講談社電子文庫
塀の中のプレイ・ボール
[#地から2字上げ]安部譲二
目 次
塀の中のプレイ・ボール
大遠投
アンプル時代
指
塀の中の異邦人
飛び魚ミミのこと
白い仔猫の用心棒
早朝出所
あとがき
塀の中のプレイ・ボール
「明日の、火曜日から第一運動場だ」
大音響の木工場の中を、作業帽にこの男だけ黒い線を一本巻いている囚人頭が、主だった古手の懲役の耳に口を寄せては叫ぶ。
百人ほどの懲役が、白い運動靴の他はグレイずくめの作業衣で、それぞれ回転|鋸《のこぎり》で材木を切ったり、電気ハンマーを響かせて整理ダンスに釘を打ったり、椅子の脚にする棒を研磨機にセットして、サンドペーパーで磨きを掛けたりしている。
小肥りで中年ヤクザの囚人頭は、恐ろし気な刃物傷のある頬に微笑を浮かべ、弾むような脚どりで廻って歩き、機械の立てる音に加えて木屑を吸い取る|集塵《しゅうじん》機が回りっぱなしの工場で、
「明日の、火曜日から第一運動場だ」
と叫んでいるのだ。
耳元で叫ばれた懲役は、その途端に目を輝かせ、火の気もないコンクリ造りの板敷きの舎房で永い冬に痛めつけられ、青味がかってくすんでしまった顔面にほんのりと赤味を浮かべ、ある者は短い言葉に万感を籠める感じで、
「ア、そう」
と呟き、ある者は遠くを見るような目になって、ただ無言でしきりに首だけ上下に振る。
囚人頭に耳打ちされた古手の懲役は、部下の懲役の耳に同じ言葉を叫び、間もなく木工場全体が大騒音の中で明るさを増し、華やいでいった。普段はちょっとした私語にも口うるさい工場担当の看守も、事情を知っているから、|流石《さ す が》は停年間近の老練さで、知らぬ顔を決めている。
|何《い》|時《つ》の時代に誰がこの優雅な規則を決めたのだろう。前時代の定めや用語が、時代に関係なく用いられ続け、守られ続けている刑務所に、これだけはむしろ英国風とでも言いたいような“運動時間”が定められている。半日の土曜日と“免業日”の日曜、祝祭日を除くウィークデイの毎日、工場では作業を中断して、全員を運動場に出す。普段の日は三十分。週に一度は広い第一運動場を使って正味四十五分、運動をさせるのだ。冬の間は、霜で第一運動場は使えなくなってしまうので、懲役は仕方なく、工場の間の敷地を利用して作った小さな運動場で、日溜りがあれば、そこにしゃがみこんだりして、運動時間を過す。
「明日から第一運動場を使う」
と言う|報《し》らせは、懲役が熱中するソフトボール・シーズンの開幕のベルだった。辛い冬が完全に過ぎて、春が確かに来た、ということなのだ。
“運動部員”と呼ばれる係りは、強盗罪で五年の刑をつとめている、色白で長身の、これが強盗かね、と誰でもが首をかしげる穏やかな顔相の蓮見と云う懲役だ。これが厚紙を持ち、工場の中を廻って、
「ソフトボールやりたい人は名前を言って下さい」
と、希望者の名前を厚紙に書き込んで行く。
工場の隅で鋸の目立てをやっていた水田順一のところに、蓮見は一番最後にやって来た。ここはこの工場の作業場では、それでも一番音の静かな所なのだ。
「水田さん。希望者は自分と水田さんで、ちょうど二十七人。三チーム、ピタリですよ。監督には水田さんと花村さん、それに吉川さんをお願いします。今日の昼休みにこの希望者リストをカーボンで取っておきますので、御三方でドラフトをやって下さい。自分は水田さん、採ってくれますよね」
蓮見は、厚紙に書き込んだリストを水田の前に差し出すようにして、顔を覗きこむ。
「ウン。まあドラフトだから、『必ず』ってわけには行かないけど、君がレフトを守ってくれれば、これは安心だからな。こうやって見ると、冬の間に随分、この工場も顔ぶれが変ったなあ。去年の秋のメンバーは俺と君を入れても十人だぜ」
東京のヤクザで、傷害の他三つの罪名が併合されて四年喰った水田は、少年の頃、高校でサッカーをミッチリやったと言うだけあって、四十歳の誕生日をつい去年の暮に迎えたにしては、キッチリ締った、まだ充分スピードを秘めた身体をしている。
木工場は他の工場と違って、仕事の性質上、金槌や刃物がそこいら中にあるので、刑務所側では新入の懲役の中から、穏やかで精神状態の安定している者を、慎重に選んで、|配《はい》|役《えき》する。懲役同士の喧嘩ならどうということはないのだが、間違って頭の安い[#「頭の安い」に傍点]のや安全装置のこわれたのを配役してしまうと、これは仲間の工場担当の生命に直接関わってしまうことになる。
刑務所は懲役も生命懸け、看守も生命懸けなのだ。水田も刑務所のお眼鏡にかなった懲役の一人で、年功のいったヤクザだが、堅気の懲役[#「堅気の懲役」に傍点]にも威張り散らさず、同業のヤクザに対するのと同じ様子で接するので、堅気の泥棒達や蓮見のような懲役に人望がある。
「先週、落ちて[#「落ちて」に傍点]来た、この三浦って男。キャンバスの木枠を組立てている、目立たない小柄な奴ですが、前刑では、青森刑務所の懲役選抜チームのセカンドで、トップを打ったそうです。来賓の、法務省の局長の前で看守チームとやらされて、甲子園で二回戦まで行ったピッチャーや、プロの二軍で四年やったサードが居たりで、八対ゼロだか、十対ゼロだか、とにかくコテンコテンに勝っちゃったんだそうですよ。刑務所の威信に関わるとかで若い所長は青筋を立てるし、発案者の保安課長は血圧でぶっ倒れたんですと……」
「その青森の野球の件なら、娑婆で聞いたよ。いい気分で看守のチームをコテンパンにやっつけちまったんで、やらしておくからこんなことも起るって、それから殆んどの刑務所で軟式野球は懲役にやらせなくなっちまったんだそうだ」
今では懲役がふざけて四ツに組んだだけで、懲罰になる相撲にしたって、ずっと以前はたいてい全国どこの刑務所でも、運動時間にはドンドンやらせたものなのだ。それが、誰か強い懲役が、どこかの刑務所で、柔道や逮捕術を毎日やっている看守の、薄でかい連中をまとめて端から全部投げ飛ばしてしまってから、喧嘩の原因になるとかなんとか、たちまち屁理屈くっつけて禁止にしてしまった。
「何時も威張りくさってるから、懲役のやってるの見て、つい馬鹿な勘違いして、『東京の本省から来た偉い人や、地元の市長なんかの前で|官《カン》の力を見せましょう』なんて阿呆な所長や課長が思いつくたんびに、逆にコテンの目に会わされて、それでひとつずつ禁止になってしまう訳よ」
「この三浦の話は、聞いてたのが、文化部員の山根と|散髪係《ガリヤ》の金だけだったので、直ぐ口を止めておきました。この工場には、その頃、青森でつとめてたのが誰もいないし、あいつは小柄で目立たないので、花村さんも吉川さんも上位では指名しないでしょうから、楽に採れると思いますよ」
「そうか、有り難う」
水田と蓮見は顔を見合せると、口を開けて楽しそうに笑った。
「甲州とオイニが、出所と喧嘩で居なくなったんで、ピッチャーはヒョロヒョロダマの金庫破りの忠さんだけだな。新人は投げさせて見なきゃ分かんないもんな。話ばかり大きくてよ」
水田が厚紙を見て云う。
速いボールでコントロールも抜群だった甲府の痴漢が、二年の刑を満期で正月に出所してしまい、もう一人、スピードの変化で、うまいピッチングを見せた栃木のオイニは、その仇名の由来である凄い|腋臭《わ き が》のニオイを、同房の懲役に嫌味をたれられ、元旦の夕方、派手な殴り合いを舎房でやって、たちまち懲罰房に放り込まれてしまったのだった。
「この鈴木ってのは、自分と少年院が一緒で、もう十年以上も前のことですが、少年院のソフトボールで一番早いボールを投げるピッチャーでした。覚醒剤で大分痛んでるようなんで、訊いて見たら、まだまだ大丈夫だろうって笑ってましたっけ。この話も、花村さんと吉川さんは知っちゃあいません」
懲役ソフトボールのドラフトは、古いソフトボール好きの懲役が、運動部員に指名されて監督になり、監督同士がジャンケンをして勝った監督から順に、希望者リストの中からこれはと言うのを自分のチームに採って行く。一巡毎にジャンケンと言う定めなので、監督達は一所懸命額に汗の玉を浮かせて、九回ジャンケンをするのだ。程度の悪い懲役の集っている工場では、もうこの段階で、後出しだ、なんだと殴り合いが始ったりする。
プレイする選手も、見物専門の懲役も、それぞれ虎の子の石鹸やタオル、塵紙に運動靴といった、看守の目を盗んで蓄えた私物を賭けるので、これはもう娑婆の鉄火場以上の興奮、エキサイトメントなのだ。
石鹸やタオルの私物が刑務所の通貨で、沢山あれば、娑婆の金持と同じ、なければ乞食と一緒だ。
昼飯を終えると、三人の監督は工場の食堂に残り、運動部員の蓮見が用意した希望者リストを片手に、拳骨を出し、蓮見を立合人にしてドラフトを始める。
花村は肥って貫禄充分の四十五歳のテキ屋。吉川は顎のしゃくれた細い顔に金ぶちの眼鏡をかけた、三十八になる関西系の事件屋だ。花村は不法監禁と暴行でくらった三年の刑が、あと四ヵ月で満期になる。吉川は四年の刑を丁度半分つとめたところだが、何で来たのか、自分の罪名や事件の話をしたがらない。
「知らん名前がギョーサンでんな。ま、若うてカダラ[#「カダラ」に傍点]のええのん選べば、棒も利きますやろて……」
吉川が云うと花村は眉をしかめて、
「『棒が利く』ってなんのことだ」
と不機嫌そうに言った。どうもテキ屋の花村は、関西弁の吉川がいちいち気に|障《さわ》る様子だ。
「バッティングが良い、って意味です」
立合人の蓮見が利口ぶる。
ジャンケンをして水田は最初に、外野でフライを捕るのは上手でも、全く非力で棒の利かない蓮見を採り、二巡目で、今迄に二人殺しているのが自慢の強肩のキャッチャー、殺人犯山田を採った。そして三巡目で、花村と吉川が全くノーマークにしていた青森刑務所懲役オールスターの三浦を指名して驚かせた。
「順チャン。三浦ってあの冴えないチビだろ。変だな。何かこれは情報だな」
花村は、細い目を疑わし気にもっと細めて凄味を付け、蓮見の顔を睨み付ける。
長身だが、覚醒剤の打ち過ぎの名残りのため、血の気のうせた茶色の顔で、しかもガリガリに痩せている鈴木は、これも全く注目されず、四巡目で楽に、水田は自分のチームに指名出来た。
五巡目に、同じ東京の博奕打ちで、水田の大先輩に当る、もう気ばかり焦っても、まるで身体が動かず、しかし自分のチームに入れればライトでラストを打たすわけにも行かないので、監督達が敬遠する、五十九歳の組長を水田が指名すると、
「流石でんな。これが渡世人の美しさ言うもんでっせ」
と、吉川は無邪気に嬉しそうな声を出してしまったのだが、花村も内心、誰がババを引くことになるのか、と吉川と同じ想いだったのに違いないのだが、そこが年功の差で、無表情を崩さない。
六巡目に百五十センチに大分足りない新橋のルンペン、オトウを水田が採ると、花村は、
「順チャン。もうヤケか。それとも誰かに頼んで、相手チームにドサッと賭けようなんて絵を画いた[#「絵を画いた」に傍点]んじゃ、直ぐバレるぜ」
と冗談めかした釘を刺し、これには温厚な水田も目を光らせて頬をピクピクさせ、慌てた花村は、
「冗談だ。冗談だ。順チャン、冗談だよ」
と、急いで、笑って見せる。
七巡目に、これもひねこびた感じの、小柄で冴えない、施設育ち特有の無口な、暗い瞳の太田を採った。
「水田チームはなんや、コマイのばかり集めはって……。読めましたでえ。フォアボール狙いでんな、ところでこれは|訊《き》いとかんならん大事な勘どころなのやが、蓮見さん、ルールはどっちでやりますのや。スリーボールのナオルールでっか、それとも去年もそれでやりよった普通のでやりまんのか」
訊かれた蓮見は意味が分らず、|縋《すが》るような目で水田を見る。
「吉川さん。スリーボールとかナオルールとか、どんなルールのことですか」
水田が代って尋ねた。
「直二郎やらいう関東のお人が教えはったルールやけど、それが懲役の短い運動時間によう|合《お》うたもんですからに、もう上方でも九州でも、西の方の刑務所では、みな、このルールでやりよりますのや。ストライクも二つでアウト、ボールは三つでフォアボール。こないすると短い運動時間でたっぷり遊べますよって……」
「そんなの、駄目だ。野球のコクがなくなるし、慌わただしいばかりになって詰まらないに決ってらあ」
花村は問題にならんといった口調で、八巡目のジャンケンを急いで、握り|拳《こぶし》を前に出したのだが、
「麻雀でもちょっと前までは、東南西北とやるのが当り前でおましたのやが、それが世の中のスピードに合せて、東南の半チャンになり、今日ビは、ブー麻雀やら一廻りこっきりの、東風戦が大流行でんがな。娑婆と刑務所では事情も大けに違いますさかいに、このルール試して見られても面白いのと違いまっか」
吉川は、花村の細い目を覗き込むように言う。
「駄目だ。そんなの。バタバタ忙しいばかりで、野球の面白味がなくなっちまう。いくら関西と九州で|流行《はや》ったって、ここは関東の刑務所だ。なあ順チャン」
花村に問いかけられた水田は、ちょっとの間を取って、
「ドラフトが終ったら、監督三人で、もう一度ジャンケンして、勝ったチームが明日対戦し、来週からは勝ち抜きでズッとやって行く。引分けの時は、チームの九人全員が、同じポジション同士でジャンケンをする、いわゆる総ジャンケンで勝ち残りを決める。盗塁は、ピッチャーの投球が手を離れてからでなきゃ、ランナーはスタートを切ってはいけない。審判は見てるチームの監督がやり、ジャッジにモサ[#「モサ」に傍点]をつけた奴は、必ず誰であろうとゴロツキなら指を詰めさす。堅気の奴だったら娑婆で出逢った場面で、財布ごと取られようが、連れてる女を取られようがしようがない。と、去年のルールだよね、蓮見君」
蓮見は無言でコックリした。
「吉川さんの言われた、スリーボールのルールも、確かに懲役の事情にピッタリの面白いルールだと思うので、これは全員で研究して、意見を出し合ってみたらどうだろう。蓮見君、今週中に全員に昼休みにでも集ってもらえば良い。明日のところは吉川さん、今までのやつでやりましょう」
水田は結論を出すと、明日の対戦チーム決めのジャンケンのために拳骨を出す。
水田と花村は握ったままの大きな拳骨だったが、吉川は親指と人差指を開いて出した。
「まだ六人残ってます」
蓮見がリストを指差して大きな声を出す。
「知らん冴えんもんばかりやよって、どうぞ好きなもんとっとくんなはれ、わいは残った二人でよろしおま」
工場の前で四列に整列した懲役は、工場担当の看守二人に付き添われて、残った桜の花びらが風にチラチラ舞う構内の道を、
「イッチニッ。イッチニッ」
と叫びながら、歩調を合せて、第一運動場に行進する。
第一運動場の中央、セカンドベースのちょっと後ろの辺りに、トレーニングウエアの上下を着た運動係りの看守が待っていて、到着した懲役にラジオ体操をやらせてから、内野を二廻り駆足させ、早くソフトボールにしたい懲役が、不満をこめたウメキを漏らし始めると、
「止めッ。解散ッ」
と叫んで、懲役に喚声をあげさせた。
ジャンケンで負けた水田のグレイ・ジャイアンツは、バックネットの前に置いてある大きな木箱からグラブを取って、守備に着いた。
マウンドには、シャブ中で枯木か割箸の片っぽのような身体の鈴木が、それでも上着とシャツを脱ぎ、丸首シャツだけの悲愴な姿。桜の花吹雪が、ドス黒く痩せ細った左腕に、雨にでも打たれたように貼り付いている。
ファーストの組長が、練習ボールをサードの水田に転がして寄越した。水田は待って捕って、サードの定位置から早い球を組長のミットに投げたのだが、組長はベースに足をもつれさせてよろけ、ボールをミットから飛び出させてしまう。
ピッチャーの鈴木は、腕を大きく回転させて投げるソフトボールの本格的な投法で、五球ほどウォーミングアップをした。そのサマになっているフォームを見て、グレイ・ジャイアンツに賭けた見物の懲役は、すっかり安心して喜んでいるのだが、水田の見た目では、昔取った|杵《きね》|柄《づか》で、たしかにフォームは良いし、コントロールもまずまずのようだが、なんと言ってもスピードが足りず、懲役には打ち頃の、ハーフスピードだった。最後の投球を捕ると、キャッチの人殺し、山田は、セカンドに山なりのボールを投げ、投げてから肩を痛そうに押えて、眉をしかめる。もう既に、|欺《だま》しっくらの懲役ソフトボールが始まっていて、この仕草も全部、懲役の言葉で言うヘンタなのだ。
水田は、山田の山なりの送球を受けたセカンドの、施設育ちで瞳に輝きのない、太田の動きに目を見張った。ただ、キャッチからのゆるいボールを受けて、ショートの三浦に軽くトスを回しただけなのだが、これが間違いなくモノホン[#「モノホン」に傍点]の身体のこなしだった。
花村は、ゴロツキの殆んどがそのタイプの、ニコリともせず、冗談も言わず、何時でも細い目を恐ろし気にしかめているような男なのだ。きっとチームの名前は、誰か若手の気の利いたのが付けたのだろう、花村のセンスではない。
そのバレモト・ギャングスのトップバッターが、刑務所の麦飯でふくれた丸い身体で、バットを一杯に長く持ち、意気ごんでバッターボックスに入った。
たちまちベンチから、監督の花村は大声で怒鳴りつける。最初はシカト[#「シカト」に傍点]して、聞こえぬ振りを決めていたのだが、花村にタイムまでかけられて、迫力のある脅し声で、
「ふてえチンピラだ。シカトで通せるならやってみろ。次からはラストバッターだぞ」
とうなりつけられ、堪らず舌を出して降参し、一握り短く持ち替えた。
なにしろ四十五分だから、相手の攻撃が永引きでもしたら、ラストまでバッター順が廻らないなんてことは、しょっ中なのだ。逆に、トップバッターは運が良ければ、三回打順が廻るチャンスもある。
これは去年の春以来の、オトウと水田の密約なのだが、オトウはトップか二番バッターを条件に、毎日水田の運動靴を洗うことになっている。重労働なので、春から秋までの間は、工場で履く運動靴を、終業の後、石鹸をつけたタワシでまめに洗って、工場の風通しの良い所に干しておかないと、直ぐ、嫌な臭いが脚元からフワーッと、昇って来るのだ。
オトウは、毛の抜けた毛布を何時でも羽織って、新橋駅の周辺に座り込んでいる、首から上はしっかり垢の染み込んだ、顔中髯のルンペンなのだが、何かやらかしては、短い刑だけどこの木工場を出たり入ったりしている。年齢は、訊いても笑って答えないが、五十をちょっと過ぎたくらいと思われる。刑務所に来ると、ちゃんと風呂に入って髯を剃り、綺麗に変身するので、まず娑婆で会っても分からない。
とにかく百五十センチに大分足りない爺様だから、どうやっても、打ったボールは外野の定位置までは飛ばないし、走らせても、階段から落ちて足首を痛めて、ギブスで固めた松葉杖のビル荒しより遅いのだ。ライトフライを目の間に当てて、叩きつけられた蛙のようにくたばって医務室に運ばれたのは、去年の暮近いラストゲームだった。それでもたまに、あまりの小ささに嫌になった相手のピッチャーが、半分フテ腐れてフォアボールを出すのだが、オトウはそんな時でも、ストライクが来なかったので打てなかった、の思い入れもあらわに、憤然、一塁に向うのだ。
審判の吉川が右手をあげた。ピッチャーの鈴木の湿った桜吹雪がマウンドでゆれる。彫物のない黒ずんだ細く長い右腕が大きく回ると、地面すれすれの低い所で手を離れたクリーム色のソフトボールが、ハーフスピードで、背の低いバッターの高めのストライクゾーンに入って行く。バレモト・ギャングスのトップバッターは、一握り短く握ったバットを鋭く振り抜いた。良い当りの早い打球が、低いライナーで三遊間に飛んだのを、チビの三浦は素晴しいスタートで、身体を低く投げ出すようにジャンプさせ、逆シングルで伸ばしたグラブの網にひっかけ、ダイレクトで捕り、そのまま一回ぐるりところげて、正座のように地面へペタリと座った。そのままの姿勢で水田にボールをトスしたのだが、その時、水田は自分がサードの守備位置から一歩はおろか半歩も、動いてはいないのに気が付いた。グラウンドより一段高くなった、芝生が鮮やかな薄緑の新芽を揃えているスタンドに、見物の懲役達は腰かけていたのだが、このショートの三浦のプレイを見て、手を打ち鳴らして拍手した奴と、口を大きく開けて喚き声をあげた奴といた。拍手したのは、運動靴やタオルを、ライトのオトウとファーストの組長には目をつむって、グレイ・ジャイアンツに張った連中で、ノドチンコに春風を当てたのは、バレモト・ギャングスから勝負した懲役だ。
「お前。出所したらジャイアンツに入って、更生しろ」
誰かがスタンドから大声で叫ぶと、三浦は作業衣のズボンに付いた粘っこい泥を、叩いて落しながら、今まで見せた事のない、明るい子供のような顔で頬笑んだ。
二番バッターの大柄な若い衆は、背中に彫った抱き鯉が自慢なのだろう。勇ましく丸首も脱いだ上半身裸で、バッターボックスに入ろうとしたが、看守に注意されて、渋々丸首を着た。
鈴木は、初球にほぼ同じボールを、また高目一杯に投げ込んだ。大柄な若い衆は、長く太い腕をこねるようにして、思い切りひっぱたく。打球は高いフライになって、ライトのオトウの上に飛んで行く。オトウは前を向いたままの姿勢で、力なくヨタヨタフラフラと二、三歩後ろに下り、それでも必死にグラブだけは、開いて上にあげた。オトウの目がシッカリと閉じられているのを見て、水田も目をつむってしまう。
「バシッ」
音がした。オトウは、素手の右手で、グラブの中のボールが跳ねださないように、夢中で押え付けている。捕ったんだ。入っちゃったんだ。
三番バッターは監督の花村で、初球のストライクを、貫禄と余裕を見せつけて見送り、しかし二球目の真中低目のボールに手を出して、ピッチャーフライを打ちあげてしまった。
ライトの守備位置から全速力で走って来て、息を切らしたまま、殆んど、自分の背丈ほどに見えるバットを担いで打席に向うオトウに、水田は声を掛けた。
「オトウ。お前さんよく捕ったぜ。|上《う》|手《ま》くなったもんだぜ本当に……」
オトウは嬉しさのあまり半ベソのような顔をする。
もしかすると、オトウは、この工場でソフトボールやりてえばっかりに、懲役に来るんじゃなかろうか。そうかも知れねえ。と水田は思った。
オトウは水田のキツイ言い付けを守って、ツーストライクまでバットを振らずに待ったのだが、最後は、頭の上を通る高い球を、鈍く大きな振りで空振りした。二番の組長は初球を打って、ファーストのファールフライ。超ファインプレーをやってのけた三番の三浦も、久し振りなのだろう、タイミングが合わずにボテボテのサードゴロで、チェンジになった。
二回の表に、バレモト・ギャングスの最初の打者が打ったサードゴロを、水田はお手玉して生かしてしまった。一塁に生きたランナーは、まんまとキャッチの山田のやっておいた芝居にひっかかり、直ぐ次の打者の初球で二塁を盗もうとしたのだが、ピッチャーの頭をカスめて、ググッと伸びたような、物凄い山田の送球で、二塁ベースの三メートルも前で、立ったまま滑り込むことさえ出来ずに、殺されてしまった。バレモト・ギャングスに賭けた懲役が腹を立てて、大声で|野《や》|次《じ》った。
「汚ったねえの。なんだい山田さんよ、こんだは、詐欺師に商売替えかよ。三人目の殺し方は|非《ひ》|道《で》えヘンタじゃんか」
オトウがライトから、奇妙な、女の子のような高い声を張りあげて、叫び返した。
「四人目はお前さんだぞう。どんな手でやったろうかあ」
見物も選手も、審判に看守まで、口を開けて上を向き、アハハと笑う。お互に点が取れぬまま、見物の懲役をイライラさせる展開で、ゲームは進んだ。焦ったバレモト・ギャングスの打者が、鈴木の遅いボールを大振りして来るのを、鈴木はうんと遅いボールを低目にはずしてから、次のボールを遅いけど、前のうんと遅いボールより、いくらかスピードを加えて高目に投げ込んで、タイミングを狂わせ、フライを打たせる頭を使った芸で、ひとりずつ料理して行ったのは見事だった。
三回の裏、ワンナウト。蓮見が構えたままの姿勢で少し身体をかがめ、なんと握ったバットのグリップエンドにボールを当てて、一塁側に転がす珍無類のセーフティバントを決めて、懲役のノドチンコを春風に冷やさせながら、まんまと一塁に生きた。罪名が強盗なのは、泥棒をして追いつめられ、仕方なく暴れてしまったのだと言う蓮見は、もともと足が早い。直ぐ二塁を盗み、次の打者のピッチャーゴロで三塁に威勢良く、頭から滑り込んで、両軍を通じて最初の三塁ランナーになり、オトウが次打者と気付かなかったバレモト・ギャングスのボーンヘッドから、期待しないままラストを打たせたセカンドの太田が、見事なプレースヒットを、セカンドオーヴァーに放って、グレイ・ジャイアンツは遂に、貴重な一点をもぎ取った。
懲役のソフトボールは独特のルールで、看守が、
「運動終了ッ。整列ッ」
と叫んだところで表も裏も最終弁論もなし、終りにすると言う、無茶苦茶な奴なので、後攻でリードしていてもまるで安心なんか出来ない。次の表の攻撃で相手に一点取られれば引分けで、結着は総ジャンケンとなり、二点取られたところで看守が叫べば、これはもう、最高裁で死刑判決が確定しちゃったのと同じなのだ。
看守が腕を伸ばして時計を見た。もう、この表のバレモト・ギャングスの攻撃で一杯だ。守り切らなければ、明日から黒くてゴワゴワの“|官《カン》|塵《チリ》”を、看守からもらって尻を拭くことになってしまう。
覚醒剤にひたりっ放しで、きっとソフトボールなんて何年もやってなかったのだろう。もう鈴木は完全にスタミナを|失《な》くして、フラフラの、やっと山田のミットにたどり着く、と言った感じの、力のまるでないボールを、必死に、投げるだけだった。
途中で残塁がひとつあったので、この回のバレモト・ギャングスは、二番の抱き鯉からだ。弱った相手をやっつけさせたら、ロシア陸軍より余程上手な現代ヤクザの特性を発揮して、顔をゆがめて投げ続ける鈴木の息も絶えだえのスローボールを、二球じっくりと、舌なめずりでもするように抱き鯉は良く見てから、三球目の高目に来たボールを、狙い澄まして思い切り叩いた。打球は左中間を破って、自分は二塁ベースにスックと立ち、背中をスタンドの見物に見せようと、センターを向いた。丸首から透けて赤い鯉が見える。
レフトの蓮見が鈴木にボールを返す。看守が暫くジッと腕の時計を見つめる。このランナーがどうかなった途端に、叫ぼうと思っているのが見え見えだった。マウンドの鈴木は突然、目をカッと開いて、セカンドの太田を睨み、それからショートの三浦に視線を回した。太田は一度グラブをポンと叩いて小さく顎を引いてうなずき、三浦は不敵な頬笑みを浮かべて見せる。
監督で三番を打つ花村は、年齢を感じさせないダイナミックなフルスイングをする、ミートも確実なバレモト・ギャングスの最強打者で、このチャンスに自信と気合を巨体に|漲《みなぎ》らせて打席に入った。
水田はピッチャーに、
「一塁が空いてるぜ。歩かせてもいいんだぜ」
と声を掛けたのだが、鈴木は茶色の平べったい顔を横に振ってみせる。その時、ショートの守備位置から三浦が、良く通る声で他の内野手に声を掛けた。
「内野ゴロは突っ込んで、サードで殺すぜ。水田さん、サードゴロは突っ込んで捕って、振り向いて|抛《ほう》って下さい。ランナーより先に必ず、自分が入りますから」
「ヨシ分かった。ランナー殺せばゲームセットだ。それで行こう。外野もヒットは全力でバックホームだぜ」
陰気で、普段は口を利かないセカンドの太田が、大声で返事をし、外野まで声を掛ける。
セカンドの太田は、一、二塁間で深目に守り、ショートの三浦は、打球がサードに転がれば、ダッシュしてサードベースに入る構えだ。
初球が鈴木の手から離れると、二塁ランナーの抱き鯉は大きくリードを取り、低目にはずれたボールをキャッチの山田が鈴木に返すと、誰も守る者のいない二塁ベースにユックリと戻った。
鈴木はボールを握ったまま、マウンドを降りて、キャッチの山田を呼び、視線をファーストの組長に向けて、近付いた山田に何か二言、三言小声で言う。
敬遠だと思った打者の花村は、バットを右手に日本刀のように持ち、バッターボックスに仁王立ちになって、
「良い若いモンが、利口ぶって敬遠なんかすんなよ。いいか、男を売る稼業だろうが」
と怒鳴る。鈴木は覚醒剤で茶色になってしまった顔を赤黒くすると、怒鳴り返した。
「|下《げ》|司《す》の勘ぐりで、怒鳴りなさんなてえんだ。特別少年院の野球教えてやるから驚ろくなよ」
二球目が鈴木の手を離れる。
抱き鯉がショートの前まで、スルスルとリードを取る。
ボールは遠く高く、しかし鈴木にしては一杯の早さで、はずれた。キャッチの山田が伸びあがってシッカリ捕ると、素早く右手に握り直し、ロケットの煙を吹いているようなボールを二塁のベースに向けて投げる。
横っ飛びに二塁ベースにダッシュした太田が、ダイビングしながら逆シングルのグラブを、一杯に差し伸べて捕る。二塁ランナーの抱き鯉は、呆然と、二塁ベースの四メートル先に、突っ立ったままだった。太田は弾むように身を起して、タッチする。
「アウトやあ」
審判の吉川が、右手を上げて叫ぶ。
見物の懲役は、言葉にならないウメキ声でコーラスした。
花村は、悪い夢から覚めない顔付きで、バッターボックスに少し肩を落すようにして、立ちつくして動かない。
看守が右手を上げて、
「運動終了ッ。整列ッ」
と叫んだ。
水田の横に整列した三浦が、片目をつむって見せる。
