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ぼくのムショ修業
[#地から2字上げ]安部譲二
目 次
男の一生
第一房
第一課 現行犯逮捕
第二課 拘置所
第三課 判決
第四課 押送
第五課 刑務所
第六課 考査房と訓練房
第七課 配役
第八課 独居房と雑居房
第二房
第一課 正月のメニュー
第二課 作業賞与金
第三課 越冬
第四課 娯楽
第五課 外人懲役
第六課 累進処遇
第七課 房内捜検と懲罰
第八課 五等飯
第九課 懲罰房
第十課 官本・私本
第十一課 運動会
第十二課 脱獄者
第十三課 余罪発覚
第十四課 サッカー選手
第十五課 森昌子後援会長
第十六課 入浴
第三房
第一課 正月三ガ日
第二課 ビックリ箱
第三課 免業
第四課 風邪
第五課 散髪
第六課 保護司と身柄引受人
第七課 喧嘩
第八課 読書
第九課 週刊誌
第十課 俺見たんだもん
第十一課 人生の不安
第十二課 ソフトボール
第十三課 おんぶ競走
第十四課 バレーボール
第四房
第一課 仮面接
第二課 豆ゲソ
第三課 仮釈放委員会
第四課 本面接
第五課 釈前房、あと二日
あとがき 塀の外には出たけれど……
(府中刑務所文集『富士見』昭和五十二年五月号より)
男の一生
[#地から2字上げ]安部直也
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ついこのあいだまで、パクられても少年だったのに……。いつの間に時が過ぎてしまったのか、自分も今年で“|不《ふ》|惑《わく》”と言われる四十歳になってしまったのには驚きました。二度はお呼びのない人生の、もう三分の二が過ぎ去ってしまったのです。
この冬は、ジャンパーの袖を突っぱって足踏みしながら水っ鼻をたらすばかりで、一寸も威勢がよくないのです。どうやら自分の人生の|鉄《てっ》|火《か》な時代は終わったようです。
四十年の過ぎた|無《ぶ》|頼《らい》な人生をふりかえってつくづく思うのですが、自分ばかりではなく誰にとっても“|文《もん》|句《く》・意見・注意”なんてものより“ほめ言葉・お世辞”なんかのほうが耳に心地よいのではないか、と思うのです。誰でも嫌な事は聞きたくない。出来るだけ聞かないで済むようにしたい、と思うのは人情だと思うのです。
そういえばあの“判決”なんて奴も聞きたくない番付の大関ぐらいでしょう。人間と生まれたら一生の間、たった六、七十年の|薄《うす》|羽《ば》かげろうやツクツク法師より一寸永いだけの人生……。
素敵な音楽と自分に|惚《ほ》れている女の口説、それに番頭が万札を束にする音、それだけ聞いて過ごしたい。なんて思っている間に、ガチャリとワッパの音を聞かされ判決を聞かされ、バスに放り込まれて駄々をこねる暇さえなく、ゴロゴロ、バタン、ガチャッ、ポイと無造作に「手慣れた仕事だ、一丁上がり!」とばかりに、|府中《ふちゅう》の夜独(夜間独居)に放り込まれてしまいました。どうも人生は思ったように絵図どおりには行きません。
ここで一番身に心地よくない音の筆頭は、毎朝の「ジャランジャラン」という鐘の音です。この鐘の聞こえる頃、自分の背中の皮は|敷《しき》|布《ふ》に融け込んでいて、敷布は敷布団と、敷布団はゴザと、ゴザは床板と、床板は地面と(チイとくどいかな?)、もうとにかくミッチリくっついちゃってて、この鐘の音で、何が何でも、どうでも起きなきゃならない、という事がたまらなくせつないのです。
「自由のない」という事は、たばこが吸えないとか、女を抱けないとかばかりではなく、むしろこういう手の「鐘が鳴ったらどうでもこうでも起きる」とか「ベルが鳴ったら、どんないい湯加減でも出なきゃならない」とか「寒くて目ん玉の凍るような日でも、三枚もある毛布のうち、たった一枚しか|膝《ひざ》に掛けてはいけない」という事に出食わしたとき改めて痛烈に感じるのです。惨めな捕われの我身を……。
親のいう事が聞けずに|渡《と》|世《せい》の道に入り、そして|我《わが》|儘《まま》勝手の末、破門を受けたような、半端な自分です。これからの三年間、はたして無難に務められるでしょうか。
思い出して見れば、今までの自分の人生は、本当に自分の耳に心地よい音だけを追って生きてきた人生でした。嫌な音は、それがどんなに将来プラスになる音であっても遠ざけて、ケンして、生きてきたのです。今、一人になって誰もいない独居にあぐらをかいて、腕組みをして、自分の過ごしてきた人生と、大変な困難が予想される将来を思うのです。
自分だって他人様と同じ人間様なのです。なにも目が三つ口が二つ、チンポコが二本ついているわけじゃないんですから。気をつけて懸命に務めれば、他の二千数百人の人がチャンとやっている懲役を自分もチャンと務められないわけはないのです。そして、ここの務めが務まって、それで耳に嫌な言葉も我慢して聞いていられるような人間に成長すれば、|娑《シャ》|婆《バ》に帰ってもどうにか残された三分の一の人生を、人並に生きて行けるでしょう。
幸か不幸か、今までの物を全てフェノールアミノプロパン(覚醒剤)のおかげで無にしてしまった自分です。実家の年寄りの所に戻って親孝行の真似が今度こそ出来るでしょう。|四十面《しじゅうづら》さげて、不良息子のなれの果てが、トボトボ帰って来るのですから可愛くもなんともなくて、さぞ実家でも当惑するでしょうが、七十歳過ぎたお袋の肩を抱いて、「婆さん、俺の残りの人生を皆、アンタにあげるよ、本当だよ……」と言ってやったら、婆様は喜んでくれるでしょうか。
まあ、今までの経験で、四十位までの女なら何でも自由自在(そうでもないかな)なのですが、相手が七十歳の、それも今まで散々な目にあわせてきた婆様だけに、いい顔して迎えてくれるか大変心細いのです。今まで借りと負い目ばかりの婆様にこの修養でチイとでも利口になって、今度こそいくらかでも、喜んでもらいたい。そうしない間に死なれてしまうと、自分としては一生の心残りになってしまうのです。
婆様や、大事にして待っててくださいよ。貴女の次男坊は、今までよりチイと我慢の利く、辛抱強い男になって戻りますから……。
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第一房
第一課 現行犯逮捕
昭和五十年の五月十六日、|五《ご》|反《たん》|田《だ》にあった私の競馬のノミ屋(私設馬券)の事務所に警察が踏み込んできました。最終レースが終わってから一時間。現行犯逮捕ということでした。これはとても乱暴なことで、逆らえば逆らえたのですが、このときは|刑務所《ムショ》へ行ったほうがいいという判断で、現行犯逮捕に甘んじたのです。最終レース終了後一時間たっての現行犯逮捕は、競馬のノミ屋での新判例でしょう。
〔現行犯逮捕〕被疑者を|逮捕《パク》る場合というのは、普通は裁判官から逮捕令状をもらってから踏み込むなりするのですが、それ以外だったら現行犯逮捕しかありません。
スリだったら、尾行と張り込みを繰り返して現場を押さえ、盗品を確認、その場で|手錠《ワッパ》をガチャリというシーンが展開されるわけですが、競馬のノミ屋の「現行犯」ということになれば、レース中にお客から電話が鳴っているところということになるわけで、最終レース終了一時間後では、「現行犯」にはなり得ません。
私の場合、本件は競馬法違反。「それについて素直にすれば、ほかに叩けばほこりだが、そのへんまでは言わないよ。どうだ、素直にするか、それとも徹底的にやるか、どっちかな」という態度で|刑事《デコスケ》は迫ってくる。
このときの私には、「一審の判決、競馬法違反と拳銃の不法所持については|控《こう》|訴《そ》しない。そのかわり、これこれについては触れない」という暗黙の取引があったのです。最初っからなれ合いだから、この場合は取り調べも何もありません。
なにもしゃべんないのに、タタタターッて調書をとって、「安部、これでいいな」って言って、読んで判コをポンとつくだけ。
だから、私の今回の場合は、すごく特殊なケースです。
一般的には、警察がヤクザもんを捕まえると、二通りのケースがあります。そういう談合に及ばず、向こうの持っているネタを徹底的に全部出して、徹底的にやる場合と、それから、「おい、わかってんだろう。本件はこれだから、これについて認めれば、ほかの叩けばほこりまでは言わないぜ」っていうケースと、二通りあって、圧倒的に後者のほうが多いのです。
ですから、ときどき情を憎まれると、逮捕状を、お|札《さつ》数えるみたいに数えながら、「おい、|端《はし》からやっていくぞ」って奴もあります。
今回の場合は、私の事務所の|捜索《ガサ》をかけると、コカインが五グラム出てしまったのです。私はヒロポン主義者だから、コカインなんてやったことはありません。ところが、私の事務所だから、出てきた五グラムについては誰かがしょわなきゃいけません。
だからもう、どうせ一緒だったらと私がつっぱらずに全部引き受けることにしたのです。ただ、麻薬法というのは刑が高い。競馬法違反と拳銃の不法所持だけだと、両方あわせても麻薬法より安いのです。
結局、いわゆるヤクザを逮捕した警察というのには、パターン的に二つあります。一つは、「これが本件だから、本件については素直にしろ。ほかに派生的に出てきたことについては握ってやる。だから本件については、おまえ素直にしろよ」というやり方と、「やっと捕まえた。ざまーみろ、この野郎。逮捕状こんなにあるんだ。端からやってやるからな」というケースと、二つということです。
〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十一年七月二十六日(東京拘置所より)
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ミッツィ。
これから約三年(この時点で私の判決は懲役三年と推理したのです)、電話する事も出来なくなってしまう。三十八年の八九三な過ごし方の総決算を今からつけるわけだ。
友人にも女にも部下にも親にも全てに背を向けられ、あれ程人間の好きだったぼくが人間の非情さと勝手の良さに|呆《あき》れはてて絶望し、すっかり人間嫌いになっちゃった。もうぼくには女房も家族も何もない。
ぼくのあまりの無警戒な、他人を全て自分のメガネで見る愚かさが、今の完全な孤独の原因だと思う。
得意のぼくから金をこそぎとって、自分のし放題をして、ぼくが左前になれば、横を向いてまるで知らん顔をきめこむずるい嫌な乞食たち。
貴女だけは違った。貴女はぼくと同じ世界の住人だった。同じ言葉を話した。同じようなプライドを誇りにしてた。そしてキリッとした中にこまやかな人情が一杯にふくまれた豊かな人間性が貴女にはあった。
四十歳近くなって改めて、同じ種類の、共感をわかちあえる人間を大切に思うようになりました。手遅れというな!!
ズルクなく、おおらかで、人情に溢れ、明るく、西洋の合理性と東洋のロマンを合わせ持つ光代。どうぞ手紙をください。ただし外国語は使えません。
しばらくの間ペンフレンドになってください。勝手だな俺は。
それじゃ暑さの折柄お身体大切に。
全ての幸運が貴女と共にあるように……。
[#地から2字上げ]直也
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(逮捕されてから一年以上、東京拘置所にいた)
〈みつ叔母よりの手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十一年八月二十三日
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手紙受け取りました。直の馬鹿、本当に馬鹿!
何で大切な人生のひとときをそんな風にして過ごさなければならないの? 貴方は他の人たちをののしるけれども、よく考えてみれば、やはり原因は全て貴方にあるのです。
大変な能力も才能もあるのに、それらを生かす事から逃れるようにして、自分から今の環境に飛び込むような事をした貴方の気持ちが理解出来ません。
何故なのでしょう。自分も苦しい。でもそれ以上に年老いたご両親の事を考えた事がありますか?
お父様は一線からは引退していらっしゃるから社会的にどうのこうのっていう事はないにしても、ご心労を思うと、ましてやお母様のそれを思うと、私はいてもたってもいられないのです。
ききわけのない子供ではあるまいし、何故こんな事態になるまでしないと気が済まないの?
あまりの愚かしさに腹が立ちます。何不自由なく育ててくれたご両親に対して、こんな風な身の処し方でいいものでしょうか。
悪い事を重ねなければ生きて行けないという人も世の中にはいて、それはそれで私も分かる様な気がするけれど、それは私にとって勝手だけれど関わりのない程遠い世界の事であって、例えば小説の中の一つの話であるみたいで、だからこそそう言えるのだけれど、貴方の場合は違う。あんなにも人から愛されて(それは表面的だと貴方は言うかも知れないけれど、それだって大したものです)、だから|真《ま》|面《じ》|目《め》に商売していればちゃんと生活して行けるのに、すき好んで法律に違反するような事をしたりして、何て馬鹿な事なのでしょう。悪い事をしてそれだけの効果がありましたか? 大変なものを残して? 今後一生働かずとも好き放題して過ごせるだけのものを残して? もうやめましょう。十分すぎるほど反省しているでしょうから。
話はかわって、差し入れに行くにはどうしたらよいか教えてください。本はよいのでしょうか。もしよければどんなものが読みたいか書いてください。食べるものはどうしたらいいのかしら、例えば小羊のローストとか生焼けの肉に沢山の生野菜なんていうのは駄目なのでしょうか。初歩的な質問で恥ずかしいけれど、経験がないので分からないのです。具体的に説明してください。またこの際、外国語を一つマスターしてみるのもいい機会だと思うので、もし原書など読んでみる気持ちがあったら言ってください、みんなみんな心配しています。一日も早く出てこられるよう務めてください。そして二度と悪い事はしないでください。こんな事をしないでもちゃんと生きて行ける貴方なのですから。短い、そしてたった一度きりの人生を誰からも後ろ指さされずに立派に生きましょうよ。
今度の事ではっきりけじめをつけて、もう二度と馬鹿な事の繰り返しはやめましょうね。
二十二日まで夏休みです。だから伺えるのはそのあとになります。
交通機関、どこで降りたらいいかも教えてください。
身体に気をつけてください。
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[#地から2字上げ]光代
〔みつ叔母〕昭和四十年、これは私が所属した「安藤組」が解散した翌年のことですが、東京オリンピックの余波で活気づいた街角で、見事に時代に乗り遅れ、路頭に迷っていたのが、私たち安藤組の残党でした。
昭和三十四年には、五千人で十五人しか合格できない大難関の日本航空パーサーとして、右手にヤクザ、左手にパーサーのバッジをぶら下げて羽振りがよかった私でしたが、このときばかりは|流石《さ す が》にうめいていたのです。
そんな明日のメシを心配しなければならないほど|非《ひ》|道《ど》い穴ぼこに落っこちてしまったときだって、手を差しのべるのは女でなければ絶対に応じたりしない私ですから、そのときうっかり右手を差し出してきた|田《た》|宮《みや》|光《みつ》|代《よ》のきれいな手をギュッと握り返して、一緒に青山にレストランを開いたのでした。
これはもう、私にとっては不幸中の幸いどころか、やけっぱちで財布ごとつぎ込んだブービー人気の馬が信じられない末脚で差し返してしまったようなものでした。
日本の女の悪い癖でしょう。哀れな男を見ると放って置けない優しい女たちなのです。
田宮光代は日航のスチュワーデスでしたが、私はすぐに濃紺の制服をウエディングドレスに着替えさせたのです。
青山に開店したレストラン「サウサリト」は、それはもう見事に|大繁盛《だいはんじょう》しました。そのまま足を洗ってしまえば、光代は「みつ叔母」と改名されることはなかったはずでした。
手紙のやり取りは近親者のみに許されているので、当時私とは他人になっていた光代は、「みつ叔母」と官[#「官」に傍点]に申請する他はなかったのです。
第二課 拘置所
捕まったのは大崎警察署。しかし、警視庁から指示があって、警視庁から保安二課が派遣されてきて、指揮をして逮捕したのです。
起訴されたのが逮捕されてから二十二日後のこと。そして、そこでついた罪名が、事務所の|捜索《ガサ》をやったとき出たコカインが五グラムで麻薬法の違反、拳銃が出て銃砲刀剣等取締法違反、それから競馬法の違反。この三つで起訴されて、七月の五日に|小《こ》|菅《すげ》にある東京|拘《こう》|置《ち》|所《しょ》に移管されました。
〔拘置所〕拘置所というのは、要するに裁判で刑が確定するまでの未決の被告人を収監しておくところです。
東京拘置所は、戦前まで|巣《す》|鴨《がも》(豊島区)に置かれていたのが、敗戦後小菅(葛飾区)の刑務所と併置されて、その後何度か移転があったようですが、現在はやはり小菅に置かれているのです。
拘置所と似ているのが|留置場《りゅうちじょう》と呼ばれる各警察署に置かれた代用監獄です。
このときに大崎警察署の車の運転をした、今は柿の木坂の|碑《ひ》|文《もん》|谷《や》警察署でマル暴の刑事になっている巡査が、小菅の前を流れている川の川っぷちに止めてくれて、「当分たばこが吸えねえだろうから、ケツからヤニが出るまで吸え」って言ってくれて、ショートホープの箱を差し出しました。夢中で五本吸ったら気持ち悪くなって、「もう行ってくれ」って言って、拘置所の中に。それから長い四年の|懲役《ちょうえき》が始まったわけです。
〔マル暴〕ヤクザとマル暴は切っても切れない|因《いん》|縁《ねん》の間柄です。
警察署の刑事課というのは、捜査第一課から第四課までの分類があって、暴力団関係者を専門に取り締まるのが第四課、通称マル暴です。
この関係は、トムとジェリーの関係に似ていて、追う者、追われる者の立場が決して逆転したりしないのです。
立場上は、そうであっても、お互い血のかよった人間なのだし、いつも顔をつき合わせているわけですから、ときには情にからむ場面だってなくはありません。
ヤクザとマル暴という関係でなかったら、友だちになりたい方もいらっしゃったし、現に私が足を洗って本を出版し、「新出発を祝う会」を皆さんが開催してくださったとき、御祝儀を持って駆けつけてくれた方もおりました。
第三課 判決
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〔刑法〕
第二章 刑
第九条〔刑の種類〕死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及ヒ科料ヲ主刑トシ没収ヲ附加刑トス
第一〇条〔刑の軽重〕@主刑ノ軽重ハ前条記載ノ順序ニ依ル但無期禁錮ト有期懲役トハ禁錮ヲ以テ重シトシ有期禁錮ノ長期有期懲役ノ長期ノ二倍ヲ超ユルトキハ禁錮ヲ以テ重シトス
第一二条〔懲役〕@懲役ハ無期及ヒ有期トシ有期懲役ハ一月以上十五年以下トス
第一三条〔禁錮〕@禁錮ハ無期及ヒ有期トシ有期禁錮ハ一月以上十五年以下トス
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真夏の昭和五十年の七月五日に東京拘置所に入って、一回目の公判があったのが、なんと九月の二十七日。これは、検事の夏休みだとか、裁判官の夏休みだとか、そんなものが重なったためなのですから、夏に拘置所に移されるとえらい時間がかかります。
これでおとなしく私は刑に服する気になっていたのですが、麻薬法・競馬法・銃刀法の三つ以外にもまだ違反しているのがあるだろうと迫ってきました。「これは予定が違うわい」と、ひたすら抗弁の日々が、拘置所の中で続いたのです。そうしているうちに|非《ひ》|道《ど》いことには、東京拘置所の生活が一年以上にもなってしまいました。
求刑公判が|逮捕《パ ク》られた翌年の昭和五十一年の十月四日で、私に下された求刑が全部で五年。
そして、十月の七日に判決公判があって、判決はなんと四年。たった一年しかまからなかった。大変、情の悪い[#「情の悪い」に傍点](温情がない)ことに、未決通算も三十日という最低で、これはもう今でも、あのS判事、どっかで会ったらぶちのめしてやろうと思う。こんな情の悪い判決は、まれに見ることなのだ!
この前、雑誌『|噂《うわさ》の|真《しん》|相《そう》』に、自由が丘の金田と、赤坂のロブロイと、高津(川崎市)のあかりと、それからもう一軒に、絶対来るなと書きましたが、|白《しら》|面《ふ》のときならともかく、一杯飲んだあとは、いかに作家となった今でも許しがたい。S判事は『噂の真相』をぜひ読んだらいいと思う。
〔量刑〕量刑の大きさ、重い軽いなんていうのは、裁判官によって全然違うのです。新聞等でもご承知のように、東よりも西のほうが同程度の犯罪で量刑が軽いのです。だから、私は少なくとも下級審においては、コンピュータ裁判をしろという意見です。上級審もそれでいいと思うんだけれども、まあ百歩譲って下級審においては即実行すべし。
私の場合は、特に裁判官の心証が悪いようなのです。まず、私としては偽善がイヤなので、前非を悔いて二度といたしませんという神妙な態度は、いつもとりません。そして、別に彼らをエライと思っていませんから、卑屈に対応するということをしません。さらに決定的なのは、私の当時の収入が、彼らよりもはるかに大きかったからではないかと思っているのです。
私も人を見るのを仕事としてきたのですから、まんざら彼らの心の動きが読めないわけではありません。だから器量の狭い人間に量刑を決められるのが、たまらないのです。
今のあの司法試験を受けて判事になった男たちの判断力なんていうのは、おおむねの場合、ナンセンスでしかありません。|永《なが》|山《やま》|則《のり》|夫《お》の裁判を見ても、よくわかるでしょう。あれは上級審だけですけど。
十月の八日にすぐ控訴。
控訴したけれど、こんな情の悪い判決、高裁までやったってどうもなるまいと思って、十月の二十二日に控訴取り下げ。
そうしたら、すぐ十月の二十九日に、「これから刑を執行する」と言われました。だから同じ拘置所の中にいても、十月の二十九日から懲役刑が始まるのです。
〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十一年十月二十五日
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光代様。
控訴を取り下げたのでいつ刑が執行になるか分からず、そうなればまた月に一通の発信という不自由な事になるので、急いでこの手紙を書きます。
出所はマジメにやって五十三年末から五十四年初春と思います。どうぞ、そちらからは自由ですから時々お便りください。甘えついでに本もね。それから貴女が一番俺のニュアンスを伝えるのによい言葉を選んでくださると思うので、お願いなのだけど、情状証人として出廷してくださり大熱弁をふるってくださった西宮先生に、くれぐれも俺の感謝の気持ちを伝えて頂きたいのです。
それに国領君にもいろいろ三田(父母の住んでいる場所)の面倒まで見てもらっているので、これもよくお礼を電話で結構ですから申し上げてください。
御免ね、忙しい貴女の事知っててこんな事頼んじゃって。やっぱりこうなってみて、はっきり俺は馬鹿で間違ってた。心からそう思うのです。御免なさい。
俺出所したら和風のおでん屋さんやろうかな、なんて思ったり、やっぱり飯を売ろうかなと思ったり、真面目にマーロウのような私立探偵業に専念しようかと思ったり、時間だけ嫌という程ある未決監なのでそんな事ばかり考えているのです。
貴女が大変好奇心に満ち溢れた方だと知っているので、懲役(労役も同じ)のデイリーシェジュール(一日のスケジュール)をちょっと書いてみます。
AM6:30 チャイムが鳴って起床。洗面、|独《どっ》|居《きょ》|房《ぼう》の掃除。その間BGMが鳴ってます。
6:45頃 BGMが止まって、写真付のバインダーを持った偉い人とドアの開閉をする役の二人計三人の担当官の|点《てん》|呼《こ》。自分の番号をドアを開けられた途端叫ぶのです。
7:00 朝食、これは味噌汁の実と佃煮が変わるだけで毎日同じ。味噌汁一杯、アルミ食器入りの麦飯、その上に佃煮少々、アルミ小薬缶に一杯の|柳葉茶《りゅうようちゃ》。
7:20頃 作業開始、黙々と一日約千〜千五百個の正札を作ります。この後11:00の昼食までの間に読売新聞が回ってきて、十五分間と時間は区切られるのですが、その間作業を休んで新聞を読みます。ほとんどスミは塗られません。
10:00 屋内にスピーカーがあって、そこから歌謡曲の番組が始まります。
11:00 昼食。アルミ食器(カクマルや青同の連中がスローガンを彫刻してある)一杯の麦飯(量的には貴女じゃとても食べ切れぬ量、十分)とサンマ、それに野菜汁(まあこれが平均メニュー、サンマには大根おろし添え)。
12:00 作業開始と同時に、というよりそれを合図に何やら司会の男が騒々しく叫び立てるクイズ番組始まり、13:00終了。夕食との間に三十分の運動(独居房より出されて金網囲いの所で五〜六人ずつただひたすら雑談)。
14:00〜15:00 ラジオ歌番組。
16:00 夕食。アルミ食器一杯の麦飯と一汁一菜。日本の|刑務所《ムショ》らしく大変キメの細かい事がいろいろあり、このアルミ食器一杯の飯も日・祝日のような免業日は五等飯(ゴトーメシ)で、ふだんの日は四等飯(ヨントーメシ)で五等飯より大分量的に多いのです。夕食のおかずは昼飯よりヤヤよく、かなり結構なマカロニサラダ(意外にペパーのよく利いた)だとか、トリップエコンニャク・アラ・サンヤ(豚臓物煮込の事)とか、食べ物に関してはしばらく来ない間に驚くほどよくなりました。もっとも俺の|刑務所《ムショ》体験は二十歳のときだから、なんとなんと約二十年前だもんね。祝日には、昼食のとき食器に半分ぐらいのお|汁《しる》|粉《こ》が出て、殺人前科のある大変な奴まで大喜びなのは不思議な見物ではあります。
16:45頃 点呼
17:30 就寝
17:00〜21:00までラジオ、
21:00になるとラジオが止まり、BGMが鳴って電気が少し暗くなる。
ラジオは、ほとんど落語家や非道く寒ザムとした人格の男が騒々しく司会をする番組ですが、NHK・FMの夕べの広場はアナウンサーが控え目で、耳をおおいたくなる事がほとんどない番組です。とにかく|都《みやこ》はるみや|野《の》|口《ぐち》|五《ご》|郎《ろう》のちょっとしたオーソリティになるほどです。房内にON/OFFスイッチがあるので、読む本のあるときは切っちゃうのです。
この時間表を基本に毎日毎日が繰り返され、安部直也はあと約百二十六週間、八百八十一日、約二千六百四十三食で犬っころにネクタイかバンダナを喰わせに帰ります。三木サンが総理大臣になってもう七百日。パゾリーニが死んでもう一年。早いもんだぜ。
そうそう、風呂は夏から今までが五日に一回。冬になると週に一回。ヒゲ剃りは週二回。下着のチェンジ五日に一回。食器の消毒二週に一回(キレイに蒸気消毒)。|敷《しき》|布《ふ》・枕カバー・|襟《えり》|布《ふ》の交換二週に一度等、ソルジェニーツィンが涙ぐむほど日本の|刑務所《ムショ》は清潔に能率よく運営されている事は驚くほどです。こんなところに日本人が持つ特異な才能を|垣《かい》|間《ま》見るのです。
とにかくここの暮らしは精神的には自分で努力する以外まったくプーアですが、まったく健康で、お陰で身体の完全なオーバーホールになりました。
よく考えてみると、手前勝手千万な見方かも知れないけれど、いつでも|挫《ざ》|折《せつ》の後に俺の人生は飛躍が必ずあったんだ。今度だって見てろよ。俺は必ず再起するよ。
もう俺は、本当に俺自身の人生を考え楽しむ事にするよ。年に何千万も稼いできて一文無しで懲役に行くんだぜ。もうヤだよ、こんな割に合わない事。君も知ってるあの人と過ごした三年六ヵ月だけだったよ、自分も楽しみ幸せで人情にひたっていられたのは。
俺は出所したら、飯の喰い方を確立して、それから安いネクタイを買って、|目《め》|蒲《かま》|線《せん》に乗って、黒い犬のところで降りる。
今日はいろいろ書いちゃった。手紙たまにくれーっ。
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[#地から2字上げ]直也
第四課 押送
十一月の四日に、今はなくなってしまった中野刑務所に移管。
中野刑務所というのは初犯刑務所で、初めて懲役に落ちる奴が服役する、床屋さんを教えてくれたりする、とってもいい|赤《あか》|煉《れん》|瓦《が》の|刑務所《ムショ》。
私は前刑が五年以上前。服役終了後五年以上経過した再犯者というのは、一ぺん分類というのを受けるのです。
というのは、今の言葉でいえば、|刑務所《ムショ》の持っているデータが古びたから、データを新しくするためにしばらく閉じ込めておいて、データを収集するわけです。五年以上たつと、その間には、シャブで頭がボケたり、彫りものが増えたり、指が何本かなくなったりするので、前刑釈放から五年以上たっている懲役は、分類刑務所というところで分類をします。
中野刑務所は初犯刑務所だけれども、そういう役割もしていたのです。今、中野刑務所がなくなって、東京拘置所が分類を行っています。
そこで分類を十一月の四日から受けて、十一月の二十九日に|府中《ふちゅう》に移管。私は、南西方面の|刑務所《ムショ》だったら「|押《おう》|送《そう》拒否」って言おうと思っていた。懲役を移すことを押送と言う。これは|刑務所《ムショ》言葉。官[#「官」に傍点]の言葉です。
〔押送拒否〕私は押送を|蹴《け》ったことがありません。|刑務所《ムショ》を、施設から施設へ移すことを押送と言うのですけれど、押送される前に、どこどこへ移管するという申し渡しを受けます。
そのときに、行きたくないところ、そこにいる看守と個人的に大変憎しみ合っているとか、あるいは地域的な理由で、山口組の多いところに入れられて務められるかとか、あるいは寒くて嫌だとか、いろんな理由で押送を拒否する場合があります。
私も、大阪刑務所、通称「大刑」って言われたら、拒否してやろうと思っていました。あそこと、四国の徳島刑務所は、やたら非人道的な締め上げをする|刑務所《ムショ》です。あんなとこ押送拒否しない奴いるか、っていう|刑務所《ムショ》もあるのです。
私の場合は幸い、移管を命じられたところが、これよりほかないっていうところばかりでしたから、今まで押送を拒否したことはありません。
押送拒否をすると、懲罰十五日。小菅(東京拘置所)っていうのは未決監で、そこで刑が確定して、そこから全国へ送られるわけです。そのときに、押送拒否をし続けて、十五日ずつ懲罰を食いながら、小菅で満期まで行っちゃう|凄《すご》い奴がいます。
もっとも、官[#「官」に傍点]のほうでも、十回ぐらい押送を拒否すると、それで百五十日、半年だから、もう|呆《あき》れてほっとくようです。
ところが、私は「はい、押送」って言われて、「どこへ行くの?」って聞いたら、「府中」って言われたので、これは一も二もなし。一番務めやすいところだから、拒否なんかせずに法務省のバスに乗って、中野から府中に。
