砂の女 安部公房
目次
第一章
第二章
第三章
解説(ドナルド・キーン)
第一章
――罰がなければ、逃げるたのしみもない――
1
八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。
むろん、人間の失踪《しっそう》は、それほど珍しいことではない。統計のうえでも、年間数百件からの失踪届が出されているという。しかも、発見される率は、意外にすくないのだ。殺人や事故であれば、はっきりとした証拠が残ってくれるし、誘拐のような場合でも、関係者には、一応その動機が明示されるものである。しかし、そのどちらにも属さないとなると、失踪は、ひどく手掛りのつかみにくいものになってしまうのだ。仮に、それを純粋な逃亡と呼ぶとすれば、多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。
彼の場合も、手掛りのなさという点では、例外でなかった。行先の見当だけは、一応ついていたものの、その方面からそれらしい変死体が発見されたという報告はまるでなかったし、仕事の性質上、誘拐されるような秘密にタッチしていたとは、ちょっと考えられない。また日頃、逃亡をほのめかす言動など、すこしもなかったと言う。
当然のことだが、はじめは誰もが、いずれ秘密の男女関係だろうくらいに想像していた。しかし、男の妻から、彼の旅行の目的が昆虫採集だったと聞かされて、係官も、勤め先の同僚たちも、いささかはぐらかされたような気持がしたものだ。たしかに、殺虫瓶も、捕虫網も、恋の逃避行の隠れ蓑《みの》としては少々とぼけすぎている。それに、絵具箱のような木箱と、水筒を、十文字にかけた、一見登山家風の男がS駅で下車したことを記憶していた駅員の証言によって、彼に同行者がなく、まったく一人だったことが確かめられ、その臆測《おくそく》も、根拠薄弱ということになってしまったのである。
厭世《えんせい》自殺説もあらわれた。それを言い出したのは、精神分析にこっていた彼の同僚である。一人前の大人になって、いまさら昆虫採集などという役にも立たないことに熱中できるのは、それ自体がすでに精神の欠陥を示す証拠だというわけだ。子供の場合でも、昆虫採集に異常な嗜好《しこう》をみせるのは、多くエディプス・コンプレックスにとりつかれた子供の場合であり、満たされない欲求の代償として、決して逃げだす気づかいのない虫の死骸に、しきりとピンをつきさしたがったりするのだという。まして、それが大人になってもやまないというのは、よくよく病状がこうじたしるしに相違ない。昆虫採集家が、しばしば旺盛《おうせい》な所有欲の持主であったり、極端に排他的であったり、盗癖の所有者であったり、男色家であったりするのも、決して偶然ではないのである。そして、そこから厭世自殺までは、あとほんの一歩にすぎまい。現に、採集マニアのなかには、採集自体よりも、殺虫瓶のなかの青酸カリに魅せられて、どうしても足を洗うことが出来なくなった者さえいるそうだ。……そう言えば、あの男がわれわれに、その趣味を一度も打ち明けようとしなかったこと自体、彼が自分の趣味を、後ろ暗いものとして自覚していた証拠なのではあるまいか?
だが、そのせっかくのうがった推理も、事実として、死体が発見されなかったのだから、問題にはならなかった。
こうして、誰にも本当の理由がわからないまま、七年たち、民法第三十条によって、けっきょく死亡の認定をうけることになったのである。
2
ある八月の午後、大きな木箱と水筒を、肩から十文字にかけ、まるでこれから山登りでもするように、ズボンの裾《すそ》を靴下のなかにたくしこんだ、ネズミ色のピケ帽の男が一人、S駅のプラットホームに降り立った。
だが、このあたりには、わざわざ登るほどの山はない。改札口で切符を受取った駅員も、つい不審の表情で見送った。男はためらいも見せず、駅前のバスの、一番奥の座席に乗り込んだ。それは山とは逆方向に向うバスだった。
男は終点まで乗りつづけた。バスを降りると、ひどく起伏の多い地形だった。低地がせまく仕切られた水田になり、そのあいだに小高い柿畠が島のように点在していた。男はそのまま村を通りぬけ、次第に白っぽく枯れていく海辺に向って、さらに歩きつづけた。
やがて人家がつきると、まばらな松林になった。いつか地面は、きめの細かい、足の裏に吸いつくような砂地に変っている。ところどころ、乾いた草むらが砂のくぼみに影をつくり、また間違えたように畳一枚ほどの貧弱なナス畠があったりしたが、人影らしいものは、まるでなかった。いよいよこの先が目指す海にちがいない。
はじめて男は、足をとめた。あたりを見まわしながら、上衣の袖で汗をぬぐった。おもむろに、木箱を開けて、上蓋《うわぶた》から、たばねた幾本かの棒きれをとりだした。組立てると、捕虫網になった。柄の先で、草むらを叩いたりしながら、また歩きだした。砂の上には、潮のかおりがたちこめていた。
いつまでたっても海は見えなかった。地面のうねりで、見とおしがわるいせいか、同じような風景が、際限もなくつづくのだ。それから、とつぜん視界がひらけて、小さな部落があらわれた。高い火の見|櫓《やぐら》を中心に、小石でおさえた板ぶきの屋根がむらがった、貧しいありふれた村落である。むろん、その中の何軒かは、黒い瓦ぶきだったり、べにがら色のトタンぶきだったりした。トタンぶきの建物は、部落の中の唯一の四つ辻の角にあって、どうやら漁業組合の集合所らしかった。
この向うに、目的の海も、砂丘もあるのだろう。だがその部落は意外に広かった。わずかに土が露出しているところもあったが、大半は白く乾いた砂地だった。それでも、落花生や芋の畠がつくられていたし、潮のにおいにまじって、家畜のにおいもした。砂と粘土で、しっくいのように固められた道端には、くだかれた貝殻が、白い山をつくっていたりした。
男がその道を通っていくと、漁業組合の前の空地で遊んでいた子供たちも、傾いた縁側に腰をおろして網をつくろっていた老人も、一軒だけの雑貨屋の店先にたむろしていた髪の薄くなった女たちも、一瞬その手や口を休め、いぶかるような視線をなげかけてきた。しかし男は、一向に気にしない。彼に関心があるのは、もっぱら砂と虫だけだったのである。
意外なのは、ただ部落の広さだけではなかった。道が次第に上り坂になっていく。これはまったく予期に反したことだった。海にむかっている以上は、当然下り坂でしかるべきではあるまいか。地図の読みちがえだったのだろうか? ちょうど通りかかった若い娘に、声をかけてみる。娘は、あわてて目をそらせ、まるで聞えなかったような素振りで、行きすぎてしまうのだ。やむをえない。かまわず先に進んでみることにしよう。とにかく、砂の色や、魚の網や、貝殻の山などで、海が近いことだけは確かなのだから。事実、危険を予知させるものなど、まだ何もなかった。
道はますます急な上り坂になり、ますます砂らしい砂になった。
ただ、奇妙なことに、家の建っている部分は、すこしも高くならないのだ。道だけが高くなって、部落自身は、いつまでも平坦なのだ。いや、道だけでなく、建物と建物のあいだの境の部分も、道とおなじように高くなっていた。だから、見方によっては、部落全体が上り坂になっているのに、建物の部分だけが、そのままもとの平面にとり残されているようでもある。この印象は、先に進むにつれてひどくなり、やがて、すべての家が、砂の斜面を掘り下げ、そのくぼみの中に建てたように見えてきた。さらに、砂の斜面のほうが、屋根の高さよりも高くなった。家並は、砂のくぼみの中に、しだいに深く沈んでいった。
傾斜が急にけわしくなった。このあたりでは、屋根のてっぺんまで、すくなく見つもっても、二十メートルはあるだろう。一体どんな暮しをしているのか、奇怪な思いで深い穴の底の一つをのぞきこもうと、縁にそってまわりこむと、とつぜん激しい風に、息をつまらせた。いきなり視界がひらけ、にごった海が泡立ちながら、眼下の波打ちぎわを舐めていた。目指す砂丘の頂上に立っているのだった。
季節風が吹きつける、海に面した部分は、砂丘の定石どおり、盛上ったような急傾斜で、葉の薄い禾本科《かほんか》[#イネ科の旧称]の植物が、すこしでもなだらかな部分をえらんで、細々と群がっている。だが、部落の側を振返ると、砂丘の頂上に近いほど深く掘られた、大きな穴が、部落の中心にむかって幾層にも並び、まるで壊れかかった蜂の巣である。砂丘に村が、重なりあってしまったのだ。あるいは、村に砂丘が、重なりあってしまったのだ。いずれにしても、苛立たしい、人を落着かせない風景だった。
しかし、目指す砂丘にたどりつけたのだから、これでいい。男は水筒の水をふくみ、それから口いっぱいに風をふくむと、透明にみえたその風が、口のなかでざらついた。
………………………………………………
砂地にすむ昆虫の採集が、男の目的だったのである。
むろん、砂地の虫は、形も小さく、地味である。だが、一人前の採集マニアともなれば、蝶やトンボなどに、目をくれたりするものでない。彼等マニア連中がねらっているのは、自分の標本箱を派手にかざることでもなければ、分類学的関心でもなく、またむろん漢方薬の原料さがしでもない。昆虫採集には、もっと素朴で、直接的なよろこびがあるのだ。新種の発見というやつである。それにありつけさえすれば、長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック活字で、昆虫大図鑑に書きとめられ、そしておそらく、半永久的に保存されることだろう。たとえ、虫のかたちをかりてでも、ながく人々の記憶の中にとどまれるとすれば、努力のかいもあるというものだ。
そういうチャンスは、やはりどうしても、変種が多くて目立たない、小昆虫の仲間に多かった。それで彼も、ながいあいだ、人のいやがる双翅目《そうしもく》の、それも蠅の仲間に目をつけて来たものだ。たしかに、蠅の種属は、おどろくほど豊富である。とは言え、人間の考えることは大体同じようなものらしく、日本で八匹目というような珍種まで、ほとんどあさりつくされてしまっていた。どうやら、蠅の生活環境が、人間の環境にあまり近すぎたためらしい。
むしろ最初から、その環境のほうに着目してかかればよかったのだ。変種が多いということは、とりもなおさず、それだけ適応性が強いということではあるまいか。この発見に彼は小踊りした。おれの思いつきも、まんざらじゃない。適応性が強いということは、他の昆虫には住めないような悪い環境でも、平気だということだろう。たとえば、すべての生物が死に絶えた、沙漠のような……
