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戦国秘譚 神々に告ぐ(下)
安部龍太郎
目 次
第 八 章 義輝入洛
第 九 章 公武一体
第 十 章 信長登場
第十一章 景虎上洛
第十二章 晴信造反
第十三章 即位の礼
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第八章 義輝入洛
松永|久秀《ひさひで》と三好長逸《みよしながゆき》を大将とする三好勢五千は、吉田山に本陣を構えていた。
吉田山(標高百十二メートル)は賀茂《かも》川の東十四町(約一・五キロ)のところにある。
東今出川《ひがしいまでがわ》通りの南に位置し、銀閣寺とはわずか六町ほどしか離れていない。
山の西の麓《ふもと》には、藤原家氏神三社の一つである吉田神社がある。
貞観《じようがん》年間(八五九〜八七七)に、藤原|山蔭《やまかげ》が春日《かすが》大社の神を勧請《かんじよう》して創祀《そうし》したものだ。
嘉承《かじよう》元年(一一〇六)に王城鎮守十九社の第十一位に列せられ、卜部兼延《うらべかねのぶ》が祠官《しかん》となって以来、卜部氏が代々社務職を世襲してきた。
『徒然草《つれづれぐさ》』で有名な卜部(吉田)兼好《かねよし》はこの一族の出身だが、神道史上において果たした役割は、彼の兄|慈遍《じへん》のほうがはるかに大きい。
南北朝時代に後醍醐《ごだいご》天皇に召されて大僧正に任じられた慈遍は、従来唱えられてきた本地垂迹《ほんじすいじやく》説を改め、神本仏迹の神道論を打ち立てた。
本地垂迹説とは、仏菩薩《ぶつぼさつ》(本地)は衆生を救うために神に姿を変えて日本に現れたとする考え方である。
これは仏教という外来思想を、日本古来の神道と融合させるためにあみ出され、神仏習合の理論的根拠となったものだ。
ところが鎌倉時代末期に日本に来襲した元軍にまがりなりにも勝利すると、日本は神国であるという国家意識が高揚し、神が仏の下位に立つような本地垂迹説に対する不満が高まった。
そうした風潮に応《こた》えるように、慈遍は神は万物の根本であり、仏菩薩こそが神の化身であるという逆転の説を唱えた。
この説をさらに押し進め、唯一神道なる流派を確立したのが、室町時代に現れた吉田|兼倶《かねとも》である。
万物はすべて神の顕現であり、人間も等しく心に神を宿している。
この点では、釈迦《しやか》や孔子も同様で、彼らが説く教えも、神の真理が形を変えてこの世に現れたものだ。
一本の木にたとえれば、神道は根、儒教は枝葉、仏教は花実である。
兼倶はそう主張し、吉田山に神道の総本山と称して大元宮《だいげんぐう》を創建し、朝廷や幕府に働きかけて全国の神職の任免権を手中に収めた。
以来吉田神社は朝廷と不即不離の関係を保ち、明治維新に至るまで全国の神社を支配していく。
三好勢が陣幕を張って本陣としたのは、その大元宮の社殿の前だった。
五千の軍勢が布陣すれば、食事も排泄《はいせつ》もする。
戦によって負傷した将兵の手当てや、手当ての甲斐《かい》なく死んだ者の始末もしなければならない。
神道においてもっとも忌むべきものとされる死、血、糞便《ふんべん》の汚れに、神社の境内《けいだい》が侵されるのである。
それは神道そのものを侮辱《ぶじよく》し、否定し、抹殺《まつさつ》するに等しい行為だった。
松永|弾正忠《だんじようのちゆう》久秀がここに布陣するよう求めたのは、吉田山が|如意ヶ岳《によいがたけ》城と勝軍山《しようぐんやま》城の敵に対する戦略上の要地だったからばかりではない。
将軍|義輝《よしてる》や関白|前嗣《さきつぐ》、そして洛中《らくちゆう》に住むすべての者たちに、もはや神道などには何の値打ちもないのだということを知らしめるためだった。
神道の総本山であり藤原氏の氏神である吉田神社に布陣して、将軍義輝を討つ。
これくらい華々しい演出をしなければ、千年の惰眠《だみん》をむさぼる者たちに新しい時代の到来を告げることは出来ないからである。
実際の戦においても久秀の吊り野伏の策は見事に的中し、如意ヶ岳城にこもっていた将軍勢をさそい出し、五百ばかりを討ち取って東山に追い返すという大勝利をおさめた。
吉田山の本陣では戦勝を祝う酒宴が催され、三好長逸や松永|長頼《ながより》ら主立った武将が手柄話に花を咲かせていた。
だが、立て役者の久秀の姿はどこにもない。酒宴が嫌いな彼は、鎧《よろい》を着たまま大元宮の社殿にこもって座禅を組んでいた。
久秀は緒戦の勝利に浮かれてなどいなかった。
将軍義輝が本願寺と毛利|元就《もとなり》を頼んで挙兵しているからには、相手の策を潰《つぶ》すか義輝を亡き者にしない限り勝ったことにはならない。一度の合戦に勝ったくらいでは、状況は何も変わらないのである。
すでに本願寺の証運《しよううん》とも連絡を取り、相手の策を破れるだけの手は打ってあるが、ひとつ手はずが狂えば三好家の滅亡につながりかねないだけに、久秀の心労は並大抵ではなかった。
「兄者、よろしいか」
異父弟の長頼が社殿の外から声をかけた。
身の丈六尺ちかい偉丈夫で、緋《ひ》おどしの鎧がよく似合っている。
「何の用だ」
「本日の勝ちは兄者の手柄でござる。片時なりと酒宴に顔を出して下され」
「くだらん。そんなことより本願寺からの使者はどうした」
「まだ参りませぬ」
「証運め、何をしているのだ」
久秀は鳩尾《みぞおち》に刺すような痛みを覚えたが、事情を知らない長頼には兄がなぜ本願寺のことを気にしているのかさえ分からなかった。
「それがしを助けると思って、酒宴に顔を出して下され。身方の結束を強めるには、こうした配慮も大事なものでござる」
「わしが酒を口にせぬことは、その方とて知っておるではないか」
「飲めとは申しておりませぬ。座に加わっていただくだけで良いのでござる」
長頼は三好家の侍大将として数々の戦功をあげ、他の重臣たちからも一目置かれている。久秀が三好家に仕えるようになったのも、長頼の引きがあったからだけに、無下《むげ》に断ることも出来なかった。
黒ずくめの鎧を着た久秀が酒宴の場に姿をみせると、手柄話や自慢話に花を咲かせていた重臣たちが急に黙り込み、そそくさと陣屋に引き上げていった。
「日向守《ひゆうがのかみ》どの、つもる話もござる。まだ良いではござらぬか」
長頼が三好長逸を引き止めようとしたが、長逸は手をふり払うようにして無言のまま立ち去った。
「気を遣わずともよい。戦場での酒宴などもってのほかじゃ」
久秀は聞こえよがしに言うと、中央の床几《しようぎ》に腰を下ろした。
吉田山の山頂からは、北白河から|鹿ヶ谷《ししがたに》まで一目で見渡すことが出来る。正面には大文字山がそびえ、そのふもとに銀閣寺がひっそりと建っていた。
「銀閣寺の公家《くげ》どもはどうした」
「いまだに立ち退いてはおられませぬ」
「退去するように申し入れたのであろうな」
「再三使者をつかわしましたが、三好家の禁制を得ておるゆえその儀には及ばぬとの返答があったばかりでございます」
禁制とは一軍の大将が配下の将兵に対して乱暴|狼藉《ろうぜき》を禁じた命令である。寺社の者たちはこの禁制を得て、戦から身を守ろうとするのが常だった。
近衛《このえ》前嗣はこの禁制を逆手に取り、銀閣寺に居座っていたのである。三好勢の邪魔をすることで戦を長引かせ、本願寺の挙兵を待っていることは明らかだった。
「ならば今一度使者を送り、明朝までに退去するように伝えよ。戦となればどのような災いが及ぶか計り難いとな」
「すでにそのように伝えましたが、一向に応じようとはなされませぬ」
「あの若僧が、こしゃくな」
久秀は前嗣ののっぺりとした瓜実顔《うりざねがお》を思い出し、地べたにつばを吐きかけた。
「いかがいたしましょうか」
「火矢でも射かけて、おどしてみたらどうだ」
「しかし、殿が出された禁制を破ったとなれば、今後朝廷との折衝がいっそう難しくなりましょう。しかも関白さまは近衛一門を集めて竪義《りゆうぎ》を催しておられますゆえ、当家の所業が天下に伝わるは必定でございます」
「何とも小賢《こざか》しき奴らよな」
朝廷の権威を笠《かさ》に着たこうした策略が、久秀は虫酸《むしず》が走るほど嫌だった。
「ここは自重して、退去されるのを待つしかござるまい。戦が激しくなれば、怖れをなして洛中に逃げ帰られることでございましょう」
「いや、待て。策はあるぞ」
久秀の脳裡《のうり》に、稲妻のように名案がひらめいた。
「向こうが禁制を盾に取るのなら、こちらは公家の泣き所を衝《つ》けばよい」
「どのような策でございましょうや」
「まあ見ておるがよい」
久秀は手の内を明かさないまま、ありったけの薪や乾草を集めるように命じた。
将軍義輝が無事に勝軍山城まで撤退《てつたい》したとの知らせが銀閣寺に届いたのは、未《ひつじ》の刻(午後二時)過ぎだった。
総勢五千のうち五百人ばかりが討ち死にし、千人ちかくが負傷したが、義輝は残りの軍勢をまとめて城の守りを固めているという。
三好勢の罠《わな》にはまって絶体絶命の窮地に立たされたにしては、これくらいの被害で切り抜けたのは不幸中の幸いである。
山科言継《やましなときつぐ》はそう報告したが、前嗣は動揺からしばらく立ち直れなかった。
昨日からの戦の経過を見れば、三好勢がこちらの戦略を見抜いていたことは明らかである。だとすれば、本願寺との密計も筒抜けになっているのではないか。
そんな不安が刻々と胸をさいなむが、事があまりに重大なので言継に相談することさえためらわれた。
「竪義はいかがいたしますか」
まだ証者の判定がないだけに、このまま終わるわけにはいかない。言継は言外にそう言っている。
「再開する。皆にそう伝えよ」
前嗣は上ずった声で命じた。
潮音閣に集まって来た公家たちは、一様に青ざめていた。
洛中でこれほど大がかりな戦があったのは、五年前に将軍義輝が朽木谷《くつきだに》に追われた時以来である。
しかも人が殺し合う時にあげるこの世ならぬ叫びを間近で聞いただけに、生きた心地もしないのは当然だった。
「いやはや、戦とは何とも惨《むご》いものじゃ」
広橋|兼秀《かねひで》が苦笑しながらつぶやいた。
「身共はこれまで何度となく平家を読んできたが、武士を捨てて出家した熊谷《くまがい》次郎の胸の内が、今日ほど痛々しく思われたことはない」
「さよう。壇の浦に浮かぶ御座船に乗っておられた方々は、かように心細い思いをしておられたのかと、身につまされてなりませなんだ」
「女御《にようご》、更衣が次々と海に身を投げられたのも、戦に負けた悲嘆からではなく、目前に迫った恐ろしさから逃れたい一心だったのでございましょう」
見学者の中から兼秀に応じる声が上がり、皆が口々に戦の恐怖と武士の愚かさを語り合った。
半日にわたって己の無力を思い知らされただけに、あらゆる理《ことわり》をもって戦と武士を否定しなければ、心の納まりがつかなかったのである。
やがて竪義が再開された。
「藤原|頼長《よりなが》がとった先例踏襲と道理尊重の態度に、矛盾はないのか」
というのが前嗣が出した問題である。
これに対して竪者《りつしや》の山科言継は、
「先例にも王法と王事に関わるものがあり、道理に従って王事を改めても、王法を犯すことにはならない」
そう主張した。
一方、問者である広橋兼秀は、
「王事は王法の現れである。本朝固有の神道を、唐国の古書故実に基づいた道理によって判断するのは本末|顛倒《てんとう》である」
と難詰した。
両者のどちらに理があるのか。判定役を務める久我通興《こがみちおき》は、弱冠十八歳で近衛府の右大将に任じられた新進気鋭の青年|公卿《くぎよう》だった。
久我家は近衛家の一門ではない。だが前嗣の母が久我家の出なので、一門同様の付き合いをしていた。
「僭越《せんえつ》ながら、証者としての見解をのべさせていただきます」
通興が口を開くと、見学の公家たちの目がいっせいに集まった。
英才博学をもってなるこの青年が、大先輩の論をどのようにさばくのか、好奇と羨望《せんぼう》の入り混じった眼差《まなざ》しを向けていた。
「私は山科卿の論に理《ことわり》があると存じます。ご高説の如く、王法とは天照大御神《あまてらすおおみかみ》以来伝わった神道であり、王事とは王法を万民に到らしめるための手段でございます」
頼長が唐国の古書故実に基づいて道理を立て、王事に関わる先例を改めたことは、唐国を先とし本朝を後にしたやり方だと広橋公は申されるが、それは神道をあまりに狭く解釈した論ではないだろうか。
神道は万物の根本であるゆえ、仏陀《ブツダ》も孔子も生まれながらに神道の精神を宿している。
彼らの教えである仏教や儒教は、神道の精神が形を変え、天竺《てんじく》や唐に即した形で現れたものであり、根本はすべて神道にある。
それゆえ、仏教儒教を元とした唐国の古書故実に道理を求め、本朝の王事に関わる先例を改めたからといって、決して王法をないがしろにしたことにはならない。
通興はそう主張した。
「本朝は古来より唐天竺に学び、多くの文物を受け入れてまいりました。王事においても、かの国の方策が優れているとあらば、受け入れるのが当然でございましょう。唐国が先か本朝が先かを論ずるのは、神道が万国不変の王法であることを忘れた説と申さざるを得ないのでございます」
話している間に青年らしい感情の高ぶりにとらわれたのか、通興の口調は次第に激しくなり、最後は内大臣の要職にあった広橋兼秀をも論難する激烈なものとなった。
しかも通興の説は、従来の常識を一歩踏み越えていたために、列席した公家たちの感情を逆なでするような結果を招いた。
仏教や儒教は神道が姿を変えてこの世に現れたものだという説は、唯一神道の「三教根本枝葉花実説」から取ったもので、さして目新しいものではない。
だが、根本が同じだから仏教や儒教の教えを積極的に取り入れるべきだという主張は、唯一神道の理論を越えて王事における実践を迫るものだった。
もしこの説が主流となったなら、王事を司《つかさど》る公家たちは、仏教や儒教ばかりか、あらゆる国のあらゆる教えを学ばなければ、その職責を果たせないことになる。
しかも、王法以外のすべての教えは相対化され、彼らが父祖伝来の家の芸として遵守《じゆんしゆ》してきた学問や芸道の価値も下がることになる。
極端なことを言えば、もし王事を実践するのに仏教の方が優れているとすれば、公家を廃して僧侶《そうりよ》に替えるということにもなりかねないのである。
「こりゃ、あかん。かなわんわ」
公家たちが心の中でそう思い、通興を見る目をにわかに厳しくしたのも無理からぬことだった。
竪義の後の酒宴は、銀閣一階の心空殿で行われた。
前嗣はそれぞれの役を果たした者にねぎらいの言葉をかけ、盃《さかずき》を回した。
「御家門さまは、どう聞かれましたかな」
広橋兼秀は通興に論難されたことが不満らしく、この場で議論をむし返したがっている。
だが、前嗣は前途有為の通興を庇《かば》って、話に深入りすることを避けた。
「ただ今、三好家よりの使者が参りました」
取り継ぎの者がそう告げたのは、ようやく皆のわだかまりが解けて、宴たけなわになった頃だった。
前嗣は使者を中庭に通すように命じた。
黒ずくめの鎧《よろい》を着て、 侍烏帽子《さむらいえぼし》をかぶった大柄の武士が、網代垣《あじろがき》の戸を開けてぬっと現れた。
男は心空殿に居並んだ公家たちに鋭い一瞥《いちべつ》を投げ、作法通りに平伏した。
「松永弾正の使い番にて、湯浅権六《ゆあさごんろく》と申す者にござ候」
平伏こそしているものの、あたりに人なきが如き横柄な態度である。
夕闇《ゆうやみ》に包まれ始めた庭の中でも、権六の姿だけがあたりの闇を吸ったようにひときわ黒かった。
「本日の近江《おうみ》衆との戦にて五百余人を討ち取りしところ、敵はかなわじと見て東山《ひがしやま》の城まで落ちのび申し候」
そのために両軍は山の上と下でにらみ合いの状態となっているが、ふもとには討死にした敵の死体がそのまま残されている。
三好家ではこれを引き取って葬《とむら》うように将軍方に申し入れたが、負け戦に怖気《おじけ》づいた敵は、城門を固く閉ざして出て来ようとはしない。
敵とはいえ同じ武士であり、このまま野ざらしにするのは忍びない。また放置すれば腐臭を放ち、悪疫流行の原因ともなりかねない。
そこで内裏《だいり》に奏上して、この地で荼毘《だび》に付す許可を得たが、風の向きによってはこの寺に煙が流れ込み、境内を汚すようなことがあるやも知れぬ。
万一|堂上《どうじよう》の方々に荼毘の煙がかかるようなことがあっては、朝廷に対してもはばかりがあるので、戌《いぬ》の刻(午後八時)の鐘が鳴るまでには立ち退いていただきたい。
「以上が、 主《あるじ》弾正より申し付かりし使いの趣にござ候。酒宴のさなかにご無礼の段、平にご容赦いただきたい」
権六と名乗った三十ばかりの使者は、口上をのべ終わると返答も待たずに退出した。
公家たちの動揺は深刻だった。
彼らは人の死さえも汚れとして忌み嫌う。身内に死者があれば、喪が明けるまで朝廷への出仕や神社への参拝を遠慮する。
道で犬や猫の死骸《しがい》を見ただけで、その日の出仕は取りやめるほどである。
生老病死は人の常なのだから、己だけがその埒外《らちがい》に立つことは不可能だと分かっているのに、まるでその事なきが如く振る舞うのだ。
松永弾正の策は、彼らのそうした弱点を的確に衝いたものだった。
もし近衛一門の公家たちすべてが荼毘の煙に触れたなら、十日ばかりは内裏への出仕が出来なくなる。
出仕しなければ帝《みかど》への奉公を怠ったとして、責任を問われることになる。
なぜそうなったかが問われるのではない。そのような場所に居合わせたこと自体が問題とされる。
しかも三好家が朝廷の許可を得ているとすれば、弁解の余地は何ひとつなかった。
「この場は、ひとまず引き下がるしかありますまい」
山科言継が体を寄せて耳打ちした。
近衛一門が出仕を怠って処罰を受けたとすれば、西園寺公朝《さいおんじきんとも》らの一派が勢いを盛り返し、足利《あしかが》義輝の将軍位が剥奪《はくだつ》されることもありえるのだ。
だが、前嗣は決断をためらっていた。
藤原家の氏神である吉田神社を蹂躪《じゆうりん》され、今またなす術《すべ》もなくこの寺を追い立てられるのはあまりにも無念だった。
「戦の大局に目を向けられよ。我らがこの寺を立ち退いたとしても、将軍勢にはさしたる痛手ともなりますまい」
「だが、この気持ちが納まらぬのだ」
「このまま一門衆を留めておけば、関白職を免じられることにもなりかねませぬぞ」
「ならば、皆は立ち退くがよい。私は一人でもこの寺に残る」
「通興公ではあるまいし、お若いことを申されますな」
もし関白を罷免《ひめん》されたなら、本願寺との計略をどうやって維持するのだ。事の大小損得を考えてみよ。言継は心の内でそう語りかけていた。
二人の会話は、下の座に居並んだ公家たちには届いていない。それでも気配だけは伝わるらしく、落ち着きなく言葉を交わす者が多くなり、席は次第に乱れていった。
そうした動揺を見計らったように、鹿ヶ谷から火の手が上がった。乾草を焼く臭《にお》いが、南からの風に乗って漂ってくる。
前嗣も敗北を認めざるを得なかった。
「これにて竪義《りゆうぎ》はお開きとする。多事多難の折にもかかわらず、こうして集まってくれたことに礼を言う」
公家たちはその言葉が終わるやいなや帰り仕度を始め、東白河通りに牛車を連ねて洛中に向かっていった。
前嗣は最後の一人が無事に帰るのを見届けると、小豆坊《あずきぼう》と天狗飛丸《てんぐとびまる》を呼んだ。
「これより勝軍山城へ向かう。供をせよ」
音無しだけを懐に入れると、闇にまぎれて裏門を出た。
勝軍山城は銀閣寺北側の瓜生《うりゆう》山の頂きにあった。
高さ百丈(約三百メートル)の山頂を本丸とし、尾根伝いに二の丸、三の丸の曲輪《くるわ》を配している。
古くから近江坂本から洛中に攻め入る際の拠点とされた城で、曲輪や土塁の構えも大規模なものだった。
だが六月二日に先手を打ってこの城に入った三好勢のために、門や櫓《やぐら》、 御殿などはすべて焼き払われていた。
将軍勢はこの城跡に陣小屋を急造し、曲輪の周囲に柵《さく》や逆茂木《さかもぎ》をめぐらして備えを固めていた。
前嗣らは満天の星明かりを頼りに山道を登った。
敵と間違えられたり、城から脱走する兵に襲われることもあるので、一瞬たりとも気を抜けない。
耳のいい小豆坊を先頭に立てて様子をうかがいながら、一刻ばかりかかってようやく地蔵堂までたどりついた。
昔この城に拠った細川|高国《たかくに》が、戦勝を祈念して勝軍地蔵尊を勧請したもので、勝軍山の地名の由来はここにある。
城は地蔵堂からさらに五、六町登った所にあった。
山の尾根を掘り切って作った道は、半間ばかりの幅しかない。
大軍の乱入を防ぐためで、所々に木戸を設けて守りを厳重にしていた。
木戸を通るたびに誰何《すいか》されるわずらわしさに耐えて表門までたどり着くと、鎧姿の二十人ばかりの武士が、左右に煌々《こうこう》とかがり火をたいて警固に当たっていた。
その中から、三人に気付いていち早く歩み寄った者がいた。
「これは、近衛公ではありませぬか」
細川|藤孝《ふじたか》である。大柄な体に鎧がよく似合っているが、袖《そで》や草摺《くさずり》が夜目にも分かるほど傷《いた》んでいた。
昼間の戦で獅子奮迅《ししふんじん》の働きをした証《あかし》である。
「見事なものだ。義輝の盾《たて》となる覚悟に偽りはなかったようだな」
「怖れ入ります。御所さまもさぞお喜びになられましょう」
藤孝が先に立って案内した。
表門を入ると三の丸があり、馬屋と陣小屋が建ち並んでいた。
周囲の木を切り倒して柱や梁《はり》とし、屋根に木の葉をかぶせた掘立小屋である。
それでも小屋に入れるのは上位の者たちばかりで、下級の足軽たちは鎧を着たまま地べたに寝転んでいた。
「義輝は変わりないか」
「幸い手傷ひとつ負うてはおられません。北白河を退く時も、自ら殿軍《しんがり》の指揮を取られたほどでございました」
「無謀な。流れ矢にでも当たったならどうするつもりだ」
「我らもお諌《いさ》め申しましたが、御所さまのお姿を見て全軍奮い立ち、何とかこの城に踏み留《とど》まることが出来たのでございます」
いくつかの小さな曲輪を過ぎ、堀り切りにかけられた橋を渡って二の丸にたどり着いた。
義輝の陣所は、二の丸より二間ばかり高くなった本丸にあった。
将軍の御座所だけは、比叡《ひえい》山のお堂をもらい受けて移築したという。
周囲には二つ引両の紋を染めた陣幕をめぐらし、将軍直属の馬廻《うままわ》り衆が警固に当たっていた。
寄せ集めの軍勢だけに、敵の刺客がまぎれ込みやすい。本丸の入り口には冠木門《かぶきもん》を作り、将兵の出入りを厳重に監視していた。
鎧をぬいで小具足姿となった義輝は、陣幕の中央で床几《しようぎ》に座ったまま眠っていた。
昼間の戦で精根使い果たしたらしく、頬がやつれ目は落ちくぼんでいる。
「御所さま、関白さまが参られましたぞ」
藤孝が告げても、夢からさめきれぬような目を向けただけだった。
「よい。話は明日にでも出来る」
夜道を歩いた疲れのせいか、前嗣はお堂に横になるなり引きずられるように眠りに落ちた。
翌朝、義輝に揺り起こされた。
「夢かと思ったが、本当に来てくれたのだな」
あたりはまだ薄暗い。義輝は床几に座ったまま夜を明かしたのである。
「銀閣寺に留まることが出来なくなった。せめて何かの助けになればと思って駆け付けたのだ」
「気持ちは有難いが、今すぐ都に戻ってくれ」
「私がいては邪魔か」
「そうではない。お前がここにいることが知れたなら、三好勢はこれ幸いと城の出口を封じよう。そうなったなら、誰が本願寺との連絡に当たるのだ」
義輝は噛《か》んで含めるように言って前嗣の手を取った。剣術で鍛え抜いた太く節くれ立った手だった。
頭の芯《しん》に重い痛みを覚えながら、前嗣は浅いまどろみの中をさまよっていた。
疲れ果てているせいだろう。意識は半分目覚めているのに、どうしても眠りから覚めることが出来なかった。
頭の中では、廻り灯籠《どうろう》のようにさまざまの幻影が浮かんでは消えていく。
つるべ撃ちの銃声と大軍の喊声《かんせい》が、山をゆるがしている。
久我通興がとうとうとまくしたて、死の臭いのする黄色い煙がわき上がる。
足利義輝がただ一騎敵中に駆け込み、阿修羅《あしゆら》の形相で太刀をふるう。
祥子《よしこ》内親王が唐装束で踊りながら、暗黒の瞳《ひとみ》をじっと向けている。
その淵《ふち》に引きずり込まれるような目まいを覚え、前嗣はようやく目を覚ました。
体中にけだるい疲れが残り、節々が痛む。熱があるらしく、夜着は寝汗にじっとりとしめっていた。
脳裡には暗黒の瞳をした祥子の姿がくっきりと焼き付き、訳の分からない不安に胸がざわめいていた。
なぜこうも胸が騒ぐのか。
父|稙家《たねいえ》は祥子と交わったことを厳しく責め、以後は祥子のことを考えてはならぬと言った。あれはいったいどういう意味だったのか……。
前嗣は上体を起こしたまま、しばらく茫然《ぼうぜん》としていた。
「小豆坊、おらぬか」
「こちらに、控えとりますで」
庭先から低い声が返ってきた。
「本願寺はどうした。一向|一揆《いつき》はまだ動かぬか」
「動きよりまへん。何やら妙でんな」
「義輝はどうした」
「まだ東山の城にたてこもっておられます」
「三好勢は」
「吉田山に本陣を置いたまま、ふもとに屯《たむろ》しとります」
「今一度勝軍山城に行って様子を見てきてくれ」
白河口の激戦から三日が過ぎ、将軍勢と三好勢は対峙《たいじ》したままにらみ合いをつづけていたが、本願寺の一向一揆は動こうとはしなかった。
あるいは顕如《けんによ》が裏切ったのかも知れぬ。そんな疑いを懸命に打ち消しながら、前嗣は近衛通りにある屋敷で知らせを待っていた。
小豆坊が物見から戻ったのは昼過ぎだった。
「若、えらいこっちゃ。三好勢が近江に攻め入るちゅう噂《うわさ》でっせ」
近江の南半国は、将軍方となった六角承禎《ろつかくじようてい》の所領である。三好勢はこの地を攻め取り、勝軍山城の義輝をはさみ討ちにする計略だという。
それまでに一向一揆が動かなければ、将軍勢は全滅するおそれがあった。
「これより大坂に下る。供をせよ」
前嗣は都を忍び出ると、小豆坊と天狗飛丸だけを連れて大坂に向かった。
伏見から六人|漕《こ》ぎの小早船を借り切って淀《よど》川を下り、夕方には本願寺に着いた。
すぐに御影堂に通されたが、顕如はいなかった。門徒に法話を講じている最中だという。
五十畳ばかりもあるだだっ広い客間で半刻ちかくも待っていると、顕如が後見役の証運とともに現れた。
「長らくお待たせいたしました」
目を伏せたまま下の座についた。疲れているのか、顔色がさえない。
顕如の斜め後ろに控えた証運が、無遠慮に金壺眼《かなつぼまなこ》を向けた。
(遠路ご苦労なことやが、生憎《あいにく》でしたなあ)
心の中でほくそ笑んでいるのが、はっきりと分かった。
「大坂は相変わらず蒸し暑いな」
「海の湿気のせいでございましょう」
「喉《のど》が渇いた。茶など所望できぬか」
証運は三好方についている。茶室で二人きりにならなければ、立ち入った話など出来なかった。
「申しわけございませんが、ただ今茶室を改装しておりますので」
「ならば白湯《さゆ》でもよい。証運とやら、厨《くりや》の者に申し付けてくれ」
「かしこまってございます」
平伏して応じたが、なかなか立ち上がろうとはしなかった。
「二人でゆるりと話がしたい。厨に行ったなら、しばらく席をはずしてくれ」
「法主《ほつす》さまは門徒衆との語らいでお疲れでございます。あまりご無理な話はなされませぬよう」
証運は鋭い皮肉を残して席を立った。
「ご無礼を、お許し下されませ」
十六歳になる顕如は、頭を美しく剃《そ》り上げている。父|証如《しようによ》が四年前に急逝したために、急遽《きゆうきよ》本願寺第十一代法主の座に就いたのだった。
「あのような者のことはどうでもよい。何ゆえ一向一揆は約定通り動かぬのか、それをたずねに参ったのだ」
「動かぬのではありません。動けぬのでございます」
「動けぬ? 何ゆえ動けぬのだ」
「関白さまが頼みにしておられる毛利が、動かぬからでございます」
「毛利からは何の知らせもない。本願寺が動けば、約定通り必ず動く」
「ところが、そうは出来ない事情が生じたのでございます」
「…………」
「毛利が兵を動かすのを待って、出雲《いずも》の尼子《あまこ》が石見《いわみ》銀山を奪い返そうと狙《ねら》っております。現地の門徒衆からの知らせでは、すでに出陣の仕度を整え、石見の国人衆《こくじんしゆう》の調略にも手をつけているとのことでございます」
全国屈指の産出量を誇る石見銀山をめぐって、毛利と尼子は激しい争奪戦をくりひろげてきたが、弘治《こうじ》二年(一五五六)に毛利軍が石見国を制圧して銀山を手中にした。
これを奪回して傾きかけた家を立て直すことが、尼子|晴久《はるひさ》の悲願となっていただけに、毛利の隙《すき》を虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたのである。
「しかも、尼子は豊後《ぶんご》の大友|宗麟《そうりん》とも牒《ちよう》を通じ、毛利が兵を動かすのを待って東西からはさみ討ちにしようとしております」
「このことを、元就はまだ知らぬのだな」
前嗣はそう察した。知っているなら、何らかの知らせを寄こすはずである。
元就でさえ気付いていない計略を、顕如はどうして知ることが出来たのか。
「まさか……、三好方に我らの計略がもれたのではあるまいな」
三好|長慶《ながよし》は毛利元就が四国に攻め入ろうとしていることを知って、尼子、大友に働きかけて元就を牽制《けんせい》しているのではないか。
長慶がその策のあることを告げて本願寺を恫喝《どうかつ》したなら、顕如が一向一揆を動かすことをためらうのも無理からぬことだった。
「確《しか》とは分かりませんが、計略を察知していなければ、これほど早く手を打つことは出来なかったはずでございます」
「あの証運か」
顕如があの後見役に策をもらし、松永弾正に伝わったのにちがいない。前嗣は反射的にそう考えた。
「いいえ。あの者は三好方ゆえ、何も話してはおりませぬ」
「まことか」
「機が熟したなら証運らを寺から追って、門徒衆に檄《げき》を飛ばすつもりでおりました。関白さまからお聞きしたことは、一言たりとも口外しておりませぬ」
顕如は一向一揆を動かせなかった責任を痛感しているのか、申しわけなさに消え入りそうである。
だが前嗣は、顕如の言葉を素直に信じることは出来なかった。顕如の筋からもれたのでなければ、三好方に筒抜けになるはずはないのである。
「ならば、何ゆえ計略がもれた」
前嗣は顕如の目をのぞき込んで心を読んだが、口外していないという言葉に嘘《うそ》はなかった。
それどころか、顕如は計略がもれたのは前嗣のせいではないかと疑い、心を哀しみの霧に深く閉ざしていた。
「済まぬ。言い過ぎた」
前嗣は後悔に目を伏せた。顕如を疑った心の貧しさが恥ずかしく、このような技に頼る自分が浅ましかった。
「和議を結ぶことは出来ませぬか」
顕如が遠慮がちにたずねた。
「もはや、それしかあるまいが」
前嗣らの計略を潰した三好方は、容易なことでは和睦《わぼく》には応じないだろう。
何か意表をつく策を講じなければ、とても譲歩させることなど出来なかった。
前嗣は重い足取りで客間を出た。
なぜ秘策がもれたのか、この先どうすれば義輝を救うことが出来るのか。
頭はそのことで一杯で、自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなっていた。
「関白さま、お久しゅうございます」
声をかけられてはっと我に返ると、廊下の真ん中に松永弾正が裃姿《かみしもすがた》で平伏していた。
あたりはすでに薄暗く、御影堂の長い廊下には柱|行灯《あんどん》がともしてある。
弾正の大きな目が行灯の火に斜めから照らされ、燃えるように輝いていた。
先ほど顕如は門徒衆に法話を講じていたと言ったが、どうやらこの男と会っていたらしい。
前嗣は弾正などこの世にいないもののように無視して、脇《わき》を通り過ぎようとした。
「どうやら、毛利との御縁はなかったようでございますな」
弾正がさりげなくつぶやいた。
「私は今夜、船場の船宿に泊まる。いつぞやの如く、刺客でもさし向けたらどうだ」
「もはや、その必要もござらぬ。関白さまには、今後もますますご活躍いただきとう存じまする」
「そちは神仏の罰など、歯牙《しが》にもかけておらぬようだな」
「何ゆえでございましょうか」
「吉田山に布陣し、死者を焼く煙をもって我らを追い立てる。数え上げればきりがあるまい」
「ならば、一向一揆を頼ろうとなされた関白さまの方が罪が重うございましょう」
「なぜだ」
「あの者たちは極楽浄土に行きたいとのみ念じておりますゆえ、本願寺法主の命とあらば水火をいとわず飛び込みましょう。そのような者たちを当家の城に差し向けられたならどのような惨事を招くか、たやすく想像がつくはずでござる」
法主の命で戦うからには、一向一揆に退却は許されない。それは極楽浄土への道を放棄するに等しいので、最後の一人になるまで命を的に戦いつづけるだろう。
他の武士たちのように助命や所領の安堵《あんど》と引き替えに降伏させることが出来ないだけに、ことごとくなで斬《ぎ》りにする他に手の打ち様がなくなる。
「関白さまもご存知《ぞんじ》のごとく、主|筑前守《ちくぜんのかみ》の父|元長《もとなが》公は、二十六年前に一向一揆のために堺で討ち取られ申した。それでも筑前守が本願寺と事を構えようとせぬのは、一向一揆と戦えばなで斬りにせざるを得ないことが分かっているからでござる。しかるに関白さまともあろうお方が、当家を倒さんとの野望に駆られ、後先の考えもなくこのような策を用いられるとは、あまりにも浅ましい所業でございましょう。日本国は神仏一体の国ゆえ、仏を滅ぼさんとする者は、やがて神をも滅ぼしまする。この旨を一言ご忠告申し上げんために、この場にてお引き止め申し上げた次第にござる」
これ以上一向一揆を使って当家にたてつくなら、朝廷を滅ぼすことにもなりかねぬ。弾正は言外にそう言っていた。
永禄《えいろく》元年(一五五八)には、閏《うるう》六月がある。
夏の盛りの閏六月五日、勝軍山城にたてこもった将軍勢は、およそひと月ぶりに行動を起こした。
賀茂河原に布陣した三好勢に、未明の奇襲をかけたのである。
ふいをつかれた三好勢は大混乱におちいったが、夜が明けるとともに態勢を立て直し、吉田山の本陣と呼応して鶴翼《かくよく》の陣形を取り、二千余の将軍勢を包囲しようとした。
これを見た義輝は、魚鱗《ぎよりん》の陣形を組んで包囲網を突き破り、勝軍山城へ退却した。
この戦で、将軍方には百余人、三好方には三百人あまりの死者が出、手負うた者は数知れぬほどだった。
これを最後として、両軍は再び東山の上と下でにらみ合いをつづけたが、水面下では和議の交渉に鎬《しのぎ》を削っていた。
和議をもちかけたのは、本願寺の支援の望みを断たれた将軍方である。
だが近江の坂本まで兵を進めて、東西から勝軍山城を包囲した三好長慶は、足利義輝が阿波公方義維《あわくぼうよしつな》に将軍位をゆずらない限り、和議には応じないという姿勢を崩さなかった。
将軍を攻め滅ぼせば、逆臣の誹《そし》りはまぬがれない。長慶としては、この機会にじっくりと義輝を追い詰め、自発的に位を譲ったという形を取りたかったのである。
だが義輝はこの要求を頑として拒みつづけ、交渉がまとまらないまま日にちだけが過ぎていった。
この影響をもろに受けたのは、洛中に住む人々である。二万ちかい軍勢が洛東に布陣したために、急に米や野菜の値段が上がり始めた。
しかも連日日照りがつづき、秋の収穫も期待できなかったので、多くの米問屋がさらなる値上がりを待って買い占め、売り惜しみに走った。
米が上がれば、すべての物価が上がる。生活に窮した住民たちは、土倉《どそう》や酒屋から銭を借りて急場をしのごうとしたが、利息までが高騰し、借銭は雪だるま式にふくらんでいった。
物価、金利の高騰に窮したのは、三好勢も同様である。
特に摂津《せつつ》や河内《かわち》、丹波《たんば》から動員された者たちは、戦が長引くにつれて滞陣費用が底をつき、民家に押し入って食糧や薪《まき》を強奪するようになった。
長慶はこれを取り締まるために、都の入り口に関所をもうけて不埒な輩《やから》の出入りを監視した。
ところが、関所の番兵が通行人に袖の下を要求する始末で、三好勢に対する不満や批判は日に日に高まっていった。
異変が起こったのは、閏六月十四日の夜だった。
この日は庚申《こうしん》待ちで、仏家では帝釈天《たいしやくてん》と青面《しようめん》金剛を、神道の家では猿田彦《さるたひこ》を祀《まつ》って寝ないで夜を明かす。
少しでも眠ると、体の中にすんでいる三匹の虫が天に昇り、その人の罪を天帝に告げるという道教の教えから生じた習俗である。
京の都に特有の、蒸し暑い夜だった。
家の中はうだるように暑く、多くの者が路上や賀茂川のほとりに出て夜明けを待った。
空には大きな月がぽっかりと浮かび、青い光がふり注いでいる。
その光に照らされて、一人の老婆が東洞院通りを北に向かった。
うちつづく生活苦に打ちのめされたのか、ふらふらとおぼつかない足取りである。
落ちくぼんだ目は、憑《つ》かれたように内裏に向けられていた。
路上に長|床几《しようぎ》を出して涼んでいた者たちは、物狂いだと思ったという。
あの様子では行き倒れになるしかあるまいと冷ややかな目を向けていると、老婆は建礼門の前に長々とぬかずいた後、内裏の周囲を回り始めた。
一町四方ばかりの内裏のまわりを、何事かを低く唱えながら歩くのである。
五周、十周、十五周と回が重なるごとに、物狂いの仕業《しわざ》だと見ていた者たちの目が変わった。
「あれは、お百度を踏んではるんや」
「千度|詣《もう》でかも知れんな」
老婆のただならぬ真剣さに打たれ、後について歩き出す者もいた。
内裏に対する都人の尊崇は厚い。しかも庚申待ちの夜は長いだけに、心に何事かを祈願しながら内裏を回る者の数は次第に増えていった。
その噂は風の速さで洛中に広がり、多くの者が見物に集まった。熱気に誘われて列に加わる者も多く、丑三《うしみ》つ刻を過ぎた頃には数千人にもふくれ上がった。
「六根清浄、六根清浄」
老婆が低く唱えていた題目を、数千人が真似た。
体の中にすむ三匹の虫が天帝に罪を告げる前に、帝の力を頼って浄化しようとしたのだろう。
のしかかる生活苦と悲惨な戦が早く終わるようにとの祈りがあったのかも知れない。
異様な熱気と陶酔に包まれた群衆の声は、明け方には都中に響きわたるほど大きくなっていた。
庚申待ちの長い夜がようやく明けようとする頃、さらなる異変が起こった。
内裏を回る群衆の頭上に、伊勢《いせ》神宮のお札が舞い落ちたのである。
明けやらぬ空から、ひらひらと降る何百枚もの札に、群衆は先を争って飛びついた。
お札には何も記されていない。
だが閏六月末日が大祓《おおはらえ》に当たり、伊勢神宮では万民の罪と穢《けが》れを祓う儀式を行うだけに、お札降りもそれに結びつけて解釈された。
大祓までに御所千度詣でをすれば、罪や穢れが祓い除かれるばかりか、伊勢の神々のご加護があるというのである。
この噂はあっという間に洛中に広がり、老若男女が我も我もと内裏のまわりに集まってきた。
十五日の昼頃には一万人を超え、一町四方の内裏の周囲だけでは収まりきれなくなったために、北は一条大路、南は近衛通りまで大回りをするようになった。
武家の戦が長引くにつれて生活に困窮した者たちは、もはや神威に頼るほかに道はないと思ったのだろう。
あるいは「六根清浄」を唱えながらひたすら内裏を回ることで、朝廷や幕府の無策に抗議の意を示していたのかも知れない。
翌十六日には近隣の諸郷からも続々と人が集まり、氏神の神輿《みこし》をかつぎ回る者も出て、洛中は時ならぬお祭り騒ぎに包まれた。
これにいち早く反応したのは内裏だった。
夏の盛りのことで、群衆は喉の渇きに苦しんでいる。そうお聞きになった正親町《おおぎまち》天皇は、内裏の周囲の溝をきれいにして、池の水を流すようにお命じになった。
また、近衛一門の者たちも近衛通りに台を出して、祭りの時のように飲み水や粥《かゆ》の接待を始めた。
これが洛中で大変な評判となると、他の摂関家もあわてて路上の接待を始め、食糧の不足や物価の高騰のために食い詰めていた者たちが、施粥《しじゆく》を求めて洛中に流れ込んできた。
その中には、具足を脱いで身許《みもと》を隠した三好家の足軽も多数含まれていた。
彼らは他国から自費で参陣しているだけに困窮もはなはだしく、施粥だけではあきたりずに徒党を組んで商家に押し込み、米や酒、金品を強奪するようになった。
ところが三好家では御所千度詣での混乱のためにこれを取り締まることが出来ない。味をしめた者たちは押し込みをくり返し、群衆はこれを面白がる始末で、洛中は完全な無法地帯と化していった。
洛中が無法地帯と化すことは、さして珍しいことではなかった。
応仁《おうにん》の乱や細川家の内紛による合戦がつづいた上に、土《つち》一揆や徳政一揆もたびたび起こり、富める者は常に襲撃の危険にさらされてきた。
それだけに洛中の分限者《ぶげんしや》は、非常時の対処の仕方を心得ている。
危ういと見ればすぐに家財を檀那寺《だんなでら》に移し、あるいは地下の蔵に仕舞い込んで、家中の戸を開け放って押し込んで来る者たちの接待をした。
家に乱入しても、奪い取る物は何ひとつないということを示すためである。
中には警固の者を雇い入れ、店の戸に板を打ちつけて厳重に閉ざし、泥をぬりつけて放火を防ごうとする者もいたが、多くの場合こうした店が真っ先に襲撃を受けた。
特に今度の千度詣ででは、内裏と摂関家が率先して接待を始めただけに、どの店でも軒先に天照大御神や伊勢神宮ののぼりを立て、腰を低くして群衆を迎えたのである。
こうした騒ぎをよそに、近衛前嗣は沈鬱《ちんうつ》な日々を過ごしていた。
本願寺と結んで三好長慶を討つという計略がどうして漏れたのか、どう考えても分からない。
だが計略は三好方に筒抜けになり、足利義輝は滅亡の危機にさらされているのである。
その原因がどこにあるのか突き止めなければ、この先動きようがないだけに、前嗣の受けた痛手は大きかった。
「前嗣さま、お目ざめでございますか」
ふすまの外で、采女《うねめ》の遠慮がちな声がした。
「ああ、起きている」
「ご気分はいかがでございますか」
采女が白湯をそっと差し出した。
前嗣に仕えるようになって、仕草もずいぶんと上品になっている。それにつれてたたずまいまでが祥子内親王に似通っていた。
「あいにく爽快《そうかい》とはいかないようだ」
前嗣は采女の中に愛《いと》しい人の面影を見て、やる瀬ない気持ちになった。
「小豆坊さまが、お目にかかりたいと申しておられますが」
「会おう。通してくれ」
前嗣は采女の目をのぞき込もうとした。
胸の内を読んでみたいといういたずら心にそそのかされてのことだが、采女は素早く目を伏せて引き下がった。
「取り継いでもらうちゅうのも、何やら不便なもんでんな」
小豆坊が庭の木戸を開けて入ってきた。連日の探索で日に焼け、浅黒い顔がいっそう黒くなっている。
「はよ元気になってもらわな、かないまへんがな」
「洛中は随分にぎわっているようだな」
御所千度詣での群衆があげる「六根清浄」の声は、近衛通りにある前嗣の屋敷にまで聞こえていた。
「どこもかしこも人で一杯で、身動きならん有様でんがな」
「千度詣ではしてきたか」
「飛丸と二人で回ってきました。身も心もきれいなもんでっせ」
「三好勢の様子はどうだ」
「七口に設けた関所は、警固の兵もおらん有様です。足軽や人足たちも、次々と陣所を抜け出して千度詣でに加わっとります」
三好勢の半数ちかくは、村々から駆り集められた足軽や雑兵《ぞうひよう》である。洛中で千度詣でのお祭り騒ぎが始まると、次々と陣所を抜け出して浮浪の徒と化していた。
「洛中の警固は?」
「時折人数を出して狼藉者《ろうぜきもの》を捕まえとりますが、とても押さえきれるもんやありまへん」
「思いのほかに大きな騒ぎになったものだな」
「次はどないしましょう? またお札でも降らせまっか」
「今度はそこに置いてある札を使ってくれ」
「ほう。八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》でっか」
小豆坊が納戸《なんど》に置いた木箱から札を一枚取り出した。
「飛丸はどうした」
「近頃、使いもんになりまへん。どうやら采女に懸想したようで」
時折切なげなため息をつき、采女の姿を一目見ようと用もないのに東求《とうぐ》堂のまわりをうろついているという。
「そうか。だがこの札だけはしっかりとまいてもらわねばならぬ」
「そうでっか。ほんなら仕度だけしておきますわ」
小豆坊は木箱を抱えて鷹《たか》小屋の方に消えていった。
内裏を回る群衆の頭上に伊勢神宮のお札を降らせたのは、前嗣だった。
庚申《こうしん》待ちの夜に洛中の者たちが内裏を回り始めたことを知ると、鷹狩り用の鷹の足に札を結びつけて飛ばすように命じたのである。
狙いは勝軍山城に孤立した足利義輝を救うことだった。
本願寺との盟約が破れたからには、三好家と和議を結ぶほかに義輝を救う道はない。
だが三好長慶が頑強に拒んでいるだけに、洛中を攪乱《かくらん》することによって、朝廷が和議の仲介に乗り出す口実を作ろうとしたのだ。
策は見事に当たり、事は思惑通りに進みつつあった。
その頃、松永弾正久秀は花の御所にいた。
幕府に代わって治安維持の職責をになう三好家としては、これ以上洛中の混乱を放置することは出来ない。
だが御所千度詣でに集まった群衆は五万人ちかくにのぼるだけに、力ずくで追い払おうとすれば一揆や打ち壊しになりかねなかった。
対応に苦慮した長慶は、花の御所に重臣を集めて打開策を協議したが、評定の席は開始早々から重苦しい沈黙に包まれた。
「陣中から抜け出して狼藉を働いた足軽や雑兵を、見せしめのために処刑する」
久秀がそう提案した途端に、重臣たちは不機嫌そうに黙り込んだのである。
「方々、何かご意見はござるまいか」
とりまとめ役の松永長頼が、一同を見渡してたずねた。
「捕らえた足軽どもの数は、いかほどかな」
そうたずねる者がいた。
「二百五十二人でござる」
「それだけの兵力をみすみす失うのは、いかがなものであろうか」
「お言葉ではござるが」
久秀が口をはさんだ。
「あの者たちは陣中から無断で抜け出し、商家に押し入って金品を強奪したのでござるぞ」
「それは兵糧や薪に窮したためであろう。戦のためとあらば致し方あるまい」
三好日向守|長逸《ながゆき》が足軽たちの肩を持った。
「そのようなお考えでは、とても洛中の治安は保てませぬ」
「わしとてそれくらいのことは分かっておる。だがあの者たちの多くは、悔い改めて許しを乞《こ》うておるのだ。情をかけてやったなら、次の戦では死地をも厭《いと》わぬ働きをしよう」