ところで、官[#「官」に傍点]の懲役への支配のノウハウは、いかにして彼らの気持ちを|萎《な》えさせ、服従させるかということです。押送でも、そうした例はいくらでもあります。
新潟出身と東京出身の奴が一緒に仕事をしてつかまり、東拘で押送を待っていました。当然彼らは、新潟出身は新潟に、東京出身は府中あたりで服役するだろうと予想していたところ、結果は、みごとに逆。東京出身が新潟刑務所に、新潟出身が、府中刑務所に移管されたのです。
また、こんな話もあります。東京拘置所で寒い冬を指折り数えながらやっと越して、三月になりどうやら春が近くなったと一息ついた男が送られたところは、須坂市の長野刑務所でした。須坂は、三月中旬になっても雪がまだ降り続き、|刑務所《ムショ》内は、零下十六度にも下がったといいます。おまけに、この|刑務所《ムショ》には、暖房設備がないのです。
第五課 刑務所
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「|君《きみ》は、|今日《きょう》から|当《とう》|刑《けい》|務《む》|所《しょ》で|受《じゅ》|刑《けい》する|立《たち》|場《ば》にあります。|刑《けい》|務《む》|所《しょ》は|刑《けい》を|執《しっ》|行《こう》するところであり、しかも、|多《た》|数《すう》の|受《じゅ》|刑《けい》|者《しゃ》が|一《いっ》|緒《しょ》に|生《せい》|活《かつ》しているので|規《き》|律《りつ》、|秩《ちつ》|序《じょ》が|十分《じゅうぶん》に|保《たも》たれなければならないので、|各《かく》|人《じん》が|勝《かっ》|手《て》な|行《こう》|動《どう》をすることは|許《ゆる》されません。|従《したが》って、|刑《けい》|務《む》|所《しょ》の|生《せい》|活《かつ》は|社《しゃ》|会《かい》|一《いっ》|般《ぱん》の|生《せい》|活《かつ》にくらべて|細《こま》かないろいろな|制《せい》|約《やく》があることを|承知《しょうち》しておかなければなりません。この|小冊子《しょうさっし》『|所《しょ》|内《ない》|生《せい》|活《かつ》の|手《て》|引《びき》』は、|君《きみ》が|当《とう》|所《しょ》で|生《せい》|活《かつ》する|上《うえ》で|知《し》っておかなければならないこと、|守《まも》らなければならないことを、|法《ほう》|令《れい》に|基《もと》づいてまとめたものです。ルールを|知《しら》ないと|損《そん》をしたり、トラブルがおきたりすることがありますから、|最《さい》|後《ご》までよく|読《よ》んで|欲《ほ》しい。この|手《て》|引《びき》が、|君《きみ》が|受刑中心身《じゅけいちゅうしんしん》ともに|明《あか》るく|正《ただ》しく|生《せい》|活《かつ》し、その|間《かん》に|人《じん》|格《かく》を|鍛《きた》え、そして、|健《けん》|全《ぜん》な|社《しゃ》|会《かい》|人《じん》として|再出発《さいしゅっぱつ》してゆくための|良《よ》き|教科書《きょうかしょ》の|役《やく》|目《め》を|果《は》たすことを|願《ねが》っています」
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[#地付き](「所内生活の手引」)
府中に着いたのが十一月二十九日。
すぐ新入房という、新入で来た奴ばっかり入れられる房に入れられる。
〔刑務所の種類〕この府中刑務所というのは再犯刑務所と言って、|刑務所《ムショ》にもいろいろ種類があります。
たとえば、昔は重罪刑務所と言ったのが、今は長期刑務所と言って、これが関東だったら千葉刑務所、それから仙台・宮城刑務所。こんなところは、懲役八年以上のセンテンスを食った奴が行くところ。それから初犯刑務所というのが、関東近辺だったら、黒羽刑務所。そういうふうに|刑務所《ムショ》にも、婦人刑務所から医療刑務所、初犯刑務所、それから再犯刑務所は短期と長期、いろいろあるのです。
私の作品の舞台となった府中刑務所というのは、判決七年以内の再犯の、関東一円のほぼ再犯懲役が入れられる。だから出入りがとっても大変なところです。常時二千三百人ぐらい詰まっていて、それも、二年半以下の刑の奴が大部分だから、毎日十五人ぐらい出所していくし、毎日十五人ぐらい入ってくるし、大変忙しい、出入りの大変な|刑務所《ムショ》なのです。
第六課 考査房と訓練房
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「|新入時《しんにゅうじ》は、|過《か》|去《こ》を|振《ふり》|返《かえ》り、|将来《しょうらい》への|正《ただ》しい|心構《こころがま》えと|計《けい》|画《かく》を|立《た》てるのに|最《もっと》もよいチャンスですから、|自《じ》|分《ぶん》をしっかり|見《み》つめるように|努《つと》めなさい。|身《しん》|体《たい》|検《けん》|査《さ》や|身《みの》|上《うえ》についての|細《こま》かな|調査《ちょうさ》が|行《おこな》われるのは、|君《きみ》の|所《しょ》|内《ない》|生《せい》|活《かつ》とその|後《あと》の|社《しゃ》|会《かい》|復《ふっ》|帰《き》のために|必《ひつ》|要《よう》な|指《し》|導《どう》、|援《えん》|助《じょ》の|参《さん》|考《こう》とするためのものであるから、|君《きみ》が|率直《そっちょく》に|協力《きょうりょく》することを|期《き》|待《たい》します。|君《きみ》の|方《ほう》でも|心《しん》|配《ぱい》|事《ごと》があれば|遠《えん》|慮《りょ》なく|申《もう》し|出《で》なさい。なお、|調査《ちょうさ》は|君《きみ》の|在所中《ざいしょちゅう》を|通《つう》じて|必《ひつ》|要《よう》があればいつでも|行《おこな》うことになっていますが、これも|君《きみ》の|取扱《とりあつか》いに|関《かん》するためのものなので|承知《しょうち》しておきなさい。|新入時教育《しんにゅうじきょういく》の|期《き》|間《かん》には、|幹部職員《かんぶしょくいん》や|篤志面接委員《とくしめんせついいん》の|先《せん》|生《せい》などから、|所《しょ》|内《ない》|生《せい》|活《かつ》の|心構《こころがま》えや|在所中必要《ざいしょちゅうひつよう》な|事《こと》|柄《がら》、|更《こう》|生《せい》のために|心《こころ》がけなければならないことについての|大《だい》|事《じ》な|話《はなし》があります。いずれも|大《たい》|切《せつ》な|事《こと》|柄《がら》ばかりですから、|真《ま》|面《じ》|目《め》に|聞《き》いてよく|理《り》|解《かい》し、|社《しゃ》|会《かい》|復《ふっ》|帰《き》にそなえて|悔《く》いのない|収容生活《しゅうようせいかつ》を|送《おく》れるような|心構《こころがま》えをつくるようにしなければなりません」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「所内生活の手引」)
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「|入所時調査《にゅうしょじちょうさ》と|新入時教育《しんにゅうじきょういく》が|終《お》わるまでに|分《ぶん》|類《るい》|審《しん》|査《さ》|会《かい》が|開《ひら》かれます。これは、|調査《ちょうさ》や|行《こう》|動《どう》|観《かん》|察《さつ》の|結《けっ》|果《か》を|参《さん》|考《こう》にして、|君《きみ》の|作業《さぎょう》や|居《きょ》|室《しつ》の|指《し》|定《てい》やその|他《た》|保《ほ》|護《ご》|関《かん》|係《けい》まで|含《ふく》めた|適《てき》|切《せつ》な|処《しょ》|遇《ぐう》|方《ほう》|針《しん》を|決《き》めるために|行《おこな》われるのです。|作業指定《さぎょうしてい》については、|君《きみ》の|希《き》|望《ぼう》も|参《さん》|考《こう》にしますが、|処遇上《しょぐうじょう》、|作業上《さぎょうじょう》、|保安上《ほあんじょう》のいろいろな|都《つ》|合《ごう》で|必《かなら》ずしも|希《き》|望《ぼう》|通《どお》りにはいきません。しかし、いったん|作業《さぎょう》を|指《し》|定《てい》された|以上《いじょう》は|不《ふ》|平《へい》をいわずに|出役《しゅつえき》しなければなりません。|居《きょ》|室《しつ》についても、|当《とう》|所《しょ》では|独《どっ》|居《きょ》|室《しつ》が|非常《ひじょう》に|少《すく》ないため、|工場就業者《こうじょうしゅうぎょうしゃ》は|雑《ざっ》|居《きょ》|室《しつ》で|集団生活《しゅうだんせいかつ》を|送《おく》ることが|原《げん》|則《そく》になっています。これらの|点《てん》をよく|理《り》|解《かい》して、|不《ふ》|平《へい》を|言《い》わず|指《し》|定《てい》に|従《したが》って|修養生活《しゅうようせいかつ》を|送《おく》るようにしなければなりません」
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[#地付き](「所内生活の手引」)
府中刑務所へ移されると、最初は新入房というところに一日居させられ、十一月の三十日に、今度は考査房というところに移される。ここへ移されると、今度は作業適性の訓練ばっかり毎日やらされる。クレペリン・テストだとか、いろんなことをやらせます。
そして朝晩、体操や駆け足があって、そのとき看守がガミガミ怒鳴り服従度というか従順度を見てるのです。
〔クレペリン・テスト〕作業適性のテストで、一|桁《けた》の数字が細かく書いてあって隣同士の数字の足し算の答えを上にパーッと書いていく。そして、「やめ」って言われたところでやめる。それで何十行かやると、各行の終わりを結んだ曲線が出るわけです。
最初は意気込んで書いているけども、途中で|中《なか》|弛《だる》みがあって、そして終盤で気を取り直してっていうのが、普通の受刑者の線です。
中に、最初だけ書いて後半サッパリなんてのは、熱しやすく冷めやすいなんてことになり、それから、まれに尻上がりがあれば、スロー・スターターってことになるのです。
実は私は、これはバカなことだと知っていたのです。あれは一桁の、たとえば九、八、六、七、五、四、六、八、七、九なんて、不規則に一桁の数字が並んでいる、その二つを足して答え書いていくんだけども、あの答え、全部六って書いたっていいのです。答えは見ていない。答えを書いたものの距離、つまり一行でいくつ答えたかを見ているのですから。
それを覚えたから、私のはいつでも曲線にならずに横がまっすぐにピーンとそろう。そうやってこけにしてやったから、私はいつも非道い作業場に回されることになったのです。
そして、十二月の十日には、とうとう最終的に訓練房というのに入れられました。そこでは、ややしごきに近い腕立て伏せだとか、長距離走だとか、いろいろさせられて、そのときにやっぱりじーっと看守は従順度を探ってるわけです。
第七課 配役
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「|懲役刑《ちょうえきけい》の|内《ない》|容《よう》のうち|最《もっと》も|大《たい》|切《せつ》なことは、|定《てい》|役《えき》につくということです。|人《にん》|間《げん》が|社《しゃ》|会《かい》|生《せい》|活《かつ》をする|上《うえ》で|働《はたら》くことは|当《とう》|然《ぜん》であり、また|人《ひと》としての|務《つと》めでもありますが、|受《じゅ》|刑《けい》|者《しゃ》には|科《か》せられた|仕《し》|事《ごと》に|必《かなら》ず|従事《じゅうじ》しなければならない|法律上《ほうりつじょう》の|義《ぎ》|務《む》があるのです。したがって|指《し》|定《てい》された|仕《し》|事《ごと》がたとえ|君《きみ》の|希《き》|望《ぼう》と|一《いっ》|致《ち》しなくても|一所懸命働《いっしょけんめいはたら》かなければなりません。もし|正《せい》|当《とう》な|理《り》|由《ゆう》なしに|就業《しゅうぎょう》を|拒《きょ》|否《ひ》したり、|仕《し》|事《ごと》を|怠《なま》けたり、|別《べつ》な|仕《し》|事《ごと》に|変《か》わることを|要求《ようきゅう》するようなことは、|法律上《ほうりつじょう》の|義《ぎ》|務《む》に|反《はん》する|行《こう》|為《い》とみなされ|重《おも》い|処《しょ》|分《ぶん》を|受《う》けることがあります。ともあれ、|法律上《ほうりつじょう》は|強制的《きょうせいてき》な|仕《し》|事《ごと》でも、|働《はたら》く|中《なか》で|自《じ》|分《ぶん》を|鍛《きた》え、|仕《し》|事《ごと》に|喜《よろこ》びを|見《み》いだすように|努力《どりょく》しなければなりません」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](「所内生活の手引」)
訓練房が一週間あって、十二月十七日になって、今度は|配《はい》|役《えき》という、要するにジョブ・アサインメントが行われる。
その前に、志望の工場を、第一志望と第二志望と書かせる紙が回ってきます。初犯の奴は一所懸命いいところへ行こうと思って書き込むけど、こんなの書いたってへの役にも立たないことを再犯は知ってるから、「どこでもいい」なんて書くのです。ここでも官[#「官」に傍点]は、懲役の希望をきくふりをして、彼らに望みを抱かせ、それを打ち砕いて、心を萎えさせるようにしているのです。
〔作業〕何故か、懲役は作業を義務付けられているのです。
これも刑罰のうちだとか、正しい|更《こう》|生《せい》のためだとか、理由はあるのでしょう。ともかく、何かに熱中したり、無心になったりしていなければ、思い出すのは「|塀《へい》の外」ばかりの懲役生活なのですから、作業でもしていなければ、半狂乱になりかねません。
私が従事した木工場のような生産作業には、他に印刷、|紙《かみ》|細《ざい》|工《く》、金属、農耕、|牧《ぼく》|畜《ちく》などがあり、七割方このどれかに従事しています。
生産のほかに自営というのがあって、これは、|刑務所《ムショ》暮らしの生活上必要な作業をする人たちがいます。
床屋の替わりをする理髪夫や、本の管理をする図書夫、運搬夫、洗濯夫、|炊《すい》|事《じ》|夫《ふ》から左官まで、それぞれに役割を分担して、快適な|刑務所《ムショ》暮らしを送ろうというわけです。
本当はこの他に職業訓練というのがあるのだけど、これは条件が厳しくて、わずかなエリート懲役に許されるのみです。
本当に正しい更生や社会復帰を考えるなら、|娑《シャ》|婆《バ》へ出ていってちゃんと職につけるような職業訓練と就職|斡《あっ》|旋《せん》にもっと力を入れるべきだと思うのですが、どうやらそんなことを考える暇が官[#「官」に傍点]にはないようでした。
私の場合は、少しでも楽なところへ行きたかったから、第一志望は印刷工場と書いた。製本工場は紙を運ばされて、重くて大変なんだけれども、印刷工場なら写植だろうし私はそういうことが好きだからいいだろうと思った。第二志望に木工場と書いたら、なんと第二志望のほうで、十二月十七日に木工場に移されました。
第八課 独居房と雑居房
それで、新入の|雑《ざっ》|居《きょ》|房《ぼう》に入れられたら、私の夜のイビキと寝言が非道いということで|文《もん》|句《く》が出て、十二月の二十四日から、昼間工場で働いて、夜だけ|独《どっ》|居《きょ》|房《ぼう》で一人で寝るという夜間独居っていうのにされて、独居房に移されました。
〔房の種類〕|刑務所《ムショ》の懲役を閉じ込めておく「房」には、大きく分けると雑居房と独居房の二種類があって、独居は三畳間にひとりぼっち、雑居は十畳間くらいのところに七〜十名くらいを押し込んでいます。
雑居房はだいたいがヤクザに支配されていて、じっと物思いにふけるとか、今後のことに思いをめぐらす、といった精神活動の場には最も不適当なところです。
私は、イビキと寝言で独居房に行きましたが、|刑務所《ムショ》によっては、イビキ房という雑居をつくっているところもあります。独居がいっぱいになると、ここに入れられます。ここは悲惨というかマンガというか、消灯になると早寝合戦です。眠りに遅れた者は、他人の大イビキを朝まで聞かされる破目になるのです。
独居には、厳正独居、あるいは昼夜独居と言って、すべての自由を|剥《はく》|奪《だつ》してしまう、またの名を固定独居とも言う、とんでもないものまであります。
私の若い衆なんて、丸五年独居の中に入りっ放し。こうして二年たつと、誰でも壁に向かってものをしゃべり出すようになるそうです。
新左翼で、十二年の刑のうち、工場などで仕事をしたのはわずか一年半。残りは、独居に入りっ放しという凄いのもあったと聞きました。
今回、私は、厳正独居の処置を三回受けましたが、一番長かったのが一年弱。その間に私は、独居房の中で、輪ゴムで止まっている蚊を打つ技術をマスターしました。オリンピックで、この種目があれば、私は間違いなく金メダルを取る自信があります。
〔入房〕雑居房へ入房するときというのは、初犯だと変なひっつき(平身低頭のあいさつ)するけど、再犯だと、「何年の刑で何々って言います。よろしく願いまーす」、そのくらいの簡単なあいさつで入っていきます。それで、所属があれば、「小金井一家の安部ですよ」ぐらいのことを付け加えるだけです。
たいていヤクザっていうのは、どこへ行っても顔を知ってる奴が一人や二人は、雑居に十人も入ってればいますから、「オー、あべー」なんて入ってくる。
ヤクザは、そうやって|威《い》|張《ば》ってるけど、泥棒なんかだと、「二年|六《ろく》|月《げつ》の何々です。満期はいつです。よろしくお願いします」なんて小さくなって入ってきます。
第二房
第一課 正月のメニュー
年末が近づくにつれて、私は「これはマズイことになったわい」と|慌《あわ》てだしました。
暮れの二十八日から一月三日までの長い免業の休み、その休みのあいだに読む本が一冊もない状況になりそうだったからです。
雑居房にいれば、まだいいのです。一人について三冊の官本は貸与されますから、十人いれば三十冊の本があります。これだけあれば、何冊か読むにたえる本があるのです。
また本にあきれば、話相手も将棋の相手もいます。
ところが独居房は、大きな冷蔵庫の中にひとりで閉じこめられたようなものです。せめて本でもなければ、これは|非《ひ》|道《ど》いことなのです。
自分で拘置所から持って来て、入所のときに預かられてしまった本を手元にもらう手続きも、新聞の広告や雑誌の書評を見て|領置金《りょうちきん》(官[#「官」に傍点]に預けてある金)で申し出て購入する手続きも、願い出てからふた月はタップリかかるのです。
木工場の担当部長は、Kさんとおっしゃる五十を少し越えたぐらいのベテランの看守でした。凶器がゴロゴロしている木工場を若い副担(当)ともうひとりの応援、この三人だけで取りしきってグウも言わさないのですから、これは見事なプロというべきです。
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》で横柄な看守が多い中で、K部長は厳しいけれど、いつでも底にある温かさを懲役に感じさせるような人でした。
二十八日で御用納め、二十九日は午前中が工場の大掃除。終わって工場の食堂で|汁《しる》|粉《こ》が出て、これで全部終わりという日、大掃除の途中で担当台に私を呼んだK部長は、
「工場にある図書だったら、|願《がん》|箋《せん》を出せばすぐ|特《とく》|貸《たい》を許可してやろう。読む物なしじゃあ大変だろうし、まあ勉強にもなるだろう」
と、おっしゃってくださったのです。木工場に備えてある図書ですから専門書ばかりですが、私はその中から一九六九年と一九七〇年の『家具全書』(『室内』臨時増刊)を拝借しました。
この本の出版社・工作社は、のちに私が師と仰ぐことになる|山《やま》|本《もと》|夏《なつ》|彦《ひこ》先生が主宰なさっているところでした。また、『|塀《へい》の|中《なか》の|懲《こ》りない|面《めん》|々《めん》』のもととなる「府中木工場の面々」を連載させていただいたのも月刊誌『室内』でした。
このときの私の本の|選択《チョイス》になにか運命的なものを感じます。
そうしてるあいだに正月休みが来ました。正月休みというのは、暮れの十二月の三十日から一月三日までのあいだの休みのことです。そのことを当時の日記から見てみましょう。
●昭和五十二年一月一日
テレビ、初笑い何とか大会。おもしろいときは一同無言なれど、つまらないところはワヤワヤとうるさくなる。
朝食時、折詰が配られた。
折詰の内容。とんかつ、ハムの|塊《かたまり》、プロセスチーズ、黒豆、|昆《こん》|布《ぶ》|巻《まき》、煮豆、酢バス、鮒・雀焼き一串、|伊《だ》|達《て》|巻《まき》、|蒲《かま》|鉾《ぼこ》一切れ、切りスルメ。
●一月三日
映画、ワーナー・ブラザーズ、ランランショー共作。『クレオパトラ・ジョーンズ』。
当|刑務所《ムショ》の飯も決して悪いとは言えない。むしろ、大変上等なのだが、それにしても中野にはかなわない。中野のおかずで、今の二等飯が食えれば最高なのだが、とにかく|刑務所《ムショ》、拘置所の飯が、昭和三十年ごろとは格段の差となったのは事実だから。
大崎で会った森田こと|海《かい》|津《ず》|安《やす》なんか、今は当|刑務所《ムショ》の運搬夫をやっているが、ニコニコして務めている。こんなに飯をよくしたんでは、本当に食いつなぎもんが飛び込んでくることも、十分想像できる。
〔正月〕私は、|刑務所《ムショ》で正月を迎えるのは、そのときは十年ぶりぐらいですから、飯がよくなったなあと思いました。その一言しかありません。飯がよくなった。
十年前の|刑務所《ムショ》の正月というのは、本当に貧しかったのです。十年前というと四十一年です。塀の外は東京オリンピックが終わり、大阪万博に向けて経済が活発に、盛んになっているときでしたが、塀の中は貧しいものでした。外の経済状態が|刑務所《ムショ》の中まで|波及《はきゅう》するのには、何年かかかるのでしょう。
今聞くところによると、正月用特別菜代として一人一日当たり二百円(正月三ガ日計六百円)が、祝祭日菜代及び誕生日菜代として一人一日当たり五十円がそれぞれ計上されているのだそうです。
第二課 作業賞与金
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〔監獄法〕
第二七条〔作業収入・作業賞与金〕@作業ノ収入ハ総テ国庫ノ所得トス
A在監者ニシテ作業ニ就クモノニハ命令ノ定ムル所ニ依リ作業賞与金ヲ給スルコトヲ得
B作業賞与金ハ行状、作業ノ成績等ヲ斟酌シテ其額ヲ定ム
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●一月九日
今日は演芸があった。演芸は懲役の大変楽しみにしているものの一つだ。この日は佐藤民謡一家。これは懲役から聞いた話だから確かじゃないが、山形の|米《よね》|沢《ざわ》のクリーニング屋のご一家だそうだ。|刑務所《ムショ》を|慰《い》|問《もん》して回る専門で、懲役たちは、何年前に見たとか、言い合っていた。お|馴《な》|染《じ》みの一家なのである。
佐藤民謡一家の構成は、|尺八《しゃくはち》を吹くお父さん、これはかなりのご年配。それから、それの連れ合いのおばあちゃんというのが、司会みたいな|狂言《きょうげん》話みたいなことをやる。|太《たい》|鼓《こ》を叩くのが、三十ちょっと前の息子さん。それから、娘さんが二人出てきて、これが踊ったり、太鼓叩いたり、歌ったり、いろいろする。
なんといっても、懲役に来てるヤクザや泥棒っていうのは、おおむねモダン・ジャズよりはそっちのほうが好みなので、皆さん大変大喜びだ。
ちなみに、十二月の私の作業賞与金は、十二月いっぱい働いて三百六十六円。十二月十七日からの半月分の作業させられた賃金の総額がこれなのである。
〔作業賞与金〕作業をしてもらうお金は賃金とは言わず、作業賞与金と呼ばれています。
賞与といえば、つまりボーナスですから、正当報酬というよりご|褒《ほう》|美《び》という、いつもながらの官[#「官」に傍点]の姿勢なのです。
この賞与金には、技術や|成績《キャリア》に応じて、十のランクがあって、いちばん下が見習工で、なんと時給三円そこそこのほとんどタダ働き、一ヵ月働いても六百円にもならない低給。
一等工になると、時給二十五円くらいになるから、月給で四千五百円ぐらいの高給(?)取りになるわけです。
昇等するには、それぞれの等級に基準点があって、それを何ヵ月か続けてクリアーすればいいということになっています。
表にしてみましょう(表参照[#表画像がないので不明])。
この制度は私が入っていた昭和五十二年に出来たもので、それ以前は、一等工から四等工までのランキングでした。
たぶんこれは、目の前のニンジンを多くして、看守があまりムチを使わなくてもいいようにする手だてなのでしょう。
こういうことには、やたらと知恵の回る日本の看守たちなのです。
まあ、こんなビビたるお金で何に使うもないようなものなのですが、非道いことにこのお金は自由になりません。自由に使えるお金の範囲(表参照[#表画像がないので不明])まで決められているのです。
石けん一個をめぐって|派《は》|手《で》に|喧《けん》|嘩《か》をやらかす「塀の中」ですから、このわずかな賞与金だって、本当に馬鹿にしたものではないのですが……。
このときに、一月十四日に裁判所から私の判決にくっついてた五十万円の罰金というのを「さぁ払え」と言ってきた。これを払わないでいくと、一日換算がおそらく千円か二千円。私の場合は一日換算が四千円と言ってきたのだ。だから百二十五日、罰金分の労役を務めなければいけない。これでずいぶん|焦《あせ》って、兄弟分に「おい、五十万集金して払ってくれ」と、|慌《あわ》てて電報を打ったり、忙しくしていました。
第三課 越冬
●一月二十五日
|白《しろ》|物《もの》三点、洗濯より戻る(白物三点というのは、枕カバー、|襟《えり》|布《ふ》、シーツの三点。これを定期的に、ときどき洗濯する)。
朝、舎房から出るときに出口に置いておくと、|掃《そう》|夫《ふ》という各棟にいる雑役夫がそれを洗濯して|干《ほ》して、また戻しておいてくれるのだ。
今日は夕方、しのぎやすい温度まで気温が上がった。
一日中、ボーリング・マシンのコーチを受ける。ピンとこないところも多いので、マスターするまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。しかし、ものを教わっていると時間が早くたつ。今日などは、あっという間に終わりになってしまった。新品のスケールをもらう。
〔掃夫〕掃夫というのは、朝飯や晩飯を配ったり、それから舎房の清掃をやったり、寝具の乾燥をやったりする、いわゆる工場で働いてない雑役夫です。工場掃夫っていうのもいるのだけれども、これは別にしておいて、一般的に掃夫というと舎房付きで、だから組織暴力団員はおおむねしません。飯を配るときに、仲間に多くしたりなんかするから、わりと独立で仕事をしてる奴、空き巣とかグルになって仕事をしたりしないのを使うのです。要するに|係《けい》|累《るい》のない奴。そうじゃないと、すぐえこひいきするからです。
日本の|刑務所《ムショ》というのは、医療は劣悪なんだけれども、こういうふだんの清潔さについては、日本のお役人的な大変な|律《りち》|義《ぎ》さで事をやってくれるところで、ちなみに、この真冬に着ていたものの説明をしましょう。厳冬期に着ていたもの。
まず半袖のメリヤスの下着のシャツ、パンツ、これも|木《も》|綿《めん》の洗いざらし。それからメリヤスの長袖上下。それから、これは薄い布製のペラペラのステテコみたいな|袴《こ》|下《した》。これも|刑務所《ムショ》用語でしょう。それから襟なしのシャツ。デザインだけはいかにも|久米宏《くめひろし》かなんか着そうなもの。それから毛糸のチョッキ。それから上っ張り。これは、やや厚めの布製の上っ張りです。それから靴下。
夜具は、敷布団が一。これは、かなり敷布団によっては綿が寄っている。それから軍隊毛布が三。それから掛け布団が一。この毛布も、独居の四級者用のはまるで毛がすり切れてて、そういうのは毛布と言わずに、ただの|布《ふ》と言うんだそうです。毛がなくてただの布というのがとてもおかしい。これは懲役のざれごとです。
〔衣類〕懲役の衣服は以前は、すべて官[#「官」に傍点]の支給する官衣(囚人服)で、自分で調達することは禁止されていましたが、最近では下着などの私物が認められるところも多くなったようです。
詳しくは後で説明しますが、懲役には一級から四級までのランキングがあって、それに応じて待遇が違ってくるのですが、官衣にいたるまで、それはもう徹底したものです。
一、二級者には新しくて気持ちのいいものが与えられ、三、四級者には、穴あきや、シミ付きばかり回ってくるのです。
厳正独居(昼夜独居)に吸い込まれた者などは、いちばん非道いものを与えられ、「これも刑のうちだ。反省しろ」という無言の|屈辱《くつじょく》にまみれるのでした。
冬も夏も囚人服の素材は木綿なので、夏は汗がダラダラ、冬は寒さでガタガタの生活なのです。
防寒用のセーターやジャンパーなどはもちろんありません。手袋も厚手の靴下もありませんから、冬になると懲役たちのほとんどがしもやけに苦しみます。
懲役たちは、寒さをしのぐ手だてをあれこれと工夫します。一番よくやるのは、自費で購入できるスポーツ新聞で作るチョッキ。これをカミコといいますが、新聞だからといって馬鹿にしてはいけません。これがあったかいのです。
アスピリンを飲むこともよくやります。|懲役太郎《ベ テ ラ ン》は、冬のための準備として秋までに風邪ぎみだとかいろいろ理由をつけてアスピリンをためておきます。塀の外にいるときは、栄養状態がいいので、アスピリンを飲んで体が熱くなるという自覚はありません。ところが麦飯ばかり食べているからアスピリンを二服も飲むとホッカホッカしてくるのです。
なにしろ私が入っていた頃の府中刑務所は、昭和十年製の太い鉄筋で、厚いコンクリートの獄舎ですから、これはたまったものではありません。
たとえば氷点下三度でも、アイスノンみたいなもので、壁全体が巨大な氷ですから、免業日(日曜日・祝日)に読書なんかしてても、手を出してめくるのも嫌になります。
そのうち、目ん玉がしんしんと冷えてくるので、片目ずつ交互にあっためながら見ていると、とうとう両方とも冷え切って、両目をつぶったままガタガタ震えてジーッとしているわけです。
こんな光景をその本の著者がご覧になったら、「俺の書いたものを読んで、感動にうち震えている人がいる」なんて勘違いして、きっと感激なさるに違いありません。
こんな様子ですから、|懲役太郎《ベ テ ラ ン》のすれっからしになると、冬期暖房の入っている東北や北海道の|刑務所《ムショ》に行きたがります。
長野だとか府中、甲府なんていうところだって、冬になれば十分に寒いのに、何故かお上の決めた寒冷地区に指定されていないのです。
低体温障害の権威である、旭川医科大学の|黒《くろ》|島《しま》|晨《あき》|汎《ひろ》先生によれば、「氷点下どころか、成人は二十五度C程度でも凍死することがある」そうなのだから、お上は心するように!
