人形館の殺人
綾辻行人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水尻《みずじり》さんに御|挨拶《あいさつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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18行43字
巧みな構成、鮮やかな結末! 戦慄の長編
亡父が残した京都の邸「人形館」に飛龍想一が移り住んだその時から、驚倒のドラマが開始した! 邸には父の遺産というべき妖しい人形たちが陣取り、近所では通り魔殺人が続発する。やがて想一自身にも姿なき殺人者がしのび寄る! 名探偵島田潔と謎の建築家中村青司との組合せが生む館シリーズ最大の戦慄。
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―竹本健治さんに―
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目 次
プロローグ 島田潔からの手紙 7
第一章 七月 11
第二章 八月 41
第三章 九月 55
第四章 十月 76
第五章 十一月 122
第六章 十二月 159
第七章 一月(1) 210
第八章 一月(2) 271
第九章 一月(3) 320
第十章 二月 346
エピローグ 島田潔からの手紙 366
文庫版あとがき 369
解 説 太田忠司 372
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●主な登場人物[( )内の数字は、一九八七年七月時点での年齢]
飛龍《ひりゅう》 想一《そういち》………私。画家。(34)
飛龍 高洋《こうよう》………想一の父。故人。
飛龍 実和子《みわこ》……想一の母。故人。
池尾《いけお》 沙和子《さわこ》……実和子の妹。想一の育ての母。(54)
辻井《つじい》 雪人《ゆきひと》………想一の又《また》従兄弟《いとこ》。小説家。(28)
倉谷《くらたに》 誠《まこと》…………大学院生。(26)
木津川《きつがわ》 伸造《しんぞう》……マッサージ師。(49)
水尻《みずじり》 道吉《どうきち》………管理人。(68)
水尻 キネ………その妻。(61)
架場《かけば》 久茂《ひさしげ》………想一の幼馴染み。大学助手。(34)
道沢《みちざわ》 希早子《きさこ》……学生。(21)
島田《しまだ》 潔《きよし》…………想一の友人。(38)
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プロローグ 島田《しまだ》潔《きよし》からの手紙
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
前略
無事退院したそうですね。先日、母上よりお手紙いただきました。大事に至らなくて何よりです。
本来なら快気祝いに駆けつけたいところなのですが、いろいろと野暮《やぼ》用が多くて当面それもままなりません。とりあえずは書面にて、失礼。
いつまでも若いつもりでいたら、この五月でもう三十八歳になってしまいました。君と知り合ったのが二十二の時だから、かれこれ十六年。陳腐な云い方だけれど、全く時間が経つのは早いものです。
いまだに結婚の予定はなく、定職にも就いていません。いずれ寺を継ぐことになるのかもしれませんが、うちの親父ときたら、まだまだ元気そのものでね。困ったものだ、なんて云ったらバチが当たるかな。
で、息子はというと、相も変わらずあちこち飛びまわり、要らぬことに首を突っ込んでは顰蹙《ひんしゅく》を買っています。旺盛なる好奇心に任せて、などと云えば聞こえは悪くないけど、要は昔からの野次馬根性が治《なお》らないわけで。まあ、年を取った分、多少抑えが利くようになったつもりではいるのですが。
この四月にも、ひょんなことからまた、とんでもない事件に巻き込まれてしまいました。丹後《たんご》半島のT**という村落の外れにある「迷路館」なる家で起こった殺人事|件《*》です。マスコミでもわりと騒いでいたみたいだから、もしかすると何かで読んで知っているかもしれませんね。
縁起の悪い話だけれど、ここ二、三年、僕は行く先々でそういった事件にぶち当たってしまいます。何だか自分が死神にでも取り憑《つ》かれたような……いや、そうじゃない。死神に魅入られているのは僕ではなく、かの建築家[#「かの建築家」に傍点]の手に成る家たちなのだ――と、半ば本気で思いたい気持ちですらあります。
去年の秋、病院へ見舞いにいった時に話していたでしょう? 中村《なかむら》青司《せいじ》という名の建築家のこと、彼が建てた奇妙な建物たちのこと、そして、それらの館で起こったいくつかの事件のこと……。
あの時は、「水車館」の事件に関係した直後だったから、僕も随分と興奮していたようです。場所柄もわきまえず、あれこれ喋りすぎてしまったかもしれません。入院中は読書も禁止されていて君はたいそう退屈がっているようだったし、それに、あの藤沼《ふじぬま》一成《いっせい》や藤沼|紀一《きいち》の名《**》を君が知っていると云うものだから、つい……。
中村青司という人物とその作品≠ノついて、君もかなり興味を持ったようでしたね。同じ芸術家として、やはり何か心|惹《ひ》かれるものがあるのでしょうか。
ところで、また絵は描き始めるのでしょう?
嫌なことは忘れて、良い作品を描いて下さい。学生時代から、僕は君の描く絵が好きです。美術については殆《ほとん》ど素人《しろうと》の僕ですが、君の絵には確かに、ある独特の魅力があると思う。例えば、そう、「水車館」で見た藤沼一成画伯の幻想画に通じるような、何か妖しい魅力が。
長々と下らぬことを書いてしまいました。いずれまた、そちらに足を伸ばす機会もあるだろうと思います。
何かあれば、遠慮なく連絡して下さい。喜んで相談に乗ります。
それでは。母上によろしく。
[#地付き]草々
一九八七年六月三十日(火)
[#地付き]島田 潔
飛龍《ひりゅう》 想一《そういち》 様
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
[作者註]
* ……拙著『迷路館の殺人』(講談社、一九八八年)参照。
**……拙著『水車館の殺人』(同)に登場する幻想画家とその息子の名。
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第一章 七月
1
私が京都にやって来たのは、七月三日金曜日の午後のことだった。
六月が終わってもまだ梅雨《つゆ》は明けきらず、その日も、重く垂れ込めた灰色の空からは生ぬるい雨が降り続いていた。線路沿いに建ち並ぶ新旧のビル、ぼんやりと黒くその背景に浮かんだ山影、狭い道路を埋めた車の群れ、白く、場違いなほどに高くそびえるタワー……。列車の曇った窓から見る風景は、まるでぶれたストップモーションのようだった。
(何て暗い街だろう)
街は、自然とは逆だ。長い雨に打たれることによって、どんどんとその生気が失われていくのだ。
季節と天候が作り出すイメージを、私はそのまま古都の第一印象として持った。
京都には、ずっと昔に一度だけ来たことがあるはずだった。記憶にないほど遠い昔――季節がいつだったのかも忘れたが、おおかたその時にもこの街には雨が降っていて、今日と同じような印象を抱いたのに違いない。
「嫌な雨……」
練色《ねりいろ》の緋《かすり》を着た母が、白い額に浮いた汗をハンカチで拭《ぬぐ》った。
「タクシーを拾ってしまいましょうね。――気分は大丈夫? 想一さん」
私は乗り物に――特に列車に弱い。静岡からの新幹線の車中、名古屋を過ぎた辺りから、だいぶ胸が悪くなっていたのである。
「大丈夫です」
小さく答えて、荷物を持ち直す。が、階段へ向かうせわしない人の流れに、少し足がふらついた。
駅から出ると、改めて空を仰いだ。
雨は強く降りしきっていた。周囲の喧騒《けんそう》を吸い込んで、雨音が絶え間なく鳴り続いていた。母は「嫌な雨」と云ったけれども、私にはむしろ、この雨の音が有難く思えた。
古都、京都。私の父が生まれ、そして死んだ街……。
だからといって、さしたる感慨が湧くことはなかった。
大学の頃に住んでいた東京は勿論《もちろん》、訪れたことのあるいくつかの街にも、生まれ故郷である静岡の街にさえ、私はこれまで愛着というものを感じた経験がない。街は街――どれも同じような、見知らぬ人間たちの群れ集う空間だ。そしてそれはいつも、私にとって心安らぐ場所ではなかったのだから。いつだって……。
「想一さん」
斜めに空を見上げて佇《たたず》む私に、母が心配げに声をかけた。
「どうしました。やっぱり気分が?」
昨年の夏から先月の中頃まで、私は健康を害して長期間の入院生活を強《し》いられていた。そのこともあってだろう、退院以来、母は必要以上に私の体調を気遣《きづか》ってくれる。
「ああ、いえ」
私は緩《ゆる》くかぶりを振って、小柄な彼女の、下からこちらを見る切れ長の目に向かって微笑を返した。
「何でもないんです。タクシー乗り場は――、ああ、あっちだ。行きましょう、お母さん」
父が生まれた街。父が死んだ街。
父――飛龍|高洋《こうよう》が死んだのは、去年の暮れのことだ。六十二歳だったという。けれども、最後に私が彼と会ったのは、一体いつのことだったろう。二十五年――いや、もっと前になるのか。
その顔も、その声さえ、はっきりと覚えていない父親=\―。遠い日の記憶が鮮明に見せてくれるのは、ただ、その男がいつも自分の息子に向けていた、冷たく燃える目だけだ。
2
白川《しらかわ》通りという名の大通りから山手へ入り、いくつかの角を曲がる。京都駅から、タクシーで三十分ほどの場所だった。
左京区《さきょうく》北白川《きたしらかわ》――といっても、京都の地理に全く疎《うと》い私には、そこが市のどういった位置に当たるのか、よく分らなかった。すぐ近くにまで山が迫っているから、街のかなり端っこになるのだろうな。漠然とそう思ったぐらいである。
閑静なお屋敷町、といった風情だった。
少し傾斜を含んだ道路を挟むのは、長く延びた土塀や生け垣。どの家も相当に広い敷地を持っている。大通りの車の音は殆ど聞こえてこない。雨のせいか、道で遊ぶ子供たちの姿もない。
「いいところでしょ」
タクシーを降りた私の頭上に傘を差しかけながら、母が云った。
「静かだし、交通の便もいいし……」
雨は小やみになっていた。細かな雨滴が、緩い風に白く揺れて霧のように見えた。
「さ」
と、母が足を踏み出す。
「ここよ」
云われるまでもなかった。濃い緑色をたたえた山茶花《さざんか》の生け垣――その切れ目にこしらえられた石造りの門柱に、[飛龍]という色|褪《あ》せた表札が貼られていたからだ。
平屋の古い日本建築である。
長く手入れしていないのだろう、下草が丈高く伸びた前庭に、玄関へ続く灰色の飛石。葉を茂らせた桜の木立の隙間に、黄ばんだ漆喰《しっくい》の壁が覗《のぞ》いている。鼠色の屋根の瓦《かわら》は雨に濡れて黒く光り、家全体は何かしらうねる[#「うねる」に傍点]ような感じで、地面にへばりついている。
傘を私に預けると、母が先に、飛石を伝って中へ進んだ。そのあとを追って私が家の軒下に着いた時には、彼女の手によってもう、玄関の引き違い戸の鍵が外されていた。
「荷物を置いて」
と云いながら、母が戸を開く。
「先にアパートの方へ……。水尻《みずじり》さんに御|挨拶《あいさつ》しておかなくちゃね」
戸をくぐった一瞬、視界が暗転した。それほどに、家の中は暗かった。
広い玄関の土間――それを「広い」と実感できる程度に目が慣れるまでに、いくらか時間がかかった。饐《す》えたような黴臭《かびくさ》いような、古い家にはつきものの匂いが、澱《よど》んだ闇の中を我がもの顔で漂っていた。
右手の奥へと、更に土間は続いている。正面奥と左手に、白い襖《ふすま》が見えた。どちらもきっちりと閉まっている。
私は薄閣を横切り、正面の襖を開いた。何も家具を置いていない、がらんとした小部屋が、その向こうにはあった。
ここに――この暗い家に、父はずっと一人で住んでいたのか。
提《さ》げていた旅行|鞄《かばん》をその部屋に放り込むと、私は、もはやこの世の者ではない彼の、あるはずのない視線から逃れようとするかのように、急いで踵《きびす》を返した。――と。
思わず私は、足をすくませた。危うく叫び声を上げるところですらあった。
「これは……」
玄関の戸の、入ってすぐ右側の壁際に、それ[#「それ」に傍点]は立っていた。暗がりと、それからその場所が丁度死角に入っていたため、今まで気づかなかったのだ。
それは、女性――恐らく若い――だった。
若い、というのは、その身体つきから察するところだ。すらりと背が高く、均整もとれている。豊かに膨《ふく》らんだ乳房、くびれた腰……。ただ、彼女には顔≠ニいうものがなかった。頭部は存在するのだが、そこには髪の毛がなく、目も鼻も口もない。斜めにこちらを向いた顔面は、白い、起伏のないのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]なのである。
加えて、衣服を一枚もまとっていない彼女の身体には、片方の腕が欠けていた。右肩のところで、ぷつりと不自然に途切れた線……。
「マネキン?」
彼女は、生きた人間ではなかった。マネキン人形――デパートの売り場やブティックのショーウィンドウの中に立っている、あれ[#「あれ」に傍点]だ。
「何でこんなところに、こんな……」
戸口に立っていた母が、私の疑問に答えた。
「お父様の作られたものです」
「父の?」
「ええ。この家には、他にも沢山あるんですよ」
逆光で、彼女の表情は窺《うかが》えなかった。
「どうして彼が、こんなマネキンなんかを」
「さあ。詳しいことは私も知りませんけど……」
私の父、飛龍高洋は、一時期わりあいに名を知られたことのある彫刻家であり、画家だった。普通の父親≠ニしてではなく、一人の芸術家≠ニしての彼に関する知識ならば、私もある程度は持っている。
一九二四年、京都に生まれる。実業家であった父、飛龍|武永《たけなが》の意向に逆らって美術を志す。一九四九年、二十五歳の年に結婚、親元を離れて静岡市に居を移すが、武永の死後また京都へ戻り、創作活動の場とする。
彫刻では、オーソドックスな素材を用いつつも、非常に抽象的で難解な作品を制作、一方、緻密《ちみつ》な筆致で写実的な静物画を描いた。極度に人付き合いが嫌いで、関係者の間でも変人視されていたが、神戸市在住の著名な幻想画家、藤沼一成とは例外的に親しい交流があったという。
その彼がこんな人形を作っていたとは、全く初耳だった。しかも、よりによってマネキン人形とは……。それは、彫刻における彼の趣味・作風からおよそかけ離れたところにあるもののように、私には思える。
いつから、彼はこういったものを作るようになっていたのだろう。そして、それは一体何故なのだろう。
あるいは、彫刻家飛龍高洋[#「彫刻家飛龍高洋」に傍点]に対する基本的な認識不足ゆえの疑問なのかもしれなかった。とにかく、私が彼について知っていることといったら、本当にたかが知れてるのだ。殊にこの十数年――自分が彼にとってどういう存在であるのか[#「自分が彼にとってどういう存在であるのか」に傍点]を理解し始めて以降、私はずっと、極力彼に対して想いを向けないよう努めてきたのだから。息子として。また一人の、自らも絵筆を持つ芸術家の端くれとしても。
「行きましょう、想一さん。初めてだから、外からまわった方が」
佇む私を、母が促した。
私は右腕のない彼女≠フ裸身から目をそらし、その声に従った。
3
一旦門を出、道を左へ進んだ。
山茶花の生け垣は、その区画の角までまっすぐに続き、角を折れると更に前方に、先程と同じような石造りの門が見えた。あれが「アパート」の方の入口らしい。
古びた木の表札――[緑影荘《りょくえいそう》]。
広い石畳の奥に建つその家に目を上げて、私は驚いた。母屋《おもや》≠ノ当たるさっきの日本家屋とは打って変わって、そこにある離れ≠ェ典型的な二階建の洋館だったからだ。
濃い灰色に塗られた下見板張りの壁。緑青《ろくしょう》で覆《おお》われた銅|葺《ぶ》き屋根。正面二階に広いヴェランダが見える。蔦《つた》の絡《から》まった手すりと大きなフランス窓が、いかにもそれらしい[#「それらしい」に傍点]。
庭に植えられた桜や楓《かえで》の木が、建物を包み込むように緑の葉を茂らせている。長らく庭師が入ったことがないと思われるその様子は、けれども「荒れ放題」といった感じとはまた違う。奔放に育った樹木が、何やら既にその古い館の一部分になってしまっているような、そんな印象なのだ。これは、先程の母屋についても同じように感じるところだった。
この家は元々、私の祖父に当たる飛龍武永の所有物だった。それを父高洋が相続し、自らの仕事場兼住居としたわけだが、実際に彼が使ったのはその母屋だけで、こちらの離れは、かなりの改築を施した上、賃貸アパート(というよりもむしろ、主に学生向けの下宿)として開放していたという話だった。「緑影荘」という名称も、だから、父の命名だということになる。
「大きな家ですね、こっちも。いくつくらい部屋があるんですか」
足を止めて、同じ傘の下に並んだ母に問うた。
「ええと、全部で十ぐらいあるかしらね。でも、二間続きで一部屋にしてあるのもあるから、アパートとしては六部屋だけ」
「入居者はもう揃ったんですか」
「三部屋は……。どういう方たちか、気になりますか」
「いえ、別に」
降り続く小雨の中、私たちは石畳の上を玄関に向かった。
黒い両開きの扉を抜ける。スリッパに履《は》き替え、まっすぐ奥へ進むと、そこは畳敷きにすれば二十畳はありそうな広いホールになっていた。
こちらの建物の中も、やはり随分と暗かった。
床にはモスグレーの絨毯《じゅうたん》、壁はアイボリーのクロス張りである。正面に大きな白枠の窓。部屋の中央から左手奥の階段部にかけては吹き抜けになっており、二階の廊下がその周囲を取り巻いている。二階部分の正面にも下と同様の窓が見えたし、手前――玄関の真上――にはヴェランダ、採光は充分なはずだから、この暗さはおおむね天候のせいなのだろう。
母がつっ[#「つっ」に傍点]と足を進め、向かって右側にあるドアの前に立った。茶色いドアの鏡板には[1―A・管理人室]と表示がある。
「水尻さん。おられますか」
ノックをし、声をかけると、ややあってドアが開いた。
「どなた……あれまあ、奥様」
顔を出したのは、白髪の老婦人だった。年はもう六十過ぎだと聞いているが、母よりも一まわり大きな体格で、姿勢も肌の色もいい。
「いらっしゃいまし」
皺《しわ》だらけの顔をくしゃりと崩し、彼女は深々とお辞儀をした。
「今、着かはったんですか」
「ええ。たった今」
母はそして、斜め後ろに立っていた私の方を示し、
「想一です。今日からよろしくお願いしますね」
「想一さん……」
感慨深げに丸い目をぱちぱちさせると、老婦人はくるりと部屋の中を振り返り、
「あんたぁ、飛龍のぼっちゃんが着かはったよ」
少し嗄《しわが》れた、高い声を張り上げた。
元気そうな夫人に対し、呼ばれて出てきた夫の方は、ひどく腰の曲がった、見るからに年老いた男だった。上背はわりにある方なのだろうが、姿勢のせいで随分と小さく見える。
「おお。よう来はったの」
聞き取りにくいがらがらした声で云いながら、老人は目を細め、私と母の方へ亀のように首を突き出した。
「想一です」
と、もう一度母は私を示し、それから今度は私に向かって、
「水尻さん御夫婦よ。道吉《どうきち》さんとキネさん」
祖父の代から飛龍家に仕えてきたという夫妻である。父が家を継いでからは、この緑影荘の管理人を務めてきた。今回ここへ越してくるに先立ち、私たちはアパートの経営を続けると決めた上で、引き続きその管理を彼らに任せることにしていた。
「よう来はったの、ぼっちゃん。まあ、大きいならはって」
云いながら、老管理人はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。曲がった腰を伸ばし、突き出した首をぐいと持ち上げて、私の顔に目を近づける。
「ほんま、大きいならはったのう。ちょっと、よう顔を見せてくれなはれ」
「すんませんね、ぼっちゃん。この人もう、年で目が弱くなってきてはって」
夫人が申し訳なさそうに頭を下げるのを気にするふうでもなく、
「いやあ、ほんま、大きいならはった」
道吉老人は、しきりに頷《うなず》きながら同じ台詞《せりふ》を繰り返した。
「この前に来はった時は、まだほんの子供やったのになあ」
「この前?」
私は、老人の吐きかける生暖かい息から顔をそらしながら、
「それは、いつの……」
「覚えてはりませんか」
「一度京都へ来た記憶はあるんですけど、かなり昔のことだから、はっきりとは……」
「何年前になりますかなあ。武永様のお葬式の時でしたかいなあ」
祖父の葬儀の時、というと、確か私がまだ小学校へ上がったばかり――三十年近くも前のことである。
「わたしもよう覚えてますわ」
夫人が、しみじみとした調子で相槌《あいづち》を打った。
「亡くならはった実和子《みわこ》奥様に手ぇ引かれて、お坊さんのお経の声、怖がって泣いてはったねえ」
「いやあ、それにしても、よう似てはる」
と、道吉老人が云う。
「似てる? ――父にですか」
「そうやなあ、高洋様にも似てはるが、それよりか武永様のお若い頃にそっくりや。――な、お前」
「ほんまに」
祖父の顔は、全く知らない。写真すら見たことがないのだ。そのせいだろうか、孫なのだから似ていても別に不思議なことではないはずなのに、私は何だかひどく妙な心地になった。
4
お茶を飲んでいかないか、夕飯を一緒にどうか……と、老いた管理人夫婦はしきりに私たちをもてなしてくれようとした。そのいちいちを、母が丁寧に断わった。
人見知りの激しい私だが、彼ら夫妻の誠実そうな人柄には、いくらかほっとするものを感じた。もう少しいろいろと――特に父や祖父のことについて――話したい気もしたのだけれど、それにしては母も私も疲れていた。
「どうです? あの人たち」
夫妻が部屋に引っ込むと、母が私の耳許《みみもと》に口を寄せた。
「優しそうな人たちだと思いますけど」
「想一さんは『おぼっちゃん』だものね。ええ。いい人たちよ。それに、道吉さんの方はともかくね、キネさんの方はまだとってもしっかりしてるから、こちらのことは任せておいて間違いないでしょう」
私は曖昧《あいまい》に頷きを返しながら、吹き抜けのホールの中央に身を移し、何となく目を上に向けた。
高い天井からは、大きなシャンデリアがぶら下がっている。相当な年代もののようだ。弧を描いて二階へ向かう幅広の階段から、ホールの二階部を巡る廊下の手すりへ、ぐるりと視線を運ぶ。
「お母さん」
ふと衝動にかられ、私は母を振り向いた。
「ちょっと、上へ上がってみていいですか」
「あら。じゃ、一緒に見てまわりましょうか」
「いや、お母さんは先にあっちへ戻っててくれていいですよ。僕一人で見てきますから」
「そうなの?」
母は少し心配そうな顔をしたが、すぐに表情を和《やわ》らげ、
「じゃあ……。ああ、そうそう。この奥の廊下、ずっと行ったら母屋に通じてるから、そっちを通って戻ってきたらよろしいわ。靴は持っていってあげますから」
「ええ」
それじゃ、と目配せして、母は玄関に向かった。いまだ若々しく豊かな髪を結い上げたその後ろ姿――白いうなじの色がその時、何故かしら、先程母屋の玄関で出会ったマネキン人形の色に重なった。
私は独り階段を昇った。
昇りきったところは、表のヴェランダに出るフランス窓を前にちょっと広いスペースが取ってあり、この部分にも、ここから左回りにホールを取り巻く廊下にも、下と同じモスグレーの絨毯が敷かれていた。
クリーム色の塗装がかなり剥《は》げ落ちたフランス窓を開け、私はヴェランダに出てみた。雨がまた幾分きつくなってきていたが、庇《ひさし》の下まで吹き込んでくることはない。
さっき外にいた時には感じなかったのだけれど、外気に触れた途端、強い緑の匂いがぷんと鼻腔《びこう》を刺激した。前庭に植わった樹木の枝が、重く濡れた葉でしなり、鼻先で揺れている。
私は大きく息を吸い込みながら、ヴェランダの中央へ進み出た。
雨に煙って遠くまでは見渡せないが、家自体が高台にあるおかげで、眺めはなかなか良い。梅雨《ばいう》に濡れそぼった家並、通りを流れる車の影……。東京や他の大都市のような高層建築は殆ど見られない。
低い家々の屋根にのしかかった鉛色の空を見ながら、何て暗い街だろう、とまた、私は思った。
父が生まれ、死んだ――この街、この家。
今、私はやって来た。今、私はここにいる。
私、飛龍想一は、一九五三年の二月五日、父高洋と母実和子の間に生まれた。故郷は静岡市――既に将来の志望のことで祖父と対立していた父が母と駆け落ちし、二人の生活を始めた街である。実和子は、当時京都の料亭で働いていた娘で、二人の結婚は当然のごとく、祖父の猛反対を受けたのだった。
父には弟が一人いた。祖母は戦時中に亡くなっていた。祖父は長男と縁を切り、この次男を自分の跡取りにするつもりだったらしいが、丁度私が生まれた頃、彼は未婚のまま病死してしまった。そういうわけもあって、まもなく祖父と父とは一応の和解を成立させることになる。
やがて祖父が逝《ゆ》き、父はその莫大な遺産の全てを相続した。それが今から――確かそう、二十八年前、私が六歳の年のことだったという。当時父は三十五歳、ようやく彫刻家として世に認められようとしていた頃だった。夫婦は、母の生まれ故郷でもあった静岡から、近い内にまた京都へと居を移すことにしたらしいのだが……。
そんな時だった。母実和子が、不慮の事故でこの世を去ったのは。
そして――。
父は独り、この京都に戻った。一人息子の私は、その父の強い意向で、同じ静岡に住んでいた母の妹、沙和子《さわこ》とその夫|池尾《いけお》祐司《ゆうじ》の許に預けられることとなった。以来、一度とて私は、実の父である高洋の顔を見ることなく、声を聞くこともなく、育てられてきたのだった。
私は子供ながらに、自分を残して去った父の心に想いを巡らせ、そこに自分へ向けられた冷たい感情を察知しつつ、池尾の叔父《おじ》と叔母《おば》を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになった。子供のいなかった池尾夫妻は、文字通り実の息子のように私を愛し、育ててくれた。
今私が「母」と呼んでいる女性は、だから、私の本当の母ではない。母実和子とは五つ年の違う妹、沙和子叔母である。育ての父である池尾の叔父は、十年前に死んでいる。
祖父が死に、父はこの家に帰ってきた。そしてその歴史を繰り返すように、今度は父が死に、私がここへやって来た……。
駅に降り立った時にはまるで湧いてくることのなかったある種の感慨が、ようやく胸の奥深いところで首をもたげようとしていた。
父の死は、自殺だった。雪の夜、この家の内庭で、桜の木に首を吊って死んでいたのだという。
思い出すことがあまりに多くある。考えなければならないことがあまりに多くある。父のこと、実和子と沙和子――二人の母≠スちのこと、そしてこの私自身のこと……。
複雑な想いに捉《とら》われながら、私はしばし、雨に煙る風景にぼんやりと目を馳《は》せていた。
風が急に勢いを増し、こちらに向かって吹きつけてきた。それに乗って、大粒の雨滴がいくつか、ぴちゃりと頬を打つ。
いつのまにかヴェランダの手すりに身を寄せていた私は、はっと後ろへ退き、顔を伝う滴《しずく》を拭った。
その時――。
視界の隅に、ふと黒い人影が留まった。
(――?)
門の前の路上だ。透明なビニール傘を差し、この館をじっと見ている。黒いシャツに黒いズボンという服装からして、男のようである。
とりたてて不審な行為に見えたわけではない。はっきりと顔の造作が見て取れたわけでもなかったのだけれど、何故かしらその人物の様子は、私を落ち着きのない気分にさせた。
(誰だろう)
(何をしているのだろう)
別に特別なことをしているわけではない。ただ、家を見ているだけだ。このヴェランダに私がいることに気づいているのかいないのかも、分らない。
(誰……)
[#地付き]……ん!
いつか、どこかで会ったことがあるような、そんな気がした。もっとよく顔が見えれば、誰なのか思い出せそうな気も。
[#地付き]……くん!
やがてしかし、その人物はすっと向きを変え、雨の降る道を静かに歩み去っていった。
5
ヴェランダから中に戻ると、ホールの周囲を巡る二階の廊下の、向かって右奥の隅に誰かが立っていた。
一瞬ぎくっとしたが、すぐにそれは、母屋の玄関にあったのと同じマネキン人形であることが分った。全裸の若い女性――ここから見る限り、その顔は、これもやはりのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]である。そして、斜めに、内庭に面した正面の窓の方を向いた彼女の身体には、今度は左の腕が欠けている。
この人形もまた、父高洋が作ったものなのだろうか。こんなものをこの離れにまで飾っておいて、アパートの住人たちに気味悪がられはしないのだろうか。
人形の手前に、ドアが一枚あった。丁度一階の管理人室の真上に当たる部屋で、[2―A]という表示が見える。
奥の廊下へ出てみたい気もしたのだが、じっとそこに佇む彼女≠フ姿には、妙に近寄りがたい雰囲気があった。気味が悪いのもさることながら、目も鼻も口もないその横顔に、何故だろうか、この私に対する拒絶の表情を感じてしまう。
結局、私はすごすごと、昇ってきた階段の方へ引き返した。
*
母に云われた通り、ホールの奥の廊下を母屋に向かう。が、角を二つ折れたところで、私は思わず足を止めた。
突き当たりの角に、また人形がいる。
右手に並ぶ窓から射し込む弱い光に微妙な陰影を刻まれた、白いのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の顔。一瞬その顔だけが、宙に浮いているように見えた。というのも、今度の人形には胴体の上半分がなかった[#「胴体の上半分がなかった」に傍点]からだ。
下半身はちゃんと存在する。両方の腕もある。ただ、腹から肩にかけての部分がなく、その代わり十字型に組み合わせた黒い棒が通っていて、腰と頭部、両腕をつないでいるのである。
一体この家には、このような人形が何体あるのだろう。それがこうして、今も家のあちこちに置かれたままなのは、あるいは死んだ父の遺志であったりするのだろうか。
足を止めたまま、少しの間私は、あまりにもいびつなその人形の姿に視線を凍らせていた。
カチャッという金属の音が、突然響いた。
音に合わせ、棒から生えた人形の腕が僅かに動いたような気がして、私は瞬間その場を逃げ出さんばかりに驚いたのだが、実際に動いたのは人形ではなく、左手に見えていたドアだった。
「――あ?」
そのドアから出てきた人物も、廊下の端に佇んで顔を引きつらせている私に気づいて、多少面喰らったようだった。
中肉中背の、青白い顔をした青年である。膝の出たブルージーンに、黄色い皺くちゃのシャツを着ている。年は二十代の後半というところか。
「あ……何か?」
艶のない硬そうな髪の毛に指先を潜り込ませながら、彼は不審げにこちらを窺った。
「いや、僕は……」
「ああ。新しく入る人? どの部屋に?」
「いや、あの」
私はうろたえつつ、右手の窓の方へ目を向けた。広い内庭を挟んで、母屋の日本建築が見えている。
「あっちの母屋の方に、今日……」
「は? ――ああ、何だ。大家さんですか」
「ええ、まあ」
「飛龍――想一さん?」
「そう。どうして名前を」
「お母さんには前に会ってますからね。その時に話を聞いたわけで」
云いながら、青年はドアを閉め、私との間を何歩か詰めた。
「僕は辻井《つじい》といいます。辻井|雪人《ゆきひと》。この[1―B]に住まわせてもらってます」
細い頬。顎《あご》がやや前へ突き出している。三白眼とまではいかないが、白い部分の方が目立つ一重瞼《ひとえまぶた》の目に愛想笑いのような色を浮かべ、彼はじっと私の顔を見た。
「しかしね、羨《うらや》ましい話ですねえ。元を辿《たど》ればおんなじ血なのに、あなたはこの広い家の主《あるじ》、こっちは間借り人だ。世の中の不公平を痛切に感じてしまいますねえ」
「同じ、血?」
「おや」
辻井は、それは心外だと云わんばかりに薄い眉をひそめながら、
「僕のこと、聞いてないんですか」
「アパート関係のことは、全部母に任せきりで……」
「父親が従兄弟《いとこ》同士だったんですよ。又従兄弟、ってことになりますか」
「はあ」
私はただ、きょとんとするばかりだった。
実の父親でさえ、私にとってはずっと遠い存在だったのだ。その父方の親戚だ、又従兄弟に当たるんだ、と云われたところで、ぴんと来るはずがない。
「僕の家も、昔は随分と羽振りが良かったらしいんだけど、今や見る影もなく落ちぶれちまってね。親父はしがない中学教師でしたよ。八年前にもう死にましたけどね。いつも、京都の飛龍の家のことを羨んでいた」
「…………」
「絵を描いてるそうですね」
「ええ、まあ」
「売れますか」
「いや、あまりそんな、お金に替えることは、考えてないもので」
「ふうん。優雅なもんだな」
「あなたは、仕事は?」
「僕ですか」
辻井は何だか卑屈な含み笑いを見せ、
「僕は、一応作家ってことになってるんですがね」
「作家? 小説か何かを?」
「そう。辻井雪人はそのペンネームで」
これは後に母から聞いたことだが、かねてより小説家志望であった彼(本名は森田《もりた》行雄《ゆきお》という)は、二年ほど前にある小説誌の新人賞で念願の入選を果たした。その後いくつかの短編を発表したにはしたが、どれも大した評判にはならず、まだ単行本を出すには至っていない。
今年の初め、父高洋が死んだことを聞きつけ、緑影荘に安く住まわせてくれないかと母に申し入れてきたのだという。現在は、近くのコンヴィニエンス・ストアでアルバイトをしながら、執筆に取り組んでいるらしい。
「どんな小説を書いてるんです?」
と、そこで私は、ささやかな興味に捉われて訊《き》いた。辻井は同じ卑屈な笑みを含んだまま、
「本来は純文学をやってるんですがね、今はちょっと目先を変えて、ミステリでも書いてみようかと案を練っていて」
「推理小説、ですか」
「例えば、この洋館を舞台にして」
と、彼は高い天井を見上げ、それから背後へと目を移した。廊下の突き当たりに立つマネキン人形に、そしてぴたりと視線を留める。
「それらしい小道具も揃ってる。『人形館の殺人』――とかね、どうです? 面白そうでしょう」
私が何とも答えあぐねていると、
「じゃあ、僕は――」
そう云って、辻井は足を踏み出した。が、私の横を通り過ぎたところで、すぐにまた立ち止まり、
「ああ、そうだ」
振り返って云った。
「あのね、いきなりで悪いんですけど、できれば別の部屋に替えてもらえないかな。どうもその、落ち着かなくて。近所の子供が庭に入ってきて遊ぶし、隣の倉谷《くらたに》っていう大学院生、ギターを弾《ひ》くもんでね、うるさくって仕事になりゃあしない」
母と相談しておく、と答えて、私は彼と別れた。
6
モスグレーの絨毯の道は、やがて一枚のドアを隔てて、一段高くなった板張りの廊下に続いていた。ここが、離れと母屋との連結部らしい。壁や天井の造りも、洋風から和風のそれへと変わっている。
微《かす》かに軋《きし》みを発する廊下を、すり足で進む。左に折れ、右に折れたところで、廊下は二手に別れる。
まっすぐに延びた片方は、薄暗い家の中を縦断して玄関へと続いている。左に折れたもう片方は、少し行くと行き止まり。そして、この突き当たりに立っているのは……。
私はまた、息を呑まざるをえなかった。
顔のないマネキン人形――。今度の場合、「顔のない」というのは「のっぺらぼう」という意床ではない。文字通り顔が存在しない。首から上の頭部そのものが欠けているのだ[#「頭部そのものが欠けているのだ」に傍点]。
その人形の手前左側に、大きな観音開きの扉が見えた。
若干の踏躇《ちゅうちょ》の後、こちらを向いた首なし[#「首なし」に傍点]の人形からは目をそらしながら、私はそちらの廊下に進んだ。何となく他とはたたずまいの異なるその扉に、興味を惹かれたからだった。
漆喰を厚く塗られた、重く頑丈そうな扉。二枚の扉の合わせ目には錠前を付けるための鉄の金具があるが、錠は掛かっていない。
私は扉を開けた。蝶番《ちょうつがい》が錆びついているようで、派手な軋み音を立てたけれども、そのわりには大した抵抗もなく開いた。
だだっ広い部屋だった。
廊下の倍ほども高さがある天井、剥き出しの梁《はり》、壁の上方に切られた小さな明り採《と》りの窓……。すぐに私は、「蔵」という言葉を思い浮かべた。
そういえば、母屋の玄関からアパートの方へまわる途中で、白壁の立派な土蔵を見た。これはきっと、あの建物の中なのだ。
光の量は少なかった。廊下の薄暗さよりも、更に暗い。
目を凝《こ》らす内、やがてその暗がりの中に潜《ひそ》むものたちの姿が見えてきた。
(これは)
中の壁に伸ばした右手が、スイッチらしきものを探り当てた。押すと、梁に取り付けられた蛍光灯が明滅を始める。
(これは……)
光の下に晒《さら》された蔵の内部。それは異様な光景だった。
人形たちの集会場――。
衣服をまとわぬ白いマネキン人形たちが、部屋のあちこちに転がっている。全部で二十体――いや、もっとあるだろうか。あるものは片腕がなく、あるものは片足がない。両腕がないものや下半身がないものもある。そして、若い女性の身体つきをしたそれらの全てには、やはり顔≠ェ(のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]であるという意味で)欠落しているのだった。
私は恐る恐る、その群れの中へ足を踏み入れた。
人形たちに混じって置かれた、イーゼルやキャンパスなどの画材に気づく。彫刻の道具もある。すると、ここが――この暗い土蔵が、父飛龍高洋の仕事場だったということか。
部屋の中央付近にあった丸いストゥールに腰を下ろし、私はシャツの胸ポケットを探った。煙草を取り出し、くわえる。
父のアトリエ――この街に戻り、自ら命を絶つまでの三十年近くの時間、独り創作活動を行なってきた空間……。
元々偏屈者で通っていた高洋は、殊に晩年ますます人嫌いが激しくなり、この家に閉じこもってめったに人と会おうとしなかったらしい。新しい作品が発表されることもなくなっていた。その間、彼がここで取り組んでいたのが、このマネキン人形たちの制作だった?
この人形たち――。
彫刻や絵画の作品については、既に全てが人手に渡っており、高洋自身の所有物として残っているものは一点もないと聞いている。つまり、およそ芸術的価値とは無縁であるように見えるこのマネキンたちだけが、この家に残された彼の作品≠セということになる。
彼はここで何を想い、何を求めたのか。何をその目で見、どんな情熱に捉われ、この人形たちを作ったのだろうか。
顔のない彼女≠スちに囲まれて、殊更にゆっくりと煙をくゆらせる。澱んだ空気の中で揺れる紫煙に包まれながら、そうして私は、ようやくの思いで、一つの解答を自分自身に示すことができた。
それは[#「それは」に傍点]、母だ[#「母だ」に傍点]。
彼の妻、私の実の母――飛龍実和子だったのではないか。
あるいは、この家の玄関で最初の人形と会った時から、私はそのことに気づいていたのかもしれない。気づいていて、ただそれを認めたくなかっただけなのかもしれない。
二十八年前の秋、若くして逝《い》った母。父は彼女を、強く愛していた。強く――そうだ、そのあまり、息子であるこの私のことを憎んでしまう、それほどに強く。
直接彼の口から聞いたわけではない。けれども私には(冷たく燃えていたあの目……)分る。
彼にとって私は、妻実和子との愛の結晶などというものでは決してなかった。彼女の心を奪い、彼女の生命を喰らって成長していく、得体の知れぬ化物でしかなかったのだと思う。
もしかすると父は、私の中に自分自身を見ていたのかもしれない。愛する女を、もう一人の自分が奪っていく。そんな救いのない恐れに捉われていたのかもしれない。それともあるいは、更に血を遡《さかのぼ》って、彼は祖父武永の姿をそこに見つけたのだろうか。
『高洋様にも似てはるが、それよりも武永様のお若い頃にそっくりや』
さっきの水尻老人の言葉……。
このアトリエで、父はひたすら、死んだ実和子の幻を追い続けていたに違いない。静物画にも抽象的な彫刻作品にも、恐らくここで創造した彼の全ての作品の根底には、彼女の死への嘆きや怒り、彼女との思い出……あらゆる彼女に対する想念が秘められていたに違いない。
(そして……)
私は更に想像の網を広げる。
老いるに従って次第に風化していく彼女の記憶を、やがて彼は、何とかそのままの形で[#「そのままの形で」に傍点]取り出したいと考えた。それまでのような象徴的な表現でではなく、自分が愛した女性の、そのままの身体を、顔を――見、話しかけ、触れ、抱きしめることのできる形で復活させたいと望んだのではあるまいか。
その結果が、この人形たちだったのだ。
彼女たちに顔≠ェないのは――それは、父がついに、実和子の顔を見失ってしまったということなのだろうか。いや、それとも……。
老いと孤独に疲れ、彼は自らの生を葬ったという。異形《いぎょう》のままに遺《のこ》されたこの人形たちに、その時まで彼は何を語りかけていたのだろう。
短くなった煙草を指に挟んだまま、私は立ち上がった。思い思いの形、姿勢で静止した人形たちを、複雑な気持ちで見まわす。
(お母さん……)
白いのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の顔の上に、微かに記憶に残っている実の母親の面影を映してみることは、しかしどうしてもできなかった。
「想一さん」
どこかで小さく、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「想一さぁん」
あれは、沙和子叔母――いま一人の、私の母≠フ声だ。
ふと夢から覚めたような気持ちで、私は扉の方へ向き直った。離れから戻ってくるのが遅いので、心配して探しているのだろう。
はい、ととりあえず返事をして、私は蔵から出た。
――――1
不意に、――[#「――」に傍点]は目を覚ました。
真っ暗な部屋。闇に覆われた静寂。
深夜だった。空気は重く湿っていて蒸し暑かったが、それをとりたてて不快に思うこともない。
(……あれは)
眠りの合間の、ほんの短い時間の覚醒だった。
(あれは……)
(……そうだ)
再び、今度はゆるりと眠りの中へ滑り落ちながら、――[#「――」に傍点]は自分の中に存在し続けているその意志を確認した。
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第二章 八月
1
京都の夏は暑いと聞いていた。
三方を山に囲まれ、海がない。盆地に特有の蒸し暑さには、凌《しの》ぎがたいものがあると聞いていた。冬は逆に、底冷えがひどいという。
けれども、七月が終わり、八月が中旬に入っても、私はさほど暑さに悩むことはなかった。
ここ何年か決まったように囁《ささや》かれる「異常気象」(今年は全国的な冷夏らしい)のせいだろうか。あるいは、家の立地環境が良いおかげかもしれない。窓を開け放していると、一日中涼しい風が吹き込んできてくれる。クーラーはあるのだが、使ったのはまだ数えるほどだ。
もっとも、この家に住む人間の全てが、私と同じようにこの夏を感じているわけでもない。
管理人の水尻夫妻は、顔を合わすたびに「暑いですなあ」を連発する。
先月下旬から二階南端の[2―A]に部屋を移した辻井雪人は、暑くて仕事にならないと愚痴をこぼす。窓を開けると子供の声がうるさくて仕方ない、エアコンを付けたいから金を都合してくれないか、などと訴えてもきたが、これは母が断わったようだ。
緑影荘の入居者は、辻井の他に二人いる。
一人は、[1―C]に入っている倉谷|誠《まこと》という二十六歳の青年で、K**大学の大学院生。一度私のところへ挨拶にやって来たのだが、あまり学究の徒といった感じのしない若者だった。小柄で、気さくによく喋る。理学部の博士課程に在籍していて、動物学を専門にしているらしい。
もう一人は、[1―D]の木津川《きつがわ》伸造《しんぞう》という男。職業はマッサージ師。夕方から夜にかけて仕事に出ていく。目が不自由で、真っ黒なサングラスをかけ、いつも白い杖を持っている。年はもう五十歳ぐらいだろう。何年か前に細君を亡くし、以来一人で生活しているとのこと。
アパートの部屋は、まだ三室が空室のままである。何人かの希望者が部屋を見にくることはあったが、結局話はまとまらなかった。それにはどうも、近所の噂――「半年前に死んだ。『人形屋敷』の前の主人は、気が狂った挙句[#「気が狂った挙句」に傍点]、庭で首をくくったのだ」という――が原因しているらしい。
そういった話を仲介業者から聞いて、母はもう入居者募集の広告を出すのをやめたようだ。
*
私はあまり外出することがない。
朝、時々散歩に出るのと、夕方に行きつけの喫茶店へ足を運ぶ以外は、たいがい家にいる。
どの部屋を自分のアトリエに使うかについては、たいそう迷った。
母屋の和室は適当ではない。洋館の方の空室を使うことも考えたが、アパートの住人たちと顔を合わせる機会が増えるのは避けたかった。結局そこで、私は例の土蔵を選ばざるをえなかったのだ。
最初の内はさすがに、あまり良い気持ちではなかった。
あの部屋の中にいると、そう意識せずともつい、死んだ父や母実和子のことへと想いが引き寄せられてしまう。実和子の復活≠意図して……と私が想像する父の作品≠スちに対しては、共感よりもむしろ違和感の方が強かったし、そもそも、のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]のマネキン人形の姿そのものが、やはり不気味でもあった。
といって、彼女≠スちを始末してしまうわけにもいかないのだった。玄関や廊下に飾られているものも含め、この家に残された人形たちは全て、今ある場所に置いたまま動かしてはならない、と父の遺言が命じていたからだ。
時間が経つに従って、しかし、そういった抵抗感も徐々に薄れていった。
顔のない人形たちも、慣れてみればどうということはない。そこに込められた父の情念にしても、私に対する彼の(恐らくは憎しみ[#「憎しみ」に傍点]の)感情にしても、結局はもう過ぎ去ったことだ。何ら、私の現在に拘束力を持つものではない。
そんなふうに割り切ることが、最近どうにかできるようになってきていた。
目下のところ、このアトリエを私は結構気に入っている。何よりも、静かなのがいい。あまりこもりっきりだと母が心配するのだが、一日の内ここで過ごす時間はだんだん増えてきているようである。
そこでは、気の向くままに絵を描いていることもあれば、本を読んでいることもある。レコードを聞くこともする。何もしないでただぼうっとしている時間も、わりあいに多い。
2
八月十六日、日曜日。
夕方の五時過ぎ、いつものように私は家を出た。行き先は「来夢《ライム》」という名前の喫茶店である。
南北に走る白川通りをいくらか下がった[#「下がった」に傍点]西側に、この店はある。「下がる」とは、京都の街では「南へ行く」という意味で、恐らく、主要な道路が碁盤の目のように通りたこの街に独特の云い方だろうと思う。少なくとも私は、他に例を知らない。
夕刻のこの時間に「来夢」でコーヒーを飲むのは、ここ二週間ばかり日課のようになっていた。
十数人も入れば満席になってしまう狭い店だ。窓は、通りに面して一つあるだけ。苦すぎるコーヒーの味とうるさすぎることのないBGM、無口なマスターと疎《まば》らな客……。どこといって取柄のない、むしろ今の流行からは取り残されたようなうらぶれた喫茶店だけれども、その乾いた感じの暗さが、なかなか私の好みに合っていた。
「いらっしゃい」
鼻の下に髭をたくわえた中年のマスターが、カウンターの中からぼそりと声をかける。客は、奥の隅に大学生風の若者が一人いるだけだった。俯《うつむ》いて黙々と漫画雑誌を読んでいる。
コーヒーを頼むと、私は窓際の席に坐った。
あまり天気は良くない。薄曇りの空の下、街にはそろそろ夕暮れの気配が漂い始めていた。ガラス越しに見る風景に重なって、ひょろりとした、いかにも脆弱《ぜいじゃく》そうな私の上半身が薄く浮かんでいる。
歩道を行く人の姿をぼんやりと眺めながら、煙草を一本灰にする。丁度その頃に、注文のコーヒーは運ばれてくる。
「天気、何とかもちそうだねぇ」
カップをテーブルに置きながら、珍しくマスターが話しかけてきた。
「――は?」
「いやね、今日は送り火だから」
「ああ、大文字《だいもんじ》ですか」
そういえば、今朝母も云っていた。今出川《いまでがわ》通りまで出ればすぐ近くに大文字山が見えるから、一緒に見にいってみようか、とも。
「送り火は、やっぱり凄いねぇ。毎年見にいくけど、ありゃあやっぱり凄い」
「はあ」
「山を字の形に燃やすなんて、最初に考えたのは一体誰なんだろうなぁ」
こちらの反応を気にすることもなく、ぶつぶつと独り言のように云う。私はちょっと呆気《あっけ》にとられながら、はあ、と生返事を繰り返した。
砂糖は入れず、ミルクを少しだけ垂らして、苦いコーヒーを啜《すす》る。酒は殆どやらないが、この十何年、コーヒーと煙草だけは切らしたことがない。
前の客が戻さずにおいたのか、テーブルを挟んだ向かいの席に新聞が置いてあった。新しい煙草に火を点《つ》けようとした時、その紙面に印刷された黒い文字が、ふと目を引いた。
『北白川|疏水《そすい》に子供の他殺死体』
そんな見出し文句だった。
普段、私はあまり新聞を読まない。今日の朝刊も、そういえばまだ一面すら目を通していない。
社会面を表にしてたたまれていたその新聞に、私は手を伸ばした。
わりに大きな記事だった。隣のページには、奈良で起こった列車の脱線事故がでかでかと報じられている。昨夜発生したというこの事故のことも、私は今まで全く知らないでいた。
『北白川疏水に子供の他殺死体』
もう一度、太宇の見出しを目で辿る。
「北白川疏水」というと、ここから少し西に入った辺りを流れている、あの細い川のことだろうか。あの近辺なら、時々散歩で通るところだが。
┏[#ここから□囲み]
[#ここから0字下げ、折り返して1字下げ]
十五日午後九時五十分頃、京都市左京区北白川**町の北白川疏水に、同町に住む会社員|上寺《うえでら》仁志《ひとし》さん(三五)の長男|満志《みつし》ちゃん(五)の死体が浮かんでいるのが発見された。
母親の和子《かずこ》さん(二八)によれば、午後六時頃、外で遊ばせていた満志ちゃんの姿が見えないことに気づいたという。すぐに派出所に届けたが、満志ちゃんは見つからなかった。死体を発見したのは、近所に下宿しているK**大学工学部二回生|高橋《たかはし》良太《りょうた》さん(二一)で、疏水べりを歩いていたところ、偶然水に浮いていた赤い服を見つけ、不審を覚えたとのことである。
検屍の結果、死因は窒息死。首に残っていた痕跡から、扼殺《やくさつ》と判明した。警察では殺人事件と断定、所轄《しょかつ》下鴨《しもがも》署に捜査本部を設置し、捜査を始めている。
[#ここで字下げ終わり]
┗[#ここまで□囲み]
続いて、被害者の父母や発見者である学生の談話、変質者の仕業か営利誘拐をもくろんで抵抗された挙句の犯行か、といった問題に関する警察の見解等が載っていた。
(咋日の夕方……)
六時頃、といえば、丁度この店を出て家に向かっていた頃である。その同じ時間に、同じ街の、何キロも離れていない場所でこんな事件が起こっていたとは……。
親たちは嘆き、悲しみ、犯人に対する怒りで我れを失っていることだろう。死体を発見した学生は、しばらくは悪夢に悩まされることだろう。同じ年頃の子供を持つ近所の親たちは、我が子の無事を喜ぶと同時に、いつ自分たちの上に降りかかるとも知れぬ災厄に戦々|兢々《きょうきょう》としていることだろう。
そういった当たり前な物想いとは別のところで、さわさわと奇妙な動き方をしている心の部分があった。それは――
[#地付き]……ん!