「ならば他に目前の騒ぎを鎮める妙案がございましょうや。火はすでに眉《まゆ》を焦がしているのでござる。次の戦をおもんばかっている場合ではございませぬ」
「あの者たちを処刑すれば、必ず騒ぎを鎮められると申すのだな」
長逸が議論の矛先を転じて迫った。
久秀は答えなかった。そんなことはやってみなければ分からない。安易に請け負えば、失敗した時に責任を取らされるばかりだった。
「答えよ、弾正。足軽雑兵とて当家の宝じゃ。犬死にさせたとあらば、ただでは済まぬぞ」
「罪人を処刑するのは、犬死にさせることではございませぬ。処罰を厳しくせねば、とても軍律を保つことは出来ますまい」
「だが、常の時なら二百五十二人も一時に処刑したりはするまい。そうするだけの効果があるかとたずねておるのじゃ」
久秀を失脚させたがっている長逸は、執拗《しつよう》に言質《げんち》を取ろうとした。
「千度|詣《もう》での者どもを朝廷が接待しているからには、刃を向けて追い払うことは出来ませぬ。されど陣を抜けた足軽どもを処罰するのは、当家の勝手でござる。ならば足軽どもを引き回し、見せしめのために処刑するしか策はないと申し上げているのでござる」
久秀は議論を再びふり出しに戻した。言質を取られずに実行を迫るには、相手が根負けするまで同じ意見をくり返すしかなかった。
新参者から成り上がった久秀に、重臣たちは多かれ少なかれ反感を持っている。だが議論ではとても敵《かな》わないだけに、二列に並んで向き合ったまま黙り込んでいた。
「殿、この件いかが計らいましょうや」
長頼が上段の間の三好長慶に裁定を求めた。
沈黙が長引くほど久秀は孤立を深め、重臣たちの胸にくすぶる反感はふくらんでいくことが分かっているからである。
「そうさな。難しいところじゃ」
長慶が脇息《きようそく》にあずけた体をゆっくりと起こした。細長いふっくらとした顔に、品のいい髭《ひげ》をたくわえている。
父元長の死によって壊滅の危機にひんしていた三好家を立て直し、畿内《きない》八ヵ国に及ぶ版図《はんと》を築き上げた英傑だが、近頃ではかつての精気を失いつつあった。
義輝を洛中から追い、阿波公方|義維《よしつな》を将軍に擁立するという目論見《もくろみ》を、朝廷と義輝の抵抗にあって六年もの間果たせずにいる。
かといって朝廷や幕府を滅ぼす決心もつかないだけに、手詰まりの状態におちいっていたのである。
「確かに二百五十二人もの配下を失うのは惜しい。他に何か騒動を鎮める策はないものか」
長慶は一同を見渡したが、口を開く者はいなかった。
「しからば泣いて馬謖《ばしよく》を斬るほかはあるまい。弾正、引き回しにはいかほどの人数が必要か」
「多いほど良かろうと存じます」
「ならば吉田山の本陣を引き払うがよい。指揮は自ら取るのじゃ」
長慶の決断で、吉田山に布陣している五千の軍勢が花の御所に呼び戻されることになった。
出発を待つ間に、久秀は床几《しようぎ》に腰を下ろして小姓《こしよう》に具足をつけさせた。
評定の間中、下腹部の鈍痛に耐えていたせいだろう。久秀はふいに子供の頃に寝小便した時のことを思い出した。
母が西岡で米問屋を営む義父と再婚したのは、久秀が三歳の頃だった。それ以前にどのようないきさつがあったのかは、まったく記憶がない。
だが、西岡の家に移ってからのことは、不思議なくらいよく覚えていた。
義父は松永|久庵《きゆうあん》といい、もとは細川管領家配下の豪族だった。だがいつの頃からか米商人になって、大名相手の手広い商いをしていた。
店には七つも八つも米蔵があり、使用人は百人ちかくいた。
母は正室として迎えられたので、久秀も若様と呼ばれて大事にされたが、常に自分の座る場所がないような居心地の悪さを感じていた。
母屋の黒く煤《すす》けた大黒柱や、あわただしく荷車が出入りする蔵を見るたびに、自分はこの家の子供ではないという思いにとらわれるのである。
寝小便をしたのは、この家に入って半年ほどたった頃だった。
川の中で心地よく放尿する夢をみて、はっと目を覚ました時には遅かった。小袖も夜具もぐっしょりと濡《ぬ》れ、尻《しり》の下が妙に生温かい。
久秀は母を起こそうとしたが、隣で眠っているはずの母の寝具はもぬけの殻だった。我が子が寝入るのを待って、夫の部屋へ行ったのである。
そうとは知らない久秀は、母にまで見捨てられたような気がした。
よそ様の家でこんなことをしたからには、誰にも顔向けが出来ない。いっそ夜が明ける前にここを逃げ出そう。
そうは思うものの、どこに行けばいいのか分からない。濡れた夜具に座り込んで身じろぎもせず、このまま朝が来なければいいと念じるばかりだった。
あの時の寒々とした孤独感は、今でもはっきりと覚えている。
松永家で長じた後も、三好家に仕えるようになってからも、そうした孤独感は執拗につきまとっていた。
「兄者、仕度が整いましたぞ」
長頼の声に、久秀ははっと物思いから覚めた。
「全軍御所の表に控えておりまする」
「何ゆえお前まで鎧をまとっているのだ」
「兄者の供をさせていただく所存にござる」
久秀だけを孤立させまいとする長頼らしい配慮だった。
「無用じゃ。わしにはわしの役目がある」
「ご無理は禁物でござるぞ」
「殿は近頃気弱になっておられる。誰かが無理をしなければ、この先の道は切り開けぬ」
「兄者はいつも焦っておられる。そう急いでも、事はたやすくは動きませぬ」
「そちは寝小便をしたことがあるか」
「は?」
「子供の頃に、寝小便をしたことがあるかとたずねておる」
「ありますが、それが何か?」
長頼は屈託がない。母の連れ子であった久秀と、再婚した後に生まれた長頼とでは、同じ家に育っても心の風景がまるでちがっていた。
「供は無用じゃ。そちはわしの敵方にいよ」
御所の表には、五千の軍勢が縦に長く隊列を組んで下知《げじ》を待っていた。乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いた足軽たちは、手足を縛られたまま荷車に乗せられている。
黒ずくめの鎧をまとった久秀は、何台も連ねた荷車の後ろに馬をつけた。
声高に罪状を触れる侍所の役人を先頭に、行列は室町通りをゆっくりと南へ向かっていく。
一条大路を東に折れると、御所千度詣での群衆が内裏の塀にそって立ち並んでいた。
道の両側に分かれ、四重にも五重にもなって引き回しを見物している。多くの者は小袖を一枚着たばかりで、一様に裸足《はだし》である。
片肌や双肌《もろはだ》ぬぎの者、褌《ふんどし》ひとつ、腰巻ひとつの男女もいる。
女の装いをした男や、男のように髷《まげ》をゆった女、おしろいや墨を顔にべっとりとぬった者、鉦《かね》や太鼓を持った遊芸人……。
祭りのように奇抜な装いをした群衆が、敵意のこもった動かぬ目でじっと行列をながめていた。
きっかけさえあれば一気に暴発しそうな押し込められた殺気が、通りに満ち満ちている。
その中を久秀は、傲然《ごうぜん》と胸を張って馬を進めた。
(こやつらは阿呆《あほう》だ)
沿道の群衆に、久秀は鋭い軽蔑《けいべつ》の目を向けた。
いくら内裏のまわりを歩き回ったところで、何も変わりはしない。己の窮地は自らの手で切り抜けていくしかないのである。
(大祓《おおはらえ》だと? 笑わせるな)
天からお札が降るなど、誰かが仕組んだことに決まっている。それに操られて浮かれ出すとは、愚の骨頂ではないか。
そもそも人には、罪や穢れなどというものはない。人は在《あ》りのままで尊く、善悪や優劣などはないのである。
大祓などというものは、神の名においてこの国に君臨しようとした者たちが作り上げたまやかしに過ぎない。
そう考えているからこそ、久秀は古い権威に支えられた勢力を倒してこの国を変えようとしているのだが、長頼が言うように事は容易ではなかった。
朝廷や幕府に対する尊崇の念はありとあらゆる階層に浸透し、戦いを挑むほど孤立を深めるという結果を招くのである。
まるで目に見えぬ怪物を相手にしているような戦いに疲れ果てた三好長慶は、近頃では義輝と和を結んでもよいと考え始めている。
だが久秀には、そうした妥協は絶対に出来なかった。胸の中に朝廷に対する名状しがたい怒りが渦巻き、戦いを挑みつづけずにはいられなかった。
四条河原に着くと、久秀は罪人を横木に縛りつけ、四半刻《しはんとき》に十人ずつ射殺するように命じた。
鉄砲での処刑は初めてだけに、河原には多くの見物人が集まった。
射撃の音は四半刻の間をおいて一日中響き渡り、三好家の断固たる姿勢を知らしめたために、押し込み騒ぎはぴたりと鎮まった。
御所千度詣では相変わらずつづいていたが、辻々《つじつじ》に高札《こうさつ》をかかげて足軽たちに帰陣《きじん》を呼びかけ、希望する者は身分を問わずに新規に召し抱えたために、群衆の数も次第に減っていった。
閏《うるう》六月の大祓も迫ったある日、久秀は数人の近習《きんじゆ》とともに高雄山神護寺を訪ねた。
神護寺は、丹後《たんご》から都へとつづく周山街道を見下ろす要害の地にある。
最澄《さいちよう》や空海が法会を開いたことでも知られる真言宗の名刹《めいさつ》だが、松永久秀は四年前から全山を山城《やまじろ》と化し、二百ばかりの将兵を入れて都の西の守りを固めていた。
清滝《きよたき》川の清流を渡り、青々とした楓《かえで》の葉におおわれた参道を登ると、頑丈に築き上げた石垣の上に山門がそびえていた。
ひんやりとした風が吹き抜ける境内には、金堂や五大堂がひっそりと甍《いらか》を並べている。
久秀は汗にぬれた小袖を着替え、供の者たちを外で待たせて金堂に入った。
「お待ち申しておりました」
式台で初老の尼僧が出迎えた。
「いかがお過ごしじゃ。変わりはないか」
「近頃は山歩きなどなされるようになりました。今すぐお目にかかられますか」
「その前に、水を一杯所望したい」
久秀は急に焼けつくような喉の渇きを覚えた。それは険しい参道を登ってきたせいばかりではなかった。
尼僧に取り継ぎを頼んでしばらく待つと、御簾《みす》の向こうで衣ずれの音がして、祥子内親王が現れた。
「都の騒ぎもようやく鎮まりましたので、お礼に参上いたしました」
久秀は深々と平伏し、許しを待たずに面を上げた。いくら目をこらしても、黒い御簾の向こうをうかがうことは出来なかった。
「お陰さまで、本願寺と結んだ敵の計略を防ぐことが出来ました。後は勝軍山城を攻め落とすばかりでございます」
「まだ安心は出来ませぬ」
御簾の奥から低い声がした。
「こたびの千度詣では、下々の者たちが帝に寄せる敬愛の念から発したものです。足軽どもを見せしめに処刑したくらいでは、鎮められるはずがありません」
「しかし、すでに洛中の騒ぎは鎮まっております」
「あなたには、そう見えますか」
「…………」
「下々の者たちは、三好家の力を怖れてなりをひそめているばかりです。ひとたび何かのきっかけがあれば、せき止められた思いは何層倍にも激しくなって噴き出すことでしょう」
「お言葉ですが、伊勢神宮のお札が天から降るはずがありません。こたびの騒ぎは、何者かが仕組んだことでございましょう」
「あの札を降らせたのは、関白です」
祥子はためらいもなくそう言った。
「ですが、火のない所に煙を立てることは出来ません。関白は下々の者たちの心の火に、風を吹きかけたばかりです」
「関白の狙いは、勅命和議でしょうか」
久秀はとっさにそう考えた。
武家の争いには介入しないのが、朝廷の長年の方針である。だが洛中の騒ぎを鎮め、民の困窮を救うためなら、和議の勅命を出す大義名分が立つ。
「そうです。それゆえ関白は、もう一度騒ぎをあおる手を打つでしょう」
「どうしたらそれを防ぐことが出来るのでしょうか」
「左大臣にすがって、もう一度朝廷を動かす策を練ることです」
「しかし、左大臣はすでに失脚しております」
「ならば復権させればよいではありませんか」
「どうしたら、そのようなことが出来るのでしょうか」
そう問いかけたが、御簾の奥から返って来たのは沈黙ばかりである。
久秀は御簾を斬り落として問い詰めたい衝動に駆られたが、立ち上がることはおろか指一本動かすことが出来なかった。
祥子の予言が現実のものとなったのは、閏六月二十八日のことだった。
晦《つごもり》の大祓を翌日に控えた日の夕方、千度詣での群衆の頭上に八幡大菩薩のお札が舞い落ちたのである。
八幡大菩薩は、王城鎮護の武勇の神であり、源氏の氏神である。
この札を手にした群衆は、内裏から花の御所へと千度詣での場所を変えた。
この戦を終わらせるには、幕府の御所に詣でるしかないという噂が風のように広まったからだ。
再び三万人以上に膨れ上がった群衆は、「六根清浄」を唱えながら花の御所を回り始めた。
ところが三好家では四方の門を固く閉ざし、塀の内側に鉄砲足軽を配して群衆に敵対する構えをみせた。
このために群衆は、三好家が源氏の正統な後継者ではないことをはっきりと意識した。
正統の後継者ならば、八幡大菩薩の神意に従う者に敵対するはずがない。
やはり源氏の跡目は勝軍山城にいる足利義輝が継ぐべきで、三好家は主君を追った反逆者なのだ。
そうした世論の広がりとともに、千度詣では三好家打倒の世直し運動へと変じ、大祓が終わっても鎮まる気配を見せなかった。
朝廷から足利家と三好家の双方に和議の勅命が下ったのは、秋風が吹き始めた七月の中頃のことである。
足利義輝はいち早く勅命に従うことを表明し、五日ほど遅れて三好長慶もこれを受け入れた。
松永久秀は強硬に反対したが、千度詣での群衆を武力で追い払い、勅命に逆らい通すほどの気力は、長慶にも他の武将たちにもなかったのである。
将軍義輝が二千の軍勢とともに入洛したのは、永禄元年(一五五八)十一月二十七日のことだ。天文《てんぶん》二十二年(一五五三)八月に都を追われて以来、五年ぶりのことだった。
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第九章 公武一体
雪だった。
昼過ぎから降り始めた雪は、次第に足を速め、白い玉のすだれとなって銀閣寺の庭に舞い落ちた。
松の木も庭石も純白におおわれ、灰色の空を映した池ばかりが雪に丸く縁取られていつもの如くたたずんでいる。その面にも、白く宙を舞うものは次々と吸い込まれていった。
近衛|前嗣《さきつぐ》は東求《とうぐ》堂の戸を開け放ち、刻々と変わる景色を飽かずにながめていた。
子供の頃から雪が好きである。一夜にして都が雪に包まれ、白一色に彩られてひっそりとたたずんでいるのを見ると、世の中までが祓《はら》い清められたようで嬉《うれ》しくなったものだ。
まだ誰も下りていない庭に素足で下りると、足の裏がふんわりと柔らかい感触に包まれ、身を切るような冷たさが襲ってくる。
それでも構わず歩き回ると、純白の景色の中に三寸ばかり沈み込んだ足跡がくっきりと残る。それは今この瞬間に自分が生きた|証の《あかし》ようで、ふり返るたびに爽快《そうかい》な気分になったものだ。
人はやがて死ぬものである。だからこそ自分の一生も、雪の上に足跡を残すように鮮やかなものでありたい。
前嗣は五歳か六歳の頃からそんなことを考え、新雪の朝が来るたびに雪の庭を歩き回ったものだ。
母や侍女たちは風邪や霜焼けを心配してすぐに部屋に上げようとしたが、前嗣には雪の冷たさが心地良かった。
神事に関わる時には、公家《くげ》は真冬でも水垢離《みずごり》をする。そうした家系が寒さに強い体質を生んだのか、雪遊びのために風邪をひいたことは一度もなかった。
池の横では、小豆坊《あずきぼう》と天狗飛丸《てんぐとびまる》が雪山を作っていた。庭に積もった雪を集め、飛丸の背丈ほどの高さに積み上げている。
雪の日にこうして山を作る習慣は、平安時代からあった。清少納言《せいしようなごん》も |『枕草子《まくらのそうし》』に、「今日、雪の山作らせたまはぬ所なむなき」と記しているほどである。
雪山の向こうには、銀閣がひっそりとたたずんでいる。その屋根にも小豆坊や飛丸の肩にも、雪が音もなく降りそそいでいた。
「若、こないなもんでっしゃろな」
小豆坊が雪山の頂きを叩《たた》きながら声をかけた。
「もう少し、頂きを尖《とが》らせてくれ」
「こうでっか」
頂きに二つの雪玉をのせ、鏝《こて》でならした。
山頂からふもとまでなだらかな曲線が現れ、富士の山に近い形になった。
「頂きのすぐ下を、もう少し険しくしてくれ」
雪山は遊びのためだけに作るのではない。中国の三神山の一つである蓬莱《ほうらい》山を|象っ《かたど》たもので、庭の中を不老不死の仙境に変えるという意味があった。
洛中の冬の冷え込みは厳しく、雪山は容易に解けないので、庭の飾り物としても珍重された。
庭師の手によって思い思いの意匠がこらされた雪山が、冴《さ》え冴《ざ》えとした月の光に映える様は、一幅の絵を見るように美しい。
形にこだわる前嗣が自ら鏝を取って形を整えていると、表門の外から馬のいななく声がした。
「若、御所さまや。将軍さまでんがな」
様子を見に出た小豆坊が、素《す》っ|頓狂な《とんきよう》声を上げた。
蓑笠《みのかさ》をつけ虎の皮の行縢《むかばき》を腰に巻いた足利義輝が、鎧姿《よろいすがた》の近習《きんじゆ》四人を従えて庭に入ってきた。
「ほう。雪山とは目出度《めでた》いな」
義輝が笠をぬいだ。口とあごに薄く髭《ひげ》をたくわえている。
「我らを祝福するために、天は関白殿下にひと働きさせてくれたようだ」
「大樹どのの気が早いのは相変わらずだな。明日の入洛《じゆらく》まで待てなかったとみえる」
義輝は十一月二十七日にいったん入洛したものの、翌二十八日には勝軍山城に戻った。将軍らしい格式を整え、十二月三日に帰洛の行列を行うことにしたのである。
その日を明日に控えているためか、義輝の表情は明るかった。
「都に入ってからでは、所用に追われてゆっくり話をすることも出来まい。五年の流浪の終わりに、関白どのと昔語りなどしたいと思ったのだ」
「だから気が早いと言うのだ。これで流浪が終わりと決まったわけではあるまい」
前嗣はいつもの憎まれ口をききながら、義輝の肩を抱き寄せんばかりにして東求堂に案内した。
その後ろを、剛力の細川藤孝が酒樽《さかだる》を軽々と担いで従った。
前嗣は同仁斎に火鉢を運ばせ、義輝と二人だけで向き合った。
本願寺との盟約が漏れたのは義輝の周辺からではないかと疑っているだけに、近習を同席させたくなかったのだ。
「こたびの和議が成ったのは、前嗣の尽力のお陰だ。この通り礼を申し上げる」
義輝が律義に頭を下げた。
「そのようなことをされては、かえって気詰まりだ。一向|一揆《いつき》さえ動いていれば、今頃三好勢は阿波に逃げ帰っていたはずだからな」
「盟約が破れたと知った時には、足利将軍家は私の代で終わると覚悟したものだ。ところがこうして都に戻ることが出来た」
「三好筑前守は、阿波から随分と兵を呼び寄せたそうではないか」
七月中頃に勅命和議に従う意志を示したものの、三好|長慶《ながよし》はなかなか将軍家との和議を進めようとはしなかった。
一族の合意を得る必要があるとの口実で、四国の本領から次々と軍勢を呼び集めたのである。
八月十八日には阿波の三好|義賢《よしかた》、同三十日には淡路《あわじ》の安宅冬康《あたぎふゆやす》、九月三日には讃岐《さぬき》の十河一存《そごうかずまさ》が、手勢をひきつれて|尼崎へ《あまがさき》参集した。
彼らとの談合の末に、長慶がようやく正式の和議を結んだのは、一月ほど前のことだった。
「うむ。万一我らが再び本願寺と手を結んでも、力で押さえ込めるだけの陣容を整えておる。四ヵ月も和議を引き伸ばしたのは、そのための時間かせぎだったのだ」
「将軍を都に迎えても、何ひとつ勝手はさせぬということか」
「残念ながら、戦となれば歯が立たぬ。だが朝廷の力を借りて、何とか秩序を立て直したい。ついては」
義輝は何かを言いかけ、はにかんだ表情をして口ごもった。
「どうした。この場は我ら二人だけだ。遠慮することなどあるまい」
「たいしたことではない。お前の方こそ、何か話があるのではないのか」
「いや、そっちの方が先だ」
本願寺との盟約が漏れたのは自分のせいだと、義輝は言おうとしているのではないか。前嗣はそう察して先をうながした。こちらから疑いを口にして、盟友を傷つけたくはなかったのである。
「祝いの酒を持参した。飲みながら話さないか」
義輝は話す決心がなかなかつかないようである。
前嗣は悪いと思いながらも、目を合わせて心の内を読み取った。
相変わらず清々《すがすが》しく真っ直ぐな性根を持った男である。
近頃では天性の大らかさに、|強靭さ《きようじん》と鋭さが加わり、将軍らしい風格さえ生まれている。
口にするのをためらったのは、里子との|祝言の《しゆうげん》ことだった。
年内にも祝言を挙げたいと思っているのだが、気恥ずかしくて言い出せずにいたのである。
本願寺との盟約が崩れたのは顕如の心変わりのためで、内通者がいるなどとは疑ってさえいなかった。
前嗣は愕然《がくぜん》とした。
義輝がこれほどの自信を持っているのは、重臣たちを信頼しきっているからだ。人を見る目には長《た》けている男だけに、その判断は間違っていないはずである。
だとすれば、残る可能性はただ一つ。自分の周辺から漏れたということである。
「どうした。顔色がすぐれぬが」
「少し寒気がする。温めた酒でもいただくとするか」
前嗣は|厨に《くりや》声をかけて、酒の仕度を命じた。
采女《うねめ》が折敷《おしき》にのせて酒を運んで来ると、義輝はあわてて姿勢を改めた。
祥子《よしこ》内親王だと思ったのだ。
「よく似ているが別人だ。侍女として仕えている」
「ああ、そうだろうとも」
「本当だ。あのお方が、このような所におられるはずがあるまい」
「何も言うな。私はそれほど口の軽い男ではない」
二人に|酌を《しやく》して采女が下がった後も、義輝は何かの事情があって隠しているとしか思っていなかった。
「それで、話とは何だ」
前嗣は話題を変えたくて水を向けた。
「都に落ちつき次第、里どのとの祝言を挙げたい。朝廷と幕府の結びつきを強めるためにも、その方がいいと思うのだ」
「結びつきは、朽木谷でもかなり強まっていたようだが」
「それゆえ急いでおる。もし児《やや》でも出来たなら、里どのに気の毒な思いをさせるではないか」
義輝は急に頬《ほお》を赤らめ、ひと息に酒を飲み干した。
翌十二月三日、前嗣は近衛通りの屋敷から車を仕立てて室町通りまで出た。義輝の入洛を見物するためである。
義輝という男には、日輪のご加護があるのだろう。昨日あれほど激しく降った雪はぴたりと止み、朝から太陽がまぶしいばかりに輝いている。
空ははるかな高みに突き抜けるほど青く、白一色に染まった景色が目に痛いほどである。
五寸ばかりも積もった雪を牛車の車輪が踏むたびに、きゅっきゅっと音をたてる。牛も足元がおぼつかなくて歩きにくそうである。
これでは義輝の入洛にも障りがあるのではないかと案じたが、室町通りまで出るとそんな杞憂《きゆう》は吹き飛んだ。
通りは雪のかけらさえないほど美しく掃き清められていた。沿道の者たちが、朝から総出で働いたのである。
その行為には、洛中に平和が訪れた喜びと、帰って来た将軍に対する熱い期待が込められていた。
入洛予定の巳《み》の刻(午前十時)より半刻《はんとき》ばかりも早かったが、通りの両側には見物の群衆が出て二重三重の人垣《ひとがき》が出来ている。
各家の青侍たちは、群衆に陣取られる前に車を寄せる場所を確保しようと|大童だ《おおわらわ》った。
だが摂関家ともなれば、こうした場合に車を止める位置は決まっている。出入りの商人や職人が、店の前に縄を張って場所を確保しておくからだ。
近衛家の車は紫屋という扇屋の前に付けるのが恒例だが、驚いたことにそこにはすでに別の車が止まっていた。
屋根の前後を唐破風《からはふ》にした|唐庇の《からびさし》車で、前方には赤地の錦の縁をつけた蘇芳染《すおうぞ》めの簾《すだれ》を用いている。車輪も屋形も常の物より大きく、屋根も一段高かった。
牛車は身分によって用いる種類が決められている。唐庇の車を使えるのは、太上天皇、皇后、東宮、准后《じゆごう》、親王、摂政、関白だけだった。
「どなたの車か確かめてくれ」
前嗣は車の外を歩く小豆坊に声をかけた。
このような場所に、皇族の方々がお出ましになるとは意外だった。
「分かりましたで」
小豆坊の仕事は速い。車は一条家のものだが乗っているのは西園寺|公朝《きんとも》だと、すぐに調べ上げてきた。
「西園寺公は左大臣だ。唐庇の車は使えぬ」
「やんごとなきお方を案内して来た言うとりましたわ」
「その方の御名は?」
「供の者も知らん言いよります。口止めされとるんでっしゃろ」
「紫屋の主人にはたずねたか」
今日行くことは伝えてある。相手が誰だか確かめなければ、主人が場所を空けるはずがなかった。
「たずねましたが、お忍びゆえ名前を明かすわけにはゆかぬと言うばかりでんがな」
「ならば仕方があるまい。他の場所に車をつけよ」
主人が前嗣を袖《そで》にしてまで忠誠を尽くす相手は、この国には数人しかいない。親王か皇后か、あるいは帝《みかど》ご自身か。
西園寺公朝はそのお方を連れて、わざと紫屋の前に車をつけたのだ。今頃は御簾《みす》の向こうからこちらを覗《のぞ》き見、勝ち誇った笑みを浮かべているにちがいなかった。
(しかし、いつの間に)
改元の祝儀の件で面目を失った公朝が、そのようなお方を案内するほどに勢力を回復したのか。
しばらく宮中から遠ざかっていただけに、前嗣には事情がまったく分からなかった。
車は止める場所を求めて南へ下り、姉小路《あねがこうじ》にある酒屋の軒下にようやく落ち着いた。
「若、すまんこっでしたな」
小豆坊が車に体を寄せてささやいた。
白河口で三好長慶らの出迎えを受けた足利義輝は、五条大橋を渡っていったん東寺に立ち寄り、室町通りを北に進んで二条の本覚寺に向かった。
初代|尊氏《たかうじ》は都から出撃する時も帰洛する時も、必ず東寺に陣を敷いた。それ以来、東寺に立ち寄るのが足利将軍家の吉例となったのである。
義輝は緋《ひ》おどしの鎧を着て、雪のように白い馬にまたがっていた。兜《かぶと》には日輪の前立てをつけ、腰には黄金造りの太刀をはいている。
馬の歩調に合わせて体がゆれるたびに、日輪の前立てが陽の光を反射し、きらきらと輝いている。
側には紫|裾濃《すそご》の鎧を着た細川藤孝が、ぴたりと寄り添って馬を進めていた。
今度の上洛には管領細川|晴元《はるもと》は従っていない。義輝が藤孝を間近に召したのは、藤孝こそ晴元の地位をつぐ者であることを天下に知らしめるためだった。
後に幽斎と名乗る藤孝が、実は足利|義晴《よしはる》の子であり、義輝の異母兄に当たることは周知の事実である。
それだけに若い二人に向ける都人の期待には絶大なるものがあった。
〈むろまち殿、御のぼりにて、二条のほつけ御まいりあり。天下おさまりてめでたしめでたし〉
この日の『お湯殿上《ゆどののうえ》の日記《につき》』にはそう記されている。
「二条のほつけ」とは、法華宗の本覚寺のことだ。義輝はしばらくこの寺を宿所と定めたのだった。
翌日、足利義輝は近衛通りにある前嗣の館に訪ねて来た。
紺色の地に二つ引両の紋を白く染めた大紋を着て、折烏帽子《おりえぼし》を凜々《りり》しくかぶっている。
人は器に従うというが、細川藤孝ら数人の近習を従えて着座する姿には、真の将軍となった自信と風格があふれていた。
束帯に冠という正装をした前嗣は、山科言継《やましなときつぐ》を従えて上段の間に着いた。
義輝は征夷《せいい》大将軍だが、官位は従四位下左中将で、従二位である言継にさえ及ばなかった。
「こたびは関白殿下のお力添えにより、帰洛がかないました。厚く御礼申し上げまする」
平伏した頭を一段と深く下げた。
「また、征夷大将軍の職にありながら、五年にわたり洛外にありましたることを、おわび申し上げまする」
「上洛大儀であった。早々に参内して、主上にご報告申し上げよ」
午後に参内することはすでに決まっている。だが関白に命じられたという形をとらなければ、正式の参内とはならないのである。
「承知いたしました。午後にも参内したく存じまするが、いかがでございましょうか」
「主上のご叡慮《えいりよ》をあおぎ、後ほど伝奏をつかわすゆえ、館に下がって知らせを待て」
「うけたまわってございます」
屋敷を出る義輝主従を、前嗣は東の門まで送って出た。
主殿の南側に広がる庭は、雪におおわれていた。池の周囲や中の島に植えられた松にも、朱色の小さな橋の欄干にも、雪が丸く積もっている。
池の向こうの築山も雪に厚くおおわれ、労せずして雪山と化していた。
雪を踏み固めて作った幅三尺ばかりの道を歩いていると、先導していた言継が突然足を止めた。
「失念いたしておりましたが、本日東に向かうは小吉にございます。方違《かたたが》えして西の門より退出いただくが、上々吉にございます」
妙なことを言いだすものだと前方を見やると、雪の中に鮮やかな緋色が散っていた。
一尺ばかりの鯉が何かの拍子に池を飛び出し、雪にうもれて凍え死んでいたのである。
これを見れば死穢《しえ》に触れたことになり、午後からの参内は出来なくなる。それを避けるために、言継はとっさの機転を働かせたのだった。
公家だけなら、言継の機転によって事なきを得ただろう。
だが武家である義輝にとって、来た道を引き返すことほど不吉なことはなかった。
合戦において敵に後ろを見せることが忌み嫌われたために、引き返すとか下がるという行為が不吉とされたのだ。
これから参内という晴れの日に、こうした禁忌をおかしたくはないだけに、義輝の表情は傍目《はため》にも分かるほど強張《こわば》っていた。
進めば参内を中止せざるを得ず、退けば武家の禁忌をおかすことになる。
この窮地をみてするすると進み出たのは、藤色の大紋を着た細川藤孝だった。
「殿、吉兆でござるぞ。早くこの鯉を拾い上げて下され」
雪の中の鯉をのぞき込むなり、にこりと笑ってふり返った。
「しかし、その魚は」
「まだ生きて胸びれを動かしてござる。周の武王の|例も《ためし》ござるゆえ、急ぎ候え」
言われるままに義輝が鯉を拾い上げると、藤孝は素早く受け取り、鯉が暴れて難渋しているような仕草をした。
「魚は生きているうちに料《りよう》るのが秘訣《ひけつ》でござる。それがし包丁術の心得もござるゆえ、本日の引き出物として頂戴《ちようだい》いたしまする」
藤孝は鯉を袖に入れると、雪を蹴《け》って走り去った。
「あの藤孝、ただ者ではございませぬな」
義輝らの一行を見送った後で、言継が感じ入ったようにつぶやいた。
「死んだ鯉を生き返らせ、周王の先例まで持ち出して義輝どのに拾わせるとは、並の才覚で出来ることではございませぬ」
「史記にそのような話があったな」
「周本紀の第四巻でございます」
周の武王が殷《いん》の紂王《ちゆうおう》と戦うために船を進めていた時、船の中に魚が飛び込んできた。武王は天が示した奇瑞《きずい》だとして、ひざまずいて感謝の意を現し、めでたく紂王に勝った。
その故事を知っていたからこそ、義輝に鯉を拾わせる芸当が出来たのである。
「朽木谷の寺では、油を盗んでまで勉学に励んでおった。藤孝とは、そういう男だ」
「才覚ばかりではございませぬ。生きている魚をあしらう手付きの見事さは、能役者も及ばぬほどでございましたなあ」
公家とて死穢などに縛られている我が身が、時には忌《いま》わしくなる。それを藤孝が鮮やかな手並みで切り抜けてくれただけに、言継はひときわ感じ入ったようだった。
義輝の参内は未《ひつじ》の刻(午後二時)と決められていた。
前嗣はその少し前に言継を従えて参内し、対面が行われる清涼殿に入った。
中央に帝の御座である御帳台があり、東側は呉竹《くれたけ》、河竹《かわたけ》を植えた庭がある。南側の廂《ひさし》の下にある殿上の間が、三位以上の公家たちの席だった。
その席には先客があった。丸々と太った体を束帯に包んだ西園寺公朝が、柱によりかかって呉竹をながめていた。
前嗣は南廂の前で足を止め、険しい目で公朝をにらんだ。今日の対面は他家の者には知らせていない。今後のことを帝に諮《はか》るにも、その方が都合がいいからである。
公朝が来ていようとは、思いも寄らぬことだった。
前嗣の視線を、公朝は感じたはずである。だが、呉竹に見入っているふりをつづけたままふり返ろうとはしなかった。
こうした場合、下位の者が姿勢を正して迎えるのが礼儀である。だが公朝が知らん顔を決め込んでいるだけに、このまま進むわけにもいかなくなった。
こちらから声をかけるのも、相手に屈したようで業腹《ごうはら》である。
物音をたてたり咳払《せきばら》いをしても、無視されたならいっそう体裁の悪いことになる。
かといって、立ち尽くして気付かれるのを待っているのも間が抜けている。
前嗣は一瞬の間にそうした考えを巡らし、鬼の間を抜けて御帳台の前に進んだ。
五色の帷《とばり》が垂らしてある台の前に長々とぬかずき、おもむろに殿上の間まで下がった。
上座から下座に下がるのだから、これで相手に屈したことにはならない。しかも正面に立っているので、公朝も無視を決め込むことは出来なかった。
「お久しゅうございます」
大儀そうに立ち上がると、笏《しやく》を胸の前に当てて頭を下げた。
「これは意外な所で、思いがけぬ人に会うものだ」
前嗣は初めて公朝に気付いたようなふりをした。
「将軍が帰洛の挨拶《あいさつ》に参内するいうんで、祝いに来ましたんや」
「どこにも参集せよと命じた覚えはないが」
「そら妙やな。今日この時刻に参るようにと通知がありました。てっきり関白はんからの知らせや思とりましたけどな」
公朝は腹に一物秘めながら、一段下がった態度をとりつづけた。
「もっとも、招かれぬ場所に車を乗り付けるような御方ゆえ、どこに現れようとさして驚きもせぬが」
前嗣は関白の座に腰を下ろした。
「招かれぬ場所とは、昨日の行列のことやろか」
「紫屋の前が当家の車留めだということは、とうにご存知のはずだ」
「もちろん悪いとは思いましたんや。そやけど急にご案内することになって、他に車を止められる場所がなかったよってなあ」
「当家には一言の挨拶もなかったようだが」
「そやから急なことやった言うとりますやろ。そや、今日のお招きもそちらからかも知れんな」
(まさか、帝が)
前嗣の胸に不吉な予感が走ったが、それ以上口をきこうとはしなかった。
義輝は定められた時刻に東の庭に現れた。
黒い束帯に身を包み、大紋姿の三好長慶、三好|長逸《ながゆき》、松永久秀、細川藤孝を従えている。
義輝だけが東廂まで上がり、四人は階《きざはし》の前に平伏したままだった。
本来は従三位以上の者でなければ、清涼殿に上がることは出来ない。だが足利将軍は|持明院統の《じみよういんとう》帝を擁立した功労者だけに、従四位下でありながら昇殿することが許されていた。
少し遅れて正親町《おおぎまち》天皇が御帳台に着座され、対面の儀が始まった。
義輝が平伏したまま帰洛の報告をし、帝が今後とも征夷大将軍の職責をまっとうするようにお言葉をかけられる。
たったこれだけのことだが、朝廷にとっては足利将軍の任命権者は天皇であるという原則を確認するために、また、幕府にとっては将軍位の正当性と大義名分を保証してもらうために、絶対に欠かすことの出来ない儀式だった。
前嗣は感無量だった。
今の帝と義輝、長慶の位置が、この世のあるべき姿である。ところが長い間|下剋上《げこくじよう》といわれる世の中がつづき、金と力を手にした者がこの秩序を乱してきた。
もし金と力という物差しで計るなら、帝と義輝と長慶の位置はたちまち逆転するだろう。
だがこの国には、瓊々杵尊《ににぎのみこと》が天下りたもうて以来伝えられた王法というものがある。その王法に従った秩序を打ち立てることが、今ようやく出来たのだ。
義輝が五年もの間都を追われ、近衛家にも苦難の日々がつづいただけに、喜びも格別だった。
儀式が終わると、祝いの酒宴となった。
帝からの盃《さかずき》が、前嗣、公朝、義輝の順に回る。盃が三度回ることを一献といい、これを三回くり返すので三献《さんこん》の儀と呼ぶ。
盃事の間、三好長慶ら四人は、北面の武士よろしくじっと控えていなければならなかった。
「昨日の帰洛の有様は、まことに見事であった」
盃が一順した時、正親町天皇が義輝にお声をかけられた。凜《りん》とした威厳と深い優しさを含んだ玉声である。
「ありがたきお言葉をいただき、恐悦至極に存じまする」
義輝の声は感激に震えていた。
「下々の者も喜色を浮かべて出迎えておった。朕《ちん》もまた同じ思いである」
「今後も重責をまっとうし、ご下命に恥じぬ働きをいたす所存にございまする」
「昨日紫裾濃の鎧をまとって伺候していたあの者は」
帝が庭に控える細川藤孝をお示しになった。
だが藤孝は直接お応《こた》えすることが出来ない。殿上に上がらぬ限り、この世にいないのも同じなのである。
「清原|宣賢《のぶかた》の縁つづきの者だと聞いたが相違ないか」
「細川|兵部大輔《ひようぶのたいふ》の母は清原博士の娘でございますゆえ、当人は外孫となります」
義輝はさりげなく藤孝の名を帝のお耳に入れた。
藤孝の外祖父清原宣賢は明経《みようぎよう》博士で、帝の侍読《じどく》を務めたこともある当代随一の学者である。帝がお訊《たず》ねになったのはそのためだった。
「細川兵部大輔といい三好筑前守といい、将軍は若くして良き臣下に恵まれておる。天下を治める器量人たる証《あかし》である。国の争いをなくし、都の平安を保ち、公民《おおみたから》の暮らしが成り立つように力を尽くしてくれ」
「かたじけのうございまする。一命をなげうち、ご叡慮に添うよう努める所存にございます」
感激の涙が義輝の頬を伝い、畳に伏せた手の甲に落ちている。
前嗣も思いは同じだった。公朝に対する不快も疑いも忘れ果て、雪の朝《あした》を前にしたような感動にひたっていた。
「将軍の帰洛がなり、幕府も形を整えたからには、ご即位の礼を年明け早々に挙行すべきと存じまするが、いかがでございましょうか」
前嗣は改まって奏上した。
すでに先帝の一年の喪が明けているだけに、正親町天皇にもご異存はなかった。
「将軍はどうだ。ご即位の礼に力を貸してくれような」
「むろん、異存などあろうはずがございませぬ」
「ならば吉日を選んで仕度にかかることとする。幕府においても、そう心得てもらいたい」
前嗣は一気に事を決した。
帝の御前での決定とあらば、長慶らも異を唱えることは出来ない。何の発言権もないまま、従わざるを得ないのである。
「そのように急いては、事を仕損ずるのとちがいますやろか」
公朝が独り言のようにつぶやいた。
「西園寺公、お慎みあれ」
公朝が三好長慶の意を受けていることは分かっているだけに、前嗣は高飛車に出て口を封じようとした。
「信じたことを直言するのは、臣下たる者の務めですよってな。将軍にお聞きしておかなならんのどす」
「何でございましょうか」
義輝は殿上の間に向き直った。
「ご即位の礼ともなれば、洛中の警固を厳しゅうしてもらわなならん。人数かて仰山必要や。一度花の御所に戻り、評定を開いた方がええのとちがうか」
「さようなご懸念は無用でございます」
「そやけどなあ。将軍に返り咲いたばかりで無理をしたら」
「それは貴公が案じる筋合いではあるまい。幕府のことは将軍に任せておけばよい」
前嗣が公朝に向き直って口をはさんだ。
「三好筑前との仲が再び悪うなるということもありますやろ。万一そうなったなら、ご即位の礼にも障りがあるよって、念には念を入れておかんとな」
三人の声は帝にも聞こえているが、東廂と南廂で言い合っている間は、帝の御前ではないという暗黙の了解がある。
帝のご叡慮をうかがうには、改めて意見を奏上しなければならなかった。
「左大臣の申すこと、もっともである」
帝のご叡断によって、義輝は即位の礼の警固について家臣の同意を取り付けた後、正式に返答することになった。
前嗣の強引なやり方に帝がご懸念をお持ちになったのか、西園寺公朝と何か別の話があったのかは分からない。
だが公朝の思いがけない出現によって、前嗣の戦略が大きく崩れたことだけは明白だった。
三日後、前嗣は自ら勅使となって花の御所におもむいた。
万一、三好長慶らが即位の礼の警固に反対するようなら、膝《ひざ》を詰めて説得しようと決意していた。
花の御所は相国寺の西に位置し、烏丸《からすま》小路と室町小路の間にあった。
崇光《すこう》上皇の御所を足利|義満《よしみつ》がもらい受け、今出川《いまでがわ》家の邸地を合わせて造営したものである。
応仁の乱の戦火によっていったん焼失したものの、その後復興されて幕府の政所《まんどころ》が置かれていた。
義輝が五年の間朽木谷に逃れている間も、長慶が政所として使用していたが、花の御所と呼ばれたかつての風情《ふぜい》は失われていた。
池の水は濁って魚もすまず、ほとりの花は枯れ果てたまま放置されている。
政務をつかさどる三棟の建物が、いかめしく屋根をそびやかしているばかりだった。
奥の書院でしばらく待つと、義輝が三好長慶と松永久秀を従えて入って来た。
入洛した時の覇気《はき》は消え、秀でた額に苦悩が色濃く影を落としている。
長慶や久秀を従えているというよりも、二人に引き立てられているような印象を受けるほどだった。
「義輝、都の住み心地はどうだ。良き臣下に恵まれて、何不足ないようではないか」
つい皮肉を口にするのは、前嗣の悪い癖である。義輝にも軽口で応じて欲しかったが、そんな余裕はないようだった。
「先日お訊《たず》ねのありました、ご即位の礼の件でございまするが」
義輝は哀しみに彩られた思い詰めた目をしている。心をのぞき込まなくても、心中は痛いほどに分かった。
「来年早々に行われるのであれば、幕府としては警固をお引き受けいたしかねまする」
「将軍の意に背く者がいるということか」
「評定の末に、そのように決したのでございます」
「理由は?」
「その件につきましては、侍所を預かるそれがしからお答え申し上げまする」
長慶が口をはさんだ。
「このたび急遽《きゆうきよ》河内《かわち》に出兵することとなり、ご即位の礼の警固まで手が回らなくなったのでござる」
「都での戦が終わったばかりであろう。河内で誰と戦をしようというのだ」
「安見直政《やすみなおまさ》でござる」
「安見? 聞かぬ名だが」
「河内の守護代でござる。十日ほど前、畠山高政《はたけやまたかまさ》どのを高屋城から追い、国を奪わんと企てております」
「ならば摂津や和泉《いずみ》の兵を差し向ければ良かろう。何も都の軍勢まで動かすことはあるまい」
「畠山高政どのは、当家を頼って堺《さかい》まで落ちて参られました。また三管家のご当主ゆえ、これを放置しては幕府の威厳を保つことは出来ませぬ。それがし自ら陣頭に立ち、安見直政を討ち滅ぼす所存にござる」
「このこと、将軍も同意か」
「評定で決したことでございますゆえ」
義輝はそう答えたが、表情は相変わらず冴えなかった。
「先日主上は、国の争いをなくし、都の平安を保ち、 公民《おおみたから》の暮らしが立ち行くように力を尽くせと申された。それを忘れたわけではあるまい」
「むろん肝に銘じておりまする」
「ならば何ゆえご叡慮に背くようなことをするのだ」
「筑前守が申し上げたごとく、管領家が家臣に追われるような事態を放置すれば、幕府の威信に関わりまする」
妙だと思った。いかに長慶の力が強大だとはいえ、義輝がこれほど易々と言いなりになるはずがない。
しかも時折、やる瀬ないような表情さえ浮かべるではないか。
前嗣はその理由が知りたくて、義輝の心をのぞき込んだ。
紅《くれない》がかった哀しみの景色の中に、暗殺の二文字がくっきりと浮かび上がっていた。
七年前、天文二十年(一五五一)三月のことだ。
三好長慶の強大な力に屈し、近江に逃れていた義輝と細川晴元は、長慶を暗殺することで劣勢を挽回《ばんかい》しようとした。
三月十四日、長慶は洛中のとある館に招かれ、酒食のもてなしを受けた。
酒宴の余興として乱舞が行われている時、一人の若侍が舞いにまぎれて長慶に近付き、腰刀を抜いて斬りかかった。
長慶はとっさに脇息《きようそく》を取り上げてかわしたが、二の太刀をあびせられて左の腕に傷をおった。
近習《きんじゆ》に取り押さえられた若侍は、激しい拷問にかけられ、義輝に命じられた刺客であることを白状した。
刺客に襲われたのは、長慶ばかりではなかった。
五月五日、河内の畠山家の守護代である遊佐長教《ゆさながのり》が、時宗《じしゆう》の僧に刺殺された。
長教は長年将軍方だったが、三年前に長慶と和を結び、娘を長慶に嫁がせて三好方の重鎮となっていた。
六月二十日、今度は隣国|大和《やまと》の筒井順昭《つついじゆんしよう》が凶刃に倒れた。順昭も遊佐長教の娘婿《むすめむこ》で、二人の間に生まれたのが、後に大和郡山城主となる筒井|順慶《じゆんけい》である。
暗殺を命じたのは義輝ではなかった。
長慶のために管領職を追われた細川晴元で、まだ十六歳だった義輝は謀議にさえ加わっていなかったが、将軍としては知らなかったでは済まされない。
しかも遊佐長教の暗殺が畠山家を弱体化させ、安見直政の謀叛《むほん》を招く原因となっているだけに、長慶に異を唱えることが出来なかったのである。
それにしても、事がうまく運び過ぎている。
義輝が入洛したのは十一月二十七日。畠山高政が高屋城を出奔して三好家を頼ったのは、その三日後である。
(これは果たして偶然なのか)
前嗣は三好長慶の目に問うた。
長慶は禅にも和歌にも通じた教養人で、以前は近衛邸でもよおされる歌会によく顔を出していただけに、氏素姓も定かならぬ松永弾正などよりは余程|御《ぎよ》しやすかった。
畠山高政が絶好の時機に出奔したのは、松永弾正の工作によるものだと、長慶の心には記されていた。
高政を追い出したことを口実に高屋城の安見直政を攻めれば、即位の礼の警固を断ることが出来る。
この機会に河内、大和まで切り従えれば、山城一国を将軍家に返上したとしても、三好家の勢力を保つことが出来るというしたたかな計算もあった。
「その方らの存念はよく分かった」
前嗣は長慶を見据《みす》えたまま言った。
「ならば、いつになれば警固の役が務められるのだ」
「河内の凶徒を平らげてからでござる」
「慮外者が。ご即位の礼を何と心得ておる」
前嗣は大声を発して怒鳴りつけたが、長慶はびくともしなかった。
「お怒りはもっともでございまするが、まつろわぬ者を放置したままでは、幕府の沽券《こけん》に関わりますゆえ」
「ならば早々に凶徒を平らげて帰洛せよ」
「そのつもりではございますが、敵のあることゆえ、いつになるかは申し上げかねまする」
「あい分かった。その旨主上にお伝えしておく」
前嗣は怒りの形相のまま席を蹴った。
義輝はあわてて前嗣を引き止め、別室に案内して酒をふるまった。
「私の力が及ばぬのだ。済まぬ」
「なあに、あれは芝居だ。気にするな」
「…………」
「筑前守が自ら都を出ていくというなら、こちらにも考えがある。後日のために、怒ったふりをしただけだ」
「考えとは?」
「そう急《せ》かすな。知恵の袋を満たす前に、まずはこいつを満たしてくれ」
前嗣は盃《さかずき》を差し出した。久々に大きな声を出したせいか、喉《のど》がからからに渇いていた。
