 蒼白の霧
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霧が深い。
吹く風の、ところによってさまざまに変化する強さや向きに合わせて、霧は複雑な動きを見せる。綿飴のようにちぎれ、|蠢《うごめ》くように地を|這《は》い、集まってはまた流れ散り、乱れ舞い……それでも全体として何か統一的な意志を持っているかのように、ゆっくりと渦を巻きながら峠を包み込んで、そこから離れようとしない。
そんな中を、一台の乗用車がのろのろと進んでいる。国産の黒いセダン――細い山道を行くには少々大きすぎるボディの。曲がりくねった悪路を行くには少々頼りなさそうな足回りの。
運転席に座っているのは、年の頃二十代半ばの青年である。露草色の長袖のシャツを着ている。色落ちした黒いジーンズを|穿《は》いている。彼の他に、乗員の姿はない。
周囲の森の色を|滲《にじ》ませて、行く手で渦巻く霧は妙に青白く見える。背中を丸め、フロントグラスに向かって顔を突き出すような姿勢で前方を見据えながら、彼はふと思う。
この世界に将来、絶対的な破局が訪れたとして。その破局後の世界には今ある人類の文明のいっさいが、いや、ヒトという種そのものが存在しなくなっていたとして――。
車の喧噪も街の灯も、無数の電磁波に乗って飛び交う声も音楽も映像も……すべてが消え失せた地上には、きっと一面、濃い霧が立ちこめているに違いない。かつてのけたたましい繁栄の痕跡を、冷たく柔らかく覆い隠してしまうために。
この蒼白い霧は、まったくそのイメージどおりではないか。この山奥のどこかに誰も知らない時空の破れ目があって、そこから|密《ひそ》やかに流れ込んできているのだ。破局後の世界の、その冷たく柔らかな息遣いが。
ヘッドライトの二筋の光線が切り開いた視界は狭い。昼間だというのに、数メートルしか先が見通せない。道の両側がどんな状態なのかもはっきりとは分らない。おのずとアクセルの踏み込みは浅く保たざるをえない。
かれこれもう一時間近く、この霧の中を走り続けているのである。だが、いったいいつになったら峠を越えられるのか、見当もつかないというのが正直なところだった。
……まるで、この霧は。
ハンドルを握りなおしながら、彼は同じ思考を反復する。
まるで、そう、破局後の世界の、もやは修復不能な文明の残骸を覆い隠すために立ち込めた、ああ、まるでこの霧は……。
思いを巡らせるうち、そうでなくても徐々に希薄化しつつあった現実感が、よりいっそう希薄になってくる。ここはどこなのか。僕はいま何をしているのか。それすら忘れてしまいそうになる。
良くないな――と、心の一方で思う。今はとにかく運転に集中しなければならない。でないと、何よりもまず危険だ。
慣れないレンタカー、見知らぬ土地の見知らぬ山道、そしてこの深い霧。急なカーブに直前で気づいてひやりとブレーキを踏み込むことが、すでに幾度あったことか。
|脂汗《あぶらあせ》の滲んだ手を片方ずつハンドルから離して、ジーンズの膝のあたりで|拭《ぬぐ》う。前方を見据えたまま意識的に大きな呼吸を繰り返すが、吐く息はどうしても溜息の音を立ててしまう。
この峠に入るまでは、こんな霧の気配なんて全くなかったのに――と、彼は思う。
天は高く、空気は清澄そのものだった。
九月も下旬に入り、例年になく|冴《さ》え|冴《ざ》えしい好天が続く中、季節は確実に夏から秋へと移り変わりつつある。山々を埋めた木々の緑は心なしか謙虚に、開け放った車のウィンドウから吹き込む涼風は心なしか寂しげに。鳥や虫たちの泣き声も、流れる雲の形も、通りがかった村で見かける人々の姿も家々の|佇《たたず》まいも……すべてが「初秋」という言葉の響きにふさわしく感じられた。
期せずして、と云うべきだろうか、それは彼にとってたいそう心地好い道程だった。ここしばらく胸の底に|蟠《わだかま》って消えることのなかった暗鬱な気分を、いっときすっかり忘れさせてくれるほどに。
「百目木峠へ行くんなら、霧に気をつけなさいよ。この季節はまだ多いしな」
そんな忠告を聞いたのは、道を尋ねるためI**村で立ち寄った雑貨屋の主人の口からだった。「はい」とその場では応えたものの、内心では「まさかな」と|呟《つぶや》いていた。この晴天の下、気をつけ[#「気をつけ」に傍点]ねばならないほどの霧にいきなり襲われるなどとは、とても想像できなかったからである。ところが……。
……この霧。
この、蒼白い霧。
まるで、そう、破局後の世界に通じる時空の破れ目から流れ出してきたような、この……。
いくら考えまいとしても、いったん|繋《つな》がってしまった思考回路はなかなか切れてくれない。現実感の希薄化がまた進む。ふうっと意識が、蒼白い霧の渦の中に吸い込まれてしまいそうな気がして、
……いけない。
彼は慌てて独り首を振るのだった。
現実――いま僕が生きている現実、今まで僕が生きてきた現実。それはあくまでも連続した一つの地平に存在するものであって、それは決して揺るぎのない一つの実体なのであって……。
彼は懸命に抵抗する。|躍起《やっき》になって己の足場≠確認する。
ここ[#「ここ」に傍点]は一九九一年の日本。九州地方中部――熊本県Y**郡の山の中。
今日[#「今日」に傍点]は九月二十三日月曜日、秋分の日。
時刻は今[#「今」に傍点]、午後一時半を少しまわったところ。そして――。
僕[#「僕」に傍点]の名前は|江南《かわみなみ》、江南|孝明《たかあき》。
一九六四年十一月七日、長崎県|島原《しまばら》市で生まれ、後に家族は大分の|別府《べっぷ》市へ、さらに経って熊本市へと居を移した。現在二十六歳で独身。身長百七十二センチメートル。体重六十二キログラム。血液型B型。K**大学工学部の大学院修士課程を修了後、上京して総合出版社「|稀譚社《きたんしゃ》」に入社。編集者になって三年目。そして……。
僕は今、どこへ向かっているのか。
何のためにこうして独り、この車を走らせているのか。
……ああ、そんなことは。
そんなことは? ――分かりきっている、自問するまでもないと、そう云ってしまっても良いのか。
彼はまた首を振る。しがみつくようにしてハンドルを握り、蒼白い霧の渦を|睨《にら》みつける。
目的地は分かっている。何のために僕がそこ[#「そこ」に傍点]へ向かおうとしているのかも分かっている。ちゃんと分かっている。――そのつもりなのだけれど。
この峠を越えて、なおもしばらく行った森の中にそれ[#「それ」に傍点]はあるはずだった。その昔、今は亡き建築家中村青司が関係したという館――「暗黒館」が。
要約してしまえば、そんなに込み入った事情ではない。
七月末に他界した母の、四十九日の法要のために九州へ帰ってきて、集まった親戚の一人からたまたまその話を聞いたのだった。熊本県下のとある山中に、暗黒館と呼ばれる奇妙な建物があるということを。そうしてどうやら、過去にいくつもの忌まわしい出来事があったと噂されるその建物の成り立ちには、あの[#「あの」に傍点]中村青司が一枚噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]んでいたらしいということを。
だから、おとなしく東京へ戻るわけにはいかなくなったのである。
ひょんなところで飛び込んできた中村青司の館≠フ情報。そんなものと関わるのはもう懲り懲りだといった想いとは裏腹に、猛烈な勢いで膨れ上がってくる衝動を、どうしても抑え込むことができなかった。とにかくその場所へ足を運び、その館をこの目で見てみないことには、と。
……この霧は。
この、蒼白い霧は。
そこ[#「そこ」に傍点]へ行き着くためには必ず通り抜けなければならない、これは異次元のトンネル。もしかしたら峠の向こうの森の中の、小さな湖の島に建つという|件《くだん》の館こそが、この霧の湧き出てくる源なのかもしれない。その最奥部にはきっと、破局後の世界へと通じる時空の破れ目があって……。
……ああ、いけない。駄目だ。
左右の壁が押し迫ってくる密室の中にいるような心地だった。いくら広げようと思ってもどんどんと狭まってくる。出口がない。抜け出せない。
大きくまた一つ深呼吸をする。吐く息はやはり溜息の音を立てる。
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いつの間にか道が下りの勾配を持ちはじめ、どうやら峠も半ばを過ぎたらしいと分かった。
霧は相変わらず蒼白く渦巻き、ねっとりとまとわりつき、現実感の希薄化を推し進めようとする。それへの抵抗を江南は半ば|諦《あきら》めかけていたが、だからと云って最低限の注意を|怠《おこた》るわけにはいかない。
下り坂は上り坂よりもずっと慎重な運転が要求される。スピードが出すぎないように。フットブレーキを使いすぎないように。でないと……もしもここで、|過《あやま》って道から外れてしまったらどうなる。
きっと、そうだ、切り立った崖の下の暗い森の中には、破局後の世界へと通じる時空の破れ目が広がっていて、そうして僕は……。
……僕は。
僕のこの|身体《からだ》は。僕のこの意識は。僕の存在は。僕の時間は。僕の、この……。
……何の前触れもなく、変化は訪れた。
このまま永遠に消えることがないのではないかとすら思われたきりの密度が、ふいに薄らいできたのである。
文字どおり狭いトンネルの中を走っているようだった視界に、いくらかの広がりが回復する。荒れた灰色の路面、生い茂った緑の草木、ところどころに覗いた赤茶色の岩肌……風景に、形と色が戻りはじめる。
ハンドルから片手を離して、江南は思わず胸を撫で下ろす。ほうっ、と息を――溜息のようにではなく――つく。
出来損ないの迷路を|彷徨《さまよ》ってきたわけではないのだ、もちろん。出口はちゃんとあるのだ、もちろん。ここはまぎれもなく[#「ここ」に傍点]であり、今はまぎれもなく[#「今」に傍点]であり……。
霧が粘度を失い、吹く風に散る。不定形のその合間に、空と|思《おぼ》しき色――決して鮮やかな青ではないけれど――が見えた。
肩や腕の筋肉から、くたりと力が抜けた。精神に連動して肉体が強いられてきた緊張の、自覚して以上の大きさがよく分かった。
……少し休もうか。
煙草を吸いたい。喉も渇いた。
江南は車を道の端に寄せ、停めた。サイドブレーキをめいっぱい引いて、ドアを開ける。エンジンは切らず、まさかとは思うが対向車が来た場合の用心に、ヘッドライトは|点《つ》けたままにしておいた。
外気は湿っぽかった。ひんやりとしているようでいて、どこかしら|生温《なまぬる》くも感じられる。
後部座席のドアを開け、シートに置いてあったビニール袋からミネラルウォーターのボトルを取り出した。I**村の雑貨屋に立ち寄った際、ついでに購入した品だった。
シャツの胸ポケットには、残りの本数の少なくなったマイルドセブン。ボトルの水でひとしきり喉を|潤《うるお》してから一本、|銜《くわ》え取ってライターで火を点ける。深々と吸い込んだ煙はうっとりするほど甘ったるく、吐き出す煙は霧に溶けて乱れ散る。
風の音が、車に乗っている間は気づかなかったのだけれど、異様だった。
今いるこの場所に吹く風の、ではない。どこかもっと下の方から――あるいは上方からだろうか――聞こえてくる。
強く吹き渡る風の音、それによってざわめく森の音。まるでこの峠一帯の台地が海原となって波立っているかのような。
「百目木」と書いて「どうめき」と読む。「どうめき」は「どよめき」が転じた語だというが、この音はまさにそれだ。吸収のこんな山深くにいて、まるで日本海の荒波がどよもすのを聞いている錯覚に|陥《おちい》りそうになる。ひょっとしてこれが、この峠に付けられた風変わりな名称の由来なのだろうか。
煙草を銜えたまま一歩、二歩と車から離れる。来た道を振り返ると、先ほどまでその中を彷徨っていた濃密な霧が一つの巨大な|塊《かたまり》として捉えられ、それは江南に、地上のありとあらゆるエネルギーを吸収して無限に成長する架空の宇宙生物の名を思い出させた。と同時に――。
去年の夏以来、か。
江南はふと思う。
去年の夏、七月初めのことだった。
年上の友人であり担当作家でもある|鹿谷《ししや》|門実《かどみ》とともに、江南は北海道へ飛んだ。生物学者|天羽《あもう》|辰也《たつや》博士の依頼でかつて中村青司が設計したという「|黒猫館《くろねこかん》」を探すために、である。鹿谷が運転する車で|釧路《くしろ》から|阿寒《あかん》へと向かった、あの日の朝の、釧路の街の霧。目的地を目指して北上する江南たちを追いかけるようにして流れてきた、あの霧……。
こんな濃霧を経験するのはあのとき以来だなと、今さらながらそう思い至ったわけだった。それはつまり、先ほどまでの出口なし[#「出口なし」に傍点]の状態から少し外側[#「外側」に傍点]へ抜け出すことができて、感覚や思考がいくぶんなりとも正常なレヴェルに戻りつつある、その証拠なのかもしれなかった。
一年と二ヶ月前のあの夏の日、阿寒の森の中で見つけたあの館[#「あの館」に傍点]の佇まいを思い出す。あの時、風景のすべてを包み込んだ深い霧の色を思い出す。
同じ濃霧でも、出会う場所や状況が変わるとこれほどにも印象が違うものか。――そんな当たり前のことを今ここで、わざわざ言葉にして考えてしまうのは何故だろう。
変わっているのは場所や状況だけじゃない。それを受け止めるこの僕自身が、去年の夏と今とではひどく変わってしまったから。
何を大げさな、と言い捨ててしまいたい気持ちも強くあるのだ。あのだが、しかし……。
――やあ|江南《こなん》君、凄い霧だねえ。
鹿谷の声が、今にも|傍《かたわ》らから聞こえてきそうな気がした。ひょんなことで二人が知り合ってかれこれ六年目になるが、五年半前の出会いの時以来ずっと、彼は江南の名を「かわみなみ」ではなく「こなん」と呼ぶ。
痩せ形で上背もそこそこある江南より、さらにひょろりと細長い|体躯《たいく》。二十六歳の江南より一回り以上年上だが、いまだに独身でいる。色黒のメフィストフェレス≠ニでもいった、一見とても気むずかしげな風貌だけれど、実のところはすこぶる話し好きで好奇心旺盛な|推理小説《ミステリ》フリーク。「七本の指の悪魔」を折りこなす折り紙愛好家でもある。三年前に稀譚社から初めての著書を出版するまでは、大分の実家で坊主の真似事をしていたという。
あの人は今頃、どうしているだろうか。
――気をつけるんだよ、江南君。
僕が今、こうして一人で暗黒館へ向かおうとしていることを知ったなら、きっとあの人はそう釘を刺すに違いないけれど。
――青司の館とはつくづく妙な因縁があるからねえ、お互い。|迂闊《うかつ》には近寄らないほうがいいし、近寄るのであればそれ相応の覚悟が必要だ。不吉な場の力≠ェある、とでも云うのかなあ。下手をするとまた、どんな事件に巻き込まれないとも限らないからねえ。
そう。きっと彼はそんな風に云うだろう。
そのくせ彼自身は、決しておとなしくしていることなどできはしないのだ。件の館の存在を知らされたなら、たとえ締切間近の原稿を抱えていたとしても、すぐさま飛んでいきたがるに決まっている。「不吉な」と云いつつも、おそらくはこの世で一番青司の館≠フ魅力に取り付かれている男、それが鹿谷門実なのだから。
「鹿谷さん」
声に出して、彼の名を呼んでみた。続けて、半ば自分に言い聞かせるようなつもりで呟き落とす。
「大丈夫ですよ。ただ単に見に行くだけ……それだけですから」
短くなった煙草を足許に捨て、黒いウォーキングシューズの爪先で踏み消す。そうしながら江南は、ジーンズの前ポケットに入れてあった懐中時計を引っぱり出した。
円い文字盤に十二個のローマ数字が並んだ、古めかしい手巻きの時計だった。銀色のフレームも同色の鎖も、すっかり汚れて黒ずんでいる。
母方の祖父が、かつて愛用していた懐中時計である。四年前にその祖父が他界し、形見としてこれを譲り受けて以来、江南はほとんど腕時計を使わなくなった。
時計の裏側には「T・E」という文字が小さく刻まれている。「江南孝明」のイニシャルでは、もちろんない。死んだ祖父――姓を|遠藤《えんどう》、名を|富重《とみしげ》といった――の頭文字に合致する。
午後二時八分。
時刻を確かめ、時計をポケットに戻すと、江南はボトルに残っていた水をもう一口飲んだ。ゆっくりと|踵《きびす》を返し、車に向かう。そして――。
相変わらず続く峠のどよめきを聞きながら、想いはそろそろと過去の輪郭をなぞりはじめる。
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……中村青司。
大分県の東海上に浮かぶ角島という小島に住み、そこで死んだ男。数々の風変わりな建物を設計したことで知られる、ある種天才肌の建築家。
T**大学工学部の建築学科を優秀な成績で卒業した後、郷里の|宇佐《うさ》に帰った青司は、二十代半ばにして角島に移り住んだ。彼自らの設計によって建造した島での住居「青屋敷」は、壁から屋根から天井から、何から何までが青く塗られた奇妙な洋館だったという。そこで青司は、かねてよりの|許嫁《いいなずけ》であった妻|和枝《かずえ》との結婚生活を始め、やがて和枝は一人の女の子を産んだ。
|千織《ちおり》と名付けられたこの娘は後に、江南が大学時代の一時期所属していた、ある学内サークルの一員となる。江南よりも一学年後輩で、少なからず面識もあった。その偶然があるいは、江南と青司との「因縁」の始まりだったと云えるのかもしれない。
中村千織は十九歳の時、不慮の事故で死を遂げた。その九ヶ月後、角島の青屋敷で大火災が発生し、全焼。和枝夫人や屋敷の使用人らとともに、青司はこの世を去った。享年四十六。――ちょうど今から六年前、一九八五年の九月の出来事である。
この青屋敷焼失の一件も含め、青司が各地に建てた「館」では、|今日《こんにち》までに多くの忌まわしい「事件」が起こっている。これは確かな事実である。そしてそれらのうちのいくつかに、期せずして江南や鹿谷が巻き込まれてしまったこともまた、紛れもない事実なのだった。
まずは、そう、青屋敷の焼失から半年後――一九八六年の春に勃発したあの事件[#「あの事件」に傍点]。
角島に建てられた故中村青司邸の別館、通称「|十角館《じゅっかくかん》」。上空から見た形が文字どおり正十角形のその建物は、半年前の火災の難は逃れたものの、もはや住む者もなく島に放置されていた。サークルの合宿と称して、ちょっとした冒険気分でこの十角館を訪れた大学生たち。そんな彼らを見舞った、あの恐るべき大量殺人事件……。
……角島十角館、炎上。
実際に目撃したわけではないが、江南の脳裏にはその炎の色が、何故かしら異様に鮮烈な映像として焼き付いている。
……全員死亡。
島に渡った学生たちは皆、江南の知り合いであった。彼らの全員が死亡したというその知らせを受けたあの時の驚愕と茫然自失感は、もちろん今でも忘れることができないのだが……。
百目木峠のどよめきをあとにして、車は蜒々と続く山道を進む。
霧はすっかり消え、前方の見通しも良くなったのだけれど、頭上に青空はない。先ほどの濃霧がそのまま上空に移動したかと思わせるような、薄暗く蒼白い雲が垂れ込めている。風に揺れる木々の動きが妙にゆっくりとして見える。震える木の葉の色が、妙に|褪《あ》せて見える。
何かの境界線を越えてしまった――と、そんな気がした。破局語の世界に通じる時空の破れ目があって、などという現実離れの過ぎた唐突な妄想ではなく……。
……二年前の夏。
そう云えばあの時にも、同じような感覚に囚われたことを覚えている。二年前――一九八九年の、あれは七月の終わり。
稀譚社に入ってすぐに江南が配属された月刊誌『CHAOS』の「特別企画」。その取材先である|鎌倉《かまくら》の「|時計館《とけいかん》」へと向かう途上でのことだった。
街外れの道を行くタクシーの中で、江南はそれ[#「それ」に傍点]を感じた。閑静な住宅街を抜けていくつ目かの角を曲がった、あの時。大きな|樫《かし》の木立がいきなり両手に現れた、あの時。こんもりと葉を茂らせた木々の間の坂道を車が登りはじめた、あの時――。
境界線を、越えた。
そんな言葉がふと心に浮かんで間もなく、|鬱蒼《うっそう》とした森の|狭間《はざま》に、あの館の――時計館の塔の影が見えてきたのだった。
十角館の事件以来、努めて忘れようとしてきた建築家中村青司の名前を、|否応《いやおう》なく思い出させられることとなったあの館。巨大な振り子時計の形に見立てられた館内には、東西の古時計の一大コレクションが納められていた。コレクションとは別に、全部で百八個の時計たちが静かに彼らの[#「彼らの」に傍点]時間を刻み続けていた。針のない時計塔が、大いなる謎を秘めて|聳《そび》え立っていた。そして――。
それからの三日間に起こった、まさしく悪夢≠フごときあの連続殺人……。
――|時間《とき》は果て
――聖堂に七色の光射し
これは、そう、時計館の最初の主人であった|古峨《こが》精計社元会長、古峨|倫典《みちのり》が遺した予言≠フ詩。
――地を揺るがす叫びの中に
――お前たちは聞くだろう
崩壊の大音響が、耳の奥に|蘇《よみがえ》る。
――沈黙の女神の、ただ一度の歌声
――美しき断末魔の調べを
十角館、そして時計館……江南が関わった「館」での事件は、この二軒に昨年の黒猫館事件――問題となった殺人そのものは一昨年夏の出来事だったのだが――を加えた三件である。青屋敷の焼失事件を含めるならば四件。けれども実際には、それだけの数ではすまない惨事が、その他の青司の館≠ナも発生しているのだった。
たとえば、岡山の山中に建つ「|水車館《すいしゃかん》」――重厚な三連水車が回る古城のような館。稀代の幻想画家|藤沼《ふじぬま》|一成《いっせい》の全作品が収拾されたその館で、激しい嵐の夜に勃発した不可思議な惨劇。たとえば、|丹後《たんご》半島の森の中に建つ「|迷路館《めいろかん》」――ギリシャ神話のミノス迷宮をモティーフに作られた地下迷路の館。老作家|宮垣《みやがき》|葉太郎《ようたろう》の莫大な遺産を巡って、全体が密室と化したその館内で繰り広げられた奇怪な連続殺人劇。鹿谷はこの両方ともに関係しており、それぞれの事件解決に一役買ったりもしたらしい。さらには「|人形館《にんぎょうかん》」と呼ばれる家が京都にあって、そこでも何やら異様な事件が起こったという噂を耳にしたことがあるのだけれど、この件についてはいくら|訊《き》いてみても、鹿谷は詳しく話してはくれない。
ともあれ、青司の館≠ヘあまりにも多くの死で|溢《あふ》れ返っている。どう考えても、これは尋常な話ではない。
「死神に魅入られてでもいるのかな」などと鹿谷が冗談めかして云うのを、いつだったか聞いたことがあるが、まさにそのとおりだと江南も思う。「迂闊には近寄らないほうがいい」という、予想される鹿谷の忠告は、だから正しいとも思う。
だが、しかし――。
江南の心中は複雑だった。
あんな|血腥《ちなまぐさ》い事件と関わり合いになるのはむろん|金輪際《こんりんざい》、願い下げだ。同じような体験をもう一度したいなどとは決して思わない。しかし一方で、彼があれらの「館」に対して今、妙な懐かしさ[#「懐かしさ」に傍点]を覚えていることもまた否定できないのである。
十角館や黒猫館の場合は、事件発生の場に江南自身が居合わせたわけではなかった。その分、まだしも余裕のある気持ちで振り返ることができるのだろう、と納得もできる。ところが、間近で次々と仲間たちが殺されていくのを目撃したあの時計館事件についても、やはり今、同じように「懐かしい」と感じてしまうのだ。恐ろしい、|惨《むご》たらしい、忌まわしい、悲しい、|憤《いきどお》ろしい……ネガティヴなイメージで埋め尽くされた、叶うものならば心の奥底に封印してしまいたい記憶であるはずなのに。
どうしてだろうか。
単に時間が経ったから、というだけではない。それはこの一年足らずの間に生じた、江南自身の内面的な変化に関わる問題でもあった。
あれは――ああいった事件は、ああいった形の人の死は、ぼくたちの日常からは大いに懸け離れた、それこそおよそ非現実的な[#「非現実的な」に傍点]出来事だから……と、江南は考える。当たり前なリアリティの尺度を当ててみても正しく測ることのできない、云ってみればそう、あれらはすべて境界線のあちら側[#「あちら側」に傍点]でのリアルなのであって……。
こちら側[#「こちら側」に傍点]とは違う。地続きでありながらも、どこかで決定的に違っている。僕たちが所属する現実からは目に見えない壁で隔てられた、ある種の異世界めいた場=Bそこでこそ現われえた、すこぶる特殊な死の形[#「死の形」に傍点]。だから……。
「死」そのものが特殊であるわけでは、もちろんない。僕たちの日常世界に、死は遍在している。すべての者の上に等しく、それはある。逃れる術は誰にもない。
当然のことだ。あまりに分かりきったことだ。けれど……いや、だからこそ僕はこれまで、特に深く考えてみようとはしなかったのか。あるいは、無意識のうちに目を|逸《そ》らし続けてきたのだろうか。
日常世界におけるごく普通の、ごくありふれた形の死。誰しもの日々の生活の裏側に、常にぴったりと張り付いている死。青司の館≠ナさんざん出遭ってきた死のありようとはまるで異なる、とりたてて珍しくもなければ劇的でもない、ある意味では大変に現代人らしい[#「現代人らしい」に傍点]とも云える、それがこんな、こんなにも……。
……お母さん。
病室のベッドの上でチューブだらけになった母の姿が、眼前にちらつく。最後に会ったあの時の彼女の声が、耳許で震える。
胸の|軋《きし》みとともに重い息を吐き落とし、江南はぶるりとかぶりを振る。それでもしかし、母の姿と声は消えてくれなかった。
「死なせて」
虚ろな|眼差《まなざ》しで、力のない呼吸で、満足にまわらない|呂律《ろれつ》で、彼女はそう云った。
「もういいから、殺して……楽にして」
確かにそう云ったのだ、彼女は。
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七月も下旬に入った暑い日の午後、熊本市内の綜合病院の一室で母は死んだ。
臨終に立ち会ったのは、担当医師と看護婦の他に、江南よりも四つ年上の兄とその妻、母の妹である叔母、この三人だった。急を聞いて会社から駆けつけた父は、ほんの少しの差で間に合わなかったらしい。
江南はと云うとその時はまだ東京にいて、デッドラインぎりぎりの校了作業に追われている最中であった。母が最後の最後にどんな様子で息を引き取ったのか、だから江南は自分の目で見てはいない。
母の身体がその致命的な疾患に冒されている事実が判明したのは、それよりも八ヶ月ほど前――昨年秋の終わりのことである。
九州への出張のついでに実家に立ち寄った江南の目の前で、彼女は突然、食べていたものを吐き出して苦しみだした。発作は間もなく納まったが、聞けば、このところたまにそのような症状に見舞われるのだという。心配は要らない、大したことはないからと尻込みするのを説得して、すぐに病院へ連れていった。そしてその結果、まさかと思っていた最悪の診断が下されてしまったのだった。
五十代半ばのその年齢まで、大きな病気は一度も患ったことのない母だった。父が会社を定年退職したら二人でまた島原にでも引っ込んで、気ままに全国の温泉を巡って過ごすのだ、と老後の抱負を語っていた。「あたしは百歳まで生きるからね」などと豪語してもいた。それが……。
このまま何の対処もせずにいたとして、数ヶ月の命だろう。
そんな非情な宣告を、家族は受けた。
明らかになった病名が、そのまま本人に告知されることはなかった。気丈なようでいて芯は|脆《もろ》い、そんな彼女の正確をよく知っているから――という、それは父の希望だった。ありのままを告げるわけにはいかない。告げないことこそが彼女への思いやりなのだ、と。
長年連れ添ってきた彼が強くそう主張する以上、たとえ異論があったとしても従わないわけにはいかなかった。兄夫婦も、そして江南も。
その後の経緯については、あまり詳しく思い出したくない。思い出そうとしても思い出せない、そんな部分も、実を云うと少なからずあるのだが。
長期にわたる入院生活の始まり――。
年明けには大きな外科手術が行われたが、結果は思わしいものではなかった。その頃には恐らく、彼女も己の病気が決して楽観視できない種類のものであると悟っていたに違いない。いくらまわりが隠そうとしても、隠し通せるはずがなかったと思う。自分の肉体のことは自分が一番よく分かる、そういうものだろうから。
多忙な仕事の合間を縫って熊本に戻り、見舞いに訪れる息子に対して、しかし彼女は、|辛《つら》そうな顔や不安そうな顔をほとんど見せようとはしなかった。いつもことさらのように明るく振る舞っていたのだが……ああ、このあたりのことは本当に、詳しくは思い出したくない。いっそ忘れてしまいたいとさえ思う。けれども、そう望むのとは裏腹に――。
どうしても心に焼き付いて離れない場面が、いくつかある。その一つは……。
……遠景にはおぼろに|霞《かす》んだ島原湾の広がりが、近景にはちらほらと|蕾《つぼみ》を|綻《ほころ》ばせはじめた桜の木々があった。陽射しは柔らかく風は緩く……のどかな春の日の午後。そんな窓の外の風景をぼんやりと眺めていた母が、
「実はね、孝明」
ふいに改まった調子で云いだした。
その前に会ったときよりも彼女はいくらか元気そうで、ベッドの上で上半身を起こし、江南が持ってきた水菓子に口をつけたりもしていた。
「これまでずっと云わずにいたんだけどね。――似ていない兄弟だなって思うこと、あるでしょ」
自分と兄のことを云っているのだ、とすぐに江南は了解した。二人は確かに、あまり似たところがない。容貌も体型も性格も。江南自身、昔からそう自覚しているし、他人からそのように指摘されたことも幾度となくある。
母は窓の方を向いたままだった。江南が|頷《うなず》くのを横目で|窺《うかが》ってから、溜息混じりにこう続けた。
「似ていなくって当たり前。――血が繋がっていないんだから」
「――えっ」
「孝明。あなたとお兄ちゃんはね、本当の兄弟じゃないの」
いきなりそんなことを云われて、江南は目を白黒させるばかりだった。母は窓の外を見やったまま、
「あなたはね、あたしが産んだ子じゃないのよ。あなたは昔、あたしたち夫婦に引き取られて……」
言葉の意味は理解できた。が、それをどう解釈すればよいのか、どう反応すれば良いのか、文字どおり頭の中が真っ白になってしまって考えることができなかった。
「――そんな」
ようやくの思いで発した声。
「どうして、そんな」
応えて母は、ゆっくりと江南の方へ向き直った。何秒かの間、真顔でじっとこちらを見つめたかと思うと、次の瞬間、|窶《やつ》れた蒼白い|頬《ほほ》に片手を当てて低く笑いはじめた。
「何? どうしたの」
混乱する江南をよそにひとしきり笑いつづけたあと、彼女は目尻いっぱいに細かな|皺《しわ》を寄せながら、
「冗談」
「――はあ?」
「冗談に決まってるでしょ。あんまり簡単に真に受けないの」
「冗談って……」
「病人が冗談を云っちゃ駄目?」
|悪戯《いたずら》っぽく小首を傾げながら、彼女は壁に貼られたカレンダーを目で示した。
「ね、今日はそういうお約束[#「そういうお約束」に傍点]の日でしょう」
四月一日の月曜日――今年のエイプリルフールの出来事。遠くから見舞いにやってきた息子に対する、あれはあの時の彼女の、せいいっぱいの気遣い、あるいは強がりだったのだろうか。
どうしても心に焼き付いて離れない場面が、いくつかある。次は……。
……六月三日月曜日。
午後四時八分というその時刻まで、江南はしっかり記憶している。島原湾を挟んだ向かい側の土地で、|雲仙普賢岳《うんぜんふげんだけ》の噴火活動によるあの大惨事が起こった時刻である。
その日の熊本市内は、前日から引き続いての激しい雨だった。不穏な雷鳴も響き渡っていた。夕方になっていくらか雨の勢いが緩んできたところで、江南は病院へと向かったのだが、移動に使ったタクシーの車中、ラジオの臨時報道でそれを知った。
昨年十一月、二百年の眠りから覚めた普賢岳。その山頂に形成された巨大な溶岩ドームの崩壊によって、これまでになく大規模な火砕流が発生、|麓《ふもと》の|北上木場《きたかみこば》と|南上木場《みなみかみこば》の両集落を直撃したという。現場に居合わせたマスコミ関係者や火山研究者ら、大勢の人間が行方不明となり生存は絶望的、その他にも重軽傷者多数……。
病院に着いたのが午後六時頃だったろうか。病室には叔母が来ていた。ベッドの側に置かれた小型TVが点いていた。
高温のガスと火山灰の怪物めいた奔流が、あらゆるものを呑み込んで押し寄せてくる。|薙《な》ぎ倒される木々、燃え上がる民家、逃げ惑う人々……惨事の模様を生々しく伝えるニュース番組の映像が目に飛び込んできて、江南もまた発する言葉を失った。
島原は江南が生まれ、子供時代を過ごした土地である。雲仙の山々と云えば昔からごく身近に感じてきた存在だし、普賢岳に登ったことも一度ならずある。上木場あたりの|鄙《ひな》びた風景も、記憶に残っている。それが今、こんな……。
「可哀想に」
TVから視線を逸らして、母が呟いた。もっと悲しみを表現したいのだが、その力が出ない、そんな感じの、起伏のない声だった。
「みんな可哀想……人も村も、木も山も」
「いったいいつまで続くのかしらねえ」
叔母は逆に、ちょっと大袈裟すぎるくらいの抑揚で喋った。
「何でもね、場合によっちゃあこっちの方も危ないんだって。山が崩れ落ちたら大きな津波が来るんだとか。江戸自体の噴火で、そんなことがあったんだそうよ」
江南は静かにベッドに歩み寄り、「やあ」と母の顔を覗き込んだ。前回来た時よりもさらに頬の肉が落ち、そのぶん眼球が飛び出して見えた。
五月に入った頃から、彼女の容態は目に見えて悪化していた。鎖骨のあたりに刺さった点滴のカテーテル、鼻腔に挿入された酸素カニューレ……来るたびに、そういったチューブ類の数が増えているように思えた。固形物を|摂《と》ることは、もうほとんど無理らしい。用足しにはどうにかまだ自力で行けるようだけれど、遠からずそれもままならなくなってくるのだろう。
「どうだい、具合は」
訊くと、母は何拍か遅れたタイミングで「大丈夫」と答え、ぎこちない微笑を口許に作った。
「大丈夫よ。――あの人たちに比べたら」
「あの人たち?」
「火砕流に巻き込まれた……」
「ああ。――ひどいことになってるね」
「ほら、孝明」
わずかに腕を持ち上げて、母がTVの方を指さした。
「あんなにきれいだったお山が、あんな……」
番組では、昨年からの噴火活動の経過を詳しく解説しはじめていた。そのとき画面に映し出されていたのは、今年の五月半ばの普賢岳だった。山頂に盛り上がった灰白色の溶岩ドームが、カリフラワーのように|罅《ひび》割れて周囲に広がっている。子供の頃に登った山と同じものだとはとても信じられない、あまりにも奇怪な……。
懐かしい土地の変わり果てた有様を、あのとき母はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
時を同じくして病に|蝕《むしば》まれた自分の肉体を、そこに重ねてみていたのかもしれない。その前の「可哀想に」という呟きは恐らく、彼女自身に向けて投げかけられた言葉でもあったのだろう――と、今にして江南はそう思う。
「島原には、もう帰れないね」
やがて、母がぼそりと云い落とした。何と応えたら良いのか分からずにいると、傍らから叔母が、
「そんなことないわよ、姉さん。病気が治る頃にはきっと噴火も収まって……」
「無理」
と云って、母は枕の上で小さく首を振った。
その夜遅く、母はたくさんの血を吐いた。
大事には至らなかったものの、処置が遅れていれば命を落とす危険もあったという。主治医は家族に対して病状が末期に近づいていることを告げ、今後の対処についていくつかの選択肢を示した。
「一日でも長く、生かしてやってください」
父はそう答えた。
「できる限りの延命処置を、お願いします」
……本当に?
本当にそれで良いのだろうか。
江南は疑問を覚えざるを得なかった。けれども、きつく唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みしめて涙をこらえている父の表情を見ると、どうしてもあそこで異を唱えることができなかったのだ。
ああ……お母さん。
記憶はそして、否応なくその次の場面へと飛ぶ。心に焼き付いて離れることのない、あの……。
……七月六日、土曜日の午後。江南が最後に母と会ったあの日、あの時。
病室のベッドの上に、身体中チューブだらけで横たわった母。飲食や排泄はもちろん、もはや一人で寝返りを打つことすら困難になっていた。甘ったるいような生臭いような、あるいは腐臭めいたとさえ形容できる、何とも云えない|臭《にお》いが部屋には充満していた。
他には誰もいなかった。江南はベッドの側に坐り、窶れ果てた母の顔をじっと見ていた。
時折り彼女は薄目を開け、鼻と口を覆った透明な酸素マスクの中でかすかに唇を震わせたが、ちゃんとした声にはならない。眠っているのではなく、薬で意識が|朦朧《もうろう》としているらしかった。
江南の方が話しかけてみても、彼女は何も応えなかった。聞こえていないのか、聞こえてはいても反応しないのか、できないのか。そもそも彼女が、今ここに坐っているのが息子の孝明であると認識できているのかどうか、それすら疑わしいところだったのだが――。
母の|瞼《まぶた》が、ふいに大きく開いた。虚ろな眼差しで江南の顔を見上げながら、のろのろと右手を口許に伸ばした。
「どうしたの。苦しいの」
立ち上がって声をかけると、彼女は|眉間《みけん》に深い皺を刻んで低く|呻《うめ》いた。
「看護婦さん、呼ぼうか」
口許に伸びた右手が酸素マスクを横へずらした。江南が元に戻そうとすると、彼女はゆっくりと首を動かしてそれを拒んだ。そして――。
「死なせて」
力のない呼吸で、満足に回らない呂律で、彼女は確かにそう云ったのだった。
「もういいから、殺して……楽にして」
何とも言葉を返さなかった、いや、返せなかったように思う。「駄目だよ」とも「元気を出して」とも。母の眼差しから顔を|背《そむ》け、しばしそのままの姿勢で凍りついていたように思う。
どうしてこんなになってまで、この人は生き続けなければならないのだろう。どうしてこんなにしてまで、この人を生かし続けなければならないのだろう。
もともと江南の中にあったそんな想いが、|堰《せき》を切ったように心に広がりはじめていた。握りしめた|拳《こぶし》が冷たく痺れた。押しつぶされそうな胸の痛みで、うまく空気が吸えなかった。
どうしてこんなになってまで。どうしてこんなにしてまで。どうして……ああ、そうだ。もちろんそれは、この人自身が一番強く思っていることに違いないのだ。
ここから先、自分を待ち受けているものが何なのか、この人はとうに承知している。だから「もういい」と、だから「楽にして」と……。
「……お母さん」
いま僕がこの酸素マスクを取り上げてしまえば。この点滴のカテーテルを抜き取ってしまえば。この病室に置かれた機材の電源を全部切ってしまえば。――いや、それよりもいっそ、この手でこの人の首を絞めてやれば。少しの間だけ、少し強い力を込めて。きっとすぐに終わるはずだ。|呆気《あっけ》ないくらいすぐに。そうすればもう……。
きちんと思い出せるのはそこまでだった。
そのあとの記憶は何故かしら切れ切れで……|縺《もつ》れる足で走り抜ける薄暗い廊下。振り向く看護婦たちの不審そうな表情。エレヴェーターを待つ車椅子の老人。階段を駆け下りる靴音がいやに甲高く。救急車のサイレンの音が窓の外で。ロビーを行き来する大勢の人間たちは見知らぬ顔ばかり。スピーカーから流れる院内アナウンスの中性的な声。誰かの名前を繰り返し読んでいる。総合受付の前の長椅子に黄色い服を着た幼女がぽつんと座っていて……つんのめるようにして建物の玄関から飛び出したところで、はっと立ち止まった。
ひどく息を荒げていた。頬には幾筋か涙が伝っていた。
外では雨が降っていた。普賢岳で大火砕流が発生したあの日と同じような、激しい雨だった。
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第一章 蒼白の霧
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|熊四手《くましで》の長い枝が頭上に張りだした大きなカーヴを曲がりきったところで、前方の異常に気づいた。しばらく先で道が途切れているのである。崖崩れの後らしい。土砂や倒木によって細い山道が完全に塞がれている。
しまった、と思った。江南は小さく舌打ちしてブレーキを踏んだ。
「――参ったな」
I**村で立ち寄ったあの雑貨屋の主人が云っていたではないか。峠を越えてひとしきり行くと左手に分かれる道があるから、それを曲がるように。通り過ぎて道なりに進んでしまうと、その先は確か長らく通行止めになっていて……と。
教えられた|甲斐《かい》もなく、あっさりと分岐を見逃してしまったわけか。
とにかく引き返すしかない。
舌打ちを繰り返しながら、江南はハンドルを握り直した。
そろそろと車をバックさせる。道幅に余裕のある場所を見つけるのに一苦労し、そこでの方向転換にまた一苦労した。これで峠と同じような霧が出ていたなら、どうにも処置なしだったところである。
気を取り直して、やってきた道を戻りはじめる。
同じ道なのに、逆向きに走るだけで風景がまるで別物に感じられた。
特殊な画像処理でも施されたかのように、何やら色がざらざらしている。それでいて明暗のコントラストは異様にくっきりしてる。光が|刺々《とげとげ》しい。影が深い。さっきが表側でこっちが裏側、そんな印象でもあった。
今度は決して分かれ道を見過ごさないように。
必要な注意を進行方向右手に払いつつ、江南は雑貨屋の主人とのやり取りを追想する。
白髪交じりの薄い頭髪のせいもあって、年齢は五十前後と見えた。実際はしかし、もう少し若かったのかもしれない。
背は低いが骨太な体躯で、よく陽焼けした顔には大きな古傷があった。|額《ひたい》から左の瞼、頬にかけて、深く。左目はずっと閉じられたままだったから、恐らく昔その傷を負った際、視力まで失ってしまったのだろうと察せられた。
「峠を越えてどこへ行くつもりかね、あんた」
|訝《いぶか》しげに訊き返されて、江南は若干のためらいの後、ありのままを答えた。
「暗黒館という建物を見たいと思って。百目木峠の向こうの森の中にあると聞いています」
あの時の、あの店主の反応――。
右の眉を鋭角に吊り上げ、同じ側の唇の端を微かに震わせた。そこに窺えたのは驚きと、そして確かに、ある種の怯えだったように思う。
「何でまた、あんた」
「御存じですか、その建物を」
「――峠の向こうの、|浦登《うらど》様のお屋敷」
聞き取るのに身を乗り出さなければならないような低い声で、店主は呟いた。「浦登」というその|苗字《みょうじ》は、すでに江南の知るところだった。
「今も建物はあるんですね」
店主は無言でわずかに頷いた。
「住んでいる人は、どういう」
「――近寄らん方がいい」
「えっ、どうしてですか」
「…………」
「どうしてなんですか」
「恐ろしいことがあった。これまでに何遍も、恐ろしいことが」
そう訊いた途端、江南の頭に「殺人」の二文字が浮かんだのは云うまでもない。店主は口を|噤《つぐ》み、顔の古傷を指先でなぞるような仕草を見せた。掠れた溜息が落ちた。
「中村青司っていう名前を聞いたことはありませんか」
「なかむら?」
「建築家の名です。かつて暗黒館の補修に手を貸したと云われている人物なんですけど」
「なかむら……なかむら、せいじ……」
ぼそぼそと呟きながら、店主はゆっくりと頭を振る。肩を丸め、顔の古傷をまた撫でる。心当たりがあるのかないのか、そんな彼の様子からはどちらとも察しがつかなかった。
これ以上質問しても何も答えてくれそうにない。そう判断してやがて、川南は店を出ようとしたのだが――。
「ちょっとあんた」
と、そこで呼び止められた。そうして店主は、峠を越えた先にあるその分岐のことを教えてくれたのだった。
「気をつけなさいよ」
と付け加えて、店主は片方だけ開いた目を、遠くを望むように細くした。
「あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]がおる」
「良くないもの?」
「死んだ|祖母《ばあ》様に昔よく云われたもんだ。しかし、そう云われたら云われたで、行ってみたくなるのが人情だしな」
「――はあ」
「なんであんたがあの屋敷を見たいのか知らんが、とにかくまあ気をつけなさい」
車に戻ったところで一度、店の方を振り返った。店主の姿はもう、薄暗い建物の奥に消えていた。江南は小さく息をつきながら、改めてその店の看板に目を上げた。
ひどく古びた看板だった。あちこち塗りが|剥《は》げ、四方の角はすっかり丸みを帯びている。少し傾いてもいる。何十年も前からずっと取り替えられることなく、風雨に|晒《さら》されてきたのだろう。
「|波賀《はが》商店」という四つの文字が、そこにはかろうじて読み取れた。
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引き返しはじめて十五分ほどのところで、問題の分かれ道は見つかった。
漠然と予想していたのを裏切って、さほどひどい道ではない。悪路であることに変わりはないのだけれど、中型車が楽に通れるだけの道幅はある。
この方向からだとすぐにそれと分ったが、逆からだとちょうど大きな木の陰に隠れた格好になっている。先ほど見過ごしてしまったのも、これなら致し方ないかと思えた。
道は森の中へ分け入っていく。
初めのうちはかなり急な下り坂だった。進むに従って幾段階も視界が暗くなってくる。奔放に生い茂った雑草が車体に|擦《こす》れて騒々しい。ハンドルを握った手に、これまでになく力が入る。
本当にこの先に――こんな山奥の森の中に、めざす館があるのだろうか。
ここまで来て、ふと不安になった。
百目木峠の向こう、深い森の中の小さな湖の小島に建つ「浦登様のお屋敷」。暗黒館なるその名は、文字どおり真っ黒に塗りつぶされた異様な外観に由来するものだというが……。
……暗黒館。
いかにも不吉な響きをもっこの名称を江南が初めて耳にしたのは、一昨日のことであった。
九月二十一日、土曜日の午後。熊本市内の江南の実家において、亡母の四十九日の法要が執り行なわれた。法事のあとは場所を料理屋の座敷に移し、そこでちょっとした会食が持たれた。その間、江南は集まってくれた親類縁者たちを相手に、彼らが期待する「最愛の母を失った息子」の役柄を演ずるべく、憂鬱な努力をし続けなければならなかった。
母の病と死に対する悲しみや嘆きの感情は、むろん強く存在しているのである。だがそれを自然に表に出すことが、江南はどうしてもできずにいた。七月六日の午後――「殺して」と母に請われ、病室から飛び出したあの日のあの時以来、ずっと。
心の一部分が凍結している。
そんな感じだった。
東京で訃報を受けた時も、実家で遺体と対面した時も、葬儀の時も火葬の時も……家族や親戚たちが大きな悲嘆に暮れる中、江南は独り冷たく表情をこわばらせていた。ほんの少しの涙すら滲むことがなかった。こらえていたのではない。泣こうとしても泣けなかったのだ……。
会食の席では老若男女、幾人もの人間に酒を|注《つ》いでまわり、言葉を交わした。勧められるままにみずからもずいぶん酒を飲んだ。酔いが回るうちにだんだんと緊張の|和《やわ》らいでいくのが分ったけれど、それで心の凍結が完全に解けはしなかった。そのようになることを積極的に望んでもいなかった。
さまざまな声が、言葉が、酔って微熱を帯びた頭の中に流れ込んできた。……早すぎたよねえ、ほんと。去年の今頃はあんなに元気だったのに。東京では一人暮らしなんでしょ、身体には気をつけてね、孝明ちゃん。その懐中時計、まだ使っとるんだな。お兄さんのところ、赤ちゃんはまだなのかしら。お|祖父《じい》さんの形見だったよね、それ。結婚の予定はないのか、孝明。島原の方はまだまだ大変そうね。出版社ってお給料いいんでしょう。いつになったら噴火が収まるんだか。友達で去年、サウジアラビアに駐在中だった奴がいてさ。お見合いの相手、探してあげましょうか。イラクが侵攻してきた時、クウェートとの国境のすぐ近くにいたそうで。噴火のせいかしら、こっちでもよく地震があるのよ。孝明さんはどんな本を作ってるの。戦争は絶対に嫌だよなあ。東京にいい娘がおるんだろう、なあ孝明君。戦争は嫌だ。最近何か面白い映画、観たかい。この頃あたし、何となく胃の調子が悪くって。中東の不安定な情勢はまだまだ続くんでしょうねえ。フランシス・コッポラが今度『ドラキュラ』を撮るんだってね。お父さんをいたわってあげるのよ、孝明。先月のソ連のクーデター騒ぎには驚いたよなあ。早く孫の顔を見せてあげなさいな、孝明さん。推理小説ってわたし、苦手なの。こうなるともう、ソヴィエト崩壊も時間の問題だったりして。東京へ遊びに行ったら、ディズニーランドに案内してよね。煙草、やめた方がいいわよ。だけど『ドラキュラ』って云ったら、やっぱりクリストファー・リー主演のあれだよねえ。|一昨年《おととし》の夏に鎌倉で、何だか凄い事件に巻き込まれたんだって? あたしは京都へ行ってみたいなあ。……あるものは右から左へと素通りし、あるものは意識の表層を軽く掠め、あるものは切れ味の悪い刃物となって中途半端に突き刺さり、あるものは乱反射しながらフェイドアウトし……そんな中からふと、はっとするような鋭さで切りかかってきた言葉――。
「暗黒館っちゅうのを知っとるか、孝明」
|嗄《しわが》れたその声の主は、江南の大叔父だった。四年前に他界した母方の祖父、遠藤富重の実弟で、姓は同じ遠藤、名は|敬輔《けいすけ》という。
「I**村の奥の森の中じゃ、小さな湖の島に建っとって、名のとおり真っ黒な、何ともまあ異様な雰囲気の屋敷でな」
熊本市内で何年か前まで古物商を営んでいた人物で、祖父の富重とはたいそう仲の良い兄弟であったと聞く。江南が形見分けでもらった例の懐中時計は、そもそもこの大叔父の店で祖父が見つけて譲り受けたものだったらしい。
「ん? 知っとるか、孝明」
「いえ。――そんな話を、何で急に」
「お前の顔を見とったら、ふいと思い出したんじゃよ」
紅潮した禿げ頭を撫でまわしながら、江南の反応を楽しむようににまり[#「にまり」に傍点]と笑う。もう七十過ぎの高齢で、だいぶ酒も入っているはずなのに、確かな呂律で|澱《よど》みなく喋った。
「商売仲間に声をかけられてな、その屋敷の持ち主が――浦登とかいう名前じゃったか、それがちょっと家財を整理したがっとる、いい出物があるだろうから一緒に行かんか、と。確かもう、二十年か三十年も前のことになるかのう」
「暗黒館」というその名を聞き取った瞬間から、江南の胸は怪しいざわめきに揺れはじめていた。あんこくかん……暗黒館? まさか、まさか……と、そんな心の内を見透かしたかのように、
「富重から話を聞いた覚えがあってな」
そう云って、大叔父は|猪口《ちょこ》の酒をぐいと空けた。
「大学時代、えらい事件に関わったそうじゃな、孝明。友達が何人も殺されたとか。その事件の起こったのが、何とかっちゃうおかしな建築家の建てたおかしな館で……と」
ああ、そんな話を祖父にしただろうか。――したかもしれない。角島十角館のあの事件のあと、ずいぶんひどく僕は落ち込んでいたから。こちらに帰ってきて、子供の頃からいろんな相談に乗ってくれた祖父を相手に、事件のことを話していたとしても不思議ではない。
「それはあの、中村青司の……」
「うむ。そんな名前じゃったな」
大叔父はまたにまりと笑って、
「まあ飲め、孝明」
注がれた酒を云われるままに飲み干してから、江南は半ば恐る恐る訊いた。
「まさかその暗黒館という家も、中村青司の?」
「何せ二、三十年も前のことじゃからな、断言はしかねるが。同じような名前をはて、あのとき耳にした覚えがあるような、ないような……」
何やら|曖昧《あいまい》な話ではある。二十年ならともかく、三十年前というのは少し時代が古すぎるような気もする。――が。
まったくありえない偶然ではない。
そう考えると、胸の怪しいざわめきはいっそう強くなった。
「富重の事件の話を聞いた途端、長らく忘れとったあの屋敷のことを思い出してな、どうにも気に懸かってしょうがなかったもんじゃ。中村|某《なにがし》っちゅうその名前のせいもあったのかもしれんな。それと、こいつは今でもよう憶えとるんじゃが、あの屋敷――暗黒館にも、似たような話があってなあ」
「似たような?」
大叔父は「そうじゃよ」と真顔で頷き、自分の猪口を新しい酒で満たした。
「忌まわしい事件が何度も起こった家じゃと、そんな噂がな。――ほれ、孝明、もっと飲まんか」
摂取したアルコールの量にもかかわらず、その夜は床に|就《つ》いてもなかなか眠れなかった。
朦朧とした脳裏に見も知らぬ暗黒の館の影が浮かび、不規則に伸縮を繰り返しながら揺れ動きつづけた。影のまわりをいろいろなものが乱れ舞った。それらは人の顔であったり声であったり、風景であったり文字であったり、もっと抽象的な得体の知れぬ何ものかであったりした。
深夜になっても寝つかれず、江南は思い立って電話をかけた。東京は|上野毛《かみのげ》の鹿谷門実の部屋に、である。とにかくやはり彼には知らせておこうと考えたわけなのだが、回線が繋がっても、受話器からはテープに録音された留守番メッセージが聞こえてくるばかりだった。
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最初に感じたのは異様な音響だった。
|唸《うな》りつづけるエンジン音の狭間に低い地鳴りのような響きが聞こえてき、聞こえたと思うが早いか今度は、どどん! と重々しく空気が震えた。身の丈何十メートルもあるこの世ならぬ巨人が、怒りに任せて足を踏み鳴らしでもしたかのように。
ハンドルを取られた。瞬間、バーストだろうかと思ったが、すぐに違うと思い直した。――地震? 地震のせいなのか、これは。慌ててブレーキを踏み込むが、コントロールが利かない。タイヤが滑る。車体が大きく跳ね上がる。
まずい、と思った時にはもう、車は道から飛び出して森に突っこんでいた。
さらに大きく車体が跳ね上がる。
激しく続く揺動。一気に暗くなる視界。江南は歯を食いしばってハンドルにしがみつき、めいっぱいブレーキを踏み続けた。やがて、ひときわ激しい衝撃とともに――。
車が止まった。
とっさに|瞑《つぶ》った両目を、なかなか開けることができなかった。……かすかな耳鳴り。乾ききった唇と口腔。唾液が湧いてこない。ようやく湧いてきたと思っても、上手く飲み込むことができない。身体に力が入らない。ひょっとすると何秒かの間、失神していたのかもしれない。
やっとの思いで瞼を開けた。
ぼやけた薄暗い視界にフロントグラスが映った。到るところが罅割れて白くなっている。砕け落ちている部分もある。
右の肩から胸にかけて、鈍い痛みを感じた。シートベルトが深く喰い込んでいるのだ。ベルトを外そうと持ち上げた左手に、別の痛みを感じた。目を向けてみて、思わず呻いた。赤い。血で濡れている。手の甲にかなり大きな切り傷が出来ていた。砕け落ちてきた|硝子《ガラス》の破片で切ったのか。
痛みをこらえてベルトを外すと、とにかく車の外へ出てみた。エンジンは停止していた。地面に足を下ろして身を立てた途端、軽い|眩暈《めまい》を感じた。ショックで平衡感覚が鈍っているのだろう。
車は相当にひどい有様だった。
左側のヘッドライトのあたりが|山毛欅《ぶな》の大木の幹にめり込み、すっかり変形してしまっている。道の外へ飛び出したあと、ひとしきり突き進んだところでこの木に衝突して止まったのだ。一歩間違っていたら――たとえばあと少し減速が足りなかったりしたなら――、こうして生きていられたかどうか分らないということか。
……にしても、さっきのはいったい?
見たところタイヤは四本とも無事な様子だった。やはりバーストではない。とすると――。
やはり地震があったのだろうか。
そろそろと周囲を見まわしてみる。
薄暗い森の冷ややかな空気は、何事もなかったかのように静まり返っていた。風にざわめく草木の音すらもなく、聞こえてくるのはただ、虫の鳴き声と野鳥の|囀《さえず》りばかりである。
本当に地震があったのだろうか。
雲仙普賢岳の変わり果てた姿が、おのずと江南の脳裏に浮かんだ。
もしかしてあの山でまた、大噴火が? そのために起こった地震がさっきの……いや、それは地理的に無理があるように思う。あんなふうに運転の自由が利かなくなったくらいだ、相応の強い揺れであったに違いない。雲仙とこことでは距離が離れすぎているのではないか。だから……。
木々の枝と葉が重なり合った隙間から降る細い光を、溜息とともに振り仰ぐ。少し首が痛かった。眩暈は治まったけれど、足はまだふらついた。
いずれにせよ、直面しているこの状況に変わりはない。――どうしたものだろうか。
ジーンズの尻ポケットからハンカチを取り出して左手の傷に巻きつけながら、江南は考える。
車は使えそうにない。エンジンはかかるかどうかも分らない。かかったとしても、ここから道まで戻せるかどうか。戻せたとしても、ちゃんと走るかどうか。――どれも困難に思えた。
歩いて引き返すしかないのか。ここまでやって来たあの道のりを? いったいどれだけの時間と体力を要するのか、想像するだけで気が|萎《な》えた。
とりあえず上の道まで戻ってみて、他の車が通りかかるのを期待するか。あるいは――。
あと一つ、対処の選択肢はある。諸処の条件を考え合わせると、それが最も懸命な行動だろうということは明らかだが。
改めて周囲を見まわしたあと、江南は意を決していったん車の中に戻った。助手席に置いてあった砂色のブルゾンを取り上げ、シャツの上に羽織る。
そこで、やはりもしかしたらと思ってイグニッションキーを回してみた。だが案の定、エンジンはうんともすんとも云わなかった。諦めてキーを抜こうとしたが、これがどうしても抜けない。タイヤが極端に横を向き、ハンドルが大きく切れたまま戻らなくなった状態であるため、ロックが掛かってしまっているのだ。
「やれやれ」と力無く吐き落とす。
再び外へ出たところでブルゾンの内ポケットを探ってみて、そこに入れておいたはずの札入れがないことに気づいた。慌てて社内を覗き込む。硝子の破片が散らばった助手席のフロアに、その焦茶色の札入れは落ちていた。
念のため中身を確認する。現金にカード類、運転免許証、社員証、それから――。
小さな写真が一枚、札入れの中には入っている。全体にかなり色褪せた、それだけで古いものだと分るカラー写真である。背景は木々の紅葉、被写体となっているのは二人の人間。一人は着物姿の中年女性で、その横にぴったりとくっついた瘠せっぽちの子供がもう一人。女性は満面にふくよかな笑みを|湛《たた》え、子供はちょっと緊張したふうに唇を引き締めている。
裏面には、鉛筆書きで付されたメモがある。
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一九七五年十一月七日
孝明十一歳の誕生日に
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十六年前――小学校五年生の江南自身と、まだ四十前の母の写真だった。場所がどこなのかも、どういう状況で誰が撮ったものなのかも、江南の記憶にはまったく残っていない。昨日の午後、母が遺したアルバムの中にこれを見つけ、こっそりと抜き出してきたのだったが……。
また一つ溜息をつきながら札入れを内ポケットにしまうと、江南は車から離れた。薙ぎ倒された草や木の跡を辿って、元の道に戻る。
この道をさらに進めば、問題の屋敷があるはずなのだ。そこには住む者もいる。
いくら人里離れたこの山奥でも、今の時代、電話線が引かれていないなどということはあるまい。事情を説明して助けを求めれば、まさかにべもなく追い返されたりはしないだろう。とにかく電話を貸してもらって、業者を呼んで……そうすれば、何とかなる。
どのくらい歩けば到着するのかは分らない。けれど、ここからI**村まで引き返すことを思えば、きっと高が知れた距離だろう。
時刻は今、午後五時過ぎ。日暮れまであまり多くの余裕はない。それを考えてもやはり……と、そんな慎重な思考の一方で――。
さい、行きなさい。
そう|囁《ささや》く声がどこかにあった。
さあ、行きなさい。迷うことはない。この道をまっすぐ行けば、もうすぐそこに……。
いまだ少々|覚束《おぼつか》ない足取りで、江南は歩きはじめる。左手の出血はどうにか止まりつつあった。痛みもだいぶ治まってきていた。首や他の各所にも不具合があったが、幸い歩行の妨げになるほどのものではなかった。
いくらか進むうちに、I**村で立ち寄った波賀商店の店主のことがまた思い出された。顔の古傷を撫でる手の動き。「気をつけなさいよ」と繰り返された忠告。それに重なるようにして、
――気をつけるんだよ、江南君。
鹿谷門実の声が、耳の奥で。
心配ない、単に見に行くだけだから――とは、もはや云えない状況であった。
よりによってこんなところで事故を起こして車が破損してしまったという、今のこの事態がすでにして、青司の館≠ェ持つ「不吉な場の力=vの影響によるものなのか。そんな風に考えてみたくもなってくる。仕掛けられた見えない罠の中へ、僕はいま否応なく引き込まれようとしているのではないか。もう後戻りはできない。もう後戻りはできない。もう逃げられない。もう……。
そのまま十五分足らず歩きつづけたところで、だった。道の脇に古びた立て札があるのを、江南は見つけた。
半ば倒れかけていると云っても良いほどに、ひどく傾いて立っている。ひょっとして先ほどの地震のせいで、こんなふうになってしまったのだろうか。擦り切れた四角い木製の札に、くすんだ赤い塗料で記された角張った文字――。
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これより浦登家私有地
無断で立入るべからず
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正体の知れぬ囁き声が、
さあ、行きなさい。
その時また、どこかで響いたような気がした。
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昨日は正午前になって目覚めた。前夜のアルコールが身体に残っていて、|宿酔《ふつかよ》いとまでは行かないまでも、あまり良好な気分ではなかった。
起きるとすぐに、上野毛の鹿谷門実の部屋へまた電話をかけてみた。暗黒館の話を、どうしても早く彼の耳に入れたかったから。果たしてそれが本当に中村青司の手がけた館なのかどうか、意見を聞きたいというのもあった。しかし――。
「しばらく留守にします」
テープに録音された鹿谷自身の声が、前夜と同じ応答を繰り返した。
「お名前とご用件を吹き込んでおいてください。出先からのチェックもしますので。発信音のあとに、三十秒以内でどうぞ」
前夜は酔っていて気づかなかったのだが、「しばらく」とか「出先からのチェック」とか、普段の彼の留守番メッセージにはない文句が混じっている。
ここのところ連絡を怠っていたのだけれど、どこかへ遠出でもしているのか。そう云えば、この秋にはちょっと大分の実家へ帰ってこなければならないというような話を、前に聞いた気がする。それが折しも今の時期だったのだろうか。
時間をおいて幾度か掛け直してみたのだが、鹿谷はやはり不在だった。どうしたものかとしばし考えて、当たってみたい相手の名が浮かんだ。
|神代《かみしろ》|舜之介《しゅんのすけ》。
去年の夏、黒猫館事件の際に知り合ったT**大学工学部建築学科の元教授。助教授時代、当時同大の学生だった中村青司を教えた人物である。
近代建築士を専門としていた神代氏は、青司の直接の担当教官ではなかったが、氏自身の弁によれば青司とは「何となくウマが合った」らしい。研究室への出入りはもちろん、|横浜《よこはま》にある氏の家にも何度か遊びにきたことがあるという。青司が大学を卒業して郷里に帰り、やがて角島の青屋敷に居を移してからも、手紙のやり取りなどで二人の付き合いは続いた。
そんな神代氏だから、黒猫館のあの時がそうであったように、もしかするとこの暗黒館についても何か知っているのではないか。そう思いついたわけである。
さっそく横浜は|山手《やまて》の神代邸に電話してみたところ、孫娘の|浩世《ひろよ》が出た。可憐な日本人形を思わせるこの美少女は、鹿谷門実の著作を愛読する奇特な高校生でもある。昨年初めて神代邸を訪れた際、彼女にサインをねだられて照れに照れていた鹿谷の顔が忘れられない。
江南が名を告げると、浩世は「うわぁ、お久しぶりです」と嬉しそうな声を返してきた。
「元気にされてます? あたし、もうすぐ受験だからあんまり本も読めないんだけど、それでも鹿谷さんのは全部読んでるんです。ちゃんと大学に受かったら、江南さんたちも呼んでお祝いをやろうかなんて、お祖父様がが気の早い計画を立てたりしてるんですけど……」
一年前と比べてみても、まるで変わらない屈託のなさだった。それが|羨《うらや》ましくて、江南は何だかとても自嘲的な気持ちになった。
「神代先生、おられますか。できたら少しお話を|伺《うかが》いたいんですが」
「はいはい。ちょっと待ってくださいね」
ぱたぱたと廊下を駆ける音が遠ざかっていく。「お祖父様ぁ」と呼ぶのがかすかに聞こえた。しばらくして、これもまたある意味で変わりのない神代氏の声が受話器から飛び出してくる。
「江南君か。どうしとるのかね、最近。たまには遊びにこんか。浩世は相変わらず恋人の一人もおらんようだぞ。チャンスだと云っとるのに、君にはその気がないのかな」
「あ、はい、いえ……」
高齢で耳が遠くなっている分、神代氏が発する声は大きい。会話を成立させるためには、こちらも相応の大声で喋る必要がある。
「ご無沙汰しております。あのですね、一つ先生にお尋ねしたいことがあってお電話したんですが」
「何かな」
「ええと、実は」
「ははん。また中村君の話かね」
「分りますか」
「分らん方がどうかしとるだろう。――で、何を訊きたいのかな」
「はあ、それがですね……」
江南が熊本の山中に建つという暗黒館の件を話すと、元教授は「ううむ」と低く唸った。がさがさと髪を掻きまわす音が聞こえてくる。何とか思い出そうと努力してくれている様子だった。
「いかんせん昔のことだから、記憶もいま一つ定かではないが……うむ、熊本の暗黒館か。そう云えば聞いたことがあるような」
「ああ、やっぱり」
「|儂《わし》の思い違いでなければ、確かあれは、中村君がまだたいそう若い時分に関わった仕事で……うむ、彼自身の口からそう聞いた覚えがあるような気がしないでもないが」
「それは、どんなふうな」
「はて、どういう話だったかな。元からあった屋敷の補修だか改築だか、わけあってそんな仕事に協力したことがあると、確か……」
それ以上はいくら聞いてみても無駄だった。たとえば「暗黒館とは具体的にどのような建物なのか」「持ち主はどういう人物なのか」「その後その建物はどうなったのか」といった質問に対して、返ってきた答えはすべて「むかし聞いたかもしれんが、憶えておらんな」。浩世が大学に合格したら必ず一度デートに誘うよう約束させられて、江南は受話器を置いた。
ともあれ、少なくとも暗黒館が中村青司ゆかりの「館」であるという事実だけは、こうして確認できたわけだ。そうなるともう、江南はじっとしていられなかった。
続けて、大叔父の家に電話した。かつて彼が訪れたその館の所在地に関して、できる限り詳しい情報を聞き出すためである。江南の心の中ではその段階で、実際にそこへ足を運んでみようという意志が固まっていたのだった。
夜になってから、もう一度だけ鹿谷に電話をしてみた。相変わらずの留守電状態だったが、テープの応答を聞いたあと、発信音が鳴るのを待って江南は自分のメッセージを吹き込んだ。
熊本の山中に暗黒館という青司の館≠ェある、明日一人で行ってみようと思う――と。
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立て札が示す境界を越え、江南は「浦登家私有地」に足を踏み入れた。
日没が迫りつつあるのに加え、道の上には両側から張り出した木々の枝がヴォールト状に|被《かぶ》さり合っていて、行く手はいよいよ薄暗い。吹く風はなく、先刻まで聞こえていた虫や鳥の鳴き声も何故かしら消え去り、森は異様なまでの静けさである。地を踏むみずからの足音も、さらには呼吸の音さえも、この静寂に飲み込まれて消え失せてしまうのではないかという気分になった。
ブルゾンの前を掻き合わせながら、江南は心持ち足を速める。しばらく行って右手に折れる分岐と、さらに行って左手に折れる分岐と出遭ったが、迷いなく道なりに進んだ。これでいい、このまままっすぐに行けばいいのだ、という奇妙な確信がいつしか心に根を張っていた。
やがて――。
左右に迫っていた森が、歩を進めるに合わせておもむろに退いていった。風景がそして、大きく翼を広げた。
風がふいに正面から吹き付けてきた。思いがけぬ激しさで森が身を震わせ、甲高い声を|撒《ま》き散らして鳥たちの群が飛び立った。
乱れる髪を押さえながら、江南は眼前に広がる風景と対峙した。
まるでそれ全体が息を|潜《ひそ》めて森の狭間にうずくまっているような風情で、その湖はそこにあった。垂れ込めていた雲がいつしか薄れ、鮮やかな夕陽が広がりはじめた空の下、赤く染まった水面を怪しく輝かせながら。
湖に浮かぶ島がある。城壁のような石積みの塀が巡らされている。その向こうに建つ、あれが――。
あれが暗黒館か。
高い塀に|遮《さえぎ》られて、ここから全貌は窺えない。黒々とした建物の影が途切れ途切れに覗いている。向かって右側手前にぽつんと離れて、他よりも背の高い影がある。塔のようだった。
道は岸辺に下り、そこから湖を取り巻く形で両側へと分れている。船着場と思しきものが、左手へ少し行ったところに見えた。江南は迷わずそちらへ足を向ける。
湖岸から尽きだした小さな|突堤《とってい》|桟橋《さんばし》。その|袂《たもと》に、石造りの四角い建物があった。
暗褐色の石材を積み上げて作られた壁に、黒く塗られた平たい屋根。こちらからは窓の一つとて見当たらず、その佇まいは何やら、巨人のためにあつらえられた黒い石棺とでもいった|趣《おもむき》だった。建物としては決して大きなものではないが、「小屋」と呼ぶには少々重厚すぎる構えである。
道に面してささやかなポーチが設けられており、その奥に黒塗りのドアがあった。
「ごめんください」
軽くノックしながら、江南は声を張り上げた。
「ごめんください。どなたかおられますか」
返事はなかった。
もう一度ノックしようとしたところで、ドアの横にインターフォンがあるのに気づいた。スピーカーの下の赤いボタンをそっと押してみるが、中でチャイムやベルが鳴った気配はない。応答もなかった。
もしかしたら島の母屋に通じているのかもしれないと思いつき、さらに何度かボタンを押してみたのだが、しばらく待ってもやはり応答はない。故障しているのだろうか。それとも……。
ドアには鍵が掛かっているようだった。ノブは回るが、押しても引いても開かない。どこかに窓はないものかと反対側へ回り込んでみて、江南は思わず立ち|竦《すく》んだ。
建物が壊れている[#「建物が壊れている」に傍点]。
石積みの壁の一部が、ごっそりと崩れ落ちてしまっているのである。
これは――これも、先ほどの地震のせいなのか。その様子から察するに、何日も前に起こった崩落の跡ではないようだが。
「誰かいませんか」
そろりと足を踏み出した。
「誰か……」
|瓦礫《がれき》の隙間から中を覗き込んでみる。真っ暗で何も見えない。帰ってくる声も物音もない。
建物の裏側へとさらに回り込んで、そこに窓がいくつか並んでいるのを見つけた。だが、どれにも黒い鎧戸が閉まっており、内部を窺うことはできそうになかった。
江南は桟橋に向かった。
舟が|一艘《いっそう》ある。後部左舷に|櫓《ろ》の付いた手こぎの小舟が、桟橋の杭にロープで繋がれている。
島まで渡るためには、どうやらこれを使うしかないようだった。
桟橋はかなり老朽化が進んでいた。床板が何箇所も抜け落ちている上、歩くとひどい軋みを発して揺れる。危うく重心を崩しそうになるのをこらえ、江南は思いきって舟に飛び乗った。
子供の頃、祖父に連れられてどこやらへ遊びにいって、このタイプの舟に乗ったことがある。戯れに櫓を握らせてもらった記憶もある。上手く操るのは難しいだろうが、漕いで漕げないことはあるまい。
ロープをほどくのに少し手間取ったものの、漕ぎだしてみると意外な|速《すみ》やかさで舟は動き始めた。
……ああ。
夕暮れの湖に浮かぶ島影を見据えながら、江南はふと疑問に囚われる。
いったい僕は、何を。
疑問は不安となり、不安は恐れとなり、見る見る大きく膨れ上がってくる。全身が凍りついてしまいそうになる。
しかしながら、それは一瞬のことであった。
感情が、思考能力が、舟の加速とともにするすると外部へ流れ出し、赤く染まった湖の底へと吸い込まれていく。――ああ、いったいこれは何だろう。ここで何が起こっているのだろう。これは。ここにいるのは。ここにあるのは。ここで荒い呼吸をしているのは。ここで身体を動かしつづけているのは。この痛みは。この色は。この音は。この匂いは。この冷たさは。この心地好さは。
自分が自分ではないものの意思によって動かされている。そんな感覚がこの時に到って、江南の心の内に異様な甘美感をもたらしはじめてもいた。それはまた、百目木峠の蒼白い濃霧の中を|彷徨《ほうこう》した、あの時の感じにも似ていた。どんどんと希薄化していく現実感。ここはどこなのか。僕はいま何をしているのか。僕は何を見ているのか。僕は何を感じているのか。僕は誰なのか。僕は……「僕」とはいったい何なのか。
島の方の船着場は陸岸に接して平行に造られた横桟橋で、そこにはエンジンの着いたボートが一艘、繋がれていた。どうにかこうにかその後ろに舟を着けて、江南は桟橋に降り立つ。
揺れ動く不安定な足場から解放されると同時に、失われつつあった自律的な感情と思考が、何割かではあるが戻ってきた。
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船着場からは、高い石積みの塀に沿って緩やかな石段が設けられていた。この島全体の、云ってみれば玄関口≠ヨと続く|通路《アプローチ》である。
江南は石段を昇りはじめるが、さすがに息が上がっていて足取りは鈍い。途中で一度、塀に|凭《もた》れかかって休まねばならなかった。
昇りきったところに大きな二枚扉の門があった。石塀は丈夫で無骨なアーチを形作っている。湖岸の建物と同様、黒く塗られた門扉。その一枚に片手を突いて、乱れた呼吸を整えながら天を仰ぐ。
消えかけた炭火のような色が空には滲んでいる。飛び去っていく黒い鳥の影。思わぬ速さで形を変えながら流れる紫色の雲。……もうすぐそこまで夜が迫ってきている。
低い軋みとともに門扉がゆっくりと退きはじめ、江南はぎょっと身を竦ませる。が、内側から誰かが開けたわけではないとはすぐに分る。手にかかった体重に応えての、それは動きだったから。
身体の幅の分だけできた扉の隙間に、江南はそろりと滑り込む。中に入った途端、じーんという音が聞こえはじめる。耳鳴りが……いや、これは|叢《くさむら》で鳴く虫の声か。
広大な敷地であった。どのくらいの広さがあるのか、ここから見渡した限りでは見当がつかない。門からの小道は、大小高低さまざまな庭木の間を縫いながら奥へと続く。「|逢魔《おうま》が|刻《とき》」の名がこれ以上ないほどにふさわしく思える怪しい薄闇の中、その向こうに見え隠れする黒々とした建物の影は、翼を広げて大地に身を伏せた巨大|蝙蝠《こうもり》を想像させた。
小道を何歩か進んだところで立ち止まり、江南はジーンズの前ポケットから懐中時計を取り出す。顔の高さまで持ち上げて文字盤に目を寄せ、時刻を確認する。
午後六時七分。
もう日没の時刻になろうとしている。
まっすぐにこの小道を行けば、とにかく館の玄関には辿り着けるだろう。そう思って再び歩き出そうとしたところで、ふと――。
そちらではない。
そんな囁き声が、どこかでまた響いたような気がした。江南ははっと立ち止まる。
あちらへ……あの塔へ。
「あちら」とは? 「あの塔」とは?
改めて周囲を見渡してみて、分った。右方向に分れる枝道がこの少し先にあって、それが他の建物とは離れて建った例の塔へと続いているのだ。
あの上へ。
さあ、あの塔の上へ。
自分のものではない何かの意思が、またぞろ力を強めてこの身を操ろうとしている。それに抵抗するすべを、もはや江南は持ち得なかった。心の内に広がる甘美な|蜘蛛《くも》の糸。半透明な隔壁の向こうへと遠ざかる現在進行形……。
……懐中時計を右手に握り込みながら、江南はふらふらと歩きはじめる。
分岐を右に折れて進む。小道は低い木立の間を抜け、薄暮に溶け込むようにして建つその黒い塔の前に出る。
円形でも方形でもない、それは正多角形の塔である。等しい角度で接した等しい幅の壁が多数ある。周囲を歩いて調べてみるまでもなく、江南はその壁の面の数を直感する。――十枚。
十角形の塔[#「十角形の塔」に傍点]なのだ、これは。
正面に入口と思しき両開き扉が見える。扉もそのまわりの壁も、程なく世界を覆い尽くすであろう夜の闇と同じ色に塗り潰されている。
江南は入口の前に建つ。ためらうことなく扉に手を伸ばす。鈍い音を漏らして扉が開き、十角形の黒い塔は来訪者を招き入れる。
建物の中は外よりもさらに暗い。
湿っぽい闇に滲む物の輪郭を頼りに、江南は上階へと続く狭い|螺旋《らせん》改段を昇りはじめる。開かれた窓はなく、視界はいよいよ暗い。手すりを|手繰《たぐ》るようにして何周分かを昇りつづけ、やがて塔の最上階に到達する。そこは一階分ぶち抜きの広い部屋で、十面の壁のうち四面に窓がある。
わずかな明るさで射し込む外の光に導かれ、江南は窓の一つに歩を進める。開くと、そこにはささやかなバルコニーがある。今にもその色を失ってしまいそうな、赤墨色の空が見える。
川南はバルコニーに出る。左手にはハンカチを巻いたまま、右手には懐中時計を握り込んだまま。足を踏み出すと、床がかすかに軋む。腰よりも少し高いくらいの黒い柵で、三方が囲われている。
斜め右前方に目を馳せる。大規模な建築物が黒々と地に横たわっている。
大きさや意匠の異なる四つの棟から成る、あれが暗黒館の本体。[#ここから太字]……死≠ノ|抗《あらが》う妄念が生んだ館。救いなき肉体と|魂《たましい》が封印された十字架。[#ここで太字終わり]あれが、暗黒館の……。
……一番手前の棟の二階に、窓が一つ開け放たれた部屋がある。
黄色い明りが点っているのが見える。その窓辺にやおら、何ものかの姿が現れる。茶色い服を着た、あれは人だ。人がいる。男のようだ。窓から外を見ている。こちらに気づいているのかどうかは分らない。江南はバルコニーから身を乗り出す。――と、その時。
あらかじめ定められていたかのようなタイミングで、足許から不穏な地鳴りが響き上がってくる。身構えるいとまもなく、突き上げるような激しい重低音が世界を打ち震わせる。あちこちで大小の異様な軋み音を立てながら、しなるようにして塔が揺れはじめる。
江南はたまらずバランスを崩す。同時に強い眩暈が降りかかる。思わず額に当てた右手から、懐中時計が――針は六時半を指している――|零《こぼ》れ落ちる。足が縺れ、膝が砕ける。大きくつんのめり、バルコニーの外へと倒れ込む。柵の手すりを|掴《つか》[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、67-10]もうとするが、間に合わない。あえなく身体が宙に投げ出される。そして――。
墜落の放物線から視点≠ェ弾け飛んだ。
一瞬の閃光と永劫の闇の交錯。歪曲する天地。反転する波動。……重力に弾かれて加速する肉体とは裏腹に、螺旋状に|捻《ねじ》れながら|虚空《そら》に舞い上がる。
[#改ページ]
[#改丁]
第二部
[#改ページ]
[#改丁]
第三章 墜落の影
山深い森の中のその小さな湖は、上空から見下ろすと何やら動物の、それもヒトに近い種類のものの足跡に似た形をしている。五本の足指や|踵《かかと》に相当する部分がはっきりとそのように見て取れ、なるほど土地の者たちが「大猿の跡」の名で呼ぶというのも頷ける。
大きく小さく、激しく緩く、不規則でいびつな旋回運動をつづけながら視点≠ヘ、湖の踵≠たりに浮かんだその島へと降下する。光と闇の狭間の|時刻《とき》にあって、暗黒の館はいよいよ黒々と、かと云ってそれが本来的に所属する夜≠フ到来をべつだん喜ぶふうもなく、そこにある。
舞い降りた視点≠ヘ薄闇の中を滑走する。その館の二階の、ただ一つ開いた窓に向かって。
黄色い明りが点ったその室内には今、二人の男がいる。一人はほっそりとした体格の、二十歳前後の青年。もう一人はそれよりいくぶん上背があり、年齢もいくつか上と見える。
視点≠ヘ部屋の中に滑り込み、窓辺に立った前者の視点に重なる。
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九月二十三日――昼と夜がほぼ同じ長さに釣り合うその日の、それは夕暮れ時の出来事であった。「暗黒館」の異名を持つ浦登家の屋敷の一室にいて、このとき私はぼんやりと窓の外に目を馳せていた。
屋敷は湖の小島をまるごと敷地とし、|大雑把《おおざっぱ》に云って四つの棟から成り立っている。私がいたのはそのうちの〈東館〉と呼ばれる二階建ての木造洋館で、これは島の門から見て一番手前に位置する、云うなればこの家の正面の顔≠ナある。屋敷の表玄関に当たる入口も、当然のことながらここに設けられている。
浦登|玄児《げんじ》の話によると、四つの棟の中でもこの〈東館〉は、敷地の最も奥まった場所に建つ〈西館〉と並んで古いもので、何でも建造は明治期の後半にまで|遡《さかのぼ》るのだという。
単に古いだけでなく、聞いていたとおり、確かになかなか変わった|造作《ぞうさく》の建物でもある。
黒い屋根に黒い壁、黒い扉に黒い窓といった黒ずくめの外観は、目にした誰もがまず異様に感じるところだろう。加えて、全体の志向が明らかに西洋館風であるにもかかわらず、随所に妙な|塩梅《あんばい》で伝統的な日本建築の様式や技法が混ざり込んでいるという、そこにも私は少なからず興味を引かれた。文明開化の時代に各地で建てられた、いわゆる擬洋風建築≠フ流れとして捉えて良いものだろうか。
時刻はその時[#「その時」に傍点]、午後六時二十分を回ろうとしていた。私は浦登玄児と二人、〈東館〉二階の一室――玄児が「客用の居間」と呼んだ広い洋間である――にいた。
|磨《す》り|硝子《ガラス》の入った内側の上げ下げ戸と外側の黒い|鎧戸《よろいど》、両方を開け放った窓の外では、漂う闇の濃度が刻一刻と高まりつつあった。逢魔が刻の妖しく|昏《くら》い風景の中、鬱然と茂る庭木の黒い影の向こうに、さらに真っ黒な塔の影が見えた。
こちらの館からは離れて、その塔はぽつねんと建っている。さほど高い塔ではない。近くに行ってみたわけではないので確言はできないけれど、普通の住宅のせいぜい三、四階分の高さか。
塔の最上階には、ささやかなバルコニーが造られている様子だった。真っ黒な影の中の小さな出っ張りとして捉えられたその部分に、その時[#「その時」に傍点]ふと――。
何かしら白っぽいものが動くのを、私は認めたのである。
「おや」と思わず呟いた。
何だろう。誰かあそこに人がいるのだろうか。
ちょっとした不審を感じながら、私は室内を振り返った。
壁も床も天井も、基調はやはり黒でまとめられた部屋である。そのせいで、中央に敷かれた|絨毯《じゅうたん》のかわりくすんだ赤の色が、どきっとするほど鮮やかに目に映る。
革張りの安楽椅子に|泰然《たいぜん》と坐って、浦登玄児が煙草を吹かしている。黒い靴に黒いズボン、黒いシャツ、黒い薄手のカーディガン。この屋敷の佇まいに合わせたような、全身黒ずくめの出で立ちである。
振り返った私と視線が合うと、彼は組んでいた足をほどきながら訊いた。
「どうかしたか、|中也《ちゅうや》君」
相変わらず玄児は、|夭折《ようせつ》した叙情派詩人の名で私を呼ぶのだった。いい加減それはやめてくださいといくら云っても聞き入れてくれないものだから、最近では私の方もすっかり慣れてしまい、開き直りで黒いソフト帽を愛用していたりもする。
「ここからあっちの塔が見えるんですけど」
「ああ、〈十角塔〉だね。興味があるのなら、明日ちゃんと案内するよ」
「塔の上に今、誰かが」
「うん?」と小首を傾げ、玄児は吸いかけの煙草を指の間に挟んだまま立ち上がった。
「妙だな。あそこは確か……」
私は再び窓の外を見る。黒い塔の最上階部分に目を凝らす。そこには何かしら白っぽいものが……そう、やはりあれは人影だ。細かなところまでは見て取れないが、確かに今、誰かがあのバルコニーに立っていて……。
玄児がこちらに歩み寄ってくる。絨毯を踏む鈍い靴音が近づいている。すると、それを阻むようにして突然。
低い地鳴りのような響きが……と思うや否や、ずん! という重々しい音と衝撃。私は窓の枠に両手を掛け、とっさに腰を低く落とした。「またか?」と玄児が背後で声を上げた。――この日二度目の地震が、この時起こったのである。
二時間ばかり前、一度目の地震に見舞われた時と同じように、激しく噴煙を吐き出す火山の姿が私の脳裏をよぎった。
今年の六月、たくさんの死傷者を出したあの大噴火。現在もなお活発な活動を続けているあの火の山で、ひょっとしたらまた大規模な爆発が発生したのかもしれない。それでこの地震が……ああいや、そう考えてしまうのは短絡的すぎるだろうか。地理的に無理があるような気もする。――二時間前のあの時と全く同じ連想、そしてその否定。
最初の衝撃が縦の揺れで、あとはかなり強い横揺れが続いた。一度目よりも長い時間であったように思う。
窓の磨り硝子が、テーブルの上の湯呑みや急須が、飾り棚に並べられた小物が、騒々しく震え鳴いた。ぎりぎりという不穏な軋み音も聞こえた。私は玄児の方を振り向く余裕もなく、窓枠に掛けた手を突っ張るようにして身体をこわばらせつづけていたのだが、そこへ――。
何者かの悲鳴。
窓の外から、だった。かすかな、けれども何やらただごとではないとすぐに分る短い悲鳴が聞こえてきたのである。
腰を落とした体勢のまま、私は声のした方向へ視線を飛ばす。そして、はっきりと見た。黒い塔のバルコニーから地上に向けて、今まさに落下していくその白い人影を。
あっ、という小さな叫びが、これは私の口から洩れた。それに重なるようにして、暖炉の上の置時計が半鐘を打った。騒然とした場の状況にはおよそふさわしくない、|玲瓏《れいろう》たる音色で。――午後六時半。
鐘の余韻が消えるのに合わせて、やがて揺れも収まっていった。
「終わったか」
玄児が呟いた。我れ知らず深い溜息をつきながら、私はそろりと身を起こした。
「やれやれ、驚かされるね。さっきのよりも大きかったように思うが」
云いながらぐるりと室内を見まわし、半ば安堵の表現なのだろう、玄児はちょっと|戯《おど》けたふうに両腕を広げてみせる。痩せぎすの彼の身体にはたっぷりとしすぎている黒いカーディガン。前のボタンを留めずに着ていたその服の|身頃《みごろ》が、腕の動きに引っ張られて左右に大きく開き、何だか|蝙蝠《こうもり》の翼のように見えた。
「家はどうにか無事みたいだな。良かった」
天井から吊り下がった電灯が、ゆっくりとまだ動きつづけている。棚の小物がいくつか倒れていたり、壁の額縁が少し傾いていたりするが、この部屋に限って云えば被害はその程度だった。
「わざわざ君に来てもらったはいいが、肝心の建物が地震で倒壊なんてことになったら、まったく|洒落《しゃれ》にならな……おっと危ない」
と、玄児はその場に|屈《かが》み込む。見ると、火の点いた煙草が彼の足許に落ちており、絨毯を焦がしていた。地震に驚いて、吸っていたのを取り落としてしまったものらしかった。
「火事も洒落にならないな」
玄児は煙草を|摘《つま》み上げ、焼け焦げた絨毯を靴底で踏みつける。
「この屋敷は昔から火と相性がよろしくないらしくてね、かつて何度か火災に見舞われているんだ。〈北館〉なんかは全焼して、まるまる建て替えた。これは俺が子供の頃のことだったんだが」
「玄児さん」
と、そこでようやく私はまともに唇を動かすことができた。
「大変なんです。今あそこで……」
私が開いた窓の方へ目を流すと、玄児は不審そうに眉をひそめ、
「ああ。そう云えば、〈十角塔〉に人がいると」
「落ちたんです」
「何?」
「その人影が塔から落ちるのを、今さっきこの目で見たんです」
「本当か」
「悲鳴も聞こえたように。バルコニーに出ていたところへ地震が来て、それで」
「バランスを崩して転落してしまった?」
「――恐らく」
「見てくる」
云うが早いか、玄児は煙草を灰皿に捨てて部屋から飛び出していった。一瞬のためらいの後、私は慌ててそのあとを追いかける。
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玄関ホールに降りる幅広の折れ階段の踊り場で、瘠せた長身に喪服のような黒い洋装の女性と出会った。私が屋敷に着いた際に出迎えてくれた人物で、玄児は彼女のことを「|鶴子《つるこ》さん」と呼んでいた。浦登家に勤める使用人の一人だという。その後、先ほどの居間にお茶を持ってきてくれたのは別の使用人で、これは彼女とは対照的に背が低くてぽっちゃりとした三十がらみの女であった。
鶴子――苗字は|小田切《おだぎり》というらしい――は、見た感じ四十代後半、まだ中年と呼ばれるべき年齢だろうに、髪だけはまるで百歳の老婆のように真っ白だった。一見異様な印象を受けるが、引っ詰めて後ろで束ねたその白髪と冷たいほどに整った目鼻立ちとが、妙に品良く釣り合っているようにも思える。
私たちが階段を駆け下りてくるのを見て、鶴子はぎくりと立ち止まった。ただならぬ気配を察したのに違いない、「玄児様」と|訝《いぶか》しげな表情でこちらを見上げる。
玄児が何も応えずに脇を通り抜けようとすると、彼女はいよいよ訝しげに、
「いかがなさいましたか、玄児様」
「塔の鍵はどこに」
足を止め、玄児が訊いた。
「――は?」
「〈十角塔〉の鍵だよ。あそこの入口、ずっと鍵が掛かったままじゃなかったっけ」
「はい、確か……」
鶴子はちらりと私の方を見、それからまた玄児に目を戻して、
「塔がどうかいたしましたか」
「誰かが上に昇っていたらしい。さっきの地震でその誰かが転落したと。中也君が目撃した」
「それは」
「本当だとしたら大事だ。とにかく見てくるから、鶴子さんは……」
「わたしも一緒に参りましょう」
私たち三人は外に出た。
あたりはもう夜の暗さだった。外灯は玄関ポーチの柱にぽつりと一つ灯っているだけ、空は雲が多くて星明りも申し訳程度である。雑多な庭木の黒々とした影の間を、深い闇が埋め尽くしている。
「懐中電灯を持ってきたほうがよろしいのでは」
と、鶴子が云った。玄児は頷いて、
「頼む。俺たちは先に」
鶴子が家の中へ引き返すと同時に、
「中也君、こっちだ」
と私を招いて、玄児はポーチから飛び出した。
島の門に続く前庭の小道を、今にも闇に紛れて見失いそうになる黒い背中を追って走った。道を途中で左に折れる。進むほどに深まる闇の中を心許ない駆け足で抜け、やがて私たちはその塔の前に辿り着いた。
わずかな星明りを頼りに、黒く聳える〈十角塔〉を見上げる。建物の中から漏れ出る光はない。正面に入口らしき扉が見えるが、これはいま閉まっている。「ずっと鍵が掛かったままだった」というその扉のことが気になるのか、玄児はまずそこに駆け寄ろうとしたが、思い直したようにすぐ足を止めた。
「あっちか」
呟いて、向かって左手に進路を変える。〈東館〉に面した方向である。塔の外周に沿ってそちらへ回り込んでいく玄児のあとに、私も従った。
「どこだ。バルコニーの下と云えば、たぶんこの辺のはず……」
二人して周囲を見まわす。居間の窓から目撃したあの白っぽい人影を頭に再現しながら、私は自分たちを取巻く闇を目で探った。
がさっ、と物音がして、私たちは身構えた。地面の雑草を踏みしだくような音……何者かが歩く足音だと察せられるが。
「誰だ」
暗がりに向って玄児が声を投げた。
「そこにいるのか」
がさがさ、とまた音がした。
やはり足音だ。誰かがこちらに歩いてくるのだ。
ふいに視界が薄明るくなった。とっさに上空を振り仰いだ私の目に、風で流れ散った雲の間に滲む円い月が映った。熟れすぎて腐りかけた|檸檬《レモン》のようだな、と思った。今にも表皮がぺらりと|剥《む》け、崩れた果肉の中から真っ黒な虫が|蠢《うごめ》き出てきそうな。
「誰だ」
と、玄児が繰り返す。答える声はなく、草を踏む音だけが近づいてくる。間もなく――。
蒼白く降り注ぐ月光の下、塔のそばで大きく枝を広げた|楓《かえで》の木の陰から、ひょっこりと小さな人影が現れた。
「誰……なんだ、|慎太《しんた》か」
それは半袖シャツに半ズボン姿の、まだ|年端《としは》も行かぬ少年であった。
「どうした、こんなところで」
少年は動きを止めて私たちの方を窺い、坊主刈りの頭を少し斜めに倒す。表情は暗くて分らないが、何となく怯えているふうに見える。
「げんじ、さん」
発せられた少年の声は、何やら下手くそな草笛の音のように聞えた。
「あの……あのね」
「どうしたんだ」
半ズボンのポケットに右手を滑り込ませている。そのまま、そろそろと何歩かこちらへ歩み寄ってくると、
「あっち」
と云って左手を挙げた。いま自分が出てきた木の陰の方を指さしながら、
「ねてる、だれか」
「寝てる?」
「しらないひと。あっち……」
「誰かがそこにいるんだな」
語気を強め、玄児が進み出る。少年はびくと身を震わせて一歩退いた。悪戯を|咎《とが》められでもしたかのような反応であった。
「おい、慎太」
「――しらない」
弱々しく首を振ったかと思うと、くるりと私たちに背を向ける。
「あ、待て」
右手はやはりポケットに突っこんだまま、少年はその場から駆け去った。私たちがやってきたのとは反対方向――屋敷の裏庭の方だろうか――へと。
「誰ですか、今の子は」
私は玄児に訊いた。
「しのぶさんの子供だよ」
「しのぶ?」
「居間にお茶を持ってきた使用人がいただろう。|羽取《はとり》しのぶっていう。今のは彼女の息子で、慎太って名前なんだがね」
言葉を切って、玄児は人差指で自分の|蟀谷《こめかみ》あたりを小突いた。
「ちょっと知恵が遅れてる」
「その子が、何で」
「はて……いや、それよりまずあっちだ」
と、玄児は今さっき慎太少年が指さした楓の木を見やる。私は頷き、玄児とともに足を踏み出した。誰かが寝ている、と少年は云った。その言葉と先ほど塔から墜落した人影、二つは否応なく結びつく。
紅葉前の葉を豊かに茂らせたその木の下をくぐり抜けたあたりで、そして私たちは発見することとなった。地面に倒れ伏した墜落者の姿を。
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|鳩尾《みぞおち》くらいの高さの|躑躅《つつじ》の植え込みが造られた、その手前――。
生い茂った下草に埋もれるようにして|俯《うつぶ》した身体が、月光を浴びて|仄白《ほのじろ》く浮かび上がっていた。全体の服装や背格好、髪の長さからして、女性とは思えない。男、それもまだ若い。
私たちが駆け寄っても、その身体は微動だにしない。すでに事切れているのか。あるいは……。
玄児が傍らに片膝を突き、頭部に顔を寄せた。
「――息がある」
「助かるんですか」
「何とも云えないが……ああよし、脈もしっかりしてるぞ。気を失っているだけか」
「誰なんですか、この人は」
私の質問には答えず、玄児は屈めていた状態を起こして前後左右を見、さらには頭上へと視線を巡らせながら「ははあ」と独りごちた。
「なるほどな。恐らく……」
「玄児様」と彼の名を呼ぶ声が、そのとき楓の木の向こうから聞こえてきた。懐中電灯を取りにいった鶴子がそこまでやってきた模様である。
「こっちだよ、鶴子さん」
立ち上がり、玄児が声を投げ返した。
「ここだ。早く来てくれ」
一筋の鋭い光線が、間もなく闇を切り開いた。
「玄児様」
「明りを、早く」
鶴子は二本の懐中電灯を用意してきていた。玄児にそのうちの一本を手渡すと、自分の持った一本の光で、倒れ伏した男の身体を照らす。
「この方が、塔の上から?」
「そのようだね。まだ生きてる――と云うか、どうも大した怪我はしていないように見えるんだが」
懐中電灯を点けながら、玄児は再び地面に片膝を突く。
「鶴子さん、手伝ってくれ。とにかく仰向けに」
「はい。――中也様。これをお預かりください」
鶴子は私に懐中電灯を差し出した。それから玄児と二人して、俯せの身体を静かに仰向ける。必要以上にうろたえた|気色《けしき》のない、てきぱきとした動きであった。
受け取った懐中電灯の光を私は、仰向けにされた墜落者の顔に落とした。それはやはり、若い男の顔だった。玄児と同じくらいの年頃、二十代半ばの青年である。
瞼は閉じられている。頬や鼻の頭が泥や何かで汚れているが、病的な表情の歪みは見られない。汚れには血も混じっているようだが、とりたてて大きな外傷はない様子だった。
「おい、君」
軽く肩を叩きながら、玄児が呼びかけた。
「聞こえるか、おい」
細く血の垂れた唇の端が、震えるように小さく動いた。かすかな呻き声も聞こえた。
「よし」と頷いて、玄児は青年の顔に懐中電灯を近づける。瞳孔の反応を確かめるためだろう。臨床経験はなきに等しくても、このあたりの手順は医学部を出ているだけあって、さすがに要を得ている。
そんな彼を見ていると、おのずと私の想像は、五ヶ月前のあの日[#「五ヶ月前のあの日」に傍点]の出来事へと向かう。
五ヶ月前、私は大学に入学して東京に出てきたばかりの十八歳だった。あの日、正午を過ぎた頃から降り出した小雨は妙に冷たく、満開を過ぎて緑が混じりはじめた桜は気を|殺《そ》がれたように濡れそぼっていた。何だかもうとても遠い過去のように思えてしまう、あの春の日の夜……ああ、私もこのようにして、玄児の手で介抱されたわけなのか。あの日のあの時、あの場所で私は……。
想像はしかし、やはり追想には転じない。いくら思い出そうとしても、記憶のその部分[#「記憶のその部分」に傍点]にはもどかしい空白があるばかりだった。
玄児が青年の状態を調べている間に、鶴子は速やかにシャツのボタンを外し、ズボンのベルトを緩めた。ゆえあってだろうか、彼女もまたこういった処置には不慣れではないと見える。
「ここじゃあどうしようもないな」
やがて玄児が云った。
「骨折もないようだ。動かしても大丈夫だろう。とにかく家の中へ運ぼう」
すかさず鶴子が「はい」と応える。玄児は私の顔を見上げ、
「中也君、足の方を持ってくれ」
と指示した。
「鶴子さんは先に戻って、そうだな、〈表の座敷〉に布団を。それから急いで|野口《のぐち》先生を」
「あ、はい。すぐに」
鶴子が駆け去ると、玄児は青年の脇の下に後ろから両手を差し入れ、上半身を抱え上げた。私は懐中電灯をズボンのベルトに挟み、投げ出された両足に手を伸ばした。
青年が着た砂色のジャケットは、顔と同様にあちこちひどく汚れている。ズボンも同じような有様だった。玄児と呼吸を合わせて身体を持ち上げ、ゆっくりと移動しはじめたところで私は、青年の左手にハンカチが巻きつけられていることに気がついた。塔からの墜落以前にすでに負傷していたらしく、その白い布地には赤黒く血が滲んでいる。
「ねえ、玄児さん」
青年を運んで〈東館〉の玄関へと引き返す途中、私はどうしても気になって尋ねた。
「この人は、どういう」
「こっちが教えて欲しいくらいさ」
歩みを進めつつ、玄児は|憮然《ぶぜん》と答えた。
「知らない顔だよ。少なくともこの家には、こんな男は住んじゃいない」
「じゃあ、外から入ってきた?」
「だろうね。しかしまあ、幸運な奴ではあるな」
玄児は塔の方をちらと振り返り、
「さっき云いかけたことだが、状況がすべてうまい具合に働いたんだろう」
「と云いますと」
「普通あのバルコニーから落ちて無事ではいられまい。七、八メートルは高さがある。即死していてもぜんぜん不思議じゃない」
「――確かに」
青年が倒れていた現場の様子を頭に浮かべつつ、私は思いつくままに云った。
「あの楓の木がクッションになって……」
「恐らくね。あの木の高さが三、四メートル。塔の下まで広がった枝の上で一度バウンドして、そのあとさらに、あそこの躑躅の植え込みに落ちたんだと思う。そこでもう一度バウンドしてから地面に。地面は雑草に覆われている上、昨日までの長雨で柔らかくなっていたから」
「なるほど」
「とにかくまあ、幸運な奴さ」
気を失ったままでいる青年の顔に目を落とし、玄児は仏頂面で首を傾げてみせる。
「しかしさて、いったいどこの何者なんだか」
その問いかけに呼応して、おもむろに蘇ってくる言葉がある。
――私は[#「私は」に傍点]?
ああ……これは。
――私はいったい何者なのか。
五ヶ月前の春の日の、これは私の問いかけ。私自身による私自身への。
――どうして私はここ[#「ここ」に傍点]にいて、この人[#「この人」に傍点]と話しているのだろう。
「……どうしてこの島にいて、あの塔に昇っていたのか。早いところ正気に戻って、説明してくれればすっきりするんだがな」
月がまた雲に呑み込まれ、先刻にも増して深い闇が夜に降る。私たちはそれ以上語り合うことなく、暗い小道を屋敷へと急いだ。
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私が玄児とともにこの浦登家の屋敷に辿り着いたのは――正確を期すなら「屋敷が建つこの島に上陸したのは」だが――、そろそろ午後四時になろうかという頃のことだった。
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これより浦登家私有地
無断で立入るべからず
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そんな立札と出遭ったのが、それよりもさらに三十分ばかり前だったと思う。
私有地内に入っても道は同じような調子で続き、しばらく行ってやっと、この小島が浮かぶ湖のほとりに出た。湖面は深い緑色を湛えていた。森を切り拓いて造られたちょっとした広場が湖畔にはあり、駐車用に使われていた。乗ってきた車をそこに置くと、私たちは湖畔の桟橋に降りた。
島まで渡るのにはエンジンの付いた小型ボートに乗ったのだが、この舟を動かしてくれたのは、|蛭山《ひるやま》|丈男《たけお》という名の使用人だった。蛭山は病的に折れ曲がった背中に大きな|瘤《こぶ》がある、つまりは|傴僂《せむし》の五十男で、私たちが到着するや否や、桟橋のそばにある小さな石造りの建物からひょこひょこと出てきた。その建物に住み込んで、玄関番兼ボート運転手とでもいった役割を担っているらしい。
館が建つ小島はその全体が、城壁のような高い石積みの塀で取り囲まれている。舟に揺られていた時間は、ものの十分足らずだったろうか。
島側の桟橋に着くと、私たちは塀に沿って伸びる長い石段を昇り、大きな黒い門をくぐった。そこからさらに、雑多な木々の間を縫う前庭の小道を抜けたところで、ようやく――。
それまで塀や庭木に遮られて断片的にしか捉えられなかったこの館の姿を、私は目の当たりにすることができたのだった。
低い灰色の空を背景に、最初それは影のように見えた。
影とは文字どおりの影≠フ意である。それそのものは、そこにはない。どこか別の座標点に存在するその実体が光を阻むことによってそこに落とされた、巨大な影。あるいは――。
人里離れた山奥の奔放な自然の|直中《ただなか》にあって、まるでその黒い館だけが、まわりの風景の中に溶け込むことを拒んでいるかのような。そんなふうにも見えた。かたくなな拒絶。かたくなな否定。かたくなな……いや、あるいは――。
それはひどく貪欲な存在にも見えた。
この地上の光という光、色という色をすべて吸収し尽くしてしまおうとでもいった底なしの欲望、その結果としての|混沌《こんとん》の黒=B|挙句《あげく》の果てには、そうしてそこに出来上がった|途轍《とてつ》もない深さと重さの暗黒に向かって、この世界全体が沈み込んでしまうのではないか。もしくはそこを中心として、この世界が裏返しになってしまうのかもしれない。外側にあったものが内側へ、内側にあったものが外側へ。いや、それともあるいは……。
「感想は? 中也君」
玄児の声で、私はそんな白昼夢めいた物思いから引き戻されたのだった。ちょっと慌てて頭を振り、細かく瞬きをし、改めて眼前の館を見上げた。
もちろんそれは影≠ネどではなく、確かな実体としてそこにあった。黒い壁、黒い窓、黒い屋根、黒い煙突、黒い……。
「なるほど変わった家ですね」
私は何気ないふうを装って答えた。
「特にそう、あの壁が」
「壁? ――ふん」
「板でも石でもない」
私はその黒い壁面に目を凝らし、
「瓦ですか、素材は」
真っ黒な四角い平瓦が、ぎっしりと張り並べられている。菱状に交叉する目地通りの|漆喰《しっくい》も、瓦と同じく|艶《つや》のない黒色。硬い|鱗《うろこ》に覆われた爬虫類の皮膚を思わせるような、それは異様な外観であった。
「工法的には|海鼠《なまこ》壁と同じなのかな」
「ナマコ?」
「土蔵の壁なんかに使われているの、見たことがありませんか。平たい瓦を張りつけて、継ぎ目の漆喰をこう、|蒲鉾《かまぼこ》みたいに白く盛り上げた」
「ああうん、あれか。しかしこれは……」
「見た感じはまるで違いますね。漆喰が黒いのとあんなに盛り上がっていないのとで、まるで海鼠っぽくない。――こんな壁を見るのは初めてです」
「はるばる来てもらった甲斐があったかな」
と云って、玄児は|微笑《ほほえ》んでみせた。私は黙って頷きを返してから、
「他にも棟があるんですよね」
「ああ。この建物が〈東館〉。家の者は単に〈表〉と呼んだりもしているが、大雑把に云うと全体の四分の一に当たる。四つの棟が東西南北から中庭を取り囲んでいる格好でね」
「どれも同じような?」
「壁がこんなふうなのは、この〈東館〉と奥の〈西館〉だけだよ。他はそれぞれ作りが違っている。何から何まで真っ黒なのは同じだがね。――ほら、あっちにちらっと見えてるだろう」
と、玄児は〈東館〉の右手奥の方を指さし、
「あれが〈北館〉。石造りの、こっちに比べたらいかにも真っ当な洋館だ」
「内装も全部黒いんですか」
「基本的にはね。他に使われている色と云ったら、赤くらいかな」
「黒に赤……」
「血の赤さ」
|尖《とが》った|顎《あご》を撫でながら、玄児は意味ありげに薄い唇の端を曲げた。
「どの建物も、広さのわりには窓が少なくてね、しかもたいがい鎧戸や雨戸が閉まっている。昼間でも中は暗い。まさに暗黒館だな」
「変わった屋敷なんですね、本当に」
「だろう。もっとも、ここで生まれ育った俺にとっては、これが当たり前だったんだがね。この家がそんなに変わった|代物《しろもの》だと理解したのは、それなりに年を喰ってからだった」
玄児は|饒舌《じょうぜつ》に語ったが、その顔には疲労の色が隠せない。もともと白い肌が、血の気を失っていっそう蒼白く見える。熊本市内からここまで、ずっと一人で車を運転しつづけてきたのだから、疲れているのも当然だった。
「それにしても、こんな辺鄙な場所にこんな家を建てるなんて」
「常軌を逸してる?」
「普通そう思うでしょう」
「初代当主の浦登|玄遙《げんよう》は――俺の曾祖父だが――、|曾孫《ひまご》の俺が云うのも何だけれど、若い頃からえらく商才に|長《た》けていたらしくて、三十代にしてもう半端じゃない財産を築き上げていたという。同時に彼は相当以上の変わり者でね、あるとき突然この島を周囲の森ごと買い取ったり、こんなたいそうな屋敷を造らせたりしたかと思うと、早々に半ば隠居を決め込んでしまった。手広くやっていた事業の現場はたいがい部下に任せて。それでもまあ、絶対的な権力は変わらず彼が保持しつづけていたんだが……」
玄児の説明に耳を傾けながらも、私の目は屋敷に向けられたままだった。最初にその全体像から受けた衝撃はすでに薄れ、替わって興味は、もっと具体的な建物の造作へと移っていた。
「キメラ、ですね」
と、やがて私は云った。
「何だ。海鼠の次はギリシャ神話の怪物か」
「それはキマイラでしょう」
「そこから来た言葉だろう、キメラつていうのは」
頭部は獅子、尻尾は大蛇、胴体は山羊の形をしていて、口から激しい火炎を吐く怪物。それが、ホメロスの『イーリアス』に登場するキマイラである。これを語源として生まれたのがキメラなる生物学の術語で、二つ以上の遺伝的に異なった細胞から成る個体を指して使われるという。
「建てられたのは確か、明治の後半だと云ってましたよね」
「〈東館〉と〈西館〉はそのはずだが」
「文明開化の時代、日本各地で『擬洋風』と呼ばれる建物が造られたんです。大工の|棟梁《とうりょう》たちが、見よう見まねで西洋風の家を建てようとしたものなんですけど、当然のことながら、洋風と和風が妙な具合に入り雑じったものになってしまったわけで」
「なるほど。そういう意味でキメラか」
「擬洋風建築っていうのは、一種の蔑称として用いられた言葉だったそうですが。日本の大工たちが苦心してでっち上げた、半端な西洋館。その後に出てきた『和洋折衷』というのも、ある種の劣等コンプレックスを秘めた言葉でしょう。でも私は、少なくとも初期の擬洋館は嫌いじゃない」
「この建物もそれだって云うんだな」
「時代的にちょっとずれているかもしれませんが、こうして見た限りでは……」
私は腕組みをして目を細めた。
「海鼠壁の洋館というのは、いくつか現存してるんですよ。|慶応《けいおう》大学の|三田《みた》演説館とか、新潟の税関庁舎とか。とうに焼けてしまいましたけれど、|築地《つきじ》ホテル館もそうでした。日本で最初に建てられたホテルです。でもそれは、東日本独自のものだと聞いていたのですが……まあ、これは普通の海鼠じゃないし」
「詳しいね。さすが建築科だ」
「まだ一年生ですよ。趣味のレヴェルです」
海鼠壁という伝統的な日本建築の技法を、そのままではないにせよ用いつつ、建物全体はあくまでも西洋館をめざして造られている。手前に張り出して地面から数段高くなった玄関ポーチと云い、その奥の大きな二枚扉と云い、鎧戸の閉まった縦長の窓の並びと云い、屋根に幾本か突き出た方形の煙突と云い……。ところが一方で、たとえば玄関部分の屋根が瓦葺きの|入母屋《いりもや》であったり、向かって左側――すなわち南方向――に連なる平屋部分に並んだ窓が|無双窓《むそうまど》であったりもするのである。
ただ、これまで私が写真で、あるいは現地を訪れて見たことのある擬洋風の建築物とこの館との間には、質的に何かしら大きな隔たりがあるようにも思えた。開花の時代に建てられたそれらの建物というのは、概して妙に明るい雰囲気を持っている。これから日本は世界へ進出していくのだ、この国のこの街が世界の中心になっていくのだ、とでもいった揚々たる意思の表れとしての陽気さ、能天気さ。それに引き替え――。
目の前に建つこの館はどうだろう。
そのような雰囲気など、それこそ|微塵《みじん》もない。ひたすらに黒く暗く、内側に向かって閉じている。そんな印象を強く受けずにはいられない。
これは――この|擬洋館《きめら》はいったい、いかなる意図をもってここに造られたのだろうか。
黒海鼠の壁面を、先刻感じたようにある種の生物の皮膚に見立てるとするならば、ここから見る建物のファサードはそれ全体が、何かしらこの世には存在しない|合成獣《きまいら》の顔のようにも……。
「中に入ろうか」
と、玄児が私を|促《うなが》した。
「長い道中で君も疲れただろう。建物は明日ゆっくり見てまわればいい」
「――そうですね」
足許に下ろしていた鞄を持ち上げ、私は玄児に従って玄関ポーチへと向かった。すると玄児は、途中でふいとこちらを振り返り、
「相変わらず中也君、君は自分のことを『私』と云うんだねえ」
「ええ、まあ」
「前から言ってるが、十九歳の学生が『私』はないんじゃないか。他にもっとふさわしい一人称があるだろうに」
「前にも云ったでしょう。高校時代からそうなんですよ」
私はわざと|鹿爪《しかつめ》らしい表情を作って答えた。
「『僕』とか『俺』とかいうのはどうもしっくりしなくって。『私』が一番落ち着くんです」
「実際よりも分別臭く見えてしまうが」
「それを狙っているのかもしれませんね」
私は先ほどの玄児と同じように、唇の端をちょっと曲げてみせた。
「必要以上に子供扱いされたり、『若い』の一言で|括《くく》られたりするのが、ずっと嫌でたまらなかったんです。だから……」
「ふうん。そんなものなのかな」
「『僕』と言ってほしいですか」
「別に。君の勝手さ、もちろん」
そう云って玄児が軽く肩を竦めてみせた、その時だった。この日一度目の地震が起こったのは。
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〈十角塔〉から墜落した正体不明の青年の身体を抱えて、玄児と私は〈東館〉に戻った。
玄関の黒い二枚扉を抜けると、手前半分ほどが二階分吹き抜けになった広いホールに出る。正面に階段の登り口があって、これは踊り場で直角に右折して上階へと続く。先ほど私たちが駆け下りてきて、鶴子と出会った階段である。
初めてこの屋敷を訪れてこの玄関ホールに足を踏み入れた者は、たいていまず、その床面の模様に目を引かれることだろう。外の壁面と同じような黒い瓦がここにも使われているからだ。碁盤状に敷きつめられた平らな方形の瓦。継ぎ目を埋めた漆喰もやはり黒い。あまつさえ壁は黒塗りの腰板に黒漆喰、天井もまた黒塗りである。件の|合成獣《きまいら》の胎内に呑み込まれてしまったかと思わせるような、それはなかなかに異様な空間だった。
入って右側の壁沿いには、幅二メートルばかりの板張りの床が奥まで通っていて、これは瓦敷きの部分よりも一段高くなっている。瓦敷きの床は日本家屋の土間に相当するのかとも了解できそうだが、板張り部分へ上がるのに履物を脱がねばならないというわけでもないらしかった。
私たちはホールの奥へと進む。
突き当たり手前の左側に両開きの扉があり、開け放たれていた。幅の広い瓦敷きの廊下がまっすぐに延びている。方角を考えると、これは恐らく〈東館〉の南端まで続いているのだろうと察せられる。玄児が鶴子に云った〈表の座敷〉は、この廊下に入ってすぐのところにあった。
和洋の造作が入り雑じった建物であることはすでに重々承知しているつもりだったのだけれど、この座敷には少々意表を|衝《つ》かれた。風変わりではあるがとにもかくにも西洋風の体裁を保ったホールから一歩出た、そこにいきなり、そのような純和風の空間が待ち受けていたものだから。
長い廊下と併走するようにして設けられた、三尺幅の上がり口。ずらりと並んだ黒い板戸のうちの、手前の二枚が左右に開いており、その向こうに薄暗い畳敷きの部屋が覗いていた。
上がり口にいったん青年の身体を下ろし、履物を脱がせた。どろどろになった灰色のズック。二十畳ほどもある座敷の広さに比べて、天井から吊り下がった電灯の光はあまりにも弱々しい。中央にはすでに一組の布団が敷いてあったが、鶴子の姿は見えなかった。「野口先生」を呼びにいっているわけか。
私たちは青年を布団に寝かせた。
「おい、君」
玄児が青年の耳許に口を寄せる。
「しっかりしろ。分るか」
低い呻きが洩れる。反応はそれだけだった。
「大丈夫なんでしょうか」
私が問いかけると、玄児は唇をへ[#「へ」に傍点]の字に曲げて小さく首を振り、
「呼吸にも脈拍にも大きな乱れはないから、そうそう大事には至らないと思うんだが。問題は、どのくらい頭部に衝撃を受けたかだな」
「野口先生というのは?」
「うちの主治医さ。二週間に一度くらいの割合で熊本市内から出向いてきて、たいがい二泊か三泊していくんだ。父の昔なじみでもあってね。今回は昨夜から来ているはずで……」
湖畔の駐車場に幾台も並んでいた車の一つは、その野口医師のものだということか。
「病院に運ばなくても?」
「とにかく先生に|診《み》てもらってからだな。今から救急車を呼んでも、何しろこの山奥だ。来てくれるのはいつになるやら」
枕許に濡れたタオルが用意してあった。玄児はそれを取り上げ、青年の顔をそっと拭きはじめる。
泥や血の汚れが落ちてみると、目を閉じたその表情は存外に安らかで、加えて色白の、たいそうおとなしそうな面立ちをしていることが分った。年の頃はやはり二十五、六といったところだろう。
「まつたく何者なんだか」
青年の顔を見下ろしながら、玄児は呟いた。
「何か身元を示すようなものは……上着を脱がせたほうがいいな。手を貸してくれ、中也君」
青年が着ている砂色のジャケットを、二人がかりで脱がせる。玄児はすぐにそのポケットを探りはじめたが、程なくかぶりを振って、
「何もないな」
「財布の一つも入ってないんですか」
「――ない。妙だね」
続いて玄児は青年のシャツやズボンのポケットも調べてみたのだが、出てきたのは開封済みの煙草が一箱くらいのものだった。身元を知る手がかりにはなりそうもない。
「煙草の残りは五、六本か。マッチもライターも持っていない。妙だね、これも」
玄児の傍らで、私は落ち着きのない視線を周囲に巡らせる。青年のことはむろん気懸かりだが、同時にそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、この部屋の様子が気になって仕方ないのだった。
家具は何も置かれていない。ひたすらにがらんとした薄暗い座敷である。
足許の畳はだいぶ古くなっていて、何やら嫌な弾力があった。廊下側は黒塗りの板戸。それと向かい合った側は普通の|障子戸《しょうじど》だが、これも長らく張り替えられていないと見え、何箇所かが破れたままになっている。
「今はもうほとんど使っていない部屋でね」
私の心中を見透かしたように、玄児が云った。
「あっちが中庭ですか」
と、私は障子戸の方を指さす。玄児は頷いて、
「縁側になっている。外の雨戸はずっと閉めっ放しだが」
立派な付け書院が部屋の隅に設けられている。これと接して、|床柱《とこばしら》に|黒檀《こくたん》を使った床の間が、さらにそれと隣り合って、床脇の棚に見立てた暖炉が作りつけられていた。「洋館であること」を意識したこのあたりの細やかな工夫は、何だか微笑ましくもある。
床の間とは反対側――南側の一面には、|襖戸《ふすまど》が並んでいる。くすんだ|弁柄色《ベンガラいろ》の襖。屋敷の前に立った時の玄児との会話が、
――黒に赤……。
――血の色さ。
おのずと思い出される。
その襖の一枚が、半分ほど開いたままになっているのに気がついた。私は畳に両手を突き、首を伸ばしてそろりと向こうを覗き込んでみた。
ひんやりとした奥行きをもって、そこには続き間の暗い空間があった。いったいどれだけの広さがあるのか、こちらからの光ではとても見通すことができない。
「四間続きになってる」
と、玄児が教えてくれた。
「南半分の平屋部分がまるまるこの屋敷なんだよ。全部ぶち抜けば運動会ができる」
「ははあ」
私の実家も地元では結構な資産家で通っていて、家には親族一同が集まるために大きな座敷があるけれども、ここまでたいそうな広さはない。初代当主浦登玄遙が築き上げたという「半端じゃない財産」や、保持していたという「絶対的な権力」がどれほどのものだったのか、この座敷の規模だけを見ても容易に想像がついた。
鶴子が廊下を駆けてきたのは、玄児が立ち上がって半開きの襖を閉めた、その直後のことである。私たちの姿を認めると、彼女は上がり口の手前で足を止め、少々息の上がった声で、
「先生をお呼びいたしました」
と告げた。
重そうな濃紺の鞄を提げた男が、そうして現われた。ネクタイを緩めたワイシャツに灰色の背広、その上に皺くちゃの白衣を引っかけている。これが野口医師か。
百八十センチほども上背がある。「恰幅が良い」と云うよりも「巨漢」の一語で現わすのがふさわしい。ビヤ樽のようなその体型には、白衣よりも浴衣の方がよほど似合いそうだとも思えた。
赤ら顔に|鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡。額から頭頂部にかけての禿げ上がり具合や、白いものが混じって|鼠色《ねずみいろ》に見える|髭《ひげ》などから推すと、年齢は五十代半ばくらいだろうか。
「その若者ですかな、患者は」
声は円みのあるバリトンだった。
のそのそと座敷に上がり込んでくると、野口医師は玄児の隣にでんと腰を下ろした。立ち上がって布団の側から離れた私の鼻にまで、かすかにではあるが酒の匂いが漂ってきた。
仰向けに寝かされた青年の顔に視線を下ろし、医師は「ふうむ」と低く唸る。肉付きの良い|顎《あご》を覆った鼠色の髭を撫でながら、しばし小首を傾げていたが、やがて玄児の方を見やり、
「塔から墜落したと聞きましたが」
「落ち方[#「落ち方」に傍点]が良かったようなんです。いったん木の枝に受け止められて、そのあとで地面に」
「ほう」
「ざっと診たところ、骨折や大きな外傷はないみたいです。呼吸も脈拍も確かなんですが、意識ははっきりしないようで。墜落のショックのためだと思うんですが」
「頭を打った様子は?」
「大きな瘤が後頭部の上の方に一つ。あと、左手にハンカチが巻かれています。墜落より前に負った怪我があるようで」
「とにかく診てみましょう」
医師は鞄を手許に引き寄せ、再びまじまじと青年の顔を見下ろした。顎鬚を撫でながら小首を傾げ、「ふうむ」とまた唸る。
「誰なのか、先生はご存じですか」
玄児が聞くと、医師はちょっと心許なげに「いやいや」と否定の意を示した。
「鶴子さんは?」
と玄児は、座敷に入ったところに立ったままでいた鶴子に質問を振る。
「知った顔かい」
「いえ。わたしもまったく存じません」
彼女は素っ気なく答えた。
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青年の手当ては野口医師と鶴子に任せて、玄児と私は〈表の座敷〉をあとにした。
聞けば、鶴子にはかつて看護婦として病院に勤務していた経歴があるのだという。塔の下で青年を見つけた際の落ち着いた対処ぶりは、やはり「ゆえあって」のことだったわけか、と私は納得した。
「あの先生、少しお酒の匂いがしましけど」
声を潜めて私が云うと、玄児は切れ長の目に薄笑いを浮かべて、
「ここへ来るといつも飲んでる。ああなると半ばアル中みたいなものだろうから、完全に|素面《しらふ》だとかえって調子が出ないんじゃないかな」
「はあ……」
「大丈夫さ。あんなふうでも腕は確かだから。熊本の病院じゃあ、あの先生にぜひ診てもらいたいと云って訪れる患者も多いらしい」
「浦登家が経営に関係しているという、その系列の病院に所属されているわけですか」
「そうだよ。熊本は|鳳凰《ほうおう》病院。物々しい名前だろう。そこの院長でね、先生は」
鶴子が以前に勤めていたというのも、同じ系列の病院だったのかもしれない。そう私が考えたのは当然のことである。
玄児についてホールに出た。
座敷がある瓦敷きの廊下とは反対方向、すなわち建物の北側に向かって延びる廊下がある。例の一段高くなった板張りの床が、そのままこの廊下の床にも繋がっているのだが、そこを|割烹着《かっぽうぎ》姿の小柄な女性がせわしない足取りで駆けてきた。二階の居間にお茶を持ってきてくれたあの使用人――羽取しのぶだった。
「やあ、しのぶさん」
玄児が気安い調子で声をかける。しのぶはホールに入る手前で立ち止まると、私たちの顔を上目遣いに見てぽこりとお辞儀をした。
「さっきの地震は大丈夫だったかい」
と、玄児が尋ねた。
「――はい、それは」
何拍子か遅れた返答だった。
「建物がどこか壊れたりはしてなかった?」
「――はあ」
と、これも拍子遅れの返答である。
「わたしの見た限りでは、そのようなことは。物が倒れたとかいうくらいで」
「こんなに続けて地震があると、やっぱり気味が悪いね。近くに新しい火山でもできたりしてねえ」
「――まさか」
「冗談さ。でもまあ、そもそも九州は火の国だ、いつどこで噴火や地震があっても不思議じゃない。しのぶさんの田舎は、確か|阿蘇《あそ》の方だったっけ」
「――生まれたのは阿蘇町でしたけど」
「一度|中岳《なかだけ》の火口まで行ったことがあるが、あの山は凄いよねえ。本気で大噴火したら、きっと九州全域が火山灰で埋まっちまうんだろうな」
何と応えたものか、そのぶは|戸惑《とまど》っている様子だった。玄児はそれを無視して、「ところで――」と続けた。
「さっき外で慎太と会ったよ」
しのぶははっと目を上げる。この時はすかさず言葉が返ってきた。
「あの子が、何か悪さを」
「いやいや、そういうわけじゃない。塔から落ちた人間がいてね、それを最初に見つけたのが慎太だったみたいなんだ」
「暗くなったら外には出ないように云ってあるんですけど。――申し訳ありません」
「気にすることはないんだって。お手柄だぞと云っておいていいから」
半信半疑の面持ちで、しのぶは小さく頷く。
「あっちで今、野口先生と鶴子さんが怪我人の手当てをしてくれている。何か必要があるかもしれないから、行って手伝ってあげて」
「――あ、はい」
しのぶが座敷の方に去ると、玄児はつかつかとホールを横切り、板張りの床――当然のようにこれも黒く塗られている――に上がった。凝りをほぐすように幾度か首を回したあと、シャツの胸ポケットから煙草を取り出す。|二十歳《はたち》の頃から愛用しているというオイルライターで火を点ける。
喫煙はこの春から始めた私だが、あまり本数は吸わない。それでもこの時は無性に欲しくなり、玄児につられるようにして自分のシャツのポケットを探ったのだが、部屋に置いてきてしまったことにそこで気づいた。
「どうぞ」と云って、玄児がこちらに差し出した煙草の銘柄は「ピース」。ちょっと迷ってからそれを受け取って銜えると、玄児がライターの火を貸してくれた。初めて吸うその両切り煙草の煙は、私には少々刺激が強すぎて、一口吸った途端にひどく|噎《む》せてしまったのだけれど。
「さてと、中也君」
半分ほど煙草を灰にしたところで、玄児は玄関の扉の方へ目をやりながら云った。
「ちょっと付き合ってくれないかな」
「――どこへ」
訊き返すと、玄児はズボンのポケットから懐中電灯を引っ張り出しながら、
「もう一度〈十角塔〉へ」
と答えた。
「中を見ておきたいんだ」
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第四章 空白の時間
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私たちが再びその塔の前に立った時、時刻は午後八時半を回っていた。
夜気が頬に冷たい。一方でしかし、妙に湿っぽいような生暖いような風も感じられて、そのせいだろうか、何だかひどく行動を急かされているような気分になった。
上空はすっかり雲に覆い尽くされている。先刻のような月影はおろか、星明りの一つももはやない。
玄児が懐中電灯の光を塔に投げかけた。
幾段かの階段が地面から伸びた先に、入口の両開き扉が見える。この扉もその上方に張り出したささやかな|庇《ひさし》も、漆喰で塗り固められた周囲の壁も、すべてが夜闇に紛れ込んでしまいそうな黒一色――。
〈十角塔〉と呼ばれるからにはやはり、この建物は正十角形の平面を持っているのだろう。私は頭の中にその形を描いてみる。互いに等しい角度で接した等しい長さの十の辺。一つの内角の大きさは百四十四度という計算になる。洋館の塔屋などでわりに見られる六角形や八角形などよりも、当然ながらさらに円形に近い図形である。
入口上方の庇以外にはとりたてて大きな出っ張りもない、西洋風の木造塔だった。仏塔のような重層構造ではなく、黒漆喰の外壁がそのまままっすぐ屋根の下まで続いている。先ほど玄児はバルコニーの高さを七、八メートルと云っていたから、全高は十メートルそこそこといったところだろうか。
「この塔は、いつ」
私は玄児に訊いた。
「母屋と同じ時期に建てられたのですか。それとも……」
「あとだったと聞くね」
玄児は塔のほうを見たまま答えた。
「母屋の方があらかた完成して、人が住みはじめてだいぶ経ってから」
「この場所にこう、離れてぽつんと建っているというのは特に意味があるのでしょうか。敷地全体の鬼門角に当たるようにも思えるんですけど」
「さて――」
玄児はちょっと口ごもってから、
「方位だとか家相だとか、そういったこの国の伝統的なあれこれにはむしろ無頓着だったんじゃないかな、曾祖父の玄遙は。いったん関心を持った物事に対しては、尋常じゃないほどの執着を見せる人だったらしいが」
尋常じゃないほどの、執着。
「でしょうね。さもなきゃあ……」
「こんな屋敷を造ったりはしない?」
「――ええ」
「まったくそのとおりだ。ここに着いた時に君も云っていたが、そもそも何故、玄遙はわざわざこんな辺鄙な場所にこんな館を建てて引っ込んでしまったのか。何ともおかしな話だろ」
黙って頷きながら私は、今朝熊本市内の宿を発ってここへ辿り着くまでの長い道のりを思い返す。
屋敷が建造された当時の交通事情の悪さは現在の比ではなかったはずだから、資材や機材の運搬からして、さぞや大変だったことだろう。木材や石材については当然、この付近の山から切り出してきて利用したものも多かったに違いない。
「その辺のところはまあ、興味があるなら追い追い話すとしよう。あまり詳しく立ち入ったことになると、これは玄遙のみぞ知るという部分も多くてね。今から彼を問いただすのは無理な話だし、諦めてもらうしかないとして」
「十角形という形も珍しいですね。初めて見ます」
「どうしてこの塔が十角形なのか。そいつも結局は謎……ああいや、答え[#「答え」に傍点]があると云えばあるんだが」
「と云いますと」
「この塔も含めてだと思うんだが、初代玄遙が建てたこの屋敷にはね、モデルのようなものが存在したらしいのさ」
それは初耳だったし、少々意外な話でもあった。
「玄遙にはかつて、日本を離れて欧州を旅してまわった時期があった。彼が財を築いたあとのことだ。その際に最も長く滞在したのがイタリアだったそうなんだが、そこで」
「モデルとなる建物を?」
「と云いきってしまうのもどうかと思うんだが。あくまで『のようなもの』なのさ。そこで出遭った建築物をそっくり模してこの屋敷を建てたとか、そういうわけでもないようだから……」
玄児は先を云い澱み、少しく口を閉ざした。それまでずっと塔に向けていた視線を、やがてすっと私の方に流し、
「ジュリアン・ニコロディっていう名前を知っているかい」
と訊いた。私は不意を衝かれた気分で、「さあ」と首を傾げた。
「初めて聞く名前ですけど」
「かの国の建築家なんだが。十九世紀の後半から今世紀前半まで、長きにわたって仕事をした」
「――知りません。勉強不足ですね」
「いや、知らなくて普通だろう。決して世界的に名を|轟《とどろ》かせたような人物じゃないから」
「そのニコロディという建築家の?」
「ああ。要するに玄遙は、イタリア滞在中にニコロディが設計した建物をいくつか見て、いたく刺激を受けたらしくてね。それをそのまま手本にしたわけではないにせよ、かなりの程度念頭に置きつつ、この屋敷を造ったというんだな」
「どういう建物だったのでしょうか、ニコロディが設計したのは」
この私の質問に対しては、玄児はちょっと答えあぐねた。塔を照らしていた懐中電灯の光をみずからの足許に落とし、ゆっくりと円弧を描くように動かしながら、
「奇妙な家ばかりだったらしい」
思わせぶりにそう云った。
「まるで機能的じゃない、それどころかわざと使い勝手を悪くしたような家。あるいは設計者の正気を疑いたくさえなるような、しかし同時に、何かしら不思議な魅力を持った家でもあったとか」
「具体的には、どんな」
「それはね、言葉で説明してしまうと他愛もないような……いや、まあこの辺のことも追い追い分ってくるさ。時間はたっぷりある」
玄児は再び光を塔に投げかける。
「――で、要は玄遙が出遭ったニコロディの建物の中に、ひょっとしたら十角形の|何某《なにがし》かもあったのかもしれない、と。だからまあ、そういう意味で『答え[#「答え」に傍点]があると云えばある』なんて云い方をしたわけなんだがね」
ちらりと私に目配せをして、玄児は塔の入口へと足を進めた。私は慌ててそれに従う。地面から延びた階段を昇り、黒い扉の前に立つ。
「ずっと鍵が掛かったままだった、と鶴子さんに云ってましたね」
「うん。そのはずだったんだが」
玄児は扉のノブのあたりに光を向け、
「――ん? はあん。こういうことか」
「鍵は外れているんですね」
「――壊れてる[#「壊れてる」に傍点]」
私は玄児の肩越しに扉のその部分を覗き込み、「ああ」と声を漏らした。
古い南京錠が扉の金具にぶら下がっていた。これがこの入口の鍵らしいのだが、両扉の|縦框《たてがまち》に固定されているべき二つの金具のうちの片方が、取り付けの|螺子《ねじ》が抜けるかどうかして、そこから外れ落ちてしまっている。南京錠自体は施錠状態のままなのだけれど、錠の棒を通す金具がこの有様では当然、本来の用をまったくなしていない。
「壊されたんでしょうか」
私が訊くと、玄児は「いや」と首を振り、
「強引に引き抜かれたって感じじゃないな。もともと老朽化して取り付けが緩んでいたところへ、ちょっとした力が加わって抜けてしまったと、そう考えても良さそうに見えるが」
「前から壊れていたわけですか」
「さあ。この塔はとにかく、ずっと使われていなかった建物だから。壊れたのが一年前か一ヶ月前か、それとも今日だったのか、そのあたりは何とも云えないね」
金具にぶら下がった錠はそのままにしておいて、玄児はノブを握った。鈍い音を立てながら扉が押し開かれる。
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私たちは〈十角塔〉に入った。
ひんやりと湿気を含んだ濃厚な闇に、懐中電灯の光を巡らせる。
汚れた壁、|埃《ほこり》だらけの床、無造作に転がった板切れや棒切れの|類《たぐい》……。なるほど荒れ果てた様子であることは分るが、内部がどんな構造になっているのかを仔細に観察するには、手持ちの光源はいかにも頼りない。
足許――床の下からかすかに、地虫の鳴き声が聞こえていた。埃と|黴《かび》と古い木材の匂いが、|綯《な》い|交《ま》ぜになって鼻腔を刺激する。長らく人の出入りが途絶えた建物に独特の、この臭気。決して心地好いとは云えない。けれども何故かしら妙に懐かしい気がする、この……。
――どうしたの、そんなどろどろになって。
十年以上もの|時間《とき》を隔てた彼方の記憶から、ふと響き上がってくる声がある。
――何をして遊んでいたのです。
――兄のあなたが、そんな……。
「こっちだよ、中也君」
玄児の声が私を招いた。
右手斜め前方を照らしながら、彼はゆっくりと歩を進める。闇の狭間に、螺旋を描いて上階へと延びる階段の影が見えた。
玄児が階段の手すりを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、105-上-10]み、その強度を確かめるようにぐいと体重をかける。わずかな軋みが、地虫の鳴き声に混じって響いた。
「上がってみよう」
玄児が云った。
「足許に気をつけて。踏み板が腐っていないとも限らない」
二人が並んで通れる幅はなかった。玄児が先に幾段か昇るのを待ってから、私はそろりと一段目に足を上げる。古い木製の螺旋階段は思いのほかしつかりしていて、二人分の重量を難なく受け止めた。玄児が心配したような踏み板の傷みもなかった。
塔の最上階は三階だった。
昇り着くと玄児は、すぐ傍らの壁に懐中電灯の光を向け、「よしよし」と呟いた。
「ありがたい。|蝋燭《ろうそく》が残ってる」
見ると、壁のその部分には|燭台《しょくだい》らしきものが造り付けてあって、太い蝋燭が幾本か立ち並んでいる。この建物にはそもそも電気が引かれていない、ということか。
玄児がライターを点け、火を蝋燭に移した。炎の数が増えるにつれて、視界を狭めていた闇が徐々に薄らいでいく。そのおかげで私は、この最上階の様子をだいたい把握することができた。
正十角形の床面全体が、大きく云って二つに仕切られている。私たちが立つ階段付近の一角と、それ以外の部分。ただし、仕切り壁が全面、木造の格子になっているので、この場所にいても全体を見通せる。一階分をぶち抜きで使っている、と見なすこともできる。
「――これは」
私は玄児の方を窺った。
「何だかまるで……」
まるで牢獄のようだ、と感じたのだった。格子で隔てられた、向こう側が牢の中、こちら側が外。広さの割合は四対一といったところか。
「あっちには昔、畳が敷いてあったらしい」
蝋燭の明りで床に落ちた格子の影。そこに重なって、玄児の影が大きく揺れる。
「見てのとおり、今は何もない」
格子の一部分が片開きの扉になっていて、すでに開いていた。玄児はそれを抜けて「向こう側」へと歩を進める。埃で汚れた|掌《てのひら》をズボンで軽くはたき、私もあとに続いた。
十角形の中心に当たる場所まで進むと、薄暗い蝋燭の明りを懐中電灯で補いながら、ぐるりと視線を巡らせた。――確かに何もない部屋だ。家具や調度の類はもちろん、むかし敷かれていたという畳の一枚も残っていない。
「ねえ、玄児さん」
黒い格子の向こうで揺れる蝋燭の炎に目を細めつつ、私は傍らに立つ友人に問いかけた。
「この部屋は、いったい何のために」
「どう見える」
と、玄児は問い返した。
「さっき何か云いかけたろう」
「あ、それは」
「牢屋みたいだ、と?」
「――ええ」
何秒かの間があった。深く息を吸って吐く音が聞こえ、やがてその同じ口が、
「そのとおりさ」
と答えた。いやに神妙な調子だったので、私はいささか驚いて「えっ」と声を上げた。
「じゃあ……」
「人を閉じ込めておくための場所[#「閉じ込めておくための場所」に傍点]だったんだよ、ここは。塔の上の座敷牢、ってところだな。その格子の扉には、さぞや頑丈な錠前が付けられていたんだろう」
「――座敷牢」
大時代なその言葉の、声に出してみるといかにも怪しげなその響きに、肌がうっすらと粟立った。
「誰を、ここに」
訊いてみないわけにはいかなかった。玄児はすると、ゆるりと首を振って、
「秘密だ、それは。浦登家の秘密。知ると、生きては帰れない」
「――そんな」
「冗談だよ、もちろん」
そう云って玄児は低く笑ったが、はて、どこからが「冗談」なのだろう。どこまでが「冗談」なのだろうか。
「この塔が建てられた当時のことは、俺にしたって確かな話を聞いているわけじゃないんだ。ある秘密の目的[#「ある秘密の目的」に傍点]のために使われていたらしいというのも、まあ噂のレヴェルでしかないわけでね」
玄児は口調を改めて語った。
「しかしながら、少なくともその後のある時期、この部屋がいわゆる座敷牢として機能していた事実に関しては、これは俺が知っていて|然《しか》るべきことなんだな。ところが幸か不幸か、俺は憶えていない」
「憶えていない?」
私は玄児の顔を見直した。
「と云うと、それは例の」
「そう。例のあれ[#「例のあれ」に傍点]さ」
自嘲するように云って、玄児はわざとらしく肩を竦めてみせた。
「今ある俺の記憶の|埒外《らちがい》、とでも云うのかな。何とも|歯痒《はがゆ》い話でね。この感じは、君なら多少なりとも分ってくれるだろう」
――私は[#「私は」に傍点]?
