文春ウェブ文庫
塀の中の懲りない面々2
[#地から2字上げ]安部譲二
目  次
第一部 塀の中から
府中刑務所のお正月
つくしの丘は消えた
|秋《さ》|刀《ん》|魚《ま》の頭で大立回り
トージョーの木の芽時
塀の中のポストマン
ディジョンの唐手
副社長の服役
二度は生えない?
種目があれば金メダル
満期が見えたら……
婦人刑務所営繕係
ケダモンのぼやき
スッポン男、清松
ゴメンで|済《す》むんだ
拘置所からのお悔み
倖せの共通項を探せ
唐辛子の芽が出たぞ
易者ダブロクの大予言
私の舎弟はコロンブス
ゴリ名人のハマさん
塀の中に忍び込んだ男
能ある鷹は将棋が|稼《しの》ぎ
実の欠けたトウモロコシ
玉信仰の信徒たち
年寄りに歳を訊くな
金持は懲役に来ない
鯨の仕返し
|盗《と》るまじ空財布
|鰍沢《かじかざわ》の石は男でござる
第二部 塀の外にて
実録・塀の中の紳士録
対談 親分お久し振りでござんす
あとがき
第一部 塀の中から
府中刑務所のお正月
塀の中で書き溜めた、大学ノートの日記のようなものをとり出して、暮とお正月のことを調べようと思いましたら、ノートの裏表紙に「筆記帳使用願」という紙が、どのノートにも貼ってあるのに気がつきました。
この紙は、服役中の私が、舎房で私物のノートを使う際に、官[#「官」に傍点]に願い出て、官がそれを許可したという、願書と許可証、それに検閲を受けた時の検印欄も兼ねている、裏表紙よりひとまわり小さな紙でした。
こんな紙に印刷してあることでも、今読んでみると、塀の中と、支配している官の様子が、ひしひしと伝わってくる想いがしますから、こんな機会に御披露しておきましょう。
筆記帳使用願と太い字で刷り込んである次の行には、やや小さい字で、
「左記事項に違反した時は、記載事項の削除、抹消、雑記帳の使用停止の処分を受け、又はそのことで規律違反行為として懲罰を受けても異存はありませんので、筆記帳の使用について許可願います」
と句読点をケチった役人製の文章が、二行にベタッと刷ってあります。次の行には年月日の下に呼称番号とあり、手書きで書いてあるのが私の囚人番号です。その下に氏名とあるところには、私の名前と|拇《ぼ》|印《いん》が押してあります。
次にまた、記[#「記」に傍点]とあって、その次の行に、
「一 次の事項を書かないこと」
と|此《こ》|処《こ》からは願[#「願」に傍点]ではなく、命令のようで、
「1 文意不明なもの、暗号、外国語及び所内生活を歪曲したり|誹《ひ》|謗《ぼう》するもの」
「2 他人を脅迫、侮辱、中傷するもの、好色、いん蕩、不良行状を讃美するもの」
「3 犯罪をそそのかすもの、犯罪の手段、教唆、通謀を内容とするもの、所内の秩序びんらんをあおり、そそのかすもの、施設の配置図、警備に関するもの」
「4 親族等申告票に記載されている者以外の住所、氏名、電話番号等」
「5 その他教化上不適当と認められるもの」
その次の二、と三、は、ノートの使い方の注意で、四に、
「四 提出を命ぜられたときは、いつでも提出すること」
とあって最後に、検査年月日と検閲者印の升目が、縦一杯二列に設けてあって、上の欄外に「北部第五工場」とゴム判が押してあり、その横に太い黒枠で升目が四つ、担当、係長、区長、課長とあるのは、似たようなもんでも、きっとその順に偉いのでしょう。
これは官の文章の典型のようなものでしたから、御紹介することにしたのですが、なんとも浮世離れのした文章で、「いん蕩」とか「秩序びんらん」なんて、官の好みの、なんとも言えず嫌な言葉が|矢《や》|鱈《たら》と使ってありました。
こんな具合ですから、書きたいことを書くとたいていなんでもぱくられて[#「ぱくられて」に傍点]しまうので、大事なことは苦心の暗号で記録してあります。その他は、私のノートの大部分が、プロ野球のことと、食べ物のことで埋めつくされていたのです。
プロ野球のことは、それで塀の中では命から三番目ほどにも大事な通貨である私物の日用品を賭け、目をつりあげて|博《ばく》|奕《ち》をするのですから、これは書いてあっても当然なのですが、食べ物のことが呆れるほど丹念に書いてあるのは、私が並はずれた食いしんぼうだからでしょう。
煙草を吸わない男、インポテント、坊主刈でも構わない奴、屈辱が平チャラな男、塀の外だと衣食住のままならない人。
こういった連中は、それぞれそうでない者より塀の中の毎日が過し易いのですが、不幸にも私はそのどれでもなくて、さらに酒飲みの食いしんぼうでしたから、塀の中の辛さは人並み以上の、さらにもひとつ上でした。
判事も量刑に際しては、この辺りもきめ細かく考えに入れてくれなければ、公平ではないと思うのですが、いつでも何故か、私に言い渡される刑は高かった[#「高かった」に傍点]のです。
手前勝手はさておき……。
面会所の待合室に貼り出してある献立は、見た目にはとても素晴らしく見えるので、塀の外から面会に来た者は必ず、
「あれ、いいもん食ってんじゃないの……」
なんて言うのに決っているのですが、クリーム・シチューといっても、糊のようなメリケン粉のドロドロですし、煮魚というのだって、魚の原形をとどめない猫用の缶詰みたいなもので、刑務所の献立なんてものは、中身と関係ない「私立学校の校歌」みたいなものなのです。
懲役は、とにかく腹を空かせているので、こんな飯でも一気に食べ|了《お》えて、それから初めて、そんな物を食わされこき使われている、自分の悲しさに思い至るのでした。
|物《もっ》|相《そう》|飯《めし》も、府中刑務所では五等から二等まで、量の差で四等級に分れていました。
懲罰房は最小の|五《ご》|等《とう》|飯《めし》で、これは普通のごはん茶碗に一杯ほどでしたが、木工場の懲役たちは最大の二等飯でしたから、量だけは五等飯の倍以上もあったでしょう。
飢えた様子の懲役たちは、だから空腹感というより、献立ヅラとは違う|非《ひ》|道《ど》い内容のおかずのせいで、栄養素と動物性蛋白質の慢性的な欠乏に苦しんでいたように思うのです。
府中刑務所は暮の二十九日が仕事じまいで、例年この日は、働かされている工場の大掃除です。私もリップソー(回転縦引き|鋸《のこぎり》)をばらして磨きあげ、丸い刃に機械油をひいたりしました。
三十日から正月の三日までは|免業《めんぎょう》になって、仕事も|裸検身《カンカンオドリ》もないうえに、大晦日の夕飯からは特食[#「特食」に傍点]で、物相飯も|白米《ギンシャリ》になり、おかずだって普段とはもうまるで違うのです。
普段は夜の九時にナイターの途中でも切られてしまうラジオが、紅白歌合戦からずっと、除夜の鐘の鳴り響く十二時半まで延長になります。私の隣りに寝ていた若い京都の極道は、方々のお寺の鐘を聴くうちに、
「このお寺さん、実家のすぐそばでんね」
と声を詰らせて|呟《つぶや》きました。
それでも府中刑務所は、短期刑の刑務所ですから、年が明けると、皆心理的に満期の日が近づいたように感じるのです。
「満期は、さ[#「さ」に傍点]来年だ」
と言うのより、来年だ、と言うほうが数日の違いでも、これは大きな違いで、誰でも急に前途が明るくなるようなことでした。
大晦日の夕飯からは、それまでの真黒な麦飯が、ひと粒ずつ、極小のミラー・ボールのように輝く|白米《ギンシャリ》になり、三カ日の間はずっとその|美《お》|味《い》しい御飯で、お雑煮も出たのです。
それに元旦の朝飯の前には、一人ずつ折詰と菓子袋も配られます。その年の中身を書いておきましょう。個数の書いてないのはどれも、一つずつです。
折詰の中身は、三角に切ってある羊羹、伊達巻、|蒲《かま》|鉾《ぼこ》、豆きんとん、甘く煮た黒い空豆三粒、酢蓮、キャベツ千切り、紅|生姜《しょうが》、昆布巻、ごまめ、半切|蜜《み》|柑《かん》、ハム、チーズ、そして、チキンの片足。
菓子袋の中には、動物ビスケット約五十個、栗|饅頭《まんじゅう》、五十円のチョコレート、それに塩|煎《せん》|餅《べい》が六枚。
いくら普段食べさせられている飯が、昭和三十年頃のそれとくらべて随分良くなったとはいえ、繰り返し申しあげるように、それは非道い飯でしたから、もうこれは、竜宮城にでも来たのか、それとももしや、これから死刑にでもされるのではないかと、首のすくむような、大変な御馳走でした。
塀の外だと、文句を言うに違いないような蒲鉾でしたが、それだって、なかなか呑み込んではしまえないほど美味しかったし、チョコレートは、もう舌も口の中全体も、頭の芯まで、味と香りでしばらくの間しびれてしまったほどでした。
つくしの丘は消えた
除夜の鐘に、声を詰らせていた京都の若い衆も、年が明け関東風の府中刑務所の雑煮を食べ、折詰を食ううちに、懲役らしい気力を取り戻したようでした。
刑期の長短にかかわらず、自分で気力を燃やして、毎日を乗り切っていこうとしなければ、懲役は終ってくれませんし、塀の中では生きてもいけません。
この京都の若い衆も、そこは若いとはいっても再犯の前科者ですから、一夜明ければ普段のタフな自分を取り戻したのです。
そしてお正月の三カ日が終ると、情けなくなるほどの寒さの中で、また|苦《く》|役《えき》の毎日が始まりました。
北国の刑務所の冬ももちろん大変ですが、府中刑務所の冬だって、もうそれは充分極限の寒さなのです。とにかくコンクリ[#「コンクリ」に傍点]の舎房には、火の気なんかまるでないのですから……。
毛が擦り切れて、透かすと、繊維だけになってしまったところからあちこち陽のもれる毛布と、中の綿がコブのように寄ってしまい、指で布を二枚摘んでしまえるという布団だけが頼みの綱で、あとは自分の体温が頼りなのです。
冬さえなければ……、台湾かハワイでつとめられるのなら、十年が十五年では困るけど、短い刑なら五割増でもいい、と懲役たちが毎度うめくほどの、それは骨身にしみる冷たさでした。
売れない作家で貧乏な冬を越している今でも、あの刑務所の冬にくらべれば、というより、くらべることが|不《ふ》|遜《そん》なほど、いくら貧乏だろうと塀の外で過す冬は倖せです。
一緒に暮している五匹の猫の中のどれか一匹が、一晩中ホカホカと布団の中に居てくれますし、それに仕事の前後にあの、「|裸検身《カンカンオドリ》」だってないのですから、これだけでもくらべようもないほどの決定的な違いです。
冬の朝、舎房を出て工場に向うのを、これは冬に限らずいつでも|出役《しゅつえき》というのですが、この道中には更衣室があって、ここで囚人服を脱ぎ、工場の作業衣に着替えるわけです。この脱ぐところと着るところの間に看守が二人腕組をしてねめ[#「ねめ」に傍点]つけている関所があるのです。
そこには、白ペンキで足の型が描いてある板が据えてあります。囚人服を脱ぎ、羽根をむしられた鶏のような丸裸の懲役たちは、その板の上に立つと大声で氏名を叫びながら、両足を踏み鳴らし、同時に両手を上に挙げて掌を開いて見せるのです。
その板の前と後ろに立っている看守は、そんな懲役を前後から睨みつけるわけで、なるほどこうすれば口の中、掌、脇の下、それに足の裏と、何か隠したり貼り付けたりするところは皆、見えてしまうはずなのですが……。
こんなことをいくらやっても、というより、こんなことをやるから尚更、懲役たちは丸裸のマジシャンと化して、煙草から百円ライター、それに信じ難いでしょうが液体のシンナーに至るまで、ほとんど自在に密輸出入してしまうというのです。
この裸検身というのは、夕方工場から舎房に戻る|還《かん》|房《ぼう》の時にも同じように行なわれます。寒さの厳しい時に限らず、いつの季節でも、毎日二度ずつやられても、少しも慣れるということがないほどそれは|非《ひ》|道《ど》い屈辱でした。
教育刑という、法を守ることの大切さを懲役に教えるように方針が変ったのだなんて、いくら看守がもっともらしい顔で言ったところで、この裸検身をやられれば、
「ああ、俺は、懲らしめ辱かしめられる刑罰を受けている……」
と誰でも、そう身にしみて感じるはずです。
つかの間のお正月が過ぎ、すべてがいつも通りになって、そんな真冬を懸命にしのぐうちに、冷たく吹きつける風の中にほんの時折、肌に刺さらない円い風の混じったのを、敏感になっている懲役たちは決して見逃しません。
「オヤッ、今の風……、お前……」
「感じたさ、お前もか」
というように、顔を見合せるのでしたが、それはもう、冬が終りかけたというしるしだったのです。
そんな風の混じり始めた頃、工場の食堂での昼休みに、憤然とした面もちの京都の若い衆が、私のところにやって来ると、
「あないな腐れた豆、よう食わはりまんな、うちらがたで納豆と言えば、甘うおすわ」
とむくれたので、私と一緒にリップソーのところで雑談していた関東者は、大笑いしたのでした。
「文句言うたかて、どないなるもんでも、おませんけども」
と京都の若い衆は、味噌汁の|矢《や》|鱈《たら》と赤くて辛いことも、ついでに嘆いたのです。
「そう言えば、つくしはまだでも、もうそろそろふきのとうだぜ、豆腐の味噌汁に、あれを刻んで浮すと、あれはもう……」
私が言うと、周りにいた京都の若い衆を含めて五人の懲役は、それから、味噌汁の実の話に、しばらくの間熱中したのです。
車をぶつけた怖ろしげなヤクザをスパナで殴ったら、それが見掛け倒しのヘナチョコで、簡単に参ってしまって、六年の刑をつとめているトラックの運転手は女房の実家が新潟だそうで、
「あの辺の海岸にいる拳骨ぐらいの蟹だけど、まずあれほどの|美《う》|味《ま》いのはないよ」
と言い、いくつもの刑が重なってこれも六年みっちりつとめた泥棒の|爺《サマ》|様《ジイ》は、もう間もなく出所の身でしたが、
「都内のね、それもド真中にね、そのふきのとうとつくしが、モジャモジャムクムクいくらでも生えてて、採っても誰も文句を言わないところを知っているんだがね」
他の四人に、誰にも言わないならと念を押して、
「高樹町の日赤産院の、麻布に面した斜面」と声をひそめて教えてくれたのです。
|欺《だま》し専門の不動産屋で、しょっちゅう刑務所に来ている山下規夫だけは、なぜか首をひねるふうでしたが、他の三人は大喜びでした。
「東京の兄弟分にだけ、教えてやってもよろしか[#「よろしか」に傍点]、わいは行けへんさかいに……」
京都の若い衆が声を弾ませると、爺様は、「よく口を止めてな、そんでないと、すぐ知られちまって……」
なんて言ったのです。
そして、めでたく爺様は満期になりましたが、工場からあがる[#「あがる」に傍点]時、その時の四人に、
「今年は駄目だけど、毎年この季節になると、わしは,陽当りのいい、看護婦さんもチラホラしてるその丘で、味噌汁の実を採っているから、そこでまた会いましょう」
と挨拶しました。不動産詐欺の山下規夫だけは、なんとも冴えない返事でしたが、他の三人は目を輝かせて、
「おうとも、毎年その丘でその頃に会うべえ、俺は缶ビールを持って行かあ」
とか、
「知らん顔のがおっても、それは、わいの兄弟分ですさかいに、あんじょう頼んまっさ」
なんて、口々に言ったのです。
泥棒爺さんが出所してから、浮かない顔の山下規夫を掴まえて、
「どうしたってんだ。なんか高樹町がやばいのか」
と訊くと、山下規夫はしばらく言いにくそうにしていたのですが、
「大手のプロジェクトがまとまって、今頃その辺りは、大マンション工事の真最中のはずなんですけど、いくらなんでも、そうは言えないでしょうよ」
と言ったのでした。
|秋《さ》|刀《ん》|魚《ま》の頭で大立回り
木工場には、中央に広い通路が貫通しています。
|掃《そう》|夫《ふ》の山下規夫は、竹ぼうきを握って、その広い通路の中ほどの、ちょうど担当部長の坐っている高い担当台の下あたりに立っていました。
木工場の大騒音の中にいた山下規夫が、遠く離れたリップソーで働いていた私と目が合うと、顔に力を入れて片目をムギュッとつむって見せたのです。
山下規夫は、私を相手にペラをまわす(無駄話をする)のが好きで、これがその時のシグナルでした。
それを見た私が、|顎《あご》をわずかにしゃくって頷いて見せると、山下規夫は竹ぼうきを動かし始め、広い通路を掃除しながらじわりじわりとリップソー目掛けて、時間を掛けてやって来るのです。
そして木工場の端に近いところまでやって来ると、リップソーの辺りを丹念に掃きながら、担当部長に見咎められないように、お互いにそっぽを向いたままで、笑いもせず口や表情も動かさないようにして、お喋りをするのですが……。
実はこれも、ごく刑務所的な礼儀か約束事のようなことでした。信じられないほどの熟練の眼力を持った、鷹かチョウゲンボウのような担当部長は、木工場の中のことなんかすべてお見通しでしたから、こうやって顔を立てている間だけ知らん顔をしてくれていたのです。
他の懲役同士だと、一度目は脅かされ、二度目にはぱくられて[#「ぱくられて」に傍点]しまうお喋りが、大目に見られていたというのも、この掃夫の主な仕事が工場の懲役たちの昼飯の面倒を見ることだったからでした。
昼飯近くなると、掃夫は|炊場《すいじょう》から大鍋で運ばれて来たおかずや汁を、めいめいの食器にとり分け、|役《えき》|席《せき》によっては二等と三等の違いのある|物《もっ》|相《そう》|飯《めし》を、間違えないようにそれぞれの席に配らなければなりません。
木工場に限らずどの工場にも、一人ずつ居るこの掃夫は、一番|文句《イチャモン》のつき易い役席でしたから、誰もなかなか長くはつとまらないのですが、山下規夫は年功と公平さで一年以上も無難にやっていました。
担当部長にしてみれば、この昼飯の面倒さえ大過なくやっていたら他の時間は大目に見よう、ということだったのでしょう。
私はこれまでに何度も、掃夫が飯のことで懲役たちと揉めたのを見ています。
古くは昭和三十年に、私がまだ未成年の頃の未決監で、その時は一尾が半分に切ってあった|秋《さ》|刀《ん》|魚《ま》が原因でしたが、
「ウオッ掃夫、なんでばんきり[#「ばんきり」に傍点](いつでも)俺は頭のほうなんだ。ふざけんなこの野郎ッ」
と、塀の中では美味しくても身の少ない頭より、身の多い尻尾のほうが人気があったので、掃夫は頭から熱い汁を食器ごとかぶせられるのでした。
そしてまだ昭和三十五年頃までは、どこの刑務所でも、物相飯が今のようなほぐれているバラ飯[#「バラ飯」に傍点]ではなく、上に三とか四なんて数字が浮き出している型に入れて押し固めたツキ飯[#「ツキ飯」に傍点]でしたが、そのツキ飯の上の数字が崩れていて……。
というのは、型の底がこの数字の部分ですから、ここまできっかり飯が詰っていないと、数字も崩れてしまうわけで、つまり飯が少ないということでした。
「なんで俺の飯は、いつでも仁義を切ってる[#「仁義を切ってる」に傍点](前屈みになっている)ようなのばかりなんでえ、やい掃夫ッ」
と|文《モ》|句《サ》がついて、物相は飛ぶ、鼻血は吹くという騒ぎになったのも、目にしています。
欲求不満の固まりのようになっている懲役たちは、とりあえず食べるだけが楽しみだったのです。それと毎日相対する掃夫ですから、大袈裟に言えば命がけだったのです。
この掃夫に、担当部長は決してゴロツキを|配《はい》|役《えき》しなかったのです。というのは、塀の外でも徒党を組んでいるのがゴロツキです。自然と塀の中にも仲間や顔見知りが多く、もしこんなのを掃夫にしたらその途端に、他の懲役たちの皿から豚が姿を消して、おかずの酢豚もどきが酢野菜になりかねませんでした。
だから掃夫には、|泥棒《ウカンムリ》とか堅気の酒乱というのが配役されるのです。山下規夫も、不動産がらみが専門という四年の刑の詐欺師です。
稼業柄、髪さえ伸ばしていたら、まるでNHKのアナウンサーといったもっともらしい顔の山下規夫は、同年輩ということもあって、私ととても気が合っていたのです。
私とは入れられていた舎房も別で、掃夫は昼休みも食器を洗ったり後片付けが忙しくて潰れてしまいますから、作業時間中にやるこのお喋りは、貴重な時間でした。
真面目くさった顔で、山下規夫の聴かせてくれる話は、いつでも滅茶苦茶に面白く、担当部長の手前笑い出しも出来ず、そのたびに苦しくて、涙ぐんでしまうほどだったのですが、その中でも南進木の話なんて矢鱈とおかしな話でした。
この南進木というのは、ひまわりよりはるかに向日性の強い木で、南に向って年に五センチずつ根ごと動くというのです。
今ではほとんど絶滅して、知る人も数えるほどのこの南進木で生垣を作ると、南隣りの地所を少しずつこちらがたに取り込んでしまうのだそうで、
「三重県の山奥の崖の下に、野生の南進木がごっそり生えていて、出るのが楽しみだ」
なんて言ったのですが、少しずつでもどんどん南に向って根ごと移動するこの南進木は、狭い日本だと河や海に落ちてしまって、高い崖にはばまれて崖下で止ったのだけしか今では残っていないのだそうです。
そこは|流《さす》|石《が》に詐欺師というもので、こんな与太話をした時でも、山下規夫はごく真面目な顔をほころばせもしませんでしたが、
「詐欺にもいろいろあるのに、どうして不動産専門になったのさ」
と私が訊いた時だけは、しばらく黙って考え込み、あげた顔にも珍しく赤味がさしていて、目は遠くでも見詰めているようでした。
「訊かれるまで、『なぜ』なんてこと、考えたこともなかったけど……。
思い出してみると、昭和三十八年の秋に、楽しみにしていた三十万円を諦めた時に、必死になっていろいろと不動産を研究したからじゃないかと思う」
と、その時ばかりは、担当部長に気を遣うのも忘れ、私の目を見詰めたのでした。
昭和三十六年に二年の刑を喰らう直前、山下規夫は横浜のはずれの丘に、三十万円の現金を埋めたのだそうで、それからずっと、その三十万円を楽しみにして、初めての刑をつとめたのだと言いました。
そして出所した中野刑務所から、バスと電車を乗り継いで行ってみると、その丘のちょうど金を埋めた上には、赤い瓦の家が建っていて、赤ん坊をおぶったお|内《か》|儀《み》さんの魚を焼く煙が漂っていたというのです。
「とにかく当時としても金額が半端だったから、その家を買うことも、遠くからトンネルを掘ることも|算《そろ》|盤《ばん》に合わなかったし、燃やしてしまうのも万一の時に量刑が高過ぎた。向い側にあったお地蔵さんの横に坐って、毎日三十万円を掘り出す手を考えたっけ」
と、横浜のベッド・ハウスに泊って、毎朝パンと牛乳を買って出掛けて行き、雨に降られたり痴漢と間違われたりした頃のことを、山下規夫は声を詰らせて話したのです。
一週間苦しんで、ついにどうにもならず諦めた時には、わずかな間でも必死でしたから、随分不動産に詳しくなったのだそうです。
まともなら、それで不動産屋にでもなるのでしょうに……。
塀の中の話は、なぜかそうは決してならないのです。
トージョーの木の芽時
工場の昼休みに、若い下町のゴロツキを相手に碁を打っていた私は、安心していた大きな地所を訳の分らないうちに欺されたように殺されてしまいました。その途端、つむじから沸騰した無念の動脈血が噴出しそうになったので、鼻の汗をタオルで拭くと投了し、周りで見ていた懲役と交替しようとしたのですが、
「先輩ッ、もう一番どうですか、ネッ」
熱がり[#「熱がり」に傍点]の私を負かすのが嬉しいらしく、その若い衆はそんな|誘《バ》|い《ン》をかけたのです。しかし、気が狂うか卒中でも起すといけないので、私は碁盤を離れると工場の窓際に行き、中庭を眺めて頭を冷したのです。
汗が鼻の頭に玉になったのは、私が肥っているからでも大逆転を喰らって碁に負けたからでもありません。
永かった冬は終りかけていて、中庭には桃と梅とが美しく咲き、桜の|蕾《つぼみ》もだいぶ大きくなっていました。
「安部さん、芦沢孝夫を知っとられるでしょう」
声に振り向いてみると、今日に限らずいつでも私を碁で|非《ひ》|道《ど》い目に遭わす若い衆が、私が相手でなければ、きっと碁を打っても詰らないのでしょう、両手を作業衣のズボンの前に差し込んで、後ろに立っていたのです。
「芦沢孝夫ねえ……。ハテどこのゴロツキだっけ」
覚えのない名前に私が首を|捻《ひね》るようにすると、若い衆は、
「安部さんより少し歳上の元ボクサーの大男で、鼻がひしゃげて、傷のついた夏蜜柑のような顔をした……」
「ああ、思い出したよ、それは、トージョー・東京だ」
「トージョー・トーキョーですか……」
不思議そうな顔をしている若い衆に、私はかいつまんで、二十年も前の話をしてやったのです。
「変ったリング・ネームだろう。それにはこんなわけがあったんだよ。
日本が豊かになったから、この頃では胸の奥に納めて愛想笑いなんかしてるけど、まだ日本が貧乏だったその頃は、イギリス、オランダ、フランス、オーストラリア、それにシンガポールやフィリピンの人たちは、日本や日本人に対する戦争の恨みと憎しみを、むき出しにして隠そうともしなかったのさ」
「ヘエ、それじゃ今でも胸の奥に納めてるんですかねえ、戦争が終って三十年も経ったっていうのに、随分と執念深い連中ですね」
若い衆は、鼻に皺を寄せて言ったのです。
「と言うより、日本人のほうが変ってるんだと俺は思うぜ。水に流せることと、流せないことにけじめがなさ過ぎるんじゃねえかな、俺たちは」
窓際で喋っている私たちを見て、寄って来た懲役が一人いたのですが、私がそう話しているのを聴くと、ちっとも面白くない話だ、と思ったのでしょう、愛想笑いをしながら行ってしまいました。
昼休みは、工場の中なら何処へ行くのも自由なので、面白いことを探してこんなふうにあちこちプラプラ、歩きまわる懲役もいるのです。
「トージョーは、そうそう、日本では芦沢って言ってたな、打たれ強いのだけが取柄という、まずもう下手糞なウェルター級のボクサーだったけど、そんな[#「そんな」に傍点]国で地元の人気ボクサーにたっぷりぶん殴らせるのには、これはお|誂《あつら》えむきだったわけだ」
すぐ倒れてしまったのでは、客が喜ばないからと、弱いけど真面目でタフなのを選ぶのですから、堅気とはいっても、プロモーターなんて政治屋や芸能屋と一緒で、ゴロツキが爪の垢を煎じて呑みたいほどむごくて悪い奴なのです。
芦沢孝夫は、そんな国むけの「トージョー・東京」というリング・ネームに変えると、一カ月に二試合も闘う苛酷な巡業に出ました。シンガポールを振り出しに、どこの街でも客の憎しみを一身に集め、ミート・ボールのようになるまで打たれ続けたのでした。
「もう二十年も前のことなのに、どうしてお前、俺とトージョーとのことを知ってるんだ」
その若い衆は、彼とは同じ町内に住んでいて、自分が外国に遠征してメイン・エベンターを張っていた頃、私に危ない場面で助けられたという話を、毎年春先になると何度も繰り返し聴かせられたんだそうです。
「外国で……、なんて、映画みたいですね」
と呟いたのですが、まんざらひやかしているようでもありませんでした。
日本ではたまに出た前座試合でも、そのたびに熟し過ぎた百匁柿のような顔になるまで、ぶん殴られるだけの芦沢孝夫でしたから、そんな試合でも外国でメイン・エベンターとして闘ったのが、きっとボクサーとしての、栄光の想い出なのでしょう。
「随分非道く打たれた奴だけど、元気にしてるのかい。懐しいな。あれは一九五五年のことで、俺は十八で、確かトージョーは四つか五つ歳上だったよ」
「背広の仕立屋で、デパートの専属になるほどの腕なので、|塩《あん》|梅《ばい》よくやってるんですが、どうも少し叩かれ過ぎちまったようで……」
若い衆の話では、この十年ほど前から、毎年春先になるときまってカムバックすると言い出すようになって、アパートの裏で縄跳びをしたり、銭湯のハカリに乗るたびに、「ヨシッ、あと六キロ」なんて吠えるのだそうで、「それが鯉のぼりの頃になると、毎年ピタッと|憑《つき》|物《もの》が落ちるのですから、不思議でさ」
そうなれば、アパートの仕事部屋で糸屑まみれになって、律義に仕事に精を出すばかりなのだそうです。
「少しいかれているけど、悪気のないオッサンで、可哀そうで見てられないから、これも渡世の義理と……。自分がなんでも聴いてやって、朝っぱら走りまわるのにも、自転車漕いで付き合うし、縄跳びや|独り稽古《シャドウボクシング》の時には、時計を見てて、三分経つたびに一分休んで、『カンッ』なんて叫んでやるんでさ」
少しずれてしまった頭に浮ぶ自分の晴れ姿が、冴えた仕立の腕を振う現在の姿ではなく、あの惨めだったボクサーの頃というのが、私にはなんとも痛ましく思えたのです。
「今年は自分が寄せ場[#「寄せ場」に傍点]だから、オッサンどうしてんだろ。町内の遊び人は自分だけで、他の連中は誰も食うのに忙しくてねえ」
若い衆は、眉を寄せて桃と梅とを見詰めていたのです。どうやら憎たらしくて悪いのは碁を打つ時だけのようでした。
「真面目に働いてカスリ(税金)を納めるもんを大事にしないで、胸を張る場面を考えてやんねえお上[#「お上」に傍点]が悪いよ。テレビも雑誌も皆悪いんだ。
それにしてもお前さん、大事につとめて、来年の春先には間に合うように戻ってやんなきゃいけねえよ。あんな碁を打ってると事故のもとだぞ、この野郎メ」
担当部長が担当台に昇って行き、副担と応援の看守も、それぞれの位置につこうとしていました。昼休みは終りかけていたのです。
「街のヤクザのお前さんが、年に三月ほども付き合ってあげるから、トージョーの奴もどうにか満たされて、仕事が出来るんだろうよ。
保険料をくすねる町医者や、税金を盗んで知らん顔の代議士なんて、偉い堅気だろうとそんなもん、まっとうな堅気にとっちゃ害虫かバイ菌のようなもんで、前科者でヤクザのお前さんのほうが、間違いなくいいもんだぜ」
人様のお役に立っていると、高目[#「高目」に傍点]の私にほめられた若い衆は、盛んに照れたのですが、
「安部さんだって、そんな若いもんと碁をやってくれて、気持よくつとめさせてくれてるんですから、随分と人様のお役に……」
歯を見せながら、走って逃げて行きました。
塀の中のポストマン
木工場からは随分離れたところにある印刷工場から、私に|宛《あ》てた|密《ガ》|書《テ》が届いたのです。
もう桜の花も散り、構内の柳と芝生の緑が目に鮮やかな季節でしたから、その便箋を四半分に切って小さく畳んだ密書は、リレーした何人かの懲役たちの汗と手垢で黒ずんでいました。
私が木工場に落ちている[#「落ちている」に傍点]と知った、塀の外でもなにかと気にかけてくれる、東海地方の親分が励ましの手紙をくれたのです。
厚意に溢れた細かい字を読むうちに目の裏が熱くなって、黒い小さな字がにじんで泳ぎ出してしまいました。
それにしても、この小さな密書が、三日がかりで四、五百メートル離れた私のところに着くまでには、大変なリスクが冒されていたのに違いありません。ぱくられ[#「ぱくられ」に傍点]れば何人もの懲役が、十五日ほどは懲罰房にぶちこまれたり、仮釈放を吹っ飛ばしたりといったことになります。
灰色の制服の郵便配達が、待ち伏せていた狂犬に噛まれてしまういたましい事故は、それはもう毎度のことだったのです。
逃げないように閉じこめて、今どき刑務所以外ではまず見当らないほどの、|非《ひ》|道《ど》く粗末な飯を食わせ、ただ同然の作業賞与金でこき使えば、もうそれで充分でしょうのに……。
そのうえ他の文明国では例のないほど、なにからなにまで禁止し、厳しく制限して、懲役の自由を奪う日本の刑務所ですから、捕まえられているほうは大変でした。
懲役は髪を坊主刈にされ、煙草も吸えず、歌も唱えなければ、自分のパンを雀や椋鳥にやるのも反則で、免業日の昼間でも、舎房でゴロリと寝そべることも出来ません。
こんなのは、けどほんのごく一部で、全部書いたら、それだけで連載の三回分以上にもなってしまうでしょう。
なぜこんなに、なにからなにまで駄目なんだ。と訊けば、官はいちいち理由を言うでしょうが、そんなことは、ほとんど全部屁理屈なのです。
こうして徹底的に自由を奪っておいて、それから特別警備隊の|暴《ヤ》|力《キ》と懲罰で威し、さらに昔の帝国陸軍の内務班顔負けに、絶えず加え続ける屈辱で、懲役たちに自分の惨めな姿を思い知らせ、虚脱させてしまうというのが、明治の昔から伝えつがれた看守の手口です。
そして柔順になった懲役には、褒美のように、少しずつ、ほんの少しずつ制度をゆるめ、わずかな甘い物を与え、テレビや映画を見せたりします。このように、小さな飴と大きないばらの|鞭《むち》で支配し管理するのでした。
日本でなにかしでかして、府中刑務所に送られて来た文明国の外人懲役たちは、塀の外の溢れんばかりの自由にくらべて、こんな悪夢のような塀の中の様子に、誰もが、呆然と、顔の色を失ってしまうのです。
木工場に|配《はい》|役《えき》されて来た文明国の外人懲役の、そんな場面を見るたびに、私は、
「|此《こ》|処《こ》だけは、昔から時が停ったままなんだよ。咎められずに自由に出来るのは、息をすることと、寝ている間に夢を見ることだけなんだ。それでも元気を出してやるしかないぜ」
と励ましたのですが、しばらくの間は、誰でもショックで放心状態になってしまうようでした。
三度の飯も、私たちのとは桁違いに良い外人食を食べ、分厚いマットレスに寝かせてもらい、髪も坊主頭に刈られることもなく、|裸検身《カンカンオドリ》だって免除されている外人懲役が、こんなふうになってしまうのですから、日本の刑務所というところは大変なところなのです。
東洋系も合せて全部で百人ほどの外人懲役でしたが、官はこの連中を二、三人ずつに分けて、刑務所中の工場に少しずつ、ばらまくように配役しました。
一時のショックから立直ると、外人懲役でもとくに文明国の奴は、反抗心をあらわにするので、まとめておいてはヤバイのでしょう。
こんな外人懲役とは逆に、再犯の日本人懲役たちは、表面は死んだふり[#「死んだふり」に傍点]をしているのがほとんどでしたが、とても一筋縄でいくような、そんな玉ではありません。
誰でもいつでも、一泡ふかすチャンスをうかがっていたのです。
たとえば、「営繕」の懲役が官舎の補修をさせられているうちに、どう担当看守の目を盗んだものか、仕事の間にその官舎の女房を口説き落してしまって、満期で出所するとすぐ、貯金通帳を持ち出させて、まんまと駆け落ちしてしまったことがありました。
この快挙が伝わって来ると、普段は決して他人を褒めない、口汚いことは日本で指折りという再犯たちが、
「まあ非道い女には間違いねえが、それにしても、大した偉い野郎で、久し振りの嬉しい話だぜ」
と前置きはついたものの、誰もが素直に敬意を表したのでした。
看守たちが人間離れのしたスペシャリストなら、再犯の懲役たちだって、けだものじみた化け物で、これは、ライオン勝つか|鰐《わに》勝つか……ぐらいのことなのです。
私もそのひとりでしたから、その密書を受け取ってからというもの、なんとか懲役飛脚たちの危険を出来るだけ減らす、革命的な手はないものかと、あれこれ頭を捻ったのでした。
その頃この工場に配役されていた外人懲役に、唐手を習おうと思いたち、|辛子《マスタード》で名高いディジョンから、途中インドで学資にするハシシを仕入れて東京にやって来て、三月足らずで、あえなく御用を喰らってしまった陽気なフランス青年がおりました。
昼飯時間になると、看守が彼を連れに、木工場にやって来ます。
外人専用の食堂で、外人食の昼飯を食べるわけで、毎日必ずその時に、私の前を通ると、栗色の髪のフランス青年は、
「ボナペティ(たんと食えよ)」
と私に言ってほほえむのでした。
ニュートンとかエジソンは、この日の私と同じ、発見の感動と身体を縦に走り抜ける衝撃を知っている人たちです。
私は看守に連れられて工場を出て行く二人の背中を、叫び出したい衝動を押えて、見送っていました。
あれからもう永い年月が流れました。
塀の中の事情も、今では随分変ったでしょうし、官と懲役は、絶えず技術革新[#「技術革新」に傍点]の競争と攻防に明け暮れています。
この頃に私の開発し、看守の鼻をあかせたシステムも、今頃はとっくに過去の物になっているのに違いないので、書いてしまっても、塀の中の連中に迷惑をかけることは、まずないでしょう。