「これは驚いた。自分から酒を求めるとは、関白どのも大人びてきたものだ」
二人は同い年の従兄弟《いとこ》であり、幼い頃から兄弟のように育った仲である。二人きりになると、関白と将軍という垣根《かきね》に隔てられることはなかった。
「そろそろ知恵の袋を満たしてはくれぬか」
ひとしきり飲んだ後で義輝が催促した。
「筑前守がご即位の礼の警固をせぬというのなら、他の者に命じれば良い」
「だが六角や武田では、三千ばかりの軍勢にしかならぬ」
「越前《えちぜん》の浅倉、越後《えちご》の長尾、甲斐《かい》の武田、美濃《みの》の斎藤、駿河《するが》の今川、安芸《あき》の毛利、出雲の尼子、豊後《ぶんご》の大友、それに薩摩《さつま》の島津。これらの大名が軍勢を率いて上洛したならどうだ」
「それは大した見物《みもの》だろうが、そんなことが出来るはずがあるまい」
「どうしてだね」
「大名らは四方に敵を抱えている。国を留守にすればたちまち攻め込まれるゆえ、上洛する余裕などないのだ」
「ならば大樹どのが和議の調停をすればよいではないか。ご即位の礼が済むまでは一切の戦を禁じると、帝と将軍の名において命じるのだ」
「確かに、武田との和議が成れば、長尾|景虎《かげとら》も後顧の憂いなく上洛することが出来ようが」
そんなことが成るとは、義輝には思えないらしい。
「ご即位の礼の警固のためとあらば、諸大名とて断りはすまい。朝廷と幕府が司る秩序のもとに、この国が再び治まる時が来るのだ」
年若き前嗣の脳裡《のうり》にひらめいたこの構想は、後に豊臣秀吉の「惣無事令《そうぶじれい》」となって実現することになる。
前嗣《さきつぐ》(後の前久《さきひさ》)の猶子《ゆうし》となって関白職についた秀吉は、諸大名の合戦を禁じる惣無事令を出し、これに背いたという理由で九州征伐や小田原《おだわら》征伐を行うのである。
だが、それは秀吉ほどの強大な軍事力があってはじめてなし得たことである。今の義輝は将軍という権威以外何ひとつ持ってはいなかった。
「しかし、そのようなことを筑前守が黙視していようか」
「長慶は自ら望んで都を出ていったのだ。ご即位の礼の警固を誰にやらせたとしても、文句の言える筋合いではあるまい」
「なるほど。関白どのの権謀術数には、ますます磨きがかかってきたようだ」
義輝は憂い顔で盃を干した。
「不服かね」
「力なき者は知恵に頼るしかあるまい。だが、その計略によってご即位の礼を終えることが出来たとしても、幕府の窮状は何も変わるまい」
「変わらぬなら、変えればいいではないか」
「…………」
「越後の長尾、越前の浅倉、美濃の斎藤の軍勢だけでも二万は下るまい。これに若狭《わかさ》の武田や近江の六角の軍勢を合わせ、勅命をいただいて三好を討てばよい。そうなれば、本願寺もこの間のように尻《しり》ごみしたりはするまい」
前嗣の縦横自在な知略に、義輝はただ唖然《あぜん》とするばかりだった。
このような謀議がめぐらされていようとは露知らない三好長慶は、十二月十八日に二万の軍勢をひきいて都を発ち、摂津の芥川《あくたがわ》城に入った。
松永久秀や三好長逸らもこれに従い、それぞれの城に戻って高屋城攻めの仕度にかかることにした。
その五日後、義輝と近衛里子の祝言《しゆうげん》が新築なったばかりの近衛邸で行われた。
近衛家の本邸は、もともと立売《たちゆうり》町にあった。花の御所から五町(約五百五十メートル)ほど西に下《さが》った所である。
だが昨年四月二十八日に立売町が焼亡した時、近衛邸も全焼したために、近衛家の者たちは長らく近衛通りに面した別邸で仮住まいをしていた。
前嗣は家礼、門流や薩摩の島津家の助力をあおいで館の再建に着手していたが、このほどようやく完成したのである。
その館を、前嗣は気前よく義輝に提供した。都に戻ったばかりの義輝は、新居にふさわしい館を持たなかったからだ。
「まさか妹に、法華の寺で新婚暮らしをさせるわけにもいくまいからな」
「すまぬ。二条の御所が出来上がるまで住まわせてもらう」
そんなやり取りがあって、祝言も近衛新邸で行うことになった。
近衛通りにある別邸から新邸に輿入《こしい》れする里子に、前嗣も車を連ねて付き従うことになっている。
心浮き立つような思いで出発を待っていると、山科言継が訪ねて来た。
「本日は誠におめでとうございます」
祝いの太刀と反物を差し出し、改まって祝辞をのべた。
何か祝い事があるたびに、必ず引き出物を持参しなければならないのである。それが貧乏公家にとっては大きな負担となっていた。
前嗣は丁重に礼を言い、反物だけを受け取った。太刀は持ち帰り、別の機会に使えという意味である。
しかも返礼の品まで付けるので、出費は摂関家の方が多い。そうした費用をどう工面するかが、御家門様の器量の見せ所なのである。
「近衛|太閤《たいこう》さまもお戻りになられたとうかがいましたが」
「昨夜戻られた」
「相変わらず古典の研究に没頭しておられるのでございますか」
「都より朽木谷の方が住み心地がいいらしい。婚儀になど出ぬと申されるので往生した」
前嗣の父|稙家《たねいえ》は、義輝が入洛した後も朽木谷の興聖寺に留まり、古典の研究に没頭していた。
里子の祝言にも出ないと言い張っていたが、父親を欠席させては体面にかかわるだけに、迎えの車を出して連れ戻したのである。
「式が終わったなら、すぐに朽木谷に戻ると言い張っておられる。八景絵間の評定にも加わっていただきたいものだが、 政《まつりごと》にはもはや興味がないそうだ」
「近々太閤評定でもあるのでございましょうか」
「ご即位の礼のことで、決めなければならぬことがある」
年明け早々にも紫宸殿《ししんでん》の八景絵間で太閤評定を開き、諸大名に上洛を命ずる勅命を出していただくように奏上する。
だが前嗣は、そのことを稙家にも言継にも明かしてはいなかった。本願寺との盟約がどこから漏れたか分からないだけに、ひときわ慎重になっていたのである。
「ところで先日の車争いの件でございますが」
言継が細長いあごをひとさすりして切り出した。
「西園寺公が案内されたのは、やはり主上のようでございます」
「確かか」
「お湯殿の女房が申すことゆえ、間違いはございますまい」
「この間面目を失っておきながら、何ゆえ急にご信任を得たのだ」
「それが……」
言継は口ごもって再びあごをさすった。困った時の癖である。
「遠慮はいらぬ。何事もつつみ隠さず話してくれ」
「祥子《よしこ》内親王がお口添えをなされたという噂でございます」
「祥子さまは、行方も知れぬままではないか」
「確かなことは分かりませぬが、三月ほど前、松永弾正が銭千|疋《びき》を献上したことがございます。三台の牛車《ぎつしや》を仕立てて参りましたが、そのうちの一台に祥子さまが乗っておられたのを見たという者がございます」
「そんな馬鹿なことがあるか」
前嗣はたまらず声を張り上げた。
祥子が松永弾正のもとに身を寄せているのではないかという疑いは、前嗣も以前から抱いている。だが、弾正や公朝のために帝に口添えをするはずがなかった。
「祝いの日に、このようなことをお耳に入れるのはどうかと存じましたが」
万一それが事実なら、この先の前嗣の計略にも大きな影響を与えかねないだけに、黙っていることが出来なかったのである。
「よく知らせてくれた。西園寺公の動きからは、今後も目を離さぬようにしてくれ」
これは公朝が流した悪質な飛語にちがいないと前嗣は思った。
そう思う以外に、動揺した心の納まりがつかなかった。
(あの蹴鞠《けまり》めがその手でくるなら、こちらにも考えがある)
熱くなった頭に突拍子もない策が浮かんだのは、言継が下がって間もなくである。
それがどんな結果を招くか深く考える余裕もないまま、前嗣は小豆坊に仕度を命じた。
里子の花嫁行列は、車三台を連ねただけの質素なものだった。正親町天皇の即位の礼が済んでいないだけに、華美に流れることをいましめたのである。
それでも将軍家と摂関家の婚礼だけに、沿道には数万の群衆が見物に出ていた。
三好家の軍勢が去り、洛中は久々にのんびりした空気に包まれている。そうした中で行われる将軍の婚儀は、都人にとって新しい時代の到来を予感させるに充分だった。
立売町の新邸の門前には、真新しい大紋を着た幕府の奉行衆がずらりと並んで出迎えた。
細川、斯波《しば》、畠山《はたけやま》の三管家、山名《やまな》、一色《いつしき》、京極《きようごく》、赤松の四職家の当主や嫡男《ちやくなん》たちである。
足利幕府の枢要をになった三管四職家の大半はすでに没落し、守護代や新しく台頭してきた戦国大名に実権を奪われている。
だが幕府が今一度往年の力を取り戻したなら、守護職として領国に返り咲く道もひらけるだけに、義輝に寄せる期待には並々ならぬものがあった。
前嗣は車の前簾《まえすだれ》ごしに大名たちを見ながら、あの者たちは枯れた枝葉だと思った。
唯一神道の説ではないが、朝廷という根があり、将軍家という幹があり、守護大名家という枝葉がある。
だが下剋上の嵐《あらし》にうたれて枝葉が枯れ、幹を弱らせ、根までも腐らせようとしている。
この木をよみがえらせることが出来るのは、義輝と自分しかいないという燃えるがごとき自負心があった。
近衛新邸は寝殿造りの様式に従って作られていた。
中央に寝殿、東西に対《たい》の屋《や》があり、釣殿《つりどの》と対の屋の間を渡殿《わたどの》でつないでいる。
公家は時代が下るにつれて世の中も乱れてきたと考え、上古のあるべき姿に復しなければならないという歴史観をもっている。
前嗣が新邸に寝殿造りの様式を用いたのは、そうした復古主義の現れだった。
この屋敷を義輝夫妻の新居としたことが、もうひとつの復古主義を呼ぶことになった。
義輝の母慶寿院が、このような館で式を挙げるのなら、結婚の儀も古式にのっとった婿取り婚にしたいと言い出したのである。
武家は嫁取り婚で、平安の頃の婿取り婚とは式のやり方も作法もちがっている。
だが慶寿院は近衛家の女特有の押しの強さで義輝を説き伏せ、古式にならうことを了承させた。
式は夕方から始まった。
寝殿に稙家や前嗣、里子の母親がわりとなった慶寿院らが出迎える中、松明《たいまつ》を持った前駈《さきがけ》に先導された義輝が、烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》姿で入ってきた。
近衛家の女房二人が、御前の火を移したろうそくを持って迎えに出る。その灯に案内された義輝は、寝殿の階《きざはし》に沓《くつ》をぬいで殿上に上がる。
この沓を嫁の母親が取り、婿の足が幾久しく途絶えぬようにと祈りながら一夜抱いて寝るのが慣例《しきたり》である。
義輝は見て見ぬふりをしている前嗣らの前を通り、御帳《みちよう》の奥で待ち受ける里子のもとに忍んでいく。
すると母親がわりの慶寿院がするすると立ち、横になっている二人に夜具をかける。これを衾掩《きんあん》の儀といい、時には房事の手ほどきさえしたという。
こうして二人は新枕《にいまくら》を交わし、三日目の夜には三日夜餅《みかよのもち》を食べて夫婦となった証とする。
だが義輝と里子は、この三日を二刻ばかりに縮めて済まし、夜半から所顕《ところあらわし》と呼ばれる披露宴が行われた。
列席したのは、ごく内輪の者たちばかりである。
「どうだね。妻を持つ身になった気分は」
前嗣は側に寄って声をかけた。
「別に何も変わらぬが、衾掩の儀には参った。昔は妙なことをしたものだ」
義輝が声をひそめて苦笑した。
母親から房事の手ほどきまでされては、たまったものではないのである。
「これで私は兄ということになる。これからは言葉遣いに気をつけてもらおう」
「これまでも充分気をつけてきたつもりだが」
二人は顔を見合わせて晴れやかに笑った。
寝殿造りの新邸にも、時代に即した新しい工夫があった。
西の対の屋の軒廂《のきびさし》を大きくはり出して、回り縁が能舞台になるようにしたことである。
酒宴もたけなわになった頃、舞台の両脇《りようわき》に赤々とかがり火が焚《た》かれ、祝いの能を演ずることになった。
演者は三管四職家の当主たちである。三代将軍義満が世阿弥《ぜあみ》を取り立てて以来、足利家は能楽を保護してきただけに、守護大名たちもシテをつとめるくらいの心得はあった。
三管家の三番が終わると、しばらく休憩がある。
前嗣が口を開いたのはこの時だった。
「今宵《こよい》はめでたい席ゆえ、宴曲などはいかがかな」
「それは結構、生まれてこの方、関白どのの唄《うた》など聞いたことがないのでね」
疲れと安堵《あんど》に気がゆるんだのか、金|屏風《びようぶ》の前の義輝はすでにかなり酔っていた。
義輝の隣では、布袋《ほてい》様の置き物のようにでっぷりと太った稙家が、仏頂面をして盃を傾けている。
「あいにく唄うのは私ではない。権大納言だ」
「残念というべきか、幸いというべきか。のう里子」
「わたくしは知りませぬ」
新妻となった里子が恥ずかしげに顔を伏せた。
「山科卿の唄は当代随一です。幸せというべきですよ」
母親がわりの慶寿院が助け舟を出した。古式ゆかしい婿取り婚が実現しただけに、いつになく上機嫌である。
「叔母《おば》上、唄ばかりではありませんぞ。今宵は当代随一の舞姫が興を添えるのですから」
前嗣はわざともって回った言い方をした。
「舞姫? どなたですか」
「私にも分かりません、すべてはかがり火に照らされた闇《やみ》の中で起こる夢幻とごろうじろ」
「まあまあ、あなたの口上にはいつも煙《けむ》に巻かれてばかりですよ」
「ならばこの口を、しばらくふさぐことといたしましょう」
前嗣は近衛家重代の名笛|蔦葛《つたかずら》を取って、ゆったりと曲をかなで始めた。
能舞台の背後に控えた囃子《はやし》が、笛に合わせて鼓と太鼓を入れ、山科言継が宴曲『祝言』を唄い出した。
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※[#歌記号、unicode303d]四海波|閑《しず》かにして、九州風治まり雨つちくれを犯さず。荊《おどろ》の野べもおしなべて、 普《あまね》き露をやそそぐらむ
[#ここで字下げ終わり]
宴曲は日本古来の歌謡曲で、能楽の謡《うた》いの原形となったものだ。
言継の唄にさそわれたように、薄暗い舞台の袖から采女が姿を現した。
采女は色鮮やかな女房装束をまとっていた。
大垂髪《おすべらかし》にした髪に釵子《さいし》という金色の冠をつけ、亀甲紋の入った唐衣《からぎぬ》を着て、緋色の長袴《ながばかま》をはいている。
舞台正面まで進むと、手にした檜扇《ひおうぎ》をはらりと開いて舞い始めた。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]幾萬代《いくよろずよ》と白浪の 浜松が枝の手向草《たむけぐさ》 緑に見ゆる山藍《やまあい》の 小忌《おみ》の衣の立ち舞う袖をひるがえし
[#ここで字下げ終わり]
かがり台に入れられた松明《たいまつ》の火が燃え上がるにつれて、采女の姿が鮮やかに浮き上がった。
「まさか、あのお方は」
慶寿院は驚きのあまり後ろにのけぞり、口に手を当てて声をもらすまいとした。
女房装束をまとった采女は、どこから見ても祥子内親王そのものだった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]神の心もや打解けて 曇らぬ光は玉鉾《たまぼこ》の 道有る御世をや照らすらむ
[#ここで字下げ終わり]
采女は巫女《みこ》舞いとはうって変わった優雅な手つきで檜扇をあやつり、唐衣の袖をひるがえしながら舞いつづける。
寝殿に座した者たちは驚きに息を詰めて見入っていたが、中でも近衛稙家の反応は異常なほどだった。
いつも眠たげにしている目を裂けんばかりに見開き、手にした盃から酒がこぼれるのにも気付かずに腰を浮かしている。
前嗣は笛をかなでながら、皆の様子をうかがっていた。祥子内親王が義輝の祝言で舞いを披露したという噂《うわさ》が広がれば、西園寺公朝らが流した飛語などたちどころに消えてしまう。
そう考えて仕組んだことだが、稙家の様子は尋常ではない。驚きを通り越して、恐怖と狼狽《ろうばい》のあまり、失神せんばかりだった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]砂《いさご》にひびく沓《くつ》の音 民も久しき御影《みかげ》をあおぐ天下《あめのした》のどけき春の田返すより 苅《か》り干す稲葉の秋をへても 絶えずぞ備うる御調物《みつぎもの》
[#ここで字下げ終わり]
「やめろ。やめてくれ」
稙家は両手で耳を押さえ、熱に浮かされたように立ち上がった。
「兄君、どうなされたのですか」
慶寿院が気づかった時には遅かった。
「やめろと言うに、わからぬか」
稙家はそう叫ぶなり、目の前にすえられた折敷《おしき》を蹴り飛ばし、床の間に置かれた引き出物の太刀を抜き放った。
「義父《ちち》上、お鎮まりあれ」
義輝が易々と腕を押さえて太刀を奪った。
笛も唄もやんで静まりかえった舞台の上で、采女だけが異様な形相で舞いつづけていた。
檜扇《ひおうぎ》をかざしながら舞う采女は、夜叉《やしや》と化していた。
表情はほとんど変わってはいない。だが体の内側から立ちのぼる凄《すさ》まじい怨念《おんねん》が、印象を一変させていた。
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※[#歌記号、unicode303d]夢のたわぶれいたずらに 松風に知らせじ 朝顔は日にしおれ 野草の露は風に消え かかるはかなき夢の世を |現と《うつつ》住むぞ迷いなる
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自ら唄い、不吉の風を送ろうとでもするように檜扇をあおぎかける。
(まさか、祥子さまが……)
いつぞやのように、采女に乗り移ったのではないか。前嗣はそれを確かめようと、目を合わせて心の内を読もうとした。
だが采女は檜扇で顔をおおいながら、からかうように誘うようにたくみに視線をそらしつづけた。
「馬鹿者。やめぬか」
放心していた稙家が、突然前嗣に飛びかかった。
「おのれまでが、呪《のろ》いをあびることになるのだぞ」
稙家が前嗣を組み伏せた時、采女が地の底から響くようなおぞましい笑い声をあげた。
「稙家よ、稙家。怖れるがよい。おののくがよい。いかに精進潔斎《しようじんけつさい》を積んだとて、おのれの罪を祓うことは出来ぬ。前《さき》の帝のように血を吐いて事切れるまで、わらわの呪縛《じゆばく》から逃れることは出来ぬのじゃ」
それは采女の声でも、祥子の声でもなかった。
だが前嗣はどこかで聞いた覚えがある。
脳裡にこびりついて離れない声なのに、どこで聞いたかどうしても思い出せなかった。
「おのれが戒めを破ったからには、祝言をあげた二人に呪いがかかることになろう。おのれの娘とその将軍が、紅蓮《ぐれん》の炎に包まれて果てるのを見ながら、犯した罪の深さを思い知るがよい」
「無礼者、下がらぬか」
義輝が黄金造りの太刀を抜いて立ちはだかった。
だが采女は檜扇をひらひらと振って、唄いながら舞いつづけた。
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※[#歌記号、unicode303d]物すさまじき山陰に 住むとも誰か白露の ふり行く末ぞ哀れなる
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「おのれ。下がらぬとあらば、斬って捨てるまでじゃ」
義輝が渡殿を渡って舞台にかけ込もうとした時、かがり火の側から巨大な影が飛び出し、采女に当て身を入れ、軽々と抱きかかえて走り去った。
かがりの役を務めていた天狗飛丸である。
静まりかえった屋敷には、かがり火ばかりが赤々と燃えていた。
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第十章 信長登場
宴たけなわのうちに終わるはずの祝言《しゆうげん》は、一転して重苦しく不吉な予感に包まれたものとなった。
義輝と里子は早々に奥に引き上げ、三管四職家の者たちも引き出物を手に屋敷を下がっていったが、前嗣《さきつぐ》ばかりは能舞台の前から動くことが出来なかった。
「前《さき》の帝《みかど》のように血を吐いて事切れるまで、わらわの呪縛《じゆばく》から逃れることは出来ぬ」
采女《うねめ》に乗り移った何者かが発した言葉が、耳の底にこびりついている。あの低く響く、怨《うら》みがましい声は、確かにどこかで聞いたことがある。
だが、前嗣にはその記憶を追う余裕はなかった。己の軽率な思いつきによって、晴れの日を汚《けが》したことがずしりと胸にこたえ、立ち上がる気力さえ失っていた。
冷たく冴《さ》えわたった空には、とぎすました鎌《かま》の刃のような月が浮かんでいる。
おぼろな青い光がかがり火の消えた庭をぼんやりと照らし、厚く積もった雪を銀色に輝かせていた。
「若、風邪ひきまっせ」
小豆坊《あずきぼう》に声をかけられて、前嗣はようやく我に返った。
「采女はどうした」
「それが、どこにもおりまへんのや。下の屋敷にも戻っとりません」
「飛丸が連れ去ったのか」
「大事な祝言であないなことをやらかしては、手討ちにされる思いよったんやろな。飛丸は采女にかなりのぼせとったさかい」
「どこへ行ったか、心当たりはないか」
「多武峰《とうのみね》の修験者に廻状《かいじよう》を回して行方を当たりますよって、四、五日のうちには分かりますやろ」
「采女に聞きたいことがある。小豆坊も心当たりを捜してくれ」
夜はかなりふけていたが、前嗣は東の対の屋に稙家《たねいえ》を訪ねた。
稙家は火鉢を二つも部屋に入れ、夜具をかぶって横になっていたが、ろうそくは灯したままだった。
「父上、おたずねしたいことがあります」
許しを待たずに、前嗣は部屋に入ってふすまを閉めた。
あの声の主は何者なのか、呪縛や戒《いまし》めとは何なのか、今夜こそ洗いざらい聞き出すつもりだった。
「そこでは遠い。近う寄れ」
稙家があお向けになったまま、誰かに聞かれることを恐れるように低くつぶやいた。
前嗣は枕元まで進んだが、何からどう切り出していいか分からなかった。
「先ほど舞姫をつとめたのは、どういう素姓の者だ」
稙家が先に口を開いた。
「采女という侍女でございます」
「巫女《みこ》舞いの心得があるようだが」
「歩き巫女を生業《なりわい》としておりました」
「そうか。歩き巫女の一座に拾われたか」
稙家が深い溜息《ためいき》をついた。
「拾われたとは、どういう意味でしょうか」
「後で話す。その前に、あのお方がお前に仕えておられる理由を教えてくれ」
「あのお方ですって?」
「向こうから、近付いて来られたのか」
「…………」
「答えよ、前嗣。お前は人の心が読めるではないか」
「采女は歩き巫女のかたわら、刺客をしておりました。初めは私の命を狙《ねら》って近付いてきたのでございます」
「誰に命じられたのだ」
「一座の嫗《おうな》でございましょう。その嫗が誰に頼まれたのかは、采女も知らないようです」
「何ゆえ祝言の舞いなど務めさせたのだ。祥子さまが来ておられるとでも思わせたかったのか」
「そうです」
西園寺公朝らが、祥子内親王の援助があるという飛語を流している。それに対抗するために、祥子さまが祝言に来られたように見せかけようとしたのだ。前嗣は苦い思いでそう認めた。
「間近にありながら、あのお方がただならぬ身分の方だとは思わなかったか」
「祥子さまに瓜《うり》二つだとは思いましたが、まさか……」
他人にしては似すぎている。前嗣は初めてそのことに思い当たった。
「祥子さまの双子の妹に当たられるはずじゃ。むろんご本人もそれをご存知《ぞんじ》あるまいがな」
「そのことを、父上は何ゆえご存知なのですか」
「あのお方をお捨て申したのは、この私だからだ。生後間もない赤児を、塗り籠《ご》めの籠《かご》に入れて五十鈴《いすず》川に流してしもうた」
押さえていた哀しみがふいに突き上げてきたのか、稙家は額に手を当てて声を震わせた。
部屋の隅では、ろうそくが揺らめきながら燃えつづけていた。
事の起こりは、後奈良天皇の恋だった。
今を去る二十数年前、後奈良帝は一人の下級|公家《くげ》の娘を見初《みそ》められた。
ある年の春、嵐山《あらしやま》で観桜の宴がもよおされた時、渡海《とかい》少納言の娘|加奈子《かなこ》が余興の舞いを披露した。
加奈子は十六歳になったばかりだったが、洛中《らくちゆう》でも評判の舞いの上手だったので、特別のお声がかりがあって帝の御宴に召されたのである。
あでやかな壺装束《つぼそうぞく》をまとい、咲きほこる桜の下で舞う姿は、評判にたがわぬものだった。
姿も美しく、形もしなやかで、舞いの変化に従って刻々と表情を変える様は、まるで神が宿っているようである。
美の極致というものは、人を不安にさせるものだ。
常ならぬ美しさには、人を虜《とりこ》にする魔がひそんでいる。その魔に魅入られて、体ごとさらわれてしまう予感が、人を不安にさせるのである。
加奈子の舞いは、そうした美しさと危うさをはらんでいた。
それゆえ観桜の宴に参集した公卿《くぎよう》たちは、顔の前に扇を開き、骨の間から舞いを見物した。こうすれば魔を避《よ》けることが出来るからである。
だが後奈良帝ばかりは、扇を使おうとはなされなかった。
四十歳という男盛りでもあり、気力、体力ともに充実しておられただけに、魔に魅入られることはないという自負がおありになったのだ。
ところが、魔はさしたのである。
帝はこの日以来加奈子に恋い焦がれ、女御《にようご》として内裏《だいり》に上げるように、渡海少納言に矢の催促をなされた。
もし、渡海家というものが並の公家であったなら、この恋はめでたく成就しただろう。加奈子は入内《じゆだい》し、父親の少納言は家格を越えた立身出世をすることが出来たかも知れない。
だが哀しいことに、加奈子にはそれが許されない事情があった。
渡海家はもともと伊勢神宮の御師《おんし》の家柄で、生まれた娘はすべて女官として神宮に奉仕させる義務をになっていた。
加奈子もこの定めに従って、秋には伊勢に下らなければならなかったのである。
このことを聞かれた後奈良帝は、加奈子を別の家の養女として入内させようとなされたが、父親の少納言は頑としてこれを拒んだ。
渡海家は千年の間、娘を伊勢神宮に奉仕させるという家職に従ってきた。帝のお申し付けとはいえ、自分の代でそれを変えることは出来ないからである。
帝といえども、故実古例に背くことは出来ない。
いや、この国において最も神に近いお方であられるからこそ、あらゆる神職者よりも厳密に古代からの例《ためし》を守らなければならないのである。
歴代の帝が真冬といえども火鉢を用いず、病気になってもお灸《きゆう》さえすえずに過ごして来られたことが、帝位というものの重みを如実に物語っている。
そうしたお立場にありながら、渡海家の定めを無視することは絶対に出来ない。
後奈良帝は食も喉《のど》を通らぬほどに煩悶《はんもん》なされた末に、高雄山神護寺に参籠《さんろう》して加奈子への想いを断ち切ろうとなされた。
境内《けいだい》の一堂に、不動、降三世《ごうざんぜ》、軍荼利《ぐんだり》、大威徳、金剛夜叉《こんごうやしや》の五つの明王を安置し、五壇の御修法《みずほう》を行い、己の執着ゆえに生じた魔を祓《はら》おうとなされたのである。
修法は七日七夜に及んだ。
振鈴《しんれい》の声は神護寺に満ち、護摩の煙は虚空《こくう》に立ちのぼったが、満願の日をむかえても、御験《みしるし》はあらわれなかった。
「加奈子への想いを断ち切るほどなら、この胸から心の臓をつかみ出し、ずたずたに切り裂いたほうがましだ」
後奈良帝は煩悩に負け、たとえ天に背こうと国を失おうと加奈子を我が物にするという決意を秘めて高雄山を下りられた。
五大明王とは、もともと大日、|阿※[#「門<人/(人+人)」、unicode95a6]《あしゆく》、宝生《ほうしよう》、無量寿、不空成就の金剛界五仏の忿怒身《ふんぬしん》としてまとめられたものである。
いずれもおぞましいばかりの忿怒の形相をしているのは、人の弱さ、執着の深さを正そうとしてのことだ。
この密教像に願をかける五壇の御修法は、弘法《こうぼう》大師空海が日本に伝えたものだが、用いる者にとっては双刃《もろは》の剣となる。
執着を断ち切ることが出来なかった者は、五大明王の忿怒だけを我が身に受けて、執着が成就しないこの世に対する怒りだけを心に残す。
高雄山から内裏に戻られた後奈良帝の形相は、まさに五大明王のようであったという。
忿怒身と化したまま近衛稙家をお側に召され、加奈子を入内させるための策を講じよと命じられた。
主上が間違った道を進もうとなされる時には、一命を賭《と》して諌言《かんげん》するのが臣たる者の道である。
だが稙家は、帝の凄《すさ》まじいばかりの気迫に抗することが出来ず、また、帝に気に入られて立身出世を遂げたいという下心もあって、勅命に応じた。
この瞬間から、二人の運命は凶へと転じたのである。
加奈子を入内させる方法は二つあった。
ひとつは何かの不祥事を理由にして渡海家を取り潰《つぶ》し、伊勢神宮への奉仕の義務から加奈子を解き放つこと。
もうひとつは、加奈子を身籠《みごも》らせて神宮へ奉仕する資格を奪うことである。
稙家は後者を取るように進言し、自ら密会の手引きをした。
伊勢に発《た》つ前夜に少納言と加奈子を立売町の屋敷に招いて壮行の宴をもよおし、秘薬を用いて少納言を前後不覚にしたのである。
思いがけない成り行きに加奈子は戸惑っていたが、後奈良帝の求愛の激しさに押し切られて秋の長い一夜を共に過ごしたのだった。
翌日、加奈子は予定通り伊勢に向かったが、結果は三月後に現れた。身籠っていることが発覚して、女官の職を解かれたのである。
知らせを受けた稙家は、すぐに伊勢へ向かった。加奈子を引き取り、女御として入内させるためである。
ところが、稙家の後を追うように、都から思いもかけぬ知らせが届いた。娘の不祥事を恥じた渡海少納言が、短剣で胸を貫いて自裁したのだ。
こんなこともあろうかと、稙家は内々に加奈子の相手が帝であることを伝えていた。
だが少納言にとっては娘が帝に寵愛《ちようあい》されたことよりも、家の定めを守れなかった無念の方が重かったのである。あるいは帝の無理強いを許せなかったからこそ、自裁することによって抗議の意を示したのかも知れない。
この不慮の出来事のために、稙家の計略は変更を余儀なくされた。
身重の加奈子を入内させては、少納言の死の原因が帝であることが知れてしまう。それは帝自らが古代からの定めを破ったと公言するも同じだった。
稙家は加奈子を知り合いの神官の屋敷に預け、父の死を知らせないまま出産させることにした。
少納言の事件のほとぼりが冷め、加奈子が身二つになったなら、入内させる方法はいくらでもあったからだ。
ところが、まるで運命の神に呪《のろ》われてでもいるかのように、新たな禍《わざわ》いがふりかかった。十月後に加奈子は無事に出産したものの、生まれたのは双子の娘だったのである。
今日の我々なら、喜びが二倍になったと祝うところだが、古い因習と迷信に縛られていたこの時代には、双子は不吉なものと考えられていた。
常とは異なった事態に禍々《まがまが》しさを覚えたことや、家督相続に混乱をきたしかねないことが、不吉とされた原因だという。
稙家もそうした考え方に縛られた一人だった。
不吉な子を生んだとあっては、加奈子を入内させることは出来ない。何とか事が公になる前に、片をつけなければならぬ。
稙家は帝に事を秘したまま、加奈子が眠っている間に双子の一方を産屋《うぶや》から盗み出し、塗り籠《ご》めの籠《かご》にいれて五十鈴川に流した。
『古事記』にも、伊邪那美命《いざなみのみこと》と伊邪那岐命《いざなぎのみこと》の間に生まれた水蛭子《ひるこ》を、葦船《あしぶね》に乗せて流したと記されているように、不吉なものは川に流して祓い清めるという考え方が、日本には古くからある。
稙家も一人の赤児を川に流すことによって、出産にまつわる不吉を祓えると信じたのだった。
ところが稙家は、重大な過失をおかしていた。産屋には産土《うぶすな》と呼ばれる砂が敷きつめてある。この砂の上に、稙家の沓《くつ》の跡がくっきりと残っていたのだ。
加奈子も双子が不吉とされていることを知っていただけに、我が子に何が起こったかをすぐに悟り、激しく稙家を責めた。
しかも間が悪いことに、都から出産の祝いに駆けつけた加奈子の乳母《めのと》が、渡海少納言が恨みを呑《の》んで自決したことを知らせたのである。
産後の肥立ちが悪かった加奈子は、相継ぐ衝撃にふさぎ込み、産屋の戸を固く閉ざして誰とも会おうとしなかった。
そして、ある嵐の夜に赤児を残したまま姿を消したのである。
稙家は八方手を尽くして行方を追ったが、何ひとつ手がかりを得られないまま七日が過ぎ、八日目の夕方に、加奈子らしい死体が二見《ふたみ》の浦に上がったという知らせを受けた。
気も動転して駆けつけてみると、変わり果てた加奈子の遺体が、浜の船屋に安置されていた。
村人の話では、今朝早く岸辺の岩場から海に身を投げたのだという。近くで漁をしていた者が助けようと舟を漕《こ》ぎ寄せたが、すぐに潮に呑まれ、遺体が上がったのは昼過ぎだった。
加奈子は骨と皮ばかりにやつれ果てていた。
目は恨みがましく虚空を見つめ、耳まで裂けた口からは、死してなお怨念《おんねん》の言葉が吐き出されているようだった。
村人たちは、海の底に棲《す》む悪鬼に慰み物にされたのだとささやき合っていたが、稙家にはこの凄まじい形相の意味がすぐに分かった。
加奈子は行方をくらましてから七日七夜の間、己に不幸をもたらした者を呪詛《じゆそ》していたのである。
その証拠に、加奈子の遺体には釘《くぎ》を刺した傷跡が七ヵ所くっきりと残っていた。
厭魅呪詛《えんみじゆそ》の法という。
一般には丑《うし》の刻まいりと呼ばれる呪法で、呪う相手の藁《わら》人形を作って神木に釘で打ちつける。
だが、加奈子は我が身に釘を打つことで怨念を高め、満願の日に命を絶って呪いを成就させようとしたのだ。
稙家は残された赤児とともに都に戻り、後奈良帝にすべてを報告した。
帝はその児を内裏に引き取って祥子《よしこ》と名付け、内親王として育てることになされたが、帝と稙家に向けられた加奈子の呪いが解けることはなかったのである……。
部屋の隅に灯したろうそくが燃え尽きようとする頃、稙家の長い話は終わった。
稙家は相変わらずあお向けに寝ころんだままである。だが、閉じたまぶたからは滂沱《ぼうだ》の涙が流れ落ちていた。
「父上は、今も呪いを受けておられるのですか」
長い沈黙の後に、近衛前嗣はそうたずねた。
「受けておる。先ほどお前も聞いたあの声が、頭の中に鳴り響き、心休まることは一刻《いつとき》としてない」
「前《さき》の帝も、そうだったのでしょうか」
「お口になされたことはないが、そうであったのだろう。それゆえ、お前と祥子さまの祝言を許そうとなされなかったのだ」
後奈良帝は、自分と稙家が生きている間は二人の結婚を許すことは出来ぬと仰せられた。それは加奈子の呪いが、二人の身に禍いを及ぼすことを恐れてのことだ。
だが、前嗣は情に負けて祥子内親王と契りを交わした。二人の運命が急転し始めたのはそれからだった。
「人の心を読む力も、呪いのゆえに授かったのでしょうか」
「…………」
「あの時父上は、祥子さまに二度と会うな、考えてもならぬと申されました。あれは何ゆえですか」
「お前の力は、祥子さまと交わったために授けられたものだ。その力によって成したことは、すべて祥子さまに筒抜けになっておる」
「では、本願寺との密約も……」
「お前自身の心の内から漏れたものだ。お前が祥子さまへの思いを断ち切らぬ限り、あらゆる計略が今は敵となられた祥子さまに漏れることになる」
「その呪いを、解くことは出来ないのですか」
「私もその方法を求めて、二十年間故実古典を学んできた。何度か二見の浦に行って降魔《ごうま》の法をこころみたが、呪縛から逃れることは出来なかったのだ」
稙家がはかなげにつぶやいた時、ろうそくの火がふっと消えた。
永禄二年(一五五九)の年が明けた。
昨年は後奈良帝の喪中のために中止されていた四方拝が、清涼殿の東庭で行われた。
元旦の寅《とら》の刻(午前四時)、黄櫨染《こうろぜん》の袍《ほう》をめされた正親町《おおぎまち》天皇が、庭にめぐらした屏風《びようぶ》の中にお出ましになり、北に向かってその年の属星の名を七度唱え、再拝して五穀|豊穣《ほうじよう》、天下泰平、朝家の安泰を祈って呪文《じゆもん》を唱えられる。
次に北に向かって天を拝し、北西に向かって地を拝し、北、東、南、西の順に四方を二度ずつ拝して災いを払い、最後に先祖の山陵《みささぎ》を拝される。
この四方拝こそ、年の初めに帝が天に対して尽くさなければならない最も重要な礼だった。
こうした礼が正しく行われていなければ、天はこの国に対して災いを及ぼすと考えられていただけに、礼を欠くことなく行うことは、朝廷にとって自己の存在意義の根幹に関わる大事だったのである。
こうした典礼が「年中行事」と呼ばれるものであり、万一皇帝や天皇がこれを怠って国に災いを招いたなら、天命が改まって彼らを滅ぼすと考えられていた。
だからこそ、鎌倉幕府に抗して佐渡《さど》に流された順徳《じゆんとく》天皇は『禁秘抄《きんぴしよう》』を、建武の親政を成しとげた後醍醐《ごだいご》天皇は『建武年中行事』を、そして徳川幕府と戦いつづけた後水尾《ごみずのお》天皇は『当時年中行事』を著され、一年の間に朝廷が行うべき朝儀公事を明らかにしようとなされたのだ。
一年が四方拝で始まるのと同様に、新しい帝の治世は即位の礼で始まる。
前の帝の喪が明けたこの年に、新しい帝の即位の礼を行うことが出来るかどうかに、朝廷再興の成否がかかっていると言っても過言ではなかった。
洛中が白馬《あおうま》の節会《せちえ》にわく一月七日、松永久秀は数十騎の供を連れて、東洞院通りを北に向かっていた。
新年恒例の叙任で、西園寺公朝が正二位から従一位に昇進した。
その祝いのために、引き出物を持参して摂津の滝山城から出向いてきたのである。
一月七日は七種粥《ななくさがゆ》の日でもある。内裏でも洛中でも、一年の息災を祈って春の七草を入れた粥を食べる。
通りには七草を入れた籠を頭にのせた大原女《おはらめ》が、華やかな売り声を上げながら歩いている。
洛中のこうした雰囲気が、久秀には懐かしくもありうとましくもあった。
懐かしいと思うのは、子供の頃から体に染みついているからだ。うとましいのは、こうした行事が子供の頃の暗い記憶をまざまざと呼びさますからである。
公朝の屋敷に出向くのも、実のところ嫌で仕方がなかった。
地味ながらも意匠をこらした築地塀《ついじべい》や唐破風《からはふ》の門を見ると、なぜかぞくりと寒気がするのだ。
人は在りのままで尊く、すべての者は平等である。ところがあの築地塀や唐破風の門の内側にいる者たちは、そうではないと言う。
はるか古代に天下りたもうた神々の末裔《まつえい》であるがゆえに、この国に君臨する資格があるとのたまう。
馬鹿を言えと、久秀は思うのである。
もしそんな理屈がまかり通るなら、この国も、この国に住む者たちも、永久に変わることは出来ないではないか。
そもそも人でありながら、神々の末裔であるというのは矛盾である。その矛盾を糊塗《こと》するために、祓いだの清めだのをくり返し、己だけは清浄なふりをする。
母はそうした欺瞞《ぎまん》の犠牲になったと感じているだけに、久秀の嫌悪感は深刻だった。
だがこの国の者たちは、こんな朝廷を好きで好きでたまらないようなのだ。
内裏千度|詣《もう》でに集まった群衆が、いい例である。
彼らは初詣でに行くように内裏に詣で、神殿に額《ぬか》ずくように内裏の門前にひれ伏す。意識の深いところで、神と帝は一体だととらえているからだ。
だからこの国を治める者は、帝の信任を受けた者でなければならないと当然のごとく考えている。
これは為政者にとって、恐るべきことだった。
三好|長慶《ながよし》があれほどの力を持ちながら、いまだに足利義輝を倒せずにいるのは、将軍を倒せば朝廷に背くことになると考えているからだ。
長慶に二の足を踏ませるほどに、人々の心に根を下ろした朝廷の力は大きいのである。
自分に十万の軍勢と一万|梃《ちよう》の鉄砲があれば、この国を根こそぎ変えてみせるのに。久秀は時折そうした誘惑にとらわれることがある。
だが現実の久秀は三好長慶の重臣の一人でしかなく、三好家では新参者に過ぎない。
だからどれほど気が進まなくとも、西園寺公朝に働きかけ、朝廷の方針を三好家寄りに変える以外に策はないのだった。
門番に取り継ぎを頼むと、すぐに客間に通された。
「これは弾正、遠路ようお越し」
丸々と太った西園寺公朝が、満面の笑みを浮かべて上段の間についた。
「このたびのご昇進、まことにお目出度《めでと》う存じます。心ばかりの品々を、祝いに持参いたしました」
久秀はひれ伏して、献上品の目録を差し出した。
小生意気な面様《つらよう》をした小姓が目録を上段の間に運ぶと、公朝はいちいちうなずきながら目を通した。
「いやいや、仰山の祝いで大儀なことや。礼を言うで」
「もったいないお言葉、かたじけのうございます」
「このたびの昇進が叶《かの》うたのも、三好家の後押しがあったからや。筑前守にもよろしゅうにな」
公朝は薄気味悪いほど丁重だった。昨年二月の失脚を挽回《ばんかい》しての従一位昇進だけに、歓びもひとしおだったのである。
「内裏のご様子はどうか承って参れと、筑前守より申し付かっております」
「年明け早々に、悪い知らせやけどな。ご即位の礼の警固のために、諸大名に上洛するよう勅命が下されてしもうた。近衛の若僧が仕組んだことや」
「諸大名とは、どのような者たちでございましょうか」
「いろいろおるやろ。全部や」
「しかし、領国を接する大名たちは、互いに相手の国を奪わんと兵を構えております。とても上洛できる状態ではございませぬ」
「そやから、その戦をやめて上洛せよちゅうことや。大名へは勅命と一緒に公方《くぼう》の御教書《みぎようしよ》も送られたよって、応じる者もいるはずや」
すでに昨年末には、越後の長尾景虎と甲斐の武田晴信《たけだはるのぶ》が足利義輝の調停を受け入れて休戦し、上洛の仕度にかかっているという。
「筑前守がご即位の礼の警固を断ったよってな。上手に裏をかかれたんや」
「たとえ勅命や御教書が下ったとしても、上洛できる大名はそれほど多いとは思えませぬ」
「そやろか。帝のお力を甘く見ると、痛い目にあうで」
「たとえ応じたくとも、長年戦ってきた敵をそう易々と信じることは出来ますまい」
昨年足利義輝が勝軍山城で挙兵した時、近衛前嗣は本願寺と毛利|元就《もとなり》を身方につけて三好家を滅ぼそうとした。
だが、祥子内親王からその報を得た久秀は、出雲の尼子晴久に手を回し、石見国に出陣させて毛利を動けなくしたのである。
勅命や御教書による休戦など、突き崩す策はいくらでもあった。
珍しいことに、公朝は粥《かゆ》の馳走《ちそう》をした。侍女が鍋《なべ》に入れて運んで来た粥を、自ら碗《わん》によそって久秀に差し出した。
主人が客をもてなすために走り回るから馳走という。給仕もすべて主人がするのが、昔ながらのもてなし方だった。
すき通るような黒漆ぬりの折敷《おしき》には、金泥で梅の木が描かれている。枝の先には春告げ鳥が二羽、今しも枝に止まろうとしているところである。
大ぶりの青磁のお碗の底に、七草を入れた粥が三口分ほど盛ってあった。
「今日は七種粥や。お食べ」
青磁の碗は見事なばかりの深い色で、手に取ると心地良い重みが伝わってくる。
七種粥の味も香りも冷め具合も、申し分のないものだった。
味覚とは、舌の欲望である。久秀は舌を包む粥の味わいに心を満たされ、体を揺さぶられるほどの感動を覚えていた。
「ところで、河内の様子はどうや。高屋城は落とせそうか」
「今はまだ季節も悪く雪も残っておりますゆえ、城攻めには向きませぬ。春の雪解けを待って、ひと息に攻め落とす所存にございます」
「安見直政は公方としめし合わせたんとちがうやろか」
「あるいは、そうかも知れませぬ」
久秀はためらうことなく嘘をついた。
河内の守護である畠山高政が高屋城を出奔したのは、安見直政に追い出されたからだと評されているが、実は久秀が高政に密使を送り、堺へ逃げ込むように勧めたのだ。
高政は三好家の力を借りて直政を討とうと企て、久秀はこの機会に河内ばかりか大和まで手中にしようと狙っていたのである。
「河内を平らげたなら、その先はどうするつもりや」
「大和に兵を進めることになりましょう」
「大和は興福寺のもんや。摂関家に弓引くつもりか」
公朝が急に用心深い目付きをした。
興福寺は藤原|鎌足《かまたり》の念持仏を安置して創建された藤原氏の氏寺で、寺内に門跡として入室している摂関家の子弟が、鎌倉時代以来大和の守護職に任じられている。
大和に攻め込めば、摂関家や朝廷を敵に回すことになるだけに、公朝としては黙視することが出来なかったのである。
「すでに興福寺の力は衰え、筒井などの衆徒が国を支配しております。大和に兵を進めるのはこの者たちを滅ぼすためで、興福寺に弓引くものではございませぬ」
「そんならええけどな。えげつないことしたらあかん。お上のご不興を買うたら、麿《まろ》かて三好家を庇《かば》えんようになるさかいな」
「決してそのようなことはいたしませぬゆえ、阿波公方さまの擁立について今後ともご尽力いただくよう、くれぐれもお願い申し上げまする」
久秀は強く念を押して御前を辞した。
河内、大和の両国を支配下に組み込み、強大な勢力を背景にして、阿波公方|義維《よしつな》の将軍擁立を朝廷に迫るというのが、三好長慶が新たに立てた戦略である。
だが、久秀はこの策には懐疑的だった。
五年もの間義輝を都から追い出しておきながら出来なかったことが、二ヵ国を版図《はんと》に加えたからといって実現するはずがない。
三好家が天下を取るには、足利将軍家を滅ぼして長慶が将軍となる以外にはないのだが、穏健な長慶にはどうしてもその決断がつかないのだった。
西園寺邸を出た久秀は、高雄山の祥子内親王を訪ねた。
本願寺と結んだ前嗣らの動きを封じることが出来たのは、祥子がいち早く計略を知らせてくれたお陰である。
即位の礼の警固のために諸大名を上洛させる策の裏にも、何か隠された意図はないのか確かめておく必要があった。
だがそれ以上に、祥子に会いたいという気持ちの方が切実だった。
白馬《あおうま》の節会《せちえ》にわく洛中の空気に触れたせいだろうか。それとも公朝が馳走した七種粥の味に魅了されたせいなのか、久秀は自分でも名状しがたい奇妙な精神状態におちいっていた。
都に対する懐かしさとうとましさがせめぎ合い、愛《いと》おしさと憎しみが半ばして、胸の中で渦を巻き起こしている。
しかも淋《さび》しい。たった一人荒野に捨てられたような孤独の中で、ひたすら祥子に会いたかった。
恋だろうか?