●一月二十六日
昨夜一度、けさ一度、|下《げ》|痢《り》をした。どうも夕食がパンの日は、食後二十四時間で必ず下痢をするように、この二週間ほど前からなってしまった。
|城崎勉《しろさきつとむ》君は、「二等パンのイースト菌が」という話をしていたが、プリズナー・トークは|正《せい》|鵠《こく》を射ているときと、まるきりでたらめのときとあるから、わかりかねる。
きのうより、正式にボーリング・マシンの専属となる。工場へ下りてから一ヵ月やそこらで重要な機械を任されるということは、異例とも言えることで(未経験工でもあり)、期待にこたえて早くマスターしなければいけないと思う。
きのうより暖かい日が続くのは、何よりありがたい。
今日は入浴日。久しぶりで鏡に映った自分の顔を見る(鏡がない生活をしているから、入浴日で|髭《ひげ》を剃ったときだけ顔を見られるわけ)。
●一月二十七日
起きたら一面、うっすらと雪だった。それにしては、夜も暖かだったが、夢を連続してちょこちょこ見て寝られず、朝起きたらフラフラして、壁に体をぶつけるほどだった。喧嘩の夢、自動車の夢、|瓔《よう》|子《こ》(前妻)の夢。えーい、こんちくしょう。
かねて|下《か》|付《ふ》願いを出していた私本、『文藝春秋』新年号、『死のミストラル』、『本当のような話』の三冊、やっと下付となる。これで、今週末は楽に過ごせる。
田宮光代さん、本当にありがとう。あなたの温かいお心、ご恩は一生、決して忘れません。
特貸官本、|石垣純二《いしがきじゅんじ》著『常識のウソ』、ヘミングウェイ著『武器よさらば』『老人と海』『キリマンジャロの雪』。
木工教材、『室内』八月号、二百四十八号。
●二月十一日(祝日)
今日は旧|紀《き》|元《げん》|節《せつ》の祝日で免業。快晴なれど雪解けで寒い。外はまったくの快晴。雲一つない。雪がどんどん解けていく。もう工場の屋根の雪は全部解けた。前のグラウンドも真ん中に黒い土が見えてきたから、間もなくソフトボールのシーズンとなる。
きのう夜下付された『暮しの手帖』は大変おもしろく、内容のある雑誌だ。|娑《シャ》|婆《バ》にいるときから隠れた愛読者だったが、獄中で手にして、改めて優れた雑誌だと思う。
三時、今演芸から帰ってきた。今日は、俺は初めて見るのだが、|志賀晶《しがあきら》という司会が、|松平直樹《まつだいらなおき》、そのほかをセットして志賀晶一行ということだった。芸に飢えていることもあって、いずれもそれはおもしろかった。漫才、声帯模写、松平直樹と女の歌手二人。どちらも美人でいい女。
六時に鐘がジャランジャランと鳴ると仮就寝ということで、布団を敷くことができる。
先月までは、敷布団とシーツのあいだに毛布を一枚、縦に二つ折りにして敷き込み、上には、一番下に伸ばした毛布、その次は、やはり縦に二つ折りにして一枚。そして掛け布団を掛けていたのだが、今は下に敷くのをやめて、三枚の毛布のうち、一枚を縦に二つ折りにして、全部上に掛けている。
そして、冷え切った、それこそ氷の板のような布団に、ズボン、|袴《こ》|下《した》、上っ張りだけ取ったまま、スッと意を決して入るのだが、しばらくは歯の根も合わぬほど寒い。五分もたつと、やっとどうやら温まる。
●三月五日
朝は霜柱が立ってかなり寒かった。免業日。
|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》が古くなり、切れかかってチカチカしだしたのを、昼過ぎ交換してくれた。「反則したら古いのと取りかえるぞ」だって、おもしろい看守だった。驚くほど明るくなった。今日は冬にまったく逆戻り。
映画会の映画は、|内《うち》|田《だ》|吐《と》|夢《む》監督、|中《なか》|村《むら》|錦《きん》|之《の》|助《すけ》主演の『|宮《みや》|本《もと》|武《む》|蔵《さし》』。古いフィルムで色はさえず、ピントは悪く、音は聞こえず、けど、とてもおもしろかった。
〔映画会〕月に一ぺんぐらい映画を見せる日があります。
どんなものが多いかと言えば、おおむね毒にも薬にもならないヒューマンストーリーか娯楽作品。『男はつらいよ』などは常連でも、『塀の中の懲りない面々』はまず絶対に見られません。『大脱走』だとか『パピヨン』だとかの脱獄物も絶対にダメです。
これは余談ですが、塀の中と『宮本武蔵』というと思い出すことが一つあって、あれはテレビで連続でやっていた『武蔵』を見ていたときのことです。
|巌流島《がんりゅうじま》で待ち受ける小次郎、やって来ない武蔵。たとえふだん私語を禁止されて、スキあらばペラを回[#「ペラを回」に傍点]そうとしている懲役たちだって、こんな場面では官[#「官」に傍点]に言われなくてもシーンと静まり返っていたのです。
「武蔵はこない……」
脇のほうで座っていた長老のじいさんが思いつめたようにこんな一言を|洩《も》らしたのですから|堪《た》まりません。
おおむね学歴の低い懲役たちですが、『忠臣蔵』と『宮本武蔵』の話ぐらいは誰だって知っている日本の国です。
笑い話どころか、こんな開いた口が|塞《ふさ》がらないような「ウソのようなホントの話」が、ウジャウジャところがっている府中だったのです。
●三月六日(日)
すっかり冬に逆戻りだ。縮こまっている。
今日は何の催しもなく、終日閉じ込め。おまけに、とてもとても寒かった。
みつ叔母に手紙を書いたから、あした出す。
●三月七日(月)
曇りだけど、なにかとても明るい。起きたときにわかったのだが、春が戻ってきた。やあ、よかったよかった、助かった。
官本、|吉村昭《よしむらあきら》著『|彩《いろど》られた日々』。
きのう、一昨日の寒さがまったく嘘のように、今日は暖かだ。
風邪で病舎に行っていたのが、一人帰ってきた。
予選の成績は悪かったけど、「|将棋《しょうぎ》大会に出る?」と言うので、「うん」と言った。
●三月十日
今日、やっとグラウンドの雪が解けて、霜柱が立たなくなって、今日から懲役のソフトボールが、毎週木曜日の運動時間に一時間だけやれるようになった。
木工場のソフトボール・チームは、それぞれ生産ラインごとに分かれていて、野村っていう宮崎のじいさんヤクザの審判でやって、まあ久しぶりでやるソフトボールだから、二打席とも三塁のゴロだったけれども、楽しかった。
毎年、早い年もあれば遅い年もあるけれども、このころ懲役の冬はほんとに終わります。
第四課 娯楽
●三月二十日(日)
朝九時から将棋大会。一回戦は木工場対外業、二回戦は木工場対東部五工場と二つやっつけて、三回戦で前回優勝の東部二工場と当たって、これは負け。いいところまで指したんだけれども、やっぱり地力が足りなかった。午前中はこれでつぶれた。
講堂の入口でサンダルぎられた[#「ぎられた」に傍点](盗まれた)。
〔本職は予選落ち〕木工場からは三人選手が出て、私が主将だったんだけれども、将棋で飯を食ってる将棋屋は、こういうところで、各工場の選手にもならないで、工場の予選の段階で姿を消すのです。
これは何故かといえば、お百姓衆を相手に、取り入れの終わったあとの|湯《とう》|治《じ》|場《ば》で将棋を指してしのいでいる連中は、自分の実力を、|刑務所《ムショ》の中の大会なんかで、せいぜいノートと鉛筆をもらうぐらいの大会で、決して力を出したりしないのです。だから、講堂に集まった面々を見ると、みんな将棋は趣味で指す|博《ばく》|奕《ち》打ちばかりで、本物は出てきません。
ヤクザ、ゴロツキの中でも、将棋で飯を食ってるというのは、まだわずかに生き残っていて、以前はテキ屋が大道で四十手詰めの詰め将棋なんていうのをやって稼いでましたけれども、今もほうぼうで、いわゆる|真《しん》|剣《けん》|師《し》といわれる将棋の|賭《か》け師が活躍している。歴史に残る限り、それで一番名を成した方は、後に本物の将棋指しになって九段まで行かれた|花《はな》|村《むら》|元《もと》|司《じ》さんでしょう。
〔五目十〕|刑務所《ムショ》の中で許されている官[#「官」に傍点]公認の娯楽といったら、外でするソフトボールと、中では|碁《ご》と将棋ぐらいしかありません。
時間をもて余している懲役たちですから、そんな制限の中だって、いろいろと工夫するのです。
たとえば、|五目十《ごもくじゅう》と呼ばれる変型五目並べがあって、普通はどちらか先に五目をつくったほうが勝ちになるのを、五目を十個先につくったほうが勝ち、というルールにするわけです。
補助ルールとして、禁じ手の三三を禁じ手とせず、目が五つ以上並んでしまう長連だけを禁じるのです。
こうすると、五目がいくつ出来ようが、六つ目を|塞《ふさ》がずに開けたままにしておいて、そこに六つ目を置かざるを得なくなる状況にもっていって、ニヤリと笑う、などという高等技術だって使えるのです。
五目十は、一試合やるのに二時間くらいは要するので、懲役たちには時間つぶしの格好の娯楽で、「娑婆に出たら絶対やろうな!」などと懲役同士で誓い合ったりしたものですが、娑婆に出てみれば、こんな暇な遊びをしている馬鹿な奴はおりません。
五目十は、やはり塀の中だけの暇つぶしのゲームだったのです。なんであんなものがおもしろかったのか、不思議に思う娑婆のおいしい空気なのです。
その他に非公認の娯楽といえば、もちろん|賭《と》|博《ばく》で、みんないろいろ工夫して、野球賭博から大相撲、正月駅伝まで、ちゃんと連勝複式で|打《ぶ》っていました。
●三月二十二日
本日、ノート検査のため提出。『富士見』随想原稿、放送映画感想文を書く。
昨夜の当直の担当さんは親切な人だった。現在入っている二舎下十二房の上か下か、どこかわからぬが、水道管に異常があって、三日ほど前から夜間に水漏れの音がうるさくて困っていたが、昨夜の担当さんは、わざわざ原因を突きとめて、水道のバルブをとめてくれた。本当に、こういうところに入っていると、人の親切が身にしみる。
●三月二十五日(金)
特貸官本、|亀《かめ》|井《い》|勝《かつ》|一《いち》|郎《ろう》著『人間の心得』。
私本下付|倉《くら》|田《た》|保《やす》|雄《お》著『ジャポネとフランセ』、|吉行淳之介《よしゆきじゅんのすけ》著『|贋食物誌《にせしょくもつし》』『酒の本棚』。
〈みつ叔母よりの手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十二年三月二十九日
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ここ二、三日寒さの戻ったような日々が続いています。スッポンポンもつらい感じでしょうけれど、この冬の寒さに比べれば“ナニクソ”と過ごして欲しいものです。
私は今、|束《つか》の|間《ま》の春休み。
一本気の抜けたような、かといって通信講座は続いているのだし、なまけていられないとばかり机にかじりついています。
休みの日、元気の良い日には、観葉植物の面倒もみてやらなければならないので、自転車でそこいら中を走り廻って、水苔や腐葉土を買い求め、植替えしたり肥料をやったり忙しいものです。
『パルムの僧院』以来、昔読んだなつかしい良い時代の小説がおもしろくなって、やたらと古本屋で全集など買い、勉強の合間に読み始めました。
文庫本だって上下で八百円もする時世ですから古本のほうがずっと安いの。
挿絵だとか作者の写真、文学歴その時代の背景など詳しく分析して、もう一冊分入っていて四百円ぐらいなの。訳者だって全集ものは大先生のキワメツキというわけです。
フランス人のロジックの精神に我らがミッチャンは益々おかされつつあるようです。日本人に言わせると、ケチという事になるのでしょうが、本人はちっともそうは思っていないから楽なものです。
精神を豊かに暮らすため、快適に暮らすためにはお金を惜しまないもの。
使うところでは思い切って、ひき緊めるところではばっちりと、女の子の一人暮らしなんてそんなものです。
今日は桜が満開です。府中の中から見えますか?
今週また出来たら本送ります。一度机に座るとなかなか離れる事が出来なくなって、たまに外へ出なければと思っても、郵便局へ行くのがなかなか面倒になってしまう。これではいけないと反省はしているのですが……。
家の中では結構動いているのです。
冬物の仕末、春物を出したりアイロンかけと、セイム・ルーティーンが常に私を待ちかまえているのです。
あせってもいらいらしても仕方がないのですから、気分をゆったりと持って残りの日々を過ごされるよう祈っています。
手先少しは器用になりましたか?
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●四月十二日(火)
花曇りにつき、布団乾燥はとりやめ。
入浴日。
引っ越したばかりの舎房で、三月二日以来空き家だったところなので、|埃《ほこり》だらけだった。入浴を終わって大掃除。とてもきれいになって、さっぱりした。
入浴の帰りに官床の前を通ったら、荒垣に会って、「|痩《や》せたね」と声をかけられた。
その気になって、|髭《ひげ》剃りのとき鏡をよく見ると、やはり少し頬の肉が落ちている。体の調子のよいのも、このせいだろう。やはり痩せるということは嬉しい。東拘、中野と、体重は九十八キロもあったのだから。
今日は、薄日は差したが終日曇り。風が強かった。
懲役の髭は、入浴ののち、舎房で鏡と湯、それに髭剃りをもらって剃るのだが、その髭剃りは両刃の安全カミソリで、軸の中がくり抜きで、鍵を使って替え刃を取り替える仕掛けになっていて、鍵がなければ外せぬってわけ。
懐かしのあのころ、一九五〇年代の詩をつくる。
[#ここから2字下げ]
FENを真空管のラジオで
ソフトクリームはローマの休日
テールの張ったシボレーに息を呑み、
ハンフリー・ボガートにため息をついた。
ディンハオかクリフ・サイドで
CCコークをすすり、
パソ・ドブルかスービーを踊っていた。
そのころまだ、スチュワーデスは美しく、
プロペラの6Bは空に浮かび
娼婦は話好きで、
筋者はあくまで気取り、
バーテンダーは心意気を誇り
そしてリングのボクサーは鉄火だった。
夢の中とスクリーン、
それに想い出の中にしか戻らぬ。
[#ここで字下げ終わり]
〔布団乾燥〕月に一度ぐらい、敷布団と掛け布団を、朝工場に行くときに入り口に置いておくと、その舎房の掃夫たちが日に当ててくれます。これも日本の|刑務所《ムショ》の大変律義なところで、外国の|刑務所《ムショ》では、あんまり私は経験しなかったことです。
第五課 外人懲役
府中刑務所は、|甲州《こうしゅう》街道から見て競馬場からは逆の、今ではもう家がぞろぞろ建った、住宅地の真ん中にある|刑務所《ムショ》ですが、それでも構内が広くて木がいっぱい生えているので、鳥がやたらと多い|刑務所《ムショ》です。
これは娑婆で生きていると、ヤクザ者は朝が遅いから、鳥たちの声を意識しないのでしょうが、府中ではカラスがギャーギャー鳴いてうるさいのです。
●四月二十六日(快晴)
早朝より、カラスが大声で「アーーアー、アーーアー」と鳴いてうるさい。
そろそろ私本が下付になるころだと思うのだが、待ち遠しい。特に『快楽』一、二巻は、いわくつきの奴だけに。
今日より、巨人対阪神三連戦、後楽園ではじまる。
昼間より、だんだん天気悪くなり、夕飯前には、今にも泣き出しそう。
私物下付。ボールペン替え芯、靴下。
工場では人数が少ないので、一人二役も三役もやるので、もうくたくた。
スズメ、それからムクドリのたぐいも、朝、大きな木にみんなで集まって、あれは縄張りを決めているんだろうか、えさでも取る。それがけたたましく鳴く。これは大騒音というべきで、懲役は朝早起きだから、少しでも寝ていたい。そのときに、ふだんは可愛い小鳥たちだけれども、朝っぱらのあの大会議には、毎度のことだけど、こんなに鳥っていうのはうるさいもんかと思うのだ。
〔中国人には小鳥の血が……〕府中刑務所には外人懲役がいます。
私は、片言の英語をしゃべるので、私の働かされている工場には外人の懲役が多く配役されていて、私はその通訳ということになるのです。そのころいたフランス人が、こんなことを言いました。「小鳥はうるさいけれども、あれはすごいよ。普通、動物というのは相手がしゃべるのを聞いて返事をするんだ。ところが、小鳥たちは聞きながらしゃべっている。だから四十羽いれば、四十羽が全部鳴いているからうるさいんだ」
「あれが人間だと、四十人いれば二十人がしゃべり、相手をする二十人は聞いているから半分のうるささだ。ところが、世界の民族の中でたった一民族、小鳥のようにできるのがいる。何だか知っているか」と、あのからしで有名なディジョンから来たそのフランス人が聞きます。なんとそれは中国人だそうです。中国人というのは小鳥の血がまじっているに違いないと言うわけです。つまり、人の話を聞くと同時に自分がしゃべっているというわけですが、本当でしょうか? 物好きの方がいらっしゃったら研究なさってください。
●四月二十七日(水) 曇り
どんよりとして雲が厚い。きのうの午後から、ずっとこんな空模様が続いている。
一人、かまば(工場の中の熱処理部門にいた懲役)が満期となったので、ついに工場は五十二人となる。くたびれた。やはり懲役は苦役である。
今日の講習情報で、五月一日付で三級に昇格するという。自分自身、早ければ五月、普通で六月と思っていたのだから、これは嬉しい。
手紙が第一と第三月曜日と、月二通出せるというだけで、とてもとても嬉しい。五月の第一は、身柄引受人の|国領隆之《こくりょうたかゆき》君に、第三月曜は田宮のみつ叔母さんに出すことにしよう。
第六課 累進処遇
●五月二日(曇)
国領君が三田の父にかわって身柄引受人になってくれたので、礼状を書いて出した。
今月までに大野は五十万円の罰金が払えるだろうか。手を合わせたい気持ちだ。
万歳。三級に昇級。これで、十六日にみつ叔母にも手紙が出せる。
発信、国領隆之君。
官本、|安《あ》|部《べ》|公《こう》|房《ぼう》全作品。
三級に昇級するときは、俺を含めて五人の進級者が午前中の作業時間中、担当台の前に並んで、おやじが「おめでとう」と言って、|名《めい》|札《さつ》の外側の緑色の輪を一個ずつ渡してくれるのだ。
|刑務所《ムショ》の統制を保っている二本柱の一本、|累《るい》|進《しん》|処《しょ》|遇《ぐう》制についてざっと書いておく。
進級は得点点数によるが、刑期によって必要進級点数はそれぞれ異なる。
刑期三年の場合は、百二十割る三イコール四十点で、三級に進級。割る一・五イコール八十点で、二級に進級。刑期の年数によって得点率が違う。
俺の場合は六十四点で三級に昇級。百二十八点で二級に昇級。
月間の通常得点は十二点だから、俺の場合は、一番早くて二級進級は十月になるが、これはちょっと無理かと思われる。
今回の進級は、中野刑務所訓練工作房で稼いだ得点が加算されていると思われるから、十二月に二級に進級できればいいだろう。巨人―大洋戦のラジオを聞く。
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巨人対大洋のラインアップ。
一番、センター・柴田。
二番、サード・高田。
三番、レフト・張本。
四番、ファースト・王。
五番、ライト・柳田。
六番、セカンド・土井。
七番、ショート・リンド。
八番、キャッチャー・吉田。
九番、ピッチャー・小林。
(ホエールズの新鋭、田代なんていう時代)
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〔累進処遇〕懲役というのは、とにかく最初は四級で、胸につけている名札、丸い名札なんだけれども、それの縁が白なのです。これが四級。それから三級に進み、二級に進み、一級になる。一級は、どの|刑務所《ムショ》でも、ほんの一パーセントに満たない懲役です。
日本の懲役が、なぜ丸腰のわずかな刑務官で看守にコントロールされているかというと、|仮釈放《かりしゃくほう》の制度と、この累進処遇というんですが昇級制度、この二つが懲役を無抵抗にしている。|小伝馬町《こでんまちょう》の|牢《ろう》|獄《ごく》時代から|連《れん》|綿《めん》と続いている日本の監獄制度ですから、そのあいだに練り上げられたノウハウらしくて、昇級するに従って、ほとんどすべて禁じられ制限されていたものが、すこしずつ|緩《ゆる》やかになる。ちなみに、四級のときには、外に手紙が書けるのが月に一回。ところが三級になると、二週間に一通手紙が出せる。
表[#表画像は附属してなかったので不明]を見ていただければおわかりのように、それぞれの級のあいだに、ほんのわずかだけれど処遇の差がある。これは、息をすることと夢を見ることだけが自由な|刑務所《ムショ》の中では、大変大きな差なのです。成績を上げれば、三級になり、二級になり、だんだん制限されていたものが緩くなる。悲しい緩め方で、思い出すだけで腹が立つのですが。
これと仮釈放の制度が、懲役たちを悪く言えば骨抜きに、よく言えばおとなしくして、看守のコントロールを助けています。
この頃の府中刑務所では、四級の下に「除外級」なる屈辱的名称のランクが置かれ、四級者で懲罰を食った者はこの除外級に落とされ、看守の厳しい目にさらされることになったようです。まったく非道い!
●五月五日(曇)
どうやらこの連休は雨が降らずに済んだようだが、雨の降る降らぬは娑婆の人のことで、懲役にはあまり関係のないことだ。どうせ終日、狭い独居に閉じ込められるのだから。
朝飯直後、今年初の蚊を取った。血を吸っていた。
夕食のとき、旗日なので小さなバナナが一本ついた。|小《こ》|菅《すげ》の東京拘置所以来のバナナだ。
〔蚊と懲役〕この年は、蚊は発生が遅かったようで、次の年の日記には四月の二日に蚊を取ったと、去年より蚊の出るのがひと月早いとぼやいています。
|刑務所《ムショ》には、ノミはいないのです。シラミも昭和二十年代で姿を消しました。けど、蚊とハエはやたらと多いのです。
次の年の七月六日に、蚊のことについて日記に書き込みがあるので記しておきます。
「蚊というのは、人血を吸っているときにおっぱらわれて、そして別の人間にとまって血を吸うと、当然血液型も違うので、腹の中で血が固まって、そして気味のよいことにくたばるだろう。だから、その狙いもあって、蚊が体にとまったらすぐには叩かずに、ちょっと我慢して少し血を吸わせてからひっぱたくんだ。
そして、うまく叩き殺せばよし、殺せなくても、飛んで逃げやがって、まだ腹いっぱいではないので、ほかの奴にとまってまた血を吸おうとするだろう。そうすれば、二人の血が腹の中で固まってしまって、その蚊はおだぶつになってしまうわけだ。
そんなにうまくいくかなぁ。腹の中で固まれば腹もちがよくなって、逆に蚊は喜ぶんじゃないかしら。
オートレースの選手が、テスト・パイロットが、ヤクザが、ボクサーが、すぐ、『俺は体を賭けて命を的に飯を食ってる』なんて言いたがるけど、この蚊に比べればなんてことはないね。この蚊って奴こそ、毎晩本当に命がけで飯を食ってるんだぜ。
蚊ってバカだねぇ。府中の|刑務所《ムショ》で人の血を吸ってるのはよいんだけど、どうして手の当たるところにとまって血を吸うんだろうね。人間なんて不器用だから、手でしか蚊は殺せないのだから、手の届きにくい足のほうで、あるいは背中の後ろででも血を吸えば、おっぱらわれるだけで、まず命までは取られないで済むのにね。
俺たちだって一緒さ。ちょっと体を使えば捕まらなくて済むのに、めんどくさがって横着しては警察のえじきになっちゃうのさ。蚊だって、足のほうまで飛んでいくのがめんどくさくて、頭とか手とか腹にとまって、そして人間に叩き殺されてしまう。俺たちは、めんどくさがったとがめが懲役だけど、蚊は問答無用でぶっ殺されちゃうんだね」
〈みつ叔母よりの手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十二年五月十一日
[#ここから1字下げ]
モンセニョール ファブリス殿(『パルムの僧院』の主人公)にあらせられてはいかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。
サンセベリナ夫人(ファブリスの恋人)は大層忙しく、ずっと手紙を書く事も出来ませんでした。
前にも書いたかも知れませんが、十月になって学院(日仏学院)での時間も増えて、加えて通信教育の答案作成に追われ、毎日毎日無我夢中というような状態だったのです。
何といっても学院での宿題は作文が多く、日本語でさえ最近満足にしていないところへもってきて、仏文で作文するなどもってのほかで、これはまあ一日をつぶすぐらいの時間がかかります。日本の歴史上での著名なる婦人についてなどと言われたり、ドゴールがロンドンからヴィーヴ・ラ・フランスと仏人民に呼びかけた宣言をもとに主題をかえて宣言文を書けと言われたりするのですから大騒ぎ! パロディーで中ピ連の、みたいなものでごまかしたけれど……。
作文の得意な|甥《おい》と違って叔母はイマジネーション欠乏でまいっています。
おまけに仏作文と言うのはただだらだらと書くのではなく、だから何々とか結果、反対、日時制、譲歩、理由、条件など明確に示しながら、最終的には従ってこうであるとはっきりオチがないと駄目なのです。
さて連休の続くそちらの生活はいかがでしょう?
天子様のご生誕の日とかおめでたい日々が続いているから、何かヒトシナ甘いものがつくのでしょう、それとも寄せ場(刑務所)の悪漢どもなどの余興があるのでしょうか?
私はお金もないし二十九、三十、一日と家に居て明日から暦どおり働きます。
毎日午前中学院へかよったせいか、気の|弛《ゆる》んだこの三日間、ただただ眠りました。
すぐ眠くなるのです、ひどいものよ。
食事を済ますとぽけっと眠ってしまうのだから。でも休養には違いなく、戦場に備えて英気を養なっておくつもりです。
我が愛猫は恋狂いし、太郎も落ちつかず、こうして春の日々は過ぎてゆきます。
仏文で苦しんでいる私がバカみたい。そのうち本送ります。
このところ学院で友だちと貸し借りしているのでちょっと時間が要るのです。
悪しからず。
ファブリスの獄窓からは小鳥など見えますか?
