飢餓同盟
安部公房
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17行43文字
眠った魚のように山あいに沈む町花園。この雪にとざされた小地方都市で、疎外されたよそ者たちは、革命のための秘密結社飢餓同盟≠フもとに団結し、権力への夢を地熱発電の開発に託すが、彼らの計画は町長やボスたちにすっかり横取りされてしまう。それ自体一つの巨大な病棟のような町で、渦巻き、もろくも崩壊していった彼らの野望を追いながら滑稽なまでの生の狂気を描く。
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飢餓同盟
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第 一 章
1
花園という地名はほうぼうにある。M県だけでも三つある。だから手紙をだすときは、郡、大字《おおあざ》、字、と、できるだけ詳しく書かなければ届かない。しかしいまは手紙をだすわけではないのだし、それにある先生に言わせれば、物語というものは作者が本当だと言いはるほどウソにみえ、ウソだと言いはるほど本当にみえるものだそうであるから、なおさらアイマイなままにしておくほうがいいようにも思う。でも、昔の花園温泉だといえば、四十すぎた人ならおぼえているだろうか? いまはただの花園町だ。二十年ほどまえに大地震があって、それ以来温泉はとまってしまった。一日一日とさびれていく、老いぼれた普通の町になってしまった。花園という名があたえる印象など、もうどこを探《さが》してもありはしない。ただ、花いじりの好きな駅長がいて、構内にきれいな花壇をつくって表彰されたことがある。もう一つ、花園キャラメルという、箱に一匹の蜜蜂《みつばち》と菊の花をちらした、キャラメルの製造元があって、赤と緑のハチマキをした高い煙突が、やっと地名の印象を支《ささ》えているくらいのものである。
ある雪のふる夜だった。その日は朝から雪がふりつづいていた。最初にマサぶきの屋根の上で秋がおわった。次にワラ屋根の上の秋が追いはらわれ、最後にトタン屋根の上で死んだ。自転車にのっていたものが降りておしはじめると、短靴をはいていたものはゴム長にはきかえ、庭の畠《はたけ》に野菜をいけてあったものはあわててその上に目じるしの竿《さお》をたてた。馬にひかせた最初の除雪橇《じょせつそり》が子供たちにとりかこまれて大通りを通りすぎると、そのあとにはもう融《と》けない冬がきた。
二十二時五分。最終下り準急列車。
ゴム引きの合羽《かっぱ》を着た若い駅員が一人、せかせかした足取で、降りつもったプラットホームを往《ゆ》き来《き》していた。風はやみ、すべてが妙にひっそりと、耳をふさがれたまま天にのぼっているような感じである。六分もおくれていることだし、乗り降りの客もなさそうなので、駅員は発車合図のランプをあげようとした。ちょうど、そのとき、彼が立っていたすぐわきの昇降口から、呼びとめられたのである。――ここは、花園じゃありませんか?
駅員は駅名をよぶのを忘れていたことを思い出し、いやな気がした。しかし、その昇降口の男は、べつに咎《とが》める気はないらしく、雪で立札がみえないのです、とかえってすまなそうにほほえんでいる。駅員は上目づかいに見てためらった。ためらうわけがあった。ここ二三日、町会議員の補欠選挙の工作にS市から大物が乗込んでくる可能性があり、誰がどんな具合にしてくるか分らないというので、花井太助から厳重な見張を言いつかっていたのである。花井太助はキャラメル工場の主任であり、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟、後に飢餓《きが》同盟の有力な指導者の一人だ。この駅員がうけた役目もこの同盟の指令なのである。彼は昇降口の男を、見なれない男だと思い、不安になって、生真面目《きまじめ》とも無愛想《ぶあいそ》ともとれるあいまいな態度でうなずき、ここで切符をいただいておきます、と、わざと聞きとりにくいふくみ声で答えた。男が不器用にとびおりるとその靴の下で雪がきしんで、同時に汽車が動きだした。男はやはりほほえんでいた。
「いいニオイですね。」と男が言った。すこし舌がもつれていた。
「え?」駅員はおどろいて聞きかえした。
「雪のニオイです。」と相手はふかく息をすいこみ、犬小屋ほどもあるトランクを持上げながら誰に言うともなしに言った。「きれいだ、二十年前とそっくりだ。」
男は黒いソフトをかぶり、黒い背広を着て、ほら穴のような感じだった。そのうえにみるみる雪がつもり、すこしちぢまったように見えた。重そうにトランクをかつぎあげると、つもった雪をかきまぜるような足どりで、のろのろ立去っていった。駅員は疑わしげに、しばらく黙ってつっ立っている。……いったいあれが本当にS市の大物なのだろうか? 首をかしげ……男が雪の中に吸い取られていくのを見送ってから、妙に沈んだ気持で詰所にもどった。
今夜は彼が夜勤の当番である。残業の連中が膜をかぶったような表情で帰り仕度《じたく》をしていた。彼はストーブに薪《まき》を一本ほうりこんで、破れ目からのぞく焔《ほのお》の渦をみつめながら、いつの間にかぼんやり考えこんでいる。最近、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟の正体がさっぱり分らなくなってしまったように思うのだ。いや、考えてみれば、はじめから分っていたわけではない。一年ほどまえ、花園新聞の記事で知って、月に一度文化ホールで開かれる読書会に出たのが、事のはじまりだった。
彼はもうその集りのことをはっきり思い出すことはできない。むりに思い出そうとすると、車座になった、七、八人が、一方を向いて同時に口をあけている奇妙な姿で浮んでくるだけだ。そしてその中に自分がいたとはどうしても思えない。天井か、壁の穴からでものぞいていたような気がするのだ。床が傾いて見えた。その一番高いところに住職で花園新聞の社長をしている重宗がいた。あとの出席者についてはあまり自信はないのだが、たぶん中学の先生、開業医の藤野の娘、役場の青年、共産党の舵尾《かじお》、それに花井太助……話の内容については、完全に忘れてしまった。たがいに会話のやりとりがあっただろうということを、想像するさえむつかしいくらいなのだ。ただなにかしら泣きたいような気持だったことを思いだす。彼がひそかに想いをよせていたむすめが、まだ一度も言葉をかわさぬうちに、東京に働きにいってしまった。彼がそのむすめの切符をきってやった。その切符はブリキのように固かった。ハサミの音が何秒ものあいだ耳の奥でなりつづけた。そのときむすめが「さようなら。」と、三月のはじめに麦畠のあいだを吹きぬけてくる南風のような生ぬるい蒸気をふくんだ声[#「三月のはじめに麦畠のあいだを吹きぬけてくる南風のような生ぬるい蒸気をふくんだ声」に傍点]でささやいたように思ったのだ。その瞬間彼は自分の中の詩人を自覚した。しかし文化ホールではそうしたことがすこしも問題にならず、近代的自我の確立という彼の理解からはほど遠い哲学的論議がなされただけだった。彼は一度でこの読書会にこりてしまった。そしてその帰りに花井といっしょだったのである。
とつぜん彼の記憶がはっきりする。
「あいつらは、馬鹿だよ。」……と二人きりになると花井がいきなりそう言った。その一言で彼は花井を、信頼してしまったのだ。信頼したというよりも、この場合、疑惑を解いたといったほうがいいかもしれない。
疑惑……というのは、花井太助についての、妙な噂《うわさ》だった。しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生《は》えているというのである。小さな、腫物《はれもの》ていどのもので、注意して見ないと気づかないくらいだとはいうが、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]ということになれば、もう大小は問題でないだろう。しかしむろん見たものがあるわけではないらしい。噂が噂をうんで伝説になったというのが正しいのだろう。花井が小学生のころ、どうしても身体検査をうけるのをいやがって、受持の教師に噛《か》みついたという噂がある。また、彼が決して水泳ぎに行こうとしなかったというのも大きな根拠の一つになっている。しかしそれだって考えようによっては、噂の原因であるというより、結果であったのかもしれないのだ。そのことを口にだして言い、もしそれが花井の耳に入りでもしようものなら、まさに死にもの狂いの報復をうけることを知っていたから、あらためて口にする者もいなかったが、すでに動かしがたい気分にはなっていた。
……その花井の一言が、すっかり感傷的になってしまった、この不幸な駅員の、花井に対するこれまでの印象をまるで本のページでもめくるように変えてしまったというのも、生活から切り離された場所で人間を区別する一切のこころみが、どんな不当なものであるかを日常思い知らされている、彼の境遇を考えてみれば不思議なことではない。――しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生えているなんて、むろんデマさ、と心の中でつぶやいてみた。しかし、仮にしっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生えていたところで、べつにかまいはしないじゃないか。彼はこれまでの偏見をわびるために、そのしっぽ[#「しっぽ」に傍点]にさわってみてもいいとさえ思った。赤ん坊の指ほどの、小さなすべすべした突起を想像した。すると彼は花井に対して急にふかい親しみを感じたのだ。その親近感は彼が予測した以上にふかかった。まったく、やつらは馬鹿ですよ……とさばさばした気持で強く合槌《あいづち》をうつと、次の瞬間彼の記憶は工場の守衛室の隣の花井の部屋にとんでいる。部屋の四隅《よすみ》からもうもうと蚊ヤリの煙があがっていた。その煙の中で、ぴょんぴょん跳《は》ねながら日本脳炎――花井は蚊のことをそうよんでいた――を両手の間でうちおとしている花井の姿が目にうかぶ。しかしどうやらこの場面は、季節からおして時間的にずれがあるようだ。あれはたしかに冬だった。どうしてこんなずれがおきたのか、まあ誰の記憶にもありがちのことだから、ことさら追求してみる必要もないだろう。はっきりしていることは、その日、町のボスどもに対する激しい攻撃の熱弁を聞き、ついつられてひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟に加入させられてしまっていたということだ。花井は言った――これはぼく一人で喋《しゃべ》ってるんじゃない。ぼくの口は町民一万二千の口を代表しているんだ。……じっさい花井はよく喋った。彼は形容詞というものの数の多さにあらためて驚嘆させられた。その形容詞の数だけでも町のボスどもは窒息してしまうにちがいない。そのときの花井の顔が、彼にはS市の百貨店のショーウィンドウにかざってある、五色のテープをひらめかした扇風器の印象と重なりあって浮んでくるのだ。これにもまた季節的なずれがある。そう言えば花井にはいつも熱病にかかっているような、汗くさいニオイがまとわりついていたようだ。ずれの原因は案外そんなところにあったのかもしれない。
彼はひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟の同盟員になった。同盟員になって一年たった。しかし考えてみれば、同盟について、なにひとつ知っているわけではないのだ。もし人に聞かれたら、なんと答えればいいのだろう? 彼と同盟との間には、点のように花井が存在するだけだ。花井の向うになにがあるのか、想像することもできない。もしかすると、彼が思っているようなものとは、まるでちがったものかもしれないのだ。彼が気にしはじめたのは、つい半月ほどまえ、職場の組織をひろげようと申し入れたのを、花井があっさり断ったことからはじまる。彼は不安になった。同盟はいったい何をしているのだろう? 同盟は果しておれを正式に登録してくれたのだろうか? 花井はずいぶんいろいろなことを喋ったが、具体的なことはなに一つ言わなかった。町政を罵倒《ばとう》しても、町政の分析をしようとはしなかった。革命をしなければならないと言ったが、どうしろとは言わなかった。彼がたずねようとすると、花井はきまって不機嫌《ふきげん》な顔をして、――君がじたばたしたってはじまらない、木の実は熟れれば自然に落ちるものだ。時が来れば本部が君の行動を求めるだろう。待つということだって立派な勇気なんだ。組織を信頼するということは強い節操のあらわれだからね、と、そんなことをいう……そうかもしれない。しかし彼はそうした花井の態度から、なぜか子供のあいだだけにしか通用しない、あの残酷な友情が思い出されてならないのだった。年上の悪童が年少の家来たちをつかまえ、東京を見せてやろうと、両耳をもって宙に吊《つ》るし上げ、見えたか見えたかと、ミエマシタアリガトウと相手の気に入るように言うまで離そうとしない、あの屈辱的な儀式にどこか似ていはしまいか。……
…………………………………………………………………………………………
「狭山《さやま》君。」と残業組の一人がカラの弁当箱で彼の肩をたたいて言った。「明日、分会長のところをまわってくるから、あと、たのんだよ。」……うわのそらでうなずき返し、送りだしてから、なにをたのまれたのだろう? すぐに思い出せないのは、どうせ大したことじゃなさそうだ……そう思ってストーブの中をまた一しきり掻《か》きまわし、もう誰も戻ってきそうにないことを確めてから、電話の呼出しのハンドルをまわした。
2
花井と狭山が電話で、二十二時の準急でやってきた男が何者であるかを、しきりに検討しあっていた、ちょうどそのとき、当の本人はキャラメル工場の前、いま花井がいる守衛室と塀《へい》一枚へだてたそのすぐ前の通りを、ふらふらした足どりで歩いていた。
もてあましたらしく、トランクにバンドをかけ、橇《そり》のようにひきずっていた。しかし、しめっぽいぼたん[#「ぼたん」に傍点]雪は、まるで飯粒のように、ところかまわずベタベタとはりつくので、十メートルごとに立ちどまって、こびりついた雪をかき落さなければならない。……門燈の前で立ちどまった。降りしきる雪の一片《ひとひら》一片に反射して、まるでそこに一本の光の柱が立ってでもいるようだ。その内側に、ろくしょう[#「ろくしょう」に傍点]のういた真鍮《しんちゅう》の標識。――「株式会社花園キャラメル」……男は確めるようにのぞきこんでみて、ほほえんだ。だがここに用事があったのではないらしい。顔をあげて、夢見るように、あたりを見まわす。この、すっぽり雪に埋れた暗闇《くらやみ》の中で、いったいなにが見えるというのだろう?
……ふと暗がりの中に人影が現れた。男はぎょっとした仕ぐさで、逃げ出しそうにしたが、相手がパトロールだと分ると、思いなおして足をとめた。パトロールのほうも足をとめた。「どちらまで?」とパトロールが詰問の調子をおさえ事務的にたずねる。男はほほえみながらうなずいた……が、顔をあげたとき、その微笑は消えて、狼狽《ろうばい》の色に変っていた。
「ぼくはいま汽車で着いたばかりです。」と彼はおどおど、歌うような調子でいった。「二十年ぶりに、この町に帰ってきたのです。」
「うん……」とパトロールは首をかしげ、男の足もとを見ながら、「で、……どちらまで?」
「だから、ぼくはこの町に帰ってきたのですよ。」と男は調子を変えずに繰返す。「もうどこにも行くつもりはありません。」
「よっぱらってるんだね?」とパトロールはきっとして、男の顔をのぞきこもうとした。男は後ずさった。一瞬ためらったが、思いきったように内ポケットから名刺をとりだしてみせた。パトロールが懐中電燈をつきつけた。その光の中にどっと雪がふきこんできた。
パトロールが大きな鼻をすすりあげた。黒ソフトがそれにつけ加えて言った。「信用して下さい。それにぼくはドイツの学位も持っています。」
「信用する、しない、の問題じゃない。」とパトロールはその名刺をためつすがめつ、唇《くちびる》をとがらした。「私は宿のことをうかがっているんです。なにかあったら、私の責任なんですからねエ。」
「ぼくは本当にこの町に帰ってきただけですよ。」
「ふん、黙秘権だね。」
二人は向いあったまま、しばらく黙ってつっ立っていた。男のソフトから、ボサッと雪のかたまりが落ちた。ふいに男が言った。
「その名刺を返してくれませんか。」
「なんだって?」
「最後の一枚ですし、それにいやな思い出を残したくありませんから……」
パトロールは思わず名刺を返し、すぐにまたあわてて取りもどそうとしたが、男はすでに手をひっこめてしまった後だった。パトロールはなにやらわけの分らぬことを呟《つぶや》いた。男が言った。
「ごめいわくはおかけしません。」
パトロールはゆっくり首を左右にふった。――まあ、勝手にしなさい……そう言って歩きはじめたが、二三歩行って急に振り向いた。いきなり男の顔に懐中電燈をつきつけて、消した。しかしべつに意があってのことではなかったらしく、そのまま黙って立去った。
男は眼をとじて、しばらくユラユラと揺れていた。するとその顔にまた微笑がもどってきた。くぼませた手のひらに息をふきこみ、両手をもみ合せ、トランクを引いてまた歩きだす。……一方、塀の中では、話しがおわって、花井が電話を切ったところである。花井は子供が急に老人になったような、腫《は》れぼったい顔の中に、そこだけ妙に上品な小さな口をめりこませ、じっと切れた電話を見つめていた。これは彼が不機嫌なときによくする顔だ。しかしとり立てて問題にするようなことがあったわけではない。狭山の例のぐちと、要領をえない報告に、ちょっとばかり腹をたてたというだけのことである。……そこでわれわれとしては、いましばらく、やはり黒ソフトの後を追ってみることにしたいと思う。
……彼はキャラメル工場の塀の切れたところで、その塀にそって大通りをはなれ、左におれた。雪がいっそう深く、足どりもおそくなる。靴の中に水がしみこんできたらしく、一足ごとにぬれ雑巾《ぞうきん》をふみつけるような音がした。やがてつき当りに灯が見えた。すると男はぴくっと体をふるわせ、苦悩にみちた目で、その灯をかき抱《いだ》くようにじっと見つめるのだ。次の瞬間彼は固く目をとじていた。それから、その灯が消えてしまうのを恐れるように、ゆっくり薄目を開けてみた……灯は消えていない……ククククと自然にしのび笑いが湧《わ》いてくる。
それはガラスの粉をまぶしたような、バスの死骸《しがい》だった。古バスの車体をバラックに改造したものだ。明りはその窓にかけた黒いカーテンの隙間《すきま》からもれていた。男は近づいてたしかめるように、指先でそっとさわってみた。雪がはげおち、赤錆《あかさ》びた表面がザラザラと音をたてた。首をかしげ、とりつけのドアに手をのばそうとしたとき、……カーテンが動いて、誰かがこちらをのぞいた。光が男の上にあたり、その反射で、ドアのわきの小さな名札が読めた。
――矢根善介。
3
男が手をひっこめると同時に、はねかえすようにドアが開いて、「だれ?」と鼻にかかった高い声がした。
男はぎょっとして立ちすくんだ。
バスの中は、わざと工夫《くふう》してとりちらしたのではないかと思われるほどの混雑ぶりである。縁日の露店を十軒ほど一まとめにしてつめこんだと思えば間違いないだろう。いや、ボロでつづった鼠《ねずみ》の巣と言ったほうが正確だろうか? しかし、よく見ればここにもちゃんとそれなりの秩序があるらしい。天井といわず、壁といわず、肉屋の腸詰のようにぶらさがっているボロ布や紙屑《かみくず》は、みんな立派なギニョール人形の衣裳《いしょう》なのだ。色とりどりの小皿や、瓶《びん》のカケラや、針金は、ギニョール人形の血や骨だ。のみこんでしまえば、ここの住人が、貧しい人形使いであることが一目で分るはずだった。しかし男にはまだ飲込めないらしかった。
「だれ?」と声が繰返した。そしてドアの陰から、矢根善介のちぢれっ毛と大きな口とどんぐり目がのぞいた。男は道に迷った子供のように、引返そうとして、思わず二三歩あとずさった。
「なんですか?」と追いかけるように矢根善介が上半身を現した。首にまいた手拭《てぬぐい》、二サイズは大きいカパカパの兵隊服、そり残された顎《あご》のうらの無精ヒゲ、左手には塗りかけの人形の首を、右手には長い絵筆をにぎっている。男は思いだしたように立ちどまり、頭をさげ、そしてほほえんだ。明るいところで見ると、その微笑は、あまり上等ではなかった。しまりの悪い唇の間に、笑い屎《くそ》がたまったという感じなのである。
ほほえみながら男が言い返した。「失礼ですが、あなたは、どなたです?」
矢根は眉《まゆ》をしかめた。すると小猫のような顔になった。「冗談じゃないよ。あんたこそ、誰か、うかがいたいもんだね。」
「失礼しました……」と男は帽子をぬぎ、雪をはらい、さっきパトロールに見せた名刺をまたとりだして、「最後の一枚ですが、あなたには差上げてしまいましょう。」
男は帽子をぬぐと急に十も老《ふ》けてみえた。禿《は》げあがった頭のてっぺんに、毛屑のような髪の毛がボヤボヤと浮んでいるだけである。
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│ 地下探査技師 │
│ 工学士 織 木 順 一 │
└────────────────┘
矢根はちらっと名刺の上に視線をおとし男の顔をながめ、それからもう一度名刺を見た。
「ぼくは二十年ほど前、ここに住んでいたことがあるんです。」と織木が言った。
それがどうした、とでもいうふうに、矢根は黙ってまた織木の顔を見た。
「こうして帰ってこれたなんて、嘘《うそ》みたいだなあ。」と織木が遠慮ぶかげに言った。
矢根はやはり黙っていた。
そこで織木がもう一度、「あなたは、どなたです?」
……しかし相手の返事がえられそうにないので、「矢根さんですね。」と自分から言って、なつかしげにバスの中を眺《なが》めまわすようなふりをしていたが、矢根のきつい視線にであうと、あわててうつむいた。小声で、「ごめいわくはおかけしません。しばらく、上で、休ましていただけないでしょうか?」
なるほど、というふうに矢根は視線をはずし、咳《せき》ばらいして、もちなおした絵筆の柄で絵具皿のふちをたたきながら、「もう十一時でしょう。それに、半から三十分間、毎日停電なんです。」
すると織木の顔にふたたび微笑がもどって、「おや、やはり電力事情がわるいんですか。それでしたら、ちょうどぼくが蓄電器をもち合わせているんですが。」と後ろのトランクを振向いてみせる。「とぼけないで下さいよ。」と矢根は横を向いたまま、「睡眠不足は明日の仕事にさしつかえますからね。」まるで声と自分とは無関係だといわんばかりに、つくりかけの人形の鼻に緑色の絵具をぬりはじめた。……織木の顔からまた微笑が消えた。うっすらとつもった頭の雪を、力なくはらいおとし、ふるえはじめた。……やれやれというふうに矢根は首を左右にふり、石油カンの火鉢《ひばち》のわきに場所をつくってやりながら、「まあいいや、停電になるまで、上って、番茶でも飲んでらっしゃい……戦後は、お互い同士、冷くなったからなア。」
「お気にさわったでしょうね。」と織木がすぐにほほえんで頭をさげた。
「そうでもありませんさ。」と矢根はつぶやくように言い、のろのろと不器用に番茶をすする、あひるの嘴《くちばし》のような織木の唇を見つめながら、「なんでも……自分のことは、自分でせよだ……たよる人は、うらむ人っていうからね……おっかないですよ……」
織木は番茶をすすることに夢中だった。両手でしっかり茶碗《ちゃわん》をつかまえて、その茶碗まで吸い込んでしまいそうな口つきである。矢根は立って、人形の首を天井の鈎《かぎ》にかけ、絵具皿をかたづけはじめた。と、電燈の灯がまたたいて、消えた。矢根が舌打ちして蝋燭《ろうそく》に火をつけた。その蝋燭は短くて、はじめからちりちりと音をたてていた。
「ランプをつけましょうか?」と織木。……「いや、もう、消燈だね。」と矢根。
うなずいて織木も立上った。まるで重さをなくしたようにユラユラ揺れている。それをみて矢根は、影が起き上って歩きだしたみたいだなと思った。雪でおさえられていたドアがピリッと裂けるような音をたてた。織木が振向いていった。――雪がふっていたので、つい想像力をたくましくしてしまって……すみません。
4
二三時間もたっただろうか。矢根善介は馬に頭をかじられるような夢をみて目をさました。裏のほうで変な音がしていた。四分《しぶ》板でふさいだ窓のフシ穴からのぞくと、立木にかけた懐中電燈の光をたよりに、黒い人影が一心に地面を掘っているのだ。雪はやんで、風が出ていた。雪の割目が白く光り、その上に月があるらしい。
「あいつだ。」
と矢根は思った。けずり取ったようななで肩と、ひょろ長い手足で、それが織木であることは間違いなかった。
織木の動作はのろく、仕事ははかどらない。しかし矢根は不安と好奇心から、飽きずにながめつづけた。いったいこの男は何者だろう? ちらと名刺の肩書を想出した――(地下探査技師?)おかしな商売だ。当節流行のウラニウムでも掘っているのか? ……スコップの柄についたあの真鍮《しんちゅう》の巻金だけでも大したものだよ。……それとも……ふん、とんでもない食わせものかもしれないぞ。
やがてひときり[#「ひときり」に傍点]ついたらしい。織木は穴からはいだしてきて、トランクを開け、中から菓子折ほどの紙包とヴァイオリンのケースを取出した。つぎにトランクを掘った穴の中におとしこんだ。穴をふさぐのは手間どらなかった。雪を平らにならして、その上にケースと紙包をそなえるように並べた。ずぼんのポケットから何かをとり出し、紙片につつみ、もう一枚の紙片になにかすばやくしたためて、いっしょにまえの紙包の上においた。それから、雪の中にひざまずき、壜《びん》に入った薬らしいものを雪といっしょに、しきりに口の中におしこみはじめた。飲込むたびに片方の拳《こぶし》ではげしく胸をうち、ぴくりと体をふるわせるのだ。十回以上、飲込む動作を繰返した。あたりを見廻し、首を傾《かし》げたりしていたが、急にごろっと横になった。
と、織木の様子が変り、うめき声をあげ、しきりに嘔吐《おうと》しながら、そこらじゅうころげまわりだしたのである。矢根があわてて裏にまわったときには、もうぐったりと静かになっていた。
弱々しい微《かす》かな脈がいまにも消えそうになっては、またかろうじて立ちなおる。しかし呼吸は案外たしかだった。その頭のまわりに、吐きちらしたものが、点々とまるいクボミをつくっていた。善介はぷりぷりしながら、雪で織木の半びらきになった口のあたりをふいてやり、かつぎあげて部屋に搬《はこ》んだ。
さて、どうしたものだろう、まさかアスピリンを飲ませるわけにもいくまい。懐中電燈をとりに一度もどって、通りに出た。犬が一匹歯をむきだして唸《うな》りながら、彼の前を横切った。とつぜん雲が切れて、懐中電燈の必要がないほど明るくなった。すると急に寒さが身にしみた。キャラメル工場の門の前を通りすぎてから、守衛|小舎《ごや》に灯がついているのに気づき、後もどって門を叩《たた》いた。小舎の小窓が開いて、鼻にかかった平たい花井の声がした。
「だれだい、今ごろ……?」
「おれですよ、花井さん。」と矢根は懐中電燈を消し、門に手をかけてのび上るようにしながら、どなり返した。「こんな時刻に、なんですが、電話をかしてもらえませんか? 行倒れの病人なんです。」
咳ばらい、しばらく返事がない。
「たのみますよ、ねえ。」
「時間外は、責任者の証明なしじゃなあ……」
「だって花井さん、人命にかかわることじゃないですか。」
「お役目ですよ。役目というものは、一種機械のような規則で、ゆうずうがきかなければきかないほど、精巧なんだ。断っておくが、ぼくは他人のおもわくなんて、ちっとも気にしませんからね。」
なるほど、変人ですよ……矢根も負けずに何かいい返したいと思ったが、相手が自分の上役であることを考えて、思いとどまった。彼がキャラメルを仕入れにいくとき、花井がその直接の係だったのである。それに、こういういやがらせには、けっきょく沈黙が最上の武器である。矢根は黙ったまま、塀のかげで顔をしかめて舌をだした。ちょっとした沈黙のあと、花井は案のじょう簡単に折れてでた。ふすまの鳴る音、鍵《かぎ》の音、もとの場所へ引返してから、花井が言った。
「しかし、ゆうずうがきかないことが、逆に一番ゆうずうのきくことでもあるんだ。仕方がないから、勝手に門をのりこえて入っていらっしゃい。鍵は開いているよ。ぼくは知らないことにしておくからね。」
軽々と門の上にとびあがって、矢根が言った。「そいつは、規則違反じゃないんですか?」
「さいわい、」と花井が答えた。「規則というやつは、外に対するよりも内に対する警戒のためにつくられるものですからね。ぼくをしばりはするが、君をしばることはない。」
矢根は一跳《と》びで、ドアを開けて中に入った。土間と宿直室の間は、ベニヤ板の壁で仕切られていて、花井の姿は見えないが、なにか書類をそろえるような音がしていた。
「こんなにおそく、まだ仕事ですか?」と矢根が一応あいさつのつもりでたずねると、花井は仕切の引戸をあけて、二、三度つづけざまにくしゃみをした。頭から毛布をかぶって、なにか書き物をしていたらしい。
「いや、最近どうも悪いくせがついちゃってね。こういう姿勢じゃないと、よく眠られないんですよ。立場上、とかくいろいろと気苦労が多いものだから……」と、火の消えたタバコの端を噛《か》みながら毛布ごと立ってきて、電話帳をくりはじめた矢根の肩ごしに、「藤野医院? ……藤野なら、ぼくの手帳に書いてある、しらべてあげよう……で、誰ですか、その病人は?」
矢根はあっさり電話帳をおいた。花井がいったんこうと言いだしたら、もう後にひくものではない。かかわり合いになるのも面倒だが、黙っているのはもっと面倒である。
しぶしぶ事情を説明しはじめると、急に花井の顔色が変った。吸取紙でぬぐったように血の気がうせた。毛布の前をかき合わせるようにして、矢根の胸のあたりをじっと見つめていたが、固い抑揚のない声で、
「織木……か?」
それを聞くと矢根もわけも分らないまま、急に不安になって、「ばかばかしい、後腐れはいやだから、警察に電話しちゃいましょうか。」
「だめだよ!」花井は毛布をはねのけて土間に飛びおりた。「そうか、そうか。」と呟きながら、しかししばらくは為《な》すすべもない様子。藤野さんは? と矢根がうながすように言ってみたが、それにも黙って首を横に振るだけである。電熱器のスイッチを入れ、矢根の顔を見つめ、窓に眼をやり、唇を固く顔の中にめりこます。
矢根は鼻をすすって、だぶだぶの兵隊服の中に、亀《かめ》の子《こ》のように手足をひっこめた。……首にまいた手拭《てぬぐい》で、冷く乾《かわ》いた額を申しわけのようにふきとり、ふいに立上って――花井さん、あの大将もう死んだかもしれませんよ。……それでも花井は身じろぎもせず、机の上の紙をちぎっては、一つ一つ、真赤に焼けたコンロの上に落していた。ポッ、ポッ、とそのたびに花井の顔が赤く輝く。それを見ている矢根もむしょうになにか燃してみたくなった。近づいて、ポケットのくそをほうりこむと、チリチリと青い焔《ほのお》があがってひどいニオイがした。花井は矢根をにらみつけたが、やはりなにも言わずに窓ぎわに立って行った。
「あ!」と突然花井が振向いて叫んだ。矢根はどきっと息を飲んだ。「燈台のもと暗し……」花井は机ごしに受話器をつかむなり、呼出しのハンドルをまわしはじめた。
もしもし、十二番……十二番……文化ホールの森先生、たのんだよ……こちらは六番。
花井は受話器をおくと、ぐったり全身の力をぬき、声をたてずに、笑いだした。それから、うるんだような眼で、じっと矢根を見つめながら、「君、毒をもって毒を制すって言葉があるね。この事件は、うまくすると、堕落しきったこの花園の町に、正義の鉄槌《てっつい》を下すチャンスになってくれるかもしれないのだ。それだけに、そっとしておくべきことは、そっとしておかなければいけない。ぼくは森先生という、おあつらえ向きの先生がいたことをすっかり忘れてしまっていたよ。もう半分は成功したと同然だな。ところで……あとの半分は……矢根さん、君のことだが、むろん君も協力してくれるでしょうね。実際、下手《へた》に問題をひろげると、どんな結果になって返ってくるか分らないんだ。たとえば……ほんの一例だが……織木さんの死について、君にケンギがかからぬともかぎらない。」
「ばかな!」と矢根は我に返って、大きく手をふった。「これ以上の暇つぶしはごめんです。私らみたいな貧乏人には、とんだぜいたくさ。一日遊べば、一日食えないんだからね、冗談じゃありませんよ。」
「いや、知らないから、そんなことも言っていられる。でも、注意したほうがいいんじゃないかな。なにぶん、法は不知を許さずっていうからね……」
「いやですよ。」と矢根は繰返した。「まきぞえくって、損するのは、いつもおれたちなんだ。」
ベルが鳴った。花井が受話器をとりあげた。
5
花園町立診療所の森四郎は、読みさしの本をふせて、ちょうど寝ついたところだった。彼は妙な夢をみていた。まだ小学生で、いつものように、鞄《かばん》をかけ、学校に出かけていくところだ。学校についてみると、外は昼間なのに、校舎の中は夜のように暗く、人影一つみえない。早すぎたのだと思い、不安な気持で教室にかけていると、廊下に面した窓が開いて、見知らぬ男がのぞきこんだ。見知らぬ男だったが、なぜか小使であることがすぐ分った。小使の顔は、表情も見分けられぬほど皺《しわ》だらけだった。いまごろ、まだ、なにをぐずぐずしてるんだ、もうみんな注射に出掛けてしまった後じゃないかと、腹立たしげに怒鳴るのだ。ふいに彼は想出した、今日はみんなで大人《おとな》になる注射をうけに行く日だった。今日かぎり、世界中の子供がみんな大人になって、もう子供はいなくなるはずだった。それだのに、遅刻した自分だけが取残されて、まだ子供でいる。罰だ! と小使が大声で叫び、彼はあわてて机にしがみついた。顔をあげると前に両親が立っていた。両親はいたわりあうようによりそって立ち、レンズを透してみたように小さな顔をしていた。彼がなにか言おうとすると、シッと唇《くちびる》に指をあて、おまえみたいな子供をもって、私たちは恥ずかしいよと呟《つぶや》くように言い、うなだれて立去った。彼は鉛筆をだしてそぎはじめた。するとどこかでベルが鳴りだした。逃げだそうとして目が覚めた。
しかし、ベルだけは鳴りつづいていた。隣の事務所の電話だった。森はあまり急に跳《は》ね起きたので、心臓だけが体の外に飛び出し、寝床の上でことこと鳴っているようだった。下着のまま、手さぐりでドアを開け、手さぐりで机の間をおよいで、受話器をつかんだ。なにか金属的な音のするものが床にころげおちた。
「もしもし、診療所の森先生ですか? ……花井です。」と相手の声がした。「おぼえていらっしゃいますか? ええ、ええ、実は、急患を診《み》ていただきたいのです……服毒自殺らしいのですが、はあ、いろいろ入り組んだ事情もありますので、詳しくはお目にかかったうえで……」
「工場まで行けばいいんですね?」と森の声ははずんでいる。
「ええ、守衛室に声をかけてくだされば……」
どんなにかながいあいだ、こうした瞬間を待ちこがれていたことだろう。いそいそと往診鞄のホコリをはらい、消毒綿にアルコールを滲《し》まし、注射液を整備し、注射器を入れて電気コンロにかけたニューム鍋《なべ》がフットウするのを待ちながら、しきりと両手をもみ合わせ、森は自然にこぼれてくる笑いをとめることができないでいる。花井にはいささかふくむところもあったのだが、そんなことはもうどうでもよかった。とにかくこれでばかばかしい一ヵ月に終止符をうつことができたのだ。
いささかの説明が必要である。彼はこの診療所に赴任してこのかた、まだ一人の患者も診たことがなかったのだ。いや、来てみると、診療所とは名ばかりで、実際にはそんなものはなかったのだ。彼は患者に飢えていた。……
……森四郎が花園町にやってきたのは、十月の最後の日曜日、ちょうど五十日ほどまえのことである。それまではT市の医大の精神科に無給副手としてつとめていたのだが、なにかの事情で転任になった。花園町立診療所所長の辞令をむりやり懐《ふところ》におしこまれてしまったのだった。恋愛問題が原因だったとも言い、また生活のためだともいう。さらにうがった噂もないではないが、要するに臆測にしかすぎない。しかし事情なしに医者が医局をみすてるわけはないのだから、なにかしら事情があったということだけは確かであろう。
だが彼はその事情[#「事情」に傍点]にほとんど抵抗しなかったらしい。多くの医者、とくに精神科の医者がそうであるように、彼も自分をのぞいたすべてのものが幾分かは異常だと思いこんでいたのだ。異常に抵抗しうるのは異常なものであり、正常なものはただそれを認知するだけである……というのが座右の銘であったと聞けば、彼がこの不運を、むしろ自分からすすんで引受けることで解消しようとした、そのあたりのいきさつも納得できるではないか。つまり、自分のことであれば、どんなことにでも感動することができる、あの便利なタイプの一人なのである。こうしてある日、彼は切符といっしょに、いくばくかの悲しみと希望をポケットにして、T市を後にした。
花園についたのは午後の三時ごろだった。改札口に、約束の赤いリボンをつけた男が出迎えていた。左手でそのリボンをつまみ、右手で懐中時計をいじりながら、不審な面持《おももち》であたりを見まわしていたが、森が手をあげて合図をしても、気づかない。そばによって、肘《ひじ》にさわると、やっとその体の割に不釣合に大きな顔をこちらにむけて、森の顔をじっとみつめ、「森先生ですか?」と低く呟《つぶや》くように言ってから、色の悪い大きな口をかすかに開けた。笑ったようでもあるし、ちがうようでもあった。森は相手の顔の皮が厚すぎるので、うまくいかなかったのだろうと想像した。……まったく無理のない想像だった。額がせまいのか、眼が上のほうにつきすぎているのか、ともかくたるんだ[#「たるんだ」に傍点]袋なのだ。そこにあるのは本当の顔ではなく、本当の顔はその中にまたべつにしまってあるのではないかとさえ思われた。
その特徴はまた、男の動作全般にわたってあらわれていた。思い出したように森の鞄をうけとり、「私、次席助役の柿井と申しますが……はあ。」五、六歩いったところで、ふと足をとめ、また不審げにあたりを見まわしながら、「へんだな?」そう呟いて森をふりむき、「なにをしてやがるんだろう? 車をだすように言いつけておいたんですがねえ……先生、すみませんが、ここでちょっと待っていて下さいな、私、行ってみてきますから……」そう言って鞄を地面におくと、売店のわきに立てかけてあった自転車に乗って、さっさとどこかに行ってしまった。
入れちがいに、旧式の小型車が現れて、森の前に停った。車は右側の道をきたのに、柿井は左側を行ったのだ。なんて間ぬけた連中なんだ……と、軽い嘲笑《ちょうしょう》と優越のまじった気持で車の中をのぞきこみ、彼には珍らしい快活な調子で――最初の印象が大事である――運転手に呼びかけた。
「役場からきたんでしょう?」
運転手は大人のような子供のような、やけにポマードをぬりたくった陰気な男だった――つまり、花井だったのである――無愛想な顔を正面にむけたまま、「ちがいます。しかし、役場から言われてきたのです。」
「柿井さんからですね。」と森はいまさら後にひくわけにもいかず、もう万事心得ているのだといわんばかりの高飛車な態度をとることにきめて、「じゃ、ぼくを迎えにきたんだ。柿井さんは今しがた、車が来ていないといって、さがしに行ったところですよ。」と、相手の返事もまたずにさっさと乗込んでしまった。花井はバックミラーを通して、時々森の様子をうかがっていたが、べつになんにも言わなかった。
タバコを一本吸いおわると、森はすこし不安になってきた。「君、柿井さんはなにをしているんだろうねえ?」
「そうですね、あの人はいつも……」と花井は森か柿井のどちらかに、あきらかに腹をたてている様子で、ふう、と一度つよく息をはきだし、「なんなら、待たずに行っちまいましょうか。途中であうかもしれないんだから。」
「それがいいよ。こんな田舎町《いなかまち》じゃ、行きちがうのがおかしいんだ。」
すると花井はむっ[#「むっ」に傍点]とした態度をむきだしにして、「しかし、この町は商工業世帯数が全人口の六割以上を占めていますし、市街地面積の集中度も五割以上ですし、人口の点をのぞけば、じゅうぶん市制をしく資格だってあるんです。道に迷うことだってありますよ。」
森は笑った。実際には狼狽《ろうばい》していたのだが、「分った。」と、ことさら陽気なふうをよそおって、花井の肩をポンとたたき、「さあ、出発しよう。」
花井は素直にうなずいた。エンジンをかけ……「どちらまで参りましょうか?」
「え? ……君は知らないの?」
「知りませんよ。ぼくはただ柿井さんに言われて車をだしただけなんですからね。第一ぼくはあなたが誰だかも知りません。これは花園キャラメルの車なんですよ。うちの社長がいまの町長ですから、時々こうやって役場に融通してやるんです。しかしぼくは専門の運転手じゃありませんよ。花井といって、この町の旧家の出で、キャラメル工場の主任をしているものです。花井ってのは、ずいぶん旧《ふる》くからある姓らしいんです。昔はこの町も、花井と言っていたそうですからね……」
「そうでしたか……そんなこととは知らずに……じゃ、ともかく、診療所までやっていただくことにしましょうか……」
「なるほどね。」花井は振向き、思い入れたっぷりに唇をひきつらせ、「いずれそんなことだろうとは思っていたが、あいにくこの町には、診療所なんてありませんよ。」
「まさか。ぼくは新任の診療所長なんですよ。ほら、このとおり、ちゃんと正式の辞令も持っている……」
「お疑いなら、そこの交番でたしかめてみましょうか?」
「いや、いいです。それじゃ、まあ、柿井さんが戻るまで待ってみましょう。」
「断っておきますが、ぼくは先生の敵じゃない。」そこで声をひそめて、左右に目をくばりながら、「だから、くれぐれもご忠告申し上げておきますが、役場にだけは気を許さないほうがよろしいですよ。先生のような教養のある方には、お分りにならないかもしれませんが、役場なんてものは大体文明の敵でしてね……まあいまに思い当ることがありますから……そんなときには、思い出して下さいね、ぼくは先生の敵じゃありません……ほら、柿井さんがもどってきた、いまのおしゃべりはぜんぶないしょですよ。」
柿井の自転車は変な具合によろめいていた。広場のすみで釘《くぎ》さしをしていた子供たちの中によろけこみ、バス待合所の塀《へい》に衝突しそうになり、急に動かなくなってハンドルを左右にはげしく振ったりしたが、べつにふざけているのではないらしかった。ふざけているのでなければ、神経の失調である。日常もっとも多く見うけられる失調は、言うまでもなく酒に酔った場合である。
その判断は間違っていなかった。自転車をおりた柿井の眼は血走って、息使いも荒く、顔は名前のごとく、不思議なほどあざやかに赧《あか》らんでいた。たれてくるよだれを手の甲でぬぐいながら、しばらくのあいだ、飲込めない表情で花井の顔をじっと見つめている。
「ずいぶん待ちましたよ。」と花井が何気ないふりをして言った。
「うん……つい忘れていた用を思い出してな。イチマツ靴屋の前を通ったら、おや、助役さん、あんたはうちの伜《せがれ》の名附親じゃなかったかね。あんたが見えんので、うちの伜はもう十日も名無しのゴンベエのままじゃ……ちょっと、ちょっとだけ、というのだが、またすぐに、行かんならん用があるので、忙しい、忙しい、忙しいがちょっとだけ、というわけで……」倒れるままに自転車をほうりだし、花井の肩につかまって、車の中にころげこんできた。
森は、詰問の必要を感じたが、さすが精神科の医者だけあって、じっと我慢した。
「どこへ行きますか?」と花井。
「ヨーサイガッコー。」
柿井はわめくように言って、景色を見る目つきで森をながめ、しだいに顔をよせながち、ふうと酒くさい息をはきかけた。それから、すぐに眠ってしまった。
さて、こんな具合にして森四郎が案内されたのは、いかにも田舎風にモダンな、つまり明治三十年代の文明開化式の、青ペンキを塗った二階だての建物だった。正面に〈花園文化ホール〉と標識がかかっており、その下に、
┌──────┐
│ し 院 │
│ │
│ わ 学 │
│ ↓[#左向き矢印]│
│ る 裁 │
│ │
│ う 洋 │
└──────┘
矢じるしの方向に進むと、通用門があり、ただやたらに効能書をならべた洋裁学院の看板があるだけで、診療所を思わせるものなど何もない。事務室と洋裁学院の教室のあいだにはさまれた、多分宿直用と思われる三畳の間をあてがわれ、柿井と花井はそのまま引返していった。夕方、そば屋の出前が天丼《てんどん》と刺身の小皿をはこんできた。小使のオカネさんという老婆が茶をもってきた。そして、その日は、それ以外にだれもやってこなかった。不安でもあり、腹も立ったが、仕方がないので勝手にフトンをさがし出し、横になったが、なかなか寝つかれなかった。
朝、そうぞうしい物音に目がさめた。目をさますと同時に、ドアの閉る音がして、女の金切声、つづいてドッと嬌声《きょうせい》がおこった。この部屋には窓がぜんぜんないかわりに、入口が二つもあり、一方が事務室に、もう一方が洋裁学院の教室に通じている。いま誰かのぞきこんでいたのは、たしかその教室のほうだ。鍵穴《かぎあな》からのぞき返すと、悲鳴、駈出《かけだ》していく音。向うからものぞいていたわけである。大きなテーブルのまわりにかたまった十二三人の娘たちが、体をよじって笑いこけていた。鍵穴に紙をまるめて栓《せん》をした。
もう一方の鍵穴をのぞくと、一列にならべた机に向って、緑色のジャケツを着た青年と詰襟《つめえり》の青年と、それに一人の老人が静かに事務をとっていた。老人が顔をあげた。老人とみえたのは柿井だった。柿井がジャケツの青年に小声でなにか囁《ささや》き、青年は立上ってこちらにやってきた。こいつがまた鍵穴をのぞきこもうとする。いそいでまるめた紙をつっこむ、と、しばらくしてその栓がポロッと落ちた。むこうから、マッチの軸でついたのだ。
