箱男
安部公房
ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは? 贋箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面《シ ー ン》。読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。
42字
18行
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箱 男
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〈上野の浮浪者一掃
けさ取り締まり 百八十人逮捕〉
そろそろ冬ごもりの季節 │入り禁止違反)道交法(路 │浮浪者がまた元の場所にま
を控え、東京上野署は、ピ │上禁止行為)違反現行犯で │いもどった模様である。
ストル連続殺人魔一〇九号 │逮捕。全員同署へ連行し、
の警戒もかねて、二十三日 │指紋や顔写真を取り、台東
未明、台東区上野公園や、 │福祉事務所を通じて病気を
国鉄、京成上野駅地下道周 │訴える四人を病院へ、九人
辺にたむろしている浮浪者 │を養老院へそれぞれ送った。
の一斉検挙を実施。公園内 │また残りの者は「二度と浮
の東京文化会館裏、地下道 │浪しない」との誓約書を取
などにいた合計百八十人を、│った上で釈放した。しかし
軽犯罪法(浮浪の罪、立ち │一時間後には、ほとんどの
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[#地から2字上げ]〈ぼくの場合〉
これは箱男についての記録である。
ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。
つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。
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[#地から2字上げ]〈箱の製法〉
材料
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ダンボール空箱一個
ビニール生地(半透明)五十センチ角
ガムテープ(耐水性)約八メートル
針金約二メートル
切出し小刀(工具として)
(なお、街頭に出るための本格的身ごしらえには、他に使い古しのドンゴロス三枚、作業用ゴム長靴一足を用意すること)
[#ここで字下げ終わり]
ダンボールの空箱は、縦、横、それぞれ一メートル、高さ、一メートル三十前後のものであれば、どんなものでも構わない。ただ実用的には、俗に「四半割り」と呼ばれている、規格型のやつが望ましい。第一の理由は、規格品だとそれだけ入手が容易であること。第二には、規格品を使う商品の多くが、一般に不定形のもの──自由に変形がきく、食料雑貨の類──なので、箱の造りもそれなりに頑丈であること。第三は、これがもっとも重要な理由なのだが、他の箱との判別が困難であること。事実、ぼくの知っているかぎり、ほとんどの箱男が申し合せたようにこの「四半割り」を使用していた。目立つ特徴があったりすると、せっかくの箱の匿名性がそれだけ弱められてしまうことになるからだ。
最近のダンボールは、普通品でもかなりの強度があるし、一応の防水加工もしてあるので、雨季をすごす場合以外は、とくに品物を選ぶ必要はない。むしろ普通品の方が、通気性がいいし、軽くて使いやすいくらいだ。しかし、季節を問わず、一つの箱を長く使い込みたい向きには、「蛙張り」をおすすめする。ビニールの被膜を張ってあるやつで、名前のとおり、水にはめっぽう強い。新品のときは、油をひいたように艶があるのだが、静電気が発生しやすいらしく、すぐに埃を吸って粉をまぶしたようになるのと、切口が普通品より厚ぼったく、波打って見えることとで、すぐに見分けがつく。
とくに製作の手順というほどのものはないが、まず箱の上下を決め──刷り込んである絵柄に合わせるとか、傷みの少ないほうを上にするとか、各人の好みに合わせ──底蓋の部分を切り取っておく。携帯品が多い場合は、切らずに内側に折り曲げ、両端を針金とガムテープで固定して、物容れに利用することも出来る。次に、切口の露出部分──天井三か所と、側面のつなぎ一か所──を、ガムテープで覆ってほしい。
さて、もっとも慎重を要するのが、覗き窓の加工である。最初に大きさと位置を決定しなければならないが、それぞれ個人差もあることだから、以下の数字は、あくまでも参考程度にとどめていただきたい。窓の上縁が、天井から十四センチ、下縁がそれから、さらに二十八センチ、左右の幅が四十二センチ、といったあたりが無難なところだろう。かぶった箱を安定させるための台──ぼくは頭に雑誌を一冊くくりつけている──の厚さを差し引くと、天井から十四センチの線は、おおむね眉のあたりにくる。低すぎるように感じられるかもしれないが、日常生活において上を見上げる機会などめったにあるものではない。むしろ下の線のほうが使用頻度が多く、影響力も大きいのだ。直立した姿勢で、すくなくも一メートル半先の地面が見えなければ、歩くのに難儀する。左右の幅については、とくに根拠はない。ただ、箱の強度と、通風に対する配慮から、適当に決めてみたまでである。いずれ床が筒抜けなのだから、窓は可能なかぎり、小さいにこしたことはない。
次は、覗き窓に掛ける、艶消しビニール幕の取付けだ。これにもちょっとした秘訣がある。要するに開口部の外側、上縁に、ガムテープで貼りつけ、あとは自由にしておけばいいのだが、あらかじめ縦に一本、切れ目を入れておくことを忘れないでもらいたい。この簡単な細工が、いずれ思いがけなく役立ってくれるはずだ。位置は中心。二、三ミリ重ね合せておくこと。箱が垂直に保たれているかぎり、目隠しになってくれ、誰からも覗かれずにすむ。それを、わずかに傾けてやると、隙間が開き、こちらから向うが覗けるというわけだ。単純だが、なかなか微妙な仕掛けなので、ビニール生地の材料選びは慎重にしてほしい。なるべく厚手の、しかもしなやかな物が望ましい。温度の変化で、すぐ固くなるような安物は困る。ぺらぺらなのは、もっといけない。箱の傾斜に応じて、割れ目の幅を自由に調節でき、多少の風くらいは気にせずにすませられる程度の、重さと柔軟さが必要である。このビニールの隙間は、箱男にとって、いわば眼の表情にも匹敵するものだ。覗き用の節穴などと同列に考えられては困る。ちょっとした加減で、はっきり意思表示することだって出来るのだ。むろん好意の眼差しなんかであるわけがない。よほど険悪な目つきだって、この隙間の嫌味な不貞腐れ方にはかなうまい。無防備な箱男にとっての、数少ない護身術の一つだといっても言い過ぎではないはずだ。そこから見返されて、平気でいられる人間がいるとしたら、ぜひともお目にかかってみたいものである。
雑踏に出向く機会が多い場合は、ついでに左右の壁に穴を開けておくのもいいだろう。太めの釘で、径十五センチくらいの範囲に、紙の強度を犠牲にしないだけの間隔をたもって、できるだけ沢山の穴を散らしておく。補助の覗き穴にもなってくれるし、音の方角を聞き分けるのにも好都合だ。穴は内側から開けて、ささくれを外に向けたほうが──見てくれは悪いが──雨じまいには有利なようである。
最後に、残った針金を、五センチ、十センチ、十五センチの三種類に切り分け、それぞれの両端を逆方向に折り曲げて、壁に吊す鉤にしておく。携帯品は最小限にとどめるべきだが、それでもラジオだとか、湯呑みだとか、魔法瓶だとか、懐中電燈だとか、手拭いだとか、小物容れだとか、どうしても手離せない最低の身のまわり品があって、整理にはけっこう苦労させられるものなのだ。
ゴム長靴については、とくに補足することもない。穴が開いていさえしなければ、けっこうである。ドンゴロスは、腰に巻きつけて、箱との隙間をふさぎ、据わりをよくするためのものだ。三枚重ねにして、前を割っておくと、なにかと動きやすい。大小便、その他の用を足すのにも、具合がいいようである。
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[#地から2字上げ]〈たとえばAの場合〉
箱を作るだけなら、わけはない。所要時間にして、せいぜい一時間足らずのものだろう。だが、そいつをかぶって箱男になるには、かなりの勇気がいる。とにかく、この何でもないただの紙箱に、誰かがもぐって街に出たとたん、箱でも人間でもない、化物に変ってしまうのだ。箱男にはなにやら嫌味な毒がある。見世物小屋の熊男や、蛇女の絵看板にだって、多少の毒はあるだろうが、いずれ木戸銭で相殺される程度のものだ。だが、箱男の毒は、そう生易しいものではない。
たとえば、君にしたところで、まだ箱男の噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくの噂である必要はない。箱男はぼく一人というわけではないからだ。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話は、まだ聞いたこともない。どうやら世間は、箱男について、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。
では、見掛けた事は──
白を切りあうのも、その辺までにしておこう。箱男が目立ちにくいのは、たしかである。歩道橋の下だとか、公衆便所とガードレールの間などに押し込まれて、ゴミとそっくりだ。だが目立たないのと、見えないのとは違う。とくに珍しい存在というわけではないのだから、目にする機会はいくらでもあったはずなのだ。君だって、目撃したことくらいはあるに違いない。しかしそれを認めたくない気持も同じくらいよく分る。見て見ぬふりは、なにも君だけとは限らないのだ。べつに底意がなくても、本能的に眼をそむけたくなるものらしい。それはそうだろう、夜中に濃いサン・グラスを掛けていたり、覆面をしていたりすれば、悪事をたくらんでいるか、さもなければよほど悪びれている人間とみなされても仕方のないことだ。まして、全身をすっぽり隠してしまった箱男が、胡散臭がられたからといって文句を言えた義理ではないだろう。
それにしても、何を好きこのんで、そんな箱男をわざわざ志願したりする者がいるのだろうか。不審に思うかもしれないが、その動機たるや、呆れるくらい些細な場合が多いのだ。一見、動機にはなりそうにもない、ささやかな動機。たとえば、Aの場合などである。
ある日、Aのアパートの窓のすぐ下に、一人の箱男が住みついた。いくら眼に入れまいとしても、自然に入ってしまう。いくら黙殺しようと努力しても、意識せずにはいられない。Aを襲った最初の感情は、不法に領分を犯されたような、苛立ちと困惑、割り込んで来た異物に対する、嫌悪と腹立ちだった。それでも、しばらくの間は、黙って待ってみることにした。いずれ近所の、ごみの始末やなんかで口やかましい世話焼きが、かわりになんとか手を打ってくれるだろう。ところがいつまで待っても、誰ひとり動いてくれそうな気配も見せないのだ。思い余って、アパートの管理人に訴えてみたが、無駄におわった。なにぶん箱男は、彼の部屋からしか見えず、見ずに済ませられる連中が、ことさら動いてくれたりするわけがない。誰もが、出来れば、見て見ぬふりですませたかったのだ。
けっきょくAは、交番に足をはこぶことになる。応対に出た警官から、被害届を書くように迷惑顔で言われたとき、はじめておびえに似たものを感じたという。
──それで、あんた、はっきり立ち退くように言ってみたんだろうね。
警官の皮肉な追い討ちに、もう腹を据えてかかるしかなかった。交番から引返す途中、寄り道をして友人から空気銃を一挺借り受けた。部屋に戻ると、一服して気を静め、いつもなら横目でにらんだだけで済ませていた窓の外を、正視した。と、むろん偶然だろう、箱男の方でも正面の覗き穴を、まっすぐこちらに向けていたのだ。その間、わずか三、四メートル。Aの狼狽を見すかしたように、箱が傾き、すると覗き穴に垂らしてあった半透明のビニール幕が、箱の傾斜に合わせて中心で縦に二つに割れ、その奥で、白っぽく濁った片眼がじっとこちらをうかがっている。逆上した。窓を開けはなった。空気銃に弾をこめて、ねらいを定めた。
だが、何処に。この至近距離だったら、目玉にだって命中させられる。しかしそんなことをしたら後が面倒だ。二度と姿を現さないよう、思い知らせてやるだけでいい。箱の中でどんな姿勢をしているのか、相手の体の輪郭をあれこれ思い描いているうちに、引金の上で血の気をなくしかけていた指先が、ひるみを見せはじめた。それも結構、威嚇だけで相手が退散してくれるのなら、それに越したことはない。血の一滴だって残してなんかほしくない。だが、そう長くは待てないぞ。ただの威しだと見破られたら、もうやりなおしはきかないのだ。じりじりしながら、限界をはかる。再び怒りがこみ上げてくる。時間が過熱し、燃えつきる。引金を引きしぼった。銃身が、つづいて箱が、濡れたズボンの裾を傘の柄ではじかたような音をたてた。
同時に箱が大きく跳ね上った。いくら力学的に工夫されていると言っても、ダンボールはしょせん紙にすぎない。面の圧力に対してはかなりの粘りをみせても、点の圧力にはひ弱なものだ。鉛の弾は、もろに相手の肉に食い込んだはずである。しかし予期していた悲鳴も、罵声も、聞えてこない。一度跳ね上った後は、再び静止した箱の中で、ひどく緩慢な動作の気配があるばかりだ。Aはまごつく。ねらったのは覗き窓の右上と左下の角を結ぶ線上、それからさらに左下数センチのところ。たぶん右肩の腕の付け根のあたりだと思う。遠慮しすぎて、ねらいを外してしまったのだろうか。それにしては反応が大きすぎた。ふと浮んだ嫌な想像。箱男が箱の中で、なにも正面を向いていたとは限らないのだ。下半身もすっぽりドンゴロスに埋まって、どんな姿勢でいたのやら見当もつかない。箱に対して斜めに膝を張り、あぐらをかいていなかったとも限らないのだ。だとすると、最悪の場合、弾は肩先をかすめて、頸動脈に命中してしまった可能性だって無くはない。
不快なしびれが、口のまわりに楕円形の輪をつくる。夢のなかの駈け足。すがる思いで、次の動きを待ち受ける。動かない……いや動いている……たしかに動いている。時計の秒針ほどではないが、分針よりは早く、確実に傾斜を強めている。そのまま倒れてしまうのだろうか。生乾きの粘土をこすり合せるような音。急に立上った。意外に背が高い。濡れた天幕を叩くような音。ゆっくり向きを変えながら、低く咳き込み、のびをする。小さく箱を左右にゆらしながら、歩きはじめる。前かがみになっているのか、腰の位置が気掛りなくらい後ろに寄っている。何か言い残したようにも思うが、よくは聞きとれない。建物にそって通りに出ると、そのまま角をまがって姿を消した。箱男がどんな表情をしていたのか、見定められなかったのが、Aにはなにより心残りだった。
気のせいか、箱男が立去った後の地面が、他よりも黒ずんで見えた。踏み消したタバコの吸い殻が五つ。紙で栓をした空瓶が一本。中を大きな蜘蛛が二匹這いまわっている。一匹は死骸のようにも見える。まるめたチョコレートの包装紙。それから三つ連続している、黒っぽい親指大のしみ[#「しみ」に傍点]。血痕だろうか。いや、多分、痰か唾だろう。かすかに、詫びるような、つくり笑い。ともかくこれで、所期の目的は達せられたのだ。
それから、半月ばかり、Aは箱男のことをほとんど忘れかけていた。ただ、通勤の際、駅までの近道だった狭い路地を通るのがさすがに気掛りで、知らずにコースを変更していたり、起き抜けや、外から戻った時など、まず窓の外をうかがってみる、といった習慣の変化はまだ拭いきれなかった。彼がもし、冷蔵庫の買い替えを思い立ったりさえしなければ、いずれはそんな習慣からも恢復できていたのだろうが……
だが、冷凍室つきの新しい冷蔵庫も、当然のことだが、やはりダンボールの箱に入っていた。それがまた、じつに頃合いの大きさのやつなのだ。なかみを出して、空にしたとたん、いきなり箱男の記憶がよみがえってきた。鞭打つような音がした。二週間の時間をさかのぼって、空気銃の弾がはね返って来たような気がした。Aはうろたえ、急いで箱を片付けてしまおうとした。ところが実際に彼のしたことといえば、手を洗い、鼻をかみ、せっせとうがいを繰返すだけだったのだ。はね返った弾が、頭蓋骨のなかを飛びまわり、脳の調子を狂わせてしまったのかもしれない。しばらくあたりの様子をうかがってから、窓のカーテンを閉め、彼はおずおずと箱の中に這い込んでみた。
箱の中は暗く、防水塗料の甘い匂いがした。なぜか、ひどく懐かしい場所のような気がした。いまにも辿り着けそうで、手の届かない記憶。何時までもそのままでいたかった。一分足らずで、我に返って、箱を出た。多少のこだわりを感じながら、箱の始末はしばらく先にのばすことにした。
翌日、勤めから戻ると、苦笑まじりにナイフで箱に覗き窓をつけ、こんどは箱男ふうに頭からかぶってみる。すぐに箱をはねのけ、苦笑どころではなかった。何が起きたのか、自分にもよくは飲み込めない。しかし胸の動悸が、なにやら危険を告げていた。部屋の隅めがけて、思いきり乱暴に──ただし壊れない程度に──箱を蹴飛ばした。
三日目。多少落着きを取戻し、覗き穴から外の様子を眺めてみた。昨夜、何にあれほど驚かされたのか、もうよくは思い出せない。たしかに変化は感じられる。しかし、この程度の変化なら、むしろ好ましいくらいのものだ。すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。すっかりなじんで、無害な物になり切っていたはずの、壁のしみ[#「しみ」に傍点]……乱雑に積み上げた古雑誌……アンテナの先が曲った小型テレビ……その上の吸い殻があふれかけているコンビーフの空罐……そうしたすべてが、思いもかけず棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられたのだ。箱に対していたずらな先入観は捨てるべきなのかもしれない。
翌日、Aは箱をかぶったままでテレビを見た。
さらに五日目からは部屋にいるかぎり、食事と、大小便と、睡眠以外のほとんどを、箱のままで過すようになった。一抹の疚しさを除けば、べつに異常なことをしているという意識はない。それどころか、この方がずっと自然で、気も楽だ。これまでは嫌々ながらだった独り暮しまで、今ではかえって、禍い転じて福となった思いである。
六日目。いよいよ最初の日曜日。来客の予定はないし、外出の計画もない。朝から箱にへばりつく。気分は落着き、なごんでいるのだが、なにか一つ物足りない。昼すぎてから、自分が何を求めているのか、やっと理解した。街に出て、あわただしく買物をしてまわる。便器、懐中電燈、魔法瓶、ピクニック用の食器セット、ガムテープ、針金、手鏡、ポスター・カラー七色、その他加工せずに食べられる食料品数種。引返して、ガムテープと針金で箱を補強すると、他の小道具一式をかかえて、箱に籠城した。これで食事にも、用便にも、一切さまたげられずにすむ。Aは、箱の内壁──覗き窓に向って左側──に手鏡を吊すと、懐中電燈の光をたよりに、ポスター・カラーで唇を緑色に塗った。それから、眼のまわりに、赤からはじまる虹の七色で、しだいに広がる輪を描いた。人間よりも、鳥か魚の顔に似てきた。ヘリコプターから見た遊園地の風景に似てきた。その風景の中を一目散に逃げて行く、小さな自分の後ろ姿。これほど箱に似合った化粧もないだろう。やっと容器に見合った内容になれたのだと思う。はじめて、箱の中で軽く手淫した。はじめて、箱をかぶったままで、壁にもたれて寝についた。
そして、翌朝──ちょうど一週間目──Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった。
Aにもし何か落度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑うことは出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市──扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街──のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。
だからめったに箱男に銃を向けたりしてはいけないのである。
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[#地から2字上げ]〈安全装置をとりあえず〉
ところで、繰返すようだが、ぼくはいま箱男である。そこでしばらく、ぼく自身のことを書いてみようと思う。
ちょうどいま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。あまり正確でない時計で、九時を十五、六分まわったところ。朝から降りつづいている雨で、黒い夜空が低く地面に裾をひきずっている。眼のとどくかぎり、漁業組合の倉庫と、材木置場。人家もなければ、人通りもない。橋の上を往き来するトラックのヘッド・ライトもここまでは届かない。手許を照しているのは、天井から吊した懐中電燈の光。そのせいか、緑色だったはずのボールペンの字がほとんど黒に見える。
犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い。噴霧器で撒きちらしたような方向のない糠雨なので、雨宿りの場所としては、そうふさわしくない。橋桁が高すぎるのだ。いや、ふさわしくないのは、なにも雨宿りのためばかりではない。何も彼もが──こんな時間に、こんな場所にいること自体が──箱男らしからぬ不自然なことなのだ。たとえば、この懐中電燈ひとつ取ってみたって、ひどい浪費である。ぼくらのような路上生活者は、ほとんどの日用品を拾い物で間に合わせてしまうし、また間に合ってくれるものだが、電池のような消耗品になるとそうもいかない。ただノートを書くためだけに懐中電燈を使ったりする贅沢は許されていないのである。最近は街燈の数も増えたし、光量も大きくなったし、光源の質もずっと向上した。雨宿りしながら、新聞の活字が読めるくらいの場所になら、べつに不自由はしないのだ。
さて、その箱男らしからぬ場所に腰を下ろして、どういうわけか、もうかれこれ二時間以上にもなる。まずはその釈明から始めるべきだろう。もっとも、いくら釈明に努めてみたところで、君を説得しきる自信はない。いずれ君には信じられないだろう。信じられなくても、事実は事実なのだから仕方がない。このぼくの箱が売れたのである。それも大枚五万円で、買い手がついたのである。いまぼくはその取引のために、こうして買い手を待ち受けているところなのだ。君に信じられないように、ぼくだって半信半疑もいいところである。信じようがないじゃないか。こんな使いふるしの紙箱を、金を出してまで欲しがるやつの気が知れない。
信じてもいないのに、なぜそんな誘いに応じたのか。理由は簡単だ。とくに疑う理由がなかった、ただそれだけのことである。道端に光っている物を見付けたら、つい足をとめてみたくなるのと同じことだ。ぼくの買い手も、夕陽を受けたビール瓶の破片くらいにはきらめいていた。価値がないことは分っていても、ガラスの中で屈折して来た光には不思議な魅力があるものだ。思い掛けなく、別な時間を覗き込んだような気分にさせられる。とくに彼女の脚は、高台に立って見晴した鉄道のレールなみにほっそりとしなやかだった。ひらけた空のように視線を妨げるもののない、軽くて青みがかった足取り。信じる理由もなかったが、同様、疑う理由もなかったのだ。ぼくは知らずに、彼女の脚に武装解除されてしまっていたようである。
もっとも今は後悔気味だ。というより、いずれ手痛く後悔させられそうな予感に、すっかり気を滅入らせていると言った方がいいかもしれない。みじめな気分。どう考えてみても箱男らしくない。箱男の特権を自分からあっさり放棄してしまったようなものである。希望があるにしても、高精度の分析器をもってしてもまず検出できそうにない、微々たる希望。ぼくの箱になにか変化が起きはじめているのだろうか。そうかもしれない。考えてみると、この町に迷い込んでから、箱の表面がひどく傷つきやすく、脆くなってしまったような気もするのだ。たしかにこの町はぼくに悪意を持っている。
もっとも、この場所を選んだのは、半ば相手の指定だったが、それを暗示したのは、ぼく自身でもある。ぼくにとっての危険は、相手にとっての危険でもあるはずだ。橋のたもとには、水死した子供の供養に建てられたらしい、赤いネルのよだれ掛けをした石地蔵が立っている。やや上流よりの、船着場に降りる石段わきには、最近建て替えられたばかりらしい、水遊びを禁ずる白ペンキ塗りの立札。ただ幸いなことに、覗き窓のビニールが雨に濡れ、艶消し効果が薄らいだせいで、ずっと見晴しはよくなった。運河にそったコンクリートの堤防が、くっきり覗き窓を斜めに切っている。流れにさからって小刻みにふるえている、停泊中の小型貨物船の青白いランプが、堤防の上の歩道に淡くにじみ、もし誰かが通りかかれば、服にこぼしたインクのしみ[#「しみ」に傍点]くらいには日立つはずだ。
ほら、猫が一匹、歩道を直角に横切った。薄汚れた、毛並の悪い野良猫だ。妊娠中らしく、ずっしり数の子を仕込んだような鰊《にしん》腹をしている。耳のささくれは、おそらく喧嘩で食いちぎられた痕だろう。こうしてペンを走らせながらでも、そんな細部が見分けられるくらいだから、とくに神経質になることはないのかもしれない。いくら相手が、不意をつくつもりでも、そうおいそれとはいくものか。
もちろん彼女自身が、約束どおり、自分でここまで足を運んでくれるのがいちばん望ましい。しかしなにぶん、曖昧なことが多すぎる。この箱に五万円というのも腑に落ちないが、こんな揚所での取引に彼女が応じたことも不自然だ。信じる理由もないが、疑う理由もない。疑う理由もないが、信じる理由もない。透明で淡すぎる細い首。とにかく警戒するに越したことはなさそうだ。そこでせめてもの安全装置。もしも万一のことがあった場合、ぼくはこのノートを証拠物件として残しておくつもりである。どんな死に方をしようと、ぼくには自殺の意志など少しもなかった。ぼくが死ねば、間違っても自殺なんかではなく、絶対に他殺なのである。いくら世間を拒み、箱にもぐって世間から雲隠れしたからと言って、もともと箱男は冫[#表示不能に付き置換え「底本では、さんずい」]
[#ここから2字下げ]
(インク切れによる中断。小物容れから古鉛筆を探し出し、芯を削るのに、二分半経過。さいわいぼくはまだ殺されていない。その証拠に、ボールペンから鉛筆に変りはしたが、字体はそっくり前のままである。)
[#ここで字下げ終わり]
ところで、何を書きかけていたのだっけ。最後の書きかけは、たぶん「浮」の字の左半分だ。「箱男は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。もっとも世間の方では、箱男が思っているほど、はっきり区別をつけてくれてはいないようだ。たしかに共通点も少なくはない。たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住居を持たず、名前や年齢を明示せず、食事や睡眠のための決まった時間や場所を持たないこと。それから……そう、散髪に行かず、歯をみがかず、めったに風呂に入らず、生活のためにほとんど現金を必要としないこと、等々……
しかし乞食や浮浪者の側では、けっこう違いを意識しているらしいのだ。何度も嫌な思いをさせられた。いずれ機会があれば書くつもりだが、とくに「ワッペン乞食」には目の敵にされたものである。連中の縄張りに近付いたとたん、黙殺どころか、過敏すぎるくらいの反応をあびせられるのだ。登録された番地に住み、ちゃんと現金払いで暮している連中から受ける以上の、露骨な敵意とさげすみの色を突きつけられる。そう言えば、乞食から箱男になったという話はまだ聞いたことがないようだ。こっちだって、乞食の仲間入りしたつもりは無いのだから、まあお互さまだろう。だからと言って、彼等を見下したりするつもりはない。あんがい乞食までは、まだ市民に属する周辺の一部分で、箱男になるともう乞食以下なのかもしれないのである。
心の方向感覚の麻痺は、箱男の持病である。そのたびに地軸が揺れ、船酔いに似た吐き気にさんざん苦しめられる。ただ、どういうわけか、落伍者意識だけにはまったく縁がない。箱を疚しく感じたことさえ一度もない。箱はぼくにとって、やっとたどり着いた袋小路どころか、別の世界への出口のような気さえする。何処へかは知らないが、とにかく何処か、別の世界への出口……とは言ってみたものの、小さな覗き窓から外の気配をうかがいながら、ただ吐き気をこらえているのでは、袋小路もそう変りはない。大口を叩くのはよそう。ここではっきりさせておくべきことは、要するに、まだ死ぬ気はないということなのである。
それにしても、遅すぎる。やはり彼女は約束をすっぽかすつもりなのだろうか。あとマッチが七本。しめったタバコは、めっぽうまずい。
約束か……
口なおしに、ウィスキーを一と舐め。残量、ポケット瓶で三分の一弱。
ま、いいだろう。すっぽかされたくらいで驚いたりするものか。約束どおり彼女が現れた方が、よっぽどの仰天だ。ぼくが懸念しているのは、すっぽかされず、しかも彼女が姿を見せない場合のことである。どうもそっちの線になりそうな予感がしてならない。彼女のかわりに、代理人がやってくるのだ。その代理人に、ついても、おおよその見当はついている。けっきょく奴等はぐるだったのだろう。彼女を囮に、ぼくをおびきよせ、この橋の下を処刑場にする腹だったのだ。こちらが天性の「殺され屋」である以上──それはそうだろう、存在しないも同様の箱男なのだから、いくら殺したって、殺したことにはならないのだ──「殺し屋」の役は、自動的に相手方にまわってしまうことになる。しかし、万事がそう理屈どおりにいくとは限っていない。ぼくにだって迎え討つくらいの用意はあるさ。ほら、濡れた地面の傾斜は急だし、滑りやすい。もっとも、腕力の点では、あいつの方がちょっぴり上のような気もする。気持とは裏腹に、あんがい心の底では、死にたがっているのだろうか。
とにかく殺され屋にはおあつらえ向きの、場所と時間。潮の速さも申し分ない。満潮時には海水でふくれ上る、漏斗型の運河の口に、最後の締め輪のように架けられた、いかにも旧式なぼってりと肉厚の橋。船をくぐらせるために、中央部が弓なりにせり上っているので、たもとのあたりでも橋桁が目立って高い。もっとも蝸牛のように防水加工済みの部屋ごと歩いている箱男なのだから、橋桁の高さや、横雨のことだけならそうこだわる必要もないわけだ。本物の部屋とくらべて、箱の弱点といえば、せいぜい床が無いくらいの事だろうか。湿った風が吹上げてくるのだけは、なんとしても避けがたい。それだって物は考えようで、床がないからこそ、現にこうして、浸水を気にもせずに、水際すれすれに腰を据えたりもしていられると言うものだ。満潮に雨の影響が重なって、とつぜん水嵩が増してきたとしても、ゴム長の丈を越さないかぎりは、立って場所を変えればそれですむ。実際に体験してみた者でなければ、なかなか分りそうにない気楽さである。おまけにこれからは、潮も引く一方だ。これ以上水嵩が増す心配はありえない。堤防の裾にそって、廃油で腐りかけた水草の黒い帯が、定規で引いたように、風景を上下にくっきりと切り分けている。
黒いうねりが、何処からともなくひろがり、水面の小皺を消しはじめた。精製されていない水飴を溶かし込んだように、橋脚のすぐ下流で、ねっとりとした大小の渦が、しだいに形をととのえ始める。ほんの浅い。窪みなのだが、魚を詰める木箱や、竹籠の切れ端や、プラスチックの容器などが、おずおずと近付いて行っては、急に身震いしながら旋回しはじめ、数廻転して速度が鈍ったかと見えたとたん、あっけなく飲み込まれてしまう。
そうだ、このノートもいざという時には、あの木箱や竹籠の仲間入りをさせてやろう。堤防の上に、誰か人影が現れ、それが彼女でなかったら、すぐにもビニール袋におさめ、息でふくらませてから口を縛り、縛った部分を二つに折って、細い針金で幾重にも巻き上げる。その間約二十二、三秒。次にその針金の上を、赤いビニール・テープで結び、目立つように端を大きく残しておく。テープにはちゃんと、和紙のこよりで、拳大の石を結びつけておく。これは五秒以内。全作業を合わせて三十秒前後。いくら手間取ったところで一分以上はかかるまい。それにあいつが、船着場の石段を降り、滑りやすい積石の斜面を渡ってここまで辿り着くのには、どんなに急いでも二、三分はかかるはずだ。手後れの恐れはまずありえない。相手が、ちょっとでも変な素振りを見せたら、すぐにも袋を流れにほうり込んでやろう。くくりつけてある石のおかげで、かなり遠くまで飛んでくれるはずである。いくらあいつが手をのばしたところで、もう届きっこない。袋は渦をめがけて滑って行く。もしあいつが水泳の達人なら、水に飛び込んででも後を追おうとするだろうか。いや、達人ならよけいにそんな無謀は避けるはずだ。潮が引きはじめてから一時間以内は、小舟の通行も禁じられている。あの堤防の立札を読まなくても、渦の危険はじゅうぶんに承知しているはずなのだ。ノートの袋は、しばらくその辺でまごついてから、けっきょく渦の誘いを振り切ると、はじかれたように沖合めがけて流れ去るだろう。それから、何時間か、何日か経ち、紙のこよりが融けて、石が外れる。空気でふくらんだ袋は、軽やかに、赤いテープで人目をひきながら、岸辺の潮に乗ってあちらこちらと漂ってまわるのだ。
だが、いまこの瞬間に、あいつが現れたとしたら……これまでの内容だけで、犯人があいつであることを指摘したことになってくれるだろうか。無理だろう。仮に、あいつの名前を、このページに明記してみたところで、誰にも信じてもらえそうにない。下手に動機を説明したりしたら、ますますノートの信愚性を弱める結果になるばかりだ。何もかもがますます作り話じみてくる、しかしその辺は、けっこうこちらも抜け目がない。表紙裏の右上の隅、セロテープで貼りつけた、白黒のネガ・フィルム。見にくいかもしれないが、絶対に動かぬ証拠になってくれるはずなのだ。空気銃を小脇に、銃口を下に向けて体のかげに隠し、小走りに逃げて行く中年男の後ろ姿。引伸してみれば、さらにこまごました特徴も見分けられるだろう。着こなしは悪いが、張りのあるかなり上等の生地。それにしては、皺だらけのズボン。太くがっちりはしているが、労働の経験はなさそうな、先のまるい指。それから、何よりも目立つのが、変り型の靴。甲の浅い、脇がえぐれた、スリッパ式の短靴。脱いだり履いたりの回数が普通以上に多い職業だ。