「自分と鈴木は、中等少年院で一緒のチーム。太田は、鈴木が次につとめた特別少年院で一緒のチーム。あのプレイは、昔、ここ一番の場面で散々使った手なんですよ。センターがダッシュしてベースに入るって奴は、キャッチが暴投しちゃうと、ホームまで走られちゃう危険技なんで、滅多にはやれねえんですが、これも決ると鮮やかな、一度見てもらいたいようなやつなんでさあ」
後ろの列に並んでいたオトウが呟やいた。
「矢張り、懲役の野球は、駅前の電気屋のテレビで見るジャイアンツより、ずっとやることがスゲエや。巨人軍の監督やコーチも二、三年ここに来て覚えればいいんだよ」
大遠投
1
この木工場には、平均七十人ほどの懲役が働かされている。他の工場にくらべて|年齢《と し》のいった者が多く、二十代は六、七人、ほとんどが三十、四十代で占められ、最年長の懲役は、先日還暦を迎えた研磨室の山本|英《ひで》|夫《お》だ。
研磨室は木工場の隅にある三坪ばかりの小さな作業場で、回転|鋸《のこぎり》や自動|鉋《かんな》の刃、ボーリングマシンの|錐《きり》、そんな工場内の全ての刃物を|研《と》ぎあげるのが役目だ。
普段は山本英夫が一人で働いているのだけど、彼の満期が間近になったふた月ほど前から、強盗で五年くらって落ちて[#「落ちて」に傍点]来たばかりの五十男が、山本の後釜に選ばれて仕事を教わっている。
「山本さん、これ頼んます」
材料を|挽《ひ》き割るリップソーという回転ノコの大きな|円《まる》|刃《ば》をぶら下げて研磨室に入って来たのは、|抗争事件《デ イ リ》で敵方のごろつきを日本刀でスライスしチョップし、四年くらってしまった水田順一だ。
偉い人のお|葬《とむら》いか生花市場みたいな花づくしの背中の彫物さえ見せなければ、とても十六の年齢から四半世紀も、|堅《かた》|気《ぎ》を|餌《え》|食《じき》に生きて来た人間とは思えない。所内で堅気の懲役[#「堅気の懲役」に傍点]をいじめたり、威張りくさって横柄に振るまうようなこともないから、人気のいい男なのだ。
「今日が十四日だから、あと何日だい。満期が十八日だから出所は十九日の朝、工場あがりは十七日の木曜日昼過ぎか……。もう五回寝て、出所の日の朝飯は食わないとして、あと十四回飯を食えば、山本さん、六年ぶりの娑婆だなあ。本当に他人の話でもわくわくするぜ」
山本英夫は懲役に多いタイプで口数がひどく少なく、自分のことを話題にしたがらない。今回つとめてきた六年の刑の罪名を|訊《き》かれても、
「殺人です」
と、ごく短かく答えるだけだ。これが他の工場だと、必ずぶしつけにしつこく訊きたがってくいさがる|垢《あか》|抜《ぬ》けないのがいるのだけど、この木工場は気配りのある性質のよい懲役が多く、話したがらない様子ならそれ以上は訊こうとしない。
身長は百七十センチほど、|陽《ひ》|灼《や》けが肌に|染《し》みついて、六年閉じこめられてもあせることのない頑丈な身体つきの山本に、女房や子供がいるのか、どこに帰って行き、仕事は何が専門なのか、丸三年一緒の|舎《しゃ》|房《ぼう》に寝起きし、同じ工場で働いて来た水田順一も知らない。
「あ、水田さん、やっぱりここでペラまわし[#「ペラまわし」に傍点]てる。でも部長は休憩に行っちゃって、交替で来てるのはハテナだから、当分は大丈夫ですよ」
山本や水田と一緒の雑居房に入れられている六人の懲役の中で、一番若い二十七歳の山野浩が、ハンド・ドリルを片手に入って来ると、そう言った。若い上に陽気な男だから、楽しそうによく|喋《しゃべ》る。学校荒らし専門で二年|六《ろく》|月《げつ》くらっていた。
「ハテナは定年になったら埼玉の田舎へ帰って、バス停の前に買ってある土地に退職金で家を建て、雑貨屋か文房具屋を始めるんですと。女房は三年前に死んだけど、恩給のついてる男には女の方から押しかけて来る、なんてニヤついてました」
ハテナはつい一、二年前まで、細かいところも決して見逃さず、情|容《よう》|赦《しゃ》なく懲役を痛めつけ、鬼のハテナと憎まれてきた平看守だ。停年の近づいたこの頃は、腹を空かせた凶暴残忍な|牡《おす》ライオンから、去勢手術を受けて|陽《ひ》|溜《だま》りで居眠りする肥満猫に変っていた。
頭と首が左肩に、ヴァイオリン弾きのように傾きっ放しなので、その昔々、懲役にしては素晴しいセンスをした奴が命名した|仇《あだ》|名《な》だと伝えられている。
「そうかあ、|故郷《く に》へ帰ってバス停の前で雑貨屋か……。ちょっと前だと随分いじましい話に聞こえたもんだけど、同じ年恰好でこちらはこのザマ。となると、まるでアリンコとキリギリスのたとえのように思えてせつ[#「せつ」に傍点]ないものですよ、山野さん」
口数の少ない山本英夫だったけど、満期が間もなくなったこの頃、やはり心が|弛《ゆる》むのだろう、以前にくらべてずっと言葉が多くなっていた。
2
「ヒョーッ。昨晩の甲子園は巨人がワンサイドで勝ったそうで。水田さん、三つだけ返していただきます」
これも同じ舎房の一人、国際線の機長に化けて|牝《めす》|鴨《がも》の貯金を片っ端から巻きあげて二年くった三原良太が、嬉しそうな声をあげて入って来た。
野球シーズンになると、週に三日、火木土の三晩、ラジオのナイター中継を聞かすのだけれど、昨日は日曜日、ゲームの結果は今頃になってようやく分かるのだ。
懲役たちは、相撲、高校野球、プロ野球、はては正月駅伝に至るまで、何にでもシャボン、チリ紙、タオルといった私物の日用品を賭けて楽しむ。
品物ごとに換算レートが決っていて、三原が三つと言ったのは、水田順一が昨晩のナイターで化粧石鹸を三個負けたということだ。
「二勝一敗じゃあ、まるで詰まらないんだなあ。三原君、ここの帰りに俺のとこに寄っておくれ。明日から巨人はどことやるの」
「明日から中日と東北をまわる三連戦、そして土曜日から、横浜で大洋です」
「そうだ山本さん、十九日に出所したら、その晩は横浜スタジアムに行けますよ」
山野は自分のことのように目を輝かせる。と、三原が一息にまくしたてた。
「大洋なんか見たくもない、監督も選手も気合がないし、客を楽しませようなんて気もまるでない。只のテレビを見てたって腹が立つんだから、切符買って見てたら気が狂うか、血圧が上ってぶっ倒れらあ」
すかさず山野が、|下《した》|顎《あご》を突き出すようにして、三原をからかう。
「見に行けるのは山本さんなの、三原さんは塀の中で、見たくったって見られないの、だから血圧もあがんないの」
この二人は妙に馬が合うようで、いつでもこんなふうにじゃれあっている。
「大洋もだけど、他のチームだって同じようなもんだぜ。以前はどのチームも、野球場に来た客を楽しませようと、いろいろやったもんなんだ」
水田順一は、戦地から帰ってきた父親に連れられて、小学校四年生の昭和二十二年から、後楽園でプロ野球を見始めた古いファンなのだ。
「刑務所ばかり来ているから、いつ頃からやらなくなったのか知らないが、昭和三十年頃まではまだやってたね。たとえば試合の前のトス・バッティングにしても、ただカチンカチンとやるだけじゃない。バッターにほうるふりをして隣の選手にバック・トスなんかやってビックリさせたり、守っている三人が次々と打者めがけてほうると、打者は素早いスイングで、続けさまに飛んでくるボールの二つは正確にミートさせ、最後のボールは見事にバントして見せたりね」
「ホー」
「スターズのスタルヒンなんて白系ロシアの大投手は、大きな身体で自由自在にボールを操って見せたものだ。右手につまんだボールをヒョイと手の甲に乗せ、そのまま手を上に上げるとボールは手の甲から転げ出し、腕を伝って首のうしろをぐるりと回り、伸ばした左腕の上を転ってスポンとグラブに納まっていた。そのボールをポンとはね上げ、空中で右の指でつまみ、そのまま打者にヒョイとほうって見せるんだ。まるでボールが生き物のように見えたよ」
「面白そうですね。私は十七のとき、昭和三十二年に初めて県営球場でやった中日と阪急のオープン戦を見たのが、初めてのプロ野球なんです」
機長に化けたことから、仇名はキャプテンの三原が言うと、すぐ山野が、
「あれえ、村営球場でしょうに……」
と、まぜかえした。
「おい若いの、俺を怒らすなよ。お前のおふくろのへそくりが消えてしまうことになるぜ」
この二人はいつでもこんなふうなので、水田は、興行師に紹介状を書いてやるから漫才をやって更生したらどうだ、と言ってやったほどだ。
「シート・ノックのとき、シャドウ・プレイなんてのもやって見せた。ボールなしでシート・ノックをやって見せるんだ、こんなふうに……」
水田は身振り手振りで語りはじめた。
「これはフライヤーズというチームのゲッツーだけど、ノッカーは左手に握っていたボールを上げた仕草をしてからバットを振る。ショートの清水善一郎は、ゆるいゴロを突っこんですくいあげ、身体をひねってセカンド・ベースに入った|苅《かり》|田《た》|久《ひさ》|徳《のり》にトスしてみせる。
トスをベース上で受けた苅田は、これが得意中の得意のプレーなんだが、顔は清水に向けたまま、すべりこんでくるランナーをかわす所作と同時に、右手をビュンと振って、ファースト方向には全然目もやらず、矢のようなボールをほうって見せる」
「ほうったつもりですね」
「そう。清水のすくいあげたショート・ゴロはゆるいやつという想定だから、ファーストはクロス・プレイになるはずだ。だからファーストの|飯《いい》|島《じま》は、身体とミットを一杯にのばして捕るんだ。そしてそのまま、客の拍手が|湧《わ》くまでストップ・モーションだ」
いつでもこんなナイス・プレイばかりではない。三度に一度は、清水のトスをグラブの土手に当てて落した苅田が、あわててボールを拾おうとして蹴とばし、場内の笑いを誘う。
苅田が得意のフォームでファーストにほうると、絶妙な|間《ま》をとって飯島は、ベース上でミットを高々とかかげて跳びあがってみせてから、大あわてでベンチの前までボールを追いかけた。
送球が大暴投だったという名演技に、少年だった水田順一は涙が出るほど笑ったものだった。
「このファーストの飯島|滋《しげ》|弥《や》は、その後フライヤーズのバッティングコーチになった。まだルーキーだったあの大杉勝男が、どうすればもっと打てるようになるでしょうって訊きにいったら、ちょっとの間考えて、当時駒沢公園にあったフライヤーズのホーム・グラウンド、駒沢球場の外野スタンド上空に浮かんでいた月を指さし、大杉! あの月に向って打て、と言ったというのでも有名なんだ」
皆、楽しそうに奥歯まで見せて笑う。
「とたんにビリッと電気が頭から足に通り抜けたように分かってしまって、それからガンガン打ち始め、ついには球史に残る強打者になった大杉も凡人の遠く及ばぬ男よ。けど、大杉に分かりいい言葉で守備を教えられるコーチは最後まで現われなかったんだな。ごく平凡なフライでも大杉が無事ミットに納めると、それだけでファンは大喜び、拍手喝采だったんだから、人に愛される性格もスターの最初の条件じゃないかと、つくづく思うね」
「そうです、水田さん、あの打たれるたびに首をかしげる巨人のエースは、大杉勝男の爪の垢を足の指の分までもらって、オブラートに包み、一日三回食後三十分に飲めばいいんだ」
三原がののしると、巨人ならバッティング・ピッチャーからトレイナーまで大好きという山野が、目を三角にして言い返した。
「初等少年院の悪ガキみたいな喧嘩の売り方をするなって。だいたい恩知らずにもほどがあるってんですよ。江川のお蔭で開幕から今日まで、呆れるほど儲けたんだから」
「そんなには儲からないでしょうに……」
いぶかしそうに山本英夫が、珍しく自分から山野にたずねた。
「それがあんまり器用だから腹が立つんですよ。江川の勝ったゲームは巨人に張ってて、負けたゲームはちゃんと相手に張っていたっていうんだから、可愛くも何ともない。女性のダニ、江川の貧乏神、懲役の敵……」
法を守らぬ社会の敵に、こらしめの罰を申し渡した裁判官が刑務所に来て、この様子を見たら、絶望のあまり口から泡を吹き白目をむいてパタンと倒れてしまいそうなほど、この罪人共は、陽気に刑をつとめている。
3
「これも、俺が見た場面だけど……」
水田順一は話を続けた。
当時のホームラン・キングで、ダイナマイト打線と呼ばれた阪神の不動の四番打者・藤村|富《ふ》|美《み》|男《お》は、あるゲームで、ツーアウト、ランナー三塁、一点差で負けている最終回に、昔風にいうと責任バッターで出て来た。
阪神ファンは、もう泣き出しそうな声援を送った。藤村はウェイティング・サークルでバットを二本持ち、カツーン、カツーンと小気味のよい音をたてて振りまわしていた。バッター・ボックスに入る前、スタンドに向って藤村は|竪《たて》|縞《じま》のユニホームの胸を|拳《げん》|固《こ》で、まかせておけ、というようにトンと一回叩いて見せた。
物干竿と|異名《いみょう》のついた、普通のより八センチも長いバットを、藤村富美男はブンブン振りまわすパワー・ヒッターだった。
このときも、ウナリがスタンドまで聞こえるほどの物凄い素振りを何回もやってからバッター・ボックスに入り、左手で相手のピッチャーを制しながら、念入りに足の位置を決め、物干竿を振りかぶって、ただでさえ充分怖しい顔にすさまじい気合を|籠《こ》め、ピッチャーを睨みつけた。
「ヒャーッ。打ったんでしょう、タイムリーを。いや、きっとホームランを打って逆転したんだ。ピッチャーは誰だったんですか」
山野は水田の顔を覗きこむようにしてたずねる。
「俺がゴロツキになる前だから、たっぷり三十年以上前のことで、ピッチャーが誰だったか、どうにも思い出せねえけど、とにかくその日のそいつは素晴しい出来だった。阪神打線は藤村も含めて誰もまるで打てず、これがほとんど初めてのチャンスだったんだ」
ピッチャーが第一球を投げた。その高くはずれたボールを、いきなりサードの前になんとセーフティ・バント……。ツーアウトだし、藤村は阪神の最強打者である。当然サードは深目に守っていた。これまでバントなんてまずやったことがないし、足だって早い方ではない。
「ピッチャーは何かの間違いか反則か、悪夢なら覚めろって顔だったな。三原キャプテンがお金と共に消え去った後の、オバハンたちの顔のようだな」
びっくりしたのは守っている方だけではない。サード・ランナーもしばらく棒立ちのままポカンとしていたが、必死にファーストに走る四番打者を見て夢中で走り出し、ヘッド・スライディングでホーム・ベースに飛びこんだ。
藤村も、高校野球の最終打者がやるように、ベースのかなり手前から鯨のダイビングみたいにバサーッと踏み切って、土煙をあげながらヘッド・スライディングで飛びこんだ。砂煙がおさまったとき、藤村富美男は長く伸びたまま、両腕でしっかりとファースト・ベースを抱えていた。
サードはボールを|掴《つか》んだまま、どこにも投げられず、茫然と突立っていた。
「見たいな、俺もそんな野球が……」
研磨の見習をやっていて、それまで一言も口をはさまなかった強盗が、声を弾ませて叫んだ。
この工場には、野球好きの懲役が日本中から集ってしまったのではないか。水田順一は楽しくなって、思わずゴロツキのマスクを崩してしまい、少年の頃の顔に一瞬戻ったのだった。
4
「もっと聴かせてください。水田さんは上手に話すから面白いし、分かりやすいや」
三原は、研磨室の床に板を置いて座りこんでしまった。
「まだその頃は、選手とファンのあいだにはつながりっていうか、良い仲っていうか、たがいに親しみあう心ってものがあったんだよ。今とは随分違う」
水田順一は感慨にふける。そこここの原っぱや空地で三角野球に熱中していた頃、女と一緒に通りかかったフライヤーズの変化球投手、その昔はミラクル投手といわれた|一言多十《ひとことたじゅう》が自分から声をかけ、すすんでスピード・ボールのコントロールのつけ方を、手を取って教えてくれた。
「このおじさんだあれ?」
誰かが言ったら、一緒の女が、今から思えばちょっと頭に来たような、けど得意そうな微妙な表情で、言ったっけ。
「知らないの坊や。フライヤーズの一言多十よ。ピッチャーだけじゃなくって、打つ方もすごいんだから」
まだテレビのない時代で、余程のスター・プレイヤーでなければ、選手の顔を子供たちは知らなかったのだ。
|武《たけ》|末《すえ》って、その当時日本一だったサブマリン投手が、その日も二塁も踏ませない素晴しいピッチングで、まだ俺が大好きだった頃の巨人を、手も足も出させないどころか、クシャミもさせない勢いで、最終回もたちまちツーアウトにしてしまった。
たまりかねた小学生の俺が、後楽園の内野席のうんと後ろの席から、
「コラ、ドジョウすくい。たまには上から投げてみやがれ」
って、精一杯の声でどなったら、それがマウンドまで通った。武末は度の強そうな眼鏡の奥からこちらを仰いでニヤッと笑い、指を一本立てて見せた。一球だけだよ、って意味だったんだろう。
そして次の一球、ちょっとギクシャクギクといったフォームのオーバー・スローからストレートを投げ、審判はストライクのコール。一塁側の俺たちも椅子の上に立っちゃって、いつまでも拍手をしてたっけ。巨人ファンも巨人のボロ負けなんかその一球で忘れてしまい、帰り|途《みち》はもちろん、学校でもどこでも、しばらくはその話でもちきりだった。
「どんな大差のついた最終回でも、今のプレイヤーは、こんな楽しいことやってくれないと思うよ」
山本英夫も、鋸の目立をやっていた手を止めて、水田順一の思い出話に耳を傾けていた。
こうやって、あの時代のプロ野球、いや職業野球の話を若い連中にしていると、順一は子供の頃、随分試合を見に行っていることに気がついて、不思議に思う。
父親は普通の勤め人だったから食べるのが精一杯で、野球のグラブだって買ってもらえなかったし、小遣いももらえず、紙芝居の|飴《あめ》も買えなかった。紙芝居屋にかけあって、後ろの方でタダ見する奴らを脅して飴を買わせるのを引き受けたというのだから、あれがゴロツキになる芽生えだったのか。
父親に連れられて行ったプロ野球は後楽園の二階席が多く、一階内野席なんて、その武末の時しか記憶にない。外野で見たこともよくあった。昭和二十四、五年頃の入場料はいくらぐらいだったのだろう。兄も一緒の時が多かったし、三人分の電車賃や入場料は、かなりの負担だったに違いない。
その頃の父親と今の自分はほぼ同じ年恰好。あのひどい時代に、これだけの豊かな思い出を残してくれた父親を思うと、坊主刈にされ、塀の中にとじこめられている自分の|惨《みじ》めな姿に|喚《わめ》き出したくなる。
「どうしました、水田さん」
急に黙りこんだ順一の様子に、山本英夫が気をつかって声をかけた。
「いえね、山本さん、昔の野球の話をしているうちに、当時の苦しかった暮しで、これだけ野球を見せてくれた実家の親と、同じ年恰好になった自分のこのザマがどうしてもダブッてしまいましてね。|甲《こう》|羅《ら》を経たゴロツキも、こんな時にはションボリしちゃうこともあるんですよ」
「自分なんか、物心ついた時にはもう施設で、親なんてどちらも写真もねえんだから、気が軽いような、悲しいような……」
山野浩がそれまで見せたことのない、遠くに焦点を合わせたような眼で|呟《つぶや》いた。
「アーッ。この嘘つき野郎、お前、俺になんてった。母親は十七で自分を生んだから、まだ花も盛りの四十四、和服を着ると若尾文子の妹でしょうとしょっちゅう人にたずねられる……。それになんだ、母親の里は山形の造り酒屋で、板橋に木造だけど十四室のアパートを遺してくれたから、息子の自分はこうやって刑務所に来ても、母の心配をしないで済むのだけは倖せです、だとう……」
「俺がそういうふうにいったから、すぐ爪伸ばす[#「爪伸ばす」に傍点]こと考えて、甘煮豆、俺にくれたんでしょう」
「なんとも開いた口のふさがらねえ。すれっからし、毒かまきり、あっち行け、近寄るな、離れてろ」
まんまと甘煮豆を|詐欺《パ ク》られた三原良太は、余程まことしやかにはめられたのか、いつまでも呪いの言葉を呟き、山野は機嫌良さそうににこにこしていた。
5
「外野は誰が何といってもまずウォーリー・|与《よ》|那《な》|嶺《みね》。それまでの日本選手は長打コースに打つと、ファースト・ベースを走り抜け、セカンドの守備位置あたりまでふくれて走っていたんだ。与那嶺はファースト・ベースの内側を左足で蹴るようにして身体をシャープに|捻《ひね》り、セカンド・ベースに向ってまっ直ぐにダッシュする。しびれたぜ。早速草野球で真似したら、ファースト・ベースがずれやがってさ、転んじゃってアウトになったのには呆れたよ」
皆、楽しそうにアハハ、アハハ笑う。
「そして、もう覚えてるファンは本当に少くなっただろうけど、フライヤーズの山本なんてセンターは、ユニークってことじゃ類がなかった」
鋸の目立をやっていた山本英夫がバケツを蹴とばしてしまって、大きな音をたてた。
「ア、ア、失礼、ごめんなさい」
黒い顔が赤黒くなっていたのは、普通の奴なら真赤な顔をしたところなのだろう。
「フライを全部、ヘソのところで捕ったって選手ですか」
三原は本当に野球が好きなのだ。飽きず順一の話に|合《あい》|槌《づち》を打ちながら、目を輝やかせている。
「それはブレーブスの山田、ヘソ|伝《でん》ってセンターだ。フライヤーズの山本は、その当時日本一の強肩、鉄砲肩。試合前の守備練習でこの山本だけは、バック・ホームをキャッチャーには投げなかった」
「どこに投げたんです」
それがお客の喜ぶショーだったから、ノッカーもバック・スクリーンの前まで大きなフライを打つ。山本はバックしてこのフライを捕ると、ちょっと半歩ほど右足を引き、背中を少しそらし加減にしてから|小《こ》|刻《きざ》みなステップを踏んで、そらせた上体を反動を利かせて前に激しく投げ出すようにし、同時に背中にまわされていたボールを握った右腕が鋭く振られ……。
「こういうと長いけど、二秒とかかっちゃいない。その深いところからダイレクトでバック・ネットに叩きつけてしまうんだ」
「ヒャーッ、ダイレクトで。この前の阪神戦で巨人の松本は浅いフライを捕って、タッチアップしたサード・ランナーを刺せず、ピッチャーがカットしちゃいましたっけ」
山野は狂のつく巨人ファンだけど、好きなのは西本、槙原、淡口といった高校出の選手で、大学出の選手、特に早稲田の松本とか山倉あたりには、本人の意識していないコンプレックスがちょっぴりあるようだ。
「それも山なりのやっと届くような奴じゃない。低く速く伸びのあるボールで、ホーム・ベースにいるキャッチャーの鈴木圭一郎が首をのけぞらせながら、頭の上を越えていくボールを、ちょっと口を開き、呆れた顔で見送るのも、毎度のきまりになっていて、お客はもう大喜びで大変な拍手だ」
「百メートルではきかないでしょう。すごいなあ、試合でも鮮かなところ見せたんでしょうね」
「いやそれが、なんといっても三十年以上前の、もう、三十五年だよ。ほんの子供の頃の記憶だから……」
覚えているのは、守備練習のときのそのショーだけで、試合の印象はまるでないのだ。いつまで選手をしていたのか、やたらくわしい友達に訊いても、その後の消息はわからない。日本一の鉄砲肩、フライヤーズの山本は、なぜかその頃、野球をやめたようなのだ。
「本当にいろんな世界にいろんな人がいるもんですね。失礼ですが、ヤクザの上の方で、こんなにプロ野球にくわしい人がいるなんてねえ」
と三原が感にたえかねたとき、山野が|囁《ささや》いた。
「あ、部長が帰ってきたようですよ。またあとで……」
研磨室の二人を残して、他の三人はさりげない様子でそれぞれの配置に戻って行った。
6
水田順一と同じ舎房に入れられているのは、この四人の他に、覚醒剤で二年くってまだ満期まで一年三ヵ月ある三十二歳の新藤剛と、ちょうど四十歳の帰化人、河本興福の六人だ。
河本は、金を貸していた相手が倒産したとき、飛んでいって倉庫にあった在庫から事務所の家具、湯呑まで|一《いっ》|切《さい》|合《がっ》|財《さい》、トラックに積んで持ってきたのが窃盗とされ、控訴して頑張ったものの、弁護士に稼がれただけ。二年|六《ろく》|月《げつ》もくらってしまったという不運な男だ。
工場での一日の作業が終ると、懲役は更衣室で作業衣から舎房衣に着替え、その時、真っ裸で検査を受け、廊下を歩いて舎房に帰る。ここでも点検があり夕飯が配られる。
この日は|物《もっ》|相《そう》に入った麦飯、崩れかけた野菜の煮物。それに甘く煮た赤い豆という献立だったが、山本英夫は、
「どうぞ皆さんであがってください」
と、自分の豆を他の五人の食器に少しずつ分けた。出所の間近い懲役が、うまいものをこうして同房の、まだ刑期を残している連中に譲るのも、昔からの刑務所の習慣のひとつなのだ。
夕飯が終ると間もなく、仮就寝の鐘が振られ、これが鳴ると|布《ふ》|団《とん》を敷いて横になることが許される。
ドアの上の壁にかかっているスピーカーのスイッチが入って、今日は月曜日だから、司会者とタレントが薄気味悪い甘い声でしゃべり、歌ともいえぬメロディを叫びたてる番組が、懲役の頭の上から落ちてくる。
独居房なら頼んでスイッチを切ってもらえるのだけれど、雑居房では喜んで聴いている奴もいるので、それもできない。懲役の我慢のひとつなのだ。
「山本さんの次の日に、隣の房の松木も出所するのはおめでたいんだけど、ホワイト・ウェイブスのセンターをどうするかが頭痛のタネだよ」
河本がチームメイトの山野にいった。
野球の好きな懲役が集っている工場だから、ソフトボールのチームが三つもある。毎週火曜日の二時から四十五分までと決っているグラウンドの運動時間に、この三チームが勝ち残りで、それこそ夢中になって試合をする。
休みのチームの監督が審判をするきまりになっていて、この審判が張るのだけは禁止されているのだけど、他の懲役はプレイしている選手も休みのチームの選手や見物人も、ほとんど皆が日用品を賭けているから、気の入り方が違うのも当然なのだ。
泥棒たちが集って作っているのがホワイト・ウェイブス。水田順一の房では、山野がセカンド、河本がファーストをやっている。
詐欺横領の知能犯チームはトリッキーズ。三原がエースで、打者の心理を読んだタイミングを狂わせるピッチングはさすがだ。
彫物をアンダーシャツがわりにゴロツキが集っているのが、タトゥメン。新藤はライト・フライまで捕ってしまう駿足のショートだ。水田順一は監督兼守備範囲にだいぶ難のあるサードである。若くて上手なゴロツキが新入りで落ちてくればファーストにかわりたいのだけど、落ちてくるのは|詐《さ》|話《わ》|師《し》や盗っ人ばかりで、どうも絵図どおりにはならない。
「工場掃夫の青山をファーストに入れて、河本さんがセンターに回ったら……」
山野も日用品は工場の通貨だから真剣だ。
「今日も監督と相談したんだけど、結局その線に納まるしかないか。若くて足の早いのがいいんだよなあ。巨人の松本でも魔がさして、でもなんでもいいから何か盗んで捕まり、裁判官がアンチ巨人かなんかで実刑くらっちゃって落ちてくれば、これはもう最高、無敵、考えられる日本一なんだけどなあ」
ホワイト・ウェイブスの二人の馬鹿話を笑って聞いていた水田順一は、その時、すぐ隣の壁際で寝ている山本英夫が、ひとり言を呟いたのを聞きのがさなかった。
「松本なんか、十二番目よ。センスもないし、|地《じ》|肩《かた》もない……」
ソフトボールを見ているだけの、皆の野球談義も横でほほえんでいるだけの年寄りだと思っていたので、順一はびっくりした。
「山本さん、驚いたなあ、あんた野球の専門家だぜ」
順一の声が大きかったので、皆、寝たまま頭をひねって二人を見る。
「野球を知ってるだなんて、今までちっとも気がつかなかった。きっと今までつとめてたとこが、口をきけば嫌な思いをするところばかりだったんで、それでそんなに控え目に、口数が少なくなっちゃったんでしょう。年長者でもおとなしい人なら退屈しのぎに、ひっついて[#「ひっついて」に傍点]みようなんてどうしようもないのが、いるんだよな、刑務所ってとこは……」
上半身を起こした山本英夫は、それまでの黙りこくった懲役ではなく、瞳にも輝きが戻っていた。
「ええ、これが三度目の懲役ですけど、初犯刑務所じゃあともかく、前刑[#「前刑」に傍点]ではどうしようもなくなってしまって……。相手を怪我させてしまって刑が一年|六《ろく》|月《げつ》増やされ、その延びた一年半のお陰で娑婆のことも|滅《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》になってねえ……。だから今回は、長い六年でしたが、一所懸命、できるだけ余計な口はきかないように心がけて過してきたんです」
「そうかあ、そんなことだったのか。前刑でそんな目に会えば、俺みたいな懲役太郎と違ってまともな人だから、六年もつとめるとなれば、そうするの当り前だよな。ようし、これだけは約束してあげる。今からあんたが十七日の昼過ぎに工場からあがるまでの間、わずかな間だけど、この水田順一が決して間違いの起こらないよう気をつけてあげる。安心して、どんな冗談でも他人の噂でも、気楽に口からお出しなさいな」
「そうだよ山本さん、この工場、この舎房なら何を話しても、からんだりイチャモンつけたりする懲役はいないよ。六年間の最後の三日足らずでも、気楽にお過しなさいな。本当に長い間、ご苦労さんでした」
河本が心をこめていうと、敷布団の上に坐っていた山本の目から透明な線がつるつるっと、黒い顔の鼻の筋を通って、|顎《あご》の下へ降りていった。
