飛ぶ男
安部公房
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保根治(ほねおさむ)・男・三十六歳・高校教師。突然、彼のもとへかかってきた電話の主は、いるはずのない弟≠セった。空を飛び、スプーン曲げを職業とする、自称弟=Bいったい、その目的は……。
死後、愛用したワープロのフロッピー・ディスクから発見された長編。
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一九九三年一月二十二日に亡くなった安部公房氏は、数年前より長編書き下ろし小説「飛ぶ男」を執筆中でした。没後、箱根の仕事場より、そのタイトルが表書きされたフロッピーが発見されました。ここに収録した同題作がその全文です。これまでの安部氏の方法を考えれば、ワープロ段階、そして校正刷り段階で推敲が重ねられ決定稿となるはずのものですが、この未定稿でも十分に安部文学の魅力が伝わるものと判断し、刊行する次第です。なお、明らかな誤記などは訂正しました。また、「さまざまな父」は「新潮」一九九三年一、二月号に掲載されたものです。
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患者名 保根治(ほねおさむ) 男 三十六歳 高校教師
主 訴 頑固な不眠 もしくは不眠幻想
病 名 『仮面鬱病』ならびに『逆行性迷走症候群』の合併症
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ぶつぶつと 呪文のように いつまでも……
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1 飛ぶ男
ある夏の朝、たぶん四時五分ごろ、氷雨本町二丁目四番地の上空を人間そっくりの物体が南西方向に滑走していった。月明かりを背にした輪郭から判断したところでは、フィルム会社が宣伝用に飛ばしている新型の気球らしくもある。時速二、三キロ。しかし目が慣れるにつれて、首を傾げざるをえない。ガスを詰めただけの浮遊物体に、あんなレールに乗ったような直線飛行が可能だろうか? どう見ても意思を持った自力走行である。知らないうちに完全に透明なハンググライダーが発明されたのかな? だとしても、電線すれすれの水平飛行は危険すぎる。あれほどの低速でしかも正確な直線飛行は、ヘリコプター以外にはありえない。でも回転翼からの風なら上から下に吹きつけるはずだ。着衣の表面を走る縮緬皺は、高速道路の吹き流しみたいにはっきり横方向にはしっている。もしかすると、うっかりベッドから漂い出した夢遊病者かな? そのつもりで見ると、裸足だし、着衣は洗い晒した細縞のパジャマ風で、とても外出着とは思えない。
しかし眠っているわけではなさそうである。何かを左手に持ち、耳に当てがっている。唇の動きも、誰かに喋りかけている感じ。携帯電話だ。
〈飛ぶ男〉の出現……。
目撃者は三人いた。
その中の一人が衝撃のあまり、発作的に空気銃で狙撃してしまったのだ。ガス圧を使った二連発式の強力なやつで、鼓型の鉛の弾が二発とも命中した。
一発は左肩の付け根、もう一発は左の乳首。左肩の弾は筋肉で押し返されたらしく、すぐに爪先でほじり出せたが、乳首のは激痛と出血のため放置するしかなかった。
狙撃者の過剰反応には、それなりの理由があった。運の悪い男性遍歴のあげく重度の男性不信におちいっていた二十九歳の独身女性が、界隈に出没する暴行魔(指名手配十六号)の噂を耳にして以来、次の犠牲者は自分だと思い込んでしまったのである。不眠に悩まされ、食欲不振におちいった。勤務先での仕事ぶりにも変化が目立ちはじめる。市立病院の神経科で処方してもらった安定剤のたぐいはほとんど効果がなく、心配した同僚のすすめで購入した高性能の護身用空気銃を装填済みにして常時ベッドの枕元に備えておくことにした。効果はあった。血色もよくなり、体重も徐々に回復の兆をみせはじめた。しかし二十九歳の独身女性が、狙撃の腕を自慢するわけにはいかない。できれば隠しておきたい〈飛ぶ男〉の目撃談も、おかげで未然に封じられたというわけである。
二人目の目撃者は、腎臓疾患のために利尿剤を常用している暴力団の構成員で、ちょうどその時刻に尿意をもよおす習慣になっていた。しかし、夜明けまでにあと三十分、普段なら手洗いに行った記憶さえはっきりしない熟眠の時刻である。ただその朝は台風が通過した直後で、カーテンの隙間から漏れる月齢17・4の輝きはびっくりするほど刺激的だった。日頃から川柳をたしなんでいたせいか、欲が出て、ついカーテンの隙間を押し拡げてしまう。題材にはなりそうにない〈飛ぶ男〉を認め、覚醒した。通報の義務を感じたが、思いなおす。暴力団員にそんな社会奉仕は似合わない。警察も、気象庁も、彼にあらぬ嫌疑をかけるのがおちだろう。
がきのころ美術クラブに籍をおいていた経験を生かして、折り込み広告の裏にマジックペンでスケッチしてみた。かなりの出来だとは思ったが、それっきりでいまなお押し入れの隅に置き忘れられたままになっている。
三人目の目撃者は、〈飛ぶ男〉の携帯電話で呼び出しを受けた。
2 深夜の電話
電話が鳴っている。
保根治は反射的にベッドから降り、寄木まがいの合板の床に立つ。受話器を見据えるだけで、すぐには手を出さない。腕時計の針は午前四時五分、電話に付き合ったりする時間ではない。目を覚した記憶がないから、夢のつづきかもしれないし、じつはまだ眠っていなかったとも考えられる。すべてがわざとらしく、嘘っぽい。電話の音だって本物かどうか、怪しいものだ。
仮に本物だとしても、どうせ間違い電話さ。午前四時に保根を懐かしがったりする変わり者なんかいるものか。ここのところ、ひたすら目立たないように努め、蓑虫みたいに外界を避けてきた。保護色コンクールにでも出場できれば、上位入賞は確実さ。金メダルはカメレオンに譲っても、銅なら文句なしにいただきだ。
それとも回線の向う側は無限に循環している閉鎖回路で、発信人なしにコイルのハンマーだけが勝手に振動しているのかな? 誰もダイヤルしていないのに、回線システムの欠陥でベルが勝手に鳴りだしたのかもしれない。複雑になりすぎたケーブルの迷路……何日も何週間も迷いつづける電流群……蜘蛛の古巣みたいな電線の網……数千キロ四方にひろがる、もつれあった被覆銅線の毛糸玉……その糸口をたぐって存在しない誰かが電流を流し、振動板をふるわせているのだとしたら……
電話はなおも鳴りつづけた。四回……五回……六回……七回……
呼び出しに応じたら、どんな声が返ってくるのだろう? 存在しない者の声。電流のせせらぎ。誰にも解読できないエンドレスのデジタル信号。それとも盗聴回路から漏洩してくる密談のしたたりかな?
ついに根負け。もしくは好奇心負けしてしまう。指三本分ほど離した受話器から、フィルターのかかった扁平な声。
「いま、よろしいですか?」
聞き覚えはないが、意外に澄んだ素直な声。そう危険な相手でもなさそうだ。
「どなた?」
「ぼくら、赤の他人ってわけじゃないんです」
「どういう意味?」
「時間が時間だし、手みじかに言わせてもらいます。ぼくら、じつを言うと腹違いの兄弟なんだ。だから、先生のこと、兄さんと呼ばせてもらってもいいでしょう?」
先生か……保根の職業について一応の知識は持っているらしい。
「悪いけど、誰にかけているの?」
「保根先生のお宅でしょう? 助けてほしいんです」
「助けるって、何を?」
「追われているんだ」
「誰から?」
「親父ですよ、親父。決まっているでしょう。信じられないだろうけど、そうなんだ。ほんと愕然とするじゃないか、あいつがいま同棲中の女なんか、兄さんより二つも年下だってさ。よっぽど口説きがうまいのかな? 他にも元女房が二人と、義理の妹が一人に弟が二人……」
「そろそろ結論にしようや」
「ぼくの職業を知ったら、仰天すると思うけど……」
「勿体ぶるなって」
「スプーン曲げ……」
「なんだって?」
「スプーン曲げだよ……手を使わずに、念力だけでさ……見たことあるでしょう、テレビでもよくやっているから……」
「手品師か」
「ぼくはそのつもりだけど、でも親父は、もっと真剣なんだ。あいつ、ぼくのこと、本物の超能力者だって言い張るんですよ」
「いま四時だぜ、明日にさしつかえるよ」
「作戦を間違えたかな……」ためらいを感じさせる短い間。「兄さんのショックを和らげるためのクッションのつもりで、とりあえず電話にしたけど……もっと単刀直入に、もろに兄さんの目に触れるように行動すべきだったのかな……」
「超能力なんて趣味じゃない。電話、切らせてもらうからね」
「なんで?」
「……」
トラックが通過した。床の震動からすると、大型のトレーラーかもしれない。奇妙なことに、受話器の中からもディーゼルエンジンの嗄れ声がだぶって聞こえてくる。電話の主は、どこかすぐ近くに潜んでいるのだろうか。
「親父って、誰の?」
「言ったでしょう、ぼくら、腹違いの兄弟だって。あいつ、ぼくを見せ物にして稼ぐつもりなんだ」
「君、いくつ?」
「二十二……」
「あいにくだったな、二十二歳じゃ、兄弟なんてことはありっこないよ。ぼくの親父が死んだのは二十五年も前のことだぜ、腹違いだろうと何だろうと、二十二歳の弟がいるわけないよ」
「知らないんですか、親父が棺桶くぐりの常習犯だってこと……」
「何くぐり?」
「なるほど、高校の先生らしいや。棺桶くぐりも知らないなんて、正真正銘の堅気なんだ。棺桶くぐりってのは、いったん死んだことにして、追っ手の追跡をかわす詐欺の手口ですよ。たとえば職業的詐欺師の場合、借金を踏み倒すほうが玄人なら、取り立てるほうも負けず劣らずの玄人にきまっているでしょう。真剣に逃げ切ろうと思えば、死んであの世に逃げ込むしかないじゃないですか。だから親父のやつ、常日頃から、かならず一人は葬儀屋と昵懇にねがっておいて……」
「やめろよ、変な喋りかた、歳らしくもない」
「どこが?」
「爺むさいというか……」
「環境のせいじゃないの?」
「違うね、絶対違うね」力みすぎて、声が裏返る。「ぼくの親父とは別人だよ。死んだおふくろの口癖、死ぬほど退屈な堅物だったって……」
「それくらい、とっくに調査ずみです」自称『弟』は自信たっぷりに、むしろ声を落して、「当時は……二十五年前になるのかな……特許事務所の弁理士だったんだって? 信用第一の職種ですよね。でも、その気になれば、甘い汁も吸えたんじゃないかな。面倒で、とても素人の手にはおえない手続きの代行らしいし……」
「でも、へんじゃないか、棺桶くぐりが親父の正体だって言ったくせに。それが君の親になったとたん心を入れ替えて、二十五年も腰を据えつづけたなんて。ぼくのほうのお袋が、まるっきり駄目女だったと言わんばかりじゃないか」
「誤解だね。ぼくだって二歳と四ヵ月で、お袋ともども放りだされてしまったんだ。痛い目にあわされた点では、どっこいどっこいさ。あいつが生きのびているだなんて思いもしなかったな。それがだよ、二十年ぶりに、ひょっこり姿をあらわして……」
「それじゃ、義理の母親や兄弟が、どこかほかにもまだいるみたいだな」
保根は受話器を持ちかえ、掌の汗をぬぐい、そのまま後じさって、ベッドの端に腰をおろした。黄色から赤に変わりかけた膀胱の圧迫感を、ほかの動作で紛らす必要があったのだ。窓ガラスにうつった自分のブリーフ姿から、つい目をそらす。蛙の干物を思わせる醜悪な体型。
「小便をこらえるのは、体に毒ですよ。ぼく、待っていますから」
ちくしょう、覗かれていたらしい。覗かれていると思ったとたん、窓ガラスにうつるブリーフ姿をあらためて意識させられる。保根はしばらく前から、ベッドに掛けた姿勢のまま、ブリーフの上から陰茎を揉みほぐしていた。断るまでもなく猥褻な意図はまったくなかった。小便を我慢していただけである。男なら経験的にすぐ理解できることだが、陰茎の摩擦は排尿の時間延長にかなり有効な手段なのだ。勃起にまではいたらなくても、刺激によって尿管から精管に転轍機の切り替えがおこなわれ、膀胱の内圧に拮抗できるようになる。
それにしても不意打ちだった。道路の向かい側に民家などなかったはずだ。道路をへだてた向かい側のブロック全体が発酵化学研究所の試験農園で、目隠し用の高い塀に囲まれている。記憶のどこを探りまわっても、窓に類したものなど思いだせない。かりに温室のメーター類を監視するための不寝番がいたとしても、外から覗けない以上、内側からだって覗けっこないはずだ。他人の目を気にせずにすむという付加価値が、保根にこのアパートを選ばせた理由でもあったのだから……。
しかし小便を我慢しているのだろうという『弟』の指摘は、正確すぎる。現在進行形で見張っていないかぎり、そんな細部の観察までは出来っこない。屈辱に息が詰まる。(すぐにも明かりを消して遁走しろ!)スイッチをOFFにする。急な姿勢の変化で膀胱が圧迫されたのか、股間に生温い感覚がひろがった。いったん溢れはじめると、中断は不可能だ。ティッシュペーパーをあてがったくらいでは間に合わない。
セピア色の背景に貼った、藁半紙色の切り抜きみたいな生気のない裸が消える。
せめてボクサー・ショーツにしておけばよかった! 小学生の頃は保根もショーツ派だったっけ。何時頃からかブリーフ派に転向した。理由はない。なんとなく成人男子にはブリーフが似合うような気がしたんだな。でも最近の女性の趣味はすっかり変わってしまったらしい。しばらく前、偶然チャンネルを合わせた視聴者参加番組で、好ましいイメージの男性の下着として女子大生の九割以上がショーツに軍配をあげていた。理由はブリーフは赤ん坊のオムツを連想させるというのである。言われてみればそんな気もしたし、風通しもいいので衛生的だと思い、さっそくデパートで青と白の縞柄のやつを三着、無地の色ものを四着買い込んできた。ところが習慣と言うやつは恐ろしいもので、洗濯のたびにショーツは奥へ奥へと押し込まれ、けっきょく穿き慣れたブリーフに戻ってしまうのだ。