毎日昼飯時に、府中刑務所中の工場から、外人懲役たちは専用食堂に集められ、そして昼休みが終る頃、また工場に戻って来ます。
その日、彼に私が計画を話すと、
「なんの危険もない。お安い御用だ」
と目を輝かせて、言ってくれたのです。
案のじょう、専用食堂の出入りの時、看守が作業衣の上からポンポン叩く程度の、形だけのチェックしか、していませんでした。
他の工場に散らばっている外人懲役たちも、木工場のフランス青年フランソワから話を聴くと、喜んでポストマンを引受けてくれて、それからというものは、私と私の親しい連中は自由に、即日速達が出せるようになり、返事だって次の日の昼には届いたのです。
喜んで礼を言う私に、フランス青年は、
「ジュブザンプリ(礼には及ばねえさ)」
と言い、教えてやるから、も少しましな言葉を喋ったらどうだ、と言ったのでした。
ディジョンの唐手
栗色の髪を短く、襟足まで刈りあげているフランソワは、昼飯のために工場の入口に集合させられる時、私の|役《えき》|席《せき》の前を通り過ぎながら必ず小声で、
「ボナペティ」
と、人なつっこい笑顔で言うのでした。
私のフランス語といえば、お金を沢山持っていさえすれば、フランスでも自由自在に通じます。それは誰かに聴いていてもらいたくなるほどです。
けどそれが、お金が少なくなるに従ってだんだん通じ難くなり、金がついになくなってしまうと、まるで用が足せなくなってしまうのですから、正直なところ、喋るとか話せるとかいうほどのものではありません。
お金を沢山持っていれば、いくら偏屈なフランス人でも、そこは商売ですから、ホテルでもお店でも一所懸命に、耳をこらして日本人の怪しげなフランス語を、聴いて分ろうとしてくれます。
お金がなくなってしまえば、|此《この》|度《たび》の戦争でインドシナを占領し、散々な目に遭わせた憎らしい日本人、に戻ってしまうのでした。
日本人とは違って、恨みや憎しみをそう簡単には、水に流したり忘れたりはしないのがヨーロッパ人なのです。フランスではとくに、お金がなくなるとそれを思い知ります。
そんな程度の、ほんの片言のフランス語ですから、このフランス人懲役のフランソワ・ガルダンと話す時は、いつも英語を使っていました。
それでもこんな短い言葉の、「|沢山召しあがれ《ボン・アペチ》」とか、「|お早う《ボン・ジュール》」なんてことに限って、フランス語でやっていたのは、フランソワがとても嬉しそうだったからです。
短い年月で、驚くほど金持になった日本は、いってみれば|俄《にわ》か成金ですから、いろんなところで|唖《あ》|然《ぜん》とするような常識の歪みが目立ちます。
世界中を探しても、そう滅多にはいないほど、日本人は警戒心に欠けているうえに、外国人であればそれだけで信じてしまうところがあるのを知ると、豊かな|懐《ふところ》を狙って、怪しげな連中が群がってやって来たのです。
その頃私の働かされていた工場には、そんな手合いの外人懲役が、いつでも十人ほど|配《はい》|役《えき》されていました。
府中刑務所全体には、いつでもほぼ百人ほどの外人懲役が収容されていて、とくに先進文明国の白人は官[#「官」に傍点]にはとても反抗的で、私たちのように諦め切って刑期をつとめていたりなんかしていません。
どんな小さなことでも、侮辱されたり、人権や自由が不当に制限されたり奪われたりすれば、官に真正面から抗議して反抗するのです。
そんな外人懲役を、まとめて同じ工場に配役すると、団結されたら厄介だということらしくて、官は人種や宗教、それに国籍を上手に組合せて働かせていました。
そんなわけで、私の働かされていた工場に配役されていた外人懲役も、白人はこのフランソワとミルウォーキーの若いアメリカ人だけだったのですが、官の苦心がしのばれるような組合せだったのです。
四人もいた中国系にしても、香港の英国籍の中年男と、台湾の三十そこそこの男。それに香港のヤクザ組織の若者に、フィリピン国籍の肥った男といった具合でした。
英国籍の中年男は、覚醒剤を大量に運び込んだのがバレて、八年の刑。ヤクザ組織の若者は、クレジット・カードの取込み詐欺で、一年|六《ろく》|月《げつ》という軽い刑でした。
台湾の細い目が油断なく動いている男は、去勢した牛から切り取った睾丸を、乾かして固くし、オットセイのそれと偽って大層な値段で売ったのが、詐欺とされて二年|六《ろく》|月《げつ》も喰らったと聴いて、おかしいやら呆れるやらで、少し気の毒な気もしたのです。
牛のそれはタダ同然で、オットセイのそれは本物だと大変な値段なのだそうですが、そんな物をたべて強精になるなんて、ナンセンスとしか私には思えません。
女優やホステスの涙を集めて飲んでも、その途端に涙が溢れたりなんかはしないでしょう。
呑んで毒にならなければ、そんな嘘を言ったぐらいのことは、二年六月も刑務所にぶち込んで、懲らしめるようなこととも思えません。
フィリピン国籍の華僑は、何かを盗んで捕まったようで、窃盗罪で二年の刑でした。
工場に四人いた中国系の懲役でも、これだけバラエティに富んでいたのですから、その他の外人懲役だって、色とりどりです。
釣銭詐欺と泥棒をやりに、はるばる地球の裏側から遠征して来て、三年の実刑判決を言い渡された、南米はコロンビアの小柄でチョビ髭の|現地人《インディオ》。
ベトナム戦争の最前線で生き残った黒人のジミーは、ボクシングの上手な若者でした。
結婚の約束をしていた沖縄のホステスを、除隊してから訪ねて旧交を温めている最中に、パトロンの|爺《サマ》|様《ジイ》が現れたから堪りません。
その途端に娘は、それまでの世迷言を金切声に変えたので、気の毒にも強姦罪で四年打たれ[#「打たれ」に傍点]てしまったというのです。
ディジョンのフランソワの他に、工場にもうひとりいた白人の青年は、ミルウォーキーのアメリカ人で、これも黒人のジミーと同じ強姦罪でした。
東京で英会話の教師をしていたこの青年は、まず生徒の日本娘をたらし込んだのですが、娘よりずっと懐の豊かな母親に目をつけると、
「馬をやっつけてから、インディアンの酋長を倒せ」
という日本の格言(この白人青年はそう言ったのですが、どうもこれは「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」の意訳のようです)に従って、教師だからと家庭訪問をしながら、スケコマシていたのだそうです。
「あれには驚いたぜ、|なんてことだ《ファッキン・アスホール》」
突然、ノックもせずにあがり込んで来た近所のおかみさんが、ダイニング・キッチンのソファで演じられていたハード・コアのマチネーに、
「ン、マァー」
と、目を丸くして吐息をもらすと、それが合図のように、下で弾んでいたPTAは、
「助けてッ」
叫び出し、まだズボンもはき終らない間に、日本の誇る警察は、もうダイニング・キッチンに二人で立っていたというのです。
白人青年は、リトル・ビッグ・ホーンで、インディアンに待ち伏せされたカスター将軍と、同じ気持だったと言いました。
「カスター将軍は、殺されて多分頭の皮をはがれたんだろうけど、お前は四年で済んで、それも二年半もつとめれば|釈《パ》|放《イ》なんだから、|贅《ぜい》|沢《たく》を言ってるんじゃないよ」
私が言ってやると、こんなことで、一方的に同国人の助平女の証言を採って、四年も言い渡した裁判官は、いずれ神の怒りと神の与え給う罰に泣き喚くことになる、と白人青年は目を細めて言いました。
他にも、強盗で五年喰らった北アフリカの痩せた中年男や、窃盗罪で二年の刑のネパールの青年などがいて、国際懲役会議とでもいいたいところです。
フランソワ・ガルダンはまだ若いのに、どこで覚えたのか、訛りは|非《ひ》|道《ど》いけど|可《か》|成《なり》な英語を喋ったので、私は、淋しげにしている彼のそばに行って、
「俺、お前の国には何人か友達がいるぜ」
話しかけるとフランソワは、嬉しそうな顔で、
「エ、ホント」
みたいなことを言いました。
「そうともさ、ジョルジュ・サンクのそばでバーをやってるシャルル・エメは、今では自分の半分ほどの女房に、毎日叱られてるけど、一九五〇年代にはフランスで一番強いミドル級だった。
大男で二メートル以上もあるギデロドニは、小さい鰐を可愛がって飼ってたら、五メートルを超す大物になってしまってね。ちょうどその頃愛人が逃げちゃって、皆に鰐に食わしたんじゃないかと疑われてまいってたっけ。
ジャン・クロードは、フランス野郎のくせに、あのスコットランドのバグ・パイプを、それは上手に吹いたし、髭のマセランはベッドに大きなビニールを敷いて、女にボルドーの赤をひと|罎《びん》ぶっかけてから、丹念に舐めてたよ」
フランソワ・ガルダンは、楽しそうに声を出して笑うと、
「けど、あんたの友達は、皆随分ユニークなフランス人だ」
と言ったのですが、孤独な外人懲役に声をかけた私の気持は分ってくれたらしく、手を固く握りしめたのでした。
「お前さんだって、俺の友達以上に変ったフランス人だぜ、とにかく今は、お前さんは日本で懲役をやってるたったひとりのフランス人なんだから」
私が言うと、フランソワは両腕を左右に拡げ、
「|これも人生さ《セ・ラ・ヴィ》」
と呟いたのです。
それから毎日、工場の休憩時間や運動時間に、フランソワは、ポツリポツリと自分の話をしました。
それは、他の外人懲役たちから私が訊き出した話と少し違っていました。
二十三歳のフランソワは、日本で唐手を習おうと思い立つと、働いてお金を貯めて、まず南まわりの飛行機で、インドに行ったのだそうです。
これは、日本に詳しい友人がフランソワに、日本の生活費の滅茶苦茶な高さをていねいに教えてくれたからでした。
「ステーキは電子計算機の何倍もの値段がする。思い切って手足を伸ばせば壁に当ってしまう、木と紙と竹で出来た小さな部屋が、ディジョンで三部屋に食堂とサロンのついた家より家賃が高い。途中のインドでハシシを仕入れて、それを少しずつ売って生活費にしないと、お前はすぐ、日本人の好きな干物になってしまう。
日本で安いというよりタダなのは、若い女だけだけど、喰らったら死刑になるからやめておけ」
インドで世界一安い良質なハシシをしこたま仕入れると、さあいよいよ唐手だと喜び勇んで日本にやって来たというのです。
うかつだったけど、捕まったら三年も刑務所に入れられるようなことだとは、その友人も言ってくれなかったし、自分でもそんなこととは夢にも思ってはいなかったのだと言いました。
日本に着いて、東京の下町に、風呂もトイレもない真四角な部屋を借りたと言いましたから、これはきっと、四畳半だったのでしょう。
そして近くの唐手の道場を、しばらく外から覗いたりして下見をしてから入門したというのが、これがいかにもフランス人らしい。
日本人のように、目についたところにすぐ飛びこんだりはしないで、よく観察してからというのが、何をする時でもヨーロッパ流なのでした。
レストランの前に出ているメニューを、立ちどまってジックリ睨んでいるのも、酒場でユックリ時間をかけて、サービスの内容と料金のバランスを計って女の品定めをしているのも、ヨーロッパ男のセオリーになっているようです。
これは、なんでも出来るだけ納得しようという精神なのでしょう。
そうこうするうちにフランソワにも、日本人の友達が出来、女にもありつけ、ポチポチとハシシも売れ始めたので、すべて計画どおりというわけでした。
「それなのに、日本に来てちょうど百日目のことだった。靴を脱ぐ日本の習慣をなぜか守らない野蛮な刑事が、ふたりでアパートに踏み込んで来ると、いきなり手錠をかけて、警察の留置場に放り込んだ」
信じられなかったのは、まるで下手糞で半分も意味の通じない通訳が、どうやら日当をもらっているプロのようだったことで、呆れているうちに、なんと三年の刑が確定してしまったのだと、栗色の|睫《まつ》|毛《げ》を悲しそうにパチパチさせたのでした。
外人懲役の扱いは私たちとはまるで違って、髪も坊主刈にされないし、朝夕の|裸検身《カンカンオドリ》もありません。
舎房にはスプリングの利いたマットレスがあって、三度の飯も動物性蛋白質や脂肪の多い、モトのかかった外人食を外人食堂で食べるのです。
こんなふうに扱わないと、たちまち大使館から文句がくるからです。これが文明国の懲役の最低基準ということならば、日本人懲役の扱われようは、これは間違いなく五十年も遅れている野蛮国のそれなのでした。
それに外人懲役の場合は、私たちと違ってとても長い仮釈放をもらえるので、フランソワも、三年の刑とはいっても、半分の一年半ほどつとめれば出所出来るはずでしたから、私がそう言って励ましてやると、
「それでもその後、強制出国をさせられてしまうそうだから、日本に二年もいたのに唐手を習うこともなく、結局は木を削っていただけだなんて思っただけでも堪らない」
なんてことなのだと、フランソワは涙ぐんでしまったのです。
まだ若いフランソワが、ほんの二年の無駄で、こんなに嘆いたりションボリしたりするのを見て、私にも思い当ることがありました。
それが若さというものかもしれませんが、私もこのフランソワと同じ歳の頃は、今では問題にもならないほどの短い年月でも、気が遠くなる思いがしたものです。
二十二歳でやっと夜学の高校を卒業した時、学資は充分あったのに、これから大学に入ると卒業するのが二十六歳になるのだと思うと、もうそれだけでゲンナリしてしまいました。そんな歳で大学を出たってどうにもなるものか、なんて思ったのです。
五十歳となった今では、もう消滅してしまった価値観が、その頃には立派に存在していて、私を大学に行かせませんでした。貴重な四年間を費して大学に行き、二十六歳で卒業するということが、なんとも割が悪く無駄なことに思えたのです。
この二十三歳のフランス青年が、日本の刑務所で無為に過す二年間を、焦り口惜しがり嘆いたのも、こんな自分の若い頃を思い出せば、分ってやれることでした。
私が二十歳の時に、一審で七年の求刑を打たれた[#「打たれた」に傍点]時は、二十七歳にならなければ満期にならないのだと思うと、これなら死刑でも一緒だと本当に思ったものです。
フランソワは、私たちや他の東洋人、それに黒人といった連中を見下すところもなく、ごく人柄のいい青年でしたから、溜息ばかりついているのを見ると、なんとも可哀そうでなりませんでした。
そんな時に、胸を張り肩をそびやかせ、ゴム草履を外股に踏み鳴らしながら、看守に連れられた山崎正義が、目をグルグルさせて工場に入って来たのです。
懲罰を喰らっていたのがようやく終り、この工場に配役されたのでした。
担当部長のいる高い担当台に連れて行かれる間にも、工場のあちこちから、
「あ、あれは山崎正義」
なんて|囁《ささや》く声が聴こえて来ました。無邪気な威勢を張りながら通路を行く山崎正義に、近くで働いていた懲役から、
「オース」
とか、
「よう、山崎さん」
部長に咎められないほどの声で、何人もの声がかかりました。
まだ未成年のチンピラ時代から私とは仲良しだったこの山崎正義は、今では大きな組織で出世頭の売り出し[#「売り出し」に傍点]でした。身体中に、そんな場面のヤクザだけが持つ、威勢と気合が|漲《みなぎ》っていたのです。
私とこの山崎正義とは、たしか同い歳でしたが、十八歳の時に、一対一の|素《ス》|手《デ》の|喧《ゴ》|嘩《ロ》をやって、お互いに相手の性根を認め合ったので、それからすっかり仲良くなりました。
今でも十代のチンピラたちは、あの頃の私たちのように、相手を探しては一所懸命闘っているのでしょうか。
私鉄の駅のプラットホームで、電車を待っていた私に、線路の向う側から山崎正義が大声で、
「おい安部、話があるから二、三日うちにどっかで、サシ[#「サシ」に傍点]で会うべい」
と言ったのに、私は指をポキポキ鳴らし、
「この野郎、二、三日待ったらどうなるってんだ。俺あ気が短いんだ。たった今でどうなんだ」
お互いに喧嘩のために飯を食べたり歯を磨いたりしていたような歳頃でした。
他に強い奴がいるなんて聴くと、そいつを殴り倒しぶちのめしてしまうまでは、落着かなくてしようがなかったほどです。
私と山崎正義とは、連れていた子分を駅に待たせて、ふたりきりで少し離れた空地に行くと、相対したのでした。
睨み合い、間合いを計るうちに、いきなり山崎正義は、叫びながら跳びあがると、宙に浮いたまま片足で私の腹を蹴り、すぐ続けてもう片一方の足で、胸板をしたたかに蹴とばしたのです。
その蹴りは両方共、私が普段喰らい慣れているパンチよりずっと利いて、息が詰り身体が重たくなると、目の前がぼやけました。
その時、跳びあがって私をふたつ蹴った相手が、思わず前かがみになった私の目の前に、ふわりと爪先で降りたのです。
地面に崩れそうなのを必死に耐えた私は、この一発しかないと、祈りを籠めた右のパンチを山崎正義の顎に叩き込みました。
あの時の、びっくりして目をいっぱいに見開いたまま、後ろに倒れていく山崎正義の顔を、今でもまるで昨日のことのように、ハッキリ覚えています。
すっかり仲良くなった私たちは、それからいいつきあい[#「いいつきあい」に傍点]を続けたのですが、時々山崎正義は苦笑して、
「油断だったよなあ、もう一度やれば、ナオちゃんには絶対負けない。十回やって十回勝つ」
と言っては、口惜しがりました。
その頃既に唐手の有段者だった山崎正義は、蹴りがふたつ完全に決ったと思って、私の前に降りたのが、油断で未熟だったというのです。
セオリーどおり横に着地していれば、断末魔の私の一発は、喰らわなかったのだそうです。
「唐手遣いとは知らなかったから、無邪気にぶっちめっこ[#「ぶっちめっこ」に傍点]をやったけど、こんどからは拳銃持って行くのに決ってるよ」
私が言ったのを聴くと、山崎正義は、鼻に皺を寄せると不機嫌な顔になって、
「そんな飛道具なんて、卑怯な……」
なんて呟いたのは、どうやらこの唐手の達人のヤクザが、素手でやる喧嘩を、スポーツのように思っていたからなのに違いありません。
私に言わせれば、今の時代に唐手なんていくら強くても、そんなものは日本の|超弩級《ちょうどきゅう》戦艦だった大和や武蔵と似たようなもので、アナクロニズムの権化としか思えないのです。
けどそんな唐手も、山崎正義の場合は実戦での効用はともかく、達人としての自信が、人間に風格と重みを加えていたのは事実でした。
「オー、ナオちゃん、しばらく見ないと思ってたら、こんなところで保養だったのかい」
指の関節がひとつずつ、冷えたタコ焼のようになっている拳固で、山崎正義は私の背中をドスドスと叩いて、とても嬉しそうでした。
これはなんとも説明がつき難いことですが、刑務所に限らず、警察の留置場でも地検の待合室でも、捕まっている場面で顔見知りに会うと、それが少々気まずい相手だって、なんとも嬉しいものなのです。
仲のいい同士なら|尚《なお》|更《さら》で、私と山崎正義とは手を取り合って、いいオッサンが少年のように、再会を喜び合ったのでした。
「|此《こん》|度《ど》の二年六月は、ナオちゃんと一緒だから、英語でも教えてもらうべいか」
その時私の身体を、天の啓示のようなものが、足の指の水虫の棲みかからツムジまで、走り抜けて行ったのです。
「正ちゃんッ、英語なんて通訳を頼めば、そのほうが間違いがないし、金髪女だったら、喋らずに忙しくしてればいいんだ。それより、頼みがあるから聴いてくんない」
こんな可哀そうなフランス人を、どうぞ塀の中にいる間は弟子にして、唐手を教えてやって欲しいのだと、私はフランソワ・ガルダンの話を、詳しく山崎正義に話したのです。
「唐手は武道だから、塀の中やら外国人とやらいっても、道にのっとった師匠と弟子にならないと、いい加減には教えられないんだ。そのフランス人は、弟子としての道が守れるのかな」
山崎正義は、腕を組むと目をつむって、しばらく考えてからそう言いました。
それから、弟子が師に対する礼法を、ひとつひとつ語ると、
「こんなこと外人にはまず無理だろう、三日ももたないに決ってるけど、事情は聴いたしナオちゃんの口利きだから、やるというのなら教えてやるよ。俺だって、男を売る稼業の若いもんだぜ」
山崎正義がそう言ってくれたので、私は、フランソワの|役《えき》|席《せき》に行くと、
「オイ、朝はパンだけしか食わないケチンボのフランス人よ、二年が無駄にならなくて済むと言ったら、喜んで俺にフレンチ・キスをしてくれるかい。なんと唐手の七段という大変な懲役がいて、お前を弟子にしてもいいと言ってるんだ」
一も二もなく大喜びすると思ったフランソワなのに、喜びはしたものの返って来た返事は、ちょっと山崎正義に伝えるのに神経を使わなければならないようなものでした。
「その人が、どれほどの腕か知ってから弟子にしてもらいたい。とにかくあなたの話では、弟子になれば先生を君主のように思わなければならないらしいのだから、自分で納得してから弟子になりたい」
フランソワの言い分は、たしかにそれはそうなのですが、日本のそれもヤクザを相手に通訳をするのは、気の重い話でした。
やはり山崎正義は、それを聴くと不快そうに眉の間に立皺を寄せて、フンと鼻を鳴らしたのです。
その日の昼飯のおかずだったサンマの頭を、|掃《そう》|夫《ふ》に言って三つほど食堂に置いておいてもらった山崎正義は、午後の休憩時間になると、私とフランソワとを食堂に連れて行きました。
初夏の頃でしたから、サンマの頭の臭いに蠅が集まってきていて、食堂の中を高く低く飛びまわっていたのです。
山崎正義は、低く気合を発すると、並んでいるテーブルの上に飛びあがり、そのまま動きをとめずに、軽やかに音も|発《た》てずにテーブルの上を飛びまわって、宙を突き空を蹴りました。
時間にすればほんの二十秒もかかってはいなかったでしょう。
床に飛び降りて、両腕を前に垂らし目を細めて息を整える山崎正義でしたが、もう食堂の中を飛んでいる蠅は、一匹もいません。
これは神技というべきで、これほど鮮やかな演武を、私はそれまでに見たこともなかったほどです。
「全部で七匹落ちている。サ、集めなさい」
驚きで顔を紅く上気させたフランソワは、テーブルの間を探しまわって蠅を見つけると、山崎正義の前のテーブルに集めて、そのまま後ろに飛び|退《すさ》ると床に正座したのです。
「師の腕を試そうなんて太い小僧だから、この蠅を食わせるべいと思ったけど、ここは病気になってもロクに薬もねえところだから許してやる。今から弟子にしてやるから、気を入れて修業するように」
フランソワは、額を床につくほど低く下げて、ギゴチなく平べったくなってお辞儀をしたのです。
それからというもの、毎日休憩時間と運動時間になると、フランス人の弟子は、日本人のヤクザの師について、栗色の髪を汗で額に貼りつけながら、稽古に励みました。
山崎正義のそばには、いつでもフランソワが、顔を引き締めて付き添っていて、顔を洗えば横から乾いたタオルをサッと出し、朝と夕方の二回、
「先生ッお早うございます。本日もよろしくお願い致しますッ」
「有難う存じました。明日もよろしくお願い申し上げますッ」
と、工場中に響く大声で叫んだのでした。
これも私がローマ字で書いてやったのを、覚えたのですから、最初の頃は、分るのは「センセイッ」というところだけだったのです。
夏の工場で仕事をさせられていると、冷房はおろか扇風機もないので、着ている物も汗まみれになるのですが、履いている運動靴もビッショリ濡れてしまいます。
放っておけば大変な臭いになるので、フランソワは山崎正義の運動靴を、毎日作業が終ると、|束《たわ》|子《し》にシャボンをつけて洗いました。
洗っている弟子をヤクザの師は、|巨《おお》きな拳固で頭をゴチンと叩いて、
「コラッ、そんな性根でどうする。安部先生のも洗わんのかッ、入門の口を利いて下さった恩人だろうがッ、お前が笑われるのは師の俺が笑われるのと同じだと、何遍言えば分るんだ、馬鹿もんッ」
呆れている私に、さあ通訳しろと目をむいてみせる山崎正義でしたが、行きがかり上、この師弟に付き添って通訳をしていた私も、自分の運動靴のことですから、この時だけはとても困ったのです。
いつでも工場にいる時は、フランソワは山崎正義の後ろを、神妙な顔で付いてまわるので、日本のヤクザが、外国人で、しかも白人の男を家来か子分にしたように見えました。
これには工場の担当部長も呆れたようで、私に、フランス大使館に知れると文句が来るかもしれないぞ、と言ったほどです。
そうするうちにも、フランソワは、蹴りや突き、それに踊りの型のような防御と攻撃のコンビネーションといったことを、次々と山崎正義に教え込まれて腕をあげました。
そして毎日一度は必ず、見ている私が思わず首をすくめるほどの、痛そうな拳固で、頭をゴチンと叩かれたのです。
「ナオちゃんも、どうせ横にいるんだから、この際俺の弟子になったらどうだい。俺も出所したら拳銃を教えてもらうから、そしたらツッペ[#「ツッペ」に傍点]で(相殺されて)、どちらが安目[#「安目」に傍点]ってこともないよ」
山崎正義の言ったのは、ここで私が弟子になっても、すぐ弟子になり返すから、それで対等の関係は崩れないから心配するな、ということなのです。
|安《やす》|目《め》とは、目上のことを|高《たか》|目《め》と言う逆で、目下とか格下という意味でした。
私が、いいよ、やめておくよと言うと、山崎正義は、
「チェッ、お前さんは拳銃さえ持てば、唐手なんて屁でもないと思ってるらしいけど、それはまあそうだとしてもだ、唐手の道を究める心と修業が、いいヤクザを作るんだぜ。
これは喧嘩の勝ち負けとはあまり関係がなくても、急所だから、ここんところを俺の言葉の通じねえ弟子に、しっかり伝えてくんなよ。お前さんと俺とは考えが違うようだけど、縁あって通訳なんだから頼むよ」
唐手の道を究めたヤクザですから、こんなところは、しっかりと念を押したのです。
一年と少し経つと、フランソワもすっかり恰好がついて、|疳《かん》高くて黄色い声で気合をかけると、蹴ったり突いたり跳びあがったり、たいていのことは出来るようになりました。
「短い時間でも、週に六日、休みなしで教わるんだから、この一年は塀の外の二年以上だろうぜ。もうこの工場じゃ相手になるのは何人もいねえほど強いよ。誰か俺の弟子に喧嘩を売らねえかな」
なんて山崎正義は、とっても上機嫌でした。
まためぐって来た夏が過ぎかけて、風の中に涼しいのが混じりはじめた頃、フランソワは師の前に正座すると、私に、間もなく出所することになると伝えて欲しいと言ったのです。
大使館の男が面会に来て、そう言ったのだそうですが、もういつ仮釈放になっても、不思議ではありませんでした。
「そうか、それは目出度い」
と、山崎正義は微笑んで頷くと、見上げていたフランソワの目が、急に湧き出して来た涙の底に沈みました。
「それじゃパリにいる同門の後輩に、添書を書いてやろう。お前は死ぬまで俺の弟子だけど、しばらくこの後輩に預かってもらおう」
フランソワが工場計算夫から紙を一枚もらって来ると、山崎正義は、
“フランス人、ディジョン出身のフランソワ・ガルダンは、小生の弟子で初段の実力を持つものであります。よろしく御指導を賜り度く願い上げます”
何某殿とパリの後輩の名前を書いてから、○○一家□□組代貸、山崎正義と、マジック・インクを躍らせて、その横に、唐手の流派の名前と七段という段位を書き添えたのです。
首を伸ばして山崎正義の縦に書く不思議な文字を、見詰めていたフランソワに、文面を私が訳して聴かせると、ビー玉のような緑の瞳を輝かせて、
「師は、本当に私がブラック・ベルトの力を持っていると、そう書いて下さったのですか」
と、喉の詰ったような声を出すと、山崎正義の両手をしっかりと握って、おしいただくようにしたのでした。
「強制退去だから、お前はもう日本には来られねえけど、俺がフランスに行った時はいい女を吟味して、よくフランス語で言いきかせた上で、細いのや丸いのを何人でも連れて来るんだぞ、と、ナオちゃん上手に、師の俺が浅ましく思われねえように言っておくれ」
山崎正義は、そんな無理なことを子供のような顔で言ったのです。
フランソワは、それから間もなく、師の山崎正義に顔を真っ赤にして何度も礼を言うと、私にも様子をあらためて念入りに感謝の言葉を言って、出所して行きました。
それを見送った私たちですが、
「誰も褒美もくれねえけど、どうやら俺たちはいいことをしてやれたようだぜ。お前さんも長いこと本当にご苦労さま」
私が言うと、山崎正義も満足そうに頷いてから、遠くを見ているような目をして、腕組をすると胸を張ったのでした。
紙に鉛筆で、ディジョンの辛子……と、なんの気なしに落書していた私が、
「あ、フランソワの奴は、ディジョンの唐手だあ」
なんて、馬鹿な語呂合せを思いついて、ケロケロ笑っていると、なんのことだと山崎正義が訊きます。
「フランソワの在所のディジョンは、辛子が名産で有名なんだ」
片仮名で大きくディジョンと書いて、下に私が漢字で、辛子と唐手と並べて書いて見せると、
「辛子が名産なら、きっと、わさびの伊豆や静岡と、ディジョンは似たようなところかな」
山崎正義は、喉仏を一度大きく上下させました。
塀の中では、辛子もわさびも唐辛子も、香辛料はまず滅多に懲役には食べさせません。
時々思い出すと、誰でも食べたくて堪らなくなってしまうのでした。
副社長の服役
前に|掃《そう》|夫《ふ》のことを書きましたが、木工場の懲役には、生産ラインに|配《はい》|役《えき》されている者の他にも、いくつかこんな|役《えき》|席《せき》や|位《くらい》がありました。
いわゆる囚人頭は、これももちろん官[#「官」に傍点]が選ぶのですが、漢字ではどう書くのでしょうか、「ブンタイ」と呼ばれていて、その懲役だけ、作業帽に黒い線を一本巻いていました。
このブンタイの役は、朝夕の点呼の時に号令をかけたりすることで、その頃木工場のブンタイをしていた強盗は、土曜日とか免業日の前の終業点呼になると、最後に、
「明日は免業、静かに読書」
と叫ぶのが得意でしたが、これが妙に語呂が良かったのです。
他には、「工場計算」「貸与」「掃夫」といて、これが木工場の懲役の三役でした。
囚人頭のブンタイは、生産ラインに就いているのですが、他の三人は,それが専門の仕事です。
「工場計算」と「貸与」は、工場を見渡せるように高く作ってある担当台の下に、それぞれ畳二枚ほどのスペースをもらっていて、工場計算は担当部長の事務の手伝いを、貸与は、衣類とか履物を支給する係をしていました。
この頃木工場の工場計算をしていたのは、石橋誠という殺人未遂で、四年の刑を喰らった三十三歳の男でした。
作業帽に赤線を一本巻いて、いつでもなにやら帳簿をつけたり、画板を持って木工場の中を忙しく役席をまわっては、懲役たちの指印を採っていたのです。
刑務所は役所なので、なんにでもハンコが要るのですが、懲役はそんなもの持ってなんかいませんから、工場計算の石橋誠は黒いスタンプ・パッドと、画板に貼った書類を持つと、木工場の中をあちこちして,懲役たちの左人差指の指印を集めてまわるのです。
筋肉のしっかりついた背の高い男で、顔も険はあるものの、二枚目と呼べるほどのものでしたし、キツい顔に似ず、心根は優しい男でした。
私はその頃、永年過して来た無頼な世界の生存競争に負けて、他に生きて行く道を探さなければならなくなっていましたから、木工場の懲役でまっとうな仕事の経験を持った者がいると、いろいろあれこれ、
「年季がどのくらいかかるものだ」
とか、
「みいりは、一丁前になるといくらほどだ」
とか訊いてまわっていたのです。
この工場計算の石橋誠は、自分でもずっとトラックに乗っていた、元運輸会社の副社長ということでした。
とりあえずは大型の免許証だけが、まっとうな堅気になれる頼みの綱という私でしたので、仇名をワカフク[#「ワカフク」に傍点]という石橋誠をつかまえて、しつこく訊いたのです。
そしてこのワカフクも、少しも面倒がらずに、散々脇道にそれましたが、いろいろと念入りに話してくれたのでした。
ワカフクという仇名は、若旦那の副社長だったからだということですが、当人の言うのには、
「それは捕まる前のことで、ジジチョー[#「ジジチョー」に傍点]に手提金庫を投げつけた途端にぱくられて、トラック四台の大運輸会社の副社長は解任されちまったから、そう呼ばれて悪い気はしないけど、もう本当の所はワカフクじゃないんだ」
ということで、このたび出所すると、また運転手からやり直しなのだそうです。
ジジチョーというのは、爺いの社長だ、と言いました。
「安部さんもトラックに乗るんなら、ウンと小さい、一台か二台のところを選ばないと、すぐに前科がばれちまうよ」
ワカフクも、良く働いて二台が四台に増えたのが災難で、運送業者の協会の定めとかで、運転手の前科照会をやることになって、それで以前の傷害前科がばれてしまったのだそうです。
業者の協会にはお巡りの古手が天下りしているので、前科照会なんか簡単だというのですから堪りません。
それに免許証の末尾の数字に仕掛があって、刑務所の中で期限が切れ出所の時に「在監証明」をもらって再交附を受けた者は、ひと目で分ってしまうのだそうです。
「病院に入院してる間に切れた人も、免許証の末尾の数字は自分たちと同じだから、そんな人はウンと少ないけど、運送屋の面接で訊かれたら『交通事故で入院してた』って言うといいよ」
ワカフクの話は、いたれりつくせりでした。
私がいろいろと、運転手稼業について質問する間に、ワカフクは歳とった社長のジジチョーに手提金庫を投げつけてしまって、殺人未遂で起訴されてしまった顛末を話してくれました。
「うわて[#「うわて」に傍点](以前)の傷害前科が、ばれちまってからというものは、それでなくても自慢のひとり娘の亭主だった俺が気にいらなかったジジチョーは、分るでしょう、例のなんとも嫌な目で見るようになりやがって……。
ブッ殺すぞ、この爺いッて、手提金庫の小さいのを投げたのが、普通なら傷害で、せいぜいが二年ほどで済むというのに、前科者がひとり娘をたらしこんでと、警察も検事も、裁判官までがそう決めたから、倍の四年でさあね。
前科者は、腹を立てても、口には気をつけないとね、……たくもう」
こんなひと声でも、それで殺意があった、なんて認められてしまうのですから、前科者は堪りません。
ワカフクも、未決の拘置所にいる間に、ジジチョーの娘との離婚届に判をついたのだと言いました。
「国選の弁護人なんて、事実関係では争わずに、ただ情状だけをボソボソやるだけだし、この離婚届に判を押すのだって、そうすれば判決の情が良くなる[#「情が良くなる」に傍点]ようなことばかり、皆で寄ってたかって言うんだから、もうそんな時の前科者なんて、まるで袋叩きのいじめられっ子みたいなもんでさあね」
それはそうだったろう、と私にも想像のつく場面です。
代議士とか大金持でもないと、前科者はいつでもこんな目に遭い続けているのですから。
それにしても、これは余談になって恐縮ですが、私はなんと恵まれた前科者でしょう。
工作社の山本夏彦先生以下、社員皆さんの前科者に対するわけへだての無さ、見る目の当り前なこと、他に類がありません。
ひとりとか夫婦者ならともかく、三人以上人数のまとまったところで、こんなところを私は他に存じませんから、感謝しつつ伺うとついつい尻が長くなってしまうのです。
それはさておき……。
工場計算のワカフクこと石橋誠は、出所したら運転手をしようかという私に、それは親切に|蘊《うん》|蓄《ちく》を傾けてくれました。
積み降ろしが楽だからとダンプに乗る人が多いけど、荷台にこびりついた泥を掻き落すのが大変だから、それならポンプで全部やってしまうタンク・ローリーのほうがよろしいとか……。
娘に惚れられても、家が運送屋で、出来のいい娘だったら、こっちも惚れていようと、とにかく一緒になってはいけない……。なんていう話が、感謝と一緒に私の記憶に残っています。
出来のいい娘だと、娘の父親は尚更、婿の前科を知ると狂ってしまうようだ、と石橋誠は、目を伏せて言ったのでした。
今頃、元木工場の工場計算、石橋誠は、日本のどこいらあたりを走っているのでしょう。倖せでいてくれと願うのです。
二度は生えない?