何かしら、穏やかならぬもの。何かしら、身震いを誘《いざな》うもの。
[#地から4字上げ]……まるで、巨大な蛇の
嫌な感じだった。正体がはっきりしないだけに、その嫌な感じはいっそう増幅されて、私の神経を苛立たせた。
煙草を吸おうとして、箱が空なのに気づいた。
「すみません」
カウンターに向かって声を投げる。
「あのう、セブンスター、ありますか」
そして私は、怖いものでも扱うような手つきで、新聞をマガジンラックに戻した。
3
帰りの道で、緑影荘の住人の一人、マッサージ師の木津川伸造と出会った。
仕事に出かけるところなのだろうか。白い杖を突いてゆっくりと坂道を降りてくる。
会釈しようとして、彼にはどうせ見えないのだな、と思い直した。黒いサングラスをかけた四角い顔はまっすぐに私の方へ向けられているが、彼が見ているのはただ、決して光の射すことのない闇だけなのだ。
あえて声をかけることもせず、すれちがった。その時、
「今晩は」
全く思いがけず、木津川の口から嗄れた声が発せられた。
「えっ?」
私はびっくりして立ち止まり、
「あの……」
こちらを向いた彼の顔を凝視した。彼は何やら満足げに頷いて、
「飛龍さん?」
「は、はい」
どうして、目の見えないはずの彼に私が分ったのだろう。
「ほ、ほ。驚いてはる」
「…………」
「何十年も目が見えん生活しとると、人間、逞《たくま》しいもんでなあ、ちょっとした匂いとか音とかで、周《まわ》りの様子、分るようになります」
盲人が私たちよりもずっと鋭い知覚を持っているというのはよく云われることだけれど、それにしても、今の場合はあまりに不思議だった。足音と体臭だけで、この男は私が飛龍想一だと分ったことになる。こちらへ越してきてから、私はまだ彼と一度しか言葉を交わしたことがないというのに。
「ですけど……」
私が口を開きかけると、木津川は「ほ、ほ」とまた笑って、
「いやいや。今のは殆と当てずっぽうですわ」
「当てずっぽう?」
「毎晩、仕事の行きしなにやってみるんです。家《うち》を出て最初にすれちごうた人に、こっちから挨拶してみます。相手が知り合いやったら、出さはった声でどなたか分りますやろ?」
「はあ、成程」
「その日の運試しみたいなもんですな。死んだ嫁はんは、そんな人の悪いことやったらあかんて云《ゆ》うてましたがなあ」
そして木津川は大きくお辞儀をすると、前に向き直り、坂を降りていった。
4
夜、母と送り火を見にいった。
午後八時に火が入るというので、夕食はあとまわしにして、七時半には家を出た。白檀《びゃくだん》の扇子《せんす》を持ち、白い紬《つむぎ》の着物を着た母の姿は、もう五十代も半ばに差しかかろうとしているとは思えぬほど艶《あで》やかに見えた。
白川通りを今出川まで下がる[#「下がる」に傍点]。今出川通りというのは、街を東西に横切るメイン・ストリートの一本で、白川通りとの交差点はその東端に当たる。この交差点から、細くなった道を更に東へ行くと、銀閣寺《ぎんかくじ》がある。
歩道は、送り火を見にきた人の波で浴《あふ》れ返らんばかりだった。車の渋滞も凄まじい。
「凄い人出ねえ」
私にぴったりと寄り添いながら、母が云う。
「人混み、苦手でしょう? 大丈夫かしら」
黙って頷き、私は東の空に目を上げた。
暗い夜空の下、巨大な「大」を山腹に刻まれた黒い山が、すぐ間近に迫って見える。そろそろ点火の時間だろうか、朱色に燃える松明《たいまつ》を持って動く人間たちの影までが、この場所からは見て取れた。
午後八時。
松明の火が山のあちこちに落とされた。見る見る内に燃え広がっていく炎の群れが、やがて見事な「大」の字を闇に描く。
低くどよめくような嘆声が、歩道に立ち止まった人々の口から湧き出た。
「きれいねえ」
傍《かたわ》らに立つ母の唇からも、そんな言葉が洩れる。
それは、本当に美しい光景だった。京都の送り火の絵は、何度かテレビや写真で見たことがあったけれども、それらとは到底比ぶべくもない。
私は周囲の人波にうんざりしていたことも忘れ、母の声に相槌を打つことさえせずに、陶然と、夜に浮かんだ炎の文字に目を細めた。
「ほんと、きれい」
とまた、母が繰り返す。ゆっくりと扇子を動かし始める。風に乗り、ほのかな白檀の香りが漂う。
池尾沙和子。二十八年間、私が「母」と呼んできた叔母……。
姉実和子の死後、私を引き取った彼女は、我が子のように私を可愛がった。そこには、単に血のつながった甥と叔母だから、という以上の理由があったことを、私は知っている。
池尾祐司と沙和子夫妻の間には、元々息子が一人いた。実和子よりも少しあと、十八の若さで結婚した沙和子が、翌年、姉よりも早くに生んだ子だった。ところが、この子供は一歳の誕生日を迎える前に病気で死んでしまう。そして――よりによってその翌日が、私の生まれた日だったというのだ。
だから――と、彼女は、私が小さい頃から云っていた。
『あの子が死んで、次の日にあなたが生まれたの。だから、想一さんはあの子の生まれ変わりなんですよ。ね、分るでしょう?』
その気持ちは、十年前に死んだ父≠フ祐司にしても、きっと同じだったのだと思う。
――と、不意に、私の背中に誰かがぶつかってきた。
「あっ」
叫ぶ声と、ばさっと何か物の落ちる音。
「ごめんなさい!」
女の声だった。振り向いた時、その女性は道に屈《かが》み込んで、ぶつかった拍子に落としてしまったのだろう、紙袋の口が開いて散らばった何冊かの本を拾い集めようとしていた。
「ごめんなさい。送り火に気を取られてて、前をよく見てなくって」
「いえ、いいんですよ」
と云って、私は自分の足下に投げ出されていた一冊を拾い上げ、彼女に渡した。
「すみません」
本を受け取ると、彼女はぺこりと頭を下げた。
小柄な若い女だった。肩の上で切り揃えた髪。だぼっとした水色のTシャツ。微かに香る、何か甘酸っぱい――多分シャンプーの匂い……。
元通り袋を抱え直すと、彼女はもう一度軽く頭を下げ、私の横を通り過ぎて人混みに消えていった。その、照れ臭そうに私の顔を見上げた大きな瞳が、何故かしらあとまで心に残った。
――――1
誰もがそうであるように、――[#「――」に傍点]もまた、自分が生まれた瞬間のことなど覚えていない。
その誕生を不思議な偶然の所産と見るか、それとも「偶然」そのものの中に複雑な因果を見るか。たいがいの人間がそうであるように、そんな問題に深く想いを巡らすこともない。
――[#「――」に傍点]にとって、考えることは無意味だ。
(……何故?)
自問してもみよう。
答は勿論、存在する。それを言葉に表わすことも可能だろう。
しかし、言葉にしてしまうとあまりにもそれは単純すぎ、そして本当のところはあまりにも混沌としすぎていた。
ゆるゆると、――[#「――」に傍点]は頭を振る。
まるで薬漬けにでもされているような気分だった。鈍い思考。鈍い感覚。鈍い記憶。鈍い……。
(……焦ってはいけない)
(焦る必要はない)
そう。とりあえず今は、時機を待つことだ。
[#改ページ]
第三章 九月
1
夏が去り、九月も半ばを過ぎた頃、思いがけない出会いがあった。
場所は喫茶「来夢」。九月二十日、日曜日の夕刻、いつものように散歩がてらコーヒーを飲みにいった時のこと。
*
狭い店のカウンター席の隅で背を丸め、マスターと話をしていたその男に、私は初めとりたてて注意を払うこともなかった。それは向こうも同じだったようだ。黙って窓際の席に腰を下ろした私の姿をちょっと振り返っただけで、すぐに目線を元に戻した。
黒いスラックスにコルク色の長袖シャツ。スピーカーから流れるR&Bに合わせて、カウンターの下で組んだ足を動かしている。
苦いコーヒーを啜り、煙草を吹かし、私はぼんやりと窓の外の街並みを眺めていた。男はまたマスターと話を始めていたが、二人ともぼそぼそと低い声で喋るので、さして気にはならなかったし、話の内容も聞き取れなかった。
ところが、そうして二十分も経った頃だろうか。
外の風景に夕闇が滲《にじ》み、浅黒い自分の顔を浮かべ始めた窓ガラスの中に、私はふと、こちらに向けられている男の視線を見つけた。
最初は、私と同じように窓の外を見ているのだろうと思った。けれどもすぐに、そこに映ったその目は同じガラスに映った私の顔を見つめているのだ、と思い直した。
(何か用でも?)
落ち着かない気分になった。
そういえば、あの男の顔、雰囲気……どこか見覚えがあるような気もするが。
振り向いてよく顔を見てみようか、と考えた時、
「飛龍君?」
背後から、そう声をかけられた。
「飛龍君じゃないの」
私は振り返った。カウンターの男は既に椅子から腰を上げ、こちらに向かって一歩足を踏み出していた。
「ああ、やっぱりそうだ」
私の顔を一直線に見つめ、男は云った。
「さっきは全然分らなかったよ。こんなところで会うなんて、ほんと、偶然だなあ。いつからこっちに来てるの」
「あのう」
私はどぎまぎしつつ、相手の顔を見直した。
「ええと、あの……」
「僕だよ」
と、男は前髪を左手で掻き上げた。
「忘れちゃったかい。架場《かけば》だよ。架場|久茂《ひさしげ》」
「――ああ」
そこでやっと、男の顔と昔の記憶とが一致した。
「架場、君?」
「久しぶりだね、ほんと」
彼はそして、カウンターの中でにやにやと目を細めながら私たちのやりとりを見ていたマスターにコーヒーをもう一杯注文し、私のいるテーブルへ席を移してきた。
「何年ぶりだろうね。もう十六、七年になるかな。何だかだいぶ痩《や》せたみたいだね」
まっすぐに下ろせば口の辺にまで届きそうな、ばっさりと伸びた前髪を大ざっぱに横へ流している。その下に光る小さな目。すっきりと通った鼻筋に、唇の薄い、大きめの口……。
私の記憶の中に残っている面影は、くりくりの坊主頭だったのだけれど、確かにその男は、架場久茂に間違いなかった。
「静岡にはいつまでいたの。京都に来たのは、いつ?」
懐しそうに象のような目をしばたたきながら、彼は私に訊いた。
「七月の初めに、こっちへ」
「この近くに?」
「そう」
「じゃあ、ふん、もしかしてあそこかな。あの、『緑影荘』っていう洋館の隣の……」
「知ってるのかい」
「うん」
彼は頷いて、
「あの近所に友だちの家があってね、時々通りかかるんだ。古い洋館だし、嫌でも目を引くだろう? 同じ敷地に建ってる平屋の方の『飛龍』っていう表札を見かけて、珍しい宙宇《みょうじ》だからね、何となく気に懸《か》かってはいたんだな」
では、もしかして……と私は、七月の初めにこの街へやって来、初めてあの洋館に入った時のことを思い出した。
あの時――母を先に母屋へ返し、一人で二階のヴェランダに上がった時、門の前に立って建物を見ていた黒い服の人影、あれは彼だったのかもしれない。だから、そのたたずまいが、私の記憶のどこかに共鳴して……。
「君はどこに住んでるんだい」
私の問いに、
「修学院《しゅうがくいん》の辺りだよ」
と、彼は答えた。ここよりも更に北にある地名である。
「この店のマスター、大学の先輩でね、ちょくちょく顔を出すんだ。もっとも、いつもはもっと夜遅い時間だけれども」
彼、架場久茂は、私の小学校時代からの知り合いだった。幼馴染み、と云ってしまってもいい。
中学、高校と静岡の同じ学校に進んだのだが、ある程度以上親しく付き合っていたのは、高校で同じクラスになった時だったと思う。その高校二年の冬に、彼は急に転校してしまった。そういえば、引っ越し先は関西の方だったように記憶している。
「今はね、K**大の文学部で助手をやってる。しがない雑用係だけどね。――君は、何を?」
訊かれて、私は少々返事に詰まった。
「ええと――、就職はしてないんだ。一応、絵描きってことにはなってるけど」
「ああ、そうか」
架場は特に胡散臭《うさんくさ》そうな顔をすることもなく、
「美大へ行くって云ってたものね。子供の頃から、君は絵がうまかったし……。うん、よく覚えてるな。君の描いた絵、どれも不思議な絵だったから。
結婚は、もう?」
「母親と二人で暮らしてる」
「早く結婚しろって、うるさく云われないかい」
「別に」
私は緩く首を振り、
「君の方は?」
「僕?」
架場は猫のように丸めていた背を伸ばして、ひょいと肩をすくめた。
「とりあえずは独身主義者を気取ってるんだけれども、最近、親戚連中の目が白くってね」
高校を出ると、私は東京のM**美大に進学し、四年間の下宿生活を経験した。大学卒業後は静岡の実家に戻り、金に替えるつもりもない絵を描き続けてきた。
池尾の母も父も、そんな息子≠別段|咎《とが》めようとはしなかった。幼少の頃から身体が弱く、内向的で、人との付き合いが非常に苦手だった私のことを、その点彼らはよく理解してくれていた。もっとも、これはその頃から知っていたことだが、池尾家は飛龍家、即ち私の実父高洋から、かなりの額の仕送りを私の養育費として受け取っていた。もしもそれがなければ、自ずと私の立場は異なっていたのではないかと思う。
池尾の父が死んだあとも、相変わらず私は病弱で、頻繁に体調を崩しては母を心配させた。
海の見える高台の家で、私は孤独な二十代を過ごした。学生時代の友人がたまに訪れてくる以外は、めったに人と会うこともなかった。それはまるで深い湖の底に澱んだ水のような、冷たく静かな日々だった。
恋愛、結婚……そういったものとは全く無縁な生活だった。決して威張れたことではないけれど、そのことを特にひけめに感じたこともない。母も何も云わない。これからも恐らく、そうだろうと思う。
今はどんな絵を描いているのか? 個展を開いたことはあるのか? どうして京都に越してきたのか?……と、十数年間の空白を一挙に埋めようとでもいうのか、架場は人懐っこい調子で、次々といろいろな質問を繰り出してきた。訊かれるままに、私はそれらの問いに答えた。
「それにしても、あれだろ? あんな大きな家を相続したとなると、下世話《げせわ》な話だけど、相続税とか大変だったんじゃないの」
「だろうね」
私は吸殻で一杯になった灰皿に、吸っている煙草の灰を落しながら、
「だいぶ、あちこちに持っていた土地なんかを処分したらしい」
「らしい、って? 自分のことだろう」
「その辺のことは、たいがい母親に任せてたから。何せずっと入院してたもので。引っ越しの手続きとかも全部任せっきりだった」
「じゃあ、お母さんは働いてるわけ?」
「こっちへ来てからは、もう……。あの洋館の部屋を貸してるのと、あと、まだ結構あちこちに土地が残っていて」
「ふうん。――身体の具合はもういいの?」
「まあ、何とか」
「昔も、よく学校、休んでたっけね」
テーブルの端をこつこつと親指で叩きながら、架場は小さな目を細くする。その茶色い――というよりも鳶《とび》色に近い瞳に向かって上目遣いの視線を返す内、私はふと、後頭部に微かな痺《しび》れを感じた。
[#地付き]………………風
奇妙な感覚だった。首の付け根の辺りからまっすぐ脳天にかけて、ぴりぴりと、弱い電流を流されたような。
[#地付き]……赤い空
と、今度は目の前の現実がゆらりと揺れ、ふうっと輪郭を崩し……
[#地から0字上げ]…………群れ咲く……
[#地から6字上げ]……風になびき……
[#地から12字上げ]…………………………
[#地から4字上げ]………黒い、二つの……
[#地から6字上げ]……………………
[#地から5字上げ]…………………
[#地から2字上げ]……ん!
[#地から0字上げ]……くん!
「……君? 飛龍君?」
架場に呼ばれて、焦点が戻った。
「どうしたの、ぼうっとして。煙草の灰、落ちたよ」
「ああ――、失礼」
私はぶるりと頭を振りながら、ズボンの膝を汚した白い灰を払った。
「大丈夫かい。顔色、何だか悪いみたいだけど」
「いや、大丈夫。何でもない」
「本当に?」
「ああ」
「ならいいけど。――や? もうこんな時間じゃないか」
架場は店の壁に掛かった時計に目をやると、テーブルの上に投げ出してあったハイライトを胸ポケットにしまい、のっそりと立ち上がった。
「行かなきゃならないところがあるから、僕は……。あ、そうそう、これ、名刺」
と、彼は札入れから白い名刺を抜き出し、私に手渡した。
「いつでも連絡してきてよ。午後からはたいてい研究室にいるから。その内一回、君んちへも行ってみたいな。いいかい」
構わないよ、どうせ暇にしてるから、と答えて、私も一緒に席を立った。
――――1
深夜――。
相変わらずの部屋、相変わらずの静けさの中に、――[#「――」に傍点]はいた。
(……時機《とき》が来た)
意識して、表情に笑いを加える。
――[#「――」に傍点]は笑った。
あの男――飛龍想一の居場所は、とうに分っていたのだ。そしてあの男の方は、自分に向けられたこちらの意志に気づいてはいない。
焦る必要はない。先を急いではいけない。まずやらなければならないことは……。
――[#「――」に傍点]は笑った。
微かに、喉の奥深くで。
2
架場久茂と再会した四日後――九月二十四日の朝刊にまた、京都市内で起こった子供殺しの記事が載っていた。
現場はやはり左京区で、銀閣寺から少し南へ行った場所にある法然院《ほうねんいん》という寺の境内。その叢《くさむら》の中に捨て置かれていた死体を、二十三日の午後、参拝客がたまたま発見したのである。
被害者は池田《いけだ》真寿美《ますみ》という六歳の女の子で、近所に住む高校教諭夫妻の次女。二十二日の夕方から姿が見えなくなり、警察に届けが出ていたという。
殺害方法は、今回もまた扼殺だった。首に残った指の跡が、先月の上寺満志ちゃん殺しのものとよく似ており、発生場所も前とそう離れていないことから、警察では同一犯人による連続殺人の可能陛が高いと見て捜査を進める方針らしい。
3
ふと眠りから覚めた。
(――また[#「また」に傍点]?)
そう、まただ。また、あの気配がした。
気配――それは音≠ネのだろうか、それとも、まだ音≠ノはなりきれない、ほんの微かな空気の動きが、この家に満ちた闇を伝わってやって来るのだろうか。それともそれは動き≠ナすらないのだろうか。
私は独り夜の中にいた。
この一週間余り――今日は九月の最後の日だ――、何度かこういう気配を感じることがあった。
気配――何かの気配、誰かの気配。何か、誰か自分ではないものの存在を感じさせる、微妙な感覚……。それは、私が住むのと同じこの家のどこかから伝わってきた。
今もそうだ。
この古い家、この夜の静寂《しじま》、そのどこかから。
気配≠ニいう表現は、あるいは適切ではないかもしれない。例えば異物感≠ニでもいった言葉を選んだ方がふさわしいようにも思える。
気のせいかもしれなかった。事実、これまでの何度か、私はそう云い聞かせることによって、その感覚を無視してきたのだ。が、回数が重なるごとに、それがより意識的な行為になってきていることもまた事実だった。
気のせいだ。――いや、そうではない?
枕許の煙草に手を伸ばしながら、私は身を起こした。
布団《ふとん》の上であぐらをかき、ライターの火を点ける。ポッと小さく灯《とも》った炎が、部屋の闇を払う。
寝室に使っている六畳間。玄関からまっすぐ、二つの部屋を隔てた奥の和室である。
明りは点けないまま、煙草を一本灰にした。そうしながら、暗闇の中でじっと耳を澄ましてみたが、不審な音≠ヘ何もなかった。ただ、縁側に続くガラス戸の向こうから、内庭で鳴く秋の虫の声が聞こえてくるだけである。
母が寝ているのは、こことはずっと離れた、玄関から見て左の奥にある座敷だ。もしかすると、彼女がまだ起きていて、その物音か何かを気配≠ニして感じたのだろうか。それならばしかし、異物感≠ニいったふうな言葉は浮かばないはずではないか。
腕時計を取り上げ、時間を確かめる。
午前三時前――。
私は、全く時間に縛られない生活を続けているわりには、夜休むのが早い。十二時過ぎにはたいてい寝室に引っ込む。母が休むのは、大体それよりもいくらか早い時間である。
今夜|床《とこ》に就いたのも、いつもと同じくらいの時刻だった。そして、問題の気配≠感じて目覚めるのは、これもまた決まって今頃の時間帯だった。そのせいか、このところ朝起きるのが遅くなってきている。以前は、午前八時頃には勝手に目が覚めていたのに、最近では、どうかすると十時近くまで眠りこけていることがある。
不審な気配は、目覚め、意識してそれを探った途端に、すうっと退いていった。これまでの何度かもそうだった。しかし、なおもしばらくの間、私は暗い部屋の真ん中に坐って、闇のいずこかに潜んだそれを感じ取ろうと全身の感覚を研《と》ぎ澄ませた。
やがて、突然――。
コトッ、という音が、どこかで響いた。
微かな音だった。
(やっぱり……)
私は大きく呼吸をし、更に耳を澄ませた。
コトコトッ……
再び聞こえた。縁側を背にして坐った私の左――離れの洋館へと通じる廊下がある方向だ。
静かに立ち上がった。見にいこう、と即座に決心したのだ。
襖をそっと開け、真っ暗な廊下に忍び出た。左手で壁を伝い、床板を軋ませぬよう注意しながらそろそろと足を進める。
角を二つ曲がり、洋館に続く直線部に入る。窓から星の光が射し込み、闇に蒼《あお》く滲んでいた。
その廊下には、誰も、何もいなかった。とすると、さっきの音は……。
コトッ……
また音がした。丁度この真正面の奥から、確かにそれは聞こえた。
右側には、廊下沿いに納戸《なんど》が二つ並んでいる。二つの部屋の境界に当たる部分に、廊下を仕切る戸襖が一枚あって、これは今閉まっている。
私はゆっくりと、蒼い闇の中を進んだ。
戸襖の前に着く。息を詰め、それに手をかける。
「ひゃっ」
という声が、私が襖を開くと同時に響いた。
突き当たりの、母屋と離れとを隔てたドアが、半分ばかり開いていた、ドアの向こう――洋館の廊下には、電気が点いている、そしてその光を背負うようにして、ドアの手前で一段低くなった上がり口のところに、両手を床に突いて這いつくばっている人影があった。
相手はひどく驚いたようだが、それは私も同じだった。
「あ……ど、ど、どうも……」
光を背にしているので、四つん這いのままこちらを見上げた相手の顔を識別することはできなかった。
「一体……」
私が口を開きかけると、
「す、すみません」
キンキンとよく響く声で謝りながら、相手は立ち上がった。私は廊下の壁を探り、電灯のスイッチを入れた。
ベージュ色のトレーナーを満た若い男――それは、緑影荘の[1―C]に住む大学院生の倉谷誠だった。
「どうしてあなた、今頃そんなところで」
「すみません」
背は高くないけれども、肩幅は私などよりずっと広い。日頃研究室に閉じこもっているにしては、筋肉質のがっしりした体格をしている。柔らかそうな色の薄い髪の毛を掻きまわしながら、彼はばつが悪そうに頭《こうべ》を垂れ、
「すみません。あの、コウイチロウが逃げちゃって」
「コウイチロウ?」
「あ、そのつまり、鼠《ねずみ》の名前なんですけど」
「鼠ぃ?」
私は唖然《あぜん》とした。
「実験用のハムスターを持って帰ってきて、部屋で飼ってるんです。そいつがさっき逃げ出して……」
「鼠を探してたっていうんですか」
はい。ハムスターを飼ってることは、大家さんのお母さんにも云ってあります」
そういえば、そんなことを母が云っていたような気もする。
「しかし、どうしてそこのドアを?」
私が訊くと、
「これ、最初からちょっと開いてたんです。それで、こっちへ逃げ込んだんじゃないかと思って……」
問題のドアは、私たちがここへ越してきた時から鍵が壊れていた。水尻夫人によれば、父が生きていた頃から、もう何年間も壊れたまま放置されていたという。わざわざ修理する必要はない、と父は云っていたそうだ。
用心が悪いから直した方がいいんじゃないか、と私は母に云うのだけれど、彼女も結構のんびりしたところがあり、その内にね、と答えたまま放ったらかしにしている。
「それにしても、こんな夜中にごそごそされては困るね」
と私は、柄にもなく厳しい調子で云った。倉谷は頭を垂れたまま、
「どうも、お騒がせして申し訳ありませんでした」
馬鹿丁寧に謝罪すると、ドアの向こうにあとじさった。
逃げた鼠はどうするつもりなのだろうか、などと考えながら、私は前へ進み、自分の手でドアを閉めた。
4
やたらと部屋の環境に文句をつける、気難しい小説家。すれちがった相手に声をかけて、その日の運を占う盲目のマッサージ師。深夜に鼠を追いかける大学院生。
全く妙な連中ばかりだな、と思いながら、私は廊下を引き返した。
気配だの異物感だのと、鹿爪らしくあれこれと考えたものの、真相は結局こんな他愛もないことだったのか。とすると、これまでに何度か感じた気配にしても、今夜と同じように、アパートの住人の誰かが動きまわる音を耳が拾っただけだったのかもしれない。
ほっとすると同時に、何となく拍子抜けしたような気分だった。
いずれにせよ、あのドアの鍵は早く直した方が良さそうだ。今の事件を母に話して、明日にでもすぐ修理屋を呼んでもらおう。
寝室へ戻りかけたところで、私はふと気になって、アトリエの土蔵を覗いておくことにした。
短い袖廊下の奥で、例の人形の仄白《ほのじろ》い影が私を迎える。その異形に驚くことはもうないけれども、家の各所に立つ彼女≠スちへの違和感を完全に拭い去ることは、やはりまだできそうになかった。
父が作ったというマネキン人形は、土蔵にあるものを除くと、母屋と離れの各所に全部で六体が置かれていた。母屋に三体、離れに三体。そしてこれらのいずれもが、身体のどこか一部分が欠けた不完全な姿形をしている。今、目の前にいる彼女≠ノは、首がない。母屋のホールの人形には、右腕がなかった。離れの二階には、広間の上と奥の廊下に二体あるのだが、前者には左腕がなく、後者には左の脚がない。洋館一階の廊下で出会ったものは、腹から肩にかけての部分がなく、代わりに十字型の木の棒を通して両腕と首をつないであった。母屋のもう一体は、母が寝室に使っている座敷の縁側にあって、これには左脚を除く下半身がない。腰と右脚の部分には、これも棒が組まれていて、上半身と左脚を支えている。
父が書棚に遺した文献を読んで知ったことなのだが、マネキン人形は普通、取り外し可能な五つのパーツによって構成されている。「顔」「上胴《うわどう》」「下胴《しもどう》」「右腕」「左腕」――この五つだ。
ただ、腰から下、脚部を含む「下胴」は、たいてい片方の脚が外れるようになっている。これはつまり、そうでなければズボンをはかせるのが困難であるからだという。この「片脚」を勘定に入れれば、だから、マネキン人形のパーツは計六つということになる。
身体を構成する六つのパーツの、いずれか一つが欠けた人形たちが六体。しかも、そもそも頭部を持たない一つを除いて、残りの五体には顔≠ェない。
彼女≠スちは、死んだ実和子の復活≠願って作られたものだった。そう考えるにしても、どうして父は、その人形たちを、わざわざ不完全な形で屋敷のあちこちに配置したのか。また、何故《なにゆえ》に彼は、それらを動かしてはならない、などという遺言を残したのだろう。
自殺した父は、あるいは何らかの妄想に取り憑かれていたのかもしれない。老いと孤独、亡き妻への想い――その中で、ついに彼は(近所の者たちが噂するように)気が狂って……。
やめよう。
そのことは、あまり深く考えまい。考えたくない――。
蔵の扉を開けた。
電気を点け、中を見まわす。
ここにあった人形たちは全て、入って右手前の一隅に集め、白い布を掛けてしまってある。いくら何でも、元のまま部屋の方々に転がしておくことには抵抗があったからだ。
広い部屋の中央、描きかけの油絵を立てたイーゼルと丸いストゥール。使用中の画材を雑然と載せた、籐製のベンチチェスト。正面奥には、大きな木のデスクと椅子、ガラスの入った高い書棚、ステレオセット……。
左手奥――普段読書用に使っている揺り椅子の方へ目を向けて、
「う……」
私は、喉を突いて出る叫び声を呑み込んだ。
あるはずのないものが[#「あるはずのないものが」に傍点]、そこにあった[#「そこにあった」に傍点]。
それは、人形だった。部屋の片隅に寄せておいたはずのマネキン人形の一つが、その椅子に坐っているのだ。
(どうして、そんな……)
肩から首、そして後頭部が、椅子の背の向こうに覗いている。確かにそれは、マネキン人形の無機的な白い肌だった。
おどおどと周囲に目を配りながら、私は揺り椅子に近づいた。
両腕のない人形だった。上胴と下胴の接合部分を外し、腰を曲げた形に重ね合わせることによって、椅子の上に坐らせてあった。そして――。
「うう……」
私は更に、声を呑み込まねばならなかった。
人形が、血にまみれている。
喉許から膨らんだ胸にかけて、顔のない彼女≠フ上半身には、血かと見まごうようなどぎつい赤色の絵の具がべったりと塗りたくられていたのである。
[#改ページ]
――――2
――[#「――」に傍点]は笑った。
微かに、喉の奥深くで。
(怯《おび》えるがいい)
唇の端が僅かに吊り上がる。
(充分に、怯えるがいい)
急いではいけない。まず恐怖を与え、じわじわと追いつめ、そして……。
(そして……)
[#改ページ]
第四章 十月
1
土蔵の人形の一件を母に話したものかどうか、たいそう迷ったのだけれど、結局やめておくことにした。余計な心配をさせてはいけない、と私なりに判断したからである。
この家に越してきて、もう三ヵ月になる。
長年住み慣れた街を離れ、私と二人だけでこちらへやって来るのは、母にしても随分と心細かったはずだ。父高洋が遺した財産のおかげで当面生活の心配はないとはいえ、とにかくこの街には、気のおけぬ知り合いが全然いなかったのだから。
最近では、昔やっていた三昧線の稽古《けいこ》にまた通い始めるなど、ようやく彼女も新しい土地での生活に慣れてきたようだが、依然として近所には親しい人間がいない。通り一遍の近所付き合いはある。しかし、相手が話す言葉の端々に、どうしても我が家への偏見のようなものを感じてしまって、と彼女は云う。
「お父様が変わった方でしたからね」
いつかも、そうこぼしていた。
「それに、ああいう死に方をされたものだから、やっぱり……」
おおかた父は、生前から、「変人」を通り越して「人形屋敷の狂人」とでもいったふうに見られていたに違いない。その狂人が自殺し、あとには、離れて住んでいた一人息子と、何故か姓の違うその母≠ェ引っ越してきた。三十を過ぎてまだ独り者の息子は、働きに出るわけでもなく、日がな一日家でぶらぶらしているみたいだ……。
確かに、井戸端会議の格好の話題ではある。
だから、そこへまた私が妙な事件のことを云いだすのは、やはり気が咎めた。
母は決して強い女ではない。むしろごく当たり前な、非常に脆い心を持った女性だと私は思っている。
死んだ実の子の「生まれ変わり」として、この私をひたすら愛し、育ててきたのも、それは彼女の強さを示すものではなく、逆だと思う。そうやって、崩れそうになる心の拠り所を見出すことによってやっと、彼女はそれ以降の自分の人生を生きることができたのだ。
十年前に池尾の父が死んだ時にしても、そうだ。彼の遺体に取りすがって泣くだけ泣いたあと、母は傍らにいた私の手を握りしめ、じっと私の顔を見つめて云っていた。
『想一さんがいるから、大丈夫。想一さんがいるから……』
五十四歳という年齢を感じさせないほど、皺の数も少なく、声の張りもある母。私が入院している間も、看病や見舞いにやって来る彼女の顔には、常に私を励まそうとする明るい笑みがあった。こちらへ越してきてからも、それは変わらない。
けれども――。
折りにふれ彼女がふっと浮かべる、一瞬の空白のような虚ろな目の色を、私は知っている。
彼女もまた、老いつつあるのだ。彼女もまた、憂いているのだ。彼女もまた……。
画家といっても、積極的に自分の作品を世に出そうと努力するわけでもない、病弱で、結婚の意思もない、当然孫の顔を見せてやれもしないだろう――そんな私が彼女にしてやれることといったら、せいぜい要らぬ心労を与えぬよう気を遣う程度のことだ。
だからやはり、あの人形のことは話すまい、と決めた。
とりあえず母には、母屋と離れの間のドアの鍵を修理させるように、とだけ頼んでおいた。倉谷誠の鼠探しの一件を、その時一緒に話すと、
「それはびっくりしたでしょうね」
と云って、彼女は無邪気に笑っていた。
(それにしても――)
私は独り考える。
(一体誰が、あんな悪戯《いたずら》をしたのだろう)
可能性から云って、怪しいのは断然、緑影荘の住人たちだ。これはほぼ、そう限定してかかってもいいのではないかと思う。
その中でも最も疑わしいのは、やはり倉谷だろうか。ハムスターが逃げて、というのは、あの時とっさに思いついた云い訳だったのかもしれない。
他の人間はどうだろう。
辻井雪人ということも、勿論ありうる。目の不自由な木津川伸造は除外するとして、まさかとは思うが、管理人の水尻夫妻の内のどちらかが?
しかし、誰が犯人であるにしろ、一体何のためにあんなことをしたのだろう。わざわざ蔵に忍び込んで、マネキン人形の一つを椅子に坐らせ、血糊《ちのり》のように赤い絵の具を塗りたくるなど、悪戯にしてはあまりにもあくどすぎはしまいか。
まさか、本人たちに会って直接問いただすわけにもいかなかった。といって、警察に届けて調べてもらうほどのことでもない。
誰がやったのか。何のためにやったのか。
その問題はさしあたり保留にするとしても、とにかく土蔵の扉にも鍵を掛けておくのが良いだろう。
私は早速錠前屋へ行って、頑丈な南京錠を一つ買ってきた。
蔵の扉に付けられたその錠を見つけて母はちょっと怪訝《けげん》そうな顔をしたが、私はただ、用心に越したことはないから、とだけ説明した。
2
彼岸花《ひがんばな》が咲いている。
曼珠沙華《まんじゅしゃげ》、死人花《しびとばな》、とも呼ばれるその花が、広い内庭の一角に赤く群れ咲いている。
七月に越してきた時のまま、この家の庭は、前庭も内庭も、特に手を入れてはいない。時々母が、玄関や縁側に近い部分を掃除するぐらいのものである。
庭師に入ってもらおうかという話も出たのだけれど、このままにしておこう、と私が云った。父の生前から荒れるに任せておいたと思われるその庭の、暗い森のようなたたずまいこそが、何故かこの古い家に最もふさわしいような気がしたからだった。
寝室の外の、南向きの縁側に坐って、ぼんやりと煙草を吹かしながら過ごす午後のひととき――。
秋もだんだんと深まり、生い茂っていた雑草も枯れ色が目立ち始めている。椎《しい》、柊《ひいらぎ》、松などの常緑樹が雑然と塀際に並ぶ中、庭の中央辺りにぽつんと立った大きな桜の木――春になればさぞや見事な花が咲くだろう――。
真っ赤な彼岸花の群れは、父が首を吊ったというその桜の木の向こうに見えた。庭全体の沈んだトーンとのコントラストで、毒々しいほど鮮やかに目に飛び込んでくる。
その名称通り、花は丁度先月の下旬頃から咲き始めた。十月に入って、もうそろそろ盛りを過ぎようとしているところだろうか。
地面から噴き出すように伸びた、濃い緑色のまっすぐな茎《くき》。その先端に開いた、放射状の細い花弁……。
「死人花」という異名は、田圃《たんぼ》の畦《あぜ》と並んで、それが墓地に群生していることが多かったために付いた名だろうか。
「オヤコロシ」と云う地方もあると聞く。恐らく、有毒なアルカロイドが含まれている関係でそんなふうに呼ぶのだろうが、昔はその鱗茎《りんけい》を非常時の食用にしていたこともあるらしい。
冷んやりとした秋風に揺れる赤い花の群れを眺める内、まるでその動きに呼吸を合わせるかのように、ふと――
[#地付き]……赤い花
私の心のどこかが、さわり[#「さわり」に傍点]と揺れる。
[#地付き]……黒い、二つの
[#地付き]……黒い、二本の線……
慌てて、私は目を閉じる。
[#地付き]……まるで
[#地付き]……巨大な蛇の
赤い残像の残ったその瞼の裏に、一瞬何か、遠い遠い過去の風景を見たように思った。
3
ドアの鍵を修理し、蔵の扉に錠を取り付けてからは、しばらく何事も起こらぬ日々が続いた。
夜中に目が覚めることは、依然としてあった。誰か、何かが同じ屋根の下にいて……という、例の異物感≠感じての目覚めだった。
けれども、それについては、洋館のどこかで動く誰かの気配が伝わってくるのだと割り切ることにしていた。ならば、いちいちこちらが文句をつける筋合いのものではない。
鍵を直した、という安心感もあった。たとえまた、誰かがつまらぬ(それとも何か悪意があっての?)悪戯をしようとしたところで、どうせ母屋には入ってこられないのだ。
ところが――。
そうして一週間が過ぎた頃、私の周囲でまた、今度はちょっと違った形で、奇妙な出来事が相次ぎだしたのである。
*
十月九日、金曜日のこと。
夕方のいつもの時間、私は「来夢」へ行こうと家を出た。
この日は、午後から母は出かけていた。月曜、水曜、金曜の週三回、彼女は三昧線の稽古に行っているのである。稽古が済んだあとも、そこで知り合った友だちとお茶を飲んだりして、帰りはたいがい暗くなってからになる。
玄関の鍵を、忘れずに掛ける。
蔵の人形の一件以来、私は妙に神経質になっていて、それまで昼間は施錠することのなかった玄関の戸にも、いちいち鍵を掛ける。出かける時は勿論だが、家にいる時も、必ずそうする。
鍵は、私と母が一本ずつ持っている。予備の合鍵は、台所の水屋の抽斗《ひきだし》にしまってある。ついでに云うと、土蔵に付けた錠前の鍵は二つあり、これは両方ともを私が保管している。
いつも「来夢」へ行く時には、門を出る前に郵便受けを覗く。配達の来るのが大体三時半から四時頃なので、別に母とそう取り決めをしたというわけでもなく、郵便物の確認は私の仕事になっていた。
もっとも、我が家に届く郵便物といえば、たいていが公共料金や保険料の請求書・領収書、あるいはダイレクト・メールの類で、私|宛《あ》ての私信は殆どと云ってもいいほど来ない。この夏には、前の住所に宛てた暑中見舞いが何通か転送されてきていたが、何となく面倒で、返事も転居通知も出さずじまいだった。
門柱に造り付けられた郵便受けのボックスに、右手を差し込む。「覗く」といっても、こうしていつも手で探るだけで済ませる。
中には、葉書も封書も入っていなかった。冷たい鉄の感触だけを、私は空虚に手探りしたのだ――。
「つッ!」
指先に走った軽い痛みに、私は思わず声を上げて手を引き抜いた。
(何……?)
中指の先だった。その腹に、ふつりと赤い血の滴が弾け出している。
驚いて、私はボックスの中を覗き込んだ。
(――ガラス?)
そう。ガラスだった。
五センチほどの長さのガラス片が、ボックスの中に転がっている。細長い三角形に割れた破片――その尖《とが》った部分で、指先を切ってしまったのだ。
傷口を舌で舐《な》めながら、私は空いた左手でガラス片を摘《つま》み出した。
(こんなところに、どうして?)
こんなものが、郵便受けの中に勝手に紛れ込んだなどということがあるだろうか。――まさか、そんなことはありえないはずだ。
とすると……。
前庭の茂みにガラス片を放り捨てながら、私は無意識の内にきょろきょろと周囲を見まわしていた。
(誰かが、わざと?)
そうとしか考えられないではないか。
誰かがわざと[#「誰かがわざと」に傍点]、この郵便受けの中にガラスの破片を入れておいたのだ[#「この郵便受けの中にガラスの破片を入れておいたのだ」に傍点]。この家の者が、そんなこととは知らずに手を入れて、その破片で怪我をするかもしれないと知った上で。
風に、ざわりと木の葉が鳴った。
夕闇が浸透し始めた前庭の木々の間に、姿の見えぬ何者かの悪意を感じて、私は軽い吐き気にも似た気分を味わった。
4
「最近、妙なことがあるんですよ」
食卓で、母が云いだした。郵便受けにガラスの破片が仕込まれて[#「仕込まれて」に傍点]いた、その三日後――十月十二日の夜のことである。
「多分、予供の悪戯なんでしょうけどね」
悪戯、と聞いて、私ははっと箸《はし》の動きを止め、母の顔に目を上げた。
「どんな」
と問う自分の声の緊張が分った。母はそんな私の反応には気づかない様子で、
「云うほど大したことじゃないのよ」
と答えた。
「でも、今朝でもう三回目かしらねえ」
「どんな悪戯なんです」
「玄関に石ころが置いてあるんですよ」
「石?」
「ええ。このくらいの大きさかしら」
母は、両手の親指と人差指をくっつけて惰円形の輪を作り、
「わりに大きな石が、ぽつんと一つだけ置いてあって」
「玄関の、どこにですか」
「戸を開けてすぐのところ。最初の時は――確か先週の木曜日だったわね――、そんなところに石が転がってるなんて思わないでしょう? 朝刊を取りに出た時、上に足を乗せちゃって、引っくり返りそうになってねえ。別に何でもないようなことなんだけど、それが一昨日も今朝も、同じ場所に同じような石があって……」
「それだけ?」
「ええ、そう」
母は急須《きゅうす》にポットの湯を注ぎながら、
「でも、変でしょう? 自然に転がっていたんじゃなくて、どう見ても誰かが置いておいたっていう感じなんですよ」
「…………」
「だから、子供の悪戯だろうと思うんですけどね、それにしても、朝早くのことだし……。小学生が、学校へ行く前に悪さするのかしらねえ。猫を飼ってる家は、玄関先に空き缶とか空き瓶とかが置かれてたら要注意らしいけど、うちは猫なんか飼ってないし」
「猫と空き缶と、どう関係するんですか」
「猫捕り[#「猫捕り」に傍点]っていうのがいるんですってよ」
「――?」
「昼間の内に下見をして、飼い猫がいる家を探すんですって。で、いい猫がいる家には目印に空き缶を置いておいて、夜に猫を捕りにくるらしいわ」
「捕った猫は、じゃあ三昧線の皮に?」
「なんでしょうね」
猫捕りの話はともかく、確かに玄関に石ころというのも妙な話ではある。だが、それをどう受け止めたらいいのか、私にはよく分らなかった。
母が云うように、近所の子供の悪戯なのだろうか。それとも……?
先日の郵便受けのガラスとは違って、石を置く行為それ自体は、別に何も私たちに危害を及ぼすものではない。せいぜいが、母がそうしたように、うっかりその上に足を乗せて転びそうになるくらいだろう。害意≠ニいった点で、だから、二つの「悪戯」は質が異なるようにも思える。
しかし――。
(石ころが、ぽつんと……)
何かしら、心に引っかかるものがある。何か……。
「想一さん」
箸を止めたまま黙り込んだ私に、母が首を傾げて云った。
「どうしたのかしら?」
「いや、別に」
「この頃、何だか塞《ふさ》ぎ込んでることが多いみたいですね」
「――そうですか?」
「何でもないんならいいんだけど。御飯、お代わりしましょうか」
「いえ、もう……」
箸を置く私の顔を、母はちょっと心配げに横目で見ていたが、やがて私の湯呑に茶を淹《い》れながら、
「そうそう。あのね、想一さん」
明るい調子で云った。
「前から思ってるんですけど、一度、アパートの人たちを食事に呼んであげましょうか」
「え?」
「こないだちょっと倉谷さんとお話ししてたらね、ずっと一人で住んでるから、食事が侘《わ》びしくってたまりませんよ、ですって。外食ばかりで……。
辻井さんと、できたら木津川さんも呼んで、お鍋でもしてあげたらどうかしらねえ。皆さん一人暮らしだから、きっと喜ぶんじゃないかしら」
何でわざわざ……と私は眉をひそめかけたが、母の唐突な提案の中に込められた意味を察して、思い留まった。
「たまには、いろんな人と話をしてみるのも悪くないでしょう。ね? 想一さん」
彼らのために、というのではない。私のために、と彼女は考えるのだ。ともすれば孤独の病に冒されがちな(と彼女の目に映る?)私の心のため……。いや、あるいはそれは、彼女自身のため、なのかもしれない。
「お母さんがそう云うのなら」
と、私は答えた。
母がそうしたい、そうした方がいいと云うのであれば、それでいい。それに――そう、彼らと話をする機会を持つというのは、確かに今、私にとって必要なことなのではあるまいか。
郵便受けのガラスや今の石ころの件、全ての「悪戯」が同一人物の仕業であるかどうかは分らないが、少なくとも例の蔵の人形――あの事件の犯人≠ヘ、彼らの内の誰かである可能性が大きい。木津川伸造を「盲目」という理由で除外するとすれば、倉谷か辻井か、この二人の内のどちらか……。
普段殆ど顔を合わせることのない彼らの様子をそれとなく探る、良い機会ではないか。
「じゃあ、皆さんの都合とか、聞いておきますね」
と云って、母は嬉しそうに微笑《わら》った。
5
たまに気が向くと、少し遠くまで散歩へ行く。
銀閣寺から若王子《にゃくおおじ》まで続く「哲学の道」は特に好きな場所で、観光客が少なそうな曜日・時間帯を選んで、時々足を伸ばす。先月、女の子の他殺死体が発見された寺は、この小道の近くにある。
古い寺や神社も嫌いではないので、南禅寺《なんぜんじ》や下鴨神社などまで行ってみることもある。そういった、近くではあるが、歩いていくには少々距離がありすぎるような場所へは、自転車に乗っていくことが多い。
その自転車のブレーキが、壊れていた。十月十六日、金曜日の午後のことである。
家を出、走り始めてまもなくそれに気づいた。いくらレバーを握っても、前後輪とも全く制動が効かないのだ。
坂道を下りだしたところで、既にかなりスピードが出ていた。慌《あわ》てて両足の裏を地面に付けてふんばろうとしたが、すぐには止まらない。
前方から、学校帰りの子供たちが数人、横に広がって歩いてきた。ずるずると両足を路面に擦《こす》りつけながら走ってくる自転車を見て、驚いて立ち止まる。私は恐らく、動転して、さぞや凄い形相をしていたことだろう。
元々、運動神経は非常に鈍い方だ。子供たちをよけようと焦るあまり、バランスを崩し、私は無様《ぶざま》に転倒してしまった。
子供たちはワッと叫び、それからくすりと笑った。ミニサイクルで転んだ大人の姿が余程|滑稽《こっけい》だったのだろう。
アスファルトでしたたかに左の膝と肩、肘《ひじ》を打った。少しの間、呼吸《いき》が詰まって身動きできなかった。
「どうもないかぁ? 小父《おじ》さん」
子供の一人が、見かねて声をかけてきた。
「救急車、呼ぼかぁ」
ようやくの思いで立ち上がると、私は黙って首を振りながら、倒れた自転車を起こした。ひどく惨めな気持ちだった。
子供たちは、何事もなかったかのように、わいわいと喋りながらまた歩き始める。そのあとに付き従うような格好で、ハンドルの曲がった自転車を押し、家に引き返した。
シャツの肘の部分が破れ、露出した肌から血が滲んでいた。ズボンは破れてはいないが、肘と同じ程度の痛みを感じる。
傷の手当てはあとまわしにして、家に戻るとすぐに、私は自転車のブレーキ部を調べた。そして分ったこと――。
ハンドルのレバーとブレーキとをつなぐ二本のワイヤーが、二本とも途中で切れていたのである。
6
十月二十日、火曜日の夜、緑影荘の住人たちを母屋に呼んで水|炊《た》きの鍋を囲んだ。
母の誘いは、倉谷は勿論、辻井にも思いのほか歓迎されたのだが、木津川は「心遣いは嬉しいのだが」と辞退したらしい。その口ぶりから察するに、肉体的なハンディよりもむしろ、他の二人と自分との年齢のギャップを気にしたのではないか、と母は云っていた。
せっかくだから、と、母は水尻夫妻にも声をかけたのだけれども、あいにく道吉老人が風邪で寝込んでいて、とのことだった。世話好きなキネ夫人の方は、しかし、材料の買い出しや仕込みを手伝ってくれていたようである。
結局四人だけの席となったが、それでも、いつもと比べれば格段に賑やかな食卓だった。
最初の内こそおとなしくしていた倉谷も辻井も、酒がまわるにつれてだんだんと饒舌《じょうぜつ》になり、それぞれの個性をあらわにしてよく喋った。相手をするのは殆と母で、私は専《もっぱ》ら黙ってそれを聞いていた。
「……だからですね、ホント、大変なんすよ、大学院生っていうのも、馬鹿な教授は多いし、それでもやっぱ、あんまり面と向かっては馬鹿呼ばわりできないっしょ?」
倉谷は、頬を少年のように赤く染めてしきりに愚痴をこぼすが、その表情にはあまり屈折したものはない。
「けど、いずれはK**大の先生になられるんでしょう」
母が云うのに、ぼりぼりと頭を掻《か》きながら、
「何年先のことか分りませんけどねー。上にはまだ、オーバー・ドクターがごろごろしてるし。故郷の親も、最初は大学院へ進むって聞いて無邪気に喜んでたけど、この頃はようやく実情を理解してきたみたいっすね。ちゃんと普通に就職しとけば良かったものを、なんて思ってるんじゃないかなあ」
「しかしねえ、僕に云わせりゃあ、君なんかやっぱりいい身分だな」
辻井の方も、青白い顔をアルコールで紅潮させているが、その台詞にはどこか刺がある。しきりに唇を舌で湿らせながら、皮肉っぽく眦《まなじり》を吊り上げて、
「かりそめにも、旧帝大の博士様なんだ。僕なんかと違って、長い目で見りゃ前途は洋々たるもんでしょうが」
「そんなことないすよ。辻井さんだって、二十代で新人賞に入選して文壇デビューなんて、凄いじゃないすか。小説家なんて、憧れちゃうな。僕は全然そんな才能ないから」
「はっ」
辻井は、笑止な、とでも云うように鼻を鳴らし、
「デビューしても、売れなきゃあ喰ってけないよ。ついでに云うと、売れるか売れないかってのは、これが実にいい加減なもんでねえ。優れた作品だから売れるってわけにはまったくいかない」
自分がその良い例だ、と云いたい気持ちがありありと分る。
「でも、やっぱり僕、憧れちゃうなあ」
「そりゃあ、憧れてもらうのは勝手だけどねえ」
「執筆は、やっぱり夜に?」
「いろいろですよ、バイトもあるし――。それにしても、君のギターの音には悩まされたな、ま、部屋を替えてもらってからちょっとはましになったけど、相変わらず近所の子供はうるさいしねえ」
「あら。じゃあ、わたしの三昧線の音もお邪魔してるかもしれないわね」
と、母が云った。辻井は渋い顔をして、
「いやあ、そんなことは……」
「そうそ、倉谷さん?」
母はすっと目線を移して、
「このあいだ逃げたって云ってらした鼠、見つかりましたか」
「あっ、それが結局……」
倉谷は照れ臭そうに、私の方へ目を流した。
「あの時は、どうもすみませんでした」
「いや、いいんですよ」
「結局、見つからなかったの」
「はい。すばしっこい奴だもんで」
「家のどこかに棲《す》んでるのかしらね」
別にそれを嫌がるふうでもなく、母は云う。
「その内、ハムスターと家鼠のあいのこ[#「あいのこ」に傍点]がうろちょろしてたりしてね」
ころころと笑う彼女のうなじは、桜色に淡く火照《ほて》っている。昔から彼女はお酒が好きで、池尾の父が健在だった頃は、毎晩のように二人で晩酌《ばんしゃく》をくみかわしていたものだ。現在もそれは変わらず、寝る前にはいつも、日本酒なりビールなりを飲んでいる。時たまそれに付き合うことはあるけれど、基本的に私は、酒はあまりいける方ではない。
それでもこの日は、勧められるままに、わりあいに沢山飲んだ。その、あまり心地良いとは云えぬ酔いの中で聞いた会話の内、特に印象に残っていることというと――。
「ほら、例の子供殺し、もう犯人は捕まったんでしょうか」
倉谷が云いだした。
「一つ目があそこの疏水でしょ。二つ目が法然院。同じ犯人の仕業だって新聞には書いてあったけど、どうなんでしょうね」
「捕まったって話は聞いてないわ」
と云って、母は指に挟んだメンソールの煙草の灰を灰皿に落とした。酒が入ると、彼女は煙草もいくらか吸う。
「ほんと、嫌な事件ねえ。一体何だって、罪もない子供を殺したりするのかしら」
「変質者の犯行らしいけど――」
倉谷は辻井の方を見やり、
「辻井さんは、どう思います? どんな奴が犯人なんでしょうね。このまま放っとけば、三つ目の事件、起こると思いますか」
「ふん。さぁてねえ」
辻井はぶっきらぼうに云って、ぐいと猪口《ちょこ》の酒を飲み干した。
「そんな事件には興味がないな。目下のところ、殺人事件のことを考えるのは自分の小説の中だけで手一杯なんでね」
「へー。じゃ、今書いてるのはミステリか何か?」
「まあね」
「そういえば」
と、私が口を挟んだ。
「この家を舞台にした話を書くとか云ってた、あれですか」
「わ。この家、舞台にしちゃうんですか」
と、倉谷。
「『人形館の殺人』、でしたか」
私が云うと、辻井は何やら白けたようにひょこっと首をすくめ、
「よく覚えてますね」
「ここへ来た最初の日に聞いたもので、印象的だったから」
「『人形館』かあ、成程」
倉谷は充血した目で部屋の中をぐるりと見まわし、
「こっちの家にも、やっぱりああいうマネキン人形、あるんですか」
頷きながら、私は意識して倉谷の表情を窺った。もしも彼が蔵に忍び込んだ犯人≠セとすれば――そう、当然あの袖廊下に置かれている人形のことは知っているはずだ。今こうして、母屋にも人形があるのかという質問をしてきたのは、知らないふりをしているだけなのか。それとも本当に知らないのか。
結局どちらとも判断がつかなかった。それは、辻井の言葉や表情を観察した結果についても同じである。
このあと話題は、どうしてあんな人形が家のあちこちに置かれているのか、という問題へと移ったが、その件については私も母も何もコメントしなかった。
「何にしろ、魅力的な舞台であることは確かですよね」
と倉谷は、どこまで本気か分らないが、少なくとも見る限りはいたく感心したような顔で頷いていた。
「『人形館……』か、ふーん」
「館《やかた》、といえばね、飛龍さん」
ふと思いついたように、辻井が私の方を見た。
「中村青司っていう名前、聞いたことありますか」
「中村?」
「中村青司。青い司《つかさ》、と書いて青司」
その名前は――、記憶にあった。あれは……。
「ある建築家の名前ですよ。もう死んだ人だけどね、これがなかなか興味深い人物で」
「その人は確か、例の藤沼紀一の……」
「『水車館』ですね。ふん。そうですよ」
辻井はにたりと赤い唇を曲げた。
「僕も何かの雑誌で読んだくらいのものなんだけど、どうです? 僕が『人形館』って呼ぶことにしたこの家も、彼の作品の一つだったら面白いと思いませんか」
「この家が、中村青司の?」
「いかにも[#「いかにも」に傍点]、でしょう? もしかしたら本当にそうかもしれない、とも、僕は思うんですけどねえ」
「…………」
「あなたのお父さん、飛龍高洋氏は、かの藤沼一成画伯と懇意にしていた。当然、画伯の息子である紀一とも知り合いだったろう。このつながりを考えると、例えばこの家――あっちの洋館の改築にあたって、高洋氏が中村青司に仕事を依頼したということも充分ありうる」
それは私にとって、実に意味深長な指摘であり、仮説だった。
建築家、中村青司。その手に成るいくつかの館=Bそこで起こった事件……。
苦い酔い心地の中で私は、昨年の秋、入院中の私を見舞いにやって来たある友人[#「ある友人」に傍点]の話を思い出していた。
7
どこかから聞こえてきた叫び声で、目を覚ました。
キャッ、というような、小さく短い叫びだった。が、その声は私の心を、瞬時にして朝のまどろみから引き上げた。
(何だろう)
布団をはねのけて、パジャマ姿のまま部屋を飛び出す。
「お母さん?」
今のは――母の声だったように思う。眠っていて聞いた声だ、はっきりそうと判別できたわけではないけれども、他の可能性は思いつかなかった。
「お母さん」
どこから聞こえてきた声なのか、分らなかった、寝室だろうか。それとも他の場所か。
台所を覗いたが、母の姿はなかった。
「お母さん?」
もう一度呼んだ時、玄関の方から返事があった。
「想一さん……」
怯えたような、掠《かす》れた声の色だ。
「どうしたんですか」
問いかけながら、廊下を駆けた。起きたばかりでまだ薄い靄《もや》が立ち込めた頭の中に、真っ黒な墨《すみ》が流れ出すようにして広がるある種の予感……。
玄関の土間の、例のマネキン人形の手前辺りに、母は佇んでいた。半分開かれた戸を背にして、蒼ざめた顔をこちらに向けている。
「どうしたんです。今叫び声を上げたのは、お母さんだったんでしょう」
母は私の顔に視線を注いだまま、黙って頷いた。
「何があったんですか」
「そこに……」
と、彼女は震えた声を出し、こちらに目を向けたまま背後を指で示した。開いた戸口の方向である。
「外ですか」
サンダルに足を下ろしながら、私は訊いた。
また戸の外に何かが置いてあるというのだろうか、母のこの狼狽《ろうばい》ぶりからして、それが先日のようなただの石ころでないことだけは確かだが……。
「あっ、想一さん」
戸口に向かう私のパジャマの袖を掴《つか》み、母がぶるぶると首を振った。
「見ない方が……」
「何があるんです?」
問いながら、私は彼女の制止を聞かずに戸の外を覗いた。途端、灰色の石畳の上にそのグロテスクな物体を見つけ、
「うっ」
思わず、喉から呻きを洩らした、込み上げてくる嘔吐《おうと》感に、掌で口を覆う。
そこにあったのは、哀れな小動物の死体だった。白い毛並の、小さな猫の死骸。
「――ひどい。一体誰が、こんな」
母が悲鳴を上げたのも無理はない。あまりにもそれは、むごたらしい死にざまだった。その仔猫は、人間の拳《こぶし》大ほどもないちっぽけな頭をぺしゃんこに潰されて死んでいたのである。
十月二十四日、土曜日の朝のことだった。
――――1
(……怯えるがいい)
マネキン人形の血、ガラスの破片、石ころ、自転車のブレーキ、猫の死体。全ては――[#「――」に傍点]がやったことだ。
あの男を怯えさせるために、そうして、何もかも忘れてしまったかのようにのうのうと生きているあの男に己の罪を思い知らせるため。
まだ足りない。
まだあの男は、放たれたメッセージの意味をはっきりとは理解していない。まだ……。
(怯えるがいい)
呪文のように、――[#「――」に傍点]は繰り返す。
(怯えるがいい。そして……)
8
何者かの悪意が、私に向けられている。
これまでの一連の出来事が全て同じ一人の人物の手によるものだと、とりあえず仮定して考えてみよう。
最初は蔵の人形だった。この時点で、私は母屋とアパートの間のドアを直させ、蔵の扉には鍵を取り付けた。母屋に忍び込むことができなくなった犯人≠ヘ、活動の場所を家の外へと移すことになり……。
郵便受けのガラス片。玄関に置かれていた石ころも含めるとして、その次は自転車のブレーキ。そして、頭を潰された仔猫の死骸。
確かに、そこに一貫して込められているものは悪意≠セと思う。私たち――いや、主として私個人に向けられた、邪悪な感情……。
母も無論、被害をこうむってはいる、石ころの件はともかく、猫の死骸については、最初にあれを発見した彼女が、紛れもなく一番の被害者だと云えるだろう。
しかし、全てが同一人物の仕業だとするなら、彼(それとも彼女?)がその行為の対象としているのは、あくまでもこの私だということになる。母は単に、巻き添えを喰ったにすぎないのだ。
私に向けられた悪意。
それは具体的に、どの程度の悪意であるのか。どういった種類の悪意なのか。単なる嫌がらせで留まるものなのだろうか。それとも、それ以上の効果[#「それ以上の効果」に傍点]を期待してのものなのか。
現に私は、二度にわたって肉体的な被害を受けている。
ガラスで指を切ったぐらいのことなら、まだ「悪戯」でも済ませられよう。けれども、自転車のブレーキを壊しておくというのはどうだろう。乗る前に少し点検しておればすぐに分るような故障ではあったが、逆に、一歩間違えればあの程度の怪我では済まなかったかもしれないのである。
(一体誰が、何のために?)