いきなりドアをつき開けてやった。ジャケツが額をおさえてよろめいた。柿井と詰襟が笑いだした。森は入口に立ちはだかって柿井をにらみつけた。森はいきりたち、是が非でも柿井を処罰してもらわなければならないと思った。
「責任者をよんでください!」
するとまた三人がどっと声をたてて笑った。
「責任者は私です。」と、柿井がとつぜん真顔になって体をそらし、「よくおやすみになれましたか? もっとゆっくりしていただいてかまわなかったのです。昼に、ちょっとした歓迎会を先生のために開くことになっておりますが、それまではべつに用もありませんので……」
「いったい、どういうことになっているんです?」
「はあ、なにか御注文でもありましたら、どうぞ私までお申しつけください。」
「ここが、その、手紙にあった所長住宅なんですか?」
「さようです。」
「診療所はどこにあるのです?」
「はあ、後ほど、ゆっくり御案内いたしましょう。まあ、こちらへ来て、お茶でも飲んでくださいな。」
青年たちは書類の中にうつむいて、しのび笑いをこらえていた。
三時ごろ、歓迎会だというので、やっと近くの旅館の二階に案内された。酒がならべられた。とりどりの課長や、委員や、名士が列席する予定だということだったが、実際に集ったのは、油につけてみがいたように充血した助役の浮月と、頭の前と後ろがコブになって分れた、いかにもズルそうな町会議員で、花園新聞の社長も兼ねているという、重宗住職と、それに柿井の三人だけだった。ご苦労さん、ご苦労さんを連発しながら、浮月が言った。いよいよ先生に就任していただくことになって、まことにうれしい。私は当町のパチンコ連合会の理事をしているが、私は衛生観念を大事にしておるから、かならず消毒器をそなえないと開店の許可をしない方針である。消毒器はハト印のB型というやつで、先生はその道の専門だからむろんご存知だろうが、あの製造元は多良根工業と言い、うちの多良根町長の親類がやっているものである。このように、当町は衛生と縁がふかいので、先生にもたのしく働いてもらえることと思う。つづけて重宗も言った。さよう、まことの政治は、まず衛生をば第一と心掛けねばなりません。戦後は性教育などといって、政府も衛生思想の普及につとめておるようだが、まったく衛生のわるい町ほど不潔なものはありませんからな。どうか先生にも、よろしく性教育の普及に協力をおねがいしたい……
しかし、銚子《ちょうし》が四五本|空《から》になるころには、三人はもう森のことなどそっちのけで、町の誰彼のわけの分らぬ噂話《うわさばなし》に夢中になり、森はただぼんやり退屈するだけだった。やがて油臭い女が入ってきて、風邪《かぜ》をひいた猫みたいな声でさわぎはじめる。五時ごろ、詰襟の青年が迎えにきて、三人は森を送りだすと、入れちがいに到着した四五人といっしょに、重要会議だと称して別室にうつっていった。すれちがうとき森は、八の字ひげの大男からしきりと肩をたたかれ、あとで青年から、開業医の藤野さんだと教えられた。藤野さんは町有数の有力者であり、町会議員であり、同時に教育委員だとも説明された。しかし青年は案外無口で、それ以上すすんで喋ろうとはしなかったし、森もべつに聞きただそうとはしなかった。ただ妙に気がめいって、頭が痛かった。
翌朝も、早くから目がさめてしまった。もう寝込みをおそわれるようなへまはせず、ねじこんでやろうと、待ちかまえていた。いったいこれが医学という特殊な技術を身につけたものを遇する道だろうか。たかがちっぽけな田舎町のくせに……そこで柿井が現れるなり、だんこたる処置を要求してやった。まず住宅の変更をねがいたい。次に、ただちに診療所に案内していただきたい。
「はあ。」と柿井は相変らずのとぼけぶりである。「昨夜はよくおやすみになれましたか?」
森はすっかりいらだって、
「おかしいじゃありませんか。まるで、隠しごとをしてるみたいだ。」
「いえ、宿舎はやはりここが都合がよろしいのです。まあゆっくり休養なさってください。万事私が責任をもって……」
「なにか事情があるのなら、はっきりそう言っていただけばいいのです。」
「はあ、月給は前渡しということにしてもけっこうでありますが……」
「ごまかさないでください。」
「そうですか。」
柿井の表情は鉄壁である。森は宣言した。
「あなたとはもう口をきかない。役場と直接交渉します。」
不思議に柿井はさからわなかった。それどころか、詰襟の青年、目黒君をすすんで案内役につけてくれさえした。しかし森は常になく気負いたっていたので、べつに怪しまなかった。
目黒君はひかえ目で、いかにも素直な態度に見えた。外に出てから、森は思いきって話しかけてみた。
「いったい、どういうことになっているんだろうね?」
「よく分りませんが、複雑な事情があるようです。」と目黒君もなかなか慎重である。
「そんなこと、口実だよ。こんな単純な分りきったことに、複雑な事情なんてあるわけがない。」
「そうですね。」
「ぼくははじめ無視されているのだと思った。しかしこれは明らかに一種のサボタージュだ。あの柿井という人は、だいたい無能なんじゃないかな。」
「はあ、でもあの方が町議会の事務局長です。」
「ぼくには次席助役だと言ってたぜ。」
「兼任なんです。あそこが町議会の事務局なのです。」
「しかし、いずれにしても、役と能力は同じものじゃない。あんなことで、よくつとまるもんだ。よくよく間ぬけた、のんびりした町なんだなあ。」
「この町は、この地方一帯の商工業の中心地です。」
「大したことはないよ。ともかく、こんな調子じゃ、町長に直接談判でもするよりほか、手はなさそうだな。」
「でも、町長さんはいませんよ。」
「じゃ、なぜ案内したりするんだ?」
「役場とおっしゃったじゃありませんか。町長さんはいませんよ。年に三四回しかやってきません。いつもS市にいるんです。見えても、予告なしにそっと来て、役場の首脳部の人にしか会いませんから、見たこともない人が多いくらいです。」
「いい気なもんだ。まるで役場ごっこだねえ……」
……役場では助役の浮月が二人を迎えた。森はがっかりした。が、まだ合法的な手続の有効性を信じていたので、保健課長にあい、施設課長にあい、合同専門委員にあった。しかし、唯一人として、柿井以上の答弁が出来るものはいないのだ。……これでは花井の言葉も信じたくなる。診療所は本当にないのかもしれない……ぐったりしてしまった森を、応接室にまねきいれて、浮月がなぐさめてくれた。――まあ、あまり気になさらんほうがよろしい。戦後はとかくこういう傾向が強いのです。民主主義というやつは、多数決だから、どうしても誰かの一存で決めるというようなわけにはいきません。いつぞやも、変なことがありましたよ。農協あてに、ある日、誰も注文した憶《おぼ》えのないものが送られてきたのです。誰も注文した憶えがないばかりか、誰にも用途が分らないのです。細長い棒に、こう、イボイボが五つ並んでいましてね、棒の両端にゴムの止めがついている、さっぱり見当がつかん。一本や二本ならともかく、こいつが二こんぽう、五百本もあるんだから、かないませんや。さっそく製造元に問いあわせてみたが、返事はない。ないはずです、とうに会社はつぶれてしまっていたんですからな。だから今でも倉庫にほうりっぱなしのままになっています。よかったら、そのうちぜひごらんになって下さいな。なにぶん、見たこともないほど、けったいなしろもので……
「ということは。」と、森はかろうじて怒りをおさえ、「私もその、棒みたいなものだというわけですか。私はまた、柿井さんの怠慢だとばかり思っていたが……なるほど、棒だったのか。……いや、たしかに驚くべきことですな。」
「おっしゃる意味が、飲み込めませんが?」と、浮月がいぶかしげに聞き返した。
「ある人から、そういうことを耳にしたのです。」
「なるほど、噂ですか。まったく、噂くらい、たちの悪いものはありませんですからなあ。」
森がすかさず、「それじゃ、すぐに、診療所に案内して下さいよ!」
「おや、なにをおっしゃるかと思ったら。」と子供でもあやすように森の膝《ひざ》をたたきながら、「そんなこと、私に言われても困ります。その件に関してなら、ともかく柿井君が責任の係なんですし、……それに私は、ひどく忘れっぽいたちなんですな。書類にないことは一切おぼえておらん。先生のことはまだ書類になっておらんです。正直に言って、私は先生の名前ももう忘れてしまいました。そんなですから、毎日が忘れ物の心配で、気が気じゃありませんです。それにくらべて、柿井君は記憶がいい。競輪でもうけるのはいつも柿井君だ。ま、柿井君にまかせなさい。悪いことは申しません……」
森は黙って席を立った。道々すれちがうものが、疑わしげに彼を見つめていた。事務所の中を通りすぎるときも、森はじっと前を見すえたまま、柿井のアイサツにもこたえず、そのまま部屋にとじこもってしまった。
……こんな具合にして、森四郎の奇妙なひと月がはじまったのである。
日がたっにつれて、浮月の言った文書という暗示が、大きな比重をもちはじめた。べつに信じたわけではないのだが、たぶん森の好みに合っていたのだ。最初の一週間は、さまざまな歎願書《たんがんしょ》や抗議文の作成で日をおくってみた。連日役場に通いつづけ、あれこれの係と知り合いになってみた。その結果得たものは、ただでさえ耳の早い町の連中に、新しく来た若い医者の奇妙な努力についての、こっけいな印象を、さらにいっそう印象的に値えつけただけのことだった。
一週間目に、彼はちらっと花井のことを思いうかべた。しかし精神衛生学的見地から、彼は花井の人相に信用がおけないような気がした。それで最後のこころみとして、S市にいる多良根町長あてに、直接手紙をしたためることにした。
たぶん、その翌々日だったと思う。洋裁学院は退《ひ》け、事務所も終り、すでに日が暮れていた。二階のホールではPTAの会合がひらかれていて、ときおり拍手の音だけが忘れ物のようにひびいてくる。森は雑誌を読んでいたらしい。あるいは新聞だったかもしれない。そこに、PTAの会合を中座した柿井が、酒のニオイをぷんぷんさせながら引返してきたのである。
「オカネさん。」小使の婆さんを呼び、「二階から一升さげてきてくれや。」とあがりがまち[#「あがりがまち」に傍点]に坐りこむと、親しさを現しているのか、腹を立てているのか分らないような馴々《なれなれ》しさで、「先生……すっかりご心配でしたなあ、町長さんにまで、請願しなすったとは……まあ、今日は、先生を診療所に御案内して、ほっと一と安心していただこうというわけでね……はあ、やっとかたがつきましたです……いえ、仕度《したく》はなさらなくとも、結構、すぐ、そこですから……」
たしかに、そこ[#「そこ」に傍点]にちがいなかった。柿井は森の部屋を通りぬけると、反対側のドアを押し開けた。洋裁学院の教室が、宙吊《ちゅうづ》りの裸電球に、寝不足の朝のような色で照らし出された。片隅《かたすみ》に積み上げられた机と椅子……三台のミシン……傷だらけのモデル人形……ボロボロに線がはみだしたアイロン台……ちらかしほうだいの紙屑……黒板の日程表……そのわきに貼紙《はりがみ》があって〈新入生紹介の方に月謝二割引の大英断!〉
「いかがです?」と柿井が口をすぼめて、「いろいろと調査の結果、やっとはっきりしましたですよ。やはりここが診療所だったんですわ……」
「すると、洋裁学院に、立退《たちの》いてもらうわけですか?」
「いえ、それはまた別の話で、そうはまいりません。役場の台帳の名義のうえでは、はっきりしておりますが、名義と使用権はまたべつですからな……」
「ごまかしはよして下さい! それくらいなら、なんだってぼくを呼ぶ必要があったんです? ……」
「まあ、そう興奮しなさるな……いずれ先生はよそもの[#「よそもの」に傍点]じゃないですか、他人の台所に注文つけるなんて、学問のある人のすることじゃない……それに先生は、町長に出された手紙の中で、私を早発性|痴呆《ちほう》だとかおっしゃったそうだねえ。いえ、どんな意味かも、ちゃあんと知っていますよ……だけど先生、顔は親のゆずり物で、こいつは私の罪じゃないね……そんなことを言うから、よそもののことをこの町じゃ、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎って言うんだ……いや、ごめん下さい、わしらは先生を立てるところじゃ、遠慮なくお立てしますよ。その証拠に、先生に仕事があろうとなかろうと、約束の三万五千円は、ちゃんとお支払い申し上げているでしょう。わしらは固いです。先生に来ていただくために、職員一人のクビを切って、三人の給料を下げたくらいですからなあ……これで、お望みの、診療所もお見せしたことだし、先生にはちっとの損もないのだから、あとは黙ってわしらに委《まか》せてくれりゃいい。それがインテリの徳ちゅうもんでしょうが……」
……こういうことは、森の生涯にかつてない経験だった。そこで彼もはじめて、敵を見つけだそうと、これまでにない大決心をしたのだった。それには翌朝、速達でとどいた多良根町長の手紙も、あずかるところが大きかったと思う。――診療所の開設は町のために絶対必要なことであります。あなた自身が努力を放棄されるようでは、われわれの計画も水泡《すいほう》に帰するというほかはない。心からあなたの奮起をおねがいする次第である、云々《うんぬん》……
敵といえば、すぐに思いつくのは、やはり多良根の政敵である開業医の藤野の娘だった。藤野うるわし[#「うるわし」に傍点]はうるわし洋裁学院の院長なのである。しかし彼は、藤野うるわし[#「うるわし」に傍点]に直接交渉する気にはどうしてもなれなかった。というのは、一つには彼女が坂田金時《さかたのきんとき》を女にしたような、あまりにもたくましすぎる鼻と顎《あご》と首と腕の持主だったからであり、第二には、これがもっと重要な点であるが、彼女が彼に好感以上のものを抱《いだ》きはじめている気配があったからである。彼はまず間接的なイヤがらせを計画した。なんらかの方法で洋裁学院の信用をおとすこと、つぎに森四郎という人間が何者であったかを、人々の心に思いおこさせること……患者を持たない医者なんて、まさに昼間の幽霊か、宙に浮んだ梯子《はしご》のようなものではないか。
……そこで、ある夜ふけ、薬屋から買入れたクレゾール二本を、事務所から洋裁学院まで、くまなく撒《ま》きちらし、さらに藤野うるわし[#「うるわし」に傍点]の教壇の下には、フォルマリン一本分をたっぷり流しこんでおいたのだ。翌朝は、冷い風のふく日だった。窓を開けるわけにもいかず、水をまいたり、雑巾をかけたり、オカネ婆さんが先頭にたって事務所の青年や洋裁学院の生徒たちを指揮したが、かえってニオイをあおりたてるだけのことだった。人々は涙をながし、ハンカチで鼻をおさえ、右往左往するだけで為《な》すすべも知らない。森は黙ってながめていた。首尾は上々だったが、同時にそれは、森の犯行であることを誰の目にも明らかにすることでもあった。
あちらこちらで、ひそひそ話が交わされていた。昼すぎ、涙がでるほど顔をあからめて、藤野うるわし[#「うるわし」に傍点]が、洋裁学院の名前でラジオを持ち込んできた。戦時中つくった、国民なん号とかいう普及型の、とにかく音がするという程度のしろものを、これで先生の孤独の一端でもおなぐさめしたいというのである。森はそれまで彼女を三十七、八だと思っていたのだが、よく見ると、たしかにまだ三十前だ。孤独という言葉との釣合が、奇妙すぎて、森は耳鳴りがするほどの狼狽《ろうばい》に返事をしそびれてしまった。
つづいて事務所の二人の青年が、日頃に似合わぬ恐縮ぶりで、役場から木炭一俵と火鉢《ひばち》をはこんできた。……森は一夜のうちに、自分の格があがったことをはっきりと感じることができた。
この事件以来、彼が接触する範囲の町民たちに、たしかにある種の変化が認められた。しかしどういう種類の変化であったかは、また別問題である。森の真意は理解されず、あらたな誤解をつけ加える結果になったようにも思う。言ってみればむき出しの鉄格子《てつごうし》が、色とりどりのペンキで見栄《みば》えよく塗られたというくらいのことだったかもしれない。けれど森にしてみれば、どんなささいな兆候でも、希望としてみえたのは無理からぬことだった。
……しかし、なんというつかみどころのない希望だったことだろう。いくら柿井が関係書類にハンコをおし、ながい備考を書きいれても、農閑期をひかえたうるわし洋裁学院新入生募集のビラは、次々新たな電柱をうめていく。いかに彼の同情者がふえ、協力を約束してくれても、それはかえって敵の所在をあいまいにするだけのことだった。前進しているのか、後退しているのか、さっぱり、見当がつかなくなってしまうのだ。
そうこうするうち、十一月も半ばすぎたある日、町中が鼻|風邪《かぜ》をひいたような寒い日だったが、町会議員の一人が酒に酔って駅の階段からころげおち、首を折って死ぬという事件があった。一週間おいて、補欠選挙のための選挙管理委員会が事務所の中におかれ、藤野幸福といううるわし[#「うるわし」に傍点]の叔父と、宇留という公安委員が立候補した。事務所の出入は多くなり、柿井も浮月も多忙をきわめる……つまり、朝から酔っぱらうことになる……森はふたたび置き忘れられ、こうなった以上は藤野の父、健康に直接談判する以外にないと思いながらも、砂の上を自転車で走るような空《むな》しいあせりに疲れをおぼえて、ぼんやり明日を待つうち、いつの間にかまた一と月がたってしまっていたのである。
……こうして森は、夢にみるほど患者に飢えていたわけだ。
6
「一と足さきに、帰って様子をみていてください。森先生がきたら、ぼくが案内していきますよ。」と花井がジャケツに袖《そで》をとおしながら言った。
矢根は、自分のほうからそう言いだしたいくらいだったから、むろんよろこんで言われたとおりにした。彼は織木のことはともかく、織木が裏に残したものを早く見きわめておきたかった。織木に万一のことがあった場合、遺品にたいする既得権は獲得しておく必要がある……おれに迷惑かけないと約束して、おれの屋敷? で死んだ以上、使用料を受取るのは当然なことではないか……駈《か》け出して、ひらりと、塀《へい》を飛びこえたつもりだったが、つまずいて、雪の中に頭から墜落した。彼は心の中で織木にわびを言った。
雲は西側の片隅におしやられ、小さな青い半カケの月が真上に輝き、すばらしく大きな黒い空が、白くこごえた町をふかく包みこんでいた。息が凍って一メートルも尾をひく。森は短靴の不便も忘れ、花井のかんばしくない印象も忘れ、ただ久しぶりにかかえた往診鞄の感触と、ふたたび生理的人間の技師として人の前に立つという、職業的なよろこびにひたりながら……暗い空の中に、眼の中の傷のように浮んでいる、工場の煙突をたよりに、雪を蹴立《けた》ててひたすら前進した。
花井は、身仕度《みじたく》をととのえると、電気コンロを股《また》にはさんで、しばらく呆然《ぼうぜん》と身じろぎもしない。複雑な想いが、炉から出してさめかけた鉄のように赤黒く燃えている。いま、花井の頭を解剖してみたら、クモの巣の網目のような迷路の中を、もう一人の小さな花井が駈けまわっているのが見られたかもしれない。
矢根は、バスのドアからのぞきこんで、織木の呼吸――ものすごいイビキをかいていた――をたしかめると、すぐその足で裏にまわり、織木の残したものをかき集めた。地面に埋めたトランクは一応そのままにして、あとのものを残らずバスの死骸《しがい》の中に搬《はこ》びこむことにした。携帯用小型スコップ……ヴァイオリンのケース……紙包み……もう一つの、小さな紙包みと紙片……空の薬びん……。スコップと空びんについては説明を要すまい。ヴァイオリンのケースは、持ちあげると、あの独特な微《かす》かな共鳴で、中身がヴァイオリンであることが分り、べつに怪しいものではなさそうだ。大きな方の紙包みは、なんだか分らない。小さな紙包みには、金側の懐中時計が入っていた。さて最後の紙片であるが、それにはこんな文句が書かれていた。
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┌[#ここから四角囲み]
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――すみません。ほかにしようがなかったのです。くわしい事情は、遺書を読んでください。なお、矢根さん、あなたにはおわびのしるしに、この時計を受取っていただきたいと思います。私の仕事に対してドイツでもらった記念品です。ちょっとコショゥしてますが、なおせばすぐ使えます。ヴァイオリンは、学校の音楽教室にでも寄附してください。五年間、私の唯一の友でした。
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└[#ここまで四角囲み]
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矢根は、間が悪そうに、時計をポケットに落しこみ、つまり、これはおれの権利なんだ。……まったく時計をもつ日を、いくど夢にえがいたことだろう。人形をもって、町から村へ、村から町へ、まわって歩くのが彼の商売である。時計さえあれば、毎日むらなく、二ヵ所以上の能率をあげることは確実なのだ。まして自転車のきかない冬のあいだ、舞台を橇《そり》につんで平方《ひらかた》の駅まで下っていき、そこから汽車で帰ってくる。その時刻を正確にはかることができれば、どんなに助かるか、はかりしれないものがある。
権利だとも……と心にくりかえしながら、矢根は石油カンに炭をおこし、ヤカンをかけて、さて、もう一度ゆっくり織木の様子を見なおした。織木はブザーにでもなったように、全身をふるわして、イビキをかきつづけている。よくなっているのか、悪くなっているのか、善介には見当がつかない。泣きっ面《つら》に蜂《はち》というのは、こんな顔のことだなどと思って、ながめているうちに、いつの間にか自分も居眠りをしはじめていた。
……「どうも、ご足労おかけしました。」と花井があらたまったものごしで頭をさげた。森はすっかり身についた職業的な態度で、軽くアイサツを返し、うながすように奥をのぞきこむ。技術にたよってさえいれば、じつに気持よく、人間を忘れることができるものだ。……しかし花井はそんなことには、まるで気づかぬ様子で、いつぞやは、とさりげない微笑をうかべ、電気コンロの前にイスをすすめながら、――その後、どんなにしていらっしゃったかと、いつも気にしていましたよ。診療所はまだなんですね。せっかく先生をおよびしておいて、なんてだらしないんだろう。じっさい、けしからんですよ……でも、十一月二十日のフォルマリン事件は、痛快でしたねえ……
森は弱々しく笑って、「で、病人は?」
「いま御案内します。すぐとなりです……それにしても、ぼくはふんがいにたえんのです。なんていう町なんだろう。ぼくはこういうことには黙っておられないたちなんだ。いろいろと研究もしてみて、かなり問題の本質をつかめましたよ。すぐ先生のところに、飛んでいこうと思ったのですが、なんだかさしでがましいような気がして……でも、ぼくの思いすごしだったかもしれませんね。きっとそうです。いま先生のお顔を見たとたん、はっきりそう思いましたよ。ぼくはいろいろ、先生のお役に立つことができたのです。」
森は体をちぢめて、コンロに手をかざした。花井はちょっと気を悪くした。
「先生はぼくをあまり信用されていませんね。ぼくがお喋《しゃべ》りだからですか? でも、理由なしに喋ったりはしませんよ。大げさな言い方かもしれませんが、ぼくと先生は共通の敵と闘う味方同志なんだ。そのうち、暇をみて、詳しくおはなししますが、どうもうまく表現できないのが残念だなア……」
「その患者さん、急患じゃないのですか?」
「急患です。だから残念だと言ってるんですよ……まあいいや、今日のところは一つ、具体的なおねがいをするだけにしておきましょう。実は、今夜のことを、ぜんぶ内緒にしていただきたいと思うのです、」
「刑法第一三四条で、医者は患者の秘密を守る義務があります。」
「いや、ぼくの言うのは、もっとちがった意味なんですけれど……つまり、これから診《み》ていただくものが、たとえば先生の敵を倒すためにもごく重要な人物で、ですからなによりも彼がこの町に現れたことを、当分秘密にしておいていただきたいわけなのです。」
7
「いかがですか?」と花井が言った。
森は黙って織木の瞳孔《どうこう》を反射鏡でてらした。
「だいじょうぶですか?」と矢根が言った。
森はやはり黙ったまま、織木の心臓に聴診器をあてた。
「頭の具合が変なのじゃないですかねえ。」と矢根がたずねた。
森はやはり答えなかった。
花井と矢根は森の動作に、さすがに職業的な権威を感じて沈黙した。
森はまず一CCの注射をした。それから両腕の皮下に二十CCの注射を一本ずつした。それぞれ鶏卵ほどの大きさにふくれあがった。花井がホッと吐息をもらした。
終ったという合図をして、やっと森が口を開いた。「この方は、全身の機能がひどく低下していますから、吸収に時間がかかります。熱くした手拭《てぬぐい》で、よくちらしてあげてください。二日くらい、このまま眠っているかもしれませんが、心配はいりません。」
「先生、まあ見てください。」と、沈黙の緊張から解放され、ほっとした矢根がせきを切ったようにしゃべりだした。「この大将、この中身を飲んじゃったんですよ。ゲエゲエ吐いてしまいましてね、それで助かったんだな。いや、まったく、死ぬの、生きるのって、話が大きすぎらあ。それも、他人の家に入りこんで、人さわがせにもほどがあるってもんだ。誰だって、こんな晩にはふとんが恋しくって、百円もらって寝返りうつのもマッピラって心境ですよ、ねえ……」
矢根から受取った壜《びん》のレッテルを、森は首をかしげて見入っていたが、ふいに手帳と鉛筆を取出して、「お名前は?」と構えるように矢根の言葉をさえぎった。
「私ですか?」と矢根が森と花井を見くらべて、眼だけで笑った。
「織木さんのことだよ。」と花井が苦々しげに言い、森のほうを向いて、「しかし、さっきもお話したとおり、今夜の件は知らなかったことにしていただきたいのです。」
「ここに、遺書がありますよ。」と善介が言った。言ってしまってから、後悔して、「いや、そばに置いてあったから、遺書だろうと思うのです。」
花井はハッとしたが、すぐさりげない調子で、「いらんおせっかいだ。織木さんは、まだ死んだわけじゃない。ちゃんと基本的人権をもった人格です。問題を混乱させないでくださいよ。ぼくが先生におねがいしているのは、もっと現実的で重大なことなんだ。矢根君、君にも言ったでしょう。もしこの事件がおおやけに知れわたったら、君にケンギがかからぬとも限らないんだ。」
「おどかしっこなしですよ。」と矢根が思わず、金時計をポケットの上からおさえて言った。
「けっこうです。」と、森が手帳をしまいながら横をむいて言った。
「先生にお茶をさしあげたらどうです?」と花井が言った。
「けっこうです。」と森は立上った。
一瞬織木がいびきをとめた。が、すぐにまた前よりもいせいよく鳴らしはじめた。
8
「もういいな。」と注射のあとをもんでいた手を休め、織木の肩を毛布でくるんでやりながら矢根が言った。「こんなにいびきをかいて、喉《のど》の皮がすりむけないもんかねえ?」
「皮じゃなくて、粘膜さ……」と花井は石油カンをかかえこむようにして言った。「君、本当に口外しないって、約束してくれるだろうね。」
「口の重しには、墓石と、重い財布って言いますね。」
「君の損がぼくの得にならなければいいわけだ。」
「死なばもろともなんてのも、いやですよ。」
「君はなんでも、嫌《いや》がってばかりいるんだなあ」と花井は短くて細い指先で、石油カンのふちをたたきながら、「もっと社会的にものを考えるようにならなければだめですよ。だから早くひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟に入りなさいというんだ。どうです、今夜のことを機会に、一つ加入の決心をしてみたら……本当の自由人にならなければ生きている意味なんかない。君みたいな不幸な人が同盟員じゃないなんて、不自然ですよ。」
「おれは、べつに、不幸じゃないですよ。」
「ワッハッハッ……」と花井は笑った。
「不幸じゃないだって?」
「そんなに、不幸じゃないです。」
「とんでもない、君は絶対に不幸ですよ。君が不幸じゃなくて、不幸な人間がいるもんか。じっさい、不幸を自覚しないくらい、不幸なことはほかにない。」
矢根もついむっとして、「自覚しなけりゃ、不幸でけっこうさ。」
「けっこうかどうかは、また別問題です。君が不幸であることに変りはないんだ。それじゃ聞きますが、不幸でない君が、どうしてうち[#「うち」に傍点]のインチキ広告につられて、花園くんだりまでやってきたんです?」
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宣伝部員マジメナ人 自転車ヲモ
求 チ紙芝居ノ心得アルモノ給二万保
証歴オクレ 花園キャラメルKK
そのころ矢根善介は、仲間の劇団がつぶれ、独立した人形芝居屋になって、街頭で糊口《ここう》をしのいでいたが、いくらかうまくいきそうに思われたので、日掛けでボロ自転車を買い、手をひろげたつもりだったのが思うようにいかず、払込みの金にもことかくような日がつづいて、この分では、自転車も手離さなければなるまいかと思いはじめていた。そんな矢先、この広告が眼に入ったのだった。さっそくその道の仲間にたのんでつくらした〈技術優秀にして教育上功績あるものと認む。全日本人形劇連盟・連盟之印〉なる偽《にせ》賞状を同封して問い合してみたところ、折返し採用通知がきた。こんなやくざな生活から足が洗えて、会社つとめができるなんて、大したことになったと有頂天になり、持物一切売りとばして旅費をつくり、自転車はこれまた仲間のところで換骨奪胎《かんこつだったい》、形を変えて、残金はそのままネコババときめ、意気揚々、花園さして出発した。
……薄暗い守衛室の奥にいる男に向って、「守衛さん。」と声をかけると、男はうつむいたまま、「いないよ。」と顔もあげない。「主任の花井さんに面会したいのですが……」とつづけて言うと、男はこちらの様子をうかがっていながら、しばらくは身じろぎもせず、
「私が花井です。」ふいに立上ると同時に、その足もとから、ハンカチを顔にあてた女工が飛出して、矢根のわきを駈けぬけていった。
矢根がわるびれて、名乗りながら深く頭をさげると、
「やア、君……」と花井はまぶしそうに、なかなか出てこようとせず、気まずくなって、矢根はリュックを地面におろし、口上をのべる調子でしゃべりはじめた。――主任さん、こいつが私の財産でして、人形どもが中で漬物《つけもの》になっております。顔が九ツ、衣裳《いしょう》が十二、それに小道具がそろえ三十二種類ありまして、まあ大概の芝居でしたらこと欠きません。しかし、新|工夫《くふう》というのは、なんと申してもこの簡易舞台、六本の竿《さお》と補助板五枚でどこでも立ちどころに舞台ができあがります。まあ、百聞は一見にしかずと申しますから、ぜひ一つごらんねがって……
花井はやっとこちらに出てきたが、受取ったソデの下が薄っぺらなことに気づいた役人のような冷たさでおしとどめ、「すると、君がつまりこの矢根君なんですね。分りました。明日から用意しておきますから、毎朝九時までに受取りにきてください。そのとき、場所を書入れた地図やノボリなどもおわたしします。」
「なにを受取るんです?」
「キャラメルですよ。きまってるじゃないですか。」
「え?」
「キャラメル一コにつき、八十五銭でおろしてあげるんですよ。」
「……宣伝部員だとかいう、そんな話じゃなかったんですか?」
「だから、それが宣伝部員です。会社ではこの地方一帯の興行権を君に保証しようというのだし、それに普通より五銭も安くおろしてあげるのだ。君は二コ五円で売って、一円七十銭もうける。一日五百人とみれば、八百五十円……月に二万五千五百円、それだけが君の収入になるわけでしょう。あたりまえにつとめれば、君なんか、八千円以上にはなりませんよ。」
「へえ……私はまた社員にしていただくのだとばかり思っていたもんだから……」
「まあ、困ったことがおきたら、いつでも相談にいらっしゃい。損をさせるようなことはしませんから……」
と、これで取引きがおわったのである。しかし矢根はそのまま引退《ひきさが》るわけにはいかなかった。引退ろうにも退れなかったのだ。当然、宿舎の世話なども期待していた。矢根の言い分を聞くと、花井はニヤッと薄笑いをうかべ、いやなら止《や》めていただいてけっこう、ほかに人をさがしましょう。御承知のとおり世は失業者のハンランです。なにも無理にしていただかなくてもいいのです。そう言って意地悪く矢根の顔をみつめていたが、ふと声をおとして、「もっとも、宿のことだけでしたら、そら、例の君の表彰状に免じて、ぼくが会社からあずかって管理している建物を、貸してあげることにしてもいいですよ……千円で……」
……それがこのバスの死骸だったのである。バスはながいこと誰も住んでいなかったらしく、一面にカビだらけだった。光におびえたワラジ虫が、ざわざわ這《は》いまわっていた。もし花井が狼狽《ろうばい》して、矢根に毛布を貸そうと言いださなかったら、矢根はおそらく花井をたたきのめしてしまっていたことだろう。
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「だまされたりしちゃいませんよ。」と矢根が言いかえした。「もしだましたものがいたとすれば、それは会社じゃなくて、きっと花井さん、あんたです。」
「とんでもない。あのとき、ぼくは、主任花井として喋ったんだ。いまは個人花井が言ってるんですよ。個人花井は完全に君と同じ場所に立っているんです。君には知らさなかったが、ぼくは君のためにと思って、人形劇の脚本を書いているくらいなんだ。それくらい、区別してもらわんと困るなあ。」
「いいですよ。会社なんてものは、どうせそんなものだ。それに、会社だけがだましたわけじゃない、おれのほうだって、会社をだましたんだ……あの賞状はニセモノですよ。日本人形劇連盟なんてものは、どこにもありやしませんよ。」
「君……」と花井が急に声を和らげて言った。「そんなこと、ほかで言っちゃいけない。せっかくの君の値打が下っちまうじゃないか……」
様子が変ったので矢根は口をつぐんだ。ふたたび花井が言った。
「それにしても、君はやはり不幸だ。」
こんどは矢根もべつに反対はしなかった。花井が言葉をつづけた。「どうしても君はひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟に参加しなくてはいけない。」矢根が相変らず黙っていると、花井はその沈黙に気をよくしたらしく、ますますやさしい声になって、「まあ、強制はしないさ。ぼくはただ君のことを思っているんだ。しかし、よく考えてみるんですねえ、誰が敵で、誰が味方かってことを……」
矢根は目をとじて首を傾《かし》げた。
花井はやっと腰をあげた。「織木さんの荷物は、その包みと、ヴァイオリンだけですか?」
矢根はアイマイにうなずいたが、花井がそれを持っていこうとするので、あわてて、「おれがあずかっておきますよ。」
「どうして?」
「どうしてっていうこともないが、自然でしょう。」
「自然だなんて、君、信用できるのは主観だけだよ。ぼくは自然なんて信じないな。自然くらい下らないものはないんだ。そういう考えだから、敵の計略にひっかかってしまうんだ。まるで、なにか事があった場合、不利な証拠をのこしておくようなもんじゃないですか。もしぼくが君の立場だったら、こんなもの、たのんででも持っていってもらうなあ。」
「それなら、いっそのこと、この大将もいっしょにつれていって下さいな。」
「君……馬鹿なこと言っちゃいけないよ、ね。」と花井は急に猫なで声になり、遺書の包みとヴァイオリンをしっかりかかえこむようにして、「事情が複雑なんだから、直観でものを言っちゃいけない。君もひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟に入る気があるんだろう、ね、ね……大事な時期なんだよ……分って下さいよ、ね。じゃあ、一つだけ打ち明けるけど、いい、ここだけの話ですよ、実は、このバスは織木さんが正式の持ち主なんだ。ね、びっくりしただろう……ああ、こんなことまで言ってしまわなけりゃならんなんて、世話のやける人だなあ……ぼくはもう責任もちませんよ。こうなった以上は、どうしたって同盟に入ってもらわなくちゃ……ね……」
矢根がなにか言おうとして口を開けたが、花井はその口の前にかぶせるように手をつきだして、出てくる言葉をはらいおとそうとでもするように、はげしくふりまわしたかと思うと、急に、逃げださんばかりにして駈けだしていった。
矢根はすくと立上った。両方の握りこぶしをそろえて、二三度はげしく前につきだし、顔の前にぶらさがった人形の顔をしばらくじっと見つめていたが、がっかりしたようにまた腰をおろした。ヤカンに焼酎《しょうちゅう》をついだ……定量の一合では、おさまりそうにないと思って、一合五勺にした。炭の上にかけて、相変らずイビキをかきつづけている織木の顔をながめているうちに、ふと、ポケットの金時計を思いだし、手のひらにうけてあちこちながめたりしていると、その時計がしだいに大きくふくらんできて、織木の顔になり、君こそぼくの恩人です、と手をさしのべて……焼酎がわきはじめたが、矢根はもう目をさまさなかった。
花井はあまりせい[#「せい」に傍点]ていたので、途中で二度もころび、部屋についたときには全身雪まみれだった。電気コンロの上にかがみこんで、とるものもとりあえず、遺書の包みを解きにかかる。おさえきれない興奮が、鼻からだけではたらず、口からもいっしょに、おそろしい息づかいになって噴出する。ハトロン紙の下に新聞紙が二枚、その下にもう一度ハトロン紙……最後にかなり手垢《てあか》のついた自由日記が出てきた。前半八十|頁《ページ》ばかりがひきむしられている。二枚おいた次の頁から、不器用な読みにくい右上りの字が、右に傾いたり左に傾いたり、大きくなったり小さくなったりしながら、何処《どこ》までもつづいていた。
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第 二 章
9
(織木順一の遺書)――
遺書にもさまざまな遺書がある。
愛しているものは、他人の心の中にとどまろうとして、種子のような遺書を書く。
憎んでいるものは、他人の心に死をまいて、道づれにしようと毒のような遺書を書く。
絶望したものは、他人をもたないから、自分の死を記録するだけの短い遺書を書く。
だが、追いつめられたぼくは、死にたくないのに死ななければならないぼくは、どんな遺書を書けばいいのだろう? ……そのことを考えるとぼくは苦しい。ぼくは理由のない遺書を書こうとしているのだ。死刑囚が殺される前に歌をうたいたくなったり、お茶を飲みたくなったり、美しい心をもとうと願ったりする、あの条理に合わぬ衝動がぼくを支配しているのだ。
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(欄外の附記)
……書くという行為は、あらゆる人間の行為の中でもっとも人間的な行為だ。なぜならそれは自分を支配することだからだ。遺書はその中で、自分の死を支配しようとする欲求だ。
聞いて下さい、ぼくは追跡されている。君たち……と、ぼくはつい追跡者たちによびかけたくなる。いまこうしているあいだにも、ぼくは君たちの足音が聞えているのだ。刻一刻とその足音はふえていく。ぼくは君たちのために目をふさがれ、耳をふさがれ、口をふさがれ……しかし、まあいいだろう。加害者が罪の父なら、被害者は罪の母だ。この遺書はその罪の子だ。
君たちには多分その権利があるのだろう。
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――十月二十一日。
ぼくは両親が朝鮮にわたる途中の船の中で生れました。父は朝鮮で三年間巡査をしました。それまでは花園という温泉町で駄菓子屋をやっていたのです。父は四尺八寸の小男、母も四尺七寸余りの小女。花園では流れ者のことをひもじい[#「ひもじい」に傍点]と言ったので、それとちび[#「ちび」に傍点]とを貼《は》り合した、ひもちび[#「ひもちび」に傍点]というのが両親のアダ名。父は本通りで土産屋《みやげや》を開くのが夢で、商店連盟の加入金と地代のために、五銭、十銭と貯金しました。そのうち、大地震にみまわれて、ぴたっと温泉がとまってしまったのです。もう一度地震があれば、湯は前の二倍になって出るのだという町の識者たちのなぐさめにもかかわらず、町は急に貧しくなりました。父はそれに輪をかけて貧しくなり、植民地行を思い立ったのです。
三年目にクビになってから、父は今度はトラックの運転手になりました。運転手というのは、あまり身長が問題にならない職業らしいのです。父のトラックはもっぱら道路の踏切よりも、法網の踏切をわたる方に熱意をもっていたようでした。おかげで、一応のたくわえができました。花園を出てから九年目でした。
ぼくは自分の生涯を振向いてみると、こんな気がするのです。ながい夜のあと、やっと空が白みはじめ、夜が明けはじめる。さあ、朝がやってくるのだと思っていると、太陽はぼくの顔をみるなり逆もどりして、昼のかわりに、もう一度ながい夜がやってくる。父が花園でうけた屈辱は、つくづくと骨身にこたえたようでした。一寸の虫にも五|分《ぶ》の魂と、口ぐせのように言い、それがかえって花園に帰る決心を固める動機になったのだろうと思います。母の反対は、その決心をあおりたてるだけのことでした。父の計画は、花園町にバスを走らせることでした。父は、温泉の復活を信じていました。
こうしてぼくらはまた花園に帰ってきました。花園についた日、父は盛装させたぼくたちを、むりやり引き立てて、町をねり歩かせました。父は号令しました。胸をはって、前をみて、大またに……そのうち、ひもちび[#「ひもちび」に傍点]だ! とどこかで叫ぶ声がしました。父はぼくらをほうり出してどこかに駈《か》け出していきました。その後のことはどうもはっきり憶《おぼ》えておりません。
バスを買うにはまだちょっと金額が不足でした。父はS市からエレキ号電波療治器というのをとりよせ、本通りの横町に〈エレキ万能治療院〉を開業しました。セト物の壺《つぼ》があり、コイルを近づける、パッと中の豆電球に灯がともる。こんなに電気があるのだと説明して、そのコイルを患部にあてがうと、大ていの病人がささやくように、キキマスワイと答える仕組です。半年ばかりはうまくいきました。そのうち藤野健康という町の開業医が妨害をはじめ、新聞に書いたり、地主の地位を利用して患者たちにいやがらせをしたりしはじめたのです。間もなくエレキはつぶれてしまいました。
決算してみると、モトデを食っていなかったというだけで、すこしももうかっていなかったことが分りました。父は思いきって、藤野の政敵である澱粉《てんぷん》工場主の多良根と組み、工場の隣の空地をゆずってもらい、借金もしました。ある日父がS市から真新しい黄色のバスを運転して町に乗込んだ時、母は人だかりもかまわず、うれし泣きに泣きました。
さて、会社といっても父が社長兼運転手、母が事務員兼車掌。車庫も住宅もなく、夜はバスの中で寝泊りし、昼のあいだぼくは宿無しになるといった生活。父と母は、毎晩バスの中で、未来の「車庫つき住宅」の設計に余念がありませんでした。しかし多良根に支払う莫大《ばくだい》な利子と権利金。父がねがっている地震はいっこうやってこず、乗り手は少く、バスは故障ばかりしていました。
父は疲れてきました。手がふるえ、目がかすんできました。運転手はふつうの三割方早く老《ふ》けるものです。そしてとうとう破局がきました。それは昭和八年の自動車交通事業法というやつです。花園を通る長距離省営バスが計画され、わずかの補償で免許をとりあげられました。その補償金もなにかの口実で多良根から取上げられてしまい、残ったのは図体《ずうたい》だけ大きく何んの役にも立たない、バスと地所だけでした。
車体だけ残してあとを売りはらい、その車体を住居にして、父はまた〈エレキ万能治療院〉にもどりました。しかしもうすべてが落目。地所を切売りして、酒をのみ、世をのろうだけの毎日でした。エレキのような科学的なものは花園の田舎者《いなかもの》にはもったいないのだと言い、地震で一切がめちゃめちゃになればいいと願うのでした。
ある日飲屋で、父は休暇で帰っていたウルドッグというあだ名の陸軍大尉と大げんかしてしまいました。父が誰だって先祖は猿だと言ったのを、ウルドッグがふんがいして、なぐりかかって来たらしいのです、父は熱をだして二、三日寝込んでしまいました。そのことがあってから、父は一切の不幸が背の低いことからおこるのだと考えるようになり、息子だけは一人前にしたいと、暇さえあればぼくをつかまえてエレキをかけはじめました。ぼくが逃げようとするので、縄《なわ》で柱にくくりつけなければなりませんでした。近所の子供が面白がってのぞきに来るのを、母が棒をもって追いかけました。ひもちび、ひもざる、いかれざる、ヤイヤイヤイ……逃げながら歌う子供たち、ぼくはあの歌を死ぬまぎわまで決して忘れないでしょう。
ところが困ったことに、ぼくは十四、のびざかりです。親に似て、クラスで一番低くかったぼくが、どうしたことかその半年くらいのうちにどんどんのびはじめ、父よりも高くなってしまったのです。すると父はよろこぶと思いのほか、本当に自分の子かどうかを疑いはじめたのです。例の藤野健康に、獣医学校を中途でやめた幸福という変な名の弟がありました。この幸福が、催眠術の研究家だという評判でした。もっとも、研究と称して若い女をからかうのが本当の目的だということでしたが。この幸福を呼んで、母に催眠術をかけてもらうことにしたのです。呆然《ぼうぜん》とした母に、おまえは男をつくったことがあるだろう、と父がつめよりました。母はおびえてただうなずきました。どんな男だったと父が聞き返しました。小さな男だったと母が答えました。しかし父は許さず、母をなぐり、それからぼくをなぐりました。母はそのまま平常にもどりませんでした。父は狐《きつね》がついたのだと言って、母の頭にエレキをかけました。なぐってはエレキをかけ、エレキをかけてはなぐりました。一週間目に母は死んでしまいました。
[#ここから1字下げ]
(欄外の附記)
父は母を殺した。母は父に殺された。そしていま君たちがぼくを殺そうとしている。ぼくがいなくても、母は父に殺されただろうか?