私は無言で頷いた。
――私はいったい何者なのか。
これ以上の追求は、この場でするべきことではない。これは確かだと思えた。
「バルコニーは……ふん、あそこか」
玄児は身を|翻《ひるがえ》し、部屋の奥へと向かう。懐中電灯の光が、開けっ放しになっている窓を捉えた。
「この階には四つの窓がある。そのうち確か、バルコニーが付いているのはこの一つだけだ」
床から大人の背の高さまであるその窓は、両開きの鎧戸だった。が、内側に硝子戸があるわけではない。内側ではなく外側に、雨戸の役割をする板戸が造り付けられているのだということが、そこから出てみて分った。奇妙と云えば奇妙な作りである。
十角形の十辺のうちの一辺に相当する横幅を持った、ささやかなバルコニーだった。奥行きは一メートル半にも満たない。三方が、腰よりもやや高いくらいの黒い柵で囲われている。
「ほら」
と、玄児が腕を上げて指さした。
「あれが俺たちのいた部屋だ」
生温い風に髪が乱れるのを押さえながら、私は示された方向に目を馳せる。黒々と地に広がった巨大な館の影が見える。その一番手前の棟――〈東館〉の二階に、黄色く明りの点った窓があった。
思わず一歩、足を踏み出そうとした私を、
「気をつけろよ」
と、玄児が制した。
「まさかここでまた地震なんてことはあるまいが、いかんせん古い建物だしな。柵には触れない方がいい。落っこちても同じように助かるなんて保証はできないぜ」
そう云いながらも玄児自身は柵に近づいていき、そっと手すりを握って下を覗き込む。懐中電灯で地上を照らしながら、「ふん」と頷いた。
「この下だな。間違いない」
それから玄児は、柵から離れてバルコニーの床を調べはじめた。
「足跡があっても良さそうなものだが……ううん、いま一つはっきりしないな。塔の中には残っているのにね」
「足跡が? そうなんですか」
「おや、気がついていなかったのかい。まあ、この暗さだから仕方ないか」
|迂闊《うかつ》な話ではあった。長らく人の出入りがない、従ってもちろん清掃もされていない建物なのだ。床に積もった埃に、侵入者の足跡が残っていないわけがないのである。
「一階の入口付近から階段、そしてこの階の床にもね、ちゃんとそれと思しき足跡[#「それと思しき足跡」に傍点]があったよ。詳しく見ていくには明りが弱すぎるからね、これはまあ、明日にでもまた確かめればいい。――それよりもほら、中也君」
屈めていた身を起こして、玄児は私の側にやってきた。
「こんなものを見つけたよ」
そう云って、玄児は左手を差し上げる。私は自分の持ってた懐中電灯の光をその手に向けた。
「――時計?」
「だね。懐中時計だ。銀の鎖が付いている」
「ここに落ちていたのですか」
「柵の手前に」
「あの青年が落としたと」
「その可能性が高いと思うが。予期せぬ地震に襲われて転落した際、時計はここに……」
そうして玄児は、左手を胸元に下ろしてその懐中時計を観察しはじめる。
「文字盤の硝子は無事だが、針は止まっている。落としたショックで壊れたのかな。――六時半。地震があった時刻だね。話はきっちり合う」
「確かに」
「――ん?」
「何か、まだ」
「裏側に文字が彫ってあるぞ。こいつは……」
玄児は右手の懐中電灯を握り直し、左手に持った時計を顔の前まで上げて目を寄せた。
「T・E、とある」
「T・E……イニシャルでしょうか」
「だろうね」
頷いて、玄児は懐中時計をズボンのポケットにしまった。
「この時計があの青年の持ち物であることは、まず間違いないだろう。そしてこのT・Eというイニシャル。こいつがすなわち持ち主の頭文字である可能性も、非常に高い。ともあれ、彼の身元を知るための手がかりがやっと見つかったってことだ」
〈東館〉の座敷で眠る青年の生白い顔を思い浮かべながら、私は「T・E」というその二文字をいま一度口の中で繰り返してみた。思い当たる節は、当然のことながらまったくなかった。
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3
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私が浦登玄児と出会ったのは、この春のことだった。もう少し正確に述べるならば、今からほぼ五ヶ月前――四月後半のある日の夜、である。
子供の頃から私は建物が、ことに古い洋館の類が好きで、高校時代には長い休みのたびにあちこちを旅しては、各地のいろいろな建築物を見てまわったりもしていた。「高校生の分際で」などと云ってその行動を咎める者は、幸いなことに私のまわりにはいなかった。それはしかし、「あいつはちょっと変わった奴だから」という了解が周囲の者たちの間で固まってしまっていたためでもある。
一方で、学業の方は常に人並み以上の優秀な成績を修めていた私だから、それを盾によけいな文句を寄せつけなかったという部分もあるだろう。高校を卒業したら東京に出て、本格的に建築学を学ぼうと早いうちから意思を固め、それなりの努力もし……そうしてこの三月、志望どおりの大学に進学を決めたのだった。
九州は大分の実家から独り上京し、|文京区《ぶんきょうく》の|千駄木《せんだぎ》界隈で下宿生活を始めた私だった。入学式から一週間余りが過ぎた、あれは日曜日のこと。日付は確か四月二十日だったと思う。
正午を過ぎた頃からおもむろに降り出した小雨の中を、私は傘を片手に、スケッチブックを小脇に抱えて外に出た。白い開襟シャツにグレイのズボン、上には薄手のコートを羽織っていたことを憶えている。満開を過ぎた桜の木々には緑が混じりはじめ、霧のように降る冷たい雨に濡れそぼっていた。
その日は少し足を延ばして、北区|西ヶ原《にしがはら》の旧|古河《ふるかわ》男爵邸を見にいくつもりでいた。著名な英国人建築家ジョサイア・コンドルの手になる、北方ゴシックの趣を備えた重厚な石造りの洋館である。その存在はむろんかねてより知っていたのだが、それまで一度も行ってみる機会がなかったのだった。
多少の雨はさして気にならなかった。むしろこの天候のせいで、他に訪れる者がなるべく少なくあってくれれば良いと願っていた。
目的地に到着して適当な場所に陣取ると、私は傘で雨を防ぎつつ、建物のスケッチを始めた。各地で出遭った洋館の姿をそうやって描き写すことが、高校時代から変わらぬ私の趣味なのだった。
何時間かの間、休憩らしい休憩を挟むこともなく作業に没頭した。小雨はずっと降ったりやんだりの状態でいてくれたのだけれど、一通りを描きおえた頃、雨脚がいくぶん強くなってきた。ふと見まわせば、あたりにはもう夕闇が滲みはじめていた。私はスケッチブックを閉じると、せっかく描いた絵が濡れてしまわないよう胸に抱え込み、急いで旧古河邸をあとにした。
……と、そこまでなのだった。私の記憶がはっきりしているのは。
以降の経緯については、それが紛れもなく私自身の行動であり体験であるにもかかわらず、何一つ思い出せない。まるっきり憶えていないのだ。――分断された記憶。空白の|時間《とき》。
頭の中で次に再現することができるのは、病院の薬臭いベッドの上で、幾人かの見知らぬ人間たちに見守られている場面である。
白衣を着た中年男性がいた。同じく白衣の若い女性がいた。そしてもう一人、その時も上から下まで黒ずくめの出で立ちで彼が――浦登玄児がいた。
「少しは落ち着いてきたかい」
そう質問したのは玄児だった。
「何か思い出したことがあったら、話してくれないかな」
「さあ……」
私は途方に暮れる思いで首を傾げた。
「……ここは」
「病室だよ」
「あなたは。あなたたちは・せ」
「そちらは担当の先生と看護婦さん、俺は浦登玄児だ。何度も説明したろう」
「…………」
「分らないのかな、まだ何も。君の名前は?」
「私の名前……」
――私は[#「私は」に傍点]?
「私は……」
ベッドの上で上半身を起こした。頭に鈍い痛みを感じたが、身体を動かすこと自体はさほど苦痛でもなかった。
――私はいったい何者なのか。
もどかしい自問が、薄い|霞《かすみ》のかかったような心の中を駆け巡った。
――どうして私はここ[#「ここ」に傍点]にいて、この人[#「この人」に傍点]と話しているのだろう。
火曜日――四月二十二日の朝の出来事である。
これが、私が憶えている[#「私が憶えている」に傍点]浦登玄児との出会いなのだけれど、玄児にとっては[#「玄児にとっては」に傍点]そうではない。彼が私と出会ったのは、その前々日のことだったのだから。
旧古河邸をあとにした二十日日曜日の夕刻以降、まる一日半以上の間の記憶を、私は完全に失ってしまっていたのだった。あまつさえ、自律的な思考をようやく取り戻し、その病室で玄児と「出会った」その時点においては、日曜の夕刻以前のこともいっさい――自分の名前や出自すら――思い出せない状態だったのである。
その場で、もしくは後になって、玄児らの口から聞かされ、客観的な情報として把握しえた事実≠ヘこうである。
日曜日の夜七時半頃、私は|小石川《こいしかわ》植物園のそばにいた。
旧古河邸からそこまで、かなりの距離をまっすぐ南下してきたことになるが、雨の中を歩いてきたのか、それとも何か交通機関を利用して移動したのかは分らない。千駄木の下宿に戻らずに何故そんなところにいたのか、もちろんゆえあっての行動だったはずなのだけれど、その理由も私には分らない。単なる気まぐれでそちらへ行ってみたくなっただけなのかもしれないし、どこか別の目的地へ立ち寄った帰りだったのかもしれない。あるいは、道に迷うかどうかした結果だったのかもしれない。可能性はいくらでも考えられる。
ともあれその時刻、私はその場所にいて、すっかり陽が落ちて暗くなった道を一人歩いていた。そして――。
そこで、玄児は私と出会ったのだ。
そのとき玄児は、そぼ降る雨の中を自転車で走ってきたのだという。所用でどこやらに出掛けた帰り道だったらしい。外灯もまばらな、あまり広くはない道路の真ん中を、黒い蝙蝠傘を差した私が歩いていた。肩に鞄を掛け、脇にスケッチブックを抱えていた。玄児がその後ろ姿を認めて間もなく――。
前方から猛スピードでやってくる、一台の乗用車があった。黒いルノーだったという。道に出来ていた広い水溜りの上を、車は満足な減速もせずに突っ切った。物凄い|水飛沫《みずしぶき》が|撥《は》ね上げられた。ちょうど私とすれ違いざまのことだった。
私は水飛沫をよけ、大きく身を跳ばせた。ところが運悪く、それが玄児の自転車の進行を塞ぐ形になってしまったのだった。
「ブレーキをかけて止まる暇も、よける暇もなかった。俺の方の前方不注意も、むろん責められるべきなんだがね」
ちょっと戯けた口振りで、けれどもしごく真面目な面持ちで、玄児はそう語った。
「結局まあ、見事にぶつかっちまって……撥ね飛ばされた君は、傘もスケッチブックも放り出して、道路の側溝に転がり落ちてしまったのさ。憶えてないかい」
まるで憶えていなかった。が、その事故を追体験したかのように、頭全体がずきんと痛んだ。
玄児は慌てて私を助け起こそうとしたのだが、私の反応は思わしいものではなかった。側溝に頭を突っこむようにして倒れ伏したきり、いくら声をかけても微動だにしなかったという。転倒の際に頭のどこかを強打した模様だった。
その場で自分に出来る応急の処置をしたものの、それだけでは済みそうにはないと、すぐに玄児は悟った。目立った外傷はない。出血も、頭部や顔面の変形も見られない。しかし、意識を失っているというのは重大な問題である。
彼は救急車を呼び、然るべき病院へと私を運ばせた。「然るべき」とはつまり、即刻患者を受け入れてくれそうなところで、なおかつ玄児の父親が実権を握る〈|鳳凰会《ほうおうかい》〉グループの系列下にある、ということであったらしい。
そうして運び込まれたその病院で、私は速やかに治療と検査を受けた。
治療の過程の、比較的初期の段階で私は、とりあえずすんなりと意識だけは取り戻したのだという。だが、そのこと自体も、その時に医師や玄児から聞かされた説明についても、私はまったく憶えていないのだった。意識は戻ったものの当たり前な思考や状況認識はできていなかった、そんな状態だったのだろうと思われる。
検査の結果、たとえば頭蓋骨や脳に損傷が発見されることはなかった。その他の部位に関しても、いくつか打撲や掠り傷を負っていた程度で、大きな問題は従って、頭部への打撃と事故そのもののショックによる記憶の障害、という症状のみに限られたわけである。
「交通事故などにあった際、事故よりもいくらか前の時点に遡って、それ以降の記憶が飛んで[#「飛んで」に傍点]しまうというのは決して珍しいケースではありません」
担当の医師はそのように説明した。
「ただあなたの場合は、事故発生の前後以外――あなた自身の過去にまつわる記憶のほとんどが、現時点で失われてしまっている。これは少々珍しい症例であると云えましょう」
私が所持していたスケッチブックや鞄はすべて、玄児が病院まで運んできてくれていた。それらを見てみてもやはり、私は自分が何者なのかを思い出すことができなかったのだが、加えて困ったことに、それらの所持品の中には一つとして、私の身元を明確に示すものが含まれていなかったのだった。
傘はもちろんスケッチブックにも鞄にも、着ていた衣服のどれにも、私の名は記されていなかった。鞄の中身についても同様。筆記用具の類、地図、財布、ハンカチ……いずれを調べてみても氏名の明記はない。学生証や手帳の携帯も、その時の私は怠っていたのである。
「一時的な記憶喪失状態。器質的な障害は見られませんから、強いて云えば心因性の、あるいはショック性の、ということになりますか」
担当医の見解は楽観的だった。
「ことさら深刻に悩む必要はありますまい。そのうちにふと、何から何まで思い出せる時が来ます。あまり焦らずに、とりあえずはゆっくり養生することでしょう」
そうは云われても、自分が何者なのかが判明しない以上、私には帰る家すらないわけなのだった。
入院を続けて治療や検査を受ける必要は、もはやあまり残っていないという。早ければ今週中にでも退院して構わないともいう。それはありがたい話なのだが、病院から出てしまって、ではいったい私はどこへ行けば良いのか。
困惑する私を救ってくれたのは、玄児だった。
「うちへ来ればいいさ」
彼がそう申し出たのは、ごく自然な成り行きでもあった。
「独り暮らしには少しばかり広すぎる家に住んでるものでね。同居人が一人や二人増えてもどうってことはない。そもそも俺の方があの時、君にぶつかってしまったって云う責任もあることだし……」
かくして私は、退院後しばらくの日々を、玄児が東京での|住処《すみか》としている|白山《はくさん》の家で過ごす運びとなったのである。
たかだか五ヶ月しか経っていないのに、何だかもう遠い過去の出来事のような気がする。こんなふうに思い返してみるにつけ、あの日あの病室で玄児と「出会った」あの時から、ずっと私は、自分がそれまで生きてきた現実とは微妙に隔たった、妙に実体感の希薄な世界の中を|彷徨《さまよ》いつづけてきているような気もする。そして、今こうして熊本の山中の、暗黒館と呼ばれるこの奇妙な館を訪れているのも、確かにその延長上に位置する事態なのだった。
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〈十角塔〉を出ると、私たちはその足で島の門へと向かった。船着場の様子を見ておきたい、と玄児が云いだしたからである。
「あの青年がどうやってこの島に渡ってきたのか、やっぱり気になるじゃないか」
木立の間を縫う小道を足早に進みながら、玄児はそのわけを説明した。
「湖岸の桟橋からこっちまで、乗ってこられる舟は二艘しかない。一艘は、蛭山さんの運転で俺たちが乗ってきたエンジン付きのボート。それとは別に、手こぎの舟がもう一艘あったのを見たろう」
私たちが湖を渡った時、手こぎのもう一艘は湖岸の桟橋に横着けされていた。素直に考えるならば、あの青年はその舟を使って、私たちよりもあとに島へ渡ってきたことになるが。
門は黒く大きな二枚扉である。三メートル近くも高さがあるだろうか。暗い中だと、よりいっそう重量感が増して見えた。島全体を城壁のように取り囲んだ石積みの塀は、この重厚な門扉の上でゴシック風の尖頭アーチを形成している。
これは玄児からすでに聞かされていたことだが、その昔この場所にはとある武将の山城が築かれていて……といった話が伝わっているらしい。島の周囲の石塀は、そもそもその城跡を利用してこんなふうに造り上げられたのだという。
「どこまで信憑性のある情報なのかは知らないが」と玄児は付け加えていたけれど、それは本当にそうだったのかもしれないなと私は思う。|夥《おびただ》しい数の巨大な天然石でがっちりと組み上げられた、この高い城壁=Bいくら潤沢な資金があったにせよ、何もないところに一からこのような代物を造ろうとは、普通なかなか考えないだろうから。
扉の一枚が、ちょうど人の通れる幅だけ開いていた。私たちは門の外に出、桟橋へと続く緩やかな石段をそろそろと降りていった。
湖面を照らす光はまったくない。思わず足が竦んでしまいそうな、圧倒的な闇の広がり――。
どことなく不穏な水のざわめきが、すぐ間近に聞こえる。先刻までよりもずいぶんと風が強くなっていて、湖のまわりの森が震え鳴く音も、かすかにここまで聞こえてきた。
「深いんですか、この湖は」
ふと気になって、私は玄児に尋ねた。
「底なし[#「底なし」に傍点]だって噂もあるな」
玄児は冗談めかして答えた。
「落っこちたら最後、生きて浮かび上がってきた者はいない」
「また、そんな」
「底なしかどうかはともかく、そう浅くはないのは確かだろう。加えて、藻の類がやたらと多い。水面近くと深いところとで温度差が激しい。危険だから絶対に泳いじゃいけない。――と、俺は子供の時分にさんざん脅かされた。現に昔、屋敷の人間が溺れ死んだこともある」
「浦登家の人が?」
「当時この家に住み込んでいた、使用人の親子。俺が生まれるよりずっと前のことなんだがね。子供が水遊びをしていて溺れたのを、母親が助けようとして、もろともに」
ざわめきつづける闇の広がりに、私はそろりと目を流す。玄児は続けて、
「あれは単なる事故じゃない、って話を聞かされたこともあるな。湖に棲むもの[#「もの」に傍点]が二人を引きずり込んだんだ、ってね」
「湖に……何が」
「この世ならぬもの、さ」
と、玄児はまた冗談めかす。
「何ですか、それは」
「いろいろと|謂《い》われがあってね、この土地にも。ま、森の奥深くにいかにも[#「いかにも」に傍点]といった風情でこんな湖があるんだ、その手の噂の一つや二つ、ない方がかえって不思議だろう」
長い石段を降りきって、岸に造られた桟橋に近づきつつあった。玄児は私とのやり取りを中断して、懐中電灯の光をそちらに投げかけた。当然彼は、問題の手漕ぎの舟がそこにぽつんと浮かんでいる光景を予想していたことだろう。私も同様である。ところが――。
「――ない」
桟橋には舟の姿など一つもなかったのだった。
不意に甲高い唸りを上げて風が吹き過ぎる。水のざわめきが強くなる。夜を包んだ闇の底に身体全体が引き込まれてしまいそうな心地になって、私は何度も目をしばたたいた。思わず「どうして」と声が洩れる。
「どういうことだ」
玄児の声が重なって響いた。
「舟で渡ってきたんじゃないのか。じゃあ……いや、しかしあれ[#「あれ」に傍点]は……」
「『あれ』って?」
私は振り向いて訊いた。
「他に何か、島に渡る方法があるわけですか」
「ああ、それは」
答えかけて、玄児は「ん?」と眉をひそめた。右手の懐中電灯を握り直し、桟橋の方へ一歩足を踏み出す。
「中也君、あそこだ」
「はい?」
と、玄児は懐中電灯を前方に突きだした。
「ほら、舟が」
「えっ」
桟橋からいくらか離れた湖面に、玄児は光を向けていた。深い闇の狭間に、妖しく波立つ水の動きが見える。そして、その上で頼りなく揺れる黒い影。――舟だ。
「あんなところに……」
「あの舟に乗って島まで来たはいいが、ちゃんとロープを繋いでおかなかったんだな。それで流されてしまった」
「地震のせいでロープが緩んだ、とは?」
「うん。ありえないことじゃないな、それも」
こうして見る限り、岸から舟までさほど大きな距離はない。山間部のこの季節だから湖水はもう相当に冷たいに違いないけれど、それさえ|厭《いと》わなければ、泳いでいって捕まえることも難しくはなさそうだった。玄児はしかし、そのような提案はせず、
「あとで蛭山さんに連絡しておこう」
そう云って、あっさりと踵を返した。
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5
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亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
記憶といふものが
もうまるでない
往來を歩きながら
めまひがするやう
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そんな詩を玄児が口ずさむのを訊いたのは、病院を出た翌々日の夜だったと思う。退院が事故からちょうど一週間後だったので、その翌々日と云えば四月二十九日という勘定になるだろうか。
私は玄児の申し出をありがたく受け入れることにした。つまり、しばらくの間――少なくとも私の身元が判明するまで、彼の家に|居候《いそうろう》させてもらおうというわけである。
玄児の住処は白山の閑静な住宅街にあった。木造平屋の古い家だが、基本的な造作はたいそう立派なもので、なおかつ勝手が良いように改造したと思しき部分があちこちに見受けられる。そして確かに、敷地も建物もめっぽう広かった。普段はまったく使われていない部屋の方が、きっと断然多いに違いない。表札には「浦登」とだけ出ていた。
こんな屋敷に一人きりで住んでいるというのは、たとえば家族を一度に失うとかいった事情があってのことなのだろうか。つい想像を|逞《たくま》しくしてみたりもしたけれど、そのようなわけではないとはすぐに知らされた。玄児の実家は熊本にあって、彼はその家の長男なのだが、修学のため単身東京に出てきているのだという。浦登家は知る人ぞ知る大変な資産家で、この白山の家土地にしても、浦登家がもともと各地に所有する不動産の一つらしい。
聞けば、玄児はこの夏で満二十七歳になるが、いまだに身分は大学生であるという。結婚もしていない。二十四歳でT**大の医学部を卒業して、そのあと同大学の文学部に入り直したのだそうだ。講義にはほとんど出ていないらしいが。
どうして医者にならないのか、という私の素朴な質問に、
「自分には向いてない気がしてきてね」
彼はそう答えて薄笑いを浮かべたが、そこには何かしら意味ありげな|翳《かげ》りがあった。云うほどに単純な理由ではない、と思えた。
私は広い庭に面した南向きの八畳間を、好きに使っていいからと云って与えられた。
庭はまるで手入れをしていないと見え、廃屋さながらの荒れようだけれども、室内は非常にきちんと整頓されていた。|主《あるじ》の几帳面な性格が窺われて、これには私は好もしいものを感じた。一方でどうにも違和感を覚えたのは、家中の雨戸が閉め切られていたことだろうか。
天気の良し悪しには関係ない。外出時の用心のため、というわけでもない。とにかく基本的に雨戸は閉められたままで、一日のうちのわずかな時間しか開け放たれることがないものだから、家の中は昼間でも薄暗く、空気はひんやりと淀んでいた。
「あまり明るいのは苦手でね」
その件についての玄児の云い分は、ちょっと妙なものだった。
「太陽の光というのは|曲者《くせもの》さ。陽光の下に出ると、人はおのずから動く≠烽フだろう。これが実はよろしくない。必要以上の動き≠ヘ、いたずらに生命の燃焼を加速させる。だから……」
私は「はあ」と生返事をするばかりであった。
「いやしかし、これはまあ、俺が育ってきた環境のせいだと云ってしまった方がいいかな。何せ実家があれ[#「あれ」に傍点]だからね、今さら宗旨替えをしようと思ってもなかなかできるものじゃない。現に俺は……」
そんなふうに語って、玄児は心なしか自嘲めいた色を目に浮かべるのだったが、その時の私にはもちろん、その言葉の意味をうまく把握することができなかった。「育ってきた環境」とは何なのか、「実家があれ[#「あれ」に傍点]とはどういうことなのか。感じた疑問をその場で投げ返すこともできなかった。そういう間柄では、まだなかったのである。
食事は朝と夜の二度、|登美江《とみえ》という中年の家政婦が通ってきて造ってくれた。部屋の掃除や何かもこの女の仕事らしい。玄児が簡単に事情を説明して私を紹介すると、彼女は「おやまあ」と小さな目を円くした。
「ご自分が誰だかおわかりにならないと」
「――ええ」
「見たところ学生さんのようだけど……お年は?」
「いえ、それも」
自分の誕生日や年齢すら、私は思い出すことができずにいた。
「ま、そういったわけでね」
玄児が登美江に云った。
「当面ここに住んでもらうことになったんで、食事は二人分お願いするよ」
「承知しました」
それから玄児は私に向かって、
「何か不便があったら、遠慮なく云ってくれ。俺がいない時には、登美江さんに何なりと頼めばいい」
「――はい」
頷きながら、上目遣いにちらりと家政婦の顔を窺った。異国の人間でも見るような眼差しを、彼女はこちらに注いでいた。
その日――退院して玄児の家に転がり込んだ翌々日――の夜も、登美江が用意してくれた夕食を二人で食べた。そのあと玄児は居間の安楽椅子に身を移し、赤|葡萄酒《ぶどうしゅ》をなみなみと注いだグラスを片手にテレヴィのニュース番組を眺めていたのだが、やがて唐突に――。
[#ここから2字下げ]
亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
記憶といふものが
もうまるでない
往來を歩きながら
めまひがするやう
[#ここで字下げ終わり]
そんな詩を口ずさみはじめたのだった。
「何ですか、それは」
私はいささか面食らって首を傾げた。玄児の自作の詩なのだろうかとも一瞬考えたのだけれど、
「知らないかい」
と彼が聞き返したので、そうではないと分った。
「さあ。――誰の詩ですか」
「中也さ。|中原《なかはら》中也」
云われても、いま一つぴんと来なかった。
私の記憶が抜け落ちているのは基本的に自分自身を巡る事柄についてだけで、その他の一般的な知識まですべて失ってしまったわけではない。だから、「中原中也」が|夭逝《ようせい》した詩人の名であることは分るし、黒い帽子を|被《かぶ》った例の写真の顔が思い浮かびもする。が、せいぜいその程度のことなのだった。詩集の一冊も満足に読んだ覚えがない。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という、「サーカス」のあの有名なフレーズが、かろうじて思い出されたくらいだろうか。
「『昏睡』っていう晩年の小品なんだがね、まあ知らなくて当たり前か。『山羊の歌』にも『在りし日の歌』にも収録されていない。晩年と云っても、中也はまだ二十六、七の若さだったわけだが」
[#ここから2字下げ]
何ももう要求がないといふことは
もう生きてゐては惡いといふことのやうな氣もする
それかと云つて生きてゐたくはある
それかと云つて|却《かへ》って死にたくなんぞはない
あゝそれにしても
諸君は何とか云つてたものだ
僕はボンヤリ思ひ出す
諸君は實に何かかか云つてゐたつけ
[#ここで字下げ終わり]
詩の続きを暗誦してみせながら、玄児はじっと私の顔に視線を向けていた。電灯の柔らかな光の中、彼の頬や首筋や手――露出している皮膚の色はことごとく、異様なほどに蒼白く見えた。
「『記憶といふものが
もうまるでない』」
こちらを凝視したまま、玄児は詩の一節を繰り返す。私は思わず目を伏せた。
「いやいや、別に君をからかおうっていうわけじゃない。誤解しないでおくれよね」
「…………」
「自分自身のことなのに、それが分らない、思い出せない。記憶というものがもうまるでない[#「記憶というものがもうまるでない」に傍点]。――他人事じゃないんだな、俺にとっても」
「えっ」
玄児の言葉は私の意表を衝いた。
「と云うと」
「昔の記憶に、完全な空白の部分があるものでね、俺も」
「――本当ですか」
「今の君の状態とはまた違うんだけれども、記憶がない、ということじゃあ同じだ。子供の頃――九歳か十歳か、その時分より前の記憶が、俺にはまったくない」
「九歳か十歳……でも、それは」
「幼い頃の記憶が曖昧なのは、むろん誰にでもあることだろう。しかし俺の場合は極端でね。本当に何一つ、思い出せるものがないんだ。まるで――」
玄児はグラスをテーブルに置き、尖った顎をさらりと撫でた。
「まるで、それ以前には俺という人間は存在しなかった。そんな感じで……」
しばし黙って玄児の口許を見つめた後、
「何かきっかけが」
と、私は訊いた。
「事故とか、そういった」
玄児はすると、それまでズボンのポケットに潜り込ませていた左の手を引き出し、テーブルの上に投げ出した。そして、その手首に巻いていた腕時計を外してみせるのだった。
「何を……ああ、その傷は」
彼の左手首のまわり――ちょうど時計のバンドで隠されていた部分に古い傷痕があるのを、私はそのとき初めて目にした。ずいぶんひどい怪我だったのだろうと察せられる。ぎざぎざに引き|攣《つ》れ、変色した様子が痛々しかった。
「この傷をいつ、どうして負ったのかも、俺自身ははっきり憶えていないんだ。事情を聞かされてはいるんだが」
「何かそのことが、記憶の欠落に関係あるわけですか」
「そう。それは……」
云いかけて、玄児はふっと口を噤んだ。
「いや、やっぱりこんな話は、知り合って間もない相手にするものじゃないな。――失礼した。いきなりで驚いたろう」
「――いえ」
「要するにまあ、そんな次第だから」
玄児はテーブルからグラスを取り上げながら、
「何と云えばいいんだろう。事故の責任問題|云々《うんぬん》とは別にね、俺は君のことが気に懸かって仕方ないんだ。君の中に、自分自身の一部を投影してみてしまう、とでも云うか」
私はまた目を伏せ、少しの間を置いて、
「大丈夫、ですよ」
ぼそりとそう云った。
「病院の先生がおっしゃっていたとおり、そのうち全部、思い出せるでしょうから」
楽観的に構えていた、というわけではない。もちろん私は大いに不安だったし、焦りや恐れと云った感情を多分に抱いてもいたはずである。
が、それらすべてを包み込むようにして、私の心の中には何かしら得体の知れぬ霧が立ち込めていたのだった。妙に蒼白い、妙に冷ややかな……その霧は現実の輪郭を曖昧にする。情動は生々しさを剥奪される。リアルに悩んだり苦しんだりといったことを、私にさせない。
時折り訪れる、奇妙な浮遊感。放っておくとどこまでも身体の色が薄れていき、ついには半透明にまでなってしまいそうな感覚。――私はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と世界に接していた。そして、それは私にとって、必ずしも不快な状態ではなかったのだった。たとえば警察に話を持ち込んで事態をどうにかしようなどとは考えなかったのも、そのせいかもしれない。
[#ここから2字下げ]
僕はボンヤリ思ひ出す
諸君は實に何かかか云つてゐたつけ
[#ここで字下げ終わり]
耳に残っていた「昏睡」の最後の二行を、何となく私は|反芻《はんすう》してみた。声には出さず、喉の奥で。すると、まるでそれを聞き留めたかのようなタイミングで、
「ところで、ねえ君」
玄児が口調を改めて話しかけてきたのだった。
「その服装がどうもしっくりしないな」
いきなり何を云いだすのだろう。
「服、ですか」
わけが分らず首を傾げる私に、玄児は愉快そうに目を細めてみせ、
「やっぱりあれか、黒いマントにソフト帽。ソフト帽はてっぺんを潰してお釜帽にする。似合うぜ、きっと」
「マントに帽子?」
「でもって、君のことは当面『中也君』と呼ぶとしよう」
私は「はい?」とさらに首を傾げた。
「似てるって云われたことがあるんじゃないか、中原中也に」
「私が? 中也にですか」
「俺にはそう見えるんだがねえ」
玄児はいよいよ愉快そうに目を細め、
「もう少し髪を伸ばして、然るべき帽子を被れば文句なしだと思うが」
「ええと、あの……」
何と応えたものか戸惑う私を見据えながら、玄児はちょっと真顔に戻ってこう云った。
「名前がないままじゃあ困るだろう。俺の方も困るから」
「それはまあ……でも」
「中也君。――ふん、いいじゃないか。決まりだ。明日さっそく服を買いにいこう。さすがに今時マントもないだろうから、ま、それっぽい感じのものを探すとして……」
こうして私は、玄児から「中也君」と呼ばれるようになったわけだった。
病院の担当医の言葉どおり私が、事故発生の前後以外の自分の記憶を無事取り戻したのは、それからおよそ三週間後のことである。が、そうして本来の姓名が判明してしまった後も、玄児は「中也君」というその呼び名を変えようとはしなかった。
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第五章 緋の祝祭
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私たちが〈東館〉に戻ると、ちょうど野口医師が座敷の方から玄関ホールに出てきたところだった。「先生」と玄児が声をかけ、黒い瓦敷きの床の上を足早に歩み寄っていく。ホールの奥の壁際に置かれた大きな振子時計――身の丈ほども高さのある重厚なロングケースクロックである――が、その足音に覆い被さるようにしてゆっくりと鳴りはじめた。午後十時の時鐘だった。
「どんな具合ですか、あの青年は」
鐘の響きが消えるのを待って、玄児が訊いた。
「よく眠っておりますよ」
答えて、野口医師は鼠色の顎鬚をぞろりと撫で下ろした。
「ま、大して心配はいらんでしょう。玄児君の診たとおり、少なくとも命に関わるような不具合は見当たらない。骨折もない。掠り傷はたくさん負っていますが、あとはちょっとした打撲くらいで……左手の怪我も深手ではないし、頭の瘤も大丈夫、まず問題はありますまい」
「――良かった」
「それにしても、あの塔の上から落ちてあれで済んだというのは、本当に幸運としか云いようがありませんな」
「まったく。――意識は、まだ?」
「さっき一度、しっかり目を開きましたが」
「じゃあ、何か話を」
医師は赤く染まった丸い鼻にぐにゃりと皺を寄せて、「いいや」と答えた。
「転落のショックで混乱しているのか何なのか、目は開いたものの、口は一言も」
「茫然自失、といった感じで?」
と、玄児が質問を繋げる。おのずと私は、五ヶ月前に自分が病室で目覚めた時の状態を想像し、そこに重ねて見ようとしていた。
「そうですな」
重そうな濃紺の鞄の|把手《とって》を握り直して、医師はのそりと座敷の方を振り返る。
「表情の変化は緩慢で、積極的に身体を動かそうともしない。茫然としている……ふむ、そんな感じですな。それでもしかし、こちらの云うことは聞こえていて、理解もできておるようだったので」
「意思の表示はあったということですか」
「気分はどうだ、どこか痛むか、と問いかける分には、首を動かして反応を。打撲や傷の痛みは気になるようでしたな。|悪心《おしん》とか|眩暈《めまい》とかはない。口を利かなかったのは、喋ろうにもうまく言葉が出ないといったふうで……やはりショックがあとを引いておるのでしょう」
「他にはどんな質問を」
「ここがどこか分るか、と。首は横に」
「君は何者なのか、とは?」
「それも」と云って、医師はみずから首を横に振ってみせた。
「事情の説明はされたんですか」
「いや。あの状態であれやこれや話してみても、|埒《らち》が明かんと見ました。大きな怪我はないとは云え、かなり消耗しているようだし、まずはゆっくりと休ませた方がよろしい。栄養剤と鎮静剤を与えておいたので、とりあえず明朝まではぐっすりでしょう」
「そうですか」
玄児は小さく息をつき、胸ポケットから煙草を探り出して銜える。その素振りに、わずかな|苛立《いらだ》ちが感じ取れた。あの青年はいったい何者なのか。玄児としてはやはり、一刻も早くそれを知りたいわけなのだろう。
おのずとまた、五ヶ月前のことが思い出される。私が病室で意識を失っていた間の玄児の心中を、現在のこの状況に引き合わせて想像してしまう。
「病院の手配はどうしたものでしょうね」
紫煙を吐き出しながら、玄児が云った。
「医者としては当然、なるたけ早く詳しい検査を受けさせるに越したことはない、と助言せねばならんのでしょうが」
野口医師はぞろりとまた髭を撫で下ろし、
「しかしまあ、一刻を争うような容態でもなし……もう少し様子を見てから対処を決めても良いのではないかと、と」
「場合によっては、警察を呼ぶ必要もあるかもしれませんね」
「はあん。警察ですか」
少しばかり当惑したような声で云って、医師は白毛混じりの眉をひそめた。
「確かに、誰だか正体の知れん人間が屋敷に入ってきて、事故が起こったわけですからなあ。しかしそれは……」
「父の意向を聞いてみないことには、と?」
「うむ。|柳士郎《りゅうしろう》氏が何と云われるか、やはりそれ次第でしょうな」
浦登柳士郎。
それが、この屋敷――暗黒館の当主である玄児の父親の名だった。浦登一族が中心となって全国規模でさまざまな事業を展開している〈鳳凰会〉グループの会長であり、人里離れたこの山中に住みつつもなお、グループ全体に大して絶大な権威と権力を持った人物――と、そのように私は聞いている。
「父には、あとで俺が」
ぼそりと云ってから、玄児は野口医師の赤ら顔を見上げ、
「機嫌はどうですか、父の」
「さほど|芳《かんば》しくない、というところですか」
医師は心持ち声のトーンを落として、
「私と会っていても口数は少ないし、酒にもなかなか付き合ってくださらん」
「ご不満ですか」
「いやあ、そういうわけでは」
でっぷりとした頬の肉を震わせて、医師はかぶりを振る。
「しかしこのところ、いよいよ気分の波が激しくなっておられるようですな。ややもすると|鬱《うつ》に傾きがちな……まあ、無理からぬことでしょうが」
「そうですね」
玄児はちょっと考えてから、「いずれにせよ」と続けた。
「あの青年の問題に関しては明日、彼自身の口からきちんと話を聞くことが先決ですね。――野口先生は彼について、本当に何も心当たりがないと」
「ありませんな」
「しのぶさんは何か云っていましたか」
「何も。知っておれば、そう云ったでしょう」
「ふん。誰も彼のことを知らない……他のみんなへの面通しも必要か。それもまあ、明日にするとして――」
玄児はそして、「こんなものを見つけたんですが」と云って、ズボンのポケットから銀色の鎖を引っ張り出した。〈十角塔〉のバルコニーで拾った例の懐中時計である。
「見覚えはありますか」
野口医師は|躊躇《ちゅうちょ》なく「いいや」と答えた。
「あの青年が、転落の際に落としたものみたいなんですけれどもね。裏にはT・Eというイニシャルが彫ってある」
「T・E……さて」
医師は太い首を|捻《ひねる》るばかりである。玄児は懐中時計をポケットに戻し、私の方を振り向いてわずかに肩を竦めてみせた。
「ところで玄児君、そちらのお若い人は?」
と、そこで初めて、医師の視線がまっすぐに私の顔へと投げかけられた。私ははっと姿勢を正す。
「ああ、ご紹介が遅れました」
玄児が私を手招いた。
「俺の友だちで、中也君。同じT**大の一年生なんですが、この春にちょっとした縁があって親しくなりましてね。優秀な人材ですよ」
「中也……ふむ、詩人の名前ですな」
ビヤ樽のような巨体に引っかけた皺だらけの白衣の前を掻き合わせながら、医師は私に向かって一歩踏み出す。「いや、それは」と私が注釈を加える間もなく、「よろしく」とにこやかに会釈し、
「私は|村野《むらの》といいます」
「村野?」
私は思わず聞き直した。
「あの、野口先生――なのでは?」
すると医師は「あはあ」と破顔一笑して、
「村野ですよ、本名は。下の名は|英世《ひでよ》。偉人と同じ名前をたまたま親が付けましてね」
村野英世? 「偉人」というのは当然、黄熱病の研究で知られる野口英世博士のことなのだろうが、それにしても何故……。
玄児の顔を窺うと、彼は新しい煙草を銜えながらにやにやしている。私は「ははあ」と呟いた。
「玄児君が子供の時分には、『英世先生、英世先生』と呼ばれておったのですよ。それが『野口先生』になったのは、はて、いつからでしたかな」
なるほど。そんなふうにして人の名を好き勝手に変えて呼んでしまうのが、昔からの玄児の趣味であったというわけか。
「まあまあ、名前なんてものは単なる識別記号だと考えれば、どのように呼ばれようがあまり気にもならない。玄児君のおかげで、この家ではもうすっかり野口で通っておりますからな、そう呼んでくだされば結構ですよ、あなたも」
「いえ……ああ、はい」
「中也君は建築が専門なんですよ。高校時代からあちこちの洋館を見てまわっていると云うんでね、それならばと思ってこの屋敷に招待したわけです」
玄児の説明に、野口医師は「ふんふん」と頷き、
「大学一年というと、十八か十九ですか」
「五月に満十九になりました」
「お若いんですな。年よりもずっと落ち着いて見えますが」
「ありがとうございます」
「この屋敷は――」
云いながら医師は、黒塗りの壁や天井にぐるりと目を巡らせ、
「うむ、確かに一見の価値はあるものでしょう。古いし、造作もえらく変わっとる」
「この〈東館〉だけを見ても、何だか心がざわざわしてきます」
「心がざわざわ……ほほう、なかなか面白い感想を述べられる」
「そうでしょうか」
「同じ言葉を、むかし別の|御仁《ごじん》の口から聞いたことがあります。心がざわざわする。そう、そんなふうに云っておった。玄関の前に立って、屋敷の黒い影をじっと見上げながら、そう」
医師は顎鬚を撫で、ふっと目を細める。呼気に混じったアルコールの臭いがかすかに漂ってくる。
「その人は、どういう」
「明治の頃に建てられて以来、この屋敷が何度も増改築されておることは? 玄児君から聞いておられますかな」
「ええ、それは」
私はまた玄児の顔を窺う。銜え煙草のまま、彼は軽く頷いてみせる。医師は続けて、
「そういった増改築の際には当然、然るべき専門家に仕事が依頼されたわけですが、中に一人、ちょっと風変わりな建築家がおったのです。その建築家が初めてこの家へやってきた時、たまたま私も居合わせておりましてな。それでその時に……」
心がざわざわする。――そんな感想を述べたと云うのか。
「風変わりな建築家」とはしかし、どういう意味で「風変わり」だったのだろう。むろんのこと、私にはそれが気に懸かった。
ここでさらに質問をして良いものかどうか、迷ううちに、野口医師は玄児の方へ向き直った。のそのそと巨体を動かして、彼のすぐそばまで距離を詰めていったかと思うと、
「それにしても、玄児君」
私の耳を気にしているのだろうか、これまでの何分の一にも声を低くして、医師は云った。
「明日は〈ダリアの日〉だというのに、よろしいんですかな」
ダリアの日? ――何なのだろう。初めて聞く言葉だが。
「父の了解は取ってあります」
と玄児が、やはり低い声で答えた。ついさっきまではおおむね|和《なご》やかだった場の雰囲気がいきなり、何やらひどく緊張を帯びたものへと転じてしまっていた。決して私の気のせいではなく――。
「ほう」
医師の声がさらに低くなる。
「しかしそんな……」
羽取しのぶがその時、座敷側の廊下から小走りに出てきた。玄児と医師との会話はそれで途切れ、張り渡っていた緊張の糸も自然と消えた。
「あのう、遅くなってしまいましたけど、そろそろお夕食を」
しのぶが玄児に云った。
「こちらの食堂に用意させていただきますが、よろしいでしょうか」
「ああ。お願いするよ」
玄児は静かに医師の側から離れ、
「いい加減に腹も減ったろう、中也君。昼は車の中でパンを|囓《かじ》っただけだったものね。――野口先生は? 何ならご一緒に」
「いや。私は早くからぼちぼちやっておったので」
と、医師は口許でグラスを傾けるジェスチャーをしてみせた。
「〈北館〉のサロンで|伊佐夫《いさお》君が待ちくたびれておるかも知れん。あちらで酒の続きを」
「父は、もう?」
「もうご自分の部屋に引き揚げられましたよ」
「――そうですか」
「では、私は失礼するとしましょう」
医師はそれからしのぶの方を見やり、
「座敷の青年は、まず大丈夫だとは思うが、万が一何かあったら私か鶴子さんを呼ぶように。よろしいかな」
「――はい」
左手に持っていた鞄を右手に持ち直して、野口医師はのそりと踵を返す。そうして、建物の北側へと延びる廊下に歩み去っていった。
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東西南北の四つの棟から成るこの暗黒館だが、大まかに云って、玄関のある〈東館〉が来客用、〈北館〉が家族用、〈南館〉が使用人用、といったふうに使い分けられているらしい。残る〈西館〉は、では? という私の質問に、玄児は「当主用ってところだな」と答えた。
「今は父がもっぱら使っている。その前はずっと初代玄遙が。祖父の|卓蔵《たくぞう》は『当主』を名乗る前に死んでしまったから。〈西館〉は〈ダリアの館〉とも呼ばれていてね、この屋敷の、ある意味で中心と云える建物さ。〈東館〉の〈表〉に対して、単に〈奥〉とも呼ぶが」
「ダリア?」
当然ながら、私はその単語に反応した。
「それは、さっき……」
玄児は「ああ」と唇の端で微笑んで、
「聞こえていたんだね、野口先生とのやり取りが」
「〈ダリアの日〉がどうだとかこうだとか。何なんですか、それは」
「ちょっと特別な日なんだよ、明日は」
「何か、部外者が来ていてはまずいような」
「ふん。ま、そうも云えるかな」
「そんなこと、私は聞いて……」
「心配しなくてもいい。野口先生にも云ったように、父の了解は取ってある」
「そういう問題なんですか」
玄児は微笑を消して「まあね」と頷いた。
「前にもちらっと話したろう。父の柳士郎は、現在のこの家、さらには浦登の一族における、云わば絶対的な権力者なんだ。その彼がよしと認めたわけだから、たとえ〈ダリアの日〉であろうと何であろうと、誰も文句は云えない」
「ですが……」
私は心許なく視線を黒い床に泳がせる。
「大丈夫さ。君は何も気にすることはない」
玄児の口調はきっぱりとしたものだった。けれども、そういわれて「ああそうですか」と落ち着いていられるほど、私は図太い神経の持ち主ではない。
自分の実家は暗黒館という異名を持つたいそう風変わりな洋館なのだが、興味があるようなら一度見に来ないか。そんな誘いを玄児から受けたのは、先月の下旬のことだった。父もぜひにと云っているから――と、そう云われたようにも思う。
九月に行なわれる大学の前期試験のあとにでも、ということで話は進んだ。試験期間は九月の末までなのだが、私が受けなければならない科目は二十日以前にすべて終了する。玄児の方はもとよりきちんと受験するつもりがなかったらしく、「じゃあ、その次の週の何日間かってことにしようか」と提案した。その後、積極的に具体的な段取りを決めていったのは、これも玄児だった。
私よりも一足先に東京を発ち、玄児は実家に戻った。無事に試験を受け終えてから、私も九州へ向かう列車に乗った。そうして、熊本市内に玄児がとっておいてくれた宿に到着したのが昨日午後のこと。車で迎えに来てくれた玄児と夜には合流し、一泊して今朝早くに宿を出発したのだった。
明日――九月二十四日が浦登家にとって何か特別な日だなどとは、私はまったく知らないでいたのである。玄児はしかし、もちろんそれを重々承知の上で、あまつさえわざわざその日とぶつかるように日程を組んで、私をここへ連れてきたことになる。
彼に云われるままに、そしてみずからの興味の|赴《おもむ》くままに、のこのことこの屋敷へやって来たのは、ひょっとして大変な間違いだったのだろうか。そんな疑問と不安が、今さらながら強く持ち上がってきて、私は思わず身を縮めてしまいそうになった。
「ねえ玄児さん」
そろりと視線を上げて、私は云った。
「その、ダリアというのは……」
だがその時、玄児は私のそばから離れ、先ほど野口医師が立ち去ったのと同じ廊下に向かって足を進めようとしていた。
「ちょっと待っててくれ」
玄児はこちらを振り返り、
「食事の支度が出来たらしのぶさんが知らせてくれるから、そうだな、それまであっちの部屋にでも」
と、玄関からホールに入ってきてすぐ右手――北側手前にある黒い両開きの扉を指し示した。
「あの扉の向こうが前室で、その奥が応接間になっている。そこで――」
「玄児さんは?」
「蛭山さんに連絡して、舟の件を」
「島からあちらへ、どうやって連絡を」
「専用の電話回線があるんだよ」
「湖岸のあの建物との間に?」
「ああ。こっちの電話機は〈北館〉の方に。その昔は双方の岸辺で鐘を打ち鳴らしたりして連絡を取っていたっていうからね、便利になったものさ」
そうして玄児が〈北館〉へと去ったあと、私はいったん二階に上がり、今夜からの寝場所として与えられている客室に戻った。忘れてきた自分の煙草を取ってくるためである。
|腰掛け《ストゥール》の上に置いておいたはずの旅行鞄が床に転がり落ちていたが、これは先ほどの地震のせいに違いない。煙草はベッドの脇の小テーブルに放り出してあった。同じテーブルに置かれた灰皿の中に、吸い殻とマッチの燃え殻が一本ずつ。――そう。この部屋に案内されて荷物を置いたあと、私はベッドの端に腰をかけて独り、この煙草を吸ったのだ。確か午後五時過ぎのことだった。
あれから五時間以上が経過している勘定だが、さて、それを「もう」と感じるべきなのか「まだ」と感じるべきなのか。改まって考えてみるようなことでもないのだけれど、何故かしらそんな自問がねっとりと頭に絡みついた。
玄児が云った「前室」は、それだけでも十数畳の広さがありそうな洋間で、黒く塗られた板張りの床が寒々しく感じられた。
入ってきた扉以外に、二つの扉がある。左手に片開きの扉が、正面奥にホール側と同じような両開きの扉が。「その奥が応接間になっている」という玄児の説明をすぐに思い出して、私はまっすぐ部屋を横切った。
奥の扉を開けると、そこもまた当然のように何から何まで黒ずくめの部屋であった。
黒い天井に黒い壁、黒い床、窓は磨り硝子の入った上げ下げ戸で、その外側にはやはり黒い鎧戸が閉まっている。左手の壁に暖炉が造り付けられているが、これも黒い石組みの暖炉。中央に敷かれた絨毯だけが二階の居間と同様のくすんだ赤い色で、
――黒に赤……。
――血の赤さ。
この上に、重厚な黒い革張りのソファセットが配置されている。
ソファに腰を下ろす前に、私はゆっくりと室内に目を巡らせた。和洋のキメラ的色合いが濃い玄関ホールとは異なり、この応接間は――隣の前室もそうだが――西洋風の造作が徹底している。ホールを灰色の境界域として、四つの座敷が連なる棟の南部分が和風、北部分が洋風という具合に色分けされているわけだろうか。
天井から吊り下がったシャンデリアには金銀の光沢もなく、これだけの邸宅の応接間を飾るにしては地味すぎるように感じられた。降り注ぐ|橙色《だいだいいろ》の明りも、何だかひどく弱々しい。光よりも闇に[#「光よりも闇に」に傍点]、明らかにこの空間のバランスは傾いている――と、そんなふうにも感じられるが、それはしかし、何もこの部屋に始まったことではない。先ほど昇った〈十角塔〉も含めて、恐らくはこの広大な屋敷全体が、同じような傾きを持っているのだ。
光よりも闇に……。
私はソファに身を沈める。ひんやりとした革の感触に一瞬、かすかな肌の粟立ちを憶えつつ、二階から取ってきた煙草に火を点ける。茶色いフィルターを噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みながら、苦い煙を喉に通す。
肺臓から血中へとニコチンが浸み渡ってもたらす、いまだにあまり心地好いとは思えない眩暈と痺れの中で――。
「『亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか』」
四月の終わりのあの夜、玄児の口から聞いた中原中也の詩の冒頭の一節を、私は何となく声に出して繰り返してみる。
「『亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか』……」
――どうしたの、そんなどろどろになって。
唐突にまた響き上がってくる声。遙か遠い日の、今はもう会うことの叶わぬ人の。
――何をして遊んでいたのです。
――兄のあなたが、そんな……。
「『亡びてしまつたのは』……」
……いや違う。亡びてしまってはいないのだ。だから私は思い出す。だから声が聞こえもする。その気になってめいっぱい手を伸ばせば届くところに、それはある。確かにある。
――|他人様《ひとさま》の家に勝手に入るなど。
十年以上もの時間を隔てた彼方の、これは私の記憶。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
この声の主の、その面差しも、その仕草も、その匂いも……すべてはそこ[#「そこ」に傍点]で固定され、もはやいささかも変容することがない。優しく美しい、冷たく恐ろしい、すぐ近くにいてとても遠い……そんな、複雑なようでいて実はしごく単純な形で。やがてはしかし、それらのすべてを呑み込むようにして、非常な赤黒い炎が燃え上がるのだ。
「……ああ」
呻くような息を落としながら、私は幾度も目をしばたたいた。記憶の中で燃え上がった炎が勢いを増して広がってき、そのまま網膜に像を結んでしまいそうな気がしたからである。――と。
部屋の右手奥の壁面に、私はいま一つの炎の像を見つけた。
記憶の中の炎とはまったく無関係に、それはそこに存在している。そう了解するのに少し時間を要した。瞬きを繰り返しながら視神経を集中させ、そうしてやっと、私はそれが壁に飾られた一枚の絵であることを認めた。
黒い額縁に納められた五十号大の油彩画。
ソファに坐る前に注意深く室内を観察したつもりだったのだけれど、そこにそのような絵が掛かっていることは何故かすっかり見落としていたらしい。黒い|布《クロス》張りの壁面に溶け込むようにしてその黒い額縁はあり、その絵もまた同じような感じで額縁の黒に溶け込んでいた。
|漆黒《しっこく》に塗られたキャンバスを右上から左下へ、斜めに分断した|搗色《かちいろ》の太い線がある。目を凝らすとそれは、闇に浮かんだ一枚の長細い板≠フようにも見える。この板≠突き抜けるようにして、天から地へとほぼ垂直に走る鋭い線。蒼白に銀のきらめきが混じった……あるいは激しい稲妻を思わせるような。
板≠フ右端を下から支えるようにして、痩せこけた土気色の腕が闇から生えている。人間の、見たところ左腕のようだ。具象的な形をもって描かれているのは、この一本の腕と、左上方の空間に飛ぶ一羽の白い鳥だけである。はばたくその翼の、繊細な羽根の先端はわずかに紅く汚れていて、同じ色をした微少な|雫《しずく》をいくつも垂らしている。そして――。
画面の右下四分の一に、深い闇の奥から蠢き出すようにして広がる、不定形の赤=Bある部分は昏く、ある部分は鮮やかに。ある部分は秘めやかに、ある部分は|猛々《たけだけ》しく。
その妖しい緋の色が、私の目には「炎の像」と映ったのだった。が、そこにあるのがそのような構図の絵であると意識して見直すと、必ずしもそれは炎≠ナはないようにも思えてくる。
不思議な絵だな、と感じた。
いったい何を主題に、どのような意図を持って描かれたものなのか。誰か名のある画家の作品なのだろうか。
私はソファから立ち上がり、その絵の前へと足を進めた。そしてそこで、闇に蠢く緋色の炎――のように見えるもの――の下に記された作者の署名を見つけたのだった。
崩し書きされたローマ字が五つ、左から右へと連なっている。目を寄せて、私はそれらの文字を読み取った。――“Issei”。
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夕食の支度が出来たので――と羽取しのぶが呼びにきて、私は応接間から食堂へと移動した。玄児はまだ〈北館〉の方から戻ってきては居なかった。
食堂は前室の西隣に造られた広々とした洋間で、くすんだ紅い絨毯が敷き詰められた真ん中に、長いマホガニー製のダイニングテーブルがどっとりと据えられている。その両端に二人分の食事が用意してあった。
「やあ、待たせたね」
私が席について間もなく、玄児が食堂に入ってきた。心なしか覇気のない声で云って、反対側の端の椅子に向かう。
「さて、腹ごしらえだ。ここの料理人の腕は確かだよ。心配なく召し上がれ」
鶴子ともしのぶとも別に、誰か料理人が雇われているわけか。
「蛭山さんに連絡はついたのですか」
私が聞くと、玄児はナプキンに伸ばしかけた手を止め、ちょっと唇を尖らせた。
「それが、どうも回線の調子がおかしくてね」
「電話が通じない、と?」
「ああ、うん。完全に切れてしまってるわけじゃないようなんだが、受話器を取り上げるなり、やたらと雑音がひどくて……向こうでちゃんと呼び出し音が鳴っているのかどうか。地震のせいで何か不具合が起こったのかもしれないな」
「誰も出ないのですか」
「出ない」
「あの人――蛭山さん、そう云えばなんだか調子が悪そうに見えましたけど」
黙々と舟を操っていた|傴僂《せむし》の玄関番の姿を思い出しながら、私は云った。
湖岸のあの建物の中から出てきて私たちを島に送り届けるまでの間、玄児の言葉に対する返事以外はほとんど何も喋らなかったように思う。私が|挨拶《あいさつ》をしたり礼を述べたりしても、|顰《しか》めっ|面《つら》で黙って頷くだけだった。
「気分が悪くて寝込んでいたりして。それで電話に出られないとか」
「彼が不機嫌そうな顔をしてるのはいつものことだよ。あれは|佝僂《くる》っていう病気だからね。佝僂病の人間はどうしてもああいうふうになりがちらしい」
「確か、何かのビタミンが不足して|罹《かか》る病気でしたよね」
「あろあろな場合があるんだが、そう、ビタミンDの供給不足もしくは吸収低下が原因となるものが典型だろう。日光にあまり当たらないのも良くないっていうが」
「日光に……じゃあ」
私は思わず周囲を見まわす。
この食堂は北側の壁面にだけ、申し訳程度に小さな磨り硝子の窓が並んでいる。その外にはやはり黒い鎧戸が閉まっているのだろう。天気の良い日中であっても、室内に射し込んでくる陽光はきっと微々たるものであるに違いない。
「この建物のせいじゃないか、と?」
玄児が先回りをして云った。
「それは違うよ。彼がこの屋敷で働きはじめたのは十六年ほど前のことだけれども、その時からすでにあの体型だったから」
十六年前と云えば、玄児は十一歳である。その時期の出来事であればもう、彼の記憶の埒内[#「埒内」に傍点]だということか。
「それにね、中也君」
玄児はナプキンを広げて膝の上に載せる。
「ここで生まれ育った者は、かく云う俺も含めて何人もいるが、その中に佝僂の人間は一人もいない。太陽の光は曲者だっていうのは俺の――俺たちの本音だが、だからと云って、子供の頃から四六時中、真っ暗闇の中に閉じこもりつづけてきたわけでもないしねえ。理想型はあるいはそうなのかもしれないが、幸か不幸か……」
「理想型?」
妙な云い方だな、と思って私は首を傾げた。
「ええと、それは」
「まあ蛭山さんは、黙ってても明日の午後には一度島に渡ってくる。昼食はこっちで、ということになっているから。舟の件や何かはその時に話をすればいいだろう。それよりも――。
一番の問題はやはり、明日以降あの青年をどう処遇するかだが、さて」
「お父上には、いま話してきたのですか」
「いや。もう休んでいるようだったんでね。これも明日になってからだ。俺たちも今夜は早めに寝ちまった方が良さそうだな」
東京での玄児の生活は基本的に夜型である。私にしても、夜更かしが|祟《たた》って朝はどうしても遅くなりがちな毎日を送っているのだが、彼はその比ではない。すっかり夜が明けてしまってから眠ることも珍しくないという。もっとも、今回こちらに帰ってきてからはいくぶんそれも改められている様子で、昨夜の熊本の宿では、午前一時を回った頃にはもう寝床に入っていた。
「食べよう。料理が冷めてしまう」
スープは濃厚なポタージュだった。|一匙《ひとさじ》飲んで、玄児は満足げに「うん悪くない」と呟いた。
ランチョンマットの右端に置かれていたスプーンを、玄児に|倣《なら》って取り上げる。茶色い木製のスプーンだった。熱いスープを飲むには、金属製よりもこの方がよい。猫舌の私は、それでもスープ皿を空っぽにするまでに玄児の二倍ほども時間がかかったのだけれども。
用意された食器類の中にナイフとフォークの姿はなく、スプーンの他には黒い塗り箸が一組置いてあるだけだった。料理は洋食が中心だったが、ナイフを使わなくても済むよう、カツレツなどはあらかじめ程よい大きさに切り分けられていた。
料理人の腕は確かだという玄児の弁にたがわず、どの品もなかなかの美味であった。ああこんなに自分は空腹だったのかと、食べはじめてようやく実感した私でもあった。
いつもの調子でグラスいっぱいに注いだ赤葡萄酒を、玄児は心地よさそうに飲んでいる。勧められて私も、少しだけ飲んだ。あまり酒には強い方ではないので、それっぽっちの量ですっかり顔が|火照《ほて》ってしまう。
酔いが回ってきたその勢いも手伝って、私は玄児にいきなりの質問を繰り出した。
「応接間の壁に、不思議な感じの油絵が掛かっていましたね。“Issei”というサインがありましたけど、あれはいったいどういう」
「ふん、あの絵か」
玄児はグラスに葡萄酒を注ぎ足しながら、
「|藤沼《ふじぬま》|一成《いっせい》という画家の作品なんだが」
「藤沼……」
「知っている?」
「――いえ」
「その筋ではかなり高名な幻想画家なんだよ。ああいった抽象度の高い風景画を好んで描く。たぐい|稀《まれ》な幻視の力≠持った天才である、というふうにも云われていて、何故かしら父が大のお気に入りでね。俺はよく憶えていないんだが、何でも昔、父の招きに応じてこの屋敷に来たこともあるという」
「ああ、それで」
「この屋敷には、他にも何枚か藤沼画伯の作品がある。応接間のあの絵の題名は、確か『緋の祝祭』といったっけな」
「ひ……?」
「緋色の『緋』さ。『緋の祝祭』。何とも思わせぶりな言葉だろう」
黙って頷きを返しつつ私は、先ほど応接間で見たあの絵を思い出す。キャンバスの右下で闇から蠢きだしていた炎=\―あれが「緋」か。その「祝祭」なのか。
そのあともしばらく、これといった言葉を交わすこともなく食事を続けた。その間私の頭には、遠い過去の風景を焦がす赤黒い炎と「緋の祝祭」の炎≠ニが、いやに生々しく絡み合いながらまとわりついてきて、なかなか離れようとしなかった。
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食堂には幾度か、給仕のために羽取しのぶがやってきた。おおかたの料理が平らげられ、デザートの果物と|珈琲《コーヒー》を彼女が持ってきてくれた際、
「座敷の彼の様子はどうだい」
と、玄児が訊いた。
「――あ、はい」
例によって何拍子か遅れた答えを、しのぶは返した。
「よく眠っておられるようですけど」
「しのぶさんは、彼の顔に心当たりはないの」
「――いえ、まるで」
「じゃあ、T・Eっていう頭文字には?」
「――それは、あの方の?」
「と思われるんだがね」
しのぶはのろのろと首を横に振る。いかにも心許なげな面持ちだが、べつだん隠し事をしているふうには見えなかった。
空いた食器を載せた盆をもって、彼女がテーブルから離れようとしたところで、玄児がさらに「ところで、しのぶさん」と声をかけた。
「|首藤《すとう》のおじさんは、まだ? |昨日《きのう》出掛けていったきり、帰ってきてないのかな」
首藤というのは初めて聞く名だった。しのぶは足を止めて、
「――はあ、そのようで」
「どこへ行ったのか、知ってる?」
「――わたしはよく存じません。今日の夕方には戻ってこられると伺っておりましたけど」
「そうか。いや、知らないならいいんだ」
しのぶが食堂を出て行くのを見送ると、玄児は膝からナプキンを取り上げて口許を拭った。蒼白い顔面の中で、そうして拭われた薄い唇だけが、妙に赤く艶々として見えた。
珈琲に角砂糖を入れて溶かしながら、それにしても――と、私は思う。
いま話に出た「首藤のおじさん」と云い、先ほど野口医師の口にちらりと上った「伊佐夫君」と云い……いったいこの屋敷には、どれだけの人間が住んでいる、あるいは滞在しているのだろうか。
玄児の父、浦登柳士郎が「当主」として存在していることは間違いない。その妻――玄児を生んだ母親は、ずいぶん昔に亡くなったと聞いている。柳士郎がその後再婚してもうけた、玄児とは腹違いの若い妹たちがいるとも聞いている。だがしかし――。
浦登家の家族構成について私が持っている知識と云えば、いまだにせいぜいその程度のものなのだった。改めて考えてみるまでもなく、この家にはまだまだ私の知らない者たちがいるのだ。
それは使用人についても同様である。
傴僂の玄関番、蛭山丈男。「女執事」とでもいった雰囲気の元看護婦、小田切鶴子。羽取しのぶとその息子、慎太。食事を作ってくれた料理人。この他にも使用人やその家族はいるのだろうか。いても全然おかしくないような規模の屋敷だとは思うが。
その辺のことをここで訊いてみて良いものかどうかと考えあぐむうち、玄児の方が説明を始めた。
「首藤のおじさんはね、『おじさん』と云っても、父や母の兄弟ってわけじゃないんだよ」
「血は繋がった方なのですか」
「まあ、一応のところね。遠縁の親戚は他にも少なからずいて、そこまで含めての『浦登一族』ではあるんだが……」
気のせいか、玄児はあまり愉快ではなさそうな口振りだった。
「俺の母方の祖母は|桜《さくら》という名で、浦登家の一人娘だった。そこで、外から婿を取ったのさ。それが祖父の卓蔵。その卓蔵の妹と云えば、俺の大叔母さんに当たるわけだが、首藤のおじさんはこの大小母さんの子なんだそうだ。首藤|利吉《りきち》っていう」
「お祖父さんの妹さんの……」
云いながら、私は頭の中に即席の系図を描いてみようとする。
「あ、ちょっと待ってください。母方のお祖母さんが浦登家の一人娘――ということは、じゃあ玄児さんのお父上も、外から?」
「ああ。父もまた、そもそもは婿としてこの浦登家に入った人間だった。死んだ母の名はカンナといった。片仮名でカンナ。彼女が詰まり、祖母の桜が産んだ最初の子供だったわけで……」
その後、卓蔵と桜の間に男の子が生まれることはなかったという話か。あるいは、生まれたものの無事に育たなかったのだろうか。
「ちなみに、首藤のおじさんと前妻との間の子が伊佐夫君でね」
「再婚しておられるんですか」
「ずいぶん年下の女と。おじさんは父よりもいくつか若くて、確か五十を過ぎたくらいの年齢だけれども、後妻の彼女はまだ三十前後だったんじゃないかな。|茅子《かやこ》さんといって都会的な美人だ。何かこう、いかにも腹に一物持っていそうな感じもするが」
「伊佐夫さんというのは、さっき野口先生が云っておられた人ですね」
「そう。母とおじさんが|従姉弟《いとこ》の関係だから、俺と彼とは|又従兄弟《はとこ》になる。〈北館〉のサロンで先生と飲んでるみたいだね。俺よりも三つ年下の、自称芸術家。でもって酒には目がない。いつも飲んだくれている。先生にしてみればきっと、嬉しいお仲間なんだろうな」
「その首藤さん親子は、普段からこの屋敷に?」
「いや」
玄児はきっぱりと首を横に振って、
「おじさんの本拠地は福岡の方だよ。あっちで系列の会社をいくつか任されているんだが、何かと口実を設けてはここへやってくるのさ。父のご機嫌伺いにね。茅子さんや伊佐夫君を連れてくることも少なくない。今回はまあ、明日が〈ダリアの日〉でもあるし……」
ああ、また〈ダリアの日〉か。
「で、その首藤さんが、出掛けたきりまだ戻ってきていないと?」
私が聞くと、玄児はおもむろに珈琲のカップに手を伸ばした。砂糖もミルクも入れずに一口|啜《すす》り、鼻筋に皺を寄せながら煙草を銜える。
「彼ら三人はおじさんの車に乗って、三日前からこっちに来ていた。それが昨日、おじさん一人でどこかへ出掛けていったんだ。俺がここを発った時点ではもう、おじさんの車は駐車場になかった。そして今日、君と一緒に帰ってきたあの時も、駐車場には彼の車は見当たらなかった。まだ戻ってきていないのかと考えて当然だろう」
「なるほど」
湖畔に設けられた駐車用の広場の様子を思い出しながら、私は小さく頷いた。今夜このあと首藤利吉が戻ってきたならば、その時はまた蛭山が舟を出さねばならないわけか。
「いったいどこへ行ったんだかな」
呟きながら、玄児は暖炉の上方の壁に目をやる。そこにはかなりの年代物らしい掛時計があった。黒い木枠によって六角形に縁取られた乳白色の文字盤の上で、長短の針が今しも、ぴったりと真上を向いて重なろうとしている。
「しかし、この時間になっても帰ってこないということは……」
六角形の掛時計が午前零時の時鐘を打ちはじめ、玄児は口を噤んだ。予想したよりも控えめで軽やかな音色だった。玄関ホールでなるロングケースクロックの重厚な音響が、ほんの少し遅れて壁越しに聞こえてくる。
「さてと、中也君」
鐘が鳴っている間に残りの珈琲を飲み干してしまい、玄児は椅子から立ち上がった。
「風呂はどうする。焚かせようか」
「ああ、いえ。時間も時間ですし、今夜は遠慮しておきます」
「眠そうな顔をしてるな。もう休むかい」
「――そうですね」
「それじゃあ……」
指に挟んでいた吸いかけの煙草を、玄児はテーブルの灰皿で揉み消した。
「この家は、朝はあまり早くない。もしも先に起きて腹が減ったなら、ここに降りてきて、ほら、そこのボタンを押せば――」
ホールに通じる両開き扉の脇の壁面を、玄児は指さしていた。照明のスイッチが並んだ木製パネルの下にもう一枚、同じようなパネルが取り付けられていて、その中央に真っ黒な円い突起がある。
「それを押せば〈南館〉でベルが鳴るようになっている。誰か使用人が来るはずだから、食べ物を頼めばいい」
「あ、はい。でも、大丈夫だと思いますから。いつも朝はほとんど食べませんし」
「俺の寝室は〈北館〉の二階にあるから、何かあれば……いや、やっぱりあまり一人で歩きまわらない方がいいな。一通り案内するまでは、なるべくこの〈東館〉でおとなしくしているように」
「迷子になる、とでも?」
「ふん。なりかねない」
玄児はわざとらしく唇の端を歪めて、
「恐ろしい怪物が潜んでいるかもしれないぜ。頭が牛で、人を喰う」
「糸玉の一つも用意してくるんでした」
私が澄ました声でそう応えると、玄児は喉の奥でくっ、と笑った。
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四月二十日の夜に遭った例の事故。その時のショックで失ってしまったみずからの過去の記憶を私が取り戻したのは、白山の玄児の家に居候を始めておよそ三週間後――五月も下旬に入ろうかという頃のことだった。
たとえば私をよく知る人物に出会ったとか、再び頭部に強い打撃を受けたとか、そういった、いかにも記憶の回復に直結しそうな事件があったわけではない。決して劇的な変化ではなかった。何となく、徐々に……というのが、振り返ってみて感じる率直な印象なのである。
と云っても、きっかけのようなものがまったくなかったという話ではない。
玄児の許に転がり込んでしばらくの間、私はあまり積極的に家の外へ出ることなく日々を過ごした。外出時には、玄児の面白半分の云いつけで、彼が私のために仕入れてきた黒いソフト帽と黒い上着を着用させられる。それが嫌だったから、というわけでもない。ただ、これといった当てもなく街をうろうろすることに気が乗らなかったのだ。
事故が起こった小石川植物園そばの現場へはもちろん、玄児に連れられて早々に行ってみた。が、「ここがそうだ」「この側溝に君は顔を突っこんで倒れていたんだよ」といくら教えられても、そんな実感は少しも湧いてこなかった。
間をおいて二度目に現場へ足を運んだ時も同様だったのだけれど、その際にふと、近所の民家の庭に揚げられていた|鯉幟《こいのぼり》が目に留まった。五月五日の節句はすでに過ぎていた。お役目を終えて、本来ならばもう暗い納戸の片隅で身を休めているはずのものが……と、なぜだか妙に居心地の悪い気分になったのを憶えている。そして……。
生暖かな風に泳ぐ魚たち。
空には暗い夕焼けが広がっていた。地面に落ちて揺らめく三つの影が、この世の後ろ側に潜む得体の知れぬ異形に見えた。
「どうした、中也君」
傍らにいた玄児が、私の視線を追いながら尋ねたように思う。
「あれがそんなに気になるのかい」
私は何も答えず、帽子の|鍔《つば》を深く下げて道を歩き出したように思う。
頭の中ではその時、お馴染みの童謡を歌う子供たちの声がかすかに響いていた。いらかのなみと、くものなみ……五月五日、|端午《たんご》の節句。
――まあまあ、困ったものねえ。
風にたなびく三つの異形の。……薄暗い座敷の、その一番奥に。
――男の子のくせに、この子は。
黒光りを湛えた|甲冑《かっちゅう》の。冷たい鉄の感触の。……懐かしい|菖蒲《しょうぶ》湯の香りが|仄《ほの》かに、夕暮れの街を包み込んだような気がした。
それから数日後の夜のことだった。
白山の家の居間で、例によって玄児は赤葡萄酒を飲んでいた。私も同じ部屋にいて、観るともなしにテレヴィの画面を眺めていたのだが、そこへ――。
甲高いサイレンと鐘の音が遠くから聞こえてきたのである。消防車の音だ、とすぐに分った。しかも一台だけではない。
どこかで火事が……と思ううちに、音の群れはどんどんとこちらへ近づいてきて、ドップラー効果が発生するよりも前にぴたぴたと止まった。――近くだ。それも、かなり。
「見にいこうか」
云いだしたのは玄児だった。
「こっちまで燃え広がってきそうな大火事だったら困る」
二人して外へ飛び出してみると、何軒か離れたところに建つ民家が炎上していた。風の強さや向き次第では、あるいは真面目に延焼を心配しなければならなかっただろう。
道を塞いだ幾台かの消防車の、赤い回転灯。集まってきた野次馬たちのざわめき。――すでに消防士たちによる放水が始まっていた。玄児は臆する気配もなく現場に向かって足を速め、私はうろたえつつもそのあとを追った。
夜闇を裂いて燃え上がる炎の勢いは激しかった。首尾良く消火活動が進んだとしても、恐らく全焼は免れまい。この家の住人だろうか、寝間着姿の三十女が一人、泣き叫びながら炎の中へ飛び込んでいこうとするのを、消防隊員が後ろから抱きかかえるようにして止めている。
「中に子供が残されているみたいだな」
玄児がそう云った。
「――可哀想にね。この火勢じゃあ、もはや助かるまい」
ぞくっとするほど淡々とした声だったが、続いて吐き落とされた溜息はとても深くて、私は思わず玄児の方を窺った。
火災の炎と消防車の回転灯、質感のまったく異なる二種類の赤い光に照らされた蒼白い顔……そこには、不思議なほどに静かな表情があった。目の前で燃え盛る炎の様子に今、彼は何か別のものを重ねて見ているのではないか。ふとそんなふうに思えた。そして……そう、私も。
それまでどうしても開こうとしなかった、過去の記憶へと通じる門が、その時のその火災の光景と向き合ううち、じりっと動いたような気がした。錆びついた鉄の軋む音が聞こえたような気もした。何だろう、と思う間もなく、開いた門の隙間から赤黒い炎の影が覗いた。瞬間、私は悟った。
これ[#「これ」に傍点」は私の記憶だ。これ[#「これ」に傍点]は――。
幾年もの時間を隔てた彼方の記憶。あの日のあの夜、ちょうど眼前のこの光景と同じように、闇を裂いて燃え上がっていた非情な炎の……。
――駄目だ、近寄っちゃあ。
誰かの声が、すぐそばで。
――危ない。ほら、下がってなさい。
……やはりあれ[#「あれ」に傍点]が、一つのきっかけになったのだろうとは思う。
それで一挙に思い出したわけではない。だから決して「劇的な変化」であったとは云わない。翌日、翌々日……と時間が経つにつれて、私は失っていた己の記憶を徐々に[#「徐々に」に傍点]取り戻していったのだった。
本来の名を知り、出身地を知った。自分がこの三月に地元の高校を卒業したばかりの人間で、四月からは玄児と同じ大学の工学部に在学しているということ。千駄木で下宿生活を始めていたということ。郷里に住む家族や友人たちの名前。地元の資産家である父のこと。むかし死んだ母のこと。三つ年の離れた弟のこと。さらには五月五日の端午の節句――その日こそが、十九年前に自分がこの世に産み落とされた日であったということ、などなど。それらを毎日のように少しずつ――順序立ってではなかったけれど――思い出していったのである。
そうして、問題の事故の前後を除いたほぼすべての記憶が回復した時、五月はもう中旬を過ぎようとしていた。
私は白山の家を出、長らく留守にしていた千駄木の下宿に帰った。荷物をまとめて出ていく際、「|餞《はなむけ》に」と云って玄児が一冊の本をくれた。「昏睡」という例の詩編が収録されている中原中也の選集であった。
本来の住まいに戻ってからは、大学にもちゃんと通うようになった。詳しい事情を説明して必要な単位登録を行ない、講義にも欠かさず出席した。たかだか一ヶ月分ほどの遅れを取り戻すのは、さしたる苦労でもなかった。同期の学生たちとの付き合いもそれなりに出来、コンパや何かにもたまに連れていかれて、人並みに酒を飲まされて|莫迦《ばか》騒ぎに加わったりもした。
一方でしかし、私は白山の玄児の家にもしばしば足を向けた。
しばらくの同居生活で、私が玄児に対してある種の強い親近感・親密感を抱くようになっていたことは確かである。玄児の方も恐らく同様だったのだろう。私が訪れると彼はいつも歓迎してくれ、「何だったら下宿を引き払って、こっちへ越してこないか」とまで云ってくれたのだが、いずいぶんと迷った末に私はその誘いを辞退した。
あの家へ行って玄児に会っていると、私の心の中には、記憶を喪失していた頃と同じようなあの霧が湧き出してくるのだった。妙に蒼白い、妙に冷ややかな、何とも正体の知れないあの霧。それによって自分を取り巻く現実世界の輪郭が曖昧化されてしまうことに、おかしな話だけれど、私は一種倒錯的な心地好さを感じるようになっていたのだが。だから――いや、あるいは……。
玄児は相変わらず私を「中也君」と呼び、雨戸が閉めきられた白山の家は昼なお薄暗かった。私たちはぽつぽつと、けれども飽くことなくいろいろな話をした。「君の中に自分自身の一部を投影してみてしまう」と云っていた玄児だが、私が然るべき記憶を取り戻した後も、そのことに大きな変わりはないふうだった。
ともあれ、こうして私たち二人の親交は続いたのである。春が終わり、|梅雨《つゆ》から夏へと季節は移ろい……そして、その夏も盛りを過ぎた先月下旬のある日――。
「暗黒館っていう異名を持った建物が、九州の山奥にある」
訪れた私に向かって、玄児はやおらそう切り出したのだった。それが他ならぬ彼自身の生家であるということを、その時点ではまだ、私はまったく知らされていなかった。
「あまり|余所《よそ》にはないような、たいそう風変わりな洋館なんだがね。どうだい中也君、行ってみる気はあるかな」
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玄児と別れて〈東館〉二階の客室に戻り、部屋に用意されていた浴衣に着替えたのが午前零時半のことである。横になれば一瞬で眠り込んでしまうだろうと思っていたのだが、ベッドに潜り込むや、何だか目が冴えてきてしまった。肉体の疲れと裏腹に神経は|昂《たか》ぶっている。そういうことか。
しばらくは毛布にくるまってじっと瞳を閉じていたのだけれど、どうにも眠れそうにないので私は身を起こした。
枕許の電気スタンドを点け、サイドテーブルに置いてあった水差しの水で喉を湿らせる。それから煙草を一本、ゆっくり時間をかけて灰にすると、立ち上がって窓のそばへと向かった。少し外の空気を吸いたいと思ったから――。
部屋の奥に設けられたその窓は、他でいくつも目にしたのと同じ上げ下げ式の戸である。窓枠に|嵌《は》め込まれた硝子は例によって磨り硝子で、だから外が暗くても、室内の様子などがはっきりと映り込むことはない。
何となく顔を寄せ、息を吐きかけてみた。濁った硝子の表面に、わずかに水蒸気の曇りが広がる。そのままそこに頬を押しつけてみる。ひんやりと硬い感触が存外に気持ち良かった。
玄関ホールから例の折れ階段を昇ってきて、建物の奥へと廊下を進んだ先に、この部屋はある。位置関係を考えると、この窓は西向き――屋敷の中庭に面しているはずだが。
窓を上げ、外側の鎧戸をそっと押し開けた。
草木の匂いを含んだ湿っぽい外気が室内に流れ込んでくる。雲に覆い尽くされた空、灯火の一つもない庭……夜は恐ろしいばかりに暗かった。果ても知れず広がる闇の中、遠くで近くで風の唸りが聞こえる。木々のざわめきが聞こえてくる。
中庭を挟んで、こちらの棟と向かい合うようにして建っているはずの〈西館〉――〈ダリアの館〉。その輪郭を見出そうとせいいっぱい目を凝らしてみたのだが、叶わなかった。真っ暗で、本当に何も見えないのである。せめて建物から漏れ出る光の一筋でもあれば……。
吹く風は、先刻玄児とともに〈十角塔〉や桟橋を見にいった時よりも明らかに強さを増している。このまま天候が崩れていくのだろうか。どこまで崩れていくのだろうか。――滞在中、私は当然ながら、この屋敷のさまざまな外観をスケッチブックに描き取りたいと思っている。だから、少なくともあまりひどい降雨にはなってほしくないのだけれど。
そのまましばしの間、私は窓辺に立って暗闇と対峙しつづけた。やがて多少目が慣れてきたが、それでも中庭や周囲の建物の様子を見て取ることはできない。ひたすらに深い闇。ひたすらに暗い夜。ひたすらに……。
……ふと。
何やら奇妙な感覚が頭を掠めた。
何だろう、これ[#「これ」に傍点]は。何だろうか、この[#「この」に傍点]……。
今ここに存在するもののあるべき形[#「あるべき形」に傍点]が、ほんのかすかに歪みを帯びたような感じ。目に見えない亀裂が密かに走ったような感じ。秩序だった世界の構造に局所的な揺らぎが生じたような……ああ、どうにもうまく言葉に表わしがたい、これは――この感覚は……。
……何かに見られている[#「何かに見られている」に傍点]?
私は思わず息を詰め、眼球だけを動かして左右を窺った。
何かに……何に? そして、どこから。――この現在進行形の「私」の裏側に、ひょっとするとそれは[#ここから太字](……何が)[#ここで太字終わり]ぴったりと貼り付いていて[#ここから太字](何がこれからここで起きようとしているのか。そんな戸惑いが、ふと)[#ここで太字終わり]……。
奇妙なその感覚はしかし、長くは続かなかった。眼前に広がる異様な闇の圧力がもたらした、それは一瞬の錯覚。妄想めいた短絡。――そうだ。もちろんそうであったに違いない。
ゆっくりと深呼吸をしてから、私は鎧戸を閉めようとした。――と、今度はその時。
ことっ、と背後で物音がした。
吹き込んできた風の悪戯だろうか。いや、それとも……。
こと、とまた。
同じような物音が、確かに背後で響いた。
振り向き、同時に「誰?」と声を発していた。電気スタンドだけの薄暗い明りの中、廊下に通じる黒い扉がわずかに開いていて、それがすっと閉まるのを、私は見た。
「誰……玄児さん?」
はだけていた浴衣の前を掻き合わせながら、私は小走りに扉へ向かった。
部屋の外に首を突き出し、左右に目を配る。すると、左方向に伸びた廊下が突き当たりで建物の奥へと折れるあたりに、ひらりと一瞬、仄白い影が見えた。やはり何者かが、扉を開けて室内を覗き込んでいたのか。
いくらかの躊躇の後、私は「待って」と声を投げかけた。黒い絨毯の敷き詰められた薄暗い廊下に足を踏み出す。
「誰なんですか。何か私に……」
突き当たりの曲がり角まで進んだところで、しかし私は言葉の続きを失った。
折れた廊下は数メートル先で行き止まりになっている。そしてそこには、何者の姿もなかったのだ。
消えた[#「消えた」に傍点]?
そのようにしか思えなかった。
廊下の奥には黒い壁が立ちはだかっている。壁には窓の一つもない。身を隠せるような家具の類も何一つ見当たらない。
消えてしまった? ――まさか。そんなことがあるはずは……。
そこで私は、突き当たりの少し手前右側に一枚の黒い扉があるのに気づいた。――あれか。あの扉の向こうへ逃げ込んだのか。
そろそろとその扉の前まで足を進めた。そっとノックをしてみる。――が、応答はない。
恐る恐るノブを回した。鍵はかかっておらず、扉はすんなりと開いた。
中は真っ暗だった。私は壁を手探り、すぐに照明のスイッチを見つけた。
淡い明りに照らし出されたのは、私が与えられた部屋よりもだいぶ狭い、けれども基本的には同じような造作の客室だった。ベッドが一台あり、サイドテーブルとストゥールがある。奥には上げ下げ式の窓が一つ、これは隙間なく閉まっている。――誰もいなかった。室内のどこかに潜んでいるような気配もまったく感じられない。もしやと思って窓を調べてみたが、きちんと施錠されている。
いったい何がどうなっているのだろう。
私は混乱せざるをえなかった。
さっきのあの物音。閉められた扉。この廊下を曲がっていったあの仄白い影。全部が私の気のせいだったということなのか。さもなくば、あの何者かはここで――この廊下の突き当たりで、文字どおり消え失せてしまったという話になる。だがいったい、そんなことが[#ここから太字](……起こりうるのだ、この館では[#「この館では」に傍点]。そんな確信が、一瞬)[#ここで太字終わり]……いや、やはり気のせいだったのだろう。疲れているのだ、きっと。
外の風はいよいよ強くなってきているらしく、窓から離れた場所にいても、その唸り声を確かに聞き取ることができた。右手の親指と人差し指で眉間の皮膚を摘みながら、私はしばし小さく緩く頭を振りつづけた。
ベッドに戻ろう、と思った。そして無理にでも眠ってしまおう。眠って、今のこの出来事はこの夜に見る夢の中へ溶かし込んでしまおう。――そう。それが良い。
行き止まりの黒い壁に|一瞥《いちべつ》をくれてから、私はのろのろと踵を返す。
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間奏曲 一
眠りに落ちた「私」の現在を離れて、視点≠ヘ建物の外へと滑り出す。漆黒の闇に覆い尽くされた夜の直中、再び|虚空《そら》に舞い上がる。
大きく小さく、激しく緩く、不規則でいびつな旋回運動を続けるうちに視点≠ヘ、あたかもこの世ならぬ何ものかの意思に操られるようにして法則を超える。淀みなく流れつづける|時間《とき》を、ほんの何時間かだけ遡る。そして……。
……暗黒の館が建つ小島。小島が浮かぶ湖。湖を取り囲む深い森。その森の狭間をうねる道、忍び寄る夕闇。そこに――。
一人の少年の姿がある。
年の頃は十二、三か。厚手の白いシャツの上に、紺色のヤッケを重ね着している。坊や刈りにした頭に黒い野球帽、背中にはカーキ色のリュックサックが一つ。靴とズボンは土や泥でずいぶんと汚れていて、急な下り坂を進むその足取りはいかにも|覚束《おぼつか》ない。
視点≠ヘ虚空より舞い降りる。思いつめた面持ちで歩みを続ける少年の中に潜り込み、その現在進行形に寄り添う。
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……九月二十三日、午後五時三十分。
少年は足を止め、腕時計を見る。今年の春、中学に上がったお祝いに父から貰った時計である。
針が指し示したその時刻を見て、
「ああもう、どうして……」
少年は半ば絶望的な気持ちで呟き落とす。
……こんなはずじゃなかったのに。
当初の計画では、今頃はとうに目的を果たして村に戻れていたはずなのに。それがどうして、こんな……。
いくら考えてみても、今さらどうしようもない。どうしようもないといくら分っていても、今さらのようにまた考えてしまわざるをえない。
I**村の自宅を出発したのは、今朝早くのことだった。友だち何人かと近場へハイキングに行くのだ、と家族には告げてあった。
そんな嘘をつくのは少し心が痛んだけれど、他に仕方がなかった。本当のことを云おうものなら、言下に厳しく咎められたに違いないのだから。大人たちは決して分ってくれないだろうが、少年にしてみれば、今日の日のこの冒険≠ヘそれほどに大きな意味を持つものだったのだ。ところが……。
額の汗を拭いながら、少年は上空を振り仰ぐ。
空には相変わらずどんよりと雲が広がっていて、太陽がどの方向にあるのか分らない。生温く湿っぽい風が吹いている。このあとまた天気が崩れてきそうな、嫌な予感がする。
少年は小さく溜息をつき、今度は自分の足許に目を落とす。
雑草だらけの悪路である。昨日までの長雨のせいで、方々に水溜りやぬかるみが残ってもいる。そしてそこに――。
くっきりと二筋、新しく付けられたと思しきタイヤの跡が見て取れる。
今となってはもう、これだけが頼りだった。
村に引き返すことはできない。時間的にも物理的にも、それはもはや不可能な相談なのだ。
このまま先へ進むしかない。この新しいタイヤの跡は、先ほど――と云っても一時間以上前のことになるが――上の道で少年を追い越していった、あの黒い車のものに違いない。だから……。
蒼白く世界を閉ざした濃霧にさんざん翻弄されながら、やっとの思いで百目木峠を越えてきた少年だった。予想外にかかってしまった時間。消耗した体力。胸中で刻一刻と膨らむ不安と焦燥に抗しつつ、蜒々と続く山間の道をさらに歩きつづけてきた。
そんなところへ、あの車がやってきたのだった。
とっさに少年は、道端の木陰に身を隠した。何か恐ろしいものが追いかけてくる。わけもなく、そんな怯えに囚われてしまったのである。どんな人間が乗っているのかを見る余裕はなかった。向こうも恐らくこちらには気づかなかっただろう。
騒々しい排気音を撒き散らしながら、先を急ぐようにして通り過ぎていったあの時のあの黒い車。あれはきっと、例の屋敷[#「例の屋敷」に傍点]に向かう車だったのだ。少年はそう思う。そう信じたいと思う。だから、このタイヤの跡を追っていけば……。
やって来た道をちらりと振り返り、少年は思わず身を震わせる。
今から村に引き返すことなどできはしない。時間的にも、そして物理的にも。
そうだ。もはや引き返すことはできない。このまま先へ進んでいくしかない。あの車のタイヤの跡を追って降りてきたこの道こそが、例の屋敷――『峠の向こうの浦登様のお屋敷』に続く正しい道なのだと、今は信じて進むしかない。それしかない。
少年は再び歩きはじめる。
日没まで、あとどのくらいだろう。一時間? 三十分? いずれにせよ、あまり多くの時間は残されていない。夜が来てしまうまでに何とか辿り着くことができれば、と少年は切実に願う。が、それと同時に――。
無事に屋敷を見つけられたとして、そこに住む人たちは僕を助けてくれるだろうか。家の中に入れてくれるだろうか。
そう考えると、今にも足が萎えそうになった。
――百目木峠を越えてはならぬ。
I**村に住む子供であれば必ず一度は聞かされる、大人たちからの|戒《いまし》めの言葉。
――百目木峠を越えてはならぬ。峠の向こうのあの森に入ってはならぬ。森の中にあるあの湖に近寄ってはならぬ。
村で生まれ育った少年のまわりで、特に強くそう戒めるのは父方の祖母だった。物心ついた頃からずっと、まるで呪文のように繰り返し言い聞かされてきた。
――湖の島には浦登様のお屋敷が建っておる。あのお屋敷に近づいてはならぬ。良いかな。|妄《みだ》りにあそこへ近づいてはならぬ。近づけば恐ろしい災いが降りかかろう。
その禁を破って今朝、少年は一人村を発った。峠を越え、「大猿の跡」と呼ばれる森の湖まで行き、その湖の小島に建つという「浦登様のお屋敷」を自分の目で見てくること、それが今日のこの冒険≠フそもそもの目的だったのだが……。
あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が棲むのだ――と、祖母は大真面目に語っていた。「良くないもの」とは何なのかと少年が訊いてみても、具体的な答えが返ってくることはなかった。祖母は|物怖《ものお》じした顔で、ただかぶりを振るばかりだった。
いったい彼ら[#「彼ら」に傍点]は――屋敷にいるものたち[#「ものたち」に傍点]は、僕を助けてくれるだろうか。それとも……。
心引き裂かれつつも、少年にはこのまま先へと進むより他に|途《みち》がない。
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下り坂が一段落し、さらにいくらか進んだところで、少年は異常に気づいた。タイヤの跡がいきなり大きく左手に|逸《そ》れ、そのまま道の外へ飛び出すようにして途切れているのだ。
「――えっ」
思わず声が零れた。
どういうことだ。何でそんな……。
考えて、あまりに明白なその答えに行き着く前に、少年はそれ[#「それ」に傍点]を見つけた。
生い茂った草木がごっそりと薙ぎ倒されている。そしてその向こうに、汚れた黒い車体が見えた。そこに立ちはだかった|山毛欅《ぶな》の大木に鼻先をうずめ、叢の中に沈むようにして止まっている。
「事故が……」
ハンドルを切りそこねて森に突っこんでしまったのか。単なる運転ミスで? ――いや、そうじゃなくて……。
少年の脳裏にまざまざと蘇る光景がある。
山が、森が、異様な音響とともに大きく身じろぎした。まるで深い眠りを妨げられた太古の巨大生物のように。
……あの時の地震の。
上の道でこの車をやり過ごしたあとしばらくして起こった、あの地震のせいで?
少年は足を踏み出す。薄暗い森の中で機能を停止したその車に向かって、恐る恐る歩を進める。
車は山毛欅の幹に衝突し、大破していた。
五人乗りの乗用車だったが[#ここから太字](……この車は)[#ここで太字終わり]、少年には車種のことはよく分らない。ひしゃげた黒いボンネット。砕け散った全面の硝子。ドアの窓にもあちこち白い罅割れが広がっている。事故車を間近で見るのは[#ここから太字](……この様子は)[#ここで太字終わり]初めてだったけれども、これは相当にひどい有様だなと思った。
運転席を覗き込んでみたが、そこには何者の姿もなかった。硝子の破片が散乱している。血痕のようなものも見られる。後部座席の方には、無造作に丸められた灰色の毛布が一枚あるだけ。人の姿はそこにもない。
少年は車のドアに片手を突き、途方に暮れた顔であたりを見まわす。
どうしたらいい。ここから先、ぼくはどうしたら……。
今ここに誰もいないということはつまり、乗っていた人は、壊れて動かなくなってしまったこの車を捨てて、歩いて例の屋敷に向かったわけか。――そうだ。きっとそうに違いない。
車から離れようとしたところで、少年は足許に何か黄色いものが落ちているのに気づいた。身を屈めて拾い上げてみる。
黄色い、四角い、平たい……それはマッチの小箱だった。振るとかすかに音がする。中身も入っているみたいだ。
何かの役に立つだろうと思って、少年はマッチ箱をズボンのポケットに突っこむ。身を起こし、改めて周囲を見まわす。――と、そこで。
さっきからの何分かでいっそう薄暗さの増してきた森の中にあって、何かしら気になるものが目の隅に引っかかった。
車から少し離れたところ――湿った下草に埋もれるようにして、それ[#「それ」に傍点]はあった。まわりの風景とは異質な……何か気になるもの。否応なしに不穏な予感を抱かされてしまうような、何かとても嫌なもの。|禍々《まがまが》しいもの。決して近づきたくはないもの。
何だろう、あれは。
嫌だ、近づきたくないと感じつつも、少年の足はそちらに向かってしまう。一歩踏み出すごとに、不穏な予感はいよいよ膨らんでくる。
「――あっ」
何歩か手前まで近寄ってみて、予感は確信へと変わった。そこにあるものが何なのか、少年はようやくはっきりと認めた。
「う、うわ……」
倒れ伏した人間の身体、だった。しかも、尋常な状態にはないことが明らかな。
手足が気味の悪い角度に折れ曲がっているように見えた。頭部は夥しい血に濡れ、叩き割られた|西瓜《すいか》さながらだった。捩じ曲がるようにして横を向いた顔。だぶついた頬もひしゃげた鼻も半開きになった口のまわりも……どれも汚い紫色をしている。
「……死んでいる?」
死んでいるとしか見えなかった[#ここから太字](……ああ、これは)[#ここで太字終わり]。ぎょろりと開いて宙を見据える目には[#ここから太字](この男は? ……|間歇《かんけつ》的に疑問が)[#ここで太字終わり]、生気の欠片も宿っていない。しかも……。
次の瞬間には、恐怖が臨界点を越えてしまっていた。度を失った少年の叫び声が、夕暮れの森を長々しく震わせた。そして――。
その声に弾き出されるようにして、視点≠ヘまた虚空に舞い上がる。
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3
[#ここで字下げ終わり]
……九月二十四日、午前四時二十分。
暗闇の中でおもむろに目を覚ました彼[#「彼」に傍点]がいる。視点≠ヘその内側に滑り込む。
目覚めたことは確かだけれど、真っ暗闇で何も見えない。頭は朦朧としている。痺れたように感覚の失せた肉体のあちこちで、それでも鈍い痛みが断続的に|疼《うず》いている。
彼は声を出そうとする。だが、どうしてもうまく発声できない。
誰かに向かって話しかけたいわけではないのだ。ただ自分の声を聞いて、自分自身の存在を確かめたいだけで……なのに。
何も見えない。声も出せない。
僕は今、本当にここにいるのだろうか。……ここ[#「ここ」に傍点]? いったいそれは――「ここ」とはどこなのだろう。
右手の指先を動かそうとしてみた。彼の意志に従ってそれは曲がり、身体に掛けられている布団の温もりに触れた。
畳の匂いがすることに気づいた。
ここ[#「ここ」に傍点]はどこかの家の、どこかの部屋の畳の上。そこに敷かれた布団に、僕はいま寝かされて……。
今度は左手の指を動かしてみた。不快な痛みが手の甲に走る。どうやらその部分に怪我をしているらしい。
ここはどこなのか。どうして僕は今、こんなところにいるのか。どうして僕は、こんな……。
……僕[#「僕」に傍点]?
突然に降りかかる、巨大な疑問。
僕は――「僕」とはいったい……。
彼は思わず[#ここから太字](……何故、そんな)[#ここで太字終わり]小さな身じろぎをする。
……僕は。
……僕の名前は[#ここから太字](そんなことも……という歯がゆさと苛立ちが、おのずと)[#ここで太字終わり]。
朦朧とした頭の中で、彼はのろのろとみずからの記憶を探る。が、しかし――。
ばらばらに散乱したパズルの破片。錆びついてしまった精密機械。整合性を失った数式の羅列。
荒涼とした砂浜に独り、彼は佇んでいる。ゆっくりと打ち寄せてきた波の間に、何かがふと見え隠れする。それに手を伸ばして掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、169-下-1]み取ろうとすると、すぐに波は引いていき……。
何も見えない。声も出せない。けれども耳を澄ますと、深い闇の果てから何か、かすかな音が。
浮力を失った漂流物のように、やがて再び暗い縁に沈み込んでいく意識。その片隅で――。
寄せては返す波の狭間から、不思議な放物線を描いて飛んできたものがある。壊れたパズルのどこかに、これが。この映像と音の断片が。
忌まわしい病の床に伏した彼女の、その顔、その表情、その声……。
……おかあさん。
そうしてまた、視点≠ヘ「私」の現在へと跳躍する。
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第六章 異形の寸劇
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1
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暗黒館を訪れた翌日――九月二十四日の朝、私は誰かの笑い声で目を覚ました。
目覚めの直前のいくばくかの時間、私は夢を見ていた。どんな夢だったのか、具体的な内容はうまく思い出せない。ただ、大まかに分類するなら、それは決して楽しい[#「楽しい」に傍点]夢ではなかったように思える。悲しみや怒り、あるいは恐れといった種類の感情を伴った、そんな夢だったように。
夢の中で私は、それが現実ではないと悟ることもなく、その悲しみだか怒りだか恐れだかに強く囚われて翻弄されつづけていた――ように思える。そうしてそこへ、不意に何者かの声が降りかかってきたのだった。どこか高いところからこちらを見下ろして|可笑《おか》しそうに笑っている、そんな声が。
何だろう。誰だろうか。
疑問とともに私は、夢の底から浮上していった。
意識が己の現在を認識しはじめてから実際に目を開けるまでの間に、いくらかの時間差があった。眠りと覚醒の狭間の、乳白色の濁り水のような曖昧さの中にあって、その間も私の耳は何者かのその笑い声を聞きつづけていた。
透明な硝子細工の鈴が鳴っているような、あるいは小鳥の|囀《さえず》りにも似た。軽やかな、それでいて忍びやかな。――この声は? 誰の。
はっと目を開いた時、視覚がまず捉えたのは黒い天井板だった。私は瞬間、ここは白山の玄児の家なのかと錯覚した。実家の寝室でもなく、千駄木の下宿でもなく……ああいや、違う。ここは違う。ここは……。
ベッドの上で身を起こしたのと、音を立てて部屋の扉が閉まるのとが同時だった。
一瞬の錯誤から解放され、すぐに私は、ゆうべ眠る前に経験した出来事を思い出した。「また?」と心中で呟きながらベッドを飛び出す。いつ降りだしたのだろうか、建物を打つ細かな雨音に、そのとき気づいた。
取るものも取りあえず廊下に出ると、反射的に左方向へ視線を飛ばした。するとそこに――昨夜と同じ曲がり角あたりに、ひらりと何かがなびいて消えるのが見えた。同じ方向から、くすくすと忍び笑うような声が聞こえてきた――ような気もする。
「待って」
夜が明けても、この館の内部に射し込む光は少なくて、部屋も廊下も変わらず薄暗い。寝起きでまだふらふらする足を|縺《もつ》れさせながら、私は敷き詰められた黒い絨毯の上を駆けた。
「待って。誰ですか」
問いかけてみても、返ってくる声はない。
突き当たりを左に折れる曲がり角――そこまで行き着く寸前、何か硬質な物音が薄闇を震わせた。
かた、かたたん……と。
これは? 扉を開閉する音か。折れた廊下の先にある、あの客室の扉だろうか。あそこに逃げ込んだのか、やはり。
昨夜と同様に、そこにある行き止まりの廊下には何者の姿も見当たらなかった。昨夜と同様に、そして私は、突き当たりの少し手前右側にある黒い扉の前に立った。
「ここにいるのですね」
語気を強めて呼びかけた。
「入りますよ」
そろりとノブを回し、扉を開けた。窓の鎧戸の隙間から外の光がわずかに忍び込んできていて、室内は昨夜のように真っ暗ではない。急いで照明のスイッチに手を伸ばしながら、私は中に一歩、足を踏み入れた。――その時。
かすかに聞こえてきた声があった。
くすくすと誰かの忍び笑うような声が。部屋の中からではなく、私の背後から。
驚いて後ろを振り向いた。
廊下には何者の影もなかった。が、それでも声はどこかから聞こえてくる。どこか……どこにも行き場のないはずのこの空間の、いったいどこから。
惑ううちに声はふつりと消え、続いて別の物音がした。何だろうか、くぐもった足音のような響き、それから軋み。これは……。
私の目は、廊下の行き止まりに立ちはだかる黒い壁の方へ吸い寄せられ、そこに釘付けになった。
……この壁か。
客室の扉を離れ、私は半信半疑でそちらに足を進める。
この壁……この向こうから?
一見したところ、何の変哲もない壁であった。
ほぼ全面が、艶のない黒色で塗られた羽目板張りになっている。窓の一枚くらいあっても良さそうな場所だとも思えるのだが、壁面には〈十角塔〉で見たのと同じような古めかしい燭台が、左右に離れて二つ造り付けられているだけ。もちろん現在ではまったく使われることがないのだろう、燭台に立つ蝋燭は一本もない。
この壁に何か秘密があるのだろうか。何か、たとえば抜け穴としか隠し扉とかいったものが?
そんな思いつきを、探偵小説じみた妄想だと切り捨ててしまうわけにはいかなかった。
きっとそうだ、と私は思った。正体不明のものに対する、少なからぬ不安と恐れを心の内に抱きながらも。
きっとそう、この壁の向こうに……。
そして間もなく、私はそれ[#「それ」に傍点]を発見した。右側の燭台の陰に、何やら|曰《いわ》くありげな細いレバーが突き出ていたのである。
多少のためらいを憶えつつも、私はそのレバーに指をかけた。思い切って力を加えるとレバーは縦方向に動き、壁の中で小さな金属音が響いた――と、思う間に。
かた……と音がして、そこに隠されていた扉≠ェ正体を現したのだった。
それまで羽目板の合わせ目もしくは継ぎ目としか見えなかった部分に、大きな隙間が生まれた。右側が手前に|迫《せ》り出し、左側が奥に引っ込む。つまりは壁の中央を回転の縦軸とした動きである。
いわゆるどんでん返し≠フ構造なのだった。左右の端を枠≠ニして残し、可動部分の横幅は一メートル半ほど――壁全体の八割にも及ぶ。高さは足許から大人の身長くらいまで。この、なかなかに大がかりな秘密の回転扉≠フロックを解除するスイッチが、燭台の陰のレバーだったわけである。
奥に引っ込んだ壁の左側に両手を突いて、強く押してみた。存外の滑らかさで、どんでん返しの扉が回転する。
扉の裏側には、こちら側とまったく同じ位置に同じ二つの燭台が造り付けられていた。百八十度回転して裏がこちらを向いたら、そこでまたロックが掛かり、まわりの壁面と同化してしまう仕組みなのだろう。かた、かたたん……という先ほどの物音は、この扉の開閉音だったということか。
廊下と同じ幅の秘密の空間≠ェ、扉の向こうには存在していた。奥行きもそこそこある。鎧戸の閉まった小さな窓が正面上方にあって、外からの光線がわずかに射し込んでいる。
私は息を呑み、足を踏み出した。
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2
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行き止まりの壁の後ろに隠されていた空間には、階下へ延びる秘密の階段≠ェあった。
幅はわりあいに広いが、段差はかなり急だった。下手をして段を踏み外さないよう注意しながら、私はその階段を降りていった。
古い木材と埃の|臭《にお》いに混じって、何かしら甘い、石鹸[#「鹸」の字は旧字体、1-94-74、174-上-5]のような香りが薄暗がりに漂っている。先ほどこの場所へ逃げ込んだに違いない何者かが残していった、これは匂いなのだろうか。
途中の踊り場で百八十度向きを変え、階段は階下の狭苦しい小部屋に行き着く。ここには窓の一つもない。湿っぽい暗がりの中で私は壁面を手探り、やがて扉のノブと思しき突起を見つけた。
回してみると、難なくロックの外れる手応えがあった。壁の一部分が手前に開く。上のようなどんでん返しではなく、普通の片開き扉だった。
「――ここは?」
開いた扉から出たところで、私は思わず立ち止まり、呟いた。予想していたよりも遙かに広々とした空間が、そこに待ち受けていたからである。
畳敷きにすれば優に五十畳はありそうな、洋風の大広間だった。高い天井に吊り下がったいくつものシャンデリア。そのうちの一つにだけ今、光が灯っている。広さに対して光量が少なすぎるため、空間全体はやはり薄暗い。
「ここはいったい……」
昨日この屋敷を訪れて以来、まだ入ったことのない部屋の一つ、であった。少なくとも〈東館〉一階のどこかであることは確かだろう。
床には一面、黒と赤茶色の市松模様を描いて正方形の木製タイルが貼られている。片側の壁面に並んだ窓は、例によってすべてに黒い鎧戸が閉まっている。天井には、ちょうど広間を二分割するような形で|欄間《らんま》が通っていた。細密な透かし彫りが入った凝った作りのものだが、当然のようにこれも黒く塗られている。
[#図は底本175ページ上段いっぱいのサイズ]
私が出てきた扉のある壁面は、床と同じような市松模様の木製タイルで装飾されていた。こちら側にはノブのようなものはない。閉めてしまえば、二階の隠し回転扉≠ニ同様、巧みなカムフラージュによってまわりに溶け込んでしまうが、おそらくどこかにロックを外す仕掛けが隠されているのだろう。たとえばタイルの一枚がスライドするようになっていて……とか、そういった類の。
ざっと見渡したところ、部屋には誰もいないようだった。ここからさらに、どこかへ逃げ去ってしまったのだろうか。
「誰なのですか」
黙っていられなくなって、私は姿の見えぬ相手に問いかけた。
「どうして私に……」
調度類のほとんど置かれていないだだっ広い空間に、声は虚しく反響する。私は鈍い足取りで部屋を横切り、廊下に出るものと思われる両開きの扉へと向かった。――と、そこで。
「中也さま」
そんな声が突然、薄暗い大広間の空気を震わせたのである。
「中也さま……ふふっ」
同じ声だ、と感じた。先ほど夢から覚める際に聞いた、あの笑い声と同じ。透明な硝子細工の鈴が鳴っているような、あるいは小鳥の囀りにも似た……そんな色の声。
私は足を止め、あたふたと声の出どころを探した。
この部屋のどこかから、それは確かに聞こえてきた。誰もいないように見えるこの広間の、いったいどこから……。
「ここよ、中也さま」
何やら悪戯っぽい調子で、さらに声が。
「こっちよ。ふふ」
私の視線はそして、欄間の向こう側――こちらから見て部屋の一番奥まった場所に置かれている、一枚の|衝立《ついたて》を捉えた。和風の衝立障子だけれど、そこには黒字にくすんだ紅色の線で何か抽象的な模様が描かれており、こういった洋風の広間にもしっくりと馴染んでいる。
声は、その衝立の影から聞こえてきた。
「中也さま……うふふ」
女性の声だった。昨日この屋敷で会った小田切鶴子や羽取しのぶとは明らかに異なる、もっと若い女性の。
「誰、ですか」
相手の声と言葉をはっきり確認できて、それまで感じていた不安と恐れがずいぶんと薄らいだ。気味の悪いことに変わりはないが、少なくともそこにいる彼女は、私に対して敵意や害意を持っているふうではない。
「この家の人、ですね。どうしてこんな」
「はじめまして、中也さま」
私の問いかけを遮って響いた、悪びれた様子もない初対面の挨拶。同時にその声の主の顔が、衝立の向かって左側の縁からひょこりと現われた。身体を衝立の影に残し、首だけを斜めに突き出したような格好で。
薄明かりに仄白く照らし出され、それは美しい少女の顔だった。背景の漆黒に溶け込んでしまいそうな黒髪をわずかに揺らめかせながら、
「はじめまして」
と、彼女は挨拶を繰り返した。
「びっくりさせちゃったかしら」
「あ……いや」
私がうろたえ、返す言葉に詰まるうちに、少女の顔はひょいと衝立の向こうに消えてしまう。
「あの、あなたは」
「はじめまして、中也さま」
同じ声がまた響いた。見ると、今度は衝立の反対側――右側の縁から、今さっきと同じように同じ少女の顔が覗いている。
「はじめしまて」
繰り返して、少女は口許に微笑を含んだ。
「びっくりさせちゃったかしら」
「あなたは?」
私は衝立に向かって歩を進める。
「二階の、私の部屋に来ましたよね。どうしてそんな……」
少女は微笑を顔全体に広げて、
「玄児兄さまが云ってらしたわ。中也さまは素敵な方だって。だから、ね?」
最後の「ね?」は、何故かしら彼女が身を隠している衝立の陰に向かって投げかけられたように思えた。それをちょっと訝しく感じつつも、
「『玄児兄さま』――ということは、あなたは玄児さんの」
「妹の|美鳥《みどり》。美しい鳥って書いて美鳥よ。よろしくね、中也さま」
玄児には、彼とは腹違いの若い妹たちがいると聞いている。そのうちの一人が、この少女なのか。
何と応じたものか考えあぐねるうちに、少女――美鳥は、またしても衝立の後ろに顔を引っ込めてしまった。
「どうして隠れるのですか。それに――」
私は衝立との距離を縮めながら、
「何もこっそり部屋を覗きに来なくたって」
「中也さまは、そうねえ、|木菟《みみずく》かしら」
唐突な言葉とともに、今度は再び衝立の左側から少女の顔が現われた。
「木菟?」
私は少々面喰らって、
「何ですか、それは」
「そんな感じなんですもの。第一印象。ね?」
「私が、木菟ですか」
「木菟って、猫みたいな目をしてるの。おっきくてきれいで、あたし大好き」
そこでまた、少女は衝立の後ろに引っ込む。そうしてすぐさま反対側から顔を覗かせ、
「鶴子さんは|狐《きつね》よね。銀狐。そんな感じでしょ」
「――ううん」
「しのぶさんは|家鴨《あひる》ね。慎太くんは鼠で、野口先生は|熊《くま》さん。蛭山さんは、やっぱり|蛙《かえる》かしら。ぴょこぴょこしてるでしょ、歩き方とか」
「ははあ……」
こんなふうにしてまわりの人間を動物の名に|喩《たと》えてみるのが、どうやら彼女の得意とするところらしい。この私が木菟だという「第一印象」は、はて、どんな気持ちで受け止めるべきなのだろうか。――ともあれ、何だか妙な会話の流れに引き込まれてしまった。
「玄児さんは、じゃあ何なのですか」
と、そんな質問をこちらからしてみた。すると、少女は待たしても衝立の後ろに隠れてしまい、一秒と間をおかず反対側からひょこりと顔を出した。
「玄児兄さまはねえ、|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、178-下-17]鼠《むささび》」
「|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、178-下-18]鼠《むささび》? いきなりまた変わった動物が出てくるんですね」
私は思わず頬を緩めながら、
「見たこと、あるのですか。このお屋敷の庭に生息しているとか」
「ここにはいないわ。図鑑で見たの。前脚と後脚の間に幕を張って、木から木へ飛ぶのよ。何十メートルも飛ぶの。凄いでしょ」
「玄児さんも、飛ぶのですか」
云ってしまってから、つまらない軽口だなと反省した。が、少女は愉快げにくすっと笑って、
「まさか。見た感じの印象。ね?」
最後の「ね?」がまた、衝立の陰に向かって投げかけられたように見えたもので、やっと私は思い至った。ひょっとしてこの衝立の後ろに、何者かがもう一人潜んでいるのではないか、と。
「誰かそこにいるのですか」
私は訊いた。
「さっきから、何だか……」
「いるのはね、美鳥」
と、少女が答えた。私は首を傾げながら、
「美鳥って、それはあなたでしょう」
「あたしは|美魚《みお》よ、中也さま。美しい魚って書いて美魚。よろしくね」
微笑んで会釈する少女の顔を、私は呆気にとられて凝視する。さっき自分のことを「美鳥」だと云った少女の顔と、それは何から何まで同じ造りをしている。唇から零れ出る声の色もまるで同じだ。なのに……ということは?