堂々巡りを繰り返すばかりの問いかけ――。
緑影荘の住人たち――辻井雪人、倉谷誠、木津川伸造、水尻夫妻。やはりその中に、犯人≠ェいるのだろうか。
(誰が、何のために……)
何者かの悪意の表現は、だんだんと露骨になってきているようにも思う。このままそれは、更にエスカレートしていくのだろうか。そうして最終的に、彼(もしくは彼女)は何を望むのだろう。
いい加減、断定してかかってもいいのかもしれない。
私は狙われているのだ[#「私は狙われているのだ」に傍点]。
9
「狙われてる?」
長い前髪をゆっくりと掻き上げながら、彼――架場久茂は、私の口許に目を据えた。
「一体それ、どういうことなの。そう唐突に云われると、びっくりするじゃない」
びっくりするじゃない、とは云いながら、その表情はさして驚いたふうでもない、私は、テーブルの上のカップや灰皿に落ち着きなく視線を散らしながら、
「つまり、どうしてもそうとしか思えないような奇妙なことが、このところ身の周りで起こって……」
「奇妙なこと?」
「そう。この一ヵ月ばかり」
「そんな、自分が狙われてるだなんて思うような?」
「――ああ」
「じゃあ、まあとにかく話してごらんよ」
飄々《ひょうひょう》とした調子で、彼は云った。
「そうそう無下に笑い飛ばしたりはしないから」
十月二十八日水曜日、午後四時半。場所は喫茶「来夢」――。
昨夜、彼から電話があった。その後どうしているのか、というのである。
それは私にとって、願ってもない連絡だった。この一ヵ月間自分の身辺で起こっている出来事について、誰か第三者の意見を聞いてみたいと考えていた、丁度その矢先のことだったからだ。
私は狙われている。何者かの悪意の標的となっている。
そんなことはやはり、母には話せないと思った。といって、ずっと自分一人の胸の中にしまっておくのは、これも決して良いことではないだろう。
そうは思ったものの、では具体的に誰の意見を聞けばいいのかというところで、私は困っていた。そんな相談をできるような相手が、私の身の周りにはいない、先月再会した旧友のことをそこで思い出しはしたが、こちらから連絡を取るのはどうしても気がひけた。だから余計に、昨夜の彼からの電話は、私には有難いものだったのである。
その電話では、相談したいことがあるとも何とも云わなかったのだけれど、明日の夕方にでもまた会おうか、ということで話がまとまった。家に行ってみたい、と前に彼が云っていたのは覚えていたが、とりあえず場所は「来夢」に決めた。
そして今――。
私は、確かにかなり「唐突」なタイミングで、自分は誰かに狙われているみたいだ、と切り出したのだったが……。
「ううん」
一通りの話を聞き終わると、架場は溜息のような長い声を落とした。両手の指を組み合わせ、余った二本の親指の先で机の端を叩いている、そういえば、これは昔からの彼の癖だ。
「成程ね。確かにまあ、狙われていると思うのも無理はないようだけど」
「だろう?」
「けれども、もうちょっと慎重に考えてみることもできる」
「慎重?」
「うん」
頷くと、架場は落ちてきた前髪をまた掻き上げながら、
「例えばだね、君は、全ての出来事を同じ一人の人物の仕業であると仮定してかかっているけれども、果たしてそうなのかどうか」
「違う、って云うのかい」
「そういう可能性もあるってこと。もしもそうだとすると、君が云う相手の『悪意』の質も、自ずと変わってくるだろうからね」
「というと?」
例えば、最初の蔵の人形の件。これだけは他と違って、明らかに誰か君の身近にいる人間が、君を標的として行なった悪戯だと云える。しかし、他の件については、別の解釈もそれぞれ充分に成り立つと思うわけさ」
「別の解釈……」
「玄関の石ころは、やっぱりただの子供の悪戯だった。郵便受けのガラス、これは何らかの偶然……例えばだね、新聞配達人が、新聞を入れようとして道に落としてしまったとしよう。それを拾い上げた時に、たまたま道に落ちていたガラスの破片を挟み込んでしまって、とかね」
「そんな」
こじつけもいいところだ、と反論しようとしたが、架場は私の言葉を遮り、
「まあまあ、最後まで聞きなさいよ」
と云って、吸いかけていたハイライトを唇の端にくわえ直した。
「次が、自転車のブレーキだったっけね。例えば、そのブレーキは人為的に壊されたんじゃなかったのかもしれない。つまり、自然に壊れた」
「自然に?」
「ありえないことじゃないよ。どんな機械だって、壊れる時は壊れる。スペースシャトルだって落ちるんだ。自転車のブレーキが勝手に壊れて、どこがおかしい?」
「しかし……」
「ワイヤーが切れていたって云ったけど、その切断面の状態は詳しく調べてみたのかい」
「――いや」
「まだ壊れたまま残してある?」
「いや。もう修理に出したから」
「確かめようはない、か。――ええと、もう一つは、猫の死骸だっけ。これにしても、単純に酔っ払いの悪戯だったと考えられる。相当たちが悪いけどね」
「しかしだね、架場く……」
「そういうふうに考えることもできるってことだよ。要は、どのように解釈してやるかによって、これだけ出来事の意味が変わってくるということ。狙われてる、と君は云うけれども、そこにはまだ、これだけ別の解釈を許す余地があるわけさ。勿論、君の解釈≠全部否定しようとは云わない。もしかすると、それが全面的に正しい答なのかもしれない。けど――、今日の君の様子を見てると、ちょっと心配になってね」
「心配?」
「随分と思い詰めてるふうだから」
「…………」
「幽霊の、正体見たり……ってね。疑心暗鬼になってると、何でもないことまでそれらしく思えてくる」
「今の僕が、そうだと?」
「決めつけはしないけど、もうちょっと余裕を持って構えた方がいいんじゃないかな」
「しかしね」
「じゃあ、核心に触れる質問をしようか」
煙を吐きながら、架場は私の目を見据えた。
「何か君、そんな自分が誰かに悪意を持たれている理由について――、心当たりはあるの?」
「いや、それは……」
答えながら、何故かむきになって、私はかぶりを振っていた。
誰かに悪意を持たれる理由、狙われる理由……そんな心当たりなど、ない。何もない。
と、その時――。
首の付け根から頭の先へ、微かな痺れにも似た感覚が走り、
[#地付き]…………空
それとともに、目の前の現実がゆらりと奇妙な失調を始め……
[#地から4字上げ]……赤い、空
[#地から4字上げ]……群れ咲く、赤い花
(――彼岸花?)
[#地付き]……秋の……
(遠い)
(とても遠い)
[#地付き]…………真っ黒な影
[#地から4字上げ]…………黒い、二つの……
(何だろう)
[#地から17字上げ]……二本の線
[#地から6字上げ]…………………………………
[#地付き]…………石ころ
(何?)
[#地から11字上げ]…………………………………………
[#地から3字上げ]……まるで、巨大な蛇の
(いつの?)
[#地付き]…………………マ
[#地付き]…………マ……………マ
(これは)
[#地から2字上げ]………………ん!
[#地付き]……くん!
「ちょっと、飛龍君。飛龍君?」
繰り返し呼ばれて、失調感が去った。架場が、心配げ、というよりも不思議そうな顔で、テーブルに身を乗り出している。
「悪い。少しぼうっとして……」
「気分が悪いのかい」
「あ、いや――、何だか急に、妙なことが頭に浮かんで」
「妙なこと?」
「ああ。よく分らないんだけど……」
あたふたと煙草に火を点け、大きく煙を吸い込みながら、私はきょときょとと周囲を見まわした。
喫茶店「来夢」の、窓際の一席。狭く薄暗い店内に、客は私たち二人だけ。カウンターの中には、顔見知りのマスター。程良い音量で流れるアコースティック・ギターの演奏(懐しい――S&Gだ)……。
奇妙な感じだった。
今のは一体何だったのだろう。現実感の失調――幻視? 白昼夢?
よく分らない、が、確か、今と同じような感覚に陥ったことが、これまでにも何度かあったように思う。
たいがいが、けれどもほんの一瞬のことだった。ほんの一瞬、さわり[#「さわり」に傍点]と心のどこかが揺れるだけの……。
今のような強い揺れ≠経験したのは、一度だけだ。あれは、そう、先月の半ば頃、この同じ店の同じ席で、同じように架場と向かい合って話をしていた、あの時……
何なのだろうか。
これは――もしかしたら、私の心の深くに埋もれた[#「私の心の深くに埋もれた」に傍点]、何かの記憶[#「何かの記憶」に傍点]?
「疲れてるみたいだね、だいぶ」
架場に云われて、私はおとなしく頷いた。
「いろいろ勝手なこと云ったけど、君が不安に思うのは当然だろうからね。しかし、一人であれこれ悩むのはやっぱり良くないし……。
もしもまだ不審な出来事が続くようなら、そのたび僕に話せばいい。どうしても心配ならば、知り合いに京都府警の刑事がいるから、相談してあげるけれど」
「いや、そこまでは……」
「ま、あんまり深刻にならないことだよ。思い詰めすぎて、それが元でノイローゼになっても、そりゃあ僕の専門外だからね」
ちょっとしたジョークのつもりだったのかもしれない、架場は独り、口の中でクックッと笑った。大学での彼の「専門」は、確か社会学だと云っていた。
「有難う」
と云って、私は少し無理をして微笑んでみせた。彼に話したことで、胸のつっかえがいくらか軽くなったようではあった。
10
「来夢」を出ると、私は架場を連れて家へ帰った。彼が、是非一度私の家を――特に離れの洋館の中を見てみたい、と云うからである。
午後六時前。
母は、三昧線の稽占からまだ帰っていなかった。
母屋の玄関から中に入る。案の定、架場は玄関の土間に立つ例のマネキン人形に気づき、
「ふうん。これが君のお父さんの作った人形か」
興味深げに、その白い裸身を眺めていた。父の遺した奇妙な人形たちのことは、前に会った時にある程度話してあった。
薄暗い廊下をまっすぐに奥へ進む。私のあとに従う架場は、天井や壁や、襖の開いた部屋の中を、物珍しそうに見まわしていた。
「どうぞ」
洋館へ続くドアの鍵を開け、私は友人を促した。
「スリッパ、そこのを履いて」
和風から洋風へ、一枚の扉を境にがらりと趣の変わった廊下を、私たちは並んで歩いた。
倉谷誠の住む[1―C]のドアの前を通り過ぎ、今は空室になっている[1―B]の前を過ぎる。
曲がり角に立つマネキン人形――。相変わらず彼女≠ヘ、廊下の窓から内庭へと視線(といっても、のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の彼女には目≠ェないのだが)を向けている。その、上胴部のない不気味な形に、架場は小さな目を剥いて、
「さっきのは、腕が片方なかったよね」
「気味が悪いだろう」
「確かに。この家の人形は、もしかして全部こんな具合なのかい」
「そうだよ」
と、そして私は、家の各所に飾られた人形たちの特徴を彼に説明してやった。左右の腕、頭、上胴、下胴、左脚――それぞれ一部分が欠けた、六体のマネキン人形たち……。
「そりゃあ、しかし――」
ホールへと足を進める私のあとを追いながら、架場は云った。
「何だってそんな、不完全な人形を、君のお父さんは……?」
「さあ」
私は二階へ上がる階段の手前で立ち止まり、
「僕も不思議には思うんだけど」
「何か意味があるんだろうか」
「別にどうでもいいよ。もうこの世にはいない人のことだから」
殊更にそっけなく、私はそう答えた。架場は吹き抜けになったホールの高い天井を見上げながら、そこでふと思いついたように、
「戦前の梅沢《うめざわ》家事件のこと、知ってるかい」
と訊いた。
「梅沢家事件?」
「昭和十一年、だったかな。東京で起こった有名な殺人事件でね。六人の女性が、頭部、胸部、腹部、腰部、大腿部、下足部のそれぞれを切断され、持ち去られた死体となって発見されたっていう――」
「…………」
「何でも犯人は、六人の身体の、それぞれ星座の祝福を受けた各部を集めて、『アゾート』なる、理想的な一つの人体を造り上げようとしたらしいんだけれども、これが実|は《*》……」
そんな大昔の、血|腥《なまぐさ》い事件の話を聞く心境ではなかった。私は軽く首を横に振ると、
「二階も見てみるかい」
と、架場に云った。
*
洋館の二階を見てまわったあと、架場のリクエストで、今度は私のアトリエに向かった。
頭部のないマネキン人形に迎えられ、土蔵の扉の前に立つ。扉の金具に掛かった南京錠を見て、
「成程」
架場は生白い頬をそろりと撫でた。
「事件以来、ちゃんと施錠してるってわけ?」
私は黙って頷き、鍵束から必要な鍵を探し出した。
「さ、どうぞ。散らかってるけど」
蔵の中に入ると、架場は真っ先に例の揺り椅子に目を留めた。
「あの椅子に、悪戯をされた人形が?」
「そう」
答えながら、私は部屋の中央へ進み、イーゼルの前のストゥールに腰掛けた。
「その人形は? 今どこに」
「僕の油絵の具を使って汚されていたんだ。本当に人形の胸から血が流れてるみたいでね、気色悪いから、あれは捨ててしまった」
「ふん。他の人形は……ああ、あそこかい」
架場は、部屋の隅、白い布が掛けられた彼女≠スちの膨らみを見やった。
「見ていいかな」
「構わないよ」
布を捲《めく》り上げ、様々な異形をした人形たちに目を注ぐ。手を伸ばし、その肌に触れてみたりもしていた。
「ふうむ」
何やら感心したように唸ると、架場は私を振り返った。
「僕はてっきり、マネキン人形っていうと、蝋《ろう》[#表示不能に付き置換え]人形と同じように蝋[#表示不能に付き置換え]で出来てるものだと思ってたんだけれども、違うんだね、これは、プラスティックか何か?」
「FRPっていう素材らしいよ。大正時代に輸入された当時は、やっぱり蝋[#表示不能に付き置換え]で出来てたっていうけど」
「中は空洞みたいだね」
と、架場は一体の肩を掴んで持ち上げ、
「こんなに軽い……」
「厚さはせいぜい二、三ミリしかないんだ。意外だろう?」
こういった知識は、父の書棚に残っていた資料から得たものである。マネキン人形に関する文献というのは、あまりちゃんとした本の形では残っていないようで、父の遺した資料にしても、手書きのノートやマネキン人形工房のパンフレットといったものが大半だった。
なおもしばらくの間、架場は部屋の隅に集められたマネキンたちのそばにいて、あれやこれやと人形についての質問を繰り出してきた。適当にそれに答える内、やがて扉の外から私を呼ぶ声が聞こえた。
「想一さん」
母だ。三昧線の稽古から帰ってきたらしい。
「想一さん。どなたかお客様かしら?」
11
架場久茂が我が家を訪れた、その翌日のこと。
朝の十時頃に目覚めた時から、何か嫌な予感があった。それは多分、昨夜また例の気配≠感じて目が覚めたからなのだと思う。
何者かが同じ屋根の下にいる――その動き、その息遣い、その……。
たとえそれが、洋館で起きている誰かの気配であったにせよ、そしてその誰かが私に対して何らかの悪意を抱いていたにせよ、鍵の掛かったドアを開けてこちらへやって来ることはできない。そう云い聞かせることで、どうにか眠りに戻ることができたのだったが……。
架場はああいうふうに云っていたけれど、私はやはり釈然としないものを感じていた。
物事は解釈℃汨諱c…。そんなことは、云われなくても分っている。悪いように解釈し始めればきりがない、精神衛生上もよろしくない、と云いたいのだろうが、彼が昨日、蔵の人形以外の出来事を「偶然」や「他意のない悪戯」として説明しようとした、あれはあまりにも強引すぎはしまいか。
全ての事件が同一人物の手によるものとは限らない、という点については、賛成しないでもない。しかし……。
もう一つ、気になることがある。
昨日「来夢」で架場と話している時に降りかかった、あの奇妙な現実の失調感。あれは一体、何だったのだろう。
それまでにも何度か経験したことのある感覚だったけれど、少なくとも昨日の場合は、架場が行なったある質問[#「ある質問」に傍点]に呼応するかのように、あれ[#「あれ」に傍点]が起こった。誰かに狙われるような心当たりはあるのか? と、そう問われた時――。
仮にあれ[#「あれ」に傍点]が、あのあとふと思いついた通り、私の心の奥にひそむ古い記憶の声なのだとしよう。すると、その記憶が、現在私が「狙われている」という事実に対して、何らかの関係を持ってくるということになるのか……。
――午前十一時。
母が、私のために朝昼兼用の食事を用意してくれる。このところあまり食欲は芳しくないのだが、彼女が心配しない程度に、無理をして箸をつけた。
「昨日はほんと、びっくりしましたよ」
上機嫌に、母は喋る。
「珍しくお客様だと思ったら、架場さんだっていうでしょう? 高校の時、何度かうちへ遊びにいらしたわよねえ。京都でまた会うなんて、ほんとに偶然ですね」
私がこの街で、仲の良かった旧友と再会したことを、母はたいそう喜んでいる様子だった。孤独な毎日を送る息子≠ノ同じ世代の話し相手が出来て、彼女としても一安心なのだろうが……。
午《ひる》過ぎ、コーヒー用の湯がたっぷり入ったポットを持って、私はアトリエに向かった。今日は夕方まで、描きかけの絵に取り組むつもりだった。
厚い観音開きの扉の前に立つと、ポットを廊下に置き、ズボンのポケットから鍵束を取り出した。扉の金具に掛けられた南京錠の状態には、この時、何も不審な点は見られなかった。
ところが――。
錠を外し、扉を開け、電灯のスイッチを探りながら蔵の中へ一歩踏み込んだ。その途端、
「――!?」
私は声にならぬ声に大きく口を開け、呆然と目を見張った。
「こ、こんな……」
こんなことがあっていいのだろうか。
この蔵の扉には、確かに、外から頑丈な錠が下ろしてあったのだ。そして錠の鍵は、合鍵を含めて二本ある、その二本ともを、私がずっと保管していた。扉の他に、人の出入りが可能な通路はない。明り採りの丸い窓が壁の高い位置に数個開いているが、せいぜい直径三、四十センチ程度の大きさで、しかも内側から金網が張ってある。
つまり、昨夜から今朝にかけて[#「昨夜から今朝にかけて」に傍点]、この蔵の中に入ることができた人間はいなかったはず[#「この蔵の中に入ることができた人間はいなかったはず」に傍点]なのだ。なのに――。
それは、ある意味で凄まじい光景だった。惨状、という言葉を使ってもいいだろうか。
部屋の隅に集めておいたはずの人形たちが、全て中央に引っ張り出されていた。あるものは片腕がなく、あるものは片脚がなく……両腕がないもの、下半身がないもの、首がないもの、のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の首だけのもの……そんな彼女≠スちが、仰向けになり、俯《うつぶ》せになり、折り重なるようにして倒れている。そのあまりの乱雑さ加減は、作り上げた積木の城を自分の手で壊す子供の凶暴性を想起させた。
そして更に――。
倒れた人形たちの身体を彩った色! 赤い絵の具がまた、彼女≠スちの白い肌に、乱暴に塗りたくられているのだ。
さながらそれは、人形たちによる阿鼻叫喚の地獄風景だった。血≠ノまみれて苦しむ彼女≠スちの、叫び声や呻き声が、薄暗い部屋の中に満ち溢れていた。
あまりのことに、しばし身動きができなかった。どういった対処をしたらいいのか、まるで考えることができなかった。
けれどもその時、ふうっと現実の色が乱れ、そうして心のどこかで聞こえた声は……
[#地付き]……ママ
[#地から3字上げ]……ママは?
[#地から8字上げ]…………どこなの!?
……それは何だったのだろう。何だったのだろう。
とにかく私は、改めて確信せざるをえなかった。
私は狙われているのだ[#「私は狙われているのだ」に傍点]。
[作者註]
* ……この事件については、島川荘司『占星術殺人事件』(講談社、一九八一年)に詳しい
[#改ページ]
第五章 十一月
1
犯人≠ヘどうやって蔵の中に入ったのか?
あれ以来、繰り返しその問題について考えてみるけれど、これ[#「これ」に傍点]という答は出ない。
扉の錠前は、確かに下りていた。錠の掛かった金具自体を扉から取り外したような形跡も、一切見られなかった。
扉を蝶番《ちょうつがい》ごと外してしまったのではないか、という可能性も考えた。しかし、厚い板に漆喰を塗ったあの扉は相当な重さがあるだろう。そうそう容易に実行できることではなかったはずだし、私の見た限りでは、そういった痕跡もなかった。
物置から脚立《きゃたつ》を持ち出してきて、明り採りの窓を調べてもみた。だが、どの窓にも何も異状はなかった。内側からしっかりと金網が釘で打ちつけられている。たとえそれを取り外したとしても、到底、大の大人が出入りできるような穴の大きさではない。
そうやって結局、私はあの土蔵が完全な密閉状態であったことを確認したのである。
そのあとすぐ、洋館との接続部にある例のドアを調べにいった。けれども、その施錠状態にも(このドアの鍵は、母屋の側からだとノブを回すだけで開く仕組みなのだが)何ら不審な点はなかった。
二重の密室、とでも云おうか。
誰も忍び込めたはずのない母屋。その中にある、これまた誰も忍び込めたはずのない土蔵。
しかし現実には、誰かが忍び込んでいたのだ。前日の夜、私が最後に蔵から出て以降、翌日の午過ぎに扉を開くまでの間に、何者かがあそこへ忍び込み、またしても人形にあのような悪戯を加えたのだ。
一体どのようにして、彼(彼女?)はそれを行なったのだろうか。
冷静に考えてみるなら、この謎は鍵≠フ問題に収束すると思う。
まず、外側の密室――母屋の鍵。
前夜の家の戸締まりについて、母にそれとなく訊いてみた。が、玄関は勿論、窓も縁側に出る戸も、どれも皆きちんと鍵を掛けたし、翌朝それらには何も異状はなかったという。私は自分の目でも、家中の戸や窓を調べてまわったのだけれど、ガラスが割れていたり錠が壊れていたりといったような異状はどこにも見つからなかった。
施錠してあっても、鍵を持っていれば外から開けられるタイプの戸は、母屋には全部で三つある。玄関の戸、台所脇の勝手口の戸、それから洋館に続く例のドアの三つである。
これらの戸の鍵を、私は自分の鍵束に、母は彼女の鍵束に、それぞれ一本ずつ保管している。
怪訝に思われるのを承知の上で、私は母に、鍵束は普段どこにしまっているのか、最近それをなくしたようなことはないか、といった質問をした。鍵束はハンドバッグにある、なくしたことはない、と、彼女はきょとんとした顔で答えていた。
私も彼女と同じで、自分の鍵束は常に身に付けているか身近な場所に置くかしているし、それをなくしたようなこともない。台所の水屋の抽斗にしまってあるもう一組の合鍵も調べてみたのだが、その状態にも何ら不審なところはなかった。
では、一体犯人≠ヘどうやって母屋に入ったのか?
私や母の目を盗んで、どれかの戸の合鍵を作ったのだろうか。鍵の雄型が持ち出せれば、それは至極簡単なことだ。しかし、私たちに知られないようにいずれかの鍵を持ち出すことが、果たしていつの機会にできただろう。
戸の鍵孔の方から合鍵を作ることが可能だったのかもしれない。例えば、蝋[#表示不能に付き置換え]か何かで型を取って……。
(――そうだ)
と、そこでようやく私は気づく。
合鍵を問題にするのならば、まず疑ってかからねばならない人物がいるではないか。それは無論、水尻夫妻である。
私たちがこの家にやってくる以前から、彼ら夫婦はあの離れに住み込み、アパートの管理に携わっていた。夫人の方は、死んだ父高洋の身の周りの世話もしていたという。ならば当然、彼らはこの母屋の合鍵を預かっていたはずではないか。
引っ越してきた私たちに鍵を引き渡す前に、その合鍵を余分に作っておくことは、彼らにしてみればごくたやすいことだったろう。
水尻夫妻――世話好きで元気の良いキネ夫人、腰の曲がった道吉老人、あの二人のどちらかが、あるいは両方が、一連の事件の犯人であるとはどうしても思えなかったが、とにかく彼らには、これまで以上の注意を払う必要がある。
犯人は、母屋の戸のどれかの合鍵を持っている。とりあえずそう考えるとして、では次の問題――内側の密室、即ち土蔵の鍵についてはどうなるだろうか。
あの扉に取り付けた南京錠の鍵は二本あり、両方を私が持っている。そして、この二本は二本とも、母屋の他の鍵と同じ鍵束に付けてあるのである。
従って、普通に考えれば、あの錠前を開くことは母にさえ難しいということになる。ましてや第三者が、私の目を掠《かす》めて鍵をくすね、この雄型から合鍵を作るなどということはまず不可能だと思う。
とすると、残る可能性は、錠前の鍵孔の方から合鍵を作ったのか、それとも事件当夜、私が眠っている部屋に忍び込んで、枕許に置いてあった鍵束をこっそりと持ち出したのか……。
前者の方法が実際に可能であったかどうかはともかく、後者については、かなり疑問だ。最近とみに神経質になってきている私が、たとえ睡眠中であろうと、誰かが寝室に入ってきたのに気づかなかったはずがない。それともこの犯人は、まるで忍者さながらに、己の気配を完璧に消すことができたというのか。
あれこれ考えてみたものの、結局頭の中では、このようないくつかの可能性の組み合わせを検討するぐらいのことしかできなかった。今度ばかりはよっぽど母に話してしまおうかとも思ったのだけれど、やはりそれもやめておいた。
とにかく、昼夜を問わず家の戸締まりには万全の注意を払うこと。玄関と勝手口、洋館へのドアには、今付いている鍵とは別に、掛金か何かの内鍵を取り付けた方がいいだろう。
それから、そう、蔵の扉の錠前を取り替える必要もある。
私はまた錠前屋に出向き、新しい錠を買ってきた。その際、鍵孔から蝋[#表示不能に付き置換え]型を取って合鍵を作ることは可能か、と訊いてみたのだが……。
ものによってはできますよ、と、その店の店員は答えた。しかし、悪用される恐れがあるから、余程信用できる客でなければ引き受けないことにしている、とのことだった。
――――1
深夜の部屋。
冷たい椅子に腰掛け、息苦しいほどの静寂に身を浸す。
(……怯えるがいい)
――[#「――」に傍点]はペンを取った。
(怯えるがいい)
いい加減、あの男も気づき始めていることだろう。己に向かって発せられる激しい敵意を。そこに込められた意味の何たるかを。
(怯えるがいい。そして……)
ペンは、左手に持った。
(思い出せ)
2
十一月に入ると、京都の街は急に寒くなった。晩秋を飛び越して、一気に冬に突入してしまったかのようである。
殊に朝晩の冷え込みがきつい。古い日本建築だけに、それはいっそう厳しく感じられる。山から吹き下ろす風は強く、冷たくなり、どちらかというと暑さよりも寒さの方が苦手な母と私は、この街で迎える最初の冬に身構えた。
十一月十日、火曜日。
相変わらず夕方には「来夢」に顔を出すが、あれ以来架場とは会っていない。彼が家を訪れたその夜に起こった新たな事件のことを話そうかと、何度か貰っていた名刺を取り出したのだけれども、結局こちらからは連絡できないでいた。
私は電話というものが苦手だ。
相手の顔が見えず、声だけで話をするという行為そのものが昔から苦手だったし、こちらが何をしていようが、どういう格好をしていようがお構いなしに鳴り出す、あのベルの音が苦手だった。加えて、架場に貰った名刺には、K**大学の代表の電話番号しか書かれていなかった。交換台の取り次ぎを通さねばならないというのは、私のような人間にしてみれば大変な苦行なのである。
「来夢」のマスターに云って、私が連絡を取りたがっていることを伝えてもらおうかとも考えた、が、何となくそれも実行できないままでいる。
午後六時――。
家に帰ってみると、母の部屋に誰かが来ている様子だった。彼女の声と、それに応える低い男の声が、襖の向こうから聞こえる。
「お帰りなさい」
私の帰宅に気づいたらしく、母が声を投げてきた。それに続いて、
「おぼっちゃんですかな」
という男の声。水尻老人かなと思ったのだが、どうも声の色が違う。
「どなたかおいでですか」
云いながら、私は玄関から左の小部屋に上がり、母の座敷へ向かった。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
と、母が答える。
襖を開けると、布団の上に俯せになった彼女の姿が目に飛び込んだ。しかも、それが着物を脱いだ白い長襦袢《ながじゅばん》姿だったものだから、私は瞬間、哀れなほどにうろたえた。
「お邪魔しとります」
と、男が云った。医者のような白衣を着、母の傍らに正座したその男は、マッサージ師の木津川伸造である。
そういえば、いつだったか母は、最近身体のあちこちが凝って仕方がないのよ、とこぼしていた。一度木津川さんに来てもらって、マッサージを頼もうかしら、とも。
「あ、どうも……」
「無理を云って来てもらったんですよ」
身を起こしながら、母が云う。その背後で、早々と納戸から引っ張り出してきた石油ストーヴが赤く燃えていた。
「さすが本職の按摩さんですね。凄くお上手」
「かなり凝ってますよって」
木津川が黒いサングラスを母の方に向ける。
「また、いつでも呼んでもろたらええですわ」
「あら、今日はもう?」
「いやあ、今晩は仕事は休みやけど、ぼっちゃんの御飯とか、ありますやろ」
「ああ、いえ」
と私は、艶《なま》めかしい母の襦袢姿から目をそらしながら、
「食事なら、まだいいですから」
「じゃあ、もうちょっとお願いしますわ、木津川さん」
云って、母はまた布団の上に腹這いになった。が、そこでもう一度身を起こして私の方を見やり、
「そうそ、想一さん」
「何か」
「あなた宛ての手紙が来てますよ。居間の机の上に置いてありますから」
「手紙?」
「ええ。何だか汚い字だったけど、どなたかしらねえ」
例のガラス片の一件以来、何となく私は、自分で郵便受けを覗く習慣をやめてしまっていた。
それにしても、「どなたかしらねえ」と母が云うということは――、その手紙には差出人の名が記されていなかったのだろうか。
母が再び横になると、木津川がその白い肩に両手を伸ばした、まるで彼女の動きをその目で捉えたかのようなタイミングで。
元通り襖を閉めながら、
(もしかして、本当は彼は目が見えるのでは?)
ふと、そんな疑念が私の頭を掠めた。
3
母が云った通り、居間の机の上に封筒が置いてあった。どこにでも売っているような、白い定型封筒である。
何やら不穏な胸騒ぎを感じながら、その表書きを見た。
この家の住所。「飛龍想一様」――私の名前。
サインペンで書いたものらしい、蚯蚓《みみず》がのたくったような下手糞な字だった。「何だか汚い字だったけど」とさっき母は云っていたが、これはどう見ても、わざと下手に書いたとしか思えない。左手で書いたとか、ペンの端を摘んで書いたとか。
(筆跡をごまかすため?)
そう考え、そして封筒の裏面にやはり差出人の名がないことを確認した時、既に私は、それが何者から送られてきたものなのか、その中身がどういった内容なのかを、漠然と予感し始めていた。
おろおろと周囲に目を配った。どこかから誰かが、じっとこちらを見つめているような気がしたからだ。
白く明りが灯った八畳間には、しかし勿論、誰の姿もない。縁側に面したガラス戸――苔《こけ》色のカーテンが引かれたその隙間には、もう夜の闇が幕を張っている。
居間を出、殆ど小走りでアトリエに向かった。
(差出人不明の手紙……筆跡を隠した文字……)
新しく付け替えた錠を外し、扉を片側だけ開く。明りを点け、部屋に異状がないことを確かめてから、まるで追手から逃れてきたような心境で中に滑り込んだ。急いで、内側から閂《かんぬき》まで下ろした。
(差出人不明の手紙……)
奥のデスクの前に坐り、その上に封筒を放り出した。
消印の日付は十一月九日、局名は「左京」とある。同じこの区内で、昨日投函されたものだ。
中を見る決心がなかなかつかず、煙草を三本灰にした。
(差出人不明の……)
四本目の煙草をくわえながら、ようやくの思いで、私は封を切った。
たった一枚の紙切れが、中身の全てだった。B5サイズの、薄い縦罫《たてけい》が入った便箋《びんせん》だ。そしてそこに記された、これもまた故意に筆跡をごまかしたと思われる汚い文字。
[#ここから□囲み]
┌───────────────┐
│ │
│ 思い出せ、お前の罪を。 │
│ 思い出せ、お前の醜さを。 │
│ 思い出せ。そして待て。 │
│ 近い内に、楽にしてやる。 │
│ │
└───────────────┘
[#ここまで□囲み]
(やっぱり……)
悪夢のただなかに放り込まれたような、全身が痺れて動かなくなったような心地で、私はしばし、その文面から目を離すことができずにいた。
ストレートな言葉では書かれていない。けれどもこれは、明らかに脅迫状=\―いや、予告状≠ナはないか。
何者かの強い悪意が、私に向けられている。私は狙われている。――やはり、そうだったのだ。
二度にわたるこの土蔵での人形殺し=B私の指を傷つけたガラスの破片。玄関の石ころ。壊された自転車のブレーキ。頭を潰された猫。全てはやはり、同じ人物の仕業だったのだ。恐らくは、私に対する一種のデモンストレイション……。
彼(彼女)の悪意の表現は、そうして第一の段階を終了したのに違いない。第二段階の開始――それがきっと、この手紙なのだ。
(しかし、一体何故?)
もう幾たび、この問いかけを繰り返しただろう。
(誰が、どんな理由で……)
右手に持っていた便箋が、音もなく机の上に落ちた。
急に、強い寒さを覚えた。ぶるっと大きく全身を震わせ、私は部屋の中央に置いてある石油ストーヴに向かった。
ボソボソと音を立てて燃え始めた炎に手をかざしながら、さっき居間でしたのと同じように、怯えた目で部屋の中を見まわす。
散らかった画材。描きかけの絵。既に完成した作品。絵の具で汚された人形たちは、全部を捨ててしまうわけにもいかず、元通りまた部屋の一隅に集めて布をかぶせてある。
高い窓。真っ黒な闇。その闇の中に感じる、あるはずのない彼[#「彼」に傍点]の視線。静けさの中に響く、聞こえるはずのない彼[#「彼」に傍点]の笑い声……。
思い出せ、と彼[#「彼」に傍点]は云う。お前の罪を思い出せ、と。
「罪」とは?
私の罪、とは一体何のことなのだ?
[#地付き]……二本の
[#地から3字上げ]……どこまでも続く
(――え?)
[#地から6字上げ]…………黒い影、二つの……
後頭部に走る微かな痺れ。それに合わせて、心のどこかがさわさわと揺れ……。
ああ、またか。またあれが、私に何かを見せようと、語りかけようとしているのか。
心の揺れが大きくなる。ゆらりと現実の色が乱れ、そして……
[#地付き]……子供
(子供がいる)
(――私?)
[#地付き]………赤い花の群れ
[#地から4字上げ]…………風になびき……
(どこ?)
[#地付き]………黒い二本の線
(黒い、二本の)
[#地付き]……その上に
[#地から10字上げ]…………ゴ…………
[#地付き]………ゴ…………ゴゴゴ………
[#地から7字上げ]……………まるで、巨大な蛇の……
(蛇?)
[#地付き]………屍《しかばね》…………のような
[#地付き]………………マ
[#地付き]……ママ
[#地付き]………………………ん!
[#地から4字上げ]……ママ!
[#地から1字上げ]……くん!
やめてくれ、と、知らない内に声を出していた。
遠い風景、遠い音、遠い声――古い記憶の疼《うず》き……これ[#「これ」に傍点]か? あまりに断片的すぎてどうしてもうまく掴むことができないが、これが、私の「罪」だというのか。「醜さ」だというのか。これを「思い出せ」というのか。
「近い内に、楽にしてやる」と、彼[#「彼」に傍点]は宣言する。
「楽にしてやる」とは? ――考えるまでもないことだ。
手紙の主は、私の「罪」と「醜さ」を理由に、私の命を狙っている。私を「殺してやる」と云っているのだ。
ひどい目眩《めまい》と悪心《おしん》が、一度に襲ってきた。
たまらず、私はストーヴの前を離れ、倒れかかるようにして机の前の回転椅子に身を落とした。
(――殺される)
殺される。この、私が……。
死[#「死」に傍点]の一文字が、心の中に暗黒の深淵を作る。私は恐る恐るそれを覗き込み、そして――そして、そこから噴き上げてくる、破滅の腐臭に酔いしれる。足をもつらせ、つんのめり、転倒し、真っ逆さまにその中へ、鉛のような頭を突っ込むのだ。
ばたばたと両腕両足を動かしながら、私は上空を振り仰ぐ。
(……想一さん)
現実世界の淡い光が、無数の金の糸となって降ってくる。そうっと私の身体に絡みつき、淵から引き上げようとする。
(想一さん)
じっと、虚ろに空を仰いだ私の顔を見下ろす目。
(想一さん……)
母――沙和子叔母――の目だ。十年も前に夫を亡くした女の目には、とても見えない。明るく、生気に満ち満ちて見える。
けれども――そうだ、彼女の老いを、私は知っている。彼女の憂いを、私は知っている。そこには確かに、悲しみに疲れた、生きることに疲れた、乾ききった吐息がある。
そして、だからこそ彼女が、私に対して抱く愛。失った我が子の「生れ変わり」に、惜しむことなく注がれてきた、静かな、しかし盲目的な情熱。それ故に、彼女は生きてきたのだ。それ故に、彼女は生きているのだ。それ故に……。
私は――。
私は殺されるわけにはいかない[#「私は殺されるわけにはいかない」に傍点]。
机の上の手紙を再び取り上げると、私は強い衝動に任せてそれをまっぷたつに引き裂いた。
誰が私を狙っているのかは知らない。何故私を殺したいのかも分らない。だが、私は殺されるわけにはいかないのだ。
チン、とその時、部屋の隅で音が響いた。続いて、チリリリーン、と鳴り始めるベルの音。
微かな、と云ってもいいほどの小さな音でしかなかったのだが、それでもその音は、極度の緊張状態にあった私を、椅子から飛び上がらんばかりに驚かせた。
電話のベルの音だ。
私たちがここへ越してくる前から既に置かれていたもので、母屋の廊下にある一台と回線を共有している。この部屋に電話があっても、私が使うことなどめったにないのだが、わざわざ撤去工事をしてもらうのも面倒なのでそのままにしてあった。音量を最小に絞った上、毛布をかぶせて置いてある。
何回かの呼び出しを繰り返したあと、ベルはやんだ。母屋の方で、母が受話器を取ってくれたのだろう。
しばらくして、
「想一さん」
と、彼女の声が聞こえてきた。
「想一さぁん。架場さんからお電話ですよぉ」
4
先日の話が気になる、その後何もなかったか?
そう云って架場久茂から電話がかかってきたのは、その夜の私にとって正に救いだった。
殺人の予告ともとれる、正体不明の人物からの手紙。それは到底私一人の手には負えぬものだったし、かといって、そんなことを母に相談するわけにも当然いかなかった。私の命を狙う者がいるなどと、たとえ冗談ででも云おうものなら、彼女は半狂乱になりかねない。
電話では、例の件に進展があったのだとだけ告げ、翌十一日の午過ぎに私の方から彼を訪ねることにした。
架場の勤めるK**大学は、東西を走る今出川通りと南北を走る東大路《ひがしおおじ》通りとの交差点――「百万遍《ひゃくまんべん》」と呼ばれる辺り――その南東の一角に広大なキャンパスを持つ。私の家から歩いて三、四十分、バスに乗れば十分ほどで行ける場所である。
学生たちに混じって大学の門をくぐると、前夜の電話で彼から教わった目印を頼りに、私は彼の研究室がある文学部の建物を探した。
案外すぐに、目的の建物は見つかった。コの字型をした四階建の建物で、重厚な石造りの外観はいかにも古く、厳《いかめ》しい。行き交う学生たちの明るさ、賑やかさとの対比が、そういったイメージをいっそう引き立てていた。
何となく気後《きおく》れを感じつつ、建物の中に入った。学生や教官らしき人間とすれちがうたびに顔を伏せながら、暗い階段を四階へ向かう。
目当ての部屋を見つけると、コートのポケットに深く突っ込んでいた手を抜き出し、その黒い木のドアをノックした。すると、
「はい。どうぞ」
案に相違して、澄んだ女性の声が返ってきた。
どぎまぎして、もう一度ドアに貼られたプレートを見る。
[社会学共同研究室]
間違いない。昨夜架場が云っていた部屋だ。前に貰った名刺にも、同じ部屋の名称が書かれていたことを覚えている。
「どうぞ」
と、同じ声が繰り返された。私は思い切ってドアのノブを回した。
奥行きのある長方形の部屋。手前三分の二ほどのスペースに、長円形の大きな会議机が置かれていた。ラヴェンダー色のセーターを着た小柄な若い女が、それを取り囲んだ肘掛け椅子の一つにいて、ワープロらしき機械に向かっている。
「あのう、助手の架場君は?」
おずおずと私が尋ねると、彼女はふっくらとした口許に軽く笑みを含んで、部屋の奥の方を見やった。
「架場さあん。お客様ですよお」
見ると、窓際のデスクに彼の姿があった。卓上で分厚い本を開き、その上にぺったりと顔を伏せて居眠りしている。
「架場さあん」
再度呼ばれて、ようやくぴくっと肩を動かしたかと思うと、架場はしょぼしょぼした小さな目をこちらに向けた。
「やあ、いらっしゃい」
「寝てるところ、悪かったかな」
「うん……いやあ、とんでもない」
眠そうな目を擦りながら、彼は、私がテーブルの女性の方をちらちらと見ていることに気づいたか、
「ああ、この人ね、うちの学生で、道沢《みちざわ》希早子《きさこ》さん。ここ、共同研究室だから、暇な学生や院生が溜りにくるんだ。まあ、気にしないでよ」
「暇で悪かったですねー」
と、その道沢希早子が、元気の良いからかい口調で云った。
「学生に自分の論文の清書やらせといて、ホント、調子いいんだから」
「まあまあ」
照れる様子もなく架場は椅子から立ち上がり、彼女に私を示して、
「彼、飛龍君といって、僕の友だち。絵を描いてる人だよ」
「よろしく。道沢です」
屈託のない笑顔で、彼女はぺこっとお辞儀をした。私はしどろもどろで、こちらこそ、と言葉を返すのがやっとだった。
艶《つや》の良い柔らかそうな髪を、肩の辺りまで伸ばしている。少し赤味の差した白い頬に、つんと上を向いた小振りな鼻、それに比べれば大きめの口。二重瞼の丸い目が、くりくりとよく動く。
「絵を描いてらっしゃるって、あの、絵描きさんなんですか?」
ドアを入ったところに突っ立ったままでいる私に向かって、彼女は好奇心一杯の眼差しを向けた。
若い女性――それも彼女のような、活発で利口そうなタイプの女性と言葉を交わすのは、大の苦手だ。けれどもこの時、私は何故かしら彼女の顔から目を外せずにいた。無視してしまうにはあまりにも生き生きとした存在感が、彼女にはあったから。そして、そういった魅力に間近に接する機会が、あまりにもこれまでの私にはなかったから。
「ええまあ」
ポケットの煙草を探りながら、私は答えた。
「一応、画家ということになってます」
「凄い。架場さんに芸術家のお友だちがいたなんて、意外ですねえ」
と、彼女は悪戯っぽく微笑む。そこでふと――、
(この声……)
彼女――希早子のその声をどこかで聞いたことがあると気づいた。それとほば同時に、こちらに向けられた、彼女の大きな瞳にも、
(この瞳……)
記憶、それもわりに最近の記憶が、確かな共鳴を起こした。
(いつ?)
(――そうか。あの時の……)
あの時――あれは八月の半ばの、そう、五山の送り火の夜だ。母と二人で大文字を見に出た、あの時。
私の背中にぶつかって、持っていた本の袋を落とした――彼女はあの女性ではないか。
たった一度そんなふうにして顔を合わせ、言葉を交わしただけの彼女のことが、どうしてこんなにちゃんと記憶に残っているのか、自分でも不思議だった。その記憶が正しかったとしても、まず彼女の方はこちらのことなど覚えていないだろうが……。
「コーヒー飲まれます? それともお茶の方が?」
希早子が云い、部屋の右手前に設けられた洗い台に向かう。
「いえ、あの、お構いなく」
「飛龍君。いつまでも立ってないで、適当に掛けてよ」
云いながら架場が、希早子が作業をしている席とは離れた一席に腰を下ろした。
「道沢さん、僕もコーヒーね。それから、彼とはちょっとプライヴェイトな話があるんだ。すまないけど、しばらく席を外してくれる?」
「いや、架場君」
私は慌てて手を振り、
「別にいいんだよ。わざわざ出ていってもらわなくっても」
云ってしまってから、内心ひどく狼狽していた。
本来ならば、全くの第三者にはこの場にいてもらいたくないはずだった。それを、そんなふうに云って彼女を引き留めようとしたのは――、あるいはその時、既に私の心が彼女に向かって動き始めていたからなのかもしれない。
5
「殺人予告、か。――まあ、確かにね、そういうことになるのかな」
二つに引き裂かれた例の手紙を見ながら、架場は云った。希早子は同じ場所でワープロの作業を続けている。
「これを持って警察へ行く手もあるけど、だからといって例えば、君の身辺警護をしてくれるっていうわけにはいかないだろうな。嫌がらせの手紙って、よくあるといえばある話だし」
慎重に言葉を選んでいるふうだった。が、前に話をした時に比べると、さすがにいくらか緊張の度合が強い。
「それよりもね、初めに云った蔵の人形の事件、警察に届けるなら、そっちをまず話した方がいいかもしれないね」
「――どうして?」
「だってさ、本当に誰かが、君のアトリエに忍び込んで人形にそんなことをしたんだとしたら、そりゃあ立派な住居侵入と器物破損だろう。被害届を出せば、それなりの対応はしてくれるだろうから」
「それはそうかもしれないけど……」
私はどうも、警察というものにつきまとう威圧的なイメージが好きになれない。思想的な問題ではなく、単に好き嫌いの問題である。
相談してみても、どうせ真面目には取り組んでくれないだろうな、という意識もあった。それに、もしも警官がうちへやって来るようなことになれば当然、一連の事件を母が知ってしまうことになる。
「それにしても」
煮えきらない返事をする私の顔を窺いながら、架場が云う。
「鍵の掛かった蔵の中でその事件が起こったっていうのは、気になるね。見るからに頑丈そうな錠前だったものね。窓も、君の云う通り、人が出入りできるようなものじゃなかったし……。本当にその鍵、誰かがこっそり持ち出す隙はなかったのかい」
「ああ」
この質問には、強く頷いた。
「そんなことは誰にもできなかったはずだよ」
「君のお母さんにも?」
「えっ」
不意を突かれたような気分で、私は架場の顔を見直した。
「そりゃあ、まあ……」
母が犯人≠ナある可能性もある、と彼は云うのだろうか。
確かに、もしもそうであれば、先日の事件を巡る謎の一つは簡単に解ける。どうやって犯人は母屋の中に忍び込んだのか? ――彼女が犯人であれば、そもそもそれは謎でも何でもないのだ。
しかし、一体そんなことが……。
「誤解しないでおくれよね。別にお母さんを疑おうっていうわけじゃない」
私の狼狽には当然気づいたことだろう、架場は穏やかな口調で云った。
「ただね、聞いた限り、あまりにも不自然な状況だから……。普通に考えるとまあ、一番怪しいのは、やっぱり管理人の夫婦なんだろうな。母屋の合鍵を持っていても全然不思議じゃない。部屋の配置やなんかも熟知してるだろうし」
「…………」
「けれども蔵の鍵の問題になると……。ううん」
架場は、希早子の淹れてくれたコーヒーの残りを飲み干し、
「何とも云えないなあ。とにかくその犯人は何らかの方法で[#「何らかの方法で」に傍点]あの錠前の合鍵を手に入れた、としておく以外にないみたいだね」
そして彼は、手許の手紙にまた目を落とした。
「ところで、この文面――、『思い出せ』って三回も繰り返してるよね。前に会った時も訊いたように思うんだけれど、何かそういった心当たりはないのかい」
訊かれて、このところますます気になりつつある例の記憶の疼き≠フことを、ここで彼に話してしまっていいものか、私は迷った。あれが本当に自分の過去の記憶なのかどうか、まだ確信が持てなかったからだ。また仮にそうだとしても、必ずしもそれが、手紙の主が「思い出せ」と命ずる「罪」に通じるものだとは限らない……。
しかし、結局はやはり、話してみることにした。うまく云い表わせるかどうか自信がなかったが、とにかく自分の感じたありのままを、何とか言葉にして彼に伝えた。
「成程ね。昔の記憶の断片か」
呟いて、彼は椅子の上で軽く身を反らした。それから両手の指を組み合せ、親指でテーブルの端を叩く例の癖を始めながら、
「どのくらい昔のことなのか、分らないの?」
「だから、本当にそれが過去の記憶なのかどうかも、まだ自信が持てないんだよ。ただ、何となくそうじゃないかって思うだけで」
私はくわえていた煙草のフィルターを強く噛《か》んだ。
「でも、もしもそうだとすると、やっぱり相当昔のことなんだと思う。物心がついてから小学校の低学年になるまでぐらいの……」
「子供の頃の記憶、か」
架場は小さな目をぎゅっと閉じた。
「今聞いた断片≠フ中に、『子供』っていうのがあったね。それは、君自身のことなのかな」
「さあ。そういう気もするし、違うような気もするし」
「ふうん。そうだね、じゃあ、断片≠ニして君が表わした言葉を順に追ってみようか。
まず、『風』『赤い空』『赤い花』……この花は、沢山咲いているんだったね。それが風に揺れている光景」
「その赤い花っていうのは、多分、彼岸花だと思う」
と、私が云った(――そうだ。あれは彼岸花だ……)。
「彼岸花? 成程。ということは、季節はやっぱり『秋』なわけだね。秋の、風が吹いている日。空が赤いってことは、夕方かな。彼岸花が咲いているところっていえば、田圃か墓地か河原か……。どうだい?」
「――分らない。でも、田圃や墓地とは違うような気がする」
「ふん。じゃ、次へ行こうか。
ええと――、『黒い二本の線』『巨大な蛇』……はて、えらく比喩的というか、象徴的な言葉だね。どうかな。何か、もっと具体的に思い浮かばないかい」
私は煙草を揉み消し、すぐにまた新しい煙草に火を点けた。
(黒い、二本の、線……)
(巨大な、蛇……)
そう。それから、何か重い地鳴りのような音。ゴゴゴゴゴ……と――。
(黒い、二本の……)
(まるで、巨大な蛇の……ような……)
「――線路[#「線路」に傍点]」
無意識の内に、唇が動いていた。
「えっ、何て?」
架場に訊かれて、私は自分でもちょっと驚きながら、
「あ、つまり――、今ふっと思いついたんだ。『黒い二本の線』っていうのは、線路のことなんじゃないかなって」
「線路――電車の線路か。成程ね。――で、『蛇』っていうのは?」
「…………」
「ふん。そうか」
と、やがて架場は一人で頷き、
「どうだろう。その『巨大な蛇』っていうのは、線路を走る列車のことじゃないのかな?」
「あ……」
(列車[#「列車」に傍点]……)
とすると、あの地鳴りのような音は、列車が走ってくる音だということか。
「何となく、そのようだね。線路と列車か。じゃあ、さっきの彼岸花が咲いていた場所は、その線路沿いの原っぱとか、そういったところなのかもしれないね」
「――あ、ああ」
頷きながら、私は心に呼び起こしたイメージを追う。
(まるで、巨大な蛇の……)
(巨大な蛇の……屍……のような……)
(屍[#「屍」に傍点]?)