作業帽に、ひとりだけ黒い線を一本巻いている木工場の|囚人頭《ブンタイ》は、吉田良夫という、強盗で五年の刑をつとめている、三十なかばの懲役でした。
これが二度目の強盗罪と聴くと、誰でも、余程凶悪な……と思うのですが、この囚人頭の吉田良夫は、口の周りの髭さえちゃんと|剃《そ》っていれば、まっとうな方たちと変らないごく普通の男だったのです。
それというのも、木工場の懲役たちは、入浴のたびに|掃《そう》|夫《ふ》が舎房に入れてくれる、刃がはずせないようにホルダーにネジ止めになっている安全カミソリで髭を剃るのですが、面倒臭がってそれをパスしたりすると、漫画の懲役のように、口の周りが無精髭でグルリと黒くなり、そうなれば誰でも、随分と悪い人相になってしまうのでした。
もっとも当人の吉田良夫に言わせると、人相が再犯の強盗並みでないのも当り前だそうで、普段は可愛い|こ《ノ》そ|泥《ビ》なのだそうです。
これが二度目の強盗罪とはいっても、いずれもこそ泥の仕事中に、家人や近所の人に見咎められ、追い詰められた結果なのだと言って、
「ネズミだって、逃げられないように追い詰めれば、猫に噛みつくでしょう。私だって逃がしてくれれば五年も喰らわないで、せいぜい半分ほどで済んだのに……」
と、さかんにぼやいていました。聴かされた私は、同じ工場で働かされている前科者同士ですから、
「そうだな、本当だな、大変だったな」
なんて、一緒になって眉をしかめながら、|相《あい》|槌《づち》を打ってやったりしたのです。しかし、空巣やこそ泥を見付け、追いかけ、そして追い詰めて牙をむかれてしまった御町内の方たちにしたら、これはまたまるで別な理屈だろうに違いありません。
強盗かこそ泥かということは、ともかくとして、その時は剃りたての、まっとうな方たち並みの顔で、私のリップソーのところまでやって来た吉田良夫でしたが、作業の手をとめて顔をあげた私に、
「この春に栄転して来た作業部長が、『作業成績向上に関する提案』なんて、いかにも木ッ葉[#「木ッ葉」に傍点]の思い付きそうなのを募集すると決めたので、それが宮仕えの悲しさでしょうて、ウチの担当部長も妙に力が入っちまって、『ウチの工場からも、とびきりの一発を出せ』というようなことで……。
そうなれば、うわて[#「うわて」に傍点]の(以前の……)ことはあっても、なんといってもエースは安部さんですから、ここは一番協力してまともな奴を作って下さいな」
そんなことを、上目遣いで言ったのでした。
うわてのことはあっても……、と言ったのは、前回、官が募集した「安全作業の標語」の時に、普段私が所内誌の常連ライターであることから、担当部長の白羽の矢が立ってしまい、嫌がる私にこの吉田良夫が、
「けど、断わって作んなかったら、随分と角が立って、仮釈にも響きかねませんぜ」
なんて言ったので、面倒臭くなって、「大事にしよう手や足も、チンポと同じ、二度は生えない」
というのを作って、担当部長が代休をとった日を選んで提出したのですが、|矢《や》|張《は》り官は、「ふざけるな」と怒ってしまって、あやうく|非《ひ》|道《ど》い目に遭うところでした。
私の見たところ、刑務所に限らずどこでも、そこにある自由の量や質と、スローガンや標語の数は、反比例の関係にあるように思えます。
刑務所の中も勿論その例外ではなく、そこいらじゅうにつまんなくて白々しい標語ばかり、|矢《や》|鱈《たら》とベタベタ貼ってあって、読む者はおろか、目を向ける懲役だっていやしません。
正直なところ、野蛮で教養の足りないのが揃っている懲役なので、こんな環境におかれると、異常なほどの関心を「自分の武器」に集中して、叩き鍛えたり、磨きたてたり、歯|刷子《ブラシ》の柄を磨いて作った玉を埋め込んだりしているのです。
そんな刑務所の、安全作業の標語ですから、この時の私のは、貼っておけば間違いなく懲役たちの、少なくとも注目は集めるものであったのですが、頭がいびつな国家公務員の看守は、見るなりカンスケに怒ったのでした。
この時も、気のすすまなかった私が、エイヤッと書いて渡したのを、吉田良夫はその場で見るなり膝を叩いて笑い、
「安部さん。これはすごい。すごいけど、官の芋には分りませんよ。分らないどころか、怒るに違いありません。悪いこと言わないから、なんかもひとつ別なのを……」
なんて言ったのでしたが、
「馬鹿野郎、これで上等じゃねえか、お前は黙って出しときゃいいんだ」
と、むかっぱらを立てた私に怒鳴られ、後で官が怒った時にもとばっちりを喰らって、吉田良夫は担当部長に、ミッチリ叱言を言われたというのですから堪りません。
|囚人頭《ブンタイ》というのは、官と懲役との間で、|洒《しゃ》|落《れ》て言えば、クッションかコーディネーターのようなことを、毎日つとめなければならないのですから、これはたいていの懲役ではとても出来ない難しい役どころでした。
官にべったりでは身がもちません。
ひと月も経たないうちに、腹を立てた懲役の中から特攻隊のような奴が現れて、喧嘩を吹きかけると、これが抱き落し[#「抱き落し」に傍点]という奥の手で、一緒に懲罰房に連れ込まれてしまうに決っています。
逆に、いつでも懲役たちのサイドに立てば、失望した官は、必ずすぐに手酷い目に遭わせるに違いありません。
このごくまともな顔をした吉田良夫は、要領よく器用に、木工場の|囚人頭《ブンタイ》という役をこなしていました。
「こんだ[#「こんだ」に傍点]は安部さん、御自分のためにも、ひとつ官の大喜びするような奴を、編み出して下さいよ。町場の木工場と違って、官のやってるこんな工場ですから、いくらでもいい提案が出来るでしょう」
私は、少しの間考えさせろ、と言ったのでしたが、何日経ってもなんの考えもまとまりはしなかったのです。
官の大喜びするような提案を、考え出してしまいそうな自分が嫌で、無意識に尚更他のことを考えて時間を過したりしていたのに違いありません。
吉田良夫は毎日リップソーのところまでやって来ては、一緒に考えてくれようとしたのですが、締切が迫ると共に、とうとう私の心も知ったようで、笑って溜息をつくと、
「安部さんは、私のような懲役を見ると、きっと、随分器用で嫌な奴、と思っておいででしょうね。製材の繁さんが、随分といい提案を出してくれましたから、それを安部さんと、共同提案ってことにしておきますからまかせといて下さい。私は器用なんですから……」
吉田良夫がそう言って微笑んだ淋しげな笑顔には、|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》ったようではなく、私に対しての好意が溢れていました。
「悪いなブンタイ。面倒見てもらって。不器用というより子供染みているのには、自分で自分にウンザリしてるぜ。勘弁しておくんなよ」
私が謝ると、吉田良夫は右手をしきりと顔の前で振っては、頷いてくれました。
この男だって決して器用ではないのです。
再犯の前科者なのですから……。
種目があれば金メダル
府中刑務所では、毎年五月から十月までが蚊の季節でした。
五月になると、あの嫌な羽音が聴こえ出し、六月には随分と増えて、七月から九月までの間は、もう人間の刑務所というより蚊の養殖場です。それはもう無数の蚊でした。
それでも十月になると急に減って、やっと懲役たちはぐっすり眠れるのです。
その真っ盛りの頃は、朝起きると高くて白い雑居房の天井に、夜の間に懲役たちの血を吸って、丸くふくらんだ蚊が、黒胡麻を|撒《ま》いたようにとまっているのでした。
強く叩きつけると、天井が血で汚れてしまうので、懲役たちは濡らした雑巾を、静かにスーッとほうりあげるのです。
雑巾が速度を失ったところで、ちょうど天井にふれて、蚊を潰さずに気を失わせ、雑巾にくっついて一緒に落ちて来る。というのが、理想的なピッチでした。
「蚊にしてみたら、こんな雑巾が軽く当ったんでも、俺たちが後楽園球場をソッとぶつけられたのと、同じようなもんで、堪らず目をまわしちまうんだろうぜ。普段の朝は、全部までやっつけきれないけど、免業日には皆殺しだ」
「製材」の繁は、この術の創案者だけあって、上手でしたし、それにとにかく熱心でした。
なぜか刑務所の舎房の天井は、どこもとても高くて、背の高い懲役が跳んでも、なかなか指先がつかないほどです。
小柄な繁は、免業日になると、濡れ雑巾を握って天井を睨み、蚊をやっつけるのに熱中していました。
「懲役の血を吸うなんて、いくら虫でも性根が腐ってら。俺はもう徹底的にやっつけると決めて、おととしから毎日、殺した数をノートにチャンとつけてんだぜ。今のこの一匹で、何匹になったと思う」
阿呆臭くて誰も返事をしないような、そんなことを言いながら、蚊の季節にはとても忙しそうな繁でした。
けど、他の舎房はもちろんですが、こんなに|矢《や》|鱈《たら》と精を出す繁のいる舎房にしても、いくら殺しても次の日には、もう元どおりになっていて減りもなんにもしないのです。
「蚊ってえのは横着なのか阿呆なのか、顔とか腕なんて、手の届くところで飯にせずに、背中とか足の裏にすれば、こんなふうにぶっ殺されもしねえものを……」
ピシャリとやって誰かが言うと、
「ゴキブリだって似たもんだぜ。舎房の板の間をチョロチョロしてるけど、なんだってまあよりによってこんな、日本中でも滅多にないほど食い物のねえところによ。俺たちと違って羽が付いてんだから、どこにでも行けば、ここよりましに決ってら」
懲役たちがそんな話をしていると、
「俺は、夏の独居で蒸され[#「蒸され」に傍点]てた時に、スゴイ術を身につけたんだが、雑居ではちょっと広過ぎて使えねえや」
繁が訊いて欲しそうに、そんなことを言ったのですが、どうもタイミングが悪かったようで、その時は誰も、
「ヘエ、どんな術だい」
なんて訊いてくれなかったのです。
これも懲らしめのうちなのでしょうが、とにかく蚊取線香もなければ、蚊帳もなんにもないのですから、寝ている間は蚊を防ぎようがなくて、食われ放しですから堪りません。
ただ矢鱈と寝返りをうち、ボリボリやるだけなのですが、それでもたまに手の届くところでチクッとすると、懲役はそのまま息を殺し、蚊が少し血を吸うまで、ジッと我慢するのです。
これはこうすると、蚊の逃げるのがほんの少しだけ遅れるので、やっつける率が高くなるのです。そうしておいてから、見当をつけておいたところか、横目で睨んでおいたところを思い切りひっぱたくのでした。
「独居にいた頃、窓枠の隅に小さなクモが、シケた巣を張っててね、捕えた蚊で俺が養っていたんだけど、これが生きてるのか失神してるのでなきゃ駄目で、潰れたのやオロク[#「オロク」に傍点](死んだの)では食べないんだ。うるせえんだね」
それで、濡れ雑巾をフワッと当てるのを工夫したのだと、繁は私を掴まえるとこんな話ばかりしたのです。
繁は、まだ三十歳になったばかりの若さでしたが、少年の頃から施設や刑務所に、出たり入ったりを繰り返していたので、こんなことにしても、塀の中での過し方には、なんともいえない哀しい熟練がありました。
「満期までは、嫌んなったからって何処にも出て行けるところでもないんだし、寄せ場[#「寄せ場」に傍点]ではこんなことでもやってるしかねえや。それでも蚊のいる間こうしてると、自然と半年ほどは経っちまうよ」
実は、昨日でついに五百匹を越えたのだと、誰も聴いてなんかいないし、聴いていたところでどうってこともないのに、繁は、声をひそめて私に|囁《ささや》いたのです。
繁は|泥棒《ウカンムリ》も空巣が専門で、今回は三年の刑でしたが、普段は、施設育ち特有の、血の気の引いたような顔色をして、無愛想なのに、満期の話をするとなると、人並みに嬉しそうな顔をしました。
この夏が過ぎて涼しくなり、そして赤くなった桜の葉が散り始めれば、もうこっちのもんで満期なのだと言ったのです。
「それじゃ記録を伸ばすのも今のうちだ。九月もなかば過ぎると、蚊も急に減るぜ」
私がけしかけると、繁は腕を組み、しばらくの間しかつめらしい顔をしていたのは、まるで市会議員が、愛人のお手当の増額でも考えている時のようでした。
「ノートにつけ始める前に、確かに、軽く百匹以上はやっつけてるんだ。それを内輪でいいから、そうだな八十匹は足してもいいだろうよ」
と言うと、またしばらくの間、眉をしかめて考えていたのですが、
「裁判官だって、矢鱈と認定[#「認定」に傍点]するんだから、俺だって、やっつけた蚊を八十五匹と認定するんだ。これだってウンと内輪なんだ」
なぜかたちまち五匹増えたのが、なんとも言えず繁らしくて、おかしかったのです。
無造作に、ただボーボーと焼却炉で燃やしている製材の切り落しは、立派な木切れですから、いろいろに切って面を取り、塗る物も塗って積木を作る、というのが、繁の「作業成績向上に関する提案」でした。
モトはかからないし、全部木工場で出来る手慣れた工程なのですから、これは素晴らしい提案で、材料にする木切れだって、繁の製材からだけでも、嫌というほど出るのです。
これを私と共同提案にしてくれたのも、繁が私に好意を持っていてくれたからなので、けしかけるばかりではなく、少し何かしてやらなくては、と思った私は、記録を伸ばすのに汗まみれの繁に、
「独居で身に付けたスゴイ術ってなんだい」
と訊いてやると、繁は初めて見る、子供のような顔をしたのです。
「なあに、輪ゴムを指にピストルのようにひっかけて、飛ばすあれなんだけど、狭い独居の真中に坐ってね、それで壁や天井にとまっている蚊を、やっつけるんだ。
最初はまるで当んなかったけど、毎日続けてやったら、ふた月もすると、五発に二発は必ず当るようになったんだ。続けて四発当てたことだってあったよ。蚊にだぜ」
話すうちに、私を信じさせたくなった繁は、珍しくむきになると、繰り返し同じようなことを、いろいろ言ったのですが、
「信じるさ繁、お前は輪ゴムを撃たせれば、きっと世界でも何番目かのもんだろう」
私が真面目な顔で言ってやると、なぜか繁は、急に白けてしまったようだったのです。
満期が見えたら……
刑務所の夏は、逃げようもかわしようもない、もう滅茶苦茶な暑さです。
木工場では、中庭側も通路に面した側も、引違いの窓を一杯に開けるのですが、まず滅多にいい風なんて吹き抜けてくれません。
工場の屋根は、きっと目玉焼が焼けるほど熱くなっているのでしょう。広い木工場全体に、よどんだ熱気が詰っていて、少し精を出すと、履いている運動靴の底に汗が溜ってしまうほどでした。
暑いのは舎房も同じでした。昼間のカンカン照りで、昭和十年製の分厚いコンクリ[#「コンクリ」に傍点]が芯まで熱を蓄えてしまって、夜になっても熱気が籠ってさめません。
そして懲役には冷した水も扇風機もなくて、小さなビニールの|団扇《うちわ》だけなのです。
「ここならきっと、バナナがよくむれるぜ」
以前、バナナを熟させる|倉《む》|庫《ろ》に忍びこんだことがあるという、田宮俊光が言いました。この男は新入りで落ちて[#「落ちて」に傍点]くるとすぐ、前章で述べたあの繁の後任に|配《はい》|役《えき》された泥棒です。今回は二年|六《ろく》|月《げつ》でした。
私という見届人[#「見届人」に傍点]を得て、蚊をやっつけるのに熱中しているように見えた繁ですが、それから間もない八月の中旬、|茹《ゆ》であげられるように暑い木工場で反則をぱくられてしまったのでした。
横挽きの自動鋸で長さを揃えた角材を、高射砲の弾倉のようなアングルに詰めます。すると、次々に一本ずつ機械の中に落ち、納まって固定されると回転しだして、何本かの細い園芸シャベルのような刃が降りてきます。
ガガザーッズズズズッと、三十秒もかからずに、削れて凸凹が付き、回転が停るとはずれて下の受籠に落ち、すぐ続いて次の角材が落ちて来て……。というのが、それまで繁がひとりで受持っていた製材の機械です。
中央を貫通している広い通路をへだてて、私のリップソーは製材と向いあっていました。
気が付くと、昼過ぎの木工場で、繁の|役《えき》|席《せき》だけ音が止ったままでした。首を伸ばして見ると繁の奴、いつからそうしていたのか、丸椅子に坐ってボケッとしていたのです。
その時木工場に来ていた看守は若くて、懲役を痛めるのが楽しみのような、よくいるタイプの悪い奴[#「悪い奴」に傍点]でした。
蛇かトカゲのような目で、うなるような作り声を出し、いつも懲役を|非《ひ》|道《ど》い目に遭わせようと、刑務所の中を狂犬のようにうろついている奴でしたから、
「あ、繁の奴、やばいな」
と思ったのですが、その時はもう手遅れで、小柄で貧しい顔をとんがらせた、スピッツの雑種のようなその若い看守は、アッという間に繁の前に険しい様子で立っていました。
「コラあ、誰が休んでいいと言った。アン」
この若さでこんな口調をいったいどこで覚えたのだろうと思うほどの、なんともいえず陰険で横柄な、そして居丈高な声が、手押車を押して通路に出た私の耳に聴こえました。
繁は丸椅子に坐ったまま、細い目をあげ、
「俺が決めたさ、もう働きたくねえのよ」
木工場の騒音の中でも、繁の低いけど腹をきめた声はよく通りました。
「ナニイッ、この野郎ッ、ふざけやがって」
続いて、上ずった看守の声がしました。
通路には私の他に、私の助手と隣りの自動|鉋《かんな》の二人も、難しい顔でのっそり立っていましたから、万一の騒ぎが恐ろしくて、看守も蹴とばしたりは出来ません。
繁の腕を掴むと木工場の外に連れ出したのですが、繁は私の横を通る時に、
「大事にやって下さい。また会いましょう」
と言い、それを耳にした看守は腹を立てて繁の肩を手荒に押したのでした。
看守と一緒に木工場から連れ去られた繁ですが、それからどうなるかというと、まず木工場のある北部区の管区(看守の事務室)に連れて行かれて、そこで看守たちから怒鳴りまくられ、非道い言葉を散々に浴びせられます。
それが終ると取調べの独居房に二十日ほど放り込まれ、その間は時々引き出されて取調べられる他は、朝から夕方まで紙袋を貼らされるのに決っていました。
取調べといういたぶり[#「いたぶり」に傍点]が何度かあって、二十日も経つと懲罰の言い渡しです。
繁の場合だと「作業拒否」だけですから、二十日ほどの|軽《けい》|屏《へい》|禁《きん》でしょう。
これは、窓に目隠しのしてある暗い懲罰房で、本もラジオも面会も禁じられ、一日中木の床に坐ったまま、横になることもゆるされずに過す懲罰です。飯も最小の|五《ご》|等《とう》|飯《めし》で、木工場で食べていた二等飯の三分の一ほどに減らされます。
この軽屏禁は、官の規定で最高が六十日までと決っているほどですから、これはとても辛い懲罰でした。こんな苦しい懲罰を承知の上で、それでも繁は木工場から去って行ったのです。
繁は、仕事が嫌になったのではなく、木工場から独居房に脱出しようとして、この作業拒否をやってのけたのでした。
「繁の奴はまだ若いから、自分の満期は見えても、この工場の懲役の程度のよさは見えなかったんだな」
木工場の懲役たちは、こんなことを言う者が多かったのですが、子供の頃から施設や刑務所で永く過して来た繁は、他の懲役たちとは身に付けている危機感に差があったのです。
というのも……、これは白状するのが随分とためらわれるほど恥ずかしいことですが、正直なところは、私も毎度ではないにしても、他の懲役の幸運がとても|妬《ねた》ましくて堪らなくなることがありました。
出所して行く懲役に、毎度恰好をつけて、
「よかったな、大事にやんなさいよ」
なんて言ってはいても、実のところは妬ましくて、|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》がきしむようでした。
再犯刑務所には、まっとうな方たちにはとてもご想像のつきかねるほど、それまでの|惨《さん》|憺《たん》たる人生で、人間ばなれしていると言えるくらいに粗野で凶暴、そして心のゆがみ切ってしまったのばかり、群れているのです。
私が辛うじてしまい込んでいた、妬みやイラだち、それに理由のない怒りといったものを、中には耐え切れなくなったり、耐えようなんて最初から考えもしない奴だって、珍しくもなく現れるのでした。
懲役にとって最高の倖せと幸運は、塀の外に出て自由を取り戻せる出所ですから、満期や仮釈放の近づいた懲役に、妬みや腹立ちを爆発させた同じ工場の懲役が、喧嘩を売ったり|密《チン》|告《コロ》したりすることは珍しくもありませんでした。
そんな再犯刑務所でも、木工場の懲役たちは他とはくらべようもないほどの程度の良さが分りますから、一緒に働かされているうちにそのまま安心して、出所までたいてい腰を落着けます。
これが他だと、繁のように出所の見えて来た懲役は、わざと反則をやって独居房に逃げたり、仮病を使って病舎に体をかわし[#「体をかわし」に傍点]たりするのは、よくあるありふれた手でした。
叩けば、砂風のように埃の出る身ですから、ばれていない罪を密告されたり、はずみで傷害や殺人の追加の刑を喰らいかねない喧嘩を売られたりすれば、これは堪りません。
満期だ、出所だなんて、たちまちはるか彼方に消し飛んでしまうのです。
繁は、万全の策を採ったつもりでしょうが、まずそんな危険の少ない木工場なので、私にはどうにも痛々しく哀れに思えました。
「この暑さで独居じゃ、参っちまわねえか」
田宮俊光が溜息をついて言いました。
「大丈夫だよ、独居にだって蚊は一杯だから、今頃あの野郎せっせとやっつけてるよ」
もう少し経つと、風の中に、涼しいのが混じりはじめるはずでした。
婦人刑務所営繕係
塀の中を吹く風が、一日ごとに熱気を失い、それにつれて朝夕が急に涼しくなりました。
どうやら、懲役のおでんか佃煮を作っているような、蚊と汗の夏は、やっと過ぎてくれたようでした。
こうなると、暑い間中難しい顔で、ひたすら心頭滅却していた木工場の懲役たちも、あちこちで顔をほころばせたり、機嫌のいい声をたてはじめます。
辛い季節が去って行ったのは同じでも、この夏の過ぎた時の喜びようは、冬の終った時にくらべると、それでも随分と地味でした。
夏の去ったのは嬉しいのですが、短い秋の次にはすぐ、考えるのも嫌で身の毛のよだつ冬の奴が、胸を叩くマウンテン・ゴリラのようにやって来るのを、懲役たちが知っていたからなのです。
釜茹でにされているようでも、夏のほうが、くらべようもなく冬よりはましでした。
夏は、懲役をいじめて苦しめるだけですが、冬はそれに加えて、生命までおびやかすのです。
そんなわけで、春のように真底からの、弾けるようなものではなかったのですが、それでもその頃の木工場には、つかの間の華やぎが充ちていました。
繁の後任として、「製材」に|配《はい》|役《えき》された新入りの田宮俊光は、おおむね不器用な他の懲役たちが目を見張るほどの、仕事慣れのした器用な男でした。木工場専属の技官という専門職の役人が、ほんの一時間ほどチョコチョコと教えると、すぐひとりで電動|鋸《のこぎり》を回して角材を挽き、そして|巨《おお》きな製材の機械を動かしたのです。
緊張した様子もなければ、マゴマゴもせず、ごく普通の顔をしていました。
木工場の懲役たちは、私も含めて皆、自分のやっている仕事が、いかにも技術と熟練が必要とされているといった様子で、しかつめらしく、恰好をつけてやっていたのですが、実のところは、そんな作業は塀の外の木工場だと、誰にでも出来るようなことだったのに違いなかったのです。
ほとんどが不器用で、まともな仕事のセンスに乏しい懲役たちでしたから、電源のスイッチを押して、電動機械がゴオッと音をたてて動き出すと、たいてい配役された最初のそんな場面で、必ずビクンとしたり、たじろいで半歩退ったりするのです。
そんな、先天的にセンスと素質の欠落している木工場の懲役たちですから、田宮俊光のようなのを見ると、
「ケッ、なんだ職工さんだぜ、あの新入りは」
なんて、妬みの籠った声をあげるのです。
塀の外で本職にしていたのか、以前木工場でつとめたのかと思ったら、訊いてみると意外に、木工場に落ちた[#「落ちた」に傍点]のも初めてで、
「こんなこたあ、やったこともねえや」
うそぶくような声で言い放ったのです。
田宮俊光は、四十なかばの小柄な男で、艶出しでもかけたようにツルッとした、水滴型の、ラッキョのような顔をしていました。
小さいけど時々鋭く光る目がついていて、今は穏やかだけど場面と相手によっては、これは随分とキツく変りそうだと思わせるような、なかなかの曲者でした。
罪名と刑期、それに看板[#「看板」に傍点](所属)を訊く懲役に、それが得意らしく、シニカルな顔で、
「|一《いっ》|本《ぽん》|独《どっ》|鈷《こ》の|白《しろ》|無《む》|垢《く》でさ。脅迫で二年打たれ[#「打たれ」に傍点]ましたが、ションベン(短期刑)で恐れ入ります」
なんて達者なことを言ったのですが、そのはずで、これが四度目のすれからしでした。
若い頃に畳の年季を入れたので、これまでの三度は、いつでも「営繕」だったから、工場に落ちるのは初めてなのだと、ゴロツキのくせに手に職のあるのが自慢らしく、営繕というところに力が入ったのです。
刑務所は昔から、なんでも出来るだけ外注せずに、懲役を使ってただにしようと、それはいろいろやるのです。
豚舎の連中に残飯で豚を飼わせて、それをこんどは料理人を集めた|官《かん》|炊《すい》でトンカツにさせて食ってみたり、散髪職人に|官《かん》|床《どこ》で髪を刈らせたりするのですから、ただの官舎に住んで制服を着ていれば、貯金がたまるばかりでしょう。
法務省の役人や看守の偉いのの娘が、嫁に行けることになると、たちまち腕っこきの指物師の落ちている刑務所の木工場に、嫁入道具の注文が来て、デパートや家具屋は、可哀そうにカタログだけの御用です。
左官に大工、屋根屋に水道屋、それに畳屋とブリキ職なんかを揃えたのが営繕で、この連中は仕事の虫のようなものですから、官舎は見てくれはボロでも、中はいつもビンビンでした。
こんなことの他にも、たとえば、横浜刑務所では、全国六十七カ所の、五万人以上の懲役が使うシャボンを一手に引受けていて、固くて泡の立たないシャボンなのに、名前だけはハマローズなんて|洒《しゃ》|落《れ》てました。
同じように、名古屋刑務所で作っている歯磨粉は、ナゴヤ[#「ナゴヤ」に傍点]カ歯磨という奴で、私が少年院の舎房の中に、煙草の臭いをごまかそうとして撒いていた頃は白い色でしたが、今ではいかにも葉緑素でも入っていそうな緑色ですから、舎房に撒くわけにはいきません。
市原の交通刑務所で作っているのは味噌と醤油ですが、働かされているまっとう[#「まっとう」に傍点]な方たちの、交通行政や道交法に対する怨念が籠っているらしく、どうにも|不《ま》|味《ず》くて、全国の懲役はウンザリしています。
と、こんな具合に、官は徹底的に懲役を使って、公私にわたって[#「公私にわたって」に傍点]経費の節減を計るのです。
「前刑はまる二年。栃木の婦人刑務所でつとめたよ。見渡す限りゲップの出るほどの女だ」
周りを見回しながら、田宮俊光が得意げに言うと、|流《さす》|石《が》の木工場の懲役たちも、こればかりは初めて聴くことだったので、みな他愛なく大仰天してしまったのです。が、考えてみれば官のことですから、やりそうなことであったのです。
婦人刑務所にも営繕の数人だけは、男の懲役がつとめているのだというのです。
「アレーッ、風呂ん時あ、ど、どうすんだ」
「オイッ、田宮ッ、いいか全部はしょんねえで、チャンと話しなよ」
木工場の懲役たちも、この時ばかりはとり乱して、広げた鼻の穴と、釣りあげた目で田宮俊光をとり囲んだのでした。
「それが思うようにはいくわけもなくてね」
と話しだしたのによると、入浴も混浴どころではなく、営繕だけ別に、女子プロゴルファーの|非《ひ》|道《ど》いののような女看守が、なぜか|矢《や》|鱈《たら》といきりたっているのに見張られながら、なのだそうです。
せいぜいが、ウインクしたり手信号を交したり、配食の時に手を握るのが関の山だったと聴いて、とりあえずその時の木工場の懲役たちは、なぜか大変満足そうでした。
「それでも映画会の時には、営繕の俺たちを固めて坐らせた周りに、女の看守共がグルリと坐って、暗がりで女の懲役たちが何かしないように守るんだが、映画の場面が夜になったりして講堂ん中がウンと暗くなると、手が伸びて来てね、握ったり擦ったり始めるんだね」
「どこをッ、どんなにッ」
叫んだ若い三郎が、誰かに「馬鹿」と叱られると、続いて|昂《たかぶ》った大声がして、
「看守のガードを下からか上からか、懲罰覚悟でやるんだから、女の懲役もてえしたもんだぜ。そんなもんならバシタ[#「バシタ」に傍点](女房)にしてえほどのいいたま[#「いいたま」に傍点](根性の据わった奴)だぜえ」
と喚いたのですが、田宮俊光は、なんともそっけなく、ごく無感動な声で、
「女の看守がかい。女のお巡りよりまだ|非《ひ》|道《で》え制服カボチャだぜ」
と言ったのです。誰もまったく知らない場面なので、手を伸ばして営繕の男を触ったのが、女の看守だったのか、女の懲役だったのかは、なんと言われようと、嘘か本当かさえ見極めがつきかねたのでした。
ケダモンのぼやき
構内の桜の葉が、黄色や紅に変って、風に吹かれて散り始めると、懲役たちは、顔を青く平べったく固くします。
次にやって来るのが、間違いなく、あの何よりも辛くて嫌な冬だということを、懲役たちは仕方なく承知していたからです。
私のぶんまわしていたリップソーの助手は、随分と穏やかな四十男でしたが、朝夕がめっきり涼しくなって、お月様が舎房の鉄格子越しに、とても|綺《き》|麗《れい》に見えるようになった頃……。
月見煙草としゃれこんでいたのを、なんと運の悪いことに、当直の看守にぱくられてしまって、西部区の反則取調べのための独居房に、吸い込まれ[#「吸い込まれ」に傍点]てしまったのでした。
私たちの木工場のあるのは、広い府中刑務所の北部区で、だから北部第五工場なのですが、懲罰房などの独居房は西部区にあります。
懲役たちは、懲罰を喰らうことを「西部の旅」なんて言っていました。
西部へ旅立ってしまった風流な四十男の後任に配役されたのが、四年の刑で落ちて[#「落ちて」に傍点]来たばかりの三郎です。
この、あとほんのひと月で、三十歳になるという懲役は、とてもそんな歳には見えません。
二十二、三と言っても無理なく通るほどの若さで、そりかえった長い睫毛と、澄んだ大きな目をしていて、顔にはまだホヤホヤと生えている産毛が、光線の加減で金色銀色にきらめくようでした。
「いつ見ても変んねえな。少しも歳をとらねえお化け[#「お化け」に傍点]だぜ。そっちは覚えてるわけもねえが、俺は、『あれがサブか……』とジロジロ運動場で眺めたから、よく覚えてらあ。十年近く前の、横浜の未決だ」
私が言ってやると、
「そん時が初犯でしたが三年で、二度目のこんどは四年喰らいました。
横浜の未決ではヒッツカレ[#「ヒッツカレ」に傍点](いじめられ)て、|非《ひ》|道《ど》い目に遭いましたが、今回はまるで楽でした」
と、そんな返事をした三郎でしたが、そんな時でも、艶のある白い顔の、目の辺りを赤らめると、長い睫毛をパチパチさせました。
アメリカ灰色熊のような、凶暴なのがひしめいている他の工場だと、こんな可愛いのを見れば、たちまち大変な騒ぎになりかねないのでしょうが、木工場の|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》たちは、ちいとも動じません。
だから官も、私のリップソーの助手に|配《はい》|役《えき》したのでしょう。
「そりゃあそうだろう。横浜の未決では初犯の舎房だったんだろうし、今回は最初から再犯の扱いだから、まるで違うさ」
私が言うと三郎は、いかにも、といった様子で頷きました。
わけの分らないまっとう[#「まっとう」に傍点]くずれのような初犯とは違って、再犯の懲役たちには、まったく別なモラルというか、常識が定着しています。
「罪を憎んで人を憎まず」なんて、分ったような、まるでNHKのアナウンサーのきまり文句のようなことは、誰も口にしないどころか、むしろ逆に「人を憎んで罪を憎まず」なのでした。
再犯の懲役ともなれば、団地やPTAの小母さんたちの持っている常識に近い初犯の連中とは、判断の基準そのものが、まるで違っていたわけです。
罪というものがそもそも、お上が手前の勝手で定めたもので、駐車違反と同じことだと、どんなに粗野で学問のない奴でも、再犯の懲役たちは承知していました。
リップソーの助手になって、精を出して仕事をしていた三郎の目をかすめ、工場計算の吉沢が、立場上知ったのかそれとも人定尋問で訊き出したのか、二人になった時、私の耳もとで三郎の罪名を囁いてくれたのです。
「ウン知ってる。十年も前から神奈川では、人に知られた三郎だよ、あいつは……」
再犯刑務所の木工場とはいっても、三郎の罪名は、そんな大声で叫べるようなものではなかったのです。
三郎は、ほんの若い頃からの強姦常習のケダモン[#「ケダモン」に傍点]でした。
十年前に、まだハタチそこそこの若さで捕まった三郎は、その当時、新聞にも週刊誌にも、とても大きくセンセーショナルに罪状が伝えられたものです。
その頃はまだ、なんといってもおぼこ[#「おぼこ」に傍点]かった三郎ですから、警察で脅かされたりすかされたり、くすぐられたりして、驚くほどの件数を喋ってしまったのです。
いくらでも続々と、呆れた安手のポルノ噺のような事件が、あどけなく見える三郎の口から、噴出しこぼれ出したのでした。
「マメというのか、ケダモンというのか、推定で年に四百件以上もやったんだとよ」
と、まっとうな方たちばかりか私たちのような者まで、大仰天させた三郎でした。
放火とか強姦、それに刑事自身が刑務所に落ちると、懲役たちにそれは非道い目に遭わされるなんて、小説やテレビ・ドラマがあります。
実際には再犯刑務所に限って、そんなこと、まず見聴きしたことがありません。
たいていの事件は、被害者のほうがトロ[#「トロ」に傍点]いから仕方がない、というのが常識になっている世界なのです。
本当に大切なお金なら、決してタクシーに置き忘れたり、他人に|騙《だま》し盗られたりはしないもので、これは命だって貞操だって同じはずです。
再犯刑務所は、「そんなに大事なもんなら、しっかり守ればいいんだぜ」という、野蛮といわれようと昔からの真理が、通用していたのでした。
やられてそんなに嫌なものなら、ムザムザと、こんな見てくれだけはウイウイしい三郎に、犯されたりなんかするものか。
三郎にしたところでロクなもんではないけれど、真昼間の建売やマンションで簡単に押え込まれた揚句、金までせびられた奥さん方も、程度に差のない馬鹿丸出しのようなものなのです。
山にいる人は皆、心が綺麗……。
なんて誰が言い出したのか、女学生の寝言のようなことを、呟いていたのか叫んだものか、山小屋のオッサンに犯されて殺され、埋められてしまった娘さんがいました。
三郎の若くて可愛げな様子にドアを開け、犯され、家計費を上手く巻きあげられてしまうお主婦さまも、これは同じようなもので、
「女にとってそんなことは、死ぬほど嫌なことなのです、なんて誰かが喚いてしまったので、『アラ、あたいは、ぶん殴られたり殺されたりするほうが、|桁《けた》違いに嫌だわ』なんて、恰好が悪くて誰も言わないだけなんでさあ」
それを、裁判官は世間知らずの法律馬鹿で、男としての焼餅もあって四年も喰らわせたのだから腹が立つ、と三郎は言いました。
それでもほんの年に何度か、ごくたまに、そんな場面で必死に逆らおうとする女も、いるにはいたそうです。
「そんな時には退散の一手ですよ。無理をしたら理屈[#「理屈」に傍点]に合いません。ハゼを釣ろうとしてゴンズイが掛っちまったようなことで、こっちは飢えてもいないし、魚と釣場は見渡す限りあるんですから……」
「自分の油断でそんな場面になっても、トコトン闘ってなんとかしようなんて女は、今ではそんなに少ないもんかねえ。嘘とは思えないだけに、お前の話は気が重くなるぜ」
私の暗い声を聴くと、それまで陽気だった三郎の声もくぐもって、
「ベタベタやってても、本当には惚れ合ってなんかいねえからでしょうよ。お互い同士のことより、|銭《ぜに》や出世や世間ていなんですよ」
困ったことに、三郎の語る嫌な話には、真実の持つ迫真力があったのです。
スッポン男、清松
新入りで落ちて[#「落ちて」に傍点]来たばかりの前田清松は、担当台の下の通路に立って、|配《はい》|役《えき》された|役《えき》|席《せき》の|頭《かしら》と、作業衣の面倒を見てくれる貸与係の来るのを待っていました。
その時、材木を満載した手押車を助手に曳かせると、私は後を押して、中央の通路をリップソーに向っていたのです。
私だって懲役の身ですから、毎度空のばかりを押しているわけではありません。
配役とは官[#「官」に傍点]に仕事を命じられること、役席というのはその仕事と仕事場です。
私は看守に連れられたその新入りが、工場に入って来たのを見ると前田清松だとすぐ分りました。
こんな並はずれて小柄な懲役なんて、いくら寄せ場[#「寄せ場」に傍点]と呼ばれる刑務所でも、前田清松の他に、そうそういるものではありません。
私の手押車は、ゴロゴロと音を|発《た》てながら担当台の下に近づいて行きました。
近くの役席で、木製のドアを作っていた連中や、通路を通る懲役たちの中には、まるで懲役のミニチュアのような新入りを見ると嬉しそうに、
「アララ、なんと迷子だぜ。かあちゃんはいくつで、なんてえの、サ、言ってごらん」
とか、
「坊や、おねしょをすると懲罰ですよ」
なんて、からかう奴がいました。
これは、狂犬病の小さなプードルを知らずにいじめているのより、実はずっと危ないことだったのですが、誰もそんなことに気が付くわけもなかったのです。
いくら程度のいい懲役が集められている木工場だとはいっても、こんな場面では懲役の本性がむき出しになるのでした。
弱そうな奴を見付けると、退屈しのぎにするか、利用して餌食にするかのどちらかなのです。
そんな、弱い者にとっては地獄の釜に入れられたような塀の中ですから、なんとか刑期をつとめあげて塀の外に出ようと、それぞれいろいろな手を使うのでした。
洗濯し、布団の上げ降ろしをし、甘い物を献上し、と徹底して胡麻をする奴。
隠していると称する大金や、裕福な実家の話をぶって、欲にからめようとたくらむ奴。
|密《チッ》|告《クリ》に精を出して、官にとりいる奴。
仮病や反則をやって、病舎や独居房に逃げ込む奴。
名前の通った|組《カン》|織《バン》のヤクザを見付けるとすり寄って行って、子分になってしまう奴。
こんな悲しい術がいろいろとある中で一番壮烈なのは、無抵抗でされるままになり、どんな目に遭わされても看守に泣きつかずひたすら耐え続ける奴でした。
耐え続けるうちに、相手が詰らなくなって、やめてしまうのを確信してのことなのです。
こんな超人的な我慢をする奴も、時々は見かけたのですから、ただでさえ辛くて苦しい塀の中で、こんな弱い者の過す毎日は考えただけで身の毛がよだちます。
手押車と一緒に前を通った私が、
「オイ、俺だよ」
と声をかけると、それまで床を見詰めていた前田清松は、目を上げると私を認めて、白い歯を見せたのでした。
そんな場面を見た木工場の懲役は、すぐ私に、
「あんなのと、どんな仲なんですか」
「ネンショウ(少年院)で一緒かなんかでしょう」
とか、しきりとあいだがらを知りたがったのです。
「ウン、少年の昔からいろんなとこで何度も顔のついた[#「顔のついた」に傍点]奴さ。見かけでなめると、とにかく年功のある焼きの入ったもんだから、やばいぜ」
いじめたくて堪らない連中は、私の言ったことを昔|馴《な》|染《じ》みをかばってのハッタリだと決めてしまったようでした。
そして、それからというもの手を変え品を変え、前田清松はそんな連中に手酷くいたぶられたのです。
それを見た私は、訳のはっきり言えないまま工場の中を飛びまわって、
「あいつが我慢してる間に、もう止めにしなよ。悪いこたあ言わねえから」
と言ったりしたのですが、当然のことながら説得力はまるでありませんでした。
あれは昭和二十九年。まだ十七歳だった私は、ほんの駆け出しのチンピラでした。
ぶち込まれた目黒署の少年房に、ひとつ歳下で、十六歳だった前田清松が先に入っていて、はっきりした日数は忘れましたが、そのまま随分永いこと、二人だけで閉じこめられていたのです。
今ではまるで|流《は》|行《や》らなくなった名前をした前田清松との、それが最初の出逢いで、それから何回か、ヒョンなところで顔がつき[#「顔がつき」に傍点]ました。
顔がつくというのは、出喰わすことです。
二人だけで過した間に、その頃既に並はずれて小さかった前田清松は、病気と爆撃で両親を失くし、小学校に上る寸前にみなし子になってしまってから、今日までのことを、ポツリポツリと話し出したのです。
芋しか食べる物がなく、飢えに苦しんだ敗戦前後ですが、それでも普通の家庭で育った私にくらべて、それは凄惨で極限の悪夢のような話でした。
あれはもうすっかり日本が豊かになった昭和四十六年のことでした。
サウナの浴槽につかっていた私は、相変らずごく小さな前田清松が、私に気付かずに湯舟に近づいて来たのを見付けると、
「オイ前田ッ、お前泳げんのか、とても背が立たねえぞ。|溺《おぼ》れちまうぞ」
と大声で、悪い冗談を叫んだのです。
聴いた途端に小さな顔の額に青筋を立てた前田清松は、湯舟に入って来ると私の耳に口を寄せるようにして、
「あんただから言うんだけど、この身体で今まで生きて来られたのは、なめてかかって油断している野郎の、どこでも構わず噛みついたからで、そうなりゃあ頭をかち割られようが、コンリンザイ離さねえ……」
見てみろこれを、と突き出した頭には、深い傷跡が何本もうねっていたのです。
「どこだろうと三分もそのまま思い切り噛んでれば、相手は泡を吹いて気を失うか、泣き出しながらうずくまっちまうさ。
九歳の時に死にもの狂いで大人の腹を噛んでから、今まで二十回以上も、肩でも頬っぺたでも足の親指でも、噛んでやったのさ」
なめた野郎が油断をするから、噛みつきも出来るので、これだけは決して誰にも話してくれるな、と前田清松は頼んだのでした。
そんなわけでしたから、木工場の懲役に話すわけにもいかず、といって|旧《ふる》い顔馴染みでも身内ではありませんから、積極的にかばって自分の仮釈放を吹っ飛ばしたり、刑のふえる危険まではおかせないのです。
|怪《け》|訝《げん》な顔をする木工場の懲役に、しつこく口を利く[#「口を利く」に傍点]ぐらいが私にしてやれることの限界でした。
寒さが急に厳しくなった頃のことです。
担当台の下にある散髪で、|衛《ガ》|生《リ》|夫《ヤ》の昭平に伸びた坊主頭を刈ってもらっていた私に、
「ギャーッ、ギェッ、ワアアグエッ」
人間の声とはとても思えない大絶叫が聴こえて来ました。
ついに沸騰点に達してしまった前田清松が、見くびって油断した懲役をしっかりとくわえ[#「くわえ」に傍点]てしまったのに違いありません。
散髪夫の昭平は、直ぐ見物に飛び出して行きましたが、私は椅子に坐ったままでした。
その場に行けば、見ているだけでは済まなくなってしまうのを怖れたのです。
ゴメンで|済《す》むんだ
どちらかといえば、穏やかで陽気な懲役の多い木工場ですが、年末になると少し雰囲気が暗くなります。
お喋りな懲役たちも、黙り込んでいる時が普段より多くなるのでした。
急に厳しくなって来た寒さに、身構えることもありましたが、やっぱり懲役だって人の子の親だし人の子ですから、年の暮ともなると、どうしても塀の外を思ってしまいます。
子供のこと、女のこと、そして年寄りのこと、いくら天涯孤独という懲役でも、人間を三十年ほどもやっていれば、気にかかる人の何人かは必ずいるのです。
官[#「官」に傍点]も毎年、年末になると作業賞与金のたまっているものに限って、お年玉の送金を許すのです。
新入りの時に持っていたお金や、差入れられたお金は、官が全部預かっていて、これを領置金というのですが、このお金ではお年玉の送金は出来ません。
刑務所で働いてもらったわずかな作業賞与金でなければ、送金させないというのが味噌です。
反則をしては懲罰を喰らい、そのたびに見習工からやり直していたのでは、ひと月働いても二百円たらずですから、他の懲役たちが嬉しそうに現金書留の袋をもらって、表書きをしている時でも、横目で睨んでいなければなりませんでした。
こんなことでも、塀の中の治安と作業成績の向上に役立ててしまうのですから、官はダテに何百年も同じ仕事をやってはいません。
昭和五十年の前半だったこの頃は、子供ひとりに千五百円まで、お年玉が送れました。
前田清松が爆発して、右翼と称するゴロツキの肩口に噛みつき、駆けつけた若い副担[#「副担」に傍点]が止めると放したのですが、噛みつかれた奴は、最初しばらくは真っ赤になって吠え、副担が来た頃には血の気が失せて青くなり、前田清松の歯が離れるとそのまま工場の床にへたり込んでしまったそうです。
そんな見て来たばかりの大騒ぎを、|衛《ガ》|生《リ》|夫《ヤ》の昭平は小さな黒い目を輝かせて話すと、現金書留の封筒を私に渡してくれました。
帰りに担当台の部長のところに寄って、私の分まで受取って来てくれたのです。