「美鳥はあたし」
と声がして、衝立の右側からもう一人の顔が突き出された。左側からは「美魚」と名乗った少女の顔が覗いたままである。同時に現われた彼女たち[#「彼女たち」に傍点]の二つの顔は、やはり何から何までそっくりだった。
「双子、だったのですか」
ようやく納得しつつ、私は衝立の左右に視線を往復させる。
右側が美鳥。左側が美魚。
瓜二つの顔の作りからして、二人は一卵性双生児の姉妹に違いない。どちらが姉でどちらが妹なのかを尋ねてみようかと思ったが、ここでそれを知ってもあまり意味がないような気がして、やめた。
年の頃はまだ十代半ばだろう。おかっぱにした|艶《つや》やかな黒髪。くすんだ黄赤の布地がさっきから、ちらちらと衝立の縁に見え隠れしているのだけれど、それはどうやら和服の袖らしい。しかし一方で、彼女たち姉妹の面立ちの美しさには、どこかしら西洋の|骨董人形《アンティークドール》めいた怪しさが感じられた。
「玄児兄さまからあたしたちのこと、聞いていらっしゃらないの」
左側――美魚の方が訊いた。
「妹さんたちがいるっていうのは知らされてましたけど、双子だとは」
「びっくりさせちゃったかしら」
最初と同じ質問をされて、私は寝起きで乱れたままの髪を撫でつけながら苦笑し、「いろいろと、まあね」と答えた。
「目が覚めたら誰かが部屋に来ていて、追いかけたら行き止まりの廊下で消えてしまって、あんな秘密の扉や階段があって、それで見つけたのがあなたたちなんだから、そりゃあびっくりもするでしょう」
姉妹は同時に「うふふ」と悪戯っぽく笑う。
「ああいう仕掛けが、この屋敷には他にもあるのですか」
尋ねると、姉妹は白い頬に同じ微笑を湛えて、
「いくつもあるわ」
「面白いでしょ」
「ゆうべ遅くにも、私の部屋を覗きに来ませんでしたか」
重ねてそう尋ねてみた。ところが、これには二人ともきょとんと目を円くして、
「知らないわ」
「あたしたちじゃないわ」
「そうなんですか。じゃあ……」
よもや気のせいであったはずはない。昨夜も確かに何者かが私の部屋へやって来、二階のあの廊下で姿を消した。先ほどのあの秘密の回転扉≠抜けて逃げたのだ。この家に住む者ならば恐らく、誰もがあの仕掛けの存在は知っていることだろう。だとすれば……。
「きっとそれ、|清《きよし》くんよね」
そう云ったのは、右側――美鳥の方だった。
「そうね。清くんね、きっと」
と、美魚が相槌を打つ。
「珍しいお客さまがいらっしゃると、いつも様子を伺いにいくみたいだもの」
「好奇心旺盛だから、あの子」
自分たちのことはすっかり棚に上げて、姉妹は衝立の左右で言葉を交わす。私は訊いた。
「その、清君っていうのは」
「ええとね、あたしたちの|従弟《いとこ》の男の子で」
「|望和《もわ》叔母さまと|征順《せいじゅん》父さまの子供。あたしたちより七つ年下で……」
「と云うと、まだ小学生?」
「そうね。学校は行ってないけど。でも、それはあたしたちも一緒」
「学校、行っていないわけですか、あなたたちも」
あるいは彼女たちにとって、それはあまりされたくない質問だったのかもしれない。
「学校はね、駄目なの」
「行けないの」
二人の表情が若干、|物憂《ものう》げな翳りを帯びたように見えた。
「でもね、お勉強は二人でもできるし」
「征順叔父さまや玄児兄さまも、いろいろ教えてくださるし」
「図書室にたくさん本もあるし」
「だからいいの、学校は」
どう話を続ければよいものか、私はまた考えあぐねた。清、望和、征順――この浦登家の屋敷に住む者たちのうち、新たに三人の名前が判明したことになるが、さて、ここでこれ以上、家人に関する情報をこの姉妹から聞き出すべきなのかどうか。
たとえば、この姉妹の産みの母親――玄児の生母が亡くなったあとに浦登柳士郎が再婚した相手――は? 当然ながら、彼女も今この屋敷に住んでいるわけなのだろうが……。
「清君っていうその子は、動物で云えば何になるのです」
半ば冗談めかした調子で、私は訊いた。この場ではあまり話を広げてしまわない方が良いだろう、と判断したのである。
「お猿さん」
と、美魚の方が答えた。すかさず美鳥が、
「皺くちゃのお猿さんよ、清くんは」
と付け加える。
「中也さまもあってみたら分るわ」
「じゃあ、望和さんと征順さんは」
「叔母さまは|蜻蛉《とんぼ》。赤蜻蛉ね。だけど羽根が破れていて、空は飛べないの」
「叔父さまは|鷹《たか》とか|鷲《わし》とか、そんな感じ。だけどやっぱり、飛べないの」
「猿に蜻蛉に鷹……ですか」
まだ会ったことのない三人の容貌を漠然と想像してみながら、私は「それじゃあ」と言葉を繋げた。衝立の左右からこちらを見つめる姉妹の美しい顔を交互に見やって、
「美鳥さんと美魚さん、あなたたちは?」
そう尋ねたのは、その状況でのごく自然な成り行きだったと思う。
「自分たちは、どんな動物に」
「あたしたち?」
「あたしたちは……」
揃って小首を傾げる姉妹の瞳に、気のせいだろうか、何かしら妖しげな光が浮かんだ。それぞれに言葉を切ると、そのまま二人してすうっと衝立の影に姿を隠してしまう。
私は思わず一歩、衝立に近づいた。
「あたしたちは」
「あたしたちはね」
同じ色の声がほんの少しずれて、衝立の向こうから聞こえてくる。くすっ、というかすかな笑いが洩れたかと思うと、続いて今度は、ぴったりと重なった二つの声がこう告げた。
「あたしたちは|蟹《かに》よ」
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3
[#ここで字下げ終わり]
姉妹のその言葉には意表を衝かれた。
何故に「蟹」なのか。どこが「蟹」だというのだろうか。――何と応えたら良いものか分らず、不思議な気持ちで私は、衝立の前に佇んだ。
外ではやはり雨が降っている。音を聞く限り、それほど強い雨脚ではない模様だけれど、時折りそこに混じる甲高い風の唸りは、何やら嵐の到来を予感させもする。
かさりと|衣擦《きぬず》れの音がして、衝立の左側から美魚が顔を出した。
「あたしたちはね、蟹なの」
そう繰り返して彼女は、衝立の縁からそろりと右手を覗かせた。くすんだ黄赤――|杏子色《あんずいろ》の着物の袖が、その動きに合わせて揺らめいた。
「ええと、つまり――」
私はしどろもどろで言葉を探し、
「あなたたち二人ともが、その、蟹なのですか」
「そうよ」
「どうもぴんと来ないな。何で……」
「あたしたち、二人合わせて蟹なの。ね?」
衝立の後ろに向かって投げかけられた最後の「ね?」に答えて、「そうよ」と美鳥の声が返ってきた。私は反射的に衝立の右側へ目をやったが、彼女の顔はでてこない。
それにしても、「二人合わせて蟹」とは? ――いよいよ分らない。いったいどういう意味なのだろうか。
そんな私の疑問はしかし、その数秒後、大いなる驚きとともに解消されることとなったのである。
顔と右手に続いて、美魚の身体の他の部分が、静かに衝立の陰から姿を現わした。小柄で|華奢《きゃしゃ》で、どこかしら浮世離れして美しい少女だった。杏子色の|絣《かすり》の着物に濃紺の|兵児《へこ》帯。まっすぐに切り揃えた黒髪の下から、妖しげな光を湛えた黒目がちの目が私を見つめる。西洋の骨董人形のような、という最初の印象は、それでもなお変わらなかった。
同じようにして美鳥の方は、衝立の右側から出てくるのだろう。考えるともなしにそう考えていた私だったのだが、予想はすぐに裏切られた。
先に現われた美魚が、そのまま|摺《す》り足で真横へと移動していった。そうしてそれに引っ張られるようにして、同じ衝立の左側から美鳥が姿を現わしたのである。
「よろしくね、中也さま」
「よろしくね、中也さま」
二人の口から同じ声が発せられ、二人揃ってぴょこりと会釈をした。
「あたしたちはね、二人で一人なの」
「あたしたちはね、二人で一人なの」
並んで立った姉妹の、その姿、その動きを見、何とも云えぬ違和感をまず覚え、ちょっと遅れてその違和感の正体を悟った時……。
私は一瞬、これはいったい何の冗談だろうかと思った。
同じ出で立ちをした同じ顔の姉妹。同じ背丈のほっそりとした身体――その、脇腹から腰にかけての一部分が、互いにくっついたまま少しも離れようとしないのだ。よく見ると、彼女たちの着物はそこでしっかりと縫い合わされている。ああ、これは何なのだろう。これはいったい……。
……シャム双生児。
そんな言葉が、私の持つささやかな知識の中から探り出された。
本来二つの独立した個体となるはずであったものが、母体の中で何らかの間違いが起こり、肉体の一部が癒着した形で、あるいは肉体の一部を共有した形で生まれ出てきてしまった双子。そのような先天|畸型《きけい》が存在するという話を、何かの書物で読んだ記憶がある。それが「シャム双生児」とか「シャム双子」とかいう名称で呼ばれるようになったのは、シャム国――現在のタイでかつて生まれたその種の畸型の兄弟が、世界的に有名になって以降のことだというが……。
いま私の目の前にいるこの姉妹。これがその、シャム双生児なのか。
それぞれに二本の腕と二本の足を持ちながらも、彼女たちの胴体は一繋がりになっている。美魚の左側の脇腹から腰のあたりと美鳥の右の脇腹から腰のあたりが、その部分で完全に結合してしまっているのである。
「ね、蟹でしょ」
あとから現われた美鳥の方が、それまでと変わらぬ口調で云った。
「びっくりした? 中也さま」
彼女たちには左右に四本ずつ、全部で八本の手足がある。確かにそう、これは「蟹」だ。「二人合わせて蟹」――その言葉どおりではないか。
驚きと恐れと、見てはいけないものを見てしまったような後ろ暗さと。混乱する感情をどう鎮めて良いやら分らず、私はおろおろと視線を伏せた。
ところが、塔の彼女たちはと云うと、まったくあっけらかんとしたものだった。こちらの様子を可笑しそうに眺め、時折りくすくすと笑いを漏らしながら、口々に軽やかな言葉を放つのである。
「やっぱりびっくりした?」
「驚かせちゃってごめんなさいね、中也さま」
「変わってるでしょ、あたしたち」
「でも、生まれた時からずっとこうだから、別にどうってことないの」
「何でも二人で一緒にするのよ」
「寝る時も一緒だし」
「お風呂も一緒だし」
「あんまり狭いところは通れないけれど……」
「ね、中也さま。だからよろしくね」
「よろしくね、中也さま」
何とも応えられず、その場に立ち尽くす私であった。二人はちょっと首を傾げて口を噤んだが、そのうち足並みを揃えて私の傍らを通り過ぎ、広間の中央へと歩み出て行った。仄かに、さっき秘密の階段の暗がりで嗅いだのと同じ甘い香りがした。
「このお部屋、今は何にも使われてないけれどね、昔は舞踏室だったんですって」
双子の片方――美鳥の方だろうか――がそう云って、暗い室内をぐるりと見まわした。
「いろいろな人が招かれて、パーティが開かれて……お父さまやお母さまも、ここで踊ったんですって」
「あたしたちが生まれるよりずっと前のこと」
「素敵よねえ」
「素敵ねえ」
そして二人は、まるで幻の楽団がそこにいて弦の音を奏でてでもいるかのように、ぴたりと息のあった動きで奇妙なステップを踏みはじめるのだった。半ば途方に暮れつつも私は、シャム双生児の美少女姉妹が踊るその不思議な舞いを、息を詰めて見守っていた。
やがて彼女たちが動きを止め、こちらを振り向いた。同じ色を湛えた四つの瞳が、まっすぐに私を見つめる。私はひどく緊張してしまい、またしてもおろおろと視線を伏せた。
「中也さま」
と、片方――今度は美魚の方だろうか――が声をかけてきた。
「あのね、それ」
そう云って、彼女は私の足許を指さす。私は何だかわけが分らず、「はい?」と首を捻った。
「ほら……履物は? 中也さま」
「――あっ」
云われて足許に目を落としてみて、やっと私は気づいたのだった。自分が靴を履いていないことに。目覚めてベッドから飛び出して、靴を履くのも失念したまま廊下を駆け、ここまでやって来てしまっていたのか。
「あ、いや、これは」
頬が赤らむのが分った。我れながら、何とも間の抜けた話である。
「ええと、その……」
|狼狽《ろうばい》する私を楽しげに見据えながら、姉妹は美しい二つの顔に悪戯好きの妖精めいた笑みを広げる。
「それじゃあね、中也さま」
と、美鳥が云った。
「またあとでね、中也さま」
と、美魚が云った。
私がそれに応えるよりも早く、彼女たちは一つに繋がった二つの身体を器用に翻し、まるで乱れるところのない足取りで広間から出ていった。
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「……は、どう……」
得体の知れぬ声がかすかに聞こえてきて、はっと我れに返った。美鳥と美魚の双子姉妹が立ち去ったあともしばらくの間、半ば茫然と衝立のそばに佇んでいた私であった。
「……てく……い……」
いったい何を云っているのか、ほとんど聞き取れない。どこから聞こえてくるのかもよく分らない。ただ確かに、罅割れたような掠れたような、妙な響き具合で伝わってくるその音の連なりは、誰か人間の――恐らくは男性の――声だった。
姉妹が出ていって、この広間――舞踏室には私しかいないはずだった。それとも、何者かがまだどこかに潜んでいるのだろうか。
私は改めて室内を見まわし、さらには先ほど姉妹が隠れていた衝立の後ろも覗き込んでみた。――誰もいない。妖しいものは何も見当たらない。
何だったのだろう、今の声は。
静かに部屋の中央まで進み出、そこで耳を澄ましてみた。だが、声はもう聞こえてこない。外で降る雨の音が、がらんとした薄暗い空間の静寂を包み込むばかりである。
気のせいだったとは思えない。あるいは、そう、どこか別の部屋での話し声が、ここまで洩れ伝わってきたのだろうか。明治時代に建造されたという古い建物だ、そんな現象が起きてもおかしくないのではないか――。
後ほど玄児に訊いてみようと決めて、私は舞踏室をあとにした。
部屋を出てみてやっと、自分の現在位置を把握することができた。
〈東館〉玄関ホールの奥から北に延びる板張りの廊下、その西側に舞踏室はあった。廊下を挟んだ向かいに、昨日夕食を摂った食堂がある。私が泊まっている客室は恐らくこの真上だろう。冷静に位置関係を整理して頭の中で平面図を描いてみれば、さほど複雑な間取りでもないことが分る。
玄関ホールに置かれた例のロングケースクロックの針は十時半を示していた。「この家は、朝はあまり早くない」と玄児は云っていたけれども、今のこの時間だと、家人たちのうちのどれほどがすでに起きて活動をはじめているのだろうか。
いったんホールの折れ階段へと向かいかけたところで、思い直して廊下に引き返した。この廊下をまっすぐ行った突き当たりに、手洗いや浴室が並んだ一面がある。裸足のままうろうろするのも少々気が引けるが、先に顔だけでも洗ってしっかり目を覚ましてしまおう。そう考えたのである。
洗面台の蛇口から出る水は冷たく清らかだった。玄児から聞いたところによると、島には井戸も掘られているが、この水はそれとは別に、湖の裏手の森にある清流から汲み上げたものを、湖底に管を通して島まで引いてきているのだという。
ちなみにこの屋敷の電力だが、建造当初は自家発電にのみ頼っていたらしい。廊下の燭台などはその当時の名残りなのだろう。もっとも、電力会社からの供給もかなり早い時期から始まっていたそうで、この辺鄙な山奥の一軒家まで……と驚きたくなるところだが、その辺はまあ、昔から浦登家が持ちつづけてきた、各方面への影響力・発言力の大きさの|賜物《たまもの》だということか。
洗面台の上方の壁面には、観音開きの木製扉が付いた四角い鏡があった。最近になって取り付けられたものらしい。内装や他の調度類に比べて、それだけがいやに新しい品であることに、このとき一瞬だけ、ささやかな違和感を覚えた。
小豆色に塗られたその扉を開くと、五、六十センチ四方の大きさの、別に何の変哲もない鏡が現われる。水に濡れた自分の顔をそれに映してみながら、私はふと、先刻の姉妹の言葉を思い出す。
――中也さまは、そうねえ、木菟かしら。
そんなふうに云ったのは、あれは美魚の方だったと思う。こちらから見て左側の……それはつまり、彼女たちにしてみれば自分たちの右半身、ということになるわけか。
――木菟って、猫みたいな目をしてるの。おっきくってきれいで、あたし大好き。
右半身が美魚、左半身が美鳥。
――あたしたちはね、二人で一人なの。
「木菟、か」
呟いて、鏡に映った顔を睨みつける。
どちらかと云えば色白で、確かに目は円くて大きい。唇はちょっと厚めで小さく、頬はほっそりしているが顎は尖っておらず……。
こうして改まって自分の顔を観察してみるなど、普段の生活ではめったにあることではないので、何だか妙な気分だった。白山の玄児の家には、そう云えば鏡台はおろか、こういった洗面所の鏡すらもなかったように思う。
寝癖で乱れた髪に手櫛を通しながら、まばらに生えた顎の|髭《ひげ》を撫でる。|髭《ひげ》はまったく薄い方なので、二日や三日放ったらかしにしてもいっこうに気にならないのだが、今日はあとでもう一度来て、ちゃんと剃ることにしようか。
……それにしても。
私はぼんやりと思いを巡らす。
ここに来てまだ一日と経っていないのに、ずいぶんといろいろな出来事があったものだ。霧深い峠を越えてようやく屋敷に到着したと思ったら、続けざまに二度も地震が起こり、正体不明の墜落者に出くわし、曰くありげな秘密の通路を見つけたかと思えば、美しい異形の双子姉妹に出会い……。
何やらとんでもないところに招かれてきてしまったみたいだ――と、今さらながらに思う。むろん、だからと云って招いた玄児に必要以上の不信感を抱いたり、やって来たこと自体を真剣に後悔したり、などというつもりはないのだけれど。
ここにはきっと、いまだ私の知らない秘密がたくさん存在する。それは確かだ。そしてきっと、私はこの何日かの滞在期間中に、それらの秘密の正体を――すべてではないかもしれないが――嫌でも知らされていくことになるのだろう。そんな気がする。
この館の秘密、この家の謎……。
想像の翼を広げようとすると、何とも物恐ろしいような、後ろめたいような、それでいて楽しみなような……ひどく分裂した感情が入り雑じって乱れ舞い、胸を昏くざわめかせた。
この春、件の事故で記憶を喪失していた頃と同じような、あの蒼白く冷ややかな霧の中にまた、私はいる。曖昧化した現実世界の輪郭の、もしかしたらその外側にまで今、私は滲み出してきてしまっているのかもしれない。ともあれ――。
まだまだお話しは始まったばかり、ということのようである。
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第七章 惑いの檻
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二階の部屋に戻ると、とにもかくにも|身繕《みづくろ》いを済ませた。ちゃんと靴も履いた。雨の降り具合はどんなものだろうかと気になって、昨夜と同じように中庭に面した窓辺に向かう。磨り硝子の窓を上げ、黒い鎧戸を押し開いた――その途端。
私は思わず片腕を上げて目の前にかざし、一歩あとずさってしまった。それほどに、外の光が眩しく感じられたのだ。
時刻はもうすぐ午前十一時になるところだった。が、とてもそうとは思えないくらい暗く陰鬱な風景が、低い曇り空の下には広がっている。それをそんなに眩しく感じてしまったのは、云うまでもないことだが、この館の内部空間がいかに「光よりも闇」への傾きをもって閉じているかの|証《あかし》だった。
光に目が慣れるのを待って、私は窓のそばへ進み出る。流れ込んでくる湿っぽい空気を深く吸い込みながら、昨夜は闇に塗り潰されて何も見えなかった外の様子を見渡す。
広大な中庭、そしてそれを取り囲む建物……何もかもが降る雨に濡れそぼっていた。
決してよく手入れされているとは云えない、むしろ「荒れ果てた」と云ってしまいたくなるような庭である。かつては立派な西洋風の庭園が造られていたのかもしれない。その形跡はかろうじて見られるものの、現在ここから見下ろせるのは、少々大袈裟な云い方をすればまるで神に見放されたような、ひどく|荒《すさ》んだ風景だった。
草木の緑よりも、ぬかるんだ地面の色の方が目立つ。立ち枯れてしまっている庭木も何故かしら少なくない。全体として、それらには「黒々とした」という形容こそがふさわしいようにも感じられる。
周囲の建物も同様であった。〈北館〉〈西館〉〈南館〉――三つの棟の姿がここからは多かれ少なかれ窺えるのだが、各々に意匠や構造の差異を持つそれらも、こうして見渡すとやはり、「黒々とした」という単一の言葉の中に塗り込められてしまいそうになる。
「……暗黒館」
この屋敷に付けられた怪しげな異名を、私は知らずに口に出して呟いていた。そして――。
窓枠に手をかけ、ちょっと外へ身を乗り出すようにしながら、私は観察の目を部分≠ノ向ける。
中庭を挟んだ正面に見えるあれ[#「あれ」に傍点]が、〈西館〉――〈ダリアの館〉か。四つの棟の中ではこの〈東館〉と並んで古い建物だと玄児は云っていた。建造以来「当主用」として使われてきたそれは、「この屋敷の、ある意味で中心と云える建物」なのだとも云っていた。あれが……。
こちらと同じ二階建ての洋館だけれど、向かって左――南よりの端には、急勾配の方形屋根を載せた塔屋が突きだしている。屋根のてっぺんまでの高さは四階分くらいで、これは昨日、中にも入ってみた〈十角塔〉と同じほどのものだろう。
壁面はおおむね、爬虫類の皮膚を思わせるような例の黒海鼠[#「黒海鼠」に傍点]である。そこに黒枠の小さな窓がぽつぽつと並び、窓には黒い鎧戸が閉まり、屋根に葺かれた瓦やスレートも当然のように黒。塔屋部分の壁は漆喰のようだが、何から何まで黒一色の外装であることに変わりはない。窓枠や鎧戸はだいぶ塗りが剥げてきているようで、そこへ地面から這い伸びた|蔦《つた》がびっしりと絡みつき、黒とも緑とも灰ともつかぬ一種異様な色合いが出来上がっている。それでもしかし、全体的な印象はやはり「黒々とした」なのであった。
向かって右手に見える〈北館〉は、なるほど玄児が昨日云っていたように、〈東館〉や〈西館〉の擬洋風に比べれば「いかにも真っ当な」外観の、石造りの洋館だった。|野面石《のづらいし》積みの壁に|切妻《きりづま》屋根といった重厚な佇まいは、|奇《く》しくもと云うべきだろうか、この春に訪れた旧古河男爵邸を思い出させる。もともと黒いあの建物のすべてを、もっと黒々と塗り潰したような趣の……。
もう一つ、向かって左手に「使用人用」として使われているという〈南館〉が見えるが、これは黒い|下見板《したみいた》張りの二階建てだった。他の三棟に比べれば簡素で小規模な建物のようだが、そう云えばこの〈南館〉に限らず、この屋敷にはこうして見渡したところ、古い日本の洋風建築には付き物とも云えるヴェランダがまったく存在しない。外部に向かって開く∴モ志を持たないことの、これは極端な表現だと受け取るべきなのだろうか。
黒々とした風景の中に建ち並ぶ、黒々とした建物たち――。
再び観察の目を全体≠ヨと戻しながら、まるで切り絵細工のようだな、と私は思う。それはあるいは、昨夕〈東館〉の前に立った時に感じた「影のような」という第一印象に近いものなのかもしれなかった。それそのものは、そこには存在しない。実体のない、影だけの。あそこにああして見えているのは、中身のない、厚さのない、闇色の模造紙から切り取られた形≠セけなのであって……。
……ふいと。
荒れ果てた中庭の中央に、目が留まった。
|柘植《つげ》だか青木だかの低い常緑樹に取り囲まれるようにして、ちっぽけな建物らしきものがそこにあるのだった。木々に隠されて全体像は定かでないが、単なる|四阿《あずまや》といったふうではない。何やら黒い岩の塊が地から生えてでもいるかのような。
何なのだろうか、あれ[#「あれ」に傍点]は。
ひときわ甲高く風が唸り、庭の草木が激しくざわめいた。細かな雨滴がいきなり正面から吹き付けてきたかと思うと、鎧戸が風に|煽《あお》られて勢い良く閉まった。
私は驚いて窓辺から飛び|退《の》いた。
外光を遮断されて再び薄暗くなった部屋の中、何となくほっとしたような気分で長い息をつく。胸に手を当てると、心臓の鼓動が少し速くなっているのが分った。
もう一度息をつきながら、私は上げ下げ窓を元どおりに閉めてその場を離れた。ベッドの端に腰を下ろし、小テーブルから煙草を取り上げて一本、銜え取る。火を点け、茶色いフィルターを噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みながら考える。さて――。
風は強いけれど、雨自体は大した降りでもない。小雨と云っても良い程度のものだろう。これなら、外に出て建物のスケッチをすることも無理な話ではなさそうだが……。
煙草を揉み消して、やがて私は立ち上がった。用意してきた八つ切り大のスケッチブックと鉛筆を持ち、それから例の黒いソフト帽を目深に被って部屋をあとにする。
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一階へ下りる前に、私は少しだけ寄り道をすることにした。
部屋を出て右手へ。ホールの階段の方には向かわず、まっすぐ廊下を進む。廊下は途中からぐっと幅狭になり、突き当たりで左に折れている様子なのだが、その先がどうなっているのか、何となく確かめておきたくなったのだった。そして――。
狭くなった廊下と同じ幅の階段が、そこにはあった。階下へではなく、階上へと延びる階段が。
三階がある?
私は意表を衝かれ、首を捻った。三階が、あるいはそれに相当するような屋根裏部屋が、いったいこの〈東館〉にあっただろうか。
昨夕外から眺めた時には、そのようには見えなかった。それらしき窓もまったくなかったと思うのだが……はて。
訝しみつつも、私はその階段を昇りはじめる。廊下に敷かれた絨毯は昇り口の手前で切れており、例によって黒く塗られた踏み板には、よく見てみるとうっすら埃が積もっている。
階段は比較的なだらかな傾斜で上方へ延びる。天井は黒く、そして高かった。十段ほど昇ったあたりにささやかな踊り場が設けられている。そこで階段は九十度また左へ折れ、さらに先へと続いているふうだった。――しかし。
踊り場まで辿り着いたところで、私は思わず「何だ?」と声を洩らした。
確かに階段は、そこからさらに上方へ向かって延びていた。が、延びた先に上階のフロアが待っているわけではなかったのだ。――何もない[#「何もない」に傍点]。光沢のない真っ黒な天井に呑み込まれるようにして、階段は途切れてしまっているのである。
一瞬、何かの見間違いかと――そんなはずもないのだが――疑った。強く目をしばたたきながら二、三段足を進めてみたけれども、その先で階段が途切れている奇妙な事実には変わりがない。
ひょっとして、先ほどのどんでん返しのような仕掛けがここにもあるのではないか。
そう思いついて、そのあたりの天井や壁に観察の目を巡らせた。だが、階段が呑み込まれている天井はどこにも切れ目のない漆喰塗りで、壁も同様である。隠し扉などの仕掛けを施す余地は皆無だと見て良いだろう。正真正銘、行き止まりなのだ。
――奇妙な家ばかりだったらしい。
昨夜の玄児の言葉が思い出される。この屋敷を建てる際、初代玄遙の念頭にあったのではないかという異国の建築家ジュリアン・ニコロディ。彼はどんな建物を造ったのかという私の質問に答えての、それは言葉だった。
――まるで機能的じゃない、それどころかわざと使い勝手を悪くしたような家。あるいは設計者の正気を疑いたくさえなるような……。
何の意味もない、行き止まりの階段。
これ[#「これ」に傍点]がその、ニコロディの建築から受けた影響の一端だということなのだろうか。
そう考える一方で私は、むかし東京は|深川《ふかがわ》の|門前仲町《もんぜんなかちょう》に存在した有名な怪建築のことを思い浮かべずにはおれなかった。「行き止まりの階段」ということの異常な造作からの連想である。
「|二笑亭《にしょうてい》」と命名されたその家は、ある元用品雑貨商の地主――私の読んだ本では|赤木《あかぎ》|城吉《じょうきち》なる仮名で記されていたが――がみずから設計して長年の住居としていたもので、後にこの赤木氏は精神分裂病の診断を受けて脳病院に収容され、そこで死亡している。「狂人の建てた化物屋敷」と当時の新聞で報じられたりして人々の好奇心を煽り、たいそうな語り草となった。
昇れない|梯子《はしご》、使えない押入、硝子の入った節孔窓などなど、二笑亭には常軌を逸したようなさまざまな造作が詰まっていたという。それらは結局のところ、精神を病んだ者ならではの突飛な着想や奇矯な理論の発露だったと解釈され、時にはそこに何某かの芸術的価値を見出そうとする向きもあったらしいのだが……。
いずれにせよ、なるほど単に黒ずくめの擬洋館であるというだけでなく、この屋敷が相当以上に風変わりな要素を備えた建物であることは確かなようである。恐らくは、そう、先ほどのあの隠し扉や隠し階段もまた、かの建築家の趣味に倣って造られたものなのだろう。美鳥と美魚の双子姉妹によれば、あの手の仕掛けがここにはまだ他に「いくつもある」という話だけれど、それはそれで、あれこれ想像すると何だか楽しみな気もする。
ニコロディの建築の特色について、玄児は「言葉にしてしまうと他愛もないような」というふうに云っていたが、その部分的な説明として、たとえば遊び心≠ネどといった能天気な言葉を持ってきてしまっても良いのであれば、そのような趣向は決して私の嫌いなものではない。あとで玄児との間でこの件が話題になったならば、「|江戸川《えどがわ》|乱歩《らんぽ》を招待したら喜ばれそうですね」とでも軽口を叩くことにしようか。
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行き止まりの階段から引き返してきて、玄関ホールへ降りようとしたところでふと、何者かの声を聞き留めた。私は足を止め、あたりを見まわした。
言葉になっていない、大きな|欠伸《あくび》でもしたような声。それは、階段のそばに位置する「客用の居間」の中から聞こえてきたように思えた。
誰かがもう起きてきて、そこでくつろいでいるのか。玄児だろうか。それとも別の誰かが。
私は居間の両開き扉を軽くノックし、返事を待たずに押し開けた。
昨夕〈十角塔〉からの墜落者を目撃した部屋である。あのとき私が立っていた窓辺とは逆側――入って左手奥に据えられた寝椅子に、今しがたの声の主はいた。
「……あ? ――ああ、やあ」
私の姿に気づくと、相手は少々面喰らったように間の抜けた声を発し、寝椅子の上で横にしていた身体を起こした。ぼさぼさに乱れた髪を指で掻きまわしながら、傍らのテーブルの上から銀縁の円い眼鏡を取り上げて掛ける。小首を傾げて私の方を見つめる。玄児と同じくらいかやや年下の、小柄で丸顔の男であった。
「ああ……君、玄児さんのお客さんかな。ええと、中也君っていうんだっけ」
私は黙って会釈した。それに応じるかのように、男は大口を開けて欠伸を一つした。
眼鏡が置かれていたテーブルの上に、ウィスキーの|壜《びん》と赤い濁り硝子で作られたグラスがある。男はグラスに手を伸ばすと、ちょっと顔を顰めながら中に残っていた酒を飲み干した。「ふわう」とまた大欠伸をし、がりがりとまた髪を掻きまわす。鼻の下と顎には無精髭が目立つ。
「あ、いやぁね、ゆうべあっちから引き揚げてきて、ここでもう一杯と思ったんだろうなあ。いま目が覚めたらこの寝椅子の上で……うう、頭が痛い」
そう云いながらも、男はグラスに新たな酒を注ぎはじめる。呂律も話しぶりも怪しかった。手つきもかなり危なっかしい。
「あなたは――」
私はいささか呆れた気分で訊いた。
「首藤伊佐夫さん、ですか」
玄児の又従弟に当たるという、酒好きの「自称芸術家」。この男がきっとそうなのだろう、と思い当たったわけである。
「ああ、うん。僕が伊佐夫だよ。玄児さんから話を聞いてる?」
「ええ、少し。昨夜は野口先生と〈北館〉のサロンで飲んでいらしたとか」
「そうそう。あの先生はほんと、強くってねえ。調子に乗って付き合ってると、いつもこのざまだ。まったくもう、何が何だか」
嘆かわしげに短い首を捻るその様子を見ながら、美鳥と美魚なら彼を何の動物に喩えるだろうか、と私は考えた。|狸《たぬき》か|浣熊《あらいぐま》か、あるいは――。
|樹懶《なまけもの》、という名が浮かんだ。我れながら詩的センスに乏しい連想である。
「しかし君も、何て云うかなあ、物好きな学生君だねえ。――ぼうっと立ってないで、まあこっちへ来いよ」
手招きされ、私は部屋の中に入った。首藤伊佐夫はグラスを取り上げてちびりと口をつけ、
「君も飲む?」
私は「いえ」と首を振り、昨夕玄児が座っていた革張りの安楽椅子に腰を下ろす。
「スケッチブックかい、それ。絵を描く人なんだ、中也君は」
「絵描きが本業じゃありませんけど。趣味で、建物のスケッチを」
「ああ、そうか。建築科の学生君だっけ。――にしても、やっぱり物好きだな。こんな陰気臭い屋敷を見るために、わざわざ熊本くんだりまで、それもこんな辺鄙な山奥にまで足を運んでくるなんて」
私は「はあ」といったん頷いたが、すぐに付け加えて、
「ですが、興味深い建物だと思って見ています」
「興味深い?」
樹懶――もとい、首藤伊佐夫は軽く肩を竦め、グラスをまた口に運んだ。
「ふん、そのとおり。確かにここは、なかなか興味深い場所でもある。僕もそう思ってる。そう思ってるからこそ、親父にくっついてこんなところまで来てしまうわけでね」
「――はあ」
「ふん。本当に君は、単にこの建物が見たくてここへ来たの」
と、伊佐夫が訊いた。探りを入れるように、上目遣いの視線で私の顔を舐める。私は何となくスケッチブックを胸に抱え込みながら、「ええ、そうですけど」と答えた。
「玄児さんからは何も聞かされていないんだ。だけどもねえ、よりによって今日は九月二十四日なんだよなあ」
「それは、あの、今日は〈ダリアの日〉だから、それで何か……」
「おやぁ、何だ。知ってるんじゃないか」
伊佐夫は眼鏡を外してテーブルの上に投げ出し、グラスの酒を一気に飲み干した。「ふはあ……」と長々しい息をついて、手の甲で唇を拭う。顔色には出ない体質のようだが、酔いの度合がさっきから幾段階も上昇してきているのは明らかだった。
「はあん。結局は中也君、君もあれか、この浦登家の秘密の惹かれてやって来たってわけだ。はん。なるほどやっぱりそういうことか」
「いえ、それは……私はただ……」
否定しようとしたが、伊佐夫は聞く耳持たずといった素振りで私の声を遮り、
「そうともそうとも。この家は実に興味深い。興味深いがしかし、そいつは|気色《きしょく》が悪いとも云う。興味深いが気色悪い。それが僕の本音さ。ここに住んでいる連中みんなが、あんなものに取り憑かれちまって……玄児さんからしてああだしね。親父だってそうだ。何とか肉にありつこうと必死になってる。でもって今度は、あの女と二人して何やら良からぬことを企んでいるみたいなんだが、僕にはどうもねえ……」
いよいよ怪しい呂律で、|捲《まく》し立てるように喋りつづけるのだった。
何と口を挟む暇もなくそれを聞きながら私は、「親父」というのは一昨日どこやらへ出掛けたという首藤利吉のことだな、「あの女」というのはたぶんその後妻の茅子のことだな、といった具合に人間関係の復習をしていた。「あんなもの」とは何だろうか、「肉」とはいったい何なのだろうか、「良からぬこと」とは? そんないくつかの疑問も、むろん頭に引っかかっていた。
「こう見えても僕ぁね、しごく近代的な科学主義精神の持ち主なんだよ、君。分るかい。宗教という現象に関する理解は持てても、自分が何か特定の宗教を信じる気にはなれない無神論者だ。この世に神が存在しないのならば、悪魔や魔女なんてものも当然いるはずがない。神も悪魔も魔女もいない。いるのはそれを信じたがる人間だけさ。ここの連中もまったくそうだ。まあ、そのありようが、はたで観察している分にはけっこう興味深いわけなんだがね」
喋りつづけながら伊佐夫は、グラスにまた新しい酒を注ぎ、ぐいぐいと喉に流し込む。見ているこっちにまで酔いが伝染してきそうだった。
「――で、中也君、君は信じてるわけかい」
唐突に質問を振られて、私は困惑した。
「信じるって、神様をですか」
何か答えねば、という焦りを必要以上に感じてしまい、
「ええと、実家の宗派は一応浄土真宗なのですが、私自身は子供の頃ちょっとキリスト教会に通ったりもしたことが」
「おお、そうか。僕んちも死んだお袋の生家は真宗だったんだが……ああいや、そんなことはどうでもいい」
「兄弟は弟が一人いて」
「そうか、君は長男か。僕は一人っ子だ。どんな弟君なの」
「ちょっと変わった男ですね、あいつも。小学生の頃から日本の古典文学を好んで読んでいたりして。『枕草子』だの『源氏』だの。私にはどこが良いのやらさっぱり分らない」
「そうか、古典マニアの弟君か。まあ、そんなこともどうでもいいんだが……ふん、どうやら中也君、僕は君を誤解していたようだ」
「誤解も何も、あの……」
「君はまだ、あまりこの家の事情について詳しくはないみたいだねえ」
だからそれを、さっきから云おうとしているのではないか。「この酔っ払いめ」と責めたくなる気持ちを抑えて、私はせいいっぱい厳しい目つきで相手の顔をねめつけた。
「まあまあ、いいだろう。君はまだ、この家のことがよく分っていない。そいつは了解したから、ここは僕の話を聞きたまえ」
いよいよ怪しい呂律で云うと、伊佐夫は放り出した眼鏡を再び掛けた。そうして無精髭の伸びた円い顎をさすりながら、
「僕は芸術家なんだ」
急に鹿爪らしい面持ちになって、そんな宣言をするのだった。私は毒気を抜かれた心地で、
「はあ。そのことは玄児さんから……」
「神を信じる芸術家は多い。悪魔に魂を売っても傑作をものにしたいと願う奴もいる。だいたいにおいて芸術家っていうのは、どうにかして神と通じたがっているものなんだ。そうだろう」
「そんなものなんでしょうか」
「ところがだね、僕は違うんだなあ。僕が芸術家である目的は、神の不在を証明することにこそあるのさ」
「神の不在、ですか」
ずいぶんとまた大袈裟な話である。真面目に耳を傾けても虚しいだけかもしれない、と私は思いはじめていたが、初対面の礼儀としてとりあえず「面白そうですね」と応えた。
「そうか、面白いと思うか。こんなふうに云っても、なかなか分ってくれる人間はいないんだがね」
汚れた円い眼鏡のレンズの向こうで、伊佐夫は充血した目をしきりに瞬かせている。私は訊いた。
「具体的には、どんな芸術作品を創っておられるのですか。絵か彫刻か、それとも陶芸とか」
伊佐夫は「ううん」と低く唸り、オーギュスト・ロダンの有名な彫像そのままの姿勢を取った。
「問題はそれなんだな。何を表現手段として選ぶべきか、考えつづけて三年半になる」
私は失笑をこらえた。なるほど、これでは玄児に「自称芸術家」と評されても仕方がない。彼と野口医師が差し向かいで酒を飲むと、いったいどんな話になるのだろう。
伊佐夫はしばし口を噤み、同じ姿勢のまま何やら考え込んでいるふうだったが、やがてぷるぷると頭を振ってグラスの酒を|呷《あお》った。付き合っていては切りがないと思い、私はそろりと椅子から腰を浮かせる。すると彼は、まるでそこにいる人間に初めて気づいたような目を向けて、「ああ、中也君か」と云った。
「それにしても何で、玄児さんは君をここに連れてきたんだろうね。そいつもまた興味深い問題だな」
「さあ……」
私としてもそれは、昨夜から気にかかっている問題なのだが。
「ところで、伊佐夫さんのお父上は、もう屋敷に戻られたのですか」
「うん? 親父?」
「どこかへ出掛けて、まだ戻ってこられないという話をゆうべ聞きましたけど」
「僕の知ったことじゃないけどね」
伊佐夫は気のない声で答えた。
「もう戻ってるんじゃないの。今頃はあの女の隣でお休みだろうさ」
「茅子さん、ですか」
「ああ。愛すべき茅子お|義母《かあ》様。彼女は彼女でこっちへ来てから熱を出しちまってね、ずっと部屋に引きこもってるが」
そこで伊佐夫はまた大きな欠伸をし、グラスを置いてよろりと寝椅子から立ち上がった。
「さてと、僕もベッドで安らかに眠るとするか」
「〈東館〉の方にお泊まりなのですね」
「この隣の客室だよ。親父とあの女は、あっち――〈北館〉にちゃっかり自分たちの部屋を確保している。僕ぁしかし、あっちの建物は苦手でねえ」
「どうしてですか」
「何となく」
ぶっきらぼうに答えてから、伊佐夫はこう付け加えた。
「強いて云うなら、そうだな、核心に近いから……かな。どうにも気色が悪くてね」
「核心?」
「それじゃあ、またね。取り憑かれないように気をつけるんだよ。おやすみ」
言い残して、伊佐夫は千鳥足で扉へ向かう。その後ろ姿を見送りながら――。
樹懶にしてはよく喋りすぎか、と私は思った。
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4
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〈東館〉一階の玄関ホールの奥に、|半円形欄間《ファンライト》が付いた黒い両開きの扉がある。二階から降りてくると私は、迷わずその扉へ向かった。
ファンライトには赤い色硝子が入っている。向こう側からの光がなければ黒と見分けがつかないような、とても濃い赤の。この造りは玄関の両開き扉も同様で、明らかに他との差別化が窺える。位置からしても、恐らく中庭へ出るための扉だろう。
鍵は掛かっていなかった。色硝子を透して忍び込む赤い光の下、私は思いきって扉を押し開ける。
予想したとおり、そこは中庭に面した広いテラスになっていた。敷かれているのは黒|煉瓦《れんが》で、緩やかな弧を描いて庭に張り出している。
雨は先ほどより強くなってはおらず、風もとりあえずは収まっている様子だった。
私はスケッチブックを小脇に抱え、テラスから外へ――荒れた芝生の上へと進み出る。雨と風のせいで気温はだいぶ低下しており、鼠色の長袖シャツに紺色のヴェストと云う昨日と同じ服装では、少しばかり肌寒い。濡れた芝生も靴底に冷たい。
小雨――これなら霧雨と云ってしまっても構うまい――の中、ぐるりと周囲を眺め渡した。先ほど二階の窓から望んだ風景は、こうして地上から見てもやはり「黒々と」しており、四方を取り囲む四つの棟は、何やら妖しい切り絵細工めいて感じられる。
庇で雨を避けられるあたりまで戻り、私は立ったままスケッチブックを開いた。左手と上腹部とでそれを支え、右手に鉛筆を握る。まずは、広い庭を挟んだ正面に見える〈西館〉だけでも、大雑把なイメージを描き写してみることにした。
蔦の絡んだ黒海鼠の壁、左端に突き出した黒漆喰の四角い塔屋……暗い灰色の空を背景に建つその古い擬洋館は、〈ダリアの館〉という曰くありげな異名と相まって今、何とも不気味存在として私の目に映る。とともに――。
さっき二階で、首藤伊佐夫が立ち去り際に口にした|台詞《せりふ》が思い出された。
――核心に近いから……かな。
そう彼は云ったが、察するにあれは――「核心」とは、あの〈西館〉を指した言葉だったわけなのだろう。玄児も昨夜、同じ〈西館〉について「この屋敷の、ある意味で中心と云える建物」と評していたではないか。
家の者たちは〈東館〉のことを単に〈表〉とも呼び、〈西館〉のことは〈奥〉とも呼ぶのだという。この「奥」という語がすべてを象徴しているようにも思える。「奥」とは「内へ深く入ったところ」、それはすなわちそのものの「|要《かなめ》」であり「核心」である。そもそもは「家の|竈《かまど》のある場所」を、転じて「家の西南の隅」を指して使われた言葉で、そこはその家の神を|祀《まつ》る場所でもあった――と、そんな話を聞いたこともあるが。
――取り憑かれないように気をつけるんだよ。
これも伊佐夫の、立ち去り際の台詞。
私が何に「取り憑かれ」ると云うのか。玄児を含めた浦登家の人々は、いったい何に「取り憑かれちまって」いると云うのだろうか。
気になることはあまりにもたくさんあった。
しばらくスケッチを続けるうち、もっと近くに寄ってみたい、という気持ちが強くなってきた。が、雨でスケッチブックを濡らしてしまいたくはない。傘を持って降りてくるんだったな、と悔やみつつ、私はスケッチブックをその場に置いて中庭に踏み出した。
枯れ色の目立つまばらな木立の間に、人が通るための小道が造られている。庭の中央には、常緑樹の植え込みに取り囲まれた例のちっぽけな建物があるわけだが、それを南北から迂回するような形で、道は二手に分れている。私は〈北館〉寄りの道を選び、〈西館〉めざして歩きはじめた。
見れば、〈北館〉の方にも〈東館〉と同様、中庭に出るための扉とテラスがあって、そこから延びた小道がこの先でこちらと合流している。黒い野面石積みの外壁に並ぶ窓は、どれも鎧戸が閉まったままで、中に人が住んでいるような気配はこれっぽっちも伝わってこなかった。
霧雨の中、私はそろそろと小道を進む。雨に濡れた地面は、何だか土そのものが腐っているみたいな嫌らしい柔らかさを持っていて、一歩ごとに少しずつ足が重くなってくるように感じられた。
だんだんとやがて、〈西館〉の影が迫ってくる。
一階部分も二階部分も、やはりすべての窓の鎧戸が黒く閉ざされている。黒海鼠の壁を這う蔦が風に揺れ、全体が波打つように動いているさまを見て取ることができる。あれが〈ダリアの館〉――この暗黒館の「核心」……。
……はっと足を止めた。
囁くような霧雨の音。木々や草々のざわめき。その中にふと、異質な物音を聞き留めたからだった。
ぎぎいぃぃ……という、金属が鈍く軋むような響き。これは、どこから?
音の源を探してあたりを見まわした私の目は、すぐに左手方向にある常緑樹の植え込み――柘植や青木ではなくてどうやら|一位《いちい》か|伽羅木《きゃらぼく》のようだが――を捉えた。あの向こうか。あそこに建つあのちっぽけな建物から……。
小道は少し先で緩く左にカーヴし、そのまま〈西館〉の方へと続いている様子だった。きっとその途中に、あの植え込みの向こうへと通じる分岐があるのに違いない。
私は足を速めた。それに合わせるかのように、雨と風が若干勢いを増した。草木のざわめきが一段階高まり、私はさらに足を速める。
思ったとおり、カーヴを曲がった先で道は三つに分れていた。右へ行けば〈西館〉へ、まっすぐ行けば〈南館〉の方へ、そして左に行けばあの小さな建物へ――ということだろう。
何なのだろうか、あれ[#「あれ」に傍点]は。
先ほど二階の窓からその存在に気づいた時と同じ疑問が、おもむろに心の中央へ迫り出してくる。今さっき聞こえた異音、あれがたとえば、あの建物の出入口が開閉する音だったとして……。
前方の分れ道に突然、真っ黒な影が現われた。危うく驚きの声を上げそうになるのをこらえて、私は歩を止める。
一見して異様な風体の、それは何者か[#「何者か」に傍点]であった。だぶだぶの黒いマントのようなものを身にまとい、雨を防ぐためだろうか、頭にはすっぽりと黒いフードを被っている。人間であることは確かだが、背が低いということ以外、体格も顔立ちも分らない。年齢はもちろん、男か女かも分らない。背の低さは腰が曲がっているためであるようにも見えたが、かと云って蛭山のような傴僂でもない。
真っ黒な衣服の裾を引きずるようにして、|その者[#「その者」に傍点]はゆっくりと〈南館〉の方へ歩み去っていく。凝然と見守る私に気がついていたのかどうか、それも分らない。立ち止まり、こちらをちらっと振り向いたようにも思えたが、あるいは気のせいだったのかもしれない。いずれにせよ――。
私の目には、その者[#「その者」に傍点]の姿や動きがまるで生ける影≠フように見えた。何かこの世ならぬものを見てしまったのではないかと、そんな気さえ一瞬した。
今しも影≠フ後ろ姿が視界から消え去ろうとした時、甲高い唸りを発しながら頭上を風が吹き渡った。それでやっと、私はある種の呪縛めいた状態から解放された。
把手の付いた黒い箱のようなものを、影≠ヘ両手で持っていた。中には何が入っていたのだろう。いや、そんなことよりもまず、あれはいったい何者なのだろうか。
この家の人間であることは間違いあるまい。家族の者か、それとも使用人の一人か。少なくとも子供の歩き方ではなかったと思うが……。
引き返そうかどうしようかと少し迷ったのだけれど、好奇心には勝てなかった。恐る恐る周囲に目を配りつつ、私は今しがた影≠ェ出てきた分れ道へと歩を進める。
問題の建物を取り囲んだ植え込みは、やはり一位の木だった。成長すると二十メートルにもなることがある常緑高木だが、西洋の庭園などではこれを強く刈り込んで、幾何学形態や動物に似せたトピアリーを造ったりもする。この場所でもかつては、そのような手入れがなされていたのかもしれない。
「黒い岩の塊が地から生えてでもいるような」という、二階から見た時の第一印象は、当たらずとも遠からずだった。大振りな黒い石材を組み上げて造られた、小屋と呼ぶのも気が引けるような小さな四角い建物で、唯一ぴったりと来る呼び名があるとすれば、それは「|祠《ほこら》」だろうか。
正面に古びた扉が閉まっている。黒い鉄の二枚扉で、その表面には何かしら奇妙な|浮き彫り《レリーフ》が施されていた。人間の|肋骨《ろっこつ》を模したような曲線が左右の扉それぞれに幾本も走り、さらにそこへ二匹の蛇が絡みついている――と、そんな図柄である。
「骨に蛇……」
低く呟きながら、私はそっと扉のノブを握る。
施錠はされておらず、思い切って力を込めると手前に開いた。ぎぎいぃぃ……という、さっき聞いたのと同じような鈍い軋み音が響く。
間違いない。あの黒ずくめの怪人物があの時、この鉄扉を開け閉めしたのだ。その際に発せられた音を、たまたま私が聞き留めたわけなのだ。
建物の中は非常に暗かった。
明り採りの窓は一つもない。照明のスイッチも、少なくとも入口付近には見当たらない。床には外壁と同じような黒い石が敷かれ、天井は穴蔵めいて低かった。
入口から射し込む外光を頼りに、私はこわごわ闇を見まわす。
ひどく狭い空間だった。四畳半か、あっても六畳程度の広さだろうか。調度品の類は何もない。
目を凝らすと、奥の方にいま一枚の扉があるのが分った。引き寄せられるようにして、私はその前まで足を進める。
入口と同様の黒い鉄扉だったが、こちらは片開きで、なおかつ大人の顔の高さに長方形の小窓が切られている。窓には太い鉄の格子が縦に入っており、それはおのずと監獄の独房や精神病院の病室のイメージと結びついた。
扉には錠前が掛かっていた。〈十角塔〉の入口にぶら下がっていたのと同じような、頑丈そうな南京錠である。手探りでノブを握った。冷たくて、ちょっと湿り気を帯びている。力を加えてみたが、扉はびくとも動かない。
鉄格子の嵌まった長方形の窓に、そして私はそっと顔を寄せた。息を殺し、中を覗き込んでみる。誰もいない。気配も感じられない。――が。
暗がりに慣れてきた目をさらに凝らすと、向こう側に何やら階段らしきものがあるのを見つけた。床面に大きく口を開いた四角い穴、その中に潜り込んでいく黒い石の階段……。
……地下に?
私は思わず身を震わせた。首筋のあたりに淡く鳥肌が立った。
この建物の下には、何かがあるのだ。そこへ降りるための、あれは階段なのだ。何かが地下に……しかしそれは何なのだろうか。
わずかな空気の動きを感じた。鉄格子の向こうから伝わってきた、風というほどの強さもない、それは微妙な動きだった。とともに鼻腔を刺激する、何だろうか、湿っぽくて黴臭いような、あるいは腐臭めいたような、間違っても|香《かぐわ》しいとは云えぬ不快な|臭《にお》い――。
あの階段の下から漂ってくる臭気なのか。だとすれば、果たしてそこには何があるのだろう。何がいるのだろう。
さっきの怪人物はこの建物を訪れ、この扉の向こうに行ってきたのか。あの階段の下に降りてきたのだろうか。いったい……。
鉄格子入りの覗き窓越しに、私は地の下の暗黒へと延びる黒い階段を見つめる。今にもそこから、恐ろしい何ものかが飛び出してきそうな予感がして、知らず心臓の鼓動が速くなる。――と、その時。
ほんのかすかにではあるが、何かが聞こえてきたような気がした。何か……誰かの声。低くかぼそく呻くような、気味の悪い声。それが、そうだ、あの階段の下から……。
……いや、もしかしたらそれは単なる幻聴か、建物の外の物音をそのように聞き違えただけだったのかもしれない。けれどもその時点で、私はかなりの程度平常心を失ってしまっていた。
何なのか確かめたい、という衝動を、急激に膨れ上がってきた恐怖が打ち消した。こちらから呼びかけてみることはもちろん、ポケットからマッチを取り出して明り代わりに点けてみようという気さえ起こらず、私はほとんど逃げるようにしてその場を離れ、建物から飛び出した。
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すっかり動揺してしまって、〈西館〉のそばまで行ってみようという気持ちにはもうなれなかった。誰かに見つかって咎められはしないか、という不安が今さらながら持ち上がってきてもいた。
やって来た道を逆に辿り、〈東館〉へと引き返す。心なしか先刻よりも雨脚が強くなっていた。風も、そして草木のざわめく音も……。
速足で小道を抜け、黒煉瓦敷きのテラスに駆け込もうとしたところで、しかし私は、ぎくりと足を止めてしまった。誰かがそこにいることに気がついたからである。
庇の下に立ち、私が置いていったスケッチブックを手に取っている。向こうも私に気づいたようで、両の手の間で開いていたスケッチブックを閉じ、こちらへ視線を投げかけてきた。
初めて会う人物だった。
すらりとした長身に、珈琲色のブレザーを品良く着こなしている。小振りな縁なしの眼鏡を掛け、口髭を薄くたくわえた、五十歳前後の紳士然とした男性であった。
「どうも、こんにちは」
男は私に向かって片手を挙げ、よく通るテノールで云った。
「勝手に拝見してしまいましたが、これは――このスケッチブックは、あなたのものなのですよね」
「ああ、はい」
おっかなびっくりで答える私の顔を、相手は物静かな眼差しで見据える。
「あなたが中也さん、ですね。玄児君のお友だちだという」
到って穏和な口調だった。私は「ええ、そうですが」と答えながら、ゆっくりとテラスに近づいていった。
かたん、とそこで物音がした。テラスの奥の、館内に通じる両開きの扉が閉まる音だった。――目の前のこの男以外に、誰かがここにいたのか。
「清……息子です」
私が質問するよりも前に、男が云った。
「彼が先にあなたを、と云うか、このスケッチブックを見つけましてね」
「清君、ですか」
――お猿さん。
美鳥と美魚の声が耳に蘇る。
――皺くちゃのお猿さんよ、清くんは。
――中也さまもあってみたら分るわ。
「お猿さん」の姿を探して私は扉の方へ目を馳せたが、そこにはすでに何者の影もなかった。
「人見知りの激しい子でしてね、ご挨拶もせず、申し訳ありません。好奇心は人並み以上なのですが、ちょっとの、病気のせいでずっとこの屋敷に引きこもっているもので」
「あ、いえ。どうぞお気になさらず」
「病気」という言葉が、やはり気に懸かった。小学生だが学校には行っていないのだ、と双子姉妹は云っていた。そんなに重い病気を患っているわけなのか。あるいは……。
「少し雨が強くなってきましたね。さ、こっちへ。濡れますよ」
男は扉の手前まで退き、私は張り出した庇の下へと進んだ。オールバックにした髪を軽く撫でつけながら、男は云った。
「また台風が近づいているらしい。テレヴィで云っていました。海の方は大荒れの模様ですね。何でも昨日は大分沖で貨物船が沈んだとか」
「そんな事故が……昨日?」
「ええ。ずいぶん大勢の乗組員が行方不明になっているそうですが」
生々しい、そして痛ましいニュースである。が、不思議と現実味が感じられなかった。どこか遠い、いま自分がいるここ[#「ここ」に傍点]とは切り離された世界で起こって不幸なお話、というふうにしか。
「できれば台風の直撃は避けてほしいものです。まあ、家が吹き飛ばされるようなことは絶対にありますまいが。古いが、たいそうしっかりした造りですから」
そう云えば先週、関東地方を襲った台風……あれは二十一号だったか。台風の目が東京上空を通過したのは確か十八日。あの時はまだ、私は千駄木の下宿で試験勉強に追われていたわけだけれど、つい一週間前のそんな体験も、何故かしらひどく遠い世界での出来事のように感じられた。
私は帽子を脱ぎ、布地に付いた細かな雨滴を払った。それから改めて相手の顔に目を向け、
「浦登征順さん、でしょうか」
「よくお分かりですね」
「ええと、つまり、清君のお父上だということなので……」
「いかにも。私が浦登征順です。玄児君からいろいろお聞きになっているのですね」
「ああいえ、玄児さんではなくって……」
――叔父さまは鷹とか鷲とか、そんな感じ。
双子姉妹の声が、また。
――だけどやっぱり、飛べないの。
彫りの深い面立ちが、確かに彼女たちの挙げた|猛禽《もうきん》の名を思わせる。眼差しは穏やかだが、それは含みを持った鋭さの裏返しであるような気もする。
「洋館がお好きなのですね、中也さんは」
私の返答を促すことはせずにそう云って、浦登征順はスケッチブックに視線を落とし、
「ずいぶんあちこちを回っておられる。それに、どの絵にも建物に対する愛情が感じられます」
「そうでしょうか」
神妙に応えて、私は帽子を被り直した。
「好きなのは確かなのですが、絵にはその、あまり自身がないもので」
「建物の表情がなかなか的確に掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、215-下-12]まれています。写真をたくさん撮るよりも、この方がある意味でずっと本質に迫ることができる」
「――恐縮です」
「ご実家は九州だと伺いましたが」
「はい」
「かなり遠くへも出掛けておられますね。山形の|済生館《さいせいかん》なんかも描かれている。私もずっと昔、一度見にいったことがあります。忘れられない建物の一つです」
山形市の|七日町《なぬかまち》に建つ済生館本館は、全国各地に残る明治期の擬洋風建築の中でも、とりわけ特異な形状を持った傑作として知られる。私があの建物を訪ねて東北へ旅したのは、高校三年の夏休みのことで……思い出すとやはり、たかが一年前のことなのに、何だか妙に懐かしい気がする。
初代の山形県令|三島《みしま》|通庸《みちつね》による洋風建築奨励を背景に、明治十二年――一八七九年に竣工。県立病院として開院され、当初は医学校もここに併置されていたという。
木造平屋のこの建物全体は、中庭を囲んだ巨大な十四角形の環状構造になっている。正面に堂々と聳える|楼閣《ろうかく》部分は三階建てで、これは一階が変形の八角形、二階は正十六角形、三階は正八角形という凝りに凝った造りである。外壁の下見板はすべて明るい薄卵色に塗られ、ヴェランダなどに巡らされた柵は青、柱や窓枠はくすんだ|赤丹色《あかにいろ》……そんな色彩の組み合わせの鮮やかさがまた、その存在感を強烈にアピールしていた。
「いかがです。ここに来て、この屋敷をご覧になった感想は」
と、浦登征順が訊いた。私は中庭を振り返り、その向こうの〈西館〉を見上げながら、
「同じ擬洋館でも、たとえばそれこそ済生館の本館とあれとではまるっきり趣が違うので、ちょっと驚いたりも。とにかくこの家は――」
「この家は?」
「何と云いますか、閉じた♀エじがあまりにも強くて。これまでに見た擬洋風建築の、モダンで開かれた<Cメージとは、およそ正反対の」
「なるほど」
征順は静かに頷いて、
「当然そう感じられることでしょう。確かにこの家は閉じて≠「ます。いろいろな意味でね」
そうして彼は、持っていたスケッチブックを私に向かって差し出した。受け取りながら私は、
「四つの棟の中で一番新しいものは? 〈北館〉ですか」
と、こちらからの質問を繰り出した。
「そういうことになりますね」
征順は穏やかな微笑を口許に広げる。
「以前はあの棟も木造だったのですが、再築して今のように」
「火災で焼失したのを建て替えたのだ、と聞きましたが」
「この屋敷は火と相性が良くないらしくて」
昨夕玄児が云ったのと同じような文句を、ここで彼も口にした。
「だから、簡単には燃えてしまわないように今度は石造りの建物を……と」
「ははあ」
「〈南館〉が建てられたのは戦前の、昭和に入って間もない頃だと聞いています。元々あそこには、建物はなかったそうなのです。使用人棟は別の場所に――島の北の端に、長屋のような離れが用意されていた。それがやはり火事で焼けてしまったので、という話です」
「そう云えば――」
と、そこで私は、ふと思い出したことを彼に尋ねてみた。
「過去に屋敷の改築などが行なわれた際、それを請け負った建築家の中に一人、何でも少々風変わりな人物がいた、とか」
「風変わりな?」
「野口先生から伺ったのですけど。私が昨日この屋敷について『心がざわざわする』という感想を述べたところ、むかし同じように云った御仁がいると。それがその、風変わりな建築家だと」
「ほう」
征順は眼鏡の向こうで目を細めた。穏やかに、ではない。鷹のように鋭く、でもない。あるいは私の気のせいだったのかもしれないが、そこには一瞬、深い悲哀の色が見え隠れした。
「ご存じでしょうか。いったいどのように風変わりな人物だったのでしょう」
「風変わりな――と、そのように先生はおっしゃった?」
「はい」
「確かにまあ、そう云えるかもしれない。一風変わった生き方を選んだ男……と」
「ご存じなのですね」
「――ええ」
頷いて、浦登征順は低く息をついた。
「彼は、中村という男でしたが」
「中村?」
[#ここから太字](なかむら……と、その名に反応して)[#ここで太字終わり]
「彼は――彼もまた、取り憑かれてしまった者の一人であったと、結局はそういうことなのでしょう」
「取り憑かれて……」
私は帽子の鍔に指をかけながら[#ここから太字](まだまだ曖昧でまとまりのない認識の下、反芻されるその名前)[#ここで太字終わり]、何とも奇妙な心地で[#ここから太字](なかむら……中村……中村、青司……)[#ここで太字終わり]相手の顔を見据える。
「今は、その中村氏はどう?」
「今は……」
征順はまた低く息をつき、それからことさらに淡々とした調子で云った。
「もう死んでしまった男ですよ、彼は」
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6
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雨がさらに少し強くなってきた。風に吹かれて庇の下まで降り込んでくる。どちらが云いだしたわけでもなく、私たちはテラスから館内に戻った。
「あの、浦登さん――征順さん」
薄暗い玄関ホールに入ると、私はおずおずと声をかけた。彼に尋ねてみたいことが、もう一つあったのである。
「何です」
と、浦登征順はこちらを振り返る。縁なし眼鏡の奥から私に向けられたのは、元のしごく穏和で物静かな眼差しだった。私は思いきって訊いた。
「中庭の真ん中に、祠みたいな小さな建物がありますよね。あれはいったい何なのでしょうか」
「その口振りだと、近くまで行ってこられたわけですね」
わずかに眉をひそめてそう云うと、征順は私に訊き返した。
「何だと思いますか、あなたは」
「さあ、それは」
私は答えあぐねた。
黒ずくめの怪人物を見かけたことや建物の中に入ってもみたことを、ここで彼に話してしまうべきかどうか。迷ううちに、征順はホールの中央手前まで足を進め、静かに天井を仰ぎ見た。そうしておもむろにこちらを振り返ると、中庭への扉に視線を投げながらこう云った。
「墓所なのです、あれは」
「――ぼしょ?」
「墓ですよ、この家――浦登家の。あの建物が、その入口なのです」
「入口……」
鉄格子入りの小窓が付いた鉄扉の向こう、闇に吸い込まれるようにして延びていたあの階段の下が、たとえば納骨堂のようなものになっているということだろうか。それとも……。
「〈|惑《まど》いの|檻《おり》〉――と、あれのことをそんな名で呼ぶ者もいます」
「檻?」
私は首を傾げた。
「それは、どういう」
「残酷と云えば残酷な話かもしれないが、それもここでは致し方のないこと……」
やや顔を伏せ気味にして、みずからに言い聞かせるような感じで、征順はそんなふうに呟いた。それから私の方にきっ[#「きっ」に傍点]と目を上げ、
「何にせよ中也さん、あそこはこの家の者であっても、妄りに近づいてはならない場所です。気に留めておかれた方がよろしい」
「墓所」だというのは了解した。しかし、それが「檻」とはどういうことなのか。何故にそんな呼び方をするのだろうか。
質問を重ねたい気持ちは山々だったけれど、とりあえず私は「分りました」と頷きを返した。――その時である。
「中也様」
階段の方から、聞き憶えのある女性の声が飛んできた。
「ああ、ここにいらっしゃいましたか。あ、征順様も……」
割烹着姿の羽取しのぶだった。たったいま二階から降りてきたらしい。小走りに私たちの許へやってくると、彼女はずんぐりとした方を大きく上下させながら、
「玄児様がお探しです」
と告げた。
「昨日塔から落ちたあの方が、意識を取り戻されました。それで、中也様にも来てほしいと」
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玄関ホールから南に延びる瓦敷きの廊下は、片側に並んだ黒い無双窓のすべてが隙間なく閉ざされたままだった。鎧戸と違って洩れ込んでくるわずかな外光すらないため、昨夜とまるで変わるところのない薄暗さである。
座敷の上がり口の前には、例の青年の靴以外に二足の履物が並んでいた。玄児と、それから野口医師のものだろうか。彼らの姿はしかし、一番手前の部屋には見当たらない。青年が寝かされていた布団も|蛻《もぬけ》の殻だが……。
しのぶに促され、私は座敷に上がった。征順があとに続く。入って左手の弁柄色の襖戸がすっかり開かれており、三人はその向こう――四間続きのうちの二番目の部屋――で、中央に出された黒い漆塗りの座卓を囲んでいた。
三番目の部屋との間を仕切る襖を背にして、|生成《きな》りのシャツに砂色のジャケットを引っかけたあの青年がいた。両足を投げ出して|俯《うつむ》いている。
玄児は縁側に続く障子の側に、野口医師はその向かい側にいて、やって来た私たちの方をそれぞれに振り向いた。青年は俯いたままだった。
「やあ中也君、おはよう」
玄児の私への第一声は、すでに正午を二十分ばかり過ぎた時刻であるにもかかわらず「おはよう」だった。
「昨夜はよく眠れ……あや、おじさんもご一緒でしたか」
「さっきそこのテラスでお会いしてね」
と、征順が応えた。
「ひとしきり二人で、なかなか愉快な談義を」
玄児は「ふうん、そうなのかい」とでも問いたげな視線を私に送ったが、すぐにしのぶの方へ目を移して、
「すまないが、熱いお茶を|淹《い》れてきてくれないかな」
「――はい」
例によって拍子の遅れた返事をして、しのぶが廊下へと去る。
私たちのやり取りが聞こえているのかいないのか、青年はその間もじっと俯いたままでいた。彼の前の卓上には水差しと湯呑みが置かれている。濡れたタオルもその横に添えられていた。
「気分はどうかね」
皺くちゃの白衣を「熊さん」のような巨体にまとった野口医師が、青年の顔を覗き込んだ。
「頭が痛いとか、吐き気がするとかは?」
青年は|面《おもて》を伏せたまま、わずかに首を左右に動かした。
「空腹感は? 何も食べておらんから、腹が減っとるだろう」
この質問にも、青年は同じ反応を返した。
「ここがどこかは分るかね」
若干のためらいを見せた後、青年は微妙に首を傾げて動きを止める。医師はさらに続けて、
「お前さんは何者で、どうしてここにいるのか。その辺のことは?」
青年は何とも答えない。やがて掠れた呻き声のような音をかすかに洩らしたかと思うと、両手を持ち上げて頭を抱え込んだ。
黙って様子を見守りながら、私と征順は座卓の手前の、青年と向かい合った位置に腰を下ろす。玄児が私に向かって、
「さっきからずっとこの調子でね」
と軽く肩を竦めた。
「〈南館〉の方をふらふら歩いていたのを、|宍戸《ししど》さんが見つけたんだそうだ。一時間ほど前のことになるのかな。俺を呼びにきてくれたのは鶴子さんだったんだが」
「宍戸さん、というのは?」
「ああ、ここの料理人だよ。宍戸|要作《ようさく》といって、料理の他にもいろいろと屋敷の雑用を引き受けてくれている」
「彼は、その、一人でふらふらと?」
「らしいね」
玄児はちらと青年を見やる。青年は頭を抱え込んだまま、卓上に両肘を突いていた。
「宍戸さんも一応事情を知らされていたから、その場であれこれ話を聞こうとしたというんだがね、何を尋ねても答えてくれない、埒が明かない。俺が駆けつけた時には、しのぶさんに連れられてもうこの部屋に戻っていて……ねえ、君」
と、玄児は青年の方に向き直り、
「いい加減、何か話してくれないかな。別にここで、君を責めようとか|虐《いじ》めようとかいうつもりはないんだから」
青年の反応はない。
「喋れない、のでは?」
私が口を挟んだ。
「ゆうべ野口先生が、そう」
「その可能性は大いにありますな」
と、野口医師が頷いた。アルコールの臭いが私の鼻先にまで漂ってくる。昨夜は伊佐夫と二人して、いったいどのくらい飲んだのだろうか。
「しかしまあ、恐らくショックによる一時的な症状だろうと」
「喋ろうにも声が出なくて……か」
青年と同じように卓上に両肘を突きながら、玄児は訊いた。
「ねえ君、俺たちが云うことはちゃんと聞こえているんだよね」
頭を抱え込んでいた手を離して、青年は小さく頷いた。顔はそれでも伏せたままである。
「じゃあ、やっぱり喋れない、うまく声が出ないわけかい」
何秒かの間があって、青年は再び小さな、何かに怯えてでもいるかのような頷きを返した。
「そうか」
玄児は「参ったな」とでも云うように頬杖を突いたが、そこで――。
「そうだ。これは?」
ズボンのポケットに手を突っこんだかと思うと、中から銀色の鎖を引っ張り出した。鎖の先に付いているのは、云うまでもなく、昨夜〈十角塔〉のバルコニーで発見した例の懐中時計である。
しゃらり、と鎖の音がして、青年の前に時計が置かれた。
「君、この時計を知っているかい」
青年の視線がのろのろと上がり、卓上の時計を捉える。――と、右手が伸びてその鎖を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、224-上-5]んだ。そろりと持ち上げる。鎖の端が左手に持ち替えられる。ハンカチが巻かれていた左手には、昨夜の野口医師の処置だろう、包帯が巻き直されていた。
青年はまっすぐに顔を上げる。目の前で、持ち上げられた時計が小さく揺れる。その鋭い銀色のきらめきをじっと見つめる。
茫然としたような、喜怒哀楽の欠如していた青年の表情に、そこで微妙な変化が生じた。ちょっとした驚きの色――と、そんなふうに受け取っても良いだろうか。唇がほんのかすかに震えた。だが、発声される言葉はない。
「知っているんだね」
座卓に半ば身を乗り出し、玄児が云った。青年は時計の動きを見つめたまま、目を離そうとしない。
「中也君」
と、玄児は私を振り返って、
「ちょっとそれを貸してくれないかな」
「これを、ですか」
私が傍らに置いたスケッチブックを、玄児は指さしていた。
「どうぞ。でも、何のために」
「何か書くものもあるだろう。ペンか鉛筆か」
「ああ、はい」
私が差し出した鉛筆を受け取ると、玄児はスケッチブックの最後の|頁《ページ》――当然そこにはまだ何も描かれていない――を開いて、青年の前に突き出した。青年は時計を卓上に戻し、ぼんやりとした眼差しを玄児に向ける。
「さあ、これで――」
と、玄児は青年の手に鉛筆を押しつけ、
「喋れないのなら、書いて答えておくれ。できるだろう? ――そうだな。まずはYESかNOで答えられる質問をするから、YESなら○を、NOなら×を、そこに書いて。どちらとも云えない、分らないという場合には△を……いいかい。分るね」
打てば響くような反応では決してなかったが、玄児の要求は正しく伝わったふうで、青年はやがて渡された鉛筆を右手で握った。見るからにぎこちない握り方だった。
開かれたスケッチブックに手を伸ばして引き寄せると、白い画用紙の隅に鉛筆を近づける。そうしてそこに記されたのは、ずいぶんと形が崩れてはいるが、確かに「○」であった。「できるだろう?」という玄児の問いかけに答えたつもりらしい。
玄児は「よしよし」と頷き、
「じゃあ、質問だ。――その懐中時計を、君は知っているか。知っているのなら○を、知らないのなら×を」
ぎこちなく手を動かし、青年は「○」を記した。
「その時計は君の持ち物なのか」
これにも「○」が返される。
「T・Eというイニシャルが裏に彫られているけれども、それは君のイニシャル?」
青年は少しく迷った後、今度は「△」を記した。「どちらとも云えない」なのか、それとも「分らない」なのか。
「さっき訊いたことの繰り返しになるが。君は自分が誰なのか分るか」
記された答えは「×」だった。
「君はここがどこなのか分るか」
若干の間があって、また「×」が記される。
「君は昨日の夕暮れ時、一人で塔に昇っていて、最上階のバルコニーから転落したんだよ。意識を失っている君を俺たちが発見して、ここへ運んできたんだ。懐中時計はそのバルコニーに落ちていた。――憶えている?」
青年は「×」を記した。
「ふん、なるほど」
玄児は尖った顎に手を当て、ゆっくりと撫でまわしながら呟く。
「要は記憶がはっきりしないと、そういうことか。ここがどこかも、何故ここへ来たのかも、そもそも自分が何者なのかも、うまく思い出せない。墜落のショックのためにそういった記憶喪失状態になってしまった、と」
それからまた青年に向かって、
「そうだね、君。記憶がない、思い出せない。そんな感じなのかな」
相変わらずぎこちない手の動きで、青年は「○」を記す。それを見て取るや、
「ううん、そうか」
呟いて、玄児は深々と溜息をつくのだった。
[#ここから2字下げ]
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
[#ここで字下げ終わり]
二人のやり取りを見守る私の脳裏に、中原中也の例の詩の断片が滲み出してくる。それを暗誦してみせる玄児の声が、耳の奥で蘇る。――かすかに。囁くように。
[#ここから2字下げ]
記憶といふものが
もうまるでない
[#ここで字下げ終わり]
玄児の溜息に合わせるかのように、青年も低く息をつく。茫洋とした面差しで、弱々しい視線を卓上のスケッチブックに落とす。
緩やかに胸を締め付けられるような想いで、私はその様子を見つめる。失われた記憶。空白の|時間《とき》。……五ヶ月前の自分自身の姿が嫌でもまた思い出され、今ここにいる青年の姿と重なり合う。
そしてもちろん――。
――記憶というものがもうまるでない。
玄児も――彼もまた、多かれ少なかれ同じような心境で青年と対峙しているのに違いないのだ。
――他人事じゃないんだな、俺にとっても。
「それじゃあね、とにかくもう一度、順を追って昨夕からの出来事を話すことにしよう」
子供に含んで聞かせるような調子で、やがて玄児が云った。
「まず、ここは九州、熊本の山奥にある浦登家の屋敷だ。影見湖という湖の小島に建っている。今日の日付は九月二十四日。――で、君はどういう理由があってか昨日この島へ渡ってきて、敷地内にある塔に昇った。〈十角塔〉と呼ばれている塔だ。最上階まで行って、君はバルコニーに出た。そしてね、そこへたまたま大きな地震が起こって、たぶんそのせいでバルコニーから地上へ転落してしまった。
こちらの母屋の窓からそれを目撃したのが、そっちの彼――中也君でね、彼と俺とで塔の下へ駆けつけて、倒れている君を見つけて、この屋敷まで運んできた。手当てをしてくれたのはそちらの先生――野口先生だ。幸いにも命に別状はなく、骨折や何かの重大な負傷もなかった。ゆうべ一度、君は意識を取り戻したが、その時も今と同じような茫然自失の状態で、今と同じようにうまく声が出せない様子だったらしい。
ざっとまあ、こんなところなんだが――」
玄児は言葉を切り、煙草を銜えた。
「どうかな。こうやって話を聞いても、やっぱり何も? せめて名前だけでも思い出せないかな」
青年は鉛筆を握ったまま、微動だにしなかった。乾いた唇を一文字に結び、それまでは見られなかったような深い縦皺を眉間に寄せ……玄児に促されて彼自身、みずからの失われた記憶≠どうにかして探り出そうと努力している。そんなふうにも見受けられた。
「ちなみに――」
と、玄児が説明を付け加える。
「俺の名は玄児、浦登玄児という。浦登家の当主である柳士郎の息子だ。この屋敷は、地元では少々変わった建物だということで通っている。暗黒館、なんていう不吉な名前で呼ばれることも多い」
青年の様子にその時、変化が起こった。今の玄児の言葉――「暗黒館」というこの屋敷の異名に反応しての変化であるように、少なくとも私の目には映った。
はっとしたふうに面を上げ、青年はゆっくりと自分の周囲を見まわした。天井を仰ぎ、背後を振り返り、座卓を囲んだ私たちの顔を順に見ていき、再び天井を仰ぎ……やがてまた面を伏せる。突然の強風に吹かれて、淀んだ沼の水面がひとしきり波立ちざわめいた――と、そんな感じだった。
「失礼します」
ちょうどそこへ、羽取しのぶが入ってきた。人数分の茶と茶菓子が用意された盆を座卓に置き、|甲斐甲斐《かいがい》しく給仕をはじめる。
「やあ、ありがとう」
玄児が真っ先に手を伸ばし、熱い緑茶を|美味《うま》そうに一口啜る。吸っていた煙草の灰を卓上の灰皿に落とす。そこで――。
あっ、と思わず声を上げたのは私だった。玄児は驚いてこちらを振り向く。私は黙って青年の方を指さした。
鉛筆を握った青年の右手が、スケッチブックの上で動き出していたのである。
さっきと同じく、やはりひどくぎこちない動きだった。幼い子供が書き方の練習をしているような。書く≠ニいう行為自体をうまく思い出せない、とでもいったような。手に力が入りすぎているのが、見ていても分る。文字どおり|蚯蚓《みみず》がのたくったような線が、そうしてゆっくりと画用紙の余白の引かれていき……。
ようやく出来上がった最初の文字、それは「江」と読めた。
青年はさらに鉛筆を動かす。やがて、二番目の文字が完成する。――「南」。
江南
そこまで書いたところで[#ここから太字](江南……と、今度はその名に反応して)[#ここで太字終わり]、鈍い音とともに鉛筆の芯が折れてしまった。私は慌ててポケットから予備の鉛筆を取り出したのだが、それを見て青年はゆるゆると何度もかぶりを振った。「もう無理だ」という意思表示のように受け取れた。
「これは――」
記された下手くそな文字を覗き込みながら、玄児が尋ねた。
「これが、君の名前なのかい。いま思い出したわけかな」
芯の折れた鉛筆を放り出して、青年は心許なげに頷いた。
「苗字だよね、こいつは。下の名前は?」
訊かれて、青年は|気圧《けお》されたように目を伏せる。物悩ましげに首を傾げる。二つの文字を思い出して書くというその行為が大変な重労働であったかのように[#ここから太字](江南……江南、孝明。ああそれが……という認識が、束の間)[#ここで太字終わり]、呼吸が荒くなっていた。
「そこまではまだ思い出せない、と?」
小さな頷きが返された。
「――分った」
玄児は改めてスケッチブックを覗き込み、
「『えなみ』とでも読むのかな」
そう呟いて、私の方を窺った。
「『かわみなみ』『かわなみ』というふうにも読めますね。『こうなん』かもしれないし『こなん』かもしれない、あるいは……」
今さら考えるまでもないことだが、日本語の人名や地名というのはなかなかに厄介な代物である。同じ漢字を書いても読み方の異なるものが山ほど存在する。たとえば、そう、私が生まれた土地の|字《あざ》は「別府」と書くのだが、これは「べっぷ」とは読まずに「びう」と読む。地元の者以外でこの地名を正しく読めた人間と、私は一度も会ったことがない。
「ああ、でもその時計に彫られているイニシャルからすると、少なくとも『江』は『え』と読むはずですね。『T・E』の『E』だから……とすると、やはり『えなみ』でしょうか」
「確かに。――|江南《えなみ》君、か。ねえ君、そう呼んでもいいのかな」
玄児の問いかけに、青年は肯定とも否定ともつかぬ曖昧な首の動かし方をした。荒くなった息は元に戻らず、何やら苦しそうでもある。思い出すままに書いては見たものの、自分でもまだ確信が持てないのかもしれない。心に蘇ってきたのは文字≠セけで、読み≠ノ関する記憶はいまだ探り出せないでいる、ということもありうるだろう。ともあれ、彼が体力的にも精神的にも、まだまだ相当に不安定な状態にあることは間違いない。
「もうこの辺にしておいた方が良いでしょう」
と、野口医師が玄児を制した。医師はそして、青年の方へと向き直り、
「何か食べて栄養を補給して、とにかくもう少しちゃんと休んだ方がよろしい。声が手ないのも記憶の欠落も、時間が経って落ち着いてきたら、意外にすんなりと解決するかもしれん」
五ヶ月前に自分自身が病室で聞いた主治医の言葉を思い出しながら、私は青年――江南某の反応を窺った。目を伏せたまま大きな呼吸を繰り返しつつ、彼は右手を拳にして己の額を何度も小突いている。
[#改ページ]
間奏曲 二
……突然の視点≠フ分裂、そして法則を超えた跳躍。
いかがわしい|恣意性《しいせい》を|孕《はら》んだ変化だった。が、そこに何らかの意味を付与しうる自律的な思考は、基本的にはいまだ昏い混沌の中にある。
広がる闇は存外に柔らかい。同時にそれは、冷ややかな悪意に満ちてもいる。その正体、その源泉が|何処《いずこ》にあるのか、この世界≠フ住人にはむろん知るよしもないのだが……。
……館が建つ島。島が浮かぶ湖。湖畔の森に造られた駐車用の広場。広場に並んだ幾台かの車。その中の一台の、|幌《ほろ》付きの二台の上に――。
暗黒の夜に押し包まれ、不安と恐怖に震える少年の姿がある。舞い降りた視点≠ヘ再び、その少年の内側へと滑り込む。
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
少年の名は|市朗《いちろう》という。この九月に満十三歳の誕生日を迎えたばかりの中学一年生。家はI**村で雑貨屋を営んでいる。
市朗は怯えている。
車の荷台に積んであった防水布にくるまり、リュックサックを枕代わりにして横になり、膝を抱え込んで身を丸めている。
さっきまで浅い眠りの中を|彷徨《さまよ》っていた。悪夢にうなされて目が覚めて、周囲に自宅の寝室とは明らかに異なる深い闇を感じ取った時、市朗は改めて絶望の溜息をついた。どうしてこんなことになったんだろう、こんなはずじゃなかったのに……という詮ない嘆きを心中で繰り返さざるをえなかった。
腕時計に目をやると、薄緑色に光る長短の針が見えた。一時過ぎを示している。日が変わって、今はもう九月二十四日、その午前一時過ぎ。夜明けはまだ何時間も先だ。
時計の夜光針以外は、暗くて本当に何も見えなかった。もってきた懐中電灯はとうに電池が切れてしまっている。あの事故車のそばで拾ったマッチがズボンのポケットにあるけれど、この場でそれを使ってみたところでどうなるものでもない。
星明りも月明りもない。文字どおり一寸先さえ見えない暗闇に、市朗を取り巻く世界は塗り潰されている。身動きが取れない。とにかくここで夜露を|凌《しの》ぎ、朝が来るのを待つしかないのだ。
市朗はきつく瞼を閉じる。
考えるのはやめて、このまま眠りの中に戻ってしまいたかった。だが、なかなか思うようにはいかない。瞼の裏には入れ替わり立ち替わり、さまざまな光景が映し出され……。
市朗は回想する。
……夏休みが終わり、学校が始まって間もない頃のことだった。市朗たちにとって、たいそう衝撃的な出来事があった。
――峠の向こうのお屋敷? だったら俺、見たことあるけど。
二学期になって隣村の中学から転校してきた男子生徒が、何気ない口振りで言い放った言葉。
聞けば、彼はかつて、山歩きと昆虫採集が趣味の叔父に連れられて百目木峠の向こうまで遠征したことがあるらしい。その際、たまたま森の中で小さな湖と出遭い、そこに浮かんだ島に建つ真っ黒な屋敷の姿を垣間見たのだという。
市朗くらいの年頃の少年たちの間では往々にして、分りやすい形で示された勇気≠ェ、仲間の尊敬を集める勲章となる。己の勇気を証明するべく、彼らは進んで何某かの冒険≠ノ挑戦する。それはたとえば、老朽化のため立入禁止になっている古い校舎に忍び込むことであったり、村はずれの吊り橋の上から曲芸的な宙返りを打って川に飛び込むことであったり、裏山の洞窟をなるべく奥深くまで探検してくることであったりする。戦時中に惨たらしい殺され方をした脱走兵の幽霊が出るという神社の森で一夜を過ごす――そんな肝試し≠ェ、この夏休みに流行ったりもした。だから……。
I**村で育った市朗たちにしてみれば、「峠の向こうの浦登様のお屋敷」と云えば、かねてより大いなる|禁忌《きんき》と恐怖、そして好奇の対象でありつづけてきた存在である。それを実際に見たことがあるという同世代の少年の出現は、当然ながら決して小さくはない衝撃を彼らに与えた。転校生に向けられる皆の眼差しに、ある種の|畏敬《いけい》が含まれるようになったことは云うまでもない。
そこで、生来負けん気の強い市朗は思いついてしまったのだった。ならば自分だって……と。
「峠の向こうの浦登様のお屋敷」――暗黒館という恐ろしげな名でも呼ばれるその屋敷を、ぼくもこの目で見てきてやろう。できれば何か、そこへ行った証となるようなものを持ち帰ってこよう。誰かと一緒にではなく、たった一人でその冒険をやってのけるのだ。そうすればきっと、今度は一躍ぼくがみんなの注目を、そして尊敬を集めることができるに違いない。
市朗は計画を立て始めた。
百目木峠を越えたあと、どのように行けばそこ[#「そこ」に傍点]に辿り着けるのか。この村からどれほどの時間がかかるものなのか。必要な情報を転校生から聞き出し、地図やコンパスも用意して場所の見当をつけ……彼なりに準備を整えていった結果、実行は今月二十三日、秋分の日の朝から――と決めた。そうしてその計画どおり、昨日の朝、市朗は一人村を発ったのである。ところが……。
……あの霧が。
百目木峠の険しい坂道を登るうち、徐々に立ち込めはじめたあの霧。やがてそれは濃霧となり、まわりのものすべてを蒼白く覆い尽くし、市朗の知覚や思考を翻弄した。
視覚だけではない、聴覚も嗅覚も、地面を踏む二本の足の感覚すらも、当たり前な状態ではなくなっていった。呼吸とともに肺に侵入した霧が、そのまま脳の中にまで流れ込んできそうな心地になった。いきなり誰かに背中を押されでもしたかのようなつんのめり方[#「つんのめり方」に傍点]をしたり、何か奇怪な物音が聞こえたように思ったり、はっと気づくと一歩先が道から外れた崖縁であったり……。
予定の何倍もの時間をかけて、ようやく峠の頂上と思しきところまで辿り着いた時には、市朗は完全に平静を失っていた。適切な判断能力も失ってしまっていた。吐き落とす言葉の一つもなく、しばし茫然と濃霧の中にうずくまっていた。
あそこで諦めるべきだったのだ――と、今になって思う。あそこで回れ右をして、村に引き返しておけばよかったのだ。なのに、ぼくは……。
蒼白い濃霧が作る|忌々《いまいま》しい渦の中へ、それを回想する現在の思考までもが吸い込まれそうになる。傷んだレコードの音飛びのように、そこでぷつんと場面が切り替わる。
……あの時の、あの地震で。
例の黒い車をやり過ごした後、重い足取りでさらに山道を進むうち、あの地震が起こった。山が、森が、異様な音響とともに大きく身じろぎした。かなり強く長い揺れだったと思う。驚きと恐れで、市朗はその場にしゃがみ込んでしまった。
そのあとも市朗は、車のタイヤの跡を追って先へと進んだ。やがてタイヤの跡は脇道に折れた。市朗もそれに従い、急な下り坂の悪路を降りていったわけだが、そこで――。
先刻の地震の時とはまた違う「異様な音響」が、あたりの空気を震わせはじめたのだった。
何だ? とうろたえるうちに、音は轟音へと膨れ上がった。来た道を振り返り、市朗は慄然とした。直線距離にして二十メートルと離れていないその場所で、今しも大規模な土砂崩れが起きようとしていたのである。
昨日までの長雨のために地盤が緩み、相当に不安定な状態になっていたのだろう。それ以前から徐々に蓄積されてきたバランスの狂いも、むろんあったに違いない。そんなところへ先刻の地震の衝撃が加わってしまい、それで……。
市朗が見守る中、地を揺るがす大音響とともに山の斜面が崩れ落ちていった。
次々と木々が薙ぎ倒され、茶色い土砂に呑み込まれた。幾羽もの野鳥が一斉に森から飛び立ち、甲高い鳴き声を発しながら上空を旋回した。ものの何分も経たぬうちにそして、それまでそこに通っていた道は大量の土砂に押し流され、消え失せてしまったのだった。
市朗がいる場所にまでは、その被害が及ぶことはなかった。もしもタイミングがいくらかずれていたなら、ひとたまりもなく土砂に押し潰されていたことだろう。その意味では幸運だったと云える。が、しかし――。
この異変によって、市朗は完全に退路を断たれてしまったわけであった。仮に今から村へ引き返そうと思ったところで、物理的な問題としてもはや引き返しようがない。然るべき復旧工事がなされない限りは。
市朗は足許のタイヤの痕に目を落とした。これを追って先へ進むしかない。――そう。もうそれしか道は残されていないのだ。
道に突っこんで大破したあの黒い車を発見したのは、それから三十分余り後のことだった。
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
……あの車。
回想の場面がまた切り替わる。
……あの死体。
車から少し離れたところに、下草に埋もれるようにして倒れ伏していた。気味の悪い角度に折れ曲がった手足。叩き割られた西瓜さながらの頭。捩じ曲がるようにして横を向いた顔。宙を見据えた生気のない目……。
誰だか知らない中年の男だった。触って確かめてみることなど恐ろしくてとてもできなかったが、あれは確かに死んでいた。生きていたはずがない。無惨な、おぞましい命の抜け殻だった。あれは……しかも……。
市朗は叫び声を上げ、その場から逃げ出した。夕闇が押し迫る森の中の道をしゃにむに走った。何がどうなっているのか、何をどうしたらいいのか、考える余裕などまったくなかった。
そのうち行く手の道端に、一枚の立札が現われたことを憶えている。
[#ここから2字下げ]
これより浦登家私有地
無断で立入るべからず
[#ここで字下げ終わり]
木製の札に並んだ文字の、どきっとするほどに鮮やかな赤が、死体の頭部を染めていた血の色に重なって見え、市朗は|怖気《おぞけ》をふるった。同時に、わずかにではあるが安堵を覚えた。この道はやはり正しかったのだ、と。
「これより浦登家私有地」――この先にやはり、「大猿の跡」と呼ばれる問題の湖があるのだ。そこに浮かんだ小島に、めざす「浦登様のお屋敷」が――暗黒館が建っているのだ。
「立入るべからず」という禁止命令を無視して、市朗はそのまま同じ道を走りつづけ、そうしてやがてその湖のほとりに辿り着いた。あの時、時刻はもう午後六時を回っていた。陽は山々の向こうに落ち、いよいよ密度を増してきた闇に風景のすべてが包み込まれようとしていた。
湖畔に造られた桟橋のそばに、小さな四角い家[#ここから太字](……あの建物は)[#ここで太字終わり]があった。黒い石造りの建物だった。助けを求めたい一心で、市朗はとにかくその建物へと足を向けた。
入口の前に立った。
黒い木の扉についた鉄製のノッカーに手を伸ばしかけたところで、ふと祖母の顔が心に浮かんだ。あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が棲むのだ――と大真面目に語っていた彼女の、あの物怖じした表情が。
良くないもの[#「良くないもの」に傍点]。それが――そのもの[#「もの」に傍点]が、この建物の中にもいるのだろうか。
祖母の話によれば、昔――彼女がまだ若かった頃に、村の人間が|忽然《こつぜん》と姿を消してしまう事件が相次いだのだという。消えた者たちは子供や若い女が主だったが、その後ついに村へ戻ってくることはなかった。彼らは皆、あの屋敷の「良くないもの」にさらわれていき、そして……と、そんな噂がまことしやかに囁かれたものだったという。
市朗はノッカーに伸ばそうとした手を引っ込め、おどおどと周囲に目を配った。何者の姿も見当たらなかった。さんざん迷った末、扉の前から[#ここから太字](……この扉は)[#ここで太字終わり]離れた。とりあえず建物のまわりを一周して、様子を窺ってみようと思ったのだった。
入口とは逆側の側面に、小さな窓がいくつか並んでいるのを見つけた。中からわずかに明りが漏れ出している。――誰かがいるのだ。
市朗はそろそろと窓に近づいていった。どの窓にも黒い鎧戸が閉まっていた。が、中に一つだけ、戸の合わせ目に隙間の残っているものがあった。市朗は息を殺し、その隙間から建物の中を覗き込んだ。そして――。
市朗は見た。
天井からぶら下がった電灯の弱々しい光の中、部屋を横切っていく男の影を。
覗き込んだ窓から見て斜め右手奥の壁際に、流し台らしきものがあった。ひょこひょこと身体全体を揺らすような足取りでそちらへ向かっていった男は、流し台の前でぴたと立ち止まり、不意に窓の方を振り向いた。
市朗は慌てて窓から顔を離した。
見つかったかもしれない。すぐに逃げだそうかとも考えたが、何秒か息を詰めて耳を澄まし、男がこちらへ向かってくる気配がないことを確かめると、思い切ってまた中を覗き込んだ。
男は流し台の前に立ったままだった。濃い鼠色の服を着たその姿は、何とも不気味な、異様なものとして市朗の目に映った。
背中がひどく折れ曲がっている。曲がった部分には大きな瘤のようなものが隆起している。顔はその隆起よりも低い位置にあって……。
異形の男は黙々と作業を始めた。
流し台の上に俎板が、さらにその上に何やら赤茶けた石のようなものが置かれる。蛇口から細く水が垂れる。ひたひた、しゃりしゃり……という音が、やがてかすかに聞こえてくる。
男の手許によくよく目を凝らしてみて、そこで何が行われているのかが分った。
……包丁を?
赤茶けた石のような……あれは|砥石《といし》だ。それを使って男は、包丁の刃を研いでいるのだ。
市朗が覗き込んだ角度からは、男の横顔を捉えることもできた。その頬はいかにも不健康そうな土気色で、もじゃもじゃの髪の毛や揉み上げは何だか獣じみても見える。加えて、そこに浮かんだ表情。眉間に深い縦皺を刻みながらも、唇はにたにたと笑っている。気味の悪い忍び笑いが、今にも耳許に伝わってきそうだった。
市朗は震え上がった。とにかく恐ろしかった。
あいつに助けを求めるなんて、とてもじゃないけどできない、しちゃいけない。そんなことをしたらきっと……。
駄目だ、駄目だ、と心の中で繰り返しながら、市朗は窓から離れた。――と、まさにその時。
足許から不穏な地鳴りが響き上がってきたかと思うと、ずん! と激しい衝撃を感じた。また地震が……と悟るや否や、市朗は地面に身を伏せていた。先ほど目撃した土砂崩れの様子が嫌でも脳裏をよぎり、思わず両手で頭を抱え込んだ。
間近で何か音がした。
何か大きな音が。破壊的な音が……ああ、崩れる。世界が崩れる……。
揺れが収まっても、音はまだ続いた。誰か人の叫び声がそこに混じって聞こえたようにも思う。やがて音がやみ、市朗はのろのろと上体を起こした。腕時計を見ると、六時半をいくらか過ぎていた。
速鳴る心臓の鼓動が静まるのを待って、市朗はあたりを見まわした。
今の騒ぎが嘘であったかのように、湖畔はしんと静まり返っている。雲間から青い星明りが降り、闇をわずかに薄めている。
市朗は立ち上がり、さっきの窓にもう一度歩み寄った。恐る恐る建物の中を覗き込んでみる。するとそこには、予想だにしていなかった光景が待ち受けていた。
流し台の据え付けられていたあたりの壁や天井の一部分が、ごっそりと崩れ落ちている。今の地震で壊れたのだ。
壁際に置かれていた大きな棚が倒れ、割れた硝子が瓦礫に混じって床に散乱している。さっきの男がそして、その棚の下敷きになってしまっていた。
足から胸にかけてを、倒れてきた棚に押し潰されたような格好だった。血にまみれた顔が見える。恐ろしい形相をしている。投げ出された両手が、瓦礫や硝子の破片の中で緩慢に動いていた。
ああ……どうしたらいい?
助けなければ、という気持ちと、男を恐れる気持ちとが、市朗の中で拮抗して膨れ上がった。
とにかく建物の入口へと急いだ。扉を開けて中に飛び込んだ。玄関からまっすぐに奥へ進むと、男が倒れているその部屋に出た。
助けなきゃ……やっぱり。
何とか気を奮い立てて駆け寄ろうとした市朗だったが、それに気づいてか気づかずか、男の口から突然「うがあっ」という唸り声が発せられた。苦痛と怒りが入り混じったような声だった。
市朗の耳にはそれが、凶暴な野獣の|咆哮《ほうこう》に聞こえた。足が竦んだ。助けねばならないという義務感はそこで完全に消し飛んでしまい、次の瞬間には部屋から逃げ出していた。
……そして。
不安定な月明りと懐中電灯の光を頼りに、あてどなく付近を彷徨い歩いた末、市朗はこの広場を見つけたのだった。
さっきの岸辺の建物へは、絶対に引き返したくなかった。――あいつはどうなっただろうか、と気にはなる。ひどい怪我をしていたかもしれない。あのままあそこで棚の下敷きになっていたら……ああ駄目だ、考えちゃいけない。ぼくにはどうしようもなかったんだ。ぼくには……。
屋敷の駐車場なのだろう、広場には幾台かの車が並んでいた。幌付きの荷台を備えたジープをその中に見つけると、市朗は逃げ込むようにして荷台に飛び乗った。積んであった防水布にくるまり、闇に潜む恐ろしい何ものかの目から隠れるように小さく身を丸め……。
とにかくここで夜が明けるのを待つんだ、と自分に言い聞かせた。
朝になれば、島の屋敷から誰かがこちらへやってくるだろう。そうしたら出ていって事情を説明して……いや、何もせずにこのままここに隠れつづけていれば、この車で村の方まで帰れるかもしれない。ああ、でも――それにしても、あの土砂崩れで流された道が復旧しないことには……。
市朗は不安と恐怖に震えつづける。再び眠りに落ちて、意識が現実から遮断されてしまうことを望みつつ、ひたすらに夜明けを待つ。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
分裂した視点≠ヘ〈頭部〉の座敷に舞い降り、そこにいる彼[#「彼」に傍点]――江南の内側へと滑り込む。
ロングケースクロックの重厚な鐘の音が、玄関ホールから鳴り響いてくる。九月二十四日、午後一時を告げる時鐘だった。
……僕は[#ここから太字](……は)[#ここで太字終わり]。
……僕の名は[#ここから太字](……名は)[#ここで太字終わり]。
破り取られたスケッチブックの一頁が、枕許に置いてある。布団の上に俯せになって枕に顎を載せ、そこに記された下手くそな二つの文字を見つめながら、彼は小さな溜息を繰り返す。
「江南」――みずからの手で書いた、これが僕の名だ。そう。これが僕の……。
「浦登玄児」と名乗った男の質問に○や×を記して答えるうち、心中に昏く広がる混沌の海の底から、この二文字がふと浮かび上がってきたのだった。字を書く≠ニいう行為そのものを思い出すのに苦労しつつも、どうにかそれをここに書き付けることができた。
これが自分の苗字であることは間違いない。そう確信できる。けれどもその他の記憶の大半は、相変わらず昏い混沌の海の底にある。
消え失せてしまったわけでは決してない。記憶は彼の頭の中に残存している。ただ、それを自分の意志に従って取り出し、意味のあるものとして把握することが、どうしてもうまくできないのだ。――ばらばらに散乱したパズルの破片。錆びついてしまった精密機械。整合性を失った数式の羅列。
座敷に集まっていた者たちは、今はもういない。つい五分ほど前、みんなして出て行ってしまった。独り残された江南は、「野口」という名の医師の指示どおり再び布団に横になった。「しのぶ」と呼ばれた使用人が、もうすぐ何か食べるものを持ってきてくれるはずだった。
何時間か前にここで目を覚まし、そのあと屋敷の中をひとしきり歩きまわったことで、確かにすっかり身体がくたびれてしまっていた。ひどい頭痛や吐き気といった不具合はないけれど、何だか冷たい、痺れるような感覚が全身を薄く覆っている。同じような感覚が、頭の芯のあたりにもある。手に足に背中……あちこちに鈍い痛みが残ってもいる。まだ安静にしていた方が良いというあの医師の言葉は、だからきっと正しいのだろう。
――気分はどうかね。
――ここがどこかは分るかね。
江南は目を瞑り、先ほど彼らから受けたいくつもの質問を心の中で反芻してみる。
――お前さんは何者で、どうしてここにいるのか。その辺のことは?
――ねえ君、俺たちが云うことはちゃんと聞こえているんだよね。
――じゃあ、やっぱり喋れない、うまく声が出ないわけかい。
……ああ、そうなのだ。喋ろうにもうまく声が出せない。思い浮かんだ言葉をいくら述べようとしても、声帯が凍りついてしまったような感じで、どうしても。
――その懐中時計を、君は知っているか。
――その時計は君の持ち物なのか。
江南は目を開け、スケッチブックの一頁に並べておいた例の懐中時計を見やる。知っている[#「知っている」に傍点]、これは僕の持ち物だ[#「これは僕の持ち物だ」に傍点]――と、その問題については何故か、すんなりと確信を抱くことができたのだが。
――君は自分が誰なのか分るか。
……分らない。僕の名は江南[#「僕の名は江南」に傍点]……それ以外のことはまだ何も思い出せない。
――君はここがどこなのか分るか。
……分らない。ここが暗黒館の異名を持つ浦登家の屋敷であるという事実は、さっきそう説明されて知ることができた。暗黒館、浦登家……それらの名称には聞き憶えがあるような気もする。それらを取っかかりにして何かが見えてきそうな[#ここから太字](ここは暗黒館。ここは中村青司の……)[#ここで太字終わり]、そんな気もするのだが、しかし……。
――要は記憶がはっきりしないと、そういうことか。
――そうだね、君。記憶がない、思い出せない。そんな感じなのかな。
……そう。結局はそういうことなのだ。
こうして目覚めてはいても、意識の多くの部分はいまだに朦朧としたままどこかを彷徨っている。そんなふうにも感じる。今ここにいる自分自身に対して、基本的にリアルな感触が持てない。本当の自分は、実はもうずっと昔、どこか遠くに置き去りにしてきてしまったような、そんな……。
江南は仰向けになり、座敷の黒い天井を見上げる。小さな溜息をまた繰り返しながら、額の上に右腕を載せる。そっとまた目を閉じる。
――と、そこで不意に。
不思議な放物線を描いて飛んできた、映像と音の断片。今朝方、暗闇の中で一度目覚めたあの時と同じ、これは……。
病の床に伏した彼女の[#ここから太字](……ああ、お母さん)[#ここで太字終わり]、その顔、その表情、その声。
――死なせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で、彼女はそう云った。
――もういいから、殺して……楽にして。
確かにそういったのだ、彼女は。
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第八章 兆しの色
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1
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午後一時半、玄児と私は三たび〈十角塔〉へ向かった。
意識を取り戻した青年――江南某を残して〈表の座敷〉を出たのが、その三十分ばかり前のことだった。玄児は私に空腹の度合を尋ね、私がさほどでもないと答えると、
「じゃあ、食事はもうちょっとあとにしてもらおうか。――しのぶさん、二時過ぎ頃に用意を頼む。中也君と俺の分、こっちの食堂で」
それから玄児は私の方に向き直り、
「二十分ほど時間をくれないかな。起きたばかりのところへ鶴子さんが呼びにきたものでね、まだ顔も洗っていない」
そう云われてみると確かに、今日も彼はいつもと同じ黒ずくめの出で立ちなのだが、シャツの襟が変な具合に折れていたり、ボタンがきちんと留まっていなかったりする。髪を整えた様子もなく、尖った顎には無精髭が目立った。
「台風がまた近づいているんだってね。あまり雨がひどくならないうちに、ちょっと外へ出て〈十角塔〉の方を調べておきたいんだが、中也君、付き合ってくれるかな」
「ええ、構いませんけれど」
「よし。それじゃあ二十分後に玄関ホールで、身繕いをしてくるまで待っててくれ」
その間に私はスケッチブックを二階の部屋へ置きに戻り、玄児は約束の時間ぴったりに玄関ホールに現われた。屋敷に備え付けの黒い蝙蝠傘をそれぞれの手に持ち、そうして私たちは連れ立って〈十角塔〉へと向かったのである。
雨は、先ほど中庭に出た時と大差のない小降りだった。風はしかし、たいそう強く吹きつけてくる。油断すると傘や帽子を吹き飛ばされてしまいそうなくらいに。
嵐の襲来を確かに予感させるそんな風雨の中、十角形の塔は昨日と変わることなくそこに聳え立っていた。黒い漆喰の壁は、昼間にこうしてみると、建てられてからの年月相応に傷んだり色褪せたりしているのが分る。だが、二階の窓や中庭から見た〈西館〉と同じで、塔全体から受ける印象はあくまでもやはり「黒々とした」であった。
玄児は塔の入口ではなく、昨夕あの青年を発見した場所へとまず足を向けた。外周に沿って左手へ回り込み、大きく枝を広げた|楓《かえで》の木の下をくぐり抜けたところ――。
青年が倒れ伏していたあたりを覆った下草には、かろうじてそれと分る痕跡が残っていた。彼の身体を受け止めるクッションの一つとなったのであろう|躑躅《つつじ》の植え込みにも、枝が折れていたり葉がちぎれていたりと、それらしき跡が見られる。
玄児はバルコニーを振り仰ぎ、青年の落下の軌跡を辿るようにゆっくりと視線を移動させた。楓の木から躑躅の植え込みへ、そして足許へと。続いて、地面に目を落としたままその付近をうろうろと歩きまわる。植え込みの中を覗き込んでもみる。
「探し物ですか」
「――ああ、うん」
「何を」
「あの江南君っていう彼ね、財布も何も持っていなかったじゃないか。シャツのポケットには煙草があったのに、マッチやライターはなかった。ということは……」
「転落した際、この辺に落としてしまったんじゃないかと?」
「そうに違いないと思ったんだが」
玄児は顔を上げ、小さく肩を竦めた。
「どこにも見当たらないな」
「塔の中で落としたのかもしれませんね。あるいはもっと他の場所で」
「――そういうことなのかな」
玄児は首を捻った。もう一度バルコニーを振り仰いでから、目を細めて周囲をざっと眺め渡す。やがて踵を返し、足早に歩き出した。
「ところで、ねえ玄児さん」
あとを追いながら私は問いかけた。
「ゆうべ云っていた首藤さんっていう人、もう屋敷に戻ってこられたんですか」
玄児は「いや」と素っ気なく声を返し、
「これから天候もいよいよ悪くなりそうだし、少々心配な話ではあるな」
「玄関番の蛭山さんには、連絡は?」
「いや、それもまだ、今日はまだこっちに渡ってきていないみたいだね。ちょっと気になってる」
「首藤さんの奥さん――茅子さんでしたか、彼女は熱を出して部屋に引きこもっているとか?」
「ふうん。よく知ってるねえ」
玄児は足を止め、私が横に並ぶのを待った。
「伊佐夫君とでも会ったわけかな」
「ええ。起きてしばらくしてから、たまたま二階の居間で」
「どうだった、彼は」
「――酔っぱらってました」
くくっ、と低い笑いを漏らして、玄児は再び足速に歩き出す。
「まあ、彼はあれでなかなか面白い男さ。俗物の父親を反面教師にしてきたんだろう。芸術家としての才能があるのかどうかは、さて、何とも云えないところだが」
「はあ……」
質問したいことは他にもたくさんあった。が、今ここで、である必要もない。折りを見て話を聞いていくことにしようと決めて、私は風にさらわれそうになった帽子を目深に被り直す。
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2
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塔の中は暗かったが、窓の隙間から忍び込む外光のおかげで、さすがに昨夜のような深い闇はない。玄児が懐中電灯も用意してきていたので、床の状態を調べるのにさほど時間はかからなかった。
積もり放題に積もった埃に、当然ながら昨夜の私たちの足跡が残っている。行きと帰りが二筋ずつ、計四筋。それらとは別にもう一筋、入口から螺旋階段へと向かうズックの跡があるのを確認できた。これがつまり、昨夕あの青年が付けた足跡だということである。
靴跡は階段を昇り、上階へと続いている。私たちの足跡が入り雑じっているため判別しにくくなっているが、そのこと自体に間違いはなかった。
靴跡を追って最上階まで昇り着いた。
全部で四つあるこの階の窓は、昨日見たとおりちょっと奇妙な造りで、内側に鎧戸が、外側に雨戸のような板戸が閉まっている。それでも、そのわずかな隙間から外の光が射し込んできているので、蝋燭の明りだけだった昨夜に比べると格段に明るく、床面の状態を観察するのも容易だった。
青年の靴跡は格子扉を抜け、かつて「座敷牢」として使われていたという空間を横切ってバルコニーへと続いている。そして、それ以外には私と玄児が昨夜ここに来た時の足跡しか見当たらない[#「それ以外には私と玄児が昨夜ここに来た時の足跡しか見当たらない」に傍点]。これは肝要な点だろう。
「長らく人の出入りが絶えていたこの塔の中に昨日足を踏み入れたのは、俺たち二人を除けば、あの江南という青年一人だけだったってことだ」
懐中電灯で注意深く床を照らしつつ、玄児は格子扉の向こう側に進む。すでにある足跡を踏まないようにして、バルコニーに出る窓へと向かう。
「つまり、昨夕のあの時刻、彼――江南君はあくまでもたった独りでこの窓の外に出た。そこへあの地震が起こって、あくまでも彼一人の責任に置いて地上へ転落してしまった」
「彼以外の人間の力がそこに作用した可能性はゼロである、ということですね。あくまでもあれば事故だったのだ、と」
「そのとおり。足跡が明らかにそう示している」
ゆうべ閉め直しておいた両開きの窓を、玄児は再び開け放った。流れ込んできた外光が、一瞬にして闇を|希釈《きしゃく》する。
「しかしさて、彼は何故、島へ渡ってくるなりこの塔に昇ったりしたのか……」
玄児はバルコニーに歩み出る。
逆光の白い眩しさの中、黒ずくめの彼の動きはまるで影絵のように見えた。ふと、その影がそのままバルコニーの柵の向こうへと消えてしまいそうな気がして、私は慌てて彼のあとを追う。
「――何も落ちていないな、ここにも」
ぼそりと呟いて、玄児は足許に向けていた視線を上げた。濡れた黒い手すりに片手を掛け、ちょっと身を乗り出すようにして遠くへと目を馳せる。私はその横に並び、帽子を押さえながらゆっくりと周囲を見渡した。
母屋を構成する建物が黒々土地にうずくまり、雨に打たれている。一番手前のあれが〈東館〉、その右手に石造りの〈北館〉が連なる。〈南館〉は他棟の陰に隠れてしまっており、奥の〈西館〉は南端の塔屋部分だけが覗いている。
「ここからは、湖は見えないのですね」
私が云うと、玄児は「ああ」と頷いて、
「他の三つの窓からも、湖面は見えないんだよ」
「たまたまそんなふうに?」
「いや。わざとそういう位置に、そういう角度で窓が造られているのさ」
「わざと?」
私は玄児の横顔を窺った。
「せっかくの塔だというのに、どうしてそんな」
「それは……」
云いかけて、玄児は「ん?」と言葉を切った。
「どうかしましたか」
「あそこに、ほら」
と、玄児は右手を伸ばし、
「誰か、人がいる」
私は玄児が指し示した方向へと視線を飛ばす。
〈北館〉の裏手あたり、鬱蒼と茂った庭木の間を縫う小道に、ちらりと黄色いものの動きが見えた。傘のようだった。黄色い傘を差した誰かが、そこを歩いているのだ。
「慎太だな、あれは」
と、玄児が云った。恐らく傘の色からそう判断したのだろう。
「昨日この下で出会った子供ですね。しのぶさんのお子さんだという」
「うん、そうだ」
「あの子のお父さんは? しのぶさんと一緒に住み込みで雇われているのですか」
「詳しい事情は知らないが、父親は早くに死んでしまったらしい。かれこれ五年ほど前に野口先生の紹介でやって来てね、母一人子一人でここにいる」
「そうなんですか。大変でしょうね、彼女一人であの子を」
「知恵は少々遅れているけれども、気立てはたいそういい子さ。もう八歳になったんだったかな。本来なら学校へ通わせなきゃならない年齢だが、何せこの山奥だからね、なかなかそういうわけにもいかず……」
「もう一人、清君っていう子供がいるのですよね。さっきお会いした浦登征順さんのお子さんで」
「ああ。俺の従弟に当たる。彼の母親は、死んだ俺の母の妹、つまり俺の叔母さんでね、名前は望和っていう」
すると、玄児の祖父卓蔵や父柳士郎と同じく、清の父親である征順もまた、外からこの浦登家に婿に入った男だというわけか。
「彼ら――清君と慎太君は、二人で遊んだりは?」
玄児は黙って首を振る。蒼白い横顔にその時、薄暗い翳りが射したように見えたのは、たぶん気のせいではあるまい。
浦登清と羽取慎太、よく似た年頃の少年が同じこの屋敷に住んでいて、なのに「二人で遊んだりはしない」とはどういうことなのか。一方は浦登家の子で、もう一方は使用人の子だから? 慎太の方に知恵の問題があるからか。それとも、清が患っているという病気と関係のあることなのだろうか。
「清とは、まだ会っていないんだね」
「――ええ」
向こうからの接近は一度ならずあったようだけれど、少なくとも私の方はまだ、彼の姿をちゃんと認めていない。
「征順さんから伺ったんですが、清君は何かの病気だとか? そのせいでずっと屋敷に引きこもっているという話ですけど」
私が尋ねると、玄児は黙って頷いた。表情にはやはり薄暗い翳りが見える。
「どういう病気に」
「――会えば分る」
玄児は溜息混じりに答えた。
「俺がこんなふうに云ってしまうのはいけないのかもしれないがね、清は可哀想な子さ。可哀想だがしかし、俺たちにはどうしようもない。仕方がない」
私たちが話すうちに、小道の黄色い傘はだんだんとこちらから遠ざかっていき、やがて視界から消えてしまった。こんな雨降りの日に、はて、慎太少年は何をしに外へ出てきているのだろう。考えるともなしにそう考えた途端――。
天を覆い尽くした分厚い雲を渡って、どろどろと妖しい雷鳴が響いてきた。それが合図ででもあったかのように、雨脚が急に強くなる。
風に乗って庇の下まで吹き込んでくる大粒の雨滴から逃れ、私たちは塔の中に戻った。
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3
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「||※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、251-上-8]鼠《むささび》なんですってね」
元どおりに窓を閉める玄児の後ろ姿を、フロアの中央あたりまで退いて眺めながら、私は云った。不意を衝かれたように「えっ」と声を洩らし、玄児はこちらを振り返る。
「玄児兄さまは|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、251-上-13]鼠《むささび》だ、と」
「おやおや」
外側の板戸と内側の鎧戸、二重の窓が閉ざされて再び濃度を増した薄闇の中で、玄児は|戯《おど》けるように両腕を広げた。
「美鳥と美魚にも、もう会ったのか」
「ええ。今朝起きて一番に」
そうして私は、客室を覗きに来た何者かを追いかけて例の隠し扉を発見したことから、その奥の隠し階段で舞踏室まで降りていったこと、そこで彼女たち姉妹と出会ったことまで、今朝の一連の出来事をかいつまんで話した。
「はあん。そいつはさぞ驚いたろう」
そう云いながら、玄児は懐中電灯を点けて私の方に差し向ける。
「あんなところにあんな仕掛けがあることにも、それからもちろん、あの子たちの姿にも」
「驚かなかったと云えば嘘になります」
私は投げかけられた光に目を細めながら、
「でも彼女たちと会って、どう云うんでしょうか、何だか不思議な魅力を感じたことも事実です。浮世離れして美しい、そして無邪気な……」
「美しく無邪気なシャム双生児の姉妹、か」
玄児は懐中電灯の光を足許に落とし、私の顔をまっすぐに見据えた。
「中也君、本気で君はそう思ったわけ? いきなり美鳥と美魚のあの姿を見て、恐れや忌まわしさは感じなかったのかな」
「それも、まったく感じなかったと云えば嘘になってしまいますね。ですが、ひとしきり彼女たちと話をして、彼女たちの様子を見ているうちに、そういった感情はおのずと消えてしまったような」
「――そうか」
玄児は一歩こちらに足を踏み出し、
「兄の俺としては、君がそういうふうにあの妹たちを見てくれることに対して、感謝しなきゃならないな。ありがとう」
「そんな、改まって」
「世間的にはどう見たって、あの子たちのあの姿形は正常形態からの著しい逸脱だろうから」
「それは……」
「父が|美惟《みい》叔母さんと再婚したのは十七年前のことだ。翌年の秋にあの双子が生まれた時、二人が受けたショックと云ったら、そりゃあ大変なものだったに違いない。ぼんやりとではあるが、俺もあの時の騒ぎは憶えている」
美鳥と美魚の母親が「美惟」という名であることを、私はそこで初めて知った。玄児が「美惟叔母さん」と呼ぶと云うことはつまり、彼女もまた死んだ玄児の実母と姉妹の関係にある女性なのか。
「清とはまた形が違うけれども、美鳥と美魚もね、やっぱり可哀想な子たちさ」
そんなふうに云う玄児の声には、しかしどこかしら淡々とした響きも感じられた。
「ただ、これはとりあえず『幸いなことに』と云っていいんだろうが、あの子たち自身はほとんどそのようには感じていない。自分たちの生まれてきた形をまるごと受け入れている、とでも云うのか。変に悲観したり卑屈になったりといったところが、まるでないんだな」
――あたしたちは蟹よ。
――あたしたちはね、二人で一人なの。
舞踏室で交わした彼女たちとの会話、その端々を私は思い出す。
――変わってるでしょ、あたしたち。
――生まれた時からずっとこうだから、別にどうってことないの。
「で、中也君」
と云って、玄児が再び懐中電灯の光を私の方に投げかけた。
「君はどんな動物に喩えられた」
――中也さまは、そうねえ、|木菟《みみずく》かしら。
「木菟、だそうです」
――木菟って、猫みたいな目をしてるの。おっきくてきれいで、あたし大好き。
私の答えを聞いて、玄児は何やら愉快げに「ふふん」と鼻を鳴らした。
「君が木菟で、俺が|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、253-上-18]鼠《むささび》か。悪くないね。どっちも夜行性で空が飛べる。お仲間[#「お仲間」に傍点]だ」
重々しい雷鳴が、外でまた響き渡った。古いこの塔全体が、その響きに呼応してびりびりと震えたような気がした。
「あの、玄児さん」
こちらを照らしつける光の輪から何歩か脇へ逃れて、私は云った。
「ちょっと気になっていることなんですが」
「何だい」
「この〈十角塔〉ですけど、最上階のこの部屋はかつて座敷牢として使われていたと、昨夜そう云ってましたよね」
「――ああ」
玄児は低く答えた。暗くてその表情は窺えない。
「入口の格子扉はもちろん、窓にもすべて錠前が掛けられていたんだろうな。外へ逃げ出したりできないようにね。ここの窓が、硝子の用いられていないこんな造りになっているのも、一つには監禁装置としての機能を考えてのことだったんだろう」
「――なるほど」
黒い格子で仕切られた正十角形の薄暗い空間を、私は改めて見まわしてみる。
座敷牢。
昨夜ここでその言葉を聞いて、私がとっさに連想したのはやはり、そこに閉じ込められた哀れな狂人の姿であった。
かつてこの国では、法律によって座敷牢の存在が認められていた時代が長きにわたってあったと、そんな話を聞いたことがある。「私宅監置」という名目で行なわれた座敷牢への監禁、その対象となったのは当該家族内に発生したいわゆる精神病者だったわけだが、そうした患者を収容する病院の数が当時まだ絶対的に不足していたことも、法的根拠の一つとしてあったらしい。
この塔上の座敷牢には、ではいったいどのような人間が閉じ込められていたのか。
狂人、精神病者、異常者……法的・社会的な目的はさておき、そこには結果として、その家の「世間に知られてはまずい部分」という意味が含まれていたはずである。とすれば、監禁の対象となったのは狂人のみに留まらない。精神の異常だけではなく、何らかのはなはだしい肉体の異常もまた、世間の目から隠すべき存在として捉えられた可能性は充分にあるわけで……。
「……まさか」
真っ黒な玄児の影に向かって、私は云った。
「まさか、かつてここに閉じ込められていっていうのは、あの双子の……」
「違う。それは違う」
玄児は驚いたふうに声を強くした。
「あの子たちはずっと〈北館〉で暮らしている。こんな場所に閉じ込められたことなんて、一度もないさ。そんな莫迦なことを云いだす人間もいなかったはずだ」
「そうですか」
私は安堵の溜息をついた。
「いや、私の考えすぎでした。でも、するとここには……」
「教えてやろうか」
と、玄児が云った。押し殺した低い声だったが、そこにはどきっとするような鋭さが含まれていた。
「はい?」と小首を傾げる私に向かって、玄児はゆっくりと近づいてくる。懐中電灯が消され、薄闇の中で私たちは対等な二つの影となった。
「かつての一時期、いったい誰がこの座敷牢に閉じ込められていたのか」
玄児は私のすぐそばまで来て足を止め、それから静かに私の耳許に口を寄せる。吐きかけられる息の温もりがはつきりと感じ取れるほどの距離で、
「俺さ[#「俺さ」に傍点]。浦登玄児[#「浦登玄児」に傍点]」
囁くようにそう云った。
「もっとも、昨夜も云ったように、そのことを俺自身はまるで覚えちゃいないわけなんだがね」
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やって来た時よりも確実に雨脚は強くなっていたが、〈十角塔〉を出ても玄児は、まっすぐに〈東館〉へ戻ろうとはしなかった。
「台風が来るのなら、雨はこのあともっと激しくなるだろう。今のうちにちょっと、〈北門〉の方でも案内しておこうか。どうかな」
私の返事を待つこともせず、傘を開いて雨の中へと踏み出した。先ほど見にいったバルコニーの下と同じ方向へ、塔の外周に沿って造られた道をさっさと歩きはじめる。
しばらく行ったところで、道には塔から離れていく分岐があり、玄児は迷わずそちらへ足を向けた。雨脚と引き替えに風は若干緩くなっているけれど、それでもうっかりすると帽子を飛ばされてしまいそうになる。片手で帽子の鍔を押さえながら、私はあたふたと玄児の後を追う。
木立の間に分け入った小道をひとしきり進んだところで後ろを振り返ると、塔の最上階にバルコニーの出っ張りが見えた。進行方向左手の木々の合間には、黒い石造りの〈北館〉が見え隠れしている。さっき塔上から目撃した黄色い傘の主も、あの時この同じ小道を歩いていたのかもしれない。
やがて道幅に、傘を差した二人が並んで歩ける余裕が出来た。私は玄児の横に進み出て、
「ねえ玄児さん、〈北門〉って云いましたけど、それはつまり、この島にもう一つ門があるという?」
「昨夜あっちの桟橋を見にいった時のこと、憶えているかな」
こちらに軽く視線を流しながら、玄児はそう聞き返した。
「あの時、あの二艘の舟以外にもこの島へ渡る方法があるのか、と君が質問しただろう」
「ああ、はい」
――舟で渡ってきたんじゃないのか。
あの青年が乗ってきたはずの手漕ぎの舟が桟橋にないことが分かり、そこで玄児が口にした台詞。
――じゃあ……いや、しかしあれ[#「あれ」に傍点]は……。
それを聞き留めて、「あれ」とは何なのだろう、と私はとっさに考えたのだった。島に渡ってくる方法が何か他にも存在しており、その何かを指して玄児は「あれ」と云ったのではないか、と。
「あの桟橋はこの島の東側に位置していて、あそこの門は〈表門〉あるいは〈東門〉と呼ばれている。そしてあの門とは別に、島の北西の隅にいま一つ門があってね、それが〈北門〉だ。桟橋もある。もうかなり長い年月、ほとんどと云っていいほど使われていない状態なんだけれども」
「舟もあるわけですか、そこに」
「ささやかなボート小屋が岸辺にあって、予備の舟が置かれていたんだが――」
玄児はちょっと言葉を切って、
「今は、ない」
吐き捨てるようにそう云った。
「ない?」
「焼けちまったのさ、小屋もろともに」
「焼けた……」
「何週間か前にひどい落雷があってね。俺はこっちにいなかったんだが、その落雷がボート小屋を見事に直撃してしまったんだな。家の者が気づいた時にはすでに小屋は激しく燃え上がっていて、どうにも手の打ちようがなかったらしい。この屋敷はやはり火と相性が良くないということが、かくしてまた証明されてしまったわけさ」
「でも、それじゃあ――」
暗い湖上に流れ出して揺れていた、無人の手漕ぎの舟。ゆうべ桟橋から目撃したその光景を脳裡に呼び出しながら、私は云った。
「結局のところ今、島と湖岸とを行き来するためには、あの二艘の舟のどちらかを使うしかないと」
「いや。舟とは別の手段が、あるにはあるんだ。昨夜あっちの桟橋に舟が一艘もないのを見た瞬間、頭をよぎったのはそれだった」
「別の手段……」
舟ではなくて、では何があるというのか。考えてみれば、その答えは明らかだった。
「橋さ」
と、玄児は端的に答えを示した。
「屋敷の建造当時に架けられたという浮き橋が、あそこには残っているんだ。少なくともかつては歩いて人が渡れた。自動車はとても無理だが、小さな|荷車《にぐるま》くらいなら充分に通れたことだろう」
「と云うと、今は通れないわけですか」
「ああ。何せ造られたのはずっと昔――明治期のことだからね、とにかく老朽化がひどい。満足に修理もしていない。半ば沈みかけていて、とても安心して渡れるような代物じゃない。向こう岸には俺が子供の頃から、『危険、渡るべからず』っていう札が立てられている」
その説明でやっと私は、「しかしあれ[#「あれ」に傍点]は……」という昨夜の玄児の台詞の意味を、完全に了解することができたのだ。
玄児は私よりも一歩先へ進み出、やや歩調を速める。雨はこの間にも刻々と勢いを増してきており、足許の水溜りやぬかるみに、ずいぶんと注意を払わなければならなかった。
さらにしばらく進むうち、道の両側に立ち並んでいた庭木が途切れ、いくぶん視界が開けた。
島を取り囲む高い石積みの塀が、十メートルほど先に立ち塞がっている。そしてそこに、〈表門〉よりもだいぶスケールの小さな黒い門扉が見えた。あれが〈北門〉か。
降りしきる雨の中、玄児は足早に門の方へと向かう。あとを追おうとしてふと、私は歩みを止めた。門から右手にいくらか離れたところ――暗褐色の石積みの塀に沿ってその手前に、何だろうか、古い建物のような物があることに気づいたのだ。
「あれは?」
私は玄児の背中に向かって問いかけた。
「あそこのあれ、何なんですか」
さっき聞いたボート小屋ではあるまい。場所からしても、あの佇まいからしても。
玄児は立ち止まってこちらを振り向き、私が指し示した方向に目をやった。
「ふん、あれか」
「何か建物の跡ですね」
「かつてはあそこに使用人を住まわせていたって云う、その名残だよ」
そう云えば、浦登征順がそのように語っていた。島の北の端に昔、屋敷の使用人のために用意された長屋のような離れがあって……と。それが火災で燃えてしまったので、変わりに今ある〈南館〉が建てられたのだという話だったが。
「火事で焼けてしまったらしいね、あの建物も。もう相当に昔のことだ。きちんと取り壊しちまえば良さそうなものだが、何となく時機を逸してしまったんだろうな。ああして長年、放ったらかしになっている」
恐らく全焼というほどの被害ではなかったのだろう。今あそこに残っているのは、その際に焼け落ちるのを免れた部分だと云うことになるが、壁と云わず屋根と云わず、全体を蔦だの|蔓草《つるくさ》だのが隙間なく覆い尽くしているせいもあって、何とも異様な外観を呈している。
蔦や蔓草の類を外まわりから取り去れば、きっと朽ちかけた箱形の木造平屋が現われるのだろうと想像はできるが、それにしても、たとえば「廃屋」という言葉はあまりしっくりしない。とっさに頭に浮かんだのは、長らく放置されてきた戦時中のトーチかとか防空壕の残骸とか、そのようなイメージであった。
〈北門〉の方に向き直った玄児が再び歩き出したところで、
「あっ、あれは」
とまた、私は声を上げた。
「今度は何かな」
「――傘が」
私は片手を雨の中に突き出し、
「ほら、あの木の向こう」
長屋跡のすぐそばに、大きく枝を広げた|橡《くぬぎ》の木が立っている。ところどころ|緑青色《ろくしょういろ》に苔むしたその太い幹の陰に隠れるようにして、よく見ると建物の出入口らしき部分が残っているのが分るのだが、そこに――。
壁面をびっしりと覆った蔦や蔓草の緑に紛れて、何かしら黄色いものがちらりと見える。黄色い……そう、あれは傘ではないか。折り畳んだ黄色い傘が、その場所に立てかけてあるのだ。
「傘……慎太がいるのか」
少しばかり驚いたような玄児の反応だった。長屋跡に向かって大股に歩を踏み出しながら、「慎太」と声を高くして呼びかける。
「そこにいるのか、慎太」
何秒かの間があって、出入口と思しき建物のその部分から小さな人影が現われた。茶色い半ズボンに青い半袖シャツを着た、坊主頭のあの少年――羽取慎太である。身体の半分を建物の陰に残したまま、そろりとこちらを覗き見る。
――しのぶさんは|家鴨《あひる》ね。慎太くんは鼠で、野口先生は熊さん。
ふと耳に蘇る声。あれは美鳥だったか、それとも美魚だったか。
――慎太くんは鼠で……。
「どうした慎太、そんなところで」
と、玄児が問いかけた。
慎太は何とも答えない。おずおずといったん建物の中に姿を消し、消したかと思うとすぐにまた出てきた。上目遣いにこちらを窺いながら、壁に立てかけてあった傘を手に取る。
「何をしているんだ」
玄児は語気を強め、
「中で遊んでいたのか。危ないぞ、そこは」
慎太はやはり何とも答えず、物怖じしたように視線を足許に落とす。
あの年頃の子供にとって、ああいう古びた廃屋の類というのは、それだけでたいそうな魅力を持った存在に違いないから――と、私は思う。
人々に見放され、荒れ果てた建物。もはや誰一人住む者のいない、朽ちかけた家。その中に忍び込むこと自体に甘美な後ろめたさがつきまとうような、自分だけの秘密の空間……。
――どうしたの、そんなどろどろになって。
おもむろにまた、心の奥から遠い過去の声が響き上がってくる。
――何をして遊んでいたのです。
――兄のあなたが、そんな……。
何年もの間、人の出入りが途絶えた建物に独特のあの臭気。決して心地好いとは云えない、けれども何故かしら妙に懐かしい気がする、あの……。
「今日はこのあと、激しい嵐になるかもしれない。いいか、慎太。危険だから絶対、一人で外を出歩いたりはしないように」
玄児の言葉に、慎太は曖昧な頷きを返す。黄色い傘を開き、長屋跡から離れて、とぼとぼとこちらに歩いてくる。
途中で一度、ちらっと背後を振り返ったが、すぐに向き直って小走りに駆け出した。そこかしこに出来た水溜りを踏むことも厭わず、そのまま私たちの目の前を走り過ぎていく。
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〈北門〉の黒い門扉には、重そうな|閂《かんぬき》が掛かっていた。門の脇には通用口と思しき細い木戸があって、そちらは施錠されている様子もない。玄児はこの木戸を押し開け、自分が先にそれをくぐって私を手招きした。
傘をすぼめて木戸を抜けると、一気に視界が開けた。
重苦しい灰色の空の下、蒼白く煙った山と森を背景に広がる湖。昨夕この島へ渡ってきた際に見た深い緑色が、今はさらに深く暗い。強い風に波立ったその水面に、無数の雨が突き刺さっている。水のざわめきと雨の音が一体になり、島のまわりで渦巻いている。
「この湖が『大猿の跡』とも呼ばれていることは、確か話したよね」
と、玄児が云った。私は「ええ」と頷いて、
「全体が足跡の形をしているから、そんな異名が付いたのだと」
「五本の足指に見立てられるような、小さな入江があるわけさ。昨日舟に乗ったあっちの湖岸の桟橋ね、あれもその指≠フ一つに造られている」
「そう云えばそんな感じでしたっけ」
「この島は指≠フ逆側――湖の|踵《かかと》≠フ方に近い場所に浮かんでいる。島のこちらの岸は、その踵¢、に面しているわけでね、当然ながら対岸までの距離も短い」
「それで、ここに橋が造られたと」
「そういうことなんだろうな」
門の外にはちょっとした岩棚のようなスペースがあって、ここから左手へ、長い石段が岸に向かって下りていた。〈表門〉のある島の東側に比べると、こちらの方が明らかに湖面からの垂直距離が長い、すなわち高い位置であるのが分る。
石段は島の外周に沿って緩やかな傾斜で下方へ延び、急角度で張り出した大きな岩を回り込んで、その向こうへと消えている。玄児が先に立って、私たちはそれを降りはじめた。
「この下に桟橋とボート小屋と、それから|件《くだん》の浮き橋があるんだが」
ゆっくりと段を下りながら、玄児が説明する。
「さっきも云ったように、ボート小屋は完全に焼け落ちてしまっている。桟橋もかなり炎に|炙《あぶ》られたみたいだから、いずれ修理するなり撤去するなりしないことには……」
張り出した岩のあたりまで降りたところで、岸の様子が見えてきた。玄児の説明どおり、小さな桟橋の|袂《たもと》に小屋の焼け跡らしき部分が黒く残っている。
「ほら、あのとおりさ」
と、玄児が指さした。
「中にあった舟も、きれいに燃えてしまった」
「橋は、どこに」
私が聞くと、玄児は湖側へちょっと身を傾け、傘の下から首を突き出すようにしながら、
「桟橋と小屋のもう少し向こうにある。――ああ、あれだ。あそこに見え……おや」
不意に驚いたような声を洩らしたかと思うと、玄児は石段を降りる足を速めた。
「何だ。どうしてあんな……」
私は玄児のあとを追う。そうしながら湖の方へちらちらと目を飛ばすが、いったい何がどうなっているのかよく分らない。石段は雨に濡れてかなり滑りやすくなっているため、あまり余所見もしていられなかった。
桟橋の向こうの暗い湖面――風に吹かれ雨に打たれ、昨夕とはまるで違った表情を見せるその|青鈍色《あおにびいろ》の広がりの中に、何かしら異質感のある、どこかしらいびつな形をしたものの影を認めたのは、ようやく岸辺まで降り着いた時のことだった。
……あれ[#「あれ」に傍点]が?