以来、彼は、砂地に関心を示しはじめた。そして間もなく、その効果があらわれた。ある日、家の近くの河原で、鞘翅目《しょうしもく》ハンミョウ属の、ニワハンミョウ(Cicindela Japana, Motschulsky.)に似た、小っぽけな薄桃色の虫を見つけたのだ。むろん、ニワハンミョウに、色や模様の変りものが多いことは、周知の事実である。しかし、前足の形ということになれば、話はまた別だ。鞘翅目の前足は、類別のための大切な規準であり、前足の形がちがえば、それはもう種のちがいを意味している。その、彼の目にとまった虫の、前足の第二節目は、じつにきわだった特徴をもっていたのである。
ふつう、ハンミョウ属の前足は、いかにも敏捷《びんしょう》そうに、黒くほっそりしているものだ。ところが、そいつの前足ときたら、まるで部厚い鞘《さや》をかぶせたように、もっこりとしていて、黄味がかっていた。むろん、花粉がまぶされていたのかもしれない。だとしても、花粉を附着させておくための、なんらかの装置――たとえば、毛のようなもの――が、あったかもしれないということは、じゅうぶんに考えられることだ。もし、彼の見間違いでなければ、これは大変な発見になるはずのものだった。
ただし、残念なことに、とり逃がしてしまったのである。少々興奮しすぎていたせいもあり、それにハンミョウというやつは、ひどくまぎらわしい飛び方をする。飛んで逃げては、まるでつかまえてくれと言わんばかりに、くるりと振り向いて待ちうける。信用して近づくと、また飛んで逃げては、振り向いて待つ。さんざん、じらしておいて、最後に草むらの中に消えてしまうという寸法だ。
こうして彼は、その黄色い前足をもったニワハンミョウに、すっかりとりこにされてしまったのである。
砂地に注目した彼の見当はどうやら間違っていなかったらしい。事実、ハンミョウ属は、代表的な沙漠の昆虫でもあった。一説によると、その奇妙な飛び方は、ねらった小動物を巣からさそい出すための罠なのだともいう。たとえば、ネズミやトカゲなどが、ついさそわれて沙漠の奥に迷いこみ、飢えと疲労でたおれるのを待って、その死体を餌食にするというのである。フミツカイなどと、いかにも優雅な和名をもち、一見|優男《やさおとこ》風の姿をしていながら、実は鋭い顎をもち、共食いさえ辞さないほどの獰猛《どうもう》な性質なのだ。その説の真偽はさておくとしても、すくなくも彼が、ニワハンミョウの妖しい足どりに、すっかり魅せられてしまったことだけは、もはや疑えないことだった。
そうなると、そのニワハンミョウを存在させる条件である、砂に対する関心も、いやがうえにも高まらざるを得ない。彼はいろいろと、砂に関する文献に目をとおしたりしはじめた。しらべてみると、砂というやつも、なかなか面白いものだ。たとえば、百科辞典で砂の項目をひいてみると、次のように書いてある。
≪砂――岩石の砕片《さいへん》の集合体。時として磁鉄鉱、錫石《すずいし》、まれに砂金等をふくむ。直径2〜1/16m.m.≫
いかにも明瞭な定義である。砂とは要するに、砕けた岩石のなかの、石ころと粘土の中間だということだ。しかし、単に中間物というだけでは、まだ完全な説明とは言いがたい。石と、砂と、粘土の三つが、複雑にまじり合っている土の中から、なぜとくに砂だけがふるい分けられ、独立の沙漠や砂地などになりえたのか? もし単なる中間物なら、風化や水の侵蝕は、岩肌と粘土地帯とのあいだに、互いに移行する無数の中間形態をつくりえたはずである。ところが現実に存在するのは、石と、砂と、粘土、はっきり区別することができる三つの相だけなのだ。さらに奇妙なことには、それが砂であるかぎり、江之島海岸の砂であろうと、ゴビ沙漠の砂であろうと、その粒の大きさにはほとんど変化がなく2〜1/16m.m.を中心に、ほぼガウスの誤差曲線にちかいカーブをえがいて分布していると言うことである。
ある解説書は、風化や水の侵蝕による土の分解を、ごく単純に、軽いものから順に遠くに飛ばされる結果だと説明していた。しかしそれでは、直径1/8m.m.のもつ特別な意味は、解き明かせない。それに対して、べつの地質学書は、次のような説明をくわえていた。
水にしても、空気にしても、すべて流れは乱流をひきおこす。その乱流の最小波長が、沙漠の砂の直径に、ほぼ等しいというのである。この特性によって、砂だけが、とくに土のなかから選ばれて、流れと直角の方向に吸い出される。土の結合力が弱ければ、石はもちろん、粘土でさえ飛ばないような微風によっても、砂はいったん空中に吸い上げられ、再び落下しながら、風下にむかって移動させられるというわけだ。どうやら、砂の特性は、もっぱら流体力学に属する問題らしかった。
そこで、さきの定義につけ加えれば――
≪……なお、岩石の破砕物《はさいぶつ》中、流体によってもっとも移動させられやすい大きさの粒子。≫
地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいものかもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、ところきらわず這《は》ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく……
その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。
たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存にとって、絶対不可欠なものかどうか。定着に固執しようとするからこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか? もし、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争もありえないはずである。現に、沙漠にも花が咲き、虫やけものが住んでいる。強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物たちだ。たとえば、彼のハンミョウ属のように……
流動する砂の姿を心に描きながら、彼はときおり、自分自身が流動しはじめているような錯覚にとらわれさえするのだった。
3
半月形にそそり立ち、城壁のように部落をとりまいている砂丘の稜線にそって、男はうつむきかげんに歩きだした。遠景にはほとんど気をとめなかった。昆虫採集家にとって必要なのは、足もとから半径三メートルばかりのあいだに、全注意力を集中しきることだった。なるべく太陽を背にしないことも、必要な心得の一つだろう。太陽を背にしては、自分の影で、昆虫どもを驚かせてしまうことになる。だから、採集マニアの額と鼻の頭は、いつもまっ黒にやけている。
男は、同じ歩調で、ゆっくりと進んで行った。一歩踏みだすごとに、砂がめくれ上って、靴の上を流れた。適当な湿気さえあれば、一日で芽をふきそうな雑草が、ところどころに浅い根をひろげている以外、生物らしいものの影一つない。ときたま、飛んで来るものがあれば、人間の汗の臭いをかぎつけてきた、ベッコウバエくらいのものである。しかし、こういう所だからこそ、期待も出来るというものだ。とくにハンミョウ属は、群居をきらい、極端な場合には一キロ四方を、たった一匹で縄張りにしていることさえあるという。根気よく、歩きまわるしかなかった。
ふと立ちどまった。草の根元で、何かが動いた。クモだった。クモには用はない。一服するつもりで、腰をおろした。絶えまなく、海から風が吹きつづけ、はるか眼の下の砂丘のふもとを、ちぎれた白い波が噛んでいる。西の方角の、砂丘が尽きたあたりに、岩肌をむきだしにした小高い丘が、海にむかって突きだしている。その上で、太陽が、砥《と》いだ針の先をたばねたような光を空いっぱいにまきちらしていた。
マッチはなかなかつかなかった。十本すったのが、十本とも駄目だった。すてたマッチの軸にそって、時計の秒針ほどの速度で、砂の波が移動している。波の一つに、目標をさだめ、それがちょうど靴の踵《かかと》の端にとどいたときに、立上った。ズボンのひだから、砂がこぼれた。唾をはくと、口の中もざらついていた。
それにしても、昆虫の数が少なすぎはしまいか? 砂の移動が、激しすぎるのかもしれない。いや、落胆はまだ早いだろう。理論が可能性を保証してくれているのだから。
砂丘の稜線《りょうせん》が平たくなって、海と反対の側に、張り出している部分があった。いかにも獲物がありそうな感じにさそわれて、ゆるやかな斜面を降りてゆくと、簀《す》の砂防垣らしいものの名残が点々とその先端をのぞかせている向うに、さらに一段低くなった台地があった。機械でつけたように、規則正しく刻まれた風紋を横切って進むと、ふいに視界が切れて、深いほら穴を見下ろす、崖際に立っているのだった。
その穴は、幅二十メートルあまりの、いびつな楕円形をしていた。向う側が、比較的ゆるやかに見えるのに対して、こちら側は、ほとんど垂直に近く感じられた。厚い陶器のふちのように、なめらかな曲線をえがいて足もとにめくれこんでいる。その端に、こわごわ片足をのせ、のぞきこむ。穴の中は、周囲の明るさとは対照的に、すでに日暮がせまっていることを告げていた。
暗がりの底に、棟の一方の端を、斜めに砂の壁につき立てるようにして、小さな家が一軒、ひっそりと沈んでいた。まるで牡蠣《かき》のようだと思う。
いずれ、砂の法則に、さからえるはずもないのに……
カメラをかまえたのと、同時に、足もとの砂が、さらさらと流れだした。ぞっとして、足をひいたが、砂の流れはしばらくやもうともしない。なんという微妙で危険な均衡だ。息をはずませながら、ざわつく手のひらを、何度もズボンのわきにこすりつけた。
耳もとで、咳きこむ声がした。いつのまにやら、村の漁師らしい老人が一人、肩をすりつけんばかりにして立っているのだ。カメラと、穴の底とを見くらべながら、なめしかけの兎の皮のような頬を、皺《しわ》だらけにして笑いかけてくる。充血した眼のふちに、めやにが、厚い層になってこびりついていた。
「調査ですかい?」
風に吹きちらされ、携帯用ラジオのように、幅のない声だ。しかし、アクセントははっきりしていて、べつに聞きとりにくいほどではなかった。
「調査だって?」男は、狼狽《ろうばい》気味に、レンズの上を掌でかくし、相手の目につきやすいように、捕虫網を持ちなおしながら、「なんの話だか、よく分らないが……ぼくは、ほら、昆虫採集をしているんですよ。こういう、砂地の虫が、ぼくの専門でね。」
「なんだって?」
どうやら相手にはうまく飲み込めなかったらしい。
「昆、虫、採、集!」と、もう一度大声でくりかえし、「虫ですよ、虫!……こうして、虫を捕るんだよ!」
「虫……?」
老人は、疑わしげに、目をふせて唾をはいた。と言うより、口からたれるにまかせたと言ったほうが正しいかもしれない。風に吹きちぎられて、唇の端から、糸をひいて飛んだ。いったい何がそんなに気になるのだろう?