「蛇」が列車だとしよう。それが「屍のような」ということは……。
(……ママ!)
子供の声が聞こえる。
(……ママは?)
(……どこなの!?)
(ママ[#「ママ」に傍点]……お母さん[#「お母さん」に傍点]……)
「――そうか」
とまた、無意識の内に声を出していた。
「何か?」
架場が訊くのに、
「分った――ような気がする」
宙の一点を見据えながら、私は云った。
「列車が転覆したんだ[#「列車が転覆したんだ」に傍点]」
「転覆?」
「そうだ。――秋だった。そうなんだ。僕は母を呼んで……」
「ちょっと待ってよ。列車が転覆して、君のお母さんがどうしたって?」
「忘れてた。すっかり――」
呟いて、私は架場の顔に目を戻した。
「僕の生みの母親が、昔、事故で死んだことは話しただろう? 僕が六歳、小学校一年の秋だった。その事故というのが……」
「列車の転覆事故だった、と?」
「うん。そうだったんだ」
(そういえば、あの日……)
ふと、私はある出来事を思い出した。
これもまた、あの日だ。八月の、あの送り火の日……。
「来夢」の一席で、たまたま読んだ新聞。例の子供殺しの記事をそこで見つけたのだったが、その時にも確か、微かな心の揺れ≠ェあったように思う。
あの殺人事件の記事の横に載っていたのが、そういえば、前日に奈良で起こった列車事故の報道ではなかったか。するとあるいは、あの時の揺れ≠ヘ、それが引金になって……?
しかし、たとえそうだったとしても、どうしてそれは、こんな――奇妙な記憶の疼き≠ニして心に甦《よみがえ》ってきたのだろう。また、そこにどうして、私の「罪」があるというのだろうか。
まだだ[#「まだだ」に傍点]、と私は思った。まだ、これが全てではないのだ。
その証拠に、うまく思い出せないけれども、私が疼き≠フ中で垣間見た風景には、まだ他の何かがある。まだ他の何かを、私に訴えかけようとしている……。
一体、それは何なのだろう。
私は憮然と煙草を吹かし、吹かしながらまた友人の顔を見た。
「あのね、架場君。どうもまだ……」
――と。
じっと私の口許を見つめた架場の目――その鳶色の瞳の色を、その色として意識した途端、だったように思う。ふとまた、痺れるような感覚とともに、私は奇妙な失調感に引かれ……
[#地付き]……赤い空
[#地から3字上げ]…………黒い、二つの
[#地から7字上げ]…………長く伸びた……
[#地から14字上げ]……………………………影が
[#地から3字上げ]……………………水……
[#地付き]…………流れる
[#地付き]……揺れ……………………
[#地付き]……………………ん!
[#地付き]……くん!
ガチャン! と派手な音がした。
驚いて意識を取り直すと、足下でコーヒーのカップが割れている。私が、肘を引っかけるかどうかしてテーブルから落としてしまったらしい。
「どうしたの、飛龍君」
架場が椅子から腰を浮かせ、
「大丈夫かい」
「ご、ごめん……」
「大丈夫ですか」
ワープロを打っていた希早子がさっと立ち上がり、私のそばまで飛んできた。
「怪我、ありませんか」
「すみません」
私は慌てて椅子を引き、床に散らばったカップの破片に手を伸ばした。
「あ、わたしがやりますから」
と云って、希早子が洗い台の横のロッカーへ向かう。箒《ほうき》と塵取《ちりと》りを取り出し、ぱたぱたとまたこちらへ駆けてくる。
「すみません」
頬が熱くなるのを感じた。
鼻先をよぎった彼女の髪から、ほのかに漂ってきた甘酸っぱいような匂い――。それは確かに、あの送り火の夜に嗅いだのと同じ香りだった。
――――2
――[#「――」に傍点]は息を殺し、耳をそばだてた。
窓の外で単調に続く、微かな雨の音……。暗い家の中、人が起きている気配は全くない。
足を忍ばせ、目的の部屋へ向かう。
(まず)
静かに襖を開く。細く作った隙間から、室内の様子を窺う。
闇にぼうっと浮かんだ、白い布団。そこから聞こえてくる、安らかな女の寝息。炬燵《こたつ》の上に散らかった、徳利と猪口。アルコールと煙草の匂い。
(まず……)
奥の壁際に置かれた石油ストーヴの前に立つ。音を立てぬよう注意しながら、それに手をかけ、そして……。
取り出したタンクを傾ける。流れ出す液体。立ちこめる油の匂い。タンクをストーヴに戻し、その本体をそうっとその場に倒す。
どのくらい酒を飲んだのだろうか、女はよく眠っている。目覚める心配はない。
炬燵の上に置いてあったライターを取り上げ、火を点けた。小さな炎が襖に映し出す己の影を見ながら、――[#「――」に傍点]は声を出さずに笑う。
(まず、母親を殺さねばならない)
6
十一月十六日月曜日、午前三時半頃――。
*
異様な音を、眠りの中で聞いた。
最初ほんの微かだったその音は、意識が眠りの深みから浮かび上がるにつれ、だんだんと大きく、激しいものに変じていった。
異様な音――何かがざわめくような、吠えるような、暴れまわるような。
(……これは?)
問いかけ、そして目を開いた瞬間、私は異変に気づいた。
(何?)
音とともに、光が揺れていた。
明りを消して寝たはずの部屋の天井に、壁に、橙《だいだい》色の光がゆらゆらと揺れている。まるで映写機を回している暗室のような……。
それは、縁側のガラス戸からカーテンを通して射し込む光だった。外灯の光ではない。星明りでも月明りでもない。
同時に、鼻を刺激する臭気があった。異臭だ。焦げ臭い。物が燃えている……。
私は布団から跳ね起きた。
寒かった。枕許に脱いであったガウンを殆ど無意識の内に引っかけると、私は隣の居間に続く襖に向かい、勢い良くそれを開いた。
ぐらぐらと揺れる光。強まる異臭。更にその向こうの襖の隙間から、しゅうしゅうと不透明な気体が洩れ込んできている。
(火事!?)
(火事だ)
(お母さん……!)
口と鼻を掌で覆いながら、私は居間を突っ切った。そして次の部屋への襖を開くや、
「うわっ!」
一声叫んで、あとじさった。
その部屋の右側、母が寝ている座敷へ続く小部屋の方で、炎が燃えている。まるで意思を持つ生き物のような赤い炎が、壁を這い、天井を舐めながら、濛々《もうもう》と煙を吐き出している。
「お母さん!」
叫んだ口が煙を吸い込み、激しくむせ返った。
その間にも炎は勢いを増し、こちらへ燃え広がってくる。経験したことのないような物凄い熱気が、佇む私の身体の半面に向けて放射されてくる。
身を翻して居間へ戻ると、私は裸足のまま縁側から内庭へ飛び出した。
その時既に、母の寝室――L字型に曲がった母屋の、南に突き出した部分――は、猛々《たけだけ》しく荒れ狂う炎の中にあった。
小雨が落ちてくる深夜の空。それを赤黒い色に変え、伸び上がり踊る炎。バチバチと木のはぜる音。渦を巻くようにして立ち昇る煙。
縁側に置かれた、下半身のないマネキン人形の姿が見えた。火にあぶられ、ひとたまりもなくどろりと形を崩し……。
「お母さん!」
あらん限りの叫びを発して、私は庭を横切り、そちらへ向かって駆けだした。
目の前で、赤い火の粉を散らしながら棟の端が崩れ落ちる。部屋の中の様子は、炎と煙でもう全く分らない。
(駄目だ)
呆然とあとじさりながら、私はなす術もなく庭の真ん中に立ち尽くした。
(ああ……)
虚ろに炎を映した目の中で、ふっと渦巻く煙が割れ――そして、閉ざされたガラス戸の向こうに、火だるまになって踊り狂う母の影を見たように思ったのは、あれは幻だろうか。幻だったのだろうか。
(お母さん……)
やがて、てんでに喚《わめ》き立てる人々の声と、打ちのめされた私の神経をいたぶるような、甲高いサイレンと鐘の音が聞こえてきた。
[#改ページ]
第六章 十二月
1
母が、死んだ。
あの夜の火災は結局、母屋の三分の二以上――玄関から居間、私の寝室辺りまで――を焼いた。
火に気づいた近所の人の通報が早かったのと、前日の夕方から小雨が降り続いていたことなどが幸いして、その程度の被害で済んだのだという。でなければ、古い木造建築のことでもあり、離れの洋館にまで火はまわっていただろう。
けれども――。
母、沙和子は助からなかった。
焼跡から掘り出された彼女の死体を、私は確認させられた。真っ黒に焦げ上がり、熱で身体全体がいびつに屈曲した無残なその姿は、生命の抜け殻というよりも、何かできそこないの悪趣味な造形物のように見えた。
葬儀を終えて――。
二週間余りの時間が、白い灰になり果てた私の心をいつのまにかすり抜けていった。
制服・私服の警官たち。カメラのフラッシュ。事情聴取。新聞記者のインタビュー。そしてそのあとの、慌ただしい葬儀……。
凶報を聞いて、幾人かの親戚や知人たちが駆けつけてくれた。親戚といっても、飛龍家の方には近い血縁者が全くいない。やって来てくれたのは、池尾の父の縁者たち(即ち私とは直接血のつながりのない者たち)ばかりで、それに、母が世話になっていた弁護士の姿も混じっていたように思う。
家を焼かれ、母の死体を見たあとの私といえば、まるであの夜の炎に心を舐め尽くされてしまったかのように、ただただ放心の体《てい》でいた。火事の原因について考えることはおろか、母の死という現実をしっかりと受け止め、そこに悲しみを捧げることすらできず、駆けつけた人々に感謝したり恐縮したりする余裕も勿論なく、己が喪主であるはずの葬儀の風景を、まるで半透明なガラス一枚を隔てた疑似体験ででもあるかのように、がらん洞の目で眺めていた。
部屋を失った私は、とりあえず洋館の空室――二階の[2―B]――に寝起きの場所を移した。焼けた母屋の再建の話を誰かから持ちかけられたような記憶もあるが、到底そんなことを積極的に考えられる状態ではなかった。
火事は、存外にあっさりと、「事故」ということで片づけられた。
現場検証の結果、出火場所は母が眠っていた座敷だと分った。そして、そこに置かれていた石油ストーヴが倒れていたことなどから、こぼれた灯油に煙草の火か何かが燃え移って、というふうに原因が推測されたらしい。
事故ではなく、母が故意に火を点けた――即ち「自殺」だった、と見る向きもあった。だがこの説は、彼女に自殺の強い動機がなかったということから、結局否定されたと聞く。
毎日のように訪ねてきていた刑事たちの姿も、十二月に入る頃にはなくなり、家は元の静寂を取り戻した。私は殆ど終日、火がまわらずに済んだ土蔵のアトリエに閉じこもり、何をするでも考えるでもなく時を過ごした。食事や洗濯などは、水尻夫人が世話をしてくれるのに任せっきりだった。確かに、母はもう私のそばにはいなかった。
そうして――。
ようやく心の隅に、二十八年間自分を育ててくれた一人の女性の死を悲しむ気持ちが甦り、膨れ上がってきた今になって、私は、起こった事件の様相をある程度冷静に見つめつつ、一つの確信を抱き始めていた。それはつまり、彼女は殺されたのだ[#「彼女は殺されたのだ」に傍点]、という確信である。
彼女は寒さが苦手だった。夜は必ずストーヴで充分に部屋を暖めてから休んだ。寝酒を飲み、その時には煙草も吸ったことだろう。そういった私の証言もあって、警察では、出火の原因を彼女の不注意ということで処理したのだと思う。
しかし、どうしても私には、そうとは――彼女が自らストーヴを倒して火事を起こしてしまったとは思えないのだ。無論、不注意は誰にだってある。どれほど慎重に行動していても、事故が起きる時は起きる。しかし……。
私がそのように考える理由は、大きく云って二つある。
一つは、母の性格の問題だ。
彼女は、いろいろなところで意外とルーズな面もあったけれど、火に関しては非常に注意深いたちだった。幼い頃に一度家で小火《ぼや》があって……と、彼女の口から聞いたことがある。その彼女が自分の部屋から火を出したなど、私にはちょっと信じられない。
もう一つは、火事が発生した時間の問題。
出火時刻は午前三時頃と推定されているのだが、母の普段の就寝時間は、大体十二時前から一時までの時間帯だった。火事の原因が酒に酔った彼女の不注意なのだとすると、この午前三時という時間は遅すぎはしまいか。その時刻には、彼女はとっくに床に入っていたはずなのである。
例えば、彼女はストーヴを点けたまま眠り込んでしまい、そこで何らかの事故が起こったというのだろうか。あるいは、ストーヴを倒したのに気づかず眠ってしまい、灯油が畳や布団にこぼれているのを知らずに寝煙草でもして、というのか。
勿論、そのようなことがなかったとは云いきれまい。しかし、どうも私は、そうした解釈に釈然としないものを感じてしまう。
あの火事が「事故」ではなかったのだとすれば、では、何だったのか?
次に考えられるのは、警察の見解の一つにもあったように、母が「自殺」したのだとする考え方だろう。
彼女は、何らかの動機で衝動的な自殺を行なった。自らストーヴの灯油を部屋にまき、火を点けて焼け死んだ……。
これは、絶対に違う。彼女が、この私を残して自殺など――それも家に火を点けるなどといった方法で――するはずがないからだ。
あの夜、もしも私が異変に気づいて目覚めるのがもっと遅ければ、あるいは火の手のまわるのがもっと早ければ、私もまた、炎によって命を奪われていたかもしれないのである。そんな、一歩間違えばこの私をも巻き添えにしかねないような[#「一歩間違えばこの私をも巻き添えにしかねないような」に傍点]自殺方法を、彼女が選んだわけがない。
彼女は、我が子の「生まれ変わり」である私が、たとえどんな形であれ、その生をまっとうすることを願っていた。結婚して身を固めろとは云わない。孫の顔を見せろとも云わない。人並の息子≠ナあれとは決して云わない。ただ私が彼女のそばで生きている、それだけで充分だったのだと、そう独断してしまってもいい。そして、その私の姿を見続けることだけが、恐らくは彼女の、残された人生の唯一の拠り所だった。だから――。
だから、彼女は「自殺」したのではない。
事故ではない。自殺でもない。とすると、残る可能性は一つだけではないか。――そうだ。彼女は殺されたのだ。
あの火事の原因は「放火」だった。何者かが、母が眠っている部屋に火を放ったのだ。
放火説は、警察の捜査においても当然検討されたに違いない。それがあっさり捨て去られてしまったのは、多分、火元が部屋の中であった[#「火元が部屋の中であった」に傍点]という検証結果が出たからなのだろうと思う。
けれども、それが決定的な否定材料になりはしないことを、私は知っている。
この秋以降、私の身辺で起こってきた不審な出来事、そして例の差出人不明の手紙……。
何者かが家の中に忍び込み、母の寝室に火を点けたということは、充分にありうるのだ。現に彼(彼女?)は、既に一度、きちんと戸締まりされていたはずの母屋に、更には誰も入れなかったはずの蔵の中にまで侵入している。
あの二度目の人形殺し≠フあと、私は、母屋の玄関、勝手口、洋館との連結部、それぞれの扉に、外からは開けられない内鍵を取り付けておいた。従って、たとえ犯人がいずれかの扉の合鍵を作って持っていたとしても、そう簡単に中へ入ることはできないはずだった。
しかし、侵入の目的が「放火」となると、自ずと事情は違ってくる。何故なら、どうせ家を燃やしてしまうつもりなのであれば、少々手荒な工作をしたところでその痕跡は問題にはならないからだ。どこかの窓ガラスを一枚破って侵入してしまえば、それで済むことではないか。
では――。
仮に、あの手紙の主が「放火」の犯人であるとしてみよう。すると、一体それは何を意味することになるのだろう、
「近い内に、楽にしてやる」というあの文句は、私に向けて[#「私に向けて」に傍点]発せられた予告≠セったはずだ。なのに、彼が火を点けたのは、私ではなく母の寝室だった。
私が火災に巻き込まれて死んでしまうことを、彼は期待したのだろうか。それとも彼は、初めから母を、殺意の対象に据えていたのだろうか。
そこまで考えを進めて、思わず口からこぼれ落ちたもの――それは、犯人≠ノ対する怒りの言葉ではなかった。恐ろしくやりきれない、がらがらの溜息……。
どうでもいい、と私は思った。
今となっては、もうどうでもいい。
たとえ私の想像する通り、母が何者かの手によって「殺された」のだとしても、今更それがどうだというのだ? たとえこの考えを警察に話し、そうして犯人が捕まったとしても、彼女が死んでしまった事実には何ら変わりがないのだ。
人は生まれた瞬間に死刑の宣告を受ける――とは、誰の言葉だったか。いずれ死の定めにあったものを、どんな理由があってかは知らぬが(私を苦しめるため?)死に至らしめた、その死刑執行人のことを殊更憎んだり呪ったりする気には、何故か私にはなれない。
同様に、自分自身のことについても、今はもうどうでもいいような気がする。彼が狙う次なる標的がこの私の命だったとしても、もはやそれもどうでもいいような……。
私にどんな「罪」があるのか、いまだにはっきりと自覚してはいない。けれども、私をこの現実の世界につなぎ留めていた鎖が母沙和子の目≠ナあったとするならば、彼女が死んだ今、私の内なる傾斜は、どのみち負の勾配を持ち始めたのだ。殺されることが――死ぬことが怖いとは、さほど思わない。
どうでもいい、もう。
あるいは私は、母を亡くしたショックのあまり、救いのない自暴自棄に陥ってしまっているのかもしれなかった。
重く沈みきった心――例えてみるなら、濃淡のない灰色で塗り潰したキャンパスだ。その中で、架場久茂と一緒に焼香に来てくれたあの女性――道沢希早子の喪服姿だけが、時折りちかちかと光を放っている。
私にはそれが不思議で仕方なかった。
――――1
深夜の部屋。
冷たい椅子に腰掛け、息苦しいほどの静寂に身を浸し……。
意外なほどにうまく事が運び、――[#「――」に傍点]は満足だった。心配した警察も、あの火事の原因に疑惑の目を向ける様子はない。
まず、母親を殺さねばならなかった。それが目的であの夜、――[#「――」に傍点]は火を放ったのだ。
無論、巻き添えを喰ってあの男が死んでしまう可能性もあっただろう。だが、それならばそれで別に構わないと思ってはいた。
(次は……)
(次にしなければならないことは……)
――[#「――」に傍点]はペンを取った。
2
十二月九日、水曜日。この冬初めての雪が積もった日――。
現在私が使っている緑影荘の[2―B]は、二階の中央に位置する。二間続きの部屋で、ホール寄りの南側の部屋には、前庭に面したヴェランダが付いている。
長らく誰も住むことのなかった部屋だけれども、ベッドやワードローブ、書き物机など造り付けの家具がわりあいに残っていた。衣類も布団も食器も、全て火災で燃えてしまったわけだが、水尻夫妻がせっせと買い揃えてくれたおかげで、事件の後始末が一段落ついた頃には、普通に生活ができるような状態になっていた。
その前の夜から、何となく体調がおかしかった。頭が重く、あちこちの関節が鈍く痛む。煙草を吸うとまるで味が違う。やたらと紙の燃える臭《にお》いばかりが鼻につくのだ。
風邪のひきはじめだなと思って眠ったのだが、朝起きると案の定、症状は悪化していた。
外の様子に気がついたのは、目が覚めてしばらくしてからのことである。だるい身体をベッド(これは南側の部屋に据えられている)から起こすことができず、そのまま何分かを過ごした時――。
窓の外から聞こえてくる子供の声で、それに気づかされた。まだ小学校へ上がる前の子供たちだろうか、「雪や」「雪や」という舌足らずな言葉が、黄色い歓声の中に聞き取れる。
のろのろと起き上がり、私は窓際に向かった。
ヴェランダに通じるフランス窓である。カーテンを開くと、部屋中が白い光に満たされた。手を伸ばし、ガラスの曇りを拭く。
家々の屋根、道路、電信柱、葉を落とした前庭の木々……遠くも近くも、世界の全てが真っ白に染まっていた。何センチぐらい積もっているのか、ここからでは分らないけれど、少なくとも私にとっては、実に久しぶりに見る本格的な雪景色だった。
前の道で、何人かの子供たちが遊んでいた。白い雪の中、赤や青のカラフルな色が溌剌《はつらつ》と踊っている。
眩《まぶ》しい光景だった。一面を覆った雪の白さよりも、その子供らの動きや声の方が何故か眩しく思え、私は熱っぽい瞼を指で押さえた。
子供たちは雪つぶてを持った手を振り上げ、互いの名前を呼び合いながら駆けまわる。凍りついた空気を震わせる、その甲高い声に、
[#地付き]……ん!
ふとまた遠い記憶の声が重なって聞こえたのは、気のせいだろうか、
[#地から2字上げ]……くん!
目眩とともに、強い悪寒が背筋を走った。唾を飲み込むと、ひどく喉が痛んだ。
私はよろけるようにしてベッドに戻った。
*
結局この日は、一日中ベッドの上で過ごすこととなった。
浅い眠りと不快な目覚めを繰り返しながら、様々なことを、考えるともなく考えていた。熱に浮かされたような状態だったからはっきりとは覚えていないが、それらはたいがいが過去へ向けられた思考(とも呼べないような物想い)だったように思う。
午後六時頃、水尻夫人が夕食を運んできてくれた。
ノックの音と私の名を呼ぶ声で、まどろみから覚めた。北側の居間に出、廊下に続くドアを開けると(寝室と廊下の間にもドアはあるのだが、これは閉め切りにしてある)、
「どうです? 食欲、ありますか」
白い割烹着《かっぽうぎ》姿の老女は心配そうに訊いた。
「いや、今日はもう、何も」
私が力なく首を振ると、
「ちょっとでも食べはらんと、身体に毒ですえ」
云いながらちょこちょこと部屋に入ってき、持ってきた食事の盆をテーブルの上に置く。
「お薬もちゃんと飲んで下さいね。ここに置いときますし」
「はあ」
「それからこれ、お手紙。こっちの郵便受けに来てましたさかい」
割烹着のポケットから、彼女は一通の白い封書を取り出して、私に差し出した。
(手紙……)
ありふれた定型封筒だった。けれども、そこに並んだ宛名書きの文字の形を見て、私はさぞや顔を引きつらせたことだろうと思う。まるで蚯蚓がのたくったような、下手糞な字……。
「どうもないですか」
私の反応を病気のせいだと勘違いしたのか、夫人はますます心配げに、私の顔を覗き込むように見上げた。
「やっぱり、お医者さん行かはった方がええんとちゃいますか」
「――いえ」
私は重い頭を振った。
「大丈夫ですから。ただの風邪だと思うし」
「ほんまに、どうもないですか」
「――ええ」
「何か欲しいもんがあったら、云《ゆ》うて下さいね。夜中でも起こしてくれはったらええですからね」
*
[#ここから□囲み]
┌──────────────────┐
│ 母親の死も、お前の罪だ。 │
│ お前のせいで、母親は死んだのだ。 │
│ 充分に苦しむがいい。 │
│ 苦しめ。そして思い出せ。 │
└──────────────────┘
[#ここまで□囲み]
封筒の消印は昨日のもので、発送局は前と同じく「左京」だった。中身の便箋も前と同じ。そこに黒いサインペンで記された、不揃いな文字……。
居間のソファに腰を沈め、私はそれを読んだ。強い寒けが、ひとしきり身体の芯《しん》を震わせた。
来るべきものが来た、というのが正直な想いだった。あの火事以降の一ヵ月足らず、私を狙う彼≠ヘ何の行動も起こさなかった。そのことの方がむしろ不思議ですらあったのだから。
『母親の死も、お前の罪だ』
やはり、そういうことだったのだ。やはり、母は殺されたのだ。テーブルの上に放り出してあった煙草を取り上げ、くわえた。ライターで火を点ける手が震えて止まらなかった。
『お前のせいで、母親は死んだのだ』
――何故?
『充分に苦しむがいい』
見せしめのため、とでも云うのか。
『苦しめ。そして思い出せ』
またしても彼は「思い出せ」と云う。
私の「罪」を? 私の「醜さ」を? それは、二十八年前の、母実和子が死んだ列車事故に関係のあることなのだろうか。それとも……。
頭がずきずきと痛んだ。吸い込んだ煙草の煙が腫《は》れ上がった喉を刺激し、私は目に涙を溜めながら激しくむせた。
ああ。どこかで誰かの、冷たい忍び笑いが聞こえる。
3
架場久茂から電話があったのは、その夜の八時頃のことである。下のホールに置かれている共同のピンク電話にかかってきたのを、水尻夫人が取り次いでくれた。
「どうだい。その後、元気にしてるかい」
いたわりのこもった声で、彼は云った。
「もっと早くに連絡したかったんだけど、学会だの何だのでね、ひどく忙しくって……。
さっきの小母《おば》さんは、例の管理人夫人かい。風邪で寝込んでるって云ってたけど、大丈夫なの? あんまり具合が悪いようなら、無理して出てもらわなくてもいいって云ったんだけれども」
「ああ――、大丈夫だよ」
そう答えたものの、冷えきったホールの空気は熱のある身体にひどく応えた。
「しかし大変だったね。何もしてあげられなくって、悪かったね」
「いや、そんなこと……」
「気が向いたら、また研究室へ遊びにおいでよ。道沢さん――こないだの女の子ね、彼女も会いたがってるし。君のこと、画家だって云って紹介しただろう。で、えらく興味を持ってね、絵の話とかいろいろ聞きたいらしいんだな」
彼は彼なりに、私のことを心配してくれているのだろう。心遣いは有難かったが、とてもそういう気分にはなれなかった。
もうしばらく一人でいたいから、と私が云うと、架場は少し間をおいてから、
「同じことばかり云うようだけど、あんまり思い詰めるんじゃないよ。家に閉じこもりっきりっていうのも良くない。要らぬお節介と思われるかもしれないけど」
「そんなふうには思っちゃいない。――有難う」
「困ったこととかあったら、いつでもまた相談してくれたらいいから」
余程この時、話してしまおうかと思った。
あの火事と母の死について、私が抱いてきた疑念。そして、それを裏付けるさっきの手紙のこと……。
そういえば、架場には京都府警の刑事に知り合いがいると聞いた覚えがある。ここで全てを話してしまって、その刑事に捜査を依頼してくれるよう云ってみようか、とも思った。
架場の方も、前に話していたこととの関連で、薄々そういった疑いを向けていたのかもしれない。先の事件について、何か特に不審な点はなかったか? 例の手紙の件にその後展開はあったか? といった質問をしてきたのだが、
「別に、何も」
結局私は、曖昧な調子でそれを否定するばかりだった。
「とにかく、君がその気になったら、また会おうよね。『来夢』でもいいし、僕が訪ねていってもいいし」
その言葉に対しても曖昧な応えを返して、私は電話を切った。受話器を置くガチャンという音が吹き抜けの高い天井に響き、寒さがいっそう強く身にしみた。
パジャマの上に羽織ったガウンの前を両手で引き合わせながら、私はふらつく足で二階に戻った。
ホールの周囲を巡る廊下――モスグレーの絨毯の上を歩くと、それに合わせて、キッ、キッ、と床が軋む。古い建物だからだろう、どのように歩いてみてもこの音は消せない。
左腕のない例のマネキン人形が、相変わらず同じ場所に立っている。あの火事の夜も、彼女は窓から内庭の方へ顔を向け、母屋を包んだ炎をじっと見つめていたのに違いない。
人形の前を通り過ぎようとした時、背後でドアの開く音がした。――と、
「飛龍さん。やあ、丁度良かった」
私を呼び止める声。その部屋[2―A]に住む、辻井雪人の声である。これからバイトに出るところだったのだろうか。
「ちょっと話を聞いてくれませんか」
どんな用なのか知らないが、また今度にしてほしかった。熱があるので……と云おうとすると、それよりも前に、
「実はね、部屋を替えてほしいんです」
つかつかと私のそばに歩み寄りながら、辻井は云った。
「ごたごたしてる時に悪いんですけどね、できれば二階のあっちの端の[2―C]に替わりたいんですよ。どうせ空き部屋でしょう」
「どうしてまた?」
私が弱々しい声で訊くと、辻井は頬骨の出た青白い顔をしかめ、
「創作環境の問題ですよ」
憤然とした調子で答えた。
「どうもね、云っちゃあ悪いが、火事のあと、あなたがそこの部屋に越してきてからっていうもの、落ち着かないんだな。あなた自身はともかく、何だかんだと下の管理人さんが上がったり下りたりするでしょう。ここの床はただでさえ軋《きし》むのに、あの婆さんときたらドタドタパタパタ、騒々しいったらないんだ。
全く、デリカシーのかけらもない。あなたも芸術家だったら分ってくれるでしょ。そういった無神経な物音が、どれだけ仕事の邪魔になるか」
「…………」
「だけどまあ、彼女はあなたの世話をするために行き来してるんだし、そいつをやめろとも云えない。だから、僕の方が部屋を替わろうっていうわけですよ。あの部屋なら階段からは遠いし、こっちからは独立した造りになってる。下は木津川さんだから、まさかそんなにうるさいこともないだろうしね」
洋館の北端にある部屋は、木津川伸造が入っている[1―D]もその上の[2―C]も、それぞれアパートの玄関とは別に入口を持った、変則的な間取りになっている。辻井の云うように「こっちからは独立した造り」なのである。建物のこちら側の廊下との間には、一階二階ともに仕切りの扉が設けられているが、鍵が掛かっていて普段は全く開かれることがない。(Fig.1「人形館平面図」p4〜5 参照)
「というわけで、許可してくれますね」
と辻井は、もう話は決まったとでもいうように私の顔を窺った。
「家賃は同じでいいでしょう? 部屋の掃除や何かは、自分でやるから、気にしてくれなくってもいいです」
あまりにも一方的な彼の態度が、いくらか癇《かん》にさわりもした。仕事仕事と云っていろいろなことに文句をつけるが、一体この夏以来、その成果は上がっているのだろうか。
しかしまあ、どうせ空いている部屋だ、申し出を断わる理由もない。金銭的な問題にしても、私には別にどうでもいいことだった。
好きなようにしてくれればいい、具体的なことは水尻夫妻と相談するように、とだけ答え、私はそそくさと部屋に戻った。
4
熱と悪寒は、翌日の午後にはいくらかましになったのだが、体調が元に戻るのにはそれから更に三日かかった。
十二月十三日、日曜日。
昼も三時を過ぎた頃にのそのそと起き出すと、私は久しぶりに家の外へ出てみた。
玄関から、前庭の小道を北へ向かう。やがて道は建物に沿って九十度のカーブを描き、右手の壁に一枚のドアが現われる。これが[2―C]の入口で、この洋館がアパートに改築される前は、勝手口として使われていたものらしい。
越してきた当初、水尻老人に案内されて中を見たことがある。ドアの向こうにはすぐ、二階へ上がる階段があり、階段脇の一階部分には、廊下へ続く扉を塞《ふさ》ぐような格好で何かの棚が置いてあったと記憶している。
辻井雪人は、私に部屋の移動を申し出た翌々日には、さっさと引っ越しを済ませてしまっていた。
更に少し行くと、またドアが一枚見えてくる。これは木津川の住む[1―D]の入口だ。
小道はそこからぐっと狭くなり、正面に建つ土蔵を回り込んで母屋の方へ続いていく。私は、高い白壁と既に花を落とした山茶花の生け垣との間に入り込む、その荒れた砂利《じゃり》道を進んだ。
やがて、焼跡に出た。
開けた視界に広がる光景には、一ヵ月前に荒れ狂った炎の爪痕があからさまに残っていた。
焼けた建物の残骸――。
大雑把《おおざっぱ》に杭とロープで囲われた地面には、燃え落ちた屋根の瓦が黒く灰をかぶって堆積している。割れて散乱したガラス。焼け残った柱が何本か。崩れた壁を這う水道管。炎にあぶられ、幹や葉を焦がした庭木……。
当面、私に家を再建しようという意思がないので、整地もしないまま放置してある。火が消し止められた部分――土蔵の入口がある袖廊下と洋館へ続く廊下が交差した辺り――が、ベニヤ板とトタンで応急修理されているだけだ。
しかし、いつまでもこのまま放っておくわけにはいかないのかもしれない。
子供が入って遊ぶと危ないから早く何とかしてくれ、といった近所からの苦情が、既に水尻夫妻の許へ来ているらしい。そのため、こちら側の門は鉄柵の門扉を閉めた上、鎖をかけて出入りできないようにしてしまってある。
無残な焼跡からその向こうの荒涼とした内庭へと目を馳せながら、私はゆっくりと歩を進めた。道は木立の間を抜け、門と玄関をつないでいた飛石に出合う。
パイプが曲がり、サドルが溶けてバネが剥《む》き出しになった自転車が、灰に埋もれるようにして倒れているのを見つけ、私は長く深い溜息をついた。脳裏に、思い出したくもない母の焼死体がちらつく。
鎖のかかった門扉に近寄り、ついでに何故ということもなく郵便受けを覗いた。中は空っぽである。私宛ての郵便物は、今は全て緑影荘の方へ届けられる。
――と、そこで。
何となく下へ向けた目の隅に、それ[#「それ」に傍点]が映った。
灰色の門柱の袂《たもと》、すっかり茶色く枯れてしまった雑草の中から、何か白いものが覗いている。
(――封筒?)
私は身を屈め、手を伸ばした。
思った通り、それは白い――といってもかなり汚れた封筒だった。恐らく、何かの拍子で郵便受けから落ちてしまったのだろう。そうしてそのまま草の間に埋もれてしまい、私にも母にもずっと気づかれずにいたのだ。
「飛龍想一様」
私に宛てた手紙だった。ただ、宛先は静岡市の前の住所になっている。赤のボールペンで線消ししたその宛先の横に、この家の住所が書き直されていた。静岡の方へ届いたのを局が転送してくれたものらしい。
相当長い間、雑草の中で雨ざらしになっていたと見える。泥で汚れ、表書きの文字はひどくインクが滲んでいた。
白い封筒の裏面に記された差出人の名を見て、私はちょっと驚いた。
「大分県O市……五番地 島田潔」とある。町名は、インクの滲みが激しくて読み取れない。
(島田さん……)
懐しい名前だった。退院、引っ越し、架場との再会、そして母沙和子の死。様々な出来事に紛れて、殆ど思い出すことのなかった名前だが……。
その場で封を切った。幸い、中の便箋の文字はさほど汚れてはいなかった。
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前略
無事退院したそうですね。先日、母上よりお手紙いただきました。大事に至らなくて何よりです。
本来なら快気祝いに駆けつけたいところなのですが、いろいろと野暮用が多くて当面それもままなりません。とりあえずは書面にて、失礼。
いつまでも若いつもりでいたら、この五月でもう三十八歳になってしまいました。君と知り合ったのが二十二の時だから、かれこれ十六年。陳腐な云い方だけれど、全く時間が経つのは早いものです。
いまだに結婚の予定はなく、定職にも就いていません。いずれ寺を継ぐことになるのかもしれませんが、うちの親父ときたら、まだまだ元気そのものでね。困ったものだ、なんて云ったらバチが当たるかな。
で、息子はというと、相も変わらずあちこち飛びまわり、要らぬことに首を突っ込んでは顰蹙を買っています。旺盛なる好奇心に任せて、などと云えば聞こえは悪くないけど、要は昔からの野次馬根性が治らないわけで。まあ、年を取った分、多少抑えが利くようになったつもりではいるのですが。
この四月にも、ひょんなことからまた、とんでもない事件に巻き込まれてしまいました。丹後半島のT**という村落の外れにある「迷路館」なる家で起こった殺人事件です。マスコミでもわりと騒いでいたみたいだから、もしかすると何かで読んで知っているかもしれませんね。
縁起の悪い話だけれど、ここ二、三年、僕は行く先々でそういった事件にぶち当たってしまいます。何だか自分が死神にでも取り憑かれたような……いや、そうじゃない。死神に魅入られているのは僕ではなく、かの建築家[#「かの建築家」に傍点]の手に成る家たちなのだ――と、半ば本気で思いたい気持ちですらあります。
去年の秋、病院へ見舞いにいった時に話していたでしょう? 中村青司という名の建築家のこと、彼が建てた奇妙な建物たちのこと、そして、それらの館で起こったいくつかの事件のこと……。
あの時は、「水車館」の事件に関係した直後だったから、僕も随分と興奮していたようです。場所柄もわきまえず、あれこれ喋りすぎてしまったかもしれません。入院中は読書も禁止されていて君はたいそう退屈がっているようだったし、それに、あの藤沼一成や藤沼紀一の名を君が知っていると云うものだから、つい……。
中村青司という人物とその作品≠ノついて、君もかなり興味を持ったようでしたね。同じ芸術家として、やはり何か心惹かれるものがあるのでしょうか。
ところで、また絵は描き始めるのでしょう?