私は大いに戸惑った。
あれが島と湖岸とを結ぶ浮き橋なのか。だとしたら……。
「こっちだ、中也君」
と云って、玄児は桟橋の袂を通り過ぎ、ずんずんと先へ進んでいく。ざわめく水の音を間近に聞きながら、私は急いでそのあとを追いかける。
間もなく、前を行く玄児の動きが止まった。上空でその時、低く長々しく雷鳴が響き渡った。
「――やっぱり」
玄児の呟き声が聞こえた。私は彼のすぐ後ろまで歩み出て、
「それですか」
と訊いた。
「それが問題の浮き橋なんですか」
「ああ。しかしこの有様は……」
まっすぐに前方を見つけた玄児の視線に、私は自分の視線を重ねる。そこには確かに橋が――いや、かつて橋だったもの[#「かつて橋だったもの」に傍点]があった。
歩いて湖を渡ることができたという浮き橋は、今やもう、そのとおりの形では存在しない。橋門に当たる位置に立った二本の黒ずんだ柱。その間に通行を禁じる太い縄が張り渡されているのだが、そこから先は、ほんの二、三メートルで途切れている。つまりは橋が壊れてしまっているのである。
その場に佇む私たちの視野の隅で突然、眩しい雷光が走った。二秒、三秒……と間をおいて、罅割れた轟音が大気を震わせる。
瞬間の蒼い光が、湖面に浮かぶ黒い影を照らし出した。それは対岸のある地点から湖上に延び、波と風に|弄《もとあそ》ばれて、いびつにうねるような動きを見せていた。何やら板きれのようなものが、その付近のあちこちに浮かんでいるのも見えた。
「浮き橋の残骸、だな」
玄児が口を開いた。
「|筏《いかだ》のような浮き≠たくさん並べて水に浮かせて、鎖やロープで繋ぎ合わせた上に橋床を渡す。浮き橋というのはまあ基本的にそうやって造られるわけだが、さっきも話したようにこの橋は、老朽化したまま満足な修理もなしに放置されていて、もう何年もの間『渡るべからず』の状態だったんだ。それが……」
「鎖かロープが切れてしまったのですね」
と、私が推測を述べた。
その結果、橋はそこで分断されてしまったわけである。ばらばらになった浮き≠站エ床の板は、あのとおり湖上に散乱している。向こう岸から繋がって延びてきている部分も、ああやって水の動きに弄ばれるうち、徐々に形を失っていく運命なのかもしれない。
「いったいいつ、こんなふうに」
私の問いに、玄児は「さて」と首を傾げる。
〈十角塔〉の入口の鍵が外れていたのと同じだな、と私は思った。老朽化が進み、元々いつ壊れても不思議ではないような状態であったところへ、何らかの力が加わって……と。
誰かが無理に橋を渡ろうとして、それで? あるいは、昨日起こった二度の地震のせいで、と考える方が妥当だろうか。
降りつづける雨の中、私たちはそれ以上交わす言葉もなく、浮き橋の残骸が漂う青鈍色の湖面をしばし見つめていた。
こちらから向こうの岸まで、距離は恐らく何十メートルか……あっても百メートル余りといったところだろう。私の目にはしかし、途方もない幅と深さを持った真っ暗な淵が、そこに横たわっているように映った。
「戻ろうか」
と云って、やがて玄児が踵を巡らせた。
「どんどん雨が強くなってくる。雷も嫌な感じだ。傘に落ちてこないよう祈ろう」
折りしもそこでまた雲間に走った稲光と、何秒か遅れて轟き渡る雷鳴。追い立てられるようにして私たちは、石段の方へと引き返す。
門まで昇っていく途中で一度だけ、後ろを振り返った。対岸から延びた浮き橋の残骸の黒い影が、まるで湖上を漂流する大蛇の|屍《しかばね》のように見えた。
先を行く玄児の口から「ああっ」という声が零れたのは、あと少しで門の外の岩棚部分に昇り着こうかというところで、だった。
「何かまた?」
足を止めた玄児に、私は訊いた。彼はすると、ゆっくりと片腕を挙げて斜め前方を指し示し、
「あれを。あっちの湖の色が……」
「えっ」
「さっきは気がつかなかったんだが……ほら、よく見てごらんよ。あっちのあのあたりで、水の色が変わっているのが分らないか」
「水の色?」
玄児が云った「あのあたり」とは、〈北門〉から身で右手、つまり「大猿の跡」の指≠ェ並んでいる方向であった。
暗い青鈍色の湖面に、云われてみると確かに、明らかな色の変化が生じていた。そのあたりを境として、向こう側とこちら側とで水の色が違っている。何やらいやに赤茶けた色が、向こう側の湖水には広がっているのである。
一度もこの目で見たことはないが、赤潮というのかはこんな感じなのだろうか。とっさにそう思った。この季節にこんな湖で、そんな現象が発生するわけはもちろんないのだけれど。
「光の加減であんなふうに見えるだけでは」
私が意見を述べると、玄児は「いや」ときっぱり首を振り、
「湖があんな色になるのを見たのは、俺の記憶にある限りこれが初めてだ。決して光の加減なんかじゃないと思う」
「じゃあ……」
「昨日の地震のせいかもしれない」
玄児は湖面に目を馳せたまま云った。
「岸のどこかがあの地震でごっそりと崩れて、そこから大量の赤土が流れ出したんじゃないかな。あの色はそれに含まれた鉄分によるもので……と、普通に考えればそういうことだろう」
「ははあ。赤土、ですか」
「うん。しかし困ったことに、そう云った現実的な解釈で割り切ってしまうのにも、実を云うと少々抵抗があってね」
「と云いますと」
「あの赤い色の原因は赤土なんかじゃなくて――」
玄児は言葉を切り、蒼白い顔全体を引き攣らせるようにして薄く笑った。
「人魚の血、なのさ」
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第九章 午後の無惨
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やって来た道をそのまま引き返すことはせず、私たちは〈北館〉の裏口から館内に戻った。私はもちろん、そういったこの屋敷の勝手はまるで知らないので、とにかく玄児のあとに従っていくしかなかったわけだが。
「ん? こんな時間か」
扉を入ったところに設けられた小ホールで、玄児が壁の掛時計を見て呟いた。私は自分の腕時計でもその時刻を確認した。午後二時半をとっくに回っている。二時過ぎ頃に食事の用意を――と、確か玄児はしのぶに命じていた。
ずぶ濡れになった傘をその場に置いて、私たちは建物の奥へと足を進めた。
初めて足を踏み入れる〈北館〉だが、やはりと云うか当然というか、館内は黒を基調とした内装で統一されていた。壁は黒い腰板に黒漆喰、黒い床に黒い絨毯、天井も扉も扉のノブも、すべてが艶消しの黒である。空間はそして、暗い。射し込む外光はないに等しく、照明もひどく弱々しい。全体が石造りであるせいだろうか、〈東館〉に比べて空気がひんやりとしているようにも感じられた。
小ホールから延びた長く薄暗い廊下を、玄児について進む。〈東館〉とは違って、いわゆる擬洋風の趣はほとんどと云って良いほど見受けられない。建物を打つ雨音に二人の足音が重なって響くのを聞くうち、何となく私は、光の届かない海の底の回廊を歩いているような心地になった。
両側に並んだいくつもの扉の前を通り過ぎ、やがて私たちは廊下を左に折れた。
「今のをまっすぐ行くとホールがあって、〈西館〉への渡り廊下に出られる。こっちの廊下は、この〈北館〉を東西に貫く形で通っていて……」
折れたところで足を止め、玄児が説明する。
「一階にはサロンだの図書室だの|正餐《せいさん》室だのが並んでいる。二階にはみんなの寝室が」
「例の首藤さん夫妻も、こちらの一室に泊まっておられるとか」
「伊佐夫君から聞いたのかい」
「ええ。彼だけは〈東館〉の方に、と」
「いつもそうだね、伊佐夫君は。首藤のおじさんや茅子さんと違って、浦登家とはある程度以上の距離を取ろうとしているみたいだな」
〈東館〉二階の居間での伊佐夫とのやり取りを思い出しながら、私は黙って頷く。それから、
「野口先生は?」
と訊いた。
「この屋敷に来られた時は、どらちに」
「こっちの棟だよ。あの先生は父の古い馴染みでもあるしね、家族同然ということなのさ」
玄児、征順・望和夫妻に息子の清、美鳥と美魚の姉妹、野口医師、首藤夫妻。少なくともそれだけの人間のための寝室が、この〈北館〉には存在することになる。そしてそれらとは別に、当主柳士郎とその妻美惟の部屋が〈西館〉――〈ダリアの館〉に用意されている、というわけか。
「そう云えば、玄児さん」
再び廊下を歩き出そうとする友人を呼び止める格好で、私は云った。
「〈東館〉の二階から舞踏室に降りる隠し階段の他にも、今朝一つ奇妙なものを見つけましたよ」
「ほう。何を」
「行き止まりの階段」
「ふん、あれか」
玄児は私の顔に目を流し、薄い唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「なかなか面白いだろう」
「面白いと云えば、まあ確かに。ああいった類のお遊び≠ェつまり、例のイタリアの建築家の影響だと、そういうわけなんですか」
「言葉にしてしまうと他愛もないような……」
昨夜と同じ台詞を繰り返し、玄児はすっと目を細くする。
「やれ隠し扉だ隠し通路だとね、ことに世の探偵小説好きには嬉しい趣向だろう。ニコロディが造った建物の中には、さながら三次元の迷路とでも云うような代物もあったらしい。階段を昇っていたつもりがいつの間にか階下に降りてきているとか、ぐるりと回廊を巡ってきたつもりが別の場所に出てしまうとか、そんな」
「建築による騙し絵、ですね」
「まるで意味のない造作、というのもお得意だったっていうな。天井に付いた扉。窓からしか出入りできない部屋。地下室に立てられた風見鶏。穴の開いていない煙突。戸外に造られた暖炉……」
なるほど、どれも意味がない。機能的でない、合理的でない、とも云える。
今世紀初めに台頭した近代主義建築の流れに対する、ある種の抵抗の表現。ふとそんな解釈が頭に浮かんだ。いまだその方面の専門知識はさほども持っていない私だけれど、これはこれであながち的外れな捉え方でもないように思う。とすれば、機能的な有意味性や合理性の欠如、それ自体に建築家は意味≠見出していたことになるが……。
「新しく立て直されたこの〈北館〉にも、やはり同じような趣向が|鏤《ちりば》められているのですか」
「ああ。昔この棟が全焼した際、再築の仕事を請け負った建築家氏が、彼なりに工夫を凝らしてね、いくつかそれらしきものを」
「その建築家は、中村某という?」
「おやおや、また――」
玄児はちょっと目を円くして私の顔を見直し、
「いつの間にか中也君、いろいろと情報を収集しているねえ。その名前は……そうか、それもさっき征順叔父さんから聞いたわけだ」
「――ええ」
「どこまで聞いた」
「どこまでって……その建築家は中村という名で、確かに一風変わった男だったけれど、もう死んでしまったと。それだけです」
「もう死んで……ふん、なるほど」
尖った顎を掌で撫でまわし、玄児は鹿爪らしい面持ちで小さな頷きを繰り返す。
すでにこの世を去ったというその風変わりな建築家がいったいどんな男であったのか。私はそこで、多少なりとも具体的な人物像を思い描いてみようとしたのだが、知らされたその苗字が[#ここから太字](中村……)[#ここで太字終わり]かえって想像の妨げになってしまっているのか、どうにもうまくいかない[#ここから太字](……中村青司の)[#ここで太字終わり]。適当な風貌がまるで浮かんでこない。年齢も体格も顔立ちもはっきりしない、ぼんやりとした灰色の影が思わせぶりに揺れ動くばかりだった。
「探偵小説好きと云えば――」
廊下を進みながら玄児が云いだした。
「征順叔父さんはたいそうな愛好家でね。図書室には、彼の蔵書がごっそりと持ち込まれている」
「あの人が? そうなんですか」
「昔からずっと好きで集めてきたらしい。その手の本ばかりが並んだ一画が図書室にはあって、ありゃあなかなかのものだよ。中也君、君も嫌いじゃなかったよね」
「ええ、まあ」
「図書室はほら、そこだ」
と、玄児は進行方向右手にある扉の一枚を指さした。
「あとで覗きにきてみたらいい。叔父さんに頼んだらきっと、著名な探偵作家の署名本なんかも見せてもらえるぜ」
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〈北館〉は巨大なコの字形の、この規模の洋館としてはある種典型的な平面構造を持つ建物なのだろうとおおよその想像がついた。コの字は北側の庭に向かって口を開いている。さっきの裏口は、庭の方から見てその右側、すなわち西翼の先端部に位置していたことになる。
石造りの建物を東西に貫く長い主廊下は、突き当たりでこれと直角に交わる方向に走った東翼の袖廊下と出会う。この廊下を右に折れるとすぐ左手に重厚な黒い両開き扉があり、開け放たれていた。
長方形の平面の一画を斜めに切り取った形状、つまりは変則の五角形をした吹き抜けのホールが、その向こうにはあった。二階へ上がる幅広の階段が正面奥に見え、五角形の斜辺部分には黒い片開きの扉が設けられている。恐らくあれが〈東館〉へと続く扉なのだろう。
「さ、こっちだ」
玄児はまっすぐにその片開き扉へと向かう。ところが、途中でふと思い出したように足を止め、ひらりと向きを変えた。
斜辺部分とは反対側の隅に、いま一枚の黒い片開き扉がある。玄児は小走りにその前まで行くと、
「中也君、少しだけ待っててくれ」
そう命じ、扉を開けて中に滑り込んだ。
何なのだろう、と当然ながら私は疑問に思った。玄児を追って扉に歩み寄り、そっと向こうを覗き込んでみる。薄暗い明りの点った小部屋の中で、電話の受話器らしきものを耳に押し当てている玄児の後ろ姿が、ちらと見えた。
なるほど。そう云えば、島と湖岸のあの建物との間を繋ぐ専用の回線があって、電話機は〈北館〉の方に置かれているという話だったが、ここがその電話室なのか。
「どうでしたか、蛭山さんは」
間もなく小部屋から出てきた玄児に、私は尋ねた。玄児は鋭く眉根を寄せてかぶりを振り、
「通じない。昨夜と同じだ。呼び出し音が鳴っているのに出ないのか、あるいは電話機か回線自体に何らかの不具合が生じているのか」
「彼の身に何かがあったとは」
「さて……」
玄児はいっそう鋭く眉を寄せ、
「もしもまだこっちに渡ってきていないようなら、さすがにちょっと心配だな。誰かに桟橋まで見にいかせようか」
斜辺部分の片開き扉の向こうには、思ったとおり〈北館〉と〈東館〉を結ぶ渡り廊下が延びていた。
黒い石造りの壁とあまり高さのない天井は、廊下というよりもトンネルを思わせた。床も、表面を荒削りにした黒い石張りになっている。両側の壁面の上方には小さな四角い穴がぽつぽつと開いているのだが、それらには皆、〈東館〉の玄関ホールから中庭のテラスへ出る扉のファンライトと同様、濃い色硝子が嵌め込まれていた。暗い赤色に染まって射し込むわずかな外光が、空間に何とも異様な雰囲気を|醸《かも》し出している。
――黒に赤……。
昨日玄児と交わした言葉が、またぞろ耳に蘇る。
――血の赤さ。
「さっきの湖の様子なんですけどね」
思わずそこで、気懸かりな問題の一つが口を衝いて出た。
「『人魚の血』って、あれはいったいどういう意味なのですか」
「ああ、うん」
玄児はそのまま先へ進みながら、「それは……」と返事を濁す。私は続けて、
「昨夜〈表門〉の桟橋に降りてみた時、何だか思わせぶりなことを云ってましたよね。この土地にもいろいろと謂われがあって、とか」
「やあ、そんなことを云ったっけ」
「云いましたとも。この湖は底なしだとか、むかし使用人の親子が溺れ死んだ話とか、『この世ならぬもの』が棲んでいて彼らを引きずり込んだんだ、とか……」
トンネルのような廊下は途中で斜めに折れ、その突き当たりにまた黒い片開き扉が待っていた。玄児は扉の手前まで云ったところで立ち止まり、私の方を振り向いた。
「この湖――影見湖が『大猿の跡』とも呼ばれている、その由来は君も承知のとおりなわけだが、そもそもね、湖や池、沼がそう云った巨大な何ものかの足跡であるというのは、これはもうこの国の各地に伝説や伝承の類として残っているんだな」
おもむろに説明を始める玄児の声は妙に淡々と、黒い石の天井や床に反響した。
「たとえば群馬にある|赤沼《あかぬま》なんかは、ダイダラボッチが|赤城山《あかぎやま》に腰掛けて踏ん張った足の跡だって話で有名だろう」
「ダイダラボッチ……伝説の巨人、ですか」
「|大太法師《だいたらほうし》、ダダ坊、デーデーボー……いろんな呼び名でもって、東日本を中心に伝わっている。湖に限らず、山を造ったとか窪地ができたとか、その手の話に結びつけて語られることが多い。東京の|代田《だいた》や|代田橋《だいたばし》っていう地名も、この巨人の名に由来するものらしいね。九州の方だと、それとは別に|大人弥五郎《おおひとやごろう》という大男の云い伝えがあるが」
「あ、それは聞いたことがあるような」
「この湖の『大猿』の話も、まあそういった巨人伝説のうちに含まれると考えていいだろう」
「ええ。――でも、そこへどうして『人魚』なのですか。こんな山の奥なのに」
「それはね、元々あった大猿の伝説に、後になってから付加されたものだと思うんだが」
「人魚の伝説が、ですか」
「そう」
玄児はちろりと唇を舐めた。
「少なくとも初代玄遙がこの付近一帯の土地を買い占めた時点で、すでにそんな話が出来上がっていたのは確からしい。そんな話とはつまり、この湖を造った大猿がその後、山を降りて|天草《あまくさ》の方まで遠征して、天草灘の海岸で見つけた人魚を連れ帰ってきたって云うエピソードでね。大猿は雄、人魚は美しい女の人魚で、その美しさに大猿が恋をして……なんていう|尾鰭《おひれ》が付いたりもする。大猿は彼女に求愛したが叶わず、そこで無理やりさらってきてこの湖に住まわせることにした」
「そのさらわれてきた人魚が、昨日云った『この世ならぬもの』だと?」
「ま、そういうことだ」
鹿爪顔で頷く玄児に、私は間をおかず訊いた。
「それが人を、湖底に引きずり込んだりするわけですか」
「人魚と一口に言っても、世界各地に伝わるその形状や性質はいろいろだからねえ。アンデルセンの童話に出てくるような、|健気《けなげ》なお姫様ばかりとは限らないさ。中には人間に敵意や害意を抱いているものだっているだろう」
「――はあ」
「人魚と云えば普通思い浮かべるのは、上半身が人で下半身が魚といった形だが、これとて地域や時代によっては逆の場合もある。上半身が魚で下半身が人……『アマゾンの半魚人』みたいな感じかね。中国の『|山海経《せんがいきょう》』の記述では、四つ足で赤ん坊みたいな声を出す、なんていう想像するだに不気味な生き物だし。これが日本の古い文献じゃあ、魚身人面≠ノなる。人間の顔をした魚、だな。本邦で西洋式の人魚像が広まったのは江戸期以降だっていう話だから、この湖の人魚伝説ができたのもその時期以降のことなんだろう」
「人魚」と聞いてしかし、私がすぐに思い出したのは|若狭《わかさ》・|小浜《おばま》の|八百比丘尼《やおびくに》伝説であった。人魚の肉を食べたがために不老不死を得、|齢《よわい》八百まで生きたと云い伝えられる、例の。
「人魚の肉」の「肉」という語に、その時ふと引っかかりを感じた。肉……ああ、そう云えば今朝、首藤伊佐夫との会話の中でそんな言葉が出てはこなかったか。
「とにかくまあ、そういった謂われがあるってことだ。この湖には人魚が棲む。それは決して人前に姿を現わさず、湖の底で孤独な眠りに就いている。眠りを妨げる者は怒りを買い、湖底に引きずり込まれてしまう。だから湖で泳いではならない」
玄児は淡々と続ける。
「そしてさらに、いつの頃からかは知らないが、新たな一項目がそこに加わっていったわけさ。いつか湖の水が、その人魚の流す血によって赤く染まる日が来るだろう、と」
先ほど見た湖の赤茶けた色を、私は思い出す。人魚の血……あれが?
――あんなものに取り憑かれちまって……玄児さんからしてああだしね。
自称芸術家かつ無神論者の伊佐夫はそんなふうにも云っていたが、あれは?
――取り憑かれないように気をつけるんだよ。
「まさか、玄児さん」
私は問うた。
「それを信じているわけじゃないですよね」
「信じる? 人魚の実在を、かい」
玄児はちょっと肩を竦め、口許で薄く笑った。半ば照れ隠しの笑みであるようにも見えた。
「もちろん、そんなものは実際には存在しないだろうさ。人魚はあくまでも人間の想像の産物で、その正体は|儒艮《じゅごん》だったり|海豹《あざらし》や|海馬《あしか》の類だったりする。あちこちに残っている人魚の|木乃伊《ミイラ》や何かは、どれもこれも人間がこしらえた紛い物。そして、あの湖の色の変化はやっぱり、地震で崩れて溶け出した赤土のせいなんだろう。ただ――」
「ただ?」
「現象だけを取り出してみるなら、『いつか湖が赤く染まる』という話は確かに今、現実のものとなったわけだ。その現実を、俺たちがどのように受け止め、どのような意味付けをするか。はなはだ微妙な問題だが、肝要な点は|畢竟《ひっきょう》そこにある」
いったい玄児は何が云いたいのか、私は察しあぐねた。受け止め方の問題、意味付けの問題……そう、およそあらゆる物事について、それが「肝要な点」であるというのは、むろんそうなのだろうと思う。しかし……。
「さっき〈北門〉の外であの湖の様子を見てね、俺は何とも奇妙な気分にならざるを得なかった。と云うのも、いま話したような伝説を昔から聞かされてきたという、その他にもう一つ理由があってね」
「理由……どんな」
玄児は私の顔をまっすぐに捉えていた視線を脇に外し、ふっと目を細め、そして云った。
「絵だよ」
「――絵?」
「君がゆうべ気にしていた絵があったろう。〈東館〉の応接間に飾ってある例の油絵だ」
「『緋の祝祭』という、あの?」
「うん。あれと同じ画家の作品がこの屋敷には他にも何枚かある、という話はしたと思うが、その中にね、まさにそんな――さっき見た湖の様子をそのまま写したような絵があるのさ」
あの画家――藤沼一成という名だったか――の描いた絵? それが……。
「暗い空から降りしきる雨の中で、湖の一部がああいうふうに赤茶けた色に染まっている。そんな風景画があるんだ。〈北館〉のサロンに飾ってある」
「緋の祝祭」に描かれていた炎≠ェ、私の脳裡で激しく燃え上がり、燃え広がる。その向こうに現われる、暗い青鈍色の湖面。燃え広がった炎≠ヘ液体のようにそこに溶け込み、そうして見る間に湖の色を赤く染め変えていく。
「もちろんあの絵は、昔この屋敷に招かれた件の画家が、たとえば父から『人魚の血』の伝説を聞いたあとで、それをモティーフに描いたものだったのかもしれないわけだが。――にしても、あまりに絵とそっくりな光景が目の前に広がっていたものでね、さっきはたいそう驚いてしまった」
「その絵に、題名は付いているのですか」
「ああ」
玄児は真顔で頷いた。途切れなく屋根を打つ雨音に混じって、低く重々しく雷鳴が響いた。
「『|兆《きざ》し』という題が」
「『兆し』? すると玄児さん、それは――湖がいつか赤く染まるというその話は、何かの凶兆として伝えられているのですか」
私の問いに、玄児はゆっくりと左右に首を振りながら「違う」と答えた。
「逆だよ」
「逆……」
「凶兆じゃない。あれは吉兆なんだよ[#「あれは吉兆なんだよ」に傍点]、俺たち浦登家の者にとっては」
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〈東館〉に入って食堂へ行き着くまでの廊下で、第三者と出会うことはなかった。
食堂の長いテーブルには昨夜と同じように二人分の食事が用意されていたが、玄児は先に私を椅子に掛けさせると、自分は玄関ホールに通じる両開き扉の方へ向かった。そうして扉横の壁面に取り付けられた木製パネルの、例の真っ黒な円い突起に指を伸ばす。〈南館〉にいる使用人を呼び出すための、ベルのボタンである。鶴子なりしのぶなりを呼んで、〈表門〉の桟橋の様子を見にいかせようというつもりなのだろう。
時刻はもう午後三時をだいぶ過ぎていた。
「気になることがいくつかあるのですが」
玄児がテーブルに着くのを待って、私はそろりと切り出した。彼はすると、さもありなんというような微笑を蒼白い頬に浮かべ、「いいよ」と応じた。
「引き続き質問を受け付けよう。ただし、俺が答えられる範囲でしか答えられない」
訊いておきたいこと、訊いてみたいことはたくさんあったが、こんなふうに改まって「質問を」と促されると、かえって|気後《きおく》れしてしまうのが人情である。それに、「答えられる範囲でしか」とはどういうことか。――たぶんそこには二通りの意味が含まれているのだろう。質問をしても玄児に答える能力がない、つまり答えを知らない場合と、答えを知っていてもそれを私には云えない場合。両方を想定しての言辞だろう、と私には思えた。
この春にあの事故で出会って以来これまで、玄児とはずいぶん多くの時間を一緒に過ごし、親しい付き合いを続けてきたつもりだった。けれどもはて、たとえば彼の生い立ちや家族を巡るあれこれについて、私はいったいどれほどのことを知っているだろうか。今さらのように、そんな疑問が心の内で膨れ上がってもくる。
「とにかくまあ、腹ごしらえだな」
場に流れた間の悪い沈黙を、玄児が破った。ナプキンを膝の上に広げ、水差しに用意されていた果物ジュースを自分のグラスに注いで一口飲み、それから皿に盛られた卵料理に箸を伸ばす。
「すっかり冷めちまってるが、どうぞ召し上がれ」
玄児に倣ってジュースをグラスに注ぎながら、私は上目遣いで彼の様子を窺う。黙々と卓上の料理を口に運ぶ友人の、その顔がその時、これまで一度もそう感じたことがないような、何とも正体の知れぬものに見えた。
「ええと、まず――」
ゆっくりとジュースを飲み干して喉の渇きを潤してから、私は口を切った。
「まずですね、この屋敷には今、全部でどれだけの人々が暮らしているのですか。昨日から何人もの方と会ったり、話で名前が出たりしてますけど……つまりその、やはりまずそれをきちんと頭に入れておきたいなと」
「ふん。もっともな話だ」
玄児は軽く頷いて、箸の動きを休めた。
「屋敷に住む浦登家の人間は、俺を含めて八人。そう云ってしまっていいだろう。父の柳士郎。その後妻――俺の|継母《はは》に当たる美惟。父と継母の子である美鳥と美魚。征順叔父さんと望和叔母さん。二人の子である清。そして俺」
「美惟さんと望和さんとは、血の繋がった姉妹なんですよね」
「ああ。そして、死んだ俺の産みの母カンナは、彼女たちの実の姉だった。要するに、昨日話した祖母の桜と祖父の卓蔵との間に生まれたのが、カンナ、美惟、望和の三姉妹だったってわけさ。カンナが長女で望和が末娘。カンナの下、美惟の上に実はもう一人、女の|姉妹《きょうだい》がいて、|麻那《まな》という名前だったそうなんだが、彼女は五歳でなくなっている」
「五歳……病気か何かで?」
「病気……そう。清が患っているのと同じ病気だったと聞いている」
「清君と同じ……」
結果として命を落としてしまいかねない、そんな病に今、浦登征順と望和の息子は冒されているわけなのか。「会えば分る」と先ほど玄児は云っていたが、いったいそれはどのような病なのだろう。
「次に」と、玄児は先を続けた。
「現在この屋敷にやってきている客は、君以外に四人いる。野口先生に首藤のおじさん、茅子さん、伊佐夫君。それだけ……いや、あの江南という青年を勘定に入れたら、君以外に五人、全部で六人か」
「そうですね」
「あとは住み込みの使用人だが――」
玄児は言葉を切り、グラスを口に運ぶ。唇に付いたジュースの赤い色を舌先で舐め取ってから、
「昔はもっと大勢の者たちが雇われていたらしい。その頃は、島で畑を作ったり家畜を飼ったりもしてね、長期間の自給自足が可能な状態を維持していたっていうから、それ相応の人手が要りようだったわけさ」
「なるほど」
「その後、ある時期を境に畑や家畜はほとんどやめてしまって、使用人の数も大幅に減らした。それで結局、今は……」
「蛭山さんに鶴子さん、しのぶさん、料理人の宍戸さん」
把握している人物の名を私が挙げると、玄児があとを受けて、
「そこに慎太を加えれば五人だな。蛭山さん以外はみんな〈南館〉で寝起きしている。ああ、それからもう一人……」
「もう一人いるのですか」
そう云った瞬間、真っ黒な人影が脳裡に浮かび上がってきて、妖しく揺らめいた。あの時――中庭へ出て例の祠のような建物まで行ってみたあの時、道の途中で出会った黒衣の怪人物。浦登家の墓所であるというあの建物から出てきたらしかった。把手の付いた黒い箱のようなものを両手で持ち、〈南館〉の方へと立ち去っていった。まるで生ける影≠フように見えた、あの……。
「|鬼丸《おにまる》という老人がいてね」
玄児が云った。
「使用人の中では一番古株で、ずっと昔――それこそ初代玄遙が健在で、死んだ祖母の桜がまだ子供だったような時分から、ここに住み込んでいる」
「鬼丸……苗字ですか」
「ああ。名前はなんていうのかな。みんな『鬼丸老』としか呼ばないから、俺も知らない。もう九十になろうかという老齢だが、今でもきちんと仕事をこなしてくれている」
黒いだぶだぶの服をまとい、フードを被っていたあの怪人物。背が低いということ以外、体格も顔立ちも男女の別も分らなかった。背の低さは腰が曲がっているせいであるようにも見えたのだが、仮にあの人物が九十歳の高齢だったのであれば、それも頷ける。
「その鬼丸老は、何を」
私は玄児に問うた。
「屋敷ではどんな仕事をしているのですか」
「昔からずっとあの人に任せられてきたことが、一つあってね。しかしそれは……」
言葉を濁し、玄児は先を続けない。「答えられる範囲」の外にある、というわけなのだろうか。
私はそこで、切り込み方を変更した。
「中庭の真ん中に小さな建物がありますよね。今朝一人で庭に出てみて見つけたんですけど、何でもあれは、この浦登家の墓所だとか。征順さんの口からそう聞きました」
片方の眉を微妙にひそめながら、玄児は静かな頷きを返す。私は続けて、
「で、その時あの建物の近くで、奇妙な人物を見かけたんです。黒いマントみたいなものを着ていて、どうやらあそこから出てきた様子だったのですが。あれがひょっとして、いま玄児さんが云った鬼丸老なのでは?」
玄児はまた静かな頷きを返し、「そのようだね」と付け加えた。
「すると、鬼丸老に任されているこの屋敷の仕事というのは――」
私はそれ[#「それ」に傍点]に該当する言葉を探したが、結局一つしか思いつかなかった。
「|墓守《はかもり》、ですか」
「――そう」
と、玄児は素っ気なく答えた。
「これも征順さんから聞いたのですが、あの墓所は〈惑いの檻〉とも呼ばれている、と。なおかつあそこは、この家の者であっても妄りに近づいてはいけない場所なのだ、と」
「ああ。確かにそのとおりだが」
顎を引き、わずかに眉根を寄せながら、玄児は私の顔を見据えた。
「征順叔父さんは、それ以上の話も君に?」
私は「いいえ」と小さく首を振って、
「それ以上の話は、いよいよ『答えられる範囲』外になるわけですか」
玄児は眉根を寄せたまま少しく口を噤み、やがて「そうだな」と答えた。箸を持ち直し、食べかけの料理に手を伸ばしながら、
「いずれ話すことになるだろうが、とりあえず今のところは……」
「この家の人々は何かに取り憑かれている、というのは?」
と、間をおかずに私は「気になること」の一つを訊いてみた。玄児はぴくりと手を止め、訝しげな面持ちで私を見た。
「それも征順叔父さんが?」
「いえ、これは伊佐夫さんです。ここに住んでいる人たちは、玄児さんも含めて、何かに――『あんなものに』と彼は云ってましたけど――取り憑かれている、と」
「ふうん。あんなもの……か」
そう呟く玄児の表情には、珍しく若干の怒りが滲んでいた。が、すぐにそれは涼しげな微笑に切り替えられ、
「彼はまあ、どんなふうに考えようが自由だろう。この家で生まれた者にとってはしかし、なかなかそうはいかないってことさ」
「どういう意味なのですか」
私は思いきって語気を強めた。
「何に取り憑かれていると?」
すんなり答えてくれるとは期待していなかった。きっとこれも「答えられる範囲」外のことなのだろう。そう承知した上での質問だったのだが。
「――悪魔、かな」
予想外にきっぱりとした調子で、玄児はそんな答えを返した。
「少なくとも神じゃないことは確かだろう」
まったくの冗談なのか何かの比喩なのか、どう受け取ればよいものやら分らず、私は玄児の顔から目を逸らす。少々気まずい沈黙が、そしてその場に訪れた。
私は空のグラスに新しいジュースを注ぎ、今のやり取りですっかりまた乾いてしまった喉に流し込んだ。玄児は黙って食事に戻る。私もようやく箸を取り上げた。料理はどれも冷め切っていたが、決して|不味《まず》いものではなかった。
「――おかしいな」
しばらくして、玄児が呟いた。玄関ホールに通じる両開きの扉の方へ視線を飛ばしながら、
「誰もいないのかな」
と首を傾げる。
〈南館〉のベルを鳴らしたのに、まだ誰もやって来ない。そのことに不審を抱いているのか、と私は了解した。暖炉の上方に掛かった六角時計を見ると、時刻はもう何分かで三時半になろうとしている。
玄児は椅子から立ち上がり、大股歩きで扉へと向かった。例のベルのボタンをもう一度押し、それから扉を開けてホールを覗き見る。誰か人がやってくるような気配は、しかしまったく感じられない。
「おかしいな」
とまた呟いて玄児は、扉を細めに開けたままテーブルに戻る。そのタイミングで、私は口を開いた。
「もう一つ、ここで質問をしてもいいですか」
「うん? ――ああ、どうぞ」
「昨夜からずっと気に懸かっていることです。つまりそれは……」
私は意識して背筋を伸ばし、相手の顔をまっすぐに見つめた。
「今日は〈ダリアの日〉なんですよね。そしてこの屋敷の〈西館〉は〈ダリアの館〉とも呼ばれ、なおかつ屋敷の『ある意味で中心と云える建物』だと、そういう話でしたよね」
「ああ。確かにそういう話だが」
答えて玄児は、さっきと同じような涼しげな微笑を頬に広げる。私は単刀直入に訊いた。
「〈ダリア〉とはいったい何なのですか」
「ふん。ま、気になって当然だろうな」
玄児は煙草を銜えて火を点けると、ことさらのように悠然と煙を吹かす。その間も、私は彼の顔を見つめたまま視線を外さずにいた。
「ダリアは――」
やがて玄児は静かに答えた。
「ダリアというのは、初代玄遙の妻の名前さ。浦登ダリア。その昔、玄遙が欧州各地を巡った際にイタリアの地で出会い、熱烈な恋に落ちた――それが彼女、ダリアだった」
「浦登ダリア……玄児さんの|曾《ひい》お|祖母《ばあ》さん?」
「そうだよ。玄遙は彼女を日本に連れて帰り、結婚し、この地にこの屋敷を建てた。彼女は屋敷の〈西館〉に住み、そこで死んだ。だからあそこは〈ダリアの館〉と呼ばれる。そして〈ダリアの日〉というのは……」
壁の六角時計が軽やかな声で三時半を告げ、ほんの少し遅れて玄関ホールからロングケースクロックの重厚な鐘の音が聞こえてくる。両方の余韻が消えるのを待って、玄児は云った。
「九月二十四日。この日は彼女の、ダリアの誕生日であり、かつ命日でもある。だから〈ダリアの日〉なのさ」
玄児の台詞が終わるか終わらないかという、まさにその時であった。隣のホールから突然、慌ただし[#底本のレイアウトだとここで改ページし、挿図「暗黒館の殺人(上)P285.jpg」となる]い物音が響いてきたのは。
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最初に聞こえたのは、荒々しく扉が開けられる音だった。玄関の扉らしい、と私はすぐに察知した。続いて、ホールに駆け込んでくる複数の足音、そして人の――誰か女性の――声が。言葉は聞き取れなかったけれども、何か尋常ではない緊張と興奮が、そこからは感じられた。
椅子を蹴って立ち上がった玄児が、細めに開けてあったさっきの扉に向かって駆ける。私も一拍遅れて立ち上がり、彼のあとを追った。
食堂からホールに飛び出した私たちが出会ったのは、黒い瓦敷きの床をまろぶように走ってくる二人の女性だった。小田切鶴子と羽取しのぶである。二人とも髪や服を濡らしている。履物はどろどろに汚れている。雨の降る屋外から、たったいま戻ってきたものと見えた。
「あっ、玄児様」
「玄児様」
私たちの姿を認めて、鶴子としのぶがほぼ同時に甲高い声を上げた。尋常ではない緊張と興奮。そのような精神状態にやはり、彼女たちはあるのだと確信した。
「どうした」
いきなりの鋭い詰問調で、玄児は二人に問いかけた。
「外で何があった」
「――それが」
鶴子は声を詰まらせた。昨日と同じく喪服のような黒い洋装の彼女だが、引っ詰めて束ねた髪の白さとさして変わらぬように見えるほど、その顔は色を失っている。
「大変なことに。蛭山が……」
「蛭山さんが?」
玄児は玄関の方へ視線を投げた。
中庭側と同じように赤い色硝子のファンライトが備わった両開きの扉は今、大きく開け放たれたままになっている。外の風雨の音がそこから直接、館内に響き込んでくる。
「もうすぐこちらに運ばれてまいります」
乱れた息を整えながら、鶴子が云った。
「わたしどもは先に戻って、〈南館〉の方に部屋の準備をと」
「運ばれてくるって……いったい何があったと」
「午後になっても蛭山がこちらに渡ってこないものですから、妙に思っておりました。一昨日お出かけになった首藤様もまだお戻りになっていないようで……それもあって、とにかく蛭山にどうしたのか訊いてみようと思い、電話を。ところがいっこうに通じません。そこで先ほど、わたしが表の桟橋まで様子を見に……」
玄児にそうしろと命じられるまでもなく、彼女も蛭山について私たちと同様の不審を感じ、そのような行動に出た、というわけか。
鶴子の声には最初、ところどころに不安定な震えがあったのだけれど、話すうちにそれも消え、徐々に本来の冷静さが取り戻されていくのが分った。彼女の傍らでしのぶは、やはり色の失せた顔をこわばらせ、濡れた髪や服を落ち着きなく両手でさすっている。
「桟橋へ行ってみて、それで?」
玄児が促した。鶴子は大きく一度呼吸をして、みずからを納得させるような感じで深く頷いた。
「わたしが参りました時には、すでにそれは――その事故は起こってしまったあとでした」
「事故?」
「はい。いつ、何が原因であのようなひどいことになったのかは分りませんが、とにかくわたしが参りました時には、岸辺に舟の残骸が散らばっていて、それはもう無惨な有様で」
「舟の……エンジンの付いた方だね」
「はい。蛭山の乗った舟が、岸に激突したものと思われます。あの様子から察しますに、満足な減速もせず、相当に凄まじい勢いで。――乗っていた蛭山は岸に放り出され、倒れておりました。頭も顔も身体も傷だらけで、意識はまったくなくて……一見して方々を骨折していることも分りました」
そんな大変な事故が、〈表門〉のあの桟橋付近で発生していたのか。――私は玄児の後ろに立ち、息を呑んで鶴子の説明に耳を傾けるばかりだった。
「わたし一人ではどうにもしようがありませんでしたので、大急ぎでこちらへ戻ってまいりまして、羽取に知らせて、〈北館〉のサロンにおられた野口先生をお呼びして。運ぶのに男手が必要だということで、ちょうどそこにいらした征順様と、それから宍戸も呼んで一緒に……」
玄関の外からその時、新たに慌ただしい物音が聞こえてきた。鶴子がいま云った男たち三人が、負傷した玄関番を運んできたのだ。
玄児と私はすぐにそちらへ向かった。鶴子としのぶはホールの奥へと駆け、座敷に沿って南方向に延びた瓦敷きの廊下へと消える。
開け放たれた玄関の扉から、間もなく男たちが入ってきた。うち二人はずぶ濡れになった黒い雨合羽を着、怪我人を載せた担架を抱えている。一人は片手に傘を、もう片方の手に濃紺の鞄を持って担架の横に付き添っている白衣姿の医師であった。
「野口先生」
玄児が彼らのそばに駆け寄っていく。
「容態はどういう……」
「おお、玄児君か」
野口医師は畳んだ傘をその場に放り出し、点々と雨滴の付いた鼈甲縁の眼鏡の奥から、険しい眼差しを担架の上に落とした。
「ひどいもんです。むこうでざっと見てみたが、こいつはかなり……」
「命に関わるような?」
玄児の問いに、医師は何とも云わず憮然と唇を尖らせる。
私は玄児の肩越しに担架を覗き込んだ。毛布を掛けられた蛭山の身体が、そこには横向きに寝かされている。背中の瘤が邪魔になって、きっと仰向けにはできないのだ。
――蛭山さんは、やっぱり蛙かしら。
――ぴょこぴょこしてるでしょ、歩き方とか。
雨に濡れたベージュ色の毛布のそこかしこが、雨以外のものによっても濡れていた。赤黒く滲んだ、あれは血か。毛布の外に出た顔面にも、同じ赤黒い血の色がびっしりとこびりついていて、一見しただけではそれが誰なのかも分らない。頭部にタオルが巻きつけられているのは、これは事故現場でなされた応急処置だろう。
「さあ、とにかく部屋へ」
担架の後方を支えていた男――浦登征順が、そう云って足を踏み出す。
「〈南館〉の一階に、空き部屋とベッドがあるんだったね」
「一番手前の部屋です」
担架の前方を支える四十がらみの男が、野太い声でそう答えた。これが料理人の宍戸要作か。私は初めて会う人物である。
「手伝いましょうか」
玄児が云うと、征順は「大丈夫」と短く答え、「さあ早く」と宍戸を促した。濡れた雨合羽から水滴を落としながら、二人は重い足取りでホールの奥へと進み始める。
「蛭山さん」
担架の横について移動しながら、玄児が強い声で呼びかける」
「蛭山さん、聞こえますか」
反応はしかし、まったくなかった。鶴子の云っていたとおり、意識は完全に失われてしまっている模様である。
「先生」
と、玄児は野口医師の顔を見やる。医師は沈痛な面持ちでゆるゆると首を振り動かし、
「全身打撲に骨折、頭部の傷も深手です。あるいは内臓も……」
今さっき鶴子としのぶが駆けていった瓦敷きの廊下へと、担架を抱えた二人が足を進める。昨夕玄児と二人であの青年を運び込んだ時のことが、おのずと思い出された。野口医師は担架の横に付いたまま、玄児は担架のすぐあとを追う格好で、私は一番後ろから彼らに付き従っていった。
最初の座敷の前を通り過ぎようとしたところで、黒い板戸がさっと開かれた。中から江南青年の青ざめた顔が覗いたかと思うと、そのまま彼はふらりと上がり口まで出てくる。わずかに首を傾げながら私たちの様子を見渡し、そうしてすぐに、担架に乗せられた蛭山に目を留めた。――途端。
青年の表情にあからさまな変化が生じた。
それまでは何やら、現実から壁一枚隔たったところを漂っているかのようにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]としていた顔に突然、強い驚きの色が浮かんだ。同時に大きく口が開かれたのは、何かを云うか叫ぶかしようとしたのだろう。だが、満足な声が発せられることはなく、青年は驚きの色を凍りつかせたまま、なおも担架の上の怪我人に食い入るような視線を注ぎつづけるのだった。
げほっ……と嫌な音がしてその時、蛭山が|痙攣《けいれん》のように身をわななかせた。前方を支えた宍戸要作がびくりと足を止め、首を捻って後ろを見た。
「大丈夫か」
玄児が声をかけ、担架の横へ進み出る。
げほ、げぼっ……と嫌な音は繰り返され、病的に身を震わせる蛭山の口から血泡が零れだした。野口医師が慌ててハンカチをその口許に当て、汚れを拭き取る。ひぃひぃというかぼそい呼吸音が、外の雨音に混じって薄暗い廊下に響き、折りしもそこへ天で響き渡る不穏な雷鳴が重なった。
「……ああ」
掠れた呻き声が、その様子を見守っていた江南青年の喉から洩れた。
「あ……うう……」
やはり満足な声にはならない。具体的に今、彼が何を感じ何を云いたいのか。それを知るためには、先ほどそうしたように、紙と鉛筆を用意して言葉を書かせるしかないのである。
蛭山の発作が収まると、「さあ」とまた征順が宍戸を促した。担架を抱えた二人は慎重に足並みを合わせ、廊下の奥へと進んでいく。
座敷の上がり口に佇んだままそれを見送る江南青年の顔は、それまでにも増して青ざめ、冷たくこわばっていた。両肩が細かく震えてもいる。いま目の当たりにした光景が、当然と云えば当然のことだけれど、よほどのショックだったらしい。
「さ、君――江南君は奥で休んでいたまえ」
玄児が青年のそばに歩み寄り、その背中にそっと手を当てた。
「ちょっと事故があったんだよ。まったくね、昨日の君は運が良かったな」
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〈東館〉と〈南館〉を繋ぐ渡り廊下は、先ほど通った〈北館〉と〈東館〉の間のトンネルのような廊下とは違って、黒煉瓦敷きの床に木製の屋根を被せただけの簡易な造りだった。要は壁が存在しないわけだが、横風さえ極端に強くなければ、充分に雨を凌ぐ役に立つ程度のものではある。
私たちはこの廊下を渡り、〈南館〉の表口から中に入った。
外観はオーソドックスな下見板張りの洋館である〈南館〉だが、内部には結構な割合で和風の造作が混在していることが、初めてそこに足を踏み入れてみて分った。
〈東館〉に倣って造られたのだろう、黒い平瓦を敷いた廊下が入口の小ホールからまっすぐに奥へと延びている。向かって右手、中庭側に並んだ窓には例によって黒い鎧戸が閉まり、その隙間から忍び込む弱々しい光の中、突き当たりには一段高くなった板張りの床と襖戸が見えた。あの向こうは和室になっているのだろう。
重症の蛭山丈男が運び込まれたのは、廊下の左側にある一番手前の部屋だった。開け放たれていた黒い扉の脇の柱に、何も記されていない古い木札が掛かっている。
これは? と一瞬考えた。
ここが誰の部屋なのかを示すための、表札のようなものなのかもしれない。何も記されていないということは、現在この部屋を使っている者はいない、つまり空室である――さっき征順がそのように云っていたが――と、そういうことか。
部屋は二間続きになっていた。
手前は八畳ほどの広さの洋間。正面奥に隣室へと通じる中扉があって、これもいま開け放たれている。私たちが部屋に入ると、中扉の向こうから鶴子が顔を覗かせて、
「こちらへ」
と招いた。
担架を抱えた征順と宍戸が、それに応じて奥の扉へと進む。野口医師、玄児、そして私の順でそのあとに続いた。
手前の洋間と同じくらいの広さの、やはり洋風の部屋がそこにはあって、二台のシングルベッドが並んでいた。洋室である。片方のベッドには埃よけの白い布がすっぽりと被せられたまま。もう片方はその布が取り去られ、たったいま鶴子たちが準備したのだろう、新しいシーツが敷かれている。
征順と宍戸を玄児が手助けして、担架から新しいシーツのベッドへと蛭山が移された。そうして、それまで彼の身体に掛けられていた毛布が取り払われた瞬間――。
昨日と同じ鼠色の衣服をまとった傴僂の玄関番の、見るも無惨な負傷の有様が、離れて立つ私の目にも飛び込んできた。てらてらと赤黒い、何ともおぞましい質感を持った血の色が、とにかくまず強烈だった。不自然な方向に折れ曲がった腕、さらにはその皮膚を破って、ぬめりと外に突き出した骨も見える。
私は思わず視線を逸らし、急激に込み上げてくる悪心をこらえた。
間もなく――。
湯を満たした洗面器と何本ものタオルを持って、しのぶが寝室に駆け込んでくる。野口医師は鞄を足下に置いて開け、中からごそごそと商売道具を取り出しにかかっていた。
「ここは私と鶴子さんに……」
為すすべもなく見守る私たちの方を振り返り、医師が云った。
「ああ玄児君、君はちょっと残って手伝ってくれますかな」
「分りました」
「それからしのぶさん、悪いが、部屋の床をざっと拭き清めてもらえるかね。埃は患者に良くない」
「――はい」
「他の方は、とりあえずこの部屋からは……」
「隣で待っていてくれるか、中也君」
と玄児が云い、私は無言で頷いた。今から一人で食堂へ戻ったところで、食べ物が喉を通るとはとうてい思えない。それにもちろん、怪我人の容態も気になる。
命じられるままに私たちは、野口医師と鶴子、言辞を残して手前の洋間――居間と呼んでしまうのが適当か――へと退却した。すぐさま、しのぶが廊下へ駆け出していく。床を掃除するための雑巾を取りにいったのだろう。
時刻はすでに午後四時を回っていた。昨日この島に渡ってきてから、まる一日が過ぎてしまったことになる。
昨夕、湖岸の桟橋で初めて出会ったあの不機嫌そうな顔の玄関番――蛭山丈男が、いま隣の部屋で生死の境を彷徨いつつある。生々しい傷の様子をこの目で見たばかりであるにもかかわらず、その事実をどうしてもまだ、実感として捉えきることができなかった。彼とはほとんど言葉を交わしたことのない私がこうなのだから、長年この屋敷に住み、毎日のように彼と顔を合わせてきた家人たちにとっては、なおさらだろうと想像できる。
「私もここで待ちましょう」
着ていた雨合羽をその場に脱ぎ捨て、浦登征順が手近にあった肘掛け椅子に腰を下ろす。この椅子にも、他にいくつか置かれた家具類にも、隣室のベッドと同様に白い布が被せられていた。そのことからも、また黒い板張りの床に積もった埃の状態からも、ここが長らく使用されていない「空き部屋」であるのは明らかだった。
「それにしても、まったく――」
雨滴で汚れた縁なし眼鏡を外し、征順が独りごつように云い落とす。
「何が起こるか判らないものだ。あのボートの扱いには充分に慣れていただろうに、どうして彼が、あんな」
「岸に激突した、と聞きましたが」
私が云うと、征順はブレザーのポケットから取り出したハンカチで眼鏡のレンズを拭きながら、
「ひどい有様でしたよ。ボートは文字どおりばらばらになっていて、エンジンから漏れ出た油の臭いが立ち込めていました。まっすぐに突っこんできて、運転していた彼は勢いで前方へ投げ出され、そのまま岸辺の岩肌に打ち付けられた模様で。頭が潰れて即死していたとしても不思議じゃない、そのような……」
「わたしは失礼いたします」
征順の言葉を遮るように、宍戸要作が云った。「金属的な」とでも形容したくなる、いやに硬い響きの声だった。脱いだ雨合羽を大雑把に畳んで足許に置きながら、
「仕事に戻らねばなりません。何か必要がありましたら、お呼びください」
四角張った顔の輪郭に、少々落ち窪んだ三白眼。そんな容貌の中年男である。上背はあまりないが、肩幅の広いがっしりとした体躯の持ち主で、髪は短く刈り揃えている。浅黒い肌には精悍な印象を受けるけれども、それとは裏腹にその表情には、まるで接着剤を塗って固めでもしたかのように動きがなかった。美鳥と美魚ならば、ちょっと意表を衝いたところで、「|田鼈《たがめ》」などといった昆虫の名を持ちだしてくるかもしれない。
部屋から出て行く料理人の背を見送ってから、私は征順に訊いた。
「あの人と蛭山さんとは、さほど仲が良くなかったのでしょうか」
同僚――と云っても良いだろう――が今、重傷を負って隣室で手当てを受けている。そのさなか、仕事を理由にさっさとこの場を去ってしまう神経が、私には少々奇異に感じられたのだった。
「蛭山は大変に無口な男で、もともと家人の誰とも親しくはしていなかったようですから」
征順が答えた。
「だから、彼と宍戸とがとりたてて不仲だったというわけでもないでしょう。宍戸はあのとおり、あまり感情を表に出さない男ですが、それは何も今に限ったことではない」
「蛭山さんに、身寄りは」
「聞いたことがありませんね。天涯孤独の身の上なのだろうと、私は勝手に思っていましたが」
「宍戸さんの方は? 一人でここに住み込んでおられるのでよね」
「彼も、そう、独り者ですよ。若い時分に何があったのかは知りませんが、少なくともここへ来てからは……」
「そうですか」
蛭山や宍戸だけではない、小田切鶴子にしても羽取しのぶにしても、それぞれに何らかの個人的事情があってここにいるのだろう。でなければ、こんな辺鄙な山奥の屋敷に長年の間、住み込みで勤めてなどいるはずがない。たとえ飛び抜けて高額な報酬が約束されていたにしても――。
隣の寝室からその時、何とも云えず異様な呻き声が洩れ伝わってきた。――ああ、あれは蛭山の? 意識が戻ったのか、あるいは失ったままの状態なのか、いずれにせよ、あまりの苦痛に耐えきれず発せられた声なのだろうと思えた。
さっき目にした血と肉と骨の色が、否応なく脳裡に呼び出される。聞こえてくる呻き声に合わせてそれらが、ねちねちと嫌らしく蠢き、絡み合い、そこからさらに新たな血糊が滲み出し……私は思わず「うぐっ」と喉を鳴らし、口を押さえた。
「どうされました」
と、征順が心配げに私の方を窺った。
「気分がお悪い?」
「――いえ」
私は掌を口許に当てたまま、のろのろと首を横に振った。
「大丈夫です。胸がちょっと」
「横になられてはいかがです」
「――いえ。それより、水を一杯」
「この部屋を出て左、ずっと奥へ行って曲がったところに、手洗い場があります」
「――すみません。じゃあ……」
一緒に行こうかという征順の申し出を退けて、私は一人部屋から出た。入れ違いで、柄付きのモップを持ったしのぶが駆け込んでくる。
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浦登征順に教えられたとおり、私は薄暗い瓦敷きの廊下を奥へと進んだ。歩くうちにも悪心はだんだん強くなってくる。片手を口に、片手を胃のあたりに当てながら、ややもすると|縺《もつ》れそうになる足で先を急いだ。
突き当たりの和室の手前で、廊下は左に折れる。それをさらにまっすぐ行った奥に、仄白く洗面台の影が見えた。
蛇口に飛びつき、|迸《ほとばし》り出る水を両手で受け止めて口に運んだ。胃の中身を戻してしまった方が良いかとも思ったのだが、二口ほど冷たい水を飲むと、幸い徐々に悪心は治まっていった。
――まあまあ、困ったものねえ。
遠い過去からのあの声が、唐突にそこで。
――男の子のくせに、この子は。
心に滲み広がる面影。今はもう会うことの叶わぬ人の。優しく美しい、冷たく恐ろしい、すぐ近くにいてとても遠い……。
……ああ、こんな時にまた。
顔に水を浴びせてひとしきり|擦《こす》ると、私は洗面台に向かって上体を屈めた姿勢のまま、ぶるぶると頭を振った。それからしばし台の縁に手を突いて、小さな渦を巻きながら排水口に流れ込んでいく水の動きを、|悄然《しょうぜん》と見下ろしていたのだが――。
「大丈夫、ですか」
いきなり背後から誰かに問いかけられ、私は驚いて目を上げた。
聞き覚えのない声だった。甲高くて線の細い、それでいて妙に|嗄《しわが》れた色の。
た、た……と、ゴム底の靴で歩くような足音が近づいてき、続いてまた同じ声が同じ問いかけを繰り返した。
「大丈夫、ですか」
思い切って振り向いた。じっとりと湿気を含んだ廊下の薄暗がりの中、何メートルか離れたところに立つ小さな人影を、そして私の目は捉えた。
……子供。
とっさにそう思った。
一見して子供の背丈と分る。たとえば蛭山のように傴僂であったり、老いて腰が曲がっているために背が低く見えたりしているわけではない、とその輪郭から察せられる。
背の低い子供。まだ年端も行かぬ……羽取慎太だろうか。いや、しかし今の声は、昨夕〈十角塔〉のそばで彼と会った時に聞いた声とはまるで違った。ということは? ――他にこの屋敷に住む子供と云えば、一人しかいないはずだが。
顔立ちも服装も、薄暗くてはっきり見て取れなかった。ただ、頭には何かベレー帽のようなものを被っている様子である。
「――誰?」
問うて私は一歩、相手の方へ足を踏み出す。人影はぎくりとしたように一歩あとずさった。
「気分が悪かったんだけど、もう大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
相手を怯えさせないよう、なるべく柔らかな口調で私は云った。
「ひょっとして君、清君かい」
「…………」
「浦登清君。違うの?」
「――はい。そうです」
さっきと同じ、およそ子供らしからぬ嗄れた声。だが、答え方はしっかりしたものだった。
「あの……中也さん、ですね。玄児さんのお友だちの」
「そうだよ。はじめまして」
軽く会釈してから、私はやんわりと尋ねた。
「ゆうべ部屋を覗きにきたの、君だったのかな。美鳥さんと美魚さんがそう云っていたけど」
すると、子供――浦登清はちょっと決まり悪げに「あ……」と声を洩らし、それから「あの……ごめんなさい」と云った。
「ごめんなさい。どんなお客様なのかなと思って、それでぼく」
「いいんだよ。ちょっと驚かされたけどね」
「ごめんなさい。ぼく……」
ズボンのポケットからハンカチを取り出して濡れた顔を拭きながら、私はゆっくりと清の方へ近づいていった。彼はぎくりとまた後ずさりかけたが、思い直したように動きを止め、
「あ……はじめまして。浦登清です」
改まった調子で――けれどもやはり子供らしからぬ嗄れた声で――云った。
「あの、中也さん」
「何だい」
「ぼくの顔、見ても驚かないでくださいね」
「驚く? どうして」
さっきからずっと清は低く面を伏せている。頭に被っているのはやはりベレー帽のようだった。慎太のような半ズボン姿ではなく、長ズボンに長袖のシャツを着ているのが分った。
「ぼくね、病気なんです」
云われて、私ははっと足を止める。
――会えば分る。
〈十角塔〉の最上階で、玄児は溜息混じりに云っていた。
――可哀想な子さ。可哀想だがしかし、俺たちにはどうしようもない。仕方がない。
――しわくちゃのお猿さんよ、清くんは。
美鳥と美魚はそんなふうに。
――中也さまも会ってみたら分るわ。
いったいどんな病気を患っているというのか、この少年が。
同じ病で昔、玄児の叔母にあたる麻那という女性が幼くして死んだともいう。このまま彼に近寄っていってその顔を見れば、それが分るのか。
「病気の話は聞いてるよ」
私はそろりと足を進めながら、
「大丈夫。驚いたりはしないから」
顔を見ると驚いてしまうような、そういった種類の病気なのか。美鳥や美魚のような、先天的な何らかの畸型が? それとも重い皮膚病か何かなのだろうか。
私は少年のすぐそばに立った。上背は私の胸元までしかない。子供にしてもずいぶんと低い方だ。間近から聞こえてくる息遣いは、心なしかひどく弱々しい。
清はおずおずと面を上げた。そうして私が目の当たりにすることとなった、その顔は……。
――お猿さん。
半ば予期していたことではあるが、私はやはり驚かざるをえなかったのである。が、それをあからさまに表に出すわけにもいかず、手にしていたハンカチを額に当てて強く一度目を瞑り、開いた。
――皺くちゃのお猿さんよ、清くんは。
まだ八歳か九歳といった年頃の男の子だとはとうてい思えないような、老いた[#「老いた」に傍点]顔が、心細げに私を見上げていた。「皺くちゃのお猿さん」――まさにそのとおりの、張りも艶もない皺だらけの顔。落ち窪んだ目に痩せこけた頬。そしてどうやら、被った灰色のベレー帽の下にも、老人のように禿げ上がった頭が隠されているふうなのだった。
「|早老症《そうろうしょう》っていう病気なんです」
細い嗄れた声が、老人の顔をした少年の唇から発せられた。
「子供なのに、身体がお年寄りみたいになっちゃうんです」
「早老症……そんな病気が?」
「この家にはたまに、ぼくみたいな子が生まれるんだって、柳士郎伯父さんが云ってました。仕方がないことなんだって」
「清君、君はいま何歳なの」
「――九つ」
「いつから、その症状が」
「さあ」
清は困ったように首を傾げ、
「そういう病気なんだって時分で分った時には、もう頭がこんなふうで……」
ベレー帽をちょっとだけ持ち上げてみせる。やはり髪の毛はすべて抜け落ちているらしい。
「中也さんはとてもいい人だって、玄児さんから聞きました」
口調を改めて、清が云った。
「美鳥ちゃんと美魚ちゃんも、今日中也さんにあってお話をしたら、いい人だったって。それにあの、絵も上手だし、あの、だからぼく……」
皺だらけの顔にぎこちない微笑を浮かべながら、清は恐る恐る私の表情を窺う。そして、意を決したようにこう云うのだった。
「お友だちになってくれますか」
「――喜んで」
と、私は答えた。
無理をして返した言葉ではなかったと思う。九歳と云えば小学校の三年生か四年生だけれど、それにしてはたいそうしっかりしていて、こうして少し喋っただけで頭の良さが伝わってくる。でいて、変にこましゃくれてもいない。そんな子供が、基本的に私は嫌いではなかったから。
私が握手の手を差し出すと、清はわずかに戸惑いを見せた後、それに応えた。握った彼の骨張った手は冷たくて、|藁半紙《わらばんし》のようにかさかさとしていた。
この子はあと何年生きられるのだろう。
同じ病気のために、玄児の叔母である摩耶は五歳でなくなったという。清は九歳だが、見かけはすでに六十過ぎの老人と変わらない。その彼に残された時間はいったい……。
「ありがとう、中也さん」
「皺くちゃのお猿さん」は人懐っこい笑みを見せながら、私のそばから離れた。回れ右をして、そのまま場を立ち去ろうとしたが、ふと足を止めてこちらに向き直り、
「〈表の座敷〉にいる男の人は、もう大丈夫なんですか。ゆうべ塔から落ちたんでしょ」
「そう。怪我は大丈夫そうなんだけれどね、ショックで言葉が喋れなくなっていて、その上、時分が誰なのかよく分らないらしい。思い出せたのは今のところ、江南っていう名前だけみたいだね」
「ふうん。江南さん、ですか」
「それより清君、蛭山さんが事故で大怪我をしたことは?」
「ああ、はい」
「あっちの部屋で今、野口先生たちが手当てを。君のお父さんもいるよ」
「はい。――でも」
と、そこで清は声を翳らせた。
「あの人――蛭山さんのこと、あんまりぼく好きじゃないから……」
あまり好きではないから、彼がどうなろうと別に構わない? そう云いたいのか。
私は多分に意表を衝かれた心地で、再び回れ右をして薄暗い廊下を歩み去っていく浦登清の後ろ姿を見送った。何となく背筋にうそ寒いものを感じていた。それはしかし、今の少年の言葉そのものにではなく、彼が生まれ育ってきた場≠ニしてのこの屋敷――暗黒館全体に対して、漠然と抱いた感覚だったのではないかと思う。
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〈南館〉入口のホールから延びた廊下沿いには、先ほど蛭山が運び込まれた部屋の他に、あと二枚の黒い扉が並んでいる。その片方――合わせて三枚のうちの真ん中――の扉の脇には、隣室と同じような木札が掛かっていて、達者な毛筆書きで「羽取」と記されていた。羽取しのぶと慎太の母子が暮らす部屋らしい。
先ほどの部屋に戻る際、私はふと思いついて、何も記されていないその部屋の木札を取り外し、裏面を確かめてみた。すると――。
「|諸井《もろい》」という二文字が、そこにはあった。やはり毛筆で書かれた字だが、隣室の「羽取」とは筆跡が異なる。また、札自体の墨の色合いからして、隣の札よりも明らかに古いものであると推察された。
諸井
これがこの部屋の、かつての住人の苗字なのか。
「ある時期を境に使用人の数も減らした」というようなことを玄児は云っていたが、その中の一人――あるいは一家族――が、この「諸井」だった。彼もしくは彼女――あるいは彼ら――が「ある時期を境に」屋敷から出て行って、以来ずっとこの部屋は誰にも使われないまま現在に至る。そういうことか。
「気分は治りましたか」
私が部屋に戻ると、征順が椅子から腰を上げて穏やかな調子で訊いた。
「あ、はい。もう……」
答えながら、室内を見まわす。
征順の他には誰もいなかった。さっきの清少年はもちろん、私と入れ違いにモップを持ってきたしのぶの姿もない。まだ寝室の方にいるのか。床をざっと掃除するだけならば、そんなに時間がかかるはずもないが。
「しのぶさんは〈西館〉の方へ」
私の疑問を見通したように、征順が云った。
「柳士郎――|義兄《あに》に、今のこの状況を報告しにいったのです。鶴子さんの云いつけで」
「――そうですか」
「怪我人の具合は、どうも芳しくないようですね」
と、征順は寝室に通じる中扉を見やる。それに応えるようなタイミングで、どろどろと低く雷鳴が轟いた。
「今、あっちの廊下で清君に会いましたよ」
私が云うと、征順は「ほう」と眼鏡の向こうで目を細めた。
「私が苦しそうにしているのを見て、心配して声をかけてきてくれたのですが」
征順は「ほう」と繰り返してさらに目を細め、
「あの子にしてみれば、かなり勇気の要る行動だったことでしょう」
「病気の件も話してくれました。顔も、見せてくれました」
「驚かれましたか」
「――ええ」
私は正直に頷いた。
「何と云ったら良いものか、私には」
「顔だけじゃない、手も足も……全身がああ[#「ああ」に傍点]なのです」
「早老症という病気だとか」
「そうです。早老症、早期老化症……原因不明とされている奇病の一つです」
征順は椅子に腰を戻し、前屈みになって両肘を膝の上に載せる。そうして視線を黒い床に落としながら、どこかしら|醒《さ》めたような口調で語った。
「髪が抜け落ち、皮膚が薄くなり、皮下脂肪は萎縮し、骨は|脆《もろ》くなり、動脈硬化が進み……要は、若いうちから異常な速度で肉体が老化していく。あの子はあれでもまだ良い方でしょう。もっと早くに、為すすべもなく死んでしまう例も少なくないのです」
「治療法は」と尋ねようとして、思いとどまった。「原因不明の奇病」と云うくらいだから、根本的な治療は困難なのだろう。症状に合わせて、可能な処置を講じていくしかないのではないか。
質問の変わりに私は、今さっき清と会って抱いた、これまた正直な感想を述べた。
「とても頭の良い子ですね、彼は」
「そう。とてもね」
私のほうを見ることなく、征順は頷いた。
「病気のこともちゃんと理解しています。今後自分がどうなっていくのかも承知している。それを、何と云うか、宿命として受け入れているようにも見える。決して私たちを責めたりもしない」
「責める?」
「私を、そして妻の望和――彼の母親を、です。どうしてこんなふうに産んだのだ、と」
「あなたにはその、自責の念があるわけですか。失礼な云い方かもしれませんが」
「自責、ですか」
征順は少しく口を閉ざし、それから声を低くしてこう答えた。
「まったくないわけではない。しかしそれも、この家では仕方がないことだと。あれは――あの病は、この浦登家に生まれる者が背負うリスクの一つなのですから」
ああ、また「仕方がない」か。玄児もそう云っていた。清自身もそう云っていたけれど、しかし「リスク」とは? 「浦登家に生まれる者が背負うリスク」――それはいったいどういう意味なのだろう。
「あの子も――清も可哀想だが、私にはそれ以上に妻が哀れに思えます」
「望和さんが?」
「今日初めてお会いしたばかりのあなたに、こんな話をしてしまうのは多分に気が引けるのですが、彼女は――望和は、あの子の病気が明らかになった頃から、心が壊れてしまった。だから……」
「心が、壊れた?」
「姉の美惟――美鳥と美魚の母親とは形が違いますが。やはりあれは、一種の狂気に取り込まれてしまっているのでしょう」
微妙な云い方だなと思った。
「心が壊れてしまった」「一種の狂気に取り込まれてしまっている」……彼女は果たしてどんな状態でいるわけなのだろう。加えて今、征順は「姉の美惟とは形が違うが」と云った。それはつまり、美鳥と美魚の母である浦登美惟もまた、何らかの狂気に心を蝕まれているということなのではないか。
征順は視線を床に落としたまま、それっきり口を噤んでしまった。ここでさらに何を訊いてみたら良いのか、あるいは何も訊くべきではないのか、私にはどうにも判断がつかなかった。
寝室の扉が開き、野口医師と鶴子、玄児の三人が出てきたのは、ちょうどその時である。
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「どうですか、蛭山さんは」
私の質問に、まず野口医師が、汚れた白衣の袖を|捲《まく》り上げながら憮然とかぶりを振った。その傍らで玄児が、疲れた面差しで溜息を洩らす。医師もそれにつられるようにして溜息をつき、
「打てる手はとりあえず打ってみましたが」
「――まさか」
「いや、まだ何とか命は保っています。しかし、このままではもはや時間の問題でしょうな。腕に肩、それから肋骨も数本折れておる。内臓にもやはり損傷があるようだが、何よりまずいのは頭ですな。頭蓋骨に骨折が。脳の損傷については、レントゲンを撮ってみないと確かなことは云えませんが、かなり深刻なものだろうと推測できます」
「じゃあ、早く病院に」
思わず口を衝いて出た私の言葉に、野口医師は憮然とまたかぶりを振って、
「今から救援を呼んでみたところで、まず間に合いますまい」
「ですが……それじゃあ、こちらの車で病院まで」
「駄目だよ、中也君」
玄児が口を開いた。わざと感情を押し殺したような、冷ややかな声だった。
「分ってるだろう。仮に俺たちで運ぶにしても、まずどうやって湖を渡る」
「ああ……」
「ここにある二艘の舟のうち、手漕ぎの一艘はゆうべ見たとおり、桟橋から流れ出してしまっている。もう一艘のエンジン付きは、岸に激突してばらばらだ。〈北門〉のボート小屋にあった予備の舟は、さっきその目で確かめただろう? 小屋ごと焼失してしまって跡形もない。そしてご丁寧なことに、例の浮き橋までがあの有様。――要は今現時点で、湖を渡る方法が俺たちにはないってことさ」
「…………」
「むろん、それでもまだ方策がないことはない。大急ぎで筏でも造って、そいつに載せて運ぶ手はある。あるいは、誰かが泳ぐか」
「泳ぐ……湖を?」
「そう。この雨の中を果敢に泳いでいって、漂流している舟を捕まえる」
「それは……」
「そもそも誰が湖に入るかという問題もあるが、にしても相応の時間がかかるだろう。筏を造るにしても同じだ。そうして怪我人を車に運んで、台風が近づいてくる中、あの山道を長時間走ってどこかの病院まで行かなきゃならない」
私は返す言葉をなくし、知らぬ間に力無く首を振り動かしていた。
「たとえば――」
黙って私たちのやり取りを見守っていた征順が、野口医師に向かって云った。
「先生がここで応急の手術をしてみる、という選択肢はないのでしょうか。手をつけられる部分だけでも。ある程度の薬品や医療具なら、この屋敷には揃っています」
「無駄でしょうな」
白髪混じりの太い眉を鋭く寄せながら、医師は答えた。
「私一人ではとうてい対処しきれない。設備も、そんな手術を行うにはまるで不充分です。――鶴子さんは? どう思うかね」
「私には何とも」
こわばった声で答えて、元看護婦は目を伏せる。
「ただ、非常に難しい容態であることはよく分ります。仮にここが完全に設備の整った病院であったとしても、助けられるかどうか」
「ふむ」
ちりりん、と突然、部屋のどこかで鈴の音が鳴った。重苦しい場の空気にはあまりにそぐわぬ、軽やかな音だった。
即座に反応したのは鶴子だった。小走りに入口の扉の方へ向かう。見ると、これまでまったく気づいていなかったのだが、扉脇の壁面に妙な器具が取り付けられていた。茶色く塗られた、恐らくは金属製の。何やら|喇叭《らっぱ》の開口部――いわゆる朝顔=\―のような形をしたものが、大人の首許の高さに突き出ているのである。
「はい」
その朝顔≠ノ口を寄せて、鶴子が応えた。
「小田切です」
それから少し顔を斜めにして、耳を朝顔≠フ方に向ける。
「伝声管だよ」
と、玄児が私に近づいてきて囁いた。
「〈西館〉の父の部屋から直通の。鈴はほら、あの上、天井近くにぶら下がっているだろう。向こうからの呼び出し専用だ」
「――」
鶴子が朝顔=\―伝声管の通話口に向かって応える。
「それが……あ、はい。承知いたしました」
通話口の前を離れると、鶴子は私たちの方に向き直って告げた。
「柳士郎様がこちらへ来られるそうです。羽取からいま事故の報告を受けた、と」
聞いて、私は思わず身を硬くした。それまでとはまた異質な緊張が、その時その場に走ったようにも感じられた。
浦登柳士郎――この館の当主が、ここにやって来る。「浦登家における絶対的な権力者」゛と玄児が云うその人物との初対面が、まさかこのような状況下で果たされることになろうとは。
「この屋敷の伝声管はそもそも、初代玄遙の発案で設置されたものだという話でね」
玄児が私に向かってそんな説明を始めた。
「外遊の際に乗った客船でその類の装置を目にしていて、それで思いついたのかもしれないな。昔は〈西館〉の主人の部屋と、各棟のいくつかの部屋とを繋いでいた。いまも残っているのは、この〈南館〉との間の何本かだけだが」
「〈東館〉の食堂にあるベルのボタンは? その伝声管のシステムと関係があるのですか」
「別物だよ、あれは。単にこっちの廊下でベルが鳴るだけの仕掛けさ」
「ところで、玄児君」
と、そこで野口医師が口を挟んだ。寝室の扉の方をちらりと見やりながら、
「怪我の具合を調べていて、ちょっと気になる点があったんだが。気づきませんでしたかな」
「気になる点?」
と、玄児は訝しげに眉をひそめる。
「胸のあたりから下半身にかけて、打撲による皮下出血が複数見られたでしょう。あれがどうも……」
「何か不審なところがあると」
「断言はできんのですが、診た感じ、どうも時間があわんように思えたのです」
そう云って、医師は鼠色の顎鬚を撫で下ろす。
「その他の打撲傷や擦過傷などと比べてみて、何と云うんですかな。どうも釣り合いが取れておらんような。時間的な……つまり、負傷してからの経過時間にかなりの差があるのではないかと」
「別々に負った怪我なんじゃないか、ということですか。舟の事故の時、すでに蛭山さんの身体にはあの皮下出血があったと」
「さよう」
医師は真顔で頷いた。
「たとえば昨夜のうちに何らかの原因で、彼はあのような打撲傷を負ってしまった。肋骨のうちの何本かは、その際に折れたのかもしれない」
「ははあ」
それは一理あるように、私にも思えた。
「あのボートの扱いには充分に慣れていただろうに、どうして彼が」という、先ほど征順が口にしていた疑問が、今の野口医師の所見によって解消されるのではないか。蛭山は肋骨が折れるほどの重症をすでに負った状態で、あの舟に乗ってきたことになる。苦痛のあまり意識が朦朧として、あるいは途中で気を失うかどうかして、その結果、運転を誤って岸に突っこんでしまった――。
仮にそうだとして、では、昨夕この島から湖岸の建物に戻って以降、彼の身に何が起こったのだろうか。何か不慮の事故があった? 何か不慮の……いたいどんな事故が。
そこまで考えて、ふと思いついた。
ひょっとしたら、あの地震で?
江南青年が〈十角塔〉から転落した、あの二度目の地震[#ここから太字](……そう。あの地震のせいで)[#ここで太字終わり]。あの時点で、蛭山はとうに湖岸の建物に戻っていたはずだ。地震のせいで、たとえば何か大きな家具が倒れてきて、運悪くその下敷きになってしまって……。
私は寝室の扉にそっと目をやり、|暗澹《あんたん》たる気持ちで胸を押さえた。
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廊下側の黒い扉が静かに開かれたのは、それから間もなくのことだった。「どうぞ」という羽取しのぶの声が聞こえ、そうしてその人物、浦登柳士郎が部屋に入ってきた。
暗黒館の当主は、私が勝手に想像していたよりもずっと長身で体格の良い男であった。当年取って五十八歳――と、前に玄児から聞いた憶えがあるが、その年齢にしては若々しいという感じと、すっかり老成して枯れたような感じ、相反する印象を同時に抱かされた。どこかしら年齢不詳、といった雰囲気があるのだ。
玄児や鶴子と同じような黒ずくめの出で立ちである。黒いスーツに黒いシャツ、ネクタイも靴も黒。オールバックにした髪も黒々としていて、秀でた額に骨張った頬、大振りな鷲鼻といった彫りの深い顔立ちには、何と云うのだろう、冷たい威厳とでもいうようなものが感じられる。
有無を云わさぬ威圧感が、その全身から放射されているようにも思える。「絶対的な権力者」という玄児の評が頭に刻みつけられているので、ことさらのようにそう感じてしまうのだろうか。
浦登柳士郎は部屋の中央に向かって一歩進み出、ゆっくりと場を見まわす。その右手に黒い杖が握られていることに、そこで私は気がついた。
何のための杖なのだろう。少なくとも足が悪いふうには見えないが。
そんな疑問に加えて、ふと何かしらの違和感を覚えた。何だろうか、これは。周囲に対する強い威圧感、それとはどことなく裏腹な、この……。
「そちらのお若い方」
と、いきなり私に向かって声が投げかけられた。地の底から響きだしてくるような、低音、けれどもよく通る声だった。
「――はい」
私は思わず気をつけの姿勢になる。相手の顔を正面から見返すことは、気後れしてしまってできなかった。
「君が中也君かね」
「あ、はい」
「遠いところをようこそ。――この春には、玄児が大変にご迷惑をおかけした。私からも深くお詫び申し上げる」
「ああ、いえ」
「来られた早々、騒がしいことばかりでまことに申し訳ない」
「いえ、そんな」
少しは気の利いた受け答えをしようと思ったが、緊張のため何も思い浮かばなかった。言葉に詰まって視線を伏せた私から、すると柳士郎はすいと顔を背け、野口医師の方に向き直った。
違和感の正体を悟ったのは、その時だった。
それは、彼の目だ。
威圧感に満ちた全体の雰囲気に引き替え、何故だか柳士郎の|双眸《そうぼう》には、本来そこにあるべき鋭さがない。視線を上げ、医師の方を向いた彼の顔をまっすぐに捉えてみてやっと、私はそのことに気づいたのだった。
目の光が鈍い。色が濁っている。これは比喩ではなく、文字どおり眼球が、その黒くあるはずの部分の大半が、白っぽく濁っているのである。だからこんな……。
白内障という病名がすぐさま思い浮かんだ。水晶体の混濁、それによる視力の低下を主な症状とする眼疾患。個人差はあれ、老人性の白内障は年を取れば誰にでも生ずるものだと聞くが、柳士郎の目のあの様子は、相当に程度の進んだ病状を示しているのではないかと察せられる。
右手の杖はそのためか、と私は納得した。視力の低下に伴う移動困難を補うための、あれは杖なのだろう。
「――で?」
と、柳士郎は野口医師に対して問うた。
「いきさつはさっき羽取から聞いた。単刀直入に訊こう。蛭山が命を取り留める可能性は」
「ご覧になりますかな」
医師はそう云って、奥の扉に目を投げる。
「いや、結構。村野君の所見を聞けば、それで充分だろう」
古い馴染みであるという医師を、館の主人は「村野」という本名で呼んだ。
「蛭山が命を取り留める可能性は?」
と、柳士郎は質問を繰り返した。医師はゆるりと首を横に振って、
「限りなくゼロに近いでしょう」
「ふん」
「正直云って、朝まで|保《も》つかどうかというところですな」
「なるほど」
柳士郎は眉一つ動かすことなく頷いた。
「村野君がそういうのであれば間違いないだろう。可哀想だが、仕方あるまい」
「しのぶさんから聞かれたと思いますが、舟の事故による負傷です」
と、そこで玄児が云った。
「今から病院に運ぶのは意味がないにしても、事故の件は警察に報告した方が良いのでは」
「必要ない」
柳士郎の返答はにべもなかった。
「しかしですね、昨日〈十角塔〉から転落した青年の件もあります。そちらは幸い大事には至りませんでしたが、自分が何者なのか、彼はいまだ思い出せずにいる。このまま放っておくわけにはいかないでしょう。やはり警察に連絡して」
「必要ない」
有無を云わさぬ威圧感が、やはり柳士郎の言葉にはあった。
「蛭山が死んだら、死亡診断書は村野君に任せればよい。蛭山に身寄りはない。それで済む」
「塔から落ちた青年は? どうするんですか」
「しばらく様子を見れば良かろう」
柳士郎は白濁した目で玄児を見据える。
「慌てて動く必要はない。警察を呼んだところで、すぐに埒が明くものでもあるまい」
「…………」
「それに玄児、分っていよう」
館の主人は淡々と告げた。
「今日は〈ダリアの日〉なのだ。じきに死ぬと分っている怪我人やどこの誰ともしれぬ|闖入者《ちんにゅうしゃ》に、よけいな邪魔をさせるわけにはいかない。違うかな」
柳士郎はゆっくりとまた場を見渡す。異議を申し立てようとする者は誰もいなかった。
開かれたままになっている廊下側の扉の向こうから、降りしきる雨と吹きすさぶ風の音が響いてくる。重苦しい沈黙が何秒か続くうち、その音が急に勢いを増したような気がした。
「実は、旦那様」
と、そこで口を開いたのは鶴子だった。
「一昨日お出かけになった首藤様が、まだお戻りになっていないのです。それに、蛭山の事故のせいもありまして、湖を渡る船が一艘もなくなってしまい……」
「――ふん」
柳士郎はこつりと一回、杖で床を打ってから、
「利吉が戻ってこないのは、何かあの男の事情があってのことだろう。舟については対処を考えねばならないが、まあいくらでも手はある」
「宍戸に命じて、とりあえず舟の代わりになるようなものを作らせましょうか」
「その必要もあるまい」
主人の判断ははっきりしたものだった。
「嵐のせいで仮にこの屋敷が孤立してしまったとしても、心配は要らぬ。食料は充分にある。天候が回復した段階で、業者に連絡して新しい舟を運んでこさせる。それで問題あるまい」
柳士郎はそして、いま一度場を見渡してから、
「あとのことは任せる」
そう云い置いて|踵《きびす》を返そうとしたが、途中でふいと動きを止め、おもむろに私の方を振り返った。思わずまた身を硬くする私に向かって、すると彼はこつこつと杖を鳴らしながら歩み寄ってき、
「今宵は〈ダリアの夜〉。すでにお聞き及びかもしれないが、我々にとっては非常に特別な日の、その夜がもうすぐやって来る」
囁きかけるような声で云うのだった。
「〈ダリアの館〉で催される今宵の|宴《うたげ》には、ぜひ中也君、君も列席されるよう。これは玄児の希望でもある」
突然のことに私はすっかり狼狽してしまい、横目で玄児の方を窺った。彼はじっとこちらを見つめていた。私の視線を受けると、その唇に謎めいた微笑を湛えながら、小さく頷き返す。しかし――。
「いいのでしょうか。その、つまり……」
昨夜〈東館〉のホールで野口医師に紹介されたあのあと、医師が玄児に対して怪訝そうに投げかけた言葉を、
――明日は〈ダリアの日〉だというのに、よろしいんですかな。
私はどうしても思い出さざるを得なかった。
「そんな特別の場に、部外者の私が」
「玄児の望みなのでね。私はそれを了承した」
きっぱりとそう云って、柳士郎は蒼白く彫りの深いその顔全体で笑った。白濁した双眸を大きく見開き、鼻筋に深い皺を寄せ、口を左右に裂き広げ……それでいてまったく声を出さない、異様な笑い。
……ああ、これはまるで。
まるで、そう、この夏たまたま|有楽町《ゆうらくちょう》の映画館で見た、英国製のあの怪奇映画の一場面であってもおかしくないような、これは……。
唐突に浮かんだそんな連想を、私は強く瞼を閉じて頭から追い出そうとする。今にも心臓が喉元まで|迫《せ》り上がってくるのではないかと思えるほどに、胸の鼓動が速くなっていた。
「では、後ほど〈ダリアの館〉で」
と、柳士郎の声が聞こえた。慌てて瞼を開いた時には、館の主人はもう私に背を向け、部屋から立ち去ろうとしていた。
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第十章 迷宮の調べ
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蛭山のそばにはとりあえず鶴子としのぶが交代で残ることになって、他の者たちは〈南館〉から〈東館〉へと引き揚げた。野口医師と征順はそのまま〈北館〉へ向かい、玄児と私はいったん食堂に戻る。食卓にはまだ料理がだいぶ残っていたけれど、食べる気になれるはずもなく、私たちは長いテーブルの両端に向かい合って坐ったきり、しばらくの間お互いに押し黙っていた。
「仕方がないこと――なのでしょうか、これも」
食事の前に脱いでテーブルの隅に置いておいたソフト帽を取り上げながら、やがて私がそっと口を切った。
「仕方がない……」
玄児は物憂げに突いていた頬杖を外し、
「蛭山さんの件が?」
と訊き返した。私は頷き、目深に帽子を被る。玄児は眉間に寄せていた縦皺を消して、切れ長の目を|眇《すが》めた。
「どのみち彼は助からない。放っておくしかない。――父の判断は正しい」
「警察に連絡する必要もない、と?」
「それは……」
玄児は返答をためらったが、すぐにまた目を眇めながら、
「父が必要ないと云いきったんだ。誰もその決定には逆らえない。仕方があるまい」
ああ、やはり「仕方がない」か。
柳士郎の云ったことに、なるほどそれなりの説得力はある。いま警察を呼んでみたところで、場所はこの山奥、天候は悪く湖を渡る舟もない。すぐに埒が明くものではない、というのは確かにそのとおりだろう。が、しかし――。
それでも一応はまず警察に連絡し、事の次第を知らせておくのが、こういった非常事態における常識的な対処なのではないか。いくら今日が〈ダリアの日〉であると云っても。
「お父上――柳士郎氏は、目を患っておいでなのですね」
と、私は意識的に話題を変えた。ここで自分が玄児を相手にいくら異議を述べ立ててみたところで、それこそ埒が明くまいと思ったから。
「白内障ですか、あれは」
「ああ、うん」
玄児は煙草を|銜《くわ》え、愛用のオイルライターで火を点ける。
「この一年ほどで急に病状が進行してきてね、水晶体があのとおりすっかり濁ってしまって、視力も相当に落ちている。歩きまわるのにああして杖を使うようになったのは、ここ二、三ヶ月のことだ。近いうちに手術を、と野口先生は勧めているそうだが、父はなかなか『うん』と云わない」
「まったく見えないわけではないのですよね」
「白内障による視力低下は近視とは違って、網膜に映る像そのものが白く霞んでしまうんだな。曇り硝子を通して外の景色を見るようなものだというね。根本的な治療は、混濁した水晶体を外科的に除去してしまうしかない。あまり放置しておくと緑内障が続発することがあって、これが恐ろしい」
「――なるほど」
「糖尿病が原因で起こる白内障や網膜症もあるが、父は糖尿を患っているわけではない。他に原因となるような既往症もない。純粋に老人性の白内障で、その点はまだしも幸いだったと云えるんだが、それにしてもね、急激な肉体の老化というのはやはり、俺たちにとって悪い|徴《しるし》だから……だからまあ、父がこのところ不機嫌で、気分の波が激しくて、ややもすると鬱状態になってしまいがちだというのは、これまた仕方がないことだろう」
「悪い徴……」
気になった言葉を、思わず口に出して呟いた。
「急激な肉体の老化」は「悪い徴」――もちろんそれはそうだろう。「良い」「悪い」で云うなら「悪い」ことであるに決まっている。柳士郎だけではない、誰にとっても。
「弱気になっているんだろうな、と思う」
わざとそうしているような無感動な面持ちで、玄児は続けた。
「混乱、落胆、そして恐れ……今の父の心中を察することは難しくない。勧められてもなかなか手術を受ける踏ん切りがつかない、そんな気持ちも理解できる。父はまだ五十八だ。その年齢であの状態だというのは……」
何と応えたら良いものか、私には分らなかった。
玄児は低く息をつき、短くなった両切り煙草を苦そうにくゆらせる。私はグラスに残っていたジュースにちょっとだけ口をつけてから、自分も煙草を銜えた。手持ちの箱に残っていた最後の一本だった。
「さて、これからどうしようか」
やがて玄児が云った。
「〈宴〉まではまだ時間があるが。――もう疲れちまったかな」
私は「いえ」と首を振り、火の点いていない煙草を右手の指先に挟み取った。
「それは大丈夫ですけど。でも、あの……」
「〈北館〉のサロンにでも場所を移そうか。お望みならばあっちの館内を一通り案内するが」
「――あ、はい」
「サロンにはテレヴィもあるし、それにそう、さっき話した例の絵、藤沼画伯の『兆し』もあそこにあるから」
椅子から立ち上がろうとする玄児に、私は空っぽになった煙草の箱を捻り潰して見せながら、
「これでなくなってしまったので、部屋に戻って取ってきます。鞄にまだ、何箱か買い置きが」
「じゃあ、俺は先に」
と云って、玄児はテーブルを離れる。
「サロンはさっき通った長い廊下沿いにある。こっちから行って左手、中庭に面した側の真ん中の部屋だから。すぐに分るだろう」
そうして玄児が、食堂西側の廊下に出る両開き扉の前まで足を進めたところで――。
「あのう、玄児さん」
私は思いきって呼び止めた。今日彼の口から聞かされたさまざまな話のうち、現時点で最も気に懸かっている問題について、今ここで率直に訊いてしまおうと決めたのである。
「〈十角塔〉の最上階で私に云ったこと、あれは本当なんですか」
「ん?」
玄児は瞬間ひくりと肩を震わせ、それから溜息をつくように「ああ、あれか」と答えて、こちらを振り返った。何時間か前に二人で昇った塔上の部屋の薄闇を思い出しつつ、私は言葉を繋げる。
「あの塔の座敷牢に閉じ込められていた、それは玄児さん自身だと、そう云いましたよね」
「ああ。確かに云ったが」
「どうしてなのですか」
両手をテーブルに突いてその場に立ち上がり、私は訊いた。
「どうしてそんな……玄児さんが座敷牢なんかに。いったい誰がそんな真似を」
「君も知ってのとおり、中也君、俺にはある時期以前の子供時代の記憶が欠落している。かつてあの塔に閉じ込められていたというのも、これはあとになって人から教えられて知った事実なんだが――」
淡々とした声で云いながら、玄児はズボンのポケットに両手を突っこむ。扉に軽く背を|凭《もた》せかけ、みずからの足許に視線を落とす。少しの間そのままの姿勢で沈黙を続けたが、私が先を促そうと口を開く前に、静かに目を上げた。
「生まれて間もない頃から、俺はあの塔の最上階の部屋の、あの格子の向こうに閉じ込められ……何年にもわたってそこで育てられた。その間、乳母的な役割を担ってくれたのは諸井|静《しずか》という名前の、その頃ここに住み込みで働いていた使用人だったらしいんだがね、当然のように俺は彼女のことも覚えちゃいない。当時の自分がどんな心境でいたのかも、きれいさっぱり忘れてしまっている。まあ、だからこそこうして、まるで他人事みたいにこの話ができるわけでね」
……諸井、静?
蛭山が運び込まれた〈南館〉のさっきの部屋。その入口の脇に掛かっていた木札のことを、私はすぐに思い出した。あの札の裏面に記されていたのは、確か「諸井」という苗字だったが。
「『誰がそんな真似を』と云ったね、中也君。もちろん、そう、今から二十七年前、俺をあそこに閉じ込めるよう命じた人物がいる」
玄児は宙を見据えて云った。
「浦登柳士郎だよ、それは」
「お父上が? 何だってそんな」
私が思わず聞き直したのを受けて、玄児は扉から背を離しながら、やはり淡々とした声で答えた。
「父は母を、死んだ彼の最初の妻カンナを、とても愛していたから。――きっとそういうことだったんだろう」
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玄児と別れて〈東館〉二階の客室にいったん戻ったのが、午後六時過ぎのことである。
さっき玄児に「疲れたか」と訊かれた時には「大丈夫」と答えた私だったが、本当のところはかなりぐったりした気分だった。肉体的な疲労ではない。昨日からの一連の出来事による緊張の連続で、精神的にくたびれてきているのだろう。
鞄から新しい煙草を取り出して封を切り、その場でゆっくりと一本吸ってから、被っていた帽子はベッドの上に放り出して部屋をあとにした。
外はもう日暮れ時。建物を打つ雨の音は相変わらず強い。風はいっときよりも弱まっている様子だけれど、時折り響き渡る雷鳴が何ともおどろおどろしくて不穏な感じだった。
廊下に出たところで、ちょうど向かいの部屋の扉が開かれた。よろめくような足取りで中から出てきたのは、首藤伊佐夫である。ぼさぼさの髪に無精髭に汚れたレンズの銀縁眼鏡……と、今朝会った時とほとんど変わらぬ風体で、着
ている卵色の長袖シャツはと云えば、そのままの格好で寝ていたことが明らかに分るくらい皺くちゃだった。
「お目覚めですか」
大欠伸をする自称芸術家氏に向かって、私は声をかけた。彼は壁に片手を突いて身体の直立を保ちながら、「うん?」とこちらを見やり、
「ああ、やあ。君は確か、中也君だっけ」
今朝ほどではないが、やはり呂律が怪しい。
「憶えていましたか」
私は苦笑をこらえながら、
「酔いはもう覚めました?」
「はて。――あんまりぐっすり眠った気はしないんだけどなあ」
そう云って、伊佐夫はまた大きな欠伸をする。酒臭い息が、私の鼻先まで漂ってくる。
「何だか下が騒がしかっただろ、さっき。それで目が覚めちまったんだけどね。――何かあったの」
「ええ。それが……」
事故の発生とその後の経緯を、私はかいつまんで説明した。大怪我をした玄関番の命はもはや助かりそうにない、ということも話した。
「ふうん。あの蛭山さんがねえ」
油の浮かんだ丸い鼻の頭を指先で擦りながら、伊佐夫は充血した目を細かくしばたたく。私は付け加えて、
「そう云えば、お父上はまだ屋敷に戻っておられないそうですよ」
伊佐夫はちょっと驚いたふうに「まだ?」と聞き直したが、すぐにとぼけた調子で「おやおや」と肩を竦めて、
「いったいどうしちまったんだか。――ま、僕の知ったことじゃないけどね。茅子お|義母《かあ》様はしかし、さぞやきもきしてることだろうな」
「――はあ」
「ところで中也君、いま何時」
「六時二十分、です」
私は腕時計を確かめて答えた。その時刻を早いと感じたのか遅いと感じたのか、伊佐夫は顔を|顰《しか》めて髪を掻き回し、
「僕はもう一寝入りするよ」
と宣言した。
「夕飯ができたら起こしてくれって、しのぶさんに云っといてくれる?」
「ええ。それは構いませんけど……でも、何でも今夜は〈ダリアの館〉で〈宴〉があるのだとか。伊佐夫さんは、それには?」
「〈宴〉って……ああ、例のあれか」
伊佐夫はさらに顔を顰め、
「僕には関係のないことさ。部外者の君にとってもおんなじだろう。親父やあの女にしてみりゃあ、そうも云っていられないんだろうけどねえ」
部外者には関係ない。基本的にはやはり、そういった種類の話なのだ。
本来なら私のような者が招かれる筋合いのない特別な場へ、しかし私は招かれてしまった。玄児がそうすることを強く希望し、柳士郎が了承したのだというが、さて、それはいったい喜ぶべき事態なのかどうか。
「ところで中也君、君は行ける口かい」
と、伊佐夫が訊いた。
「お酒ですか。まあ、|嗜《たしな》むくらいは」
「そうか。じゃ、今夜は一緒に飲もう」
「ええと、それは……」
「君は確かキリスト教者の古典マニアだったよね。そんな君と、ぜひともゆっくり芸術について語り合いたいのさ。ねえ中也君」
「ああ、いえ……」
子供の頃に教会へ通っていたことはあるが、私は別にキリスト教を信仰しているわけではないし、古典マニアは私ではなくて私の弟の話である。が、酔っ払いの混乱した記憶をそこで正す気にもなれず、私は適当に返事を濁した。今夜の〈宴〉に私が招待されたことについても、ここでは云わない方が良いだろう。
「それじゃあ、またね」
今朝の別れ際と同じ言葉を投げてよこし、伊佐夫はよろよろと部屋に引っ込む。次に目覚めた時、今のやり取りが彼の頭の中でどのように再編成されることになるのか、酒によって正体をなくした経験がほとんどない私にしてみれば、なかなか興味深い問題ではあった。
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一階へ下りるのに、正規の階段ではなくて例の隠し階段を使うことにしたのは、その時のちょっとした気まぐれだった。別にどうしてもそうしたいと意識したわけではない。伊佐夫が部屋に消えたあと、何となく足が、玄関ホールの折れ階段とは逆の方向へと向かってしまったのだった。
燭台の陰のレバーを動かしてどんでん返し≠開け、壁の向こうの小部屋に身を滑り込ませる。倍ほどにも跳ね上がって聞こえてくる雨音の中、暗い階段を忍び足で降りていくと、今朝これを見つけた時とはまた違う、妖しい胸のざわめきを憶えた。
誰も知らない――実際は家人の誰もが知っているわけだが――秘密の空間。そんな場所に独り身を置くこと、それ自体にまず、甘美な後ろめたさとでもいったようなものを感じてしまうのは、私だけだろうか。
たとえば子供の頃、裏庭に建っていた土蔵の中にこっそりと忍び込んだ時の気分。たとえば友だちと隠れんぼをしていて、古い校舎の床下に潜り込んだ時の気分。たとえばそして、そう……。
――どうしたの、そんなどろどろになって。
あれは私がまだ小学生だった頃、家の近所に大きな無人の屋敷があった。かつてドイツ人の老夫妻が住んでいたという――何であんな田舎町にドイツ人がやってきたのかはまったくもって謎だが――二階建ての洋館だった。
くすんだ象牙色の壁に這う珈琲色の木骨。|紺青《こんじょう》に塗られた急勾配の切妻屋根と秘密めいた屋根窓。敷地を取り囲んだのは赤煉瓦と高い塀で、門には青銅の格子扉が閉まっていた。学校の行き帰りなどでそばを通りかかるその古びた屋敷が、まだ幼かった私の目には、|途轍《とてつ》もない謎を秘めた異国の城のように見えた。だから……。
――何をして遊んでいたのです。
――兄のあなたが、そんな……。
今朝の記憶に従って扉のノブを探し、階段下の秘密の小部屋から外の広間――舞踏室に出る。
陽が落ちて鎧戸の隙間から射す光もなく、室内はほとんど真っ暗だった。廊下側の扉の下からわずかな明りが漏れ込んできていて、それを頼りに私はそろそろと闇の中を進んだ。
「……な……いる……」
降りつづく雨の音の狭間にその時、得体の知れない声が響くのを聞き留めた。
「……どう……の……」
この広い部屋の、この暗闇のどこかから――。
ひどく途切れ途切れで、なかおつほんのかすかな声なので、何を喋っているのかは聞き取れない。誰が喋っているのかも分らない。
私ははっと足を止め、闇を見まわす。
そうだ。今朝この場所で美鳥と美魚の姉妹に会ったあのあとにも、これと同じような声を聞いたのだった。これは、いったい――。
どこから聞こえてくるのだろう。
何者かがこの舞踏室に潜んでいるのではあるまい。実際に今、それらしき気配はまるで感じられない。ではやはり、今朝そう考えたように、別の場所での話し声がここに洩れ伝わってきているわけか。あるいはまさか、これは私の幻聴?