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父は数日ぶっつづけに酔っていました。それから、ある夜出かけたっきり、そのまま帰ってきませんでした。ぼくは二、三日、食べることも忘れてじっと坐ったきりでした。三日目に、やっと外に出ようと思いつきました。夢遊病者のように歩き、自分でも気づかぬうちに、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]峠の坂を上っていました。
この道は、父のバスが走っていた道でした。峠の上に茶屋がありました。この茶屋は、むかし温泉場への入口で、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様が祭ってあり、母親と、二人の子供が住んでいました。姉の里子は高等科の一年でぼくと同級、太助は四級下で尋常科の三年。彼等も貧しかった。通りがかりのものに、飲物や「満腹」という茸《きのこ》の干物(ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様の護符《ごふ》で、飢餓よけ[#「よけ」に傍点]の御利益があるという)をひさいで暮していました。温泉がとまってからは、山仕事や日雇が生計の足しだったということです。ぼくの父のバスが走るようになってから、いっそう暮しがわるくなったということでした。この峠の通行権として、いくらかを父から支払ってはいたらしいのですが、花井一家には渡らないのでした。というのは、そこは多良根の持山でしたから。
花井の母は多良根をうらむより、ぼくの父をうらみました。父のバスをひもじい[#「ひもじい」に傍点]バスとののしり、いまにひもじい[#「ひもじい」に傍点]様がたたると予言したりしました。ぼくが峠の茶屋をたずねようとしたのも、まずなによりもこののろいに対する恐怖だったと思う。いや、そう言ってしまっては不公平かもしれない。ぼくは花井里子に不思議なあこがれを抱いていました。里子はその家族たちに似合わず美しかった。というのは、彼女の母は問題外であるにしても、弟の太助は変に大人《おとな》びて、小猿のようで、おまけに、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生えているという噂《うわさ》があった。まさか、本物のしっぽ[#「しっぽ」に傍点]ではあるまいが……。しかし、彼女にはささやく風のようなにおいがしていた。ふさふさとちぢれた髪は、彼女の周囲にだけ、いつも特別の風を吹かしているようだった。彼女はひびの入った茶碗《ちゃわん》を箸《はし》でうつような声で笑ったが、それさえぼくには、たまらなく美しく思われるのでした。
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(欄外の附記)
……ぼくは里子の思い出を愛している。ぼくは里子の夢をみたいと思う。しかしなぜかほとんどみたことがない。ただ一度だけみた里子は、近よってみると、実在の彼女ではなく、えたいの知れぬ形をした彼女の噂だった。彼女の噂は緑色のゼリーのかたまりみたいなものだった。ぼくは思い出すたびに泣きたいような気持になってしまう。
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花井の一家はイロリにかけた鍋《なべ》をかこんで、黙って坐っていました。ぼくが父の行く先を教えてくれとたのむと、里子の母は一瞬おどろきましたが、すぐにひもじい[#「ひもじい」に傍点]様のおみちびきだと合掌して、暮れかけた山道を町のほうへ下っていきました。
留守のあいだ、ぼくは夢の中にいるように幸福でした。雑炊《ぞうすい》を里子の給仕でたらふく食べ、そのあとで太助に学校の宿題を解いてやりました。やがて、イロリのまわりで、三人ともぐっすり寝込んでおりました。
夜ふけて、里子の母が帰ってきました。イロリが消えていたといって、叱《しか》りましたが、その口はそれ以上なにも言わず、翌朝ぼくが里子といっしょに学校に行こうとするのを、引きとめて、一枚の名刺と五十銭玉四つ、べつに東京までの切符をくれて言いました。この人をたずねて行きなさい、花園温泉のひもじい[#「ひもじい」に傍点]茶屋で言われてきたと言えば、きっと親切にしてくれるだろう。そのかわり、ほかの人には花園から来たなんてことをしゃべっちゃいけないよ、つれもどされたりしたら大変だからね。ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様は、もしおまえが帰ってきたら、くい殺してしまうと言ってるんだよ。
ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様もこわかったし、それに四枚の五十銭玉は全能の宝物のように輝いてみえました。ぼくは茶屋を逃出すと、その足で駅に向い、汽車にのりました。その日は朝から雪がふっていました。その雪景色が、ぼくの見た花園町の最後の姿でした。
東京についてから、二三日のことは、どうもはっきりしない。どこかの公園に坐っていると、一人の青年が近づいて、残っていた三枚の五十銭玉をとりあげ、そのかわりぼくをぼろアパートにつれて帰りました。彼は、ぼくの五十銭玉のおかげで命びろいしたから、お礼にしばらく置いてやろうと言い、そのかわりに、部屋の掃除と炊事の手つだいを命じました。中野のチュウさんといって、場末を流すヴァイオリンひきでした。自分では芸術家の天分があるのだと言っていました。四時ごろ出かけて、夜中まで帰ってこない。考えてみると、チュウさんは親切な人でした。ぼくに腹をたてたことと言えば、唯《ただ》一度、彼の留守中ぼくが鼠《ねずみ》をとった話をしたのに、食べられるものを捨ててしまうなんてずいぶんもったいないことをしたものだと、ひどく残念そうにたしなめたときくらいのものです。また彼はいろいろとぼくの身の上を聞き出そうとしました。言いしぶっていると、おまえはなかなか利口なのだが、記憶力はよくないらしい、だがそういう頭こそ音楽家むきなのだと言って、暇をみては音楽の話をしたり、ヴァイオリンを弾《ひ》いたりしてくれました。彼が熱心なので、ぼくも関心をもちはじめ、それから半年のあいだは、毎日きちんとレッスンをうけ、レコードを聞いたり、音楽会につれていってもらったり、すっかり音楽書生として暮しました。
ある日チュウさんが、立派な身なりの女の人をつれて帰り、ぼくはその女の人の前でヴァイオリンを弾かされました。女の人は満足そうに笑い、ぼくを彼女の家につれて帰りました。つくとすぐ彼女はぼくに新品のヴァイオリンをくれ、それから中古だが上質の背広をもってきて、合うかどうか着てみなさいと言いながら、むりやりぼくの服をはぎとってしまいました。はぎとるなり、やにわにぼくのあそこ[#「あそこ」に傍点]に噛《か》みつこうとしたのです。おどろいて逃げようとしたが、鍵《かぎ》がかかっていました。彼女は後を追ってきた。ぼくは叫んだ。すると彼女は立止って、いいわ、いいわ、いやなら帰ってもいいのよ、と、ぼくに新しい服とヴァイオリンをくれ、鍵を開けてくれました。
チュウさんは大笑いしたあとで、我慢してりゃよかったんだよ、おれは近く結婚するつもりだから、そういつまでも君を置いてやるわけにはいかないんだ、と、困ったように言いました。翌朝早く、例の女がまたやってきて、もう一度来てみる気はしないかと聞きましたが、やはり行く気にはなれませんでした。チュウさんは残念そうでしたが、べつに叱りはしませんでした。
三月ほどたって、十五の夏。もう駄目だ、と思いつめた表情で彼が言いました。これ以上はとても置いてあげるわけにいかない、どうしよう、と、四時になっても出かけようとせず、あまり真剣なので、ぼくもやっと決心をし、おぼえているかぎりの一切を話して、着たきりすずめのズボンのポケットから、いれっぱなしにしておいた例の名刺を取出してみせました。おかしな話ですが、ぼく自身、その名刺を本当に見るのは初めてだったのです。
┌────────────────┐
│ 秩父地下探査研究所長 │
│ 工学博士 秩 父 善 良 │
└────────────────┘
……そうです。こうして、君たちの首領は現れたのだ。首領だけでない、君たちも一緒にポケットの中から飛出してきた。善良とはまた、なんというふるった[#「ふるった」に傍点]名前であったことか。これは多分、鼠の内臓をなめている猫がきわめて善良だということだ。心臓にくいこんだ砲弾の破片が善良だということだ。君たちもきっと善良であるにちがいない。すくなくも、猫や砲弾なみには善良であるにちがいない。
しかし千里眼ならぬチュウさんは、この解決を非常にこっけいだと言いました。涙をうかべて笑いこけ、こんな宝物のような名刺をもちながら、君もまったく善良なものだよと溜息《ためいき》まじりに言いました。そして早速、その日のうちに秩父博士をたずねることにしたわけです。
秩父地下探査研究所はK区の工場地帯の、ある電機工場の一角にありました。はじめて見る光景です。あたり一面、道路も、建物も、空気も、太陽までが、赤錆《あかさ》びた鉄の塊《かたま》りでできているように思われました。金属をけずる音、叩《たた》く音がたえまなく、それがまた鉄の虫が鳴いているように思われるのでした。ぼくは不安で息がつまりそうでした。
しかし、君たちの首領が、最初どんなにいまいましげにぼくを迎えたかを知ったら、君たちはきっと笑いだすにちがいない。そのときの秩父博士は、ぼくには、人間というよりも、額縁《がくぶら》に入った肖像画の見本のように見えました。博士はまずチュウさんにむかって、ひどく高飛車に、そんな、ゆすりみたいなまねはやめたまえ、こんなことで何か報酬を期待できるなどと思ったら大違いだぞ、花園町の茶屋のかみさんだって、たしか十年もむかし、地震で温泉がとまったというので調査にいったおりに、一晩かそこら世話になったというだけのことで、それ以上はなんの関係もありはしないんだ、と、大声でどなりつけ、あわてたチュウさんが事情を説明しはじめると、やっと安心したらしく、こんどは私にねほりはほり、天涯の孤児という私の看板に偽りがないかどうかを、一時間もかけて尋問しはじめたのでした。その点にも、なんとか納得がいくと、こんどはかなりおだやかな調子になって、実は不幸な孤児の世話をやくのが私の趣味なんだ、しかし、金の使い道に困っているほどの資産家ではなし、また仕事の関係上、知能程度が水準以下では、せっかくの世話のやきがいもない。これまで私は、いたるところで、孤児救済の宣伝をして来たものだが、残念ながら、まだ一度も救済しがいのある孤児に出会ったためしがなかった。君にも無用の希望を抱《いだ》かせないために、まずテストをしてから、引受けてあげられるかどうかを決めるとしよう。そのかわり、引受けると決めた以上は、学校にもあげてあげるし、将来はかならず、世間に役立つ一人前の人間に仕立ててあげることを約束する。だから、テストに落第したからといって、さかうらみだけは、かんべんねがいますよ。チュウさんは、たぶんぼくの能力をみせるつもりだったのでしょう、とっさにヴァイオリンを弾けと命じました。ぼくは、練習曲かなにかを弾いたようにおぼえています。三十秒も弾いたところで、やめろ! と博士が叫びました。君たちも知ってるように、博士は役に立たないことは一切認めない主義でした。
あらためて一連の知能テストが行われました。その結果に、博士はかなり上機嫌《じょうきげん》の様子でした。おかげでぼくは、一応給仕の名目で、研究所に住込みを許されることになったわけです。むろんまだ博士の真意までは見抜けませんでした。しかし、臆病なぼくは、一晩で居たたまらなくなり、翌朝、アパートに逃げ帰りました。すると、チュウさんはもう結婚していて、ぼくはその若い奥さんにひどく叱りつけられてしまったのです。やむなくまた研究所に舞い戻るしかありませんでした。そしてこれが、チュウさんを見る最後の機会になったのです。半月ほどして、夜学に通うことになった報告をかねてアパートをたずねると、チュウさんはもう死んでしまった後でした。あれから間もなく奥さんとけんか別れして、ふらりと家を出たっきり、電車にひかれてしまったのだそうです。こうしてぼくは、全行動を、いやおうなしに秩父博士の計画のなかに組み込まれてしまったようなわけなのでした。
やがて、夜間工業卒業と同時に、給仕から技術見習に昇格して、測定やボーリングの現場に手つだいに出かけるようにもなりました。技師たちはぼくが頭がよく、役に立つと言ってくれました。しかし、行先の表示のない車に乗ってよろこんでいたのだから、考えてみればいい気なものです。同じ年、兵隊検査をうけて、丙種合格。あやうく青紙でかりだされようとする一歩手前で、研究所が軍の指定になり、一方赤い吸取紙で有能な技師たちがどんどん減っていったその埋め合わせに、(ぼくにこうした方面の特殊な才能があったということもたしかでしょうが)技師待遇の軍属として、一つの専門をもたされましだ。ひたすら墓場にむかって駆り立てられているなどとは、つゆ知らず、これまでにない幸福感にひたりながら……
専門というのは、地電流測定のための、電極の研究でした。接地抵抗をへらし、分極作用を少くし、しかも使用に便利な電極をつくることが目的でした。炭素粉をガラス繊維で固め、硫酸銅《りゅうさんどう》液をしました極被覆《きょくひふく》は、秩父MJ四号としてかなりの評価をうけました。ぼくは、これに力をえて、さらに土地の電位と固有比抵抗を同時に測定し、いままでのやり方では三通りも四通りもの方法を重ねなければ得られなかった精密度で、地下構造を一挙に決定する分離電極法という新しい方法を思いついたのです。この方法は軍機密に指定され、おかげで秩父博士は勲三等|瑞宝章《ずいほうしょう》をもらい、ぼくを自分の息子のようだとさえ言ってくれました。ぼくは得意でした。たぶんあの頃が、ぼくの人生の絶頂だったのかもしれません。
ああ、ぼくはあの時期のことを思うと、自分を憎むあまり、君たち全部をゆるしてやりたいと思うほどだ。ぼくは善良だった。おそらく秩父博士の百倍も善良だった。しかし、善良ということは、あんがいこの世で一番愚劣なことかもしれないのだ。屠所《としょ》の羊が、詩人の涙をしぼるほど善良であるように……そう、ぼくはやはり父の子だった……父に対して、愛情のひとかけらも持ってなどいないつもりだったが、ぼくの遺伝子の半分はやはり父から受けついだものだったのだ。ぼくはいつか、父とそっくりな夢をみるようになっていた。ぼくを追い出した花園を、なんとか見返してやることが出来たら、さぞかし胸のすくことだろう。わが研究の成果である分離電極法をたずさえて帰り、消えてしまった温泉脈の心臓をさぐりあて……いや、いっそ、さらに一歩すすめて、花園に地熱発電をおこしてやったらどうだろう。そうだ、地熱発電! 発電事業! 二十世紀は電気の世紀だともいうではないか。地球そのものを炉にする、無限のエネルギーの開発。すくなくも論理的には可能とされていることなのだ。たちまち空想のなかで、毎時百トン、百気圧の蒸気の柱が噴出しはじめる。花園全町が、その蒸気の柱で、ふるえおののく。そうですね、とりあえず、五万キロワットくらいからでもはじめてみましょうか。そして、完成した日本最初の地熱発電所の開所式……町の、いや日本の恩人として、カメラマンにかこまれながら……やがて花束を手にしずしずと近づく里子を待ち受けている壇上のぼく……さらにその空想のドリルは、必然的にぼくの心臓をまでも、えぐり抜き、ついにある日、ぼくは里子にあてて、一通の手紙を書いてしまっていたのでした。そうした綿菓子のようなぼくの夢の上に、問題の屠殺用ナイフがふりおろされたのも、ちょうど同じころでした。最近の君の進境にはいちじるしいものがある、そろそろこいつが役に立ってくれるんじゃないのかな、と、さりげなく秩父博士からさしだされた一冊のパンフレット。まあ読んでみたまえ、ドイツから直送の極秘文献だが、向うじゃ科学ももう肉弾戦だね。うかうかしてると負けちゃうぞ。ありがとう、と、何も知らない羊は右手にナイフをふりかざした屠殺者の左手の塩に、心からの感謝をしたのでした。
アメリカの空襲がはじまっていました、『一億総|蹶起《けっき》、米英撃滅、振興神州科学』などのビラを賭《は》りめぐらした地下室で、ぼくはそのパンフレットをふるえながら読みました。ふるえが足からはい上ってきて、めくる頁がピリピリと音をたてました。科学における価値の転換という題で、まず大脳の構造が論じられておりました。人間の大脳は、人類がつくりあげてきたいかなる計量器より、数等倍精密、かつ完成したメーターだというのです。ただちに大脳そのものの使用法がけんとうされねばならぬ、とパンフレットはぼくを叱咤《しった》しました……とくに専門的技師自身がその大脳の中にメーターをもった場合、その成果にはいちじるしいものがあるだろう。その大脳は計算器でつないだ百のメーターに等しい……さらにパンフレットは魔女《ヘクザン》という薬について論じていました。……しかし人間の大脳も、そのままでは下らない人間的俗物性によって、なんの役にもたちえない状態にある。わが新薬ヘクザンは、その点を解決した劃期《かっき》的な発見である。このもっともナチス的な新薬は、一言にして言えば、大脳を人工的に条件反射が形成され易《やす》い状態におき、一切の自由主義的無規律をとりのぞいて、有効な機械的統制を強化するものである。この大脳変革によれば、きわめて高度な熟練者を、あらゆる分野で短期間に大量生産することができるだろう。ヘクザンはまた脳の生理的特質、生活歴、使用目的等によって二十二種類に分類され、その分析は「|真実の血清《パントタール》」(強制自白薬)による麻酔分析で行う。ここにそのすぐれた使用例を紹介すれば、F……機械技師、三十九歳、男。一九三×年ヘクザンCCM適用。彼は極低電圧を両手にもった電極を通じて体内に流し、(ヘクザシMは特に生体の電気抵抗を低下させる)その電位差と音階との間に条件反射をつくった。一ヵ月の訓練によっておどろくべき精度に達し、現在、重砲身のキレツ検出に使用中。(従来の計器使用に比し、約三十七倍の能率向上)
さらに、その奥付にしるされた年月日は、ぼくのふるえを二倍に高めました。父が行方《ゆくえ》をくらまし、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]茶屋をたずねて行ったあの日から、ほぼ半年前の日付。つづけて、里子の母親からもらった秩父博士の名刺が――十年前に、たまたま世話になっただけだという、博士の言葉にもかかわらず――まだ新しいものであったことを思い出し、この二つを重ね合わせてみれば、事態はもはや明白ではありませんか。育てるに価いする天涯の孤児……ぼくは最初から計画的に飼育されていたのです。……三十七倍もの効率をもつ、人間計器として……
ふと、エレキをもってせまってくる父の気配を感じ、ぎょっとして振向くと、秩父博士でした、どうだい、と微笑《ほほえ》みながら、いま来日中の科学使節団のビュッヘル教授がこのヘクザンの専門家で、君の分離電極法を話したら、まさに適任だと大乗気なのさ。ひとつ、技術交換にドイツまで留学してみる気はないかね。(留学だと? なぜ委託加工だと言わないのだ)考えてみましょう、とぼくは弱々しく答えた。考えておきたまえ、とわが屠殺者《とさつしゃ》は眼をほそめた。君はこの研究所の花形だ、私は君のためならできるだけのことをするつもりだよ、そのうちビュッヘル教授にも紹介してあげよう。立派な紳士さ、君もきっと気にいるにちがいない……
ぼくはもうただ恐ろしかった。ぼくがぼくであるということさえも恐ろしかった。もし断ったら……(この問題の裏には陸軍技術本部がひかえている)、ぼくは肉体の自由を失うだろう。もし断らなかったら……ぼくは意識の自由を放棄しなければならない。自分で自分を飛びこえることが、こんなに勇気のいることだなどとは、想像してみたこともなかった。追いつめられて、ぼくは自分をのぞきこんだ。人間というものは、芯《しん》までとどく地球のひび[#「ひび」に傍点]ほどもある深さをもっていた。ぼくはぼくに目がくらんだ。
くらみながら、ぼくがひたすら心待ちにしていたのは、里子からの返事でした。むろん、里子の返事に、具体的な何かを期待していたわけではありません。せめて、心の支えがほしかったのです。勇気のよりどころがほしかったのです。しかし、けっきょく、なんの音沙汰《おとさた》もないまま……なんの心の準備もととのわぬまま……最後|通牒《つうちょう》をつきつけられてしまったのでした。昭和十八年の暮のこと、今年最後のドイツ大型|潜航艇《せんこうてい》がY港を出航することになり、ビュッヘル教授もそれで離日するので、できればぼくも同行せよという誘いを、秩父博士を通じて受け取ったのです。出航予定日の十日前のことでした。
とつぜんぼくは花園町に帰ってみようと思い立ったのでした。さすがに秩父博士も、この願いには、帰ったらすぐビュッヘル教授に会うことを条件に、しぶしぶながら許してくれました。
しかしけっきょく、ぼくは花園に帰りつけなかった。休暇で花園町に帰る学生と、偶然車中でいっしょになってしまったのです。……うまく書けない……ぼくの頭は、あの時と同じようにはげしく混乱し……皮をむかれた蛙《かえる》のように、こごえてしまう……
ぼくが話題にしたのは、あの古バスのことだったはずなのに、その学生は、待っていましたとばかりに、里子の消息を面白おかしく喋《しゃべ》りはじめたのでした。
里子が十五の年、藤野幸福――ぼくの母を催眠術で変にしてしまったあの男から、やはり催眠術で手ごめにされたというのです。そして気が狂った………………気が狂った里子はあのバス小屋の中に監禁された。強姦者《ごうかんしゃ》は二十円の罰金を課された。里子の母は慰謝料で飲屋を開いた。それから………………里子はチフスで死んでしまった。……いや、ぼくには、もう書けない。……とんだ笑い話だ……とんだひもじい[#「ひもじい」に傍点]様のごりやくだ。ぼくは汽車をおりて、すぐ次の汽車で東京に戻りました。
……疲れた。もういやだ。書きはじめてからもう一と月たっている。そのあいだにぼくは三ヵ所も居所を変えた。この遺書が、はたして何かの役に立ってくれるだろうか? もう沢山だ。どうせ君たちはぼくを離しはしない。今朝も、君たちの仲間の一人が、窓の下に張り込んでいるのを見とどけてしまった。ぼくは疲れたよ。最後に残ったこの千円札を使いきったら、ぼくはすぐにも花園に帰って死ぬつもりだ。
だが、しめくくりだけはつけておこう。あれからすぐにビュッヘル教授に会った。マブタのたれさがった、猫背で毛むくじゃらの、のっぽだった。教授は、さっそくぼくの適性をしらべようと言って、パントタールの注射をした。その瞬間から三年間、ぼくは夢遊仮眠のなかに、コルクのように浮かんだままですごしたのだ。
ドイツでぼくは立派な人間メーターになり、分離電極測定法の、極《きわ》めて簡易な実用化に成功した。しかし、(予期したとおり)、ヘクザンは恐るべき麻薬の一種だった。ぼくが死なないですんだのは、ひとえに、北フランスのある鉱山地帯で探査中、とつぜん戦争が終ったためだった。一年間の俘虜《ふりょ》生活のあいだに、ヘクザン中毒からも快癒《かいゆ》した。
だが善良博士は、ぼくを見捨てはしなかった。どこで嗅《か》ぎつけたのか、ぼくの帰還船を、ちゃんと港まで迎えに来てくれていた。涙をうかべながら、ぼくの肩に手をまわし――おたがいに苦しい目にあったが、国敗れて山河ありです。もっとも残された山河は狭く、空も日本のものではない。われわれに残されているのは地下だけだ。いまこそ君を中心に、秩父研究所の再起をはかろうではありませんか。……不幸なことに、ぼくは多電極用の器具一式と、ヘクザン五百錠を、持ち帰っていた。ぼく自身は、単に参考品程度のつもりでいたのだが……あとはもう、書く必要はあるまい。ぼくは脱出に踏みきった。そしていま、君たちが二度と追いつけないところにまで、逃亡しようとしているのだ。
ヘクザンよ、ぼくをひもじい[#「ひもじい」に傍点]様のところへつれて行け!
……(このあとに、鉛筆で走り書きした三小節の楽譜。)
10
六時二十五分。
花井太助は織木の遺書を読みおえた。ふるえながらヒロポンを注射して、すっぽりふとんの中にもぐりこんだ。もぐりこんでも、まだもぐり足らないような気がした。それでも、五分ばかりすると、ふるえがとまった。ふるえがとまると、こんどは涙がこみあげてきた。涙はコメカミをつたって流れ、耳たぶをくすぐった。
花井はむろん、姉の里子にあてた織木の手紙を読んでいた。だから当然、織木が有能な地下探査技師であることも知っていた。知っていたからこそ、花園町の運命を変えることになるかもしれない重要人物として、注目もしたわけだ。遺書のなかの、彼自身に関する部分は、あまり歓迎したいほどのものではなかったが、いまやそんなことを問題にしている段階ではない。温泉の復活どころか、話はいっきょに、発電事業にまで発展してしまったのである。
発電……発電……発電……発電……花井の心からも、天までとどく蒸気の柱が、うなりをあげて吹き上る……やはり織木は、直観したとおりの大人物だったのだ……いや、人物ではない、さらにその上をいく、人間メーターだったのだ!
――だからさ、と彼は思わず、声に出しかけて、あわてて口をつぐみ、顔をしかめた。尾部に灼《や》けるような痛みを感じたのだ。ふれてみると、尾《び》てい[#表示不能に付き置換え「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21]骨《こつ》の上が固く隆起している。化膿《かのう》しはじめたのだろうか。化膿だけなら、つぶしてペニシリンでもぬりこんでおけば問題ないのだが、彼が恐れているのは、再生、ないしは成長の可能性なのである。三年ほど前、いちど切断の決心をして、S市の病院に問い合わせてみたところ、彼のしっぽ[#「しっぽ」に傍点]は真性のものではなく、一種の腫瘍《しゅよう》がしっぽ[#「しっぽ」に傍点]らしい形をとった、仮性尾というものだろうということだった。だとすれば、手術で一切が解決する。もっとも、断定の限りではないから、ぜひ来院されたしと、いやに思いやり深げにすすめられてみると、今度はかえって決心がにぶってしまうのだった。万一、真性だったりしたら、どうしよう。さっそく新聞種になって、一生をだいなしにされてしまうにちがいない。当然、駅員の狭山の姉のヨシ子の心臓を、いずれは射とめてやろうというかねてからの望みも、きれいさっぱり御破算になるわけだ。とんでもないことである。なにしろ彼女ときたら北小学校の音楽教師であるのみならず女子マラソンで、県の選手権保持者の地位を三年間もまもりつづけているという、町きっての花形なのだから……
いいとも、こんなしっぽ[#「しっぽ」に傍点]くらい、その時がくれば、あっさり自分の手で切り落してしまってやるさ。名誉にかけても、他人の目にさらしたりしてなるものか。いまはペニシリンという便利な薬だってあるんだからな。もっとも、これが、先祖返りの真性尾だったりしたら……トカゲの尻尾《しっぽ》のように、切っても切っても生えてくるのではなかろうか……悪くすると、その刺戟《しげき》で、かえって成長が早まるということにだってなりかねまい……
なにより気になることは、はじめは一年に三、四日の痛みだったのに、それがやがて一ヵ月ごとにちぢまり、最近ではついに半月ごとのサイクルになってきたことだ。……必要以上に気にして、いじくりすぎたのがいけなかったのかな? きっとそうだ。それだけのことだったのさ。どうもおまえは、なんでもいじくりすぎる癖がある。いじくりすぎたら、なんだって変になるよ。鼻だって、夏ミカンになる。
彼は痛みとたたかうために、ふとんから這《は》い出し、織木の遺書を前にあらためて坐りなおした。そうだとも、二十世紀は、電気の世紀なんだ……わがひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟が、その電気を、ぐいと両手でとりおさえるんだ。分離電極法だとか、ヘクザンだとかいうことは、よく分らなかったから、織木の体が一本のドリルに変形して、まわりながら地面に穴を開けていく姿を想像することにした。再びその穴からもうもうと白い蒸気の柱が立ちのぼり、太陽がその蒸気の中で、赤いガラス玉のように見えだした。町じゅうが地鳴りでふるえ、くずれおちた。廃墟《はいきょ》の中に、ただ白い蒸気の柱だけが、塔のようにそびえている……
(そうだ、ここに発電所を建てるんだ!)――花井は青ざめ、全身に鳥肌《とりはだ》をたて、身ぶるいしながら、こんどこそは本当に声に出してささやいた。
……やがてヒロポンがきいてくる。とっさに、跳《は》ね起き、明けはじめたばかりの町の中に駈《か》けだしていた。駈けながら、道ばたの雪をつかんで頬《ほお》にあて、充血した眼をひやしながら――織木はことわるだろうか? いや、そんなことはあるまい。事情が事情なんだから、話せば分ってくれるだろう……分ってくれるさ……分ってくれるさ……分ってくれるとも。
仲通りに出ると、ぽつぽつ通行人の姿がみられた。ありったけのものを着こんで、くびれ目がなくなったような恰好《かっこう》で、駅の方に向って行くのはS市に働きにでる通勤の連中である。反対の方角に行くのは、製材所の早番の連中である。
花井は仲通りをつききって、さらに中学校の校庭を横切り、桂川にそって右におれ、いやに開けぴろげな感じのする川ぞいの二階家の前でとまった。染物屋である。この二階にイボ蛙《がえる》が間借りしているのだ。イボ蛙はここの主人の二番目の妻の先夫の妾腹《しょうふく》の子である。裏でコトコト火をたく音がして、もうおかみさんが起きていた。
「井川君、いますか?」と花井が小声でたずねた。おかみさんは、じろっと上目使いに見て、無愛想にうなずいた。花井は、むっとしたが、そのまま黙って二階に上った。二階といっても、母屋《おもや》にくっつけて建て増した部分の屋根裏で、部屋の端のほうは、天井が低く、頭がつかえるほどである。その隅《すみ》っこに、イボ蛙が、緑色のジャケツに赤い襟巻《えりまき》をしたまま、穴だらけのふとんにくるまって寝ていた。
「緊急会議だ。」と花井はタバコをくわえ、マッチをさがしながらあわただしく、「君、もうれつなニュースだよ、いよいよ行動にうつるんだ、ね、井川君……」
「なんですか?」と、イボ蛙は薄目を開けたが、かえってふとんの中にもぐりこむようにして、また目を閉じてしまった。
花井は腹をたてて、ふとんをひきはがした。「いやですよ。」とイボ蛙はふとんにつかまるようにして起上ったが、まだ充分に覚めきっていない様子である。花井は新しいタバコをぬいて、イボ蛙の口におしこんでやり、
「マッチは?」……イボ蛙は首を横にふった。「おとといから、火気厳禁なんです。おかみさん、そろそろ更年期なのかもしれないなあ。」
「コタツもないの?」
「悲劇ですよ、まったく……そっち側から、ふとんの中に足を入れてください。」
「大変なんだ、ぼくはもう二十二時間、一睡もしていない。」
「注意してくださいな。こっち側は綿がむきだしになってますからね、むりするとふとんが分解してしまう。」
「下らんことを言うな。それどころじゃないんだよ。ね、井川君……もう目が覚めたかい? 大変な相談なんだ……いよいよ、やるぞ。昨日の夜中、すごく高性能のダイナマイトを手に入れちゃってね。……君、織木って人、知ってる? ……知らんだろうなあ……知らなくてもいいさ。でも、誰にも言っちゃいけないぜ。この織木って男が、ドイツから新発明の器械をもって来てくれてね。地下の温泉脈をさぐったりする器械なんだが……分るかい? ……温泉を見つけ出す器械だよ。でも、温泉なんてたかがしれている。そこで、ぼくは考えたんだが……いいかい、おどろくなよ……ぼくは、その地熱を利用して発電所をつくることを思いついたのさ……どうだい、おどろいただろう? ……とにかく、二十世紀は、電気の世紀だからね。考えてみりゃ、同盟の仕事がなかなかはかどらなかったのも、ぼくらに資金がなかったからだからな。ぼくらが発電所を経営したら、君、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟は、町一番の財閥になっちまうんだ。そうなりゃ、鬼に金捧じゃないか、ね、そうだろう? ……」
「だけど、花井さん、変だなあ……花井さんは、金は毒だって言ってたじゃないですか。金は毒で、権力は悪で、労働は罪で……人間が絶対自由になるためには、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]革命で、町の人間ぜんぶを貧乏人にしなけりゃならないんだって……」
「もちろんさ。そうやすやすと意見を変えたりしてたまるものか。しかし、毒をもって毒を制するってこともあるわけだろう。ぼくらが発電所を経営するのも、べつに金もうけが目的なんじゃない。その金を使って、金を否定しようってわけなのさ。つまり、金を否定するための金なんだな。」
「でも、やっぱり、変だなあ……いくら金を否定しようとしても、そんな大がかりな事業をしたりしたら、こんどは金があまって、困っちまうんじゃないかな。」
「変なことなんかあるものか。何をするんだって、資金は必要さ。自殺だって、道具なしじゃむつかしいからね。そうだ、君を重役にしてやろう。」
「重役? ……しかし……」
「そこで、おりいって相談があるんだが……君、会社のつくり方を研究してもらえないだろうか。たしかホールの図書室に、そんなことを書いた本があっただろう? ……分らないところは、何気なく、柿井さんに聞いてみるといいよ。彼はずっと収入役をやっていたんだし、専門だからね。そいつを君、なんとか今日の夕方までに、やっておいてほしいんだ。」
「今日の夕方?」
「無理をしてでも、やってもらわなきゃ困るんだ。」
「だって、今日は土曜日でしょう。昼からは、問題の読書会ですよ。」
「読書会も問題かもしれないが、会社のほうは、もっと重大問題だからな。」
「しかし、貝野のやつ、今日の町議会のことで、読書会を煽動《せんどう》しようとして、かなりあちこち工作してまわっているようですよ。」
「平気平気、あんな連中をあしらうくらい、ぼく一人で沢山さ。それよか、なぜ会社のことをそんなに急ぐのか、そのわけを説明するとだね、じつは今夜、いよいよひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟の第一回拡大会議を開くことになったからなのさ。」
「会議? 本当ですか?」
「なんとか、それまでに、間に合わせてほしいんだよ。」
「どういう人が出席するんです?」
「それは出てみてからのおたのしみ。ただ、診療所の森先生だけは、ぜひとも出席してもらいたいんだが、まだ同盟に入ってもらっていない。朝のうちに会って、話をつけるつもりだけど、君、事務所に出たついでに、ぼくが会いたいからって、つたえておいてくれないか。」
「いやだなあ……ぼくはあの先生は苦手なんですよ。あの先生が来たおかげで、給料が下ったんだと思うと、やはりこだわっちゃうんだなあ。」
「そんなちっぽけな感情で、革命ができるものか。君は未来の重役なんだぜ。森先生には、どうしても加盟してもらう必要があるんだ。分るだろう、誰か織木氏の面倒をみてくれる医者がいるんだよ。七時に町長を迎えに行く……七時半に……そう……八時だな、八時に、イスズの二階で待ってるからってつたえてくれないか。診療所のことで、重要な話があるからって言えば、きっと来てもらえるよ。……さてと、今夜の会議は見物だぞ……」
「しかし、ぼくはやはり、これまでどおりの、ぜんぜん横のつながりをもたないやり方のほうに賛成だなあ……会議なんかひらいたら、どうしたって無理がいきますよ。馬だっで、思いどおりに歩かせようと思えば、わざわざ目かくしをさせるんじゃありませんか。」
「たしかにそれも一面の真理さ。しかし、発電所という画期的な計画ができた以上、どうしたって作戦の変更はさけられないよ。そうじゃないか、ね、いまや同盟は町の中心的な存在になって、やつらの鼻面《はなづら》をひきまわすために、正々堂々と姿をあらわし、名乗り出なけりゃならないんだ。」
「名前を出すんですか……?」
「かまやしないじゃないか。ぼくは社長なんだ、君は重役なんだぜ。」
「それはいいんですよ。ただ、どうも、同盟の名前がね……」
「同盟の名前? ……ふん、なるほど……そんなに気になるんなら、そりゃ、変えたっていいよ。じゃ、変えましょう。ひもじい[#「ひもじい」に傍点]をやめて、そうだな、飢餓っていうのはどうだろう。飢餓同盟……うん、悪くないじゃないか。なかなか語呂《ごろ》もいいし、それに、思想的な気迫が感じられるね。よし、飢餓同盟にしようや。この名前で書かれた記事や主張が、ビラで町中に貼《は》りだされたり、新聞にのったりしてみろよ、さぞかし肝をつぶしちゃうだろうなあ……」
「そりゃ肝をつぶしますよ。」
「多良根だって藤野だって、もうぼくらを意識しないでは、何んにもできなくなる。」
「花井さん、あなたが一つ町長になってください、なんて頼みにきますよ。」
「いや、ぼくは断る。私は発電会社の社長である前に、まず飢餓同盟の委員長なのです。諸君は勝手にやりたまえ。しかしわが同盟は、諸君が平等に貧困になってしまうまで、けっして、闘いをやめないでありましょう……」
「でも、花井さん、本当に大丈夫なんですか?」
「くどいぞ、君は。ぼくなんか今日、ことによったら、多良根に辞職をほのめかしてやるくらいの覚悟でいるんだ。君だって、そうだぜ。せっかくうしろに、大発電会社がひかえているっていうのに、もっとしゃんとした姿勢がとれないものかね。いまに、花園の空には、発電所の煙突が高々とそびえ立つんだ。そして、多良根だとか、藤野だとかいった連中が、こんどは乞食《こじき》みたいになって、片ちんばの下駄をはいて、髪の毛をほこりだらけにして、トラホームになって、よたよた裏通りを、野良犬みたいにうろつきまわるのさ。ゆかいじゃないか、思っただけでも、ソーダ水を飲んだみたいに、胸がすうっとしちゃうだろ。ちくしょうめ、ひとを馬鹿にしていると、どんな目にあうか、さんざっぱら思い知らせてやるからな……」
「ほら、とうとうふとんが破れちゃった!」
「下らん! いま何時かな?」
イボ蛙は枕元の望遠鏡をとりあげ、窓からとなりの家をのぞきこんで、「まだ暗くて、見えにくいなあ……六時に五分前くらいでしょう……」
「六時になったら出かけよう。あと五分か。とにかく今日一日は、波瀾万丈《はらんばんじょう》だぞ。」
「本当に、ウルドッグをけしかけるつもりなんですか?」
「いらん心配はしなくてよろしい。とにかく君は、会社のつくり方を研究しておけばいいんだ。」
「でも、せっかく発電所だなんていう、すごい計画がうまれたっていうのに、まだ、そんな前の作戦なんかに、こだわらなけりゃならないんですか。」
「敵の後方|攪乱《かくらん》は、いくらしたって、損ってことはないだろう。」
「しかし、こわいですからねえ、ウルドッグは。考えただけでも、体がうずうず痒《かゆ》くなっちまうよ。出来れば、そんな危い橋はわたらずに……」
「馬鹿だなあ、君は。表と裏の、両面作戦が可能なら、そいつがいちばん安全な攻撃方法だくらい、小学生にだって分る道理じゃないか。さあ、出掛けよう。君の話を聞いていると、こっちまで気がめいってくるよ。同盟の会議は、六時半からはじめる。その前に、会社のつくり方なんかについて、一応聞いておきたいから、六時に、工場の方によってくれないかな。」
「いいんですか?」
「なにが……?」
「寝てないんでしょう。」
「なんだ、つまらん。ナポレオンだって、一日に三時間しか寝なかったんだ。それから、くれぐれも森先生への伝言を、忘れないようにね……」
すっかり朝になっていた。太陽が粉になってとび散ったように、空よりも地面のほうがまぶしい朝だった。堤防の一メートルほどの坂を、子供が輪になってすべっていた。花井は来たときと同じ早さで駈けもどった。ちょうど工場の門が見えたところでサイレンが鳴りはじめた。
11
しかし、花井は、工場には戻らなかった。そのまま、すべる足もとの余勢をかって、バスの死骸《しがい》に直行したのである。矢根はちょうど目をさましたところだった。寝不足で、燻製《くんせい》のような顔をしていた。「どうです?」と花井がたずねたが、矢根はくしゃみの連発でしばらくは返事ができない。あわててかんざましの焼酌《しょうちゅう》をすすり、鼻をすすった。
「どんな具合です?」と花井がくりかえして、織木のほうをのぞきこんだ。織木はもういびきをかくのをやめ、気持よさそうに眠っていた。「ちょっと起してごらんなさい。」と花井がせきこんでつづけた。矢根は言われるままに、織木の枕元にすわりこみ、肩に手をかけてゆすってみた。織木は死んだ魚みたいに動かない。「もう一度……」と花井がさいそくした。こんどは織木の体がびくりとふるえ、それからまた昨夜とそっくりないびきがはじまった。
花井は唇《くちびる》を左右にひいてほほえみ、満足そうに、小刻みにうなずいた。ふいに矢根のほうに向きなおって、「どう、決心つきました? 同盟のこと……あ、そうだ、改名|御披露《ごひろう》しなきゃいけないな。今朝、ついほんの今しがた、名前が変ったばかりなんですよ。こんどは、飢餓同盟っていうんだけど、どうです、まえよりは、ずっといい感じでしょう? なにか、こう、思想的な重みがあって……」
矢根は返事のかわりに、身ぶるいして立ち上った。膝《ひざ》の骨が弱々しく鳴った。花井がつづけて、「重大な決心は、よく夢の中でしたり、起きぬけに思いついたりするっていうけど、君はどう? ……もう決心ついたんじゃない……で、いきなりのおねがいなんだけど、今夜の会議にここを使わしてもらいたいんだ……ね、いいでしょう……むろん君にも、出席してもらうつもりです。」
矢根は、とんでもないというふうに上唇をめくって、長い廊下を便所をさがしに駈《か》けまわった。夢のことをくどくどと喋《しゃべ》り、考えるひまなんかまるでなかったと弁明したが、それでは、いま決心してしまいなさい、と、花井は追求の手をゆるめない。ちょっと便所に行かしてくださいな、と矢根は泣声をだした。一分でいいんだよ、と花井は入口の前に立ちはだかって、君、ほんとにぼくにはわけが分らない。君の利益になることじゃないの、ね、ぼくはマジメなんだ、ぼくがこんなに真剣な気持で言ってるのを、はぐらかさないでくださいよ。このままで行って、君はどうなると思ってるの? これから冬のあいだ、君の商売じゃ、食うのだってせいいっぱいじゃないか。もし君がうんと言ってくれさえすれば、もっともっと、君がびっくりするような話を聞かしてあげられるんだがなあ……ぜったいに後悔しないよ、保証するよ……ね、いやになったら、退会すればいいんじゃないか。本当に、もうこれ以上、じらさないでくださいよ!