「部長は、担当台から身体をのり出すようにしてるし、副担が前田を押えてる間に、応援が三人ほど管区から来て、いつもの喧嘩両成敗って奴で、二人とも一緒に連れてっちゃったけど、あいかわらず図々しくてトボケたのもいますねえ」
昭平も、喋り始めると火がついたようになります。
私の|相《あい》|槌《づち》も待たずに、「木取り」の彦さんと運搬夫、それに研磨室の三人が、騒ぎにまぎれて|煙草《ネ ッ コ》をやっていたと言いました。
「頭をボコンボコン殴られながら、両目をしっかり閉じて両手で相手にしがみついたまま噛みついている前田清松を見ていると、ポアーッとどこからかネッコ[#「ネッコ」に傍点](煙草)の臭いが風に乗って来たので……」
とり囲んでいた野次馬の半分ほどが、その|奇《き》|天《て》|烈《れつ》な喧嘩から目を放すと、顔を上に向けて鼻をヒクヒクさせたというのですから、懲役とはしかし漫画チックです。
副担というのは、担当部長の補助をつとめる若い看守のこと、管区というのは看守の事務室か溜りのようなところで、木取りというのは、私のリップソーの前の|役《えき》|席《せき》で、製品の数量を睨むと材木をそれに必要なだけ、横挽きの自動鋸で長さだけきめて、私以下のラインに流す大事な役でした。
運搬夫というのは、資材置場から木取りまで材木を運んだり、塗装が終って乾燥させた製品を、業者のトラックに積み込んだりするのが役目の、木工場の力持ちです。
私は、現金書留の封筒に、一字ずつしっかり角のついた字を、想いをこめて書きました。
前妻のところに残して来た二人の息子あてで、それを見ていた昭平は、
「息子さんですね。自分ちは娘なんですよ」
と言ったのですが、その時だけは普段マングースのように抜け目なく光っている目から、いやしい光が消えていました。
この昭平は、三十歳を少し過ぎた泥棒系のなんでも師[#「なんでも師」に傍点]です。
空巣とか金庫破りといったような専門がなく、野球でいえば内野でも外野でも、場合によってはキャッチまでやってしまう、ユーティリティ・プレイヤーのような盗ッ人です。
つまり、危険と儲けのバランスが合いそうだと、手当り次第なんでも盗ってしまうのでした。
泥棒たちの話では、盗ッ人の最大の資質は足の速いことだそうで、足さえ速ければ三回に一回は刑務所に来ないで済むといいます。
これは、追いかけられた時に、スタコラ逃げてしまうからでしょうが、昭平は、
「蠅かゴキブリみたいなウカンムリ[#「ウカンムリ」に傍点](泥棒)だぜ、逃げるだけなのは……」
とせせら笑って、それに加えて、自分のように詫びを言ったり謝ったりする術がなければ、一生の半分以上は塀の中さ、とうそぶいて見せたのです。
仕事をしていて、運悪く捕まってしまっても、言いわけをしたり開き直ったりするのは、いいことなんかまずないのだそうで、逃げられないとなったら、なんでもペタッと謝ってお詫びを言うのが一番なのだと、昭平は言いました。
「一度なんか、|娑《しゃ》|婆《ば》の木工場の、脚のついた小型だけどしっかり重い金庫を、そこにあった手押車に乗っけた途端に、早朝に出勤して来たトッツアンと、デカイ息子二人の三人に捕まっちまってね」
平謝りに謝ったら許してくれて、もとの位置に据え直すのを手伝ってくれたあと、思い出しても涙が出るのだそうですが、
「ひとさんのもん[#「もん」に傍点]に手を出すほど困ってんのなら、社長に話してやるからこの工場で真面目に働けばいい。息子たちも俺も口は固いよ」
とまで言ってくれたのだ、と言いました。
「涙を出すぐらいなら、その木工場で働くまではともかく、もう盗ッ人は止めればいいんだぜ」
私が言うと、その時は腹を立てたらしく、黙りこんで横を向いた昭平でした。
|衛《ガ》|生《リ》|夫《ヤ》という役席は、これが意外に難しいのです。出所の三カ月前になると「蓄髪願」を出して髪を長くし始めた懲役たちが、ほんの些細なことにもうるさく文句をつけるので、以前パピヨンの時にも書きましたけど(『塀の中の懲りない面々』)、官は、誰も何も言えないほどの大物か、それとも徹底して無力な老人のどちらかを|配《はい》|役《えき》したのです。
昭平は、そのどちらでもなく、無類の謝り上手を担当部長に認められて、|衛《ガ》|生《リ》|夫《ヤ》に配役されたのですから、これもやはり大した才能というべきでした。
そんなたぐい稀な術に加えて、足も速かった昭平ですから、そうでもなければ今までの人生はほとんど塀の中だったさと鼻をうごめかしたのも、職業人の技術の誇りでしょう。
此度の三年の刑は、木工場で衛生夫をしながら、
「あ、あ、ごめんなさいッ。勘弁して下さい。こう刈ったほうが良くうつると思いましたけど……。まだ満期まで二十日あるんですから、直せます。大丈夫です。どうもスミマセン」
日本人は、今でもとても情深いので、こういうふうに平謝りされると、それでも|非《ひ》|道《ど》い目に遭わせてくれようというのは、そういないのだそうです。
ヤクザでも、泥棒が土下座すると、せいぜい張り飛ばすぐらいだそうですが、昭平に言わせると、この世の中には、どんなに謝っても決して許そうとしない悪い性根の奴もいるそうで、それは裁判官の下司野郎なのだと言いました。
拘置所からのお悔み
今までの「木取り」が、満期で工場をあがるというその日に、新入りで木工場に落ちて[#「落ちて」に傍点]来た彦は、タイミングよくその|役《えき》|席《せき》に|配《はい》|役《えき》されたのです。
この彦は、私とは小菅の拘置所以来の仲で、共犯といったら大袈裟ですが、流行の言葉でいうと、私がアドバイザリー・スタッフだったのでした。
木取りは、木工場でも最重要な役席で、経験がないと出来ません。
木工場の技官と前任の懲役と打合せをしながら、すぐ隣りのリップソーで仕事をしている私と、目を合せるとそのたびに、片目をつむって、左の掌の親指だけ折って広げて見せ、次に人差指も折って見せました。
四と三だから、四十三でしょうか、
「そうか、若く見えるけど、お前も、もう四十三にもなったのか……」
詐欺師老い易く、引退出来難しだなあ、と、感慨にふけって、ついでに我が身のせつなさを思っていたら、休憩時間になるとわずかな距離を走って来た彦は、私に飛びつくように抱きつき、
「違うってば、自分はまだ三十六です。歳じゃなくて、安部さんッ、四十三万円儲けたんすよ。正確には四十三万六千円で、経費を引いて四分の一って約束だから、安部さんの配当は十万円でさあ。ハッハッハハハ」
なにやら面白そうな話だし、新入りの彦も私も、とても機嫌が良かったので、他の懲役も寄って来たのですが、タネを知られるといけないから、彦はすぐ話を変えました。
「この浜田破魔彦は、ハマは魔を破るって書く凄い本名で、テテなし子だけど、おふくろさんがクロス・ワード・パズルにこってて、こんな名前をつけてくれたんだ」
私が寄って来た木工場の面々に、そう言って彦を紹介すると、皆ゲハハと笑いました。
「こんな立派な名前なんだから、ヤクザをやればいいのに、この彦の稼業は、|千《せん》|三《み》ツ屋の詐話師[#「詐話師」に傍点]なんだ」
ホウホウと周りの皆は頷きました。
「|珍《チン》|景《ケ》なカタリ[#「カタリ」に傍点](詐欺)で、今回は二年です。どうぞよろしくお願いします」
彦は、おふくろの実家が、愛知県の製材所兼木工場で、子供の頃からずっと手伝っていたのだと聴いて、新入りでいきなり木取りに配役されたわけがわかりました。
木取りは、家具製造ラインの、一番最初の役席で、ここで注文に応じて材木を睨み、必要な量だけ横挽きの自動鋸で切って、長さをきめるのです。
そして次にある私のリップソーで幅をきめ、隣りの自動鉋で厚さを揃えると、ここまでの工程で、オーダーに応じた板がキチンと出来あがるのでした。
だから木取りというのは、木工場のクォーター・バックのような、とても大事な役席なのです。
千三ツ屋というのは、千話すうちに、本当の話は三つだけだから、という説と、実るのは〇・三パーセントほどのカラ話ばかりだから、という説がありますが、いずれにせよ嘘ばかりついている稼業には違いありません。
詐話師というのも同じような意味で、けどサギ師というのより、いくらか柔らかく情のいい[#「情のいい」に傍点]ニュアンスがあります。
小菅の拘置所では、舎房は別々だったのですが、一日一度の運動時間になると、同じ金網で囲ってある運動場に入れられました。
永い無頼な暮しの私ですから、彦に懐しそうな顔をされても、どこで顔のついた[#「顔のついた」に傍点](会った)ものやら簡単には思い出せません。
それでも、
「安倍さん、退屈しのぎに一丁やりたいんで、いろいろ知恵を貸して下さいな」
と言われると、すっかり乗気になって、私たちは毎日の運動時間に、金網のすみにしゃがむと、あれこれいろいろ絵図面[#「絵図面」に傍点](作戦計画)を描いた[#「描いた」に傍点](立てた)のです。
経費を引いた儲けの四分の一をくれるといっても、こんなところで現金のやりとりは、やって出来ないことはないのですが、難しいので、いずれ塀の外で出っ喰わした時の精算ですから、あてにもならず、遊びと同じようなことでした。
ご存じのように、日本の裁判は嫌というほどのろいので、付き合わされる被告は、いい加減ウンザリしています。
私も例外ではありませんでしたから、彦に相談をもちかけられると、これは四分の一の配当なんてあてにならないことより、むしろ退屈しのぎに絶好と思ったのです。
彦は、新聞を読んでいて思いついたのだと言いました。
「新聞に、偉い人[#「偉い人」に傍点]の死亡広告や記事が出てるでしょう。そして必ず未亡人か長男が喪主になってますけど、あれに此処から、『生前いくらか御用立してたんだけど……』って手紙を出したら、金額によっては、薄気味が悪いから送って来ないもんでもないでしょう」
チンタラ裁判をやってる間は、まだ被告ですから、発信[#「発信」に傍点]と称する手紙を出すのは、ほぼ自由でした。
拘置所から出す手紙には、どんなつもりだか知りませんが、官が検閲の赤い桜の形のハンコを、ごていねいに押してくれますから、これだけでも大変なパンチです。
これは、いけそうに思えました。
次元は違っても、ライト兄弟が、鳥の飛ぶのを見た時と、この時の私と彦の感じた興奮は、ほぼ似たものだったのに違いありません。
先代が亡くなって、遺産も香典もたんまり入ったところに、拘置所に入れられている気味の悪い男から、いくらか貸してあったんだけど……、という手紙が届くのですから、たいていの堅気ならひとたまりもなさそうに思えました。
金額は八千円、場所は有楽町のヤキ鳥屋、その時故人は、なんとしたことか持合せが足りなくて、お顔は存じあげていたので私が……、その時ご一緒だったのは金田さんと吉川さんに限る。
鈴木や山田じゃ、犬の糞と一緒で本当っぽくないと、私と彦は知恵をしぼったのです。
思ったとおり、八千円ポッキリではなく、最初の一万円が現金書留で送られて来た、と、彦が運動場で抱きついて来た時に、私は実刑判決が確定してしまって、先に刑務所に|押《おう》|送《そう》されてしまいました。
「いやあ安部さん。それからが大変で……」
拘置所の塀の中から、お悔みと哀れな状態をメンメンと訴える彦の手紙に、あんのじょう|閉《へ》|口《こ》|垂《た》れた喪主たちは、ほぼ六割の予想どおりの高い率で、故人の怪しげな借金を返してくれたのですが、それが二十万円に近くなった頃、気がついた官が激怒したというのです。
取調べに引き出された彦は、机を叩いて怒鳴る看守に、コの字に取囲まれて、
「この野郎ッ、ふざけやがって、こんなとこに来てまで仕事されたんじゃ、俺たちがコケにされているのも一緒だあ。これは詐欺か脅迫で追起訴するぞ」
と散々に脅されたそうです。
それでも、二人で慎重に描いた絵図にはヌカリはありません。
とうとう突っぱり切って、彦の言うところによると、四十三万六千円を手にしたのです。
もっとも彦は詐話師ですから、こんな金額だって、あてになんかなりません。もしかすると何百万円も儲けたのかもしれません。
競馬場や盛り場に行くと、彦を求めてジロジロ周りを見てしまうこの頃の私ですが、まだ木取りの彦とはめぐり会えないのです。
倖せの共通項を探せ
私のペン・ネームと発音は同じジョージなのですが、「カンバス」の平岩のそれは常治と書きました。
昭和七年というまだ天皇陛下が神様だった頃のネーミングですから、付けた親は、絶対にツネジかツネハルのつもりだったのに、違いありません。
それをこのトッツァンは、柄にもなく気取って、バタ臭く、ジョージなんて称しているわけで、これは野球の長老川上哲治さんが、いつの間にかテツジをテツハルなんて言い出したのと同じです。
日本語の、この玄妙さとまぎれの多さが、融通|無《む》|碍《げ》な国民性をつくり出したのではないでしょうか。
柄にもなく、と書いたのは、私のペン・ネームがぴたりときまるのにくらべて、この平岩常治の場合、見てくれがどうにも、ジョージのようではなかったからです。
痩せて小柄で渋茶色の、しょぼくれた懲役で、歳だってまだその頃は四十代のなかばだったのでしょうに、ずっと老けて見えたのでした。
私が肥っているから言うのではないのですが、中年になると、これは間違いなく、髪の毛の多少にかかわらず、ある程度ふっくらとしているほうが、若く見えます。
平岩常治は、泥棒で三年の刑を喰らった|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》ですが、まるで庭のツツジの下に、ひからびて転がっているポチのウンチのような懲役でした。
私ではない誰か口の悪いのが、
「ホラ、カリントでも普通の大きさじゃなくて、細くて小さいのがあるだろ、それの黒砂糖の奴に、平岩のオッサンはクリソ[#「クリソ」に傍点]さ」
と言ったのですが、クリソというのは、そっくりという意味です。
平岩常治の|役《えき》|席《せき》は、木工場の入口のすぐ脇で、五人ずつ二列に並んで坐った懲役が、細身の金槌をトントンと小刻みに使って、絵画に使うカンバスを木枠に打ちつけていました。
他の工場より、刑期が平均して長い木工場とはいっても、とにかく府中刑務所が短期刑専門の刑務所で、しかも懲役のほとんどが三年以内の刑でしたから、出入りの激しいところだったのです。
それに、工場から出て行くのは、満期や仮釈放で出所して行く懲役ばかりではありません。
塀の外で仕出かしたままバレずにいた余罪が発覚し、警察から刑事が引取りに来るのも、稀ではなかったのです。
何から何まで、禁止され制限され、荒くれた前科者が押し込められて、ひしめきあっているのですから、いくら穏やかなのが集められている木工場とはいっても、喧嘩して懲罰房に放り込まれてしまう奴だって、珍しくもありません。
こうして木工場から消えて行く懲役たちの代りに、どんどん新入り教育の終った連中が、送り込まれて来るのでした。
平岩常治の働かされていたカンバスの役席は、木工場の入口に面しているので、看守に連れられた新入りが落ちて[#「落ちて」に傍点]来ると、まずその前を通って行くわけです。
平岩常治をよく観察していると、新入りが前を通るたびに、チラテンを切る[#「チラテンを切る」に傍点]のは皆と同じなのですが、平岩常治だけは、ただ上目遣いに盗み見るのではなくて、その瞬間、身体全体でイソイソッとするのが分ります。
チラテンというのもヤクザ・ゴロツキの言葉で、チラチラと見張るように盗み見る、というような意味です。
木工場に連れて来られた新入りは、入口から入って来ると、そのまま工場内を見渡せるように高く作られている担当台に行き、そこで担当部長から必要諸注意を受けます。
それが終ると役席が言い渡され、その役席のアカセン[#「アカセン」に傍点]が担当台に呼ばれると、一緒に貸与係のところに行って、作業衣や作業帽、それに作業靴の支給を受けるのでした。
アカセンというのは、役席ごとにひとりいるグレイの作業帽に、赤線を一本巻いている|頭《かしら》のことです。これが工場全体の囚人頭になると、黒い線を一本巻いていて、なぜかブンタイ[#「ブンタイ」に傍点]というのです。
平岩常治は、そんな新入りの落ちて来たばかりのドサクサに、メモと鉛筆を持つとツルツルッと近寄って、大真面目な表情で、名前と生年月日を訊くのでした。
たいていの新入りは、平岩常治の様子から、それがなにかオフィシャルなことのように思ってしまって、素直に答えるのですが、
「シマダのシマは、山が付くのですか」
なんて、随分懲役としては細密な調べだったのです。
以前にもちょっと書いたことですが、塀の中の懲役たちのほとんどは、裁判官の意に相違して、犯した罪の深さに震えたりなんかしていません。
ただただ自分の運の悪さを嘆いているだけで、これはレッカー車の小僧と、女お巡りに駐車違反で車を持ちさられた時のまっとうな方たちと同じ、と申しあげればお分りいただけるでしょうか。
巨悪が捕えられもせずに横行するこの頃では、おぼこい初犯の懲役はともかくとして、府中刑務所に押し込められているようなすれっからしだと、理屈ではなく、自分たちが権力のみせしめにされているのを知っています。
けど、それではどうして、この不運な循環から逃れられるかとなると、入ってしまった定置網から|鰤《ぶり》が出られないように、再犯の懲役も、適切な手段が考え出せないのが哀れでした。
そこで懲役たちの熱中するのが、ジンクス、おまじないの類と、それに占いなのです。
自分の運をこれ以上悪くしないか、良くなるように、いろんなジンクスとおまじないが、伝えられ研究されます。
そして、せめて不運や不幸を事前に知ろうとするのでしょうか、ありとあらゆる占いを、この際身につけようと懲役たちは、ほとんど狂奔するのでした。
このあまり垢抜けないジョージは、姓名判断に熱中していて、訊いた同房の懲役に、
「エエ、此処に来るのは、飛び切り運の悪い奴ばかりだから、名前をしっかり訊いて仕分けをすれば、はっきり悪いほうだけは分るでしょうて」
と答え、さらに、それには生年月日も、どうやらとても大事なファクターらしいと付け加えたというのです。
平岩常治は、前刑の二年をつとめた長野刑務所で、同じ工場の一緒の房に入れられていた懲役が、紅白歌合戦の常連、村田英雄と同姓同名だったうえに、歳まで同じだったのにショックを受けたと言いました。
「懲役の村田英雄は、こんなに運が悪いのに、片一方はダイラク[#「ダイラク」に傍点]のウハウハなんだから、これは絶対、調べればなんか出て来ると」
しょっちゅう刑事に小突きまわされているので、こんな話の時でも、盗ッ人の平岩常治は、こんな言いまわしになってしまうのでした。
ダイラクというのは、漢字で書けば大楽で、懐具合のいいというようなニュアンスです。
「調べて、仕分けして、運の悪い名前がはっきり分ったってだよ、いまさら自分のをどうすることも出来めえに」
と、誰の迷惑になることでもありませんから、やらせておけばいいのに、意地悪な懲役がそんなことを言うと、垢抜けないジョージは、考え深い顔で、
「これまでに分ったことは、日本で一番運のおよろしい方には、御名字がなくて、御名前だけだということです」
なんて言ったのには、さすがの|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》たちも|唖《あ》|然《ぜん》としたことでした。
唐辛子の芽が出たぞ
「オーッ、出たぞ、出て来たぁ」
ぶり返した寒さでまた霜柱が立ち、その日はグラウンドが使用不許可[#「使用不許可」に傍点]になりました。
木工場の懲役たちは、仕方なく運動時間を工場の前で日向ぼっこをして過していたのですが、ひとりだけ離れて花壇を調べていたタゴトメは、指をさしながらそんな大声を出したのです。
「なにが出たんだよ留さん」
「モグラだったら捕まえべえよ」
「モグラなんて食えんのか」
退屈しきっていた三、四人の懲役が、それまで背中をもたせかけていた木工場の外壁を離れると、口々にそんなことを言いながら花壇のほうに歩いて行きました。
短期間の府中刑務所ですから、木工場の懲役のほぼ半分ほどは、去年の春先の様子を知らないのです。
古い連中で、それもタゴトメのやることに興味を持っていた懲役は、タゴトメの声を聴くとすぐに何が花壇に生えて来たのか分りました。
あのお百姓、ついにやったのです。
「南蛮だ、南蛮、この、ホラ、ここに出てきたのが南蛮だよ。唐辛子さ」
集まって来た木工場の懲役たちには、タゴトメが嬉しそうに笑って、花壇のへりにしゃがんで伸ばしている太い指の先に、小さな緑色の物が黒い土の間に見えかかっていました。
タゴトメは、本名を田中留吉といって北関東のお百姓だということですが、酒を呑むと暴れ出すのが身の破滅で、これが三度目の刑務所暮しという四十になろうかという男です。
けど、これがいかにも北関東のお百姓らしいところで、塀の外では刑務所に入れられてしまうような喧嘩をするというのに、プロが顔を揃えている再犯刑務所に入ると途端に、本職の私たちと出喰わした暴走族のようにおとなしくなってしまうのでした。
弱い者だけを相手に乱暴するという、多少の軽蔑をこめてつけられた仇名が、タゴトメです。
後ろのトメは、本名の留吉からなのですが、頭についているタゴは、田吾作のタゴなのでした。
こんどの刑は四年で、いつものように傷害罪なら、三年足らずで済んだのでしょうが、うっかり酔った頭で叫んだのが高く[#「高く」に傍点]ついたのです。
腹の立った相手をやっつけに行く前に、出っ喰わした顔見知りに向って、
「あん畜生、こんどこそぶっ殺してやら」
なんて意気ごんだのが、すっかり言いつけられてしまって、今回は傷害では勘弁してもらえずに、殺人未遂にされてしまったというのです。
殺意があったと、裁判官が認定してしまえば、もうどうにもなりません。
日本の裁判を、証拠主義なんて思っていたら、大きな間違いです。
浅はかで世間知らずの裁判官の主観によるのですから、これは堪ったものではありません。
私が足を洗ったひとつの原因でもあるのですが、此処では、それはさておき……。
タゴトメは、これで春になりきれば、もう満期出所という懲役で、三カ月前になると伸ばせる髪の毛も、もう角刈には充分でした。
去年の春先は私も見ていたのですが、一昨年からこの試みはやっていたから、これが本当の三度目の正直だったのだと、木工場では一番古い七年の刑を半分以上つとめている笹田総長が、教えてくれたのです。
一昨年の冬から、タゴトメは、時々出る煮込みの中に、わずかに混じっている唐辛子のタネを、仲間に頼んでは毎年十粒ほど集めて、花壇に|蒔《ま》いていました。
刑務所のおかずは塩からいことはあっても、唐辛子や|胡椒《こしょう》といった香辛料はほとんど使ってありませんから、こうして毎年十粒ほどでも唐辛子のタネを集めるなんて、大変なことだったのです。
月に一度ぐらいの率で出る、豚の臓物がほんの少し入って、あとは大根とジャガ芋だけの煮込みにだけ、よく注意しないと分らないほどごく少し、唐辛子が入っていました。
見たことはありませんが、刑務所の|炊場《すいじょう》では、二千人以上の懲役のおかずを一度に作りますから、これは大変な量でしょう。入っていると分るほど煮込みに唐辛子を入れるのは、きっと随分コストのかかることに違いありません。
そんな貴重な唐辛子のタネをやっと集めて、毎年タゴトメは太い指を使って慎重に花壇に蒔いたのですが、去年もおととしも、芽は出ませんでした。
まずかろうとなんだろうと煮込みなのですから、タネも煮えてしまっていたのだと思います。
「よお、鷹の爪が出来たら、どうやって食うべえか、カラカラに乾してから細かく切ってよお、味噌汁に入れんべえか」
「留さんよ、これで鷹の爪がいくつぐらいなるもんかね」
木工場の懲役たちは、目を輝かせて、そんなことをしきりと口走ったのです。
皆香辛料に飢えていました。
「馬ぁ鹿、なるのは南蛮で、それを乾して辛らあくなったのが鷹の爪だ。お前はなにも知らねえだ」
「違う、違う、なった時から鷹の爪で、乾してカラカラにしても鷹の爪だ。そんな馬鹿なこと言うから、お前、有名な馬鹿、なんて言われちまうんだぜ」
すぐこんな愚にもつかない喧嘩腰の議論が始まるのも、この事件でどんなに木工場の懲役たちが興奮したかという証拠です。
放っておくと本当の喧嘩にもなりかねません。
その頃木工場の世話役のようなことをしていた笹田総長が、私以下の懲役たちに、
「第二内掃[#「第二内掃」に傍点]の連中によく言っとかなきゃあな、穫れたら少しやるからと、頼んでおけ」
と、言ってる間に、工場の角をまわって、第二内掃の|頭《かしら》のすずめ[#「すずめ」に傍点]がやって来たのです。
構内にある花壇の面倒を見るのは、第二内掃の仕事で、おかまばかり集められている異様な班でした。
頭のすずめは、歌は上手いけど、揚げ過ぎた大判の薩摩揚げのような顔をしていて、身体つきも猿カニ合戦の臼のようなおかまです。
顔がそんなに焦げているのは、第二内掃の仕事が屋外だからで、ひと夏強い陽にさらされてしまうと、冬の間にさめきりませんから、だんだんと蓄積されてしまうのでしょう。
しゃがんで、小さな緑の芽を覗き込むすずめに、私が、
「うちの田中留吉が、三年がかりで、やっと芽を出させた唐辛子だから、第二内掃の姐さん方も大事にしてな、頼んだぜ」
と言うと、すずめも感嘆の声をもらしました。
「あらあ、けどすごいわあ」
穫れたら少しあげるから、と言ってやると、ニヤリと笑って、
「木工場のお兄さんたちだけで、おあがりになっても構わなくてよ。あたいたち、こんなもん食べると、ホラ、大事なところが痔にでもなったら大変ですもの、くんなくても大事にするわ、安心してッ」
怖ろしげな顔をしていても、|流《さす》|石《が》に都会のおかまでした。
タゴトメは、それから間もなく出所して行く時に、
「なったのを全部食っちまわずに、必ずタネを採るのを、ひとつだけ残すんだぜ」
と、くどく言って、皆に、流石に年季の入ったお百姓だと、舌を巻かせたのでした。
易者ダブロクの大予言
看守に連れられて木工場に落ちて[#「落ちて」に傍点]来た新入りを見た途端、私は目を疑いました。
「こんなことってあるもんか」
と、思わず|呟《つぶや》いたのには、わけがあったのです。
川野六男は、通称をダブロクとして知られる易者でした。
私たちの言葉では、なぜか易者のことをロクマというので、だから川野六男は仇名がダブロクなのです。
ロクマのロクと六男の六で、ロクがダブルからなのでしょう。
昭和十年代までの生れだとこんな名前がよくあったのですが、「生めよ増やせよ」なんて、お上が号令していた時代です。
ダブロクこと川野六男と私が最初に会ったのは、あれは昭和四十年頃のことでした。
木工場で出喰わす十年も前のことです。
ある盆で、|手《て》|本《ほん》|引《びき》の|胴《どう》|師《し》をしていた私は、隅からの異様な視線を感じていました。
手本引は、盆の中央に坐った胴師が繰る一から六までの六種類の札を、盆の白い布を取巻いて坐った|張《ガ》り|方《ワ》が、胴師の出す札を推理して当てようとする|博《ばく》|奕《ち》です。
胴師は、張り方の意表を突こうとして札を選び、張り方はそうはさせじと裏の裏まで読むという、これは心理ゲームなのでした。
張り方でも、大銭ぶち[#「大銭ぶち」に傍点]と呼ばれる大金を張る者は、白い布を挟んで胴師の正面に坐って、何を選ぼうかと肩にひっかけた|半《はん》|纏《てん》の蔭で右手だけ背後にまわして片手で札を繰る胴師を、喰い入るように見詰めます。
これを睨み[#「睨み」に傍点]と言い、胴師のごくわずかな表情や身体の動きの変化を見て、選んだ札を知ろうとしているのでした。
命から二番目のお金を取るか取られるかですから睨みもきついのですが、手本引の胴師がたじろいだり|気《け》|圧《お》されたりしたのでは、仕事にも渡世にもなりはしません。
私は、いつものことですが、無表情を保って札を繰り続け、勝負をしていました。
そんな、真ん前に坐って睨み続ける大銭ぶちの他に、普通の客のそれではない粘るような刺さるような視線が、盆の隅から注がれているのを私は感じていたのです。
それがダブロクだったのでした。
手本引にはいろんな種類の張り方があり、それぞれ当った時の配当率が違います。
たとえば、六種類の中のひとつだけ、ポンと一枚場に出して当てるのをスイチ[#「スイチ」に傍点]と言って、賭金には四・五倍の配当が付くのです。
つまり一万円をこのスイチで張って見事に当てると、四万五千円の配当と賭金一万円とで、五万五千円になって戻るのでした。
札は六枚のうち四枚まで張れるのですが、よく当るようになるにつれて配当率も下るというとても合理的な博奕なのです。
全部で六種類の中からの選択ですから、この四枚張りにすれば、危険は随分低くなります。なぜなら、張り方がまるまる取られてしまう危険は、手に残した二枚のうちのどちらかを胴師が選んだ時に限られるからでした。
けど、申しあげたように、危険と配当率は比例しますから、四枚張りの時の配当は低くて、最高でも一・二〜一・四倍にしかなりません。
競馬でいえば、二二〇〜二四〇円の本命並みです。
四枚張りの二番目で当てれば、〇・六倍、三番目なら〇・二倍、そして最後の札で当てると、これは保険のようなもので、逆に胴に二割だけ賭金を取られてしまいます。
全部、まるまる取られてしまうより、いいだろうというようなことです。
この手本引は関西を中心に永い歴史を誇る伝統の博奕で、私は一時、つむじからのめり込んでいました。
忘れもしません。その時の盆で、胴師の私は、前に選んで出したばかりの二の札を、もう一度続けて出したのです。
これはネ[#「ネ」に傍点]とかネッコ[#「ネッコ」に傍点]と呼ぶ勝負手で、張り方を総取りにしようと、機を見て親の放つアッパー・カットのような手なのですが、裏目と出ると無惨でした。
その時は私がややあせり気味にその勝負手を放ったのが見透かされて、張り方の大勝利で、私の胴は吹っ飛んで潰れたのです。
胴師は、ひと晩に四回ほど胴をとって二回も勝てばマズマズですから、続けて胴が潰れたのでは|不《ま》|味《ず》いのですが、一度ぐらいならまだ平気でした。
それでも胴師というのは、胴をひいている間は精神を集中して札を繰っているので、胴が立っても潰れても、ひき終るとガックリくたびれてしまいます。
これは若くて体力の盛んな時でもそうでした。
その時も、胴が潰れると私は、控えの間で盆屋[#「盆屋」に傍点]の出してくれた冷たいビールを一気に呑むと、大きく息をついたのです。
盆を立って、私を追いかけるように控えの間にやって来た中年男は、額がはげあがって|壜《びん》底のような度の強い眼鏡をかけていましたが、私に向うと、
「自分、ロクマ[#「ロクマ」に傍点](易者)をしている川野といいます」
以前から胴師としての私のファンなのだというようなことを言ったのですが、胴が潰れて気の立っていた生意気盛りの私なので、
「ロクマに八卦で張られたんじゃ、胴の立つわけもねえぜ」
なんて言ったのでした。
「お前さんだな、左の隅からしつこいガン[#「ガン」に傍点](眼)を付けてたのは、なんか用なら言ってみな」
目をむいた私がポンポン言うと、壜底眼鏡の川野六男はヘドモドしながら、
「生年月日と今お住いのところをおっしゃって下さい。失礼ながら気になるところがございます。お名前は存じあげております」
と言ったのには、こわもての私ですが、少々薄気味悪く思ったのでした。
こんな気の弱いところが、私の博奕打としての大成をさまたげたのだとも思いますけど、それはさておき。
盆屋の若い衆を走らせて、本屋から関東の地図を買って来させたダブロクは、何かしきりと定規を動かしたあとで、
「これが、気になって仕方のなかったことのわけでした」
と叫んだのでした。
「赤坂から鵜の木へ引越しなさろうとしてらっしゃるが、姐さんがいくら子供に素足で土を踏ませたいからとおっしゃっても、これがいけません。キガク[#「キガク」に傍点]ではこれ以上悪いことはないというほどのことで、どうぞどこでも他になさって鵜の木だけは……」
脅しではなく、むしろ死んだほうがいいと思うほどの目に遭いかねませんからと、ダブロクは誠意を|漲《みなぎ》らせて言ったのでした。
それでもいくらか気にはしたものの、その頃の女の望むまま、私は赤坂から大田区の鵜の木に引越して、そして破滅しました。
それはまったく崩壊とでも言うべきで、あれほどの栄華を誇った私が、家族とも別れ、親分からも破門されて、経済的にも破綻してしまったのです。
まさに、死んだほうがいいと思うような目に遭ってしまったのでした。
少なくとも私に関しては、このダブロクの占いは驚くほど当り、思い出すたびに恐ろしくなるほどだったのです。
それも、私のほうから見てもらったのではなく、手本引の胴をひいていた私にダブロクのほうから懸念を言い出したことなのでした。
春たけなわの木工場に落ちて来た新入りの川野六男を見て、私は驚いてしまったのです。
「あんなに偉大なロクマなのに、どうしてこんなところに来てしまうんだろう」
いくら人にはそれぞれ事情があるとはいえ、しかしこれは不思議なことでした。
私の舎弟はコロンブス
「なにがなんでも安部さん、赤坂から鵜の木になんて、絶対越してはいけません。脅しではなく、お命まで危ないのです」
そんな縁起でもないことを言ったのですが、頼んで占ってもらったのでもありませんから、こんなことをいきなり言われて機嫌の良くなる男なんていません。
不快そうな私の顔を見ると、ダブロクは壜底眼鏡の奥のひずんだ細い目をしばたたかせ、顔を紅潮させて、
「お為だから申しあげるのです」
と、誠意を|面《おもて》にあらわして言ったのです。「ヤクザの俺は、どこにでも行くさ」
私は相手にしませんでしたが、それから半月ほど経って、また|盆《ぼん》|中《なか》で会うとダブロクはいきなり封筒をくれて、
「この中の砂は、闇夜に下田の浜を三尺掘って採ったものです。|欺《だま》されたと思って、身につけておいて下さい。お願いします」
この砂さえ身につけておけば、鵜の木に越しても、どうにか命だけは助かるのだと、ダブロクはクドクドオズオズ言いました。
博奕打の私は、盆中と呼ばれる鉄火場では冷静でいなければなりません。
こんなことで神経を乱されたのではかないませんから、黙って受け取ると財布の中に四つに折ってしまいました。
後で中を覗いてみたら、五グラムほどの薄茶色をしたザラメのような砂が入っていたので、阿呆臭くて堪らなかったのです。
博奕打は役者や相撲取りと同じで、時々こんなファンが出来るのですが、仲間に、
「ダブロクの奴、お守りだって砂をくれたぜ、それも猫の砂場にもならねえほどさ」
と言うと、聴かされた者は誰も|怪《け》|訝《げん》な顔をして呆れかえったのです。
鵜の木に越すとすぐ、驚いたことに私の人生は音をたてて曲り始めました。
曲り出しても、グルリと元に戻ってくれればいいのですが、キリモミになった飛行機のようにクルクルまわって落ちて行ったのです。
ヘヴィー級の黒人に殴り続けられるような日が続いて、気がついたら|女 房《ヤッカイモン》も二人の息子もいなくなり、息も絶えだえの私だけが留置場の床にうずくまっていました。
キリモミの悪夢、黒人のパンチの雨の中で、それでも必死にあがいた覚えがあります。
女房を張り飛ばし、親分に逆らった記憶も残っていました。
借金だって、数えたくもないほどしたのも確かで、私は留置場にいるのに、もしや此処はあの世かと思うほどの地獄の中を通ったのです。
ダブロクの八卦は、当りました。
留置場で呆然とうずくまっていた私を、丸暴の|刑《デコ》|事《スケ》は取調室に連れ込むと、
「オウッ、財布の中に|納《しま》ってあったこれな、ヤクザだったら男らしく、なんなんだか言ってみろ」
鼻先に突きつけられたのは、すっかり忘れていたダブロクのくれた封筒でした。
「なんだ、それはただの砂ですよ。スナ」
刑事たちは私の返事を聴いた途端に、母親の悪口を言われた少女歌手のように、跳ねあがって怒り狂ったのです。
「なにをこの野郎ッ、いいヤクザもんが、なんで砂を後生大事に財布ん中に納っとくんだ。なめたことをぬかすと承知しねえぞッ」
腹を立てた刑事は、その封筒を警視庁科学研究所に送ると分析を頼み、一週間も経つと鑑定結果と一緒に戻って来ました。
「鑑定結果……。ウミズナ……、ね」
封筒に付いて来た書類を読んだ係長は、しばらく視線をあらぬほうに遊ばせて考え込むと、私のほうに向きなおるや声を潜め、
「これは、女に使うんじゃないのか、外国の特殊な砂で利くんだろう。アン」
顔を覗き込んでそう言ったのです。
「そうです。よく知っていますね。あげますよ、自分は当分使いみちがないようだから」
唾を呑んで身を乗り出した係長に、私も声を低くすると教えてやりました。
あの前にほんの耳かき二杯ほど、あの中も奥のほうに入れておくと、もう女はジステンパーにかかった犬のようになるのだと。
あげると言ったら、廃棄の同意書に署名させてから、係長はポケットの奥に封筒をしまいました。
それからすぐ刑務所に落ちた私は、ジャリジャリに赤むけになった係長を思うと、そのたびに涙をこぼして笑ったのです。
木工場に落ちて来た贈り主のダブロクにその話をしてやると、身をよじって床にしゃがみこんで、いつまでも笑い続けたのでした。
「けどよ、どうやらおかげで、命だけは|救《たす》かったようだ。礼を言うぜ、有難う」
私が言うとダブロクは、あまり笑ったので溢れ出た涙を、壜底眼鏡をはずすと指でしきりと|拭《ぬぐ》いながら、
「そんな|卦《け》なんて、はずれればよかった」
と呟きました。
道具の管理係に配役されたダブロクは、雑居房に落ちつくとすぐ地図帳を手に入れて、一心に私のために卦を立ててくれたのです。
その頃リップソーの助手をしていた嘉之は私の舎弟の若い衆でしたから、上目[#「上目」に傍点]の私が信じているダブロクの話は、一緒に神妙な顔で聴いていました。
私の満期が昭和五十四年と聴くと、ダブロクは昭和五十八年から私が迎える最後の大盛運を確実に掴むために、出所したら鴨川のほうに二カ月だけ行っていろと言ったのです。
「鴨川の先は海なので、その方角ならどこでもいいのです」
「海の先をドンドンと、例えばタヒチまで行ったらどうなんだ」
するとダブロクは、貴方は聴いたとおりの国際的な|侠客《きょうかく》だとしきりに感心したのですから、このロクマは私の大変なファンだったのに間違いありません。
しきりと頷きながらダブロクは、その方角さえはずさなければどこまで行っても構わないから、気に入ったところにしなさいと言ってくれました。
「そいじゃこんど、地球儀で調べてみんべ」
私が思わず嬉しそうに言うと、それまで行儀よく黙って聴いていた嘉之も、弾んだ声で唱うように、
「親爺さん(舎弟の子分ですから、嘉之は私をそう呼んだのです)、そんなら、どこでもその場所に立ったまま、思い切って後ろにピョンと跳べばいいんでさあ」
私とダブロクが、なんだか分らずに顔を見合せていると、いらだった嘉之は、自動鉋とリップソーの間に立つと、少し膝を折って弾みをつけて、五十センチほど跳びさがって見せました。
「ホラネ親爺さん。こうすればそんな遠くまで行かねえでも、部屋ん中で済んじまいまさあ。だって地球は円いんですから、こうすると、グルリとまわって来たのと同じ理屈でしょうに」
これは、我が身内ながらコロンブスのような若い衆だと、私は大喜びでとりあえず肩を叩いて褒めそやしたのですが、ダブロクは身体と顔と壜底眼鏡を震わせて怒りました。
「こんなロクでもない考えをする若いもんが周りにいるから、安部さんは大した人なのに悪い目ばかり引いてしまうのです。本当にそんな愚かなことを、得意げに」
壜底眼鏡の奥に涙まで溜めているダブロクでしたから、若い嘉之も困ってしまいました。
どうやらダブロクの八卦は、まだ地球が平らだと思われていた頃のものらしいと私は気がついたのですが、それでは私の場合だけどうしてあんなに当ったのでしょう。
ゴリ名人のハマさん
絵画のカンバスを作る|役《えき》|席《せき》は、木工場の入口のすぐ脇にあって、五人ずつ二列に並んだ懲役が、一日中|華《きゃ》|奢《しゃ》で細身の金槌でトントントントンやっていました。
刻みの入れてある長短二本ずつ四本一組の白木の材を、まず長方形に組んでから、カンバスを小釘で、ピンと張るように打ちつけるのです。
作業台を前に、一日中腰をかけたままで仕事をさせられている十人の懲役には、雑用のための|爺《サマ》|様《ジイ》がひとり|配《はい》|役《えき》されていました。
作業台の上に積んである材が少なくなると、資材置場から運んで来て手押車に載せてあるのを補充したり、釘を配ったりするのがこの|爺《サマ》|様《ジイ》の仕事です。
詐欺と脅しの常習だそうで、こんどは合計で四年六月も打たれて[#「打たれて」に傍点]しまったというのですが、もう七十歳になるというのに、この小柄な爺様は私が初めて塀の中で出喰わした昭和三十二年頃と、なんの変りもないと思えるほど御達者でした。
普段は無口な年寄りでしたが、その代りに寝言をしきりと言うのも、その頃と少しも変りません。
何か軍隊口調で、しきりと相手を詰問するようなけわしい言葉を、随分と永いこと喋り続けるのですから、同じ席の懲役は|閉《へ》|口《こ》|垂《た》れてしまうのでした。
本名を浜岡忠義というこの爺様は、そんな癖や様子は変りませんでしたが、大きく変ったのは懲役としての知名度で、昭和三十年代の塀の中で「ゴリ名人のハマさん」と言えば、これは飛び切りの有名懲役だったのです。
現在の上州河童や真鶴アベベより上で、ドク・西畑と肩を並べるほどでした。
今でも私より歳上の懲役だと、それでも、
「ヘエ、あの爺様が、ゴリ名人のハマさんか。驚いたねえ、まるで五寸釘の寅吉にでも会ったような、そんな気がするぜ」
なんて、驚きはするものの、縄のれんの皺苦茶な|婆《サマ》|様《バア》が昔は新橋芸者で、総理大臣の囲い者だったと聴かされたのと、同じような感じでした。
若い懲役にいたっては、あの方がゴリ名人のハマさんだと教えられても、もうなんの反応も示しません。
時が流れてしまえば、昔の偉大な技術を持った者はうたかたのように忘れられてしまうので、塀の外のリヒト・ホーヘンも那須の与一も、塀の中のゴリ名人のハマさんも同じでした。
ゴリというのは今でこそすっかりすたれてしまいましたが、塀の中で懲役が開発した火を起す術の中でも、一番ポピュラーな奴だったのです。
私が初めて少年鑑別所に入れられた昭和三十年頃は、このゴリで煙草に火を|点《つ》けようと、一所懸命やっていました。
火を起す術は、このゴリの他にも、デンパチ[#「デンパチ」に傍点]とかハレヒル[#「ハレヒル」に傍点]なんていうのがあったのです。
デンパチというのは、鉛筆の芯を取り出して、天井の電球をはずしたソケットに、軽く当ててショートさせ、飛んだ火花をほぐしたフワフワの布団綿で受けるのでした。
これは下手をすると、全監が停電してしまって大騒ぎになったりしますから、そうそうはやらなかったのです。
電気をパチッとやるから、デンパチなのでしょう。
ハレヒルというのは、眼鏡のレンズに水滴をひとつ、盛りあがるようにたらして、太陽の光線をそこに通し、下の綿か鉛筆の削りかすに焦点を結ばせるのです。
しばらくすると、ホヤホヤと淡い煙が出て、フーフー吹くと赤い火になりました。
晴の昼間に限るので、ハレヒルなのに違いありません。
こんないくつかの術の中で、場所や条件に一番とらわれないのがこのゴリでしたから、昭和三十年代までは煙草を吸おうとなると必ずゴリでした。
布団から綿を抜いて薄く伸ばして広げ、その中に|茣《ご》|蓙《ざ》の|藺《い》|草《ぐさ》を小さく千切って適当に撒きます。
当時は許されていたセルロイドの眼鏡をしている奴がいれば、ツルのところを少し削ったのを、藺草と混ぜるとさらに効果的でした。
その綿を、端から少し唾でしめして、固く固く巻いていくのです。
掌で、床に押しつけるようにして転がしながら、固く練りあげるように、中太の葉巻みたいな型にするのでした。
こうしないと、後の段階でグシャリと潰れてしまって火は点きません。
巻きあげたのを床に置き、手頃な固い頁の本か、はずれれば窓枠をはずして上に乗せ、下に置いてある棒を押えつけながら、一気に弾みをつけて本か窓枠をグイグイと休まずに押しては引くのです。
棒は、床と上から乗せた物の間でゴロゴロ転がり続ける間に、摩擦で熱くなって焦げた臭いがし始めるのですが、タイミングを計って転がすのを止め、真中の太いところが茶色に変色したのを、端を両手で掴むと思い切って左右に引っぱります。
中が焼けてもろくなっていますから、真中から千切れると断面から薄い色の煙が昇るのですが、こうなれば大成功でした。左右の指で摘んだ綿の棒の千切れたのを、懲役は忙しく小刻みに振るのです。
そのうちに断面に赤い火が見えて、周りをとり囲んでいた懲役たちは、必ずいつもそんな場面で、ウオッのような低いうめきをもらしたものでした。
こんな具合にうまくいくのは稀で、巻きが甘いと転がすうちに中から崩れて、ひしゃげてしまい転がらなくなってしまいます。
タイミングが悪いと、左右に引っぱっても千切れてくれず、そのうちにさめてしまったりするのもよくあることでした。