二つ折りにしたタオルケットを腰に巻きつけ、覗き屋の影を捜して闇に視線を走らせる。日頃見落としていた窓はもちろん、新設された電話ボックスの気配さえない。ラッカー仕上げの漆黒に重ねて、割れたガラス瓶の断面みたいに月光を含んで光る、銀杏並木……ブロック塀……採光のための片流れの屋根をギザギザにつなぎ合わせた試験農園の輪郭……しかしもう限界だ。いまは排尿の衝動がすべてに優先する。受話器のなかの虹みたいな音を黙殺して、電話を切った。
3 天使の懇願
我慢しすぎたせいか、小便の出が悪い。時間がかかった。廊下づたいに、電話のベルの音が追いかけてくる。まるで事件じゃないか。事件と係わり合ったりするのは、物語の登場人物だけだと思っていた。予想外の体験を重ね、読者(もしくは観客)を楽しませるのが登場人物の役割だ。カレンダーに印刷済みの曜日みたいな、単調で分かりきった保根の暮しぶりにはおよそ似つかわしくない。
耳栓でもつけて、寝てしまおうか。こんな訳のわからない電話に付き合っていたら、寝そびれてしまう。いったん寝そびれると、あとが厄介だ。不眠症が保根の悩みの種なのである。
とりあえず湿ったブリーフを洗濯籠にほうり込んだ。糞ったれ、ブリーフを穿いてどこが悪い。女子大生の意見なんかで動揺するほうがおかしいんだ。考慮するなら、むしろアメリカの推理小説の中の会話の一節……『あのモヤシ野郎、スケに会いに出掛けるのに野暮なボクサー・ショーツなんか穿きやがって』……そうさ、まともな男はやはりブリーフに限る……現に、いつだったか、写真雑誌を飾っていた刺激度百パーセントの男性ヌード――撮影者が女流カメラマンだったから、女性の内心の願望とみなしても差し支えあるまい――縫いめが目立つ、純白のブリーフ姿だった。そりゃブリーフのほうが陰茎のシルエットだってばっちり浮き立つからな。まあ、いかにも女子大生らしい偽善的ポーズだと考えれば……いや、偽悪的ポーズかもしれないぞ……〈赤ん坊のオムツ〉だって?……露骨な成熟度の誇示……
雄の発情をうながすフェロモン効果……女子大生……保根は恥入りながら、ピンク色に充血した粘膜的なイメージを思い浮かべてしまう……
あきらめ悪く鳴りつづけている電話。
部屋の入口で立ちすくんだ。何処からか覗かれている可能性がある以上、明かりを点けるわけにはいかない。せめて縺れたカーテンの紐を修繕しておけばよかった。腰に巻き付けた紺のタオルケットで、さしあたり股間のガードに不安はないが、明かりを点けなければ箪笥のなかのブリーフとトランクスの識別もむつかしい。しかし馴染んだベッドを回り込むのにつまずいたりする心配はない。サイドボードの角、左手前のあたりを探りまわす……ペーパークリップ……眼鏡の洗浄液……ボールペン……何を探してたっけ……乾燥しかけたマシュマロの感触。愛用の耳栓だ。
広告につられて買ったフランス製のプラスチック製品だが、外見のいかがわしさ(保根の印象では発情したピンクの乳首)に反して、実用性は馬鹿にならない。これがフランス式合理性というやつかな? 乳首型耳栓は保根のフランス贔屓を目覚めさせ、購入予定の車の候補に、とつぜんシトロエン2CVが追加される。
2CV……。カタログ、パンフレットそれに各種自動車雑誌のバックナンバーを一年前まで遡って調べる。しかし資料の解読で片付く問題ではなかった。この追加以前にほぼ内定しかけていたのが、最新技術の粋を集めたホンダの4WS(四輪操舵)車だったから、比較しようにも基準が違いすぎるのだ。4WSはスピードに対応させて回転半径を変えるという画期的なもので、低速での操舵、とくに狭い場所での駐車などに抜群の威力を発揮するらしい。他方2CVは、エンジンも足まわりも生きている化石としか言いようがない。にもかかわらず2CVには何かがある。中毒性の魔力じみたものがある。バックナンバーの一冊に出ていた適切な批評。〈見ては極楽、乗っては地獄〉……
スポンジ状の耳栓を指先でもみながら、手打ちウドンくらいの太さにする。思いきって耳の奥深く挿入し、待つこと五、六秒、みるみる体温で膨張しはじめ、耳孔粘膜に密着した。
世界が遠退く。水に潜った感じ。
汗で湿った部分を避けて、ベッドに横になる。鳴りつづける電話。しかし竈の下で死に損なった晩秋のコオロギよりも弱々しい。電話の音が途切れた。諦めてくれたのかな? 確認のために上半身をおこし、つい耳栓を浮かせてしまう。駄目だ、まだ鳴りつづけている、まいったな、簡単に諦めてくれる相手ではなさそうだ。耳栓だけでは逃げ切れそうにない。ヘッドホーンを重ねて、防御を二重にしてみよう。
カセットデッキのスイッチを入れれば、聞こえてくるのはバッハのブランデンブルク協奏曲。C面――〈No5 in D Major〉医者の処方なしで買える安全確実な睡眠薬である。保根がこの曲を催眠用音楽に選んだいきさつには、ちょっとした誤解と勘違いがあった。彼が情報を得たのは『現代心理学講座』のなかの音楽療法の項目からだが、そこに記載されていた処方は、実はゴールドベルク変奏曲だったのである。強度の不眠症に悩んだカイザーリンク伯爵の注文で、最初から催眠誘導を目的に作曲されたものらしい。学校の図書館でこの本を立ち読みした保根は、メモをする手間を惜しんだばかりに、ゴールドベルクとブランデンブルクを取り違えてしまった。重ねてレコード店でも、ちょっとした失策を重ねた。二ケース一組みで全曲収録という経済性にひかれ、シンセサイザーによる作品を選んでしまったのだ。演奏者はウェンディ・カルロス。聞いたこともない。ケースの解説によれば、モーグというアメリカの電子楽器の創始者で、一時は映画音楽などで鳴らしたこともあるという。十年ほどまえ突然行方不明になって、ふたたび姿を現したときには性転換して、すごい美女になっていたそうだ。このテープは彼が彼女に転換してから制作されたものらしい。
シンセサイザーで演奏されたバッハは、音楽教養を持たない保根にさえ、異様に感じられた。まったく小皺のない顔みたいに、ぬめっとしていて、薄気味が悪い。材料になる音源が、すべてオシレーターからの発信音であるため、どう加工しても独特な透明感が残ってしまうのだ。クラリネット、フリュート、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェンバロ……あらゆる既成の楽器そっくりの複製はもちろん、存在しえない楽器の音、風や波や風邪をひいた雄鳥の叫び、ドラムの悲鳴、ガラスの薄片が奏でるメロディ。そうした音色の自由さにひき較べ、単純な二次方程式で表記できる、立ち上がりや減衰カーブ。構築精度は抜群なのだが、不純物がなさすぎる。
しかし保根に必要なのは音楽よりも催眠効果だった。選択の経過は適切でなかったかもしれないが、結果が良ければそれでいいわけだ。予想以上の好成績だった。全曲を聞き終えるまえにさっさと眠りに落ちてしまう。寝つきが悪く、カセットを裏返さなければならなかったことは、まだ数回しかない。ウェンディ・カルロスの演奏には、バッハの催眠成分を濃縮する作用があるのだろうか。それに男から女になってからの録音という点も保根の気に入った。変人奇人にたいするとくべつな関心は、なにも保根だけに限ったことではないはずだ。
目を閉じる。耳栓越しに織り柄がきわだつ協奏曲。モーグは単音楽器なので、演奏者が自分ですべての繊維をさばき、ダビングで織り上げなければならないのだ。指揮者兼任である。その手順をなぞっていると、やがて入眠のサインが訪れる……。墜落の誘惑?
[数ヵ月後の新聞の切り抜き](1990年3月7日水曜日)
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月の満ち欠けで性転換
月の満ち欠けをきっかけに性転換するナマコがいることを、鹿児島大学の窪田友幸教授らが見つけた。
体長十五センチぐらい、相模湾以南の岩の下に生息するムラサキクルマナマコ。このナマコの生殖期間は、七月上旬から九月下旬で、期間中は、新月と満月の前々日と前日の二日間に、一斉に精子か卵を放出する。新月と満月は、ほぼ二週間おきに現れるから、生殖のチャンスは六回ぐらいある。
個体レベルでみると、大部分のものは、雄から始まって、一度だけ雌を経験することが分かった。雌として産卵したあとは、また雄に戻るが、精子を放出する能力はだんだん衰える。
性転換の理由は、産卵に必要な大きなエネルギーを、各個体が分担するためと考えられているが、本当のところは何も分かっていない。
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シンセサイザーが織りなす硬質な弦もどき、管もどきの鋭いハーモニーが、静寂の澱粉膜にくるまれ、泥炭の原野に踏み込んだ感触。眉間に焦点をあて、寄り目になって待ちうける。ゆらぎの感覚………いよいよ入眠のサインかな?……違った、電話の音は完全に遮断されているのだが、なにか別の気配、執念の気配……のようなもの……
気になりだすと、黙殺は困難だ。ヘッドホーンをわずかずらせて、聞き耳を立ててしまう。電気掃除機の中で腹をたてている胡蜂《すずめばち》のうなり。闇に走らせた視線の端で二十日鼠みたいに震えている、ほの白い受話器。駄目だ、この調子では、朝まで確認を繰り返すだけのことだろう。ただ逃げまわっていては事態の悪化をまねくだけのことだ。デッキのスイッチを切り、耳栓を抜いて、受話器をとった。
「聞いてくださいよ」間髪を入れず、自称『弟』の呼び掛け。懐かしさを感じさせる柔和な、悪く解釈すれば媚をふくんだ、甘みのある声。「そりゃ猜疑心も大事だろうけど、たまには信頼だって必要じゃないの?」
「何処から覗いているんだ」
「言いますよ、べつに隠してるわけじゃない。ただ、守ってほしい条件……あくまでも平静にして……いいですか、叫んだり、一一〇番に電話したり、そういうのは困るんだな」
「困ってるのはこっちだ」
「明かり、点けないんですか?」
「覗きは御免だね」
「じゃ、窓際に立ってください……なるべく右寄り……電話のコードいっぱいに……その位置から三〇度ばかり左方向……なにが見えます?」
「屋根さ、発酵研究所の……」
「電柱は?」
「見えてるよ」
「そのまま視線をあげて……電線のあたりまで」
保根は叫ばなかった。呼吸量を三分の一に抑制した。
澄んだ月光を背にして、若い男が飛んでいる。翼がないから、鳥ではなさそうだ。着古した縦縞のパジャマを風にはためかせ、水平飛行の姿勢である。
「飛んでいるの?」
飛ぶ男が左手の携帯電話を頭上に掲げ、左右に振ってみせた。月明かりのせいだろう、蛍光塗料で隈取りされているみたいなシルエット。
「信じられますか?」
「飛んでいるように見えるよ」
「よかった……冷静ですね」
本当はいまにも腸が抜け落ちそうなんだ。騒ぎ立てないのは、驚愕の針がレッドゾーンを超えてしまったからだ。両脚を強く交差させ、肛門を絞り込んで耐えた。
「夢でしか、飛んだことがないから……」
「ぼくだって……自分でもまだ信じられないんだ」
含み笑い。同意の笑いか嘲笑か、きついフィルターのせいで判断しかねた。自称『弟』はそのまま電柱を超え、氷雨通りに沿ってさらにゆっくり飛びつづける。時速一、二キロと言ったところだろうか。その飛翔ぶりは滑らかすぎて、かえって古風な合成SF映画を思わせる。
「おかしいよ、空気中で浮力を得るためには、もっとスピードが必要なんじゃないか?」
何か返事があったようだが、よく聞き取れなかった。ふたたび大型トラックが空の荷台をはずませながら、急接近してきた。生のエンジン音と、受話器からの震動音が共鳴して、ワサビが鼻から鼓膜へ突き抜けていった。『弟』も警戒したのか、片手で電線をつかんで静止する。大丈夫かな? そう言えば雀や鴉が感電死したという話は聞いたことがない。でも凧揚げの危険については、電力会社もテレビコマーシャルでしばしば警告を繰り返している。アースの有無が問題なのだろう。
トラックは『弟』を無視して走り去った。
「気付かなかったみたいだね」運転手には見えなかったんだろうか……ぼくだけにしか見えてない、幻覚?……
自称『弟』は忍び笑いをもらす。さも気心が知れた仲と言った感じの、消化によさそうな笑い。電線にからませていた手をうしろに引いて、ふたたびふわりと遊泳を開始する。「ぼくが兄さんの夢を見ているのか、兄さんがぼくの夢を見ているのか……平行線は交わらないっていう公理があるけど、証明は不可能なんだってね。ごく素朴に、運転席の問題じゃないかな。目線が高いのさ。それに法規上、ライトが下向きに規制されているし……深夜の長距離便は、どうしても視野狭窄になりがちだし……」
「まさか、催眠術をかけているんじゃないだろうね?」
「こんな情況じゃ無理ですよ」
「こんなって?」
「催眠術というのは、暗示による夢遊旅行ですからね、やはりそれなりの旅支度をしてもらわないと……」
『弟』はゆったりと飛び続け、膝から下を残して視野から切れる寸前、身をくねらせて方向転換する。発酵研の鋸屋根の東端(たぶん事務室)のテレビ・アンテナに腕をからませ、停止した。四〇度ほどななめに傾き、ぼってり雨を吸った高速道路の吹き流しにそっくりだ。
「トリックさ。そうにきまっているさ」保根は自分の発声がコントロールを失いかけていることに気付いて、唾を飲み込む。「自分ではっきり手品師だって言ったじゃないか。そうなんだろ? 見たことあるよ、テレビの奇術なんかで、空申浮遊術というのか、遊泳術というのか、あれだろ?」
「あんなのとは違う。舞台でやる空中浮遊には、ちゃんと仕掛があるんだ。ホリゾント一杯の、黒いベッチンのカーテンで仕掛を隠すんだ。でも、ここは舞台じゃない。筒抜けの夜空に、満月だろ。仕掛なんて出来っこないじゃないか」
「でも、飛んでいるように見えるぞ」
「飛んでいるのさ」
「なぜ飛べるんだ?」
「分からない……本当に分からないんだ」