私は目を閉じ、強く首を振る。
すると瞬間、先ほど〈南館〉のあの部屋で目の当たりにした傴僂の玄関番の惨たらしい姿が瞼の裏に浮かんでき、慌ててさらに強く首を振った。声はすでに消えていた。
舞踏室を出ると、洗面所に立ち寄ってもう一度冷水で顔を洗ってから〈北館〉へと向かった。トンネルのような石造りの通路をくぐり抜け、電話室の付属した例のホールへ。そこから、コの字型の建物の東翼に延びた袖廊下に出ようとしたところで――。
さっき舞踏室の暗闇の中でそうしたのと同じように、私ははっと足を止めた。
ピアノの音が聞こえてくるのだ。どこかこの〈北館〉の、この近くの部屋から。
何となく陰鬱で|気怠《けだる》い、そのくせ不思議な透明感のある旋律だった。薄暗い建物の薄暗い回廊に、セピア色の布を頭から被った幾人もの|侏儒《こびと》がわらわらと湧き出し、大雑把な列を作ってゆっくりと歩いていく……そんな映像が、何故かしら頭に浮かんだ。クラシックはもとより流行歌に関してもまるで疎い私なのだが、この曲はいつかどこかで聴いた憶えがあるような、ないような……。
……誰が弾いているのだろう。
それともこれは生のピアノ演奏ではなく、レコードが鳴っているのだろうか。
流れつづけるピアノの調べに耳を傾けながら、私は袖廊下に歩を踏み出す。すぐ先に、東西に棟を貫く主廊下との合流点がある。半裸の男性の身体に何匹もの蛇が巻きついた等身大のブロンズ像が、合流点近くの壁際に置かれていることに、そこで初めて気づいた。そう云えば、これとよく似たブロンズ像が、西翼の袖廊下との合流点あたりにも置かれていたような記憶がある。
ピアノの音は続いている。
淡々と、そしてどこかしら|訥々《とつとつ》と、薄暗く気怠い旋律が奏でられる。レコードではない、とその時点で確信した。やはり誰かが今、どこかでこれを弾いているのだ。
ブロンズ像の向こうに黒い両開きの扉がある。その扉の合わせ目に、若干の隙間ができているのが見えるが。――あの部屋からだろうか、音が流れ出してくるのは。
無意識のうちに足を忍ばせながら、私は扉に近づいていった。ピアノの音は近くなってくる。淡い光が漏れだす扉の合わせ目に、そっと顔を寄せる。すると――。
ひょっとしてこちらの気配に感づいたのかもしれない、ぴたりと音が止まった。私は慌てて扉のそばから離れた。
「清ちゃん」
と、そんな声がいきなり背後から聞こえてきて、私はさらに慌てた。振り向くと、いま私が覗き込もうとした部屋の、廊下を挟んだ斜め向かいに同じような両開きの扉があって、それが開かれている。声の主はそこに立っていた。
「清ちゃん……清ちゃんはどこ」
部屋から出て、ゆらりと私の方へ近寄ってくる。
黒いロングスカートに柿色のブラウスを着た、華奢な体格の女性だった。緩く波打った髪をショートにしている。三十代後半といった年頃だろうか。小造りできれいな顔立ちだけれど、気のせいか、微妙なバランスの崩れがどこかにあって、全体が妙な具合に歪んでいるようにも見える。
「ねえ……清ちゃんはどこ」
初対面であるにもかかわらず、私が何者かを確かめもせずに、彼女は問いかけてくる。ああ、この女性があの清少年の母、浦登望和なのか。
――叔母さまは|蜻蛉《とんぼ》。赤蜻蛉ね。
美鳥と美魚の姉妹は彼女について、そんなふうに語っていた。
――だれど羽根が破れていて、空は飛べないの。
――心が壊れてしまった。だから……。
これは先ほど夫の征順から訊いた言葉。
――やはりあれは、一種の狂気に取り込まれてしまっているのでしょう。
「ねえ……見かけなかったかしら、清ちゃんを」
重ねて問いかけられ、私はしどろもどろで返事を探した。
「あの、ええと、ちょっと前ですけど、〈南館〉の方でちらっと」
すると彼女――浦登望和は長い|睫毛《まつげ》の下の大きな目をまん円に見開き、ブラウスと同じ柿色の紅が引かれた小振りな唇を「まあ」と震わせた。
「大丈夫かしら。あの子はね、あまり身体が強くないの。わたしはいつも心配で心配で……」
「…………」
「でもね、わたしのせいなんです。わたしがちゃんとしていれば、あの子はあんな身体には……」
訴えかけるうち、円い目の中に見る見る涙が溜ってくる。今にも声を上げて泣き出しかねない、そんな様子ですらあった。
「……代わってあげられればいいのに、わたしが。ああ清ちゃん。ほんとにわたし、いつもあの子のことが心配で心配で、心配で心配で心配で……」
私は黙って頷いているしかなかった。ついに溢れ出してきた涙をハンカチで拭って、彼女はなおも「心配で心配で」と繰り返していたが、やがてぴたりと唇の動きを止め、それからふと思い出したようにきょろきょろとあたりを見まわしながら、
「清ちゃんは?」
途方に暮れたような声でまた問いかけてくる。
――心が壊れてしまった。だから……。
征順の言葉を思い出しつつ、私は相手の顔を見つめた。彼女はわずかに首を斜めにして、何かに怯えるような視線を宙に彷徨わせていた。
「清ちゃんは……どこ」
――と、そこで。
「清くんならさっき二階にいたわ」
「あたしたちのお部屋に来て、少しお話を」
同時に聞こえてきた同じ音色の声が二つ。
私は驚いて再び背後を振り返る。ピアノの音が流れ出してきていたさっきの扉が開かれ、そこから美鳥と美魚の双子姉妹が顔を覗かせていた。
「大丈夫よ、叔母さま」
「清くんは元気そうだったし」
「心配ないわよ、叔母さま」
「清くんはとてもいい子だし」
「……ああ、清ちゃん」
弱々しい声を落として、浦登望和はゆらりと身体の向きを変える。そうして袖廊下の奥の方へと、覚束ない足取りで歩み去っていった。
「望和叔母さまはね、いつもああなの」
双子のどちらかがそう云った。
「いつも清くんを探して、お屋敷の中をふらふらしてるの」
私は彼女たちの方に向き直った。杏子色の|絣《かすり》に濃紺の兵児帯、今朝と同じ着物を身にまとった美しいシャム双生児の姉妹は、私と目が合うと二人してにこりと微笑み、
「こんにちは、中也さま」
「こんにちは、中也さま」
同じ色の声で同じ挨拶をした。
「こんにちは。今朝はどうも」
と挨拶を返しながら、私は心の中で確認する。こちらから見て右側が美鳥、左側が美魚……そう。確かそうだったはずだ。
「望和叔母さまはね、清くんのことが心配でたまらないの」
と、美魚のほうが云った。美鳥が続けて、
「心配で心配で、いつも泣いてるの。だから目が真っ赤なの。赤い目をして、蜻蛉みたいにお屋敷の中を行ったり来たり」
なるほど。それで……。
――叔母さまは蜻蛉。赤蜻蛉ね。
「さっきその部屋でピアノを弾いていたのは、あなたたちだったのですか」
私が訊くと、二人は少しはにかんだような笑みを浮かべて、「そうよ」と同時に頷いた。
「どちらが弾いていたのです」
「二人で」
と、美鳥が答えた。それから小首を傾げて私の顔を見やり、
「中也さまは、サティはお好き?」
訊き返されて、ああそうか、と私は思い至った。
サティの曲だったのだ、あれは。エリック・サティ。白山の玄児の家で、音楽好きの彼がそのレコードをかけていたのを、私も時々はたで耳にしていたから。だからそう、いつかどこかで聴いた憶えがあるような、と感じたわけである。
「サティには連弾曲もあるの」
美魚が云った。
「『梨の形をした三つの小品』っていうの。サティの曲っておかしな題名ばっかりよね。知ってる? 中也さま」
「さあ、それは」
「さっき弾いてたのは『グノシェンヌ』。サティが勝手に作った言葉なんですって、『グノシェンヌ』って。変なの」
その話も、玄児から聞かされた憶えがあった。
確かそう、『グノシェンヌ』は「グノス」からの造語で、グノスとは古代ギリシャはクレタ島の古都クノッソスのことだという。ミノス王の居城が、そして王妃パシパエが産み落とした畸型の子ミノタウロスが棲む例の迷宮があったとされる都である。
「『梨の形をした……』というその連弾曲も、あなたたち二人で弾くのですか」
「練習中よ。難しくってまだうまく弾けないの」
「そんなに上手じゃないから、あたしたち」
と、美鳥が云った。そうして心なしか声の勢いを落とし、
「お母さまはね、とっても楽器がお上手だったんですって」
「お母さん……美惟さんという方ですね」
「そうよ」
「ピアノはその、お母さんに教えて貰ったわけですか」
すると、姉妹は揃って首を横に振り、
「教えてくれたのはね、鶴子さん」
美鳥の方が答えた。
「上手なのよ、鶴子さんも」
「へえ、あの人が」
意外な話だな、と思った。真っ白な髪を後ろで引っ詰めた元看護婦の、どこかしら情緒が欠落したような取り澄ました面差しを思い浮かべつつ、私はさらに二人に向かって尋ねた。
「でも、どうしてお母さんに教えてもらわないんですか。そんなに上手な方なんだったら、鶴子さんよりもきっと……」
「お母さまはね、駄目なの」
と、美魚が眼差しを伏せて答えた。
「お母さまはね、教えられないの」
と美鳥が、やはり眼差しを伏せて答えた。
「お母さまはね」
「お母さまはね」
と、これは二人が同時に云った。それから美鳥の方だけが目を上げ、今朝舞踏室で会って以来初めて見せる、哀しみと惑いが複雑に入り雑じったような表情を私に向けた。
「あたしたちを産んだ時にお母さま、凄くびっくりしちゃったの。それでずっと……今でもずっと、びっくりしたままでいるのよ」
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双子姉妹がピアノを弾いていた部屋は「音楽室」と呼ばれているらしい。ピアノの他にもいくつかの楽器やステレオ、レコードの類が置いてあるのだという。その北隣には撞球室が、袖廊下を挟んだ向かい側には正餐室と喫茶室、厨房が並ぶ。そういったこの一画の間取りだけから考えても、この〈北館〉が〈東館〉以上に大規模な造りの建物であることは明らかであった。
もう少し練習してうまくなったら、件の連弾曲を聴かせてもらう約束をさせられたあと、私は姉妹に案内されて玄児の待つ部屋へ向かった。
「サロン」と呼ばれるその部屋は、東西に走る主廊下沿いの南側中央に位置する。廊下からの入口は部屋の両端に二箇所設けられていて、私たちは手前の方――東側の扉から中に入った。
四、五十畳分ほども広さのある洋間だった。真ん中の三分の二ばかりのスペースは、入口のある両側の床面から幾段かの階段を降りたところにある。こうして床が低く設定されている分、もともと高い天井の高さがよけいに際だっていた。
中庭に面した南側の壁には、その中央にテラスに出るための両開き扉がある。これはいわゆるフランス窓の形をしているのだが、枠も桟もすべて黒塗りで、嵌められた硝子は色つきの模様硝子――といった、あまりフランス窓らしからぬ代物だった。
南側の庭に面した広間ならば普通、もっと開口部を広くたくさん取って採光を良くしようとするところだけれど、そのような常識がこの屋敷には通用しないことは、もはや重々承知していた。このサロンもまた、他のすべての部屋同様、基本的には暗くて黒い。床も壁も天井も調度も、何もかもが艶消しの黒。天井から吊り下がったシャンデリアにも、やはり金銀の光沢すらない。
ただ――。
中央のフランス窓に嵌まった模様硝子の色は、深い青であった。細かい備品や道具などは別として、この屋敷に入って初めて見る、赤以外の原色のような気がする。その他の窓には例によって黒い鎧戸が閉められているから、日中このサロンに漂う光は深い青色に染まり、きっと何やら深海めいた雰囲気を醸し出していることだろう。
「やあ。こっちへどうぞ、中也君」
私たちの姿に目を留めた玄児が、部屋の中央あたりに置かれているソファに坐ったまま、軽く片手を挙げた。低いテーブルを挟んだその向かいのソファには、白衣を脱いだ野口医師の巨体がある。医師はともかく玄児の方は、美鳥と美魚が一緒であることにさして驚いたふうでもない。
「玄児兄さま」
「玄児兄さま」
声を揃えて腹違いの兄の名を呼び、脇腹から腰のあたりで身体の繋がった双子の姉妹は、寸分の乱れもなく足並みを合わせて階段を降りていく。私はちょっと遅れて彼女たちのあとに続いた。
「音楽室の前でお会いしたの」
「ピアノを弾いていたら、中也さまが」
楽しげに弾んだ声で報告する妹たちを見て、玄児は口許に薄い笑みを湛えながら、
「またサティかい」
と云った。
「俺はいま一つ好きになれないな。半端なクラシックより、ジャズでも練習してみたらどうだい」
自分だってよく聴いているくせに、と思いつつ、私は黙って兄弟のやり取りを見守っていた。
「もう。玄児兄さまったら、またそんな意地悪をおっしゃる」
「サティは兄さまが教えてくださったのに」
「中也さまはお好きなのよ、サティ」
「ふうん。そうなんだ」
玄児は私の方に一瞥をくれると、
「ま、そうか。サティと中原中也はダダ仲間[#「ダダ仲間」に傍点]ってことになるからね」
にやりと目を細めて、そんな軽口を叩いた。
入口のある両側よりも低くなったこのスペースの床は黒い石張りで、ソファセットが配置された場所を中心に黒い絨毯が敷かれている。庭側の隅には家具調のテレヴィが一台置かれており、ブラウン管の中では几帳面な声の男性アナウンサーが、本日富士山に初雪が降ったと告げていた。昨年よりも四日遅く、平年よりも三日早い冠雪であるとのこと――。
画像も音声もあまり鮮明ではない。この山奥のことだから当然、たとえば〈西館〉の塔上などに特別なアンテナを立てるなり何なりしているに違いないが、それにしても基本的な電波事情の悪さはいかんともしがたいだろう。あまつさえ外は台風が近づきつつある悪天候だ。これだけ映っていれば|御《おん》の字というところかもしれない。
「台風の勢いは衰えんようですな」
テレヴィの方に目を向けたまま、野口医師がぼそりと云った。
「今夜から明日にかけてが要注意だとか。今さっきニュースでやっておりましたよ」
玄児に勧められて私がソファに腰を下ろすと、美鳥と美魚も同じソファに――私の右隣に並んで坐った。間近から漂ってくる仄かな甘い香りを意識しながら、私は医師に向かって尋ねた。
「そう云えば先生、茅子さんという方の具合はどうなのでしょうか。熱を出して寝込んでおられると聞きましたけど」
医師は「ふむ」と鼻を鳴らし、
「流感でしょうな、あれは。かなり高熱が出ておって、本人は辛いと云うよりもむしろ朦朧とした状態でしょうが、まあ、おとなしく部屋で休んでさえおれば……」
「こじらせると厄介ですからね。風邪みたいなものだろうと莫迦にしていると、ひどい目に遭う」
玄児のコメントに、私は思わず大きく頷いた。
この前の冬には私も流感をうつされてしまい、相当に辛い思いをさせられた。その記憶がまだ生々しかったからである。何でも、昨年度の流感は全世界的に猛威をふるい、日本でも人口の半数が罹患したとかいう話だったが。
「伊佐夫君は心配していたかい」
「ああ……いえ、あまりそんなふうには」
「だろうな。親たちのことには関知せずっていう構えだからね、彼は。だったら何で一緒にくっついてくるのかとも思うが」
「首藤利吉さんが戻っておられないことは、茅子さんには伝えてあるのですか」
私が訊くと、玄児は「さて」と首を傾げ、
「誰もまだ話していないんじゃないかな」
「知らせておかなくても?」
「そうだねえ。もちろん黙っているわけにはいかない問題だけれども」
「容態を見つつ、私が伝えておきましょうか」
顎鬚を撫で下ろしながら、野口医師が云った。
「熱に浮かされた状態でいる時にそんな話をして、変に取り乱されても困りますからな」
「お願いします。今夜の〈宴〉が済んだあと、明日になってからの方がいいかもしれませんね」
「さようですな」
「ねえねえ、中也さま」
隣に坐った美鳥の身体の向こうから私の顔を覗き見るようにして、美魚が訊いてきた。
「中也さまはいつまでここにいらっしゃるの」
「ええと、それは――」
私はちらりと玄児の方を窺って、
「|明後日《あさって》にはおいとまする予定ですけど」
「ええっ? もっとゆっくりしていかれればいいのに」
「そうそう」
と、美鳥が相槌を打った。
「連弾を聴いていただくお約束もしたのに」
「あ、いや……」
「心配しなくっても、中也君はまた遊びにきてくれるさ」
と、そこで玄児が口を挟んでくれた。
「ピアノはその時に聞いてもらえばいいだろう。ねえ、中也君」
「あ、そうですね。きっとまた……」
美鳥と美魚は顔を見合わせ、それから艶やかな桜色の唇をちょっと尖らせながら黙って頷いた。
そんな二人の様子は、十代半ばという年頃の少女たちにしては少々子供っぽすぎるくらいに見え、何とも微笑ましい。一方でしかし、特異な肉体を持った彼女たちの、西洋の骨董人形めいた美しさに対しては、私は依然、半ば畏怖にも似た感情を含んだ妖しい胸騒ぎを感じざるを得ないのだった。
「ほら、中也君」
と、玄児が廊下側の壁を指さしていった。
「あそこに掛かっているのが、例の絵だよ」
「ああ、あれが」
私はソファから立ち上がり、黒い額縁に納められたその絵に向かってゆっくりと歩を進めた。
藤沼一成作、「兆し」。
〈東館〉の応接間に飾られていた「緋の祝祭」と同じ、五十号大のキャンバスに描かれた油彩である。
藤沼一成という画家の存在自体を、そもそも私はこの屋敷に来るまで知らなかったのだけれど、いま目の前にあるその絵と応接間の絵とでは、素人目にもまるで趣が異なる。「緋の祝祭」が、いくつかのオブジェの組み合わせから鳴る抽象度の高い作品だったのに対して、こちらは意外なほどに写実的な筆致で、一見ごく普通の風景が描かれているのだった。――が。
その風景が実は決して「普通の」ものではないということを、すでに私は知っている。
その筋ではかなり有名な幻想画家であるという藤沼一成。浦登柳士郎に招かれてこの屋敷を訪れた彼が描いた、この絵――。
黒々と連なった山々を背景に広がる湖。その暗い青鈍色の水面が、向かって右手の方から赤茶けた色に変わりつつある。分厚い雲に覆い尽くされた空の下、湖面には無数の雨が突き立っていて……。
確かに玄児の云ったとおりだった。
昼間に彼と二人、〈北門〉の外で見たあの風景とこの絵とは、あまりにも似ている。気味の悪いくらいによく似すぎている。
たぐい稀な幻視の力≠持った天才であるとも云われる画家、藤沼一成。いったいそれは――彼の持つ幻視の力≠ニは……。
「中也さまは、絵がお好き?」
いつの間にか美鳥と美魚がやってきて、私の横に立っていた。はて、いま質問をしたのはどっちだったのだろうか。
「望和叔母さまもね、絵を描かれるのよ」
そう云ったのは美鳥の方だった。
「望和さんが?」
それは意外な気がした。先ほど廊下で出会った彼女の、あの危うげな振る舞いと「絵を描く」という行為とが、私の頭の中では一瞬、相矛盾するものとして捉えられてしまったからだろう。
「叔母さまはね、普段はアトリエに閉じこもって、ずっと絵を描いてらっしゃるの。何だか怖い、変な絵ばっかり」
「それでね、アトリエから出てくると必ず、さっきみたいに清くんを探しまわるの。心配で心配でたまらないんですって。できればわたしがあの子の代わりに……って、いつでも誰にでもそんなふうにおっしゃるのよ」
独り部屋に|籠《こ》もって絵に没入することで、不幸な我が子の存在を忘れようとしているのか。それとも「絵を描く」というその行為自体が何か、彼女の内面の均衡を保つのに必要な意味を持っているのか。
「この絵は――」
目の前に掛けられた「兆し」を示しながら、私は双子の姉妹に向かって云った。
「この湖の赤い色は、何でも『人魚の血』なんですってね。玄児さんから聞いたんですけど」
「人魚?」
「人魚?」
二人は同じように訊き返したが、すぐにこくりと頷いて、
「そうね」
「人魚の血よね」
と答えた。それから美魚の方が続けて、
「中也さまは、人魚がお好き?」
そんな質問をよこす。「はい?」と大きく首を傾げる私を見て、彼女たちは二人してくすくすと小鳥の囀りのような笑い声を洩らした。
「中也さまは、どんな女の子がお好き?」
と、今度は美鳥の方がそんな質問をよこした。私があえなく答えに詰まってしまうと、二人はまたくすくすと笑う。何とも軽やかに、そして楽しげに。
この子たちはいったい、今日起こった蛭山の事故を知っているのだろうか。まだ知らされてはいないのだろうか。ふとそのことが気になった。
「『海にゐるのは、
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あれは人魚ではないのです。』」
[#ここで字下げ終わり]
唐突にそこで、美魚の方が詩のような言葉を口ずさみはじめた。
「『海にゐるのは、
[#ここから2字下げ]
あれは、浪ばかり。』」
[#ここで字下げ終わり]
「――それは?」
私は不思議な心地で彼女の顔を窺った。美魚はすると、うふふっと悪戯っぽく微笑んで、
「中也さまの詩よ」
「ああ、中原中也の?」
「『北の海』っていうの。玄児兄さまにいただいた本に入っててね、素敵だから憶えちゃった」
そう云われれば私も、玄児から貰った中也の選集でその題名の作品を読んだ憶えがある。とても暗誦などできないけれど。
「中也さまは、詩はお好き?」
とまた美鳥が問いかけ、私の返事を待つこともなく同じ詩の続きを|諳《そら》んじはじめる。
「『曇つた北海の空の下、
[#ここから2字下げ]
浪はところどころ齒をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
[#ここで字下げ終わり]
それを受けてさらに、美魚が最初と同じフレーズを繰り返す。
「『海にゐるのは、
[#ここから2字下げ]
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。』」
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「ね、素敵な詩でしょ」
と、美鳥が云った。
「北の海には人魚はいないのね。ほんとに人魚がいるのは、きっとこの湖だけ」
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5
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サロンの東側と西側には、それぞれ隣室に通じる扉が設けられている。
東隣は――昼間この前の廊下を通った時に玄児が教えてくれたが――図書室。かつての火災で旧〈北館〉に置かれていた古い書物はたいがい燃えてしまったらしいが、それでもきっと蔵書の量はかなりのものだろう。人並み外れた愛書家であるわけでもない私だが、浦登征順が持ち込んだという探偵小説のコレクションには少なからず興味を引かれた。意外に思われることも何故か多いのだけれど、ポウやドイル、チェスタトン、乱歩や|正史《せいし》らの手に成る東西の探偵小説が、実を云うと私はめっぽう好きなのである。
西隣の部屋は「遊戯室」と呼ばれているという。どうせなら私は図書室の方を覗いてみたかったのだが、藤沼画伯の絵の前を離れるや否や、美鳥と美魚に「こっちよ、中也さま」と招かれ、抵抗する間もなくそちらへ引っ張っていかれてしまった。
「中也さまは、チェスはお好き?」
先に部屋へ入っていった双子が揃って私を振り返り、美鳥の方が訊いた。
将棋ならば少しは指せるけれども、チェスに関しては「将棋に似たようなゲーム」といった認識しか持ち合わせていない。かろうじて駒の名称と基本的な動かし方が分る程度なので、私が正直にそう答えると、彼女たちはちょっとがっかりしたような顔をした。
「じゃ、中也さまは観戦ね」
と美魚が云い、二人はチェス盤の置かれた正方形の小テーブルに向かう。テーブルの同じ側に椅子を二脚くっつけて並べ、ちょこんと腰を下ろした。
彼女たちを追って足を進めながら、私はぐるりと部屋の様子を見まわす。
〈東館〉の舞踏室と同じような、黒と赤茶色の木製タイルが貼られた市松模様の床。中庭側に一つ窓があって、そこには黒い|天鵞絨《ビロード》のカーテンが引かれている。カーテンの手前には|臙脂色《えんじいろ》のテーブルクロスが掛けられた大きな円卓が据えられているが、恐らくあれはカードゲーム用の場所なのだろう。それ以外にも、いま双子が向かっているような小テーブルがいくつかある。中の一つはどうやら麻雀卓らしかった。
美鳥と美魚は、二人が並んで向かったテーブルの手前端にチェス盤を置いた。そうして、二人から見て左側の陣地に美鳥が白≠フ駒を、右側に美魚が黒≠フ駒を並べはじめる。なるほど、彼女たちのようなシャム双生児の姉妹がチェスの対戦をしようと思えば、どうしてもそのような格好で行なわざるを得ないわけだ。
「どっちが強いんですか」
二人の後ろに立ってチェス盤を覗き込みながら、私が訊いた。美鳥の先手で、今しもゲームが始められようとしていた。大理石の重厚な盤に、同じく石を彫ってこしらえられた立派な駒。黒≠フ駒の色は、実際には暗い紅色である。
「おんなじくらいよね、たぶん」
と、美鳥が答えた。
「そうね。勝ったり負けたり、いろいろ」
と、美鳥が答えた。
「玄児兄さまは凄くお強いのよ」
「中也さまも、兄さまに教えていただけばいい」
「そうね。兄さまが教えてくださるわ」
「そしたら、あたしたちとも遊びましょうね」
「そうね。中也さまならきっと、すぐに上達されるから」
楽しそうに喋りつづけながら、二人はどんどんと駒を動かしていく。互いの頭の中身があらかじめ見えているのではないかと思えるような、めまぐるしいほどの早指しだった。
「中也さまは、猫はお好き?」
と、いきなりまたそんな質問をされた。訊いたのは美魚の方である。
「猫は、そうですね、嫌いではありませんよ。飼ったことはありませんけど」
私が答えると、美魚は嬉しそうに微笑んで、
「それじゃ、あとであたしたちの猫ちゃんをご紹介するわね」
「おや、猫がいるんですか」
それはちょっと意外な話だった。この屋敷で飼われているのなら、やはりそれは真っ黒な猫なのだろうかなどと、つい他愛もないことを考えてしまう。
「チェシャはね、二階のあたしたちのお部屋にいるの」
と、美鳥が云った。
「チェシャって、それがその猫の名前ですか」
「そうよ。とっても可愛いの。いつも、いつまでもあたしたちと一緒にいるの」
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を、私がすぐさま思い浮かべたことは云うまでもない。あの奇妙な童話の中に登場する「チェシャ猫」、きっとそこから取った名前なのだろう。
あれこれと話をしながらも、チェス盤上の二人の攻防は続いている。
やがて局面が進むにつれ、さすがにだんだんと双子の口数は少なくなり、考える時間も長くなってきた。今のところ美鳥の白≠フ方が優勢のようである――と、そのくらいのことは、将棋からの類推で私にも分った。
攻防が続く盤面からいったん目を離し、私は両手を組み合わせて頭上に上げた。そうして背筋を伸ばしながら、改めて室内を見まわす。するとそこで、廊下側の奥の隅――部屋の北西の角に当たる位置になる――に、いささか風変わりな造作の時計があることに気づいた。
大人の背丈よりも高いところにあるその文字盤自体は、何の変哲もないものに見える。大きさは直径にして四、五十センチあるだろう。灰白色の円い盤の上にはローマ数字の1[#「1」は底本ではローマ数字]から12[#「12」は底本ではローマ数字]が環状に並び、長短の黒い針はいま八時前を示している。
風変わりなのはそういった文字盤が、部屋の角を斜めに切るようにして張られた、幅一メートル足らずの黒い壁板に埋め込まれている[#「埋め込まれている」に傍点]ことだった。壁に時計が掛けられているのではない。壁の一部分が時計の文字盤になっているという、そんな造りなのである。
珍しい趣向だな、と思った。
時計の機械はあの壁板の後ろに収まっていることになる。見方によっては、あそこの壁全体が時計の本体であるようにも取れるが。
私が見守る中、文字盤の針が動いてぴたりと八時を指し示した。――その途端。
きききき……と、何か歯車が軋むような音がかすかに聞こえたかと思うと、文字盤の下方の壁板に大きな変化が起こった。それまで何でもない黒い板に見えていた部分が、縦長の両開き扉となってぱたんと手前に開いたのだ。そうしてその向こうから迫り出してきたものは――。
黒く塗られた平たい箱形の台座。その上には盆のような円盤が載っていて、さらにその円盤の上には二体の人形が載っている。
片方は漆黒の燕尾服を着た男性の、もう片方は深紅のドレスを着た女性の。二十センチくらいの身長がある精巧な人形だった。二人は円盤の上に向かい合って立ち、胸を寄せ合っている。
一方、台座が迫り出してくると同時に流れ出したオルゴールの調べがあった。何だろうか、甘く軽やかな、そのくせどこか仄暗く物寂しい響きを含んだ三拍子の曲が、透きとおった音色で奏でられる。そして――。
そのオルゴールの音楽に合わせて、台座の円盤がゆっくりと回りはじめるのだった。胸を寄せ合った人形たちも、それに合わせて回転する。まるで、そう、二人で|円舞曲《ワルツ》を踊るように。
何とも凝った仕掛けのからくり[#「からくり」に傍点]時計であった。私は息を呑んでしばし、流れる旋律に耳を傾け、人形たちの動きに見入ってしまった。
同じフレーズを幾度か繰り返した後、オルゴールの調べは止まり、人形たちの踊りも止まった。歯車のかすかな軋みとともに台座が奥へ引っ込み、元どおりにぴったりと扉が閉まり……あとには、黒い壁板に埋め込まれた時計の文字盤だけが残った。
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第十一章 闇の宴
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チェスの勝負は結局、白≠フ|女王《クイーン》が黒≠フ|王《キング》を詰めて終わった。からくり時計の文字盤を見上げて時刻を確認すると、双子姉妹は揃って椅子から立ち上がり、
「またあとでね、中也さま」
「あとでチェシャも見にきてね、中也さま」
口々にそう云って、サロンから入ってきた扉とは別の扉を開けて廊下に出ていった。
「すっかり懐かれてしまったねえ、中也君」
玄児の声に振り返ると、いつの間に来ていたものか、彼は遊戯室の片隅に置かれた黒い革張りの安楽椅子に腰掛けていた。|件《くだん》の童話の中の猫のようなにやにや笑いを浮かべながら、
「あんなにはしゃいでいる二人も珍しい」
「そうなんですか」
「君が来ると知った時から、ずいぶん楽しみにしていたみたいだしね。中也の詩集を読み返したりもしたんじゃないかな」
「玄児さんが何か、期待を持たせるようなことを彼女たちに云ったわけですか」
「別に」
玄児は澄ました顔で煙草に火を点け、
「真面目な建築科の学生で、中原中也に似た好青年で、俺はとても気に入っている――と、その程度の話をしただけさ」
素直に喜んで良いものかどうか迷うところだが、しかしまあ、訪れた屋敷の住人に嫌われたり無視されたりするよりはずっと歓迎すべき状況だろう。「面白い時計がありますね」
と、私は黒い壁板に埋め込まれた文字盤に目をやった。
「時間ごとに、あの音楽と人形が?」
「そうだよ。〈北館〉が再建された時に、父が作らせた特注品らしい」
玄児は煙草を吹かしながら私の視線を追って、
「古峨精計社っていう時計メイカーがあるだろう。あそこの当時の社長と父が懇意にしていてね、|直々《じきじき》に設計・制作を依頼した代物だと聞くが」
「さすがによくできていますね。――あるゴールの曲は、何という」
「ああ。あれはね、『赤の|円舞曲《ワルツ》』って曲さ」
「『赤の円舞曲』?」
と、私は小首を傾げる。その題名も、そしてさっき聴いたあの旋律も、まったく憶えのないものであった。
「知らなくて当然さ」
玄児が云った。
「あれはつまり、|継母《はは》の美惟が若い頃に作った曲の一節でね。もう一つ、『黒の|円舞曲《ワルツ》』っていう彼女の曲があって、午前にはその『黒』が、午後には『赤』が、それぞれ鳴るような仕掛けになっているんだ。なかなか凝ってるだろう」
玄児の継母であり、双子姉妹の実母である浦登美惟。そう云えば、先ほど音楽室の前で会った際、美鳥と美魚は自分たちの母について「とっても楽器がお上手だったんですって」と語っていたが、彼女には作曲の才もあったということか。
「さて、そろそろいい時間だな」
そう云って、玄児が椅子から腰を上げた。
「ちょっと俺は部屋に戻って、服を着替えてくる。君はサロンでくつろいでいてくれればいいから」
「例の〈宴〉に出るための着替え、ですか」
「うん。まあ一応ね」
「あの、じゃあ私は……」
「君はいいよ。そのままの格好でいい」
玄児は微笑みながら、私の顔を見据えた。
「俺の大事なお客様だ。父をはじめ、そのことはみんな承知している。変に気後れしたりする必要はないから」
「…………」
「それじゃ、あとで。時間になったら迎えにくる」
「――はい」
そうして玄児が、双子姉妹が出ていったのと同じ扉を開けて遊戯室から立ち去ると、私は一人サロンのソファに戻った。そこには野口医師がまだいて、乳白色の液体が入った濁り硝子のグラスを片手に、点けっ放しのテレヴィの画面を眺めていた。
「どうですかな、中也さんも一杯。私が土産に持参した田舎酒ですが、なかなか口当たりが良くて飲みやすい」
いきなりそう勧められたのだが、私は「いえ」と首を振って、
「あまり強い方ではないので」
「はあん。まだ十九歳、でしたか。まあ、酒は飲むうちにだんだん身体が慣れてくるもんです。私だって、あなたくらいの年頃にはこんな飲んべえじゃなかった」
「先生は、このあと〈ダリアの館〉で催される〈宴〉には?」
そろりと訊いてみた。すると赤ら顔の医師は、グラスを持った手を軽く左右に振り、
「いや、私は招かれておりませんからな」
「ですが先生は、この浦登家とは家族同然のお付き合いをされていると」
「そう。柳士郎氏と古い馴染みであることは確かですな。それなりに信用もされておるでしょう。しかしまあ……」
言葉を濁し、野口医師はグラスの中身を一気に飲み干した。「これ以上は訊くな」という拒絶の意思表示のように、私には見えた。
テレヴィでは、何の番組だろうか、仏頂面の解説者が古今の国際情勢について|滔々《とうとう》と語っている。ソ連の平和共存路線と中ソ対立の深刻化、中東諸国の気懸かりな動勢、東アジアにおける今後の我が国の……ああ、あれは本当に[#ここから太字](ああ、あれはいったい……と、ほんの一瞬だけ)[#ここで太字終わり]、いま私がいるここ[#「ここ」に傍点]と同じ世界での出来事なのだろうか。あれは……。
現実感の希薄化と、それに伴う浮遊感めいた妙な気分に、またぞろ私は囚われる。
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「美鳥さんと美魚さんのことですが」
雑音の多いテレヴィ画面から目を逸らし、私は野口医師の方に向き直った。
「先生は彼女たちを、生まれた時からご存じなのですよね」
「さようですよ」
医師はグラスをテーブルに置き、ビヤ樽のような巨体をソファにずっしりと沈めて腕を組んだ。
「もう十六年近く前になりますな。熊本の私の病院で、あの子たちは生まれたのです。いやあ、あの時は――医者がこんなふうに云うのは問題かもしれんが、あの時は本当に驚いたものです」
「もしかして先生が、彼女たちを取り上げられたのですか」
思いついたままに尋ねると、医師は鼈甲縁の眼鏡の奥でちょっと目を円くして、
「いやいや、私は外科が専門でしてな。分娩は産科の担当医の手で。しかしながら、その産科医にしても相当にびっくりしたらしく、大慌てで看護婦を私の許に走らせて……というわけで、生まれて間もないあの子たちと対面したのは、父親の柳士郎氏よりも私の方が先だったのですよ」
「日本で彼女たちのような、その、シャム双生児が生まれることというのは?」
「非常に珍しい例でしょう。一説によれば、十万回の分娩に一例あるかないか、というような。なおかつその七割以上が死産であったり、生後間もなく死んでしまったりするものなのです。私にしても、それなりの知識はあったが、実際にこの目で見たのはあれが初めてだった。いや、驚きましたな」
言葉を切って短い吐息をつき、医師は鼠色の顎鬚をぞろりと撫で下ろした。
「どの国でもどの時代でも、何某かの先天異常を持った子供というのは、ある確率で生まれてしまうものです。近年その率が増加傾向にあるという報告もある。これにはまあ、最近取り沙汰されておる工場の有害廃水やら大気汚染やら、新たに開発された薬の影響やら放射能やら、その辺の問題が複雑に関係しておるんでしょうが。ですから、ヴェテランの産科医なら、そういった異常児の出産には多かれ少なかれ立ち会わねばならんことになります。それでもしかし、あの子たちのような完全なH型二重体に遭遇する機会はめったにあるもんじゃない」
「H型二重体?」
耳慣れない言葉に私が首を傾げると、医師は眼鏡を押し上げながら小さく鼻を鳴らし、
「『シャム双生児』というのは俗称でしてな、専門的にはそんな名称が使われます。母体内で、双子の二つの身体に何らかの結合が生じたまま成長してしまう――そういった畸型をまとめて『二重体畸型』と呼ぶのですが、これはまず、大きく二つのグループに分類される。『対称性二重体』と『非対称性二重体』です。
『非対称性』というのは、片方の発育が悪くて、もう片方の身体に寄生しておるように見える結合状態ですな。片方の胸から片方の上半身だけが生えておったり、腹から足が生えておったり……ありとあらゆる結合のヴァリエーションがある。一方、ご覧の通りあの子たちは、それぞれが自生しておる『対称性二重体』で、その中でも『H型二重体』もしくは『X型二重体』と呼ばれる一群に入ります」
「『H型』以外のものもあるわけですか」
「そりゃあもう」
医師は深々と頷いた。
「実にさまざまな結合形態の症例が、『対称性二重体』に関してだけでも存在するのですよ。『Y型二重体』だとか、『デルポイ畸型』と呼ばれる『逆Y型二重体』だとか」
「『Y型』……それは、いったいどんな」
「文字どおり、二つの身体がY字形に結合しておるのです。頭部や胴体は二つ、腕は四本あるが、それらが下半身で一つに結合していて、脚は二本しかない。『デルポイ』はこの逆で、頭部や上半身は一つだが、下半身が二つに分れておって、脚が三本とか四本ある」
二つの胴体に二本の脚、一つの胴体に三、四本の脚……医師が語るそのような異形を、私は恐る恐る頭の中で思い描いてみる。何だかそれだけで眩暈がしそうになった。
「十九世紀の後半にイタリアのサルデイニアで生まれた、ジョヴァンニとジャコモのトッキ兄弟が、『Y型』の最も有名な事例でしょう。『逆Y型』の方だと、やはりフランク・ランティニですな。彼には三本の脚があって、うち一本を椅子代わりに使うことができたと云われています。米国に渡って見世物小屋サーカス、さらには映画にも出演して成功を収め、『三本脚の奇跡』『フリークスの王』とまで呼ばれたという。――ご存じですか」
どちらも聞いたことのない人名であり、エピソードであった。私の困惑の表情に気がついたのか、医師は軽く咳払いをして、
「少々回り道をしすぎましたな」
と云った。
「要するに、一般に使われておる『シャム双生児』という名称は、正確には『対称性二重体』のうちの『H型二重体』を指して用いられるべきものなのだと、そういうことです。二つの自生体が、腰や背中や胸などの一箇所で、アルファベットのHの字を形作るように結合しておるという、そんな二重体ですな。――チェンとエンの兄弟についてはご存じですかな」
「チェンとエン。ああ、それは」
「チェン・バンカーとエン・バンカー。一八一四年にシャム国で生まれた兄弟の名です。彼らはこう、向かい合った形で、胸骨の剣状突起部が結合した双子で、父親は中国人、母親は中国人とマレーシア人との混血だったそうですな。『チェンとエン』は中国語で『右と左』という意味です」
「右と左」
「彼らは頭も良く、運動能力も優れた双子だった。この兄弟が後に、欧米各地を巡るサーカス興行を通じて世界的に有名になって、それ以来『シャム双生児』なる呼び名が盛んに使われるようになったわけです」
「ああ、はい。その話は私も何かで読みました」
「シャム双生児」という言葉がそのまま題名に取り入れられているエラリイ・クイーンの探偵小説の中にも、そう云えばチェンとエンの兄弟について言及した部分があった。しかし、私が初めて彼らの存在を知ったのはそれを読むよりも前――中学校の図書室でたまたま手にした「脅威の実録物語集」みたいな本だったと思う。
「確かチェンとエンの兄弟は、それぞれ別々の女性と結婚して、子供もたくさん作ったという話でしたっけ」
「四人で二十二人の子供を、でしたな。その後、女房同士が仲違いをして、二組の夫婦は別居することになったとかいう珍妙なエピソードもあります。双子は三日ごとに、離れた二つの家を行き来していたらしい。――まあそれはともかく、彼らは結局、六十歳くらいまで生きた。チェンの方が肺炎を患って先に死亡し、その四時間後にエンも息を引き取ったといいます」
「さすがにお詳しいですね」
「いやいや。十六年前にあの子たちがあのような姿で生まれてきたのをこの目で見て、それがきっかけでその後、あれこれ調べたのですよ」
野口医師はソファに凭れ込んでいた上体をのそりと起こし、テーブルのグラスにまた手を伸ばす。新しい酒を注いで一口飲むと、それまでよりもやや声高になって云った。
「で、はっきりと分ったのはですな、美鳥と美魚のあの姉妹は、何と云いますか、チェンとエンの兄弟にも匹敵するほどの、実に|希有《けう》な例であるということでして」
「匹敵? と云いますと」
「何よりもまず、健康状態がすこぶるよろしい。身体の側面――腰の一部が結合しているということ以外、肉体機能にはほとんど問題がないのです。同じ『H型二重体』であっても、結合の部位や深度によっては、いくらでも悲惨な例が存在する。さっきも云いましたように、そもそも死産であったり生まれてすぐ死んでしまったりする確率が高い上、たとえ生き延びたとしても、往々にしていろいろな重い障害が付いてまわるものなのです。
ところがあの子たちの結合状態は、身体の動きを過度に妨げるようなものではないし、共有しておる器官もさほど多くはない。加えてあのとおり、二人ともたいそうな美人ですしな。それこそ、かのヴィオレットとデイジーのヒルトン姉妹にも負けんような……」
話しつづけるうち、医師はいよいよ声高になってきていた。禿げ上がった赤い額をさらに紅潮させ、口の端に泡を溜め……目許が少し潤んでいるようにも見える。明らかに一種の興奮状態にあるようだ。
こんなにも彼は、あの双子姉妹に対して強い愛着――と云っても良いだろう――を持っていたのか。ちょっとした訝しみをそこに感じつつも、
「確かに、二人ともきれいな子ですよね」
と、私は医師の主張に応えた。
――あたしたち、二人合わせて蟹なの。
「自分たちがああいう特別な身体を持って生まれ、生きてきた事実を、彼女たちはごく自然なこととして受け入れている。そのように私には見えます。何と云ったら良いのでしょうか、だからこそ彼女たちはあんなに……」
――あたしたちはね、二人で一人なの。
「……ですが、先生」
シャツの胸ポケットから煙草を探り出しながら、私は云った。
「どうしても私は考えてしまいます。彼女たちは今後もずっと、死ぬまでずっと、あのままでいなければならないのでしょうか。それこそチェンとエンのように」
野口医師はグラスを口に運びかけた手を止め、じろりと私の顔をねめつけた。
「つまりそれは、二人の分離手術は可能なのかと、そういう質問ですかな」
私は若干の躊躇の後、黙って頷きを返した。医師は「ふむ」と鼻を鳴らしたきり、しばらく唇を一文字に結んだままでいたが、やがて低い溜息とともにこう答えた。
「医学的・技術的に極めて困難な話だとは、私は思いませんな」
「――ということは?」
「分離手術は不可能ではない」
と、医師は云った。ついさっきの興奮状態とは打って変わり、その声はいっときの波紋が消え去った水面のように静かで、その顔には何かしら物悩ましげな翳りが滲んでいた。
「肉体よりもむしろ、あの子たちの問題はあの子たちの心の方にあると、私はそう了解しておるのですが。――いや、しかしそれも、一概には云えんことかもしれませんな」
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西隣の遊戯室から、オルゴールの奏でる「赤の円舞曲」がかすかに聞こえてくる。――午後九時。問題の〈宴〉が始まると予告された時間だが、玄児はどうしたのだろうか。
思った途端、廊下に通じる二枚の扉のうちの、西側の一枚が開かれた。現われたのはしかし玄児ではなく、小田切鶴子の女執事然とした姿である。
「中也様、おいでください」
「あ……はい」
吸っていた煙草を慌てて揉み消し、私はソファから立ち上がる。野口医師は無言で私の動きを見守っていた。
「あのう、玄児さんは?」
すいと背を向けて廊下に出る鶴子に尋ねると、彼女はこちらを振り向こうとはせずに足だけを止め、
「玄児様は、すでにあちらに」
と答えた。
「わたしがご案内するようにと、先ほど申しつけられました」
「――そうですか」
瀕死の玄関番が運び込まれてきたあの時の動転ぶりが嘘ででもあったかのように、鶴子の素振りはどこまでも淡々としている。ぴんと背筋を伸ばした姿勢で、私の先に立ってしずしずと廊下を進んだ。この機会に、彼女にも何某かの質問をしてみたいところだったが、それを寄せつけるような雰囲気ではまるでない。
コの字型の建物の、西翼の袖廊下と出合う。
先ほど音楽室の手前で目に留めたブロンズ像と同じような像が、やはりここにも置かれていた。あちらと同様に何匹もの蛇が身体に巻きついた、こちらは半裸の女性像だった。この角を右に折れてずっと行けば、〈北門〉を見にいった帰りに玄児と入ってきた裏口がある。鶴子は左に折れた。
突き当たり手前の右側に、開け放たれた両開きの扉があった。その向こうは〈東館〉側と同じような吹き抜けのホールになっていて、ここにも二階へ上がる階段が設けられている。奥にはそして、〈西館〉への渡り廊下に通じる、これも両開きの黒い扉があった。
「どうぞ。こちらにおいでください」
ホールを横切って奥の扉の前まで進み、鶴子が私を促す。昼間に見た〈西館〉の黒々とした外観を思い出しながら、私は黙って彼女の言葉に従った。
扉の向こうに延びた廊下は、基本的には〈東館〉と〈北館〉を繋いだそれと同じような、トンネルめいた造りの通路だった。壁も天井も黒い石造り。床も黒い石張りである。
鶴子についてこの廊下に足を踏み出そうとしたところで、思わず私は「おや」と呟いた。
廊下はまっすぐに延び、薄闇の奥に一枚の黒い片開き扉が見えるのだけれど、そこまでの距離が、漠然と予想していたよりも遙かに長いのだ。何十メートルもあるように感じられる。こんなにも二つの棟同士は離れていたのか――と、ひどく戸惑ってしまったわけだが、実際に廊下を歩きはじめてみて、それは私の錯覚だと悟った。
そう見えるように造られているのだ[#「そう見えるように造られているのだ」に傍点]、この渡り廊下は[#「この渡り廊下は」に傍点]。
まず、手前の両開き扉の高さと幅に比べて、奥の片開き扉は高さも幅も短い、すなわちより小さく[#「より小さく」に傍点]造られている。そして、これらを両端とするその通路は、双方の大きさの差に合わせて先窄まり[#「先窄まり」に傍点]の形になっているのだった。
両側の壁の高さも天井と床の幅も、手前から奥へ進むに従って狭くなっている。壁の上方に並んだ明り採りの小窓も同じように、手前は大きく、奥は小さく。さらにはそれらの窓同士の間隔もまた、奥へ行くほどに狭く……と、要はそう云った特殊な全体構造によって遠近法的な錯覚が生じ、〈北館〉側から〈西館〉側を見ると、実際の何倍もの距離があるように感じてしまうのである。
十七世紀ヨーロッパのバロック時代には、これと同種の手法を用いた騙し絵的な建築空間が多く作られたという。日本でも茶室の路地の構造などに、この手の遠近法的錯覚がしばしば利用されてきた。
建材が石であるところから察するに、この廊下は〈北館〉の再建に際して新たに造り直されたものなのだろう。するとこの騙し絵のような趣向も、件の建築家中村某の発案によるものだということか。あるいは、旧〈北館〉と〈西館〉を結んでいた、かつての通路に元々こういった趣向が凝らされていて、それを再現したという可能性もある。
ともあれ、仮にこの風変わりな趣向に何らかの意味が込められているのだとすれば――。
強引な解釈になるが、たとえばそれは隔たり≠フ強調、だろうか。
この屋敷の「奥」であり「ある意味での中心」であり「核心」であるという〈西館〉と、その手前の〈北館〉との間にあるべき隔たり≠フ強調。そのための視覚的演出――。
そもそも私たちの日常からはすこぶる隔たったところに、この館は存在する。単純に立地の問題だけではない。いびつな|合成獣《キマイラ》めいた建物の外観も、闇への傾倒≠ェ徹底されたようなその内装も、そこで暮らす家人たちの様子も……何もかもが、私の知る日常からは遠いところにある。
そんなこの館の中でも、さらに隔たった「奥」に存在するのが〈西館〉――〈ダリアの館〉なのだ。確信犯的に大げさな云い方をしてしまうなら、そこはもはや、日常世界の論理や法則がいっさい通用しないような異界≠ナあるのかもしれない。実際以上の距離感を持たせたこの通路をくぐり抜けることはすなわち、その異界≠ヨ行き着くための一つの儀式≠ニして設定されているわけであり……。
そんな埒もない考えを巡らせながら、私は鶴子の背中を追って|先窄《さきすぼ》まりのトンネルを進んだ。
実際に通り抜けてみると、廊下の長さはせいぜい七、八メートルのものだった。突き当たりの片開き扉はやはり、普通の扉よりもずいぶんと低く狭く造られている。
これを抜けるとすぐ目の前に、今度は当たり前な大きさの黒い両開き扉があった。上方にファンライトの付いたこの扉こそが、この〈西館〉の本来の入口であると見なすべきなのかもしれない。
扉の向こうには、広々とした吹き抜けの階段ホールが待ち受けていた。そこに淀んだ空気は〈北館〉よりもいっそうひんやりしていて、古い木材と埃の|臭《にお》いがかすかに漂っている。空間もそして、よりいっそう暗い。到るところに濃淡さまざまな闇がうずくまっている。
暗さの原因は照明にあるのだ、とすぐに分った。電灯ではなく、壁の何箇所かに造り付けられた|燭台《しょくだい》――そこに立つ幾本もの|蝋燭《ろうそく》の炎だけが、この空間を照らす光の源なのである。
電気が引かれていないわけではあるまい。見上げると、天井から吊り下がったシャンデリアの影がある。意図的に電灯を点けることはせず、こうして蝋燭の明りだけにしているのだ。それは、あるいは今宵が〈ダリアの夜〉であるからなのか。
「足許にお気をつけください」
云って、鶴子がホール中央の階段へと進む。
「お部屋は二階でございます」
黒い絨毯が敷かれた幅広の階段を、鶴子のあとに従って昇った。
階段は正面の壁に突き当たって左へ九十度折れ、そのまま二階の廊下へと続いていたが、この廊下を照らす明りもやはり燭台の蝋燭だけである。いくつもの炎の動きに合わせて複雑に揺らめく自分自身の影が、いったん目につきはじめると、どうにも不気味に思えて仕方なかった。あまつさえそこへ、しばらく途絶えていた外の雷鳴がやおら響いてきたものだから、私は暑くもないのに掌に汗を滲ませた。
「こちらでございます」
鶴子が歩みを止め、廊下沿いに並んだ黒い扉の一つを開いて、私を振り返った。
「どうぞお入りください」
云われるままに、私はそろそろと足を進める。誰もいない暗い部屋が、そこにはあった。
「ここは控えの間でございます。〈宴の間〉はあちらに――」
そう云って鶴子が指し示したのは、入って左手にある両開きの扉だった。彼女はその前まで進み出ると、静かにノックをしてから、
「中也様をご案内いたしました」
と告げた。
「入っていただきなさい」
すぐに扉の向こうから返答があった。あれは浦登柳士郎の声か。
「さあ、中也様」
鶴子は扉の前から退き、片手を差し上げて私を促した。
「どうぞそちらへ」
「――はい」
〈宴の間〉の扉に向かい、汗ばんだ両手でそのノブを握ろうとしたところで、私は一度鶴子の方を振り向いた。彼女は廊下に出る扉のそばに立ち、微動だにせずこちらを見守っていた。
何だ? とそのとき私は思った。
端正な白い顔の無表情。そこからじっと私の手許を見つめる鶴子の目、その色、その光……痛いほどに鋭く突き刺さってくる。まるで私のことを憎んででもいるかのような、あの……。
何なのだ、彼女のあの眼差しは。
増悪? いや、羨望か嫉妬か。それとも……。
「私はここで失礼いたします」
目を背け、鶴子は冷然と云った。
「ダリア様の祝福がございますように」
廊下の薄闇に溶け込むようにして、間もなく鶴子の姿が消える。我れ知らず大きな息を落とし、私はノブを握り直す。――と、そこでまた雷鳴が、胸中に膨らむ黒々とした不安を煽るように、低く妖しく轟いた。
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蝋燭の薄明りだけが揺れるその広い部屋に入って真っ先に目に飛び込んできたのは、漆黒の闇を背に座した異国の美女の姿であった。
胸元まで伸ばした髪は背景の色が流れ出してきたかのような黒髪で、鋭く見開かれた双眸――その虹彩は濃い褐色なのだけれど、病的なほどに白い肌の色やすっきりと高い鼻梁、顎の尖った顔の輪郭……それらは明らかに日本人のものではない。鮮やかな紅の引かれた形の良い唇が、|妖艶《ようえん》とすら云いたくなるような、美しく官能的な笑みを湛えている。
……ああ、あれが。
正面の壁に飾られたその大きな肖像画を見上げたまま、私は魅入られたように立ち尽くした。
あれが……ダリア? この〈西館〉に付けられた異名の由来となる浦登ダリアの、若かりし日の姿を絵に写したものなのだろうか。
初代当主浦登玄遙がイタリアより連れ帰り、己の妻とした女性。玄児の、そして美鳥や美魚、清の曾祖母。そう云えば、美鳥と美魚の妖しい美貌には、どこかしらあの肖像画の女性の面影が窺われるようにも思えるが。
絵の中の美女は黒いドレスをまとい、両手を膝の上に重ね置いて安楽椅子に坐っている。蝋燭の炎の揺らめきに合わせて、その表情が刻々と微妙な変化を続けているかに見える。何かこの世ならぬ力を秘めつつ相手を射すくめるような、褐色の目の光。赤く彩られたその唇が今にも動き、この世界の秘密のすべてを語り出しそうな気さえ……。
「ようこそいらっしゃった」
浦登柳士郎の、地の底から湧き出してくるような低い声が薄闇を震わせ、私は魔法を解かれた心地で室内を見まわした。
部屋全体に、ほんのうっすらとではあるが、白い|靄《もや》がかかっているように感じられた。甘ったるいような酸っぱいような、それでいて苦いような、何やら不思議な香りが漂ってもいるが、これはどこかで香でも焚いているのだろうか。
中央にずっしりと据えられた黒塗りのダイニングテーブルを取り囲んで、浦登家の人々が勢揃いしていた。柳士郎の姿は、私が入ってきた扉から見て右手、長いテーブルの奥の端にあった。〈南館〉に現われた時と同じ黒ずくめの服装だが、ネクタイだけは深紅のものに替わっている。
「どうぞ。そちらにお掛けなさい」
屋敷の主人はそう云って、彼の真向かいの位置に当たる、手前の端の一席を示した。
テーブルの角を挟んでその左隣には玄児が坐っており、彼もまた柳士郎と同様の真っ黒なスーツに着替えていた。ネクタイもしているが、これも父親に倣ったかのような深い紅色である。春に知り合って以来、玄児がネクタイを締めた姿を見るのは初めてだった。
「さあ中也君、君の席だ」
と、玄児が私を招いた。
友人の声を聞いても、心身の緊張はまるで緩んでくれなかった。入ってきた扉を閉めると、柳士郎に黙礼をし、まっすぐに示された席へ向かう。きっとさぞやぎこちない足取りだったことだろう。
高い背凭れの付いた黒塗りの椅子に腰を下ろすと、玄児が囁き声で話しかけてきた。
「悪かったね。ちょっと手が塞がってしまったもので、鶴子さんに君の案内を頼んだ」
「――いえ」
ついさっき隣室で見た鶴子の、ある種の感情を剥き出しにしたような眼差しを思い出しながら、私は俯き加減で小さく首を振る。それから、玄児の方にちらと目を上げた。蝋燭の炎が作る陰影のせいで、瘠せた蒼白いその頬がなおいっそう蒼白く、病人めいたものにすら見えた。
玄児の向こうには、美鳥と美魚の姉妹が並んで坐っている。彼女たちの衣装も和服から洋服に替わっていた。|艶《あで》やかな緋色のドレスである。当然のことながら、一繋がりになった二人の身体に合うよう特別に仕立てられたものなのだろう。
美鳥と美魚のさらに向こうにいて、椅子の背に深く凭れ込んだまま微動だにしない女性がいる。あれが、そう、双子の母である美惟か。ここに集まった者たちの中で唯一、私が初めて会う人物だということになるが。
――お母さまはね。
――あたしたちを産んだ時にお母さま、凄くびっくりしちゃったの。
肖像画の女性と同じ黒いドレスに、華奢なその身を包んでいる。長い髪に隠されて、私の位置からでは細かな造作までは見て取れないけれど、彼女もまたたいそう色白の、ほっそりとした面立ちであることは確かだった。
――それでずっと……今でもずっと、びっくりしたままでいるのよ。
私が場に加わったことに気づきもしていないかのように、ぼんやりと宙を見据えている。文字どおり心ここにあらず、といった素振りである。
「今宵――九月二十四日の夜に、今年もまたこうしてここに集うことができた」
浦登柳士郎がおもむろに語りはじめた。
「今宵は〈ダリアの夜〉。我れらが母なるダリアがかつて遠き地で生まれ、そうして今から三十年前、我れらにその願いを託してこの世より去った日――〈ダリアの日〉が、今年も巡ってきた……」
長いテーブルの上には黒く塗られた燭台が二つ置かれ、それぞれに数本ずつ蝋燭が立てられている。蝋燭はどれも毒々しいほどに真っ赤な色であった。燭台は周囲の壁面にもいくつか造り付けられているのだが、そこに立つ蝋燭もすべて赤い。
部屋に漂う匂いは、ひょっとするとあれらの蝋燭から立ち昇っているのかもしれない――と、そこで思いついた。蝋燭自体に何か香の成分が練り込まれているのではないか。それで……。
玄児たちの向かい側に並んだ席には、望和と征順の夫妻が坐っている。奥に望和が、手前に征順が。二人の間に挟まれて、彼らの息子清の姿があった。〈南館〉の廊下で出合った時に被っていたベレー帽は今はなく、幼くして禿げ上がってしまった頭部が|露《あら》わになっている。この親子三人もまた、他のたいがいの者たちと同じように、揃って黒ずくめの衣装に着替えていた。
全部で八人。――これが現在この暗黒館に住む、浦登家の人間たちのすべてか。
何となく呪文めいた口調で続けられる柳士郎の言葉に耳を傾けながら、私はそっと左手上方に目を上げる。肖像画の美女は唇に妖艶な笑みを湛えつつ、鋭い眼差しでこちらを見下ろしていた。この場の支配者≠ナあるはずの浦登柳士郎を凌ぐような存在感を、あの絵は――あの絵の女性は、持っている。そんな気がふとした。
「……皆もすでに承知のはずだが」
云いながら、柳士郎がゆっくりと座を見渡した。間もなくその白濁した眼差しが、一直線に私を捉えたところでぴたりと止まる。
「今宵はお一方、この〈宴〉に客人をお招きすることとなった」
私は慌てて身を正す。どう反応して良いか分からず、おろおろと曖昧な会釈をする。館の主人はすると、悠然と右手を挙げてこちらを示し、「改めて紹介させて貰おう」と云って私の名を口にした。
「玄児のたっての希望によって、彼は今宵ここに招かれた。〈ダリアの夜〉のこの〈宴〉に参加する資格は、基本的には初代玄遙とその妻ダリアの血を引く浦登家の人間、及びそれらと婚姻関係にある人間のみが有するはずのものなのだが、時として例外も認められなければならない。私自身、以前よりそう考えていた。そのような機会をみずから作ろうとしたことも、かつてあった。そして――」
柳士郎は私から隣の玄児へと視線を移し、
「今回、玄児がそれを願い出た。私は玄児の意思を確かめ、その例外[#「例外」に傍点]を認めることに決めた」
それから主人はもう一度ゆっくりと座を見渡しながら、
「異論のある者は?」
例の有無を云わさぬ調子で問うた。――誰も答える人間はいなかった。
私はそこでまた、壁の肖像画に目を上げる。笑みを湛えた真っ赤な唇が、むろん気のせいに違いないのだけれど、その時かすかに動いたように見えた。そうして発せられた言葉が「認める」だったのか「認めぬ」だったのかは、むろんそんな言葉が発せられたはずはないのだけれど、私には分らない。
甘ったるいような酸っぱいような、それでいて苦いような、不思議な香りは相変わらず薄闇に漂い、徐々に濃厚になってくるようにも感じられる。鼻腔から器官へ、肺臓へ……いや、直接脳みそにまで浸透してきそうな。蝋燭の炎の不規則な揺らめきが、その匂いとあいまって、私を何だか朦朧とした気分へと|誘《いざな》う。
……ああ、ここは[#ここから太字](……ここは)[#ここで太字終わり]。
胸中に|蟠《わだかま》った不安の底から、ふいと迫り上がってくる疑問。当たり前のことを。今さらのように。
……ここは。
ここはどこなのだろう。ここで私は何をしているのだろう[#ここから太字](……何を)[#ここで太字終わり]。ここでこれから何が始まろうとしているのだろう[#ここから太字](……何が)[#ここで太字終わり]。私はいったいどうなってしまうのだろう[#ここから太字](何故こんな……)[#ここで太字終わり]。
「さて――」
浦登柳士郎の声が響いた。
「それでは今宵の〈宴〉を始めるとしよう」
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「宴」という言葉が持つ賑やかで軽やかな響きとは裏腹に、その場の雰囲気はあくまでも静かで重苦しくて、何やら儀式めいた|厳粛《げんしゅく》ささえ感じられた。
柳士郎が〈宴〉の開始を宣言しても、誰一人喋り出す人間はいない。ひたすら押し黙ったまま、ある者は燭台の蝋燭を見つめ、ある者は卓上に視線を伏せ、またある者は壁に飾られた例の肖像画に目を向けている。主人の動きをじっと見守っている者もいる。私もそのうちの一人であった。
どれほどの沈黙が流れただろうか。すでに何分も経っていたと云われればそんな気もするし、実はほんの数秒だったような気もする。要は、真っ当な時間感覚をそのあたりでもう、私は失いかけていたということである。
柳士郎がやおら両手を胸元に挙げ、一度、二度と続けて掌を打ち合わせた。すると、それが合図だったのだろう、先ほどの控えの間との間の両開き扉が、かすかな軋みとともに開かれる。そうしてそこから足音もなく入ってきた者の姿を見て、私は思わず洩らしそうになった声を抑えた。
それは影≠セった。
昼間に中庭の小道で見かけた、あの生ける影=B西洋の修道僧が纏う衣にも似た形の、だぶだぶの真っ黒な服に身を包んでいる。フードも付いているから、あの時着ていたマントのような服と、きっとこれは同じものなのだろう。
「――鬼丸老?」
私は玄児に顔を寄せ、声を潜めて問いかけた。玄児は「ああ」と小さく頷き、
「基本的には墓守が――〈惑いの檻〉を守るのが、あの人の仕事なんだが」
私の耳許に囁きを返す。
「〈ダリアの夜〉の〈宴〉の最中、屋敷の使用人はこの部屋に立入ってはいけないことになっている。ただし、たった一人その例外がいてね。それがつまりあの人、鬼丸老なのさ」
齢九十前、初代玄遙の昔から延々とこの暗黒館に勤めつづけているという老使用人――。
正体を知らされた今もなお、現われたその人物の姿は、私の目には生ける影≠フように見えてしまう。身にまとっているもののせいもあるだろう。屋内だというのにフードを被っている、そのせいもあるだろう。
衣擦れの音だけをかすかに立てながら、老使用人は部屋の奥へと移動する。どんな体型をしているのか、いくぶん腰が曲がっていて背が低いということ以外はやはり、だぶだぶの黒衣に隠されていて分らない。フードの影になって顔も見えない。
そう云えば――と、そこで私は気がつく。
そもそも「鬼丸老」と呼ばれるあの老人は男性なのか、それとも女性なのか。玄児は一言も性別について言及していない。下の名前も知らないと云っていたではないか……。
老使用人はいったん部屋の奥――柳士郎の背後に蟠る薄闇の中に姿を溶け込ませた後、すぐにまたテーブルのそばへ戻ってきた。その両手に、何だろうか、少々変わった形をした大きな赤い壜を持って。
柳士郎が、卓上に伏せられていたグラスを取り上げ、黒いランチョンマットの端に置き直した。老使用人は壜の首を片手で握り、胴の部分にもう片方の手を添えて、主人のグラスに中身を注ぎはじめる。そうしてグラスに満たされていくのは、壜と同じ赤い色をした液体だった。壜はデカンターで、その中身はどうやら赤葡萄酒らしい。
黒衣の老使用人――鬼丸老は同様にして、テーブルを囲んだ者それぞれのグラスに黙々と酒を注いでまわった。柳士郎の次は美惟、続いて美鳥と美魚、その次が玄児、そして私の許へと回ってくる。
すぐ傍らまでやって来ても、鬼丸老の顔は黒いフードの陰に隠れていて、皺だらけの口許がちらっと見えた以外は、どんな容貌でどんな表情をしているのか、まったく窺い知ることができなかった。だからと云って、わざわざこちらから覗き込むわけにもいかず、私は椅子の上で身を硬くしたまま、自分のグラスに葡萄酒が注がれていくさまを黙って見守っていた。
葡萄酒の入った壜はやはり、あまり当たり前とは云えない形をしたデカンターであった。とろみのある赤い濁り硝子で作られている。離れた場所からだと、妙な丸みと膨らみを持った、そのくせ表面がいやにでこぼこした、およそ左右対称とは程遠いいびつな形状にしか見えなかったのだが、間近で見てみてやっと、それがいったい何をモティーフにデザインされた品なのかが分った。――人間の心臓、なのである。
驚きつつも、何となくすぐに納得してしまったようなところもあった。葡萄酒とはすなわち、キリスト教では神の子の血≠ネのだから。心臓を|象《かたど》ったデカンターにそれが入れられているというのは、さほどに奇天烈な話でもないと考えられるだろう。
やがて全員のグラスが満たされると、鬼丸老はデカンターをテーブルに置いて、再び部屋の奥の、柳士郎の背後に薄闇に退いた。このままそこにいて、〈宴〉の給仕役を務めるのが、あの老使用人に課された今夜の仕事だということか。
「では――」
グラスを顔の高さに差し挙げながら、柳士郎が一同に向かって云った。
「まずは乾杯、そして献杯を」
応えて、皆が各自のグラスを取り上げる。相変わらずぼんやりと宙を見据えたまま動こうとしない美惟には、隣席の美鳥が「お母さま、ほら」と促してグラスを持たせる。私も彼らに倣って、自分のグラスに手を伸ばした。
「九月二十四日――この日の、我れらが母なるダリアの誕生を祝って。この日の、我れらが母なるダリアの死を|悼《いた》んで」
いよいよ呪文めいた調子を強くして、館の主人が口上を述べる。
「ダリアの切なる願いを受け止め、残されたその言葉を信じ、我れらは我れらの永遠をめざす。光を|厭《いと》い、この世界に偏在する闇という闇の中に密やかに身を潜め……そうして永遠の|時間《とき》へと我れらが命を繋げるのだ」
グラスをさらに高く差し挙げ、柳士郎は声を放った。
「ダリアの祝福を、我らに」
それ似合わせて、他の者たちもグラスを高々と差し挙げる。そして――。
「ダリアの祝福を、我れらに」
寸分乱れるところのない異様な唱和を、薄闇に響き渡らせるのだった。
「ダリアの祝福を」
と、柳士郎が繰り返す。
「ダリアの祝福を」
と、一同が声を合わせる。
……何なのだろう、これは。
私はグラスを持ち上げたまま、その手を凍りつかせた。不安と疑念がまた、半ば朦朧としたような心の内に広がってくる。
何なのだろう、これは――この〈宴〉は。いったい何の儀式≠ェ、今ここで行なわれようとしているのだろうか。
考え込んでいる余裕は、しかしながらほとんどなかった。
差し挙げた手を下ろすと、皆はグラスを満たした赤い酒を一気に飲み干した。まだ十代半ばの美鳥も美魚も、そしてまだ九歳の子供である清も。
「中也君も、さあ」
隣席の玄児が私に命じた。
「それを全部飲むんだ」
戸惑いながらも私は、グラスを口に近づけた。芳醇な葡萄酒の香りを確かめて、いくらか気持ちが和らぎはした。思い切ってグラスを傾け、中身を喉に流し込んだ。
「――よし」
と、玄児の低い呟きが聞こえた。
飲み干した赤葡萄酒は、どちらかと云えば甘めで口当たりの良いものだったけれど、一方でこれまで一度も飲んだことがないような、ちょっと替わった味がした。舌に絡まるようにして、何だかざらざらとした感触が残っている。それからわずかに、何だろう、金臭いような錆び臭いような、この……。
胃に落ちたアルコールが急速に吸収され、全身の血管を巡りはじめるのが分った。心拍が速くなってくるのも分った。部屋に漂う例の香りはますます濃厚に鼻腔を刺激し、私の脳みその奥深くにまで染み入ってくる。顔がやけに熱っぽくなってきて、じっと坐っていても視界が揺れ動いて感じられる。
鬼丸老が再び薄闇から姿を現わし、空になった各人のグラスに新たな葡萄酒を注いでまわる。やがてまた、私のグラスも赤く満たされた。玄児が薄く笑みをこちらに向けながら、
「乾杯だ、中也君」
そう云って、自分のグラスを私のグラスに軽く打ちつける。
「ダリアの祝福を」
長いダイニングテーブルの上には何枚かの黒い大皿が置かれていて、そこには薄切りにしたパンがたくさん盛られていた。二杯目の葡萄酒を飲んでしまうと、玄児は腰を浮かせてその大皿に手を伸ばす。小皿に幾切れかパンを取り、そしてそれを皿ごと「どうぞ」と私の前へ差し出した。
「あ……どうも」
座を見渡すと、誰もがそれぞれに大皿からパンを取り、バターか何かを塗って食べはじめていた。各席のランチョンマットの上にはその他に、蓋の付いた黒い器が一つずつ置かれている。器の蓋を開け、中の料理に取りかかろうとしている者もいる。
とりあえず私は、玄児が取ってくれた小皿のパンに手を付けることにした。
見たところ何の変哲もないフランスパンだった。まだとても柔らかい。この屋敷で焼いたばかりのものなのだろう。
「これを塗って食べればいい」
と云って玄児が、蓋を外した黒い小さな壺を私の前に置いた。
付属の木製ナイフで中身を|掬《すく》い取ってみると、それは普通のバターではなく、何やら茶色っぽい色をしたペーストのような半固形物だった。匂いを確かめようとしたが、例の香りのせいで思うように鼻が利かない。バターかあるいはマーガリンか、そのようなものがベースになっていることは間違いなさそうなのだが。
ともあれ、私はちぎったパンにそれを塗りつけ、そろりと口に運んだ。――と、そこで。
何かしら異様な気配を、私は感じた。思わず動きを止め、顔を上げた。
気配の正体は視線≠ナあった。
テーブルを囲んだ浦登家の人々――心ここにあらずと云った状態の美惟を覗いて、その他の者たちのすべての目がこちらを向いている。柳士郎の目も、美鳥と美魚の目も、玄児の目も、征順と望和と、そして清の目も。この私の手許に、口許に、突き刺さるような彼らの視線が集まっているのだ。
どうして、こんな……。
不気味に思いつつも、私はなるべく狼狽を表に出さぬようにして、パンを口の中に押し込んだ。塗りつけた茶色いペーストのようなものは、何だかやたらと塩辛くて、しかも少々生臭い味がした。お世辞にも美味とは云えない代物である。
私は玄児の方を見やり、
「何ですか、この……」
「口に合わない?」
玄児は澄ました顔で云った。
「まあ、あまり|美味《うま》いものじゃないだろうが」
「いえ……ああ、でもこれは」
「さあ中也君、スープも召し上がれ」
「…………」
「どうぞ召し上がれ、中也さま」
そう云って美魚が、玄児の隣の席から卓上に首を突き出すようにして、私に微笑みかけた。続いて美鳥が、同じように首を突き出しながら、
「召し上がって、中也さま」
それから二人揃って、ふふ……と忍びやかな笑い声を零す。
「お母さまもね、ちゃんと召し上がらなきゃあ駄目でしょ」
そう云って美鳥が、隣席でぼんやりとしている美惟の方へ手を伸ばした。彼女の前に置かれた器の蓋を取ってやり、スプーンを握らせてやり、そうして「さあさ、お母さま」と促す。
私はそれとなく、両親に挟まれて坐った清の様子を窺い見た。原因不明の奇病に冒されたその皺だらけの顔には、どこか寂しげな、あるいは悲しげな色が滲んでいる。私と目が合うと、彼ははっとしたように視線を伏せた。
「大丈夫? 清ちゃん」
と云って望和が、母親の彼女自身よりもずっと老い衰えつつある息子の肩に手を添えた。
「大丈夫? 大丈夫よね、清ちゃん」
清は黙って弱々しい頷きを返す。のろのろとスプーンを持ち、黒い器の蓋を取る。
「大丈夫? 食べられる? 食べられるわよね、清ちゃん……」
私は自分の前に用意された器に目を落とす。玄児は「スープも召し上がれ」と云った。この器の中身はスープなのだ。それはしかし、いったいどんなスープなのだろう。
覚悟を決めて蓋を取った。ほんのりと湯気が立ち上り、同時に強い香辛料の匂いが鼻を突いた。私はランチョンマットの端に置いてあった大振りな木製スプーンを取り上げ、ゆっくりと器の中身を掻きまわした。
これまで見たこともないような、赤黒いどろどろとしたスープだった。形の崩れきった具が、そのどろどろの中に沈んでいる。スープと云うより、煮込みすぎたシチューとでもいった感じだろうか。
ここで躊躇していても仕方がない。得体が知れないのは確かだが、まさか毒を食べさせられるわけはないだろうし……。
そう自分に云い聞かせて、私はスプーンを持ち直した。ところが――。
スープを掬い取って口に運ぼうとした、そこでまたしても、私は異様な気配を感じたのだった。
手を止め、顔を上げると、さっきと同じようにまた、美惟を覗くすべての者たちの視線がこちらに集まっていた。柳士郎の目も、美鳥と美魚の目も、玄児の目も、征順と望和と、そして清の目も。
どうして……いったい何なのだ、これは。
さすがにどうにも気味が悪くなってしまって、私は口をつけないままスプーンを器に戻した。場が微妙にざわめいた。玄児の様子を横目で窺うと、彼は眉間に深々と皺を寄せ、今にも飛びかかってきそうな面持ちでこちらを睨みつけている。
微妙なざわめきが続く中から間もなく、部屋に漂う薄闇のすべてを共振させるような低い声が、私に向かって投げつけられた。
「食したまえ」
声の主は浦登柳士郎であった。
「ためらうことなく食したまえ」
白濁した眼差しが、まっすぐに私の顔を捉えている。その表情には、そして声音には、有無を云わさぬ例の威圧感が満ち満ちている。
「食したまえ、それを」
柳士郎は同じ調子で繰り返す。
「今宵――〈ダリアの夜〉に、ここ――〈ダリアの館〉にて、ダリアに見守られ、その許しを受け、皆の大いなる祝福の下に……」
私は壁の肖像画を仰ぎ見る。「ダリアに見守られ」というのはつまり、「この絵のまえで」というような意味なのだろうか。
「ためらうことなく食したまえ」
柳士郎がさらに繰り返し、
「食したまえ」
と、そこに他の者たちの唱和が重なった。
「食したまえ、それを」
「食したまえ、その肉を」
……肉?
確かに今、「肉」という言葉が聞こえたが、いったい……。
「食したまえ」
「食したまえ」
放っておくと、同じ言葉が未来永劫、彼らの口から発せられつづけそうな気がした。否も応もない、もはや私は従うしかない。そんな気もしてきた。
私はスプーンを握り直した。そして、赤黒くどろどろとした得体の知れないそのスープを、強く目を瞑りながら口に入れたのだった。
複数の香辛料によって香りと味が調整されてはいたが、パンに塗ったペースト紛いのものと同様、それはどう妥協しても美味と云えるような食べ物ではなかった。基本的にはやはり、やたらと塩辛いばかりで、なおかつどことなく生臭い。形の崩れた具の舌触りはいやにがさがさしていて、何だか塩気を染み込ませた|塵紙《ちりがみ》の切れ端でも食べているような気分になった。
たまらず私は、グラスに残っていた葡萄酒を口に含み、スープもろとも喉に流し込んだ。そうして恐る恐る、皆の反応を窺う。依然として、彼らの視線は私の手許と口許に突き刺さっている。
「食したまえ」
とまた柳士郎が云い、続けて何人かが同じ文句を復唱した。
どうやらこのスープを全部食べてしまわないことには、彼らの許しは貰えないらしい。私は半ば|自棄《やけ》になって、再び器の中にスプーンを突っ込んだ。
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葡萄酒とパンとスープ。
〈宴〉の席に用意された飲食物は、どうやらその三品のみのようだった。パンに塗った例のペースト紛いを勘定に含めれば四品。あとは単なる水の入った水差しが置かれているばかりである。
そのうち続きの料理が運ばれてくるのだろうと最初は思っていたのだけれど、時間が経ってもいっこうにそんな様子はないのだった。給仕役の鬼丸老は部屋の奥に控えたままで、誰かのグラスが空っぽになると、例の心臓型デカンターを持って新しい葡萄酒を注いでまわった。年少の清はさすがに、二杯目以降は酒ではなくて水を飲んでいたが。
問題のスープをどうにかこうにか一皿分片づけると、私はパンを幾切れか食べ、注がれるままに幾杯もの葡萄酒を飲んだ。こんなに酒を飲んだのは久しぶり――と云うよりも、ほとんど初めてなのではないかと思う。大学に入って何度か学生のコンパに参加する機会もあったが、これほど続けざまにたくさん飲んではいない。数杯のビールでもう充分に酔ってしまって、それ以上は身体が受け付けなくなる、とでもいった感じだったから。
今夜はしかし、なんだか勝手が違っていた。
それは恐らく、私自身がその場のただならぬ雰囲気に呑まれてしまっていたせいなのだろう、とは思う。山奥の奇妙な屋敷に住む謎めいた一家。彼らにとって特別な日の夜の、この〈宴〉。まるで秘密の儀式か何かのような、この異様な……。
蝋燭の炎の妖しい揺らめき。濃厚に漂う不思議な香り。何やら正体の知れない料理。いかにも重大な秘め事がありそうな館の主人の、そして家人たちの言動……玄児にしても同じだ。この春からの付き合いで私が知る浦登玄児の、これまで見たことのないような側面が、昨日からの一連の出来事の中でちらちらと垣間見えてきてはいた。それがここへ来て、この異様な〈宴〉の席で、一挙に露わになったような気がする。
さっき私が例のスープを飲もうとして一度やめた時――あの時の、玄児の表情が目に焼き付いて離れない。あんなにもあからさまに不満と不快感を表わした彼の面持ちに、これまでであったことがあっただろうか。
「食したまえ」と柳士郎が私に命じた際、他の者たちと一緒になって玄児もまた、同じ言葉を呪文のように繰り返していた。あの、それこそ物に憑かれたかのような声。あんな声で玄児が話すのを、これまでに聞いたことがあっただろうか。
――ここに住んでいる連中みんなが、あんなものに取り憑かれちまって……。
そう。自称芸術家かつ自称「しごく近代的な科学主義精神の持ち主」である首藤伊佐夫は、そんなふうに評していた。
――玄児さんからしてああだしね。
そもそも玄児は、どうして私をこの〈宴〉の席に呼んだのだろう。「時として例外も認められなければならない」と最初に柳士郎が語った、その「例外」として、どうしてこの私を選んだのだろう。どうして、何のためにこんな……。
度を過ぎて飲んでしまった葡萄酒のアルコールは確実に心身のバランスを押し崩し、私はますます朦朧とした気分に落ち込んでいった。思考が空回りする一方で、耳に入ってくる音に対しては妙に敏感になり、部屋のあちこちから何者かのひそひそ声がひっきりなしに聞こえてくる気がする。視界の揺動はいよいよ激しくなり、椅子に坐った身体全体が大きな波に揉まれているかのように感じられた。
テーブルを囲んだ浦登家の者たちは、ひたすらにパンを食べ、スープを啜り、そして葡萄酒を飲む。美鳥と美魚は、相変わらずぼんやりとしたままでいる美惟の世話を焼くのに忙しそうだった。望和はしきりに清の心配をしていた。征順は時折り顔を伏せては、何事かぼそぼそと独り言を呟く。柳士郎は時折り腕組みをし、白く濁った瞳でゆっくりと座を|睥睨《へいげい》する。壁の肖像画の中では若かりし日のダリアが妖艶な笑みを湛え、そんな彼らの様子をじっと見下ろしている。
「どうした、中也君。もう飲まないのか」
声をかけてきた玄児の目は、彼もまたずいぶんとたくさん葡萄酒を飲んでいたから、不気味なほどに赤く充血していた。
「ええ、もう……」
グラスの上に掌を被せながら、私はゆるりと首を振った。たったそれだけの動きでぐらぐらと世界が揺れ、今にも大きく一回転しそうになった。
「ええと……玄児さん」
「うん?」
「あの……手洗いはどこでしょうか」
「おや、気分が悪いのかい」
「ああ、いえ」
相当に酔っ払っているのは確かなのだが、不思議と胸焼けや悪心はなかった。
「単なる用足しです」
「そうか。ならいいんだが」
玄児は充血した目を強く擦りながら、
「|階下《した》だよ、手洗いは。案内し……」
「ご案内いたします」
と、玄児の言葉を遮る声が、私のすぐ斜め後ろから聞こえてきた。初めて耳にする声だった。ごわごわに嗄れた、男女の別も分らないような。
「わたくとがご案内を」
いつの間にそばへやって来たのか、そこには鬼丸老が立っていたのだった。
「ついていらっしゃいまし」
云って、黒衣の老使用人は扉に向かう。私の席のちょうど真後ろにある扉だった。先ほどの控えの間ではなく、これは直接廊下に通じているのだろうと思われる。
玄児が目顔で頷いて見せ、私はおっかなびっくりで椅子から立った。自覚していた以上に平衡感覚と運動機能が鈍化していて、開かれた扉から外へ出た時には、つんのめって危うく転びそうになった。何とか身を立て直し、薄暗い廊下を滑るように歩いていく鬼丸老のあとに従った。
吹き抜けになったホールの手前を左に折れ、まっすぐに廊下を進んだ。突き当たりで今度は右に折れると、その奥に階下へ続く裏階段があった。鬼丸老はちらりとこちらを振り返ってから、黙ってその階段を降りていく。千鳥足の私は、ほとんど階段の手すりに寄りかかるような格好で、たいそう苦労してその後を追わねばならなかった。
裏階段を降りてすぐのところに手洗いはあった。
「そちらでございます」
ごわごわした嗄れ声で云って、鬼丸老がそこに並んだ扉を指し示した。だぶだぶの黒衣の袖口からその時、土気色の手が見えた。「骨と皮ばかりの」と形容しても大袈裟ではないような痩せこけた手で、その見かけからも、歩き方その他の物腰からもやはり、老人の性別を判定することは難しかった。男なのか女なのか、もはやそういった区別はどうでも良いような存在として捉えるべき相手なのかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎった。
小用を済ませ、手を洗った。洗面台付近には鏡の一枚も貼られておらず、自分が今どんな顔つきなのかを確かめることはできなかった。アルコールで火照った感覚はさほどもない。悪心もまるで感じないのだけれど、ひょっとしたらひどく蒼ざめた顔色になっているのではないか、という気がした。玄児のようにひどく目が充血しているのではないか、という気もした。
手洗いから出ると、蝋燭の薄明りを頼りに独り廊下を戻った。……突き当たりを左に折れ、まっすぐ行って今度は右に折れ、そうして二つめの黒い扉。
室内の様子を朦朧とした頭に思い浮かべつつ、ノブを握った。ところが、どうしたわけかいくら回そうとしても回らない。ノブを握ったまま扉を押し引きしてみたが、まったく動かない。開かない。
鍵が掛かっている?
私はたいそう狼狽した。
何故なのだろう。さっき鬼丸老と私が部屋を出たあと、誰かがこの扉に鍵を掛けたことになる。私がすぐに戻ってくると分っていて。いったい何のために、そんな真似をするのか。
「玄児さん」
呼びかけながら、私は黒い|鏡板《かがみいた》を叩いた。思い出したように外で低く雷鳴が轟いた。
「どうしたのですか。開けてください」
するとその時、横合いからにゅっと伸びてきて私の腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、377-下-8]んだ手があった。だぶだぶの服の黒い袖、土気色の痩せこけた手……鬼丸老か。
「おやめなさいまし」
嗄れた声が薄闇に響いた。
「ここ[#「ここ」に傍点]は、なりませぬ」
私は訳が分らず、「えっ」と首を傾げた。
「扉が開かないんです。だから……」
「ここは、なりませぬ」
と、鬼丸老は繰り返した。
「しかし」
「なりませぬ、この部屋に近づいては」
「しかしここは……」
納得がいかずノブを握り直す私に向かって、黒いフードの下の皺だらけの口が、
「階を間違えていなさる」
ぴしゃりとそう云った。
「〈宴の間〉は二階でございます」
「……あっ」
いくら酔っているとはいえ、我れながら何ともはや間の抜けた話であった。私は階段を昇っていなかったのだ。手洗いから出たあと、廊下だけを来た時の逆に辿ってここまで戻ってきたわけで、従ってこれは〈宴の間〉の真下に当たる一階の部屋だということになる。そう気づいてしまうと、ああ、いまノブを握っているこの扉は片開きの扉ではないか。〈宴の間〉のあの扉は、確か両開きだった。
「こちらでございます。さ、いらっしゃいまし」
「あ……すみません」
鬼丸老は身を翻して廊下を歩き出す。縺れる足でその背を追いながら、
「今の部屋は、どういう」
と、私は問いかけた。
「どうして近づいてはならないのでしょうか。何かその……」
「それはわたくしへのご質問ですか」
ひたと足を止め、鬼丸老はそう訊き返した。及び腰になりつつも「はい」と答えると、老使用人はこちらに背を向けたまま、
「あの扉に鍵が掛けられて、もう十何年にもなりましょうか。|何人《なんぴと》も立ち入ることの許されぬ部屋でございます」
十何年間も鍵を掛けられたまま? ――「開かずの扉」「開かずの間」といった言葉が自然と浮かんできて、同時に私は「何で」と声を洩らしていた。
「何で、そんな」
「それはわたくしへのご質問ですか」
とまた、鬼丸老が訊き返した。
「あ……はあ」
「どうしても答えよと云われますか」
「いや……いえ、はい」
酔いで朦朧としているだけにかえって、首をもたげてくる好奇心を抑えることができなかった。私は問うた。
「あそこはどういう部屋なのですか」
「あの部屋は昔、玄遙様の書斎でございました」
「浦登玄遙氏の……そこで、何か?」
「どうしても答えよと云われますか」
「――はい」
「ならば……」
相変わらず背を向けたまま、黒衣の老使用人は淡々と答えた。
「あの部屋では昔、恐ろしい事件が。今から十八年前の九月二十四日――〈ダリアの日〉の夜のことでございます」
「恐ろしい事件……と云いますと」
「玄遙様が殺されなさったのです[#「玄遙様が殺されなさったのです」に傍点]、あの書斎で[#「あの書斎で」に傍点]。同じ夜[#「同じ夜」に傍点]、別の部屋では卓蔵様が自殺を図られた[#「別の部屋では卓蔵様が自殺を図られた」に傍点]。その後あの書斎の扉にはああして鍵が掛けられ、忌まわしい場所として封じられることとなった次第でございます」
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7
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その夜の〈宴〉の席がお開きになったのが何時のことだったのか、私はよく憶えていない。
私が用足しから戻ったあとも、蝋燭の炎と例の不思議な香りの中、壁の肖像画に見下ろされながら人々は粛々とパンを食べ、スープを啜り、葡萄酒を飲み続けた。私もさらに何杯かの酒を飲まされたように思う。少しでも身動きするたびに世界はぐるぐると回転し、耳にはあるはずのない囁き声がますますたくさん聞こえてくるようになり、朦朧とした頭の中ではぬるぬるした色とりどりの糸が絡み合い縺れ合って、掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、381-上-1]みどころのない自問自答が自閉的に繰り返された。隣に坐った友人の存在自体が急に途轍もなく恐ろしいものに感じられたり、「びっくりしたままでいる」母の世話を焼くシャム双生児の姉妹の声に「グノシェンヌ」の旋律が重なり、彼女らの微笑みに対して急に女≠フ艶めかしさを感じてしまったり、かと思うと、テーブルを挟んで対峙した館の主人が急に牛の頭を持った恐ろしい怪物に見えてきたり、老いた少年とその母親のやり取りを眺めているうちに急に泣き出したくなったりした。老いた少年の父親の方には、そう云えば唐突にこんな質問をされた。
「宮垣葉太郎の作品は読んでおられますか」
知る人ぞ知る探偵小説作家の名前がいきなり出てきたものだから、それはそれでずいぶんとびっくりしたように思う。私が探偵小説好きであるということを、彼はきっと玄児から聞いて知っていたわけなのだろうが。
「『|瞑想《めいそう》する詩人の家』の署名本があるのですよ。興味がおありならお見せしましょうか」
それはぜひ見てみたいと答えたような気がする。『瞑想する詩人の家』は宮垣葉太郎の処女作として有名な長編だが、現在は絶版状態で入手が難しく、気になりつつもまだ読めていない一冊であった。
「それでは明日にでも」
と、少年の父――浦登征順は云ったように思う。
「いや、急ぐ必要ももはやないか。機会は今後、いくらでもあるでしょうから」
そうこうしているうちに〈宴〉は終わった――のだと思う。私はすっかり飲み過ぎて正体をなくしかけていたのだろう、玄児に肩を貸してもらい、薄暗い廊下を歩いた記憶がある。「大丈夫か、中也君」と何度も彼に聞かれた記憶もあるが、何と答えたのかはよく憶えていない。怪しい呂律でこちらからいろいろと質問を繰り出したようにも思うが、何をどのように訊いたのかは憶えていない。彼が何をどう答えたのかも当然ながら憶えていない。
雨と風と雷の音が、深まりゆく夜を闇とともに包み込んでいた。鬼丸老の姿はいつの間にか見えなくなっていた。どこかに鶴子がいたのを見た気もするし、そう云えば〈北館〉の廊下で、例の江南という青年[#ここから太字](江南という名の、あの……)[#ここで太字終わり]に出くわしたような気もする[#ここから太字](塔から転落した、あの……しかし何故、という疑問がまた一瞬)[#ここで太字終わり]。冷え冷えとした石造りの棟の長い廊下を、ふらふらと向こうから歩いてきた。何をしているのかと玄児に問われても答える声が出せず、困り果てた顔で視線を彷徨わせていた――ような気がする。
〈東館〉二階の客室までは、きっと玄児が送り届けてくれたのだろう。服を着替えることもできずにベッドに倒れ込んだ時、事故で重傷を負った傴僂の玄関番のことを何故か突然思い出してしまった。今頃彼は〈南館〉のあの部屋で、どんな苦しみの中にいるのだろうか。苦しみ……死に向かう一方通行の苦しみ。苦しみの果ての死。死は無に通じるものなのか。無こそがこの世で唯一の永遠なのか。〈西館〉のあの〈開かずの間〉では昔、初代当主の玄遙が殺されたのだという。彼はどんな殺され方をしたのだろう。誰が殺したのだろう。卓蔵というのは確か、玄児の祖父の名だ。その卓蔵が同じ夜に自殺したのだという。玄遙や卓蔵はそうして死んで、中庭に作られたあの墓所に葬られたわけか。あの墓所は〈惑いの檻〉……何故に「惑い」なのだろう。誰が「惑う」のだろう。どうして「檻」なのだろう。何のための「檻」なのだろう……。
――どうぞ召し上がれ。
……ああ、これは美魚の声。
――召し上がって、中也さま。
これは美鳥の声。――完全なH型二重体の。チャンとエンの兄弟にも匹敵するほどの。妖しくも美しい畸型の双子たち。
――ためらうことなく食したまえ。
柳士郎の声に、他の者たちの声が合わさって。
――食したまえ。
〈ダリアの夜〉に。〈ダリアの館〉にて。ダリアに見守られ。その許しを受け。皆の大いなる祝福の下に……。
――食したまえ、それを。
――食したまえ、その肉を。
肉……ああ、やはり「肉」なのか。何が肉だったのか。何の肉だったのか。それを私は食べたのか。私は何を食べさせられたのか。私はそして……。
……雨と風と雷の音に包まれながら、いつしか私は眠りに就いた。底知れぬ暗黒の底へ呑み込まれるようにして、深い深い眠りに沈んでいった。
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間奏曲 三
分裂した視点≠ヘいかがわしい恣意性を孕んだまま、各々に不規則な浮沈を繰り返す。視点≠フ主体となるはずのもの[#「もの」に傍点]はいまだ昏い混沌の中にあって、半透明な隔壁の向こう側で展開する世界≠フ実像を掌握できないでいる。時折り何かの弾みで活性化する、感覚や認識や思考のたどたどしい断片。それらが結果として、混乱と錯誤を増幅してしまう可能性の皮肉。
すべてを包んで広がる闇は存外に柔らかく、そしてやはり、冷ややかな悪意に満ちている。
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1
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再び訪れた夜の片隅で、市朗は独り怯えつづけていた。
外では雨が降りつづいている。激しい雨だ。人の叫び声のような音を立てて吹きすさぶ風、不穏に震え鳴く草木、稲妻と雷鳴、濃密な闇の圧力……この夜に属する何もかもが、こぞって市朗の心を怯えさせる。
あばら屋と呼ぶのも気が引けるような古い木造家屋の中に、市朗はいた。かつて火事で焼けるかどうかした建物の、かろうじて被害を免れた部分が、修理もせず取り壊しもせずに放置してあるという、そんな廃屋であった。
ここが元々どういう部屋だったのかは、あまりに荒れ果てていて想像もつかなかった。壁は|罅《ひび》割れ、窓には一枚の|硝子《ガラス》も残っておらず、床板はそこかしこが腐って抜け落ちている。ぼろぼろになった天井の到るところから雨水が漏ってくる。
暗い部屋の隅の、雨漏りの害が及ばない一画に、いつ壊れてもおかしくないような汚い木製の机と椅子がある。その椅子の上に坐って、市朗は膝を抱えていた。稲妻が光り雷鳴が響くたび、両膝の間に顔を埋めて息を止める。寒くはないのだが、この何時間かというもの、身体のあちこちが震えて仕方なかった。
机には古びた折りたたみ式のランタンが一つ置いてあって、中で蝋燭が燃えている。そのおかげで、何とか昨夜のような真っ暗闇からは逃れることができていた。椅子の背板に掛けたリュックサックの中には、半分ほど囓ったフランスパンが一本入っている。このおかげで、どうにか空腹を凌ぐことができた。――どちらも、あの男の子[#「あの男の子」に傍点]が出してくれたものだ。感謝しなければならないと思う。けれど、それにしても……。
どうしたらいいんだろう、これからぼくは。
市朗は疲れ切った溜息を落とし、腕時計を見る。午後十一時過ぎ。あと一時間もしないうちにまた日が変わり、二十五日になってしまう。
昨日今日と家に帰れず、当然学校にも行けなかった。親たちはさぞや心配しているだろう。村中に騒ぎが広まっているかもしれない。こんなことになるのなら、せめて誰かに行き先を告げて出てくれば良かった……。
市朗は回想する。
湖畔の広場にあったジープの荷台で一夜を過ごし……今朝、目覚めたのは午前十時半頃だった。心身ともによほど疲労|困憊《こんぱい》していたのだろう。いったん深く眠り込んでしまうと、あとはひたすら、悪夢の一つも見ずに眠りつづけることができた。
目覚めてすぐに感じたのは、荷台の幌を叩く細かな雨音と喉の乾き、そしてひどい空腹だった。|寝惚《ねぼ》けまなこで周囲を見まわし、ここがどこなのか、自分が今どういう状況に置かれているのかを思い出した途端、昨夜と同じ不安と恐怖が、乾きと空腹感を押しのけて迫り上がってきた。
夜が明け、外では雨が降り出している。それでもそう、基本的な状況は何も変わっていないのだ。
雨はまださほど強い降りではなかった。リュックを背負い、野球帽の上にヤッケのフードを被り、恐る恐る車の荷台から降りた。空はどんよりと曇っているが、とにもかくにも明るかった。昼間の光の中にいる、ただそれだけの事実を、あれほど嬉しく感じたことはなかった。
大きく口を開けて天を仰ぎ、落ちてくる雨の滴で喉を湿らせると、すぐに空腹感が蘇ってきた。何か食べるものを……と考えて思いついたのは、桟橋のそばに建つ例の黒い石造りの家だった。あの中を探せばきっと食料があるに違いない。――が。
当然のように生々しく脳裡に再現される、昨夕のあの出来事、あの光景――。
鎧戸の合わせ目から建物の中を覗き込んで目撃した、あの異形の男。不健康そうな土気色の顔に気味の悪い笑みを浮かべながら、包丁を研いでいた。そこへ起こった、昨日二度目のあの地震。
建物の壁や天井が崩れ、家具が倒れ……散乱した|瓦礫《がれき》と硝子の破片の中、大きな棚の下敷きになって苦しんでいたあの男。鮮血にまみれ、恐ろしい形相で野獣めいた唸り声を上げていた、あの……。
あいつは今どうしているだろうか。
大怪我をしているかもしれないと思いつつも、市朗は恐ろしくてあの場から逃げ出してしまった。助ける勇気などとても持てなかった。――あいつはあのあとどうなっただろう。あのまま棚の下敷きになっているのだろうか。まさかそのせいで死んでしまったなんてことは……。
罪悪感と、それでもやはり消えることのない恐怖と……複雑な気持ちで市朗は、雨の中を湖岸の桟橋へ向かった。
湖に浮かんだ小島の姿を、市朗はその時になって初めて目にした。城壁のような高い石積みの塀が、島の周囲に巡らされているのが分る。屋敷の黒い影が、その塀の向こうから途切れ途切れに覗いているのが見える。
あれが――。
市朗は思わず身を震わせた。
あれが暗黒館……。
湖岸の例の建物は、入口の扉が半分開けっ放しになっていた。腹を括り、中に踏み込んだ。玄関からまっすぐに奥へ進み、男が倒れていたあの部屋に出た。壁と天井の一部が崩れ、瓦礫や硝子の破片が散乱した様子は昨日のままだった。ところが――。
市朗は思わず驚きの声を上げた。
いない。倒れた棚の下から、あの男の姿が消えてしまっているのだ。
自力で脱出した? それとも誰かがやってきて助け出したのだろうか。
罪悪感はいくらか薄らぎ、その分だけ恐怖が膨れ上がってきた。
この近くにあいつがいるかもしれないのだ。他の誰かがいるかもしれない。見つかったら、いったいどんな目に遭わされるだろう。
――あのお屋敷に近づいてはならぬ。
祖母に聞かされた言葉をまた思い出す。
――あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が棲んでおる。
市朗はおどおどとあたりを見まわす。そこで、入口の脇に置かれた台の上の電話機に気づいた。
飛びつくようにして受話器を取った。これで家に連絡ができる。助けを呼ぶことができる。
耳に押しつけた受話器からはしかし、何だか嫌な雑音ばかりが聞こえてきた。ダイヤルを回してみてもその音に変化はない。通じない。機械が壊れているのか。あるいは電話線に何か問題が起こっているのか。
諦めきれず、市朗は何度も受話器を戻しては取り上げ、ダイヤルを回してみた。けれども結果は同じだった。
どこかからその時、かすかな呻き声が伝わってきて、市朗の心臓を|鷲掴《わしづか》[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、387-上-4]みにした。どこか近くから、何やら苦しそうな人の呻き声が。
すぐにでも逃げ出したいのを我慢して、市朗は隣の部屋を覗きにいった。そこは寝室らしかった。奥の窓際にベッドが据えられている。窓の鎧戸の隙間から外の光が射し込んでいる。そして――。
ベッドの手前の黒い板張りの床に、呻き声の主の姿があった。
濃い鼠色の服を着た、それは昨夕見たあの男に間違いなかった。大きな瘤のある曲がった背中を横に向け、腹を抱えるような格好で転がっている。う、う……という苦しげな呻き声が、その口から低く洩れだしている。
自力で棚の下から脱け出し、ここまでやって来たものの力尽きてしまったのか。今まで気を失うかどうかしていたのだろうか。怪我の具合はどうなのだろうか。
声をかけようとして、ためらった。昨夕窓から覗き見てしまった、この男のあの不気味なにたにた笑い……あの時に感じた激しい恐怖がまたぞろ蘇ってきて、市朗の喉をこわばらせるのだった。
「あ、あの……」
やっとのことで声を絞り出した。
「あの……」
途端、男の身体がびくり大きく動いた。
市朗は掠れた悲鳴を上げ、次の瞬間にはその場から逃げ出していた。
建物から飛び出し、桟橋に向かって走った。桟橋には一艘の舟が繋がれていた。エンジンの付いた小型ボートだった。
あれに乗って島に渡ろうか。そして屋敷の住人に助けを……。
エンジン付きの舟などもちろん操ったことがなかった。オールがあれば何とか漕いでいけるけれど。そう思いながら建物の方を振り向いた。――と。
建物の影からよろめき出てきた灰色の人影を認めて、市朗は再び掠れた悲鳴を上げた。――ああ、あいつだ。あいつが追いかけてくる。ぼくを追いかけてくる!
我れを忘れてその場からまた逃げ出した。湖に沿って延びる小道を、雨に濡れながらまろぶようにして駆けた。
ひとしきり駆けつづけ、後ろを振り返った。男の姿は見えなくなっていた。
……大丈夫。大丈夫だ。
あいつは怪我をしている。走ってはこられない。きっともう大丈夫だ。大丈夫……。
乱れに乱れた呼吸を沈めながら、湖に浮かんだ島の方を見た。そこで初めて市朗は気づいた。
湖が……水の色が、変だ、青でも緑でも灰色でもない。何だか妙に赤いのだ。大量の絵の具でも流したように、湖面が赤茶けた色に染まっている。
元々こういう色の湖だったのだろうか。それとも何か理由があって、こんな色に[#ここから太字](……この色は)[#ここで太字終わり]変わってしまったのだろうか。
このまま湖のまわりを一周すれば、どこかに別の舟があるかもしれない。ふとそう思いついた。あるいは、そうだ、ひょっとすると例の土砂崩れを迂回して村に戻れる道が存在するかもしれないではないか。それが見つかれば……。
降りつづく雨の音と湖のざわめきにその時、異質な空気振動が加わった。エンジンが唸る音だった。市朗は驚いて桟橋の方へ目を馳せた。これは……さっきの舟の?
桟橋を離れて動き出す舟の姿が見えた。運転しているのはあの男だった。
一瞬、男が舟を使って自分を追いかけてきたのかと思った。だが、すぐにそうではないと分った。舟はまっすぐ島の方へ向かっているのだ。
赤茶けた湖の上を[#ここから太字](この赤い色は……)[#ここで太字終わり]、舟は滑るように走っていく。エンジンの唸りが高まる。ぐんぐんと舟のスピードが上がる。沖に浮かんだ黒い島影をめざして突き進んでいく。市朗は湖岸に立ち尽くし、息を呑んでその様子を見守っていた。
予想だにしていなかった事態が、やがて発生した。
猛スピードで湖上を突き進んでいった舟が、減速も方向転換もしないまま、石塀に囲まれた島の岸に激突してしまったのだ。破滅的な大音響が雨に煙る風景を揺るがし、ほんの何秒かの間に舟の姿は市朗の視界から掻き消えた。宙に飛び散る黒い破片がかすかに見えたような気もするが、乗っていたあの男がどうなったのかは分らない。
午前十一時半頃の出来事だった。
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2
[#ここで字下げ終わり]
あのあと――舟の激突事故の瞬間を目撃してしまった、あのあと……。
椅子の上で膝を抱えたまま、市朗は回想する。
……雨脚はだんだんと強くなってくるように思えた。湖の周囲を巡る小道を独り歩きつづけるうち、先ほどまでの激しい恐怖は収まっていった。あの男に追われる心配はもうない。あの男を恐れる必要はもうない。――が、それでもやはり、市朗が置かれた状況に基本的な変わりはないのだった。
足が重い。肩も腕も思い。そして何よりもお|腹《なか》が空いた。湖岸のあの建物に引き返して食料を探す気には、けれどもとうていなれなかった。
そんな状態で一時間ほども歩きつづけ、ちょうど島の裏側まで回り込んできた時のことだった。こちらの岸から島に向かって延びたその橋を、市朗が見つけたのは。
風雨にざわめく湖水の色は、暗い青鈍色だった。ということは、桟橋があるあちら側のあの赤茶けた色は、やはりこの湖に起こった何らかの特別な変化なのかもしれない。そう思った。
湖岸と島との間は、あちら側に比べると遙かに狭くなってきている。多めに見積もっても百数十メートルといったところか。その程度に距離が縮まった両者の間を、見慣れない形状の橋が繋いでいる。吊り橋でも桁橋でもアーチ橋でもない……そんな橋を見るのは、市朗は初めてだった。
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危険、渡るべからず
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橋の手前に立札があった。昨日この湖に出るまでの道で出遭った、そこから先が浦登家の私有地であることを示すあの立札と同じく、赤い角張った文字で警告の言葉が記されていた。
どうしようか――と、市朗は迷った。
どうやらこの橋は、湖に直接浮かんでいるものらしかった。「浮き橋」というのだろうか。筏のような浮き≠たくさん繋げて水に浮かべ、その上に板を渡して橋が造られているのである。
雨に打たれ風に吹かれ、湖面の波立ちに揺られ、橋はいかにも不安定そうな動きを見せている。リヤカーが通れるくらいの幅があり、両側に|握《にぎ》り|索《づな》も張られているが、要は度を過ぎて古くなっているために「危険」なのだろう。無理に渡ると壊れてしまう恐れがある、ということか。
しばしの躊躇の末、市朗は立札の警告に逆らって足を踏み出した。自分は小柄で体重も軽い。一人だけなら、気をつけて渡ればきっと大丈夫だ――と考えた。万が一湖に落ちてしまったとしても、泳ぎは苦手じゃない。
これ以上、湖のまわりをうろうろしていても埒が明かない。森に入っても迷うだけだろう。土砂崩れを迂回する道など、やはりありそうにない。仮にあったとしても見つかりそうにない。風雨は確実に強くなってきている。今にも遠くから雷の音が聞こえてきそうな気配もする。
とにかく島へ渡ろう、と決心した。
屋敷にどんな者たちが住んでいるのかは分らないけれど、このまま当てもなく|彷徨《さまよ》っているよりはましだろうから。だから……。
時刻はもう午後一時を過ぎようとしていた。市朗の背を押すかのように、強い風がひとしきり唸りを上げて吹きすぎた。
リュックを背負い直し、ヤッケのフードを被り直し、市朗はそろそろと橋を渡りはじめた。
湖上に浮かんだその橋は、覚悟していたよりもずっと不安定に揺れた。橋床も握り索も、確かに老朽化が激しい上、雨に濡れていてひどく滑る。一歩進むごとに足許で、みしみしと不穏な音が響いた。今にも腐った板を踏み抜いてしまいそうだった。浮き≠繋いだ鎖は錆びきっていて、ひっきりなしに嫌な軋み音を立てる。
ここで引き返そうかと何度思ったことだろう。あと少し、あと少し……と呟きながら、市朗はゆっくり歩を進めていった。
最後の十メートルほどは、思い切って一気に駆け抜けようとした。――それがまずかったのかもしれない。
ぎちっ、ぎちっ、という硬い音が途中から続けざまに聞こえてきた。鎖が切れる音らしかった。橋全体がそれまで以上に強く揺れ、そこかしこで不穏な異音を響かせた。足許でも何枚かの板が割れ、そのたび転倒しそうになった。すぐそこに見える向こう岸が、あれほど遠くに感じられようとは……。
それでも何とか橋を渡り切れたのは、実に幸運なことだったと云うしかない。市朗が転がり込むようにして岸部に渡り着いた、その途端――。
橋全体が大きく横にたわみ、ひときわ激しい異音とともに途中で断ち切れてしまったのだった。そうやって一箇所が壊れてしまうと、あとはそれこそ見る見るうちに、だった。相次いで木材の割れる音や鎖の切れる音が響き、橋のあちこちで連結が切れていった。対岸から延びてきている部分は、まるで水を泳ぐ大蛇のように身をくねらせてこちらから離れていき、湖上にはばらばらになった橋床の板や浮き≠ェ点々と散乱し……。
こうして市朗は島への上陸を果たしたわけだが、同時にあの浮き橋を渡ったこの世で最後の人間となってしまったのだった。
橋のそばにはささやかな桟橋が造られていたが、舟は一艘もなかった。桟橋の袂には、何やら建物の焼け跡らしき物が黒々と残っている。ボート小屋でもあったのだろうか。
岸辺からは長い石段が、緩やかな傾斜で上方へ延びていた。壊れてしまった橋にもう一度目をくれると市朗は、いつの間にか脱げてしまっていたヤッケのフードを、野球帽の上に被り直してしっかりと顎紐を結び、その石段を昇っていった。
昇り着いたところには、重厚な黒い門があった。内側から閂が下りているのか、門は力を加えても微動だにしなかったが、幸いにもその横手に設けられた通用口の木戸はすんなりと開いた。
木戸をくぐると、雑多な草木が鬱蒼と生い茂る広い庭に出た。そこですぐに目に留まったのが、入って左手――島を取り囲んだ石積みの塀に沿って作られた、この古びた建物だったのである。
蔦や蔓草に全体を覆われた、朽ち果てる寸前のような廃屋。
とにかく風雨から逃れたくて、市朗はその中に駆け込んだのだった。
[#ここから5字下げ]
3
[#ここで字下げ終わり]
市朗は回想する。
この建物を見つけて駆け込んだ、あの時はまだこれほど雨は激しくなくて、天井からの雨漏りも大した量ではなかった。濡れたヤッケを脱ぎ、リュックからタオルを取り出して顔や手を拭き……そうしてようやく少し人心地がついたところで――。
「だれ?」
という声が、建物の入口から聞こえてきた。
「だれ?」
驚いて声のした方を振り返ると、黄色い傘を持った何者かがこちらを覗き込んでいた。それが、あの男の子――「しんた」と名乗ったあの少年と市朗との出会いだったのだ。
「だれ?」
と、問いかけが繰り返された。傘を畳んで建物の外に置き、声の主はおずおずと中に入ってきた。茶色い半ズボンに青い半袖シャツを着た、坊主頭の少年であった。
「お、おれは市朗」
市朗は答えた。見たところ、自分よりも五つ六つ年下の子供だ。向こうもこちらの存在にびっくりしているようだった。
「I**村から来たんだ。それで……」
「I**むら……」
少年は首を傾げた。
「いちろう、さん?」
「ああ。――お前、この屋敷の子か?」
「ぼく、しんた」
「しんた? お前の名前?」
「おかあさん、しのぶ」
「しのぶ……」
自分より五つ下だとして八歳だが、それにしてはどうも言葉がたどたどしすぎるように思えた。反応そのものも鈍い。ひょっとしたら、少し知恵が遅れていたりするのかもしれない。
「お前、この屋敷の子なんだな」
と、市朗はもう一度同じ質問をしてみた。しんた――慎太はちょっと首を傾げながら、
「ぼく、おやしきの……」
そこでいったん言葉を切り、またちょっと首を傾げてこう云った。
「おかあさん、はたらいてる」
母が屋敷で働いている? 住み込みの使用人の子供だということか。
「ここは?」
と、市朗は訊いた。
「この建物は、何の」
「ここ、ぼくの……」
答えかけて、慎太は口ごもった。
「ぼくの……」
「お前の部屋?」
「ぼくの……」
市朗は改めて周囲を見まわした。壊れかけた廃屋以外の何物でもない。これがこの男の子に与えられた部屋だというのか。――まさか。
秘密基地≠ンたいなものなのかもしれない、とそこで思いついた。大人たちに隠れてこっそりと出入りしている、この子だけの秘密の遊び場所。
「屋敷の人たちはおっかない?」
と市朗は、これは切実な思いで訊いてみた。慎太はまた首を傾げ、しばし答えあぐねた末に、
「だんなさま、こわい」
そう云って足許に目を伏せる。
「怖い……そっか」
――あそこには良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が棲んでおる。
祖母の言葉がまたぞろ思い出され、市朗の心に不安と困惑が広がった。
「やっぱりな」
しばらくはこの場に潜んで様子を窺うべきだろうか、と市朗は思った。
目の前の少年は別として、もしも屋敷の住人たちがみんな、あの湖岸の建物の男みたいな恐ろしい連中だったらどうしよう。そんな、今さらながらのためらいが、ここへ来て急に大きく膨らんでくる。勝手に私有地内に侵入した上、さっきは島に渡るあの橋まで壊してしまったという罪悪感もある。舟の事故についても、自分にまったく責任がないとは云えないだろう。が、そのように思い|煩《わずら》う一方で――。
「腹、減ったなあ」
当面の自分の生物的欲求を、市朗は抑え込むことができなかった。
「何かここ、喰い物はないか」
と、慎太の方を見やる。
「おなか……へった?」
少年は不思議そうな目で訊き返す。――と、そこへ突然。
「慎太」
建物の外で誰かの大声がして、市朗を文字どおり飛び上がらせた。
「そこにいるのか、慎太」
男の声だった。何だかひどく怒っているような声音に聞こえた。
見るからにうろたえた顔で、慎太は背後を振り返る。市朗は声を低くして訊いた。
「誰? 誰が来てるんだ」
慎太は何とも答えず、おろおろと建物の外へ向かおうとする。それを市朗は「待て」と呼び止め、駆け寄って「しっ」と唇に指を当ててみせた。
「おれがここにいること、内緒だぞ。いま見つかったらまずいんだ。な、頼むよ」
慎太は曖昧な頷きを返し、それからそろりと建物の入口から半身を出して外を覗き見た。
「どうした慎太、そんなところで」
と、同じ男の声がした。慎太はすると、外から身を引っ込めて市朗の方を振り返り、
「ないしょ、ここ」
と云った。
この廃屋はやはり、あの少年の秘密の場所≠ネのだろう。だから誰にも「内緒」にしておいてくれというのが、あの言葉の意味だったのだと思う。
市朗が深く頷いてみせると、慎太はすぐに身を翻して外へ出ていった。
「何をしているんだ」
男の声が聞こえた。相手を叱責する強い口調だった。
「中で遊んでいたのか。危ないぞ、そこは」
頼むから黙っててくれ――と願いつつ、市朗は建物の奥に退いて小さくなっていた。
間もなく男の声は聞こえなくなった。しばらく経っても誰かがこちらに来る気配は感じられず、市朗はとりあえずの安堵に浸った。
慎太が再びやってきたのは、それから一時間足らず後のことだった。市朗は外に出てみる勇気も奮い起こせぬまま、建物の隅にうずくまってじっと空腹を抱えていた。
「いちろう、さん」
先刻と同じ黄色い傘を畳んで中に入ってきた少年は、そう呼びかけて不器用な笑みを見せ、
「ないしょ、ここ」
たどたどしく言葉を並べた。
「いちろうさんも、ないしょ」
どうやら誰にも云わずにいてくれたらしい、と分った。お互いにこの場所でのことを「内緒」にしておこうという、そんな了解が、少年の頭の中で成立したわけか。
「これ」と云って慎太は、紙袋に入れて持ってきた大きなフランスパンを差し出した。
「ないしょ、これ」
空腹を訴えた市朗に食べさせるため、家の者には「内緒」で持ち出してきてくれたのか。
市朗は礼を云うのも忘れて、受け取ったパンに齧りついた。満足に噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みもせず飲み込もうとしたら、喉を詰まらせてひどく咳き込んでしまった。
「ありがとうな」
一口目をやっと飲み込んでから礼を云うと、
「ここ、ないしょ」
と、慎太は繰り返した。彼は彼で、よほどこの場所のことを他の者たちに知られたくないらしい。
「分ったよ。内緒だな」
市朗は大きく頷いて応えた。
「誰にも云わないよ。云わないから、な、もう一つ頼んでもいいか」
慎太は首を傾げる。市朗は云った。
「蝋燭か何か、ないかな。蝋燭……分るか。夜になったら真っ暗だから、何か明りが欲しいんだ」
「ろうそく……」
首を傾げたまま少し考え込んだ後、慎太は部屋の隅に置かれていた汚い机に歩み寄っていった。そうしてその|抽斗《ひきだし》を開け、ごそごそと中を探り、やがて机の上に引っ張り出したもの。それがこの――いま市朗の目の前でささやかな光を放っている――ランタンだったのである。
あれから慎太は、ここにやって来ていない。
夕方になり、夜になった。市朗はこの部屋の隅でただじっと時を過ごした。闇の訪れとともに風雨はいよいよ強まってき、時折り思い出したように瞬く雷光と轟く雷鳴が、不安と恐れに凍った市朗の心をさらに凍りつかせた。
どうしようもない。とにかく今はここでこうしているしかない。――場所が違うだけで、昨夜とほとんど変わるところのない閉塞的な状況だった。
この夜が明けたら。この風雨が収まったら。
そうしたら何か手立てを考えよう、と思った。
昨夜とは違って、ぼくは一人じゃない。慎太というあの男の子――あの子だけはとりあえず味方≠セと、少なくとも敵≠ナはないと見なしてもいいはずだ。だから……。
市朗は腕時計に目を落とす。すでに日が変わり、針は午前一時に近づきつつあった。
ランタンの光が大きく揺らめいた。風よけの板硝子に四方を囲まれて立った中の蝋燭を見ると、もうずいぶん短くなってきている。燃え尽きるのは時間の問題だ、と悟った。
市朗は椅子から足を下ろすと、ほんの少しためらって、机の抽斗の一番上の段を開けてみた。予備の蝋燭がそこにしまわれていないかと考えたのだ。
抽斗の中にはいろいろなものが入っていた。ビー玉にヨーヨー、|独楽《こま》、|竹蜻蛉《だけとんぼ》といった子供の玩具。鉛筆やボールペン、彫刻刀、金槌に釘、|螺子回《ねじまわ》しなどの文房具・工具の類。どれもあの少年が持ち込んだものに違いない。ランタンもこれらの中の一つだったのだろう。屋敷の物置ででも見つけて持ち出してきたのか。
蝋燭が見つからなかったので、市朗は二段目の抽斗を開けてみた。上の檀徒は少しばかり毛色の違う品々が、そこには収められていた。
何本かの鍵が付いたキーホルダー、ライター、パイプ、指輪、イヤリングの片方、ネクタイピン、どこか外国の銀貨に銅貨……どれも子供の持ち物ではないようだが。それらに混じって一つ、焦茶色の札入れがあるのが目に留まった。何となく気になって中身を調べてみると、幾枚かの紙幣が入っている。札入れも紙幣も、どちらもひどく湿っていた。
紙幣とは別に、これもまたひどく湿り気を含んだ一枚の写真が入っているのを見つけた。取り出してランタンの光に近づけてみる。
古びた写真だった。どこか屋外で、まばらに立った木々を背景に二人の人間が写っている。一人は着物姿の中年女性。もう一人は瘠せっぽちの子供。子供は女性の横にぴったりとくっついている。二人は母子のように見えるが[#ここから太字](……ああ、この写真)[#ここで太字終わり]、市朗にしてみればもちろん、どちらもまったく知らない顔であった。
写真の裏面を見てみると、何やらメモのようなものが記されていた。だが、文字の大半が水気で滲んでしまっていて全部は判読できない。「……月七日……歳の誕生日に」――と[#ここから太字](この文字は……)[#ここで太字終わり]、かろうじてそれだけ読み取れた。
「ははあ」
市朗は思わず独りごちた。
「あいつ……そういうことか」
あの慎太という少年、どうやら屋敷のあちこちで見かけた雑多な品々を、こっそりくすねてきてここに隠しているらしい。この二段目の抽斗に入っているのはきっと、そうやって集めたあの子の宝物≠ネのだろう。だからなおさら、この廃屋が自分の秘密の場所≠ナあることを、屋敷の者たちに知られたくない――「内緒」にしておきたいわけか。
札入れを元に戻すと、市朗はさらに抽斗の中を探った。目当ての蝋燭は、その団の奥の方に何本かまとめて転がっていた。
抽斗にあったライターはガスが切れていて点かなかった。市朗はズボンのポケットから、昨日――いや、もう一昨日のことになる――森の中の事故車のそばで拾った例のマッチ箱を取り出した。いま燃えている蝋燭にも、このマッチを使って火を点けたのだった。
黄色いその箱の表には「喫茶シマダ」という店の名が印刷されている。所在地と電話番号も箱の隅に記載されていた。熊本市内にある喫茶店のマッチらしい。それがどうしてあの事故車のそばに落ちていたのか……。
新しい蝋燭を灯し、短くなったランタンの中の蝋燭と取り替えた。これで何時間かは保つだろう。
当初の目的は果たしたものの、まだ開けていない抽斗が二段残っていた。他にどんな宝物≠ェ隠してあるのか、無性に気になってくる。
市朗は三段目の抽斗を開けた。
多少はそんな予感がしていたのだが、そこに入っていたのは、あの年頃の男の子ならではの宝物≠フ数々だった。|橡《くぬぎ》に|樫《かし》、|楢《なら》――種々の|団栗《どんぐり》がいくつもあった。何でもない、ちょっと変わった形をしただけの石ころや、瓦のかけらのようなものがいくつかあった。それらに加えて、蛇や蝉の抜け殻、蜂の巣の残骸、|蟷螂《かまきり》の卵、鳥の羽根、干からびた|蜥蜴《とかげ》の死骸、などなどなど。大人が見たら顔を顰めて「捨ててきなさい」と叱りつけそうなものが、あれこれと集められている。
蛇の抜け殻や蜥蜴の死骸には、市朗もさすがに眉をひそめた。いま置かれた状況が状況であるだけに、なおさら気持ちが悪かった。
それでも三段目を閉めると、市朗は最後の段に手を伸ばした。
一番下のこの抽斗は他よりもずっと深さがある。宝物≠ェ入っているとしたら、やはり何かそれなりの大きさを持ったものだろうか。そんなふうに考えながら市朗は抽斗を開けたのだが、中でごろりと転がったその物体[#「その物体」に傍点]を見るや否や、「わっ」と短い声を発して机のそばから飛び退いてしまった。
「な……何だ」
市朗は強く目をしばたたいた。背筋に震えが走り、腕には鳥肌が立っていた。
「何なんだよ、今の……」
恐る恐る机のそばに戻り、上体を屈め、開いた抽斗の中を改めて覗き込む。最初の一瞬にそれ[#「それ」に傍点]と認めたのと確かに同じ物体が、そこにはやはり転がっていた。
「こんなものが、どうして」
最下段の抽斗に入っていたもの、それは土色に汚れた骨[#「骨」に傍点]だった。しかも、一目見て人間の頭蓋骨であると分る。
これが――これもまた、あの慎太という少年の宝物≠セというのか。いったいこんなものを持っていて、あの子は怖くないのだろうか。気味が悪くはないのだろうか。これは誰の頭蓋骨なのか。いつどこで死んだ人間の、これは……。
当面の唯一の味方≠セと見なしていたあの少年のことが、一転して得体の知れぬ、恐ろしい存在に思えてきた。震える手で抽斗を閉めると、市朗は机から離れ、雨水に濡れていない床を探してそこに坐り込み、そうしてひたすらにまた怯えつづけるのだった。
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
同じ夜の同じ頃――。
暗黒館〈東館〉一階の座敷に敷かれた布団の上で仰向けになり、江南は黒い天井を見つめていた。
明りは小さくしてある。先ほどからずっと、何とか眠りに就こうと努めている。が、そうすればそうするほどに目は冴えてきて、脳裡にはさまざまな光景が、しっかりとした脈絡もなく去来する。
身体のあちこちにあった鈍い痛みは、医師に与えられた薬のおかげもあるのだろうが、もうほとんどと云って良いほど消えている。疲労感もさほど強くない。全身を覆っていたあの痺れるような感覚も、時間が経つにつれて徐々に薄らぎつつある。眠って次に目覚めた時にはきっと、もっと良くなっているのだろうと思う。しかし――。
これからどうなっていくのか、江南自身にもいまだ予想がつかないのは、自分の内面――心の内側の問題であった。
――要は記憶がはっきりしないと、そういうことか。
――そうだね、君。記憶がない、思い出せない。そんな感じなのかな。
……そう。要はそういうことなのだけれど。
九月二十三日の夕刻、僕は一人でこの島に渡ってき、一人で〈十角塔〉に昇り、その最上階のバルコニーから転落したのだという。自身の記憶はいまだにはっきりしないが、そう云われるからには、それはきっと間違いのない事実なのだろう。
ここは湖の島に建つ館の中。暗黒館という異名を持つ浦登家の屋敷の。――「暗黒館」や「浦登家」といった名称には、心の内で散り散りになった記憶と響き合うものを感じる。確かに感じる。確かに、僕は……。
……そう。暗黒館と呼ばれるこの浦登家の屋敷をめざして、僕は長い山道を車に揺られてきたのだ[#ここから太字](……そうだ)[#ここで太字終わり]。そうだ。ところが、その車が途中で森に突っこんでしまって……。
昏く混沌とした心の中で、記憶の断片がのそりと身動きする。
……そう。森に突っこんで、大きな木の幹にぶつかって停まってしまった車。僕は、そして……。
そんなふうにして蘇ってくる記憶はいくつもあるのだった。だが、それらはあくまでも中途半端な断片に過ぎず、江南の過去と現在とをきちんと筋道立てて結びつけてくれるものではなかった。
塔からの転落事故のショックで、僕は記憶を失ってしまったらしい。そうなる前の僕の記憶――僕のこの心≠ヘ、どのような形≠していたのだろう。いや、そもそも「僕の記憶」とは何なのか。これ[#「これ」に傍点]こそが紛れもない自分自身であると確信できるような根拠を、そもそも人は何において見出すものなのだろうか。
……分らない。
肉体の回復とは裏腹に、頭の芯のあたりには依然あの痺れるような感覚がへばりついている。意識の多くの部分はやはり、朦朧としたままどこかを彷徨いつづけているようにも感じられる。――ああ、「僕」はいったい何なんだろう。
強く瞼を閉じるとおもむろに、この座敷の前の廊下で目撃したあの光景が浮かび上がってきた。
夕刻前――午前三時半頃のことだったろうか。何やら慌ただしい物音や話し声が、座敷にいる江南の耳にまで聞こえてきた。玄関ホールの方からだった。何だろう、何か大事でも? と、布団の上で横になったままぼんやりと考えていた。
やがて、前の廊下を気ぜわしげに走りすぎていく二人分の足音が聞こえた。続いて、さらに多くの足音が、複数の人間の話す声が、玄関ホールの方から響いてくる。廊下とホールの間を仕切る扉が開かれたためだろう、さっきよりもはっきりとそれらを聞き取ることができた。
――ひどいもんです。むこうでざっと診てみたが、こいつはかなり……。
――命に関わるような?
――さあ、とにかく部屋へ。
――〈南館〉の一階に、空き部屋とベッドがあるんだったね。
――一番手前の部屋です。
話し声はだんだんと近づいてくる。どれも皆、緊急の事態に上擦ったような声音だった。
――蛭山さん、聞こえますか。
――先生。
――全身打撲に骨折、頭部の傷も深手です。あるいは内臓も……。
誰か怪我人が出たのだろうか。何か事故でもあって、それで?