普通なかなか一度では火が点かず、何時間もかかって何本も棒を練りあげ、看守の目を盗んではゴロゴロやるうちに、冬でも皆汗まみれになってしまうのです。
浜岡は、なぜか必ず最初の一発で見事に火を点けてしまうのでした。
それも永くなんかゴロゴロやらないで、アッサリと火を点けるのですから、ゴリ名人のハマさんの名は、日本中の塀の中に|轟《とどろ》いていたのです。
今の有名懲役といえば、偉い順に並べると、偽医者だけど腕は本物の博士以上というドク・西畑がなんといっても一番で、真鶴アベベや上州河童、それにイモリ松は、一段格が下ります。
ゴリ名人のハマさんは、その当時間違いなく、今ならドクと肩を並べるほどの有名懲役でした。
それが昭和四十年になると、突然のように使い捨てガス・ライターの密輸が盛んになって、どこの刑務所のどんな工場にも、何個か隠し持たれるようになったので、その途端に、こんな火を起すための術は、忘れ去られてしまったのです。
「工場計算」の狩野哲夫はなんでもよく知っている懲役で、親しくしている私に浜岡の爺様は戦争中、海軍の下士官だったのだと教えてくれました。
終戦後すぐから今まで、昔の上官を訪ねてまわっては、脅したり恨みごとを言ったり、|詐《だま》したりしているのだそうです。
「上官だって、もうそんなに生きては……」
と呆れる私に、若い狩野哲夫は、
「イエネ、軍人恩給が偉かった奴ほど高いのに腹を立てて、生きてる限りやるんですと」
薄気味悪そうに言ったのでした。
塀の中に忍び込んだ男
「俺の舎弟は、日本一の舎弟だ」
なんでもかでも自慢をし、ホラを吹くのが懲役ですが、まだ二十九歳の若い狩野哲夫がそう言ってうそぶくと、聴かされた木工場の懲役は皆、フンといった様子で横を向いたのです。
誰でも自分の女や子分は、本当はどうであろうと、懲役に来れば自慢なのですから、それを自分の舎弟が日本一だと決めつけられれば、面白いわけもありません。
狩野哲夫は細身で背が高く、濃い眉毛とそげた頬の鋭いマスクで、「これがヤクザだ」というような顔の懲役でした。
盛り場でも刑務所でも、この狩野哲夫のような男がたまにいます。
俺は生れついてのヤクザだから、一所懸命|任侠《にんきょう》道に励むのだと、身体じゅうでいっているようなところが見えました。
まだ二十九歳と、この木工場では断然若かったのですが、子供の頃から施設や少年院を渡り歩き、刑務所に吸い込まれる[#「吸い込まれる」に傍点]のもこれが三度目というベテランです。
両肩から腕の|肘《ひじ》まで朱と青で鮮やかな彫り物がしてあって、今回傷害で喰らった二年六月の刑が終ったら、背中一面から尻まで彫秀という名人に彫ってもらうのだと、しきりとデザインを考えていました。
自動車や釣竿、それにアロハやTシャツと違って、彫り物は一度彫ったら最後、とり替えもデザインのやり直しもききません。
だから図柄を考えるのも、慎重になって当り前でしょう。
それに彫師を選ぶのも、同じように大変のようでした。
それというのも、彫り物の展示会をやっているような塀の中ですから、立派なのやチャチなのと、それはとりどりのが揃っているのですが、中にはなんとも気の毒なのもあったのです。
背中で吉祥天女がベソをかいていたり、笑っている蟇の背中に乗った児雷也が、クシャミをしそうになっているのがそれでした。
彫った彫師も困ったでしょうが、これだけは絵と違って、失敗しても塗り潰すわけにも、消しゴムでこするわけにもいきません。
こんな吉祥天女は二度と微笑むことはありませんし、児雷也もハクションと思いきりやって、晴ればれとすることだって決してなくて、何時までたってもそのままです。
他の図柄で、たとえば花だったりすれば、これはまだ後から誤魔化しも利くのですが、人の顔をしくじると、これだけはどうにも手直しがきかないようです。
その日も、狩野哲夫は木工場の床にチョークで、背中のデザインをひとしきり考えたあとで、周囲にいた懲役にいきなりひと言、「俺の舎弟は日本一だ」といったのでした。
まだ二十九歳という若さで、これが三度目の実刑判決だというのですから、あまり塀の外にいたことがないと思われる狩野哲夫です。
それで名だたる博徒一家の幹部なのですから、きっとヤクザとしてのセンスがいいのに違いありません。
普通は、こんなにしょっちゅう刑務所に来ていると、いくらヤクザでもどうしても出世が遅れてしまうもので、このあたりはサラリーマンと一緒なのです。
いくら優秀なサラリーマンでも、病気で休みがちでは、出世競争に負けてしまうのでしょうが、狩野哲夫は名だたる博徒一家の幹部でした。
出世したのは塀の外ばかりではなく、「工場計算」をやっているのですから、塀の中でも順調だったのです。
工場計算というのは、懲役の三役のような|役《えき》|席《せき》でした。
工場で働かされている懲役の筆頭が、ブンタイと呼ばれている囚人頭で、その次が貸与と工場計算です。
「貸与」は、作業衣や作業靴を支給する係で、工場計算は、工場担当の部長を助ける事務係でした。
だからといってべつに、他の懲役たちに威張ったりは出来ないですが、この貸与と工場計算は、やっているといろいろ他の連中に便宜を計ってやれることも多いのです。
以前もどこかの刑務所の工場で、狩野哲夫は工場計算をつとめたことがあったのでしょう。
木工場に落ちて[#「落ちて」に傍点]来るとすぐ、満期で出所の迫っていた工場計算の助手に|配《はい》|役《えき》され、そのまま本職にスライドしたのでした。
いくら大人しいとはいっても、すれっからしの木工場の懲役たちです。
こんな仕事を、素人のような懲役がモタモタやっていたりしたら、イチャモン[#「イチャモン」に傍点]がついて大騒ぎになってしまうのですが、狩野哲夫は慣れた様子でやっていました。
目上の懲役を立てて、|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》らしく、そつなく刑期を過すかに見えた狩野哲夫が、その日の昼休みに、いきなりこんなことを言い出したのですから、中には|咄《とっ》|嗟《さ》に目を三角にした奴もいたのです。
「なんでテメエのが日本一だ。俺の舎弟は、どうだてんだこの野郎」
と、そんな気持だったのに違いありません。
誰でも、どんなにボヤいていても自分の舎弟は可愛いもので、私にしたってその頃は舎弟の人相違反[#「人相違反」に傍点]と一緒の木工場で働かされていましたから、狩野哲夫のいきなりの発言には|可《か》|成《なり》ムッとさせられたのです。
とんがった顔の、木工場の懲役たちを見まわすと狩野哲夫は、ニヤッと笑って、
「みんな聴いているでしょう。刑務所に入って来ちゃったチンピラの話。あれ自分の舎弟なんでさあ」
と、嬉しそうに言ったのでした。
これは、懲役の誰もが知っている超有名な話で、あろうことか、刑務所の塀を乗り越えて塀の外から入って来てしまった男のことです。
数年前のことと聴きましたが、中に捕まっている兄貴のために缶ビールやチョコレート、それに煙草や大福を一杯詰め込んだリュックサックを背負って、刑務所の中にノコノコと、若い衆がひとり入り込んでしまったのでした。
面会の時、姐さんが聴いて来た舎房の番号を頼りに忍び込んだ舎弟は、まんまとその雑居房の窓の外まで行って、
「兄貴、兄貴、おられますか」
運の悪い時というのはそんなもので、肝心の兄貴は三級から二級に進級して、日当りのいい南側の雑居房、つまり逆側に移されたばかりだったというのです。
「本当だよ。その入って来た若い衆は、この狩野君の舎弟だよ。俺は前刑をこの府中で一緒につとめてたからよく知ってるよ。あの時は全監[#「全監」に傍点]大騒ぎだった。今から五年も前かな」
右翼の川端爺さんがそう言ったので、これは皆ウンもスンもありませんでした。
懲役の議論は、誰かが、どんなことでも、
「俺、見たんだもの」
と言えば、それですべて終ります。
「そんな馬鹿なこと、あるわけがねえや」
と思ったら、後は喧嘩をするしかありません。
狩野哲夫の舎弟は、看守の監視の目が、塀の中から外へ逃げようとする者に、もっぱら向けられていた盲点を突いて、まんまと空が白む頃、入り込んだというのです。
無念にも捕えられて、目的を果せなかったその舎弟は、建造物不法侵入で起訴されましたが、罰金で済んだと聴きました。
「ウーン、そりゃあ、とりあえず狩野の舎弟が日本一なのは、これは仕方がない」
私はうめいたのでした。
能ある鷹は将棋が|稼《しの》ぎ
秋風が塀を越えて来ると、それまでの永い夏の間ゆだりっぱなしだった懲役も、鎌首をもたげるような感じでいろいろ準備を始めます。
運動時間になると、まだ随分強い陽ざしを浴びてグラウンドをテコテコ走りまわる連中は、秋の運動会のトレーニングを始めたのでした。
それにしても、日本人に多い「走り馬鹿」のような男は、ちゃんと塀の中にもいるのです。
あのただ走るということは、やってみるまでもなくちっとも面白いものではないようで、それが証拠に楽しそうな顔をして走っている奴はひとりもいません。
私たちのような「勝負馬鹿」は、秋の全監将棋大会に備えて、普段でも昼休みは必ずやっている将棋に一層熱が入りました。
秋の全監将棋大会は各工場から三名の懲役がチームになって出場する団体戦と、バラバラになって勝抜戦を闘う個人戦でしたが、とにかくまず木工場の予選を勝抜かなければこれは話になりません。
私は塀の外にいると、金のない時は|縄《シ》|張《マ》|り《ウ》|内《チ》にあった二上八段将棋センターにしょっちゅう通っていたのです。
一日の席料が当時は百五十円で、これにカツ丼代と煙草を持って行けば一日たっぷり遊べるのですから、ヤクザがくすぶった時にこれほど結構なところはありません。
そしてこの将棋センターでは、十回通うと「若先生」と呼ばれていた当時の勝浦修五段に、稽古将棋が一番だけ指していただけるのでした。
将棋で大駒の飛車と角を両方共落して指すのを「二枚落ち」というのですが、これは両手を後ろ手に縛ってボクシングをするほどの、とんでもない大差なのです。
この二枚落ちで若先生にコロッと負けた私が、口惜しさと自己嫌悪で真っ赤になりながら、
「若先生、自分はどうすればもう少し将棋が強くなれるでしょう」
と尋ねると、若先生は地元のヤクザの代貸の思い詰めた様子に呆れたらしく、しばらく広いおでこに指を当てて考えてから、
「安部さん、もう少し考えてお指しなさい」
今は九段に出世なさった勝浦修に、どこでお目にかかっても歳上の私が、「若先生」を連発するので周囲は怪訝な顔をし、若先生は困っておられるようです。
と、それはさておき。
その二上八段将棋センターの常連だった|爺《サマ》|様《ジイ》が、|博《ばく》|奕《ち》|打《うち》のくせに将棋が弱くていつでも顔を真っ赤にしている私に、
「ヤクザでも、下町の亀井って人はツオイよ。先日上野の花村さんの道場でプロ七段に『角落ち』で三番続けて勝ったんだから、あれは凄い」
と、入歯をカタモグさせながら言ったのですが、たいてい同年輩のヤクザのことを他人が褒めると、内心猛烈に焼餅を|妬《や》く私なのに、顔見知りの亀井貴夫に限って平気でした。
荒川区の木造アパートに巣喰っている亀井貴夫は、将棋のプロだったのです。
金ぶちの眼鏡をした細面の痩せたヤクザでしたが、ヤクザで痩せていればたいがい黒砂糖のカリントのような色をしているものなのに、亀井貴夫は役者のように色白でした。
亀井貴夫はプロの将棋指しとはいっても、日本将棋連盟に所属するプロの棋士ではありません。
まだ関西には沢山いる賭将棋専門の博奕打で、私たちの言葉ではこういう稼業を「|真《しん》|剣《けん》|師《し》」というのです。
「竿師」「胴師」「真剣師」と、師の付く稼業はいろいろあります。
私がもし看板を降ろさずに作家をしていたら、「文章師」でしょうか、それとも「筆師」のほうが素敵でしょうか。
普段は下町を中心にカモを見付けてはパチリパチリと稼いでいるのですが、農閑期になると、荒川区の木造アパートはいくら電話しても留守でした。
米の供出代金をタンマリと懐にしたお百姓が群れている東北の湯治場に、亀井貴夫が出張しているのです。
世界一高いお米を、作っただけ政府に買ってもらっているお百姓ですから、懐はウナっているわけで、それを将棋でソックリ取りあげようというものでした。
湯治場で爺様をつかまえるこの手の仕事師[#「仕事師」に傍点]は、二番続けて負けて口惜しがって見せたり、圧倒的な有利になって得意満面のお百姓を、ジワジワと指し回し[#「指し回し」に傍点]てやっつけ、渋茶色の顔を赤黒くさせたりするのです。
とにかくまともに全力を発揮すれば、プロの五、六段に三番に一番は必ず平手で勝つ亀井貴夫ですから、こんなことぐらいお茶の子さいさいでしょう。
手もなくエキサイトさせられたお百姓は、レイトを上げた局面でたちまちコテンパンにされて、都会の市民が払った税金は、真剣師亀井貴夫の懐に、そっくり移動してしまうのでした。
その亀井貴夫が木工場の「クリ棒」で木屑にまみれていたのです。
クリ棒というのは野球のバットを作るのと同じで、荒く型をつけた材木の両端を固定して高回転でぶんまわし、それにサンド・ペーパーを当てて磨きあげる|役《えき》|席《せき》でした。
階段の|手《て》|摺《すり》を支える棒とか、椅子やテーブルの脚を、ここで作るのです。
ビューンと音をたてて回転する材木に、木片に巻きつけたサンド・ペーパーを当てると、細かい木屑が舞いあがって、機械の前に坐っている懲役の顔と頭に吹きつけます。
だから作業帽を目深にかぶり、タオルで鼻と口をおおった覆面の懲役たちは、仕業開始と同時にきなこまぶしの団子のようになってしまうのでした。
この日も午後の運動時間が雨で外に出られなかったので、私が早速テキヤのカズを相手に将棋を始めると、眉毛に黄色い粉を一杯つけて新劇俳優のような顔になった亀井貴夫が、ニヤリと笑いながらやって来たのです。
テキヤのカズは亀井貴夫と同年輩の四十に手が届こうかという歳頃でしたが、この男、以前大道の詰将棋の修業をほんの少しばかりの間やったことがあるとかで、私とはチョボチョボの腕前の好敵手でした。
この頃はすっかり影をひそめましたが、このテキヤのやっていた大道の詰将棋は、簡単そうに見えても詰めあがりが四十手とか五十手という難解なものなのです。
だから、この複雑な変化をマスターしたテキヤは、それだけでアマチュアの三段ぐらいの腕前を持つようになるのでした。
「あ、安部さん、そこはそう指しちゃ駄目で、まず銀の頭にある歩を突き捨てとくんですよ。ネ、そうすればこうなってこうなると……」
なるほど亀井貴夫の教えてくれたようにすると、攻めが続くのです。
その指し回しの妙にすっかり感心したテキヤのカズが、
「亀井さん、木工場の代表になって将棋大会に出場なさいな。団体戦はともかく個人戦なら、大楽勝のブッチ切りでしょう。賞品も今年はいいそうですよ」
亀井貴夫は私の顔を見るとニヤッとまた笑いました。
「カズちゃん、俺たち真剣師はいつでも腕を隠してなきゃ仕事になんないのさ。退屈だから将棋は指したいけど、因果な稼業だぜ」
長嶋茂雄が、日曜日に多摩川の河原で、素人と草野球を楽しむようには真剣師はいかないのだと言いました。
実の欠けたトウモロコシ
「身体捜検ッ!」
壇上の工場担当部長が叫ぶと、いぶかしそうな顔で立ち尽していた私の助手に、リップソーのところをちょうど通りかかった副担が、
「タマ検だよ。タマ検」
と、ズボンのファスナーを平手でピシャピシャ叩くと言ったのでした。
府中刑務所の工場では、木工場に限らずどこでも年に一度ぐらいの割で、不定期にこのタマ検[#「タマ検」に傍点]をやるのです。
工場の作業は一時中断されて、八十人ほどの懲役が長い列を作りました。
担当部長が机を据えて坐っている高い担当台の下に、計算夫と貸与係の畳二枚ほどの事務室があります。
その中に保安課の看守が二人椅子に坐って、懲役は前に置いてある丸椅子に腰掛けさせられるのでした。
そして丸椅子に坐ると、看守にうながされてなにより一番大切なものを、罰金ボタンの中から取り出します。懲役の作業衣のズボンはまだファスナーではなくて、昔ながらの罰金ボタンでした。
タマ検というのは、懲役たちのあそこにタマを新たに埋め込んだかどうか調べる検査で、入所の時や前回のタマ検で調べた数より増えていれば、これは反則になるのです。
タマは、歯|刷子《ブラシ》の柄のプラスティックを丹念に、梅干仁丹ほどの大きさの球に磨きあげたもので、稀にはパチンコ玉ほどの大きさのや円筒型のものもありました。
いずれにせよ生命のないものですから、放っておいて増えたりするわけはありません。増えていたらそれは懲役が入れたということなので、官[#「官」に傍点]は憤然とするわけです。
懲役が頭の中で何を考えているかまでは、どうにもならなくても、官はなにからなにまで管理しなければ気が済まないようでした。
丸椅子に坐った懲役が、あるものは照れ臭そうに、あるものは憤然と不貞腐れて、大事なものを取り出すと、若い看守がムズと掴んで|捻《ひね》りまわし、帳簿を構えている上役に向って、
「なんのだれだれ、四個ッ」
とか、
「安部直也、一個ッ」
なんて叫ぶのです。
帳簿を拡げている看守は、それを聴くたびに右手に構えていたボールペンの尻で名前とタマの個数の欄を追うと、
「ヨシッ」
とか、個数が増えているのを発見して、
「コラッ、待てい」
なんて叫ぶのでした。
私の前に並んでタマ検の順番を待っていたテキ屋のカズは、歳甲斐もなくソワソワキョトキョトと落着かなかったのです。
歳甲斐といったのはこのテキ屋のカズも私と同年輩で、しかもこれが五回目の塀の中というのですから、こんな場面でキョトって[#「キョトって」に傍点]はいけません。
「五百円の罰金なんだから、テキ屋のカズほどの兄ィが何をそんなに震えてんだい。笑われんぞこの野郎」
仲のいい私が小声でそう言ってやると、首をすくめたテキ屋のカズは、もともと私より二十センチほど背の低い男なので、上目遣いに私を見ると、
「七個も増えてると、罰金で済むかな」
と言ったのです。たいていだと二つや三つ増えていても、懲罰までは喰らわずに罰金で済むのでした。
けど、それも七個増えたとなると、これは随分と念の入った反則ですから、罰金では済まないかもしれません。
いずれにせよ法務省得意の判例などというものは、この際はあまりあてにならず、すべては官の虫のいどころ、といったようなことでした。
こんなことに限らず、懲役の毎日はほとんど看守の胸先三寸で決るのですから、堪ったものではないというより、なんともいえず哀しい事態だったのですが、それはさておき。
私は後ろに並んでいた静岡のコーベイに、七個増えていても罰金で済むだろうか、と訊きました。
この静岡のコーベイはどうやら|博《ばく》|奕《ち》|打《うち》らしいのですが、どうもハッキリしません。
懲役には時々こういうのがいて、なにやらもうひとつ身分がスッキリしないのですが、他の工場のゴロツキ検事のような懲役たちならともかく、程度のいい穏やかな懲役の揃っている木工場では、誰も突っ込んで追及しないのです。
それをいいことにして、この静岡コーベイは何につけてもうるさく、まだ私よりいくつか若いというのに、もっと若い連中を掴まえては、クチュクチュと叱言ばかり言うのでした。
だから、ついた仇名がコーベイなのです。
「テメエで入れたタマだから、罰金だろうと懲罰だろうと、いいゴロツキが覚悟の上だろうよ」
コーベイはこんな返事をしたのですが、こんな情のないこと[#「情のないこと」に傍点]を口に出すのも、木工場の懲役の大人しさを、牙の抜けた野獣と誤解して、舐めきっていたからでしょう。
「ナニイこのタコッ」
テキ屋のカズがいきり立つのを、その前にいた工場計算の扇太郎がマアマアといつものようになだめました。
扇太郎はゴロツキではなく、まともで不運な泥棒でしたが、こんな時にはいつでも上手くなだめて場を静めるのです。
反則を発見されると与えられる罰にはいろいろあります。|軽《けい》|屏《へい》|禁《きん》という、懲罰房にぶち込まれて最小の|五《ご》|等《とう》|飯《めし》を食わされる罰ばかりではありません。
看守の偉いのに糞味噌を|怒《ウ》|鳴《ナ》りとばされる「戒告」とか、それに今から工場の半分ほどの懲役が喰らわされようとしている「罰金」なんていうのもあったのです。
この罰金というのは、懲役が月々もらう作業賞与金から五百円とか千円とか、官の睨んだ罪状に応じて、さっぴこうというのでした。
とびきりの技術者で、しかも何年も反則をしないで過したとしても、月にもらう作業賞与金はせいぜい五、六千円です。
入所したばかりの見習工だと百円か二百円ほどで、府中刑務所のような短期刑務所では平均でも二千円にはならないでしょう。
その中から反則の罰金を取ろうというのですから、これにはどんなゴロツキだって呆れてしまいます。
それでも抗議も抵抗も出来ない哀れな身ですから、木工場に行列した懲役たちはこれから次々と罰金を言い渡されるのでした。
中にはテキ屋のカズのように罰金では済まないのではないかと、震えている懲役も何人かいたのです。
法務省では減食の罰なぞ与えていない、なんてことあるごとに言うのですが、普段二等飯を食べている懲役をほぼ半分の量の五等飯にするのは、誰がなんと言おうともこれは減食の罰なのでした。それが証拠に、十五日も軽屏禁を喰らった懲役は、頬がこけ|顎《あご》が|尖《とが》って帰って来ます。
だからそんな理不尽な罰金でも、軽屏禁の懲罰より、懲役にとってはくらべようもないほどましだったのでした。
「お前さんのは、七個ぐらい増えても分んないかもしれないぜ」
と私が言ったのは、テキ屋のカズのそれはまるで、少し実の欠けたトウモロコシのようだったからです。
先から根元までタマだらけでした。
玉信仰の信徒たち
さらに七個も玉を増やしていたテキ屋のカズは、看守に情を憎まれて[#「情を憎まれて」に傍点]しまって罰金では勘弁してもらえずに、十日の懲罰を喰らわされましたが、それでも|免《めん》|罰《ばつ》になると、また木工場に戻って来ました。
それまでつけていた二級の赤い|名《めい》|札《さつ》の枠は四級の白に変っていました。せっかく四等工まで昇っていたのを振り出しの見習工に落されたのです。
仮釈放の可能性もこれでほぼ吹っ飛んでしまいましたから、これは相撲に例えると、幕内の関取が一気に三段目に落っこちてしまったほどのことでした。
出せる手紙の回数も、週に二通から二週間に一通に減らされ、作業賞与金も月に二千円ほどから、百円チョボチョボの雀の涙にされてしまうのです。
テレビを見られる時間も少なくなるし、集会で月に一度チョッピリ甘い物を食べる楽しみもなくなります。
こう書いても塀の外ではピンと来ないでしょうが、滅茶苦茶に自由を制限されている塀の中では、こんなことでも、膝が曲って腰が落ち、肩が円くなってしまうほど、がっくりくることなのでした。
そんな危険があるにもかかわらず、どこの工場でも懲役たちは、これだけは珍しく情熱を燃やし、看守の目を盗んでは念入りに玉を磨くと、痛さに耐えて自分の身体に埋め込むのです。
他の工場にくらべると程度のいい懲役が揃っていた木工場ですが、玉入れに熱中する懲役の数は他と少しも変りませんでした。
名医として全国に名の鳴り響いていたドク・西畑が、この頃木工場に配役されていたことも、懲役たちの玉入れ熱に拍車をかけたようです。
ドク・西畑は、それが腕の冴えなのでしょうが、玉入れの手術をして失敗がまずありませんでした。
消毒も出来ず、玉を入れた傷口を縫うことも出来ないので、下手なのが手術するとよく|膿《う》んだり炎症を起してしまうのです。
|腫《は》れあがって、熟れ過ぎたアケビのようになってしまいますから、こうなれば朝夕二回の素裸でやられる|裸検身《カンカンオドリ》で、前後から睨みつける看守の目を、くらまし続けられはしません。
こうしてパクられると、タマ検されて数の増えているのを見つけられた時とは、罰の重さが違います。
自傷行為という反則とされて、確実に懲罰を喰らってしまうのでした。
玉は、歯刷子のプラスティックの柄を程良い長さに切り、サンド・ペーパーや砥石を使って、普通は梅干仁丹か正露丸ほどの球形に磨きあげます。
ピンクやブルーの透きとおった美しい玉が磨きあがるのには、大変な時間がかかるのです。
時には、円筒型やパチンコの玉や小さなビー玉ほどの特大のを作る懲役もいました。
玉を磨いている長い時間に、懲役は紙切れにしきりと実物大の図面を描いて、入れる位置を慎重にしかつめらしく考えるのです。
そして美しく磨きあげると、すぐには手術してしまわずに隠し持って、誰彼かまわず出して見せては、出来栄えを自慢すると決っていました。
埋め込む手術は、やる者によっていくらかの違いはありましたが、流儀というほどのことではありません。
ドク・西畑のも他の懲役と似たりよったりで、箸のような木の棒の先を鋭く尖らせたのを使います。指で摘んでおいた表皮に、その鋭い先を一気に二センチほどズブッと突き刺すのです。
そして素早く抜くと、出来た穴に血が湧いて来ない間に、用意の玉を穴の奥まで押し込むのでした。
傷口は、自然にくっつくのを待つしかないので、いつまでもふさがらないと、せっかく痛いのを我慢して入れた玉も、無情にもコロリと転がり出てしまいます。
麻酔もなければ西部劇のようにバーボンもない塀の中なので、痛いことも並たいていではありません。
それなのに懲役たちは精魂こめて玉を磨き、歯を喰いしばって痛さに耐えて、玉を入れるのでした。
三つほどもちりばめた懲役は、なんとも誇らしげな顔で、
「これを喰らえば、もう女は離れろって言ったって離れやがらねえ、何年の刑でも待つようになるのよ」
なんて呟くのですが、私にはどうにも合点のいきかねることでした。
私は以前から、玉の効能については信じていなかったのです。
それというのも、図面に従って理想の位置に何個も玉を入れた懲役が、短い懲役をつとめる間に女に逃げられてしまったのを、何人も見ていたからでした。
それでも皆が熱中していることなので、理屈をこねることもありませんからずっと黙っていたのですが、親しくしていたテキ屋のカズとふたりきりになった場面でつい、かねてからの疑問をもらすと、テキ屋のカズは床から跳びあがって目をむいたのです。
「俺だからいいけど、安部さんそんな馬鹿なことを言うと、笑われちまいますよ。キチンと図面を描いて、いいとこに玉を入れれば、どんな女でもメロメロになっちまうんですよ。誰にでも訊いてごらんなさいな、いい|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》が冗談言っちゃ笑われちまいますよ」
テキ屋のカズが唾を飛ばして喚くのを見た私は、愛に飢えている男たちの哀しい姿を見たように思いました。
いつでも不安定な暮しを続けている野蛮な男たちは、誰かに深く愛されたいと、無意識にですが強烈に願っているのです。
女を魅了し尽す手段を他に思いつかず、一時の危険と苦痛で済むタマ入れを考えつくと、たちまち神話と伝説もまことしやかに創ってしまったのに違いありません。
誰かに愛されたい、愛され続けたいと願う孤独な懲役たちの心と、それに怖れが、この玉伝説を産み出したのですから、これは痛ましいことでした。
興奮して喚き続けるテキ屋のカズに閉口した私は、すっかり降参して、悪い冗談を言ったと詫びを言いますと、そこは人の良い男ですからすぐ機嫌を直し、
「私がしっかり図面をひきますから、ドクに頼んでいいところにひとつだけ入れればいいですよ。玉も頃合なのを腕によりをかけて磨いてあげます」
話を聴いたドク・西畑は笑いながら、
「効き目のほどはともかく、これで足を洗うのならひとつ記念に入れてあげよう。風呂に入るたびに俺のことを思い出してくれるだろう。どうだい安部さん」
と言いました。
今から思うと呆れたオッチョコチョイなのですが、仮釈放のひと月ほど前に、テキ屋のカズが描いてくれた図面どおりに、根元のほうにひとつだけ、
「ウーム、ギギギ」
と低くうめきながら、入れてもらったのです。
出所した私は、甲羅を経た異性と出喰わすたびに、しつこく意見と印象を訊いたのですが、懲役の玉信仰を裏づける答えは矢張り聴けませんでした。
詰っていないトウモロコシほどに、|矢《や》|鱈《たら》と沢山玉を入れたテキ屋のカズは、今頃どこでどうしているのでしょう。誰かに深く愛されていれば、と願うのです。
年寄りに歳を訊くな
渋川英夫は、本名を金英烈という在日韓国人でした。
塀の中に落ちる[#「落ちる」に傍点]と、なんでも本当の姿がさらけ出されてしまいます。
たとえばこんなことがありました。
頭のテッペンが見事に|禿《は》げ上り、短く刈られた白髪が耳の上から後頭部にかけて輪のようにとりまいている|爺《サマ》|様《ジイ》が、ニコニコしてやって来ると、
「直チャン(私の本名は直也)、なんだ|府《こ》|中《こ》にいたの……」
なんて言ったのですが、そんなに懐しそうにされても私には誰だか思いあたらなくて困ってしまったのです。
焦ったその爺様が本名を叫ぶと、なんと同門の仲良くしていた男でしたから、私は仰天しました。
それというのも、この男は塀の外では髪を染めており、出来のいい|鬘《かつら》をかぶっていたからで、白髪染めを禁じられ鬘を取りあげられてしまうと、私が見ても分らないほど変ってしまったというわけです。
歯が抜けたり折れたりしても、塀の中では余程お金を持っている懲役でなければ、歯医者にはかかれません。
前歯が欠けて、頭を坊主刈にされ、そして冴えない揃いの灰色の獄衣姿ですから、これはもう仮装大会をやっているようなものでした。
官にとりあげられるのは禿の鬘だけではなくて、世間で通っている芸名やペンネームにしても、戸籍に載っているものに変えられてしまうのです。
在日韓国人も塀の外で日常使っている日本名は認められないで、胸の|名《めい》|札《さつ》も韓国名にされてしまいます。
渋川英夫は塀の外でも昔からよく顔のつく[#「顔のつく」に傍点]男でしたが、木工場で会って名札を見るまで、私は韓国人だと気がつきませんでした。渋川英夫の名札に金英烈と書いてあるのを見て初めて分ったのです。
大昔から交流のある隣国なのですから、だいたいそんなに見分けのつくようなことではありません。
渋川英夫はよく喫茶店やビリヤード、それに鉄火場や競馬場で顔のつく[#「顔のつく」に傍点]男で、私が少年の頃にもう中年でしたから、今ではいい歳のはずでした。
どこの一家というのでもなく、こうして街にいるゴロツキをハングレ[#「ハングレ」に傍点]なんて言うのですが、これは半分ぐれているというような意味で、看板持ち[#「看板持ち」に傍点]の使ういわば蔑称です。
看板持ちというのは、一家や組といった組織に正式に入っているヤクザのことです。
渋川英夫は木工場で研磨をしていましたが、私とはとても仲良くしていました。
研磨の|役《えき》|席《せき》は工場の隅にあるベニヤ張りの五坪ほどの研磨室で、中にいる懲役が反則をしないように、担当台から見える側に窓がついています。
渋川英夫はこの研磨室で、工場中から頼まれた道具の刃を、ひとりで毎日セッセと研いでいました。
研磨室は渋川英夫と仲のいい懲役にとってちょっとした息抜きの場所で、皆退屈するとそれぞれ自分の道具の刃をかくれみのに、ペラをまわし[#「ペラをまわし」に傍点]にやって来るのです。
私も、まだそんなに切れ味が悪くなっていないリップソーの大きな円い刃をはずしてぶら提げると、しょっちゅう研磨室に出掛けて行きました。
他の懲役の場合だと頼んだ刃を預けて後から取りに行くわけですが、仲のいい懲役のものだと渋川英夫はそれまでの仕事を中断して、すぐ研ぎはじめるのです。
研磨室には二台のグラインダーの他に、大小いろいろの砥石もあるし、台には|万《まん》|力《りき》も二台とりつけてありましたから、二、三人の懲役が頼んだものが仕上るのを待っていても、看守に見咎められることもありません。
「こうして収監されるところを見ると、あんたもまだ七十五にはなっていないようだけど、昭和三十年にはもういいオッサンだったんだから、今はいい歳だろう。今年でいくつになった」
普通七十歳を過ぎた老人だと、実刑判決でも収監して刑務所に入れたりはしないのですが、これも官の虫の居どころひとつで、八十歳のお年寄りが余程情を憎まれた[#「情を憎まれた」に傍点]のか、ぶち込まれてしまったというのも、私は知っていました。
大型の万力に私の持って来たリップソーの円い刃を挟み、周囲にグルリと付いている小さな刃を、|鑢《やすり》で一本ずつ丹念に研いでくれていた渋川英夫は、私がそう訊くと顔をあげて、老眼鏡のふちの上から細い目で睨んだのです。
「俺は六十を過ぎてから、歳を訊かれても言わないことにしているよ。あんたもいずれその歳になるんだから、覚えておいてそうするといいよ」
と、渋川英夫は言ったのですが、老人がこういうふうに、ナゼということを言わないで、どうしろみたいなことを言った時には、ナゼ、と訊いてあげなければいけません。
そのままフーンという顔をするだけでは、着ている物も食べる|物《もっ》|相《そう》|飯《めし》も一緒、たとえ同じ舎房に寝ている懲役同士だとしても、人生の後輩としての心得に欠けるというものです。
「ヘエ、どうして」
私がタイミングよく訊いてあげると、
「直チャン気を悪くしちゃあいけないよ」
と、まず念を押したのですが、いくら仲良しと話している時でも、こんな配慮を忘れるようだと、程度のいい懲役が揃っている木工場だって、とても無事にはつとめられません。
と、それはさておき……。
「年寄りに歳を訊くのがそもそも間違っているのさ。年より若く見えるかチョボチョボの場合なら、『若く見える』とお世辞を言おうと思って歳を訊くのもいいけど、思った年よりもヨボヨボだったらどうだ。七十ぐらいに見えるのがもし五十九だったら、どうするんだろう」
渋川英夫が言うのを聴いて私が苦笑していると、
「自分では自惚れもあるし、どう見えるか分らないから、俺は答えないことに決めているよ。他の年寄りで喜ぶのがいて、だから訊きもするんだろうけど、若く見えるとお世辞を言われても、俺に限ってそんなこと少しも嬉しくなんかないのさ」
渋川英夫は続けてそう言ったのですが、聴いていた私は、なるほどと思ったり、素直でなく可愛くない爺ィだと思ったりしました。
「それはね直チャン、褒めてお世辞を言う奴は心の中で、『なんだ、もうそんな歳なのか、それじゃ間もなくくたばるんだ……』という、自分の若さに安心して年寄りに施しでもする気になっているのが、他のボケ爺イには分らなくても、俺には硝子[#「硝子」に傍点]だからさ」
ガラスというのは、お見通しという意味のゴロツキ言葉です。
老人の渋川英夫コト金英烈が、私に向ってこんなことを言うのも、話を理解出来ると睨んでのことでしょうが、こんな厳しいというか、ひねくれた考えを持つようになった人生を思うと暗い気持になった私でした。
金持は懲役に来ない
研磨室で、一日中刃を研いでいる老人の渋川英夫は、私の古い顔見知りでした。
これは、擦れ枯らしの懲役にしては、なんとも説明のつき難い、とても幼児性の強い心の動きなのですが、こんなところで顔見知りに会うと、それがそんなに親しくはない男でも、なんとも言えず嬉しいものなのです。
これは刑務所に限らず、警察の留置場でも、地検の地下にある「同行部屋」という検事の調べを待つ広い待合室でも、小菅の拘置所でも同じことでした。
警察に逮捕されてから、刑務所に入れられるまでに、官[#「官」に傍点]は私たちの肩書を何度も変えてくれます。
警察では被疑者、検事に起訴されると被告になり、裁判官が実刑を喰らわせて確定すると受刑者になるのでした。
「これまでの、罪を懲らしめる応報刑から、刑期の間に法を守ることを教える教育刑に方針が変ったから、もう懲役なんて、日本の刑務所にはひとりもいない。つまり受刑者だ」
官はことあるごとに、自分たちを懲役だと信じている塀の中の私たちに向って、そう教え込もうとしたのです。
ちょっと頭のある懲役たちは、そんなことを言われると、フンと鼻を鳴らして、顔をしかめて横を向きました。
片方の耳の穴を覗くと、反対側の耳の穴から向う側が見えるような、脳味噌の詰っていない連中でも、そんなことどっちにしたって実質は何も変らないということを、知っていたようです。
それだからでしょう、まったく官の言葉には反応せずに、いつものようにポケッとしていました。
官が時と場面に応じて、|姑《こ》|息《そく》にチョコチョコッと、制度や呼び方を変えるのは、どこの役所でも毎度のことで、そんなものにマスコミはともかく、懲役は欺されないのです。
呼び方を懲役から受刑者と変えるなんてお手軽なことは、人を馬鹿にしたようなもので、|誤《ご》|魔《ま》|化《か》すのも振りをするのも、やるなら念入りにやらなければ失礼だということを、役人共は知らないようでした。
裁判官が言い渡すのが、懲らしめに働かせろ、という懲役刑なのですから、現場の刑務所だけ懲役を受刑者に変えても、理屈も何も立ちはしません。
こんなことにも気が付かない官は、これまでずっと昔から、小手先のボロ隠しに慣れてしまっているからでしょう。
渋川英夫と私は、随分歳に開きがありますが、まだ渋谷の盛り場の裏通りに、空襲の焼跡の残っていた頃から、顔のついて[#「顔のついて」に傍点]いた同士なので、塀の外では口をきいたこともなかったほどの仲でも、木工場の北部第五工場で出喰わすと、すぐ仲良くなりました。
渋川英夫は、訊かれても自分の歳を言わない年寄りでしたが、工場計算という担当部長の事務係のような懲役の言うのには、今年で六十六歳だそうです。
渋川英夫は通称で、作業衣の胸につけてある円い|名《めい》|札《さつ》には、金英烈とありました。
この歳の韓国人は、韓国生れの者が多いので、日本で生れ育った二世や三世と違って、日本語にはとても強い訛りやアクセントがあるのです。
渋川英夫も無口な男でしたが、それでも、後から落ちて来た私を見て、昔からよく見た顔だと分ると、嬉しそうな顔で盛んに手を握り、慣れないと聴き取り難い日本語で歓迎してくれました。
懐しい顔に、捕まっている場面で会うと、なんとも嬉しくなってしまうのは、日本人ばかりではないようです。
それからというものは、研磨室で私が頼んだリップソーの刃が研ぎあがるまでの間に、渋川英夫はポツポツと、いろんな話を聴かせてくれたのでした。
韓国人が大声で怒鳴ったり叫んだりするのは、腹を立てた時で、普段はとても礼儀正しい人たちですから、穏やかな低い声で話すのです。
とくに年寄りは、韓国人同士の場合は知りませんが、相手が日本人だと、極端に口数が少なくなって、ほんの用事が足りるほどしか喋らないのも、きっと訛りやアクセントを|嘲《わ》|笑《ら》われたり、馬鹿にされたりしたからでしょう。
府中刑務所の木工場、通称ホクゴの研磨室で、渋川英夫が歳下の私に、ポツポツですが、それでも随分話してくれたのは、友達もなく退屈していたからかもしれません。
渋川英夫は、ごく平凡な農民だったのに、当時韓国を支配していた日本の権力が、故郷の慶尚南道から、否も応もなしに九州に連行したのは、昭和十八年のことだったそうです。
そして炭鉱で働かされたのですが、それは働かされたというより、むしろ奴隷そのもので、当時の懲役よりも、まだずっと|非《ひ》|道《ど》い目に遭わされたのだと言いました。
休日もなしに毎日十五時間以上の重労働という苛酷さと、安全を無視した危険な坑内の仕事場。
お話にならないほど粗末な三度のご飯と、日本人の監督たちの極悪非道ぶりも、激しい口調でぶちまけられるのより、ポソッポソッと、静かな低い声で聴かされるほうが、私にはより一層すさまじく、そして恐ろしく聴こえたものです。
何も悪いことをしていない自分なのに、こんな目に遭わされたのでは、とても我慢出来ない。戦争が昭和二十年の夏に日本が負けて終ると、しばらくの間は飢えた日本人の乏しい懐を、恨みを籠めて巻きあげるのに精を出したのだ、と渋川英夫は言いました。
そしてアレコレと稼ぐうちに、懐に余裕が出来ると、心にもゆとりが出てきたと言います。
「やはりピンポーは、してはいけない」
いくらかゆとりが出来ると、自分の周囲にいる悲惨な日本人たちも被害者で、悪いのは権力を握っていた人間とその手下だと分ってきた。だから、貧乏だと何も本当のことが分らない、と渋川英夫は言ったのですが、すぐ続けて、
「けど、どうも分ったのが|不《ま》|味《ず》かったな」
老韓国人は、妙なことを言ったのです。
「なぜさ、分ったほうがいいだろうよ」
渋川英夫は、その時万力に挟んだリップソーの円い刃を、ヤスリでひとつずつ研いでいたので老眼鏡をかけていたのですが、その眼鏡の小さなレンズの上から、年寄り独特の目付きで私を睨むと、
「不味かったさ。日本人を恨み続けた私と同じ韓国人は、情容赦なくなんでもやって儲けたから、皆今では大変な金持になったよ。それにくらべて私は、どうにか生きていくだけで、大変な金持になれなかった。見てごらん、金持は懲役になんか来てないよ」
言われてみれば、韓国人に限らず日本人でも、金持で懲役に来ているのは、いたとしてもごく稀でした。
だからこの歳になっても塀の中にいるのだと、渋川英夫は言ったのですが、そんな時でも、激しもしなければ、溜息さえもらさないのです。
半世紀に近い自分の不運な人生を語って、嘆きもせず怒りをあらわにもしない老人を見ると、慰めも励ます言葉も、私にはすぐには出て来ませんでした。
自分の不心得や努力の足りなさはあったにしても、この老人が気の毒で堪らなかったのです。だが、私にはどうしてあげることも出来なかったのです。
人間の幸福や、それに人生そのものが、その時々の権力を握った人たちに、どうしようもなく左右させられることを、この時私は、身に染みて思い知らされたのでした。
鯨の仕返し
「こんだの演芸は、ぐっと日本調で、杵屋の三味線と、それに踊りだってさ」
「工場計算」の扇太郎が私の|役《えき》|席《せき》にやってくると、嬉しそうに言いました。
工場計算というのは、各工場にひとりずついる担当部長の下でいろいろな事務の手伝いをしている懲役です。
その時私が働かされていたのは、自動車の電装品を作っている北部第四工場でした。そこでは工場を見渡せるように、他より高く作ってある担当台の下に、畳でいえば三畳ほどの工場計算の事務室が、囲いをして作ってありました。
工場計算の扇太郎は、普段はこの囲いの中で、懲役たちが私物の日用品購入を申し込んだ伝票の整理をしたりなど、いかにも忙しそうに事務をしています。この工場計算は、刑務所をよく知っていて、事の上手な懲役が選ばれて|配《はい》|役《えき》されるのでした。
この工場には八十人ほどの再犯懲役が働かされているのですから、いくら片端からなんでも禁止され制限されている日本の刑務所でも、なんやかやと、扇太郎の仕事はたくさんあるらしいのです。
いつでも囲いの外に出ると、忙しそうに小走りで、役席の間を駆けめぐっていました。
「杵屋の三味線と、それに日本舞踊ねえ。慰問の演芸にしては、ちょっと変っただしもんだなあ」
私がそう言うと、扇太郎は茶色に脱色したような|睫《まつ》|毛《げ》を、眉毛のほうにそらせるようにして、普段は細い目を、いっぱいに広げ、
「その三味線と踊りが安部さんへの差入れなんだって、中央計算から言って来たんですけど、心当りがありますか」
と言ったのですが、心当りなんてすぐには思い浮びません。
だいたい私の世代は、敗戦の昭和二十年に小学二年生ですから、「憧れのハワイ航路」の世代です。煙草はフィリップ・モリスかキャメル、音楽はジャズとハワイアン、それにカントリーが大好きな私ですから、三味線や日舞に憧れてはいてもまるで御縁がありません。
踊りにしても「汐汲み」だ「娘道成寺」だなんていうのをせいぜい、番組の載っている新聞が手元にない時にテレビのチャンネルをカタカタやって、たまたま写ったのを、口を開けて見ているぐらいのことでした。
「アラエッサッサー」か「踊らにゃ損々」なら、陽気過ぎるヤクザだと親分の顔をしかめさせていた私などには、似つかわしくなくもなかったのですが、杵屋の三味線ではちょっとジャンルが違うようです。
ゴロツキ人生をながく生き抜いてきた私でしたから、こうして工場計算の扇太郎に無言のせきたてられようをしていると、頭の中をそれにいくらか関係のあることがフラッシュしないでもありません。
数時間の空しい恋をしてのけた三味線のお師匠さんもいましたが、いろいろあった後で私を訴えたほどですから、この女がノコノコやって来るなんてことは、下手な小説のようにどう話をこねても、これは無理でした。
空しかった恋の数時間、なんて書くと、ずいぶん思わせぶりですが、今回はずっと器量の悪い「鯨」の話ですから、この美しい師匠とのことは機会を別にしましょう。
それに、三田のおふくろとそのおふくろ、つまり私のお祖母さまたちのやっていたのは河東節で、たしか名取りになると山彦なんとかと名乗るお流儀ですから、杵屋とは結びつきません。
「心当りどころか、爪当りも、イボ当りもねえや、俺への差入れなんてガセじゃねえの」