「率直に腹を割っていこうじゃないか。時間が時間だし、駆け引きなんかしている場合じゃない。トリックの種明かしは、さておいて、いったい何が狙いなんだ? まさか蝦蟇の油売りじゃないんだろ? そうか、分かったぞ、自衛隊か消防のレインジャー部隊の出身なんだ。ロープ一本で、谷渡りだって何だってやってのけられるわけだ。でも相手が悪かったよ。ぼくはあいにく、枯れススキに腰を抜かすほど無邪気じゃないんでね」
「そんな……喧嘩腰にならなくてもいいだろ。ちょっぴり窓を開けて、中に入れてくださいよ。手で触ってしらべてみればわかるから。……ぼくだって自分のこと天使だなんて思ってやしない。……親父の馬鹿、ぼくのことを神様って呼ぶんだ。たまらないよ」
「悪いけど、出なおしてもらえないかな、こういう話は白昼太陽光線のもとですべきだと思うね」
「白昼、飛べっていうの?」
「昼は飛べないの?」
「親父の珍獣大捕獲作戦が始まっているんですよ。ぼくが知っているだけで、追っ手は三人、そのなかの一人はプロの私立探偵らしいんだ。蝦蟇の油だなんて、冷たすぎるよ、ぼくは兄さんに助けを求めているんじゃないか。中に入れてくれたっていいでしょう?」
「御免だね」
「なぜ?」
「信じられっこないじゃないか」
「頑固だな。じゃ、せめて名刺を受け取ってくださいよ」
「名刺?」
「〈スプーン曲げの少年〉、出張出前、相談に応じます、マリ・ジャンプ」
「少年?」
「滑稽ですよね、この年になって、少年だなんて……」
『弟』はとつぜん敏捷な動きをみせた。海老なりに腰を折り、アンテナにからめていた腕をはずすと、くるりと逆転する。ラッコの身軽さだ。空中遡行を開始した。迂回しながら通りを横切り、保根の部屋に接近するつもりだ。どうせ電線沿いにしか移動出来ないだろうと、たかをくくっていた。いきなり梯子を一段はずされた感じ。驚嘆に羨望の念が加わる。……父親に先んじてあいつの秘密を盗んでやりたいとさえ思う。
待てよ、何か様子がおかしい。飛ぶ男の携帯電話が手から滑り落ち、カメラの吊り紐らしいものでくびからぶらさがって大きく揺れた。身をよじらせ、何か叫んでるようでもあるが……保根の耳にはとどかない。そのまま失速し、回転しながら風下に漂いはじめた。右手で左の肩を押さえ、続けて胸に手をやる。表情ははっきりしないが、強く顎を引き、上体をよじって痛みに耐えているようでもある。手を当てがった肩の辺から、パジャマ越しに黒い染みがひろがりはじめた。……血だ。
「どうした? 大丈夫か?」保根は大声で呼びかけ、拳の腹で窓ガラスを叩きつづけた。「手を伸ばせば届くだろ、その受話器をとって、返事をしろっ……」
しかし相手は左胸にあてた手に力をこめ、ボウフラのように背を丸めたっきり、なんの反応も示さない。乱気流に乗ったのか、蛇行しながら風下に流されはじめる。あと数十秒で視界から切れてしまいそうだ。保根は思い切りよく、窓を開けた。部屋の明かりのスイッチを点滅させて合図を送る。
『弟』が唐突に反応した。身をひるがえすなり、開けた窓めがけて一直線に滑り込んできた。
4 狙撃者の愛の目覚め
空気銃を腰だめに構え、二十九歳の独身女性は、いきなり御伽話のなかに墜落していった。銃は二連発で、引き金を二度ひいた。二発とも命中の手ごたえがあり、飛ぶ男は釣り堀のなかの飢えた虹鱒みたいに反応した。
乳房の間から汗っぽいガスの臭気が沸き立つ。なぜか良心の呵責めいたものはほとんど感じられない。当然だろう、市の葡萄栽培農家が金を出しあって運営している『発酵化学研究所』の研究員を、五年以上も勤め上げ、その間二度の失恋と離婚を体験して、彼女の男嫌いは年季の入ったほんものになっていた。いまや周辺に出没する異性は、独身女性を狙う暴行魔の気配と影だけである。そして寝床の友は、護身用の空気銃というわけだ。
もっとも彼女が飛ぶ男を、いきなり暴行魔ときめつけたわけではない。だいたい暴行魔がいざよいの月を背にして、空を飛んだりするだろうか? 似合わなさすぎる。かと言って絶対に飛ばないという保証もない。飛天の業を、かるがるしく天女や天人だけの専用特許とみなすのは、下手すると逆差別になりかねない。魔女、天狗のたぐいだって空中遊泳がトレードマークだ。
それに今しがた飛来した青年は、全身に月の粉を纏い、銀色に透きとおってみえた。おまけにパジャマ姿だ。あのパジャマの下は、滑らかでほっそりした素裸にちがいない。五感に染み入る戦慄的な情緒。男嫌いが年がいもなく感傷にうずいた。慕情に喉をつまらせむせんだ。空気銃による狙撃だって、追い払おうとか、傷つけようとかいうつもりはまったくなかった。空を飛べるほどの特別な人間が、空気銃の弾くらいで傷ついたりするわけないじゃないか。ただせっかくの獲物を取り逃がしたくなかっただけである。彼女は恋を射止めたのだ。愛の狩り人……その言葉に思いいたった瞬間、登場人物になって物語のなかに彷徨い出ていくことになる。
狙撃者が想い描いた恋の筋書は、およそ身勝手で荒っぽいものだった。不意をつかれた飛ぶ男は、驚愕のあまり失速する。失速しながらふわりと『発酵研』の塀に着地する。身をすくめ、四方八方に警戒の目をくばる。飛ぶ男の飛翔目的が、ただの無邪気な夜の散策だったのか、それとも何か企みがあったのか、そのへんのことは不問に付すとして、とにかく手を差しのべるのだ。ありったけの誠意をこめて、介抱に努めるのだ。早々に合図を送り、ここに避難所があることを知らせてやるべきかな? 懐中電燈は何処だったっけ? しかしあまりタイミングがよすぎると、避難所がじつは狙撃犯の隠れ家であることを見破られかねない。部屋の明かりを点けてしまおうか。若さを売り物にする気はないが、さほど体型が崩れているわけではない二十代後半の、半裸にちかい……ブラジャーも取ってしまおうかな?……それでも効果がなければ、構うものか、まさか人間だとは思わなかったと答えればいい。なんに見えたの? UFO。イルカの形をした、宇宙人の偵察機械。洒落た返事。笑って私を抱きしめてくれるはずだ。ボキボキ骨が音をたてる。ここで現実に「保根」という隣人がいたことを思いだし、骨の連想は訂正する。かわりにパジャマを脱がせる場面を嵌め込む。「アルコールで消毒して、毛抜きで弾を摘出してあげる。鉛中毒になると困るでしょ」(戦争映画か、アメリカの西部劇の一場面みたいだな)パジャマにはきっと小さな血痕がついているだろう、洗濯すれば、すくなくも朝までは引き止めておく口実になる。朝食はチーズトーストとコーヒーでいいかな。それにカリフラワーとトマトのサラダ。まさか月夜の飛行の後で海苔茶漬なんて似合わないよ。あえて理想にこだわるなら、『馬刺し』にパイナップル・サラダといきたいところだが……
しかし飛ぶ男が実際にとった行動は、予測と違ってしまった。『発酵研』のテレビ・アンテナにからませた腕をほどいて、宙に漂い出たところまではよかったのだが、失速もしなければ、墜落もせず、やにわに道路を横切り加速しながらこちらに突進してきたのである。なにぶん満月を背にした逆光線だから、確信はなかったが、苦痛にひきつった表情がみとめられた。あわてて窓を閉める。まさかガラスを突き破ってまで乱入することはまずありえまい。あんなふうに空中に漂えるということは、それだけ体重も軽い証拠である。紙飛行機みたいに撥ね返ってしまうにちがいない。
さらに予想外の事態がおきた。飛ぶ男が途中で旋回角度に微妙な修正を加えたのである。それとも最初から彼女の目測に狂いがあったのか? 窓際に顔をよせ、ガラスに頬をすりつけて、男の行方を追った。あいにくガラスの収差で正確には見通せない。それにしても不可解な消えかただった。玄関の踊り場をへだてた隣、『保根治』と表札がわりに名刺を貼った並びの住居……そこで吸い込まれるように消滅してしまったのである。減速もせず、撥ね返りもせず、静かに姿を消してしまったのである。
考えてみると、飛ぶ男が突進を開始した直前、隣の明かりが点滅し、叫び声が聞こえたような気もする。まんまと横取りされたのだろうか? それとも飛ぶ男の勘違いで……。耳を澄ませた。べつに騒ぎが始まった様子もない。不当だ。飛ぶ男を捕獲したのは自分であり、すくなくも逃走能力をはばんだのは自分であり、保護する権利を主張する資格はあるはずだ。
空気銃の安全装置をかけ、模造皮のケースにくるんで、化粧台の裏に戻した。ついでに鏡の上の照明をつけ、しっかりと口紅の輪郭をととのえる。めったに使ったことのない朱色の紅だ。
喪失感をまぎらわすには、ふさわしい色に思えたのだ。
いきなり違った思考回路に、切り換えられる。もしかすると、飛んでいた男が隣に緊急避難したわけではなく、もともと保根という名の隣人が、飛行していた当の人物だったのかもしれない。可能性は否定できない。もう一度ケースのファスナーを開け、慎重に空気銃を取り出した。
5 スプーン曲げ実演
「ちくしょう、やられたよ」
パジャマの裾をはためかせ、『弟』が一直線に突っ込んできた。半ば針路をふさぐ位置にいた保根は、驚天して横飛びし、壁の写真を額縁ごと押しつぶしてしまう。額といっても、ガラスがわりにプラスチックを使ったアルミ枠で、惜しくもなければ怪我の心配もない。中の写真も『網タイツ』と題された下着メーカーの広告で、とくに損傷を案ずるほどのものではなかった。ただ、アンリ・ルソーふうの風景に織り上げた豪華な黒レース越しの、尻から太股にかけての膚の白さには凄みがあり、二年越しに同じ場所を占領させていた。額が床に落ちると、跡が残った。写真そのものよりも、むしろその灰色の痕跡のほうから自分の体臭が立ちのぼっているようで、われながら疚しさを感じてしまう。
突入の速度からすると――惰性のついた自転車なみだったから、時速三十キロといったところかな――当然ベッドを飛び越えるか、運がよければその上に倒れ込むことになるだろうと予測したのだが、案に相違して急停止した。静かで突発的な制動力だった。首から吊った携帯電話が慣性で跳ねあがり、柔らかくも固くもない中途半端な音をたてた。電話機は耐衝撃構造になっていたっけ?
急停止した『弟』は着地を忘れたみたいに数秒間、やや腰を落とした前傾姿勢でじっと宙に浮かんだままになっていた。理髪店の椅子に掛けたまま、九十度前方に回転させた状態である。その姿勢のまま、肩越しに保根を振り向き、
「狙撃されたんだ、空気銃らしい」
「まずいじゃないか」
さりげなく答えてはみたものの、保根は内心すくんでいた。腸間膜がひんやりと冷えていく。すぐ手の届くところに、当然のように浮遊している人間。嗅覚、味覚、聴覚、視覚の全部がいっせいに降伏の白旗をかかげてしまう。妖怪に接した恐怖というよりは、教室のなかで反乱の予告に生徒たちが示す静寂の威圧感。不可能な物理現象に出会ったときの、畏怖の感情。人間にそっくりだが、何処かちょっとだけ違う異星人が出現したら、きっとこんな気分になるにちがいない。相手が気分を害したら、どんなめに会わされるか、まるっきり予想がつかないのだ。
「なぜぼくに気付いたんだろう? 空気銃を構えて待ちうけているなんて、変だよ、こんな時間に……」
「犯人は確認できたの?」
「隣の窓から撃たれたような気がする」
「まさか、隣は独り住まいの女だよ」
「女だって、気の荒いやつはいるよ……」
「君がここに避難したこと、見られてしまったかな?」
「可能性はあるさ……痛むな、だんだんひどくなってくる……とりあえず弾を抜きたい、胡椒の実を埋めたみたいに、ヒリヒリしみるんだ」
「そんな宙ぶらりんの姿勢で、平気なのかい? ベッドに掛けて楽にしたら?」
「うっかりしてたよ、気味が悪いんだろ? たしかに異常現象だからな。遠慮しないで、調べていいよ、覗くなり、くぐるなりして……ふつうの手品とちがって、この浮遊現象だけは、お題目だけじゃなく実際に種も仕掛もないんだよ。科学的にありえないことだし、ぼく自身、頭を抱えているんだ」
保根は床に落ちて捩じれた額を、素早く隅っこに蹴り込んだ。しゃがみ込んで『弟』の臍のあたりをのぞいてから、床についた手を支点に、ゆっくり時計方向に回ってみる。とくに疑惑をもたせるような仕掛は何処にもない。
「浮遊感と言うか、自分の姿勢について、自覚はあるの?」
「あるんじゃないか……着地すれば、接地点の感触がつかめるし……かなりの程度、意思で動きをコントロールできるし……やってみようか……」
軽く宙を滑って、ベッドの角に掌をつき、体操選手の跳馬をスローモーションで撮影したみたいな反転着地、もしくはスペース・シャトルの中での作業風景。ベッドの隅に腰をおろすと、尻の接地部分が輪郭にそって過不足のない窪みをつくり、すべてが常識的な物理法則の世界に戻ってくれた。
「空気銃にしちゃ、出血がひどいね」
「ピンセットと、消毒液があれば……」
「ピンセットは無理だよ。スイス製のアーミー・ナイフについている刺抜き……小さすぎて、無理かな?」
保根は椅子の背にかけた上着のポケットから、ウェンガーの万能ナイフをとりだした。小型ペンチから磁石までついた、最新式のやつだ。赤い柄の先端に、爪楊枝と鋼鉄製の刺抜きがセットしてある。厚さが三センチ以上もあり、ずっしりと重い。
「こんなもの、持ち歩いているの?」
「おおげさすぎる?」
「いいんじゃないの、危険いっぱいの世間なんだから」ナイフを開いて爪にあて、「切れるよ、高級品だ、医者のメスとまではいかないけど……消毒液ある?……」
「ウォッカじゃ駄目か? ふつう怪我のとき、軟膏しか使わないんだ」
サイドテーブルの寝酒用ウォッカを、栓だけ抜いて瓶ごと差し出す。
「これ、ポーランド製だろ? 匂いはいいけど、度数が弱いんだな」
「剃刀負けなんかには、けっこう効くよ」
『弟』はパジャマの袖から腕を抜きながら、吊り紐を首からはずし、携帯電話をポケットにねじ込んだ。その一連の動作は優雅で滑らかで、さすが手品師を名乗るだけのことはあると思った。
傷は左肩と乳首のわきにあって、両方ともすでに血は止まりかけているが、乳首のわきのほうが深く、輪郭も不規則だ。
「空気銃の弾にしちゃ、傷口が崩れているな。爪で掻き毟ったみたいだぞ」