江南は起き上がり、廊下に面した戸を開いて外を覗き見た。折りしも、話し声の主たちが座敷の前を通り過ぎようとしているところだった。
担架を持った二人の男がいた。片方には見覚えがあった。昼間に座敷へやって来た人々のうちの一人だ。担架のそばに付き添った白衣の男は、野口先生と呼ばれていたあの医師。そして問題の担架の上には――。
身体に毛布を掛けられ、こちら側を向いてぐったりと横たわった男。血と泥にまみれた醜いその顔を見た途端、江南は激しいショックを受けて身を硬直させた。
ひどい怪我を負っているのに違いない。頭には包帯代わりのタオルが巻きつけられている。きつく閉じられた瞼にはびっしりと血がこびりつき、唇の端からは腐りかけた肉片のような舌が覗き……。
瀕死の重傷なのだ、と直感した。何か大きな事故があったのだ。それでこんな……。
江南は大きく口を開けて何かを叫ぼうとしたが、うまく声にならなかった。具体的にどんな言葉を発しようとしたのかは、自分でもよく分らない。
げほっ……と嫌な音がして、怪我人が痙攣のように身をわななかせた。
「大丈夫か」
と、担架のすぐあとに付いていた男――浦登玄児が声をかけた。
げほ、げぼっ……と嫌な音は繰り返され、怪我人の口から血泡が零れ出した。医師がハンカチで口許を拭いた。ひぃひぃというかぼそい呼吸音が怪我人の喉で鳴り、そこに不穏な雷鳴が覆い被さった。
「……ああ」
江南は掠れた呻き声を洩らした。満足な言葉にはやはりならなかった。
「あ……うう……」
きっともう、あの人の命は風前の灯なのだ。それであんなに苦しんでいる。それであんなにも苦しんでいるのだ。
やがて発作の治まった怪我人の目が、うっすらと開かれたような気がした。その弱々しい視線と自分の視線とが、一瞬合ったような気もした。すでに蘇ってきていた記憶の断片――病床に伏した彼女[#「彼女」に傍点]の顔が、表情が、嫌でもそこに重なって見えた。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で……ああ、おかあさん[#ここから太字](……お母さん)[#ここで太字終わり]。あの時、あの病室で、僕は……。
「さ、君――江南君は奥で休んでいたまえ」
浦登玄児の声がすぐそばで聞こえた。
「ちょっと事故があったんだよ。まったくね、昨日の君は運が良かったな」
やっぱり事故があったのか――と、そのとき思ったことを憶えている。のろのろと座敷を引っ込んで布団の上に坐り込むと、江南は「事故」というその言葉をひとしきり頭の中で繰り返していた。
するとそこで、おのずと引き出されてきたあの光景。――そう。それはあの……。
……森に突っこんだ黒い車。割れた硝子。飛び散った血。ひしゃげたボンネット。左手に感じた鋭い痛み。そして、僕は……。
……ふと。
今ここ[#「ここ」に傍点]にあって、夕刻前の出来事を回想しているこの[#「この」に傍点]意識。それが、何やら得体の知れない力でどこか[#「どこか」に傍点]へ引きずり込まれてしまいそうな予感に囚われ、江南は慌てて瞼を開けた。
薄明りの中、先ほどと何ら変わらぬ黒い天井が見えた。外で吹き荒れる嵐と自分の息遣い以外、何も聞こえてくる音はない。この座敷にいると時折り、どこからともなく洩れ伝わってくるあの音や声[#「あの音や声」に傍点]も、今はない。
江南は掌を額に当て、枕に後頭部を載せたまま緩く首を振る。
そもそも僕は、何故この暗黒館にやってきたのだろうか。何故――何のために、どんな関わり合いがあって、僕はこの浦登家の屋敷に……。
……分らない。やっぱり。
今にも手の届きそうなところに答え≠ヘある。そんな気はするのだけれど。
夕食は例によって、しのぶという名の使用人が運んできてくれた。その際、身振りで尿意を訴えて手洗いに案内してもらった。〈南館〉と呼ばれるあの建物に入って廊下を左手に進み、突き当たりを手前に回り込んだ場所だった。〈東館〉の奥にもあるのだがあちらは来客用なので、なるべくこちらを使うように――と、しのぶは云っていた。
その後、夜もだいぶ更けてきた頃になって、江南は別にこれといった目的があるわけでもなく座敷から抜け出した。
〈南館〉とは逆の方向へと足を進めてみた。
黒い板張りの廊下を突っ切り、そこから左手に折れて少し行くと、トンネルのような渡り廊下があった。座敷のある〈東館〉とはだいぶ趣を異にする広い建物に、それは続いていた。位置関係からして、恐らくあそこは〈北館〉と呼ばれているのだろうと思う。
しばらくの間、江南はふらふらとその建物の中を彷徨い歩いた。初めて足を踏み入れる、当然のことながらまるで見覚えのない建物だった。
大量の書物が置かれた部屋があった。ピアノの置かれた部屋や撞球台が置かれた部屋もあった。吹き抜けのだだっ広いホールもあれば、画材や描きかけの絵などで散らかったアトリエもあった。二階にも上がってみた。見知らぬ部屋ばかりが、やはりたくさん並んでいた。
そうこうして再び一階に戻り、薄暗い廊下をさらにしばらくの間うろうろしていたのだが、そこで浦登玄児に呼び止められた。「どうした。そんなところで何をしている」と咎められたように思う。答える声が出せず、江南はおろおろと視線を背けた。
「体調は回復しつつあるみたいだね」
そう云われたようにも思う。
「しかしまあ、あんまり勝手に邸内を歩きまわらない方がいいな。――なにか思い出せたかい」
左右に首を振って答えた。
玄児の横には「中也君」と呼ばれていた若い男が立っており、|胡乱《うろん》な目つきでこちらを見ていた。彼は一言も喋らなかったが、何だか顔色が悪くて、あるいは酒に酔ってでもいたのだろうか、玄児に支えられてたいそう覚束ない足取りで歩いていた。
座敷までは一人で戻ってきた。途中、〈東館〉の手洗いを見つけて用を足し、ついでに顔を洗った。その時、洗面台の上方にあった鏡を恐る恐る覗き込んでみたのだが――。
これが[#ここから太字](これは……)[#ここで太字終わり]僕の? というのが、最初に抱いた正直な感想だった。何かしらとても虚ろな面持ちをしている。何かしらとても哀しそうな目をしている。これが僕の顔か、前々から良く知っているような[#ここから太字](……激しく混乱せざるをえない)[#ここで太字終わり]、それでいてこれまで一度も会ったことがない赤の他人のような……。
とにかく休むように――と、玄児には云われた。抵抗する理由もなかった。云いつけに従って布団に潜り込み、眠りに就こうとしはじめてから、もうどのくらいの時間が経つだろうか。
江南は再び瞼を閉じる。
頭の芯にへばりついて消えないあの痺れたような感覚が、するとおもむろに一箇所に凝集していき、ひしゃげた球体のイメージを形作った。それはゆっくりと回転を始め、徐々に速さを増していく。さまざまな色のさまざまな断片がその表面で混じり合い溶け合い、回転の速度が頂点に達した時にはもはや真っ黒にしか見えなくなってしまう。そろりと手を伸ばすと弾き飛ばされる。もう一度手を伸ばすと今度は巻き込まれそうになる。何かがそこで起動している。何かがそこで壊れている。何かがそこで繋がっている。何かがそこで暴走している。何かが……何が、どのように? ……分らない。意味不明の。認識困難な。制御不能の。……担架に載せられた怪我人の。森に突っこんで大破した黒い車の。忌まわしい病の床に伏した彼女の、あの……。
江南は再び瞼を開ける。聞こえるのはやはり吹きすさぶ嵐の音だった。激しい雨と風、そして雷鳴。――ああ、そうか[#ここから太字](……あの日も)[#ここで太字終わり]。あの日も、あの時も、確かこれと同じような[#ここから太字](同じような……)[#ここで太字終わり]……。
ひときわ激しい雷鳴に、薄暗い座敷の湿っぽい空気がびりびりと震えた。
江南は三たび瞼を閉じる。幾筋かの涙が目尻から溢れ、頬を伝う。それに流されるようにして視点≠ヘ、この夜の底に広がった冷ややかな暗黒に沈み込む。
[#改ページ]
[#改丁]
第三部
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第十二章 混沌の朝
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1
[#ここで字下げ終わり]
立ち込めた蒼白い霧の中に、私はいる。
気が遠くなるほどの長い時間、私はここ[#「ここ」に傍点]を|彷徨《さまよ》っているように思う。自分が何者なのか、何のためにここでこうしているのか……そういった基本的な認識すら満足に持てず、彷徨いつづけている。彷徨いつづけるうちにやがて、ついに霧の途切れる時がやって来る。おもむろに開けた視界にそして、あの洋館[#「あの洋館」に傍点]が姿を現わす。
高い赤煉瓦の塀。青銅の格子扉が閉まった門。その向こうに建つ、二階建てのあの古びた洋館。――くすんだ象牙色の壁に這う珈琲色の木骨。紺青に塗られた急勾配の屋根と秘密めいた屋根窓。途轍もない謎を秘めた異国の城のような、あの……。
今はもうあるはずのないその建物が、こうして目の前にある。ということは――。
そう。むろんこれは現実の出来事ではありえない。私が眠りの中で見ている、これは夢なのだ。――意識の片隅でそう気づいてはいても、そこで生じた意志に従った行動を、夢の中の自分が取れるとは限らない。
あれほど濃密に世界を覆い尽くしていた霧が、気がつくと完全に消え去っていた。振り向くとすぐ後ろに、一人の幼い男の子がいた。三つ年下の、私の弟だった。
空にはいつの間にか赤黒い夕焼け雲が広がっている。どこからか|蜩《びくらし》の鳴き声が聞こえてくる。――ああ、これはあの夏の終わりの日の。今から十一年前、私がまだ八歳の時の。
門の格子扉に絡まった鎖はすっかり錆びて脆くなっている。扉をちょっと強く押すと、鎖は呆気なく断ち切れてしまう。私は弟の手を引き、開いた門の内側へと滑り込む。
荒れ果てた前庭を突っ切る赤煉瓦敷きの小道。閉ざされた玄関の茶色い扉。その横手に少し離れて並んだ窓のガラスが、幾枚か割れ落ちていて……。
……私は弟をその場に残し、窓の一つを開けて館内に忍び込む。玄関に回り込み、内側から扉を開けて弟を招き入れる。一瞬、まるで自分がこの洋館の住人になったかのような錯覚に囚われつつ。
心細げな弟を半ば無理やり引っ張って、家の奥へと延びた暗い廊下を進む。埃と黴と古い木材の匂いが、綯い交ぜになって鼻腔を刺激する。長らく人の出入りが途絶えた建物に独特の、この……。
異様な静寂に押し包まれた無人の部屋の数々を、私と弟は息を潜めて覗いてまわる。
家具に掛けられた白い布。汚れた窓硝子を通して射し込む夕暮れの赤い光。到るところにうずくまる濃淡さまざまな闇。その中に潜んで私たちの動きを見つめている何ものかの息遣いが、今にも聞こえてきそうな……。
……このまま奥へ奥へと進みつづければ、あるいは誰も見たことのない、世界の裏側のようなところにまで行き着いてしまうのかもしれない。ふとそんな予感を抱く。それがとても楽しみなような、同時にひどく恐ろしいような、不安定に引き裂かれる気分そのものがまた、私には何だか妙に心地好くもある。けれども次の瞬間、唐突に場面は切り替わってしまい……。
――どうしたの、そんなどろどろになって。
あの夏の終わりの日、洋館の探検≠終えて家に戻った私と弟に対して投げつけられた、これはあの人の言葉。今はもう会うことの叶わぬあの人――私の母の。
――何をして遊んでいたのです。
埃まみれになって返ってきた私たちの姿を見て、彼女は|訝《いぶか》しげに眉をひそめた。私は何となく後ろめたい気持ちで、単に裏の林で遊んでいただけなのだと答えた。
その嘘がばれたのは、後に弟が、恐らくは大した邪気もなしにだろう、自分たちが探検≠オた建物のことを母に話したからだった。
――いけませんよ。
母はそう云って、私を厳しくたしなめた。
――兄のあなたが、そんな……。
……ごめんなさい、母さま。
|時間《とき》を超えて交錯する遠い日の記憶。夢の中で再生されるあの人の声、面差し、仕草、匂い……。
――他人様の家に勝手に入るなど。
……でも、あのお屋敷には今は誰も。
――口答えは許しません。
……はい、母さま。
すべてはやはり、そこ[#「そこ」に傍点]で固定されてしまっているのだろうか。優しく美しい、冷たく恐ろしい、すぐ近くにいてとても遠い……そんな、複雑なようでいて実はしごく単純な形で。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
……ごめんなさい、母さま。
――今度同じようなことがあったら、お父様にきつく叱ってもらいますからね。
……はい、母さま。
……ごめんなさい、母さま。
「万が一のこと」とはどういうことなのか、具体的にはうまく想像できなかった。けれど、あの日あの洋館に足を踏み入れたその時点ですでに、私が心の隅でいくばくかの後ろめたさを感じていたのは確かだった。何かいけないことをしている気分――きっとその延長上に、母の云う「万が一のこと」があるのだろう。漠然とそう己を納得させた。――が。
私はもちろん知っている。
こうして母にたしなめられた後も、自分が幾度となくあの洋館に忍び込んでしまった事実を。誰にも内緒で。私一人だけで。
……ごめんなさい、母さま。
――まあまあ、困ったものねえ。
唐突にまた、夢の中の場面が切り替わり……。
お馴染みの童謡を歌う子供たちの声が、どこからか。いらかのなみと、くものなみ……五月五日、端午の節句。私の誕生日でもあるその日の、これは何故だか忘れられぬ光景。
――男の子のこのくせに、この子は。
庭に立てられた竿の先では三つの異形の影が風にたなびき、薄暗い座敷の一番奥には古い立派な武者人形が飾られていた。黒光りを湛えたその甲冑の、冷たい鉄の感触が、幼い時分の私には何だかとても不気味なものに思えた。
座敷に置かれた大きな姿見に今、子供の顔が映っている。この子供は、私だ。まだ三歳か四歳か、やっと物心がつきはじめた頃の。
私の頭には、たぶん父か母が戯れにそのようなことをしたのだろう、武者人形から外した黒い|兜《かぶと》が被せられている。鏡に映ったそんな時分の姿と向き合ううち、私の顔は見る見るくしゃくしゃに歪み、大声を上げて泣きはじめる。|厳《いか》つい兜を被った己の姿そのものが、単純に怖かったのだろうか。金銅で出来た二本の|鍬形《くわがた》が鬼の角に見えて、それで恐ろしかったのかもしれない。
――まあまあ、困ったものねえ。
姿見の前を離れてもまだ泣きじゃくる私を見て言い落とした、これもあの人の――母の言葉。
――男の子のこのくせに、この子は。
呆れ果てたような。冷たく突き放すような。
私は必死で泣きやもうとする。くすくすと|可笑《おか》しそうに笑う大人たちの声が幾重にもなって響き、薄暗い座敷の中に小さな渦を作る。私は兜を脱ぎ捨てて耳を塞ぐ。それでも笑い声は消えてくれない。強く耳を塞げば塞ぐほどに、渦はだんだんと大きくなっていき……。
……母さま。
……ごめんなさい、母さま。
気がつくとまた、私は無人の洋館の暗く長い廊下を歩いている。たった一人で歩いている。
――いけませんよ。
今はもう会うことの叶わぬあの人の声が、そこでまた。あの人の名前は|暁子《あきこ》といった。和服の似合う美しい人だった。
――いけませんよ、 さん。
どこからともなく降りかかるその声の、私の名前を呼んでいるはずの部分だけが、何故かしらひずみがひどくて聞き取れない。あの人はいつも私のことを「さん」付けで読んだ。弟のことは「ちゃん」付けだった。
――兄のあなたが、そんな……。
……ああ、母さま。
――清ちゃんは……どこ。
清ちゃん……これは? これは、違う。
――代わってあげられればいいのに、わたしが。
違うのだ。脈絡もなしにいきなり混ざり込んできた、これはあの……。
――お母さまもね、ちゃんと召し上がらなきゃあ駄目でしょ。
これも違う。
――さあさ、お母さま。
違う。これは浦登家のシャム双生児の片割れ、美鳥の声。物云わぬ彼女たちの母に対して投げかけられた、あの〈宴〉の席での。
――父は母を、死んだ最初の妻カンナを、とても愛していたから。
これは、そう、玄児の声だ。ああ、どうして今ここで、こんな……。
……暗く長い廊下を、私は独り歩きつづける。
建物の内部にいるはずなのに、いつの間にかあたりにはまた蒼白い霧が立ち込めはじめる。奥へ奥へと歩きつづけるうちに私は、ここが子供の頃に忍び込んだあの洋館の中なのか、
――いけませんよ、 さん。
それとも浦登玄児に招かれて訪れた異形の館の中なのか、
――大丈夫? 大丈夫よね、清ちゃん。
徐々に確信が持てなくなってくる。
――兄のあなたが、そんな……。
――どうした、中也君。
――他人様の家に勝手に入るなど。
――さうさ、お母さま。
――口答えは許しません。
――どうぞ召し上がれ、中也さま。
――万が一のことがあったらどうするのですか。
やがてはしかし、それらのすべてを飲み込むようにして、非常な赤黒い炎が燃え上がる。藤沼一成という画家の描いた不思議な絵の中の、あの不定形の赤≠ェ、さらにはこの春、白山の玄児の家の近所で発生した火災のあの猛々しい炎が、そこに重なり合って揺らめく。
――駄目だ、近寄っちゃあ。
誰かの声が、すぐそばで。
――危ない。ほら、下がってなさい。
……母さま。
私は泣きながら叫んでいた。
……ああ、母さま。
「……中也君」
誰かの声が、すぐそばで。
「中也君。おい、起きるんだ中也君」
はっと目を開くと、白い|紗《しゃ》のかかったような視界の中央に玄児の顔があった。
私はベッドの上に|仰臥《ぎょうが》していた。掛布団は床に蹴り落とされている。枕も同様だった。乱れたシーツを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、416-下-16]んだ両手の掌に脂汗の感触がある。額や首筋や背中も、汗で湿ってじっとりとしていた。
「あ……玄児さん」
霞んだ目を擦りながら、私はゆっくりと身を起こす。――ひどい気分だった。夢にうなされていたせいもあるだろうが、それより何より、昨夜の〈宴〉で度を過ぎて飲まされてしまった葡萄酒が、この気分の第一の原因であることは間違いない。
「――何か」
「とにかくしっかり目を覚まして、一緒に来てくれないか。厄介なことが起ったらしい」
そう告げる玄児の声音は、いつになく険しいものだった。「厄介なこと」とは何なのか。いまだに半ば夢の中を彷徨っているような心地で漠然と考えを巡らせながら、私はベッドから床に足を下ろす。
「あの……いったい何が」
と、私は訊いた。
「蛭山さんが、死んだ」
玄児の返答を訊いて、私は「ああ」と溜息を落とさざるを得なかった。
「あの重症では、やはり……」
翌朝まで|保《も》つかどうか、という昨夕の野口医師の所見は正しかったわけか。――ところが。
「違うんだよ、中也君」
まるで予想もしていなかった言葉を、玄児は私に向かって投げ返したのだった。
「そうじゃない。蛭山さんは昨日の事故の負傷が原因で死んだんじゃないらしい。誰かに殺されたらしいんだ[#「誰かに殺されたらしいんだ」に傍点]。
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その言葉の意味を把握するのに、何秒かの時間がかかった。ようやく把握できてもなお、その意味が意味するところのもの[#「その意味が意味するところのもの」に傍点]が何なのかを理解することは出来なかった。
蛭山丈男が死んだ。――殺された[#「殺された」に傍点]。
いったい何故、そんなことが起こるのか。起こらねばならないのか。
いまだに半ば夢の中を彷徨いつづけている私の意識が捉えた、これは現実には起こっていない事件≠フ情報なのではないか。真面目にそう疑いたくなったほどだった。
立ち上がると、気分はいっそうひどくなった。胃のあたりがむかむかするのに加えて、頭も身体も鉛を詰め込まれたように重く、怠い。
これ以上一歩も動きたくない、と云うのが本音だったが、事態が事態である。「一緒に来てくれないか」という玄児の要請を断わるわけには、よもやいかなかった。
「どこですか」
気力を振り絞って、私は訊いた。
「一緒に……どこへ行けば」
「昨日のあの部屋だ。〈南館〉一階の一番手前の」
「――すぐに追いかけますから、玄児さんは先に」
そう応えたものの、このままだと足がふらついてまっすぐ立っていることも難しい。頭の回転も限りなく鈍い。とにかくまず冷たい水を飲んで、顔を洗って、身体が要求するならば胃の中身を戻してしまうなり何なりして……それからでないと、とうてい満足な行動も思考もできそうになかった。
時刻は午前十時前だった。
昨夜この部屋に戻ってきたのが何時だったのか、よく分らない。着の身着のまま、腕時計も外さないままで私は眠り込んでいたのだった。
頭の中に散乱している昨夜の記憶のかけらをのろのろと拾い集めながら、私は部屋を出て階下に向かった。〈東館〉の北端にある洗面所へ行き、顔を洗う。口をゆすぎ、水を飲む。胸のむかつきはそれで治まるどころか、いよいよ強くなってくる。
たまらず手洗いに駆け込み、便器の前で状態を折り曲げて吐いた。もっとも、昨夜食べたものはとうに胃袋を通り過ぎており、食堂を逆流してくるのは今飲んだばかりの水と、それに混じった黄色い消化液ばかりだったのだが。
ひとしきり|嘔吐《おうと》の発作に苦しんだあと、もう一度顔を洗い口をゆすいでから洗面所を離れた。完全に気分が治ったわけではもちろんなかったけれど、とりあえずこれで、多少なりともまともに動けるだろう。――しかし、それにしても。
蛭山丈男が殺された。
あの|傴僂《せむし》の玄関番が、〈南館〉のあの部屋で。
さっきの玄児の知らせは本当なのだろうか。何かの間違いではないのか。私を驚かせようとしていった冗談……まさか。いくら何でも、そこまで悪趣味な冗談を云うような男では、玄児はない。
蛭山丈男が殺された。
それが事実だとして――。
「殺された」という空には当然、彼を「殺した」人間が存在するわけである。殺した人間――殺人犯が[#「殺人犯が」に傍点]、今この屋敷の中に[#「今この屋敷の中に」に傍点]。
覚束ない足取りで、私は黒い板張りの廊下を引き返す。外では雨が降りしきっている。風の音も聞こえてくる。台風一過、というわけにはまだまだいかないようだった。
玄関ホールを横切り、棟の南側へと延びる瓦敷きの廊下に足を進めたところで――。
気になって、〈表の座敷〉を覗いてみた。
薄暗いその部屋の真ん中に敷かれた布団のように変わりはなく、江南というあの青年の姿もそこにあった。戸を開ける音に気づいたのだろう、彼はもぞもぞと上体を起こしてこちらを見た。私と目が合うと、物問いたげに大きく首を傾げたが、その口から発せられる言葉はない。相変わらず声を出すことができないのか。
「何でもないんだ」と伝えるつもりで黙って首を横に振り、私はそっと戸を閉めた。
〈東館〉と〈南館〉を結ぶ廊下の黒煉瓦敷きの床は雨ですっかり濡れていた。この渡り廊下には、屋根が設けられているだけで壁がない。昨夜から今朝までの間に、相当に激しい横殴りの雨が降った証拠だった。
〈南館〉に入り、小ホールから建物の奥へと延びる廊下を進むとすぐ、問題の部屋の扉が開いているのが見えた。瀕死の重傷に|喘《あえ》いでいた玄関番の血まみれの顔が、嫌でも頭にちらついた。
|鳩尾《みぞおち》に両手を当てて深い呼吸をしながら、私は扉に向かって足を踏み出す。
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手前の居間には小田切鶴子の姿があった。奥の壁際に置かれた寝椅子にぐったり腰を下ろしていた彼女は、部屋に入ってきた私に気づくや、「あ……」と驚いたような声を洩らして立ち上がった。
「ここは今、取り込んでおりまして」
そう云って寝室の扉の前に身を移し、両手を後ろに回してノブを押さえる。「この中には入らせない」という強い意思表示だった。
「玄児さんに呼ばれたんです」
臆することなく足を進め、私は訴えた。
「蛭山さんが殺された、一緒にここへ来てくれと」
「玄児様に……」
|呟《つぶや》いて、鶴子は視線を宙に泳がせる。何やら表情が虚ろだった。ゆうべ私を〈西館〉の〈宴の間〉まで案内してくれた彼女が、立ち去り際に投げかけたあの、増悪とも羨望とも取れるような鋭い眼差しを思い出しながらも、私はさらに足を進め、彼女との距離を詰めた。
「……さようでございますか」
やがて静かに|頷《うなず》いて、鶴子は私に背を向ける。そうして寝室の扉を細めに開き、
「玄児様」
勘定を押し殺したような声で室内に呼びかけた。
「玄児様。中也さまがおいでになりましたが」
間もなく扉の隙間から玄児が顔を覗かせた。鶴子は目を伏せ、黙って脇へ退く。
「やあ、遅かったねえ」
玄児はにこりともせずに寝室から出てき、私の姿を上から下まで舐めるように見た。
「大丈夫かな、気分は」
「あまり大丈夫でもないのですが」
答えて、私は右手で鳩尾を押さえてみせた。口の中にはまだ、さっき吐いた胃液の味が残っていた。玄児は「ふん」と低く鼻を鳴らし、
「もっと気分が悪くなること請け合いだが。――どうする。入るかい」
「それは……」
この奥で待ち受けている無惨な光景を想像して、私は鳩尾を押さえたまま言葉を詰まらせた。どうやら玄児は、誰かから事件発生の知らせを受けてここへ駆けつける、その前に私の部屋に立ち寄ったものらしいが。
「中には、他にどなたか」
「野口先生が。その他には死人だけだ」
「…………」
「無理強いはしないさ。だが、できれば君にも関係者の一人として、直接現場を見ておいてもらった方がいいと思ってね」
「関係者の一人?」
「浦登家の関係者の一人として[#「浦登家の関係者の一人として」に傍点]、だ」
と云って、玄児は蒼白い頬にほんのかすかな笑み――私にはそう見えた――を|滲《にじ》ませる。何だろう、と私は思った。この笑みの意味は、いったい。
「どうする、中也君」
重ねて訊かれて、私は迷った。
生命の抜け殻となり果てた蛭山丈男の身体が今、この向こうにはある。あの傴僂の玄関番の死体――しかも他殺死体――が、この扉の向こうに。
そんなものをわざわざ見たくなどない、と|怖気《おぞけ》をふるう私の心の中にはしかし、同時にまったく逆の思いが存在するのだった。単純にそれを――人の死体を「見てみたい」という思いが、この心のどこかに、確かに。
「分りました。それじゃあ――」
鳩尾から手を離し、私は答えた。
「関係者の一人として、私も」
玄児は頷き、先に立って寝室の中に戻った。扉の脇に退いて目を伏せたままでいる鶴子に無言の一瞥をくれてから、私は友人のあとを追った。
居間と同じ八畳ばかりの広さの洋間。磨り硝子の上げ下げ窓が中央に設けられた正面奥の壁にヘッドボードを付けて、二台のベッドが並んでいる。天井の電灯とは別に、ベッドの脇に置かれた小テーブルで、ナイトスタンドが柔らかな光を放っている。昨日重症の蛭山が寝かされていたのは、二台のベッドのうちの向かって右側だったが――。
その同じベッドの上で、だった。蛭山が死んでいたのは。
「本当にこの人は、誰かに殺されて?」
恐る恐るベッドのそばへ歩み寄りながら、私は玄児に訊いた。皺だらけの白衣を着た野口医師が二台のベッドの間に立っており、
「それは一目瞭然ですな」
玄児に代わって私の問いに答えた。
「ご覧になれば、あなたにも分るでしょう」
ベッドに横たわった蛭山の身体には灰色の毛布が被せられている。足先から頭の先まで、すべてを隠して。医師が立つのとは反対側のベッドサイドに私が歩を進めたところで、玄児が毛布に手を伸ばし、顔に掛かっていた部分をそっと引き剥がした。
露わになった蛭山の顔を見て、私は思わず口許に手を当てて|呻《うめ》いた。
頭部を包帯でぐるぐる巻きにされた、あの玄関番の顔。もともと血色が悪くて土気色に見えたその顔が、今は汚い紫色に腫れ上がっている。ぎろりと完全に白眼を剥き出し、分厚い唇の端からはだらしなく舌を覗かせている。そして――。
その喉許――ずんぐりとした首のまわりに、何か茶色いものが、皮膚に喰い込むようにして巻きついているのだった。
「ズボンのベルトだよ」
と、玄児が云った。
「蛭山さん自身が履いていたズボンのベルトで、このとおり首を絞められている。抵抗したような形跡はまるでない」
「昨日ここで彼の手当てをした際、ズボンは脱がせてそっちに置いておいたのですが」
野口医師がそう云って、埃よけの白い布が掛けられたままのもう一台のベッドを振り返る。医師の言葉どおり、そこにはどろどろに汚れた鼠色のズボンが、蛭山の着けていたその他の衣類とともに放り出されていた。
「何者かがそのズボンからベルトを抜き取り、それを使って蛭山さんを絞殺した。そういうことだな」
憮然とそう云うと、玄児は医師の方を見やって確認した。
「直接の死因はその行為による窒息、と考えて良いのですね」
「さようですな」
野口医師は白髪混じりの|顎鬚《あごひげ》をぞろりと撫で下ろす。昨夜は飲酒の量を控えたのだろうか、今日は酒の匂いがほとんど漂ってこない。いや、しかしこれは単に、私自身がいまだ体内に酒気を残しているような状態なので、紛れて気がつかないだけなのかもしれない。
「浮腫状を呈した、淡い紫赤色の顔面。これは絞死の典型的な所見です。眼球がやや突出していて、瞼と結膜には|溢血斑《いっけつはん》がある。これも同様に絞死の所見ですな。首に巻きついたベルトの下には索溝も見られますから、ほぼ百パーセント間違いありますまい。絞殺された死体です、これは」
「死亡した時間は、だいたいいつ頃だと」
「私にできる範囲で検分してみたのですが――」
云いながら医師は、ベッドの上に力無く投げ出された蛭山の右手にみずからの手を伸ばす。そうして死体の指の開き具合を確かめながら、
「死後硬直の進行程度から察するに、そうですな、現時点で死後七時間から八時間ほどが経過していると思われる。体温低下の度合も、まあそれに合致するような感じですな」
「ということは――」
玄児が腕組みをして云った。
「いま午前十時半だから、彼が死んだのは今日未明――午前二時半から三時半くらい、か。幅を取って午前二時から四時……」
「あまり私の見立てを鵜呑みにしてもらっても困りますが」
野口医師は死体の指から手を離すと、元どおり毛布を掛けて顔を隠した。
「法医学の専門家じゃありませんからな、私は。本来は司法解剖に出して、もっと詳しくあれこれと調べねばならんわけで……」
室内には何とも嫌な臭気が立ち込めている。
腐敗臭が出はじめるにはまだ早すぎるから、これは恐らく、死の間際に被害者が排出した汚物の匂いなのだろう。私は右手で口と鼻を押さえ、左手で上腹部を押さえ、込み上げてくる|悪心《おしん》を懸命にこらえなければならなかった。
玄児がやがて、医師と場所を交代して二台のベッドの間に立ち、この部屋に唯一ある窓の状態を調べはじめる。内側の上げ下げ窓にはちゃんと錠が下りており、外側の鎧戸にも特に不審な点は見られない模様だった。
そんなにべたべたと現場のあちこちを触っても良いのだろうか。手袋もせず、ハンカチで手を包んだりもせず。
ふと私はそんな危惧を覚えた。
過去に読んだ多くの探偵小説。それらの中で描かれていた幾多の殺人事件の、現場操作の場面がついつい思い出されたからである。
警察がやってきて鑑識等の捜査が開始された段階で、よけいな指紋や足跡が現場に残っていてはまずいだろう。「現場保存」という用語がちらりと頭に浮かんだりもした。
「警察は?」
と、私は訊いた。
「この事件のことは、もう連絡を?」
玄児はすると、何とも複雑そうな表情で野口医師と顔を見合わせ、それから二人して小さくかぶりを振った。
「どういう意味ですか」
私はさらに訊いた。
「まさか、まだ……」
玄児は窓辺から離れて私のそばへ近寄ってき、両手を腰に当てながら掠れた息をつく。そうして事の経緯を簡単に説明し始めた。
「今朝、ここでこうして蛭山さんが死んでいるのを発見したのは、しのぶさんだった。彼女は隣の部屋の寝椅子で一夜を明かしたんだ。怪我人の容態が急激に悪化した時のために、要はその見張り役としてね。何か変事があれば、すぐに鶴子さんなり先生なりを呼びに行くことになっていたという」
傍らに立つ野口医師にちらと目配せをしてから、玄児は説明を続ける。
「実際のところはしかし、定期的にこの寝室を覗いて蛭山さんの様子を確かめることはできなかったらしい。彼女もたいそう疲れていたから、寝椅子に横になっているうち、やがてすっかり眠り込んでしまった。――で、目が覚めてこの部屋を覗いてみて、蛭山さんの状態がおかしいことに気づいたのが、午前八時半頃。彼女は慌ててそのことを鶴子さんに報告した。鶴子さんの部屋はこの棟の二階――しのぶさんと慎太の母子が使っている部屋の真上に当たる位置なんだが。ちなみに、ここの真上に当たる部屋は、宍戸さんが寝起きに使っている。
知らせに驚いて駆けつけた鶴子さんは、蛭山さんがこうして変死している事実を確かめると、とにかくそれを父――柳士郎に伝えにいった。父は鶴子さんに命じて野口先生を呼び起こさせ、先生と一緒にここへやって来た。そうしてこの死体を自分の目で見、しばらく考えた末に判断を下した[#「判断を下した」に傍点]。――そういう話でしたよね、先生」
と、野口医師に向かって玄児が確認する。鼈甲縁の眼鏡を上げて指先で目を擦りながら、医師は「さよう」と答えた。
「俺が事件発生の報を聞かされたのは、さらにそのあと――父がすでにこの部屋から立ち去ったあとのことだった。午前九時四十分頃だったかな。知らせにきてくれたのは鶴子さんだった。彼女を先に戻して、俺は中也君、君の部屋によって君を起こしてから、大急ぎでここに駆けつけた。――とまあ、そういった次第さ」
「なるほど」
ベッドの上の死体の膨らみが目に入ってこないよう、視線を足許に落としたまま私は頷いた。
「――で?」
私は悪心をこらえながら質問した。
「その、お父上がこの場で下された判断というのは、どんな」
「それは……」
玄児は険しく眉根を寄せて、
「蛭山丈男は昨日の事故で負った重傷のため、今日未明に息を引き取った。死因は脳挫傷。死体の様子にとりたてて不審な点はない」
「――はあ?」
私は思わず首を傾げ、声を発せずにはおれなかった。
「どういうことですか」
「『私にはそのようにしか見えないが』と、柳士郎氏は云われたのですよ」
野口医師が横合いから答えた。
「『速やかにそのような死亡診断書を書くようお願いする。分ったね、村野君』と」
「そんな次第だから――」
玄児が後を受けて云った。
「急いで警察に連絡する必要もない、ってわけさ。父の意向どおりに事が運ぶならば、死体が司法解剖に処されることもなければ、刑事たちがこの現場に残された指紋や足跡の類を調べることもない」
返す言葉が見つからずに口を閉ざした私の顔を覗き込んで、
「どう思う、中也君」
と、玄児は訊いた。
「関係者の一人として、この事態を」
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訊かれても、返す言葉はやはりすぐには見つからなかった。いったん面を伏せて大きく呼吸をしてから、私は玄児の目から顔を背け、ベッドの上の物云わぬ膨らみに当惑の眼差しを投げた。
みずからのベルトで絞め殺された、あれは蛭山丈男の死体。彼を殺した何者かが今、この屋敷にはいる。いかなる状況であろうと、殺人は極めて重大な犯罪だ。少なくともこの国の法律では、厳格にそう規定されている。それが発生した際には警察に通報する義務が、私たちにはある。――なのに。
「どうしてお父上は、そんなことを」
関係者の一人として、私は問い返した。玄児はすると、彼自身も内心は当惑しきっているのに違いないが、険しく眉を寄せたまま答えた。
「父の真意は、正直云って俺にも測りかねる」
「それじゃあ……」
「けれども彼がそう命じたからには、何かしらの理由がそこにあるんだろう。俺たちは正面切ってそれに逆らうことはできない。もっとも、仮に逆らったとしても、天候は相変わらずだし湖を渡る舟もない。この屋敷の孤立状況は昨夕と同じだから、警察もすぐには来られないわけだが」
「そんな……」
私は野口医師の方を見やり、
「先生も? 玄児さんと同じですか」
医師は顰めっ面で頷いた。
「むろん、医者としても善良なる一市民としても、多分に抵抗は感じますが。それでもそう、この家ではやはり……」
柳士郎の命令に背くわけにはいかない、と云うのか。「浦登家における絶対的な権力者」という例の文句が、否応なく思い出された。
「柳士郎氏と先生とは、旧知の仲でいらっしゃるのでしょう。何とか説得して……」
「いいや」と医師は緩く首を振り、
「むしろ旧知の仲であるだけに、私には」
よけいな口出しはできない――と、そう云うのだろうか。私は思わず声高になって、
「しかしですね、これは殺人事件なんですよ。こうして人が一人殺されて」
そこまで云ったところで、はっと思いついた。
「まさか、犯人はあの人――浦登柳士郎氏本人で、それで……」
「まさかね」
と、即座に否定したのは玄児だった。
「父が何で蛭山さんを殺す必要がある? 考えられないな」
「――しかし」
「蛭山さんの事故や塔から墜落したあの青年の件に関する父の対応を、昨日君も見ただろう。病院や警察への連絡について、いくら俺が云ってみても、彼はまるで耳を貸そうとはしなかったろう? ――あの人は基本的に外部の物の介入を好まない。警察や何かが|雪崩《なだ》れ込んでくることで、この屋敷の場の均衡≠ニでも云うのかな、それが破られてしまうのをとても嫌がる。何かにつけてそうなのさ。だからこの場合も……」
「ですが玄児さん、いくら何でも」
「もちろん分るよ、君の云わんとすることは。分ってるさ。だがそれは……」
語尾を濁して口を|噤《つぐ》む玄児の顔をねめつけ、
「人殺しがいるのですよ」
いくぶん声を荒げて、私は訴えた。
「人殺しが、この家に」
「この家に――この浦登家の者の中にいる、と云うのかい」
そう。そうだ。――だからつまり、浦登家のこの屋敷の中でこんな、殺人事件などというものが起こってしまったこと自体が、きっと主人の柳士郎にしてみれば不名誉極まりない事態なのだろう。なおかつその犯人がこの家の者の誰かだなどという話になれば、それはもう一大不祥事である。「何かしらの理由」とは結局、そういうことなのではないか。
「でもねえ、中也君」
玄児は落ち着いた口振りで云った。
「ここでこういった事件が発生した時、普通疑われるべきなのは果たして、この家の住人だろうか」
「――と云うと」
「この家に住む者の一人が犯人であるとして、何故その彼もしくは彼女は、わざわざ今日というこの日を選んで、このタイミングで犯行に及ぶ必要があったのか」
「…………」
「蛭山さんが憎くて殺したいと思っていたのなら、別に今日じゃなくても良かったわけだろう。首藤のおじさんたちをはじめとして、複数の人間が外から訪れている、よりによってこんな時期に、わざわざ殺人なんていう危険な大仕事を実行に移したりはしないんじゃないかな」
「――確かに、まあ」
「とするとだね、まず疑われるべきなのはむしろ、浦登家内部の人間ではなくて外部の人間だという話になりはしないかい」
「外部の……」
「今この時期に、外からこの屋敷にやってきている者たち、だね。まず首藤の三人。利吉のおじさんは出掛けたきり戻ってきていないから除くとして、茅子さん、そして伊佐夫君。どこのどういう人間だか分らないが、あの江南君という青年もそのうちの一人だな。野口先生も一応来客の中に含まれるし、それから中也君、君も」
「私が?」
呆気にとられて、私は目をしばたたいた。
「どうしてそんな」
「たとえば、ひょっとしたら君は、以前どこかで蛭山さんと何らかの関わりを持ったことがあるのかもしれない。それで実は、彼を殺したいと密かに思いつづけていて……とかね。いくらでも強引な想像をすることはできる」
「|莫迦《ばか》な」
「莫迦な……そう。きっとみんなそう云うんだろうねえ」
玄児は眉間に刻んでいた皺を消し、着ていた黒いカーディガンのポケットから煙草の箱を探り出す。中から一本取って唇の端に|銜《くわ》えながら、
「しかし、それでも犯人はいる[#「それでも犯人はいる」に傍点]」
きっぱりとそう云い放った。
「この屋敷、いや、この島のどこかに[#「この島のどこかに」に傍点]。可能性はいろいろと考えられる。家の者でも来訪者でもない何者かが、こっそりと島に侵入している可能性も皆無ではないわけでね」
「お父上が何と云われようと――たとえ野口先生が虚偽の死亡診断書を書かれたとしても、殺人自体がなかったことにはなりません」
何とか冷静な口調を取り繕って、私は云った。
「少なくとも、今こうして事態に直面している私たちにとっては」
「賛成だよ」
火の点いていない煙草を銜えたまま、玄児は応えた。
「当面は父の命令に従うにしても、だからもうこの件については考えない、というわけにはいかない。然るべき検討はつづけるべきだろうと思う」
「然るべき?」
「蛭山さんを殺したのは誰か。俺はやはり、それを知りたい、知らねばならないと思う。関係者の一人として、ね」
玄児のその台詞にはしかし、たとえば「罪を犯した人間を見つけ出して糾弾せねば」というふうな気負いはさほども窺えない。目を眇めてベッドの方を振り返る、その素振りにはむしろ、何やら変温動物めいた冷ややかさが感じられた。
「ざっと見たところ、この場に犯人の遺留品と思しきものはないな。あるいは指紋が残っているのかもしれないが、俺たちには調べる手立てがない。足跡については、このとおり――」
玄児は部屋の床を見渡して、
「昨日蛭山さんがここに運び込まれた際、野口先生の云いつけで、しのぶさんがこの床を掃除したんだったね。埃が積もった状態のままだったら、それらしき足跡の一つも付いていたかもしれないわけだが……」
確かに、黒い板張りの床はきれいに拭き清められていて、明らかな足跡が残るような状態ではなかった。
「とりあえずここは出ようか」
そう云って、玄児は出口の方へ軽く顎をしゃくった。
「臭いがたまらない」
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隣の居間では鶴子が、先ほどと同じ位置に立って待機していた。私の存在をわざと無視するような感じで、彼女は一直線に玄児の方を見つめ、
「あの、玄児様。蛭山が死んだのは、やはり?」
こわばった声でそう問いかけた。
「見たんだろう、鶴子さんも」
玄児はすぐに訊き返した。
「死体の首に巻きついていたあのベルトを」
「――はい」
「自分であんな真似をしたはずがないからね。誰かに殺されたとしか考えられないな」
蒼ざめた頬に手を当てて、鶴子は無言で目を伏せる。黒いブラウスを着た肩がわずかに震えていた。
「ところで、鶴子さん」
間をおかずに玄児が訊いた。
「今日未明――午前二時から四時の間、鶴子さんはどこで何をしていた」
「はい?」と首を傾げて、鶴子は一瞬言葉に詰まった。
「まさか、それは……」
ちりりん、とその時、軽やかな鈴の音が部屋に鳴り響いた。廊下側の扉の横に設けられた、例の伝声管の呼び出し音である。〈西館〉にいる柳士郎が、この部屋にいる人間に「応えろ」という合図を送っているのだ。
昨夕と同じように、鶴子がすぐに通話口の前まで行き、「小田切です」と返事を送り込んだ。
「――はい。はい、いらっしゃいますが。――承知いたしました」
簡潔な受け答えのあと、彼女は「少々お待ちを」と云って玄児の方を振り返り、
「旦那様が、玄児様に替わるように、と」
「ん? ――ああ」
低く応え、玄児は鶴子と入れ替わって通話口の前に立った。
「はい、玄児です。――はい。事の次第は野口先生から聞きましたが。――分ってます。しかし、どうしてそこまでして……あ、いえ。分りました。では……」
伝声管の向こうで柳士郎が何を話しているのか、玄児の言葉だけを聞いてもだいたい察しがついた。私たちが黙って見守る中、短い会話を終えると玄児は通話口の前を離れ、指に挟んでいた煙草を唇の端に銜え直した。
「念押しだよ」
と、彼は告げた。
「警察には連絡するな、という。この件は事故死として内々に処理するから、と」
応えて声を発する者はいなかった。野口医師は眼鏡を外し、白衣の裾でレンズを拭いている。鶴子は玄児の足許あたりに視線を固定したまま、直立の姿勢で微動だにしない。
玄児はライターを取り出して、まだ火の点いていなかった煙草に炎を移した。さして美味くもなさそうに煙を吹かしながら、
「そんなわけなんだが、鶴子さん」
と、白髪の元看護婦に向かって問いかける。
「質問に答えてくれないかな。午前二時から四時の間、どこで何を」
「…………」
「別に鶴子さんを疑ってかかっているわけじゃないさ。もしも警察を呼んだならば、俺たち全員が当然される質問だろう」
頬を引き攣らせたような面持ちで、鶴子は小さく頷き、
「部屋に」
と答えた。
「〈宴の間〉の後片づけを終えたあと、その時間にはもう、自分の寝室で休んでおりました」
「ぐっすりと眠っていた?」
「二時半くらいまでは起きていたように。それから眠りまして……朝まで。蛭山の容態がやはり気になって、あまりぐっすりとは寝られなかったように思います」
「不審な物音とか人の気配とか、そういったものには気づかなかったかな。特に階下の方から。あるいは、誰かが部屋を訪ねてきたとか」
「いえ。そのようなことは何も」
「――ふん」
玄児は寝椅子のそばに置かれたテーブルの前まで移動し、その上の灰皿に煙草の灰を落とした。それからまた鶴子の方を見やって、
「しのぶさんが返事を知らせに来た時には、もう起きていたんだよね」
「はい。起きたばかりの頃でしたが」
「それで驚いてここに駆けつけた。蛭山さんの様子を見た時、死んでいるということは?」
「顔を見てすぐに、そうと分りました。脈も一応、確かめてみました。首にベルトのようなものが巻きついているのにも、その時……」
「何かそこで、妙に思ったこととか気がついたこととか、なかったかな」
「いえ、別に」
「蛭山さんがあんなふうにして殺された事実に関して、何か思い当たるとは」
「ございません」
「蛭山さんを殺す動機を持った人間について、何か心当たりは」
「いえ、何も」
「一昨日のことだけど、蛭山さんは俺と中也君を島に送ってくれたあと、屋敷に立ち寄ったよね。あのとき鶴子さんは、彼と話をした?」
「はい、一言二言だけですが」
「何か普段と違う様子とか、なかったかな」
「いえ、別に」
「蛭山さんがあっちへ戻っていったのは何時頃だったか、憶えてる?」
「玄児様のご到着が四時頃で、四時半頃に一度目の地震がございました。蛭山が戻ったのは確か、地震のあと少ししてからだったと」
「遅くとも五時頃にはもう湖岸に戻っていたことになるか。――結局その後は、一度も彼と話す機会がなかったわけだね。電話でも?」
「はい」
鶴子の答えは終始、抑揚の乏しい、感情の見えない声で返された。
玄児は煙草を灰皿で揉み消してから、今度は野口医師の方に向き直る。医師はすると、訊かれる前に自分から口を開いた。
「〈北館〉二階の部屋におりましたよ、私は。十二時過ぎには引っ込んでしまって、あとはずっと」
「お一人で?」
「さよう。――いや、一時かその辺までは伊佐夫君が来ておったか」
「伊佐夫君が……一緒に飲んでおられた?」
「そういうことです。私が云うのも何だが、まったく彼の酒好きも、少々度が過ぎておるようですな。医者としては、もう少し控えるよう忠告すべきところなんでしょうが」
「その後、伊佐夫君が出ていってからは?」
「正体をなくして眠り込んでしまったのが、二時か三時か、そのあたりでしょう」
「なるほど。――まあ、誰に訊いてみても、その時間じゃあ同じようなものなんでしょうね」
玄児はちらっと私の方を窺ってから、
「この部屋の鍵は?」
と、鶴子に訊いた。
「わたしが預かっております」
「それじゃあ、このあとはとりあえず扉に鍵を掛けてしまって、中には入れないようにしておくのがいいか。父がどう考えているのか知らないが、どこかに遺体を埋葬するにしても、天候が回復してからの話だろうから。お願いするよ」
「――はい」
玄児は私に目で合図をすると、廊下に出る扉に向かって足を踏み出した。が、そこでもう一度鶴子の方を振り返り、
「しのぶさんは? 今どこに」
「自室で休んでいるはずですが。ショックが、やはりたいそう大きかったようで」
答えながら、鶴子は横手の壁の方へ視線を流す。扉の脇に掛かっていた「羽取」という例の木札を、私はすぐに思い出した。ここの隣の部屋である。
「そりゃあまあ、無理もないだろうな」
玄児は|踵《きびす》を返し、物憂げな足取りで部屋を出ていく。私と野口医師がそれに続いた。最後に出た鶴子が扉に鍵を掛けるのを見届けると、玄児は私のそばに寄ってきて耳打ちした。
「さて中也君、いったい誰が犯人なんだろうねえ。こいつは君や征順叔父さんの得意分野でもあるわけだが?」
探偵小説好きであるということをもって、こういった異常事態が「得意分野」だと判断されるのは、決して気持ちの良いものではない。確かに架空の物語の中では慣れっこになっている話だけれど、だからと云って、こうして現実に起こった殺人事件に対しても免疫を持っているわけではまったくないのだから。
半ば憮然として口を噤む私の心中をどこまで見透かしているのか、玄児はそこで深々と一つ溜息をつき、それからちょっと開き直ったような、道化た調子で云い落とした。
「影見湖の人魚が島に上がってきて、舟の事故で湖の平穏を乱した者に罰を与えました――とでも考えてしまえればいいんだがね」
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ノックに応えて返ってきた羽取しのぶの声は、長患いで寝込んでいる重病人のように弱々しかった。玄児が自分の名を告げると、
「あ……どうぞ、お入りください」
やはり弱々しい声が扉の向こうから聞こえた。
私たちは部屋に入った。野口医師も一緒である。鶴子の姿はもうない。現場の扉に鍵を掛けたあと、一礼して〈東館〉の方へと立ち去ってしまったのだった。
三間続きの部屋だった。手前に二つの洋間が、奥に六畳ほどの和室があって、間仕切りの戸は今、どれも開かれている。入口の扉の横手には、隣室と同様に伝声管の通話口が設置されていた。
しのぶは奥の和室にいた。畳の上には布団が伸べられている。そこから起き上がり、手前の洋間に出てこようとしていた。
「いいよ、横になったままで。ちょっと話を聞きたいだけだから」
と、玄児が手を挙げて制した。しのぶはこくんと頷いて、布団の上に力無く尻を落とす。和室は明りが消えていて、窓には例によって鎧戸が閉まっている。薄暗くて顔の表情はよく見て取れないけれど、それでも全体の雰囲気から、彼女の|被《こうむ》った精神的打撃のほどが充分に窺い知れた。
「気分がすぐれないのかね」
心配げに問いかけながら、野口医師が進み出た。答えてしのぶは、布団の上に坐り込んだまま弱々しく首を振り動かす。「はい」なのか「いいえ」なのか、どちらともつかない。医師は提げていた濃紺の鞄を足許に置き、巨体を屈めてごそごそと中身を探りはじめた。
玄児と私が真ん中の洋間へ足を進めようとしたところで、ことっ、と音がした。しのぶ以外の人間がそこにいる気配。――見ると、部屋の隅の、それまで私たちの死角になってた場所に書き物机があって、その前に半ズボン半袖シャツ姿の少年が立っている。羽取慎太であった。
「やあ、慎太」
と、玄児がすぐに声をかけた。
「昨日はあんなところで何をしていた」
慎太は右手に剣玉を握っていた。玄児の問いに黙ってかぶりを降った。その動きに合わせて、柄からぶら下がった赤い球が揺れる。
「駄目だぞ、あそこで遊んじゃあ。分ってるよな」
続けて玄児が云う。慎太はすると、剣玉を持ったまま机の前を離れ、私たちの脇を小走りにすり抜けて廊下へ出ていってしまった。
「申し訳ありません」
と、しのぶが云った。子供の非礼を詫びたつもりらしかった。布団から少し腰を浮かせながら、
「あのう、あの子がまた何か」
「いや、別に悪さをしたわけじゃないんだ。昨日の午後、〈北門〉の横に昔の長屋跡があるだろう? あの中に入っていたみたいでね。いつ崩れ落ちても不思議じゃないような建物だし、子供が遊ぶのは危険だろうと思って」
「――まあ」
と、しのぶは口許に手を当てる。相変わらず拍子の遅れた反応だった。玄児は訊いた。
「慎太には、蛭山さんの件は話したのかい」
「――いえ、何も」
「ふうん。しかしきっと、あの子なりに何か大変なことが起こったとは感じているんだろうな」
「――はあ」
野口医師が和室の手前まで進み出、
「さあさ、これを」
云って、しのぶに向かって右手を差し出した。
「黄色い方が栄養剤、白い方が軽い鎮静剤。栄養剤はすぐに飲めばよろしい。鎮静剤の方は、どうしても不安でたまらなくなったり、眠れなかったりした時に」
「――はあ」
しのぶはちょっと首を傾げたが、やがて緩慢に頷きを返し、
「――ありがとうございます、先生」
そう云えば――と、私は思い返す。昨日玄児が云っていた。しのぶは五年ほど前に、野口医師の紹介でこの屋敷にやってきたのだ、と。慎太の父親は早くに死んでしまったらしく、母子二人だけでここに住み込んでいるのだ、と。
その二人が暮らす部屋の様子は、まずまず小ぎれいに片づいている、といった印象であった。床も壁も天井も黒という暗黒館的な[#「暗黒館的な」に傍点]内装はさっきの部屋と変わらないが、こちらにはやはり生身の人間の生活感が染みついている。書き物机のまわりに散らばった絵本や画用紙や、小さな円いテーブルの上に並んだ湯呑みや急須や菓子皿や。壁にはカレンダーが貼られ、和室と洋間を仕切る襖戸にはいくつもの破れ目がある。和室の隅には折りたたんで重ねられた衣類の影が見える。
「蛭山さんが死んだのは、明らかに誰かに殺されたものと見られる」
野口医師と入れ替わりで和室の手前に立ち、玄児が単刀直入に切り出した。医師から受け取った薬を枕許に置こうとしていたしのぶの身体が、瞬間びくっと震えた。
「それでとにかく、第一発見者であるしのぶさんの話を聞いておきたくてね。そこで楽にしたままでいいから、いくつか質問に答えてくれないかな」
しのぶはのろのろと上体を起こす。私は玄児の斜め後ろに立って、和室の薄暗がりの中、布団の上に正座する彼女の様子を見守っていた。
「昨夜から今朝にかけてずっと、しのぶさんはあっちの部屋の居間にいたということだけれども、そうなんだね」
「――はあ」
「最後に奥の寝室を覗いたのは何時頃のことだったか、憶えているかな」
「――たぶん」
しのぶは心許なげな声で答えた。
「一時か一時半か、そのくらいだったんじゃないかと。慎太の様子を見に、一度こちらの部屋に戻りまして、そのあと……」
「その時は何も不審なところはなかった?」
「――はい」
「寝室の明りはどういう状態だったんだろう」
「――ベッドのそばのスタンドだけ、点けてあったように思いますが」
「スタンドだけか。それはそのあともずっと?」
「――はい」
「ふん。で、寝室の扉には、鍵を掛けたりはしていなかったんだよね」
「――はい」
「廊下に出る扉も?」
「――そうです」
「しのぶさんはその後、あの居間の寝椅子で眠り込んでしまったという話だが?」
「――はあ。うとうとと、つい」
「じゃあその間、こっそり廊下から入ってきて、しのぶさんに気づかれないように奥の寝室へ忍び込むことは、誰にでもできたわけだ」
「――はあ」
「ぐっすり眠っていて、誰かがそばを通っても気がつかないような状態だったわけかな」
しのぶはいったん「はあ」と頷いたが、すぐに「あ、いえ」と言葉を|繋《つな》げた。
「その辺は、何とも」
「と云うと」
「浅い眠りでしたから。わたし、普段もあまり寝付きの良くない方で、眠っても夢ばかり見て、ちょっとした物音ですぐに目が覚めてしまったり。ですから……」
玄児は「ううん」と|唸《うな》って、
「しのぶさんを起こしてしまわないよう、犯人はよっぽど用心して部屋に忍び込んだ――か。あるいは……」
|蟀谷《こめかみ》に左手の親指を押しつけながら、玄児はそこで少しく口を噤んだ。私は同じ位置に立ったまま二人のやり取りに耳を傾けていたのだけれど、そうするうちに、多少収まりかけていた悪心がまた胸に広がってきていた。鳩尾に当てた手に、粘ついた脂汗が滲む。
「今朝しのぶさんが目を覚まして、蛭山さんの異常に気づいたのは八時半頃のことだったと聞いているが、間違いないかい」
「――はい。そのくらいの時間でした」
「その時も、明かりはスタンドだけが点いていたんだね」
「――と思います」
「寝室を覗いて蛭山さんの姿を見て、真っ先にどう思った」
「それは……」
しのぶは少々口ごもったあと、みずからの熱を診るように掌を額に押し当てながら、
「死んでいるのではないかと、すぐに」
「どうして、そう」
「――何となく様子がおかしい、と感じたんです。ベッドに横たわった姿勢が、前に見た時と違っていたのかもしれませんし……ああ、でもそうです、昨夜の時点で小田切さんから、朝まで保つかどうか分らないらしいという話を伺っていましたので、それで……」
「近寄って確かめてみたのかい」
「――いえ」
しのぶは小刻みに首を振った。
「とにかくすぐ、小田切さんに知らせに」
「蛭山さんの首に何かが巻きついていたのには、じゃあその時は気づかなかったんだね」
「――はあ。そのことは、小田切さんを呼んで戻ってきて、もう一度あの部屋に入った時に」
「なるほど」と頷いて、玄児はまた蟀谷に親指を押しつける。
「念のために確認するけれども、しのぶさんが居間の寝椅子で眠り込んでいた間――もっと具体的には午前二時頃から四時頃の間に絞られるんだが――、何か不審な物音や気配を感じたりすることはなかったんだね」
「――何も」
しのぶは消え入りそうな声で答えた。
「わたしは、何も」
「ふん。――ところで」
と、玄児はちょっと調子を改めて、
「死んだ蛭山さんのことを、しのぶさんはどう思っていた」
そんな質問を繰り出した。
「どう、と申しますと」
しのぶは不安そうに首を傾げる。玄児は云った。
「好きだったか嫌いだったか、仲が良かったか悪かったか……ありていに云えばそういうことさ。どんなふうに思っていた」
「――別に」
「別に? どういう意味だい」
「別に、何とも」
歯切れの悪い答えを呟き落とし、しのぶは顔を伏せる。
「あまり話をしたこともありませんでしたし、そもそもあの人は非常に無口で……」
「使用人たちの間では、彼はどんな存在だったんだろう。やっぱり誰ともあまり親しく話すことがなかったのかな」
「――はあ。寝起きの場所も、わたしたちとは違いましたし」
「彼を巡って何かトラブルがあったりは」
「――いえ、別に」
「そうか。じゃあ、慎太は?」
するとしのぶは、はっとしたように顔を上げた。
「いつだったっけな、慎太が蛭山さんと二人で舟に乗っているのを見かけたことがあったが。慎太は彼に懐いていたんだろうか」
「あの子は……やめなさいと云ったんですけど」
「はあん。蛭山さんに遊んでもらうのが、しのぶさんとしては嫌だったわけかい」
「そ、それは……」
しのぶは先を云い澱み、再び顔を伏せる。玄児もそれ以上は追求しようとしなかった。いずれにせよ彼女が、蛭山に対してあまり良い感情を持っていなかったのは確からしい。
同じ使用人の一人、宍戸要作の四角張った浅黒い顔が、そこでふっと思い浮かんだ。昨日蛭山を担架で運んできたあとの、あの料理人の様子。怪我人の安否をまるで気にするふうもなく、さっさと場を立ち去ってしまったことに、私は違和感を覚えたものだったが。
――蛭山は大変に無口な男で、もともと家人の誰とも親しくはしていなかったようですから。
浦登征順はあの時、そう云っていた。
――だから、彼と宍戸とがとりたてて不仲だったというわけでもないでしょう。宍戸はあのとおり、あまり感情を表に出さない男ですが、それは何も今に限ったことではない。
浦登柳士郎によれば、蛭山丈男には身寄りがないという話だった。征順は確か「天涯孤独」という言葉を使っていた。家族もなく、身近に親しい友人もなく、湖岸のあの小さな建物に一人住み……彼は日々何を感じ、何を思い、何を|寄《よ》る|辺《べ》にして生きてきたのだろうか。そしてその彼が何故、あんなふうにして殺されなくてはならなかったのだろう。
漠然とそんな思いを巡らすうちにもしかし、胸に広がった悪心は加速度的に強くなってきていた。額や首筋にもねっとりと脂汗が滲み出る。頭がくらくらして、まっすぐに立っているのが辛い。気を緩めれば今にも吐いてしまいそうになるのを、口に押しつけた掌に前歯を立てて何とかこらえつづけていた私だったが……。
「あのう、玄児様」
しのぶがおずおずと云いだした。
「一つその、気に懸かることが」
「何かな」
「玄児様もご存じなのではありませんか。つまりその、あの部屋には」
「すみません、ちょっと」
と、そこで私がしのぶの言葉を遮った。我慢の限界を感じたのである。
「どうした、中也君」
「すみません。ちょっと失礼します」
顔色や素振りを見れば、それ以上の説明は要らなかったろうと思う。「大丈夫か」と声をかける玄児を|後目《しりめ》に、私は縺れる足で部屋を出た。
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薄暗い瓦敷きの廊下を吐き気と戦いながらよろめき歩き、やっとの思いで昨夕と同じ洗面台の前まで辿り着いた。着くや否や、我れながらおぞましい音を立てて喉が鳴り、|吐瀉物《としゃぶつ》――と云ってももはや胃液ばかりなのだが――が口から|零《こぼ》れ出た。腹が引き攣り、目には涙が滲んだ。
蛇口を前回にして水を流しながら、洗面台にしがみつくような格好で嘔吐した。何も出てこなくなると新たに水を飲み、喉に指を突っこんで無理やり吐いた。
最低の気分、としか云いようがなかった。確かな苦痛を感じつつも、何だか自分の肉体が自分のものではなくなってしまっているような……前夜の酒のせいでこんな気分を味わわされるのは、本当に初めての経験だった。野口医師に頼んで、私も何か薬を貰おうか。あの先生のことだ、宿酔いの特効薬ならいつも持ち歩いていそうだから。
どのくらいの時間、そうやって洗面台の前で苦しみつづけていただろうか。ようやくいくらか楽になってくると、私は手の甲で口許を拭いながら蛇口の栓を閉めた。間近の水音がやみ、外で降る雨音だけが残った。
……ああ、この嵐はいったいいつになったら過ぎ去るのだろう。この雨はいつになったら降りやむのだろう。
そんな不安がふと、心に滲む。
このまま雨は果てしもなく降りつづき、この山奥の湖を、この島を、この屋敷を、どこまでも世界から孤立させていくのか。そうして私たちは永遠に、この暗黒の館に閉じ込められることになるのだろうか。殺した者も殺された者も、いまだ殺されざる者たちも……。
「まさか」と呟いて、重たい頭をのろりと振った。――その時である。
背後に何かの気配を感じ、私は息を止めた。
何かの……何者かの気配。誰かがそこにいて、こちらを見つめている気配。
とっさに思い浮かんだのは、昨夕この同じ場所で、同じような状況下で対面した浦登清の姿だった。幼くして肉体が老い衰えてしまうという奇病に冒された、あの少年の。
――お友だちになってくれますか。
皺だらけの顔にぎこちない微笑を浮かべながら云った彼の言葉が、耳に|蘇《よみがえ》った。冷たくて、藁半紙のようにかさかさとした肌の感触が、手に蘇った。
またあの子だろうか。〈南館〉で何か事件が起こったらしいと嗅ぎつけ、好奇心に任せてこっそりと様子を伺いに来て、それで……。
昨日と同じことの繰り返し、か。半ばそう思い込んで、私は後ろを振り向いた。――が。
そこにいたのは清ではなかった。
思いがけぬほどすぐそばに相手の姿があったものだから、私はびっくりして声を上げそうになった。一メートル足らずの距離しかない。知らぬ間に、こんな近くまで……。
まるで気づかないでいた私が|迂闊《うかつ》なのか、それとも相手の方が気配を消して移動するすべを心得ているのか。もしかするとその者は先ほどからずっとそこに立っていて、嘔吐に喘ぐ私の背中をじっと見守っていたのかもしれない、とさえ思えた。
「お加減が悪いので?」
だぶだぶの黒衣に身を包んだ、それは鬼丸老の姿だった。目深に被った黒いフードの下から響き出したのは、昨夜聞いたのと同じ、性別不明のごわごわに|嗄《しわが》れた声である。異なる場所でこうして間近に相対しても、生ける影≠ニいう例の印象はやはり変わらなかった。
「お加減が悪いので?」
答えあぐむ私に向かって、鬼丸老は繰り返し問うた。私はハンカチを取り出して額や首筋の脂汗を拭きながら、
「いえ……あ、はい。少し」
しどろもどろの言葉を返した。
「少しその、気分が。ゆうべ飲み過ぎてしまったみたいで」
「お大事になさいまし」
と告げて、鬼丸老は音もなく身を横に向ける。そうして建物の奥の方へ立ち去っていこうとしたが、途中でひたと足を止め、こう付け加えた。
「ダリア様の祝福がございますように」
「あ……待ってください、鬼丸さん」
思わずそこで、私は呼び止めた。黒衣の老使用人は、するとおもむろにこちらを振り返り、
「はて、何か」
「玄関番の蛭山さんが死んだ――殺されたのです。ご存じですか」
私が云うと、鬼丸老はさして驚いたふうもなく、
「ほう。そのようなことが」
「誰かが首を絞めて、殺したのです。彼が寝かされていた、あの部屋のベッドの上で」
「恐ろしいことでございます」
そう応える鬼丸老の声にはしかし、言葉とは裏腹に、まるで感情の起伏が窺えない。「では」と云ってすぐに背を向けるのを、
「あ、待ってください」
と、再び私は呼び止めた。
「ゆうべ云っておられましたよね。あの部屋――〈西館〉一階のあの部屋で昔、殺人事件があったと」
そう。そうなのだ。
今になってようやっと、昨夜のあの〈宴〉の、何やら悪夢じみた混沌の中から、その記憶が持ち上がってきたのだった。
「十八年前、でしたか。あの鍵の掛かった部屋の中で、当主の浦登玄遙氏が殺されたという……」
「さようでごさまいす」
嗄れた声が低く答えた。私は思いきって訊いた。
「その事件の犯人は? 捕まったのですか」
「それはわたくしへのご質問ですか」
相変わらずフードの下に顔を隠したまま、昨夜と同じようにそう訊き返してきた。私が頷くと、鬼丸老は黙って首を横に振った。「捕まっていない」という回答であるらしい。
「それじゃあ、鬼丸さん」
私は続けて訊いた。
「犯人が誰なのかは、分っているのでしょうか。分っていてなおかつ捕まっていないのか、それとも誰が犯人なのかは今もって不明なのか」
「それはわたくしへのご質問ですか」
と、またしても鬼丸老は訊き返す。
「どうしても答えよと云われますか」
「はい」と私は、今度は声を出して頷いた。
「犯人と目される者の名は、もはや皆が承知していることでございます。ですが、その者は捕まってはおりませぬ」
「逃亡した、と?」
「そういうわけでもございませぬ」
「じゃあ……」
どうなったと云うのだろうか、その犯人は。
当然のように浮かんでくる疑問を、ここでさらに投げかけても良いものかどうか惑う間に、鬼丸老はゆらりと背を向けた。もう一度呼び止めることもためらわれ、足音もなく歩み去っていく生ける影≠フ真っ黒な後ろ姿を、私は半ば茫然と見送るばかりだった。
十八年前の九月二十四日――〈ダリアの日〉の夜に発生した事件だと、確か昨夜、鬼丸老は云っていた。初代当主浦登玄遙が〈西館〉一階のあの部屋で殺され、同じ夜に別の部屋では、玄遙の娘婿であり玄児の祖父である卓蔵が自殺を図ったのだ、と。以来、もともと玄遙の書斎であったあの部屋の扉には鍵が掛けられ、誰も立ち入ることの許されぬ〈開かずの間〉になっているのだ、とも。
そうだ。そのような事件が、この暗黒館ではかつて起こっていたのである。
十八年の年月が経って今日、この館で新たな殺人事件が発生した。同じ屋敷内で、|時間《とき》を隔てて起こった二つの殺人。ひょっとしてそれらには、何らかの結びつきがあるのではないか――と、そんなふうに考えるのは、あながち不自然な話でもあるまい。とすれば……。
思案を巡らすうち、不思議と気分が立ち直りつつあった。予想外の人物と遭遇し、言葉を交わしたことによって、神経に良い意味での緊張が与えられたためかもしれない。身体は相変わらず怠いけれど、吐き気はもうあまり感じられない。頭の回転も多少は速やかになりはじめていると自覚できた。
そんな中――。
昨夜の〈宴の間〉にあける体験を一つ一つ思い返すにつけ、改めて私は、あれは何だったのだろうかと自問せざるを得ないのだった。あれは――あの儀式≠ヘいったいなんだったのか。あの異様な〈宴〉に参加したことで、私は何を得たのか、あるいは失ってしまったのか……。
すべてがいまだに謎であった。
遅かれ早かれ、この問題については玄児に問いただしてみなければならない。そうする権利が、今の私にはあるはずだ。玄児には答える義務があるはずだ。そして――。
それによってこの浦登家の秘密が明らかになったならば、蛭山丈男の死に関しても、そこに何かしらの意味≠ェ見えてくるのではないか。
私にはそのように思えてならなかった。
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第十三章 疑惑の扉
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羽取母子の部屋の前まで戻ると、ちょうど扉が開いて玄児と野口医師が出てきた。私の姿を認めた玄児が「大丈夫かい」と問うのに、
「とりあえず、何とか」
私は心許ない声で答えた。
「昨夜はやっぱり飲みすぎたようです。もっと加減を考えるべきでした」
「まあ、仕方あるまいさ。なかなか自分で制御できる雰囲気でもなかったろうしね」
「まったく」と、これは声には出さずに心の内で呟きながら、私は頷く。昨夜の〈宴〉の、あの異様な緊張感の中で、どうしてそんな冷静な対処ができただろうか。私はただただあの場の妖しい空気に呑まれ、あの場で定められた流れに流されているより他なかったのである。
あの〈宴〉は何だったのか。あそこで私が経験させられたことには、いったいどのような意味があるのか。
ここですぐにでも質問してみたい気持ちだったけれど、あとにしようと思い直した。一緒にいる野口医師の目が気になったのだ。玄児と二人だけで話す機会を待った方が良いだろう。その方が私も訊きやすいし、玄児も答えやすいに違いない。
出てきた扉をきっちりと閉めてから、玄児は「さて」と云って医師の方に向き直った。
「さっそく確かめにいってみましょうか、先生」
「確かめに? 何を」
横合いから私が尋ねると、玄児は真顔で「ふん」と鼻を鳴らし、
「さっき君が出ていったあと、しのぶさんの口からなかなか興味深い話が出たものでね」
ああ、そうだった。「気に懸かることが」と彼女が云い出してそれを玄児に告げようとした、まさにその時、私は悪心を我慢しきれなくなって部屋を出てきてしまったのだったが……。
「野口先生は知っておられましたか」
玄児が訊いた。
「しのぶさんが云っていた件――あの扉[#「あの扉」に傍点]の存在を、以前から」
「はて、どうでしたか」
白髪混じりの顎鬚を撫で下ろしながら、野口医師は太い首を傾げる。
「むかし誰かに聞いた憶えがあるようにも思うが、実際に見たことは……。あまりこっちの棟には来る機会もありませんからな」
「何なんですか、玄児さん。その……」
「まあまあ。すぐに分るさ」
玄児はそして、「ついておいで」と云うように横髪を撫でつけ、ひらりと背を向けて黒い瓦敷きの廊下を歩き出した。建物の表口がある小ホールの方向である。私はとにかくそれに従うしかない。野口医師と二人して、玄児のあとを追った。
ホールには二階へ上がる階段が設けられている。玄児はその前を行き過ぎると、そこから右手――南方向に延びる廊下へと進んだ。
「ここか」
と云って、程なく玄児は足を止める。
廊下は何メートルか先の突き当たりで左に折れている模様だが、こちらから向かって右側の壁には、突き当たりまでの間に黒い開き戸と引き戸が並んでいる。玄児が立ち止まったのは、手前にある開き戸の前だった。
「確かこっちだったはずだが」
呟きながら、黒く塗られたノブに手を掛ける。扉は造作もなく押し開かれた。玄児は中に一歩踏み込んで、
「物置部屋なんだけどね、ここは。そっちの引き戸もやはり物置で……おや」
「どうかしましたか」
私が訊くと、玄児は扉の向こうに半身を差し入れたまま、
「明りが点かないな。電球が切れてるのか」
暗がりに間もなく、仄かな光が揺れはじめた。オイルライターの火が灯されたのだ。そろそろと奥へ進みながら、玄児は私と野口医師にも入ってくるよう促した。
廊下から射し込んでくる光は弱すぎて、あまり頼りにならない。玄児がかざすライターの炎があってやっと、中の様子を把握することができた。
広さは二畳ほどあるだろうか。「物置」にしてはあまり物が置かれていない、がらんとした部屋だった。炎に照らし出された「物」と云えば、片隅に重ね置かれたいくつかの木箱と、横手の壁に立てかけられた|箒《ほうき》や柄付きのモップ、塵取りにバケツ……そのくらいのものである。
「はあん。これか」
入って左側の壁に向かい、玄児は上体を屈めた。
「何ですか」
訊いて、私は玄児の横に身を寄せた。
「何かそこに」
「これをご覧よ、中也君」
そう云って、玄児は右手に持ったライターを壁に近づける。黒い板張りの壁の、玄児が示したそのあたりには、何だろうか、小振りな赤い紙が貼ってあった。高さはちょうど私の腰くらいである。
「|色紙《いろがみ》でしょうか」
「ああ、そうだね」
「これが何か」
「糊で壁に貼り付けてある。しかしほら、このとおり真ん中で破れている」
確かにそうだった。折り紙に使うような、何の変哲もない正方形の色紙がそこには貼られているのだけれども、よく見るとそれは、真ん中あたりで縦に破れてしまっている。
「しのぶさんの云ったとおりですな」
背後で野口医師が云った。
「破れておるということは、つまり……」
「この紙が貼ってあるこの部分、実は板の合わせ目になっていてね」
と、玄児が私に説明する。
「板の、合わせ目?」
「そう。うまく作ってあるから、ちょっと見ただけじゃあ分らないんだが」
云いながら玄児は、身を屈めてライターの炎をかざしたまま、空いている左手を壁に伸ばした。
「ここにほら、こういう出っ張りが……」
黒い壁の、色紙が貼られた部分の少し右横であった。蒲鉾の板をいくまわりか小さくしたような、長細く平べったい木の出っ張りがある。これもまた真っ黒に塗られているため、なるほど[#ここから太字](これはきっと……という認識が、ふと)[#ここで太字終わり]、よほど注意してみなければ、そんなものがそこにあるとは気がつかないだろう。
玄児はその出っ張りに指をかける。そうしてそれを、時計回りの方向にぐいと四分の一回転させた。すると――。
ごとっ、と鈍い音がして、壁板の一部が手前に迫り出してきたのである。
「扉になっているのさ、この部分が。色紙はちょうど扉と壁の境目に、両者に|跨《またが》る形で貼られている」
「ははあ」
昨日〈東館〉で見つけた例の秘密の回転扉≠竍行き止まりの階段≠フことを、当然ながら私は思い出すのだった。異国の建築家ニコロディの風変わりな趣味に倣って、この暗黒館にはああいう「言葉にしてしまうと他愛もないような」、ある種子供の悪戯じみたとも云えるような仕掛けがいくつも施されているのだという。それらのうちの一つが[#ここから太字](ここにもやはり、と納得するものの……)[#ここで太字終わり]、〈南館〉のこんな場所にも作られていたわけか。
開かれた隠し扉は一メートルに満たない幅で、高さは大人の喉許までしかない。と云っても、ちょっと身を屈めれば、野口医師の巨体でも充分にくぐり抜けられる。
「入ってみよう」
玄児が先頭に立って、隠し扉を脱ける。私がそれに続いた。野口医師はどうしようかと迷っているふうだったが、やがて鞄をその場に残して私たちのあとを追ってきた。
隠し扉の向こうには、物置よりもさらに暗くて狭い空間が待ち受けていた。どうやら押入か何かの中らしい。扉を脱けてすぐのところにあった引き違い戸を、玄児が開いた。途端、淡い橙色の光が流れ込んでくる。
「ああ、ここは」
零れ出た私の声を遮って、玄児が云った。
「さっきの部屋――蛭山さんが殺された寝室だ。その押入の中。扉が隠されているこの一画だけ、中棚が設けられていない」
流れ込んできた淡い光は、ベッドの脇に置かれたスタンドの明りらしい。玄児はライターを消し、押入から出た。私と野口医師もそれに続く。
「――というわけなんだがね」
玄児は腰に両手を当てて、ゆっくりと室内を見まわす。
部屋の状態はもちろん、先ほどとまったく変わらなかった。並んだ二台のベッド――その一つに、灰色の毛布を被せられた蛭山丈男の死体が横たわっている。湿っぽく淀んだ空気には、何とも云えぬ異臭が漂っている。ようやく治まりつつあった悪心がまたしても蘇ってきそうな気がして、私は思わず両手で鳩尾を押さえた。
「しのぶさんが俺に訴えたのはつまり、この扉の存在だったのさ」
玄児は云った。
「蛭山さんが殺された寝室には、押入から物置に抜ける秘密の通路≠ェある。犯人はそれを使ったのかもしれない、という。そうすれば犯人は、居間にいたしのぶさんのそばを通らなくても済んだ。万が一にも彼女に気づかれてしまう危険を回避して、安全確実に現場に出入りすることができたわけだから、と」
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2
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一秒時間が経つごとにどんどんと異臭が強くなってくる。気のせいに違いないのだけれど、どうしてもそのように感じられてしまって、鳩尾を押さえた手におのずと力がこもった。ベッドの死体が目に入ってしまわないよう、視線はずっと自分の足許に向けたままでいた。そんな私の様子を察知してくれたのかどうか、
「さ、出ようか」
早々に玄児が云った。
「これ以上ここで確かめなきゃならないことは、当面ないだろう」
私たちは押入の中に引き返した。隣の居間から廊下に出る扉はいま施錠されているので、同じ隠し扉から出るしかないわけである。
野口医師、私、そして玄児。入ってきたのとは逆の順番で扉を抜け、物置に戻った。暗がりの中、玄児が元どおり扉を閉める。
物置から廊下に出ると、私は何も云わず小ホールに向かった。建物の表口から一人渡り廊下に飛び出し、ひんやりとした外気に触れてひとしきり深呼吸を繰り返す。それでやっと、今にもぶり返しそうになっていた吐き気を抑え込むことができた。
間近で降りしきる雨――。
絶え間なく続くその音のどこかに、何者かの甲高い長々しい叫び声が混じり込んでいる。ふとそんな錯覚が降りかかってきて、私は慌ててかぶりを振る。時刻は午前十一時をまわり、そろそろ正午が近いというのに、目に映る風景は異様なほど暗く重苦しかった。濡れそぼった草木の緑さえも、ことごとく生気のない灰色に見えた。
「おいおい中也君、大丈夫か」
私を追って館内から出てきた玄児が、そう云って軽く背中を叩いた。
「また気分が?」
「いえ、もう大丈夫ですから。あの部屋の臭いで、ちょっと」
「重症だねえ。先生に薬を貰ったららどうかな」
「もう大丈夫だとは思うんですけど、そうですね、念のためにそうした方が良いかもしれません」
私たちは〈南館〉の中に戻った。野口医師は小ホールの片隅に置かれたストゥールに腰掛け、少々放心の面持ちで身を休めていた。彼にしてもやはり、今朝のこの事態にはかなり参っているのだろう。目覚めるなり引っ張ってこられ、慣れない他殺死体の検分などさせられたわけだから、まあ無理もない話である。
玄児が「中也君に何か、宿酔いに効く薬を」と頼むと、医師は「おやすいご用」とばかりに鞄から白い薬包を取り出し、私に手渡してくれた。ありがたく|頂戴《ちょうだい》すると、とりあえずそれはシャツのポケットにしまっておいて、
「さっきの隠し扉ですけど」
先刻から気に掛かっていた問題を、私は玄児に尋ねた。
「あの赤い色紙には、いったいどんな意味が」
「あれはね、しのぶさんがあそこに貼っておいたものらしい」
階段の手すりに背を|凭《もた》せかけながら、玄児は答えた。
「殺人現場になったあの部屋は、長らく誰も使っていない空室だったから、入口の扉にはずっと鍵が掛けられていた。昨日蛭山さんが運び込まれた際、久々にその鍵が外されたわけさ。ところが物置の隠し扉には、見てのとおり鍵なんか付いちゃいない」
「はあ。でもそれが、どういう」
首を傾げる私に、
「慎太さ」
と一言、玄児は言葉を返した。私はさらに首を傾げ、
「あの子が、何か」
「一年ほど前らしいが、慎太があの隠し扉を見つけてね、一人で中に入っていたことがあったというんだな。夜になっても息子の姿が見えないので、しのぶさんが心配して探しまわっていたところ、部屋の中から泣き声が聞こえてきて、それでやっと居所が分ったんだとか。
隠し扉を通ってあの部屋に忍び込んだはいいが、自力で出ることができなくなってしまったらしい。ま、あの子のことだ、遊んでいるうちに出口の|在《あ》り|処《か》を失念してしまったとか、暗くなって見つけられなくなってしまったとか、そういう話だったんだろうな。その日はしのぶさんが泣き声に気づいて事なきを得たわけだが、もしもまた同じようなことがあって、長時間誰もそれに気づかなかったり、万一の事故でもあったりしたら大変だ、としのぶさんは憂慮した。そこで――」
「あの色紙を?」
「そう。慎太の目の前で、ああやってあそこに赤い紙を貼り付けて見せて、『ここは絶対に開けちゃいけない、入っちゃいけない』と厳しく云い聞かせたんだそうだ」
禁止命令の赤い紙、か。知恵の遅れた我が子に対する、彼女なりの|躾《しつけ》の一環だったと解するべきなのだろう。
「もしも云いつけに背いて、慎太がまたあの部屋に忍び込んだなら、紙が破れているからすぐにそうと分る。こっそり紙を剥がして、あとでまた別の紙を貼り直しておくなんていう悪知恵は、あの子の頭には浮かばないだろうしね。なかなかうまく考えたものさ」
「なるほど。それで……」
私はちらりと野口医師の方を窺ってから、
「その色紙が破れてしまっていた[#「その色紙が破れてしまっていた」に傍点]。ということはつまり……」
「昨日蛭山さんが運び込まれたあと、野口先生の指示でしのぶさんが寝室の床を掃除したね。あのとき彼女がモップを取りにいったのが、そこの物置だった。その際に彼女は、あそこに貼っておいた色紙に異常がない――破れてはいないことを、いつもの習慣で確認したんだという。モップを戻しに行った時にも、やはり同じ確認をした。紙は破れちゃいなかった」
「ははあ」
「だからね、しのぶさんはそのことを思い出して、俺に訴えたわけさ。ひょっとすると犯人はあの隠し扉を使って現場に侵入したのかもしれない。もしもそうならば、あそこに貼った紙が破れているはずだから、とね」
「そしてその言葉どおり、紙は破れていた」
「そうだ。昨夜しのぶさんが異常のないことを確認したあと今朝までの間に[#「昨夜しのぶさんが異常のないことを確認したあと今朝までの間に」に傍点]、何者かがあの隠し扉を開けたに違いない[#「何者かがあの隠し扉を開けたに違いない」に傍点]という、その紛れもない証拠さ」
玄児はきっぱりとそう云いきった。私は頷きつつも、そこで思い浮かんだ疑問を口に出した。
「犯人は、扉と扉の合わせ目にあの紙が貼ってあることには気がつかなかったのでしょうか。気がついたのなら、自分がこの扉を使ったというあからさまな痕跡を残してしまうと分ったはずで……」
「それはね」
玄児は口許にかすかな笑みを滲ませた。
「その時点できっと[#「その時点できっと」に傍点]、あの物置部屋の電球が切れていたんだろう[#「あの物置部屋の電球が切れていたんだろう」に傍点]」
「――あ、そうか」
「犯人は隠し扉の在り処を知っていた。だから多少暗くても、難なくそれを開けることはできた。けれどもあそこにあの紙が貼ってあることには、暗くて気づかなかった。仮に何かあるようだと気づいたとしても、それが正確に何なのかを観察し、その意味を考えることまではしなかった、できなかった。そういう話じゃないかな」
ストゥールに坐ったまま黙って私たちのやり取りを聞いていた野口医師が、「なぁるほど」と相槌を打った。玄児は続けて、
「あとでまたしのぶさんに訊いてみれば分ることだが、物置の電球は、昨夕の時点でもう切れていたのかもしれないな。あの紙はとにかくしのぶさん自身があそこに貼り付けたものだし、仕事柄、物置には毎日のように出入りしていて慣れてるだろうしね、彼女なら明りが点かない暗がりの中でも、異常の有無を確認することは無理じゃなかったろうと思う」
「なるほど」
「なぁるほど」
私と野口医師、今度は二人の相槌が重なった。
確かにそれで|辻褄《つじつま》が合う。間然するところは何一つない。
犯人は蛭山丈男を殺す意志を持ってあの部屋に行った。ところがそこで、手前の居間に羽取しのぶがいることに気がつく。彼女は寝椅子で眠っている様子だが、迂闊にそばを通っていって、万一起こしでもしたら取り返しがつかない。その危険を避けるため、物置の隠し扉から直接、奥の寝室へ忍び込むことにした。犯行後もまた同じ扉を使って現場から逃げ出した。――と、これが今日未明の犯人の行動であったとすれば。
「ねえ玄児さん、そうするとですね、当然この犯人は……」
私が云いかけた、その時。
表口の黒い片開き扉がいきなり開かれ、小ホールに入ってきた者がいた。料理人の宍戸要作である。
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私たち三人がいるのを見て、宍戸は宍戸で不意を衝かれたらしい。落ち窪んだ三白眼をぎょっと剥いて足を止めた。が、すぐに例の昆虫めいた無表情に戻ると、軽く頭を下げながら「失礼いたします」と云って、この場を通り抜けていこうとする。
「ちょうど良かった。宍戸さん」
凭れかかっていた階段の手すりから背を離し、玄児が声をかけた。再び足を止めた料理人の前へ一歩二歩と近づきながら、
「いくつか訊きたいことがあるんだけれども、いいかな」
「――何か」
と、宍戸は低く応じた。ひどく抑揚の乏しい、やはり「金属的な」と形容したくなるような硬質の声である。玄児は質問を繰り出した。
「蛭山さんが死んだことはもう知っているね」
「はい」
「誰かに殺されたのだってことも?」
「先ほど小田切さんからそう聞きましたが」
「じゃあ宍戸さんは、実際にはあの死体を見ていないわけだね」
「はい」
淡々と答える宍戸の面持ちには、まったくと云って良いほど動きがない。昨日も感じたことだが、それこそ接着剤を塗って固めでもしたかのように。
「蛭山さんは、昨日彼を運び込んだ寝室のベッドの上で、首を絞められて死んでいた。宍戸さんが寝起きに使っているのは、確か二階の、現場の真上に当たる部屋だったよね」
玄児は質問を続ける。宍戸は変わらぬ調子で「そうです」と答えた。
「昨夜はその部屋で寝ていた?」
「はい」
「午前二時から四時の間、という時間帯には?」
「もちろん寝ていましたが」
「一人で? つまり、誰かがその時間に訪ねてきたとか、そういうことはなかったのかな」
「ありません」
「その時間帯、下の部屋から何か不審な物音や声が聞こえてきたとか、そういうことは?」
「なかったと思いますが。仮に何か物音がしたとしても、わたしは熟睡していましたので」
「そうか。――ま、そんなものだろうな」
玄児はちょっと間を取って、私と野口医師、それぞれにちらちらと視線を送る。「何か訊いておきたいことはあるか」という願意の目配せと受け取れたけれど、私も医師も、そこでみずから口を開くことはしなかった。
「蛭山さんが殺されたという事実に関して、蛭山さんはどう思う」
と、玄児は質問を再開した。
「どう思うと云われましても……」
料理人は少しく口ごもったが、その四角張った浅黒い顔はやはり無表情以外の何物でもない。そうやって内心の動揺をひた隠しているのか、それともそもそもこの男には心の動きというものがないのか。そんな極端な勘ぐりをつい、してみたくもなる。
「何とも気の毒な話だな、と。昨日の事故と云い、今朝の事件と云い……」
やがて宍戸はそう答えた。どのように|忖度《そんたく》してもしかし、私にはその言葉が彼の本音であるとは思えなかった。
「蛭山さんが殺された理由について、思い当たることはない?」
「――いえ」
「誰かに恨まれていたとか、何かトラブルがあったとか」
宍戸はゆらりと首を横に振って、
「日頃から必要最低限の付き合いしかなかったもので、わたしには何とも。つまらない問題でちょっとした口論になったことはありますが、もう何年も前の話です」
「それじゃあ、蛭山さんが普段から親しくしていた者というと、誰になるのかな」
「そんな人間は、恐らくここにはいないのではないかと」
「ふうん、そうか。――いや、ありがとう」
まばらに無精髭の生えた細い顎をさすりながら、玄児は一歩脇へ退く。だが、「それでは」と会釈して宍戸が歩を進めようとするや、
「もう一つ、いいかな」
と呼び止めた。相変わらずの無表情でまた足を止める料理人を鋭い目で見据え、玄児は訊いた。
「そこの物置部屋の中に隠し扉があること、宍戸さんは知っていたっけ」
「隠し扉?」
物置の入口がある廊下の方へちらっと目を流してから、宍戸は「ああ」と低く呟き、
「隣の部屋の押入と繋がっている、あの扉のことですか」
「そう。知っているわけだね」
「それは……はい。家の者なら誰でも知っていることだと思いますが」
「うん、確かにね」
玄児は小さな頷きを幾度も繰り返し、それ以上の問題については言及しようとしなかった。
「それでは」と再び会釈して、宍戸は玄児の横を通り過ぎる。そうして、いったん自分の部屋に戻るつもりなのだろうか、せかせかとした足取りで二階への階段を昇っていった。
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4
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「――で、中也君」
階段を昇る宍戸の足音が消えると、玄児はやおら私の方を振り向いて云った。
「さっきの続きは?」
「ああ、はい。そうでしたね」
私は気持ちを切り替えて、宍戸が現われる直前に自分が云いかけた台詞を頭の中から引き出した。
「ええと……つまり、そうするとですね、当然この犯人は」
さっきと同じところで言葉を切り、玄児と野口医師の反応を窺う。医師はストゥールから身を乗り出して私の口許を見つめ、玄児は「先を続けて」と云うように目顔で頷いた。
「当然この犯人は、物置にあのような隠し扉が存在することをあらかじめ知っていた人物である[#「物置にあのような隠し扉が存在することをあらかじめ知っていた人物である」に傍点]、という話になるわけですから――」
玄児は「そう」と応えて、ズボンのポケットに両手を潜り込ませた。
「誰が考えてもそういう理屈になる」
「ですから、そうするとこれもまた当然、最初に玄児さんが示したような説は無効化されることになるわけで」
「俺が最初に……ふん、あれか。こういった状況で殺人事件が起こった場合、普通疑われるべきなのはこの屋敷の住人じゃないだろう、という」
「ええ。まず疑われるべきなのは、浦登家内部の人間ではなくて外部の人間である、というあの意見です」
私は慎重に言葉を選びながら云った。
「よりによって何故、犯人は今このタイミングで犯行に及ぶ必要があったのか。それを理由に玄児さんは、犯人は家の内部にではなく、外部からの来訪者の中にいる可能性の方が高いと、そんなふうに云いましたよね」
「ああ、確かに」
「それはそれで筋が通っているようにも思うんですよ。でも、犯人が物置の隠し扉から現場に侵入したという事実が明らかになってきた以上……」
「君の云うとおりだな」
玄児はあっさりと非を認めた。
「あの意見はここで撤回しなきゃならないかもしれない」
「あのとき疑うべきとされた部外者≠ヘ、首藤の伊佐夫さんと茅子さん、江南というあの青年、それから野口先生に私、この五人だったと思います。ところが、さっきからの検討で明らかになった犯人の条件を考えると、これはほぼ逆転してしまうことになるわけです」
乾いた唇を舌で湿し、私は続けた。
「犯人は物置の隠し扉の存在を知っていた人物である。この条件が当てはまるのは[#「この条件が当てはまるのは」に傍点]、私たち[#「私たち」に傍点]部外者[#「部外者」に傍点]≠ナはなくてまず[#「ではなくてまず」に傍点]、この屋敷に住んでいる浦登家内部の人々でしょう[#「この屋敷に住んでいる浦登家内部の人々でしょう」に傍点]」
「とりあえず異議なし、だな」
玄児は神妙に頷いて、
「少なくとも中也君、君とあの江南青年の二人は、真っ先に除外されるわけだね。今回初めてこの屋敷にやってきた君たちが、あの隠し扉の在り処を知っていたはずがない。ここに来てから偶然見つけたという可能性もない、と見なしていいだろう。初の来訪者がたまたま発見できるような場所にはないからね、あの扉は」
「そう思います」
「伊佐夫君や茅子さんについても、十中八九かそれ以上の確率で『知らなかった』と考えられる。彼らは首藤のおじさんに連れられて時々ここにやって来るが、そうそう|足繁《あししげ》く通っているわけでもないし、来てもせいぜい二、三泊していくだけだし……ね。親戚筋であるとはいえ、あくまでもやはり彼らは部外者≠セ。この屋敷の構造やああいった仕掛けを、そんなに細かく把握できているはずがない」
「微妙なのは野口先生、ですね」
と、私が云った。玄児が大真面目な顔で「そうだな」と応えるのを見て、
「ちょっと、玄児君」
医師はストゥールから立ち上がり、異議を申し立てようとした。
「私は、その……」
「あの隠し扉の存在は誰かから聞いて知っていた、と先ほどおっしゃいましたよね、先生。実際にご覧になったことがあるのかないのか、それは俺たちには確かめようがないわけで。少なくとも存在を知っておられたのは事実なんだから、この問題を巡ってはやはり、そう簡単に先生を部外者≠ニして外してしまうことはできない」
「はあん」
医師は苦笑を滲ませたが、それでも少なからず不本意そうな面持ちで、ずんぐりとした肩を大袈裟に|竦《すく》めてみせた。
「血も涙もない理屈ですな。まあ、致し方ありますまいが」
「それじゃあ、玄児さん」
と、私は話を進めた。
「部内者=\―この屋敷に住んでいる人たちの中で、あの隠し扉の存在を知っているのは?」
「それは――」
玄児は|鹿爪顔《しかつめがお》で答えた。
「宍戸さんが云っていたとおりだろう。たぶん誰もが知っている」
「全員が、ですか」
「ああ。長年ここに住んでいればね、積極的に知ろうと努力しなくても知ってしまう、知らされてしまうものさ。たとえば初代玄遙以来、誰かがどうしてもそれを秘密にしておきたいと望んでいるような代物なんだったら話は別だけれども、物置のあの扉はそんなたいそうなものでもない。ひょっとしたらそういうものも――家人でさえ知らないような秘密の仕掛けも、この屋敷にはどこかに隠されているのかもしれないが」
思わせぶりなことを云いながら、玄児はぐるりと周囲を見まわす。そうしてさらに言葉を続けた。
「鶴子さんも鬼丸老も、この〈南館〉に住み込んでいる使用人はみんな、あの隠し扉のことは知っている。しのぶさんの弁によれば、慎太もそこに含まれるわけだね。
浦登家の人間についても同様だろう。父や征順叔父さんは知らないわけがないし、俺も昔から知っていた。慎太のようにこっそり中へ忍び込んだりした経験もあるさ。美鳥と美魚も、清も同じだ。望和叔母さんはもちろん、美惟叔母……|継母《はは》にしてもね、彼女は長年あんな、ゆうべ君が見たような茫然自失の状態でいるが、それでもあの隠し扉の存在についてはもともと承知していたことだろうし……」
双子の誕生以来ずっと「びっくりしたままでいる」という浦登美惟の、意志を持たない人形のような昨夜の様子を思い浮かべながら、私はゆっくりと頷いてみせた。
犯人は物置の隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人物である[#「犯人は物置の隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人物である」に傍点]。
この条件だけを持って考える限り、野口医師を含めて部内者≠ヘ全員が犯人たりうる。とりあえずそういうことになりそうだが……。
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〈東館〉に戻り、厨房から玄関ホールへと延びる長い廊下に出たところで、こちらから見て一番奥、玄関ホール側から見れば一番手前の黒い板戸が開いていることに気づいた。一昨夜以来、〈十角塔〉から墜落した江南某が寝かされている座敷の戸である。
玄児もすぐそれに気づいたらしい。「ん?」と小首を傾げて私の方に目を流し、
「起きて部屋を出ていったのかな、江南君は」
「そのようですね」
「昨夜は〈北館〉の方もうろうろしていたが」
「うろうろできるくらいにはもう、体力が戻ってきたということでしょう」
後ろで野口医師が云った。
「問題は声と記憶、ですな」
「ええ。いったい何者なんでしょうねえ、彼は」
「とにかくちゃんと記憶を取り戻してくれんことには、どうにも処置なしですなあ」
「お父上は、あの青年については何と」
私が訊くと、玄児はわずかに肩を竦めて、
「気になっていないはずはないと思うんだがね、もちろん。昨夜の時点では『追い追い対処を考える』とでもいった感じだったが、こんな事件が起きてしまった今となっては、さて……」
蛭山の死を内々に処理しようと思えば、ここで警察を呼ぶわけにはいかない。そうすると当然、あの記憶喪失の青年の身柄を、たとえば警察や病院に引き渡してしまうといった対処も、さしあたりはできないことになる。だからと云って、どこの誰かも分らない闖入者を誰だか分らないまま、いつまでもこの屋敷に置いておくわけにもいくまい。玄児の云うとおり、当主の柳士郎としては気になっていないはずがないだろう。
黒い瓦敷きの廊下の、向かって右手――東側に並んだ窓の|無双連子《むそうれんじ》はすべて閉められていて、隙間から射し込む外光もほとんどない。天井で灯ったまばらな明りの下、私たち三人は少し足を速めて、開けっ放しになっている板戸の前まで進んだ。
玄児に起こされて〈南館〉へ向かう途中、この同じ座敷を覗いてみた時の様子を、私は思い出す。江南青年は布団の上で上体を起こしてこちらを見、物問いたげに大きく首を傾げていた。相変わらず声は出せないようだったが。――何だかんだで、あれからもう一時間半以上が経っている。
薄暗い座敷を覗き込んだ玄児の口から、「おや」という呟きが漏れた。
「何だ、清じゃないか」
清? あの少年がここにいるのか。
玄児の肩越しに、私も座敷の中を見渡してみる。敷かれた布団はやはり空っぽで、江南の姿はない。だがその代わり、入って左手――弁柄色の襖戸が開いた向こうに、昨夕の初対面の時と同じ灰色のベレー帽を被った浦登清の姿があった。
「どうした、こんなところで」
問いかけながら、玄児は履物を脱いで座敷に上がり込んでいく。上がり口の前には、清のものと思われる小さな靴が並んでいた。江南の履いていたズックはどこにも見当たらない。
「玄児君」
野口医師が呼びかけた。
「私は一足先に〈北館〉へ戻りますが、構いませんかな。実はまだ、満足に身繕いもしておらんので。この汚れた白衣も、ちょっとどうにかしたい」
「ああ、そうですね」
玄児が振り向いて答える。
「それじゃあ、後ほどまた。〈北館〉のサロンか食堂ででも」
「さっきみたいな調子で、家の者全員にあれこれ訊いてまわるつもりですか」
「その必要もあるだろうと思っていますが」
「ふむ。――気持ちは分るが、あまり無茶はせんことですな」
「無茶も何もないでしょう。こんな異常な……ああいや、分ってますよ、云わんとされることは。どうぞご心配なく」
ビヤ樽のような巨体を揺すって野口医師が歩み去っていくのを見送ると、玄児は向き直って座敷の中に足を進めた。私も靴を脱いでそれに続く。
弁柄色の襖戸の向こう、隣の十五畳間には明りが点いていて、その中央に出された例の黒い座卓のそばに、浦登清は一人きりで立っていた。
「あ……こんにちは、中也さん」
私と目が合うと、清は少々はにかんだ様子でひょこりとお辞儀をした。口調は少年のそれだが、|萎《しな》びた唇から発せられるのはやはり、およそ少年らしくない嗄れ声である。
――お友だちになってくれますか。
そう云われて「喜んで」と答えた、昨夕の出会いの|一齣《ひとこま》を思い返しながら、私は「やあ」と片手を挙げて微笑んで見せた。
「何をしていたのかな」
と、玄児が清に訊いた。
「ここにいた青年は?」
「あの……さっきふらっと出ていっちゃって」
「ここに来て、彼と話をしていたのかい」
「――はい。あ、でもあの人――江南さんは声、出せないから」
そう云って、清は座卓の上に目を落とす。一冊の大学ノートとボールペンが、そこにはあった。これを使って筆談をしていたというわけか。
ノーとのそばに置かれた平たい紙箱に、そのとき気がついた。中には花模様の千代紙がたくさん入っている。その千代紙で作られた折り鶴が幾羽か、箱のまわりに散らばっている。
「これは? 清が持ってきたのか」
玄児が訪ねると、少年は「あ、はい」と頷いて、
「あの人――江南さん、一人で退屈だろうなって思って、それで」
「この鶴を折ったのは彼?」
「初めにぼくが一つ折って見せたんです。そうしたら、あの人も」
「なるほど。鶴の折り方は憶えている、か」
「ねえ、清君」
腕組みをする玄児の横に進み出て、私は何となく思いついたことを尋ねてみた。
「彼はお友だちになってくれたかい」
持ち前の旺盛な好奇心に動かされて座敷の模様を窺いにきたものの、実際あの青年に話しかける段ではきっと、この少年にしてみれば相当な勇気が必要だったことだろう。昨夕〈南館〉の廊下で私に声をかけてきた時と同じか、あるいはそれ以上の。
「中也さんと同じ」
清はそう答えて、「皺くちゃのお猿さん」のような顔にぎこちない微笑を浮かべた。
「最初はぼくを見て、やっぱりびっくりしたみたいでしたけど……でも、病気のことを説明したら分ってくれて。『たいへんだね』って、そこに」
と、少年は卓上のノーとを指さす。
「そうか。良かったね」
「――はい」
「ところで、清」
と、そこで玄児が話題を変えた。
「〈南館〉で起こった事件のことは? もう知ってるのかな」
「事件?」
清は心許なげに「さあ」と首を傾げ、
「それは……蛭山さんが死んじゃった、とか?」
「そう。誰からそのことを」
「だって、舟の事故で大怪我をしたって、昨日……だから」
「はあん」
腕組みを解いて、玄児は年の離れた従弟の老いた顔を見据える。
「怪我のせいで死んだ、と?」
「違うんですか」
清は訝しげに首を捻る。私には少なくとも、その反応に嘘偽りはないように見えた。
「蛭山さんはね、殺されたみたいなのさ。〈南館〉のあの部屋で、誰かに首を絞められて」
玄児が答えるのを聞いた途端、清の表情は目に見えてこわばった。いくら頭が良いと云っても、彼はまだ九歳の少年である。「殺された」というその言葉の禍々しさに、私たちとはまた違ったレヴェルの衝撃を受けたに違いない。
「殺された……ほんとに?」
「ああ。物騒な話さ。だからね、当面あまり一人きりで行動しない方がいいと思う」
「誰が、殺したの」
少年の問いに、玄児は「目下捜査中」と答えた。
「嵐で警察が来られないから、とりあえず俺たちにできる範囲で調べてみようと思っているんだが」
「…………」
「どうかな、清。蛭山さんが殺されたとして、何かその件に関する心当たりとか、ないかな」
清は無言でかぶりを振る。それ以上の追求は、さすがに玄児もしようとはしなかった。今日未明の清のアリバイを訊いてみることもしなかった。
何となくほっとする一方でしかし、昨夕〈南館〉でこの少年と会った際、最後に彼の口から吐き出された台詞を、
――蛭山さんのこと、あんまりぼく好きじゃないから……。
ふと私は思い出してしまう。あのとき背筋に感じたうそ寒さを思い出してしまう。それをもって、まさかこの少年に対して具体的な疑いを抱こうというわけではないにせよ。
「行こうか、中也君」
玄児に促され、私は座敷から出た。
靴を履いて廊下に降りると、思い切って大きく伸びをしながら、黒い無双窓が並んだ壁に背を寄せる。悪心はとりあえず治まっていたが、相変わらず身体は怠くて足がふらついた。
「どうした、清」
上がり口まで出てきた玄児が、振り返って声を投げる。清がまだ中にいて、動きあぐねている様子なのだった。見ると、床の間の横に造り付けられた暖炉の手前に立って、敷かれた布団の枕許にじっと視線を落としている。
「ええと……あのね、玄児さん」
嗄れた少年の声が、廊下にいる私の耳にもかろうじて届いた。
「何か」
と云って、玄児は座敷の中に一歩引き返す。
「あのね、あの人……江南さんなんですけど、何となくぼく」
ぷつりと言葉を途切れさせたかと思うと、清ははっとしたようにその場で天井を振り仰いだ。それからきょろきょろと周囲を見まわし、困ったような顔を玄児に向ける。
「どうしたんだい」
と、玄児が訊いた。すると清は、何やらひどく落ち着きのない調子で、
「お母さんが」
「うん?」
「お母さんが、ぼくを捜して……」
彼の母――浦登望和が?
私はとっさに左右を見渡した。廊下にも玄関ホールにも、この場所から見通せるところにはどこにも彼女の姿はないが。いったい急にどうしたというのだろうか。
「お母さん……」
清の声は弱々しく、聞き取りづらかった。
「もう……そんな……」
「おい、清」
そばに駆け戻った玄児が、少年の痩せ細った肩に手を置いて云った。
「望和叔母さんがどうしたって? 何で……」
そこでふっと玄児の言葉が切れ、ややあって「そうか」という呟きが落ちた――ように、私には聞こえた。
「叔母さんはとにかく、いつも清のことが心配でたまらないのさ。だからあんなふうに……分っているだろう」
肩に手を置いたまま玄児が云う。|項垂《うなだ》れた清の口から、「でも」という声が漏れる。
「もちろん清の気持ちは分るが。――そんなに悲しそうな顔をするなよ。さあ、行こう」
「でも、ぼく……」
「――分った」
肩から手を離し、玄児は清のそばから退く。そして云った。
「じゃあ、俺たちは先に〈北館〉へ戻るから」
「…………」
「けれどね、さっきも云ったとおり、当面あまり一人であちこちをうろうろしない方がいい。誰だか知らないが、とにかく人を一人殺した人間がいるんだ。それがどういうことだか、分るね」
伏せていた皺だらけの顔を上げ、少年は黙って頷いた。
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6
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座敷をあとにして、私たちは玄関ホールに出た。
今しがたの清の妙な言動は何だったのか。私は訊きたくてうずうずしていたのだが、それを知ってか知らずか、先に立った玄児はさっさとホールを横切り、〈北館〉の方に向かう板張りの廊下へと足を進める。折りしも、ホールに置かれたロングケースクロックがゆっくりと鳴りはじめた。正午を告げる時鐘であった。
昼なお館内に漂う薄闇の中、黒々と延びるその廊下をちょっと進んだところで、玄児の歩みがぴたと止まった。舞踏室と呼ばれる例の大広間の前だったが、その時点でやっと私は気づいた。
そこにある黒い両開き扉の片側が今、少しだけ開いている。ちょうど人間が一人通れるくらいの幅だけ。――誰かが中にいるのか。
「ふん。やっぱりそうか」
独りごちて、玄児は扉に両手を伸ばした。そうして二枚の扉の両方を静かに押し開く。
「玄児さん、いったい……」
何が「やっぱり」なのかと問いかけようとすると、玄児は「黙って」とでも云うように小さく首を横に振り、私を手招きした。
二人して舞踏室に踏み込んだ。
昨日以来、この部屋に入るのはこれで三度目になる。かつては賑やかなパーティが開かれたこともあるという洋風の大広間。奇妙なステップを踏んでくるくると踊る美しいシャム双生児姉妹の幻影が、床を埋めた黒と赤茶の市松模様の上にふと浮かび、すぐに消え……。
「……清ちゃん」
そんな声が聞こえてきた。
「清ちゃん、清ちゃんはどこ」
部屋の奥の片隅にぽつねんと立つ人影。鎧戸の隙間からわずかな光が射し込むだけの薄暗がりの中でも、その人物が女性であることと、彼女が着ている服の赤みがかった色は見て取れた。――浦登望和。清の母親である。
「清ちゃんは?」
だだっ広い空間に反響するその声はかぼそく悲しげだけれど、同時に何か切羽詰まったような迫力も感じさせる。昨夕〈北館〉の音楽室の前で彼女と遭遇した時のあの様子が、おのずとそこに重なって見えた。
「清ちゃん、清ちゃん……」
私たちが入ってきたことに気づく気配もなく、望和はわが子の名を呼びつづける。彼女の視線のすぐ先には、開かれた一枚の扉があった。二階に続く例の秘密の階段≠ェある小部屋の扉だった。
彼女があの扉を開けたわけだろうか。これから中に入っていこうとしているのか。あるいは、そこから出てきたところのようにも見えるが。
「叔母さん」
広間の中央へ進み出ながら、玄児がそっと声をかけた。
「望和叔母さん」
望和はおもむろに振り向いた。私たちの姿を認めると小部屋の扉の前を離れ、ふらふらとした足取りでこちらにやってくる。玄児の顔を見、続いて彼の斜め後ろに立った私に目をくれてから、
「清ちゃんは?」
今にも泣き出しそうな面持ちでそう云った。赤みがかった服は昨夕と同じ柿色のブラウス。屋内だというのに、首には薄紅色のスカーフを巻いている。
「どこに行ったの、清ちゃんは。あの子はね、とっても身体が弱いの。ねえ知ってるでしょ。あの子は病気なの。可哀想な病気の……だからね、わたしがいつもちゃんと見ていてあげないと……」
「清は元気ですよ」
玄児が穏やかな声音が応える。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですから。ね、叔母さん」
「清ちゃんは元気……いいえ。あの子はね、とっても身体が弱いの。ねえ知ってるでしょ。知ってるでしょ、あの子は病気なの。可哀想な病気の……」
望和は同じような言葉を、同じだと意識するふうもなく繰り返す。
「あの子は病気なの。わたしがいつもちゃんと見ていてあげないと……でもね、それはわたしのせいなのよ。わたしのせいなの。わたしがあの子をあんなふうに産んでしまったの。だからあの子は……」
「違いますよ」
玄児がぴしゃりと云った。
「叔母さんのせいじゃない。誰のせいでもないことです」
「わたしのせいよ!」
いきなり声高になったかと思うと、まん円く見開かれた彼女の双眸から、
――心配で心配で、いつも泣いてるの。
――だから目が真っ赤なの。
堰を切ったように涙が溢れはじめた。握りしめていたハンカチでそれを拭いながら、
――赤い目をして、蜻蛉みたいにお屋敷の中を行ったり来たり。
「わたしのせいなのよ」
望和はさらに訴えるのだった。
「あの子の病気はわたしのせい……だからね、わたしが代わってあげたいのに。ほんとよ。わたしはほんとにもう……ああ、わたしがあの子の代わりに、わたしが……」
玄児と私、どちらに対してそう訴えかけているのか。恐らく両方に大してなのだろう、と思えた。
――心が壊れてしまった。だから……。
家族の一員である玄児はともかく、初めての来客である私にまで、こんな……。
――やはりあれは、一種の狂気に取り込まれてしまっているのでしょう。
「ねえねえ、お願い。お願いだから。わたしを……わたしがあの子の、清ちゃんの代わりに……」
「駄目ですよ、叔母さん」
語気を強くして、玄児がたしなめた。
「そんなふうに云うと、清が悲しみますよ」
「清ちゃん?」
望和ははっとしたように、目尻に当てていたハンカチを下ろし、
「ああ……清ちゃんはどこ」
誰にともなくそう問いかけて、ゆらりと私たちに背を向けてしまうのだった。そうして部屋の奥の隅の、開かれた小部屋の扉に目を向けると、
「ああ、あんなところに」
いま初めてその存在に気づいたかのような呟きを落とす。
「二階に行ったのかしら、清ちゃん。あんまり一人で歩きまわっちゃいけないって云ってるのに。あの子は身体が弱いんだから。ああ、清ちゃん」
「あっ、叔母さん」
呼び止める玄児の声はしかし、もはや彼女の耳には入っていないふうだった。風に流される綿帽子のような動きで私たちの前から離れていくと、
「清ちゃん……清ちゃんはどこ」
扉の向こうを覗き込んで呼びかけながら、そのまま小部屋の中に姿を消してしまった。ゆっくりと扉が閉まり、床と同じ市松模様の壁に同化する。階段を昇っていく足音が、間もなく壁の向こうからかすかに聞こえてきた。
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7
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「大丈夫なんですか、放っておいて」
私が訊くと、玄児は物憂げに眉を寄せて、
「まあ、いつものことだからね」
と答えた。
「どうしてあの人は、あんな」
先ほど座敷で会った清の様子と、いま見た望和の様子――二つを頭の中で引き合わせてみながら、私はやりきれない溜息をついた。
「征順さんが望和さんのことを、『心が壊れてしまった』というふうに云っておられましたけど、どうしてあんな……」
「思うに、あれは――」
玄児は眉を寄せてまま答えた。
「そもそもはきっと、彼女の姉、美惟叔母さんがああいった状態になってしまったことへの反動、とでも云うのかな」
「反動?」
「俺にはそのように思えるんだがね」
「どういう意味でしょうか」
「十六年前に美鳥と美魚を産んだ時、美惟叔母さん――|継母《はは》が受けたショックは大変なものだった。以来ずっと彼女は、昨夜君が見たような状態でいる。美鳥と美魚は例の調子で『|仙人掌《さぼてん》』と呼んだりしているみたいだが、専門の医者に云わせれば、解離性の混迷状態が慢性化している、ということになるらしい。ほぼ終日〈西館〉の自分の部屋にいて、ぼんやりと横たわっているか坐っているかしている。自発的・意図的な行動はほとんど見られない。みずから喋ることもほとんどない。要するに、自分の産んだ赤ん坊がシャム双生児だったという、彼女にとってあまりにも衝撃的な目の前の現実をどうしても受け入れられなくて、心を内側に逃避させてしまったのだ、というふうに考えられる」
――あたしたちを産んだ時にお母さま、凄くびっくりしちゃったの。
――それでずっと……今でもずっと、びっくりしたままでいるのよ。
「望和叔母さんはね、そんな姉の様子をそばで見ていて、もちろん肉親の一人として大いに同情しつつも、一方で批判的な思いも強く抱いていた。たとえどんな姿形で産まれてこようとも、大切な我が子であることには代わりがないのに、と。その現実から逃げて自分の殻に閉じこもってしまうのは、母親としてひどすぎる、無責任すぎるんじゃないか。美鳥と美魚があまりに可哀想じゃないか、とね」
そう。こうして話を聞いただけでも、私も同じように思わざるをえない。当の双子たちはしかし、その辺についてはまるで気に病んでいない、あっけらかんとしているように見えるのだけれど。
「熱烈な恋愛の末に望和叔母さんが征順叔父さんと結婚したのは、今から十四年ほど前のことで――」
十四年前……か。幼少時のかすかな記憶と、後に得た知識から、私はその頃のこの国の様子を想像してみる。そこで「熱烈な恋愛」に落ちた二人の姿を思い描いてみる。
「最初の子供は不幸なことに死産だった。そのあとしばらくしてから、二人目が出来た。それが清だったわけなんだが、そのうち清の身体はあの病気に冒されていると分ってきた。早老症は浦登家に産まれる者にとっての宿命的なリスクとされているが、望和叔母さんにしてみれば、そりゃあひどいショックだったことだろうさ。美鳥と美魚を産んだ姉の美惟に劣らずね。
彼女はしかし、そこで決して姉と同じ|轍《てつ》を踏むわけにはいかなかった。姉のようになってはいけない、この現実から絶対に逃げてはいけない――と、そんな思いが脅迫的に彼女の心にのしかかって、その結果やがて、娘たちの姿から目を逸らし続ける姉とは逆の壊れ方≠してしまった。逆とはつまり、|不憫《ふびん》な息子に対する過剰な愛着、執着、そしてそのあからさまな表明だ。――というのがまあ、俗流かもしれないけれども、彼の解釈なんだが」
私は神妙に頷いてみせる。明解と云えば非常に明解な構図ではあった。
「だから望和叔母さんは、いつもわたしは清のことをこんなに心配している、という自分を演じつづけるのさ。それが嘘の演技≠セなんて云うわけじゃないんだよ。決して嘘偽りじゃない。〈北館〉一階のアトリエに閉じこもって絵を描いている時以外は、彼女は常に清の心配をしている。清についてまわってはしきりに体調を気遣い、何かにつけて世話を焼こうとし、そうしてあの子が近い将来あの病で命を落とす運命にあることを嘆き悲しむ。さらには、それもこれもすべては自分のせいなのだと、一身に罪を引き受けようとする。
ところが清の方は、ああいう子だからね、そんなふうに接しられるのがかえって嫌でたまらない――と云うか、自分の顔を見ては泣いてばかりいる母親が可哀想でたまらないんだろうな。だから屋敷内をあちこち動きまわって、母の目から逃げようとする。望和叔母さんはそれを探して、ああやって館内を行ったり来たり……とね、そういった関係が、この何年か続いている」
私は神妙にまた頷いてみせる。――が、それにしても玄児のこの淡々とした口振りはどうだろう。血の繋がった自分の叔母や従弟のことだというのに、あるいはわざとそうしているのだろうか、まるで他人事のように冷然と語る。|憂《うれ》いはあっても同情はない。そんなふうにも見える。
「すっかりバランスが狂ってしまった心の中で、望和叔母さんは何とかして清を生かしたいと願っている。自分が清の代わりに病気を引き受けてもいい、清の代わりに死んでもいい――と、相手を見つけてはそう訴えつづけている。それはまあ、ある意味で母親というものの当然の感情なのかもしれないが。しかしね、どうも最近になって思うのは、彼女の場合そういった過剰な思いが高じた挙句、奇妙な本末転倒を起こしてしまっている部分があるんじゃないか、ということで……」
「と云いますと」
「清の存在はいつしか言い訳に転じてしまっているんじゃないか、と思えるのさ。つまり、彼女みずからが『死にたい』と積極的に願うようになってきているんじゃないか、と」
「――自殺願望、みたいな?」
「ありていに云ってしまえばそうなんだが」
さっきまで望和が立っていたあたりに向けられている玄児の眼差しが、ふいと鋭さを増したような気がした。
「ところが、何とも難儀な問題がそこに立ち塞がっていてねえ」
「難儀な問題?」
「ああ」
玄児は頷き、声を一段低くして云った。
「死ねないのさ、困ったことに。いくら死にたいと願っても彼女は死ねない」
「はあ?」
意味を取りあぐねて、私は目をしばたたいた。
「どういうことでしょうか」
私が尋ね、玄児がそれに即答することをためらった――その時。
こそ、ごそ……という鈍い音が、広い部屋のどこかでした。何者かが身動きするような音だった。
私たちは驚いて周囲を見まわした。誰の姿も見えない。廊下から入ってくる人影もない。――が。
ぐ、うぐぐ……と、今度は低い呻き声のような音が響いた。確かに、この広間のどこかで。私たち以外の誰かが、やはりこの部屋の中にいるのか。
すぐに思い当たったのは、昨日ここで美鳥と美魚に出遭った時の状況だった。部屋の手前側の隅に置かれた|衝立《ついたて》を、私は振り返った。黒字にくすんだ紅色の線で抽象模様が描かれた――あのとき双子が身を隠していた――あの衝立障子である。
私が動くよりも早く、玄児が衝立に駆け寄って後ろを覗き込んだ。
「――ん? 何だ」
一足遅れて私も、玄児とは逆の側から衝立の裏に回り込む。そうしてそこで見つけたのは、先ほど〈表の座敷〉をふらっと出ていったというあの青年、江南某の姿であった。
「ここにいたのか、江南君」
玄児は青年のそばに歩み寄りながら、
「ははあ。ひょっとして君も、望和叔母さんに捕まってしまったわけかい。誰であろうとお構いなしだからな。それがさっきの……」
さっきの[#「さっきの」に傍点]? ――何だというのだろう。
江南は衝立の後ろの壁際で、床に尻をつけて坐り込んでいた。何やらぐったりと疲れ切った様子だった。私たちの顔を交互に見上げると、彼は色褪せた唇をわずかに震わせた。ううう……という、まともな声にならない呻きが喉から洩れた。
「大丈夫か」
玄児が手を伸ばし、腕を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、482-下-15]んで引き起こそうとする。覚束ない動きで、江南はそれに従った。
鎧戸の隙間から洩れ込む光が、立ち上がった青年の面差しを薄闇に浮かび上がらせた。気のせいか、ひどく顔色が悪い。蒼白を通り越して、紙のように白く見える。乱れた髪。虚ろな目。額と鼻の頭にはうっすらと汗が滲んでいる。額にも汗の跡が……いや、もしかしたらこれは涙の?