お身体呉々も大切に。
[#ここで字下げ終わり]
〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十二年五月十六日
[#ここから1字下げ]
身柄引受人の件なんかで先月は三田、今月は国領君に手紙を書かねばならず、叔母様へのお手紙が遅くなってしまい困っていたナオ・ファブリスですが、神様が助けてくださいました。五月二日付で三級に進級したので月に二通、第一と第三月曜に手紙が書けるようになったのです。書く事がたまっていて、許されている便箋の枚数は三枚なので字が小さくなります。叔母様の可愛い眼鏡を掛けてください! 出そうとしてノートに下書きしてあったのを今からうつします。四月の初旬のものです。
三月十日、十三日付のお手紙、豪華に一日おきに到着。更に四月四日も、それに『パルムの僧院』も。今やナオ・ファブリスは嵐の夜の線路工夫のように、右手に|提《さ》げたランプを奥沢(叔母のいる所)めがけて振りまわすのです。
それはそれとして、貴女は何と楽しい方。心の暗く沈んでるときでも、貴女のお手紙を読む間に楽しく微笑んでいる自分を発見するのです。本当に有難う。もうこの年齢になると少年時代、それこそ仮病を使って学校を休んでまで読みふけったデュマ、ユーゴー、スタンダール、ディッケンズあたりはもう渾然と一体になってしまって、わずかに気を入れて読んだ『モンテクリスト伯』『赤と黒』ぐらいしかディテールまでは覚えていないんだ。
他には好きで熱中したモーパッサン、スティーヴンスン、メリメ、ドストエフスキー、ワイルド。それに信じられないだろうけど、ジョルジュ・サンドなんてのはわりと細部まで覚えてるんだ。それにしてもなんと懐かしい!! 文庫本でも全集の後家さんでも何でも結構ですから、懐かしい奴をたまに送ってください。
さて好奇心の固型のような可愛い叔母チャンの質問に少しお答えしましょう。
洗濯は、パンツからグレイのユニフォームの上っ張りに至るまで、全て所内に専門の洗濯工場があってそこでやってくれるのです。もちろんこの工場も懲役がオペレイトしてるのです。自分で洗う物はわずかに工場用のソックスぐらいなのです。お金を全然持ってない人にはシャボンは横浜刑務所製造のヨコハマ石けんが、|歯《は》|磨《みが》き|粉《こ》は名古屋刑務所製造のなごやか歯磨きといったように、ちり紙は月に二百枚とかギリギリ必要な物は無料でくれるのです。
しかし金のある者は自分の金で資生堂のシャボンを買う事もホワイトライオンを買う事も、月に三冊まで好きな本を買う事も出来るのです。
そして作業を真面目にやるとぼくの場合で十二月三百六十六円、一月五百五十五円、二月六百一円、三月九百七円、四月九百七十三円と雀の涙ですが、給金のようなものさえくれて、このうち二十パーセントの金額は日用品等を買ってもよいのです。
三月を例に取ると百八十一円使えるので、九十円の便箋と四十円で塗り箸、五十円で色鉛筆を二本買いました。先月見た『暮しの手帖』の三〜四月号の中のパリの小学校の記事楽しいから是非探して読むといいです。柄に似合わずぼくはこの雑誌の古いファンなのです。ちょっと照れ臭いな。
カラーTVのチャンネル権は懲役にはありません。毎晩九時までのラジオもです。しかし流行歌ばかりのラジオに比べて、テレビではときどきビックリするようないい物も見られます。|刑務所《ムショ》の教育課というセクションが、これはと思える番組をVTRでとっておいたのをうつすのですが。チャールトン・ヘストンの「アントニーとクレオパトラ」をやったり、スタンリー・キューブリック監督の名作で第一次大戦のときのフランス陸軍の内幕物でカーク・ダグラス主演の「突撃」(原題 PATHS OF GLORY)、なんとこの映画にはフランスの名優アドルフ・マンジューが出てるの。これを六十〜七十人の懲役が正面に二台の十四インチぐらいのTVを据えて小講堂で一緒に見るのです。まるで子供が紙芝居を見るように……。最近二回は続けて三船や錦之介のTV紙芝居番組のVTRでガッカリ。
図書館の事だけど、図書夫という係の懲役が専門にいて、こいつが本の名前の書いてあるカードを持って来るのを選んで頼むと、自分の房に届くというシステムなのです。
休日の過ごし方ですが、日曜、祝日、それに隔週の土曜日は免業日といって工場に行かず、自分の房で終日本を読んだりラジオを聴いたり、窓からバードウォッチングをしたり、ノートに小説を書いたり、小さな声でスタンダードナンバーを唱ってそれに日本語の歌詞をつくったりして過ごすのですが、房の中で寝そべったり、窓から鳥にパンを投げたり、大声で唱ったりは出来ません。
貴女のクェスチョニングは、熊に森のバンビが動物園の様子を聞いているような印象があって楽しくなります。それからそうそう。甘い物は甘く煮たウズラ豆とか薄い|汁《しる》|粉《こ》の類です。貴女はおもしろがってるけど、ぼくは昔から甘い物好きですよ。新聞は一枚ずつバラバラにして木枠に透明ビニールを貼ったケースに入れて休み時間に見るのです。休日には十〜十五分と時間を切って房に入れてくれます。犯罪者の名前やタイトル写真は、黒インクで|潰《つぶ》してあります。なぜかというと、極端な話が次の日にその野郎が「ハーイ」といいながら現れて、利害関係のある同士でたちまち大喧嘩のおっぱじまる可能性があるからです。
このへんの感じ想像するとおかしいよね。もう紙が無くなっちゃったけど、使ってない英和の字引があったら貸していただけないかしら……。
手紙をください。サンセベリナ殿!! これからは切手代が続けば月に二回手紙が書けます。
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[#地から2字上げ]直也
●五月二十九日(曇)
ウグイスが来て、「ホ、ホ、ホ、ケキョ」と大声で叫んだ。最初は、どこかの房で誰かがふざけているのかと思ったほど、これははっきりとして大きな声だった。ウグイスでも|下手《へ た》くそな奴がいるんだ。
第七課 房内捜検と懲罰
●六月十三日
今日から看守は夏の制服。懲役は、それまでの丸首からランニングになり、舎房では上半身裸許可。いよいよ夏となった。
●六月十四日
昨晩はこすっからしい蚊が一匹いて悩まされ、睡眠不足なのだが、朝になって、血を吸って天井に逆にとまっているところを、丸首を丸めて一発で命中させ、目を回したところを壁にひねりつけてやった。ざまぁみやがれ。
●七月五日(曇)
このところ|久《く》|里《り》|浜《はま》少年院のベッド用の材木を切っているので、仕事が切れないのはいいのだが、助手がいないのには本当に困る。今日も暑い。
〔刑務所の自給自足製品〕法務省というのは大変ケチな所で、全国六十五ヵ所の施設に収容されている懲役たちに、おおむね自給自足で間に合うものは何でもさせて、外部には一銭も払うまいというようなところがある。こうやって私どもの木工場では、久里浜の少年院の悪がきどもが寝るベッドをこの頃はつくっていたのです。
同じようにたとえば横浜刑務所では、全国の懲役が使う洗濯石けん、化粧石けんのたぐいを工場でつくっていまして、化粧石けんは「ハマローズ」なんていうへんてこりんな、固いなかなか|泡《あわ》の出ないやつで、それでも沖仲仕の買う雑貨屋とか、そんなところでたまに姿を見ます。
名古屋刑務所でつくっているのは、懲役用の歯磨きで、袋に「なごやか歯磨き」なんて、ほんとに看守のお粗末なネーミングで、けど、見るたびになんかニヤリとするような歯磨きです。これは娑婆では見たことがありません。
この日記の欄外に、当時の私の字で「人生は遠回りすると長く使える」。やけっぱちで書いたんでしょう。
●七月三十日(曇)
きのうも今日も、薄日の差すような差さないようなお天気なのだ。目にもとまらぬ超小型の虫がいるらしく、夜かゆくて困る。ほかの房もそうらしく、|出役《しゅつえき》(工場に出ていくのを出役と言います)のとき、かまれた跡を示して消毒を頼む懲役がたくさんいるので、それがわかる。|南《なん》|京《きん》|虫《むし》でもないし、何なのだろう。
工場で働いて帰ると、|房《ぼう》|内《ない》|捜《そう》|検《けん》の跡あり。このところよくあるようだ。スペアのランニングも置いておかずに、ちゃんと着て出たので、カレンダーの図柄が気に入らず、上に張り重ねた|貝《かい》|殻《がら》の写真をはがされただけで済んだ。
〔房内捜検〕懲役が朝工場に出ていったあとで、看守どもが懲役の住んでいる舎房の中をひっくり返して、違反するものを持ってないか調べることを言います。たばこでも出てくればアウトで、懲罰を食います。私の場合は、法務省のカレンダーの図柄が、子供が二人おばあさんに連れられて公園でハトにえさをやっているという、毎度法務省のやるような、ひどく|陳《ちん》|腐《ぷ》な図柄でした。ただ小さな子供を見るというのは、子供のいる懲役にとっては苦痛なので、上に『アサヒグラフ』かなんかからひっぱがした貝殻の写真を張っておいたら、それを引きはがしていかれたということでした。
八月十二日。この日に、私は作業をしててシンナーを吸ってパクられます。ですから、八月の十二日の日記は、朝書いたのしかありません。
●八月十二日(金)曇
依然として涼しい日が続く。懲役にとってはありがたい陽気だが、海の家なんか困っているだろうな。そういえば、去年も夏は短かった。
きのうのソフトボールは、レフト・フライ二本、打点一。
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「|善《よ》い|行《おこな》いをした|者《もの》には|賞《しょう》を、|悪《わる》い|行《おこな》いをした|者《もの》には|罰《ばつ》をという|信賞必罰《しんしょうひつばつ》が|処《しょ》|遇《ぐう》の|基《き》|本《ほん》となっています。この|考《かんが》え|方《かた》は|刑《けい》|務《む》|所《しょ》に|限《かぎ》ったものではなく、|一《いっ》|般《ぱん》|社《しゃ》|会《かい》でも|同《おな》じことであって、|常識《じょうしき》でよく|考《かんが》えるならばその|道《どう》|理《り》は|誰《だれ》にもよくわかることです。|特《とく》に、|罰《ばつ》について、|規《き》|則《そく》を|守《まも》るということを|大《たい》|変《へん》なことのように|考《かんが》えるのは|間《ま》|違《ちが》いです。|野球《やきゅう》を|例《れい》にとっても、|細《こま》かいルールがあるからこそゲームがうまく|運《はこ》べるし、|面《おも》|白《しろ》いのです。ルールのない|野球《やきゅう》は|考《かんが》えられないでしょう。|刑《けい》|務《む》|所《しょ》の|規《き》|則《そく》もこれと|全《まった》く|同《おな》じであって、|規《き》|則《そく》が|正《ただ》しく|守《まも》られることによって|刑《けい》|務《む》|所《しょ》の|秩《ちつ》|序《じょ》のある|生《せい》|活《かつ》があり、|個《こ》|人《じん》|個《こ》|人《じん》の|生《せい》|活《かつ》の|安《あん》|全《ぜん》があるのです。ルールが|守《まも》られなければ、|一《いち》|部《ぶ》の|者《もの》の|我《わが》|儘《まま》が|通《とお》ったり、|真《ま》|面《じ》|目《め》にやってゆこうとする|者《もの》の|生《せい》|活《かつ》が|乱《みだ》されてしまいます。|各《かく》|人《じん》が|規《き》|則《そく》を|守《まも》ることによって|刑《けい》|務《む》|所《しょ》|全《ぜん》|体《たい》の|生《せい》|活《かつ》が|明《あか》るくなり、|結局自分自身《けっきょくじぶんじしん》が|守《まも》られることになるのです」
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[#地付き](「所内生活の手引」)
〔懲罰〕所内の規則に違反するか、看守の機嫌を損ねたりすると、
「懲罰!」
と声が掛かって、非道いときには、懲罰房行きとなってしまいます。
看守の気持ちが即「法律」になってしまう|刑務所《ムショ》ですから、それはもう無茶苦茶な言いがかりをつけられて、懲罰を食ってしまうことだって少なくありません。
懲罰でよくあるのは、独居に移され、作業の休憩のときや昼食のときも人と隔離され、話をすることを禁じられる。もちろん新聞、ラジオ、運動も禁止されてしまうというもので、これは想像以上にきびしい罰です。
それから、「|屏《へい》|禁《きん》」といって、要するに閉じ込めてしまえというやつです。
法務省見解では、懲罰房というのはなくて、特殊監房としては、自殺や逃走の恐れがある人間を隔離するための保護房だけがあると言っていますが、日本に“ウソつき罪”がなくてよかった。
私の経験では保護房というのはなくて、たしか私の頃はこういうのを鎮静房と言ってました。鎮静房というのは、とにかく荒れ狂っちゃった奴を放り込むんだと言われていた房で、床は、木の床ではなくリノリウムを敷いて、壁にもゴムを張って、ガラスも四角い瓶底みたいなガラスをはめて、工業用テレビが見張っていました。
そして、懲罰房ですが、少なくとも私が入っていた昭和五十四年当時には、厳然としてありました。私は三回懲罰房に入っています。
懲罰房では、窓に目隠しがあって、日が差し込まないようになっていて、トイレにも|覆《おお》いがなくて金隠しだけがあるのです。
第八課 五等飯
六日間飛んで、
●八月十八日(雨。時々どしゃ降り)
八月十二日の就業間際に、シンナーでパクられて、すぐ二舎下の二房に移され、十二、十三、十四日と過ごし、十五日に四舎下の二十五房に再度移動させられた。
最初の移動のとき、タオル、歯ブラシ、練り歯磨き、石けん入れのほかは全部取り上げられ、今日までこの日記のノートが入らなかったのだ。
その間、十二、十七日にみつ叔母から来信。十五日と十七日に入浴。十六日に『文藝春秋』と『旅』が入って、この舎の規定が私本三冊なので、掃夫に頼んで英和辞典を加えてもらった。
筆記具の使用も夜だけ。
約二十日間はこのままの状態で、その後、言い渡しがあって懲罰に入るわけだ。やれやれ。やんなっちゃったな。
この取り調べ中の懲罰専用の房は、今までの独居に比べるとやや広いが、窓は高く、そして、なぜか蚊が多いのに閉口している。ああ、俺はバカだなぁ。
袋張りを一日やらされて、もうすっかり自己嫌悪。バカだなぁ、ほんとに。
ひしひしと天変地異のおっぱじまる前兆のような、不順きわまるこのところの陽気と空模様。それでいて、関西はよいお天気で、甲子園の高校野球は一日も雨が降らずに、今日は準決勝をやっている。これは本当に、近々関東に大地震があるという噂は当たりそうだ。
この事も、書いておけという感がひしひしとあったので、書いておく。
その後、この感はかなり薄らいだが、まあ、満期までは大丈夫だろう。
〔シンナー〕|刑務所《ムショ》の中で制限なくしていいことは、息を吸って吐くことと、夜寝て夢を見ること。それ以外は、大なり小なり制限を受け禁止されているんですけれども、たばこも吸えない、酒もない。そんなところで、木工場にあるシンナーを盗んで吸う。これが|刑務所《ムショ》のヘロインでした。
ですから、それのある塗装工場には、官[#「官」に傍点]がよりすぐった|密告《チックリ》の、フランス語で言ったら「ラ・ポルターズ」ですか、密告者のじじいが必ず配役してあって、なかなか盗みにくいんですが、このときは、私の親友だった新井の忠さんという、日本で何本かの指に入る大泥棒が、私のためによく盗んでくれたのがアダになりました。
ただ、この結果、私は十五日の懲罰というのを食うんですけど、この十五日の懲罰、最低の五等飯、飯茶碗に一杯ぐらいの飯に急に減らされます。法務省では、減食という罰は加えてないと対外的には言ってますが、最低の五等飯にされたということで、ふだん工場で食っているのは二等飯という|丼《どんぶり》で一杯半ぐらいある、たっぷりした麦飯ですから、これは減食でなくて何でしょう。
たいてい痩せ衰えて戻ります。私もそのとき、十五日で三キロぐらい落ちたんじゃなかったかと記憶しています。
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〔監獄法〕
第三四条〔糧食・飲料〕在監者ニハ其体質、健康、年齢、作業等ヲ斟酌シテ必要ナル糧食及ヒ飲料ヲ給ス
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〔五等飯〕|刑務所《ムショ》の食事というものは、それはもう非道いものなのです。
面会所に来た人が「今週の献立」なんていうのを見て「おお、いい飯を食っているな」と必ず言うのですが、とんでもない! そんな言葉を聞くたび、もう腹が立つこと。
「クリーム・シチュー 季節の野菜入り」などと書いてあっても、メリケン粉を溶いたものに脱脂粉乳などを少しぶち込んだ、メリケン粉の糊みたいなものに、ジャガイモ、大根、ニンジンと、よく探すと、鳥の皮が二切れ出てきたなんていう|粗《そ》|末《まつ》なものなのです。
|刑務所《ムショ》の|物《もっ》|相《そう》飯は、米と麦の割合がだいたい六対四、「ムショ」という言葉も「刑務所」を縮めたものではなく、この比率「|六四《ム シ ョ》」からきたそうです。
|刑務所《ムショ》の食事は労働量や年齢に応じて一等食から五等食まで、|摂《せっ》|取《しゅ》できるカロリーが五段階に分けられています。
一等食は二四〇〇カロリー、二等食二三〇〇カロリー、三等食二一〇〇カロリー、四等食一八〇〇カロリー、五等食一七〇〇カロリー、となります。
五等食というのは、|軽《けい》|屏《へい》|禁《きん》といって、要するに懲罰房に閉じ込められると作業がないので五等に落とされることがあるのですが、ここに十五日も入れられたら、どんな奴でも|頬《ほお》がゲソッと痩せて出てくるのです。
しつこく言いますが、これが減食でないなら、「減食」とは一体何なのでしょう。
もっとも、食事内容のほうはこの頃改善されて、|脂身《あぶらみ》しかなかったような肉にしても、コマ切れ肉が普通になったり、私が入っていた当時よりずいぶんましになったようです。
ただ相変わらず、「味のほうはともかく」という|但《ただ》し書きはくっついているようです。
第九課 懲罰房
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〔監獄法〕
第五九条〔懲罰〕在監者紀律ニ違ヒタルトキハ懲罰ニ処ス
第六〇条〔懲罰の種類〕@懲罰ハ左ノ如シ
一 叱責
二 賞遇ノ三月以内ノ停止
三 賞遇ノ廃止
四 文書、図画閲読ノ三月以内ノ禁止
五 請願作業ノ十日以内ノ停止
六 自弁ニ係ル衣類臥具著用ノ十五日以内ノ停止
七 糧食自弁ノ十五日以内ノ停止
八 運動ノ五日以内ノ停止
九 作業賞与金計算高ノ一部又ハ全部減削
十 七日以内ノ減食
十一 二月以内ノ軽屏禁
十二 七日以内ノ重屏禁
A屏禁ハ受罰者ヲ罰室内ニ昼夜屏居セシメ情状ニ因リ就業セシメサルコトヲ得重屏禁ニ在テハ仍ホ罰室ヲ暗クシ臥具ヲ禁ス
B第一項各号ノ懲罰ハ之ヲ併科スルコトヲ得
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〔紙袋張り〕シンナーの反則でパクられた私は、こうやって独居房に入れられて、取り調べという裁判ごっこが始まります。これには、弁護士もいなければ何もいない。官[#「官」に傍点]が要するに取り調べて懲罰の日数を決める、これのための期間です。これが、いつでもほぼ半月ほど、ねちっこくたっぷりいじめながら調べるわけです。
私も、そのあいだは取調房というのに入れられて、これは独居ですから、紙袋を張らされる作業をします。ショッピング・バッグです。|千《せん》|疋《びき》|屋《や》のもあれば、中村屋のもあれば、ワシントン靴店のもあります。このときの記録を見ると、ワシントン靴店の袋を一日に四百枚から六百枚私は張っているようです。
〔運動バカ〕もう一つ、取り調べの独居房にいるあいだの運動というと、十五分ほど扇型の金網張りの鳥小屋みたいなところに入れられて過ごすんですけれども、私はそのとき|爪《つめ》を切るぐらいで、隣の囲いの奴とおしゃべりをしていました。
中には運動バカみたいなのがいて、その狭い中で腕立て伏せをやったり、ウサギ跳びをやったり、走り回っているのがいますけれども、こんなのは宮城の周りによくいる運動バカ。これは日本に多いタイプですから、|刑務所《ムショ》の中にもずいぶんいて、熱心にやっていました。
城崎勉はその中の一人でしたけれども、これは刑期を四年残して、自分はあとしばらくで超法規出獄するということを、なぜか知っていたので、あれは出所してからのトレーニングで、これは運動バカではなかったようです。
●八月二十六日(金)雨
今日で、二十何日連続の雨で、とっくに気象台開設以来の新記録なんだと。パッと晴れないことには、くさくさしておかしくなっちまわ。
今月、八月十二日にパクられてから十四日たって、懲罰十五日という言い渡し。
判決があって、すぐ懲罰になるので、次にペンをとれるのはいつになるのか。懲罰になると、布団も座布団もすべて取り上げ。もっとも、寝るときだけは布団に入るのだが、がらんとした独房で、あぐらをかいて座るだけの日がはじまる。
〔発狂しない懲罰の過ごし方〕懲役十五日ということは、真夏の窓に覆いをして日が差さなく、風通しを悪くしてある懲罰房で十五日間、本もなければラジオの放送もない、何もないところに十五日間閉じ込められっ放しということになります。もちろん面会もありません。
そのあいだ気が狂わずに過ごせたのは、拘置所のときに、父の|安《あ》|部《べ》|正《まさ》|夫《お》が|観音経《かんのんきょう》の本を持ってきてくれたおかげでした。信心のない父親でしたけど、なぜか、「お経というのは唱えると気が静まる。だから、今おまえに必要なのはこれだろう」と言って持ってきてくれたのを、暗記していた。お経を唱えているあいだに十五日たったので、信心のない私だけれども、お経の威力というのはそのときに知りました。これは自己暗示なんでしょうか。
第十課 官本・私本
●九月十日
今日、十五日の懲罰が明けて、北部四工場に出役することになった。
朝十時ごろ、西部区の管区で解罰を言い渡され、免罰は一日もなし。
医務で簡単な健康診断を受けたあと、北部区の管区で区長から四工場への出役を言い渡された。四工場では、上野原のO氏等、みんなで大変歓迎してくれ、特に貸与のN氏がいろいろ衣服の面倒を見てくれた。
当分は雑居でやってみろということで、六房に入ることになった。ここでも、房長のO氏はじめ、みんな好意的にしてくれる。
雑居にいると、日のたつのが早い。
懲罰中に、三田の母とみつ叔母から手紙が来ているはずが、西部四舎下の担当のミスか、俺の荷物の中に入っていないのだ。工場の副担に探してもらうように、よく頼んでおいた。
とにかく、やっとこさっとこ懲罰が終わった。やれやれ。
〔官本・私本〕雑居房に移ると、独居房にいたときとはまるで違います。図書夫という係が月二回交換してくれる官本という本も、十人入っていれば十人分、三十冊。独居房では一人に三冊ですから。三十冊入ればもう、本当にくだらないのから、ときどき涙をこぼすようなものまで、いろいろあり読書を楽しむことができます。それから、将棋の相手はいるし、碁の相手はいる。ただ、いやな奴、トラブル・メーカーもいるので、いいことばかりではないのが雑居房でした。
塀の中で読める本には、官本・私本の二種類があって、官本というのは前記の通りですが、私本は、塀の外から身内に差し入れてもらう月に三冊までのリクエスト本のことです。
塀の中での楽しみといったら、碁・将棋とソフトボール、あとは本を読むことぐらいしかありませんから、もう片っ端から本を読みふけっていた私です。
のちに私が勝手に押しかけて、弟子にしていただいた山本夏彦先生との出会いが、先生が主宰するインテリア雑誌『室内』で、それが私がいた木工場のテキストであったということは、おかしくもあり、ご縁とはそんなものなのでしょう。
ちなみに、私がリクエストした本をせっせとマメに差し入れてくれたのは、みつ叔母であり、今になってどんなに感謝しても足りないくらいです。
そのとき熱中させてくれた本の数々が、今になってみれば、間違いなく作家安部譲二の、修業であったのですから。
●九月十四日(曇)
府中刑務所には百人程度の日本国法を犯してしまった外人懲役が、ネパール人から南米のウルグアイの隅まで、人種博覧会のようにいる。おおむねスペイン語系でも片言の英語はわかる。それから私が大変片言だがイタリア語を操るので、何とかなると、通訳を命じられた。
工場で就業時に、ブンタイ(囚人頭)が叫ぶ。
明日は免業、静かに読書、というのが、いやに語呂がよい。
〔外人懲役〕通訳を必要とするような外人懲役が収容されているのは、府中と横須賀、沖縄の三ヵ所です。
私の通訳は専業ではなくて、私は自分の作業をしながら、看守が「おーい」って呼ぶと飛んでいって、外人懲役と話をするわけです。
ですから最初は、外人懲役が私を看守の手先だと思って、ずいぶんいやな思いもした。そのうちにだんだんわかる奴ができて、私が出所するとき、みんなで歌を歌ってくれたり、そんな場面がありました。
第十一課 運動会
●九月二十八日
運動会。木工場は準優勝。
(九月二十五日よりノート検査があって十月三日に戻る)
〔運動会〕|刑務所《ムショ》では、秋に一回運動会があります。
ただ、秋の運動会で一番おかしいのは、走る種目。いろいろなのがあるんですが、それは閉じ込めてあった懲役を走らせるんですから、|焦《あせ》っていきなり速く走ろうとした奴は必ずすっ転びます。これは、足の筋肉が走るように適してないのでしょう。|刑務所《ムショ》というところは、とにかく走るのは厳禁のところですから、そういう機能が退化しちゃっている奴が多いので、バラバラ転びます。
ですから慣れた懲役は、スタートしたときに、全速力でゴールを目指そうとせずに、相手が転ぶまでゆっくり走っている。そういう運動会です。
運動会の種目は、主に、障害物競走だ、徒競走だ、リレーだ、そんなのばっかりです。
|騎《き》|馬《ば》|戦《せん》とか棒倒しなんてやらせたら喧嘩になっちゃうから。
騎馬戦どころか、バレーボールだって人が死ぬのです。ブロックで跳び上がった奴の腹を、スパイクした奴以外はみんなボディー・ブローを打ちまくる。それで、内臓破裂で死んだ奴がいたと聞きました。
障害物競走では、やっぱり泥棒が断然速い。
だから、|侍《さむらい》工場っていう、ヤクザばっかり集まった工場っていうのは、おどかすだけの運動会をやってます。
ジョン・カルボなんていう船乗りの|韋《い》|駄《だ》|天《てん》はスターで、全部に出場していました。
もっとおかしいのは、こんな妙な運動会を見にくるバカな客がいることです。
町内会の役員とか、特殊面接員、|高《たか》|田《だ》|好《こう》|胤《いん》みたいな坊主だとかあやしげなのがいっぱい見物していました。
ふだん抑圧され続けている懲役たちの唯一の発散の機会が運動会なのです。ですから、その発散の方向がちょっとでもそれると喧嘩になってしまいます。官[#「官」に傍点]もその点はよく心得ていますから、人と人とが直接肉体を接するゲームは行いません。
木工場は、広くて通路が直線で百メートルほどもあります。休息時間に許可を得て走り、運動会に備えているのもいます。
また、みんなが参加して不満が発散できるようにと|山車《だ し》もつくらされました。各工場が工夫をこらした山車をつくるわけですが、木工場には、材料も道具も豊富にありますから、立派なものをつくっていました。
ところが、最近の話では、管理部長が鬼といわれる看守に変わり、走ることも山車をつくることも禁止されたそうです。
第十二課 脱獄者
[#ここから2字下げ]
〔監獄法〕
第二三条〔監獄官吏の逮捕権〕@在監者逃走シタルトキハ監獄官吏ハ逃走後四十八時間内ニ限リ之ヲ逮捕スルコトヲ得
[#ここで字下げ終わり]
●九月三十日(曇)
城崎勉君が出所したとの噂。ヘリコプター、写真撮影に飛び回る。
夕方、保安課長に呼ばれ、所長室に行く。
舎房、工場の作業衣ともにジャンパー支給となって、いよいよ|冬《ふゆ》|支《じ》|度《たく》となる。
〔城崎出獄〕一九七七年九月二十八日、乗員十四人と乗客百四十二人を乗せたパリ発東京行の日航DC8型機は、ボンベイ空港から飛び立ったところで五人の日本赤軍兵士にハイジャックされました。飛行機は、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。日本政府に対して乗客・乗員と引き換えに「日本で身柄|拘《こう》|束《そく》中の同志九人の国外釈放」と「身代金六百万ドル」を要求しました。指名された九人のうち出国意思を表明したのは、|奥平純三《おくだいらじゅんぞう》、城崎勉(以上赤軍)と|大《だい》|道《どう》|寺《じ》あや子、|浴《えき》|田《た》|由《ゆ》|紀《き》|子《こ》(以上連続企業爆破犯)、|仁平映《にへいあきら》、|泉水博《せんすいひろし》(以上殺人)の六人でした。十月一日に六人がダッカに到着した後、飛行機はクウェート、ダマスカスと飛んで人質を少しずつ釈放しながら、十月四日アルジェリアに着陸。そのあとの消息は不明。
城崎に同行を断った私は、こう忠告しました。「政府の用意した飛行機は、よく調べてから乗ったほうがいい。戦争中のパイロットは、みんな|落《らっ》|下《か》|傘《さん》を使えるから、オートパイロットに入れておいて、窓から飛んじゃうよ」と。
また、この二年前の一九七五年八月四日、クアラルンプールのアメリカ、スウェーデン両大使館のあるビルが、日本赤軍の五人に占拠されました。赤軍は、日本政府に、同志の釈放を求め、超法規的措置として|坂《ばん》|東《どう》|国《くに》|男《お》(連合赤軍)、|佐《さ》|々《さ》|木《き》|規《のり》|夫《お》(連続企業爆破犯)ら五人を釈放させています。このとき、外務省は、法を|遵守《じゅんしゅ》して、五人に日本国発行のパスポートを手渡しています。一九七七年のときは、さすがに問題となり、日航が搭乗券を発行しただけでパスポートは渡されませんでした。
この日は、朝から|刑務所《ムショ》の上をブンブンブンブン、ヘリコプターが飛び交っていました。東京拘置所で|田《た》|中《なか》|角《かく》|栄《えい》が釈放されたときも入所するときもそうでしたけれども、いずれにせよ、|刑務所《ムショ》の上をヘリコプターがブンブンブンブン飛ぶというのは何かあったということで、懲役たちはしきりと噂をしていました。
このときの噂の第一報は、「京都で共産党が革命を起こした」というものでした。誰が言いだしたのかはわかりませんで“京都で”というところに私は、うなりました。
第二報は、「ロシアが|根《ね》|室《むろ》から上陸してやって来る」というもの。北海道の奴が「うちは|紋《もん》|別《べつ》だ」と青くなっていたのを覚えています。
このように次々にその人の知識と願望をまじえた噂が飛び交っていたのです。
そして、あれは何時でしたか、時間までは覚えていませんが、私の働いていた木工場に保安課長が青い顔をして来て、「所長室に来い」って言うんです。みんなも|仰天《ぎょうてん》しました。まさか安藤組も小金井一家も私をヘリコプターで助けに来てくれるわけはありませんから、何事が起きたかと思って所長室に行くと、法務省の偉い人もずいぶんいて、「城崎勉が、一緒に脱獄するのにおまえも指名したんだけれども、どうするか」と言って、私と城崎勉とを所長室で会わせたのです。
私は、かねがね誘われてはいたけれども、断っていたのです。もう私の懲役もあと二年半ぐらいでしたから、城崎の言うように、誰かが嫌な役を引き受けなきゃ世の中変わらないという理屈はわかっていても、もう四十のヤクザもんの出る幕ではありません。そのうえ、どうやら行くところはアラビアらしい。その前に城崎は、|盲腸《もうちょう》を切って、|痔《じ》の手術をしてとこの日のための用意をしていました。これは、何かの通信手段で、この年の秋に救い出されるということを確信していたようです。
「盲腸を切って、痔の手術をしていかなきゃ行けないようなところだったら、もうこの年では堪忍だぞ」と言っていたので、私は改めてそこで断りました。
そうしたら、今度は、|刑務所《ムショ》側では「説得しろ。城崎に行かすな」と言うわけです。
私はそのときに、「自分は行かないけれども、城崎にやめろと説得するのは懲役のやんなきゃいけないことのほかだ。堪忍してください」と説得しなかったので、|刑務所《ムショ》側からひどく|睨《にら》まれました。この時点では、仮釈放をもらうというのを断念せざるを得ないほど、深く憎まれたのです。
そのときには、かわいそうに、裏日本の|魚《うお》|津《づ》にある奴の実家から(ああいうことは許されるのだろうか)、自衛隊のヘリコプターで(何で自衛隊なのかわからないんですけれども)、おっかさんが府中刑務所まで連れてこられたのです。母親っていうのはバカですから、そこで説得するのです。身上調書の職業欄に「革命家」と書く城崎勉ですから、おふくろの説得にも「うん」て言わずに、十六億円のオトシマエを持って飛んでいったのです。
大変な奴だと思うし、この前はホテル・インドネシアでロケットをぶっ放したり、奴はまだ革命をやっているようです。