「会費は、いくらなんですか?」と矢根はふるえ声で言った。
「とんでもない、飢餓同盟は、貨幣経済を否定します。」
矢根は両手のくぼみの中に息を吹きこみ、足ぶみしながら、他人の書いた文章を暗誦《あんしょう》するような調子で言った。「それでは、加入……し、ま、す。」
「ふふ……」花井はしみじみと笑って言った。「よかったなア……ほっとしちゃった。」
「入ったら、なにかいいことがありますか?」
「ありますとも、むろんですよ……君は工場長にしてやろうかな? ……ふふ……まあ、その話は夜の会のときにしましょう……それから。」と調子をあらため、「君も同盟員になったんだから、織木さんのことで何かあったら、かくさずに言って下さいね。じゃ、今夜六時半に……ぼくを入れて、たぶん四人集ります……」外に出かかったが、あ、と声をあげて振向き、「まったく、どうかしているよ、一番大事なことをうっかり忘れるところだった。そら、織木さんが飲んだ薬の空壜《あきびん》、どこにある? ……あるんだね? ……ああよかった、ぼくはまた、水でも入れてしまったんじゃないかと思って、ひやひやしていたんですよ。ひょうたんから駒どころじゃない、この空壜から、革命がうまれるんだ……」光にかざして、中をのぞきこみ、二三度かるく振ってみてから、ハンカチにくるんでそっとポケットにしまった。
出ていこうとする花井を、こんどはためらいがちに矢根が呼びとめて、
「花井さん、じつは、黙っていたことがあるんだけど……あの晩、この織木っていう人、裏に何かを埋めたんですよ……なにか、トランクみたいな四角い箱……」
「トランク?」
「これぐらい。」と手で大きさを示して、「いろんな、器械みたいなものが入っていましたよ。照明具も、持っているって言っていたっけなあ……」
「ね、君。」花井は急に、少年のようなおどおどした顔になり、「いますぐ、誰にも見つからないように、掘り出しておいてくださいな。そいつはきっと、すごく大事なものなんだ。すぐに金に替えられるというものじゃないが、使える者が使えば、金の卵を生むにわとりみたいなものなんだ。ぼくがやりたいけど、七時までに、どうしても駅まで行かなきゃならない、急用が待っていてね。おねがいします、雪が融《と》けはじめたら、しみこんでしまうだろう……ね、たのみますよ、本当に……」
遠くで、しかしいつもよりは近く、老いぼれた獣のように汽車が吠えた。峠をこえた合図である。花井はころがるように、駈けだしながら、叫んでいた……「後生だよ……ね……君をかならず、工場長にしてあげるからさ……」
この旧式の車は、寒いとうまく始動がかからない。ガソリンをうんと吸いこまして、ぐっとセルを押す指に一念をこめるのだが……ザザザザ、パッフ、パッフ、……ああ、せめて雪さえ降っていなければな……ザザ、パッフ、パッフ……誰か押してくれるものはいないか? ……パッフ……パッフ……パパパパ、パッフ……工員たちは、七時半にならなければやってこない、なまけ者め! ……ザザザザザ、パッフパッフ、パッフ……くそ、革命で、こんな車はまっ先にたたきこわしてしまわなけりゃならん……パッフ、パッフ……おれは、社長で、委員長なんだぞ、……ザザザザ……いまに見てやがれ……パフパフパフ、パッフ……
……やっと駅についたときには、予定より五分もおくれていた。が、さいわい、汽車のほうでもちょうど五分おくれてくれたので、多良根町長のステッキだけはまぬがれることができた。
ステッキといっても、べつになぐることではない。多良根は、つね日頃、外交官のような、と自称している、あの関節のすくない自動人形のようなものごしがひどく自慢であったが、残念なことに、少々左足が寸足らずなのである。ふだんはさほど目立たないが、急いだときや、階段を上るときなど、どうしても笑わずにはいられないような失態をしでかしてしまうのだ。左足がまだ地面につかないうちに、右足を出そうとしてつまずいたり、さっと振向こうとして、いうことがきかず、足をねじらせてしまったり、曲り角で、左右の足を離ればなれにしてしまったり……そこで肌身はなさず、金のにぎりがついた古風なうるしのステッキを、寝床の中まで持ち込む習慣がついていた。そのステッキが、また威嚇《いかく》のための武器でもあったわけである。と言っても、くりかえすようだが、なぐったりするわけではない。ただ、ヒュッと斜め後ろに風を切る。同時に、靴の踵《かかと》を小太鼓のように打ち鳴らす。そのリズムと早さは、彼の口からでるどんな言葉より、百倍も雄弁に他人の心を支配した。とくに花井は彼の家で、書生生活をおくった、学生時代の三年間のあいだに、すくなくも七種類のリズムを聞きわけるようになっていた。その音は、どうやらマリオネットの糸よろしく、彼の神経のそれぞれに、直結してしまっていたらしいのである。
ぴんと背骨をおっ立てて、多良根が改札口をでてきた。多良根一人だった。駅長と狭山がうしうにつきそっている。多良根と駅長が、立ち話をはじめた。花井は多良根のステッキを見て、機嫌《きげん》の目盛は中の上、やはり張り合う気はないんだなと思った。帰り支度《じたく》をした狭山が、空弁当を鳴らしながら近づいてきた。花井が小声で言った。「君、昨夜の男のこと、誰にも言っちゃいけないよ。」……「やっぱり大物でしたか。」と狭山は睡《ねむ》い目をむりに開いて言った。多良根がやってきた。花井が囁《ささや》いた。「今夜、六時半に、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]バスで会議を開くからね。」……「会議?」狭山はハッとして花井を見た。花井は車のドアを開け、(いまに見てやがれ)と心に乞食になった多良根の姿を思いうかべながら、ふかく敬礼をした。……狭山は感動をかくさず、じっと花井を見つめた。彼は同盟に対する動揺を、ふかく恥じ入ったのだ。花井は窓ごしに、その燃えるような視線を受けとめ、ヨシ子のことを思い出していた。するとしっぽ[#「しっぽ」に傍点]の切口が、またしめつけられるように、キリッと痛んだ。
12
多良根をひさご屋に送りこむと、花井はすぐその足で、ウルドッグをたずねることにした。車のままで行ったのでは、目立ちすぎるので、途中、狭山の家の前にあずかってもらうことにした。断りを言いに、狭山の家をのぞくと、狭山とヨシ子と母親の三人がはげしく何か言いあっており、やがてヨシ子のすすり泣く声がきこえてきた。花井があわてて車にもどり、警笛を鳴らすと、狭山が短い丹前にゴム長といういでたちで駈《か》けだしてきて、集って車の中をのぞきこもうとする子供たちを追いちらしながら、窓にすがらんばかりにして言った。
「姉のやつには、まったく、手を焼かされますよ。あんなのが、民主的っていうんですかねえ。どうしても薪代《まきだい》をもたないっていうんだ。かなり貯《た》めているくせに、ヴァイオリンを買うんだなんて言いはって……ぼくなんか、家に収入の八割方を入れているんですよ。それだのに、ちくしょう、あんなことでいったい教員がつとまるんでしょうかねえ……」
花井はちらっと家の中をのぞきながら、なだめるように狭山の肩に手をかけて、
「なんだ、薪代ぐらいで、一人前の男が興奮したりしちゃだめじゃないか。ぼくの想像じゃ、ヨシ子さんは、たぶん自由を求めているんじゃないかな。理解してあげなくっちゃ、ね……なんなら、そのうちぼくが会って、話してあげようかな……」
「だめ、だめ。うちの姉ときたら、ぼくがいくら口をすっぱくして花井さんのことを宣伝しても、まるっきり信用しようとしないんだからな。自分だって、大した考えも持っていないくせに、てんで偏見がつよいんだ。ぼくはもう嫌《いや》ですよ。いまも、薪代が惜しいのなら、東京へでもどこでも、すきなところへ行ってしまえって、どなってやったんだ。」
「そりゃ言いすぎだよ、君……」花井は手のひらのくぼみをしっぽ[#「しっぽ」に傍点]の上にあてがい、顔をしかめた。目をふせ、唇《くちびる》をすぼめると、大きな耳と、小さな顎《あご》がいやに目立つ。ませているくせに、栄養失調にかかった、中学生のような感じだった。……が、すぐに気をとりなおして、車のドアに鍵《かぎ》をかけ、ズボンを靴下の中におしこみながら、「さあ、こうしちゃいられない。しばらくここに、車をあずかってくれないか? 今夜の会の準備やなんかで、てんてこまいなのさ。ヨシ子さんのことは、いずれまたゆっくり相談にのることにして……」
「たのしみだなあ……」
「うん、こう見えても、ぼくは、女性心理についてだって、けっこう一家言をもっているんだぜ。」
「いや、会議のことですよ。」と狭山はふところ手のまま、体をゆすりながら、「六時半でしたっけね? じゃ、ぼくは、組合の報告の準備でもしていくかな。分会ときたら、こんどの補欠選挙にも、まるっきり無関心なんだ、あそこまでエゴイズムに徹すれば、うちの姉とも、いい勝負ですよ。」
「がんばろうよ。」と、花井は狭山の顔から目をそらしたまま、叫ぶように言って歩きだした。
「がんばりましょう。」と、狭山は花井の後ろ姿にほほえんだが、ふと気づいて、車の上に這《は》い上ろうとしていた子供をひきずりおろした。同時に家の中で、ガラス戸が倒れるすさまじい音がした。救いを求めるように狭山は目をあげたが、花井はもう、露地の向うをまわってしまった後だった。
……ウルドッグの家は、そこから三丁ほど奥まった四つ角の、庭のひろい白壁の平家である。〈宇留源平〉と、まるで剣道場の看板ほどもある標札が、まず通行人の注目をひく。悪趣味だといってしまえば、それまでだが、しかし彼は事実剣道四段なのであり、地方的水準からいえば八段くらいの値打ちはあったのだから、それくらいのことは大目に見てやってもいいだろう。十数年来つづけている、朝の木刀素振りの気合は、近所の人々には寺の鐘くらいになじみ深いものだった。また、ウルドッグというあだなの由来の一つにもなっていた。……由来の一つといったのは、むろん由来因縁が、とうてい一つにはおさまりきれないからである。その体格、たるんで今にも流れだしそうな顔、「おうっ。」と返事のかわりに発する奇声、ゆっくりと噛《か》みつき、噛みついたら離さないという頭の悪さ……それも単に譬喩《ひゆ》的に噛みつくだけでなく、じっさい、現実の歯をもって人間の肉に噛みついたこともあるという(ただし相手はうら若い女性だったということであるが)……といった具合で、ウルドッグというのは、ブルを宇留にもじったものであるが、むしろ彼とブルドッグの相違点をさがしたほうが手っとり早いくらいのものだった。参考のためにつけ加えておくと、彼は元軍人、現在町の公安委員である。無私無欲、正義の人、青少年の教育家として通っていた。そして、一生にただ一度、町会議員にしてくれればというのが、この豪傑の、ささやかにして唯一のねがいだったのである。
花井が訪《たず》ねたときも、彼は朝日にむかって〈米英撃滅〉と焼印のはいった愛用の木刀をふりまわしている最中だった。この瞬間だけは無念無想の境地だというふれこみであったが、案外そうでもないらしく、目ざとく花井を見つけると、「おうっ」と叫んで木刀をかまえ、「人生はたのしいのお。」とうめくように言ってから、わわわわ……と体をゆすって笑いだした。
一瞬花井は暗い表情で宇留の口もと――唾液《だえき》で油をぬったように光っていた――をにらみつけたが、すぐに顔をふせ、「折入って、お話したいことがあるのです。」と、ことさら甘えたような口調になってみせる。「おうっ。」と宇留が、手まねきしながら、先に立って縁側に腰をおろす。「じつは、今日の多良根町長と藤野先生の会談のこと……宇留さんもあとで町長とお会いになるんですね……ぼく、その前にぜひお話しておきたいことがあったんです……」
「おうっ。」と宇留は、立ち上って軒下にさがった生干しの柿をもぎとり、花井に渡しながら、「気にせんでもいい、悪いようにはせんから、町の政治は経験者にまかせとくんだな、」そしてまた、わわわ……と唾《つば》を八方にとばして笑った。
「いえ、ちがうんです。ぼく、大変なことを、あるところから聞いちゃったんです。でも、一つだけ、約束してくれませんか……誰から聞いたか、それだけは絶対に他言しないって……」
「おうっ。」
「町長は、宇留さんをおとす気なんです。」
「君、流言はいかんぞ!」
「町長は、藤野先生が嫌《いや》がっている診療所を実現させないかわりに、宇留さんを町議に出させるって条件をつけたわけでしょう? ぼくらも、みんな、それが当然だと思ってましたよ。対抗馬の幸福さんは、あのとおり、人格的に問題のある人だし……ところが、ほら、来年の町長選挙……ね……町長の気持が動揺しはじめたんですって。診療所の閉鎖にくわえて、宇留さんの立候補辞退という景品までつけて、交換に来年の町長をもう一度せしめよう……って言うと悪いけど、そら、最近工場の景気がひどくわるいでしょう。多良根さんとしても、町長の地位に、あらためて未練がでてきたんじゃないでしょうかねえ……」
「君、それは……」
「そりゃ、町長にしても、宇留さんとの約束を破るのは、さぞかし寝覚めのわるいことでしょうね。でも、背に腹はかえられないとなれば、やはり大事なのはなんといっても自分なんですから……」
「そうか、そうか……しかし、君、たがいに軽挙|妄動《もうどう》はつつしもうな……ふん、ふん、多良根という男は、そういうやつだったか……」
「よして下さい、そんな言い方は。やせても枯れても、町長は、うちの社長なんですからね。」
「あ、そう、そうだろうな。君は、むろん……」
「ぼくが腹を立てているのは、あの藤野幸福に対してなんです。宇留さんは知らないんですか、公安委員のくせに……へえ、変だなア……じゃ、言いますけど、どこから出たかは聞かないでくださいね……ぼくが知らせたことも内緒ですよ……ね……死んだ町議員のKさん、死んだんじゃなくて、本当は殺されたんですって……そういえば、そら、筋がとおるでしょう……だって、幸福のやつ、代診だといっても、獣医学校中退の知識しかないんですよ。それを、健康先生が立ち合おうとしなかったなんて、見えすいてるじゃないですか。謀殺ですよ。補欠をねらって、計画的に殺したんですよ……ね……分るでしょう? 町長は、単に、まきぞえをくっただけなんです。」
宇留は黙ってゆっくり立ち上った。眼に血管がういていた。太陽の方をむいて数度深呼吸をくりかえし、腰の手拭《てぬぐ》いでかたくはちまきをすると、〈米英撃滅〉をつかんだ左手を腰にあて、駈けだす姿勢でぐっと膝を折った。しかし花井は、宇留が決して駈けださないことを知っていた。しばらくそのままにしておいてから、静かに、なにげなく付け足した。「いいんですよ、宇留さん、あんなやつら、うっちゃっておけば……九時の巨頭会談の結果を聞いてから、へえ……っていうような顔をして、じつは自分は、これこれの情報をつかんでいると、町長に耳打ちの一つでもすれば、それで万事かたづくことですよ。ね、そのほうがずっと自然じゃないですか。正面切るのは、その後でいい。急がばまわれという、ことわざもあることだし……」
「そうだな、機会と金には、時をかけろともいうしな。」と、宇留ははちまきをといて顔をふいた。
「そうですよ。最後に笑うものが、一番よく笑うんです。」
「高見は、遠見、か……」
「いざとなれば、重宗さんにたのんで、新聞を動かすこともできるし、また裁判という手もあるんだし、勝つにきまった勝負に力をつかうのは馬鹿らしいですよ。」
「おうっ。」と、いつもの三分の一くらいの声で、しかしやっとウルドッグらしいところをとりもどし、「無戦の勝は、勝中の勝。花井君……わわわ……いや、しかし、あんたも町に対して、えらい忠義をつくしてくれました。宇留源平がかわって、ふかくお礼を申します。まったく人間は、外見よりも中身じゃねえ。いや、あんたを見なおしたよ。……だがねえ、花井君、あんたはえらく情報通だが……」
「そいつは、言いっこなしっていう約束でしょう。」
「うん、言わん、言わん……」
「いま、何時ですか?」
「おうっ、と、七時四十四分、かな?」
「今後も、お役に立てることなら、なんでも申しつけて下さい。ぼくは、不正に黙っていられないたちなんです。本当に、宇留さんに期待してるんですよ。」
「おうっ、わわわわ……」
「三時の町議会は、どんなことになるんだろう? ……宇留さん、念のために、木刀もっていったほうがいいですよ。」
「いや、君、私は仕込杖《しこみづえ》をもっていくよ。知ってるだろうが、あの杖には、願《がん》がかけてあってな、いったん抜いたら、ぜったいに血を見ないではおさめられない……たとえ抜いた後、こちらが早まったということが分っても、あやまってから、ちょっとだけ切らせてもらう……相手を逃がしてしまったときにはな、関係のない人でもかまわないから、たのんでちょっと切らしてもらう……血がつけばいいんだよ……だから、誰もいないときには、自分の胸を切るんじゃ。わわわ……それを、君、わしがあれを持ってると、世間の馬鹿は殺伐だなんて言いくさる。見当ちがいもはなはだしい……私が剣道四段だちゅうことを、忘れとるんだな。木刀だって、私が持てば真剣と同じじゃ。しかし木刀なら、つい振りまわして、相手を殺してしまわんともかぎらん。だからこうして、自分をおさえるために、わざわざ仕込杖を用意しとるんじゃないか、なあ……」
それから宇留は、自分の肉を切ることにするから、仕込杖をぜひ見ていってほしいと再三すすめたが、花井はむろん断った。遠慮したのではない、かえって断るほうが、恐《こわ》いぐらいだった。が、じっさいに、時間がなかったのである。就業をつげる工場のサイレンが鳴りひびいた。八時に二分、ないしは三分前の合図だった。
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「イスズ」というのは、織木の遺書にもあったとおり、狂った里子のために藤野幸福が支払った慰藉料《いしゃりょう》で、花井の母が買いとったという、例のいっぱい[#「いっぱい」に傍点]屋のことだ。しかしそれも、三年とたたぬうちに、借金のかたとして多良根にとりあげられ、転売され、今では花井たち親子は、二階の間借り人である。もっとも花井は、なぜか母親といっしょに暮すことをきらって、ほとんどキャラメル工場の守衛小屋で寝泊りすることが多かった。彼の母は、多良根の世話で駅の売店に出ているほか、家で、うらないをしたりして生活の足しにしている。生字引といわれるほど、町の動静に詳しいことと、息子の太助にしっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生《は》えているという神秘的な噂《うわさ》、それに花井の一家が代代町の守護神ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様の番人だったことなどが、彼女の周囲にある種の謎《なぞ》めいた雰囲気《ふんいき》をつくり、うらない[#「うらない」に傍点]師としての信用は、かなりのものだったらしい。ただ、思いだしたように法外な料金をふっかけることと、いったん事が他人の身の上話になると、たちまち病的なおしゃべりに変り、聞いている側は目がくらみそうになるというので、信用のわりにははやらなかった。
花井が裏の階段を上ろうとしたとき、ちょうど母親が仕入れ寵《かご》をかついで下りて来かかっているところだった。
「なんだ、まだいたのかい?」と花井が立止ると、母親も立止った。
「早く橇《そり》をなおしてくれなきゃ困るじゃないか。」と、階段の上に立ちふさがったまま、動こうとしない。
花井がかまわず上っていくと、母親はあわてて部屋に引返し、消えた火鉢《ひばち》の灰をすばやくかきまわすと、火箸《ひばし》の先で財布を吊《つ》り上げ、灰まみれのままふところにおしこんだ。「へそくりかい?」と花井が上唇をめくって薄笑いをうかべると、母親も負けずに、「おまえだって、けっこう、へそくっているんじゃないのかい。注意しないと悪い噂がたつよ。工場の澱粉《でんぷん》が、とても早くへるって、評判らしいじゃないか……」
「馬鹿な……あれはね、母さん、鼠《ねずみ》のせいなんだ。工場の中ときたら、鼠と油虫の巣だからね。減らないほうがおかしいよ。毎日仕込みに、澱粉をふるうだろう。そのたんびに鼠の糞《ふん》が、バケツいっぱいになるくらいなんだぜ。」
「母さんに言ったって知らないよ。とにかくおまえは、体が人並じゃないんだから、なんでも人並以上に気をつけてもらわんとねえ。」
「ふん……いまに見てろってんだ。」
「なんて言い方をするのさ。いやな顔色だよ。肝臓に蛆《うじ》でもたかっているんじゃないのかい。」
花井は黙って、ひや飯に煮干をそえ、気がすすまぬげに咀嚼《そしゃく》運動を開始する。母親は首の真綿をまきなおし、フロシキで頬《ほお》かむりして、一歩しきいをまたぎかけたが、ふと思い出したように、「そうそう、おまえ、知ってるかい? 織木の息子が帰ってきたらしいよ……」
「誰に聞いた? ……」と、花井は煮干の頭を数本、唇の端からつきだし、口の中を飯粒でいっぱいにしたまま、不安そうに茶碗《ちゃわん》のかげから眼をあげた。
「駐在の吉切さんが、夜中に道を聞かれたんだとさ。」
「それで?」
「バカは口の開けかたを知っている、利口は口の閉じかたを知っている……」
「そう、そう……母さん、本当にそのとおりだね。」
母親があざ笑うように言って出ていくと、花井はすぐにラジオをかけて、新聞をのぞきこんだ。
明年度産業投資、総額四千五百億……
公共投資等に五百億円の増加か。
打開策にあえぐ中小企業……。
人情質屋、百万円詐欺……。
寒風に泣く、窓のない小学校。
音楽がおわって、ラジオが八時三十分をつげた。花井もつられて立ち上ったが、考えなおしてまた腰をおろした。
雪中の変死体……八百円で身を売られ……。
寒さをのがれて東京へ……移動する浮浪者と野良犬。
花井はマッチの軸で歯をほじりながら、なぜかこうしたすべての記事に嫉妬《しっと》を感じていた。新聞をおいて、こんどはタブロイド判の花園通信をとってみた。第一面は、花園キャラメルと、藤野医院と、健康製材所と、産業開発青年隊員募集の広告。その下に、ずらりと商店の広告……酒屋、理髪店、パチンコ屋、下駄屋、風呂屋、そば屋、旅館、等々……記事らしい記事は、やっと左上の隅《すみ》に、小さくおしこまれた社長重宗晴天の論説一つだけである。
一週間後にせまった町議補欠選挙をめぐって┐
┌───────────────┘
└花園町の伝統的美風をたたえる
[#ここから1字下げ]
この稿を書くにあたり、まず、前町議K氏に心からの追悼《ついとう》をばささげん。南無《なむ》……。つけても、思う、戦後民主なる言葉、流行をきわめ、よって戦国にも似たる混乱の巷《ちまた》にみちて、選挙は人間|罪業《ざいこう》の異名となり、良民は貴重なる時と税の浪費を強《し》いられるのみか、みにくき争奪により席をえたる狼藉《ろうぜき》公職者におさめらるるところとなるも、ひるがえってわが花園の町政をみるに、こはいかん、連続七年、無投票選挙の美風を守りつづけり。識者よく、冷静にして沈着、話しあい、ゆずりあって、争いごとをさけしためなり。まさに町民は、すべて、日々の生活に追われ、町政に気をくばるいとまもなく、信頼しうる有力者に一切おまかせしようというのがその偽らざる心なるも、もしその有力者にして、慾望の鬼と化し、票のうばい合いを演ずるにおよばんか、町民、ただ不信と不安をいだくのみならん。まさにわが町政の美風、ほこるべきゆえんなり。さて、このたびの補欠選挙に立候補せるは、宇留源平、藤野幸福の二氏、いずれも家系正しき良識の人にして、充分信頼と尊敬に価いする諸君なり。もしこの二氏にして、争いをはじめんか、町民はその選択にまよいて、いたずらに右往左往するのみならん。されど、さいわいなるかな、わが町に美風あり。よろしく両派の識者をまじえ、懇談、無投票にて解決にいたるを期待しうるものなり。されど、思え、かかる美風の守らるるも、ひとえに信ずるに足る両氏なるがためなり。もし町の美風をかえりみず、いたずらに職席のみをねらう異分子の立候補するにいたらんか、われらなすすべを知らず。ただ悲歎《ひたん》にくれるのみなり。町民よ、よろしく良識をもって、ともにわが伝統的美風を守りぬかんことを、今日、ここにちかわん。
一週一訓――人にめいめいの道あり、争うは道はずるるなり、和の道ゆくものにあやまつなし。
[#ここで字下げ終わり]
ふんと鼻をならして、投げすてた。投げすてたつもりだったのが、くるりとまわって、膝《ひざ》のうえに落ちてきた。花井は腹をたて、火鉢の中におしこみ、火をつけた……ときに、森はどうしたのだろう? イボ蛙《がえる》がちゃんと伝言をしてくれていれば、そろそろ反応があってもいい頃なのだが……と思ったのと同時に、下から森の呼び声がした。九時の時報が鳴って、ニュースがはじまったところだった。アイゼンハワー大統領は、国連総会における朝鮮捕虜送還|印度《インド》修正案の採択に関し……
……森は油の切れた長い髪をかきあげながら、ひどく浮かない顔をしていた。診療所のことと聞いて、ついさそいだされはしたものの、うらなりのトマトのような花井の顔をみたとたん、すっかり後悔してしまったのである。しかし花井はうれしそうだった。十円だして、イスズの女中から茶と火種をもらってきたり、ざぶとんがないので、ふとんを二つに折ってすすめたりした。
「先生、わざわざお越しねがってすみませんでした。」と花井が新生をすすめると、森は首をふって自分のピースを吸った。花井はちょっと口ごもったが、すぐにまたはしゃいだ調子にもどり、「いろいろお話したいことがあったのです。ぼくは先生を信用していますから、ざっくばらんに言いますけど、じつをいうと、ぼくは飢餓同盟という秘密のグループを組織しているのですよ。いっぱつ、革命をやって、この腐敗堕落した町を、粛正してやろうっていうわけです。ね、それで、先生もおさそいして、ぜひとも協力ねがいたいと思って……」
「なんだ、診療所のことじゃなかったんですか?」
「ま、聞いてくださいな。診療所なくして、同盟なく、同盟なくして、診療所なし……本当なんですよ、先生……というのも、もうおおよそお気づきでしょうが、あの診療所、じつははじめから多良根派と、藤野派の、政争の道具にしかすぎなかったんです。言うなれば、多良根町長の、藤野さんに対する嫌《いや》がらせと牽制《けんせい》だったんですね。だから、診療所の運命は、一に町の政治の力関係にかかっていると言ってもいいすぎではない。ぼくのみるところでは、まあ当分のあいだ、好転のきざしはないですね。……ええ、洋裁学院は、むしろ藤野健康のさしがねです。しかもあれは、やはり町営ということになっているでしょう……いくら先生が、一人でがんばってみたって、どうにもなりっこないですよ。もし、われわれ同盟が、本気で対策に乗り出しでもしないかぎりはね……」
森は、花井のことを、どこかホルモンに異常があるにちがいないと思いながら、返事のかわりに、むやみとタバコの煙をはきちらした。花井は、森の顔を、ひからびたトカゲのようだと思いながら、両手で火鉢の端にぶらさがり、そりかえるようにして話をつづける。
「そこで先生、飢餓同盟のことですけど、これ、ずっと以前には、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟と言っていた時代がありましてね。ひもじい[#「ひもじい」に傍点]っていうのは、そら、この町じゃ、よくひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎って悪口をいうでしょう。お耳にしたこと、ありませんか? あれは、他所者《よそもの》の悪口なんですけど、それにはこんな言い伝えがあるんです。ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様という飢餓神が、いつも町境をうろついていて、外来者をみつけると、すぐにとっついて餓死させてしまう……ね、いかにも農村共同体的な、いやらしい迷信じゃないですか。他所者なら、餓え死してもかまわないっていう、陰険な排外主義の合理化なんですよ。本当の原因は、見て見ないふりをして、かわりに結果を神様に祭りあげちゃったんだなあ。」じつをいうと、これは読書会で中学の村山先生から聞いた解説だったのだが、相手は知らないのだからかまいはしない。効果をたしかめるように、ちょっと尻上りに口をつぐんで、「ぼくの家は、代々ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様の番人をしていたから、そこらの関係がよく分るんです……気にくわんやつは、誰でもかまわずひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎にしてしまう。ふっ……分るでしょう? 権力には、まことに好都合なしきたりです。で、ぼくらは考えた、逆にひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎の同盟をつくって、やつらの逆手をとってやったらどうだろう。つまり、ぼくらは、新勢力の代表だというわけですね。正確な情報網ももっているし、それに現在では、強力な財政的基礎も確保しましたし……、革命はもう時間の問題なんですよ……ね、先生、いかがです? ぜひとも仲間入りしてくださいな。診療所問題も、全組織をあげて協力をちかいます。それどころじゃない、近い将来、先生のために、大病院を建設してあげてもいいな。たくさん医者をやとって、先生は院長におさまってね……」
森はしかし、やはり黙ったまま新しいタバコに火をうつした。森は人と知りあうことに注意深いたちだった。とくに、医局を追われてからは、極端に人ぎらいになっていたようだ。花井が不安げに、森の顔をのぞきこもうとすると、森はあわてて顔をそむけ、花井は飴《あめ》をなめているような音をたてて、舌をならした。
「しかし、そんな財政的基礎をおもちにしては……」と、森があわれむような視線を、部屋のあちこちにおよがせはじめたのに、花井はあわてて、息をはずませながら、
「いや、お考えになっていることは分りますよ。でも、ぼくたちは、主義として貨幣経済を否定していますしね。それに、なんと言っても、いまは世をしのぶ、仮の姿なんですから。」
「それにしたって、第一、患者がいないでしょう。そんな大病院をつくったところで……」
「町が発展しさえすれば、人口なんか、いくらだって増えます。そんなことより、先生、事態はいまや急を告げているんですからね……、なにも強制しているわけじゃありません、ただ、ぼくとしては、いちずに先生のためを思って……むろん、すぐに加入されるのが不安だとおっしゃるんでしたら、便宜はおはからいします。今夜の会議……同盟拡大についての、重要な会議があるんですけれど、まずそこに出てごらんになったらいかがです? その結果をみて、判断なさったら……本当は、同盟員以外は出られないんですけど、そこはぼくが上手《うま》くとりはからいますから、かまわず同盟員のような顔をしていただいて……ね。ぜひそうしてごらんなさいよ、ぼく、これであんがい重要なポストをまかせられているものですから……」
森が、漠然《ばくぜん》とした、ある微《かす》かな身振りをすると、間髪《かんぱつ》をいれず、花井が右手をさしのべ、森の腕をつかんだ。そして、その瞬間、なんとなく交渉が成立したことになってしまったのである。「ありがとう、先生、心強いですよ。どんなに肩身がひろいか知れやしない。」花井は口に手をあて、くすぐられたように身をよじった。
「会員は、何人くらいいるんです?」と、森がしぶしぶ言った。
「会じゃありません、同盟なんです。」
「花井さん、失礼ですけど、いくつくらいなんです?」
「なぜ、そんなこと……」
「いや、小さいころ、病気でもしたんじゃないかと思って……」
「どうせぼくは、粗末にあつかわれて育ちましたからねえ。」花井はちょっと鼻白んだが、思いなおしたらしく、すぐに話題をかえ、「ときに、先生、協力者として、あらためておねがいしたいことがあるんですけど……いかがでしょう、昨夜|診《み》ていただいたあの患者、いつごろまでああして眠っているんでしょうか?」
「さあ、今日いっぱいくらいは……と思うけど、なにしろ、飲んだ薬もはっきりしないんだし……」
「そこなんですよ、先生。じつは、それを先生にたしかめていただきたかったんです。」と花井はいきごんで、例の薬壜《くすりびん》をとりだしてみせ、「ヘクザンCTMと書いてありますね。なんでしょう。なにか心当りでも……?」
「ないなあ……劇薬らしいが、なんだろう?」
「なんとか、しらべる方法、ないでしょうか? ほら、ビンの底に、粉がのこっているでしょう。これを分析してみたらどうでしょうか。ぼく、どうしてもこの成分を知りたいんだ。そして、これとそっくり同じものを合成してほしいんです。できるでしょう、それくらい……ね……先生の友達でそんな仕事をしている人いるんじゃないですか、蛇《じゃ》の道はへびで……おねがいしますよ、しつこいようだけど、この薬の正体をつかんだものが、天下をにぎるんです、革命の鍵《かぎ》なんです。先生にだって、利害のあることだし……ぼく、どうしてもほしいんだ。恩にきますよ、先生、ぼく、かならず診療所をひらいてごらんにいれますから……」
14
森を送りだしてしまうと、花井はふいに突風のような疲労におそわれ、糸の切れた人形のように、ばらばらになって、床の上にくずれ落ちた。車を工場にもどさなければと思いながら、全身から感覚がぬけ、まるで他人になったみたいだ。暗緑色に光る、ほら穴の中に、しだいにすい込まれていく。どうやら、その穴は、多良根の虫歯だらけの口のなからしい。車の中で多良根との会話のことが、録音機にかけて再生したように、ふとよみがえってくる。
……経営不振、人員整理……君にも本当にいろいろやってもらったね……なに? 町長と呼びなさい、うん……コッコッ、ココココ、コッコッ、ココ、(ステッキの音)……
花井は答えた。「はあ、人員整理はぼくも賛成です。でも、技術、宣伝主任の立場から申し上げますと、せんだっても報告しましたように、まだまだ研究の余地はあると思うんですが、はあ……たとえば、ほんの一例ですが、ぼく、キャラメルにもっと水飴《みずあめ》を多くして、粉をまぜて、やわらかくしたほうが、子供によろこばれると思うんですけど。第一、やわらかいほうが、それだけ消費量もふえるわけでしょう。」
……ふん、ここらの子供は、もうほし[#「ほし」に傍点]芋しか食わんのじゃないかね……むしろ私は、南方輸出をねらっておったんだが……、いやいや、そいつももう手遅れだ……君らにまかしとくと、いつもこんなふうに出足がおくれてしまう……コ、コッコッ、コ、コッ……
「じゃあ、思いきった籤《くじ》つきの景品はどうです? あれは、数学的にちゃんと計算して、売れ具合でいろいろ調節するんだそうです。その操縦のカンどころいかんでは、うまくやると、幾何級数的にのびるらしいですよ。」
……ココココココ……そんな話を聞いてると、私はいっそ工場を完全に閉鎖してしまいたくなって来たな。よし、明日、経営会議を開いて、てってい的にしらべてみてやろう。まあ君は、そんなに発案したいなら、税務署と銀行のやつが、食べてふんわりしてしまうような風船飴でも研究したまえよ……とにかく私は、仕事の中心をS市にうつすことに決めたんだ……この車も、いよいよこれで乗りおさめかな。
「とんでもない、この車は、いわば町長さんの身がわりで、象徴のようなものだって、御自分でも言っていらっしゃったじゃありませんか!」
……むろん、上に立つものは、いろいろと細いところにまで気をくばらなけりゃならんものさ。民衆はつねに、支配者をもとめている。支配者とはつまり、社会秩序の象徴だな。象徴とはすなわち、目にみえないあるものだ。したがって、支配者はなるべく人目をさけ、想像の煙幕のなかに、身をかくしていなければならん。その煙幕の陰にいるかぎり、連中は自分の理想に合わせて、私の肖像をえがいてくれるのさ。だが、いまの私が身をかくすには、このおんぼろ車の排気ガスじゃ、少々もの足らないように思うんだがね。花園キャラメル社長、郷土芸術振興会理事、観光協会会長、文化ホールと図書館の創立者、M県きっての文化人、名士、人格者……それに県最大の穴鉢《あなはち》建設の常務取締役だ……ね、君、上に立つものは気苦労がたえないもんだよ。私はもっと大きな発煙筒をさがさなけりゃいかんと思うのだ……で、どうだろう、うちの工場の煙突を使ってみては……あのてっぺんに、サーチライトをつけ、一晩中、町を上からてらすのさ。うん、こいつは名案じゃないか。煙突だけ残して、あとは、全部整理してしまってやるとするかな……コッツ、コッツ、コッツ……。
「はあ、名案ですね。それに、マークをぬりかえて、夜光塗料でもつかえば……」花井は鼻声になり、歯をくいしばった。思わず涙が頬《ほお》をつたって流れた。くそ、いまにみてろ、いずれはそこに、ネオンサインで、〈花井地熱発電所〉と書きこんでやるんだからな、と思ってはみたが、なぜか自分が煙突の腹をはいまわっている、蟻《あり》ほどの大きさにしか想像できないのである。ステッキの音のせいかもしれない。それに、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]の切口が鼓動にあわせて痛みはじめた……
……ついでに言っておくが、君は最近なまけているようだね。工員たちが(組合をつくろうとして運動してるって報告が、ほかから入ってるんだよ……知らない? ……馬鹿な。それが君の役目だったんじゃないか……もし、知って報告しなかったのなら、もっとわるい……ほかに、仕事らしい仕事もせずに、一体どういうつもりなのかな。私は約束どおり、君を小学校から専門学校まであげてやった。そして主任にまでしてやった。こんどは君が、約束をはたす番じゃなかったのかね? ……それとも、君は、まったく無能な人間だったのかな……
多良根が澱粉《でんぷん》の一手買附業者として、はじめて町にのりだしたころ、町民の注意をひくために、提供したのが多良根奨学金だった。花園小学を、一年から六年まで首席でとおしたものに、中学にいく学資を出し、さらに中学を首席でとおした場合は、専門学校まで面倒をみてやろうというのである。花井太助は、ちょうどそのころ小学校の六年だった。そして、まさにその該当者だったのである。ところが、該当者なしと当てこんでいた多良根は、すっかり狼狽《ろうばい》して、再調査を申し入れてきた。その言い分が妙だった。花井太助には、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生《は》えているという噂《うわさ》があるが、本当か? もし、本当なら、日本人ではないのではないか? 日本人でないものに、奨学金を出すわけにはいかない。それに、花井の母親は、折紙つきの不品行な狐《きつね》つきである。よろしく、厳格なる検査をねがいたい……。
それをきいて、花井は寒暖計の水銀を飲み、自殺をはかった。未遂におわって、全身水ぶくれになり、一ヵ月間入院した。これにはさすがの多良根も折れて、やっと奨学金の交付がゆるされた。しかし、それは報復が屈辱になり、屈辱が報復になるはじまりにすぎなかった。太助は寄生虫のように、多良根の約束にしがみつき、中学も一番でとおし、S市の農業専門学校に入ることができたが、これはアキレスと亀《かめ》の詭弁《きべん》にも似た、憎悪《ぞうお》の永久運動だった。この二人が、もしダンテの地獄におちたとしたら、たがいにしっぽ[#「しっぽ」に傍点]をくわえあう二匹の蛇の姿に変ったことだろう。優等生花井が賞状を手に、多良根と並んでにっこり笑っている写真が、学年のかわり目ごとに、花園通信のトップをかざる。その日多良根は、新聞をひきさいて癇癪《かんしゃく》をおこし、花井は一晩、枕を噛《か》んですすり泣くのだった。
こうした感情は、しかしやがて多良根に対する抜きがたい畏怖《いふ》として、花井の心に奥深く定着していったらしい。姉の里子の死を境にして、逆に極端な多良根の讃美者《さんびしゃ》に変ってしまいさえした。代弁人になり、スパイになり、忠実な犬のようにふるまいさえした。地中に深く不発弾を埋めこんだまま、手入れだけは見事にゆきとどいた、花壇のように……
そして、この感情は、敗戦をきっかけにして、さらに積極さをくわえた。それはながいあいだ、町の支配者というより、町の化身、いや町そのものとして、くさびを打ち込む余地もない存在であった、藤野兄弟が、いちおう多良根に町長の椅子をゆずってしりぞいたために、新たに攻撃可能な憎悪の対象として、意識されはじめたせいかもしれない。藤野健康は、最初に彼のしっぽ[#「しっぽ」に傍点]をあばいた張本人であり、製材所をたてるために多良根から峠の地所を買いとり、花井一家を追い出した元兇《げんきょう》。弟の幸福は、姉の強姦者《ごうかんしゃ》。しかし藤野兄弟は、なにぶん町の六割の土地を支配し、平方村《ひらかたむら》にわたる、二千五百町歩の山林を所有し、そのうえ唯一の医者として、町民の生命までを直接支配する独裁者だったから、いぜん堅固な要塞《ようさい》であることに変りはなかった。だが、ともかく、町長の椅子という砦《とりで》の一角はくずされたのだ。破れた水道管から吹き出す水のように、つもりつもった怨恨《えんこん》が、一気に復讐《ふくしゅう》の目標を得て噴出したとしても、べつだん不思議なことはないだろう。
戦後、花井は軍隊からかえってくると、工場再建のために全力をそそいだ。アルコールの密造をやり、農協と結んで澱粉の横流し配給をうける工作をした。食糧不足に乗じて、花園キャラメルはしこたまふくれあがることができた。花井は主任にバッテキされた。一方多良根は県最大の山林地主の息子である県の企画課長、穴鉢倉吉に一人娘を嫁《とつ》がせて、穴鉢建設の重役におさまり、やはり穴鉢と共同で農機具製造をはじめ、二十二年の第一回選挙には、例の無投票当選で町長にのしあがってしまった。
むろん藤野兄弟だって黙って引込んでいたわけではない。兄は院長のほかに、農地委員、動物愛護協会会長、ひかり劇場経営、まゆの一手買附……弟は迷信撲滅運動協会会長、パチンコ組合理事、ダルマ式利殖研究会幹事……と、するだけのことはしていたのである。しかし、穴鉢建設が、S市から平方《ひらかた》を通り、花園をぬけて、M基地に到る道路工事を請負ったということは、なんとしても決定的な出来事だった。花井は心の中で、もみ手をしながら、藤野兄弟が首吊《くびつ》り自殺する日を心待ちにしていたものである。
だが、事態は、かならずしも彼の夢想どおりにははこんでくれなかった。多良根と藤野の抗争も、ある地点をすぎると、むしろ休戦協定で終るケースのほうが多くなってきた。さらに、話し合いがすすんで、花園新報の論説のとおり、協調のケースさえ珍しくはなくなってきたのである。水道管の破れ目を、あっさり修理されてしまった花井の屈辱は、ふたたび内攻して圧力を高め、やがてそこから、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]同盟の思想も育っていったというような次第なのである。
……ココ、コッコッ、ココ、コッコッ……手足がこごえたように、動かなくなり、花井はあわててハンドルにしがみつく。鬼火のような緑色の光が次第に濃く、車はその奈落《ならく》のふちすれすれに走っている。思いきって、車もろとも、落ちこんでしまおうか……。
……ココ、コッコッ、ココ、コッコッ……陰謀をたくらんでるな、と多良根が嘲笑《あざわら》うように叫んだ。折檻《せっかん》してやりましょうや、と奈落の底から答えるものがあった。ウルドッグの声だった。
……ココ、コッコッ、ココ、コッコッ……だいそれたやつだ、人間並にあつかってやると、すぐこうだから、困る……いまのうちに、思いきり、いためつけておいてやれ……ズボンをはぎとり、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]をつまんで、つるしあげてやれ!