「無理はしない方がいいな、まだ」
江南の腕から手を離し、玄児が云った。
「記憶は? 何か新たに思い出せたかい」
答える声はなく、何拍か遅れたタイミングでのろりと首が振られた。
「声もまだ出せないんだね。――歩けるかい。――ふん。やっぱりもう少しおとなしく座敷で休んでいるべきだな、江南君。退屈でじっとしていられないのかな。お望みなら屋敷の中をあちこち案内してやってもいいが、それはもっとちゃんと養生してからの話だね。いいね」
玄児の言葉に青年は、緩慢な首の動きで答える。その顔色はやはり紙のように白く、その目はやはり虚ろだった。伸びてきた無精髭のせいだろうか、顎がいやに尖って見える。
窓の外で続く雨の音に、どろどろという低い|轟《とどろ》きが被さった。今日になって初めて耳にする雷鳴だった。思わず身を硬くする一方で、私はふと妙な気分に[#ここから太字](これは? という一瞬の……)[#ここで太字終わり]囚われた。
いま目の前に立っているこの青年の顔。
これは? という一瞬の|閃《ひらめ》きと戸惑い。
これは――この顔は、いつかどこかで見た憶えがあるような[#ここから太字](いったいこんな……と激しく揺さぶられるが、すぐにまた……)[#ここで太字終わり]……ああ、しかしもちろんそんなことはありえない。あるはずがないのだけれど。
「また雷か」
玄児が吐息ととも呟いた。
「いつまで居坐るつもりなんだろうねえ、この嵐は」
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第十四章 無音の鍵盤
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「蛭山さんが亡くなったんです」
玄児がそう告げた時、浦登征順はごく常識的な反応を見せた。|華奢《きゃしゃ》な縁なし眼鏡の蔓を右手の親指と中指で|摘《つま》み、眉間に深く皺を刻み、
「――気の毒に」
押し殺したような声で呟いて、着ていた茶色いガウンの前を掻き合わせる。
「致し方のない状況だったとは云え、やはり……」
玄児は先を続けず、遺憾の色を滲ませる相手の顔をしばし見据えた。それからおもむろに、
「誰からもまだ、話を聞いてはおられないわけですね」
探りを入れるように投げかけられた質問に、征順はちょっと不思議そうに首を傾げ、
「誰から、何の話を」
「鶴子さんや野口先生、あるいは父とはまだ会っておられない?」
「|階下《した》に降りてきてからは、ずっと図書室にいたからね。今日はまだ、望和と清以外の誰とも顔を合わせていないが」
「蛭山さんが死亡したのは、野口先生の検分によれば今日未明、午前二時から四時の間のことなんですけれども」
ほんの少し間をおいてから、玄児は低く抑えた調子で云った。
「原因は昨日の事故の負傷ではなかったんです」
「――はて」
そこで征順が示した困惑も、こういった場合のごく常識的な反応であったと云えるだろう。しかし、たとえばそれが、「知らなかったふり」を演じる彼の作為だとは考えられないかと問われたなら、私には自信を持って「違う」と答えることは出来ない。
「いったいそれは、どういう……」
〈北館〉一階のサロンに、私たちはいた。時刻はもうすぐ午後一時になろうとしている。
〈東館〉の舞踏室で茫然としていた江南青年は、玄児が手を引いて許の座敷まで連れ戻した。清はその時すでに座敷にはおらず、江南はおとなしく玄児の云いつけに従って布団に横になった。積極的に心身の不調を訴えることはしなかったけれど、蒼白な顔に虚ろな目、緩慢な動き……心ここにあらず、とでもいったその様子には変わりがなかった。
そのあと玄児と私は〈北館〉へ移動した。そうしてとりあえずこのサロンのソファに落ち着くと、私は玄児が用意してくれたグラスの水で、からからに渇いていた喉を潤した。先ほど野口医師に貰った宿酔の薬も、その際に合わせて飲んでしまい、ようやく人心地のついた気分で私は、あれこれと心中に蟠っている疑問を玄児にぶつけようと決めた。ところが――。
「ねえ、玄児さん」と切り出した、折りしもその時であった。私たちの気配に気づいたのだろう、サロンの東隣に設けられた図書室の扉が開かれ、浦登征順が姿を現わしたのだった。
「……どういう意味なのかな、玄児君。彼の死に何か不審な点でも」
鋭く眉をひそめて征順が訪ねた、その声の向こうで、かすかに軽やかなオルゴールの音が鳴りはじめた。西隣の遊戯室に造り付けられた、あのからくり[#「からくり」に傍点]時計が|時刻《とき》を告げる音である。双子の母、美惟が若い頃に作曲したという「赤の|円舞曲《ワルツ》」の、薄暗く物寂しい調べ。
「蛭山さんは――」
やはり低く抑えた調子で、玄児が征順の問いに答えた。
「蛭山さんが死んだのは、事故の負傷のせいではありませんでした。何者かの手によって殺されていたんです。寝かされていたあのベッドの上で、ズボンのベルトで首を絞められて」
征順の顔に驚きの波が広がり、「な……」と声を詰まらせた。
「何で……何かの間違いでは」
「さっき間近に見て確かめてきたばかりです。中也君も一緒に」
そう云って、玄児は私に目配せする。私は神妙に頷いた。征順は険しい面持ちで私たちを交互に見やり、それから「信じられない」というふうに大きく首を振り動かした。
「誰がそんな……何のために」
「分りません。誰がやったのかも何のためかも」
「――警察には?」
「いえ」と、玄児はかぶりを振る。そして、現場で私に対してしたのと同じ経緯の説明を、ここで繰り返した。
玄児の説明を聞くうち、征順はいよいよ険しい面持ちになっていったが、あるところでそれが、長い吐息とともに緩んだ。と云っても、むろんそこに表われたのは安堵ではない。半ば投げやりな諦め――と、私にはそのように見えた。
「どう思われますか、父の判断を」
玄児が訊いた。
「この事件は単なる事故死として内々に処理しよう、という」
数秒の沈黙の後、征順はまた長い息を落として、
「仕方ないだろうね」
と答えた。これもどこか「投げやりな諦め」を感じさせる口振りだった。
「世間的な常識からは大いに外れることだが、彼が――|義兄《あに》が強くそう云うのであれば。しかし、そうなると――」
征順は私の方に視線を流し、
「そうなると当然、中也さんにもこのことは黙っていてもらわなければならない」
「そうですね」
と、玄児が相槌を打った。
「東京に戻っても、今日ここで起こった事件については決して口外しないように。警察はもちろん、誰に対しても。――という話になるんだが、いいかな、中也君」
躊躇なく「はい」と答えられるはずもなかった。だが、この場でいくら当たり前な市民感覚に従った意見を述べてみても無駄であろうことは、昨夕以来の経験で分っている。私は当惑し、返答に窮したまま眼差しを伏せた。
「どのみち、この家の秘密は守ってもらわなきゃいけない。すでに君は、その義務を負わされてしまっているんだから」
そんなふうに云われて、私は思わず「義務?」と聞き直した。
「どういうことですか、玄児さん」
「仲間なんだよ[#「仲間なんだよ」に傍点]、君は俺たちの[#「君は俺たちの」に傍点]。だから……」
私はますます当惑せざるをえなかった。
何なのだろう。私が彼らの「仲間」であるとは、だから秘密を守る義務があるとは、いったいどうして、そんな。
玄児は首を捻って私の方を向いたまま、視線を逸らそうとしない。その瘠せた蒼白い頬には、かすかな笑みが滲んでいる。――ああ、これ[#「これ」に傍点]は。
同じだ、と感じた。
――できれば君にも関係者の一人として、直接現場を見ておいてもらった方がいいと思ってね。
蛭山が殺されたあの寝室に足を踏み入れる際、玄児が私に差し向けた言葉。
――浦登家の関係者の一人として[#「浦登家の関係者の一人として」に傍点]、だ。
あの時、彼の頬に滲んでいたあの笑みと、これ[#「これ」に傍点]は同じ……。
その一方で、私の頭の中ではやおら、妖しい靄に包まれた昨夜の記憶が|蠢《うごめ》きはじめている。昨夜の、あの異様な〈宴〉の記憶が。
――ダリアの祝福を。
浦登家の人々の唱和が、耳の奥で|谺《こだま》のように鳴り響く。幾本もの深紅の蝋燭の炎が脳裡で揺らめく。薄闇に漂う不思議な香りが鼻腔に、得体の知れぬ料理の味が舌に、蘇る。
――ダリアの祝福を、我れらに。
――ダリアの祝福を……。
――ダリアの……。
……あの〈宴〉に参加したから? それで、私はすでに彼らの「仲間」だと云いたいのか。「関係者の一人」というあの時の言葉も、そういった意味を込めてのものだったのか。――まさか。いや、しかし……。
「しかし、玄児君」
と、征順が云った。
「何がどうあれ、一番厄介な問題は残ってしまうわけだね。誰が何の目的で殺したのか、という」
「気になりますか」
「それは当然だろう」
「ですよね」
頷いて、玄児は煙草に火を点ける。
「俺も同じです。だから、追求する必要はやはりあると思うんです」
「追求……事件の真相を?」
「ええ。誰が何故、蛭山さんを殺したのか。警察に知らせる知らせないとは別の次元で、やはりその問題を放っておくわけにはいかないと」
「――うむ」
「父とは、あとでまたゆっくりと話してみるつもりですが」
そう云って、玄児は表情を引き締めた。
「彼にしても、気になっていないはずがない。この屋敷の主人として、屋敷内で起こった殺人事件の犯人をこのまま放置しておくわけには、普通いかないはずでしょう。それこそ自分自身が犯人でもない限り……」
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玄児と征順のやり取りを黙って聞きながら、私は水差しからグラスに新しい水を注ぎ、ゆっくりと飲み干す。無性に煙草が吸いたかったのだけれど、我慢していた。吸うとまた悪心が蘇ってきそうに思えたからである。
広いサロンの空間はうっすらと暗い青色に染まっている。中庭側中央に作られたフランス窓の青い模様硝子を透して、外の光が忍び込んできているためだ。昨夜から想像していたとおりの、何やら深海めいた雰囲気の中、私はちらりと頭上に目を向ける。ここが水の底で、高い天井付近に水面があって……その上から今、何者かにこっそりと覗き込まれているような。そんな埒もない感覚に、ふと囚われたのだった。
「蛭山さんが死亡したと思われる午前二時から四時の間、叔父さんはどこでどうしておられましたか」
玄児が問うと、征順はわずかに肩を竦めて訊き返した。
「それはつまり、私のアリバイを訊いているわけだね」
「もちろんそうです。関係者全員のアリバイを確認するのは、こういった場合における探偵の基本でしょう」
「意外だね。玄児君の口からそんな、探偵小説の定番の台詞を聞くことになろうとは」
征順は目を細めて薄く笑う。受けて、玄児もわずかに肩を竦めてみせながら、
「誤解しないでください」
と云った。
「嫌いじゃないんですよ、俺も探偵小説は。莫迦莫迦しいと思いつつも、読みだすとつい熱中させられる。ただ、そうですねえ、中に登場する名探偵たちの在り方については、往々にして首を傾げてしまうんですけど」
「ほう。それはまた、どうして」
「いったい何が彼らを、こんなにも|傲慢《ごうまん》にさせるのだろうか、と」
「傲慢?」
「ええ。何か事件が起こって、おおむね外部から呼ばれてやって来た彼らが、そんなに躍起になって真実≠求める必要や権利がどこにあるのだろう、と。――なんてことを云いだしたら、今の話の流れと矛盾を来してしまいかねませんね。実際にこうして身近で殺人事件が起こって、その謎≠ノ直面してみると、人はやはりどうしても真実≠知りたくなってしまうものだと、そういうことでしょうか」
「なるほど。しかしこの場合、君は決して外部から呼ばれてきた他人ではないわけだから」
「その違いはあるにせよ――」
言葉を切り、玄児は新しい煙草に火を点ける。
「真実≠ネど無理をして探し求めるものじゃない。むしろ知らないままでいられることを良しとする、そんな対し方があっても構わないだろうに……と、ことにこの数年はそう考えてきたんでけどね。どうやら俺も、実のところはかなり傲慢な人間なのかもしれない」
「面白いことを云うね、玄児君」
征順は鼻の下に薄く蓄えた髭を撫でた。
「知らないままでいられることを良しとする。むろんそれはそれで『良し』だとは思うが」
「まあ、その問題はさておき」
深く吸い込んだ煙を静かに吐き出しながら、玄児は云った。
「質問に一応、答えていただけますか。午前二時から四時の間、叔父さんはどこで何を」
「眠っていたよ」
征順はあっさりとそう答えた。
「〈宴〉のあと寝室に戻って、だいぶ酔ってもいたしね、程なくぐっすり眠り込んでしまった」
「望和叔母さんも一緒に?」
「彼女は向かいの部屋で。寝室はもう長らく別々にしている。君も知っているだろう」
「ええ、それは」
頷いて玄児は、黒いテーブルの黒い灰皿に煙草の灰を落とす。
「清は叔母さんと同じ部屋で休むんでしたっけ」
「そうだよ」
「昨夜も同じように?」
「おや。清まで容疑者に含めるのかね」
「すべての者を疑ってかかるのが探偵の基本でしょう。叔母さんも清も、どちらも可能性の対象であることに違いはないので」
と、玄児は云う。それもやはり「定番の台詞」だと承知しながらも、傍らで聞いている私は冷や汗ものだった。まだ九歳の、しかもあのような病に冒された我が子に疑いを向けられて、それで笑っていられる親はいないだろうから。
征順はしかし、そんな私の懸念を裏切って、紳士然とした穏やかな微笑を口許に広げながら、
「少なくとも清には、体力的に考えて無理な話なのでは? 大人一人を絞め殺すには、あの子はあまりに非力すぎる」
「いえ、そうとは限りませんよ」
と、玄児は即座に否定した。
「ご存じのとおり、蛭山さんはそもそも瀕死の重傷を負った状態で、恐らく意識もなかっただろうと考えられる。誰に何をされても、抵抗などまったくできなかったはず。首にベルトを巻きつけて絞め殺すのは造作もないことです。大した力も必要ない。やり方さえ分っていれば、それこそ三、四歳の子供にだって可能だったでしょうから」
「――ううむ」
「確認します」
と、玄児は続けた。
「昨夜も清と叔母さんは、同じ寝室で休んでいたのですね」
「そう。もっとも、二人とも問題の時間帯には熟睡していただろうが」
「でしょうね」
「玄児君。この調子でみんなに訊いてまわったところで、普通そんな時間に完全にアリバイが成立する者などいるまい。もしもきちんとアリバイを主張できる者がいたとしたら、かえってそっちの方が怪しい。どうかな」
「すこぶる探偵小説的な考え方ですね、それも」
そう云って、玄児は煙草を揉み消した。
「仮に叔父さんが犯人ならば、あらかじめ入念なアリバイ工作をしておきそうな感じですもんねえ。いかがですか」
征順は微笑を苦笑に変えただけで、何とも答えない。玄児は「ところで」と話を進めた。
「蛭山さんが殺された〈南館〉のあの部屋には、ちょっとした隠し扉が作られています。そのことは当然ご存じですよね」
「――ああ、そう云えばそんなものがあったな。押入から外の物置に繋がっている、あの?」
「そうです。昨日の夕方以降、叔父さんはあの扉を開けたりはしておられませんか」
「私が?」
征順は眼鏡の向こうでちょっと目を円くして、「いいや」と首を振った。その反応を見つめる玄児の眼差しは、はっとするほどに鋭い。
「そんな必要は何も……ははあ、ひょっとすると犯人は、あの扉から現場に?」
「どうやらそうらしいんですよ。これもさっき調べてきたんですけど、恐らく隣の居間にいたしのぶさんに気づかれないようにするため、犯人はあの隠し扉を使って出入りしたと思われるんです」
「なるほど。ということは……」
「望和叔母さんにしても清にしても、あの扉の存在は知っているはずですね」
「それは……うむ、知っているだろう。この屋敷に長年住む者なら、誰もが知っていておかしくない」
「そう。そうですよね」
最後は半ば独りごつように呟いて、玄児は大きく深く頷いた。
犯人はあの隠し扉の存在をあらかじめ知っていた人物。それはすなわち、浦登家内部の人間である。――という、先ほど行き着いた一つの結論を反芻しながら、私は今日まだ会っていない幾人かの家人の顔を思い浮かべた。
当主、浦登柳士郎。その妻、美惟。そして美鳥と美魚の双子姉妹。――彼らについても玄児は、こうして同じような「確認」をしていくつもりなのだろうけれど、果たしてその先の目算は何か立っているのだろうか。
「それにしても、玄児君」
と、今度は征順の方が質問に出た。
「事件の話を聞いた瞬間から不思議に思っているんだが、どうして彼は――蛭山は、そんな死に方をしなければならなかったんだろう。一番の謎≠ヘそこにあるような気がするんだがね」
玄児は何とも答えず、テーブルに置いた煙草に手を伸ばした。が、中身がもうないことに気づくと、軽く舌打ちをして箱を捻り潰す。
「ちょっと失礼します」
云って、玄児はソファから立ち上がった。
「煙草が切れちまったもので。――紅茶か珈琲でも飲むかい、中也君」
「あ、いえ。私はこの水だけで」
「気分はまだ悪いの?」
「――いえ、何とかもう」
「昼食はどうする。食べられそうなら、すぐに用意させるが」
「――いえ」
鳩尾に手を当てながら、私はゆるりと首を振る。するとそこで、
――まあまあ、困ったものねえ。
ふとまた、遠い過去からのあの声が。今はもう会うことの叶わぬ……母の声が。
――男の子のくせに、この子は。
「夜まではやめておきます」
もう一度ゆるりと首を振って、私は云った。
「気にせずに、玄児さんだけでも食べてください」
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玄児が一人でサロンを出ていったあと、向かい合ってソファに坐った征順と私の間には、しばし重苦しい沈黙が続いた。
蛭山の事件についてこちらから何か話す気には、とてもなれなかった。昨夜の〈宴〉に関して聞きたいこともむろん多くあったけれど、それを今ここで切り出すのも何となく気が引ける。
人の話し声がなくなると、外で続く風雨の音が幾段も大きく感じられた。広くて天井が高くて、なおかつ石造りの建物であるためだろうか、〈東館〉や〈西館〉とは音の響き方が異なるようにも感じられる。高音と低音が妙な具合に増幅され、深海めいたこの部屋の雰囲気ともあいまって、雨と云うより何だか波の音のような……。
征順はソファの背に深く凭れかかり、腕組みをしたまま身じろぎ一つせずにいる。テーブル上の一点を見据えたその眼差しには、穏やかさのかけらも窺えない。彫りの深い整った顔立ちであるだけによけい、表情の険しさが目立つ。
――叔父さまは鷹とか鷲とか、そんな感じ。
美鳥と美魚による例の人物評が、おのずとまた思い出された。
――だけどやっぱり、飛べないの。
「さっき〈東館〉の舞踏室で、望和さんとお会いしたんですが」
ずっと黙りつづけていることにも耐えられなくなって、私の方が口を切った。
「ああ……」
腕組みをほどきながら、征順は私の顔に目を上げた。その表情から、宙に溶け出すようにして険しさが消える。
「何かご迷惑をおかけしましたか」
「いえ、そんなことは」
私は慌ててかぶりを振った。
「事情は玄児さんから聞きました。清君のことを愛するあまり、あんなふうに……と」
「愛する?」
征順はひくりと眉を震わせた。
「――そうですね。確かにあれも、『愛する』ことの一つの在り方なのでしょう。ある意味ですっかり完結した形の……私には何もしてやれません」
かすかに溜息をつき、征順は眼差しをまたテーブルの上に落とす。さっきまでの険しさに代わって、表情には弱々しく物憂げな翳りが射していた。そして――。
「私が初めてこの浦登家の屋敷を訪れたのは、今から十七年ほど前のことです。そこで彼女と――望和と出会い……程なく私は、すっかり当時の彼女の美しさに魅了されてしまいました」
独り追憶に浸るように、征順は語りはじめたのだった。
「俗に云う一目惚れ、だったのでしょう。彼女もやがて私の思いを受け入れてくれて……私は結婚を望みました。ただし、その実現のためには、従わなくてはならないいくつかの条件があった。私の方が浦登家に入り、浦登の姓を引き継ぐこと。それまで私が生きてきた世界を捨て去って、この屋敷に定住すること……。
……結局、私はそれらの条件をすべて呑むことに決めました。私の周囲では反対の声が多かったのですが、すべて振り切って。――私たちは結婚しました。知り合って三年後のことです。何とも不思議な充足感に、あの時は酔いしれたものでした。幸せだった、と云ってみてもいいでしょう。そして、その幸せがずっと、それこそ永遠に続くことを私たちは夢見、信じようとしていたのです」
どう反応したらよいのやら、私は戸惑うばかりだった。その様子に気づいてか、征順は決まり悪げな微苦笑を口許に浮かべて、
「失礼。いきなりこんな話を聞かされても、あなたは困ってしまいますね」
「あ、いえ」
「いろいろと思い煩うこともありますが、まあしかし、長く住み着いてみるとここでの生活自体は決して悪くない」
気分を変えよう、とでも云うように背筋を伸ばして、征順はゆっくりと、暗く青い光が漂う室内に視線を巡らせた。
「世間の騒々しい動きとは関係なく、ひたすら静かに時間と向き合うことができます。考えることは無限にある。読む書物も――何も探偵小説ばかりを読んでいるわけじゃありませんからね、まだまだほとんど無限に存在する。そういてそのための時間も、ここには無限に……」
「美鳥さんと美魚さんから昨日、征順さんは『鷹とか鷲とか、そんな感じ』だという話を聞いたんですよ。『だけど飛べない』と、彼女たちはそうも云っていましたが」
「人物を動物に喩えてしまう、あれ[#「あれ」に傍点]ですね」
征順は柔和な微笑みを広げた。
「知っていますよ。唯一、あの子たちの母親だけは植物のようですが」
「『飛べない』というのは、どうしてそんなふうに云うのでしょうか」
「あの子たちはああ見えて、なかなか鋭い洞察をしますからね。思うに――」
軽く目を|瞑《つぶ》り、ほんの少しの間をおいてから征順は続けた。
「『飛べる』『飛べない』というのは、恐らくあの子たちの、外の世界への|憧憬《しょうけい》と結びついた言葉なのだろう、と。あの子たちはああいった身体に生まれつき、ずっとこの山奥の屋敷で暮らしています。そのことに強い不満を感じているふうでもないが、それでも外への|憧《あこが》れはどこかで芽生えてきているに違いない。屋敷を出て東京で暮らす玄児君は、だから空を『飛べる』動物なのでしょう。確か彼は、|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、497-上-12]鼠《むささび》でしたね」
――玄児兄さまはねえ、|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、497-上-20]鼠《むささび》。
――前脚と後脚の間に幕を張って、木から木へ飛ぶのよ。何十メートルも飛ぶの。凄いでしょ。
「中也さん、あなたは何と」
「|木菟《みみずく》、ですが」
「『飛べる』動物ですね」
征順はまた柔和に微笑みながら、
「『飛べる』というのは自由≠フ象徴なのでしょうね。その伝で云うと私は、元々は『飛べる』――『飛べた』のに、今は『飛べない』。自由を失ってしまっている、というふうに、あの子たちの目には映るのかもしれない」
私はいったん「はあ」と頷いたが、
「ですが、征順さんもこの屋敷から――この島から外へ出られることはあるでしょう」
「必要がある時には、もちろん」
と、征順は答えた。
「しかしね、本質的にはやはり『飛べない』が正解なのだろうと思います。何と云うか、そうですね、羽根が折れていて『飛べない』のではなく、鎖で繋がれていて『飛べない』のです」
「鎖?」
「そう。あの子たちの目には『飛べる』と映っている玄児君にしても、実のところは私と同じ……。|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、498-上-1]鼠《むささび》とはよく云ったものです。鳥のような長距離を、みずからのはばたきで飛びつづけることはできない」
「玄児さんも、鎖で繋がれているわけですか」
謎めいた比喩に軽い息苦しさを覚えつつ、
「それは、何に」
と、私は問うた。
「何に繋がれているのですか」
「むろん、この屋敷に、です。この暗黒館に。そしてこの浦登家に」
征順は眼鏡の奥で静かに目を細め、さらなる謎に誘うかのような答えを示した。
「私や玄児君だけではない。望和も彼女の姉も……他ならぬこの屋敷の当主、義兄の柳士郎からして、その一人なのでしょう。身体や心が、というだけでなく……そうですね、私たちの|生命《いのち》そのものが、暗黒館というこの屋敷に繋がれ、囚われてしまっているような。呪縛、などという言葉で言い換えてみてもいいかもしれません」
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征順のその答えを聞いても、私の息苦しさが解消されることはなかった。
飛べる。飛べない。自由。鎖で繋がれて。生命そのものが。呪縛。……それらの言葉を心の中に並べ、意味の連関を捉え直そうとしていると、
「ときに中也さん、東京はどうですか」
不意に口調を変えて、征順がそんな質問をしてきた。
「この春からあちらで暮らされているのでしたね。下宿生活にはもう慣れましたか」
私は「まあ」と曖昧に頷いてから、
「掴み[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、498-下-18]どころのない街ですね、東京は。広くて人が多くて、みんな何だか慌てた感じで……私が育った土地とはまるで別の国のように見えてしまいます」
「私も一時期、住んでいたことがあるのですよ」
と、征順は云った。
「それこそ十七年前、望和と出会った頃には、本拠地は東京に。もちろん今とは違って、日本中どこにいてもいろいろと大変な頃でしたが……」
「ご出身はどちらなのでしょう」
「生まれは九州です。島原の方に、十代の初めまでは」
「島原……雲仙の麓ですね」
かつて一度、|有明《ありあけ》の海を挟んでその雄大な山影を望んだことがあった。季節は夏の真っ盛りで、|蒼穹《そうきゅう》に盛り上がった入道雲がまるで火山の噴煙のように見えた。例によってふらりと一人旅に出て、熊本の街に立ち寄った際の思い出である。
「塔から落ちたあの青年ですが」
ふと気がついたように、征順が云いだした。
「彼は確か『江南』という苗字でしたね」
「ええ」
「〈表の座敷〉で昨日、彼があの文字を書くのを見た時に思ったのですが、ひょっとしたら彼も島原地方の出身かもしれないと」
「何でまた、そう」
「わりあいに多いのですよ、あちらにはそういった苗字が」
眼鏡の蔓を摘みながら、征順は答えた。
「『江南』と書いて『えなみ』、あるいは昨日あなたも云っておられたが、『かわみなみ』とか『かわなみ」とか読ませたりもする」
「ははあ」
「だからと云って、彼が島原の出身者だと決まったわけではありませんが。しかしまあ、親類縁者にあちら方面の人間がいる可能性は、ある程度考えられるでしょう」
江南というあの青年は何者なのか。何故、山奥のこの湖のこの島に一人で渡ってき、あの十角形の塔に昇ったりしたのか。当然ながら征順にとっても、そのことは気懸かりな問題であるに違いないわけだが……。
中庭に面したフランス窓の外で突然、稲妻の閃光が瞬いた。空間を染めた深海の青が瞬間、天に突き抜けたような明るさになった。ややあって、どろどろと長々しく轟き渡る雷鳴。
これは? という一瞬の閃きと戸惑いが、私の脳裡に蘇る。先ほど〈東館〉の舞踏室で江南と遭遇した折りに、ふと囚われた妙な気分[#ここから太字](これは? という一瞬の……当惑、混乱)[#ここで太字終わり]。あの時、私は……。
「嫌な音ですね、雷というのは。ついつい忌まわしい連想をしてしまう」
フランス窓の方に引き寄せられていた目をこちらに戻し、征順が云った。
「ところで中也さん、玄児君からはもう話を聞かれたのですか」
「話? と云いますと」
「昨夜の〈ダリアの宴〉について、です。それから浦登家そのものについて、詳しいところを」
「――いえ」
私は小さく首を振った。
「何も、まだ」
征順はちょっと意外そうに「そう」と応え、
「じゃあ、あなたは……」
「何だったのですか、昨夜のあれ[#「昨夜のあれ」に傍点]は」
ようやく機会を与えられた、という思いで、私は|口気《こうき》を強めて尋ねてみた。
「ダリアとは、この屋敷の初代当主である浦登玄遙氏がイタリアから連れ帰ってきた女性の名。それがすなわち、玄児さんの|曾《ひい》お|祖母《ばあ》さんに当たる人なのだ、という話は聞きました。昨日がそのダリア婦人の誕生日であり命日でもある、という話も。〈宴〉の席で確か、柳士郎氏もそのように云っておられましたし……〈宴の間〉に飾られていたあの肖像画の女性が、きっとその人なのだろうとも察しがつきます。ですが、昨夜のあれ[#「昨夜のあれ」に傍点]は? いったいあれは何の儀式≠セったのですか」
「それは……」
答えかけたものの、征順はすぐに「いや」と躊躇を示し、
「玄児君の口から語られるべき事でしょう、それは。私がここで説明してしまうよりも」
そう云って静かに視線を逸らすと、ガウンの紐を結び直しながらソファから立ち上がった。テレヴィを点け、その足でグラス類が収められたサイドボードの前に向かう。
テレビゥのブラウン管に映し出された画像の状態は、いっこうに過ぎ去る気配のないこの嵐のせいだろう、昨夜よりもずっと悪かった。何だろうか、実録映像の類が流れている。音声にも雑音が多くて、いま一つはっきりと内容が掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、501-上-16]めないのだけれども、どうやらいろいろな土地に赴いてその風物を紹介する、というような番組らしい。
ソファに戻った征順は、まさか私に合わせてくれたわけでもあるまいが、サイドボードから取り出してきた青い濁り硝子のグラスに水差しの水を注ぎ、一気に半分ほどを飲んだ。私はまた無性に煙草が吸いたくなって、今にもシャツの胸ポケットに手を伸ばしそうになったのだけれど、どうにか自制して自分のグラスを新たな水で満たした。
「――おや」
低く声を洩らし、征順がテレヴィの方へ少し身を乗り出した。
「これはまた、驚いた偶然も……」
独り言のように呟き落とす彼に、「何ですか」と私は訊いた。
「どうしたのですか」
「ああ、いや……そこに映っている、あの建物」
征順がテレヴィを指さして「あれは」と云いかけた時、画面はぷつりと別の風景に切り替わってしまった。外でまた雷鳴が轟き、それとともに映像がいよいよ乱れる。雑音がさらにひどくなり、音声はもはやほとんど聞き取ることができない。
「いま背景に映っていた建物……見ましたか」
「――ええ」
確かに、画面の奥の方に何か大きな建物が見えていた。柱や|梁《はり》、窓枠など軸組みとなる木骨が壁面に露出した、いわゆるハーフティンバー調の洋風建築だったように思うが。
ハーフティンバーと云えば、北ヨーロッパで発達し、十五世紀から十七世紀には英国の住宅建築で多用された様式である。日本では明治後期から昭和初期にかけて流行した。柱を露出させるという手法において、この国の伝統的な木造建築様式に通じるものがあったからだろうか。その頃の建物は現在も方々に残っているが、「現存する最も華麗な洋館の一つ」とも評される福岡県|戸畑《とばた》の旧|松本《まつもと》|健次郎《けんじろう》邸もこの様式の傑作で、いつだったか現地を訪れてその実物を見た時には、想像していた以上の美しさにいたく感激したものだった。
「音がひどくて説明が聞き取れなかったかもしれませんが――」
すっかり画面が乱れて用を為さなくなってしまったテレヴィから目を離し、征順が云った。
「|瀬戸内海《せとないかい》に浮かぶ、|時島《ときしま》という小島なのですよ、今の番組で映っていたのは」
「時島……」
「その昔――と云っても、せいぜい二十年ほど前の話ですが、ある物好きな富豪がいましてね、老境にさしかかった頃になって彼は、あの島をまるごと買い取り、そこにみずからの楽園≠建設しようと考えたのです。収集した美術品やら何やらをすべて島に運び込み、大勢いた彼の愛人たちもみんな移り住ませ……と、そうですね、乱歩の『パノラマ島』から犯罪性・猟奇性を引き算したようなもの、とでも考えればいいでしょう」
瀬戸内海、時島の楽園=\―。
ああ、そう云えばそのような話を――噂のレヴェルでだが――、どこかで聞いたことがあるような気もする。
「しかし結局のところ、富豪が死んだ楽園建設はその完成前に、彼みずからの死によって頓挫することになったのです。現在はどこかの財団の管理下にあるそうなのですが、島全体を一般に開放して、ちょっと風変わりな観光名所に仕立て上げようという動きもあるらしい。それで、今のような映像がテレヴィで流れたりもするのだろうな、と」
「なるほど、そんな話が。――で、さっきの建物は? あれが何か」
「私の見間違いでなければ――」
一呼吸置いてから、征順は云った。
「昨日あなたが気にしておられた建築家、ですよ。あれは昔、彼[#「彼」に傍点]がその富豪から依頼を受けて設計したもので……」
私は思わず「えっ」と声を上げ、
「この〈北館〉を再築したという、例の?」
征順は私の反応を楽しむように目を細め、「そう」と頷いた。
「若かりし日の彼の仕事の一つとして、文字どおり知る人ぞ知る……」
画面が乱れたままのテレヴィに[#ここから太字](中村青司がそんな……という驚きがおもむろに浮上し、すぐにまた沈み)[#ここで太字終わり]、私は視線を投げる。そうと分っていればもっと注意深く観察したのに、と悔やまれた。
この暗黒館に初めてやってきた際、私と同じ感想の言葉を述べたというその建築家。一風変わった生き方を選び、そして死んだというその建築家。
――彼もまた、取り憑かれてしまった者の一人であったと、そういうことなのでしょう。
征順は昨日、そんなふうにも云っていた。興味はいやが上にも膨らんだ。どうにも輪郭の定まらない灰色の影が、私の心の中で思わせぶりに揺れ動く。
「全体的にはオーソドックスなハーフティンバーですが、あちこちに独自の意匠も凝らされています。たとえば、構造的に必要な本数よりも遙かに多くの木骨を使って、やたらと複雑な、絵画的な模様を壁面に描かせていることや……」
建築家中村某の手に成る時島の洋館について、征順は説明を続ける。
「銅葺きの屋根の、|緑青《ろくしょう》が吹いた色と同じ色合いにすべての木骨が塗られていたり……」
聴きながら、私はふと違和感を覚える。当然と云えば当然の、それは疑問でもあったわけだが。
稲妻の閃光がまた空間を蒼白く瞬かせ、続いて、これまでよりもいっそう重々しく長々しい雷鳴が轟き渡った。テレヴィの画面がさらに激しく乱れ、一瞬真っ暗になってしまう。
「征順さん、あの……」
覚えた違和感を、疑問を、私が口に出そうとしたその時――。
部屋の外から人の声が聞こえてきた。いったい誰だろうか、女性がヒステリックに|喚《わめ》き立てるような声である。
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何事が起こったのかと不審に思ったのは、征順も同じらしかった。私たちは顔を見合わせると、ほとんど同時に立ち上がった。先ほど〈南館〉で目の当たりにした玄関番の絞殺死体が頭にちらつき、不穏な予感が嫌でも膨れ上がってくる。
私たちは廊下に飛び出した。〈北館〉を東西に貫く長い主廊下の薄闇には、しかし人影は見当たらなかった。声は右手から聞こえてくる。音楽室や撞球室が並ぶ建物東翼の袖廊下の方角から――。
「……嫌っ。もう……来ないで……」
切れ切れに言葉が聞き取れた。「喚き立てるような」と云うよりむしろ、何だか泣き声に近いようにも感じられる。苦しげに咳込むような音も、間に混じっている。
「落ち着きなさい、奥さん。大丈夫ですから。とにかく落ち着いて……」
と、これは別の人間――男性の声である。円みのあるバリトン。野口医師だ、とすぐに分った。
「茅子さんだな」
征順が呟き、私を振り返った。
「聞いておられますか、彼女のことは」
「ええ。確か伊佐夫さんの……」
首藤茅子。現在この屋敷にいる人々の中でただ一人、私がまだ会っていない人物が彼女だということになる。自称芸術家の酔漢、首藤伊佐夫の|継母《けいぼ》。|一昨々日《さきおととい》どこかへ出掛けたきり、いまだに帰ってこない首藤利吉の後妻。
「ここに来てから熱を出して、ずっと寝込んでおられると聞きましたが」
「そうです。何があったのでしょうね」
私たちが声のする方へと足を踏み出した時、半裸の男性の身体に何匹もの蛇が絡みついた、例のブロンズ像が置かれている廊下の合流点に、浴衣姿の女性がまろびでてきた。こちらには見向きもせず、袖廊下をまっすぐに進んでいく。酒に酔ったような危うい足取りであった。蒼白な頬に乱れた髪の毛が幾房か貼り付いているのが、ちらりと見えた。――あれが茅子か。
続いて、野口医師の巨体がのそりと表われる。汚れた皺だらけの白衣は、深緑色のヴェストに着替えられていた。私たちがいるのに気づくと、医師は足を止め、「困ったものだ」とでも云うように肩を竦めてみせた。
「どうされました」
歩を進めながら、征順が訪ねる。
「ご覧のとおりですよ」
野口医師は顔を顰めた。
「患者に振りまわされておるのです」
それから茅子が歩いていった方を見やり、
「奥さん、とにかくまあ落ち着いて。――と、いくら云ってみても」
こちらに向き直って、医師はまた肩を竦めてみせる。
「まるっきり耳を貸してくれんわけです。引き留めようとすると大声を上げて暴れるもので、どうにもこうにも……いやはや、面目ない」
「茅子さんは、どこへ」
「そこの電話室でしょうな。あんたたちは信用できない、自分で確かめるんだ、と云って」
「確かめる?」
「首藤さんがまだ屋敷に戻ってきていないことを、さっき彼女の具合を見にいったついでに伝えたのですよ。ずっと高熱で寝込んでいたものだから、日付の感覚がほとんど麻痺しておったらしくて、旦那がまだだ、そして今日がもう二十五日だと知ると、血相を変えてベッドから跳ね起きて……」
「それで、あんたたちは信用できない、と?」
「さよう」
医師は軽く溜息をついて、
「どうして今まで知らせてくれなかったのか、ひどいじゃないか、と喰ってかかつてこられて、それはまあ、そう感じるのも無理なかろうと思ったわけです。そこで、なるべく分りやすく事情を説明しようとしたのですが、そのうちに、そんなはずはない、嘘だ、あんたたちがどこかに隠してるんだろう、などと。鬼気迫るとでも云うんですかな、ああいうのを。彼女自身、起き上がって歩きまわれるような状態でもないでしょうに」
「まだ熱は下がらないのですか」
「すっかりこじらせてしまった状態ですな。下手をして肺炎に出もなったら大事です。とにかく安静にしておらねばならんのですが、いくら|宥《なだ》めてみても、自分で確かめにいく、電話をしてみる、と云って聞き入れてくれず……」
「事件のことは?」
「いやあ、それは云っておりませんよ。この上、屋敷で人殺しがあったなどと知ったら、どんな騒ぎになるか分ったもんじゃない」
軽くまた溜息をついて、野口医師はぞろりと鼠色の顎鬚を撫で下ろす。その動きをなぞるように顎の先を撫でながら、征順は「電話か」と呟いた。
「どこへ電話をかけようというのでしょうね、彼女は」
「さぁて。旦那の出先を知っておるわけなんでしょうな」
袖廊下を右に折れるとすぐに、〈東館〉への渡り廊下に通じるホールの扉がある。私たちは野口医師についていく格好で、開けっ放しになっていたその黒い両開き扉を抜けた。電話室はホールに入って左手。玄児が昨日、蛭山に連絡を取ろうとして立ち寄った例の小部屋である。
半開きになった電話室の扉の向こうに、茅子の姿が見えた。受話器を握ったまま、壁に背を付けて床に座り込んでいる。
「どうなってるの、これ」
怯えたような眼差しを私たちの方に向けると、彼女はがらがらに掠れた声で云った。
「どうなってるのよ。電話、通じないわ」
「何?」と呟いて、征順が進み出た。小部屋の扉を完全に開くと、茅子の姿を見下ろしてやんわりと問いかける。
「電話が通じない? 本当ですか」
「通じないのよ、どこにも」
と、茅子は掠れ声で答える。
彼女を評して玄児は「都会的な美人」というふうに云っていたけれど、確かに化粧映えのしそうなくっきりとした目鼻立ちではある。今はしかし、お世辞にも「美しい」とは云えない有様だった。脂汗で汚れた蒼白い顔には、涙と鼻水の跡が幾筋も付いている。ひどい|隈《くま》の出来た目許、ばさばさに乱れた艶のない髪。はだけた浴衣の胸許から覗く肌の淫らさが、かえって何とも痛々しく感じられる。
「湖畔の建物への専用回線が不具合だとは聞いていたが」
征順は電話室に入り、茅子の右手から受話器を取り上げた。彼女はその場に坐り込んだまま、電池の切れた機械人形さながらに動かない。野口医師がそばに歩み寄り、
「大丈夫ですかな」
と云って抱き起こそうとする。
「どうなってるの。通じない、電話……」
放心の|体《てい》で繰り返す彼女の左手には、黄色い拍子の手帳が握られている。夫が出掛けた先の電話番号が、そこにメモしてあるのだろうか。
「台風が来ていて、ずっとひどい雨や雷が続いているんです」
屈み込んだ医師の肩越しに、私が云った。
「だからきっと、首藤さんはそのせいで戻ってこられないんですよ。心配されることはありませんよ」
茅子の目が私を捉える。訝しげに首を傾げる。罅割れた紫色の唇が、「あんたは」と言葉を発して止まった。「誰なの」と聞こうとしたのだろうがそれは叶わず、苦しそうにげほげほと咳込みはじめる。
「駄目ですね、これは」
受話器に向かっていた征順が云った。
「外線も調子が悪いようです。雑音がひどくてどうしようもない。確かにどこにも通じない」
「電話線が切れてしまって?」
私が訊くと、征順は受話器を置きながら、
「いや、そういうわけでもなさそうなのですが。断線していたら雑音も聞こえないはず。嵐のせいでどこか回線に異常が出ているのでしょう」
「それじゃあ……」
事件の発生を警察に知らせてはならないという柳士郎の命令が仮になかったとしても、状況には何ら変わりがないことになる。知らせたくても、電話が通じなければどうにも知らせようがないのだから。誰かが何とかして湖を渡り、近くの村まで車を走らせでもしない限りは。
まったく、何ということだろう。
舟がなくなり、橋が壊れ、しかも電話まで通じなくなってしまった嵐の館=B外界から完全に孤立し、助けを呼ぶことも逃げ出すこともできないこの場所に今、不可解な殺人を遂行したその犯人がいるわけなのだ。――あまりにも現実離れした、それこそ大時代な探偵小説じみた事態に、私は軽い眩暈を催した。
「さあ、部屋に戻りましょう」
と、野口医師が茅子を促した。
「もう嫌……こんな家」
彼女は緩慢に首を振り動かし、身をよじって医師の腕を振りほどこうとする。だが、そうして医師が手を離し、支えを失った途端、再び壁に背を付けてその場に坐り込んでしまうのだった。
「嫌よ。もう嫌。嫌……」
しきりにそう訴える声には、しかしまるで力がない。半開きになった目の光は虚ろで、さっきのような怯えの色すらも失せている。
「……あたしはそんなの、あんまり乗り気じゃなかったのに……なのに、あの人がどうしてもって云うから、だからこんな……」
寒さに震えるような唇の動き。半ば|譫言《うわごと》のように吐き出される言葉はだんだんと途切れがちに、不明瞭になっていき、このまま意識を失ってしまうのではないかとさえ危ぶまれた。
「奥さん、しっかりしなさい」
野口医師が再び、茅子のそばに身を屈めた。
「肩を貸しますから、さあ立ち上がって」
「……だからあたし……ああ、もうどうでもいいから、もうこんな、もうこんな……」
「手伝いますよ、先生」
征順が医師の反対側に回り込み、茅子の腕を自分の肩に掛けさせた。
「とにかく部屋に連れていきましょう」
二人がかりで茅子を立ち上がらせる。もはや彼女に抵抗する力は残っていなかった。両肩を男たちに支えられたまま、足を引きずるようにして電話室から出る。
ホールに設けられた二階への階段を昇っていく三人を見送りながら、私は昨日、首藤伊佐夫に聞かされた言葉を思い出していた。
――でもって今度は、あの女と二人して何やら良からぬことを企んでいるみたいなんだが、僕にはどうもねえ。
首藤利吉と茅子の夫妻は、いったい何を企んでいたのか。「あんまり乗り気じゃなかった」とか「あの人がどうしてもって云うから」とか、それらしき文句を今、彼女自身の口から聞くことができたわけだけれど。
どこからかかすかに、時計の鐘の音が聞こえてきた。午後二時、いや、もう二時半だろうか。
三人の姿が見えなくなるのを待って、私は独り廊下に引き返す。
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「あっ、中也さまだわ」
「ほんと。中也さま」
主廊下に戻り、サロンの扉を開けようとした時、同じ色をした二つの声が響いた。透明な硝子細工の鈴が軽やかになるような声……美鳥と美魚の双子姉妹である。
彼女たちの姿は、廊下の奥――〈西館〉寄りの突き当たり付近にあった。壁も天井も床も黒尽くしの薄暗がりに、山吹色の着物を着た二人の、一繋がりになった影がほんのりと浮かび上がって見える。
「こんにちは、中也さま」
「こんにちは、中也さま」
同時に投げかけられた二人の挨拶に、私は「やあ」と手を挙げて応じた。
「昨夜はぐっすりお休みになれた?」
「嫌な夢はご覧にならなかった?」
「明日にはほんとにお帰りになってしまうの」
「今度はいつ来てくださるの」
二人が口々に問いかけてくる。どちらがどちらの台詞なのか、もっと近くまで行かないことには判別不能だった。向かって右側が美鳥、左側が美魚――と、心の中で言葉にして確認しながら、私は彼女たちのいる方へと向かう。彼女たちもこちらに向かってくる。
「さっき玄児兄さまとお会いしたんだけれど」
「〈西館〉の方でお会いしたんだけれど」
「〈西館〉でですか」
私が聞き直すと、
「そうよ」
「そうよ」
二人は声を重ねて頷いた。
「何だかとっても怖い顔をされて、お父さまのお部屋へ」
と、どちらかが云った。
「何かあったのかしら」
「何かしら」
どうやら彼女たちは、まだ蛭山の変死を知らされていない模様である。
「中也さまはご存じなぁい?」
訊かれて、「あ、いえ」と私は返事を濁した。
「そうですか。父上のところへ……」
何をしにいったのだろうか、玄児は。このまま事件を放置しておくわけにはいかないと説得にいったのか。これまでの捜査≠フ経過を報告にでもいったのか。そのついでにあるいは、今日未明の柳士郎のアリバイの有無を確認しようとでもいうつもりなのか。
双子との距離があと何歩かまで縮まったところでやっと、彼女たちの後ろにもう一人、誰かがいることに気づいた。|鳶色《とびいろ》のワンピースを華奢な身にまとった女性だった。胸元まで伸ばした長い黒髪の、色白でほっそりとした面持ちの……ああ、あれは彼女たちの母、浦登美惟ではないか。
私の素振りを|目敏《めざと》く見て取って、
「お母さま。中也さまよ」
と、双子の片方が云った。開いた唇は左側だった。美鳥の方である。
「ゆうべ〈宴の間〉でお会いになったでしょ、お母さま」
動きを合わせて母の顔を見やり、それからこちらに向き直って、
「ね、中也さま」
これは美鳥の方である。
「ああ、はい。――どうも」
私は美惟に向かってそろりと会釈した。が、彼女は何の反応も示さない。心ここにあらずと云った例の面持ちで、ぼんやりとただ宙を見つめている。
十六年前に異形の双生児を出産して以来ずっと、「びっくりしたままでいる」という彼女。「解離性の混迷状態が慢性化している」と玄児は医学的な所見を言葉にしていたけれども、茫然と見開かれたその目には今、どんな現実が映っているのだろうか。堅く閉ざされたその心の内には今、どんな世界が広がっているのだろうか。
「さ、お母さま」
と云って美魚が彼女を手招きし、
「お母さま、どうぞ」
と云って美鳥が、私の方から見て右手――北側の壁にある黒い片開きの扉を開けた。廊下を挟んでサロンの向かいに位置する部屋の扉だが、はて、いったい何があるのだろう。美惟は双子の招きに応じ、開かれた扉に向かってふらふらと歩みを進める。
「中也さまも、ご一緒にどうぞ」
「どうぞ、中也さま」
云われるままに、私は彼女たち三人のあとに付き従う。そうして扉の向こうに一歩、足を踏み入れた途端――。
私は思わず目を見張った。あまりそのようには予想していなかった、たいそう異様な空間がそこに待ちかまえていたからである。
とにかく広い部屋だった。床面積だけを比較してみても、向かいのサロンよりもひとまわりかふたまわり広いだろう。天井が二階までの吹き抜けで、しかも調度品の類がほとんど置かれていないものだから、感覚的にはさらに倍ほどもの広さに見える。そして――。
何よりも意表を衝かれたのは、そのだだっ広い空間を染めた色≠セった。
赤い、のである。
空気の色そのものが赤く染められているかのように、あるいはそう、赤い色の靄が部屋全体に立ち込めているかのように――。
赤い、のだった。
内装自体は、他の部屋部屋と変わらぬ黒ずくめなのである。床はサロンの中央部と同じ黒い石張りで、壁は見たところ、この建物の外壁と同じような黒い石積みが剥き出しになった部分が多い。立ち並ぶ柱もすべて艶のない黒。天井は黒漆喰で、そこから吊り下がったシャンデリアにはやはり、金銀の光沢もない。
にもかかわらず空間が赤いのは、入って正面――北側の庭に面した壁に作られた、ステンドグラス風の嵌め殺し窓のためであった。
一階部分に五枚、吹き抜けの二階部分にさらに五枚、大きな縦長の窓が整列している。それらに嵌め込まれた模様硝子の色が全部、同じ暗みがかった赤なのだった。日中に室内の明りを消した状態だと、外光がすべてこのように赤く染まって射し込んでくる。サロンの青いフランス窓も同様の効果を持っているけれど、こちらは絶対的な規模が違う。ほとんどこの効果のためだけに作られた大広間なのではないか、とすら思えてしまう。
「ここは〈赤の広間〉っていうの」
寸分の乱れもなく歩調を合わせて奥へ進んでいった双子が、くるりと私の方を振り返って云った。唇が動いたのは美鳥の方だった。
「でもって、向かいのお部屋は〈青のサロン〉ね」
「素敵な雰囲気でしょ」
「赤い色って大好き」
「人魚の血の色ですものねえ」
「『海にゐるのは、
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あれは人魚ではないのです。』」
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「ふふっ」
「『海にゐるのは、
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あれは、浪ばかり。』」
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「うふふ……」
吹き抜けの大広間の、暗く赤い空気を震わせて、美しいシャム双生児姉妹の軽やかな声は幾重にもなって響き渡る。
折りしもその時、外で雷光が走った。暗みがかった赤は一瞬、鮮烈な真紅に弾け、ややあって届き渡った雷鳴は、先ほどサロンで聞いたそれとはまるで異なるものの音に感じられた。巨大なティンパニが乱れ打ちされたような響き。降りつづく雨の音も吹きすさぶ風の音も、この〈赤の広間〉ではまた違った聞こえ方をする。特に風の唸りは、誰かがすぐそばで笛を吹き鳴らしてでもいるかのような……。
「凄い雷ねえ」
「ねえ中也さま、雷はお嫌い?」
「あたしは嫌いだわ」
「あたしも大嫌い」
「あまり好きな人もいないでしょう」
私がそう答えると、美鳥と美魚は顔を見合わせてくすっと笑った。
「そうよねえ」
「雷は嫌よねえ」
「昔の人はどうして、お|臍《へそ》を盗られるなんて思ったのかしら」
「ほんとにお臍を盗られたりしたら大変。どんなふうになっちゃうのかしら」
「ねえ中也さま、お臍のない娘はお嫌い?」
他愛のないやり取りに苦笑しつつ、私は〈赤の広間〉の中央に足を進める。そこからぐるりと周囲を見まわしながら、つくづくこれは奇妙な部屋だなと思った。
臙脂色の絨毯が敷かれた重厚な階段が二本、わずかに曲線を含みながら、南側の二階部に向かって延びている。階段は二階部に造られた幅広の回廊に繋がり、この回廊は建物全体と同じ向きのコの字を描いて広間を取り巻いている。普通ならばそこから二階の廊下や部屋に出られるようになっているはずなのだが、ざっと見渡してみたところ、回廊の壁には一枚もそれらしき扉がない。つまり、この|大仰《おおぎょう》な階段と回廊は、一階二階の行き来にはまったく関係なくここに存在しているわけである。
私は昨日〈東館〉の二階で見つけた、あの行き止まりの階段≠思い出さずにはおれなかった。
〈赤の広間〉のこの奇妙な造作は、〈北館〉の再築を請け負った例の中村某が、たとえばあの階段の趣向に触発されて案出したものなのではないか。そう考えてみてもまんざら的外れではあるまい。
私がそんなことに気を取られているうちに、一緒に入ってきた浦登美惟の様子に変化が生じていた。心ここにあらずと云った面持ちや覚束ない足取りには変わりがないのだが、双子に命じられたり促されたりすることなく、部屋の中のある場所に向かってゆっくりと歩いていくのである。
「自発的・意図的な行動はほとんど見られない」はずの彼女の、その自発的な動きを見て、私はいささかならず驚いた。ほぼ終日〈西館〉の自分の部屋にいて、ぼんやりと横たわっているか坐っているかしているのだという彼女。そんな「動かない」状態だからこそ、美鳥と美魚は彼女のことを|仙人掌《さぼてん》と呼んだりもするのだろう。
なのに、今――。
明らかに美惟は、みずからの意思によって動いている。誰にそう指図されるわけでもなく、歩いているこれはどうしたことだろう。
彼女がめざした場所は、回廊に繋がる二つの階段の間、そのちょうど真ん中あたりの壁際であった。一階部分南側の、そのあたりの壁は大きく室内側に出っ張っていて、外の廊下では同じあたりが|壁龕《へきがん》風に窪んでいるのだが――、見るとそこには、黒い石積みの壁面に沿って長細い机が置かれている。机には赤い|天鵞絨《ビロード》の布が掛けられており、その手前には、これも赤い天鵞絨張りの椅子が一脚、添えられている。
美惟はふらふらとこの机の前まで行くと、壁の方を向いて一度深々と呼吸をしてから、音もなく椅子に腰を下ろした。そうしてやおら腕を挙げ、両手を机の端に載せるのである。
ああ、いったい彼女は、あそこで何をしようとしているのだろうか。
突然の雷光がまた、空間全体を鮮烈な真紅に瞬かせた。激しい雷鳴が轟き渡り、とともに強い風がひとしきり、大粒の雨滴を載せて外壁を叩き……笛を吹き鳴らすような甲高い音が響いたかと思うと、ひんやりと淀んだ大広間の空気に、それとはっきり分るくらいの動きが生まれた。
私は思わず背後を振り返った。
今の空気の動きは[#「今の空気の動きは」に傍点]?
部屋の中に外の風が吹き込んできたような。何だかそんなふうに感じられたが――。
この広間のどこかに開いた窓があるのだろうか。それとも、あそこに並んだ赤い模様硝子のどれかに……。
「中也さま」
いきなり間近から声をかけられて、私は飛び上がりそうになった。
「嫌ねえ、もう。そんなにびっくりなさらなくてもいいでしょ」
「あ……いや、ちょっと」
いつの間にそこまで来ていたのか、美鳥と美魚が私のすぐそばに立っていた。声をかけてきたのは左側――美魚だったようである。
私は彼女たちの方に向き直り、それから天鵞絨張りの椅子に坐った彼女たちの母親の方を見やって、
「美惟さんは、何を」
そっと尋ねてみた。
「あの机と椅子は何なのですか」
「お母さまはね、これから演奏をなさるの」
と、美鳥が小声で答えた。
「演奏?」
「そ。オルガンの演奏よ」
「オルガン?」
私は目をしばたたいた。
「でも、そこには……」
そんな楽器などない。赤天鵞絨の布が掛けられた長細い机があるだけではないか。
「昔はね、ちょうどここに音楽室があったらしいの。あたしたちが生まれるより前よ。古い〈北館〉が燃えて建て直される前のこと」
美魚が云った。美鳥がそれに続けて。
「古い〈北館〉にはね、ちょうどこの位置に音楽室があったの。それでね、そこにオルガンがあったのよ。今の音楽室にはないけれど」
「不思議な飾りの付いた可愛らしいオルガン。凄く素敵な音がしたんですって」
「オルガン」と聞いてとっさに思い浮かぶのは、大聖堂に造り付けられた巨大なパイプオルガンか、さもなければ小学校の音楽の授業で使われるような小さな足踏み式のオルガンか、であった。子供の頃に通っていた街の教会にもオルガンは置かれていたけれども、小学校のそれと大差のないものだった。彼女たちの云う「オルガン」が具体的にどのような代物なのか、だから私にはすんなりと想像できなかったのだが。
「お母さまはね、とってもそのオルガンの音色がお好きで、毎日のように弾いていらしたの」
「お父さまもね、お母さまの弾かれるオルガンがとってもお好きで、いつもそれを聴いていらしたの」
「お母さまはご自分で曲もお作りになって」
「オルガン用の曲を、お父さまのためにお作りになって」
「その曲を毎日、弾いていらしたの」
「だからね、昔の音楽室はもうないのに、お母さまは毎日ここにいらっしゃるのよ」
「毎日決まった時間になるとここにいらして、ああしてオルガンを演奏されるの」
「オルガンはもうないのにね」
「だけどお母さまは、今もそこにあると思ってらっしゃるのねえ」
自作のオルガン曲、と云われても、やはり私にはぴんと来ない。乏しい音楽の知識から、かろうじて大バッハの手に成るいくつかの曲名を拾い出すことができるくらいだった。
「これはね、玄児兄さまから教えていただいたお話なの」
と、美鳥が云った。
「でもね、玄児兄さまにしても、実際に見たり聞いたりされたわけじゃないのよ」
と、美魚が云った。
「そうそう。だって玄児兄さまは、小さい頃のことは憶えていらっしゃらないから」
「玄児兄さまは、お父さまからお聞きになったのかしら」
「それとも鬼丸さんかしら」
「鶴子さんも、玄児兄さまとおんなじお話をしてらしたわね」
「でもね、鶴子さんにしても、実際に見たり聴いたりされたわけじゃないから」
「鶴子さんがお屋敷にいらしたのは、古い〈北館〉が燃えちゃったあとだから」
「じゃあ、鶴子さんもお父さまからお聞きになったのかしら」
「それとも鬼丸さんかしら……」
双子はひそひそと話をつづける。
その間も彼女たちの母親は、こちらに背を向けて天鵞絨張りの椅子に腰掛けたままでいた。華奢に両肩が微妙に動いているのが分る。背中に垂れた黒髪が、それ似合わせてわずかに揺らめいているのが分る。回り込んでみればきっと、何もない机の上で躍る十本の白い指を見ることができるのだろう。
「お母さまはどんな曲をお作りになったのかしらね」
美鳥がそう云い、黒眼がちの大きな目を細める。遙か遠くの風景を望むように。
「お母さまはどんな曲を弾いていらっしゃるのかしらね」
美魚がそう云い、おかっぱの髪を掻き分けて掌を耳の後ろに当てる。遙か遠くの物音を聞き取ろうとするように。
「ねえ、中也さま?」
「ねえ、中也さま?」
私は何とも答えず、息の詰まる思いで美惟の背中を見守り続けた。
赤い……血の色が立ち込める薄暗い空間の中、そこには存在しない幻の楽器の、いくら叩いてみても音を発することのない鍵盤に指を広げ、ひたすら「演奏」に熱中するその狂おしい姿に重なって、どこからか物哀しくも荘厳な旋律が聞こえてきそうな幻惑に囚われる。「虚像の|遁走曲《フーガ》」という、あるはずもない楽曲の名を、私はふと思いついた。
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第十五章 無意味の意味
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「あ、兄さま」
「玄児兄さま」
美鳥と美魚が同時に声を発した。彼女たちの視線を追うとそこには、廊下からこの〈赤の広間〉に入ってくる玄児の姿があった。双子の傍らに立った私と目が合うや、
「やっぱりここだったか」
そう云って玄児は、足早に私たちのそばまでやってくる。
「美惟叔母さんの『演奏』の時間だから、ひょっとしたら君もここに来てるんじゃないかと思った。二人に連れてこられたんだね」
「ええ、まあ」
「驚いたろう」
と云って、玄児は美惟の背中を見やった。こちらで誰が何を話していようが、そんなこととはまるで関係なく、双子の母親は赤|天鵞絨《ビロード》の布が掛けられた机に向かって無音の演奏を続けている。
「事情は今、彼女たちから」
と、私は双子の方に視線を流す。
「美惟さんはあそこで毎日、ああやって決まった時間にオルガンを弾かれるのだとか」
「そう。見えないオルガンを、ね」
玄児は仏頂面で応じ、それから「征順叔父さんは?」と訊いた。
「サロンには誰もいなかったが」
「さっき首藤さんの奥さんが|階下《した》に降りてきて、ちょっとした騒ぎになったんです。まだかなり体調が悪い上、ずいぶんひどく取り乱していて……野口先生と征順さんがどうにか宥めすかして、二人で彼女を二階へ」
「茅子さんが……ふん。首藤のおじさんのことはまあ、気になって当然だろうから」
玄児はやはり仏頂面で、尖った顎を撫でる。
「戻ってくる途中で立ち往生しているのか、あるいは戻ってきたものの湖を渡ってこられないでいるのか。何か大きな事故でもあったんじゃないかとまで考え出せば、そりゃあ心配のあまり取り乱しもするだろう」
「どこか外へ電話をしようとしたんですよ、彼女。ところがどうも回線の調子が悪いみたいで、まったく通じないのだとか。それでますます……」
「外への電話が?」
玄児の声に緊張が走った。
「本当に?」
「ええ。完全に線が切れてしまっているわけではないようなんですけど」
「ふうん。そいつはまた……」
厄介なことになったな、と云いたいのは明らかだった。この異常事態に当面どのような対処を続けるにせよ、いざという時に電話で外へ連絡が取れるのと取れないのとでは大変な違いがある。たとえ当主の柳士郎であっても、それは認めざるをえないところだろう。
「玄児さんは、お父上に会いにいかれたとか」
「ん? ――ああ」
腹違いの妹たちの方を一瞥してから、玄児は頷いた。
「先にちょっと話をしておきたくなってね」
「何を……どんな話を」
「ねえねえ、玄児兄さま」
と、そこで横合いから双子が割って入ってきた。口を開いたのは美鳥の方だったが、息のあった動きで二人して玄児の顔を窺いながら、
「ね、兄さま。お母さまのこと、お願いしてもいいかしら」
「うん?」
「演奏が終わるまで、まだしばらくかかるでしょ。だから」
と、美魚が言葉を繋げた。
「だからね、あとはお願い、玄児兄さま」
「お願いね、兄さま」
「おいおい……」
何か云い返そうとする玄児をよそに、双子姉妹はくるりと私の方に向き直って、
「さあさ、中也さま。行きましょ」
「行きましょ」
無邪気な、そのくせ妙に|艶《あで》やかさをも含み持った微笑をそれぞれの頬に広げる。私は大いにうろたえつつ、「はい?」と間の抜けた声を返した。
「あたしたちのお部屋に、ね」
「チェシャをご紹介しなきゃ。お約束したでしょ」
姉妹の着物は山吹色の地に黒や赤茶の細い糸で大振りな格子縞が入った、いわゆる|黄八丈《きはちじょう》である。帯は|海老染《えびぞめ》の兵児帯。足には赤い鼻緒の草履。――昨日の初対面の場でも感じたことだけれど、そういった純和風の出で立ちに、どこかしら西洋の骨董人形めいた二つの顔が載っている不釣り合いは、脇腹から腰のあたりで二つの肉体が一繋がりになった異形と同じほどに怪しく、|蠱惑的《こわくてき》ですらあった。
「付き合ってやれよ、中也君」
私の狼狽振りを楽しむように目を細めて、玄児が云った。
「あとでちゃんと迎えにいってやるから」
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2
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美鳥の左手に右手首を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、522-下-17]まれ、美魚の右手に左手首を掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、522-下-18]まれ、文字どおり二人に引っ張られる格好で〈赤の広場〉をあとにした。廊下に出ると二人は手を離し、先に立って建物の奥――西側へと向かう。
「そこが望和叔母さまのアトリエね」
半裸の女性に蛇が巻きついた例のブロンズ像が立つ向こうを指さして、美鳥が云った。西翼の付け根内側――東翼では音楽室がある位置だ。続けて美魚が、袖廊下を挟んだその向かい側を指さして、
「そちらが征順叔父さまの書斎で……」
「あたしたちのお部屋は二階よ」
「こちらから、どうぞ」
そう云って二人が私を招いたのは、昨夜〈宴〉に向かう際に鶴子の案内で通った吹き抜けのホールだった。例の、騙し絵のような|先窄《さきすぼ》まりの渡り廊下に通じる、重厚な黒い両開き扉。その右手に上階へ向かう階段の昇り口がある。
「さ、中也さま」
「早く、中也さま」
階段は中ほどで一度、直角に折れている。踊り場まで先に昇っていった双子が、もたもたしている私をせっついた。住み慣れた家の中であるということを差し引いてみても、彼女たちの動きは、結合した二つの肉体を操っているとはとても思えぬような軽やかさであった。
――あたしたちは蟹よ。
昨日の初対面の場面がまたぞろ頭に蘇り、私はどうにも不思議な感慨に囚われる。快とも不快ともつかぬ、けれども確かな色≠持った胸騒ぎが広がってきて、何だか居ても立ってもいられないような心地になってしまう。
――あたしたち、二人合わせて蟹なの。
二人のあとを追って私は階段を昇る。二人は追いつかれまいとするかのように先へ先へと進む。階段を昇りきり、吹き抜けの二階部分に設けられた黒い扉の前に立つ。美鳥の左手と美魚の右手が、両開きのその扉の二つのノブに伸びる。――ところが。
二本の手から逃げるように、扉の方がすうっと後退した。
「あっ」
「あっ」
二つの短い声が重なって響いた。一瞬遅れて、「わっ」という別の声が聞こえた。向こうからやって来た人物と、たまたまそこで鉢合わせしてしまったわけだった。
「やや……びっくりしたなあ、もう」
何となく間延びした、いくらか呂律の怪しいその喋り方ですぐ、先に扉を開けた相手が誰なのか分った。首藤伊佐夫。自称芸術家の酔っ払い氏である。
「美鳥ちゃんに美魚ちゃん……おお、うるわしき畸型の姫君たちよ。僕ぁね、君たちのその個性が大好きなんだけどね、心構えができていないところでこんなふうにして出会うと、やっぱりびっくりしちゃうんだよなあ。いやいや、失礼……」
相変わらず酒浸りの状態なのだろうか、大袈裟な調子でそんな軽口を叩きながら、伊佐夫が扉の向こうから現われる。双子の後ろにいる私の姿に目を留めると、少々ぎこちない笑顔で片手を挙げ、
「おやまあ、中也君も一緒なんだ。――ご機嫌いかがかな」
「こんにちは、伊佐夫さま」
「こんにちは」
一歩二歩と退いて、美鳥と美魚は丁寧に会釈をする。玄児と同じく彼女たちも、伊佐夫とは|又従兄妹《はとこ》同士の間柄だということになる。
「中也さまをご案内してるの」
「あたしたちのお部屋に遊びにきてくださるの」
二人の声音にはしかし、どこか冷たく突き放したような響きがあった。
昨日〈東館〉で二度遭遇した時に比べれば、伊佐夫はいくぶんさっぱりした風体である。皺くちゃだったシャツやズボンは別の服に着替えられていて、髪もさほど乱れてはいないし無精髭もきれいになくなっている。円い銀縁眼鏡のレンズの汚れも消えていたが、その奥でしばたたかれる小さな目はやはり充血していて、近づくと案の定、酒臭かった。
昨夜は深夜過ぎまで、野口医師の部屋で飲んでいたらしいけれども、一度眠って目覚めてから、また昨日のように一人で飲み直していたのだろうか。こうなるともはや立派なアル中患者だな、とも思えるが。
「うちのお|義母《かあ》様が何だか迷惑かけちゃったみたいで……いやはや、ほとんど他人事ではあるものの、戸籍上の一人息子としては一応、申し訳ないと云うか面目ないと云うか」
ぎこちない笑みを頬に貼り付かせたまま、伊佐夫が云った。私に対する台詞のようだった。
「さっき先生に呼ばれてね、今ちょっと様子を見てきたとこなんだけどね」
私は「はあ」とだけ応えて、台詞の続きを待つ。アルコールの臭いを嗅ぐのはしばらくまっぴらなので、ほとんど顔を背けるようにしていた。伊佐夫は丸い鼻の頭をせわしなく掻きながら、
「まったくねえ、困ったものさ。先生に征順さんに僕、三人でいくら懇切丁寧に状況説明をしても、てんで理解しようとしないんだなあ。そもそも頭が悪いんだよなあ、ありゃあ。親父にしたって、息子の僕がこう云っちゃうのは酷だけどね、あんまり頭のいい男じゃない。その二人が、ない知恵を寄せ合って変な|悪巧《わるだく》みなんぞするもんだからさ、こんなみっともないことに……」
「悪巧み」という言葉が、当然ながら私の心には引っかかった。いったいどんな「悪巧み」を、首藤夫妻はしようとしていたのか。伊佐夫はその中身をどの程度まで知っているわけなのだろうか。
「茅子さんは、どこかへ電話したかったみたいなんですが」
私がそう云うと、伊佐夫は「らしいね」と頷く。呂律は怪しいけれど、まださほどに酔いは深くない様子だった。少なくともまともな会話が成り立ってはいる。
「首藤さんの行き先はどこだったんでしょう。伊佐夫さんはご存じないのですか」
「親父の行き先?」
伊佐夫はずんぐりとした肩を竦めて、
「詳しくは知らないんだけどさ、まあ、何となく見当くらいはつくかなあ。悪巧みのための材料を仕入れにいったんだろうねえ、きっと」
「何ですか、それは」
「さあ。二人が何やらひそひそ話していたのを、ちょいと小耳に挟んだだけだから……」
鼻白んだように「ふう」と息をついたかと思うと、伊佐夫はいきなり両手を挙げ、小柄な円い身体を大きく伸び上がらせた。
「だけどまあ、例の〈宴〉はもう終わっちゃったしね、どうしようもないよね。今年も肉にはありつけなくて残念でした、ってことで」
「残念でした」
と、そこで美鳥が口を挟んだ。
「残念でした? 伊佐夫さまも?」
「あん? ――まさか。僕ぁそんなもの、くれると云われたって要らないさ」
「まあ、そうなの」
「そうなの、伊佐夫さま」
と、美魚が続ける。二人の声音は心なしか、いよいよ冷ややかな響きをもって聞こえた。
「何にも分ってらっしゃらないくせに」
「分ってらっしゃらないくせに」
「ね、中也さま」
「ねえ、中也さま」
いきなり振られて、私はあたふたと視線を泳がせた。伊佐夫は興味深そうに「へえぇ」と私の顔を見据えて、
「何だ、中也君。君は……」
「中也さまは昨夜、〈宴〉においでになったから」
と、美鳥が云った。
「中也さまは昨夜、お食べになったから」
と、美魚が云った。
「ね、中也さま」
「ねえ、中也さま」
伊佐夫の頬がぴくりと引き攣るのが分った。私はなおいっそうあたふたしてしまい、
「いえ、その、つまり」
「中也君が〈宴〉に招かれたって……ひやひや、そいつはまた驚きだなあ」
「いえ、ですから、その」
「赤の他人の君が……なるほど、そういう例外も起こりうるわけか」
別に強く気分を害したわけでもなさそうだということは、伊佐夫の口振りで了解できた。彼にとっては言葉どおり「驚き」だったのだろう。
「しかし、こんなことを親父やあの女が知ったら大事だな。――ううん、本当に大事だ。ああいや大丈夫、僕は黙っててやるから」
「――はあ」
「その代わりに中也君、あとでこっそり、〈宴〉では実際にどんなことが執り行なわれたのか、教えておくれよね。それから君自身の、今後の変化についても」
「はあ。あ、いえ……」
私自身の「今後の変化」? 何なのだろうか、それは。どんな変化が私の身に起こるのというのか。
「昨日話したよね、確か。僕は芸術家なんだが、僕の芸術の目的はね、神や悪魔の不在を証明することにこそあるんだ。そのためには知っておかねばならない問題が山ほどもある。要するに、だから……」
「駄目よ、中也さま」
と、美鳥が伊佐夫の言葉を遮った。
「そんな話、お聞きになっちゃ駄目」
「おおい、ちょっと待ってよ。君はえっと、美鳥ちゃんの方だっけ」
「駄目なものは駄目なの」
美魚がぴしゃりと続けた。
「伊佐夫さまは仲間≠カゃないんだから、むやみに秘密≠話しちゃ駄目なのよ。そういう決まりなの」
「はあん。さようでございますか」
伊佐夫は鼻白んだふうにまた息をつき、それからよろりと階段の方へ足を踏み出す。手すりを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、528-上-6]んでそのまま階下へ向かおうとしたが、そこでふいと私たちを振り返り、
「そうそう。事件のことは聞いたよ」
と云った。
「あの傴僂の玄関番、殺されちゃったんだって?」
私は無言で頷いたが、双子の反応はおのずと違っていた。
「蛭山さんが?」
「殺されちゃったの?」
「どうして」
「誰に」
「あれあれ。姫君たちはまだ知らされてなかったのかい」
「伊佐夫さんは、どなたからその話を」
私が尋ねると、彼は開いた二階の扉に向かって軽く顎を突き上げ、
「さっき先生と征順さんから」
「茅子さんにも、じゃあ」
「いいや。彼女のいないところで、ざっと話を聞いたんだけどね。――何やら物々しい展開になってきたねえ。屋敷は台風で孤立してしまったようだし。湖を渡る舟もないんだって?」
「――ええ」
「そんなところで殺人犯と一緒に過ごすっていうのは、さすがにぞっとしない話だものねえ。とにかくまあ、お互い気をつけるべし、だね」
「あの、伊佐夫さん」
と、私はこの機会に一つ鎌を掛けてみることにした。いずれ玄児が確かめるに違いない問題ではあったのだけれど。
「〈南館〉に造られた隠し扉のことを、伊佐夫さんは知ってますか」
すると伊佐夫は、充血した目をきょとんと見張って、
「何だい、それ。そんなものがあるの」
「いえ……ならいいんです」
「あ、そう」
手すりを掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、529-上-8]み直し、若干|縺《もつ》れた足取りで階段を降りていく途中で、伊佐夫は立ち止まってまた大きな伸びをする。それから再び私たちの方を振り返ったかと思うと、
「|葡萄酒庫《ワインセラー》が確か、ここの地下にあったよねえ」
これはもちろん、双子に対して投げかけられた質問である。彼女たちは何とも答えなかったのだが、伊佐夫は「ふんふん」と勝手に頷き、
「ちょいと物色させてもらおうかな」
やれやれ処置なしだな、と私は呆れた。あの調子だと彼は、あと何年経ってもきっと、「神の不在を証明するための芸術」において、何を表現方法に選ぶべきかを独り考えつづけているのだろう。
「何か嫌な感じよね」
伊佐夫の姿が見えなくなると、美魚が冷え冷えとした声でそう呟いた。
「ほんと、嫌な感じ」
と、美鳥が相槌を打つ。
「生き物に喩えると何ですか、彼は」
そこでつい、私は訊いてみた。
「|樹懶《なまけもの》、とか」
「うーん、違うわ」
と云って、美鳥がかぶりを振った。
「そんなんじゃないわよねえ」
と云って、美魚もかぶりを振る。
「それじゃあ?」
「首藤のおじさまは狸でしょ」
「茅子さんは|海月《くらげ》でしょ」
「伊佐夫さまは、そうねえ」
「何かしらねえ」
二人して少し考え込んだあと、双子はほとんど同時に口を開き、同じ動物の名を挙げた。
「|蚯蚓《みみず》かしら」
「蚯蚓よね」
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3
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「こっちよ、中也さま」
「こっちよ、早く」
双子は二階の西翼に伸びる袖廊下をまっすぐに進んでいき、やがてその中ほど右手に見える黒い扉の前で歩みを止める。私が追いつくのを待って、美鳥の方が扉に右手を伸ばし、手前に開いた。
「どうぞ、中也さま。ここがあたしのお部屋よ」
美鳥がそう云うのを聞いて、私はささやかな疑問を感じた。どうして「あたしのお部屋」なのだろうか。これまで二人は、一貫して「あたしたちの」という言葉を使っていたと思うが。
「どうぞ、中也さま」
と美魚の方がいい、続けてすぐに私の疑問を解消してくれた。
「ここは美鳥のお部屋ね。あたしのお部屋はお隣なの」
「中で繋がってるのよ」
「二つで一つ、ね。あたしたちの身体とおんなじ」
「さ、どうぞお入りになって」
促されるままに、私は「美鳥の部屋」に足を踏み入れた。
そこは十数畳分の広さがある洋間で、入って左側の壁には、中央に黒煉瓦の暖炉が造り付けられていた。壁は暖炉の右手――部屋の奥の方で途切れていて、その部分で隣の「美魚の部屋」と繋がっているようである。途切れ目には双子が並んで楽に通り抜けられるだけの横幅があり、なおかつ扉は設けられていない。向こうにはきっと、間仕切りの壁を挟んでちょうどこちらと対象系の部屋があるのだろう。そんな想像が容易についた。
「どうぞお掛けになって、中也さま」
「どうぞ、中也さま」
勧められて私は、室内に置かれた椅子の一つに腰を下ろす。黒い布張りの肘掛け椅子だった。低いテーブルを挟んで同じく黒い布張りの、二人掛けの椅子がある。双子はそちらに並んで坐ると、それぞれの両手をそれぞれの膝の上に重ねて置き、真正面から私の顔を見据えて、まるで屈託のない笑みをそれぞれの満面に浮かべた。
「中也さまは、クッキーはお好き?」
おもむろに美鳥が云いだした。
「宍戸さんに教わって、あたしたちが焼いたクッキーがあるの。召し上がる?」
「あ、いえ」と手を振る私の反応を見て、
「甘いお菓子はお嫌い?」
ちょっとがっかりしたように、美鳥は小首を傾げる。
「じゃあ中也さま、紅茶を召し上がる?」
と、美魚が云った。
「鶴子さんにおいしい紅茶の淹れ方、教えていただいたの」
「いえ、その……」
「紅茶もお嫌い?」
「いえ、そうじゃなくて」
私は慌てて事情を説明した。
「昨夜の〈宴〉でお酒を飲み過ぎて、起きた時からずっと気分が悪かったんです。宿酔い。分りますよね。だからその、もうしばらく何も食べたり飲んだりしない方がいいな、と」
すると二人は、今度はびっくりしたように黒眼がちの大きな目をぱちぱちさせて、
「まあ中也さま、気分がお悪いの?」
「大変。お薬はお飲みになった?」
「ええ。薬は野口先生にいただきましたから」
「でも……大丈夫かしら、お身体」
「横になられた方がいいかしら」
「ああ、いや」
私はなるべく元気そうな声を作って、
「だいぶ気分は楽になっているんですよ。もう大丈夫だろうとは思うので」
「じゃあ、クッキーはまた今度ね」
「美味しい紅茶もまた今度ね」
「あ、そうですね。また今度、ぜひ」
そんな他愛のないやり取りをしながらも、いやに緊張してしまっている自分が我れながら|滑稽《こっけい》に思えた。何とか気分をほぐそうと、じっとこちらに注がれた双子の視線から目を逸らして室内を見まわす。
私たちが向かい合っているテーブルと椅子以外にも、小机や飾り棚や整理箪笥といった家具が置かれている。衣装棚やベッドはどこにも見当たらないけれど、それらは隣の「美魚の部屋」にあるのか、それとも別に二人の寝室があるわけなのか。たぶん後者なのだろう、と私は推測した。
十代半ばの「姫君」たちの私室にしては、概して地味で落ち着いた雰囲気に感じられた。女の子らしい装飾品の類もあまりないから、ある意味で殺風景とも見える。
例によって黒ずくめの内装のせいも、当然あるだろう。壁も天井も艶のない黒一色で、奥の壁面に切られた窓もやはり、磨り硝子の上げ下げ窓の外に黒い鎧戸が閉まった、他の各所と同様の代物である。相変わらずの悪天候のためもあって、鎧戸の隙間から洩れ込む外光は本当に弱々しく、暖炉の上方とその対面、壁の二箇所に出っ張った電灯の淡い光によって、室内の明るさがどうにか保たれている。
唯一、床に敷かれた絨毯だけが赤かった。この屋敷の他の場所で見かけたどの絨毯よりも鮮やかな赤色で、しかも毛足が長い。
――赤い色って大好き。
先ほど〈赤の広間〉でそう云ったのは、確か美鳥の方だったか。
――人魚の血の色ですものねえ。
と応えたのが、そう、美魚の方だったと思う。
「ねえねえ、中也さま」
と、美鳥が口を開いた。
「蛭山さんが殺されちゃったって、ほんとに?」
私は双子の方に目を戻し、神妙に「ええ」と頷いて見せた。
「あなたたちはまだ知らされてなかったのですね」
「知らなかったわ」
「それで玄児兄さま、あの時あんなに怖い顔をされて……」
「どうして蛭山さんは殺されちゃったのかしら」
「誰が殺したのかしら」
「中也さまはご存じなの」
「まさか」
と答えて、私は大きくかぶりを振った。
「まだ何も分らない状況なんですよ。誰がやったのかも、何故やったのかも」
「ふーん」
「そうなの」
さっき伊佐夫から事件の発生を聞かされて、二人はたいそう驚いた様子ではあった。だが、たとえば殺された使用人に対する同情とか殺した何者かに対する恐怖とかいったものは、まるで口に出さないし表情にも覗かせない。
「どんふうにして殺されたの、蛭山さん」
美魚の質問に、私は必要最小限の説明で情報を提供した。
「〈南館〉一階の一室で、首を絞められて死んでいたんですよ。殺されたのは今日未明、恐らく午前二時から四時の間だろう、とのことで」
「みんなが寝静まった頃ねえ」
「そうですね」
「あたしたちももう寝ちゃってた頃ねえ」
「〈南館〉のそのお部屋って、もしかして昔の諸井さんのお部屋?」
と、訊いてきたのは美鳥だった。「昔の諸井さんのお部屋」――そう。入口の横に裏返しになって掛けられたあの古い木札には、確かに「諸井」と記されていた。かつてあの部屋に住み込んでいた使用人の苗字、それが諸井だったのだ。
――生まれて間もない頃から、俺はあの塔の最上階の部屋の、あの格子の向こうに閉じ込められ……何年にも渡ってそこで育てられた。
昨夕の玄児の言葉が思い出される。
――その間、乳母的な役割を担ってくれたのは諸井静という名前の、その頃ここに住み込みで働いていた使用人だったらしいんだがね……。
「その諸井さんという人は、今は?」
と、思わず私は訊き返してしまった。玄児の乳母のような存在であったというその女性について、不意に強い興味が持ち上がってきたのだった。
「さあ。あたしもよく知らないんだけれど」
と、美鳥は答えた。
「鬼丸さんから聞いた話だとね、あたしたちが生まれる前の年か前の前の年か、その頃に、お屋敷を出ていっちゃったんですって。ちっちゃな男の子を一人連れて」
「子供がいたのですか、諸井さんには」
「鬼丸さんはそう云ってらしたわ。――ね」
美鳥に賛同を求められ、美魚は「そうね」と相槌を打った。
「鬼丸さんはそう云ってらしたわね」
「彼女がその後どうなったのかは、じゃあ……」
「知らない」
「知らないわ」
双子は揃って首を横に振る。私はそれ以上の追求を諦め、「――で?」と美鳥の方に視線を向けた。
「どうしてその、昔の諸井さんの部屋が事件の現場だって思うわけですか」
「だって、さっき中也さま、伊佐夫さまにあんなことをお尋ねになったから」
「あんなこと?」
「隠し扉のこと、お尋ねになったでしょ」
「――ああ」
「〈南館〉で隠し扉があるのって、昔の諸井さんのお部屋ですもの。だからきっと……ね」
「そうよね」とまた美鳥が相槌を打つ。
私は納得して、椅子の背に深く凭れかかった。鹿爪らしく腕を組みながら、テーブルの向こうに並んだそっくりな二つの顔に目を細める。征順も云っていたように、なるほど、この娘たちの観察力や洞察力にはなかなか|侮《あなど》りがたいものがあるようだ。
「犯人はしのぶさんね、きっと」
いきなりそんな断定をしたのは美鳥だった。私はぎょっとして腕組みをほどき、
「何でまた、そう思うんですか」
「しのぶさん、蛭山さんのことが嫌いだったみたいだし」
戸惑うふうもなく、美鳥は答えた。
「征順叔父さまからお聞きしたわ。蛭山さんは昨日、事故で怪我をされたんでしょ」
「ええ、そうです」
そうだ。蛭山は舟の大破事故であのような重傷を負っていたのである。それなのに[#「それなのに」に傍点]……。
「だからね、いい機会だと思ったのね」
「いい機会?」
「そうよ。弱ってるから、この機会に殺してしまえって。ね」
「放っておいても怪我で死んでしまう、とは?」
「死ななかったら困るでしょ。だから」
美鳥の口振りにはやはり、悲しみや恐れ、不安といった深刻な感情は窺えない。「殺人事件」という現実が、彼女の頭の中でいったいどのような意味合いをもって捉えられているのか、どうにも判断がつきかねた。
「しのぶさんじゃないとしたら」
今度は美魚が自説を述べた。
「犯人は清くんね、きっと」
「清君が? どうしてそんな」
「だって清くん、蛭山さんのことが嫌いだったみたいだし」
「…………」
「清くんは子供で病気で力がないから、いい機会だと思ったのね。弱ってるから、この機会に殺してしまえって。ね」
即座に返す言葉が見つからず、私は二人に|気取《けど》られぬよう、そっと溜息をつく。それから改めて室内に視線を巡らせてみて、暖炉の上にちょっと変わった置き時計があることに気づいた。
一見したところ、風車の|小型模型《ミニチュア》のようである。高さ三、四十センチの、寄せ木細工を思わせる四角柱、その上方に四枚羽根の風車が付いているのだけれど、よく見てみると、中央に直径数センチ――小振りな懐中時計ほどの大きさの円い文字盤が埋め込まれている。離れた場所からだと時刻を読み取ることが難しいので、置時計としてはあまり実用的な代物だとは云えないだろう。
せいいっぱい目を凝らしてやっと、その小さな文字盤で動く二本の針の位置を確認できた。午後三時半を何分か回ったところである。
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4
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「ねえねえ、中也さま」
と、美魚が口を開いた。
「次はあたしのお部屋に行きましょ」
「行きましょ、中也さま」
と美鳥も云って、二人は椅子から腰を上げる。
「中也さまにお見せしたいものもあるし」
「そうそう」
「チェシャですか」
私が訊くと、双子は桜色の唇にうっすらと笑みを含んで、
「チェシャは、あとでね」
「あとでね」
そうして私は、続き間になった隣室――「美魚の部屋」に案内された。想像したとおり、そこには「美鳥の部屋」とほとんど同じ調度が、暖炉のある壁を挟んで対称形になるよう配置されていた。彼女たちの肉体の特徴に見立てられたような、まさに「二つで一つ」の造りである。
勧められて椅子に腰を下ろす前に、私は飾り棚の隅に並んでいる本に目を留めた。
動物図鑑に植物図鑑、国語辞典に地図帳……小説や詩集の類も何冊かある。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』がその中に混じっているのを、私は見過ごさなかった。あるいはあちらの――「美鳥の部屋」の戸棚の同じ場所には、同じ著者の『鏡の国のアリス』の方が並んでいるのかもしれない。そんな想像も容易についた。
暖炉の上にはやはり隣室と同じ風車形の置時計が置いてあって、隣室のそれとぴったり同じ時刻を示している。〈赤の広間〉ではまだ、双子の母のあの「演奏」が続いているのだろうか――と、そこでふと気になった。途端、窓の磨り硝子を細かく震わせて、派手な雷鳴が響き渡る。
「雷は嫌よねえ」
先ほど〈赤の広間〉で聞いたのと同じ言葉が、双子のどちらかの口から洩れた。
「ほんと、雷は嫌ねえ」
彼女たちは私に背を向け、窓の方を見ている。そのため、どちらがどちらの台詞なのかは判別しがたかった。
双子はそして、窓のそばまで進み出る。四本の手で器用に作業を分担しつつ、閉まっていた上げ下げ窓を開いた。室内に流れ込んでくる雨音がはっきりと大きくなる。二人はちょっと身を屈め、黒い鎧戸の隙間から外を覗き見る。
「早く雨がやめばいいのにねえ」
と、どちらかが云った。
「ほんと、早くやめばいいのにねえ」
と、どちらかが応えた。
「中也さまとお庭をお散歩したいのに」
「お散歩したいのにね」
「でも、この雨がやんだら、中也さまは帰ってしまわれるから……」
「明日もまだこんなお天気だったら、中也さまはお帰りになれないかしら」
「どうかしら」
そうして二人は、寸分の乱れもない動きで私の方を振り返り、
「ね、中也さま」
「どうなさるの、中也さま」
「そうですね。嵐が去ってくれないことには、どうにも動けそうにありませんから」
私はありのままを答えた。
「湖を渡る舟もどうにかしないといけないし、外への電話も通じないし……」
当初の予定どおり明日この屋敷を離れるのはどうやら無理そうだ、と私はすでに覚悟を決めていた。天候や舟といった物理的な諸問題に加えて、蛭山が殺された事件そのものが、私の動きを阻む大きな障害になるだろうと云うことは云うまでもない。
私の答えを聞いて、美鳥と美魚はいたく満足した様子であった。美しい二つの顔に邪気のない笑みを湛えて、じっとこちらを見つめている。――私の滞在が延びることが、彼女たちはそんなにも嬉しいのだろうか。と云うより、どうして私は、こんなにも彼女たちに慕われてしまったのだろう。
照れ臭いような申し訳ないような、何とも微妙な気分でその場に立ち尽くす一方、私は今さっき双子の口から出た「お庭をお散歩したい」という文句からの連想で、中庭の真ん中に作られたあの|祠《ほこら》のような建物のことを思い出していた。
あれは「墓所」なのだ、と征順は云っていた。この浦登家の墓所、その入口なのだと。それは〈惑いの檻〉と呼ばれ、この家の者とて|妄《みだ》りに近づいてはならない場所なのだ、という話でもあった。そしてその墓所の「墓守」を昔から仕事としてきたのが、あの鬼丸老なのだ――と、これは玄児がそう云っていた。
美鳥と美魚も当然、あの建物の存在は知っているだろう。そこがこの家の墓所であることも知っているだろう。どうしてそれが〈惑いの檻〉と呼ばれるのかも、きっと……。
「中庭に小さな建物がありますよね」
隣室と同じ黒い布張りの肘掛け椅子に腰を下ろしながら、私は双子に向かってそろりと問うてみた。
「あれは墓所だと聞きましたが」
「ぼしょ?」
と、美魚の方は首を傾げたが、すぐに美鳥が、
「お墓のことね」
それで美魚もこくんと頷いて、
「お墓ね。そうよ、中也さま。あそこの下にはね、広いお墓があるの」
「そうですか。地下に……」
瞬きをする瞼の裏に、昨日の昼前に中庭で目にしたいくつもの光景が、次々と重なり合うようにして滲み出してくる。
一位の植え込みに囲まれた黒い石組みの建物。古びた鉄の二枚扉に施された奇妙な|浮き彫り《レリーフ》。人間の肋骨を模したような幾本もの曲線と、それに絡みついた二匹の蛇の。穴蔵めいた暗く狭い空間の奥に、小窓の付いた鉄扉があった。監獄の独房か精神病院の病室を思わせる、鉄格子の入った覗き窓。扉には頑丈そうな南京錠が。床面に大きく口を開いた四角い穴が見えた。その中に潜り込んでいく黒い石の階段が見えた。そして……。
「カタコンベ」という言葉を、私はささやかな知識の中から引き出してみる。初期キリスト教時代の地下墓所のことで、イタリアのローマ近辺には何十ものそれが現存するらしい。規模の小さな地下墓室は確かヒュポゲウムと呼ばれ、広範囲にわたって通廊で結ばれた複数の墓室を持つのが「カタコンベ形式」なのだというが――。
「〈惑いの檻〉とは?」
私は続けて問うた。
「何故そんなふうに呼ばれているのでしょう」
双子は顔を見合わせ、ちょっと困ったように二本の首を傾げる。
「だって……〈檻〉なんですもの」
やがて美魚がそう答えた。美鳥があとを受けて、
「〈檻〉は〈檻〉……ですものね」
「だから……近づいちゃ駄目よ、中也さま」
「あんまり近づいちゃ駄目な場所なの、あそこは」
「入ってもいいのは鬼丸さんだけ」
「そう。鬼丸さんだけ」
石の階段が吸い込まれていく地の下の暗黒から、あのとき何やら異様な臭気が漂ってきたことを憶えている。ほんのかすかにではあるが、そうだ、何やら気味の悪い音が聞こえてきたような気もした。ああ、いったいあれは……。
思わず身震いしそうになるのを抑えて、私はさらに双子への質問を重ねた。
「お墓には、浦登家代々の人々が埋葬されているんですよね。ということは、初代の玄遙氏せんあなたたちの|曾《ひい》お|祖父《じい》さんや、お祖父さんに当たる卓蔵さんも?」
十八年前の〈ダリアの夜〉に、〈ダリアの館〉の例の部屋で殺害されたという浦登玄遙。その同じ夜に自殺したという浦登卓蔵。二人の名前をここで出したのは、それに対する美鳥と美魚の反応を見てみたいためでもあった。
「玄遙さまに卓蔵お祖父さま……」
呟きながら、美魚は首を捻って美鳥の顔を見る。
「そうねえ。お二人ともあの中にいらっしゃるのよねえ」
美鳥も首を捻って美魚の顔を見、「そうねえ」と応じた。
「桜お祖母さまも、カンナ伯母さまも、麻那伯母さま、みんな……」
「みんな〈檻〉の中で惑ってらっしゃるのかしら」
「カンナ伯母さまと麻那伯母さまは違うわね」
「卓蔵お祖父さまと桜お祖母さまはきっとおんなじで……」
「玄遙さまは」
「玄遙さまは特別なのね」
「特別だけど、失敗なんでしょ」
「成功の方はまだおられないのねえ」
「お父さまは最近、お加減が悪そうだし……」
「お父さまも失敗なのかしら」
「どうかしら」
「玄児兄さまは特別でいらっしゃるそうだけど」
「あたしたちはどうなのかしら」
「どうかしら」
「玄児兄さまと一緒だといいわねえ」
「そして中也さまも……ね」
「そうね。中也さまも……」
そんな二人の会話に、私の頭はますます混乱するばかりだった。「特別」とか「成功」とか「失敗」とか……はて、彼女たちは何のことを云っているのだろう。さっぱり意味が分らない。
半ば茫然として双子の顔を交互に眺めていると、やがて二人は会話を打ち切って、部屋の隅に置かれた小机の前へ向かった。その上に載せてあった、何だろうか、小さな包みを美魚が取り上げ、私の前に戻ってくる。
「どうぞ中也さま、これを」
と云って、美魚はテーブルにそれを置いた。黒い和紙で包まれ赤いリボンの掛けられた、小さな平たい箱のようなものである。
「どうぞ、中也さま」
私のために何か贈り物を用意してくれたというのか。それとも……。
私はそっとリボンをほどき、黒い和紙の包装を剥がしていった。中からは、上部に薄い蓋の付いた桐の小箱が現われた。
「何ですか、これは」
「うふふ。どうぞ開けてごらんになって」
「開けてごらんになって、中也さま」
「――はあ」
云われるままに私は桐箱の蓋を開け、文字どおり次の瞬間、「うわぁ」と度を失った叫びを上げて身をのけぞらせた。弾みで危うく椅子ごと引っくり返ってしまいそうにすらなった。
箱の中からいきなり、ぱさぱさと音を立てて何かが飛び出してきたのだった。まったく予想だにしていなかった出来事だったので、とにかくひたすらにびっくりしてしまい……。
そんな私の反応を見るや、美鳥と美魚はいかにも楽しそうにころころと笑い出した。
「びっくりしちゃった? 中也さま」
「びっくりしちゃった? 中也さま」
箱から飛び出してきた何かは、わずかの間ぱさぱさと宙を舞った後、赤い絨毯の上に落下していた。私は脱力感に浸りつつも、椅子に坐ったまま上体を屈めてそれを拾い上げた。
黄緑色の薄いセルロイドの羽根を持った、それは作り物の蝶であった。
本物の|揚羽蝶《あげはちょう》の倍以上の大きさがあって、ゴム動力か何かで羽根が羽ばたくようにできているらしい。箱の蓋を開けるとつっかえ[#「つっかえ」に傍点]が外れて動き出し、今のように飛び出してくる仕掛けになっているという、要は「びっくり箱」の一種である。
「征順叔父さまが作ってくださったの」
さんざん笑い転げたあと、美魚が目尻に溜った涙を指先で拭いながら云った。
「叔父さまはいろんなものをお作りになるのよ」
同じように涙を拭いながら、美鳥が云った。
「こんなからくり[#「からくり」に傍点]仕掛けのおもちゃも、ご自分で設計して作ってくださるの」
「面白いでしょ」
「でもほら、素敵な蝶々でしょ」
「中也さまは、こういうお遊びはお嫌い?」
「びっくりさせられるのはお嫌い?」
私は憮然と唇を結んだまま、拾い上げたセルロイドの蝶を元の木箱の中に収めた。その間、双子の方には一度も視線を上げないようにしていたのだが、すると――。
「お怒りになった? 中也さま」
そう云って、美魚が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「お怒りになった? 中也さま」
そう云って、美鳥も心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「こんな悪戯くらいで怒ったりはしませんよ」
と答えて、私は目を上げた。極力そこで自然な微笑みを作ろうと努力したのだけれど、どこまで成功したかはあまり自信がない。
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「チェシャをご紹介しなくちゃね」
と、美鳥が云いだした。
「そうね。チェシャをご紹介しなくちゃ」
と美魚が云い、二人は廊下に出る扉の方へ四本の足を向けた。振り返って、美鳥は左手で、美魚は右手で私を手招きする。し
「こちらへどうぞ、中也さま」
「どうぞ」
私たちは「美魚の部屋」を出た。廊下を挟んだ斜め向かいに見える黒い扉の前へと、双子は揃って歩を進める。
「こっちよ、中也さま」
「こっちよ」
その部屋がきっと二人の寝室なのだろう、と察しがついた。チェシャという名の彼女たちの猫は、ではここにいるわけか。――が、見たところ扉は今ぴたりと隙間なく閉まっていて、猫が出入りするための小窓らしきものもない。外には出さず、この室内だけで飼っているのだろうか。
扉を開け、双子は先に部屋に入っていった。すぐに中で明かりが灯り、
「中也さま」
「お入りになって、中也さま」
私を呼ぶ二つの声が聞こえてくる。またぞろ妙な緊張を覚えつつ、私は招きに応じて室内に踏み込んだ。思ったとおり、そこは双子の寝室であった。
映画や書物の中でしかお目にかかったことがないような天蓋付きのベッドが、部屋の真ん中に据えられている。二人どころか、その倍の人数でもゆったり並んで寝られそうな大きさだった。
双子は私の方を向いて、ちょこんとベッドの端に腰掛ける。
「どうぞ、中也さま」
「中也さまもお掛けになって」
と云われたものの、彼女たちの隣に坐るわけにもいかない。私は手前の壁際に二人掛けのソファが置いてあるのに気づき、それに腰を下ろした。
チェシャはどこにいるのだろう。
そう思って、室内に視線を巡らす。
飾り棚や箪笥などの家具がいくつか並んでいる。どれも立派な造りの品だが、表面の塗装は例によって皆、黒い。例によって皆、艶消しの仕上げでもある。入って右手の壁には黒い扉が二枚ある。化粧室とか物置とか、恐らくその種の小部屋が付属しているのだろう。
ベッドの右脇奥に置かれた楕円形のテーブルの上に、そして私はその猫の姿を見つけた。
漠然と予想していたとおり、それはやはり黒い猫であった。同じテーブルの上の、赤い傘が付いた電気スタンドの横に、前脚を折りたたんで、その上に胸を載せたような格好でうずくまっている。
「あれがチェシャよ、中也さま」
私の視線を追って、美鳥がそう云った。
「可愛いでしょ、中也さま」
私の顔に目を戻して、美魚がそう云った。
「チェシャはずっとああしているの」
「ずっとああして、あたしたちと一緒にいるの」
黒猫はうずくまった姿勢でじっとしている。私のような見知らぬ人間が入ってきたというのに、何も反応を示さない。こちらを見向きもしないし、警戒する素振りもまるでない。至って呑気な性格なのか、それとも眠り込んでいるのだろうか。
「チェシャという名前は――」
猫の方に目をやったまま、私は双子に云った。
「『アリス』から採ったんですよね。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫」
「そうよ」
と答えて、美魚が嬉しそうに微笑む。
「『アリス』のチェシャ猫は黒い猫じゃないけど」
と、美鳥が言い添える。
「中也さまは『アリス』はお好き?」
「ええ、まあ……」
テーブルの上の黒猫からどうしても目が離せぬまま、私は生返事をした。相変わらず猫は動かない。微動だにしない。さすがに私は不審を覚えつつあった。ああ、何だかまるで……。
そんな私の心中を察したのか、双子が立ち上がって猫のいるテーブルの前へ向かった。
「チェシャ、中也さまにご挨拶よ」
「チェシャ、さあ」
美鳥がそっと抱き上げる。それでも猫は少しも身を動かさない――ように見えた。
二人が元の場所に戻ってくる。ベッドの端に座り直し、膝の上に愛猫を載せる。私は椅子から半ば腰を浮かせて、大人の拳ほどの大きさの、真っ黒なその顔を覗き込んだ。そうして――。
不審は確信に変わった。
眠っているのではない。瞼はしっかりと見開かれている。ただ、|眼窩《がんか》に収まった二つの目が、どちらも普通ではなかった。赤い……深緋色の、これは動物の眼球ではない。そのような色をした硝子玉か石――あるいは宝石だろうか――が、そこに嵌め込まれているのだ。
「チェシャはね、三年前に動かなくなっちゃったの」
と、美鳥が云った。悲しそうに目を細め、膝の上の黒猫の背を撫でる。
「動かなくなって、冷たくなって……」
「死んじゃったの」
と、美魚が続けた。やはり悲しそうに目を細め、指先で黒猫の頭を撫でる。
「あんなに可愛がっていたのに」
「あんなに仲良くしていたのに」
「それでね、そのまま放っておくと腐っちゃうから」
「だからね、お父さまにお願いして、腐らないようにしていただいたの」
「チェシャは死んじゃったけど、こうしておんなじ姿でここにいるから」
「決して腐ったりしないから、これからもずっとここで、あたしたちと一緒にいるの」
「いつも、いつまでも一緒よね」
「一緒よねえ、チェシャ」
「さあさあ、中也さまにご挨拶なさい」
双子は動かぬ黒猫を膝から持ち上げ、子供が人形やぬいぐるみを扱う要領で、こちらにむかってぺこりと頭を下げさせる。
「よろしく、中也さま」
「よろしくね」
口々に「ご挨拶」の言葉を添える二人の顔には、もはや悲しみの色は微塵もなく、少女らしい笑みばかりが浮かんでいた。
「お父さまにお願いして、腐らないようにしていただいたの」とはつまり、死んだ猫を剥製にしてもらったということか。柳士郎みずからがそれを行なったとは思えないから、専門の業者に依頼したのだろう。あるいはもしかして、たとえば鬼丸老がその仕事を請け負ったなどとは考えられないか。
可愛がっていた猫が死んだので、腐らないよう剥製にしてそばに置いておくという行為。そのことをあっけらかんと客人に話す彼女たち。――私は多少の驚きと違和感を覚えざるをえなかったが、冷静に考えてみれば、なるほど二人の心理も分らないではない。愛玩動物の死≠どのように受け止め、どのように対処するか。その端的な一事例であるとも云えるわけで、それが善いか悪いかを云々するような問題ではないだろう。しかし……。
「お加減は? 中也さま」
ひょっとすると私の顔色に変化があったのかもしれない、黒猫の剥製を膝の上に戻して、美鳥が心配そうに訊いてきた。
「まだ気分がお悪いのかしら」
美魚が続けて訊いた。
「ベッドで休まれてはいかが」
「――いえ」
私はゆるりとかぶりを振って、ソファに深く掛け直す。そのまま少しの間、こちらから切り出す言葉を見つけられずにいると、双子は猫を膝の上から傍らに下ろし、二人してちょっと腰を浮かせて私に顔を近づけながら、
「大丈夫? 中也さま」
「大丈夫? 中也さま」
「――ええ」
「もっといろいろお話しましょ」
「もっといろいろお話しましょ」
「――そうですね」
私はゆっくりと頷き、目の前の異形の双子姉妹を見据える。その怪しい美しさに、改めて不思議な胸のざわめきを感じつつ。一見いかにも無邪気そうな彼女たちの心の内には、実際のところどのような風景が広がっているのか。そんなことに漠然と思いを巡らせつつ。――そして。
「一つ、いいですか」
昨夜以来どうしても気に懸かって仕方のない問題についての問いを、私は彼女たちに投げかけてみることにした。
「何かしら、中也さま」
「何かしら」
「昨日の〈宴〉で出された料理なんですけど」
パンに塗ったあの茶色いペーストのようなもの。得体の知れぬ具の入ったあの赤黒いスープ。――私は乾いた唇を舐め、お世辞にも美味とは云いがたかったそれらの味を思い出しながら、訊いた。
「何だったのですか、あれは。何を私は……」
二人は顔を見合わせ、くすすっ[#「くすすっ」に傍点]と小さな笑い声を洩らす。
「さっき伊佐夫さんが云ってましたよね。『今年も肉にはありつけなくて』とか何とか。ゆうべのあれ[#「あれ」に傍点]がその『肉』だったのですか。だとしたら、何の。何の肉だったのですか」
畳みかけるような私の問いかけに、二人はまた顔を見合わせて小さく笑い、
「ご存じなかったのね、中也さまは」
美鳥がそう云った。
「玄児兄さまはまだ、お話になってなかったのね」
美魚がそう云った。
「あれ[#「あれ」に傍点]は……そうね、あれが伊佐夫さまのおっしゃっていたものなんだけれど」
「とっても特別なものなの、あれは」
「あれはね……ふふっ」
「あれは……うふふっ」
「教えてくれないのですか」
私が云うと、二人は三たび顔を見合わせ、
「お教えしてもいいけれど」
美鳥がそう答えたが、いささかの迷いがそこには窺われる。美魚がすぐにあとを受けて、
「だけどそれは、玄児兄さまからお聞きになった方が……」
「……そうね」
「そうよね」
「玄児兄さまが教えてくださるわ」
「あたしたちよりも兄さまの方が、ずっとよく分ってらっしゃるから」
「そうねえ」
「そうよねえ」
「でもこれで、中也さまはずっと一緒なのよね」
「そう。きっとね」
「中也さまはちゃんと召し上がったから」
「〈ダリアの夜〉に〈ダリアの館〉にて、ダリアに見守られ、その許しを受け、皆の大いなる祝福の下に……」
美鳥が軽く瞼を閉じながら、そんな文句を諳んじてみせる。昨夜の〈宴〉の席で聞いた、それは当主浦登柳士郎の台詞だと分った。
「……だからね、きっと大丈夫」
「中也さまはずっと一緒、あたしたちと」
「ずっと……そうよね、いつまでも」
彼女たちが何を云っているのか、ここでも私にはほとんど意味が掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、548-下-10]めなかった。これ以上問いただしてみたところで、いよいよわけの分らない言葉ばかりが返ってくるような気もした。
やはり玄児に尋ねるしかないのか、と腹を決め、私はソファから腰を上げる。美鳥と美魚はすると、ちょっと慌てたふうに、
「あら中也さま、もうお立ちになるの?」
「あたしたちとお話ししていても退屈?」
「ああ、いえ。そんなことは」
「それじゃ、もっとお話ししましょ」
「お疲れになったのなら、どうぞベッドに横になられて」
切実そうに訴える二人の声と表情に押しとどめられて、私はいったん上げた腰をソファに戻す。怪しい胸のざわめきが、今さらのようにそこでまた、さわさわと膨れ上がってきた。
「あのね、中也さま」
「あのね、中也さま」
美鳥と美魚が同時に云った。黒眼がちの四つの目を大きく見開いて、どきっとするような真剣な眼差しで私の顔を見つめながら、
「あたしたち、中也さまにお願いがあるの」
「あたしたち、中也さまにお願いがあるの」
「――何でしょう」
私はすっかり|気圧《けお》されてしまい、彼女たちの膝許に視線を下げる。二人は云った。
「あたしたちね、中也さまのお嫁さんになれたらいいなあ、って。――ね、美魚」
「そうよね。中也さまのお嫁さんになりたいなあ、って。――ね、中也さま」
「は、はい?」
いきなりそんな申し出をされて、私がこれ以上ないほどに狼狽したことは云うまでもない。
「それはしかし、その」
「駄目? 中也さま」
「あたしたちのこと、お嫌い?」
「いや……いえその、だから……」
二人がどこまで本気でそんなことを云いだしたのかは分らない。が、私は狼狽のあまり、彼女たちの真意を|斟酌《しんしゃく》することもなく、愚直な説明を返した。
「私は一人で、あなたたちは二人だから、そういうのは許されないんですよ。一人の男性が二人の女性と結婚すると、重婚といって罪になるんです」
「それなら大丈夫よ」
と、美魚が云った。
「だって、あたしたちは二人で一人だから。そうでしょ、美鳥」
「そうそう。二人で一人だもの。ね、中也さま」
「いえ。それでもやはり」
「駄目なの?」
「中也さま、あたしたちのことがお嫌いなの?」
「あたしたちがお嫌いなの?」
「いえ。嫌とか嫌いとかいうんじゃなくて……」
しどろもどろで答える私の脳裡に、故郷の街に住むある女性[#「ある女性」に傍点]の顔と名前がおもむろに浮かび上がってくる。懐かしさと愛おしさに混じって、今のこんな場面をもしも彼女が見たならどんな気持ちになるだろうか、という想いが、少なからぬ罪悪感とともに胸に広がった。
「あたしたちは二人で一人よ」
と、美魚が繰り返した。その目許には、うっすらと涙が滲んでいる。
「だから中也さま、あたしたちと結婚しましょ」
と、美鳥が詰め寄った。その目許にも、うっすらと涙が滲んでいる。
「そしてずっと一緒に……ね、中也さま」
「いつまでも一緒に……ね、中也さま」
「ええと、あの、ですからその……」
窮地に陥った私を救ってくれたのは、折りしもその時、寝室の扉をノックして入ってきた玄児であった。私たちの姿を認めるや、そこから今のこの状況をどのように洞察したものか、
「おやおや、どうした」
わざと戯けたような感じで両腕を広げながら、彼は云った。
「美鳥も美魚も、あんまり|我《わ》が|儘《まま》を云って中也君を困らせるんじゃないぞ」
たしなめられて、双子は少しばかり不満そうな顔をしつつも、
「はい、兄さま」
「はい、兄さま」
素直にそう応えた。それから私の方に視線を戻して、にっこりと微笑みを作る。目許にはもう涙はなかった。――ああ、彼女たちは何を考えているのだろう。蝶のびっくり箱と同じような調子で、単に私をからかってみただけなのか。
――肉体よりもむしろ、あの子たちの問題はあの子たちの心の方にあると、私はそう了解しておるのですが。
昨夜サロンで野口医師の云った言葉が、ふと耳に蘇ってくる。あの時はあまり深く考えては見なかったけれども、この双子姉妹の心にはいったいどんな「問題」があるというのだろうか。
「さて、もういいだろう」
玄児が妹たちに向かって云った。
「中也君を返してもらうよ」
「はい、兄さま」
「はい、兄さま」
「お|義母《かあ》さんはちゃんと部屋に送り届けておいたから。――さあ中也君、行こうか。ちょっと話しておきたいことがあるんだが、俺の部屋ででも、どうかな」
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「くたびれたかい、あの子たちの相手は」
二階西翼の袖廊下から主廊下に折れたところで、先を歩いていた玄児が歩を止め、私が横に並ぶのを待って云った。私は「はい」とも「いいえ」とも答えず、曖昧に首を傾げながら、
「いろいろと気になることを聞かされましたけど」
「気になること、か」
玄児は唇の端で薄く笑い、
「そりゃあまあ、君にしてみれば気になることは山ほどあるだろうねえ。――分ってるさ。そのうちまとめて話してやるから」
「そのうち」などと云わず、今すぐにでも聞きたい気持ちは山々だったが、たとえそう要求してみても、何となくこの場でははぐらかされてしまいそうに思える。私が黙っていると、玄児は横目でこちらを窺いながら、
「それにしても中也君、さっきはずいぶんと途方に暮れたような顔をしていたね。どうしたのかな。まさかあの子たちが、君を捕って喰おうとしたわけでもあるまいが」
「はあ、それが」
私は心持ち声を潜め、答えた。
「実はその、結婚を申し込まれてしまいました」
「結婚?」
さすがに玄児は驚いたふうである。が、すぐにまた唇の端を上げて薄笑いを作り、
「なるほどね。途方に暮れてしまうのもまあ、仕方がないか」
「――はあ」
「で? どう応じたのかな、中也君」
「応じるも何も」
私は半ばむきになって首を横に振り、
「彼女たちと結婚だなんて、仮にそうしようと考えたにしても……」
「無理だってかい? あの子たちがああいった身体だから?」
「それは……ええ、その問題も当然ありますね」
「ふん。じゃあね、中也君」
玄児は薄笑いを消し、訊いた。
「もしもあの子たちの肉体が二つに切り離されて一人一人になったならば、どうする」
「えっ」
「美鳥か美魚か、どっちを君は選ぶんだろうか」
「そんなことは……」
私は返答に詰まり、そうしてそこでまた、昨夜の野口医師の話を思い出すのだった。美鳥と美魚のシャム双生児を外科的に分離することの可能性に関する、あの話である。
医学的・技術的に極めて困難な手術だとは思わない、と医師は云っていた。二人を切り離すことは不可能ではない、と。――ああ、もしもそれが本当だとしたら。
どの程度かは知らないが、もちろん危険はつきまとうだろう。しかし、彼女たちの将来を考えるならば、その手術はやはり行なわれるべきなのだろうと思う。そうすることによって、これまで二人が抱えてきたさまざまな問題が解決するに違いないわけだから。たとえば、まさに「結婚」の問題。例のチャンとエン兄弟の逸話からも知れるとおり、外国ではそうでもないようだけれど、少なくとも日本では、結合したままのシャム双生児が配偶者を持った例はないのではないか。法律的にどのような判断が下されるのかも、きっと微妙なところだろう。
「美鳥か美魚か、どっちか一人を選ぶことはできないと?」
玄児が質問を重ね、私は返答に詰まったまま短い溜息をついた。
「それじゃあ、二人ともと一緒になればいい」
「はあ? 何を云うんですか、玄児さん」
「重婚がどうこうなんて、つまらないことは云いっこなしだ。届けは片方とだけ出せばいいだろう」
玄児は真面目な面持ちで云った。
「相手が君ならば、俺としてはそれでも構わないんだがね」
「玄児さん」
私は思わずやや声高になって、
「前に話しませんでしたっけ。確か話したはずです。私は、私には……」
故郷の街に住む彼女[#「彼女」に傍点]の顔を思い浮かべながら、私は年上の友人をねめつける。すると途端、彼は引き締めていた表情を緩めて、
「冗談だよ、中也君」
と云った。
「承知してるさ。君にはもう、将来を約束した|許嫁《いいなずけ》がいるんだったよね。今の時代に、何とも気の早い話だとは思うが、まあそれも君らしくていい」
「玄児さん……」
「美鳥と美魚とは、しかしこれからも仲良くしてやっておくれ。何かと問題はあるが、あのとおり無邪気な子たちだから」
「あ……ええ、はい。それはもちろん」
「さあ、ここだ」
と云って、玄児が黒い片開きの扉の前で足を止めた。主廊下と東翼袖廊下の合流点手前、その南側の部屋だった。一階では図書室が設けられている位置である。
「俺の書斎だよ。そっちが寝室になってる」
と、玄児は向かいの部屋――一階音楽室の真上に当たる――の扉を顎で示し、
「一年のうち使っていない期間の方が長いから、あまり人を招いて自慢できるような状態でもないんだがね。さ、どうぞ」
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もはや極端な例外があるはずもなく、玄児に促されて入ったその部屋もまた、内装も調度もほとんどすべてが艶消しの黒で統一されていた。黒以外で目につく色と云えば、手前の一画に敷かれた絨毯のくすんだ赤くらいのものである。
その絨毯の中央に木製の黒い揺り椅子が一脚、置かれている。玄児は私にこの椅子を勧め、みずからは部屋の奥の、大きな書斎机に付属した肘掛け椅子に腰を下ろした。
勧めに応じて揺り椅子に身を落ち着けながら、そう云えば――と、私は思い出す。
白山の玄児の家にも確か、これと同じような黒い揺り椅子があった。庭に面した六畳間の、敷きつめられた赤錆色の絨毯の真ん中に、ぽつんとそれだけが置いてあったように思う。日中も雨戸を閉め切ったその薄暗い部屋の中で、玄児がその椅子に揺られながら一人物思いに耽っているのを、幾度か見た憶えがある。
「さっき〈赤の広間〉で云いかけたことだが」
書斎机の端に両肘を突いてこちらに目を向け、やおら玄児は切り出した。
「〈西館〉へ行って父と話をしてきた」
「ああ、はい」
私ははっと玄児の方を見直し、意識を現在のこの状況に集中させる。
「美鳥さんと美魚さんから聞きましたよ。玄児さんは怖い顔をしてお父上の部屋に、と」
「ふん。――あの子たちには、事件のことは話したのかい」
「二階に上がってきた時、伊佐夫さんに出会ったんです。そこで彼の口から事件の話が。そのあと私からもざっと事情は説明しましたが」
「そうか。伊佐夫君も誰かに聞いたわけだな」
「野口先生と征順さんから、と」
「あの子たちの反応はどうだった。驚いていたかな」
「びっくりした様子ではありましたけど」
そう答えて、私は先を云いあぐねた。二、三秒の間をおいてから、
「あまりその、大騒ぎしたり怖がったりするふうでもなくて。蛭山さんの死を悼むような感じでもなくって、何と云うんでしょうか、半ば他人事みたいに冷然と受け止めている、といったふうにも」
「ふうん」
べつだん意表を衝かれた様子もなく、玄児は軽く頷いて煙草を銜えた。卓上から黒い置物型のライターを取り上げて火を点けると、斜め上方に向かってゆっくりと煙を吐き出す。そうして云った。
「さっき父に会いに行ったのは、現場まわりを調べて分ってきたことをとりあえず報告するためと、その上で、実のところ彼がどう考えているのかを探るため、だったんだが」
「実のところ、とは?」
「蛭山さんを殺したのは誰か、という問題についての、実のところの父の考えさ、もちろん」
玄児は取り澄ました顔で答えた。
「事を公にしたくない、外部の介入を避けたい、と父が思うのはまあ、あの人の性格や日頃の言動を知っていれば理解できないでもない。しかし、何度も云うように事件が事件だからね。紛れもなく一人の人間を殺害した犯人が、この屋敷にいる。それが誰か、何で殺したのか。その見当すらまったくつかないまま知らん顔をしていられる神経は、普通の人間にはないだろう」
「でも、だから玄児さんは事件の真相を突き止めようと動いているわけでしょう」
「父にそうしろと命じられたわけじゃない。彼は『放っておけ』と云ったんだ。その彼が内心、事件の真相についてどのように考えているのか。何かそれなりの見解を持っていないはずがないと、そう思った次第でね」
「――なるほど」
私は揺り椅子の背に凭れかかる。かすかな音を立てながら、椅子が前後に揺れはじめる。そのせいでまた気分が悪くなる心配はなさそうだが、私にはあまり心地好いとも思えない動きだった。
「で、どうだったのですか」
「実に明確な答えが返ってきたよ」
と云って、玄児は鼻筋にちょっと皺を寄せた。
「蛭山殺しはおおかた、使用人たちの間の何らかのいざこざが原因だろう。そんなくだらないことで警察などを呼びたくはない。内々に事を処理してしまったあとで、罪には問わぬと云った上で白状させ、|馘《くび》にする――とね」
使用人同士のいざこざ? ということはつまり、犯人は小田切鶴子、羽取しのぶと慎太の母子、宍戸要作、そして鬼丸老――この中の誰かであると、浦登柳士郎は決めてかかっているわけか。
――犯人はしのぶさんね、きっと。
先ほど双子が――美鳥の方だったか――そのような断定を口にしていたが、あれも云ってみれば「使用人同士のいざこざ」を想定しての意見であったことにはなる。だがしかし――。
そんなに単純な、これは事件なのだろうか。
そうではないように私は思う。少なくとも、いま玄児から聞いた柳士郎の思惑どおりに収まる事件ではないように。何故そう思うのか、確固たる理由をここで説明できる自信はないのだけれど。
「江南というあの青年については?」
私は上体を前に起こし、話題をずらした。床に足をつけて椅子の揺れを止めながら、
「お父上の実のところ、彼のことをどう思っておられるのでしょう」
「ふん、それか」
玄児は銜えていた煙草を指先で挟み取り、
「その件も多少、鎌を掛けてみたんだがね。さて、どう云えばいいのかな。気にしつつも無関心を装っていると、そんなふうに俺には見えた」
「父はまだ、江南君に直接会ってはいない。会っておかねば、とも云わない。事故の後遺症で言葉が喋れない、記憶も曖昧なようだと聞くと、『そんな有様なら会っても仕方があるまい』という。つまりは無関心を決め込んでいるわけだが、一方で当然、どうしても無関心ではいられない部分もあるだろう。話していてそれが分る。気に懸かってはいる、けれども積極的に動くのも|煩《わずら》わしいという……はなはだ微妙な心理状態なんだろうと」
「――はあ」
「昨日話したように、父はこのところの白内障の悪化もあって、基本的に機嫌が良くないんだな。かなり精神的に消耗している様子で、野口先生も云っていたが、ややもすると鬱に陥ってしまいがちな状態が続いている。鬱は無気力に繋がる。動きを起こすのが煩わしい、面倒だ、どうでもいい、といった気分になるものだというから」
「気にしつつも無関心を装う。結果としてそのような態度になってしまう、と?」
「俺はそう推察するが」
と応え、玄児は煙草を卓上の灰皿で揉み消す。
彼の背後の壁にはこの部屋唯一の窓があって、例によってこれも外側に黒い鎧戸が閉まっているのだが、その隙間から突然、一瞬の激しい光が室内に突き刺さってきた。稲光である。いくらかの間をおいて、先ほどまでと比べればだいぶ控えめな音量で、どろどろと雷鳴が響き渡る。
「江南君については、転落事故の状況はもちろん、年の頃や風体、身元を示す所持品が何一つないこと……一通りの情報は父に伝えてある」
響きが消えるのを待って、玄児がそう云った。
「それで、何も心当たりはないと?」
確認の意味で私が尋ねると、玄児は「ああ」と頷いて、
「そういう感じではあったが、ただ――」
「何でしょう」
「一つだけ、例の時計のことを話すと、そこでちょっとした反応があった」
「T・Eというイニシャルが入った、あの懐中時計ですか」
「そう」
「反応とは?」
「それはどんな時計か、と訊き返してきたのさ。俺がありのままを説明すると、『そうか。そんな文字が彫り込まれているのか』と呟いて、そのあとは黙り込んでしまった」
「ははあ」
「それ以上は何をどう聞いてみても、返ってくる答えはなかった。難しい顔をして口を噤んで、曖昧に首を振るばかりでね」
「何か隠しておられる、というふうには」
「さてねえ。何とも云えないな」
父親がそうしたと云うのと同じように、玄児は難しい顔をして口を噤み、曖昧に首を振ってみせる。
「一番手っ取り早いのは、江南君を父の元に連れていって引き合わせてみることなんだろうが。――しかしそれよりもまず、今朝の事件の方を何とかするのが先決だな」
「あの青年がここにやってきたことと事件とは、何か繋がりがあったりするのでしょうか」
何となく思い浮かんだ疑問を私が口に出すと、
「別問題だろうと、俺は思うね」
さしたる躊躇を見せず、玄児はそう答えた。
「昨日〈十角塔〉の中の足跡を確認して分ったとおり、江南君があのバルコニーから落ちたのはまったく偶然の事故で、そこに誰かの意志が働く余地などなかった、つまり事件性とは無縁なものだったわけだし。それに、さっき検討したことの繰り返しになるが、不意の来訪者である彼は中也君、君と同じで〈南館〉のあの隠し扉の在り処を知っていたはずがないわけでね、極端な話、仮に彼の正体が逃走中の凶暴な殺人狂だったとしても、蛭山さんを殺した犯人では決してありえないことになる」
「――確かに」
「だからとりあえず、二つはまったく別々の出来事として取り扱えばいいんじゃないかと思う。――ということで、さて中也君」
机の端にまた肘を突いて両手の指を組み合わせ、その上に顎を載せながら、玄児はまっすぐに私を見据えた。
「ここまでで判明した事実を元に、もう少し掘り下げて事件の検討をしてみようか。何か君は、考えていることはあるかな」
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「お父上のアリバイは確かめてみたのですか」
私は玄児の視線を受け流すように顔を横に向けながら、逆に質問を返した。
「ああ。お叱りを覚悟で聞いてみたさ」
玄児は苦々しげな口振りで答えた。
「『そんなものはないし、必要もあるまい』と、ほとんど吐き捨てるような調子で云われた。『いったいどんな理由があって、この私が蛭山を殺さねばならない』ともね」
「例の隠し扉の件は?」
「それは聞くまでもないことだから。屋敷の当主である父が知らないはずがない」
「――そうですね」
私は再び揺り椅子の背に凭れ込む。そうしながら、別に時間稼ぎをするつもりでもなかったのだが、先の玄児の問いかけに答えることはせず、黙って室内の様子を見渡した。
部屋に入る前に玄児自身が云っていたように、彼は一年の多くを白山の家の方で過ごしている。実家であるこの屋敷の書斎は、だから普段はあまり使用されていないわけで、そのせいだろう、何だか妙に寂れた感じがした。と云っても、汚れたり散らかったりしているのではない。その逆で、たとえば書斎机の上やまわりにしても、いやに整然と片づきすぎているのである。壁面を埋めた書棚も同様で、そこにある本の絶対数がそもそも「書斎」にしては少なくて空いた部分が目立つ上、それらがいやにきちんと、寸分の乱れもなく並んでいるものだから、かえって「寂れた」感じがしてしまう。雑然としたところがあまりにもなさすぎるのだ。
白山の家の方も室内は非常によく整理整頓されているが、それは玄児の几帳面な性格の賜物だと理解している。こちらはしかし、多分に意味合いが異なる。|主《あるじ》の積極的な意思ではなく、主の不在ゆえに生じた「整然」なのだと分る。
壁には何枚かの絵が飾ってある。どれも地味な色遣いで描かれた静物画の小品で、同じような黒い木製の額縁に納められている。ひょっとしてそれらの中に、例の藤沼一成の作品も? と思ったのだけれど、仮にそうならば玄児の方から注意を促すはずだろう、と考え直した。
「――で、中也君」
玄児が口を開いた。
「俺の質問には答えてくれないのかな。この事件について何か、君が考えていることは?」
「ああ、はい。それは――」
こちらを見据えたままの玄児とは目を合わせないようにしながら、私は云った。
「考えていることは、ないでもないのですが」
「――はあ」
考えていることは、ある。――しかし。
何からどう話すべきだろうか、と私は今さらながらに思案する。結果、その先には「何からどう尋ねるべきか」という問題が避けがたく存在していることを確認するのだった。
「さっき|階下《した》のサロンで、征順さんも云っておられましたれど」
私は思いきって言葉を継いだ。
「どうして蛭山さんは[#「どうして蛭山さんは」に傍点]、あんな死に方をしなければならなかったのでしょうか[#「あんな死に方をしなければならなかったのでしょうか」に傍点]。一番の謎≠ヘやはりそこにある、と」
「――ふん」
「云い換えれば、どうして犯人はあんな状態にあった蛭山さんを殺したのか[#「どうして犯人はあんな状態にあった蛭山さんを殺したのか」に傍点]、殺さねばならなかったのか[#「殺さねばならなかったのか」に傍点]、ということです」
「動機の問題、だね。要するに」
「そうです」
揺り椅子の動きを止め、私は大きく頷いた。
「昨夕〈南館〉のあの部屋に運び込まれた時点で、蛭山さんは文字どおり瀕死の重傷を負っていて、野口先生の診断によれば、命を取り留める可能性は『限りなくゼロに近い』『朝まで保つかどうか』といいった状態だった。何もせずに放っておいても、何時間かあとには死んでしまうことがほぼ確実だった、と云えるわけですよね。そんな人間をどうして、犯人はわざわざ絞め殺す必要があったのでしょうか」
「確かにねえ」
玄児も大きく頷いて見せた。
「この殺人には意味がない[#「この殺人には意味がない」に傍点]というわけだ」
「そう。意味がないんです」
「――で?」
玄児は矢継ぎ早に訊いた。
「その疑問に対する君の考えは」
「それは」
答えかけたもののすぐに口ごもってしまい、私は自分の膝許に視線を落とす。やはり「何からどう尋ねるべきか」が、この先の問題である。尋ねるべきこと、尋ねたいことはもとより山ほどあるが、中でも今の局面で必要なのは……。
「じゃあ、中也君」
思いあぐねるうちに、玄児が云った。
「俺の考えをまず話そうか」
「あ……はい」
「どうして犯人は、放っておいてもいずれ死ぬと分っている蛭山さんを殺したのか」
この事件における恐らくは最大の謎≠、もう一度明確な言葉で示して、玄児は新しい煙草に火を点ける。
「無意味な殺人、というふうに見える。そう見えるものにもしかし、どこかに『意味』はあるんじゃないか」
そうだ。私も同様に考える。
まったく意味のない殺人、などというものがここで起こったとは、どうしても考えられない。考えたくない。どこかに何か、然るべき意味があるのではないか。いや、あるはずなのだ。だから……。
「可能性だけをあげつらうならむろん、いろいろな考え方ができるだろう。たとえば、そうだね、それほどに――殺しても飽き足らないほどに、犯人は蛭山さんを憎んでいたから、とか。事故の負傷で死なせるのではなく、何としてでもみずからの手で殺さねば気が済まなかった、という。あるいは、本当にまったく何の意味もなく、蛭山さんが重傷を負っているなんて状況とはまるで無関係に、単にその首を絞めてみたかったから絞めただけ、とかね。――どう思う」
訊かれて、私はすぐに「そんなことは」とかぶりを振った。
「何か意味は、あったはずだと思います」
「そう。俺もそう思う。意味はあったはずだ、と」
玄児は思わせぶりに微笑んで、
「物凄く蛭山さんを憎んでいた何者かが、その憎しみのあまり前後の見境もなく殺してしまった。あるいは、気の狂った何者かが何ら深い意味もなく首を絞めた。どちらにしても、この事件の様相とはどうも形≠ェ合わないような気がする。しのぶさんに気づかれる危険を避けて、あの隠し扉を使って現場に出入りしたという、ある意味で冷静かつ慎重な行動の仕方とも形≠ェ合わない」
「賛成、です」
「それじゃあ、正しい『意味』はいったいどこにあるのか。犯人は何故、蛭山さんを殺す必要があったのか。――すこぶる論理的な答えが一つ、俺の頭には浮かんだんだが」
吐き出される紫煙に巻かれてその一瞬、玄児の蒼白い顔が血の通わぬ能面のように見えた。
「もうすぐ死ぬと分っている人間をわざわざ殺す必要は普通、ない。なのに犯人は殺した。ということはつまり、犯人はその人間がもうすぐ死ぬとは分っていなかった[#「犯人はその人間がもうすぐ死ぬとは分っていなかった」に傍点]わけだ」
聞いて、私は思わず「ああ」と声を洩らした。今の今までそのようには考えてみたことがなかったのだが、なるほど確かに、それは「すこぶる論理的な答え」かもしれない。
「犯人は蛭山さんが事故で怪我をして、〈南館〉のあの部屋に寝かされている事実は知っていた。けれどもその怪我が、『朝まで保つかどうか』というほどの大怪我であるとまでは知らなかったんだな。だから、具体的にどんな動機があったかは分らないが、この機会に蛭山さんを殺してしまおうと思い立った」
――いい機会だと思ったのね。
美鳥と美魚はさっき、そんな意見を述べていた。
――弱ってるから、この機会に殺してしまえって。
しかしながら、あのとき彼女たちが犯人として名前を挙げた羽取しのぶは、蛭山の怪我の程度を十分に知っていた。このまま何もしなくても、遠からず彼は死んでしまうだろうと承知していたはずではないか。
もう一人、双子が犯人としてあげた浦登清はどうだろう。――蛭山が「事故で大怪我をしたこと」は知っていた。だがあの少年の場合、それが「瀕死の重傷」だとまでは知らなかった可能性もある。それから、そう、美鳥と美魚の双子たち自身も。
「放っておいても怪我で死んでしまう、とは?」と私が訊いた時、彼女たちはこう答えたのだ。「死ななかったら困るでしょ。だから」と。
「では、蛭山さんが朝までの命だろうということを知っていたのは誰か」
玄児はやや早口になって論を進めた。
「征順叔父さんに鶴子さん、君と俺と、そして父の柳士郎。以上の人間は確実に知っていた。手当てを終えた野口先生の口から直接、その見解を聞いたんだから。しのぶさんも、あの時あの場にはいなかったが、あとで鶴子さんからそう知らされたと云っていたね。
その他の者たちについてはどうか。宍戸さんは野口先生や征順叔父さんと一緒に、蛭山さんを事故現場から部屋まで運んでいる。間近に怪我人の有様を見ているわけで、そこで、これはもう助からないと察することは難しくなかったに違いない。『見ている』と云えば、例の江南青年も確か、〈東館〉の廊下で蛭山さんの悲惨な状態を目撃しているね。それによって彼がどう判断したかは微妙なところだが。あとは……」
「伊佐夫さんには昨夜、私が話した憶えがあります。ざっと事情を説明したのですが、その際、どうやら助かりそうもないということも云ったように」
「そうか」
頷きながら、玄児は短くなった煙草の煙をもう一口、ゆっくりと深く吸い込んだ。
「残るのは美惟叔母さんに望和叔母さん、美鳥と美魚、清、慎太、鬼丸老、それと茅子さんか。現在この館内にいる者のうち、この八人については『知らなかった可能性』がある」
「誰かから聞いて知っていた可能性もありますが」
「ああ。しかし、彼ら一人一人にこの件について質問してみても、もはやあまり意味がないんじゃないかと思う。犯人であれば一言、『知っていた』と嘘をつけばいいだけの話なんだから」
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「――というのが当面、俺の考えていることなんだけれどもね、さて中也君、君の方は? 今の反応を見ると、まったく同じことを考えていたわけではなさそうだが」
云われて、私は揺り椅子から腰を上げた。そうしてシャツの胸ポケットを探り、これまで我慢しつづけていた煙草を取り出す。
もう大丈夫だろう、と声には出さずに呟いた。吸っても決して美味しくはないに違いないが、それでもある種の鎮静効果を心身が求めて、吸いたいと思ってしまう。中毒と呼ばれるほどには、まだ依存の程度は高くないはずなのだけれど。
書斎机の上のライターを借りて火を点けると、揺り椅子には戻らず、書棚の手前に置かれていたストゥールに身を移した。傍らの小テーブルの上の灰皿に軽く灰を落としながら、「私は――」と玄児の方を見やる。
「私は、そうです、玄児さんとはまるで別のことを考えていました」
「ふん。それはどんな」
「いま聞いた玄児さんの説は、確かにとても論理的だと思います。明解にして要を得ている。そうじゃないだろうと積極的に反論することは、私にはできません。ですが――」
舌に絡みつく煙の苦みに顔を|顰《しか》めながら、私は云った。
「玄児さんの説とは別にもう一つ、同じくらい妥当性の高い解釈があると私は思うんです。もちろんさっき玄児さんが否定した、『結局のところ意味などなかった』というようなものではなくて。一見無意味な犯人の行動に対して、然るべき『意味』を持たせることのできる解釈が」
玄児は「ほう」と身を乗り出して、
「そいつはぜひとも拝聴したいものですな、ホームズ先生」
「茶化すのはやめてください」
私は真顔で玄児をねめつけてから、意を決して「その前に」と言葉を|接《つ》いだ。
「玄児さんに尋ねておきたい――確認しておきたいことが一つ、あるんですが」
「はて、何かな」
「これはあの、鬼丸老から聞いた話なんですけど、何でも今から十八年前の〈ダリアの日〉の夜、この屋敷で殺人事件があったのだ、とか。〈西館〉の一階にある、現在では〈開かずの間〉になっている部屋で……」
「はあん、その話か」
玄児はいささか意表を衝かれた様子で、
「鬼丸老から聞いた? いつ」
「昨夜です。〈宴〉の途中で用足しに出た帰り、間違えて〈宴の間〉の真下に当たるあの部屋に入ろうとしてしまったんです。その時、案内についてきてくれていた鬼丸老が」
「ははん」
「殺害されたのは浦登玄遙氏だった、という話ですね。そしてその同じ夜、別の部屋で浦登卓蔵氏が自殺を図った、と。犯人は捕まっていないが、その名は誰もが知っている、とも聞きました。――そんな事件が本当にあったのかどうか、ここで確認しておきたいのです」
玄児はさっきと同じように、組み合わせた両手の上に顎を載せ、けれどもそれまで私の顔に向けていた視線は書斎机の縁あたりに落としながら、
「あったのは確かさ」
いくぶん声のトーンを下げて答えた。
「ただし、十八年前と云えば俺は九歳だ。その時分までの記憶が俺にはないことは、君もよく知っているよね」
「――はい」
「事件があったのは事実だし、それがどんな事件だったのかという知識も俺は持っている。しかし自分自身の記憶として『知っている』わけではない、ってことだ」
「――分りました」
頷いて私は、中ほどまで吸った煙草の茶色いフィルターを噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みつぶし、灰皿に置いた。
「私が考えたのはこういうことなんです。蛭山さんは重傷を負って、遠からず死んでしまうであろう状態にあった。そこで犯人はある恐れ[#「ある恐れ」に傍点]を抱いたのではないか、と」
「恐れ?」
「ええ。これは想像になりますが、蛭山さんは何か犯人の、他人に知られてはまずい秘密を知っていたのです。それを万が一、死の間際にでも口走られてしまったら大変だ、と。そんな恐れを犯人は切実に抱いた。そして、その万が一の事態が起きないようにするために――」
「口を封じた[#「口を封じた」に傍点]、か」
「そうです」
意識的にゆっくりと息を継いでから、私は先を続けた。
「そこでおのずと思い浮かんだのが、十八年前の事件だというわけなんです。同じこの屋敷の中で、かつてそんな、初代の当主が殺されるなどという大それた事件が発生している。嫌でも勘ぐりたくなってしまうものでしょう。|時間《とき》を隔てて起こった二つの事件には、何らかの有機的な繋がりがあるのではないか、と」
「――ううん」
「蛭山さんが握っていた犯人の秘密というのは、もしかしたら十八年前の事件にまつわる重大な何か[#「何か」に傍点]なのでは、と思うわけです。具体的に何なのかは分りませんが、例えばそれが明るみに出ることによって、過去の事件の真相が|覆《くつがえ》ってしまうような何か[#「何か」に傍点]だったとしたら……」
と、そこで玄児が反論に出た。
「仮に十八年前の事件に何らかの秘密が隠されていたとして、いったい蛭山さんに、その秘密を知ることができただろうか。彼がこの屋敷で働きはじめたのは十六年前だ。十八年前にはまだ屋敷には来ていなかった。その彼が、どうやって事件の秘密を知ることができた」
「ここに来たあとで、何か機会があって知ったということもありうるのでは?」
「まあ、可能性は否定しないが」
そう答えると玄児は、少し頭の中を整理しようとでも云うように、肘掛け椅子の背に深々と凭れかかって斜めに天井を仰いだ。私はまっすぐに延びた彼の白い喉を見つめながら、次に発せられる言葉を待った。やがて――。
「想像力は満点だね。だが、説得力には欠ける」
と、玄児は私の考えに対する評価を述べた。
「説得力に欠ける。――そうでしょうか」
「もうすぐ死ぬと分っている人間を何故、殺さねばならなかったか、という疑問には充分に答えていると思う。しかしねえ中也君、そこで十八年前の事件との結びつきを云々するのは、俺にはどうかと思える。気持ちは分るが、何て云うんだろう、焦点がずれているんじゃないか、と」
「はあ。――ならば、そうですね、それ以外の何か重大な秘密を蛭山さんが知っていて、ということであれば?」
「そんな、口封じのために殺されてしまうような大秘密が、この家にあるっていうのかい」
玄児のその切り返しに対しては、
「秘密だらけじゃないですか、この家は」
と、私は思わず語気を強めて応じた。
「少なくとも外部から訪れてきた私のような人間にとっては、これほど秘密や謎に満ちた家はありませんよ。ですから……」
「ふん。それはそうかもしれないが」
「分っていないはずはありませんよね」
私は玄児をねめつけた。
「一昨日以来現在に到るまで、いったいどれだけ私が……」
玄児は「まあまあ」と宥めるように、椅子から立ち上がって書斎机の横に足を踏み出した。机の端に腰を付け、膝に片手を当ててちょっと上体を低くする。そうして私の顔をじっと見据えながら、
「君が抱いているに違いないこの家に対する疑問の数々については、遅かれ早かれ、すべて解消されることになるだろう。何も不安に思う必要はない」
「玄児さん……」
「大丈夫だよ。決して悪いようにはしないさ」
「…………」
当面の言葉を見失い、あえなく|俯《うつむ》いてしまった私の視界をその時、鎧戸の隙間から突き刺さってきた稲光が白く瞬かせた。ほぼ同時に室内のどこかで、場違いなくらいに澄んだ鐘の音が響きはじめる。部屋に置かれた時計の、午後五時の時鐘であった。
[#ここから5字下げ]
10
[#ここで字下げ終わり]
「ねえ、玄児さん」
私はそろりと目を上げ、鐘が鳴り終わったあとに続いた何秒かの沈黙を破った。
「十八年前の事件に関して、なんですが」
少なくともこの件については、今の機会にできるだけのことを聞き出してしまうべきだろう。そう判断し、みずからの背中を押したのだった。
「その事件が、具体的にどんな経緯があって、どんな状況の下で起こったのか。玄児さんは正しく把握しているのですか」
「いかんせん、時分の記憶の埒外にあることだからね、『正しく』なのかどうか、絶対的な自信は持てないんだが」
玄児は書斎机の横に立ったまま、慎重に表現を選ぶような口振りで答えた。
「一通りのことは聞いて知っている。ある程度の詳しい状況についても、知識はある」
「犯人の名前も?」
「――ああ」
それは誰だったのか、と即座に訊くことはためらわれた。できれば訊いてほしくない、と云いたげな表情が、玄児の顔に滲んで見えたからである。
「その犯人は、名前は分っているのに捕まってはいない、と?」
「ああ、そういうことになるね」
「逃亡したわけでもない、と鬼丸老は云っていましたけれど」
「――そう。逃亡したわけでもない」
「じゃあいったい」
その問いには答えず、
「事件の内容を、俺の口からもう少し詳しく説明し直そうか」
と、玄児は続けた。
「十八年前の九月二十四日、〈ダリアの日〉の夜に事件は発生した。当時この屋敷に住んでいた浦登家の人間は、初代玄遙にその娘婿の卓蔵、柳士郎、美惟、望和、そして俺。玄遙の娘で卓蔵の妻である桜は、すでに亡くなっていた。征順叔父さんはまだ屋敷には来ていなくて、当然清も生まれていない。父と美惟叔母さんが再婚したのも後のことで、美鳥も美魚もまだ生まれていなかった。野口先生は、父とはそれ以前からの古い付き合いだが、この頃は今のような頻繁な出入りはなかったらしいね」
「使用人は?」
「今現在もいるのは鬼丸老だけだな。鶴子さんも宍戸さんも、雇われたのはその翌年以降のことだというし」
「例の諸井静という人は?」
「彼女は、いたはずだね」
「諸井さんには子供もいたとか」
「詳しいね。情報源は美鳥たちかな」
「ええ。さっきちらっと、そういう話を」
「|忠教《ただのり》っていう名の男の子だったらしいね。忠義の忠に教える。そう書いて忠教。例によって俺は顔も憶えちゃいないんだが」
玄児は微苦笑とともに肩を竦めてみせる。私は「それで?」と先を促した。
「例年のごとく〈西館〉二階の〈宴の間〉で〈ダリアの宴〉が催された、そのあとに事件は起こったという。現場は、玄遙が第二書斎として使っていた〈西館〉一階のあの部屋。そこで玄遙が、何者かに鈍器で殴り殺されたんだ。同じ夜に卓蔵が、再建前の旧〈北館〉にあった彼の寝室で自殺した。首を吊っていたらしい。当時、玄遙はすでに齢九十二、卓蔵は五十八歳だった」
淡々と並べられる玄児の言葉を聞くうち、私の心の中には、顔も知らない二人の人間の死体が、異様な生々しさをもって映し出される。片方はこの暗黒館を建てた初代当主であり、玄児の曾祖父に当たる男の。片方はその娘婿であり、玄児の祖父に当たる男の。片方は誰かに撲殺されて。片方はみずから首を|縊《くく》って。
「卓蔵氏の自殺の理由は? 分っているのですか」
ごく当たり前な流れで繰り出した質問だったが、すると玄児は、はっとしたような気色を見せて返答に詰まった。その反応を目にした瞬間、だった。それまでとにかく混沌としていて輪郭すら掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、573-上-17]めないでいた十八年前の事件を、私はやっと一つの形≠ニして捉えることができたのである。
「ひょっとして、玄児さん」
私は云った。
「卓蔵氏が犯人だったわけですか[#「卓蔵氏が犯人だったわけですか」に傍点]。彼が玄遙氏を殺して[#「彼が玄遙氏を殺して」に傍点]、そのあと覚悟の自殺を[#「そのあと覚悟の自殺を」に傍点]……」
一人の人間が殺され、その同じ夜にもう一人の人間が自殺したのだ。考えてみれば、それもまたごく当たり前な、真っ先に思いついていて然るべき形≠ナあった。
「ねえ玄児さん、そうだったのですか」
玄児はしばし口を噤んだままでいたが、やがて低い吐息とともに答えた。
「そういうことだった[#「そういうことだった」に傍点]と了解している」
「捕まってはいない。逃亡したわけでもない。――確かにそのとおりですね。犯行直後に自殺して、この世を去ったのであれば」
「――ああ。まあ、とりあえずはそう理解してくれていい」
玄児はいつになく憂鬱そうな面持ちだが、それは無理もないだろう。そこにどんな事情があったにせよ、時分の曾祖父を殺したのが自分の祖父だったというのである。そんな事件のことを掘り返されて、安らかな心地でいられるはずはあるまい。
「十八年前の事件はね、だからそういった形ですでに決着がついているわけで……」
どこかしら奥歯に物が挟まったような口振りで、玄児は云った。
「……ただ」
「ただ? 何でしょうか」
「一つだけ、どうにも不可解な謎が残っているんだという。これは何年か前に、鬼丸老から聞き出した話なんだが」
「不可解な謎……」
思わず腰を浮かせて、私は訊いた。
「いったいそれは、どんな」
「探偵小説で云う不可能状況、みたいなものでね」
玄児はにやりともせずに答えた。
「殺人現場となったあの部屋から事件発生の直後、恐らく犯人だろうと思われる人間が消えた[#「消えた」に傍点]という」
「消えた?」
「ああ。おきまりの文句になるが、人間が一人[#「人間が一人」に傍点]、煙のように消失してしまった[#「煙のように消失してしまった」に傍点]というのさ。なおかつ、その消失劇の目撃者が、他ならぬこの俺だったらしいんだな」
「…………」
「残念ながら、この件についても俺は何も憶えちゃいないんだがね」
云って、玄児は軽く下唇を噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]む。
[#ここから2字下げ]
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか
[#ここで字下げ終わり]
件の詩――中原中也の「昏睡」の断片が、俯いた玄児の顔を見つめる私の心中に流れ出す。加えてこの春、みずからの名前すら思い出せぬまま、白山の玄児の家で日々を過ごした私自身の姿が、
[#ここから2字下げ]
記憶といふものが
もうまるでない
[#ここで字下げ終わり]
その上にぼんやりと重なって揺らめく。
「玄児さん」
私はそっと問いかけた。
「どうして玄児さんは、子供の頃の記憶を?」
五ヶ月前、初めて玄児から「記憶の欠落」の話を聞かされて以来、改まって投げかけてみたことのない、それは質問であった。何かきっかけとなる事故があったらしい、とは分っていた。彼の左手首のまわりにある引き攣れたような古い傷は、その事故の際に負ったものなのではないか、という想像も付いていた。だがしかし……。
「十八年前の事件が起こったあと――同じ年の冬の出来事だったと聞いている」
みずからの左手に視線を落としながら、玄児は心なしかこわばった声で答えた。
「昔の〈北館〉が火災で全焼してしまったってことは、もう何度か話しているよね。それが――旧〈北館〉のその大火災が、十八年前の冬にあったんだ。これを機に大勢の使用人が屋敷を去ることとなり、畑や家畜もほとんどやめてしまったわけなんだが、まあそれはともかくとして」
ちらっとこちらに目を上げ、玄児は云った。
「俺はね、その火災に巻き込まれてしまって……一度死んだんだよ」
「死んだ」という表現に一瞬ぎょっとしつつも、私は神妙に頷きを返した。「一度死んだ」とは、「死にかけた」を誇張してそう云ったのだろう。あるいは「記憶が死んだ」という意味の比喩なのか。
「一度死んで俺は……そう、蘇ったんだ。けれどもその時のショックできっと、それ以前の記憶がすべて……」
……五月半ばのあの夜[#「あの夜」に傍点]。
白山の家の近所で発生した火事の現場で、消防車の回転灯に照らされながら燃えさかる炎を眺めていた玄児の、あの不思議なほどに静かな表情が思い出される。その同じ炎によって|炙《あぶ》り出された私自身の彼方の記憶が、
――駄目だ、近寄っちゃあ。
胸を鈍く軋ませる[#ここから太字](……炎上した館、その炎の色がふと)[#ここで太字終わり]。
――危ない。ほら、下がってなさい。
私は蒼白い玄児の顔を見つめる。
あの時と同様の、不思議なほどに静かな表情の片鱗が今、そこにも覗いていることに気づく。
玄児は私に向かってさらに何事か告げようとしたが、その唇はかすかに震えただけですぐに動きを止めた。私はさらにしばらくの間、玄児の顔を見つめ続けたが、こちらから何かを問いかけることはしなかった。少なくとも今この場では、もうしないでおこうと決めた。
いくつかの疑問はそれなりに解消されたけれど、まだまだたくさんの謎≠ェ解かれぬまま、あちこちに散乱している。十八年前の殺人現場における人間消失≠ネどという、いかにも探偵小説じみた新たな謎≠ワでが現われた。――が。
最も近くにあって最も大きな謎≠ヘ、もしかするといま目の前にいるこの友人の存在そのものなのではないか。今さらのように私は、そんな思いを抱くのだった。
[#改ページ]
間奏曲 4
[#ここから太字](……何が)
(何がこれからここで起きようとしているのか。そんな戸惑いが、ふと)
(……起こりうるのだ、この館では[#「この館では」に傍点]。そんな確信が、一瞬)[#ここで太字終わり]
分裂し、各々の現在進行形に貼り付きながら浮沈を繰り返す視点≠フ後ろで、
[#ここから太字](……この車は)
(……この様子は)
(……ああ、これは)
(この男は? ……間歇的に疑問が)[#ここで太字終わり]
時折首を擡げる感覚、認識、思考のたどたどしい断片の数々――。
[#ここから太字](……何故、そんな)
(そんなことも……という歯痒さと苛立ちが、おのずと)
(なかむら……と、その名に反応して)
(まだまだ曖昧でまとまりのない認識の下、反芻されるその名前)
(なかむら……中村……中村、青司)
(江南……と、今度はその名に反応して)
(江南……江南、孝明。ああそれが……という認識が、束の間)[#ここで太字終わり]
それらの主体となるはずのもの[#「もの」に傍点]は今なお自律的・能動的な機能を損なったままだが、
[#ここから太字](……あの建物は)
(……この扉は)
(……は)
(……名は)
(ここは暗黒館。ここは中村青司の……)[#ここで太字終わり]
出来事の積み重ねのうちに少しずつ、昏い混沌の縁から抜け出しつつはある。ただし――。
[#ここから太字](……ああ、お母さん)
(中村……)
(……中村青司の)
(……そう。あの地震のせいで)
(ああ、あれはいっい……と、ほんの一瞬だけ)
(……ここは)
(……何を)
(……何が)
(……何故こんな)[#ここで太字終わり]
ばらばらに放り出されたままのこれらの断片が、
[#ここから太字](江南というなの、あの……)
(塔から転落した、あの……しかし何故、という疑問がまた一瞬)
(……この色は)
(この赤い色は……)[#ここで太字終わり]
果たしていつ、そのもの[#「そのもの」に傍点]の明確な意識の下に統合されることになるのか。そして、そこに到るまでに果たして、あとどれほどのプロセスが、手続きが必要とされるのか。
[#ここから太字](……ああ、この写真)
(この文字は……)
(……そうだ)
(……お母さん)
(これは……)
(……激しく混乱せざるをえない)
(……あの日も)
(同じような……)[#ここで太字終わり]
すべてを包み込んだ冷ややかな悪意の正体を、その源泉の所在を知るすべはやはり、この世界≠フ内側にはありえないのだが……。
[#ここから太字](これはきっと……という認識が、ふと)
(ここにもやはり、と納得するものの……)
(これは? という一瞬の……)
(いったいこんな……と激しく揺さぶられるが、すぐにまた……)
(これは? という一瞬の……当惑、混乱)
(……ああ、中村青司がそんな……という驚きがおもむろに浮上し、すぐにまた沈み)
(……炎上した館、その炎の色がふと)[#ここで太字終わり]
屋敷を訪れ、翻弄される「私」の内に[#ここから太字](……この学生は、いったい)[#ここで太字終わり]。単身島に渡ってきた村の少年の内に[#ここから太字](この男の子は、いったい)[#ここで太字終わり]。己の素性をいまだにしっかりと自覚できぬまま迷走を続ける青年の内に[#ここから太字](ああ、これ[#「これ」に傍点]はいったい)[#ここで太字終わり]――。
複数の自我に寄り添い、多くの体験を共有しつつも、本来的にはあくまでもそれらとは無関係であるはずのものとして、視点≠ヘ存在しつづける。
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
九月二十五日。
市朗が目を覚ましたのは、そろそろ正午になろうかという頃だった。
島の〈北門〉のそばにある例の長屋跡の中で、かろうじて雨漏りの被害が及んでいない一画に坐り込んで怯えつづけるうち、いつしか膝の間に顔を埋めて眠りに落ちていた。目覚めた時には汚れた湿っぽい床の上に直接横たわり、胎児のように身を丸めていた。
意識にまとわりつく|靄《もや》が薄らいできて、最初に感じたのは不快な痛みだった。片に肘、背中、腰、膝……身体のあちこちが鈍く疼く。怪我をしているわけではない。変な寝方をしたせいか。あるいは、熱でもあって節々が痛むのか。
起きようとすると、それらの鈍痛に加えて、何とも云えない怠さが全身に絡みついてきた。――やっぱり熱があるのか。風邪でも引いてしまったのだろうか。
市朗は起こしかけた身をぐったりと倒し、胎児の姿勢に戻る。
瞼が両方とも腫れぼったい。時間的にはもう充分眠ったはずなのに、こうしていると、いったん薄らいだ靄がじわじわと盛り返してきて、再び眠りに引き戻されてしまいそうだった。
屋根を打つ雨と吹く風の音は相変わらずだ。雨漏りも相変わらずひどい。ランタンの中の蝋燭はとうに燃え尽きていたが、朽ちかけた建物の内部には方々の破れ目や罅割れ、隙間から外光が射し込んできていて、視界は薄明るかった。
床に横たわり身を丸めたまま、市朗は目覚めの直前まで見ていた夢の内容をぼんやりと思い返す。
I**村で雑貨屋を営む市朗の家が、その夢の舞台だった。市朗自身の他には父と母と、それから祖母が登場した。
……夕暮れ時。
台所でせっせと食事の支度をする母。その様子を、腹を空かせた市朗がそばで見守っている。やがて母は、そろそろ父を呼んでくるよう市朗に命じる。父は店終いのあと前の道に出て、一人満足げな面持ちで店の看板を見上げている。この夏、彼がみずからの手でペンキを塗り直した看板だった。市朗もあれこれと手伝いをさせられたものだが、その甲斐あって、仕上がった看板は[#ここから太字](……この看板)[#ここで太字終わり]まるで新品をあつらえたかのように見えた。
市朗の姿を認めると、父は「ちょっとこっちへおいで」と云って手招きをした。何故かその顔は、にやにやと笑っている。にこにこと、ではない。にやにやと、だ。それが何だか気に懸かりつつも、市朗は呼ばれるままに父の許へ駆け寄る。
――よし市朗。
父は笑みを消して大きく頷き、
――肩車をしてやろうか。
いきなりそんなことを云いだす。そうしてすぐに身を屈めると、市朗を自分の首に跨らせて軽々と担ぎ上げるのだった。
――どうだ市朗。高いだろ、高いだろ。
幼い頃にはこうして遊んでもらった憶えもあるけれど、ぼくはもう中学生だ。何で急にこんな、子供をあやすみたいな真似をするんだろう。――当たり前な疑問を感じたのも束の間、父は市朗を肩に乗せたまま店の看板に近づいていき、そして云った。
――さあ市朗、それを握るんだ。
市朗は戸惑った。「それ」とは何のことか。目の前には[#ここから太字](これは何故、こんな……)[#ここで太字終わり]塗り直した看板しかないが。
――そこだ市朗。看板に出っ張りが二つあるだろう。それを両手で握って、ぶら下がるんだ。
よく見るとなるほど、白地に黒い文字で店の名が記されたその看板の中央付近に、円い杭を打ち込んだような出っ張りが二つある。どうしてこんなものがここにあるのか、どうしてこんなものにぶら下がらなければならないのか。わけが分らなかったけれども、父の云いつけには従わねばならない。
――いいぞ市朗。
父は市朗の体重を支えていた肩を外し、その場から退いた。
――がんばれ市朗。落ちるんじゃないぞ。
市朗は鉄棒や|雲梯《うんてい》が得意だったから、そのようにして「ぶら下がる」こと自体はさほど苦でもないはずだったのだが、鼻先に塗り立ての看板があって、そのペンキの臭いがどうにもたまらなかった。あまつさえ、出っ張りの握り具合がまるで良くない。やけにぬるぬるしているのだ。――何だろう。生乾きのペンキの感触、だろうか。
思う間にそこへ、突然の雨が加わった。暮れ時の暗い空から何の前触れもなく、大粒の雨滴が落ちてきはじめたのである。
今にも手が滑って転落してしまいそうだった。
ちらりと下を窺ってみて、市朗はおののいた。どうしたわけか、さっきまで立っていた地面が遙か遠くにある。父の姿も、おもちゃの人形のように見える。何故か、いつの間にか、何十メートルの高さにまで看板ごと上がってきてしまったのだ。
「おっかないよ。降ろしてくれよぉ」
懸命に出っ張りを握り直しながら、ばたばたと足を動かす。これもまた、何故かいつの間にか元の何十倍にも大きくなってしまった看板に、膝や爪先が繰り返し当たった。するとそのたび、塗られたペンキが弾けて勢い良く飛沫が跳ね上がる。跳ね上がった飛沫は降る雨に溶け込み、白や黒や赤――赤い色なんて使っていないはずなのに――に染まって、市朗の全身を濡らした。
「降ろしてくれよ、父ちゃん」
市朗はほとんど泣きながら訴える。
「駄目だよ、おれ。おっこちちゃうよぉ」
だが父は何とも応えず、悠然と腕組みをして、遙か眼下の地上からこちらを見上げている。
――市朗、お父さんはまだかい。
家の中から母の声がした。続いて、
――市朗や、どこにおる。
これは、ああ、祖母の声だ。
「助けてよぉ。母ちゃん、祖母ちゃん」
間もなく二人が外に出てくる。手に手に傘を差している。傘は二本とも、見たことのないような半透明な布地で出来ていて、そこにペンキの溶け込んだ雨が降りかかり、白と黒と赤が入り雑じった異様な色合いに変わっていった。
「母ちゃん、助けて」
――どうしたの市朗。
母がこちらを見上げていった。
――何をしてるの、そんなところで。
「祖母ちゃん、助けてくれよぉ」
――おやまあ市朗。
祖母がこちらを見上げて云った。
――またそんな悪さをしおって。
雨は次第に激しさを増してきていた。出っ張りを握った手は、何度握り直してもぬるぬると滑りつづける。腕が怠くなってきた。肩が痛くなってきた。このままだともう……。
――良いか市朗。
と、今度は間近で声がした。地上にいるはずの祖母の声が、何故かしら耳のすぐそばで。
――良いか市朗。あんまり悪さをするとな、浦登家の鬼が来るぞ。悪い子はみんな峠の向こうへさらっていかれるぞ。
……鬼?