このノートは、拾い主がそのつもりになれば、ひと財産になってくれるはずである。
そら、渦が力瘤のように盛上りはじめた。べつに人通りが絶えてしまったわけではないが、他人の目を気にする必要はまったくない。すぐ橋の上では、冷凍魚や原木を山積みにした大型トラックが、厚いコンクリート板を蹴立て、吠え袋を共鳴させながら、数秒とおかず往き来しているが、自分だけのわめき声に熱狂してしまっているので、これも盲のけもの[#「けもの」に傍点]同然だ。その気になれば、死体の処理にかぎらず、生きている人間の始末にだって理想の場所なのである。そして、理想の殺し場所は、同時に、理想の殺され場所でもあるはずなのだ。
鉛筆の芯がちびてしまった。いい加減にしてくれよ。いったい彼女は、来るつもりなのだろうか、それとも来ないつもりなのだろうか。
[#ここから2字下げ]
(こんな錆びっちょろけのナイフでは、鉛筆もろくに削れやしない。明日、もしまだ生きのびていられれば、ボールペンを二、三本、忘れずに仕入れておこう。中学の通用門付近で拾ったやつが、インクの残量もいちばん多いようだ。)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈表紙裏に貼付した証拠写真についての二、
[#地から17字上げ]三の補足〉
撮影日時……約一週間ないしは十日ほど前の、ある夕刻(時間感覚の麻痺も箱男の持病の一つである)。
撮影場所……醤油工場の長い黒塀の、山寄りの端(写真の手前を斜めに切っているのがその塀の影だ)。
ぼくはその時、ちょうど立小便の最中だった。とつぜん鋭い音がした。トラックに撥ねられた小石が箱に当った音に似ていた(道端で寝ることが多いのでよく経験する)。しかしトラックはおろか、三輪車一台走ってはいないのだ。同時に、虫歯で氷を噛んだような激痛が左肩を襲い、小便がとまった。側面の小穴から覗くと、工場の塀が終って坂になり、舗装が切れて砂利道になり、養鶏場の芋畠ぞいにカーブしはじめたあたりに、桑の古木が枝をひろげていた、(写真の左端にその一部が見えている)。その陰から体をひねって(つまり逃げ腰の姿勢で)男がひとり立上りかけている。なにやら一メートルほどの棒を、肩から小脇に持ちかえ、するとその棒が夕陽をうけて鉄色に光ったのだ。とっさに空気銃だと判断した。小便の後始末もそっちのけで、すかさずカメラを構えた(じつを言うと、箱男になる前、ぼくはやっと独立したばかりのカメラマンだったのである。仕事の途中で、そのままずるずると箱男になってしまったために、必要最小限の撮影機材はいまだに持ち歩いているわけだ)。箱の向きを変え、つづけさまに三回、シャッターを切った(距離を合わせる間はなかったが、250分の1秒、F11にセットしてあったので、ほぼ焦点深度内におさまっている)。男は横飛びに道を渡って、視界から切れた。
さて、ここまでは、フィルムの分析によってもかなりの所まで裏付け可能な事実だ。しかし、ここから先は、裏付けてくれるものが何もない。ぼくの証言を信じて、君、もしくはノートの拾い主が、自分で裏付けしてくれるのを期待するだけである。
[#底本「ここからフォント太字」]狙撃者の正体についての最初の推測[#底本「ここまでフォント太字」]……〈Aの場合〉を参照してほしい。誰かが箱男の存在に感染して、自分も箱男になろうとする場合、空気銃による狙撃といった過剰攻撃の形をとって現れるのは、むしろ一般的な傾向であるようだ。だからぼくは、声を上げて助けを求めもしなかったし、後を追おうともしなかった。むしろ、またひとり箱男志願者が増えたのだと思い、親近感さえおぼえたほどである。すると、肩の痛みが遠のき、灼熱感に変ってくれた。この先、何倍もの痛みに耐えなければならないのは、むしろ狙撃者の方なのだ。これ以上の追い討ちをかけたりする必要はまったくない。
ぼくは空気銃男が消えた後の、無人の坂道を眺めながら、こわれた水道の蛇口のような湿っぽい気分になっていた。醤油工場から流れてくる、焦げた砂糖のような臭いが、夕陽のつくる鋭い影の切口に、せっせと鑢をかけて角を落している。どこか遠くで、薪をひく単調なきしみ。さらに遠くで、オートバイのエンジンを吹かす陽気な音。しかし、二秒たっても、三秒たっても、いっこうに人影は現れない。住民たちはひとり残らず地虫のように地下に引越してしまったのだろうか。人恋しさをむりやり誘う、のどかすぎる風景。だが箱男の眼はごまかせない。箱から覗くと、風景の裏に隠された嘘も下心も見とおしなのだ。迷いようのない一本道に見せかけて、ぼくを動揺させ、降服をうながそうという腹らしいが、おあいにくさまそんな手には乗るものか。ぼくはただゆっくり大小便をしたかったまでのことである。箱男にはやはり駅の周辺だとか、混み合った商店街なんかの方が向いている。たかだか三、四本しかない道を、迷路のように見せかけている風景の正直さも好きだし、それに第一居心地がいい。この調子だから地方の町は苦手なのだ。とにかく見せかけの一本道が多すぎる。そんな一本道に迷い込んで行った空気銃男の狼狽を思って、ぼくはつい感傷的な気分になっていたようだ。
傷口を押えていた指の間がねとついて、血だらけになっていた。急に不安になった。東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、とても二人の箱男を受入れる余地はない。彼がどうしても箱男になるつもりなら、いやでも縄張り争いせざるを得なくなるだろう。空気銃ではぼくを追い出せないと分ったら、こんどは猟銃を持出して来ないとも限るまい。ぼくは応対のしかたを間違えてしまったのだろうか。じつを言うと、彼らしい男から、これまでにも何度か接近をこころみられた事があったのだ。一度などは、はっきり声を掛けて、呼び止められた事さえある。そのたびにぼくは、いつものくせで、傾けたビニールのカーテンの隙間から、黙って相手を見返してやったのだ。あれには誰もが参るらしい。警官や、鉄道公安官でさえ、尻込みしてしまう。空気銃を持出すところまで彼を追いつめる前に、何か口をきいてやるべきだったのだろうか。
[#底本「ここからフォント太字」]だが新しい登場人物によって、推測は一転した[#底本「ここまでフォント太字」]……その新しい登場人物は、自転車に乗ってやって来た。偽の一本道に、つい気を奪われていた背後から、いきなり声をかけてきたのだ。「坂の上に病院があるわ」と、白い指先が覗き窓をかすめ、千円札が三枚投げ込まれる。まるで郵便ポストあつかいだと思い、振向いた時には、もう十メートルも先を行く後ろ姿だった。低く乾いた声に似合わず、まだ若い娘らしい。カメラを向ける間もなく、次の横町にまわり込んで消えた。ほんの数秒間のことだが、自転車をこぐ脚の運動が、強くぼくをとらえた。細いが、細すぎず、適度なふくらみをもった軽い脚。二枚貝の内側のように、艶やかな膝の裏。あまり鮮かだったので、着ていた服の色さえ憶えがないほどだ。しかしそれだけで武装解除されてしまったわけではない。もしあの晩、肩の傷が悪化していなかったら、わざわざ坂の上の病院を訪ねるようなこともなかっただろうし、空気銃男が(写真も明らかに示しているとおり)じつはその病院の医者で、自転車の娘が看護婦であることも、けっきょく分らずじまいに終ったことだろう。それに、当然のことだが、こんな危険な橋の下なんかで、彼女(もしくはその代理人)を待ち受けるような馬鹿気た事態に巻き込まれることもなかったはずである。
しかしタバコをくわえただけだった。三枚の千円札を、何度も繰返して数えなおし、三つに折ってゴム靴の中に落し込んだ。囚われた野鳥は、餌を拒んで餓死してしまうという。だが死刑囚は、最後のタバコをうまそうにくゆらせる。鳥ならぬぼくは、むりにあの二人を結びつけて考えることもあるまいと、のんびりくわえタバコに火をつけた。空気銃男は空気銃男、娘は娘でいっこうに構わない。先を急いだのも、単に慈善行為の押しつけを恥じた、つつしみ深さの表現だったと考えればすむことだ……
だが、いくら次から次にタバコを吸いつづけてみたところで、死刑執行人が待ってくれるわけではない。執行の時刻は確実にせまってくる。夜明け、化膿しかけた肩のうずきが、狭すぎるゴムのトンネルのようになってぼくをしめあげた。箱を脱ぎ、夢中でくぐり抜けると、坂の上の病院に出た。注射器をもった自転車娘と、メスをつかんだ空気銃男が、ぼくを待ち受けていた。なぜか、驚くよりも、最初から予期していたことのように思われた。
やがてベッドで目を覚ますと、ビタミンとクレゾールでかすんだ空気をとおして、自転車娘がぼくを覗き込んでいた。看護婦用の白衣には、どうも時間を停止させる作用があるらしい、時間が停止すれば、しぜん物事の因果関係も断ち切られ、たとえどんなみだらな行為を仕掛けたとしても、ぜったいに咎められる気遣いはないわけだ。あいにく、実際にみだらなところまで手を出す余裕はなかったが、箱を脱いで、素顔をさらしていることを忘れさせるくらいの解放感はあった。ぼくの出まかせの身の上話にも、いちいち彼女の微笑がうなずき返し、その微笑は固めた空気を彫って、光の刷毛で色をつけたように淡くしかも無防備で、ぼくは愛情を告白されているように錯覚したほどだ。白衣の裾が長すぎて、彼女の脚がさっぱり見えないことさえ、忘れさせるほどの笑顔だった。ぼくははじめて飛び立った小鳥のように、(よたよたと不格好に、しかし夢中で)はばたいた。ついに翼が大気をつかんだのだ、いよいよ飛び立つのだ、と、ぼくは風のような彼女の微笑に酔いながら、もう箱に戻る必要もなさそうに思っていた。そして、何時の間にやら、五万円で(ぼくは只でもいいと彼女に力説しさえした)、箱男なら一応の面識もあるから(当然だろう)、かわりに箱を買い受けてやろうと、自分でもさっぱり納得のいかない約束をしてしまっていたのである。今になってみると、手に入れた箱で何をたくらんでいるのか、その場で聞き糺すくらいはしておくべきだったと思う。しかし彼女の微笑の前では無理だった。箱の用途を話題にすることさえ愚かしく思われたのだ。
病院を出たとたんに、彼女の微笑もあっけなく消え去った。箱をかくしておいた、橋の下に戻ると、からっぽの胃袋が大げさに身をくねらせはじめ、ぼくは長い間ゲロを吐きつづけた。どうやら知らぬ間に麻酔薬でも打たれていたようである。まんまと罠にかけられたらしいことに、やっと気付きながら、それでもなぜか彼女を憎みきることは出来なかった。
[#ここから3字下げ]
(ここに十数行の欄外の付記。字体はもちろん、インクの色も、ほとんど本文と見分けがつけられない。)
[#ここで字下げ終わり]
──箱をかぶった乞食のことを話してるのよ……
──知ってるさ、ぼくはカメラマンだからね。カメラマンは覗き屋。どこでもかまわず、穴開け専門。根が下司にできているんだな。
──使いふるしのダンボールの箱よ……
──もしかすると、ぼくの友達かもしれないと思った。違うだろうけどね。でも、絶対違うとも言いきれない。同じ写真家仲間で、なにかのはずみに……自分でも知らずにシャッターを切ったら……箱男が写っていたらしいんだ。それから興味を持って、あっちこっち追いかけまわしたけど、二度と出会えなかった。そのかわり、街を写してまわるのが面白くなったんだな。それも、見られるのを嫌がっているような、街の裏側……見られるのを嫌がっているところを写すのだから、気付かれないように隠し撮りをしなければならないわけだ。そこで、ひょいと思い付いたのさ。箱をかぶって、箱男のふりをして撮ってまわったらどうだろう。自分でさえ、見ながら見逃したのだから、きっと上手くいくはずだ。じっさい上手くいったらしいよ。そいつは偽箱男になって、せっせと街頭スナップにせいをだしはじめた。ところが仲間のあいだでも評判になりかけた頃に、ひょいと姿を消してしまったんだ。それっきりアパートにも戻って来なかった。噂じゃ、そのまま、本物の箱男になってしまって……
──私なら平気だな、いくら見られたって……
──しかし、ナイフで削るみたいに覗くんだぞ、着ている服だって、むしり取るみたいに……
――むかし、モデルをしていたことがあるのよ。
──真面目なはなし、ぼくに出来ることだったら、なんでもしてあげたい。でも、何も出来ないんだ。しゃくだけど、出来ることと言ったら、せいぜいファインダーをのぞいて、シャッターを切ることくらいだからな。それから、君の透明な影を、現像液のなかに泳がせる。螢石に似た、黄緑色のランプ……八時の位置をさしている暗室時計の秒針……水をはじいて油膜のように光っている印画紙の表面……浮び上ってくる淡い影……影が吐き出す影……影に重なる影……やっと君の裸の輪郭が、ぼくの心に踏み込んだ犯人の足跡みたいに……
──私、あの箱がほしいの。
[#改ページ]
〈行き倒れ 十万人の黙殺〉
二十三日午後七時ごろ、 │ボサボサの浮浪者風。所持 │と、この男は、同日昼ごろ
勤め帰りや買物客が行き交 │品は百二十五円の小銭のほ │から同じ姿勢で坐りつづけ
う東京新宿の駅西口地下通 │か、ねぐらに使おうと思っ │ていたが、だれひとり気に
路で、四十歳くらいの浮浪 │たのか新聞紙数枚だけ。名 │も止めず、警察官が見つけ
者が柱に寄りかかるように │前や住所など身元が確認で │るまでの六、七時間、何の
して死んでいるのを、パト │きるようなものは持ってい │通報もなかった。また、交
ロール中の新宿署員が発見 │なかった。 │番からも十メートル足らず
した。 │ 現場の地下通路は、一日 │のところだが、同署員は柱
同署の調べによると、男 │の乗降客数十万人(新宿駅 │のかげで、よく見えなかっ
は身長一メートル六三、中 │調べ)にも及び、近くには │たと言っている。
肉。花模様の長袖シャツに │赤電話もずらっと並んでい │
作業用長ぐつをはき、髪は │る雑踏。目撃者の話による │
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈それから何度かぼくは居眠りをした〉
ところで君は、貝殻草の話を聞いたことがあるだろうか。いまぼくが腰を下ろしている、この石積みの斜面の、隙間という隙筒を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めているのが、どうやらその草らしい。
貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見るという。
かなり眉唾な気もするが、あり得ない事でもなさそうだ。貝殻草は塩分をふくんだ湿地を好むので、しぜん海辺に育ちやすく、そんな言い伝えが生れてもべつに不思議はない。それに、一説によると、その花粉に含まれているアルカロイドが眩暈《め ま い》に似た浮游感をひきおこし、同時に呼吸器粘膜を刺戟するので、ちょうど水に溺れたような錯覚におちいる事もありうるらしいのだ。
しかし、それだけだったら、とくにどうという事もない。貝殻草の夢が、やっかいなのは、夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の魚のことは、知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延されて感じられるらしいのだ。
それでも最初は、珍しさも手伝って、岩陰の海草のうねりとたわむれてみたり、波のレンズが描く光の縞目をくぐり抜けてみたり、気の許せそうな小魚の群を追いまわしてみたり、引力から脱した身の軽さを、せいぜい楽しんでまわることだろう。自分が軽いと、世界までが軽くなったように感じられる。胃下垂、首や肩のこり、膝の関節の痛み、足の甲のむくみ、そういった引力に起因する肉体上の苦痛からも、完全に解放されて、すくなくも十年は若返ったように、はしゃいでまわる。軽さが、酒のように、この夢の魚を酔わせてしまうのだ。
だが、本物の魚ならいざ知らず、いずれ酔いは醒めるし、飽きもくる。のろのろとした、時の流れのなかで、退屈はやがて耐えがたいものになるだろう。退屈しきった贋魚の、苛立つ気分を想像するのは、そう難かしいことではないはずだ。五感が麻痺してしまったような、無抵抗感。せっかく自由な、身の軽さも、やがて次第にうとましくなる。まるで全身ぐるぐる巻きにされ、魚の形をした拘束衣のなかに押し込まれたようなものだ。足の裏が、あの踏みなれた地面の抵抗感を求めて、触手をのばす。関節という関節が、それぞれ分担していた筋肉や組織の重さを、なつかしがりはじめる。むしょうに歩きたいと思う。それから、ふと、歩こうにも肝心の足がないことに気付いて愕然とする。
そう言えば、無いのは、なにも足ばかりではなかった。ほら、耳もない、首もない、肩もない……それに何より、腕がない。このたとえようもない欠乏感。たしかに腕をもがれたせいに違いない。どんな好奇心だって、けっきょく最後は、手で触って確かめてみるのでなければ本当の満足なんてありえないのだ。とことん、相手を知りつくそうと思えば、押してみたり、つまんでみたり、曲げてみたり、むしってみたり、指で納得するのでなければ、完全とは言いがたい。思いきり、触ってみたり、撫でまわしたりしてみたい。我慢のならない鱗の袋。引裂いてしまおうと、全身を力ませてみたりもするのだが、せいぜい鰓を全開にし、背鰭をぴんとおっ立てて、胡椒色した糞の紐を、数センチほど垂らすくらいがおちだった。
爪先まで充血するほど身もだえながら、贋魚はふと、自分が贋魚かもしれないという、致命的な疑惑に辿りつく。いったん疑いはじめてみると、たしかに奇妙なことだらけだ。手足のことばかりでなく、生れつき声帯だってあるはずもない魚の身で、こんなふうに言葉を使って悩んでいる。むず痒いような二重感覚。
もしかすると、こうしたすべてが、夢のなかの出来事なのではあるまいか。
それにしては、長すぎる夢。いつから始まったのか、もう思い出せないほど昔から続いている、長い夢。これでも何時かは、覚めてくれることがあるのだろうか。
夢の中で、夢であることを、自己証明する方法……初歩的だが、幾度も経験済みだし、確実なのは、手の甲を思いきり抓り上げてみることだ……だが、あいにくなことに、抓る爪もなければ、抓られる甲もないのだった。それが駄目なら、いさぎよく、断崖から身をおどらせてみたらどうだろう。これも何度か成功した記憶がある。たしかに、それが出来るのなら、手足がなくてもべつに不都合はなさそうだ。しかし、海の魚に、いったいどんな墜落がありえよう。
まったく、魚の墜落なんて、聞いたこともない。死んだ魚でさえ、海面に浮び上ってしまうのだ。空中で、風船が墜落するよりも、もっとむつかしい。墜落は、墜落でも、これは逆墜落だ。
逆墜落……
なるほど、そんな手もあったっけ。反対に、天に向って墜落し、空気におぼれてやればいいわけだ。死の危険が賭けられていることに、変りはない。地上の墜落とおなじことで、夢なら覚めずにはいられまい。
と、一度はそこまで思いつめながら、冷血動物らしからぬ臆病さで、贋魚はなおもためらうのだった。夢のなかで、夢であることを自覚できたときは、すでに夢の出口にさしかかっているのだという。せっかく、ここまで辛抱してきたのだし、もうしばらく様子を見ていても、大勢にさしたる影響はないはずだ。
贋魚は待つことにした。意志までが、海の青さに染って、青ざめてしまったようだった。
さらに、何日か、何週間かが経ち、贋魚にもやっと決断をせまられる時がきた。嵐がやってきたのだ。大型の熱帯性低気圧が襲いかかって、海を底から揺り動かした。優柔不断で、臆病な贋魚でさえ、なけなしの勇気をはたく気にさせるくらいの高波が立ってくれた。なにも進んで死に急ぐわけではない。はずみで、ちょっと、うねりの一つに身を委せてみるだけのことだ。
いきなり、電気鋸を五十台、横に並べたような波頭が襲いかかった。贋魚をさらって一気に走ると、岸で砕けるはずみに、高く中空にほうり上げた。空気に溺れて、贋魚は死んだ。
ところで、夢は覚めただろうか。いや、貝殻草の夢を、そう甘くみてはいけない。そこが普通の夢とは、まるで違ったところなのだ。贋魚は、夢から覚める前に死んでしまっていたので、もうそれ以上覚めるわけにはいかなかった。死んだ後までも、まだ夢を見つづけなければならなかった。けっきょく、死んだ贋魚は、最新式の冷凍処理を受けたように、いつまで経っても贋魚のままでいるしかないらしいのだ。
嵐の後、海辺に打ち上げられた魚たちのなかには、だから、貝殻草の花にむせながら睡りについた、運の悪い連中がすくなからず混っているはずだという。
しかし、どうしたわけか、ぼくはまだ魚にはなっていない。何度か居眠りを繰返したようだが、いぜんとして箱男のままである。考えてみれば、贋魚も箱男も、そう際立った違いはなさそうにも思われる。箱をかぶって、ぼく自身でさえなくなった、贋のぼく。贋物であることに免疫になってしまったぼくには、もう魚の夢をみる資格さえないのかもしれない。箱男は、何度繰返して夢から覚めても、けっきょく箱男のままでいるしかないらしいのだ。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈約束は履行され、箱の代金五万円といっし
[#地から1字上げ]ょに、一通の手紙が橋の上から投げ落された。
[#地から2字上げ]つい五分ほど前のことである。その手紙をこ
[#地から2字上げ]こに貼付しておく〉
[#ここから7字下げ]
┌──────────────────────────┐
│ │
│ ………………………………………………………… │
│ あなたを信頼します。領収書はいりません。 │
│ ………………………………………………………… │
│ 箱の始末も一任します。潮が引ききる前に、箱を │
│ ………………………………………………………… │
│ 引き裂いて、海に流してしまって下さい。 │
│ ………………………………………………………… │
│ │
│ ………………………………………………………… │
│ │
└──────────────────────────┘
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈……………………〉
妙なことになってしまった。何度も繰返して、彼女の手紙を読み返してみた。何か別の読み方がありうるだろうか。文字どおり解釈する以外、いまのぼくには不可能だ。三つに折ったその緑色の罫の便箋を嗅いでみた。微かにクレゾールの臭いがしただけだった。
やってくるのは医者だと、ぼくは勝手に決め込んでいた。いろいろと練った作戦も、すべて医者の襲撃を前提にしたものだった。ところが、やって来たのは彼女自身だったのだ。そう、彼女は自分でやって来た。彼女自身がやって来た。彼女が自分で……まったく、わけが分らない……いや、分っている……要するに、約束が約束どおりに履行されただけの話だ。何をうろたえているのだろう。まるで彼女の裏切りを期待してでもいたようじゃないか。そうかもしれない。せいぜい裏切った彼女くらいが、ぼくにはふさわしい。約束が守られたりすると、かえってまごつかされてしまう。それとも、待てよ、何か重大な見落しがあったのかもしれない。たとえば彼女の立場……それに、役割についても……もう一度根本的に考えなおすことにして……
[#ここから2字下げ]
……と、書きつづけることさえ、もう意味がないように思う。ぼくは殺しも殺されもしなかったのだから、あらためて釈明すべきことは何もない。
宛名が分らず、宙に迷ってしまった手紙……破り捨ててしまおうか。
[#ここで字下げ終わり]
まあ落着けよ。そらここに、五万円。とにかく受取ってしまった以上、もうノートを始末したくらいでは間に合わないんじゃないか。彼女が要求しているのは、「箱」の始末なのである。この五万円で箱の所有権はすでに彼女の側に移ってしまったのだ。彼女の意志を尊重するつもりなら、こちらも約束どおり箱を始末すべきだろう。それにしても腑に落ちない。そんな事をして、いったい誰がどんな得をするというのか。ただ海に捨てるためだけに、五万円……いくらなんでも張込みすぎだ……それともぼくが、そんなに目障りだったのだろうか。自惚れちゃいけないよ、動機は当然、なにかもっと実際的なものだったはずである。五万円支払っても、損した気持にならずにすませられるだけの、何かはっきりした現実的な理由……
さっぱりだ。五里霧中もいいとこである。思い切って、こんな五万円は突っ返してしまってやろうか。それくらい、出来ないと思っているなら、とんだ見込み違いだぞ。
しかし、たとえば、こういう解釈は成り立たないだろうか。彼女が箱を医者に渡すまいとして企んだ計画だった場合だ。医者は何かの理由でひどく箱を欲しがっていた。最初のうちは、彼女も医者の計画に同調していたかも知れない。あるいは、同調するふりをしていた。だが、いよいよ実行の時がせまるにつれて、疑念がつのりはじめる。どう考えてみても、いい結果が生れるとは思えない。だが、いくら意見をしてみても、医者はいっこう聞き入れてくれようとせず、もはや妨害するしかなくなった。さいわい彼女は、当の箱男から、一方ならぬ好意をよせられているようである。先手を打って、箱男自身に、箱の始末をまかせることにしたらどうだろう。箱さえ無くしてしまえば、医者が何をもくろもうと、事前に封じ込んでしまえるわけである。
そう……なんとなく筋が通るような気がしないでもない……医者の狙い如何によっては、五万円くらいの価値はありそうだ。その妨害の動機が、彼女の利己心によるものか、医者をかばう気待から出たものかによって、事情はかなり違ってくるが、すくなくも医者との間に意見の対立があったことだけは認めてもよさそうである。だとすれば、まあ、悪くない兆候だとも言えそうだが……
だからと言って、このままあっさり箱を片付けてしまう気にはなれない。そこまで気を許すには、まだ材料が不足している。せめてもういちど彼女の真意をただしてからにすべきだろう。それくらいの権利はあるはずだ。それに、はっきり言って、ぼくは不満である。彼女が自分で出向いて来てくれたこと自体は、けっこうだが、あまりにも事務的すぎた。堤防を降りて来ようともしなかったのだ。例の軽合金製、五段変速機つきの自転車にまたがって(貨物船の照明を受けて、鍍金したように光るレインコート……レインコートをとおして、くっきり透けて見える体の線……それから、ぼくを武装解除してしまった、あの膝やふくらはぎの動き……)さっさと「水遊び禁止」の立札を通過すると、あわてて送ったぼくの懐中電燈の合図も無視して、そのまま県道に出てしまったのだ。やや間があって、二メートルばかり先の地面に、光の輪がふるえながら滑り込んできた。橋の欄干ごしに照した、彼女の懐中電燈の光だった。だが、仰向いて見るわけにはいかない、箱男にとってはいちばん苦手な死角なのである。つづいて物音……ふるえる光の輪から、わずかに外れた所に、何かが落ちてきた。石を重しに入れた、ビニールの袋だった。その袋の中に、問題の手紙と、まるめた一万円札が五枚収まっていたというわけだ。そのまま彼女は引返していった。つい目と鼻の先まで来ていながら、声も掛けずに行ってしまった。ふくらはぎの動きが闇に消え、濡れたレインコートのきらめきも消え、最後に赤い自転車の尾燈が消えた。手紙を読み、札を数えていると、急に聞えるはずのない霧雨の音がしはじめだ。頭の中を流れる血管の音かもしれなかった。
五万円か……彼女にだけは教えておいてやりたいものだ……出す方にとっては、散財かもしれないが、箱男にとっては取るに足らない金額なのである。だいたい箱男について、無知すぎるよ。箱男にとっての、箱の意味を、軽く考えすぎている。強がりなんか言っているわけじゃない。ただの強がりだけで、三年ものあいだ箱生活を続けたり出来るものか。甲殻類のヤドカリだって、いちど貝殻生活をはじめると、胴から後ろが殻に合わせて軟化してしまうので、無理に引出されると千切れて死んでしまうということだ。ただ元の世界に引返すためだけに、箱を脱いだりするわけにはいかないのである。箱を脱げるのは、昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる時なのだ。彼女との出会いで、もしやその機会をつかめたのかと、ひそかに期待していたのに……
もっとも、箱男という人間の蛹から、
どんな生き物が這い出してくるのやら、
ぼくにだってさっぱり分らない。
[#挿絵]
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈鏡の中から〉
雨は小降りになったが、風が出てきた。風が息づくたびに、雨脚のしぶきがクラゲの傘のようにひるがえる。見透しもさっぱりよくならない。しかし、建物の位置のせいだろう、目指す坂の上の病院の赤い門燈だけは、何時でも何処からでも見えていた。暗い緑につつまれて、眼の中のしみ[#「しみ」に傍点]のようだった。もう何度か通った道なのだが、箱をかぶって歩くのはこれが初めてである。それにしては、ひどく遠く感じられた。ふつう、箱の中にいると、距離のことはあまり苦にならないものなのだが。
誰でも、風景に接した場合、つい自分に必要な部分だけを抽き取って見がちなものである。たとえば、バスの停留所はよく憶えていても、そのすぐ隣の何倍もある柳の木のことはさっぱり思い出せない。道に落ちている百円玉は、いやでも眼につくが、錆びた折釘や路肩の雑草になると、無いも同然だ。おかげで、たいていの道なら、迷わずにすませられるのである。ところが、箱の窓を額縁にして覗いたとたん、すっかり様子が違ってしまう。風景のあらゆる細部が、均質になり、同格の意味をおびてくる。タバコの吸殻も……犬の目脂《め やに》も……カーテンが揺れている二階屋の窓も……ひしゃげたドラム罐の皺も……ぶよぶよした指に食い込んでいる指輪も……はるかに続いている鉄道のレールも……濡れて固まったセメント袋も……爪の垢も……しまりの悪いマンホールの蓋も……でも、ぼくはそんな風景が大好きだ。遠近が定まらず、輪郭が曖昧で、ぼくの立場とも似通っているせいかもしれない。ごみ捨て場のやさしさ。箱から覗いているかぎり、どんな風景も見飽きることがない。
だが、病院に向うその夜の坂道にかぎって、箱の効果はさっぱりだった。いつまでも近付いてくれない赤いランプ。閉じた眼の奥の血の色のしみ。砂利道なので、他よりは黒くないというだけの足元。細部が一切省略された、ひとをせき立てるような風景。あとはただ、仄白い空(そう言えば西の方から雲が切れはじめていた)。暗すぎる夜のせいかもしれない(だから夜は嫌いなのだ)。それに、たぶん、目的がはっきりしすぎていたせいもあるだろう。
それでもぼくは箱をゆすって、せっせと歩きつづけた。しかし箱は道を急ぐようには出来ていない。風通しが悪いので、すぐに汗ばむ。うるんだ垢で、耳のなかまで痒くなる。前かがみになるので、箱が傾き、腰に当って音をたてる。いかにも紙製品らしい脆そうな音だ。
ふいに荒々しいけものの息づかい。雑種の大型犬が、乱暴に肩をぼくの膝にこすりつけ、すぐに喉を鳴らして駈け去った。濡れた背が赤く染って見えた。顔を上げると、赤い門燈があった。霧がめくれて、閉じた鉄門が見えた。夜光塗料を塗った夜間専用の呼び鈴。だがベルを鳴らして開けてもらうつもりはない。医者とは顔を合わせたくなかった。生垣をまたいで、庭に入り込む。犬は先まわりして待っていたが、べつに吠えようとはしなかった。あらかじめ餌をやって手なずけておいたのだ。窓の一つから、ぼんやり明りがもれていた。伸びほうだいの雑草が、足にからまる。昔の花壇の跡らしい。仕切りの石につまずくと、勘違いした犬がじゃれついてきた。立止って一と息いれると、汗が吹出し、眼にしみた。
彼女の部屋は、建物の裏にまわって、左から二つめの窓である。あれからせいぜい一時間足らずだし、多分まだ起きているはずだ。睡ったとしても、ほんの寝入りばなだろう。寝呆けて騒ぎ立てられたりする心配はまずなさそうである。五万円を返して、約束を取消してもらい、出来れば窓越しにでもいいから、よく話し合ってみたい。彼女の出方いかんによっては、まるっきり違った方法で、力になってやれないとも限らないのである。
それはそうと、あの庭に面した窓の明りは、なんだろう。あそこが待合室で、次が診察室で、さらにその奥……何か検査の道具でも置いてあるのだろうか……もう十二時をまわっているし、いずれ消し忘れだろうとは思ったが、なんとなく気になった。念のために、いちおう覗いておくことにした。
下半分に磨ガラスをはめた腰高の窓なので、天井しか見えなかった。スタンドらしい下からの照明が、放物線を描いて斜め奥にひろがっている。それ以上を確かめるには何か足場が必要だ。まさか明りを点けて探すわけにはいかない。運よく小物容れの底の、自動車のバックミラーのことを思い出した。いずれ役立ちそうな気がして、捨てずに取って置いたのだ。汚れを拭ってから、斜めにかざし、下から覗き込む。狭い窓から、片腕をのばし、その隙間から見上げるというのは、かなり骨の折れる作業である。だが骨を折っただけの甲斐はあった。予想に反して(ぼくは上下が転倒して、見えるものと決め込んでいた)、ほぼ正像に近い角度で全体を見渡すことが出来たのだ。
最初に見えたのは、大きな仕事机の角に据えられた電気スタンドだった。それから、白っぽい、大きな広がり。鏡が安定するにつれて、その白が、壁とドアに分離する。塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった壁とドア。窓ぎわの、いかにも病院らしい腰高のベッドも、やはり白だ。多少くすんではいるが、古雑誌と本ではちされそうになっている書棚も、同じく白で塗られている。広いばかりで、おおよそ無趣味な部屋だが、仕事机の横にはステレオ装置などもそなえてあり、どうやら医者の書斎、兼、居間といったところらしい。