「山本さんは再犯刑務所に落ちるようなモンと違う。ずっと以前からのワルではない。これは間違いないのに、どうして三度もこんなとこ来て、辛い思いしなきゃならなかったのか、どうにも不思議に思うんですよ」
新藤も精一杯の優しい顔で話しかける。
「ヤッ、新藤君待てよ。俺、俺、いま分かったぞ、はっきり、くっきり、分かったぞ。あんた山本さん、山本英夫さん、あんたもしや、いやもしやじゃない、|一点《すいち》だ。あんた、今日の昼間、俺の話していたフライヤーズの鉄砲肩、山本英夫選手その人だ、そうでしょう」
水田順一は珍しく興奮していた。
「エエッ、山本さんがプロ野球の選手だったって」
「山本さんがあの、バック・スクリーン前からバック・ネットまで、ダイレクトにぶっつけちゃったって人……」
皆、自分が寝そべっていた布団から、膝でにじるようにして、順一と山本のまわりに集って来た。
「そうです。私は元フライヤーズの外野手、山本英夫の、なれの果てです。本当にはずかしい。やめて今年で三十五年、お客さんに手を叩いていただいた自分の姿が邪魔になって……。肩の強いのなんて野球場の外じゃ、まるで役に立たないのに、へこたれ、ふてくされて、今まで過ごしてしまったのです」
「そうだろうなあ、長嶋だって野球のない国に住んでいたら……」
水田順一が呟くと、三原良太も、
「華やかな芸があっただけに、すんなり地味な世界に入って行けないで、いらいらかりかりしてる間に月日が流れ、三度もこんなとこに来ちゃったってわけだ」
珍しく真面目な顔でいった。
「この年齢でこんなことをいったんじゃ笑われてしまうでしょうが、鉄砲肩とか、いっときの人気なんて、なんの値打もない世界に入ったら、アルバムだけ大事にどこかへ仕舞いこんで、あとは全部忘れてしまわなければいけなかった。せめて三十年前に気づいていれば、随分今の姿も違っていたのでしょうけど、これは愚痴ですね」
山本英夫は、ふっきれた男のさわやかな顔を見せていた。
「遅くなんかねえさ山本さん、まだ六十でしょう。まだまだいろんな場面に恵まれるはずですよ。ねえ、十九日の朝、出所したら、まず何をします、何を食べます、どこへ行きます……」
三原はさすがに商売柄、言葉で場面を明るく変えてみせる。
「さあて、そうですね。まず煙草ですか、やっぱり。両切りのピース、それもカン入りのを買ってどこかに腰かけ、もう看守の目なんか気にしないんでいいんですから、静かにたっぷり吸い込みます」
7
明日の昼過ぎにはいよいよ工場からあがるという十六日の水曜日、舎房で過ごす最後の晩、仮就寝の鐘が鳴って布団を敷き終わると、山本英夫は床に正座して、頭を垂れた。
「皆さん、本当にありがとう存じました。ここでこんなに親切にしていただいたことは、一生忘れません。心からお礼を申します」
皆、パチパチと手を叩いた。
「これは、笑われてしまうでしょうけど、昨夜ひと晩、よく考えてやってみることに決めましたので、皆さん、どうか聞いてやって下さい」
「オイオイ山本さん、何を考えて、何をやらかすんだい」
「二十二日の火曜日、二時十分きっかりに、私はこの刑務所の横の国道まで戻ってきて、中に煙草を詰めたソフトボールを、皆さんがソフトボールをやっているグラウンドにほうり込んでみようと思います」
国道からグラウンドまでは、五メートルの塀、独居房の二階建の獄舎、そしてそれより高い|欅《けやき》の並木が立ちはだかっている。
「ちょっと無理でしょう山本さん、建物や欅の高さがある上に、国道からグラウンドまで随分あるぜえ、五十メートルじゃきかないだろう」
河本がいうと、新藤も、
「山本さんのほうりなれた硬球と違って、ソフトボールは大きくて風を受けるから、ずっと距離は落ちますよ」
と、心配そうに眉を寄せる。
「とにかく力一杯、この一球に全ての思いをこめて、私はほうってみようと思います。これが私のほうり納め、これをほうってフライヤーズの山本英夫は、私のアルバムの中だけになるんですよ」
「よーし、山本さん、心残りのないよう思い切って力一杯ほうりなさい。ボールが飛んでくるのを楽しみにしていますよ」
水田順一が手を伸ばして、山本英夫の肩を叩いた。
「この中で二十二日に試合がないのは、河本さんと山野さんですね。芝生に座ったら、すぐ欅の上あたりを睨んでいて、そしてボールが見えたら何でもやって看守の注意を引きつけてください。懲罰にならないような絵を画いて[#「絵を画いて」に傍点]……」
「ようし分かった、それをさせれば日本で五本の指だ」
山野は眉毛の端をぐいとあげてみせた。
「水田さんと新藤さん、それに三原さんは、試合を始めて最初の回の表か裏でしょう。河本さんと山野さんが看守の注意をそらしたら、飛んできたボールを拾って練習ボールに混ぜちゃってください。分かるようにしておきますから」
「イチニッ、イチニッ」
四列縦隊で歩調を揃え、工場からグラウンドにやってきた木工場の懲役は、運動係の看守が笛を吹くと、タトゥメンは守備に散り、トリッキーズのトップを打つ手形のパクリ屋がバッター・ボックスに入った。
とにかく四十五分しかないのだから、全てがスピーディなのだ。敬遠する時は時間の無駄だから、ピッチャーが審判に「敬遠ッ」と叫ぶ。バッターは打たせてもらえない不平をぶつくさいいながら、ファーストに歩く。
ストライクはふたつでアウト。スリー・ボールで一塁へ行ける。短い時間でできるだけ楽しもうと、懲役が知恵をしぼってあみだしたルールだから、ワン・ツーがフルカウント。これなら麻雀の東風戦と同じで、早いこと早いこと。
雨なら順延という打合せだったけど、欅の並木の上は美しいインディゴ・ブルー。山野と河本は芝生に並んで座り、|梢《こずえ》の上を見つめたきりだ。水田順一も新藤も、守備位置でポンポンとグラブを叩きながら、ちらちら上を見上げて落ち着かない。
三原もウェイティング・サークルのあたりにしゃがんで、目は欅を見上げている。
二時五分過ぎ、ブルーのゴルフズボンにブルーのスエットシャツを着、滑らないように底に深い刻みの入った新品のスニーカーを|履《は》いた山本英夫は、左手にビニールのショッピング・バッグを提げて、塀の外の国道に姿を見せた。
腕時計を見てから、しばらく周囲を歩いて足場を確め、タクシーか友達の車でも待っている様子で、時を待つ。
刑務所の塀と反対側の舗道に立った山本英夫は、右手をショッピング・バッグに入れて、中のボールを握った。右手を抜くと、バッグは足許の舗道に落ちた。
右足を半歩後ろに引き、背と首をそらせて反動をつけ、舗道の幅一杯に小刻みなステップを踏み、背中にまわされた右腕は、大きく、しなりながら、|弧《こ》を描いて振られた。
風を切る音と一緒に指先を離れたボールは、クリーム色の線を残すように、空高く飛んだ。
投げ終った山本英夫の上体は、国道に放り出されるように激しく前に倒されてから、すばやく元に振り戻された。
頭を起こした山本英夫は、それまでつむっていた目を細く開ける。
クリーム色のソフトボールは、充分なスピードと角度で、獄舎の屋根を越えて上昇し、うるみ始めた山本英夫の視界から、にじみながら消えて行った。
アンプル時代
十一月も中旬を過ぎると、刑務所構内の芝生も薄茶色になり、上で餌をついばむ雀や|椋《むく》|鳥《どり》も、近づく冬の寒さに備えて身体つきが丸味を帯びる。
今日は日曜の免業日。周囲を二階建の獄舎に囲まれた中庭の道を、クリームと赤に塗り分けたマイクロバスが入って来て、中庭に建っている平屋の集会室の入口の前に停った。背広の厚生課長と制服の看守が一人、出迎えに歩み寄る。
刑務所では月に一回ぐらい、映画や講演、演芸、それに宗教行事を懲役に見せる。懲役に人気のあるのは映画と演芸だが、当然のことにその程度には、ピンからキリまでいろいろあって、ヤクザの大物が服役している刑務所には、娑婆の仲間が無理のきく芸人を差し入れと称して送り込むので、ヤクザとは深い御縁の芸能界だから、紅白歌合戦の常連まで出演する。これがピンでキリの方は地元の商店街かなんかの旦那衆。どうにも理解しかねる判断と情熱を発揮して刑務所や養老院などの施設をまわるのだが、風呂の中でしかやれないようなものを心の|籠《こ》もらぬ拍手の中で演じ続ける神経は、たいていどんな奴を見ても驚かない懲役でさえ、動物園で不思議な動物の前で口を開けたまま立ちすくむ子供のようになってしまう。
それでも懲役は、どんな講演や演芸にも、舎房から行列を作り、「私語はやめろッ。この野郎」などと看守に頭から怒鳴りつけられる不快さにも負けず、イソイソとそのたびに講堂に出掛けて行く。
舎房と工場の間を往復するだけで、決った顔にしか会わない毎日だから、他の工場に服役している懲役も集るこんな機会に、見知った顔を見られるかもしれない。もし見掛けたら顎をしゃくって見せるなり、そばに看守が見当らないなんて幸運に恵まれた場面なら、小声で、「大事にやっておくんなさい」と声でも掛けられれば最高だと、それが楽しみなのだ。
今朝、山形ナンバーのマイクロバスでこの刑務所に着いた佐藤民謡一家は、一家六人で民謡ショーの一座を組み、全国の施設を巡演している。懲役にはとても人気のある演芸[#「演芸」に傍点]だ。
看守が手伝って、太鼓など道具を降し始めた。水田順一の入れられている雑居房は二階だから、この様子がよく見える。順一も含めて八人の懲役は、それぞれが再犯で、この佐藤民謡一家はおなじみである。八人みなが、窓|硝子《ガラス》に鼻の頭を押しつけるようにして、
「やあ、おばあちゃんも元気だぜ」
「今バスから降した大きな太鼓、あれ上杉太鼓っていうんだ」
「知ってらあ。一番下の順子ちゃんが、台の上に乗って叩くんだ」
「や、や、や。話が古いぜ。もう台なんか要らねえぜ。あれ見ろよ。立派な娘さんになったぜえ」
「もっとも最後に見たのが、五年も前の青森刑務所だったから、順子ちゃんが大きくなっていても当り前だよな」
「五年も前なら、お前さんの頭にも、いくらか毛が残っていたころだろうよ」
禿を左手で撫でまわした|強盗《タタキ》常習の男は苦笑いして、
「この野郎。この頭はな、そのずっと以前から、暗黒街を照らす灯台よ」
「|強盗《タタキ》あげの灯台守は七年の刑か」
街に出ると嫌われ、怖れられ、|蔑《さげす》まれ、嫌悪されて拒絶される男たちとは、とても信じられないほど陽気で無邪気に、巣の中の雛のようにしゃべり続ける懲役たちだった。
「あの人達は、米沢の市内にある大きなクリーニング屋さんで、俺、前を通ったことがあって知ってるんだ」
二十六歳とまだ若いのに、ウカンムリと呼ばれる|窃《せっ》|盗《とう》の前科が、少年の頃から含めて六犯もある、近眼で度の強い|瓶《びん》|底《ぞこ》眼鏡をかけた男が、息で曇った窓硝子を指で拭きながら、ひとりごとのように小声で言うと、
「俺は地元の人間だから、そんなこと知ってるけど、茨城のお前がどうして、前の道を通るんだ」
|他人《ひ と》から聞いた話を、格好つけやがってというあざけりの気持を籠めて、身体中に黒い毛が密生しているので、蓑虫と陰で呼ばれる大男の、酒に酔って他人の家に入り込み、その家の女を押え込んで五年喰った漁師が、|棘《とげ》のある不快な声で、和やかな空気をこわした。ウカンムリの若い男は、背後から聞こえた不快な声に振り返りもせず、
「仕事だから、東北だろうと、八丈島だろうと、何処へでも行くさ」
東北だろうと、八丈島だろうと、というところに一杯の皮肉を籠めて答えたのだった。
誰か横の方から、おどけた調子で、
「仕事だもの……だと」
とまぜっかえすと、すぐ別の声が、
「おい瓶底よ。仕事に精だすのは止めねえが、俺の町内には仕事に来んでもらいてえ。江戸川の|鹿《しし》|骨《ぼね》だ、覚えといて、仕事場は他を選んでおくんなよ」
といって、一同大笑いになり、笑い声が静まったところで、
「心配要りません。仕事は仕事になるところでしか出来ませんから」
瓶底眼鏡が小さい声でいうのが、笑い声のあとで静まりかえっていたせいでハッキリ聞こえたけれど、言葉の意味が分かるまでに間があって、分かったとなると瓶底の声が小さく、さり気なかったのが尚更おかしく、普段は眉の間に深く縦皺を入れて、看守のように気難しく振舞う蓑虫までが、奥歯の虫歯を見せるほど笑ったのだ。
突然、一杯にボリュームを上げたハンドマイクが、
「座れ、窓から離れて舎房の中で座るんだ。立って見ている房には今日の演芸は見せない。座れ、離れろ窓から……」
と怒鳴り立てた。その声に、窓越しに見えていた坊主頭と青白い顔がまるで手品のように一斉に音もなく消える。順一の房でも、映画の場面が変わったように、一同床に座ってズッと前からその様子が続いていることを疑う者のない自然さでやっていたのは、初犯と違うベテランの身に備った芸だった。肝心な場面となると肥ったり齢がいってたりしても、懲役はゴキブリや野良猫にスピードでは決して負けないのだ。
「外国の映画じゃこんな時に、懲役が大歓迎すると、芸人も手を振って和やかなのに、日本って垢抜けないんだよね」
懲役たちは不平をこぼす。
芝生で遊んでいた椋鳥が看守の嶮しい声に一斉に飛びたって空に黒胡麻を撒いたように散る。秋晴れの良い天気で、空気の綺麗な郊外だから、空は美しい青だ。
講堂は懲役を一度に入れるのには狭すぎるので、こんな時は、午前と午後の組に分けて二度行なうのが、この刑務所のきまりで、この日、順一たちの舎房は午後の組だった。
舎房を出た懲役は、コンクリの廊下に敷かれた粗末な敷物の上を素足で黙々と、グレイの囚人服の長い列を作って講堂に向う。要所には濃緑色の制服と戦闘帽、大袈裟に頑丈な兵隊靴を履いた看守が、|嶮《けわ》しい目付きで立っている。知った顔に出会った懲役が小声で挨拶したり、いろいろな仕草で合図を交したりするのを見付けると、大声を張りあげて怒鳴りつけ、大層な権幕でその懲役を列外に引きずり出し、管区と呼ばれる看守の事務室の前まで連れて行き、廊下に並べて置いてあるビックリ箱という、木製の窓も明かりもなく腰を降ろす板が一枚付いているだけの箱の中に、蓋を閉めて押し込めてしまうためだ。
捕まえて塀の中に入れてある懲役同士が小声で挨拶したところで、逃げられるわけでも暴動を起せるわけでもないのだが、|官《カン》の威力を徹底的に知らしめて、懲役を命令に従わせるというのが刑務所の変らぬ方針なのだ。
そういうわけだから、権力のデモンストレーションの相手になんかならないように、懲役の列は用心深く整然と講堂に吸い込まれていく。順一も音も立てず進行するグレイの列の中で、私語もせず、感情のない目と表情を保ったまま廊下を過ぎ、講堂の入口で両側に並んだ看守のボディ・チェックを受けると講堂の中に入った。
順一が入っていった時には、並べられた組立椅子の前からほぼ半分程までは、頭を垂れてゴメンナサイみたいな格好で座っている懲役で埋っていた。懲役全員の繰り込み[#「繰り込み」に傍点]が終るまで、先に着いた懲役はこの姿勢と沈黙を強要されるのだ。
正面のステージにはハンドマイクを持った区長が上司の目を意識して、赤黒く上気させた顔で、
「目をつむって黙想せよ」
と、同じことを殆んど間を置かず繰り返している。腹を立てたところで結果が更に惨めなことを良く知っている懲役たちは、口惜しさに耐えて目をつむり頭を垂れてはいるけれど、心の中では、
「娑婆のどこかで出喰わしてみろよ。どんな目に会わせてやるか、この野郎」
などと呟きながら、繰り込みの終るのをジッと待っているのである。
だから、娑婆の盛り場や駅なんかで顔の厚ぼったい頑丈な男が日に|灼《や》けた顔を引きつらせ、必死の勢いで逃げていたら、それは顔写真入りの手配書で追われている人殺しの労務者、なんかじゃなく、出所した懲役と思わぬ所で出っ喰わしてしまった、悪い[#「悪い」に傍点]看守なのだ。
こわれたレコードか、値段の安い九官鳥のように、「目をつむって黙想せよ」しかいわないステージの上の区長が、いきなり兵隊靴を|轟《とどろ》かせて飛び降りると、ダッシュして順一の後ろの方に突進し懲役の首を掴んで引き出した。
区長の怒声。他の看守が走り寄る靴音。懲役の喚き声。組立椅子の倒れる音。
順一はその騒ぎの中で、見覚えのある懐しい顔を見つけて、目を止めた。
その男の顔は周囲にある顔に較べ、ふたまわりは大きく広かった。額の下から眉毛にかけて筋肉がこぶのように盛り上がっている。
“石田英吉。何年ぶりになるんだ”
順一の心の中の呟きが聞こえたかのように、額と眉の間に盛り上がる肉塊をふるわせ、それまで背後の騒ぎなど知らぬ顔でつむっていた目を開けると、石田英吉は周囲を睨みまわし、順一の視線とクロスした所で停め、大きな顔の厚い頬をふるわせて嬉しそうな表情を見せ、目を一杯に開けてから左目だけを強くギュッとつむってみせた。独特の豪快なウインクだ。順一もニヤッと笑ってみせるとウインクを返し、素早く元の姿勢に戻ると目を閉じて頭を垂れる。このドサクサにまぎれ、懲役同士の挨拶は万感を一瞬に籠め、講堂の中を稲妻のように飛び交った。
繰り込みが終り、ステージの上に背広姿の教育部長が立つと、懲役に“黙想終り”と言って、許しを出し、続いて無表情に無内容な話をボソボソとしてステージを降りた。
幕が上がり、懲役はもう拍手拍手。穏やかな微笑を絶やさない白髪のおばあちゃんを先頭に、着流しで尺八を構えたお父さん。舞扇を手に鮮やかな振袖姿の三人姉妹。たすきも|凛々《り り》しく太鼓のバチを握ったお兄さん。尺八と三味線、|鉦《かね》と太鼓、娘さんの高く澄んだ声が流れ出すと、懲役の目は大きく開かれて輝いた。
二十年振りに見る石田英吉の頭は、随分白い物が目立った。
“俺もすっかり白髪だから、英吉も驚ろいただろう。お互いさまだよな”
順一と英吉は昭和三十年代に湘南の町で一緒につるんで不良少年だった仲だ。少年の頃から百八十センチ百キロの巨体を誇っていた英吉は、気っぷの良いこともあり、|乾児《こぶん》もチンピラばかりではあるが、五十はいて、土地の大人の親分でも三、四人しか若い衆のいないような町だったので、本職にさえ一目も二目も置かれる大した不良少年だった。順一もボクシングでゆがめた鼻と拳銃を撃って少年院に行った前科が物を言い、大物の英吉と互いに名前を呼び合うつき合いをしていた。
その頃。石原裕次郎はまだデビューしたばかり、スリムなスターだったし、シボレーやプリマスは尻のフィンをそびやかして走り、スチュワーデスは地方出身のバスガイドまがいじゃなくて、選び抜かれたまぶしいような都会のお嬢さんたちだった。
英吉と順一は、その頃|流行《は や》っていた、コカ・コーラで割ったキャナディアン・ウイスキーでもやっていればいいものを、そんなものには見向きもせず、アンプルに入った覚醒剤のヒロポンに揃ってのめり込んで行ったのだった。
体力を誇る彼らは、まるでレースか試合のように、次々とアンプルを切り、十ccの大きな注射器でグイグイとヒロポンを身体に注ぎ込んで飽きなかった。耳の中でマンボのリズムが鳴り、目の裏では女の白い身体がくねり続け、そして指先から丼へ、とめどなくチンチロリンのサイコロがころげた。
小遣い稼ぎに、六十キロのライト級でときどきボクシングの前座試合に出ていた順一は、ヒロポンの副作用で歯や骨がもろくなり、横殴りのフックをもらうと、マウスピースと一緒に血まみれの歯が吹っ飛び、胸にストレートを打ち込まれて肋骨がへし折れてしまい、翌日はアパートの万年床で半死半生の大山椒魚のように伸びたきりで、駈けつけた英吉がカルシウム注射に使う大きな注射器でたっぷりのヒロポンを注ぎ込んでくれてはじめて身体を引きずるように起し、骨継ぎに出掛ける始末。滅茶苦茶な生活が続く毎日。若さだけが辛うじて生命をつなぎとめている感じだった。
ヒロポンは昭和二十六年に法律が出来て禁止になり、それでも昭和三十年まではいくらかプレミアの付いた値段で、薬局でもコッソリ売ってくれたものだった。薬局の在庫が無くなる頃になると、利に敏い連中が川っぷちでせっせと密造を始めて大繁昌した。
昭和三十五年だったか六年だったか、大阪の街の真中で、ヒロポンをしっかり喰った[#「喰った」に傍点]男が通りかかった幼い女の子をライオンが前から歩いて来たと思い込み、大勇気を|揮《ふる》って川の中に放り込んでしまう事件が起きた。新聞と世間はヒロポンの効き目に大騒ぎをし、この事件をきっかけに、それまではたまに密造所の手入れをやるぐらいだった警察も、世論に尻をつつかれる格好で、ヒロポン撲滅に力を入れ始めた。
不良少年の中では群を抜いた頭株だったとはいっても、英吉も順一も若かったから、順一の小さな赤いルノーの4CVをイライラと吹っ飛ばし、必死に探して歩いたところで品薄になって貴重品のヒロポンがそうそう手に入るわけがなかった。
薬の切れた二人は、説明もつかない無茶苦茶な衝動に駆られ、薬品はいうに及ばず、身のまわりにある、或いはと思われる物は皆水に溶かして、ヒロポンの代りにヒロポンのように利いてくれはしないかと試してみた。|玉《たま》|葱《ねぎ》を|擂《す》って汁にして注射器で吸い上げ注ぎ込んでみた時なぞ、激しいショックで身がガタガタふるえ出して止まらなくなったし、何を試してみても血管に入れた途端、口の中に異様な苦い物がにじみ出て来て止まらなくなるような物ばかりだった。
“死んだってどうってことないさ”
英吉も順一も自分のことなんて、そこいらにいる野良猫ほどにも思っていず、それに、二人とも誰にも愛されている様子もなく、期待されている気配もなかった。何の目的も見当らず、誰を愛していることもない毎日だったから、どんなことでも無雑作に出来たのだ。
注射器の尻を押し、静脈の中に入れると、毛穴がしぼれるように引きつり、髪の毛が逆立ち、口の中が臭く苦く不快になるのだが、いろいろ試した中では、|喘《ぜん》|息《そく》の薬が、それでもいくらかマシだったぐらいで、結局代用になるようなものは見つからなかった。
あれは昭和三十六年の春だったと思う。その日も二人は薬が切れてだるい身体を引きずるように重い頭とまぶしい目に苦しみながら、朝から横浜と東京の心あたりを、ヒロポン探しに走りまわり、やっと十本のアンプルを、断わったらどんなヤケッパチな暴れ方をするかとネタモト[#「ネタモト」に傍点]を怖れさせて手に入れ、五本ずつをその場で入れたのだが、二人とも普通は一回に十本ずつ入れていたのだから、どうにも蛇の生殺しのような物足りない利き具合になってしまった。
湘南の町に戻って、赤いルノーを海岸に沿った駐車場に入れると、二人はそのまま海に出て磯の岩に立ち、波もなく穏やかな春の海をボンヤリ見つめていた。遠くにメジナを釣る男が二人いるだけで、海辺は静かだった。
「何を試して見ても、ヒロポンみたいな奴は見つからねえし、こうやって探し歩いたって、男を下げるか、切ない思いをするかの話だぜ。どうやらこれは、ヒロポンをやめるより他に手はなさそうだぜ」
岩の上にしゃがんでビー玉を融かしたような足元の海を見つめていた順一の頭の上から、英吉の力のない声が落ちて来た。
今日にしたところで、ネタモトの様子からヒロポンがそこにあると察しをつけた二人が、金を見せて頼みながら、断わられた時の荒れ方の凶暴さをほのめかして見せ、面倒を嫌った相手が十本でも分けてくれたから良かったものの、強気で断って来たらどうなっていたことか。
いかに呆けてヤケッパチな二人にも良く分かっていることで、こんなことでくたばったのでは、余りに可哀そうで惨めだ、と心の隅にはまだいくらか気取りのようなものが残っていた。
順一はしゃがんだまま、英吉の声に首だけひとつコクンと縦に振った。二人は岩の上で、空と海が同じ色になって一緒になった水平線を見つめていた。
「海の水はまだ試してなかったよな」
突然、英吉が呟くようにいった。二人のいる岩のそばに、カモメが二羽、音もたてずに近づいて、白い腹を見せながら反転する。
「塩はやってみたぜ、口の中が苦くなるだけだった」
順一はもの憂げに答え、短かくなった煙草を岩の間の汐溜りに指で弾き飛ばす。立っていた英吉は、しゃがみこんで順一の顔を覗き込むと、
「お前知らねえな、海の水には塩だけじゃなくて、金から何から、あらゆる物が融けてるんだ。もしこれが良かったら、順一よ、ズーッとアメリカまで良い気持で一杯だぞ」
頭の中のネジが抜け落ちていたか、脳味噌がヒロポンにまみれて、おかしくなっていたに違いない。
「そうだな英吉。やめると決める前に、一丁試してみる手だな」
「そうさ。もしこれが良かったら、日本中のポン中[#「ポン中」に傍点]に教えてやって、皆でバカバカ喰っても、品切れになんかならねえし、金も要らなきゃ、警察もパクリようがねえぜ」
岩の間の澄んで透きとおった所を選んで、この時はどちらの番ということもなく、二人はそれぞれの注射器に十tほど吸い上げ、同時に左腕の静脈に注ぎ込んだ。
針を抜き、玉になって湧き出す赤黒い血をチリ紙で押え、二人は顔を見合せたのだが、口の中に臭く、不快な味がにじみ出て来るだけだった。
「駄目だ。アメリカまでずっと、|塩《しょ》っぱくて苦いだけのことよ」
「もう何日も寝てねえんだ。身体が風に吹かれて浮いちまうようで、ヨレヨレだよ」
英吉と順一は、汐風に吹かれて海岸をころがる弁当殻のように、黒ずんで肉のそげ落ちた顔を前に突き出し、寝不足の身体をフラリフラリと駐車場へ向けて歩いた。
ステージの真中に大太鼓を据え、白鉢巻に袴の末娘が、懲役の目に鮮やか過ぎるほど白く映る腕をふるって、上杉の出陣太鼓を叩き上げるフィナーレになった。
満場の拍手の中、おばあちゃんはステージから客席に降りる階段を一段ずつ膝に手を当てて降り、最前列に座った懲役と、ひとりひとり何か短かい言葉を交しながら握手する。最前列に座っている懲役は、皆の嫌がる便所掃除とか豚小屋で毎日ひどく臭い豚の世話をさせられている連中で、だから、一番前に座らせてもらっているのだが、おばあちゃんはおかまいなく、両手でその連中の手を握ってはニコニコしている。
鳴り止まない拍手が降りた幕に向って続き、しかし再び幕は上らず、ひどい仕立ての、膝の出た背広の教育部長がステージに上って、耳に中蓋があれば誰でも閉めたくなる、感激のかけらもない決り文句を、貰っている給料と自分の偉さに見合うと自分で納得が行く時間だけ続けたから、演芸の余韻にひたっている懲役には堪らない話だ。
続いて兵隊靴を鳴らし、何時でも不機嫌そうな顔をしている看守部長が、ハンドマイクを持ってステージに上り、
「今から繰り出し[#「繰り出し」に傍点]を行うが、立てといわれた列以外の者は黙想を続ける」
と含み声で脅すような口調で怒鳴る。
石田英吉の座っていた列は順一より大分後ろだったから、繰り出しは入った時と逆に、後ろの列から出て行くので、順一が立った時には、もう英吉の姿は講堂の中には見当らなかった。
演芸の中に故郷を想い、父母を見、姉妹を感じた懲役は、怒鳴られるグレイの蟻となって、惨めな現実に連れ戻される。一瞬見た世界と自分の姿との間にあるどうしようもない落差に、懲役の顔は曇り、胸は悲しさにふさがれてしまう。
看守の、獣でも追いたてるような怒声を聞き流し、順一は舎房まで帰り着くと、舎房の中程の自分の定位置に、薄い座布団を据え、|胡座《あぐら》をかいて腕を組み目を閉じる。
互いの噂は耳にしても顔を合わす機会のないまま二十年以上の年月が過ぎて、頭の白くなった二人が刑務所の講堂で、万感籠めて視線を結びあったというわけだ。
この年になって顔を合わすのが刑務所の中では、どうやら二人ともこのまま空しく悲しい人生で終ってしまうようだ。最後で奇蹟の大逆転なんて野球か劇画にあるくらいのことで、現実ではまず起ってなんかくれはしない。順一は囚人服の色が染みて、心までグレイになってしまったような気がした。立ち上がると舎房の窓際に行き、皺の深く刻まれた顔で腕を組み、瞳を暗く光らせて、暮れかけた中庭に向って立ちつくしていた。
指
ごろつきの裁判では、検事が二年|六《ろく》|月《げつ》と求刑したら、判決では六月負かって二年になるのがまず当り前なのだけど、いかにも胃腸が弱そうで、頭は青ぶくれのラッキョウみたいな裁判官が、顔を憎々しげに平べたく引きつらせて、
「被告を懲役二年|六《ろく》|月《げつ》に処す」
といったものだから、水田順一は被告席に立ったまま、呆れて下顎がゆるみ、口をアングリと開けてしまった。
ちょうどこれと同じような場面で、東京のある一家の高名な総長さんが、高い所から黒いアッパッパを着て、被告席を睨み下している裁判官に、
「何をいってるんだ、この阿呆! 常識ってもんがあるだろう、エ、常識ってもんが……」
と思わず怒鳴りあげて、すんでのところで、法廷侮辱罪までくっつけられるところだったというのは、この世界では伝説になっている有名な話だ。
警察や検事、それに看守や裁判官の扱いや当りように、小さなことは手錠の締め加減から、求刑や判決の量刑にいたるまで、いちいち情が良かった[#「情が良かった」に傍点]とか、情を憎まれた[#「情を憎まれた」に傍点]などほくそ笑んだり、|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》ったりするのが、捕まえられた側の常なのだ。
堅気の会社員が税金を天引きにされてしまうのと同じように、ごろつきや泥棒が捕まえられ裁判にかけられるのは、稼業の患い[#「患い」に傍点]。まあ、経費か税金とでもいった感じのものだから、慣れっこになって諦めてしまっているといっていいが、それにしても、求刑と同じニギリ[#「ニギリ」に傍点]なんて、絵に描いたような情の悪い判決だ。
被告席に立たされた水田順一が、唖然として、口が開いたままになってしまったのも、当り前のことだった。