「なにか、この辺の調査でも、あるんですか?」
「いや、調査でなけりゃ、かまわないんだがね……」
「ちがいますよ。」
老人は、うなずくともなく、そのまま彼に背を向けて、藁草履《わらぞうり》の爪先を蹴るようにしながら、のろのろと稜線にそって引返して行った。
五十メートルほど向うに、いつ現われたのか、同じような服装の男が三人、じっと地面にしゃがみこんで、老人を待ちうけている様子である。そのなかの一人が、膝の上でくるくるまわしているのは、どうやら双眼鏡らしい。やがて、老人を加えた四人は、何事か相談をしはじめる。交互に、足もとの砂をひっかくような仕種《しぐさ》で、かなり激しいやりとりが行われている様子だった。
かまわずハンミョウ探しをつづけようとしているところに、老人がまたあわただしくやって来て、
「すると、あんた、本当に県庁の人じゃないんですね?」
「県庁?……とんだ人違いだよ……」
もう沢山だと言わんばかりに、乱暴に名刺をつき出すと、老人は唇を動かしながら、ながい時間をかけて読みおわり、
「ははあ、学校の先生かね……」
「県庁だなんて、なんの関係もありゃしませんよ。」
「ふうん、先生をしておいでるのかね……」
やっと、納得がいったらしく、目尻いっぱいに皺をよせ、名刺を前にささげるようにしながら、もどっていく。それでどうやら、あとの三人も満足したらしく、そのまま腰をあげて、引揚げて行った。
老人だけが、もう一度、こちらに引返して来た。
「ときに、あんた、これからどうなさるつもりですな?」
「どうって、だから、虫さがしですよ。」
「けど、上りのバスは、もう終いですが……」
「どこか、泊るところくらいはあるんでしょう。」
「泊るって、この部落にかね?」
老人の顔のどこかが、ひくついた。
「ここが駄目なら、隣の村まで歩きますよ。」
「歩く……?」
「どうせ、急いでいるわけじゃないんだから……」
「いやいや、なにもそんな面倒することはあるまいさ……」急に世話好きらしい、まくし立てるような調子になり、「ごらんのとおり、貧乏村で、ろくな家もないが、あんたさえよけりゃ、口をきくくらい、わたしがお世話してあげるがね。」
べつに、悪意があったわけではなさそうだ。彼等はただ何か――たぶん、調査に来る予定の県の役人かなにか――を、警戒していただけなのだ。警戒が解けてしまえば、善良な、ただの漁民たちにすぎない。
「そうしてもらえりゃ、そりゃ、有難いですねえ……むろん、お礼はします……ぼくは、こういう民家なんかにとめてもらうのが、大好きでね……」
4
こころもち、風をやわらげながら、日が暮れた。男は、砂に刻まれた風紋が見分けられなくなるまで、砂丘の上を歩きまわった。
収穫らしい収穫は、まるでなかった。
直翅目《ちょくしもく》のコバネササキリモドキと、ヒゲジロハサミムシ。
有吻目《ゆうふんもく》のアカスジカメムシと、名前ははっきりしないが、やはりカメムシの一種。
目指す鞘翅目では、シリジロゾウムシに、アシナガオトシブミ。
肝心のハンミョウ属には、一匹もお目にかかれずじまい。しかし、だからこそ、明日の戦果がたのしみだとも言えるわけだが……
疲労が眼の奥で、淡い光の点になって、飛びまわる。そのたびに、思わず足をとめて、暗い砂丘の肌に目をこらす。動くものは、なんでも、ニワハンミョウに見えてしかたなかった。
約束どおり、老人が、組合事務所の前で待っていてくれた。
「すみませんねえ……」
「なんの、あんたの気に入ってくれさえすりゃいいが……」
寄り合いでもあるらしく、事務所の奥に、四、五人の男が車座になって、笑い声をたてていた。玄関の正面に≪愛郷《あいきょう》精神≫と、大きな横書きの額がかかっている。老人が、なにやら声をかけると、笑い声がぴたりとやんだ。そのまま、うながすように、先に立って歩きだした。貝殻をまいた道が、薄暗がりの中に、ほの白く浮んでいた。
案内されたのは、部落の一番外側にある、砂丘の稜線に接した穴のなかの一つだった。
稜線よりも、一本内側の細い道を右に折れ、しばらく行ったところで、老人が、暗がりの中に身をこごめ、手を打ちながら大声で叫んだ。
「おい、婆さんよお!」
足もとの闇のなかから、ランプの灯がゆらいで、答えがあった。
「ここ、ここ……その俵のわきに、梯子があるから……」
なるほど、梯子《はしご》でもつかわなければ、この砂の崖ではとうてい手に負えまい。ほとんど、屋根の高さの三倍はあり、梯子をつかってでも、そう容易とは言えなかった。昼間の記憶では、もっと傾斜がゆるやかだったはずだが、こうしてみると、ほとんど垂直にちかい。梯子は、おそろしく不ぞろいな縄梯子で、バランスを破ると、途中でねじくれてしまいそうだった。まるで天然の要害のなかに住んでいるようなものである。
「気がねはいらんから、ゆっくり休んで下さい……」
老人は下には降りずに、そこから引返して行った。頭から、さんざん砂をあび、それでも男は、少年時代に戻ったような、物珍しさを感じないでもなかった。それより、婆さんなどというから、よほどの年寄りかと思っていたのが、ランプを捧げて迎えてくれた女は、まだ三十前後の、いかにも人が好さそうな小柄の女だったし、化粧をしているのかもしれないが、浜の女にしては、珍しく色白だった。それに、いそいそと、よろこびをかくしきれないといった歓迎ぶりが、まずなによりも有難く思われた。
もっとも、そういうことでもなければ、この家は、いささか我慢しかねるしろものだった。馬鹿にされたのだと思って、すぐに引返していたかもしれない。壁ははげ落ち、襖《ふすま》のかわりにムシロがかかり、柱はゆがみ、窓にはすべて板が打ちつけられ、畳はほとんど腐る一歩手前で、歩くと濡れたスポンジを踏むような音をたてた。そのうえ、焼けた砂のむれるような異臭が、いちめんにただよっていた。
だが、すべては、気のもちようである。女の素振りに、気持をときほぐされて、こういう一夜も得がたい経験だなどと、自分に言いきかせたりした。それに、うまくすると、なにか面白い昆虫にぶっつかるかもしれない。いかにも、昆虫がよろこんで住みつきそうな環境だった。
予感に狂いはなかった。土間につづいた、いろり端の、すすめられた席に腰をおろしたとたん、まわりで雨しぶきのような音がした。ノミの大群だった。だがそんなことで驚く彼ではない。昆虫採集家にはつねに用意がある。服の内側にDDTをふりこみ、露出した部分には、寝るまえに防虫クリームをぬりこんでおけばよい。
「飯の仕度《したく》をするから、そのあいだ……」と女は、ランプをつかんで、中腰になりながら、「しばらく、暗いところでしんぼうしておいて下さいね。」
「ランプ、一つしかないの?」
「はい、あいにくとねえ……」
困ったように笑うと、左の頬にえくぼが浮んだ。目つきをべつにすれば、なかなか愛嬌のある顔だと思う。しかしその目つきも、おそらく眼病のせいだろう。赤くただれた眼のふちだけは、いくら化粧してもかくせない。寝るまえに、忘れず眼薬もさしておくとしよう……
「それより、まず、風呂にしたいんだけどな……」
「風呂……?」
「無いんですか?」
「わるいけど、明後日にして下さい。」
「明後日? 明後日になったら、ぼくはもういませんよ。」思わず大声で笑ってしまう。
「そうですか……?」
女は顔をそむけ、ひきつったような表情をうかべた。がっかりしたのだろう。まったく、田舎の人間は、飾り気がない。彼は、くすぐったいような気持で、しきりと唇をなめまわした。
「風呂がなければ、水をあびるだけでもいいんですよ。とにかく、体中、砂まみれでね……」
「水も、あいにくと、バケツに一杯しかなくなって……なんせ、井戸まで、遠いものですから……」
あまり悪びれた様子なので、それ以上言うのはやめにする。それに、間もなく、水あびなどがなんの役にも立たないことを、いやというほど思い知らされることになったのだ。
女が食事をはこんできた。魚の煮つけに、貝の吸物だった。いかにも浜の食事らしく、それはいいのだが、食べはじめた彼の上に、女が番傘をひらいて、さしかけて来たのである。
「なんなの、それは……?」なにか、この地方の、特別な風習なのだろうか?