〔超一流〕長く|極《ごく》|道《どう》をやってきたおかげで、|大《たい》|概《がい》のことには驚かない私ですが、さすがにこの超法規出獄という、前代未聞の出来事には仰天させられました。
城崎勉という青年は、映画『塀の中の懲りない面々』で|一《いっ》|世《せい》|風《ふう》|靡《び》セピアの|柳葉敏郎《やなぎばとしろう》君が今の青年には珍しい、澄んだパッションあふれる目で好演してくれましたが、本物の城崎勉もやはり同じように信念のある、大変好感の持てる青年でした。
学のない私には、事の善し悪しはわかりません。
ただわかることは、自分の信じた事にどれくらいの情熱と信念で立ち向かっている人間か、ということのみでしたが、この点で城崎勉は超一流なのでした。
第十三課 余罪発覚
●十月四日(雨)
甲府の男に余罪出て逆送。
|猖獗《しょうけつ》を極めていた蚊の大群も、きのうでついに消滅した。冬将軍の凶悪なひづめの音が響いてくる。また、あの目の玉も凍る寒さの襲来だ。
とにかくここでは辛抱しかない。
城崎勉は今頃どうしているのだろう。
〔余罪発覚〕甲府から来たヤクザにまだバレてなかった事件があって、それが服役後に何かの拍子でバレてしまって、甲府の警察から刑事が二人来た。たいていライトバンで来るんですが、運転手一人と刑事二人でやって来て、また甲府の警察署に逆戻りになったのです。
これはどういうことかというと、|刑務所《ムショ》に服役中に余罪が発覚すると、発覚した警察署で身柄を取りにきて、それで戻って調べられ、また起訴されると拘置所に送られて裁判を受けて、そして刑が増えて戻ってきます。
この増えた刑というのは、二つダブって一緒に務めさせてくれるようなものではなくて、今まで務めていた刑が終わると、そのケツにくっつきます。ですからなんと、嘘みたいな話ですけれども、昭和三十年に一年半の懲役で落ちてきた奴が、私の確認したところでは、二十八年たった昭和五十八年にまだ服役をし続けていたという、まあなんと非道い、気が遠くなるようなことが実際にありました。
ですから、懲役はみんな、工場で作業中でも、保安課の看守が工場に入ってくると|怖《お》じ|気《け》立ちます。なにしろ叩けばほこりの出る連中ばっかりですから。
面会に人が来てくれたときに工場に呼びに来るのは、面会所の看守が来るのだけれども、保安課の看守が来るということは、何かバレたということで、このときばかりはピーンと工場の空気が張りつめるのでした。
とにかく、再犯のすれっからしの懲役にとって、|刑務所《ムショ》に服役して満期の日というのはあるのだけれど、それは一応の|目《め》|処《ど》でしかない。余罪が出ることもあれば、続けて二つ出ることもある。看守をぶん殴ったら当たりどころが悪くて看守が死ねば、追加の刑を七年食ったりする。そういうふうに余罪が出たり追加の刑を食わされるわけです。現実に私の|舎《しゃ》|弟《てい》でも、医務室のろくでもない医者をぶん殴って二年刑が増えたのがいます。
そういうふうに刑が増える、満期の日が延びてしまうというのは、法務省の統計ではどう出ているか知りませんけれども、私の印象としては、四人に一人ぐらいは必ずあるのです。再犯刑務所というのは、そういう恐ろしいところです。
●十月五日
きのうから、俺の隣の|役《えき》|席《せき》にニュージーランド人が来たので、なにかと世話をやいたり通訳をさせられたりで忙しい。
朝方、かなり強い地震があった。
三田の母が、本をごっそり送ってくれた。
『|映《えい》|画《が》|渡《と》|世《せい》』(天の巻・地の巻)、『ロンドン・パリ』、『明治からの伝言』、『|花《か》|神《しん》』(上・中・下)、『|楡《にれ》|家《け》の人びと』(上・下)、『おきん』、『定年後』、『なんじゃもんじゃ』、『落語国・紳士録』、『ちりめんじゃこ』。
●十月十日(曇)
終日閉じ込められていた免業日、碁を教えてもらった。
|高《たか》|木《ぎ》|彬《あき》|光《みつ》の『灰の女』というのを読んだけど、真実性に乏しく、読むに堪えない。
第十四課 サッカー選手
●十一月七日(曇)
真っ黒というよりは、むしろ紫色の黒人が工場に落ちてきた。サッカーの選手というだけあって、すばらしい体格をしている。職業犯罪者でないことがありありとわかる外人は、本当に場違いで気の毒になる。
〔ジョン・カルボ〕この男は、名をジョン・カルボと言って、シエラレオネという西アフリカの小さな国から来たマンディンゴ族――マンディンゴ族というのは、アメリカ南部の|奴《ど》|隷《れい》労働が華やかだった頃に、農場主の白人はたいてい年をとっているので、種つけはし切れないというので、種つけのために特に西アフリカから取り寄せた高価な奴隷だったそうです。
ケン・ノートン(元プロ・ボクシング世界ヘビー級チャンピオン)がそうです。
もう、実に雄大な立派なアソコで、そして|苔《こけ》が張りついたみたいな陰毛をしているので、なおさらいっそう立派に見えます。
かれはイギリス船の船員だったんですけれども、横浜のパンパン屋で日本人の男ともみ合ううちに、相手のナイフを取って刺してしまった。懲役七年でした。
ただ、日本に来たのは初めてだということでしたが、それは、あんまり日本に以前来たときの歴史が華やかだったので、警察に捕まってしまった自分というのがあんまり惨めで、とうとう口にできなかった。「実は……」と言って私に話したところでは、シエラレオネというちっちゃな国のナショナル・イレブンのサッカーの選手で、日本に遠征して四試合やって、それは黄金の日々であった。そう言ってました。
すごく足の速い奴で、私たちのソフトボールのセンターにしたら、なんとファール・フライまで高く上がったやつをとって、見ていた懲役のじいさんを仰天させたものです。
「みんな見ててくれてよかった。こんな話をしても、娑婆に出て誰も信じてくれない」と。それほど足の速い、おそらく百メートルを十一秒フラットぐらいで走ったんじゃないでしょうか。
●十一月十五日
靴下が舎房で支給になって、これより冬の衣服になります。もうちょっと寒くなると、あとから黒い毛糸のチョッキが支給されて、いよいよ冬着るものはこれで全部。いくら寒くなったって、もうこれっきゃないということになります。
そして、これはちょっと前後しますが、十二月の六日の日記です。
●十二月六日
外人懲役のミルウォーキーが、あした仮釈上がりだとあいさつに来た。
きのうパッチが支給された。このパッチの支給で、越冬衣類が全部支給されたわけで、上から書いておく。ジャンパー、毛糸チョッキ、襟なしシャツ、メリヤス(メリヤスというのは長袖の下着です)、半袖のメリヤス、ズボン、メリヤスももひき、パッチ、パンツ。
〔厳冬〕ずいぶん|着《き》|膨《ぶく》れてるなあ、というふうにお思いかもしれないけれども、とにかく太い鉄筋の、昭和十年製の厚いコンクリートの、まったく火の気のない、体温だけが頼りの懲役の舎房です。これだけ着てても、免業の日に座って本を読んでいると、袖口から手を出すのがいやになって、ページをめくるのがいやです。読んでる目の玉が冷たくなって、片目ずつ暖めて本を読みます。こんな寒さに耐えさせるのも懲役という罰のうちでしょうか。
戦後、懲役が受刑者って名前が変わって教育刑になったと法務省は言っています。こんな、もう思い出したくもない寒さを受刑者とやらに与えることも教育のうちなんでしょうか。
●十二月三日(晴)
今日は半ドン。
今日から、俺のすぐ後ろでストーブが入った(これは工場のことです)。背中が汗ばむほどの効き方だ。昨年の冬を過ごした工場では火の気がまるでなかったし、夜間独居だったし、今度の冬は昨年に比べて大違いだ。独居には行くまいぞ。
〔独居は寒い〕夜は独居にいると、窓の内側が、吐いた息が氷結するほど寒くなります。ところが、たくさん入っている雑居房では人いきれがあって、独居に比べてずいぶんとそれでも室温が高いのです。
第十五課 森昌子後援会長
●十二月八日
けさ早く、点検の前に、隣の八房で全員九人が吸い込まれてしまった(吸い込まれるというのは懲罰で捕まることです)。と思ったら、今度は工場で二人。それから派生的な喧嘩があって吸い込まれ、あっという間に七十四人の工場から十一人懲罰房に吸い込まれて、工場はがらんとして、話し声や物音も小さくなり、静かになってしまった。
俺のいた役席からは実に三人がパクられ、特に埼玉の|森《もり》|昌《まさ》|子《こ》後援会長がいなくなってしまい、俺の書く|随《ずい》|筆《ひつ》、創作は最良の批評家を失ってしまった。俺は、決して決して腹を立てず、もう絶対に吸い込まれないと決めている。
〔森昌子乱闘事件〕この森昌子後援会長は、あとから私の兄弟分になる埼玉の何とかっていう町のテキ屋の親分で、この前ヒロポンの打ち過ぎで死にました。
彼は、なぜか森昌子の熱狂的な、気違いじみたファンで、後援会長と称して埼玉県出身ばかりで徒党を組んでいました。それと、「なーんだ、あんな鼻の広がった女給みたいなの」と言った派と大乱闘になって、八房という雑居房にいた全員九人が二派に分かれて殴り合いをして、翌朝の工場でそれが伝わったら、今度はまた、一対一でそれの最終レースみたいなものを工場でやって、また二人がパクられたのです。
実にばかげた事件でしたけれども、こんなことで、一家の親分だとか、いい兄イだとかいうのが、血だらけになって喧嘩するところが懲役です。
私は、大変陽気でおしゃべりな男ですけれども、そう言えば、私が久しぶりで服役するのが決まったときに、拘置所に面会に来た、今では新宿の親分になっている私の子分が、
「兄貴、|刑務所《ムショ》っていうところは、ご存じでしょうけれども、懲役たちの前に落ちている毛虫を、上から落ちてきたか、右から歩いてきたか、左から歩いてきたか、それで人が死んじまう世界ですから、兄貴、くれぐれも斜めから来たなんて言わないでください」なんてことを真顔で言っておりましたっけ。
第十六課 入浴
●十二月十一日(晴)
午前中、|大祓《おおはらい》儀式に神官五人、若手落語家二人。落語は下手だったけど、久しぶりだった。
午後、三級集会。バナナ二本、どら焼と|饅頭《まんじゅう》。
テレビで、グレゴリー・ペックの『パープル・プレイン』という、一九四五年のビルマが舞台の戦争映画。
十一月作業賞与金八百三十三円。
●十二月三十一日(小雨)
年末恒例の総入浴が午前中にあった。その後、自分のいた九房全員で手締めをしたところをパクられて、中央まで引き出されて怒られた。
午後になって、森永チョイスとバタボール十個ほど配られる。
晩飯は、銀飯にカレー、それに年越しそば。
これで今年も終わり。来年になれば、気分的に満期がずっと近くなる。満期が、さ来年の十月というのと来年の十月というのでは、月とスッポンほども違うのだ。
今、紅白歌合戦をラジオでやっている。今日は、ふだん九時までのラジオが十二時十五分まで延長になって、あしたの起床も七時四十分と遅いのだ。
この一九七七年も、慣れない|刑務所《ムショ》でウロウロしながら、どうやら過ぎた。
さあ、来年は絶対に懲罰を食わずに過ごしましょう。とにかく、ほかに目標は立てず、全精力と、努力と辛抱、我慢を、懲罰を食わないという一点に結集しよう。そうすれば、何とか来年末ぎりぎりぐらいには、仮釈放の面接にかかるかもしれない。
〔入浴〕入浴は、三週間が一つの単位で、月木、火金、水というパターンで繰り返されます。府中刑務所の共同浴場には、二つの細長い大きな浴槽がありました。
裸になって手前の浴槽の前で待機して、入浴。身体を洗って次の浴槽で温まるという手順で、三分間ごとに笛が鳴ると男たちが、オートメーションのように無言で流れていくのでした。二千人以上の人間が効率よく入るには、この方法が最良なのだと官[#「官」に傍点]は説明しているようですが、どうも懲役を人間として考えていないシステムのように思えてなりません。
最後のほうの番にあたると、浴槽はアカでドロドロとなり、浴室全体に異様な臭いがたちこめています。私語は厳禁、隣の人間と不純な行為をするといけないので両手は湯の上に出しておくなど細かい規則が決められていて、とても塀の外のようにリラックスして風呂に入るというわけにはまいりません。
しかし、たとえ入浴日には、戸外運動が行われないと決められていても、懲役たちには、入浴は好ましいことなのです。
第三房
第一課 正月三ガ日
●昭和五十三年一月一日 元旦(曇後晴間)
気温高く、懲役一同大喜び。
朝飯は、銀しゃりに、|物《もっ》|相《そう》に入った二個の餅、それに豚肉の入った|雑《ぞう》|煮《に》。
一人に一つずつ配られた折詰の中身は、三角に切った|羊《よう》|羹《かん》、|伊《だ》|達《て》|巻《まき》、|蒲《かま》|鉾《ぼこ》、豆きんとん、黒空豆、酢バス、キャベツ千切り、紅ショウガ、|昆《こん》|布《ぶ》|巻《まき》二個、ゴマメ、ミカン半切り、ハム、チキン片足、チーズ一かけら。
それに、菓子袋の中身は、動物ビスケット約五十個、|栗饅頭《くりまんじゅう》、チョコレート、|煎《せん》|餅《べい》。それに、昼前にサンキストのジュースが配られ、昼飯は、銀しゃりにとろろの粕汁。
もう腹がパンパンで、気持ちが悪くなってしまったほどだ。
夜は、銀しゃりにカブの漬物、鶏の|甘《あま》|辛《から》|煮《に》。
もう一同、腹を叩いてフーフー。
起床は、三ガ日、毎朝七時四十分だ。けさはチャイムが鳴ったので、一同、ジャランジャランが鳴る前に飛び起きてしまい、損をした。チャイムのスイッチを切っておけばいいのに。こういうところが無神経で思いやりがない。
●一月二日(晴)
午後より総入浴。総入浴の終わりのほうなので、もうドロドロだろうと覚悟して行ったら、意外にもきれいな湯だった。体も洗わず、ゆっくりつかるだけにした。仕事もせず、ただやたらと食うので、これは体にはよくない。
今日、子供たちは、三田におよばれで行ったのだろうか。
ふだんは、ヨガの|死《し》|骸《がい》のポーズと同じで、頭の中からすべて子供たちのことは追い払って空っぽにしてあるのだが、やはりこんなとき、つい思い出してしまう。
●一月三日(晴曇)
地面は昨夜の雪で厚く、約二十センチぐらいもう積もっているので、起きたとき懲役はびっくりして、口々に「雪だ、雪だ」と叫んだのだった。
昨夜は、それほど冷え込んだとも思われなかったのに、この雪で、今日の映画会の洋画のフィルムが着くかしらんと、今度はその心配。ふだんなら聞こえてくる街道を走る自動車の音が、今日はまるで聞こえなくて、静かだ。
今、映画会から帰ってきたのだが、まあー、|呆《あき》れたくだらない映画で、驚いた。終わっても、誰も拍手もしなかったのだ。
『海底都市』という、アメリカの四流SF映画で、ジョセフ・コットンとかロバート・ワーグナーとか出るのだが、まあ、そのつまらなく、くだらなく、ちゃちで安手なこと。字幕にシュガー・レイ・ロビンソンと出たので、楽しみに画面を見詰めていたのだが、ついに発見できなかった。
舎房に帰って、みんな呆れ返って言うことには、
「よくあんな映画見つけてこれるね。懲役の楽しみは映画だというのに」
これで、なんと、あっけなく懲役の三ガ日は終わってしまった。そして、明日からはまた、コアとコイルの毎日が始まるのだ。
夜、ラジオで|北《きた》|島《じま》|三《さぶ》|郎《ろう》の番組をやったのを、聞くとはなしに聞いていたのだが、とにかくゲビていて、どうにも|垢《あか》抜けない。去年、独房でよく聞かされた|坂《さか》|上《がみ》|二《じ》|郎《ろう》と同じタッチの、日本の民度の低い水準をさらけ出すような芸である。聞いていて背筋がゾーッとする。
〔ホクゴとホクヨン〕私がはじめに配役されたのは、北部第五工場、通称ホクゴと呼ばれている木工場でした。懲役を働かせるための工場が、府中刑務所には、大小、新旧とりまぜて二十以上ありますが、このホクゴでは八十人ほどが、整理|箪《だん》|笥《す》、ロッカー、本棚、木製のドア、|碁《ご》盤と|将棋《しょうぎ》盤などをつくっています。
私に与えられた|役《えき》|席《せき》は、リップソーという回転|鋸《のこぎり》の先取り、つまり助手役でした。しばらくして親方に昇格しました。そのあとが、超法規出獄した城崎勉と同じ仕事でした。それは、ボーリング・マシンといい、木の|楔《くさび》を打ち込む穴を何ヵ所か一度にグリグリガーッとあけるものでした。ここで、私はシンナーを吸ったのが見つかって懲罰房行き。懲罰が終わっても、しばらく独居房でショッピング・バッグを張らされていたのでした。
そして、今度は、自動車の電装部品を加工する北部第四工場、ホクヨンに落ちたのです。ここもホクゴと同規模の工場ですが、就業している懲役のほとんど全部が、ヤクザやゴロツキの類という特殊な工場で、なぜか|侍《さむらい》工場と呼ばれています。
私の役席は、スターターのコアにワイヤをはめ込むことで、「課定」と呼ばれる一日の標準作業量は七個と決められていました。このあと、ゼネレーター(発電機)の加工に移り、晴れて出所を迎えるというのが府中での私のキャリアなのでした。
第二課 ビックリ箱
●一月五日(快晴)
雪がどんどん解ける。いくら暖冬異変と言っても、この二、三日はだいぶ冷え込んだのだが、夜間独居の連中に印象を聞くと、去年よりずっと暖かく過ごしよい、と言う。やはり暖かいのだ。
きのう、半ドンで還房のとき、北部三工場の前の芝生を見ていたら、雪の解けたところを、枯れ芝の中に緑の細い草がペロと見えた。去年は、とてもこんなことはなかった。
工場で、勝ち抜きの将棋大会が始まり、一、二回戦を金、中林と破って準決勝に進んだのだが、準決勝の相手は宮・藤田組の勝者だから、まあ、善戦もここまでだろう。
●一月九日(晴)
朝、工場に行くと、すぐ管区へ連れて行かれ、十時半までビックリ箱で、いやというほど冷たい思いをさせられたうえ、係長訓戒という処分にされ、いやというほど嫌みを言われて、いやというほど嫌な思いをした。きのう、北部五工場の十六号の奴らと|通《つう》|声《せい》をした件。一日不快だった。
〔ビックリ箱〕幅・奥行六十センチ、高さ二メートルほどの電話ボックスを一回り小さくしたような木箱で、中に腰掛け板が一枚渡してあります。
|刑務所《ムショ》の看守の事務室の管区とか面会所のようなところには、これがズラリと並べてあって、取り調べに呼び出されたり、面会の懲役は、この中に入れられて順番を待つのです。夏は蒸し殺されそうに暑く、冬は身震いのとまらない寒さの暗くて狭いビックリ箱の中には、懲役たちの汗や体臭が染み込んでいます。
懲役をまとめておくと、おしゃべりしたり情報交換をしたりするので、一人ずつ箱の中に入れてドアを閉めておくのです。なんとも|陰《いん》|惨《さん》なこの木箱は、日本の|刑務所《ムショ》の象徴のようなものです。
名前の由来は、突然あいて懲役が出て来て、まるでビックリ箱みたいだから、だといいます。
第三課 免業
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〔監獄法〕
第二五条〔作業の免除〕@大祭祝日、一月一日二日及ヒ十二月三十一日ニハ就業ヲ免ス
A父母ノ訃ニ接シタル者ハ三日間其就業ヲ免ス
B主務大臣ハ必要ト認ムルトキハ臨時就業ヲ免スルコトヲ得
C炊事、洒(清)掃、看護其他監獄ノ経理ニ関シ必要ナル作業ニ就ク者ニ付テハ就業ヲ免セサルコトヲ得
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●一月十六日(晴) 免業
|相模《さがみ》|太《た》|郎《ろう》、|松《まつ》|尾《お》|和《かず》|子《こ》一行の演芸、素晴らしかった。外国人の懲役を意識してか、松尾和子は素晴らしいフィーリングで「ベサメムーチョ」と「マシュケナダ」を歌った。なんと素晴らしい芸だったことだろう。
この種の芸に飢えていたことももちろんだが、それをどう割り引いても、彼女の芸はやはり超一級のものだ。圧巻と言ってよいだろう。いわゆるムード歌謡曲の歌い手としてしか知らなかった者が多いのだが、彼女は十分インターナショナルな感覚の大芸人なのだ。
●一月二十日(晴)
風邪がすさまじい勢いで|刑務所《ムショ》を|席《せっ》|巻《けん》してしまった。入病する者(三十八度以上)が続出し、病舎だけでは収容し切れず、独居を代用病舎に使い、それでも入り切れずに、雑居の余った部屋を転用して、十人ずつ病人を入れている。
きのうから、仮就寝の時間を夕食後すぐに変更しているほどだが、工場でも赤い顔に|潤《うる》んだ目でぐあい悪そうにしている者がずいぶんいる。しかし、あしたが一、二級集会なので、それに出席したいので、みんな入病せずに我慢しているのだ。なぜかといえば、一、二級集会で甘いものが食えるからだ。
第四課 風邪
●一月二十一日(曇) 免業日
風邪大流行のための特別処遇ということで、朝食から昼食までのあいだ寝ててよいということに、今日、明日はなった。かえって、起き出した午後のほうが冷え込んだようだ。
九房でも、ひとり別に|横《おう》|臥《が》許可ももらわずに寝ていても、風邪大流行のため、担当さんは何も言わない。また、そのくらいの大流行だということなのだろう。
終日、他人の将棋をのぞき込んだり、|柴《しば》|錬《れん》(|柴《しば》|田《た》|錬《れん》|三《ざぶ》|郎《ろう》)のあまり上出来ではない『|徳《とく》|川《がわ》|浪《ろう》|人《にん》|伝《でん》』を読んだりしていた。
今日は、平年並みにだいぶ冷え込んだ。三田のおふくろさまはどうだろう。心配だ。
〔横臥許可〕ふだん懲役は、舎房にいても夕方六時の仮就寝の時間になるまで、みだりに横になってはいけないのです。体の調子が悪かったり病気だったりしたときに、理由を書いた願いを出して、認められると、やっと寝そべることができるのです。そのときには、舎房に「横臥許可」と書かれた札が囚人番号を記されて下がります。
だから、|懲役太郎《ベ テ ラ ン》は、横着して寝そべるために入所のとき、既往症として坐骨神経痛と書きいれます。こればっかりは、本人が痛いといえば、医者が「痛くない」とは言えない病気なのですから。
●一月二十二日(晴)
今日は、風邪のため特別ということで、飯以外のときはずっと寝ていた。ふだんもこうしておけば、懲役も担当さんも楽なのに。
終日、本を読んでいた。|中《なか》|山《やま》あい子著『春の岬』。中山あい子は、短編を一つ、『オール読物』かなんかで読んだだけだが、そのときもうまいと思ったのだが、|洒《しゃ》|落《れ》た都会派のよいタッチなのだ。
この頃は、風邪がめちゃくちゃはやっている。
振り返って、去年の日記を見てみた。
去年も風邪ははやったが、こんなではなかった。
なぜだか、俺はケロッとしている。長く悩まされた右手指のしびれもすっかり治り、まさに体の調子は絶好調なのだ。
〔風邪大流行〕塀の外でも流感の大流行が|懸《け》|念《ねん》されていました。昭和五十二年の年末からA香港型が|流行《は や》りはじめ、一月の後半になってソ連かぜが加わりました。新聞は、二重の流行で爆発的に広まるのではないかと心配した報道をしています。しかし、ソ連かぜが予想以下で二月後半には下火になっています。
〔一、二級集会〕|累《るい》|進《しん》|処《しょ》|遇《ぐう》には一級から四級までの等級があることは、前述した通りなのですが、実は一級というのはほとんどいないのです。府中刑務所で、二千何百人いて、二十人弱しかいません。
そうすると、三級者になると、三級集会と言って、月に一ぺん講堂に集めて、テレビか映画を見せて、百円くらいに限って甘いものを買って、食べながらそれを見てもいい。
一、二級になると、それが百五十円かなんかに値上がりして、というふうに、そんなバカな、ちっちゃなことも、懲役が、四級の奴が三級になりたがることだし、三級の奴が二級になりたがることだし、それで官[#「官」に傍点]はコントロールしているわけです。
●一月二十四日(曇)
まだ風邪ははやっている。退院してくる奴と新しく入病する奴と入れ違いだ。
この頃は、ものすごい勢いで風邪がはやって、みんなバタバタのびている。
〔劣悪医療〕|刑務所《ムショ》には、医官と称する法務省の技術職員がいて、そいつが要するに|刑務所《ムショ》の医者で、歯痛から|痔《じ》まで一人で全部見てやろうという、時代劇みたいなことをやっています。
もちろん技術などあるはずもなく、私の元の|舎《しゃ》|弟《てい》が、「医師免許見せろ、この野郎」と言って|椅《い》|子《す》で殴っちゃったことがあるくらいです。おまけに|傲《ごう》|岸《がん》|不《ふ》|遜《そん》ときていますから、これはもう「地獄で鬼」なのでした。
とにかく診察なんてものは何もしない。「ここが痛い」とか言っても、さわりもしないで「懲役やってんだろ。我慢しに来てんだろ。よし、胃散やっとけ」なんてのが関の山で、ときどき気が向いて歯痛の奴の口の中に、やっとこ入れてギュッとやったら、歯茎つまんで引っ張っちゃったなんていう呆れた話があるのも本当です。
私の知ってた奴で、「私は偏頭痛で診察を受けたのに、何でくれるのが胃散ですか。胃が悪くて胃散をもらった奴と、なめてみたら一緒でした。請願します」って法務大臣かなんかに請願していた奴がいましたけど、そんな制度があっても、みんな途中で握りつぶされてしまうのですから、まったく無駄骨です。
なんでそんなことになるのかと言えば、間違って死んでしまったところで、どうってことないからに決まっています。
なにしろ、塀の中にいるのは官[#「官」に傍点]にとっては、人間というより社会のダニたちなのですから。
第五課 散髪
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〔監獄法〕
第三六条〔頭髪鬚髯〕在監者ノ頭髪鬚髯ハ之ヲ翦剃セシムルコトヲ得但刑事被告人ノ頭髪鬚髯ハ衛生上特ニ必要アリト認ムル場合ヲ除ク外其意思ニ反シテ之ヲ翦剃セシムルコトヲ得ス
[#ここで字下げ終わり]
●二月一日(晴)
今日はぐっと冷え込んで、平年並みの寒さだ。散髪をしてもらった。三田のおふくろは退院したのだろうか。じりじりして待つのだが、手紙はさらに誰からも来ないのだ。
今月から、今までの月木、火金、水の入浴パターンが改善され、毎週火金の二回が定期となり、今週の金曜日からそのシステムが実施になる。今まで三週間に五回の入浴が六回に増えるわけで、懲役には大歓迎なのだ。
『飛ぶのが|怖《こわ》い』『|三銃士《さんじゅうし》』『|中原中也《なかはらちゅうや》詩集』が|下《か》|付《ふ》となる。
〔散髪〕官[#「官」に傍点]は、「不潔になりがちな長髪は衛生上好ましいものではない」という理由で、懲役を丸刈りにします。しかし、私が納得がいかないのは、外人懲役には丸刈りも朝晩の裸踊りもないことなのです。外人をそういう目にあわせると、大使館から不当な屈辱を与えたと抗議がくるからやらないのです。つまり、このことでもわかるように、|刑務所《ムショ》では懲役に常に屈辱を与えつづけ、反抗心を|萎《な》えさせることをしつづけているのです。
通称ガリ屋、正式には衛生夫という散髪屋が各工場に配役されていて、担当台の下で小さな鏡と椅子を一つ置いて仕事をしています。
たまに塀の外で本職だった男が落ちてくると、官[#「官」に傍点]は、自分たちの髪をタダで刈らせるために構内に設けてある「官床」に配役してしまうので、各工場のガリ屋は、ほとんどが|素人《しろうと》です。ですから、官[#「官」に傍点]では配役するときにどんな髪になろうと相手に文句を言わせない飛び切りの大物か、それでなければ徹底して無力な懲役を選ぶのです。だいたい二十日から一ヵ月に一回散髪、|髭《ひげ》は禁止です。
●二月十日(曇後晴)
前にも書いたと思うが、金曜日になると急にがっくりくたびれる感じだ。今日、昼飯を食ったところで、一人貧血でぶっ倒れ、リヤカーで病舎に運んだ。
こんなところで|患《わずら》い込むのは、とにかく絶対に嫌だ。こんなところの医者に|診《み》てもらうなんて、真っ平だ。
歯医者の話を聞いても、間違えて別の歯を抜いちゃったとか、歯をつまむつもりで|唇《くちびる》をつまんで引っ張ったとか、とにかく大変なヤブだという話だ。
第六課 保護司と身柄引受人
●二月二十七日(快晴)
今日からめっきり暖かくなった。去年でいえば二月十四日のような感じなのだが、今年は去年よりずっと全体的に暖かかったので、去年のあの二月十四日の喜びとは比べようもない。しかし、何といっても暖かくなったのはありがたく、嬉しいことだ。
春だ、春だ、春だ――。
去年の二月十四日の日記。
「雪は、日陰にわずか残っているののほかは、みんなきれいに解けてしまった。
今日も、前の木に|尾《お》|長《なが》が形のよい姿で飛んできた。
さあ、今日は寒いか、どうだ。
ちょうど昼飯になるとき『面会』と言うので、誰だろうと思ったら、保護司の天野さんという年配の人だった。身柄引受人を国領隆之君に変更する件で、わざわざ三田から府中まで来てくださったのだ。ありがたいことである。もちろん、俺に何の異存もあるわけもないのだ。
みつ叔母から来信あり。これからゆっくり読む。
今日は、仕事してて汗ばむほど暖かい日だったが、まさかこのまま春にはなるまい。
官本、柴田錬三郎著『非情の門』を読む」
〔保護司〕受刑者は、刑が終わったときに帰っていく帰住地を申告しなければなりません。そうすると、その地区に名誉職というか|篤《とく》|志《し》|家《か》がいて、その人が保護司として面倒を見てくれるのです。私の場合は、青山の|宝《ほう》|仙《せん》|寺《じ》というお寺さんでした。
「保護司は、法津によって、人格及び行動について社会的な信望があること、職務の遂行に必要な熱意と時間的余裕があることなどの資格要件が定められており、また、守秘義務などの責任が課されている。また、保護司には給与は支給されず、職務に要した費用の全部又は一部が実費弁償金として支給されている。保護司の定数は、法律によって五万二千五百人と定められているが、実人員は、昭和六十一年一月一日現在において、四万八千四百五十二人であり、近年増加の傾向にある」(「犯罪白書」六十一年版)
〔身柄引受人〕懲役は、必ずはじめに帰住地と身柄引受人を申告しなければいけません。ところが、住所不定、|天《てん》|涯《がい》|孤《こ》|独《どく》なんて奴がいる。そういう奴は「なし」と申告するのですが、すると帰住地と身柄引受人を兼ねている保護団体というところが引き受けるのです。そこは、たいてい看守をリタイアしたのがやっている前科者の家みたいなところです。一人引き受けると国から月に六万円補助が出るので、十人もいれば六十万円。たいした食事は出していないので、いい商売なのです。
第七課 喧嘩
●三月三日(快晴)
外はよいお天気だ。風も丸みを帯びてきたし、よい陽気になった。お|雛《ひな》さまということで、今日は昼飯に刺身、夕食に甘酒とパックの三角赤飯が二個。
ブドウパンという|仇《あだ》|名《な》の懲役の話では(こいつは顔にほくろが多いので、ブドウパンと言う)、俺の『富土見』四月号の『茶色の|仔《こ》|犬《いぬ》の|懲役人《ちょうえきにん》』が、選者に行く前の段階で|検《けん》|閲《えつ》ストップを食ったという。不快な、釈然としない嫌な話だ。|田舎《いなか》者のバカ野郎め。
朝、工場に向かう長い道を並んで歩きながら、風の吹きさらしのところを通っても、吹いてくる風の角が丸い感じが快い。春にはまだちょっと早いかな、とも思ったのだが、衣料倉庫の前の芝生をよく見ると、薄茶色の枯れ芝の中に、ほんのわずかな緑だが、確かに春を告げる雑草の新芽が|萌《も》え出していた。
静岡から来た相沢に、「ほら、けんちゃん春だぜ。もう草が芽を出した」と言ってやった。
〔茶色の仔犬の懲役人〕私のデビュー作『塀の中の懲りない面々』に出てくる話で、ダックスフントのお腹にシャブを貼りつけて、|家宅捜査《ガサイレ》の刑事の目をだまくらかそうという話の原案です。これが教化上適当でないということでした。
●三月十一日(快晴)
昨夜の強い雨が上がって、ものすごく澄んだ空になって、出役のとき、富士山もくっきりと見える。第五工場のブンタイだったラッキョウ頭が、機械場の保安課長と喧嘩をして(保安課長というのは懲役の仇名で、懲役のくせに、やたらと|権《けん》|柄《ぺい》ずくな言葉を使って|横《おう》|柄《へい》な奴なので、保安課長という仇名がついていた奴)懲罰を食い、四工場に落ちてきた。
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味噌椀に春の香りや|蕗《ふき》のとう
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これは、実際には蕗の入った味噌汁なんて出ないのだが、願いが|昂《こう》じて読んだ句です。
〔ブンタイ〕ほんのわずかな権威と特典をチラつかせて懲役を管理していこうとするのが、官[#「官」に傍点]の昔からの方法です。工場でもそうした管理体制があります。各工場にブンタイと呼ばれる懲役頭がいて、とり仕切っています。彼の権威は帽子に巻いた黒い線。この下には、役席と呼ばれる各セクションごとに「指導補助」という班長のような懲役がいます。作業帽に赤い線を一本巻いているのでアカセンと呼んでいます。