とんでもないと久秀は思った。五十歳にもなった身で、二十歳《はたち》前の娘に恋心など抱くはずがない。
では、この胸がうずくような切なさは何なのか。
体の芯《しん》が膿《う》んだように熱っぽいのは何故なのか。
久秀はひと足ごとに自問しながら雪の残る参道を登り、神護寺金堂の門をくぐった。
久秀は知る由もなかったが、この荒れ果てた金堂は、かつて後奈良帝が加奈子への執着を断つために五壇の御修法をなされた所である。
その場所に祥子内親王が引き籠《こも》り、近衛前嗣らの計略を打ち砕こうとしているのも、奇《く》しき因縁のなせる業かも知れなかった。
「お目にかかりたい。取り継ぎを頼む」
出迎えた初老の尼僧に、あわただしく申し入れた。
「ただ今お休みになられたばかりでございます。しばらくお待ち下されませ」
「ご病気か?」
「何やら近頃はふさぎ込んでおられることが多く、食もあまり進まぬようでございます」
「では、別室で待つ。お目覚めになられたら知らせてくれ」
金堂の客間で待つ間、久秀は座禅を組んだ。
結跏趺坐《けつかふざ》し、呼吸を整えることだけに意を用いていると、心は表層の意識を離れ、深層へと沈んでいく。
すると深層の意識の入り口で、荒涼たる野原をさまよい歩く母の姿が現れた。
母は泣いている。
雪にぬれた凍える体を両腕でかばい、泣きながら歩いている。
元結《もとゆい》の解けた長い髪は、風になぶられて狂ったように乱れ舞う。
それは母の叫びのようだ。哀しさ、悔しさ、怒り、恨みが渦巻く心のようだ。
久秀はまだこの世にはいない。
凍えた母の胎内で、じっとうずくまっている。乱れ狂う母の心を全身で受け止めながら、それでも懸命に語りかけている。
「駄目だ、母さん。生きなきゃ駄目だ」
母の背後であざけり笑う声がする。
久秀は怒りに掌を握りしめるが、笑い声はますます無遠慮に母を追い立てるばかりである。
やがて母は暗い川の淵《ふち》に立つ。
目の下には黒い水が渦を巻いて流れている。足もとから地をゆるがす不気味な音が聞こえてくる。
久秀はもがく。母を死なせまいともがく。だが手も足も柔らかい壁に虚《むな》しく押し返されるばかりである。
母もそんな思いをしているのだろうか。訳の分からぬこの世の掟《おきて》にからめ取られ、もがき抜いた挙句、力尽きて己の命を絶とうというのか……。
久秀の心は、深層の意識の入り口に立ちはだかる哀しい景色を突き抜け、さらに下部へと沈んでいく。
その先には何もない。無の空間が広がっているばかりである。
人は無から生まれ、無へと帰る。人の意識がとらえるのは、関係性が生み出す現象だけで、確固不動の実在というものはない。
座禅を組み心を無に保つことで、久秀はようやく己の苛立《いらだ》ちの正体を見極めた。
それは都や朝廷への愛憎半ばする感情から生み出されたものだった。
八百年の澱《おり》に淀《よど》みきったこの都など、内裏ともども焼け野原にしてやりたいと思いながらも、心の奥底には決してそれを許さないもう一人の自分がいる。
理性では否定しても、心情がそれを許さないのだ。
この一線を越えなければ、自分も三好長慶のように古い秩序のわくから出られない。大義だの名分だのに縛られながら、果てしない徒労をくり返すばかりである。
だから、越えよと第六感が命じているのだ。踏みにじり、破壊して先へ進め。その第一歩とすべき獲物が、間近にいるではないか。
祥子を犯して我が物としたい。久秀はそう望んでいたことをはっきりと意識した。
「お殿さま、内親王さまがお目ざめになりました」
ふすまの外から侍女の尼僧が告げた。
「お加減はいかがじゃ」
「すぐれないご様子ですが、お目にかかると申しておられます」
「分かった。家臣に命じることがあるゆえ、その後に参る」
尼僧が立ち去るのを見届けてから、久秀は河西《かさい》佐渡守を呼んだ。
七年前に三好長慶が洛中を支配するようになった頃から、久秀は神護寺の境内を山城と化し、二百ばかりの手勢を入れて丹波や丹後からの敵の侵入にそなえている。
佐渡守はその兵を束ねている初老の武士で、金堂の警固にはひときわ気を遣っていた。
「故あって、金堂を焼き払う。四半刻《しはんとき》後に風上より火をかけよ」
久秀は佐渡守の間近に寄って耳打ちした。
「な、何ゆえでございましょうや」
「内親王さまを滝山城へお移し申し上げるためだ。ここでは何かと不自由なのでな」
必要な指示をして、奥の広間に行った。
急ごしらえの上段の間には、いつものように黒い御簾《みす》が垂らしてあった。
「ご気分がすぐれぬとうかがいましたが、大事ございませぬか」
「何でもありません。近頃は妙にもの憂く、横になっていることが多いのです」
御簾の奥から祥子の声がしたが、姿をうかがうことは出来なかった。
「本日は西園寺公の昇進の祝いに上洛いたしました。お陰さまで、大層お喜びでございました」
「将軍と関白は運命をひとつにしています。義輝から将軍の座を奪うためには、関白を失脚させて朝廷とのつながりを断たねばなりませぬ」
「こたびの昇進によって、西園寺公も働きやすくなったことでございましょう」
「何か申しておりましたか」
「ご即位の礼の警固のために上洛するよう、諸国の大名に勅命が下されたそうでございます。関白の発案とのことゆえ、将軍としめし合わせているものと思われます」
「その計略に、どのような目論見《もくろみ》があるか分かりますか」
「当家にご即位の礼の警固を断られたために、諸大名を集めて威信を保とうとしているのでございましょう」
突然、御簾の奥で笑い声がはじけた。
珍しいことに、祥子が愉《たの》しげに笑ったのだ。しかもその声は長々とやむことがなかった。
御簾の外に控えていた尼僧もつられて口もとを押さえたが、久秀は自分の考えの浅さを笑われたようで不愉快だった。
「何か滑稽《こつけい》なことでも申しましたか」
「いいえ。都人から恐れられている弾正どのにしては、随分と人がいいと思っただけです」
祥子がまた笑った。
「何ゆえですか」
「公家というものは、武家など虫けらのようにしか見ていないものです。関白ともあろう者が、三好家に警固を断られたくらいで、威信を傷つけられたと思うはずがありますまい」
「虫けら、ですか」
「そう。虫けらです」
「我々には何の力も持たない公家の方こそ、虫けらのように見えますが」
「あなた方には武力や富はあっても、大義がありません。それゆえ大義を持つ者の目には、虫けらとしか映らないのです」
「大義とは、何ですか」
久秀はむかむかするような嫌悪を覚え、御簾を引き破りたくなった。
「答えるまでもありますまい」
「天照大御神から、この国を治めよと命じられたということですか」
「答えるまでもないと申しています」
「笑止な。そんな神など、どこにいるのですか」
「あなたが神の在《いま》すことを感じることが出来ないのなら、いくら話しても無駄なばかりです」
「ならば別のことをうかがいましょう。関白はどんな目論見があって諸大名を集めていると申されるのですか」
「三好家を滅ぼすためです」
久秀は虚をつかれて息を呑んだ。
即位の礼の警固のための上洛なら防ぐ策はいくらでもあるが、前嗣が三好家を討つことまで視野に入れているとなると、事情はまったくちがってくる。
三好家を滅ぼした後の分け前に与《あず》かるために、諸大名が隣国との戦を中止して上洛してくる可能性は充分にあるからだ。
もし義輝がこれらの軍勢をひきい、本願寺の一向|一揆《いつき》を身方につけて攻めて来たなら、八ヵ国を領する三好長慶といえども防ぐことは難しいだろう。
「ご即位の礼は、いつ行われるのですか」
久秀の胃が急にしくしくと痛み出した。
「おそらく今年の春でしょう」
「上洛の呼びかけには、どれほどの大名が応じるのでしょうか」
「それはあなた方が調べるべきことでしょう」
「先ほど武家は虫けらだと申されましたが、それならば何ゆえ祥子さまは我々の身方をなされるのですか」
「答えたくありません」
久秀は再び鋭い憎悪を覚えた。
だがひと思いに御簾を引き落とすことは、どうしても出来ない。祥子の前に出ると、なぜか指一本意のままに動かせなくなるのである。
金堂に火をかけるように命じたのは、そんなすくみ上がった状態から脱するためだった。
だが、そろそろ四半刻になるというのに、なかなか火の手は上がらない。久秀は今か今かと待ちながら、次第に追い詰められた気持ちになっていった。
祥子は黙ったままだった。静まり返った御簾の奥から、こちらをうかがう気配がするばかりである。
胃の痛みはますます激しくなり、吐き気さえしてきたが、久秀は引き下がろうとはしなかった。
ここで負けたなら、この先一歩も進むことが出来なくなる。祥子を四肢《しし》の下に組み敷いて、もはや神などどこにも居らぬのだということを思い知らせてやらねばならぬ。
久秀は脂汗がふき出すのをこらえながら、煙が上段の間を包み、炎が祥子を追い立てる瞬間を待ちわびた。
だが、ついに火の手は上がらなかった。
半刻ちかくも粘った末に御前を辞した久秀は、怒りに目まいを覚えながら河西佐渡守を呼びつけた。
ところが、どこにも居ないという。あれほど厳重に命じたにもかかわらず、金堂に火を放つ仕度さえしていなかった。
(まさか……)
命令を不服として、逐電したのではないか。そんな疑念に駆られ、高雄山の出入り口を閉ざして全山を探索するように命じた。
夕方になって、佐渡守の遺体が金堂の床下から発見された。
久秀の命に背くことも、祥子内親王に危害を加えることもできなかったこの実直な老武者は、自ら命を絶つことで矛盾にけりをつけたのである。
一月二十八日は初不動だった。
北白河の狸谷《たぬきだに》不動院で行われる年の初めの縁日である。一切の魔を祓うといわれる不動明王の加護を願って、境内《けいだい》には多くの善男善女がつめかけていた。
不動明王を安置した本堂の前に護摩壇《ごまだん》が設けられ、高位の僧が終日護摩をたいて参詣者《さんけいしや》の無病息災、家内安全を祈っている。
参道では青竹の筒に入れた笹酒《ささざけ》の接待も行われていた。
「せっかくの縁日や。一杯呼ばれていきましょか」
小豆坊が接待場の前で足を止めた。
台の上に青竹を輪切りにした盃《さかずき》が置かれ、篠懸《すずかけ》の衣を着た修験者たちが酒をついでいる。
小豆坊も多武峰の修験者だけに、親しみを覚えるらしい。
「これを一口飲めば、一年は無病でいられるちゅう有難い酒でんがな」
「私はいらぬ。先を急いでくれ」
近衛前嗣は酒を飲む気になどなれなかった。
不動院の坊に来ているという天狗飛丸と采女に、一刻も早く会いたかった。
「ほんなら、帰りの楽しみや」
小豆坊は残念そうに台から離れた。
「ここを選んだのは飛丸か」
「そうでんがな。こんだけ人がおったら、万一の事があっても逃げられると思いよるんでっしゃろな」
「ずいぶんと疑われたものだな」
「あいつはあいつで、采女を守ろうと必死になっとりますんや。堪忍してくんなはれ」
義輝の祝言の夜に采女を連れて失踪《しつそう》した飛丸は、小浜の若狭彦《わかさひこ》神社に身をひそめていた。どこにも行く当てがないだけに、自分が育てられた神社を頼ったのである。
配下の修験者を使ってそのことをつきとめた小豆坊は、小浜まで行って二人を連れ戻して来たが、飛丸はどうしても洛中には入らないと言う。
そこで不動院の縁日に、境内の坊で会うことにしたのだった。
二人とも山伏装束をまとい、坊の縁先に神妙にひれ伏していた。
「飛丸、よく戻ってくれた」
前嗣は回り縁から声をかけた。
「采女が罰を受けることは絶対にないと師匠が言った。それを信じて来たのだ」
「もちろん罰したりはしない。何も逃げ出さなくても良かったのだ」
「でも将軍は刀を抜いて斬ると言った。采女を守るには、逃げるしかなかった」
「あの時采女は、死霊にあやつられていたのだ。そのことは私にも分かっている」
「しりょう?」
飛丸が首をかしげて采女を見やった。その仕草には、采女への想いがありありと現れていた。
「恨みを残して死んだ者の霊は、生きている者に祟《たた》る。その霊のことを死霊というのだ」
「関白や将軍は、誰かに恨まれているのか」
「飛丸、無礼なことを言うたらあかん」
小豆坊があわててたしなめた。
「そやかて師匠、采女は犯した罪の深さを思い知れと言うとったやないか」
「その通りだ。我々は恨まれている。今日二人に来てもらったのは、そのことについて采女に相談したかったからだ」
「何なりと、お申し付け下されませ」
采女は覚悟の定まったおだやかな表情をしている。
「そこでは寒かろう。こみ入った話もあるゆえ、座敷に上がってくれ」
前嗣は采女だけを坊に入れ、ふすまを閉め切って向かい合った。
後奈良帝の皇女と分かっただけに、いつまでも縁先に座らせておくことは出来なかった。
「祝言の日のことは、覚えておるか」
「山科卿の歌に合わせて能舞台で舞ったことは覚えておりますが、騒ぎがあった時のことは何も」
「そうか。誰に乗り移られたかも分かるまいな」
「祥子さまでございましょうか」
「いいや。お前の母親だ。祥子さまの母君でもある」
采女は意味が呑み込めないらしく、物問いたげな目を向けるばかりである。
「信じられぬのは無理もないが、お前は祥子さまと同じく前の帝の皇女なのだ」
前嗣は稙家から聞いた話をあまさず伝えた。
初めのうちこそ采女は驚きに茫然《ぼうぜん》としていたが、血の記憶が呼び覚まされたのだろう。
稙家が加奈子の産屋《うぶや》から赤児を盗み出して五十鈴川に流したことや、悲嘆にくれた彼女が二見の浦に身を投げたことを聞くと、目を赤くして涙ぐんだ。
それでも涙をこぼすまいと、時折天井を見上げたり横に目をやったりする。
その姿は祥子内親王と瓜《うり》二つだけに、二人分の哀しみを目の当たりにするように痛々しい。
こうしたことが起こるのも、内裏が背負わされた宿命のゆえだと考えているうちに、前嗣はふとあることに思い当たった。
義輝の祝言の日に、采女が発した呪いの言葉のことだ。
「怖れるがよい。おののくがよい。いかに精進潔斎《しようじんけつさい》を積んだとて、おのれの罪を祓うことは出来ぬ。前《さき》の帝のように血を吐いて事切れるまで、わらわの呪縛から逃れることは出来ぬのじゃ」
稙家に投げられた地の底から響くような声をどこで聞いたのか、思い当たったのだ。
いつか夢の中で黄泉《よみ》の国を訪ねた時、雷神の住処《すみか》と化した祥子に追いかけられたことがある。
黄泉比良坂《よもつひらさか》の出口を岩で閉ざして追撃をふり切ると、祥子はこう叫んだ。
「愛しい前嗣さま。あなたがこんなことをなされるのなら、わたくしは現《うつ》し国の民草を、一日に千頭《ちがしら》くびり殺すことにいたしましょう」
采女に乗り移った死霊の声は、夢の中の祥子の声とそっくりだった。
「先ほど相談があると申されましたが」
長い沈黙の後で、采女がようやく口を開いた。
「そのお方の呪いについてでしょうか」
「そうだ。その呪いを解かなければ、父も私も祥子さまも呪縛から逃れることは出来ぬ。また恨みを呑んで死んだ母親の霊も、浮かばれることはあるまい」
「わたくしは歩き巫女でございます。降魔《ごうま》の法など存じませぬ」
「だが、実の娘であろう。伊勢を訪ねて呪詛の場所に立ったなら、何やら手がかりがつかめるかも知れぬではないか」
「分かりました。関白さまのお申し付けとあらば参りますが、ひとつ気がかりなことがございます」
「申せ」
「伊勢には、わたくしを育ててくれた巫女の一座がございます。関白さまもすでにお気付きでしょうが、わたくしはそこの嫗《おうな》の申し付けに背いてしまいました」
だから伊勢にもどれば、制裁を受けることになるという。
「ならば飛丸を護衛に連れていくがよい。その一座には、私からも引き出物を取らせることにしよう」
用件を終えて参道に出ると、参詣客はいっそう多くなっていた。護摩の煙のたちこめる中を、長々と連なって押し合いへし合いながら行き交っていた。
小豆坊とともに笹酒《ささざけ》の接待を待っていると、参道の脇から何やら茶色っぽいものが飛び出して来た。
猫か鼬《いたち》だろう。一散に逃げる後を追って、黒い小犬がけたたましく吠《ほ》えながら境内に走り込んだ。
逃げる方も追う方も必死である。
四方に竹を立て、縄を張り巡らして作った結界の中に飛び込み、護摩壇の脇をすり抜けて、あっという間に通り過ぎていった。
「太郎、もうええ。追わんでええ」
黒い犬を呼び止めようとしながら、色の浅黒い少年が境内を横切ろうとしたが、護摩壇のまわりで警固していた修験者にむんずとえり首をつかまれた。
「やい小僧、あれはお前の犬か」
七、八歳の少年は、おそれ入ってうなずくばかりである。
「初不動の御修法を、畜生で汚すとは勘弁ならぬ。こっちへ来い」
手足をばたつかせながらわびる少年を、大柄の男は境内の外に引きずって行こうとした。
「おい。そこらで許してやれ」
境内を遠巻きにした群衆の中から凜《りん》とした声が上がり、細身の武士が進み出た。
大たぶさを鮮やかな紅紐《べにひも》で巻き、腰にも赤い鎧帯《よろいおび》を巻いて、朱鞘《しゆざや》の大太刀をたばさんでいる。
戦場往来の足軽のような派手な身なりだが、目もとが涼しく鼻筋が通ったただならぬ顔立ちである。
「何だ、お前は」
「参詣に来た者だ。縁日だというのに、殺生することはあるまい」
「殺したりはせぬ。少々罰を下すだけだ」
「罰? こんな子供にか」
「こやつの犬が御修法を汚した。子供とはいえ、責任を取らねばならぬ」
「ここの不動尊はご利益《りやく》があると聞いたが、見かけ倒しだったようだな」
「なにっ」
「犬に汚されるほどの修法では、とても病魔を祓うことなど出来まい」
二十五、六歳とおぼしき大たぶさの武士は、ひと回りも大きな修験者の前でもひるまない。むしろ相手を威圧するほどの鋭い気を全身から放っていた。
「こやつ、我らを愚弄《ぐろう》するか」
「子供を許してやれと言っているだけだ」
「子供は放す。だが縁日にけちをつけたとあっては、このまま済ますわけにはいかぬ」
「ほう、どうするね」
「どこの槍《やり》かつぎかは知らぬが、お前に罰を受けてもらおう」
修験者が六尺棒を構えた。大たぶさのまわりを十数人の仲間が取り囲んだ。
護摩壇の炉に赤々と火が燃え、高位の僧が声高に経をとなえながら段木を投げ入れていた。
前嗣らは笹酒の順番を待ちながら、なりゆきを見物していた。
「若、どないしましょ」
「ほっておけ」
「そやけど、多勢に無勢でんがな」
「あの男、何やら策があるようだ」
大柄の修験者は、棒を低く構えてじりじりと間合いを詰めた。大たぶさは両腕を組んで突っ立ったまま、眼光鋭く相手をにらむばかりである。
修験者はその眼力に射すくめられ、額に大粒の汗を浮かべている。
「どうした。罰を下すんじゃないのか」
大たぶさはふっと気を抜いて隙を作った。
修験者が逃さず突きかかると、棒先をかわして脇をすり抜け、護摩壇の方に駆け出した。
「おのれ、逃げるか」
大柄の修験者が棒を振りかざして追いかけた。仲間たちも先に回って逃げ道をふさごうとした。
だが、大たぶさの武士は逃げたのではなかった。
高位の僧が読経をつづける護摩壇の前でくるりとふり返ると、体勢を崩したまま打ちかかって来る修験者の棒をかいくぐり、手首をつかんで肩に担ぎ上げた。
細身の体のどこにこれほどの力がひそんでいるのだろう。相手を担いだまま護摩壇に上ると、燃えさかる火の中に軽々と投げ入れた。
けたたましい悲鳴と灰かぐらが上がり、境内は騒然となった。火だるまとなった修験者は、弾《はじ》かれたように炉から飛び出し、絶叫しながら地を転げ回った。
仲間たちは火を消そうと、あわてふためいて水を捜した。
高位の僧は驚きのあまり護摩壇から転げ落ち、腰を抜かして手足をもがいている。
大たぶさの武士だけは落ち着き払い、何事もなかったように立ち去っていく。境内を囲んでいた群衆は、近付くのを恐れるように二つに割れて道を開けた。
「お館《やかた》さま」
参道を駆けてきた十数人が、大たぶさに走り寄って平伏した。いずれも精悍《せいかん》な面構えをした屈強の武士である。
「急に失《う》せられたゆえ、捜しましたぞ。どこに美濃の刺客がひそんでおるやも知れませぬ。ご用心なされませぬと」
「懸念には及ばぬ」
大たぶさはうるさげに手を払うと、足早に参道を下っていった。
狸谷不動院を出た前嗣は、その足で内裏へ向かった。
諸国の大名には、三月の下旬か四月上旬には正親町《おおぎまち》天皇の即位の礼を行うと知らせてある。
帝にその旨を奏上して、朝廷でも仕度にかからなければならなかった。
正親町帝は諸大名が警固のために上洛することをことの外お喜びで、前嗣の申し出通りに即位の礼を行うことを承諾された。
「礼の費用に、とどこおりはあるまいな」
衰微を極めた朝廷だけに、やはりそのことがお気にかかるらしい。
「昨年安芸の毛利元就を訪ね、二千貫を献上するとの確約を得ております」
「毛利といえば、近頃大内家を滅ぼした者であろう」
「おおせの通りにございます」
「そのような者に頼っては、朝廷は上下の礼を乱す者を是としておるとの謗《そし》りを受けぬか」
「毛利家は長らく零落しておりましたが、その祖は源頼朝の側近をつとめた大江広元《おおえのひろもと》でございます。大内家を滅ぼしたとて、決して上下の礼を乱したことにはならぬと存じます」
「ならば良い。もともと即位の礼は、諸国の国司を集めて行うのが慣《なら》いじゃ。朕《ちん》の世に正しい形に復することが出来れば、これにすぐる喜びはない」
帝は前嗣の働きを大いに賞されたばかりか、労をねぎらうための酒宴まで催された。
〈関白お参りにて、ご御間《みま》にて三献まいる。前内府もお参りにて、御ひしひしとご気嫌よく、男たち歌いなどにて目出たし目出たし〉
この日の『お湯殿上の日記』にはそう記されている。
この時点から即位の礼についての仕度が進み始めたことは、二月七日の次の記述からも明らかである。
〈ご即位の事、三条大納言|実澄《さねずみ》、御間へお参りにて御申候。ご学問所にてご対面あり〉
正親町帝は三条実澄を召して、即位の礼についての意見を聴され、当日の奉行や伝奏の人選まで行われた。
三条実澄は、甲斐の武田晴信の正室三条殿の一門である。晴信が長尾景虎と和議を結んだのは、こうした筋からの口添えがあったからだった。
酒宴を終えて屋敷に戻ると、山科言継が待ち受けていた。
「やれやれ、今日は何やら忙しい」
ねぎらいの酒に心地良く酔った前嗣は、あぐらをかいて脇息《きようそく》にもたれかかった。
「主上のご様子は、いかがでございましたか」
言継は何やら機嫌良さそうである。
「ご即位の礼の手はずが整い、大層お喜びであった。後は諸国の大名の上洛を待つばかりだ」
「いち早く、上洛した者がおりまする」
「ほう、何者だ」
「いつぞやお話しした織田上総介信長《おだかずさのすけのぶなが》でございます」
「信長? 聞いたような気もするが」
「一昨年、尾張《おわり》の清洲《きよす》城で弟を誘殺したとの知らせが届いた時、やがてはただならぬ武将になろうと申し上げました。その信長がいよいよ尾張一国を平定し、将軍の命に応じて上洛したのでございます」
「いつになく浮かれているのは、そのためか」
「とんでもない。主上にとって目出たきことゆえ、このように笑みがこぼれるのでございます」
「何やら手みやげをもらったようだな」
「ご即位の礼の費用として五百貫、先ほど当家の屋敷に届きました」
山科言継と織田家の付き合いは古い。天文二年(一五三三)に初めて織田家を訪ね、信長の父|信秀《のぶひで》に和歌や蹴鞠《けまり》の手ほどきをして以来、綿々と交際をつづけてきた。
その甲斐《かい》あって、信秀は天文十年には伊勢|外宮《げくう》仮殿の造営費を独力で負担し、天文十二年には土御門《つちみかど》内裏の修理費四千貫を献上した。
信長が上洛に際して真っ先に言継を頼ったのは、こうした|好が《よしみ》あったからだが、いきなり五百貫もの銭を献上したのは、周到な計算があってのことだった。
長尾景虎と武田晴信が義輝の調停によって和議を結んだように、美濃の斎藤|義竜《よしたつ》と信長も昨年暮れに和議に合意していた。
ところが信長は休戦の協定を逆手に取り、義竜の支援を受けていた岩倉城の織田|信賢《のぶかた》を攻め滅ぼした。
その直後に急遽《きゆうきよ》上洛したのは、将軍義輝に対面してこの軍事行動を認知してもらい、斎藤義竜の反撃を防ぐためだった。
むろん言継も、そんなことは百も承知している。だから早々に前嗣に報告し、義輝との橋渡しを願ったのである。
「お許しをいただければ、明朝にでも参上して御意を得たいと申しております。何とぞよろしくお願い申し上げまする」
言継の言葉には、五百貫の重みがあった。
翌朝、言継が織田信長を連れて来た。
対面所の下段の間に、 侍烏帽子《さむらいえぼし》をかぶり色鮮やかな緋色《ひいろ》の大紋《だいもん》を着た武士が平伏していた。
「織田上総介でございます」
脇に控えた言継が言上し、面を上げるように言った。
ゆっくりと体を起こした信長を見て、前嗣は思わず声を上げそうになった。
昨日狸谷不動院で、修験者を炉の中に投げ込んだ大たぶさである。
だがあの時の猛々《たけだけ》しさとはうって変わった、能役者のように鎮まったたたずまいだった。
下々の者は、貴人の顔を見ることも直接口をきくことも出来ない。信長もその作法に従い、体を半ばまで起こしたまま黙していた。
「私はこの者を知っている」
前嗣は言継に語りかけた。
「昨日狸谷不動院で騒動した者であろう」
「そのようでございます」
信長に事情をたずねてから、言継がそう答えた。
関白は地下《じげ》の者と直接言葉を交わすことが出来ないだけに、こうした手間のかかる問答となるのである。
「上総介とやら。直答を許す。昨日何ゆえあの修験者を火だるまにしたのか申すがよい」
「懲らしめるためにござる」
意外な返答だった。
「ほう、懲らしめるとな」
「あの山法師は、年端《としは》もいかぬ子供を打とうといたしました。仏門にあるまじき振る舞いでござる」
「そちは仏門の徒か」
「仏も神も信じてはおりませぬ」
「何ゆえ信じぬ」
「まだ見たことがござらぬゆえ」
気色ばんでたずねた前嗣も、この答えには苦笑するしかなかった。
(ただならぬ者と見たが、所詮《しよせん》は田舎大名か)
ちらりとそんなことを思った。
「では、何を信じるのだ」
「己でござる」
「尾張一国を平定したと聞いたが、こたびの上洛にはいかほどの人数を引き具して参った」
「三百でござる」
「それではご即位の礼の警固には不足であろう」
「おそれながら、上総介の軍勢はすべて騎馬にて、皆鉄砲をそなえておりまする」
山科言継が口添えした。
「ほう、ならば義輝とともに馬揃《うまぞろ》えを見物させてもらおうか」
前嗣と信長の初めての対面は、わずか四半刻ほどで終わった。
この出会いが後に互いの運命を決定づけることになろうとは、二人ともまだ想像すらしていなかったのである。
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第十一章 景虎上洛
織田信長が将軍義輝に対面したのは、永禄二年(一五五九)二月二日のことだった。
義輝が仮御所としている立売《たちゆうり》町の近衛邸で行われた対面に、前嗣《さきつぐ》と言継《ときつぐ》も同席した。
「織田上総介信長にござる。ご拝顔の栄に浴し、恐悦に存じまする」
武家は公家《くげ》ほど仕来りにやかましくないだけに、信長は自らそう名乗った。
「早々の上洛《じようらく》大儀である」
義輝の表情は険しかった。
信長は美濃《みの》との和議の取り決めに背いて岩倉城の織田信賢を滅ぼしている。これを許せば将軍の権威に関わるだけに、初めは対面を拒否したほどだ。
「岩倉城の一件につき、ご不審ありと承り、早々に上洛いたしました」
「その方が和議を結んだ後に兵を起こしたと、美濃から訴えがあった。事実であれば、このまま捨て置くわけにはいかぬ」
「あれは当方から仕掛けた戦ではございませぬ。織田信賢が上洛の途上に待ち伏せ、それがしを討ち果たそうと企てたゆえ、やむなく反撃したものでございます」
信長はすこしもたじろがない。不動院で修験者を相手にした時のように落ち着き払い、自信に満ちあふれていた。
「美濃の者は、先に仕掛けたのは織田方だと申しておる」
「恐れながら、何をもって先に仕掛けたと申されるのでございましょうや」
「その方らは突如岩倉城に攻め寄せたそうではないか」
「あの城に加勢に入っていた美濃侍たちには、そのように見えたことでございましょう。されど先に仕掛けたのは、上洛の途上に待ち伏せた信賢めにございます」
「ならば、何ゆえ城を攻めた」
「伏兵が城に逃げ込んだからでござる。御所さまの命を奉じて上洛する我らに刃向かった者ゆえ、放置しては将軍家のご威信にも関わりましょう」
「その方は三百の家臣しか引き連れておらぬそうだな」
「御意」
「岩倉城には千余の軍勢がいたそうではないか。わずか三百で落とせるはずがあるまい」
「戦は数ではござらぬ。戦機を見極め用兵さえあやまたずば、千余の軍勢を蹴散《けち》らすことなど雑作もございませぬ」
信長の言葉には鋼《はがね》のような芯《しん》の強さがあり、聞く者を納得させずにはおかない迫力がある。
(この男、やはりただ者ではない)
前嗣は好意と反感を同時に覚えながら、二人のやり取りを聞いていた。
「敵が先に仕掛けたと証《あかし》する者はいるか」
義輝も信長に理ありと思い始めたのか、にわかに打ち解けた物言いをした。
「信賢の重臣数名を捕らえてありますゆえ、お望みとあらば明日にも引っ立てて参りまする」
「都に連れて来たのか」
「この戦はもともと織田一族の争いでござる。ところが斎藤義竜はこの機に乗じて尾張を切り取ろうと、岩倉城に加勢の兵を入れたのでござる。それを攻められたからとて、御所さまの命に背いて兵を起こしたと訴えるは理屈に合わぬことでございましょう。まして先に仕掛けたとあっては言語道断。かような企ては何としてでも打ち破らねばなりませぬゆえ、証人を引っ立てて参ったのでございます」
「その方は先ほど、余の命を奉じて上洛する者に刃向かうたゆえ城を攻めたと申したな」
「御意」
「ならば、余の命によって上洛する大名が尾張の道を借りても、異を唱えたりはするまいな」
「どの大名が上洛するのでござろうか」
「駿河《するが》の今川、甲斐の武田に、ご即位の礼までには上洛するよう命じてある。何万もの軍勢が尾張を通ることになろうが、よろしく取り計らってくれ」
「承知いたしました」
信長が背筋を真っ直ぐに伸ばして深々と頭を下げた。
義輝は美濃の斎藤義竜からの訴えを不問に付すかわりに、信長に上洛軍の通過を認めさせたのだが、これが後に思わぬ事態を招くことになる。
一年後の永禄三年五月十九日、足利一門の重鎮である今川|義元《よしもと》が、義輝の命を奉じて上洛する途中、尾張の桶狭間《おけはざま》で信長の奇襲を受けて討ち取られたのである。
「大樹どのは先ほど、たった三百とあなどっておられたが」
政治向きの話が終わるのを待って、前嗣は二人の話に割って入った。
「織田上総介の家臣は騎馬の者ばかりで、すべて鉄砲を持参しておるそうだ」
「騎馬ばかりだと」
義輝が笑い出した。戦も知らぬお公家さまが、馬鹿なことを言うなと言いたげである。
「上総介、まことか」
「御意」
信長の返答は常に正確で簡潔である。
「ならば、鎧兜《よろいかぶと》はどうするのだ」
「皆が銘々に運びまする」
「馬の口取りも、筒持ちもおらぬのか」
「そのような者は、邪魔になるばかりでござる」
「邪魔とは、どういうことだ」
「騎馬だけなら、徒兵《かち》を連れていくより速く動くことが出来まする」
信長は事もなげに言ったが、これは当時の武士の常識をくつがえした画期的な軍隊編制だった。
普通は騎馬一騎につき、馬の口取りや、鎧兜持ち、弓持ち、槍《やり》持ち、筒(鉄砲)持ち、旗竿《はたざお》持ち、替え馬引きなど、五、六人の郎党《ろうどう》が従う。
鎧兜や太刀、鉄砲は重いので、身につけたままでは、武士も馬も長い行軍に耐えられないからだ。
だから一万と称されるような軍勢でも、騎馬はせいぜい一割から二割程度である。しかも徒兵《かち》を従えているので、行軍も徒歩の速さに合わせたものにならざるを得ない。
信長はいち早くこの常識を打ち破ってみせたわけだが、鎧や武器をどうやって運んでいるかが大きな謎だった。
「百聞は一見に如《し》かずと言う。上総介の馬揃えを見物してみたいと思うが、どうだろうか」
前嗣が対面に同席したのは、このことを諮《はか》るためだった。
「是非見せてもらいたいが、洛中には適当な場所があるまい」
「四条河原でやればよい。ご即位の礼の警固のために真っ先に上洛した織田家の軍勢がどのようなものか、洛中の者たちにも見物させてやろうではないか」
「面白い。上総介、異存はないか」
「異存はござらぬが、馬揃えをするからには仕度に手間がかかりまする」
「いかほど必要じゃ」
「それはいかような馬揃えを望まれるかによりましょう」
「岩倉城を一日で落とした力のほどを見せてくれ」
「ならば、三日のご猶予をいただきとうございます」
信長は意外な成り行きにも動ずることなく、これより仕度にかかると言い置いて席を辞した。
「あの者を、どう見た」
前嗣は義輝の感想を求めた。対面の前に、不動院での一件は伝えてあった。
「一人も郎従を連れぬ騎馬武者など、聞いたこともない」
義輝はまだそのことにこだわっていた。
「しかし、騎馬だけなら確かに速く動けるだろう」
「関白どのは武具の重さを知らぬから、そんな呑気《のんき》なことが言えるのだ」
「呑気かどうかは、三日後に明らかになる。それより、敵が待ち伏せていたという話は本当だろうか」
「やましい所があるのなら、あれほど堂々とはしていられまい」
「そうかな。人は信念を持って他人をあざむくこともある。目的が正しいという確信さえあれば、嘘も方便と思えるものなのだ」
前嗣も朝廷を守るためにはそうした手段を用いることがあるだけに、対面している間中信長の本心を読んでみたいという誘惑にかられていた。
だが、心を読めば祥子《よしこ》内親王に筒抜けになり、三好方に手の内を悟られる。それが分かっているだけに、その技を己に禁じざるを得なかった。
織田家の軍勢の馬揃えは、二月五日の巳《み》の刻(午前十時)から行われた。
驚いたことに、広々とした河原の中程には、にわか造りの城があった。
城といっても丸太を組み合わせて、屋根と壁に板を張っただけの小さなものだが、遠目には確かに三層の本丸|櫓《やぐら》に見える。
しかも各階には丸い徳利がびっしりと並べてあり、城の周囲には一町(百九メートル)四方ばかりの柵《さく》が巡らしてあった。
織田勢三百騎は、柵から五町ばかり離れた所に勢ぞろいしていた。黒ずくめの鎧を着た者たちが、奥州産らしい大柄の馬にまたがっている。
織田勢の出立《いでた》ちは異様だった。
吹返しも錏《しころ》もない鉢金だけの兜を目深にかぶり、喉元《のどもと》まである桶側胴《おけがわどう》をまとい、籠手《こて》と脛当《すねあ》てをつけたばかりである。
肩をおおう袖《そで》も、太股《ふともも》を庇《かば》う草摺《くさずり》も佩盾《はいだて》もつけていない。
しかも手にしているのは鉄砲ばかりで、まるで馬に乗った鉄砲足軽である。騎馬武者らしい華やかさやきらびやかさは少しもなかった。
前嗣は土手の近くに組まれた桟敷《さじき》で、義輝らと見物していた。
桟敷の周囲には義輝の馬廻《うままわり》衆五百人ばかりが警固に当たっている。
土手の道や河原には、物見高い都人がぎっしりと詰めかけ、目を驚かしてくれろと待ちわびていた。
「確かにあの鎧なら軽かろうが、馬揃えらしい趣向には欠けているな」
前嗣は隣に座った義輝に体を寄せてささやいた。
「鉄砲だけでは弾込めに手間がかかり、戦場での役には立つまい」
義輝も首をかしげている。
やがて信長が、桟敷の前まで馬を寄せた。他の者たちと同じ黒ずくめの鎧を着て、栗毛の馬にまたがっている。
間近で見ると、馬の大きさや四肢《しし》の頑丈さが際立っていた。
「仕度が整いました。これより始めまする」
信長が兜の目庇《まびさし》を上げて桟敷を見上げた。ぴんと張りつめた気迫が体中から漂っている。寒の戻りが厳しく、人も馬も息が白い。
「上総介、どのような趣向をこらしておる」
前嗣がたずねた。
「先日御所さまが、岩倉城を落とした手並みを見せよと申されましたゆえ」
信長は馬を返し、手にした鞭《むち》をさっと上げた。
三百騎がいっせいに筒先を上げ、鉄砲に早合《はやごう》を落とし込んだ。火縄に火を移し、火ぶたを開けて発砲できる構えを取った。一糸乱れぬ素早い動きである。
信長が再び鞭を上げた。
六列になった武者たちが、縦一列に馬を列ねてにわか造りの城に迫った。
柵の外を走り抜けながら、笠懸《かさが》けで弓を射る武者のように次々と鉄砲を放っていく。
そのたびに城の外側に並べられた徳利が派手な音をたてて割れる。
驚くばかりの速さで馬を駆りながら、徳利の的をはずす者は数えるほどしかいなかった。
三百騎の織田勢が、岩倉城に見立てた城をひと回りすると、徳利は残り少なに撃ち割られていた。
これが人なら、確実に射殺されているだろう。しかも馬を駆っているだけに、自由自在の方向から攻め寄せることが出来る。
だが、これくらいで驚くのは早かった。城をひと回りした騎馬たちは、走りながら弾込めを終え、再び城に挑みかかった。
これで残っていた徳利は姿を消し、白い破片ばかりがあたり一面に飛び散っている。それは城兵の血を鮮やかに連想させた。
「しかし、鉄砲だけでは戦は出来ぬ」
義輝が腹立たしげに吐き捨てた。
上泉《こういずみ》信綱から免許皆伝を許されるほど剣術に打ち込んできた義輝は、己の常識が目の前でくつがえされた現実を認めたくはないのだ。
もしこんな戦が主流となったなら、剣術など撃ち割られた徳利ほどの意味しか持たなくなる。
「何やら、次の策があるようだ」
前嗣は公家だけに、織田軍の鮮やかな手並みを軽業でも見るように楽しんでいた。
二発ずつの射撃を終えた三百騎は、元の場所に素早く戻ると、三隊に分かれて魚鱗《ぎよりん》の陣形をとった。
信長が三度《みたび》鞭をふり上げ、ふり下ろした。
何ということだろう。騎馬たちはいつの間にか鉄砲の筒先に鎧通《よろいどお》しを取りつけ、冬の陽に刃をきらめかせながら突進した。
両刃の鎧通しを取りつけた鉄砲は、槍のようにも刀のようにも使うことが出来る。織田勢はその武器をふるい、またたく間に城の柵を突き倒した。
「あれは菊池《きくち》の千本槍だな」
前嗣がしたり顔で解説した。
南北朝時代の初め、菊池|武重《たけしげ》は後醍醐天皇に叛《はん》した足利|尊氏《たかうじ》と箱根で戦った。
この時武重は山岳戦においては刀や長巻は役に立たないことを悟り、長い竹竿の先端に鎧通しを取りつけ、敵を真っ直ぐに突く戦法をあみ出した。
これが槍の創始と言われ、「菊池千本槍」の名で後世に伝えられた。
信長がこの故事に倣《なら》ったかどうか定かではない。だが工夫に富んだ精神が、後世の銃剣と同じ発明を生んだことだけは確かだった。
「これにて終わりまする」
信長は馬を寄せて告げた。感想などは聞くまでもないと言いたげである。
「大儀であった。織田家では重臣までがあのような技を練っておるのか」
義輝は騎馬武者はすべて重臣だと思い込んでいたが、その常識も信長には通じなかった。
「あれは重臣ではありませぬ。馬上筒《ばじようづつ》衆でござる」
「馬上筒?」
「馬と鉄砲の達者な足軽を選んで作った一隊でござる」
「では、重臣たちはどこにおる」
「尾張の諸城で留守を務めております」
「ご即位の礼の警固に、足軽などを引きつれて参ったと申すか」
「警固の役とうけたまわりましたゆえ、物の役に立つ者ばかりを連れて来たのでござる」
信長は事もなげに言うが、三百|梃《ちよう》の鉄砲とこれだけの駿馬《しゆんめ》を足軽に使わせるとは、よほどの財力がなければ出来ないことだった。
織田家は信秀の頃までは弱小勢力だったと評されることが多いが、これは必ずしも当たっていない。
確かに家柄は尾張守護代家の奉行に過ぎなかったが、津島を拠点として木曾《きそ》川から伊勢湾にかけての水運を押さえ、巨万の富を築いていた。
天文十二年(一五四三)に信秀が内裏の築地《ついじ》修理料として四千貫文を献上しているのは、こうした財力があったからである。
西国四ヵ国を手中にした毛利|元就《もとなり》が、即位の礼の費用として二千貫を献上したのに比すれば、信秀の財力がどれほど大きかったか容易に想像がつく。
信長の飛躍は、こうした富を基礎として成し遂げられたものだった。
「上総介、私もこのような慰み物を持っておる」
前嗣は奇妙な競争心にそそのかされて音無しを取り出した。
南蛮渡来の二連式馬上筒である。
「今日の余興にその方と腕競べをしてみたいが、受けてくれるか」
「このような物を、どこでお求めになられましたか」
信長は食い入るように音無しをのぞき込んだ。まるで子供のように好奇心に満ちあふれている。
「南蛮から渡来したものだ。知り合いに伝《つて》があって入手した」
「堺に行けば、同じものが買えまするか」
「それは分からぬ。南蛮にもかほどの逸品は少ないそうだからな」
「お譲りいただくわけには、参りませぬか」
「欲しいか」
信長が喉から手が出るほど欲しがっているのを見透かして、前嗣は音無しの引き金を絞ってみせた。
カチリ、カチリ。乾いた音を立てて左右の火ばさみが火皿を叩《たた》いた。
「一千貫、いや二千貫でいかがでござる」
信長は焦《じ》らされて腹を立てている。法外な値をつけたのはそのためだった。
「銭などいらぬ。欲しければくれてやろう」
「た、ただならば、ご免こうむる」
「ただとは言わぬ。私と腕競べをして勝ったなら、この馬上筒はその方のものだ」
「関白さまが勝たれたなら、何をご所望になりますか」
「私が気に入りそうな物を、何か持っているかね」
「国でも城でもこの首でも、何なりと仰《おお》せられよ」
信長の怒りはますます激しくなっている。その感情を表に出すまいと押さえつけているだけに、顔が蒼白《そうはく》になり、目付きはますます鋭くなっていた。
(狂気の相だ)
前嗣は背筋に寒気を覚え、これ以上焦らすことに危険を感じた。
「そうさな。ご即位の礼の警固には必ず加わると約束してもらおう」
「承知いたしました。約束いたしまする」
「それでは、あの城に瓶子《へいし》を並べてもらおうか」
瓶子とは徳利のことである。
「ここから撃たれまするか」
「お望みなら、馬上からでも結構だが」
前嗣の自信にあふれた態度をみると、信長は一瞬用心深そうな目をして考え込んだ。
「ならば的は、それがしの家臣といたしまする。鉄砲というものは、動く物を撃たねば本当の腕は分かりませぬ」
信長は即座に一隊を呼び寄せ、的を務める希望者をつのった。
驚いたことに、五十人の騎馬武者たちは我先にと一歩前に馬を進めた。
万一当たり所が悪かったなら命を落とすかも知れない役目を、嬉々《きき》として引き受けようとしている。
前嗣には何とも解せない光景だった。
「ならば猿、そちに命ずる」
「はっはあ。有難き幸せ」
色の浅黒い乱杭歯《らんぐいば》の男が、馬上で大げさに平伏した。
兜《かぶと》の下の顔といい、小柄で敏捷《びんしよう》そうな体付きといい、まさに猿である。
「この藤吉郎《とうきちろう》めが、あの城を馬でひと回りいたしまする。その間に馬から撃ち落として下され」
「どこを撃っても構わぬのか」
「構いませぬ。先に関白さまが落とされたなら、それがしは別の者を落としまする。先に逃《のが》した方の敗けでござる」
「分かった。せいぜい怪我のないようにしてくれ」
「ならば行け。猿」
「はっはあ。望外の喜び」
猿面の足軽は城の正面まで戻り、両足で鐙《あぶみ》を蹴って猛然と走り出した。
しかも馬の背中に抱きつくようにぴたりと体を伏せている。
猿回しの猿が馬にへばりついているような有様で、鎧兜におおわれた体のどこを撃っても、落とすことは難しい。
撃ち落とされたなら信長の不興を買うだけに、猿面の足軽も必死なのである。
前嗣は桟敷に座ったまま、両腕で音無しを構えた。能のシテが扇をかざすような軽やかな動きだが、体の均整がぴたりととれている。
狙いは男が城の向こう側を回ってこちら側に走り出て来た時である。
馬は大きく円を描いて走るので、騎手は外側にふり落とされまいとして、内側に重心をかける。その瞬間に兜の鉢金を撃つ以外に落とす方法はなかった。
だが、桟敷からその地点までは一町ほども離れている。しかも猛烈な速さで馬を駆っているので、鉢金に命中させるのは至難の業である。
側に座った義輝も、馬上のままの信長も、河原を埋めた見物の群衆も、固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた。
空は青く澄みわたり、風もない。
前嗣は猿面の足軽の騎乗の癖を脳裡《のうり》に刻みつけ、馬の横腹を桟敷に向けた瞬間に引き金を絞り込んだ。
轟音《ごうおん》がとどろき、音無しが火を噴いた。
一瞬遅れて、猿面の足軽が馬から落ちた。
群衆の間からどよめきが起こった。義輝は感激のあまり前嗣を抱きしめんばかりである。
地面に倒れ伏した足軽が、鉢金を押さえながら立ち上がると、まわりでいっせいに拍手がわき起こった。
信長ばかりは表情ひとつ変えずに黙り込んでいる。その端整な顔はいっそう白くなり、薄い唇の端が小刻みに震えていた。
「鉄砲を」
低くつぶやくと、一人が素早く馬を下りて鉄砲を差し出した。
「では、 猪《いのしし》。お前が行け」
猪首《いくび》をした髭面《ひげづら》の足軽が、猿面の足軽と同じように馬の背に体を伏せ、城に向かって突進した。
信長は馬上で鉄砲を構え、じっと射撃の機会をうかがっている。
ぶれのない静止した構えを見ただけで、容易ならぬ腕前であることが分かる。
馬までが信長の邪魔をすることを恐れるように、体を固くして微動だにしない。
猪首の足軽は城の向こう側からこちら側へ走り出たが、急に馬上で上体を起こした。主君のために的を大きくしようとしたのだろう。
その瞬間、信長が引き金を絞った。
猪首の男は額を撃ち抜かれ、あお向けにのけぞって馬から落ちた。
群衆の間からざわめきが起こった。
体を起こした足軽と、容赦なく額を撃ち抜いた信長に対する非難が、さざ波のように広がっていった。
「余計なことをしおって」
信長は小さく舌打ちすると、全員に兜を脱ぐように命じた。怒りと屈辱のためか、白い頬に朱を散らしたように赤味がさしている。
「どうやら勝負は分けのようだな」
前嗣は音無しの火ばさみから火縄をはずした。
「このままでは、それがしの面目が立ちませぬ。もう一度勝負を願いたい」
「兜を脱がせて走らせる気かね」
「さよう。命がけで馬を駆れば、体を起こすような無礼はいたしますまい」
信長は再び的を希望する者を募った。
驚いたことに、今度も全員が一歩前に進み出た。兜を脱げば頭を撃ち抜かれることが分かっていながら、ためらいもなく役目を引き受けようというのである。
前嗣の理解を越えた、何とも不気味な男たちだった。
結局、この日の勝負は分けになった。
人を殺さねば勝負のつかぬような腕競べを、前嗣が拒否したからだ。
即位の礼の警固のために上洛した兵を殺《あや》めては、主上に対してもはばかりがあった。
信長は余程音無しが欲しいらしく、しつこく勝負をつづけたがったが、
「ならば、ご即位の礼が終わったなら、引き出物として与えよう」
前嗣にそう言われてようやく引きさがった。
その後、信長は時折前嗣の館《やかた》を訪ねてくるようになった。
かつて山科言継は「前嗣と信長はよく似ているので、会えば惹《ひ》かれ合うか反発するかのどちらかだ」と評したが、その言はまさに当たっていた。
何をやっても人並み優れた才能を持っている点や、己の力に過剰なばかりの自信を持ち、この国を変革していこうという野心に満ちているところなどは、まさに瓜《うり》二つである。
前嗣は二十四歳、信長は二十六歳という若年ながら、片や関白、こなたは尾張一国の領主という地位をつかみ、実力も実行力も兼ね備えている。
しかも馬術に長《た》け、鷹狩《たかが》りを好み、鉄砲好きという趣味まで一致しているだけに、二人で遠乗りや鷹狩りに出かけることもしばしばだった。
信長の鷹狩り好きは『信長公記《しんちようこうき》』などで有名だが、前嗣も決して引けは取らなかった。
その腕は一流の域に達し、後年豊臣秀吉と徳川家康の求めに応じて、鷹狩りに関する和歌百首を詠んだほどだ。
雪かとも霞《かすみ》のうちに手放せる
継尾《つぎお》の鷹のほの見ゆるなり
春は霞がかかって手放した鷹が見えなくなるので、鷹の尾羽根に白い継ぎ尾をしなさい。
はしりゆくと跡をとめてかむ犬の
鈴の目させる春の鷹狩
犬がと跡[#「と跡」に傍点](鳥の跡)を求めて臭いをかぎながら走る時は、首につけた鈴が鳴らないように鈴の目に小枝をさし込んでおきなさい。
百首の和歌の中に鷹狩りのこつと作法を詠み込んだもので、熱狂的な鷹狩り好きだった徳川家康までが教えを乞《こ》うたのだから、その腕前は尋常ではない。
だがこれほど気の合う前嗣と信長も、朝廷に対する考え方だけは決定的に違っていた。