「ええ……こうしないと、砂が入るんですよ、ご飯の中に……」
「どうして?」おどろいて天井を見上げたが、べつに穴があいているわけでもない。
「砂がねえ……」と、女もいっしょに、天井に目をやりながら、「降ってくるんですよ、どこからでも……一日掃除しないと、一寸もつもってしまいます。」
「屋根がこわれているのかな?」
「いいえ、まっさらの葺きたての屋根だって、あなた、砂はどんどん入りこんで来てしまいますよ……本当に、おそろしいったらありゃしない、木食い虫よりもたちがわるいんだから……」
「木食い虫?」
「木に穴をあける虫ですよ。」
「そりゃ、シロアリだろう。」
「いいえ、これっくらいの、皮のかたい……」
「ああ、それなら、ノコギリカミキリだな……」
「ノコギリ?」
「赤っぽい、ひげの長いやつだろう?」
「いいえ、からかね色の、米粒みたいな形ですけど……」
「そうか、それじゃ、オバタマムシだ。」
「ほったらかしておくと、これっくらいもある梁《はり》なんかだって、すぐにぶよぶよに腐らせてしまうんですからねえ。」
「オバタマムシがかい?」
「いいえ、砂ですよ……」
「どうして?」
「どこからか、入りこんで来ちゃって、風の向きのわるい日なんか、朝晩天井裏にあがって砂とりをしないと、すぐに天井板がもたないほど、積ってしまうくらいですから……」
「そりゃ、天井に砂が積っちゃ、具合わるいだろうな……だからと言って、砂で梁が腐るってのはおかしいじゃないか。」
「いいえ、くさります。」
「しかし、砂ってやつは、もともと、乾燥しているものなんだよ。」
「でも、腐りますね……砂がついたまま、ほったらかしにしておいたら、買いたての下駄だって、半月もたたないで、融けてしまったって言いますからねえ。」
「わけが分らんな。」
「材木もくさるけど、いっしょに砂もくさっちゃうんですね……埋まった家の、天井板をはがしてみたら、中からキュウリでも出来そうな、よく肥えた土が出てきたって……」
「まさか!」男は、口をゆがめて、乱暴に言い返した。自分のなかにあった砂のイメージが、無知によって冒涜《ぼうとく》されたような気がしたのだ。「ぼくは、砂のことについちゃ、これでも、ちょっとばかり、くわしいんでね……いいですか、砂ってやつは、こんなふうに、年中動きまわっているんだ……その、流動するってところが、砂の生命なんだな……絶対に、一カ所にとどまってなんかいやしない……水の中だって、空気の中でだって、自由自在に動きまわっている……だから、ふつうの生物は、砂の中ではとうてい生きのびられやしません……腐敗菌だって、その点は、同じことです……まあ、言ってみれば、清潔の代名詞みたいなもので、防腐の役目はするかもしれないが、腐らせるだなんて、とんでもないことだ……まして、奥さん、砂自身が腐るだなんて……第一、砂ってやつは、れっきとした鉱物なんですよ。」
女は体を固くして、黙りこんでしまった。女が支えている傘の下で、男もせかされるように、あとは無言で食べおえる。傘の表面には、指で字が書けるほど、砂がつもっていた。
それにしても、このしめっぽさは、やりきれない。いや、むろん砂がしめっぽいのではなくて、自分の体がしめっぽいのだ。屋根の上で風が鳴っていた。タバコを出そうとすると、ポケットの中も、砂だらけだった。火をつけるまえから、タバコの苦さが分るような気がした。
殺虫瓶の中から、虫をとりだす。固くならないうちに、ピンでとめて、足のかたちだけでもそろえておこう。外の洗い場で、女が食器を洗う音をたてている。……この家には、ほかには誰も住んでいないのだろうか?
女は戻ってくると、黙って部屋の隅に床をのべはじめた。ここにおれの床をとってしまったら、自分は一体どこに寝るつもりだろう? 当然、あのムシロの向うの、奥の部屋ということになる。ほかに部屋らしいものはないのだ。しかし、家のものが奥に寝て、客に入口の部屋をあたえるというのも、ずいぶん変ったやり方だ。それとも、あの奥の部屋には、身動きのできない重病人でも寝ているというのだろうか?……そうかもしれない。たしかに、そう考えたほうが、ずっと自然だ。第一、女一人のところに、わざわざ行きずりの旅行者を世話したりするはずがない。
「誰か、ほかの人たちは?」
「誰かって……?」
「家族の人……」
「いいえ、私一人なんですよ。」女も、意識していたらしく、急にとってつけたような不器用な笑い声をたて、「本当に、砂のおかげで、ふとんまでがこんなにじとじと、しめっぽくなっちまって……」
「それじゃ、御主人は?」
「はい、去年の大風で……」敷きおえたふとんの端を、叩いたり、のばしたり、しないでもいい動作にまぎらせながら、「大風というと、この辺のは、そりゃすごいんですよ……砂がごうごう、滝みたいに流れだしましてね、うっかりしていると、一晩のうちに、一丈も二丈もつもってしまいます……」
「二丈というと、六メートルか……」
「そんなときには、もう、いくら砂|掻《か》きなんかしたって、とても追いつくもんじゃありません。でも、トリ小舎《ごや》があぶないっていうんで、中学に行っていた娘と一緒に、とび出して行って……私は私で、母屋の見まわりで、手がはなせませんでしょう……それっきり、やっと夜が明けて、風がおさまってから行ってみましたら、小舎ごとすっぽり、跡形もなくなっちまっていて……」
「埋まってしまったんですか?」
「ええ、きれいさっぱり……」
「そりゃひどい……恐ろしいもんだな、砂ってやつは……そりゃひどいや……」
ふいにランプの火が消えかかった。
「砂ですよ。」
女が、四つん這いになって体をのばし、笑いながらランプの芯を、指ではじいた。すぐまた明るく燃えだした。女はそのままの姿勢で、ランプの火を見つめながら、いつまでも作ったような笑いをうかべている。どうやら、わざとえくぼを見せつけているのだと気づき、思わず体を固くする。身近な死について語った直後だっただけに、よけいみだらに思われた。
5
「おうい、もう一人分、カンカラとスコップ持ってきてやったぞう!」
メガホンをつかっているのかもしれない、距離感があるわりに、はっきりした声が、緊張を破った。つづいて、何かブリキ製品が、ぶっつかりあいながら落ちてくる音がした。こたえて、女が、体をおこした。
なにか、後ろめたいような、苛立たしさを感じながら、
「なんだ、やっぱり、誰か、いるんじゃないか!」
「まあ、うまいこと言って……」くすぐられたように、女が、体をよじってみせる。
「しかし、いまたしかに、もう一人分と言っていたぞ。」
「ああ、あれ……あれは、お客さんのことですよ。」
「ぼく?……ぼくが、どうして、スコップなんか……?」
「いいんですよ、気になさらないで……本当に、おせっかいなんだから、あいつらときたら……」
「なにか、勘違いしたのかな?」
しかし女は、それには答えず、くるりと膝で体をまわして、土間に降りる。
「お客さん、まだランプ使いますか?」
「そりゃ、あるにこしたことはないが……そっちで、いるの?」
「いえ、私のほうは、どうせ馴れた仕事ですから……」
田植えに使うような編笠をかぶり、女はすべるように、暗闇の中へ出て行った。
男は首をかしげて、新しいタバコに火をつける。ひどく納得のいかない気分だった。立上って、そっと、ムシロの向うをのぞいてみることにした。たしかに、部屋はあったが、床はなかった。床のかわりに、砂が、なだらかなカーブをえがいて、壁の向うから落ちかかって来ていた。思わず、ぞっとして、立ちすくむ。……この家はもう、半分死にかけている……流れつづける砂の触手に、内臓を半分くいちぎられて……平均1/8m.m.という以外には、自分自身の形すら持っていない砂……だが、この無形の破壊力に立ち向えるものなど、なに一つありはしないのだ……あるいは、形態を持たないということこそ、力の最高の表現なのではあるまいか……
しかし、すぐに現実に引戻された。この部屋が使えないとすると、女は一体、どこで寝るつもりなのだろう? 板壁の向うで、しきりと女の動きまわる気配がしている。腕時計の針は、八時二分をさしていた。こんな時間に、どんな用があるというのだろう?