〔蕗のとう〕事実は、蕗のとうの味噌汁なんて出ないが、萌え出した草を見て、ああ、|娑《シャ》|婆《バ》だったら蕗のとうを刻んで、豆腐の味噌汁の上にふって飲むんだなあ、と思って|詠《よ》んだ。
●三月十五日(晴)
一昨日、俺の役席の隣に移ってきた|松《まつ》|葉《ば》|会《かい》の男は、東部六工場で刑を務めるあいだに、喧嘩の仲裁がもつれて刑が新たに十ヵ月増えたという。相手は全治一週間というのだから、ほんのかすり傷だ。明日は我身と、恐ろしくなった。うちの房にいる|乞《こ》|食《じき》男でもぶちのめしたら、それこそみっちり増えてしまうわけだ。
〔喧嘩〕|刑務所《ムショ》で服役中に喧嘩をして、|打撲傷《だぼくしょう》や目の周りがブラック・アイになるぐらいだったら、懲罰で済むが、傷口がパックリあいたり、骨が折れたりすると、|刑務所《ムショ》の中の看守というのは警察権を持っているから、そこで逮捕して起訴する、検事送りにする。それで刑が増えるのです。これは、とってもよくあることです。
●三月十六日(晴)
工場は毎日、相撲でささやかなベッティング(賭け)を行う連中が、ワイワイと大騒ぎ。
先日、ホクゴ(北部第五工場)から喧嘩で降りてきた伏見は、以前俺がホクゴにいたときの計算夫で、その後、黒線を帽子に巻いてブンタイまでつとめた男で、ソフトボールもなかなか上手だ。工場で使うシャボンを一つプレゼントして、歓迎の意をあらわしておいた。
高知の男に余罪が出て、保安で調べられている。
四日に一度のテレビ・コマーシャルで口笛が吹き鳴らされるとき、久しぶりに一緒に吹いてみる。ほかのときは絶対に吹くチャンスのない|刑務所《ムショ》だから。
〔計算夫〕工場で担当の助手役として事務を行っています。懲役が注文した品物を配ったりする程度の仕事ですから、これは、まさに懲役のエリート、仮釈放一直線というコースで官[#「官」に傍点]のおぼえがめでたい男がやっています。
しかし、この伏見の例でもお気づきのように、決して連中は心から改心して羊になったわけではないので、なにごとかがあると暴発してしまうのです。
〔相撲の賭け〕一人|胴《どう》|元《もと》になるのがいて、朝刊に出ているあしたの取り組みの中から、それはすなわちその日の取り組みということなんだけれども、その中から好勝負を五番選んで、東側が三番以上勝つか、西側が三番以上勝つかというのを、東西でベットさせる。一番じゃ楽しめないから、こういうことになっていると思うんです。
第八課 読書
●三月十九日(晴)
終日閉じ込められて、ひたすら本を読む。|生《いく》|島《しま》|治《じ》|郎《ろう》著『追いつめる』。ハードボイルドと騒がれた作品だが、ちゃちでつまらん。
これで、このノートもいよいよ終わり。
みつ叔母に、例によって七枚びっしりの手紙を書いた。
このノートを娑婆で広げて読む日なんて、本当に来るのだろうか。ある日、その日が来て、工場から上がり房に移って(上がり房というのは、釈前房と言って、懲役が釈放される二、三日前から入れられるところです)、そして|領置品《りょうちひん》調べなんかがあって、翌日の朝九時ごろ、引き取り人が来て仮釈で出るのだろうが、本当にそんな胸の|躍《おど》るような日が俺にも来るのだろうか。
それでも、ため息をつきながら、床に|唾《つば》を吐きながら、懸命に仮釈を考えて自分を抑えながら、バカな奴に我慢しながら、それでも毎日毎日が辛うじて過ぎてゆき、そして振り返ってみれば、もう逮捕されてから二年と十ヵ月も過ぎているのだ。何かに希望を見つけて頑張らなきゃ。力を|蓄《たくわ》えておこう。必ずもう一度、自分にチャンスが来ると信じよう。
こんなにもう、|膝《ひざ》をカンバスにつきそうに打ちまくられている俺だけど、必ずもう一度チャンスが来るに違いない。
〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十三年三月十九日
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みつ叔母様。
今日は雨の日曜日です。きのうの土曜日は寒かったのですが、きっとこの雨で暖かくなるでしょう。
おかげで、どうやら冬も終わったようです。
今年の冬は、去年のあの悲しくなるような寒さに比べて、十分寒くはあったけど、とても過ごしよかったのです。
毎日、作業のほかは何もすることがなく、ひたすら本を読むのです。
ぼくのいる雑居房は十人部屋で、月に二回、約十五冊の本を図書夫という係の懲役が入れ替えてくれるのですが、これは、私有の本を私本と言うのに対して、|刑務所《ムショ》所有の本なので官本というのですが、チョイスはできないのです。決まったローテーションで、十五冊ひとまとめにドサ、ドサと月に二回入れ替わるのです。
小説本が主なのですが、ほとんどが日本の時代物なのです。中に翻訳物もちらほらまざってきます。
今回の入れ替わりで、リーダーズ・ダイジェスト社から出した、ディック・フランシスと三人の作家のミステリーが一編ずつ入った『かりそめの死』というのがあって、久しぶりにおもしろく読んだのです。
だいぶ前ですが、アメリカに住む書物好きな女と、ロンドンのチャリング・クロス・ロードにある古本屋との長い友情にあふれた手紙のやりとりを編集した『チャリング・クロス街八十四番地』というのが運よく入って、これもとてもおもしろかったのです。これはたしか、以前差し上げた手紙に書いたと思うのです。
今までの人生で、これほど雑多の日本小説をやたらと読んだことはありません。読んで思わず「スゲー」と息を吐いて天井をにらむようなのもあれば、よくまあ、こんなものを出版してくれる本屋のあったものよ、と呆れるようなものもあります。
今まで私の好きだった|山本周五郎《やまもとしゅうごろう》、|伊《い》|藤《とう》|桂《けい》|一《いち》、|司馬遼太郎《しばりょうたろう》、|陳舜臣《ちんしゅんしん》等に加えて、新進の|伴《とも》|野《の》|朗《ろう》とか、時代物の|藤沢周平《ふじさわしゅうへい》というのも、大変結構なものです。
それに最近、やはり官本で読んだ|船山馨《ふなやまかおる》の『|石《いし》|狩《かり》|平《へい》|野《や》』という長編小説も、とてもできのよいおもしろいものでした。
叔母様の送ってくださったご本は、いずれもとても考えて選んでくださったのでしょう。ぼくには、おもしろいものだったのはもちろんなのですが、特に印象に残った一冊は、小菅の東京拘置所に送ってくださったシオランの、ジョルジュでしたっけ、ロベールでしたっけ、シャルルでしたっけ、『|生《せい》|誕《たん》の|災《さい》|厄《やく》』だったのです。あの本は、何とも不思議な魅力にあふれた素晴らしい本でした。
それに比べるすべもないのですが、この頃の文藝春秋社の|芥川《あくたがわ》賞の程度の悪いこと。ただ|茫《ぼう》|然《ぜん》とするだけなのです。あれでは、ぼくも含めた文学愛好者は、一度、二度ならともかく、こう続けてあの程度では嫌になってしまうのです。
選考委員の中でも、|永《なが》|井《い》|龍《たつ》|男《お》なんていう人は、だいたいそんな意味の不安を、かなりオブラートのかかった表現ではあるのですが、|漏《も》らしています。
もう、|開高健《かいこうたけし》、|大《おお》|江《え》|健《けん》|三《ざぶ》|郎《ろう》が|颯《さっ》|爽《そう》とデビューしたころのような、すっきりとした才筆はあらわれないのでしょうか。
この三月二十一日で、ぼくの懲役も半分です。峠を越えて、あとは釈放日が近づくだけです。ああ早く出たい。
娑婆がどんなに不景気でも恐れません。ぼくの力と体力をフルに発揮すれば、必ず不景気の中でも、社会の必要性のある仕事があるに決まっています。そして、ぼくによい収入をもたらしてくれるでしょう。とにかく早く出たいのです。
もう本も十分読んだし、自己批判も十分に終わったし、将来の青写真も完成したし、体のぐあいも骨の|芯《しん》からオーバーホールができたのですから。
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[#地から2字上げ]直也
第九課 週刊誌
●三月二十九日(晴)
きのうは雨だった。そのせいで、今日はよいお天気になったのだが、第三運動場の運動は中止となった。
きのうから春の選抜野球が始まって、工場はもっぱらその話。
やはりきのう、『|虐殺《ぎゃくさつ》された詩人アポリネール』と『|椿姫《つばきひめ》』が下付となる。アポリネールのほうは、小説かと思ったら伝記で、文庫本だと思ったら、二千八百円の大変な本で、|唖《あ》|然《ぜん》とした。今の俺には|贅《ぜい》|沢《たく》過ぎる。
今日、三田の母、みつ叔母より来信。母の手紙は久しぶりで、ほっとする。
とにかく早く懲役を終えて娑婆に出るんだ。すべてはそれからのことだ。
プレスの針金が、歯医者で暴言を吐き、つままれた。かわいそうに。
〔つままれる〕逮捕されるとかしょっ引かれるとか、そういう意味の懲役言葉。
〔プレスの針金〕非常に|痩《や》せた青年が、歯医者に行って、歯医者さんに、くそたれだ、バカだ、どて医者だって叫んでパクられたということです。
●四月四日(晴)
今まで書き忘れていたが、四月二日に血を吸った蚊がとまっていたのを叩きつぶした。去年は、たしか最初の蚊を殺したのが五月一日だったと記憶しているから、ひと月も早い。
夜、ラジオで大洋と巨人の横浜球場こけら落としをやった。去年は独房で、本当にこのナイターが楽しみだったのだが、今の雑居はやかましくて、とても聞いてはいられない。まあとにかく、本もろくに読めないほど口々に、懲役どもはけたたましくしゃべるのだ。
●四月八日(晴)
今日は半日。舎房に帰って週刊誌を読み、将棋を指す。独居からとんがり頭が、懲罰を終えて帰ってきた。
人の日記をのぞき込む奴がいる。|丁字屋《ちょうじや》のテキ屋じじいだ。
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病えて身を獄中におく我は
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ただひたすらに命いとしき
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これは、俺のつくった短歌で、出来がいいと思うから、ゴースト・ライトにはせずに、自分のに使う。
〔週刊誌〕十年ぶりに私が府中に落ちて、まず感じたのは「官[#「官」に傍点]もずいぶんくだけたな」ということでした。以前、黒く塗りつぶされていた助平な記事のほとんどが、OKになっているのです。たとえば『エロトピア』という週刊誌から『O嬢の物語』『ロマンブックス』なども購入|願《がん》|箋《せん》を出せば買うことができるのです。いかに|刑務所《ムショ》でも時代の風潮をシャットアウトできないようで、検閲の歯止めが助平に関してはきかなくなってきているのだと思いました。
しかし、ヤクザの抗争の記事は依然としてスミが塗られます。
私が府中を出所したあと、また『エロトピア』『官能小説読切り』をはじめとして、助平な記事が載った本が閲読不許可になったという話を聞きました。官[#「官」に傍点]は一体何を考えているのでしょうか。
●四月十日(晴時々曇)
きのうも書いたのだが、確かに人間には、すべて好不調の波があるものだと、つくづく感じる。それが、勝負のツキでもあるし、人間の運、不運にもなるのだから、恐ろしい。
俺のバイオリズムは、何ともはや、どん底の最低で、ソフトボールをやってレフト・フライを落っことし、セカンド・ランナーになってライト・ライナーで突っ走ってダブル・プレイを食い、スロー・ボールをひっかけてボテボテのサード・ゴロを打ち、もう工場で小さくなるほどのさんざんな不出来。
将棋の工場予選が始まるというのに、こんな調子では一体どうなるのだろう。
●四月三十日(曇小雨)
今日で無事に四月も終了した。
今日は午前中、|土《ど》|支《し》|田《だ》(土支田一家に所属している懲役)のカレンダーをつくり、午後は『鉄道大バザール』を読んでいた。俺も汽車で旅行をして廻りたい。ただし、ヨーロッパとアメリカで、|野《や》|蛮《ばん》国は嫌だ。
このところ、せっせと本を読んでいる。|立《たち》|原《はら》|正《まさ》|秋《あき》の『|紬《つむぎ》の里』という上手な小説も一気に読んでしまったし、ポール・セローも、とても楽しく読み終えた。この程度なら、しかし俺にも書けるんじゃないか。
今回は、官本によい本が多かったし、私本の下付があったし、ありがたいことに本がとても豊富なのだ。
去年、独房で読む本がなくて苦しんだことを思い出す。
雑居は、チンピラどもの不作法に神経を逆なでされる苦痛を我慢すれば、本の量が豊富なのはありがたい。
しかし、頭の上で鳴り続ける程度のごく低いラジオを知らぬ顔で本を読み進めることは、かなりの特殊技術なのだ。
あしたから五月がスタートする。順調に日が過ぎ去っていってくれる。
〔カレンダーづくり〕塀の中では、私はカレンダーづくりの名人でした。たとえば、五百日の懲役だったら、一枚のノートの紙を十かける五十に細かく|升《ます》|目《め》を引いて、真ん中を満期日にして、一番外から一日目がはじまって、塗りつぶしていくと、だんだんつぶれて満期になるというやつとか、|刑務所《ムショ》の塀のイラストが描いてあって、それをだんだんつぶしていくと、塀が全部塗り終わるとこが満期で、そこがドアの入り口だったり、そういうのを制作してみんなに喜ばれて、石けんをいっぱい儲けてた時代がありました。
〔ラジオ〕ラジオは、所内放送を通して一斉に流されます。懲役が番組を選んだりボリュームを調節することはできません。放送時間は、平日は昼の休憩時間と夕方六時から九時まで、土曜は午後一時から、日祭日は朝九時から就寝の九時まで流されています。
内容は、春から秋にかけてはほとんど野球、シーズンオフは歌謡曲やお笑い番組です。
テレビは、級数、独房か雑居房かなどで細かく分かれています。たとえば、一級者には毎日、二級には週四回、三、四級には週一回といった具合です。
第十課 俺見たんだもん
●五月五日 祝日(晴)
特食は、あんころ餅、ピーナッツ。やはり|小豆《あずき》のあんこはうまい。
●五月六日(晴)
きのうが本来の入浴日だったのだが、祝日だったので、今日になった。それに、今日は半日のはずが、丸一日働かされたのだ。
二十日の土曜も、今日と同じように丸一日になる予定で、その代休として三十日が休みになるという。
工場では、タコが陸に上がって|芋《いも》を食うかという議論がしきりで、俺は「そんなバカな話」という派だったのだが、|内《うつ》|海《み》の奴が、「少年時代に、腹がすくとタコを待ち伏せして食った」と言い出すに及んで、この議論はピンになった。しかし、俺は今でも、この話は嘘だと思っている。
〔ピンになった〕話が終わりになったという隠語です。
〔俺見たんだもん〕懲役には、「俺見たんだもん」というせりふがある。何でも信じられないようなことを言って、人が「そんなバカな」と言うと、「だって俺見たんだもん」って言われると、このタコを待ち伏せして食ったときと同じことで、あとは喧嘩しかない。「俺見たんだもん」って言ったら、「見間違いだ。そんなもの見たわけはねえじゃないか、この野郎」となれば、あとは喧嘩するしかない。究極の言葉が「俺見たんだもん」なのです。
●五月二十八日(晴)
演芸があって、いずみ|千《ち》|鳥《どり》という、なにやら太った女が出てきて仁義を切ったり、まるで前回の津田某と同じような芸人で、どうも俺にはピンと来ない。それでも懲役は大喜び。
こういうときに、俺はつくづく、自分がヤクザや|刑務所《ムショ》とは縁の遠い人間だと思い知るのだ。
舎房の窓から見える花壇には、色とりどりの|薔薇《ば ら》が咲いている。去年と同じように|椋《むく》|鳥《どり》の雛が、親より淡い色で芝生の上を歩き廻っている。
すべて|刑務所《ムショ》は去年の今頃と同じだ。何の変化もなければ進歩もない。ぶち込まれている奴も逃がさないようにしている奴も、そして灰色のコンクリートも椋鳥までが。
北部三工場の前のコンクリ池のボウフラを出役のときに見て。
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ボウフラの憎き踊りや|水《みず》|溜《たま》り
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●六月十六日(晴曇一時小雨)
暑いのでくたびれる。仕事もどうも雑になるのか、十二個つくったうち八個まで不良品で|鰍沢《かじかざわ》の石がキャーキャー言ったのだ。
去年の六月中旬は、こんなに暑くなかったと思うのだが、去年のことでもすぐ何でも忘れてしまうのは、やはり食べるものに|蛋《たん》|白《ぱく》|質《しつ》が少ないからなのだろうか。
〔鰍沢の石〕ママさんバレーの監督の座を狙ってバレーボールに熱中している男。私の当時配役されていた自動車のスターターをつくる部門の頭をしていた。私が十二個つくったうち八個不良品をつくったので、キャーキャー跳び上がって、甲州弁でわめき廻った。
〔蛋白質が少ない〕娑婆で忙しくしてれば、去年の六月中旬に今と比べて暖かかったか寒かったかなんて、そんなこと蛋白質が少ないから忘れちゃうんじゃなくて、懲役だからしつこく覚えているだけのこと。こういうところは実に懲役らしくておかしい。娑婆の人に、「去年の今頃はどうだったですか」なんて聞いたって、覚えている人がいればおばあさんです、そんなのは。
第十一課 人生の不安
●六月十七日(晴)
水曜日のかわりに、今日は平日並みに午後四時二十分まで仕事をさせられた。
昼過ぎに、工場内の温度計が三十一度Cになった。暑い。
還房のとき、東部区の管区の前で信号待ち中、東部区の電気のスイッチをいたずらした者がいるとのことで、東部区の区長ほかがカンカンになって怒って、いたずらした者を自首させようとしたのだが、一同口々に、「誰だ、誰だ」とか、「俺知らねえ」とか言うばかりで、誰も名乗り出る者がなく、ついには「東部区の区長が自分で消した」とか、「前に通った工場の奴だ」などと言い出す者まであらわれる騒ぎとなり、前を歩いていた二十人ほどが容疑者として東部区の管区に連れ込まれたのだが、これでもついに|下《げ》|手《しゅ》|人《にん》は名乗り出ず、一同どうやら無事に戻ってきたのはめでたかった。
俺なんかには、こんなことが大変興味深い出来事なのである。
今年の夏は、久しぶりに長く暑い夏になりそうだ。
みつ叔母様はどうしていらっしゃるのだろう。最近お手紙がない。
現在のプロ野球は連日、ヤクルト、巨人、大洋の三強がデッド・ヒートを繰り広げている。今年のヤクルトは強い。きのうからの三連戦を巨人と戦って、きのうは二対一で勝ち、今夜も最終回で五対三とリードして連勝が濃くなっている。
大洋も、ヤクルトに比べてかなりアップアップだが、ぴったりくっついている。今日ジャイアンツが負けると、大洋が二位に上がる。
中日と広島は、このトップ・グループから三ゲームほどおくれ、タイガースはもうメロメロなのだ。
●六月十八日(晴)
大変な暑さで、もうフーフー言っている。
三田に礼状を書いた。
演芸会は三本杉(三本杉というのは、稲川会三本杉一家のことです)提供で、|井《い》|沢《ざわ》|八《はち》|郎《ろう》、モダンカンカン、それに、これはとてもうまい|小《こ》|宮《みや》|恵《けい》|子《こ》という女の歌い手。それに、女が取りまぜほかに三人。井沢八郎というのも、なかなか声量のあるよい歌手だ。司会は下手くそ。
労役の小さいのがスパアリングをやった。
今年の夏はとにかく暑い。久しぶりに暑い長い夏になりそうだ。
懲役の上を、じかに季節がゆっくり通り過ぎていく。
今月も無事にするすると日が過ぎて、もうこの週末が終われば六月の最終週だ。月日のたつのは、こんなところでも恐ろしくなるほど早い。恐ろしくなるほどではなく、事実恐ろしくなる。
俺は、これからあと、どんな人生を送って、いつどこで、どんな死に方をするのだろう。
また、金をポケットにいっぱい持つことができるだろうか。
また、他人のうらやむような美しい女を自分のものにすることができるだろうか。
また、好きなときに、ロースト・ビーフでも何でも無造作に食うことのできる生活ができるだろうか。
心をリッチに持って暮らせるだろうか。
幸福だと思う瞬間を自分のものにできるだろうか。
不安は波のように打ち寄せてくるのだが、俺は、俺の能力と、タフネスと、ねばりと、それに身に備わった幸運と、そして才能を信じているのだ。必ずもう一度花を咲かせてみせる。
この懲役で幸いなことが、それでも二つは確実にあったのだ。
一つは、体のオーバーホールがたくまずしてほぼ完全に行われたことと、あとは、出所前に十キロ程度の減量をするだけだ。
それと、幸か不幸か、|渡《と》|世《せい》ももちろん含めて周囲の人間関係の整理ができたこと。出所したら、俺は新しい人生を始める。新しい仕事、新しい友達、そして新しいねぐらと女だ。
〔演芸会〕|刑務所《ムショ》に総長クラスの大物が服役していると、その組では、総長への慰問を組織することがあります。受刑者の面会は、十四歳以上で、入所のときに申告した親族及び三歳未満の実子しか許されません。つまり、子分たちは、いかに親分を|慕《した》っていても会うことはできないのです。
そこで、有名な芸能人を組関係のプロダクションが買い切り、そのマネージャーとして子分が|刑務所《ムショ》にやってきて、幕の間から総長の元気なお姿をそっと|拝《おが》んで涙するのです。
また、塀の外では気づかないのですが、懲役になると、むやみに甘い物が恋しいのです。ちょうど、私の子供の時代、戦中戦後の物資の乏しいときに、やたらと|甘《かん》|味《み》に飢えたように。私には栄養学はよくわかりませんが、栄養不足で、すぐエネルギーになる糖分を体が欲しているのではないでしょうか。
この演芸会に差し入れられる甘い物が、また懲役の楽しみなのです。総長が望んでいるものを彼一人に渡すことはできませんから、総長に差し上げたいため、組では木村屋のアンパンなどを二千数百人分用意して懲役に配るのです。
〔スパアリング〕日記の検査があるので、こういうふうに書いてあるけど、懲役じゃなくて、罰金が払えなくて落ちていた労役のちびが殴りっこをやったということです。
第十二課 ソフトボール
●六月二十四日(雨)
台風はどっかに行ってしまったのだろう。きのうからかなりな雨量だけど、穏やかな|梅《ばい》|雨《う》型の雨が実によく降るのだ。
今は早朝なのだが、目があいたので、俺はそのまま起きてしまって、これを書いている。
懲役では、朝目があいたとき、娑婆のようにもう一度目をつぶって寝直すといった朝の楽しい作業は、その晩の寝つきが悪くなるので、禁物なのだ。朝目があいたら、少し眠たかろうが何だろうが、本でも読んで起き出してしまうのだ、強引に。こうすると、夜は寝つきがよくなって、すぐ眠りに落ちることができるのだ。
ほかの連中がイビキをかいている中で、自分だけ眠れないのは、本当に苦しい。そして、嫌なことばかり思い出すのだ。
けさも、瓔子の夢を見てしまった。今度の店の採算かなんかを、俺が心配で聞いているのだ。ああ嫌だ。
雨は、梅雨の雨としては盛大に音を立てて降っている。今日、明日の免業の二日間、雨が降って涼しいのはありがたい。
懲役の慣用語を二つ記録しておく。
「居直る」。これは、「居直り強盗」などというときに用いる居直りと同じ言葉なのだが、言葉どおりの意味からいささか外れて、|刑務所《ムショ》では開き直るというようなニュアンスに用いるのだ。他人の言う言葉の言葉尻を拾って開き直って喧嘩を売ったり、そんなときに用いる表現だし、さらには、「あいつ居直りっぽい」などと派生的な表現まで出てくるのだ。
もう一つは「はんめ」。これは、その人間と仲良くないこと、対立関係にあること等を表現する言葉で、あいつとあいつははんめ[#「はんめ」に傍点]だから、とか、俺はあの野郎とははんめ[#「はんめ」に傍点]だから、というふうに使用する。語源はおそらく「|反《はん》|目《もく》」から来ており、教養のない懲役の一人が反目を「はんめ」と発音したことから始まったのだろうと想像される。
名古屋の沖仲仕は、海に衣服のまま落ちることを「タコをつかむ」などと、素晴らしい印象で表現したのだが、府中の懲役はそういったセンスが貧困なのか、あまり素晴らしい言葉も歌も聞かれないのは、残念なことだ。
〔起き出す〕官[#「官」に傍点]の厳しい規則には、起床時間前に起きること、布団をかぶって眠ること、消灯時間以後に起きていることなどが禁じられています。
しかし、看守も人間ですから、なんとか懲役と折り合いをつけて、トラブルを起こさず無難に仕事をやっていきたいと考えています。それで、夏など早く明るくなっているときには、他人に迷惑をかけなければ、本を読んだり、日記を書いたりすることは黙認されていました。
また、独居の場合ですが、願い出れば、夜九時過ぎても電気をつけてもらって、読書することが一応の権利として認められてもいたのです。
だが、最近では、鬼の管理部長の命令によって、こうした既得権は、すべて禁止されてしまったといいます。
●七月二十四日
今日は、今までで一番暑かった。工場であまりの暑さに頭がボーッとしたので、手をあげて離席の許可をもらって温度計を見に行ったら、摂氏三十三度五分あった。
昨夜も、風がピクリともなく、今年で一番の寝苦しさ。こんな夜が一週間も続けば、懲役の半分は参ってしまうに決まっている。まあ、今年はなんて暑いんだ。今が夏の真っ盛りなのだろう。頑張って、この夏を最後の夏にしよう。
その炎天下、ソフトボールをやった。
最終回に相手のエラーが二つ出て、高田の左ききの満塁の走者を一掃するタイムリーが出、そのあとチンポコがセーフティ・バントを決め、この回四点取って大逆転した。
俺はキャッチで四番。一回目、レフト前ライナーのヒット。二回目、セーフティ・バントのチンポコをランナーに置いて、力み過ぎて初球を静岡菱型のチェンジ・アップにひっかかって、ショート・フライ。
本当に日本人は、なんと野球が好きなのだろうと、われながら呆れ返ったのだ。
夕飯のあと、汗でグショグショになった俺のランニングを、茨城韋駄天がギュッと絞ってくれて、ストラップのほうを俺に持たせ、バタバタと裾を持って風に当て、二十分ぐらいで乾かしてしまった。少年院では、この手で洗濯物を乾かすのだと言うが、俺のいた少年院では、この驚くべきテクニックを持った者はいなかった。
この房は、前の房と違って、人生経験の豊富な奴が多いので、話を聞いていると楽しいし、洗濯の洗い物の乾かし方と言わず、教えられることが多い。
〔チンポコ〕そいつは、女が誉めたんだか、チンポコが自慢で、やたらと初対面の奴にチンポコを見せる。別にでかくない。普通なんだけど、みんなびっくりしてやらないと機嫌が悪いという、変な奴です。あとで医者に聞いたら、そういうのが精神病室にいるということです。
〔茨城韋駄天〕日本人には走りバカみたいなのが、どこにでもいます。宮城の周りを走っているみたいなのが。そして日本では、走るということは真面目な作業というふうに評価されるのです。
だから刑事物で、刑事がやたら走る。あれは真面目な刑事なのです。近道を歩いたりするのは、真面目な奴じゃない。
この茨城韋駄天は、なぜか知らないけど、いつでも走っている。みんなに呆れられて|軽《けい》|蔑《べつ》されるんだけど、いつでも走っているのです。
第十三課 おんぶ競走
●八月一日(雨後晴)
朝起きたら、本当に久しぶりに雨が降っていた。人の話では台風が来かかっているという。昼頃、雷雨のようなどしゃぶりの瞬間もあったが、夕方はすっかり上がって晴れ間も見えた。
今日、二級にやっと進級した。ザマのいいことに、今月二級になると言っていた|相模《さがみ》の少年[#「少年」に傍点]はなれなかった。本当に|生《なま》|意《い》|気《き》な小僧だから、気味がいいだけだ。
雨のせいで、今日は過ごしいい。
〔三級から二級〕私は、ひたすら静かにして一日でも早く出ようと心掛けておりました。そのため、成績優秀者と認定されるような二級に達したのです。二級以上の処遇には、前に表(本文九十三ページ)でご紹介したこと以外に次のような“特典”もあります。
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一 二級房以上にはカラーテレビ設置(夜間独居者の二級者は週一回鑑賞)
二 二級進級時に衣類新品貸与
三 二級以上にロッカー貸与
四 毛布、布団の厚手のものを貸与
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懲役には、自分たちがふだん飲んでいる柳の葉っぱの|煎《い》ったみたいな、味も臭いもしないお茶じゃなくて、看守だからろくなお茶飲んでないけれども、看守の飲むお茶が一杯飲めるというだけで、大変なことなのです。思い出すだけで嫌な累進処遇の管理方法だ。
〔柳の葉の茶〕懲役が飲まされているお茶は、ただ茶色く色がついているだけで、味も香りもしないものです。これは、なんと柳の葉からつくったもので|柳葉茶《りゅうようちゃ》といいます。ちょうど米軍が前線の兵士たちの性欲を減退させるためにメントールのたばこやコーラを普及させているといわれたように、塀の中では「このお茶を飲むとインポになる」と噂されていました。
●八月二十五日(晴)
娑婆では給水制限とか騒いでいるのだが、府中では冷たい井戸水がじゃんじゃん出るのは、当たり前のことではあるが、ありがたい。
今日あたりは、目に見えるような感じで涼しくなった。
|万《ばん》|歳《ざい》。秋だ。|恩《おん》|赦《しゃ》だ。ロースト・ビーフだ。
運動会の練習を兼ねて、おんぶ競走の六頭立てのレースをやったのだが、チンポコの上に乗ったウーメンが、とにかく七十七キロもあるのだから、チンポコもたまらずにコーナーでぶっ倒れた。それでウーメンは、頭と胸をすりむいて、赤チンだらけになってしまった。
その姿があまりおかしかったので笑い過ぎたら、珍しくウーメンが顔色を変えて怒ったので、シャワーのあとで「笑い過ぎてごめんよ」と謝ったら、ウーメンも機嫌を直したのだ。
しかし、懲役はとにかく退屈しているので、結構こんなレースでも熱狂するのだ。
一着は、馬が静岡菱型、騎手はダイヤモンドの歯。二着は、仙台が馬で、デッチリが乗り役。出目は一三で二十倍。俺は一五、一六と持っていたが、残念にも抜け目だった。
恩赦の話がいよいよしきりである。年内に帰れると、舎房も大変明るい雰囲気だ。
〔井戸水〕昭和五十九年九月十一日、読売新聞の朝刊を眺めていると「飲料井戸に発ガン性物質広範囲で基準超す 府中 トリクロロエチレン 病院、刑務所で使用」という見出しが飛び込んできました。
内容を府中刑務所だけに限って紹介しますと、懲役が夏冷たい井戸水として|重宝《ちょうほう》していた三本の井戸から、それぞれ四十ppb、九百六十ppb、三十五ppbと|暫《ざん》|定《てい》基準値の三十ppbを超える発ガン性物質トリクロロエチレンが検出されたというのです。
ところが|刑務所《ムショ》ではこの報告を受けた五十七年度中に汚染のはなはだしい二本の井戸からの取水を中止したが、一本は依然として使用しているといいます。
私の|頭《トサカ》に血が上ったのは、「受刑者約二千四百人の飲み水を含む生活用水は、ほとんど井戸水に頼っている」「しかし、同じ敷地内にある、職員約三百世帯の宿舎、独身寮、宿舎各号棟の職員用足洗い場などには百パーセント都水道局の水が配水されている」というくだりを読んだときでした。
私は、発ガン性物質が含まれているとも知らずに、日記に|嬉《き》|々《き》として「冷たい井戸水がじゃんじゃん出るのは、ありがたい」と書いていたのです。
府中で購入されているのは読売新聞ですから、この記事は、黒く塗りつぶされて回覧されたのでしょう。そうでなければ、いかに懲役でも、こんな非道い処遇を受けて塀の中が平穏であるわけはありません。
〔恩赦〕このとき懲役たちの話題になっていた恩赦とは、八月十二日に調印された日中平和友好条約にともなうものでした。
結局このときは、一同の期待にもかかわらず、恩赦は出ませんでした。これは間違いなく、選挙違反で捕まってる奴の数が少なかったからです。
沖縄返還のときには、非道いことに公職選挙法違反と七十歳以上の老人に限って恩赦が出ています。だから、恩赦を当て込んで悪い事やった奴は、みんな「あーッ!」てなもんでした。
今頃また、恩赦を当て込んで、どんどん自首しているわけです。
恩赦は起訴されていないと|大《たい》|赦《しゃ》(公訴権は消滅、有罪は失効)以外の場合は適用されないから、今ならまだ間に合うと思って自首していく、懲りない面々がいっぱいいるのです。
〈みつ叔母よりの手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十三年九月一日
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ここ数日涼しい日が続いています。
あの暑さが嘘のよう。夜など特に涼しいので、風邪を引かないよう注意してください。
蚊の猛攻撃も少しは減ったのではありませんか?