その違いが、やがて二人を抜きさしならぬ対立へと突き進ませることになるのである。
前嗣にはもう一人の客があった。
祥子内親王が時折脳裡に現れ、前嗣の想念の中に食い込もうとするのである。
だが祥子のことを考えただけでこちらの考えが相手に筒抜けになるので、前嗣は思考の扉をぴたりと閉ざしていた。
念波というのだろう。祥子はしきりに前嗣の頭の中に念を送って、己の像を結ばせようとする。
まるで家の中の獲物をねらう獣《けもの》のように、前に回り後ろに回りして侵入の機会をうかがうが、前嗣は心を鬼にして祥子を拒みつづけた。
二人のせめぎ合いは傍目《はため》に見えるものではない。だが絶えず念波を送ってくる祥子を拒み通すには、絶えざる緊張と意識の集中が必要である。
そうした日々がつづくにつれて、前嗣は次第に疲れ、食も細くなっていった。
「関白さまは、恋に煩うておられるようや。色に出てはるわ」
口さがない女御《にようご》更衣がそう噂するほど、前嗣はやつれて面変わりしていた。
そんなある日、白昼のまどろみの中で夢をみた……。
月の光が皓々《こうこう》とふりそそぐ寒い夜である。
失望に打ちひしがれた前嗣は、銀閣寺の東求《とうぐ》堂で一人笛を吹いていた。近衛家重代の名笛|蔦葛《つたかずら》である。
するとどこからともなく、前嗣の孤独に寄り添うように笛の音が聞こえてきた。古来より蔦葛と一対と称された初蛍である。
このような夜にいったい誰がといぶかりながら奏でていると、観音堂の陰から旅装束の女が現れた。
市女笠《いちめがさ》を目深にかぶり、広袖《ひろそで》の|袿を《うちぎ》着て、手に白い杖《つえ》を持っている。
笠に隠れて見えない顔が、月に輝く池の面にくっきりと映っていた。
祥子内親王である。兄帝への践祚《せんそ》の儀を見届けた祥子は、どこか遠くに旅に出るのだという。
「今夜は私の側にいて下さい。このままお帰ししては、夜の闇に溶け込んでいってしまわれそうだ」
前嗣は立ち去ろうとする祥子の手を取り、唇を合わせ、目くるめく喜びとともに|帝の《みかど》戒めを破った。
その瞬間、前嗣は地の底に落ちていた。
薄暗い地底の道を歩いて黄泉《よみ》の国へ行くと、石の戸に閉ざされた御殿があった。
前嗣は音無しの火縄をはずして一つ火を灯し、石戸を開けて中に入った。
広大な御殿には、無数の屍《しかばね》が横たわり、腐り落ちた顔を天井に向けていた。
中央のひときわ高くしつらえた祭壇の上に、帝と祥子が横たわっていた。帝のご遺体はすでに腐乱し、青白い蛆《うじ》がわいている。
よく見ると祥子の体も腐り始め、恐ろしげな形相をした雷神の住処《すみか》となっていた。
前嗣は息を呑んで立ちつくし、おぞましさにじりじりと後ずさった。その気配を察した祥子が、凄《すさ》まじい形相でふり返った。
「おのれ。我に恥をかかせたな」
そう叫ぶと、地に伏した醜女《しこめ》たちに前嗣をくびり殺すように命じた。
前嗣は追いすがる醜女や雷神をかわし、現《うつ》し国と黄泉の国の境の黄泉比良坂《よもつひらさか》まで逃げ、巨大な岩で坂の出口を閉ざした。
「愛しい前嗣さま。あなたがこんなことをなされるのなら、わたくしは現し国の民草を、一日に千頭《ちがしら》くびり殺すことにいたしましょう」
「怖れるがよい。おののくがよい。前《さき》の帝のように血を吐いて事切れるまで、わらわの呪縛《じゆばく》から逃れることは出来ぬのじゃ」
二つの声が交じり合いからみ合い、ひとつになって頭の中で響きわたる。
前嗣は頭が割れるような痛みを覚えて我に返った。
すでに陽が落ちあたりは底冷えしているのに、全身に冷たい汗がふき出していた。
黄泉の国での祥子の叫びと、采女に乗り移った加奈子の叫び声はよく似ていた。
その理由が前嗣にもようやく分かった。
黄泉の国は死という現し国の不浄が集まった所である。死は誰にも均《ひと》しくおとずれるものだから、人は必ず現し国から黄泉の国へ行く。
日の国浄の国である現し国と、夜の国不浄の国である黄泉の国は、対極にありながらひとつである。それは光と影のようなものだ。
だからこそ現し国を清浄に保つためには、黄泉の国との境を厳重に閉ざさなければならないのだ。
朝廷も同じである。天照大御神の子孫として神々に礼を尽くし、この国に君臨するためには、あらゆる不浄から身を遠ざけなければならない。
だが帝も公家も人である以上、老病死から逃れることは出来ないのである。
たとえそれを祓《はら》いや清めによって乗り越えたとしても、生まれながら宿業《しゆくごう》を背負った場合にはどうしようもない。
朝廷の外に放逐し、まるで無縁のもののように切り捨てるほかはないのである。
これが清浄であることを宿命づけられた者が背負わされた過酷な運命なのだ。
そうした点から見るなら、黄泉の国に封じ込められた夢の中の祥子と、采女に乗り移った加奈子が同じ音色の叫びを上げるのは当然だった。
彼女らはこの国と朝廷の清浄を守るために、同じように犠牲にされた者たちだからである。
前嗣は掌で首筋の汗をぬぐい、大きくひとつ息を吐いた。
「小豆坊《あずきぼう》」
声をかけると、ふすまの外から間髪入れずに返答があった。
「なんでっしゃろ」
「伊勢に行った二人から、知らせはないか」
「へえ、なしのつぶてで」
「どこにいるかは分かっているのだろうな」
「この間、二見の浦についたと知らせて来よりましたが、その先は分かりません」
加奈子の呪縛をとく手がかりを求めて伊勢に下った采女と飛丸は、丸ひと月がたっても何の成果も得られないようだった。
濃尾和平の一方の当事者である斎藤義竜が三千の兵を率いて上洛したのは、信長より五十日ほど遅れた三月半ばのことだった。
義竜は昨年一月に朽木谷《くつきだに》の興聖寺を訪ねて義輝と対面し、その後|勧修寺尹豊《かじゆうじただとよ》に三百貫を献上して治部大輔《じぶのたいふ》に任じてもらった。
それ以来一年二ヵ月ぶりの上洛だが、信長より一月半も遅れたのは、主力を尾張に温存している信長の出方をうかがっていたからである。
足利義輝は新築なったばかりの二条御所で、斎藤義竜と対面した。
昨年十二月の義輝の上洛以来急ぎに急いで建造していたが、このほどようやく主殿と築地塀《ついじべい》が完成し、御所としての体裁を整えたのである。
この日義輝は斎藤家の騎馬武者五百人を御所に入れ、自らも赤糸おどしの鎧を着て主殿の広縁に出た。
武者たちの最前列には、緋《ひ》おどしの鎧を着て金の鍬形《くわがた》を打った兜をかぶった義竜が、胸をそらして仁王立ちになっていた。
前嗣もこの対面に同席していた。
義竜とは朽木谷の興聖寺で一度だけすれ違ったことがある。あの時よりもいっそう精悍《せいかん》さを増し、一国の主らしい風格もそなわっていたが、信長の馬上筒衆を見た後では、美濃の騎馬武者たちはいかにも古めかしく感じられた。
信長勢が俊敏な狼だとすれば、この者たちは飾り立てた鈍重な牛である。
たとえ十倍する軍勢で戦ったとしても、信長勢の速さにふり回され、相手に得意の一撃を加える間もなく、馬上筒の餌食《えじき》にされるだろう。
だが、義輝にはそうは見えなかったらしい。
「治部大輔、さっそくの上洛大儀である。本日より相伴《しようばん》衆として余に仕えよ」
声高にそう命じた。
相伴衆は将軍に近侍して政務の相談に与《あず》かる役職で、三管四職家と同様に足利一門から任じるのが常である。
斎藤義竜が土岐頼芸《ときよりのり》の子だと名乗っているだけに、義輝は足利一門と同等の扱いをすることで、義竜の上洛に報いたのだった。
松永久秀が三好|長慶《ながよし》とともに入洛したのは、尾張の織田信長が近衛新邸を訪ねた二月二日だった。
本陣とした相国寺に三好家の精鋭五千を配し、不穏の動きを強める足利義輝や近衛前嗣ににらみを利かせたのである。
だが即位の礼の警固のために諸大名が上洛することには三好長慶も同意しているだけに、将軍方が表立った敵対行動に出ない限り戦を仕掛けることは出来ない。
相国寺一帯に兵を配し、有事に備えて日を送るばかりだった。
その間に織田家の馬揃えがあり、毛利元就が即位の礼の費用を献ずるという噂が広がり、斎藤義竜が三千の兵をひきいて上洛した。
越後の長尾景虎も、四月初めには五千の軍勢をひきいて春日山《かすがやま》城を発《た》つ。甲斐の武田晴信、駿河の今川義元も、時を同じくして上洛するらしい。
そんな噂に都中が沸き立ったが、表面的には何事も起こらないまま三月半ばとなり、相国寺の桜の森が満開の花を競っている。
久秀は思案に余ると、時折花の下を当てもなく歩き回った。
桜の花びらが作る天幕をながめながら歩いていると、政治のことも戦のことも忘れることが出来る。
ねがはくは花のしたにて春死なん
そのきさらぎの望月《もちづき》の頃
西行《さいぎよう》法師が歌ったような超然とした気持ちになる。
だが、この日ばかりは別だった。
今川義元が駿河、遠江《とおとうみ》、 三河の宿駅に上洛軍の通過に備えよと命じたという知らせが、駿府《すんぷ》に送り込んだ密偵から届いたからだ。
今川家は足利一門の名家で、俗謡にも「御所が絶えなば吉良《きら》が継ぎ、吉良が絶えなば今川が」と謡われたほどである。
初代今川|範国《のりくに》が駿河、遠江の守護職に任じられて以来、東海の雄として勢力を伸ばし、五代|範忠《のりただ》の頃には副将軍として幕府の強化に当たった。
今川家には五万の兵がある。義元がその半数を引き連れて上洛するとしたなら、三好家にとっては由々しき大事だった。
近衛前嗣らの計略を知って以来、久秀もいくつかの対抗策を取ってきた。
長尾景虎や今川義元の上洛を阻止するために、甲斐の武田や相模《さがみ》の北条に使者を送り、同盟して事に当たろうと持ちかけた。
だが、武田や北条の反応は芳《かんば》しくなかった。
御教書《みぎようしよ》だけならさして重く見ない彼らも、勅命となると意外なばかりに神妙に受け止めていたのである。
勅命に背けば神に背くことになり、神仏のご加護を受けられなくなる。そう信じ込んでいるらしく、ぱたりと鳴りをひそめていた。
「帝のお力を甘く見ると、痛い目に遭うで」
いつぞや西園寺|公朝《きんとも》が口にした言葉が現実となったのである。
諸大名の上洛を止められないのなら、即位の礼を延期して上洛の大義名分を奪ってしまうほかはない。
久秀は西園寺公朝を動かしてそのための朝廷工作を進めていたが、正親町《おおぎまち》天皇が即位の礼の実施を切望しておられるだけに、事は容易には進まなかった。
久秀はふと足を止めた。
春の風に桜の花びらが舞い落ちてくる。
はかなげに宙を舞う花片を見つめているうちに、久秀は急に高雄山に行ってみる気になった。
この先近衛前嗣らがどのような手を打とうとしているか、祥子内親王なら見抜いているかも知れぬ。
そう思うと矢も盾もたまらず、高雄山へ向けて馬を駆った。
神護寺の桜も満開だった。
背の高い山桜の並木が連なり、白っぽい花が青天をおおっている。ひんやりとした風が、人影のない境内《けいだい》を吹き抜けていた。
金堂の玄関まで歩み寄った時、裏口の縁側から何かがふわりと浮くのが見えた。薄桃色の薄絹のようである。
誰かが着物でも投げたのかと思って裏口に回ってみると、垂れ髪の女が着物の裾《すそ》を風にひるがえしながら山に駆け入っていく。
(まさか、祥子さまが)
久秀は我が目を疑ったが、この寺に薄絹の衣を着るような女は一人しかいなかった。
祥子は驚くばかりの速さで、芽吹き始めた雑木林の中に駆け入っていく。
久秀は刀の鞘鳴《さやな》りを押さえ足音を消し、その後を尾《つ》けていった。
たった一人でどこへ行くのかという思いと、今なら邪魔は入らないという計算がある。久秀の目は、小うさぎを追う山犬のように吊り上がっていた。
祥子は裸足《はだし》である。
白小袖の上に薄桃色の打掛けを羽織り、元結《もとゆい》でたばねた長い髪を背中に垂らしている。
一度もふり返ることなく走るので表情をうかがうことは出来ないが、常ならぬ様子であることは気配で分かった。
そもそも貴人は走らないものである。それが縁側から軽々と飛び下りるとはただ事ではない。
余程さし迫ったことでもあるのか、それとも狐狸《こり》の類《たぐい》が乗り移ったか……。
いぶかりながら後を追っていくと、祥子は高雄山の中腹にある岩場の前で足を止めた。
高さ十丈(約三十メートル)はあろうかという巨大な岩が、山の斜面に切り立っている。祥子は山の小径をそれ、ためらうことなく岩の上に立った。
眼下は清滝川までつづく断崖《だんがい》だというのに、岩の先端まで出て爪先《つまさき》立って伸び上がっている。
久秀は岩場の背後まで出て、ようやくその意味が分かった。祥子は都の方《かた》をながめていたのだ。
だがここからでは山々にさえぎられて、都の家並《やな》みを見ることは出来ない。それでも見たい一心で、額に手をかざして爪先立っているのである。
(何ということだ)
久秀は苦い舌打ちをした。
都の何がそれほど恋しいのだ。ここに移ると言ったのはあなたではないか。
そんな罵声《ばせい》を叩きつけたくなるようなどす黒い怒りがこみ上げ、いつぞやの野望が鎌首《かまくび》をもたげてきた。
内裏《だいり》や朝廷を否定し乗り越えるためには、祥子を四肢の下に組み敷いて我が物とせねばならぬ。
その一点を突破出来ないのなら、三好長慶のように朝廷や幕府の権威に屈して、堂々巡りをくり返さざるを得ないのだ。
久秀は意を決した。
口の中はからからに渇き、胸は息苦しいほどに高鳴っている。
それが犯すべからざるものに対する怖れからだということは、自分でも分かっていた。
祥子の足には血がにじんでいた。
裸足で山道を歩いている間に、石や茨《いばら》に傷ついたのだろう。谷から吹き上げてくる風が薄絹の長い衣をひるがえすたびに、痛々しい足が露《あらわ》になる。
殺してもいいと、久秀は思った。
祥子に見据《みす》えられて指一本動かせなくなったなら、あの岩から突き落として殺してやる。
己を駆り立てて足を踏み出した時、山の西側から強い風が吹きつけてきた。山桜の花びらが吹き散らされ、祥子の頭上をかすめて清滝川へと落ちていった。
次々と舞い落ちる花びらは、雪のようである。その中にたたずむ祥子を見ているうちに、久秀は馴《な》じみ深い幻影へと引き込まれていた。
都から追われた母が、雪の降る荒野を泣きながら歩いている。裸足のまま、長い髪を風に吹き散らされて歩く母の背後で、あざけり笑う声が響く。
やがて母は黒い川のほとりに立つ。己の命を絶つことで一切にけりをつけようと、濁流さかまく川の面をじっと見つめている。
その姿と祥子の姿が重なった時、久秀は我知らず叫び声を上げていた。
「お待ち下され。死んではなりませぬ」
抱き止めようとして岩場に駆け寄ると、祥子がくるりとふり返った。
それは祥子ではなかった。姿、容《かたち》はいつもの彼女だが、何かがちがう。眠ったまま夢魔に操られているかのようだ。
「祥子さま……」
久秀は表情の失せた顔を見つめたまま、二歩三歩と後ずさった。
「知仁《ともひと》さま」
祥子は打掛けの袖を風にひるがえし、久秀の首にしがみついた。
「何ゆえ都に留《とど》まれと申しては下さらなかったのですか。何ゆえ伊勢などに下されたのですか」
細い体を小刻みに震わせながらかきくどいた。
「わたくしはお側に仕えとうございました。朝な夕なお姿を拝しとうございました。このような鄙《ひな》の里に流されては、生きていく望みとてございませぬ」
「そうか、あなたは」
祥子は何者かに操られているのだ。母のように都を追われた女たちの怨念《おんねん》が、一目洛中を見ようと岩場の上で爪先立っていたのである。
「ご安心下され。私があなたを守ります。私があなたの代わりに戦いますから」
久秀は泣きながら祥子を、そして母を抱き締めた。
その瞬間、何ゆえあれほど朝廷を忌み嫌っていたのかを初めて理解したのだった。
洛中の屋敷に戻ってからも、久秀は数日|茫然《ぼうぜん》としていた。
祥子の細い体を抱き締めた感触が、両の腕に生々しく残っている。救いを求める声が、今も耳底に鳴り響いている。
そうした記憶が強い酒のように久秀を酔わせ、切々と胸がうずいて、やる瀬ない物想いへといざなうのだった。
(それにしても、あれは一体誰だったのか)
祥子に乗り移り、身も世もあらぬほどに都を恋しがっていたのは誰なのか。
久秀には分からないことばかりだが、あの者の怨念は母の思い出に真っ直ぐにつながっていた。
その思い出ごと祥子を抱き締めた時に、久秀は自分の胸中に同じ怨念があることを理解したのである。
「殿、ただ今織田上総介さまが参られました」
年若い近習《きんじゆ》が告げた。
「上総介?」
「以前にお招きを受けたので、参上したと申しておられます」
「おお、尾張のうつけか」
久秀はようやく思い出した。
四条河原での馬揃えの噂を聞き、一度訪ねて来るように使者をつかわしたことがある。それからひと月以上も音沙汰《おとさた》がなかったので、すっかり失念していたのだった。
(それにしても、何ゆえ今頃になって)
久秀は良からぬ予感を覚え、冷たい水で顔を洗ってから客間に出た。
織田信長は若苗色の大紋を着て端座していた。あごの引き締まった細長い顔に、侍烏帽子《さむらいえぼし》を形良くかぶっている。
(ほう、これは)
案に相違して、久秀は一目で信長を気に入った。聡明《そうめい》さと気性の激しさを兼ね具《そな》えた、近頃珍しい若者である。
「織田上総介でござる。御意を得て参上つかまつりました」
「松永弾正忠じゃ。もはや来てくれぬものと諦《あきら》めておった」
「所用に追われておりましたゆえ、ご無礼をいたしました」
「上洛したのは、こたびが初めてか」
「御意」
「都はどうじゃ。目に珍しきことも多かろう」
「そのように聞いておりましたが、さしたることもございませぬ」
信長は眉《まゆ》ひとつ動かさずに言ってのけた。
「ほう、何ゆえじゃ」
親子ほどにも年が違うからだろう。信長の無遠慮な言葉にも腹が立たなかった。
「都には血が通っておりませぬ」
「血とは、何かな」
「銭と人でござる。銭と人の流れがとどこおっては、町は死にまする」
「面白い。ゆるりと話を聞きたいものだが、よろしいか」
「望むところでござる」
「ならば、こちらへ」
久秀は先に立って、屋敷のはずれに建てた茶室に案内した。
三好家は堺を拠点として、阿波と畿内《きない》を結ぶ水運を押さえている。かつては阿波|公方《くぼう》足利|義維《よしつな》を擁し、堺幕府と呼ばれるほどの組織を作り上げていた。
松永久秀も堺との関わりが深く、津田宗達《つだそうたつ》や今井宗久《いまいそうきゆう》らの茶会にもたびたび顔を出していただけに、茶道についての造詣《ぞうけい》も深い。
その蘊蓄《うんちく》を傾け、屋敷の一画に山家風の茶室を建てたばかりだった。
茅《かや》ぶきの屋根に土壁の粗末な造りだが、明かり障子やにじり口に風流な工夫がこらしてある。
三畳ほどの茶室の片隅に炉が切ってあり、丸く平べったい茶釜《ちやがま》から湯気が上がっていた。
後に茶人の垂涎《すいぜん》の的となった平蜘蛛《ひらぐも》の茶釜である。
「これは、何とも妙な心地でござる」
にじり口をくぐった信長が、落ち着きなくあたりを見回した。
「茶の湯はなされぬか」
「家臣どもの屋敷に何度か招かれたことはござるが、このような所は初めてでござる」
「お気に召されませぬか」
「いや、何やら胎蔵界にでも入ったようで、よい心地でござる」
久秀は信長の眼力の鋭さに改めて感心した。
胎蔵界とは密教で説く二大法門のひとつで、仏の菩提《ぼだい》心が一切を含んでいることを母胎にたとえたものである。
密教の僧や修験者は、山奥にある洞穴や巨大な岩の裂け目を胎蔵界に見立て、その中にこもってこの世に生まれ落ちる前の世界を瞑想《めいそう》する。
久秀が茶室をこれほど狭く作ったのも、それに倣《なら》ってのことだ。
それを一瞬にして見抜くとは、信長という男、天性の洞察力をそなえているにちがいなかった。
「濃茶と薄茶と、どちらがお好みかな」
「薄茶を好みまする」
「ならば、こちらを」
久秀は棚から紫色の小さな茶入れを取り出し、青磁の茶碗《ちやわん》に抹茶を移した。
信長は切れ長の目を見開いて手元を見つめている。
「何か?」
「その茶入れは、何という物でござろうか」
「つくも茄子《なすび》と申します。茄子に似ているので、そのような名がついたのでございましょう」
「色といい形といい、見事なものでござる。どこに行けば、このような品を買い求めることが出来ましょうか」
「茶の湯を始めますか」
「このような品々を身近に置けるのなら、始めてみようかと存じまする」
「このつくも茄子は、天下一の茶入れでございます。この世に二つとございませぬ」
「天下一……」
信長は何かに憑《つ》かれたようにつぶやいた。
「それにしても、ひと目でこの茶入れの値打ちを見抜かれるとは、信長どのはお目が高い」
久秀が緑色の薄茶のたゆたう茶碗を差し出すと、信長は片手でつかんでひと息に飲み干した。
「もう一服、いかがでございますか」
「今度は濃茶とやらをいただきとう存ずるが、その前にうかがいたいことがござる」
信長が茶碗をすっと押し返した。
「何ですかな」
「松永弾正どのと申さば、三好筑前守どのの右腕として天下に聞こえたお方でござる。何ゆえそれがしをかようにもてなし、お言葉まで改めておられるのでござろうか」
信長がそう思うのも無理はなかった。
後年二人の立場は逆転するが、永禄三年のこの頃には、信長はようやく尾張一国を掌握したばかりの青年大名に過ぎない。
対する久秀は、畿内と四国に八ヵ国の所領を有する三好長慶の右腕である。
身分の差が喧《やかま》しい武家社会にあって、両者が対等に話すことなどありえないはずだった。
「ここが胎蔵界だからでござるよ」
「分かりませぬ」
「胎蔵界とは母の胎内という意味ばかりではありませぬ。人の魂が仏の菩提心に包まれて、何ひとつ欠けたるものなく存在する世界のことを言うのです」
久秀は茶碗に湯をそそぎ、茶筅《ちやせん》でゆっくりとかき回した。
「信長どのは、座禅に打ち込まれたことはありますか」
「ござらぬ」
「お嫌いかな」
「そのような暇がなかったばかりです。のんびりと座っていては、首をかき落とされるような国に生まれ落ちましたゆえ」
「座禅を組んで己の心のありかを見つめてみれば、次第に記憶をさかのぼり、母の胎内にいた頃にまで達することが出来まする。さらに修行が進めば、生まれ落ちる前の原初の姿にまでさかのぼることが出来るのです」
「まさか」
とは信長は言わなかった。奇妙な生き物を見るような怪訝《けげん》な表情をしたばかりである。
「その原初の姿こそ、仏の菩提心に包まれた胎蔵界なのです。人はそうした世界からつかわされた者ゆえ、すべて仏性を有しております。誰もが等しく尊いのです」
「この茶室に入れば、この世の身分や立場から解き放たれるということですか」
「善悪や優劣、貴賤《きせん》といったこの世の定めは、すべてここでは無意味です。胎蔵界にいた頃の原初の姿に戻って、人と人が向き合う場所なのですよ」
久秀は二杯目を差し出した。
「ならば、何の遠慮もいらぬということでしょうか」
信長は青磁の茶碗を両手で持ち、濃茶の色を珍しそうにながめた。
「さよう。遠慮も作法も無用です」
「ではおたずねするが、三好筑前守は何ゆえ足利将軍家を滅ぼさぬのですか」
久秀はどきりとした。何と鋭い若者かと、空怖ろしくさえあった。
「将軍家なくば管領家もなく、管領家なくば三好家もない。筑前守どのがそう考えておられるからです」
「尾張の斯波《しば》家も美濃の土岐家も滅びました。もはや将軍家の権威などに関わっている時ではありますまい」
「ですが、征夷《せいい》大将軍の職は帝から任じられたものです。将軍家を滅ぼせば、帝に背くことになりましょう」
「ならば、帝の権威にも関わらなければよい」
「信長どのなら、滅ぼしますか」
「この茶室と同じです。無用の遠慮はいたしませぬ」
信長が初めてにこりと笑った。
この若者と組んで天下の事に当たってみたい。久秀は痛切にそう思った。
天狗《てんぐ》飛丸が采女からの文を持って戻ったのは、花が散り葉桜の頃になってからだった。
「これを渡すように頼まれた」
飛丸は無愛想に油紙に包んだ文を差し出した。
「采女は息災か?」
近衛前嗣は油紙をはがして中を改めた。思いのほか美しい字で上書きがしてあり、裏には伊勢女とのみ記されている。
「そくさい? 分からない」
「阿呆《あほう》、元気かとたずねてはるんや」
側に控えた小豆坊が、飛丸の大きな頭をひっぱたいた。
「それなら元気や。だけど時々、泣いてはったようや」
「大儀であった。返書をしたためるゆえ、しばらく小豆坊と都の散策でもしてくるがよい」
前嗣は二人を下がらせて文を開いた。
若草色の巻き紙には、かすかに香がたき染《し》めてある。水茎の跡も伸びやかで品があった。
「大切なご用をおおせつかりながら、ふた月あまりも無沙汰申しましたることをお詫《わ》び申し上げます。
伊勢はわたくしにとって思い出深い地とは申しながら、こたびは思いもよらぬ事を知らされ、戸惑うばかりでございました。
歩き巫女《みこ》の一座に育てられた頃から見慣れた景色も、尋常ならざる身の上と知った今では、まったくちがって見えるのでございます。
自分であることに変わりはないのだと思ってはみても、心の奥底から何やらふつふつと気忙《きぜわ》しく沸き立って、気持ちを鎮めて文を記すことが出来なかったのでございます」
采女はそう書き出していた。
無理もあるまい。人に後ろ指をさされるような稼業に生きてきた身が、内親王と双子であったと聞かされては、動揺するのが当たり前である。
だが采女はそうした動揺を懸命に抑え、前嗣から命じられた役目を果たそうと、非業の死を遂げた母親の足跡をたどりつづけたのである。
「伊勢神宮の内宮《ないくう》に着いたのは、二月十日でございました。見張所で関白さまのご内書を示すと、常の者には渡ることが許されぬ宇治橋の木戸も、すぐに開けていただきました。
橋の上から五十鈴川の澄み切った流れを見ると、こみ上げる涙を押さえることが出来ませんでした。倭姫命《やまとひめのみこと》さまが御裳《みも》の裾の汚《けが》れをすすがれたというこの川に、塗り籠《ご》めの籠《かご》に入れられた幼いわたくしも流されたのだと思うと、ただただ情けなく、哀しゅうございました。
斎宮《いつきのみや》の館を訪ね、禰宜《ねぎ》の荒木田《あらきだ》さまに関白さまのご内書をお渡しいたしました。この方が二十年前に母の世話をして下さったのだということは、お目にかかった時にすぐに分かりました。
歩き巫女として神口《かみくち》、死口《しにくち》の業《わざ》を生業《なりわい》としていたせいか、因縁の糸を人様より強く感じることが出来るからでございます。
荒木田さまもわたくしが母の血を引く者だとすぐにお分かりになり、何も申さぬ先に館に招き入れて下さいました。
かつては歴代の斎宮さまがお暮らしになった館も、今では見る影もなくさびれ果てておりました。
吹き過ぎる風に裏山の梢《こずえ》が哀しげに鳴くばかりでございます。その音はまるで、都から官女としてこの地に下ってきた頼りない母の叫び声のようでございました。
天照大御神を祀《まつ》った正宮や、 月読宮《つきよみのみや》、荒祭宮《あらまつりのみや》などの別宮を拝した後、神宮にほど近い荒木田さまの館に向かいました。前の帝との一夜の契りによって身籠《みごも》った母は、近衛稙家さまの計らいによって荒木田さまに預けられることになったのでございます。
館に着くと、確かに母の気配を感じました。庭も建物も当時のままで、庭石ひとつ、柱の一本にまで母の気配がしみついております。
荒木田さまの奥方さまも、わたくしと会うなり母の生まれ変わりのようだと申されて、その場に泣き伏されたほどでございました。二十年前の母の無残な死は、今もこの老夫婦の胸に痛ましい傷として残っていたのでございます。
前の関白さまのお申し付けとはいえ、母をあのような立場に追いやったことに責任を感じておられたのでしょう。わたくしが宿を借りていた数日の間、まるで我が子をもてなすように大事にして下さいました。
母が籠った産屋《うぶや》は、館から三町(約三百三十メートル)ほど離れた所にあったそうでございます。
五十鈴川のほとりに白砂を敷きつめ、四本の掘っ立て柱で屋根を支え、屋根も壁も茅でふいた粗末な小屋で、お産を終えると壊してしまうということでした。
荒木田さまにその場所へ案内していただきました。今でも官女が間違いを起こして身籠った時には、ここに産屋を建てて二つ身にさせるそうで、河原には一面に白い砂が敷き詰めてありました。
白砂といっても砂粒ではありません。五十鈴川を流れるうちに角が丸く削り落とされた、指の先ほどの大きさの小石です。
貝殻の内側のように真っ白な小石を敷いた河原の中程に、深さ一尺ほどの窪《くぼ》みが残っておりました。
この窪みが赤児を産み落とす所だと、荒木田さまが教えて下さいました。
産屋はこの窪みを中心にして建て、出産が近くなったなら中に柔らかい草を敷きます。産婦は屋根から吊るした産み綱につかまり、陣痛に耐えながら草の上に赤児を産み落とすのだそうでございます。
その間、お産の汚れに触れないように誰一人産屋に立ち入ることは許されないと聞いた時に、薄暗い産屋の中でわたくしと祥子さまを産み落とした母の姿がはっきりと見えました。
たった一人で二人の赤児を産み、臍《へそ》の緒を切り落とし、五十鈴川で産湯をつかわせ、精も根も尽き果てて横たわっている母の姿が、まざまざと眼前に浮かび上がったのでございます。
そのような苦しみの果てに産んだ我が子が盗み取られた時の嘆き、手を下したのが前の関白さまだと知った時の怒りは、いかばかりだったことでございましょうか。
ちょうどその頃、都から下って来た乳母《めのと》が祖父の憤死を伝えたそうでございます。何も知らない乳母は、母が無事に帝の御子を上げたと思い込み、祖父にひと目見せてやりたかったと口を滑らせたのでした。
母は乳母を問い詰めて祖父が自裁したことを聞き出し、その夜のうちに祥子さまを残したまま姿を消したのでございます。
荒木田さまは八方手を尽くして探されたそうですが、誰一人母の姿を見た者はなかったと申しておられました。
ところがそれから八日後に、母は二見の浦で身を投げたのでございます。
おそらく川舟で五十鈴川を下ったのでしょう。夜中に誰にも見られることなく川を下り、七日七夜の呪法を行ったにちがいありますまい。
わたくしと飛丸はその跡をたどって、何度も五十鈴川を下りつ上りついたしましたが、母が呪法を行った場所を見つけることは出来ませんでした。
二見の浦には当時を知る人がいて、呪いの穴と呼ばれる洞を案内してくれましたが、母の気配はありませんでした。
母が住んだ家や産屋でさえあれほど強く気配を感じたのですから、呪法を行った場所なら必ず分かるはずでございます。そして場所さえ分かったなら、呪法を解く方法も分かるかもしれません。
それから一座の嫗《おうな》に丁重なる引き出物をいただき、ありがとうございました。お陰さまですべてを承諾してもらい、一座の掟《おきて》から解き放たれることが出来ました。
嫗は何も語りませんが、関白さまを害するようにと命じたのは、亡き母ではないかと思います。
母の御魂は御霊となって今もこの世をさまよい、怨《うら》むべき相手の所業をじっと見つめつづけているのでございましょう。
飛丸を使いとしてご報告申し上げます。詳しくはかの者におたずね下されますように」
采女の文は素っ気なく終わっていた。
前嗣は文を文机に置いたまま、しばらく物思いに沈んでいた。
稙家が加奈子を入内《じゆだい》させるために采女を流した気持ちも分からぬではない。
だが、それは人として間違ったことなのだ。だからあれほど激しく采女の母親に呪われることになったのである。
(その呪いを封じるためには、御霊《みたま》を祀るしかあるまい)
前嗣はぼんやりとそう感じていた。
朝廷は代々、非業の死を遂げた者の御霊を祀って怨霊《おんりよう》を封じてきた。それは死者を悼《いた》むというより、現世に災いをなすことを避けたいという利己心からなされたものだ。
伊邪那美《いざなみ》に追われた伊邪那岐《いざなぎ》が巨大な岩で黄泉比良坂《よもつひらさか》を閉ざしたように、朝廷は神社を作って怨霊がこの世に現れることを防ごうとしたのである。
(あるいは伊勢神宮もそうなのではないか)
そんな疑問がぽつりと浮かんだ。
朝家の祖神である天照大御神《あまてらすおおみかみ》を朝廷が封じ込めるはずがないと、常の時なら思うだろう。だが采女の文に心を揺さぶられていただけに、どんな理不尽なこともありえるような気がした。
伊勢神宮は天照大御神が瓊々杵尊《ににぎのみこと》にさずけた八咫鏡《やたのかがみ》を祀ったものだ。
〈この宝鏡を視《み》まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床を同じくし殿をともにして、斎鏡《いはいのかがみ》とすべし〉
天照大御神はそう言ったと『日本書紀』には記されているが、朝廷はこの申し付けに背いたのである。
崇神《すじん》天皇の御代に疫病が大流行し、民衆の苦しみは多く、各地で叛乱《はんらん》が起こった。
天皇が神々に礼を尽くさないために、このような災いにみまわれるのだ。民衆はそう考え、崇神天皇を打ち倒そうとした。
そこで天皇は神々に祈り、どうすればお怒りが鎮まるかを問うた。すると天照大御神を皇居の外で祀るようにとのご託宣があったのである。
そこで皇女の豊鍬入姫命《とよすきいりひめのみこと》に託して、天照大御神を大和の笠縫邑《かさぬいむら》に祀らせた。
さらに垂仁《すいにん》天皇の二十五年、皇女の倭姫命《やまとひめのみこと》に託してよい宮処《みやどころ》を捜させた。倭姫命は伊賀《いが》、近江、美濃、尾張とさまよい歩き、ようやく伊勢国で適地を見つけた。
〈この神風の伊勢国は、常世の浪《なみ》の重浪帰《しきなみよ》する国なり。傍国《かたくに》の可怜《うま》し国なり。この国に居らむと欲《おも》ふ〉
天照大御神は倭姫命にそう告げたという。
これは神流しではないかと、前嗣は思うのである。
『日本書紀』の編者はそう悟られることを慎重にさけているが、「ともに床を同じくし殿をともに」せよという天照大御神の申し付けに、朝廷が背いたことは明らかである。
しかも倭姫命とともに諸国をさまよい歩く天照大御神の姿は、まるで年老いて国を追われた王のようである。
伊勢神宮の初代|斎宮《いつきのみや》となった倭姫命は、都を追われた天照大御神の怨念をなだめるための人身御供《ひとみごくう》ではなかったのか。
そう考えると、前の後奈良帝が祥子内親王を斎宮に任じようとなされていたことの意味がよく分かる。
祥子を人身御供として、加奈子の呪いを鎮めようとなされたのだ。
あるいは後醍醐天皇の時以来絶えてしまった斎宮を復活させることで、天照大御神の神威にすがって怨霊を祓おうとなされたのかも知れない。
それにしても垂仁天皇は、何ゆえ天照大御神を伊勢に追われたのか。
疫病の流行や庶民の叛乱のために、天照大御神の神威に頼った政治では、もはや国が保てなくなったからだろう。
この危機を乗り切るためには、祭りと政治を分離するしかなかったのか。それとも天照大御神の神威に勝る力を持つ者が、この国に現れたのか。
(仏教かも知れぬ)
前嗣はそう思った。
仏教は欽明《きんめい》天皇の頃に百済《くだら》から伝わったというが、それよりはるかに古い時代に、インドの裸形《らぎよう》上人が那智《なち》の浦に渡来して青岸渡寺《せいがんとじ》の基となる寺を開いている。
また垂仁天皇の頃には多くの新羅《しらぎ》人が渡来しているので、彼らが仏教を伝えたとしても何の不思議もない。
あるいはかの新羅人は、疫病に効く薬を持った僧たちではなかったか。
彼らが薬師如来の救いと称して薬を配り、次々と病人を治していったなら、うつろいやすいこの国の民は、一も二もなく仏教に飛びついたことだろう。
垂仁天皇もそうした事態を無視できず、神威において敗残者となった天照御大神を、追放せざるを得なくなった。
そんな天照大御神に残された土地は、常世(黄泉の国)の浪の重浪帰する伊勢国しかなかったのではないか……。
「御家門さま、ご無礼いたします」
庭先から声がして、山科言継が姿を現した。
「権大納言、良き所に参った」
前嗣はたった今浮かんだばかりの疑問を言継にぶつけてみた。
「常世を黄泉の国と解すべきか、疑問はありますが」
言継は縁側に腰を下ろし、長い顎《あご》をしきりにさすった。
「天照大御神が朝家を追われたことは間違いありますまい」
「それは仏教のゆえであろうか」
「分かりませぬ。あるいは神威をないがしろにする輩《やから》に、朝家が乗っ取られたのかも知れませぬな」
言継は驚くべきことを平然と口にした。
もしそれが事実であれば、朝家の権威は根底から崩れ去るのである。
「上古の文書が失われている以上、もはや確かめる術《すべ》はありませぬが、朝家とて時代の荒波を乗り切るためには、祖神のお申し付けに背かざるを得ない時もあったことでございましょう。されど、そのために朝家の権威が崩れるということはございませぬ」
「なぜだ」
「神々や朝家の権威というものは、人の心の中で育《はぐく》まれるものでございます。権力なら富や力がなければ守れますまい。されど人の心に根付いたものは、どのような富や力をもってしても消し去ることは出来ませぬ。天照大御神が伊勢に移られた後、下々の者が引きも切らずにお伊勢参りをつづけていることが、その証ではございませぬか。朝家がそのような心情に支えられているからこそ、史上に現れたいかなる権力も、朝家を滅ぼすことは出来なかったのでございます」
「これからも、そうであろうか」
「それは朝家を支えていく者たちの働きにかかっておりましょう」
「何か、言いにくいことがあるようだな」
言継がしきりに顎をさするのは、そうした時に決まっていた。
「実は昨日内裏で能会がもよおされ、三好筑前守が参列を許されました」
「西園寺公も同席か」
「ともに天盃《てんぱい》を拝され、帝とご歓談あったそうでございます」
「狙いは、何だ」
「三好家も三万の軍勢を上洛させ、ご即位の礼の警固に加わると申し出たとか」
「うむ」
前嗣は不機嫌にうなった。
「おそらく三万の兵を動かすことで、将軍家と他の大名の動きを封じようとしているのでございましょう」
「それで、主上は何と申されておる」
「三好家は幕府の侍所ゆえ、是非とも加わってもらわねばならぬと、お言葉をかけられたそうでございます」
「こちらの計略を悟られたのかも知れぬ」
人の心を読んだり祥子の面影を偲《しの》んだりすれば、自分の考えが祥子に筒抜けになることに気付いたのは、前嗣が足利義輝にこの計略を話した後のことだ。
あの時までのこちらの動きは、すべて祥子に伝わっていると考えた方が良さそうだった。
「だが三好筑前が三万の軍勢を上洛させるのなら、かえって好都合ではないか」
「何ゆえでございましょうか」
「義輝の上洛戦の時には裏をかかれたが、今度は本願寺も一向|一揆《いつき》も必ず動く」
「しかし、ただ今上洛している大名だけでは、とても三好勢には太刀打ち出来ますまい」
「案ずるな。もうじき毘沙門天《びしやもんてん》が上洛する」
「越後の長尾でございまするな」
「去る四月三日に、五千の精鋭をひきいて春日山城を発ったそうだ。二十日頃には近江に着くとの先触れが参った」
「ほう、五千もの軍勢を」
「長尾は戦神《いくさがみ》の化身と称されるほどの武将だ。かの者を先陣として三好勢に当たれば、三万とはいえ怖るるに足りぬ」
長尾景虎が六年前に上洛した時に、前嗣は一度だけ会ったことがある。
景虎が従五位下弾正|少弼《しようひつ》に叙任されたお礼に参内した時、殿上から一瞥《いちべつ》しただけだが、その印象は際立っていた。
どこか粗野なところのある他の武将たちとちがって、景虎には洗練された静けさがあった。あたりを払うほどの武威を備えながら、禅僧のような心の深みを感じさせる。
少年の頃に仏門に入っていたことや、和歌を好み琵琶《びわ》を奏するような気質が、そうした深みを生んだのだろう。
そのせいか朝廷や幕府に対する尊崇の念がひときわ厚く、往古の治世を回復するためなら我が身を犠牲にしても構わないと意を決していた。
景虎が将軍義輝に贈った、
昔より定めし四方《よも》に立ち帰り
おさめ栄ふる千代の初雪
という歌が、その心情を何より雄弁に物語っている。
後奈良天皇も景虎の武者《もののふ》ぶりに御感あって、
「任国および隣国の敵心をさしはさむ輩を討ち、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ勝ちを千里に決し、忠を一朝に尽くせ」
という勅命を下されたほどだ。
この時景虎と朝廷を結びつけたのは、前嗣の叔父《おじ》で大覚寺門跡となっていた義俊《ぎしゆん》である。
その後も近衛家と景虎の親交はつづき、今度の上洛についても密に連絡を取り合っていたのだった。
朝廷と幕府の期待を一身に担った長尾景虎は、予定通り四月二十日に近江の坂本に到着した。
前回二千の軍勢をひきいて上洛した時には、直江津《なおえつ》から舟で若狭《わかさ》まで出たが、今回はすべて陸路である。
加賀の一向一揆や越前の朝倉|義景《よしかげ》、近江の六角|義賢《よしかた》らの所領を通らなければならなかったが、事前に朝廷や幕府からの通達があっただけに、妨害や奇襲にあうこともなく、わずか十七日で坂本まで達したのである。
翌二十一日、前嗣は父稙家とともに坂本まで出迎えに行った。
景虎が本陣とした旅籠《はたご》の周囲には、紺地に日の丸を描いた旗指物《はたさしもの》や、毘沙門天の毘の一字を描いた軍旗をかかげた五千の軍勢が、立錐《りつすい》の余地もないほどに屯《たむろ》していた。
景虎の軍勢は五百人を一隊として編制されている。先陣に二隊、本陣に六隊、後陣に二隊という行軍中の陣形のまま、琵琶湖ぞいに長々と陣を張っていた。
信長のように三百梃もの鉄砲を備えてはいない。騎馬も少なく徒兵《かち》が主力だが、三間ほどもある長槍《ながやり》が千本ばかり整然と立ち並ぶ様はいかにも勇壮である。
数百里の野山を踏破してきたというのに、将兵の身なりに少しの乱れもなかった。
旅籠の周囲には敵に攻められた時にそなえて二重の柵が巡らされ、中庭には景虎の本陣であることを示す紺地に日の丸の大扇が高々とかかげてあった。
景虎は六年前と少しも変わらなかった。
下ぶくれの丸い顔をして、色白の肌に髭のそり跡が青く残っている。
「早々のお出迎え、恐悦に存じまする」
陣中にあるためか色々おどしの鎧と緋色の陣羽織を着ているが、深みのある静まり返った目をしていた。
年は三十で、前嗣より六歳上である。
「千里の道を踏み越えて、よくぞ来てくれた。都中の者が越後の虎の入洛を待ちわびておる」
前嗣は義輝から託された御内書を渡した。
景虎はうやうやしく一礼して書状を広げた。腰には後奈良帝から拝領した瓜実《うりざね》の剣をたばさんでいる。
「ご下知《げじ》があり次第、洛中に馬を進める所存にござる。御所さまにそのようにお伝え下され」
「こたびのご即位の礼には、諸大名が馬を揃えて警固に当たる。この機会に朝廷と幕府を復興し、政道の筋目を正さねばならぬ」
前嗣は婉曲《えんきよく》な言い回しをした。
政道の筋目を正すとは、将軍家をないがしろにしている三好長慶を討つということである。
「拙子《せつし》もその覚悟で五千の家来をひきいて参りました。志ならざれば国には帰らぬ所存にござる」
「細かなことについては、上洛の後にゆるりと語りあおう。望みがあらば、何なりと申してくれ」
「ならば、太閤《たいこう》さまにお願いがござる」
景虎は稙家の方に姿勢を向けた。
「麿《まろ》はもはや隠居しておる。 政《まつりごと》に口をさしはさむ立場にはない」
「政ではございませぬ。都にいる間に、歌道の手ほどきを受けとう存じます」
「歌道と申しても、いろいろとあるが」
「ご摂家には、詠歌大概《えいがのたいがい》という歌書を秘蔵しておられるとうかがいました。この書についてご教授いただきとう存じます」
「長尾の武名は都にも|轟い《とどろ》ておるが、歌の道にはいかほどの心得があるのかな」
稙家は当代一の歌学者だけに、いかな景虎とて力量がなければ弟子にするわけにはいかないのである。
「怖れながら、これを」
景虎が懐中用の短冊を遠慮がちに差し出した。
武士《もののふ》の鎧の袖を片敷きて
枕に近き初雁《はつかり》の声
僧籍にあった者らしい見事な書体でそう記されている。
稙家は気難しげな顔で短冊に長々と見入った後で、
「何時でも、訪ねて参られるがよい」
ぼそりとそうつぶやいた。
喜色満面の景虎に送られて庭先まで出ると、柵の門を入って来る十数人の武士と行き合った。
近習たちに守られた三好長慶と松永弾正である。
「ほう、その方らも出迎えに参ったか」
前嗣はわざと歩み寄って声をかけた。
「御所さまのお申し付けにより、参上いたしました」
長慶が深々と頭を下げた。
「景虎はご即位の礼のために、千里の山河を踏んで駆けつけてくれた。その方らもこの者の忠勤に倣うがよい」
「河内の賊徒を平らげ次第、警固の兵を上洛させる所存にござる。主上のお許しもいただきましたゆえ、長尾どのと力を合わせてご警固の役を果たしとう存ずる」
長慶は掌を返したように愛想《あいそ》がいい。
その横で長身の弾正が、挑戦的な目を向けたままじっと立ち尽くしていた。
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第十二章 晴信造反
長尾景虎を出迎えに行った翌日、松永久秀は西園寺邸を訪ねた。
正月の叙任で従一位に昇進して帝《みかど》のお覚えがめでたいことを天下に示して以来、ずいぶんと権勢が盛んになったらしい。
庭にはひと目で高価と分かる石や灯籠《とうろう》が配され、手入れの行き届いた花壇には色とりどりの花が咲き乱れていた。
「弾正少弼《だんじようしようひつ》、 ようお越し」
公朝《きんとも》が上機嫌で客間に案内した。
弾正台とは洛中《らくちゆう》の非違を糾明《きゆうめい》し、官人の綱紀粛正をつかさどる役所である。今日の警視庁と検察庁を兼ねたような任務をおびている。
弾正少弼とはこの役所の次官(副長官)で、正五位下に当たる。久秀も正月の叙任で従六位の弾正忠からひとつ位が上がったのだった。
「昨日どうやった。長尾景虎ちゅう大名は、|噂ほ《うわさ》どの男か」
「聞きしに勝る傑物と拝察いたしました。その上朝廷に対する尊崇の念がひときわ厚く、ご即位の礼のために越後より数々の難関を乗り越えて上洛した由にございます」
久秀は世間の評判通りのことを口にした。
実を言えば景虎にはいたく失望している。どれほど戦が強かろうと、朝廷の権威に頼った領国経営しかできないようでは、先はたかが知れている。
信長が大空に飛び立とうとする若鷲《わかわし》だとするなら、景虎には軛《くびき》につながれた闘犬ほどの値打ちしかない。
そうは思うものの、景虎の忠節に朝廷はわき返っているだけに、この場で口にするのははばかられた。
「申し遅れましたが、先日の能会では主《あるじ》筑前守をお引き回しいただき、かたじけのうございました」
「雑作もないことや。筑前守がご即位の礼の警固を引き受けると申したところ、主上もたいそうお歓《よろこ》びであった」
「つきましては、今ひとつお願いがございます」
「何や、言うてみい」
「当方の仕度が整うまで、ご即位の礼を引き延ばしていただきたいのでございます」
「何やて」
公朝が気色《けしき》ばんだ。
「将軍がこたびのご即位の礼に諸大名を上洛させたのは、その力をもって三好家を討つためでございます。このまま礼を挙行されては、応仁の乱の頃のように洛中が修羅場と化すおそれがございます」
「まさか。義輝かてそないな無茶はせんはずや」
「これは将軍ではなく、近衛関白のたくらみでございます。さような計略なくば、長尾が越後のような遠国《おんごく》から五千もの軍勢を引き連れて上洛するはずがございますまい」
「そんなら三好はどうするんや」
「物騒な犬どもを領国に帰してから、三好家と左大臣さまのお力だけでご即位の礼を行いたいと存じます」
そのためには公朝にやってもらわなければならないことがあった。三条西|公条《きんえだ》をそれとなく焚《た》きつけて、越後の青苧《あおそ》座の公事銭《くじせん》を納入するよう長尾景虎に要求させることだ。
「青苧座の公事銭の徴収権は、もともと三条西家にございます。長尾が真に朝家に忠義を尽くしたいのであれば、武家が横領している公事銭を返すのは当然でございましょう」
「長尾を怒らせて追い返そうちゅうわけやな」
「朝家に良かれと思って申し上げているのでございます」
「武家のくせに、ようそこまで頭が回るな。まあええ。三条西公に粉かけてみるわ」
「それには良き先例が必要でございましょう。左大臣さまにも、美濃の御料所について計らっていただきとうございます」
美濃には多芸《たき》の荘と伊自良《いじら》の荘という二つの禁裏御料所がある。これも長年武家に横領されたままだった。
白湯《さゆ》の馳走《ちそう》にあずかった後、久秀は花の御所を訪ねた。三好|長慶《ながよし》と今後のことを打ち合わせるためである。