「掻き毟ったのさ、弾の頭が浮いてたから」
『弟』は断りもなくサイドボードからティッシュペーパーを抜きとり、片手で器用にちいさく畳み、瓶の口にあてがってウォッカをしみこませた。傷口を叩いて、奥歯を噛みしめる。つぎにウェンガーの刃をウォッカに浸けた紙で何度もぬぐう。いきなり右手に構えた細い棒状のライターから、音もなく長い炎が吹きだした。手品の小道具らしい。炎のなかに刃先をくぐらせた。まるめたティッシュにウォッカを追加し、今度は胸の傷を丹念に消毒する。見ているだけでも痛そうな場所だ。乳首すれすれに凝りかけた血が、ケーキの中の干し葡萄みたいに濡れている。
「大丈夫かな?」
「切りそこなったって、どうせ男には無用の長物さ」
かなり剛胆だ。それでも無漂白小麦粉をはたいたような肌いちめんに、ざわざわと起毛筋の粒がたつ。枕元の読書用ランプを掲げてやると、その光源で、鼻から唇にかけての起伏が際立った。明太子の薄皮を思わせる、華奢で繊細な唇にはつい騙されてしまいがちだが、この横顔の輪郭にはけっこう攻撃的な鋭さがある。油断は禁物。
手術は一瞬のうちに終わった。ウェンガーの刃が銃創に重ねられ、『弟』の手首が雀の方向転換なみの素早さで回転した。予備運動かと思っていたが、すでに切開しおえたあとだった。ウォッカに浸したティッシュを、指の色が変わるほど力いっぱい傷口に押しつける。涙をうかべ、汗びっしょりになって、蒼白なまま微笑んだ。
「ほら、この弾だよ」
まるめたティッシュを差し出す。鮮血の中央に、黒い鼠の糞のようなもの。胸の傷跡から、ねばっこく糸をひいて血が流れた。保根には血のほうが気掛かりだったが、『弟』にはつまみ出した弾のほうが関心事らしかった。
「血が止まるまで、押さえておけよ」
「なにか保管しておく容器、ないかな? ガラスの小瓶か、なにか……この弾、動かしがたい証拠物件だろ。あの気違い女も、へまをやったものさ、敵に物的証拠を握らせるなんて下の下だよ」
「標本整理用の、ビニールの小袋ならあるよ。口にチャックがついているやつ。ぼくは薬入れに重宝しているんだ、旅行のときなんか……」
保根は上着の内ポケットから、携帯用の制酸剤を入れた小袋をとりだし、中身を空けて口にほうりこむ。
「おあつらえむきじゃないか」『弟』は袋の中に、鉛の弾を落とし込み、「明日になったら、貸し金庫にでも預けようよ。それまでの隠し場所、どこにする?」
「冷蔵庫の卵の棚……」
「名案だ」
「傷の痛みは?」
「刺と同じことだよ、抜いてしまえばそれっきり……」
「証拠物件は分かるけど、そう有り難がるほどの物とは思えないね」
「口止めにはなるさ、れっきとした傷害罪だからね。警察に通報しようったって、そうはいかない。テレビや週刊誌に売り込もうったって、リスクが大きすぎる。空気銃だって、指定の場所以外では使用禁止だからな。それはそうと兄さん、隣の電話番号、知っている?」
「知らない、名前も知らないんだ」
「出来れば事前に警告しておきたいと思って」
「何を?」
「だから、ぼくをゆすろうとしても無駄だってこと……」
「どうやってゆするんだ、べつにゆすられるようなこと、してないだろ?」
「そうかな? なんの装置もつけずに、空を飛んだんだよ。幽霊や怪物の目撃者にも、大きく分けて二つのタイプがあるだろ? 自分が信じられなくて、沈黙を押しとおすタイプと、逆に大声で自慢してまわるタイプ。どっちにしても化け物あつかいに変わりはない。兄さんだって、ぼくに対する口のききかた、見る前と後ではすっかり変わってしまったじゃないか。けっきょくは偏見さ」
「飛ぼうと思ったら、自由意思で、飛べるの?」
「答えにくいし、出来れば答えたくない」
「帰るときは、どうする? タクシーを呼んだほうがいいのか、飛んで帰るのか?」
「率直に言わせてもらいますけど、ぼくがここに逃げ込んできたのは、たまたま散歩の途中ってわけじゃない。兄さんの協力を当てにして、何ヵ月もかけて練った計画なんだ。不意の狙撃という、筋書になかった即興劇のおかげで脱線しかけたけど……いや、悪いことばかりじゃなかった、おかげですんなり窓を開けてもらえたんだし……ただ、どうしても気になるんだな、あれが額面どおりの即興だったかどうか……」
「何が言いたいんだ?」
「親父……勘繰りすぎかもしれないけど、あいつならやりかねない、あらかじめぼくの立ち寄り先をマークしておいて、射撃クラブの女性会員に渡りをつけるとかさ……」
「まさか、お隣さんはぼくが越してくる前からの住人だよ」
「だったらいいけど」『弟』は新しいティッシュペーパーにウォッカを含ませ、しぼって傷口に当て、「親父にはぼくが、金の卵を産むニワトリに見えるらしい。でも、ぼくにそんな実用価値があると思う? せいぜいが見せ物だろ? もちろん一躍、話題の人物にはなれるかもしれない。しかし所詮は山師あつかいされるのが落ちだろう? 行き着く先は霊感治療師、信者が増えれば新興宗教の教祖様……」
「率直に答えてくれよ、協力っていうけど、具体的に何をさせたいんだ? 親父と渡り合うためなら、ぼくと組んでも、期待外れだと思うよ。ご覧の通りの、筋無力症だし、君みたいな特殊技能があるわけじゃなし……」
『弟』はパジャマのポケットから一枚の名刺をとりだした。いかにも手品師らしく、指先ではじいて派手に鳴らした。
[#スプーン曲げの少年]
[#マリ ジャンプ]
[#出張出前 相談に応じます]
「滑稽でしょう、この年になって、いまさら少年もないもんだ。でも中学一年のころから自活のためにずっと舞台をふんでいたので、その惰性もあって……マネージャーなんかもスプーン曲げなら、少年にかぎるって言い張るし……それに、ぼく、男性ホルモンが不足しているのかな、年齢不詳みたいなところが抜けないんだ。ご覧のとおり、ひげも薄いままだし……台所、その廊下の奥ですか?」
「飲み物? ビールでよければ……」
「いや、スプーン。カレーライス用の、普通のやつ。お願いできますか? 実演を見てもらおうと思って。ぼくが取りに行ってもいいんだけど、すり替えを疑われるのは嫌だから……」
保根は腰のタオルケットを締め直しながら、足早に廊下を渡り、風呂場の暖簾をはねあげ、洗濯籠から汗ばんだままのバスローブをつかみ出す。蛙の干物のような保根の体型には、この濃い臙脂は派手すぎて似合わない。しかし選り好みを言っている場合ではなかった。ブリーフ一枚で小便を我慢する無様な姿を、じっくり観察された直後である。袋みたいに通りの悪い袖と戦いながら、台所に引き返した。ガス台の脇の、箸立てがわりにしているビヤホールの店名を刷り込んだ大ジョッキから、大匙を一本ぬきとった。一見して安物とわかる艶のない合金製品。食器棚には柄に飾りがついたクローム仕上げの上等品もあるのだが、いきなりそんな肉厚なのを突き付けるのは、礼を失するようでためらわれたのだ。一種の自己検閲をふくんだ、遠慮深い尻込み……
『弟』は即座に見抜いてしまったようである。
「よく言えば、兄さん、よほど優しい人柄なんだろうね。これ、いちばん曲げ易い大量生産品だよ。頑丈そうなのは、さもぼくの失敗を謀っているようで、気がひけたわけだ。そうなんだろ? いかにも日本人らしい協調精神だよね。でも意地悪く言えば、ただの臆病かもしれない。相手を傷つければ、自分も傷つく、ここはなるべく角がたたないように穏便にすませたい。でもそういう事なかれ主義、あまり歓迎できないんだ。どうせ後で、いろいろとイチャモンをつけるための、逃げ道になるし……」
途中で口をさしはさむ余地がないほど、滑らかに、節をつけて一気にまくし立てる。手品の口上みたいに、調子がいいだけで、気持ちはほとんど伝わってこない。あんがい、口上そのものだったのだろうか?
「勘繰りすぎだよ」
「だったら、いいけど」
『弟』はスプーンの柄を二本の指ではさみ、頭と柄のあいだのくびれた部分に、強い視線をそそいだ。視線が焦点をむすぶあたりに、息を吐きかけ、空いているほうの人差し指で呪《まじな》いをかける。指の腹とスプーンの間に、数ミリの隙間があったから、たぶん呪いなのだ。ほとんど勿体ぶらずに、くびれめが揺れはじめ、熱を加えた飴みたいに曲がった。指ではじくと、頭だけがぽろりと落ちた。テレビのショウ番組などで、おなじみの場面なのだが、映像と実物とではさすがに迫力の差があった。
「それ、もちろん、種があるんだろ?」
「そういう問題は、時間をかけて、じっくり話しあうべきじゃないかな」『弟』はベッドからスプーンの頭をつまみあげ、手のひらの上で柄につなぎ、呆れるほど無害に目尻でほほ笑んだ。「種があると答えようと、ないと答えようと、兄さんどっちも信じられっこないだろう?」
「それもそうだ。他にも、レパートリー、いろいろとあるの?」
「東名高速のサービスエリアの食堂メニューなみだよ。見たことある? 全国の食堂のトップらしいけど、最低あれくらいは揃っているね。どこのサービスエリアだったっけ、ぼくのお気に入りはスキヤキ定食に、味噌汁さ、けっこういけるんだ」
「君のメニューに、テレパシーは入っているの? 透視能力っていうのか……」
「どう思う、兄さんは?」
笑顔が目尻から、さらに唇の両端にひろがっていく。開け放した窓のさわやかさ、色で言ったら薄荷飴の淡い緑……保根の意識のどこかで、カチリとちいさな音がした。『弟』から鉤括弧がはずれ、ただの弟に変わった音だったかもしれない。
「飛ぶところさえ目撃していなけりゃ、手品で済ませられたんだろうけど……」
「分かるよ、だから読心術師がいちばん嫌われるのさ。その点でぼくも一目おかれがちなんだね。だからあえて否定もしなければ、肯定もしない。適当に怖がらせておくのは、かなり便利なこともあるからね。でも、大丈夫、兄さんには汚い手なんか使いっこないよ。腹のなかを探るときには、探るって、ちゃんと予告するからさ」
「傷の具合、どんなふう?」
「バンドエイド、ないかな?」
「血はとまったんだろ? 裏通りのスーパーも、六時にならないと開かないし……住まいは何処なの? 名刺には刷ってないけど」
「岬町の弘法温泉、駅前の『わさび』芸能社……笑っちゃうよね、殺菌力があって、刺激的なんだってさ」
「快速に乗れば、ここから二十八分じゃないか」
「五分だろうと、五十分だろうと、二度と帰る気なんかないね」
「まさか岬町からずっと飛んできたわけじゃないだろ」
「けっこう消耗するんだ、空中遊泳やると……」
「何処に泊まっているの、市内?」
「カプセル・ホテル、駅前にあるだろ……言ってなかったっけ?」
保根は腕時計に目を走らせた。五時六分、そろそろ月が沈んで、空が青みをおびてくるころだ。困ったことに、沸騰寸前にまで煮え立った脳の血管から、眠気がすっかり蒸発してしまっていた。せめて二時間は寝ておきたい。二時限目から数学の授業である。授業だけなら一晩の徹夜くらい平気だが、数学となると話がまた別だ。数学はなぜか生徒たちの獣性を刺激するらしく、手の込んだ悪質ないたずらが仕掛けられやすい。クラス全員が他のクラスと入れ替わっていたのも、教室が空っぽになっていたのも、ドアの上に小便を一杯にしたバケツが吊ってあったのも、すべて数学の時間だった。とっさの反応が肝心なのだ。神経を研ぎすませておく必要がある。
「ウォッカ、一杯だけ飲んでおくよ。君は?」
「ぼくはやらない、体質的に合わないのか、蕁麻疹がでるんだ。マジッシャンには、なんといっても集中力が資本だからね」
「それで? 結局のところ、ぼくの役目は……君がコンタクトした狙いは、何だったのかな……ぼくには親父の記憶がないから、見当がつかないけど、ご覧のとおりの干物人間だし、撃退役なら残念ながら期待外れだと思うよ」
「いよいよ問題の核心だね……」『弟』は、いや弟は(保根の意識からすでに鉤括弧は消えかけている)ゆっくり吸い込んだ息をとめ、あらためて手のひらのスプーンの柄と頭を照明のなかにかざし、はずみをつけて握り込む。かすかに金属的な音がした。息を吐き、指を開く。スプーンの柄と頭が圧搾機でこねたみたいに団子状になっている。「ご覧のとおりさ……ぼくはべつに親父を恐れているわけじゃない、憎んでいるんだ。側にいられるだけで身の毛がよだつ。きっと逆上して……逆上のあまり……自分でも気付かずに殺してしまうんじゃないかな。あんなやつのために、殺人者にされるなんて真っ平だよ。だから……うまく言えないけど……なるべくぼくと一緒にいて、必要以上に接近しないように、親父に警告するとか……」
保根は瓶の口から直接ウォッカを口に含み、ちょっぴりむせたふりをして、時間かせぎをする。
「弱ったな、奥の部屋は作業室で、工具や材料で足の踏み場もないありさまだし……」
「兄さんには情況がよく飲み込めていないんじゃないの?」弟の尖った横顔に、たわめたスプリングの内圧が加わる。隙をうかがう、肉食の鳥か魚なみの威圧感だ。「なぜ親父がぼくの捕獲に、あれほどの執念を燃やしたのか……その兄さんの欲のなさが、良さといえば良さだけど……兄さん、ぼくと組んで一仕事できると思わないのかい? ぼくの専属マネージャーになったほうが、高校の教師なんかより、ずっと収入もよくなるし……いや、興行師になることをすすめているんじゃないよ。親父はぼくを見せ物に出して稼ぐことしか考えないから、手を切るしかなかったんだ。想像力欠乏症もいいとこだよ。ぼくは兄さんに百パーセント自由に利用してもらいたいのさ。掛け値なしの百パーセント。なんなら今すぐ契約書をかわしてもいい」
「契約って、なんの?」
「白紙委任状だって構わない。たとえば今後、保根治は、マリ・ジャンプの全行動を管理し、独占的に権利を行使しうるものとする。マリ・ジャンプは代償をいっさい求めない。ただ保根治はその権利を侵害するものに対しては、全力をあげて防衛の義務を負うものとする。つまり占有権の宣言だね」
「そんな宣言、意味ないじゃない。公正証書ならともかく……」
弟は小さく頷き、脱ぎすててあったパジャマのポケットから手帳を抜き出した。睡眠中でも手帳などの身のまわり品を手放さないのだろうか?