水をさがしに、土間におりた。水甕《みずがめ》の底で、ほんのわずかの水が、赤い金気をうかべている。それでも、口の中の砂をがまんするよりは、ましだった。残りの水で、顔を洗い、首すじを拭くと、かなり気分もよくなった。
土間の下を、冷たい風が流れていた。どうやら表のほうがしのぎやすそうだ。砂に埋もれて動かなくなった引戸をくぐって、外に出る。道から吹きおろす風は、たしかにずっと涼しくなっていた。その風に乗って、オート三輪のエンジンらしい音が聞えていた。そのほか、耳をすますと、さまざまな人の気配もして、気のせいか、昼間よりもむしろ活気が感じられた。それともこれは、海鳴りの音だろうか? 空には、星が、ずっしりとたれこめていた。
ランプの光に気づいて、女が振向いた。女は器用にスコップを使って、石油|罐《かん》のなかに砂をすくいこんでいた。その向うに、黒い砂の壁が、のしかかるようにそそり立っている。あの上が、昼間、虫をさがして歩いた場所だろう。二つの石油罐が、いっぱいになると、女は両手に下げて、こちらにやって来た。すれちがいざま、上眼づかいに、「砂がねえ……」と、鼻にかかった声をかける。裏側の道の、梯子をかけてあったあたりに、石油罐の砂をあけた。手拭の端で、汗をぬぐう。あたりは、搬《はこ》んだ砂で、もうかなりの山になっていた。
「砂掻きだね?」
「いつまでやっても、きりなしでしょう……」
こんどは、すれちがいざま、あいているほうの指先を、くすぐるように、彼の脇腹におしこんできた。おどろいて、とびのきながら、あぶなくランプをとり落しそうになる。このまま、ランプを持ちつづけていようか、それとも地面において、くすぐり返してやるべきか、いきなり思いがけない選択をせまられて、ためらった。けっきょく、現状維持が勝をしめ、ランプを手にしたまま、しかし自分でも意味のわからぬ薄笑いに顔をこわばらせ、またスコップを使いはじめた女のほうに、ぎこちない足どりで近づいていく。近づくにつれて、女の影が、砂の壁面いっぱいにひろがった。
「だめよ」と、背をむけたまま、息切れのした声で、「モッコが来るまでに、あと六杯は、搬んでしまわなけりゃ……」
男の表情が固くなった。せっかくおさえていた気持を、むりやり掻きたてられたようで、不愉快だったのだ。しかし、彼の意志とは無関係に、何かが血管のなかで勝手にふくれ上っていく。まるで皮膚にはりついた砂が、血管にしみとおり、内側から彼の情感をそぎ落していくようだった。
「じゃあ、一つ、ぼくも手伝うとするか。」
「いいんですよ……いくらなんでも、最初の日からじゃ、わるいから……」
「最初の日から?……まだそんなことを……ぼくがいるのは、今夜だけだよ。」
「そうですかねえ……」
「そんな暇な御身分じゃないからね……さ、そのスコップを貸した、貸した!」
「お客さんのスコップなら、そっちにありますけど……」
なるほど、入口に近い軒下に、スコップが一つと、取手のついた石油罐が二つ、べつに並べてある。さっき、もう一人分と言って、道の上から落していったやつにちがいない。あまり、手まわしがよすぎて、見すかされたような感じだった。と言っても、一体なにを見すかされたのかは、自分でもまだ分らない。とにかく、あまりに人を見くびったやり方だと思ったし、薄気味もわるかった。スコップの柄は、手垢《てあか》で黒く光った、太い瘤《こぶ》だらけの雑木だった。手を出す気持は、すでに失せていた。
「ほら、もう、モッコが隣まで来ちゃいましたよ。」
彼のためらいには気づかなかったらしく、女の声は、はずんでいた。はずんでいたし、今までにない信頼感もこめられていた。そう言われてみると、さっきからしていた人の気配が、すぐそばまで近づいて来ている。呼吸のそろった、短い掛け声が、なんどか繰返されると、しばらく含み笑いのまじった低いつぶやきがつづき、すぐまた掛け声になる。その労働のリズムが、急に彼の気持を軽くさせた。こうした素朴な世界では、泊り客がスコップをにぎったところで、べつにどうということはあるまい。変に、ためらったりするほうが、どうかしているのだ。踵で、砂にくぼみをつけ、倒れないようにしてランプを置いた。
「どこでもいいから、要するに、砂を掘ればいいんだね?」
「どこでもってわけじゃないけど……」
「じゃ、この辺かな?」
「なるべく、崖からまっすぐ、掘りおろすようにして下さいね。」
「どこの家でも、砂掻きは、こんな時間なの?」
「やはり、夜のほうが、砂がしめっていて、仕事がやりいいんですね……砂が乾いていると、上から」と、空を見上げて、「いつなんどき、どかっと来るか分りませんし……」
見ると、なるほど砂の庇《ひさし》が、ちょうど崖のふちにつもった雪のように、ぼってりとせり出して来ている。
「危いじゃないか!」
「大丈夫ですよ。」嬌声《きょうせい》にちかい笑い声をたて、「ほら、霧がわきはじめている……」
「霧……?」
そう言えば、いつのまにか、一面の星がむらになってにじみはじめていた。もつれあった膜のようなものが、空と、砂の壁との境のあたりを、不規則に渦まきながら、方向のない移動をはじめている。
「砂も、もうたっぷり、露をすっていますからね……塩っけのある砂は、露を吸うと、糊みたいに固まってしまうんですよ……」
「まさか……」
「あら、海岸の波のひいたあとなんか、戦車だって平気で通れますからね。」
「そんなものかねえ……」
「本当ですよ……だから、夜のあいだに、あの出っ張りがだんだん大きくなってしまってね……風向きのわるい日なんか、本当に、こんなふうに、きのこの傘みたいに、たれ下ってきてしまうんです……それが、午後になって、乾ききると、いっぺんにどかっと……それはもう、当りどころがわるいと、細い柱なんか、ひとたまりもないんですから……」
女の話題は、範囲が狭い。しかし、いったん自分の生活の圏内に入ると、たちまち見ちがえるほど活気をおびて来る。それはまた、女の心にたどりつく通路でもあるのだろう。べつに、その道に、とくにひかれたわけでもなかったが、女の言葉は、厚いモンペの生地の下にかくされた、その肉体を感じさせるほどのはずみを持っていた。
つい男も、足もとの砂に、先のめくれたスコップの刃を、力まかせにつき立てていた。
6
二度目の石油罐を搬びおえたとき、声がかかって、道の上で、カンテラがゆれた。
女が、つっけんどんとも思える調子で、
「モッコだ! お客さん、こっちはもういいから、あっちの方を手伝って下さい!」
梯子の上に埋めこんであった、俵の用途が、はじめて呑込めた。そこにロープをあてがって、モッコの上げ下ろしをするのである。モッコの係は、四人ずつ、ぜんぶで二、三組あるようだった。大体、若い連中で編成されているらしく、てきぱきと、いかにも調子に乗った仕事ぶりだ。一組のモッコがいっぱいになると、もう次のモッコが待っているという具合である。六回で、盛上げてあった砂が、平らになってしまった。
「大変だね、あの連中も。」
シャツの袖で汗をぬぐいながら、男の口調は好意的だった。青年たちが、彼が手伝っていることに対して、ひやかしめいたこと一つ言わず、きびきびと、仕事に熱中している様子に、好感がもてたのだ。
「はい……うちの部落じゃ、愛郷精神がゆきとどいていますからねえ……」
「何精神だって?」
「郷土を愛する精神ですよ。」
「そいつはいいや!」
男が笑うと、女も笑った。しかし、笑ったわけは、自分でもよく分らなかったらしい。
遠くで、オート三輪の走りだす音がした。
「さてと、一服するか……」
「だめだめ、一とまわりしたら、またすぐモッコがやってくるんですから……」
「いいじゃないか、あとは、また明日で……」
かまわず先にたって、土間のほうに歩きかけたが、女はいっこうについてくる様子もない。
「そうはいきませんよ。家のまわりだけでも、ぐるっと一とあたり、やってしまわなけりゃ……」
「ぐるりとだって?」
「だって、家をつぶされちゃ、かないませんからねえ……砂は、どこからだって、降ってくるんだから……」
「そんなことをしていたら、朝までかかっちゃうぞ。」
すると女は、まるで挑まれでもしたように、急に体をくねらせて駈《か》け出していき、どうやらそのまま崖の下に戻って、また仕事をつづけるつもりらしいのだ。まるでハンミョウ属の手口だと思う。
そうと分ったら、もうそんな手にはのるものか……
「呆れたもんだね、毎晩こんなふうなの?」
「砂は休んじゃくれません……モッコも、オート三輪も、夜っぴて動いていますよ。」
「そりゃそうだろう……」それはそうにちがいない。砂は決して休んだりはしてくれまい。男はひどくまごついてしまう。小さいと思って何気なく踏みつけた、蛇のしっぽが、意外に大きく、気がつくと、相手の頭が自分の後ろにあったと言うような、とまどいだ。
「しかし、これじゃまるで、砂掻きするためにだけ生きているようなものじゃないか!」
「だって、夜逃げするわけにもいきませんしねえ……」
男はますますうろたえる。そんな生活の内側にまで、かかわり合いになるつもりはなかったのだ。
「出来るさ!……簡単じゃないか……しようと思えば、いくらだって出来るよ!」
「そうはいきませんよ……」女は、スコップをつかう動作に呼吸を合わせて、さりげなく、「部落がなんとか、やっていけるのも、私らがこうして、せっせと砂掻きに、せいをだしているおかげなんですからね……これで、私らが、ほうりだしてしまったら、十日もたたずに、すっかり埋まっちまって……次は、ほら、同じように裏手のならびに、お鉢がまわっていくんです……」
「これはどうも、恐れいった美談だね……それで、あのモッコの連中も、あんなに熱心だったというわけか。」
「そりゃ、役場から、日当はもらってはいますけど……」
「そんな金があるくらいなら、なぜもっとちゃんとした砂防林をつくらないんだ?」
「計算してみたら、やはりこのやり方のほうが、ずっと安上りらしいんですね……」