私が言うと、扇太郎は、話の出どころの中央計算が、これまでずっと正確な情報を流し続けていた懲役なのだと、CIAの言いそうなことを並べたてて、小首をかしげました。
「中央計算」というのは、扇太郎のように工場ではなく、中央にある看守の事務室で働かされている計算夫のことで、役席がそんなですから、情報が早くて正確なのです。
ガセというのは、もうほとんどまっとうな社会に入り込んでしまったゴロツキ言葉ですが、ニセ、まがい物、嘘といったような意味につかいます。
それに工場計算の扇太郎というのも本名ではなく仇名で、これは名字が伏見だからなのです。
「慰問団の先生は、どっちなんだ、富士見の先生か、それとも麻布のか」
扇太郎は、そこまで聴こえて来なかったから、早速、訊いてみましょうと言いました。
慰問団の先生というのは刑務所の看守たちと親しくしている民間の男で、演芸を差入れたいと思ったり、親族ではない者が懲役に面会したい時、この男に頼まなければならない仕掛になっていました。
こういうのを昔は口利きなんていっていましたが、この頃ではなんと言うのでしょう。
フィクサーじゃ少し大袈裟ですが、とにかくこの慰問団の先生と呼ばれる男たちは、刑務所の看守たちに食い込んで、そのきずなを頼りに、いろいろと口を利いているのです。
たとえば、私の口に出した「麻布の……」なんて爺さんは、なぜか関東一円の刑務所に顔の利く|爺《サマ》|様《ジイ》で、私たちの親分だった安藤昇が横井英樹を退治して前橋刑務所に入れられてしまった時、私たち子分は、いまいましいけど、この爺ィに頼んで面会させてもらったのでした。
親分子分と自分たちの間でいくら名乗っていても、戸籍の上では関係ないのですから、まともには面会だって出来ないのです。
こんなことでも、頼みに行くのが金遣いの荒い派手なヤクザのことですから、十万円ぐらいは包んで行きました。だからこれは割のいい仕事でしょう。
私たちは、仲良くしているヤクザがぶち込まれている刑務所に、差入れと称して演芸を送り込んだり、面会をするたびに、この全国各地の刑務所をそれぞれフランチャイズというか縄張りにしている「慰問団の先生」に、便宜をはかってもらわなければなりませんでした。
便利だし、他に手がないから使うようなものの、心の中では「こん畜生メ」と思っています。麻布の……にしても、親分安藤昇との面会を頼みに行った時、何か生意気なことをほざいたので、まだ血気盛んだった私の兄貴に殴られこそしませんでしたが、きついケジメをとられてキャンという目に遭わされたのです。
もともと刑務所の寄生虫のようなことで食っている手合いですから、ロクなもんではありません。
それからというもの、この麻布の……は、ことあるごとに、私の足をひっぱろうとしましたから、女の腐ったような奴なのです。
永山則夫という少年が連続射殺事件を起した時、捜査本部の刑事が聴き込みに行くと、
「ああそんなこと俺は知らないけど、同じ麻布に住んでいる安部ってチンピラは、畳をあげると変った拳銃が何|挺《ちょう》だって出てくるような奴だから、そっち行って調べたほうがいいぜ」
と|吐《ぬ》かしたそうで、刑事からそれを聴いた私は、「何を言ってやんでえ、あの死に損ない、俺のは股ぐらについている六連発だあ、驚いたか」
と叫んだのですから、慰問団の先生とはあまり差のない人格だったのかもしれません。
富士見の先生と言うのは、これは、麻布の……とはずいぶんタッチが違うのですが、いってみれば府中刑務所の文化面に深く関わっている先生でした。
懲役が投稿した創作、随想、短歌、俳句、川柳、それに詩で作られる四十ページ足らずの所内誌「富士見」の随想の選者をなさっています。時には、演歌や浪曲ではない文化の香りのいくらか漂うような、変な坊主の講演とかいった類いの口をお利きになるのです。
だから同じ「慰問団の先生」でも、麻布の……とは人間の質が違います。
いずれにせよ、地の果てか、私のよく言うように深海の底のような刑務所と懲役に関わって、こうして暮している先生方もいるということに、人間の逞しさというのか、しぶとさということを、感じないわけにはいきません。
街の裏通りで、つづらに渋を塗っている家なんか見つけると、
「ヒェ、こんなことやって食っている奴がいる」
なんて、感動というより、驚いてしまうのですが、慰問団の先生はそれと、いくらか似たところがあるように思えます。
扇太郎に、府中刑務所に深く関わっているどちらの先生経由で、私への差入れが行なわれたものだか調べさせましたが、杵屋の三味線とそれに踊りという演芸が、誰からのものかなかなか分りそうにもありませんでした。
慰問の演芸には、ふたとおりあって、ひとつはヤクザが、先輩や兄弟分、それに親分がつとめている刑務所に、芸人を揃えて送り込むケースです。
もうひとつは、つとめている懲役に、世話になったり、恩義があったり、「女」だったりする芸人が、自発的にやって来るという場合でした。
もちろん、そのいずれの時でも、刑務所につとめている懲役全員に公平に見せるわけです。ある特定の懲役への差入れだからといって、シンネコ[#「シンネコ」に傍点]で見せるわけではありません。
こんなところだけは、日本の刑務所の素晴らしいところでした。
これは演芸に限らず食べ物でも同じことで、ある時、六本木のレストランのドラ息子が落ちて[#「落ちて」に傍点]きた時は、クリスマスケーキを食べさせたいと思った親馬鹿が、懲役の人数分だけかつぎ込んだなんて話が残っています。
新橋駅のおこもさんも、しおれた置引き[#「置引き」に傍点]の爺さんも皆講堂に集まると、ヤクザと一緒に演芸を見たり、ケーキを喰らうのでした。
シンネコというのは、自分たちだけで、というような意味ですが、置引きというのは泥棒の一種でどこにでも置いてある物を、ツルッと持って来てしまう連中のことです。
駅や空港で目を放した隙に、スーツケースがなくなってしまうなんてのが、置引きの典型です。
どうやら私の見た目では、看守だってこの慰問の演芸がとても楽しみのようでした。残忍で凶悪なのはむしろ少なくて、人間のいいのか、あるいは普通の看守がほとんどなのです。懲役のほうといえば、普通の奴が少なくて狂った奴が多いのです。
府中の看守にしてみれば、ちょっと新宿のコマ劇場まで興行を見に行くというわけにも、そうおいそれとは行かないようでした。ひがみっぽくていつまでも執念深く恨んでいる前科者ばかりですから、いつどこでどんな目にあわされるか、分ったものではありません。
眼鏡をかけマスクをして、八代亜紀の公演を見に出かけた若い看守が前科者に見つかって、劇場の中を追いまわされた時の話です。
必死に逃げたのはいいけれど、とにかくつかまれば殺されると思っているので、インディアンに追いかけられた騎兵隊のように逃げだし、ステージに飛び上ってしまい、公演の舞台が滅茶苦茶になってしまったことがありました。
そんなわけですから、よくよくのことでもなければ、看守は刑務所の敷地の中にある官舎に閉じ籠っているわけで、お金のつかいようがないのでしょう、駐車場に|駐《と》めてある新品の小型車によくワックスをかけたりしています。
だから懲役と同じように、慰問の演芸は楽しみのようで、チラと横目を遣って、通路に立っている看守の顔を盗み見ると、舞台に目を輝かせていたりするのです。
同じ生活空間に生きている懲役と看守は、意外にも、こんなふうに似ているところが沢山ありました。
とにかく杵屋の三味線と、踊りの慰問演芸が、私への差入れだということはわかったのですが、それ以上詳しいことは、当日になるまで分りませんでした。
どうして当日になると、分んなかったことが分るのかといいますと、口を利いた慰問団の先生は、
「これは、俺のやったことだぞ」
というデモンストレーションなのか、わざわざ舞台の袖にいたりします。また芸人はマイクの前に立つと、
「誰々さんは、本当に良い子分をお持ちになった」
とか、
「ここにおつとめの何々親分は、人気のいい|男伊達《おとこだて》で、私たちは誰それさんからのお話で、お退屈を慰めに参りました」
なんて、いくらか官に遠慮しながらも、贈られた懲役と贈ったヤクザの名前を知らせるのでした。
恩義があったり、世話になったりした芸人が自分の器量で慰問をする時も同じことで、そんな時には、
「この刑務所におつとめの誰それさん、これはほんのご恩返しの気持です。どうぞ一日も早く戻っていらして下さい」
なんて、高揚してひきつった声で言ったり、看守にうわて[#「うわて」に傍点]にきつく、その手のことを言ってはいけないと言われた時は、歌詞や台詞に盛り込んだりしました。
うわてというのは、その前、という意味です。
麻雀をやってて、
「うわてのあがりは、なんでいくらだっけ」
「うわては、リーチのみ十三本さ」
というふうに使うと、こんなひと言でずいぶん堅気でなくなってしまいますから、言葉というものは、なんと微妙で恐ろしいものでしょう。
灰色の蟻んこのように、舎房から講堂までつながって列を作り、看守に、
「コラッ、口を利くなッ、目くばせや合図をすると|摘《つま》むぞ、この野郎ッ」
なんて頭ごなしに怒鳴られながら、懲役はそれでも無表情に首をすくめ、講堂に入っていきました。
摘むというのはパクるという刑務所言葉で、きっと摘発が語源だと思います。
もちろん私も蟻んこの中の一匹です。
「前から順に静かに着席して、頭を下げ目を閉じて黙想するッ」
舞台の上では、講堂の奥で腕を組んでいる上役の保安課長を、異様に意識した北部区の区長が顔を紅潮させて、ハンド・マイクで同じことばかり叫んでいます。
ノン・キャリアの看守は、こんなふうにして認められないと、きっといつまでもうだつがあがらないのでしょう。
「コラッ、頭を下げろ、下げるんだッ」
それでも、他の工場で働く仲間の顔を見て、片目でもつむって見せるチャンスとばかりに、ちょっとの隙をとらえては、懲役たちはキョロキョロとするのです。
とにかく常時二千二百人以上も収容しているマンモス刑務所で、中には二十以上も工場があるのですから、同じ府中に落ちているといっても、働いている工場が違えば、顔を合わすことなんかまるでありません。
それにしても、知った顔同士が顔を見交すことが、どうしてこんなにも嬉しいのでしょう。
捕まってからは、警察の留置場でも検察庁の同行部屋という検事調べの時に置いとかれる部屋にしても、拘置所でも刑務所でも、仲間と顔を見交して、ひと言ふた言何か言ったり、それも出来ずに頷きあうだけで、そんなことがあった日は一日中嬉しいのですからこれは本当に不思議です。
みんなが講堂に入りきると、
「黙想ヤメッ、正面に注目ッ」
と、顔を赤くし目を吊りあげた区長は、それまで安い九官鳥のように、
「頭を下げろ、黙想せよ、コラッ」
とだけ怒鳴っていたのに、初めて変ったことを言うのでした。
舞台の袖からヒョコヒョコと、膝のぬけた|非《ひ》|道《ど》い背広を来た教育部長が出て来て、マイクの前に立ち、ボソボソした声で、毎度同じ内容のごく詰らない話をします。
テレビ映画の解説のように、これがなければ始まらないのですから、ここまで辛抱したんだから……と、懲役は思って耐えるのでした。
その後の調べで、こんどの慰問団の先生は、思ったとおり麻布の……ではなく、富士見の先生だということが分ったのですが、誰が私の慰問に手弁当で来てくれたのか、さっぱり分りませんでした。
富士見の先生は胡麻塩の髪を、芸術家風のオールバックにして後ろにかきあげ、通路の端に厚生課長と並んで、何やら微笑みながら話をしています。
懲役は醜悪な坊主頭で、看守は灰色の戦闘帽ですから、富士見の先生の頭だけとっても目立ちました。刑務所では、本当に変な物が、嫌に目立ったり新鮮に見えたりするのです。
幕が昇ると、スルスルとマイクの前に出て来たのが、なんと「鯨」だったのには仰天してしまいました。
最後に会ったのが、十年ほど前で、たしか日劇の前でしたけど、私も四十なら同級生の鯨だって同じ年のはずです。
多少全体にふくらんではいましたが、間違えようもなくそれは鯨だったのです。
ニコッと笑うと、首をちょっと傾けて、たちまち懲役たちの拍手につつまれました。鯨はなんとも穏やかで豊かな顔をしていました。
鯨が話し出すと、懲役はすぐ拍手をやめて耳を傾けたので、マイクに乗った声は、講堂じゅうにはっきり聴こえたのです。
鯨は自分がこうして三味線で暮していけるようになったのも、名前は看守さんに出してはいけないと言われているので言えないけれど、今日この講堂で聴いていただく受刑者のひとりのおかげなのだと、話し出しました。
そのヤクザの人が、二十四年前の十六歳の時に、三味線を習え、と言ってくれたので、今日こうして、お三味線で御膳がいただけるようになったのだと続けたのです。
並はずれて、おっかしい顔をした鯨ですが、鯨みたいな顔をしているからついた仇名ではありません。
海に棲んでいる|巨《おお》きな鯨は、いろんな種類があるそうですが、あまりおかしな顔のはいないようです。けど私の同級生の鯨は、小学生の頃から類のないほどおかしい顔をしていました。
マカデミア・ナッツのチョコレートのような円みばかりの鼻は、これまたまんまるな地黒の顔の中で、その二つの穴をディジー・ガレスピーのトランペットと同じ角度、つまり斜め上に思い切って向けていたのです。
まるい雀のような目は、黒くてよく光り、髪の毛は癖毛でクルクルに|捻《ねじ》れ、唇は鱈子をくわえているようでした。
なんとも南の島の福笑いのような娘だったのです。
私と鯨は、昭和十二年生れですから、戦争の終ったのは小学二年生でしたが、その頃の東京はアメリカ空軍の、ボーイングB‐29の空襲で、見渡す限りの焼野原でした。
食べるものは、まずい薩摩芋でも、お腹いっぱい食べられれば万歳でしたし、着る物だって売ってなんかいなかったのです。
衣食住、なんにもなかったのですから、これは|非《ひ》|道《ど》い時代で、それからわずか四十年ほどしか経っていないなんて、私たちの世代には、なかなか今の豊かな日本が信じられません。
その頃、焼跡に掘立小屋を建てた鯨の家では、それでもどうにか白い小皿をほんの数枚並べて、商売を細々やっていたのですが、それは空襲で焼ける前、魚屋だったからでした。
「なんだお前んとこは、魚屋ったって、あるのは鯨ばかりじゃないか。それも昼前には売れちまってあとは何も残っていないって、おふくろが言ってたぞ」
餓鬼大将の私が、そんなことを言っていじめると、勝気な鯨は、
「あ[#「あ」に傍点]に言ってんの、品物がなくて仕入れにはかあさんが苦労してんだからね、早く来て早く買えばいいんだわ、それにシジミだって雷魚だって、ちゃんとあるんだわ」
と、言い返したのです。それでついた仇名は、シジミでも雷魚でもなくて、鯨でした。
これは花も驚く少女にしても、酷な仇名だったかもしれませんが、子供の頃というのは誰でも残酷なものです。
だからヤクザと政治家、それに裁判長と看守の半分ほどは、成長せずに子供のまんまなのではないか、なんて私は時々思うのでした。
きっとお弟子さんたちなのでしょう、後ろに居並んだ娘さんが、|毛《もう》|氈《せん》の上に坐って|音《ね》|締《じ》めをする前で、鯨は語り続けたのです。
十六歳の同級会の時、中学を卒業してウェイトレスになっていた鯨に、今この講堂の中にいる同級生のひとりが、三味線をすすめてくれたので、現在のわたしがあるのだ……と。
鯨の話は肝心なところが、ずいぶん略されていました。
その同級会に出席した私のいでたちといえば、クリーム色のフラノの上下に、ピンクのシャツに黒いネクタイという、まるでアメリカ映画のハンサム・マフィアのようだったのです。
鯨は私のことが子供の頃から好きだったらしいのですが、|驕慢《きょうまん》な私はそれを知っていながら、頭から無視していました。
その時だって、働いている丸ノ内のレストランの話をしに、私のそばにやって来て楽しそうにしている鯨に向っていきなり、
「オイ鯨、ウェイトレスもいいけど、お前、芸は身を助く、って言うぞ、三味線でもみっちりやっておけよ」
と言い放ったのでした。
「ナオちゃん(私の本名は直也)、なぜ」
「なぜでもいいんだ、俺に惚れてんなら、言うとおりしなよ」
鯨がお化粧を直しに行ったすきに、私は取巻いている同級生に、
「俺もいつまでも渡世人てわけにもいかねえかもしれねえ、鯨に三味線でも覚えさせといて、堅気になったら大阪へ行って万歳をやるんだな、鯨があのおっかしい顔で三味線持って出て来て、馬鹿なこと言っては、俺におデコ叩かれてすっころがるんだ、売れるぜこれは」
「アハハヒーッ」
と皆が笑いました。お手洗いから帰って来た鯨が|怪《け》|訝《げん》な顔をして、
「何がそんなにおかしいの」
と訊いたので、意地の悪い残酷な十六歳のガキタレ共と、ひとりのチンピラは、また|下《げ》|司《す》な様子で腹を抱えて笑ったのでした。
「とにかく鯨、お前は三味線を習え、いいな」
とその時の私は、看守か裁判長のように尊大でした。
それから十数年経って、日劇の前でパッタリ出会った時、鯨は私の連れていた八等身(そんな言葉が|流《は》|行《や》っていましたっけ)のモデルに、すこし気遅れのした様子で、
「ナオちゃん、あたい、あのままずっとお三味線やってんのよ」
と嬉しそうな顔で言ったのです。
百五十センチ足らずで、まるい鼻を空に向けてしゃべる鯨を、百七十六センチの私と、百六十七センチの連れのモデルは、フフンと鼻であしらって、別れたのでした。
それ以来の鯨なのです。
挨拶し、口上を言い、お弟子のお嬢さんたちとリズム・セクションを率いた四十歳の鯨には、刑務所の講堂じゅうを圧するものが|漲《みなぎ》っていました。
「女なのにいい貫禄だね、こりゃたいしたもんだぜ」
私の隣りに坐っていた静岡のコーベー爺いも、この時は、心からそう言ったほどです。
この爺い、いつでも皮肉な顔をひんまげるようにしてぶつぶつ|叱《こ》|言《ごと》ばかり言っているので、仇名をコーベーなんてつけられてしまったほどの懲役でした。
あのおっかしかった顔が、上をむいていたまるい鼻の頭も穴も、それにドングリのような目と鱈子のようだった唇だって、それなりにおさまると、かえって立派に見えたのですから、芸の力なのでしょうか。それとも女が化け物なのでしょうか。
「あの方と、私は、同い歳でお誕生日も十日と離れていないのです。人生の半ばを過ぎた四十歳になって、どうぞ貴方、頑張って……という想いを込めて、私の芸をお目に掛けに参りました」
よく聴くと、なにやら少しずつ変てこりんなことを、演目の間にマイクの前で、鯨は上気した顔でしきりと話したのでした。
わざわざ刑務所の塀の中まで、お弟子を連れてやって来てくれたのには感激した私でしたが、けどこれは、慰問なんてものではないということを、内心では痛いほど感じていたのです。
これは間違いなく、鯨の仕返しでした。
|盗《と》るまじ空財布
刑務所は、原則として日曜日と祭日は休みで、当然この日は働かなくてもいいのです。
そんな仕事をしなくてもいい休日を、刑務所では免業日というのですが、これだって懲役にしてみれば、いいようなわるいようなことで、手放しには喜べるものではありません。
怠け者の揃っている懲役ですから、働かされないのは大喜びのはずなのですが、舎房に一日中閉じ込められる免業日は、退屈で参ってしまうのです。
これが演芸会や映画でもあるのなら別ですが、こんなことのあるのは、せいぜいが月に一度くらいのことでした。
何かに没入していないと、懲役は、一日がとても長く感じられます。だから、懲罰を喰らったりすると、それだけで半狂乱に近くされてしまうのです。
懲罰は、たいてい「|軽《けい》|屏《へい》|禁《きん》」といって、申し渡された期間、これは最低で十日から六十日までなのですが、懲罰房に閉じ込められるのでした。
この軽屏禁が、六十日までとされているのは、懲罰の間に食べさせられる飯が、|五《ご》|等《とう》|飯《めし》という茶碗に軽く一杯ほどの量なので、体が衰弱してしまって、|華《きゃ》|奢《しゃ》な懲役だとくたばりかねないからだと思われます。
たいていの懲役が、懲罰を終えて工場にもどってくると、必ず頬がこけて痩せてみえるのは、飯の量が少ないからでした。
この軽屏禁を喰らってみるとわかるのですが、飯が少なくて腹が減るのも辛いけど、もっと苦しいのは、一日の長さです。
本も許されずラジオも聴けず、とにかく字引きもなければ聖書もない小さな部屋に、話相手もなしで閉じ込められていると、一日のたつのがとても遅くて、これにはどんなに気の長い懲役でもたまりません。
六十日までとされているのは、減食で体力が参ってしまうこともあるでしょうが、この一日の呆れるほどの長さに、やられてしまうこともあると思うのです。
私は最長でも二十日しか軽屏禁を喰らったことがありませんが、もしも六十日もぶちこまれたら、間違いなく気が狂ってしまうと思います。
刑務所に押し込められているのは、懲役ばかりでなく、そう沢山ではありませんが、禁固というのもおりました。
懲役は文字どおり懲らしめ働かされるのですが、この禁固というのは、ただ刑期の間、閉じ込められていればそれでいいのです。
けど、ほとんどの禁固の連中は、願い出て「請願作業」というのをするのですが、これも何かをやっていないと、一日がなかなか過ぎてくれないからなのでしょう。
塀の中は、時間と退屈との闘いです。
塀の外にいる時は、絵に描いたようなグウタラベエで、だからこそゴロツキや泥棒、それに詐欺師になったような懲役たちが、刑務所の工場に落ちた[#「落ちた」に傍点]途端に、脇目もふらずに作業を始めるのも、勤労意欲に目覚めたからではありません。
ましてや自分の犯した罪の重さを反省して、更生とやらに励んでいるというような、法務省の喜びそうなことではありませんでした。
こうして与えられた仕事に没頭していると、それがどんなに詰らない単純作業でも、一日が早く過ぎてくれるのです。
一日が早く過ぎてくれれば、一週間も一カ月も過ぎてくれるわけで、自然に満期がちかづくのでした。
普段そうして過している懲役ですから、日曜や祝日の免業日になると、なんともリズムが狂ってしまうのです。
単調なこと、アマゾン河流域に棲むインディオの叩く木のドラムのようなリズムでも、没入して働いていれば、夜になればすぐ眠りにおちることができます。それがいきなりポコッと休止符をうつのですから、困ってしまうのでした。
独居房の懲役たちは、免業日には本を読むしかありません。
それにくらべると雑居房の連中は、碁や将棋の相手はいるし、話をすることだって出来るのですから、まだましなのです。
けど、いいことの裏には、必ず悪いことがあるのが塀の中の暮しで、独居房よりましだといっても、ひと癖もふた癖もある荒っぽいのが押し込められて、自由を徹底的に奪われている塀の中ですから、こんな碁や将棋、それに世間話にしたところで、大袈裟ではなくそれこそ命懸けでした。
これで揉めて喧嘩になるなんて、雑居房では毎度のことです。
将棋をさしていて、弱い相手を馬鹿にした奴が、アッサリ詰めてしまえばいいものを、わざと片端から相手の駒を取っていき、一方、弱いほうの懲役も、ギブ・アップして投了すればいいのに、ついに王がひとりぼっちになるまで頑張ったことがありました。
こうなった時、強いほうが「カカカ」と、大口を開けて笑っても無事にすんだとしたら、その年は一年中、塀の中で喧嘩なんて起りっこありません。
その時も、たちまち雑居房の中は、西部劇の酒場のような大乱闘になりました。
将棋をさしていた当人同士の喧嘩なら、こんなことにまではまずならないのですが、その時は両方に応援団と腕貸し[#「腕貸し」に傍点]が何人もついていたのですからたまりません。
応接セットも|衝《つい》|立《たて》も、家具なんてほとんど何もない雑居房ですから、これはまるで金網デスマッチでした。
その大乱闘に参加した懲役のひとりが、ドジなことに、眉毛のところをパックリと割って、四針も縫ったのですから、これは立派な傷害事件です。
こうなると殴った懲役はたちまち身分が被告に変って、灰色の獄衣のまま最寄りの裁判所に引きだされると、追加の刑を言い渡されます。
この時は、可哀そうにその懲役は一年半も刑が追加になりました。こうなると途端に、それまで楽しみにしていた満期の日が、遥か彼方に遠ざかってしまうのでした。
だから、いくらかでも退屈のまぎれる雑居房も、いってみれば|諸《もろ》|刃《は》の剣で、危険と同居しているようなものなのです。
演芸も映画もなにもない免業日の雑居房で、私が映画雑誌を見ていると、|掏《す》|摸《り》のイチがあぐらをかいたままにじり寄ってきて、一緒に覗き込みました。
イチは本名を繁田市松といって、私とは塀の中の昔|馴《な》|染《じ》みですが、一緒の工場で、しかも同じ舎房で過すのはこれが初めてでした。
この府中刑務所で、後から落ちた私が工場に|配《はい》|役《えき》されると、このイチがすぐ飛んできて、
「安部さん、ここではイチって呼ばれてますから、それでタノンます」
と言ったので、仇名というか、呼ばれていた通称を思い出しました。
繁田市松ですから、以前はゲタとこの掏摸は呼ばれていたのです。
本人にしてみれば、履物の下駄を連想させるゲタよりも、イチのほうが好ましいらしくて、落ちてきたばかりの私に、以前の呼び方をされては大変と思ったようでした。
イチは、たしか私よりふたつ歳上で、戦争の終った時は、早生れだから小学五年生だったそうです。
父親はビルマ戦線で戦死して、けどイチの言うのには、戦死じゃなくて餓死らしいということでした。
そして母親は、戦後すぐに|発《はっ》|疹《しん》チフスで亡くなって、みなしごになったイチは親類に預けられたのだそうです。
「プロ野球の選手になろうと思ったんだけど、いつの間にか掏摸になっていた」
と、イチは言いましたが、掏摸なんて、いつの間にかなるようなものとは、とても私には思えません。
「安部さん、子供んときに、親類に預けられたことある」
イチに訊かれて、なんかで叔父のところに三日ほど……なんて、とぼけたことを言うのが好きな私でも、とても言えませんでした。
何軒も親類をたらいまわしにされたけど、それはせつなくて嫌な思いをしたと、暗い顔をしたイチは、
「同年輩の皇太子さんを見るとひがんじまうよ。|矢《や》|張《は》りしもじもは、親が飢え死んだりシラミに食われちまうから、息子も掏摸になるんだな」
なんて|呟《つぶや》いたりもしたのです。他にも戦争のおかげでみなしごになったのは沢山いるわけで、むしろ掏摸になったのは珍しいわけですから、これはあまり当人が思っているほどには、説得力がありません。
けど、私がその話を聴かされていたのは、渋谷のバーや西麻布の喫茶店ではなくて、府中刑務所の二舎十二房という雑居房でしたから、そんな反論はできません。
いかに掏摸だといっても馬鹿にはできなくて、なにしろ抑圧されている懲役ですから、腹を立てると、だれかれの見境なんてつかないのです。
他の懲役の話は、|相《あい》|槌《づち》を打って、まぜっかえしもせず、反論も皮肉も言わないで聴くというのが、これは初歩の懲役術でした。
他人と争うのは、ほとんどの懲役が大なり小なり、程度の問題ですが、それで|稼《シノ》いでいるわけですから、恐れもいといもしませんけれど、塀の中だと、その結果次第では満期が延びてしまうことになるのですから、誰もが一番恐れるのです。
若い頃からの塀の中の顔馴染みですから、掏摸のイチとゴロツキの私は仲良くしていました。だから、この時も、映画雑誌のグラビアに見入っていた私のそばに、
「その本、そんなに面白いの」
なんて言いながら、あぐらの下の薄い座蒲団も一緒に、にじり寄ってきたのでした。
私の見ていた映画雑誌のグラビアは、懐しい名画場面集といった特集で、「死の谷」で、穴ぼこの中で拳銃を構えるジョエル・マックリーと、その背中に張りついているヴァアジニア・メイヨ。
「駅馬車」の屋根で、ライフルを撃ちまくるジョン・ウェインに、トレンチ・コートに制帽のロバート・テイラーがヴィヴィアン・リーと抱き合っている「哀愁」とか、そんな場面のモノクロ写真ばかりでした。
横から覗き込んでいたイチの前で私がページをめくると、開いたところには、椅子に乗った男が真剣な目付きで、吊るしてある沢山の鈴がついた服に指を伸ばしている写真が載っていたのです。
「三文オペラ」の一場面でした。
私は、そのグラビアを指差してイチに言いました。
「イチ、これは外国の掏摸が稽古をしているところだぜ。お前さんたちもこんな修業をするんだろ。鈴がチリンと鳴るようじゃあ、手首にガリンとワッパ[#「ワッパ」に傍点](手錠)がかかっちまうんだろうな」
イチは顔を下に向けて、しきりに手を顔の前で振りました。
これは、塀の外でも共通の、男が「違う、違う」という時にやる|仕《し》|種《ぐさ》です。
「そりゃあ昔は、背広の内ポケットから財布を吊るのや、懐中時計を鎖からはずすのなんて、指の動かし方や間の取り方を稽古したもんですけど……そんなことは、まあやっているうちに身につくもんでね」
どうもイチの話しぶりが、グラビアには批判的のように思えたのです。
「きっとそんな鈴の一杯ついた服から、音も鳴らさずに何んでもパクッちまえ、というんでしょうが、そんなもんは屁の突っ張りにもなりませんや。毛唐ってのは馬鹿だねえ。掏摸がこんなことやってるんだから、他のことだって似たようなもんだろうのに、よく日本に戦争で勝ったもんだぜ」
掏摸のトレーニングからすべて推し測られたのでは、これはイギリス軍の大将マウントバッテン卿も、アメリカ海軍のニミッツ提督も、困ってしまうに違いありません。
免業日の雑居房で、懲役がここまで自分の専門について語り出せば、もうとまるものではありませんでした。
「背広にこんな鈴なんていくらつけといても、それを鳴らさずに……、なんていくら稽古しても下らないんです。背広は、中に人間が入っているんですから、絶えず中身に合わせて、歩いている時はもちろん、電車の中で立っている時でも、いろんなふうに動いたり|捩《ねじ》れたり、ジッとしてることなんて滅多にありませんや。
鈴なんかついてたら、それこそ風鈴屋みたいに鳴りっぱなしになっちゃいまさあ」
掏摸にかぎらず、専門家の話はナルホドということが多いのです。イチの話はとても納得がいったのでした。
「だから、中に人間の入っていない服から、いくら鈴を鳴らさずに懐中物をパクっても、そんなもん稽古になるもんですか。こんど安部さん、外国に行ってこんな馬鹿なことをやっている掏摸に会ったら教えてやるといいですよ」
いくらイチがそう言っても、外国にゴロツキの友達はいても、掏摸の知り合いなんているもんですか。
そんなことよりなにより、掏摸に必要なのは眼力で、それも|懐《ふところ》を睨んで間違わない眼力なのだと言います。
「安部さん|方《がた》も、これは同じでがんしょう[#「がんしょう」に傍点]」
それはイチの言うとおりで、宿屋の番頭が初めての客の履物を睨んで懐を読むといわれるように、|博《ばく》|奕《ち》|打《うち》も相手の懐に察しをつけなければいけません。
宿屋の番頭の睨む客の懐は、せいぜい小切手ぐらいのところまでで、その時の支払い能力を探って、それに応じた部屋に案内すればいいのですが、博奕は違います。
有り金を全部取り上げてしまってからの、ホシ[#「ホシ」に傍点]やアシ[#「アシ」に傍点]のことまで考えて、相手の懐の深さまで読まなければなりません。
フトコロというのは、この場合は、その時持っている金額、ホシとかアシとかいうのは博奕場で貸したお金や、負けた時に借りたお金のことです。
懐の深さというのは、資金量とか資産、全財産と言った意味で、
「あいつは思ったより懐が深そうだ」
というふうに使うのです。
「掏摸はね、安部さん。五百円札が一枚ピョロと入った財布や空財布をパクっても、二十万円とクレジット・カードが六枚も詰ったのをやっても、運悪く手錠をかけられちまった時の量刑は、ほとんど違いがないんですよ」
だから中身の入ってない財布や薄い財布は、決してパクってはいけないのだと、イチは力んで言いました。
確実に、中身のしっかり詰った財布をパクること、掏摸の技術はこの眼力につきるのだということに、これは一理も三マイルあることなので、聴かされた私は「ナルホドねえ」としきりに感心したのです。
「たとえば、この俺が渋谷の街を前からスタスタ歩いてきたとして、その時の俺の懐が読めるものかねえ。とくに俺たちは、堅気と違ってハッタるのが渡世のうちだから、まるなし[#「まるなし」に傍点]の時でも懐が深いように見せるんだぜ」
私が言うと、イチはハッとかヘッとか、そんな奇声をあげて、片手で狭い額を押え後ろにデングリがえってみせました。
呆れかえったポーズなのでしょうが、大袈裟な|掏摸《パンサ》です。
「失礼ですが、安部さんなんて一番懐の読みやすいタイプで、掏摸に学校があったら、小学校低学年の教科書でさあ」
とにかくなんにしても、自分があまり単純で簡単だとか、お子様向きだとか言われるのは、愉快なことではありませんから、いかに温厚な私でも、その時はきっと怒った顔になったのでしょう。
イチも少しノリ過ぎで、まずいことを言ってしまったと思ったらしく、それまで伸ばしていた首を縮めると、畳のほうに視線を向けたままモジモジしていました。
雑居房の真中に並べてある|膳《ぜん》|板《ばん》という|卓袱《ち や ぶ》|台《だい》の上には、まだ私の見ていた映画雑誌が拡げてあって、ページは「三文オペラ」のままだったのですから、よほどイチの話に引き込まれていたのに違いありません。
博奕打が相手の懐を睨む時でも、着ている物や付けている時計、それに言葉の端々にいたるまで鋭く目を配って耳を澄ませ、しかも得た情報がハッタリや見せかけでないのかをも、判断しなければならないのです。
イチの言うように、額を押えてデングリがえるほど、前からやってきた私の懐が簡単に掏摸には読めるものなのでしょうか。
本当だとしたら、これは薄気味の悪いことでした。
イチは私の機嫌を損ねてしまったのを察して、風向きの変るのを待っているようで、下を向いたままでした。
|懲《ベ》|役《テ》|太《ラ》|郎《ン》で、塀の内外を行ったり来たりしているイチですから、こんな仕種にしても、駆け出し[#「駆け出し」に傍点]には真似の出来ないような芸というか技術でした。
しばらくの沈黙で、私の不機嫌のほどはようく伝わり、これに懲りたイチは、これからは言葉と態度を慎むでしょう。
もう充分と思った私は言ってやりました。
「どうして読むんだ、説明してみろ」
私よりふたつも歳上の、それもすれっからしの懲役なのに、イチは、怒って黙りこくってしまったおふくろが、やっと口をきいてくれた時のイタズラ小僧のような表情をしたのです。
「たとえばですね。安部さんが肩で風を切って、少し膝を開いて曲げて歩く、例の歩き方で、商店街をやってきたとしますね……」
イチは再び首を伸ばして話し出したのですが、私が歩き方までは余計なことだと釘をさすと、またちょっと身をすくめてみせました。
イチの物語るところによると、たとえば商店街のショウウィンドウに目をやっている時に、欲しい物があるかないかにかかわりなく、その正札の値段以上のお金が懐にある時とない時では、私の顔が確実に違うのだそうです。
貯金通帳や|箪《たん》|笥《す》の中にいくらたっぷり持っていても、この場合はまず関係がなくて、そのショウウィンドウを見ている時の懐具合なのだと、イチは言いました。
電車の中などでは、車内の広告や他人のみなりを見たりしている時の表情からでも、|可《か》|成《な》りなところまでは察しがつくのだそうです。
「掏摸の睨みは、その時の懐が勝負で、いくらそいつが貯金や土地なんか持ってても仕方がないんだから、しっかり睨んで後は勘でさあ」
しっかり睨むから勘が立つのだと、イチは言いました。
イチに言わせると、参ったことに私は、年功を積んだ掏摸が睨んで、まず間違いなくその時の懐が読めるタイプなのだそうです。
あれは大分前の船橋競馬場でのことでした。
|挽《パ》|き《ド》|馬《ツ》|場《ク》で次のレースの出走馬を見終った私が、人込みから抜け出すと、向うから背の高い男が追い掛けられて走ってきます。
追い掛けているのは、中年のもう運動機能の大分衰えているオッサンで、あきらかに私に向って、
「捕まえて下さい、泥棒です、掏摸です」
と、あえぐように叫びました。
その頃はゴロツキの私ですから、泥棒にしても掏摸にしても、私の物を盗めばともかく、刑務所に行けば仲良く一緒に暮す、いわば同じ穴のムジナです。
こんな場面でも、まず本来なら捕まえるどころか、追手のほうによろけたふりでもして体当りするのがせいぜいのことでしょう。
それがその時は、追われていた三十がらみの大きな男が、ちょうどタイミングよく私のそばを駆け抜けるところでした。おまけに後になって考えてみると、追い掛けているオッサンと逃げていた男との間には、見るからに体力差というか機能差がありました。そんなことも私の判官|贔《びい》|屓《き》を瞬間的に刺激していたのに違いありません。
反射的に私は、ボクシングでいうと、右のカウンター・ストレートを打ってしまったのです。
たちまち倒れた男に、パドックから出て来た男たちの何人かが飛び掛って、殴ったり蹴ったりしました。
船橋競馬場にかぎらず公営ギャンブル場には掏摸が多いので、やられた覚えのある人もたくさんいます。だから運悪く捕まると、|非《ひ》|道《ど》い目に遭うのです。
そんな場面を見て、私は見事なカウンターを打ってしまった自分の右の拳固をさすりながら、
「あれま、俺としたことが、可哀そうなことをしてしまった」
と思ったのですから、なんと反社会的なことよと、呆れられても仕方のないようなことでした。
けど、この頃の私は、マイナーな世界に浸りきっていたのですから、これは仕方のないことです。こんな印象を、私の年長の友人で元世界チャンピオンのフランキー・マニラは、
「ボクサーとパンパン、それにヤクザと泥棒はスラムの四人兄弟のようなものさ」
と言ったのです。
その船橋競馬場での話をイチにすると、また大袈裟に眉をしかめ、舌打ちまでしてみせて、
「いやになっちまうなあ、安部さんは……」
ずいぶん以前のことではあっても、逃げている掏摸にカウンターを打ってしまった私は、矢張りこんなふうに眉をしかめられ、舌打ちまでされてしまうんだなと、少しショボンとしてしまったのですが、それから続いたイチの話を聴いて気が晴れました。
イチは私を非難したのではなかったのです。
「やだなあ、安部さんは味噌も糞も一緒なんだから。私は大道とデパート、それに電車の中でしか仕事をしないんです。あんな競馬場の穴場に手を突っ込んじまって抜けなくてバタバタしている客を、身ぐるみはいじまうような手合いといっしょくたにされたんじゃ、女房子供が可哀そうでさ」
とりあえず、それは悪かったと謝ったのですから、私もヤクザで出世しなかったわけです。
どうやら同じ掏摸でも、いろいろランキングがあるようでした。そんなふうに威張るのですから、きっとイチのやっているような掏摸は、トップ・ランクなのでしょう。
女房子供は、そんなイチを誇りに思っているような口振りなのですが、これは懲役特有の話術ですから、本当のことなんて分りません。
「おいイチよ、そんならお前は看守の制服のポケットからだって、煙草をパクれるだろう」
私が訊くと、煙草を持っている奴からならお茶の子さいさいだけど、持ってない奴からはなんにもパクれないなんて、とぼけたことを答えたのでした。
五日もたつと、イチは長いまるごとのハイライトを一本、そっと私に握らせて、片目をつむってみせたのです。
「箱ごとパクると大騒ぎになっちまうけど、箱の中から一本だけ吊り上げれば、やられた看守だって後でせいぜい首をかしげるぐらいですむ」
一度身体を擦り寄せて、煙草の箱の位置と所在を確かめると、横に寄り添うようにして歩きながら、右手の中指と人差指で摘みあげるのだというのです。
神技というべきでした。
「けどね、看守も工場に来る前に、煙草は管区においてくるのが規則らしくて、そうそう持ってる奴がいないんだなあ」
イチは不敵に笑うと、そんなことも言ったのです。
管区というのは看守の詰所のようなところのことでした。
工場の機械の蔭に、仲のいい懲役を集めて、イチにもらったまるごとのハイライトを、みんなでふた息ずつ回しのみをしたのです。
そして、久し振りの煙草にありついて、目を細めている懲役たちにイチの話をしてやると、その中の一人が、
「いくらイチが、安部さんは懐の読みやすいタイプだといっても、塀の中では分るめえよ。とにかく金のかわりに持っているのが、石鹸や運動靴だもんな」
と言ったのには、その場にいた懲役たちはみんないっせいに笑い転げたのです。
塀の中では、石鹸、運動靴、タオル、それに塵紙といった私物の日用品が、懲役の通貨でした。
今では、イチこと繁田市松も、もう五十歳を過ぎたはずです。
|鰍沢《かじかざわ》の石は男でござる
塀の中は、開拓時代のアメリカ西部と、似ているところがあります。
名のあるガン・マンだと、どこの街に行っても、その男を倒して名をあげようというチンピラに喧嘩を売られて、自分はあまり闘いたくないのに、仕方なく相手を撃ち殺さなければならないということもあるようです。
そうしなければ、自分がやられてしまうから、これはどうしようもないことなのですが、安住の地も得られず隠居もならずに、ガン・マンは、いつまでも硝煙の西部をさまよったのです。
塀の中でも、こんな西部劇の頃のアメリカと、とても似たようなことが起るのでした。
腰には二丁拳銃を吊って、拍車のついた乗馬ブーツを履き、頭にはテンガロン・ハットをかぶり、皮のチョッキを着て、首にはバンダナを巻いているのが、西部のガン・マンです。
塀の中の懲役が西部のガン・マンと似ているのは、着ているものではありません。塀の中の懲役は、西部のガン・マンの水際だったいでたちと、似ても似つかない哀れで|汐《しお》|垂《た》れた姿をしています。
ビニールの薄青色のサンダルを引きずり、頭にはヨレッとした灰色の作業帽をかぶり、色のあせたグレイの獄衣をまとい、そして首には、派手な色のバンダナの代りに、せいぜいがタオルを巻くぐらいのことでした。
西部のガン・マンは、馬に乗って片手で手綱を握ると、もう一方の手で、紙と煙草の入った小袋を出して、適当な量を紙の上で器用に巻きあげます。最後に、舌で縦にスーッと舐めると、紙の端がくっついて出来あがりです。
そして、チョッキのポケットから、マッチの軸だけ摘み出すと、|鞍《くら》の金具で擦って火を|点《つ》けて、|美《う》|味《ま》そうに煙草を吸うのです。
ガン・マンの吸った煙草の煙が、輪になって空に昇り、それを目を細めてまぶしそうな目で見送っていると、自分では一度しか煙を輪にはしなかったのに、空にはなぜか煙の輪が二つ。
ガン・マンは、ハッと気がついて、愛馬の腹に拍車を当てると、馬は勇んで走り出し、蹴る蹄鉄で巻きあがった砂煙が後ろに流れ、みるみるうちに遠ざかります。煙の輪の一つは、インディアンのあげた|狼火《のろし》だったのです。
塀の中の懲役が、いくら西部のガン・マンに似ているといっても、馬の背中で輪を吹くように煙草を大っぴらに吸えるものではありません。
働かされている工場で、誰かが煙草を手に入れると、たいていは一本を半分にするか三分の一に切って、懲役の手から手へとリレーされて皆に行き渡ります。
昔は煙草に火を点けるのも、摩擦熱を利用する方法や電気をショートさせる手や、それにレンズで太陽光線を集めたりするなど、いろいろと苦労や技術があったのですが、今はもうこれは昔噺で、どこの工場にも百円ライターのストックがありました。
そして大きな機械の裏や、作業時間中には無人になる食堂や、それにしゃがみ込んだトイレの中で、懲役たちは短い煙草に火を点けると、とにかく思い切り肺の奥の奥まで、煙を一気に吸い込みます。
最初の一服で、頭の中がしびれて白ちゃけ、立っていれば、ヨロリと身体が泳ぐのでした。
ガン・マンなら落馬してしまうでしょう。
二回、三回と続けて吸い込んだり、何人かの仲間でまわし呑みをすると、煙草の先の赤い火が、灼熱したまま長く伸びて、煙が辛くて美味しくなくなります。
美味しいとか不味いなんて、塀の中で看守の目を盗み、十五日ほどの懲罰と減食を賭けて吸う煙草ですから、|贅《ぜい》|沢《たく》なんて言えません。
とにかく煙草が吸いたいということはもちろんですが、懲役がこんなに必死になるのは、束の間の自由と、それに屈折した官[#「官」に傍点]への反抗だからなのです。
懲役が好きなだけやっても反則を取られず、懲罰も喰らわないのは、息を吸って吐くことと、夢を見ることだけだと言われるほどでした。
とにかく何からなにまで、徹底的に禁止して、厳重な制限をするのですから、塀の外にくらべれば、もうほとんど自由なんてないのと同じです。だから懲役は、いつでも自由に強烈な憧れを煮えたぎらせているのでした。
映画で見ると、外国の塀の中では、自由に煙草を吸っているのに、日本の刑務所で煙草を吸わせるところなんて、ただの一カ所もありません。
だから煙草は、懲役にとって自由の象徴でした。
看守の隙や死角を狙い、盲点をかすめて、あわただしく吸うのでさえも、懲役は、もうなんとも言えず満足で幸福だったのです。