今年、四十六になった水田順一は、まだ髯を毎朝は剃らなくてすんだ十六歳の時、一家のバッジをジャンパーの襟につけて以来叩きあげた男だから、勿論のこと、これが初めての実刑判決なんてものではない。これまでに、三年、五年、そして一年六月と三度も塀の中に押し込められ、これが四度目という懲役太郎[#「懲役太郎」に傍点]だ。
最初は、日本刀で相手のごろつきをスライスにしてしまった時で、四年の求刑が判決では三年になった。
この時はまだ若くて長い刀を使うのも下手糞だったし、相手も縦横同じといったゴロンとしたタフな奴だったから、足のご不自由なごろつきになっただけだった。
次の時は、だいぶ剣術も上手になっていて、スライスではなくチョップにしてしまったのだけど、救急病院の宿直医が白衣の下に卵の殼がついているような、しかも耳鼻科というのでは、チョップにされたごろつきも水田順一にとっても不運なことだったが、それでも求刑は、六年だった。
一番最近のは五年ほど前の一年六月だけど、これだって、馬券代をノラリクラリと払わない焼肉屋の大男を、事務所に呼びつけ、細めた目で上から下までジロジロやって、
「金払うのがどうでも嫌なら、お前のカルビのところ二キロほど、置いてってもらうんでも、俺はいいんだぜ」
といってやったものなのだが、ごろつきの競馬ノミ屋に払わないで頑張るような奴だから、これは相手にしたってマトモじゃない。
脅しの演出が良過ぎたものか、相手の金に対する執念が並はずれていたのか、所轄に飛びこまれてしまったのは、叩きあげのごろつきとしては恥かしいようなドジだったけど、その時だって求刑は二年。こんな具合で量刑は少しずつでも負けてくれるものなのだ。
被告席で阪神の岡田みたいに口を開けたままの水田順一に、
「驚いたか、思い知ったか社会の敵め。ダニとガラガラ蛇の私生児め。裁判官の俺様の五倍も儲けやがって、ザマアミロ」
と、ちょっとでも嬉しそうにすれば、まだいくらか人間らしいのに、人形教室に入りたての小母さんがこしらえたみたいな顔は、まるで表情が変らず、法廷を出て街に出ても、裏通りのキャバレーの客引だって声を掛けないような、ツマラないくすぶり面のままだ。
「尚、判決に不満の者は、十四日以内に控訴することが出来る……」
かなんか決り文句をいうと、黒い染色が所々あせて白っぽくなった、当人は大得意のようだが、どうしようもなく貧乏たらしい法衣をひらめかすようにして、裁判官は法廷から出て行ってしまった。
競馬ノミ屋の家宅捜査をやったら、間の悪い時はそんなもので、三十八口径のスナブ・ノーズまで一丁出てしまったという、この世界ではどこにも転がっているような起訴事実だから、何がそんなに情を憎まれてしまったのか、考えても水田順一は答を見付けられなかった。
これはごろつきのひとつの術なのだが、水田順一も少し考えて訳の分かりかねることだと、あれこれいつまでも考えこんだりはしない。
毎日が出たとこ勝負の連続で、どうにも困れば開き直って無茶苦茶な意表をつくか、どうにでもしやあがれとヤケクソになって腹をくくれば、たいていの場合、度胸がいいとか男らしいなんて誉められてしまうことまであるのだから、年功と共にタイミングも良くなり上手にもなる人生の知恵だ。
多分、俺に良く似た男が、あの青ラッキョウの女房を盗んだとか、国鉄か市役所にでも行っている出来の悪い弟に、麻雀でも教え込み、サラ金の尻でもまわされたことぐらい以前にあって、その八ツ当りぐらいのことだろう……。
そうのみ込んでしまうと、水田順一はこれがたかだか六ヵ月のことで良かった、無期か殺されるかなんて大変な場面であいつに当らなかったのが、大きな俺のツキだ。早くつとめれば早く終ると控訴はやめて、サッサと落ちて[#「落ちて」に傍点]しまった。第一、府中刑務所なら文句はいえない。
府中刑務所は電車の線路と甲州街道を挟んで、競馬場の反対側にある大規模な刑務所だ。今までに刑務所に入れられたことのある再犯の懲役、それも二十六歳以上で、刑期が七年以内の短期刑ばかり専門に、多少の増減はあっても二千二百人以上も、逃がさないように高い塀の中に閉じこめている。
水田順一のような東京のごろつきには、この刑務所なら顔見知りも多いし、面会にだって近くて好都合だ。それに懲役にとって一番辛い冬の寒さも、ここならそれほど|非《ひ》|道《ど》くはない。
実刑判決が確定し、拘置所の送り房[#「送り房」に傍点]に集められていた懲役の中から、府中に決った二十人が引き出され、私服に手錠・腰縄で、窓に格子のはまった法務省のバスに押し込められる。
これがしばらく娑婆の見納めと、首を伸して街の様子を見つめる冴えない表情の客を乗せたバスは、首都高速から甲州街道を通って、府中刑務所の塀の中に吸い込まれる[#「吸い込まれる」に傍点]。
グレイの高い塀の中に吸い込まれた二十人の新入は、まず着て来た私服を脱いで、拘置所から持って来た私物と一緒に、ダンボールの箱につめ、塀の色に合わせたわけではないのだろうけど、冴えないグレイの囚人服と、洗いざらした木綿の下着を与えられ、誰もがウンザリ無言で身につける。
待ち構えていた懲役の|散髪夫《ガリヤ》がバリカンで、皆の頭を次々にグルリグルリ、ガリガリと丸坊主に刈り、隣りの部屋で写真を撮ると、次は医務で体重を計ったり簡単なチェック。
塀の中に吸い込まれて何時間も経たない間に、坊主刈の頭にヨレッとしたグレイの囚人服、そして素足にチビた黒のゴム|草《ぞう》|履《り》という、娑婆の誰にも見られたくない姿にされてしまう。
何十年も飽きず繰り返されている仕事だから、刑務所の看守は手慣れたものだ。順序良く次々と新入を追いまわし、昼過ぎには、十人ずつに分けた新入を、二つの新入房に押し込んでしまって、ガチャンと鍵を掛けてしまう。
朝飯もそこそこに拘置所を出て、追いたてられるままに忙しく慌ただしい半日だった新入達は、この新入房に押し込められ一息つくと、刈られた頭の涼しさに気がつくらしく、ごろつきも泥棒もポン中も、誰もが手を伸して自分の頭を撫でるのだ。
懲役七年までの短期刑が専門の刑務所だし、七年なんていうのはかぞえるほどで、|六《ろく》|月《げつ》から三年までのが大部分。三年六月以上は十人に一人ぐらいのことだから、新入も今日のようにバスでまとめて送られて来るけど、満期や仮釈放で出て行くのも、毎朝十人ほどある。回転が早く出入の忙しい刑務所なのだ。
新入の懲役は、この新入房に二週間入れられてる間に、毎日運動場に引き出されて、体操や駆足でしぼられ、怒鳴りとばされることになるのだが、その時の反応や態度が注意深く観察され、官[#「官」に傍点]に対する反抗心の程度や、柔順さがエンマ帳につけられるわけだ。
そしてそのシゴキの合間に、作業適性を調べるテストや考査が行なわれ、看守の面接も何回かあって、その結果で構内に二十以上もある工場のどこに|配《はい》|役《えき》されるかが決められる。
工場で働かされる以外にも、それはあらゆる仕事が揃っていて、楽なのもあれば、誰もが敬遠するような配置もある。
仕事や職種によって、麦飯の量が二等飯から四等飯まで差があるということもあるし、配置によっては、居心地や安全が大きく違って来るので、希望する配置に|就《つ》けるかどうか、新入は随分と気を|揉《も》むわけだ。
一応、新入には希望する仕事を、第一志望、第二志望と用紙を配って書かせるのだが、これは儀式のようなもので、まず当てにもなんにもならない、と再犯の懲役は知っているから、初めて懲役に来た奴のように、「印刷工場にしようか、衛生夫って書いてみようか……」と、目を輝かすことも無い。
水田順一はそれでも、真面目に、第一志望を木工場。第二志望は紙工場と書いておいた。
木工場は、そこいらに金槌や刃物がゴロゴロしている工場だから、この工場に配役する懲役は官[#「官」に傍点]も念を入れて、穏やかで情緒の安定しているのを選ぶのだ。
良くあることだが、女房に逃げられてしまったらしく、面会にもパタリと来なくなって、手紙もこちらからヤイノヤイノと出すばかりで梨の|礫《つぶて》。こんな事情でイライラ、カリカリしている奴や、頭の安全装置がこわれたままの、パープー[#「パープー」に傍点]なんて呼ばれる手合を、ウカとこの凶器だらけの工場に配役してしまえば、これはたちまち、仲間の工場担当の看守が危ない。
懲役にしてみたって、本職の荒っぽいのが集っている刑務所だから、間違いがあれば、やられてしまうと病舎か霊安室だし、勝ってしまえば、その刑務所のある地方の裁判所に、坊主頭に囚人服のまま引き出され、追加の判決を喰うことになる。
昭和三十年に二年六月の刑で入ったまま、感情の爆発と看守の挑発、それに加えて不運が泣きたくなるほど重なり続けて、塀の中で刑が四つも増えてしまい、昭和五十年代も終ろうかという頃になっても、まだ塀の外に出られずにいる。そんな信じられないような懲役が、実際にいるのだからたまらない。
水田順一のような懲役になると、懲役の質の良い木工場を選ぶか、そうでもなければ、工場の中に、材料の紙と糊、それにせいぜいハケぐらいしか無いので、事故があっても鼻血か内出血ぐらいで済む率の高い、朝から夕方まで商店の紙袋やショッピング・バッグを、貼り続けている紙工場。そのへんを多分駄目でも一応希望して見るというわけだ。
鼻血や内出血ぐらいなら、懲罰房で減食を喰らって、垢まみれになるぐらいのことで、刑は増えない。
新入房が両側に並んだ真中の通路を、|掃《そう》|夫《ふ》という懲役が、囚人服と同じ色の作業帽をかぶり、白い運動靴を履いて、忙しそうに行ったり来たりしている。
掃夫は、舎房の懲役に飯を配ったり、廊下や風呂場の掃除をしたり、寝具の乾燥や手入れをやったり、看守の下働きをさせられている懲役で、まずごろつきは希望してもやらせてもらえない。
ごろつきはどうしても顔見知りが多い。そして知った顔を見ると直ぐ、いいところを見せようと、おかずの盛りを多くしたり、伝言や手紙を頼まれたりすると、まず|官《カン》にとってロクなことは無い、と決っているので、泥棒や空巣などの、知り合いの少ない連中の中から看守の命令に素直な奴が選ばれて、掃夫になる。
水田順一の入れられている新入房の、ドアの横にかかっている在監者の名札を見て、掃夫のひとりが、
「水田さんおられますか? カノウさん御存知ですか」
と低い声の早口で、舎房の中に向って囁きかける。
「オウ。俺が水田だ」
答えた水田順一が立ち上って、通路に面した窓まで歩み寄ると、窓の所に姿を見せた掃夫は、横を向いて弾かれたように爪先立ち、
「ハイッ。各房とも新入の寝具は、定められた数量が入っていて、間違いありませんッ」
廊下の角をまわって看守があらわれたのだろう。大きな声で叫びながら、小走りで姿を消した。
「たしかカノウとかいったようだけど、加納なら兄弟[#「兄弟」に傍点]だろう」
あの掃夫は看守の目を盗んで、またやって来るに違いなかった。同じ房の連中はコソ泥とポン中ばかり、話をするような奴もいないから退屈していたところだし、水田順一はそのまま窓際に腕を組み、ノッソリと立っていた。
話しているところを看守に見付けられれば、懲罰を喰いかねないとこだから、ちょっとした伝言をつたえるのでも、まるで燕の雛と親みたいにしなければならない。
|炊場《すいじょう》と呼ばれている懲役の飯を作る炊事場から、夕飯を載せたトロッコを、各棟に向けて押して来る音が、ゴロゴロと響き始めた。
その掃夫は運動靴なので、猫のようにやって来ると、水田順一の立っている窓際の通路にしゃがみ込み、右手に持った雑巾で、窓枠の下の壁を拭き始める。立っている水田順一からは、窓ごしに掃夫の作業帽のテッペンが見えた。
その窓から三度の飯とおかずが渡されるので、下の壁はこぼれた汁なんかで汚れがちだから、看守に見られても、そんなに永い時間でなければ、これはウマイ手だ。
「カノウさんは、良く御存知ですね?」
掃夫の小さな声が下から昇って来る。
「加納侠道なら良く知ってるどころか、兄弟分だよ。本名は加納良吉……」
「それなら間違いありません。右の人差指を|喧嘩《でいり》で失くされた……」
掃夫が話している途中で、遠くから何かいってる看守の声が聞こえて来た。
「ハイッ。夕食配当の前に、清掃を行いましたが、終りましたッ」
どうにも白々しい。嫌にハキハキした大声で答えながら、掃夫は立ち上ると看守の方に、水田順一に背中を見せて小走りで、一瞬のうちに視界から消える。
右の人差指を喧嘩で切られた加納侠道か、あいつまだそんな大話を、手振り身振りで、どこに行ってもやっているんだ。そう思うと水田順一は、懐かしいのと馬鹿々々しいので堪らなくなって、高い舎房の白く塗った天井に向けて顔をそらせ、声をたてて笑った。こんなふうに笑うのは久し振りだから、滅法気持がいい。
床に座り込んでボソボソやっていた他の九人は、機嫌良く笑う水田順一を見て、何か分らないけど、とりあえず一緒に笑っておいた方が良いのか、しかし笑ってイチャモンでもつけられ、夕飯の甘煮豆でも巻き上げられたら、これも大変と、頬をゆるめたセコイ表情で様子をうかがっている。
加納侠道なんて名前を見ただけで、生れついての渡世人みたいな、それはスゴイ名前だけど、子供の頃の本当の名前は加納良吉。親だって堅気も堅気、たしか鳥居坂の区役所の戸籍かなんかの係だったと思う。
良吉では、ハッタリが利かないなんて思ったのだろう。十年ほど前に侠道なんてスゴイ名に変え、それ以来、「リョーチャン」なんて呼んでも、返事もしなくなり、気が付かないで呼び続けると、目をギョロギョロとさせ唇を少しゆがめるようにして、
「兄弟よお、人前で幼名を呼ばれたんじゃ困るんだよな。義経だって壇の浦では、牛若丸なんて誰も呼ばなかっただろうに……」
と嫌な顔をするので、呆れた水田順一は、それからは名前では呼ばず、「兄弟、兄弟」と呼ぶことに決めてしまった。
中学を出るか出ないですっかりグレた水田順一が、当時渋谷で威勢の良かった愚連隊のチンピラになると、加納良吉も追いかけるように、こっちは博徒の三下になった。
ハッタリは天才的だし、度胸も人並以上、それになんといっても、集団就職のドロップ・アウトなんかとでは、歯切れの良さと威勢が違う。加納良吉はたちまちのうちに、ジャガ芋面の子分を何人か引き連れるようになり、「数も威勢のうち、だあ」なんて喚いていた。
根元から綺麗にとれてしまっている右の人差指が、武勇伝のタネで、取り巻きの坊主ックリ[#「坊主ックリ」に傍点]を集めては、人差指を失った大喧嘩の話を、鼻の頭に丸い汗の粒まで作ってやって見せる。
「逃げ出す敵は追っかけてぶった切っても、そんなモン刀のけがれだ。堅気になってシジミでも売れ、と逃してやり、俺に切られて道に倒れ、ピクピクしている野郎は、これは弱くっても渡世の意地を通した奴だから、それ以上ナマスに刻むような俺じゃあねえ。
血刀を懐紙で拭った俺は、自首する前に一服と煙草をつまもうとして……。つまめずに、したたる血で白い煙草が赤く染まって行くのを、街灯の明りで見て、その時初めてこの指がサックリと、根元のところから、失くなっているのに気が付いた……」
とやると、まわりのジャガ芋小僧共が、
「ホオーッ」
と揃って同じところで溜息をつくのがおかしい。
喫茶店だろうと縄のれんだろうと、どこでも加納良吉はこの場面を熱演するのだけど、その場面に水田順一が来合せてしまうと、加納良吉は眉の間に縦皺を寄せ、夜でもまぶしいような目付をして見せた。
どこでもいつでもやるのだから、行き合せてしまうのは、浅草寺で鳩のウンチに当るようなもので、これは仕様がない。何度もその場面に出喰わすうちに、水田順一が話のあらすじを覚えてしまったほどだった。
加納良吉にとって、どうにも|塩《あん》|梅《ばい》の悪いことは、幼な|馴《な》|染《じみ》の水田順一だけは本当の話をちゃんと知っていた、ということだった。知らん顔をするほど芯から悪い性根ではないから、つい深い縦皺が眉の間に出来たり、まぶしそうな目になったりしてしまうわけだ。
小学校五年の時、まだ空襲の焼跡だらけだった目黒川の川っぷちに、サーカスの小さな小屋がかかって、ジンタの響きでホバリングしていた塩辛トンボがゆれていた。
入口の所に黒い熊が二匹、檻に入れられていたのだけど、これは客寄せだけで、舞台に出て自転車に乗ったりはしない。この熊の鼻の頭でも突っつこうとでもしたのだろう、加納良吉は、瞬間右の人差指を根元からパクリと喰われてしまったのだ。
翌日の朝礼で校長が、サーカスの熊にイタズラしてはいけないとクドクド話したけど、ついこの間まで、鬼畜米英だの一機一艦だの、シコのミタテだなんて言いまくっていた、良い加減な奴だから、また明日になれば、熊と握手をしなさい、なんて言いだすかも……。と子供達はまるで聴いてなんかいなかった。
それでもサーカス小屋の熊の檻の前には、その日から半天の男が二人、子供が近づかないように番をするようになったのだけど、水田順一は檻の中をのぞき込んで、熊が一匹だけになっているのを見て、加納良吉の汚ない人差指をオヤツにした熊はきっと、おなかをこわして入院でもしてしまったのに違いないと思ったのを、何故か今でもハッキリ覚えている。
少年時代が過ぎ、ごろつきの駆け出しの頃ともなると、加納良吉はこのハンディキャップを、金儲けの道具に使っていたというのだから、これは呆れた話だ。
ふところを温かくしようと思い立つと、加納良吉は山手線か東横線に乗る。それもあまり混んでいる時間ではなく、立っている人がドアの所にチラホラぐらいの、昼過ぎだ。
席に座った加納良吉は、そっと右の|拳《げん》|骨《こつ》を自分の鼻の穴に押しあてる。まだその時は向い側の席に腰掛けている人達も、加納良吉に注目する者は誰もいない。
狙いを付けられているとも知らない、身なりの良い慶応ボーイは、腕を伸ばして金色の高そうな腕時計を、隣りの若い女に見せびらかしたいのだろう、見せつけるようにして時間なんか見ている。拳骨の上の加納良吉の目がギラと光る。
右足でトンと音をたてて床を踏むと同時に、喉の奥から、「ギューッ」みたいな異様な音を出す。
加納良吉のいかれた様子に、目をそらせていた人達だけど、その音をいぶかってチラと目を向ける。それにタイミングを合せた加納良吉は、「ギューッ」「ギョーッ」と音をたてながら、鼻の穴にあてがったままの凶暴な拳骨を、グリグリ右に左に捻りまくる。
誰だって右の人差指がそっくり鼻の穴に捻じこまれ、あろうことか、グリグリこねまわされていると思うから、これは仰天する。おまけに加納良吉は拳骨を開いて、他の四本の指をしっかり見せたりするのだ。
編物をしていた若奥さんの膝から、毛糸の玉が通路に落ち、ツツツーッと糸を引きながら、車内を転げて行っても、誰もそっちなんか見る者はいない。皆、息を呑み、目を見張り、半分ほどは中腰になって口を開け、信じられない光景に魂を奪われたようになってしまう。
時には女学生が、拳骨の回転と同時に、自分の可愛い鼻を両手で押さえ、悲鳴をあげて床にしゃがみこんでしまうこともあったという。
頃合を見て加納良吉は拳骨を鼻からはずすと、指を拡げて人差指の欠けているのを、前に突き出すようにして、良く見せる。
タネ明しの途端、見せられた人達は加納良吉のマトモではない風態を、改めて思い出し、指の欠けている異様さにも不気味な物を感じるのだろう。軽く眉をひそめる様子で目をそらす。
それでも緊張が突然解けたことから、誰もが頬や目尻には笑いを浮べる。
次の駅に近付いた電車がスピードを落すのに合せて、加納良吉はゆっくりと腰を上げ、狙いの獲物に歩み寄ると、
「オイテメエ、俺の指の無いのを見て、随分と面白そうだったな。次で降りなよ。何が面白かったのか聴かせてもらおうじゃねえか。慶応って学校じゃあ不自由なモンを見た時、笑えなんて教えてるのか、一緒に行って聴いて見ようじゃねえの」
「ボク笑ってなんかいません……」
なんて言いながら立ち上った獲物を、グイグイ身体で押しまくって次の駅で降してしまう。こうなればもう河の中に相手を引っ張り込んだクロコダイルだ。
愚連隊と博徒なら稼業も違うし、同年輩の売り出し同士で幼な馴染だそうじゃないか、と口を利く先輩があらわれて、二人は十五年ほど前に兄弟分の盃をしたのだけど、後から考えると、どうもこれは加納良吉が積極的にお膳立を整えたように思われ、水田順一は苦笑いする。
しかし、秘密を知るたったひとりの男を、闇討ちを喰らわせたりなどせず、盃ごと[#「盃ごと」に傍点]で口をふさごうと考えたのなら、その方がズッとたち[#「たち」に傍点]が良いし、発想はどうであったにしろ、兄弟分としてつきあい、永い年月が過ぎた今、加納良吉は今のごろつき社会では二度と得難い素晴しい男だと、水田順一は懐しさで胸が温かくふくらむ思いだった。
そういえば二年ほど前に、脅しかなんかで実刑を喰い、たしか府中に落ちた[#「落ちた」に傍点]と聴いたから、俺と入れ違いぐらいで満期の筈。多分俺がここに落ちて来ると、拘置所から先に着いた連中から聴いて、
「娑婆で待ってるから、短気を起さず大事にやってくれ」
ぐらいの伝言を頼んでおいたのだろう。
水田順一は、この刑務所のどこかで、塀の外に出られる日を目前にした加納良吉が、もう何回飯を喰ったら、次は娑婆の飯と、楽しみにしていると思うと、自分のことのように嬉しかった。
夕食の前に掃夫が、
「間もなく夕食の配当です。用意して下さい」
と通路をふれてまわる。今日送られて来たばかりで、この刑務所の|慣行《やりかた》を良く知らない二つの新入房には、掃夫が一人ずつやってきて、飯の受け取り方や順序、喰い終った食器の洗い方と返し方、そんなことを教え込む。
水田順一の房に教えに来た掃夫は、さっきの男で、早口で手早く要領を教えると、水田順一に向って声をひそめ、
「病舎の看病夫からの申し送りです。昨晩八時に加納さんは、急性肺炎でお亡くなりになりました。先に着いた者から、多分兄弟分の水田さんが府中に落ちて来られると、聞いておられたようで、最期を看とった看病夫に、もう駄目だと自分で知っておられたのでしょう、
『兄弟が来たら、大事につとめて娑婆に出てくれ、お前の背中におぶさって、俺も一緒に出て行くんだから……』
話の途中で目をつむりなさった、とそういうことでした」
一気に囁き終ると、
「分かりましたね。それでは早く慣れるようにお願いします」
と大きな声を出して、水田順一には両方の目をつむって、顎を引いて見せ、掃夫は窓から去って行った。
水田順一は、立っていた通路側の窓際から離れると、夕飯のために舎房の真中に並べられた膳板の脇をまわって、反対側の中庭に面した窓の窓際まで行き、暮れかけて白い月の浮んだ空を、ただジッと仰ぎ見る。
あまり突然のせいか涙も湧いて来ない。
どこでどんなくたばりようをしようと、覚悟の上の稼業だとはいっても、満期を目前にした兄弟分が、同じ刑務所の病舎で、思いを残して死んだと聞けば、これは理屈も気取りもなしで悲しかった。|悼《いた》む言葉も出ては来ない。
明日は我が身、という想いが迫って来て、夏の虫よりよほどはかない、ごろつきの生命が、改めて哀れに思え、水田順一は暗い空を仰いで立ちつくしていた。
ガチャリ、ガチャリと金属製の|物《もっ》|相《そう》が音をたて、夕飯の賑わいが、立ちつくす水田順一はそのままに、新入房に溢れはじめていた。
塀の中の異邦人
「桜もこの雨で終りだな」
検身所の窓から中庭を横目で見ながら、水田順一は自分の番号の打ってあるフックに、舎房からここまで着て来た囚人服を引っかけ、素ッ裸になった。
朝、“出役”といって舎房から工場に向う時と、夕方、“還房”といって工場から舎房に帰る時、懲役は舎房と工場の間にある検身所で、朝は舎房衣を脱いで裸検身を受け工場衣を着、夕方はその逆になる。
これが免業日を除いて毎日繰り返される刑務所の儀式だ。雪の日でも暖房も何もない氷点下の検身所で、生きながら羽根をむしられた鶏のような裸の懲役は、検身台の横に身体を揉むように震わせながらナチ収容所のような行列を作る。看守が二人検身台の上に立って、両手をバンザイのように挙げて手のひらを開いて見せ、名前と囚人番号を叫びながら板製の台の上で足踏みする懲役を、飢えた山犬のような品のない金壺まなこで上から下までねめまわす。
この裸検身は看守が懲役の彫物を見たいために飽きもせず毎日二回ずつ繰り返すのではなく、禁制品密輸の取り締りと防止がその目的で行なわれるのだ。
舎房から工場に向う時より、工場から舎房に向う時の方が懲役の行なう密輸は断然多いのだが、裸の検身ぐらいの事でへこたれるほど懲役は可愛らしい連中じゃない。知恵をしぼって不可能を可能にし、いくら仕事だとはいえ、見ず知らずで個人的には何の恨みもない死刑囚の首を締めて、殺しても平っちゃらという人間離れした看守の鼻を明かして、煙草でもシンナーでも、磨きあげた歯ブラシの柄で作った玉でも、易々と運び込んでしまう。
水田順一は新宿の博徒で今年三十六歳。上背のある頑丈な身体で頬と目尻に刃物傷があり、左胸から腕にかけて面散らしの彫物が入っている。頼まれた未収金の回収をちょっと強引にやり過ぎて、不法監禁と暴力行為、それに傷害の併合で今度は三年半喰ってしまった。
春になると懲役は誰もが少しずつほがらかになる。永くて辛い冬が過ぎてくれたからだ。懲役に冬がないか、ハワイか台湾にでも刑務所があれば、刑期が三割増しでも良いくらい、冬は悲しくて厳しい。秋になると懲役は眉を寄せて、直ぐ近くに迫って来た冬を思って無口になるが、今は春だ。冬は行ってしまったばかりなのだ。
検身台の裸踊りが終ると、次の部屋のフックに吊してある昨日脱いだ工場衣を身につけて、ズボンの紐を歩きながら引っ張って工場に入る。
水田順一が|配《はい》|役《えき》されている工場は自動車の電気部品を組み立てている。
刑務所では、沢山ある工場の中のいくつかをヤクザ者の専門工場にしてある。ヤクザ者はまとめておいた方がいっそ扱い易い。工場や舎房で堅気や素人の懲役と混ぜるとすぐ威張り散らしてふんぞり返り、横車を通しまくって、揚句に自分の分まで仕事をさせたり、週に一度の甘く煮たうずら豆を脅し取ったりするからなのだ。
ヤクザ者ばかり詰め込んだ工場をサムライ工場なんて言うのだが、ネイミングが格好良過ぎるというものだ。ヤクザ者なんて、サムライはおろか、足軽・|仲間《ちゅうげん》でもまだもったいない。ほとんどが寒々とした心の、自分の儲けや得しか考えられない薄汚れた根性が、しぼれば毛穴からドス黒くにじみ出て来るような手合いなのだ。
水田順一はこのサムライ工場に半年前に配役されて、スターターのコイルに電線をはめ込む仕事をさせられている。指の先に思い切り力を入れなければならないので、自然と指がごつくなる。娑婆に戻って花札がうまく|繰《く》れるか、それが水田順一の心配だ。
舎房から工場まで裸足で、コンクリの廊下にザラザラのマットが敷かれた上を歩いて来た水田順一は、作業台の下に張ってある針金に乾してあった靴下と運動靴を履くと、一段高く作られてある工場担当の監視台の下に整列した。朝の点呼があるのだ。
日本人懲役が工場に入り終って監視台の下に四列になると、後から一団になって十六人の外人懲役が列に加わった。
あまり知られていないことだが、外国人の懲役も刑務所で日本人の懲役と一緒に服役している。
外人懲役は日本人懲役に比べて、いろいろな点で優しく扱われている。裸検身は免除されていて、飯は断然コストのかかった洋食だし、髪の毛も刈られない。おまけにクリスマスやサンクス・ギビング・デイ、それにそれぞれの国の建国記念日なんかには大使館からケーキや七面鳥まで差し入れがあるのだ。可哀相なのが韓国人の懲役で、他の東洋人と違って外国人扱いされずにいるのは不思議なことだ。
今日の十六人は寸づまりの南米人、栗色の髪と紅い顔の白人、無表情な東洋人、それに黒人が二人混っていた。
本担[#「本担」に傍点]の訓示が終ると懲役はそれぞれの|役《えき》|席《せき》について作業を始める。水田順一は積みあげてある大きなビニール籠の中からトラック用の大型コイルを取り出して、役席のテーブルに固定してある受け金にはめこんで、電線を巻きつけはじめた。
工場の入口のドアに鍵の音がして、保安課の看守が白人の新入りを連れて入って来た。腰に下げた鍵を使って、入って来たドアにまた鍵をかける。
栗色の髪で青い目の若い白人だった。工場の中に溢れている坊主刈りの日本人懲役を見て、すくんだ様子で本担の前に心細げに立っている。
外人懲役の|頭《かしら》はミルウォーキーから来たメリケンのジミーで、強姦で三年喰ったのだが、もう二年近くつとめたので、じきに仮釈放でアメリカに帰れる。
新入りの外人懲役が工場に落ちて来ると、頭のジミーと水田順一は呼ばれて監視台の下まで行く。
水田順一は、ゴロツキになる前、まだ二十代も始まりの頃、二年ほど外国航空会社のスチュワードをやったことがあって英語が話せる。そのことを知っている担当は水田順一を通訳として便利に使っている。
「アラン・スミスです。ニュージーランド国籍です」
ガラス玉のような薄いブルーの瞳が、栗色のシバシバする|睫《まつ》|毛《げ》のベールの奥でおびえた色をたたえて光っている。
「水田。お前の隣の席でスターターをやらせろ」
本担は身体の割に大きな目をグルグルさせて、アランを上から下まで、看守特有の目つきでねめながら言った。
「何やって何年の刑だ」
水田順一が仕事を教えながら小声で聞くと、
「この牛の糞[#「牛の糞」に傍点]め。バンコクから東京のホテルまで|大麻《グラス》を運んだら、経費のほかにU・Sの千ドル出すって言うんで喜んでやって来たら、飛行場の税関で捕まって、牛の糞め、グラスで判決が三年なんて狂ってるよ。世界中どこへ行ったって、こんな牛の糞は聞いたことがない」