昨日、今日と、週末少し夏の疲れを感じたので家に居たら、昼間から睡魔に襲われ、今昼寝からさめたところ。元気な私でさえこのていたらく。猛烈サラリーマンなど、みなさんさぞさぞ疲れている事でしょう。背広を片手に朝の電車に乗ってごらんなさいな。すごい湿気と暑気で、あんなものはヨーロッパの産物で、決して日本には合わない事がよくわかります。どうしてあんなものを一年中着用なんてする事にきめたのかしら?
冷房のエネルギーだって大変なものだし、何よりも、身体にとって残酷なのに。
相変わらず創作していますか。
この頃、|半村良《はんむらりょう》まで時代ものを書いているのよ。多分、知っているとは思いますが……。
私、夏の休暇を海へ過ごしに行って、『オール読物』と『文藝春秋』を持って浜辺に寝ころんでいました。
芥川、直木両賞たいしたことないわねえ。大江健三郎とか開高健なんかが颯爽と登場したころと何という違いでしょうか?
この頃はメディアが発達していて、誰にも新鮮な驚きが欠如しているので、どんな小説にも感慨が湧かないのでしょうか? ここのところを知りたいと思います。ちっともおもしろくないので、他の作品も含めて目を通さねばならない諸先生方を気の毒に思ったくらいでした。貴方も頑張っておもしろいものを書いて、もの書きの仲間入りをしたら?
急がず、あせらず、考え方をしっかりとして積み上げてゆけば、きっときっとすてきなものが出来るでしょう。
叔母は楽しみにしています。
時間をかけてゆっくり修業することです。
貴方には豊富な想像力がありますから、これを生かせば相当なものがこなせるはずだと信じています。もう自由になるのも間近。どんな資料も手にとって調べる事が可能になるのです。
頑張って一日も早く出て来てください。
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〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十三年十月七日
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光代叔母様。
なんと一週間のたつのは早い事でしょう。つい先日お手紙を書いたと思ったら、もう免業日、叔母様にお手紙を差しあげる日なのです。懲役は顔を合わせると“なんと一週間は早くて、一年はのろい事よ”と口々に叫ぶのですが、たった五十二週なのに一年はしかし長いのです。本当に何故でしょう。
一週間の早い事はこんなあんばいなのです。
月曜日は、工場で仲間に会って、“ヤァ週末はどうだったかね”などと言って、そうする間に午後になると、週に一度、広いグラウンドで運動があって、皆大好きなソフトボールをそれは熱心に、時にはエクサイトのあまり喧嘩になりそうになるほど夢中になってやるのです。なんと私たち日本人は、こんな所に来てまでベースボールが好きなのでしょう。
火曜日は週に二回の風呂の日です。私たちのいる北部は、一工場から八工場まで八つの工場があって、毎週ローテーションで入る順番が替わるのです。たとえば今週の火曜日に私たちの四工場が第一番に入れば、次の金曜日の入浴はビリの八番目になり、さらに次の週の火曜日は一番繰りあがって七番目になるのです。こうやって入浴の順番がローテーションになっているので公平なのです。やっぱり最初の頃のほうがお湯が|綺《き》|麗《れい》なのです。一番最初の組は午後二時半頃から入りはじめて、四十八人ずつ入っていって、最後の組が入るのは四時頃になってしまうのです。
水曜日は貴女からのお手紙が来れば来る日なのです。運動が週に三日あって、月曜が広いグラウンドで、水・木曜が狭いほうのグラウンドで各約三十五分ぐらいあるのです。狭いグラウンドではバレーボールをやるのですが、ぼくはソフトボールは現役の主力選手なのですが、バレーボールはもう駄目で、もっぱらレフェリーをやるのです。
木曜日も水曜日と同様の日課なのです。晴れの日はバレーなのです。
金曜日は週の中で一番小変化の多い日なのです。まず朝九時頃をチョット過ぎると、新入が工場にやって来るのです。毎週金曜日に各工場に補充の懲役が訓練房から送られて来るのです。もちろん工場の定員が一杯のときは、金曜になっても誰も新入は来ません。そうやって新入を見物している間に医務がやって来るのです。
これは懲役の看護夫がワゴンを押して、それに担当の白衣を着たのが一人付いて各工場の怪我人や病人に手当てや薬をくれに廻って来るのです。やっぱり工場で仕事をしていれば、いろいろと小故障があるもので、ぼくも毎週指の荒れ止めのオイントメントと腰の神経痛のためのアスピリンをもらうのです。このワゴンの所に懲役の行列が出来るのですが、この番号札をもらうため、朝始業のときに番号札を担当からもらう行列が出来るのです。そして午後になれば、金曜日は風呂の日なのです。
土曜日は隔週休日になるのですが、隔週は昼まで工場で働くのです。今日は働く週だったのです。休日の週は、作業教育というのをラジオとVTRで午前中やられるのです。こうして懲役の一週間は日曜日の休日で終わるのです。娑婆にいると、一週間が日曜からスタートするという感じがわかるのですが、懲役の場合は日曜が免業日なので、とにかくこの日にたどりついて一週間が終わる、というのが実感なのです。演芸や映画もたいてい日曜日にあるのです。明日の日曜も|扇《おうぎ》ひろ子が来るのだそうです。こうやって一週間はズルズルッと過ぎてしまうのですが、本当に一年間はため息が出るほど永いのです。それでも貴女に泣きながらもう二年以上も監獄の生活を続けて来たのですから、過ぎた日は本当に早いものです。
懲役はその程度や過去の生活等によって選別されて、それぞれの工場に配属させられるのですが、ぼくの今いる北部四工場はそのほとんどがヤクザモンなのです。
|刑務所《ムショ》の中でつくづく考えるのですが、今の日本の政治体制と国家の構造が変わらない限りは、牛肉の値段がアメリカなみになるとはとても考えられず、この信じられぬほどの食品の高値は当分、ズッと続くと思われるのです。そうであれば、なんとか将来とも安定した供給が予想される鶏で、何かそれこそ雷おこしか鳩サブレーのようなオリジナルな食い物を東京の何処か名物とでもして生み出す事を考えなければ大儲けは出来ないと思うのです。もちろん、先日眠れない夜、ふと考え出した鶏団子の|南《なん》|蛮《ばん》|漬《づけ》でピンクのキャデラックに乗れるなんては思っていないし、今のところは出所しても食い物屋の主人になる気持ちはないのです。それでも、試してみて|美味《う ま》ければ小魚の手に入らないときは便利じゃありませんか。
これからも思いついた料理をときどき書きますのでつくってみてください。
この二、三日肌寒い日が続き、私たち懲役は来たるべき厳しそうな冬を思ってやりきれない気持ちでいるのです。やっぱりいくら蚊がいても、脂汗が流れても、暑いほうがまだあの寒さよりは私たちにとっては楽なのです。けど、この冬でぼくの|刑務所《ムショ》で過ごす冬は終わりです。
ああ、よくここまでたどりついたと思うし、なんやかや感無量なのです。いろんな意味でよい勉強をしたと思うのです。自分でそう言うのも、それも何べんも言うのはかなりおかしいかと思うのですが、ぼくは確かにまったく別人のように変わったのです。
こうやって手紙を読んだだけではわかっていただけないだろうな。
お目にかかるときが本当に楽しみなのです。この自分の変化が自分でうれしいのです。
今週はこれでサヨウナラ。
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[#地から2字上げ]直也
第十四課 バレーボール
●十月二十六日(晴)
静岡菱型がやってきて、彼のバレーボール・チームにタイ人とアフリカ人を入れたいのだが、通訳を頼むと言ってきたのが先週だった。
「今週は賭けないと全然力が入らないから」と言ってきたので、仕方がないから試合のあいだ中コートの横にくっついて、その二人を|叱《しっ》|咤《た》|激《げき》|励《れい》して、やっと二勝一分けと勝たせたのだ。しかし、おもしろい工場だ。
今日はよい天気で気持ちがよく、気温も高い。
工場にも舎房にも、まだ蚊がいるんだから、本当に嫌になってしまう。
ナマズがあまり|狡《こす》いので、みんなで朝、口々に叱りつけたら、ナマズの奴はふてくされて口もきかないのだ。典型的な狡くしぶとい農民なのだ。その立ち回りの狡くて横着なこと。
それから、今日のバレーで、懲役のバレーならではの珍プレーがあったので書いておこう。
高く上がったサーブが相手のコートまで届かず、ネットに触れるとみたサーブ側の前衛が、グイとネットを引っ張ったので、ボールは無事に相手側にポトンと落ちた。スパイクするときに、あいた手でネットをグイと下に押し下げるのは、しょっちゅう使う怪テクニックなのだ。
〔バレーボール〕ネットをグイと下に押し下げる怪テクニックは、まだ笑って見ていられますが、気性の荒い懲役たちは、もっと激しい手を使います。相手にブロックを成功させまいと、スパイクした奴以外は、ブロックに跳び上がった奴にボディ・ブローをかますのです。まさに喧嘩試合といったところです。
自由に備えて
[#地から2字上げ]安部直也
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私の居る舎房の窓から、ちょうど今の季節は美しい秋の景色を見る事が出来ます。この随筆が入選したら、『富士見』に載るのは真冬の二月なのですが、原稿を書いている今は十月の末、一雨ごとに刑務所の庭には秋が深まっていく気配なのです。
葉の緑はもう薄くなり変わって、薄茶の枯れた芝の葉が多くなり、三本並んでいる大きな桜も芝と同じで、葉の緑が力のない薄緑になって数が少なくなり、黄色やそれよりも色合いの濃いオレンジ色、さらには紅い色の葉が多くなり、折柄の秋の雨に打たれて、黄色・オレンジ色・紅の桜の葉は、枝から離れてヒラヒラと、あるいはクルクルと鉄色の地面に招き寄せられ、地に貼りつくようにうずくまり、あるいは雨のつくったプールに泳ぐのです。
雨と美しい枯葉の舞の中を、油をつけているように光る黒い頭に、柔かそうなグレイの胸毛、そして鮮やかな水色の長い尾の、絵の鳥のように水際だって美しい野鳥の|尾《お》|長《なが》が、六、七羽の群れをつくって飛び廻り、|餌《えさ》をあさるのです。顔かたちにまるで似合わない“キエーッキエーッ”という|非《ひ》|道《ど》い声を出すのは、とんだ艶消しなのですが、しかし尾長は秋の府中刑務所では一番の器量良しなのです。それは見事に綺麗な鳥なのです。
窓から刑務所へ訪れる野鳥たちの、陽気で賑やかな様子を|羨《うらや》ましく眺める私は、もうこれで自由を失って三年近くの年月がたつのです。
|塀《へい》の外の華やかに移り変わる四季の楽しみは、この刑務所では望むべくもないのです。刑務所では四季それぞれが娑婆のそれよりも、ずっと人間にとって身近に、言うならば肌の上をじかに季節が通り過ぎて行くような感じがあるのです。
刑務所に来て想うのは、“秋とはこんなにも淋しく、そして冬の足音の響いて来る季節なのか”というような事なのです。社会では淋しければ一升ぶらさげて友人を訪ねればよいのだし、寒い風がえりあしを吹きぬければ、冬の足音が聞こえてくれば、押入れから|炬《こ》|燵《たつ》を出したり、クリーニング屋のビニール袋の中から、オーヴァーコートを出したりすればよいのですが、私たちは刑務所に入っている限り、自然の脅威に対してはほとんど無抵抗なのです。自由を失っているという自体は、なんとも言葉も出ないほど悲しい事で、自由を失う事の悲しさとせつなさを一番思い知るときは、厳しい季節を間近にした今頃や春の終わりの頃なのです。私たちは配られたメリヤスを両手に持って、またあの無情な冬がやって来る季節になった事を知らされて、対抗する手段もない今の境遇を、せつなく思うのです。
自由を失って知るのは、自由の値打ちです。そして物事を選択する事の出来る自由が、人間の一番大切にしなければならない自由であった事に、だいぶ遅まきながら気が付いたのです。働くか遊ぶか。本を読むか寝るか。支那そばを食うか|鰻《うなぎ》にするか。電気毛布にするか羽根布団にするか。ブラブラ散歩がてら歩くか、タクシーに乗るか。風呂に入るかテレビを見るか……。
社会では、毎日ありとあらゆる自由な選択を、私たちはそれが本来最高の人間らしい自由だとも意識せずに、平然と行って来たのです。今の境遇から思えば、なんと贅沢な自由を楽しんでいた事か、と思うのです。
今の私たちは、悲しい事に刑務所の庭で遊ぶ尾長ほどの自由もないのです。鐘の音で目覚め、決められたおかずの飯をあてがいぶちで食い、決まった日にベルの音にせかされて風呂に入り、そしてテレビのチャンネルさえ自分ではまわせず、どんなによいところでも時間になれば読みかけの本を閉じて目をつむるのです。
この修業が、たしかに私たちを規則に慣れさせ、世の中の野獣のような私たちに規則を守る習慣を与えるのでしょう。またそれを目的として判事の言い渡した懲役刑なのでしょう。
私たちは、刑務所の定めた規制を守り、厳しく制限された自由の中で、あるときは汗にまみれ、あるときはしもやけをこすりながら、生きていかなければなりません。今の私たちは何の因果か、またまた少年時代に戻ってしまったような修業中の身なのですね。
人間の生きる楽しみは、自分で考え、選び、そして行動する自由につきると私は思うのです。今の生活に首までドップリつかってしまって、全てあてがいぶちに慣れてしまうという事は、人間をまったく独創性のない無批判で無気力、無趣味な者にしてしまうのです。
刑務所の規則を守りながら、私たちは来たるべき、いや必ずやって来る自由になるときに備えて自由を貴ぶ心、事物に感激する心、創造する事の喜び、なんてものも大切に養っていかなければなりません。
決してこの全て、テレビのチャンネルまでも“あてがいぶち”の生活に慣れ親しんでしまってはいけないと思うのです。
この随筆がもし入選して『富士見』に載るとしたら、『富士見』の出るのは二月のなかばか末の頃。きっともう風の角にも丸味がついたような、|何《ど》|処《こ》からともなく春の香りが漂って来るような気のする、そんな季節になっている事でしょう。そのうち枯れている芝の葉の間に、緑の色がチラチラと見えだせば、もうこっちのもんです。春なのです。
さあ、皆さん春も近いのですよ。みずみずしい心を取り戻しましょう。この灰色の環境の中で天然色の心を持ちましょう。
そうして内にみずみずしい心を秘めながら、刑務所の諸規則を守って、あてがいぶちのときを過ごす間に、必ずいつか、あの素晴らしい自由を取り戻す|薔薇《ば ら》色の瞬間が訪れるのです。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](府中刑務所文集『富士見』昭和五十四年二月号より)
●十一月三日 祝日(晴)
旗日ということで、色の悪いマグロのぶつとも刺身ともつかぬのが四、五切れ出た。切れっ端といった感じで、おまけに|醤油《しょうゆ》は、|刑務所《ムショ》の薄めて塩水を割った奴だ。ああ、まともなものが食いたい。
終日、本を読み、碁を打っていた。本は、ペンドルトンの『マフィアへの挑戦』十三巻を読み終えて、『パリは燃えているか』上巻にかかった。『マフィアへの挑戦』は、十一、十二巻と東海岸で、大変例によって大味で低調だったのだが、十三巻で舞台を西海岸に移して精彩を取り戻した。
まだ蚊が多いのだ。
晩飯に、アメリカン・チーズの薄切りが出たのを、|刑務所《ムショ》のまずいパンに|挟《はさ》んで食ったのだが、そのうまかったこと。こんなチーズを、こんなパンに挟んで、こんなにうまいのだから、ああ娑婆の食い物はどんなにうまかったことか。
今日のマグロだって、三年近く|囚《とら》われている身の俺の舌には、十分うまかったのだ。
〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十三年十一月十九日
[#ここから1字下げ]
みつ叔母様。
しばらく手紙が来なかったので気になり、三田に手紙を出したところ、|早《さっ》|速《そく》返事が来ました。相変わらずとてもユーモラスな、七十一歳のバアサマとは思えぬタッチで書いてきたのですが、呆れた事に、寝るときはずみでベッドの頭側の柱に顔をぶっつけて、お岩様のように|腫《は》れて内出血してのびていたのだそうです。本当に呆れた。
それでも二人とも元気にしているようで安心しました。
|刑務所《ムショ》はもうすっかり晩秋で、ぼくの舎房から見える桜の木もすっかり葉を落とし、今日などは雨の日曜日である事も加わって、女学生でなくても思わずため息の出そうな情景なのです。
先日同じ舎房にいる者が今流行のムックの『スチュワーデス・カタログ』なる本を見せてくれたのですが、ベテランを紹介する頁で、ジャミさん、石川トリ子、それに福田のカズミさんが元気に出ていて、とても懐かしい想いでした。|刑務所《ムショ》ではぼくが四年間日本航空で飛行機に乗って飯を食った、なんて事は誰にもホラと思われるのが関の山なので言わないのです。
ましてや叔母様もスチュワーデスの草わけで、|甥《おい》っ子のぼくと二人で飛んでたなんて童話にでもありそうな話は、とても同囚の者に話しても、理解しても信じてももらえぬ事なので、ただニコニコと過去は語らずに黙っているのです。それでもそのムックは過ぎた昔の事をいろいろ懐かしく想い出させてくれました。叔母様の乗務してた飛行機がフランクフルトでぶっこわれて、ぼくがコペンハーゲンから救けに行ったとき、貴女が当時では珍しかった素敵なブーツでぼくの飛行機の中を飛び廻りながら“よしよしよく来た”とおっしゃった事。
楽しかった。本当にぼくの人生でたった四年間の休日だったような気もするのです。考えも浅かったし馬鹿だったけど、やっぱり過ぎた日は懐かしいのです。楽しくもなんともない|刑務所《ムショ》でさえ、過去になってしまえば懐かしい想い出になってしまうらしく、何回も|刑務所《ムショ》に来ている人たちは“前刑を務めた何処そこ刑務所では……”なんて、それは懐かしそうに話すのです。
ぼくが、当時のぼくの兄貴だった死んでしまった渋谷の|阿《あ》|部《べ》|錦《きん》|吾《ご》に“飛行機に乗ってみたいのでしばらく暇をください”と言ったら、あの人が二万円|餞《せん》|別《べつ》をくれて、きっと何処かにぼくが旅行に行くと勘違いしたのでしょう。“あぶねえから汽車が通ってるとこは出来るだけ汽車に乗れよ”と言ったのは昨日の事のように思うのですが、なんとあれは昭和三十六年の事で、思えばなんと永い年月があれから過ぎた事でしょう。
『スチュワーデス・カタログ』で見るカズミさんのお顔はスチュワーデスの頃にくらべて倍ぐらいの大きさにふくらんじゃって……少しドゥ・スポーツプラザでボクシングでもなさったらどうなのでしょう。
お世辞じゃなくて、光叔母様、貴女はとてもよく節制してらっしゃると思うのです。娑婆に帰ったらぼくも貴女のお伴でもしてジムに通って、出来るだけよい状態を維持する事に心掛けましょう。鏡を見ると嫌になるほど、ぼくも頭に白い物が増えたのです。娑婆に戻ったら染めなければならないほどなのです。
秋は物想うときなのでしょうが、この年齢になって、この白い頭で懲役をやっているという事は、本当にウンザリして、普通の人なら絶望してしまうのでしょうが、ぼくはくたばりません。
この人生に対していつでも烈々たる闘志のある事だけが、ぼくの救いだと思っているのです。これが最後のチャンスとはわかっているのですが、まだ勝負のついたわけではないのです。
さあこれで冬になって、それが終われば春なのです。二月も末になれば風の角が丸味を帯びたように敏感に感じられるのです。何度も書いた事かも知れませんが、冷暖房のない|刑務所《ムショ》にいると娑婆と違って、四季とか気温の変化とかをとても敏感に肌で感じるのです。むしろ季節が肌の上をジカに通り過ぎて行くような感じなのです。今までの人生で、自然や季節をこんなに身近に感じた事はありません。自然に対する観察眼が、お陰で大変肥えたのは結構な事かもしれません。
貴女の年末やお正月は、どんな計画でいらっしゃるのかしら。
ああ今日はとりとめのない事ばかり。お暇が出来たらお手紙ください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]直也
第四房
第一課 仮面接
●十二月一日(晴)
本当に|愚《おろ》かな人間を、「あいつはでかいバカだよ」とか、「でかいバカだぜ、あいつは」というふうに、「でかいバカ」という言葉を使うのがおかしい。
今日で十二月になった。十一月は、しかし早く過ぎた。
何かといえば、とんがった声を|喧《けん》|嘩《か》|腰《ごし》で出す土工が出所したので、房の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がよくなった。|我《わが》|儘《まま》じじいと土工が出たので、みんなやれやれなのだ。本当に、たった一人二人のことで、全体の雰囲気や居心地ががらりと変わるのだ。
俺の隣の|禿《はげ》も、つままれたし、あと嫌な奴はとんがり頭だけなのだ。
足の水虫も大分よくなってきた。水虫に関しては、ある人がとても好意的なことをしてくれたことを記録しておこう。
〔ある人が好意的〕ある看守が、秋の天皇賞の予想を聞いてきたので、教えたら見事に当たって、そのお礼にと水虫の薬をくれたことを書いているのです。
●十二月二日(晴)
「担当台に行け」とラッキョウ頭が言うので、「何だ」と言ったら、「パロールだ」と言った。
俺の刑も、あと十ヵ月と十八日なのだから、おそらくこれが仮面接だろう。すっかり心が明るくなった。
六十日以内に仮面という話だから、仮面が二月の初旬、そして本面が三月初旬。順調にいけば、四月の桜の頃には|娑《シャ》|婆《バ》だ。大切にやろう。絶対に事故は起こすまい。
〔パロール〕なんとイギリスの法律用語で、仮釈放という意味。こういう特殊な言葉が、隠語として定着している。外人懲役でもパロールなんていうのは、普通の人じゃ知らないんじゃないかと思うような法律用語ですが、外人懲役が言ったことから広まったのでしょう。
私のいたホクヨンでも、目付きの異様な懲役たちが、ニュージーランド人のチンピラから教えられて、看守に怒鳴られると「サナバビッチ」「ファッキン」などと鼻をうごめかして叫んでいたのです。
このときに担当台へ行くと、うちの担当が、「おい、仮面があるから大事にやれ」と言う。仮面の言い渡しというのがあってからふた月以内に、仮釈審査委員会の仮面接があって、それからひと月たって今度は本面接。そして、本面接がかかってから、ひと月で娑婆へ。
だから、仮面接がかかると、懲役は|蓄《ちく》|髪《はつ》願というのを出すと、髪の毛を切らずに長く伸ばし続ける権利がある。
第二課 豆ゲソ
●十二月三日(晴)
十二月初旬にしては暖かい日曜日かと思われたのだが、考えてみれば南側だから暖かいので、逆側の新入房は十分寒いのかもしれない。
握り飯をつくって昼飯に食っているところを、北部三工場の険しい目をした担当に見つかって怒られた。昔、囚人が逃げる準備に握り飯をつくったことから、現在でも握り飯をつくることは禁じられている。とにかく怒られれば不愉快千万だから、握り飯はつくらないことにしよう。
怒られて、それに言葉尻をとらえたり、規則を|盾《たて》にとって反撃したりすることが、いかにも男らしい態度であるとする宇都宮の意見は、実に愚かな考えである。こんなところで官[#「官」に傍点]と言い争ってみても、何の得もない。闘争に徹するのなら、そのような過ごし方があるのだ。俺は、謝って済むことなら、謝ることに何の抵抗もないのだ。
このまま暖かい冬が送れたら言うことはないのだし、春になれば俺は出ていくと決めているのだ。
〔逃走準備〕握り飯のほかに逃走準備と見られるものは、豆ゲソと言って、絹糸とか髪の毛とかでちっちゃなわらじをつくる芸があります。これは、娑婆へ持ち出すと、すごく高く売れる。ところが、それをつくっていると逃走準備とされてしまいます。それから縄をなっていたり、口笛を吹くのも逃走準備、合図なんだそうです。
●十二月五日(晴)
今日の入浴は八番目でビリ。洗うのも気が進まず、汚い湯の中にじーっとつかっていたのだ。
みつ叔母さんに早速お返事を出した。きのう手紙をもらってから、自分でもわかるほど機嫌がよくなったのだ。
●十二月十四日(晴)
太郎と祥二朗に、作業賞与金の中から三千円送った。スズメの涙なのだが、規定でこれ以上は駄目なのだ。
こういうことのあるたびに、本当にせつなく、苦しく、あの可愛かった二人を思い出す。苦しい。わめき出したいような、たまらない気持ちだ。『ワイルド・ギース』でも読んで早く忘れよう。そうでないと、やりきれないのだ。アルコールもシャブも、何もないのだ。あるのは本とお経の本だけだ。お経を唱えよう。
おもしろい言葉を記録しておこう。「ナマズの吸い物口ばっかり」とか、「|灘《なだ》の酒よりただの酒」とか、バカなことを。
●昭和五十四年一月十日
今までに寒い日は数えきれないほどあったが、とにかく今日が一番寒い。黙って、こっそり毛布を巻きつけて舎房に座っていると、何と目玉が冷たくて目を閉じ、一日中体を揺すっていた。
第三課 仮釈放委員会
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「仮出獄は、法定の期間(有期刑については刑期の三分の一、無期刑については十年。ただし、少年の時懲役又は禁錮の言渡しを受けた者のうち、無期刑については七年、十年以上十五年以下の有期刑については三年、不定期刑についてはその刑の短期の三分の一)を経過した後において、悔悟の情、更生意欲、再犯のおそれがないこと、社会感情が仮出獄を是認することなどが認められ、保護観察に付することが本人の改善更生のために相当であると認められたときに、釈放の日、帰住地等を指定して許可される。」
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[#地付き](「犯罪白書」六十一年版)
●一月十六日