嫌なことは忘れて、良い作品を描いて下さい。学生時代から、僕は君の描く絵が好きです。美術については殆ど素人の僕ですが、君の絵には確かに、ある独特の魅力があると思う。例えば、そう、「水車館」で見た藤沼一成画伯の幻想画に通じるような、何か妖しい魅力が。
長々と下らぬことを書いてしまいました。いずれまた、そちらに足を伸ばす機会もあるだろうと思います。
何かあれば、遠慮なく連絡して下さい。喜んで相談に乗ります。
それでは。母上によろしく。
[#地から1字上げ]草々
一九八七年六月三十日(火)
[#地から1字上げ]島田 潔
飛龍 想一 様
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5
夕方、私は「来夢」へ足を向けた。
すっかり葉を落とした街路樹やその枝を震わせる冷たい風、今にも雪が舞い落ちてきそうな鉛色の寒空……。暗く沈んだ自然のたたずまいとは裏腹に、クリスマスを十日後に控えた街は、色とりどりのモールで厚化粧した樅《もみ》の木とジングルベルの歌声で賑わっていた。
親子連れ、自転車に乗った主婦、学生、若いカップル……道行く人々が皆、心なしか浮足立っているように見える。コートの襟を立て、ポケットに深く両手を突っ込み、殆ど足下ばかりに目をやりながら私はせかせかと歩いた。
街の賑わいをよそに、一ヵ月ぶりに訪れる「来夢」の店内は相変わらず閑散としていた。奥のテーブルに、黒い革ジャンを着た若者が一人いるだけだ。
「いらっしゃい」
変わらぬマスターの声。
「コーヒーを」
とだけ云い、私はいつもの窓際の席に落ち着いた。
架場の知り合いだというから、恐らく私の家の不幸のことは聞いているだろうに、コーヒーを運んできたマスターはそのことについては何も触れようとしなかった。久しぶりですね、寒くなったね、といつものぼそぼそとした声で云っただけ。私にはそれが非常に有難かった。
スピーカーからは、珍しく日本語の歌詞を乗せたメロディーが流れている。苦いコーヒーをブラックのまま一口啜り、私はそっと目を閉じた。
頭の中が、本当に空洞になってしまいそうだった。風邪は治ったようだけれども、それとは別の次元で、心と身体が疲れきっているのが分る。
いつもこんなに 人が溢れて
みんな楽しげに 笑ってるけど
どうしてなの
この街はいつでも
どうしてなの
こんなに淋しいんだろう……
聞くともなく、そんな歌詞が耳に入ってきた。ハスキーな女性ヴォーカル。コード進行はブルースっぽいのに、旋律は意外な透明感を持っている。
街は淋しいって? そう。街はいつでも、淋しい。そればかりではない。街は時として、それ自体限りない恐怖でもある。
ふと、そんな思考が、とめどなく心の表に流れ出してくる。
世界は無数の視線に満ちている。圧倒的多数の他人が投げかける、無数の眼差《まなざ》しの群れ――それが、いつどこででも、私に貼り付いて離れない。その中に含まれるかもしれぬ、嘲《あざけ》りや蔑《さげす》み、敵意といった感情のあらん限りを想像して、私は白い血を流し続ける。
歩道に溢れる人間たち、渋滞した車の喧騒……街の雑踏はいつだって、底知れぬ暗闇へと私を誘う。その魂の数だけ、苦しみがあるだろう。中には愛もあろうが、それよりも確実に多くの憎しみがあるに違いない。それらがどろどろに混ざり合い、煮つめられた闇の湖に、私は惨めに充血した片方の目を浸すのだ……。
「今日は、飛龍さん」
突然声をかけられ、目を開いた。
「今日は。覚えてますか? わたしのこと」
「ああ――」
灰緑のロングコートを着てテーブルの横に立っている彼女を認め、私は驚いた。
「道沢さん――でしたね」
「凄い。偶然なんだ」
彼女――道沢希早子は小首を傾げるようにして私の顔を見、
「ここ、坐っていいですか」
「勿論。――どうぞ」
コートを脱ぎ、向かいの席に腰を下ろすと、希早子はこの寒いというのにアイス・ティーを注文した。
「ええと、先日はどうも……」
我れながら恥ずかしくなるくらいに緊張した声で、私は云った。
「焼香に、来てくれてましたね」
「ええ。――一度しかお会いしたことがないのに、変かなって思ったんですけど」
コートの下には、手編みのものらしい青色のカーディガンを着ている。彼女は丸い大きな瞳をじっと私の顔に向け、
「でもホント、大変でしたね。あの、元気出して下さいね。架場さんも心配してます」
「彼からは、このあいだ電話がありましたよ。また遊びにこい、閉じこもりっきりは良くないぞ、って云って。
この店へは、よく? 学校の帰りですか」
「今日は日曜日ですよ」
と答えて、希早子はくすっと笑った。
「それに、うちの大学、もう休みですから」
「もう冬休みなんですか」
「正式には二十日頃からなんですけど、この時期になると先生たちもよく承知してて、のきなみ休講になっちゃうんです」
「ははあ」
「日曜日はいつも、銀閣寺の近くにある学習塾でアルバイトしてるんです。その帰り道で、何となくこのお店、目に留まったから。架場さんからも聞いたことがあるお店だったし。だから、ホントに偶然」
「彼はどうしてます」
「相変わらずですよ。部屋を覗いたら、三回に二回は居眠りしてます。あれで胸を張って社会学者を自称してるんだから、学生の方も楽なものですね。そういえば、年末は旅行に行くんだって、今から張り切ってるみたい」
「スキーにでも?」
「まさかぁ」
くすっとまた、彼女は笑った。
「架場さんって、そんなタイプじゃないと思いませんか? おおかた、どこか温泉にでも行くんじゃないかなあ」
笑うと、右の頬に小さな靨《えくぼ》が出来る。それを、可愛いな、などと思いながら見ている自分に気づいて、私はどうしようもないほどうろたえた。
「それにしても、最近この辺り、何だかぶっそうなことばっかりですね」
運ばれてきたアイス・ティーのグラスにストローを入れながら、希早子が云う。
「昨日の新聞、見ました? 左京区でまた子供が殺されたって」
「そうなんですか」
新聞は読んでいなかった。今の部屋にはテレビも置いていないので、ニュース番組でそれを知る機会も私にはなかった。
「うちの大学の近くだったんですよ、今度は。吉田山《よしだやま》の、叢の中で死体が見つかったんですって。首を絞められて……」
「また同じ犯人が?」
「そうらしいです」
後に、土曜日の新聞を探し出して読んでみたところによると、被害者は堀井《ほりい》良彦《よしひこ》という小学校二年の男の子で、七日月曜日の夕方から行方不明になっていたらしい。死因は、紐状の凶器による絞殺だったという。
「二番目の事件があったのが、確か九月の下旬でしたよね。あの時は、連続殺人だっていって随分と騒がれたから、みんな警戒して、犯人も動けなかったんじゃないかって、警察じゃあそんなふうに見てるそうですけど」
希早子はちょっと怒ったように頬を膨らませ、
「架場さんなんか、逸脱の社会学≠セとかいって、そういった犯罪とかの研究が専門だから、何だか面白がってるようなところもあるんですよ。やたらと分析的で……。そういうの、わたし抵抗感じちゃう。
飛龍さんは、どう思いますか」
「どう、って?」
「この事件の犯人について。全く何考えてるのかな。何の罪もない子供を殺して喜んでるなんて、異常ですよね」
「確かに、ひどい事件ですね」
「わたしが被害者の母親だったら、絶対に自分で犯人捕まえて殺してやりたいって思う」
「殺す」とか「殺人」とかいう言葉に、つい今自分が置かれている立場を重ね合わせてしまい、私は思わず目線を伏せ、口を閉ざしていた。と、その様子に気づいたのか、
「あ、ごめんなさい」
希早子は云った。
「何もこんな暗い話、することないですよね」
それから彼女はころりと話題を変え、次々といろいろなことを喋った。私の不幸に同情して、励まそうと気を遣ってくれているのか、と思いつつも、そうしてしばらく会話を続ける内、いつのまにか私は、彼女が作り出す、何と云うか、生命感に満ち溢れたような場の雰囲気に引き込まれていった。
大学のこと。自分の故郷(彼女は私や架場と同じ静岡の出身だった)のこと。塾の生徒のことから店に流れる音楽のこと……。
私は愉快な想いでそれを聞き、彼女の笑顔に目を細め、相槌を打ったり質問をしたりしていた。さっきまで心の中に広がっていた黒い霧がどんどんと薄らいでいくような、そんな気持ちだった。
希早子のような若い女性と話をするのは、苦手中の苦手だったはずではないのか。――とても不思議な心地だった。驚いてもいた。
ここしばらく――いや、何年というスパンで考えてみてもなかったような安らいだ気分で、彼女との会話を、もしかしたら楽しんでさえいる。そんな自分が、私には信じられなかった。
6
「来夢」を出た時には、時刻はもう七時を回っていた。かれこれ二時間近くも、希早子と話をしていたことになる。
いやに冷え込むなと思っていたら、道が少し濡れている。山手から吹いてくる硬質な風に乗って、白いものが舞っていた。――雪だ。
手袋を嵌《は》めた小さな手を擦り合わせながら、急に希早子が、私の描いた絵を見たいと云いだした。
「そりゃあ、別に構いませんけど」
と、私は一応承諾の意を示した。
「でも、また今度の機会にした方がいいんじゃないかな」
「どうしてですか」
「もう夜だし。さっきも云ってたけど、最近この辺はぶっそうみたいだし」
「まだ早いですよ」
「下宿の門限とか、ないんですか」
「学生マンションだから、門限はなし。それにそのマンション、飛龍さんちの近くなんですよ。歩いて十分くらい。丁度帰り道だし、ね、思い立ったが何とかって云うもの」
「よく知りもしない男の家へ、いいんですか」
「まさか……。飛龍さん、そんな危険人物じゃないでしょ」
「分りませんよ」
「絶対にそんな人じゃない。わたし、ちょっと話しただけでピンと来るんだから。鋭いんですよ、こう見えても」
自信たっぷりに云って、希早子は落ちてくる綿雪に掌を差し出す。その無邪気とも見える姿を、そわそわと落ち着きのない気分で眺めながら、
「でも」
と私は云った。
「やっぱり。またにしましょう」
どうしても断わらなければならない理由があったわけではない。ただ、大袈裟な云い方だけれども、若い女性を家に招く心の準備が、私には出来ていなかった。
「じゃ、きっとですよ」
ちょっとがっかりしたふうに彼女は云った。
「きっと今度、見せて下さいね」
*
途中までの道を、希早子と肩を並べて歩いた。その道すがら、彼女は自分のことを語った。
子供の頃から絵を描くのが好きで、本当は美術大学へ行って、日本画の勉強をしたかったのだという。ところが、他の教科の成績が非常に優秀だったことから、周囲で「もったいない」との声が上がった。何も美大へなど行かなくとも、いくらでも「良い大学」に入れるのに、というわけである。
親の反対もあったらしい。彼女の父親は地元の某銀行の重役で、娘が「芸術にかぶれる」ことをひどく嫌った。結局そういった圧力に押し切られるような形で、K**大の文学部に進学することになったのだそうだ。
「意志が弱かったなって、今でも時々後悔するんです」
この時はやけにしんみりと、彼女は云った。
「だけど、自分にそんなに絵の才能があるなんて、自信もなかったし」
「才能なんて、いい加減な言葉ですよ」
何故か思わず、私はそう云った。
「好きこそものの上手なれ、って、結局はあれが本当のところだと思いますね。本当に絵が描きたいのなら、何をしながらでも描ける。そうして出来た作品が良いか悪いか判定されるその評価なんていうのは、絵の本貿とは全然別次元の問題です。だから、本当に好きなこと、やりたいことには、存分に自信を持てばいいんです」
すらすらとそんな台詞が口を突いて出た。自分に云えたことではない、と思ってはいた。
「飛龍さんは、でもやっぱり、才能があるんだと思う。架場さんもそう云ってました」
「それは、僕の絵を見てあなたが決める問題でしょう」
「いいえ。そんな、評価とかいう意味じゃなくって……」
そして彼女は、飛龍高洋――私の父親の名前を口にした。それも架場から聞いたらしい。
「そういう云い方は、どうもあなたらしくないと思いますね。父親がどうだったか知らないが、僕なんて、はっきり云って下らない人間だ」
それは本音だった。
「彼の遺した財産をいいことに、自己満足を絵にしてるだけです。世間の人から見れば、この年になってもぶらぶらしてる、どうしようもない男……。いまだに自分でお金を稼いだこともないんだから」
「お金なんて、それこそ別問題だと思います」
「それはね、あなたの、芸術っていうものに対する信仰がそう云わせるんですよ」
かなりあくどい物云いだと思った。
云ってしまってから、当然のごとく私はひどい自己嫌悪にさいなまれた。
7
その夜。
道沢希早子と別れて部屋に帰ると、私は、昼間に郵便受けの下で見つけた手紙をもう一度読み直した。
(島田さん……)
彼と最後に会ったのは、手紙にもあるように、昨年の秋――確か九月の終わりか十月の初め頃――だった。当時病院で療養中だった私を、わざわざ九州から訪ねてきてくれたのだ。
島田潔。
彼は私の大学時代の友人だった。といっても、私が行っていたM**美大の学生ではなく、よその大学で宗教学か何かを専攻していた、それが、たまたま下宿の部屋が隣同士だったおかげで知り合ったのである。
私よりも二つ学年が上だった。だから、友人というよりもむしろ先輩後輩の関係として付き合っていたのだが、知り合った当初は、たいそう変わった男だなと思ったものだ。
あまり熱心に勉強しているふうでもなく、遊びまわっているふうでもない。かといって、その頃は既に学園紛争の嵐は過ぎ去ったあとで、その方面の活動家といった様子でもなかった。飄々としているようでいて、やたらと好奇心が強く、大酒飲みではないけれども非常に話し好きで、その話題がまた多岐にわたった。中でも特に、オカルトとか推理小説とかマジックとかいったものに異様に詳しく、全く別の話をしていても、いつのまにかそちらの分野へ話題が移っているということがよくあった。
私は最初の内こそおっかなびっくりで、そんな彼と接していたのだけれど、やがてだんだんとその距離は縮まっていった。友情――というよりも、多分私が彼に対して抱くようになったのは、一種の依存心だったのだと思う。
正直な話、東京で始めた一人暮らしは、私には非常に心細く、辛いものだった。あまりに巨大な街、あまりに多くの、見知らぬ人間たちの眼差しに、私の神経は常に悲鳴を上げていた。また、その頃の私は今以上に病弱で、しょっちゅう熱を出しては寝込んでいる始末だった。
そんな時、親身になって相談に乗ったり看病してくれたりしたのが、島田だった。実の兄というものがいたならば、きっとこういう感じなのだろうな、といった想いを、私はその一見風変わりな先輩に対して向けるようになっていた……。
入学の時に一年浪人していた彼は、卒業に際しても普通より余分に時間をかけたようで、私が四年間の学業を終えて東京を離れるのと同じ時期に、大分の実家の方へ帰っていった。定期的に連絡を取り合うことはなかったが、その後も年に何回かは手紙を交換したりしていた。幾度か、彼が静岡へ遊びにきたこともあった。
(島田さん……)
一年前の秋、私を見舞いにきてくれた時の彼は顔を見るのは三年ぶりぐらいだったのだが――、学生時代と殆ど変わるところがないように見えた。
車でやって来たとかで、病室に入ってきた時にかけていたレーバンは、なかなかさまになっていた。ひょろりと長細い身体つき。私と同じ痩せた浅黒い顔。けれども私と違って、彼の少し垂れて落ち窪んだ目の光は、溌剌とした少年の無邪気さに満ちていた。
(島田さん……)
手紙の日付は六月三十日。ほぼ半年の間、この手紙は郵便受けの下のあの雑草の中で眠っていたことになる。
母が、私の退院の通知を彼に送ってくれていたというのは知らなかった。いや――、そういえば、退院直後、こちらへ越してくる前に、彼女がちらりとそんなことを云っていたような気もする。けれど、何故か私の方は、彼に新しい住所や近況の報告をすることをすっかり失念してしまっていた。
手紙の文面は、彼の相変わらずぶりを伝えていた。私に対する親しみやいたわりといった気持ちも、そこには読み取れるように思った。ただ――。
ただ、そう、そこには同時に、私の心を不吉な物想いへと強く揺さぶってやまない記述があった。それは――。
『死神に魅入られているのは僕ではなく、かの建築家[#「かの建築家」に傍点]の手に成る家たちなのだ――と……』
かの建築家[#「かの建築家」に傍点]――中村青司[#「中村青司」に傍点]。
見舞いに訪れた島田が、病室で語った話を思い出す。
彼の知人の兄に当たる人物に、中村青司という名の奇矯《ききょう》な建築家がいたということ。大分県の角島《つのじま》という小島に自らが建てた屋敷で、一昨年の秋、青司が無残な死を遂げた事件のこと。その半年後に、同じ島の「十角館」と呼ばれる奇妙な建物で起こった、前代未聞の大量殺人事件の話。その事件に、たまたま彼、島田が関係していたこ|と《*》……。
それからまた、静岡へやって来る途上で巻き込まれたある事件[#「ある事件」に傍点]のことを、島田はいささか興奮気味の口調で語った。それは、「水車館」という、これもまた中村青司が建てた風変わりな建物を舞台に起こった殺人事件だった。そして驚いたことに、その館の主人というのが、藤沼紀一――あの藤沼一成画伯の息子だったというのである。
私の実父高洋が、死んだ一成画伯と親しくしていたと聞いて、島田もまたたいそう驚いた様子だった。そうしてその時も、建築家中村青司が残したそれらの館とそれに関係した(島田自身を含めた)人間たちを巡って、何やら良からぬ因縁めいたものを感じてしまう、と、彼は真面目な顔で云っていた。
建築家、中村青司。
その名前を耳にしたことが、最近になってあった。あれは――二ヵ月前、母の提案で囲んだ鍋の席で――、
『中村青司っていう名前、聞いたことありますか』
そう。辻井雪人が持ち出した話題だった。
『……どうです? 僕が「人形館」って呼ぶことにしたこの家も、彼の作品の一つだったら面白いと思いませんか』
『この家が、中村青司の?』
『いかにも[#「いかにも」に傍点]、でしょう? ……』
苦い酔い心地の中での会話。そこで当然心に呼び起こされた、島田潔の話……。
確かに、あの時辻井が云ったように、「水車館」を建てた藤沼紀一との関係から、父高洋と中村青司とのつながりを想像することは容易だろう。二十八年前、祖父武永が逝き、この家を継いだ高洋が、その直後に行なった家の改築に際して、青司に仕事を依頼した。それもまたありえないことではないと思う。
(もしも本当にそうだとしたら……)
そうだとしたら、一体どうなるというのか。
「死神に魅入られている」と島田が云う中村青司の館。その一つがこの家(「人形館[#「人形館」に傍点]」?)なのだとしたら……。
まさしくそうだ、と私は思った。
父高洋は、この家の庭で首をくくった。母沙和子は、炎に焼かれて死んだ。そしてなお、この私に向けられている何者かの殺意……。
正にそうではないか。死神に魅入られた家、不吉な事件を呼ぶ家……。
(ああ、島田さん)
手に持ったままでいた島田潔の手紙に、私はまた目を落とす。青いインクで書かれた、右上がりの達者な文字。覚えがあるその筆跡に、彼の懐しい顔が重なって浮かぶ。
(今、彼がそばにいてくれれば……)
切実に、私はそう願った。
8
翌日、十二月十四日の午後。
私は島田潔に連絡を取る意思を固めた。
土蔵が焼けずに済んだのは、不幸中の幸いだった。机の抽斗を掘り返して、知人の住所や電話番号が書き留めてあるノートを見つけ出すと、あるだけの小銭を持ってホールの電話の前に立った。
私が自分から人に電話をかけるのは、めったにないことだ。昔からそうだった。学生の頃も、親しくしていたクラスメイトの家にさえ、余程のことがなければ電話をすることはなかった。
島田の実家に電話をかけるのも、これが初めてである。ノートに記された番号を確かめつつ、私は緊張でこわばった指をダイヤルに当てた。
この電話には誰が出るだろうか。島田自身が出てくれればいいのだが、もしも彼の親とか兄弟とか、会ったこともない人間の声が返ってきたら……。
呼び出し音が何度か繰り返される間も、私は身の縮む想いで、しきりにそんなことを考えていた。
「はい。島田ですが」
やがて聞こえてきたのは、私の知らない、嗄れた男の声だった。
「あ、あの――」
私は、きっと蚊の鳴くような声で云ったに違いない。
「あの、潔さん、おられますか」
「はあ? 何です?」
「あの、潔さんを」
「潔ですかあ。どちらさんですかな」
「飛龍という者ですが」
「飛龍さん? はあん。すんませんなあ。潔は今、おらんのやけど」
「はあ……。あの――、いつ頃お帰りでしょうか」
「さあなあ。こんあいだ、ちっと旅行に行ってくるち云うて出ていきよったんだがな、何《なん》ちゅうてん、鉄砲玉みたいな奴やけ、いつ帰ってくっか。全く三十いくつにもなってから、何《なん》考えてぶらぶらしよるんかのう」
恐らく彼の父親なのだろう。耳に響く大きな声で、ぼやくように云う。
「すんませんな。あんた、何か急ぎの用かね」
「いえ。あの、じゃあ、いいんです」
あたふたとそう答えて、私は受話器を置いた。
9
「明日の夕方、伺ってもいいですか。また塾のバイトがあるから、その帰りに」
そう云って道沢希早子が電話をかけてきたのは、十九日土曜日の夜のことである。架場から、緑影荘の電話番号を教えてもらったのだという。
「こないだの約束、忘れてませんよね。今度きっと飛龍さんの絵を見せてくれるっていう」
例によってうろたえた受け答えをする私に、彼女はあっけらかんとした調子で云うのだった。
「それとも、明日は何か都合があるとか?」
そんな都合など、勿論あるはずはなかった。私は相変わらず、殆どの時間を家に閉じこもりきりで過ごし、顔を合わせたり言葉を交わしたりする人間といえば、水尻夫妻かアパートの住人たちぐらいのものだったのだから。
迷った(本当は迷う必要などこれっぽっちもなかったのだが)末、私はOKの返事をした。翌二十日の午後六時に、「来夢」で待ち合わせをすることになった。
10
二十日目曜日の夜、私に案内されて緑影荘――いや、辻井に倣《なら》って私も「人形館」と呼ぶことにしようか――に足を踏み入れた希早子は、やはりまず、廊下の角に置かれた例のマネキン人形に目を丸くした。
「気味が悪いでしょう」
十月の末に架場が訪れ、その人形に目を留めた時にも、同じように云った覚えがある。
「他にも、この家にはあるんでしたよね、こういう――その、のっぺらぼうのマネキン」
希早子は私に訊いた。
「夜に一人で出会って、びっくりしたりしません?」
「最初の内は、ね。けど、すぐに慣れるみたいですよ。アパートの人たちからそういう苦情が出たこともないし」
「ふーん」
彼女は表情豊かにくりくりと目を動かし、
「架場さんも、いつだったか不思議がってたなあ。どうしてこの家の人形、こんなふうに顔がなかったり身体のどこかが欠けていたりするんだろう、って。――ね、飛龍さん。どうしてなんですか」
「さあね。僕にもよく分らないんです」
そうして、その上胴部のない人形の前を通り過ぎたところで、丁度[1―C]の部屋から出てきた倉谷誠と出くわした。
「や。どど、どうも、今晩は」
私の傍らに若い女性が並んで立っていることに、たいそう驚いた様子だ。まずいものでも目撃してしまったというふうに、彼はちょっと目を上へそらした。
今晩はと挨拶を返して、私たちは彼とすれちがった。突き当たりの角を曲がってしまってから、倉谷がK**大の院生であることを話すと、
「そうじゃないかなって思いました」
希早子は右の頬に靨を作って、微笑した。
「ああいう雰囲気の男の人、多いんですよ、うちの大学院生って」
それが具体的にどういう「雰囲気」であるのかは、私にはいま一つ理解できなかった。
母屋へ通じるドアは、今でも普段は鍵を掛けた状態にしてある。あの火事の夜、異状に気づいて目覚めた時、私はとっさにガウンを引っかけて部屋を飛び出した。このドアや土蔵の錠前の鍵が無事手許に残ることとなったのは、そのガウンのポケットに鍵束が入っていたおかげだった。
母屋の廊下に上がり、土蔵へ向かう。焼け落ちた部分との継目は、雨や風が入ってこないようにトタンとベニヤ板で塞がれている。その様子がいかにも痛々しく、また寒々しい。
「ここがアトリエに使ってる蔵です」
そう云って、観音開きの扉を示した。袖廊下の奥の、かろうじて炎から免れた首なし[#「首なし」に傍点]のマネキン人形にちらちらと目をやりながら、希早子は何かしら神妙な面持ちで頷いた。自分のアトリエに母以外の女性を入れるのは、静岡に住んでいた頃から通して考えてみても、多分初めてのことだったのではないかと思う。
薄暗くだだっ広い部屋。油絵の具と埃《ほこり》の臭《にお》いが、今夜は殊更のように鼻についた。ゆうべ希早子の来訪が決まってから、慌ててある程度片づけをしてみたものの、やはり部屋は雑然としている。
「寒いですね。今ストーヴを点けますから」
初めてガールフレンドを家に招待した中学生さながらの心地で、私はストーヴに火を入れ、希早子に椅子を勧めた。
「何か飲みますか」
「いえ、どうぞお構いなく」
手袋を嵌めた両手を組み合わせて部屋の中央へ進み出ると、彼女は好奇心一杯といった目で、ぐるりとアトリエの中を見まわした。
「昔描いた絵はたいがい、こっちへ越してくる時に処分してしまったか、納戸にしまい込むかしてあるんです。だからここにあるのは、この半年くらいの作品ばかりなんですけど」
彼女の視線を追いながら、要らぬ説明をする。
壁の方々に立てかけてある、大小のキャンパス。そこに描かれた奇妙な――いや、奇怪な、と自分で云ってしまってもいい――風景を、彼女はどのように見、感じるだろうか。
それは――そんなことは、どうでも構わぬ問題であるはずだった。
この十年ほどの間、私は一時《いっとき》たりとも、他人に見せることを想定して絵筆を握ったことがない。いかなる意味においても、である。私の描く絵は、云ってみれば、己の内宇宙の、己自身に対する表現だった。従って、自分以外の誰かの目にそれらが晒《さら》された時、彼らがそれらをどんなふうに見、感じるか、などといったことは、私にとって何の意味をも持ちえぬはずなのだ。
希早子はしばらくの間何も云わず、部屋に置かれた数点の絵を、いろいろな距離や角度から眺めては、しきりに首を傾げていた。が、やがて小さく、うーん、と唸ると、ストーヴの前に立つ私に向かって遠慮がちな声で尋ねた。
「作品に題名は付けてるんですか」
「付けているものもあります」
と、私は答えた。
「ここにある中では?」
「この中じゃ――そうですね、そこの、本棚の横に立ててある大きなやつにだけ、考えているタイトルがありますけど」
「何ていうんですか」
私は、恐らくしかめっ面で答えたに違いない。
「『時の蟲《むし》』――」
緑色の空と紺《こん》色の大地。林立する赤茶色の枯木。画面の中央、地面にへばりつくようにして、男の首が転がっている。かさかさに干涸《ひから》びた黄色いその顔には、眼球のない真っ黒な眼窩《がんか》、醜くひしゃげた鼻、歯の抜け落ちた口。前面に向いた頭部がざっくりと大きく割れ、中に青い胎児《たいじ》の身体が覗いている。その周囲から地面へ湧き出す、おびただしい数の赤い蟲たち……。
希早子は少し眉を寄せて、
「どういう意味なんですか、『時の蟲』って」
と訊いた。私は煙草を取り出しながら、
「それは、僕が解説することじゃないでしょう。好きなように受け取ってくれたらいいです」
「ふうん。――けど、ちょっと意外な感じ」
「というと?」
「何となくね、もっと淡いタッチの絵を描く人なんじゃないかなって想像してたんです。あまり原色は使わずに、微妙な色彩で……」
「そういえば、強い色を多用してるみたいですね」
まるで他人事のように、私は云った。
「こういうのは嫌いですか」
「いえ。嫌いっていうんじゃないです。――でも、何て云うのかな、不気味な絵が多いんですね。ダリなんか、やっぱり好きなんですか」
「ダリとはまた違うでしょう」
「そうかぁ。わたし、よく分らないけど、こういうのって全部、空想で描くわけですか」
「まあ、そういうことになるんでしょうね。勿論、普通の風景や人物、静物も沢山描いてますよ。随分と前のことだけど。
空想っていうよりは、心象風景みたいなものに近いんじゃないかな。だから僕自身、それぞれの絵に、特に意味づけをしようというつもりもないんです」
不気味な絵――。
確かにそうなのかもしれない。
傾いた石の塔の先端《せんたん》で胸を貫かれている男。ガラスの十字架に磔《はりつけ》にされた人面の獣。高層ビルの狭間で、アスファルトに腹まで呑み込まれた女。盲目の赤ん坊をくわえている巨大な犬。天空から下がったロープで首を吊った老人……。
一枚一枚の絵を、希早子はもう一度熱心な表情で見ていた。
「これは?」
と、それから彼女は、イーゼルに立ててある十五号キャンパスに目を留めた。
「今、描いている作品ですか」
「そうです」
「あの、もしかしたらこれ――違ったらごめんなさい――、いつだったか架場さんと話していた、飛龍さんの古い記憶の……?」
「そう。よく分りますね」
「ええ。何となく……」
それは、昨日からふと思い立って描き始めた絵だった。
赤い花――彼岸花の群れ。秋の風。赤い空。二本の黒い線線路。近づく轟音。まるで巨大な蛇のような、その屍のような列車の影。流れる水。子供。母を呼ぶ声……。
時折り心のどこかで揺れるそれらの断片を、何とかして絵にしてみよう。そう考えて始めたことである。
といっても、まだ木炭でとりとめのない線を引いただけの状態で、全体のおおまかな構図すら決まっていない。それが何らかの形で、二十八年前に母実和子が死んだ列車事故と関連してくるだろうとは予想できるのだが、今はまだ、何をどのように描けばいいのか、どこから描けばいいのか、殆ど見当がつかないというのが正直なところだった。
そんな段階のキャンパスを見て、すぐに私の記憶≠フ件と結びつけた希早子の目は、やはり鋭いと云わねばならないだろうか。
「あれから何度も思い出そうとしてみたんですけどね、どうしても、うまく見えてこないんです。遠すぎて手が届かない――それに何か、形の違う破片が沢山混ざり込んだパズルみたいな感じで……。だから、何となく、筆の赴《おもむ》くまま絵にしてみたら、と思ったんですけどね」
そうして、私は急に、彼女に全てを話してみる気になった。そこに至る心理の過程がどのようなものであったのかは、自分でもよく分らない。ただ無性に、そうしてみたくなったのだ。
一ヵ月前の火事と母沙和子の死について、私が考えてきたこと。例の、正体不明の人物からの第二の手紙のこと。島田潔から聞いた中村青司の話と、この家「人形館」との関わり……。
先月研究室を訪れた時の、私と架場との会話を耳に挟んで、希早子はある程度の事情を承知しているはずだった。あるいは、後に架場の口から詳しく聞かされているかもしれない、今、私の話を聞いて、彼女はどんな反応を示すだろうか。どのような行動に出るだろうか。それを深く考えてみようとはしなかった。
警察に知らせるべきだと強く云われるかもしれない、とは思った。しかし、今の私にはやはり、自ら進んでそうする意思はない。
なるようになればいい。
それが多分、偽りのない気持ちだと思う。
なるようになればいい。ただ……。
これから先、自分にどんな災いが降りかかることになるのか。そういったところにあまり関心はない。けれども、ただ……。
古い記憶の疼き。遠すぎる風景。手紙の主が執拗に「思い出せ」と繰り返すもの。私の「罪」。私の「醜さ」……。
その問題についてだけはどうにかして解決をつけておきたい、と切に願っていた。たとえ自分が、いずれ彼≠フ手によって殺される運命にあるのだとしても、だ。
[作者註]
* ……拙著『十角館の殺人』(講談社、一九八七年)参照。
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第七章 一月(1)
1
年末から年始にかけて、私の生活には多少の変化があった。
一日中家に閉じこもりっきりということはあまりなくなって、夕方にはまた「来夢」へ顔を出すようになった。以前のように、ふらりと散歩へ出ることも多くなった。新しいテレビとビデオ・デッキを購入して[2―B]の北側の居間に置き、気が向くと近くのレンタルビデオ・ショップへ足を運んだりもするようになった。
例の手紙の件にその後、新しい動きはない。妙な云い方だけれど、小康状態、とでもいったところだろうか。
どこかで私を狙う彼≠ヘ、じっと息をひそめて頃合を窺っている。そんな感じだった。
一方、私の彼≠ノ対する感情にも、ここしばらくの間にいくらかの変化が生じつつあった。もうどうでもいい、なるようになればいい――と全く投げやりであった気持ちが揺らいできて、自分に向けられた殺意に対する恐れ[#「恐れ」に傍点]の感情が再び甦り、大きく膨らみ始めているのである。
一体、何故なのだろう。
思うに――それは、私をこの世界につなぎ留める新たな鎖が、私の前に現われたからなのではないか。
道沢希早子。
そうだ。彼女の存在だ。
私は彼女に惹かれている。やはり、それを認めないわけにはいかないだろう。
但しそこにあるのは、普通に云う恋愛感情のようなものではないと思う。彼女が全身から放つ、瑞々《みずみず》しいばかりの生≠フ光に、恐らく私は惹かれているのだ。
彼女と接していると、その光が私の心の奥深くまで入り込んでくる。そうして、一旦朽《く》ち果てた――自ら生≠諦め、死んでしまっていたはずの私の心の細胞が、次々と再生されていく。そんな心地がするのである。
アトリエを訪れたあの夜以降も、希早子は何度か電話をかけてきた。
予想に反して、彼女は母の死や例の手紙の件についてはあまり触れようとせず、絵の感想を改めて述べたり、何でもない世間話をしたりしていた。納戸にしまってある昔の絵を、いつかまた見せてほしいとも云った。
年末――十二月二十七日だった――には、二人で岡崎《おかざき》の美術館へ行った。友だちにチケットを貰ったからと、彼女の方から誘ってくれたのだ。
彼女が一体どういうつもりで、十歳以上も年の離れた私のような男に接近してくるのか、最初は随分と不思議だった。が、その内に、そんなことはどうでもいいように思えてきた。
彼女と話し、彼女と会い、彼女の笑顔を見る。それだけで充分に楽しかった。生臭い男と女の感情を不用意に想像して、そんな彼女との関係を壊してしまいたくなかった。
こうして――。
彼女との接触が続くにつれ、私はまた、いつ襲いかかってくるとも知れぬ正体不明の殺意に、人並の恐怖心を抱くようになってきたのである。
もっとも、今更警察へ相談に行く気には、どうしてもなれないでいる。だから、せいぜい部屋の戸締まりに注意したり、あまり夜遅い時間には外を出歩かないようにしたり、といった自衛策を講じることで恐怖をなだめるしかなかった。
希早子は年が明けてから帰省した。学部の授業は、一月にはもう殆どないそうで、せっかくだから大学の共通一次試験が終わる頃までゆっくりしてくるとのことだった。
*
一日の内の何時間かは、土蔵のアトリエにこもり、記憶の疼きを探るための例の絵に取り組んでいる。
時折り痺れるような感覚とともに見え隠れする、あの遠すぎる風景に何とかして近づこうと、私は懸命だった。むやみに己を問い詰めるのはかえって逆効果だと思い、希早子にも云っていたように、とにかく筆の赴くまま、心の深いところに眠るそれ[#「それ」に傍点]を写し出してみようと努めたのだが……。
年が明けた頃には、一枚の絵が完成に近づいていた。
それは――。
黒い線路が、遠くから手前へ、大きなカーヴを描きながら延びている。澄み渡った秋の青空。線路の両側の野原には、群れ咲いた赤い彼岸花が風に吹かれ、斜めになびいている。
近景には、線路の傍らにしゃがみ込んだ一人の子供がいる。白いシャツを着、グリーンの半ズボンをはき、頭は五分刈り。俯いていて、顔の造作は分らない。そして、ずっと遠く――画面からはみ出そうかという辺りに、ぼんやりと黒く、線路を走ってくる列車の長い影がある。
この風景のあとに続く場面を、私の心は知っている。「巨大な蛇の屍のような」転覆した黒い列車。「ママ……ママは? ……」――母を呼ぶ子供(私?)の声……。
やはりこれは、そうだ、二十八年前に起こった列車事故に関わる風景なのだ。
その事故で、母実和子は死んだ。他にも大勢の死傷者が出た、もしも、手紙の主が「思い出せ」と迫る記憶がそれなのだとすれば、例えば、九月の末、最初に殺された%y蔵のマネキン人形は、事故で死んだ実和子の姿を暗示しようとしたものだったのだ、と考えられはしないだろうか。二度目の人形殺し≠ヘ、では、あの事故の他の犠牲者たちを示したもの……?
同じような解釈が、他の出来事についても可能であるような気がする。
郵便受けのガラスの破片は、事故で割れた列車の窓ガラスを暗示するものだった。
自転車のブレーキの故障。それによって引き起こされた私の転倒[#「転倒」に傍点]を、列車の転覆[#「転覆」に傍点]になぞらえてみることができる。
野良猫の死骸は? ――あの猫は頭を潰されて[#「頭を潰されて」に傍点]死んでいた。頭を潰されて……それは――ああ、何ということだろう――実和子が事故で死んだ、その死に方ではないか。――そうだ。思い出した。彼女は転覆の衝撃で椅子から投げ出され、頭を強打して死んだ[#「頭を強打して死んだ」に傍点]のだ。そう聞かされた覚えが、確かにある。
しかし――。
何故それが「お前の罪」という言葉に結びつくのかは、どうしても私には分らなかった。
(どうして?)
イーゼルに立てた絵を眺めながら、私は考える。
(どうして、この絵が……)
線路のそばにしゃがみ込んだ子供。――これは私なのだろうか。そうだとすれば、私はそこで何をしている(していた)のだろうか。
分らないのはそれだけではない。
心の奥で疼く断片≠フ中には、まだこの絵には描かれていないものがいくつも残されている。そんな気がするのである。
例えばそれは、「赤い空」だ。
この絵の中の空は「赤」ではない。けれども、そこで空を赤く塗ろうとすると、何故か「違う」という想いが湧き出してくる。
あるいは、それは「黒い二つの影」であり、「流れる水」である。長く伸びた二つの影は、線路を表わす「黒い二本の線」とはまた違うものであるように思える。「流れる水」といっても、この絵にはどこにも、そんなものを描き込む余地がないではないか。
[#地付き]……ん!
希早子に云った私自身の台詞の中にもあった。
『形の違う破片が沢山混ざり込んだパズルみたいな感じで……』
形の違う破片――。
[#地から2字上げ]……くん!
形の違う……。
また架場に相談してみようか、と思うこともある。このところ連絡を取ってこないが、希早子から聞いて、彼もその後の私の状態は知っていることだろう。
それをしないでいるのは、彼に相談したところでどうなるものでもない、という諦めに似た感情があるからだ。いま一つ彼は頼りにならない。そんなふうに思えてしまうのである。
(……島田さん)
と、そこでまた心に浮かぶ、大学時代の友人の顔。
彼ならば――と思う。
彼ならばもしかしたら、私をこの状態から救い出してくれるかもしれない。
2
島田潔から連絡があったのは、一月六日水曜日のことだ。
「来夢」から帰ってきたあと、私はアトリエに入り、完成間近の絵を前にしていた。そこへ、電話のベルが鳴ったのである。
「もしもし、飛龍君かい?」
受話器から聞こえてきたその懐しい声に、私は驚いた。島田に連絡を取りたい、とこの数日間ずっと考えていた――まるでその想いが通じたかのようなタイミングだったからだ。
「やあ、久しぶり。島田だ。島田潔だ。元気にしてるかい。去年、わざわざ電話をくれたって? 親父から聞いた。悪かったなあ。いやあ、ちょっと長い間、家を空けてしまっててねえ」
低いが張りのある独特の声で、半ば独り言のように彼は喋る。
「君が電話とは珍しいね。何か急な用事でもあったのかな」
「島田さん」
胸が詰まる想いで、私は答えた。
「実は――、母が死んだんです」
「お母さん? あのお母さんが? そりゃあ、一体また……」
「去年の十一月に、火事で」
そして私は、殆どまくしたてるような調子で彼に話した。昨年の七月、京都へ越してきてから今日までに起こったこと、自分が考えてきたこと――その全てを、である。
「ふうむ」
黙って私の長い話を聞き終わると、島田は低く唸った。
「そいつは大変だったんだなあ。すまなかったね、連絡が遅れて」
「どう思いますか、島田さんは」
すがる気持ちで、私は訊いた。
「一体誰が、僕のことを狙っているのか、何故狙っているのか」
「そうだねえ」
彼は云った。
「今ここで答を出せって云われても困るんだが……。ううむ。そうだなあ。いくつか、思いついたことを云ってみようか」
「ええ」
「誰が犯人≠ネのか? っていうのが、まず最大の問題なんだろうけど、今聞いた話からそいつを特定するのはかなり難しい。決定的な限定条件がないんだな。
しかし、最初に君が考えたように、怪しいのは緑影荘の住人だと思う。何と云っても、鍵の掛かった母屋や蔵に、いとも簡単に忍び込んだりしてるわけだからねえ。合鍵を手に入れるにしても、全く外部の人間よりは、彼らの方により多くの機会があっただろう。
緑影荘の住人は、ええと、管理人夫婦を入れると全部で五人だったね。合鍵の点から考えると、やっぱりまず疑うべきなのはその管理人夫妻なんだろうが……。どう思う? 君は」
「初めは僕も、水尻さんたちのことを警戒するべきだと思ったんです。でも、特に母が死んだあとのあの人たちの様子を見てると、どうしてもそういう疑いは薄れてきて」
「というと?」
「凄くよくしてくれてますからね、僕に。特にキネさんは、食事から何から、本当によく気を遣ってくれて」
「成程。心情的に、犯人だとは思えない、か」
「そういうことです。道吉さんの方にしても、もうだいぶ身体が弱ってて、とてもそんな、人の命を狙えるようには……」
「じゃあ、一応その二人はおいとくとして、他の三人について、特に何か感じるところはないかな」
「辻井雪人は、非常に屈折した男ですね。話し方も態度も、いやにねちっこくて。逆に倉谷誠は、胡散臭いところもあるけど、性格的にはあっさりしてるように見えます。木津川伸造については――、そういえば、いつかふと思ったことがあるんですが」
と、そこで私は、以前――母が彼にマッサージを頼んだ時――自分が感じた疑念を、島田に云ってみた。つまり、木津川は本当に目が見えないのだろうか[#「木津川は本当に目が見えないのだろうか」に傍点]? ということだ。
「はあん。盲目の彼には一連の犯行≠ヘ難しい。しかし、もしもその盲目が偽りのものであったとしたら、そうとは云いきれなくなる。成程ねえ」
「勿論、断言できることじゃないんですよ。何となくそんなふうに感じただけで」
「なら、それを確認してみればいいんだ」
いともあっさりと島田は云った。
「彼が本当に盲目なのかどうか、調べてみればいい」
「それは――けど、どうやって?」
「ちょっとした仕掛けをしてやれば、簡単さ。彼の部屋のドアに何か悪戯をしておくんだ。例えばだね、へのへのもへじ[#「へのへのもへじ」に傍点]でも描いた紙を画鋲《がびょう》で貼っておくとかしてやる。午前中にその工作をして、次の日に紙の状態を確かめる」
「ああ、成程」
木津川の目が本当に見えないのならば、紙はそのまま放っておかれているだろう。そうではなくて、彼の盲目が偽りであるのなら、自分の部屋のドアに貼られたそんな悪戯書きはすぐに取り去ってしまうはず、というわけだ。
「もしも彼が盲目じゃなかった場合は、こちらの工作に疑問を抱くかもしれない。誰かが自分を試そうとしているんじゃないか、とね。けれど、そう思い至る前に、まずそんな落書きは剥がしてしまおうとするのが、普通の人間の心理だと思う。とすれば、仮にそのあとで元通り貼り直したとしても、ドアや紙にはそれなりの形跡が残るはずだ」
「確かに」
「明日か、できれば今晩にでもすぐ、こいつは実行してみたらどうかな」
「ええ。そうします」
「それからね、その粘着気質の作家についてなんだけど、一つ思うことがある」
「辻井について?」
「うん。つまりね、彼と君との関係[#「彼と君との関係」に傍点]さ。又従兄弟同士[#「又従兄弟同士」に傍点]だっていう」
「それが、どうか」
「動機だよ。動機」
「…………」
「分ってないんだなあ」
島田はちょっと呆れたように、
「君と辻井とは又従兄弟ってことは、君の数少ない血縁者なわけだろう。池尾家の方とは、公式の親戚関係がないんだ。もしも君がここで死ぬなんてことになったら、飛龍家の財産はどこへ行く?」
「あ……」
「遠い血筋であろうと、とにかく血縁者なわけだよ、彼は」
「彼が僕の遺産を狙って、と?」
「実際のところは確か、又従兄弟に相続権はなかったはずなんだがね、それでも、辻井自身があると思い込んでいれば……」
「じゃあ、手紙の文句は全部、その動機を隠すための?」
「カムフラージュ。そうだね。そういう可能性もあるだろう。とにかく辻井は要注意人物だってことさ。
もう一人の倉谷っていう大学院生については、何とも云えないなあ。聞いてると、その男、多少マザコンの気があるようにも思えるんだけど、何か君のお母さんに、その、良からぬ感情を持っているふうには見えなかったかい」
「さあ。そう云われてみれば、そんな気がしないでもないですけど」
「ふん――。犯人の問題に関しては、とりあえず云えるのはそれぐらいのものかなあ。
君の記憶の件については、絵を描いてみるっていうその方法、気長に続けるべきだろうね。とにもかくにも君自身の問題なんだから、僕には何も口出しできない」
「この家については? どう思いますか。つまりその、前に島田さんが云ってた、中村青司という建築家との関係……」
「ああ、それねえ」
島田は少し間をおき、重い口調で云った。
「中村青司が昔、京都の『人形館』っていう家の改築に関わった。うん。確かにね、そういう話を聞いたことがある」
「――やっぱり」
「それはしかし、今更気にしても仕方がないことだろう。既にこの世にはいない人物なんだ。因縁とか何とか、僕も時々思いはするけど、そこには何ら科学的な根拠があるわけじゃないんだからねえ。むしろ僕が気に懸かるのは、君の家に置かれているっていう人形そのものの方だなあ」
「人形、そのもの?」
「どうして君の父上が、そういった不完全なマネキン人形を家の方々に遺したのか、っていう問題」
「それは、彼は気がおかしくなって……」
「父上の精神状態が尋常ではなくなっていた、っていうのには、あえて反対はしないさ。しかし、それにしても、どうもその人形の特徴とか置き方とかが気になるんだな。いかにも何か意味ありげだ。狂人には狂人の論理がある、ってね、よく云われるだろう」
狂人には狂人の論理……。
改めて、父高洋が遺した人形たちの様子を頭に思い浮かべてみる。母実和子の復活を目指して、と私が想像する顔≠フない人形たち。身体のどこか一部分が欠けた人形たち……。
「じゃあ、また電話するから。何か変わったことがあれば、連絡してくれ。いいね」
やがてそう云って島田の声は消え、耳には取り残されたような静寂だけが残った。
3
その夜も遅くなってから、私は島田に指示されたように、意味のない落書きをしたメモ用紙を用意して、こっそりと木津川の部屋へ向かった。そしてそれを、ドアの、丁度目の高さ辺りの位置に画鋲で留める。
木津川の住む[1―D]の入口は、前庭の小道を回り込んだ、家の裏手にある。だから、彼本人以外の者が、その落書きに気づいて剥がしてしまう気遣いはないだろう。
木津川は仕事に出ている。帰ってくるのは、いつももっと遅くなってからだ。
明日の午前中、忘れず確かめにくることにしよう。その時、もしも紙がそのままの状態で残っていれば、とりあえず木津川はシロだということになる。
小道を引き返す際、辻井の住む[2―C]の窓を見上げた。彼は部屋にいて、まだ起きているようだった。
*
[2―B]の部屋に戻り、ぐったりとベッドに横になりながら、私は島田との会話を頭の中で反芻《はんすう》してみる。
犯人≠ヘ誰か? この家に住む者たちが断然怪しい。殊に、私の遺産目当てという動機がありうることを考慮して、辻井雪人には要注意。記憶を探るための絵は、気長に続けるべし。「人形館」はやはり、中村青司の家。それよりも気になるのは、父が遺した人形そのもの……。
この家の人形たちそのもの[#「この家の人形たちそのもの」に傍点]。
引っ越してきた当初は、私にしても随分とそのことについては考えたものだった。が、あの人形たちの持つ不自然さや不気味さに目が慣れてくるにつれ、結局それは、孤独と老いの中で自殺した父の狂気の産物であり、意味を測るのは無駄なことだと、そう割り切って見るようになっていた。
しかし――。
狂人には狂人の論理があるはずだ、と島田は云う。「今ある場所を動かしてはならない」という遺言とともに遺された人形たちには、必ず何か、それなりの重要な意味が込められているはずなのだ、ということか。
無性に私も、それが気になり始めた。
時刻はもう十二時を回っている。普段ならそろそろ眠くなる時間なのだが、逆に頭が冴えてくる。
この家の人形たち……。
ベッドから起き上がり、居間を通って廊下に出てみた。
出て右へ。明りの消えた廊下の角を一つ曲がった正面に、六体の人形の内の一体――左脚の欠けた――が立っている、一階の廊下に置かれた上胴部のない人形の、丁度真上に当たる位置だ。
窓から射し込む星明りで、ぼうっと白く闇に浮かび上がったその姿を見る内、私はふとあること[#「あること」に傍点]に気がついた。
それは、彼女の視線≠ナある。
勿論、彼女の顔は例の、何の起伏もないのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]なのだから、そこに正確な意味での視線≠ェあるわけではない。私が云いたいのは、斜めに窓の方を向いた、その顔の向き[#「顔の向き」に傍点]のことだ。
この真下に置かれた人形も、確かこれと全く同じ方向を向いて立っていたのではないか。
同じ位置にあるから、同じ方向を向いているというのだろうか。だとすれば、どうして彼女たちはその方向を向いていなければならないのだろう[#「どうして彼女たちはその方向を向いていなければならないのだろう」に傍点]。
(これは……)
これがひょっとして、この人形たちに与えられた意味なのでは……?
そう考えだすと、居ても立ってもいられなくなった。
私は部屋の中に戻ると、机の上でスケッチブックを開き、鉛筆を握った。そうして、この家の構造と間取りを思い浮かべながら、できるだけ忠実に、その平面図を描いてみる。
記憶が曖昧な部分もあったし、正確な寸法も分っていない。しかしとにかく何分かの時間をかけて、焼けた母屋も含めたその図を完成させると、次はその中に、六体の人形たちが置かれている位置を丸印で書き込んだ。
母屋の玄関脇。蔵の扉がある袖廊下の突き当たり。母が使っていた座敷の縁側。[1―B]の前の廊下の角。
二階に置かれたものを別にすることはせず、同じ図の、相当する場所に印を付ける。この部屋の前の人形は、真下のものと重ねて二重の丸にする。もう一体は、ホールの南東の隅だ。
六体全ての位置を記入し終わると、今度はそれぞれの人形が向いた方向を心に浮かべた。
玄関の人形は確か、戸口の横から斜めに左を向いていた。縁側の人形も、部屋を背にして僅かに左向き……。
袖廊下の人形は、頭部自体がないものの、明らかに正面を向いている。それから――。
一階、二階、同じ位置にある廊下の角の二体は、さっき見た通り、斜め左方向。ホールの隅の人形は逆に、斜め右の窓の方を……。
それぞれの人形の視線≠、矢印で書き入れる。すると、どうだろう、六つの矢印は全て[#「六つの矢印は全て」に傍点]、同じ一つの場所に向かって伸びている[#「同じ一つの場所に向かって伸びている」に傍点]ことになるではないか。
正確な図ではないから、ぴったりというわけにはいかない。けれども、各々の矢印を延長してやると、それらは六本とも、内庭の中央辺りのほぼ一点で交差してしまうのである。(Fig.2「人形館平面図」P.231 参照)
そこまで確認すると、私は机を離れ、再び廊下に出た。そして、その角に立つ左脚のない人形のそばに寄って、自分の顔を彼女の顔の横に並べてみた。
窓の外が見える。微かな星の光の下、荒れた庭が見える。彼女の視線≠追いながら、図上で矢印の延長線が交差した点を目測すると……。
「ああ」
思わず、私の口から溜息が洩れた。
そこ[#「そこ」に傍点]にあるのは、他でもない、父が首をくくったというあの桜の大木だったのである。
4
もう時間が遅かったので、行動を起こすのは次の日に持ち越すことにした。行動、とは無論、問題の桜の木の付近を調べてみることである。
六体の人形たちの視線≠ヘ、どうしてあの桜の木に集中しているのか。
これは決して、偶然ではないはずだ。死んだ父高洋が、意図的にそうしたとしか考えられない。
では、それは何のために?
自分が死んだ場所を、その後も彼女≠スちに見守らせる? 単にそれだけのためだとは、私には思えない。他に何か、きっと意味があるに違いない。人形たちが見つめるあの桜の木そのものか、あるいはその付近の地面かに、きっと何かが……。
家の平面図を描いたり、そこに人形たちの位置を書き込んでみたり……そういった、何やら宝探し≠カみた行為からの連想かもしれない。私にはどうも、あの桜の木の付近に何かが埋められているのではないかと思えてならなかった。
*
翌七日。
午前九時に起き出すと、私はまず木津川伸造の部屋へ向かった。
昨夜ドアに貼り付けておいたメモ用紙は、そのままの状態で残っていた。一度剥がした様子がないかどうか、注意深く調べてみたが、それらしき形跡は全然見られない。
(木津川はシロ……)
そっと画鋲を外し、メモ用紙をズボンのポケットに突っ込んだ。
彼の盲目に対する疑いは、やはり私の思い過ごしだったということか……。
[1―D]のドアを離れると、私はそのまま内庭へと足を向けた。玄関の前を通り過ぎ、洋館の南側から回り込む。
空はよく晴れている。珍しく山から吹き下ろす風もなかった。といっても、真冬の寒さには変わりがない。庭の周囲に立ち並んだ常緑樹の葉の隙間から洩れ込む陽光は、暖かさよりもむしろ、うら淋しさを感じさせた。
葉を落とし、ごつごつとした線ばかりが目立つ桜の大木の下に立つと、私はズボンのポケットに両手を潜り込ませながら、その辺りの地面の様子をゆっくりと観察し始めた。
うずたかく積もった落葉、枯草。冬を生き続けている雑草。火事の名残りの真っ黒な灰……。
何かが地面に埋められているとすれば、あまり木の根元に近い場所ではないだろう。根元に近すぎると、地中に広がった木の根が邪魔で、穴を掘るのが難しいに違いないから。
爪先で落葉や枯草を払いながら、私はうろうろと木の周囲を歩きまわった。
そうしてしばらく経った頃、ようやく私はそれらしき部分[#「それらしき部分」に傍点]を見つけた。木の根元から一メートルほど北側――その辺りの地面が、何となく他とは違っているような気がしたのだ。
地面にへばりついた雑草の密度が、他よりもいくらか疎《まば》らであるように見えた。もっとも、父がこの辺りに何かを埋めたのだとすれば、それは今から一年以上も前の話になる。その時間を考慮するならば、雑草の密度などという指標は決して当てにはならないわけだが……。
私は試しに、自分の感覚が捉えたその場所の上に立ち、洋館の方へ目を向けてみた。塗りの剥げたクリーム色の窓が並ぶ、その中に、廊下の角に置かれた例の人形の姿を探す。
すぐにそれは見つかった。光のバランスの関係で非常に捉えにくいが、一階の廊下の窓の隅、薄暗がりに佇む彼女≠フ姿が見える。そして、その顔の向き。彼女の顔は正に、一直線にこちらへと向けられているではないか。
同様にして私は、二階の廊下に立つ二体の人形の影を探し、それらもまた、今自分がいる場所へとまっすぐに顔を向けていることを確認した。
(やはり、ここに?)
私は焼跡から手ごろな瓦礫《がれき》を拾ってき、その場所に置いた。目印にするためである。
もしも本当に、ここに埋められているものがあるとすれば、一体それは何なのか。
この時既に、私は漠然とながらその答を予感していたような気がする。
5
水尻夫人の用意してくれた食事を部屋で食べ終えたあと、私は彼女に云ってスコップを貸してもらった。どうしてそんなものを? と目を丸くする彼女には、ちょっと気まぐれで庭をいじってみたくなったのだ、と口実を述べた。
その時ついでに、私はそれとなく訊いてみた。
「この家のあちこちにある人形なんですけどね、あれは、いつからあの場所に置かれていたんでしょうか」
一昨年の秋の終わり頃だったと思う、と夫人は答えた。父が自殺する一、二ヵ月前だ。
「その頃、彼――父が、庭で何かをしていたようなことはありませんでしたか。植木をいじるとか、穴を掘るとか」
「さあ」
と、その質問には、彼女は曖昧に首を傾げた。
「そんなことがあったような気もしますけどねえ。どうでしたやろか……」
午後から、晴れていた空は急に翳《かげ》りだしていた。吹き始めた強い風が、庭木の枝をしならせ、葉をざわめかせている。水尻夫人によれば、今日はこれから雨か雪になると予報で告げていたらしい。
天気が崩れる前に、何とか片をつけておきたいと思った。
早速私は、目印を置いておいた場所にスコップを立てたのだが、この数日間の好天のため地面が乾いていて、ひどく掘りづらかった。慣れない力仕事で、ものの五分もしない内に腕や腰がだるくなってくる。背中や脇の下に滲み出す汗とは裏腹に、スコップを握る手や頬が痛いほどに冷たい。
二十分も作業を続けて、ようやく穴の深さは三十センチくらいになった。
加速度的に広がってくる厚い雲。吹きつける風はますます強く、冷たく感じられる。どのぐらい深くまで掘ってみるべきなのだろうか、と早くも、後悔とも諦めともつかぬ気分が芽生え始めた頃――。
ガチッ……と、スコップの先端が何か硬いものに当たった。
慌てて穴の中を覗き込んだ。土に紛れて、今の感触が何だったのかはよく分らない。
もう一度スコップを、同じ場所に突き立ててみる。ガチッとまた、確かに手応えがあった。
私はその場に屈み込み、素手でその部分の土を掻き分けた。やがて、かじかんだ指先がそれ[#「それ」に傍点]を探り当てた。何か硬い、平らなもの……。
(あった[#「あった」に傍点])
これだ、と思った。
私はスコップを握り直すと、寒さや疲労も忘れて夢中で作業を再開した。
*
それ[#「それ」に傍点]は、相当に大きなものだった。
長さ一メートル半。幅四、五十センチ。高さ三十センチ。
かれこれ一時間以上の苦労の末、やっと穴をその大きさにまで掘り広げた。
まだ夕暮れには早いというのに、既に辺りは薄暗くなってきている。いつ雨か雪が降りだしてもおかしくないような気配である。
それは長細い木の箱だった。
(何を入れるための?)
考えてみるまでもない。この大きさの、こういった形の箱といえば、まず連想するものは決まっている。そう。棺[#「棺」に傍点]だ。
(棺《ひつぎ》……)
その中に納められたものが何か、蓋《ふた》を開いてみずとも私には薄々見当がついた。
(そうだ)
(それは……)
箱の蓋はしっかりと釘付けにされていた。私は一旦家の中に戻ると、また水尻夫人に云って釘抜きを借りた。
「どうしはったんですか、ぼっちゃん」
土や灰ですっかり汚れてしまった私の姿を見て、彼女は心配そうに訊いた。
「庭を掘ってはったみたいやけど」
「探し物をしてたんです」
私は、今度は正直に答えた。夫人は不思議そうに、
「はあ? 何を探してはるんですか」
「父の形見を」
唖然とする夫人を残して、私は再び庭に駆け出した。
蓋を開くのに、更に十分ほど時間を要した。ようやく全ての釘を抜き終わると、私は荒くなった呼吸と動悸を鎮《しず》めながら、蓋に手をかけた。
(ああ)
やはり、予感していた通りだった。
(ああ……)
箱の中に横たわっていたもの――それは、一体の白いマネキン人形だった。頭部、上胴部、両腕、下胴部、左脚、全てのパーツが揃っている。そして、仰向けになったその顔面にはちゃんと目がある。鼻も口もある。髪の毛もある。
(……お母さん)
父は完成させていたのだ[#「父は完成させていたのだ」に傍点]。これを――この、母実和子の人形を。
私は穴の縁に跪《ひざまず》き、両腕を伸ばして彼女の身体を抱き上げた。
ぽつりとその時、冷たい滴が頬に当たった。見上げた暗い空が、今しも大粒の雨を吐き落とし始めていた。
6
人形を抱えて、私は家の中に飛び込んだ。
だんだんと激しくなってくる雨の音に追われるようにして、小走りに廊下を突っ切りアトリエへ向かう。
自分の服を着替えるよりも先に、長らく地中の棺の中で眠っていた人形の汚れを、丁寧に布で拭き取ってやった。そうして彼女を、背凭れを倒した揺り椅子の上に置くと、私は肘掛け椅子に坐り、それと向かい合った。
(お母さん……)
斜めに天井を仰いだ彼女の顔を見つめる。
黒い髪は、肩を通り越して背中の真ん中辺りまであるだろうか。ほっそりとした輪郭の中に刻まれたその顔立ちは、確かに、私の記憶に残っている母実和子の面影と一致するものだった。
それはどことなく、私自身の顔と雰囲気が似ているような気がした。水尻夫妻は初対面の時、私が祖父飛龍武永によく似ている、と感想を述べていたが、こうして父が再現した実和子の顔を見ていると、自分はむしろ母親似だったのではないかとすら思えてくる。
(お母さん……)
父は、この人形を完成させていた。記憶の中にある妻の姿をそのままの形で取り出し、自分のそばに置くことに成功していた――。
父がこれを作り上げたのはいつのことだったのか、私には知る術がない。ただ、これだけは云えると思う。父にとって必要なのは[#「父にとって必要なのは」に傍点]、たった一体の完璧な人形だけだった[#「たった一体の完璧な人形だけだった」に傍点]ということである。
この家に遺された他の人形たちは、全て顔≠持たない。しかしそれは、父が最初から意図してそのようにしたわけではなかったはずだ。
それぞれの人形を彼は、実和子の再生を目指して作った。出来上がった時点では、どの人形にもちゃんと顔≠ェ与えられていたことだろう。だが、そのどれにも、彼は満足できなかった。新しい人形を作り、その姿がより本物≠ノ近づいていくたびに、彼は既に出来ていた人形の顔≠削り取り、その身体の満足できない部分を廃棄していったのではないかと思う。
そういった幾たびもの試行錯誤の末、ようやく彼は完璧な一体[#「完璧な一体」に傍点]を作り上げた。それが、この人形だったのだ。
その後彼が死を決意するに至った心理的過程を分析する力は、私にはない。しかし、あえて無責任な想像をするならば――。
彼の死は、彼一人の自殺ではなかった。再生した妻実和子との心中≠、彼は敢行したのではないか。
自分が首をくくる桜の木の下に、一旦自らの手で復活させた実和子の棺を埋めた。そんな父の行為に、私はどうしても心中≠ニいう意味合を感じ取ってしまうのである。
不完全な形をした六体の人形たちは、では云ってみれば、墓守り≠フような役割を果たしていたということだろうか。人知れず埋葬した妻の眠りを見守り続けるように、と父が役目を与えた、六体の番人……。
更に想像を逞しくしてみると、あるいはそれは、父が意図的に遺したメッセージだったのかもしれない。
頭部、上胴部、下胴部、右腕、左腕、左脚――それぞれにどこかが不完全[#「どこかが不完全」に傍点]な彼女≠スちの視線≠ェ示すところに、唯一完全な形の[#「唯一完全な形の」に傍点]彼女≠ェいるのだ。そんな暗示が、あの六体の人形たちに込められているとは解釈できないだろうか。
それは誰に対して向けられたメッセージだったのか。――この私に対して? 彼が一度として振り向こうとしなかった、この息子に対して?
ならば、それは一体何故なのだろう。
蔵の屋根を打つ激しい雨音を聞きながら、私はしばらく、身じろぎ一つせずに母実和子の顔を見つめ、あれこれと想いを巡らせていた。その心の奥で、ふっとまた――
[#地付き]…………赤い花
[#地から6字上げ]…………秋の涼やかな風
見え隠れし始める遠い風景。
[#地から10字上げ]…………黒い二本の
[#地から13字上げ]…………しゃがみ込んだ子供
(子供……。これは私だ[#「これは私だ」に傍点])
[#地から12字上げ]………石
[#地から14字上げ]…………その手に握られ……
[#地から26字上げ]……石ころが
[#地から17字上げ]……ぽつんと……
(石ころ[#「石ころ」に傍点]?)
(子供は石ころを握っていた?)
(私は、その石ころを……)
[#地から16字上げ]……………ゴ……ゴゴゴゴ……
(近づく列車の音)
[#地から6字上げ]…………まるで、巨大な蛇の屍のような
(転覆した列車の影)
[#地付き]…………ママ
[#地から7字上げ]……ママは?
[#地から13字上げ]……どこなの?
[#地から21字上げ]……ママ!
[#地から27字上げ]……ママ!
……ママァァァァァァ!!
「ママ!」
頭を抱え、私は絶叫していた。
その声にも、一瞬にして蒼白になったであろう私の顔色にも、表情一つ変えない美しい母が、目の前にはいた。
「ママ……お母さん……。ああ、何てことだ」
たった今まざまざと脳裏に甦った恐ろしい光景。それを全て、否定してしまいたかった。
「まさか……」
しゃにむに頭を振りながら、揺り椅子の上の人形から目をそらす。白い母の顔に一瞬、そんな私を哀れむような色が浮かぶ。
長い間、心の深みに葬り去られていた記憶。二十八年前、私が六歳の時の……。
まさか、父が六体の人形たちを遺したのは、これ[#「これ」に傍点]を――この記憶を、私の心から引きずり出すためだったとでも……?