……ココ、コッコッ、ココ、コッコッ……花井はハンドルをにぎりしめ、もとにもどしながら思った。眼には眼を、歯には歯を、そっちがそのつもりなら、同盟にも用心棒をおく必要がありそうだな……よろず屋の源さんはどうだろう? ……源さんというのは、ナマズの入墨をして、腹にサラシをまいた前科三犯の巨漢である。夏は平方の海水浴場で氷屋をだす。S市で競輪がはじまると、予想屋をやる。冬は山から木炭をはこんだり、町をぶらぶらゆすってあるく。人はいいのだが、力がありすぎるので、どうしてもものの見境いがなくなってしまうのだ。
……ココ、コッコッ、ココ、コッコッ……。
15
顔を火鉢にうちつけ、突然目がさめた。まるで、石のカブトをかぶったように、頭がいたかった。顔の半分が、首の中にめりこんだような感じだった。花井は火鉢をかかえ、腰をふるわせながら嘔吐《おうと》した。寒さで足の感覚がなくなり、立ち上っても、しばらくは歩くことができない。風がでて、三十人の小人がならんでノックしているように、窓が鳴りだした。
よろめきながら、やっと車にたどりついた。工場にもどると、すぐボイラー室にとびこんだ。花井を見ると工員たちは、急におしゃべりをやめた。十二月は、年間を通じていちばん忙しい期節であり、日曜日も無休である。おそらく工員たちは、その不平を言っていたにちがいない。しかし花井は、いまさらそんなことに気をとめるゆとりはなかった。あたたまってくると、死ぬほど睡《ねむ》くなってきた。部屋にもどって、ヒロポンを打った。
十二時二十八分。
目ヤニをおとし、鼻をかみ、頭にポマードをぬって櫛《くし》を入れる。じい、じい、じい、じい……ヒロポンがきいてくる。急に暗くなって、ぐさぐさに融《と》けていた上に、また雪がふりだした。窓に、風にもまれた雪の粉が、渦をまいて貼《は》りついてくる。……そうだ、読書会だったっけ! しかし、そのまえに、用心第一、まず源さんに口をかけておいたほうがよさそうだ……人形芝居の矢根善介は、町中歩きまわるのが商売なんだから、やはり彼にたのんでおくのが一番だろう……そう思って、〈花園キャラメル〉と紺地に白く抜いたカラ傘《かさ》を、守衛から借りて外に出た。バス小屋にまわってみると、ドアには南京《ナンキン》錠《じょう》がおりていた。ひどいことをするやつだと、窓の隙間《すきま》からのぞきこむと、織木は相変らずの姿勢で眠りつづけている。大小便はどうするのだろう? 矢根君はちゃんとみてやってるのだろうか? 死なないにしても、こんなことじゃ、衰弱しちゃうだろうな。やはり今夜、森さんにたのんで、ブドウ糖の注射でもしてもらおう。……や、あれだな……と、ドアに近く、見なれない大型トランクがおいてあるのを見て、花井は顔をガラスにおしつける。すると、ガラスがくもって、かえってよく見えないのだ。袖口《そでぐち》で、そのくもりを拭《ふ》きとっては、のぞきなおすのだが、いくらのぞいても、べつに蓋《ふた》があいたり、中が透けてみえたりするわけではない。やたらに鋲《びょう》をうちつけた、その時代がかった大トランクは、ますます意地になって口を閉ざそうとするようだ。そこをはなれて、傘の中に首をちぢめ、しばらく頭の中でうろうろする。源さんはどこにいる? 矢根善介はどこにいる? ……あてずっぽうに、仲通りに向って歩きだす。源さんは、闇米《やみごめ》を買い入れる特約の農家を十三軒も持っていて、どこからか安物の装身具や派手な布地を仕入れて来ては、そうした農家をまわってあるく。こんな雪の日には、炭はこびか、その農家まわりか、さもなければスネかじりの極道息子相手に、花札いじりで寺銭《てらせん》かせぎでもしているのだろう。やはり矢根をさがしたほうがてっとり早い。雨や雪の日の場所は大体きまっている。駅前の省営バスの待合室か、役場の自転車おき場の軒下か、ショウアン寺の本堂の前か、花園神社の境内か、それとも桂川の河原の橋の下か……途中出あった子供に聞いてみると、つい今しがたまで桂橋の下にいたという。桂橋のそばで雪投げをしていた子供にたずねると、花園神社のほうに行ったという。役場の自転車おき場で、やっとつかまえることができた。一メートル四方ほどの組立舞台の前に、足ぶみしたり、手をもみ合わしたり、紫色になった子供たちが、それでも二十人ほど、じたばたしながら集っていた。
舞台の上では、赤い顔に黄色い将軍ひげをはやした、魔法使いの医者が、黒い手箱を前に、短い両手をうち合わせながら、すごい台詞《せりふ》をならべていた。――カクカク申ス、コノオレサマハ、オギャアト生レテ、十年目、マダ年《とし》ノ端《は》モユカヌコロ、モウ人間ノ解剖学ヲマナンダモノジャ。地下室ニカクシタ死体カラ、今日ハ右手、明日ハ左手、次ノ日ハ頭、ソノ次ノ日は胴……ツギツギ切リトッテキテハ研究スル。頭ダケガ痛イ痛イト泣イタリ、足ダケガ走リダシタリ、オソロシイ目ニモアッタガ、ガマンシタ。コウシテ内カラ外カラ前後左右、人間ノ体ヲ知リツクシ、大学者ニナッタノジャ。ソレカラオレハ自由自在、人間ヲ大キクシタリ小サクシタリスル方法ヲ発見シタ。ミロ、コノ箱ノ中ニハ、小サクシタ人間ドモガ三十人モ入ッテイル……。
「矢根君。」と花井がよんだ。
人形がかたりと首を折り、子供たちはぎょっとして振向いた。箱が消え、つづいて人形も斜めにふわふわとひっこんだ。かわりに矢根の顔が現れて、「なんだ、花井さんですか……困りますねえ……」
「困りますねじゃない、君、急用なんです!」
「でも、仕事中なんですから……」
「こっちも仕事だ……」と、子供たちをおしのけて舞台に近づき、矢根の耳に口をよせ、「急いで、源さんをさがし出してくれないか、君ならどこかで遇《あ》うだろう……」
「なんの用です? あんな奴《やつ》に。」
「今夜の集りに出てもらうのさ。べつに、説明なんかしなくてもいいから、とにかくぼくからの頼みだと言えば、たぶんそれで飲み込んでもらえるはずだよ。いいね、分ったね…」
邪魔っけだぞ! と、子供たちの誰かが叫んだ。花井が振向くと、みんなしん[#「しん」に傍点]とうなだれた。いや、うなだれたふりをした。うなだれたふりをしながら、突然どっと笑いだした。矢根のかわりに、また人形が現れ、おかしな身振りをしてみせたのである。花井が人形をにらみつけて言った。「君、ぼくにさからっちゃ、損だぜ。」……人形がふかぶかと頭をさげた。子供たちがまた笑った。花井はいきなり舞台に手をつっこみ、人形をもぎとって、雪の中に投げすてた。
「ひどすぎるよ、花井さん。」と、矢根が舞台から顔をだして怒鳴った。
すると花井は、急に弱々しく、「冗談だよ、ね、君……だからさ、ぼくの言うことをすぐに聞いてくれりゃ、よかったんだよ……」
「聞いたじゃないか。」
「だからさ……だからさ……」花井はあわてて、投げた人形をひろって矢根に返し、小声になって、「ぼく、同盟のことやら、織木さんのことやら、いろんなことで、もう頭がいっぱいになっちまっているんだ。ぼくたち、同じ同盟員なんだから、けんかしたりしちゃいけない……そうだろう? ……だから、君も……いや、ぼく、本当に興奮しすぎてるんだな……」
16
事務所に入るまえに、花井はちょっと窓ごしに中をのぞいてみた。イボ蛙《がえる》が一人で机に向っている。「目黒君は?」と声をかけると、イボ蛙は頬杖《ほおづえ》をついたまま、眼だけあげて、いかにも腹立たしげに、「便所ですよ。」前には六法全書が開かれてあり、その横に〈早わかり株式会社法〉。
「森先生は?」
「郵便局に行きました。」
「へえ、さすがに、きちょうめんな人だなア……」
「午後は休みだからです。」
「二階、もう始まってる?」
「……でしょう。……ああ。」と突然、叫び声をあげて、「ぼくはもう気が変になりそうだ。分らんですよ。ものすごくむつかしいんだ。花井さんは簡単にいうけど、会社って、試験問題みたいだ。この世の中に、こんなややっこしいものがあるなんて、不思議なくらいですよ。会社をつくった人は、頭がいいんだなア。ぼくはだめだ。朝から今までかかって、むつかしいということが分っただけなんだ、花井さん、株式会社って、思想があるんですね。」
「……思想?」
「思想ですよ。企業自体っていう思想なんだ。法律もあるし、精神もあるし、主義もあるんです。分らんですよ。むちゃですよ。」
「ね、井川君、革命じゃないか。しんぼうしようよ。ね……革命がきたら、そんなもの、みんなぶちこわしてしまうんだから……」
「しんぼうですむのなら、いくらでもします……うん、いいです、しらべます。でも、ぼく、きっと気が変になりますよ。」イボ蛙は頭をかかえて、うめき声をあげた。
……目黒が帰ってきた。花井が、「や、読書会にきたもんで、ちょっと。」……目黒は軽くうなずき、席について、ソロバンのつづきを入れはじめた。気のせいか、その目黒の口もとに、薄笑いがうかんでいるように思われ、花井は腰に手をあててにらみつけたが、目黒がちらっと顔をあげたので、あわてて眼をそらした。「じゃ、行くよ。」……と、ひらいた手のひらに、指を一本のせて、六という数を示し、花井とイボ蛙は、うなずきあって別れた。
……読書会はちょうど始まろうとしているところだった。コの字型に並べた机のまわりに、ほぼ三十人ほど集っている。中学で理科を教えている村山が、司会のあいさつをしていた。――会をかさねるにつれて、会員も多くなり……云々《うんぬん》。花井は見まわして思った。農協の貝野なんかが来ているぞ。貝野の父は小作あがりの農業委員だ。農地解放以後は、百姓どもも、すっかり鼻息が荒くなり、貝野あたりをまとめ役にして、一つの勢力に結集しつつあるという。まったく、これだから村山はこまるんだ。……しかし、狭山ヨシ子が来ているのに気づくと、心臓がぐるりと一廻転し、たちまち素直な気持になってしまっていた。ドアに近い空席に腰をおろすと同時に、村山の同僚で会の委員をしている女の先生がやってきて、炭をもっていらっしゃいました? もっていらっしゃらないんでしたら、炭代十円いただきます。すると、花井は向う側の瓶の下に見えている、ヨシ子の足――もてあますように突き出されている、その大きな長い足が口をきいたように錯覚して、まっ赤になってしまった。
……サンセイ、異議ナシ、と四つ五つの声がとび、花井はわれにかえった。
「では、喋《しゃべ》らせてもらいます。」と、村山が言葉をつづけた。「今日は会長の重宗さんが休んでおられる、しかし、重宗さんが、いてもいなくても、ぼくは言うつもりでした。立候補者の届出は、あと二日、つまり今日と明日しかないのです。もう黙っていられない。君たちも、昨日の花園新聞の重宗さんが書いた記事、読んだでしょう。あんなでたらめが、あってたまるものか。いまどき、無投票選挙だなんて、恥さらしもいいとこだ。われわれの投票権は絶対にまもるべきです。しかし、そのためには、誰か第三の対立候補に、出馬してもらわなければならない。連中の誘惑にのらない人、連中のおどしにも屈しない人……ぼくは、会の有志たちともさんざん考えあぐねたあげく、結局、ここにいる貝野君のお父さんに立候補してもらうことを思いついたわけなのです。農家の人たちには信望があり、しかも、多良根派にも、藤野派にも属さない、完全な野党派候補。そこで、貝野君からお父さんを説得してもらい、いやがるのをむりにたのんで、やっと承諾にまでこぎつけることが出来ました。ところが、選挙管理委員会のほうで、どうしても受け付けないと言いだした。なぜ受け付けないのかと、問い正すと、管理事務所の言い分は、ただ前例がないからの一点ばり。呆《あき》れた話じゃありませんか。これは明らかに憲法違反です。しかし、もっと困ったことは、腹を立てた貝野君のお父さんが、あっさり届けをひっこめてしまったことでした。困ったことです。本当に困ったことです。考えてみれば、あの重宗さんの論説も、ねらいは貝野君のお父さんに対する牽制だったにちがいない。だからと言って、いまさら引き退《さが》るわけにはいかないじゃありませんか。そんなことでは、ますます連中をのさばらせる一方だ。そこで思いきって、皆さんにおねがいしてみることにしたわけなのです。この読書会として、貝野君のお父さんの説得に乗り出してもらうわけにはいかないものだろうか。有志という枠《わく》をこえた、読書会全体の希望としてですね……」緊張した沈黙……。と、その沈黙を最初にやぶったのは狭山ヨシ子だった。ヨシ子はヒステリックに、村山をにらみながら叫ぶように言った。
「よしてよ、そんな政治の話なんかしないでよ。ここは読書会なのよ。芸術の話をする会じゃないの。……だから、日本人て、駄目なのよ。」
前と同じくらいの沈黙。……はっとしたように、花井が机をたたいて言った。
「そうだ。読書会は、読書会だ。こういう集りに、政治はもちこまないでほしいと思います。文学の話をしようよ。今日は、恋愛と文学っていう、予定だったんでしょう。予定どおりやってください。」
「そうよ、恋愛がいいわ。」と隅《すみ》のほうで声がした。藤野うるわしだった。どっと笑い声がおこった。うるわしは、そのはちきれそうに大きな顔を、まっ赤にして、腹立たしげに言った。「だって、恋愛だっていうから、来たんじゃないの。」
「恋愛だって。」と、村山がおだやかに答えた。「……選挙と無関係じゃありません。」恋愛感情というものも、やはり民主主義の中でこそ、本当に成長できるのです。恋愛している人は、民主主義者です。恋愛を成功させるひけつは、民主主義を成功させることです。」
「弱ったなア。」と誰かが言った。
「うそだと思ったら、エンゲルスの、家族・私有財産・国家の起源という本を読んでみてください。ちゃんと書いてあります。」
「発言。」と、世話係をしていた女の先生が手をあげた。「本当にそう思います。恋愛というのは、まず、おたがい同士を人間として認めあうことからはじまるものです。この感情を守る意志がなくて、恋愛する人は、結婚したあとで、きっと相手を裏切ります。だから私は、今日、選挙のことを取上げるのをいやがるような人とは、絶対に恋愛しないつもりです。」
あちらこちらで、しのび笑いがおこった。ごしごし頭をかきだすものもいた。
「そりゃ、ちがうんじゃないかなア……」と首が動かないほど襟巻《えりまき》をまきつけた近眼の青年が、臆病そうに言った。「だって、万葉集にだって、恋愛をよんだ歌があるでしょう……恋愛のほうがずっと先ですよ。あんたの言ったこと。」と、体ごと女の先生のほうに向きなおって、
「ぼく、口実だと思うんだがなア……猫だって、そら、恋愛みたいなことするでしょう。」
たちまち場内が騒然とした。二、三人の青年が、同時に手をあげた。そしてめいめいが、周囲のものに向って勝手に喋《しゃべ》りだした。女の先生は、襟巻の青年に向って早口にまくしたてる。
「……そりゃ、ちがうわよ……いまの恋愛は、社会的なのよ……いわゆる、社会的な恋愛ってものでしょう……」襟巻も負けずに言い返す。「おこることはないですよ。ぼく、もう、恋愛なんて飽きちゃったんだ……恋愛なんて、発作《ほっさ》だよ。」……「発作よ、発作でいいわよ……でもそれが社会的発作だったら、しかたないじゃないの。」……「なんでも社会的なんですね……じゃ、あんた、社会的におしっこ[#「おしっこ」に傍点]する?」……「そうよ、そうよ。」……しかしこのやりとりは、藤野うるわしが狂ったように笑いだして、中断された。花井もなにか言いたくて、うずうずしていたが、狭山ヨシ子の、唇を横にひきつらせた不機嫌《ふきげん》そうな表情に気おされ、なにも言いだせなかった。それで、ただくりかえし、鼻を鳴らしつづけることで我慢した。
村山は浮かぬ顔で貝野を見た。貝野はゆかいそうに笑って、言い合いの仲間入りをしている。村山は思わず立ち上って言った。「みなさん、整理しましょう。一人ずつしゃべらなきゃだめです。そんなにいっしょにしゃべったんじゃ、なにがなんだか、分りやしない。じっさいぼくにはわけが分らないよ。いま目のまえで、君たち自身の権利が犯されようっていうのに、君たちときたら、まるで赤んぼうみたいにおしゃべりしてるんだ。こんどの、穴鉢建設の道路工事だって、もうけたのは多良根さんたちだけじゃないですか。実際に土地をとられた人は、みんな一万円足らずの金で、泣寝入りをさせられた。こんなことでいいんですか? そりゃ、恋愛も大事だろうけど、恋愛だけが人生じゃないと思うんだけどね。たとえば、民主主義というようなことだって……」
「でもねえ、村山先生。」と、誰かが言い返した。「今日のテーマが、恋愛論だってことは、この前からのきまりでしょう。まず、それをまもることが、民主主義じゃないんですか?」
とまどいがちな、数人の拍手。
「しかし、ぼくの緊急動議に対して、もし多数の同意が得られれば、べつに民主主義のルールを破ったことにはなりませんからね。」
前よりは、やや多目の拍手。そして、勝手なおしゃべりも、いつかもつれた髪に櫛《くし》をとおしたように、流れをとりもどしている。
「ぼくにも、ちょっとだけ言わしてくれないか。」と、すかさず貝野が立ち上り、「ここに花井さんもいるけど、じっさいあのキャラメル工場は、ひどいとこらしいんだ。ヘドみたいな臭《にお》いの中で、むちゃくちゃに働かすだろう。食慾がなくなって、みんなひょろひょろになっちゃうんだよ。ね、現にそこの花井さんだって、いいかげん骨ばってるだろう。まったく、すごく不潔らしいよ。そのくせ、組合もないっていうんだから、お人好しもいいところじゃないか。まだまだ、民主的権利が自覚されていないことの、いい証拠だと思うな。」
「君、知ったかぶりをするな!」と、花井が興奮して、口をぱくぱくさせながらさえぎった。「ここじゃ、まだ言えないが、ぼくだって、ちゃんと打つ手くらいは考えている。いまに、あっと言わせてやるからな……しかし、そんな話、この集りとはなんの関係もありはしないじゃないか……だから、日本人は。」と、ヨシ子の口真似《くちまね》をしかけて、あわてて口をつぐみ、「とにかく、恋愛でいきましょう!」
貝野は頭をかき、「ちがうんだよ。ぼくが言いたかったのは、ぼくの親友が、キャラメル工場で組合をつくる工作をしているんだけど、そいつが目下、やはり大恋愛の最中でね。だから……」
「誰だ!」と花井は思わず叫び声をあげていた。「そんなことをしているやつは、いったい誰なんだ。名前を言いたまえ!」
「でも、それこそ、この集りとは、なんの関係もないことだろ。」と、貝野はあっさり、矛先《ほこさき》をかわし、するとその後を村山が受けて、これもまたひどくさりげなく、
「いいよ。ぼくの緊急動議はひっこめる。しかし、とにかく、百聞《ひゃくぶん》は一見にしかずというからね。われわれの生活を托《たく》している、町議会の実態がいかなるものか、じっさいに君たちの眼で、一度たしかめておくのも、いい勉強になるんじゃないかな。じつは、今日の三時から、役場の二階で町議会があるはずなんだ。ね、そこに、みんなで今から見学に行ってみないかい?」
その村山の、ひどく気軽な調子に、ついつりこまれた二三の青年が、すぐに応じて立ち上った。すると、乾《かわ》いた藁《わら》に火をつけたように、たちまち陽気なお祭り気分が場内の隅《すみ》にまでひろがり、ほとんど全員が村山を中心にあつまった。ほとんどと言ったのは、二三の例外もあったからである。「さあ、行こう!」と村山が叫び、先頭に立ってドアに向って歩きだした。
……と、それよりも早く、花井が椅子を蹴倒《けたお》し、机を押し倒して、ドアの前に立ちふさがったのである。
「だめだ! 行っちゃいけない! ……君たちはなんにも知らないんじゃないか。行っちゃいけないってば! ……いらん手出しはしないでくれよ、ね、貝野や村山なんか、口ばっかりで、自分じゃなんにもしやしないんだ。本気で革命する気があるんなら、自分だけで、黙ってやればいいじゃないか……ね、おねがいだ……残酷だよ、そんなこと……ね、もしどうしても行くってのなら、ぼくを殺してからいってくれ……さ、殺してくれ……殺して、ぼくの屍《しかばね》をふんで行けばいい……さ、殺せ、殺せ……」
村山は狼狽《ろうばい》して、貝野を振向いた。
「理由を、もっとくわしく説明してもらったらどうだい。」と貝野がいった。
「そうだね。」と、村山は不安そうに、花井の蒼白《そうはく》になった鼻の頭をみつめながら、「花井さん……ここでみんなに、もっと納得がいくように、わけを話してください。」
「殺せ!」
「……もっと、理性的になってくださいよ。」
「理性的にいって、ぼくを殺すか、解散かだ。」
「こまるなア……何がなんだか分りゃしない。」
「殺せないなら、すぐ解散だ。さあ、解散してください。いますぐ、解散してください。」
彼はひょいと一歩わきによって、力いっぱいドアの外を指さした。しかし、誰もでていこうとするものはない。「変ってるよ。」と誰かが言った。村山は、大きく肩で息をすると、がっかりしたように頭をかかえこんでしまった。貝野もしばらく困ったように首をかしげていたが、思いきって人垣をわけて前へでると、後ろから花井の両腕を力いっぱいしめつけて、「さ、行ってくれ……村山さん……」花井が悲しげに叫んだ。「ずるいぞ、殺さんでいくなんて! ……ずるいぞ!」……「まてまて、いまに殺してやるからさ。」と、貝野が顔をしかめて、ふりきるように言った。
あとに残ったものは、三人だけだった。しかしそのうち、藤野うるわしは、うらめしそうな顔で、すぐにあきらめたらしく、つむじ風のあとを追う紙屑《かみくず》のように、しぶしぶみんなの後について行ってしまった。それで、じっさいにとり残されたのは、花井太助と、狭山ヨシ子の二人だったのである。花井はまるでふいご[#「ふいご」に傍点]のようになっていた。ヨシ子は左足に全身をささえ、首をわずか右に傾けて、ななめ前に出した右の靴先をじっとみつめながら、息をするのも忘れたように、微動もしない。彼女はその足に自信がある。ただ早いだけではなく、ひきしまった、美しい形をしていると思っていた。たしかに、その乾燥しかかったナツメのような顔とくらべると、なんとも立派な足である。……くだらない、と彼女は心の中でつぶやいていた。なんて退屈な田舎《いなか》なんだろう。どうせ私は日本人には理解されないんだ。外国人に生れてくればよかったんだわ。じっさい私の足は、日本人ばなれしてるじゃないの。もしかしたら、祖先のどこかに、外国人の血がまじってるかもしれないんだわ。ああ、せめて東京にいって暮したい。……いやだわ! と突然声にだして叫んだ。もう我慢できない!