「これ、本当はパジャマじゃないんだ、舞台衣装なんだよ」手帳から、白紙の一頁をちぎって、細いボールペンを添え、「ごめん、うっかり兄さんの思考を透視しちゃったよ、でもいいだろう、こんなふうにすぐに隠さず白状してしまえば……このパジャマ装束、なぜか評判がよくてね、それにルーズだから種を仕込むのにも便利だし……」
保根はもう一口、ウォッカの瓶にくちを当て、なんとも釈然としない気持ちで紙片の裏と表をあらためる。隅っこに小さくMEMOと印刷してあるだけの、ミシン入りのただの白紙。
「サインは血でなくてもいいのかい?」
「そんな茶化しかた、悪趣味すぎる。たしかにぼくには化けもの的要素があるかもしれない、でもそれ以上に、すごい可能性だと思わないの? ぼくと組んで何が出来るか、想像してみてごらんよ」
「……」
「なんでもいいから、いま実現してほしい願い事……」
「君にそれほどの力があるんなら、勝手にぼくの考えを読みとればいいだろ」
「ルール違反はしたくないな」
真にうけたわけではない。かと言って、頭から否定したわけでもない。とにかく空中遊泳したことは(あるいは、そんなふうに見えたことは)事実なのだ。駄目でもともとなのだから、ためしに何か願い事をしてみようか。
玄関のブザーが鳴った。
「誰かな、今ごろ」
不意をつかれた保根の声は、油切れしている。
「心当たりは?」
「ない」
「親父だろうか」弟の声も裏返っている。しかし次の瞬間、はずんだ声、「浮かんだぞ、ほら、浮かんでいるだろ。いったん浮いてしまうと、あとは思いどおりに飛べるんだ。悪いけどこのチャンス、利用させてもらうよ。親父にはあくまでも白をきること……なんなら不法家宅侵入で一一〇番してやれよ……また来るからね、おやすみ」
ふたたび玄関のブザー。弟はベッドの角を蹴り、天井に向かって斜めに跳ねた。
「電話番号……」
「知らないほうがいい、知らなければ白状しようがないし……」
開け放しのままになっていた窓から、イルカの量感で身をくねらせ、弟が夜空に飛び去った。無くしてから気付いた当たり籤の番号、いつもこんなふうに手遅れなんだ。
玄関のブザーが繰り返し呼びつづけている。
6 誤解
厄介なことになってしまった。
弟が飛び去る間際に言い残した「親父だろうか」という暗示が、たんなる暗示を越えて実現してしまったらしい。弟の父親なら、とりもなおさず保根自身の父親でもあるわけだ。死んだふりして消えてしまった無責任な父親に、会いたいわけがない。
弟も弟だと思う、自分にも手に負えないほどの悪党を押しつけて、さっさと飛んで逃げるなんて勝手すぎるよ。こんなことなら、素直に契約を交わしておけばよかった。契約さえ交わしていれば、こんな目には会わずに済んだのかもしれない。
鳴りつづけている玄関のブザー。
まさか素手では応対できそうにない。牽制のために、ベッドの下の樫の木刀はどうだろう。中学二年のとき剣道一級の試験にパスしたおかげで、正眼の構えくらいは自信があるが、鎖骨にひびが入ってから長尺棒状物体恐怖症におちいり、いらい剣道はもちろん野球もスキーも出来なくなってしまった。相手に多少の心得でもあれば、木刀なんか足手まといどころか、猛牛の鼻面で赤布をふってみせるようなものだろう。いっそ奥の手といってみるかな……表ざたにはしにくい、保根の護身用武器、催涙ガス銃……生徒の暴力をよせつけないために――仮面鬱病の専門家の診断によると、保根はとくに生徒の獲物になりやすいタイプなのだそうだ――こっそり通信販売で購入した護身用のガス・スプレーである。銃と言っても、市販の雑誌に広告が載っているていどの無邪気なもので、凶器というにはほど遠い。
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(この製品の所持、使用は法律で承認されております)
[#ここで枠囲み終わり]
[#ここで字下げ終わり]
ワイシャツの裾に、マジックテープで取り付けた模造皮の袋(たしか眼鏡のソフトケースだったと思う、上からベルトで押さえるとほとんど目立たない)から、ガス銃を抜き取った。ランニング・シャツをかぶり、ズボンを穿く。安全装置をはずして発射ボタンに指を添え、玄関のドアから一歩さがった位置で、まっすぐ肘を伸ばした。
「誰? なんの用?」
「お怪我の具合、いかがです?」
女だ。まさか親父の声色なんてことはあるまい。いくら徹底的な性転換手術をこころみても、声まで変えるのは無理らしい。正真正銘の女だとすると、単純な消去法でも、まず隣の住人が浮かんでくる。何しに来たのかな? おめおめと顔出しなんか、よくも出来たものだ。一般に犯人は、ひたすら犯行のもみ消しを謀るのが相場なのに、ぬけぬけと見舞いの口上をならべはじめたのだ。神経を疑うよ。
こうなると、弟がちらと漏らしていた疑惑……立ち回り先を予測した親父が、あらかじめ射撃クラブの会員の誰かと契約し、隣に住み込ませておいたのではないか、という劇画風の疑惑も、あながち荒唐無稽ではすまされなくなってくる。保根自身が、きわどいところで弟を手放してしまい、つくづくと悔恨の念に打ちのめされていただけに、親父が弟の捕獲に燃やす執念の激しさも分かるような気がするのだ。
「もしもし、聞えているんでしょう? 開けてよ、わたし、ちょっぴりだけど、応急処置の心得もあるの。勤務先の講習で教わったんだけど、空気銃の弾って、残留すると鉛中毒の危険があるんだって……」
意味もなく笑いがこみあげてくる。保根は伸ばしていた関節の力をぬき、ガス銃を腰のベルトに差し込んだ。忍び足で玄関のドアに身をこごめ、監視用の超広角レンズに目をあてた。軸の狂いのせいか収差がひどく、周辺部に虹色の隈が糸を引いている。中央部分だけは、かろうじて鮮明だ。誇張された遠近。白縁眼鏡の大目玉が、空気銃を腰だめに構えて両足をふんばっている。実像からはほど遠いのかもしれないが、線状の女を予想していた保根は、その球状イメージにほっとする。
女が銃口を突き出してブザーを押した。
「待ってよ、いま開けるから」
電子ロックを解除し、取っ手を下に半回転する。
素顔を見るのは、むろんこれが初めてだった。とりあえずは、二十代後半で愛敬たっぷりの印象。短めの髪をふんわりと刈り上げにして、小柄だが顔がちいさく、眼鏡がよく似合う。上下そろいの枯れ葉色のパンツルックに、ピンクのスカーフを巻き、けっこう服装にも気を使っているようだ。保根はガス銃を収めておいたことにほっとした。双方で銃を構えあっていたりしたら、お笑い種もいいとこである。
「保根さん?」
「そうですけど」
女は保根の上半身に、爪をはやしたような視線を這わせ、首を何度も左右に振った。
「でも、別人だな」
「なにが?」
「怪我の痕なんかどこにもないし……雰囲気が、まるっきりよ」
「銃口、下に向けてほしいな」
「隠し立てをする、理由を言って」
「理由なら、そっちが先だよ」
「わたしが射ったんだから、当然介抱する義務があるじゃない」
「傷害罪を認めるの?」
「はじめは人間だなんて思っていなかった、嘘じゃない、聞こえたでしょ、鴉が三羽ばかり、うるさくじゃれまわって……」
「鴉だって? 鴉はこんな時間、白河夜船にきまっているさ」
「人間だと分かって射ったりするわけないでしょ。威嚇のつもりで、三羽の鴉の中心に狙いを定めたとたん、イルカに変わったの。白いイルカ。変だと思ったときには、もう引き金を引いていた」
「君の眼鏡、度は合ってるの?」
「乱視と弱視で、矯正できないんだって」
「悪いことは言わない、これ以上かかわり合いにはならないほうがいいと思うよ。君を煩わせるまでもなく、弾は摘出済み、さいわい怪我は擦過傷程度……でも、傷害罪であることに変わりはない」
「あれ、誰だったの?」
女の声が、酢漬けの卵みたいになった。形だけ残して、殻が溶けてしまったのだ。重力にゆだねて、垂れさがってしまった銃身。指先もとうに引き金から離れてしまった。
「君に関係ないだろ? それとも誰かに頼まれたの?」
女がいきなり保根を押しのけ、上がりこんでしまった。背後でドアが、自動開閉装置も付いていないのに、自然に閉まった。風のせいだろう。保根は女に道をゆずって、口いっぱいの唾液を飲み込んだ。いよいよ当たり籤の赤玉かもしれないぞ。まだ空想のなかでしか、性的対象になりうる異性がこの玄関をくぐったなんてことは、一度もない。
郵便受けが小さく鳴った。蓋のスプリングが弾けただけのことだろう。そうは言っても弟の警告だって、まだ無効が保証されたわけではない。父親がどこかに身をひそめ、侵入の機会を窺っていないとは限らないのだ。念のためにもう一度、監視用の超広角レンズを覗いてみた。人影らしいものは認められない。かりに侵入間際だったとしても、こんな時刻に銃を構えた若い女性と出っくわしたら、いいかげん肝をつぶして退散するはずだ。こっそり錠をロックした。これで満願成就、一石二鳥、女の退路を断ったことにもなる。
融けた蜜の気分に浸っていただけに、いきなり女のわめき声の張り手をくらって、心臓がフライパンの上で猫踊りする。出しつけていない大声は聞き苦しい。
「隠れていないで、出てきてよ。お願い。出てきて顔をみせて!」
「よせったら、近所迷惑じゃないか」静止のつもりで保根が踏み出しかけると、女が素早く銃を構えなおし、引き金に指を添える。照準は保根の右目から小鼻のあたりに合っている感じだ。「調べたけりゃ、どうぞ……邪魔はしない。風呂場だろうと、押し入れだろうと、湯沸かし器の上の天井裏だろうと、自由に見回ってください。遠慮はいらない、どこにも鍵なんかかかっていないから、納得いくまで徹底的な家宅捜査をすればいい。まあ、落胆するのが落ちだろうけど……」
「幻覚だったっていうの?」
「言いにくいけど……」
「誤魔化しても無駄、この目ではっきり見届けたんだから」
「何を?」
女は銃を腰だめにした姿勢のまま、コルク材のサンダルを脱ぎすて、進入を開始した。どうせ弟は飛び去った後だし、行く手を阻む理由はなにもない。むしろひそかに、ほくそ笑みたくなる感じ。若い女性がこんなふうに玄関のドアをくぐっただけでも、画期的な事件なのに、部屋のなかまで上がり込んでくれるなんて、話がうますぎるよ。弟のやつ、芸達者なだけでなく、七福神の親戚なのかもしれないぞ。打出の小槌なみの即効性は期待できなくても、蹄鉄か蛇の指輪ていどには開運の効用はあるのかもしれない。
保根は女の後ろ姿を胸いっぱいに吸い込んだ。茂った柳の匂いがした。腰だめにした空気銃なんて似合わない。しかし熱反応レーダーを思わせる、左右をうかがう神経質な首振り運動は、ブリキの兎みたいで可愛らしい。保根の視線は高倍率のズームレンズになって、はじめはこわごわ、やがて大胆に、女の臀部を凝視する。肉付きはいいのに、想像していたような球形とは違い、中身の詰まった良心的な、稲荷寿司に似ている。化膿した歯茎を連想した。生地の種類は知らないが、絹の軽さと、ゴムの伸縮性を兼ね備えた感じ。二つの球のあいだに想像を食い込ませようとするのだが、うまくいかない。弟だったら、実像が透視できるのかな?
居間兼寝室に踏み込んだところで、さすがに女がたじろぎを見せた。ベッドのうえの、棒状に捩じれたタオルケットの生理感覚にひるんだのか、それとも保根には感知できない男の体臭に辟易したのか。
ためらいを振り切った女は、いきなり窓際に直進し、手動ロックの爪が下りていることを確認した。まずい。いつロックなんかしてしまったのだろう。弟が飛び去った直後だったか、催涙ガス銃を手にしながらの無意識の仕業だったか、いずれにしてもへまをやってしまった。
「逃げたなんて、嘘じゃないか」勝ち誇った、視線。眼鏡の位置をなおして、じっくりと見まわす。あわてて監視の範囲に天井をつけ加える。膝をついてベッドの下を覗き込む。銃身を差し込み、引き金に指をかけ、細く乾いた声で懇願した。「お願い、出てきて。出てこないと射つよ」
「無駄なんだよ、いくら言っても」保根は声だけでなく、つい気持ちまで優しくなってしまう。「さっさとトンズラさ、君がいきなりベルを鳴らしたりするから……」
「でも、わたしにだって介抱する義務があるでしょ」
哀願にちかい女の上目づかい。保根は弟にたいする嫉妬心と闘いながら、サイドテーブルのウォッカをコップに二センチほど注いで差し出した。
「こいつを飲んで、気を静めて……」ついでにベルトのガス銃を、目立たないように腰の後ろに回し、「世間には、いくら解明しようと思っても、手の届かないこと、あるんじゃないか。ありのままを、素直に受け入れるしか……君、仕事は、どっち方面ですか?」
「おあいにくさま」コップをひったくるなり、一気に飲み干して、二、三度咳込みながら銃口を保根の横腹にねじ込んだ。「そんな手に乗るもんか。男って、隙があれば、上に跨がることしか考えないんだ」
「そんな、濡れ雑巾でひっぱたくようなこと、よく言えたもんだね。呆れたよ。自分の人格が泥んこになるだけだぞ」
「いいのよ、跨がりたけりゃ、いくらでも跨がって。そのかわり、お願い、一目だけでいいから会わせてよ」
ベッドの上に、女の視線が走った。おきっぱなしになっていた弟の名刺だ。視線を遮ろうとしたが、手遅れだった。保根の手をウォッカのコップごと撥ねとばし、銃も床にころがしっぱなしにしたまま、野球選手みたいに頭からベッドにすべり込む。
「駄目だよ、返せったら!」
「〈マリ・ジャンプ〉か……」三〇度ちかくずれてしまった眼鏡をなおしながら、「もちろん芸名だろうけど、芸名にしても、変な名前。〈スプーン曲げ〉はいくらなんでも謙虚すぎるな。カムフラージュだろうか? だって、空を飛べるんじゃないか。機械を使わずに飛ぶのは、人類最大の不可能であり、夢なんだって。フロイトの言葉だっけ? 修験道なんかでも、最終目標は天狗だったらしいじゃない。高野山のえらい坊さんが、一週間の絶食苦行で、空中浮遊に挑戦したの、見た? テレビで中継したじゃない。でも駄目だったみたい。それが楽々できるなんて、ネッシー以上の驚異よ。この目で見たんだから絶対だな。あれ、すごい超能力だと思う」
女はベッドのうえで、上半身を捻じり、肘でささえる。片膝立ての、きわどい挑発的な姿勢。