そんな「自由の煙」という意味合いの他に、矢張り看守に対する|面《つら》|当《あ》てや腹いせのようなこともありました。塀の中での反則は、煙草に限らずなんでも、捕まらずにやりおおせた時は、なんとも嬉しくて言葉もありません。
懲役に人気のある反則は、煙草と玉入れ[#「玉入れ」に傍点]で、これは東西の横綱のようなものです。他にはシンナーと|刺《いれ》|青《ずみ》でしょうか。ホモは想像されるほどではありません。懲役が反則を咎められ、懲罰を喰らってしまうのは、矢張りなんといっても喧嘩が一番多いようです。
誰が言い出したのか……と、探し出してぶん殴りたくなるような格言が、日本には沢山はびこっています。その中でも「喧嘩両成敗」というのは、本当に思い出しただけで、機嫌が悪くなってしまいます。
官は、そんな「喧嘩両成敗」だなんて気の遠くなるようなことを、塀の中で原則にしているのですから、懲役は堪ったものではありません。こんな馬鹿で無責任なことを言われても、懲役は、それじゃ他の刑務所に行く……とか、家に帰る、なんてわけにはいかないのです。
喧嘩には、必ず原因があるわけで、懲役を管理しているのは官なのですから、喧嘩があれば、どちらがどうしてどうなったのかを調べる義務があります。
たとえば、仮釈放をもらおうとして、反則をしないように気をつけ、どんなに腹が立っても我慢を重ねようと決心して、懸命に刑期をつとめている懲役がいるとします。
この懲役が、ある程度の知名度のあるヤクザだったりすると、仮釈放をもらおうとしているのに嫉妬した奴や無神経で凶暴な同囚から、一方的に喧嘩を仕掛けられることがありました。
チンピラに毛の生えた程度の懲役だと、塀の中で出喰わした名前の通った渡世人に喧嘩を仕掛け、万が一勝つか善戦したりすれば、これは男を売るまたとないチャンスなのです。
枯れ草の丸まったようなのが、街の中央の通りを、風に吹かれて転がっていくような西部の町で、バット・マスタースンとか、リンゴー・キッド、それにワイアット・アープといった名高いガン・マンは、いつでも功名心に燃えた若者に挑発され、一方的に仕掛けられて、やむなく腰の六連発を抜きました。
もう闘いたくなかったに違いないのですが、先に撃たれれば人差指の先ほどもある巨きな弾丸ですから、よくても大怪我なのです。
塀の中でも、これとまったく同じような場面がよくありました。
だから、西部のガン・マンと塀の中の懲役は、とてもよく似ているのです。
私は、まさに、塀の中の闘いたくないガン・マンという、とても困難な立場になってしまったのでした。
十四歳で修業を始めて、十六歳の時には安藤昇の子分にしてもらったヤクザなので、とにかく古いだけはとても古い顔なのです。
今回つとめた懲役も、刑が増えなければめっけもので、仮釈放をもらって出所するなんて、考えなかったと言えば嘘になりますが、決して狙ったり期待したりはしていませんでした。
だからある時までは、喧嘩を売られたら、退屈ではあるし男を売る稼業の端くれですので、お相手はしますけど、断わっとくけど強いぜ、といった強気で終始していたのです。
こういうのを、いわゆる「喧嘩上等」というのですが、これは渡世人や懲役の原点ですから、ごく自然な姿勢で、だからつとめているのが楽でした。
喧嘩をすれば、横着な官は黒白をつけずに、どちらも懲罰を喰らわせますから、だいたい十日から長くても二十日ほどの減食と懲罰、それに懲役としての階級が最下級の四級まで落っこちるのだけ覚悟してればいいのです。
もっとも、喧嘩を買う時はいつでも、相手のダメージが、内出血か鼻血ぐらいですむように、心掛けていなければなりません。
当りどころが悪いと、人間なんてすぐ仏様になってしまいますから、塀の中でやる喧嘩では、いくらエキサイトしても、金槌で頭を叩いたりしてはいけないのです。
そうなると、懲役同士でも四、五年の刑が追加されるし、看守を地獄に送ったりすれば、七年ほどは打たれる[#「打たれる」に傍点]のでした。
相手の腕をへし折った程度でも、一年半か二年の判決は喰らってしまいます。相手を「いつでもウインクしてるヤクザ」にしてしまった懲役は、たしか二年|六《ろく》|月《げつ》も刑が増えたのです。
まだバレていなかったことが、服役中に露見してしまうのを「余罪」と言います。こうなると塀の中から所轄の警察署に逆送されて起訴され、判決が言い渡され、満期がはるか彼方に吹っ飛んでしまいます。それはもう身の毛のよだつようなことでした。
それでもこれはヤクザをしていれば、いつでも覚悟していなければならぬ不運ですから、突発的な塀の中の喧嘩で、刑が増えるよりはまだ往生出来るのです。
三田の隠居場から府中刑務所まで、面会にやって来た七十歳のおふくろが、最初はつとめて朗らかにやっていたのに、最後にはポロポロ涙をこぼして、
「直チャン、わたしも、もう七十だから、どうぞ一日でも早く生きてる間に戻ってちょうだい」
と言ったのには、いかな私でも堪らなくなって、
「そうするよ、一日でも早く帰るようにするから、風邪なんかひかないように……」
子供の頃から本当に迷惑をかけっ放しにかけたおふくろなので、つい胸が詰って目の奥と頭が熱くなってしまって、そう言ってしまったのですが、これはエライことでした。
面会所から工場までの、長いガランとした殺風景な通路を、看守に連れられてトボトボペタペタと歩きながら、私は何度も溜息をついたのです。
おふくろに言ってあげたように、一日でも早く帰るようにするのには、手段はひとつしかありません。
なんとか仮釈放をもらって、満期の前に出所することです。
それまでは、刑が追加されないように、満期が延びないようにと、それだけに気を遣ってやって来たのですが、その上に仮釈放をもらおうとなれば、これは大変なことでした。
とにかく官は、喧嘩両成敗なのですから、売られた喧嘩を買えば、勝っても負けても仮釈放なんて吹っ飛んでしまいます。
塀の中のそれは、子供の喧嘩などと違い商売人同士の闘いですから、どっちが先に手を出したかなんてことには関係なく、相手に勝つことがすべてでした。
場面を読んで[#「場面を読んで」に傍点]、闘うのが避けられないと判断すると、お互いに一番有利なタイミングを計ってためらわずに先手を取ります。
負ければ、ただでさえ惨めな塀の中なのに、相手に散々に叩きのめされた揚句、懲罰まで喰らうのでした。そんなことになれば、もう自分が惨め過ぎて、うっかりすると生きていく気力まで失いかねません。
事実、負けた喧嘩に限らず、もう生きていくのが嫌になってしまうようなことが、塀の中には多いので、哀しいことですが、自分で命を断つ懲役も珍しくはありませんでした。
「俺は事情があって、仮釈放をもらうと決めたから、売られても一切喧嘩はしない」
と言って、相手のするままにまかせていれば、いかな官でも、これは喧嘩とは認めないでしょう。じっとボクシング・ジムに吊ってあるサンド・バッグのように、我慢していればいいのです。
けど、いくらおふくろに、一日も早く戻るから……と言ってしまったにしても、私にそんな超人的な我慢が出来るでしょうか。そんな凄いことが出来る私なら、この歳でこんなところに、いるわけがないのです。
西部劇では、名高いガン・マンが、功名心に燃えた若者との無駄な闘いにくたびれ果て、拳銃を捨てて丸腰になる設定が時たまあります。
こうしていると、西部劇に出て来る悪漢や若者の場合は、せいぜい|罵《ののし》って軽蔑をあらわにするぐらいですんでしまうのです。
現代の日本の塀の中は、とても西部劇のようにはいきません。私が喧嘩上等の姿勢を崩せば、どんな青虫のようなチンピラでも、しめたとばかり、徹底的に私をいびり|辱《はず》かしめにかかるのに決っています。
日本人は、穏やかで親切な、思いやりと|義侠心《ぎきょうしん》のある民族のはずなのですが、ゴロツキも、とくに若いチンピラは、これも俺たちと同じ国の男なのかと、|唖《あ》|然《ぜん》とするほど残忍で無神経なのが多いのです。
面会から工場に帰って来た私に、|役《えき》|席《せき》の|頭《かしら》をしている鰍沢の石が、
「面会は誰だった、これか……」
と、小指を立てて見せたのですが、鰍沢の石のは、どうにも妙に形になりません。
小指の先が、ひと|節《ふし》詰めてあるからです。
「いや、おふくろだった」
私が、溜息をつきながら答えると、鰍沢の石は、仲間に同情した時によくやる優しい目をして、
「泣かれたんで、参っちまったんだろう」
と、言いました。
黙って頷いた私が、作業台に坐って作業を始めると、
鰍沢の石は、私の背後に立って、低い声で、
「けどなナオちゃん、少年院や初犯刑務所だと、まだ親や兄弟も面会に来てくれるけど、府中のような再犯刑務所に来たとなれば、もう駄目だと見離されて、たいてい誰も来なくなっちまうんだ。それが来てくれるんだから倖せだよ」
と言ったのですが、鰍沢の石の言うのは本当でした。女が面会にやって来ることがあっても、この再犯刑務所では、親兄弟は滅多に面会には来ないようです。
鰍沢の石は、私と同い歳のずんぐりとしたヤクザで鉄火な男ですが、人柄が良くて、私とはとても仲良くしていました。
ソフト・ボールでも、速くて重いボールを投げる鰍沢の石と、いくらか太目で動きが鈍くなってはいるものの、まだまだ若い懲役には負けない捕手の私は、この工場ではず抜けたバッテリーだったのです。
鰍沢の石の、投手として唯一の欠点は、捕手の私が、ここぞというところで、チェンジ・アップのサインを出すと、必ず嬉しそうにニヤリと笑うことでした。
打者の意表を突いて、球速を殺したボールを、フワッと投げるのがチェンジ・アップですから、待ち構えられていれば、ただのスロー・ボールです。
私の働かされていたこの工場は、八十人ほど収容されていた懲役のほとんど全部が、ヤクザ、ゴロツキの類だという「サムライ工場」と呼ばれるところでした。
ヤクザ、ゴロツキは、泥棒や詐欺師にくらべて、野球はおおむね下手で、足も平均して遅いのですが、観察力だけは研ぎ澄まされています。
この連中は、二、三度チェンジ・アップにひっかかって、バットを地面に叩きつければ、鰍沢の石の癖にはたいがい気が付くのでした。
|博《ばく》|奕《ち》では、こんな無意識でやる癖を「|傷《きず》」と言うのですが、相手はそのうち、この鰍沢の石の傷を狙うようになったのは|流《さす》|石《が》です。
私が頃合を見て出したサインで、鰍沢の石が顔でフェイントをかけてフワリと投げたチェンジ・アップが、続けて二回、待ってましたといい当りをされると、私はそれに気が付きました。
マウンドに行った私は、速球のサインであるパーを出して、それを二、三回握ったり開いたりしたら、その時は必ずニヤリとしてから速球を投げろと言ったのです。
私たち程度のソフト・ボールだと、捕手の出すサインは、速球とチェンジ・アップだけで、あとはコースをミットで指示するぐらいでした。
速球の時に、私が掌を握ったり開いたりすれば、鰍沢の石は、マウンドでいつでもニコニコしていることになって、傷は治ったわけです。
左の小指の先のない鰍沢の石のバッティングは、思い切って引っ張っても、レフトに飛んだ当りでも鋭さがありません。だから、なかなか外野手の間を抜くこともできず、左翼手の頭も越せません。仕方なく、右に流すバッティングをしていたのですが、指に全部爪の付いている私に、
「なんでナオちゃんは、ながくヤクザをやったのに、指が全部揃ってるんだ」
と訊いたのは、私が太目の身体をブルリとまわして、思い切り引っ張るバッティングで、|壺《つぼ》に来たボールをレフト場外に吹っ飛ばしたのを見た時でした。
鰍沢の石の声には、指も詰めてないなんて、本当に男を売る稼業をしてたのか、というようなニュアンスはまったくなく、自分には出来ない豪快な私の引っ張り打法を見て、単純に羨ましがって言ったのです。
永く私の親分だった安藤昇は、ヤクザの指を詰める解決が嫌いでした。
そして安藤組が解散してから、私が身を寄せた小金井一家の親分は、指は自分のために詰めるようではいけないと教えてくれたのです。
親分や兄貴、それに兄弟分や可愛い子分、そして一家一門の仲間たちやいい付き合いをしている同業のためになる場面で自分の指を落すのが、渡世人の心掛けることなのだと、愚連隊育ちで何も心得のなかった私に教えてくれました。
ホームランを打って、ベースをひとまわりして来た私は、情けないことに、それだけで息を弾ませていたし、こんなことは立話では出来ません。
「いやあ、|上《うわ》|目《め》のもんや若い衆が、皆行儀が良かったし、最初の親分が指を詰めるのを嫌いだった」
と簡単に答えると、鰍沢の石は、
「その親分は、野球の好きな人だったんだな」
ポツリと言いましたから、私もそれ以上の能書を言いませんでした。
鰍沢の石と私とは、すぐポロポロやるバックスなのに、滅多に三点以上はやりませんでした。ですからあんなにやったソフト・ボールの試合なのに、余り負けた覚えがないのです。
お互いに随分若い時からの渡世ですが、顔のついた[#「顔のついた」に傍点]のは、この時が初めてでした。話してみれば共通の知り合いは沢山いるのに、それまで塀の外で会ったこともなかったのです。
こういうのを、ウマが合うというのでしょう。私と鰍沢の石は、顔がつくと、すぐにとても仲良くなりました。
心に余裕がなく、食べて寝て息をするだけで手一杯という、趣味もなければ言葉もロクに知らず、用足し以外の会話はしないという、猿に近い男が半分ほどもいる懲役です。
その中で鰍沢の石は、珍しく私と冗談の言いあえる男でした。
けど、鰍沢の石が、充分過ぎるほど凶暴なことは、何かで腹を立てた時の表情と身体の気合で、私はすでに見抜いていました。
それはヤクザをしているからで、根は滅多に堅気の方にもいないほど愉快で優しい男だと、これまた私は承知していました。
私の|役《えき》|席《せき》には、枠にコイルの銅線をはめ込む懲役が四、五人と、枠に絶縁紙をセットする係がひとり、それに資材や製品を運んだり雑用をするのがひとりの、全部で六、七人の懲役が|配《はい》|役《えき》されていたのです。
鰍沢の石は、作業帽に赤線を一本巻いたその役席の|頭《かしら》で、懲役はアカセンと呼んでいましたが、正式には指導補助というのだと聴きました。
私たちの役席は、その巨大なスターターを組立てるラインの一部ですから、前後の役席の作業の進み具合を、いつでも鰍沢の石は睨んでいなければなりません。
自分たちの役席に仕事が溜って忙しくなるのはまだいいのですが、あまりセッセとやり過ぎて仕事がなくなってしまっては、これはうまくない[#「うまくない」に傍点]のです。
刑務所の偉い人が巡回に来た時に、どんな理由にしろ、工場の懲役が手を止めているのはヤバイのでした。
工場の担当部長が何か注意を受けたりするようですが、本来、刑務所も日本の役所のうちですから、能率とか作業量なんてことは、問題にされない世界なのです。
だから工場の懲役はいつでも、いかにも何かしているように見えなければいけないわけで、各役席にひとりいるアカセンは、そのためのコントローラーでした。
作業を始めた私ですが、面会室で見たばかりの、年取ったおふくろのことを思い出すと、本当に参ってしまったのです。
わずか二、三年見ないうちにすっかり年をとって、とても頼りない老婆になっていたおふくろが涙をこぼしながら、生きてる間に出て来て欲しいと言ったのを、いかな親不孝な私でも、聴かない振りは出来ません。
これを聴き流して何もせず、満期で出所したけど、わずかなことで間に合わなかったなんてことになったら、もう恐らく私の残りの人生は、再起不能になってしまいます。
いくらいい加減な私でも、こんな場面では、とりあえず困り果てるのです。
「だから面会は拒否していたのに……」
とか、
「この工場にいたのではとても無事には過せないから、仮病を使って病舎にとりあえず逃げ込んで、そこで手を考えるか……」
なんて、愚痴のようなことや、今までやったこともない余り現実的ではないことをあれこれ考えては、溜息をつくばかりでした。
そんな私を、鰍沢の石はジッと見ていたのでしょう。
その日の作業が終り、手足を洗ったり駄べったりしながら、舎房へ帰る号令の掛るまでの三十分ほどの時間、他の懲役とは離れ独りで浮かない顔をしていた私に、
「どうも、おふくろに涙をこぼされただけじゃねえな。聴いても懲役の身では力にもなれねえだろうが、構わなければ聴かせてくんな。仲のいいもんがそうしていると、見ていて堪らなくなっちまうよ」
鰍沢の石は、苦しんでいる私をいたわって、優しく微笑んで見せました。
大小とり混ぜ、いくつも刃物傷のある、ヤクザとしても随分凄いマスクなのに、こんな心遣いをする時には、驚くほど優しい顔になるのが不思議でした。
それに永く懲役をやっていると、仲のいい同囚が、こんなに悩み苦しんでいる場面を見ても、この時の鰍沢の石が私に言ってくれたようなことは、誰も言わないのが普通です。
これは懲役が不人情だからではありません。聴いても、なんの力にもなれないことが多くて、かえって苦しくなるのを知っているからでした。
塀の外ではどんなに力のある男でも、いざ懲役に落ちたとなると、歯がゆくなるのを通り越して、いっそ悲しくなるほど、無力になってしまうのです。
これだけでも鰍沢の石は、他の同じ渡世の懲役たちとは、随分変っていました。
もの憂げに笑って、何も言わない私に、
「話したくないならいいけど、俺はお節介だから、こんな場面になると、聴いたら何か役に立てることがあるかもしれねえなんて思っちまうのさ」
鰍沢の石は、そう言うと大きく口を開けてカラカラと笑いました。
見せた前歯の裏は、ながい間満足に煙草を吸っていないので、黒くなっていたヤニが取れ、子供のように白くなっていたのです。
私は、他の懲役には滅多に自分の苦しみや悲しみを話したりはしないのですが、この時に限って、鰍沢の石に、そっくり話してしまいました。
腕組をして私の話を聴いていた鰍沢の石は、聴き終ると顔をあげて、
「ナオちゃん、あんた堅気になるしかねえよ」
と言ったのでした。
一日でも早く戻るようにする……と私が思わず口走ってしまったり、そうしたことを苦しんだりするようなおふくろがいるのなら、もうヤクザなんて出来ないと、鰍沢の石は言ったのです。
「誰にも好かれていないからヤクザをやっていられるんだし、気取って男を売っていられるんで、おふくろに好かれてて、こっちも好きだというんじゃ、ヤクザなんて威勢よくやっていられるものじゃないよ」
そんなことで腰が引け[#「腰が引け」に傍点]たり、|安《やす》|目《め》を売ったりしたら、後の命を悔やんで過すことになるから、さしでがましいけど、すぐヤクザはやめるのがいい、というのが鰍沢の石の意見でした。
それはまことにそのとおりで、面会から帰った私が、あんなに悩んだのは、もうそれだけでヤクザではないのです。
この頃では滅多に見かけなくなりましたが、ヤクザは本来、徹底した自己犠牲が身上で、命だって、惜しげもなく捨てる覚悟が決っているから、どんなに勝目のない喧嘩でもためらわないのです。
鰍沢の石に言われるまでもなく、ヤクザが自分の親分以外の誰かを、おふくろに限らず、大事に思うようになったり、愛しくて堪らなくなったりすれば、こんなことなんて、とても出来るわけがありません。
鰍沢の石に言われるまで、私としたことがどうしてこんなことに気付かないまま、頭を痛めて半日ほども過したのかというと、もう永い間、本来のヤクザの姿を忘れていたからでした。
まだ甲州には、こんな本物が残っていると、まるで幻の日本オオカミが、目の前に坐って後ろ脚で|顎《あご》の辺りをしきりとかいているのを見て、仰天している学者さんのように、私も息を呑んで鰍沢の石を見詰めていたのです。もうこんなヤクザは、とっくに絶滅したと思っていた私でした。
そうだ、俺はもうヤクザはやめなければいけないと、私はその時決心したのです。
「あんたの言うとおりだ。俺はもう決心がついた。足を洗って堅気になる」
私が言ったのを聴くと、鰍沢の石は、しばらく腕を組んだまま厳しい顔をして考えていましたが、
「わけを言って簡単に、他の堅気ばかりの工場に変えてもらえるもんでもない。看守の中には、退屈しのぎにいたぶろうとするもんもいるだろうし、それにこの頃は堅気のほうが悪いぐらいのもんだからな。ナオちゃんが堅気になったとなれば、この工場のチンピラよりいっそ始末が悪いかもしれないぜ」
そう言うと、また考え込んだのですが、足を洗って堅気になると決めた私を、さげすみもあなどりもしませんでした。
鰍沢の石は、親身になって、どうしたら一番良いのか、仮釈放を狙うのにどれが一番チャンスがありそうなのかを、考えてくれていたのです。
「ナオちゃんなあ、心細いかもしれないけど、ここは一丁、俺にまかせてくれないか……」
鰍沢の石が言ったのに、私は、この工場で会っただけで、兄弟分でも身内でもないのに、身体まで賭ける[#「身体まで賭ける」に傍点]ことを、いくら口を切って[#「口を切って」に傍点]くれたといっても、お願いするわけにはいかないと答えたのですが、聴いてくれません。
上手くいったら、私のおふくろへの御祝儀で、器量が足りずに失敗したら、笑ってくれと言うのです。
この工場にも、若い衆の子分だから官も気が付かずに、同じ工場に配役してしまったのがひとりと、それに見処があるので盃をやったのがひとりいるから、あと二年ほどならなんとかなるかもしれないと、鰍沢の石は笑いました。
気にしないでくれ、|侠気《おとこぎ》だけでもなくて、退屈しているんだからともいったのです。
私は、とにかく明日の朝までひと晩だけ考えさせてくれと言って、その晩遅くまで考えた末に、鰍沢の石に甘えることにしました。
翌日から鰍沢の石は、工場の|主《おも》だったヤクザをまわって、
「安部に事情が出来て、仮釈を狙わなければいけなくなったので、俺が協力することにしたからよろしく願う」
と、気負った様子もなく、穏やかに微笑みながら口上を言ったのは、流石に永く渡世に励んだ男でした。
それを聴いたヤクザの中には、私と古い仲の男もいたし、同門の者もいましたから、皆事情を聴きにやって来たのです。
私は、そんな時でも隠さないで、
「いやあ、七十のおふくろに、生きてる間に戻ってくれと泣かれてね。アカセンの鰍沢が親身になってくれるから甘えることにしたのさ。永い間いい付き合いをしていただいたけど、俺、出所したら親分に詫びを言って堅気になるよ」
と、礼を言ったのです。
四十歳を過ぎて、|素《ま》|堅《つと》|気《う》になった者はいないというのが、常識になっている世界ですから、私からそう聴いた懲役たちも、首をかしげて|怪《け》|訝《げん》な顔をしたのでした。
鰍沢の石が、どんな義理や|目《もく》|論《ろ》|見《み》があるのか、本気で私のケツを見る[#「ケツを見る」に傍点]構えなのに、性根の歪んだ連中も、私をやっつけて男を売りたいチンピラも、手を出しかねたようです。
私はその間に、官費の通信教育の試験を受けて、全監で十名の中に入りました。
毎年十名ほどの懲役を試験で選ぶと、法務省のお金で、通信教育を受けさせてくれるのです。
この官費通信教育の試験に受かると、ほぼ確実に仮釈放の審査の対象になるので、落ちてモトモトですから、皆受験するため大変な競争率でした。
私は、「校正実務」というのを選んだのですが、テキストが来たのを読むと、その難しいのには頭を抱えました。もうずっとヤクザばかりやっていたので、すっかり頭の中が勉強をするようには、向かなくなっていました。
|閉《へ》|口《こ》|垂《た》れる私を、鰍沢の石が、なんで俺が身体を賭けてケツを見ているんだと、迫力のある脅しと|発《はっ》|破《ぱ》をかけます。あるプロ・レスラーを刺殺したので、知らない者のいないほど有名なヤクザなどは、
「どれどれ、俺も一緒にやってやるよ」
と、テキストを拡げて、気力を失いかけている私を、励ましてくれたのです。
こんな信じられないようなヤクザを見ると、足を洗おうとしている自分が哀しくなったりするのは、私だってその世界が好きで永くいたからでした。
気を取り直して一所懸命やるうちに、頭もだんだんと勉強をするようになって来ました。エンジンの回転が上った私は、一年の課程が終ると、成績優秀の表彰を受けることになったのです。
通信教育の側では、表彰する私が懲役だと知ると、わざわざ理事さんがひとり府中まで来てくれて、刑務所の中にある小部屋で、マン・ツー・マンの授与式をしてくれました。
工場に戻った私は、鰍沢の石をはじめ、励ましてくれたヤクザに、心から頭を下げて礼を言ったのです。皆これが塀の外に出ると、忌み嫌われる男たちとは信じられないほど、自分のことのように喜んでくれました。
そんなこともあって思いがけず早く、仮釈放審査委員会の面接を受けることになった私に、頭に来た懲役がひとりいて、不意を襲おうとしたのを、鰍沢の石の教育がよく、気を抜かずにいてくれた若い衆が、横から体当りして守ってくれたのです。
その若い衆はまるで、ボールを持って突進するバックスについて走り、タックルに来る相手にぶつかって弾き飛ばして守る、アメリカン・フットボールの選手のようでした。
私にも覚えがあることですが、他の懲役が恵まれて出所して行くのは、なんとも|妬《ねた》ましくて堪らないことなのです。
これは、どんなに浅ましいと笑われても、あんな|非《ひ》|道《ど》いところに閉じ込められていると、他人の不運は、同情しながらも満足で、幸運は喜んであげながら、実はとても妬ましくて、クラクラしてしまうほどでした。
自分を押えるブレーキなんて、まるで付いていないような奴も、ちっとも珍しくなんかない懲役ですから、それまで私が無事だったのが不思議というか、幸運だったのです。
もし鰍沢の石の若い衆が、間に合わなければ、襲われた私も反射的に防いでいたに違いありません。そうすれば、仮釈放審査委員会の面接だって、流れるか大幅に遅れるかしていたと思います。
仮釈放が決り、工場から釈前房という、釈放直前の懲役が入れられる独居房に連れて行かれる前に、飛んで行って礼を言う私に、鰍沢の石は、
「出たら遊びに行くよ」
それだけ言って、私の手を固く握ったのです。
出所した次の日に、三田の隠居所に行った私は、元気そうなおふくろを見て、間に合ったことを実感したのですが、年寄りにそんな縁起でもない胸の内なんか、とても言えるものではありません。
一日でも早く、間に合うように戻ると決めてから、どんなことが塀の中であったかなんて、おふくろに話すことではないようです。
嬉しそうに私を見上げて目をシバシバさせ、縮んだように小さくなってしまったおふくろに、
「俺ね、足を洗って堅気になる。だからこんなに早く帰れたんだ」
と、それだけ言ってあげると、おふくろは心配そうに、
「それで、何をするの……」
あんまり永く心配をかけたので、足を洗って堅気になると、グレにグレた次男が言ったのを、おふくろは余りピンと来なかったようです。
「当てもないし、贅沢も言ってられないから、とりあえずすぐ鮫洲に行って免許証を交附してもらう。大型の免許だからスポーツ新聞でも見て、どこかの運送屋か陸送屋で、トラックに乗ろうと思ってるよ」
私が言うのを聴いて、どうやら息子はヤクザをやめる気らしい、と分ってくれたようでした。
嬉しそうに、私を見詰めているおふくろを見ていると、こうしているのも、鰍沢の石のおかげだということが、あらためて思われました。私の心の中にぐっとこみあげてくるものがあり、あの甲州のヤクザに厚く礼を言ったのです。
第二部 塀の外にて
実録・塀の中の紳士録
田中角栄も三浦和義も、私とすれ違って行きました。
ああいうところは、なんの脈絡もない男同士が、こんなふうに出会っては別れて行くところです。
だからゴロツキは、「寄せ場」なんて呼びます。
幸運に恵まれて、作家として世に出ることの出来た私も、だからきっと今頃は、すれ違った沢山の仲間から、
「あの安部な、|鼾《いびき》が|非《ひ》|道《で》えのさ」
とか、
「安部譲二に|煙草《ネ ッ コ》をまわしてやったら、あの野郎ヨダレをたらしてから涙こぼしやんの」
なんて言われているのに違いありません。
『塀の中の懲りない面々』で御紹介した連中の、その後の消息ですが、「指物師の忠さん」「紙食いメエ」「人相違反」「甲州の石さん」そして、「赤軍派兵士、城崎勉」の近況をお知らせしましょう。
忠さんが盗っ人をやめたのは、当人のいったところによると「もうモーロクしたからリタイヤだ」ということでしたが、本当は違いました。
以前永い間、忠さんが面倒を見た、今ではトップスターになっている女優さんが、これが珍しく性根のいい女で、トチった忠さんが刑務所に行くたびに満期御放免となるとスケジュールを抜いて、熱海に二泊、箱根に一泊というふうに放免祝いをするということで、それにたまりかねた忠さんは足を洗って堅気になったというのが真相です。
「あの義理っ返しが欲しいばかりにドジを踏むなんて思われたんじゃ、ナオちゃん(私の本名)、これはたまらねえ」
忠さんは、そのときだけは目をキラキラさせて言ったのでした。
見栄を張るのはマイナーな男たちの常で、何もヤクザに限ったことではありません。
忠さんは、ドジを踏んで警察に捕まり、起訴されて未決に落ちると、これはもう執行猶予なんてつくわけもありませんから、その知らせを聴いたとたんに、木工所のある各刑務所で身柄の奪い合いが始まるという、塀の外でも腕っこきの家具職人でした。
忠さんは家具職人という言葉を嫌がって、「オレは|指《さし》|物《もの》|師《し》だ」といっていましたが、こんなことはきっと、以前私が|博《ばく》|奕《ち》|打《うち》だった頃、暴力団という言葉を嫌ったのと同じかもしれません。
そんなことで足を洗った忠さんは、あまりの家賃の高さにフテくされた私が、四トントラックの荷台の上に風呂つきの家を建ててしまおうと思ったとき、色々とテクニカル・アドバイスをしてくれました。
その後一年ほど音信が絶えていて、あれは確か去年の秋、生れて育った下町で、小さな本屋を開けたのだと電話をしてきたのです。
場所を教えろという私に、いつもイナセな忠さんは「教えてもらう祝儀より、かねて盗っ人に憧れていたお前だから、来て万引されるほうが|患《わずら》いだ」とケラケラ笑いとばしたのでした。
私の放った密偵の報告によると、その書店は九尺間口の書店とはいいがたいほどのもので、むしろ雑誌屋、マンガ本屋といった程度の店だそうです。中には子供が四、五人いたというようなことでした。
忠さんから再び電話があったのは、ひと月ほどたってからのことです。
初めての単行本が順調に売れている私にひとしきり祝いを言ってくれた後で、
「オレのところでもよく売れてる」なんて見栄を張ってみせました。
これが憎たらしい奴だと「お前のところにハードカバーなんてありゃしねえじゃないか」とか、「餓鬼たれが千円の本を買うか、バカ」だとか、さんざんに口汚く吠えたてる私ですが、忠さんとは本当のよい仲でしたからもちろんそんなことは言いません。
言葉少なに「ありがとう」と礼を言いました。
「それでね、これは頼み事なんだけど、ナオちゃん力になっちゃくれまいか」
こういったシャイな年寄りほど、何にしても、人にモノを頼むときは声が小さくなるのです。
「あのネ、ナオちゃん『少年ジャンプ』というのをもう少し配っちゃあくれまいか」
──忠さんの語るところによると、いちばん売れるこの雑誌が、毎週わずか二冊しか配本されないのだそうです。
家主の息子と、女の連れ子に一冊ずつやると売る分がないのだというのです。
商売昨今駆け出しの忠さんには、取次店の仕組や、そんなことがどうもわかっていないようでした。
ほかならぬ忠さんに頼まれたのですから、集英社に伺ったときに、一所懸命お願いしたのです。うまくいったかどうか、わかりません……。私にしても、作家稼業昨今の駆け出し者なのです。
『塀の中の懲りない面々』では、紙食いメエは私の友人の若い衆のように書きましたが、実は私の舎弟です。
このメエも、刑務所から出てきた私が「足を洗ってまっとうになるぞ」と申しましたら、「もう自分の段取りはついています。兄貴がそういうと、予想しておりましたのや」と、レースの当った予想屋のようなしたり顔をしてみせたのです。
私が出所したのが昭和五十四年の春。秋にはメエの立食いうどん屋が、都心部もピカピカのところに開店したのでした。
塀の中では「将来うどん屋を開けたら店の屋号は出身地にちなんで『嵯峨野』にしたい」なんて、顔に似ず|雅《みやび》なことをいっていたのでしたが、どうやら銭が足りなかったらしく、「うどん玉屋」の看板が上っていました。うどん玉屋にだいぶ出させたのでしょう。開店祝いを持って行った私が「夜中の間にスプレーで書き直してやろうか」というと「もうまっとうな堅気なんやからやめといておくれやす。気持だけ頂いておきまっさ」──アメリカのトウモロコシのような歯をむき出して関西弁で笑ったものでした。
文藝春秋のやってくれた私の新出発を祝う会にやってきたメエは、大変なお客さまの中で、小柄な男ですから、まるで目立ちません。ようやく見つけた私が「よう、忙しいのにありがとう」と言うと、苦労したのでしょう随分シワのふえた顔で笑って何か言いました。
大変な数のお客さまでしたから、メエが何と言ったのか、はっきり聴き取れませんでした。その聴き取りにくさに口許をじっと見ると、使わぬ筋肉は退化すると中学のとき教わりましたが、メエもそうに違いありません。
この頃はうどん屋の主人なので食うのも油揚げとうどんらしく、カタい紙は食わないからでしょう。あのみごとな出っ歯はやや人並みに近づいていました。
“人相違反”と異名をとった凄まじい顔相の中島健は、TBSのテレビドラマで私の旧友のガッツ石松が好演してくれましたが、これもメエと一緒で実は私の可愛い舎弟でした。
子供の頃から、北九州の貧しい家庭で育ったせいか、どうやら姿見を見る習慣がなかったようです。自分の人を恐怖させる御面相には気がついていなかったらしいのも、今となっては彼を知る者の毎度酒の|肴《さかな》になる不思議です。
というのも、奴は、昨年の夏、死んでしまったからです。享年四十。いくらきつく体を使ったといっても、まだくたばる年ではありませんでした。
この男も、私が足を洗うと聴くと「それじゃオレも」と堅気になったのです。
ヤクザというものは兄貴や親分に惚れているからできるもので、そうでもなければ斬ったり張ったりできるものではありません。
中学もロクに出ていない、体には筋彫りの児雷也小僧が彫ってあるという男ですから、まっとうになろうったって簡単にはいきません。
ましてや、ヤクザの中でも人に知られた恐ろしいマスクです。
しばらくはパチンコ屋の用心棒をしていましたが、無慈悲にも私の言い放った「そんなもんはまっとうじゃねえ」という言葉に傷ついたのか、アタマにきたのか、しばらく姿を消していました。
次にあった知らせは──あれは五月のお節句の頃だったか──「知り合いのところじゃできかねるので、町田まで来て新聞配達をしています。牛乳屋と他の新聞屋に顔を見られるぐらいのことだと思ったら、夕刊もあるのには参りました」──明るい声でそんなことをいって寄越したのです。
その次の知らせは夏になって町田警察署からありました。
中島健は新聞休刊日の日にフトンの上で注射器を握りしめて死んでいたというのです。
これは憐れな死でした。私たちのように長く無頼な暮しをした男は、まっとうな方が酒でまぎらわすような場面で覚醒剤を使ってしまうこともありがちなのです。
体力盛んなときはいざ知らず、四十歳になって久々のそんな場面で、以前と同じ量だけ体に入れた中島健は、たまらずそのままアノ世に行ってしまったのでしょう。
財布の中に、故郷の九州大学医学部に「何かのときは献体します」という紙切れが入っていました。
筋がついているから医学生もやりやすいだろう──そんなことを口ではいいながら、駆けつけてきてくれた兄弟分と私、それに元極道の妻の家内は、たった三人のお通夜で目がはれるほど泣いたのです。
甲州鰍沢の石さんは、私と同年輩の、これは絵に描いたようなヤクザです。
見てくれだけでなく、心の中も、まだこんなヤクザが現代にいるのかとびっくりするほどのものでした。
同じサムライ工場[#「サムライ工場」に傍点]で働かされるうちに、私の年老いた母親が「生きているうちに戻っておくれ」と私に言ったのを、つい仲良くしていた石さんに私が洩らすと「うけたまわった。ナオちゃん、たまには仮釈をとれ」と言ってくれたのです。
他人の不幸は何でも内心嬉しくて、幸運は|癪《しゃく》の種という塀の中ですから、私が成績を上げて仮釈放をとろうとすれば、ヤクザばかり集めたサムライ工場でも、足を引っ張ろうとする奴は必ず出てくるのです。
このことを抱き落し[#「抱き落し」に傍点]なんて呼んでました。ケンカ両成敗なんぞというバカなセオリーがあるところですから、相手の仮釈放を吹っ飛ばそうとすればこれは簡単なことなのでした。
石さんは、甲州の後輩を集めて、私の護衛を、それから二年の間ほどつとめてくれたのです。
よくアメリカン・フットボールで、ボールを持ったラインバックが抜け出すと、それについて走ってタックルしようとする敵のディフェンスをはじきとばすプレイヤーがいます。石さんの一党は、塀の中で、ちょうどこんなことをやってくれたのでした。
運動時間に、いつでもみごとな水門破りの彫り物をむき出して、ネットのところでピョンピョンやっていた石さんは、その熱心さをいぶかって訊ねた私に「なァに、ここで覚えて帰って、ママさんバレーの監督になるのだ、バカにしちゃいけねえ。臼みたいなおばさんばかりじゃなくて、ピチピチした若奥さんだっているんだぞ、ウフフフ」と、そんな絵図を小さな声で私にだけ聴こえるようにいったのです。
一昨年の冬、私は貧乏の底にありました。ヤクザの頃の友人が訪ねてきて、私に無心したのですが、ネコにエサをやるのが精一杯の暮し向きでしたから、無い袖はまるでランニングシャツのようで振りようもありません。
そのヤクザは、ポーカーゲームのマシーンを二台持っているといいましたので、久し振りに石さんに電話をして「力になってやってくれないか」と頼んでみたのです。
「ナオちゃんじゃなくて、友達でも一緒のことさ。そのマシーンを持ってこっちに来ればいい」
石さんは屈託のない声でいってくれたのです。私もクスブリが永かった男ですから、こんな返事を聴くと、たまらず嬉しくなります。
「ところで石さん、ママさんバレーはどうなった? ピチピチした若奥さんを|選《よ》り取り見取りかい?」
「いいやナオちゃん、あんな絵図はね、塀の中だから描けたんで、そんな回りくどいことしないでも世の中はすっかり色餓鬼だらけのポルノ時代よ、アハハハ」
笑い終って「嫌な時代だ、男の子ばかりでまだよかったぜ。娘でもいた日には塀の中にいっきりにならァ」
ヤクザが驚くほどですから、大変な世の中になってしまったのは事実です。石さんは、「何にでもイチャモンをつけて訴えるし、見境なく助平はするし、ナオちゃん、これはもう一億総ヤクザよ、参ったね」
城崎勉は、赤軍派はなやかなりし頃、ライフルを握って資金調達のコマンドをつとめていたパリパリの兵士でした。
捕えられ、懲役七年の実刑判決を受けて、私と同じ府中刑務所の木工場で働かされていたのです。
国立の徳島大学の学生だったと聴くと学問のない懲役一同は仰天して、「おい、クニタチじゃなくてコクリツだってよ」──たちまちインテリがおおせつかる文芸部員に彼を選んだのでした。
府中刑務所には二千人以上の懲役が服役していますから、これは一つの町です。洗濯工場、縫製工場、|炊場《すいじょう》と呼ばれる巨大なキッチン、それに豚舎まであって、残飯でブタを|肥《ふと》らしています。
印刷工場、製本工場の他に写植工場まであるのですから、本を造ることなんか手慣れたものです。各工場に一人ずついるこの文芸部員が、工場の懲役の原稿を集めて、見開き四十ページほどの月刊誌を出していました。
この「富士見」という雑誌は、懲役の本名が載っているからということで、出所のとき持って出られませんが、先日、日本で指折りの大泥棒が、まんまと一冊チョロマカしてきて私にくれました。
それはさておき──、この「富士見」の投稿者であった私は、城崎勉ととても仲良しになったのです。
身上調書の職業の欄に胸を張って「革命家」と書くこの若い男は、ひねこびてすれっからした懲役ばかりの中で、そのキリリとした様子が際立って見えました。
まだ刑期を五年も余していたというのに、間もなく塀の外に出られることを、なぜか確信していた城崎勉は、いぶかる私に「一刻も早く盲腸をとり、痔の手術を受けたい」と言いましたから、普通に申し込んで順番を待てば半年もかかるところを絵図師の私が腕にヨリをかけた絵図を描き、九月の初めには病舎から戻ったのです。
そして九月の三十日──。日本政府から出させた十六億円のオトシマエをぶら下げ、羽田に待たせた鶴のマークのジェット機に乗って、遥かアラビアへ超法規出国したのです。これは私たち固定観念にこり固まったヤクザ者には、外国の活劇映画か、それとも劇画のような唖然とするばかりの脱獄でした。
──あれから十年以上の月日が流れ、私は機会を得て、幸運にも、まっとうな暮しがたてられるようになりました。
城崎勉は、これは信念の男ですから何年たとうと革命家のままらしいのです。
先日は新聞に、あの丸い顔に丸い眼鏡をかけた懐しい写真が載っていたので驚いて記事を読むと、ジャカルタのホテルからアメリカ大使館に向けてロケット弾をぶっ放したようでした。
学問のない私ですから、城崎勉のせっせとやっていることがいいことか悪いことか、判断できません。
けど、判断できるできないということと、友人であることとは、私の場合、何の相関関係もないのです。
一緒に懲役をつとめた仲間の中には、私に電話をしてくれて、乗っていたバスの中から新宿のはずれを歩いていた勉を見て「大声をあげたら横を追い抜いて行くバスに向って、胸のところまで手を上げた勉が、その手を小さく横に振ってみせた。まちがいなくあれは勉だよ」とか「東京駅のプラットホームへの階段を昇っていたら、着いた電車の大勢の人波の中に階段を降りてくる勉がいて、驚いた自分が『勉!』と叫ぶと、わずかに顔をほころばせて、会釈をしてみせた」なんて教えてくれる者がいました。
東京駅の場面などは、まるで『ビルマの竪琴』のようで、これは懲役特有の脚色が匂うのですが、いずれにしても、火のないところに煙の立つのは、ドライアイスだけです。
先日も、警察の知らない間に、ゴラン高原から日本に戻ってきていた赤軍派のコマンドが自首して世間を驚かせました。
城崎勉も、何度か日本に潜入していたのはまちがいないことと思われます。夏の混んだビヤホールで、ばったり出くわしたら、どんなに嬉しいことでしょう。
力道山が結婚した頃、執行猶予中だった私は、まんまと日本航空に潜り込み、当時でも高かった給料でコンテッサの新車を手に入れました。力道山の婚礼の夜、その車に乗って交差点に止った私に、隣りに並んだタクシーから「おいナオよ、白タクなんかやってねぇでウチの会社に来いよ。あまり前科のことなんか言わねえぜ」──声をかけてくれた運転手は、少年院で同じ房の男でした。
まっとうになろうと|足《あ》|掻《が》いている奴、変らずにヤクザ渡世をまっしぐらの男、そして革命家……同じ刑務所、同じ工場、同じ舎房で過した懲りない面々は、今日もどこかで、そいつなりの暮しを立てています。
死んでしまった人相違反も、今頃は地獄の釜でひと風呂浴びて、夕涼みかたがた私を眺めているのに違いありません。
対談 親分お久し振りでござんす
[#地から2字上げ]出席者 安藤 昇
[#地から2字上げ](元安藤組組長・俳優)
[#地から2字上げ]安部譲二
[#地から2字上げ](元安藤組組員・作家)
(定刻四十分前、安部氏が早くも対談会場に姿を見せる。ソワソワと落ち着かぬ様子)
安部 いやもう、きのうから緊張のしっ放しで。あしたはオヤジさんとの対談だ、変なことを言ったらいけない。何を話したらいいか一緒に考えて下さいなんて、兄貴分に相談したりしましてね。兄貴が「ついてってやろうか」なんて言うから、「ダメ、ダメ!」。きょうなんかも、ヒゲ|剃《そ》り過ぎて顔の肉まで削っちゃったくらい。(笑)
あたしがオヤジに仕えてた頃の親分と子分といったら、気安く口なんて利けやしない。現役の頃に親分と口利いたのは、たったの三、四回。「やってるか?」なんて言われて、「はいッ」って答えたくらいなんです。
文藝春秋からあたしの本が出て(『塀の中の懲りない面々』)、すぐに電話をいただきましてね。それをうちの女房がとって、まさかオヤジだとは思わずに、「あんた、ちゃんとやってんの」なんて。あたしの若いもんの安藤と間違えたんですよ。(笑)すぐに気づいた女房が、廊下でピョンピョン跳び上がって、へどもどしてる。受話器を捧げるみたいに持って、あたしに渡すんですね。そしたらオヤジさん、「面白かったぞ。長い間おまえの親分やってたけど、こんな能があるとは知らなかった」って。もう汗が出たのなんの。オヤジさんと一対一で、しかも向かい合って話ができるなんて、ホントに夢みたいですよ。
(定刻きっかりに安藤氏が到着。安部氏、正座して迎える)
安部 本日はありがとうございます!