「やり方?……やり方だって!」ふいに腹立ちがこみ上げてくる。女をしばりつけているものにも、腹が立ったし、しばられている女にも腹が立ったのだ。「そんなにまでして、どうしてこんな部落にしがみついていなけりゃならないのさ? さっぱりわけが分らんね……砂ってやつは、そんなに生易しいものじゃないんだ! こんなことで、砂にさからえると思ったら、大間違いさ。下らん!……こんな下らんことは、もうやめだ、やめだ……まったく、同情の余地もありゃしない!」
ほうりだした石油罐の上に、かさねてスコップをなげつけると、女の表情をみきわめもせずに、さっさと部屋に引返して来てしまった。
寝苦しかった。女の気配に、耳をそばだてながら、あんなふうに大見得《おおみえ》をきってみせたりしたのも、けっきょくは女をしばりつけているものへの嫉妬であり、女が仕事をほうりだして、寝床へしのんで来てくれることへの、催促ではなかったかと、多少|疚《やま》しい気持がしないでもない。事実、彼の感情のたかぶりは、単に女の愚かさにたいする腹立ちというような単純なものではなかったようだ。なにかもっと底知れないものがあった。ふとんは、ますますしめっぽく、砂は、ますます肌にべたつく。あまりにも不当だし、あまりにも奇怪だ。だからと言って、スコップをなげだして来たことで、自分を責める必要もないだろう。そこまで義務を負ういわれはない。そうでなくても、負わなければならない義務は、すでにあり余るほどなのだ。こうして、砂と昆虫にひかれてやって来たのも、結局はそうした義務のわずらわしさと無為から、ほんのいっとき逃れるためにほかならなかったのだから……
なかなか寝つけなかった。
女の動きまわる気配は、休みなくつづいている。モッコが何度か近づき、また遠ざかって行った。こんなことでは、明日の仕事にさしつかえる。明日は、夜明けと同時に起きて、まる一日を有効につかうつもりだ。寝ようとすればするほど、かえって気が立ってくる。眼がひりつきはじめた。涙も、またたきも、たえまなく降りつづける砂には、さからいきれないらしい。手拭をはらって、顔をつつんだ。息苦しかったが、この方がまだましだ。
なにか、他のことを考えよう。眼をとじると、息づくように流れる、幾本もの長い線が浮んでくる。砂丘を動く、風紋だ。半日、見つづけていたために、眼の奥にまで焼きついてしまったのだろう。あの砂の流れが、かつては繁栄した都市や大帝国をさえ、亡ぼし、呑みこんでしまったことがあったのだ。ローマ帝国の、たしか、サブラータと言ったっけ……それから、オマール・ハイヤムにうたわれている、なんとかいう町も……そこには、仕立屋があったり、肉屋があったり、雑貨屋があったりして、それらの上に決して動かない道々が、網の目のようにからみつき、その道筋一本変えるにしても、役所をめぐって、何年もの争いをしなければならなかったのだ……だれ一人、その不動を疑ってみさえしなかった、古い町々……しかし、それらも、直径1/8m.m.という、流動する砂の法則には、ついにうちかつことが出来なかったのだ。
砂……………
砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。しかし、薄い板壁一枚へだてた向うでは、相も変らず、砂掻きをつづける女の動作がつづいていた。あんな女の細腕で、いったい何が出来るというのだろう。まるで、水をかきわけて、家を建てようとするようなものじゃないか。水の上には、水の性質にしたがって、船をうかべるべきなのだ。
その思いつきは、女が砂を掻く音の、奇妙に強制的な圧迫感から、急に彼を解き放ってくれた。水に船なら、砂にも船でいいはずだ。家の固定観念から自由になれば、砂との闘いに無駄な努力をついやす必要もない。砂に浮んだ、自由な船……流動する家、形のない村や町……
もちろん砂は、液体ではない。だから浮力に期待するというわけにはいかない。たとえ、砂より比重の軽い、コルク栓のようなものでも、ほうっておけば、自然に沈んでしまう。砂に浮べる船は、もっとちがった性質をもっていなければならないのだ。たとえば、ゆれ動く樽のような形をした家……ほんのわずか、廻転すれば、かぶった砂をはらいおとし、すぐまた表面に這い上る……もっとも、家全体がしじゅう廻転のしつづけでは、住んでいる人間が不安定でやりきれまい……そこで、一工夫して、樽を二重にする……内側の樽は、軸を中心に、底がつねに重力の方向にむかっているようにすればよい……内側は固定したまま、外側だけがまわるのだ……大時計の振子のように、ゆれ動く家……ゆりかごの家……沙漠の船……
そして、それらの船が集まって出来た、振動しつづける、村や町……
いつの間にやら、まどろんでいた。
7
錆《さ》びたブランコをゆするような、ニワトリの声で、目をさました。せわしい、ささくれだった目覚めだった。夜が明けたばかりのような感じだったが、腕時計の針は、もう十一時十六分をまわっている。そう言えば、この光線の色は、もう真昼の色だ。ほの暗いのは、ここが、穴の底で、まだ日差しがとどかないためなのだろう。
あわててはね起きる。顔からも、頭からも、胸からも、つもった砂が、さらさらと流れおちた。唇と、鼻のまわりには、汗でかたまった砂が、こびりついていた。手の甲で、こそげおとしながら、こわごわ、またたきを繰返す。熱くほてった、ざらざらのまぶたから、とめどなく涙があふれだした。しかし、涙だけでは、めやにに塗りこめられた砂を洗いおとすには、まだ不充分だった。
一滴の水をたよりに、土間の水甕にむかって歩きだす。ふと、イロリの向うで寝息をたてている、女に気づいた。男は、まぶたの痛みも忘れて、息をのんだ。
女は、素裸だったのだ。
涙でにごった視界のなかに、女は影のように浮んで見えた。畳の上に、じかに仰向けになり、顔以外の全身をむきだしにして、くびれた張りのある下腹のあたりに、軽く左手をのせている。ふだん人が隠している部分は、そんなふうにむきだしにしているのに、逆に、誰もが露出をはばからない、顔の部分だけを、手拭で隠しているのだ。むろん、眼と呼吸器を砂から守るためだろうが、そのコントラストが、裸体の意味を、いっそうきわ立たせているようだった。
しかも、その表面が、きめの細かい砂の被膜で、一面におおわれているのだ。砂は細部をかくし、女らしい曲線を誇張して、まるで砂で鍍金《めっき》された、彫像のように見えた。ふいに、舌の裏側から、ねばりけのある唾液が、ふきだしてくる。しかしその唾を飲込むわけにはいかない。唇と歯のあいだにたまった砂が、その唾を吸って、口いっぱいにひろがるのだ。土間にむかって、唾をはいた。しかし、いくら唾をはいても、口のざらつきはなおらなかった。口が、からからになっても、まだ砂は残っていた。まるで歯のあいだから、次々と新しい砂がつくられていくようだった。
さいわい、水甕の水は、新しく口元まで補充されていた。口をすすいで、顔を洗うと、生き返ったような気持がした。そのときくらい、水の不思議を、痛切に感じたことはない。砂と同じ鉱物でありながら、どんな生物よりも、やさしく体になじんでくれる、透明で単純な無機物……ゆっくりと、喉《のど》の奥に流しこみながら、石を食う獣のことを想像したりする……
あらためて、女の方を振向いてみた。しかし、それ以上に、近づいてみる気はしない。砂にまぶされた女は、視覚的ではあっても、あまり触覚的とは言いがたい。
昨夜の興奮と苛立《いらだ》ちも、夜が明けてみると、まるで嘘のようだった。むろん、当座の、いい語り種《ぐさ》にはなってくれるだろう。すでに思い出になったものを、たしかめるような目つきで、男はあらためて周囲を見まわし、急いで身仕度にとりかかる。シャツも、ズボンも、砂をふくんで、ずっしりと重かった。だが、そんなことにはかまっていられない。服のせんいから、すっかり砂をふるい落してしまうなど、頭のフケをこそげおとしてしまう以上に、困難なことだった。
靴も、砂の中に、埋まっていた。
女に、何か一言、言いおいていくべきだろうか?……しかし、女を起すのは、かえって恥をかかすようなものだ。では、宿賃はどうしよう?……帰りに、組合の事務所によって、昨日ここを紹介してくれたあの老人に、かわりに受取ってもらうことにすればいい。
足音をしのばせて、外に出た。
煮え立つ水銀のような太陽が、砂の壁のふちにかかって、穴の底をじりじりと焦がしはじめていた。その突然のまぶしさに、あわてて目をふせたが、次の瞬間、もうそのまぶしさも忘れ、ただじっと正面の砂の壁を凝視するばかりだ。
信じがたいことだった。昨夜あったはずのところから、縄梯子が消えていたのだ。
目標の俵は、半ば砂に埋まりながらも、ちゃんとそこに見えている。場所の記憶に間違いはない。それとも、梯子だけが、砂の中に呑まれてしまったのだろうか?……とびかからんばかりに、駈けよって、砂の中に腕をつっこみ、かきまぜる。砂は無抵抗にくずれ、流れおちた。しかし、針をさがしているわけではないのだから、一度ためして駄目なら、何度くりかえしたって、同じことだ。……こみ上げてくる不安を、おし殺しながら、男は呆然と、あらためて砂の傾斜のけわしさを見なおすのだった。
どこか、よじのぼれそうな所はないだろうか? 家のまわりを、二、三度まわってみた。海に面した北側は、家の屋根にのぼれば、穴のふちまでの距離はいちばん短くなるが、それでもまだ十メートル以上はあったし、それにどこよりも急だった。そのうえ、重たそうにたれ下っている砂のひさしが、いかにもあぶなっかしげだ。
比較的、傾斜がゆるやかに見えたのは、円錐の内側のような曲面をもった、西側の壁だった。希望的観測をすれば、五十度前後、うまくすれば、四十五度程度かもしれない。注意深く、最初の一歩を、たしかめてみる。一歩すすむと、半歩ずり落ちた。とにかく、努力すれば、登って行けそうである。
五、六歩までは、なんとか思いどおりにいった。それから、足が、砂の中にめり込みはじめた。進んでいるのか、いないのか、分らぬうちに、膝の上まですっぽり埋まって、身動きがとれなくなってしまう。それから先は、四つん這いになって、がむしゃらによじ登ろうとした。焼けた砂が、手のひらを焦がした。全身から汗がふきだし、その汗に砂がまみれ、もう眼も開けていられない。やがて、足の筋肉がひきつって、動けなくなってしまった。