花井はぴくりと、小刻みにうなずいた。「じっさい、我慢なりませんねえ。なんていう連中なんだろう……無知で、ずうずうしくって……」
しかしヨシ子は振り向こうともせず、そのままどこか遠い空の涯《はて》につきすすんでいくような足どりで、まっすぐドアに向って歩きだす。うろたえた花井の声が、その後を追いかけた。「ね、狭山さん、ぼく狭山さんに、ヴァイオリンを一つ、プレゼントしようかと思ってるんですよ。古いドイツ製のヴァイオリンですが、ヴァイオリンは古いもののほうがいいんですってね……」
心もちヨシ子の足がおそくなった。が、けっきょく足をとめさせるところまではいかず、無情なひびきとともに、ドアが閉ざされる。花井の顔からみるみる表情が消えうせた。知らない者には、遊び果《ほう》けている無心な子供の顔に見えたかもしれない。それはある程度正しかった。というのは、花井は水に浮んだいくつものコルク栓《せん》のように、一つを沈めれば、すぐまたべつのやつが飛び上ってくる、どうにも整理のしようがない無数の質疑応答と、夢中になって格闘の最中だったのだ。眼をあげると、窓があり、粉々にくだけた空の中を、部屋ごと飛翔《ひしょう》しているような錯覚におそわれる。ふと花井は、こんな空想をしはじめていた。――もしおれがこの雪を、自由自在に調節することができるのなら、すごいことをやってみせられるんだがな……たった一日で、革命をしてみせることだって出来るんだ……まず全国の新聞にゼネスト宣言を発表する。×月×日、正午ヲ期シ、花井太助ハ次ノ諸項目ノ即時遂行ヲ要求スル。政府ノ廃止、アラユル政党ノ解散、全資本家ノ即時追放、一切ノ貨幣、有価証券、登記書ノ類ノ完全焼却……万一コノ要求ガミタサレヌ場合ハ、タダチニ一時間一メートルノ割合デ雪ヲフラシツヅケ、社会ノ全機能ノ停止ヲモッテコタエルデアロウ。……やつらはおれを逮捕するかな? 武装警官をさしむけるかな? 平気だよ。おれはどこにいても雪をふらすことができるんだ。余ヲタダチニ釈放セザル場合ハ、サラニ一時間二メートルノ割ニフヤスデアロウ。……もう空気より雪の量のほうが多いくらいだ。やつらは窒息しはじめる。やがて町も村も雪にうまって、消えてしまった。やつらは、上へ上へとトンネルを掘って逃げはじめる。しかし、すぐに上も下も分らなくなってしまうのだ。それでもなお雪は容赦なく降りつづける。十メートル……二十メートル……三十メートル……もう政府も戦争もない……あるのはおれと雪だけだ。
17
「いやはや、すごかったのなんのって。」と、工場の宿直室で、イボ蛙は興奮のあまり、いつもならめったにポケットから出そうとしないイボだらけの両手を、疲れきって、水死人のようになった花井の顔のまえでふりまわしながら、町議会のようすを次のように物語ったものである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
まず最初に、健康を先頭に、幸福をまじえた藤野のグループが到着した。予定どおり、幸福が町議になるときまったつもりでいるので、みんな晴々とした表情である。席がきまると、のしのついた一升びんがずらりと並べられた。
そこに、戸が開いて、抜身の仕込杖《しこみづえ》をひっさげたウルドッグが、爆風のようにとびこんできたのである。「おうっ。」と叫ぶなり、幸福めがけて切りかかった。幸福ははかまの裾《すそ》を切りさかれてとびのき、椅子が倒れ、机の花瓶《かびん》がとび、窓ガラスがわれた。ウルドッグはもう見境いもなく、刀をふりまわして部屋中をかけまわった。切られたものが一人もなかったのが、不思議なくらいである。あるいは、本当に切るつもりなどなかったのかもしれない。しかし、真似《まね》でも、本式だから凄味《すごみ》があった。とうとう最後に、一番動作のにぶい藤野健康が、部屋の片隅に追いつめられてしまった。健康は、大臣級だと自慢のバッタのような顔を、むざんにもひきつらせて、ぺったり床に坐りこみ、両手をあわせてふるえだした。ウルドッグが、その頭の上で刀を一とふりすると、健康はとても人間だとは思えないような悲鳴をあげた。
そこに多良根の一党が、やっと駈《か》けつけてくれたのである。どれもこれも、ぐでんぐでんに酔っぱらっている。それでも柿井を先頭にして、わっとウルドッグにとびかかり、たちまち床におしたおすと、まず刀をとりあげ、つぎになんのつもりか、かつぎあげて机の上にはこんだ。柿井という男も、見かけによらず強力である。ウルドッグはありったけの声でわめきたてたが、あんがい大人《おとな》しくされるままになっていた。
こんどは多良根自身が、ステッキをふるわせながら、近づいて言った。「宇留さん、あんたの気持はよく分る。しかしこの場は、私にまかせてくださらんか……」それを聞くとウルドッグは、机の上に坐りなおして答えたものだ。「おうっ、町長さん、私は義理にも人情にもあつい人間だ。しかし、まがったことはできません。人殺しに、どうしてこの町の政治がまかせられますか。」……「ま、それを言うな。」と、ステッキが折れんばかりに、あたりを叩《たた》きまわし、「たのむ、たのむ、こんどだけはまかせてくれ。」……「こんどだけだって、多良根さん、私はそんなことを言ってるんじゃありません。えい、これでも宇留の心が分ってくださらんというのなら、いっそのこと、この細首をかきおとしてもらいましょうか。サムライにはサムライの意地がある。さあ、切っていただきましょう……。」「ま、早まっちゃいけない。」と割って入ったのは重宗である。「宇留さんの首を切れったって、その太い首が切れるのは、花園ひろしといえども、まずあんた一人じゃないか。むりな注文はしちゃいかんよ。」仲裁はいつも、重宗の受持ちだったし、機をみるのがうまいというのが定評である。しかしこんどはどうも失敗だった。宇留はたちまち矛先《ほこさき》を重宗に向け、「じゃなにかね、切腹しろっていうのかね。」……「まさか、ここらで一つ、たがいに肚《はら》をわって話しあってみんかっていうのよ……気心のしれた同士なんだし、話しあって分らんこともなかろうし。」……「おうっ、刀をよこせ、切腹してやるわ。」
こうなるともう、どんな結末になるのやら、見当もつかない。胸をわくわくさせている記録係のイボ蛙をのぞけば、そろそろみんな、本気で心配しはじめた。こりゃどうも、血をみないではすまされんのではなかろうか? ……と、そこに村山を先頭にした読書会の一行が、雪といっしょに、どっとなだれこんできて、あっけなくしめくくりをつけてくれたのである。
読書会の一同は、場内の異様な光景に、町議のがわは、第三者の闖入《ちんにゅう》という町政はじまって以来の変事に、双方ともしばらくは、飲込めない面持《おもも》ちで立ちすくんでしまっていた。つづいて村山が、「読書会で、傍聴させてもらいにきました。」と言ったのと、「おうっ。」とウルドッグが机からとびおりて、柿井の手から仕込杖をひったくるなり、ドアに向って突進したのとは、ほとんど同時だった。村山が身をかわして、ウルドッグの胸をつくと、ウルドッグはよろめいた。そのすきに読書会の一行は、いっせいに退却を開始した。後を追ってウルドッグも駈け出していった。「オウッ、共産党、まてえ!」……町議たちはどっと窓ぎわによって、通りを見おろした。雪の中を、読書会の連中が一かたまりになって逃げていく。一人だけよちよちと逃げおくれているのは……なんと、藤野うるわしではないか。手をかして、かばっているのは、貝野である。さいわいすぐに、ウルドッグは追うのをやめた。ふと、もの忘れしたように立ちすくむと、逃げていく連中の姿がみえなくなってからもなおしばらくは、足もとの雪を刃先でかきまぜながら、ぼんやり動かない。……かねがね医者から注意されていた、軽い脳溢血《のういっけつ》の発作がはじまったのだ。
「さ、今日はもうここらで、席をかえましょうや。」と、袋のような顔に薄笑いをうかべて、柿井がいった。町議たちはほっとして、誰にともなく互いにうなずきあい、多良根のステッキもまた、思いだしたように鳴りだした。……浮月が言った。「いちばんの問題は、ああいう鼻たれ小僧の不平分子だ。それを忘れて、仲間げんかはいけませんなあ。」……藤野健康があいづちをうった。「宇留さんにも、もっと、自分の体を大事にしてもらわんと困る。」……重宗が非痛な声で言った。「申しわけない、私の監督不行届で、読書会があのような不始末をしでかしおって……」
……しかし、彼らの中で、誰よりも思いつめた表晴をしていたのは、やはり藤野幸福だった。それまで、誰とも口をきかず、隅のほうに立って、じっと一同を見まわしていたが、その蒼黒《あおぐろ》く油のういた顔を、こころもち伏せるようにして、つっと多良根に近づくと、後ろからその耳にかみつかんばかりにして囁《ささや》いた。「多良根さん、あんたが宇留をおさえない気なら、私はやるよ。」……多良根はステッキを、小鳥の心臓よりも早くふるわせ、歯をむきだしたが、なにも答えなかった。幸福がつづけた。「いやなことだが、あんたの出方しだいじゃ、やむをえんね。」……こんどは多良根の全身がふるえだした。「噂《うわさ》だよ、君。」……「ふん、宇留の流したデマでしょう。出どこはちゃんと分ってるよ。」……多良根、無言……「和戦、いずれをえらぶか、万事、あんたの腹一つなんですからな。」……やはり多良根は答えない。
柿井と健康が、離れたところから二人の様子をうかがっていた。幸福が顔をあげて、下唇をかんだまま、唇の端をひきつらせて笑うと、柿井はなにげなく両手をひろげ、二人を追いたてるようにして言った。「さあさあ、みなさん、行きましょうや。」健康はほっとして、懐《ふところ》のタバコをさぐりだした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「それで、ウルドッグのやつは、どうなったんだい?」と、花井が薄目をあけて、だるそうにたずねた。
「どうにもなりゃしませんよ。」と、イボ蛙は不服そうに、「だから、花井さん、あれほど言っといたじゃないの。村山や貝野が、なにをしでかすか分らんって……本当のところ、がっかりしちゃったよ。ぶっこわしだもんなア。せっかくいいところまでいっていたのにさ。」
「あいつら、頭がわるいんだ。」
「わざわざ、敵の利益になるようなことをするんだものねえ。」
「政治的感覚がゼロなんだ。」
「馬鹿は、大人《おとな》しいだけがとりえだっていうけど、本当だな。」
花井はゆううつそうに、大あくびをした。腹ばいになって、守衛室の時計をみた。
――六時二十分。
「ま、気をおとすことはないさ。こっちには、まだまだ手が残されているんだからな……それはそうと、井川君、会社のことはどうなった?」
「それが花井さん、ひどい目にあっちゃったよ。三時まで、ぎりぎりしらべて、最後になって分ったんだ。発電会社は、公益事業といって、特別らしいんですね。六法全書のふろくに出ているんです。そんしちゃった。」と、補遺と書いたうすっぺらなパンフレット様のものをとりだし、「面倒くさいから、これ、盗んできちゃいました。花井さん、持っててくださいよ。」
「君の係だ。」
「ぼく、だめです。もう降参です。ぼくに分るのは、なんでもかんでも通産大臣の認可が必要ということだけで、あとはさっぱり分らん。まあ、花井さん、自分で読んでみてごらんよ。」
「君の係だ。」
イボ蛙はがっかりして、六法全書の補遺を意味もなくパラパラめくりながら、「花井さん、革命のほうを、発電所よりも先にするわけにはいかんのですか? 革命で、まず法律をなくしておけば、ずっと簡単でやりやすいと思うんだがなあ……」
「発電所が先だ。今朝説明したばかりじゃないか。」と、花井はいらだたしげに顔をしかめて、ぐったり横になった。疲れもあったが、さっきイボ蛙に起こされたとき、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]の切口に鉛の玉がくいこんだように感じられたのが、そのままずっと残っていて、いっこうにおさまってくれないのである。おさまらないばかりか、しだいに重さをましてくるようだ。思わず、またヒロポンの箱に手をのばしていた。
「だめですよ。中毒しちゃいますよ。」
「うるさいなあ。ぼくは自分の体のことなんか、かまっちゃいられないんだ……」と、イボ蛙をにらみつけるようにして、「君だって、すこしは自分を犠牲にする気持になったらどうなんだい。あんなにたのんでおいたのに、必要なことは、一つもしらべてこないんだからな。」
「そんなことないですよ。五時間以上もかけたんですもの、じっさい、気が変になるんじゃないかと思った……」
「時間をかけるばかりが、能じゃない……」
イボ蛙もふくれて、ごろりと横になった、二、三分、二人は黙って、ころがったままになっていた。
ノックの音がして、狭山が入ってきた。なんだ、まだいたんですか、やっぱりよってみてよかったな……と元気よくのぞきこんだが、ふとイボ蛙に気づいて、あわてて口をつぐんだ。花井はとびおきた。ヒロポンがきいてきたのだ。やあ、狭山君か、今日、君の姉さんに会ったよ、といきなり叫ぶように言い、自分でも、とうとつすぎたことに気づいて狼狽《ろうばい》しながら、ああ、こちらは井川君、と声をひくめて、心配はいらない、やはり同盟の仲間で、今夜の会にいっしょにでるんだ。思わぬところに仲間がいて、びっくりしただろう? ……ちえっ、イボ蛙じゃないか、と、狭山はいまいましく思ったが、こういう場合、先入観はいましめるべきだと自分に言いきかせ、一応はあらたまってあいさつを交わした。頭を下げながらも、気になるのは、花井のヨシ子に対する関心である。ほれているんだろうか? 失恋中の彼には、ぴんとくるものがあった。そう思ったやさき、花井がまたつづけて言った。ヨシ子さん、今日は、だいぶ腹をたてていたようだね。……いや、すぐどこかに出掛けていきました。……ちがうよ、読書会でのことさ。……また外でヒステリーをおこしたんですか? ……むりもない、なにしろ下らん連中ばっかしなんだからねえ。じゃ、まだ話は聞いていないの? ……ふん、どうせまた、Sに映画でも見にいったんでしょう。うちの姉は、チコチコのもうれつなファンだから、……チコチコって、もと君んとこにいた、あの犬のことかい? ……まさか、フランスの映画俳優ですよ。うちの犬は、その俳優の名前をとったんですよ。ふっ、花井さんも、案外だなあ、いまSの「君が代」座で、チコチコの映画をやってるの知らないんですか? ……〈許せわが罪〉でしょう、と横からイボ蛙が口をはさんだ。馬鹿な! と、とつぜん花井が目をむいて叫んだ。女が一人で夜Sに映画をみにいくなんて、それがどんなにおそろしいことか、君、考えたことないの? 男はみんな狼《おおかみ》よって、唄にもちゃんとあるじゃないか。……とたんにイボ蛙が体をよじって笑いだした。花井の顔がみるみるまっ赤になった。狭山が気の毒そうに、でも、うちの姉は、ものすごく腕っぷしがつよいですからね。あたりまえの男なら、絶対にかないません。ふつうの女とは、ぜんぜんちがうんだから。……そして沈黙……三人とも、考えこんだようなふりをして、しばらくは時間の消化不良におちいってしまう。
「行こう。」と、花井がけわしい声で、ふいに立ち上った。さっと血の気がひいて、鼻の頭がまっ白になった。守衛室の時計が六時四十分をさしていた。風はやんだが、雪はまだ降りつづいていた。
18
矢根善介が、よろず屋の源さんをさがしあてたのは、もう暗くなってからだった。仲通りから、ちょっと裏に入ったところに、看板をかけずにどぶろくを売っている店がある。矢根は借金があるので、近よりたくなかったのだが、源さんと会える可能性を考えて、のぞいてみた。案のじょう、源さんはテーブルをかかえこむようにして、どんぶり酒をなめているところだった。細長い、小さな店は、源さんの体で、半分がた埋まってみえた。
あまり人相のよくない、大きな顔の中から、じっとこちらを見上げた白い小さな眼に出あうと、矢根は自信をなくした。花井の依頼が、このすごい男に権威をもちうるなどとは、とても考えられなかったのである。もしこの男が、応じてくれたら、と矢根は思った……今後、花井やあいつの同盟も、信用してやることにしよう。ところが、信じがたいことに、ひどくあっさりと引受けてくれたのだ。それにはむろん、矢根などの知らない理由があったのである。この町には、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様の石の下にはえたキノコを梅酢につけ、土用の日に干しあげたひもじい[#「ひもじい」に傍点]除《と》けと称する名物があり、これをしゃぶっていると腹がすかないというので、戦争中や戦後の食糧不足のころは、なかなかの評判だったものだが、このひもじい[#「ひもじい」に傍点]除けの一手販売権を、花井の一家が峠から町にひっこすとき、わずか十円でゆずりうけたという、源さんの言葉をかりれば、恩縁があったのである。しかし、事情を知らない矢根が、これを飢餓同盟の権威だと信じこんでしまったとしても無理からぬことだ、彼はあらためて、花井に敬意をはらい、また自分もその権威にあやかりたいものだと考えていた。
「景気はどうかね?」と、外に出ると源さんが言った。二人ともすこし足もとがふらついていた。道ばたの雪をつかんでほおばりながら、矢根が答えた。「いいわけがないさ。ろくでもない町だ。花園って名前にだまされちゃったよ。詐欺だねえ、花園なんて。」
源さんはしかし、ひどくあいまいな返事しかしなかった。二度も詐欺罪にひっかかっているので、その詐欺という言葉にこだわったのである。矢根のほうでは、それを意見の相違だと思ったので、かえってむきになり、「詐欺だよ。だいたい駅前に、あんな花壇なんかこしらえるのが気にくわん。あれのおかげで、被害|甚大《じんだい》さ。おれがはじめてこの町にやってきたときね、ちょうど菊とカンナとケイトウの花ざかりで、なるほどと感心しちゃったものだが。」……「花? 花なんて、あんた、気にするのがおかしいや。花よりだんごっていうじゃないか。花なんて、だいいち、漬物《つけもの》にもなりやしない。」……「いや、まあ、聞いてくださいよ。おれはそのとき、腹ぺこだったんだがね、それでも、ついいい気分になっちゃって、そのすみっこの菊の花を一つ失敬しちゃったんだ。そしたら、あのちょびひげの駅長め、おれの後ろで、ちゃあんと見張っていやがった。おい、なにをする、この花壇は、今年、表彰されることになっておったんだぞ。え? 君は他所者《よそもの》だろうが? この町の人間なら、こんなひどいことをするはずがない……っていうんで、おれからとりあげた花を、大事そうに紙にくるんでしまいこむと、さあこれが証拠品だ、いずれ後悔するときがくるだろう。……いや、びっくりしちゃったね。おれもはじめは、あやまるつもりだったんだが、あの針金のブラシみたいな口のききかたを聞いていると、こりゃてんから許す気はない、弁解無用だと思ったので、ちょっとこう、失礼な顔をしてやったのさ。そしたら、おこったのなんのって、このひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎が! 怒鳴るなり、ひと飛びに線路をこえて、なに、実はうまく向こうがわに上れないで、若い駅員に助けられてやっと這《は》い上ったんだがね、そしてすぐ駅前の交番に電話しやがった。おかげで、駅を出たらとたんにとっつかまって、いやもうさんざんな目さ。」……シュシュシュと源さんは、歯のあいだから空気をおしだすようにして笑った。「他人がつらいめにあった話を聞くのはたのしいね。」
……親しいから、親しくなるのではない、親しくするから親しくなるのだ、というのは本当かもしれない。いつか二人はすっかり意気投合して、バス小屋にたどりついた。織木は軽い寝息をたてて睡《ねむ》っていた。顔が乾《かわ》いて小さくなったように見えた。二人で小屋の中を片づけ、荷物を片隅《かたすみ》につみあげたとき、森がやってきた。森が織木を診《み》ているあいだに、矢根は火をおこした。火がおきたとき、あとの三人がやってきた。花井が先頭で、うしろにイボ蛙と狭山が並んでいた。
織木を入れると全部で七人である。旧式のバスなので、幅がせまく、バスの進行方向?に向って右に織木が寝ているために、あとは左側の壁にそって、ずらりと一列に並ばなければ入りきれない。ちょっと見ると、織木のための通夜をしているような感じである。奥から順に、花井、イボ蛙、源さん、森、狭山、そしていちばん入口に近く矢根……花井だけが列からすこし前に出て、斜めにむき、一向を見わたす位置にいる。もっとも森は、心もち後にさがり、源さんの陰にかくれるようにしているので、花井からはその膝《ひざ》の辺しかみえなかった。
花井がイボ蛙の肩ごしに、源さんをよんで囁《ささや》いた。「ごくろうさま、詳しいことはまたあとで話すから、今夜のところは、なんでもかまわず飲み込んだ顔をしていてくださいね。」……「いいとも、なんでも飲み込んだ顔をしておくことにするよ。」
イボ蛙が、守衛室からはこんできた湯呑《ゆのみ》で、番茶をくばり、狭山がはにかみながら、カリン糖の袋の腹をさいてさしだした。おれも商売道具を寄附するか、と矢根がその上に一とつかみのキャラメルをのせた。こうして飢餓同盟の、最初の会議がはじまったわけである。
まず、花井太助のあいさつ。
――今日、ここにお集りねがった方々は、みなそれぞれ有能の士でありながら、単にひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎だというので、屈辱に甘んじ、日の目をみることができなかった、のろわれたる同志たちであります。ということは、とりもなおさず、革命の要求を切実にもっているということであり……つまり、飢餓同盟員として参加するに足る、じゅうぶんの資格をもっていられる方々なのであり……(ながい息をいれて)そこで本日、ここにお集りねがって、重大発表を決定したのでありますが……(ふと口をつぐんで、見まわし)なにか、そのまえに、質問は?
それに応《こた》えて、まず口をきったのは源さんである。「こりゃ、なんだ、共産党かい?」……「ちがいますよ、そんなつまらんものじゃない!」と、花井がけわしい目つきでにらみつけると、源さんはすぐさっきの約束を思いだし、「そうそう。」と分ったような顔でうなずいた。
「しかし。」と狭山が首をかしげて、「くどいようだけど、やはり、左翼は左翼なんでしょう?」
「分らんなあ。」と花井が苛立《いらだ》たしげに、「なんだって、そんなことに、こだわらなけりゃならないの?」
「じゃあ、右翼なのかい?」と、矢根が思わず声をひそめる。
「君たち……」花井は興奮のあまり、息をつまらせながら、「ぼくに言いがかりをつける気なのかい。ぼくが、そんな、他人の猿真似《さるまね》をするような人間に見えるのかい。冗談じゃありませんよ。飢餓同盟だけで、たくさんじゃないか。べつに、名前で、革命をするわけじゃないんだからね。」
おずおずと、狭山が、とりなすように、
「ちがうんですよ、花井さん、べつに名前なんかにこだわっているんじゃないんだ。ただ思想的立場というか、主義というか、そのへんのところを……」
「いいよ、君。」と、花井がたかびしゃにさえぎり、「まあ、どうしても分らないのなら、分らなくてもけっこう。むりに分ってもらう必要はありません。あえて言わせてもらえば、思想の否定、思想からの自由だね。ぼくは、分るなんてことを、それほど重視しないよ。要するに、革命できれば、それでいいんでしょ。」……全身で貧乏ゆすりしながら、そりかえって、しばらく話の効果をうかがっていたが、もう誰もすすんで反応を示そうとしないので、「森さん。」と笑顔でこちらから話しかけ、「いかがです、御意見は? だいたい分っていただけたと思いますが……」
「つまり、アナーキズムなんですね。」と森はあいまいにますますひっこんでしまう。
「そりゃ、なんとお考えになろうと、自由です。問題は主義主張よりも、具体的な行動とその成果ですからね。」……「ええ、でも私は、自分が医者であるせいか、人間を自然の一部として考える習慣があって、革命というようなことは、どうも、考えにくいんですよ。」……「だから、先生、考えなくてもいいと申しあげているでしょう。本当に考える必要なんかないんですよ。たとえば診療所問題ひとつとってみても、これは考えなくても、厳然と存在している事実ですね。その事実から、出発して、それを一つ一つ革命していけばいい。そりゃ、どんなふうにして革命をやるか、そのやり方については、考えなきゃ駄目ですよ。でも、その点についてなら、まかせておいて下さい。ちゃあんと計画は出来ているんです。考えなしに行動をおこしたりするぼくじゃありませんよ。でも、先生、どうかご心配なく。勝目のない、むちゃな突撃なんか、絶対にしませんから。貝野や村山じゃあるまいし。ぼくのやりかたはですね。やつらに、自分で自分の首をしめさせてやるんだ、ほら、こんなふうに、ね……」花井は片膝をたて、両手でつくった輪を自分の首にあてがうと、じわじわとしめていく仕ぐさをしてみせた。半分は本気でしめているらしかった。額の静脈がういて、眼がまっ赤になった。狭山があわてて「分りましたよ。それで、報告ってのは、何なんです?」
花井は笑って、手をはなし、こんどはひどく得意気に「うん、しかし君たち、まだじゅうぶんに質問をだしきっていないんじゃないの? 遠慮は無用だよ。こうして行動を共にする以上、なんといっても相互の信頼が第一だからね。」
「じゃ、なにかね。」と源さんが体をゆすって聞いた。「おれたちの仲間は、これで全部かい?」……花井は眉《まゆ》をしかめた。「そいつは、組織上の秘密だから言えないな。」……「そうか、そうか。」と源さんは打ち消すようにあわてて手をふった。……「しかし。」と花井がつづけて、「いまの質問と関連して、これだけは言っておいたほうがいいな。つまり、この飢餓同盟は、花園だけの革命をするのか、それとも全国の革命をするのか……その点については、こう考えてもらえばよろしい。われわれはまず、花園革命をやる。そのあと、同じ方法で、第二、第三の花園を、全国各地につくっていき、それがまあ一ダース程度で、だいたい全国革命になるだろうとふんでいるんだが……」
「こりゃどうも、だいぶけんのんな話になってきた。」と、矢根が首をかしげ、「そんなにうまくいくもんかね? いったい、それまで、政府が黙って見のがしておいてくれますか? あぶねえなあ。」……「よしてくれよ、ぼくがそんなへまをすると思っているの? 革命が終っても、革命だなんて、誰にも気づかれないような具合に、うまくやるのさ。ま、まかせておいてください。」
「ぼくはやはり、飲み込めない。」と、森がひかえめな小さな声で言った。「どうしてです? 先生。」と花井が愛想よく、「先生の診療所なんか、まさに革命的導火線じゃないですか。たとえば、その問題にかぎって言えば、ぼくはこんな計画をたてているんですよ。正月の三日の休みを利用して、ぼくと源さんと井川君の三人で、まず洋裁学院の半分を占領してしまう。仕切壁をつけて、〈花園町立診療所〉と、大きな看板をさげちゃうんだ。先生は、けろりとした顔で、所長におさまっていてください。事実先生は、所長なんだし、診療所の場所さえつくってしまえば、法律的にも、先生に管理権ができちゃうんですって……な、井川君、そうだろう? ……文句を言うやつがいても、知らぬ存ぜぬで押しとおして、費用と設備をどしどし請求してください。言うことをきかなければ、県の医療監視員に報告するぞって、おどせばいいんです……な、そうだったね、井川君? ……そして、あとは当分、自然のなりゆきにまかせておけばいい。多良根と藤野は、きっともうれつなけんかをしはじめますよ。藤野が、なぜあれほど診療所をけむったがるのか、その理由は、むろんまず第一に縄張《なわば》りをおかされるからですが、もう一つ大きいのは、これまで藤野がにぎっていた、六十万なにがしという保健衛生費が手に入らなくなるからなんです。当然藤野は、多良根のさしがねだと思うでしょうね。いくら多良根が否定したって、多良根以外に、そんな大胆なことが出来る奴《やつ》がいるだなんて、思いもよらないことでしょうからね。さあ、このけんかは見ものだぞ。どんなに、もうれつなことになるか、しばらくこの町に住んでみたものでなければ、ちょっと見当がつかないくらいですよ、なあ。」とイボ蛙をふりむき、イボ蛙も、はずみでカチッと歯をならしたほど強くうなずいた。森は、織木がねている毛布のほころびをぼんやり見つめたまま、黙って首をかしげた。
花井がせきこんだ調子で、先をつづけ、「さらに、そのけんかを、矢根君にあおってもらう。」……「ぼくがですか?」……「まあ、聞きたまえ、例年の、新春文化祭……あの芸能コンクールに、人形芝居をもって、君が出場するんだよ。」……「ぼくが、なぜです?」……「よせよ、そんな哀れっぽい顔をするのは。森先生の診療所占領は、どちらかと言えば、藤野派に対する嫌《いや》がらせになるわけだろう。矢根君は、逆に、多良根派のほうを刺戟《しげき》してやるのさ。あの文化祭は、藤野幸福が主催者だから、こんどは多良根が、藤野のさしがねだろうと、かんぐる番になる。」……「でも、どんな筋でやるんです?」……「うん、筋も大体は考えてある……〈キャラメル慰霊祭〉っていう題なんだけどね……子供にたべられてしまったキャラメルの幽霊が登場人物で、こいつがつまり、藤野の力をかりて、多良根をやっつけるっていう筋なんだけどね……ふふ、ゆかいだろう……ぼくは、自慢じゃないが、着想だけはまったく無尽蔵でね……話しちまおうか、つまり、いいかい、工場の中に、キャラメルのおふくろが、檻《おり》に入れられている……工場の主人が、このおふくろを棍棒《こんぼう》でなぐると、腹が裂けてキャラメルの子供がとびだすっていう仕掛けなんだ。一回なぐるたびに、百個ずつうまれるかんじょうだ。一日十回以上なぐっちゃいけないんだけど、社長はけちだから、毎日二十回以上もなぐろうとする。そしてとうとう、このおふくろさん、病気になっちゃったのさ。腹が裂けっぱなしで、もとにもどらなくなったんだ。こうして、かつぎこまれた病院が、まあ、藤野のところってわけだな。先生、同情しちゃって、もう二度とこんなことがないようにっていうんで、新式のバンソウコウかなにかを貼りつけてやる。ところが、このバンソウコウが、たいへんなバンソウコウで……ええと、だいたい、こんな調子なんだが……ね、矢根君、面白いだろう?」
矢根はながく、すくなくも四秒は、うなってから、「しかし、ちょっと、教育的に問題があるんじゃないですか。」
「教育だって? 君が、教育を心配したりする、がらかってんだ!」
狭山はそれまで、つぎつぎ口に入れたカリントウを、音がしないように、唾《つば》でしめしてやわらかくすることに熱中していたが、ふと思い出したように、矢根と花井をみくらべて、融《と》けたカリントウを急いで飲み下しながら、「ぼくも、ちょっと発言したいんだけど。」……「ああ、君のことは、ぼくがちゃんと別に考えているから、いいんだよ。」と話の腰を折らされた花井が、不機嫌《ふきげん》そうに無視しようとするのにもかまわず、「いや、矢根さんのことなんですよ……うちの姉から聞いたんだけど、PTAで、矢根さんの人形芝居をボイコットしようとしているらしいですよ。やはり、教育上、問題があるとかで……」
姉、というその一と言で、つい花井が気勢をそがれた、その隙《すき》に、源さんが、鳥が水を飲むように首をつきだしながら、「ほう、そいつはいただきじゃないか。人形屋さん。あんたもしろうとじゃないんだから、言わんでも分ってるだろうが、子供相手の商売は、なんたってまず学校の禁止をねらうことだね。おれも、せんだって、打ち絵が禁止になったと聞いたんで、さっそく一箱仕入れて、そいつを三枚貝野のとこのガキにただでくれてやったら、あとは三日で売り切れさ。いや、借しいことをしたよ、あのときもっと元手があったらなあ。」
花井が、狼狽気味に、源さんの服をつかんでひっぱった。「いらんおせっかいは、しなくていい。矢根君のことは、ちゃんと同盟のほうで考えているんだ。」
「そうそう。」と源さんはすぐに口をつぐんだが、矢根には花井の言葉がきこえなかったらしく、「誰だい、その貝野のとこのガキっていうのは?」関心を示されると、源さんもやはり黙っておれず、「町いちばんの、とんだガキ大将よ。あんたも、ためしに、ただで二つ、三つ、景品をやってみな。とたんに、効果満点、うたがいなしだから。」花井が床を叩いて、金切声をあげた。「貝野のことなんか、口に出すのはよせ! あいつは、わが同盟の敵なんだ!」
「うん。」と、源さんはなにを思ったか、ほめられた子供のように、いそいそとした表情になり、「敵といえば、今日、名前は言えないがある男から、貝野のとこへなぐりこみ[#「なぐりこみ」に傍点]をたのまれてなあ……三日寝込ませりゃ一万円、二日寝込ませりゃ八千円、血を出しただけで五千円、御用になってるあいだは、毎日二百円のわりで差入れするって条件でね。おれが断ったら、もう千円ずつ値上げしてもいいっていうんだが……」
とつぜん花井が立ち上った。それにつられてイボ蛙も立ち上ったが、花井はすぐまた腰をおろし、「源さん、そんな重要な話、もっと早くぼくに言ってくれなきゃ、困るじゃないか……それで、もちろん、引受けたんだろうね?」……「めっそうもない。おれは、あんた、保釈中の身なんだぜ。せめて、もう二倍は、はずんでもらわなきゃ……」
「じゃ、誰か、ほかに引受けたやつがいるのかな?」
「どうだかねえ。さすがは、息子の親だけあって、あのおやじ、いまでも米の五俵はかつぐっていうからなあ。腕力が五人前なら、鼻っ柱も五人前で……」
「ちくしょう。」と、花井が、にくにくしげに、その後をうけて、「だから、あの連中のやりかたは、下手だっていってるんだよ! せっかくぼくらが、多良根と藤野を闘牛場に追いこんだのに、あの連中が、そばでいらんことして気を散らすもんだから、なかなかけんかが進まなくなってしまうんじゃないか。……源さんも、まったく、つまらん遠慮をしたもんだな。」
源さんは興ざめた顔で、花井から目をそらし、ちらと隣の森の手もとを見た。その手から、ゆらゆらとタバコの煙があがっていた。そっと体をよせて、その煙を吸いとろうとしたが、たちまち激しく咳《せ》きこんでしまった。誰もが、しばらくはその猛烈さに気をうばわれて、新事態に気づかなかった。
最初に気づいたのは、矢根だった。矢根の声におどろいて、いっせいに視線が織木の上にあつまった。いつのまにか――たぶん、源さんの咳《せき》に刺戟《しけき》されて――織木が寝返りをうっていたのである。
源さんが、イボ蛙の耳に口をあててたずねた。「さっきから、気になってたんだが、いったいあれは、誰だね?」……イボ蛙は、横目で花井をうかがい、物言いたげに唾《つば》を飲みこんだが、うん、とうなずき、手をふるだけでやめた。
花井は、片膝をたて、たてたその膝頭をごしごしかいていた。ひどく興奮した様子で、まず森を見、狭山に視線をうつし、それから部屋中をながめまわした。しだいに呼吸が激しく、またふいごのような音をたてはじめる。森はその様子をみて、医学的見地から、ある種の神経失調の診断を下さざるをえなかった。花井は最後に、イボ蛙で視線をとめ、しばらくじっとにらみすえていた。イボ蛙は、音をたててカリントウをかじり、気づかぬふりをした。
……「こいつは、急がんと、いかんな。」と花井がうわずった声で言い、急に、せわしい、訴えるような調子になって、「では、諸君、さっそく予定していた、報告にうつります。結論から先に言ってしまうと、いいですか、びっくりしないで下さいよ、わが同盟は、革命推進のために、この町に大発電所の建設を決定したのであります……云々《うんぬん》。」その説明のあいだ、イボ蛙をのぞいたほかのものは、複雑な気持で、しかし熱心に耳を傾けていた。イボ蛙だけは、話そのものよりも、話によって引起された一同の表情に興味を感じているらしかった。……矢根は説明のあいだ中、顎《あご》の下のそりのこしのひげをこすりつづけていた。狭山はつぎつぎカリントウを口に入れるので、口の中がいっぱいになってしまった。森はじっと目をとじて、ときどき眉間《みけん》を指先にはさんでひっぱったりしていた。源さんは森の膝《ひざ》のまえから、タバコを一本そっと失敬して、ほとんど煙がでないほど、ていねいにゆっくりとふかしつづけていた。
19
花井の説明がおわった。誰も口をきかない。口をきくと、せっかく積みあげた花井の説明が、ぜんぶ積木細工のように音をたててくずれてしまいそうだった。突風が天井をかすめた。どこかで、はがれた鉄板が、ぶっつかり合うような音がしていた。急に寒さが身にこたえる。狭山が膝小僧をさすりながら、ふるえだした。
……「ちょうどいいじゃないか、七人いる。」と矢根がつぶやくように言った。独《ひと》り言《ごと》でもおかしくないくらいの、低い声だった。しかし誰もが、ぎょっとしたように矢根を見た。あるものは狼狽《ろうばい》し、あるものは期待した。だが、花井は矢根の言葉を理解できなかったから、無視しようとした。
「七人?」とイボ蛙《がえる》が首をかしげ、なにか思いだそうとするように、口の中で繰返してみた。「七人……七人……七人……、なんだったっけ?」……「株式会社の発起人の数だよ。」と矢根がさりげなく、打ち切るように言った。……「あ、そうだ、発起人の数だったね。」と、イボ蛙が急に声をはずませて、「なるほど、きっかり七人だ。うまくできたもんだなア……しかし、この病気の人も、数にいれてかまわないのかな?」……「法律の本じゃ、無能力者でもいいってことになってるよ。」……「へえ、そいつはまた変った法律じゃないか。」と、源さんまでが乗りだしてきて、「それが本当なら、おれも仲間にしてもらえるってわけか……矢根さん、妙なことに詳しいんだなあ。人間、見かけによらないもんだねえ。」
矢根は目をむき、得意気に笑った。「いや、大きな声で言えることじゃないが、むかし、簡易葬儀社って、死産児専門の会社を、とにかく資本がいらないからっていうので、仲間といっしょにはじめてみたことがあるんだよ。そのときも、仲間だけじゃ数が足らず、かといって、気心の知れない他人を入れるのも心配だから、ちょっと、しらべてみたわけさ。そうしたら、どうだ、死人でさえなければ、乞食《こじき》でも、気狂《きちが》いでもかまわないっていうじゃないか。さっそく、知り合いのところから、赤ん坊を三人ばかり借りてきて、発起人になってもらった。法律ってやつも、しらべてみると、あれでなかなか味わいがあるもんだな。」
……「君、それは、すごい才能じゃないか!」と、花井がついに我慢しきれなくなって言った。「まさに、君のような人こそ、わが同盟が求めていた人物なんだ。」……「おだてないで下さいよ。べつに、知ってるというほど、知っちゃいないんだから。」……「いや、知っている。それだけ知っていれば、大したものじゃないか。」……「花井さんだって、まさか、なんにも知らずに、会社をつくる気だったわけじゃないでしょう?」……「知るとか、知らんとか、ぼくはそういうことには、あまり拘泥しないたちなんだ。ぼくは革命家で、商人じゃないんだからね。」……矢根は呆《あき》れて口をつぐんだ。花井はかまわず、先をつづけて、「どうでしょうか、諸君、花園発電所を設立するための世話役を、矢根君に引受けてもらったら。」……「賛成だな。」とイボ蛙がまっさきに応じて手をあげた。
二十分ほどすると、やや会社らしいふんいきが出来上っていた。花井社長、井川副社長、矢根総務部長、狭山財務部長、土井(源さんのこと)販売部長……森は極力辞退したが、人事部長、織木はむろん、本人の承諾なしで、工場長ということになった。そして今後は、おたがいのあいだでは、なるべく職名で呼びあうことが申し合わされた。ただ、森と狭山だけは、やはりなんとなく浮かぬ顔つきだった。
会議が峠をこすと、かわりに、もうれつな寒さがやってきた。花井を中心に、織木と森と狭山は、発電所経営に関する研究を、矢根を中心に、井川と源さんは、資金関係をふくめた会社設立のための調査を、連絡しながらそれぞれ受けもって、来週の今日、もう一度ここに集ろうということで、そろそろ一同が腰をあげかけたとき……
……その音は、はじめ、風に送られてくる、遠い汽車の汽笛だと思われた。だが、それは、織木のうめき声だったのだ。うめき声は、急速に大きくなり、叫び声になり、爆発した。同時に、織木が体をよじって目をあけた。
織木の目に最初に入ったのは、天井から下った沢山の人形たちだった。人形は、どれも襟首《えりくび》を鈎《かぎ》にかけてつってあるので、うつむいて、織木を見下ろすかたちになっていた。ふさふさした濃い眉毛《まゆげ》、歯をむいた大きな口、狼《おおかみ》のような顔、あるいは狼そのものの人形たち。織木はぎょっとした。秩父博士にそっくりだと思った。矢根の人形つくりは、決してうまいとはいえなかったが、しかし独特な表現力はもっていた。
つぎに目に入ったのは、他の連中より首の丈《たけ》だけ上にある、源さんの顔だった。織木はその姿勢と、周囲との関係から、その顔を実際よりも五割がた大きく感じた。恐れをなした彼は、反射的に肘《ひじ》をつき、背をおこした。そしてとつぜん、ぜんぶが明瞭《めいりょう》になった。
織木ははじめ、この同盟員たちを、自分の葬儀に列席している人たちだと思ったので、自分が死からよみがえった、伝説的人物かなにかのように錯覚した。それで、列席者たちに、生きた普通の人間であることを示し、恐怖感をとりのぞいてやらなければいけないと思い、むりに鼻をすすったり、咳《せき》ばらいしたりしてみせた。……「織木さん」と花井が呼んだ。織木は急にガタガタふるえだし、毛布を体にまきつけた。森が近づき、脈をとり、瞳孔《どうこう》をしらべた。
「いったい、どうしたんです。」と、暗い眼で花井をみつめながら、織木がいった。
花井は唇に手をあてた。
矢根は、ポケットの上から金時計をおさえながら、間が悪そうに坐りなおした。
花井が子供のような顔になって、「ぼく花井です、分りますか?」……織木はゆっくり手をあげて、額をおさえた。ふと、足もとの、犬小屋のようなトランクが目に入る。「すると……」とうめくように言い、顎《あご》をひいて、眼をとじた。……「花井太助です。里子の弟です。」と花井がくりかえした。織木は眼をとじたままうなずいた。
「ぼくらは、会社をつくろうと思って集ったんですよ。」……「会社?」……「地熱発電の会社です。」……「君は……?」……「除幕式もやるし、銅像も建てます。」……「じゃ、読んだんだね!」と織木は悲しげな声で、叫んだ。花井はあわてて、もういちど唇に手をやった。
……「ぼくは、織木さんと、二人だけで話したほうがいいようだなあ。」花井がうながすように言ったが、誰も動こうとしないので、膝でイボ蛙をおしつけた。……イボ蛙がやっと立ち上った。……「いっぱいやってこようか、総務部長。」と、源さんが矢根をさそった。「停電までな。」と、矢根が答えた。……そして、入口のほうから、順に出ていった。
花井はもう三十分以上、織木にむかってしゃべりつづけている。……だから、ね、飢餓同盟は、べつな見方をすれば、里子の復讐《ふくしゅう》をする事にもなるわけでしょう。織木さんの気持とも、ぴったりすると思うんだ。もちつ、もたれつですよ。ぼくなんか、もうなんだか高いところに上って、下界を見下しているような感じだな。……天にとどくような、蒸気の柱が吹きあがり、タービンがまわり、そのまわりで多良根や藤野が、ただおろおろおろとするばかり……ゆかいだなあ……電気を支配したものは、世界を支配する……ね、そうでしょう?