きのうの深夜、多分二舎上と思われるが、何やら大声で担当を呼び、くどくどと話をするバカ者あって、そのためやや睡眠不足。ほかの房でも腹を立てたのがいて、怒鳴っていた。
今日、仮釈放委員会の仮面接があって、帰住地、身柄引受人等について質問を受ける。ほかにも、「本当に足を洗うのか」等の質問。
ただ仮釈委員会の面々の様子を見るのに、非常に形式的な質問に終始して、これは仮釈のための儀式であらんと思われた。
今日、この仮面接があったので、蓄髪願という|願《がん》|箋《せん》を工場担当部長に提出し、許可を得て、以後、髪の毛を|坊《ぼう》|主《ず》刈りにする厄から|免《まぬか》れる。
これは、満期出所であれば、満期日の三ヵ月前に同じく蓄髪願を出して許可を得るのだが、仮面接があったのは仮釈出所の見込みのついた者、ということで、同じく蓄髪願を出せる。だから、|刑務所《ムショ》の中で、ネギ坊主のような頭をしている懲役がいれば、それは満期の|三《み》|月《つき》以内か、仮釈放委員会の仮面接のあった者ということである。
●一月二十一日
ノート検査よりノート返る。「個人名を記載せぬように」との注意を、これで六回目ぐらいであろうか、受けた。
みつ叔母より、親切な手紙をいただく。まだ、仮面接のあったことは伝わっていないようだ。
先日、黒い鳥が一羽飛んできて、スズメや鳩が仲良くつついている|餌《えさ》を横取りした。
人相ならぬ鳥相の悪い、見るからに強そうな奴だったので、早速工場に行って、仲間に何ていう鳥だと聞いたところ、「うん、黒くて餌を横取りする悪い鳥か。フーン、それは|都鳥《みやこどり》って言うんだ。悪い野郎は都鳥だ」。
こんなバカを言いながら、それでも一日が過ぎていく。
小鳥たちは、懲役の|焦《あせ》りや苦しみ、腹立ちなど知らぬ顔で、今日も元気のようだ。
春はまだだろうか、渡り鳥君。
●一月二十八日
今日は、どんより曇っている。
今日は免業日なので、工場には出役せず、終日冷蔵庫のような舎房に閉じ込めなので、寒くて退屈で、本当に|往生《おうじょう》する。もう少し暖かくなれば、小説を書くなんていう時間|潰《つぶ》しもできるが、この日記でも、飯を食って体の温まったときに一気に書いて、あとは毛布にくるまって、目さえ閉じている。まあ、それほどの寒さだ。
免業日は、飯の前に入る熱いお茶が待ち遠しい。
すでに書いたことだが、この寒さも刑罰のうちなのか、聞いてみたいと思う。
午前十時四十五分。寒いと思いながら、ビニールの張ってある、透明度の悪い窓を透かしてみたら、雪が降っている。だいぶ前から降っていたとみえ、地面はもううっすら白くなっている。サラサラ音もなく降る小さな雪で、これは積もりそうだ。もう、その寒いこと寒いこと。
規定で一枚しか使ってはいけない毛布を、どうすれば一番暖かいか、いろいろと巻きつけ方を工夫して、結局、韓国人の女の人みたいに胸高に縛り上げて、震えている。
二時四十五分。雪はやんだ。寒さは変わらない。読む本もなく、みつ叔母の手紙は二度読んだ。
|久生十蘭《ひさおじゅうらん》の『|顎十郎捕物帳《あごじゅうろうとりものちょう》』、意外とも思えるほどおもしろかった。推理やトリックはかなりお粗末なのだが、なんといっても|洒《しゃ》|脱《だつ》な筆がいい。達者な人である。
大相撲、優勝は十四勝一敗の|北《きた》の|湖《うみ》。最後に大相撲を見たのは、八幡のせいちゃんとだっけ。
やっと、といった感じで六時になって、布団を敷いて|潜《すべ》り込む。寒いのは惨めったらしくて、本当に嫌だ。いくら辛くても、夏のほうが陽性なのだ。
第四課 本面接
●二月六日
入浴日。
みつ叔母より来信。
官本交換。|笹《ささ》|沢《ざわ》|左《さ》|保《ほ》著『雪に花散る奥州路』。
毎度のことながら、みつ叔母のご親切なお手紙をありがとう。
朝、工場に入ったときの温度が、ちょうど摂氏零度。しかし、体に感じる温度はものすごく冷たかった。
今日、仮釈放委員会の本面接があって、また、聞いて何になるかというような決まり文句の質問を受ける。帰住地のこと、帰ってからの職業のこと、本当に組織暴力団を抜けるのかということ、身柄引受人はヤクザではないかということ。こんなこと聞いて、何の足しになろう。
髪はだいぶ伸びた。
六時半のラジオで、久しぶりに|生《いく》|田《た》|恵《けい》|子《こ》の歌を聴く。
中野刑務所のラジオで、|湯《ゆ》|川《かわ》れい|子《こ》のディスクジョッキーで、フランソワーズ・アルディーを聴いたときも、ずいぶん驚いたものだ。
間もなく娑婆だ。
日本の三むいは、「眠い・寒い・煙い」とか。
山本夏彦の一文。『室内』、二百五十二号、十二月号、百三十ページ。
「エスキモーは、晴れの日に、来たるべき雨の日を思って悲しむ。貧乏と辛抱は深い仲で、昔は大抵の人が貧乏で、そのうえ、いつも失業の恐れがあったから辛抱したのである」
●二月七日
昨夜、ラグビーでスクラム・トライをする夢を見た。スクラム・ハーフが下手くそなので、ホイールして攻めようとか、俺がスクラム・リーダーだった。
なんと驚いたことに、スクラム・ハーフが九州の野村だったので、夢の突飛さに|唖《あ》|然《ぜん》とする。九州の野村は元俺の|舎《しゃ》|弟《てい》で、ラグビー・ボールなんていじったこともない、|手《て》|本《ほん》|引《び》きの胴師だ。
きのう、毛布を背中に当てていたのを舎房の担当に見つかった。それを、今日になって工場担当の親父に怒られる。
終業時に道具箱を返納するのを忘れて、囚人頭に頭を下げる。
今日はさんざんの日で、もう頭の中は娑婆でいっぱいになっている。
●二月十一日 祝日
今日は旧紀元節の祝日で、免業。
快晴なれど雪解けで寒い。
先週開発した官[#「官」に傍点]を|欺《あざむ》く方式は、無念にもバレてしまって結果が|芳《かんば》しくなかったので、今日は城崎勉方式を試験的に採用したが、最初の装着がかなりむずかしい。
|力《りき》|道《どう》|山《ざん》を殺した|村《むら》|田《た》|勝《かつ》|志《し》さんの話では、久しぶりで出所すると、まず道に落ちているたばこの吸い殻が気になってしようがないと言う。
そして、自分の家で寝そべっていても、何か悪いことをしていて誰かに注意されそうで、落ち着かないのだと言う。
どこの部屋でも天井が低く感じてしまうのだ。
そして、タクシーに乗ると、そのあまりの速さに思わず腰を浮かすとも言う。
ああ本当に、あとひと月もたてば出られるのだろうか。不運続きの俺にも、仮釈なんてもらえ切れるのだろうか。楽天的でのん気な俺も、あまりの厳しい寒さに絶望しかける。
寝ればとにかく、毎日明日が来るんだ。仮釈の日も来るのだろう。
〔城崎勉方式〕衣類の下にこっそり、毛布じゃなくて|敷《しき》|布《ふ》を巻きつける手口を、懲役の日記は検査を受けるから、わからないように書いているのであります。
〈みつ叔母よりの手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十四年五月六日
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目まぐるしく天候の変わる日々が続いています。いかがお過ごしですか。カレンダー通りに働いているので、それほど休みが増えたわけでもなく、相変わらず一人なのでお便り出来ませんでした。グッドニュース、早速三田、国領さんに伝えました。
きっと国領さんが行ってくださった事と思います。お玉さん(お母さん)はほっとなさっていました。糖尿の傾向があるとか、お米が好きなのに少ししか食べられない事を大層嘆いていらっしゃいました。一日でも早ければ早いほど嬉しい事なので、どんなワナにもはまらずに出所する事を心がけて、一日一日を過ごされますように。お便りにあるとおり、もう今までの貴方ではないのですから、そこでの事を自慢にする事はないのです。世間一般はそんなところで一日過ごした人間でさえ|疎《うと》んじるもので、ましてや三年ともなると色メガネで見るのですから。|極《ご》く極く自然に、久かたぶりに帰国したほうが身のためだと思います。
鶏料理いろいろ考えているようだけれど、そこでは出ないの? 今は魚もものすごく高価だし、安いものといえば鶏と玉子なので、きっとよく出されるのではないかと思っているのだけれど……。本当にみなさんどうやって生活しているのかしらって思う今日この頃です。
|美味《お い》しいものも、読みたい本も、会いたい人たちも、もう目の前。最後にドタン場でそんなものがみんな引っくり返ってしまわないように注意に注意を重ね、あせらず、いらだたずに、細心に一日一日を送ってください。
細心に過ぎる事は決して臆病ではなく、どんなに勇敢な人にとっても必要なものだと思えます。
みんなと上手くやって行く事がこれほど必要な時期はないのではないでしょうか。頑張ってください。
最終決定がなされるまで落ちつかないとは思いますが、灰色の瞳と脳細胞に大いなる活躍を委ねて、くだらない事は超越してしまってください。
お元気で。
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〈みつ叔母への手紙〉
[#地から2字上げ]昭和五十四年五月十三日
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叔母様。
これが|刑務所《ムショ》の中から差しあげるぼくの最後の手紙になります。
十日の木曜日の午後、係長から“言い渡し”というのを受けたのです。これはいよいよ仮釈放の日時が確定し、出所の日が近づくと、|刑務所《ムショ》側の行う儀式で、これがあると十日前後の間に仮釈放になるのです。私の場合、いろんな前例や状況その他から推理すると、ほぼ仮出所の日は来週の火曜日の二十二日ではなかろうか、と思われるのです。国領のところには少し前に通知が行くのですが、何故か|刑務所《ムショ》の中にいる本人には正確な日時は伏せておかれるのです。それでも永い経験で、大体のところは察しがつくのです。今日はこれが最後の手紙になるという事で、柄にもなく威儀を正して表書きの住所も念入りにクラスィカルな方式で書いたのです。
貴女のお陰で、どうやらやっとここまでやって来られたのです。思い出せば、どれほど貴女のお手紙に助けられたことでしょう。
本当に心から貴女の温かいお気持ちにお礼申しあげるのです。お陰でほとんど無限とも思われた四年の永い懲役を、どうやら大きな事故もなく過ごして、そして幸運にも約五ヵ月百五十日の仮釈放の恩典もいただける事になったのです。
貴女を筆頭に、三田の両親、それに国領。手を合わせたい気持ちなのです。
“どうも本当にいろいろ有難うございました”
何度も同じ言葉でしつこくお礼を申しあげたと思うのですが、何度申しあげても申しあげ足りないほど、グレイトフルなのです。
この四年間、悲しいにつけ苦しいにつけ、楽しいにつけ、嬉しいにつけ、貴女にお手紙を書き続け、そして貴女からお手紙をいただく事が心の張りになって、ぼくの生命を支えて来たのです。生命なんて|直《なお》流の|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》と思わないでください。この四年間に、哀れで孤独な魂が、自分から神様のところに飛んで行ったのを何回か知っているのです。貴女の温かい励ましがもしなかったとしたら……ぼくだってこの冷たい灰色の|塀《へい》の中で、すっかり前途に悲観してしまったかもしれないのです。他の大多数の孤独な懲役に比べて、なんとぼくは貴女のお陰で精神的に楽に過ごせたことでしょう。本当に有難い事だと思うのです。最後の手紙だから、貴女に心からのお礼、と思ってペンをとったのですが、胸が一杯で同じ言葉を繰り返すだけなのです。
全てを失ったぼくですが、今は再起の希望に燃えています。闘うための体力も闘志も十分なのです。この四年間で驚くべき内面の成長(というより、むしろ転換)もあったと自分では信じています。貴女にお目にかかる楽しみは、自分では痛切に感じ、そして信じている自分のほとんど百八十度ともいえる大変化を、貴女も感じてくださるかしらん、という怖れとも楽しみともつかない気持ちなのです。
自分では内面の成長や転換、それも好転と信じているものが、若さを失った老成であったり、ヒネコビであったり、首をすくめて上目づかいに他人の様子をうかがうすくんだ様子の中年男であったり、そんな事であったらどんなに悲しい事でしょう。自分の事は自分ではどうしても正確にはわからないのです。貴女の目と耳でぼくの変化を診断していただきたいのです。そして率直に教えていただきたいし、それがよくない変化であったら指摘していただいて矯正したいと思うのです。髪の毛は自分でもびっくりするほどすっかり|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》になったのです。これも貴女に見ていただいて、染めるかそのままでいるか決めようと思うのです。この十七日でなんとぼくも四十二歳なんてウソみたい!!
帰ったら、しばらくは名画座を飛びまわって、そして自分の台所で|美味《う ま》い物をつくってセッセと食べるのです。どちらもつきあってくださるでしょ?
手紙ではとても書けない呆れるほどおもしろい話が、この四年間でまたウンとたまったのです。飲みながら、ゆっくり時間をかけて貴女にゆっくりゆっくり聞かせてあげましょう。娑婆に帰っても、どうぞどうぞ仲良くしてください。もうぼくには貴女抜きの人生はとても考えられないのです。
この手紙を読んで、八回夕飯を食べたら、|甥《おい》ッ子から電話がある|筈《はず》です。
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[#地から2字上げ]直也
第五課 釈前房、あと二日
●五月十六日
いよいよ、あさって仮釈出所ということで、工場より釈前房に上がる。
これは、満期であれば三日前、仮釈出所の者は二日前に、釈前房という釈放寸前の者ばかり集めた独居房に移すのである。
以後、釈放までのあいだは、作業は免除され、釈前房ではまず、官床が散髪してくれる。これは各工場にいる床屋より断然腕のいい、本職の床屋の懲役を、看守の頭を刈るために官床という理髪室で作業をさせている。だから、看守は、ただで整髪ができるという、実におぞましい制度なのだが、釈放前の懲役は、「今までご苦労さん」という意味でもあろうか、官床の職人たちが髪を刈ってくれる。
そうして、少数、二人か三人ずつ風呂に入れてくれて、ここで懲役の|垢《あか》を落とす。
〔釈前房〕釈前房へ移ったときは、とても晴れがましく嬉しいものです。風呂で会った顔馴染みのじいさんが「もしかすると、この気持ちが味わいたいんでパクられるんですかね」としみじみと言ったものでした。私が「まさか!」と答えると、「そうでがんしょうね」とあいづちを打ちましたが、それほど心|躍《おど》ることなのです。
●五月十七日
|領置品《りょうちひん》調べということで、入所したときに預けて、段ボールの箱に入れて倉庫にしまわれていた箱が出されて、それを精密な領置品リストに基づいて立ち会って員数を調べる。ハンケチ一枚、靴下片方にいたるまで、預かったときのリストと合わないと、看守は青くなる。これは、筆殺しの金さんが、これまでに、それでさんざん看守を告訴したからだと思われる。
靴はかびが生えて、何回かの夏と冬の繰り返しに、中に丸めた紙がしっかり詰めてあったものの、つま先が反り返り、底の皮は波打ってボコボコになっている。身柄引受人が靴を持ってこなかったら、この靴で出所しなければいけないと思うと、|茫《ぼう》|然《ぜん》とする。
これから懲役がはじまるという入所したときに、未決から|履《は》いてきた靴に、しっかりと紙を丸めたのを、つま先からかかとまで、しっかり詰め込むなんていうことも、何べんも懲役に来た者しかやらないことだ。これはシューホーンのないところで靴を、いい状態に置いておく手なのだけれども、四回も繰り返された夏と冬で、|刑務所《ムショ》の倉庫にあったこの靴には何の効果もなかったようだ。
領置金調べというのが次に続く。
領置金というのは、|刑務所《ムショ》に入所したときに預けた利子のつかないお金と、以後購入した伝票、加えられた作業賞与金、それのバランスを見せられて、総額に納得すれば確認の署名をする儀式を言う。
身柄引受人の国領君が、何かの費用にと三十万円ほど入れておいてくれたので、作業賞与金から、購入した書籍、日用品も引いて、さらには子供に送ったお年玉の特別送金なんかも引いて、作業賞与金の四年間の総額が六万二千四十一円となる。
これで、釈放前のすべての作業は終了した。
〔筆殺しの金さん〕金さんは、一回服役するごとに、警官や看守、さらには検察事務官でもなんでも相手を役人と限って必ず五人は、様々な理由を見つけて告訴してしまうのです。
●五月十八日
いよいよ明日朝、仮釈放で出所する。
ただ、この釈前房は、満期出所の者、私のような仮出所の者、|呉越同舟《ごえつどうしゅう》で一つの棟の独居に押し込まれている。
夜中に大声で「所長を呼べ」と怒鳴る者、ドアを足で蹴飛ばす者、今まで禁じられていた歌を大声で歌う者、これはみんな満期出所の者だ。
仮出所の者は、私も含めてちっちゃくなっている。なぜかといえば、ここで逆らうと、仮釈の取り消しという手があるからだ。満期の連中には、それがない。
これがいわゆる|満期上等《まんきじょうとう》で、さっきから隣の房の|松《まつ》|葉《ば》|会《かい》が、「出所する前に一言だけ所長に言い分があるのに、何で会わせねえ。呼んでこい」と怒鳴っている。それをなだめる看守の声がする、「所長は、もう帰宅されたのだ」。「呼んでこい。部屋のすぐ外の官舎じゃないか」と松葉会はうなる。
それを聞きながら、ああ、やっぱり満期上等だなあと思う。仮釈放は、塀を背中にするまでは、こんな強気には決してなれない。仮釈放と|累進処遇《るいしんしょうぐう》制度、これが日本の看守の懲役コントロール術の|双《そう》|璧《へき》なのだ。
俺は仮釈だから、ただただあしたの朝の九時まで、身をすくめるように祈りながら時間を過ごしている。隣の松葉会は、そんなじゃない。
翌日の朝、車で迎えに来てくれていた兄弟分の大野が、
「まず、どうしたいんだ」
と聞いてくれたから、
「とにかく兄弟、どこででもいいからコーヒーを二杯飲ませてくれ」
叫ぶように頼むと、新宿の喫茶店に連れて行ってくれた。
他のなんでもなくて、コーヒーなのは、私がもうすっかり爺様なのだろうか……。
あとがき
塀の外には出たけれど……
|刑務所《ムショ》から出てすぐは、とにかく自動車が速くて、|府中《ふちゅう》から新宿に向かう|甲州《こうしゅう》街道を通っている間じゅう、兄弟分の車の後ろのシートに、尻を前にずらせて頭を低くしていた。
対向車がやって来るのが、ものすごく速く感じて、こうしていないと、そのたびに首を縮めたりしてしまう。
迎えに来てくれていた兄弟分の大野は、とても心配りの細やかな男で、私の吸っていたショートホープを用意してきてくれた。
ああ、懲役にたばこを吸わせない官[#「官」に傍点]には、本当に腹が立つ。
どこに行っても天井が低く感じられて仕方がない。
これは|刑務所《ムショ》の舎房の天井が、|矢《や》|鱈《たら》と高いからなのだが、夜になって田宮光代の店に行って礼を言うと、サキに電話をかけてくれた。
サキは、三軒茶屋の家に、今晩は泊まれと言ってくれたので、すっかり別れたつもりが、たちまちウヤムヤになる。
女って、こんなに結構なものだったのか、そのたびに、あまりの気持ちの良さに脳出血で|頓《とん》|死《し》するのではないかと思ったほどだ。
一段落すると、一緒にハイネケンを飲んだのだが、四年ぶりのビールなので、最初の一缶で|随《ずい》|分《ぶん》いい気持ちになって、二缶飲んだら酔っ払ってしまった。
女の匂いって、こんなにいい匂いだったっけ。
さあ、これから何をやって飯を食おう。
大野の兄弟は、半年は何もせずにゆっくり休んで、世の中を見ろ、と言ってくれるのだが、セッカチな私のことだから、そんなこと三ヵ月だって無理というものだ。
|刑務所《ムショ》に落ちるのを、修養なんて、どこの馬鹿が言ったことなのだと、そんなもっともらしいことを言う奴を心から憎む。
私は、ただひたすら我慢した覚えがあるだけで、我慢を修養と言うのなら、ビールを五本も飲んでから小便を我慢すれば、懲役になんか行くことはない。
牛肉を食べて、あまりの|美味《う ま》さに、飲み込むのが嫌になったほどだ。
考えてみると、この四年ほど、豚と鶏はたまには口にしたが、牛肉はコマ切れだって食っていない。
牛に勲章でもあげたいほど、とにかくなんて美味いのだろう。
練馬北町(の仲間)が、どこか金を貸してくれるところはないだろうか、と言って来たので、山梨県の|韮《にら》|崎《さき》(の仲間)に電話すると、とにかくまあ来いよと言うから、練馬北町に運転させて出掛けた。
一千万円借りられたら……、ということだったけど、韮崎は、いきなり無理を言うなと言って六百万円貸してくれたので、練馬北町の手形に、
「俺も裏を書こうか」
と韮崎に聞いたら、カラカラと笑って、
「ナオちゃんが裏を書くと、割り難くなっちまうよ」
見ず知らずの練馬北町を、いきなり連れて行って、いくらインフレ時代とは言っても、手形一枚で六百万円用立ててくれるのだから、韮崎は本当に有難い友だちだ。
帰りの|相模《さがみ》|湖《こ》のところで、とても|巨《おお》きなゴルフ・ボールほどのも混って、ものすごい|雹《ひょう》が降ってきた。
オートバイに乗っていた連中が、悲鳴をあげて跳ね飛ぶと、道路端に停めた乗用車に入れてもらう。
私と練馬北町も、運転席から後ろのシートに移ったのだが、フロント・ガラスは、いつ割れるかというほどで、十分ほども|肝《きも》を冷やして、小さくなって頭を抱えていた。
練馬北町は、いくらか降りが勢いを失うと、急に青白くなっていた顔に血の気が戻る。
「ああ、安部さんと一緒でよかった」
なんて、嬉しそうに言うから、どうしてだと訊くと、誰か証人がいてくれなければ、こんな|凄《すご》い雹に会ったなんて、人が信じてくれないかもしれないと言う。
|切《せっ》|羽《ぱ》詰まって金を借りに来たというのに、どこまでトボケた男なのだ。
韮崎は、私の一番の友だちなんだから、チャンと返さないと、容赦なく額に折釘で、深くバツを画いてやるぞと言ってやったら、練馬北町は、|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をして、決してそんなことはいたしませんと言う。
その晩あるところで、放免祝いの|手《て》|本《ほん》|引《び》きをやろうと言って来てくれたのがいて、兄弟分の大野がくれた金を持って出掛けて行った。
|堅《かた》|気《ぎ》になっても|博《ばく》|奕《ち》はやめない。
小さな胴だけど、三本引いて二本立ったから、すっかり機嫌をよくしたのだが、胴は良かったのだけどガワがあまり開かなかった。
胴というのは、親になって勝負することで、ガワというのは子のことだ。
青山の国領が、手形を数千万円パクられたと寝ているところに|報《しら》せがあって、とりあえずスクランブル。
身柄引受人の一大事だ。
山中の野郎が紹介した井上というハングレのような|爺《じじ》いの仕事だというけど、私の勘では、そんな単純なことではない。
ハングレというのは、半分グレているということで、一家に所属していないゴロツキのこと。
国領が都合してきた金を供託すると言うから、被害総額が分からないのだからそんなことしても無駄だとアドバイスして、不渡り対策を立てる。
井上の奴は一年以上も時間をかけて、最初一枚借りた手形を、差し替えているうちに、国領の不用心につけ込んで、差し替えの分を渡さないようになったから、何枚で総額がいくらになるのか分からない。
白紙はなかったのか、と念を押すと、それはないと国領は言うのだが、声に力がないから、もしかすると白紙のもあるかもしれないと思っておいたほうがよさそうだ。
私の会社を、社長の私が辞任して国領の番頭と替えると、すぐその足で登記所から公証人役場に行き、今日の日付けで、国領のビルや不動産に賃貸借契約をその会社がつけて、それから抵当権もしっかりつける。
こうしておけば、最終的には|可《か》|成《なり》危ないけど、とりあえずのところは、わりといい守りになるのだ。
私の勘では、当然のことだが、国領に井上を紹介した山中が臭い。
けどこれは、どうも単純な手形のパクリではなさそうで、大絵図面を画かれたようだから、守る側は大変だ。
なんでも攻めるほうが守る側より断然有利で、攻めるほうは自由自在だけど、守る側は、自分の臨機の能力に頼んで後は祈るしかない。
とりあえず昔の子分をふたり呼んだのだが、当座の飛ぶ(不渡りを出す)のは明日の昼過ぎだから、忙しくなるのはそれからで、それまでは力を入れても疲れるだけだ。
どんなことにもなりかねないから、三軒茶屋からサキを呼ぶと、朝までこれが最後だと私は叫びサキは泣き、これでもうハッキリと別れたのだが、サキもこれで吹っ切れるに違いない。
私の弁護士になるのだと、服役している四年間、大学の法学部に通ったのが、足を洗うのなら全て無駄になったと言って怒ったサキだったけど、どうもヤクザの私が気に入っていたようだ。
それなら早いとこ別れたほうが、お互いのためだし、足を洗うといっても、この出所早々起こった事件は、身柄引受人の国領が攻められたのだから、身体をいとってはいられない。
身体をいとう、というのは、懲役に行くのを恐れて……といった意味だ。
この手形パクリ事件は、私の勘が当たってしまって、大戦争になったのだけど、それはまた詳しく書くことにする。
結局、|森《もり》|脇《わき》|将《まさ》|光《みつ》老人に助けられて、私は辛うじて塀の中に舞い戻らずに済んだのだ。
この本を御買い上げの皆様に、心より厚く御礼申し上げます。
本書は、一九八七年十一月、小社より単行本として刊行されたものです。
(講談社文庫版は、一九九〇年一一月刊)。
ぼくのムショ|修業《しゅぎょう》
講談社電子文庫版PC
|安部譲二《あべじょうじ》 著
(C) Joji Abe 1987
二〇〇二年二月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001