「あれ、弟なんだよ」
「まさか」
「信じられないだろうけど……」
「だったら、紹介してよ。約束する、絶対口外なんかしないから」
「どういう意味?」
「スプーン曲げ程度なら、見せ物にしたって、どうって事はないけど、空中飛翔の術となると、そうおおっぴらには出来ないよね。第一、見せ物にするだけじゃ割に合わない。現に名刺にだって、刷ってないじゃないの。わたしなら、名案を思いつくまで、とりあえず泥棒でもやっちゃうな……天才的な大泥棒、たとえばの話だけど……いくら覗きの趣味があっても、さっきみたいな射たれ損じゃ自慢にもならないし……」
「この辺で、そろそろ自己紹介しあってもいいんじゃないか……君のとこ、門札も出していないみたいだし……」
「笑っちゃだめよ、名前は小文字並子。大文字、小文字の小文字。格好の悪さでは保根さんといい勝負。最初はかならず聞き返されるけど、二度と聞き返されない、便利な名前。おまけに並子のなみは、普通の並。冴えないったらないの」
「小文字さんか……」
「綽名が『英和辞典』……」
唇は笑っているのに、視線は保根の値踏みをつづけ、片膝立てのまま上半身を捻った。伸縮性のある布地が太股にからみ、着崩れた感じがしどけない。保根はまごつく、男として認められていないのか、それとも意識的な挑発だろうか。
「ぼくの名前も、昔はもっとひどくて、ずばり骨格の骨だったらしいよ。なにか特別な職業だったのかな。お互い、事件の容疑者にだけはなりたくない姓だね」
「窓から飛んで逃げたなんて、嘘にきまっている」
「嘘なもんか……」
「よして……分かっているんだ、さっきからわたしを脱がそうとして、うずうずしていたくせに……なぜ乗っかってこないの? 一人じゃないからでしょ? どこかに隠れている彼に、気兼ねしているから、図星でしょ?」
「そこまで信じられないのなら、何処でも自由に、見てまわったら?」
「言われなくても、そうさせてもらうつもり……」小文字並子は、反動をつけ、軽々と床に立つ。多少はスポーツの心得があるのかもしれない。銃を小脇に、重心を爪先にかけ、さも気力にあふれた足取りだ。まったく眠気を感じないのだろうか。「案内なら、ご心配なく、どうせ間取りなんかも、わたしの所とそっくり対称なんでしょう。わたしね、ずっと前から、ああいう人間離れしたひとに憧れていたみたい……」
残された保根はベッドの端に浅くかけ、指先を上瞼に食い込ませるように、両手のなかに顔を埋めた。まるで仕出し屋から出前してもらった高級弁当みたいな女だと思う。性的に惹かれているだけなのだろうか、それとも結婚の対象として考慮するに足る相手なのだろうか。年は幾つぐらいだろう? 体のバランスはいいけど、小柄すぎるし、これまで空想のなかで恋愛感情を刺激してくれた相手と較べると、肉付きがよすぎる。でも後悔しないという保証さえあれば、今夜じゅうに関係を結んでしまいたいな。言葉遣いに荒っぽさが目立つが、気取りすぎよりはましだろう。
もしこの場に弟がいたら、相談してみたい。どんな忠告が期待できるだろう? もっとも忠告どころか、さっさと横取りされてしまいかねない危険もあるな。
顔を包んでいる両手のなかに、深々と欠伸を吹きこんだ。
7 繭の内側
ドアを開けると、自動的に室内燈がともった。四〇Wの蛍光燈が二本、じゅうぶん以上の明るさである。しかし小文字並子は踏み込むのをためらった。予想と違いすぎたのだ。まさか天井すれすれに浮かんだ空飛ぶ男が、にっこり笑って迎えてくれる場面を予期していたわけではないから、落胆とは違うだろう。部屋というよりは物置。物置というよりは混沌の缶詰。ドアの開閉に連動させた自動点燈装置には、おおよそそぐわない無秩序さ……音をたてずに咆哮している幻想的な乱雑さ……
この賃貸しアパートの構造は、玄関の共有部分をはさんで、完全に左右対称だと聞いている。やや広めの玄関(家主が自慢できる唯一の長所)から、右もしくは左に収納用棚つきの廊下、突き当たりがトイレ。入ってすぐの窓側が(つい今し方、彼女が立ち入り調査したばかり)約十畳の板の間、保根はベッドを持ち込んで寝室にしてしまっているが、彼女は月賦でそろえたフィンランド製の家具とイタリー製の小物で演出し、居間兼客間、兼食堂に使っている。もっとも実際に客を迎えたことは、この数年間に十回を越えてはいないはずだ。来客の予定があるたびに、なぜか異変が起きるので憶えている。あるときはソファのクッションの裏側が黒い黴の培養基になり、別のときにはアール・ヌーボー風の大げさな花瓶に鼠が巣をつくり、親鼠は逃げてくれたが赤剥けの子鼠が五匹、瓶の底でうごめいていた。保健所に電話してなんとか引き取ってもらったものの、脳味噌じゅうの砂鉄が逆立つほどの嫌味をあびせられた。以来、仕事に使う無線装置も寝室に移動したし、書類の整理と保管以外にはまず使ったことがない。食事も隣の台所で立ち食い、あるいは立ち飲みでさっさと済ませてしまう。
さて、その台所の奥が、風呂場兼洗面所。廊下をへだてて、奥の八畳間。いま小文字並子を立ちすくませている、塵芥処理場のコピー。
彼女自身はずっと寝室に使っていて、仕事もすれば、テレビも観るといった具合で使用頻度が高く、しっくり膚の一部になりきっている馴染みぶかい部屋。それだけに、この無秩序を形容する言葉もすぐには浮かんでくれそうにない。もちろん世間には変わり者も珍しくはない。こっそり片隅から世間を窺っている拗ね者が、ネクタイを締め、髪を撫でつけて地下鉄の階段を駆けあがる。路上廃物専門の蒐集家が、証券会社の守衛室で、監視用テレビ・カメラの受像機をじっと覗きこんでいる。
たとえばどこか田舎の郵便配達夫の話。まだスクーターが普及せず、自転車で配達にまわっていた時代のことである。仕事の途中で気に入った小石を拾う趣味にとりつかれた。あらぬ噂をたてられないよう自制して、一日五個以内にとどめることにした。それでもやがて村外れに、貯蔵用の空き地を購入しなければならないほどの量になった。城の建設でもする気かと村民たちからからかわれた。そのからかいに従って、定年後はその石で城の建設をすることにした。十年かけて童話ふうの、あるいはディズニーランドふうの城が完成した。城には廊下も階段もあるのに、部屋がなかった。住むための城ではなく、ただ見るための城だったのだ。老いた元郵便配達夫は庭にテントを張って寝起きし、ひたすら城を眺めるだけの充足の日々を送った。いよいよ臨終を迎えたとき、肉親知人にたいして深く詫びたそうだ。なにを詫びたのかはけっきょく誰にも理解できなかったようだ。
小文字並子は、やっと肩の緊張をぬき、呼吸数も平常なみにもどした。外見から予想したほど、臭気がひどくないのに気付いたからだ。ドアから見て、右手にやや大きめの押し入れがある。彼女は上下の仕切り板を取りはらい、無線機と速記用ワープロを持ち込んで居心地のいい巣の中の巣に改造してしまった。もし空飛ぶ〈スプーン曲げ〉が身を潜めているとしたら、そこしかありえない。ラッカー塗装の板戸が半開きになっている。下段はがらくたで埋まり、溢れださんばかりだ。潜伏場所としては、上段の奥が最有力である。しかしここからでは隅っこまでは目が届かない。
「いるの、いないの? 出てきてよ、いるんでしょう?」
三歩も踏み込めば確認できるのだが、床を埋めつくした廃品のルールが読み切れず、蒐集家の意思を踏みにじってしまうことへの遠慮もあって、ためらってしまう。珍しいガラス瓶。錆びかけた工具類。特大の鋲、三個。イカ船用の大型電球(使用可能かどうかは不明)。頭に栓がついた招き猫(焼酎の瓶?)。虹色に染め分けた毛ばたき。埃にまみれ、弦が切れたままのアーチェリー。崩壊寸前のルービック・キューブ。等々……
それに簡単には廃品と言い切ってしまえない物もある。たとえば自転車のベル、何十個も積み上げられているのは、盗品の証拠だろう。高圧線用の大型碍子、売り物ではありえないし、工事場から無断借用してきたとしか考えられない新品だ。解体された何台分もの自動車エンジンの部品。奇怪に入り組んだ、精密機械梱包用の発泡スチロールを積み上げたコーナー。新聞かテレビかで報道されたことがある、アメリカで大流行らしい怪物の仮面数個。トイレット・ペーパーの芯、たぶん五十本以上はありそうだ。実物そっくりに作られた、蛇や鼠など小動物のコレクション。
自動車部品のわきに、がっちりした作業台があり、小型万能工作機が据えられている。小文字は発酵研の所員だけあって、研究所宛てのダイレクトメールや、定期購読の化学雑誌の広告などで、小型万能工作機がけっこう値段も高く、めったに廃品として処理されたりするものでないことを知っていた。それにこの工作機は、手入れが行き届いていて、現役で活躍中であることは間違いない。作業台の隣に、がっちりと仕上がった脚つきのチェス盤が据えられている。素材は分からないが、チャコールグレイに塗装された金属板と、磨き上げられた銅板の格子が、素人の手作業とは思えない仕上がりを見せている。いま工作中の製品は、そのチェス盤で使うための駒らしい。駒はまだ三つしか完成していない。そのうちの二個が真鍮製で、あとの一個がアルミ合金だ。どれもポーンらしい単純な形だが、ボルトとナットに点火プラグの部分らしいものを組み合わせた、なかなかの作品だ。気が利いているし、刺激的で興奮を誘うものがある。
保根という男、体温が高そうだ。ほどよく発酵した堆肥の熱。見掛けによらずたのしい人物かもしれないぞ。
押し入れの板戸の開閉を邪魔しているのは、大型の硬化プラスチック製ケースである。鮮やかな黄色、たぶんプロテックスのカメラバッグだ。そこから板戸に添って、大小のカメラバッグが横並びに並んでいる。黒の中型は本皮らしい。小型のアルミケース、赤皮で縁取りした帆布製のショルダーバッグ、それらの上に雑然と並べられた一眼レフ四台、それぞれ違ったレンズが付けられている。他に6×6の二眼レフ、コンパクト・カメラ、三脚などが勝手放題の姿勢をとり、全体がうっすらと埃にまぶされている。しかし、この乱雑さは、探す面倒を省くための、使用頻度にあわせた自然体配列かもしれないのだ。
爪先立ちで、右前方に、おずおずと足を踏み入れる。簡単にクリップ留めした、カタログ雑誌からの切り抜きらしいもの。滑りやすいが、すくなくも完全な平面なので、姿勢は安定する。撮影用の小型照明器具がセットされていて、支柱の役目もしてくれる。白黒二本を縒り合わせた古風なコード。スイッチを入れてみた。
強力なスポット光線が、押し入れめがけて注ぎ込まれる。足場をととのえ、前かがみになると、上段の奥までなんとか覗きこめた。簡易暗室らしい。小型引き伸ばし機、四つ切り用現像バット、暗室ランプ、夜光時計、ビーカーに攪拌棒、大小の着色ポリ容器に、流し場がわりのポリバケツ。黒と赤の二枚重ねのカーテンが、裾をからげて天井に固定してある。
小文字並子のこの観察力が、素人ばなれしすぎているからと言って、非難はしないでほしい。知ってしまえば、なんということもない。勤務先(通りをへだてた発酵研)の上司が、やはり大の写真マニアで、月に一度のヌード撮影を口実に、高額のモデル料が彼女に支払われる。予定どおりなら、たぶん明日か明後日、呼び出しがかかるはずだ。給与外手当てとしては悪くない。自虐的な気分を棚上げにすれば、自分の裸が、相手の支払い限度額を確実にこえて魅力を発揮していることに、ほくそ笑みたい気持ちがまったくなかったといえば嘘になる。
いずれただの男に、納得のいく人格など期待できるわけがない。息を詰めて男性不信をくぐり抜けてきた小文字並子にとって、男のヌード覗きなんか、無邪気なものである。いずれ持たざる者の代償行為にすぎないのだ。男性ホルモンというのは、排ガスの無駄使いで作動している、ひどく原始的なエンジンらしい。浄化装置なしのマフラーから噴出する汚染物質を、男らしさとして誇示しているにすぎないのだ。しかも許せないのは、そのエンジンの浪費を素直に認めようとせず、処方にしたがって服用している必須アミノ酸みたいにふるまって見せるあの偽善だ。
「そろそろダイエットを検討してみてもいい頃合いじゃないか?」
処方せんの数値を検討するような口振りで、ファインダー越しに彼女の裸を論評したりする。冗談じゃない、蒸籠で蒸したての田舎饅頭みたいな張りとふくらみが彼女の魅力なのだ。眼も丸く、鼻の穴も丸く、顔も丸く、胴も丸く、だから眼鏡もロック歌手ふうの丸い婆ちゃんスタイルで合わせている。ただ脚だけはすんなりと形がよく、その定規とコンパスの組み合わせが魅力で、いつも注目の的だった。すくなくもボーイフレンドに事欠いた憶えはない。にもかかわらず、その後はげしい男不信におちいったのは、彼女を取りまく男の包囲網が厚すぎて見通しがわるく、くわえて強度の近視のため、つい選択に適切を欠いていたせいもあるだろう。密接距離に入ったとたんに見せる男の変質は、いつも予想を越えていた。
「モデル・クラブの電話番号、調べましょうか?」
「そういう意味じゃない、誤解だよ、分っているだろ」
無視してバスローブを羽織ってしまう。宥めようと駆け寄った上司の下腹を薙ぎ払ってやった。しぶとい手応えがあり、相手は床にはいつくばって、大げさにうめきつづける。ざまみろだ。でもこんな程度で退き下がってやるつもりはない。そのうち、とことん追い詰めてやるよ。
報復の機会にそなえて、暗室作業も手伝うことにした。証拠収集のためにも、写真のチェックをしておいたほうがいい。技術の習得はいずれ役に立つものだ。現にこうして、押し入れ上段の乱雑さの意味を即座に理解できたのも、写真について多少の知識があったおかげだろう。さいわい写真好きだけで、自分の上司と保根を似た者同士とみなすほど狭量ではなかった。写真好きはたぶん万人のなかに内在している衝動じゃないかな。犬が電柱に小便をかけてまわる衝動とも通ずるものがある。縄張りに執着する気持ちとも関係がありそうだ。飢餓感にさいなまれている人間ほど、代償行為としての写真に走る。彼女の上司が、男性ホルモンの不完全燃焼による写真マニアだとしたら、保根の場合はどうなのだろう?