「汗かくなよ[#「汗かくなよ」に傍点]、若いの。外人は俺たち日本人と違って仮釈放をウンともらえるから、一年半も真面目にやれば出られるよ」
水田順一が慰めてやっても、若いニュージーランド産の懲役は悲しそうな顔のままで、自分の役席の作業台に据えられた大きなコイルを見つめるだけだった。
「ミスター・水田。本当に一年半でこの惨めなゴミ箱から出られるだろうか。いくつこの針金の牛の糞を作ったら家に帰れるんだろう」
アランは不器用な手つきでコイルに電線をはめ込みながら、言った。
水田順一はちょっと意地悪ないたずらっぽい顔になって、
「懲役同士の喧嘩で刑が五年増えてしまったのが、ホラ、あの男さ。自分の足で塀の外に出るまで、何時懲役が終るのか本当に知ってるのは神様だけだ。お前たちの、最後は死刑になっちゃった縁起の悪い神様に祈って幸運に恵まれて一年半。このサイズのスターターは一日に七個組み立てるのが規定だから、土曜日は半日だし、正月休みはあるし、月に二十四日で計算して、四百三十二日だろ。七を掛けて、三千ととんで二十四個。まあ、二千五百も作れば娑婆の匂いがして来るな、ニュージーランドなら羊の匂いか」
アランはテーブルに突っ伏して、返事の代りに「ギューッ」か「グエーッ」みたいなウメキ声を洩らしただけで、口癖の「牛の糞」さえ口に出ないようだった。
「センシンッ」
中央通路に立った副担[#「副担」に傍点]が叫ぶ。洗身と書くが、希望者は工場の隅にある|三和土《た た き》の洗い場で身体を洗うのだ。
どうやら今日も終ってくれたようだ。ほうぼうの役席から素ッ裸になった懲役がタオルと石鹸を掴んで中央通路を洗い場に向けて歩いて行く。
初めての日本、着いた途端の飛行場で御用になって、警察、拘置所、刑務所と通って来ただけなのだから、アランの日本に関する知識は、二十四歳の平均的ニュージーランド人とほとんど変らない。
アランと水田順一の役席の前の通路を素ッ裸の懲役が、一日が終った喜びで弾むように通る。
突然、工場衣を脱ぐ手を止めて、アランは目の前を通る裸の懲役を次々と指差して叫んだ。
「ファンタスティック。アンビリーバブル。あの男は大きな犬を背負っている。きっと自分が飼っている日本のチャンピオン・ドッグなのだ。オッ、あの男は背中になんと大きな赤い魚と子供を画いている。子供の頃、あんな大きな魚を捕って、その記念に違いない」
ガラス玉のようなブルーの瞳が飛び出さんばかりに見開かれている。
「ゴッシュ。世界中を回ったけど、こんな刺青をする人たちを俺は知らない。見ろ、あの男は日本一の園芸家だぜ、キャベツと赤い花だ」
外国人も彫物はやるが、日本のような連続した図柄で面積の広いのはほとんどなく、何かの記念か想い出を刻んだ十五センチ四角がせいぜい。自分の乗組んだ船だとか、恋人やおふくろの名前を花輪で囲ったものだとかで、それに比べると日本の彫物はたしかに圧倒的な配色とデザイン、そしてサイズなのだ。
アランは初めて見る日本の彫物に興奮していた。無理もない。しかもここは彫物に関しては宝庫といっていい所だ。
水田順一は、犬に見えるのが、品評会で優勝した犬なんかではなくて唐獅子という東洋の想像上のライオンであることや、背中の子供は金太郎という数世紀前の勇敢な少年で、あの図柄は抱き鯉という、日本の彫物ではポピュラーなデザインの|ひとつ《ワン・オブ・ゼム》であること、そして、あの男は園芸家でも農民でもなく、実は自分の住んでいる温泉場でコールガール・システムをコントロールしているギャングの|頭目《ボ ス》で、キャベツと赤い花なんかでは断じてなく、岩牡丹という極く珍しい花と桜の花びらのコンビネーションであることを、通り過ぎるヤクザの背中や胸を教材にいちいち教えてやったのだ。
「アラン、俺のを見てみろ。これは面散らしといって、彫ってある七ツの面はみんな日本の代表的なクラスィカルなマスク・プレイのものなのだ」
それから丸二日間かかって、水田順一はアランに、日本のヤクザの彫物は、記念や想い出の為のものではなく、彫物を彫る時の苦痛に耐えた男の勲章のような性質のもので、図柄と本人との間に特別な関係は、普通の場合はまず何もないのだということを繰り返し説明した。そして三日目に至ってようやくアランは、それでもなお首を納得行かぬげに振りながら、
「どうにも理解しがたいことだが、ミスター・水田の説明は分かったつもりだ」
と呟いてから、
「ミスター・水田、くどいけど、もう一度確かめさせてくれ。あの日本のギャングたちは彫物の痛さに耐えた男らしさを誇るのが目的なので、言ってみればデモンストレーションのためのものだから、大きさや色彩、それに仕上りの良さが問題で、絵の内容やデザインはその男とは関係ない、とこういうことなんだよね。信じられない発想だ、自分と無関係な絵を一生身体の表面に画いてしまうなんて。ロシア人がベーブ・ルースを彫るのや、エスキモーがアイスクリームを彫るのとほとんど同じほど、理解に苦しむことだよ」
そのアランが日本の刑務所を毒づき、看守の人間性の欠落について神の許しを願い、自分が放浪したタイや東南アジアの、求めれば必ず許した小柄でしなやかで、しかも物欲が薄い娘たちについて語り、マリワナとハシシを知らずに人生を了える人たちに祈りを捧げているうちに、コンクリのオブンの中で|焙《あぶ》り殺されるような夏が過ぎ、構内の桜の葉が茶色の蝶になって舞う秋が去り、思い出したくもない惨めな冬が終って、桃の花がピンクに、梅が白く赤く、そして桜が華やかに咲いて、再び何もしないでただジッとしていても汗が肌を流れる夏が、続けて舎房や工場の硝子窓を脅しあげるようにした台風に乗ってまた秋が訪れた頃、まだ千二百個ほどしかスターターを組み立てていなかったのに、面接の後、アランの仮釈放が決まった。
大げさに感謝の言葉を連らねるアランに、
「お前はギャングじゃないんだから、故郷に帰ったら真面目に働いて、もう刑務所なんか来るんじゃないぜ」
と水田順一が|喩《さと》したのは|柄《がら》じゃないことだったかもしれない。
それからいくらも経たないある日、新しく娑婆から落ちて来た懲役から、彫物師に弟子入りした変な白人の噂を聞いた水田順一は、それが当のアランかどうか確かめることが出来ないまま、意味もなく小さい舌打ちをしていた。
飛び魚ミミのこと
三年|六《ろく》|月《げつ》の実刑判決が確定した水田順一が、東京近郊にあるこの刑務所に送られ、二週間の新入教育が終って|配《はい》|役《えき》されたのは、箪笥や本棚なんかを作っている木工場だった。
隣りの電気部品工場は、極彩色の彫物の品評会を毎日やっているような、ヤクザ者ばかり集めた工場で、当然そこで働かされるものと、予想していたのだけど、配役が言い渡されてみると隣りの木工場だったので、これはちょっとした“穴”だった。
木工場には、塗装に使うシンナーもあるし、すぐ凶器になる道具も多いので、|年齢《と し》のいった穏やかな懲役が選ばれる、と決っていて、ヤクザ者は少ないのだ。
“ヤレヤレ、俺も木工場に落ちる[#「落ちる」に傍点]年齢になっちゃったんかいな……”
憮然とした水田順一だったけど、そこは流石に、専門家である看守のやることに間違いはなく、若い頃は、短気[#「短気」に傍点]が聞き違えられて“タヌキの順チャン”と異名をとった男が、数年前四十歳を越してから、目立って性質が円くなって来ていたのも事実だった。
自分自身、随分おとなしくなったと感じていたし、それも、その頃|臍《へそ》から十五センチほど下に群生しているちぢれ毛の中に、二本ばかり白い奴が混っていたのを、ヤクザ者としては珍しく十年以上も連れ添った女房に指摘され、一瞬頭の中が白くなるほどのショックを受け、苦心して抜いたものの、どうもそれ以来のようだ、と原因の究明は終っていた。
しかしいずれにせよ、木工場というのは悪い配置ではない。同じ工場で働く仲間が、大人しいということは、トラブルや事故の起る可能性が少ないということだし、事故が少なければ懲罰を喰う率も、相手を殺したり大怪我をさせて新たな刑を加算されるという、最悪のケースの起る確率も少ないわけだった。
水田順一のように、四十過ぎまで東京の真中でヤクザ者をやっていると、警察に逮捕されたり起訴されたりすることは、堅気でいえば青色申告のようなものだったし、堅気ならまだ学生という年齢でもう前科者だったのだから、起訴されれば、それはもうほぼ塀の中への直行便を意味していた。
物心がついた頃から今日までの、永い無頼な年月だったから、捕まってぶち込まれるたびに、堅気が釣り場や駅前のノンベ横丁で“ヤア”と言い合うような、そんな顔馴染も自然と増えた。
木工場に落ちた水田順一が、久し振りに会って、お互に嬉しそうな顔で“オウ”と呼び合った小山忠も、そんな顔馴染の一人だった。
「元気でいたんだな忠さん。いくつになったんだい。もう今頃はどっかの養老院で、|最《も》|中《なか》か桜餅でもクスネそこなって、無縁仏になってるかと思ったぜ」
水田順一は大柄な男だから、両手で小山忠の両肩を、懐かしさの余り“バスンバスン”と叩くと、小柄な白い坊主刈頭[#「白い坊主刈頭」に傍点]の小山忠は、叩かれるたびに膝をガクガクさせて、工場の床に打ち込まれそうに見えた。
「ヤア順さん。その図体でそんな元気だってことは、この頃のヤクザは拳銃の狙いが、余程悪いんだねえ。ケケケケケ」
五年ほど前、盗みに入った病院の窓から飛び降りたのはいいが、ちょうど建物の角をまわって来たパトロールの巡査の、制帽の上に着陸してしまったという大不運でパクられた小山忠と、築地署の留置場ですれ違った。
一晩一緒に居ただけで、水田順一は翌朝不起訴で釈放になり、古い顔馴染だから、出た足で三万円だかを差入れし、それ以来のめぐり逢いだ。
大泥棒の小山忠は、坊主刈にされた頭がもうすっかり白いのだから、随分な|年齢《と し》の筈だ。とにかく水田順一と最初に顔の合ったのが二十七年も前、水田順一は未成年だったけれど、小山忠はその頃既にいいトッツァンだった……。
「まさか忠さん、あの築地以来塀の中に入りっ放しじゃあるまい。今回は何年の刑で満期は|何《い》|時《つ》だい。俺は三年六月だ」
「ああ、あん時は差入れ有難うね。今回はまだふた月前に落ちたばかりの三年さ。この木工場は三度目だから勤め易いけど、それでも、もう|年齢《と し》だね、身体中ガタガタで、慣れた仕事が本当にキツイぜ」
水田順一の聞くところでは、小山忠の家具職人としての腕は飛び切りだということで、なるほど木工場の東の隅に専用の仕事場を用意してもらって、流れ作業で作られる安物の家具ではなく、注文に応じて手作りされる一品物を作っていた。
今作っているのは、ローズ・ウッドのサイド・ボードで、所長の娘の嫁入道具だという。小山忠ほどの腕前になると、裁判中に入れておかれる拘置所にいる段階でもう、木工所のある刑務所の間で獲り合いが始まるのだ、というのだから驚いてしまう。
小山忠のいる刑務所は、年に一度ある法務省主催の全国コンクールで、入賞して良い顔も出来るし、きっとそれが看守の成績にも響くのだろう。だから、少々の反則なら見逃してくれるし、いろいろ大事にされるのだという。
「忠さん、芸は身を助ける、だねえ」
水田順一が感心すると、
「いやあ順さん、木工ばかりじゃねえさ、あんたっちヤクザもんでも、渋谷の森山さんほどにもなると、どこの刑務所からも引っ張り凧で、俺っち職人とは違って大威張りで楽が出来るんだぜ」
「なんだ渋谷の森山さんなら俺の先輩筋だよ。ド迫力のある大兄イだったけど、一家が解散したんで、今は右翼の若い衆に剣術を教えておられる、って聞いてるよ」
「そう、その剣術が大変なもんだったのさ」
森山雅夫はヤクザ者だったけど、剣の道では有名な大達人だったから、懲役に落ちてもまるで別格の扱いを受け、最初から冬暖かく夏涼しい、東南に面した二階の独居房に入れられ、看守の道場で剣術の稽古をつけるのが毎日の仕事で、昼と晩は看守の食堂で喰べ、弟子の看守が朝夕、最敬礼で送り迎えをしたのだという。
「俺の見た限り、ヤクザもんでは誰よりもあの森山さんが、一番|官《カン》に大事にされたし、威張っていたよ」
先輩の桁違いの勤め方[#「勤め方」に傍点]を聴かされて、我が身に較べ少しショボンとしてしまった水田順一の様子を見て、
「ちょうどテモトって、まあアシスタントをひとり担当部長に頼んでたところだから、気心が知れていてちょうど良いので、と言って順さんに来てもらうようにするから、ここで一緒に気楽にやりましょうや」
と言ってくれて、水田順一はすぐ小山忠の助手になった。
夏が過ぎて厳しい冬の前ぶれの短い秋が、過ぎかけようとしている頃だった。自分の体温以外に頼れる物の何もない塀の中の冬は、いくら東京近郊の刑務所とはいっても、懲役にとって一番辛い最悪の季節だ。
避けようもなくやって来かかっている冬に、逆毛を立てて懲役が身構えている、とそんな様子の頃だった。
煙草はおろか、面会から、手紙を出す回数、読む本の冊数に至るまで、何から何まで制限し、懲役の自由を奪うというのが官[#「官」に傍点]の方針だ。そんな状態にしておけば、普段味噌汁の残りをかけた飯ぐらいの粗食で飼っていた犬が、具合が悪くなると生卵一個で良くなるのと同じで、懲役もほんの少しの自由や制限を僅かにゆるめてやるぐらいのことで、自在にコントロール出来ると信じているからだろう。
舎房の窓から喰べ残しのパンを、中庭に集る鳩や椋鳥に投げてやっても、看守に見付かれば懲罰を喰ってしまう、という所が刑務所で、手紙でそれを知った叔母が、
「僅かな自分の喰べ物を、小鳥達に分けてあげよう、という優しい行いが、なぜ罰せられなければならないのでしょう」
と呆れて書いて来たのが、たちまち検閲に引っ掛って、油をしぼられたのも水田順一の若い頃の、苦く悲しい想い出だ。
そんな自由と楽しみを、ほとんど限界まで制限されている塀の中の毎日だから、半年に一度ほどの演芸[#「演芸」に傍点]は、懲役の楽しみの特大級のエベントだ。
演芸の日取りが決まると同時に、内容と出演者の噂が刑務所じゅうに流れ出す。ほぼ何時でもパターンは決まっていて、最初は誰か自分の希望を口にしたのが空気伝染のように拡がるのだ。そしてそれが素晴しければ素晴しいほど、すぐ皆が落ち込むような、絶望的な話が追っ駆けて来る。
「金属工場に落ちている[#「落ちている」に傍点]関西の大親分への差入れで、宝塚花組総出演。ライン・ダンスでピョンピョン長いあんよを蹴あげるそうだ」
そんな噂で、聞いた懲役が目を輝かせ鼻の穴をひろげると、すぐ追っ駆けて、
「あの上方の、なにやら云うお和尚さんと、壇家が大屋政子先生だとかで、ふたりが一緒に来て講演をするんだと……」
“関西”という言葉からの連想だけで、よくもまあこんな悲劇的なことまで考えつくものだ。どこの工場で誰が言い出したのか、たちまち塀の中の隅から隅まで行き渡り、天国から地獄へひきずりおろされた気分で一杯になってしまうのだ。
秋の飛び石連休に演芸がある、と囁かれ出すとすぐ“青江三奈プラス浅香光代一座”という噂がついて来たのだが、ローズ・ウッドのサイド・ボードを仕上げて、下に二段抽出しの付いた大型洋服箪笥にかかっていた小山忠は、その噂を水田順一が伝えるなり、ちょっと眉をしかめて見せ、
「違う順さん、演芸は“飛び魚ミミ”だよ」
と、小さな低い声だったけど、なぜかはっきり確信して疑わない口調で、言い切った。
「飛び魚ミミって、あのミュージカルの……。けど忠さん、俺は好きだからいいけど、どうもバタ臭くて、あまり刑務所の演芸って芸人じゃないだろうに……」
水田順一が言うと、小山忠はそれが癖で一回総入歯をカタリといわせてから、
「他の有象無象には内緒だよ、けどね順さん、今度の演芸は“飛び魚ミミ”なんだ」
と、普段は細い目を、その時ばかりは随分大きく丸くして言ったのだった。
「忠さん、それはあんたの勘かい、予想かい、それとも確定かい」
「くどいね順さん。ヤクザもんと違って俺っち盗っ人は、勘や予想で物は言わないよ。これは確定だから、賭けて儲けるといい」
「なんだか知らねえけど、当ったらこれはかなりな穴だぜ、飛び魚ミミってのは……」
日本調の芸人にほとんど限られている刑務所の演芸だから、小山忠が確定だというミュージカル・スターの飛び魚ミミという名前は、しかしいかにも突飛で、口に出したところで聞いた誰もが、“イーッ?”というような名前だったのだ。
噂の方も、最初に伝わって来た“青江三奈プラス浅香光代一座”という素晴しい奴を追いかけて、私立男子[#「男子」に傍点]高校のコーラスとブラス・バンドという、もうその発想のユニークさで、発案した懲役は出所したらすぐCMのプロデューサーぐらいには、なれるに決まってるようなのが囁かれ、そしてそれからは水前寺清子だ玉川勝太郎だと、当りそうなヤツがいろいろと伝わって来た。
それでも、何時の時でもそうなのだが、いよいよ演芸の一週間ほど前になると、教育課の使役をさせられている懲役から、本当の本当[#「本当の本当」に傍点]が伝わって来て、懲役達が豊かな想像力を一杯に使って産み出したキャスティングは、全て泡と散ってしまうのだ。
見上げるような洋服箪笥を、小柄な小山忠が仰ぎ見ながら、木箱に乗った水田順一に、
「順さん、そこんとこもうチイと……」
と、研磨器を当てる所を指図していたところに、作業帽にその男だけ黒線を一本巻いた、木工場の|囚人頭《ブンタイ》がやって来て、
「水田さんと忠さんに御知らせします。今回の演芸は、飛び魚ミミに確定しました。なお、今回に限って差入人、差入先等は、全く不明で謎に包まれております」
と、おどけた口調で知らせたので、水田順一は、あやうく木箱の上から落ちそうになった。
「驚いた。賭けで随分儲かったけど、飛び魚ミミとは、言った本人の俺が驚いたぜ」
叫びながら小山忠の顔を覗き込んだ水田順一だったけど、小山忠は知らぬ顔で老眼鏡を掛け図面を見るふりをしていた。いきさつを無論何も知らない囚人頭は、無邪気に、
「いやあ、刑務所の慰問にしちゃ随分変った芸人なんで、まんまと水田さんに大穴を見降し[#「見降し」に傍点]で取られちゃいましたよ。なんでも水田さんは娑婆では漫画の画いてあるTシャツを平気で着たり、ジャズの興行をぶったりする人だからと、知っている奴はツケ張りで儲けたんですけどね……」
と言った。
「いやあ俺への差入れなんかじゃねえんだ。飛び魚ミミは俺のからみ[#「からみ」に傍点]じゃなくて、なんとこの忠さんだよ」
水田順一は苦笑いして言ったのだけど、囚人頭は、ハナから冗談と決めてとり合わず、次の部署にこのニュースとトトカルチョの配当を知らせに去って行った。
「本当のことを言ったところで、誰も信じねえどころか、まともにも聴かねえや。しかし忠さん驚いたな、飛び魚ミミは、もしやあんたのお嬢さんかい」
「娘じゃねえよ、女だった」
小山忠は、老眼鏡をはずしてケースに納めながら、ポツリと言った。
塀の中でする懲役の話は、ほとんどが嘘か、そうでなければ、事実とは随分違った話なのだ。
集団就職した町工場で、作業中よそ見をしていて切り落してしまい、労災保険までもらった指が、抗争事件を納めるためにスパッと詰めた指になったり、娑婆では仲間の所をまわって、シャブを一発、と頭を下げてはせがんでいたような男が、刑務所に落ちて周囲に本当の姿を知る者が居ないとなると、キロ単位で取引をしていた大物に急成長し、まともに聴いたポン中が堪らず唾をゴクンと呑み込んだりはしょっちゅうのことだ。
だから話五十分の一ぐらいに聴いておくのが塀の中の常識なのだけど、昔馴染の年寄で普段から話の大きくはない小山忠だし、それに演芸の話が始った最初から、飛び魚ミミと意外な名前を言い切っていたのだ。四十を少し過ぎたとはいえ、まだ充分水々しくチャーミングで、ステージ一杯にタップを踏み、ジャズ・ダンスを踊り、そして豊かな水蜜桃のような胸を抱えて唱う、飛魚ミミを、この|乾《ひ》からびただししゃこ[#「だししゃこ」に傍点]のような爺様の小山忠が、
“娘じゃねえよ、女だった”
と言い放っても、仰天しながらも素直に聴いた水田順一だった。
「飛び魚ミミはね、俺と同じ町内だった」
小山忠は、ポツリポツリと、自分と飛び魚ミミの話を始めた。この|年齢《と し》になればどんな年季の入った懲役でも、気心の知れた相手が居れば、話しておきたい自分自身の物語りがあるものだ。
具合の良いことに、他の流れ作業の|役《えき》|席《せき》と違って、この一品物を作る役席は、図面を拡げておきさえすれば、とがめられずに永い間話がしていられた。もっとも、見張りの看守の目をあざむくため、話の内容には関係なく時々図面を、指でチョンチョンなんてやって見せる。
下町の同じ町内、それも三軒隣りの左官の娘が飛び魚ミミだった。父親は腕の良い職人だったけど、兵隊で連れて行かれた南の島で、毒虫に刺された上に内臓を痛め、復員して来ても月に半分ほども働けず、貧しい隣近所の中でも、とりわけ苦しい暮しだった。
昭和三十年までの東京は、とても貧しく、喰べるのだって大変だったけど、飛び魚ミミはツギの当った古着を着て|非《ひ》|道《ど》い物を喰べながら、それでもスクスク大きくなっていった。
子供の頃から目鼻だちのクッキリとした陽気な娘で、唱わせても踊らせても人並はずれて上手だったし、運動神経も素晴しかったから、学芸会でも運動会でも、飛び魚ミミはいつでも抜けたスターだった。
飛び魚ミミが中学をおえる頃になると、方々の芸者屋から親の貧乏を見すかしたスカウトが、器量とのびのびとした身体、それに芸ごとの筋の良さを聞いて、むらがって来たのだけど、この時は親もよく頑張り、飛び魚ミミは自分の望む浅草のレビュー・チームの見習になれたのだ。
「俺はその頃、若手では腕自慢の差物師だったけど、その頃は普通の堅気はまだまだ喰べるのが一杯で、とても家具にまでは手がまわらなかったから、注文は、飢えた東京の人達に喰べ物を無茶苦茶な値段で闇売し、農地解放とかでタダ同然で土地を手に入れた近郊の百姓どもと、これも闇で儲けた新興成金、それに外人さんとまず決まってた」
そこまで話すと小山忠は咳こんでしまい、軽い咳だったけどなかなか止らず、暫く身体を折るようにしゃがんでいた。
いずれにしろ、家具を頼まれる先が、どれも癪にさわるような奴ばかりだったから、つい納めた後で夜分しのび込むようになってしまったわけだ。と小山忠はちり紙でしきりと痰を、苦しそうに何度もとりながら言った。
「なるほど、昼間家具をおさめに行った時、山見[#「山見」に傍点]をするわけだ」
「ア、順さん、|山《やま》|見《み》なんて盗っ人の|言葉《ちょうふ》を知ってるんだ」
若い看守が見まわりで、すぐ脇の通路を歩いて来たから、二人は慣れた仕草で図面を突ついて見せる。
飛び魚ミミは、新人ながらメキメキ芽を出し、同期では一番早く、ちょっとした役もついた。恵まれた資質が所を得て、花の蕾が大きくふくらんだ、といった様子だったのだ。
けど、芸人の世界は、どこでも同じなのだが、レッスン代とかつけ届けとか、いろいろ|出《で》|銭《せん》が多く、若い間はどうしてもお給金だけでは足りない仕掛になっている。
すっかり娘らしくなった飛び魚ミミと、地下鉄でパッタリ会って、浅草のフルーツ・パーラーに入ると、
「そんなわけで、この道で身を立てると決めた以上は、仕方がないから旦那をとるわ」
と飛び魚ミミは、子供の頃と変らない陽気な仔猫のような顔をして、それでも矢張り悲しげに目を伏せて言ったので、
「お前さんさえ構わなければ、今日の今から俺が面倒を見させてもらう。どうか立派な芸人になってくんない[#「くんない」に傍点]」
と小山忠は胸を張ったのだという。懐には札束がうなっていたのだそうだ。
「それが昭和三十七年だった。世の中はもう今と余り変んないほど豊かになっていて、金さえ出せば、なんでも喰えたしなんでも買えた。そのころ順さん、あんた何してた」
「広島に腕貸し[#「腕貸し」に傍点]に行って、目を釣り上げて闘ってたよ。まだ若かった」
水田順一は、目をまぶしそうに細め、遠くを見るようにして言った。
「それからの俺は、一層精を出して家具もこさえたし盗みもした。自分は始末して地味にやってたけど、飛び魚ミミには存分に注ぎ込んだよ。この娘を一丁前の芸人にするため、と大義名分が付けば、順さん達の渡世の義理とやらとこれは同じことで、なんでも苦にならない」
抱いてやらなければ、この娘も心苦しいだろうから……。なんていうのは綺麗ごとで、まだ俺も若かったから、美しい輝くような飛び魚ミミとそうなるのは、正直な話、嬉しくて堪らなかった。と小山忠は水田順一の目を、“分かってくれるよな、男同士だから……”と言いたげにジッと覗き込む。
|銭《ぜに》ずくで堅気のヒヒ爺いに抱かれたんじゃ、手前勝手な屁理屈かも知れないけど、それじゃあんまりだ、と俺はそう思ったんだ。と小山忠は言って、細い目を光らせた。
芸人、相撲取り、役者に芸者、それに盗っ人も含めて、皆、身体を売って喰ってる仲間だと思っているから、それを堅気が|銭《ぜに》で買うのは当り前だけど、目の前の蕾をヌケヌケと美味しくされたのでは、これは気が狂ってしまう。風邪が余程|非《ひ》|道《ど》いらしく、小山忠はそこまで話すとまた、ひとしきり咳こんだ。
最初の頃は、盗んだ金……というのが、若い飛び魚ミミには大分ひっかかったようだったけど、
「困った人から盗んじゃいねえ、盗んでも良いと自分で決めたところからだけだ。少しの芋か米で、おふくろ達から一張羅を巻きあげた百姓ほど、人の道にはずれるようなことはやってねえ。良い悪いは警察や裁判官に決めてもらうことじゃなく、自分で決めることなんだ」
と話してやったら、どうやら飛び魚ミミも納得がいったようだった。
そして永い年月が過ぎ、俺の服役中に飛び魚ミミは、踊りを習いにアメリカにも行ったし、遂に今では日本一のミュージカル・スターになった。だから今の俺はもう六年ほど前から“お役御免”で、出所した時に、あいつが義理をしてくれる時ぐらいの、垢抜けた仲になっている。
自分の暮しのためにだけ、ほんのチョイと仕事をするだけなのだが、もう|年齢《と し》だから、ドジをやっては捕まってしまうんだな。あまり再々捕まるようだと、飛び魚ミミの放免祝欲しさ……。なんて思われかねないので、焦っちゃうのさ。小山忠は苦笑いしながら話しおえた。
木造の古い時代物の工場だから、秋の冷たい風が自由に入って来て、深い皺が横に刻まれている小山忠の首筋を撫で、年寄りの小山忠は堪らず大きなクシャミをし、鼻水を床に落したのを慌てて運動靴の底で隠したのだった。
「今でも時々、昔の町内に帰って来て、俺の妹の片付き先に顔を出すんだが、今度も、俺がこの刑務所に落ちたと妹から聞いて、あいつ慰問団を作って来てくれたわけなんだ。妹からの手紙で、俺は知ってたんだよ」
今の身の上とおいぼれ加減で、飛び魚ミミとどうだ、なんて言ってみたところで垢抜けないばかりだから、どうぞ他の懲役には、この話はしないで欲しい。俺も未練で辱かしいけど、くたばる前に誰かまともに聴いてくれる者に話しておきたかったんだ。笑ってくれるな、と小山忠は図面を見ながら消え入りそうな声で言った。
教育部長の、誰も聴いてない訓示が終ると、幕があがり、アップ・テンポのラテン音楽が鳴り出し、ステップを踏んで踊り手が舞台の袖から姿をあらわす。講堂一杯に詰った懲役は、喉からウメキ声をもらしながら、ただ手を叩き続ける。
グレイと黒ばかりで、普段色彩に乏しい塀の中だから、踊り手のまとった鮮やかな原色の衣装が、懲役の目をくらませる。まばたきが止ってしまい、懲役達はまるで坊主刈の懲役人形のように見えた。
男女十人ほどの踊り手が、狭い舞台に展開すると、打楽器の鳴らすリズムに乗って、飛び魚ミミは、南の国の大きな花が太陽に向って笑いかけるような、大きな目を見張るように輝かせた笑顔で、サンバのステップを踊りながら、舞台にあらわれた。
「今日は皆さん、飛び魚ミミです」
頂点にある芸人だけが持つ、圧倒的な美しさだった。激しい拍手の中に、“ウオーッ”という、声にはならない、懲役の腹と胸からしぼり出されたウメキ[#「ウメキ」に傍点]が混る。
「限られた時間ですが、私達精一杯唱って踊ります。どうぞ皆様お楽しみになって下さい」
言いながら飛び魚ミミの目線は、講堂一杯の坊主頭を、前の列から順に横になめながら、小山忠の白い頭を探している。
出来るだけ懲役達の知っていそうな曲を選んだのだろう、ベサメ・ムーチョが鳴り出し、踊りの中から男の踊り手が一人、中央のマイクロフォンの前に抜け出して立つと、日本語の歌詞で唱い出す。
“ベッサメ、ベサメ・ムーチョ、燃ゆるくちづけ交わすたび……”
舞台の一番前に出て踊りながら、飛び魚ミミが目をこらして、似たような坊主刈の群れの中から小山忠を、懸命に探し出そうとする様子に、せつなくなった水田順一は目をつむってしまった。
つむった水田順一の目の睫毛の間から、透き通った涙がにじみ出て来る。
探しあぐねた飛び魚ミミは、事情を知っている水田順一以外の者にはそれと分からぬほど、僅かに首をかしげて見せてから、マイクの前に踊り出た。
一番を唱い終った男が、マイクロフォンを譲って踊りの輪に戻る。飛び魚ミミは二番を張りのあるパンチの利いた声で唱い始め、そして途中で、
“何処にいるの、手を振って私に知らせて”
と唱ったのだが、ラテンなんかまるで御存知ない懲役と看守だから、誰もそこだけ特にシャウトした飛び魚ミミのアドリブには気が付かない。