安藤 元気かい?
安部 はい! おかげさまで。
安藤 きょうは何話したらいいのかね。共通の話題っていうと刑務所ぐらいだろう。
安部 このごろオヤジさんは、ゴルフばかりなすってるそうで。
安藤 そう、やることないから。暇だからゴルフばっかりさ。そっちは忙しくていいあんばいだね。
安部 はい、おかげさまで。半年前がウソみたいです。女房の内職を手伝ってたりしたんですけど、急に忙しくなりました。
安藤 よかったな。でも才能あるよ。文章うまいもの。たいしたもんだ。
安部 いやぁ、汗が出る。(笑)あたしはこの五月で五十になるんです。
安藤 そうか。俺も六十二、もう老兵だ。
安部 安藤組にいた頃は、あたしなんか最末端のチンピラでした。昭和十二年に生れて、お身内に入れていただいたのが二十八年。「東興業」(安藤組)のAの字のバッジをいただいたのは三十一年頃じゃないかと思うんです。あれは珍しいバッジで、あたしどもチンピラから上の方に至るまで全部同じ色だったんですね。
安藤 そう。黒地にAの金文字を浮き彫りにしたやつだったな。あれは最初、三百個作ったんだ。そうしたらバッジ屋が三十おまけしてくれた。それでも足りなくて追加したんだから、随分若いもんがいたんだね。
安部 たいへんな数です。
安藤 渋谷の宇田川町に事務所を設けて、「東興業」の看板を出した。あれが確か昭和二十七年だったかな。
安部 まだ外食券食堂があった頃ですよ。クーラーなんてどこにもありゃあしないから、涼しいのは映画館だけ。渋谷の映画館に行って、ただ坐るのは心得のない奴でね。一ぺん席の上を手で払ってから坐るんです。なにしろ渋谷じゅうの猫が涼を求めて映画館に集まってたから、いきなりトーンと坐るとギャオーとくる。(笑)そんな時代でした。
マンホールのふたを投げた奴
安藤 焼け跡時分には、若いもんは毎日喧嘩ばかり。夜中に年じゅう起されたな。間違いがあったらいけないから、ピストル腹に入れて出ていくわけさ。
安部 よく覚えてます。夏の夜中に、大兄ィの花形さん(本田靖春著『疵』の主人公)がかなり|御《ご》|酒《しゅ》を召し上がられましてね。大友さんとおっしゃる古い役者さんがやってらしたお店を、花形さんが少し壊されて。
安藤 壊されて、はよかった。(笑)
安部 で、気づいたときには、なぜか身内の者ばっかりが二派に分れて大変な殴り合い。そうしたら真夜中ですけど、オヤジさん、舎弟分の久住呂さんと一緒にこられて、いきなり花形さんをスコンと叩いた。あの滅法喧嘩の強かった花形さんがバタッと倒れたのを、あたしはまだ覚えてます。
安藤 そうだったっけかな。
安部 あん時、マンホールの鉄のふたを投げた奴がいましてね。いくらなんでも卑怯だ、誰が投げたんだということになりまして。あたしは確かに兄貴分の矢島さんが|抛《ほう》ったのを見たような気がするんですけど、当人はいま頑強に否認しております。(爆笑)
安藤 いろんな奴がいたよな。顔の知らねえのも随分いた。
安部 それはご無理ないと思います。安藤組が昭和三十九年に解散してから二十年以上経つわけですが、あたしんとこへもいまだに安藤組を名乗って電話してくる方がいるわけですよ。で、呼ばれて行ってみると、一度もお目にかかったことのない方で。
安藤 ありそうな話だ。(笑)
安部 なにしろ、|郷《く》|里《に》に帰って公認会計士になったなんて奴もいますから。
安藤 へえ、そりゃたいしたもんだ。
安部 もう仰天しております。ヒゲを生やして、粋なハットを被ってた男ですけどね。
安藤 そうかい、公認会計士ねえ……。さすがに警官になったのはいないだろうけど。
安部 いえ、一人おります。
安藤 いるのかい!?
安部 柔道の強いのがおりましたでしょう、四段だか五段だかの。あれがいま郷里に帰って、県警の柔道師範をしている。逮捕術なんか教えてるそうです。(笑)
安藤 ああ、確か明治大学の柔道部にいた奴だ。柔道がやたら強くって、喧嘩やらすと、みんなほっぽり投げちゃう。
安部 そうです、そうです。で、研究したんですよ、あたし。ほっぽり投げられちゃいけないから。いい知恵をつけてくれたのが死んだ西原で、「あいつと喧嘩するときは、パッと上を脱いじゃえ」って。そうすると掴む襟がないから、あいつは一瞬考える、そのスキにやっちまえ。(笑)一度試してやろうと思ってる間に、郷里へ帰っちゃった。
安藤 あれは真面目な奴だったんだ。現役の学生でいたからね。
安部 それからオヤジさん、官吏になったのが一人おりますけど、ご存知ですか。
安藤 おいおい、そのへんは名前伏せとけよ。クビにでもなったら大変だ。(笑)
ヤクザは渋谷が一番
安部 あの頃は、最末端のチンピラだったあたしから見ても、異能の人が多かったですよ。実にユニークだった。
安藤 大学の運動部に籍を置いているなんて連中がゴロゴロしてたからね。あの頃は職もないし、右行くか、左行くか、みんな迷ってたわけさ。どうにも|捌《は》け口が見つからないって時代だったんじゃないか。
安部 それこそ六大学の学生が全部いましたもの。
安藤 東大だけはいなかっただろう。(笑)だから五大学だな。
安部 ただ、お身内の中で一人、いまも東大教養学部の裏門のところでスナックをしておられる方がいますでしょう。これが東大生に大変な人気だそうで。
安藤 ああ、ずっと東大生の面倒見てる男な。学生が勝手に店を手伝ってくれるから、当人は二階で昼寝なんかしてる。卒業してからも、世話になったからって東大出がよく来るというんだろう。
安部 そうなんです。もう何十年もやっとられるから、馴染みの学生が博士やら官吏やら、軒並み偉くなっちゃってる。
安藤 組織図風にいうと、俺のすぐ下に十三人いて……。
安部 久住呂さん、志賀さん、花田さん、花形さん、石井さん、森田さん、瀬川さん……、こういう大兄ィが十三人いらっしゃった。その下に、大兄ィの右腕みたいな方々がズラッといる。その次のランクになるともうチンピラで、あたしどもはそのへんでした。
安藤 その頃は慶応の学生だったんだろ?
安部 はい。事務所の掃除ばかりさせられてました。(笑)これはまだお身内に入れていただく前の話ですけど、恋文横丁の奥がずうっと古着屋でしてね。その少し下り坂になったところを、親分が子分衆を従えてトットッ、トットッと小走りに降りてくるのが見えまして。「ああ、ヤクザになるなら、この人の子分になろう」って、そう思ったのを覚えてます。当時は、どこのヤクザよりも渋谷のヤクザが一番都会的でカッコよかった。|服《な》|装《り》なんかも役者そこのけでしたからね。
花田さんなんか、白いトライアンフに乗りましてね、もう|颯《さっ》|爽《そう》なんてもんじゃない。白の|絣《かすり》の着物に|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》クルクルッと巻いて、白い外車でサーッ……目も|眩《くら》むような男っぷりでしたよ。
安藤 確かに垢抜けてた。
安部 あの方、色男でしたもの。もう役者以上、高橋英樹なんてあっち行けですよ、ほんとに。(笑)
おかしな話ですけど、あたしはチンピラが高じてヤクザになりましてね。いい年になったときに「はて、あの頃のオヤジさんはお幾つだったんだろう」と、場面、場面に思ったわけですよ。そうしてそのたんびに、自分の器量のなさを思い知らされた。当時、親分は二十代でしょう?
安藤 二十七、八かな。ませてたんだ。
安部 その若さで三百人からの連中を束ねてたんですから。
安藤 子分といったって、ほとんど同年だったからね。一つ二つ下とか、同い年とか。まあ、自分じゃあ四十ぐらいのつもりでいたけれども。
安部 対抗勢力の親分なんて、たいてい二十も上でしたよ。安藤組というのは、独立集団でしょう。渋谷の町を力で占拠しちゃったようなもんだから、周りを昔からの組織暴力団に囲まれてた。四方八方、みな敵ですもの、出入りなんかもしょっちゅうで。
安藤 みんな若くて跳ね返ってたせいか、年がら年じゅう喧嘩ばかりだったな。
安部 あの頃の大学生は、顔つきからして違いましたよ。いまよりずっと大人だった。
安藤 自分でそう思ってただけじゃないのか。(笑)そういえば、慶応の拳闘部に石上とかいう強いのがいたなあ。
安部 それから国学院の空手部にいた山下。これが強かったんです。
安藤 ああ、仙台へ行った山下ね。大塚という男も強かった。昭和二十三年頃に、プロ・ボクシングの新人王をとったんだ。
安部 何といっても花形さんですけど、ジムとかいう白系ロシア人のゴロツキを返り討ちにしたことがありましたね。このジムのおかみさんというのが、通称お蝶さん。髪の毛を金髪に染めた女で、百軒店の「ミリオン」ていう店にいたんですよ。
安藤 そうそう、“人斬りジム”とお蝶ね。ジムは一度、花形に痛い目にあって、その仕返しに花形を|殺《や》りにきた。ジムは日本刀を抜き身のまま持ってきて、お蝶がハンドバッグにピストルをしのばせてたらしい。ところが日本刀で斬りつけられた花形が、逆にそいつを奪い取ってジムを斬り殺しちまった。過剰防衛で三年喰らったんだ。
安部 お蝶というのはおかしな女でしてね。安藤組に亭主を殺されたというのに、あたしらには実によくしてくれたんです。だもんであたしらのほうも、百軒店の店が終ると渋谷の南口まで、いま風に言えばエスコートしてさしあげた。歩いていると、必ず酔っぱらいがお蝶の金髪を指差して、笑ったり、冷やかしたりするんですね。そいつらを何人ぶん殴りましたか。するとお蝶がそのたびに、「亭主は殺されたけど、安藤さんとこにはいい人がいるねえ」なんて言う。それが何だか嬉しくって。(笑)
オヤジさんの目から見て、こいつは子分の中で一番強い、と思われたのは誰ですか。
安藤 誰だろうねえ。喧嘩っていうのは体じゃないから。
安部 あたしが花形さんとどっちかなと思ったのは、森田さん。この人が不機嫌な顔して前から歩いてくると、思わず横っちょの路地に入ったですもん、怖くって。
安藤 あれは剣術の達人でね。小菅の刑務所で教えてたくらい。変った男で、自分で木刀こさえて、毎日三千本くらい素振りをしてたよ。これも花形だけど、宇田川町の通りでパトロールの機動隊を二人張り倒したことがある。何だかんだ文句言われて、いきなり吹っ飛ばしちゃったんだ。ただしこのときは、機動隊のほうが責任者に怒られたらしい。「おまえたち、ピストル持ってて何やってんだ。民衆の前でとんだ恥かきだ」って。花形のほうは公務執行妨害にもならなかった。(笑)花形は明治のラグビーにいたんだけど、拳闘もかなりだった。親父がハワイのチャンピオンで、その血を引いてたんだね。
安部 あ、そうなんですか。
安藤 二十六年だったか、石井と森田が花形と敵対してね。森田の舎弟に牧野というのがいて、これがピストルで花形を|殺《や》ろうとした。宇田川町のバー「どん底」の前で銃を向けたら、「撃ってみろ」と言って、花形が牧野に迫ったというんだ。怖くなって牧野が引き金をひいたら、弾っていうのは不思議なもので、花形の左手の指四本をきれいに貫通した。それでも花形はひるまない。「この野郎」って向ってくるんで、牧野がもう一発撃ったら、花形の腰に当った。足を引きずってる隙に牧野は逃げたわけさ。誰かが花形を病院に連れてったんだが、奴は夜中に脱け出してね。牧野を探し回り、したたかに酔い、その晩女まで抱いたって。(笑)
翌日、事務所に花形が来たんだよ。手を吊ってるから、「どうした」と聞くと、「ピストルで怪我しました」。「どこを撃たれた」「手と腰です」。で、ズボンを脱がせたら、ズボンの折り返しから弾がポロッと落ちた。
安部 腰に当った弾がどうして?
安藤 そいつが俺にもわからないんだ。
安部 実は一カ月ほど前、石井さんから「一杯飲みにこい」とお誘いをいただきまして。そのとき石井さんが「花形の奴、俺が絵を描いた[#「絵を描いた」に傍点]っていうんで怒ってな。女房と寝てるところへ、雨戸を蹴破って飛び込んできた」っておっしゃる。(笑)「安部よ、そのときの俺の恐ろしさがわかるか」なんて。
安藤 ハハハハ。石井って男も根性があるし、実に面白い奴なんだ。浪花節がうまくてね。昭和二十一、二年だったかな、俺たちまだ学生でカネがなかったわけさ。そんな頃、渋谷のあるキャバレーのマスターと知り合いで、そのおふくろが死んじゃってね、実家が小田原にあって、そこまで死体を運んでくれたら幾らか出すっていう。俺がボロ車を持ってたもんで、石井と久住呂と俺の三人で運ぶことになった。ところが道がひどいだろ。急ブレーキをかけるたびに、死体が座席から落ちそうになる。で、しょうがない、「石井、抱いてろよ」って。(笑)コチコチになったばあさんの死体を毛布にくるんで、それを石井が後部座席で抱いてたわけさ。
安部 気味が悪かったでしょうね。
安藤 それで石井の奴、気を紛らそうと、小田原までずっと浪花節をうなってた。(爆笑)
安部 その石井さんが、いまでは住吉連合会の常任相談役。
安藤 そう、立派な親分さ。いまの石井がまだ二十くらいのときの話だもの。
バズーカ砲まで手に入れた
安部 あの頃、チンピラのわれわれも常時ピストルを持ってましたね。
安藤 王子に米軍の修理工場があっただろう。朝鮮戦争で壊れたやつを、拳銃でも自動小銃でも、全部あそこで直してたんだ。そこの兵隊がうちに来てたから、「持ってこい」ってカネやれば、すぐ持ってきた。
安部 怖い話ですけど、バズーカ砲だって手に入れましたものね。
安藤 さすがにあれは使わなかった。
安部 撃ってみたかったけど。(笑)
安藤 俺の拳銃は、小さい婦人用のやつだった。たばこの箱より薄くてね。コルト22口径で、ワイシャツのポケットにちょうど入る。喫茶店なんかに入ると、これをポケットから出してテーブルに置くんだが、ライターと一緒だと、たばこと見分けがつかない。弾は南京豆ぐらいの大きさだけど、至近距離なら当りどころによっては人も殺せたね。
安部 あたしらチンピラはみんな45口径。コルトのガバメントっていう45口径が、当時七、八千円で買えたんです。で、チンピラはチンピラなりに工夫しましてね。コルトの軍用っていうのはどれも五連発で、クリップに五発しか入らない。そこで遊底に一発上げといて、さらにクリップに五発詰めておく。六連発になるわけですよ。いざという場面で五つ撃ちますでしょう。それ、無くなったというんで、相手が「往生しろ」とか言って出てくる。そこへ残りの一発をぶつけてやろうと。(笑)「俺のは五連発だから」なんて、あちこちでPRしてその場面を待ったんですけど、とうとう一度もなし。結局、木更津の沖へ捨てちゃいました。(笑)
覚醒剤と彫り物はご法度
安藤 ソ連の拳銃には安全装置がないって知ってるかい?
安部 いえ、知りません。
安藤 いつだったか、アメリカのCID(犯罪捜査部)に頼まれて、横浜の南京街へ人を探しに行ったことがあるんだ。CIDの要員が中共の組織に|攫《さら》われてね、「警察に言えない。手を貸してくれ」って頼みにきたわけ。成功したらトラック三杯分の物資をもらうって条件で引き受けたんだけど、そのとき「ピストルを用意しろ」と要求した。あくる日に油紙に包んだ拳銃を持ってきたよ。見たら、銃床に大きな星のマークが付いてる。ソ連の拳銃なんだな、これが。つまり、俺が万一失敗して撃ち殺された場合、CIDは関知してないっていう細工なんだろうね。捜索を始めて二日経ったとき、そのCID要員の惨殺死体が横浜埠頭に浮いたんだ。凄いリンチでね。メッタメタに焼きを入れられてた。
安部 ははあ、その時にソ連の銃には安全装置がないことがわかったんですね。
安藤 そうそう。うっかりここ(ズボンのベルト付近を指す)へ入れてね、暴発してあれが吹っ飛んだりしたらコトじゃないか。で、後ろのポケットあたりに入れておいた。尻ならまあいいから。(笑)
安部 そんなことがありましたか。
安藤 拳銃っていえば、バクチ場なんかへ行くとき、よく女のハンドバッグにピストルを入れさせたりしたよ。
安部 あの頃は、宿直の婦人警官なんて本庁ぐらいにしかいませんでしょう。だからある時間を過ぎると、女の体は点検できなかった。オヤジさんに限らず、最末端のチンピラでも、彼女にピストル入りのハンドバッグを持たせましてね、少し離れたところをトコトコ歩かせたもんです。
しかし、渋谷も随分変りましたね。
安藤 うん、すっかり変った。当時はバラックっていうか、|葦《よし》|簾《ず》張りの時代だもの。俺は東宝の前あたりの土地を|二《ふた》|升《ます》ほどテキ屋に貰ったことがある。ところが商売なんて考えもしないから、その日のうちに五千円で売っ払って、みんな連れてって、たちまち使っちまった。
安部 いまなら億はするのになあ。まあ、五千円でも、いまなら百万か二百万。
安藤 だけど五千円は五千円さ。
安部 あたしは一ぺん、花田さんに「おい、お年玉だ」って二千円いただいて、目が|眩《くら》むような思いをしたことがあるんです。当時の二千円といったら、吉原でも三浦屋だとか角海老だとか、一流のところに泊まれたくらい。あたしらチンピラが通ってた女郎屋だと、十二時過ぎれば八百円で泊まれましたからね。渋谷のバーの女給さんの日だてが、確か四百円。大井競馬場で警備員の仕事をして、二百七十円いただいたことも覚えてます。それで競馬場の玉丼がちょうど七十円。
安藤 よく覚えてんねえ。(笑)
安部 かなり後になってからの話ですが、菅原文太があたしのやってたレストランで、よく昼のサービスランチを食いましてね。当時百五十円だったんですけど、そのツケ伝票が一万八千円分あるんですよ。“文太”とか“菅原”のサインがあって、全部払ってない。もう払わさせやしません。すべて記念にとっときます。(笑)
安藤 東映のヤクザ路線が始まるまでは、あれも随分冷やメシを食ってたからな。
ところで、鍋島って若いもんがいたのを知ってるかい?
安部 知ってます。九州の鍋島家の伜でしょう。背の高い、ノベッとした……。
安藤 そうなんだ。そいつがうちでお茶汲みやってたわけよ。「オーイ鍋島ッ、お茶持ってこい」、「ハーイ」なんてね。で、お盆だったか、暮れだったか、変な袴はいたオッさんが家来をつれてきたんだよ。本家の番頭とか名乗って、「有明海でとれたカニの何とかでございます」って、たらいに盛った小さなカニの佃煮みたいなのを差し出した。それから清酒を三本ぐらい、「これは上澄みでどうのこうの」って能書き言って、|熨《の》|斗《し》つけて、「うちの|若《わか》をよろしくお願いします」と言うわけさ。(笑)
安部 鍋島家といえば、東京の家だけで二つあったというんですからね。いまの東急本店の裏あたりの土地を全部持ってたっていうんでしょう。
安藤 いつだったか、「鍋島公園っておまえのところか」って聞いたら、「あれは寄付しました」だもの。うちはいいとこの伜が多かったんだ、きっと。(笑)あいつを掴まえといて、土地でも貰っときゃよかったかもしれんな。
安部 寄付するくらいならよこせ、なんてね。(笑)
安藤 昔っからカネには執着がないんだ。そりゃあカネは入ってきたさ。うちの賭場は盛ってたからね。堅気の社長連中とか医者や弁護士なんかに可愛がられたもんで、当時のカネで一晩に二百万ぐらいテラ銭が入った。だけど俺も若くて売り出してたから、よその賭場へも行かなきゃならない。結局、そこでカネを撒いてきちゃうわけさ。バクチ以外の事業も考えて不動産部も作ったけど、なにしろ人材がいやしない。おまえら、喧嘩ばかりしてたんだから。(笑)ただバクチだけは、間違いなく関東でも指折りだったけどね。
安部 安藤組が解散してからも、その頃の安藤組の盆で修業した出方なんていうのは、どこへ行っても超一流で通りましたもの。
安藤 まあ、競馬、競輪におされて、だんだんバクチは駄目になってね。やっぱり“公営企業”には|敵《かな》わないんだ。
安部 安藤組というのはよその組と違って、覚醒剤はダメ、彫り物はするなでしょう。直接教えを受けなかったチンピラでも、先輩経由で親分の考え方が行き渡ってた。彫り物したチンピラはほんとにいなかったですよ。あたしもしてない。(笑)彫り物がなけりゃゴロツキができねえというなら、いっそやめちまえ。そういうお考えだったんでしょう?
安藤 それもあるし、俺がやらなかったのは、痛いからさ。
安部 アッハハハ。
安藤 指を詰めるってのも|厭《いや》だったな。可哀そうでね。トランクを持つときなんか力が入らないし、麻雀やるときも不便じゃないか。だいいち耳クソもほじれやしない。(笑)俺はやめさせたんだけれども、好きでやっちゃう奴がいるんだな。瀬川なんか、何本も詰めてた。マゾっ気があるとしか思えんよ。
安部 安藤組っていうのは合理的というか、建前を嫌った組織でしたね。東興業の前身だった東京宣伝社の事務所にいわゆる|旅《たび》|人《にん》が来て、「お控えなすって」なんてやる。そうすると中から兄ィが「うちは愚連隊だよ」って怒鳴るもんで、旅人も不貞腐って帰っていく。そんな気風があったんですね。仁義なんか切れたってどうってこともない。彫り物はするな、指も詰めるな……。あたしがお暇をいただいて日本航空に入社できたのも、安藤組にいたおかげじゃないかと。(笑)
安藤 実際、よく入社できたよなあ。
安部 おかげさまで、指もちゃんとありましたから。(笑)ただ、首筋に拳銃の弾の痕がありましてね。入社試験の前に急いで植皮手術をしたんです。まだしっかりついてないんで、上に|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》を貼って行きましたけど。
安藤 いろいろ苦労があったわけだ。(笑)だけど何にしても日本航空だろ。それでおまえは、|綺《き》|麗《れい》な子を連れて歩いてたわけだ。あの頃のスチュワーデスは綺麗だった。いまは体が丈夫ならいいそうだけど。(笑)
安部 ただ、選挙の年のスチュワーデスは不作だったんです。というのは、田舎の代議士が票欲しさに、造り酒屋みたいな有力者の娘を強引にスチュワーデスに仕立てあげる。馬みたいな女がいたりしまして、期によっちゃあまるで競馬場にいるみたい。(笑)
安藤 だけどほら、いまのカミさんの前の女、あれもスチュワーデスだろ。こんな話して、カミさんに読まれたらまずいか。
安部 いや、構いません。(笑)
安藤 結構プレイボーイだったもんな。あの頃はもっと痩せてたし。
安部 そりゃあ六十キロのライト級で拳闘が出来ましたもの。いまは四割方ふとりましたね。当時の親分のモテようといったら、それこそケタ違い。あたしも長くヤクザやったけど、親分みたいな人はいないです。これ喋っていいのかな……。チンピラのあたしが兄ィに言われまして、プレスした親分のスーツを洗濯屋に取りに行き、事務所でピカピカに磨いた靴を持って、百軒店を降りたあたりの家にお届けしたことがあるんですね。そのときそこにおいでになったのが、いまをときめく女流作家の……。
安藤 それで切り返したつもりだな。(笑)
安部 それから、変な伝説が流れてますんで、きょう親分に確かめます。ある男がオヤジさんに、「俺の今度の女、おまえ知らんだろう。会わせるから赤坂へ遊びにこい」と言われた。その男が「今度の姐さんはお幾つですか」と聞いたら、「三十一かな」って。さらに「それでオヤジさん、自由自在ですか」って聞くと、オヤジさんはちょっと考えてから「ウン、このごろ芯が心もとない」とおっしゃった。この話、ほんとですか。
安藤 ほんとだ。
安部 あッ、ほんとなんですか! あんまり尾ヒレ付いてない?
安藤 付いてない。(笑)
カネを稼いで、種まいて
安部 ところで今度、『塀の中の懲りない面々』がTBSでテレビに、松竹で映画になるんです。渡瀬恒彦と藤竜也が主役なんです。
安藤 いい役者揃えてる。たいしたもんだ。
安部 それから、なかにし礼さんが、あれをミュージカルにするとおっしゃる。驚きましたね、これには。おまえも出ろとおっしゃるんで、「あたしは風呂の中でしか歌えません。舞台に風呂が作れますか」って言ったら、呆れておられたけど。オヤジさんはもう映画にはお出になりませんか。
安藤 やめてもう六年になるもんな。出てくれとは言われるんだけどね。この間も五社(英雄=映画監督)に『極道の妻たち』を頼まれたけど、断わった。もうトシだからさ。よっぽどやりたいものがあれば別だけど。
安部 相手役の女優さん次第とか?
安藤 それもあるな。
安部 やっぱり。(笑)だけど、また出ていただきたいな。映画で人を叩いたりするところなんか、ほかの役者とまるで違うもの。
安藤 映画が厭んなった|理《わ》|由《け》が一つあるのよ。銀座でロケをやっててね、人が一ぱい見てるんだ。ピストルで相手を撃つシーンがあって、リハーサルだから口でバーンと言うわけ。それでタイミングを合わせてアクションするんだけど、みんな見てて笑うよな。いい大人が「バーン!」なんて言うんだからさ。(笑)それを銀座のど真ん中でやらされて、つくづく厭んなった。
安部 分ります、分ります。
安藤 それから一切出てないんだ。だけど安部譲二がいいもん書きゃあ……。
安部 出て下さいますか。
安藤 特別出演するよ。
安部 ありがとうございます。実はある出版社に、安藤組の正史を書いたらどうかって随分前から言われてまして。いろいろ差し障りもあるし、どうしようかなと思ってたんですが、いまのお言葉を励みにして……。
安藤 書かれてないことはいくらでもあるよ。俺が例の事件(横井英樹東洋郵船社長襲撃事件=昭和三十三年)を起こす一年ぐらい前かな、みんなを東南アジアに行かせようとしたことがあった。久保田鉄工がラオスで水道工事をやることになったんだが、あそこはゲリラが出る。それで警備をしてくれっていうんだね。ところがもう一つ重大な“役目”があった。なんとラオスの王様が、日本人の種は優秀だ、現地でうんと種をつけてくれと言ってるという。日本の兵隊の種から生れた子供が、凄く優秀だったせいなんだよ。
で、一年ぐらい前からうちの連中を集めて、毎週講義さ。東南アジアの知識とか言葉とかを勉強させた。ところがそのうちに、俺が事件起こしちゃってね。行ってたら面白かったろうな。カネ稼いで、種まいて。(笑)
“塀の中”から出たときが勝負
安部 そんなことがあったんですか。オヤジさんの刑は確か八年でしたよね。
安藤 刑務所ってとこへ務めたのは四年ちょっとかな。それと未決で二年二カ月。刑期を二年残して仮釈放になったんだけど、仮釈の条件に出所祝いをしてはいけないというのがあってね。やれば何千万か集まるのに、それが出来ない。
安部 出迎えもダメでしょう。
安藤 そうそう。だから普通は十時ごろ出所なのに、俺の場合は朝の六時に叩き起こされて、「すぐに出ろ」だもの。朝霧が立ちこめる中の異例の出所だったよ。さすがに文句は言わなかったけどね。(笑)
『塀の中……』って本を読む限りじゃ、譲二の入ってた府中刑務所はまだましみたいだな。俺んところなんか、明治二十一年竣工ってやつだった。
安部 前橋ですね。あそこだけはずっとトイレも水洗じゃなかったんですよ。
安藤 三畳の独房にいたんだけど、三寸角の栗材を組み合わせて作ってあって、クギは一本も使ってない。隅の半畳くらいがトイレでね。トイレったって、床板に穴があいてて、木のフタがポンと置いてあるだけなんだ。あとは格子がはまってて、そこから上州の赤城おろしがビューッと入ってくる。あれはたまんないよ。風の強いときなんか、汚い話だけど、小便したっておつりがくる。
安部 オヤジさんは計算工をしておられたとか。
安藤 いわゆる帳付けだな。計算たって、三十分で済んじゃうような仕事さ。そっちは何やってたの?
安部 最初は木工場だったんですけど、そこでシンナー吸ったのがバレて懲罰喰らいまして。(笑)
安藤 木工場にシンナーは付きもんだ。
安部 つい誘惑に負けたわけです。それから自動車のスターターなんか作ってる工場に回されましてね。ゴロツキばかり集めてるようなところでした。
安藤 府中には“ベテラン”が多いものな。あそこは再犯刑務所だから。だけどいまや、府中に足向けて寝られないぞ。(笑)
安部 ほんとですね。ですから出版記念会のときに、府中の製品即売所へ行って小銭入れを三百個ほど買ってきました。
安藤 うん、囚人は結構いいもの作るから。
安部 ただ、タンスなんかを見ると、やっぱりデザインが古くて野暮ったい。
安藤 それは技官が悪いのさ。デザインはともかく、品物はいいよ。洋服なんか、一着縫うのに手縫いで二カ月くらいかけるだろ。なにしろ暇だから。(笑)
安部 木工場でも、腕のいい職人がいたりすると、看守の娘が嫁に行くときにタンスを作らされてますよ。(笑)
安藤 安くて丈夫だからなあ。洋服の縫い賃なんて、上下で五千円くらい。靴なんかも皮工場があるだろ。
安部 これも手縫いですからね。
安藤 てなことを話してると、“塀の中”でまだ二、三作はいけそうかい?
安部 どうでしょうか。
安藤 だけど塀の中から出たときが、安部譲二のほんとの勝負じゃないか。俺はそう思う。サナギから成虫になるときだからね。
安部 (正座して)はい、そう思います。鳥に一番食われやすいときですから。
安藤 そうなんだ。そのときに書く物が大事なんじゃないのかね。
安部 はい。
安藤 それがビシッといかないと、ちゃんとした作家になれないもんな。
安部 はい。
安藤 それに全精力を注ぎこんで書かなきゃダメだ。諸先輩の意見を聞いて十分に|推《すい》|敲《こう》して、それから出さないとな。泡食って出したらダメだよ。
安部 はい。
安藤 目をかけてくれる人たちを、ほんとに大事にしないとな。
安部 はい。本日はどうもありがとうございました!
あとがき
このあとがきを書きながら、私はあらためて、作家になれた倖せに浸っています。
永く無頼に過して、前科にまみれてしまった私なので、足を洗えただけでも嬉しいのに、筆で暮しが立てられるなんて、まるで塀の中で見た夢が、現実になったようなことなのです。
塀の中に居た時は、そんな作家になった夢を見たりすると、嬉しいどころか逆に気が滅入ってしまうのでした。
これは、幼い頃から読書と作文が好きで、ゴロツキになってからも文芸誌を毎月買って読み、塀の中に入れられると、その機会に必ず塀の外では気が散って読めない、古典や翻訳の長編を読むと決めていた私にさえ、まったく可能性の見付けられないようなことだったからでしょう。
それに、四十歳を過ぎたゴロツキは、決して足を洗ってまっとうにはなれない、というのが暗黒街の常識で、ここでは長くなるので省きますが、これには理屈が厳然としてあったのです。
足を洗って、まっとうな暮しをしようとなれば、私は、まずこの暗黒街の常識をなんとか超えなければなりません。
それだけで、ほとんど絶望と思えたのですから、作家になるなんて冗談では口にしても、本気で考えたりすると、もう取返しのつかない若い日々や、散々な過去を思い出して、尚更落ち込んでしまうのでした。
昭和五十四年に出所した私が、試行錯誤を繰り返すうちに、時だけは容赦なく過ぎて行ったのです。
そして昭和五十八年に思いがけない機会に恵まれて、ある編集者の方から、小説の修業をするようにすすめていただいた私は、必死にやってみようと決めたのでしたが、もうその頃は四十六歳になっていました。
昭和六十一年の八月中旬に出版された初めての単行本『塀の中の懲りない面々』は、有難いことに、とてもよく売れたのです。
発売の前に私が、どのくらい売れたら成功なのかと、文藝春秋の新井信さんに伺うと、二万部売れれば満足で、三万部売れたら申し分ない、とおっしゃいました。
三万部という数を、入りの悪い日の巨人戦の後楽園球場と思えばよかったのでしょうが、それを府中刑務所に居る懲役の十三倍ほどと思ってしまった私は、これはとても無理だと、暗い気持に胸がふさがったのです。
あそこに居た懲役たちの十三倍もの方たちが、それぞれ御自分の千円札を出して、私の本を買って下さるとはとても思えませんでした。それが、私も担当者の新井信さんも、驚いてしまうほど、売れに売れたのです。
そして初めての単行本が売れたとなると、他の出版社からもお仕事がいただけるようになって、急に忙しくなった私が、夢中になって原稿を書くうちに、気が付いてみたら作家になっていました。
このあとがきをお読みいただいているのは、最初の本の読者の方が多いと思いますので、私はあらためて皆様に、心から厚く御礼を申し上げます。
皆様が本を買って下さったおかげで、数年前には思いもよらなかった作家に、私はなれました。本当に有難うございました。
[#ここから1字下げ]
昭和六十三年一月
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]安部譲二
初出誌
[#ここから2字下げ]
*単行本は「府中木工場の面々」(室内昭和六十一年一月号〜昭和六十三年一月号)、「実録塀の中紳士録」(オール讀物昭和六十二年九月号)、「対談 親分お久し振りでござんす」(文藝春秋昭和六十二年六月号)を加筆訂正し、「ディジョンの唐手」「鯨の仕返し」「盗るまじ空財布」「鰍沢の石は男でござる」は書下ろしで収録しました。
単行本
昭和六十三年二月文藝春秋刊
[#ここで字下げ終わり]
文春ウェブ文庫版
塀の中の懲りない面々2
二〇〇一年十二月二十日 第一版
著 者 安部譲二
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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