壁の隙間を埋めているミニ作品群。さっきから気にはなっていたが、廃品回収業者の仕事場の盆栽みたいなこの混乱のなかでは、黴か雨漏りなみの影の薄さだった。壁の大半は床から這い上がった廃物に覆われ、その余白が作品の展示場になっているのだ。しかも彼女の上司のアルバムの大半が四つ切りで占められているのに較べ、このギャラリーの壁面を飾っているのは、大きくてせいぜいキャビネどまり。あるコーナーなどは、35ミリからの密着だけで構成されているという徹底ぶりだ。はっきりはしないが、万事にわたって微小なものにしか魅力を感じられない、異常心理について読んだ記憶がある。その類なのだろうか? ゴム紐で吊った拡大鏡が添えられていた。近眼で乱視の彼女には、好意的な押しボタン式交通信号に感じられた。
ヌード写真は一枚もない。ほっとした。あるのはスクラップの山、煉瓦状にプレスされたアルミ缶の細部、火事で炭化した家具つきの部屋、積み上げられた使い捨ての注射器、夜明けの繁華街で鼠のはらわたを引きずり出している鼠、犬の糞のなかでうごめいている銀蝿の蛆、雑草の間で雨にうたれて縮緬皺になったポルノ雑誌……これは何だろう?……氷嚢とはちがう、灌木の枝に引っ掛かっている巨大なゴムの袋、その先端に溜っている混濁した液体、牛乳とは似て非なるもの、使用済みのコンドームらしい……
この悪趣味でも、ヌードよりはましだと考えるべきかどうか、小文字並子もさすがに首を傾げてしまう。仔細にみると、使用済みのコンドームに劣らず珍妙な被写体が、幅をきかせているのである。ありきたりの名刺判のグループなので、つい見過ごしがちだが、三十枚近くのほとんどにおなじ被写体が扱われている。相当の執心があったにちがいない。断言は出来ないが(後で聞いてみよう)蛙らしいものの干物と、蛇らしいものの頭蓋骨だ。蛙は白を背景に、頭蓋骨は黒を背景に、それぞれフレームいっぱいに焼き付けられている。背景の影を消し、しかも被写体の立体感をきわだたせた照明技術は、いい腕前だ。それにしてもグロテスクな趣味だ。彼女はねとねとした感触が苦手だった。とくに爬虫類や両棲類のたぐいは、想像しただけで全身の末端にしびれが走る。ただし干物になると、さすがの蛙も皮膚の粘液を失い、揉んだ和紙みたいにシワシワになり、しかも頭だけは収縮しないので幼児に似た愛敬さえ感じさせる。バクテリアの侵食をうけた形跡がないところをみると、人工的な干物だろうか。そう言えばいつか横浜の中華街の材料店で見掛けたような気がしないでもない。たぶん食用蛙なのだ。食用と思ったとたん、不気味さが半減した。納豆にしても、とろろ芋にしても、むしろ好物のほうである。皮膚感覚と味蕾感覚とでは逆数関係にあるのかもしれない。
頭蓋骨のほうは、ずっと安全だ。乾ききっているから、皮膚感覚がおびやかされる懸念はない。表情もおだやかで、ほとんど円にちかい眼窩のせいだろう、まったく攻撃性を感じさせないのだ。鼻腔も笑った受け口ふうで、道化てみえる。本物の口のほうはたるみかかった二重顎の柔和な線、ただしその顎を支える骨が鋭く後方に突き出していて、付着していた筋肉の太さを想像させはするが、正面像だとせいぜい漫画の兎の耳だ。あくまでも剽軽で柔和な印象。本当に蛇の頭だろうか? ラッコかオットセイのような、もともと温厚な動物かもしれない。そう言えば歯が見あたらない。咀嚼を必要としない餌はプランクトンくらいのものだ。長須鯨以外に、プランクトンを常食にしている動物なんていたっけ?
「誰も、何処にも、隠れていないよ、残念だけど……」
いきなり声をかけられ、悲鳴をあげてしまった。悲鳴は大げさかな? しかし酸素の補充のために、肺が意思に反して急膨張したことは事実だ。
「なんなの、この部屋?」
「小文字さんて、もしかしたら京都の人じゃないの。字に書いてみると、優雅な感じだし、名門の出じゃないのかな」
「父親は、たまにそんなこと漏らしていたけど、でも母親に言わせると、大違い……京都でなくても、あちこちにあるでしょう、大文字焼き……どこかの大文字焼きの神社の境内に店を出させてもらっていた、ドンドン焼なんだって……大文字焼きにちなんで、小文字焼。茶店の屋号ってわけ」
「面白いじゃない、ホネよりは立派さ……ちょっと後ろを見てごらんよ」
半開きのドアのせいで、陰になっていた背後の壁際。一瞬衝撃が走る。人間の骸骨が三体、泰西名画を思わせるポーズで立っている。これも廃品の一種だと言えばそれまでだが、廃品のなかの廃品、さすがに王者の貫禄だ。
「本物かと思った」
「よく出来ているよね、イギリス製なんだ。ただの紙細工だけど、本物そっくりだろ、ちゃんとした医学生用の教材なんだってさ。組み立てながら、感心したな、本物の骨も材料は出来るだけ薄くして……軽いほうが何かと有利だろ……構造で堅牢さを確保しているんだ」
「保根さんの名前にちなんで?」
「まあね……出来れば部屋じゅう、骨づくしでいきたかったけど……本物の骨は、あいにく、これっきり……」
三体の骨格模型のなかの、中央の一体の眼窩から、親指大の白い球状のものをつまみだした。
「それ、あの写真のモデル? なんなの? もっと大きな、ラッコの頭かなにかだと思っていたけど……」
「種をあかせば、スッポン……接写したんだ。いい腕してるだろ」
「一緒に写っている蛙は?」
「これのことかな……」右側の、やや仰向きかげんにしている骸骨の骨盤から、捻り黒飴みたいなものを取りだして、「カジカ蛙の干物だよ。目玉がくるっとしていて、可愛いだろ。蛙はぼくの綽名なんだ」
小文字は片腕をあげ、首をかしげている三番めの標本を顎でしゃくった。
「そっちの彼は? やはり何か、しのばせているの?」
「彼じゃない、彼女」
「三人とも?」
「パリスの審判のつもりでポーズをとらせたつもりだけどな。知っているよね、パリスの審判?」
「知らない」
「三人の女神の、美人コンテスト。ミスの栄冠に輝いたのが、スッポンをくわえている中央のヴィーナスさ。あんがい世界で最初のミス・コンテストかもしれないね。古いところでは、たしかクラーナハ、新しいところではルノアールが描いているよ。ぼくも、せっかく骨が三体そろったから……」
「美女も死んでしまえば、ただの骨ってわけか……」
「興味ないね、教訓なんか……そうっと上から想像の肉をかぶせて、面白がっているだけ……オッパイとかオシリとか……やってみてごらんよ、面白いから……ヨーロッパの基準だと、理想の骨格標本はインド人の少年なんだってね。何年か前までは、ヨーロッパ中の大学がインドから輸入していたらしいんだ。でも、そのうち、行方不明になる男の子の数が増えはじめて……」
「そんなひどい……」
「本当なんだ。政府としても無視できなくなって、人骨輸出禁止令をだした。標本不足のあげくに開発されたのが……」
「でも、さっき女って言ったじゃない?」
「違いは骨盤だけなんだ。製作者の好みで、どっちにでも出来るように、両方の型紙がセットされているのさ。欲しけりゃあげようか、男の骨盤、どこかに紛れ込んでいるはずだけど……」
「なんて散らかりよう……」
「気が休まるんだ」
「臭わないし、蝿がいないからいいけど……」
「見なかった? いつだったか、ニュース番組でやっていた、フィリッピンの郊外埋立地に棲み着いてしまった連中のこと……警察がいくら追い払っても、すぐまた戻って来てしまうらしい……赤い百足みたいな虫ね、あれだって釣りの餌としてちゃんと買手がつくらしいよ……」
「事情が違うんじゃない、この部屋とは」
「ちらかし放題のほうが、落ち着くんだ。でも、こんなふうにもろに覗かれてしまうと、羞恥心が刺激されるな」
「わたしだって、とくにきれい好きってわけじゃないけど……」
「肋骨のかわりに、水族館みたいなガラスを嵌めこまれた感じかな……裏返しにされて、はらわたが剥きだしになったイカかタコ……温泉土産の塩辛……そう、塩辛だな、半分腐りかけた旨味っていうか……洗い晒したシャツみたいな、着心地のよさだね……」
「本当のこと教えてよ。さっき空を飛んでいた人、誰だったの?」
「言ったじゃないか、弟だって」
「たしかに命中の手応えがあった……だから、左肩のあたりに傷跡が残っているはずだけど……でも、空を飛ぶくらいの超能力者なら、そんな傷口くらいけろっと治ってしまうかもしれないし……」
「疑っているの、飛んでいたのが、ぼくかもしれないって……」
「消去法。窓にはちゃんと、内側からロックしてあったし……」
「光栄だね。ぼくの正体はいま君が見ているとおりの、塵芥の山さ。発酵寸前の、ごった煮の……」
「発酵のこと、そんな使いかたしないほうがいいと思うな。バイオは現代の最先端技術なんだから」とつぜん空気銃を構えなおし、膝のあたりに狙いをつけ、「実験してみてもいい?」
「なにを?」
「怪我させても、すぐに治るかどうか」
「冗談じゃない、治るわけないだろ。弟の傷から摘出した弾、証拠物件としてちゃんと保管してあるんだ。警察に訴え出たら、立派な傷害罪だよ」
「久米の仙人の話、知ってる? 覗きの罪で神通力をうしなって、墜落した仙人」
「何が言いたいのさ?」
「保根さんが、もし久米の仙人なら、神通力を取り戻してあげてもいい」
「どうやって」
「覗いた相手の女と、肉体関係を結んでしまえば赦されるんだって」
「馬鹿ばかしい」
「今昔物語、読んだことないんでしょ……」水申で聞く、冬の蟋蟀《こおろぎ》みたいな音。小文字並子がすばやく腕時計に眼を走らせる。スイッチを押すと、蟋蟀がなきやんだ。「ロンドンからの最終通信の時間。バイオ関係の特許速報を流す研究所と契約しているんだ、うっかり聞き漏らして、会社に損をかけたりしたら、一発でボーナス・カット。一時間ほどで戻るから、考えておいてね、真面目な話……わたし求婚するつもり、あの飛んでいた人が見つかったら……断られて、もともとでしょ、真剣なんだ、籍なんか入れてもらう必要ないし、式も披露宴もなしでいい……ああいう人を、ずうっと待ち焦がれていたんだ……」
ウォッカを瓶ごとラッパ飲みにした。静かに飲み下し、手の甲で唇をぬぐい、凹レンズの奥で微笑んだ。まとまりの悪い、しかし個性的な魅力が充実している。もちろんこのフェロモン作用が、八割以上願望をまじえた主観にすぎないくらい、保根もじゅうぶんに心得ていた。
「飛んでいたのが、ぼくだとしても?」
「もちろん」
サイドテーブルの上の、弟との間に交わされるはずだった委任状、しかし署名も捺印もしそびれたままだから、ただの白紙にすぎない。その上に小文字が七桁の数字を書き込んだ。
「電話番号?」
頷いて、そばに転がっていた目の粗い金属ボールを押さえにした。いかにも廃品趣味に似つかわしい、ただのペーパー・ウェイトだと思ったらしい。じつは弟が変形させたスプーンだと種明かしするのは、もっと先にしたほうが穏当だろう。
8 鴉
共用ホールを横切りドアを閉める直前、振り向いた小文字並子の表情に、保根は解読を求める暗号めいたものを読み取った。脳細胞がいっせいに過給装置を作動させ、酸欠による酩酊状態におそわれる。しばらくじっと立ちつくす。共用ホールの焦げ茶のタイルの意外な艶。壁に立て掛けた、変速機つきの自転車、シルバー・メタリックの細身の車体に、オレンジの縁取りが入ったチャコール・グレイのサドル。その微妙なカーブに妖しい胸騒ぎをおぼえた。
ホトホト、ホトホト、ホットホト……夢想中に舵がきかなくなったとき、意味なく口をついて出る呪文。通常は困惑、もしくは愛想をつかせたときにしか使い道のない副詞のはずだが、保根の発声器官を通過したとたん、なぜか猥褻な響きをおびてくるのだ。たしかに辞書にもこう出ている。
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ほと[陰]女性の陰部。女陰。「この子を生みしに困りて、み陰|炙《や》かえて……」
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前の道を小型トラックとワンボックスの〈飯屋〉の配送車が続けて通過した。発酵研の屋根が、涙腺に染みるほど青い輪郭の空になぞられ、鳥の糞まで浮かびあがって見える。もうそんな時間なのだ。一時間後には彼女が仕事を終え、コーヒーを飲みに寄ってくれないとも限らない。せめてそれまでの間、熟睡しておきたい。予報どおりの晴天が望めそうだし、睡眠不足に空の眩しさはスモッグ以上に有害だから。
彼女にかぎらず、弟も戻ってこないとは限らない。空が完全に明るくなってしまえば、空中飛行は自殺行為だが、あと二、三十分はなんとか誤魔化しもきくだろう。念のために窓の回転ロックも外しておくことにする。ホトホト、ホトホト、ホットホト……テーブルの引き出しから、例の空気銃の弾を保管しておいた小物分類用のビニール袋を取り出し、台所の冷蔵庫の卵入れの端におさめ、ついでに生卵一個と総合ビタミン剤を牛乳で流し込んだ。ズボンのベルトにはさんだガス銃を、椅子の背に掛けたワイシャツの裾の専用ポケットに戻し、読書用スタンドの明かりを消す。窓の青が澄方向にスペクトルの幅を増す。新聞にかぎらず夜明けの配達人はみんな駆け足だ。
睡眠時間を記録確認するため、クロノグラフのストップウォッチ用ボタンを押す。ベッドめがけて倒れ込む。潰された蛙がシーツに貼りつく。強く眼を閉じる。くねくね光の紐が闇に遊泳しはじめる。遺伝子の顕微鏡写真みたいだ。
超ひも理論……物質の根源を解明する最終理論……素粒子は粒子でなくて紐なんだとさ……自殺にも他殺にも、もっとも利用度の高い古典的凶器……
しめしめ、背骨が曲りはじめたぞ。催眠兆候の第一段階。頭が膝のあいだにめり込んでいく。背骨の湾曲がつづき、やがて保根は球体になる。一抱えくらいの大きさで、ランニングシャツの皺と輪郭が、マニラ上空あたりから俯瞰した陸地の図形を思いださせる。便器の排水口みたいな穴があいている。穴の配列には法則がない。パチンコ台のようでもあり、ゴルフ場のようでもある。北極点に指を添え、軽く捻っただけで、慣性のきいた重々しい回転運動が始まった。保根には自分が回転しているのか、回転している地球儀の観察者なのか、判別しかねた。穴はボリビア付近にまで均等にちらばっている。
この穴が、もし女性生殖器だとしたら、受入れ可能な男は何人までか、緻密に計算しておく必要がある。その計算が曖昧だと、地球が生産の場であることを止め、占有権確保のための殺しあいの場になりかねない。地球の自転を加速して、遠心力で余剰の雄を次々撥ね飛ばしてしまうしか、和解の時代は来ないのかもしれない。とりあえずは、毛虱みたいに鉤爪を研ぎすまし、がむしゃらにしがみつくことだけに専念して……ホトホト、ホトホト、ホットホト……
なんとなく勃起の自覚。うまく眠れたのかな?
ここはたぶん、夢と現実のあいだのゼラチン状の隔壁の途中だ。何かに妨害されて、トンネルの途中で立ち往生させられてしまったらしい。そう言えば、昨日も、一昨日も、きまって明けがた似たような経験をした。不愉快なリズム、というよりリズムが狂った躓きの連続音。なんだ? また野良猫が、窓の軒と庇のあいだでジョギングでもはじめたのか?