時々眉をしかめるように曇らせ、不審げな視線を笑顔に混ぜて客席に投げながら、一時間ちょっとの“飛び魚ミミ、オン・ステージ”は、懲役の熱狂的な拍手のうちにフィナーレになった。“お別れルンバ”のメロディーに乗って、飛び魚ミミは、中央のマイクロフォンの前に出て来た。
「お別れの時間が来てしまいました。皆様のお気に入るか心配だった私達の歌と踊りですが、こんなに拍手をいただいて、芸人としてこんなに嬉しいことはございません。
どうも有難うございました。
どうぞ皆様もお身体を大切に、一日も早く出所なさって、塀の外で待ってらっしゃる方達を、倖せにしてさしあげて下さい。
サヨウナラ……」
拍手の轟きの中、半べそで手を振り続ける飛び魚ミミの前に、幕が降りて行く。
“ミミちゃん、あんたの忠さんは風邪をこじらせた急性肺炎で、昨晩仏さんになっちゃったよ。いつまで待ったって塀の外にはもう出て行けねえんだ”
胸の中で呟くと、目の裏が熱くなり胸の底からこみあげて来るものが止らなかった。
昔馴染の|鯔《いな》|背《せ》な年寄、小山忠の、あっけないというより嘘のように、刑務所の病舎で終ってしまった生命。自分にだけ最後に打ち明けた、街の男の物語り。舞台の上から、愛といたわりの心を籠めて、小山忠の白い頭を探し続けた飛び魚ミミ。
鳴り止まぬ拍手の中で、水田順一はただ腕組みをして頭を垂れていた。
白い仔猫の用心棒
あんな、百八十センチもあって、九十キロも目方のあるヤクザの大幹部が、猫にやっつけられちゃうなんてこと、本当にあるのだろうか……。
どうも冗談のようには、思えなかったのだが、この刑務所にいる懲役達は誰も、怪物のようなところを秘めた常識外の連中だから、どうとも決めかねる。
運動時間に、工場から連れて来られた広いグラウンドで、芝生の斜面に寝そべると、目を閉じている|巨《おお》きな水田順一を見ながら、英吉はしきりとそんなことを思っていた。
水田順一は、傷害と器物損壊で二年|六《ろく》|月《げつ》くらった四十歳のヤクザだ。
二十七歳の英吉は、暴力行為と脅迫で一年の|短期刑《ションベン》だが、覚醒剤で一年のまだ切れていない|執行猶予《バクダン》があったので、合せて二年つとめなければならない。
英吉は、スケコマシだから、今度も、女とその実家を強引に追い込んでぱくられたのだが、よせばいいのに、|珍《チン》|景《ケ》な|組関係《カンバン》を滅多矢鱈に振りまわしたので、|\[#「\」は○にB DFパブリW5D外字="#F05C"]《マルビー》扱いにされてしまったのだ。
\[#「\」は○にB DFパブリW5D外字="#F05C"]というのは、|丸《マル》|暴《ボー》が余り一般に知られてしまったので、ちょっと前から警察や法務省が使いだした言葉だが、組織暴力団組員のことだから、木ッ端役人のお粗末な感覚がこれだけで良く分かる。
警察も感覚はともかくプロだから、英吉を捕まえると、これはダンベ若い衆[#「ダンベ若い衆」に傍点]と睨んで、素直に可愛くすれば、準構成員ぐらいにしておいてやろう、と思っていたのに、
「る[#「る」に傍点]せえんだよ、この|刑事《デコスケ》共は。女房が実家の親とつるんで、籍を抜いてくれの話だから、ヤクザの理屈を教えてくれただけのことで、テメエらのしゃしゃる[#「しゃしゃる」に傍点]ようなことかい」
なんて、まだ板に付かない巻舌で、憎たらしいことを|吐《ぬ》かした|揚《あげ》|句《く》、
「いつからこの署は夫婦喧嘩に鼻を突っこむようになったんでえ。|刑事《イヌ》が犬を喰ったり喰われたりすりゃあ、教えてやらあ、共喰いってんだぜ」
女と実家にだけやってればいいのに、見境いがつかずに警察でもやってしまったというのが、今年からテキ屋の若い衆になったにわかゴロツキということで、
「よしよし、この阿呆たれ小僧、望み通り一丁前のゴロツキ扱いをしてくれらあ、寄せ場に落ちて泣きやがれ、いい気味だ、この馬鹿たれめ、ヒッヒッヒ」
刑事が憎らしそうに言ったわけを、はっきり英吉が知ったのは、実刑判決が確定した拘置所で、送られる刑務所を言い渡されてから、府中刑務所の新入房に入れられるまでの間だった。
「エッ府中、自分は初犯ですよ。あそこは再犯刑務所でしょう。しっかり頼んますよ」
かねてから、化物のような再犯刑務所の|懲役太郎《ベ テ ラ ン》達の話を聴かされて、その人間離れのした異様さに、ちり毛立つ思いだった英吉なので、そんな時でも膝が震えだして止らない。
のっぺり型で細身の優男だから、色を失うと、まるで裏なりの胡瓜だ。
「お前は、|官《カン》に何か教えてくれようというのか、それとも懲役の分際で逆らうつもりか。性根を据えて返答せいッ」
と|怒鳴《ウナ》りとばされ、動かず|瞬《まばたき》をしない目で睨みつけられると、青いまま首をすくめてうなだれて、膝の内側をぶつけ続けた。
ダンベ若い衆というのは、組が会費や上納金を出させたり、懐をこく[#「懐をこく」に傍点]のを目的にして盃をやる若い衆のことで、賛助会員とか資金係のようなものだ。
府中刑務所に着いて、まず入れられた新入房で、同じ房の懲役に訊くと、
「初犯でも丸暴だと、たいてい再犯刑務所に送られるな。でも俺にはお前さんが、どうも筋もんのようには見えないが、人は見かけによらないものかね。それとも、よるものかね」
答えた五十がらみの懲役は、見るからに懲役慣れした目付きの険悪な男だったが、英吉を素早く見抜いたらしく、こんな皮肉を言ったのだ。
「事情は知るわけがないけど、損をこいた[#「こいた」に傍点]のだけは確かだな。初犯が初犯刑務所に落ちて真面目にやって見せれば、刑期の三分の一は、仮釈放をくれるものだ。それが再犯刑務所だと、再犯の俺達が、よくて一年当りひと月だから、初犯だとそれに色がつく程度さ」
退屈していたらしく、目付きよりも親切で、英吉の刑を二年と聴くと、
「二年の刑で三分の一は、二十四ヵ月割ることの三だから、八ヵ月。それが二年で、ふた月に五割色をつけても、三カ月だから、差引で五ヵ月はざっと百五十日の違いだから、これはまっとうな日当計算でも、百万ほどの損だな」
他人の損や不運は、表情や言葉とは関係なく、ほとんどの懲役にとって、嬉しくて満足なことなのだと英吉が知ったのは、この時から半年以上も経ってからだ。
この新入房で会った懲役は、英吉をベロン[#「ベロン」に傍点]にしたのか、それともいつでもそうしている男なのか「百万ほどの損だな」と言って、嬉しそうに微笑んで見せた。
ベロンというのは、なめるという意味だ。
警察で、刑事が気味よさそうに言ったことが、この時はっきりと分かったので、英吉は沈みこんでしまった。
塀の外のまっとうな方達から見ると、懲役という最低最悪のところまで落ちれば、五ヵ月早く出ようが遅かろうが、五年の違いでもあるまいし、と思われるようだけど、それは違う。
刑務所というところは、落ちた途端に、なんでもいいから一日でも早く出たくなるところなのだ。
理屈もポーズもない。何がなんでも塀の外に出て自由になりたい。
どこへでも歩いて行きたい。そして気に入ったところでは、そこに好きなだけ立ち停っていたいのだ。
女を抱きたいとか、鮨を喰いたいなんて、そんなことは訊かれるから言うので、本当は、こんなごく当り前のことが好きなだけやってみたい。
懲役が定められた満期の前に、塀の中から脱出出来るケースは、そういくつもはなかった。
国の祝いごとの時に、懲役にも祝儀をくれるのが恩赦で、最近では日中友好条約締結で行なわれると思われ、懲役達は大喜びで跳びまわり、
「日中条約でパイ[#「パイ」に傍点]になったら、俺あもう断然中国派だ。博奕は麻雀しかしねえし、喰いもんはチャーハンとワンタンメンで、飲むのは紹興酒かウーロン茶。おめえっちも義理を知るゴロツキなら、そうしなよ。ニイハオ」
とか、
「コラ、誰だ今お隣りの国のことをごちょごちょ言ったのは、馬鹿もん、スパイに聴かれたら恩赦が駄目んなんぞ」
なんて、刑務所じゅう浮き立っていたし、沈んで行く大きな赤い太陽を、熱心に拝んでいる年寄がいたので訊くと、
「いえね、中国はあっちでがんしょ」
それが遂に出なかったのだから、懲役は全員これ以上はないほどの不機嫌になってしまった。
遂に巨人軍の王監督にまで八ツ当りする懲役まで現れ、
「履いたこともねえスキーを、何が、やっぱりスキーは何とか屋ですね、だい。金になれば知らねえことまで|提灯《ちょうちん》つけんだから、あれだけでロクでもねえ野郎だってのが|見とおし《ガ ラ ス》だあ」
なんて|喚《わめ》き散らしていた。
一番当り前なのが仮釈放で、無期懲役でも、だいたい十三年真面目につとめると、これで塀の外に出られる。
十五年の有期刑の懲役が、反則したりして満期出所するのより早く出られるわけだ。
ただし、反則もぱくられず、怠けず真面目につとめなければ、委員の面接がかからない。
つまり駄目ってことだが、この仮釈放の制度があるから、懲役達はもらいたい一心で我慢するので、看守は随分と仕事が楽なのだ。
パイというのは釈放になることだが、この頃では仮釈放のことをパロールと言うのも、大分一般的になって来た。
こんなところで、随分と特殊な英語が使われるのに驚くのだが、これは外国人の懲役が言ったのを、耳にした懲役が直ぐ得意になって使い、それが広まったのに違いない。
英吉は、少年の頃からのスケコマシで、女をひっかけては客を取らせたり、実家をゆすぶったりして稼いで来た。
つつもたせ[#「つつもたせ」に傍点]もやれば、女の勤め先の上司や学校の教師といったそれまでに関係のあった男達を攻めるのも、慣れた仕事なのだ。
女は幸いなことに限りなくいるから、血液型の本を売りまくる手合と同じで、英吉は、こんなうまい仕事は他にないと、内心ほくそ笑んでいる。
スケコマシの中には、地主の娘をたらし込んで、そのまま婿になった奴とか、なんと女がかなりな女優になって大儲け、という例が、限りなくあるのだから、毎日が希望に溢れていた。
英吉は、ハッ夕リだけではなく、本当に暴力団に籍を置いておくと、女と周囲を脅す時に、攻め方に多彩な変化が加えられると考えたので、顔見知りのテキ屋の若い衆が、一本立ちして事務所を待ったのを機会に、仲間の端に入れてもらった。
子供の頃からよく知っている同い年のテキ屋だから、うまくなくてケツを割る[#「ケツを割る」に傍点]時でも、指を詰めたりといったようなこともあるものか、という読みもあった英吉だ。
バッジ代に毎月の会費、それに月に十回ほどの放免祝、葬式、盃ごと、といった義理[#「義理」に傍点]に、毎度五千円包むのだが……。
その他に、こうしているのも|稼業《しのぎ》の方便だからと、知られてしまっていたから、同い年の若い親分と、その一の乾分の蛙のような男には、うまくせびられて、時々は女を献上させられてしまう。
女やその周辺の犠牲者達には、そんな毎月の|経費《かかり》や、たかられるもの以上に、とても効果のあったテキヤの看板[#「看板」に傍点]だが、どこにでも通用するものではないらしい。
刑事と検事には喜ばれてしまって、落ちた刑務所では、どうやらまるで役に立たないようだ。
これが、おぼこい[#「おぼこい」に傍点]のばかりの初犯刑務所だと、当人の見てくれはどうでも看板だけで、ある程度は通じるのだろうけど、この再犯刑務所に群れている|懲役太郎《ベ テ ラ ン》達には、もうまるで駄目らしい。
風邪薬をいくらのんでも、下痢は治らず止らないのと同じ理屈だと、英吉にもこの府中刑務所で、なまじっかの看板を振りまわす愚が分かったから、新入房から工場に配役された時は、
「堅気と変らないような、ほんの駆け出しです。どうぞよろしく願います」
と神妙にしてみせたのは、やはり稼業がスケコマシだから、場面を読むのが早かったようだ。
退屈し切っている懲役達は、顔の知らない新入が工場に落ちて来ると、必ず誰かが引き受けて、人定尋問にやって来る。
これがまた根掘り葉掘りで、あいまいなことを言うと、直ぐ鋭く突いて来るというのだから、訊かれる方は堪らない。
たいていは洗いざらい喋らされてしまうし、口をつぐんで答えず横を向けば、まずその工場には永くなんていられないのだ。
ひっつかれる[#「ひっつかれる」に傍点]し、意地悪はされるし、喧嘩も売られる。
ひっつくというのは、いびるという意味だ。
若くて優男の英吉を見て、これは面白そうと睨むと、とりわけ腕のいい畳屋くずれの泥棒がやって来て、これは刑事か検事あがり[#「あがり」に傍点]の間違いではないか、と思われるほどの容赦のなさで訊問した。
テキ屋のダンベ若い衆[#「ダンベ若い衆」に傍点]になったばかりのスケコマシで、しかも刑事に情を憎まれて丸暴扱いにされ、初犯なのに府中に落されたと、最初の昼休みでそこまで全部喋らされたのだ。
根が惨酷で無神経な、しかも退屈し切っている懲役だから、英吉のような珍しいのが来れば、たちまち怖ろしげな顔と様子で取囲むと、話をさせて楽しむときまっている。
なかでも、強姦とかスケコマシが一番喜ばれるタレントで、そんな懲役は、工場だろうと舎房だろうと、タネが尽き果てるまで喋らせられるのだ。
そんな下司な懲役達のなかで、ヤクザの水田順一だけが、英吉に助平噺を強要したりもせず、英吉がそばにいる時に、他のゴロツキが喋らせたがっても、
「ま、気がすすまねえ時は、やめてやれや」
なんて言ってくれた。
東京の盛り場を縄張りにする博徒一家の大幹部だそうだが、なるほど大したものだと、英吉は感心して自然とくっついているようになったのだが、これも永くヤクザをやった水田順一の技術のうちなのだ。
これを見た他の懲役達は、わりとよくある手口だから、
「水田さんも流石に年功を積んだもんだぜ、ここでこんなふうにかばってやっといて、娑婆に戻ったらあの優男のスケコマシに、若い女を世話させようってんだから、どうして、どうして、チャンと寄せ場[#「寄せ場」に傍点]でも仕事をマメにしてらあな」
なんて|陰口《ヤクマチ》を言った。
悪口に陰口、それに|密告《チンコロ》と|中傷《ク ウ キ》は、懲役につきもので、猫のノミか看守の水虫みたいなものといえば、おおむねの懲役の、心の貧しさが分かろうというものだ。
寄せ場というのは、刑務所のことで、前科者は気取ってこの言葉をよく使う。
その水田順一が、三日ほど前の昼休みに、飼っていた犬の話から英吉が、
「水田さんも、何か飼ってられるんですか」
と訊くと、
「ああ、やっかいもん[#「やっかいもん」に傍点]に息子が二人、それに若い衆が十五人ほどと猫が四匹……」
ヤクザは、土佐犬や秋田犬を飼うのが大好きなのだが、水田順一は、猫が四匹だから、これも随分変っている。
やっかいもんというのは、ヤクザの女房のことで、官[#「官」に傍点]の追及や敵の恨みが女にまで及ばないようにとの心遣いから、こう呼ぶようになったのだと伝えられていた。
猫が好きなのか、それともなにか、ネズミを捕ったり役に立つからなのかと訊くと、
「荒っぽいばかりの家だから、猫がいてくれると、いくらか場面がなごむんだな。役になんかまるで立たない。電話番もしなければ、玄関の履物ひとつ揃えもしない。けどな」
と言って、水田順一は顎を引いて一瞬考えると、
「俺んとこの四匹は、そんなただの猫共だけど、よそさんには凄いのもいるぞ」
どんな凄い猫が、どんなスゴイことをするのだ。英吉がおかしがると、水田順一は笑いもせずに、
「用心棒をするんだ。それも半端じゃない。身体を賭けてやるんだ。今回の俺は、二年六月そいつに喰わされたみてえなもんだから、気が遠くなる」
と言ったのには、英吉もすっかり驚いてしまった。
「ほんとですか。|魂《たま》|消《げ》たなもう……」
合槌を英吉が打っても、水田順一は、鋭い顔から、物憂い懲役の表情に戻すと、もうそれ以上は何も言わない。
こうなるといくら水を向けても、このての男は、まず喋りそうになかったから、とてつもなく面白そうな話だけど、同じ工場にいれば、まだ機会はいくらでもあると思って、英吉もその時はそれ以上訊かなかったのだ。
週に一日、晴れた日には、時間を五十分と|細《こまか》く切って、看守は運動時間に工場の懲役達を、広いグラウンドに連れて行く。
工場の前から、四列にキチンと並んだ懲役達は、
「イチニッ、イチニッ」
叫びながら両手を振り、歩調を揃えてグラウンドまで行進する。
グラウンドに着くと、簡単な徒手体操があって、終ると看守が、
「わかれッ」
と号令を叫ぶ。
それを待ちかねたように、グラウンドには守備チームのナインが残って守備位置につき、攻撃チーム以外の懲役達は、急いで高くなっている芝生のスタンドに陣どる。
審判をつとめる懲役が右手をあげて、
「バックアップ。プレーッ」
懲役ソフト・ボール大試合の始りだ。
僅かな運動時間を、少しでも有効に使おうと、工場での普段の仕事ぶりからは、とてもこれが同じ懲役とは思えないほど、この時ばかりは段取りがいい。
対戦カードから、先攻に審判まで、すっかり前に工場できめてある。
今日のカードは、泥棒チームとゴロツキチームだった。
この工場には、他にもうひとつ知能犯チームがあったのだが、先週泥棒チームに負けたので、今日は見物している。
審判だけは、張ってはいけないきめ[#「きめ」に傍点]なのだが、他の懲役は選手も見物も、塀の中の通貨の私物の日用品を、毎週の試合のたびに、手一杯張りつけているのだ。
今日も勿論そうなのだが、これは運動なんて品のいいものじゃなく、白い布をピンと張った盆や鉄火場そのものだった。
見張りをしている工場担当の看守は、大目に見て知らん顔をしてくれている。
選手は花札で、審判は出方[#「出方」に傍点]のようなものだ。
出方というのは、博奕の盆で、張り駒を数えたり揃えたり、出た目を読んで配当したりする、中央競馬会の職員と同じ役をしている博徒のことだが、上方では合力なんていう。
三つあるチームは、選手が反則でぱくられて懲罰房に放り込まれたり、出所してしまったりで、随分流動的だけど、それでもなかでは泥棒チームが、他の二チームよりいつでもスピードの差だけ少し強い。
泥棒が、足の早さをまず第一の資質とするのは、政治家の嘘や芸人の恥知らずと同じことだ。
今日のゴロツキチームには、夏の甲子園に出場して、近鉄やヤクルトから声が掛かったことがあったという、総会屋の若い大男が、新入で落ちて来て初出場する。
畑違いの専門技術を持つ者には、とりあえず感心してしまう懲役達だから、今日はゴロツキチームへ賭ける奴が多かった。
水田順一は、運動靴五足という|大《タイ》|銭《セン》を、泥棒チームに張ると、内野の芝生スタンドに群れている懲役達から離れ、英吉を連れると二人だけで、レフトの後ろの芝生まで歩いて行って、腰を降ろすとタンポポの葉を摘んだ。
大銭というのは大金のことで、運動靴の換算率は、一足で化粧石鹸六個だから、水田順一は基本通貨の石鹸換算で、三十個も泥棒チームに張りつけたことになる。
水田順一は、摘んだタンポポの葉を、口に入れると奥歯で噛みながら、
「子供の野球の、それも十年も前のことなんか、懲役のやるソフト・ボールで、なんの理屈[#「理屈」に傍点]になるもんか、戦艦大和と同じようなもんだ。たとえ裏目と出て、あの総会屋の若僧が打ってゴロツキチームが勝っても、|勝負人《しょうぶにん》はそんなもんを理屈にして勝負しちゃ駄目だ、駄目は按摩の目だ」
水田順一は、博奕の理屈を教えてくれたのだけど、英吉には全部までは分からない。
それにしても勝負人というのは、いい響きの言葉だった。
先攻の泥棒チームのトップ打者は、細身で中年の空巣だけど、いきなり初球をひっぱたくと、打球はグイグイと伸び、センターの上をはるかに越えていく。
打球はワンバウンドして、外野の奥に鉤型にグラウンドを囲むように建っている獄舎に当った。
常識なら当った打球は右に弾むのに、当った獄舎は、とにかく昭和十年製だから、意外なことに来た方向に大きくはねかえったのだ。
当った壁に凹みか、ゆがみがあったのに違いない。
作業帽をとばして追って来たセンターのグラブの中に、一回グラウンドで弾んだ打球が、スポンとおさまったから、これは大不運だったのだが……。
空巣は、恐ろしい形相で風を巻いて走り、サード・ベースに頭から飛び込むと、両手でしがみついた。
「チェッ、盗ッ人が相手だと、蠅かネズミとやってるみてえで、胸糞が悪くならあ、ペッ」
背中を見せてバウンドを捕ったセンターは、直ぐには向きが変えられず、身体だけ捻ったものの、ボールを投げる腕は残ってしまって、ついて行けなかったから、サードへ投げたボールは、ベースから三メートルもはずれた。
サードの暴力金融は、やっと押えたボールをピッチャーに返しながら、大声で喚くと、グラウンドに唾を吐く。
どうしてゴロツキは、どこにでも矢鱈と唾を吐くのだろう。あれを見て惚れる女なんているものか、と英吉は思う。
「あんたっちもよお、博奕や助平ばかりやってねえでさあ、塀の外でも、もうちったあ身体を作っときゃいいんだぜ」
泥棒チームの世話役をしている名物爺さんが、歯のない洞穴のような口を開けて、キイキイ声で叫び返した。
ピッチャーの若い衆は、長袖のシャツを脱ぐと半袖の丸首姿になったので、青と朱の彫物がアンダー・シャツのようだ。
これは、二番打者のビル荒しを威圧しようとしたのだけど、何度も懲役をつとめてゴロツキの実体を知り尽しているビル荒しだから、驚きも怖れもなんにもしない。
投げつけた早い初球を、ビル荒しは無雑作に、ヒョイとバットを出して、一塁側にバントを転がした。
ファーストの総長は、六十歳を過ぎた年寄だから、出るのは顔と声だけで、足は少しも前に出ない。
ピッチャーが尻餅をついたので、空巣はホームインして、ビル荒しは息も切らさず一塁に生きた。
「頭つかえ、頭を。お前は頭をつかわないから出世が遅れてんだ。相手が盗ッ人なんだから、一球二球は、はずして様子を見るもんだ。ペッ」
ピッチャーは同じ一家の若い衆だから、総長は、自分がまるで動けなかったてれかくしもあって、クドクド叱りつけた。
「頭が悪くて出世しねえから、くすぶっちまってたけんど、今じゃこれを使って、ファイヤ・バードに乗ってまさあ。ペッ」
頭に来た若い衆は、股ぐらをペタペタ叩くと、聞こえよがしに喚いたのだが、怒ると思った総長は知らん顔をきめている。
これ以上エスカレートして、もし懲役達の前で若い衆にヤケを起こされ、逆らわれたりすれば、誰かが止めてくれるにしても、一家の総長たるもの、どうにも恰好がつかない。
それに、こんな話はファクシミリより早く、塀の外に伝わってしまうのだ。
「あ、あんなところに猫がいますよ」
英吉が指をさしたところには、獄舎の端にトタン屋根の物置小屋があって、その上で巨きな白い猫が、身体を長く伸して気持良さそうに、昼寝していた。
「|炊場《すいじょう》の連中に餌をもらって、冬は暖かい炊場や洗濯工場にいるんだ。猫と豚と、それに鳩は、たいていどこの刑務所にもいるようだな。俺に逆らいやがった鉄火な奴は、あれの半分ほどで、毛色ももっと真ッ白だった」
しめた、例の話だと思った英吉は、
「例の、水田さんを塀の中に送ったって奴ですか」
と直ぐ合槌を打つ。
大学の文学部にいちおう二年まで籍のあった英吉は、こんどの刑をつとめるうちに、なにか面白いネタを仕込んで、小説を書いてやろうなんて、絵図を画[#「絵図を画」に傍点]いていたのだ。
作家というのは、女を釣るのにも利くし、それにまんいちベスト・セラーにでもなれば、これは二年の刑のモトどころか、ピンクのキャデラックで、タレントを妾にさえできる。
絵図を画くというのは、計画を建てるという意味で、絵図だけだと計画だが、これが絵図画きとなると、計画を建てる人ではなくて、陰謀家ということになるのだから、なかなか難かしい。
たとえ雑居房に詰め込まれていても、これ以上の孤独はそんなにはないというほど、懲役は誰もが淋しくて孤独なのだ。
いろんな意味で、安心のいく相手が見つかれば、なんでも話したい、聴いてもらいたいと思っている。
塀の外にいれば、どんなことでも自分の胸にしまっておける男達なのに、塀の中だとなぜかそういかなくて、それが証拠に二年も独居房に入れ放しにされると、ほとんどの懲役が、壁に向っていない相手と話をし始めるのだ。
水田順一も、英吉の様子を見て、自分の貫禄で念を押しておけば、塀の中でも外でも、まず他人には喋らないと、見きわめをつけたのだろう。
「今回に限って、誰も裁判の傍聴にも来させなかったし、親分には、一家一門とは関係のない詰らない喧嘩で……。と謝ってある。自分の女にもちょっと言えねえようなことだから、お前も誰にも喋ったりしちゃあならねえよ。お前から話がもれたとなると、俺だって若いもんを止められない。分かるな」
英吉が頬をピクピクさせて、頭をこっくりすると、それに合せたように、内野の芝生スタンドから、見物の大喚声が湧きあがった。
ダイヤモンドを、泥棒チームの走者が駆けめぐっていて、どうやら泥棒達は、本業の盗み以外のことで、儲けを掴みかけているようだ。
今年の正月の二日に、|旦那衆《ダ ン ベ》のところを年始にまわっているうち、着ていた大島の袂から、角の円い小型の名刺を見つけてしまったのが、そもそもの始りだったと、水田順一は話し始めた。
前の年の暮に、同じ大島を着こんで、芸者だった女が始めた小料理屋の開店披露に行ったのだが、その時やはり客で来ていた年増から、袂に落しこまれたその名刺は、水田順一の|女 房《ヤッカイモン》にも見つけられず、袂の中で年を越したらしい。
「開店祝に来ていたそのなんとも色っぽい三十三、四のいい女は、寸詰りの臼か、それとも蚊取線香の豚みたいな垢抜けない旦那と、一緒に来てやがった」
英吉は、目をそらさず気の入った|頷《うなず》き方をしてみせる。面白そうだし、色模様も充分そうな話だ。
「そのいい女、ヤクザが好きだとみえて流し目を盛んにするから、目くばせすると直ぐ通じて、店の中からは見通しの利かない手洗の前で待っていると、うわ目遣いの内股でやって来たので、ピタッと懐に抱えこんだ」
一回の表で泥棒チームは、六点も取ったらしい。
レフトの箱師[#「箱師」に傍点]が、守備位置に向って走って来ると、水田順一が大銭をぶっている[#「ぶっている」に傍点]のを知っているらしく、胸の前で開いているグラブに、右手の指を一本添えて見せ、白い歯を見せた。
「キスしてやると、女の奴、それだけでかなりのぼせて身を揉んだけど、いかな俺でも、そこでそれ以上のことは無理ってもんだ。おまけに二人共着物だから、まさぐろうにも矢鱈と帯や紐が、女の身体には巻きついてら」
懲役のソフト・ボールは、表も裏もなしに、見張りの看守が、
「運動終了ッ、集合ッ」
と号令をかけた時の点差で、勝負がきまるというルールだ。
先に六点取った泥棒チームは、もう断然優位に立っていた。
「女は、俺の袂に名刺を入れると、『旦那は、土、日は来ないのよ。お稽古だから……。夜の九時過ぎにいらして』身を揉みながら、うめくように言ったんだが、正月の二日にもらった名刺をよく見ると、まだ若いのに三味線とそれに踊りのお師匠さんだった」
ゴロツキチームのトップと二番打者は、六点差に勝負を投げたらしく、確実に出塁しようとはせず、せめてデッカイ当りを打ってくれようと、大振りを繰り返した。
泥棒チームのエース|故買屋《ケイズカイ》は、目一杯速い球を少しはずして二球投げてから、得意のチェンジ・アップをフワッと放ったので、二人共内野にポップ・フライを打ちあげて、グラウンドにバットを叩きつけると、唾をペッと吐く。
「電話が鳴ると直ぐ女が出て、俺と分かると、コンデンス・ミルクをまぶしたような鼻声で、
『旦那は家族とハワイなの。婆やは、行きたがった千葉の息子んとこへ、今から行かしてあげる。ね、あなた早くいらして』
十六ん時からヤクザやってるけど、まずこんなことは、正直なとこ覚えがねえ」
ゴロツキチームの三番打者は、若い|覚醒剤《シャブ》屋だったが、どうもこいつとピッチャーの故買屋は、塀の外でわけ[#「わけ」に傍点]があるのに違いない。
高目に投げた初球のストライクは、素直な球だったから、若い覚醒剤屋はフル・スイングして、左中間を破る二塁打を打った。
「陽焼けの染みこんだ子供の河馬みたいな旦那は、土建屋と聞いてたけど、女の囲われてるとこを見て、俺はいささか舌を巻いたな。このマンション時代に、絵に画いたような日本調の妾宅で、黒板塀に見越しの松というんだ。分かんねえのか英吉、そうだろうな、とにかくなんでも俺は、随分と驚いたと思え」
泥棒チームに張った見物は、口々に、
「顔づけ[#「顔づけ」に傍点]かい、やんなっちゃうな」
と喚いたのだが、二死で六点差だから、本当に怒っている奴はいない。
顔づけというのは、サービスというほどの意味だ。
四番打者が、評判の高い総会屋で、ことさら本職を見せつける仕草を繰返しながら、打席に入って、足を擦るようにして足場をきめる。
ゴロツキチームのゴロツキというのは、法を無視して暮している手合の総称だから、博奕打やヤクザに限らず、誰でもその手の男は全部含まれるのだ。
無視する奴だけではなく、儲かるとなれば、非合法なこともあえてやろうというのも、含まれるというのが正確な分類だろう。
だから総会屋も勿論ゴロツキだし、今の日本ではヤバイことに、ゴロツキでない男が珍しいほどに少ないというのだ。
「黒板塀に見越しの松とくれば、後は婆やと猫に決ってるんだが、婆やは千葉に行き、猫はこのごろ、隣りの部屋のテレビの上で寝るのが気に入っているとかで、これも姿を見せない。俺と女は、ふたりっ切りで寄り添って、差しつ差されつチロリを二度ほど取替えた」