中休みのつもりで、息をつぎ、もうかなり来たはずだと思って、薄眼をあけてみると、おどろいたことに、まだ五メートルと上ってはいないのだ。一体なにをもがきつづけていたのだろう? おまけに、下から見上げたときの、二倍もの勾配にみえるのだ。さらに、そこから上の光景は、もっとひどかった。彼は、よじのぼっているつもりで、どうやら砂の壁の中に、ただくいこむ努力をしていたらしい。顔のすぐ上に、砂のひさしが、行手をさえぎっていた。
やけになって、もう一ともがき、頭の上の砂に手をのばした瞬間、砂の圧力が、急になくなった。砂から、吐き出されて、穴の底にころげ落ちた。左肩が、割箸を割るような音をたてた。しかしべつに痛みは感じない。彼にしがみつかれた傷跡をいやそうとでもいうように、しばらく、砂の壁の表面を、細かな砂が無表情にさらさらと流れ落ち、間もなく止んだ。それにしても、ひどくちっぽけな傷跡だった。
おびえるのは、まだ早い。
叫びだしそうになるのを、じっとこらえて、ゆっくり小屋に戻った。女はまだ、身じろぎもせずに眠っていた。はじめは静かに、それから次第に大声で、女を呼んでみる。女は、返事のかわりに、うるさそうに、ただ寝返りをうった。
女の体から砂が流れて、肩と、腕と、脇腹と、腰の一部の、素肌がのぞいた。だが、それどころではない。近づきざま、顔の手拭を、ひきはがした。顔は一面むらだらけで、砂に包まれた体とくらべると、不気味なくらい、生々しかった。昨夜ランプの光で、いやに色白に見えたのは、やはり化粧のせいだったらしい。その白いものが、ぼろぼろになって、はげかけている。そのはげかたは、ちょうど卵をつかってない安物のカツレツの感じで、案外その白いものは、本物の小麦粉だったのかもしれない。
やっと、女は、まぶしそうに薄目をあけた。その肩をつかんで、ゆすりながら、男は哀願するように早口で、
「おい、梯子がないんだよ! 一体どこから上ればいいんだい? 梯子がなかったら、あんなとこ、登れやしないじゃないか!」
女は、あわてた仕種で、手拭をひろうと、思いがけない勢いで、二、三度、顔をはたき、それからくるりと背をむけ、うつぶせになった。はじらいの動作なのだろうか。あまりに場ちがいすぎた。男は、せきを切ったようにわめきだした。
「冗談じゃないよ! 早く梯子を出してくれないと困るじゃないか! ぼくは急いでいるんだ! 一体、どこに隠しっちまったんだい? ふざけるのは、いいかげんにして、さっさと出してくれよ!」
それでも相手は、答えなかった。同じ姿勢のまま、ただ首を左右にふりつづけるばかりである。
ふいに、男は体を固くする。視線は虚ろに、焦点を失い、呼吸も、ひきつり、ほとんど止りかけた。とつぜん、自分の詰問《きつもん》の無意味さをさとったのだ。そう、あれは、縄梯子だった……縄梯子には、自分で立つ力はない……たとえ、手に入れたところで、下からかけるわけにはいかないのだ。と言うことは、あれを外したのが、女ではなく、別の誰かが、道の上からとりのぞいたことを意味してはいまいか……砂でよごれた不精ひげが、急にみすぼらしく、目立ちはじめた。
すると、女のこの仕種と沈黙は、とほうもなく恐ろしい意味をもってくる。まさかと思いながらも、心の奥底で、いちばん案じていた不安が、とうとう的中してしまった。縄梯子の撤去が、女の了解のうちに行われたことの、これは明白な承認にほかなるまい。女は、まぎれもなく共犯者だったのだ。当然、この姿勢も、はじらいなどという、まぎらわしいものではなく、どんな刑罰でも甘んじようという、罪人、もしくは生け贄《にえ》の姿勢にちがいない。まんまと策略にかかったのだ。蟻地獄の中に、とじこめられてしまったのだ。うかうかとハンミョウ属のさそいに乗って、逃げ場のない沙漠の中につれこまれた、飢えた小鼠同然に……
跳ね上って、戸口に駈出し、もう一度外を見た。風が出ていた。太陽は、穴のほとんど真上にあって、焼けた砂から、濡れた生フィルムのようなかげろうが立ちのぼっていた。そして、砂の壁は、ますます高く、彼の筋肉と関節に、抵抗の無意味さを教えるようなさとり顔で、そそり立っている。熱気が肌を刺した。急激に気温がのぼりはじめていた。
とつぜん、狂ったように、叫びだす。なんと言えばいいのか分らないので、意味のある言葉にはならない。ただ、声をかぎりに、ありったけの力でわめくのだ。そうすればこの悪夢がおどろいて目をさまし、思わぬ失態をわびながら、彼を砂の底から、はじき出してくれるとでもいうように。だが、出しつけない声は、いかにもかぼそく、弱々しかった。おまけに、途中で砂に吸われ、風に吹きちらされて、どこまでとどくものやらも心もとない。
ふいに、すさまじい響きがおこって、彼の口をふさいだ。昨夜の女の言葉どおり、水分を失った、北側の砂のひさしが、くずれ落ちて来たのだ。家全体が、むりやり捩《ね》じまげられたような、哀れっぽい悲鳴をあげた。それから、苦しそうに、軒や壁の隙間から、さらさらと灰色の血をこぼしはじめる。男は口の中を唾液でいっぱいにして、ふるえだした。まるで、撃ちくだかれたのが自分自身だったように……
だが、それにしても、ありえないことだ。あまりにも常軌を逸した出来事だ。ちゃんとした戸籍をもち、職業につき、税金をおさめていれば、医療保険証も持っている、一人前の人間を、まるで鼠か昆虫みたいに、わなにかけて捕えるなどということが、許されていいものだろうか。信じられない。おそらく何かの誤解なのだ、誤解にきまっている。誤解とでもいうよりほかに、考えようがない。
第一、こんなことをしたって、なんの役にも立ちはしないではないか。おれは、馬や牛じゃないのだから、意志に反して、むりやり働かせるわけにはいかない。労働力として役立たないとなれば、おれを砂の壁の中に閉じこめてみたところで、なんの意味もないわけだ。女にしたって、とんだ厄介《やっかい》者を、くわえこんだというだけのことになる。
しかし……なぜか、確信はもてなかった……しめつけるように、彼をとりまく、砂の壁を見ていると、さっきの、よじ登ろうとしてしたみじめな失敗が、いやでも思い出されてくる……もがくばかりで、なんの効果もない、全身を麻痺させるような無力感……ここはもう、砂に侵蝕されて、日常の約束事など通用しなくなった、特別の世界なのかもしれない……疑えば、疑う材料はいくらでもあるのだ……たとえば、彼のために、あらたに石油罐とスコップが用意されたことが事実なら、知らぬまに縄梯子がとりはらわれていたことも事実だし、また、女が一言の弁明もせず、薄気味のわるいほどの素直さで、易々《いい》として生け贄の沈黙に甘んじていることも、事態の危険性を裏づけていると考えられはしまいか?そう言えば、昨夜、女がくりかえし、いかにも彼の永い逗留《とうりゅう》を前提にしたような口のききかたをしたのも、単なる言いちがえなどではなかったのかもしれない。
つづけて小さな砂なだれがあった。
男は、落着かぬげに、小屋の中にとって返した。うつぶせになったままの女のそばに、まっすぐ近づくと、はずみをつけて、いきなり右手を振上げた。やり場のない感情が、眼の奥で、身もだえしながら、跳ねまわっている。だが、急に虚脱したように、せっかく振上げた腕を、そのまま途中でおろしてしまうのだ。裸の女を、平手でうてば、なるほど悪い気持はしないかもしれない。しかし、それではまるで、相手のつくった筋書どおりに動いてしまうようなものではないか。相手もそれを待ちうけているのだ。罰とは、とりもなおさず、罪のつぐないを認めてやることにほかならないのだから。
女に背をむけ、落ち込むようにあがりがまちに腰をおろして、頭をかかえこんだ。声に出さずに、うめきはじめる。たまった唾を、飲込もうとして、喉にこばまれ、うろたえる。喉の粘膜は、とくべつ砂の味と臭いに敏感らしく、いつまでたっても慣れてくれないのだ。唾は、泡だらけの褐色のかたまりになって、唇の端からふきだしてきた。唾をはいてしまうと、砂のざらつきが、よけいひどく感じられる。砂をはきだそうとして、舌の先で、唇の裏をなめまわし、唾をはきつづけるのだが、きりがない。しまいに、口の中がからからになって、炎症でもおこしたように、ひりついた。
こんなことをしていても仕方がない。とにかく、女に言って、もっと詳しい事情を説明させるとしよう。事態がはっきりしさえすれば、おのずと打つ手もきまるはずだ。打つ手がないなどということはありえない。そんな馬鹿なことが、あってたまるものか……だが、何を言っても、女が答えてくれなかったりしたらどうしよう……それこそいちばん恐ろしい返答だった。しかも、その可能性はじゅうぶんにある。女の、このかたくなな沈黙……あの、膝を折ってうつぶせになった、完全に無防備な生け贄の姿勢……
うつぶせになった、裸の女の、後ろ姿は、ひどくみだらで、けものじみていた。子宮をつかんで、裏返しにでも出来そうだ。だが、そう思ったとたんに、ひどい屈辱に息をつまらせた。遠からず、女をさいなむ刑吏になりはてた自分の姿が、まだらに砂をまぶした女の尻の上に、映し出されるような気がしたのだ。分っている……いずれはそうなるのだ……そして、その日に、おまえの発言権は失われる……
ふいに突きさすような痛みが、下腹をえぐった。はちきれそうになった膀胱が、耳の奥までとどいて、鳴っていた。
8
小便をすませた男は、まるで気がぬけたように、そのまま濃すぎる空気のなかに立ちすくんでしまう。とは言え、時の経過に、なんらかの期待をよせていたわけでもない。ただ家に引返す決心だけは、どうにもつかなかった。女のそばにいるのが、どんなに危険なことか、離れてみるといっそうよく分る。いや、問題なのは女そのものではなく、うつぶせになった、あの姿勢だろう。あれほどみだらなものは、まだ見たことがない。絶対に引返してはいけない。なんとしても、あの姿勢は危険すぎる。
擬死態《ぎしたい》発作という言葉がある。ある種の昆虫やくもなどが、不意の攻撃をうけておちいる、あの麻痺状態だ。崩壊した画像。コントロール・タワーを狂人に占領された飛行場。冬眠中の蛙に冬が存在しないように、出来れば、自分の静止が、世界の動きも止めてしまったのだと思い込みたかった。