いや、部屋のことなど、どうでもよかったのだ。後になって記億を整理してみたら、そんな、具合だったというまでの事である。部屋には二人の人物がいた。ぼくは終始、その二人に気を奪われっぱなしだった。他のことは、嵌木細工の断片を、昆虫のようにただ複眼的に写し取っているにすぎなかったのだ。
一人は、彼女だった。いずれ同じ建物の中のことだし、べつに彼女がそこに居たこと自体を、問題にしたわけではない。裸だったのである。素っ裸のまま、部屋の中央付近にこちら向きに立って、誰かに何かを話しかけていた。
話しかけられているのは、箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶって、ベッドの端に掛けていた。ぼくの位置からは、背中と右側面しか見えなかったが、大きさはもちろん、よごれ具合から、消えかかった商品名の印刷の跡まで、ぼくのと寸分違わないダンボール箱なのだ、計画的に真似た、ぼくの贋物にちがいない。なかみは……むろん医者だろう。
[#カッコ内、縦書き横表示](ふと思った。何処かで、これとそっくりな光景を見た憶えがある。)
ありありと、手触りさえ思い浮べられそうな、裸の彼女と二人きりの部屋……しかし、何時、何処で……いや、騙されてはいけない、これは記憶ではなく、願望の幻なのだ。今こうしてぼくがここを訪ねたことだって、ただ五万円の返却だけが目的だったとは信じられない。内心どこかで、こうした場面の実現を、ひそかに願っていたはずである。そう、裸の彼女を覗くこと……彼女の裸を、さらに脱がせて、裸以上の裸が見えてくるまで、覗きつづけること……
[#ここから2字下げ]
(欄外の書込み・赤インク──なぜぼくはこうも覗くことに固執するのだろう。臆病すぎるせいだろうか。それとも、好奇心が強すぎるせいだろうか。考えてみると、しじゅう覗き屋でいつづけるために、箱男になったような気もしてくる。あらゆる場所を覗いてまわりたいが、かと言って、世間を穴だらけにするわけにもいかず、そこで思いついた携帯用の穴が箱だったのかもしれない。逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。どちらなのだろう。)
[#ここで字下げ終わり]
彼女を覗きたいという欲望は、たしかに箱の容積を超えかけていた。うずいている歯茎の腫れを、口いっぱいにほおばっている感じだ。しかし、ぼくだけを責められても困る。彼女自身の口からも、それとなく匂わせられていたことなのだ。箱に対して医者から支払われる五万円とは別に、カメラマンとしてのぼくに対する、彼女からの特別手当がほのめかされていた。
肩の手当の後で、切々に聞かされた身上話を綴ってみると、おおよそ次のようになる。彼女は、見習看護婦として今の職につくまでは、貧しい画学生で(才能の有無はこの際問わないことにする)、個人経営の画塾や、アマチュアの画家クラブや、それに類した連中相手のモデルをして生計を立てていたという(悔恨に似た苦い味)。二年前に、この病院で妊娠中絶の手術を受けた(彼女がぼくの中で生理的な存在になりはじめる)。予後が思わしくなく、三か月ばかり無料で入院させてもらっているうちに、それまでいた看護婦がやめ、代りになんとなく居ついてしまうことになった(捉えにくく、ひとを苛立たせる性格の一端)。仕事は忙しくなったが、じゅうぶん見合うだけの待遇が保証された。特別な急患でもない限り、夜や休日には絵を描く時間さえあった。だが、収入のことを抜きにすれば、モデルは、いぜんとして彼女のお気に入りの仕事だったらしい。べつに怠けられるからではない、と無邪気な調子で言い張った。忙しくはないが、けっこう根気もいるし、疲れる仕事なのだそうである。それでも、モデルになって裸をさらす時の、胸騒ぎのようなものが、生活の張りになり、創作意欲を刺戟してくれるのだという(嘘だ、とぼくは思った。ちなみに彼女の絵は完全な非具象で、モデルなどとはなんの関係もない)。もし、医者の強い反対さえなければ、いまでも続けたそうな口ぶりだった。
カメラマンというぼくの職業に、いくら関心を持ったからといって、見えすいた挑発だ。彼女はすでに、肩の傷口から出た空気銃の弾や、不器用に切りそろえた髪の形などから、ぼくが変装を脱いだ箱男であることを見抜いていたはずである。しかしぼくの眼は、ついその不自然さを見過した。保護者の寛容さで、彼女の傷口を舐めまわしているような気持でいた。そういう時には、眼から唾が出る。他人に毀される前に、自分の手で毀してやろうと、つい気負い込んでしまうのだ。上下の瞼には歯が生える。彼女を齧る妄想で、ぼくの眼球は火照り、勃起してしまうのだ。
ある意味では、その妄想が、実現してくれていたわけである。裸の彼女……覗いているぼく……そう、たしかにぼくは裸の彼女を覗いていた。ただし、条件つきの裸。すでに他人──それもぼくの贋物──に覗かれてしまっている裸なのだ。満足どころか、よけいに嫉妬心を掻き立てられる。喉がからからになっているとき、自分が水を飲んでいる絵を見せちれたって仕方がない。ついでに、覗いているぼくを、さらに覗いているぼく。天井に浮んで、自分の死体を見下ろしながら、絶望に身もだえしている夢を思い出していた。ぼくは恥じ入り、自分で自分を嘲笑う。腕の力が脱け、鏡の角度が狂って、部屋が飛び去った。反対側の手に持ちかえて、こんどは鏡の一端を窓の桟に押しつけ、固定する。蜃気楼だと分っていても、喉が渇けば幻の水に向って走らずにはいられないのだ。
二人は、四歩ほどの距離をへだてて、向い合っていた。彼女の態度はくつろいでいて、残念ながら、両者の間に敵対関係などまったく予想できない。一時間前の出来事を、彼女はもう報告済みなのだろうか。もし二人がぐるだったとしたら、ぼくはさぞかし、いい笑いものになったことだろう。約束どおり、半日橋の下で渦を眺めて暮し、犬の褒美のように五万円を投げ与えられるのを、ただ待ち受けていた馬鹿正直な箱詰め男……箱頭……便所箱……箱入り男……箱回し……
しかし、裸の彼女から、そんな意地の悪さや企みは、みじんも感じられない。いぜん屈辱感はあっても、憎しみの感情はまるで湧いてこないのだ。ぼくはひたすら追いすがる。贋物に騙し盗られた、ぼくの水差し。想像していたよりも、はるかに魅力的な裸。当然のことだ、現実の裸には想像が追い付いたり出来るわけがない。見ている間だけしか存在してくれないから、見たいと思う欲望も切実になる。見るのをやめたとたんに、消えてしまうから、カメラで撮ったり、キャンバスに写したりしなければならないのだ。裸と肉体とは違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。肉体は彼女のものであつても、裸の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退るつもりはない。
左足の踵に支えられて、軽々と水に浮んでいるような裸。手品師の指先に、ぴんと立っている不思議な紐のようだ。右足の指は、左足の甲に重ねられ、まげた膝がわずかに外に開いている。いったいあの脚の、何がこれほどぼくをひきつけるのだろう。生殖器を暗示しているからだろうか。たしかに現代の衣服の構造からすれば、性器は胴よりも、脚に属していると考えるべきかもしれない。だが、それだけだったら、もっと性的な脚がいくらもある。箱暮しをしていると、もっぱら下半身で人間を観察するようになるので、脚には詳しいのだ。脚の女らしさは、なんと言っても、その曲面の単純ななだらかさにあるだろう。骨も、腱も、関節も、すっかり肉に融けてしまって、表面にはもうなんの影響も残さないのだ。歩く道具としてよりは、性器の蓋としてのほうが(嫌味ではない、嫌味なんか言うわけがないだろう、大事な容器には当然「蓋」がいる〉、たしかにずっとよく似合う。蓋はどうしても手を使って開けなければならない。だから女っぽい脚の魅力は(この魅力を否定する奴は偽善者だ)、視覚的であるよりも、むしろ触覚的にならざるを得ないのだ。
かと言って、いかにも視覚的な彼女の脚が、男性的だというわけではない。引力に逆らいながら、重い荷物を背負いつづけた酬いで、男の足は節くれ立ち、めり込んだ関節が横にひろがって、実用本位の歩行機械になる。しかしいくら探しまわっても、彼女の脚には体重を支える努力の跡など、まるで見られない。遠慮なく、しなやかに伸び切った、あえて比較をすれば声変りする前の少年の脚。ふと、歩きくたびれた男の憧憬をさそうもの……たとえば、鳥の身軽さ……引力から解放された自由な歩行感覚。女のように、歩きやめたのでもなければ、男のように、逆らいつづけているのでもない、気儘な脚。速い逃げ足は(性に劣らず)、どうしても追手を挑発しがちなものである。べつに彼女の脚に性的魅力が欠けているというわけではない(蓋なしの性だってけっこう挑発的だ)。ただ、性に辿り着いても、それだけで終ったことにはならない何かが感じられるのだ。ぼくは彼女の脚に、脚の理想を探り当てたのだろうか、それとも、脚の理想に、彼女の脚をこじつけようとしているだけなのだろうか……
斜めにかしいでいる、白い球形。脚とくらべると、さすがに触覚的な尻。そこに重心が掛かっているせいだろう、一本深い襞が刻まれている。持上った右の腰骨が、鳥の胸骨のような滑らかなカーブを描いて浮き出している。股の付け根から湧いている、淡い煙。その影のような先端が、こまかく風になぶられている。そのくせ、無造作に掻き分けられた見るからに軽そうな髪の毛が、いっこう動かないところを見ると、風は下の方だけで吹いているらしい。送風機の調節が悪く、冷気が床を這って流れているのだろう。腰を引き気味にしているので、腹部がゆるやかにせり出し、ひどく無防備な感じがする。反対に肩は後ろに大きくたわみ、そこから垂直に立った項《うなじ》が、蝶番を外したように前に折れた頭を支えている。いかにもくつろぎ切った姿勢だが、中に一本細い鋼鉄の芯が通っている感じだ。右手を臍のあたりに、左手をみぞおちのあたりに、自分で自分を抱き込むような形で廻している。乳房は、胸をそらせているので、実際よりも小さく見えているのかもしれない。その乳房の下に、赤くブラジャーの跡が残っている。そう言えば、腰骨の上にも、下着の跡らしい筋が見えている。どうやら、脱ぎ捨ててから、まだあまり問が経っていないらしい。脱いだ衣類は、すぐ足元にまるめてほうり出してある。看護婦用の白衣の上で、黒い小さな下着が、死んだ蜘蛛のようにだらりと手足をのばしている。
彼女が軽く下唇を噛んだ。しかし唇は、横に大きくのびて、身をかわす。その口いっぱいの笑いを見て、ぼくの心は薄い悲しみの刃でそぎ落される。媚をふくんだ上眼づかいが、贋箱を見上げる。あいつが何か(どうせいい加減なことだろう)言ったらしく、顔を上げた彼女が、二言、三言、何か答えたようだ。鋼鉄の巻尺のように、背筋が伸びる。伸びたはずみが、爪先にかかり、彼女はそのまま箱に向って歩き出す。違う、と思わず心のなかで叫んでいた。横隔膜が濡れた革のようにこわばって、息がつまり、頭の生え際からあふれた汗の筋で、ぼくの顔は熟れすぎたメロンのようになる。彼女が箱から何かを受取った。飲みさしのビールのコップだった。贋の箱男と同じコップに口をつけるというのは、どうにも気に入らない。全身の筋肉が、点火を待つばかりになっていたのに、窓ガラスを破って飛込んで行かなかったのは、その彼女の裏切りのせいもありそうだ(箱男的言い逃れの見本)。彼女は半分ほどのビールを、うどんでもすすり込むような不器用な口つきで、なんとか飲みほした。コップを箱に戻して、体をゆらしながら、大股で後ずさる。贋の箱男が、箱から出ないと分って、ほっと救われる思いだった。肩から、腰にかけての緊張がゆるんで、糊をはがすような音をたてた。彼女は元の位置まで戻って、何か口早に喋っている。急に口をつぐんで、天井を見上げ、両手の腹で腰をさすりはじめた。再び会話の主導権を箱男が握り、彼女はあまり面白くないらしい。
とつぜん彼女が、踵を軸にして、くるりと後ろ向きになった。それから一気に、膝と肘を突き合せるようにして、床の上に四つん這いになり、腰を高くかかげる姿勢をとったのだ。スタンドの笠を通さない生の光が、彼女を触覚的な球体に誇張する。胴と、上腿と、上膊でつくられた逆三角形に、中からぴったり乳房の蓋。眼だけを残して、ぼくの全身が萎えはじめた。贋の箱男が前のめりになって、ゆっくり前後に揺れていた。
いきなり足元の地面が、こね上げられたようにうねり、ぼくは重心を失って地面に膝をついた。音をたてまいとするくらいの分別はまだ残っていた。うねったのは、地面ではなく、退屈して膝の間に割込んできた犬だった。こっそり犬を追い払うのはむつかしい。こちらが音をたてないのは勿論、犬に声を出させてもまずいのだ。犬はますます興奮して、湿った石鹸のような鼻面を力まかせに押し付けてくる。一緒に箱の中に入り込むつもりらしい。あきらめて、取って置きの牛罐に小さく穴を開け、汁を嗅がせ、一と舐めさせてから、出来るだけ遠くにほうってやった。かわいそうだが、犬は明日の朝まででも、あの罐詰と格闘しつづけることだろう。
急いで窓ぎわにとって返す。鏡の表面が、手垢で曇っていた。手早くシャツの裾で拭って、構えなおす。情景は一変していた。さいわいぼくが懸念していたようなことは、何一つ起きていなかった。贋の箱は、べつに引裂かれもせず、つぶされもせず、同じ姿勢でベッドの端に掛けつづけていた。もっとも、箱をかぶったままでも、彼女を犯すことは出来たかもしれない。前にペニス用の小穴をあけ、多少無理な姿勢を覚悟すれば、不可能ではないはずだ。しかしそのためには、彼女の協力も必要だろうし、たっぷり時間もかけなければなるまい。犬を追いはらうのに、そんなに時間をかけてしまったのだろうか。そうかもしれない、とにかく彼女は、もう裸ではなかった。部屋の隅で、仕事机にもたれるようにして、タバコを吸っている。長すぎる白衣に、きちんとボタンまで掛け、もう脚も見えない。脚の見えない彼女は、妙によそよそしくて、別人みたいだ。タバコは三分の一ほどに減っていた。険のある、疲れた眉。白衣のポケットからのぞいている浣腸器。そのゴム管にからめた、細い筋張った指。その指先の、銀のマニキュア。何分か前に、彼女が裸だったことさえ、もう信じられないくらいである。それともすべてが、ただ鏡の中だけの幻影にすぎなかったのだろうか。
どこか植込みの向うで、くわえた罐を地面に打ちつけている、せつなげな犬の息づかい。首筋をこすると、垢のかたまりが際限もなくよれてくる。その垢を集めて団子につくりながら、ぼくは気が滅入ってしかたなかった。絶対に起りえないし、起ってほしくないと思っていたこと──箱に彼女が犯される場面──が、事実起らないでしまったことに、なぜかひどく傷つけられていたようだ。あまりしげしげと裏をかかれすぎたせいかもしれない。
タバコをもみ消しながら、彼女は頭をゆすり、空いている方の小指で耳の穴を掻いた。正面からスタンドの光が当ると、両眼の距離が開き、いくぶん斜視気味に見える。疑わしげに歯を見せて、口だけで笑うと、意地っ張りの子供の顔になった。小さく首を左右に振って、口を閉じると、突き出した下唇が意外に肉感的だった。それから軽く上体をしなわせ、見えない紙の風船を蹴る仕種。そのまま部屋を横切って、ドアに向う。歩き出してみると、やはり彼女だ。めまいのような身の軽さ。そう言えば、いちばん手近な無重力感は、墜落感だったっけ。贋箱男がベッドを這い降りた。彼女は振向きもせずに把手を引き、くるりとドアの向うにまわり込んで消えた。追いすがろうとする贋箱男は、肢をもがれた昆虫に似ていた。ゴム長をはいていないだけで、腰のドンゴロスまで、ぼくのとそっくりである。ドアが閉り、贋箱男も立ち止った。深追いする気はないらしく、箱をゆすって向きを変え、下着を濡らしたようなすり足で引返してくる。箱の正面が見えた。これもぼくのと寸分違わない覗き窓に、仕掛けも色も寸分違わないビニール幕(それ以外には、どんな小穴も──たとえばペニスのための穴も──開いてはいなかった)。
それにしても、手のこんだ複製を作ったものである。ただの物好きにしては念が入りすぎている。何をたくらんでいるのだろう。この分では、いくら五万円を突き返そうと意気込んでみても、そう素直には応じてもらえそうにない。五万円を受取った、あの瞬間から、本物の権利は向うに移り、ぼくの方が贋物になったと考えるべきかもしれないのだ。部屋の対角線にそって、玩具のロボットのようなよちよち歩きで、往き来しているぼくの影。鏡に映った自分の像が、こちらの、意志を無視して、勝手に動きまわるのを見るのはあまり気持のいいものではない。馬鹿な男だ。なぜさっさと脱いでしまわないんだ……酔っているのかな……そんなことを続けていると、いまに本当に出られなくなってしまうぞ。いや、出たくないのなら、出なくて結構。なんならぼくが替りに出てやることにしてもいい。たしかに、それも一つの身の振り方のような気がする。彼女があんな取引を思いついた、そもそもの狙いも……あえて希望的観測をすれば、あいつをこんなふうに箱に閉じ込めてしまうことだったのかもしれないのだ。そして彼女は、自由になる。ぼくもこれを機会に、箱と手を切ってみることにしたらどうだろう。
ひとまずここは引揚げることにした。結論を急ぐばかりが能ではあるまい。決心しさえすれば、箱を脱ぐくらい何時だって出来ることだ。ゆっくり気持をととのえてから、また明日にでも出なおしてくればいい。立去る前に、一と目彼女の部屋を覗いておくことにする。玄関に通ずる砂利道(土に埋れて音もしない)を横切り、身の丈ほどもある朝鮮菊の藪を、箱を斜めにして掻き分けて行くと、草いきれからの連想だろうか、しきりと巻貝の内側のような窪みがちらついた。彼女の腋の下かもしれない。だが、建物の裏手は北向きで、どの窓も小さく高かった。とくに彼女の窓は、厚手のカーテンにさえぎられ、かろうじて明りは見分けられるが、それ以上のことは望めそうにない。それでも未練がましく、ぼくは軒下にひそんで何かを待ちつづけた。風が樋をゆすって、大粒の雫を降らせ、箱を太鼓のようにひびかせた。それでも彼女の部屋からはなんの反応も返ってこなかった。
むろん箱から出るだけなら、なんでもない。なんでもないから、無理に出ようとしないだけのことである。ただ、出来ることなら、誰かに手を貸してほしいと思うのだ。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈別紙による三ページ半の挿入文〉
[#ここから2字下げ]
(紙が違うだけではない。はじめて万年筆が使用され、字体もあきらかに違っている。しかし、いずれ誰かが、別のノートにまとめて清書するとすれば、紙も字体も簡単に統一されてしまうはずだ。そう神経質に考えることもないだろう。)
[#ここで字下げ終わり]
──さてと、それから?
──喉が、からから……
──そのコップ、ひびが入っているぞ。
──平気。
──それで?
──脱いだわよ、約束どおり……
──明りのことを聞いているんだよ。
──ビール、これっきり?
──問題は、脱いでいるあいだ、どの程度に暗かったのかということさ。
──完全にまっ暗。ブラジャーを外すのに、すごく手間取ったくらい。
──ブラジャーと明りは関係ないだろう。どのみち手探りじゃないか。
──それは、そうだけど……
──ま、いいよ。それから?
──じれちゃって、ブラジャー外すの手伝うなんて言い出して聞かないの。
──妙だな。
──どうして?
──まっ暗なんだろう。てこずっているのが、ブラジャーだってこと、なぜ分ったのかな。
──分るんじゃない、それくらい、なんとなく……
──それで、手伝わせたってわけか。
──まさか。
──なぜ?
──約束だったじゃないの、絶対に触らせないっていう……それにわたしの手、ほら、こんなに長いのよ、背中で握手が出来るぐらい……
──けっこう。つまり、暗いなかで服を脱ぎ、脱ぎおえてから、明りをつけた。そういう事なんだね?
──だと思う……
──じゃ、注射は?
──したわ、もちろん。
──裸で?
──手探りじゃ、アンプルも切れやしないじゃないの。
──裸は見せるだけで沢山。なにも裸で注射まですることはないよ。
──同じことじゃない。
──大違いさ。
──そんな大きな声、たてないで。
──いいかい、服を脱ぎかけの時のほうが、脱いでしまってからよりも、ずっと剥き出しの裸なんだ。分るだろう。注射だって同じ理屈さ。何かしている裸は、裸以上の素っ裸なんだ。知らなかったじゃ、済まされないんじゃないかな。
──分ったわ、これからは気をつけます。
──最初からもう一度、順序どおりに繰返してみてごらん。
──だから、服を脱いで、明りを点けて……
──その前に、明りを消して、だろう?
──だから、明りを消して、服を脱いで、明りを点けて、それから注射をしてやりました。
──それにしても珍しい話じゃないか、そのあいだ、一と言も喋らずとはね。
──そういうわけじゃないけど……
──困るな、勝手な省略は。
──大したことは言わなかったはずよ……そうね、最初は、天気のことだったっけ……こんなふうに、わたしの髪に触ったりしながら……
──手は使わせない約束だったはずだぞ。
──だって、髪の毛だけよ。
──同じことさ、何処だって。
──でも、偶然触っただけかもしれないし……
──かばうことはないだろう。
──ちょうど、枕元のスタンドを点けようとして、かがみ込んだときだったわ。
──スタンド?
──注文されたの。
──何を?
──上からの光だけじゃ、よく見えない部分があるんだって。
──いい加減にしてくれよ。そんなふうに付け上らせていたら、きりが無くなっちゃうぞ。
──そうね、気をつけるわ。
──それで、あいつ、なんて言ったのさ?
──雨になりそうだって。わたしの髪が、小さく捲いて見えるから……
──汗で湿っていただけさ。
──うん、汗びっしょりだった。
──しかし、待ってくれよ、その天気予報より前に、スタンドの明りを注文されたんだろう?
──そう、スタンドのほうが先。
──たよりないんだな。
──ごめんなさい。もう、くたくた。向いていないのよ、こんなこと……ほら、膝がぶるぶる震えて、電気洗濯機の上に乗っかっているみたい……
──じゃ、こっちにおいでよ。洗濯機よりは、ぼくの膝のほうがまだましだろう。
──タバコが吸いたいな。
──夜ふけのタバコは、肌が荒れるぞ。
──裸よりはましよ。
──大げさだな。あんなやつ、男だと思うからいけないんだ。風呂場でパンツを脱ぐようなものじゃないか。
──こだわっているのは、先生のほうじゃない? 根掘り葉掘り、くどすぎるわ。
──ぼくはただ、事実を知りたいだけさ。
──せめて済んだことくらい、忘れてしまいたい。
──よほど忘れたいような事でも、あったらしいな。
──おあいにくさま、先生が想像しているような事なんか、なんにも。
──本当なら、けっこうだがね。
──本当よ。はじめは、目脂を拭きふき、わたしにいろんな姿勢をとらせて、宝探しでもしてるみたいな目つきだった。でも、すぐに注射が効きはじめて、だんだん目つきも怪しくなって、五分と経たないうちに、じっと螢光燈に眼を据えたまま、もう私のことなんか眼中にないみたいなの。
──勝手に夢を見させておけばいいのさ。
──でも、最後に、けっきょく浣腸をさせられてしまった。
──浣腸?
──くどいのよ。よくも飽きないと思うくらい、何度も何度も、同じ質問ばかり……なんだと思う……エレクトしたかどうか、見届けてくれだって。いい加減うんざり。面倒になったから、適当にごまかしてやったの。なんとか八分目くらいにはなったみたいね……とたんに怒りだしたのよ……でたらめは止してくれ、自分のことは、自分がいちばんよく知っている……
──知ってりゃ、聞くことはないだろう。
──それから、せがみだしたの。わたしの汗の臭いを嗅いだら、エレクトしそうだから、もっとそばによってくれって。
──冗談じゃない、あんな去勢豚の、どこが立つっていうんだい。
──うん、立たなかった。そのかわり、泣き出しちゃったのよ。ぎょっとしたわ。それとも泣き真似だったかな。よく見ると、泣いているのは、口の形と、声だけみたいだったし……それに、あの口臭……いくらせがまれたって、せいぜい息をつめていられる間だけよ。でも、けっこう興奮したらしいわ。わたしが、四つん這いになっているのを、お尻のほうから覗くと、たまらないんだって。
──そんな格好までしてみせたのか。
──まさか。注射のせいでしょう。わたしは、ただじっと立っていただけ。向うで勝手に想豫しただけよ。でも、不思議ね……ああいうのが、催眠術かしら……実際にはどこも見られているわけじゃないのに、相手がそのつもりになっていると思っただけで、なんとなくそんな気持になってくるの。相手に見られていると思ったあたりから、すうっと力が抜けて、四つん這いの想像から起上れないのよ。お尻から血の気がひいて、白くなって、感覚がなくなって……石になっていくみたいな感じ……
──それで、浣腸はどうなったのさ。
──うん、その後で……急に泣きやんだと思ったら、早く早くって、まるでニトログリセリンを欲しがっている狭心症の患者みたいな騒ぎ……
──薄気味の悪いやつだな。
──やはりエレクトはしなかったけど、反応はあったみたい。歯をくいしばって、しゅう、しゅう……よく聞いてみたら、ありがとう、ありがとう、だって……
──なぜ断わってしまわなかったのさ。
──先生こそ、大げさに考えるなって言ったばかりじゃないの。
──それもそうだな。
──お願い、もう休ませて。出来たらわたし、先生に、あんなこと全部なんでもない事なんだって、言ってほしかった。
──この辺で、一服するとするか。さあ、おいでよ、そう突っ立ってばかりいないで……靴下なんか、脱いじゃってさ……
──はいていないわ、靴下なんて。
──早くおいでったら……ねえ、あいつは君に、具体的に言って、どんな姿勢をとらせたかったのかな?
──明りを消してよ……
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[#地から2字上げ]〈書いているぼくと 書かれているぼくとの
[#地から2字上げ]不機嫌な関係をめぐって〉
四つん這いになった裸の彼女。胴と、上腿と、上膊でつくられた逆三角形。ぼくの眼球の裏側に焼き付けられ、どこを見ても、視界の向う側につねに投影されている肉色の透かし彫り。全身の毛穴がいっせいに口を開いて、だらりと舌を出している。吐き気がする。異常緊張。空気の不足だ。寝不足のせいもある。
それにしても、何時どうやってここまで辿り着いたのだろう。自分で自分をぺてんにかけているようだ。三時十八分。いまここは湾をへだててT港と向い合った市営の海水浴場。ヤドカリが音をたてて這いまわっている、無人の砂浜。竹竿に巻きついてふるえている、湿った緑の三角旗。いくら帰りがずっと下り坂でも、まさか自然にころがって来たり出来るわけはない。当然それなりの狙いがあったはずである。
じつを言うと、一週間前、傷の手当を受けに病院に寄るために身仕度をととのえたのも、やはりここだったのだ。箱男が、こっそり箱から脱け出すためには、おあつらえ向きの場所なのである。体はもちろん、頭も洗いたいし、ひげも剃りたい、下着やシャツの洗濯もしておきたい。駅や、船着場にも、勝手に使える水道はあるが、ここならずっと人出も遅く、時間さえうまく選べば誰にも見咎められずに、ゆっくり脱衣場のシャワーを使えるのだ。
べつに隠すこともないだろう。そのとおりのことを、つい今しがたやり終えたばかりなのである。体を洗い、洗髪し、ひげを剃り、下着とシャツの洗濯もすませた。風邪をひきそうなので、下着とシャツが乾くまでのあいだ、一応箱の中に引返したが、あくまでも一時しのぎで、ほどなく箱から出るつもりでいる。いやもう半ば出てしまったつもりだ。虫に刺されたところを掻くのに、とりたてて決心はいらない。トンネルの出口は、もうそこに見えている。箱が移動するトンネルなら、裸の彼女はトンネルの出口に差し込む、まばゆい光。ひたすら覗かれることを待つ姿勢。この三年間、ぼくが待ちつづけていたのはたしかにこの機会だったように思う。
おまけに、贋箱男との、不意の出会い。しげしげと、腰をかかげて四つん這いになっている彼女(無防備に、ただ見られることを待つ姿勢)を覗き込んでいた、ぼくの複製。箱をこれほど醜く感じたことはまだなかった。何度みても嫌なのは、霊魂になって天井に浮び、自分の死体を見下ろしている夢だ。いまさら箱に未練なんかあるものか。未練どころか、もううんざりである。出口あってのトンネルなのだ。このノートのことだって、いますぐ、この行を最後に破り捨ててしまってもいっこうにかまわない。
あれはたしか、箱暮しを始めてまだ間もない頃だったと思う。公衆便所と、何かの板塀(露天駐車場かもしれない)のあいだの狭い隙間に、つぶれかかったダンボールの空箱が一つ乱暴に押し込まれているのを見掛けたことがある。住人がいなくなった箱は廃屋と同じで、老朽化も早いらしく、しなびた葡萄色に風化してしまっていた。しかしぼくには、箱男の脱け殻であることを一と目で見分けることが出来た。半分むしられたように見えるのは、覗き窓の跡……そこからめくれ上って貼り付いている、ビニールの幕……皮膚病のような側面の盛上りは、聴音用の小穴の群がふやけたものだろう。表面を剥ぎ取ってみた。濡れた絆創膏をめくる感じで、箱の内側が現れた。ぼくは反射的に隙間に身を寄せて、その脱け殻を通行人の視線からかばってやっていた。
箱の内側には、粘土に押しつけた手型のように、かつての住人(符牒を仮にBとしておく)の生活の跡が、深く裏返しになって刻み込まれていた。たとえば、あてがった割箸を絶縁テープでおさえて、裂け目を補強した跡。いまは変色して鳥の糞色のしみ[#「しみ」に傍点]になってしまった、ヌード写真の切抜き。箱が揺れないように、ズボンのバンドにくくりつけるための赤い紐。覗き窓の下の、プラスチックの小箱。さらに一面を埋めつくしている無数の落書の跡。余白の部分は、それぞれ大小の長方形で、かつてはそこにラジオや、小物容れや、懐中電燈などが吊されていたに違いない。
ひんやり力が脱け落ちる。Bのミイラのひらき[#「ひらき」に傍点]を覗いた感じ。動揺した。ぼくはまだそんな形で、自分の(箱の)死を思い浮べたことはなかった。時が来れば、水滴が蒸発するように、自然に消えてしまえるつもりでいた。しかしこれが現実なのだ。Bの最後は、一体どんなふうだったのだろう。
もっとも、箱の死が、そのままBの肉体的な死だったとは限らない。Bはただトンネルをくぐり抜け、箱を捨てただけだったのかもしれない。そしてこの箱の残骸は、蝶になって(蝶がロマンチックすぎるなら、蝉でもいいし、地獄カゲロウでもいい)飛び立った蛹の殻かもしれないのだ。出来ればそう思いたかった。そうでも思わなければやりきれない。だがそう思うためには、証拠がいる。ぼくは証拠を探して、一面の落書に眼をこらした。あいにくBは水溶性のマジック・ペンを常用していたらしく、解読はほとんど不可能だった。プラスチックの小箱には蓋が付いていた。何か手掛りがあるとすれば、きっとその中だろう。こびりついた蓋をこじ開けると、蝶番がはじけて飛んだ。なかみは、ボールペン二本、柄の取れたナイフ、ライターの発火石、ガラスが落ちた長針だけの時計、それに表紙のない小型の手帳一冊といったところである。手帳の一ページ目は、こんな調子で始まっていた。さいわいその場で、箱の内側(当時はまだかなりの余白が残っていた)に書き写しておいたので、そっくり引用することが出来るのだ。
[#ここから2字下げ]
「そいつの心配牲は度を過していた。ちょっとでも長く部屋を留守にしすぎると、そのあいだに部屋が消え失せてしまうのではないかと、気が気でなく、おちおち外出もしていられないという始末だった。しだいに出不精がこうじた。部屋に閉じこもったまま、一歩も外に出られなくなってしまった。あげくに、飢えるか首をくくるかして、死んでしまったということだ。もっとも、誰もまだ、その死体を確認したというはなしは聞……」
[#ここで字下げ終わり]
次のページをくろうとすると[#底本「ページをくろうとすると」ママ]、手帳は湿気たビスケットのように、指の間でぼろぼろと砕け落ちた。いっしょに手掛りも砕けてしまい、ぼくは未だにあの箱の死骸の意味をはかりかねている。
さて、そろそろ箱ともおさらばとするか。だが、シャツも下着も、なぜかひどく乾きが悪い。雨は上ったが、低いびしょ濡れの雲のせいで乾きが遅いのだ。さいわい箱のなかでは、裸の居心地もそう悪くはない。念入りに垢を落したせいか、体の各部の接触が妙に生々しく、自分が自分に抱かれているような懐かしささえおぼえる。だからと言って、いつまでもこうしているつもりはない。さっさと朝凪が終ってくれればいいのだが。
暗く湿った空と、眼の高さで溶け合っている、黒い海。海は空よりももっと暗い。墜落するエレベーターのような深い黒。眼をつぶってもまだ見えている底無しの黒。海が聞える。自分の頭蓋骨の内側が見える。骨組が露出しているドーム型の天幕。飛行船の内部にそっくりだ。充満した寝不足が、血をにじませながら脈打っている。睡りたい。箱を出る前に、せめて二、三時間でも睡っておきたいと思う。閉じた眼を、さらに強く閉じてみた。波が見えてきた。波は定規で引いたような平行線で、沖に向ってしだいに幅を狭めながら無限に続いている。波には一つおきに、裏と表があり、表の方がわずかに艶やかだ。波間を覗こうとして、前かがみになったはずみに、左右の目玉がぼとりと外れて落ちた。落ちた跡から、ちょっぴり煙が吹き出した。目玉はぶっつかり[#底本「ぶっつかり」ママ]合いながら、波間を転がりつづける。吐き気がしてきた。眼を開けた。海も空も黒々と静止して、すべてが元のままだ。ぼくは湿った固い砂の上でみじめなほど小さかった。眼を開けたまま、不意の睡りに襲われるまで待ってみるしかなさそうである。
だが、仮に一睡も出来ない場合でも、いずれ時間が来れば予定の行動を開始せざるをえないのだ。脱いだ箱を始末して、八時きっかりに、もう一度病院を訪ねてやろう。外来が始まるのが十時だから、出来るだけその前に時間の余裕を見込んでおきたい。かと言ってあまり早すぎて、相手の機嫌をそこねるようでも困る。あいだをとって八時なら、寝込みを襲ったりせずにすませられるだろうし、じゅうぶんとは言えないまでも、二時間は交渉のために割いてもらえる計算だ。そのまま一日休診に持込んで、交渉の続行を認めさせる可能性だってなくはない。とにかく交渉にはたっぷり時間をかけて……しかし、なんの交渉?