表門の前には三十騎ばかりの馬がつながれ、庭には将軍直属のお供衆が大紋姿でひかえている。どうやら義輝が来ているらしい。
久秀は一瞬訪問を中止しようかと思ったが、ちょうど義輝と長慶が肩を並べて玄関から出てくる所で、今さら知らないふりも出来なかった。
二人の後ろには細川藤孝が従っている。会談は余程うまく進んだらしく、三人とも談笑のなごりを残した晴々とした表情をしていた。
久秀は片膝《かたひざ》立ちになって玄関先にひかえた。
「弾正、ひさしぶりだな」
義輝が気さくに声をかけた。
「御所さまも、ご息災で何よりでございます」
「こたびの和議こそ実りあるものにしたい。筑前守ともども力を尽くしてくれ」
「有難きお言葉、痛み入ります」
義輝と会うのは六年ぶりである。青年のひ弱さが消えて堂々たる偉丈夫に成長していることに、時の流れの早さを思わずにはいられなかった。
将軍の一行を見送った後も、三好長慶は機嫌がよかった。酒が入っているらしく、顔がうっすらと赤い。
「御所さまの成長ぶりには目を見張るばかりじゃ。将軍たる器量を充分にそなえておられる」
「剣の道に精進《しようじん》されているとうかがいましたが」
「上泉《こういずみ》伊勢守というものから、一刀流の免許を得られたそうじゃ。立ち居振る舞いに威厳がそなわってきたのはそのためであろう」
「何の前触れもなく参られるとは、急なご用でもあったのでございましょうか」
「わしに会いとうなったと申されてな。酒樽《さかだる》を下げて訪ねて来られた。しばし昔話に花を咲かせたばかりじゃ」
「殿、ご油断は禁物でござるぞ」
久秀はきつく釘《くぎ》をさした。
「御所さまはこたびのご即位の礼を好機として、当家を討とうとなされております。決して心を許してはなりませぬ」
「そうかのう。そのような企てがあるとはとても思えぬが」
「それなら何ゆえ長尾や斎藤が大軍をひきいて上洛したのでございましょうや。あの者たちが洛中にいる間は、ご即位の礼を行ってはなりませぬ」
「しかし、すでに段取りも整っておるそうじゃ。当家の都合で異を唱えては、朝廷に対してもはばかりがあろう」
「引き延ばす手はいくらでもござる。ここは不退転の決意でのぞまれることが肝要でござる」
長慶の態度に一抹《いちまつ》の不安を覚えながら、久秀は花の御所を後にした。
長尾景虎、後の上杉|謙信《けんしん》が五千の軍勢をひきいて入洛したのは、永禄二年(一五五九)四月二十七日のことだ。
景虎は飯綱権現《いずなごんげん》像の前立てをした兜《かぶと》をかぶり、色々おどしの古風な鎧《よろい》をつけ、連銭葦毛《れんぜんあしげ》の馬にまたがっていた。
馬には先の上洛の時に将軍義輝から与えられた毛氈《もうせん》の鞍覆《くらおお》いをかけ、馬の前方には後奈良天皇から下賜された日の丸の軍旗を高々とかかげている。
粟田《あわた》口から入って五条の橋を渡り、二条御所まで行軍する間、沿道には物見高い都の群衆が鈴なりに連なっていた。
群衆の目を引いたのは、統制の行き届いた整然たる行軍でも異様なばかりに長い槍《やり》でもなく、天賜の御旗である日の丸の軍旗だった。
景虎がその旗を旌旗《せいき》として入洛するのは、天皇に忠誠を尽くすと公言するも同じだけに、朝廷びいきの都人はひときわ感じ入ったのである。
義輝は美濃の斎藤義竜の時と同じように、景虎と数百名の武将を御所に入れて閲兵した。
景虎は将軍帰洛の祝いとして、義輝に太刀一腰と馬一|疋《ぴき》、黄金三十枚、母の慶寿院にろうそく五百|梃《ちよう》、緯白《ぬきしろ》三百反、白銀百枚を献上した。
この席に近衛|前嗣《さきつぐ》は立ち合っていなかった。
すでに根回しは終えているだけに、わざわざ顔を出す必要もない。それよりは五月一日に予定されている景虎の参内にそなえて、万全の仕度を整えておくことが先決だった。
警固の軍勢がそろったからには、後は即位の礼の日取りを決めるばかりである。
五月一日の参内の時に一気にそこまで話を進めようと、他の摂関家や清華家へ使いを走らせていた。
梅雨に入ったのか、昼過ぎから大粒の雨がぽつりぽつりと落ち始め、やがて篠突《しのつ》く雨となった。
これでは入洛した越後勢もさぞ難渋しているだろうと暗い空をながめていると、山科言継《やましなときつぐ》が珍しい客を連れて来た。
前右大臣の三条西公条で、すで|に齡《よわい》七十を越えている。しわの多いほっそりとした顔に、麻糸のように白いあごひげをたくわえていた。
「右府さまが、お聞き届けいただきたいことがあると申しておられます」
「私でお力になれることでしたら、何なりと」
「なれますとも。近衛公にしかお出来にならないことでございます」
公条が前のめりになって膝を進めた。
「ご承知のこととは存じますが、当家は代々青苧座の本所として公事銭を集めてまいりました。ところが近年武家の横暴によって、公事銭が徴収出来なくなっております」
「公事銭を納めるように、長尾景虎に申し付けよということですか」
「さようでございます。越後|上布《じようふ》からの公事銭さえ入れば、朝廷の御役も充分につとめることが出来まするゆえ、何とぞご尽力いただきたい」
公条は額を畳にこすりつけんばかりにして頼み込んだ。
青苧とは苧《からむし》の皮を細く裂いたもので、麻糸の原料とされるものだ。越後は古くから苧を原料とした越後上布の産地として知られ、直江津《なおえつ》港から京都や大坂へ盛んに出荷していた。
木綿が普及していない当時には、麻布は庶民にとって欠かすことの出来ない衣料だっただけに、越後上布は飛ぶように売れた。
長尾景虎が五千もの軍勢をひきいて上洛できるほどの力をたくわえたのも、越後上布の生産、販売を一手に押さえたからである。
ところが物の商いというものは、古くから座によって支配されていた。
座とは商人や職人、芸能民らが結成した同業者の組織で、朝廷や寺社の支配下に入ることで営業の独占権や関所の通行権を認められていた。
その見返りとして座の者たちは、朝廷や寺社に対して奉仕や公事銭の納入の義務をおっていた。
青苧の商いも青苧座によって支配され、三条西家が公事銭を徴収する権利を有していたが、長尾景虎が越後上布の流通を押さえた頃から、座の制度を無視するようになっていた。
(困ったことだ)
前嗣は内心そう思った。
公家《くげ》の立場としては三条西家の主張を認めざるを得ない。だが今は越後勢の力を頼んで三好長慶を討とうとしているだけに、青苧のことなどを持ち出して景虎の心証を害したくはなかった。
「近衛公、いかがでございましょうか」
青苧座から上がる公事銭は莫大《ばくだい》なものだけに、公条も必死だった。
「そうですね。申されることはよく分かりました」
「本日主上は、美濃の御料所の貢租《こうそ》を献じるよう斎藤治部に申し付けられたそうでございます。長尾にも何とぞよしなに」
「美濃の御料所?」
前嗣には寝耳に水の話だった。
「多芸の荘と伊自良の荘が禁裏御料所となっております」
山科言継が公条に代わって答えた。
多芸の荘とは、岐阜県|養老《ようろう》郡から大垣《おおがき》市にまたがる一帯で、律令制度が整った頃から皇室御料とされてきた。
鎌倉時代になると美濃国守護の土岐氏が地頭となって管理し、年貢の半分を朝廷に献じていたが、土岐氏の勢力が衰えるにつれて貢租の納入も途絶えていた。
美濃の伊自良の荘も同様である。
朝廷では斎藤義竜が上洛し、幕府の相伴衆に任じられたのを絶好の機会と見て、両荘からの貢租を再開するように命じたのだ。
「いったい、いかほど献じよと申し付けられたのだ」
「両荘合わせて五百貫とのことでございます」
「主上のお考えではあるまい。誰がそのようなことを奏上申し上げたのだ」
「西園寺公だとうかがいましたが、何か不都合でもございましょうか」
言継は何の危惧《きぐ》も抱いていないようだが、これは一歩間違えれば由々しき大事になりかねなかった。
朝廷と幕府による統治体制を再興するとなれば、朝廷が皇室御料の貢租を求めたり、三条西家が青苧座の公事銭を徴収しようとするのは当然のことである。
公家としてはこれに異を唱えることは口が裂けても出来ないが、己の力だけで国を切り従えてきた戦国大名たちは理不尽な要求と受け取るはずだった。
斎藤義竜がこれを不服として兵を引き上げたなら、すでに上洛した大名もこれから上洛しようとしている大名もこれに倣《なら》うかも知れない。
そうなれば、建武の親政に失敗した後醍醐天皇の轍《てつ》を踏むことになる。
将来はともかく、三好長慶を滅ぼして幕府の体制を整えるまでは、こうした事態だけは絶対に避けなければならなかった。
「近衛公、長尾の件もお口添えいただけましょうな」
「むろんご意向は伝えますが、まずはご即位の礼を無事に終えることが肝要でございます。それさえ終えたなら、他のことも自然といい方向に向いて参りましょう」
(あの蹴鞠《けまり》頭が、なぜこの時期に馬鹿げた奏上をしたのか……)
前嗣の頭はそのことで一杯で、公条のことなどもはや眼中になかった。
四月の晦日《みそか》、長尾景虎が立売《たちゆうり》町の近衛新邸に訪ねて来た。
明日は内裏へ参内して正親町《おおぎまち》天皇と対面する。その御膳立《おぜんだ》てをしたのは前嗣だけに、数々の献上品を持ってお礼の挨拶《あいさつ》に来たのだった。
型通りの挨拶を終えると、前嗣はさっそく酒の仕度を命じた。景虎は無類の酒好きで、行軍中も馬上杯を手離さないと聞いたからである。
「これは痛み入りまする」
折敷《おしき》に出された大盃を見て、景虎は相好を崩した。
三合は入ろうかという大盃の内側を朱の漆で塗り、毘沙門天の像が金泥で描かれている。
「今日の引き出物に持ち帰ってくれ」
景虎が毘沙門天を信仰していると聞いて、わざわざ作らせたものだった。
景虎は大盃を押しいただき、侍女がなみなみと注《つ》いだ酒をじっくりと味わいながら飲み干した。
「越後は酒所と聞く。都の酒では不足かも知れぬな」
「いや、結構な御酒でござる。出来ますればこの酒を造った杜氏《とじ》どもを、越後に連れ帰って技を伝えさせとうござる」
「貪欲《どんよく》なことだ。玉薬の次は酒か」
前嗣は苦笑した。
景虎は数日前に、火薬の調合秘伝書を義輝に乞《こ》うてもらい受けていたからである。
「越後は雪深き国ゆえ、何事も貪欲に学ばなければ国が立ち行きませぬ。国貧しければ兵も弱く、帝に忠勤を尽くすことも適《かな》わぬこととなりまする」
「まことにその通りだ。清水寺に申し付けて、酒造りの寄人《よりうど》どもをつかわすこととしよう」
「かたじけのうござる。越後は米も水も豊かゆえ、都に負けぬ酒を造らせてみせまする」
「他に何か望みはないか」
「いやいや、さようなことは」
景虎は照れを隠そうとするように大盃を傾けた。
「千里の道を踏んで上洛してくれたのだ。出来ることは何でもするゆえ、遠慮なく言ってくれ」
「ならば二つ、願いがございます」
「うむ」
「ひとつは鉄砲でござる。玉薬の秘伝書はいただきましたが、当家にはいまだ百梃ばかりの鉄砲しかございませぬ。早急に千梃ばかりを買い求めたく存じますゆえ、堺の商人に渡りをつけていただけますまいか」
「在京の間に買い求めるか」
「尾張の織田信長は、三百梃の鉄砲隊を上洛させていると聞きました。後れを取るわけには参りませぬ」
「分かった。堺には当家に出入りしておる商人もおるゆえ、早急に申し付けよう」
「全額を支払うことは出来ませぬが、三年か五年割りにして必ず支払いますゆえ」
「案ずるな。この私が証人となれば、商人どもも否とは言うまい」
商人たちはいつ滅ぼされるか分からない武家よりも、座の本所である公家や寺社を信用している。
そのために戦国大名と大きな取り引きをする時には、公家や寺社に証人に立ってもらうということが一般的に行われていた。
「いまひとつの願いは、関東のことについてでござる」
酒のせいか、それとも千梃の鉄砲が手に入る喜びのためか、色白の景虎の頬がうっすらと染まっていた。
「上杉家のことか」
「ご存知のごとく、関東管領上杉|憲政《のりまさ》どのは、七年前に上野《こうずけ》の平井城を追われて以来、当家を頼っておられます。関東管領とは申せ、鎌倉公方家は北条家のために滅ぼされ、すでに有名無実と化しておりまする」
足利義輝が三好長慶のために都を追い出されたような事態が、関東でも起こっていた。
都に幕府を開いた足利尊氏は、関東支配の|要と《かなめ》するために鎌倉に次男|基氏《もとうじ》を配した。
当時基氏は関東管領と呼ばれ、将軍の下位に属していたが、やがて基氏の子孫たちは関東の武将らに擁されて、独自の政策を取るようになった。
そのために鎌倉公方と称するようになり、それまで執事であった上杉家が関東管領に格上げされた。
第四代の鎌倉公方である足利|持氏《もちうじ》が、六代将軍|義教《よしのり》に対して反乱を起こそうとした時、関東管領上杉|憲実《のりざね》は将軍方に立って持氏を切腹に追いやった。
憲実は罪を悔いて出家行脚の旅に出るが、上杉家はその後鎌倉公方をしのいで関東の実質的な支配者にのし上がっていく。
ところが戦国時代になると、上杉家は関東に進出した北条|早雲《そううん》によって鎌倉を追われた。
上野の平井城に拠って何とか退勢を挽回《ばんかい》しようとしていた上杉憲政も、北条氏の圧迫に抗しきれず、長尾景虎を頼って越後に落ちのびていたのである。
「憲政どのには、もはや管領として関東に号令しようという気概はございませぬ。されど幕府の秩序を乱す輩《やから》をこのまま放置しては、将軍家の威信にも関わりまする」
景虎は決して声を荒らげない。物柔らかな口調で淡々と語るばかりである。
だが口にしたことは必ず成し遂げるという覚悟が定まっているせいか、聞く者の腹にずしりと響く迫力があった。
「それで、そちはどうしたいのだ」
「憲政どのは、それがしを上杉家の養子に迎え、関東管領家を立て直したいと申しておられます」
「上杉を名乗るか」
「将軍家のお許しがあれば、そのようにしたいと考えておりますゆえ、是非ともお取りなしをいただきとう存じます」
「関東には北条がおる。管領となったとて、これを討つことは難しかろう」
「戦の大義名分さえ得られるなら、三年の間には関東を平定することが出来ましょう。関東が治まれば、幕府の立て直しも磐石《ばんじやく》になるものと存じまする」
景虎が五千もの大軍をひきいて長駆上洛した真の目的は、関東管領職の相続を幕府に許可してもらうことにあったのである。
翌五月一日、長尾景虎は武家伝奏の広橋大納言国光に先導されて参内した。
従五位下だけに昇殿は許されない。清涼殿の庭に平伏し、御簾《みす》の奥の正親町天皇を遠くから仰ぎ見るばかりである。
前嗣は清涼殿の南廂《みなみびさし》に着座して、成り行きを見守っていた。
手はずはすでに武家伝奏の広橋国光と打ち合わせてある。それでも何か不都合が起こったなら口添えしてやろうと、わざわざ参内したのだった。
景虎はさすがに緊張していた。 侍烏帽子《さむらいえぼし》をかぶり、色白の頬をうっすらと上気させて平伏している。
「越後国守護代、長尾景虎にございます」
国光が重々しい声で告げた。
「このたびご即位の礼の警固のために、領国よりはるばる上洛いたしました」
国光にうながされて景虎が顔を上げた。目は清涼殿の庭先に落としたままだった。
「上洛大儀である」
驚いたことに、帝は御簾を上げて直にお声をかけられた。景虎に寄せておられる期待が、それほど大きかったのである。
「長尾の忠勤は前の帝の頃より聞き及んでおる」
「その頃に禁裏御修理を仰せつかりながら、いまだに果たせずにいるのは心苦しき次第ゆえに、越後の所領一所を修理料として献上したいと申しておりまする」
「忠義の趣《おもむき》、殊勝である」
所領献上の返礼として、帝から剣と綸旨《りんじ》が下された。
「任国および隣国の敵心をさしはさむ輩を討ち、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ勝ちを千里に決し、忠を一朝に尽くせ」
綸旨の内容は、前の上洛の時に後奈良天皇から下されたものと同じである。
だが景虎にとっては、まったく意味が違っていた。六年前には越後統一の大義名分とするだけだったが、今度は関東管領職がかかっている。
養子とはいえ、実質的には上杉家を乗っ取ることになるだけに、他家の批判を封じるためには綸旨を得ることが絶対に必要だった。
これまでもたびたび引用してきたが、戦国時代の朝廷の動きを知るには『お湯殿上《ゆどののうえ》の日記』ほど格好の史料はあるまい。
清涼殿の一郭には、帝がお湯をつかわれる湯殿があり、その側にお湯殿の上と呼ばれる小部屋がある。
ここは帝に近侍する女官たちの詰め所で、日々の出来事を記録することが義務付けられていた。この女官たちの当番日誌が『お湯殿上の日記』である。
五月一日の長尾景虎の参内については、日記に一言も記されていないが、その翌々日には注目すべきことが書き留められている。
〈三日。ご即位の触れ、諸司にさせられる。神宮の事の文中山へいたさるる。松永ご家中の者千五十|疋《ぴき》進上申す。申し継ぎ広橋大納言〉
この記述から、二つのことが分かる。
即位の礼が間近となり、諸司百官に通達がなされたことと、松永弾正が千五十疋(二十一貫文)を献上して朝廷との接近をはかっていることだ。
前者は即位の礼を機に三好家を滅ぼそうとする近衛前嗣らの計略に従ったものであり、後者はこれを防ごうとする三好長慶、松永久秀らの巻き返し工作の現れである。
今から四百四十年ほど前に、お湯殿の上に詰めた女官が記した数行の日記が、はからずも両者の熾烈《しれつ》な鍔《つば》ぜり合いを現代に伝えることになったのだ。
それほど、機は熟していた。
長尾景虎、斎藤義竜、織田信長はすでに上洛し、二千貫の費用を献上した毛利|元就《もとなり》も、嫡男隆元《ちやくなんたかもと》を総大将とする軍勢を備中まで進めて上洛の途についていた。
その戦況について、五月十三日に次のように記されている。
〈十三日。安芸《あき》国毛利隆元備中国中切り取る。今日注進書、同|頸《くび》の注文参る。ご即位申|沙汰《さた》つかまつり候によりて、奇特に切り勝ちたるとて、注進申す〉(『お湯殿上の日記』)
毛利家は即位の礼の警固を大義名分として、備中から備前、播磨《はりま》へと兵を進め、三好家との決戦にのぞもうとしていた。
また、駿河《するが》の今川義元も上洛の仕度にかかり、三万の一向|一揆《いつき》勢を擁する本願寺も挙兵の勅命を待っていた。
事はまさに、近衛前嗣が描いた通りに進んでいる。後は諸卿を集めて会議を開き、即位の礼の日取りを決めるだけだった。
絶体絶命の危機に立たされた三好長慶も、松永久秀とともに必死の巻き返し工作を進めていた。
即位の礼の警固に三万の軍勢をひきいて加わると申し出、朝廷や将軍に急速に接近していたのである。
長慶らの動きは、前嗣にも詳細に伝わっていた。
四月十二日には、内裏で行われた十二番の能のうち十番を献じ、正親町天皇から即位の礼の警固に加わるようにとの直々のお言葉を頂いている。
五月三日に松永弾正が千五十疋を献上したのは、この措置に対するお礼の意味が込められていた。
また長慶の義輝に対する接近も急で、五月一日には上賀茂《かみがも》神社参拝の供をし、四日には相国寺《しようこくじ》万松院で行われた先代将軍義晴の法要にも参列している。
そのために義輝も、長慶との和解によって幕府の再興を果たすという方向に心が傾きかけていた。
このことを危ぶんだ前嗣は、端午の節会の五月五日に、紫宸殿の近衛陣に三位以上の公|卿《くぎよう》を集めて陣定を開いた。
「去る三日、ご即位の触れが諸司になされた。ついてはご即位の礼を早々に執り行い、朝儀を明らかにせねばならぬ。この旨、一同ご異存あられようか」
前嗣は近衛陣に二列に並んだ公卿たちを見回した。黒い束帯に身を包み、手に笏《しやく》を持った十数人が、無言のまま端座している。
「ご異存がないとあらば、古例、吉例に照らして日取りを決めたいと存ずる。どなたかご意見をお聞かせいただきたい」
「恐れながら申し上げまする」
山科言継がすかさず笏を上げた。
「来る五月十八日は、平城《へいぜい》天皇がご即位された吉日でございます。この吉例にならって、ご即位の礼を執り行われるべきかと存じまする」
「さよう。ご即位の前例とあらば、吉例中の吉例でございましょう」
武家伝奏の広橋国光が、すかさず後押しをした。
西園寺公朝らに口をさしはさむ隙《すき》を与えないよう、事前に根回しを終えていたのである。
「ならば、五月十八日にご即位の礼を行われるよう、帝に奏上いたす」
「お待ち下され」
意外なことに、勧修寺尹豊《かじゆうじただとよ》が異を唱えた。
「先ほど武家より、ご即位の礼の日取りを決めるのは、あと三日待ってもらいたいとの申し出がございました」
「武家とは、将軍でしょうか」
「さよう。警固の手はずが整っておらぬゆえ、先に日取りを決められては、朝家にご迷惑をかけることになるやも知れぬと申しております」
「そのような話は、聞いてはおらぬが」
前嗣は広橋国光を見やった。
「麿《まろ》も、そのようには聞いておりませぬ」
国光が怪訝《けげん》な顔をした。
武家と朝廷の連絡は、常に国光が当たっている。不都合があるのなら、真っ先に国光に伝えるはずだった。
「ご即位の礼についての伝奏は、麿と日野資定《ひのすけさだ》卿がおおせつかっております。それゆえ、麿のもとに申し出たのでございましょう」
尹豊は五摂家のひとつである九条家の重鎮である。その発言には、陣定の行方を左右するほどの力があった。
(まさか勧修寺が、三好方につくとは……)
思いがけぬ成り行きに、前嗣は動揺を隠しきれなかった。
「手はずが整わぬとは、どういうことでしょうか」
山科言継が代わって問い質《ただ》した。
「武家には戦の時にも先陣、後陣の序列と格式がある。ご即位の礼の警固ともなれば、どの大名をどの位置につけるかが、幕府におけるその者の地位を示すことになる。それゆえいまだに、警固の割りふりを決めかねているらしい」
「そのようなことは、日取りを決めてからでも間に合いましょう」
「それでは将軍としての面目が立たぬゆえ、三日の猶予を願い出ておるのだ」
「これはむしろ、目出たいこととちがいますやろか」
西園寺公朝が丸く太った顔に満面の笑みを浮かべ、待ち構えていたように口を開いた。
「諸国の大名がご即位の礼の警固のために上洛し、少しでも主上の近くに侍《さぶら》いたいと願うは、朝家の権威が盛り返してきた何よりの証拠や。三日くらいのことやったら、待ってあげたらよろし」
「ならば、待ちましょう」
陣定の空気が尹豊や公朝の側に流れ始めたのを感じた前嗣は、素早く譲歩して次善の策に転じた。
「しかし、五月十八日が吉日であることに変わりはありませぬ。三日後に武家にこの旨を伝えることといたしまする」
陣定が終わると、前嗣は山科言継を部屋に呼びつけた。
「これはいったい、どうしたことだ」
「分かりませぬ。昨日二条御所を訪ねましたが、武家に異存があるとは一言も聞いておりませぬ」
前嗣の意を受けて根回しをしたのは、言継と広橋国光だった。
「九条家は、三好方についたのではあるまいな」
「そのようには、聞いておりませぬ」
「至急義輝に会いたい。手はずを整えよ」
「どちらでお会いになりますか」
「屋敷の藤の花が見頃だ。花でも見ながら一献傾けたいと伝えてくれ」
前嗣は立売町の屋敷に戻って義輝が来るのを待ったが、今日は多忙で二条御所を出られないという。
「ならば忍びで、里子に会いに行く。車の仕度をせよ」
前嗣は女官たちが外出の際に用いる文車《もんのくるま》に乗って、二条御所の奥御殿を訪ねた。
昨年の暮れに祝言《しゆうげん》をあげた前嗣の妹里子と義輝は、ここを新居としていたのである。
里子はすぐに表御殿に使いを出したが、義輝はなかなか現れなかった。
「近頃はご即位の礼の仕度に追われております。手が空かないのでございましょう」
茶を運んできた里子が、気づかわしげに取り成した。
「忙しいのは、私も同じだ」
「申しわけございません」
「ここの暮らしはどうだ。少しは慣れたか」
「都に戻られて以来、義輝さまは席の温まる間もございませぬ。朽木谷《くつきだに》にいた頃が懐かしゅうございます」
「男の仕事とはそうしたものだ。まして今は、幕府の再興なるかどうかの瀬戸際だからな」
「義母《はは》上さまも、そのように申されました」
義輝の母慶寿院は叔母《おば》だけに、里子も気が楽なのだろう。ふっくらとした顔が、いっそう丸みをおびていた。
「席の温まる暇はなくとも、閨《ねや》を共にするくらいの暇はあろう。お目出たい話は、まだ聞かせてくれぬか」
「このような時に、いやな兄上さまですこと」
「何がいやなものか。夫婦《めおと》が子をなすは自然の道理だ」
二人の間に生まれた子が次期将軍となれば、近衛家と足利家の関係は磐石のものとなる。里子には何としてでも男子を産んでもらいたいというのが、前嗣の本音だった。
夕方の涼しい風が吹き始めた頃、義輝は顔を赤く上気させて現れた。
どうやら酒を飲んでいたらしい。
「酔っているようだな」
待ちくたびれた前嗣は、冷ややかな目で迎えた。
「酒は飲んだが、酔ってはおらぬ」
「大樹どのが酔えない酒を飲んでいた間、私はこうして席を温めていたというわけだ」
「不満なのはよく分かるが、こちらにも難しい問題があるのだ」
義輝は前嗣が何の用で来たのか察している。対面を遅らせたのは、そのためかも知れなかった。
「よく分かる? それなら何ゆえ事前に知らせてくれなかったのだ」
「争いが起こったのは、今朝になってからだ。知らせようとしたが、間に合わなかった」
「勧修寺公には知らせたそうではないか」
「ご即位の礼の伝奏を務めておられるゆえ、内裏でお目にかかることが出来たのだ」
「それは妙だな。勧修寺公に会えたのなら、広橋大納言にも会うことが出来たはずだ。使者は誰をつかわしたのかね」
「松永弾正だ」
義輝が屈辱《くつじよく》に顔をゆがめて吐き捨てた。
「なるほど。大事の使いゆえ、股肱《ここう》の臣に任せたというわけか」
「私も苦しんでいる。公家風の嫌味で気持ちをかき乱すのはやめてくれ」
「ならば武家の事情とやらを教えてくれ。何が問題となっているのだ」
「美濃の斎藤のことだ」
三千の兵をひきいて上洛した斎藤義竜の労に、義輝は相伴衆に任じることで報いた。
義竜は斎藤道三の子ではなく土岐頼芸の子だと公言していたので、四職家の格式をもって迎えたのである。
そうなれば即位の礼の警固の席次も、三好家や織田家よりも上となる。昨日までその方向で話がまとまりかけていたが、今朝になって三好長慶が猛然と抗議してきた。
すでに内裏で陣定が始まる直前だったので、義輝はやむなく三日の猶予を願うこととし、その場にいた松永弾正を使いに出した。
弾正には広橋大納言に伝えよと申し付けたが、勧修寺尹豊としか会えなかったのだという。
「弾正は私の裏をかくために、わざと広橋大納言には伝えなかったのだ。陣定の直前になって異を唱えたのも、魂胆あってのことに違いあるまい」
「魂胆?」
「陣定でご即位の礼の日取りが決められるのを、阻止したかったのだ」
「まさか。筑前守もご即位の礼の警固に加わりたいと申しておるではないか」
「ならば、どうして大樹どのの命に背いたのだ」
「勧修寺公は斎藤義竜が治部大輔に任じられた時に尽力されておる。この先斎藤をなだめるためにも、勧修寺公に伝えたほうがいいと考えたのだろう」
義輝は声高に侍女を呼びつけ、酒の仕度を命じた。
「酔えない酒など、飲むつもりはない」
前嗣は手厳しく断った。
「それなら一人でいただこう。このようなことになったのも、元はと言えば朝廷の責任なのだ」
「どういう意味かね」
「この間広橋大納言が、斎藤治部に美濃の御料所の貢租を献じさせよと伝えてきた。私は気が進まなかったが、勅命ゆえ従わざるを得なかったのだ」
美濃の多芸の荘と伊自良の荘のことだ。
斎藤義竜が上洛している間に、長年とどこおっていた両荘の貢租を献じさせようと西園寺公朝が発案し、武家伝奏の広橋国光を通じて幕府に伝えたのである。
〈美濃の多芸、伊自良御料所の事に、武家へ文下さるる。美濃の斎藤治部大輔在京にて、文武家まで到さるる〉
四月二十七日の『お湯殿上の日記』には、事もなげに記されているが、これは戦国大名の領国支配を朝権によって否定することになるだけに、義竜も容易には認めなかった。
だが公武一体化によって幕府の再興を成し遂げようとする義輝としては、勅命を無視することは出来ない。そこで斎藤家を四職家として扱うという約束で貢租を承諾させた。
そうした経緯《いきさつ》があるだけに、義竜との約束と三好長慶の抗議の板ばさみになっていたのである。
(なるほど。そういうことか)
このひと月ばかりの三好方の動きの意味が、前嗣にもようやく見えてきた。
何という狡猾《こうかつ》な、隙のない策略だろう。
即位の礼の警固の名目で諸大名を上洛させ、その軍勢で三好家を討つというのが前嗣らの計略である。
それに気付いた松永弾正は、掌を返したように三好家も警固に加わると申し出た。
朝廷と義輝に接近して、内側から包囲網を切り崩すためである。
久秀の狙いは、斎藤義竜だった。
西園寺を動かして御料所の貢租を命じ、陣定の直前に四職家としての扱いに異を唱えることで、義竜を怒らせて帰国させようとしていたのである。
「それで、どうけりをつけるつもりなのだ」
「筑前守は幕府の侍所を預かっている。ご即位の礼の警固を取り仕切る立場にある」
「義竜よりも上位に据えるということか」
「やむを得まい。義竜には別の手当てをするつもりだ」
侍女が運んできた酒を、義輝はあわただしく飲んだ。無理にでも酔ってしまおうという飲み方である。
「義輝よ、私はそなたの敵ではない」
「そのようなことは、分かっておる」
「ならば、酔いになど逃げずに心を打ち割って話してもらいたい」
「逃げてなどおらぬ」
「ご即位の礼の警固に諸大名を上洛させたのは、その軍勢をもって三好家を討つためだったはずだ。それを今になって、何ゆえためらうのだ」
「筑前守は私の下知《げじ》に従うと申しておる。ご即位の礼の警固にも加わり、朝廷や将軍家に対する礼も尽くしておる。懐に飛び込んだ鳥を、あえて撃つことはあるまい」
「それは松永弾正の策謀なのだ。美濃の御料所のことも今度の横槍も、斎藤義竜を帰国させるための罠《わな》なのだ」
義竜が帰国すれば、織田信長も都に留まっていられなくなる。義輝が諸大名に命じた停戦令も、効力を失うことになりかねない。
前嗣はそう説いたが、義輝の反応は鈍かった。
「前嗣よ。筑前守は先日、亡き父の墓前で足利家への忠誠を誓った。武士の誓いとは、それほど軽いものではない」
「その誓いをたびたび破られ、朽木谷に五年もの間逃げ込んでいたことを忘れたわけではあるまい」
「これまで三好筑前が幕府に叛《はん》してきたのは、細川晴元との遺恨があったからだ。晴元が身を引いた今では、我らの間に何のわだかまりもない」
「それでは、上洛して来る大名たちとの約束はどうなる。三好家を滅ぼさねば、新たな所領を与えることなど出来ぬではないか」
「長尾や毛利の力を借りて三好を滅ぼしたとしても、その先どうなるかは誰にも分からぬ。危うい賭《か》けに出て都を戦の巷《ちまた》とするよりは、筑前守の誓いを信じる道を取りたいのだ」
「武士の誓いが軽くないのなら、この私との誓いはどうなる。目を覚ませ義輝、ここで逃げたなら将軍家の立ちゆく道はないのだぞ」
前嗣はまなじりを決して迫ったが、義輝は辛そうに盃《さかずき》を傾けるばかりだった。
雨だった。
糸のように細かい雨が音もなく降りつづき、庭石や苔《こけ》をぬらしている。池の面に無数の波紋を描き、楓《かえで》の緑を際立たせる。
松永久秀は書院の窓を開け放ち、外の景色を飽かずにながめていた。
何の変哲もない庭である。だが周囲に巡らした竹垣には細やかな工夫がこらされ、庭石の配置にも独特の味わいがある。
こうした雰囲気は、都ならではのものだ。三方を山に囲まれ、夏は暑く冬は冷え込みが厳しい気候と桓武《かんむ》天皇の遷都以来八百年ちかくも都でありつづけてきた伝統に育《はぐく》まれたものである。
敵《かな》わないと思う。妬《ねた》ましくも歯がゆくもある。
何とかこの庭を我が城に造れないものかと、庭師を摂津の滝山城に呼び寄せ、苔や楓を移し植えてみたが、似て非なるものが出来上がっただけだ。
苔や楓が色あせてしまうのである。春の紅しだれ桜、秋のいろは紅葉《もみじ》と同様に、都の空気の中でしか美しい色を発することが出来ない。
なぜだろう。都はなぜこんなにも美しいのか。美しい土地だから都に定められたのか、都となったから美しくなったのか。
久秀はとりとめもないもの思いにふけりながら、梅雨の始まりを告げる雨に見入っていた。
文机の上には、甲斐《かい》の武田晴信にあてた書きかけの文がある。
即位の礼は延期となり、将軍の停戦命令も効力を失うだろう。長尾景虎が上洛している間に、一刻も早く越後国に攻め入るように。そう呼びかけたものだ。
晴信のもとへはすでに何度も使者をつかわし、都の政情を詳しく知らせてあった。
「殿、そろそろ」
近習《きんじゆ》が声をかけた。
巳《み》の刻(午前十時)から三好長慶の館《やかた》で評定がある。今後の方針を決めるために重臣たちが一堂に会する、久秀には何とも気が重い会合だった。
十数人の供を連れて出かけようとした時、門番の制止をふり切って庭先まで馬を乗りつけた者がいた。陣笠《じんがさ》を目深にかぶっているが、小袖《こそで》も革袴《かわばかま》も雨でずぶぬれである。
供の者が素早く抜刀し、狼藉者《ろうぜきもの》を斬り捨てようと走り出た。
「うろたえるでない」
凜《りん》とした声を発し、馬上の武士が陣笠を脱ぎ捨てた。織田上総介信長である。
「急ぎの用あって、弾正どのに御意を得たい。よろしいか」
馬が荒い息を吐いている。よほど急いで駆け付けたにちがいなかった。
「上総介どの、よう参られた」
久秀は自分でも意外なほど若やいだ声を上げた。信長という男には、そうさせるだけの不思議な魅力があった。
「あいにくだが、これから殿の館に参るところじゃ。明日にでも出直されるがよい」
「ならば供をいたす。道すがら聞いていただきたい」
「待たれい」
馬を下りようとした信長を制し、近習に馬の仕度を命じた。
「この方がよい。人に聞かれるおそれもないのでな」
二人は轡《くつわ》を並べて通りに出た。雨はいっそう激しくなっていたが、久秀も陣笠をかぶっただけだった。
「ご即位の礼が日延べになると聞きましたが、まことでござろうか」
信長は真っ直ぐに要点をついてきた。
「そのような話を、どこで聞かれたのかな」
「美濃には、当家に通じている者もござる」
斎藤義竜の家臣の中に、内情を漏らしている者がいるということだ。
「日延べになるとすれば、どうなされる」
「これから清洲に戻る所存」
「戻る? 今すぐでござるか」
「家臣どもには、すでに仕度を命じております。これから戻れば、夕方には帰り着くことが出来ましょう」
久秀は鞍《くら》の前輪を押さえて笑い出した。何と洞察力に優れた小気味のいい振る舞いだろう。
「おかしゅうござるか」
「いや、おかしい。近年まれなるおかしきご仁じゃ」
信長がうつけ者と呼ばれた理由が、久秀にもようやく分かった。信長は人よりはるか先を見通し、いきなり行動を起こす。だから思考の道筋が読めない者には、うつけ者にしか見えないのだ。
「何ゆえ日延べと聞いただけで、性急に帰国しようとなされるのかな」
「斎藤義竜は阿呆《あほう》でござる。三千もの兵をひきいて上洛したために、これ以上美濃を留守にするわけには参りませぬ。まして都で面目を潰《つぶ》されたとあっては、やがて帰国するは必定でござる」
「しかし、上総介どのまで帰ることはありますまい」
「義竜は都で失った面目を、尾張で取り戻そうとするでしょう。用心が肝要でござる」
「ご懸念には及びませぬ。斎藤とて御所さまの停戦命令には背けぬはずじゃ」
「弾正どのも、お人が悪い」
信長は薄い笑みを浮かべたが、目は異様なほどに鋭かった。
「人が悪いのは生まれつきじゃが」
久秀はなおも惚《とぼ》けて、信長がどこまで察しているかを探ろうとした。
「義竜に難題を吹っかけて都から追い出そうとしているのは、胎蔵界のご仁でござろう」
「まさか。何ゆえそのようなことを」
「ご即位の礼を先に延ばし、上洛した大名を国に帰すためでござるよ。さすれば御所さまの停戦命令も、有名無実のものとなりましょう」
「いやいや、誰もそのようなことを望んではおらぬ。こたびは斎藤治部どのとの折り合いがつかなかったばかりじゃ」
「甲斐の武田は動きますか」
信長の思考の糸は、正確に久秀の動きをたどっている。ここに至っては、久秀も態度を改めざるを得なかった。
「その前に、ひとつ訊《たず》ねてもよいか」
「何でしょうか」
「御所さまの停戦命令を、破る覚悟がおありかな」
「武田の動き次第でござる」
「もはや幕府に、この国をまとめる力はない。これから天下は切り取り勝手となろう。迷いなく美濃に馬を進められよ」
「そうした世になるのなら、弾正どのはどうなされる」
「さあて。都に侘住《わびず》まいでもして、誰が一番に攻め上って来るかを見届けることにいたそうか」
馬はいつの間にか毘沙門堂の辻《つじ》にさしかかっていた。三好長慶の館は、ここを右に曲がった所である。
「これから清洲に向かいまする。ご教示、有難く頂戴《ちようだい》いたしました」
「上総介どの」
鐙《あぶみ》を蹴ろうとする信長を、久秀は呼び止めた。
「初めての都は、いかがであったかな」
「良き師と、良き友を得ました」
「師とな?」
「さよう。胎蔵界どのでござる」
さりげなく世辞を遣うのだから、信長もなかなか可愛気《かわいげ》のある男である。
「して、友とは」
「関白どのでござる」
「あのお方と貴殿とは、水と油じゃ。身方にはなれますまい」
「敵にも一人くらい気骨のある者がいなければ、戦はつまらぬものでござる。弾正どのも侘住まいなどなされず、手強《てごわ》き相手となって下され」
信長は馬にぴしりと鞭《むち》を入れると、雨に煙る都大路を蹄《ひづめ》の音も軽やかに駆けていった。
久秀はふと、都への道をもっとも早く駆け戻ってくるのは、あの若者かも知れぬと思った。
長慶の館での評定は、久秀が予期していた通りつまらないものだった。
長慶の一族である三好|長逸《ながゆき》も、淡路からわざわざ上洛した安宅冬康も、久秀の弟の松永長頼も、将軍家との仲を強固にするべきだと考えていたのである。
即位の礼の警固を侍所所司として取り仕切ることを、武家の誉《ほま》れだと喜ぶ者も多かった。
評定の間、久秀は一言も発言しなかった。
将軍との和解の真の意味を知っているのは、三好長慶だけである。評定で余計なことを言って、他の重臣たちを刺激するのは得策ではなかった。
それにしても、重臣たちは意外なほど戦に疲れていた。
戦そのものに倦《う》んでいたわけではない。五年もの間将軍を都から追っていながら、その先の展望を切り開けない長慶に失望していたのだ。
足利将軍家を倒せないのなら、幕府の序列の中で身を立てる方がよい。誰もがそう考え始めていた。
評定の後、久秀はいち早く長慶をたずねた。
「弾正、そちの申した通りじゃ」
長慶は機嫌が良かった。豊かな髭《ひげ》をたくわえた面長の顔は、いつになく晴れ晴れとしていた。
「評定では伏せておいたが、今朝方御所さまから使いがあった。斎藤治部の件は、白紙にもどすとのおおせじゃ」
「先ほど尾張の織田上総介が、帰国の挨拶にまいりました。これで斎藤も国に引き上げることでございましょう」
「そこでじゃ。我らもそろそろ御所さまのご配慮に応《こた》えねばなるまい」
「どのように応えられまするか」
「皆もあのように申しておる。ご即位の礼の警固を取り仕切るは、当家にとっても名誉なことじゃ」
「それはなりませぬ」
久秀は言下に拒んだ。
「こたびのご即位の礼に近衛関白が何を企《たくら》んでいるかは、殿もご存知《ぞんじ》ではありませんか。織田、斎藤が帰国するとはいえ、洛中にはまだ長尾景虎が五千の兵とともに留まっております。また毛利勢は備中まで兵を進め、駿河の今川義元も上洛の仕度を整えており、一向一揆もどう動くか分かりませぬ。ここで手を緩めれば、命取りになりかねませぬぞ」
「はたして、そうであろうか」
長慶は急に暗い顔付きになって、指先で髭をねじり始めた。
「それがしが間違っていると申されますか」
「そうではない。近衛公の力をあまりに大きく見過ぎていると申しておるのだ」
「近衛公の力ではございませぬ。帝の力を怖れているのでございます」
「何ゆえそこまで怖れねばならぬ。内裏《だいり》は目と鼻の先じゃ。帝は我らの手の内にあるも同然ではないか」
「ならば殿は、帝が我らに背かれた時に内裏を焼き払う覚悟がおありですか」
久秀の胃がしくしくと痛み始めた。精神的な緊張のせいか、こうした話になると決まって腹が痛みだすのである。
「まさか、焼き討ちなどとはもってのほかじゃ」
「帝に手をつけられぬ以上、内裏が間近にあるとは申せ、千里の彼方にあるも同じでございます。もし今ご即位の礼の日取りを決めれば、今川義元ばかりか若狭、近江、越前の将軍方の大名が、大挙上洛してまいりましょう。そうなってからでは、もはや取り返しはつきませぬ」
「だがな、弾正。このままでは御所さまが、あまりにお気の毒ではないか」
長慶がぽろりと本音をもらした。
義輝が三好家のために最大限の譲歩をしているだけに、長慶も心を揺り動かされていたのである。
「殿は本心から、御所さまとの和解を望んでおられまするか」
「御所さまは、近年まれなる英傑であらせられる。天下を統《す》べる器量をそなえたお方じゃ。あのお方の元でなら、傾きかけた幕府を立て直すことが出来よう」
「そうお考えなら、この弾正は不要でござる」
久秀はふてぶてしく開き直った。
「されど御所さまが幕府の序列を重んじようとなされる限り、三好家は細川家の被官の地位に押し込められましょう。畿内《きない》八ヵ国の所領を守るためには、幕府を倒し、自ら将軍となられる他に道はございませぬ」
「わしには、そのような野望はない」
「野望ではござらぬ。すでに家臣に分け与えた所領を守るは、主君としての務めでござる。ご即位の礼を潰し、幕府の非をあげつらって兵を挙げられよ。足利尊氏公は鎌倉幕府に背き、後醍醐天皇を吉野に追って幕府を開かれた。天下の権さえ握ったなら、朝廷などは掌を返したようにすり寄ってくるものでござる」
長慶の部屋を出た途端、久秀は激しい吐き気に襲われた。
たまらず柱につかまって吐こうとしたが、胃には何も入っていない。黄色い胃液が口の中に苦く広がり、雨にぬれた庭先に落ちていった。
胃が小刻みに痙攣《けいれん》していた。
体は何かを吐き出したがっているのに、胃の中には何もない。それでも吐き出そうとして胃の襞《ひだ》が震え、全身に悪寒《おかん》が走った。
柱につかまって身を乗り出した久秀の頭を、激しくなった雨が叩《たた》いた。冷たさに顔を上げると、遠くに比叡の山々が連なっていた。
皇城鎮護の山が、横なぐりに降る雨のすだれに白く煙っている。煙りながらなお、どっしりとしてそこにある。
久秀の目に、ふいに涙がこみ上げてきた。なぜかは分からない。体の芯《しん》を揺すぶるような想いが突き上げ、涙となって流れ落ちるのである。
(弾正どの、弾正|少弼《しようひつ》どの)
呼びかける声がして、久秀はあたりを見回した。誰もいない。声は頭の中で響いているのだ。
(弾正どの、何をしておられるのです)
刺《とげ》のある祥子《よしこ》内親王の声である。高雄山の山桜の下で抱き寄せて以来、離れた場所にいても祥子と話が出来るようになっていた。
(ご覧の通り、吐いているのでござる)
(お体の具合でも、悪いのですか)
(いいえ。虫けらにさえ、神は罰を与えるのでしょう)
(今日は約束の日です。何ゆえ訪ねて下さらないのですか)
(これから行きます。こちらの用が済んだなら、行こうと思っていたところでござる)
久秀は頭の中で問答しながら、長い廊下を歩いて玄関に出た。
外は大雨である。板屋根を打つ雨の音が、豆を炒《い》るようにかまびすしく頭上で響いている。
久秀は陣笠《じんがさ》をかぶり、家臣たちをふり切って高雄山へと馬を駆った。篠突《しのつ》く雨の中をただ一騎で駆けながら、都大路を走り抜けていった織田信長の姿を思い出していた。
(あの男なら遠慮はせぬ。あの男なら……)
心の中で呪文《じゆもん》のように唱えながら、己を奮い立たせようとした。
もはや三好長慶の時代は終わったことを、久秀ははっきりと感じていた。長慶に幕府を倒し朝廷を葬る決断がつかないのなら、自分が長慶に取って代わるしかない。
だが長慶を討ち義輝を滅ぼすことは出来たとしても、久秀にはその先の展望がない。朝廷も幕府もないこの国を、どう作り上げていけばいいのか分からない。
もはや齢《よわい》五十である。知命の年になって迷いの海に漂っているようでは、大事を成し遂げられるはずがないのである。
(ああ、上総介。そなたなら出来る。そなたにしか出来ぬ)
信長の若さが、久秀には焼けつくほどに妬ましかった。
近衛前嗣が近江坂本の長尾景虎の本陣を訪ねたのは、永禄二年(一五五九)六月十二日のことだった。
景虎が坂本の旅籠《はたご》に本陣を据《す》えてから、すでに二ヵ月ちかくが過ぎている。重臣たちは近くの寺に分宿していたが、下級の将兵は本陣の周囲に小屋掛けをして雨露をしのいでいた。
何しろ五千の軍勢だけに、街道ぞいや琵琶《びわ》湖ぞいの浜には、数百の小屋がびっしりと建ち並んでいた。
万一敵に攻められても防戦できるように、小屋はすべて景虎の本陣を守る形に作られている。
伝令が通りやすいように通路を確保し、小屋の板屋根や戸板には所属の隊と氏名が大書してあった。
まるで本陣を本丸と見たてて城を築いたような布陣である。
しかも滞陣が長びいているにもかかわらず、将兵たちの規律は少しも乱れていない。遊女や博徒などの立ち入りを禁じ、糞尿《ふんによう》や残飯の始末も行き届いている。
景虎の厳格な気性を知悉《ちしつ》しているだけに、将兵たちも軍律を厳重に守っているのだ。
長尾軍の強さの秘密は、景虎の類《たぐい》まれな統率力にあると言っても過言ではなかった。
旅籠の周囲にめぐらされた二重の柵《さく》には、冠木門《かぶきもん》が設けられ、物具《もののぐ》姿の兵が警固に当たっていた。
門の両側には紺地に日の丸を描いた旗指物《はたさしもの》が、十数流れも立ててあった。
旅籠の中庭には幔幕《まんまく》が張られ、景虎の本陣であることを示す日の丸の軍旗が誇らし気にかかげてある。
幔幕を通り抜けると狭い中庭があり、額《がく》紫陽花《あじさい》が四弁の可憐《かれん》な花をつけていた。物々しい本陣の中だけに、紫色の清楚《せいそ》な花はひときわ印象的である。
夏もなほ心はつきぬあぢさゐの
よひらの露に月も澄みけり
そんな歌を思い出し、前嗣はしばらく花の前でたたずんでいた。
景虎は生絹《すずし》の小袖に麻袴《あさばかま》という姿で、文机に向かっていた。
「こちらの暑さは、雪国育ちの拙子《せつし》にはいささか難敵でござる。かような姿でご無礼つかまつる」
景虎が姿勢を改めて迎えた。
薄い生絹の小袖から、真っ白な肌が透けて見える。|童の《わらわ》ように丸みをおびた柔らかそうな体付きである。
前嗣はふと、この男は衆道の性向があるのではないかと思った。
戦国武将が戦陣に男色の相手を帯同するのは、この時代の常識である。だが景虎には、陰間《かげま》のように男に抱かれる好みがあるのではないか。
そんな疑いの目で見れば、髭の剃《そ》り跡の青々とした下ぶくれの顔も、女のような鳩胸《はとむね》も、何やらなまめいている。
七歳の時から寺に入ったのなら、稚児として坊主どもの相手をさせられたこともあろうし、三十歳になるまで不犯《ふぼん》と称して女子を寄せつけないのも何やら不自然である。
だが、たとえそうであったとしても、特異な目で見るような了見の狭さは前嗣にはなかった。
『源氏物語』を見るがいい。『伊勢物語』を見るがいい。人にはあらゆる性愛に走る可能性があり、それこそが人間の魂の豊かさの表れでもあるのだ。
前嗣には子供の頃から培ってきた教養があるだけに、人間に対する尋常一様ならざる理解の深さがあった。
文机の上には、二冊の書物が開いてある。
一冊は近衛家に秘蔵している『詠歌大概《えいがのたいがい》』で、稙家が貸し与えたものだ。もう一冊は写本のようだが、前嗣には見覚えがなかった。
「さっそく歌学に勤《いそ》しんでおるようだな」
「太閤《たいこう》さまより、折々ご教授いただいておりまする」
「詠歌大概はどうじゃ。少しは役に立ちそうか」
「この暑さと同様、拙子にはいささか難敵でござる」
景虎が生真面目に答えた。
『詠歌大概』は、歌道の神様とたたえられた藤原|定家《さだいえ》が記した歌論書である。
定家は詠歌の基本として、
〈情(構想)は新しきをもって先となし、詞《ことば》は旧《ふる》きをもって用うべし。風体(歌の姿)は先達の秀歌を堪能《たんのう》いたすべし〉
と説き、本歌取りの手法を詳細に解説している。
だが、変体漢文で記されているだけに、景虎には読み下すのが難しいようだった。