総会屋は、垂直に立てて構えたバットの先を、わざとらしく小刻みにゆらし、本職の気合を漲らせて、ハッタと故買屋を睨みつけた。
そんな若い総会屋に目もくれず、
「ハイ、敬遠」
マウンドの故買屋が、シレッとした声で、そう言うと、審判も、
「ハイ、敬遠」
と、おうむ返しに言ったのだ。
「先に言うのが、助平まるだしのようだから、ふたり共意地を張って酒ばかり呑んでたんだが、俺が女の足首からふくらはぎまで、|炬《こ》|燵《たつ》の中でスススーッと爪先でこすると、女は眉を寄せてベソをかいたような顔をして、
『イヤッ、あなた、来てこっちに……』
炬燵からスフと立つと、襖を引いて向うの部屋に……」
なんのことだか分からず、不満そうに顔を|腫《は》れぼったくさせている総会屋に、早く打ちたくて堪らない五番打者のヤクザが、ファーストの方に顎をしゃくってみせた。
「それがまた、なんともいえない足の|捌《さば》きさ。英吉なあ、日本舞踊をみっちりやった女は、こんなところが違うんだ。ジャズ・ダンスや毛唐踊りとは物が違う。そして夜具ん中でも桁違いだ。チャッチイ[#「チャッチイ」に傍点]女をこまして[#「こまして」に傍点]ばかりいねえで、出たら心掛けて、一度そういうのと願ってみろ」
これも懲役が、短い運動時間に合せて編み出したルールで、時間がもったいないから、敬遠の時は、ただひとこと「敬遠ッ」と言うだけなのだ。
「女に続いて、俺も炬燵から出ると、隣りの部屋に行き、いきりたった俺が、はしから脱いで行く物を、女は衣紋掛にかけ、|衣《い》|桁《こう》に吊し……。分かんねえだと。とにかく長襦袢になった女が、セッセと片付けたんだ、この野郎、日本語の通じねえお前はどこの土人なんだ」
怒って、赤と黒のまだらに混ったミミズのような色の顔になった総会屋は、
「なんだっていうんだ。説明を願います」
なんて、思わず仕事の時の怒声が出た。
「六点も勝ってんのに、ヤイ盗ッ人ッ、きったねえぞ、この野郎」
この総会屋に期待して、ゴロツキチームに張りつけていた見物の懲役も、ムカッ腹を立てて口々に怒鳴る。
「そうしていよいよ始まったんだが、あんなに一所懸命したのは、いつ以来のことか思い出せないほど、俺は気を入れていろいろやって、いつものように横着な気を起こさなかったから、女はもう世迷いごとを叫び、背中を太鼓橋のようにそらせ、白目をむくと身体を堅くして細かく震え……」
聴いている英吉の喉仏が、一度大きく上下する。
次の打者のヤクザは、張った駒を取られるより打席に入って打ちたいらしく、ジリジリしながら、審判にしきりと文句を言っている総会屋を睨んでいた。
そして遂に、凶暴な気迫を顔にも全身にもたぎらせると、バットを右手で握り身体の斜め後ろに引くと、
「そう言われたら、黙って一塁に行くてえのが、この盆のきまりだあ」
うなり声を聞くと、今までのミミズ色が途端に青黒く変って、総会屋はおびえて腰が浮き、頭が低くなってしまった。
「ガクガクとゆれてから、ビビビと突っ張ったようになって動きが止ると、今度は全体フニャッと力が脱けたんだな。自慢じゃねえが、俺には秘術があるから、ヘイチャラだ。口止めの褒美に教えてやろうか。いくらでも続けられる大変な術だぞ」
総会屋は、バットを捨てると不貞腐った様子で、パタパタとファーストに走る。
走者は、一、二塁になって五番打者のヤクザは、この時ばかりは地面ではなく、手に唾をくれると、目を細め膝を曲げて前かがみになって、マウンドの故買屋と向い合った。
「俺も女の様子と、それに目のくらむほどの心地良さで、それまでの道中で何度か爆発しそうになったのだが、それが術の出しどころだ。どうだ英吉、教わりたいか」
教わりたくない、なんて言ったら気を悪くするにきまってるから、英吉は、目を見張るようにして頷いた。
「簡単だ。なんでも聴けば簡単なのは、ホレ、コロンブスの卵と同じ理屈だ。
『今、俺の耳の上には、撃鉄を起こした四十五口径が、おっつけられている』ってそう思うと、不思議なもので、途中まで来ていたのが、またもとにスーッと戻って行くんだ」
ネクスト・バッターズ・サークルの辺りにいた六番打者の竿師が、
「皆、ツーダンだから、なんでも目一杯走んなよ」
と走者に叫んだのだが、二塁走者の覚醒剤屋だけ、右手をちょっと揚げて首を振って見せた。
一塁の総会屋は、素人に教えてもらう俺ではない、という様子でいたのだが、ゴロツキチームの誰かが凄い声で、
「コラあッ、総会屋ッ、聞こえたのかこの野郎ッ」
怒鳴り声と同時に、総会屋は、ベースの上で遠くから分かるほどギクリとして、頭を振ったのだ。
何か言って、それを聞いた者がこういうようにするのは、言った懲役が尊敬されている証拠だった。
竿師というのは、同じ女で喰っていても、スケコマシとは格が桁違いの、塀の中でもそう滅多にはいないような、珍しくて偉大な稼業人なのだ。
女共を松の根っこのような剛刀で、メロメロにしてしまうという懲役のあこがれのような懲役で、浅ましくて生ま狡い[#「生ま狡い」に傍点]スケコマシやヒモとは、痩せこけた野良猫とベンガル虎以上に違う。
「女は何度も、身体を突っ張らせては、次にフワッとゆるむのを繰り返したのだが、最後には、俺の首に手をまわすと懸垂して顔を近づけ、
『お願い、一度終りにして、もう駄目』
って、そう囁くと、俺を掴まえてるとこを、最後の力で可愛くしぼったな」
ソフト・ボールのルールで、走者は、投球がピッチャーの指を離れるまでは、塁から離れられない。
故買屋の投げた初球が、指から離れると、二人の走者はリードをとる。
投球は低くはずれて、キャッチのトラック泥棒は捕りそこね、足もとに落ちたボールを蹴とばしてしまった。
ボールは、ゆっくりと三塁線に転がり、走者は大喜びで二塁と三塁に走り込んだ。
なぜかバッテリーと、ボールを掴んだサードは、一瞬顔を見合せてニヤリとした。
「ほんの餓鬼の頃から、もうヤクザだった俺なんで、御縁のなかったようなことなのだが、どうやらこれが愛なのか、とその時思ったほど、下敷きにしていた女がいとおしかったな。女もその時は、同じ気持のように俺には思えたんだが……」
進塁した走者を見て、打者のヤクザの目はますます細くなり膝も深く折れた。
故買屋の投げた二球目は、今度は高くはずれて、打者のヤクザは目を糸から三角にする。
「この盗ッ人お、悪い根性を起こしたりすると、この野郎オオオ」
ファーストの空いているのに、歩かされる悪夢におびえたようだった。
キャッチのトラック泥棒は、街道の飯屋で、運転手が飯を喰っている間に、合鍵でトラックを荷物ごとかっぱらってしまう。
ゴロンとしたワイン樽のような身体に、ど太い手足と、古びたバスケット・ボールのような頭を載せた化物もどきの懲役だ。
高くはずれた球を、巨体を素早く起こして捕ると、打者の悪たれには耳も貸さずに、ユックリとボールを故買屋に返す。
走者達は、それを見ながらこれもゆっくりベースに戻る。内野手もその間定位置から動きもしない。
座る前に、キャッチは右手をあげると、
「皆、走る時は、直ぐ後ろからお巡りが来てると思って、命がけで走るんだぞう」
と大声を出したのだが、後から考えると、これがシグナルだったのに違いない。
「もう参り果てて、渚に打ちあげられた可愛いクラゲのようになってる女が、それでも力を入れるのには、愛らしくていとおしくて、俺は胸が熱いもんで詰ったようになった。俺もひとまず終りにしようと、耳の上の拳銃を忘れて、スラストのスピードを一杯にあげた」
三球目も同じような高いボールが来たから、打席のヤクザは青筋を立て、身じろぎもせずに見送った。
セカンドとショートも、それまでと変らず、離れた定位置のまま動かないので、二塁走者の総会屋は、これも同じに、ゆっくりとベースに戻って行く。
総会屋は、その時、なにか灰色の突風が外野の方から、吹いて来たように思った。
「ナニッ、英語も分かんねえだとお、このタコ。俺あそこらの集団就職あがりのたあ違う江戸前のもんだぜ。何を言うにしても、生の言葉は慎しむんだ。この|盆《ボン》|暗《クラ》、直ぐ分かりませんと|吐《ぬ》かさずに考えてみやがれ、スピードを一杯にあげられんのは、俺のどこだよ。動いてるところだろうに、こんな場面で目玉でも動いているもんかね」
見ると、故買屋の頭をかすめて、白い尾を曳いたロケットは、逆から来る灰色の突風か砂嵐に、正面から当ろうとしている。
水田順一に罵られながら見ていた英吉も、走者の総会屋も目を丸くしただけで、事態がはっきり分からないでいた。
「そうすると、直ぐ俺の背筋に、気持の良さが浜辺に打ち寄せる波のように、ズズズズとして、ミサイルがユラユラと昇り始めでもしたようになったその時。
俺は、いきなり後ろから、俺の後ろのメトロノームを、脳天に竹串でも突き刺されたような痛みと一緒に、握られたから堪らない」
袋のことを、あちゃら語ではメトロノームというらしい、と英吉は思った。
トラック泥棒は、女の太ももほどもある右腕をぶんまわすと、ビュッという風を切る音が、見物に聞こえたほどのスサマジイ早さのボールを投げたのだ。
獄衣が灰色だから、灰色のつむじ風のように見えたのだが、それは全速力で走って来たセンターのひったくり[#「ひったくり」に傍点]で、そのつむじ風が二塁の上で止ったかと思うと、貧相だから尚更神秘的に見えたのだけど、ひったくりは忍術使いのように、塁の上に立っていた。
白い尾を曳いたロケットは、二塁の上の標的に吸い込まれると、ひったくりのグラブの中でボールに変る。
総会屋は、悲鳴をあげながら、ベースの二メートルも前で棒立ちのまま、頭ひとつほども小さいひったくりに、みぞおちに思い切りグラブを叩き込まれてしまった。
喚声と怒号が、グラウンドでキノコ雲になる。
「あ、この土建屋ッて突嗟に思った俺は、女の腹の上で跳ねると、布団の横に膝でブレーキをかけながら身構えたのだが、女は何も気がつかずに、土左衛門のように伸びてたけど、エッ、うるさい、水死体のことだ。俺が跳ね飛びながら振りかけたのが、顔に当ったので薄目を開けた」
打席のヤクザは、普段だと寝ても醒めても人目を気にしてやっているポーズも、この時ばかりは忘れたらしく、口を小僧のように尖らせると、なにやら|非《ひ》|道《ど》い田舎の訛りで、うろたえたことを喚いたのだ。
「俺の跳ね飛んだ跡は、女の足が開いたままになっていて、その間に、赤いリボンを首に巻いた真白な、大人になりかけの人間でいうと十七、八ほどの猫が、緑色の目を興奮でキラメかしながら、俺を睨みつけてやがった。あ、旦那の外道じゃなくて、この猫が、と思った途端に、俺あもう立ちあがって蹴っ飛ばしてた」
審判の不動産専門の詐欺師は、やはり塀の外でゴロツキに懐をこかれ[#「こかれ」に傍点]ているからだろう。いやに弾んだ声で、
「アウトッ、チェンジ」
と叫んだのだった。
水田順一の話に、相槌がわりに頷きながら、目はグラウンドにやっていた英吉なので、耳と目から一緒に面白い物が入って来たわけだ。
「ヒャー、ハハハハ、ヒー」
なんて懲役だ、これじゃ面白すぎると英吉は、涙がにじんで来るほど笑った。
「小柄な猫は、堪らず吹っ飛び、頭から襖に刺さっちまって、後脚が二本と長い尻尾だけ垂れてたから、変な図柄の襖になったな」
守備位置につくゴロツキチームは、すっかり闘志を失くしたようで、ノロノロしていて唾ばかり九人揃って矢鱈と吐くのだ。
「女は、皺くちゃの布団の上に起きると、
『あんた、あたしのタマに、なんてことをしたのよ』
それまでの女と、同じ女とは思えないほど嫌な声だったので、驚いた俺が顔を見ると、目は吊りあがって、もうまるで化物のようなのには、流石の俺もうろたえてしまった」
守るゴロツキチームは、すっかり不機嫌になって、皆不貞腐っていい加減なことばかり始めたから、いつまでたっても泥棒達は楽しそうに運動をやっていた。
見張りの看守が、腕時計を気にし始める。
「つい今まで、あんな具合につるんでたというのに、丸裸のまま、襖から抜きとったグッタリ伸びて動かない白い猫を、胸に抱いて立った女には、もうそんなことの名残りなんて、影も形もなにもなかったんだから、女ってのは俺達男とは、同じ種類の生きもん[#「生きもん」に傍点]ではどうもねえようだ」
見物の懲役は、もう泥棒チームが、運動時間の終るまでに、何点取るかという賭けを始めたようで、走者がホームインするとそのたびに誰かが、ギャッと叫んだり笑ったりしている。
「女は『可哀そうに、タマ、あんたにいったいこんなことする権利が、どこにあるの』なんて泣き喚いて、
『チクショーッ、タマをこんなにして』
と次にはあられもない恰好で、掴みかかって来たのには参った。もう半気違いさ。俺は防ぎながら、
『あんたのタマが、俺のタマを、タマが後ろからタマにタマの爪を……』」
英吉は、両手で腹を押えると、芝生の上に倒れて身をよじり、もうすっかりだれてしまったソフト・ボールなんか、見ていられない。
「うろたえてたんだな俺も。この歳まで修羅場で鍛えて来たんだが、こんな場面は覚えもねえし、それにいつでも相手は、こんな化物じゃなくて、ヤクザだろうと人間だった」
水田順一は、タンポポの葉を噛んでいたので、緑の唾を遠くに飛ばした。
「顔をひっかきに来た女の手を、払って防ぐと、間の悪い時はそんなもんで、それが女の鼻面に当って、女は自分の手で鼻血を出しちまった」
女の顔は、それまでの涙と汗と鼻水に、新規に参加した鼻血が加わって、しわしわだけど白いシーツに飛び散り、水田順一の足や腹にも血しぶきが飛んだ。
もうなぜかとんでもないことになって、これはどうしようもない、と思ったのだと、水田順一は言った。
「女の投げつける置時計や手鏡を、背中や尻に喰いながら、下着を着て、|襦《じゅ》|袢《ばん》と大島は羽織っただけ、帯と財布と足袋は手に握って、とにかく表へ逃げ出したんだ。女は、こすれた鼻血でぶちになって、電話のダイヤルに指を突っ込んでた」
看守は腕時計を確かめると、
「運動終了ッ、集合ッ」
号令を聞くと、懲役達はノソノソとグラウンドの隅に集って来る。
水田順一と英吉も、芝生から起きあがると、獄衣についた芝をパタパタ払う。
「悪いことに、正月二日の夜中だったから、タクシーなんかまるで来ねえ。着物の前を合せて帯を巻きつけ、足袋を履こうと足もとの|雪《せっ》|駄《た》を見たら、前に車がキキキと停って、タクシーどころかパトカーだった」
看守の前に、四列に整列するために懲役達は集って来るのだが、泥棒チームに張って勝った懲役の顔はほころんでいて、負けた方の目は吊りあがっている。
「馬鹿なことで二年六月喰っちまった俺だけど、あの白い猫は、動きが早くなったから堪りかねて後ろから飛びついたなんて、そんな漫画みてえなことじゃ、この歳で、どうにも参っちまうからな。あいつは旦那の野郎が、淫乱な妾につけておいた用心棒で、場面に身体を賭けたいいもん[#「いいもん」に傍点]だと、そう思うことにした」
そんな猫がいて堪るもんか、と英吉は呆れたけど、水田順一の真面目くさった顔を、横から盗み見て、黙って頷きながら集合場所に急ぎ足で歩いた。
「猫をそんなふうにすると、なんと器物損壊罪にとられ[#「とられ」に傍点]るんだから、お前もよく覚えとけ。阿呆な役人には、猫は生きもんじゃなくて器物なんだぞ、それじゃ女はなんだてんだ。公然猥褻物だろうて……」
水田順一が、そう言ったのがおかしかったので、英吉はケタケタ笑いながら、列の中に入ると、総長が、
「この小僧、俺っち[#「俺っち」に傍点]が負けたのが、手めえ、そんなに嬉しいのか」
と八ツ当りしたので、英吉は首をすくめると横に逃げた。
早朝出所
舎房のドアに何か打ちつける「ガツーン、ガツーン」という大きな音が聞こえて来る。
通路の両側に、独居房のドアがズラリと並んでいる獄舎に、共鳴して鈍く割れた音が、蛮族の叩く太鼓のように響き渡った。
この府中刑務所では、毎晩六時になると、ドアの上に付けてあるラジオの、スピーカーのスイッチが入る。
春から秋までのシーズンは、もっぱらプロ野球で、シーズン・オフになると歌謡番組かお笑い番組だ。
そして毎晩九時になると、お役人のやっている刑務所のことだから、ナイター中継がいくら肝心なところでも、プスッと切れてしまう。
普段なら、そのまま刑務所は静まりかえって、夜になってしまうのだけど、この晩は、突然そんな鈍くて大きな音が響き始めた。
この音は、この棟にならんでいる独居房のどこかで、床に尻をつき、両腕を後ろに突っ張った懲役が、両足で鉄のドアを、思い切り蹴とばしているのに違いない。
上の方に郵便受ほどの監視孔と、下に|物《もっ》|相《そう》が通る食器孔の開けられている厚い鉄のドアは、塀の外では見ることの出来ない、内側にノッブの付いていないドアだ。
これを拳骨や肘で、これだけ鳴らしたのでは、とても痛くて何回もは出来っこない。
間違いなく、両足でかわるがわる蹴とばしているのだろう。と、独居房の布団の中で耳を澄ましていた水田順一は思った。
ドアの外の通路を、慌てて小走りに急ぐ看守の足音が、ペタペタと聞こえて来る。
普段看守は、踵の底に|金《かね》を|矢《や》|鱈《たら》と打った、猛々しくて頑丈な兵隊靴を履いているのだが、舎房を監視する勤務につくと、ゴム底の運動靴に履き替えて、凶悪な猫科の獣のように足音をしのばせ、通路を壁に沿ってうごめく。
舎房の中の懲役達の不意を襲い、反則者を掴まえるのが仕事なのだ。
今はその看守が、足音をしのばせるのも忘れて、ドアが蹴とばされて大音響をたてている舎房に、慌てて急いでいるのだから、これはとても気味のいいことだった。
水田順一は、明日の早朝にせまった出所を想うと、とても直ぐには睡れそうもなかったのだ。
布団に寝たまま枕から浮かした頭を、首を伸ばすようにして、外の様子に耳を澄ます。
当直の看守は、その大きな音を|発《た》てている舎房のところまで駆けつけると、監視孔から、しきりと何かなだめるようなことを、ボソボソ言っていた。
すると、ドアを蹴とばす音は止ったけど、代わりにこんどは物凄い怒鳴り声で、
「この馬鹿野郎ッ。俺あここに来てからずっと、十分だけサシ[#「サシ」に傍点]で物が言いてえから、所長に会わせろって言ってんだ。それをとぼけやがってこの野郎ッ」
またクドクドと、看守の声が聞こえて来たけど、それをさえぎるように、
「る[#「る」に傍点]せえッ。なにい所長はもう帰っただあ。そんなこたあ初犯にたれ[#「たれ」に傍点]ろっていうんだ、この馬鹿野郎。電車に乗って並の勤め人のように、家に帰ったようなもんじゃねえだろう。あん畜生の帰ったのは、塀の直ぐ外の、正門の前の官舎だろうが……。呼んで来いッ。俺がどうせ明日の早朝出所だから、今日だけシカトウ[#「シカトウ」に傍点]をきめれば大丈夫なんて思いやがって、我慢ならねえッ。この腐れ牢番」
厚い鉄のドアに、郵便受ほどしか開いていない監視孔から、同じ棟だけど随分離れている水田順一の舎房の中まで、はっきりと聞こえて来る。
明日の早朝出所というのだから、水田順一と一緒に出る懲役だけど、オペラの唄い手なみの、これは大音声だ。
そうこうするうちに、他の房からも、
「そうだ、とぼけさせんなよ、ヤレヤレッ」
「コラァ、懲役の文句を聴くのも牢番の仕事だろうが、所長を呼んでこい」
「俺には、保安課長の糞タレ小僧と、それに医務の乞食医者だ。房の前まで連れて来い、言って聴かせることがあらあ、コラ牢番ッ、分かったか」
これが刑をつとめている最中の舎房だと、こんなことを言えば、たちまち残虐な罰を加えられる懲役だけど、この棟は釈放直前のものばかり入れてあるから、皆超強気なのだ。
これまでの刑期をつとめる間、恐怖と屈辱で支配され、痛められ泣かされた懲役だから、この釈前房までたどりつくと、いわゆる「満期上等」ということで、|官《カン》に対する恨みがこんなふうに噴き出したりする。
看守に怪我でもさせて、刑事事件にされない限り糞味噌に罵ろうが、ドアを蹴とばそうがもう平気なのだ。
傷だらけで塀の外に出せば、大変ということで、特別警備隊のヤキだって、もう今からでは入らない。
官[#「官」に傍点]としては、こんな懲役の開き直りを、他の懲役達の前でやられると、これは堪ったものではなかった。
それに、なにより大事な官の威信にかかわるから、出所直前の懲役は、皆この釈前房に隔離してしまう。
そしてこの釈前房では、看守が猫撫で声を出して、懲役の機嫌をとったりするのだから、これはまるで、柄の悪い中学校の、卒業式の前と同じだった。
怒鳴り声が乱れとび、騒然となった獄舎だけど、そうなれば、これも沢山ある看守のノウハウのひとつで、九時に切ったスピーカーのスイッチが、この棟だけまた、以前よりボリュームをあげて入れられる。
これには、|流石《さ す が》の懲役達の|怒鳴《ウナ》りもかき消されて、自分の声以外は聞こえなくなってしまう。
暫くすると、ラジオはまた止ったのだが、むかっ腹を立てて荒れ狂っていた懲役達も、もうこの頃は疲れはてたのか、静かになっていた。
誰か、静かな声で、気持良さそうに「ハッシャバイ」を唄っている。昭和三十年代の子守唄だ。
刑務所では、こんな満期出所直前の釈前房でなければ、歌も唄えないし口笛も吹けない。
ロー・ティーンの頃から、ずっと今日まで、永いこと非合法な暮しをして来た水田順一は、これが成人に達してから四度目の服役だった。
今回は、競馬のノミ屋で、事務所と自宅、それに色女のところに|家宅捜査《ガサイレ》をかけられ、余計なことにスナブ・ノーズが一梃と、それにコカインまで五グラムほど見付かってしまった。
くらった実刑判決は、全部ひっくるめて四年|六《ろく》|月《げつ》だったのだが、商売人は四年半とか、四年六ヵ月なんて言わない。
刑務所に服役するのも、ちょっとした芸人の海外ロケのようなもので、慣れてはいた水田順一だけど、明日の早朝となった今回の出所は、今迄の時とは事情がまるで違う。
ただでさえ寝つかれない、出所の前の晩だから、目は冴えるばかりだった。
捕まった時は、三十八歳だったのが、今ではもう四十三歳……。
そして、|堅気《まっとう》な方達でいえば、これは脱サラとでもいう場面なのだろう、水田順一は、これを潮に、今迄永く続けたヤクザの足を、洗おうとしていたのだ。
水田順一が、自分の親分から、
「破門にしてやるよ。もう足を洗いな……」
と言ってもらったのは、今回ぱくられる直前だから、もう五年ほど前のことだ。
焼跡の東京で、ロー・ティーンの頃から叩きあげた水田順一だけど、親分がこう言ってくれたのは、この世界では珍しい温情だった。
というのも、その頃水田順一が、都会派の博奕打として、どうにもならない限界に来ていたからだ。
焼跡と外食券食堂、それにアンプルの覚醒剤と占領軍相手のパンパンの時代から、朝鮮戦争のドサクサ景気。
そして所得倍増、東京オリンピック、田舎者の土建屋宰相と、日本が豊かに|荒《すさ》んで行く間に、水田順一の|棲《す》んでいた世界も、大きく|捻《ねじ》れて姿を変えていった。
生きて行くためには、なんでもやってしのいだ十代の頃が過ぎ、昭和三十年代の半ば頃から、やっと博奕のカスリを専門に、どうやらやって行けるようになっていた水田順一だ。
それにしがみついて、気取っている間に、まんまとバスに乗り遅れてしまった。
公営ギャンブルより、何分の一かという安いテラ銭でも、月に二度ほど、白い盆布を敷いて博奕をやっていれば、それで乾分の十人ほどは養って行けたのだ。
若い十代の頃が、喰うや喰わずの苦しい|三下《チンピラ》だったから、尚更、この博奕一筋という暮しを、守ってこだわったのかもしれない。
しかし、昭和四十年代も半ばになった頃には、見下げていた荒っぽく稼ぐ連中に、差をつけられそうになるばかりで、とてもついて行くのが苦しくなった。
倒産整理、用地や底地の買取り、立退きに債権の取立て、総会屋、右翼ゴロ、金融と売春、それに芸能屋と覚醒剤。
|鋼《はがね》の熊手で万札をかき集めるような、金儲けは、いびつにゆがんで豊かになった日本に、いくらでもあったのだ。
ゴロツキでも目先が利いて、この手の|稼《しの》ぎを手掛けた連中は、たちまちフル・サイズのアメリカ車におさまった。
銀座の酒場も郊外のゴルフ場も、極彩色の彫物をこれ見よがしにするこの手の連中で溢れた。
ゴロツキの場合、経済力と戦闘力は比例する。
水田順一だって、永く裏街道でしのいで来たのだから、綺麗ごとばかりでは無論ない。
手を染めそびれたまま、荒稼ぎする連中を、罵ったり眉をひそめてみせたりしてるうちに、手遅れになってしまったようだ。
刑期をつとめる間に、水田順一にもだんだんと分かって来たことなのだが……。
親分が水田順一を破門にしてくれたのは、このままでは日を追って、|非《ひ》|道《ど》い事態に追い込まれて行くのが見えていて、それを哀れに思ってのことだったのに違いなかった。
「けど、この歳になって、堅気になるって言ったって……」
と、友人や仲間に限らず、水田順一自身もいぶかったようなことで、府中刑務所の同じ工場につとめていた、|隣《とな》り|縄張《じ ま》の親分も、
「馬鹿なこと言って、いい歳をしたゴロツキが駄々をこねてるんじゃねえぜ。そんな四十過ぎて堅気になれるようなもんなら、ヤクザは全部若いのばかりで、歳のいったのは皆堅気になってるだろうに。……そんなこと、知らねえわけねえんだから、これは駄々に決まってら。いいよ、俺が口を利いて、古巣に戻れるようにしてやるよ。子供んころから知ってんだから、放っとくわけにも行かねえさ」
と、てん[#「てん」に傍点]からまともには聴いてくれないようなことだった。
たしかに、ヤクザを続けて四十歳を越せば、これは、乞食と政治屋、それに坊主や芸人と同じで、綺麗に足の洗える者などまず滅多にはいない。
根がヤクザとしては陽性な水田順一だったから、
「俺はヤクザのコロンブス。俺はゴロツキのライト兄弟……。他人には出来ないことを見事にやって御覧に入れる」
なんて、念仏のように唱えてはいたのだが、内心では、どうにもアメリカ大陸は見付け難そうに思えたし、鳥のように飛ぶことも、これもどうにも難しそうだった。
堅気の懲役[#「堅気の懲役」に傍点]が出所する時は、朝の九時頃、正門から出すのだが、官[#「官」に傍点]の言葉でマルビー[#「マルビー」に傍点]と呼ばれるゴロツキの場合は違う。
府中刑務所の場合は、朝の六時になると府中街道に面した西門を開けて、ゴロツキはそこから出所させる。
これが早朝出所で、冬だとまだこの時間は暗いのだが、今は五月なので充分明るい。
なぜこんな、鳥も起きたばかりという時間に、ゴロツキを出所させるのかというと、これには立派な官[#「官」に傍点]の事情があるのだ。
ゴロツキが刑を|了《お》えて出所するとなると、出迎えと称して仲間達が、メルセデスやアメリカの車を連らねて、刑務所の前にやって来る。
まだ交通量の少ないこの時間にでもしなければ、辺り一帯の交通が麻痺してしまって、たちまちキツイ文句がくるわけだ。
おおむね地方公務員の警察に、格上の国家公務員である刑務官が、文句を言われたのでは|沽《こ》|券《けん》にかかわる。
こんなことで、まだ始発のバスだって動いていない時間に、官[#「官」に傍点]の認定したゴロツキは、西門から釈放されることに決まっていた。
この慣行になっている早朝出所も、今の水田順一には、重い頭痛のタネだった。
なんといっても破門中だから、仲間や同業のゴロツキは、出所の日に出迎えに来るわけがない。
満期の日だって、知らせたのは、親族表[#「親族表」に傍点]に義弟として載せてある、堅気になっている兄弟分だけだった。
迎えに来てくれるとすれば、この兄弟分だけという心細い話なのだ。
仲良くはしていたものの、この兄弟分だって随分以前に足を洗って、今では忙しく商売をしている男だから、来られなくても、そんなに不人情を怒れることでもない。
塀の外で、チャンと税金を払って商売をしていれば、これは忙しいのが当り前で、破門中のゴロツキが、いくら昔は、
「死ぬ時は一緒……と決めた兄弟分でも」
これは必ず来いと言う方が無理と、水田順一も承知していた。
未成年の子供の頃からの同門で、何度か一緒に、荒っぽい時代の|真《ま》っ|只《ただ》|中《なか》で今はこれまでと目をつむったりした仲だけど……。
兄弟分の盃だって、足を洗って堅気になれば、これは以前と同じ固さと思いこむほうが、甘ったれで間違っていると、水田順一は覚悟していた。
府中刑務所は、七年以内の短期刑が専門だが、そのほぼ八割ほどは三年以内の懲役だから、一日に何人も出所して行く。
釈前房の掃夫から聞いたところでは、水田順一の出所する日も、早朝出所だけで、他に二人もいるという。
まだ薄暗いとはいっても、盛大な出迎えを受けている他のゴロツキと同じ時に、自分は独りで、ボストン・バッグをぶらさげて出所する。
誰も出迎える者も居ないまま、身をかがめてちぢめ、駅までの府中街道を歩く……。
そんな自分の|惨《みじ》めな姿を想像すると、これはもう、いっそこのまま塀の中で、くたばってしまいたいほどだ。
ずっと以前、水田順一は、ある名門一家の四天王と|謳《うた》われたほどの男が、同じこの府中刑務所から出所するのを、見たことがある。
破門中だったその男は、誰も出迎える者のいないまま、ひっそりと塀に沿って歩き去ったのだが、出所するヤクザを出迎えに来ていた水田順一は、
「なんと淋しく惨めな……。ああいうふうにだけはなりたくねえ」
と、|肝《きも》に銘じたのだった。
だから水田順一は、早朝出所を官[#「官」に傍点]から言い渡された時、