人形からそらした目が、イーゼルのキャンパスに描かれた例の絵を捉える。
線路のそばにしゃがみ込んだ子供――顔は見えないが、これは私だ。間違いない。やはりこれは、私だったのだ。そこで私は何をしていたのか。何を、そして何故……。
分った。
もう分ったから――分ったから、私がこれからどうすればいいのか、誰か教えてくれ。
そうだった。
二十八年前の秋[#「二十八年前の秋」に傍点]、私は母を殺したのだ[#「私は母を殺したのだ」に傍点]。いや、母だけではない。もっと大勢の人々の命を私は奪ったのだ[#「もっと大勢の人々の命を私は奪ったのだ」に傍点]。
絶望にも似た気分で目を閉じた私の耳に、その時、電話のベルの音が聞こえてきた。
7
「もしもし、飛龍君?」
「ああ」
受話器を握りしめ、私は喘《あえ》いだ。
「島田、さん……」
「ああん? どうしたんだい、今にも死にそうな声出して。もう寝てたなんてことはないだろう?」
島田潔は云った。
「それとも何か、急な展開でもあったかな」
「島田さん、僕は――」
私は心の中から溢れ出てくる言葉を、躊躇する余裕もなく彼にぶつけた。
「僕は、そんなつもりじゃなかったんだ。そんなつもりじゃなかった。まさかあれが、あんな大変な事故になってしまうなんて……」
「どうしたんだい、飛龍君」
「あの日――あの日母は、僕をサーカスに連れてってくれるはずだった。そういう約束を、ずっと前からしていたんです。父は、そんなものにわざわざ連れていく必要はないと。だから二人だけで――あの日こっそりと、父には内緒で、二人だけで行こうって約束してた、なのに……」
なのに――、そうだ、その直前になって、母には別の用事が出来てしまったのだ。父の制作した彫刻作品が、初めて何かのコンテストで入選した。その授賞式(だったと思う)に行かなければならなくなって、だから彼女は……。
『また今度ね』
泣きじゃくる私に、彼女は優しく云った。
「今度、きっと連れていってあげるからね。だから、今日は堪忍《かんにん》して。ね、想ちゃん」
けれども、私の行きたかったサーカスの公演は、その日が最終日だったのだ。私は二ヵ月も前から、大好きな母と二人だけでそれを見にいける、その日を何よりも楽しみにしていたのだ。
『お父様の、大事な日なの。ね? 分ってくれるわよね。想ちゃんも、一緒に行きましょ。お父様が会場で待ってられるから……』
そんなものに行きたくなどなかった。私はまだ幼くて、その授賞式だか何だかが父や母にとってどれほどの意味を持つのか、理解できなかった。それにまた、いつもアトリエに怖い顔で閉じこもって、私が入っていったりすると鬼のように叱る父のことを恐れ、嫌ってもいた。
結局母は、私を留守番に残して家を出ていった。私は独り取り残された。
「……だから」
島田は黙って私の話を聞いていた。私は細かく震える声を意識しつつ、
「だから、電車が止まればいい[#「電車が止まればいい」に傍点]と、僕は思ったんだ。そうしたら、母は父のところへ行けなくなる。行けなくなったら、僕のところへ帰ってきて、サーカスへ連れていってくれる……」
母が乗っていく電車は、当時の私の家の裏手――子供の足で数分のところ――を通って街へ向かっていた。私は母が出ていって少しすると、夢中でその線路へ走った。
電車が止まれば[#「電車が止まれば」に傍点]、と、それだけを考えていた。電車が止まってしまえば……。
「……それで僕は、あの線路の上に石ころを置いたんです。いつか、誰かに聞いたことがあった。線路に石を置いて遊ぶ悪い子供がいる[#「線路に石を置いて遊ぶ悪い子供がいる」に傍点]。そんなことをしたら電車が止まってしまう[#「そんなことをしたら電車が止まってしまう」に傍点]――って。けど、それがまさか、あんな……」
駅を出、スピードを上げてやって来る列車――。線路があそこで大きくカーヴを描いていたことも災いしたのかもしれない。
線路の構内から逃げ出し、離れた場所から見守っていた私の前で、置き石をした箇所に差しかかった列車は、物凄い大音響とともに線路からずれ落ち、大きくねじれるようにして地面に横転した。秋風になびく赤い彼岸花の群れに囲まれ、やがて動きを止めたその姿は、まるで――そう、巨大な蛇の屍のように見えた。
私は叫んだ。母の名を呼んだ。しかし、応えてくれる声などあるはずがなかった……。
あんなことになるはずではなかった。そんなつもりではなかった。私はただ、電車が止まってくれれば良かっただけなのだ。たった一個の石ころが、まさかあんな大きな電車を引っくり返してしまうなんて……。
「……父は、恐らくそれを知ったのだろうと思います。僕が泣きながら、自分の口から自分のしたことを云ったような気もする」
だから――。
彼は私を許すことができなかったのだ。彼は私を、少なくともその時以降、激しく憎悪するようになった。かといって実の息子の罪を他言するわけにもいかず、だから、私を捨てて独りこの街へ……。
「成程」
ようやく私が言葉を切ると、島田は云った。
「その事件がつまり、君の『罪』だったってわけか。玄関に置いてあった石ころっていうのも、これで意味を持ってくることになるね」
「島田さん……」
「あまりにもそれが忌まわしい事件だったから、君はその記憶を、いつしか自らの心の底に封印してしまっていたというわけだ。あるいは……ふん。もしかして飛龍君、それを君がお父さんに告白した時、何か強く命令されはしなかったかい。お前のしたことは絶対に誰にも云ってはいけない、とか」
「ああ、そういえば……」
『忘れるんだ[#「忘れるんだ」に傍点]』
低く押し殺した声で、恐ろしい形相で、彼は私に命じたのだった。
『忘れるんだ[#「忘れるんだ」に傍点]。そんなことはなかったんだ。一切なかったんだ。いいか、想一』
「島田さん、僕は……」
「こらこら。何もそんな、悲愴な声を出すんじゃない」
島田は、低い、けれども暖かみのあるいつもの声で云った、
「そりゃあショックだろうけど、いいかい? そいつはもう三十年近くも昔の話なんだ。その時の君には、何の責任能力もなかった。犯罪を行なおうっていう自覚もなかったんだから」
「でも……」
「罪は罪かもしれないが、そのために今、君が殺されなきゃならないことは全然ないんだよ」
「…………」
「仮に君を狙う犯人が、その二十八年前の置き石事件を理由に、君を殺そうっていうんだったら、それこそ思い上がりってもんさ。どんな理由があろうと、個人が個人を裁くことなんて、僕らの社会では許されちゃいないんだ、ましてやそいつは、君の母上――沙和子叔母さんまで殺したっていうんだろ? そんな暴挙が許されてたまるもんか」
彼の言葉は力強かった。
「分ったね、飛龍君。決して、ここで自棄《やけ》になっちゃいけないぞ」
「――はい」
いくらか救われた想いで、私は頷いた。
「ようし。じゃあ煙草でも吸って、気を落ち着けて」
云われるままに、煙草に火を点ける。
「まあ、とにもかくにも問題の一つが明らかになったんだ。それだけでも、現在の状況にとってはプラスだと考えなきゃいけない」
そして島田は私に訊いた。
「ゆうべ云ってた木津川の件、もう実験[#「実験」に傍点]をやってみたかい」
「ええ」
私がその結果を報告すると、島田は、ふんふん、と鼻で頷いて、
「そうか。これで、まずは一人消去できたわけだ。彼が本当に盲目なのだったら、どうしたって犯行≠ヘ不可能――。とすると、残る容疑者≠ヘ辻井か倉谷か……。
ところでね、誰が犯人にしろ、どうやってそいつは君の『罪』を知ったのか? これも重要な問題だなあ。二十八年前、実際にそれを目撃したのか。何らかの方法で調べ出したのか。それとも君のお父さんから聞いたのか」
「どうして彼は、今になって?」
「さあねえ。ただ、もしもそれが――君の『罪』がそいつの動機を支えているのだとすれば、そこで二種類の犯人像が考えられると思う」
島田は自信たっぷりに考えを述べた。
「一つは、そいつ自身は全くその事故とは無関係な人物で、なおかつ君の犯した『罪』を裁こうとしているっていう場合。云ってみればこれは、そういった使命感≠ノ取り憑かれた、一種の狂人だってことになるね。
もう一つは、そいつ自身が事故に関係していた場合。その電車に乗っていて大怪我をしたとか、事故で死んだ者の遺族だとか恋人だとか。要は、君に復讐≠オようってわけだ」
「復讐……」
「ま、いずれにせよ、その事故のことについては詳しく調べてみる必要があるなあ。――ふん。よし。じゃあね、これは僕が動いてみよう。君に任せとくわけにはいかないみたいだから」
「――有難う、島田さん」
「とにかくね、くよくよしちゃあいけないぜ。いずれ僕もそっちへ行くから」
「本当に?」
「うん。ちょっとこっちで手を離せない用があってね、今すぐってわけにはいかないが。
部屋の戸締まりとか、周りの人間の怪しいふるまいとか、充分気をつけるようにね。いいかな」
「分りました」
「じゃ、また近い内に連絡するから……」
――――1
その夜、――[#「――」に傍点]はたまたま外へ出た。
別に確たる目的があってのことではなかった。が、しいて理由を求めるならば、これからどうやってあの男を殺すか、その方策を考えるため、と云えないこともない。
――[#「――」に傍点]は、あの男が散歩でよく通る道を知っている。今夜はそのコースを歩いてみよう。
いい加減にあの男も、自分が犯した罪を思い出したことだろう。こちらの動きにも、相当の警戒心を抱くようになったに違いない。
とすれば、こちらもこちらで何か良い手を見つける必要がある。あの男のガードを緩め、うまくその隙に付け入る方法を。そしてなおかつ、あの男の罪を裁くのに最もふさわしい方法を。
余計なことは考えず、ひと思いにもう片をつけてしまおうか。やり方がどうであれ、結果は一つなのだ。もう……。
いや、待て。
(その前に……)
その前に、そう、まだ行なっておかねばならないことがある。
(それは……)
深夜だった。閑静な住宅街に、人通りは全くない。
前方に、小さな神社の鳥居が見えてきた。こんもりとした椎の木立が深い闇をたくわえ、その奥で風にざわめいている。
やがて、その前を通り過ぎようとした時――。
(――?)
――[#「――」に傍点]の目は、視界の端に何か動くものを捉えた。
(あれは)
とっさに、鳥居の陰に身を隠した。
(あれは……)
大小二つの人影が、境内の暗がりの中に見える。小さい方は、子供らしい。この時間にどうしてあんな子供が? と不審に思う間もなく、大きい方の影がその子供に覆いかぶさるように動き……。
犬の鳴き声がした。仔犬が鼻を鳴らすかぼそい声だ。これも、神社の中から……。
重なった二つの影の動きが止まる。大きい影が離れ、その足下に子供の小さな影が崩れ落ちた。
(あれは……)
――[#「――」に傍点]は息を殺し、目を凝らした。
(あの男は……)
* * *
子供の身体から力が抜けた。首に喰い込んだ手を離し、一歩身をひく。ザッと音を立てて、予供は俯せに倒れた。
辻井雪人は、血走った目で辺りを見まわした。
真夜中。暗い神社の境内――。
誰もいない。
(大丈夫だ)
誰にも見られてはいない……。
クンクンという仔犬の鳴き声が、闇の中から聞こえてくる。寂れた、近所の人間たちからも存在を忘れられているような神社である。その古びた小さな社の、縁の下から……。
(運のない奴だな)
足下で冷たくなっていく子供の背中に、冷酷な一瞥をくれる。
(あんな犬っころのために……)
今夜この子供を見つけたのは、辻井にとっても勿諭、予期せぬ出来事だった。こんな深夜の時間帯に一人で外に出てくる子供がいるなど、普通は考えられないことだから。
バイトの帰り道だった。
夜道をちょこちょこと走ってくる子供の姿に、辻井はまず驚き、次にちょっとした警戒心を抱いた。ひょっとすると何かの罠《わな》かもしれない、と思ったのである。しかし、そうでなければ、これは絶好のチャンスだ。
胸をぎゅっと締めつけられるような感覚。わらわらと心の表層に湧き出し、一点に集中してくるある種の欲望……。
(……ガキめ)
とにかく探りを入れてみよう、とすぐに決めた。
「こんな時間にどうしたの」
なるべく優しい声で、彼は子供に訊いた。小学校一年か二年ぐらいの男の子だった。体操服か何かの上に、青い毛糸のセーターを着ている。
子供は最初、叱られると思ったらしい。もじもじと後ろへ手をまわし、おっかなびっくりの目で彼の顔を見上げながら、
「別に」
と答えた。
「怒らないから云ってごらん。何か事情があるんだろう」
「別に……」
「ねえ。正直に云わないと、おまわりさんのとこ連れてくよ。予供が外へ出る時間じゃないからね」
少し考えてから、子供は後ろへまわしていた手を前に出し、
「チビの御飯、持ってったるんや」
と云った。
「チビ? それ、犬?」
「そうや」
子供の手には、ビニール袋に入った牛乳のパックがあった。
「ママもパパも、犬、嫌いやねん。持って帰ったら、捨ててこいて云わはったんや」
「それで、どこかでこっそり飼ってるわけかい」
「うん。あっちの神社の中にいるん」
「でも、どうしてこんな時間に?」
いつもはもっと早い時間に来るのだが、今夜は、両親に見つからないよう、こっそり抜け出す機会を窺う内に一度眠ってしまった。どうしようか迷ったのだけれども、犬がお腹《なか》を減らしていると思うと、出てこずにはいられなかった。――と、そのような事情を、子供は舌足らずな言葉で説明した。
大丈夫だ、と彼は思った。
(こいつは絶好の獲物だ)
一緒に行ってやろう。こんな夜中に一人じゃあ危ないから。
そう云うと、子供は見知らぬ彼のことをまるで疑ったり恐れたりする様子もなく、彼をこの神社へ連れてきた。馬鹿なのか純真なのか、親が全くそういった躾《しつけ》をしていないのか……。
いずれにせよ、こうして、彼にしてみれば非常に都合のいい状況が出来上がってしまったのだった。無論、途中で誰か人と出会うようなことがあれば、犯行は中止するつもりでいた。
(ガキめ)
心の中で呪いの言葉を吐きつけ、辻井は子供の死体を足先で仰向けに返した。
(俺の邪魔をするからだ)
(俺の邪魔を……)
(俺の……)
この街にいる子供は全て死んでしまえばいい、と彼は思っている。何の役にも立たない、理性もデリカシーもない、騒がしい、薄汚い生き物だ、こんな奴らのために、自分が犠牲になってたまるものか、と思う。
元々、子供は好きではなかったのだ。何も分っちゃいない大人たちは、やたらと子供の純粋さや可能性を讃《たた》えたがるが、とんでもない。
子供が純粋だって? その中には無限の可能性が秘められているって? そんなのは全て嘘っぱちだ。近代社会が勝手に作り上げた、おめでたい幻想ではないか。
彼らほど残酷な連中はいない。彼らほど他人の迷惑を考えず、自分の欲望のままに生きている連中はいない。一クラス四十人の小学校の生徒の中で、将来真に意義のある仕事を成し遂げる才能のある奴が、一体何人いる? ほとんどはクズばかりじゃないか。努力すれば何にでもなれる可能性を持っているなどという思想は、可能性を持たない人間を慰めるための支配装置にすぎないのだ。
自分はしかし、数少ない真の才能の持ち主だと、彼は信じている。いずれ日本の、いや、世界の文学史上に残る傑作を書く、それだけの才能を与えられた人間だと信じている。なのに、まだそれが世間に認められないのは、ひとえに運がないだけなのだと信じている。
何よりもまず、金に不自由していた。親が金持ちではなかったという、ただそれだけの理由で、本当にするべき仕事に取り組む時間を削って、金のためのアルバイトをしなければならなかった。
前に住んでいた部屋は、今にも床が抜けそうなボロアパートで、その上それが大通りに面していた。一日中ガタガタと窓を震わせて行き交う車、他の部屋の住人たちが立てる音や声……あんな環境で、満足な芸術作品を創作しろと云う方が無理な話だった。その前に住んでいた部屋も、似たり寄ったりのものだった。
去年の夏、ようやくあの部屋から脱出することができた。北白川のお屋敷町だというから、今度は環境の悪さに苦しめられることはないだろうと思っていた。ところが……。
隣のギターの音は、部屋を替えてもらうことで解消できた。だが、一向に仕事ははかどらない。状況が浮かばず、人物は動かず、文章はねじくれ、言葉を探せばそれに弄ばれた。増えていくのはただ、丸めて投げ捨てた原稿用紙の玉ばかりだった。
才能のあるはずの自分が、どうして書けない? どうしてこんなに苦しまねばならない? どうして……?
すぐに答は見つかった。
それはあいつら[#「あいつら」に傍点]のせいだ。家の外で遊びまわり、遠慮のない大声を張り上げるあいつら[#「あいつら」に傍点]のせいなのだ、と。
あいつら[#「あいつら」に傍点]が、俺の邪魔をしているのだ。あいつら[#「あいつら」に傍点]の声が、俺の心を掻き乱すのだ。あいつら[#「あいつら」に傍点]の走りまわる音が、俺の才能をもぎ取っていくのだ。
一旦そう思い込むと、あとは坂道を転げ落ちるがごとく、だった。原稿に向かっている時だけでなく、起きていても寝ていても、道を歩いている時も、ちょっとでも子供の声が聞こえてくると、そのたびに彼は自分の才能が「もぎ取られていく」のを感じた。
被害妄想は加速度をつけて大きく膨れ上がり、やがてそれは子供というものに対する強い憎悪に変わっていった。いつしか彼は、窓の外で遊びまわる子供たちに向かって「殺してやる」という呟きを繰り返している自分に気づき、それを当然のこととして認めるようになっていた。
去年の八月――最初の子供を殺した、あの日。
あの時は、全く無意識の内に、それを行なっていたように思う。
早番のバイトの帰り、通りがかった疏水沿いの道で、彼の身体にぶつかってきたあの子供――。
こいつ! と思った次の瞬間には、両手がその子の首に伸びていた。子供は声一つ上げる間もなく、口から泡を噴いて息絶えた。
夕暮れ時だった。近くで遊ぶ他の子供の声が聞こえ、彼は慌てて、殺したその子の身体を疏水に投げ込んだ。
罪悪感は全くなかった。むしろ爽快《そうかい》ですらあった。俺の創作活動の邪魔をした当然の報いだ、とまで思った。俺は俺を守らなければならない[#「俺は俺を守らなければならない」に傍点]。俺の才能を[#「俺の才能を」に傍点]、あいつらの攻撃から守らなければならないのだ[#「あいつらの攻撃から守らなければならないのだ」に傍点]……。
あの子供が実際に、彼の部屋の外で騒いだわけでは勿論なかったろうが、そんなことは彼にしてみれば本質的な問題ではなかった。
その夜は妙に頭が冴えて、それまでは一日に一枚も書けなかった原稿が、一気に十枚以上も進んだ記憶がある。
次の子供を法然院の境内で殺したのは、これは突発的というよりも、自ら求めて犠牲者を探しに出ての犯行だった。この時点で既に、彼は子供を殺す行為それ自体にある種の積極的な価値を見出すようになっていた、と云えるかもしれない。
殺人のあとは、自分でも不思議なほど筆が滑らかに進んだことも事実だった。だが、時間が経つに従ってその効力[#「効力」に傍点]も薄れていき、彼はまた、己の才能を守るための戦い[#「戦い」に傍点]を始めなければならなかった。
連続して起こった殺人事件に、さすがに子供を持つ親や警官たちの警戒が強まり、しばらくは迂闊《うかつ》に動くことができなかった。ようやく三人目の獲物を捕まえたのが、十二月に入って少ししたあの日のことだ……。
あれから一ヵ月――今日は一月十二日。そろそろまた、彼は自分を守る必要を感じ始めていた。
今書いている作品の完成には、まだまだ時間がかかりそうだ。子供ばかりでなく、去年の火事のあとは、飛龍想一の世話をするあの管理人の足音にまで悩まされた。ようやく部屋を替えてもらったと思ったら、このあいだは何を思ったか、飛龍が庭で穴掘りなんぞをしていた。あの音も、たまったもんじゃなかった。
(しかし――)
と、彼はもう一度、足下の死体に目を投げる。
(これでまた、少しは楽になる)
悲しげな犬の声が耳にまとわりついてくる。餌を持ってきてくれた幼い主人の不幸を嘆いているのか、単に腹を空かせてか……。
辻井はその場を離れ、乱れた呼吸を整えながら神社の出口へ向かった。
タタ……とその時、前方で誰かの足音が聞こえたような気がした。驚いて、鳥居の下まで一気に走った。が――、
(気のせい、か)
暗い道路の左右を見渡してみても、何者の姿もない。
(大丈夫だ。大丈夫……)
罪の意識を、依然として彼は持っていない。
罪に罰を下すのが神の役目だとすれば、罪でもないものに天罰が下るわけがない――と、これもまた彼が信じるところなのである。
8
父が庭に埋めた母実和子の人形を発見し、同時に、自分の心に埋もれていたあの列車事故の記憶を掘り出してから一週間――。
母を殺したのは私だった。母ばかりではなく、他にも見知らぬ大勢の人々を、私はこの手で死に追いやった……。
あまりにも忌まわしい記憶だった。私は一生それを心の奥にしまい込み、絶対に思い出すべきではなかったのかもしれない。
父高洋は、忘れろと命じた。私はその言葉に従って、そしてまた己自身の内側からの要請もあって、それを心の底に封印し続けてきたのだ。
庭に埋められた母の人形と、そのありかを暗示する六体の人形たちは、父が私に放った最後の憎しみだったのではないかと思う。一旦は「忘れろ」と命じた罪≠私に思い出させ、私を苦しめることが、彼の目的だった。彼の、私に対する罰≠セった。そう考えるのは穿《うが》ちすぎだろうか。
島田に全てを話してしまったことが、やはり良かったようだった。いわゆる懺悔《ざんげ》と同じような効果があったのかもしれない。思い出した己の罪を余すところなく告白したことで、私の心は堕分と楽になっていた。
でなければ、私は再び救いのない自暴自棄に陥ってしまっていたことだろう。自分の「罪」を認め、自分をひたすら責め、そうして自分を狙う彼≠フ手に、甘んじてこの身を投げ出そうとさえしていたことだろう。
しかし、そうだ、島田の云うように、ここで投げやりになってはいけないと思う。
私は決して、意図してあんな事故を引き起こしたわけではないのだ。私は子供だった。私はただ、母に戻ってきてほしかっただけだったのだ。
自らの行為を必要以上に正当化するつもりはない。けれども、あの二十八年前の悲劇を理由に、私の命ばかりか、母沙和子の命まで奪ってしまった彼≠フことを、私は今、許す気にはなれない。そんなことが許されるはずはない。
希早子が京都に戻ってきたら、彼女にも全てを聞いてもらおうか。あるいは、そう、架場久茂にも……。
そうすれば、更にいくらか心が楽になるのではないかと思う。彼らならきっと分ってくれる。私の罪を責めたりはせず、島田と同じように私を励ましてくれるに違いないから。
あれから私は、アトリエで新しい絵に取り組んでいる。それは、母の絵だ。
掘り出した人形の姿と自分の記憶にある彼女の面影を元に、母実和子の肖像画を描いているのである。
優しかった母。私を愛してくれた母。私が誰よりも好きだった母……。
それは、幼い日の無邪気な欲望ゆえに死なせてしまった彼女に対する、私の贖罪の絵[#「贖罪の絵」に傍点]なのかもしれなかった。
*
島田潔から電話がかかってきたのは、その日――一月十四日の昼間のことだった。
「大変なことが分ったんだ!」
勢い込んだ声で、彼は開口一番そう云った。
「島田さん?」
私は絵筆を置いて、受話器を握り直した。
「どうしたんですか」
「大変な事実が判明したんだ」
彼がこんなに興奮した調子で喋るのは珍しい。
「いいかい、飛龍君。聞いてるかい?」
「は、はい」
「先週、君から例の話を聞いて、調べてみるって云っただろう。二十八年前の、問題の列車事故のことを」
「ええ」
「調べてみたのさ。ちょっと苦労したけど、新聞社に問い合わせてね、こっちから出向いていって昔の新聞記事を漁《あさ》ってみたんだ」
「それで?」
「大きな事故だったんだね。随分と派手に報道されていたよ。事故の原因についてはしかし、置き石のことには触れられてなくって、運転士が酒気帯び運転をしていたせいで、というふうに書いてあった」
「運転士が?」
「ああ。それもまた事実だったらしいんだ。君の行為も原因の一つではあったが、それだけではなかったってことだ」
「…………」
「まあ、それはともかくだね、同じ記事に、その事故で死んだり負傷したりした乗客の氏名が載っていたんだよ。君のお母さんの名前も、確かにあった。だけど驚いたのは――」
島田は言葉を切り、少し声のトーンを落とした。
「事故で死亡した人間は、全部で五名いた。一人は飛龍実和子、君のお母さんだね。問題は残り四名なんだが、この四人全員の苗字を[#「この四人全員の苗字を」に傍点]、既に僕は知っていたんだ[#「既に僕は知っていたんだ」に傍点]」
「知っていた?」
私は意味を取りかねて、
「島田さん。それは一体……」
「つまりね、君の口から既に聞いたことのある苗字だったのさ」
「僕の口から?」
「水尻、倉谷、木津川、それからもう一つは森田っていう姓だった。森田というのは確か、辻井雪人っていう例の作家の本名だったね」
「ええっ?」
信じられぬ想いで、私は宙を見つめた。
「まさかそんな……」
「本当なんだ。僕も一瞬、自分の目を疑ったさ。しかし、確かに新聞にはそう書いてあった」
「じゃあ――、島田さん、その四人の死亡者はみんな[#「その四人の死亡者はみんな」に傍点]、それぞれ今この家にいる人たちと関係のある人間だった[#「それぞれ今この家にいる人たちと関係のある人間だった」に傍点]、と?」
「一つくらいの一致なら、よくある偶然で済ませられるだろう。けれども、こいつはちょっとねえ。しかも、水尻とか木津川とか、そんなにありふれた苗字じゃないだろう? いくら何でも、意味のない偶然の一致とは思えない」
「そんなことって……」
「勿論、偶然の一致という可能性が皆無ってわけじゃない。しかしね、普通に考えると……」
あまりにも衝撃的な事実に、私は頭がどうにかなりそうだった。
水尻道吉・キネ夫妻、倉谷誠、木津川伸造、辻井雪人(森田行雄)彼ら全てが、二十八年前のあの事故で犠牲となった乗客とつながりがあった? 死んだ乗客が、彼らの、例えば息子や娘であったとか、甥姪《おいめい》であったとか、妻であったとか、父母、兄弟姉妹、叔父叔母であったとか……。
「いいかな。一つ仮説を立ててみるから、聞いてくれ」
島田が云った。
「仮に彼らが、実際に、事故で死んだ四人の縁者だったとする。その場合、よりによって彼ら全員が君のアパートに集合してしまったのは何故か? その納得のいく理由を考えてみよう。
例えばだね、たまたま問題の列車に乗り合わせていた水尻某が、水尻夫妻の息子だったのだとしよう。事故で息子を亡くした夫妻は、後になって、君のお父さん飛龍高洋氏から、事故の原因の一つが君の置き石であったことを知らされた。
そこで夫妻は、君に対する復讐を思い立つ。高洋氏が死に、君が京都へやって来ることを知った彼らは、事故の犠牲となった他の三人の遺族に連絡を取った。そうして、自分たちが知った事故の真相を彼らに話し、共謀して復讐を実行する計画を立てた。つまりだね、彼らが人形館に集まったのは単なる偶然ではなく、水尻夫妻によって呼び集められたんだってわけだ」
「ということは、島田さん、彼ら全員が僕を狙う[#「彼ら全員が僕を狙う」に傍点]犯人[#「犯人」に傍点]≠セったんだ[#「だったんだ」に傍点]、と?」
「あくまでも一つの仮説だよ」
島田は念を押すような感じで云った。
「鵜呑《うの》みにしてもらっても困るんだな。全くありえないことじゃないだろうが、よく考えるとあまりに強引すぎるようにも思える。それよりもいっそ、苗字の一致は偶然ということで片づけてしまった方が、まだしも現実的なのかもしれない。
でもね、全員共犯[#「全員共犯」に傍点]っていう今の説によって、これまで不明なままだった謎の一つが解決できることも事実ではあるんだ」
「それは、どんな?」
「随分あれこれと悩んでいただろう。土蔵の扉の問題[#「土蔵の扉の問題」に傍点]さ。どうやって犯人は、錠前の掛かった蔵に忍び込んだのか?」
「…………」
「母屋に忍び込むのは、水尻夫妻が一枚噛んでいるんだったら、まあ造作もないことだったろう。では、蔵の扉はどうか。
錠前の鍵は、二本とも君が保管していた。合鍵を作ることは非常に難しかった。錠前を取り付ける金具を外した形跡もなかった。とすると、どうやって犯人は蔵に入ったのか?
扉を開く方法に関して云えば、もう一つやり方がある。扉そのものを蝶番ごと外してしまう[#「扉そのものを蝶番ごと外してしまう」に傍点]っていう手だ。これは、君も考えてみたと云ってたね。ところが、問題の扉は相当に大きくて重い代物だから、そうそう簡単にできたはずがない、とも云ってただろう。
けれどもね、どうだろう。一人の力ならともかく、五人の人間が協力してやれば[#「五人の人間が協力してやれば」に傍点]、それも容易に可能だったんじゃないかな」
成程、と思いはしたが、私は何も相槌を打つことができずにいた。
「とりあえず、今云えるのはこの程度のものか。――飛龍君? 聞いてるかい」
「――ええ」
「とにかく、そういう可能性があるってことだけは頭に入れて、できれば君の方から彼らに探りを入れてみてくれないかな。こっちでこれ以上の調査をすることは、ちょっと難しいから」
私は何とも答えなかった。一体どんな言葉で、彼らにそんな探りを入れたらいいのか、皆目見当がつかなかったからである。
私の心中を察してか、
「いや、無理にやれとは云わないさ。そういうのは、君は苦手だろうしね」
と、島田は云った。
「手が空き次第、僕もそっちへ行くつもりだから。いいかい? くれぐれも気をつけて……」
9
その日の夕方、私はまた手紙を受け取った。正体不明の人物からの、第三の手紙である。
部屋にそれを届けてくれた水尻夫人に、私はかなり迷った挙句、そろりと問うてみた。彼女たち夫婦の子供は今どうしているのか? という質問だ。
「息子が一人と娘が三人おったんですけどねえ。娘三人はみんな関東の方へ嫁に行って、殆どこっちへは帰ってきいしません。息子ははように病気で死んでしもて」
彼女は、別にいぶかしむふうでもなく答えた。
その反応が演技なのかどうか、また、息子は病気で死んだ、という言葉が真実なのか嘘なのか、正直云って、私にはどちらとも判断がつかなかった。
私宛て、差出人名なしの手紙は、前二通と全く同じ体裁のものだった。
白い封筒。筆跡をごまかした、黒いサインペンの文字。「左京」の消印。そして、灰色の縦罫が入ったB5サイズの便箋には――、
┌────────────────┐
│ │
│ もう一人のお前を見つけた。 │
│ │
└────────────────┘
たった一行、それだけの言葉が記されていた。
10
一月十五日、金曜日。
夕刻「来夢」へ足を運んだ私は、そこで久しぶりに架場久茂と出会った。
相変わらずうっとうしそうな前髪を垂らした彼は、店に入ってきて私の姿を見つけると、
「ああ、いたいた」
ほっとしたような声でそう呟いた。
「うまく捕まって良かった」
「やあ……」
何となくうろたえる私の前に坐ると、架場はコートを脱ぎながら、
「マスターに、最近またこの時間に君が来てるって聞いてね、一度会って話をした方がいいなと思って」
「それでわざわざ?」
「うん。ま、そういうことだよ。電話で話すよりも、やっぱりね……。こっちから家へ押しかけていくのも気がひけたし。――あ、マスター? 僕、エスプレッソね」
架場は冷えた両手を擦り合わせながら、象のような目で私の顔を見据えた。
「もうだいぶ落ち着いたみたいだね。いや、そうでもないのかな。ちょっとまた頬がこけたようにも見えるけれども。体調はどうなんだい」
「まあ、何とか」
私は右手で自分の頬を撫でた。ぞろりと、疎《まば》らに生えた髯《ひげ》の硬い感触があった。
「いつかはごめんよ。せっかく心配して電話をかけてきてくれたのに」
「ああ、去年の? 風邪をひいてた時だったっけね」
「あの時は本当に、人と会ったり話をしたりするのが苦痛で。いや、風邪のせいっていうよりもね、その、精神的に……」
「いいよ、気にしなくっても。あんな大変な事件のあとだったんだから。無責任に元気を出せって云うしか、こっちには能がなかったしね。
あのあと、道沢さんとここで会ったんだってね。彼女からいろいろ聞いて、こりゃあ僕が出る幕じゃないかな、とは思ってたんだ」
「い、いや、そんなことは……」
「道沢さん」と聞いて、自分の顔に血が上るのが分った。架場は小さな目を細め、薄い唇を僅かにほころばせながら、
「いい子だろう、彼女。あれで大学の成績も抜群でね、教授たちにもいたく気に入られてるんだ。来週にはこっちへ出てくるんじゃないかな。
彼女も君のこと、たいそう心配してたよ。年末には美術館へ行ったんだって? 僕も一緒に行かないかって誘われたんだけれども、丁度旅行と重なったもので」
「ああ――、そうだったのか。君も誘われてたのかい」
「ところで――」
マスターが運んできたコーヒーにたっぷりと砂糖を入れ、一口飲んでから、架場は質問してきた。
「道沢さんからある程度聞いてるけど、その後、例の件はどういう状況なのかな。あの手紙の主の動き、それから君の記憶の問題……。何でも、絵を描いてるって?」
「ああ」
私は返事とも溜息ともつかぬ声を落とし、
「絵は、もう出来たんだ」
「出来た? ということは……」
「思い出したんだよ、あのことは」
そこで私は、心を決めた。この友人にも全てを私の過去の罪、そして私が現在置かれている立場、その全てを話してしまおう、と。
「聞いてくれるかな、架場君」
私の真摯《しんし》な問いかけに、彼は殆ど表情を変えることなく頷いた。
長い話になった。その間、架場は一度も口を挟まず、ひっきりなしに煙草を吹かしながら私の口許に視線を固定していた。
「ううん」
私の話を聞き終わると、彼は空になったハイライトの箱を捻《ひね》り潰して、長く唸った。
「よく僕に話す決心がついたね。誰にも云いたくないっていうのが本当だろうに」
「いや、それが逆なんだ」
私は云った。
「話さずにはおれない、っていうのかな。島田さんに対してもそうだった。そうしないと誰かに聞いてもらわないと、僕自身どうにかなってしまいそうで」
「その気持ちも、うん、よく分るよ。うん」
架場はゆっくりと何度も頷き、
「しかし、これでかなり事件の輪郭がはっきりしてきたわけだ。君の『罪』とは何だったのか、何故君は狙われなきゃならないのか……。
その島田っていう人が調べ出した通り、二十八年前の事故で犠牲になった者の遺族が、今君のアパートに集まっているのだとすると、こりゃあ予断を許せない状況だろうね。肉親を失った悲しみっていうのは、やっぱり大きなものだよ。なかなか拭い去れるものじゃない。殊に、そんな不慮の事故での死っていうのは……。僕もね、昔、同じような経験をしてるから……」
「同じような?」
私はちょっと驚いて、
「御両親は、まだ健在だったんじゃないのかい」
「そうだよ。けど昔、兄貴を亡くしててね」
「お兄さんを?」
「うん。おや、君、知らなかったっけ」
「…………」
「二つ年上の兄貴がいてね。もう遥か昔のことになるけど……。それはともかく、飛龍君、どうする? 一度警察へ行ってみるかい」
「それは……」
「抵抗がある? だろうね。ふむ」
架場は丸めていた背を伸ばし、垂れた前髪を掻き上げた。
「じゃあ、こうしたらどうだろう。いっそのことアパートの経営をやめてしまう」
「でも、彼ら全員が犯人だと、まだ確定したわけではないし」
「まあ、それはそうだろうけどね。去年の火事にしても、放火だったっていう確かな証拠はないわけだろう? 警察が積極的に動いてくれることを期待するのは、難しいかもしれない。ならば、自分で少しずつでも不安材料を取り除いていくしか、方法はないんじゃないかな」
「――確かに」
「勿論、今すぐにっていうわけにはいかないだろうけれど、考えてみるだけの価値はあると思うよ」
「…………」
「それから、もう一つ気に懸かるのは、咋日届いたっていう第三の手紙のこと」
「ああ――」
それは無論、私も非常に気になっている問題だった。「もう一人のお前を見つけた」――あの文章は一体どういう意味なのか?
「何か心当たりはないのかい」
昨年の秋以来、架場から同じ質問を何度受けたことだろう。
「――分らない」
そう答えてただ首を横に振ることしか、その時の私にはできなかった。
――――2
(……あの男だ)
――[#「――」に傍点]は、先日の真夜中、偶然目撃した光景を思い出す。
(あの男がもう一人、いた)
神社の境内、重なり合った二つの影。
(子供を殺した)
(子供を……)
――[#「――」に傍点]が見たのは、紛れもない、二十八年の時を越えて甦ったもう一人のあの男[#「もう一人のあの男」に傍点]の姿だった。
見逃すわけにはいかない、と――[#「――」に傍点]は思った。あの男を殺す前にやらなければならないことが、また一つ増えた。
(あいつを殺さねばならない)
[#改ページ]
第八章 一月(2)
1
テレビで、えらの張った馬面のアナウンサーがニュースを告げている。
居間のソファに身を沈め、私は見るともなくそれを見ていた。
「昨年夏から京都市で発生していた児童連続殺害事件は、十三日朝に加藤《かとう》睦彦《むつひこ》ちゃん(七つ)の扼殺死体が発見され、四件目になったわけですが、警察では今日、一連の事件の犯人は同一人物であるとの見解を改めて打ち出しました。これは、睦彦ちゃんの遺体の首に残っていた犯人の指の跡を調べた結果確認されたことで……」
[#地付き]……くん!
一月十六日土曜日、午後九時前――。
[#地から4字上げ]……くん!
テレビの傍ら――前庭に面した窓の外は真っ暗だ。夕方「来夢」から帰ってきた時には、強い風とともにかなり激しく雪が降っていた。家々の屋根や道の端、庭の地面は、既に何センチかの雪で覆われていたが……。
ニュースが終わり、映画劇場が始まる。別に見たい番組でもなかったのだけれど、私はボリュームだけを少し落として、何となくそのまま画面を眺め続けていた。
それから何分か経った頃――九時十五分くらいだろうか――、
キッ、キッ……
床の鳴る音が聞こえてきた。誰かが外の廊下を歩いてくる音である。辻井がいつか愚痴をこぼしていたが、成程、二階の廊下の足音はよく響く。
足音の様子からして、水尻夫人ではないようだ。彼女が歩く音はもっと騒々しい。ということは、辻井がバイトから帰ってきたのか。
こちらの廊下と奥の[2―C]の部屋との間にあるドアは、元々はずっと閉め切り状態にしてあったのだが、先月辻井がそちらへ部屋を移してからは常時間放しておくことになった。というのも、辻井は部屋に電話を引いておらず、ホールの電話を呼び出し用に使っていたからである。
バイト先などから彼に電話がかかってきた時、応対に出た者(たいていは水尻夫人なのだが)が彼を呼びにいかなければならない。その際、二階廊下のドアが閉め切ったままだと、わざわざ外からまわっていく手間がかかるから、というわけである。
足音はゆっくりと部屋の前を通り過ぎた。やがて、ギーッと扉の軋む音、続いてバタンとそれが閉められる音が、夜の静けさを震わせた。
やはり、辻井が帰ってきたものらしい。
廊下側の壁際でガスストーヴが燃えている。夕方ここに戻ってからずっと点けたままにしてあるので、部屋は随分と暖かい。
頭に鈍い痛みがあった。そういえば、ストーヴを点けてからまだ一度も換気をしていない。
私は立ち上がり、窓に向かった。相変わらず、吹く風は強い。が、外の闇に踊っていた白い影はもうなかった。
窓を開けた途端、隙間から風が勢い良く吹き込んできた。恐ろしく冷たい風だ、たまらずすぐに窓を閉め、羽織っていたカーディガンの前を掻き合わせた。
ちょっと迷った末、廊下のドアをしばらく開けておくことに決めた。
足が少々もつれた。痛みだけでなく、何だか頭がくらくらする。これはかなり空気が汚れていたようだ。
ドアには、ノブに付いたロックだけでなく、内側から掛金も下ろしてある。用心のため自分で取り付けたものだったが、この時は何故か、そのドアを開いて換気を行なうことにさして抵抗を覚えなかった。
建付が悪くなってきているせいか、ドアは放っておくと、外側へ九十度開いた状態で止まってしまう。丁度、ドアと同じくらいの幅がある廊下を塞ぐような格好である。
冷たい――といっても窓の外ほどではない――空気が、すうっと部屋に侵入してくる。私は重い頭を振りながら、のろのろとソファに戻った。
*
ぱたぱたと騒々しい足音が廊下をやって来た。
点けっぱなしのテレビに目を向けてぼんやりとしていた私は、ふっと我れに返って背後を振り向いた。
「あれまあ」
聞き慣れた声がしたかと思うと、廊下側に開いていたドアがギッと音を立て、動いた。
「どうしはったんです? ぼっちゃん。ドア開けたままで、寒うないですか」
水尻夫人だった。私はソファから腰を浮かせて答えた。
「ああ、換気してたんです」
額に手を当てた。少し汗が滲んでいる。
「何か、用ですか」
「違うんですよ。辻井さんにお電話」
「あ、そうですか」
夫人はちょこっと頭を下げると、忙しそうな足取りで廊下の奥へ走っていった。ギッとまた、ドアが元の状態に戻る。
時計を見ると、午後九時五十分だった。下の電話の受付時間は、一応十時までと決められている。
頭痛はもう消えていた。空気がきれいになったのはいいが、部屋はすっかり冷えてしまった。
ドアを閉めようと思って、私はソファを立った。
「辻井さん」
左手――[2―C]の方から、水尻夫人の声が聞こえる。
「辻井さん、お電話ですよ。辻井さん」
ノックをする音が徐々に強くなる。
「いはらへんのですかぁ? 辻井さぁん。――おかしいわねえ」
「いないんですか、彼」
不審に思って、私はドアのところから声を投げた。そんなはずはない。彼はつい三、四十分前、部屋に戻ってきたばかりではないか。
「返事がないんですよ」
首を傾げながら、夫人がこちらへ引き返してくる。
「九時過ぎ頃、下で会《お》うたんですけどねえ」
「そのあと僕も、この部屋の前を彼が通る音を聞きましたよ。また出ていったんでしょうかね」
「そやけど――」
彼女は不安げに顔を曇らせ、
「中から水の音、聞こえるんですよ」
「風呂に入ってるとか?」
「けど、なんぼ呼んでも返事があらへんし」
「ドアは? 鍵、掛かってるんですか」
「ええ――」
夫人はちらっと廊下の奥を振り向きながら、
「何《なん》か事故でもあったんとちゃいますやろか」
「事故?」
「何か、お風呂場で……」
去年あんな火事があったばかりだからだろうか、そんなことを云いだすと、水尻夫人はますます不安そうな顔つきになり、
「ちょっと下から合鍵取ってきて、見にいってみます」
そうして足を踏み出す彼女に、
「合鍵なら僕も預かってましたよね」
と云って、私は部屋の中を振り返った。このアパートのオーナーとして、私の手にも一応、各ドアの合鍵が渡されている。
「待ってて下さい。すぐに……」
小走りに書き物机の前へ向かい、その抽斗にしまってあった鍵束を取り出した。
私の手からそれを受け取ると、水尻夫人は踵を返し、再び[2―C]の方へ駆けていく。その後ろ姿を見送る内、私も何となく胸騒ぎを感じ始めた。部屋を出て、彼女のあとを追う。
「辻井さぁん」
夫人はさっきよりも更に大きな声で彼の名を呼び、ドアをノックした。
「辻井さぁん。何かあったんですか」
廊下からの扉を抜けると、そこは小さな階段ホールになっている。[2―C]のドアは、そのすぐ右手にある。
「やっぱり変やわあ。ほら。お風呂場の音、聞こえますやろ?」
と、夫人がこちらを振り返って云った。確かに部屋の壁の向こうから、ザーッ……と水の流れる音が聞こえてくる。
「入って見てみますわ」
そう云って、鍵束から必要な鍵を探し出し、彼女はドアを開いた。
「辻井さん」
部屋の明りは点いている。だが、やはり返事は返ってこない。
私はガウンのポケットに両手を突っ込み、開いた廊下の仕切り扉に凭れかかるような格好で、夫人が[2―C]の中へ踏み込んでいくのを見守っていた。
「辻井さん?」
細い軋みを発してドアが閉まり、彼女の後ろ姿が消える。と、そこで、ばたばたと廊下を走ってくる音が背後から聞こえてきた。
「どうしたんですか。何かあったんすかぁ」
見ると、茶色い綿入れを羽織った倉谷誠が向こうからやって来る。風呂上がりらしく、髪が濡れているのが分った。
「何か……」
その倉谷の声を掻き消すように、その時――。
「う、うわあぁぁぁぁぁ!!」
耳をつんざかんばかりの物凄い悲鳴が、洋館の夜を揺るがした。
「どうしました」
仰天して、私は部屋のドアに飛びついた。
「水尻さん!」
ドアを開くと、転げるようにして出てきた彼女が私の胸にぶつかった。
「どうしたんです。何が?」
「し、し……」
部屋から逃げ出そうと必死だったのだろう、凄い力で私の身体を外へ押し戻すと、夫人はそこでへなへなと床に腰を落とし、
「し……あの、つ、辻井さん、あの、し、死んで……」
「何ですって?」
「お風呂場で、死んで……」
怖気《おじけ》づいて、身体が動かなくなっても決して不思議ではない状況だった。だがこの時、私は殆ど何を思考することもなく、反射的に行動していたように思う。
「倉谷さん。ちょっと、この人を頼みます」
階段ホールに駆け込んできた大学院生に水尻夫人を任すと、私は[2―C]に飛び込んだ。
浴室のドアは、入って左手の奥にあった。夫人が覗いたためだろうか、半開きになったそのドアの向こうから、流れる水の音が洩れてくる。
(あの中で、辻井が死んでいる?)
浴室の中は、白い湯気が一杯に立ち込めていた。カランかシャワーから湯が出っぱなしになっているのだ。
洗い場のタイルの上に、シャワーのホースが黒いとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いている。靴下が濡れてしまうのも構わず、私は湯気の中を進んだ。
そして――。
私は呆然と、真っ赤に染まった湯の中でゆらゆらと揺れる彼の顔に目を落とした。叫び声の衝動とともに、凄まじい吐き気が込み上げてくる。
水尻夫人の言葉通り、辻井雪人はそこで死んでいた。白い浴槽の中、両足を外へ突き上げ、上半身をどっぷりと湯に沈め……。
2
「……で、結局その辻井っていう人、自殺だったんですよね」
暖房が効いていて寒くもないのに、そう云うと希早子は、両腕を胴に巻きつけるようにして少し身を震わせた。
「そうです」
私は頷いて、コーヒーを啜った。
「遺書はなかったんですけど、その代わりに、彼の日記――というよりも手記が、部屋に残っていたらしいんですよ。そこに全てが記されていた」
「自分が四人の子供を殺した犯人だって?」
「ええ。子供を殺すに至った動機だとか、犯行の具体的な描写とかまで。彼は創作の行き詰まりで非常に悩んでいたようで……。この辺のことは、新聞やテレビのニュースでも云ってたでしょう」
「自分が書けないのは全部子供のせいだっていうふうに思い込んで、って新聞には載ってましたけど」
希早子は眉根を寄せて、溜息混じりに吐き出した。
「最低……」
「単なるノイローゼを通り越して、何と云うか、かなり切羽詰まった精神状態に追い込まれていたようだっていいますね。確かにそういう雰囲気はあったな、彼」
「気が狂ってしまってた?」
「ということなんでしょうね。何しろ、ほら、いつか話したことがあったでしょう。彼が去年の夏から取り組んでいたっていう小説」
「飛龍さんの家を舞台にしたっていう? 『人形館の殺人』……」
「そう」
私もまた、寒くもないのに、そこでぶるりと身震いした。
「問題の彼の手記に付けられていたんですよ[#「問題の彼の手記に付けられていたんですよ」に傍点]、その題名が[#「その題名が」に傍点]」
「ええっ?」
「つまり、自分の行なった殺人の記録を詳細に書き留めることが、既に彼の創作活動≠ノなってしまっていたわけです。恐らく彼自身は、そういう現実を正しく認識してはいなかったんじゃないかってことですけど」
「何てこと……」
再び溜息混じりに呟いて、希早子は窓の外に目を向けた。
一月二十日、水曜日の夕刻である。昨夜、京都に戻ってきた希早子から連絡を受け、私たちは今日、例によって「来夢」で会うことになった。
彼女は一昨日に実家の方で新聞を読んで、辻井雪人の死と彼が子供殺しの犯人であったことを知った。すぐに私に連絡しようと思ったが、翌十九日には上洛することにしていたので、電話は昨夜になったのだそうだ。
架場久茂からは、十八日の夜に電話があった。彼も今日、希早子と一緒に来るはずだったのだけれども、急な用事が入って来られなくなったとのことだった。
十六日――先週の土曜の夜、辻井の死体を発見したあとの騒ぎは大変なものだった。
倉谷に警察への通報を命じると、私は、腰が抜けて立てなくなった水尻夫人のそばについていてやった。まもなく駆けつけた何台ものパトカーと大勢の警官たち。現場検証が行なわれ、私たちには山のような質問が浴びせられ……。
辻井は浴槽の中で息絶えていた。頸動脈切断による出血多量。死ぬ前に気を失って湯の中に沈んだものと思われ、肺からは多量の水が検出されたという。直接の死因は、すると、溺死ということになるのだろうか。
頸動脈の切断に用いられたカッターナイフが、浴槽の底に落ちていた。これが辻井自身の持ち物であったことは証明されていない。
ところで、最終的に彼の死は、異常な心理状態における自殺と判定されたわけだが、捜査が始められた当初は、当然のごとく、他殺の可能性も検討された。そのため、私や水尻夫人をはじめとする「人形館」の住人は皆、執拗な警官の尋問を受けなければならなかったのである。
しかし、その尋問と現場の検証が進む内、他殺説はすぐに打ち消されることとなった。というのも、彼が一連の子供殺しの犯人であったことが判明する以前に、いくつかの物理的状況が、事件は彼の自殺だったということを示していたからだ。
簡単に云ってしまうと、それは、推理小説などでしばしば用いられるところの密室状況≠ナある。つまり、辻井の死は[#「辻井の死は」に傍点]、辻井本人以外決して入ることのできない[#「辻井本人以外決して入ることのできない」に傍点]密室[#「密室」に傍点]≠フ中で起こったものだった[#「の中で起こったものだった」に傍点]。従って、これは自殺以外に考えられない。そういうことなのだ。
まず、辻井の部屋[2―C]の状況。
私と水尻夫人が証言するように、あの部屋のドアには鍵が掛かっていた。窓も、警官たちの捜査により、全て内側から錠が下りていたことが確認された。
これだけならしかし、(他殺とした場合の)犯人があらかじめドアの合鍵を作っておいた可能性もあるのだから、一概に「密室=自殺」とは断定できなかっただろう。重要なのはこの先である、一応の密室状態であった[2―C]の、更に外側に[#「更に外側に」に傍点]、もう一つの密室状況≠フ存在が確認されたのだ。
ここで、辻井の死亡時刻が問題となる。
彼がアルバイトから帰ってきた時間は九時過ぎだった。これは、階下のホールで彼を見かけた水尻夫人の証言と、そのあと彼が部屋に戻っていく足音を聞いた私の証言とによって確定されている、正確に云えば、私が彼の足音を聞いたのは九時十五分頃だった。
彼に電話がかかってきた(これは、彼のバイト先からの、スケジュール調整についての連絡だった)のが、それから約三十分後のこと。死体が発見されたのは、だから午後十時頃になる、そして、検屍によって明らかとなった死亡推定時刻は、この時間帯に彼が死んだことを裏付けるものだった。
では、この時間帯、犯人が[2―C]に忍び込み、辻井を殺して逃走することが、いかにして可能だったか?
具体的に云って、あの部屋に入るためには、次の二つの経路の内のどちらかを通らねばならない。
一つは、二階の廊下を通って[2―C]の前の階段ホールへ行く経路。もう一つは、建物の裏手から回り込んで、階段ホールの一階にある裏口から入ってくる経路である。(Fig.3「人形館部分図」P.289 参照)
駆けつけた捜査員たちは、[2―C]の内部及び一、二階の階段ホールに何者も潜んでいないことを確かめた上で、裏口の外を調べてみた。ところが、そこには一面[#「そこには一面」に傍点]、夕方から降った雪が積もっていた[#「夕方から降った雪が積もっていた」に傍点]というのだ。
雪は、あの夜の八時前にはやんでいたらしい。従って、仮に犯人がその裏口を使って侵入・逃走したのだとすると、雪の上に必ず足跡が残ったはずだということになる。しかし、これが一つも見つからなかったのである。
捜査員たちは更に、その戸口付近だけではなく、前庭から玄関へ至る部分、また反対に[1―D]――木津川伸造の部屋の入口にかけても、雪の積もった地面には足跡が全くなかったことを確認した。
階段ホールの二階部分には、北側へ張り出した小さなヴェランダがある。が、ここに出るための扉は内側から施錠されており、外に積もった雪にも乱れはなかった。
階段ホールには、一階部分にあと二つ、他へ通じる扉がある。一階の廊下との仕切り扉と、[1―D]へ続くドアの二つである。
しかしながら、この二枚の扉が使用不可能であったことは一目瞭然だった。即ち、前者は階段ホール側に置かれた大きな戸棚に塞がれていて、到底開閉できるような状態ではないし、後者は、使用禁止という意味合いでだろうか、ホール側から板を打ち付けて開かないようにしてあるのだ(ちなみにこの夜、木津川はいつものように仕事に出かけており、[1―D]には誰もいなかった)。
よって――。
残された経路はただ一つ、二階の廊下しかなかった、ということになる。ところが、だ。犯人は絶対にこの廊下を通ってはいかなかった[#「犯人は絶対にこの廊下を通ってはいかなかった」に傍点]――その事実が、他ならぬこの私自身の証言によって[#「他ならぬこの私自身の証言によって」に傍点]明らかになっているのである。
辻井が部屋に戻っていった九時十五分以降、水尻夫人が彼を呼びにやって来た九時五十分までの間、あの廊下を通った者はいない。私はそう断言できる。
私はその時間帯ずっと居間にいて、ぼんやりとテレビを眺めていた。もしも誰かが部屋の前を通ったとしたら、あの廊下の床が立てる軋み音に気づいたはずだ。
しかも、それだけではない。その間私はそう、換気のために廊下側のドアを開けたままにしておいた。ドアは廊下を塞ぐような形で、外側に開いていたのだ。もしも誰かがあの廊下を通って[2―C]へ行こうとしたならば、当然そのドアを動かさねばならない。いくら私がドアに背を向けて坐っていたとはいえ、必ず軋みを発するその動きに気づかなかったはずがない。
足音を立てない猫科の動物が、廊下を塞いだドアの上を飛び越えてでもいかない限り、それは絶対に不可能だったはずなのである。
そういった細かい状況が明らかになり、続いて辻井の手記が彼の机から発見されるに至って、事件を彼の自殺とする見方は決定的になった。更にその後、一連の子供殺しにおいて犯人が残していった指の跡と辻井の指の形との照合が行なわれ、手記の内容が真実であったことが立証された……。
「ね、飛龍さん。わたし、思うんですけど」
不意に、改まった調子で希早子が云いだした。
「あのね、もしかしたら、去年からずっと飛龍さんのこと付け狙ってきた犯人も、その辻井って人だったんじゃないかしら」
それは、一昨日の電話で架場からも指摘されたことだった、
「そう思いますか」
と云って、私が少し顔を伏せると、彼女は大きな目を何度か続けてしばたたかせ、
「だって――、ありうると思うな。そんな、罪もない子供を四人も殺すような男だったら、飛龍さんの財産を狙って……あ、これ、今日架場さんから聞いたんです。そういう動機も考えられるわけなんでしょ。だったら……」
「家に火を点けたのも、彼だと?」
「そうだとしても、全然不思議じゃないと思います」
「そう云われれば、まあ、そうですね」
浮かない顔で応えながらも私は、全ては辻井の狂気が生み出したことであったと、そういった考え方を半ば肯定してしまいたい気分ではあった。
彼が二十八年前の私の「罪」を知っていたのかどうかは定かではない。しかし、仮に何も知らなかったのだとしても、彼が狂気に蝕《むしば》まれて行なった行為、したためた手紙の全てが、たまたま私が現実に持っていた過去の罪と呼応する内容になってしまった――そのような偶然が決してなかったとは云いきれないのではないか。
「でしょう?」
と云って、希早子は淡い桃色の唇に微笑を浮かべた。
「きっとそうだったんですよ。だから、飛龍さん、きっともう何も心配することはありませんよ。ね?」
「――ええ」
私は曖昧に頷いた。
(もう何も、心配ない)
(――本当に?)