[#ここから2字下げ]
(忘れないうちに書きとめておこう。いま思い付いた、彼女に会ったらまず使ってみたい殺し文句。「君に笑ったり怒ったりしてもらいたいんじゃない。肝心なのは、笑ったり怒ったりしているのが、他人じゃなくて君だということなんだ。」)
[#ここで字下げ終わり]
まあ、あわてる事はないさ、当ってくだけろだ。決裂せずにすめば、まとまってくれるだろうし、まとまらなければ、決裂するだけのことである。そんなことより、差当って必要なのは、八時に間に合わせられるよう、片付けておくべき作業の手順を逆算しておくこと。片付けるといっても、とくに面倒なことは何もない。箱は、三つか四つに引裂いて、折りたたんでしまえば、ごくありふれたただの塵芥《ご み 》である。いくら手間をかけても、五分とはかかるまい。持物の整理にしても、いずれ移動生活用の日用品だし、たかが知れている。たとえば、いまもこのノートの下敷に使っているプラスチックの板。四十センチに四十五センチ、乳白色、やや厚手のありふれた板切れにすぎないが、けっこうぼくの生活の中では欠かすことの出来ない必需品なのだ。まず、テーブルがわり。食事やトランプ占いには、動かない平面がどうしても必要だ。料理によっては俎の代用にもなる。風の強い冬の夜には、覗き穴をふさぐ雨戸になってくれたし、風のない夏の夜には、手頃な団扇がわりだった。湿った地面に腰を下ろすときには、携帯ベンチだし、集めたタバコの吸殻をほぐして巻きなおすときには、ぴったりの作業台にもなってくれる。
もっともここまで所持品を単純化してしまうには、やはりそれなりの年月と経緯が必要だった、箱暮しをはじめた当初は、どうしても世間並みの便利さの通念から脱けきれず、役に立ちそうな物はもちろん、さっぱり用途の分らない物まで、やみくもに貯め込んだ時期がある。金のリンゴを取り合っている三人の天然色ヌードを浮彫りにしたブリキ箱(かならず何かの役に立つ)、珍しい石(もしかしたら大昔の石器かもしれない)、パチンコの玉(重い物をころがす時に役に立つ)、コシサイス英和辞典(いつ必要にならないとも限らない)、金色に塗ったハイヒールの踵(面白い形だし、金槌の代用にも使えそうだ)、百二十五ボルト・六アンペアの家庭用コンセント(必要になったとき無ければ困る)、真鍮製のドァの把手(紐をつければ兇器になる)、ハンダ鏝(きっと何かの役に立つ)、鍵が五つ付いているキー・ホールダー(このうちのどれかが合ってくれる錠前に、いずれ出っくわさない[#底本「出っくわさない」ママ]とも限るまい)、直径四センチ五ミリもある鋳鉄のナット(糸で吊せば地震計になるし、フィルムを乾燥させるときの重しにも手頃である)……等々といった具合で、荷物は際限もなく増えていき、重さと窮屈さで身動き出来なくなってから、やっと切り捨ての必要を痛切に思い知らされたものである。箱男に必要なのは、七つ道具を一つにまとめた七徳ナイフなのではなく、安全カミソリの刃一枚を、いくつもの目的に使い分ける工夫らしい。最低、日に三度は使用するくらいの物でなければ、くよくよせずに整理してしまうべきなのだ。
だが切り捨てにもおのずと限度がある。貯めるのにも苦労はあるが、捨てる努力はそれ以上だ。なにか自分の持物につかまっていないと、風に吹き飛ばされそうで不安なのだ。たとえば、小型ラジオ──音質もかなり満足できる、FM付きの携帯用ラジオ──を愛用していた者が、単に荷物を軽くしたいという理由だけで、あっさりがらくた扱いしたり出来るものかどうか。ところがぼくには、それさえ出来たのだ。
そう、あのラジオの話だけは、ぜひとも彼女に聞かせておいてやろう。必要ならば贋箱男にも聞かせてやりたい。交渉に先立って、どういう相手と応対しているのか、あの二人にはっきり認識させておきたいのだ。
──こんな朝っぱらから、何しに来たのかって? (話しかける相手は、もっぱら彼女にしぼり、医者には贋箱をかぶせたまま、どこか部屋の隅にでも押し込めておくことにしよう。)ただの散歩ですよ。朝の散歩。下の醤油工場から、ここまでの坂道、散漫で絵にはなりにくいけど好きだな。途中に繁っているあの葉っぱの小さな、ひねこびたような木、あれなんていう名前だろう。ここの三角屋根が木の葉越しに見えてくると、変にそわそわしてくる。ひびだらけのモルタル壁に、ペンキ塗りの小さくて高い窓、さも怪しげなたくらみが進行中といった雰囲気でね……信じない?……それじゃ、こう言い変えてもいい、これと言った理由はないけど、ただ来たいから、来た……やはり駄目か……ぼくがそんなに物欲しそうに見える? こいつは生れつきの顔だから仕方がない。三白眼ってのは、つくづく損な顔さ。でも、ほら、この五万円……(と、嫌味にならない程度に、はずみをつけて、診察机の上にほうり出し)一応、あずかりはしたけど、まだ受取ると決めたわけじゃない。ただいま考慮中でね。しかし箱の始末は、注文どおりにつけたからご安心下さい。これで貸し借りはなし、いや、ぼくの方がちょっぴり貸し越しかな。どうです、箱の住み心地は? (と、いきなり贋箱の窓を覗き込み、答える問も与えず、すぐまた彼女のほうに向きなおって)ところで、早速だけど、ぼくという人間を知ってもらうために、一つラジオの話でも聞いてもらうとするか。そう、ラジオ。じつは以前、ひどいニュース中毒にかかっていたことがあるんだよ。分ってもらえるかな、次から次に、たえず新しいニュースを仕入れつづけていないと、なんとも不安でたまらない。戦場では刻々と戦況が変化しつづけるし、映画スターや歌手は結婚したり離婚したりしつづけている……火星ロケットが飛ぶこともあれば、SOSを残して消息を絶つ漁船もある……放火マニヤ[#底本「マニヤ」ママ]の消防署長が逮捕されたり、バナナの積荷から毒蛇が出てきたり、通産省の役人が自殺したり、三歳の少女が強姦されたりしている時に、国際会議が大々的な成功をおさめたり、決裂したりする……無菌ネズミを飼育する会社が設立され、スーパー・マーケットの工事現場からコンクリート詰めの赤ん坊が発見され、世界中の軍隊で脱走兵の総計が新記録を樹立する……世界ってのは、沸きっぱなしの薬罐みたいなものなのさ。ちょっとでも眼を離している隙に、地球の形だって変りかねない。あげくにぼくは、七種類の新聞をとり、部屋には二台のテレビと、三台のラジオをそなえ、外出のときにも携帯用の小型ラジオを肌身離さず、寝るときもイヤホーンを付けっぱなしという姶末さ。同じ時間に、違った局で、違ったニュースをやっていることがあるし、何時、どんな臨時ニュースが流されないとも限らないからね。臆病な動物はまわりに気をくばりすぎて、だんだんキリンみたいに首がのびたり、小猿みたいに樹から降りられなくなったりする。笑いごとじゃないよ、当人にとっちゃ深刻な話さ。ニュースを読んだり聞いたりするだけで、一日の大半がつぶれてしまうんだからな。自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでも泣く泣くラジオやテレビから離れられない。もちろん、いくら漁りまわったところで、べつに事実に近付いたわけじゃないくらい百も承知していた。承知していながら、やめられないんだ。ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だったのかもしれない。つまり完全なニュース中毒にかかっていたわけさ。
ところがある日、とつぜん恢復した。ほんの些細な、自分でも首を傾げたくなるほど些細な事件が解毒剤になってくれたんだ。あれは、どこだったっけ……たしか銀行と地下鉄の駅にはさまれた、広い歩道のある街角で……日中にしては人通りが少なかったな……ぼくのすぐ前を、ごく普通に歩いていた一見サラリーマン風の中年男が、急に膝の力を抜いて、腰を落したかと思うと、ごろりと横になって動かなくなってしまったんだ。子供を相手の、熊ちゃんごっこと言った感じだったな。通りかかった学生風の男が、倒れた中年男をからかうように覗き込んで、「死んでるじゃないか」と、気まずそうにぼくを見上げて薄笑いを浮べたっけ。相手にならずにいると、それでもしぶしぶ、二、三軒先のタバコ屋に電話を借りに行ってくれたよ。ぼくも商売柄──と言っても、折込広告の商品見本を、せいぜい月に一、二度まわしてもらえればいいという程度だったが──いったんはカメラを構えて、いろんな角度から狙ってみたりした。けっきょく思いなおして、シャッターを切らずにしまったのは、べつに死者を悼んで遠慮したせいじゃない。絶対にニュースにならないことが、すぐに分ったからさ。
でも、死ぬってのは、たしかに一種の変化だな。第一、皮膚の色がさっと青みがかってくる。それから、鼻が薄くなり、顎がしなびて小さくなる。半開きの口は、ナイフを入れた蜜柑の皮の切口みたいで、その間から下顎の赤い入歯がはみ出しかけているのさ。おまけに着ている服まで変るんだ。かなり上等に見えていたのが、見る間にへなへなと見掛け倒しの安物に変ってしまったよ。もちろんそんな事だってニュースじゃない。しかし死んだ当人にとっては、ニュースになろうと、なるまいと、ぜんぜん関係ないみたいだったな。仮に、指名手配中の兇悪犯の手にかかった、十人目の犠牲者だったとしても、べつに違った死に方が出来るわけじゃないだろう。自分も変化したけど、外の世界も変化しちゃって、もうこれ以上変化のしようがないんだ。どんな大ニュースも追いつけないほどの、大変化さ。
と、そう思ったとたんに、ニュースに対する感じ方が、がらりと変ってしまっていた。どう言ったらいいか……「あなたもニュースをやめられる」ってなわけにはいかないよ……でも、分るだろう、なんとなく……なぜ誰もが、こうニュースを求めるのか……世間の変化を、あらかじめ予知しておいて、いざという時のため備えるんだって? 以前はぼくもそう思っていた。でも大嘘さ。人はただ安心するためにニュースを聞いているだけなんだ。どんな大ニュースを聞かされたところで、聞いている人間はまだちゃんと生きているわけだからな。本当の大ニュースは、世界の終りを告げる、最後のニュースだろう。もちろんそいつが聞けたら本望だよ。ひとりぼっちで世界を手離さなくてもすむんだからな。考えてみれば、ぼくが中毒にかかったのも、結局のところその最後の放送を聞きのがすまいとする焦りだったような気がする。しかし、ニュースが続いているかぎり、絶対に最後にはならないんだ。まだ最後ではありません、というお知らせなのさ。ただ後に続ける、ちょっとした決り文句が省略されているだけのことでね。昨夜B52による本年度最大の北爆が行われました、でもあなたはまだなんとか生きています。ガス工事中引火して八人重軽傷、でもあなたは無事に生きています。物価上昇率記録更新、でもあなたは生きつづけています。工場廃液で湾内の魚介類全滅、でもあなたはなんとか生きのびています。
──ところで、なんの話だったっけ。
「要するに、あなたが、ニュースに聞き飽いたって話……」と、彼女は脚を組みかえ(ちゃんとぼくの関心のありかを心得ているらしい)新しくくわえたタバコに火をつける。わきから贋箱男がくぐもった声で付け足した。「どうもよく分らない、そんな自己紹介が、なんの得になるのかな……」
──ニュースを聞かない人間に、悪人はいないってことさ。高飛車に医者の言葉をはね返し、彼女の方には微笑をくずさずに、ニュースを信じないということは、つまり、変化を信じないということだろう、ぼくもむりやりここに変化を持込んだりするつもりは無いということさ。
「それにしても、筋違いじゃないのかい?」思いがけずきっぱりとした調子で贋箱男が口をはさんだ。
「筋違い?」
「その五万円のことだよ。君が箱男と親しくしているという触れ込みを信じて、買い取ってもらうためにあずけた金だ。受取るとか、受取らないとか、筋違いもいいとこじゃないか。」
「言いがかりはよせよ……」思わぬ反撃にたじろぎながら、「ぼくが箱男と同一人物だってことくらい、先刻ご承知のはずじゃないか。」
「知らないね。」
「白を切ったって無駄さ、ちゃんと証拠もあることだ。」気持を静めるために、ゆっくり息を吸い込み、息を吐く。「一週間前のあの朝、ぼくが傷の手当を受けに来たとき、すでに見抜いていたはずなんだ。下手に刈りそろえた髪……傷だらけで剃り残しの多い不精ひげ……つんと石鹸の臭いがするくせに、雲脂《ふ け 》のように皮膚の細片が剥げつづける、首や肩……」
「でも、写真家なんて、変り者が多いっていうじゃない。」ゲームの失敗でも指摘するような軽い調子。けっきょく彼女も医者とぐるになって、ぼくを利用しただけだったのだろうか。
「しかしあの時、君だって認めたじゃないか、肩の傷口に刺さっていたのが、空気銃の弾だって……」
「この辺に、空気銃を持った人は多いのよ。鶏小屋で、イタチの被害がひどいらしいの。」
「ぼくが撃たれたとき、偶然、親切な目撃者が居合せて、ここの場所を教えてくれた。おまけに、治療費までめぐんでくれたんだ。ちょっぴりクレゾールの臭いがする札で、三千円……」じっと彼女の眼の奥を覗き込む。彼女がそう簡単に寝返ってしまうとは思えない。みんなにはっきり、ぼくのモデルをする約束までしてくれたじゃないか。彼女はモデルになって、画家の視線を感じる時、最高の充電状態になるのだそうだ。そんな挑発までしておいて、それとも、そう……いまは医者の手前をとりつくろっているだけなのかもしれない。たしかにここで医者につむじを曲げられるのは、あまり望ましい事ではなさそうだ。深追いしすぎて、彼女の立場を悪くするのも考えものである。「……誰か、新式の自転車に乗ったミニスカートの娘さんで……たぶん、娘さんだろうな……あいにく後ろ姿しか見えなかったけど、めっぽう脚の形がきれいなのさ。一度見たら、絶対忘れられない脚だった。長年箱暮しを続けていると、しぜん通行人も下半身だけを眺めがちなので、それだけ脚を見る眼も肥えてくるんじゃないかな。」
こもった微笑で、わずかに彼女の頬がふくらんだような気がした。しかし現実に笑い声をたてたのは贋箱男の方だった。
「たしかに、箱ってやつは、見るとかぶるとでは、大違いだね。」
「断わっておくけど、まだ完全に所有権を手離したってわけじゃないんだ。」
「まったく、大変な違いさ。」贋箱男は、おだやかな調子で、噛みしめるように繰返した。「昨夜はじめて、箱の中で夜明しをしてみたんだよ。なるほどと思ったね。これじゃ箱男になりたがるのも無理はない……」
「むりに引き止めるつもりはないけどね。」
「そりゃ引き止めっこないさ、当りまえじゃないか。」
屈託のない贋箱男の声ににじむ、かすかな笑い。好意のようでもあり、皮肉のようでもあり、気に入らない。調子が狂ってしまったようだ。むしろ最初から、仲間意識で接すべきだったような気もする。たしかに気負い立つことなんか、少しもなかったのだ。食料調達の方法だとか、程度のいい中古雑貨の穴場だとか、無賃遠距離旅行の方法だとか、すくなくも市内に七頭はいる要注意の猛犬の居場所だとか、箱男として街に出てからの心得でも話題にしていれば、もっと和やかに話し合えていたはずである。それにしても箱男との同席は、居心地の悪いものだ。自分の模造品だと分っていても、つい気後れがしてしまう。こんなことなら、こちらも箱をかぶったままで、勝負をいどむべきだったのかもしれない。矛先を彼女の方に向けかえて、
「君だったら、どうする? 引き止める方、それとも勝手にさせておく方かな?」
診察机の角に、軽く腰を当てがった姿勢のまま、彼女は上眼づかいにぼくを見た。左右に引いた唇のせいで、笑顔にも見えるが、眼の方はさっぱり笑っていない。
「私はただ、急に休診札を出したりしたら、患者さんが迷惑するだろうと思うだけよ。」
それはその通りだろう。なんとでも解釈できる、ずるい返事。しかしとりあえずはその程度で満足しておくべきかもしれない。さて、あとは贋箱男が結論を出すのを待つだけだ。
箱が音をたててぼくの注意をひき、見せつけるようにして傾いた。窓のビニール幕が割れて、眼がのぞいた。表情抜きの、ただ見るだけの眼。一方的に、こちらに見られ役を強制してくる傲慢な眼。こいつ、何時の間に、そんな手口を憶えて来たのだろう。手本は、ぼくだ、言うまでもない。気が滅入る。見られているのもぼくだが、見ているのも同じくぼくなのだ。
「いくら言い合ってみたって、いずれ無駄だろう。」贋箱男が、見掛けに似合わぬか細い声で、「どのみち君は、信じちゃいないのさ。」
「何を?」
「ぼくが君のかわりに、ここを出て行くなんて、まるっきり信じちゃいない。内心、願ってはいるが、信じちゃいない。」
「だって、事実、出て行くつもりなんか無いんだろう……」
「ちょっとした妥協案なら、用意してあるんだ。」からんだ痰を、湿った咳ばらいで切り、ますます低くこびるような調子で贋箱男がつづけた。「たとえば、こんなふうにしてみたらどうだろう。君にはこの家のなかで、自由にふるまってもらうことにする。彼女とどんな関係になろうと、ぼくは一切干渉しない。邪魔をしたり、口出ししたり、目障りになるようなことは一切しない。ただ、一つだけ、条件を飲んでほしいんだ。ぼくにも覗く自由は与えてほしい。ただ覗くだけだよ。むろん箱はかぶったままだ。ちょうど今、ぼくら三人が置かれている、この関係だね。ぼくはこんなふうに、隅っこの方から、こっそり覗かせてもらっているだけでいい。馴れてしまえば、屑籠だって、似たようなものだろう。」
なんだか、自分がするはずだった提案を、かわりに贋物に代弁してもらったような気がした。そっと様子を窺うと、彼女はしきりと両手の指を動かして、糸のない綾取りに熱中しはじめていた。ゆっくり脚を組み替えた。アイロンのきいた白衣の裾が割れ、唾をつけた指で擦ってみたくなるような膝がのぞいた。もしかすると白衣の下は裸なのかもしれない。仕掛けがあるとも知らず飲み込んだゴム風船が、とつぜん胃の中でふくれ上った感じ。それにしても、いまこの贋箱男の前で、彼女に裸になってくれと頼む勇気がはたしてぼくにあるだろうか。
「迷うことはないさ。」うながすように贋箱男が続け、「箱男なんて、気にしなければ、風やほこりみたいなものだよ。ぼく自身、そのことについちゃ、面白い経験があるんだ。何気なく撮った写真を、現像に出してみたら、画面の手前に、まったく予期しなかったものが、大写しになっていたのさ。ダンボールの箱をかぶった人間が、のこのこ通りを歩いているんだよ。君のように玄人じゃないから、子供だましのカメラだけどね。あれは何を撮るつもりだったっけ。かなり前のことだが、たぶんどこかの葬式風景だと思う。自分が手掛けた患者の葬式は、なるべく記念に撮っておくことにしているんだ。それにしても驚いたね。あれほど近くに写っているからには目撃しなかったはずがない。だのにさっぱり記憶がない。見えてもいないのに、見えたような気がするのが幽霊なら、ちょうど正反対の存在だな。それ以来のことだよ、ぼくが箱男に興味を持ちはじめたのは。そのつもりになって、気をつけていると、なるほど写真のとおりの風体をしたのがちゃんと街をうろついている。しかも、何度か観察しているうちに、誰もがまるで注意を払おうとしないことに気付いたのさ。ぼくだけの見落しじゃなかった。たとえば箱男が、八百屋の店先に立寄ったとする。こう、穴から手をのばして、その辺の商品を次から次にかっぱらいはじめるんだ。もっとも、トマトだとか、牛乳だとか、納豆だとか、ごくつましい値の張らないものばかりだけどね。しかし、すぐそばで客と応対中の店員が、咎めるどころか気付いたふりさえ見せないんだから、愉快じゃないか。臭いものに蓋ってやつかな。たしかに、自分を荷物なみに梱包、して歩くなんて、挙動不審を通り越して世間に対する侮辱だよ。それとも、無視しようと思えば無視できる程度の、無害な存在だってことかな。君もぼくのことなんか、気にしなけりゃせずに、済ませられるはずなんだ。」
贋箱男が、語尾を沈めて言葉を切り、つられてぼくも、長い溜息をついてしまう。たしかに条件としては、悪くないかもしれない。箱男が無害な存在であることは、誰よりもこのぼく自身がよく知っていることだ。場所は不便だが、医者を開業している以上、一応の貯えはあるはずだし、その不便さがかえってぼくらを世間から隔離してくれることにもなりそうだ。けっきょく問題は彼女の気持一つにかかっている。彼女の同意が得られさえすれば、けっこう三人で上手くやっていけるのかもしれない。いや、三人ではなく、二人と少々だ。屑籠までは無理でも、寝室で、檻に入れた猿を飼っているのだと思えば、すむことである。
「それで、君は、かまわないわけ?」
「私?」彼女はちらとぼくを見返し、そのまま視線を贋箱男の方へすべらせた。すべらせる途中で、にじませた微笑に、ぼくは強い嫉妬を感じていた。「駄目なのよ……責任をとらされるような返事は苦手なの……考えようとすると、かならず足の上に鋏を落したり、コップの上に腰を掛けたり、変なことになってしまって……いま何時かしら。」
「十時に、二十四分前。」贋箱男が口早に答え、ぼくは優柔不断をなじられたような、後ろめたい気分にさせられた。たたみかけるように、彼女が言葉を重ねた。
「あなた、本当は、いくつなの?」
「戸籍の上では、二十九だけど、本当は三十二、三らしいんだ。」
つられて、つい答えてしまったが、べつに本心からの質問ではなかったらしい。言い終える前に、彼女はもうぼくに背を向け、診察机の整理にかかっていた。まだ休診に決まったわけではないことを、無言のうちに示そうというのだろうか。たしかに一番まっとうな成行きなのかもしれない。だが、整理のほうも、さほど本気ではなさそうだ。器具やガラス容器を、模型の自動車に見立て、ただあちこちと指先で押してまわっているだけのようでもある。消極的賛成とみなしてもいいのだろうか。反対ならば当然、異議の申立てがあったはずだ。彼女が時間を気にしてみせたのも、ぼくに決断をうながすためだったと取ってとれなくはない。要するに、ぼくが腹を決めてしまえばいいことのような気もする。彼女に一と言、裸になってほしいと頼みさえすれば、たちどころに次の場面のスイッチが入り……彼女が白衣の貝ボタンを外すのに、手間取ってもせいぜい二、三秒……するともう彼女の裸がそこにある。ぼくの位置から、ほんの三メートル足らず。部屋の気流によっては、においだって嗅げる距離。さて……しかし……せつかく振ってもらったものの、これほどの大役を、はたして期待どおりにこなしきれるだろうか。
[#ここから2字下げ]
(ふと思い出した嫌な記憶。あれは小学校の学芸会のことだ。おおよそ人気とは無縁だったぼくが、たぶん誰も引受け手がなかったせいだろう、小さな役を一つまわしてもらえたのである。「トンマ」という名の馬の役だったが、それでもぼくは興奮のあまりはしゃぎまわった記憶がある。ところがいざ舞台に上ってみると、短いほんの一か所だけの台詞が、なぜかどうしても出て来てくれないのだ。あきらめて退場しかけると、馬の飼い主役だった同級生が腹立ちのあまり、ぼくを蹴飛ばした。ぼくも負けずに腹を立て、蹴り返してやると、相手は床に頭を打ちつけて気を失った。その後、劇がどんなふうに中断したのかは、まるで憶えていない。ただぼくがひどい近視眼になり、けちな親から眼鏡をせしめたのは、それから間もなくのことだった。暗いところで、わざわざ活字の小さな本や雑誌を、顔すれすれに寄せて読みふけったせいである。見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。)
[#ここで字下げ終わり]
ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損いなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣裳をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向うも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから、昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。
[#ここから2字下げ]
(再び赤インクによる欄外の註──露出症の存在は、視姦者を人間の普遍的傾向だとみなす筆者の主張と、かならずしも矛盾するものではない。露出症はしばしば、正常な性行為では満足しえない過剰性欲と誤解されがちであるが、実際にはむしろ抑制されすぎた性表現である場合が多いのだ。たとえば、患者某は次のように告白している。露出行為が効果をあげる第一条件は、見せようと思う相手が未知の異性であること。第二には、相手と一定の距離が保たれ、接近によって見る、見られるという関係が破壊されないこと。第三には、相互に顔を識別しえないこと。以上の三条件を満たす具体的な場所として、患者は木立の多い女子寮の中庭などをあげていた。こうした傾向は、患者が異性一般に対しては強い関心を抱きながら、実在する個々の異性に対しては、病的な蓋恥心を抱いていることを示すものだ。筆者の論法を借りれば、醜さの自覚である。また患者は次のようにも言っている。露出行為によって、オルガスムに達するためには、相手が自分の性器を覗くことによって、性的な刺戟を受けていると想像することだ。相手にあからさまな嫌悪を示されるのも興醒めだが、好奇心をむき出しにされるのも腹立たしい。見て見ぬふりをされるのが、なによりのはげましになる。これは明らかに相手が視姦者として、自分の露出行為に加担してくれることへの願望だろう。露出症は、鏡に映した視姦行為にほかならない。)
[#ここで字下げ終わり]
「君も煮え切らない男だな。」声帯を閉めた固い声で、贋箱男が口早に言った。「こんなうまい話に……どうかしているよ……ぼくなら、一も二もなく、飛びついてしまうがね。」
「あんたが、目障りだからさ。」
「なるほど……」
「箱男のことについちゃ、自分で経験して来たことだから、あんたよりは詳しいつもりだよ。世間が箱男を黙殺するのは、なかみが誰だか分らないからなのさ。でもあんたの正体は、はっきりしている。覗いている目つきだって分るくらいだよ。ぼくは嫌だな。じろじろ見詰められるのは、きらいなんだ。」
「だから五万円も払ったんじゃないか。」
「覗くことには馴れっこだけど、覗かれることには、まだ馴れていないんだ……」
贋箱男が、ゆらりと揺れた。いちど大きく斜め前に傾いてから、思い掛けない身軽さで立上った。箱の背が壁とすれ合って、乾いたダンボール特有の安っぽい音をたてた。けっきょく贋物は贋物なのさ。しっとり使い込まれた本物の箱とは較べようもない。
「おしゃべりは、これっくらいにしておこうや。」贋箱男が、足をふんばり、場違いに陽気な声を張上げた。脛毛が目立つ、白い筋張った素足。ズボンははいていないのだろうか。「自分じゃ食欲がないつもりでも、口に入れてみたら、けっこう食えるってこともあるからね。」それから、彼女の名前を呼んで、「君、裸になって見せてあげたら?」
ぼくは狼狽した。いきなり裸の注文が出されたという以上に、彼女が固有名詞で呼ばれたことに、困惑を感じたのかもしれない。いまここに彼女の名前を書くことさえ、ためらわれるほどだ。彼女がぼくにとって、いかにかけがえのない存在であるかを、あらためて痛感させられた。偶然にせよ、やっとめぐり会えたただ一人の異性であり、他に比較の対象がないのだから、性を区別できる代名詞があるだけでじゅうぶんだったのだ。
「いま、すぐに?」
問い返す彼女の声に、不服の調子はとくにない。怪訝な様子さえ見られない。クリームを塗った手のひらで、卵の底をなでるような感じ。この調子だと、本当に裸になってしまいかねない。ぼくは狼狽しながら、しかも口をつぐんだままだった。唇がしびれて何も言い出せなかったのだ。
「かまわないだろう。」
「かまわないけど……」
短い事務的なやりとり
「その辺に、マッチがなかったっけ?」
贋箱男にうながされ、彼女がぼくの前を斜めにすり抜けるようにして、部屋を横切った。まったくエネルギーの浪費を感じさせない、小型精密機械の足取り。白衣のポケットから、マッチ箱を取出し、贋の覗き窓に指先ではじくようにして落し込んだ。ふと彼女のにおいがした。海岸で嗅いだ、落花生畠から吹いてくる風に似ている。心臓の皮が波立った。贋箱男に対する嫉妬だろうか。身をひるがえし、もとの位置に戻ると、すぐに彼女は白衣のボタンを外しはじめた。二つめのボタンで軽くぼくを見た。いかにも軽い──そのまま半日でも宙に浮んでいられそうな──視線なので、ぼくは眼をそらすどころか、またたきもせずにすんだ(ここが重大なのだ、彼女からだと、いくら見られていても、ほとんど見られた気がしない)。彼女の表情のランプに、灯が入った。かすかに眉がひらき、噛んで濡らした下唇が、歯の間からこぼれる。開き切った表情。ぼくのために開けられた扉だろうか。続いて三つめのボタン。それから四つめのボタン。彼女が、もし、本気でぼくを知りつくそうとしてくれるなら……昨夜、贋箱男に見せたような姿勢で、ぼくを受止めてくれるつもりなら……たしかにもう箱なんか無くてもいい。隠す醜さを持たない人間には、他人の醜さだって見えないはずだろう。箱男が専門の覗き屋[#「覗き屋」に傍点]なら、彼女は天性の覗かれ屋[#「覗かれ屋」に傍点]なのである(ただ一つ気掛りなのは、そんな彼女と鼻を突き合せていた医者が、なんだって箱に籠るような心境にさせられたのかと言う点だ)。そしてついに、最後のボタン。
さいわい、白衣の下がいきなり裸というわけではなく、ぼくはようやく落着きを取戻す。肌にまつわり付いているオレンジ色の絹のブラウス。草の実のように並んだ小さな同色のボタンの列。脇を直径二センチはありそうな黒のボタン三つで止めた、黄土色の短いスカート。箱の中でマッチをする音がした。彼女を色白のほうだと決め込んでいたが、スカートの色との対比では、むしろ浅黒い方かもしれない。しかしそのスカートのボタンに掛けた指は、たしかに白い。どっちが本当なのか、現に見ていながら分らなくなってしまう。一度スカートに掛かった指が、ためらい、思いなおして、ブラウスの草の実のほうに移動した。そう、当然そっちから始めるべきだよ。ぼくにだってもっと時間かせぎをさせてほしい。タバコの臭いがしはじめた。たとえば先週出会った彼女──赤ん坊のように疑いを知らず、強力万能浄化装置のようにあらゆる負い目を拭い去ってくれる彼女──だけになら、また何処かで巡り会える可能性もあるだろう。昨夜覗いた彼女──めくらの女のように、他人の醜さに寛大で、アルコールか麻薬のように劣等感を忘れさせてくれる、欲望解放装置のような彼女──にも、いずれは出会う機会がありそうだ。だが、その二つが一緒になった人格となると、現に実在していてさえ、おいそれとは信じにくい。もっとも、彼女について、まだ批評がましい意見を述べられるほど知っているわけでもない。しかし、右眼にとって、左眼についての知識が、なんの役に立つだろう。肝心なのは、とくに意識しなくても一つのものを注目することが出来、ごく自然に関心を共有し合える信頼なのである。草の実のボタンの三つめが外された。ブラウスの下は裸らしい。タバコの臭いはしているのに、煙は見えない。そんな吸い方をしては駄目なんだ。そのうち、箱の隙間や覗き窓の隅から一気に煙が吹き出しはじめ、中はけむって眼も開けていられなくなる。
「君の方も、そろそろ仕度、よろしいですか。」得意げに贋箱男が言った。「彼女の方は……ほら、ぼくのことなんか、まるっきり問題にもしちゃいないんだ。」
五つめのボタンを外しながら、彼女が小さく笑った。躓いたような笑い方だった。草の実はあとまだ七つ残っている。
「写真、撮りたければ、撮ってもいいのよ。」