織木は肘枕《ひじまくら》して、毛布を顎の上まで引きあげ、じっと目をとじた。「あのトランク、開けて見てもいいですか?」……しかし織木はそれには答えず、弱々しい、鼻にかかった声で、「ぼくは、なんだか、まだあの潜水艦の中にいるような気がするな。鉄の階段のひびき……なまぐさい錆《さび》のにおい。」……「忘れたほうがいいですよ、そんなこと。」……「途中で一度爆撃をうけた、あのとき、いっそ、沈没していてくれたらよかったんだな。」……「人間は、一度死んだつもりになると、かえって腹がすわるものだそうですね。」……「君は本当に、秩父博士とは無関係なの?」……「知るもんですか、そんなやつ。出会う機会でもあったら、ひどい目にあわしてやりましょうよ。」……「どうかな? 彼はその道のエキスパートだ。いずれは、君のほうから、彼を迎えに行くんじゃないのかい。」……「めっそうもない!」……「ああ、ぼくはもう死にたくない。」……「分らないなあ、どうしてそんな、極端な考え方をしなけりゃならないんだか。」……「ぼくがどうして自殺をくわだてたか、君、分りますか? 生きたかったからなんだよ。自殺する以外にないほど、生きたかったんだよ。」……「なるほど。うん、むつかしいけど、分るような気もする。つまり、哲学ですね。生死をこえた境地っていうのかな。」……「ずいぶん、残酷なことを言うんだね。君はきっと、残酷の意味を知らないから、平気でそんな残酷なことが言えるんだ。ぼくを、人間だとは思っていないんじゃないの。」……「まさか、織木さんは人間ですよ。」……「さあ、どうだかね。」……「じゃあ、里子の死は、残酷じゃなかったとでも、おっしゃるんですか? あの遺書にあったことは、ぜんぶ嘘《うそ》だったんですか。」……「つまり、君は、ぼくに死ねっていうんだね?」……「いやだなあ、大げさな言い方はよしてくださいよ。」……「いいよ、いいよ、分ってるんだ。いずれ、秩父が嗅《か》ぎつけてやってくるだろうさ。誰の手にかかったって、同じことだからな。」
花井はうつむいた。内心のよろこびをかくすために、唇をなめまわした。
薄目をあけて、その様子を見ながら、織木がしのび笑いをもらした。「しかし、残念ながら、ぼくはもう死ねない。ヘクザンを、全部飲んじゃったんだ。ぼくはもう死ねないんだよ。死ぬ必要が、なくなってしまったんだよ。」……「でも、織木さん……ぼく、あのビンの中の残りを、大学に送って、同じものをつくってもらうようにたのんじゃったんです。」
はっと織木が、顔をあげた。それから、腕の中に顔をおとして、しずかに泣きはじめた。
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第 三 章
20
……ふた月とすこしたった。桂川が、空のボール箱をはじいたような音をたてて鳴った。上流の雪がとけ、急に水カサが増した証拠である。道路はぐしょぐしょになり、そこからたちのぼるほこりっぽい蒸気が、キャラメルエ場のにおいとまじりあって、町中がまるで病み上りの病人の寝床のようだ。壁ぎわや、立ち樹の根もとの陽《ひ》だまりには、もうかなりまえから春がきていた。春は、日一日と数を増し、今日は昨日の二倍、明日は今日の二倍、あさっては、たぶん、軽石のように穴だらけになった雪のかたまりが、日陰の枯草にでもしがみついていることだろう。
織木は、バス小屋の裏の坂道をのぼりながら、その雪を、自分のようだと思った。雪が消えたら、地下探査の仕事にかかってほしいという、花井の強引な注文につい負けてしまったのである。……花園の範囲内で、やめるのなら、あるいは致命傷をうけずにすませられるかもしれない、と自分をなぐさめてみたりもする……しかし、ヘクザンをつかっているあいだ、意志の働きはないのだから、そこでやめるかやめないかは、ただ使用者がわの気持一つだ……ここでの仕事がおわったら、研究所を建てて、もうヘクザンなんか使わないですむような機械を、発明してください……などと花井は約束してくれたが、はたしてどこまで信用していいものか? 誰か、第三者をたてて、共同責任をもってもらったほうがよくはないかな……ついでに、秩父博士が嗅《か》ぎつけてやってきても、決してぼくを引き渡さないという約束も……
それからまた、花井は決心したぼくを、不安がらせまいとして、ヘクザンが依頼した大学からまだ届いていないと言いはっている。それが嘘《うそ》だということは、森君の話からもちゃんと分っているのだ、あれはあんがい簡単な構造の薬だったらしい、そんなことも、むしろ隠さず言ってくれたほうが、いいのだが……
あとは、ヴァイオリンさえあれば、すぐにも仕事をはじめられる。そして、そのヴァイオリンも……織木は思わず微笑する……盗人を発見したからと、花井が知らせてくれた。間違いあるまい、花井自身がその盗人だったのだから……
それは、年が明けて間もなくのことだった。織木もやっと、外に出られるようになり、彼ははじめ、ヴァイオリンをもって、矢根の芝居の伴奏をしてまわることにした。しかし、二、三日で、だめになってしまった。というのは、織木がそらで弾《ひ》けるものといえば、バッハなど二、三の練習曲があるだけで、矢根の人形たち、赤ずきんゲンゴロウや、仇討《あだう》ち又右衛門とは、あまりにもつながりがなさすぎたからである。織木は真面目《まじめ》だった。しかしその真面目さがかえっていけなかった。子供たちは変にかしこまって、ただぼんやり彼の手もとを見つめるだけで、もう矢根がいくら熱演しても、振り向こうともしない。矢根はすこぶる不機嫌《ふきげん》になり、それでも、はんじょうするのなら、まだよかったのだが、みるみる子供たちの数がへってしまった。
さらにいけないことが重なった。たまたま通りかかった、狭山ヨシ子が、織木のヴァイオリンを耳にしたのである。とつぜん彼女は、かつてないロマンチックな感情の発作におそわれた。織木が顔をかくすために、ソフトを深くかぶり、襟《えり》を立て、病気あがりのもろい膝《ひざ》でやっと立っている姿までが、ヨシ子には意味深く、感動的に見えたらしいのだ。数日たって、織木は、狭山ヨシ子から手紙をうけとった。
――『弟から、あなたのことは、うかがいました。ひどいわ、あなたのようなセンスのある方が、あんな人形芝居屋なんかに、こき使われているだなんて。私には、まるで、天使が犬みたいに首輪をつけられて、悪魔にひきずられて歩いているように見えました。ああ、私も本当に孤独なの。いつか、二人して、美や、真理について、心ゆくまで話しあいたいわね。それに、私、ちょうどヴァイオリンを習いたいと思っていたところでしたの。ちょうど、注文しておいた品が、そろそろとどくころですから、とどきましたら、持ってうかがうから、教えてね。こんな生活は、もううんざり。日本人って、だいたい、ロマンチックなセンスに欠けているでしょ。くやしいから、ときどき、誰もいない雪の中で、自殺してやろうかと思ったりすることがありますの。私たち、意気投合しちゃうんじゃないかしら。ええと、なにか、もっと書きたいことがあったはずなんだけど、いまはうまく書けないわ。どうぞ、今後ともよろしく、御指導下さいませ。(この手紙、これでも、四時間もかかりましたのよ)……かしこ』
織木は思わず吹き出したが、すぐに笑ってすませられることではないことに気づいて、蒼《あお》ざめた。そして、バス小屋でヴァイオリンの盗難があったのは、その翌日のことだった。さらに翌々日、ヨシ子がヴァイオリンをかかえてあらわれた。盗まれたはずの織木のヴァイオリンだった。ヨシ子は、盗人に注文したのであろうか? 気の毒に思って、黙っておくことにした。
考えてみると、彼はどんなことにでも、花井を批判しようとはせず、むしろ理解しようとつとめていたようだ。たぶん、里子の追憶によりそっている、自分自身への思いやりだったのだろう。いまとなっては、里子との距離は無限であり、無限からは、いくら有限をさし引いたところで、無限であることに変りないのだが、それでも、その有限を積み重ねる行為をやめることができないのだった。彼の行為の非合理性は、すべてここに起因していたように思う。もしかすると、彼は、はるか以前に解散を命じられた、バベルの塔建設工事の不幸な技師の一人だったのかもしれない。
織木はその後、いくつか仕事を変えてみた。矢根のほうでは、たぶん例の金時計――あれから、あらためてもらいうけ、しかしまだ修繕には出してない――のためもあるのだろう、まあ発電会社がはじまるまでのしんぼうだからと、べつに催促がましいことも言わなかったが、かといって、何もしないでいるわけにはいかなかった。とくに、矢根が追放ときまってからは、その日のキャラメル仕入れ代金にもこと欠くのが現状だったのである。
……矢根の追放は、人形芝居〈キャラメル慰霊祭〉の公演の直後におこなわれた。花井の原案に、矢根が(いやいやながら)脚色して、一月二十日、計画どおりコンクールに打って出たが、多良根と藤野の対立にくさびを打ちこもうという花井の意図とはまったく逆に、むしろ両派を結びつけてやるような結果になってしまったのである。もっとも公演自体は予想外の盛況だった。子供が二百人、大人が二十人、椅子を隅《すみ》に片づけて、子供はみんな下駄をかかえ床に坐るようにしたが、それでも入りきれないくらいだった。さて、幕があがってみると、五分とたたないうちに、子供たちがそわそわしはじめた。支離滅裂で、はなしの筋がさっぱりのみこめないのである。むろんたまには印象的な場面もあった。たとえばキャラメルの幽霊が、体の中に針をかくして、社長の口にとびこむところなどでは、しゃぶっていたキャラメルを思わず吐きだしてしまった子供もいた。ときたま、わっと笑うことがあれば、それは人形の操作を失敗したときだった。いったん混乱しはじめると、盛況は、かえって混乱に拍車をかけるだけのことだった。
大人たちにとっても、支離滅裂なことには変りなかったが、ただその意図については、明瞭《めいりょう》すぎるくらい明瞭だった。コンクール審査員の浮月などは、不安にかられたか、途中で姿を消してしまったほどだった。審査委員長代理の重宗は、さすがに責任を感じてか、血相を変えて舞台裏に乗込んできた。花井はいちはやく逃げ去り、イボ蛙《がえる》はたちまち降伏してしまった。あとはただ、矢根の強気でどうにか終りまでつづけたが、セリフが抜けたり、人形が動かなくなったり、やっている当人にもわけが分らぬ始末だったという。
町の平和をおびやかす行為だというので、さっそく花園新聞がこの事件を特集した。論説、『読書会をあやつる、政治的背景――手先になってあやつられた、人形使い矢根善介』……つづいて、小学校の校長の教育的見地からみた攻撃文。さらに、駅長が保管しているという押し花が、ひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎の悪徳――花壇の花をむしった――の証拠物件として掲載され、さらに、PTAが、矢根善介の町内興行停止を強く要求し、おまけにこれらの意見を、教育委員長たる資格で、藤野健康が全面的に支持していたのである。……矢根は憤激した。いったいどういう理由で、読書会が引合いにだされたりするのか? まるっきり関係なんかありはしないのに。すぐにでも花園新聞に抗議にいこうとしたが、これは飢餓同盟の趣旨に反するということで、花井から差しとめられてしまった。矢根は源さんの言葉を思いだし、貝野のいちばん下の息子を打診してみることにした。左右、色ちがいのゴム靴をはき、耳の上にはげのあるその小鬼は、なるほど町きっての悪たれと言われるだけあって、上着の袖《そで》で鼻をこすりながらも――むろん、キャラメル五箱という思いきった供応のせいもあったにちがいないが――言うことははなはだ筋のとおったものだった。「いいさ、まわって来りゃ、おれは見てやるよ。だって、PTAは、警察じゃないんだろ。」……なるほど、PTAはたしかに警察じゃない。矢根はすっかり感心してしまった。それから急におかしくなってきた。いったい何をびくびくしていたのだろう。ともかく、貝野が顔をきかせている川向うでなら、なんとか商売をやっていけそうだ。
しかしこれも、花井のもうれつな不興をかってしまったのである。とんでもないことだ、と花井は言った。敵の首は、敵の手でしめさせるというのがわれわれの流儀なんだ。勝手に動きたがる手なんて、ポケットにでも縫いつけておくがいい。それに、総務部長! 君は同盟ならびに、会社に対して、どれほど大きな責任を負わされているのか、まだじゅうぶんに自覚できていないんじゃないの? だって、そうだろう、君がPTAの決議を無視して、それも員野なんかの後ろ立てで商売をつづけているなんてことが知れわたったら、それだけ発電所の実現が、遠のいてしまうことになるんだぜ。
「どうしてです?」
「どうしてだって? ……やれやれ、総務部長さんから、そんな質問を受けるだなんて、ちと心外だね。よろしいですか、ぼくらには、おどろくべき技術があるが、残念なことに、資金がない。」
「ええ、だからなんとしてでも、商売をつづけないと……」
「馬鹿だよ、君は。君のかせぎぐらいじゃ、一万年たったって、発電所の煙突一本もたつものか。せっかくぼくらには、天才的な技術があるんだ。多良根派と、藤野派の抗争が、いよいよ頂点に達して、どうしても相手に致命的打撃を与えなければならなくなった場合、かならずどちらかが、ありったけの札束をつんで、ぼくらに協力を求めにくるはずだ、だって、そうだろう、われわれと同盟を結んだ者が、勝ちを占めるにきまっているわけだからね。そこで、われわれの作戦としては、裏から両派の対立をあおり、やがて機が熟するのを、じっと待っていなけりゃならんことになる。貝野なんかに、すこしでも出しゃばる機会を与えてみろよ、やっとひろがりかけてきた、多良根と藤野のあいだのひびを、またもとどおりに埋めてしまうだけのことじゃないか。総務部長、説明はもうこのへんで、よろしいですか。」
そう言われてみれば、なるほど、そんな気もしないではない。それに、総務部長という呼称には、なにやらめまいを起こさせるような作用があって、そう呼ばれただけで、矢根はたちまち、暗示にかかったような気分になってしまうのである。……いや、たしかに、自分の生活のことなんかにかまけている場合ではないのかもしれない。現に、花井社長自身が、年が明けて間もなく花園キャラメルをくびになり、文句一つ言わずに、あのとおり乞食同然の生活に甘んじているではないか。
そこで、当面の解決策として、かわりに織木が人形芝居屋を引き受けてみることにした。追放されたのは、矢根なのだから、彼ならば町の興行もさしつかえないはずである。台本も、矢根よりは幾分高級なところをえらび、イボ蛙にたのんで図書館から借りだした、学校劇全集の第三巻というのを使うことにした。しかし、じっさいにやってみると、考えていたようにはうまくいかない。ふだんはなんとも思わなかった、子供たちが、まことに残酷このうえないのである。彼は緊張し、興奮し、台詞《せりふ》を言うと指が動かなくなり、指を動かすと台詞がでなくなり、ついには試験官の前に出た臆病な学生のように、膝のふるえがとまらなくなったりする。こんなことでは、食わずに寝ていたほうがまだ健康にいいくらいだった。
一方、矢根のほうは、源さんの商売の一つであった、安物の装身具――主にブローチと指輪――をもって、農村まわりをしてみることにした。だがこいつは、織木以上の失敗におわってしまった。農家の娘たちを浮きうきさせる話術と、子供相手の話術とのあいだには、これまた想像以上のひらきがあったのだ。娘たちは変にはにかんで、彼の品物をのぞくことさえためらうのだった。それに、娘たちが、これは金? それともメッキ? とたずねるとき、どうせ相手もただの真鍮《しんちゅう》だと知りながら、ちょっとした罪のない夢をみるために、上手な嘘《うそ》を求めているのだとは分っていても、メッキだがね、ただのメッキとはちがって、肉厚メッキというやつだ。金と同じことだよ、まず三十年はこのまんまだからな、と源さんのようには答えることができなかったのだ。
ところで、言い忘れたが、その源さんは、去年の暮に、貝野の父に対する傷害容疑で逮捕されてしまっていた。この話を聞いたとき、まっさきに抗議したのは、貝野の父自身であったという。貝野の父は、例の町議会があった夜、飢餓同盟の席上で源さんが予告したとおり、何者かの襲撃をうけ、肩に一ヵ所、腹に三ヵ所、鋭利な刃物で切りつけられた。この結果、立候補の件は中止になり、多良根や藤野の計画どおり、無投票選挙で藤野幸福が当選した。ウルドッグはいつの間にか黙ってしまっていた。かわりに、藤野から石燈籠《いしどうろう》と庭石を送られ、また彼の産業開発青年隊に、かなりな予算の増額が約束されたということである。そうした状況の中で、源さんの逮捕がおこなわれたわけだが、貝野の父は、源さんのことならよく知っている、犯人はもっとずっと小柄だった、黒い布で顔を覆《おお》い、乗馬ズボンをはいた、ひどいがに股《また》の男で、切りかかってくるとき「おうっ。」と独特な気合をかけた、と、花園町に住んでいるものになら、誰にでもすぐ分る特徴まであげて、源さんが犯人でないことを証拠だてた。これに対してウルドッグが、公安委員として抗弁した。「しかし、そのとき貝野氏は、酒に酔っていたはずであります。酔った人間は、ときどき物が小さく見えることがあることを考慮していただきたい。」……「なるほど、私は酔っていたかもしれない。しかし私の一升酒は有名で、あのときは一合くらいも飲んでなかった。それはいいが、宇留さん、あんたはどうして私が飲んでたことを知ってるんですか?」……「ひとから聞いた。」……「誰ですか?」……「それは言えない。」……「言えないだろうね。あの晩、Mのところで馬が産気づいたって知らせがあってな、私は九時ごろ家を出たが、帰ったのは十二時すぎだった。もうみんな寝てしまっていたので、自分でコップにいっぱい持ち出して、一人でちびちびやりはじめた。そこへいきなり、後ろからすぱり、倒れたところを、またすぱり、起き上ろうとしたらその野郎、とたんに一目散でね、もってたコップを後ろからぶっつけてやったが、うまく当ったかどうか? ……まあ、そういうわけで、私が飲んでたことを知ってるのは、その犯人だけなんだよ。」……「ああ、土井(源さんのこと)から聞いた。」……「じゃ、なぜ言えないなんていったんだね?」……「言ったからいいだろう。」……「しかし犯人が源さんじゃないことは、はっきりしてる。」……「いや、あんたは酔ってたんだから、はっきりは分らんはずだ。」結論は……はじめからでているのだから、これ以上でるわけもなかった。
源さんが逮捕されてから、二三日のあいだ、花井はさすがに気力をうしない、落着きをなくしてしまっていた。矢根がアリバイをたててやろうと、花井に持ちかけると――矢根と源さんは、その夜、二時ごろまでいっしょに飲んでいた――花井はひどく興奮して、君のようなひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎のアリバイを、誰が信用するものか、ぐる[#「ぐる」に傍点]だと思われるくらいがいいとこさ。それに、そんなことから同盟の秘密がもれたりしたら、たき木を抱いて火を救うようなものじゃないか。源さんだって、馬鹿じゃないのだから、君のことなんか、最初から当てにしてやしないよ。……しかし実際には、花井が恐れていたのは、証人として喚問されることだったのである。だから、べつに喚問の通知もなさそうだと分ると、すぐ元気をとりもどし、こんどはしきりに貝野の父の非難をしはじめた。あれではまるで、わざわざ源さんの罪を重くするために、運動しているようなものじゃないか。源さんを逮捕したのは、大人しくしろという意味なんだから、大人しくさえしていれば、いずれ釈放になる。源さんは馴《な》れているんだし、ちょっとのあいだしんぼうしてもらって、出てきてから大いに歓待してやればいいのさ。……矢根はなんだか嫌な気がした。同時に、もっともであるような気もしていた。どうも、総務部長に任命されていらい、感情や判断が、ことごとく分裂的傾向をおびてきたような感じだった。
21
織木は、坂道をのぼりきると、落葉松《からまつ》の林の中を左のほうに歩いていった。暗くなるのを待って、薪《まき》をひろって帰るつもりである。ついでに、ついその先の、死に窪[#「死に窪」に傍点]とよばれている凹地の傾斜に、蕗《ふき》のとうが出ているというので、それも摘《つ》んで帰ろうと思った。なにをしても、矢根に負担をかけるだけなので、せめてそんなことでもしておぎないをつけるつもりだったのである。
雪を踏むと、その下で、落葉が海綿をつぶすような音をたてる。道はすべりやすく、死に窪[#「死に窪」に傍点]につくまでに、二度も膝《ひざ》をついてしまった。凹地の中には、雪がなかった。親指ほどの蕗のとうが、落葉をおしあげて、あちこちに群をなしていた。風はなく、薄日がさして、空気にしぶいような味があった。織木は急に、泣きたいような気持になってしゃがみこんでいた。
と、足もとにころがっている、一匹の小鳥の死骸《しがい》。すずめをちょっと大きくしたような、小鳥で、死んでから間もないらしく、びろうどのようにつややかな瞼《まぶた》をしていた。いそいでマッチをすって、地面に近づけてみた。にぶい黄色い光をだして、すぐ消えてしまった。
炭酸ガスだ!
織木は緊張した。これで彼の仮説の一つが裏づけられたわけである。彼は、花園温泉がとまった理由を、地下水脈の変動だと考えていた。地震で花園温泉はとまったが、かわりに山一つへだてたYでは、井戸水が平均三度も高くなったということだ。これはマグマで発生した高熱蒸気が、深いところでまずAという小水脈に熱をおくり、その水脈がさらにその上にある、Bという大水脈の間をくぐりぬけ、地表に近づいて花園温泉になっていたのを、地震で、A、Bの両水脈がまじりあったために、Aの温度が失われ、かわりにBの温度をいくらか高めるという結果になってしまったのだろう。しかし、マグマからの通路になっている地盤の割目に、そう変化はなかったはずである。ただ、途中で熱をうばわれるために、わずかに低温ガスを排出するだけになった……それがこの炭酸ガスではないのか……すると……ここを中心に、大きな割目が町を横断して、半島の先まで通りぬけていることも考えられる。割目の構造と、小水脈の構造をつかめば、温泉の復活も、高熱蒸気の開発も、あんがい容易に実現できるのではあるまいか。温泉がとまったとみえたのは、この土地の温泉業者たちが、古いアズサ掘りしか行わず、アズサ掘りというのは、大きな車をやぐらに支え、中で人間が白鼠《しろねずみ》のように際限なく歩いては車をまわし、竹竿《たけざお》の先につけたパイプの泥をくみあげるという、ひどく原始的なやりかたで、この技術的な制約と、百メートル掘るのに一年、百万円はかかるという投機性のために、必要な深さまで掘り下げることができず、途中で放棄することが多かったためだと思う。この点の解決として、新しいボーリング技術をとりいれなければならない。正しい位置を探査し、AがまだBに混り合わないところまで、深く掘り進むこと、これが開発の第一段階である。……つぎに、この成果をもとに、資本の調達が可能ならば、ぜひとも水脈の分離工事をしてみたい。AとBの、通路にあたる部分を、探査して、セメントでふさいでしまえば、花園温泉はそっくり昔のままの姿にもどるだろう。これが開発の第二段階。……最後は、まだ世界中どこでも試みたことのない、地熱開発のための水脈改造計画だ。このころまでに、全部の温泉を、A脈掘井から蒸気による熱交換泉に切りかえておき、A脈を人工的に涸《か》らしてしまい、蒸気の通路をずっと上までもってくる。A脈が地表にとどいているこの附近では、工事も案外簡単にすむはずだ。もし、このプランが成功すれば、世界で最初の、調節可能な人工小噴火口ができあがるわけだ。……噴火工場! 地熱工場! ……織木は空想する、長楕円《ちょうだえん》を半分に切ったような、巨大な塔が、幾本も天にむかってそびえ立ち、そのとっ端からは、余剰ガスが絶間なく噴出し、人間に屈伏した地球が恭順の歌をうたいつづける。塔の腹を螺旋《らせん》にとりまく、鋼鉄のレールにそって、いくつもの操作室が交錯しながら上下する。塔と塔との間には、無数のパイプがはりめぐらされ、空間を網目のように仕切っている。そして、その下に限りなくひろがっているのが、大花園工業地帯である。……数百万キロワットの発電所。硼酸《ほうさん》・アルミニウム・カリウム・沃素《ようそ》・セシウム・その他の有用|稀産《きさん》元素の製造工場……硫黄精煉《いおうせいれん》、人絹工場、製薬工場、農産物の熱加工工場、地熱|煖房《だんぼう》による大農園……また町の中央には、家庭用蒸気配給所、地熱研究所、熱帯植物園などがあり、すべての緑地帯には、熱湯の噴泉が、艶消《つやけ》しされた甘い光の粉をまきちらしている。道ゆく人の顔にも、はやうれいの影はなく、振向いてささやくだろう、あれがわれわれの恩人の織木技師だ、と。
急に寒気がして立ち上った。死に窪[#「死に窪」に傍点]の底から静かに、霧が湧き立っていた。
22
その日の夕方、飢餓同盟定例会議の席上、花井の遅刻をいいことに、「織木さん、あんたどうして、逃げようとしないんだい?」と、花園の仕事が終ったらかならずヘクザンを中止してくれという、織木のたのみを聞いて、不思議そうに矢根がたずねた。「分らんなア、おれも近頃は、なんだかうっとうしくって……疑っているわけじゃないが、どうもおれには、荷がかちすぎるよ。花井の大将は、やたらにうろうろしているようだが、なにをしてるんだか、さっぱり様子がつかめないし、とにかく話がでかすぎる。こんな、ねぼけづらに鼻環《はなわ》をかけて、引っぱりまわされているような状態がつづいていたら、いまにきっと気がおかしくなっちまうぞ。あんたが逃げるつもりなら、おれも思いきって、いっしょに逃げだしちまうんだがなあ。」
なぜか織木はうつむき、わるびれてしまう。なんと答えたらいいのか、上手《うま》く言えない。彼自身にも、よくは分らないことなのだ。彼にしても、まんざら逃げようと思ったことがないわけではなかったが。しかしそのたびに、なにが逃げだすことで、なにが停《とどま》ることなのか、はっきりしなくなってしまうのだった。
「そう、できれば、そうしたほうがいいかもしれない。」森も、横をむいたまま、神経質な調子で口をはさんだ。すっかり憔悴《しょうすい》して、眼はおちくぼみ、唇《くちびる》は燻製《くんせい》ニシンの肉のような色になってしまっている。花井の計画どおり、大晦日《おおみそか》から元旦にかけて、洋裁学院の半分を占領し、大きな門標もつけたのだが、事態はいっこうによくならず、彼はいささか神経衰弱気味なのである。……二日の朝、藤野うるわしが金魚の腹のようなぼかし[#「ぼかし」に傍点]の訪問着をきて、三十メートルも先からにおう濃厚な香水をあたり一面にまきちらせながら、たぶん少々オトソがまわっていたのだろう、森センセエ、と鼻にかかった声で――あるいは自分の香水にむせていたのかもしれない――眼をしばしばさせながら、勢いよく乗り込んできた。が、ひと目事態を見るなり、声もたてずに立ちすくみ、みるみる両眼が涙で金魚鉢のようになった。分ったわ! と泣き声でいうと、そのまま後もみずに逃げ帰った。花井によれば、その晩、藤野健康と柿井が大口論のあげく、なぐりあいになりかけたと、いかにも計画の成功を思わせる報告だったが、話し合いがあったことは事実であるにしても、それは花井が考えていたような話し合いではなかったらしいのだ。翌朝早く、柿井が紋附袴《もんつきはかま》で現れて、こんなこと、誰がおやりになったんです、と、もうかなり酔ってはいるが、はなはだおだやかな調子である。……さあ、と森は抵抗をさけて、曖昧《あいまい》にいう。……明日にでも、とってしまいましょうかな、五日には学院の新年会があることですしね。……いや、誰がつくったにせよ、出来た以上、医療法十一条で私に管理権があるんだから、勝手なことをされては困ります。……固いことは言いっこなしにしましょうよ。職権がら、犯人の目ぼしくらい、ちゃアんとついてるんですから。だから先生、せっかく正月気分でもあることだし、そう我を通さずに、なんとか分って下さいな。わしらはまず、第一に町の平和を考えんとなりません、公僕ですもんな。……なんと言われても、駄目だと言ったら、絶対にだめです。……じゃ、と急に袋のような顔を、横皺《よこじわ》でいっぱいにして、それなら、新春にふさわしく、この辺で話題を一転させるといたしまして、ねえ先生、よろしかったら一つ、うるわしさんとこに、養子にゆかれるおつもりはありませんかな? ……森はあっけにとられ、もうこれ以上は口をきくまいと決心する。……でも先生、藤野さんなら家柄もいいし、財産もなんだし、うるわしさんはあのとおりだし、町の若いもんならヨダレをながす話ですがな。すくなくも、こんな診療所なんか、問題にならんと思いますがな……むろん、森は沈黙をおしとおした。
この話を聞いた花井はいきりたった。森が養子に行くことを、承諾したものときめこんでしまったのである。森がいくら説明しても、なかなか聞き入れない、こんな話を、断ることがありうるなどとは、花井には考えられなかったらしいのだ。やっと了解すると、こんどはひどく強気にでた。いよいよ大爆発の前兆である。今度の事件で、奴等はよくよくの打撃を受けたにちがいない。さもなけりゃ、あえて藤野が、自分の娘をまで犠牲にしようとしたりするはずがない。さすがの森もむっとした。が、さからうのも馬鹿らしく、無視しておくことにした。事務所がはじまった日、なにか藤野さんに伝言はありませんかな、と柿井がいわくありげにうながした。返事をしないでいると、向うもそれ以上の催促はせず、しかし帰りぎわに、何食わぬ顔で診療所の標識をとり外《はす》そうとするので、困ります、と強く言うと、これも意外に大人しく手をひいて、そのまま帰っていってしまった。ただ、この二つのやりとりが、あくる日も、またそのあくる日も、かかさずくる目課の一つになってしまったのである。さらに二月のはじめころから、これにうるわしの恋文が加わった。うるわしは、洋裁学院を休み、彼女が受持っていた分を、代理に町の洋服屋の娘がうけもつことになった。ある日のうるわしからの恋文に、この事件によってうけた、洋裁学院の損害がいかに大きいかを詳しく数字で訴えてきていたが、彼はそれではじめて、洋裁学院というものが要するに、月謝つきの只よりも安い女工で運転している、洋裁工場だということを知って、驚かされた。しかも、相当な収益をあげていたらしいのである。しかしうるわしには、こういう恋文が、森の心をさらに傷つけるものだなどとは考えも及ばないらしく、つづけて、海の底にぬれている海草のような私の髪に、云々《うんぬん》、という世にも気持のわるい詩が一編書きそえてあった。……花井のいう爆発がおこる気配など、すこしもなく、むろん一人の患者も、あらわれはしなかった。夜になると、診療所と洋裁学院の仕切壁を、ネズミがカリカリ穴を開けはじめた。……「逃げだしたほうがいいですよ、こんなとこ。計画、計画っていうけど、織木さん、本当のところどうお考えなんです? ぼくはこの分じゃ、温泉一本だって、あやしいもんだと思ってるんだけどね。」
「どこが、あやしいんですか?」イボ蛙は、それまで織木の裏切り――彼は織木がヘクザンのことを打明けたのを、裏切りだと思っていた――につむじをまげ、黙りこんでいたのだが、「人事部長がそんなことを言ったんじゃ、統制もなにもとれやしない。そんなこというけど、森さんなんか、花井社長がクビになってから、五百円しかカンパしてないでしょう。ぼくなんか、こんなこと言うのはなんだけど、ジャムつきコッペを一日二個、かならずカンパしてるんだ。それだけでも、もう千二百円以上になりますよ。」
「ぼくは、昨日花井君がS市に工作しに行くっていうので、千円あげましたよ。」と森がつぶやくように言い返した。
「Sだって?」……はじめて聞くことだった。そういえば、昨日からコッペをとりに来ていない。しかし、自分に知らないことがあるなんて、許せない気持がした。「そんなはずはない。そりゃ、なにかの間違いでしょう。」
「いや、行ったよ。」と、それまで物思わしげに爪をかんでいた狭山が、わざと出し惜しんだように、意地悪な調子で口をはさんだ。じつは彼も重苦しい不安感に、悩まされつづけていたのである。彼の悩みというのは、小さな幾つかの疑問が、職場での圧迫感と結びついて、飢餓同盟にたいする不信をうみ、それが人生のあらゆる疑いにひろがっていこうとすることへの恐怖だった。彼は、発電会社の財務部長ときまってから、急に職場に対する不満をつよめた。彼をふくめて、駅員たちはあまりに卑屈すぎると思った。駅長がモットーとする、家族主義だって、要するに本人の行動が家族との連帯責任において、拘束されるということにすぎないのではあるまいか。分会長にしても、駅長のマージャン友達であり、組合員の味方であるよりは、むしろ監視人にちかい。花井の意見によれば、やはり分会長と駅長が対立するまで、気ながに待つことだという。が、しかし、春の人員整理は、すでに予告されてしまったのだ。駅長のやり方はきわめて巧妙で、誰がやめるかを、仲間同志のあいだの話しあいできめるようにと言っている。なに、そんなことに、いちいちめくじら立てるのは、革命の素人《しろうと》のやりかただよ、と花井は軽く受け流し、それじゃ君が、その希望退職者の第一号を、すすんで引き受けてやればいいじゃないか。大発電会社の重役たるものが、駅の切符切りくらいにこだわっているなんて、こっけいだよ……だが、そんなことで、いいのだろうか? 花井さんだって、くびになったときには、三日も眠れずに悶々《もんもん》としていたじゃないか。発電所だなんて、どう考えても話がうますぎるよ。それに、最近の花井の行動には、なにかしら気がかりなものが感じられてならない。姉のヨシ子が、しばしば織木のところへ出入りするようになってから、花井の彼に対する態度が一変したように思われる。彼の言い分など、ほとんど聞こうとせず、高圧的な命令口調で、むりな要求をおしつけてくることが多くなった。たとえば、駅からソロバンを盗んでこい。財務部長らしくなるために、明日までに割算の九九をおぼえろ。電球を三つ盗んでこい。将来キャラメル工場の煙突を塗りかえるために、毎日電柱にのぼる練習をしろ。姉さんの指紋をとってこい。電気コンロを盗んでこい。そして、昨日は、姉からヴァイオリンを盗んでこいというわけだ。彼は花井が、自分で姉にわけを話して、返してもらうようにするのが本当だと思った。いくら混乱をおこすのが、同盟のやりかただとしても、仲間同志のあいだにまで混乱をおこさせる必要はないではないか。返事をしぶっていると、花井は興奮して、例のふいごになりはじめ、袖《そで》や裾《すそ》やボタンをつかんでぐいぐい引っぱり、とうとうボタンの一つを引きむしってしまった。狭山は恐ろしくなって、言われるとおりにすることにした。誰もいないうちに、バス小屋の中にしのびこみ、姉からとってきたヴァイオリンを目立たぬところにそっと隠しておいた。今日の昼間のことである。最初に矢根がみつけた。織木はべつに驚かず、ふた月ぶりで帰ってきたそのヴァイオリンを、まるで小猫のように静かに撫《な》でてやっていた。
「行くもんか!」と、だがイボ蛙も負けずにやりかえした。
「行ったよ。昨夜の二十三時さ……ぼくが切符をきったんだから、間違いない。」
「きっと、行くまねをしただけだよ。」と、イボ蛙の声がしどろもどろになる。狭山は黙って、イボ蛙を皮肉な眼で見返した。
23
工場の塀《へい》にそって、表通りから、路地に駅けこんでくる足音がした。「社長だな。」とイボ蛙がドアのほうを振向いた。「ちがうよ。」と鋭く言いはなって、狭山が腰を上げた。足音は軽く、大股《おおまた》で、速い。荒い息づかいが、体ごとドアにぶっつかってきた。狭山は振向いて、唇《くちびる》に指をあて、ドアの引手をぐっとおさえた。……(息づかい)織木先生、(息づかい)いらっしゃる? 大変なのよ、ね、先生、(息づかい)私ヨシ子ですわ、(息づかい)とられたのよ、先生、開けて下さいな、ね、どうなさったの?(息づかい)先生ってば、まあ、何してらっしゃるの、隙間《すきま》から見えてるのよ、あけちゃうわよ! ……狭山は腰をおとして身がまえた。……あけちゃうわよ、とヨシ子がくりかえした。板が割れる音がした。狭山の体が押し返されそうになった。……先生、ヴァイオリンを盗《と》られたのよ。不安げな、くもりをおびた声になり、ねえ、どうなさったの? ……同時に古釘《ふるくぎ》がぬける音がして、引手がとれ、はねるようにドアが開いた。狭山が、後ろにつみ上げてあった人形の中に、たたきこまれた。
「なにさ、こいつ!」とヨシ子は顔をひきつらせて、狭山をにらんだ。いまにも飛びかかりそうにしたが、狭山一人ではなく、おまけに織木もいるのに気づいて、じっと自分をおさえながら、「分ってるんだよ、こんな泥棒の弟を持つだなんて、私、悲しい。さ、白状して、どこの質屋にもって行ったの!」こじ開けたドアでいためた、指をさすり、体をふるわせて激しく息を吸いこむと、訴えるように織木をみて、「先生のヴァイオリンも、きっとこいつが盗ったのよ。なんの集りかしらないけど……ひとさまのまえで、自分の弟を悪くいうなんて、恥ずかしいけど……でも、言わずにいられないわ、私、これから交番に行ってきます……私にとっては、弟なんかより、ヴァイオリンがずっと大事な品物なのよ……」
「待って下さい。ぼくのヴァイオリンなら、どういうわけか、留守のあいだに一人で帰ってきていました。」と、織木がヨシ子の顔を見ないように、ヴァイオリンのケースをそっと前におしだして言った。「これがぼくのヴァイオリンです。おかしいと思ってしらべてみましたが、間違いありません。」
ヨシ子は、そのヴァイオリンをじっと見て、思わず苦悩のうめき声をあげた。みるみる顔が赤と紫のまだらになり、とつぜん顔をおおって、泣きはじめた。
「まえにぼくが、あなたからお借りしましたね。こんどは、ぼくが、お貸しする番です。」「バカア!」と叫んで、ヨシ子は狭山にこぶしをつきだすと、後ろ手にドアを叩《たた》きつけ、悲鳴にちかい声で泣きじゃくりながら駈けだして行ってしまった。矢根がこぼれるような深い溜息《ためいき》をついた。あとの三人は、体をこわばらしたまま、身じろぎもしなかった。入れかわりに、影のなかから湧《わ》き出したように、花井がこっそりと姿をあらわした。うなだれて、空いているほうの手をだらりと下げ、膝《ひざ》をまげ、前かがみになったその姿勢は、猿に似ていた。しばらくして、花井が急にそりかえった。威嚇《いかく》するように、天にむかって両腕を、ひろげた。狭山はあわててドアを閉めた。
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花井はドアを背にして、立ちはだかり、ポケットから櫛《くし》をとり出すと、ゆっくり髪をときはじめた。というと、いかにも落ちつきはらっているようでもあり、そうでないようでもあり、いずれにしても、あまり気持のいいものではない。しばらく、正面の矢根の頭の上あたりをぼんやり見ていたが、だるそうに、「Sに行ってたもんだから、おそくなっちゃった……」狭山が皮肉な視線を送ると、イボ蛙はなにくわぬ顔で、しきりに耳垢《みみあか》をほじっていた。とつぜん花井が、がくんと膝から先に、折れるようにして坐りこんだ。「でも、うまくいった。」と弱々しい声で、「県の、企画課長の、穴鉢倉吉さんに会って来たんだ。さっそく仕事を始めてくれと言われたよ。明日から君たちにも給料をはらってあげられる。一日、三百円……」語尾が消え、いっしょに体までが消えていきそうだ。
「いいんですか? 穴鉢なんかに会って。」と、イボ蛙がジャケツの袖をひっぱりながら、ふてくされたように言った。
花井が白眼をむいてイボ蛙をにらんだ。とつぜんうわずった調子になって、「そんなことを聞いて恥ずかしくないの? それをしらべるのが、君の役目だったんじゃないか。穴鉢さんに会うのは、これは法律上の手続きだよ。」ノートをとりだし、唾《つば》をつけた指先でめくっていきながら、「いいかい、まず穴鉢さんから、書類が地方通産局公益事業部にいく。次にそこから、通産省公益事業部にいく。電気課で、開発計画の審査をうけ、そこを通れば、大蔵省の財政投融資特別会計にまわる。そこでやっと、政府の許可がおりるんだ。……どうしたって、穴鉢さんの手を経ないわけにはいかないのさ。ちえっ、実際仕事をするのは、結局いつもぼくじゃないか。不平なんか言えた義理かっていうんだ。」……「穴鉢に会っていいくらいなら、ぼくだってはじめから分ってましたよ。当りまえの話じゃないですか。やつに会わずにすむようにと思ったからこそ、苦労していたのに。」……「ふん、山の上で泳ぐ練習でもしていればいいだろ。」
「まあまあ、しょっぱなから、社長と副社長のけんかじゃ、困っちゃうねえ。」と、矢根が二人のあいだで手をふると、花井はさっそく矛先《ほこさき》を矢根のほうに向けかえて、「総務部長、これは君にだって責任がありますよ。場合によったら、君がすべきことだったかもしれないんだ。」……「そうかねえ?」……「そうさ、君たちが無能だから、ぼくが一人で、ぜんぶを背負いこまされることになる。」……「社長は才能がありすぎるんだよ。」……「ふう、やりきれやしない。でも、交渉のほうは、意外なくらいうまくはかどってねえ。」と、矢根のお世辞が効をそうしたのか、しだいに舌のまわりがよくなって、「とにかく、多良根の婿さんにしては、存外よく出来た人物でね。われわれの事業の意義が、すぐにピンと来たらしく、本来ならば、こちらで書いて出すべき請願文を、その場で自分で書いてくれたりしてね。それがまたすごい名文なんだよ。おまけに、建設計画書の書式もくれたし、電力会社から、買取承認書をもらう交渉も引受けてくれたし、町債の発行や、開発銀行の借入れのための、市中銀行の口ぞえも約束してくれたし、よほどこの仕事が気に入ったとみえる。さあ、帰ろうというと、まあ夕飯を食っていけっていうんで、ビールに、西洋料理でね、すっかり打ちとけちゃってさ、それからがまたいいんだ。社長さん、この事業の成功は、まず絶対確実だが、しかし、関係当局ぜんぶを動かすのは、やはりなかなか暇がかかります。とにかく、地下探査を実地にはじめて、一本蒸気を出して、既成事実をつくってしまうのが、いちばんの早道なんですがね。しかし、残念ながら、当面先立つものが、ありません。なんの、なんの、そんなことでお役に立てるのでしたら、光栄至極ですと、その場で、ほら、あっさり小切手をきってくれちゃってね。うれしかったなア……」
「いずれ、乗っとる気なんでしょう。」と、ぶっきらぼうに森が言った。……「そんなこと、」と花井ははげしくさえぎって、「織木さんのつくる地図は、織木さんにしか読めない、暗号で書かれているですからね。そう簡単に乗っとるなんてわけにはいきませんよ、ねえ、織木さん。」
「まあ、秩父研究所の連中が、乗り込んででも来ないかぎりはね……」しかし、それでも、森はまだ疑わしげに、「すると、その穴鉢という人は、ただ単に社会的な意義があるということだけで、それほど熱心になってくれたんですか? なんの、利害関係もなしに……ぼくには、ちょっと考えられないなあ。」
「報告しろというんなら、しますがね。ぼくだって、もうそんな子供じゃない。世間の仕組が、ほとんど利害だけで動いているくらい、百も承知です。だからこそ、こうして、革命に汗水をたらしたりもしているんじゃありませんか。むろん、向うの飛びつきそうな、餌《えさ》もたっぷり用意しておきましたよ。いずれ、花園発電所が軌道にのれば、S市はすぐにも合併の工作に乗り出してくるにちがいない。そのとき、わが同盟は、新市長に穴鉢氏を全面的に押そうという約束でね……建設会社にとっちゃ、市長の椅子は、なんたって最高の魅力ですからねえ。」
「すると、革命のほうはどうなるんですか?」とイボ蛙が不服そうに言った。……「革命は、革命さ。」……「でも、革命というより、ただの事業みたいだな。」……「おかしなことを言うなよ。発電所が完成ししだい、ただちに貨幣を廃止する。そして、かわりに、電気を経済単位に採用するんだ。」……「じゃ、貯金なんかは、どうするんだろう?」……「蓄電器でも使えばいいだろ。とにかく、君は、どうかしてるね。肝油でも飲んでみたらいいんじゃないの? ね、森先生。」