そう思い切ってしまいたい。だが、いまだにどうしても気に懸かるのは――、
『もう一人のお前を見つけた』
彼≠ゥら最後に届いた、あの手紙の文句だ。あれは……。
「それよりもね、ほら――」
希早子は生き生きとした微笑みを頬に広げ、
「これも今日架場さんから聞いたんですけど、飛龍さんの友だちの島田さんっていう人、もうすぐこっちへ来たりするんですか」
「何でも聞いてるんですね」
私は思わず苦笑いして、
「彼は、何でも今、忙しいらしくて。でも、手が空き次第来てくれると云ってましたよ」
「来られたら、一度会わせて下さいね」
「興味があるんですか、島田さんに」
「わりと」
希早子は悪戯っぽく目を動かした。
「わたし、何て云うのかなあ、あんまり同年代の人たちと話してても面白くなくって。架場さんとか飛龍さんとかね、そのくらい年上の人の方が、一杯自分にはないものを持ってるでしょ? だから……」
3
遠い、遠すぎる……二十八年前、子供の頃の、あの日のあの場面、あの音、あの声。
高い空。涼しい風。赤い花。線路にしゃがみ込んだ私。石ころを握った私。遠くから聞こえてくる列車の音……。
一転して、脱線した電車の残骸。地面に倒れ、ねじれ、ひしゃげた黒い影。ママ!……舟を呼ぶ私の声。
[#地付き]……赤い花
(――?)
[#地から8字上げ]……赤い空
(――これは?)
[#地から16字上げ]…………長く伸びた、二つの……
[#地から14字上げ]…………二つの黒い影
(これは何だ)
[#地から11字上げ]…………流れる水
[#地から19字上げ]……揺れる水面
(これは……)
[#地付き]……ん!
[#地から10字上げ]……くん!
[#地から21字上げ]……くん!
[#地から32字上げ]……くん!
(……くん[#「……くん」に傍点]?)
辻井雪人が死に、久しぶりに希早子と会い、何となくまた生きる希望に向けて動きだした私の心の中で、遠い風景が揺れている。
眠りたい時に眠り、起きたい時に起き、「来夢」でコーヒーを飲み、アトリエでは母実和子の絵を描く。二度ばかりかかってきた希早子からの電話に、少年のように胸を躍らせ……。そういった、大した変化のない一日の繰り返しが続く内に、徐々に大きくなってくる揺れ≠ェあることを、私は、再び首をもたげつつある不吉な予感とともに実感し始めていた。
そんな時――一月二十五日月曜日の午後――、私は自分の予感が的中していたことを否応《いやおう》なく知らされることとなった。
彼≠ゥらの、第四の手紙が届いたのである。
┌─────────────────┐
│ │
│ 思い出したか。 │
│ もう全てを、思い出したか。 │
│ もう一人のお前は殺した。 │
│ 次こそ、お前だ。 │
│ │
└─────────────────┘
*
「来夢」に行こうと思って下のホールへ降りてきたところで、水尻夫人からその手紙を受け取った。既にお馴染みになってしまった表書きの文字を見て、私はそれこそ心臓の止まる思いを味わった。
(辻井ではなかった)
(やっぱり、辻井ではなかった……)
彼≠ヘ、まだ生きている。生きていて、依然この私を狙っているのだ。
玄関へ向かおうとしていた足を止め、私はその場から逃げ出すような足取りでアトリエに引き返した。震えの止まらぬ指で手紙の封を切り、中の文面を読んで、
『もう一人のお前は殺した』
三行目に記されたその文章にまず、目が釘付けになった。
(もう一人のお前は殺した[#「もう一人のお前は殺した」に傍点]?)
これはどういう意味なのか。
一瞬、頭が空白になった。
(これは、どういう……)
愚かなほど、その答を見つけるのに時間がかかった。
(まさか――)
(まさか、辻井雪人がもう一人の私だと[#「辻井雪人がもう一人の私だと」に傍点]?)
辻井の他に、最近私の周囲で死んだ者などいないのである。手紙の主は、彼を「殺した」というのか。そして、彼が「もう一人のお前」だというのだろうか。
しかし――。
辻井は自殺したのだ。これは、明らかな事実として立証済みのことなのだ、それとも――。
それとも彼≠ヘ、私たちが思い至らなかったような何らかの方法で、あの夜[2―C]に忍び込んだというのだろうか。密室状態であったはずのあの部屋に……。
困惑と疑念と恐怖がごった混ぜになって渦巻く頭の中で、その時また――
[#地付き]……赤い空
微かな痺れの感覚とともに、ゆらりと揺れ始めた風景は……
[#地から4字上げ]…………長く伸びた二つの
[#地から15字上げ]…………二つの黒い影……
(赤い空)
これは、あの時の空ではない。あの時――電車を止めようとした時の空では、ない。
(二つの影)
ああ。そうだ。これも違うのだ。線路ではない。線路ではなくって……。
(二人の子供の影[#「二人の子供の影」に傍点])
[#地から5字上げ]…………流れる水
形の違うパズルの破片[#「形の違うパズルの破片」に傍点]。
[#地から15字上げ]…………揺れる水面に……
形の違う……。
[#地から3字上げ]……くん!
(……くん[#「……くん」に傍点]?)
[#地から16字上げ]……くん!
(……くん!)
[#地から24字上げ]……くぅぅぅぅぅぅん!
『思い出したか』
彼≠ヘ問うている。
『もう全てを、思い出したか』
「ああ」
私はゆるゆると頭を振りながら、深い溜息をついた。
「――そうだった」
形の違うパズルの破片。それは、そうだ、昨年例の絵を描き始めた時から感じていた違和感ではなかったか。
何か違う。どこか違う。
例えばそれは「赤い空」であり、あるいは「二つの黒い影」であり……。
そうだった。
思い出すべき風景は[#「思い出すべき風景は」に傍点]、もう一つあったのだ[#「もう一つあったのだ」に傍点]。
4
二十八年前の秋――。
私は六歳だった。気が弱く、身体もあまり丈夫ではなく、父を恐れ、母を愛し、いつもその母の陰に隠れている子供だった。
あの日、母を引き留めたい一心で犯してしまったあの過ち。母の死を知り、自分の行なった行為の重大さを思い知り、悲しむよりも前に途方に暮れる思いで、父にそれを打ち明けた。彼は私に全てを忘れろと云い、私はその言葉に頷いた。
ところが――。
母の葬儀が終わってまもなく、私の耳許に囁かれた声……。
『オレ、知ってるぞ』
それは、同じ町内に住んでいた、顔見知りのある子供[#「ある子供」に傍点]の声だった。
『オレ、見てたんだ』
私は彼を追いかけた。彼はケタケタと笑いながら、逃げた。
学校の帰り道だったように思う。私たちはいつしか、大きな川のほとりに出ていた。
『お前、線路に石っころ置いただろ』
赤い空――。夕日が赤く河原を染めていた。
『オレ、全部見てたんだぞ』
風に揺れていた彼岸花の群れ。
『誰にも云ってないさ、まだ』
私と彼、二人の黒い影が長く伸びていた。
『云ってほしくないだろ』
彼は笑いながら、顔を引きつらせて佇む私のそばに近づいてきた。
『みんなに知られたら、大変だもんな。お前、人殺しなんだぞ』
私よりも上背のある男の子だった。学年も確か上だったように思う。
彼は私の頭を小突き、かぶっていた野球帽を取り上げた。
『これ、くれよな』
ケラケラと高笑いしながら、彼は帽子を自分の頭に載せ、くるりと私に背を向けた。
『これからお前、オレの云うこと何でも聞くんだぞ。でなきゃ、お前のしたこと、みんなに云うぞ。お前は人殺しだってさ。人殺し……』
人殺し。
何度も彼は、私のことをそう呼んだ。背を向け、流れる川に目をやりながら、そしてまたケタケタと笑った。
『いいか。おい。何とか云えよ』
彼は振り向き、
『え? 人殺しの飛龍。何たって、お前、自分の母ちゃんまで殺し……』
瞬間、幼い心の中で弾けた炎――。
わああああああ……! と、ありったけの声で叫んでいた。私は気が狂ったように、身を低くして頭から彼に突進していった。そして――。
夕日を受けて赤く光る川面が、水しぶきとともに大きく割れた。
私の手には、母が買ってくれた野球帽が取り返され、瞬間的に発揮された私の、気違いじみた力によって押し倒された彼は、無様なほどに呆気なく、堤防の上から川の中へ転がり落ちていた。
川の流れは速く、水は深かった。
彼は泳ぎが苦手だったらしい。むやみやたらに両手をばたばたさせながら必死でコンクリートの堤防に取りすがろうとしていたが、やがて力尽き、流れに呑まれていった。
『……くん!』
彼の姿が見えなくなってしまってから、私はやっと声を上げた。
『……くぅぅぅぅぅぅん!』
そうだ。「……くん」――それは、私が呼んだ彼の名前だった。私が幼い日、正にこの手で殺してしまった男の子の名前だったのだ。
*
『もう一人のお前を見つけた』
手紙の主が突きつけたその言葉の意味を、ようやく私は理解した。
恐らく彼≠ヘ、何らかの機会に、辻井雪人が四件の子供殺しの犯人であることを知ったのだ。そうしてその「子供を殺す」という行為に、その姿に、二十八年前の私の「罪」をだぶらせて見たのではないか。
だから彼≠ヘ、私を殺そうとするのと同じ理由で、同じ裁き≠フ意識で、辻井雪人を殺した……。
(北白川疏水に――子供の――他殺死体……)
ああ、そうだった。
そういえば、去年の八月、「来夢」で最初の揺れ≠感じたあの時――。
たまたま目に入ったあの新聞記事。あの横に載っていた列車事故の記事だけでなく、あの子供殺しの報道もまた、埋もれた過去の記憶を呼び起こす引金の一つになっていたのだ。
『北白川疏水に子供の他殺死体』
あの記事は正に、私が昔犯したもう一つの罪を暗示するものだった。北白川疏水に子供の他殺死体――川に浮かんだ子供の死体[#「川に浮かんだ子供の死体」に傍点]……。
列車事故。
子供殺し。
二つの大きな「罪」の記憶を、彼≠フ望み通り、私は今心の表に引きずり出した。あとはっきりしないのは、「……くん!」――自分が叫んだ、あの子供の名前だけか。
顔の輪郭は、ぼんやりと思い出せる。
卵型の顔だった。気の強そうな目をしていた。細い、茶色い目――いや、茶色というよりも……。
(……くん)
名前――あの子供の名前。
(……くん)
駄目だ。どうしても思い出せない。
『次こそ、お前だ』
彼≠ヘそう宣言する。
母沙和子を殺し、辻井を殺し、そうしてようやく私の番が来たということか。やはり私は、殺されなければならないのか。
道沢希早子の生≠フ輝きに満ちた笑顔が、心に浮かぶ。島田潔の暖かい声が、力強い言葉が、耳に甦る。
殺されたくない。
どんな理由があろうと――どんな罪が自分にあろうと、私は今、殺されたくはない。
電話のベルの音が、寒さに凍りついた私の耳に響いた。
(ああ、島田さん)
すがりつくような、祈るような気持ちで、私は受話器を取った。
5
「……成程ね。それで、辻井雪人は、犯人が見つけたもう一人の飛龍想一として、彼の手によって殺されたんだ、っていうわけかい」
島田は考え深げな声で云った。私が、前回彼が電話をかけてきて以降ついさっきまでの間にあった出来事を、細大洩らさず話して聞かせた、そのあとのことである。
「しかしだね、飛龍君、今君が説明したその事件の発生状況を考えると、そんなことは――辻井が誰かに殺されたなんてことはありえなかったはずじゃあ?」
「そうなんです」
見えない相手に向かって、私は強く頷いた。
「あの部屋には、誰も入っていけたはずがなかったんです。それなのに……」
「密室状態、か」
島田は低く呟き、
「問題の部屋の窓は、内側から鍵が掛かってたって云ったね。その鍵には、何か物理的な工作をする余地はなかったのかなあ」
「小説に出てくるような、針とか糸とかを使った?」
「ま、そういうことだ」
「よく分りませんけど、多分そんなことはできなかったんじゃないかと。二階だし、それに、あの部屋の窓の下も、雪の状態は当然調べただろうから」
「やっぱり足跡はなかったわけ?」
「あったという話は聞いてません」
「ふうん。――一階の二つの扉が開閉不可能だったっていうのも、確かなことなんだね」
「ええ」
「そしてなおかつ、君の部屋の前を通った人間は誰もいなかったわけか。――はあん。ということはだ、それでもしも辻井の死が他殺だったのだとするなら、正攻法[#「正攻法」に傍点]で考えると、可能性は一つしかないわけだな」
「えっ? 島田さん、それはどんな……」
「水尻夫人が犯人[#「水尻夫人が犯人」に傍点]」
島田はそっけなくそう云った。私がびっくりして、「えっ」とまた声を上げると、
「おやおや。まさかその可能性を考えてみなかったわけじゃあるまいね」
「…………」
「彼女が君の合鍵を使って部屋に入った時、辻井はまだ死んではいなかったってことさ、君を外に残して中へ入っていった彼女が、そこで入浴中の彼を殺した。そのあとすぐに、さも、既にあった死体を発見したかのような態度を演じた。いわゆる早業《はやわざ》殺人≠チてやつだ」
「それは、だけど……」
「賛成できないってかい?」
「――ええ」
「いや、うん、その通りだね。今の考え方は、明らかにおかしい。そんなことは分ってる。例えば、どうして執拗な水尻夫人の呼びかけやノックの音に、その時点で生きていたはずの辻井が応えなかったのか? 六十一歳の彼女に、それほど迅速な犯行が可能だったのか? 不意の浴室への侵入者に、辻井はどうして声一つ出さなかったのか? 出していれば、君の耳に届いたはずだよね。他にも、挙げていけば沢山ある」
「…………」
「ふん。いいだろう。水尻夫人の早業説はここで捨ててしまっていいと思うね、僕も。
さて、そうなるといよいよ事件は不可能味を帯びてくるわけだ。一体どうやって犯人は辻井の部屋に侵入し、逃走したのか? 君には分るかい、飛龍君」
私には何も答えられなかった。皆目見当がつかない、というのが本音だった。
「分らないのかい? ヒントは既に充分示されていると思うんだけどなあ」
と、島田が云った。
「ヒント[#「ヒント」に傍点]?」
私は驚いて聞き直した。
「島田さん、あなたにはもう、それが分っていると?」
「多分ね。論理的に考えると、こりゃあもうそれ[#「それ」に傍点]しかない。その答が成立するための条件も揃ってる」
「教えて下さい」
私は云った。
「どうやって犯人は……」
「既にヒントが示されてるって云ったろう? しかも、そのヒントとなる情報を最初に君が聞いたのは、一昨年《おととし》の秋のことだった」
「昨年の、秋」
私が静岡の病院にいた頃のことである。
「そうさ。一昨年の秋、他ならぬこの僕の口から、君はそれを聞かされたはずだ。どうかな」
島田の口から聞かされたこと。あの時、見舞いにきてくれた彼の口から……。
それは――。
「――中村青司[#「中村青司」に傍点]?」
と、私は思いついた言葉を投げ出した。
「この家――『人形館』に彼が関わっていたっていう、それが?」
「そうだよ」
「でも、それがどうして……」
「覚えてないかなあ。あの時も確か話しただろ? 風変わりな建築家、中村青司――彼が手を染めた仕事に必ずと云っていいほど現われる、ある特徴[#「ある特徴」に傍点]のこと」
「――ああ」
私はやっと、島田が何を云いたいのか分ったような気がした。
「そういえば……」
一昨年の秋、その直前に岡山の「水車館」事件に関係してきたばかりだという彼は、長期間の入院生活に退屈していた私に、自分の冒険談を語って聞かせてくれた。中村青司の建てた奇妙な館、そこで起こった不可解な殺人事件、そして……。
「からくり[#「からくり」に傍点]趣味?」
「うん。やっと思い出したね。僕も、もっと早くにその点を指摘しておくべきだった。
自分が建てた家には、必ず何か子供の悪戯じみたからくり[#「からくり」に傍点]仕掛けを施しておく。そんな趣味というか、性癖というかが、中村青司にはあったんだ。ある時は建築主と相談の上、ある時は全く秘密の内に、隠し戸棚だの、隠し部屋だの、秘密の通路だの、そういった仕掛けを造ってしまう、っていうね」
「じゃあ島田さん、この家にも、そんな仕掛けがどこかにあるんだというわけですか」
私の間いに、
「恐らくね」
と、島田は答えた。
「何か巧妙な仕掛けが、その人形館にもある。少なくとも、辻井が死んだ[2―C]の部屋か、あるいはその外の階段ホールには、きっとどこかに秘密の抜け道[#「秘密の抜け道」に傍点]があるはずだ」
「秘密の抜け道……」
「そいつが密室状況を解く答だってわけさ。犯人は一階の裏口を使う必要はなかった。君の部屋の前を通る必要もなかった。どこかに造られた、その秘密の通路を通って、雪の上に足跡を残すこともなく、君に気づかれることもなく、辻井の部屋に侵入し、同じ通路から逃走した」
「…………」
「それからね、もう一つ、君がアトリエに使っている蔵にも、同じような隠し通路があるんだと思う」
「ここに?」
私は思わず、今自分がいるその空間をぐるりと見まわした。
「この蔵に?」
「そう。つまりだ、去年その土蔵で起こった人形殺し≠焉A云ってみれば完全な密室状況での事件だったわけだろう? 合鍵を作ることは難しかった。このあいだは、大勢の人間が協力して扉を外したっていう方法を検討してみたけど、これもちょっとどうかなと思われる。となると、中村青司がその家に関係している以上、俄然、秘密の通路の存在が有力となってくるわけだ。
燃えた母屋にも、あるいはどこかにその手の仕掛けが施されていた可能性があるね。もしもそうであれば――その仕掛けの存在さえ知っていれば、犯人は合鍵なんか用意しなくても、自由に母屋へ出入りすることができたことになる」
中村青司の「人形館」――その各所に設けられた秘密の通路……。
私は身震いしながら、もう一度、広い蔵の内部に視線を巡らせた。黄ばんだ厚い漆喰の壁、板張りの床、高い天井、交差する太い梁、小さな明り採りの窓……。
このどこかに、その通路の扉が隠されている。犯人はそれを使って、いつでもここに侵入することができた。私がこの部屋にいる時でも、あるいはその扉の陰に潜み、息を殺し、狙うべき獲物の様子を窺っていたかもしれない。もしかしたら――そうだ、今この瞬間も……。
「島田さん」
喚きだしたい衝動を懸命に抑えながら、私は受話器に向かって喘ぐような声を絞り出した。
「僕は、これからどうしたら……」
どうしたらいいのだろう。
私は常に、どこかから彼≠ノ見張られているのだ。いくらこちらが用心していようと、彼≠ヘ私の知らないその秘密の通路を通って、私のすぐそばまでやって来ることができるのだ。
「そんなに怖がる必要はないさ、飛龍君」
島田は云った。
「充分に用心していれば、人間、そうそう簡単にやられるもんじゃない」
「でも、島田さん……」
「それよりもね、さっき君が話してくれた、君のもう一つの『罪』のことなんだが」
島田は不意に声を落とし、
「どうも気になるんだなあ」
殆ど独り言のように呟いた。
「ねえ、飛龍君。どうしてもその、君が川に突き落とした男の子の名前、思い出せないのかい」
「――ええ」
「ふうん。――待てよ。ああ、あれは……」
「何か?」
「ん? いや、ちょっと……」
島田は意味ありげに言葉を濁らせた。
「ちょっとね……」
「島田さん!」
と、そこで私は切実な想いを込め、声高に彼の名を呼んだ。
「島田さん、お願いです。お願いだから早く――早く来て下さい」
「飛龍君?」
「僕一人じゃあ、とても身を守る自信がない。あなたが来てくれれば、そうすれば……」
「そりゃあ、君」
「まだそっちを離れられないんですか」
「ああ、いや……」
「来て下さい。島田さん」
知らない内に、うっすらと目に涙が溜っていた。
「分ったよ」
と、島田は云った。
「分った。そうだな――。よし、とにかく京都へ行こう。今、ちょっと思いついたこともあるんだ。二、三日中には、必ずそっちへ行く。だから飛龍君、それまでとにかく、誰に対しても気を許さないように。いいね?」
――――1
――[#「――」に傍点]は笑った。
微かに、喉の奥深くで。
(母親は、殺した)
一文字に結んだ唇の端が、冷たく吊り上がる。
(もう一人のあの男も、殺した)
全てはあの男の罪なのだ。あの男――飛龍想一の。
次は――次こそ、あの男の番……いや、待てその前に……。
(その前に)
そうだ。その前にもう一人、殺さねばならない人間がいる。もう一人だけ。
(あの女を殺さねばならない)
* * *
尾《つ》けられている。
ふと、そんな感じがした。
誰かに尾けられている――。
道沢希早子は立ち止まり、意識して耳を澄ました。どこかで、自分のものとは違う足音が、一瞬遅れて停止したような気がする。
そっと後ろを振り返ってみた。
今出川通りの北側に位置する、K**大農学部の構内である。
門からまっすぐに延びてきた並木道。葉を落とした銀杏《いちょう》の木に混じって、疎らな間隔で外灯が並んでいる。仄《ほの》白い蛍光が作り出す、色彩の後退した黒白の絵。道の両側にそびえる四角い研究棟の影。真冬の、冷酷なばかりに乾いた冷たい風が、かさこそと枯葉の吹き溜まりを震わせている。
夜のキャンパスに、人影はなかった。
(気のせい、かな?)
腕時計をちらりと見てから、希早子はまた歩き始めた。
すっかり遅くなってしまった。もうとっくに十二時を回っている――。
一月二十八日木曜日、希早子は夕方からずっと共同研究室に残って仕事をしていた。架場久茂に頼まれた仕事である。
架場は大学の助手を務める傍ら、何やら怪しげな企画会社の経営にもタッチしていて、その下請けアルバイトを、希早子ら研究室の学生に時々まわしてくる。何とか博覧会の不思議パビリオンだの、大阪どこそこ祭りのびっくりパレードだの、その仕事の内容はとりどりで面白いものなのだが、作った企画が実現された様子はあまりない。それでもまあ、結構割りのいいペイをくれるので、頼まれると嫌とは云えなかった。
今回は、市内の某インテリア会社の発注だとかで、PR冊子の写真に添えるイメージ・コピーを考えてほしい、とのことだった。四時間目に一つ講義があったので、それを受けた帰りに顔を出すと、丁度良かった、困ってたんだ、といつもの調子で押しつけられてしまったのである。
聞けば、どうしても明日までには仕上げなければならない仕事だという。とりたてて用もなかったので、軽い気持ちで引き受けたのだけれども、これがいけなかった。
あれこれと難しい注文を付けられながら、四百字詰めにして二十枚ほどにもなる原稿をやっとの思いで書き上げたのが、ついさっきのこと――。
架場はほっとした顔で、
「やあ、どうも御苦労さん」
そして、遅いから車で送っていこうか、と云った。
「架場さん、まだ自分の分がだいぶ残ってるんでしょ。早く上げちゃわないと、困りますよ」
希早子が云うと、彼は苦笑して、不精に伸ばした髪を掻きまわした。
「でも、こんな切羽《せっぱ》詰まるまで放っておくなんて、ホント相変わらずなんだから、わたしが来なかったらどうするつもりだったんですか」
苦労させられたお返しのつもりで、少し皮肉っぽく云ってやった。
「こんなはずじゃなかったんだけど」
架場は眠そうな目を擦りながら、
「ちょっと急に思い立ってね、昨日、遠出しちゃったもんだから」
「遠出って?」
「うん。まあ、ちょっとね。日帰りの旅行みたいなものを」
「学校休んで?」
「うん」
「どこへ行ってきたんですか」
「まあまあ、いいじゃない。その内、ゆっくり話すつもりだから」
煮えきらない調子で云うと、架場はまた髪を掻きまわした。
「じゃあ、気をつけてね。ほんとに送ってかなくて大丈夫かな」
「御心配なく」
「どうも有難う。助かったよ」
あんなこと云わずに、送ってもらえば良かった――と、今になって希早子は若干の後悔を覚え始めていた。
いつも、大学へ行った帰りにはこの道を通る。が、こんなに遅くなって、しかも一人で帰るのは初めてだった。
カツ、カツ……と、ヒールの音が、アスファルトの路面に響く。前方に伸びた真っ黒な長い影がだんだんと自分のものでなくなって、今にも勝手に踊りだしそうな――そんな錯覚。
どうしたんだろう、と思った。
(何をそんな、臆病になってるの?)
三日前――月曜の夜、飛龍想一の家へ電話をかけた。その時の彼の話が、また頭に浮かんでくる。
全てを思い出したのだ、と彼は云った。
手紙がまた来た。辻井雪人は自分を狙う犯人ではなかった。彼は本当の犯人によって殺されたのだ。もう一人の自分、飛龍想一として。
二十八年前に犯していたもう一つの「罪」のこと。「人形館」には中村青司の造った秘密の通路があるのだ、という島田潔の指摘……。
怯えた声で、すがるような口調で、飛龍は話した。
「ただ、あと一つだけ、どうしても思い出せないことがあるんです」
と、更に彼は云った。
「二十八年前に僕が殺してしまった男の子の名前――それだけが、どうしても。声は聞こえるんですよ。彼を呼ぶ、僕の声。でも、何とか君[#「何とか君」に傍点]って叫んでいる、その名前の部分だけがどうしても思い出せないんです」
この話は、翌日架場にも伝えた。架場はすると、ひどく難しい顔をして、ぶつぶつと口の中で何事か呟いていた。
飛龍想一。
彼の表情、声、言葉――それらの中に見る深い翳りを、時に希早子は怖く思うこともある。何だか自分自身を見放し、遠くへ突き放してしまったような、そんな冷たい静けさが、彼にはあるような気がするのだ。
己を狙う殺人者の存在を知りながら、殊更大騒ぎしようとはしない。勿論、全くそれに動じていないわけではない。彼は確かに怯えているし、苦しんでいるし、警戒しようとしている。が、それにしても、何となく諦めを含んだような……。
もしも希早子が彼の立場なら、一も二もなく警察へ駆け込むことだろう。確かに、そんな悪戯の手紙ぐらいのことでは、警察は本気で動いてはくれないかもしれない。けれど、それにしても……。
架場も架場だ。どうしてもっと積極的に、彼を助けてやろうとしないのだろうか。
飛龍は、希早子が今まで全く知らなかったタイプの人間だった。だから、十二月に「来夢」で出会って以来、時々電話をかけて話をしたり、実際に会ってみたりする。特別な感情にまでは成長しそうにないけれども、深い翳りを背負った彼が、一方で彼女の心を惹きつけてやまないある種の魅力を持っていることもまた、事実なのだった。
(あの人は今、どうしてるだろう)
「次こそ、お前だ」――そんな最後通牒を突きつけられ、彼は今、どんな気持ちでこの夜を過ごしているのだろう。
例の島田潔という男が、もうすぐ京都へ来てくれるのだ、と云っていた。その時だけは、いくらか明るい声で。
(あの人は……)
アトリエで見せてもらった。彼の作品の数々を思い出す。あの時はちょっとショックだった。『時の蟲』と名付けられた奇怪な風景をはじめ、あそこで見た絵の中には、どれにも必ず、何がしかの死≠フモチーフがあったように思う。子供の頃の恐ろしい体験が、彼にあんな絵を描かせるのだろうか。原色をふんだんに用いた、不気味な死≠フ描写。
しかし、それらを通じて何よりもショッキングだったのは……。
カツ、カツ、カツ……
自分の靴音に、何か異質な響きが混じり込んでいるような気がして、希早子はまた立ち止まった。
(やっぱり?)
(誰かが、わたしを尾けている?)
振り返るのが怖かった。振り返っても、さっきと同じでどうせ人影は見つからないだろうと思う。しかし……。
前方に門が見える。あれを抜けると、M**通りだ。
(一体、誰が……)
心臓の鼓動が、にわかに速度を増す。
通りに出て、右へ折れる。歩行者の姿はおろか、車のヘッドライトさえ見当たらない。
尾けられている――というその感覚は、しばらく歩いても消えなかった。振り向くのも怖い。背中にじっとりと絡みつく、何者かの視線……。
希早子の神経はいつしか、かつて経験したことのない急な斜面を転がり始めようとしていた。
やがて――。
疏水沿いの道との交差点を、左に曲がった。曲がってしまってから、しまった、と思った。
右手には、去年の夏辻井に殺された子供の死体が浮かんでいたという疏水が、左手には長い塀が続き、ますます人気《ひとけ》のない、暗くて細い道になっていく……。
引き返して、別の道にまわろうと考えた。
慌てて踵を返しかけて、
「あっ」
思わず声を洩らした。M**通りからの曲がり角に、黒い人影が見えたのだ。
(いけない!)
心の中で叫ぶ声が聞こえるや、反射的に駆けだしていた。
硬い靴音が、闇に乱れ響く。それは希早子の身体に絡みつき、耳の中へ、頭の中へ、わんわんと渦を巻きながら流れ込んで、心を恐怖の破片へと解体しにかかった。
疏水を流れる水の音に混じって、冬枯れの桜と柳の真っ黒な枝が、吹きすさぶ風に揺れ、ギシギシと呻き声を上げる。平坦なはずの道が、その声に応えて波のようにうねり始める。
現実から放り出され、瞬時にして、ねじれた時間の隙間に落ち込んでしまったような思いがした。歪曲した球形の闇――異様に粘着度の高い大気に満たされた、閉じた空間の中に放り込まれたような……。
波打つ地面に足をもつらせた。と思うや、視界がぐるりと回転する。
頬に、冷たい、氷のようなアスファルトの感触。いがらっぽい、嫌な臭《にお》い。膝に生まれた鈍痛……。
後ろから、重い足音が近づいてくる。
(いけない)
(逃げなきゃ……)
身体が思うように動かなかった。叫びたくても声が出ない、痛みのせいか、焦りのせいか。――激しい目眩。それに重なる吐き気……。
「お前を殺さねばならない」
低く押し殺した、抑揚のない声が微かに聞こえた。
「お前を殺さねば……」
シュッ、と風を切る音がした。殆ど同時に、右肩の辺りに激痛が走った。何か硬い棒状のもので殴られたのだ。
どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか、希早子には分らなかった。
(どうして?)
シュッ、とまた……。
「あうっ」
今度の一撃は、背中の真ん中辺りだった。
「――やめて」
やっとの思いで声を絞り出した。
「嫌。助けて……」
三たび、凶器が振り上げられる音。
希早子はぎゅっと目を閉じた。
駄目だ。やられる。恐怖と痛みの中でそう観念した、その時――。
「やめろ!」
大きな声がした。
(――え?)
「やめるんだ!」
ばたばたと足音が乱れた。
「その子を殺しちゃいけない」
(ああ……)
更に乱れる足音、そして息遣い……。
伏せた顔を持ち上げようとする希早子の目の前に、何か長細いものが投げ出された。
(これは……)
顎を上げ、その形を認めた途端、
「ひっ」
喉が震えた。
それは、腕だった。肩のところからもぎ取られたような、白い腕が一本。
やがて――。
「大丈夫ですか」
男の声が聞こえた。倒れた希早子の腕に手をかけ、抱き起こしてくれる。
「つぅ……」
右肩と背中の痛みに、唇を噛む。
「やあ、危ないところだった。怪我は? 痛みますか?。 ――ああ、これなら大丈夫。骨に異状はないでしょう」
「あ、あの……」
ゆっくりと起き上がりながら、希早子はおどおどと相手の顔に目を上げた。
「あなたは……」
「道沢希早子さん、ですね」
男は希早子の身体から離れ、張りのある声で云った。
「僕は島田です。島田潔です。飛龍君からあなたのことは聞いてますよ。今日、九州から来たんです」
「島田……」
「いいですか。今夜はもう大丈夫だと思うから、すぐに家に帰って、部屋にはちゃんと鍵を掛けて。いいですね。そして、明日――いや、もう今日になりますね――今日の正午丁度に、人形館へ来て下さい。そこで全てが明らかになります」
それだけを早口でまくしたてると、彼は希早子を残し、すたすたとその場を去っていった。
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第九章 一月(3)
――――1
一月二十九日、金曜日。
古都の、憂鬱なほどに暗く、重く、低い冬空の下、僕はその家の前に立った。
暗緑色の葉をひきしめた山茶花の生け垣。その間に立つ灰色の石造りの門柱。古ぼけた表札――[緑影荘]。
寒かった。切りつけるような冷たい風に髪が散る。かじかんだ手でそれを押さえながら、門の奥に建った二階建の洋館を見上げる。
飛龍想一の住む家――中村青司の人形館。
濃い灰色の壁も、緑青色の屋根も、クリーム色のフランス窓も……建物の全てが、この冬の寒さに身を縮めている。荒れた庭に植わった木々の、冬に枯れた黒い枝が、それを包んだ巨大な籠《かご》の骨組みのように見える。
中村青司の人形館……。
何とも云えぬ気持ちで、僕は洋館の玄関へと足を進めた。
両開きの扉を抜けたところで、薄暗い奥のホールに立つ人影に気づいた。わりあいにがっしりした身体つきの男である。
僕がホールに入っていくと、向かって右手にあるドアのそばに立っていた男は、はっとしたようにこちらを振り向いた。四角い顔に黒いサングラスをかけ、右手に白い杖を握っている。
その男がこの家の住人の一人、マッサージ師の木津川伸造であることは明らかだった。
「今日は」
と、向こうから声をかけてきた。
木津川は道ですれちがう人間に挨拶をしてその日の運を占うのだ、と飛龍が云っていたが、これも同じような意味合なのだろうか、それとも、場所がこの家の中だから、入ってきた僕を住人の誰かだと判断したのだろうか。
「どうも、はじめまして」
こちらへ向かってくる彼に、僕は声を返した。
「木津川さんですね。僕は島田潔といって、飛龍君の友だちなんです。あなたのことは彼から聞いてますよ。これからもうお仕事ですか」
「はあ?」
と、彼は虚を突かれたように首を傾げた。
「島田さん、と云わはる?」
「この人形館で起こった事件を解決するために来たんですよ。管理人さんの部屋は? ああ、そのドアですか」
「はあ……」
「あなたが無実だってことはもう分ってるんです。どうぞ御安心下さい」
僕は木津川の横を通り過ぎ、管理人室のドアの前に立った。マッサージ師はぶつぶつと何か独り言を呟きながら、杖の音を響かせて玄関の方へ去っていった。
[1―A・管理人室]と表示のあるそのドアをノックした。ややあって、
「はい」
と、がらがらした声が返ってきた。ドアが開いて現われたのは、背の曲がった皺だらけの老人である。
「水尻道吉さんですね」
僕は云った。
「突然すみません。島田といいます。飛龍君に呼ばれて来たんですが、彼は今どこに?」
「はい?」
老人は掌を耳の後ろに当て、ひょこりと首を前へ突き出した。
「はい? 何と」
どうやらもう耳が遠いらしい。
「あのですね」
僕は声を大きくした。
「大事な、用が、あるんです。飛龍君は……」
「どうしはったんですかぁ?」
そう云って、誰かが部屋の奥から出てきた。割烹着姿の白髪の老婦人――これが、水尻キネだろう。
「あらまあ。すんませんねえ。ちょっと台所仕事してたもんで」
「飛龍君はどこにいますか。部屋ですか? 彼の部屋は二階でしたっけね」
「は?」
老婦人はきょとんと目を剥き、
「あの、ぼっちゃんは……」
「いないんですか。それとも、例の土蔵の方に? まさか外へ? はあん。やあ、そいつは困ったなあ。大事な用なんですよ」
「あのう……」
「いや、結構です。どうもお騒がせしました。いやいや、僕は怪しい者じゃありません。彼を助けるためにはるばるやって来たんですよ。僕が来たからには、もう大丈夫です。御安心下さい」
「…………」
「ここは全て、僕に任せて下さい。いいですか。よし。じゃあ、僕は今からちょっと二階を調べてきます。いや、あなたたちは来なくていい。部屋にいて下さい。いいですね。詳しいことはあとで説明してあげますから」
何か云いたそうな管理人夫妻を残し、僕は階段を二階へ向かった。
ホールの吹き抜けを取り巻く二階の廊下の角に、飛龍が云っていた例のマネキン人形が立っている。成程、左腕のないその人形は、内庭に面した窓の方へ、目も鼻も口もないのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]の顔を向けている。
通り過ぎがてら、その視線≠追ってみる。荒れ果てた庭の中央付近に立つ、大きな桜の木の影が、無残な母屋の焼跡を背景にして見えた。
建物の奥に延びた廊下を、速足で歩く。キシキシと床が鳴る。やがて現われる、今度は左脚の欠けたマネキン人形。
更に角を二つ折れたところで、左手に[2―B]のドアが見えた。飛龍が寝起きに使っているという部屋だ。
「飛龍君」
声をかけ、そのドアを叩いてみた。
「飛龍君。いないのかい。僕だ。島田だ」
返事は返ってこない。やはり、どこかへ出かけているのだろうか。
僕は腕時計を見た。
午前十一時半。まだあと三十分ある。
[2―B]のドアを離れると、そのまままっすぐ廊下を進んだ。突き当たりのあれが、問題の[2―C]の前に通じる仕切り扉か。
扉の向こうの階段ホールは、こちら側の廊下よりもずっと暗かった。が、昼間のことでもあり、電気を点けなければ動けないというほどのものではない。
右手にドアが見えた。[2―C]のドアだ。
ノブを回してみた。予想に反して鍵は掛かっておらず、ドアは細い軋みを発して開いた。
部屋に踏み込んでみて、僕は驚いた。
「こいつは……」
ひどい有様だった。八畳ほどの広さの洋間の、壁や床の至るところが壊されているのである。
「ははあ」
低く唸りながら、僕はその惨状を見まわした。
壁は、張られたアイボリーのクロスがあちこち破られ、灰色の板が覗いている。床に敷かれていたらしい赤いカーペットは、部屋の隅に乱暴に巻き上げられ、床板が何枚も剥がされている。その様子はまるで、皮膚と脂肪を虫に喰い荒され、骨や内臓が剥き出しになった巨大動物の死骸のようだった。
これは、恐らく彼が――飛龍想一がやったことに違いない。
僕の到着を待つことができず、彼は、この部屋あるいは外の階段ホールのどこかにあるはずだと僕が指摘した、秘密の通路の入口を探し出そうとしたのだ。いつまた、それを通ってこの家に忍び込んでくるか分らない殺人者の影に怯えて。
(飛龍君……)
そして――そして彼は、それを発見した?
床に穿《うが》たれた裂け目の一つに、僕は目を留めた。何か黒い、鉄製の梯子《はしご》のようなものが、床下に向かって延びている。
(こいつか[#「こいつか」に傍点])
彼はこれ[#「これ」に傍点]を見つけた。彼は――では、それからどうしたのだろうか。
蔵だ、と僕は思った。当然彼は、アトリエに使っている蔵の方でも、同様の秘密の通路探し≠行なったに違いない。
僕はまた腕時計を見た。
正午まで、あと二十分と少し。
廊下を引き返し、階段を駆け降りる。ジーンズに白いトックリのセータを着た若者が、ホールに置かれたピンク電話の前に立っていた。
「君、[1―C]の倉谷誠君?」
と、僕は若者に声をかけた。彼はダイヤルにかけていた指を離して、不思議そうにこちらを見やった。
「お願いがあるんだ」
僕は云った。
「あのね、僕は島田っていうんだ。島田潔。飛龍君の友人だ。大切な頼みなんだけど、聞いてくれるね」
「ええと、あのう……」
と、彼は戸惑い顔である。突然、初対面の男に「頼みがある」などと云われたのだ。胡散臭く思うのも当然だろうが、今はそんなことに構ってはおれない。
「いいかい? もう少ししたら、ある男[#「ある男」に傍点]がここへやって来る。飛龍君を訪ねてくるんだ。そうしたら、彼のアトリエへ行くようにと伝えてほしいんだ」
「は、はあ」
「悪いけど、だからね、電話をかけ終わっても、それまではちょっとここに残っててほしいんだよ。分ったかい」
「はあ、けど、あの……」
「頼んだよ。わけはあとで説明するから」
そう云うと、僕はひらりと身を翻し、ホールの奥の廊下へ走った。
――――――――2
土蔵の中は、予想した通りの状態だった。
ハンマーに釘抜き、どこから調達してきたのか、つるはしまで使ったらしい。手当たり次第動かされた家具、あちこちボロボロに崩された漆喰の壁、引き剥がされた床板……と、そのひどい有様は先程の[2―C]の部屋以上のものだった。
壁に開けられた穴から、甲高い唸りを上げて外の風が吹き込んでくる。空気はすっかり冷えきっており、吐く息が真っ白に踊る。
散乱した板、壁土、画材……その中に埋もれるようにして、彼はいた。入口に背を向けた揺り椅子の上で、ぐったりと肩を落としている。過激な作業に疲れきってしまったのだろうか、僕が入ってきたことにすら気づかない様子だった。
「飛龍君?」
足下に気をつけながら、椅子の前へ回り込む。飛龍は、生気が全て抜けてしまったかと思われるほどに蒼白な顔で、僕を迎えた。
「久しぶりだね、飛龍君。約束通り、駆けつけてきたぞ。全く、思い切ったことをしてくれたもんだなあ。こんな乱暴な探し方をしなくても良かったろうに。しかしまあ、無事で何よりだった」
「ああ」
虚ろな眼差しで、彼は僕を見つめた。
「島田、さん……」
「抜け道は見つかったかい」
「そこ……」
彼の目が示した方向には、大きな床の裂け目があった。僕はゆっくりとそのそばに足を進め、身を屈めて中を覗き込んだ。
「はあん」
さっき[2―C]で見たのと同じようなものだった。暗い穴の中、その闇の黒さよりももっと黒い色の梯子が、地下に向かって延びている。
「こいつか。成程」
僕は飛龍を振り返り、
「御苦労だったね。ふんふん。これで全て、謎は解けたわけだ。心配要らないよ。もう何も怯える必要はない。もう君は安全だ」
「…………」
「これまで君は――そして僕も、合鍵の問題やら何やらね、事件を取り巻くいろいろな状況から、この家に住んでいる者、即ち人形館の内部の人間に対して、主に疑いの目を向けてきた。だけど、そもそもそいつが間違いだったんだな。その証拠がつまり、この秘密の通路だ。別に犯人は内部の人間じゃなくっても良かった。この通路の存在さえ知っていれば[#「この通路の存在さえ知っていれば」に傍点]、外部の人間であっても一向に不都合はなかった[#「外部の人間であっても一向に不都合はなかった」に傍点]わけさ」
「外部の者が、犯人?」
「そうさ。水尻夫妻も木津川伸造も倉谷誠も、みんな実は、事件にはまるで無関係だった。二十八年前の列車事故の犠牲者の苗字と彼らの苗字の一致も、恐らくは全く偶然のことなんだと思うね。今となっちゃあ、そう考えた方がむしろ自然だ。うん」
「島田さん。じゃあ犯人は……」
「まだ分らないのかい」
僕は両腕を広げ、軽く肩をすくめてみせた。
「まあ、それも無理はないかもしれないなあ」
吹き込む風の冷たさに一度大きく身を震わせ、僕は煙草をくわえた。
「こないだの電話で話してくれた、君のもう一つの罪――あれが、この事件の犯人を知るための最大のポイントだったのさ。君が川に突き落とした少年の名前[#「君が川に突き落とした少年の名前」に傍点]。君はどうしても思い出すことができないと云ってたけど、あの電話でそれを聞いて、僕には分ったんだ。
どうして? って訊きたそうだね」
白く凍る息とともに煙草の煙を吐き出しながら、僕はまた自分の時計を見た。もう正午を少し回っている。
「随分と昔の話になる。大学時代、君はしょっちゅう風邪をこじらせたりして寝込んでいたっけね。同じ下宿の隣の部屋に住んでいたよしみで、そのたびに僕は、君の面倒を見てやっていたように思う。
でね、その時のことなんだ。熱を出して寝込むと、君はよく何か悪夢にうなされているみたいだった。苦しそうに呻きながら、時には腕や足をばたばたさせたり、譫言《うわごと》を云ったり、突然大声で叫んだり……。覚えてないだろう? けれども僕の頭には、君がそうして悪夢の中で叫んでいた言葉が記憶されていたってわけさ。
あの電話の最中、僕はそれを思い出した。その中には、『ママ!』っていう言葉もあったよ。そして、その他にもう一つ、君がいつも繰り返し呼んでいたある名前[#「ある名前」に傍点]があった」
「それが、じゃあ……」
「うん。多分それが、君が川に突き落として殺してしまったその子供の名前だったんだ」
「何ていう名前だったんですか」
「『マサシゲ[#「マサシゲ」に傍点]』……。君はいつも、泣きながらその名を叫んでいた。『マサシゲくん、マサシゲくん!』ってね」
その時――。
「飛龍君」
という声とともに、土蔵の扉が開いた。
「飛龍く……やっ、これは……」
「お待ちしてましたよ」
僕は吸っていた煙草を床に落として踏み消し、入ってきたその男に向かって、鋭い声を投げつけた。
「御覧の通り、飛龍君はこの蔵に造られていた秘密の抜け道を探し出したんです。いささか要領の悪い探し方ではあったようですけどね」
「秘密の、抜け道……」
「中村青司が、二十八年前のこの家の改築に際して造った仕掛けですよ。あなたは何らかの機会にその存在を知り、この家に越してきた飛龍君への復讐の道具として、それを利用した」
男は長い前髪を掻き上げながら、うろたえた顔で僕を凝視した。
「き、君は……」
「島田潔です。飛龍君から聞いてるでしょう」
「…………」
「今、彼に話そうとしていたところなんですよ」
と僕は、椅子に坐った飛龍を目で示し、
「あなたが全ての犯人であったってことをね。この土蔵に忍び込んで人形に悪戯をしたのも、郵便受けにガラスの破片を仕込んだのも、玄関の石ころも、自転車のブレーキも、猫の死骸も、全部あなたの仕業だった。再三にわたって、彼に脅迫状めいた手紙を書いたのもあなただ。彼の母上――沙和子さんを火事で殺したのも、辻井雪人を自殺に見せかけて殺したのも、あなただった」
「…………」
「どうして、そこまでしてあなたは彼を苦しめなければならなかったのか?」
小さな目を見張って立ちすくむその男の顔を見据えたまま、僕は更に言葉を続けた。
「それは、二十八年前に彼が殺してしまった子供があなたの兄弟だった[#「二十八年前に彼が殺してしまった子供があなたの兄弟だった」に傍点]からです。『マサシゲくん』というその名前が、僕にそれを暗示してくれた。あなたには、二つ年の離れたお兄さん[#「二つ年の離れたお兄さん」に傍点]がいたんでしたよね? そしてそのお兄さんは、まだ幼い時分[#「まだ幼い時分」に傍点]、何か不慮の事故で死んでしまっている[#「何か不慮の事故で死んでしまっている」に傍点]。
飛龍君が記憶の疼き≠感じた時、しばしばそのそばにあなたの顔[#「あなたの顔」に傍点]があった。あなたのその、茶色い、というよりも鳶《とび》色に近い瞳があった。それもまた事実でしょう?
彼は、あなたのその顔に、その目の色に、昔殺した少年の面影を見てしまったんですよ。あなたのお兄さん架場|正茂《まさしげ》君の面影をね」
――――――――3
架場久茂はよろりと一歩、土蔵の中へ足を踏み込むと、怯えたような目で僕を見、飛龍の坐っている椅子を見た。それからぐるりと、この部屋の主《あるじ》自らの手によって作り出された無残な光景を見まわす。
「観念しましたか、架場さん」
と、僕は云った。
「もうすぐ、彼女――道沢希早子さんもここへ来てくれるはずです」
すると、架場はすっとこちらへ目を戻し、
「彼女は、ここへは来ないよ」
と云った。
「彼女は来ない」
「えっ?」
僕は驚いて、
「じゃあ、まさかあなたは、昨夜あのあと……」
「また僕が彼女を襲った、って云うのかな」
架場は灰色のコートのポケットに手を潜り込ませながら、のろのろとかぶりを振った。
「違うよ。昨夜の怪我を診《み》てもらいに、病院へ行ってるんだ。だから、彼女は来ない。
今朝、正午にここへ来いっていう電話をくれたね。彼女にもそう云ったってことだけど、それで、僕には大体、ここで何が僕を待ち受けているのか予想できた、僕は、それを確かめにきたんだよ」
「ははん」
僕は鼻で笑った。
「自分の復讐計画が挫折《ざせつ》したことを確かめに、ですか?」
架場はそれには答えず、緩慢な動きで、今度は蔵の入口の方を振り返った。
「入ってきて下さい」
と、彼は云った。するとその声に応じて、二人の人間が扉の向こうから現われた。
一人は、先程ホールで僕が出会い、やって来る架場への伝言を頼んだ若者――倉谷誠だった。もう一人は、黒い背広姿の、会ったことのない大柄な中年男で、焦茶色の手提げ鞄を持っている。
「この土蔵に、中村青司が造った秘密の通路があるって云ったね。それは、どこに?」
架場が僕に向かって訊いた。
「何をしらばっくれてるんです」
僕は呆れる思いで、
「そいつはあなたが一番よく知ってるはずでしょう? ――はん。ほら、そこですよ。その床の穴の中を見てみればいい」
架場は黙って小さく頷くと、背広姿の中年男にちらと目配せして、僕が示した床の裂け目に向かって歩を進めた。
「倉谷君、君もこっちへ」
と、入口付近でぽかんとしていた若者に声をかける。
「は、はい」
気味が悪そうに部屋の光景を見渡しながら、倉谷は二人のあとに従った。
「この穴だって云うんだね」
架場は問題の床の裂け目に近づくと、さっき僕がしたのと同じように、少し身を屈めてその中を覗き込んだ。
「ふうん」
軽く唸ると、ついてきた背広の男に向かって、
「いかがです? 川添《かわぞえ》さん」
「いや。私にゃあ……」
川添と呼ばれたその男は、分厚い唇を蛸《たこ》のように尖らせて、角刈りにした頭をゆっくりと左右に振った。架場は続いて倉谷の方を見やり、
「君は? どうだい」
「はあ。いいえ。あの、何も……」
一体、この男たちは何を云っているのだろう。
僕はいささか混乱し、同時に、架場の妙な図太さに対して強い苛立ちを覚えた。相変わらず椅子に坐ったままでいる飛龍の方を振り返り、
「おい。飛龍君。何とか云ってやれよ」
「君も、もう一度よく見てみたらどうかな」
架場が淡々とした調子で云った。
「一体この穴のどこが、秘密の通路なんだい? 僕たちには、単に床板を剥がした跡としか見えないんだけれども」
「何だって? そんな、何を今更、たわけたことを云うんだ」
怒鳴り返すように云って、僕は三人の方へ足を向けた。
「ここに」
指さしながら、先程の穴の中を覗き込む。
「ここにちゃあんと、黒い梯子が……」
ところが――。
「――?」
僕は自分の目を疑った。
「こりゃあ……」
「どこに秘密の通路があるって?」
と、架場が云った。
「そ、そんな……」
彼の云う通りだった。地下へ延びる鉄の梯子など[#「地下へ延びる鉄の梯子など」に傍点]、影も形も見当たらないのである[#「影も形も見当たらないのである」に傍点]。
そんな馬鹿なことがあるものか。さっきは確かに、この目で見たのだ。それがどうして……?