どのみち寝てはいられない。方角を確認するため、上半身を起こしてみた。わが愛する廃品貯蔵庫の中だろうか? あの雑居房の中になら、手足をばたつかせる無機物くらいいても不思議はないだろう。違う。むしろトイレのほうが怪しい。何かがトイレの窓枠で背中を掻いているのだ。まさか弟がそんなことをするはずはないから、猫、さもなければムササビか、蝙蝠? 廊下に出てみた。突き当たりに、水性艶消しペイントのアイボリー色のドア。横幅一杯のカレンダー。いぜんダーツ競技に凝っていたころ、命中しそこなった矢でつけた傷隠しだ。男好きのする女流画家の絵だったので、つい買ってしまったが、線も色彩も自己顕示の悲鳴が目立ち、奥まったトイレのドアにはけたたましすぎる。しかも三枚一組の、最後の一枚――つまり九月から十二月まで――ということは、いま七月だから、去年の冬のカレンダーだということになる。そのうち自作の写真に貼りかえよう。空焚きして半分溶けた薬罐の写真。あれがいい。
びくびくものでドアを開けてみた。
さいわいガラスが鉄線入りのダイヤカットで、透過率が悪い。こちらから相手の正体が見分けられないように、向こうも保根の表情はおろか動作の識別も困難なはずだ。なんとか恐怖に耐えて、踏みとどまる。数秒間の間をおいたあと、相手は何事もなかったように、ふたたび作業を開始する。
右の窓枠に添って、何かが滑り落る。ガラスをとめるパテの破片らしい。剥離したあとに一センチ五ミリほどの痕跡。ガラス切りでは手に負えそうにないので、パテを削ってガラスごと取り外すつもり? それも保根に気付かれたことを承知のうえで、平然と仕事を続行するのだから、大胆という以上に攻撃的だ。手荒なことを楽しみながらやってのけられる手合いらしい。左側で剥離がはじまった。すでにパテの輪郭が直線ではなくなっている。錆びた刃こぼれ……地中で半世紀はたった、元日本兵のゴボウ剣。
よろよろと、思考が動きだす。こんな芸当は人間には無理だ。年季の入った鳶職にだって無理だろう。鳥だろうか? 鳥類だとしたら、鴉か、キツツキだな。でもキツツキが木を穿つのは採餌衝動だ。パテのような鉱物質がキツツキの食欲を刺激するわけがない。消去法では悪食でならす鴉が残る。でもパテの主成分はたしか炭酸石灰だ。いくら鴉といえども消化できっこない。家宅侵入をくわだてる鴉? 身の毛がよだつよ、保根はもともと鳥類が苦手なんだ。
なにも凄みのある鴉にかぎらない、カナリヤだって好きじゃない。鳥類は一般に体温が高いので、羽毛の隙間がダニの巣になる。おかげでさまざまな伝染病の媒介役を勤めることになる。そのうえ鴉は不吉だ。あの世への案内鳥、死の告知鳥……
反射的にゴムホースを振り上げていた。さっきの倍の速度で、窓枠に添って走らせてやる。勢いに圧倒されてか、パテ削りが中断された。意外に量感のある影が乗り出してくる。いっこうに白旗を掲げようとしない、恐いもの知らずの正体を見定めるつもりらしい。夜空はすでに見えない黒から、見える黒へと変化し、ダイヤカットのプリズムの一辺は、さらに澄色へとスペクトルを広げはじめている。パテ削りの作業員が身動きするたびに、ギザギザの輪郭が激しく分離し、結合し、いやでも総体を浮かび上がらせてしまう。
やっぱり鴉だった。
巨大な嘴、充血した赤目、磨きあげられた鋼鉄色の翼、盛り上がった肩、いかにも猛禽らしい瘤だらけの頭……
そっくりな影がもう一羽、斜め左下から割り込んできた。二羽そろうと、気前のいい桃の缶詰みたいにぎゅうぎゅう詰めになる。二羽が顔を見合わせ、声量のある喉で咳込んだ。いや、笑ったのかもしれない。噛の割れ目に、紅生姜色の舌がちらついた。
忍び足のリニアモーター・カー気分で、居間めがけて滑走する。晴れてガス銃にお出ましを願える時がきたようだ。学校教師らしからぬ(知性の欠如した)買い物だと、内心忸怩たるものもあったのだが、これで胸を張って釈明もできると言うものだ。攻撃に優る防御なし、あるいは攻撃こそ最大の防御。ワイシャツの裾につけたポケットごと、ガス銃を持ち上げる。警告するように窓が鳴った。
風が強まった。向かいの発酵研の塀から突き出している無花果の葉がもがいている。この風速だと、トイレの窓からの逆風もかなりだろう。鴉退治どころか、こっちが先に至近距離のガスを浴びる可能性だってなくはない。乱気流を避け、風下に向けて発射するのでなければガス銃の使用は要注意なのだ。
思いついた。空気銃だ。あれなら風の影響を考慮せずにすむ。手入れが行き届いた小文字並子の連発式空気銃。
読書用スタンドのスイッチを入れ、唾をつけた指で、電話帳のページを掻きまぜる。掻きまぜながら、顔の裏でもう一つの顔が、ぺろりと舌を出していた。棚ぼたもいいとこである。電話をするための、もっともらしい口実を与えてくれた鴉たちに、内心ひそかに感謝の念を捧げていたようだ。
9 陰謀の成立
不自然でしかも、わざとらしい姿勢。仕事机に大股びらきにした両脚、桃太郎ふうに束ねた頭を電動調節式の背凭れに深々とあずけ、小文字並子は外から自分を覗いているもう一人の自分になって、空想する。沼の青藻に浮かんでいる溶解寸前のヌード写真……
もしいま空飛ぶ男があらわれたとしても、こんどは気付かないふりしてやろう。心ゆくまで覗かせてやる。矛盾しているようだが、空気銃は仕事机の脇、すぐ手が届くところに立て掛けてある。覗いたのが〈彼〉でない限り、容赦せずに引き金をひくつもりだから。首から乳房にかけて、風呂上がりみたいに汗ばんでいる。
ひらいた股のあいだの無線受信機は、存在感たっぷりの本格的なものである。彼女を圧倒するほどではないにしても、対等の重さは感じられる。題名を『電波と戯れる女』にするか『電波に犯される女』にするかは、観察者の趣味で決めればいい。
電波の発信地点はどこかチューリッヒのあたりらしい。特許速報専門のCOK局の67B。月に三度周波数が変更され、変更の都度会員だけに知らせてくれる会費制の専門局で、世界各国の特許庁で公示された新情報が提供される。なかでも67Bは競争の激しいバイオ関係が専門で、関係者には欠かすことの出来ない情報源だ。もっとも加入費が高額であるうえ、会員数に制限がもうけられていて、新規の登録はほとんど不可能らしい。小文字並子の勤務先である発酵研みたいな、微々たる地元の葡萄栽培農家が出資しあって設立した、看板だけの研究所が、どんな手づるでそんな希少価値の高い会員権を入手できたのだろうか?
わが飛ぶ男の運命とも、いずれ関連をもってきそうな情況なので、一応の経緯は報告しておいたほうがよさそうだ。すでに複数の人間が、受話器のまえで電話番号帳の「こ」の字の欄を開き、プッシュ・ボタンに指を置く決心が熟してくるのを待ちうけているところである。そうのんびりもしていられない。
二年ほど前に遡る。オメガノン製薬という泡沫会社の株がとつぜん暴騰した。仕手株あつかいされる筋合いはなかったし、会社の経営陣――といっても総勢わずか三人にすぎないが――は極度の狼狽におちいった。考えられるのは、ひそかに株を買い進め、ぎりぎりまで値を釣り上げたところで姿を現し買戻しを要求する、例の合法的ゆすり屋の介在だ。ただしポーカー・ゲーム的な駆け引きが必要なので、攻撃側には長期にわたる実弾の補給能力、応戦する側には最終買い戻し価額に見合った企業資産が前提になる。相手方の能力はともかく、何かとんでもない誤解からオメガノンが過大評価されたらしいことは、昵懇にしていた業界紙の記者もすんなりと同意してくれた。業務内容を見たって、とても仕手株あつかいを受ける柄じゃない。かなり特殊な生薬の原料輸入が中心で、しぜん顧客も安定しているかわりに限られている。東南アジアや中南米産の、昆虫の蛹の内臓、巨大な黴の胞子、人面ひとで、七色百足の爪の粉、深海魚の顎につくミミズほどもある寄生虫、食用去勢犬の睾丸……つまりはほとんど実効が認められない催淫剤の類ばかりだ。
しかし座視して待つというわけにもいかず、社長が私財をなげうってでも防戦に打って出る構えを見せた。その挑発がかえって火に油をそそぐ結果になったのかもしれない。株価は二次曲線をえがいてなおも急上昇を続けた。あいにく交渉相手はいっこうに影をちらつかせる気配もみせず、そのまま会社側の備蓄も底をつく。株価はいっきょに暴落に転じ、幕切れは型どおりの破産宣告の場。
弱小の会社にとって、こうした経緯は夜半の流星なみにありふれた日常茶飯事にすぎない。いずれ内部情報に詳しいものが仕組んだ計画倒産に決まっているさ。泣きをみるのは欲にまみれた相場師と、ごく少数の運の悪い犠牲者だけで、仕掛け人はたんまり懐を肥やすのだ。同情は無用、暴力団がらみの競馬や野球などの八百長に較べると、はるかに合法的だし、頭脳的でさえある。
それにしても手際がよすぎた。際どい、違反すれすれのトリックが使われたのかもしれない。ある業界紙の記者が小判鮫の習性で、 ただ手口の巧妙さに首を傾げる者もいないではなかった。たとえばある業界紙の記者。あわよくばゆすりのネタを手に入れて、多少はおこぼれにあずかろうという魂胆。どう計算したってこの株の上げ幅は大きすぎる。普通の仕手株の枠を越えている。記者はオメガノン元幹部の身辺を執拗に嗅ぎまわりはじめた。普通ならこの神経戦だけでも辟易して、金一封也を包んでよこすのが常識なのだ。ところが金一封のかわりに、とんでもない面倒を背負わされることになる。元社長が飛び込み自殺をしでかしたのだ。
罪状の発覚におびえたのだろうか? 記者は自責の念にかられ、 べつに罪状の発覚を恐れたわけではなく、むしろ元社長の無実を ろ問題なのは、経営陣側に一人として疚しさを感じている者がいなかったことだろう。最初は疑心暗鬼で、互いに腹の探り合いを重ねていたが、社長の飛び込み自殺ですべてが しかしよく考えてみれば、警察が動き出しているわけでもないのに、たんまり稼いだはずの悪党が、業界紙の記者の追及くらいで自殺するわけがない。記者はもちろん、内心疑心暗鬼だった常務二人も、途方に暮れるしかなかったわけだ。 有望な新規 新製品 バイオ関連商品 業界紙の記者が周囲を嗅ぎまわり 業界紙に老人病学会で発表された 納豆菌から分離精製した『ネバリノン』物質が、特許申請され、話題になっていると どうしても詳細を知りたければ、一昨年九月十三日の朝刊に当たってみてほしい。
倒産後、オメガノン製薬の株券その他の紙屑のなかから、管財人も気付かぬうちに一通の書類が消えていた。それが問題の67Bの会員権だったというわけだ。ほかにも姿をくらましたものがあった。庶務課長とその秘書である。すでに倒産した後だったし、わざわざ二人の失踪に注目したものはいなかったようだ。こういう場合、一般社員に退職金でごねられたりするよりは、いさぎよく消えてもらったほうがずっと有り難い。社長はもちろん幹部たちも一人として庶務課長とその秘書の正体に気付いたものはいなかったのだ。株の暴騰が業界紙に流された怪情報 幹部は誰一人、『兜町を震撼させた三日間』くらいの見出しを期待していたのかもしれないが、犯罪と虚栄を一つ皿に盛るわけにはいかないのだ。
当の課長の氏名は、剣呑悠優……笑ってはいけない、これも一度耳にしたら忘れようがない、名刺節約型の仲間である。それから半月後、彼は氷雨発酵研の事務局長として再登場する。秘書にはそのまま小文字並子を伴っていたと言えば、それ以上の説明は蛇足というべきだろう。
ヘッドホーンをつけた小文字の素足の間で、無線機のチューニング・ランプがゆらいでいる。発光ダイオードの冷ややかな緑。
緑色を人間関係に当てはめれば、憎悪、もしくは嫌悪の感情。だから最近、子供たちの間で流行っている怪物人形は、たいてい緑色だ。SF映画に出てくる宇宙人にも緑色が多い。植物だと色が好まれるのに、緑色の動物は不気味である。いま彼女が思い浮かべている剣呑悠優のイメージには、いつにない緑っぽさが感じられる。なぜだろう? もともと好意は 彼女からの報告を受けるためにそろそろ起きはじめる頃だろう。 たしかに剣呑悠優の才能には、目を見張るものがある。華麗な知能犯の首謀者として、一目置くのにやぶさかでない。だが67B傍受の担当者として、小文字並子にもそれなりのプライドがあった。早口の専門英語を聞き分け、とっさに情報としての価値を判別し、速記用のワープロに叩きこむ。勘と熟練と知識の三拍子が揃って、はじめて一人前になれるのだ。剣呑の見事な才能にしたって、その彼女の協力があってはじめて花開くことができるのだ。たしかに給料は悪くない。しかし単なる使用人扱いは言語道断だと思う……協力者でもまだ不十分……何かもっと適切な表現があったはずだ、なんと言ったっけ、そう、共同経営者……儲けの折半を要求したって、要求し過ぎということはあり得ない。
氷雨発酵研の設立を餌に(失礼)、葡萄栽培農家から出資を募ったときも、説得のための看板に掲げた納豆菌製剤に、『ナットノン』という商標登録ものの命名をしたのも、またこの研究の将来性についての売り込み用文案を作成したのも、彼女自身だったのだ。
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夢いっぱい『ねば』は世界語になった
「ねば」は納豆菌によって変形された、大豆蛋白独特の高分子である。最近「ねば」酵素の不飽和脂肪酸にたいする分解機能、ならびに顕著な制癌作用が専門家のあいだで注目されはじめた。さいわいわが発酵研グループは、長年「ねば」から抽出精製した『ナットノン』の研究によって、世界の研究者に一歩先んじている。製品化への最短距離にあることを、出資者各位にご報告できることを……
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もっとも剣呑の存在を全面的に憎悪し、嫌悪していると言うわけではない。いま以上の生活がありうるのに、剣呑のせいでその可能性が奪われたと考えるには、すでに少女時代を遠く通過してしまった。女心をときめかせるほどの容姿からはかけ離れているが、目鼻立ちも、手足のバランスも、とくに不快感をもよおすと言うほどではない。ユーモアもあるし、気配りもあるし、話題も豊富だし、詐欺師としての過剰な自信をのぞけば、かなりの相棒だといえるかもしれない。すくなくとも一緒にいるあいだは、 海岸通りの、 で、家族と一緒にカタログ雑誌に熱中 セックス過剰性欲については、彼自身が悩んでいるのだ。 べつに嫉妬を感じているわけでもない。 いざとなれば、一挙に形勢を逆転できる。 ヌード写真で、家族に火をつけてやる。 さらに決定的な企業秘密…… 試験農園の温室の実態は、 ただの廃屋にすぎない。
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飛《と》ぶ男《おとこ》
著者 安部公房
発行 1994年1月22日
3版 1994年2月20日
発行者 佐藤亮一
発行所 株式会社新潮社