百目木峠の向こうの「浦登様のお屋敷」には「良くないもの[#「良くないもの」に傍点]が棲む」という。「鬼」とは、その「良くないもの」のことなのか。それ[#「それ」に傍点]にさらっていかれた「悪い子」は、いったいどんな恐ろしい目に遭うのだろうか。
雨はますます激しくなってくる。市朗がペンキの飛沫を|撥《は》ね上げているわけではもはやないのに、白と黒と赤、さらにはいつしか青や黄や緑も加わり、極彩色の豪雨となって身体を打つ。
ああ、駄目だ。
もう我慢できない。もうこれ以上、ぶら下がっていられない。もう本当に……。
――頑張れ市朗。
――どうしたの市朗。
――良いか市朗。
遙か眼下には今や誰の姿も見えない。家の影も、地面すらも見えない。三人の声だけが耳許で、幾度も同じ言葉を反復する。
――頑張れ市朗。
――どうしたの市朗。
――良いか市朗。
ついに耐えきれなくなって、出っ張りから両手が離れる。市朗はそして、降りしきる極彩色の雨とともに長い長い墜落を始めるのだった。
真っ逆さまに虚空を落下しつづけ、加速しつづける中、市朗は唐突に気づく。この果てしない墜落が終わる時、きっとこの世界にも終わりが訪れるのだろう、と。物凄い大音響とともに地が揺れ、森が割れ、土砂が流れ出し……。
……そうだ。
そうしてすべての道が崩れ果ててしまうのだ。すべての建物が崩れ果ててしまうのだ。店も看板も父も母も祖母も、何もかもが土砂に飲み込まれて消え失せてしまうのだ。そうと分っているのに、ぼくにはどうにもしようがない。何もできずに、こうしてただ落ちていくしか……。
悪夢の終わりは、そんな絶望と無力感の内に到来した。目覚めてそれが夢だったと悟るなり、市朗は本気で胸を撫で下ろしたが、自分の置かれた現在の状況を思い出すにつけ、すぐさま同じような絶望と無力感に逆戻りせざるをえなかったのだった。
床に横たわり身を丸めたまま、市朗はぼんやりと思い返す。
最後に見たこの悪夢の他にも、たくさんいろいろな夢を見た。実際のところはそんなはずもないのだが、ジープの荷台で過ごした一昨夜とは違って、眠っている間中ずっと途切れなく何某かの夢を見つづけていたような気がする。
どれも皆、嫌な夢ばかりだった。はっきりとは思い出せないけれど、そこには一昨日以来、嫌と云うほど体験してきたいくつもの恐怖が、さまざまな形で縺れ合い絡み合って現われた。
峠を包み込んだあの蒼白い濃霧。土砂崩れで跡形もなく押し流されたあの道。大木にぶつかって壊れていたあの黒い自動車[#ここから太字](……あの車は)[#ここで太字終わり]。森の中に倒れ伏していたあの死体[#ここから太字](……あの男は)[#ここで太字終わり]。湖岸の建物にいたあの異形の男[#ここから太字](……あの建物は)[#ここで太字終わり]。倒れた棚の下敷きになった男の、血にまみれたあの恐ろしい形相。野獣めいたあの唸り声。島に激突して砕け散ったあの舟。ばらばらになって湖上に散乱したあの浮き橋。そして……。
市朗は腫れぼったい瞼を擦り、恐る恐る部屋の隅に置かれた机の方を見る。
あの机の、一番下の|抽斗《ひきだし》。あの中に入っている、土色の汚れた人間の頭蓋骨――。
あれはいったい何なのか。誰の骨が、何故?
慎太というあの男の子が持ち込んだものなのだろう、とは思う。どこかで見つけて拾ってきて、あの子の宝物≠フ一つとしてあそこに隠してあるのだろう。――そう。そう考えてたぶん間違いはない。しかし……。
市朗は額に手を当て、横になったままのろのろと首を振り動かす。考えを進めようとしても、それ以上はうまく頭が働いてくれなかった。節々の痛みと全身の怠さに加え、何だかひどい寒気もしてきた。
「ああ……」
思わず零れた溜息は、自分でもぎょっとするくらいがらがらに掠れていた。暗然たる心地で強く目を閉じると、最後の夢の終盤で経験した果てしない落下と加速の感覚が一瞬、眩暈がしそうなほどの生々しさで蘇ってきた。
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
誰か人の気配を感じて、市朗は身を起こした。午後一時を少し回った頃のことである。
昨日と同じ黄色い傘を持った慎太が、建物の入口からこちらを覗き込んでいた。青い半袖シャツに茶色い半ズボン。服装も昨日と同じだった。単純にこの子は味方≠ネのだと見なす気持ちにはもはやなれなかったけれど、それでもその顔を見ると、ささやかな安堵が心に滲み出てきた。
「あ……おっす」
少年に向かって投げかけた市朗の声は、やはりがらがらに掠れていた。身体は相変わらず怠いし、寒気も続いている。喉には痰が絡み、喋ると思わず咳き込みそうになった。
「また来てくれたのか、慎太」
「いちろう、さん」
傘を畳んでその場に置くと、慎太はぶきっちょな笑みを浮かべながら建物に入ってくる。「これ」と云って、床に坐ったままでいる市朗に紙袋を差し出す。中には昨日と同様、フランスパンが一本入っていた。
「ああ、ありがとう」
昨日のパンがまだリュックの中に半分ほど残っていて、なおかつ今は空腹感がない――いや、空腹ではあってもまるで食欲を感じられないような状態だったのだが、少年の心遣いはとても嬉しく思った。
「えっと、これも」
そう云って慎太は、ズボンのポケットから何かを引っ張り出す。剣≠ニ皿≠ェ付いた十字型の棒に赤い球がぶら下がっている、それはお馴染みの木製玩具だった。剣玉である。
「ね、これも」
「これもって」
市朗は首を傾げつつ、差し出された剣玉を受け取る。退屈だと思って遊び道具を持ってきてくれたのだろうか。
「あげる、けんだま」
と云って、慎太はまたぶきっちょな笑みを浮かべる。それから右手の人差指を立てて自分の唇に当てながら、
「ないしょ、いちろうさん」
「えっ……あ、うん。そうだな、内緒だな」
市朗はのろりと立ち上がり、受け取った剣玉を握り直して構えた。ぶら下がった球を静止させて狙いを定めると、三つの皿≠フうちの一番大きな一つの上にまず、ひょいと載せてみせる。手首を返して次は、二番目に大きな皿≠ヨと球を移す。
「わあ、うまい」
慎太は無邪気な歓声を上げる。市朗はそこまでで手を止め、
「ありがとうな、慎太」
ちょっとしんみりした気分で礼を云った。
「何か、おれ……」
照れ臭そうに身をもじもじさせて、慎太は市朗のそばを離れる。そうして、今度は剣玉を取り出したのとは反対側のポケットに手を潜り込ませながら、例の机の方へと向かっていくのだった。
市朗は息を|潜《ひそ》めてその動きを見守った。
慎太は机の抽斗を開ける。上から二つめの抽斗。キーホルダーやライターや、それに例の焦茶色の札入れなんかが入っていた段である。
ポケットから取り出されたのは、何やら銀色に光る小さなものだった。しゃらり、とかすかに金属の音が聞こえた。――何だろうか。何か新しい宝物≠仕入れてきたのだろうとは思うが。
抽斗の中にそれを収めて元どおりに閉めると、慎太は市朗の方を振り返った。そしてまた、さっきと同じように人差指を唇に当てながら、
「ないしょ、いちろうさん」
大真面目な顔でそう云うのだった。
「あ……ああ、分ってるよ」
応えて、市朗は少年の傍らに足を進める。
「その抽斗の中にあるの、全部お前の宝物≠ネんだよな」
「たからもの……」
「いろんなものがしまってあるだろ、そこに。ビー玉とか、蛇の抜け殻とか」
慎太はこくりと頷いて、
「たからもの、ないしょ」
「内緒の宝物≠セな。よし、分ったよ」
いっこうに収まる気配のない風雨に加えて、外では先ほどからまた時折り雷が鳴りはじめている。そんな中を、わざわざパンや剣玉をもってここまで来てくれたのだ。年齢にしてはやはりだいぶ知恵が足りないようだけれど、決して|邪《よこしま》な心を持った子じゃない。ぼくをひどい目に遭わせたり、陥れようとしたりするような子でもない。そう思った。
「なあ、慎太」
机のそばの椅子に腰掛けながら、市朗は云った。
「おれ、どうしたらいいのかなあ」
慎太はきょとんと小首を傾げるばかりで、何とも答えない。
「ここから出てって、屋敷の人たちに見つかったらどうなると思う」
「…………」
「こっぴどく怒られるかなあ。おれ、勝手にこの島に渡ってきちまったし」
「…………」
「屋敷の旦那様は怖い人なんだよな」
「だんなさま、こわい」
昨日と同じようにそう云って、慎太は足許に視線を落とす。市朗は重ねて訊いた。
「他にも怖い人、いるか」
「こわいひと……」
慎太はしばし考え込んでから、黙ってかすかに頷いた。
「そっか。――お前の母ちゃんはどうかな」
「かあちゃん……おかあさん?」
「そう、お母さんだ。おれのこと話したら、お母さんは何て云うと思う」
慎太はまたしばし考え込み、それからちょっと困ったような目をこちらに向けながら、
「ないしょ、いちろうさん」
と云った。
「あ、うん。そりゃあそうなんだけど」
「ないしょ、いちろうさん」
そう繰り返して、慎太は大真面目な顔で人差指を唇に押し当ててみせる。
ひょっとしたらこの子は、ぼくのことを抽斗の中の宝物≠ニ同じようなものだと思っているのかもしれない。ふとそんな気がしてきて、市朗は何とも複雑な心境になった。
「そう云えば――」
市朗はそこで、質問の種類を変えてみることにした。
「昨日、湖で舟の事故があったの、知ってるか」
「ふねの、じこ?」
「ああ。ボートが島に突っこんだんだ。――知らないのか」
慎太は心許なげに頭を振り動かす。知っているのか知らないのか、どちらとも受け取りかねる反応だったが、市朗は続けて、
「あのボートを運転してた男の人、どうなったんだろうな」
すると慎太は、はっと何かに思い当たったような表情で、
「ひるやまさん?」
と首を傾げた。
「ひるやま?」
と、市朗も首を傾げた。「ひるやま」は「蛭山」とでも書くのだろうか。それがあの異形の男の名なのか。
「蛭山っていう人なのか、舟に乗ってたの」
「ひるやまさん……うん。そう」
慎太は小さく頷き、そして云った。
「ひるやまさん、おおけがでたいへん」
「大怪我?」
「ひるやまさん、しんじゃったって」
「死んだ?」
血まみれになって苦しむあの男の顔が、くっきりと脳裡に浮かぶ。市朗の感情は引き裂かれ、我れ知らず大きな溜息が落ちた。
「そっか。死んじまったのか」
「――ひるやまさん」
ぽそりとまたその名を呟いて、慎太は力無く頭を垂れる。「人が死ぬ」ということの意味をどこまで正しく理解しているのかは怪しいものだけれども、それが「悲しむべきこと」であるとは分っている様子だった。
「なあ慎太、一つ教えてほしいんだけど」
市朗は項垂れた少年を見据え、ちょっと口調を改めていった。どうしてもここで訊いておきたいことが、少なくとももう一つあった。
「その抽斗の一番下に、骨が入ってるだろ。人間の頭の骨だよな、あれ。どうしてあんなものが、ここにあるんだ」
「――ほね」
慎太は顔を上げ、ちらっと机の方に目をやり、
「がいこつ?」
そう聞き直して、何やら嬉しそうににっ[#「にっ」に傍点]と笑う。
瞬間、市朗はぞっとした。
何でそんなふうに笑うんだ、笑えるんだ。あれはとっておきの宝物≠セから、なのだろうか。あの気味の悪い頭蓋骨が? 「死んだ人間の骨」というものを、いったいこの子の心はどのように捉えているのだろう。
「がいこつ、ひろった」
不審と疑念、不安と怯えがまたぞろ入り雑じって蠢きはじめた市朗の心中をよそに、慎太は何でもないふうにそう云った。
「どこで」
恐る恐る市朗は訊いた。
「どこであんな骨を拾ってきたんだ」
慎太は少しくためらった後、そろりと右手を挙げて、「あっち」と外を指さした。
「あっち?」
いくらそう云って指さされても、それがどこなのかはもちろんのこと、この島の中でどう云った方向に当たるのかさえ、市朗には分りようがない。
「家の中で? それとも外で?」
続けて訊くと慎太は、今度はすぐに「そと」と答えた。
「外、か。――庭のどこかに落ちていたって云うのか、あんなものが。それとも……」
「そとで、ひろった」
そう云うと慎太は、椅子に掛けた市朗の間近まで歩み寄ってきて、先ほどから幾度もそうしたのと同じようにまた、人差指を立てて自分の唇に押し当てるのだった。
「ないしょ、いちろうさん」
「あ、ああ……」
結局、聞き出せたのはそこまでだった。
市朗がぐったりと肩を落として黙り込んでしまったのを、慎太はしばらく不思議そうに見ていたが、やがて「かえる」と云って踵を返した。出ていく前に「またくる」とも云ってくれたのだけれど、それに対して市朗は愛想笑いの一つも返すことができなかった。
慎太が去ったあと、市朗は無性に気になって机の抽斗に手を伸ばした。さっき慎太が新たな宝物≠しまい込んだ、上から二番目の段である。若干の後ろめたさがないでもなかったが、とにかくそれが何なのかを知りたくて、その中身を調べてみた。
目当てのものはすぐに見つかった。
銀の鎖が付いた懐中時計。――これだ。昨夜この抽斗の中を覗いた時には、確かこんなものはなかったはずだから。これに間違いない。
鎖を摘んでその時計を持ち上げてみる。べつだん変わったところもない代物と見えた。円い文字盤に並んでいるのは十二個のローマ数字。|發条《ぜんまい》が切れているのか故障しているのか、針は動いていない。ある時刻を指し示して止まっている。
六時三十分――というその時刻が意味するところは、市朗にはむろん察知するよしもなかった。
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3
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九月二十五日、午後零時四十五分。
浦登玄児とその連れの若者に付き添われて江南が〈表の座敷〉に戻ってきた時、清という名前のあの、老人のような顔をした少年の姿はもうそこにはなかった。清が持ってきてくれた千代紙は、その紙で作った幾羽かの折り鶴とともに座卓の上に残されている。筆談に使ったノートとボールペンも、同じ卓上の先ほどと同じ位置にそのままになっていた。
江南がおとなしく布団に潜り込むのを見届けてから、玄児たちは座敷を立ち去った。その際にまた、「なるべく一人で出歩いたりしないように」と釘を刺された。
「ちょっと物騒な事件が起こってしまってね。あんまり君に邸内のあちこち、うろうろされても困るんだよ。分ったね」
玄児はそう云っていたが、「物騒な事件」とは何なのか、江南にはもちろん察しがついた。昨日の夕刻、担架で〈南館〉に運ばれていったあの男性――蛭山という名だったか――の身に起こった……そうだ。きっとそのこと[#「そのこと」に傍点]に違いない。
今朝方からこの座敷の前の廊下を、ばたばたと人々が行き来していた。「蛭山さんが死んだ」だの「殺された」だのと、そんな声が何度か聞こえてきてもいた。だからきっと……。
清というあの少年とは、今日初めて会った。座敷に入ってきた彼の、まだ子供なのにあんな皺くちゃになってしまった顔を見た時には、いったい何事かと驚いた。本人の説明によれば、あれは早老症という珍しい病気のせいらしい。そのために彼は学校へも行けず、友達もほとんどいないのだという。
可哀想に――と、心から思った。
自分自身が何者なのか、いまだ完全には思い出すことができずにいる江南だったが、そういった状態であってもなお――いや、そういった状態であるからこそよけいに、かもしれない――、清少年の境遇には同情を禁じえなかった。相変わらず満足に発することができない声の代わりに、その想いを「たいへんだね」と文字にして伝えると、清は静かな微笑を皺だらけの顔に浮かべて、「大丈夫です」と答えた。「仕方がないことだから」とも云っていた。
二人で千代紙を折って遊びながら、さらにいくつもの言葉をやり取りした。清は清で、江南の身体や心の状態をたいそう心配してくれていた。「友だちになろう」と江南がノートに書いて示した時には、本当に嬉しそうに声で「ありがとう、江南さん」と云っていた。
清の患っている早老症という病気が、いずれ確実に彼を死に至らしめる不治の病であると知らされたのは、その直後のことだった。そんな深刻な問題をあの少年は、決して大仰にも卑屈にもならず、むしろ淡々とした口振りで語った。どう反応したら良いのか、江南はずいぶん戸惑ったが、すると清は皺だらけの顔にまた静かな微笑を浮かべて、「大丈夫です」と云った。「仕方がないことだから」とも、やはり云っていた。それからさらに、そう、「でもお母さんを悲しませないように、できるだけ頑張って長く生きなきゃ」とも。
その後、江南が清を残して座敷を出ていった理由は二つある。一つは、そんな清の身の上を知るにつれて、どうにもいたたまれない気持ちになってきたから。もう一つはただ単純に、催してきた尿意を解消したくて、だったのだが。
〈南館〉の方には近づきたくなかった。〈東館〉の北端にある手洗いまで行って用を足し、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て何故かしらまたひどく暗鬱な気分になり……そうして独り座敷へ戻ろうとした、その途中――。
何気なく立ち寄ってみた廊下沿いの大広間――舞踏室で、江南は偶然にもあの女性と出会ったのだった。部屋の奥の薄暗がりから現われた、あの女性。清少年の母親だという、あの……。
江南の姿に気づくと彼女は、「清ちゃんは?」と声を投げかけてこちらに向かってきた。江南の認識としてはまったく初対面の相手だったのだが、彼女の方はまるで気にする風もなく近づいてきて、
「ねえ、清ちゃんはどこ」
何やら切羽詰まった調子でそう問いかけた。
「清ちゃんはどこなの。ねえ、清ちゃんはどこに行ったの。ねえ……」
清君ならさっきまで一緒でした。向こうの座敷にいるはずです。――そう答えてやりたかったが、どうしてもやはり、うまく声が出せなかった。廊下の方を指さし、何とかして考えを伝えようともしたのだけれど、無駄だった。いくら身振り手振りで努力してみても、彼女の側にそれを読み取ろうとする意思が欠如しているようだったから。
「清ちゃんはね、とっても身体が弱いの。ねえ知ってるでしょ。あなたも。あの子は病気なの。可哀想な病気の……」
江南の反応にはまるでお構いなしに、彼女は今にも泣き出しそうな面持ちでしきりに訴えた。
「……でもね、あの子の病気はわたしのせい。全部わたしのせいなのよ。わたしがあの子をあんなふうに産んでしまったから。だからね、だからあの子は……」
訴えつづけるうちに、その声はどんどんと昂ってくる。まん円く開かれた目からは見る見る涙が溢れ出てくる。
「だからね、お願い。お願いだから、ねえ、私をあの子の……」
頬を濡らす涙をハンカチで拭いつつ、彼女はさらに訴えを続け、一歩また一歩と江南に詰め寄ってくる。江南は気圧されてじりじりと後ずさりする。その繰り返しの末やがて、江南は部屋の隅の、あの衝立障子の後ろまで追い込まれていったのだった。
ほとんど鬼気迫るような、けれども深い悲しみと絶望に満ちた眼差しを据え、彼女はなおも同じ調子で詰め寄ってきた。壁に背が当たるまで追いつめられた江南は、ついにはそのままずるずると床にへたりこんでしまった。彼女はすると、ふつりと口を噤んで踵を返し、ふらふらとした足取りでその場から離れていった。
立ち上がることもできず、江南はしばらく呆然と目を見張っていた。そしてその時、彼の脳裡には避けようもなくまた、忌まわしい病の床に伏したあの人の、あの日の様子が、あの時の顔が、声が、言葉が、今のこの現実に重なり合うようにして蘇ってきていたのだ。――魂の奥底から込み上げてくる悲しみと、全身をわななかせるほどの苦しみと。頭の芯にへばりついて消えない例の痺れたような感覚が一箇所に凝集し、やがて形作られるひしゃげた球体のイメージ。その回転。その加速。その変形。その変色。その暗黒。その引力。その連結。その暴走。その……。
玄児たちが舞踏室に踏み込んできたのは、ちょうどそんなタイミングでのことだった。江南の額にはいつしか汗が滲み、目にはいつしか涙が溜ってしまっていた。
彼女――清の母親と玄児のやり取りは、衝立の後ろに坐り込んだ江南の耳まで|逐一《ちくいち》、聞こえてきた。そこで江南は、彼女が望和という名前であることを知った。望和は玄児らに対しても、今しがた江南を相手にそうしたのとほとんど同じような訴えを繰り返し、そのうちやっと舞踏室を去っていった。その後の玄児たち二人の会話も、別に盗み聞きをしようと意図したわけでもなしに、おのずと耳に入ってきた。話の中には江南の記憶にない人名も多く出てきたが、この家にはいろいろと複雑な内部事情や人間関係があるらしいとは、それによって充分に窺い知ることができた……。
……薄暗い座敷に敷かれた布団の上で、今。
仰向けになって黒い天井を見つめながら、江南は|蟀谷《こめかみ》に両手の親指を押しつける。この頭の中でばらばらになっているものたちを、どうにか少しでも然るべき形に|縒《よ》り合わせ、結合させたい。そう思う。――が。
なかなかやはり、思うようにはならなかった。
この座敷で意識を取り戻してからもう二日目になるが、分らないこと、思い出せないことはいまだ山ほどある。〈十角塔〉から転落した前後の状況に関しては特に、本当に何も思い出すことができない。
その転落事故のショックで、僕の記憶は失われてしまったのだという。けれども言葉を厳密に使うならば、「失われた」というのは誤りだろう。「失われた」わけではなくて、「自由に取り出せなくなった」だけなのだ。「消えてしまった」わけでも決してない。僕の「記憶」そのものは、多少の例外はあるにしろ、この頭の中のどこかにちゃんと残っているはずなのであって、今はただ、その居所が自分では見つけ出せなくなってしまっているだけなのであって……。
時間の経過とともに、初めのうちは居所不明でその存在さえ把握できなかったものたちが、だんだんと各々の所在を明らかにしてきてはいる。しかしながら、云ってみればそれらは、ばらばらに散乱した破片ばかりで、すべてを拾い集めて並べ直し、きちんと本来あるべき形にまで修復するにはまだまだ到っていないというのが実情なのだった。
だから、依然として江南は、いったい何がどうなっているのか、みずからを取り巻く状況や事情を正しく把握できないままでいる。己は何者なのかという最大の問題に対しても、はっきりとした答え≠ヘ得られないでいる。この世界の、この現実の、大まかな輪郭については何となく掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、596-下-7]めてきたように思うのだが。みずからの存在の基本的な意味合いについても、これも何となくではあるが、見えてきたように思う。そして……。
……ゆっくり瞼を閉じると、ふとまた蘇ってくる光景があった。ばらばらに散乱した記憶の破片、そのいくつかにしっかりと焼き付いていて、たとえ消したいと望んでも決して消えることのない光景が。
……あの病院の、あの病室で。
――あなたはね、あたしが産んだ子じゃないの。
いきなりそんなことを云いだした、病床のあの人の[#ここから太字](……お母さん?)[#ここで太字終わり]|窶《やつ》れた顔。
――あたしが産んだ子じゃないのよ。あなたは昔……。
これはいつの出来事だったろうか。
――死なせて。
虚ろな眼差しで、力のない呼吸で、満足に回らない呂律で、あの人は――彼女はそう云った。日時はたぶん違うけれど、これもやはり、あの病院の、あの病室での出来事。
――もういいから、殺して……楽にして。
確かにそういったのだ[#ここから太字](ああ……お母さん)[#ここで太字終わり]、彼女は。
外では激しい雨が降りしきっていた。これは、そう、あの夏の日の、あの時の。
病室を訪れた僕は、彼女が寝ているベッドのそばに独り立っていた。――そうだ。そうだった。あの時そして、僕は……。
……病室から駆け出し、縺れる足で走り抜けた薄暗い廊下[#ここから太字](……薄暗い廊下)[#ここで太字終わり]。振り向いた看護婦たちの不審そうな表情[#ここから太字](……不審そうな表情)[#ここで太字終わり]。エレヴェーターを待つ車椅子の老人[#ここから太字](……の老人)[#ここで太字終わり]。階段を駆け抜ける靴音がいやに甲高く[#ここから太字](……甲高く)[#ここで太字終わり]。救急車のサイレンの音が窓の外で[#ここから太字](……窓の外で)[#ここで太字終わり]。ロビーを行き来する大勢の人間たちは見知らぬ顔ばかり[#ここから太字](……見知らぬ顔ばかり)[#ここで太字終わり]。スピーカーから流れる院内アナウンスの中性的な声[#ここから太字](……中性的な声)[#ここで太字終わり]。誰かの名前を繰り返し呼んでいた[#ここから太字](……呼んでいた)[#ここで太字終わり]。総合受付の前の長椅子に[#ここから太字](……前の長椅子に)[#ここで太字終わり]青い服を着た男の子がぽつんと座っていて[#ここから太字](……ぽつんと坐っていて)(……何なのだろう。この妙な)[#ここで太字終わり]……つんのめるようにして建物の玄関から飛び出したところで、やっと立ち止まったのを憶えている。そうしてそのあと……。
蟀谷から親指を離して、江南は大きく深く溜息をつく。のろのろと寝返りを打ち、|俯《うつぶ》せになる。そこで――。
枕許において置いたはずの例の懐中時計がないことに、江南は気づいた。布団を|捲《めく》り上げたり枕をひっくり返したりしてひとしきり探してみたが、時計はどこからも出てこない。どこにも見当たらない。
最後にあの時計を見たのはいつだったろう。昨夜遅くだったか、あるいは今朝起きてからだったか。いずれにせよ、今それがここにない[#「ない」に傍点]という事実には変わりがない。
あの懐中時計は僕のものなのに。僕が貰った、大切な。……なのに、誰かがこっそり持っていってしまったのだろうか。いったい誰が。何のためにそんなことを。
新たな困惑の中で江南はまた、大きく深く溜息をつくのだった。
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……もうすぐ夜が来る。
かろうじてまだ薄明るさを保った空間に、刻一刻と闇が|浸潤《しんじゅん》してくる。もうすぐまた、夜が来る。すべてが暗黒の閉ざされてしまう、恐ろしい夜が。
朽ちかけた建物の隅の椅子の上で、市朗は昨夜と同じように膝を抱えている。
止まらない雨漏りのせいで床はすっかり水浸しになっており、渇いた部分を探すのが難しいような有様である。安心して腰を下ろしていられる場所と云えば、もはやこの椅子か机の上くらいしか残っていないのだった。
外で降りつづける雨は、強弱の変化は多少あるものの、いっこうにやむ気配がない。時折り雷光が瞬くたび、次はこの建物を落雷が直撃するのではないかという恐れにもかられる。
市朗は腕時計を覗き込み、時刻を確かめる。――午後六時まであと十分ばかり。
慎太が一度やってきて立ち去ってから、すでに何時間も経過している。あれからずっと、途中までは床の上で、その後はこの椅子の上に移って、うとうとと|微睡《まどろ》んではどきっとして覚醒する、そんな繰り返しが続いていた。
睡眠は足りているはずなのに、どうしても目が覚めきらない。半日以上何も食べていないのに、どうしても食欲が湧いてこない。節々の痛みには感覚が慣れてきてしまったようだけれど、身体は血中に鉛でも溶かし込んだかのように重い。寒気もひどい。額に手を当ててみると、相当に高い熱があるのが自分でも分った。
「またくる」と云って出ていったのに、慎太はいまだ姿を現わさない。もうこんな、日没間際の時間だというのに。もうすぐまた、恐ろしい暗黒の夜が来てしまうというのに……。
高熱のため半ば朦朧とした市朗の頭の中で、やにわに強い焦燥が膨れ上がってくる。
こんな水浸しの建物の中で、こんな体調のまま、また夜を迎えなければならないのか。雨はまだまだ降りつづくだろう。身体の具合はますます悪くなっていくかもしれない。――ああ、いつになったらぼくは家に帰れるんだろう。どうすれば帰れるんだろう。ひょっとしたらぼくは、このままここで死んでしまうんだろうか。このままここで、何度も何度も夜を迎えて、何をすることもできずにこうして怯えつづけて、脚をもがれた昆虫のように弱りつづけていって……。
「嫌だ」と呟いて、身震いした。
こんなところで死ぬのは嫌だ。こんなところでまた、暗い夜を過ごすのは嫌だ。こんなところで、もうぼくは……。
何か手立てはないものだろうか。
せめてこの雨が上がるまで、たとえば屋敷の中に忍び込んでどこかに身を隠していられないものか。たとえば慎太に頼んで……そうだ、あのこの母親なら、うまく事情を話せばどうにかして|匿《かくま》ってくれるのではないか。
考えるうちにも、闇の浸潤は進行する。
市朗はついに意を決し、椅子から足を下ろした。立ち上がった途端、ぐらりと眩暈がして膝を折りそうになったが、何とか気力を奮い起こして持ちこたえた。机の隅に放り出してあった野球帽を取り上げて目深に被り、その上にヤッケのフードを重ねてしっかり顎紐を結ぶと、リュックサックはその場に残して外へ出た。
降りしきる雨と押し迫る夕闇の中、庭に生い茂った草木のすべてが色を失って見えた。空は一面、分厚い雲で黒々と覆い尽くされている。足許の土もまた黒々とぬかるみ、さながら底なしの沼のようである。ここで下手に転びでもしたら最後、為すすべもなく地の果てまで引きずり込まれてしまいそうな気がした。
おどおどと周囲に目を配りながら、市朗はぬかるみに足を進める。島に入ってきた例の門から庭の木立の間へと続く道を、やや前屈みの姿勢になって歩きはじめる。
しばらく行くうち、木立の向こうに大きな建物の影が現われた。厳めしい、西洋の城館めいた風情の二階建てだった。ごつごつとした黒い石積みの外壁が、雨に濡れていっそう深みを持った黒に見える。
やがて道は二手に分れ、その一本が建物の方へと向かっていた。ほとんど迷うことなく、市朗はそちらの道を選んだ。間もなく前方に、建物の裏口らしき扉が見えてくる。真っ黒に塗られた片開きの扉である。
改めて周囲の様子を窺い、何者の姿もないことを確かめてから、市朗はふらつく足でその扉に駆け寄った。
ぴたりと扉に胸をくっつけた格好で、これもやはり黒く塗られた金属製のノブを両手で握りしめる。じりりと力を込めると、ノブは抵抗無く回った。かすかな軋みとともに、扉が内側へと開く。そうして出来た隙間から、恐る恐る中を覗き込む。
そこは小さなホールになっていて、黒い絨毯の敷かれた幅広の廊下が、薄暗い建物の奥へとまっすぐに延びていた。人影は見当たらない。声も聞こえてこない。
一瞬のためらいの後、市朗は思いきって身を滑り込ませた。空気は外よりも冷え冷えと淀んだ感じで、かすかに何か嗅ぎ慣れない|臭《にお》いがした。
市朗はそろりと一歩、足を踏み出す。
ヤッケから|滴《したた》り落ちた水が、音もなく絨毯に吸い込まれる。緊張のあまり、膝が震えて止まらなかった。深呼吸で息を整えようとしたが途端、端が喉に引っかかって激しく咳込みそうになる。懸命にそれを抑えながら、半ば倒れかかるようにして扉の横手の壁に背を凭せた。――と、その時。
がたっ、といきなり近くで物音がして、市朗は|怖気《おぞけ》立った。
見ると、右手前方にある黒い扉が今しも開こうとしている。市朗はとっさに、その手前に並ぶもう一枚の黒い扉に突進し、中に飛び込んだ。幸いそこには誰もいなかった。物置か何かに使われているらしい小部屋だった。
ほとんど入れ違いに、隣の扉から誰かが出てきたのが分った。乱暴に扉を閉める音が響き、続いて「おやあ」という声が聞こえてくる。
「ううん、何だかなあ」
声の主は男だった。どこかしら調子の狂ったような、これまで市朗があまり耳にしたことがないような喋り方だった。
「今ここに誰か、いなかったか。いたように思えたのは、単なる僕の気の迷いなのか。ううん……いやいや、僕は迷ってなどいないぞ。迷っているのは常に、僕を取り巻くこの世界の方なのだ。この何ともいかがわしい、|欺瞞《ぎまん》と妄念と狂気に満ち満ちた……うん、そうだ。そうなのだとも」
何を一人で、わけの分らないことを云っているのだろう。確かに日本語なのに、どこか知らない国の言葉が話されているようにも聞こえる。ひどく苛立っているようにも、あるいは憤っているようにも聞こえる。
市朗は扉の裏に背を貼り付け、耳をそばだてる。すると間もなく、何やらどさっと人が倒れるような音がして、同時に「うぐう」という男の呻き声が伝わってきた。
何だろう。
市朗は息を殺し、扉の向こう側の気配を探る。
どうしたんだろうか。
しばらくは何も聞こえてこなかったが、やがてごそごそと衣擦れの音がしたかと思うと、再び「うぐっ」という呻き声が。さらにしばらくして、今度は何かしら呪文を唱えでもするような低い声が、ぶつぶつぼそぼそと吐き出されはじめる。
はっきりとは聞き取れなかったが、さっきと同じ男の声であることは間違いなかった。どこかやはり調子の狂った感じがする。当たり前な人間の話しぶりでは、少なくともない。
いったい何を呟いているのか、全容は不明だが、時折り言葉の端々が耳に留まった。「こん畜生め」とか「いい加減にしろ」とかいった、他人をなじるような文句があったかと思えば、いきなり「殺す」だの「人殺し」だのという物騒な単語が飛び出してきたりした。あまつさえ、「悪魔」だの「化物」だの「血」だの「呪い」だのと、どんな脈絡で出てくるのかは分らないが、そんないかにも恐ろしげな言葉が聞こえてきたりもして、怯えきった市朗の心をなおいっそう怯えさせた。
どのくらい経った頃だろうか、ふつりと男の気配が途絶えた。身動きする音も、呟く声もまったく聞こえてこなくなった。
やっと立ち去ってくれたか。そう思って、市朗は扉から背を離した。震えの止まらぬ手で細めに扉を開け、外を覗いてみる。
男はいなかった。
ささやかな安堵に胸を撫で下ろしつつ、市朗は忍び足で小部屋から出た。ところが――。
建物の奥へと延びる廊下。ホールからその廊下に出て二、三メートルのあたりに、べたりと絨毯の上に坐り込んだ男の姿があったのだった。
思わず「わっ」と叫びそうになるのを、市朗はどうにかこうにか抑え込んだのだが、それでも向こうは気づいたようだった。「おやあ」とまた、先ほどと同じような声を発して、よろりと立ち上がる。壁に片手を突きながら、大きく首を傾げてこちらを見やる。もう片方の手には、何か飲み物の壜らしきものが握られている。
「何だぁ、君は」
首を傾げたまま、男はホールに引き返してくる。よたよたとした、まるで覚束ない足取りだったが、恐怖に取り憑かれた市朗の目にはそれが、普通の人間とは明らかに異質な、何だかひどく邪悪なものの歩みに映った。漂ってくる嗅ぎなれない臭いも、何だかひどく邪悪な異臭に思えた。
「見かけない顔だねえ」
そう云って男は、円い眼鏡を掛けた顔全体を引き攣らせて不気味に笑った。
「ひやひや、こいつは何と云うか……いやあ、待てよ。もしかして君は、そこでそうして僕を迷わせようとしているのかもしれない。ああいや、しかし迷っているのはやはり君の方なのか。どこからどうやって迷い込んできたんだろうねえ、この子羊は。うふう。まったくねえ、これだからこの世界は油断がならないんだな」
そんなふうに云われてももちろん、市朗は何とも応えることができない。ひたえらに怯え、あとずさるしかない。
「おおい、君」
男が大声を投げつけてくる。
「いいかぁ。そんなところをうろちょろしてて、もしも見つかったら大事だぞ。それこそねえ、この屋敷の悪魔に捕まって喰われちゃうぞぉ」
男はそして、「うひひ」という気色の悪い笑いを洩らし、それからいきなり「ぐわおっ」と両手を振り上げて躍りかかるような仕草を見せる。
折りも折り、そこへ物凄い雷鳴が降りかかってきた。館内を照らす電灯の薄明りが、突然の轟音に竦み上がったかのように明滅する。市朗はかぼそい悲鳴に喉を震わせ、次の瞬間には入ってきた裏口から外へ飛び出していた。
扉を閉めると、しばらく両手でノブを押さえつけて身を凍らせていた。今にも胸を突き破って飛び出してきそうなくらい、心臓が乱れ打っていた。首筋や背中を幾筋かの汗が伝い、それを意識するや否や寒気が倍増した。強い眩暈に襲われ、一瞬ふうっと気が遠くなりかけた。
男が追いかけてくる気配はなかった。――が、再びこの扉を開けて、館内に忍び込む気にはとてもなれない。
引き返すしかないのか。それとも……。
日没はもう過ぎ、あたりはすっかり夜の暗さだった。やって来た道を振り返ってみても、濃厚な闇に塗り潰されて何も見えない。雨は来た時より幾段も激しさを増し、吹きすさぶ風とともに|宵闇《よいやみ》を打ち震わせている。
稲妻が続けざまに二度、夜空を切り裂いた。そうしてまた、地も割れよとばかりに轟き渡る雷鳴。
市朗はたまらず目を閉じ、頭を抱え込む。
この暗闇と風雨の中を引き返す気にも、もはやとうていなれない。いったいどうしたらいいのか、考えあぐねた挙句、市朗はこのままこの建物のまわりを調べてみることにした。どこか別の入口がきっとあるはずだから、それを見つけ出して、そしてもう一度……。
裏口を離れると、そこから外壁に沿って左手に回り込んでいった。真っ暗で足許がほとんど見えないような状態だったけれど、屋根の出っ張りのおかげで、雨は多少なりとも凌ぐことができた。
いくつかの窓の下を通った。だが、どの窓にも鎧戸が閉まっていて、漏れだしてくる光もない。ごつごつした石壁に両手を押し当てながら、蟹のような横歩きでのろのろと移動していくうちにやがて、それまでのいくつかとはまったく趣の異なる窓に行き当たった。
鎧戸の類は設けられておらず、窓全体に仄かな光が滲んでいた。暗く赤い光だった。どうやらそこに嵌め込まれた硝子自体が、そのような色を含んでいるらしい。
大きな縦長の嵌め殺し窓だった。市朗の鳩尾あたりに下端が位置し、上端は見たところ、一階の天井に届くほどの高さまである。硝子は厚みのある模様硝子で、縦横に通った真っ黒な桟が、何かしら大型動物の肋骨めいて見える。
この向こうにはいったい、どんな部屋があるのだろう。――心中を埋めた不安と恐怖の狭間で一瞬、素朴な好奇心がむくりと動いた。
雨に濡れた冷たい硝子の表面を掌で撫でながら、市朗は移動を再開する。硝子を透して向こう側の様子が窺えないかと顔を近づけても見たが、それは叶わぬことだとすぐに分った。
わずかな間隔を置いて、同様の嵌め殺し窓が何枚も並んでいた。一枚目を過ぎ、二枚目、三枚目を過ぎ……そうしてこれが最後の一枚か、というところまで来て、市朗はそれ[#「それ」に傍点]に気づいた。
……これは?」
五枚目の窓だった。そこに嵌め込まれた模様硝子の、手前端の一画に、ひどい亀裂が走っているのである。
どうしてこんな亀裂が生じたのかは分らない。もしかすると、そうだ、一昨日のあの地震のせいなのかもしれないが、それにしても……。
亀裂は市朗の顔の高さから斜めに、窓の下端まで走っている。よく見てみると、それ以外にも細かな罅割れがたくさんある。同じ硝子の隅っこが一部分、割れて欠け落ちてもいる。猫や小さな犬ならば、楽に出入りできそうなくらいの穴が、その場所に開いてしまっているのだ。
……ああ、これは。
見つけてしまった以上、この状況の怪しげな誘惑に逆らうのは難しい話だった。市朗はそろそろと、罅割れたその硝子に向かって右手を伸ばした。すると――。
何となく予期していた以上の変化が、そこで起こった。
硝子の表面に指先を触れ、若干の力を加えてみた――その途端、であった。みしっ、と音がして亀裂が広がり、あっと思った次の一瞬にはもう、まるまる一枚分の硝子が枠から外れ落ちてしまったのだ。いとも呆気なく。まるで弱っていた歯が歯茎から抜け落ちるようにして。
硝子はいくつかの破片に割れて地面に落下し、市朗の足許でさらに細かく砕け散ったが、派手に鳴り渡ったはずのその音響は、雨と風の音によってほぼ掻き消された。さもなければ市朗は、驚き慌ててその場から逃げ出していたかもしれない。
市朗は息を呑み、硝子が割れ落ちたあとに出来た四角い穴を見つめる。
五十センチ四方……いや、もっとあるだろうか。試みれば充分に、人間一人が通り抜けることの可能な大きさだった。
上体を屈め、穴に目を寄せる。薄暗い明りの灯った、広々とした空間が覗いている。
ここから中に入ってみようか。難しいことではない。この穴に潜り込んで、そうして……。
しばしの|逡巡《しゅんじゅん》の後、市朗は腹を括り、窓枠や桟にいくばくか残っていた硝子の破片を払った。――九月二十五日、時刻は午後六時四十五分を過ぎようとしている。
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第十六章 宵闇の迷走
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〈北館〉一階のサロンの扉を開いた時、西隣の遊戯室からかすかにオルゴールの音が聞こえてきた。古峨精計社特製の、例のからくり時計が時を告げる「赤の|円舞曲《ワルツ》」の調べである。――午後六時。もう日暮れの時刻か。
二階の玄児の書斎をあとにし、一人で|階下《した》に降りてきた私だった。
蛭山殺しの検討から十八年前の事件へと話が及び、初代当主浦登玄遙を殺した犯人が同じ夜に自殺した娘婿の卓蔵であると目されることや、殺害現場のあの部屋で不可解な人間消失劇があったらしいことを聞き出した後、私はそこでそれ以上の問いかけを行うのをやめ、玄児は玄児で、ここでこれ以上語るべき言葉は見つからないとでもいうように口を閉ざしてしまった。私たちの間にはそして、どうにも気詰まりな沈黙が訪れ、それはずいぶんと長きにわたって続いた。
このままこうして向き合っていても、いっそう気詰まりな感じが増すばかりだろう。そう思って私がストゥールから立ち上がったのが、つい先ほどのことである。いったん一人になって、あれこれと心のあちこちに|蟠《わだかま》りつづけている疑問を整理する時間を持ちたい。そうも思ったし、玄児の方にも同じような気持ちがあるのではないかとも思えた。
「気をつけろよ、中也君」
書斎から出ていく私に、玄児はあまり元気のない声でおきまりの忠告を発したが、私はちらっと彼を振り返っただけで「ご心配なく」と応えた。
「誰かに命を狙われるような理由は、私には何もありませんから」
あるいは、少々憤然とした物云いに聞こえたかもしれない。それはしかし、玄児に対してではなくむしろ、自分自身に対するある種の苛立ちの表われだったのではないかと思う。
「夕食は七時半か八時か、そのくらいに用意させよう。場所は、そうだな、こっちの正餐室で。階下の音楽室の向かいだ。野口先生に征順小父さんたちに……美鳥と美魚も呼ぼうか。いいかい」
「――はい」
昨夜のような得体の知れない料理でなければ――と、これは口には出さずに付け加えて、私は玄児と別れたのだった。
〈東館〉二階の与えられた部屋に戻り、ベッドに寝転がりたい気分でもあった。宿酔いからはたいがい立ち直れたようで、再び胸が悪くなりそうな気配もない。だがそれとは別のレヴェルで、ひどく身体がくたびれていることが自覚できた。「身体が」と云っても、半ばは肉体そのものではなく、精神の問題なのかもしれないけれど。
とりあえずサロンを覗くことにしたのは、そこに置かれたテレヴィを見てみたかったからである。いつになったらこの嵐が去るのか、ニュースなり天気予報なりで情報が得られないかと考えたのだった。
サロンには先客がいた。
私の姿に気がつくと、ソファに坐ったまま低く右手を挙げて「やあ、中也さん」と声をかけてきた。野口医師である。挙げた右手には、蒼白い濁り硝子でできたグラスが握られている。その中身が何らかのアルコール飲料であることは、まず間違いないだろう。
「お一人ですか」
「――ええ」
「玄児君は?」
「二階で、さっきまで一緒だったのですが」
「捜査≠ノ何か進展はあった模様ですかな」
「さあ。それは何とも」
「あなたの具合は? 差し上げた薬は飲まれましたか」
「ああ、はい。おかげさまで」
医師が坐ったソファの周辺には案の定、アルコールの臭いが漂っていた。テーブルには、ほとんど空になりかけのウィスキーの壜がある。私は思わず鳩尾に手を当てた。正直云って、少なくともこの屋敷に滞在している間はもう、酒の類を見るのはご免だった。息を止め、極力その臭いを嗅がないようにしながら、私はテレヴィの前に向かった。
「駄目ですよ、そいつ」
私がテレヴィを点けようとするのを見て、野口医師が云った。
「まるっきり何も映らないし、音声もほとんど聞き取れない」
「ああ……」
「昨日からどうも調子が良くなかったが、この嵐でいよいよアンテナがどうにかなってしまったんでしょうなあ。――何かご覧になりたい番組が」
「いえ。そういうわけでも」
曖昧に首を振りながら、私は医師の向かいのソファに腰を下ろす。ずっと息を止めたままでいるわけにもいかないので、なるべく口だけで呼吸をするようにした。
「このあと天候がどうなっていくのか、気になるものですから。何か放送で伝えていないかと」
「ふむ。電話は通じないし……ラジオにでも|囓《かじ》りつくしかないってことですな」
「――はあ」
「まあまあ、そんなにいつまでも居座ってはおらんでしょう。明日にはいい加減、回復に向かうんじゃないですか」
「はあ」とまた溜息をつくように応えてから、
「ところで、あの人――茅子さんは、もう落ち着かれたのですか」
と、私は質問を振った。医師はすると、あからさまに顔を顰めて、
「落ち着いたと云うか、騒ぎ疲れたと云うか。そもそも熱がひどくて歩きまわれるような状態じゃなかったものを、あんな……」
「伊佐夫さんも来られたのですよね、あのあと」
「さよう。しかしながら何と云うか、どうにも処置なし、でしたな。誰が宥めてみても聴きやしない。そのうちに体力的な限界が来て、完全にぐったりしてしまい……だいぶ強い解熱剤を打っておきましたから、副作用でしばらくはおとなしく眠っとってくれるでしょう」
「大変でしたね」
「彼女の気持ちを考えれば、まあやむなしとも云えましょうが」
「――首藤さんは今頃、どこでどうしておられるのでしょうか」
「はて……」
「伊佐夫さんは何やら、心当たりがあるようなことを云っていましたが」
「ほう」
「茅子さんが持っていた手帳があったでしょう。黄色い表紙の。あれにご主人の行き先が書いてあったりはしないかと、これは私がそう思ったのですが」
「ははあ、なるほど」
医師は紅潮した額に軽く左の掌を打ちつけ、
「こっそり調べてみる手はありますな」
そして右手に持ったままでいたグラスの中身を、ぐいぐいと呷る。
「しかし首藤さんの居所が分ったところで、今のこの状況がどうなるもんでもなし……」
努めて口呼吸を続けていた私だったが、それでも臭いをすべて遮断できるわけではない。どうしても鼻腔に流れ込んでくるものがある。と云って、酒好きのこの医師に、自分の前では酒を飲むなと要求するわけにもいかず、これ見よがしに鼻を押さえたり顔を背けたりすることもできず、せめてもの対抗措置として、私は煙草に火を点けた。煙を肺までは通さず、立て続けに吹かしてはすぐに吐き出す。そうやつて、煙の香りで酒臭さを紛らわせてしまおうという寸法である。
「あのですね、先生」
やがて私は、そろりと切り出した。
「一つお訊きしたいことがあるのですが」
「はて、何ですかな」
医師は丸めていた背を伸ばし、鼠色の顎鬚をぞろりと撫で下ろす。
「今朝の一件に関して、何か」
「いえ、そうじゃないんです」
蛭山の事件については、ここではあえて話題にするまいと考えていた。先ほど玄児としたような話し合いは、遅かれ早かれ、野口医師も含めた他の関係者たちがいる場においても繰り返されることになるのだろうから。
「そうじゃなくて――」
私が今、医師に訊いてみようと思いついたことは別にあった。
「昨夜〈西館〉で催されたあの〈宴〉に関して、なのですが」
医師は「ほう」と鼈甲縁の眼鏡の奥で目を細め、私の顔をまじまじと見直した。
「私に何を訊こうと」
「それは、ええとですね、あれ[#「あれ」に傍点]がいったい何なのか、もしかして先生は知っておられるのではないかと思って」
「ほほう」と医師はさらに目を細め、
「何でまた、そう」
「それは……」
「柳士郎氏と私が、古くから親しくしている仲だから、ですか」
「ええ。もちろんそのこともあるのですが」
私は新しい煙草に火を点け、今度は深々と煙を肺まで吸い込んだ。
「昨夜このサロンで、先生はこうおっしゃいましたね。今夜の〈宴〉には? と私がお尋ねした時、自分は招かれていないから、というふうに。けれども思うに、これは私のまったくの想像なのですが、過去にはそういうことも――柳士郎氏が先生をあの〈宴〉に招かれたことも、あったのではないかと」
――〈ダリアの夜〉のこの〈宴〉に参加する資格は、基本的には初代玄遙とその妻ダリアの血を引く浦登家の人間、及びそれらと婚姻関係にある人間のみが有するはずのものなのだが、時として例外[#「例外」に傍点]も認められなければならない。
昨夜の〈宴〉の席で、浦登柳士郎はそのように語っていた。
――時として例外[#「例外」に傍点]も認められなければならない。
今回の〈宴〉におけるその「例外」が、玄児の要望で参加を認められたこの私であったわけだが。
――私自身、以前よりそう考えていた。そのような機会をみずから作ろうとしたことも、かつてあった。
続けてそんなふうにも、柳士郎は語っていたのである。
玄児が私を招いたのと同様に、柳士郎が〈宴〉に招こうとした例外的な部外者がかつていたとすれば、その相手はひょっとして野口医師なのではないか。昨夜ここで医師と交わした言葉の端々を思い出すにつけ、ふと私はそう思いついたのだった。
「私は――」
空になったグラスをゆっくりと振りながら、医師はなおいっそう目を細くした。
「私は、そう、柳士郎氏からお誘いを受けたこともありましたな。もうかれこれ十年ほども昔の話になりますが」
「やはり。じゃあ、そのとき先生も」
「いやいや、私はご辞退申し上げたのですよ。〈ダリアの夜〉の〈宴〉は、この家の、云ってみれば最も核心に近いところにある秘儀≠ナすな。柳士郎氏との長年の付き合いで、それがどのようなものなのかはだいたい分っておったのです。それに招かれると云うことが何に繋がるのかも、むろん。そこまで私を信用して声をかけてくれた彼には申し訳なかったのですが、その……」
「何故ですか」
と、私は尋ねた。
「何故、辞退することに」
医師は「何故なんでしょうなあ」と自問のように呟き、少しく間をおいてから続けた。
「この浦登家の人々の生き方――価値観とか死生観とか、ひっくるめて彼らが信じておるものに文句をつけるつもりは、私にはさらさらないのです。むしろ私自身、そうですな、何せ長い付き合いでもあるし、どちらかと云えば彼らの側[#「彼らの側」に傍点]にいて、この世界と向き合っている人間のうちに含まれるでしょう。だがしかし、ずいぶんと迷って末にですが、自分の立ち位置はこのあたりにしておこう、というふうにも考えたわけですな。ここ[#「ここ」に傍点]より先には踏み込むまい、少なくともしばらくはここ[#「ここ」に傍点]に留まって、彼らのそばでそれ[#「それ」に傍点]を見ているだけにしようと」
慎重に言葉を選ぶようにして、野口医師は語る。私はせいいっぱい集中して耳を傾けたが、どうにも話の意味をよく理解することができない。
「中途半端の|謗《そし》りは甘受せねばなりますまい。私自身、そう思うこともしばしばなのですよ。医学者としてはまず、大いに問題のある人間でしょう。彼らの信じるものを否定できないまま……いや、それどころか半ば以上、肯定してしまいたい気持ちですらいるわけでしてなあ。伊佐夫君などはそのあたり、はっきりしたもんですな。肝心なところを正しく分っておらん節もあるが、とにかくまるで取り付く島がない。あのようには私はなれないし、別になりたいとも思わない。伊佐夫君に云わせれば、だからこの私もまた、あらぬものに取り憑かれた人間の一人なのだということになるんでしょうが……にしても、やはり中途半端な|輩《やから》ですな」
「…………」
「医学者と云えばね、当の柳士郎氏にしても、彼は元々医学者だったのですよ」
「そうだったのですか」
「将来を|嘱望《しょくぼう》された、実に優秀な。そもそも彼と私とは、医学生時代の先輩後輩だったのです。彼の方が一級上でね。いずれは何かで全国的に名を挙げるような能力と器の持ち主だろうと、その頃からもっぱらの評判だったものです」
屋敷の当主の、あの白濁した双眸が、怪奇映画の冷酷な主人公めいた笑みが、脳裡に大写しになる。有無を云わせぬ威圧感に満ちた、地の底から響き出すようなあの低い声が、耳の奥で谺する。――それほどに優秀な医学者であったという彼が、その道から退いた背景にはやはり、征順が望和と結婚した時と同じような事情が存在したわけなのだろうか。
――私の方が浦登家に入り、浦登の姓を引き継ぐこと。それまで私が生きていき世界を捨て去って、この屋敷に定住すること……。
そういった条件を呑んだ上で、柳士郎もまた彼の最初の妻と――今は亡き浦登カンナと一緒になったのか。
「それじゃあ先生、玄児さんが最初医学部に入学したのも、そういったお父上の経歴と関係が?」
医師は「さぁて」とわずかに首を捻り、
「玄児君の場合は、そうですなあ、まあ彼は彼なりに思うところがあったんでしょうな。お聞き及びかどうか知りませんが、彼もずいぶんとその、世間並みとは懸け離れた体験を、幼い時分から強いられてきた男ですからな。あるいは現代の医学を専門的に学ぶことで、自分が生まれ育ったこの家の呪縛から逃れたいという、そんな気持ちもあったのかも知れません。同時にそれは、父親の柳士郎氏に対するささやかな抵抗でもあったのかもしれません。その後の|顛末《てんまつ》を見ると結局、初志貫徹とはいかなかったようですが……」
――自分には向いてない気がしてきてね。
どうして医者にならないのか、という私の質問に対して、薄笑いを浮かべながらそう答えた玄児。この春の、出会って間もない頃のことだった。何かしら意味ありげな翳りをそこに見て取って、云うほどに単純な理由ではない、と私は思ったものだったが……。
「おやぁ」
眉間に皺を寄せて黙り込んだ私を見て、野口医師はちょっと驚いたような声を洩らした。
「ひょっとして中也さん、あなたはまだ」
「何でしょうか」
「あなたはまだ、すべての事情をご存じじゃないわけですかな」
「すべての、と云いますと」
「この家の――浦登家の非常に特殊な在り方、ゆうべの〈宴〉の意味、あれに参加したことによってあなたがどうなるのか……」
「ええ。そのとおりです」
答えて私は、銜えた煙草の茶色いフィルターを強く噛[#「噛」の字は旧字体、1-15-26、120-8]みしめた。
「だから今さっき、先生にお訊きしたんですよ。昨夜のあれがいったい何だったのか、ご存じありませんかと」
「いまだに何も聞かされず……ははあ」
医師はウィスキーの壜を取り上げ、存外に几帳面な手つきで中身をグラスに注ぎながら、
「玄児君もまた、無体なことを」
憂鬱げに、ぼそりと呟き落とした。
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野口医師はその後、急に態度を切り替えて高らかな口調になり、遊戯室で何かゲームでもしないかと云いだした。チェスと将棋は苦手だが、囲碁は自慢できるほどの腕前なのだという。私はしかし、とうていそんな気分になれるはずもなく、やんわりと誘いを断ってソファを立った。
そうして私が向かった先は、サロンの東隣に位置する図書室だった。一人きりになってものを考える時間と場所が、やはり欲しかったのである。
初めて足を踏み入れるその部屋は、位置的にはちょうど、先ほどまでいた玄児の書斎の真下に当たることになるのだけれども、予想していたより広々と開放感のある雰囲気だった。たとえば私が通っていた高校の図書館のように、薄暗く狭い通路を挟んで部屋中に高い書架が林立した様子を、漠然と想像していたものだから。
書棚が造り付けられているのは四方の壁面だけで、黒い絨毯が敷かれた室内中央のゆったりとした空間には、大きな書き物机が二つ、いかにも坐り心地の良さそうな安楽椅子を備えて、向かい合わせにくっつけて置かれている。そのまま充分ベッドとして使えそうな寝椅子も一つ、傍らに用意されている。蔵書のための、というよりも、快適に本を読んだり調べものをしたりするための部屋、というふうに見受けられた。
四方の書棚をざっと見渡してみたところ、それほど膨大な数の書物が収められているわけでもない。個人宅の蔵書としてはもちろん、破格な分量ではあるのだろうが。
十八年前の大火災の際、旧〈北館〉にあった図書室の蔵書のたいていが消失してしまったに違いないから、今この部屋にある書物はその後、〈北館〉再建の前後から収拾されはじめたものだということになる。消失した蔵書の中には、いったいどれほど貴重な文献が含まれていたのだろう。古書にはさしたる興味のない私とて、そう考えるとやはり、何とも口惜しいような、切ないような心地になった。
中庭に面した南側の壁にはその真ん中あたりに、遊戯室や二階の玄児の書斎と同様、黒い木枠の長細い上げ下げ窓が設けられている。鎧戸の隙間と磨り硝子を透して、時折り蒼白い雷光が突き刺さってくるのは相変わらずだった。連動して轟き渡る雷鳴も相変わらずで、収束に向かうどころかそれらは、陽が落ちていよいよ激しさを増してきているようにも感じられた。
書棚に並んだ本の背表紙を見てまわる心のゆとりも持てず、私は書き物机の安楽椅子の一つにぐったりと腰を落とした。征順が持ち込んだという探偵小説のコレクションにもむろん興味を引かれたが、当面のところ、それをゆっくり見てみたい気にもなれない。
「――さて」
机の端に両肘を突くと、みずからの手を引っ張るような気持ちで私は、声に出して呟いた。
「さて、さて……」
とにかくまず、あちこちに散乱したあまりにも多くの疑問を、せめてもう少し明確な整理の下に把握しておきたい、おかねばならない。――そう。まずはそれからである。
机の隅にメモ用紙があったのを見つけて、手許に引き寄せた。筆立てから万年筆を一本取り、キャップを外して右手に握る。
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○疑問点の整理
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メモ用紙の右端に、大振りな文字でそう記してみた。インクは冬の海のような暗い青色だった。
蛭山殺しを巡るさしあたりの問題点については、先ほどの玄児との検討でほぼ把握できたように思うから、ここで何とかしたいのはそれ以外の、一昨日以来私が抱きつづけているさまざまな疑問の数々である。中でも一番の問題は、やはり昨夜の〈ダリアの宴〉のことになるだろうか。
私は万年筆を走らせる。
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*あの〈宴〉は何なのか?
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浦登ダリアの誕生日であり命日であるという〈ダリアの日〉の夜に執り行なわれるあの〈宴〉が、この浦登家の人々にとって非常に重要な意味を持つ儀式≠セということは確かである。「この家の、云ってみれば最も核心に近いところにある秘儀=vと、さっき野口医師も語っていたが、昨夜の〈宴〉に例外的な部外者として参加した私は、それによって彼らと何某かの秘密を共有する「仲間」になったらしい。その秘密とはいったい何なのか。
あの〈宴〉の様子を具体的に思い出すにつけ、おのずから気に懸かってくる大きな疑問がある。それはつまり――。
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*あの料理は何だったのか?
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あの赤葡萄酒。パンに塗って食べたあの茶色いペーストのようなもの。得体の知れない具の入ったあの赤黒いどろどろのスープ。いずれも、お世辞にも美味とは云えないような代物だったが……。
「肉」という言葉が、あの場でも皆の口から発せられた。「食したまえ、その肉を」というふうに。一方で伊佐夫の口からも、私は同じ言葉を幾度か聞いている。彼らの云う「肉」とはいったい何なのか。何が「肉」だったのか。そしてそれは何の「肉」だったのだろうか。
伊佐夫の弁によれば、首藤利吉と茅子の夫妻はその「肉」に対して並々ならぬ関心・執着を持っているらしい。そこで夫妻が計画していたという「悪巧み」とは、ではどういった行ないだったのか。利吉が屋敷に戻ってこないことによって、その「悪巧み」は頓挫してしまったわけなのだろうか。
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*ダリアとはいかなる人物だったのか?
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これも私にしてみれば、非常に大きな謎であり疑問である。
玄児の曾祖母に当たるイタリア人女性。〈宴の間〉の壁に飾られていた、あの肖像画の美女。どうやらこの浦登家の者たちにとって、彼女はある種カリスマ的な存在でありつづけているようだが、それは何故なのか。生前の彼女はいかなる人物だったのか。彼女はこの屋敷で、いかなる生き方をし、そして死に方をしたのか。
――ダリアの切なる願いを受け止め、残されたその言葉を信じ……。
……そうだ。そんな台詞も、昨夜の〈宴〉の席で柳士郎の口から聞かされたが。
ダリアの「切なる願い」とは、はて、どのような願いだったのか。「残されたその言葉」とは、いったいどのような……。
昨夜の〈宴〉を巡っての疑問は、まとめてしまえばだいたいこんなところだろうか。その次に気懸かりな問題と云えば――。
私は万年筆を握り直し、新たな項目をメモ用紙に書き加える。
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*玄児は何故〈十角塔〉に幽閉されていたのか?
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生まれて間もない頃から何年もの間、玄児はあの塔の最上階に設けられた「座敷牢」に閉じ込められていたのだという。閉じ込めた張本人は父の柳士郎で、玄児はその理由を「父は母を、死んだ彼の最初の妻カンナを、とても愛していたから」と、そんなふうに述べていた。当の玄児はしかし、例の記憶の空白≠フため、その事実を憶えてはいないらしいのだが――。
何故に柳士郎は、我が子にそんな仕打ちをしたのか。しなければならなかったのか。
また、あの塔の「座敷牢」は、それ以前にも「人を閉じ込めておくための場所」として使われていたことがあるという。「噂のレヴェル」の話ではあるらしいが、「ある秘密の目的のために」と玄児が云っていた、いったいそれはどんな目的だったのか。誰が誰を、何のためにあそこに閉じ込めていたのだろうか。
その〈十角塔〉のバルコニーから一昨日、不意の闖入者が転落した。転落自体がまったくの事故であったことは明らかだけれど、それによって記憶を失ってしまい、「江南」という苗字以外は素性の分らないあの青年に関する疑問というのは、当然のことながら強く残っている。
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*あの青年は何者なのか?
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そもそも彼はこの屋敷に、何をしにやってきたのか。何故そして、あの塔に昇ったのか。
玄児も他の家人たちも、心当たりはまるでないという。唯一気になると云えば、玄児から聞いた柳士郎の反応だが、いずれ彼と江南青年とが直接対面する機会が持たれれば、そこで事態には何らかの進展が見られることになるのだろうか。
それから、そう、これは私のごく個人的な印象でしかないわけだが、今日〈東館〉の舞踏室で、衝立障子の後ろに坐り込んでいる江南を見つけた際、ふと頭に閃いた一瞬の[#ここから太字](これは? という一瞬の)[#ここで太字終わり]……。
単なる気のせいかとも思うのだけれど、それにしてもやはり、気懸かりなことではある。
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*〈惑いの檻〉とは?
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中庭に作られたあの祠のような建物の地下は、浦登家の墓所になっているのだという。それが〈惑いの檻〉と呼ばれるのは何故なのか。どういう意味なのか。
昨日あの建物に足を踏み入れた時、錠前の掛かった鉄扉の前で耳にしたあのかすかな音は、いったい何だったのか。地下に潜る階段の下から響いてくる「何かの声」「誰かの声」のようにも、あの時は聞こえた気がしたが、あれは果たして私の幻聴に過ぎなかったのか。
この墓所の件について先ほど美鳥と美魚に質問してみた際の、彼女たちの返答の中にも、気懸かりな言葉がいくつもあった。「成功」とか「失敗」とか「特別」とか……あれらはいったい何を意味しているのだろうか。
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*諸井静とはどんな女性だったのか?
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塔上の「座敷牢」に幽閉されて育った玄児の乳母のような役割を努め、旧〈北館〉の火災の後、一児を連れて屋敷を出ていったという使用人、諸井静。彼女はその後、どういった人生を歩むことになったのだろう。現在はどこにいて、何をしているのだろう。
謎とか疑問とかいうわけでは決してないのだけれど、どうも私には気になるのである。今朝の事件がたまたま、彼女がかつて住み込んでいたあの部屋で起こったものだから、そのせいで必要以上に気に懸かってしまうだけなのかもしれないが。
さて、そして――。
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*十八年前、卓蔵は何故玄遙を殺したのか?
その現場で起こった「人間消失」とは?
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先ほどの玄児との話でやっと明らかになった、これは新たな問題である。
浦登卓蔵が十八年前の殺人事件の犯人だとされていることは分ったが、その動機はもちろん、事件発生の詳しい状況などは、私にとっていまだに謎のままなのだ。あまつさえ、玄児自身も「どうにも不可解な謎が残っているんだという」と語った事件現場での人間消失=Bその現象は、具体的にはどのような起こり方をしたのか。本当に人が一人、煙のように消え失せてしまったというのか。
……他にもまだ、謎や疑問はたくさん散らばっている。
再び万年筆を握り直すと、私はメモ用紙の余白をそれらで埋めていった。
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*影見湖を染めた「人魚の血」が「吉兆」である、とは?
*早老症は浦登家に生まれる者にとって宿命的なリスクである、とは?
*望和について玄児が述べたこと。「死にたいと願っても彼女は死ねない」とは?
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他にもまだまだあるように思う。
たとえばそれは、昨日舞踏室で幾度か聞き留めた何者かのかすかな声のことであったり、美鳥・美魚姉妹の「心の問題」のことであったり、瀬戸内海・時島の未完成の楽園≠ノ建てられた建築家中村某の洋館のことであったりする。〈表の座敷〉で今日、そこにいた清と出会って別れる直前に、あの少年が、そして玄児が示した妙な言動。〈東館〉の洗面所に設置された扉付の鏡の、それだけがいやに新しいものであることへの違和感――というのも、そう云えばある。
しかしながら考えてみれば――いや、考えるまでもなく、だろうが――、こういった諸々の謎や疑問をすべて包み込んで建つ暗黒館というこの屋敷そのものが、そもそも大いなる謎に満ちた存在なのではないか。実体のない、巨大な影だけの。かたくなな拒絶、かたくなな否定。世界が裏返しになってしまう支点としての、混沌の黒=B光よりも闇に……ひたすらに黒く暗く、内側に向かって閉じた異形の|擬洋館《キメラ》。――いったいこれ[#「これ」に傍点]は何物なのだろう。いかなる存在理由をもって、この館はここにありつづけているのだろうか。
「呪縛」という言葉を、何度か耳にした。
「鎖で繋がれて」という言葉も、これはそう、征順が今日そんなふうに語っていた。彼自身も柳士郎も玄児も……浦登家の人間たちはすべて「鎖で繋がれていて『飛べない』」のだ、と。暗黒館というこの屋敷に、彼らの|生命《いのち》そのものが繋がれ、囚われてしまっているのだ、と……。
――何も不安に思う必要はない。
万年筆を放り出し、前屈みになっていた身を起こして安楽椅子の背に凭れ込む私の耳に、先ほどの玄児の声がやおら蘇る。まるで実際にいま彼がすぐそばにいて、耳許にそう囁きかけてくるような生々しさで。
――大丈夫だよ。決して悪いようにはしないさ。
「玄児さん」
煙草を銜えながら、私は独り呟いた。
「あなたはいったい、何を……」
灰皿は同じ机の上にあった。メモ用紙の横にそれを引き寄せてから、煙草に火を点ける。室内に漂う本の匂いに煙の香りが混じって、これはなかなかに心地好い。――そこで。
揺らめく紫煙の狭間にふいと、目に留まったものがあった。向かい合わせにして置かれたもう一つの書き物机。その上に無造作に投げ出されている、それは一冊の本だった。
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迷走する詩人の家
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目を凝らし、セピア色の表紙に白抜きの文字で印刷されたその署名を読み取って、私は知らず、あっと声を発した。あれは――あの本は、昨夜の〈宴〉の席で征順が云っていた……。
――宮垣葉太郎の作品は読んでおられますか。
私は椅子から立ち、向かい合わせの机の前に回り込んだ。顔を寄せ、書名を確かめる。
間違いない。『迷走する詩人の家』だ。一九四八年、戦後の探偵小説復興期に|上梓《じょうし》されて話題を呼んだ宮垣葉太郎の処女長編で、確か当時、彼はまだ二十一歳の若さだったという。
その時分に出版された探偵小説の多くがそうであったような、安っぽい|仙花紙本《せんかしぼん》だった。実物を見るのは初めてなので、装幀だけでそれと分るはずもなかった。
――『迷走する詩人の家』の署名本があるのですよ。興味がおありならお見せしましょうか。
私は本を手に取った。
宮垣葉太郎の署名を見てみたい、という思いを抱くのは、探偵小説好きの端くれとしては当然のことだろう。彼の作品はこれまで幾冊か読んでいるが、一見旧態依然とした探偵小説の体裁を取りながら、そこには何と云うのだろうか、すべての時代や流行を超越したいとでもいうような作家の意思が濃厚に現われていて、独特の忘れがたい印象を残した。必ずしも広く世間一般に受け入れられる作風ではないのかもしれないけれど、だからこそ、いくら目に見えるこの世界の現実が移ろっていっても、決して色褪せたり風化したりしないものが、どの作品にも確かにあるように思えて、私は大変に好きだった。
ちょっとした緊張を憶えつつ、そっと表紙を捲ってみる。すると――。
達筆なペン書きで記された作家の署名がまず、目に飛び込んできた。同じ頁の右上にはそして、「|恵存《けいそん》」として|為書《ためがき》の文字が……。
「……えっ」
思わず強く目をしばたたき、そこに記された姓名をよく見直そうとした、その時である。
「中也君」
図書室とサロンとを繋ぐ扉が突然、勢い良く開け放たれ、同時に私を呼ぶ声が響いた。
「中也……」
「玄児さん?」
「やあ、いたいた」
部屋に飛び込み、私の元に駆け寄ってきたのは玄児であった。私は本を閉じ、いささか混乱した頭でいま目にしたもの[#「いま目にしたもの」に傍点]の意味を考えようとしながら[#ここから太字](ああ、これはいったいどういう……)[#ここで太字終わり]、机の元の場所に置いた。
「どうしたのですか、玄児さん」
玄児はひどく息を切らせている。緊急の知らせを持ってここまで走ってきた、という様子がありありと窺われる。
「どうしたのですか。何か……」
「説明はあとだ。とにかく一緒に来てくれないか」
「はあ。ですが」
「俺一人じゃあどうしようもないんだ。野口先生と君とで、とにかく手伝ってほしい」
「あの、いったい何が」
「アトリエだよ、望和叔母さんの」
さっさと踵を返しながら、玄児は云った。
「どうも様子がおかしいんだ。ひょっとしたら何か、厄介な事態になっているのかもしれない」
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3
[#ここで字下げ終わり]
時刻は午後七時を十分ほど回っていた。
サロンで野口医師と合流し、二人して玄児のあとを追った。玄児はサロンを飛び出すと、主廊下を左へ――西方向へと駆ける。望和のアトリエは確か、この突き当たり手前の右側――西翼の袖廊下に折れる角の部屋だったはずである。昼間に美鳥と美魚の姉妹がそう教えてくれたのを、私はしっかりと憶えていた。
いったいどう「様子がおかしい」というのか。「厄介な事態」とは何なのか。
薄暗い廊下を走りながら私は、激しい胸騒ぎのあまり眩暈を催しそうにすらなった。
問題の部屋の前まで行き着くと、「これを」と玄児が指さすのを待つまでもなく、そこで起こっていた異変に気づいた。
主廊下と袖廊下との合流点付近の壁際に置かれていた、例のブロンズ像。半裸の女性の身体に何匹もの蛇が絡みついた、あの等身大の像が今、黒い絨毯が敷きつめられた床の上に、横ざまに倒れてしまっているのだ。そしてその像の上半身が、ちょうど部屋の扉を塞ぐような格好になっている。
「さっき二階から降りてきて、これを見つけてね」
玄児が私たちに説明した。
「見てのとおりさ。この扉は外開きだから、こんな状態のままだと開けることができない。で、部屋の中に声をかけてみたんだが――」
玄児は足許のブロンズ像から黒塗りの扉へと目を上げ、
「いくら呼んでみても返事がないんだ」
「中には望和さんが?」
私が訊くと、玄児は曖昧に首を振って、
「いるともいないとも断言はできない。清を探しまわっているとき以外は、このアトリエに籠もっていることが多い。それは確かなんだが」
「重いのですか、この像」
「一人で動かそうとしてみたが、びくともしないのさ。それで助っ人を探しに行ったところ、先生と君が見つかった」
「なるほど」
「誰が倒したんですかなあ」
野口医師が私の傍らから、倒れたブロンズ像を覗き込んだ。
「こんなものが自然に倒れるはずもなし。一昨日の地震でも倒れなかったわけだし」
「そうですね。誰かが故意に倒した[#「誰かが故意に倒した」に傍点]としか考えられない。そいつがたまたまこの扉を塞いでしまったのか、あるいは扉を塞ぐために倒したのか」
「ひょっとして、ですが」
あたりを見まわしながら、医師が云った。鼻を掠める酒臭い息に、思わず私は眉をひそめてしまう。
「犯人[#「犯人」に傍点]は伊佐夫君かもしれませんな」
「伊佐夫君が?」
玄児が不思議そうに尋ねた。
「どうして、そう」
「先ほど――中也さんが図書室に引っ込んだあとのことでしたが、サロンにふらっと顔を出したのですよ、彼が」
と、野口医師は答えた。
「えらくまた酔っ払ってましてなあ。地下の葡萄酒庫まで潜入して、一人で浴びるほど飲んでおったらしく……|饒舌《じょうぜつ》ではあったが、ほとんど泥酔状態でしたな、ありゃあ。葡萄酒の壜を片手にやってきたかと思うと、ひとしきり何やらわけの分らんことを一人で喋って、すぐにまた出ていってしまったんですが。――図書室にいても、あの声は聞こえたんじゃありませんか、中也さん」
訊かれて、私は「いえ」とかぶりを振った。メモ作りに熱中していて気づかなかったのだろうか。
玄児は嘆かわしげに肩を竦め、「それで?」と先を促す。野口医師は続けた。
「それでですな、その時の伊佐夫君の話の中に、迷える子羊にお説教をしてやったとか、無愛想な蛇女をやっつけてやったとか、そんな台詞があったような」
「はあん。蛇女を[#「蛇女を」に傍点]……ねえ」
玄児は尖った顎を撫でながら、再び足許のブロンズ像に視線を落とす。
「ふん。――ま、犯人[#「犯人」に傍点]が本当に伊佐夫君かどうかはさておき、とにかくこいつを何とか」
そう云って、玄児はみずから像のそばに屈み込んだ。
「手伝ってもらえますか、先生。中也君も」
玄児と私が頭と肩のあたりに、野口医師が胴体のくびれのあたりに手を差し込み、呼吸を合わせて力を込める。そうやって三人がかりで取りかかってみても、楽々というわけにはいかなかった。途中で一度、合図の声をかけて力を合わせ直し、ようやく元どおりの位置に立たせることができたのだが、見ると像の側面には大きな傷が付いてしまっていた。これだけ重量のある物体だから、倒れた時の衝撃は相当なものだったろう。調べてみれば、他にも損傷が見つかるかもしれない。
「おや、どうかしましたか」
とその時、廊下を挟んで斜め向かいの扉が開き、出てきた人物が云った。浦登征順である。そう云えば、この向かいの部屋は彼の書斎だということを、これも昼間に美鳥と美魚から聞かされていた。
「何か新たな問題でも」
私たち三人がこんなところに集まっているのを見て、ただならぬものを感じないはずがない。征順は茶色いガウンの前を掻き合わせながら、縁なしの眼鏡の奥で|訝《いぶか》しげに目を|眇《すが》めた。
「このブロンズ像が扉の前に倒れていたんです」
と、玄児が説明を繰り返した。
「それを今、三人で起こしたところで」
「ほう。しかし何故そんな」
「叔父さんはずっと書斎におられたんですか」
「ずっとと云うほど長くは……」
そう答えかけてから、征順は自分の腕時計にちらりと目をやって、
「もうこんな時間か。――いやちょっと、うとうとしてしまっていたものでね。書斎に入ったのは、そう、かれこれ一時間半ほど前のことになるかな」
「一時間半……五時五十分頃、ですか。この像は、その時は倒れてはいなかった?」
「もちろん。倒れていたら気がつかなかったはずがない。あの時は望和も一緒だったし」
「叔母さんも?」
玄児の声が鋭さを増した。
「と云いますと」
「〈東館〉の方でばったり出会ったんだよ。例によって清の行方を捜しているふうだったんだがね、それを宥めてこっちまで連れてきて、彼女はそこに」
と征順は、さっきまで倒れたブロンズ像が塞いでいた黒い扉に向かって顎をしゃくった。
「アトリエに入って、絵を」
「するとやっぱり、叔母さんは今この中にいるわけですね」
「そのはずだが」
答えて、征順はいよいよ訝しげに目を眇め、
「玄児君、いったい」
「さっきから呼びかけているんですけど、何も反応がないんですよ。像が倒される前に部屋を出ていってしまったのか、それとも中にいるのに返事ができないのか。前者であれば問題はないんですが、もしかして……」
「――まさか」
征順の表情がこわばるのが分った。アトリエの扉の前に進み出ると彼は、強くノックをしながら「望和」と妻の名を呼んだ。
「望和、私だ。いないのかね、望和」
「叔母さん」
玄児が呼びかけを重ねた。
「いたら返事をしてください。望和叔母さん」
扉の向こうから返ってくる声はしかし、ない。「望和」とさらに呼びかけながら、征順は両手でノブを握った。
「入るよ、望和」
扉に鍵が掛かっている様子はなかった。そもそも施錠装置が取り付けられていないふうでもあった。
征順が扉を開ける。室内の明りは点いている。斜め後ろからそれを見守る私の胸騒ぎはこの時、頂点に達しようとしていた。
「望和……うっ」
先頭に立って部屋に入った征順の、心配げに妻の名を呼ぶ声が、喉を締め上げられたような呻きに変わる。
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4
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足を踏み入れてみてまず印象的だったのは、アトリエとして使われているというその部屋の内部の、見るからに異様な光景であった。
広さは二十畳ほどだろうか。室内には絵の具の臭いが立ち込めている。いくつかのイーゼルに立てかけられた油彩画のキャンバス。ほぼ完成している作品もあれば、まだデッサン段階のものもある。黒い板張りの床に絨毯の類は一枚も敷かれておらず、中央には雑多な道具で散らかった作業机が据えられている。正面奥の中央には艶消しの黒大理石で作られた重厚な暖炉があり、その上の壁には、暖炉と同じ幅を持たせた長方形の赤い模様硝子が嵌め殺しになっている。本来煙突が通っているべき場所にそんな窓があるのだから、暖炉は当然、形だけのもの[#「形だけのもの」に傍点]なのだろう。――と、これだけならばとりたてて「異様な光景」でもないのだが、このアトリエには、イーゼルに置かれた何枚かとは別個に一枚、巨大なキャンバスが存在するのだった。
入って左手の部屋の壁面が、それ[#「それ」に傍点]である。
元々は他の三方と同様、単なる黒塗りの板壁だったに違いない。ところがそこに、壁一面をまるまるキャンバスに見立てて絵が描かれている――いや、正確に述べるなら「描かれようとしている」のだ。と云うのも、その大作がまだまだ未完成の状態であることは誰の目にも明らかであったから。
果たして作者が、全体の構図を多少なりとも頭の中で組み立てた上で、この作品に取り組んでいるのかどうか。一見して私には疑問に思えた。子供の落書き、とまでは云わないが、ほとんどそれに近いような無秩序、無頓着、計画性の欠如……裏返せばそれらは、何かしら破壊的な衝動の表出とも受け取れる。そういった印象をまず、さまざまな人や物や建物らしきものが雑然と描かれようとしている[#「描かれようとしている」に傍点]、その異様な壁画≠目にして抱いたわけだが。
それ以上の観察をしている余裕は、しかしながらこの時はなかった。そんなことよりもずっと重大かつ深刻な当面の問題が、私たちの眼前には横たわっていたからである。
「ああ……望和」
征順の苦しげな声が、途切れなく聞こえてくる雨音の狭間に落ちる。
「望和……」
浦登望和の姿は、部屋の左手奥にあった。壁画を描くために持ち込まれた脚立が隅に置かれている、その手前の床に突っ伏し、動かなくなっていた。
「望和叔母さん」
玄児が声を投げ、妻の元に駆け寄る征順のあとを追った。
「叔母さん……ああ、これは」
「先生」
と、征順が野口医師を振り返った。
「お願いします。見ていただけますか」
のそのそと部屋を横切っていくと、医師は倒れ伏した望和のそばに屈み込む。手首を取って脈を確かめ、顔を覗き込んで呼吸の有無と瞳孔の状態を調べ……やがて憮然とかぶりを振りながら、
「お気の毒ですが」
と告げた。
ううっ、とまた征順の口から呻き声が零れた。息絶えた妻の傍らに両膝を落としたまま、右手の掌を額に、全体を鷲掴[#「掴」の字は旧字体、1-84-89、631-下-1]みにするようにして当てて、幾度も強く首を振り動かす。
「何で、こんな」
「ご覧のとおり、明らかに他殺です」
野口医師が沈痛な面持ちで云った。
「死んでから、まださほど時間は経っておりませんな。首に巻きついておるこれ、このスカーフは?」
「――望和のものです」
「こいつが凶器であることは間違いないでしょう。絞殺。死体の所見もそれに合致する。蛭山さんの場合と同じです」
遠巻きに状況を見守る私の目にも、その様子ははっきりと確認できた。倒れた望和の首には、薄紅色のスカーフが喰い込むようにして巻きついている。昼間に舞踏室で望和と遭遇した際、彼女が身に付けていたあのスカーフである。
いま望和が身にまとっているのは、絵の具で汚れた灰色のスモックであった。あれを着て、ここで絵を描いていたところを何者かに襲われた、ということなのか。――見ると、倒れ伏した彼女の、投げ出された右手の先には絵筆が一本落ちている。パレットが一枚、近くに放り出されてもいる。
凶器にスカーフが使われたのは、望和が身につけていたそれをそのまま利用したのか。あるいは、スモックに着替える際に彼女自身が外して、たとえば作業机の椅子にでも掛けておいたのを犯人が目に留め、それで絞め殺すことにしたのか。
いずれにせよ、今朝の蛭山殺しと同じく、これもまた何者かが明確な殺意の下に行なった殺人であることは間違いない。
しかし何故? ――と、私は自問せずにはおれなかった。
何故ここで、今度は彼女が――浦登望和が殺されなければならなかったのだろう。犯人は彼女を殺す必要があったのだろう。
「中也君、ちゃっと」
玄児に呼ばれて、私は思考を中断した。
「ご覧よ。こんなところに、こんなものが」
彼は暖炉の前にいた。上体を屈め、床に目を落としている。おずおずと私がそちらに足を向けると、
「元々はこの暖炉の上に置いてあったんだろうな」
と云って、そこに転がっているものを人差指で示した。
それは四角い木箱のような形の置時計だった。木製部分はすべて真っ黒に塗られており、全面にクリーム色の円い文字盤が嵌め込まれている。玄児に促され、近づいて覗き込んでみると、文字盤を覆った硝子がひどく罅割れていて、針の動きも完全に止まってしまっていた。
「六時三十五分、か」
止まった針の時刻を、玄児が読んだ。
「単純に考えれば、犯行前後に犯人が、過ってこの時計を暖炉から落っことしたってことか。もしくは望和叔母さんと揉み合っているうちに、どちらかの身体が当たって落ちてしまったか。それで時計が壊れ、この時刻で針が止まった。探偵小説じゃあ定番中の定番とも云える手がかりだが」
「――確かに」
征順の話によれば、望和がこのアトリエに入ったのは午後五時五十分頃。それから約四十分後、六時半頃に犯人はここへやって来、望和を殺害したと考えられるわけだが。
この間も私は、すぐそこに倒れている望和の死体の方へは極力目を向けないようにしていた。特にその死顔を間近に見るのは避けたかった。見てしまったら最後、またぞろひどい悪心に襲われそうに思えて気が気ではなかったのである。
野口医師は引き続き、死体の状態を調べている。その横で死者の夫は、泣き崩れこそしないものの、ほとんど茫然自失の体で「望和、望和……」と呟きつづけている。今から十七年前に彼女と出会い、熱烈な恋に落ちたという彼。三年後の結婚当時を振り返り、その時はこの幸せが永遠に続くことを夢見たものだと語った彼。我が子の不憫を嘆くあまり精神の均衡を失ってしまった妻の、こんな形での突然の死を今、彼の心はどのように受け止めようとしているのか。
――死ねないのさ、困ったことに。いくら死にたいと願っても彼女は死ねない。
玄児のあの謎めいた言葉とは裏腹に、浦登望和は死んでしまった。不治の奇病を患った息子の清よりも早くに、よりによってこんな形で。
私は暖炉の前から離れると、散らかった作業机の端に両手を突き、詮ない溜息を幾度も繰り返した。
それにしても――と、私は考える。みずからの溜息を振り払うようにことさら背筋を伸ばしながら。そうやって何とか、可能な最大限の冷静さを保とうとしながら。
いったいここで、何が起こったのか。
殺人事件だ、もちろん。何者かがこのアトリエにやって来て望和を絞め殺したのだ――と、そのレヴェルの問題ではなく。
気になるのはつまり、扉の外に倒れていたブロンズ像の一件である。
望和を殺した犯人が、ここから逃げ出す際にあの像を倒していったのではないか、という可能性が、当然のことながら第一に考えられる。倒れている像を起こすのは無理でも、その逆ならば一人の力で容易になしえただろう。それによって犯人は、死体の発見をなるべく遅らせようと|目論《もくろ》んだわけか。だがしかし――。
そうではなくて、さっき野口医師が云っていたように、ブロンズ像を倒した犯人[#「犯人」に傍点]が伊佐夫なのだったとしたら。泥酔して正体をなくした彼が、廊下に立つあの像を彼が云うところの「無愛想な蛇女」と認識して、たとえば彼女[#「彼女」に傍点]を相手に何某か議論をふっかけるなりして……挙句の果てに腹を立てるかどうかして、あのように像を押し倒してしまった。それをもって彼は、野口医師に「やっつけてやった」などという報告をしたのではないか。
だとしたら、そしてなおかつ、伊佐夫がその滑稽な一人芝居を演じたのが、仮にこの部屋で犯行がなされたと目される午後六時三十五分近辺のことであったとしたら――。
そこまで考えを進めて、私はぞわりと肌が粟立つのを感じた。
犯行を終えた殺人者がここから立ち去ろうとした時[#「犯行を終えた殺人者がここから立ち去ろうとした時」に傍点]、期せずして部屋の扉は[#「期せずして部屋の扉は」に傍点]、あのブロンズ像によって塞がれてしまっていた[#「あのブロンズ像によって塞がれてしまっていた」に傍点]。そういう話になりはしないか。
一刻も早く現場から逃げ出したいのに、どうしても扉が開かない。それが倒れた像のせいだということは、扉の隙間から外を窺えば犯人にも察知しえただろう。その場合、では犯人は……。
息が詰まりそうな気分で、私はそろそろと室内を見まわす。そして――。
「まさか、そんな」
知らず、呟き落としていた。
「何が『まさか』なんだい」
すぐ後ろから玄児の声がして、私はぎょっと身を竦めた。
「おいおい、何を今さら驚いてる」
「玄児さん」
振り返ると、私は玄児の耳許に顔を近づけ、
「もしかしたら、犯人はまだ」
云いかけた、折りしもその時である。
「やあやあ、これはさっきの蛇女くん」
部屋の外から、調子外れな|濁声《だみごえ》が聞こえてきた。ほとんどうまく呂律が回っていない。声の大きさも加減できていない。その主が首藤伊佐夫であることは疑うべくもなかった。
「さっきは悪いことをしたねえ……って、おやぁ、もうちゃんと立ち直ってるじゃないか。いや、しかし悪かった。暴力は悪かった。僕が悪かった。しかし君、相変わらず無愛想だねえ……」
伊佐夫が今、廊下のブロンズ像を相手に話をしているらしいことも、外に出て確かめてみるまでもなく明らかだった。――ああ、やはりあの像を倒したのは彼だったということか。とすると……。
私は改めて室内を見まわす。
未完成の大作が描かれた左手の壁、その手前端にある一枚の扉が、そこで目に留まった。
「あの扉は」
私は傍らの玄児に訊いた。
「物置か何かですか」
「物置というよりも休憩室、だな。画材や何かも置いてはあるが」
「ね、玄児さん。思うんですけど」
同じ室内にいる野口医師や征順にも聞き取れないほどに声を低くして、私は云った。
「もしかしたら犯人は、まだここに――あの扉の向こうに潜んでいるかも」
「何だって」
「だってそうでしょう。廊下のブロンズ像を倒したのが伊佐夫さんだったとして……」
説明はそこまでで充分だった。玄児は薄い唇を引き攣らせるようにして「ははあ」と呟き、私と同じくらいに低い声で、
「鋭いね、中也君。いや、すぐに思い至らなかった俺の方が鈍すぎるか。だが、仮にそうだったとしても、確かあっちの部屋には……」
「調べてみましょう」
野口医師と征順には何も告げず、私たちは忍び足で隣室の扉に向かった。
玄児がノブを握った。私は身構えた。扉を開けた途端、曲者が飛び出して襲いかかってくることもありうるのだ。――が。
淡い明りの灯ったその「休憩室」の中には、案に相違して何者の姿も見当たらなかった。
どこか、何かの陰に身を隠しているのか。そうかもしれない。あるいは……。
「中也君、ほら」
先に踏み込んだ玄児が、ゆっくりと右腕を差し上げて部屋の奥を指さした。
「あれを」
そこには隣室と同様、黒大理石の暖炉が造り付けられていた。その上の窓には、これも隣室と同様、長方形の赤い模様硝子の嵌め殺し窓が……いや。
そこには[#「そこには」に傍点]、それはなかった[#「それはなかった」に傍点]。
あるのはただ、黒い壁面に四角く口を開けたその大きさの穴だけで……つまり、そこに嵌め込まれていたはずの硝子が、まわりの枠組だけを残して粉々に割れ落ちてしまっているのである。
「ああ、玄児さん」
私はそろりと玄児の横に進み出た。
「犯人は、あそこから?」
「そのようだね」
部屋の奥を見据えたまま、玄児は頷いた。
「椅子か何かで硝子を打ち破って、あそこから逃げた――か」
「あの向こうは?」
少なくとも屋外でないことは確かだった。この部屋の明りよりもずっと暗い、かすかな光の漂う空間が、そこには覗いているが。
「〈赤の広間〉だよ」
玄児のその返答を待ちかねていたかのようにその時、四角い薄闇が赤く瞬いた。ほとんど間をおくことなく、降りしきる雨と吹きすさぶ風の音を掻き消して凄まじい雷鳴が轟き渡る。
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小走りに部屋の奥へ向かう玄児のあとに、私もすかさず従った。
暖炉は私の胸元よりもやや低いくらいの高さで、その手前には、元々この部屋に置かれていたものなのだろう、黒塗りの木製椅子が一脚、横向きに倒れている。頑丈そうな四本の足に渡された横桟のうちの一本が折れてしまっていた。玄児の云ったように、この椅子で硝子が打ち破られたのかもしれない。そのあと犯人は、あるいは同じこの椅子を踏み台にして暖炉の上に昇り、向こうの広間へ脱出したと考えられる。
赤い硝子の破片が、炉棚やその脇の床に若干散らばっている。この休憩室の側には、他には目立った硝子片はない。たいがいの破片は向こう側に落ちているわけで、これはつまり硝子がこちら側から破られた[#「硝子がこちら側から破られた」に傍点]ことの証だろう。
私は暖炉の横まで足を進め、本来なら煙道が通っているべき壁に口を開けた四角い薄闇を、息を潜めて覗き込む。何時間か前、美鳥と美魚に招かれて足を踏み入れたあの〈赤の広間〉の、だだっ広く冷え冷えとした空間が、確かにそこにはあった。
二階部分にコの字形に回廊を巡らせた、吹き抜けの大広間。ここはその、西側奥に接した場所に当たるのだろうと察せられる。
回廊部を支える何本かの黒い柱が見える。北側の壁面に整列した大きな縦長の窓が見える。赤い模様硝子が嵌め込まれた、ステンドグラス風の例の窓。今さっきの雷光の瞬きがあんなに赤かったのは、云うまでもなくあの硝子を透してそれが射し込んできたためだ。
天井のシャンデリアは点けられていない。壁面に取り付けられた電灯のうちのいくつかだけが、ほんのささやかな光を滲ませている。
「――妙だな」
呟く玄児の声が間近で聞こえ、私は室内に目を戻した。
「ここには確か……」
「どうかしたのですか」
玄児は暖炉の前に立ち、難しい顔で顎の先を撫でまわしている。耳に入ったのか入らなかったのか、私の問いかけには答えようとしない。
「玄児さん」
私は首を傾げて見せ、
「向こうを――〈赤の広間〉を調べてみた方が良いのでは」
「ああ……うん」
半ば上の空のような返事をしながら、玄児は視線を上げたが、炉棚の隅に懐中電灯が一本置いてあったのを見つけるや、すぐさまそれに手を伸ばした。そうして今度はその場に屈み込み、取り上げた懐中電灯を点けると、暖炉の台座に片手を突いて炉室の中を覗き込みはじめるのだった。
何をしているのだろう、玄児は。そんなところでもたもたしているより、早くあちらの広間へ行ってみるべきではないのか。
軽い苛立ちを覚えつつ、私は意味不明の玄児の動きと窓の向こうとの間に視線を往復させる。
「ねえ、玄児……」
云いかけたところで、四角い薄闇がまた、瞬間の赤い光に満たされた。一拍子遅れて、さっきよりも長々と轟き渡る雷鳴。おのずと私の意識はそちらに――〈赤の広間〉の方に引きつけられたのだが、その時である。
何かがふっと、視界の隅で動いた気がした。
思わず「あっ」と声を上げ、私は暖炉の上に首を突き出して窓に顔を近づけた。
確かに今、何かがどこかで動いた気がする。この向こうの広間の、私の視野に入っていたどこかで、何か黒い影が……。
薄明りを頼りに視線を巡らしてみても、それらしき影はもう見当たらない。――どこだ。どこだったのだろう。それとも今のは、一瞬の雷光と雷鳴によって引き起こされた錯覚の類だったのか。
「何だ、中也君」
身を起こした玄児が、訝しげに訊いた。
「今そこに――あっちの広間に、何かが、誰かがいたような」
そう答えながら、私は暖炉上に散らばっている硝子の破片を腕で薙ぎ払った。炉棚の端に両手を突くと、思い切って床を蹴り、そこに飛び乗る。
「おい、中也君」
「行きましょう、玄児さん」
硝子の落ちた窓は、大人が二人肩を並べても楽に通れそうなほどの大きさがあった。枠に残っている硝子片に注意しつつ、私はそれをくぐり抜けて〈赤の広間〉の床に降り立った。
「あ、待てよ中也君」
慌てた様子で、玄児が私のあとを追ってくる。
艶消しの黒い石が貼られた広間の床には、割れ落ちた硝子が散乱していた。歩くと、靴底がみりみりと鳴る。緊張した神経を針の先で撫でつけられるような、それは音に聞こえた。
「誰かいるのですか」
回廊の下から広間の中央へと進み出て、私は姿の見えぬ相手に呼びかけた。声は高い天井に反響しながら、外の雨音に吸い込まれるようにして消えていく。
「誰か、ここにいるのですか」
薄明りは広い部屋の隅々まではとても届いておらず、そこかしこに思わせぶりな暗闇が澱みを作っている。そのどこかに潜んでいる者がいるとすれば、それはやはり望和を殺した犯人か。硝子を破って現場から逃げ出した犯人が、まだここに残っていて|何処《いずこ》かに身を隠している……とすれば、こんなふうに呼びかけてみたところで、あっさりと姿を現わすはずもない。だが、それでも私は呼びかけずにはおれなかった。
「誰かいるのですか」
薄闇の奥に見える、赤天鵞絨の布が掛けられた長細い机の影。例の見えないオルガン≠セ。あの前に坐り、無音の演奏に熱中していた浦登美惟の狂おしい後ろ姿が、あるはずもない名の楽曲の、聞こえるはずもない旋律の幻惑とともに、ふと脳裡をよぎる。手前には、臙脂色の絨毯が敷かれた重厚な二本の階段。わずかな曲線を含みつつ二階部の行き止まりの回廊≠ヨと向かい……。
注意深く視線を移動させながら、私はさらに呼びかける。
「誰かいるのでしょう。いるんだったら……」
不意にそこで、気になる空気の動きを感じた。
密閉された部屋の中では普通、起こりえないような動き。温度や湿度の異なる空気がどこかから流れ込んでくる――外から風が吹き込んでくるような、そんな動きを。
ああ、そう云えば――と、私は思い出す。
昼間にここへ来た際にも、似たようなことがありはしなかったか。
強い風が大粒の雨滴を乗せて外壁を叩き、笛を吹き鳴らすような甲高い音を響かせた……そう、あの時。ひんやりと淀んだこの大広間の空気に、それとはっきり分るくらいの動きが生まれ……そうだ、あの時も私は、外の風が室内に吹き込んできたのかと感じたのだったが。
この〈赤の広間〉のどこかに、開いた窓があるのだろうか。それとも、北側の壁面に並ぶあの赤い模様硝子のどれかが割れていて、そこから? 間近で笛を吹き鳴らすようなあの甲高い音は、その狭い隙間を風が吹き抜けることによって発せられたものなのかもしれない。
今はしかし、あのような音は聞こえない。ただ異質な空気の動きだけが、あの時よりもはっきりと肌に感じられる。これは……。
「中也君、こっちへ」
玄児が私を呼び、手招いた。回廊に上がる二本の階段の片方――向かって右側の方――の、昇り口の脇に、彼はいた。
「ほら、ここにこんな」
と、玄児は足許を指さす。近づいて覗き込んでみると、そのあたりの床に、どうやら人間の足跡と思しきものがいくつか付いている。
「泥だらけの靴で歩いたような跡だが」
いいながら玄児は、さっきの部屋から持ち出してきた懐中電灯を点け、その光を床に当てた。
「まだ濡れているね。付けられてからさほど長い時間は経っていない」
「――ええ」
意識して見渡してみると、足跡が残っているのはこのひとところだけではなかった。暗くて一目瞭然というわけにはいかないけれど、他にもぽつぽつと同じような跡があるのが分る。もっと部屋を明るくすれば、それらがどのように繋がっているのかも分るだろう。
いずれにせよ――と、私は考える。
この足跡の主の靴はそれほどに汚れていた、ということだ。激しい雨が降りつづく屋外から中に入ってきて、間をおかずにこの広間を歩きまわったらしいということである。しかし、いったい誰が。何故そんな真似を。
「これは、ほら中也君、階段に向かっている」
玄児が懐中電灯で照らしつける先を目で追う。なるほど足跡は、石張りの床から階段の絨毯へと続いているふうに見える。
「さっき何者かがいたって云ったのは、どのあたりに?」
声を潜め、玄児が訊いた。私は「いや、それが」と小さくかぶりを振って、
「一瞬ちらりと、どこかで黒い影が動いたように感じただけで。はっきりとどこでというふうには」
「ふん。回廊の上かもしれない? あの手すりの陰とかで」
「そうかもしれないし、もっと別の場所だったのかも……すみません、頼りない話で」
「謝る必要はないさ」
「昇ってみましょうか」
私が階段に足を踏み出そうとするのを、玄児は「待て」と小声で制し、
「その前にとにかく、明りを全部点けよう」
そう云って、主廊下に通じる扉の方へと向かう。照明のスイッチがそこにあるのだろう。
こうして間もなく、天井から吊り下がったシャンデリアのすべてが光を放ちはじめた。ところが、よりにもよってその直後――。
二つの出来事が、続けざまに起こった。
この〈赤の広間〉には主廊下に面して、西側と東側、二箇所に出入口がある。玄児が向かったのは西側――こちらから見て右手の扉だったのだが、部屋が明るくなるや否や、その扉が開いて入ってきた者たちがいた。これが出来事の一つめである。
「どうなさったの、玄児兄さま」
「あら、中也さまもいらっしゃるのね」
硝子細工の鈴の音のような、同じ色の二つの声が響いた。黄八丈の着物を着た、美鳥と美魚の双子姉妹だった。
「どうなさったの、お二人でこんな……」
「何か内緒のお話でも……」
出来事の二つ目は、そんな二人の声を弾き飛ばしてしまうような雷鳴で始まった。
巨大なティンパニを乱れ打ったような――と、昼間ここで雷鳴を聞いたときに私は感じたものだったが、乱打の挙句にとうとうその太鼓の革を叩き破ってしまったかのような、それは物凄い轟音だった。ほぼ同時に走った稲妻の閃光が、空間を赤く瞬かせていた。これまでのどれよりも、もしかすると激しい落雷かもしれない。そんなふうにさえ思った、その次の瞬間である。
部屋中の照明がいきなり、一つ残らず消えてしまったのだった。がらがらと尾を引く雷鳴の狭間に、美鳥と美魚の悲鳴が重なり合って響いた時には、輪郭の崩れた赤黒い残像だけを蠢かせて、視界は完全に暗転していた。
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停電だ、と了解するのに二、三秒かかっただろうか。今の落雷の影響で、電気関係の設備のどこかに不具合が生じたのに違いない。
雷鳴がやんだあとも、美鳥と美魚の悲鳴はひとしきり続いた。「大丈夫だ。単なる停電だから」と妹たちを宥める玄児の声が聞こえた。
「心配は要らない。いざとなったら自家発電に切り替えられるから」
「だけど、玄児兄さま」
「真っ暗で怖いわ、兄さま」
暗闇の中で交わされる三人のやり取りとは異なる方向から、その時。
がた、がたん……と、怪しい物音がした。
私ははっと身構え、何一つ見えるもののない闇の中、その音が聞こえてきた方向へと何歩か足を踏み出した。
がたん、と再び物音がし、続いて、たたたっ……という何者かの足音が耳に伝わってきた。――これは? どこからだろう。少なくとも回廊の上からではない。同じこの一階の、しかも私のいる位置からさほども離れていないどこかから……。
雷光と雷鳴が、そこでまたほぼ同時に降りかかってきた。目映い閃光によって瞬間、赤く染まった視界の隅に、動くもの[#「動くもの」に傍点]の影が映った。
「あっ」
私は短い叫びを発した。
「ああっ!」
影は、回廊の下の壁際に据えられた例の机――見えないオルガン≠フ方から、広間の中央に向かって飛び出してきた。赤天鵞絨の布が被せられたあの机の下に、もしかするとあの者[#「あの者」に傍点]は隠れていたのか。私はとっさにそう悟った。
あたりが再び闇に閉ざされた中、雷鳴の余韻が消えていくのと入れ違いに、たたたた……というその足音がまた聞こえだす。音を追って私は目を動かすが、とにかく暗いため、何も見えない。
「玄児さん、こっちです」
移動していく足音を追って、私は両手を前に突きだし、闇の中を泳ぐようにして歩を進める。そうしながら玄児に声を送った。
「誰かがそこに」
稲妻がまた、続けて幾度か走った。今度はさっきよりもはっきりと、その者[#「その者」に傍点]の姿を、動きを捉えることができた。
何か黒っぽい雨具のようなものを着た後ろ姿であった。さほど大柄ではない。むしろ小柄で背の低い印象を受けたが、こういう状況下での印象なので、実際のところどうなのかは自信が持てない。
その者[#「その者」に傍点]は、北側の壁面に整列した例のステンドグラス風の窓に向かって、覚束ない足取りで走っていた。一階部に並んだ五枚の打ち、めざしているのはどうやら右端の一枚らしいとも見て取れた。
「あそこです、玄児さん。あの窓の……」
私の声に応えて、玄児の持つ懐中電灯の光がそちらに差し向けられる。楕円形の光の輪が、問題の窓の前に|跪《ひざまず》いたその者[#「その者」に傍点]の影を捉えた。
「誰ですか、あなたは」
「誰だ、お前は」
私と玄児が同時に問いかける。問いかけながら、私たちは闇を突っ切って駆けた。途中で私が足を縺れさせてちょっと体勢を崩した隙に、玄児がすぐそばを追い越していった。
「おい、待てっ」
怒鳴りつけるような玄児の声が響いた。
「おい、お前……」
「……玄児兄さま」
「中也さま……」
後ろからは双子姉妹の、途方に暮れたような涙声が聞こえてくる。だが当面、彼女たちに構っている余裕はなかった。
玄児に追いついて窓の前まで行き着いた時、そこにはしかし、その者[#「その者」に傍点]の姿はなかった。
「中也君」
懐中電灯の光をその箇所[#「その箇所」に傍点]に向けながら、玄児が苦々しげに吐き落とした。
「窓が、割れてる」
「――ああ」
玄児の云ったとおりだった。
嵌め殺しになった大きな縦長の模様硝子。その一部分――左下の隅の一画が、割れている。いや、ごっそりと抜け落ちている、と云った方がぴったりするだろうか。五十センチ四方かもう少し広いくらいの、人一人が充分にくぐり抜けられるような四角い穴が、そこには出来てしまっているのである。
「これは」と呟く一方で、私は「やはり」とも思っていた。やはりこんなところに、硝子の破れ目があったのか。この破れ目から直接、外の風が吹き込んできていたわけか。
「さっきの奴、ここから中に入ってきたんだな。それであんな足跡が……」
玄児が押し殺した声で云う。
「そして今、奴はここから外へ逃げていった」
「誰なんですか、あれは」
と、私が訊いた。玄児は憮然と首を振って、
「分らない。顔も見えなかった。しかし、待てと云っているのに逃げたということは」
「事件の犯人、でしょうか」
「曲者[#「曲者」に傍点]には違いないね。むろん奴が犯人なのかもしれないし、ひょっとしたら……ん?」
床に両膝を落として硝子の破れ目に顔を寄せていた玄児が、ひくりと身を震わせた。私も彼の横にくっついて膝を落とし、上体を低くしてその視線を追う。玄児は懐中電灯を破れ目に近づける。外の暗闇を切り開く一筋の光線。その先に……。
「――いる」
玄児が囁いた。
「まだいるぞ、あそこに」
その時またしても、宵の空を稲妻が裂いた。蒼白い閃光に照らし出されたその者[#「その者」に傍点]の――その曲者の姿が、私の目にもしっかりと映った。私たちから逃れてこの穴から外に脱出したは良いが、そこで気が緩んでしまったのか、あるいはもしかして怪我でもしたのだろうか、窓から何メートルか離れた地面に、両手両膝を突いてぐったりとうずくまっている。
「行くぞ、中也君」
玄児が云った。
「とにかくあいつを捕まえるんだ」
「――はい」
ためらっている場合ではなかった。先に玄児が、続いて私が、足先から穴に身を潜り込ませ、建物の外に滑り出した。
曲者は、私たちが出てきたのに気づくと弾かれたように立ち上がり、その場から逃げ出した。「待てっ」と玄児が一声叫び、懐中電灯の光をかざして追いかけはじめる。私もそれに従って、降りしきる雨の中を駆け出す。何を考える間もなく、半ば反射的に身体がそう動いていた。
闇と嵐の中の、それはほとんど迷走のような追跡劇であった。激しい雨、そして風。断続的に走る稲妻、そして轟き渡る雷鳴。閃光と轟音の間隔はだいぶ開いてきているから、落雷自体は島から遠ざかりつつあるようだったが……。
曲者と私たちとの距離は、縮まりそうでなかなか縮まらない。いくら速く走ろうとしても、下手をすると一歩ごとに、地面の到るところに出来た水溜りやぬかるみに足を取られてしまうのだ。加えて、あたりは情け容赦のない真っ暗闇である。玄児の懐中電灯の光が曲者の背中を捉えはするものの、少しでもそれが逸れると、すぐに見失ってしまいそうになる。するとそこへ空から雷光が降りかかり、おかげで相手の位置が分って……と、そんな繰り返しの連続だった。
追いかける私たちにとっても悪戦苦闘だったが、逃げる方はそれ以上だったことだろう。何しろ星明りも月明りもまったくない、この嵐の夜である。行く手を照らす光源の一つも持たず、時折り瞬く雷光だけを頼りに暗闇の中を突き進んでいかねばならないのだから。いったい自分がどこへ向かって逃げているのか、そのおおよその方向すら、もはや分らなくなっているに違いない。
――中也さまは、そうねえ。|木菟《みみずく》かしら。
場違いな記憶が、ふいと浮かび上がってくる。
――玄児兄さまはねえ、|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、648-下-12]鼠《むささび》。
――君が木菟で、俺が|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、648-下-13]鼠《むささび》か。悪くないね。
――どっちも夜行性で空が飛べる。お仲間[#「お仲間」に傍点]だ。
本当に木菟や|※[#「※」は「鼠」+「吾」、2-94-68、648-下-14]鼠《むささび》であったなら、などという詮ない思いが頭をよぎりもした。だったら夜目も利くし、こんなぬかるみにも足を取られなくて済むものを……。
全身ずぶ濡れになりながら、悪夢のような追跡劇は続いた。いつになったら追いつけるのか、あるいはいつになったら完全に相手の姿を見失ってしまうのか。もしかしたらこの世の果てるまで、私たちは延々とこの暗闇の中を駆けつづけなければならないのではないか。当初の興奮が後退し、いや増す疲労と不快感、不安と焦燥の中で、そんなふうにさえ思えてきた頃になって、ようやく――。
終わりの時が、訪れた。
どこをどう走ってきたのか、むろん私にはまるで見当がつかなかった。道らしきところも途中にはあったが、木立の間を突っ切ったり植え込みを乗り越えたりした場面もあった。ちらりと視界の片隅に真っ黒な塔の影が映った気もするから、ひょっとするとあの〈十角塔〉の裏手とか、そのあたりまでやって来ているのかもしれなかった。
曲者の行く手にはその時、高い石積みの塀が立ち塞がっていた。島の周囲を取り囲んだ、あの塀だろうか。地面にはひどい水溜り――と云うよりも泥溜り[#「泥溜り」に傍点]――が広がっていた。呆然と塀を見上げ、あたりを見まわした曲者は、近づいてくる懐中電灯の光から眩しそうに顔を背け、項垂れ、それからくずおれるようにしてその場に――泥溜りの中に――しゃがみ込んでしまったのだった。
「諦めるんだ」
と、玄児が声を投げつける。さすがに彼もたいそう息切れしている様子だった。
「誰なんだ、お前は」
雨合羽か、それとも登山用のヤッケか何かだろうか、ざっくりと身を包んだ着衣のフードを頭に被って項垂れているため、曲者の面相は分らない。が、こうしてみてもやはり、ずいぶんと小柄な印象を受ける。何だかこれは、まるで……。
「……助けて」
と、雨音に掻き消されそうな弱々しい声が、フードの下から漏れ出た。泥溜りの中に足を踏み込んだ玄児が、ひたりとその動きを止めた。
「助けてください。お願い……おれ、おれは、何も……」
怯えきった途切れ途切れの声。懇願するように訴える声。それは、まだ変声期を過ぎていない少年の声に違いなかった。
玄児もこれには意表を突かれたようだった。しばし返す言葉をなくして動きを止めたままでいたが、やがて相手の側まで足を進め、
「立てよ」
と命じた。
「話はゆっくり聞かせてもらおう。さあ」
曲者がのろりと|面《おもて》を上げる。フードの下には黒い野球帽を被っている。懐中電灯の光に照らし出されたのは、雨と泥と、それから恐らくは涙でぐしゃぐしゃになった少年の顔だった。いったいどこの何者なのか、少なくとも私はまるで知らない顔である[#ここから太字](……この少年は)[#ここで太字終わり]。この屋敷に来てから会った人間の中に、こんな顔の持ち主がいた記憶はない[#ここから太字](……市朗か)[#ここで太字終わり]。断じてない。
玄児に促され、少年は泥の中に落とした腰を持ち上げようとする。疲労のためか恐怖のためか、小刻みに肩がわなないているのが分る。
「さあ」ともう一度玄児が促し、それに応えて少年が立ち上がる。そうしてよろりと一歩、玄児の方へ足を踏み出した途端――。
「わあっ」
掠れた悲鳴を上げて、少年の身体が大きく左側に傾いだ。足を滑らせるか足場が崩れるかした模様である。両手を挙げて何とかバランスを取り戻そうとしたが、それも叶わず、「うわっ」とさらに悲鳴を上げて横ざまに激しく身を倒す。黒々と広がる、まるで沼のような泥溜りの中へ、そして肩口から突っこんでしまった。
どうやらそこ[#「そこ」に傍点]は、それまで彼がいたところより幾段か深さのある泥溜りだったらしい。いったん全身が泥水の中に没してしまい、それから頭と片手が、続いて上半身が、文字どおり泥人形のような有様になって飛び出してくる。よほど驚き、取り乱してしまっているのだろう、でたらめに両腕をばたばたさせるその様子は、さながら暗黒の海原で溺れている遭難者の|足掻《あが》きに見えた。
「大丈夫か」
玄児が上体を屈め、大声で云った。
「慌てるな。ゆっくりこっちへ移動するんだ」
云われても、少年は動きを止めない。それどころかますます恐慌に拍車が掛かり、「うわあっ、うわああっ」と気が|狂《ふ》れたような叫びを|迸《ほとばし》らせながら、気が狂れたように泥の中で暴れつづける。頭を捩り、身をくねらせ、腕を振りまわしつづける。
「おい、大丈夫か……」
少年の動きを追って揺れる懐中電灯の光。折りしもそこで雷光が瞬く。泥まみれになって暴れる少年の、その腕に、その肩に、よく見ると何か異様なもの[#「何か異様なもの」に傍点]がまとわりついていることに気づいた。
「玄児さん、あれは」
私は叫んだ。
「何ぃ?」
玄児も叫んだ。二つの叫びを飲み込むように、雷鳴がどろどろと響き渡った。
少年の身体にまとわりついているもの。それは見るからに異様な、おぞましい物体であった。いくら泥にまみれていても、いったん認識してしまうと、それは確かにそれそのもの[#「それそのもの」に傍点]にしか見えない。雨に打たれて汚れが洗い流され、そのもの[#「そのもの」に傍点]の本来の色が露出してきている部分もある。
「ああ、何てことだ」
玄児が|竦然《しょうぜん》と吐き出す。
「こんなところに……」
少年が必死になって振り払おうとしているそのもの[#「そのもの」に傍点]、私の目に紛れもなく映っているそのもの[#「そのもの」に傍点]……それは、人の骨であった。しかも、腕や足の骨の一本や二本というレヴェルではない。それらがもともと人間の身体を形作っていたことがはっきりと分るくらい、さまざまな部分の骨がそこにあって、泥水の中を浮き沈みしているのである。
少年の肩に被さっているのは、あれは肋骨だろうか。腕にも同じようなものが絡みついている。周囲の泥の中からは、さらにいくつもの、さまざまな部分の人骨が姿を現わしている。こうして見た限りでも、その総量は決して一人分や二人分では済みそうになかった。
そんな、云ってみれば人骨の沼≠ノ、少年は突っこんでしまったのだった。いったいぜんたい何でそのようなものがその場所にあったのかは謎だけれども、恐らく地中に埋まっていたそれら――複数の人間の白骨死体――が、降りつづくこの雨で|抉《えぐ》り出された結果、そこにそんな沼≠造ってしまっていたのだ。
「……わっ、うわっ、うわあああっ!」
物狂おしい少年の叫び声は続く。玄児は何とか彼を助け上げようと、その場に片膝を突いて腕を伸ばしている。私もそれに協力するべく、泥溜りの中に歩を進めようとしたのだが、その時――。
少年の腕に弾き上げられて、泥の飛沫を撒き散らしながら私の元へ飛んできたものがあった。べちゃりと音を立てて足許に落ちたそれを、私はおっかなびっくり拾い上げてみた。
かなりの程度まだ原形を留めている。それは人間の頭蓋骨だった。顎の骨もついている。歯も並んでいる。恨めしげに開いた二つの眼窩には、びっしりと黒い泥が詰まっている。その中から、何かしら気味の悪い虫が何匹も蠢き出てくるのを見て――。
私もまた度を失った悲鳴を上げ、手に取った頭蓋骨を放り出してしまった。
いくつもの意味で、それが私の限界だったのかもしれない。空腹と疲労、降りかかる雨の冷たさ、あまつさえ精神的な緊張や心理的な衝撃、打撃……そういったすべてが寄り集まって|脆弱《ぜいじゃく》な肉体にのしかかってき、いきなり全身に震えが走りはじめた。いま間近に目にしたもののあまりのおぞましさに強烈な吐き気を覚え、吐き気は強烈な眩暈を呼び起こし……たまらずその場に身を崩してしまう。ぬかるみに力無く尻餅をつき、そうしてそのまま仰向けに、ほとんど大の字になって倒れ込み……。
……と。
地に投げ出した左手に、予想もしていなかった激痛が走った。何だ? 何なのだ、これは。何かいったい……。
慌てて左手を持ち上げるが、痛みはまるで治まらない。何やら鋭いものが深々と皮膚に突き刺さったような。加えて同じ左手の、掌から手首にかけて、何か――何ものかがぞわぞわと蠢き這いまわるような感触が……。
人骨の沼≠ナ溺れる少年に負けず劣らずの叫び声を、私は喉の奥底から絞り出した。
「中也君」
玄児が驚いて私の方を振り向いた。
「どうした、中也君」
「うわ……わっ、うわわっ……」
懐中電灯の光がこちらに投げかけられる。それによってやっと私は、みずからの左手に発生している事態の何たるかを知った。
ああ、やっぱりそうだ。嫌らしく蠢いている、這いまわっている。黒い、てらてらした何匹もの……|蜈蚣《むかで》だ、これは。しかも、いまだかつて一度も見たことがないくらい大きい……。
「……ひいいいいいいいいいいっ!」
顔中を引き攣らせて絶叫しながら、私はめちゃくちゃに左手を振りまわした。掌や甲を地面に叩きつけた。心臓がばくばくと病的な乱れ打ちを始めていた。全身に大量の冷や汗が噴き出していた。唾液がすべて蒸発してしまったような渇いた口の中に、物凄い勢いで胃液が逆流してきた。
恐怖と苦痛のあまり、私は泥まみれになって地を転がりまわり、のたうちまわり、叫びつづけ、喘ぎつづけ……そうするうちにやがて、虚空から湧き出した、この夜の闇よりも深い暗黒に押し潰されるようにして、意識が現実から遠のきはじめてしまうのだった。
[#地付き]――下巻につづく
底本:「暗黒館の殺人(上)」講談社ノベルス |綾辻《あやつじ》|行人《ゆきと》著
二〇〇四年九月五日 初版第一刷発行
二〇〇四年九月三〇日 第三刷発行
【底本中の誤字等】
203-上-8 「傑作をものしたい」→「傑作をものにしたい」か?
483-下-14 「吐息ととも呟いた」→「吐息とともに呟いた」か?
519-上-13 「どんな曲をお作りなった」→「どんな曲をお作りになった」
615-上-1 「あったかもしません」→「あったかもしれません」か?
【底本レイアウト】
「第一部」の前までは十八行×四十一字の一段組。
「第一部」以降は十八行×二十三字×二段組。
「目次」部分のページは底本表記ママ。
テキスト化 二〇〇四年十一月