不意をつかれた。たしかに彼女と交わしたのはモデルになってもらう約束だった。彼女が裸になったからといって、なにもぼくまでが一緒に裸になることはないのだ。なってもいいが、今すぐである必要はない。勝手な取越し苦労をしていたようである。ばつの悪さを取り繕おうとして、カメラを入れてある(脱衣籠の中の)ずだ袋に手をのばしかけ、それもやっとのことで思いとどまった。いまここでカメラを構えてしまえば、贋箱男との共同生活を、暗黙のうちに認めてしまうことになるわけだ。裸になるよりは、ましかもしれないが、けっきょく私室の合鍵を渡してしまう事には変りない。
「でも、この背景じゃ、殺伐すぎるかな……」
七つめのボタンを外しながら、彼女が上半身をねじって、後ろの壁を見まわした。ブラウスの胸元がはだけて、ブラジャーが見えた。ラグビーのボールのように、放射状の縫目がついた、消炭色のブラジャーだ。たしかに背景は殺伐かもしれない。消毒した器具を並べた、ガラス棚。極端に幅が狭い、診察用のベッド。細い虎脚の金具で支えられている、琺瑯引きの洗面器。それから、歯医者の椅子に似ているが、どこか感じが違う、薄気味の悪い機械椅子。だから面白いのだ。この組合せには、地獄絵のようなエロチシズムがある。これでフィルムがふんだんにあり、ちょっぴり太陽が南にまわってくれていたら、とうていシャッターを切る誘惑をおさえきれなかったことだろう。
「なんなら、場所をかわってもいいよ、ぼくがそっちに行って……」恩着せがましく贋箱男。
「かえって、駄目よ、逆光線になっちゃうじゃないの。」
沈黙、沈黙……ここで口をきいたら負けになる……九つめのボタンに指がかかり、残り三つでブラウスが脱げるのだ……
「しかし、お見受けしたところ、こちらは撮影なんかより、もっと直接的行動の方をお望みなんじゃないかな。」作りものの陽気さ。贋箱男が、ぼくの沈黙で開きかけた隙聞を、お喋りのパテで埋めにかかる。「ぼくもどっちかと言えば、その選択のほうに賛成さ。彼女に気をそそられないなんて、きれい事はよそうよ。写真くらい、何時だって撮れるし、肝心のところでお預けくったようなものじゃないか。ぼくに気兼ねなら、ご心配なく。とうに権利は放棄してしまっているんだ。あれはもう、かれこれ一年になるかな。彼女が子供を堕しに来たのが、そもそもの馴れ染めでね。手術が済んでしまってから、やおら金がないので、働いて返させてくれだとさ。その無邪気な顔で……驚いたよ……それにしても、ああいう時の判断は、まったく素早いものだね。ぼくは相手の男の名前も、彼女の身寄りのことも、当然のように聞かずじまいだった。彼女の過去を無視することで、引き留めにかかっていたんだな。」
「聞かれれば、答えていたと思うわ。」
「べつに意識して聞かなかったわけじゃない。」
「でも、聞かれなくて、うれしかった。」
「それまでいた看護婦は、いい顔はしなかったな。よほどすれっからしの、あばずれに違いないって言うのさ。」
「本当は、どうだった?」
「最初は、ひどい人間不信なんだろうと思っていた。次に、人間過信なのかもしれないと思った。君はなんでも衝動的にやってしまうんだ。それに、咎められると、同じくらい簡単にあやまってしまう。あやまりさえすれば、どんな罪でも帳消しになると、信じ込んでいるらしいんだな。」
「そんなに迷惑をかけた?」彼女の指が、最後のボタンにかかる。
「いや、帳消しさ。ぼくが最初に、君の過去を聞こうとしなかったのも、今から思えば馬鹿にならない直観だった。君なら、降りたての雪の上を歩いたって、足跡を残さずに逃げ切れるよ。」
彼女は小さくまるめた唇の先で、短く笑い、ボタンを外し終えたブラウスの裾をスカートから引出すと、脱ぐ動作をそのまま指先にすべらせて、つまんだブラウスを診察ベッドの端に投げ掛けた。よじった腰のくびれめに、数本の細い襞がよった。とくに痩せて見えるわけでもないのに、皮下脂肪の層は薄そうだ。何かを連想させる、なんだろう。そうだ、レンズを拭くためのあの小羊の揉み皮の感触だ。
「でも、私たち、わりと上手くやれたんじゃない?」
「やれすぎたよ。」贋箱男が自嘲的に鼻にかかった声で、「しかし、いい気なものさ、ぼくは自分に、彼女を引き留めるだけの力があったせいだと勝手に決め込んで……嫌になるな、誘惑者気取りで、朝晩二回もひげを剃ったりしてさ……おまけに、掻爬にきた患者と医者の関係だろう、まるで庭のいちじくの熟れ具合でも論じあうみたいに、彼女の外陰部や子宮を話題にできるわけだ……あとは、君、ニュートンの林檎だよ、引力の法則だよ。それまでの看護婦もさっさとやめて行ってしまったし……」
[#ここから2字下げ]
(欄外に赤字で書き込みがあり、この行間に挿入の矢印がついている。
「知らなかったのよ、あの人が奥さんだなんて……」
「知っていたって、同じことさ。あいつも自分の役割には、いい加減うんざりしていたんだ。」)
[#ここで字下げ終わり]
「ひとが傷つくのを見るのは、とてもいや。」
「そいつはどうかな。何時だったか君に、こう聞いてみた。地球が崩壊すると決まったら、その最後の瞬間をぼくと一緒に過してもらえるかって。返事はこうさ、できれば一人で海でも眺めていたい……」
「嘘よ。にぎやかな場所で……駅か、デパートか、そんな所で……なるたけ大勢の人と一緒にいたいって言ったはずよ。」
「似たようなものさ。」
「地球がそう簡単に崩壊するなんて、考えられないわ。」
「とにかく、払うものはすっかり払ってもらってしまった。ぼくにはもう、一円王の貸しもない……」
黄土色のスカートが、筒になって彼女の足元に滑った。左足でスカートをまたぎ、右足の先に引掛けて、軽く宙に蹴上げた。スカートは意外に湿っぽい動きをして、診察ベッドの手前で床に落ちてしまった。ボタンとボタンが触れ合って、小さな二枚貝を踏んだような音をたてる。腰に食い込んでいる、信じられないほど小さな、薄い水色のパンツ。彼女は、わずかに膝をかがめて、太股の外側に手のひらをあてがった。水泳の飛び込みの姿勢に似ているが、もっとおどけた感じだ。彼女の動作の一つ一つが、空間に襞をあたえ、明暗をつけ、流れをつくり、別な世界を刻み上げていく。急に鼻風邪をひいたような、もの哀しさにおそわれる。すべてがぼくにとっては、初めて眼にしたものだという、やっかみの感情だったかもしれない。
「ちょっと待ってくれ。」彼女の指が、パンツのゴム紐に掛かったところで、贋箱男が遮った。彼女はぼくの頭越しに、何処か遠くを見はるかすようにしたまま、動きを止めた。
「君はろくすっぽ、彼女を見ていないじゃないか。せっかく君のために脱いでいるんだぞ。もっとしっかり、眼で触るくらいにやってごらんよ。君、シンコ細工っての知ってるかい。彼女の首から腕にかけての感じ……固まる直前に、すうっと引伸したような、流れがあるだろう。でも、ぼくが気に入っているのは、やはり胸のくびれめから、腰のふくらみに移っていくカーブだな。まだ脱皮しきれていない少女時代の殻が、どこかにちょっぴり残っていて……」
「こだわるなら、脚だよ、ぼくだったら……」言ってしまってから、急に顎がこわばり、歯がきしった。目玉が重くて、彼女の顔まで視線を上げることが出来ないのだ。いま、どんな表情をしているのだろう。それにしても不審なのは、箱からタバコの煙が吹上る気配もなく、贋箱男がさっぱり咳き込もうとしないことである。「しかし、分んない、形のいい脚、悪い脚……知らない外国語を無理に読まされているみたいだ……どうしてこう、脚にこだわるのか、自分でも不思議なくらいだよ。」
「そりゃ、君、生殖器にいちばん近いからさ。」
「ちがう。それだけだったら、どんな脚でも同じことじゃないか。もしかすると、逃げ足に関係あるんじゃないかな。逃げ足の早そうな脚は、つい追い掛けてみたくなる……」
「こじつけだね。彼女は逃げるどころか、待っている。それじゃ教えてやろうか、とにかく距離が遠すぎるんだ。もう半歩、踏み出そうとしないから、顔も上げられない。なぜその半歩が踏み出せないのか、そのわけを教えてやるよ。」贋箱男は調子をあらため、壁ぎわを離れると、ぼくと彼女を結ぶ線を底辺とする二等辺三角形の頂点の位置に移動した。「魚でも、鳥でも、けものでも、番《つがい》をつくる前には、妙な求愛の儀式をするものだ。専門家に言わせると、あれは威しや攻撃の変形したものらしいんだな。つまり、生物にはそれぞれ個体の縄張りがあって、その境界線を越えた侵入者に対しては、本能的に攻撃反応を示す。しかし、相手かまわず攻撃一本槍じゃ、番《つがい》は成立しない。交尾というのは、皮膚接触だから、どこかで境界線を突破するなり、扉を開けてやるなりしなけりゃ成り立たないわけだ。そこで一見攻撃に似ているが、どこか違う、型変りの動作や身振りで、相手の防衛本能を混乱させたり、油断させたりという技術が生れることになる。人間だって同じことだよ。惚れたのはれたの言ってみても、しょせんは化粧して羽飾りをつけた攻撃本能にすぎないのさ。どっちにしても最終目標が、境界線の突破と犯すことにある点では変りない。ぼくの経験だと、人間の場合そのラインは、半径二メートル半くらいの位置にあるようだな。口説くのもよし、ぴかぴか光るガラス玉なんかで相手をひるませるのもよし、ともかくその監視ラインをくぐり抜けてしまえば、もうしめたものだ。その至近距離では、敵の正体を見破ろうにも、かえって見きわめにくい。役に立つのは、触覚と嗅覚だけになる。」
「けっきょくのところ、何が言いたいんだ。」
「あと半歩前に出たら、ちょうどそのラインの上を踏むことになる。」
「それで?」
「君も煮え切らない男だよ。せっかく彼女にねだって、監視ラインの自由通行証を発行してもらったんじゃないか。あと半歩進めば、いやでもその通行証の提出を求められる。むろんフリー・パスだ。当然、箱に引返す資格も口実も一緒に放棄したことになる。君はそれを認めるのが恐いんだ。そのための時間かせぎなのさ。おかげで彼女は、あのとおり金縛りだよ。君が時計に封をしてしまったんだ。」
言われてみると、たしかにそうだ。彼女は、パンツのゴム紐に指を掛けたあの中途半端な姿勢から、ほとんど動いた様子がない。ぼくの頭越しに、何かを探して宙に迷っていた眼も、義眼のように見開かれたままである。
「どうしたんだろう?」
「ニュース嫌いに、悪人はいないか……」贋箱男は、語尾を殺して、鼻を鳴らした。「そこまで変化を信じなくなった君が、矛盾しているじゃないか、自分で願ったことの実現を恐れて時計に封をするだなんて……」
「そんな芸当、出来るわけがないだろう。」
「恋人を剥製にして、一緒に暮していた男の話を読んだことがあるよ。生身の恋人よりも、剥製の方が、ずっと献身的で誠実だし、おまけに官能的だっていうんだな。」
「あいにくそんな趣味はないよ。」
「それなら結構。結論は出たようじゃないか。とにかく、君に箱から出る気がないことだけは、これではっきりしたわけだ。」
「箱は始末して来たと言っただろう。」
「……それじゃ聞くけど、君はいまこの瞬間に、何処で、何をしているんだい?」
「あんたの見ているとおりさ。ここで、あんたと、喋くっているよ。」
「なるほど……すると、このノートは、何処で誰が書いていることになるのかな? 誰かが、箱の中で、海岸の脱衣場の裸電球をたよりに書いていたんじゃなかったっけ?」
「そいつは言いっこなしだろう。それを言ったら、あんたたち自身、ぼくの空想の産物にすぎないことを自分から認めてしまう事になるんだぞ。」
「それはどうかな。」
「論議の余地なしさ。」
「たしかに、実在している人物は、一人だけだろうよ。現にこのノートを書きつづけている、誰か……ぜんぶが、その誰かの独り言にすぎないわけだ。その点は君だって認めざるを得ないだろう。この調子だと、その誰かさん、必死に箱にしがみつづけるために、このまま永遠にでも書きつづける腹なんじゃないかな。」
「勘繰りすぎだよ。下着が乾くのを待っているだけじゃないか。下着が乾きしだい、すぐにも出発するつもりさ。体を洗うのに、念を入れすぎたせいか、風がひりひり滲みるんだ。風よけに一時、箱ごもりしてるだけのことだよ。こんなノートにだって、べつに未練があるわけじゃない。いますぐ、この行を最後に書きやめたって……」
「下着が乾いたら、本当にぼくらに会いに来るつもりかい?」
「仕度といっても、もともと少ない荷物を整理するだけだからね。厳密に言うと、箱から出るために絶対に必要なものは……たった一つ……それが無いと、箱から出られないもの……分るかい……ズボンなんだよ。ズボン……ズボンさえちゃんとしていれば、なんとか世間にまぎれ込める……はだしに、上半身裸でも、ズボンさえはいていればかまわない……それが逆に、いくら新品の靴に上等の上衣でも、ズボン無しで街を歩いたりしたら、それこそ騒ぎだろう。文明社会というのは、一種のズボン社会なんだな。さいわい、こんどのような場合にそなえて、ズボンだけは新品を一着、ちゃんと用意しておいた。先週手当を受けに行った時が、はき初めさ。箱の天井のパットがわりにでもしておけば、邪魔にはならない。それと後は、商売道具のカメラ一式……ほかの物は、特にどうってことはないんだ。そのために手間取るようなら、そっくり捨ててしまっても惜しくない。いや、捨てることはないか。君に譲ればいいんじゃないか。洗面道具、安全カミソリの刃、マッチ、紙コップ、耳栓、魔法瓶、自動車のバック・ミラー、耐水ガムテープ……下痢止めや、目薬や、赤チンなんかはそちらの商売だから除外するとして……『現代ヌード写真傑作集・第二巻』から切り取った写真六枚、その写真を覗くための筒……使用法は、使ってみたらすぐ分るよ……あとは懐中電燈に、ボールペン、その他プラスチックの板だとか、針金の輪だとか、ちょっと名前のつけようがない日用品の類……つまらない物ばかりのようだが、箱暮しの体験に裏付けられた、必要にしてかつ十分なる生活セットさ。恩に着せるわけじゃないが、なりたての箱男には格好の餞別だと思うな。それと、最初のうちはやはり、小型ラジオは持っていた方がいいかもしれない。ぼくみたいに、ニュース毒に完全に免疫になってしまえばともかく、馴れるまでは周期的に、どうにもならない孤独感に襲われて……」
「本当に、何時かは乾く見込みがあるのかい、君のその洗濯物。」
「雨上りだろう、空気がべちょべちょなんだよ。でももう生乾きだからね、夜が明けて、風向きが変ってくれれば、すぐだと思う。」
「すると、そっちは、まだ暗いわけか。」
「いま水平線のあたりで、ほら、何かが光った。イカ舟が引揚げて来るんだろう。ちょうどそんな時間なんだ。間もなく夜明けだよ。」
「生乾きでいいから、ぜいたく言わずに着てみるんだな。小便もらしたパンツだって、我慢してはいているうちに、自然乾燥してくれるじゃないか。適当に時間をつめてくれないと、こっちだって、いいかげん待ちくたびれてしまうよ。」
「風邪をひきそうなんだ。寝不足のせいか、足ばかり火照って、体がぞくぞくして……足を砂の中に埋めておくと、気持がいい……そのくせ、寒いんだ……シャワーにかかりすぎかな。先週そっちに寄った時には、傷の痛みがひどかっただろう、そう念入りにも出来なかったけど、こんどこそ三年分の垢を完全に洗い切ってしまおうと思って……新品の石鹸を一個、まるまる使ったよ。いちど見せておきたかったな、特製の石鹸で……暇にまかせて……というより、手先の仕事は気持を集中しやすいだろう、この一週間、いろいろと考えることが多かったからな……女の胴の形に彫刻してみたのさ。ただの女の胴……彼女に似せるなんて、いくらなんでも手に余るからね。でも、股ぐらに、鼻毛を植えたりして、けっこうリアリズムでいったのに、正直、女よりも蛙に似てしまったな。まあ、形はともかく、ちゃんとした銘柄品で、品物は確かだった。まずシャワーで全身をうるませておいて、たっぷり石鹸を塗りつけた、手拭がわりの下着で、よくこする。さらに爪で痛いほどこそげてから、洗い流す。こいつを四度繰返すと、なんとか黒い洗い汁が白っぽく変ってくれたな。髪の毛も四度目には、多少泡らしいものが立ちはじめた。ところがその先がいけない。ぼくが期待していたのは、ほら、時をかけて風呂を使って脂が落ちきった後の、磨き上げたガラスコップを指でこするような感じ……駄目なんだな……そのうち石鹸はちびて使えなくなるし、腕はだるくて上らなくなるし、全身薄皮をむいたように、ひりひりして……げろを吐きそうだった……とにかく三年分の垢だからな、石鹸一個くらいで片付けようとしたのが間違いだったのかもしれない……骨だけ残して、すっかり垢の塊りになってしまったのかもしれない……げんなり砂の上にへたり込んだとたん、頭の上から砂利トラックが降って来たような音がした。なんのことはない、ポンプのモーターだったよ。参ったね、直接海岸に掘った塩っからい井戸水じゃ、あと三年かけて骨までこそげたところで、石鹸は落ちっこない……」
「喋り疲れと、聞き疲れじゃ、どっちの方が先に参るか……」
「そうか、あんたの正体が、やっと分ってきたよ。ただの空想にしちゃ、どうも口のきき方が横着すぎると思っていたんだ。空想じゃないからと言って、べつに格が上ったわけじゃないがね。あんたたちを含めて、その診察室自体が、ぼくの箱の落書だったのさ。ただの落書だよ。あんたの箱からじゃ、想像もつかないだろうが、そこが本物と贋物の違いでね。いま現にぼくがこうして眺めまわしている、定員一名かぎりの密室……誰にも覗けないのだから、真似のしようもない、顔の裏側……三年間の汗と溜息で鞣されたダンボールの内壁いちめんに、ぎっしり書き込まれた落書集……これがぼくの履歴書なのさ……食料集めのための、街の略図もあれば、このノートのための覚書きもある……その他、自分にもよく意味の分らない、図形や数字……必要なものは、なんでもここに揃っているんだ。」
「いま、何時になる、君の時計で?」
「五時に……八分前……」
「君がそこで書きはじめたのが、たしか、三時十八分だったね。気味の悪い時計だな。あれからまだ、一時間と三十四分しか経っていない計算になる。」
「ぼくの落書にすぎないってこと、忘れないようにした方が身のためだよ。ぼくが箱に未練がましすぎるだって? 忠告どおりに、箱を始末したとたん、あんたも落書もろとも消えっちまうんだ。」
「君も相当な楽天家なんだな。」
「あんたのおかげで、今じゃ自己嫌悪のほうも相当なものさ。」
「いいかい、ノートのページ数でいうと、五十九ページ分なんだ。一時間三十四分のあいだに、五十九ページ……どう考えてみたって、不可能だろう……だから何度も警告したじゃないか、喋りすぎだって。これまでの経験を思い出してみてほしいな。一時間に平均、何枚くらい書けたっけ? 平均すると、一枚にもなっていない。最高に書いたときでも、四ページ埋めるのがやっとだった。それも、ひどいなぐり書きでね。」
「もっと書けた時だってあるさ。」
「まあ、妥協して、一時間に五ページということで計算してみるか。五十九ページを、五で割ると、十一が立って、余りが四……十一時間と五十分か……そろそろこのページも終りだから、切上げて一二時間にしてもいいだろう。それも、飲まず食わずで、書きづめに書いて、やっと一二時間なんだ。書きはじめたのが、午前三時なら、今が午後の三時より前なんてことは、絶対にありえないことになる。」
「断わっておくが、これはぼくのノートなんだ。どんな書き方をしようと、ぼくの勝手だろう。」
「状況によっては、そうかもしれない。たとえば、なんの魂胆か知らないが、君がまったくの出鱈目を書いている場合。あるいは、君がつい失神している間に、二十四時間以上が経過してしまった場合。さもなければ、天変地異で、地球の自転が狂ってしまった場合。しかし、そこまで言うつもりなら、この際まったく違った仮説を立てることだって出来るんだからね。そうだろう、このノートの筆者を、君だと決めてかかる必要なんかどこにもないんだ。君以外の誰かが筆者であっても、いっこうに差支えないわけだからな。」
「言いがかりはよしてくれ。現にぼくはこうして書いている。海の臭いが立ちこめている、暗い海岸だ。すぐ頭の上の、脱衣場の薄汚れた裸電球に、小さな虫が煙のようにたかっている。何かのはずみに箱の上に墜落してくると、雨だれのような音をたてるので、思ったより大きな虫であることが分ったりする。今ぼくはタバコをくわえた……マッチをすった……焔がぼくの裸の膝を照し出す……タバコの火をその膝に近付けてみる……ちゃんと熱を感じた……どれもこれも、疑いようのない現実だ。もし今ここで、ぼくが書きやめたら、次の一字一句だって、出て来はしないんだ。」
「……と、誰か別の人間が、何処か別の場所で書いているのかもしれない。」
「誰が?」
「たとえば、ぼくだっていい。」
「あんたが?」
「そう、ぼくが書いているのかもしれない。ぼくのことを想像しながら書いている君を想像しながら、ぼくが書きつづけているのかもしれない。」
「なんのために?」
「箱男を告発するために、その実在を印象づけようとしているのかな。」
「とんだ逆効果だよ。あんたが筆者だとすると、箱男はただの空想の産物ってことになってしまうじゃないか。」
「それじゃ、箱男の無実を証明するために、実在していないことを印象づけようとしているのかもしれない。」
「なるほど、そんな事じゃないかと思っていたよ、予感はしていたんだ。しかし、あんたがいくら小細工を弄したところで、しょせん無駄な悪あがきさ。こっちにはちゃんと物的証拠があるんだからな。そう、こいつは交渉に入る前に、あらかじめ警告しておくべきだったかもしれない。ぼくが素手でないことを知っていれば、あんただってそう軽はずみな真似は出来ないだろうし……いや、べつに悪用するつもりはない、そんなつもりがあったら、とっくにやっているよ……あんたが交渉に誠意を見せてくれさえすればいいんだ。証拠物件は後で、そっくりあんたに提供してもいい。」
「せっかくだが、何をほのめかされているのやら、見当もつかないな。」
「たのむ。ただでさえ寝不足で、のぼせ気味なんだ。それじゃ言わせてもらうよ。ぼくを空気銃で狙ったのは、誰だったっけ、こっちにはちゃんと目星もついているんだ。」
「この辺には、空気銃を持った人が多いのよ。鶏小屋でイタチの被害がひどいらしいの。」と、とつぜんまた彼女が同じ文句を繰返した。ぎくしゃくと、それでもなんとか時が動きだしたようである。彼女を傷つけたくはないが、彼女が贋箱男の肩を持つのだけは、どうにも許せない。
「あいにく、動かしがたい証拠もあってね。撃たれた瞬間、そこは商売柄、すかさずシャッターを切ったのさ。現像もその日のうちにしてみた。けっこう写っていたよ。空気銃を脇の下に、体にそわせるようにして隠しながら、せっせと坂道を逃げ上って行く後ろ姿だけどね。髪の刈り方、猫背に合わせて仕立てた誂え仕立ての服、上等の生地にしては目立つズボンの皺、それに特徴のあるスリッパ式の短靴……」あとはずっと調子を砕いて、もっぱら彼女だけに話しかけ、「ちょっと推理ごっこをしてみようか。あまり他人を意識しないですませられる髪型、経済的には上のクラス、膝を折って坐る機会が多く、しじゅう靴を脱いだり履いたりの職業……君なら何を思いつく?……そう難問でもないだろう、誰だってとっさに、往診中の医者を思い浮べてしまうんじゃないかな。しかもだよ、写っている坂道というのが、すぐこの下の醤油工場の並びだとなると……」
と、ここで突然、事態が急変する。贋箱男が──それまでは足が生えた屑籠のように、ただ無害に無表情に突っ立っていた贋箱男が──不器用にうるさい音を立てて、箱をゆすり出したのだ。覗き窓のビニール幕が割れて、中から長い棒が突き出された。空気銃だった。ぴたりとぼくの左眼に狙いがつけられる。
「よせよ……」ぼくは冗談めかした、軽い調子で受け流し、「先端恐怖症の気味があるらしくて、苦手なんだよ、そういうのは……」
「そのフィルムとかを、出してもらおうか。」
「ここに持って来たりするわけがないだろう。ぼくに対等の発言権を保証してくれる、たった一つの持ち駒なんだからね。」
「身体検査しなさい。」贋箱男が、甲走った声で彼女をうながした。
彼女はためらう。哀願するように、ぼくを見上げる。両手を胸の前に組み、襟元を持上げるようにしながら、重心を前に移しかける。すると、アイロンのきいた白衣の(いつの間に着込んだのだろう?)前が大きく割れた。一番上のボタンしか掛けていなかったのだ。白衣の下は、素っ裸だった。半ば予期したことではあったが、ぼくは不意を衝かれた。白衣の下の裸は、ただの裸以上に、剥き出された感じがする。白衣が、白衣ではなく、生贄の式服に変る。むらなく内圧を受けた、張りのある曲面が、扱いの分らぬ機械のように挑発的だ。細い顎と、下腹部のまるみだけが、不似合いに子供っぽい。ぼくは頭の中を探しまわる。他人の鞄の中のように、乱雑をきわめている。傾いた重心を支えようとして、彼女の左足が前に出た。とたんに視野がせばまり、戦闘的な気分になっていた。理由は自分にもよく分らない。
「けっこう、自分でやるよ、君の手を煩わすほどの事じゃない。」ドアのわきの、脱衣籠に引返し、例の登山用のずだ袋(あるいは米軍の払い下げ品かもしれない)の口を開け、中から鰐の縫いぐるみを引きずり出す。「ぼくとしちゃ、君たちに後ろめたいものがあると分っただけでも、めっけものなのさ。どうも話が巧すぎるような気がしていたよ……」
取出した縫いぐるみの長さは、四十五センチ弱、胴の横幅十六センチ、ぱっくり割れた口は赤、背中のいぼいぼと手足の先は薄茶色、目玉と牙は白いプラスチックの埋め込み、と、それぞれに塗り分けた緑色の鰐の人形だ。このおどけた無邪気すぎる人形を見れば、誰だって気勢をそがれてしまうにちがいない。幼児恐怖症にでもかかっていない限り、子供の玩具は、たいていの大人の戦意を喪失させてしまうものである。もちろんこれは、ただの人形ではない。その辺の心理をちゃんと計算に入れた上で、ぼくが発明したブラック・ジャックなのだ。トラップ遊びの種類ではなく、もっぱらマフィァや秘密警察に愛用されて有名になった、あの兇器の方のブラック・ジャックである。木屑やスポンジの詰め物を抜き、ふだんは外の袋だけにして持ち歩いているのだが、今朝は虫の知らせがあって、あらかじめ海岸の砂を詰めておいたのだ。尻尾を持って、軽く一と振りするだけでも、ずっしり威力が感じられる。もろに殴りつければ、頭蓋骨だってへこむだろう。もっともそう意気込んで掛かることはない。ほとんど外傷を残さずに、しかも致命的打撃を加えられるのが、ブラック・ジャックの取柄なのだ。使った後は、腹のファスナーを開け、抜いた砂を庭先にでも撒きちらしておけばいい。何かあっても、縫いぐるみの袋が兇器あつかいされたりする気遣いは、まずないだろう。
さて、その鰐の縫いぐるみを、しぶしぶながら贋箱男に差し出すと見せかけて、下から上に、筒先めがけて叩きつけてやった。速度からは想像つかない破壊力だ。銃身が覗き窓の上縁に食い込み、箱が跳ね上る。不意をつかれた医者の、いまいましげなうめき声。同時に、自転車のタイヤに釘を打込んだような発射音。弾は天井に向けて飛んだが、当った音は聞きのがした。銃をひったくってやる。医者も負けずに、覗き窓から腕を突き出してきた。思いがけない握力で、ぼくの右頬が餅のようにわしづかみにされる。鰐の砂袋を、相手の向う脛に叩きつけてやった。生木に鉈が食い込むような、湿った重い音がした。悲鳴をあげて、医者が腕を引込めた。「ア」行の音ぜんぶを混ぜ合せたような悲鳴に、ぼくは汗ばむ。黙らせようと、箱の上から頭を叩きかけて、ためらった。箱を傷つけたくなかったのだ。さらに何度か、こんどは手心を加えながら(骨折を口実に居すわられては困る)、向う脛を打ちつづけると、医者は箱の中に小さく身を縮め、すっかり元の屑籠に戻ってしまった。断水中の水道管のような音さえしていなかったら、とても人間がひそんでいるとは思えない。ぼくははじめて、なんの感情もまじえずに箱を見た。窓からさしこむ午前十時の薄日が、モルタル壁の白を溶かして部屋を満たし、その中で箱はえぐり取られた穴のように見えた。
と、こうして今もこのノートを書きすすめているのが、ぼくでないとしたら(贋箱男に指摘された時間的矛盾はぼくも認めざるを得ない)、それが誰であろうと、ずいぶん間抜けた話の進め方をしたものだと思う。ここまでくれば、次の場面は、どのみち一つしかありえない。ぼくは振向いて彼女を見る。そのとき筆者は、彼女にどんな態度をとらせるつもりでいるのだろう。彼女の反応いかんによって、ぼくが箱に見切りをつけることで何を手に入れ、何を失ったのか、いやでも結論が出てしまうのだ。たとえば、彼女が白衣のボタンを外しっぱなしのままで、ぼくを迎えてくれるのか、それともすっかり掛けおえて……いや、ボタンを規準にするのはあまり適当でない……ただ動転のあまり掛け忘れることもあるだろうし、逆に、ボタンを外すという儀式を省略せずに、あらたまった気持でぼくを迎え入れようと、いったんは掛けてしまう場合もあるはずだ。こうして二メートル半のラインの外にいるかぎり、たしかに表情のほうが読み取りやすそうである。もし彼女が、その緊張した表情に隠せない安堵の色をにじませているとしたら、彼女と医者の間はもともと離反していて、ぼくは医者の横暴と拘束から彼女を救い出してやったことになるわけだし、反対におびえ切っていれば、二人は最初からぐるで、ぼくはあやうく虎口をまぬかれたことになり……
もうよそう。どっちにしたところで、話にならない馬鹿馬鹿しさだ。不都合なのは、筋が通らないことよりも、むしろなめらかに通りすぎている点だろう。真相というものは、欠落部分の多い嵌め絵のように、もっと切々で、飛躍だらけなものであるはずだ。ぼくが、ぼくでないかもしれないというのに、そうまでしてぼくを生きのびさせる必要がどこにあるのだろう。繰返すようだが箱男は理想的な殺され屋なのだ。ぼくが医者なら、さっさと紅茶のいっぱいもふるまってやっていた。職業柄、毒の一滴くらいたらしておくのは訳もないことだろう。それとも……もしかすると……ぼくはすでにそのいっぱいの紅茶を飲まされてしまったのだろうか。そうかもしれない。ありうることだ。たしかにぼくがまだ生きのびているという証拠は、どこにもないのである。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈供述書〉
これから申し述べますことは、すべて真実であります。T海岸公園に打上げられた変死体につきまして、お尋ねでありますから、つつみ隠さず、一切自発的に詳しく申し上げます。
[#ここから1字下げ]
姓名C
本籍(略)
職業医師見習(看護夫)
生年月日昭和元年三月七日
[#ここで字下げ終わり]
私はCが本名で、保健所に登録し、また診療に際し使用しておりました姓名は、戦時中私が衛生兵として従軍しておりました際の上官である軍医殿の名を、本人の了解のもとに借用したものであります。
私は、これまでに懲役や罪に処せられたことはなく、警察や検察庁で被疑者として取調べられたことも、まったくありません。
私は、これまで公務員だったことはなく、勲章や恩給、扶助料を受けたことはありません。
私はまだ独身でありますが、家族のことを詳しく申し上げますと、昨年まで内縁の妻〈奈奈〉と同居し、〈奈奈〉は看護婦として家業を手伝い、また会計の一切を監督しておりました。〈奈奈〉は本来、私が医療行為に際し、氏名戸籍を借用しましたところの軍医殿の正妻でありましたが、私との同居も、軍医殿の同意と了解のもとになされたもので、その点もめごとなどは、一切ありませんでした。私と〈奈奈〉との間に、それまで目立った不和などはありませんでしたが、昨年にいたり、あらたに看護婦見習として〈戸山葉子〉を雇い入れましたところ、それを不満として別居を申し出、私もこれに同意して、現在にいたっております。