「もう一巻も歌論書か」
「これは中書聞書というものでござる」
景虎が『古今集聞書』と表書きされた綴《つづ》り本を差し出した。裏には「三条西|実隆《さねたか》より同公条へ一子相伝」と記されている。
「三条西公が、これを?」
「さよう。拙子が歌道に打ち込んでいると知って、わざわざ届けて下されたのでござる」
和歌の家元である三条西家は、定家より伝わったという古今伝授を秘蔵していた。『古今和歌集』の読み方や解釈についての奥義を伝えたものだ。
古今伝授を受け継いでいることが和歌の宗家としての絶対条件とされているだけに、三条西家ではこの秘伝を門外不出、一子相伝として、自家の権威づけをはかってきたのである。
朝廷や公家たちにとって、和歌は単なる詩歌ではない。八百万《やおよろず》の神々と交感することによって生み出す言霊《ことだま》だった。
そう考えられていたことは、『古今和歌集』の序文に次のように記されていることからも明らかである。
〈力をも入れずして天地《あめつち》を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男《をとこ》女の中をもやはらげ、猛《たけ》きもののふの心をも慰むるは歌なり。
この歌、天地のひらけ初まりける時より出できにけり〉
天皇や朝廷の役目は神々に礼を尽くし、神々の恩恵によって地上の民を安らけく保つことである。
だとするなら、神々と交感する業である和歌を善くすることは、神々と共にあることの証《あかし》であるだけに、古今伝授の価値ははかり知れないほど大きかった。
古今伝授はすべて口伝で行われる。『古今和歌集』の歌について師が語ることを、弟子はその場で書き止め、「当座聞書」というノートを作る。
このノートを家に持ち帰り、師の教えを思い出しながら「中書聞書」という清書したノートを作り上げ、師に添削をしてもらう。
こうして完全なノートが出来上がったなら、伝授の第一段階が終了し、切紙伝授と呼ばれる秘伝の伝授へと移る。
三条西公条が景虎に持参した「中書聞書」は、公条が実隆から伝授を受けた時のものだった。
(あのご老人、早まったことを)
前嗣は腹の中で舌打ちをした。
景虎に青苧《あおそ》座の公事銭《くじせん》を納入するよう働きかけてくれと、公条から頼まれている。だが都の政情が悪化する一方だけに、前嗣はそのような要求をして景虎の心証を害することをはばかってきた。
いつまでも話が進まぬことに焦《じ》れた公条は、古今伝授と引き替えに公事銭の納入を求めたにちがいなかった。
「和歌の道とは、何とも不可解なものでござるな」
景虎は「中書聞書」を文机の上にほうり投げた。
「三条西公は何か申しておられたか」
「お望みとあらば古今伝授をいたすゆえ、青苧座のことについてよしなにと」
「公事銭のことだな」
「関白どのにも口添えを願ったが、なかなか埒《らち》があかぬゆえ、推参したと申しておられました」
「確かに聞いてはおるが、ご即位の礼が終わるまで待つようにと申し付けた。直に来るとは不都合なことだ」
「拙子もそろそろ、国に戻ろうかと思うておりまする」
景虎が腹立たしげに吐き捨てた。
「ご即位の礼の日取りも決まらぬようでは、都に長居は無用でござる。それに甲斐の武田が、拙子の留守を狙《ねら》って川中島に兵を進めたとの注進がござった」
五月五日の陣定で即位の礼の決定が先延ばしにされて以来、前嗣らは次々に政治的な敗北を重ねていた。
五月七日、尾張の織田信長が、前嗣には一言の挨拶もなしに清洲へと引き上げた。
回答の期限である八日には、幕府内の調整がつかないのであと三日待ってほしいとの申し入れが義輝からあった。
三好長慶と斎藤義竜の争いが激化したためで、これを怒った義竜は五月十日に三千の兵をひきいて美濃に引き上げた。
しかも五月十二日には、長慶自身が河内の安見直政を討つためと称して摂津の芥川城に引き上げてしまったのである。
前嗣は一刻も早く即位の礼の日取りを決め、初めの計略に立ち戻って長慶を討つべきだと主張したが、義輝は長慶との協調路線を捨てようとはしなかった。
すぐにも帰洛するという長慶の言葉にまどわされ、三日五日と日延べをくり返し、ついにひと月以上が過ぎたのである。
この間に、甲斐の武田晴信がいち早く造反した。
即位の礼の警固を名目とした義輝の停戦命令は崩れたと見て、北|信濃《しなの》に兵を進めたのである。
景虎が留守の間に川中島を制し、飯山城を攻略して、越後進出の足がかりを固めようとしたのだ。
こうした状況にありながら、景虎はじっと耐えていた。五千の兵を坂本に留めたまま、即位の礼が行われる日を待っていたが、その我慢ももはや限界に達していた。
「帰国の噂は、都にも伝わっておる」
前嗣は景虎をじっと見据え、中庭の紫陽花《あじさい》へと目を移した。
背後の山で、しきりに老い鶯《うぐいす》が鳴いている。
前嗣は黙り込んだままだった。
景虎は帰国という切り札を出して、現状の打開を迫っている。これをあわてて引き止めるようでは、交渉というものは負けである。
どっしりと腰を据え、こちらにも覚悟があると見せることが肝要だった。
景虎も腹のすわった静かな目をして返答を待っている。
部屋の空気はにわかに張り詰め、老い鶯の声だけがか細くつづいていた。
「鶯といえば、古今集にも名歌が多い」
前嗣は話の糸口をそちらに求めた。
「鶯の去年《こぞ》のやどりの古巣とや、われには人のつれなかるらむ。何やら今の私の気持ちに似てるな」
「ならば拙子は、鶯の鳴く野辺ごとに来て見れば、うつろふ花に風ぞ吹きける。そんな心境でござる」
「確かにそうだ。都はうつろっている」
前嗣は声を上げて笑った。
景虎もつられて笑い、緊張の糸が急にゆるんだ。
「鶯の鳴く野辺ごとに来たとあらば、このままでは国へは帰れまい」
「さよう。帰れませぬ」
「関東管領職就任については、私が責任をもって取り計らう。ご即位の礼も早々に行えるよう、義輝とかけ合ってみる。それゆえ今しばらく帰国を延ばしてはもらえまいか」
「武田晴信は仁義信を知らぬ虎狼《ころう》のごとき武将でござる。その毒牙《どくが》が我が領民に迫っているからには、これ以上何の当てもなく日を過ごすわけには参り申さぬ」
「もし義輝がご即位の礼を早々に行えぬというのなら、私はそなたの管領職就任に立ち合うために越後へ下向する」
「関白ご在職のままでござるか」
「そうだ。関白が立ち合ってこそ、新管領の威名も天下に轟《とどろ》くことになろう」
「あ、有難き幸せではござるが……」
景虎は半信半疑だった。
関白が管領職就任の式に立ち合ってくれるのなら、これ以上の名誉はない。景虎の上杉家相続に反対している輩《やから》の口を封じられるばかりか、関東の諸将にも顔が立つ。
だが、関白が遠国に下向するなど前例がないだけに、そんなことが本当に出来るとは信じられないのである。
「どうした。私では不足か」
「滅相もござらぬ。されど、あまりに突飛なお申し出ゆえ」
景虎は顔を上気させ、首筋に大粒の汗をかいていた。
「ならば、この場で起請文をしたためよう。料紙と矢立てを拝借したい」
料紙は熊野大社の牛王《ごおう》宝印紙だった。
烏《からす》を刻印した護符で、本来は降魔《ごうま》、厄除けのお守りとするものだが、南北朝時代以後起請文の料紙として使われるようになっていた。
筆は景虎愛用のものである。
前嗣は文机の上に料紙を広げると、筆を真っ直ぐに立ててよどみなく走らせた。
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「一、今度、長尾一筋に頼み入り、遠国へ下向の事、いささかも偽りあるべからず候事。
一、少弼《しようひつ》進退同前に成り申し、別心あるべからず候事。
一、密事他言あるべからざる事。
一、自然、在京中にも頼まるる事候わば、才覚の及ぶだけをば一筋に疎意なく馳走せしむべき事。
一、もし又後々中説など申す事候わば、不審せしむべき事はその方の耳に入れ、承るべく候事。
一、心中にさえ疎略なきにおいては、自然、不礼の段、遺恨あるべからざる事。
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右の条々あい背くにおいては、上は梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》四大天王、総じて日本国六十余州大小の神祇《じんぎ》の罰を罷《こうむ》るものなり。
よって神文|件《くだん》の如し」
第二条の少弼とは、従五位下弾正少弼である景虎のことだ。
今度長尾一筋に頼み入りと記したところに、前嗣の並々ならぬ覚悟と決意があった。
「これで得心してくれるか」
墨が乾くのを待って景虎に示した。
関白たる者が臣下に起請文を書くとは、前代未聞のことである。
これだけの誠意を示されれば、古い権威に心酔している景虎が感激しないわけがなかった。
「聞きしに勝る、見事な筆でございまするな」
景虎は条文以上に筆跡の美しさに感嘆している。そういう嗜好《しこう》の男なのだ。
「第二条に異存はあるまいな」
「ございませぬ」
「ならば連署して血判を押す。これで我らは一味同心の間柄だ」
前嗣は料紙に署名し、用意の脇差《わきざ》しを用いて血判を押した。
ここまで事を運ばなければ現状を打開することは出来ぬ。都を出る時からそう決意していた。
「かたじけのうござる。もったいのうござる」
景虎は鮮やかな血の色を見て目を潤ませた。戦神の化身と怖れられた男が、感動のあまり手放しで涙を流している。
「景虎|生涯《しようがい》の面目にござる。上洛の苦労が、これにて報われました」
大きな手で涙をぬぐい、起請文をうやうやしく押しいただいた。
翌日、前嗣は二条御所に足利義輝を訪ねた。
義輝は御所の中庭で弓を引いていた。
真夏の太陽が頭上から照りつけ、庭は白っぽく乾いている。新築成ったばかりの御所は、むせるような木の香りに包まれていた。
義輝は前嗣が御殿に入っても、弓を止めようとはしなかった。片肌脱ぎになったまま的を見据え、ぎりぎりと弓を引き絞って矢を放つ。
剣術の修行で鍛え抜いているだけに、肩も胸も二の腕もしなやかな若々しい筋肉におおわれている。
たくましい腕から放たれた矢は、地をはうように真っ直ぐに飛び、的の黒点にすぱりと突き立った。
武芸の器量は並はずれて優れた男である。もし一対一で戦ったなら、長尾景虎も織田信長も足元にも及ぶまい。
どうにか互角に戦えるのは、なみいる戦国大名の中でも美濃の巨漢斎藤義竜くらいのものだろう。
前嗣はそんなことを考えながら、黙って義輝の弓術に見入っていた。
「御所さま、そろそろ」
近侍して矢を渡していた細川藤孝が、御殿に上がるようにうながした。
「二十四射が日課じゃ、まだ矢が残っておる」
義輝は御殿にまで聞こえるように声を張り上げた。前嗣との対面を嫌がっていることは明らかである。
「あと何本残っているのかね」
前嗣は扇を広げ、のんびりと胸元をあおいだ。
「七射だ」
「弓というものは、余程意識を集中しなければ当たらぬと聞いたが、本当かね」
「弓は形だ。形さえ出来ていれば当たる」
義輝はそれを証明するように矢を放った。真っ直ぐに伸びた姿勢からくり出された矢は、誤またずに黒点を射抜いた。
「ならば、弓を射ながら聞いてくれ。私も暇をもて余しているわけではないのでね」
「長尾のことか」
「昨日坂本の本陣を訪ねて、帰国するという噂が事実かどうか確かめてきた」
「それで」
義輝は矢をつがえ、肘《ひじ》を張って弓を引き絞った。肩にも胸にも、玉のような汗を浮かべている。
「噂は事実だったよ。甲斐の武田が将軍の命に背き、北信濃に兵を進めたという」
「そのことなら、私も聞いている」
「北信濃を奪われたなら、春日山城さえ危うくなる。景虎が帰国したがるのも無理はあるまい」
「それも、私のせいだと言いたいようだな」
義輝が矢を放った。矢は影さえ立たぬ走さで飛び、黒点に突き立った。
「どうやらまだ、事態を直視する冷静さだけはあるようだな」
義輝が公家風だと嫌がる物言いを、前嗣は無意識にしてしまう。
「三好筑前は高屋城攻めの陣立てを終え、十五日には上洛すると知らせてきた。これ以上ご即位の礼が延びることはない」
「そなたとは幼い頃からの付き合いだが、これほどお人好しだとは思わなかった。何度同じ手で欺《あざむ》かれれば目が覚めるのだ」
「このひと月ばかり、思いがけないことが多過ぎたのだ。筑前守が意図的に欺いたわけではない」
「景虎の帰国を止める方法はひとつしかない。今すぐ三好家と手を切り、ご即位の礼を行うことだ。五千の越後勢が在京している間なら、計略を立て直すことが出来る」
「私の考えが変わらぬことは、前嗣にも分かっているはずだ。その時にそなえて、すでに手を打ってきたのであろう」
「ああ、打ってきた」
「聞かせてもらおうか」
「このような起請文を、景虎とかわしてきた」
起請文を膝の前に置いて見に来させようとしたが、義輝は残りの矢を放ち終えるまで止めようとはしなかった。
「拝見する」
弓を終えゆっくりと汗をぬぐってから、義輝は起請文に目を通した。一読し再読し、不満気に前嗣を見やった。
「これは、どういうことだ」
「景虎は関東管領職を望んでいる。義輝がこれ以上ご即位の礼を延ばすつもりなら、私は景虎とともに越後に下り、管領就任の式に立ち合う。それ以外に景虎の労に報いる道はあるまい」
「分からぬな。何ゆえそのような無茶をするのだ」
「愚かな義弟を持った報いだろうな。そなたはやがて三好家と反目し、再び朽木谷に隠れ住む身となろう。その頃には、私は景虎とともに関東を制圧し、十万の坂東《ばんどう》武者をひきいて将軍家の窮地を救いに来るつもりだ」
「それは、長尾も同意か」
義輝は首筋に浮かんだ汗をせわしなくぬぐった。
「密事他言あるべからずだ。口外するわけにはいかぬ」
「遠大な志は結構なことだが、長尾には武田晴信という宿敵がいる。関東制圧などとても望めまい」
「ならば三好と手を切ってくれ。このままでは、幕府が立ち行かなくなることは目に見えている」
「三好筑前に幕府に背く考えはない。手を切るわけにはいかぬ」
「ならば今日から別々の道を行くことになるが、それでもよいか」
そう迫りながら、前嗣は半年前の義輝と里子の婚礼の夜のことを思い出した。
「おのれが戒めを破ったからには、祝言《しゆうげん》をあげた二人に呪いがかかることになろう。おのれの娘とその将軍が、紅蓮《ぐれん》の炎に包まれて果てるのを見ながら、犯した罪の深さを思い知るがよい」
采女に乗り移った加奈子は、前嗣の父稙家に向かってそう叫んだのである。
聡明《そうめい》な義輝が、まるで理性から見離されたように三好長慶に頼ろうとするのは、加奈子の呪いのせいではないのか……。
「やむを得まい。餞別《せんべつ》がわりに渡す物があるゆえ、しばらく待て」
義輝は政所《まんどころ》のある表御殿にもどり、一通の書状をしたためてきた。
長尾景虎にあてた御内書である。
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「一、裏書の事、免ずるの条、分別を加え、その旨を存ずべく候。
一、塗興免ずるの条、その旨を存ずべく候。
一、関東五郎進退の事、向後の儀、景虎分別をもって意見せしめ、馳走肝要に候。
一、甲・越一和の事、晴信に対し度々下知を加うるといえども、同心なく、結局、分国境目に至り乱入の由、是非なく候。しかれば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由候間、始末につき景虎意見を加うべき段、肝要に候」
[#ここで字下げ終わり]
第三条の関東五郎とは、関東管領上杉憲政のことである。
他の大名との兼ね合いもあるだけに、義輝としては景虎の上杉家相続を許すとは記せない。だが進退について任せるということは、相続を認めたも同然だった。
この一条によって、長尾景虎が上杉謙信へと栄達する道が開かれたのである。
第四条は、将軍の停戦命令に違反した武田晴信を幕府の敵と決めつけ、信濃国の処分について景虎に任せると明言したものだ。
景虎が武田晴信との戦を義のための戦であると主張する根拠は、この一文にあった。
[#改ページ]
第十三章 即位の礼
銀閣寺は一面の雪に閉ざされていた。
戦乱をくぐり抜けてきた東求《とうぐ》堂も、銀閣と呼ばれる観音堂も、庭石も築山も松の木も、綿雪に厚くおおわれている。
池の面だけが灰色の空を映したまま、鏡のように鎮まっていた。
永禄三年(一五六〇)は元旦から雪になり、三日四日と降りつづいた。五日からようやく晴れたものの、九日十日と大雪になり、厳しい寒さがつづいている。
近衛|前嗣《さきつぐ》にとっては待望の季節の到来である。純白の雪も身を切るような冷たさも、子供の頃から慣れ親しんだものだ。
雪の|朝に《あした》は禊《みそぎ》をするような清冽《せいれつ》な気配があるだけに、花の春や紅葉の秋よりはるかに心地がいいほどである。
だが、この年の雪を見る前嗣の心は沈んでいた。
雪を踏んで歩き回る気力も、雪山を作らせようとする興趣もわいて来ない。東求堂にこもったまま、日一日と無為に過ごすばかりだった。
足利義輝が即位の礼の挙行に応じないのなら、長尾景虎とともに越後に下向しようとした前嗣だったが、この計略はもろくも崩れ去った。
事情をお聞きになった正親町《おおぎまち》天皇が、即位の礼が済むまでは下向してはならぬとお命じになったからだ。
この大事な時期に関白が都を離れることは、朕《ちん》に対する背信であるとまで明言されただけに、前嗣も断腸の思いで下向を断念せざるを得なかった。
景虎は十月初めまで坂本に留まって政情の好転を待ったが、即位の礼の実現を見ぬまま都を発ち、十月二十六日に越後の春日山城に帰城したのである。
前嗣は再び失敗した。
二年前に本願寺や毛利|元就《もとなり》と結んで義輝の上洛戦を仕掛けた時にも、松永久秀の策に敗れたが、今度もまた完膚なきまでに叩《たた》きのめされたのである。
しかも正親町天皇の勅勘《ちよつかん》をこうむっただけに、いかに関白とはいえのうのうと出仕することは出来ない。
長尾景虎が坂本を出発した翌日から、病気と称して東求堂に引きこもり、ひたすら謹慎の日々を過ごしていた。
その間に三好勢は、河内《かわち》の高屋城にこもっていた安見直政を敗走させ、河内から大和《やまと》まで兵を進めていた。
松永久秀が大和の信貴山《しぎさん》城に入城したのは、昨年の八月八日のことである。
久秀はここを拠点として、大和国を支配下に納めようとしていたが、これは摂関家に対する挑戦も同じことだった。
大和国は鎌倉時代以来、摂関家の氏寺である興福寺の所領とされていたからだ。
三好、松永のこうした狼藉《ろうぜき》に対して、朝廷から厳重な抗議がなされたが、義輝は三好家に命じて兵を引かせようとはしなかった。
三好|長慶《ながよし》との連係によって幕府を再建しようとしている義輝は、長慶に遠慮して朝廷からの抗議を伝えることが出来なかったのである。
こうした有様では、即位の礼が容易に進むはずがない。
十一月十六日に、十二月中に礼を挙行するという即位日時定めが行われたが、二十七日には義輝からの申し出によりまたまた延期になった。
〈廿七日。武家よりご即位の警固の事に、今年内は延べられてと申さるるにつきて、勧修寺《かじゆうじ》一位尹豊、日野の一位|資定《すけさだ》、中橋へ今宵召しておおせらるる〉(『お湯殿上の日記』)
近衛家が尚通《ひさみち》、稙家《たねいえ》、前嗣の三代にわたって模索してきた公武一体化政策を捨てた義輝は、三好長慶の言いなりとなり、都における政治的信用をいちじるしく失墜させていた。
そうした噂《うわさ》は東求堂にも届いていたが、前嗣はもはや関知しなかった。
それぞれ別の道を行くと決した以上、やむを得ぬ仕儀である。たとえこの先身を滅ぼすことになったとしても、義輝にも悔いはあるまい。
そう考えているからだが、先行きに対する懸念は大きかった。
「若、来客でっせ」
小豆坊《あずきぼう》が庭先にのそりと立った。脚絆《きやはん》を巻いた脛《すね》が、そっくり雪に埋まっていた。
「山科《やましな》卿がお目にかかりたいと申しておられます」
「ここに通してくれ」
「へえ」
「伊勢の采女《うねめ》から、連絡はないか」
小豆坊を呼び止めてたずねた。
采女は三月ほど前に、加奈子が呪詛《じゆそ》をした場所の手がかりを得たという文を送って以来、ぷつりと消息を絶っていた。
「何もあらしまへん。飛丸の奴《やつ》も帰って来よらんし、一体どないしたんでっしゃろな」
小豆坊は前かがみになって表門へ歩いていく。後ろ姿がどこか淋《さび》しげだった。
山科|言継《ときつぐ》は袴《はかま》の裾《すそ》をたくし上げて歩いてきた。足には大きな雪沓《ゆきぐつ》をはいている。
銀閣寺が雪に埋もれていることを見越した、言継らしい周到さだった。
「何やら嬉《うれ》しそうな歩きぶりだな」
前嗣は東求堂の縁側から声をかけた。
「そのように見えまするか」
「洛中《らくちゆう》に目出度《めでた》きことがあるとも思えぬが」
「ところが、そうではございませぬ」
言継は縁側に腰を下ろし、脱いだ雪沓を打ち合わせて雪を落とした。
「今夜礼服御覧が行われるとのことでございます」
「ご即位の礼の日時が定まったのか」
「今月の二十七日と定まりました。急ぎ出仕せよとのご下命がありましたゆえ、お迎えに参りました」
礼服御覧とは、帝《みかど》が典礼にのぞまれる前に礼服を下見されることである。
この席には主立った公卿《くぎよう》も列席し、礼服の仕上がりに落ち度がないかどうかを点検する。
正親町天皇が前嗣を呼ばれたのは、ご勘気《かんき》がとけたからにちがいなかった。
「しかし、警固はどうする」
「三好長慶が、明日上洛するとのことでございます」
「あれほど不都合を言い立てていた者が、何ゆえ急に上洛することになったのだ」
「義輝どののご苦心の賜物《たまもの》でございましょう」
義輝は上洛をうながすために三好長慶を相伴衆に列し、三管四職家と同等の地位を与えた。
また朝廷に奏して長慶を修理大夫《しゆりのだいぶ》に、嫡男《ちやくなん》義長を筑前|守《かみ》に任官したのだという。
「なるほど。最後の餌《えさ》を投げたというわけか」
「そのようなことを申されては、義輝どのが気の毒でございましょう。帝がご勘気をとかれたように、御家門さまももう少し寛容になって下されませ」
「寛容とは何かね。人が滅びの淵《ふち》に踏み込もうとするのを、手をこまねいて見ていることか」
「ご即位の礼が行えるのは、結構なことではございませぬか」
「私は義輝が変節したことを怒っているのだ。近衛家三代の苦心は水泡に帰し、私の面目も丸潰《まるつぶ》れとなった。それもこれも義輝が、土壇場で三好にしがみついたからだ。朝廷と三好を天秤《てんびん》にかけ、愚かにも三好を選び取ったのだ」
「表に車を待たせております。仕度をお急ぎ下され」
牛車は真新しい網代車《あじろぐるま》だった。
青くぬった表面に金色で八曜の紋が描かれ、入り口には赤い蘇芳《すおう》染めの簾《すだれ》をたらしてある。
軛《くびき》には若々しい黒牛がつながれ、左右に牛童が一人ずつ控えていた。
「このような車を、どこで手に入れたのだ」
「近衛家で新調されたものでございます。ご存知《ぞんじ》ありませんでしたか」
「知らぬ。しばらく館《やかた》にも戻っておらぬのでな」
二人は桟《はし》を上って中に入り、横に並んで座った。車は雪を踏んでゆっくりと動き出した。
「松永弾正はどうだ。近頃西園寺公のもとに出入りしている様子はないか」
「大和に打ち入って以来、信貴山城に留まっているとのことでございます」
「急にご即位の礼の警固に応じるとは、何か魂胆あってのこととしか思えぬ。心当たりはないか」
「あるいは朝廷に恩を売り、大和の領有を認めさせようとしているのかも知れませぬ」
(そうだろうか)
久秀は何か企《たくら》みがあって長慶の上洛に同意したのではないか。前嗣はそんな胸騒ぎを覚えたが、口にはしなかった。
(前嗣さま、お久しゅうございます)
突然、頭の中で声が聞こえた。
(あなたは……)
一瞬、祥子《よしこ》内親王ではないかと思った。
東求堂で祥子と交わって以来、前嗣は遠くにいても祥子と意を通じることが出来るようになった。人の心も読めるようになった。
だがそうした力を用いれば、こちらの意思がすべて祥子に筒抜けになるだけに、祥子の呼びかけにも心を閉ざして応じなくなっていた。
(采女でございます。お心をお開き下さいませ)
采女にも前嗣の心の動きが読めるらしい。
(今どこにおる。何ゆえこのようなことが出来るのじゃ)
(母君が呪詛をなされた場所が分かりました。母君の御魂《みたま》を降ろそうと、十日の間|洞《ほら》にこもって行を積んでいるうちに、こうした力が身についたのでございます)
(祥子さまも同じ業をなされる。母君の呪《のろ》いの力によるものであろう)
(わたくしは歩き巫女《みこ》でございます。母君の御魂を降ろしたなら、死口《しにくち》を使って母の言葉を伝えますゆえ、どうしたなら呪いを解くことが出来るのか……、聞いてやって下さいまし)
采女はかなり衰弱しているらしく、声は次第にか細くなった。
「采女、どうした」
前嗣は思わず声を出していた。
「お知り合いでも、通りましたか」
言継がきょとんとしてたずねた。
「いや、考えごとをしていただけだ」
前嗣は口元を押さえて言いつくろった。
(少し疲れているばかりです。ご案じ下されますな)
(そこはどこだ。飛丸も一緒か)
(二見の浦に近い岩山の中です。里の者が竜神《りゆうじん》さまと呼ぶ小さな祠《ほこら》で、母君は七日七夜の呪詛を行われたのです)
突然、前嗣の頭に祠の様子が浮かび上がった。采女が見たままの光景を、思念として送っているのだろう。
切り立った巨大な岩壁の間に、間口一|間《けん》ほどの小さな祠が建っている。前庭には巨大な
楠《くすのき》が枝をひろげてそびえ立ち、あたりに暗い影を落としていた。
大人二人が手を回しても届かぬほどの太い幹の中程に、しめ縄が巻かれている。しめ縄の下で、薄い影のようなものがうごめいていた。
前嗣は意識を集中して影を見極めようとした。途端にひどい吐き気と頭痛に襲われ、采女が送る思念さえ受け止められなくなった。
(あれが母君の死霊でございます)
ややあって、采女の哀しげな声がした。
(ご神木にまとわりついて、今も呪詛をつづけているのでございましょう)
(そちには見えるのか)
(いいえ。前嗣さまがご覧になったようにしか見えませぬ)
(吐き気や頭痛は?)
(少しはいたしますが、これを乗り越えて母君の死霊を見極めなければ……、御魂を降ろすことは出来ませぬゆえ)
(体は大事ないか)
(たとえ取り殺されたとしても、出来るだけのことはするつもりです。母君の怨念《おんねん》を解かなければ、祥子さまをお救い申し上げることも出来ないのですから)
(ご即位の礼まで、あと十二日だ。その間に何としてでも母君の言葉を伝えてくれ。鎮魂のためなら、どんなことでもするつもりだ)
(承知いたしました。前嗣さまも、どうぞお健やかに)
采女の声がすっと途切れ、前嗣は再び現実に引き戻された。
真新しい網代車は、牛に引かれて志賀街道を西に進んでいく。道端では子供たちが雪合戦に興じている。
物見の戸を開けると、吉田山が雪におおわれて白く盛り上がっていた。
清滝川も雪におおわれていた。
水量の少ない川に点々と並ぶ大小の石を、雪が綿帽子のように丸くおおっている。その間をぬって、水が一尺ばかりの幅で流れているばかりである。
都から雪の道を駆けてきた松永久秀は、踏み固められた雪道を通り、神護寺への参道を上りはじめた。
高雄山は紅葉の名所である。秋には燃えるような緋色《ひいろ》に包まれていた楓の枝も、今は重たげに雪をのせていた。
久秀はただ一人だった。供も護衛も連れず、編笠《あみがさ》に裁着袴《たつつけばかま》という出立《いでた》ちで黙々と歩きつづける。それが祥子内親王のもとに通う時の常となっていた。
大和の信貴山城から上洛したのは、一月十八日のことである。
興福寺の被官人である筒井順慶や十市遠勝《とおちとおかつ》らを攻め、大和一国を掌中にするのも目前となった時に、突然三好長慶から即位の礼のために上洛するとの知らせがあった。
驚いた久秀は、数百の手勢をひきいて後を追ってきた。
即位の礼の警固を思い止まらせるためだが、長慶は頑として応じなかった。将軍義輝の数々の厚遇に感激した長慶は、義輝とともに幕府を再建する肚《はら》を固めていたのである。
それが戦に倦《う》んだ家臣の総意でもあるだけに、久秀一人が異を唱えたところで、もはや大勢は動かしようもなかった。
それどころか、義輝と長慶のつながりが堅固になるにつれて、久秀の主張は軽視され、余計者と見なされるようになっていた。
久秀もひしひしとそれを感じている。だが三好家では新参者だけに、長慶の信任を失っては手の打ち様がなかった。
(いっそ二条御所を)
三千ばかりの手勢で急襲して、義輝を討ち取るか。何度かそう考えてみたこともあった。
義輝を討った後で三好幕府を開けと迫ったなら、長慶とて応じるのではないか……。
(いやいや、そうはいくまい)
久秀は参道を上りながら頭《かぶり》を振った。
近頃の両者の親密さは尋常ではない。長慶はまるで所を得た役者のように生き生きと義輝に仕え、義輝は長慶を信頼して何事も任せきっている。
そうすることが、武家というものが長年にわたって築き上げた正義にかなっているからだ。
義輝を討ってこの正義を真っ向からくつがえしたなら、長慶は久秀を逆賊として誅殺《ちゆうさつ》するにちがいなかった。
一月二十七日に即位の礼を行うと発表されたのは、昨日二十日のことだ。
(このことを祥子内親王に伝えたなら、何と申されるだろう)
そうした懸念が、今朝早く洛北の館を発《た》った時から胸に渦巻いていた。
正親町天皇に即位の礼をさせてはならぬと、祥子は常々口にしている。兄帝に対してそれほどまでに憎悪を燃やすのは、祥子の母が前帝に残した恨みの故である。
久秀にもその恨みが伝わっていた。
これまでは三好長慶を将軍とし、朝廷の力を排した幕府を作るために戦ってきた。
ところが高雄山の中腹にある岩場で祥子を抱きしめて以来、祥子の、いや祥子に乗り移った加奈子の呪いを果たすために戦うようになっている。
奇妙なことに、それが久秀の歓びとなっていた。
突然、頭上でけたたましい鳴き声がして、山鳥が羽音を立てて飛び去った。黒い翼が曇天を横切ったと見る間に、枝に積もった雪がはらはらと舞い落ちてくる。
その光景が、馴染《なじ》み深い幻影へと久秀をいざなった。
都から追われた母が、泣きながら歩いている。薄《すすき》の生い茂る荒野には、雪が横なぐりに舞い落ちている。
長い髪を風に吹き散らされて歩く母の背後で、あざけり笑う声がする。
内裏《だいり》の中から聞こえる声は、降りしきる雪よりも冷たく、吹きつける風よりも厳しく母の背中を打つ。
(母上……)
久秀は裸足《はだし》で歩く母の幻影を目の前に見ながら、小走りに参道を上りつづけた。
神護寺の境内は、一段と深い雪におおわれていた。
久秀は老女の案内も乞《こ》わずに金堂に上がり、上段の間の黒い御簾《みす》の前で平伏した。
「一昨日、大和より帰参いたしました。ご壮健のご様子、祝着に存じまする」
御簾の奥をうかがい見ることは出来なかったが、今日の祥子は白|小袖《こそで》を着ているので、ぼんやりと姿が浮き上がっていた。
「ご即位の日時定めがあったようですね」
「来る二十七日と定まりました」
「それは、結構なことでした」
祥子の声はいつにも増して冷ややかである。
「三好筑前守が将軍と同意ゆえ、やむなき仕儀と相なりました」
「筑前ではござるまい。修理大夫でございましょう」
三好長慶は正月早々に従四位下修理大夫に任じられている。祥子は金堂にいながら、そんなことまで見通していた。
「今や殿は、将軍と一心同体でございます」
「だからと言うて、二条御所を襲ったりしてはなりませぬ」
「…………」
「そのようなことを致さば、修理大夫はそなたを誅し、新たな足利将軍を立てるばかりです」
祥子は久秀の心までも見通している。遠くから語りかけられた事は度々あったが、心の中まで読まれているとは思ってもいなかった。
(なるほど、それゆえ)
近衛前嗣の計略を、先手先手と読むことが出来たのだ。さすればやはり前嗣とも交わったのかと、久秀はかすかな妬心《としん》を覚えた。
「何ゆえ妬《そね》み心など持つのですか」
御簾の奥から素早い反応があった。
「桜の花の下で御身に接して以来、ささいなことが気にかかるのです」
「ならばわたくしのために、身命を賭《と》して働きなさい。ご即位の礼では、面白い余興が見られましょう」
「何をすれば良いのでしょうか」
「これ」
袖に向かって声をかけると、御簾がくるくると巻き上げられた。祥子は白小袖に赤袴《あかばかま》という巫女の出立ちである。
垂れ髪に白いはち巻きを当て、額には鮮やかな朱色の花鈿《かでん》をほどこしている。
眉《まゆ》を半ばまで剃《そ》り落とし、まぶたを赤く彩っていた。
「わたくしはこれより護摩壇を立て、七日七夜の修法をいたします。その間、この金堂に誰一人近付けてはなりませぬ」
祥子が鈴を片手に舞い始めた。
あるかなきかの鈴の音とともに、ゆっくりと右に回る。その動きが速くなるにつれて、祥子の形相も夜叉《やしや》の険しさへと変わっていった。
すると、どうだろう。
どこからか黒い影が舞い込み、祥子の袖にからみつくようにしながら共に舞い始めたではないか。
それは風になびく母の髪のようでもあり、都に未練を残して逝った女たちの死霊のようでもあった。
(そのような者どもを従えて、一体何をなされるというのです)
久秀は意志だけで語りかけた。
(…………)
返答があったが聞き取れない。いや、聞こえはしたが信じられなかった。
(そなたが長年望んだことではないか。今さら何をためらうのじゃ)
(しかし、帝を……)
(そなたはわらわに従っておればよい。ここに来よ。この者たちと共に舞うのじゃ)
その誘いに、久秀はふらふらと立ち上がった。
即位の礼の二日前、一月二十五日の寅《とら》の一刻(午前四時)、正親町天皇は建礼門にお出ましになり、天地四方の大祓《おおはらえ》を行われた。
翌日の同刻、同じく建礼門にお出ましになり、ご即位のあるべき由を伊勢神宮に報告するための奉幣使《ほうへいし》をつかわされた。
由《よし》の奉幣という。
垂仁天皇の頃、朝廷は天照大御神のお申し付けにそむき、ご神体の八咫鏡《やたのかがみ》を伊勢へと移した。
「ともに床を同じくし殿をともにして、斎鏡《いわいのかがみ》とすべし」
と命じられていたにもかかわらず、倭姫命《やまとのひめのみこと》一人にご神体を背負わせて、伊勢の地に祀《まつ》らせた。
それ以来、新しく帝が即位される時には、真っ先に伊勢神宮に奉幣使を送るのが常となっていた。
冠と束帯を召された帝は、建礼門の内側にすえた高御座《たかみくら》におつきになり、諸司が門外に控えている。
あたりは真っ暗で、高御座の左右に置かれたかがり火が、厚く降り積もった雪を朱色に照らしている。
北から吹き付ける風は身を切るような冷たさだが、公家たちは身じろぎもせずに整然と列をなしていた。
関白近衛前嗣は、その最前列にいた。いきさつはどうあれ、ようやく即位の礼の実現にこぎつけたのだ。
(明日の礼典を終えたなら、雪解けを待って越後に下る)
心は早、長尾景虎とともに駆け回るはずの関東の野へと飛んでいた。
寅の一刻の鐘が鳴ると、前嗣はただ一人高御座の前に進み出て、帝から伊勢神宮への奉書を受け取った。
それを奉幣使である誠仁《さねひと》親王へと受け渡す。
すでに皇太子となられている親王をつかわされるのは、異例のことだった。
(帝はそれほど、古式を復さんとのお志を強くしておられるのだ)
雪明かりの道を伊勢へと旅立っていく親王の一行を見送りながら、公家たちは一様に身の引き締まる思いをしていた。
次に先祖の山陵《みささぎ》にも、即位の奉告がなされる。
どの先祖の山陵に奉告するかは帝の判断にゆだねられているが、聖代とあおがれた天智《てんじ》、桓武《かんむ》、嵯峨《さが》、仁明《にんみよう》、 文徳《もんとく》、醍醐《だいご》、村上《むらかみ》の七代には必ず奉告するのが慣例となっていた。
前嗣は帝から奉書を受け取り、一人一人の勅使に手渡していく。
と、突然、頭の中で采女の声がした。
(前嗣さま、よろしゅうございますか)
(取り込み中だが、急ぎの用か)
前嗣は目の前の光景を思念によって采女に送った。
(これは……、ご無礼をいたしました)
思念の中でもそれと分かるほど、采女はうろたえていた。
そうだろう。由の奉幣は、帝が即位に当たって伊勢神宮にご報告をなされる重要な儀式である。伊勢神宮を本所とする歩き巫女にとって、神聖にして侵すべからざるものなのだ。
(急ぎの用なら、是非もない。つづけるがよい)
(母君の御魂は、内親王さまに降りております)
(祥子さまが、望まれてのことか)
(分かりませぬ。ただ、母君の怨念と内親王さまの天与の力が合わさって、恐ろしき呪詛《じゆそ》の渦を巻き起こしているのが感じられるのでございます)
(それは、どういうことだ)
(おそらく内親王さまは、母君の死霊に操られるまま、七日七夜の呪法《じゆほう》を修されているのでございましょう)
(何を呪われる。誰に害をなそうというのだ)
(今はそれも分かりませぬ。ただ、呪詛の力は日に日に強まり、明日満願を迎えるはずでございます)
(ご即位の礼に、何事かが起こるというのか)
采女と問答しながらも、前嗣は先祖の山陵への帝の奉書を受け取り、勅使へと手渡していた。
頭は采女との問答で一杯で、心はこの場にない。奉書の受け渡しという重要な仕事が、心ならずも形だけのものとなっていた。
そのことを、帝はいち早くお察しになったのだろう。七代の帝の山陵《みささぎ》への奉書を終えて八通目をお渡しになる時、前嗣の目の奥を真っ直ぐにご覧になった。
御歳四十四になられる英邁《えいまい》の誉れ高い帝である。
表情はあくまでおだやかだが、ご双眼には不敬を許さぬ厳しさがあった。
前嗣は鋭い針で胸を貫かれたような痛みを覚え、冷汗三斗《れいかんさんと》の思いをしながら奉書に目を落とした。
奉書の表には、第八十二代とだけ記してある。
鎌倉幕府を倒そうとして承久《じようきゆう》の乱を起こした後鳥羽《ごとば》天皇の山陵に向けたものだ。
七代の帝の次には、先代の帝の山陵へ奉書を送るのが通例である。正親町帝はあえてその例を破り、流罪先の隠岐《おき》で薨去《こうきよ》された後鳥羽帝を重んじられたのだ。
(この意味が、関白には分かるか)
帝の目がそう問いかけている。
むろん前嗣にも、帝のご意志は充分に分かった。父帝である後奈良天皇を敬しないということだ。
世が麻の如く乱れ、朝廷が衰微をきわめていたこともあって、先帝には何ひとつ帝らしい功績がない。
しかも生前から、父子の中は良好とは言い難かった。
(朕《ちん》が父君を敬せぬのは、その故ばかりではない。父君が神々に非礼をなされたからだ)
帝が前嗣の心を読んで思念を送られた。
先帝が渡海家の加奈子に恋し、双子を生《な》されたことをご存知だったのである。
伊勢神宮に奉仕する義務を負う娘を我が物にするとは、神への供物《くもつ》を横取りするも同じである。あらゆる形の恋に寛容な朝廷においても、これだけは絶対に許されない行為だった。
その先帝に、前嗣は厚い信任を受けてきた。弱冠十九歳で関白、左大臣まで昇進できたのも、先帝のご推挙があったからである。
また吐血して急逝なされた時には、いまわの際に前嗣を呼んで後事を託された。
神々への非礼をわび、朝廷を古《いにしえ》の姿に復してくれと、前嗣の手を取って苦しい息の下から訴えられた。
そのご胸中は察するに余りあるだけに、正親町帝がこれほど峻烈《しゆんれつ》に先帝を拒まれることに強い衝撃を受けていた。
九通目の奉書には、第九十六代と記されていた。
鎌倉幕府を倒し、建武の親政を成し遂げた後醍醐天皇の山陵に向けたものだ。
後醍醐帝は、楠木|正成《まさしげ》や赤松|円心《えんしん》ら悪党と呼ばれた土豪の協力を得て幕府を倒し、朝廷中心の御世を作られたが、武家の後押しを得た足利尊氏の叛乱《はんらん》によって、新体制はわずか三年で崩壊した。
だが後醍醐帝は吉野山に本拠を移し、山の民や海の民、道々の輩《ともがら》と呼ばれる流浪民など、武家政権の埒外《らちがい》に置かれた者たちに呼びかけて、あくまで朝廷の復権を成し遂げようとなされたのである。
正親町天皇が即位に当たり、聖王七代のつぎに後鳥羽、後醍醐両帝の山陵へ勅使をつかわされることには、重大な意味があった。
ご自身の御世に武家政権を倒し、朝廷の復権を成し遂げてみせるという決意の表明に他ならなかった。
(前嗣よ。朕の胸中が分かるかね)
真っ直ぐに目を合わせたまま帝はお訊《たず》ねになる。
(有難きご決断と、推察申し上げまする)
(ならば関白も、朕の力になってくれような)
(朝家の復興こそ、近衛家重代の悲願にございます。この日が来ることを、長年待ちわびておりました)
前嗣は深々と一礼して御前を辞し、吉野への奉書を勅使に手渡した。
由の奉幣が終わると、清涼殿に三位以上の公卿を集めて祝いの盃事《さかずきごと》が行われる。
前嗣は一面の雪におおわれた南庭を歩いて建礼門から清涼殿へと向かいながら、思念を送って采女を呼んだ。
(ご奉幣は終わった。話をつづけてくれ)
(まことに……、ご無礼をいたしました)
さっきは気付かなかったが、采女の声は弱々しく苦しげである。母の御魂を降ろす修法に、精も根も尽き果てているようだ。
(ご即位の礼に、祥子さまはどのような呪いをかけておられるのだ)
(わたくしには、それを突き止めるほどの力はございませぬ。ただ……、ただ一心に念じて……、母君さまの御魂を、この身に降ろすばかりでございます)
(祥子さまは、どこで修法を行っておられる。それも分からぬか)
(申しわけ、ございませぬ)
(分かった。祥子さまのことは、この私が何とかする。そなたは、母君のことだけに打ち込んでくれ)
事は一刻を争う。前嗣は盃事を早々に切り上げ、立売《たちゆうり》町の近衛邸に戻った。
近衛邸の庭には、しだれ桜の老木があった。
近衛のしだれ桜と呼ばれ、『洛中洛外図』にも描かれたほど見事な一木だった。
八百年にわたる都の歴史を見つづけ、先の大火にも焼け残った老い桜も、今は白く雪をかぶっている。
前嗣は屋敷に戻るなり束帯を脱ぎ捨て、白|小袖《こそで》一枚になって老木の下に立った。
しだれ桜の枝の一本一本が、厳しい寒さに凍りついている。だが、その間にも老木は静かに春の芽吹きの仕度を整えている。
萌《も》えたつ春の華やかさは、厳寒の冬にこそ用意されているのだ。
朝廷とて同じである。たとえいかに苦難の時代を迎えようとも、神事を司る者としての大義を失わなければ、必ず芽吹きの時代が巡ってくる。
この国の諸人が神々への崇敬の念を失わない限り、朝権は不死鳥の如く復活し、人々の心の支えとなりつづけるであろう。
前嗣はそうした確信を胸に秘め、池のほとりで水垢離《みずごり》を始めた。薄氷の張る池から手桶《ておけ》で水をくみ、肩口にそそぎかける。
雪を踏んで片膝《かたひざ》立ちになり、身を切るように冷たい水を何度となくあびながら、一心に神々に祈りつづけた。
(祓《はら》いたまえ、清めたまえ。我に力を与えたまわんことを願うものなり)
前嗣は瓊々杵尊《ににぎのみこと》とともに高天原から天下ってきた天児屋根命《あまのこやねのみこと》の子孫である。天照大御神より、朝家を補佐せよと命じられた者だ。
もしそれが真実なら、朝家を救わんと願う前嗣の一念は、必ず神々のご照覧にあずかるはずだった。
四半刻《しはんとき》ほど水垢離をつづけると、体はむしろ温かみをおびてくる。前嗣は清冽の気が五体に満ちわたるのを待って、狩衣《かりぎぬ》に着替えて書院にこもった。
文机の引き出しを開けると、音無しが油紙に包んで納めてある。
前嗣は二本の筒に早合《はやごう》を落とし込み、火挟《ひばさ》みを上げて縄に火を点じた。
いつでも撃てる状態にして書見台の上に置くと、部屋の中央に端座して行に入った。
祥子内親王がどこで、どんな呪法を行っているのか。それを突き止める方法は、もはや心を開いて祥子の思念を受け止めるしかない。
だが、そんなことをすれば祥子の怨念の虜《とりこ》になり、意のままに操られるおそれがある。
水垢離をしたのは、身を清めて神助を乞うためである。
音無しの用意をしたのは、万一呪法に負けて怨念の虜となった時には、己の頭を撃ち抜かんとの覚悟からだった。
奥山のおどろが下もふみわけて
道ある世ぞと人に知らせん
茨《いばら》の道を踏み分けてでも正しい政道を実現しようという峻烈な覚悟が込められた後鳥羽帝の歌にしばし思いを致してから、前嗣は己の心を祥子に向けて開いた。
突然、瘴気《しようき》が突風となって吹き付けてきた。
怨念が渦巻く薄暗い部屋に護摩壇が築かれ、炉には火が燃えさかっていた。
護摩壇には五大|虚空蔵菩薩《こくうぞうぼさつ》像を配し、中央には愛染明王《あいぜんみようおう》像が祀《まつ》られている。
炉の前では巫女装束をまとった祥子が、御幣をふり立てながら何事かを念じていた。
愛染明王は愛欲の煩悩を菩提心《ぼだいしん》に昇華させるために、恐ろしげな忿怒《ふんぬ》の相をした仏である。
この明王には怒りによって怨敵《おんてき》を祓う力があると信じられているので、敵を呪詛する修法にもよく用いられる。
祥子は五壇の法と愛染明王の修法を併用することにより、凄《すさ》まじいばかりの呪力を得て何者かに仇《あだ》をなそうとしていた。
(なぜです。内親王ともあろうお方が、何ゆえそのような禍々《まがまが》しき業をなされるのですか)
前嗣は念波を送って問いかけたが、一心不乱に呪法に打ち込む祥子には届かなかった。
(祥子さま。私です。近衛前嗣です。誰を何ゆえ呪われるのか、お教え下さい)
意識を一点に集中して語りかけるが、祥子には届かない。
前嗣はやむなく祥子の面前に回り込み、両の目を真っ直ぐにのぞき込んだ。
いつものように暗黒が広がっていた。底知れぬ深さの暗闇が、ぽっかりと口を開けている。
と見る間に、前嗣の思念はその闇に吸い込まれ、目もくらむばかりの速さでどこかへと落ちていった。
前嗣は一瞬気を失い、ややあって意識を取り戻した。
一面の暗闇ヶ原の真ん中に、ぽつりとひとつ明かりが灯されている。朱色にゆらめく灯火《ともしび》があたりをぼんやりと照らしていた。
薄暗い床には無数の屍《しかばね》が横たわり、腐り落ちた顔をうらめし気に天井に向けていた。
御殿の中央には、ひときわ高くしつらえた石の祭壇があった。
祭壇の上では裸の女が、髪をふり乱して呪いの叫びを上げていた。
女の体はすでに腐り始め、恐ろしげな形相をした雷神の住処《すみか》となっている。
それでもなお、何者かを呪詛しつづけていた。
乱れた髪に顔が包まれているので、誰かは分からない。祥子のようでもあり、加奈子や伊邪那美命《いざなみのみこと》のようでもある。
呪いの声は四方八方に谺《こだま》し、折り重なって迫ってくるが、何を訴えているのか聞き取れない。
前嗣は頭の中で割れ鐘が鳴り響くような激しい頭痛を覚えながら、女の正体を確かめようとした。
御殿には猛烈な臭気が漂っている。よどみきった生ぬるい空気が水のように重く体にまとわりつき、前に進むことを許さない。
あがきながら進もうとすると、頭痛はいっそう激しくなり、体中を鋭い悪寒が突き抜けた。
それでも前嗣は前に進み、祭壇に向かって目を上げた。祥子か、加奈子か、伊邪那美か……。
女の足元には、一体の腐乱した死体が横たえられていた。青白い蛆《うじ》に蝕《むしば》まれた遺体は、黄泉《よみ》の国の住人となられた後奈良帝のものだった。
驚いたことに、女は帝のご尊顔を左の足で踏みつけにしていた。
前嗣は我が目も、我が身も、己の判断力も信じられなくなった。
女は何と、亡き帝の頭蓋《ずがい》を踏み割らんばかりにしながら、当今《とうぎん》のお命を縮めようとしていたのである。
明日の即位の礼の最中に帝を呪殺するために、祥子内親王を操って五壇の呪法を行わせていた。
「やめろ。やめないか」
思わず絶叫が口をついた。
女がまばらな髪におおわれた顔で、ゆっくりとふり返った。皮膚は腐り落ち、眼窩《がんか》は落ちくぼんで、もはや誰とも見分けはつかなかった。
「おのれ、我に恥をかかせたな」
女は地に伏した醜女《しこめ》たちに、前嗣をくびり殺すように命じた。
どろどろの肉塊と化した女たちが、長い髪をふり乱して追いかけてくる。
前嗣はいつぞやの夢のように、地底の暗い道を必死で逃げた。
全身が粟立《あわだ》つほどの恐怖に駆られ、無限とも思えるおどろの道を走りながら、何としてでも祥子の修法をやめさせねばならぬと念じていた。
その一念が、祥子のいる御堂へと前嗣を連れ戻していた。
祥子は五大虚空蔵菩薩像と愛染明王像を置いた護摩壇の前で、御幣を振りながら呪法をつづけていた。
炉に燃え上がる炎に照らされて顔は赤く染まり、白小袖は汗にぬれて肌に張りついている。
それでも一心不乱に修法に打ち込んでいた。