壁の穴から突風のような風が吹き込んできて、僕の顔をまともに殴りつけた。髪が逆立ち、頬が冷たさに引きつる。
「僕たちはさっき、この蔵へ来る前に、あっちの洋館の二階へも行ってきたんだよ」
何かしら人を哀れむような声で、架場が云う、
「[2―C]の部屋を覗いてみた。ここと同じように、壁や床が壊されてたね。あれも秘密の通路を探した結果だと?」
「その通りだ」
[#地付き]……ブウウ――――ンンン
風の唸りに混じって、どこかから甲高い虫の羽音のような響きが聞こえてくる。
[#地から6字上げ]……ンンンン…………
その中でかろうじて冷静を保ちながら、僕は云った。
「あそこにも、やっぱり秘密の通路が……」
「そんなものはなかった[#「そんなものはなかった」に傍点]」
「…………」
「そんなものはやはり、あの部屋にもなかったんだよ」
架場の口調が、鋭く、そして厳しくなる。
「さっき、この僕が辻井雪人を殺した犯人なんだと云ったね。けれども、どうかな、あの部屋にはどこにも[#「あの部屋にはどこにも」に傍点]、外部から入ってこられるような秘密の抜け道は存在しなかった[#「外部から入ってこられるような秘密の抜け道は存在しなかった」に傍点]んだ。多分、外の階段ホールにもないと思う。とすると、どうなる? どうやって僕に、密室状況にあったあの部屋に忍び込んで、辻井を殺すことができたっていうんだい」
「…………」
「仮に辻井は自殺したのではなく、何者かの手によって殺されたのだとすると――、どうしてもそういった他殺説を主張したいのだとすると、残念ながらね、僕には一つしか解決法が思い浮かばない。そしてどうやら、その答は正しかったようだね。それはつまり……」
「いい加減にしてくれ!」
僕は大声で叫ばずにはおれなかった。ぴくりとして、架場が口を閉じる。
「そこまでして、自分の罪を認めたくないのか? ねえ、飛龍君。君の幼馴染みはどうしようもない奴だ。君の母上や辻井を殺しておいて、やばくなると今度は……」
「川添さん、あれ[#「あれ」に傍点]を」
と、架場が背広の男に云った。男は黙って頷き、手に提げていた鞄から、透明なビニール袋に入った、何か長細いものを取り出した。
「これが、昨夜道沢さんが襲われた現場に落ちていたんだよ。彼女は相当ショックだったようでね、警察に届ける決心もつかず、家へ逃げ帰るとすぐ、まだ研究室に残っていた僕に電話をかけてきた。その時、彼女はこれ[#「これ」に傍点]を持ち帰ってたんだ」
それは、白い腕だった。肩のところからもぎ取られたような、白い人間の腕――いや、そうじゃない。本物の人間の腕ではない[#「本物の人間の腕ではない」に傍点]。マネキン人形の腕だ。
「この蔵にある人形のどれかから取り外したものだと思う。中にぎっしり砂が詰まっている。これを凶器にして、ゆうべ犯人は道沢さんを襲った」
「もう沢山だ」
[#地から12字上げ]……ブウウウ――――ンンン……
甲高い音が、どんどんと迫ってくる。耳の中へ、頭の奥へ。
[#地から16字上げ]……ブウウウウ――――ンンンン………
僕はひどい寒けと頭痛を感じながら、懸命に気力を振り絞り、
「もう沢山ですよ、架場さん」
と繰り返した。
「ここでこれ以上、あれこれ云い合っても埒《らち》が開かない。いいだろう。こうなったら、出るべきところへ出て決着をつけるしかない」
そして僕は、奥のデスクの端に置かれていた黒い電話機に向かった。
「警察へ連絡します。いいですね」
架場は黙って、何やら悲しそうに小さな目をしばたたいた。
僕は受話器を取ると、それを耳に当てるのももどかしく、指をダイヤルにかけた。
1――1――0。
――と。
「何?」
僕は呻いた。何も、聞こえてくる音がないのだ。発信音も何も……。
(これは一体……)
「無駄だよ」
架場が云った。
「その電話、焼けた母屋にあった一台と親子電話になってたんだろう? 去年の火事で回線が焼けて[#「去年の火事で回線が焼けて」に傍点]、使用不可能なままじゃないのかい[#「使用不可能なままじゃないのかい」に傍点]」
「あ……」
[#地から22字上げ]……ブウウウ――――ンンン……
[#地から29字上げ]……――ンンンンン………
間近にまで迫る響き。
「飛龍君[#「飛龍君」に傍点]」
架場は続ける。
「全ては君の心が生み出した妄想だったんだ[#「全ては君の心が生み出した妄想だったんだ」に傍点]。秘密の通路も、それからね、君がその電話で行なっていた島田潔との会話も」
「馬鹿な」
「本当だよ」
「嘘だ!」
とんでもない架場の言葉を、それから、頭一杯にまで広がってきた甲高い大音響を打ち消そうと、僕はあらん限りの声を張り上げた。
「でたらめだ!」
「君は島田潔じゃないんだ[#「君は島田潔じゃないんだ」に傍点]。まだ分らないのかい。君は、島田じゃないんだ。飛龍君」
「嘘だ。僕は島田潔だ。飛龍君は、ほら、ちゃんとそこに……」
震えの止まらぬ手で、彼が坐っている揺り椅子を指し示してしまってから、僕の目はそこにある現実[#「そこにある現実」に傍点]を捉えた。
「ああ……」
溜息とともに、心と身体の全てから、僕という人間の存在そのものが吐き出された。
椅子の上にいるのは[#「椅子の上にいるのは」に傍点]、飛龍想一ではなかった[#「飛龍想一ではなかった」に傍点]。
僕は見た。
髪の毛が長い。何も服を着ていない。白い肌。女性の身体つき。ただその顔立ちだけがどことなく彼に似ている、生命を持たぬマネキン人形の姿を。
1
「大丈夫。危険はないと思いますから」
架場は背広姿の男にそう云って、床の上にうずくまっていた私に歩み寄った。
「御覧の通りです、川添さん。一応あなたに来てもらいましたが、彼に必要なのは警察ではなく、むしろ病院です。勿論いずれ、川添さんたちの取り調べも必要なんでしょうけど」
「驚きましたな」
男は、手に持っていたビニール袋を鞄にしまいながら云った。
「こりゃあ、一体私らはどんなふうに対処したらいいもんやら」
「大丈夫かい、飛龍君」
と云って、架場は私の腕に手を伸ばした。
「ああ、架場君……」
私は何をしていたのだろう。何故ここに、こんな格好でうずくまっているのだろう。
「僕は……」
「一つだけ、今君に訊いておきたい」
架場は小さな鳶色の瞳で、よろよろと立ち上がった私の顔を見据えた。
「君が、辻井雪人を殺したんだね」
「――え?」
私が辻井を殺した? 私が、辻井を?
「どうして、僕が……」
「彼が死んだ部屋には、どこにも秘密の抜け道なんかなかったんだよ。僕と川添刑事の目が、その事実を確認しているんだ。それでなおかつ、彼の死が他殺だったのだとすると、どういうことになる?」
「…………」
(この私が……)
「辻井が部屋に戻ってから水尻夫人がやって来るまでの間、君は誰一人として自分の部屋の前を通った者はいないと証言した。結果として、それは正しかったのかもしれない。ただ唯一、君の証言――というよりも、君の意識、君の記憶から抜け落ちているものがあった。それが即ち、君自身の行為[#「君自身の行為」に傍点]だったんだ」
「――分らない、僕には。けど、そんなことが……」
「君の責任じゃないと思う。少なくとも、今君が自覚している飛龍想一≠フ責任じゃない。君は自分じゃあ、居間でずっとテレビを見ていたつもりだったんだろう。確かにそれは、飛龍想一[#「飛龍想一」に傍点]≠ノとっての現実[#「にとっての現実」に傍点]だった。けれども……」
「僕は――僕は……」
私はあの時、そう、居間でテレビを眺めていた。カーディガンを羽織り、ソファに坐り、ぼんやりと独り……。
水尻夫人が辻井を呼びにやって来……彼女に合鍵の束を渡し……[2―C]のドアの前に立って辻井の名を呼ぶ彼女を、私は階段ホールの扉に凭れかかるようにして、ガウンのポケットに両手を突っ込んで……ガウン[#「ガウン」に傍点]? ガウンだって[#「ガウンだって」に傍点]?
「僕は……」
私は一体いつ[#「私は一体いつ」に傍点]、カーディガンからガウンに着替えたのだろうか[#「カーディガンからガウンに着替えたのだろうか」に傍点]。――そんな覚えはない。そんな覚えは全くない。
(私が、辻井を殺した?)
(無意識の内に)
(自分でも知らない内に……)
とすると――もしもそうだとすると、私が上着を着替えていたのは、辻井を殺した時に返り血で服が汚れてしまったから?
(そんな……)
それから、そうだ、あの時――水尻夫人がやって来た時、額に滲んでいた汗[#「額に滲んでいた汗」に傍点]……。
どうして私は、額に汗などかいていたのだろう。三十分もの間換気をしていて、部屋の空気はすっかり冷えてしまっていたのだ。なのに、どうして?
「ああ、僕は……」
私は両手で顔を覆い、小刻みに肩を震わせていた。
「分った。飛龍君。もういい。こんなところで追及することはなかったね。悪かった」
架場が私の肩に手を置いた。
「さ、行こう」
「――行く?」
私は弱々しい声で問うた。
「どこへ」
「君は疲れてるんだ。ゆっくり休まないとね」
架場はそう云って、悲しげに少し笑ってみせた。
[#改ページ]
第十章 二月
* * *
二月一日月曜日、午後二時過ぎ。他に客のいない喫茶「来夢」の一席にて――。
テーブルを挟んで、希早子は架場久茂と向かい合っていた。どうしても早く詳しい話が聞きたかったから、無理を云って研究室を抜け出してきてもらったのである。
「怪我はもういいの?」
架場に訊かれ、希早子は小さく頷いた。
「まだちょっと痛みますけど、ええ、大丈夫です。骨には異状なかったし、跡も残らないって」
しかし、心に受けたダメージはまだ当分|癒《い》えてくれそうになかった。普段と比べて声に張りがないのが、自分でも分った。
「もっと早く、何か手を打っておくべきだったのかもしれないね。けど、僕にしてもなかなか確信が持てなかったんだ。それに、君がまさかあんな目に遭《あ》うなんて、そこまでは思い至ってなかった」
「いいんです。仕方ないと思います。わたしだって、まさかあんな……」
「いや。あれはやっぱり、あんな時間に一人で帰した僕の責任だよ。すまなかったね」
「いいんです」
あの時は、本当にもう、ここで殺されてしまうのかと思った。砂を詰めたマネキン人形の腕で、したたかに肩を殴られ、背中を打たれ……。
絶望の淵《ふち》で聞いたあの声――「お前を殺さねばならない」と呟いていた、抑揚のない低い声。相手の顔を確認する余裕などなかったが、あれは確かに飛龍想一の声だった[#「あれは確かに飛龍想一の声だった」に傍点]。
そしてその直後、「やめろ!」と叫んだ声――あれも……。
ばたばたと足音が乱れ、息遣いが乱れ、何が何だか分らない内に希早子は助け起こされた。暗かったのと、外灯の光が逆光になっていたのとで、はっきりと相手の顔は見えなかった。けれども――。
自らを[#「自らを」に傍点]「島田潔[#「島田潔」に傍点]」だと名乗ったその男の声も[#「だと名乗ったその男の声も」に傍点]、喋り方こそ全く違っていたが[#「喋り方こそ全く違っていたが」に傍点]、やはり彼[#「やはり彼」に傍点]、飛龍想一の声だったのだ[#「飛龍想一の声だったのだ」に傍点]。
「僕はその方面の専門家でも何でもないから、あんまり偉そうなことは云えないんだけれど――」
両手を組み合せ、二本の親指でこつこつとテーブルの端を叩きながら、架場久茂は云った。
「最初の頃から、いろいろと気になることはあったんだよね。
例えばそれは、飛龍君以外誰も入れたはずのない[#「飛龍君以外誰も入れたはずのない」に傍点]土蔵での怪事件だったり、必要以上に自分を見放したような、彼の態度や言葉だった。特に火事でお母さんを亡くした直後は、それが顕著だった。それから、君が彼のアトリエを訪れた時に見てショックを受けたっていう、彼の絵……。
僕も一度あそこへは行ったことがあったんだけど、君みたいに、彼の描いた絵をじっくりと見ることはしなかったんだ。だから、君に云われて初めて知ったんだよ。彼の描いた絵には、どの作品にも、必ず何がしかの死≠フモチーフがあった。しかも、それらの絵の中で死≠ノ見舞われている人間たちの顔が、男も女も赤ん坊も老人も、どれもみんな飛龍君自身の顔に見えた[#「どれもみんな飛龍君自身の顔に見えた」に傍点]、ってね。
彼はずっと、絵の中で自分自身を殺し続けてきた[#「絵の中で自分自身を殺し続けてきた」に傍点]んだ。そう、僕は思う。恐らく彼は、自分ではそのことには気づいちゃいなかったんだろうけど。
自らの描く絵の中で、無意識の内に自らに死を与える。分りやすく云えば、強烈な自殺願望[#「強烈な自殺願望」に傍点]――そういったものが、彼の心の中にはずっと存在し続けていた。
だから何となく、疑ってはいたんだよ。もしかして、彼の命を狙っている何者かっていうのは、他ならぬ彼自身なんじゃないか、と。けれども、いい加減なそんな思いつきを彼に向かって云えるはずもなかった。
疑いが決定的になったのは、一月も後半に入ってから――辻井雪人っていう例の殺人犯があの家で死んで、それは自殺ではなく他殺なのだという手紙が彼の許に届いたと知った時だった。君から話を聞いた限りじゃ、あの事件が起こった密室状況はおよそ完全なもので、どうしたって自殺とする以外に解釈の方法がないと思っていた。にもかかわらず[#「にもかかわらず」に傍点]それが他殺だったのだとすると、これは、その密室状況の構成要素である彼自身が犯人であるとしか考えられない。
勿論そんな、まあ云ってみれば机上の推論だけで、彼が全ての犯人だったと決めつけることはできないわけで、だから僕は、先週の水曜日――君が襲われた前の日だね――、あの日、大学を休んでちょっと調べ物をしにいってきたんだ」
「遠出してきたって云ってた、あれが?」
「うん。会社の方の仕事が押してたから、どうしようか迷ったんだけどね、でもまあ、早いに越したことはないと思って、行ってきた」
「どこへ行ってきたんですか」
「静岡だよ」
架場はそこで言葉を切り、唇の端に煙草をくわえた。
「飛龍君が前に住んでいた家の近所を、まず歩きまわってみた。ああいうのはね、本当は苦手なんだけれども。つまり、いわゆる聞き込みってやつ」
「聞き込み?」
「うん。慣れないもんで随分と手間取ったけど、やっと、近所のある家の奥さんから聞き出すことができたんだ。一昨年の夏から、彼が長期の療養を強《し》いられていたっていう病気のことと、その入院先について。
思った通りだった。彼は、僕らにはただ病気になったとしか云ってなかったけど、彼が患《わずら》ったのは、実は肉体ではなくって心の病だった[#「肉体ではなくって心の病だった」に傍点]んだね。
聞いたところ、一昨年の六月下旬、彼は自殺騒ぎを起こしたらしい。アトリエの鴨居にロープをかけて首を吊ろうとしたところを、彼のお母さん――沙和子さんが見つけて、大騒ぎになった。彼はその時ひどい錯乱状態にあって、それを何とかなだめすかして、市内のある精神病院へ連れていった……とまあ、そういう話だったんだよ。
早速僕はその病院を訪ねて、その時――そしてその後一年間の入院中、彼の治療を受け持った医師に会ってみた。医者は患者の秘密を絶対に守るっていうから、ちょっとやそっとじゃあ聞き出せないかなと思って行ったんだけれども、こっちで起こっている事件のことを説明すると、意外にあっさりと話してくれた。できればなるべく早くに、また入院させた方がいいかもしれない、と云ってね。
簡単に云ってしまうと、彼はかなり重い神経症にかかっていたらしい。自殺願望っていうよりも、自分は死なねばならない[#「自分は死なねばならない」に傍点]、と、そういった激しい思い込みが彼にはあって、どうもその原因は、幼少の頃彼が犯した逸脱行為にあると思われる。それを責めてやまぬ強い罪の意識が、彼の心の中に大きな心的外傷《トラウマ》として残っているようだ――と、確かそんなふうに医師は云っていた。これが要するに、二十八年前に実の母親をはじめとする何人もの人間を死なせてしまった例の列車事故であり、そのあとの子供殺し≠セったわけだ。
去年の夏、彼を退院させることにしたのは、精神状態がある程度安定してきたことに加えて、彼の育ての母親沙和子さんの存在が、一つの大きな理由としてあったんだという。
あのお母さんは、何て云うか、彼のことを殆ど盲目的に愛していた人だったと、これは僕もそう思う。彼を生かすために生きている[#「彼を生かすために生きている」に傍点]。そんなところがあった。だからね、自分が先に死ねば恐らく彼女も生きてはいまい、と、その辺のことを彼自身もよく分っているようだったから、彼女の存在自体が歯止めとなって[#「彼女の存在自体が歯止めとなって」に傍点]、そうむやみに自分を傷つけるようなことはしないだろう。医師はそう判断し。退院を許した。
その際に、できればよその土地へ移った方が、とも云ったらしいよ。幼少時の『罪』の記憶を刺激する環境的な要因は、なるべく取り除く方がいい、というわけだね。
こうして彼のお母さんは、その半年前に彼の実父飛龍高洋氏が死んでいたこともあって、二人で京都へ越してくることにした。静岡の方の、近所の人たちの目をはばかる気持ちも、少なからず働いたに違いない」
「そういえば、確か――」
希早子は、そこで思いついたことを云った。
「精神分裂病の人って、絵を描かせると、中間色をあんまり使わない――原色を多く使いたがる[#「原色を多く使いたがる」に傍点]って、いつか聞いたことがあります」
「ああ、うん。ゴッホなんか有名だものね。神経症と精神分裂病は別物だけど、彼の心に分裂病的な傾向がなかったとは云いきれないだろうから……」
「それにしても架場さん、一体どうして、二十八年前なんていう、そんな昔の心の傷が最近になって急に首をもたげてきたわけですか。そんなに根深い傷なんだったら、もっと早く何か症状を現わしても良さそうに思うんですけど」
希早子の問いかけに、架場は珍しく眉間《みけん》に皺を作り、
「付け焼き刃の知識なんだけれども、この手の病気の原因っていうのは、結局のところ今もって謎の部分が圧倒的に多いんだね。ただ、遺伝的な素質っていうものがある種の病気の発現要因の一つとなっていることは、やっぱり確からしい。
彼の中に元々、何かそういった要素があった可能性は否定できない。父高洋氏の死に方を考えても、彼の父方の又従兄弟に当たる辻井雪人のことを考えても……ね。勿論、幼少時の異常な体験っていうのも大きな要因なんだろうけど、それをそのまま発病と結びつけるのは、ひょっとしたら間違いなのかもしれない。
凄く難しい問題だと思う。最近では従来の精神分析的なアプローチよりも、むしろ大脳生理学とかね、そういった分野からの研究がクローズアップされているとも聞く。
フロイトなんて、確かに云ってみれば一種の宗教だものね。ま、こういうふうに云いだせば、極端な話、この世の中で人間が関与する物事っていうのは、どんなものであれ一種の宗教現象として論じられるわけだけれど。
まあ、それはともかくね、この事件の真相は、とても僕なんかには説明しきれることじゃないと思うんだよ。だからこのあとの話は、単なるそれらしい解釈[#「それらしい解釈」に傍点]の一つとして聞いてほしい」
1
真っ白な壁。真っ白な天井。清潔だが、それだけにかえって寒々とした、四角い檻《おり》のような部屋。その片隅で、独り膝を抱えている私……。
そうだ。
いつも――いつも私の目は、暗い、真っ暗な死の淵を見つめていた。
――――1
(お前は死なねばならない)
* * *
「飛龍想一の心の中にはずっと、破滅へのリビドー≠ニでも云おうかな、自分を死≠ヨ向かわせようとするベクトルがあった。そして、それを理由づける強力な拠り所が、幼少時の『罪』の記憶だったのだと、そう考えてみる。
小学校、中学校、高校と、昔から彼は内向的で、ともすれば自閉症的にさえなりがちな少年だった。けれども、学校の教師なりクラスメイトなり、少なくとも意識の対象とする他者が、毎日の生活の中で身近に多く存在していたわけだから、その意味において、彼の精神生活はまだしも健全だったと云える。
例えば、彼は絵を描く際、たとえ無意識の内にでも、自分の犯した『罪』をそこに投影し、それを他人に見せる[#「それを他人に見せる」に傍点]ことによって『罪[#「罪」に傍点]』の告白[#「の告白」に傍点]を行ない続けることができた。そういった一種の懺悔《ざんげ》による罪悪感の浄化が、死≠ヨ向かおうとする彼の精神を救っていたわけだ。これは、大学時代においても同じだったろうと思う。
ところが――。
大学を卒業し、就職もせず実家に帰り、殆どの時間を家に閉じこもって過ごすようになった彼には、一体何が残ったか? 母親との接触を除けば、それは自分自身との対話だけだった。彼は他人に見せることを意識せず、自分のためだけの[#「自分のためだけの」に傍点]絵を描き始め、描き続けることとなった。もはやどこにも告白する当てのない『罪』の意識に裏打ちされた、自家中毒を招くばかりの死≠フ描写……。
彼は、そしてついに自殺を試みるに至り、それに失敗した。失敗の原因は、母親に見つかったからだった。嘆き悲しむ母の姿を見て、彼女のために[#「彼女のために」に傍点]、やはり自分は生きなければならないと、そう思い直した」
いつしか架場は、淡々と物語を語るような口調になっていた。
「一年間の入院生活で、表面的には、彼の精神状態は安定したかに見えた。自分が一年前に自殺をはかろうとした事実さえ、彼は忘れてしまっていたのかもしれない。
けれども、その間にも彼は、心の奥に潜む死≠ヨの衝動と懸命に戦い続けていたのではないかと思うね。母のために生きねば[#「母のために生きねば」に傍点]、と、恐らくそれだけを自分に云い聞かせて、死≠ノ傾こうとする生を生きた。退院を許され、京都へやって来た時既に、もしかすると彼の心は、その裏側で、にっちもさっちも行かないようなところにまで追いつめられていたのかもしれない。
八月に新聞で見た列車事故や子供殺しの記事は、ほんのちょっとした揺さぶり[#「揺さぶり」に傍点]をかけただけだったんだと思う。それよりも決定的に彼の心のバランスを崩す引金となったのは、九月――この『来夢』での僕との再会だったんじゃないか。
彼が十何年かぶりで会った僕の顔に見たもの――それは、意識の深層に沈んでいた、『マサシゲ』という、彼が二十八年前に死なせた子供の面影だった。以来彼は、例の記憶の疼き≠頻繁に感じるようになった。
そうして――。
飛龍想一という一人の男の中に[#「飛龍想一という一人の男の中に」に傍点]、新たなもう一つの人格が生まれることになったんだ[#「新たなもう一つの人格が生まれることになったんだ」に傍点]。つまりその、彼の第二の人格[#「第二の人格」に傍点]こそが、その後彼の身辺で連続して起こり始めた不審事の遂行者であり、例の手紙の主であったわけだね。
第二の人格――それは、飛龍の心の中に潜在する、彼の『罪』の告発者、かつまた死≠ヨ向かうベクトルの忠実な推進者だった。この〈彼〉は、自分を飛龍想一とは別個の人間であると意識し、彼を殺さねばならない[#「彼を殺さねばならない」に傍点]、と考える。それも、彼を怯えさせ、己の罪深さを悟らせ、その上で殺さねばならない、と。そこには実は、〈彼〉自身の生みの母親でもある飛龍実和子を殺したことに対する復讐≠フ念もあったのかもしれない。
〈彼〉はまず、彼の『罪』を告発するメッセージを込めた執拗な嫌がらせを行なった。次に、今度は手紙で、彼にその『罪』を『思い出せ』と迫った。
ところが、その次――裁き≠るいは復讐≠ニいう動機をもって彼を殺す、その最終目的の前に[#「その最終目的の前に」に傍点]、どうしてもしておかねばならないことが[#「どうしてもしておかねばならないことが」に傍点]、〈彼〉にはあったんだ。それが、母親――叔母の沙和子を殺すことだった。
整理すればこういうことだね。〈彼〉は、彼を殺さねばならない。彼は、沙和子のために生きねばならない。そこで[#「そこで」に傍点]〈彼[#「彼」に傍点]〉は[#「は」に傍点]、事前にその沙和子を亡き者とし[#「事前にその沙和子を亡き者とし」に傍点]、彼が生きる理由を消し去っておいてやらねばならなかった[#「彼が生きる理由を消し去っておいてやらねばならなかった」に傍点]。
さて――。
母屋に火を放つことで首尾良く沙和子を葬った〈彼〉は、それもまた飛龍自身の『罪』なのだと告発する手紙を書き、己の執行者≠ニしての立場をより正当化しようとする。本来ならばそのあと、そんなに間をおくこともなく、〈彼〉は何らかの方法で――例えば毒薬や何かの時限装置を用いるとかして、彼を殺害し、それで全てが終わるはずだったんだ。
ところが、そこへ……」
2
希早子――。
ああ。彼女の生≠見つめる瞳。あんなにも生き生きと輝いて……。
――――2
(あの女を殺さねばならない)
* * *
「そこへ現われたのが、道沢さん、君だったんだね」
と、架場は云った。
「わたしが?」
驚く希早子に、架場はゆっくりと頷きを返し、
「飛龍君は君とここで出会い、話をし、そしてきっと、君に惹かれたんだと思う。自分とは全く反対の方向性を持った――つまり生≠ノ向かって生きる君の内面に触れ、それに少なからぬ感化を受けた。自分の中に突然生まれた生≠フベクトルに、恐らく彼は、悲しいほどに当惑したことだろう。
第二の人格の〈彼〉は、沙和子に代わって出現した君――彼を[#「彼を」に傍点]生[#「生」に傍点]≠ノ引き留めようとする新たな力[#「に引き留めようとする新たな力」に傍点]を察知して、そこでまた足踏みを余儀なくさせられたわけだ。
一方――ここで更に話がややこしくなるんだけれども、君との接触と前後して、飛龍の大学時代の友人だった島田潔という男が出てくることになる。島田は昔、飛龍と同じ下宿にいて、東京での彼の心の拠り所のような役割を果たしてきた友人だった。その島田から届いていた手紙を、彼は発見した。
君との接触によって再び生≠ノすがろうとし始めていた彼は、今の自分を助けてくれる存在として、この島田の登場を切実に願った。
年が明けて、飛龍の許へ島田から電話がかかってきた。飛龍が期待した通り、島田は彼が苦境に陥っていると聞くと、その話をいろいろな角度から分析し、彼の力になろうとした。
そうして島田が提出した推理の一つが、緑影荘の住人全員が犯人であるという、例の説だった。島田は、二十八年前の列車事故の新聞記事を調べたと云い、そこに記載されていた事故の犠牲者の姓が、緑影荘の住人たちの姓と同じなのだと指摘した。飛龍は、一も二もなくそれを信じた……。
この件についても僕は、それを飛龍から聞いた当初から、何となく変だなとは思っていたんだよ、あまりと云えばあまりの偶然だろう? 水尻夫妻が犠牲者の遺族を呼び集めたんだという仮説にしても、あまりにも強引というか、絵空事めいててまるで現実味がない。
そこで、先週静岡へ行った際、地元の新聞社に勤めている知り合いに頼んで調べてもらったんだ。すぐに、その答は出た。つまり――。
問題の列車事故で死んだ乗客は、飛龍実和子の他に、確かに四人いた。しかし、その四人の苗字の内[#「その四人の苗字の内」に傍点]、あのアパートに住んでいる連中の苗字と同じものは[#「あのアパートに住んでいる連中の苗字と同じものは」に傍点]、一つとしてなかった[#「一つとしてなかった」に傍点]んだ。
ここで僕は、飛龍が電話で話をしているという、この島田潔という男の存在そのものに、大きな疑念を抱かざるをえなくなった」
3
島田潔――。
この部屋に来てから、彼とは一度も連絡を取っていない。
今頃、彼はどうしているだろう。心配してくれているだろうか、私のことを。
――――――――1
………………
* * *
「でも――」
希早子は今更ながら、顔に驚愕の色が浮かぶことを抑えられなかった。
「でも、そんなことって」
「いや。島田潔っていう名前の、飛龍の大学時代の友人は、勿論確かに、現実の人間として存在する。彼が大分県に住んでいて、中村青司っていう例の建築家が建てた建物で起こった事件と関係したことがあるっていうのも、現実のことだ。去年の夏に静岡から転送された、飛龍想一宛ての彼の手紙というのも、確かにあのアトリエに残っていた。消印や筆跡からして、それが島田潔本人の手によって書かれたものであることは間違いないと思われる。
僕が今云ったのは、分ってるだろう? あくまでも飛龍が今年の一月以降連絡を取っていたという[#「飛龍が今年の一月以降連絡を取っていたという」に傍点]〈島田潔[#「島田潔」に傍点]〉のことで……。まあ、こんなくどくどと云う必要はないか。君も実際に、あの[#「あの」に傍点]〈島田〉と会っているわけだものね。
つまり、そういうことだったんだ。
この[#「この」に傍点]〈島田潔[#「島田潔」に傍点]〉は[#「は」に傍点]、本物の島田潔ではなかった[#「本物の島田潔ではなかった」に傍点]。彼からかかってきたという電話も、そこでの会話も、全ては飛龍の妄想だった。云い方を変えれば、〈島田潔[#「島田潔」に傍点]〉とは[#「とは」に傍点]、飛龍想一の心の中に生まれた第三の人格だった[#「飛龍想一の心の中に生まれた第三の人格だった」に傍点]」
「第三の、人格……」
「そう」
架場は真顔で頷いた。
「人格分裂というのは精神科で云うヒステリーの一症状らしいんだけど、普通は二重人格を思い浮かべるよね。しかし実際には、三つ以上の多重人格の事例も、過去、多く報告されている。
例えば、有名なものでは、アメリカのモートン・プリンスっていう医師の著述にある、十八歳の少女の三重人格の症例。この少女は、『聖人』『婦人』『悪魔』とプリンスが命名した、三つの異なる人格を持っていたらしい。少なくとも六つの異なった人格が観察された、フランス人の例もあるっていうね。もっと凄いのは、例の『シヴィルの十六人格』っていうの――日本でも一時期ちょっと話題になってたけど、聞いたことないかい?
もっとも、今回の彼――飛龍のように、一つの人格をベースにして、その他の二つの人格が短時間の内に交替して現われるといったような症状は、本当に特殊な、ごく稀《まれ》なケースなんだろうと思う。
さっきも云ったように、彼は君と出会ったことによって、それまでついぞなかったような生≠ヨの衝動を覚えた。ところが、それは彼の意識の深いところにおいては、あまりにも自分にふさわしくない自分には到底同調できるはずのない、そんな方向性として認識された。自分一人の力では、どのようにしたって君のように生≠ノ向かって生きることはできない。しかも自分は今、何者かに命を狙われている……。
そこで彼は、誰か信頼できる人間が自分のそばに現われ、自分を励まし、自分に力を貸してくれることを、それこそ狂えるほどに切望した。そしてそれが、島田潔という一人の男の登場を招いたわけだ。
第三の人格〈島田〉は、第二の人格〈彼〉とは逆に、本体[#「本体」に傍点]である飛龍を助け、彼を生≠ヨと向かわせる役割を担《にな》っていた。かつて、本物の島田潔がそうであったようにね。
ここで肝心と思われるのは、この〈島田〉が、飛龍を死≠ヨ追いつめようとする彼の正体を知らなかったということだ。これはこの逆についても同様――つまり、〈彼〉の方でも、〈島田〉の正体を知らなかったんだろう。
だから〈島田〉は、飛龍から事件についての相談を受けると、彼なりに[#「彼なりに」に傍点]それを分析し、飛龍の力になってやろうと努力した。列車事故の新聞記事にしても、秘密の通路の存在を指摘したことにしても、彼にしてみれば決して飛龍を騙したり、混乱させたり、嘘を云ったりするつもりで行なったことではなかった。あくまでも彼は、島田潔として[#「島田潔として」に傍点]、飛龍を助ける名探偵≠フ役割を果たそうとしたんだと思う。
一方、君や〈島田〉の登場によってしばらくなりをひそめていた〈彼〉は、何らかの機会に、恐らくは偶然、緑影荘の住人の一人、辻井雪人が子供殺し≠フ犯人であることを知った。〈彼〉は、二十八年前に飛龍が犯した子供殺し≠そこにだぶらせて見、『もう一人の飛龍想一』として、辻井を殺さずにはおれなくなった。
辻井殺しを無事終えると、勢いをつけた〈彼〉は更に次の行動へ移る。飛龍を[#「飛龍を」に傍点]生[#「生」に傍点]≠ノつなぎ留める鎖を[#「につなぎ留める鎖を」に傍点]、もう一度断ち切る必要に迫られて[#「もう一度断ち切る必要に迫られて」に傍点]、だ。望むべき死≠ヨと彼を導くため、そこで殺さねばならなかったのが、だから、道沢さん、君だったというわけだ。
このあとは、君が一番よく知ってるよね。
先週、〈彼〉はそれを実行に移した。君を待ち伏せ、そのあとを尾け、砂を詰めたマネキン人形の腕を凶器に使って君を殴り殺そうとした。ところが――、その土壇場になって、飛龍の意思に従って君を救おうとする〈島田〉が現われ、〈彼〉の邪魔をした……。
それまで〈島田〉は、例の断線したアトリエの電話においてしか現われていなかったんだけれども、ここに来て、飛龍の、より切実な要請によって、生身の人間として[#「生身の人間として」に傍点]登場することになった。
〈島田〉は、秘密の通路の存在から犯人は外部の者であると推理し[#「推理し」に傍点]、更には、飛寵の記憶を埋める最後の一片として『マサシゲ』という子供の名前を思い出した[#「思い出した」に傍点]。そうして彼が辿り着いたのが、この僕が『マサシゲ』の弟で、その復讐のために飛龍を狙っている、という結論だったわけだね。
あくまで君を真犯人の手から『助けた』つもりでいた〈島田〉は、自らの手で事件を解決しようと決意し、翌日の正午に緑影荘へ来るよう云い渡した。そして次の朝には、彼がそうだと信じていたところの真犯人――つまり僕に、呼び出しの電話をかけてきた」
架場はそこで、そっと希早子の顔を見た。何か返ってくる言葉を待っているように思えた。訊きたいことがまだ山ほどあるような気もしたのだが、結局希早子は何も云わなかった。
「あと、別にどうでもいいことだけど――」
架場は云った。
「川添刑事――こないだ君も事情を訊かれただろう? 彼らがあのあと、飛龍が使っていた部屋を調べた結果、アトリエの机の抽斗の奥から、例の手紙と同じ便箋が見つかったらしい。それから、アパートの部屋の方では、血で汚れたカーディガンがワードローブの奥に隠されていたっていう。この血液型が死んだ辻井雪人のものと一致することも、既に確認されている」
「…………」
「初めにも云ったけれど、今話したのは殆ど、表に現われた事実に対する、僕の勝手な一解釈にすぎないわけで」
架場はそう云って、あるいは自嘲のようにも取れる、微妙な笑みを目に浮かべた。
「いずれ専門家が、また違った解釈を打ち出すことだろう。飛龍――彼自身も、一体自分に何が起こったのか、今もなお懸命に考えているのかもしれないね」
「そんな云い方って、でも……」
やりきれない気持ちで、希早子は口を開いた。
「でも……じゃあ、真実は一体どこにあるんですか」
「真実――か」
呟くと、架場はそっぽを向くようにして窓の外へ視線を移した。
「さてねえ」
「架場さん」
更に希早子は、思い切って質問した。
「どうしても気になるんですけど、昔何かで死んだっていう架場さんのお兄さんって、本当は『マサシゲ』なんていう名前じゃなかったんですよね」
そんな偶然、あるわけがないと思う。
「飛龍さんが死なせてしまったのは、実際は全く別の子供で……」
けれども――と、一方で希早子は疑問を感じてもいた。
どうして架場は、もっと早くに何か積極的な手を打とうとしなかったのだろう。確信がなかった、と彼は云う。しかし、事は人の生死に関わる問題だったのだ。もっと早く例えば川添という先日の刑事に相談してみるなりすべきだったのではないか。そうするのが、友人としては当然の行動だったのではないのか……。
「ね、架場さん。どうなんですか」
「そりゃあ……」
希早子の真剣な眼差しに、架場はちょっと気圧《けお》されたように口ごもったが、すぐに小さな目をすっと細めて云った。
「さて、どうなんだろうね」
心の奥深くで見え隠れする、遠い――遠すぎる風景。それは決して、誰にも話すものではない。
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エピローグ 島田潔からの手紙
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拝復
まだ寒さが続く毎日ですが、お元気でお過ごしのことと思います。
先日は、飛龍想一君の事件について知らせていただき、有難うございました。
昨年末、彼からうちへ電話があったらしいのですが、あいにく僕は家を空けており、話すことができませんでした。こちらから連絡を取ろうともしたのですが、退院後の転居のことを僕は知らされておらず、引っ越し先の住所も分らなかったもので、結局は漠然と気に懸けているしかなかったという次第です。
さて、お尋ねの件について――。
御承知の通り、建築家中村青司は一九八五年の九月に死去しており、その際に彼が住んでいた家も焼失してしまっているので、詳細な資料は手に入らないというのが実情です。要は、彼がいつどこでどんな建物を建てたのかを正確に調べ出すことは、個人の力では非常に難しいことであるわけです。
しかしながら、お尋ねの件に関しては、とりあえず僕の考えをお答えできるように思います。
一九八五年の死亡当時、青司の年齢は四十六歳でした。飛龍君が住んでいたその家が彼の父上高洋氏によって改築されたのが、今から二十七、八年前――一九六〇年頃だということですから、その頃、青司はまだ二十歳過ぎ、大学の建築学科に在籍していたか卒業まもなくだったか、という計算になります。その時期に、彼が京都の高洋氏から仕事の依頼を受けたとは、到底考えられません。
従って――。
飛龍君の家は、中村青司とは何の関係もなかったということになります。違う云い方をすれば、中村青司が手を染めた京都の[#「中村青司が手を染めた京都の」に傍点]「人形館[#「人形館」に傍点]」なる建物は[#「なる建物は」に傍点]、現実には存在しない[#「現実には存在しない」に傍点]、ということです。
いずれ近い内に、飛龍君を見舞いに京都へ行くつもりでいます。その時、あなたともお会いできればいいと思います。
まずは右、取り急ぎお礼と御連絡まで。
御自愛のほど、お祈り申し上げます。
[#地から1字上げ]敬具
一九八八年 二月七日(日)
[#地から1字上げ]島田 潔
架場 久茂 様
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[#地付き]――了――
(本書は一九八九年四月、小社ノベルスとして刊行されました)
[#改ページ]
文庫版あとがき
別の本の「あとがき」でも述べたことですが、作家にとって自分の作品はどれも、この上なく可愛い、同時に憎たらしくもある存在です。中には可愛いばかり、あるいは憎たらしいばかり、と云う作者もいるでしょうが、少なくとも僕について云えば、全ての作品に対して「可愛い」と「憎たらしい」、両方の想いが拮抗してあります。
褒《ほ》められれば嬉しいし、貶《けな》されれば悲しい。この単純な心理も、単純なようでいてなかなかに複雑なものです。ほんのちょっとした誰かの褒め言葉で一日中うきうきしていたり、傍目《はため》から見れば別に気にしなくてもいいようなことでどうしようもなく落ち込んだり、それでいて、時には自ら自作のことを殊更のようにあしざまに評してみたり、本気で本を投げ捨ててしまいたくなったり……と。
「館」シリーズの四作目に当たるこの『人形館の殺人』は、とりわけそういったアンビバレントな想いの強い作品です。すごく愛着がある、けれど一方で、激しい嫌悪感を抱いてもいる。今回ゲラの手入れのため久しぶりに通読してみて、ますますその想いは強くなったようです。
理由はいろいろと考えられます。
ここで一つ云ってしまうとすれば、それは、この作品がある意味でひどくいびつな[#「いびつな」に傍点]形をした代物であるから、ということでしょう。そして恐らく、そのいびつさ[#「いびつさ」に傍点]をどのように受け止めてくださるかによって、読者の皆さんのこの作品への感想や評価も決まってくるのだろうと思っています。
もう十年ほども昔のことになりますが、学生時代、「たけし」と呼ばれていた(本名は「たけし」ではない)友人と二人でフォーク&ブルースのバンドを組んで、京都の街の小さなライブハウスに出ていました。その頃のレパートリーの中に、「孤独の唄」というお気に入りのオリジナル曲がありました。当時の自分の、袋小路に入り込んでしまったような暗い感傷をテーマにした歌なのですが、『人形館』と云うとどうしても、この歌の詞とメロディーが浮かんできます。
その辺の個人的な事情もきっと、『人形館』に対する過剰な思い入れの一因になっているのだろうなと思います。
例によって、講談社ノベルス版の親本で犯してしまったかなり大胆なミスを、この文庫版では訂正させていただきました。おおかたの皆さんにとっては、多分どうでもいいような点だろうとは思うのですが、作者は改訂の機会を得られてホッとしております。
ところで、「館」シリーズを始めた当初は、実を云うとこの四作目で連作を終えるつもりでいたのです。ちょっと変わった形をした四部作、というふうに考えて。
その予定を変更して五作目、六作目と続けているのは、僕自身が、この中村青司という建築家の造った異形の建物たちに対して、当初抱いていた以上の興味を持つようになったからだ、と云えるでしょうか。シリーズはこのあと『時計館』『黒猫館』と続きますが、さらにその先、どのような「館」でどのような「殺人」が起こるのか、いちばん知りたいと思っているのは他ならぬ作者自身であったりします。
ともあれ、シリーズ完結までにはまだ相当に長い時間がかかりそうです。どうか気長にお付き合いくださいますよう。
[#地から5字上げ]一九九三年 四月
[#地から2字上げ]綾辻 行人
[#改ページ]
解 説
[#地から3字上げ]太田忠司
「新本格」という言葉に関心を寄せる人にとって、一九九二年というのはある意味で象徴的な年だったのではないでしょうか。
この年、法月編太郎の『ふたたび赤い悪夢』、我孫子武丸の『殺戮にいたる病』といった、それぞれの作者にとってのターニングポイントとなるであろう作品が発表される一方で、オリジナル・アンソロジー『奇想の復活』が、あらたな書き手の登場を予感させてくれたのです。
それはあたかも、同じ港を出港した船たちが、大洋に出た時点でそれぞれの目的地に赴くべく航路を大きく転回してゆくような光景でした。そんな流れを一望することができたのが、この年だったわけです。
その中で、先頭を切って走りつづけていたひときわ巨大な一艘、それが綾辻行人でした。
この年、綾辻行人は前年に発表した『時計館の殺人』により、第四十五回日本推理作家協会賞を三十一歳という史上最年少の若さで受賞しました(ちなみに『龍は眠る』で同賞を一緒に受賞した宮部みゆきさんは同年同月同日生まれ。しかし五時間ほど早く生まれたので最年少の座を綾辻さんに奪われてしまった、と受賞パーティの場でおっしゃっていました)。
その際の「受賞のことば」において氏は、「このような『ミステリ以外の何物でもない作品』によって今回推理作家協会賞を受賞できたことは、やはり最高の喜びです」と記しています。この短い言葉の中には、綾辻行人という作家の姿勢が端的に現れているように思えます。
「ミステリ以外の何物でもない作品」を書く。
このスタンスこそが、「ミステリ以外の何物でもない作品」を読みたがっていた読者に共感され、熱狂的に支持された理由なのでしょう。
ではしかし、綾辻行人にとって「ミステリ」とはどういうものであるのか。
それについては氏自身が著書のあとがきや島田荘司氏との対談などで、折りにふれて話しています。そうしたことを踏まえつつ、僕はこの場で「館」シリーズを再読してみた上での私見を述べてみたいと思います。ここで「私見」と断ったのは、僕の見方が偏っていることをあらかじめ表明しておきたいからです。あらゆるテキストは誤読されるものではありますが、もとより評論家などではない僕には、自分の側に引き寄せずに論を進めるといった芸当はできそうもありません。ましてやデビュー以来熱狂的に愛読しつづけている作家の作品について客観的に論ずることなど、できようはずもない。
だからこれは「極私的綾辻行人論」なのです。
結論から言えば、綾辻行人は「世界」を構築する作家です。そして「世界」を破壊する作家でもあります。
しかしそのことについて論ずる前に、昭和三十年代以降、いわゆる「清張以後」の日本ミステリが「世界」をどのように描いていたかを見ておきましょう。「清張以後」というのは昭和三十二年に松本清張が『点と線』でミステリ界に革命的な風を送り込んで以降の時代を指すのですが、この時期は江戸川乱歩、横溝正史に代表されるような怪奇幻想の探偵小説や、奇抜なトリックをメインにした本格ミステリを「非日常的な絵空事」として排し、テーマの中心に社会的観点を据え、ミステリをより「現実的」なものへと変えていこうとする風潮が支配的でした。こうした動きはミステリが小説として成熟していく上での過程として、積極的に評価することもできます。しかし清張に続いて出版された膨大な「社会派推理小説」の中には形としての「社会派」にこだわるあまり、それがなぜミステリとして書かれなければならなかったのかという視点が欠けている作品も見られるようになり(さすがに先駆者である清張はコツをはずすようなことはありませんでしたが)、結果的にこのジャンルの作品を衰退させていく結果を招いたのでした。
しかしジャンルとしての社会派は衰えても風潮は残りました。ミステリは「現実」を描くものであり、非日常的なトリック小説などもう時代遅れであると見なされていたのです。
そんな時代に綾辻行人は生まれ、そしてミステリを知ったのです。
「小学校のときに少年探偵団やルパン、ホームズを読んでミステリーが好きになるでしょ。次にクイーンやクリスティを読んで、黄金期の本格物に魅せられて、じゃあ今の日本のミステリーはどうなんだろうと見まわすと、社会派しかない。『本格推理』と銘打たれていても、読んでみると全然、自分が魅せられたような『本格』じゃない。これはどうしたことだ……って」(『本格ミステリー館にて』〈森田塾出版刊〉より)
僕自身、氏と同年代なので「これはどうしたことだ」という呟きの意味はよくわかるつもりです。ふりかえってみればあの頃、特に大学生活を送っていた昭和五十年代あたりのミステリ状況は、本当に奇妙でした。横溝映画の人気に端を発したミステリブーム、また夢野久作、小栗虫太郎といった探偵小説作家の再評価もあいまって、戦前戦後の名作群が文庫の形で比較的容易に読めるようになったという状況が一方にあり、僕たちは砂漠のオアシスで渇いた喉を潤《うるお》すように、それらの作品を読み続けたのでした(これは蛇足ですが、その頃に比べると現在はある意味で不幸な時代かもしれません。古典的地位を確立した作品でさえ、容易には読めなくなっているからです。鮎川哲也の『黒いトランク』や泡坂妻夫の『乱れからくり』が本屋に置かれていないなんて、この国の文化はなんと不毛なのでしょうか)。
しかし名作はやがて読み尽されてしまいます。僕たちは渇きを癒《いや》すために、次々と出版されている現在進行形の作品群も読みはじめました。だが新作として世に出される作品には、(一部の作品を除いて)名作たちが持っているような魅力が感じられませんでした。僕たちがミステリに求めていたものは、現代のミステリ界が追放してしまった物の中にあったようなのです。
こうした経験を持つ綾辻行人が自らミステリを書こうとしたとき、かつて自分を魅了した作品たちと同じものを志向するのは当然のことだったのでしょう。
しかしここで間違ってはならないのですが、綾辻行人は決してかつての名作たちの模倣をしたわけではありませんでした。このあたり、作品の「形」だけを見て批判をしている人もいるようです。つまり「いまどき無気味な洋館を舞台にした殺人事件なんて時代遅れな作品を書いている」といったような。
これは、誤解に他なりません。そうした先入観で眼を覆っている限り、綾辻作品の凄さは見えてこないでしょう。作品の舞台は現実的な地平に建っています。離れ小島に建てられた十角形の館も、山間の川の流れで三連水車を廻している城のような館も、(この際、建築法がどうとかいう話は抜きにして)現代日本に建つことを許されないわけではないのです。館に住む人々にしても、間違いなく現代の人間です。ただ、館も人間も綾辻行人の用意した世界に支配されているだけなのです。
世界による支配――それは何も閉鎖的な館を舞台にしているというだけの意味ではありません。むしろ逆にこう言ったほうがいいかもしれない。館も人間も、作品の中にあるものすべてが共犯して、ひとつの世界を形作っているのだ、と。
今までに綾辻作品を読んでいる方なら理解していただけると思いますが、氏の作品は冒頭に奇抜な謎が提示されるといった形のものではありません。読者はまず、物語の舞台となる場所に案内されます。そしてときにはしつこいと思われるほどじっくりと、館の情景や由来についての説明を受け、人物の関係について知らされます。いつの間にか読者は館もその住人にも馴染み、そして気がつくとすっかり作品世界に浸りきっている自分を発見するのです。
やがて事件が起こります。当初からかすかな歪みを内包していた世界は、事件によって少しずつ綻《ほころ》びを露わにしてきます。過去が掘り起こされ、罠は読者が訪れたときすでに仕掛けられていたことに気づかされます。
そして、カタストロフ。事件の真相が語られ、トリックが、犯人が明かされます。その瞬間、今まで読者の前に見えていた世界があっと言う間に崩壊します。表向きの顔は消え、中に隠されていた本当の顔が現われるのです。
この一瞬、緻密に構築されていた世界が瓦解し散華するときのカタルシス。これこそが綾辻ミステリの真骨頂ではないでしょうか、そしてそれこそが、かつて綾辻行人を本格ミステリにのめりこませていた甘美な毒の正体なのではないでしょうか。
現実とは一見強固な基盤の上に立っているように思われます。その強固さが個人としての人間を圧迫し、ときには殺しもします。しかし僕たちは内心気づいているのです。揺るぎない現実というものなど存在せず、実は様々な幻想が折り重なってひとつの様相を呈しているにすぎないことを。
本格ミステリにおいて探偵が「さて……」と真相を語りはじめるとき、僕たちは世界がひび割れる音を聞くことができるのです。探偵が玩《もてあそ》ぶ論理は、世界を打ち砕く槌なのです。
前もって釈明しておいたように、これは僕の私見にすぎないかもしれません。ただ僕個人は、綾辻作品の現実破壊の力に魅せられている。それは間違いのないことなのです。そうした観点に立って氏の作品を見回してみるとき、この『人形館の殺人』という作品の占める位置は、なかなかに大きいものがあるのです。
この作品は異色作です。どう異色なのかは読んでいただくほかはないのですが、とにかくそう言い切ってしまいます。
異色であるがゆえに、この作品は読者に困惑をもって迎えられたようです。正直な話、僕も最初に読んだときは驚きました。その驚きの質が望んでいたものと違っていたがゆえに、(個人的にはその語り口が僕の好みに一番合っていたにもかかわらず)それ以来ずっと『人形館』に対する評価は混乱したものでした。
しかし今回再読してみて、僕は自分の不明を恥じました。最初に読んだときにはこの作品の凄さを半分も感じていなかったようでした。
結末におけるカタルシスの深さにおいて、この作品を凌駕《りょうが》できるものは少ないでしょう。現実世界は粉々に砕かれ、跡形も残らなくなります。エピローグを読み終えたとき、読者はどこでもない完全な空白の中に置き去りにされてしまいます。
まさに、ノックアウトです。
作者自身が『時計館の殺人』のあとがきで「一番気に入っている作品」と言うだけのことはあったのです。それがどうして初読のときにわからなかったのか。恐らく読者である僕が「館シリーズ」という制約に自らを縛っていたからでしょう。先入観は百害あって一利なし、ということなのでしょうね。
できることなら、この文庫を読まれる皆さんには僕と同じ過ちを犯さないでいただきたいと思います。
もうひとつふたつ、この作品について言及しておきたいことがあります。ひとつは人形館の立地環境について。
今までの館は十角館にしろ水車館にしろ迷路館にしろ、一般社会とは隔絶した場所に建てられていました。ところがこの人形館は京都の左京区北白川――京都駅からタクシーで三十分ほどのところにある、お屋敷町の一角に建っているのです。これだけでも充分に異色です。つまりこれは、隔絶した世界を設定しなくても、充分に本格ミステリを描くことができる、と綾辻行人自身が確信を抱いたからではのことではないでしょうか。その確信は正しかった、と僕は思います。このことは後に続く新人作家にも考慮してもらいたいものです。
もうひとつは、先程少し触れた語り口について。
この作品は飛龍想一の一人称という形をとって語られていきます。『水車館の殺人』で部分的に一人称を使用していますが、これで押し切ったのは『人形館』が初めてでしょう。しかもその語り口は多分にニューロティックであり、氏のもうひとつの作品群である『囁き』シリーズ(ノンノベル刊)、それも最新作の『黄昏の囁き』に通ずるものを感じます。さらにそれはサイコホラーミステリとでも言うべき『殺人鬼』(双葉社刊)へと通じ……、つまり綾辻行人という作家に内在する、たぶんまだ充分には開花させてはいないであろうもうひとつの資質の片鱗《へんりん》を覗《のぞ》かせるものでもあるのです。
こうした意味からも『人形館の殺人』は、綾辻ミステリにおいてかなり重要な作品なのだ、というのが僕の解釈です。
読書とは格闘技である、と思います。
作品と真正面から立ち向かい、真剣勝負で闘うものである、と。しかし僕は、この勝負に勝ちたいとは思っていません。むしろ負けたいのです。思わぬ技に脳天を直撃され、こてんぱんにやっつけられてしまいたい。これこそが本読みの本懐である、と信じてやみません(もちろん、こんな読み方ばかりしていては疲れてしまうので、ときには軽く流せる読書も欠かせないのですが)。
そんな僕にとって、綾辻行人は理想的な格闘家のひとりです。彼の技は確実に僕をマットに沈めてくれます。だから綾辻行人の名を記された本を閉じるとき、僕はいつでも至福のテンカウントを聞くことができるのです。
[#改ページ]
人形館《にんぎょうかん》の殺人《さつじん》
綾辻行人〈あやつじゆきと〉
1993年5月15日第1刷発行
1993年9月14日第3刷発行
発行者 野間佐和子
発行所 株式会社講談社
平成十九年五月五日 入力 校正 ぴよこ