私は、戦時中、衛生兵として軍務に服し、その経験を生かしてみずから診療にあたり、患者からの評判もよく、正規の免状をもった軍医殿の指示も応援もあおぐことはありませんでした。得意の技術は、虫垂炎の手術など、主に外科方面でありました。法にそむいた不当診療について、お咎めならば、他人の名を騙ったことについては、深く反省し、今後一切診療行為を行わないことを約束して、世間におわびしたく思っております。
さて、お尋ねの変死体の件についてでありますが……
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[#地から2字上げ]〈Cの場合〉
いま、君は、書いている。
たとえば、そこはおそらく、仕事机のスタンドだけを残して明りを消した、暗い部屋。ちょうど今、君は書きかけの〈供述書〉から顔を上げて、深く息をついたところだ。そのままの姿勢で、首を斜め右にまわすと、机の右端をかすめて、細い光の線が走っている。ドアの下からもれる、廊下の明りなのだ。もし誰かが通りかかれば、いやでも影を、その線の上に刻まざるを得まい。君は待つ。七秒か、八秒……なんの気配も感じられない。
塗り重ねたペンキも、表面の傷みを隠しきれない、時代がかった白いドア。そのドアの向うを透かし見るようにしながら、思いをめぐらすのだ。いま自分の注意をうながした、あの物音は、すると何だったのだろう。気の迷いだろうか。いや、聞えた、ほらその音だ……方角ちがいだった……窓側を振向く。壁ぎわにベッド、その上に箱男そっくりに似せてつくったダンボールの移動住宅。やっと本物の箱男が出向いてくれる気になったのだろうか。いや、足音にしては刻みが細かすぎる。犬でもない。たぶんまたあの鶏らしい。いつからか夜歩きをおぼえた、薄気味の悪いめんどり[#「めんどり」に傍点]だ。夜毎、その辺をうろつきまわっては、餌をあさっている。夜行性の鶏というのは、非常に珍しいものなのだろうか、さほどでもないのだろうか。安心して這い出して来た虫どもを、ほとんど一手に独占できるのだから、栄養はじゅうぶんのはずなのだが、毛並も悪く痩せさらばえている。あまり異例すぎる能力を身に付けると、かわりに思わぬ代償を払わされることになるのかもしれない(と、いま君はひどく教訓的な心境になっているようなのだ)。
君は飲みさしのビールのコップを、口に当ててみる。ちょっぴり舌の先を濡らしただけで、止めにする。すっかり、気が抜けてしまって、飲めたものではない。君がここに腰を据えてから、もう四時間以上も経ったのだ。九月もそろそろ終りだというのに、うっとうしい天気だ。額の生えぎわから流れる汗を、アルコール綿でおさえ、ねばる唇を唾で湿し、だが扇風機もクーラーもつけるわけにはいかない。どんな足音も聞き逃すことは出来ないのだ。君はいまひどく疑い深くなっている。
机の上には、厚いガラス板。ガラス板の上には、書きさしの〈供述書〉。まだ起きてはいないし、これから起きるかどうかも分らない事件についての〈供述書〉。それをわきに押しやって、かわりに一冊のノートをひろげる。四六判、澄色の縦罫……こいつは驚きだ、君がノートまで、ぼくとそっくりのを用意したとは知らなかった。あいまいな手つきで、表紙をめくる。第一ページ目は、次のような文句で始まっている。
[#ここから2字下げ]
「これは箱男についての記録である。
ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰の辺まで届くダンボールの箱の中だ。
つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。」
[#ここで字下げ終わり]
十数ページを飛ばして、新しいページを開ける。ボールペンを持って、いったん書く姿勢をとりかけたが、思いなおして時計を見た。午前零時までに、あと九分。九月最後の土曜日が終ろうとしているところ。ノートとペンを手にして、席を立つ。ベッドに歩みよる。箱を斜め向うに倒し、後ろからかぶるようにして、もぐり込む。そのままベッドめ端に掛けた形になる。箱の出入りにもかなり馴れてきた様子だ。覗き窓が机のスタンドに向うように、箱の角度を調整する。しかしノートをつけるには光量が不足している。覗き窓の上に吊った、懐中電燈のスイッチを入れる。そなえつけのプラスチック板をテーブル代りに、ノートをつけはじめる。
[#ここから2字下げ]
「事件のあらましを要約すると、次のようになる。場所はT市、九月最後の月曜日……」
[#ここで字下げ終わり]
どうやら君は、まだなに一つ始まっていない、明後日のことを、すでに過去の事件として記録しはじめる気らしい。何をあせっているのだろう。それとも、よほどの自信に裏付けられているのだろうか。過去形で行動予定表をつくろうというからには、すでに引金は引かれてしまったらしい。誤差をもふくめて予測可能なライフルの弾道を読むように、君がすでに見てしまった着弾地。早いとこ先を読ませてもらいたいものだ。「死」以外に、そんなにはっきりした標的があるとは思えないのだが。
君は書きはじめる。
[#ここから2字下げ]
「……人影もまばらな海岸公園の外れに、身元不明の変死体が打上げられた。変死体は、頭から包装用のダンボール箱をかぶり、腰紐で体に固定していた。最近市中を浮浪していた箱男が、誤って運河に墜落し、潮に流されて辿り着いたものだろう。他に所持品はない。検死の結果、死亡時はおおよそ三十時間前と推定された。」
[#ここで字下げ終わり]
三十時間前……君も思い切ったものだ。検死の時刻を、仮に月曜日の早朝だとしてみよう。それから三十時間さかのぼれば、ちょうど今頃だ。遅くも今から数時間以内ということになる。どうやら君も覚悟を決めたらしい。君はいきなりノートを閉じると、ベッドから尻を滑らせ、床に膝をつく。前のめりになった箱を、後ろにはね上げる。箱の仕掛けが、互にぶっつかり合って、にぎやかな音をたてる。うろたえた君は、振向きざま箱を抱え込む。仰向いて、壁の向う、天井の向うに聞き耳を立てる。おびえがひと刷毛、君の表情にニスを塗る。速乾性のニスらしく、顔の表面がちりめん皺におおわれる。どうも君は神経質すぎるよ。なぜもっと実際的になれないのだ。いくら力んでみたって、いずれ出来ることしか出来ないのに。
君はドアに向って、姿勢を正す。歩き出す。肘をしっかり脇につけ、そろえた指を軽く握り込み……三歩あるいて、力を抜く。向きを変えて、机の前に引返す。腰を下ろして、頭をかかえ込む。肘にはさんでおいたノートが、音もなく机の上に滑り落ちる。そうしてまた、思い入れだけの時が無為に過ぎて行く。
いま君が見つめているのは、机の上の、厚い板ガラスの切口だ。距離感もなく、何処にも属していない、純粋な青。多少緑がかった無限遠の青。逃亡の誘惑に満ちた、危険な色。君はその青のなかに溺れて行く。なかに全身を沈めてしまえば、そのまま永遠にでも泳ぎつづけられそうだ。この青い誘いを、これまでにも何度か受けたことを思い出す。汽船のスクリューから湧き立つ波の青……硫黄鉱山の廃鉱跡の溜り水……ゼリー状の飴に似せた青い殺鼠剤……行先の当てもなしに一番電車を待ちながら見る董色の夜明け……自殺幇助協会、と言って聞えが悪ければ、精神的安楽死クラブから配布される、愛の眼鏡の色ガラスだ。そのガラスは、熟練した技術者が細心の注意をはらって剥ぎ取った、厳冬の太陽の薄皮で染められている。その眼鏡をかけた者だけに、往きだけで帰りがない列車の、始発駅が見えるのだ。
もしかすると、君は、箱に深入りしすぎたんじゃないかな。手段にすぎなかった箱に、中毒しかけているのかもしれない。たしかに箱も、危険な青の発生源だと聞いている。
[#ここから2字下げ]
乞食に風邪をひかせる雨の色……地下街のシャッターが下りる時間の色……質流れになった卒業記念の時計の色……台所のステンレスの流し台の上で砕けている嫉妬の色……失業して迎える最初の朝の色……役に立たなくなった身分証明書のインクの色……自殺志願者が買う最後の映画の切符の色……その他、匿名、冬眠、安楽死、そうした強アルカリ性の時間に腐蝕された穴の色。
[#ここで字下げ終わり]
しかし、ほんの数センチ視線を移動させただけで、君はもう穴の外だ。いくら深刻ぶったところで、しょせん贋箱男なのである。君が、君をやめるなんてことは、出来っこない。いま君が見ているのは、ガラス板に敷き込んだ、製薬会社のカレンダーだ。クリーム色のヒポクラテスを、なにやらラテン語の警句でかこんだ商標をはさんで、左に「[#底本、フォント太字「ビタミンCとコーチゾン製品の季節」]ビタミンCとコーチゾン製品の季節」、右に「[#底本、フォント太字「自律神経失調のSEPTEMBER」]自律神経失調のSEPTEMBER」と、月別のスローガンが刷り込まれている。次に君の視線がひきつけられるのは、左隅の赤字だろう。九月最後の日曜日。箱詰めの土左衛門が、海岸公園の外れに打上げられる予定の、すぐ前の日……明日……いや、数分前からすでに今日である。いくら見ないふりをしたって、すでに印刷されてしまった字は消えない。過去形で書いた君の予定表と同じことだ。君はひろげた両手を、ちょうど肩の幅にそろえて、机の端に置く。そう、それでいいのだ。肘で支えにして、重心を前に移せば、すぐにも立上れる。引金を引いた後で、安全装置をかけてみたって、気休めにもなりはしない。
それにしても目障りなのは、その書きかけの〈供述書〉だ。たのむから、席を立つ前に、そいつを破り捨ててしまってくれないか。計画どおりに事がはこんでくれれば、そんなものは無用の長物だし、もし失敗すれば、そんなきれい事では済みっこないのだ。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈続・供述書〉
さて、お尋ねの変死体の件についてでありますが、私が医療行為のため姓名などを借用しておりました、軍医殿に間違いないことを、確信をもって申し上げます。軍医殿というのは、昔の階級を申しているのではなく、なかば冗談として長年使用し、習慣になっておりますので、そのように呼ばせてもらいたいと思うのです。軍医殿には、かねてから自殺の危険があったのですが、つい油断して、未然に防止できなかったことを心から残念に思い、深く後悔しております。そのことについて、釈明の機会を下さることを、切にお願いしたいと思うのであります。
終戦の前年、私は某地野戦病院において、軍医殿の従卒に配属されました。当時、軍医殿は、材木から糖分をつくる研究に熱中していたため、診療の大半は、私が代行することになりました。幸い私は物憶えがよく、手先も人並以上に器用であったので、軍医殿の指導により、かなり複雑な手術なども出来るようになったのです。軍医殿の研究について、申し上げますと、戦時中は糖分が極度に不足し、甘味はきわめて貴重なものでありました。材木から糖分が出来れば、これは世界的な大発見でありましょう。軍医殿は、羊が材木を原料とした紙を食べることに着目し、その腸内にセルロースを澱粉に分解する活溌な酵素が存在するはずだと考え、その酵素の分離抽出に日夜没頭しておったわけであります。
あるとき、羊の腸内バクテリヤによる感染か、加工材木の試食による中毒かは分りませんが、軍医殿が重病に倒れるという不運にみまわれました。三日間、高熱が続いたあと、ほぼ三日の周期をもって痙攣と精神錯乱を伴う激しい筋肉痛の発作に襲われるという奇病でありました。軍医殿自身、診断不能の意見でしたし、他の医師連中も匙を投げたほどです。私もその後、機会あるごとに文献など注意しておりますが、いまだに病名を指摘するにいたりません。私は軍医殿の人格にかねて好感をよせておりましたので、骨身を惜しまぬ看護に当りました。病状は一進一退してはかばかしくなく、未だに残念に思いますのは、軍医殿のたっての要求もあり、またその苦痛を見るに見かねて、麻薬を常用するにいたったことであります。終戦時には、すでに中毒症状を呈しておりました。それでも私は軍医殿を見捨てることなく、相たずさえて復員して参ったのであります。
復員後も、私は軍医殿に協力して診療所を開設し、代診として経営ならびに診療に当りました。もっとも軍医殿の病状はいっこうに好転せず、カルテによって私に指示を与える以外、直接診療は不可能というのが実状でありました。不当医療行為であることを知りつつ、あえてこのような行為を続けた理由について、お尋ねでありますから、包み隠さず申し述べたいと思います。
第一に、軍医殿のために、麻薬の補給を続けなければならないという事情がありました。いまさら階級の上下は無いのでありますから、軍医殿に強制されたというような事はありません。私の友情から自発的に行なったことであり、責任はすべて私が負うべきだと考えております。もし真に友情があるなら、麻薬中毒の治療にこそ専念すべきではないかとの疑問には、次のようにお答えしたいと思います。一般患者とは違い、医師の麻薬中毒の治療は、絶望的に困難であり、また事実上治癒率はほとんどゼロに近いのであります。これが時間をかけた安楽死であることは承知しながら、私には軍医殿を見捨てる勇気はありませんでした。
第二には、軍医殿の資格を看板にすることによって、私の生計が確保されたという事実は否定できません。しかし私は、軍医殿の弱味につけ込むようなことはしませんでした。経理は一切、軍医殿の妻〈奈奈〉の手中にありました。ただ後に、〈奈奈〉と私は内縁の関係を持つにいたるのでありますが、それも軍医殿が私に見捨てられることを恐れ、引き止め工作として私と関係を結ぶよう、強く〈奈奈〉に迫るに至ったため、やむなく取った手段なのであります。この種の被害妄想は麻薬中毒の末期にはしばしば見られる傾向なのであります。
第三には、日増しに評判もよく、腕を認められはじめているという自覚も、あえて診療を継続した理由の一つでした。むろん開業医の技術を正確に評価できる客観的な尺度はありません。それだけに、贋医者という罪の意識も稀薄だったのでしょう。それに私は医学に対してしだいに興味を深め、たえず医学書や専門誌などからの最新の知識の吸収をおこたりませんでした。二十年にわたる経験と、良心的な研究心が、免許の有無を超えた自信になっていたのだと思います。事実、他の病院からまわって来た患者を診て、不勉強な大学出の医者の無責任な誤診に、呆れ果てたこともしばしばでありました。しかし、そのことで罪が許されるとは思っておりません。どのような理由があろうと、法をおかして良いということはありえないのであります。
重大な転機が八年目に訪れました。それまで軍医殿には、医師会に出席してもらうなど、対外的な接触を一任しておりましたが、そろそろ異常な言動が目立ちはじめ、発狂説をふくめた中傷や誹謗がわれわれの耳にも届きはじめたのです。加えて、麻薬の使用量が一般の平均をかなり上まわるというので、監査を受けるに及び、私も危険を感じて軍医殿とも相談の結果、診療所を閉鎖し、当市に移転して来たというのが、現在に至る経過のすべてであります。
ただ、この事件のために、軍医殿の精神状態はますます悪化し、厭世的になり、自殺志向の傾向が目立って強まりました。〈奈奈〉の発案により、対外的にも軍医殿を表面に出すのはやめ、私が軍医殿になりすまして登録することにしたわけです。形式的に多少の相違があっても、実質的にはなんら変化はないことなので、軍医殿もこの案には大いに乗り気でした。幸い当地においても患者の信用は厚く、私の有罪が確定しましても、追いかけて被害届が出されるようなことはありえない、と自信を持って申し上げることが出来ます。被害意識のない被害者が、被害者でないとすれば、加害者意識のない私も、加害者ではないと申したいのでありますが、だからと言って、法をおかして良いとは考えません。国民の一人として、生命財産の保護を受けております以上、法にそむいて良いということはないのであります。
昨年にいたり、新しく看護婦見習を採用し、それが原因で〈奈奈〉と別居することになった事情は、先に申し述べたとおりであります。しかし〈奈奈〉には収支の一切を報告し、いぜん共同経営者としての権利を認めておりますから、その点なんらの問題はないと考えます。なお現在、〈奈奈〉は市内にピアノ塾を開業し、子弟の指導に当っておりますから、さらに本人から詳しく事情聴取のうえ、私の陳述に間違いないことをご確認ねがいたいと思います。さて、なぜ軍医殿が病院を脱け出し、ひとり死の道を選んだのか、思い当る直接の理由はまったくありません。軍医殿は、二階の一室を使用しておりましたが、寝起きの時間がまったく一定せず、しばしば非常梯子を利用して勝手に出入りしていましたから、行動のすべてに責任を持つことは不可能でありました。強いて最近にあった小さな諍いを申し上げれば、昔の材木から糖をつくる研究をなつかしむという口実で、甘味への病的な嗜好をつのらせ、健康上の理由から私が制限を加えましたところ、非常に立腹したという事実はあります。しかしそれがもとで死ぬほどであったとは考えられません。死体はダンボールの箱をかぶっていたという事でありますから、あるいは初めから死ぬつもりだったのではなく、前日からの雨で滑りやすい堤防などを散策中、馴れぬ仮装で足元も悪く、つい足を踏みすべらせたというような事も考えられるのではないでしょうか。
なお、ダンボールをかぶっていた点について、お尋ねですが、心当りはまったくありません。ここ数か月間、ダンボールの箱をかぶった浮浪者が市中を徘徊し、目撃者もいたとのことでありますが、それが軍医殿の変装ではなかったのかとお尋ねならば、私の眼を盗んでそのような変装をした可能性までは否定することが出来ません。軍医殿は、姓名、戸籍、資格などと共に、人格まで私に譲渡してしまい、自分が何者でもなくなったと信じていたようでありました。また極端な人間嫌いにおちいっておりましたから、外出に際し、箱をかぶって自分を隠そうとした気待も分らないではありません。検死の所見によっても明らかなとおり、死体の肘の内側、大腿部などは、注射の瘢痕ですでにかさぶた状になっております。中毒もこの段階まで進行すれば、この程度の奇矯の行動はとくに怪しむには足らないものと考えます。
箱男が当病院に出入りするところを目撃した者がおり、その証言と、長期にわたる注射の瘢痕から、当病院との関連が疑われ、私が喚問されるに至ったとの事でありますが、もし、そのような目撃者が現れず、箱男が単なる身元不明の変死体として処理された場合、私が一切口を拭って不当医療行為を続けたであろうとの非難が言外に匂わされておりますなら、私としてはまことに心外であると申さねばなりません。私も看護婦も、軍医殿からの呼び出しのベルが鳴らない限り、部屋を訪ねることはしない約束になっていたのであります。半日以上呼ばれなかったことは、これまでにも何度かあり、不審を抱いて部屋を検分したのは、すでに日曜日も夜半でありました。夜が明けても戻らないようであれば、警察に捜査願を出し、そのため私の不当医療行為が露見するような不利が生じても、やむを得ないことだとじゅうぶん覚悟も決めておりました。
私が医療行為をやめることに、誰よりも強く反対していたのが、軍医殿自身だったのであります。甘言を弄して私をそそのかす一方、再三自殺をほのめかして、私を強迫したことさえありました。麻薬中毒患者が薬を手に入れるために、いかに狡猜、かつ無鉄砲になるかは、すでに世間周知の事実でありましょう。たしかに軍医殿の自殺は、非常に迷惑なことでありました。第一、死亡診断書を作成しようにも、私と同姓同名であり、そのようなものを役所に提出するわけにはいきません。私は軍医殿に自殺だけは見合せるよう、何度も辞を低くして懇願しなければならぬ有様でした。図に乗った軍医殿は、自殺を見合せてやるかわりに、麻薬の量を増してほしい、新しく来た看護婦見習〈戸山葉子〉の裸体を観賞させよ、裸体のままの〈戸山葉子〉に浣腸してもらいたい、等々の注文をつけて私を困らせるのでした。しかし軍医殿にうらみを抱いているわけではありません。病人には、健康人には分らない苦しみがあるのですから、つねにいたわりの気持をもって接するべきだと考えます。
軍医殿がすでに私を必要としなくなった以上、私もこの先世間を欺いてまで医療行為を続ける義理はないのであります。不当医療行為とは、金銭的、肉体的に患者に迷惑をかけることであり、被害者を出さないかぎり罪ではないというのが軍医殿の意見でありましたが、私は贋医者であることが罪であると思い、心から反省しているのです。これを機会に一切を正直に申し述べ、長年の心の重荷を清算したいと考えたのであります。
以上のことはすべて真実であります。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈死刑執行人に罪はない〉
……どうやら君も、やっとおみこしを上げる気になったらしい。いま聞えた微かな金属音は、注射器を消毒皿におさめる音だ。その音だけは、どんな遠くからでも聞き分けられる。砂鼠が十キロ先の水の臭いでも嗅ぎつけるようなものだろう。
つづいて、今、階段の踊り場の明り取りが風にあおられる気配……もう間違いない……君の部屋のドアの開閉の時にだけ聞える音だ。聞える……プラスチック・タイルの廊下を踏みしめる、君の跣の足音……毎秒、約一歩の速度で、ゆっくりやってくる……むろん、箱はすっぽり頭からかぶって……十一歩目で、濡れたマットを踏むような音に変り、いま君は階段に足をかけたところだ。君は上ってくる、一段、また一段と、しだいに歩速をゆるめながら……やがて、踊り場に辿り着き、いつたん足をとめると、箱を半回転させて見上げるのだ……二階の廊下を手摺にそって、階段の奥行き分だけ引返した、すぐ突き当りの小部屋。狭い通路の幅いっぱいに、壁とまぎらわしいステイン仕上げの杉板のドア。
遺体安置室──
べつに死体だから、差別待遇されているわけではなく、ただでさえ死に敏感になっている他の入院患者(昔はいた時もあった)の気持を考慮して、なるべく目立たない部屋が選ばれたまでのことである。それに非常口が近く、死体の搬出にも都合がいい。
もっともぼくはまだ死体ではない。そう生きのいい方ではないが、とにかく死体ではない。死んでもいないぼくが、遺体安置室にいるわけは──君のためにも、大いに強調しておくべきだろう──べつにぼくが死体なみの扱いを受けているせいではなく、こちらから頼み込んだ結果なのである。ぼくはこの部屋が気に入っている。何よりも窓が無いのが、いまのぼくの気持にぴったりだ。最近、瞳孔の調節機能がめっきり衰えてしまったらしく、日中の光が砂のようにひりひりしみて仕方がない。それに、奥行きが幅の二倍半もあり、比率が棺桶そっくりなのも、憎悪や、不平不満や、怒りの感情などといった、人間的防禦反応をまったく失くしてしまったぼくにはすこぶる居心地がいいのである。
あれから君の気配は、じっと静止したままだ。ぼくがドア越しに、君の気配をうかがっているように、君もドァ越しに、ぼくの気配をうかがっているのだろう。ドアに意識があったら、腹を抱えて笑い出すんじゃないかな。しかし、君がためらう気持も、分らなくはない。いくら互に納得ずくの事とは言っても、とにかく死刑執行人の役目を遂行しなければならないのだ。気が重いのは当然である。ぼくだって、立場を交換するとなったら、動揺もするし、二の足も踏むだろう。しかも、殺す相手は、殺されることをちゃんと自覚しているのだ。殺されていることを意識している相手を、切り刻みながら、さりげなく世間話をかわすなんていう芸当は、とても出来そうにない。世間話のかわりに、「死」についての討論でもすれば、多少は気が休まってくれるだろうか。そうもいくまい。その方がもっとグロテスクだ。かと言って、無言のまま眼と眼を見かわしていたりしては、たちまち神経の被覆がすり切れてショートをおこし、大火傷のもとである。
いちばん望ましいのは、ぼくがぐっすり睡り込んでしまっていることだろう。睡っているあいだに、こっそりあの世に送り込んでしまうのが、なんと言っても無難なやり方だ。だが、麻薬中毒患者の目敏さについては、君もよく承知しているとおりである。年中うとうとしているくせに、睡りも浅い。ぼくの熟睡を期待するほど、君も甘くはない。事実、このとおり、ぼくは目覚めている。ベッドに上半身を起して、せっせとペンを走らせている。目脂も硼酸水で拭き取ったりして、君にとってはまことに望ましからざる状態だ。だが、安心してほしい。君の手が、ドアの把手にかかる前に……そこから一歩でも踏み出す気配を見せたらすぐに……ぼくは寝たふりを決め込むつもりでいる。君は当然、寝たふり[#「ふり」に傍点]を見抜くだろうが、本当に寝入っているよりは、むしろ安心できるだろう。本式に睡っていれば、目覚める危険があるが、狸寝入りにはその心配がない。なんならその前に、ノートを床に落して君の注意をひき、意識的な狸寝入りであることを知らせるようにしてもいい。ぼく殺しの主犯はあくまでもぼくで、君はせいぜい共犯者にすぎないのだ。君ひとりに責任をおっつけて済まそうなどというつもりは、まったく無い。さあ、何時でもいいから始めてほしい。いまこの瞬間であってもかまわない。君が行動をおこした時が、そのままこのノートの終りにもなる……
なんなら、君のために何か一と言、遺書らしいものでも残しておいてあげようか。必要にせまられる事はまずないと思うが、万に一つを考えて、その方が君も気が楽だろう。自殺幇助の罪に問われるだけでも馬鹿らしい。ほんの些細なほころびから、手編みのジャケツみたいに、すっかりほつれてしまう事だって無くはないのだ。次の数行を切り取って(濡れないようにビニール袋に密封し)死体の指にでもくくり付けておくといい。待てよ、指は駄目だ、もっと自分で縛りやすい場所……そう、輪にして首にでも掛けておくか。いや、出来ればただの事故死に見せたいところなのだから、疑惑を抱いた当局の追及がここに及ぶまでは、この部屋の何処か──一見しただけでは目立たないが、その気になればすぐに見付け出せる、ベッドのパイプの継ぎ手など──に隠しておくべきかもしれないな。切り取ったあとのノートは、むろんそっくり焼却してしまうこと。
[#ここから2字下げ]
私はみずから死を選んだ。仮に他殺を思わせる所見があったとしても、それはすべて私の不手際のせいであり、
[#ここで字下げ終わり]
いや、あまり言い訳がましくするのは考えものだ。かえって疑惑の種をまくことになりかねない。もっと単刀直入にやった方がよさそうである。
[#ここから2字下げ]
私は死ぬ決心をした。いまさら私に希望を吹き込むような偽善はよしてくれ。口に入れてしゃぶってみるまでは、どんな飴玉でも、けっこう固く感じられるものだ。しかしすぐに噛み砕いてしまいたくなる。いちど砕けた飴玉は、もう元には戻らない。
[#ここで字下げ終わり]
まだ未練がましいかな。つい本心が出てしまう。だが、心配はご無用、いくら未練があろうと、未練は未練にすぎない。これ以上生きのびるべきでないことは、ちゃんとぼくの理性が心得ている。大したものじゃないか、まだ理性が残っているんだからな。しかしこの理性も、満ち潮に洗われはじめた海岸の砂の城のように脆く、はかない。あと大波の二つか三つで、跡形もなく消えてしまうことだろう。とたんにぼくは、前言をひるがえし、意地汚く死にさからい始めそうな気がする。ぼくはまず、ぬけぬけと彼女に求婚し、断わられれば(断わられるに決まっているが)彼女を殺し、何日もかけてその死体を味わい始めることになりそうだ。たとえではなく、文字どおり、口に入れて噛みしめ舌で味わうのである。ぼくはもう何度も、彼女を食べる夢を見た。あまり火を通さない、生焼けのうちがいい。彼女は従順で、肉になっても微笑を絶やさず、仔牛と野鳥の中間のような味がして、なんとも言えずいとおしい。彼女に対する情感が、煮詰められて、けっきょく食欲に収斂してしまうらしいのだ。そこまで食欲が嵩じれば、いやでも生に執着せざるを得なくなる。だから、こうして理性が残っているうちに、なんとか片を付けてしまいたいと思うのだ。もっとも、自殺だってれっきとした行為の一種であり、行為である以上、理性や願望だけではなかなか実現してくれない。わずかな未練や食欲が、二の足を踏む口実になってしまう。だが、理性が目覚めてくれている間は、すくなくも君の援助の手をはらいのけるような真似はせずにすむはずである。そこで、どうかお願いだ、こうして君の手を借りたがっている間に、貸してくれないか。それが、君のためであると同時に、ぼくのためでもあるのだから。
どうしたんだ。何をぐずぐずしているんだ。ぼくは寝たふりをしていると約束しただろう。いい加減にしないと、それこそ石か棒きれみたいになってしまうぞ。まさか、ぼくが気付かぬうちに、引返してしまったりしたんじゃないだろうな(そんなはずはないさ、来る時以上のしのび足なんて、ありっこない)。
「君、いるのかい?……いるんなら、返事をしろよ……かまわず、入って来たらどうなんだ。」
と、ぼくは今、むくんだ声帯を力いっぱい引き締めて、ドア越しに呼びかけてみた。返事はない。身じろぎの気配さえない。ただ夜の静寂が、鉄板にハンマーを打ちつけたような痛みになって、鼓膜に跳ね返ってくるばかりだ。ぼくの思い違いだったのだろうか。そう言えば、階段の明り取りがあおられる音も、濡れ雑巾がさまよい歩くような廊下のきしみも、三日続きの雨の後に、急に山から吹き下ろして来た乾いた風のせいだと考えられなくもない。それに、ぼくが早合点してもやむを得ないだけの事情はあったのだ。君は今夜、とうとう彼女をよごしてくれなかった。彼女の裸は、ぼくの死を引延すための、絶対的な交換条件だったはずである。君が箱(ぼくの棺桶)の準備を始めてから、もうかれこれ十日になるし、彼女が姿を見せなかった以上、いよいよ用意がととのって、死が宣告されるのだと受取ったとしても仕方あるまい。そう、そのドアの向こうの気配が、ぼくの早飲込みだったとしても、君がやって来るのは、いずれ時間の問題であるはずなのだ。
やがて静かに、しかし確実に、ドアが開く。すかさずぼくは寝たふりをする。君以外に、そんなふうに静かにドアを開けられる者はいないのだから、わざわざ確認するまでもない。ぼくは寝たふりを続ける。君は悪臭に馴れるために、いったん息をとめる。息を吸い込みはじめる前に、唾を飲み込む。胸の途中にひっかかっていた親指大の氷塊が、二、三センチ下に移動する。プラスチックの貯水タンクを床に置き、箱を脱ぎながら、窓のない細長い部屋を見まわして、棺桶そっくりだとあらためて感心したりする。光源は、天井に埋め込まれた三十ワットの螢光燈一つだけだ。その端に吊り下げられているのは、バラの造花に見せかけた、蝿取り用のリボン。造花の真下が芯になるように、病院用の鉄のベッドが部屋の中央に据えられている。そのベッドから、はみ出さんばかりになって、ぼくはぶよぶよと睡り呆けている。呼吸のたびに、融けた氷嚢をゆすっているような揺り返し。売れ残った魚屋の店頭のあんこう[#「あんこう」に傍点]の切身みたいだ。縦縞の夜着の前をはだけ、茄でたアスパラガス色の腹の上に、洗いざらした花模様のタオルが一枚。そのタオルの下から、開き気味に投げ出された両脚は、毛が薄く、皮をむいた生いか[#「生いか」に傍点]のように湿っている。鼻から吸った息を、閉じたままの口から吐こうとするので、唇が厚いゴムの弁のように振動する。ゴムの弁には、メタンかアンモニヤの結晶が付着して、踊り子のタイツのようにきらめいている。ひと睡りするごとに、ぼくの内臓が一つずつ腐り落ちて行くのだ。腐敗のスピード競技だったら、本物の死体にだって負けはしない。鼻をつまんで、君は涙ぐむ。酸化した汗の分解物質が眼にしみるのだ。君にはもうこれ以上耐えられない。だから耐える必要なんかないと前から言っているんじゃないか。殺人だなどと、大げさに考えずに、腐敗の進行を食い止めるのだと思えば済むことである。