「自分は破門中ですから、出迎えがないかもしれません。あったとしても義理の弟が、国産の中古車を自分で運転して、やって来るぐらいのことです。早朝ではなく、普通の時間にして下さい」
と申し出たのだが、聞いた看守は、ザマアミロ、みたいな、含み笑いをするばかりだった。
この頃随分家は増えたけど、府中は矢張り郊外だ。どこかで雄鶏の声が、寝そびれた水田順一の耳に、威勢よく聞こえて来た。
空が白んで、水田順一には恐怖の朝が来かかっている。
水田順一の頭の上で、ドアの鍵が、
「グルリ、ガチャ」
と鳴って、平べったい顔を厚ぼったくさせた寝起きか寝不足の平看守がドアを開けると、
「水田、出所だ」
無感動な声が、狭い舎房の中で弾んだ。
出所する水田順一のときめきに比べて、看守の、この無感動なのを|罵《ののし》ってはいけない。
飛び立つ想いの水田順一は、何年に一回かの大喜びだけど、看守にしたら、ほとんど毎日、それも何回かやっている仕事なのだ。
これは、ソープランド娘と客のような……。と言えば、下品だけど、これが一番の|譬《たと》えのように思える。
天にも昇る心地と、暗くよどんだ恐怖が、共存している水田順一の胸のうちだった。
もし兄弟分が、なにかの都合か|思《おも》|惑《わく》で、迎えに来てくれていなかったら……。
一緒に出所する他の二人のゴロツキの、大勢の出迎え達の前を、その中にはきっと知り合いだって沢山居るに決まっているというのに……。
その連中の視線にさらされながら、随分離れている府中駅まで、|皺《しわ》|苦《く》|茶《ちゃ》の背広で歩かなければならない。
「ああ兄弟、どうぞ、どんな潮たれた車でもいいから、六時迄に西門の前まで迎えに来て、俺をさらし物にしないでくれ。看守共や他のゴロツキに、『水田の奴、誰も迎えが来なくて、トボトボ歩いて駅の方に行ったぜ』なんて|肴《さかな》にされたんじゃ、いかに破門中でも、あんまりだぜ」
今からこんなに泣きが入るようでは、堅気になってこれから会い続けねばならない、せつなく悲しい目といたぶりに、とても耐えて行けるわけもない。
「なるほど、四十を過ぎれば、なかなか足が洗い切れないわけだ」
と暗い気持で、胸のふさがる想いの水田順一だった。
「水田は、気どんないで、こんなもんでも喰っといた方が、いいんじゃねえの」
早朝出所の三人は、掃夫達の食堂に用意してあった朝食をすすめられた。
黒く乾いた麦飯と、湯気も立っていない味噌汁と二切のタクアン。
あとほんの少しで塀の外に出られるのだから、刑務所の規定で並べてあるだけで、こんなもの、普通、早朝出所のゴロツキは、誰も喰べない。
二人居た看守のうち、歳とった方が、そう言うのを、水田順一は聞こえない振りで、知らん顔
を決めていた。
すると、もう一人の、マカオのドッグ・レースで使う犬のような、貧相な顔の若い看守が近寄って来て、
「オイ水田よ、お前は喰っといたらどうなんだ、って親切に言ってやってんだぞ」
と大きな声で言った。
このまま足を洗って堅気になるつもりの水田順一が、たったひとりにしか今日の出所を知らせてなく、不安にさいなまれているのを、看守共はよく承知のようだ。
挑発して水田順一を怒らせ、あわよくば公務執行妨害にでも、ひっかけてやろうという魂胆が、見えみえだった。
「四年以上も、こんないたぶりに堪えて来たんだ。あと一時間ほどというこんな場面で……」
と水田順一は、顔を青くひきつらせて、立ちつくしていた。
四年以上も我慢が続いたからといって、あと僅かな時間が、無事に過ぎてくれるということではない。
刑務所では、なんでも突然起こり、爆発して、そしてはかないものなのだ。
細めて、遠くを見詰めていたような水田順一の瞳が、少しずつ広がって輝き、焦点を結び、目尻があがるのを見ると……。
他の二人の早朝出所のゴロツキのうち、歳がいって六十を過ぎたかとも思われる、小柄な爺様のテキ屋が、突然、グラリとすると、よろけてたたらを踏んだ。
そのまま、水田順一の横に立っていた若い看守の運動靴の甲を、上手に弾みをつけた裸足の踵で、思い切りふんづける。
「あ、先生、これはごめんなさいよ。自分も歳だねえ、出られるとなったら、もう嬉しくて、立ちくらみがしちまったぜえ」
「ギャッ」
ざまのいいことに、余程痛かったのだろう。若い看守は細い顔にバツを画くと、踏まれた足をあげて、片足でコンクリートの床の上を、バタバタ跳ねる。
テキ屋の爺様が、しきりと|詫《わび》を言いながら脇にどくと、もうひとりの若いゴロツキが、代わってスッと近寄って、ペッと固まった物を、看守の鼻の頭に吐きつけ、
「あ、先生、これはごめんなさいよ。自分は、慌てて口を利こうとすると、つい唾が飛んじまっ
て……」
よろけたふりをして、看守の足の甲を踏みつけるのと、こんなふうにして唾を吐きかけるのは、まずどうしたって刑事事件には出来ない。
怖いのは、ヤキと懲罰だけだから、もう怖いものなしという場面だった。
テクニカル・タームが、テキ屋と博徒では微妙に違うし、なんといっても持っている雰囲気が違う。
この爺様が、ゴロツキもテキ屋の類ということは、水田順一には顔を合せた時から分かっていた。
宿屋の番頭とゴロツキは一緒で、人を見て飯を食っているから、水田順一ほど永くやっていれば、これはほとんどお見通しだ。
もうひとりの若いゴロツキは、昨日の夜、舎房のドアを蹴って、怒鳴りまくっていた威勢のいい盛りの、爺様とは対照的なのっぽだった。
最近はこういった若い衆が増えたのだが、この背の高いゴロツキ青年の、分類が水田順一には、ひと目ではつきかねた。
それにしても、看守に挑発された水田順一を見兼ねて、それぞれ得意の芸を出してくれたのだから、これは有難いことに違いない。
水田順一は、二人に、黙って首を折り、頭を下げて見せた。
こんなことがあるから、どうしたって、なかなか足が洗い難いと思うのだ。
「な、牢番のあんちゃん、それにそこの爺イも聞いておきな。水田順一、看板を降ろして堅気にはなったが、女になったつもりはねえ。なめていたぶるのは勝手だが、生命と恩給を大事にしな。分かったかこの牢番」
これが最後の|啖《たん》|呵《か》かな。と水田順一は、青く平べったい顔になった二人の看守を、ねめまわしながら思ったのだった。
「あんちゃんは破門中と分かった。もし都合で迎えが来てなかったら、構やしねえから、俺の迎えの車にお乗んなさい。こんな場面だから、破門にした親分さんも、怒ったりもしますまい。遠慮せずに、必ずそうしなさいよ。それにしても、このいじけた木ッ葉共は、よくこの手の絵図を書きやがるぜ」
テキ屋の爺様は、男でござると、白髪頭を振りたてたのだ。
「先輩、どうも有難うござんす。迎えが来ていませんでしたら、お言葉に甘えさせていただきやす」
礼を言った水田順一は、けど、こんなことで、本当に堅気になんてなれるのだろうか、と心細く思った。
思いながら、テキ屋の爺様のかけてくれた情けは、この場面で、とりあえず何よりも嬉しかった。
「コラ、もういいだろ。|煙草《ネッコ》を吸わせなよ」
無理を承知でゴロツキ青年は、歳のいった方の看守に、こんなことを言って、しきりと|絡《から》みついていた。
連れて行かれた次の部屋で、入所した時に、預けてあった私物が、段ボール箱に入ったまま手押車で運ばれて来て、めいめいに引渡される。
内容を帳簿と、いちいち引き合わせる「領置品調べ」という儀式は、昨日のうちに終わっていた。
ふくれた面の若い看守が、段ボール箱を三個、水田順一の足もとに、ボトンボトンと落す。
別な看守が、預かっていた貴重品の袋を持ってやって来ると、出所する三人の、左手の人差指の指印をいちいち採って、現金や腕時計、それにライターといった品を渡して行く。
水田順一にはこの他に、四年働いて貯った六万円ほどの作業賞与金も渡されたのだが、文明国と名が付いて、こんなに安いペイの国はどこにもない。
府中刑務所には、外国人の懲役も、日本人と一緒の工場に服役している。
その中の、文明国から来た外人懲役は、入所した最初だと、作業賞与金が百円チョットほどだと聞かされて、
「時間給なら、まあそんなものさ。もしそれが日給なら、大使館に抗議してもらわなければ……」
なんて必ず言うのだけど、それが時間給どころの話ではなく、日給でも週給でもなく、なんと月給だと知ると、あまりのことに、ただただ顔をひきつらせてしまう。
少々の非常識なら、怒りも|喚《わめ》きも出来るのだろうが……。
あまりかけはなれていると、カミカゼ、ハラキリ、アラヒトガミの、薄気味の悪い日本に捕われているということを、思い知らされてしまうらしい。
この月給でも俸給でもない作業賞与金は、それでも、懲役の成績や態度によって、ほんのチョッピリずつだが昇って行く。
最初は見習工ということで、一ヵ月に百七十時間もこき使われて、二百円にもならない。
それが反則もぱくられずにやっていると、だんだん見習工から十等工、九等工と徐々に等工というグレードが、あがるのだ。
五年も経つと、一番上の一等工になり、更に|役《えき》|席《せき》によっては、技能手当のような割増が付く。
これが最高給の、一等工の五割増しという奴で、これだとそれでも、月に五千円にもなるのだそうだ。
大変なのから、なんてこともないのまで、懲役が毎日やっている反則だけど、これがぱくられて懲罰を喰らうと、折角の等工も全て御破算になってしまう。
一等工になっていようが、なんだろうが、また最初の見習工から始めるのだから、これはまるで双六の「振り出しに戻る」みたいなものだ。
水田順一は、入所した時に持っていて、預かられていた現金に、この六万円ほどの作業賞与金を合計すると、全部で二十万円に少し欠けるほど持っていた。
四年間段ボール箱に入れたままだった背広は、目をそむけたくなるほどの皺苦茶で、しかも何か異様な臭いがする。
こんな、のしいかのようになってしまった背広だけど、もとをただせば、日本でたった一着、これだけというイタリア生地だ。
中に新聞紙を捻って詰めておいた靴も、いたるところに白くカビが生え、四年間の寒暖と湿度の変化で、あぶったするめのようになっている。
これだって、京橋の伊東屋で誂えた自慢の靴だったのだけど、ちょっとやそっと、拭いたり擦ったりしても、とうてい履けるようではなかった。
兄弟分が、出所用の衣類や靴を持って、出迎えに来てくれなければ、さっそく身なりを整えなければならない。
矢鱈と贅沢だった以前のゴロツキ流ではなく、余程神経をつかってやらなければ、それだけで二十万足らずの金は、あらかた消えてしまうに決っている。
もし兄弟分が迎えに来てくれなければ、テキ屋の爺様の厚意に甘えて、渋谷か新宿まで、車に乗せていってもらおう。
そして、どこかジーンズ・ショップで、ジーンズの上下と頑丈なワーク・ブーツでも買うのだ。
これなら、いくらもしないし、それなりの格好もつく。
そしてそれから……、ではなくてその前に、背広は皺苦茶、靴はボコボコでも、とにかくコーヒーを、お代りして二杯飲む。
考えただけで、コーヒーの香りが、鼻の奥でしたような気がしたのは、もしやフラッシュバックとやらだろうか……。
それにしても、いったいいつから、俺はコーヒーを飲んでいないのだろう。
いつのが最後の一杯だったのだろうか、とそんなことを水田順一はボンヤリ考えていた。
ビールも飲みたい。|鮨《すし》も喰いたい。女も抱きたければ、おふくろにも会いたい。
けど、とりあえず出来ることでは、なによりかにより、水田順一には、続けざまに飲む二杯のコーヒーだった。
寝静まっていた刑務所も、この時間になると、まだ薄暗いなかで、少しずついろんな物音がし始める。
鶏は、まだ威勢よく、朝だ起きろ。と叫んでいた。
ジーンズの上下とワーク・ブーツに身なりを整えたら、スポーツ新聞を買って、どこか小さな運送屋を探そう。
今迄、運転したこともなかったトラックだけど、こうなってみると、若い頃に取っておいた大型の免許だけが、頼みの綱だった。
他に堅気のまっとうな世界で、出来そうなことは、どうにも思いつかない。
それにトラックの高い運転台なら、知り合いの目にも、そうそうはつくまいし、なれの果てと見てのいたぶりだって、他の仕事に就くよりは、少なそうに思えたのだ。
他の連中が普通にやって二十万ほど稼ぐのなら、精を出してやって、工夫すれば、もう十万ほどはもらえるだろう。
寮にでも入って、煙草と缶ビールぐらいで辛抱すれば、二年もやってるうちに、焼鳥屋かおでん屋の頭金ぐらいは貯るだろう。
塀の中でつとめている気になれば、|満《まん》|更《ざら》これは夢でもない。
なんて思ったのだが……。
けど、そんな具合に行くようなら、こんなザマにはなっていなかった。という想いが、続けて湧きあがって来てしまう。
ふくらんだ水田順一の胸は、直ぐペソッとなってしまって、結局、
「やってみなきゃ、どんな答が出るものか、分かったもんじゃねえや……」
と、人気薄のしょぼくれ馬に、残った金を全部そっくり張りつけてしまった、競馬場の最終レースのような、風に吹かれたような顔になってしまった水田順一だった。
とにかく少年の頃から、まっとうな暮しをしたことのない男なのだ。
四十を過ぎて、生まれて初めてのそんなことを、やってみようとしているのだから、確信や成算なんかあるわけもない。
いくら手前勝手で|身《み》|贔屓《びいき》な男でも、これでは、計画どおりにうまく行く、なんて思える筈もなかった。
意志が弱くズボラで、いい格好ばかりしたがって我慢が利かず、見栄を張ることと贅沢が大好きだから、今迄というもの、生命や懲役とバーターで、ヤクザをやって来たのだ。
この歳になって、
「ハイ、皆さん。今から私は、まっとうな堅気でございますよ」
なんて、児童公園で遊ぶ子供が、簡単に泥棒から巡査に変るような、そんな器用なことが出来るわけもないし、世間さまも許すわけもなさそうだ。
やけっぱちの度胸やはったり。相手の弱味を素早く見付けて喰らいつく術。
それに博奕の腕や喧嘩のうまさといったような、これまでは、それが並より抜けていたから、兄貴よ、大幹部よ。とのして来たのだが……。
堅気になったとなると、北海道の熊猟師が、牛込柳町にでも引越したようなもので、今迄の技術は、もうまるでなんの役にも立たない。
水田順一の持っているのは、前科と彫物、それに顔の喧嘩傷やきつい目付きなんて、まっとうな堅気の世界では、足を引っぱる役にしかならない、厄介な物ばかりなのだ。
けど、そんなことなら、まだそれは覚悟の上だったので、なんとかしのぎようもあるのだろうが……。
水田順一が塀の外に出た途端から浴びるのは、以前の仲間達と、それに堅気連中の、あざけりといたぶりなのだ。
これは、考えただけで、気が遠くなってしまうようなことだった。
ついさっき、牢番がいたぶろうとした時、足の甲を踏んづけたり、唾をひっかけたりしてくれたような奴は、塀の外では、まず決して現れてはくれない。
四年の間に、作業賞与金で購入[#「購入」に傍点]したり、塀の外から郵便差入[#「郵便差入」に傍点]をしてもらった本が、段ボール一箱に一杯なほどあった。
その中から、二千八百円も払って購入[#「購入」に傍点]したギヨーム・アポリネールの伝記と、E・M・シオランの『生誕の災厄』、それに小学館の国語辞典だけ取り出して、残りの本は全部廃棄処分にしてもらう。
こんな本は、たぶん刑務所の図書館の蔵書になって、官本[#「官本」に傍点]として懲役に回覧されることになるのだ。
新聞の広告に書いてあった定価を、ひと桁間違えて、二百八十円だと思って頼んでしまったアポリネールの伝記は、箱の付いた立派な本だった。
置いていくわけにはいかない。
そんな手続きをしていると、出迎えに来た者が持って来て、差入れた衣類と履物を、若い看守が面白くなさそうな顔で運んで来た。
ゴロツキが早朝出所する時は、これを着込んでめかしこむと、西門から出て直ぐ、群れている同業の出迎えの前で、親分か兄貴に付き添われて、一言、お礼の挨拶をすると決まっている。
たいていが決まり文句で、
「本日は御多用中のところ、自分ごとき渡世未熟の若輩者の出所に、早朝にもかかわりませず、かくも盛大なお出迎えをいただき、厚く御礼を申しあげます。
尚、|此《この》|後《ご》も、侠道に励み度く存じますゆえ、一層のおひきまわしを願いあげます。
本日はまことに有難う存じました」
なんて挨拶をする。
中には、この程度の口上も覚えられない、右の耳から|覗《のぞ》くと、左の耳から反対側が見えてしまうような奴もいる。
こんな時は、兄弟分か兄貴か、そんなものが替りに、手早くやってしまうと、これも決まっていた。
看守の運んで来た衣類に、素早く鋭い目を走らせた水田順一は、ハンガーがふたつだけと見て とると、
「ああ、矢っ張り……」
と膝がゆるんで、目の前が暗くなった。
その看守の後ろから、もうひとり看守が、和服の入った箱をささげ持つようにしてついて来ると、上に|雪《せっ》|駄《た》の乗ったその箱を、テキ屋の爺様に手渡したのだ。
それを見た途端に、水田順一の顔が、皺が伸びたように輝いて、けど身体は、風にでも吹かれたように、少しゆらりとする。
今日の早朝出所は三人なのだから、テキ屋の爺様が和服を着込むとなれば、看守の運んで来たふたつのハンガーの洋服は、そのひとつは自分のものに違いない。
兄弟分が用意してくれたのだ。
西門の外で、自分の出て来るのを待っていてくれる。
胸がふくらんで熱くなり、他の二人と看守の目がなければ、水田順一は、その場にしゃがみこんでしまったかもしれない。
これから塀の外に出ると、こんな切羽詰るような場面も、きっと嫌になるほど|出《で》|喰《く》わすのだろうが、それでも、とりあえず今は助かったようだ。
皺苦茶な背広で、ボコンボコンの靴を履き、大勢のゴロツキ達の前を、駅迄歩かなければならないという、非道い目には会わないで済んだらしい。
戦後の混乱期の手荒な仕込みで、今までというもの、強気に押しまくるようにして渡って来た永い渡世だ。
同業のゴロツキにだって、敵や、恨みを抱いている奴は、これは数え切れないほど沢山いる。
堅気の拒絶に加えて、この連中のいたぶりや足のひっぱりがあるのだから、泥棒や強姦野郎が足を洗うのとは、事情が大分違うのだ。
若いゴロツキが、クリーム色のズボンに鮮やかなレモン色のシャツを着て、同じクリーム色のブルゾンをひっかけると、くすんだ刑務所の部屋の中がいっぺんに明るくなった。
テキ屋の爺様も、着流しで角帯をキリリと締め、半天をひっかけて、流石にいなせないい姿で決まっている。
水田順一の、兄弟分が誂えてくれたのだろう、チョーク・ストライプのスーツは、どうやら残して来た背広のサイズらしく、チョッピリきつかった。
刑務所の、お話にならない非道い飯でも、四年喰べるうちに肥ってしまうのだから、ヤクザは塀の外で、超人的な不摂生をやっている。
灰色の囚人服を脱ぎ、それぞれの装束を身につけると、三人はもう別人だった。
西門の外の街道に沿って並んでいる二十台ほどの車と、五、六十人の出迎えのほとんどは、テキ屋の爺様の仲間や同業の者らしかった。
爺様が西門のくぐり戸から外に出ると、直ぐ四、五人ずつ固まって近寄って来て、
「御苦労さんでした」
とか、
「御元気そうで、なによりです」
と丁寧な挨拶をするのだから、どこが|縄張り《に わ ば》の爺様なのか、水田順一は知らないのだが、人気の良い人のようだった。
「やあ、こんなに早くなのに、わざわざ済みませんねえ」
短く刈り込んだ白髪頭を、前に伸すようにして爺様は礼を言っている。
看守に唾を吐きかけてくれた若いゴロツキの方には、同じ三十歳そこそこと見える、ゴルフ・ズボンにウインド・ブレーカーを着た、崩れた印象のある男が三人迎えに来ていた。
この三人に限らず、この頃は見ただけでは、以前のように、堅気かゴロツキか見分けがつかない。
昭和三十年代までは、それでもどうにか、着ている物や髪の刈り方、それに身のこなしや喋り方なんかで、見分けがついたのだが……。
いつの間にか、堅気の方がどんどんヤクザっぽくなって、目付きもいやしくなってしまったのだ。
この頃では、勤め人も学生やチンピラも、皆同じようだから、これにはお巡りでなくてもずいぶんと困ってしまう。
たとえば夜の街で、若い野球の選手が、ネギ坊主のような頭で数人固って歩いて来ると、これはまずどうしようもなく、暴力団のチンピラとしか見えない。
そんなことを思い出しながら、水田順一が、見分けのつきかねる若い衆達を見ていると、前から舞台のせりあがりのように、兄弟分の痩せて皺の深い顔が浮びあがって、
「オウ兄弟、御苦労さん」
と言った。
兄弟分の背後から現れた兄弟分の昔の若い衆も、
「水田の|小《お》|父《じ》|貴《き》、おかえんなさい」
と言ったのだった。
三十五、六で足を洗って、今ではすっかり堅気になっている兄弟分も、こんな時になると、昔の乾分に連絡をとって連れて来る。
水田順一が、テキ屋の爺様に、腰をかがめて丁寧に礼を言うと、爺様も|愛《あい》|相《そ》よく、何やら励ましのようなことを言ってくれた。
見分けのつかない出迎えの三人と一緒に、|巨《おお》きなアメリカ車に乗ろうとしていた若い衆の背中を、軽く叩いて、
「どうもな……」
と水田順一が言うと、振向いた若い衆は、これが塀の中で見た同じ顔か、と思うほどの明るい顔をしていた。
ニッと笑って片目をつむって見せる。
その時、低い雲の切れ目から、朝日が差した。
それまでは、雲にお|陽《ひ》様がさえぎられていて、薄暗く、まだ夜明け前のようだったのだが、もうすっかり塀の外は朝だったのだ。
刑務所の、夜露に濡れた高いコンクリの塀と、府中街道一帯、それに西門の前に群れているゴロツキ達が、ライトの当った舞台の上にいるように輝いて見える。
兄弟分が堅気になった時、一緒に足を洗って、今では郊外の連れ込みの番頭をしているという若い衆が、今日は運転手だ。
そのクラウンの後ろのシートに、水田順一が兄弟分と納まると、車は静かに西門の前を離れて都心に向かった。
横に座った兄弟分が、直ぐショートホープを出してくれて、銀のダンヒルを構えてくれる。
「中で|煙草《ネッコ》はまわった[#「まわった」に傍点]かい」
「時々な」
自分はラークなのに、水田順一の吸う煙草を覚えていて、用意してくれていた兄弟分の心遣いに、水田順一の目の裏は、たちまちジワッと熱くなる。
火を|点《つ》けてもらって、ひと息吸いこむと、窓の外の景色も窓枠も、目に入るものが皆、ユラユラゆれ始めた。
水田順一の懲役は終わったのだ。
一本吸い|了《お》えた頃には、ユラユラゆれるのはおさまった。もう一本直ぐ続けて火を点ける。
一車線の府中街道を、前からトラックが走って来ると、水田順一は、両手を運転席と助手席の背もたれに突いて、および腰になって首をすくめ、
「フ、ヒョーッ」
と魂消た声をあげたのだ。
運転していた若い衆も、元ゴロツキの前科者だから、こんなことには覚えがある。
ほほえむと、車のスピードを落した。
後から西門の前をスタートした、テキ屋の爺様を出迎えに来ていた連中の車が、次々と追い抜いて行く。
刑務所の塀の中には、こんなスピードで動く物はなにもないのだから、何回出所したような者でも、まず一両日はこんなふうで、なかなか塀の外の速さに慣れない。
これは、誰も迎えに来てくれなかった泥棒の話だけど……。
刑務所の前からバスに乗ったのはよかったのだが、あまりの速さに、目がまわってしまって、次のストップで降りてしまい、そんなことを何度も繰り返したので、駅に着くまでに半日かかってしまったという。
他にも、出所した懲役達が、うろたえたり苦笑いしたりするようなことは、それはいろいろと沢山あるのだ。
それが、たとえ小間切れを煮付けた牛丼だろうと、とにかく牛肉が矢鱈と美味しかったりする。
ずっと塀の中では、極くたまに、豚か鶏にありつくぐらいのことだったから、奥歯で噛みしめる牛肉は、もう喰べながら歌が唄いたくなるほど美味しいものだ。
そして、普通の家に落着くと、寝ても起きても、天井が嫌に低く感じられる。
これは刑務所の舎房の天井が、どこもなぜか、とても高くて白く塗ってあるからだろう。
そんなことのきわめつきは、道に落ちている煙草の吸殻だ。
それまで塀の中で、煙草では散々な苦労をして来た懲役だから、出所しても暫くは、そこいらじゅうにある吸殻が、目について、気になって気になって仕方がない。
「オイ兄弟、まずなんだ、なにがしたい」
兄弟分が笑いながら|訊《き》いてくれた。
「まずとにかく、二杯続けてのコーヒーだ」
水田順一が言うと、
「どんなコーヒーでもいい、ってもんでもないだろう。ハテ、今の時間だと、気の利いた店が開いているとしたら、何処だろう」
兄弟分が首を捻ると、
「自分も最近のことは不案内で、とにかく田舎のモテルのマネージャーですから……。今なら車がすいているから、中央高速を、なんでも新宿の西口まで、行ってしまう手でしょう」
と運転していた若い衆が答えた。
「そうだな。西口なら、どこか良さそうな店が開いているだろう。兄弟はコーヒーは何が好きなんだ」
「苦いブラジルが好きなんだが、今は、あのアメリカンて奴でなければ、なんでもいいんだ。贅沢を言ってる場面じゃねえぜ」
水田順一がうめくように言うと、
「小父貴、シートに少し深くかけて、出来たら目をつむってておくんなさい。十五分で西口につきまさあ」
「オイ、二十分でいいぞ」
と兄弟分が若い衆に言うのを聞いて、
「ああ兄弟は、本当の堅気になったようだ」
と水田順一は納得して、尻をずらすと目をつむった。
「ハイ、中を採って、チョッピリ親方を立てて十八分でさ」
若い衆の声に目を開けると、そこは新宿の西口で、ビルの一階で早朝からやっている喫茶店の前だった。
兄弟分に続いて車から降りた水田順一の目に、舗道に落ちていた吸殻が、朝日に当って、ばらまいてある宝石のように、きらめいて見えた。
あとがき
この小説集の舞台は、再犯刑務所の府中刑務所です。
私自身、前刑の四年間、この刑務所に服役しました。
初めて刑務所に入れられた懲役を集めている初犯刑務所とは違って、再犯刑務所は擦れ枯らしの巣です。
煮ても焼いても喰えない前科者が群れていました。
私もそのひとりで、しかもヤクザものだったのです。
私は、辱かしいことですが、なんとしたことか、まだ中学生だった幼い頃に、すっかりぐれてしまって、そのまま四十歳を過ぎるまで、無頼な暮しを続けてしまいました。
三十八歳で逮捕され、四十二歳で出所するまでの間、閉じこめられ、擦れっ枯らしの前科者としのぎをけずる毎日を過しながら、
「遅過ぎるのは承知だが、とにかく今回出所したら、まっとう[#「まっとう」に傍点]になろう」
と決めたのでした。
堅気になる、と言うのと、まっとうになると言うのでは、これは、実は大違いなのです。
ヤクザが、ただ堅気になるというのは、組織から脱けるということで、総会屋、地あげ屋、金融ブローカー、政治ゴロといったような怪しげなのも、みんな堅気なのでした。
まっとうになる、というのは、そんなものではなく、本当のまともな市民になるということなのです。
「四十を過ぎて、まっとうになったヤクザはいない」
と言われていて、それが常識になっていましたから、
「わがまま言って済みませんが、足を洗わせて下さい」
親分は、苦笑いして、したいようにすればいいと言ってくれましたが、きっと内心では、なにをいい歳して駄々をこねてやがる、と思われたのに違いありません。
本当に、いい歳をして、まっとうな堅気を志した私には、当然のことですが、社会の壁は厚かったのです。これがもっと若ければともかく、前歴がすさまじいので、トラックの運転手にもなれません。
呆然とする日が続きました。
幸運が、私に最初にウィンクしてくれたのは、当時、講談社の「イン・ポケット」編集長宮田昭宏さんに紹介された時です。
私が作家になれたのには、足を向けて寝られない、なんて言い出したら、鴨居にぶら下らなければならないほど恩人が多いのですが、なんと言っても、この方が最大の恩人でした。
文章の書き方も、原稿用紙の使い方も全て宮田昭宏さんが、面倒臭がりもせずに、とう[#「とう」に傍点]の立った新米に教えて下さったのです。
最初に「塀の中のプレイ・ボール」が、「イン・ポケット」で活字になった日のことを、今でも決して忘れません。
四十歳をなかば過ぎても、こんなに興奮し感激するものか、と自分に驚くほどでした。
一緒にヤクザをして命を賭け、懲役をつとめて寒さに泣いた仲間でも、親分になれたものはともかくとして、途中から道を変えた者で、私のような幸運に恵まれた者は、まずいないでしょう。
私は自分の倖せに震えています。
こんな仕事につけて、飯が喰えるなんて夢のようです。
宮田昭宏さんに紹介して下さった沼田陽一先生、佐藤実さん。
それに「大遠投」を「小説現代」に載せて下さった前編集長の川端幹三さん。四十枚以上も自筆で直して下さった前川練一郎さん。そして単行本にして下さった松本徳也さん、安部俊雄さん。皆さん本当に有難うございました。
おかげで、どうやらまっとうになる道が、前に広がって来たようです。
最後になりましたが、この本を御買上げいただいた皆様に、厚く御礼を申します。
[#地から2字上げ]著 者
一九八七年三月
この作品(単行本)は、一九八七年三月に小社より刊行されたものです。
本電子文庫版は、一九九〇年二月刊行の講談社文庫版を底本としました。
|塀《へい》の|中《なか》のプレイボール
*電子文庫パブリ版01
|安部譲二《あべじょうじ》 著
(C)Joji Abe 1987
二〇〇〇年一〇月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社