「じゃ、明日からはじめましょうか。」と、織木がヴァイオリンのケースを開いて、絃《げん》の上をそっと撫でた。乾《かわ》いた四本の絃が、遠くの林を吹きわたる風のように微《かす》かに鳴った。花井はまたぼんやりと、虚脱したようにうつむいてしまった。
「なるほど、あんがい、うまくいくかもしれないな。」思い出したように、矢根が呟《つぶや》いた。……「うまくいけば、やりがいのある仕事ですよ。」と織木も深くうなずいた……「うまくいきますとも。」と、花井がうつむいたまま、弱々しく繰返した。
とつぜん、小屋全体がくずれ落ちたような音をたてて、ドアが開いた。開いたというよりは、ひきむしられたといったほうが適切かもしれない。そして、ヒゲもじゃになった源さんの顔が、小屋を埋めつくすような大きさで、ぬっと突きだされたのである。「おめえら、案外たよりにならねえんだなあ。」……ドアにいちばん近くいた花井は、一廻転して森とイボ蛙のあいだにころげこんだ。「なにもしねえよ。」と源さんはいまいましげに、「おれが出られたのは、貝野のおかげだぜ。もう、おめえらには、用がないって言いにきただけだよ。」……「会社ができたよ!」と花井が叫んだ……「分ったよ。」源さんは、来たときと同じくらいの唐突さで、行ってしまった。
24
四日後……
……分った? 充電は毎日二時間ずつ。それからこのMJ四号は使ったらすぐ水洗いして、B液にひたして……さて、飲みはじめるかな。三十分たったら、はじめてくださいね。ノートしてもらったとおり。いいですか? ……あ、そうだ、くどいようだけど、あのこと、ね……脈が百二十をこえて、血圧が八十以下になって、外に出るのをまぶしがるようになって、爪に斑点《はんてん》ができはじめたら、すぐにヘクザンをやめること……本当に、約束ですよ。ぼくは、理性はいままでどおりでも、意志はまったくなくなってしまうんだから……なんでも君たちの、言いなりなんだから……ね、これだけは絶対の約束ですよ……。
織木は、キラキラ雲母《うんも》を粉にしたような手のひらのヘクザンを、しばらくじっと見つめていたが、一気に口の中にほうりこみ、水で飲み下して、ぐったりと目をとじた。
バス小屋の中である。織木は椅子にかけ、ヴァイオリンをかかえている。その足もとに口を開けている、犬小屋の形をしたトランク。トランクの中から出た、二本の電線が、それぞれ織木の左右の靴につながっている。その靴は奇妙な形をしていて、スパイクのように、三本ずつ長い釘《くぎ》がつきでている。
トランクの前にしゃがんで、ダイヤルを調節しているのは狭山。かたわらでのぞきこんでいるのは矢根。花井は織木のわきに、森は後ろに立っている。すこし離れてイボ蛙が、何十本もある鋼鉄の棒を、一本一本紙ヤスリでみがいている。
二十分……十分……五分……三分……森が脈をみ、瞳孔をしらべてうなずく。織木の顔に、さっと赤味がさし、外見だけはいままでよりも健康そうだ。目を開けて、ほほえみながら、晴ればれした表清で言った。「きいてきたようだ。」
花井があわてて右手をあげ、号令を下した。「用意!」……織木がヴァイオリンをかまえ、狭山がスイッチをいれ、機械が微かにうなった。「ハ。」と花井が言った。狭山がダイヤルをハの記号に合わせ、織木がハの音を弾《ひ》く。花井がつづけて、「ニ……ホ……ヘ……ト……イ……ロ……ハ……ロ……イ……。半音下げて、ハ……ニ……ホ……ヘ……」こうした練習が、まる一日くりかえされた。
ヘクザンは、八時間おきに飲まなければいけない。翌日、午前中は昨日の復習。午後は、ヴァイオリンをつかわず、狭山がダイヤルで調節して送る電流を、織木が口で答える練習。「ハ……ニ……ヘ……ロ……イ……ニ……ロ……」そして、不完全なところを、ヴァイオリンをつかって強化する。
その翌日は、前日のを、さらに半音ずつに細く区切って練習する。さらにその翌日も、またその翌日も……。一度形成された条件反射は、反復再現が容易である。ドイツ留学時代の経歴がものをいって、一週間目には、ほとんど完全に電流と音とを、一つのものに感じるようになっていた。
地下探査が実際にはじめられたのは、三月にはいって間もない、よく晴れたある朝のことだった。町を大きく、三つの矩形《くけい》に区切って、まず西側の矩形からはじめた。北と南の両辺に、イボ蛙がみがいた鋼鉄の棒に、電極秩父MJ四号をつけたものを、十メートル間隔で地中に埋め、その頭を電線でつなぎ、電流を流す。するとこの矩形の中の地面は、電流の帯になり、地下構造の電気的不均一は、等電位線のゆがみとしてあらわれるわけである。織木が例の、スパイク様の靴をはき、人間メーターとして、この上を縦横碁盤目に歩きまわり、音になって聞える電位差を、つぎつぎ五線紙に書きとめていく。こうしてできた楽譜が、独特のやりかたで翻訳計算され、同時に二つ分音をあらわす、つまり二部合唱のような形の、一枚の楽譜に書きあらためられる。するとこれが、織木の眼には、完成した地下の透視図となってみえるのである。
仕事の分担は、南辺の電極列を、花井と森、北辺を、狭山とイボ蛙、織木のつきそいは矢根ときまった。はじめは南辺の森のかわりに、狭山ということになっていたのだが、南辺には鉄道官舎が建っており、駅長と顔を合わせたくないという狭山の希望で、山側の北辺に配置がえになったわけだ。この矩形の中には、川向うの水田地帯の一部と、住宅地の一角と、キャラメル工場とが入っており、あとの大部分は、藤野の支配下にある農地と山林である。「右のものの申請につき、公益事業令第七六条によって、右のものがあらゆる土地への立ち入りを許可されたことを証明する……県知事。」この護符をさえぎるものは、なにもないはずだったが、藤野健康は根はり葉はり、しつこく聞きだそうとしてやめなかった。なに、これは町長さえ知らないことですから、と答えたとき、花井ははじめて、涙がでるほどうれしかったということだ。
さて、電極埋没作業にとりかかると、南辺ではたちまち子供たちにぐるりと取りかこまれてしまった。花井が叫んだ。地面に電気が流れるんだぞ、早く逃げないと、焼け死んじゃうぞ! 子供たちはうまく逃げてくれたが、すぐつづいて、こんどはそれを聞いた農家の大人たちが、大変なけんまくでおしよせてきた。そんなことをされたら、土地が狂って、作物がすっかり駄目になってしまう。以前、この町にラジオがはやりはじめたとき、電波の作用で、頭が変になった男がいたが、頭はとにかく、土地が狂ったら、百姓はどうして生きていけるか、と暴力|沙汰《ざた》ででも、追い返すつもりらしい。花井がとほうにくれていると、まあまあ、わけを聞こうじゃないかと、割って入ったのが新町議の藤野幸福である。なるほど、藤野の策略だったのか、そう分ると花井は急に元気をとりもどし、君たちは法にさからうつもりか、犯罪をおかす気かと、逆につっかかっていった。花井と幸福が、いつまでも、しかし遠まわしに、言い合いをつづけていると、そこを貝野の父親が通りかかった。話に聞くと外国では、種をまくまえに、わざわざ地面に電気を通すところがあるそうだ。かならずしも悪いことではなさそうだから、花井さんから、一つ、みんなに話してあげたらどうだろう。いらんおせっかいだ、と幸福が反対した。おかしいね、あんたが話せと言いだしたんじゃないか、と貝野がいうと、あちこちで失笑がおこった。聞かなくても分ってるんだ、と幸福がどなった。それでは聞くのをやめなさい、そう言って貝野は行ってしまった。とりまいていた連中も、貝野といっしょに八割がた消えてしまった。ふん、と鼻をならして、幸福も引きあげようとした。花井がそばに、にじりよって、幸福さんには、うらみがあるんですよ。幸福が言った。返すものは返したよ。……返しきれるもんか! と花井は町一番の伊達男《だておとこ》だと自任している、幸福の乗馬ズボンに唾《つば》をはきかけた。……なんだい、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生《は》えてるくせに、と幸福が花井の肩をつくと、花井は簡単に尻もちをつき、倒れたまま顔中をとがらせて、なおも幸福に唾をかけようとした。しかし幸福は、もう唾のとどかないところにいて、離れてたっていた森に、お元気ですか、ぜひ一度おこし下さい、など笑いかけながら、さっさと逃げるようにして立ち去ってしまった。
織木が放心した面持で、一歩一歩ふみしめるように、五線紙にメモをしながら歩いていく。そのそばに矢根が、磁石をもって、コースを監視している。直線……直線……木にぶっつかると、小さな木なら踏み倒し、大きな木なら、正確にメートル尺をあてて、位置を測定する。塀《へい》はのりこえる。家の中も出来れば、横断する。川はそのまま、渡ってしまう。直線……直線……。イバラの中を通るときは、全身かき傷だらけ。林の中は、十メートル行くのに、一時間もかかってしまう。
この得体のしれない作業が、たちまち町中の話題をさらってしまったのは、当然なことだ。あれはひもちび[#「ひもちび」に傍点]の息子じゃないかと、やっと織木の正体を思い出すものもでてきた。しかし、そんなことは大したことではない。いちばん困ったのは、金が目当てのいざこざで、なかでもある小地主の老人夫婦などは、祖先の土地をひもじい[#「ひもじい」に傍点]野郎にふませられるかと、まる一日ねばりとおし、法律だと言えば、それではどうぞ召しとってくれと、箸《はし》にも棒にもかからない。やっと三百円で話がまとまったと思ったら、こんどは口止め料を出せと駄々をこねはじめ、とうとう二百円の追加をさせられてしまった。
そのうち、平行して、いささか気がかりな、妙なうわさが流れはじめた。なんでも、一戸につき、一尺四方ずつの土地を、たんねんに買いあさって歩いている男がいるというのである。それも、条件がすこぶる変っていて、どこか特定の一尺四方を買うのではなく、その地所の中の、どこか分らない不特定の一尺四方の地上権を、三百円で買いとるというのだ。当時の相場からいうと、一番いい場所でも、一尺四方ならせいぜい三十円がいいところだったから、誰もが薄気味わるく思いながらも、やはり三百円の現金の魅力にはうちかてず、ほとんどの者が売りはらってしまったらしい。もっとも、畠地《はたち》などでは、一尺四方の土地くらい、あってもなくても、同じようなものだ。まさか、この奇妙な小細工のおかげで、やがて町全体が、きりきり舞いをさせられるだろうなどとは、まだ誰一人、予想した者もいなかった。
間もなくこのうわさが、花井たちの耳にも入ってきた。仕事の内容を知っている花井たちには、この不特定な一尺四方の地上権という買いあさりの目的を、ほぼ察知することは出来た。もし、想像どおりだとしたら、これほど悪らつな罠《わな》は、そうめったにあるものではない。買い手は、その地上権を、地所内のすべての場所で、自由に行使できるわけだから、利用面積が、一尺四方ですませられるものなら、その土地ぜんぶを所有したのと、おなじことになる。また、もう一つ、たとえ一尺四方であっても、位置が不特定であるため、その土地全体が、もはや売買不可能になってしまうことだ。さて、そうした使用目的といえば、たとえば、花井たちがやろうとしているような、ボーリング工事など、まず代表的なものだど言わなければなるまいが……こんどは駅の売店にいる、花井の母が、すこぶる役立ってくれた。その男が、毎日のように汽車でS市から通っており、黒の半オーバーに半長靴をはいて、赤革の鞄《かばん》をもったかっぷくのいい三十代の男だという、貴重な情報を提供してくれたのである。S市の人間となれば、当然、穴鉢、ないしは多良根の手下の者に相違あるまい。やはり連中は、乗っとりをもくろんでいたのだ。森の言ったとおりだったのだ。革命の外堀は埋められてしまった。せっかく発電所をつくっても、革命をはじめる前に、敵の手にわたってしまうことになる。
すぐその足で汽車に乗り、花井は穴鉢をたずねることにした。場合によっては、作業中止の強硬手段をも、辞さないつもりだった。もう十時すぎで、穴鉢はひどく不機嫌《ふきげん》そうだったが、花井の報告を聞くと、とたんに緊張した。意外なのは、その緊張ぶりが、裏切りを見破られたという、やましさなどではなく、完全に意表をつかれたという、極度の狼狽《ろうばい》であったことだ。かえって花井の方がまごついてしまった。それではいったい、何者の仕業《しわざ》なのだろう。どこにそんな大悪党がひそんでいたというのだろう。「藤野だ!」と穴鉢がうめくように言った。「でも、その男は、S市から通っているんだそうですよ。」……「カムフラージさ。目をくらますための、計画的な偽装工作さ。」……「まあ、藤野も、織木の研究のことは一応知っているわけですからね。」……「ちくしょう。」と、穴鉢はわめくなり、電話機をかかえこんで、まず多良根に、それから知っているかぎりの不動産業者に、次々とダイヤルをまわしはじめたものである。二時間にもわたる、奮戦のあげく、それでもなんとか、謎《なぞ》の男の正体らしいものを突きとめることができた。ちっぽけな、土地ブローカーで、やはり藤野の依頼によるものだという。男の説明によると、藤野は一種の広告マニヤで、町じゅうに、病院と洋裁学院の看板を、はりめぐらせたがっているのだと言うことだったが、むろん男も真《ま》に受けてはいないらしかった。……「それにしても、意外に知恵のはたらくやつだったんですねえ。」……「なあに、すり[#「すり」に傍点]を商売にしてりゃ、いやでも指先くらいは発達してしまうものさ。」……「どうしましょう。なにか、うまい対策がありますか? 一尺四方でも、地上権の網をかぶせられてしまったら、こちらは手の出しようがありませんからねえ。」……「いい顔をしてりゃ、つけ上らせる一方だ。こんどこそは完全に息の根をとめてやらんといかんな。」……「でも、ずぶとい連中ですよ、兄弟そろって。」……「まあ、まかせておきなさい。花園町に、これだけの値打ちが出てきた以上、多良根さんだって、おめおめと引込んではいまい。」……「じゃあ、いよいよ、正面きった決闘ですね?」……「そうだ、決闘だ。」……「かりに、藤野派の方から、協力の申し出があったところで、むろんぼくらは穴鉢さんたちの味方です。」……「うん、花井さん、よろしくたのみますよ。」
花井はビールをふるまわれたうえ、タクシー代までおごってもらい、事態の好転を示す具体的な材料はなに一つなかったにもかかわらず、乗り込んで来たときの意気込みなどは、すっかり消し飛んでしまっていた。報告を受けた仲間たちが、なかなか納得しようとしないのも、ただ彼等の愚鈍さのせいにしてはばからなかったほどだ。現に、両派の対立はますます激化の一途をたどる一方ではないか。対立が強まればつよまるほど、両者の間に立って、同盟はその価値を高めることが出来るのだ。案ずることなど、なに一つありはしない。万事が、自分のたてたプランどおりに、進んでくれているのである。
やっと縦のコースがおわり、これから横のコースがはじまろうという日、畠《はたけ》の中で急に織木が昏倒《こんとう》した。さいわい花井たちがいる場所からあまり遠くなかったので、すぐ駈《か》けつけて、道の木陰にはこびこんだ。花井と矢根が集ってくる子供を追っぱらっているあいだに、森が手当てをした。脈はそれほどでなかったが、ひどく血圧が下っていた。みると、爪や手首や目の下の皮下出血もはじまっていた。「花井さん。」と、森がよんで、「こりゃもう、ヘクザンを中止しなけりゃいけませんよ。脈の点をのぞけば、すっかり兆候があらわれている。」……花井はその言い方にむっとした。まるでよろこんでいるみたいな言い方じゃないか。どいつもこいつも、なんだってこうなんだろう。ちっとも仕事に情熱をもっていないんだ。「脈が多くなきゃ、かまわんじゃないですか。」意地もてつだって、不服そうに言い返した。……「多くはないけど、弱いですね。脈が多くならずに、血圧が下るのは、よけい悪い兆候ですよ。」……「だって、織木さんがとくに強調したのは、脈のことだったわけでしょう。その脈がなんともないのに、勝手にさわぐことはない。」……「いや、私は医者として、つづけるべきでないことを断言します。」……「越権ですよ。人事部長は人事のことだけを考えていればいい。」……「これだって、人事じゃないですか。」……「人事というのは人のくびをきることだ。」……「じゃあ、あんたのくびをきってやる。」
「まあまあ、とにかく織木さんを、小屋にはこばなくちゃ。」と、矢根の仲裁で、二人ともやっと我に返って、気まずくうろたえた。とくに森は、自分のみせた憎悪《ぞうお》の発作に、やりきれないほどの虚しさを感じていた。こっけいだと感じるべき場面で、腹を立てたとなると、それは自分も登場人物の一人になってしまったことの証拠にほかなるまい。花井が先に立ち、矢根が頭を、森が足を支《ささ》えて、野辺《のべ》送りのように畔道《あぜみち》をすすんだ。花井はべつにはっきりした意味もなく、許さんぞ、許さんぞ、とただ心の中でくりかえしながら。森は、なにが逃げることで、なにが停《とどま》ることか分らないと言った、織木の言葉を遠くに思いだしながら。……まったく、花井のことなんかを、たとえ一パーセント程度にもせよ、なぜ信じる気になったのか? むろん、あのあまりにも屈辱的な状況から、逃げだしたいばっかりに、つい劇中人物にまぎれ込んでしまったにちがいないが。しかし、おれのような人間は、いつも逃げだそうとしながら、実は停ることを選んでいる場合が多いのだ。火の中に手を入れても火傷《やけど》せず、水の中に手を入れてもぬれない、そんな世界がおれの花園のつもりだったのだ。
夜中になって、織木は目をさました。まだ仕事のつづきをしているつもりらしく、起上って歩きだそうとしたが、矢根にひきとめられて、不思議そうにあたりを見まわした。花井がすぐに、ヘクザンを飲ませようとした。「やめたほうがいいよ。」と、服の端をつかんだ矢根の手を、花井ははげしくふりはらい、「君こそ、いやなら、やめてしまえ!」……しかしすぐに後悔したらしく、「いや、無理にやめろと言ってるわけじゃないよ。ただ、もうちょっと、ぼくのおかれている立場のことも、考えてもらわないとねえ。ぼくだって、織木さんに劣らず、この仕事に命をかけているんだから。」……「まあ、考えときますよ。」と矢根は無愛想に言いすてて、毛布の中にもぐりこんでしまった。
織木は黒くしみのできた爪を、じっと見つめていた。花井が並んで坐ると、織木はだるそうなねばっこい口調で、その骨ばった指先を花井のまえにさしだしながら、「ほら、中毒だね。ヘクザンはもうやめたほうがいいんじゃないかな。」花井は、ヘクザンの壜《びん》を手の中でくるくるまわしながら、聞えなかったようなふりをして「でも、もう一息だ。横のコースは短いから、あと、三日かな……ふっ、たのしみだなあ……ぼくらのやっていることが分ったら、きっと町じゅうの連中が、胴上げをしに集ってきますよ。歓迎ぜめで、もう、大変だろうなあ……」織木がかすかにうなずき、しかしやはり自分の爪から、目をはなそうとしないので、花井もやむなく、また例の奥の手をつかうことにする。織木の遺書のなかの、里子のことを書いた部分を読んで聞かせるのだ。すると織木は深い溜息《ためいき》をついて、膝《ひざ》をだき、顔をふせて涙ぐむ。つぎに、黄変した一枚の古い写真を、虫眼鏡といっしょに、手渡すのだ。それは同級生といっしょに撮《と》った、高等小学時代の里子の写真だった。里子がその中で、二ミリほどの顔で笑っている。虫眼鏡をあてると、五ミリほどになる。やがて織木が眼をとじ、夢をみはじめる。すかさず花井が、用意しておいたヘクザンと水を、その血の気の失せた白い唇のあいだにおしこんでやる……。
西側の矩形《くけい》の調査がおわったのは、はじめてからちょうど二十日目だった。織木は、誰かの支えをかりないと、一人では立っていられないほど衰弱しきっていた。下痢がつづいているので、眼はおちくぼみ、鼻はうすくなり、皮膚ぜんたいがひからびて、ほとんどコレラ患者を思わせる。それでも花井は織木を休ませようとはしなかった。まだ大事な仕事が残っている。早く地下透視の楽譜を完成して、一ヵ所でもいいから場所をきめてもらいたいのだ。今日も穴鉢から小切手といっしょに、催促状がとどけられた。――「花井社長殿……当方、ボーリング技師等の手配もおわり、一両日中には、現地に飯場設置の予定なり。第一回試掘成功のあかつきは、ただちに資本投下の準備もあり。よろしく探査を急がれたし。穴鉢拝。」花井は織木にヒロポンを注射して、むりやり机のまえに坐らせた。
五線紙のメモをもとに、何種類もの計算図表やグラフや方程式をつかい、時々ヴァイオリンを実際に弾《ひ》いてたしかめながら、織木は奇怪なメロディーの製造にかかった。第一小節から、順に書いていくのではなく、あちらこちらと、とびとびに埋めていくやり方だ。仕事をしながら、しゃっくりをつづけ、上下にこまかく、左右に大きく、たえずゆれつづける織木を見ていると、花井もなんとなく不安になってきた。ここ数日、森と狭山は音沙汰《おとさた》なしだ。一日に一度、コッペパンを搬《はこ》んでくれることになっているイボ蛙《がえる》も、今日はとうとう来なかった。矢根は黙って、朝から出掛けたきりである。おかげで二人はまる一日、なにも口にせずじまいだった。許さんぞ、許さんぞ、と心の中で繰返しながら、窓を開けて頭のふけをかき落した。すると、生ぬるい土のにおいが、いきなり彼の顔をつかんで、雑巾のようにしぼった。顔をひっこめると、バスの中がもうれつなにおいで、空気の色までが変ってしまいそうになっていることに気づいた。……織木の体が、腐りかけているのだろうか? ……こきっ、と頭の中で棒が折れるような音がした。
「できたよ、花井君。」と胸をつかんでゆさぶられ、目をさますとそろそろ夜が明けはじめていた。織木はだるそうに、四つんばいになったまま、「水が飲みたいな。」と、粘膜でつつまれたような鈍い声で言った。くんで来てやると、そのいっぱいの水を、なめるようにしながら、十分以上もかかって飲み、そのまままた矢根の人形のように床の上にくずれ落ちそうになる。そのあいだ花井は、机の上の数ページの五線紙を、気がかりそうに、あれこれめくって見ていたが、
「これで、分るの?」
「うん、完成だ……あのブロックでは、二ヵ所だな……B水脈、といっても分らないだろうけど、峠の向うにトンネルを掘って、排水路をつくってやれば、西ブロックにも温泉くらいは出るんじゃないかな……もう、寝てもいい?」……「織木さん、ね、織木さん、いま地図を持ってくるから、もっと分りやすく、場所を書いて教えてよ。」……「無理だな。あの当時、ドイツじゃ、分りやすくするより、分りにくいものに馴《な》れることのほうが、むしろ奨励されていたんだ。ぼく、もう寝ます。」……「ねえ織木さん、おねがいだから。」……「だめだったら。ぼくは、もう半分寝てしまってるんだ。」……
25
サイドカーをつけた一台の大型オートバイが、ザッと地面にめりこむように、バス小屋の前で急停車した。サイドカーをおりたのは、五十すぎた白髪の、みるからに精悍《せいかん》な男である。鉛色の皮膚、とがった口、ナイフで切り開いたような半白眼。いくぶん猫背なのが、かえって動作に弾力をあたえている。「花井社長ですな。」と男は白く粉をふいたような手をさし出しながら、女のように細い声で言った。「私は、秩父研究所の所長をしております、秩父というものですが。」……花井は、秩父という名前にぎくりとすると同時に、握手などという作法になれなかったせいもあり、相手の手がとどくまえに、急いで自分の手をひっこめてしまった。秩父はすっぽかされた手を、不思議そうにながめていたが、ふと笑いだし、「こんど、穴鉢さんから、ボーリングの工事を引受けましたのでね。たのしみですわ、思いがけなく、また織木君のお手並を拝見できることになって。」……「織木さんは、体の具合がわるいんですよ。」……「ほう、それはいけませんな。」……と、小屋をのぞきかけた秩父の前に、花井が最後の力をふりしぼって立ちふさがる。秩父は首をかしげ、うなずきながらもう一度笑った。「私はひさご館に部屋をとってあります。そちらの準備がととのいしだい、すぐにも作業をはじめられますから……」くるりと振向いて三歩でサイドカーにとび乗った。オートバイは、間髪《かんはつ》をいれず、エンジンを鳴らしてガスを吐いた。共鳴して花井の骨も、音をたててふるえはじめた。
花井は問題の楽譜を、注意深く四つにたたみ、古新聞にくるんで、内ポケットにおさめ、しっかりボタンをかけてから、よろめく足取りで小屋を出た。こいつを握っているあいだは、いくらじたばたしたって、こっちのものだからな。まず、狭山の家によってみた。狭山は起きたばかりで、薪割《まきわ》りをもって外に出ようとしているところだった。花井をみると、狭山はおこったように顔をそむけた。「どうしたんだ、君。」と花井はなじるように、「社長をほうっておくだなんて、ひどすぎるじゃないか。君たちがなまけているあいだに、とうとう、地図を完成しちゃったんだぜ。」……「うそだ!」と狭山が噛《か》みつくように言った。「みんな、うそだ。ぼくみたいな、何も知らない人間をだますのは、よして下さい。ぼくはいったい、なんのために駅をやめたりしたんだ。みんなあんたに、だまされたせいですよ。革命だなんて、いいかげんなことを言って。金のかわりに、電気なんかもらったって、せいぜい感電してショック死するくらいが、おちじゃないですか。おかげでぼくはめちゃめちゃだ。ヨシ子は、東京に行っちゃった。あんたを馬鹿にしていた、ヨシ子のほうが、よっぽどえらかったよ。ちえっ、臭いなあ! 早く向うへ行っちゃってください!」
「ふん、後悔するなよ。」花井は体重をなくしたように、ふわふわと歩きだす。イボ蛙の家では、庭いっぱいに、色とりどりの染物が万国旗のように並んでいた。その万国旗ごしに声をかけると降りて来たイボ蛙は、もう外出の身支度《みじたく》をととのえていた。花井をみるなり、イボ蛙は身構えて叫んだ。「けんかか?」……花井は息をのんだ。そのまま横になって寝てしまいたいほどの疲労を、やっとこらえながら、「どこに行くの?」……「会社だよ。」……「会社って、どこのさ?」……「いらんおせっかいだね。」……「ふん、あとになって後悔するなよ。」
小屋に戻ってみると、いつの間にやら矢根の荷物が消えていた。「あばよ。」と書いた紙きれだけが、机の上に残されていた。花井は、織木と並んで横になると、そのまま死んだように眠ってしまった。三日間、ほとんど目をさまさずに眠りつづけた。途中で三度、小便におきたことと、二度織木に起されて、水を飲ませてやったことくらいしかおぼえていない。森が来て、二人に注射をしてくれたことさえ、記憶にないのだから、まして彼の内ポケットから、こっそり例の書類を抜きとり、写真におさめて行った怪しい男のことなど、まるで知らなかった。
しかし、その三日のあいだに、町では一年分の出来事を合わせたくらいの事件が、相ついでおこっていたのである。まず多良根と穴鉢が、某国会議員ともども乗込んできた。それに秩父博士もまじえて、臨時緊急秘密町議会が開かれた。その席上、多良根の口から、はじめて花園温泉復活の公式声明があった。二十年間中断していた、温泉審議会の再発足が決議され、藤野が会長に、多良根が副会長に推挙された。また新たに、地熱開発協力会というものが結成され、これは逆に、多良根が会長に、藤野が副会長にえらばれた。これほど充実した町議会は、おそらく町はじまって以来のことだったに相違ない。
やがて、ボーリングの機械が据えつけられ、一夜のうちに地価が二倍にはね上った。もっとも、町全体が、一尺四方の地上権の網で、すでにすっぽり覆《おお》われてしまっていたのだから、現実の売買がおこなわれる余地は、もはやなかった。人々もやっと、罠《わな》に気づいて、騒ぎ立てはじめたが、早くも試運転をはじめたモーターのうなりにかき消され、もう聞きとることは出来なかった。
26
四日目の朝、森がまた小屋の二人を診察にやってきた。花井は感動して、森を副社長にしてやると約束した。森はそれには答えず、織木を指さしながら、「死亡診断書をとりに来て下さい。」花井はぎくりと、織木をみた。それから、ずんぐりした垢《あか》だらけの手を、白くなった織木の顔の上にのせ、なにかを思い出そうとするように、静かになではじめた。森は用意してきた、折詰めの弁当の上に、千円札を一枚そっと重ねると、逃げるようにして小屋を出た。いま、本当に治療を必要としているのは、この自分なのだ。すくなくも、自分にはまだ、快癒《かいゆ》の希望が残されている……
それからまた三日ばかり、たぶん森の注射のせいだろう、花井はこんこんと眠りつづけた。次に目をさましたときには、どういうわけだか、彼は町の中を歩いているのだった。どうやら駅に近い、仲通りの附近らしい。まず、手の甲をつねって、夢でないことをたしかめる。次に、胸に手をあて、書類の所在を確認すると、やっと現実感をとりもどし、歩いている目的も、ぼんやりとではあるが、分るような気がしはじめた。だが、もう何日間も歩きつづけて来たように、膝の関節ががたついていて、うまく歩けない。十歩行くごとに一回、足をとめて膝が安定してくれるのを待たなければならないので、いつもなら十分で行けるところを、三十分以上もかかってしまうのだ。ふと、仲通りの事務所風の建物の前から、ガスをはいて見おぼえのあるオートバイが発車するのが見えた、さそわれるように、花井は足をひきずりながら駈《か》けだしていた。その建物の前には、真新しい看板で――〈花園地熱発電株式会社創立準備事務所〉
ドアのガラスに、一人の乞食《こじき》の姿がうつっている。それが自分だと気づいたとき、花井は全身のふるえをとめることが出来なくなっていた。気を静めるために、髪に櫛《くし》を入れ、力いっぱいドアを押す。やかんをさげて、前を横切りかけていた男が、振向いて叫んだ。「なにしに来た、帰れ!」……なんだ、イボ蛙じゃないか。「君、いい情報を持って来てやったんだよ。」返事のかわりに、イボ蛙のこぶしが胸をめがけて突き出された。花井は夢中で、そのこぶしを受けとめようとした。こぶしのかわりに、なにか暗い大きな塊《かたま》りをつかまされてしまった。それはどうやら、地球のどこかの突端らしかった。ぐらっと地球が廻転し、彼は虚空《こくう》にはじきだされた。もう何もふれないし、何も見えない。仕方がないから、しばらく、このままにしているとするか……
……気がつくと、彼は桂川の堤防に、赤ん坊のような姿勢でころがっているのだった。もうほとんど日が暮れていた。川ぞいに、冷たい霧が上ってくる。花井は立ち上ろうとして、体の具合が異常なことに気づいた。いつの間にやら、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が長くのびているのだった。ズボンとの感じで、そのしっぽ[#「しっぽ」に傍点]がかなり大きく、しかも彼の意志にはかかわりなく、勝手に動くことが分った。こわごわ手をやってみると、親指ほどの太さで、長さ十五センチくらい、ざらざらした角質の皮が、ズボンの上からでもはっきり感じとれた。
ほとんどためらわずに、彼はまっすぐ森のところをたずねた。診療所の隣の、洋裁学院の看板がかかっていたあとには、〈温泉審議会本部〉の、まあたらしい木札。なあに、気にすることはない、ぜんぶのエンジンの鍵《かぎ》が、ここにあるんだからな、と胸を叩《たた》いて、診療所のドアを押す。森は、外出でもするのか、トランクの整理の最中だった。部屋の中はすっかり片づけられて、何もなかった。「先生、診ていただきたいのですが。」と、花井は勝手にズボンをぬぎはじめた。……「待ちたまえよ、君、ひどい火傷をしているじゃないか。」……「いや、そんなことじゃありません、しっぽ[#「しっぽ」に傍点]が生えたんです。しっぽ[#「しっぽ」に傍点]なんて、どうせ盲腸みたいなものでしょう。手術ができるなら、ぜひしていただこうと思って。」
森はじっと、花井の眼をみつめた。「そうか、診てあげよう。」と、手首をとって脈をみながら、「ちょっと脈を早くしてみてごらん。」……「なんですって? そんなこと、できるわけがないじゃないですか。」……「そうか、まずいな。脈を早くしてもらえると、よく分るんだが……」考えるふりをして、「それじゃ、その辺を少し、走ってきてもらおうか。そうすれば、いやでも脈が早くなるからね。」
花井が言われたとおり、よろめきながら走り去ったあと、森はすぐに電話をとって交番を呼びだした。「精神分裂症の患者がいるのですが、保護をおねがいしたいのです。母親が駅の売店に出ているようですから、そちらにも連絡していただいて……ええ、花井君です。私? 私は七時十分の汽車で、発《た》たなければならないものですから……」
…………………………………………………………………………………………
森がトランクをさげて、仲通りを駅の方に歩いていくと、おまつり気分の人波が、ぞろぞろ西の方に流れていくのに出会った。森の顔を見おぼえている子供がいて、温泉が出たそうだよ、見に行かないの、と教えてくれた。まだ二十分ある、のぞくだけは、のぞいてみようかと、流れについてしばらく行くと、県道をこえた畠地のあたりで、やがて大きな人垣にぶっつかった。その向うに、白い蒸気の柱が、サーチライトの光に照らし出され、発狂した薄布の束のようになって、うなりながら見物人の上で渦まいているのが見えた。拍手がおこり、それから楽隊の演奏がはじまった。
ふと後ろから、群衆をかきわける、警備員の声がする。こじあけられた人垣のあいだを、かき分けてやってくるのは、なんと花束をかかえた振袖《ふりそで》姿の、藤野うるわしではないか。うるわしは、ちらっと森に無関心な視線を投げかけると、そのまま前をとおりすぎ、ゆうゆうと人垣の向うに吸いこまれていってしまった。
◇
森は思った。まったく、現実ほど、非現実的なものはない。この町自体が、まさに一つの巨大な病棟だ。どうやら精神科の医者の出るまくなどではなさそうである。われわれに残されている仕事といえば、せいぜいのところ、現実的な非現実を、かくまい保護してやるくらいのことではあるまいか。森は人垣をはなれて、歩きだした。しかし、駅の方にではなく、いまやって来た道を、もう一度診療所の方へ……あたらしい勤め先がきまるまで、どのみちたっぷり暇なのだ。傷だらけになった、飢餓同盟に、せめて繃帯《ほうたい》のサービスくらいはしてやるがいい。森ははじめて、自分が飢餓同盟員であったことを、すなおに認めたい気持になっていた。正気も、狂気も、いずれ魂の属性にしかすぎないのである。
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解 説
『飢餓同盟』に登場する人物たちは、だいたい三つのグループに分れている。花井太助を盟主とする飢餓同盟の面々と、町長多良根や開業医でボスの藤野を二本の柱とする、町の経済的・政治的な支配者たちと、教師その他の町民有志からなる読書会のメンバーたちである。
飢餓同盟はほとんどもっぱら花井太助の発案と牽引力《けんいんりょく》によって動く、革命のための秘密結社であるが、この同盟のめざす革命とは、人間の絶対的自由の実現というユートピア革命であって、その点、読書会のメンバーたちの行う市民的な民主化運動とは一線を画している。それに、飢餓同盟のメンバーはその数もせいぜい五、六人くらいで、それぞれが何か満たされぬ気持を懐《いだ》いている孤独な人間たちである。彼らはみな、現在の町の秩序に順応できないか、あるいは秩序の埒《らち》外におかれている余計者たちである。盟主の花井太助は、峠にまつられているこの町の守護神ひもじい[#「ひもじい」に傍点]様の番人の子として生れ、キャラメル工場主の多良根の援助で中学校と農業専門学校を卒業して、いまは多良根の工場の主任をしているが、彼の心の奥底には多良根にたいする抜きがたい怨恨《えんこん》と復讐心《ふくしゅう》がどす黒くわだかまっている。一時、彼は多良根の腹心の部下となりスパイになっていたが、いまは何かの機会をとらえて一挙に多良根および藤野をピラミッドの頂点とする町の現体制を覆《くつがえ》そうと企んでいる。こうした花井のうちには、ファシスト的な煽動者《せんどうしゃ》を育《はぐく》む心理的契機と、アナーキーなユートピアンを育む心理的契機とが併存している。いずれにしろ、やや戯画化されたこの人物のうちに、わたしは直ちにドストエフスキーの『悪霊《あくりょう》』の中に出てくる煽動家ピョートル・ヴェルホヴェンスキーの末裔《まつえい》の姿を感じとることができる。目的のためには手段を選ばぬ政治的人間のひとつの原型が、たしかにここにはある。
同盟員の一人矢根善介は、紙芝居屋である。キャラメル工場の宣伝部員に採用されてこの町にきた流れ者の矢根は、その宣伝部の仕事というのが、キャラメルを子供に売りつけて歩合をもらう紙芝居屋になることだったと知りガッカリするが、ほかに行き場もないままに町に居つき、いまでは、バス事業に失敗した男がのこして行ったたった一台のオンボロ・バスを住いとしている。もう一人の同盟員森四郎は若い精神病医である。かつてT市の医大病院の無給副手だった彼は、何かの事情でこの町の診療所長に転勤させられたのであるが、きてみると、どこにも診療所らしいものはない。町政を牛耳る開業医の藤野が自分の商売の邪魔になる診療所の設置に反対したため、彼の立場は名目だけで実体のない幻の診療所長であることがわかってくる。市民ホールの中の索漠《さくばく》たる宿直室の三畳間を住いにあてがわれて、飼殺しの状態になっている彼は、こんな夢をみたりする夜もある。みなが大人《おとな》になる注射をする日に遅刻して教室に行った小学生の彼は、ガランとした教室にただひとり永遠に大人になれない子供としてとりのこされている……。
一方、町の経済上、政治上の主だった役職はすべて、土着のボスである藤野派と、ブルジョアの町長多良根派によって占められており、第三の野党のつけいる隙《すき》はどこにもない。ただ、藤野派と多良根派のあいだには、御多分にもれず、支配者層間の確執|葛藤《かっとう》があり、花井の計画は、この両派の矛盾を激化させることによって共倒れさせることにある。花井の戦術は、いわば獅子《しし》身中の虫となり、毒をもって毒を制することにある。しかし、両派の確執は、激化しかかるかと思うと、そのとたんに妥協が成立する、といった具合で、なかなか花井の思う通りにうまく事は運んでくれない。読書会のメンバーが町政の民主化を標榜《ひょうぼう》して第三の野党の候補者を町議選挙に立てようとすると、結果的には両派の結束を固める役にしかたたない。
まあ、そんな具合に、現体制ががっちりと固まっていて、呼吸《いき》のつまるような八方|塞《ふさ》がりの有様では、もとより、小説の世界は動いてこない。この町の状態は、戦後日本の議会と政府を独占してきた長期保守政権下の日本の状態の小さな縮図といっていいかも知れない。しかし、出来上がった現実をたんに記述し描写するだけでなく、可能な現実を描くところに文学本来の仕事があるとすれば、文学者たるものはやはり、どんなに八方塞がりの状態とみえようとも、その中にどこか一点突破口を探しもとめる努力を怠るわけにいかないのだ。安部公房の作品の中心テーマが、つねにそこにおかれていることは周知のとおりであって、芥川賞受賞作『壁』以来、『砂の女』『燃えつきた地図』にいたるまで、安部公房は、うまずたゆまず、八方を塞いでいる壁そのもののうちに、壁を突破する可能性を探りつづけているのである。『飢餓同盟』もまた例外ではない。
ユートピア革命の夢想者花井太助に、堅固に塗りかためられた壁を突破する可能性を、一瞬かいまみせてくれたのは、ほかならぬ幼な友達の地下探査技師織木順一だった。技師織木もまた天涯の孤児であって、戦争中、人間をいかなる機械よりも精密な機械と化してしまうドイツ製の薬ヘクザンの実験台に供され、ドイツに送られて、人間計器として働かされていた男であるが、その織木が、或る夜|瓢然《ひょうぜん》とこの故郷の町に帰ってきて自殺をはかる。花井は織木の遺書を読んで小踊りする。織木にふたたびヘクザンを飲まし、人間計器として地下の構造を探知させれば、地震で湯の出なくなってしまったこの町に、また温泉をふき上げさせることができるかも知れない。ふき上げる蒸気を利用して、地熱発電も可能だろう。この瞬間から、花井太助の獅子奮迅《ししふんじん》の活躍がはじまる。地熱発電所を作るのは、それによってこの町の貨幣経済を一挙に変えて、万人平等の理想社会を作るためだ、というのが花井のかかげるユートピア的目標であるが、しかし、さしあたり発電所を現実に作るためには、彼の軽蔑《けいべつ》する金が必要であり、認可を得るための役所への運動も必要である。そのためには、悪魔と手を握ることも辞すわけにいかない。息をふきかえした織木にまたヘクザンを飲ませて、人間計器になってもらうこともまた、已《や》むをえないのだ。それだけが、突破口をひらく唯一の手段であるかぎり、感傷におぼれて、千載一遇のこの機会を逃《の》がすわけにはいかないのだ。こうして、花井の行動がはじまるのだが、その現実行動の場は、可能性の世界ではなく、現実の世界以外のどこにもないのだから、彼の行動は、彼自身の否定する現体制の構造によって大きく規定されざるをえない。目的と手段とが、こうして徐々に転倒し、ユートピア世界建設のための手段であった地熱発電所の設立が、ほとんど唯一の目的になってしまう。そして、そのとたんに、彼の計画の一切は破算を約束されたも同然になる。事実、彼の計画は現体制の強力な維持者である町長やボス達の手に、すっかり横取りされてしまうのである。そして、ついに精力的な煽動者花井太助は、狂人として病院に収容される破目になる。高邁《こうまい》な理想をかかげて行われる運動が、現実の中で屈折し、変質して行く経過を、わたしたちは平ぜいよく目にするが、ここには、そうした過程がほろ苦いアイロニーをもって、また戯画化された黒いユーモアをもって描き出されている。
『飢餓同盟』には、一種のもじり[#「もじり」に傍点]の手法がふんだんに用いられているので、気ぜわしい読者は、これを現実を寓話化《ぐうわか》して描いた一編の寓意小説とみなすかも知れない。しかし、花井のようなユートピストの夢は、現実の世界のなかにあっては、所詮《しょせん》はかない幻でしかなく、挫折《ざせつ》は必然であるということを説きあかす教訓的寓話を、この小説から読みとる読者は、いうまでもなく、この小説には無縁な読者である。この作品にみなぎるほろ苦いアイロニーや黒いユーモアは、この作品がけっしてたんなる寓話ではないことを明らかに物語っているように、わたしには思えるのである。このアイロニーとユーモアは、いったいどこに由来するのか、その出所を、わたしたちははっきり見極《みきわ》めなければならない。たぶん、これは、現実が寓話以上に寓話的であると映る作者の眼と、「まったく、現実ほど、非現実的なものはない」と感じる作者の心から出てくるものだろう。花井太助の発案になる飢餓同盟の革命事業は挫折し失敗した。しかし、また第二の花井、第三の花井が、また、第二・第三の矢根、第二・第三の森といった人間が、つまり、現実を事実としてでなく可能性としてみる狂気の人間があらわれてきて、それぞれ挫折と失敗をくりかえしながら、それでも、はるかな未来を照射する光で、現実のなかにまどろんでいる可能性の一端をかいまみせてくれないとは限らないのだ。いや、そればかりでなく、八方塞がりの現実のなかであがきもがいているわたしたちすべてのうちに、花井や矢根や森といった人間が現に住みついていることを、わたしたちははっきりと知るべきだろう。人間という存在の奇態なかたちを、そのときわたしたちはいや応なくみつめなければならぬ破目になるだろう。そして、アイロニーとユーモアが、おのずからそこに生まれてくるだろう。
『飢餓同盟』には、作者が戦後の芸術運動や政治運動のなかで発見した、作者自身の姿がうつし出されていると同時に、また、わたしたちすべての人間のうちにひそむ狂気が明るみに出されているように思われる。
[#地から2字上げ]佐々木基一
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飢餓《きが》同盟《どうめい》〈きがどうめい〉
昭和四十五年九月二十五日 発行
昭和四+九年三月二十日 八刷
著 者 安部公房〈あべこうぼう〉
発行者 佐藤亮一
発行所 株式会社 新潮社
平成十九年五月二十八日 入力 校正 ぴよこ