君はぼくの肩を小突いてみる。ぼくは寝たふり[#「寝たふり」に傍点]をつづける。君はぼくの左上膊にゴムを巻く。肘の内側に軽くメスを入れて、静脈をさぐり出す。皮膚が厚くかさぶたになってしまっているので、直接針を入れるわけにはいかないのだ。肉は白く、血は少ししか出ない。脱脂綿で静脈をつまみ、針を刺す。黒ずんだ血が逆流して来て、注射器の内側にねばりつく。注射器のポンプは、二十の目盛までいっぱいに引かれているが、中には塩酸モルヒネが三ccしか入っていない。上膊のゴムをほどいて、まずその三ccを送り込む。途中でぼくが眼を覚ましたとしても(もともと狸寝入りなのだから覚めっこないが)、あまり寝息が苦しそうだったから、臨時にモルヒネのサービスをしたのだ、とかなんとか、弁明の口実はいくらでもつけられる。みるみる呼吸が深くなり、たるんでいた表情がさらにたるんで、口に死相が現れる。君はさらにポンプを押しつづける。送り込まれるのは空気だけだ。静脈の露出した部分がふくれて、魚の胃袋のようだ。針を抜き、傷口に接着剤を塗って、強く指の腹で押しつける。治癒を気遣うこともないし、化膿を心配することもないわけだから、多少の手荒さは見逃すとしよう。それに多分ぼくはもう深い夢の中だ。指の二、三本切り取られても、胡椒がききすぎたウインナ・ソーセージをかじっているくらいにしか感じないだろう。とつぜん、もう一度、ぼくの呼吸が大きく変化する。ざらつき、小刻みになり、猫のように喉を鳴らして、ぷっつり切れる。夢の中では、発光する無数のアーチで構成された、影のない都市の入口に立っている。全身で笑いながら中に駈け込んで行くと、ふわりと体が宙に浮く。影が消え、いっしょに体重も消えたのだ。その時ベッドの上のぼくは、歯ぎしりしながら、下半身を(釣上げられた魚のように)大きく跳ね上げている。ベッドも合わせて歯をきしらせる。何百というスプリングが、それぞれ異った音色で、焚火のなかの枯枝のようにはじけるのだ。そのきしみが夢の中に融け込んで、次々にアーチの森と共鳴し合い、ぼくのための野辺送りの歌を奏ではじめる。ぼくは膝をかかえて、くるくる飛びながら、ひどく陽気で、ちょっぴり感傷的だ。ぼくのためにすすり泣いている彼女のクローズアップ。落葉松の若木のように、冬の臭いがよく似合う。指をのばすと、空気に穴があいて、肛門になる。息が苦しい。口を開けると、外はひどい陰圧で、舌がぽんと飛び出したまま元に戻らない。勃起した舌を、空気の肛門に差し入れたところで、夢は黒ずみ静止する。そしてぼくは死んでしまう。
死んだぼくの上に、君が這い上ってくる。腕には貯水タンクをかかえている。胸の上に尻を据えて、体重をかけ、ぼくの息を吐き出させる。息の終りのほうは、ぶつぶつ魚の卵をつぶすような音に変る。ぼくの肺を締められるだけ締め上げてから、大型の漏斗を口にくわえさせ、タンクのなかみをそそぎ込む。同時に腰を浮かせて、体重を減らしていく。タンクのなかは海水だ。漏斗の水面で、小さな渦が踊っている。藻の切れ端で、穴がつまったりする。ごみを取り除くと、虫歯を吸うような音がして、口から海水があふれ出すかもしれない。そういう場合は、すぐに腰を浮かせる速度を早めてやるといい。君がすっかり腰を上げきった時、二リットル入りのタンクは、ほぼ半分になっているはずだ。これで溺死に見せ掛ける準備はとりあえずととのった。
[#ここから2字下げ]
(もちろん、司法解剖までをごまかすわけにはいかない。溺死の判定を下すためには、最小限、肺以外の組織からも海中プランクトンが検出される必要がある。肺だけにたまった海水は、いかにも怪しげな小細工として、かえって疑いの種をまくことになるだろう。いったん疑いだすと、ぼくの死体はまさに疑惑の巣だ。いくら水ぶくれになっていようと、魚に齧られていようと、見過しようもない肉体的徴候。腕から手首、太股から膝の裏にかけての、肥厚し角質化した不定形の瘢痕群。麻薬中毒患者、それもかなりの年月にわたって常用して来た患者であることは、誰の眼にも一目瞭然だ。よほどしっかりした地下ルートでもあればともかく、こんな地方の小都市で、これほどになるまで麻薬の供給を受け続けられる者といえば、おのずと範囲も限定されてくる。まず第一に、何か医者の弱味をしっかり握り込んだ脅迫者。さもなければ、当の医者自身だろう。事実、統計的にも、職業別では医療関係者が最高の罹患率を占めているということだ。麻薬の使用量のことで審査を受けたことのある君の立場は、これですっかり具合の悪いものになる。君が供述書の練習を始めたくなった気持も分るような気がするな。しかしいずれもう手遅れさ。今となって出来ることは、後の仕上げをぬかりの無いよう、せいぜい努めるくらいのことだろう。なに、大丈夫、きっと上手くいくよ。つい水を差すようなことを書いてしまったが、そんな横槍が入る可能性はまずありっこない。箱をかぶった浮浪者の存在は、君がすでに何人もの警察官に宣伝ずみのはずだし、どんな死に様をしていようと、死んだ浮浪者を検察送りするような国家予算の無駄使いは許されていないのだ。)
[#ここで字下げ終わり]
さて、いよいよ最後の仕上げである。多少骨が折れるのは、非常階段の下まで、ぼくをかつぎ下ろす作業だ。小柄の君には、かなりの重労働だろう。それに、背負ったとき、圧迫されたぼくの肺から海水が吹き出して、君の襟首を濡らしてしまうかもしれない。ぼくの腹掛けタオルを首に巻いておくといい。それから箱を取りに引返す。ついでに、貯水タンクの海水の残りの始末も忘れないようにしておこう。ほんの些細な手ぬかりが、思わぬ命取りの種になるものだ。それからぼくの死体に箱をかぶせ、固定用の紐で腰にくくりつける。この作業は死体をリヤカーに積み込んでからの方がいいかもしれない。ズボンと長靴をはかせるのも、箱をかぶせる前の方がいいだろう。これで準備は一切完了した。あとは出発するだけだ。万一のために、上からタオルを掛けておこうか。いや、白いタナルはかえって目立つ。それに途中で人に出会ったりする危険はまずありえない。出会ったとしても、道をそれてやり過せばすむことだ。ずっと下り坂だし、リヤカーの車軸にはたっぷり給油済みだし、いくらでもこっそり身軽に動けるはずである。しかし、そう、犬はいけない。あの甘ったれの犬について来られては面倒だ。忘れず出発前に鎖でつないでおくとしよう。
ところで、ぼくの死体の捨て場所だが、やはり以前二人で打合せた、例の醤油工場裏をすすめたい。リヤカーを引込むのには決して足場がいいとは言えないが、水面までの崖が切立っていて、確実に流れに乗ってくれるという利点は捨てがたいはずだ。さて、そうこうするうち、もう一時を三十分もまわってしまった。遅くも三時までには片を付けてしまおうや。さもないと、引き潮が峠を越して運河の流れがとまってしまい、今夜の仕事にならなくなる。嫌なことを、明日に持越せば、それだけま[#地付き](理由不明なとつぜんの中断)
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈ここに再び そして最後の挿入文〉
ところで、そろそろ、真相を明かすべきときが来たようだ。箱を脱いで、ぼくの素顔を見せ、このノートの真の筆者が誰であったのか、真の目的はなんであったのかを、君にだけは正確に知らせておきたいと思う。
君には信じられないかもしれないが、これまで書いてきたことに、まったく嘘はない。想像の産物ではあっても、嘘ではない。嘘は相手を言いくるめて、真実から遠ざけることだが、想像はむしろ相手を真実にみちびくための、近道になりうるものだ。ぼくらはすでに真相の一歩手前まで辿り着いている。この最後の短い訂正で、すべてが一挙に明白になってくれるはずである。
むろんぼくに、真相を告白しなければならない義務があるわけではない。同様君にも、信じなければならない義務はない。これは義務の問題ではなく、はっきりした現実の利害がからんだ問題なのだ。ごまかしても、なんの得にもなりはしない。幾通りもの解決がありうる推理小説なんて、ぼくだって願い下げである。
もっとも最近の世相は、ますます推理小説には不向きな方向にむかっているような気もする。そう書きながら、ぼくが思い浮べているのは、たとえば月賦制度の普及ぶりなどのことだ。昔とは違って、注射を恐がったりする者がほとんどいなくなったように、もう月賦に尻込みしたりする者はめったにいない。しかし、月賦というのは、身分や職業や住所を、借金の担保にすっかりさらけ出してしまうことなのだ。担保にできるほど確実な職業や名前を持っている者が、これほど一般的になってしまっては、犯人も探偵も、出番が少なくなるのが当然だろう。こんな時代に、月賦の便利さにさからってまで覆面をしたがるのは、ゲリラか、箱男くらいのものかもしれない。だがぼくはその当の箱男なのだ。反月賦主義者を代表する一人なのだ。世相に反してでも、このノートの結末を、黒白のはっきりした解決でしめくくりたいと考えている。
ところで君は、安楽死について、どんな考えを持っているのだろうか。参考までに、昭和三十八年二月に名古屋高裁で出された判例をあげておく。
[#ここから1字下げ]
一 病人が不治の病におかされ、死が目前に迫っていること。
二 苦痛が誰の目にも見るにしのびないものであること。
三 病人の苦しみの排除が目的であること。
四 病人の意識が明白であり、本人の嘱託または承諾のあること。
五 医師の手によること。もしくは、うなずける充分な理由のあること。
[#ここで字下げ終わり]
[#挿絵]
[#ここから1字下げ]
六 死なせる方法が倫理的に妥当であること。
[#ここで字下げ終わり]
ぼくの意見を言わせてもらえば、この判例文はいささか肉体的次元にこだわりすぎているようだ。人間解釈のうえで、あまりにも小心すぎるし、通俗すぎるように思うのだ。心の病だって、肉の苦痛に負けず劣らず、見るにしのびない場合があるはずだろう。しかし、いまさらそんな事はどうでもいい。ぼくが言いたかったのは、法律の届かない場所に住む人間が相手なら、いずれすべての殺人が安楽死だということなのだ。戦場での殺人や、死刑執行人の処刑が絶対に罪を問われないように、箱男殺しも罪にはなり得ない。ためしに前の判例のなかの、病人という字句を、箱男と置き替えて読みなおしてみてもらいたい。敵兵や死刑囚同様、箱男も、法律的には最初から生存さえ認められていない存在であることがよく分かるはずである。
だから、誰が本当の箱男であったかをたずねるよりも、むしろ誰が箱男でなかったかを突き止めるほうが、ずっと手っ取り早い真相への接近法だと思うのだ。箱男には、箱男にしか語れない経験があり、それは贋の箱男には決して語ることの出来ない、箱男だけの体験なのである。
たとえば、箱男になって最初に迎える、夏の数日間。箱男が出会う試練の皮切りでもある。記憶ごと爪でひっぺがしてやりたい、窒息感。いや、暑さだけなら、まだなんとか我慢のしようもある。いよいよとなれば、地下道に面したビルの出入口に陣取って、冷房のおこぼれにあずかることも出来るのだ。つらいのは、乾く間もなく垢の層になって重なっていく、ねばねばした汗だった。かびや、イースト菌や、バクテリヤには、願ってもない培養基である。その醗酵した垢の層の下で、息をとめられた汗腺が、涸れた浅瀬の貝のように舌を出してあえいでいる。どんな内臓の痛みよりも耐えがたい、この崩れていく皮膚のむず痒さ。タールを全身に塗りたくる拷問や、金粉にまぶされた踊り子が発狂した話も、他人事ではなかった。ナイフで皮をむかれていく果物の白さが、まぶしいように目先にちらつく。ぼくは、イチジクの皮をめくるように、箱ごと自分の皮膚をひんむいてしまいたいと何度も思ったほどである。
だが結局、箱への執着のほうが打ち克った。四、五日もすると、皮膚のほうが垢になじんだのか、ほとんど苦痛を感じなくなっていた。あるいは、皮膚呼吸の分だけ、酸素の消費量を節約するように体が適応してくれたのかもしれない。そういえば、もともと汗っかきだったはずのぼくが、その夏の終り頃にはもうほとんど汗をかかなくなっていた。汗をかいているあいだは、まだ贋箱男だということだ。
ついでに、あのワッペン乞食のことも書いておこう。箱男が出会う、いちばん嫌なやつ。全身を鱗のように、バッジや、ワッペンや、玩具の勲章で埋めつくし、帽子には、誕生祝いのケーキを飾る蝋燭のように、日の丸の小旗をぐるりと立てた老いぼれ乞食。ぼくを認めるたびに、わめき声をあげて襲いかかってくる。黙殺に馴れ切って、つい油断していたぼくは、一度だけその不意討ちを避けそこなった。意味不明なうめき声をあげながら、乞食はぼくにおどりかかるなり、箱の上から何かを突き刺した。かろうじて乞食を追いはらってから、抜き取ってみると、帽子を飾っていた日の丸の小旗の一本だった。
ぼくはすっかり動揺してしまった。あと数センチ位置がずれていたら、あの日の丸の柄はぼくの耳に突き刺さっていたかもしれない。それ以来、ぼくもワッペン乞食に対してだけは、例外的に先制攻撃をかけるようにしている。おかげで箱の中から重い物を投げるこつを飲み込むことができた。まず(右利きの場合)覗き窓から出した右腕を、肘を軸にして内側に水平に曲げ、箱ごと上半身を左にねじりこむ。体をもどすはずみに、肘を目標に向って強くのばすのだ。つまり助走を省いた円盤投げの要領である。ワッペン乞食も相手に出来ないようでは、まだ一人前の箱男とは言いがたい。
だがふつう、街に出てからの箱男の日々は、おおむね平穏に過ぎて行く。事件らしいものに出会ったりすることは、めったにない。人目をはばかったり、気後れしたりするのも、せいぜい最初の二、三か月だけのことだろう。第一、外見にこだわったりしていては、生活にさしつかえる。いくら箱男でも、食べたり、大小便をしたり、睡ったり、そうした日々の営みをやめるわけにはいかないのだ。睡眠と排泄は、とくに場所を選ばないが、食事に関してはそうもいかない。手持の食料が尽きてしまえば、いやでも腰を上げないわけにはいかないのだ。金を払わず、面倒も起さずに食料を手に入れようと思えば、とりあえず残飯あさりということになるだろう。残飯あさりとなれば、しぜん量も種類も豊富な盛り場に足が向くことになる。
しかし、残飯あさりにも、けっこうそれなりのこつがいる。徐々に残飯的環境に馴らされてきた乞食や浮浪者の場合とは違い、口に入れられれば何でもいいと言うものではない。ぜいたくではなく、衛生観念の問題なのだ。残飯だからといって、不潔とかぎったわけではないのだが、どうにも印象がよろしくない。とくにあの臭気には辟易させられる。けっきょくぼくは三年間、ついにあの臭気にだけは馴れずにしまった。
どうやらあれは味と臭いが対応しない不快感が理由らしい。魚には魚の、肉には肉の、野菜には野菜の、それぞれに固有な臭いがあって、口のなかでその混合比を確かめながら、安心したり納得したりしているらしいのだ。蝦のフライのつもりが、バナナの味では閉口する。かじったチョコレートが、焼蛤の味では胸が悪くなる。まして、でたらめにただ混り合った残飯の臭いには、どんな食品も対応させようがなく、理屈では分っていても、生理的に受付けられないという事なのだろう。
そこで、残飯あさりの第一歩は、なるべく無臭で乾燥したものを物色することから始まる。ところがこいつが意外と面倒なのだ。飲食店が出す残り物には、大別して二つの種類があり、一つは、変質しやすく保存がきかないもので、量から言えばこれが圧倒的に多い。いちおう食べられない物(割箸、紙屑、割れた食器、等)とは区別して、大きなプラスチックの容器にためてあり、これは毎朝養豚場のトラックが回収に来る。いま一つは、原型がはっきりしていて、前の客の食べ残しを次の客用に使いまわすことが出来ないもの……たとえば、パン、揚げ物、干魚、チーズ、菓子、果物などである。ありふれているようでいて、いざ探そうとすると、なかなかお目にかかれない。形が半端でも、腐りにくいので、再度の利用が出来るせいだろうか。たしかにパンは、干して砕けばパン粉になるし、から揚げにした魚や鶏の骨は、いいスープのだしになる。
だが、たしか前にも書いたはずだが、箱男は店頭から自由に食料を調達してくることが出来るのだ。べつに残飯あさりに上達する必要はない。ただ、街になじむためには、いいきっかけになるということだ。雑踏のなかで、箱男らしい時をすごすためには、どうしても街に馴れきってしまわなければならない。馴れてしまえば、どこにいようと、時間は箱男を中心に、同心円を描いてまわりはじめるのだ。遠景は速く過ぎ去るのだが、近景は遅々として進まず、中心では完全に静止してしまっているので、まったく退屈するということがないのである。箱の中で退屈するようではいずれ贋物にきまっている。
そこで、考えてみてほしいのだ。いったい誰が、箱男ではなかったのか。誰が、箱男になりそこなったのか。
[#改ページ]
[#地から2字上げ]〈Dの場合〉
少年Dは、強さに憧れていた。かねがね、もっと強くなりたいと願っていた。しかし、どうなることが強くなることなのか、はっきりした考えを持っていたわけではない。ある日ふと思いついて、ベニヤ板と厚紙と鏡で、一種のアングルスコープを製作してみることにした。筒の上下に、それぞれ四十五度に傾けた鏡を平行に置き、眼の位置を筒の長さだけ横、もしくは上下にずらして覗き見しようというわけだ。とくに上端に位置する鏡には、紙の蝶番をつけ、下からの紐の操作で、多少角度の変更が出来るように工夫した。
最初のテストは近所のアパートの、塀と物置の間で試すことにした。そこは、まだ隠れん坊などをして遊んでいた子供の頃に見付けた場所で、通りからはもちろん、アパート側からも死角になった狭い隙間である。しゃがみ込むと、湿った地面の臭いにまじって、鼠の小便の臭いがした。まず膝で支えた両腕で、アングルスコープの胴をしっかり額に押しつける。上端をそろそろと塀の上に押し出してみる。通りは急勾配の坂道なので、その辺ではよほど背丈のある通行人でも、塀の高さまでは届かないはずだ。それに坂では足元が安定しないから、眼より上に注意をはらったりする者はめったにいないだろう。そう繰返し自分に言いきかせ、不安を静めてやるのだが、いざ実際に通りの情景が接眼部の鏡に映し出されてみると、Dはおびえた。風景全体が、彼を非難する眼に変ったような気がしたのだ。思わず首をすくめてしまう。はずみでアングルスコープの先端が、塀にひっかかり、夏ミカンを割ったような湿っぽい音をたてて、簡単にもげてしまった。吹き出す汗をぬぐいながら、セロテープで補修した。
二度目はもっと大胆に、接眼部からせまってくる風景にさからって、観察をつづけてみた。いったんその圧力を押し戻してみると、あっけなく緊張もほぐれはじめた。誰からも見返される心配がないと分ると、たちまち疚しさが消え、みるみる風景も変化しはじめる。風景と自分、世間と自分の関係の変化を、くっきりと自覚することが出来た。アングルスコープを作ってみようと思い立った最初の狙いに、どうやら狂いはなかったようである。
べつに目新しいものは、何もなかった。だが、風景の細部にまで、おだやかな、しかし滲透力の強い光がしみわたり、眼にうつるすべてがなめらかで、しなやかだ。通行人の表情からも、身のこなしからも、敵意を感じさせるものはきれいに拭い去られてしまっている。意地悪くあらさがしする眼など、もうどこにもない。コンクリートの舗装や、塀や、電柱や、道路標識など、風景を構成しているあらゆる街の突起やくぼみからも、ささくれ立った角がとれてしまった。世界は永遠に続く土曜日の夜の始まりのようなやさしさに満ちている。彼は鏡ごしに街にじゃれついてみた。じゃれつく彼に、街が微笑み返した。見ているだけでも世界はたのしかった。想像のなかで、彼は世界との平和条約に調印をすませたのである。
すっかり味をしめ、大胆になったDは、点々と場所を移動しながら街中を眺めてまわった。街も彼を見咎めたりはしなかった。アングルスコープを通して見るかぎり、世間は無条件に寛大だった。調子に乗った彼は、ある日、ちょっとした冒険を思い立った。隣の家の便所を覗いてみることにしたのである。そこは離れになった独立家屋で、中学の体操の女教師が一人で住んでいた。住んでいたわけではなく、ただピアノを弾くために、ときどき防音装置をしたその離れを利用していただけだったのかもしれない。その辺の事情までは、よく分らなかったし、べつに分ろうと心掛けたこともなかった。
だが、いったん思いついてみると、ずっと前から思いつづけていた事のような気がした。すべての努力が、そのための準備だったような気さえしてくるのだ。その隣家の離れは、廊下の外れを仕切って独立させた彼の小さな勉強部屋と、板塀一つへだてて接していた。おかげで便所の水を流す音が、防音壁で高音を殺されたピアノの含み声よりも、はるかに近く、生々しく聞えるのだ。実際には、ピアノの音と水洗の音とが同時に聞えるわけではなかったが、Dの頭の中では、その女教師が練習の最後に決まって弾く、甘くて悲しげなお気に入りの曲と、白い陶器のくぼみの中で渦巻く空気をふくんだ奔流の音とが、さも意味ありげに重なり合っていたのである。隣の便所に人の気配を感じただけで、蒸気を嗅いだような感傷的な気分になり、聞き馴れたメロディが馴れた手つきで背筋をはじきだすほどだった。
以前さりげなく偵察しておいたところでは、ほぼ床の高さに、狭い掃き出しの窓があるはずだった。そこが開いていてくれれば、問題はないのだが、駄目なら、天井よりの換気口から覗くしかない。覗きにくいが、そっちの方は、換気扇を(たぶん故障したのだろう)外した後に虫除けの金網を張ってあるだけなので、ずっと確実だ。しかし便所は出来ることなら下から覗きたい。覗いた状況を想像するだけで、生きたクリームのうごめきが眼にしたたり込む。
これまでの統計では、隣の女教師がピアノの練習を終えるのは、午後五時前後と、八時前後の二回に集中していたように思う。その後で便所に行く確率は、八時前後の方が多かった。だがその時間は、彼のほうで都合が悪かった。両親がそろって在宅しているので、なかなか庭に出にくいのだ。五時なら父親はまだ戻っていないし、母親は夕食の仕度の買いもので留守がちである。決行するとすれば、やはりその時刻だろう。まだ明るいので、相手から発見される危険はあったが、そこはアングルスコープを信じるしかない。街の覗き歩きで、すっかり操作の自信もついていた。それに、いったん思い立つと、覗きの衝動は原色のペンキのように、彼のためらいをべったり塗り込めてしまっていた。
その日学校から戻ると、五時前後の自由を確保するために、何かと口実をもうけて、母の外出を遅らせるようにした。四時四十分ごろ、練習が終って、例の最後の曲がはじまるのを確認してから、やっと母を送り出した。アングルスコープを小脇に、踵がつぶれたズックの運動靴をつっかけて庭にしのび出る。想像とは違って、板塀のこちら側からでは、アングルスコープも届きそうになかった。まあ、仕方がない、覗きの現場をおさえられて困るのは、むしろ塀のこちら側でかもしれないのだ。向う側に入り込んでしまった方が、かえって見咎められる率も少ないような気がする。覗いていることをわざわざ相手に告げようとでもしない限り……仮に相手が覗かれていることを意識した場合でも、意識したことにまったく気付かぬふりを続ける限り……覗く者と覗かれる者との間には、ある種の馴れ合いが生れてくれるはずだという漠然とした期待もあったようだ。覗きという、ひかえめで内気な愛情告白が、それほど咎められるべきものだとはどうしても考えられなかったのである。
板塀の下をくぐって、向う側に出た。Dの家の庭よりも湿っぽかった。建物と塀の間は五十センチ足らずで、めったに入り込む者もいないらしく、ねっとりと銭苔が厚い層をつくっていた。横這いに歩いて、便所と塀の隙間にかがみ込む。運がよかった。掃き出し窓の片端が、五センチほど開いていた。当然アングルスコープは横に使うことになる。息がはずんで胸苦しい。塀にもたれて、眼を閉じる。一と息入れてから、アングルスコープに合わせて、位置を決めた。まず陶器の便器が見えた。色は想像していたような白でなく、淡いブルーだった。しかし床は白タイルで、銀色に塗ったゴムのサンダルが並んでいた。いくら鏡を調節してみても、視界が左右にふれるだけで、必要な視界を捉えられない。落着けよ、横に使っているのだから、上下を見るためには、筒を廻転させなければならないのだ。壁は木目をプリントしたベニヤ板だった。
時間の経つのがひどく遅く感じられる。音楽も今日は特別長いようだ。全身が火照って、息が笛のような音をたてる。圧力で頭蓋骨の蓋が開き、眼球がコルク弾のように飛び出してしまいそうだ。そろそろ母親が戻ってくるかもしれない。もったいぶったピアノのリズムが、神経痛のように膝の関節を撃つ。乗り込んで行って、ピアノをぶち壊してやりたいような衝動にかられていた。
それでもなんとか、終りに近付いてくれた。聞き馴れた、締めくくりの数小節……それから、長く余韻をひびかせながら最後の和音……Dは自分に言い聞かせる、あまり期待しすぎてはいけない、第一回目から成功を期待するのは虫がよすぎる。今日は気温も高いし、乾燥しているから、それだけ小便の回数も少ないはずである。だが期待せずにはいられない。Dはふるえだす。もう鼻からの呼吸だけでは、空気が不足だ。彼は口を開けっぱなしにして、全身をポンプのようにはずませた。
とつぜん、すぐ耳元で声がした。
「誰? 何をしてるの? 駄目、逃げちゃ駄目。逃げたら人に言いつけるわよ。」
彼はすくみ上る。組み伏せられる。声の方向を見きわめるために、視線を動かす余力もない。息もたえだえに、こよりの先にぶらさがってふるえている、赤い線香花火の燃えかすのようだと思う。
「前にまわって、玄関から入っていらっしゃい。」それほど威嚇的でないのが、救いと言えば救いである。「はい、立って、早く……」声はやはり便所から聞えているようだ。しかし姿は見えない。何処から、どうやって、こちらが見えているのだろう。「その変な機械、忘れちゃ駄目よ。すぐに表にまわって。鍵は開いてるから。」小便はこれからすますのだろうか、それとも今は中止だろうか。きっとアングルスコープの位置が悪かったのだ。「分るわね、逃げても無駄よ、さあ、ぐずぐずしないで早く表にまわって……」
言われたとおりにするしかなさそうだ。確かに逃げても無駄らしい。逃げても無駄だという警告を、逃げなければ学校や両親に通告しないでくれるという意味に解釈すれば、どんな処罰であろうと、ここで処罰を済ませてもらうに越したことはない。D少年は、袋詰めにされた家畜の心境で、無駄に終ったアングルスコープを胸に抱き、建物をまわって玄関に向ったのである。かねがね肉の襞に似た感触で思い浮べていた、そのドアが、いまはコンクリートの感触に変ってしまっていた。
ドアの中は、すぐに広いピアノ室だった。見ただけで痒くなるような、穴だらけの吸音材。床には緑色のカーペット。彼が後ろ手にドアを閉めると同時に、奥のドアが開いて、女教師が入って来た。女教師の後を、水洗の音が追いかけてきた。やはりあの後で小便をすませたらしい。便器にかがみ込んだ白い尻が、意識の隅で水洗の渦と重なりあう。顔を上げられないので、かえってむき出しの尻と向き合っているような圧迫を感じてしまう。
「鍵をかけておくわね。」
女教師が彼の背後にまわり、錠を下ろす音がした。
「君、はずかしくないの。」
「はずかしいです。」
「そろそろ、声変りね。まあ、無理もないとは思うけど、でも薄汚いのは嫌だわ。君もはずかしいだろうけど、先生の方がもっとはずかしい。君がはずかしい分だけ、先生もはずかしい思いをさせられたのよ。どうする? このまま見逃したりしちゃ、いずれまた同じことを繰返して……」
「もうしません。」
「どうだか。」
「本当に、もうしません。」
「そう……でも、ぜんぜん罰を加えないというわけにもいかないわね。先生がどんな思いをさせられたのか、せめて同じ気持を、君にも経験してもらうくらいはした方がいいんじゃないかな。」
女教師はピアノに向うと、急に指を走らせはじめた。例の最後に弾く曲の一節だった。壁ごしに聞える音とはちがって、ビー玉を積み上げたように、豪華だった。ふんわりとした絹の旗が風になびいているようでもあった。Dはますます自分が薄汚く、みじめに感じられ、しまいにあふれる涙をこらえきれなくなってしまった。
「この曲、どう思う?」
「好きです。」
「本当に好き?」
「大好きです。」
「作曲家、誰だか分る?」
「知りません。」
「ショパンよ。すてきで、偉大なショパン。」とつぜんピアノを弾きやめ、女教師が立上った。「それじゃ、すぐ服を脱いで、裸になって。先生は、向うに行っててあげるから。」
Dには相手の言葉がすぐには飲み込めなかった。女教師が奥の部屋に引込んでしまっても、しばらくはぼんやりと、ただ突っ立っているしかなかった。
「どうしたの。何をぐずぐずしているの。」ドア越しの声がせきたてる。「先生はちゃんと鍵穴から見張っているのよ。本当に反省しているのなら、それくらい、出来ないはずはないでしょう。」
「何をするんですか?」
「裸になるのよ、きまっているじゃないの。君は先生を同じような目に会わせかけたんだから、文句なんか言いっこなし。」
「許して下さい。」
「駄目。それとも、お父さんかお母さんに言いつけたほうがいい?」
Dは打ちのめされる。胃が膀胱のあたりまで沈んで行って、胴が中空になってしまったようだ。裸になるのがとくに嫌なのではなかった。その点に関しては、相互に了解が成立したらしいことを、彼なりに飲み込んでいた。ただどうしても自信が持てなかったのだ。裸になればいやでも勃起してしまうに違いない。そんなふうに反応することを、はたして女教師が許してくれるだろうか。考えられないことだ。彼女は腹を立て、こんどこそは見逃してくれないに違いない。さもなければ、腹を抱えて笑い出すことだろう。どっちにしても、みじめすぎる。みじめだと自覚すれば、多少は勃起が静まってくれるだろうか。いや、駄目だ、裸になることを想像しただけで、もう勃起しかけている始末なのだ。笑いのめされながらでも、勃起しつづけるに違いない。
観念した。自分の醜さに耐えながら、上衣をとり、シャツを脱ぎ、ズボンを下ろして裸になった。勃起した。だのに、なんの反応もなかった。ドアの向うはしんと静まりかえったままだった。単に音がしないだけでなく、物質のような静寂がうずくまっているのだ。鍵穴からの視線が黒い光になって突き刺さってくる。視界から色が消えて、明暗だけになる。足の裏から感覚が消えた。よろけそうになったはずみに、小便をもらしかける。小便ではなく、射精だった。途中でこらえることは出来なかった。彼は膝をつき、顔を両手で覆って泣く真似をした。涙が出るわけはなかった。彼の内臓は、夜明けの砂浜のように、一瞬のうちに干上ってしまっていた。
「これで、分ったわね?」
ドアの向うの女教師の声も乾いていた。彼はうなずいた。実際によく分ったのだ。彼がうなずいて見せた以上に、自分で分ったと思っていた以上に、深く理解していたのである。
「もう帰ってもいいわ。」
薄めに奥のドアが開いて、飛んできた玄関の鍵が音もなく床に落ちた。内側からなら、鍵がなくても開けられるはずのドアだった。
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[#地から2字上げ]〈……………………〉