祥子に罪はあるまい。
後奈良帝を呪詛した母親の、そして現《うつ》し国に怨《うら》みを残して死んだ黄泉の国の者たちすべての怨念に操られているばかりなのだ。
だが、その呪法が当今に害をなそうとするものであるからには、一刻も早く止めさせなければならない。
前嗣は祥子がどこで呪法を行っているかを突き止めようとした。
御堂の中は薄暗く、場所を知る手がかりとなるものはない。
仏像に詳しい者なら、護摩壇に置かれている像を見ただけで、どこの寺に安置されているものか分かるだろうが、あいにく前嗣にはそうした知識は欠けていた。
前嗣は己の思念を、御堂の外へと広げようとした。あたりの景色を見ることで、どこの寺かが分かると思ったからだが、これは至難の業だった。
前嗣は祥子に向かって心を開き、思念を交わすことによって祥子の周囲の状況を見ているに過ぎない。
祥子の思念の届かない場所まで見ることは、今の前嗣の力では出来なかった。
それでも前嗣は意識を集中し、思念の輪を広げることによって御堂の外まで見ようとした。
神は非礼を許されない。
人が人としての能力を超えたことを成そうとすることは、神に対する非礼に他ならないだけに、厳しい神罰が下された。
頭の芯《しん》が錐《きり》でも刺されたように痛み、激しい悪寒と吐き気に意識がとぎれそうになった。
それでも前嗣は、やめようとはしなかった。
帝のお命を守るために、そして祥子を呪縛から解き放つために、懸命に意識を集中しようとした。
(神々もご照覧あれ。この前嗣の一命を賭《と》して願い上げまする。何とぞ我に力を、力をお与え下されませ)
前嗣は祈った。
関白として、また天児屋根命の末裔《まつえい》として、この窮地を救われんことを、命を投げ出して乞い願った。
その一途さを、神も哀れと思召《おぼしめ》しになったのだろう。頭痛と寒気が潮が引くように軽くなり、思念の輪は少しずつ広がって、ついに御堂の外に達した。
御堂の屋根も参道の石段も、深い雪に閉ざされていた。御堂はかなり傷《いた》んでいるが、天平《てんぴよう》様式の壮大な造りである。
だが悲しいことに、御堂の造りを見ただけでは、前嗣にはどこの寺か分からなかった。
思念の輪を一杯に広げるが、あたり一面雪に包まれて、これぞという特徴を見つけることが出来ない。
数千もある洛中洛外の寺が、どこも同じように雪に包まれているだけに、これでは何の手掛かりにもならなかった。
前嗣は焦った。何とか意識を集中して収縮を止めようとするが、すでに力の限界を超え、思念の輪は次第に縮み始めていた。
(ああ、神よ……)
心の中で絶望の叫びを上げた時、奇跡が起こった。厚く雪におおわれた小さな祠《ほこら》から、何やらキラリと光るものがあった。
前嗣は最後の気力をふり絞って、祠に意識を集中した。
和気清麻呂公霊廟《わけのきよまろこうれいびよう》とある。
崩れかけた祠にかかげられた小さな扁額《へんがく》が、雪の下から金色の光を放っていた。
寺の名が、それで分かった。高雄山神護寺である。
天平末期の称徳《しようとく》天皇の頃、女帝の寵愛《ちようあい》をほしいままにした弓削《ゆげ》の|道鏡は《どうきよう》、太政大臣から法皇にまで昇進し、宇佐八幡《うさはちまん》大神のお告げと称して皇位まで望んだ。
称徳天皇は神意の正否を確かめるために、和気清麻呂を宇佐へとつかわされた。清麻呂は「臣下の者を皇位につけるべきではない。無道の者は除くべし」との神託を得て、帝に復奏した。
そのために道鏡の逆鱗《げきりん》に触れ、官職を解かれて流罪となるが、一命を賭して皇統を守った功績は後に高く評価された。
神護寺はその清麻呂が創建した寺であり、境内には霊廟が祀《まつ》られている。
(間違いない。神護寺だ)
そう思った途端に、意識がふっと途切れた。
ようやく我に返った時には、元のまま書院に端座していた。
長い長い時間が過ぎたように感じていたが、書見台に置いた音無しの火縄はほとんど燃えていない。
祥子の様子も黄泉の国の有様も、一瞬の間に見た情景だったのだ。
「若、飛丸の奴が戻りよりましたで」
小豆坊が庭に面したふすまを開けた。
山伏装束をまとった飛丸が、雪の上に片膝立ちで控えていた。
「関白さまの力になるよう、采女さまから命じられた」
寒さに鼻を赤くした飛丸は、都に戻されたことが何やら不服そうだった。
「よく戻ってくれた。これから高雄山へ向かう」
前嗣は火縄をはずして音無しを懐におさめた。
御経坂峠を登り切ると、正面に厚く雪をかぶった高雄山がそびえていた。
山頂から清滝川の流れるふもとまで、木々も岩場も山肌も白一色におおわれ、太古から信仰を集めてきた山らしい荘厳《そうごん》なたたずまいである。
前嗣は体の芯を揺り動かされるような感動に打たれ、思わず足を止めた。
「こりゃあ、あかん。えらい雪や」
小豆坊があきれたようにつぶやいた。これほど雪が深いとは、洛中にいては想像も出来ないことだった。
「師匠、あの山に登るんか」
「そうや。伊勢の山々に比べれば何でもないやろ」
「伊勢には雪はなかった。あれじゃ冷たくてかなわん」
「若を助けろと采女さまに言われたんやろ。文句抜かすな」
小豆坊が飛丸の尻《しり》を力任せに叩いた。
清滝川も雪におおわれ、水面が見えないほどである。三人は川岸まで下りると、用意の
|※[#「木+累」、unicode6a0f]《かんじき》を沓《くつ》につけた。
「様子を見てきますよって、ちょっとここで待っとくんなはれ」
小豆坊は岩に積もった雪の上を身軽に飛んで、神護寺へとつづく参道を登っていった。残した足跡の上に、木々に積もった雪が音もなく舞い落ちている。
しばらく待つと、小豆坊が険しい顔をしてもどって来た。
「あきまへん。弾正の手下が、柵《さく》を立てて見張っとります」
「ならば間道を行くしかあるまい」
川の上流に間道があることは、来る前に調べてあった。
「しかしこの雪や。若にはきついんとちがいまっか」
「ご即位の礼は明日だ。そんなことは言っておれぬ」
小豆坊を先頭に立て飛丸を後ろ備えにして、前嗣は川をさかのぼった。雪は半ば凍っているので、※[#「木+累」、unicode6a0f]をはいていればかえって歩きやすいほどである。川ぞいのしんしんとした冷え込みもさして気にならなかった。
半里ほどさかのぼると、杣人《そまびと》が使う間道があった。
薪にしたのか炭を焼くのに使ったのか、山の中腹まで木々はきれいに切り倒されている。雪におおわれた山肌を、細い道がつづら折りになって山頂へとつづいていた。
参道よりははるかに急だが、歩きにくい道ではない。境内から離れているので、見張りの兵もいなかった。
三人は白い息を吐きながら黙々と山道を登った。すでに申《さる》の刻(午後四時)に近い。空にはどんよりと雲がたれこめ、夕暮れが間近に迫ったような薄暗さだった。
四半刻ほど登ると、小豆坊は足を止めた。
「若、疲れましたやろ」
「大丈夫だ。先を急いでくれ」
「無理したらあきまへん。疲れんうちに休むのが山登りのこつでっせ」
そう言って水の入った竹筒を差し出した。
前嗣は口をつけて飲んだ。ほんのりと竹の香りのする水が、渇いた喉《のど》とほてった体に心地よい。ふり返ると、山肌が険しく切り立っている。足を踏みはずせば、そのまま谷底まで転がり落ちていきそうだった。
うさぎの足跡だろう。二匹がつかず離れず走った跡が、雪の上にくっきりと残っている。右に曲がり左に曲がった足跡を見ていると、二匹がじゃれ合いながら走る様が目に浮かぶようだった。
道はやがて森の中へと入っていった。木々の枝に積もった雪が凍りつき、樹氷となって頭上をおおっている。時折山鳥がけたたましい羽音をたてて飛び立ち、おびただしい雪が舞い落ちてきた。
しばらく坂道がつづいた後は、道は平坦《へいたん》になっていた。
山の稜線《りようせん》にそって高雄山を横切り、神護寺の境内へと向かうのだ。雪は三尺ほども積もり、※[#「木+累」、unicode6a0f]をはいていてもくるぶしくらいまでのめり込むが、坂道に比べればずっと楽だった。
「若、汗をかいとりまへんか」
小豆坊が小まめに気遣った。
「いいや、大丈夫だ」
「急に平らな道に出ると、汗が冷えて風邪ひきまっさかいな。用心せんと」
「師匠、俺は汗かいた」
飛丸が首筋の汗を衣の袖でぬぐった。
「お前はええんや。雪でも食うとれ」
山の背をひとつ越えた所で、小豆坊が再び足を止めた。
前方に三十丈(約九十メートル)はあろうかという切り立った岩場があった。道は岩場を横切ってつづいているらしいが、雪におおわれてかき消えている。
小豆坊は手にした六尺棒で二、三度雪を突いてみたが、表面が氷のように固まっていた。所々に大きな裂け目もあって、とても無事に通れるとは思えなかった。
「あきまへん。上を回らんと」
木の幹につかまって斜面を真っ直ぐに登ろうとするが、膝のあたりまで雪にのめり込み、それを引き上げるにもひと苦労で、容易には先へ進めない。
手近な木を足場にしながら右へ左へと進路を変えながら岩場を迂回《うかい》し、もとの道に復するまでに半刻近くもかかった。
暮れかかる日に追われるように先を急いでいると、道のかたわらに低い柵で囲んだ盛り土があった。盛り土も板の碑も雪におおわれている。
前嗣は雪を指で払って碑を読んだ。和気清麻呂公霊廟と墨書してある。
祥子内親王が神護寺にいると知らせてくれた恩人の名だった。
その頃、松永久秀は神護寺の五大堂で座禅に没頭していた。
五大堂とは五大虚空蔵菩薩像をまつったお堂だが、五仏とも帝《みかど》の呪殺に用いるために祥子が金堂に持ち去っている。空になった須弥壇《しゆみだん》を背に、久秀は昨夜から水も飲まずに結跏趺坐《けつかふざ》をつづけていた。
祥子が呪法に入ってからすでに六日が過ぎている。明日の即位の礼の当日が、満願の七日目である。
その日が刻一刻と近づき、呪法が深まっていくにつれて、久秀は期待と不安と後悔とがないまぜになった名状しがたい精神状態におちいっていた。
それにつれて下腹の痛みは激しさを増し、今や肺腑《はいふ》を引きずり出されるような耐え難いものとなっていた。
痛みの原因は心の迷いにある。久秀はその迷いを断ち切ろうと無我の境地に入ろうとしたが、今度ばかりは痛みも迷いも一向に消え去ってはくれなかった。
迷いの原因は、帝の呪殺を是《ぜ》としきれないことにあった。
祥子は、いや、祥子に乗り移った加奈子の霊は、帝を呪殺することで黄泉の国へ流された者たちの怨みを晴らそうとしている。
だが、たとえ今上《きんじよう》を害したとしても、朝廷ではすぐさま次の帝を擁立するだろう。
なぜなら、この国は神々への信仰によって成り立っているからだ。神々に礼を尽くし地上の平安をもたらす帝の存在なくしては、天下は一日たりとも安泰ではいられないと、朝廷ばかりか武家も民百姓も考えているからだ。
だとすれば、帝に責任はあるまい。
帝を必要とする者たちの心の中にある神々への信仰を滅ぼさない限り、今上一人を呪殺したとて何も変わりはしないのである。
そう思うだけに、加奈子の怨霊に手を貸すことが久秀には次第に苦痛になっていた。
(弾正、この期に及んで何をためらっておるのじゃ)
頭の中で祥子の声が響きわたった。呪法のさなかにありながら念波を送ってきたのだ。
(帝一人を害したとて、何も変わりませぬ。このようなことをしても無駄でござる)
(人の身で賢《さか》しき知恵をめぐらしてはならぬ。そなたはわらわに従っておればよいのじゃ)
(しかし……)
(要は破壊の情念を形に表すことじゃ。神々への敬心が引きつがれていくように、破壊の情念も引きつがれていく。そなたはただ人智を離れ、その情念に身をゆだねておればよい)
その言葉を聞いた瞬間、久秀は急に軛から解き放たれたような気がした。自分が長年何を望んで来たのか、はっきりと分かったからだ。
まるで心の腫《は》れものを柔らかい舌で舐《ねぶ》られたようで、執拗《しつよう》につづいていた下腹の痛みも忽然《こつぜん》と消え去っていた。
(どうやら分かったようだな)
(おおせの通りにござる)
(ならばすぐに仕度をせよ。近衛関白が迫っておる)
久秀は素早く立って扉を開け放つと、五大堂に至急護摩壇を築くように配下に命じた。
和気清麻呂の墓所からしばらく歩くと、樹氷となった木々の向こうに瓦《かわら》ぶきの屋根が見えた。鐘楼らしいが、その前には高さ二間ばかりの柵が結い回してあった。
神護寺を山城として使うようになって以来、松永弾正は境内の周囲を柵で囲い、要所には見張り櫓《やぐら》を建てていたのである。
「何や、こんなもん」
乗り越えようとでも思ったのか、飛丸が|※[#「木+累」、unicode6a0f]《かんじき》を脱いで走り寄った。
途端に鳴子がけたたましい音をたてた。雪の上に張られた綱に足を引っかけたのだ。
飛丸はあわてて綱を切ったが、時すでに遅く、鐘楼にいた十人ばかりが鉄砲を構えて飛び出していた。
「若、その陰にいておくんなはれ」
前嗣を岩場の陰に押しやると、小豆坊は飛丸の首根っ子を押さえつけて柵の前で土下座させた。
「この阿呆《あほう》が、お前のせいでえらい迷惑をかけたやないか」
そう怒鳴りながら、兵たちに向かって何度も頭を下げた。
「わしら薬草取りの者ですが、道に迷うてしまいまして」
二人とも山伏装束をしているだけに、兵たちも気を許したらしい。おわびに酒《ささ》代など差し上げたいという小豆坊の言葉を信じて、柵の間近まで歩み寄って来た。
「もっと近寄ってもらわな、手が届きまへん」
小豆坊は懐から銭を取り出すふりをして兵たちの注意を引きつけ、声にならない気合を発した。
不動金縛りの術である。十数人の兵たちは左手に鉄砲を持ち、右手は銭をもらうために前に差し出したまま、石のように固くなって雪の上に突っ立っていた。
柵を乗り越えて境内に入った時には、すでにあたりは薄暗くなっていた。鐘楼の横の小径を下りていくと、眼下に五、六棟の堂舎が黒い影となって建ち並んでいた。
いずれも似たような造りなので、祥子内親王がどこに籠《こも》っているかは分からない。昼間思念によって見た記憶を頼りに下りてゆくと、和気清麻呂公の霊廟があり、その前方に赤々とかがり火をたいた御堂があった。
大きな屋根が鳥が翼を広げたような形で黒くそびえ、正面の扉は固く閉ざされている。扉には結界であることを示すしめ縄が二重に張られ、階《きざはし》の両側には物具をつけた四人の兵が警固に当たっていた。
「あの御堂だ。小豆坊、何とかならぬか」
前嗣は霊廟の陰にひそんで様子をうかがった。
「何とかって、あの四人をでっか」
「騒がれては面倒だ。さっきの手際をもう一度見せてくれ」
「無理でんがな。年寄りにはそうそう使える術やあらへん」
小豆坊は泣き言を口にしながらも出て行こうとした。
「師匠、俺に任せてくれ」
飛丸が引き止めた。
「さっきの借りを返したい。師匠はここで休んでいてくれ」
「阿呆、ここは神護寺はんの境内や。血で汚《けが》すわけにはいかんのや」
「刀は使わない。まあ見ていてくれ」
飛丸は暗がりに身を隠しながら御堂に近付くと、身方のようなふりをして四人に歩み寄った。幸いあたりは暗く、四人は飛丸を異形の者とは気付かないらしい。
難なく二間ばかりの距離まで迫ると、飛丸は右手に降魔《ごうま》の剣を持ち左手に羂索《けんさく》を持った不動明王の形をとり、声にならない気合を発した。
小豆坊の不動金縛りの術を、見よう見真似で覚えたらしい。だが形だけはさまになっているものの、効果はまったく現れなかった。
四人はこちこちに固まるどころか、腹をかかえて笑い出したのである。警固の退屈を、滑稽《こつけい》な踊りでまぎらしていると思ったらしい。
「あの阿呆、十年早いんや」
小豆坊が天をあおいで目をおおった。
しかし、飛丸もただ者ではない。手を振り動かし体を回して踊っているふりをつづけながら、四人の隙をついて襲いかかった。
刀こそ手にしていないが、動きは千手剣そのものである。四人は笑みを浮かべたまま、我身に何が起こったのか気付く間もなく雪の上になぎ倒された。
前嗣はしめ縄を切り、扉を開け放った。闇におおわれた御堂の奥に、護摩壇の火が燃えている。火に倒れ込むようにして、白装束の女が、御幣《ごへい》を振っていた。
「よいか。万一私に異変があったなら、即座に二人とも撃ち殺せ」
前嗣は火縄を点じた音無しを小豆坊に渡した。御霊の虜にされるおそれがあるからだ。結界を破るために、扉も開け放ったままにしておいた。
「そやかて、若……」
「帝をお守りするためだ。ためらうな」
険しく命じて護摩壇に歩み寄った。だが昼間のように霊気に圧迫されることはなかった。女の後ろ姿も祥子とは明らかにちがっている。
「お前は、何者だ」
肩に手をかけて体を引き起こそうとすると、女は急に床にはいつくばった。
「お、お許し下され。私はただ内親王様に命じられたばかりでございます」
「さすればそなたは、祥子さまの侍女か」
「はい。弾正さまのお申し付けで、身の回りのお世話をしておる尼僧にございます」
はかられたと思う間もなく御堂の扉が閉ざされ、外から閂《かんぬき》がかけられた。ほかには頑丈な格子窓があるばかりで、袋のねずみも同然だった。
「関白どの、そのような年増で相済まぬことでござるなあ」
松永弾正が格子の外から声をかけた。
「今宵《こよい》は月もないようじゃが、主従三人ごゆるりとお過ごし下され。酒をご所望なら、その尼僧に申し付けられるがよい」
「弾正、何ゆえかような事を」
「祥子さまのお申し付けでござる。明日呪法が成就するのを、間近でご覧になられるがよい」
「あれは祥子さまではない。黄泉の国の死霊に操られておられるのだ」
「さようなことは、我ら下々の者には分かり申さぬ。ただお申し付けに従うばかりでござる」
弾正が陰にこもった笑い声をあげた時、二発の銃声がとどろいた。小豆坊が音無しで弾正を狙ったのだが、弾は厚い格子にはね返されただけだった。
「無駄なあがきはやめなされ。この御堂の周囲には三百余の兵を配してござる。もはや逃げ出すことは出来ませぬぞ」
「弾正、そちの望みは何だ。何ゆえこのような非道をなす」
前嗣は鋭く問い詰めたが、弾正は薄笑いを浮かべただけだった。
「聞けばそちの母人《ははびと》も禁裏の女官であったというではないか」
「さよう。そのようなこともあったようでござる」
「ならばこの国のために帝がいかなる重責を荷っておられるか存じていよう。そのお方を呪詛することが、いかにおそれ多いことかも分かっているはずではないか」
「存じておりまする」
「ならば、何ゆえ……」
「存じておるがゆえに、かようなことを致すのでござる。この胸の中にわだかまる思いなど、五摂家筆頭の近衛家でぬくぬくと育たれたご仁にはとても分かりますまい」
「帝を害してはこの国が保てぬ。それは武家とて同じなのだぞ」
「満願成就のあかつきには、関白さまもこの御堂とともに煙になりまする。先のことを案じるには及びませぬ」
弾正が立ち去ってしばらくすると、御堂の周囲に薪や乾草を積み上げる気配がした。数十人の兵たちが声高に何かを話しながら、入れかわり立ちかわり荷を運んでいる。
夜がふけるにつれて、御堂の中はしんしんと冷え込んできた。明かり窓をぴったりと閉ざしても、どこからか隙間風が吹き込んでくる。
「おい、もっと護摩木を燃やしてくれ」
尼僧に命じたが、もはや木も薪もないと言う。やむなく小豆坊や飛丸に壁板や仏壇の板を引きはがさせて暖をとった。
「いっそ御堂に火をつけたなら、逃げ出す隙もあるかも知れまへんな」
「飛び出しても、鉄砲の餌食《えじき》になるばかりだ。お前の術で全員を金縛りにしてくれるなら別だがね」
「俺は嫌だ。こんな所で死ぬわけにはいかんのや」
飛丸がやけくそになって壁板を引きはがした。
「そう荒れるな。酒でも飲んで体を温めたらどうだ」
二人はさっそく酒を飲み始めたが、前嗣は口にしようとはしなかった。
明日の即位の礼を終えるまでは、身を清浄に保っておく責務がある。脱出できる望みがわずかでもある限り、その禁を破るわけにはいかなかった。
護摩壇の火が燃えさかり御堂の中が暖かくなるにつれて、睡魔《すいま》が襲ってきた。慣れぬ雪山を歩いてきただけに、体は疲れ果てている。夜が明けるまでは気を張り詰めていようとしても、いつの間にかまどろんでいた。
どれほどの時が流れたのだろう。
前嗣はつるべ撃ちの銃声で目をさました。
「夢か」
声に出してそう言ったほどだが、しばしの静寂《しじま》の後に再び銃声が上がった。
鐘楼の方角である。五、六十|梃《ちよう》ものつるべ撃ちに、御堂の周囲を固めていた兵たちがいっせいに動き始めていた。
明け方なのだろう。東の空はうっすらと明けかけていたが、境内はまだ闇に包まれている。寄せ手が火を放ったらしく、鐘楼から炎が立ちのぼっていた。
「若、何者でっしゃろな」
小豆坊がたずねた。
「分からん。ともかく天の佑《たす》けだ。明かり窓の格子に火をつけろ」
今なら格子を焼き落として脱出することが出来るかも知れない。前嗣はそう思ったが、火をつける前に御堂の前でも激しい銃声が起こり、扉が外から開かれた。
「関白どの、お迎えに参った」
黒装束の男が歩み寄った。背後には同じ姿をした百人ばかりが、鉄砲を構えて外からの反撃にそなえている。
「そなたは」
「拙者でござる。お忘れになられたか」
怒ったように言って覆面を下にずらした。織田|上総介《かずさのすけ》信長である。
「上総介……、何ゆえそなたがかような所に」
「話は後でござる。急ぎ逃れられよ」
「しかし、血に汚れた大地を踏むわけにはいかぬ」
そのような不浄に触れたなら、即位の礼に出席することが出来なくなる。それに祥子がどこにいるかを突きとめて、呪詛をやめさせなければならなかった。
「もうじき敵の新手が参ります。そのような思案をしている場合ではござらぬ」
「これは思案ではない。神に仕える者の掟《おきて》なのだ」
「若、堪忍してくんなはれ」
小豆坊が突然立ちはだかり、鋭い気合を発した。
不動金縛りの術である。前嗣は抵抗する間もなく気を失った。
正親町天皇の即位の礼は、永禄三年(一五六〇)一月二十七日に行われた。
宮中の重要な儀式は、寅《とら》の一刻(午前四時)から始まるのが常である。
この日も寅の刻になると同時に、大儀用の服を着た諸衛が、紫宸殿《ししんでん》の庭に玄武や白虎、日像、月像などの旗を立てた。
次に諸役の者たちが持ち場についた。
即位の礼の諸事万端を取りしきる内弁《ないべん》は承明門内に、礼の進行を司る典儀一人、賛者《さんじや》二人は紫宸殿の階《きざはし》の側に着座した。
また帝の側近くにあって警固に当たる近衛府の武官たちは、武礼冠に帯剣という出立ちで紫宸殿の東側の近衛陣に控え、東西南の諸門にも衛門《えもん》たちが四人ずつ配置についた。
衛門を指揮するのは伴《とも》氏と佐伯《さえき》氏だと、太古の昔から定めてある。また建礼門の外では、二人の隼人《はやと》が控えていた。
祖神である火照命《ほでりのみこと》が宮門の警固を命じられて以来、隼人は延々とこの役を務めているのである。
承明門外に造られた朝集堂には、式に参列する五位以上の公家が開始を待っていた。
近衛前嗣は山科言継とともに、式の仕度に手落ちがないかどうかを見て回った。
式を統《す》べるのは内弁だが、関白はその上に立ってすべてを監督しなければならない。
帝が着座される高御座《たかみくら》は、型通りに整えてあるか。玄武や白虎の旗の位置は間違っていないか。諸役の者たちは所定の位置に着き、定め通りの礼服を着用しているか。
朝廷に秘蔵された即位礼典の絵図を見ながら、ひとつひとつ確認していく。
わずかな手落ちも神々への非礼となるだけに、ひどく気を遣う作業だが、山科言継は機嫌が良かった。
「有難いことでございます。よもや存命中にかような盛儀に巡り合おうとは、夢にも思うておりませなんだ」
そんなつぶやきをくり返しながら、愛《いと》おしげに旗の向きなどを直している。
何しろ前の後奈良天皇の時には、践祚《せんそ》から即位の礼まで十年もかかったのだ。
朝廷の窮状は当時とさして変わらないだけに、五十四歳になる言継がそんな感慨をもらすのも無理からぬことだった。
「今朝は織田上総介に危ういところを救ってもらった。礼を言う」
「なんの。麿《まろ》はただ御家門さまの館に案内したばかりでございます」
即位の礼に参加するという約束を果たすために上洛した織田信長は、昨日の午後山科言継の館を訪ねた。
言継は信長をともなって近衛邸を訪ねたが、家の者が神護寺へ出かけたと言う。やむなく帰りを待ったが、夕方になっても戻らないために、信長に頼んで救出に向かわせたのである。
信長の上洛の目的は、即位の礼より音無しにあったらしい。救出の礼に音無しを与えると、夜明けを待たずに領国へ引き上げたのだった。
「上総介とは、何とも奇妙な男よな」
「さようでございますな。せっかく上洛しておきながら、ご即位の礼に顔を出さぬとは不届きなことでございます」
その奇妙な男が、第六天の魔王と称して朝廷の前に立ちはだかることになろうとは、二人はまだ予想さえしていなかった。
紫宸殿の南庭の点検を終えると、承明門の外に出た。庭内の雪はきれいに掃き清められているが、門外の雪は積もったままである。
空には雲ひとつなく、満天の星がまたたいている。星明かりに照らされた雪が、薄闇の底でにぶい光を放っていた。
紫宸殿の築地塀《ついじべい》はきれいに修復されていたが、外塀は崩れたままの所が多い。
そこに洛中の者たちが早々と集まり、即位の礼を一目見ようと列をなしていた。
やがて内弁の命令によって鼓が打ち鳴らされ、三好長慶が警固の兵五百ばかりを率いて承明門外の警固についた。
いずれも大紋に帯剣という姿で、従四位下修理大夫である長慶ばかりが南庭に入ることを許された。門外の指揮は、正五位弾正|少弼《しようひつ》である松永弾正がとっている。
将軍義輝は警固に加わっていない。義輝は従四位下で、官位においては家臣の三好長慶と同位に立つことになる。その矛盾を避けるためだ。
前嗣は承明門外に立つ久秀にちらりと目をやり、紫宸殿に戻った。
(昨夜はご足労をいただき、かたじけのうござった)
驚いたことに、久秀が念波を送ってきた。
前嗣は心を固く閉ざし、応じようとはしなかった。
(いよいよ結着をつける時でござる。何が起こるか、楽しみでござるなあ)
久秀の思念には、勝利のおごりとかすかな戦《おのの》きがあった。
再び内弁の命令があり、鼓が打ち鳴らされた。
南庭に面した月華門と日華門が開け放たれ、建礼門の外に控えた隼人が犬の遠吠《とおぼ》えを真似て三度声を張り上げた。
朝集堂に控えていた公家たちが、続々と南庭に入ってきた。
束帯の長い裾《すそ》を引きずって南庭に入っていく公家たちを、松永久秀は冷ややかな目で見つめていた。
公家の礼服の色は、一位の大臣が深紫、二位三位が浅紫、四位が深緋、五位が浅緋と定められている。
通常でも三位以上の者しか殿上に上がることは出来ず、五位以上の者でなければ帝の前に出ることも出来ない。
家によって格式と官位が定められており、いかに優秀な者でも定められた官位以上に立身することは不可能である。
その反対に高い格式の家に生まれた者は、どれほど愚鈍であろうとも高位に昇進する道が開けている。
(この公家どもは、何百年もの間こんな愚劣な仕来りの中で生きてきたのだ)
久秀の目には、定められた礼服をまとった公家たちが、じめじめとした暗がりに生える隠花植物のように見えた。
このような制度を廃絶しない限り、この国を変えることは出来ない。母のような犠牲者を、永遠に生みつづけるばかりである。
久秀は破壊者となる決意を固めていた。
祥子内親王が帝を呪殺したなら、殺害の犯人を探索するという名目でただちに内裏を占拠する。
同時に二条御所に使者を送って義輝を呼び寄せ、帝呪殺の張本人として討ち果たす。
この企てに三好長慶が異を唱えるなら義輝と同罪に処し、三好家の実権を我が手に握る。
そのために警固の兵の半数近くを己の家臣で占め、洛北の館には二千の軍勢を込めていつでも出陣できる態勢を整えていた。
(弾正少弼、何ゆえ関白どのに意を送ったのじゃ)
祥子の厳しくとがめる声がした。
(意味などござらん。挨拶《あいさつ》がわりでござる)
(虫けらめが。出過ぎた真似をいたすでない。そなたはわらわに従っておればよいと申したではないか)
(虫けら? 帝を呪い殺そうとなされるお方が、何ゆえそれがしを虫けら呼ばわりなされるのでござる)
そう訊《たず》ねたが、祥子は何も答えなかった。
前嗣は紫宸殿の南廂《みなみびさし》に立って、公家たちが所定の位置につくのを見ていた。
数日前に習礼《しゆうらい》と呼ばれる予行演習をしたにもかかわらず、緊張に気持ちが上ずっているせいか、自分の位置が分からなくなる者がいる。
すると素早く賛者《さんじや》を走らせ、正しい位置に導かせた。
(采女、母君の望みはまだ分からぬか)
前嗣は虚空《こくう》に向かって思念を放ってみたが、采女は沈黙したままだった。
あるいは御魂降ろしの行に疲れて、命果てたのではないか。そんな不安が鳥の影のように胸をよぎるが、信じて連絡を待つ以外に術《すべ》はなかった。
四半刻ばかりもかかってようやく入場を終えた時には、朝日が比叡の峰の向こうから姿を現し始めていた。
影絵のように連なる山々の頂きがほんのりと赤く染まり、空もしらじらと明け初めて、まばゆいばかりの陽光が数千、数万、数千万の光の矢となって洛中にふりそそいだ。
胡床《こしよう》に腰をおろしていた公家たちは、一斉に立ち上がり、朝日に向かって頭《こうべ》を垂れた。
準備万端ととのうと、前嗣は庭先に陰陽師《おんみようじ》を呼んで吉時を問うた。
陰陽師は軒廊《こんろう》に据えられた亀卜《きぼく》の座で亀の甲を焼き、そのひび割れで吉時を占った。
「巳《み》の刻限が上々吉とのご宣託にございます」
正親町天皇の出御は巳の刻(午前十時)と決まり、諸司百官は厳寒の中に一刻以上も待つことになった。
(関白さま、よろしゅうございますか)
半刻ほど過ぎた時、待望の知らせがあった。
(おお采女、待ちかねたぞ)
(母君の御魂が、ようやく降りてくだされました。関白さま自ら、母君とお話し下されませ)
(私は近衛前嗣という者だ。そなたの怨むべきは前の帝と我が父であろう。何ゆえ主上に害をなそうとするのだ)
(わらわに対する二人の仕打ちは、朝家を守らんとしてのもの。呪うべきは朝家そのものの仕来りなのじゃ)
陰にこもって低く響く声は、黄泉の国で聞いたものと同じだった。
(では、何が望みなのだ。どうすれば呪いを解いてくれるのか教えてくれ)
(教えたなら、必ず請け負うか)
(聞いてみなければ、出来るかどうか分からぬ)
(お前は仇《かたき》の血を引く者だ。請け負わぬなら教えはせぬ)
(出来るだけのことはする。不服とあらば、この命を取るがよい)
御霊の怨念は、しばらく前嗣にまとわりついてためつすがめつしていたが、どうやら信用する気になったらしい。
(即位の礼の間に、前の帝の罪を主上にわびてもらう。そうすればすべての呪いを解いてやろう)
(そのようなことは出来ぬ)
前嗣は即座に拒んだ。
帝は神々に仕えるお方である。神々に欠ける所なく礼を尽くし、神恵を得て地上の平安を保つ重き責務を担っておられる。
それゆえ帝は、人に対してさえ頭を下げることの出来ないお立場にあられる。ご自身の非を認めることは、神々に仕える資格がないと公言するも同じだからである。
まして即位の礼の最中に、死霊に対してわびを入れるなど、考えるだに忌わしいことだった。
(ならばよい。即位の礼の間に、帝の命を贄《にえ》とするばかりじゃ)
(待て。その他に何か)
手立てはないかと訊ねようとしたが、御霊はぴたりと思念を閉ざした。
巳の刻になり、正親町天皇が後房とした清涼殿から高御座《たかみくら》にお入りになった。
高御座は黒塗りの三層の継壇の上に、神輿《みこし》のような八角形の屋形を据えたものである。
黒塗りの屋根は大|鳳凰《ほうおう》、小鳳凰、鏡、玉などで飾られ、まわりには金襴《きんらん》の帳《とばり》が垂らされている。
帝が高御座の御椅子《みいし》につかれても、帳は閉ざされたままで、群臣はそのお姿を拝することは出来ない。
お側にあって帝を補佐する前嗣だけが、高御座の後ろで竜顔《りゆうがん》を拝した。
何ということだろう。
昨日の由の奉幣の時まではつややかだったお顔が、今朝は無残なほどにやつれ果て、すでに死相が表れている。
朝家の復権をなし遂げんと炯々《けいけい》と輝いていた眼《まなこ》が、死魚のように薄い白膜におおわれているではないか。
前嗣の総身に寒気が走った。
このままでは、帝のお命は確実に奪い去られる。
前の帝が血を吐いて亡くなられたのを目の当たりにしているだけに、呪詛の恐ろしさは骨身に徹して知っていた。
(御霊よ、教えてくれ)
前嗣は悲痛な思念を空に向けて放った。
(帝は、どのようにわびられればよいのだ)
(汝《な》が父稙家を鬼となし、黄泉の使いとして殿上に上げよ)
御霊は舌なめずりせんばかりの声で応じた。
(帝は高御座から下り、鬼の前にひざまずいてわびるのだ)
(馬鹿な。帝にそのような非礼を)
(非礼ではない。朝家は神々に仕えるために、人が負うべき罪業を、すべて黄泉の国に流しておる。黄泉の国なくば、朝家の神聖も保たれぬと知れ)
御霊の怨みは、もはや前の帝の罪に対してばかりではなかった。伊邪那美命以来封じられてきた、黄泉の国の御霊たちの声なき声を弁じたものだった。
帝を守るためには、もはやこの要求に従うほかはない。前嗣は瞬時に決断し、山科言継を間近に呼んで事情を打ち明けた。
言継は蒼白《そうはく》になりながらも、一言も口をさしはさまずに話を聞き終えた。
「それで、麿は何をするべきでしょうか」
「父上に鬼の装束をさせよ。否応はないと申し伝えよ」
軒廊からは女房装束の威儀の命婦《みようぶ》が二人、左右に分かれてゆっくりと高御座に近付いてくる。
その後ろに内侍が一人ずつ従い、左に剣、右に八坂瓊曲玉《やさかにのまがたま》をささげた職事がつづいている。剣璽渡御《けんじとぎよ》と呼ばれる、神器《じんぎ》継承の儀が始まったのだ。
前嗣は高御座の後ろに立ち、帝に向かって思念を送った。
(ご神器継承の前に、お聞き届けいただきたいことがございます)
(何かね)
帝の念波は消え入らんばかりに弱まっている。
(お体のご変調は、御霊の呪詛によるものでございます)
前嗣はこれまでのいきさつを一瞬の思念に変えて帝に送った。
(ああ……、父君にはそのような罪科《つみとが》まであったのか)
祥子の運命や加奈子の自害を初めて知り、帝ははらはらと涙をお流しになった。
(それゆえ、御霊の望みを聞き入れるよりほかに、道はないものと存じます)
(関白よ。それは出来ぬ)
帝は峻烈に拒絶なされた。
(朕は神に仕える身だ。たとえ父君に非があろうと、今日のこの日に呪殺されることになろうと、御霊などに屈して神々に非礼をなすことは出来ぬのだ)
承明門の外で警固についていた松永久秀は、帝の姿を一目見ようと紫宸殿の奥をのぞき込んだが、高御座の帳は下ろされたままだった。
命婦に先導された剣璽が、軒廊をしずしずと進んでいく。三種の神器のうち八咫鏡《やたのかがみ》が欠けているのは、伊勢神宮に移されているからだ。
殿上も南庭も寂《せき》として静まりかえっている。
いつの間にか破れた外塀のまわりに数万の群衆が集まり、爪先《つまさき》立ちになって礼典の様子を見物していたが、しわぶきひとつ上げる者はいなかった。
久秀は祥子の言葉が気になっていた。
帝を呪殺しようとする者が、何ゆえ帝の権威を盾に取って人を虫けら呼ばわりするのか。その謎を執拗に解き明かそうとした。
(要するにあなた方は、呪いながらなお帝の権威にしがみついているのだ)
久秀は祥子に思念を送ったが、黙殺されたばかりだった。
(なぜしがみつくのか。それは神の国と黄泉の国は表裏一体だからでござる)
久秀は構わず思念を送りつづけた。
神は光で黄泉は影である。帝は光の側にばかり面《おもて》を向けておられるが、人間の宿命として影を負わざるを得ない。その影を集めたのが黄泉の国なのだ。
それゆえ黄泉の国の御霊たちは、帝を呪ってはいても、その影であることに誇りを持っているのである。
帝の存在が巨大であればあるほど、影もまた暗く巨大なものとなる。帝が消えれば、影もまた消える。
(ならば、帝などこの世にいない方がよい。いいや、神などこの世にいらぬのだ)
そこまで考えを押し進めて、ようやく久秀の腑《ふ》に落ちるものがあった。
朝廷も幕府もない国をどうやって作ればよいか、名案が稲妻のごとくひらめいたのである。
命婦と内侍が高御座の左右へと進んでいく。それに従って剣と曲玉がいったん左右に安置される。
つづいて蔵人頭《くろうどのとう》が高御座後方の帳を上げ、内侍が帝の御座の左脇に置かれた台に剣璽を奉安する。
次に関白近衛前嗣が帝のご意志をうかがった上で、御帳を上げる合図の鉦《かね》を打つよう兵庫頭《ひようごのかみ》に命じた。
兵庫頭が内弁に関白の意を伝えると、礼典を統べる内弁が「打たれよ」と許諾する。すると兵庫頭は、脇に控えた鉦師に命じて三度打ち鳴らさせた。
いよいよご開帳である。
だが群臣が帝の玉体を直に拝するのは畏《おそ》れ多いので、十八人の|女嬬が《めのわらわ》右手に翳《かざし》を執り、左手に扇を持って、高御座の前に列をなした。
(何だ、これは)
久秀は失望した。帝の様子を見て祥子の呪詛の効果を確かめるつもりだったが、高御座は長柄《ながえ》の団扇《うちわ》のような翳でおおわれている。
おおわれたまま御帳が開かれた。
左右からはらりと開かれはしたが、見えるのは袞竜《こんりよう》の御衣《ぎよい》の裳裾《もすそ》ばかりである。
袞竜の御衣とは、赤地の綾《あや》に昇り竜や日月、北斗七星などの刺繍《ししゆう》をほどこしたもので、衣と裳から成っている。即位の礼や朝賀に用いる特別の礼服である。
久秀は一目なりとも様子を見ようと、横に動いたり伸び上がったりしたが、そのうちに翳をもった女嬬たちが後座に下がり、帝のお姿が誰の目にも明らかになった。
帝は漢民族の王侯にならった冕冠《べんかん》をかぶり、首から玉佩《ぎよくはい》をかけ、御椅子に座しておられた。
そのお顔は蒼白で、目は落ちくぼみ、唇は紫色に乾ききっている。
目を開けているのさえ大儀なようで、御椅子に深々と背中をあずけて、眠っておられるようなご様子である。
祥子の呪詛によって、お命が旦夕《たんせき》にせまっていることは明らかだった。
久秀はそのご様子を拝し、しばし茫然《ぼうぜん》とした。
本来なら、計略が成就しつつあることを喜ぶべきであろう。だがそうした感慨はまったくわかなかった。
帝のお姿のあまりの変わり様に、哀しみさえ覚えた。
(久秀よ。この期に及んで何をためらう)
自分をそう叱りつけた。
(この国から神を消し去れば、朝廷というものは永遠になくなるのだ)
朝廷と幕府を滅ぼし、己の手で天下を治める。その時には内裏とすべての神社を焼き払い、この国から神々の痕跡《こんせき》を跡形もなく消し去るのだ。
愚かな民がすがるものが必要だというなら、代わりに仏を拝ませればよい。あるいは南蛮からきた宣教師たちを優遇し、耶蘇教《やそきよう》なるものに改宗させてもよい。
(いっそわしが神だと言い張り、足許に跪拝《きはい》させてやろうか)
久秀は涜神《とくしん》の高ぶりに目まいを覚えながら、洛北の館に出撃を命じる使者を走らせた。
南庭から合図の声が上がり、起立した公家たちが帝に向かって一斉に頭を下げた。
久秀は帝に異変が起こり次第南庭に踏み込もうと身構えたが、突然急調子の鼓が打ち鳴らされ、承明門がぴたりと閉ざされた。
南庭の門をすべて閉めさせたのは近衛前嗣だった。
急な成り行きに、どうしたことかと驚き騒ぐ公家たちを静まらせ、
「これより主上は、宸儀《しんぎ》神見の儀に臨まれる」
典儀にそう告げさせ、紫宸殿の南廂を屏風《びようぶ》でおおった。
宸儀とは帝のお姿のことで、帝が即位の後初めて群臣の前に姿を現されることを宸儀初見という。
宸儀神見とは帝のお姿を神々に披露するという意味だが、もとよりこのような儀が即位の礼にあるわけではない。
帝を救うために前嗣が取った窮余の一策だった。
南廂には帝のご寝所である夜御殿《よるのおとど》から運んだ大宋の御屏風が、内側に向けて立てられていた。
中国宋朝の打毬《だきゆう》姿の人物が描かれた、六曲一双の屏風である。
これを立てることで、紫宸殿はにわかに夜になった。
いや、前嗣がそう強弁し、高御座のまわりに控えていた者たちをすべて退出させた。
(関白よ。僭越《せんえつ》であろう)
ただ一人殿上で平伏する前嗣に、帝は怒りの思念を送られた。
(いかようなる責めもお叱りも、覚悟いたしておりまする。されどこのまま主上の危難を傍観すること忍び難く、非常の措置を取らせていただきました)
(御霊にわびよと申すか)
(この場で儚《はかな》くなられては、朝権を復さんとのお志は潰《つい》えまする。今は耐え難きを耐え、臣の計らいに御身をゆだねて下されませ)
(それは出来ぬと申したはずじゃ。御霊に屈した者がこの後いかに礼を尽くしたとて、神々が受納し給うはずがあるまい。御霊に負けて死すべき命なら、この場で卒したほうが朝家と大八嶋《おおやしま》の弥栄《いやさか》のためになるであろう)
(おそれながら、ご践祚なされたとはいえ、まだご即位なされたわけではございません。神々にご即位を告げる焼香が済むまでは、地上のことは神々の与《あず》かり知らぬところでございます。御霊にわびたとて、神々へ非礼をなされたことにはなりませぬ)
(ああ、関白よ。朕はそちの鋭すぎる才覚が憎い)
帝はご無念のあまり、落ちくぼんだ目から滂沱《ぼうだ》の涙をお流しになった。
前嗣は心を鬼にして軒廊に声をかけた。
顔を真っ赤に塗り、眉を墨黒々と描き、目の縁に青い隈取《くまど》りをした近衛稙家が、肥りきった体を黒い装束に包み、山科言継に先導されて殿上に現れた。
稙家は頭に逆髪のような付け毛をして、巨大な団扇を斜《はす》に背負い、手には頭椎《かぶつち》の大刀《たち》を持っている。
鬼となった稙家は、殿上の床をどんとひとつ鞘尻《さやじり》で突いて、高御座の正面に仁王立ちになった。
(さあ、わびよ。黄泉の国のすべての御霊に、朝家の不徳をひざまずいてわびるのじゃ)
稙家が殿上を圧するほどの思念を発した。それはもはや稙家ではなく、黄泉の国の御霊そのものだった。
それでも帝は、動こうとはなされなかった。涙に頬をぬらしたまま、御椅子に深々と座って瞑目《めいもく》しておられた。
もはやお命も尽きたかと思えるほどの静かなお姿である。
(主上、願い上げたてまつります)
前嗣は平伏したまま悲痛な叫びを上げた。
(これは夜御殿での悪夢とおぼしめして、何とぞ臣の計らいに御身をゆだねて下されませ)
帝はなおしばらく瞑目なされた後に、両手をゆっくりと持ち上げ、あごの紐《ひも》を解いて冕冠を御椅子の脇に置かれた。
そのご胸中が、前嗣には痛いほど分かった。
前嗣の計らいに任せるご決意をなされたものの、帝の象徴《しるし》である冕冠をつけて頭を下げることだけは避けられたのだ。
帝は決然たる足取りで高御座をお降りになると、稙家の前にひざまずき、深々と頭をお下げになった。
額が床に当たる音が、静まり返った殿上にこつんと響いたほどの、鮮やかな下げっぷりである。
(ああ、やはり尋常のお方ではない)
前嗣は心の中で感嘆の声を上げ、有難さに涙を流した。
たとえ前途にどのような困難が待ち受けていようとも、この帝のために命をなげうって仕えよう。金剛石のごとき決意が定まったのは、実にこの瞬間だった。
高御座に戻られた帝は、今までの衰弱ぶりが嘘のように健やかな表情をしておられた。
黄泉の国の御霊は、約束通り呪詛《じゆそ》を解いたのである。
だが稙家は、鬼の姿のまま立ち尽くしていた。
御霊は去ったはずなのに、目を見開き口を半開きにしたまま微動だにしない。
言継が連れ去ろうと手を取ると、腐り果てた巨木のようにばったりと倒れ伏した。
死んだのではない。我が前で帝に頭を下げさせる苦悩のために、廃人と化したのだ。
御霊が稙家に鬼の役を命じたのは、こうなることを知っていたからにちがいなかった。
承明門の外では、松永久秀が門脇のくぐり戸を押し開けようとして、佐伯、伴両氏配下の衛門と押し問答をしていた。
「わしは弾正少弼じゃ。洛中の検断を司るよう朝廷から命じられておる。また南庭には我が主《あるじ》三好修理大夫も警固に当たっておる。中で何やら異変があったのなら、対策を講じなければならぬ」
そう言って押し通ろうとするが、四人の衛門は頑として応じなかった。禁裏の警固は近衛府の仕事で、弾正台の者が立ち入る理由はないというのだ。
久秀は焦った。
急に門が閉められたのは、おそらく帝が呪殺されたからである。
それを確かめてから一気に事を起こすつもりだったが、門が閉ざされたままではどうしようもない。
「もはや問答無用。どうあっても通さぬとあらば、刀にかけて押し通るまでじゃ」
刀を抜き取って衛門を斬り捨てようとした時、再び急調子の鼓の音がして門が開かれた。
紫宸殿にも南庭にも、何の異変もなかった。
帝は高御座に鎮座され、群臣は庭上に置いた胡床《こしよう》に整然と腰を下ろしている。
つい先程まで余命いくばくもないと見えた帝は、常と変わらぬ健やかな姿に戻っておられた。
(これは、いったい……)
久秀には何がどうなったのか分からない。神護寺にいる祥子内親王に思念を送って訳をたずねようとしたが、もはやそうする力さえ失われていた。
やがて紫宸殿の階《きざはし》の前に置かれた二つの火炉に、焼香の役が東西から二人ずつ歩み寄り、炉に炭をいけ、香を焚《た》いた。
香を焚くのは即位があったことを天の神々に告げるためで、煙が真っ直ぐに上がって雲の間に入るのが吉瑞《きちずい》とされている。
これは中国の習わしで、『礼記《らいき》』にも「泰壇《たいだん》において柴を播《ま》き、天を祭るなり」と記されている。そうした祭法が、本朝の即位の礼に持ち込まれたのである。
二つの火炉から上がる煙は、吉瑞とされている通りに真っ直ぐに立ち昇り、青空にまばらに浮かぶ雲の間へと消えていった。
久秀は大きな喪失感に五体から力が失せていくのを感じながら、立ち昇る煙の先をじっと見つめていた。
火炉の側に控えた典儀が再拝の指《お》をし、賛者がこれを伝えると、群臣はいっせいに立ち上がり、腰を折って頭を下げた。
承明門の外で警固についていた兵たちも、声に合わせ敬虔《けいけん》な面持ちで頭を下げたが、久秀ばかりはいつまでも青空の彼方に消えた煙の行先を追っていた。
即位の礼の最後の山場は、宣命使《せんみようし》が南庭に立って詔《みことのり》を読み上げることである。
これは正式に即位なされた帝が、群臣に対して初めて命令を下される儀式である。
〈詔りして曰《のたま》はく、現《あき》つ御神と大八嶋国|知《しろ》しめす天皇《すめら》が大命《おほみこと》らまと詔《の》りたまふ大命を、集《うごな》はり侍《はべ》る皇子等《みこたち》、王《おほきみ》等、百官《もものつかさ》の人|等《ども》、天下《あめのした》の公民《おほみたから》、諸《もろもろ》聞き食《たま》へと詔りたまふ〉
ここで群臣は一斉に立って再拝する。
宣命の内容は、朝家は高天原の昔よりこの国を治めるよう祖神に命じられているので、今上の帝も天下を調《ととの》え平和を保ち、公民に恵みを与えて慰撫《いぶ》したいと考えておられる。だから皆もよく心得て仕えるようにというものである。
宣命の朗読が終わると群臣は再拝し、近衛府の武官たちが立ち上がって万歳を唱えた。
最後に内弁の命令によって鉦が打ち鳴らされ、十八人の女嬬が再び高御座のまわりに列をなして翳をかかげた。
内侍がその間を通って高御座の帳を下ろし、帝が退出なされて、即位の礼は無事にお開きとなった。
ご退出を見届けた前嗣は、疲れと安堵《あんど》のあまりしばらく殿上から動けなかった。体が石のように強張って、心は茫然として定まらない。
しかも、そこはかとない哀しみがあった。
いかに帝をお救い申し上げるためとはいえ、本当にあのようなことをして良かったのか。他に何か取るべき手立てはなかったのか。
疑念とも後悔ともつかぬ思いが、胸の底からあぶくのようにわき上がってくるのである。
(前嗣さま、ご無礼いたします)
采女からの思念があった。
(そちのお陰で、無事に乗り切ることが出来た。礼を言う)
(急ぎ祥子さまをお救い下されませ。御霊から解き放たれ、我が身がどこにあるかもご存知ないはずでございます)
(案ずるな。そのことなら、昨夜のうちに小豆坊と飛丸に命じてある)
(そうですか。でも関白さまが向かわれてこそ、姉君さまにとって何よりの慰めとなりましょう)
采女が初めて祥子のことを姉君と呼んだ。母の御魂を降ろしたことで、祥子との絆《きずな》を強く感じたらしい。
(分かった。ならばそうしよう)
前嗣は水干に着替え、神護寺へと馬を駆った。
雪に白くおおわれた洛北の山々の背後に、高く澄んだ空が広がっている。
前嗣のはやる心を察したのか、馬は雪の道を飛ぶような速さで駆けつづけた。
本書は平成十一年七月小社より刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『神々に告ぐ(下)』平成14年10月25日初版発行