やっと辿り着いた病院のドアには錠が下り、本日休診の札がかかっている。裏の方で、例のお人好しの犬が、かすれた声で鼻を鳴らしている。ぼくはベルを押す。気があせるので、間もおかずに、押しつづける。人の気配が近づく。とつぜんドアが押しひろげられ、跳ねるように体を開いた彼女が、ぼくをせかして迎え入れる。何か早口に言いながら、奥に引返して行く。よくは聞きとれなかったが、ぼくを贋箱男(もしくは贋医者)と思い違えて、文句を言っているらしい。こういう訂正は早いに越したことはない。ぼくはせき込んで説明しはじめる。
「先生じゃないんだ。本物ですよ、本物。昨夜、橋の下で待っていた、元カメラマンの……」
彼女は、唇を半開きにしたまま、ぼくを上から下に素早く検分する。驚きのために、表情筋が濁ってしまっている。
「困るじゃないの。約束、守ってくれなかったのね。いますぐ、脱いじゃって。あなた、知らないかもしれないけど……」
「いや、知っている。先生のことだろう。さっき、街で見掛けたんだ。」
「脱いでよ、おねがいだから……」
「脱げないんだ。だから、あわてて飛んで来たんだよ。」
「駄目よ、いまさら……」
「でも、裸なんだ。素っ裸なんだ。ぼくはあれから、海水浴場のシャワーで体を洗って、洗濯した下着が乾くのを待っていたんだ。箱から出るには、出られるように身仕度しなけりゃならないだろう。その後で、箱の始末をつけてから、ここに来るつもりだったんだ。約束を守ったことを、見てもらいにね。ところが、睡り込んじゃった。工事用のローラーで敷きつぶされたみたいに、べったり睡ってしまったんだ。おまけに、夢の見つづけで、夢の中では一睡も出来なかったから、さっきまで寝つづけてしまったのに、まだ睡眠不足なのさ。それはともかく、眼を覚ましてみたら、乾してあった下着もズボンも、どこかに消えてしまっているじゃないか。参ったよ。そう言えば、明け方近く、何人かの子供が竿の先に旗をつけて駈けまわっている夢を見たような気がするけど、夢じゃなくて、現実だったのかもしれない。考えてみると、旗じゃなくて、ぼくのズボンだったような気もするんだ。弱ったよ。どこかで、なんとか、ズボンだけは手に入れなけりゃ、どうしようもない。どんなぼろでもいいから、とにかくズボンを見つけよう……そう思って、街の方に向っていたら、ちょうどあの堤防の切れるあたりを、ぼくとそっくりな箱男が歩いている……もう駄目だと思った……とてもズボンは間に合わない……」
とつぜん彼女が笑い出す。折った体を、踵で支え、体をゆすって笑い出す。はじめは意地の悪い、からかい気味の笑いだったが、途中から力が抜けて、ただ面白がっているだけの笑いになる。笑い終えたときには、しこりもとれて、陽気で親しげな調子に変っている。
「裸だっていいわよ、約束は約束でしょう?」
「悪いけど、古物のズボンでいいから、貸してもらえないかな。」
「それじゃ、私も裸になってあげる。どうせ、私の写真を撮るつもりなんでしょう。二人で裸だったら、気兼ねもないんじゃない?」
「男の裸なんか見たって、しようがないじゃないか。」
「ちがうの。」無表情に言い返して、彼女は素早く脱ぎにかかる。ブラウス……スカート……ブラジャー……「その箱が嫌なの。一秒だって、もう我慢が出来ないのよ。」
彼女はあっさり裸になって、ぼくの前に立つ。唇には、ちょっぴりからかいの色。しかし眼には暗い哀願の色。裸になった彼女は、いっこう裸に見えない。裸が似合いすぎるのだ。だが、ぼくはそうはいかない。とくに箱からのぞきかけの下半身は、こっけいの極みだろう。
「しばらく、眼をつぶっていてくれないか。向うをむいて……」
「いいわよ。」
声に笑いをふくませて、彼女は背を向け、肩で廊下の壁によりかかる。ぼくは長靴を脱ぎながら、全身が小刻みにふるえているのを感じる。そっと箱から脱け出し、音をたてないように、後ろから彼女に近付いて、肩に手をかける。彼女がさからおうとしないので、ぼくはさらに距離をつめながら、この距離を永久に保ちつづけなければならないと強く自分に言い聞かせる。
「でも、いいのかい、先生が戻って来ても……」
「戻りっこないわよ。戻る気もなさそう……」
「これ、君の髪の匂いだね……」
「くりくりしたお尻……」
「白状するよ、ぼくは贋物だったんだ。」
「もう黙って……」
「でも、このノートは本物なんだよ。本物の箱男からあずかった遺書なのさ。」
「汗びっしょり……」
[#ここから2字下げ]
(だが、断わるまでもなく、すべての遺書が額面どおり、つねに真実を告白するものとは決まっていない。死んでいく者には、生き残る連中には分らない、やっかみもあれば嫉妬もある。なかには、「真相」という空手形に対するうらみが骨身に徹していて、せめて棺桶の蓋くらいは「嘘」の釘で止めてやろうという、ひねくれ者だっているはずだ。ただ遺書だというだけで鵜呑みにするわけにはいかないのである。)
[#ここで字下げ終わり]
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[#地から2字上げ]〈夢のなかでは箱男も箱を脱いでしまって
[#地から2字上げ]いる。箱暮しを始める前の夢をみているの
[#地から2字上げ]だろうか、それとも、箱を出た後の生活を
[#地から2字上げ]夢みているのだろうか……〉
めざす家は、坂の上にあって、いわば町の出口にあたっていた。ぼくは長い道のりを、はるばる馬車に乗ってやって来て、いまやっとその門の前に辿り着いたところである。その道のりの長さからすると、この家は町の出口というより、むしろ入口なのかもしれなかった。
それに、馬車とは名ばかりで、車をひいていたのは馬ではなく、じつはダンボールの箱をかぶった人間だったのだ。もっと正直に言ってしまうと、ぼくの父だったのである。父はすでに六十歳を越えていた。しぜん旧弊なところがあり、結婚式には馬車で花嫁を迎えなければならないという、古くからの町の習慣を破るまいとする一心で、みずから馬の代役をかって出てくれたのだ。しかも、ぼくに恥をかかせまいとして、ダシボールの箱に身を隠してくれた。花嫁に動揺を与えまいとする配慮もあったらしい。
むろん、ぼくに馬車を傭うだけの金があれば、いくら父でもそこまではしてくれなかったろうし、ぼくも頼みはしなかったと思う。かと言って、馬車賃が払えないから、結婚をあきらめるというのも、みじめすぎる。やはり父の好意に甘えるしかなかったのだ。
だが、すでに六十歳の父は、しょせん馬ではなかった。荒れほうだいの坂道を、あえぎあえぎ引いていくのだから、本物の馬の十分の一もはかどらない。まさかぼくが降りて後押しするわけにもいかず、馬車は遅々として進まない。時だけがやたらに早く過ぎていく。おまけに、容赦のない震動が加わって、ぼくの生理的要求がついに限界点に達したとしても、責められるいわれはないはずだ。
馬車が停った。父が馬の胴にくくりつける(名称はよく分らない)革帯のような道具を箱から外し、前に開けた覗き窓からぼくを見上げて、弱々しく疲れきった微笑を浮べた。ぼくも、こわばった微笑を返し、そろりと荷台から這いおりる。そう、馬車は馬車でも、荷馬車だったのだ。でも、荷馬車ではいけないという申し合せがあったわけではなし、結婚してしまえば、もうこっちのものだ。ぼくは息をはずませ、すり足で道端に駈けよると、同時にズボンの前を開いて、下腹の力を抜き、遠い山脈《やまなみ》を飛んで行くような深い解放感にひたりはじめる。
「おい、ショパン、なんていうことをするんだ。」
背後から、狼狽しきった、父の叫び。油断しすぎていた。花嫁の家と道路の間には、何やら大きな灌木の茂みがあり、絶対にさえぎられているという確信があったのだ。しかしわが花嫁は、待ちくたびれていた。遠くから馬車の音を聞きつけていたらしく、すぐ道路端まで迎えに出てくれていたのだ。ただ、遠慮とはにかみから、皮肉にも、ぼくが楯にしていた灌木のすぐ後ろに身をひそめていたのである。視線が合った。彼女がぼくのペニスを眼にしたことは確実だ。白い衣裳が、枝のあいだにひるがえり、駈け去っていく軽い足音、木槌で叩き割るようなドアの音。万事休すだ。あれほど胸をこがし、希望と絶望のあいだに張り渡された細いロープをよろめきながら渡り、もう一歩で向う岸にたどりつけると思った瞬間、振り下ろされた斧。あきらめようにも、あきらめきれない。
「父さんは彼女の後見人なんだろ、たのむ、なんとかしてくれよ。」
口惜し涙がこみ上げてくる。しゃくり上げながらも、まだ止まらない小便。地面に穴をうがち、湯気をたてながら広がっていく、淡黄色の池。
「なあ、ショパン、あきらめが肝心だよ……」父は、穴から出した手で箱の腹を小刻みに打ちながら、痛ましげにぼくを説得するのだった。「おねがいだから、悪あがきはよしてくれ。露出狂の男が結婚に不向きなくらい、いまの若い娘には常識だからな。」
「ぼくは露出狂なんかじゃない。」
「しかし、そう思われても仕方ないだろう。見られちゃったんだぞ。」
「どのみち、結婚するんじゃないか。」
「馬のかわりまでしてやった、父さんの誠意にめんじて、ここは男らしく引き下ってくれないか。たのむよ。さいわい他に目撃者はいない、将来、ショパン伝が何百冊書かれようと、このスキャンダルだけは、誰にも知られたくないんだ。立小便に左右された運命なんて、伝記にはぜったい不向きだからな。そうだろう。むろん、おまえが悪いわけじゃない。露出狂に対する偏見と、公衆便所の建設を怠った町の行政の責任さ。さあ、行こう、こんな町にもう未練なんかないだろう。どっさり公衆便所がある大都会に出掛けようじゃないか。公衆便所さえあれば、大便だろうと小便だろうと、したいほうだいだからな……」
都会に出たところで、この心の傷がいやされるわけがない。それはそうと、父はなんだってぼくのことをショパンなどと呼ぶのだろう。傷ついているのは何もぼくだけではないのだと思い、あえて追及はしないことにする。とまれ、父の言うとおり、もはやこの町にとどまるべきでないことはよく納得できた。小便してる最中の無防備さは、まったく身にしみるほど心もとないものである。
ぼくらは馬車を捨てた。しかし父は、箱を脱ぐことをきっぱりと拒絶した。こうなった責任の一半は自分にもあるのだから、当分は馬の役目をつづけるのが、父親としての義務だと言い張ってきかないのである。そこでぼくは父の箱にまたがり、永年住みなれた町を後にしたわけだ。
都会に着いたぼくらは、とりあえずピアノつきの屋根裏部屋を借り、そこで時をかせぐことにした。印象としては、ただぐるりと廻って、裏口から彼女の家に入っただけのような気もするが、その点ははっきりしない。傷心をまぎらすには、手仕事にかぎるというので、父が何処からか画用紙とペンを手に入れてきてくれた。ぼくはピアノを机がわりにして、せっせと追憶のなかの彼女を描きつづけた。熟練するにつれて、裸婦像になっていったのは言うまでもない。
「ショパン、おまえの才能も、まんざらじゃないな。認めるよ。しかし、分っているだろうが、われわれの懐具合はそう楽ってほどじゃない。そこで、どうだろう、もう少し紙を節約して、小さな絵を描くことにしてみたら……」
たしかに父の言うとおりだった。紙の大小など問題ではない。むしろペン画は、小さいほうが表現しやすいくらいである。ぼくは紙をしだいに小さくしながら、描きつづけた。紙を小さくすると、それだけ一枚の仕上りも早くなるので、ますます紙の使用量が増え、いっそう小さく切り刻まざるを得ない。ついには、親指の腹ほどの紙片をピンでとめ、虫眼鏡をつかってのぞき込みながら、肉眼では見分けられないような細かな線を、ぎっしり刻み込んでいくのが習慣になっていた。その作業に熱中している間だけは、彼女と一緒にいられるのだ。
あるとき、妙なことに気付いた。ひっそりと静まりかえっていたはずの屋根裏部屋に、人の気配が充満しているのだ。なぜ今まで気付かなかったのだろう。ドアからピアノの前まで、ずらりと行列が出来、行列はさらに廊下の外までつづいているらしい。先頭の者が、ピアノのわきの箱(なかみはむろん父だ)に金を入れ、描きあげたぼくの画を大事そうに受取って行く。さほど驚きはしなかった。かなり前からそんな状態が続いているような気もした。そう言えば、最近は食事もずっとよくなったし、机がわりの古ピアノも、いつか新品のグランドピアノに変っている。父の箱も、ダンボールから、尾錠つきの赤い本皮製にと大きな進歩をみせている。ぼくは知らぬうちに、すっかり世間から認められはじめていたようだ。描くはしから売れ、いくら描きつづけても、買手の列はいっこうに減る気配もみせないのだった。
でもいまさらそんな事はどうでもいい。父はもうけた金で、こんどは本物の馬を買ったりしているらしいが、それもぼくとは関係のないことだ。じつはあれ以来、一度も箱から出た父を見たことがないので、はたして本物の父かどうかも疑わしい。ぼくの憂鬱は、画のなかの彼女がいつまでも昔のままなのに、本物の彼女は経った年月の分だけ年をとってしまったはずで、もう取返しようがないということである。それを思うたびに、あの別離の苦悩がまざまざと甦り、弛緩した涙腺から、わけもなく涙があふれ出す。すかさず父が箱から手をさしのべ、新品の絹のハンカチを一と振り、眼の下にあてがってくれる。なにぶん小さな画なので、涙の一滴でも、たちまちにじんで使いものにならなくなってしまうのだ。
そんなわけで、いまではもうぼくの名前を知らない者はいない。世界で最初の切手の発明者、ならびに製作者として、ショパンの項が載っていない百科辞典にはまずお目にかかれまい。だが、郵便事業が発達し、しだいに国営化されるにつれ、ぼくの名前はこんどは切手の贋造者として知られるようになった。それが、どこの郵便局にもぼくの肖像画が飾られていない、いちばんの理由らしいのである。ただ、父が最後に愛用していた赤い箱の色だけは、いまでも一部、郵便ポストの色として受継がれているようである。
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[#地から2字上げ]〈開幕五分前〉
──いま、君との間に、熱風が吹いている。官能的で、灼けつくような、熱風が吹きまくっている。いつから吹きはじめた風なのか、でも、正確なところは、よく分らない。今の熱気と風圧に、ぼくはどうやら時間感覚をなくしてしまったらしいのだ。
しかし、いずれ風向きが変るだろうことも分っている。とつぜん、冷やかな、西風に変るのだ。すると、この熱風も、まるで幻だったように、肌からぬぐい去られて、もう思い出すことも出来ないだろう。そう、この熱気は、はげしすぎる。この熱風自体のなかに、その終末の予感がひそんでいるのだ。
なぜなのか。ぼくなりに、説明を求められれば、出来ないこともない。でも、肝心なのは、その説明を君が聞きたいと思っているかどうか……いずれ、独り芝居は分っているけど、君を退屈させたくはないからな。どう……続けようか……それとも……
──ええ、ちょっぴりなら……
──ちょっぴりって、五分くらい?
──そうね、五分なら、きり[#「きり」に傍点]はいいわね
──もちろん、これは、恋愛だろう。でも、しだいに高まり、霧の塔になってそびえ、凝結して完成する、いわゆる恋愛とはまるで異質なものらしい。言ってみれば、まず失恋の自覚からはじまった恋愛……終りから始まる、逆説的な恋なんだ。ある詩人が言った。愛することは美しいが、愛されることはみにくい。失恋から始まった愛には、だから、まるっきり影がないわけだ。美しいかどうかは知らないが、ともかくこの痛みには、悔いがない……
──なぜなの?
──何が?
──なんのために、終ってしまった話をしなけりゃならないの?
──終ったわけじゃない。失恋で始まったのさ。現に熱風が吹きつのっている。
──熱いのは、夏のせいよ。
──どうやら君には理解できていないらしい。むろんこれは物語だ。現在進行形の物語なのさ。聞いている以上、君も作中人物の一人になる義務がある。いま君は恋を打ちあけられたのだ。不快感をもよおそうと、馬鹿馬鹿しく感じようと、とにかくふられた役を演じてくれなけりゃ困るな。
──なぜかしら?
──大事なのは、結末じゃない。必要なのは、現在この熱風を肌に受け止めているという、その事実なのさ。結末なんかは問題じゃない。いまのこの熱風そのものが大事なんだ。眠っていた言葉や感覚が、高圧電気をおびたように、青い光を発してあふれ出すのは、こうした熱風の中でなんだ。人間が、魂を実体として眼にすることが出来る、得がたい時[#「時」に傍点]なんだ。
──たいしたもんだわ。その調子でくどけ[#「くどけ」に傍点]ば、絶対に自分は傷つかずにすむわけね。でも、ちょっと、計算が見えすぎるんじゃない。
──なるほど、半分は真実かもしれない。でも、別の半面を、君がまったく認められないというなら、もう止めてもいいんだよ。
──続けたいんでしょう?
──もちろん。
──あと二分の権利はあるわよ。
──君は無理をしている。
──時間を無駄にしないほうがいいんじゃない。
──そう、時間は大事にしたい。しかし、時間を取戻そうとは思わない。ぼくの中にいる君とくらべたら、君の中にいるぼくなんぞ、微々たる存在さ。でも、その苦痛からのがれようとしたら、時間はゆっくり融けていく。根気よく、くどき[#「くどき」に傍点]の技術を駆使すれば、あるいはちょっぴり、小さな平和と幸福を手にする望みもなくはない。だから、失恋から始まった、この得がたい熱風をなんとか大事にしたいのさ。すばらしい、言葉の森と、官能の海……そっと君の肌に指を触れただけで、時が停り、永遠がやってくる。この熱風の苦痛の中で、ぼくは死にいたるまで消えない、肉の変形術をほどこされるのだ……
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[#地から2字上げ]〈そして開幕のベルも聞かずに劇は終った〉
いまなら、はっきりと、確信をもって言うことが出来る。ぼくは間違っていなかった。失敗したかもしれないが、間違ってはいなかった。失敗は少しも後悔の理由にはならない。ぼくはべつに結末のために生きて来たわけではないからだ。
玄関のドァが閉る音。
彼女が行ってしまった。いまさら腹も立たないし、恨みにも思わない。ドアを閉める音には、深い憐みと思いやりがこめられていた。ぼくらの間には、争いも憎しみもなかった。彼女だって、出来れば玄関のドアなど使わずに姿を消したかったのだろう。だから、ドアらしい音をたてるのをはばかったのだ。十分間だけ待って、ドアを釘付けにしてやろう。べつに彼女が戻ってくることを期待しているわけではない。じゅうぶんに遠ざかって、釘を打つ音が彼女の耳に届かなくなるのを待つだけである。
玄関を終えたら、あとは二階の非常階段のドアの閂だけだ。窓や、通気孔は、すっかりベニヤ板やダンーボールでふさいでしまってあるので、もう日中の光線さえ入り込む余地はない。まして今は曇った夕暮である。建物全体が完全に外界から遮断されて、出口も入口もなくなるのだ。そうした上で、ぼくは出発する。箱男にしか出来ない脱出だ。どんな方法で、どこに脱け出すのかは、このノートの最後に書くつもりでいる。
十分経過──
いま玄関を釘付けにしてきたところ。手もとが狂って、左の親指の爪の付根をすりむいてしまった。ちょっぴり血がにじんでいるが、痛みはすぐにひいてくれた。
考えてみると、ぼくが外から戻ってから、彼女が立去るまでの間、けっきょく一と言も言葉を、かわさずにしまったわけだ。心残りがなくはない。しかし、この心残りは、話し合ったくらいで消えるものではないだろう。言葉が役立ってくれる段階はすでに過ぎ去ってしまっていた。眼を見交わしただけで、すべてが理解できた。完全すぎるものは、崩壊の過程に現れる現象の一つにしかすぎないのだ。
彼女の表情は、わずかに緊張していた。あるいは薄い化粧のせいで、そう見えただけかもしれない。とにかく、表情の変化は、彼女の変化のほんの一部分にすぎず、ぼくにはどうでもいいことだったのだ。肝心なのは彼女が服を着ていたことだ。どんな服かは、この際問題でない。もう二か月近く、彼女は裸で暮していたのである。ぼくも、箱の下は素っ裸だった。家では二人とも裸だったのだ。そしてぼくら以外には誰もいなかった。標札も看板も外され、門の赤ランプも消され、間違えて訪ねて来る者も絶えてしまったので、休診の札さえ出す必要がなくなっていた。
一日に一度、ぼくが箱をかぶって街に出た。透明人間のように街をうろつき、食料品を中心にした日用雑貨を調達してまわった。一軒の店に、月に一度以上立寄らないようにすれば、見咎められる気遣いはまず無さそうだった。ぜいたくは出来なかったが、不自由もしなかった。二人だけなら、このやり方で何年でも暮して行ける自信があった。
ぼくが裏の非常階段から上って、二階の廊下で箱と長靴を脱ぐと、待ち受けていた彼女が、下から裸で駈け上ってくる。一日のうちで、この瞬間がいちばん刺戟的だった。短時間だったが、ぼくはかならず勃起した。体をゆすりながら、隙間が開かないように密着させて、強く抱き合うのだ。しかし、こっけいなくらい語彙は貧困だった。彼女の頭が、ちょうどぼくの鼻の位置にあり、ぼくが「君の髪の匂い」と眩くと、彼女が「くりくり丸い」と後を受けて、ぼくの尻を小刻みにさすりつづける。だがその点に問題があったとは思えない。言葉が有効なのは、いずれ相手を他人として識別できる、二・五メートルの線までのことである。また、階段わきの、例の遺体安置室の存在が、二人の間に影を落していたとも思えない。ぼくらは完全に黙殺することにしていたし、黙殺すると、その部屋は事実上ないに等しかった。
何分かして、ぼくの勃起がおさまりかけた頃、やっと抱擁をといて、廊下の突き当りの台所に向う。抱擁はといても、体のどこか一部はかならず接触させていた。たとえば彼女が流し場で、じゃが芋をむいたり、葱を刻んだりしている間、ぼくはその足元に坐り込んで、ゆっくり彼女の両脚をさすり続けるのだ。その台所の床には、うっすらと黴が生えていた。本当の台所は、階下にあって、ここは以前入院患者用に設備したまま、ほとんど使われずに放置されていたものだ。ここを使いはじめたのには、それなりの理由がある。廊下をへだてた向いに空部屋があって、料理の屑をほうり込んでおくのに便利だったからだ。野菜屑や、魚の頭などは、一応ビニール袋に収めたが、すぐに鼠に食い破られて、床いちめんにちらばった。半日たつと腐りはじめて、ねばつく臭気がドアの開閉のたびに、外にあふれ出した。それさえぼくらは、気にかけなかった。一つには、他人と皮膚を接触せていると、嗅覚が変化するということもあったようだ。いま一つは、例の遺体安置室の存在を忘れるために好都合であることを、無意識のうちに感じ取っていたせいもあるかもしれない。ぼくらは、部屋をごみで一杯にするためには、すくなくも半年はかかるという楽観的な予測しか話題にしなかった。
だが、本当に楽観的だったのだろうか。ぼくらは最初から、ただ希望を放棄していただけなのだと思う。情熱とは、燃えつきようとする衝動なのだ。ぼくらは燃えつきようとして焦っていただけなのかもしれない。燃えつきる前に中断することは恐れていたが、現世的な持続を願っていたかどうかは、疑わしい。部屋がごみで一杯になる半年先のことなど、あまり遠すぎて想像することも出来なかったのだ。一日じゅう、ぼくらは体の一部をたえず接触させつづけていた。半径二・五メートルの輪をはみ出すことはめったに無かった。その距離だと、ほとんど相手が見えないのだが、べつに不都合は感じない。部分を想像の中でつなぎ合せれば、けっこう見ているような気持になれたし、それ以上に、相手から見られていないという解放感が大きかった。ぼくは彼女の前で、部分に分解してしまっていた。彼女はぼくの尻の感触を批評する以外、好きだとも、嫌いだとも、人格全体にふれるような意見はまったく口にしなかった。べつに気にはならなかった。言葉そのものが、すでに意味をなくしかけていた。時間も停止してしまっていた。三日も、三週間も変りなかった。どんなに長く燃えつづけても、燃えつきてしまえば、一瞬で終ることだった。
だから、今日、裸の彼女が駈け上ってくるかわりに、服を着けた彼女が黙ってぼくを見上げているのに気付いたとき、さしたる混乱もなく、ちょっぴり振出しに戻ったような落胆をおぼえただけですませられた。ただ、自分の裸がひどくみじめったらしかった。追い立てられるようにして、箱に戻り、あとは身じろぎもせずに彼女が立去るのを待つしかなかった。彼女は眉をひそめて、あたりを見まわしたが、ぼくのことは眼に入らないようなふりをした。悪臭の原因を突きとめようとしただけのように見えた。ゆっくり振向いて、いったん自分の部屋に引返した。ぼくも足音をしのばせて、昔の診察室に戻る。振出しだったら、もう一度最初からやりなおしがきくのだろうか。もちろん何度でも、やりなおしはきくはずだ。耳をすませて、廊下越しに彼女の様子をうかがう。なんの気配もない。ぼくからやりなおしを申し出るのを、待ってくれているのだろうか。しかし、何度やりなおしてみたところで、いずれまたこの同じ場所、同じ時間が繰返されるだけのことだろう。
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時計の文字盤は片減りする
いちばんすり減っているのが
8の字あたり
かならず一日に二度
ざらついた眼で見つめられるので
風化してしまうのだ
その反対側が
2の字のあたり
夜は閉じた眼が
無停車で通過してくれるので
減り方も半分ですむ
もし まんべんなく風化した
平らな時計を持っている者がいたら
それはスタートしそこなった
一周おくれの彼
だからいつも世界は
一周進みすぎている
彼が見ているつもりになっているのは
まだ始まってもいない世界
幻の時
針は文字盤に垂直に立ち
開幕のベルも聞かずに
劇は終った
[#ここで字下げ終わり]
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[#地から2字上げ]〈……………………〉
今こそ最後の打ち明け話。ぼくが耳にしたのは、じつは、彼女の部屋のドアの音だったのである。玄関のドアの音など聞えたりするはずがない。あそこは最初かち釘付けにしておいた。いちばん手間をかけて、頑丈に閉めきった。彼女が出て行けるはずがない。非常階段の閂にも錠を下ろしたので、彼女はいまも建物の中に閉じ込められっぱなしのままでいるはずだ。ぼくとの間をへだてているのは、あのいまいましいブラウスとスカートだけ。だがその服の効き目も、ぼくが電源を切ってしまえば、それっきりである。見えなくなれば、裸も同じことだろう。服を着ている彼女に見られるのが、我慢ならないのだ。闇の中でだったら、盲人相手も変りない。彼女は再びやさしくなる。彼女の眼をくり抜いてやろうなどと、気のすすまぬ計画に頭をつかう必要からも、一切解放されるのだ。
箱から出るかわりに、世界を箱の中に閉じ込めてやる。いまこそ世界が眼を閉じてしまうべきなのだ。きっと思い通りになってくれるだろう。この建物の中には、懐中電燈はもちろん、マッチから、蝋燭から、ライターの類まで、影や形をつくり出す一切のものが片付けられてしまっているのだ。
しばらく余裕をおいてから、電源を切った。わざわざ、きわ立たせもしなかったが、とくにしのばせもせずに、彼女の部屋を訪ねてみた。むろん箱を脱いで、裸のままだ。闇の奥の小さな気配だけを想像していたぼくは、思いがけない部屋の変化にうろたえた。予想と食い違いすぎていたので、驚きよりも困惑が大きかった。部屋だったはずの空間が、どこかの駅に隣合った、売店裏の路地に変っていたのである。路地をへだてて、売店の反対側は、不動産屋、兼、私営の手荷物一時預り所の建物だった。やっと人ひとり通れるくらいの狭い路地で、とくに土地勘がなくても、地形や方角から、いずれ駅の構内に遮られてしまう袋小路だろうくらいのことは、すぐに見当がつけられた。立小便でもするつもりでなければ、こんな所に入り込む者がいるはずはない。
ゴムホースの束……ドラム罐を改造した焼却炉……積み上げたダンボールの箱……古自転車に混って、枯れかけた盆栽の鉢が五つばかり並んで、通路をふさいでいる。彼女はなにが目的でこんな所にまぎれ込んだのだろう。ダンボールを物色するのが目的だったとしても、ここから何処に抜け出すつもりだったのだろう。
がらくたをかき分け、先に進むと、行き止まりと見えたところに、狭い小さなコンクリートの階段があった。さほど急ではなく、高さも五段ていどのものだった。下に降りると、信じがたいことだが、がっちりしたコンクリートの露台が張り出している。一見してすぐに、跨線橋の計画が、工事の途中で変更になり、そのまま放置されてしまったものらしいと推測された。
露台に降りてみた。とつぜん風が強く、その風に乗って、鉄道の夜間工事の音がはるかに息づいていた。雲に街のネオンが映っているのだろう、空は赤紫色に濁っている。さらに一歩進むと、その先はいきなり空で、線路は七、八メートルも下に見えていた。鳥の糞のような涙を流しているコンクリートの壁にはさまれて、未完成のビルの鉄骨に宙吊りになっている、工事用のエレベーターの感じだった。
彼女を探し出さなければならない。しかし、もうそこから先には一歩も進む余地がない。ここもけっきょくは閉ざされた空間の一部であることに変りはなさそうだ。それにしても、彼女は何処に消えたのだろう。こわごわ下をのぞいてみたが、暗くて何も見えなかった。さらに一歩踏み出してみたら、どうなるのかな。好奇心はある。しかし似たようなものだろう。いずれ同じ建物の中での出来事にすぎないのだ。
そうだ、忘れないうちに、大事な補足をもう一つだけ。箱を加工するうえで、いちばん重要なことは、とにかく落書のための余白をじゅうぶんに確保しておくことである。いや、余白はいつだってじゅうぶんに決まっている。いくら落書にはげんでみたところで、余白を埋めつくしたり出来っこない。いつも驚くことだが、ある種の落書は余白そのものなのだ。すくなくも自分の署名に必要な空白だけは、いつまでも残っていてくれる。しかし、それだって君が信じたくなければ、信じなくてもいっこうに構わない。
じっさい箱というやつは、見掛けはまったく単純なただの直方体にすぎないが、いったん内側から眺めると、百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路なのだ。もがけば、もがくほど、箱は体から生え出たもう一枚の外皮のように、その迷路に新しい節をつくって、ますます中の仕組みをもつれさせてしまう。
現に姿を消した彼女だって、この迷路の何処かにひそんでいることだけは確かなのだ。べつに逃げ去ったわけではなく、ぼくの居場所を見つけ出せずにいるだけのことだろう。いまならはっきりと、確信をもって言うことが出来る。ぼくは少しも後悔なんかしていない。手掛りが多ければ、真相もその手掛りの数だけ存在していていいわけだ。
救急車のサイレンが聞えてきた。
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カバー
写真 安部公房
本 文
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デザイン
安部真知
扉 絵
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箱 男
一九七三年三月三〇日 発行
一九七三年六月一五日 5刷
著 者 安部公房
発行者 佐藤亮一
印刷所 株式会社金羊社
製 本 新宿加藤製本
発行所 株式会社新潮社
Kobo_Abe,_Printed_in_Japan_1973
平成十八年八月十日 入力・校正 ぴよこ