だが、そう思うには、太陽の光があまりにも激しすぎた。男は激しく身をすくめ、光の棘《とげ》から、身をふりほどく仕種で、素早く首を下げ、シャツの襟をつかんで、力まかせにひきむしる。上から三つ、ボタンがちぎれて飛んだ。手のひらでこびりついた砂を掻きおとしながら、砂はけっして乾燥したものではなく、むしろ手あたり次第にものを腐らせてしまうほど、吸湿性のものだという昨夜の女の言葉を、あらためて思い出していた。シャツをはぎとったついでに、バンドをゆるめて、ズボンの中にも空気を送りこんでやる。だが、それほど騒ぎ立てるほどのことはなかったようだ。不快感は、やって来たときと同じくらいの早さで、遠のいていった。どうやら砂の吸湿性は、空気にふれただけで、たちまちその魔力をなくしてしまうものらしい。
とたんに、重大な思い違いをしていたことに、気づかされたのだ。女の裸についての、おれの解釈は、どうやらあまりに一方的すぎたようである。彼を罠にかけようという下心が、まるで無かったとは言えないにしても、あれは案外、生活の必要からきた、ごく日常的な習慣だったのかもしれないのだ。女が寝たのは、たしか夜が明けてからだった。睡眠中は、とかく汗をかきやすいものだ。その睡眠を、日中、しかも焼きつけるような砂の壺のなかですごさなければならないとしたら、裸になるのが、むしろ当然なのではあるまいか。もし自分が、同じ条件におかれたとしても、やはり出来れば裸をえらぶにちがいない……
この発見は、はためく風が、皮膚の上から、みるみる砂と汗を分離してしまったように、たちまち彼の感情のこわばりを、ときほぐしてくれた。思いすごしにおびえていても仕方がない。何重もの鉄格子やコンクリートの壁を破って逃げた男だっているのだ。鍵がかかっているかどうかも確かめずに、錠前を見ただけですくみ上ることはない……男はゆっくり、ねばつくような足どりで、小屋にむかって引返す……落着いて、今度こそは必要なことをすっかり、女から聞き出してやろう……あんなふうに、のぼせ上って、ただわめきちらしたのでは、女が黙りこんでしまうのも無理はない……それにあの沈黙だって、うっかり裸の寝姿を見られてしまった、不用意を、ただ恥入ってのことにすぎなかったのかもしれないではないか。
9
焼けた砂にさらされた眼には、小屋の中はひどく薄暗く、ひんやりと濡れたような感じだった。しかしすぐに、錯覚にすぎないことを思い知らされる。外とはまたちがった、カビ臭い熱気がこもっていた。
探すところに、女はいなかった。一瞬ぎくりとさせられる。謎々あそびはもう沢山だ。いや、謎めいたことなど、どこにもありはしない。女はちゃんとそこにいた。流し場のわきの水甕のまえに、こちらに背をむけて、うつむきかげんに立っていた。
すっかり身づくろいも終えていた。着物とそろいのモンペの、淡い緑がかったかすりの色合からは、まるでハッカ入りの傷薬のような匂いさえ感じられたし、これならなにも文句を言うことはない。やはり思いすごしだったのだ。これだけ異常な環境に、睡眠不足が加われば、多少妄想気味になるのもやむを得まい。
女は、水甕のふちに片手をおき、のぞきこむようにしながら、もう一方の指先で、水の表面をゆっくりかきまぜる動作をくりかえしていた。男は、砂と汗で、しっとり重みのかかったシャツを、勢いよくふりまわして、ぴしゃりと手首にまきつけた。
振向いた女の顔は、警戒の色に、こわばっていた。生涯を、そんな表情ですごしてきたにちがいないと思われるほど、その哀願の調子は板についていた。男は、なるたけさりげなくふるまうことにして、
「暑いね、まったく……こう暑くっちゃ、シャツなんて、とても着ちゃいられない。」
それでも女は、まだ疑わしげに、訴えるような上眼づかいをやめようとしないのだ。臆病《おくびょう》そうなつくり笑いに、声をとぎらせながら、
「ええ……本当に……着物を着たまま汗をかくと、いっぺんに、砂かぶれしてしまいますから……」
「砂かぶれ?」
「はい……肌がくされて、火傷のあとみたいに、ピラピラになってしまいます。」
「へえ、ピラピラにねえ……湿気で皮膚がむれてしまうんだろうな。」
「はい、ですから……」やっと女も、気持がほぐれはじめたのか、舌のまわりも軽くなり、「私ら、汗をかきそうなときには、なるたけ裸になるようにしています……どうせ、こんなふうですから、他人の眼を気にすることもありませんし……」
「なるほど……それじゃ一つ、すまないけど、このシャツを洗っておいてもらおうかな。」
「はい、明日になれば、ドラム罐で水の配給がありますから……」
「明日?……明日じゃ困るよ……」男はくすくす笑いだす。じつに巧い具合に、話を本筋にもちこめたものだ。「それはそうと、いったい何時になったら、上にあがらせてもらえるんです?……困ってしまうなあ……ぼくのような勤め人にとっちゃ、予定が半日も狂っちゃ、どえらい損失ですからね……一分たりとも、無駄にはしたくないんだ……ニワハンミョウっていう、地面をぴょんぴょん飛んで歩く虫……こういう砂地に多いんだけど、知らないかなあ?……そいつの新種を、こんどの休暇中に、なんとしてでも仕止めてやろうと思って……」
女が、かすかに唇を動かした。しかし言葉にはならない。ニワハンミョウという、聞きなれない名前を、くりかえしてみただけかもしれない。しかし、女の心が、ふたたび閉ざされていくのが、男には手にとるように分った。思わず追いすがるように、
「ねえ、なんとか部落の連中に、連絡をつける方法はないのかな?……そうだ、石油罐でも叩いてみたらどうだろう?」
やはり女は答えない。水に沈む石のはやさで、またあの受身な沈黙に戻ってしまったのだ。
「どうしたんだ、え?……なぜ黙っているんだ!」またも気持がうわずり、わめきたくなるのを、やっとこらえながら、「わけが分らん……手違いなら、手違いで、いいんですよ……済んでしまったことを、とやかく言っても、はじまらんからね。そんなふうに、黙りこんでいるのが、一番いかんのだ。よく、そういう子供がいるが、ぼくはいつも言ってやるんです……いかにも、自分を責めているようにみせかけて、その実、そういうのが一番卑怯なやり方なんだってね……弁解することがあるんなら、さっさと言ってしまったらどうなんだ!」
「でも……」女は自分の肘のあたりに視線をおよがせ、しかし意外によどみのない声で、「もう、お分りなんでしょう?」
「お分り?」さすがに衝撃はかくせない。
「ええ……もう、お分りなんだろうと思って……」
「分らん!」男はついに叫びだす。「分るもんか! なにも言わないのに、分るはずがないじゃないか!」
「でも、本当に、女手一人じゃ無理なんですよ、ここの生活は……」
「そんなことが、ぼくになんの関係があるんです?」
「はい……すまないことをしたと、思っています……」
「すまないだと……?」気ばかりあせって、かえって舌がもつれてしまうのだ。「それじゃつまり、ぐるだったってわけか?……罠の中に、餌を仕掛けて……犬か猫みたいに、女さえいりゃ、すぐにとびつくかと思って……」
「はい、これからは、だんだん北風の季節で、砂嵐の心配もありますし……」ちらと、開け放しの木戸に目をやりながら、その抑揚のない、こっそりとした調子には、おろかしいほどの確信がこめられている。
「冗談じゃないよ! 非常識にも、ほどがある! これじゃまるで、不法監禁じゃないか……立派な犯罪だよ……なにもこんな無理をしなくたって、日当をほしがっている失業者ぐらい、いくらだっているだろうに!」
「ここのことを、外に知られちゃ、まずいんでしょうねえ……」
「ぼくなら、安全だってのかい?……とんでもない!……それこそ、とんだ見当ちがいってもんだよ! あいにくとぼくは、浮浪者なんかじゃない……税金も払っていりゃ、住民登録票だって持っている……いまに、捜索願がだされて、とんだことになってしまうぞ! 分らないのかなあ、それっくらいのことが……一体、なんと言って申しひらきするつもりなんです?……さあ、責任者を呼びなさい……どれっくらい間抜けたことか、ようく話して聞かせてやるから!」
女は眼をふせ、かすかに吐息をついた。それっきり、肩をおとすと、もう身じろぎしようともしないのだ。まるで理不尽な難題をふきかけられた、不幸な仔犬のように。それがかえって、男の怒りに、油をそそぐ結果になる。
「なにをぐずぐず、ためらうことがある?……いいかね、問題はぼくのことだけじゃない。あんただって、けっこう、同じくらい被害者なんだろう? だって、そうじゃないか、現にあんたは、ここの生活が、外部に知られると困ると言った……これが不当な生活だってことを、あんた自身も認めているっていう証拠じゃないか! こんな、奴隷あつかいをされていて、そんな代弁者みたいな顔はよしなさい!……誰にもあんたをここに閉じこめておく権利なんてありはしないんだ!……さあ、すぐに誰かを呼ぶんだ! ここを出て行くんだ!……ははあ、分った……恐がっているんだな?……馬鹿馬鹿しい!……なにが恐いことなんかあるもんか!……ぼくがついてるよ……新聞社に勤めている友達もいるしね……こいつを社会問題にしてやろうじゃないか……どうしたんだ?……なぜ黙っている?……びくびくすることはないって言ってるだろう!」
しばらくして、いたわるように、女がぽつりと言った。
「ごはんの仕度にしましょうか?」
10
ひっそりと、芋の皮をむきはじめた女の後ろ姿を、横眼で追いながら、男は女がこしらえている食事を、素直に受付けるべきかどうか、そのことで頭をいっぱいにしていたのである。
たしかに今は、沈着と冷静こそが求められるべきときだ……相手の意図がはっきりした以上、右往左往するよりは、現実を直視して、実際的な脱出のプランを練るべきだろう……不法行為をなじるのは、そのあとからでいい……ただ、空腹は、意欲を喪失させる……精神の集中にもよろしくない。とは言うものの、現状を拒否するつもりなら、当然食事もふくめて、徹底的に拒否しつくすべきではないだろうか? 腹を立てながら、飯を食ったりしては、こっけいになる。犬だって、餌を口に入れたとたんに、尻尾を下げてしまうものだ。
だが、早まってはいけない……相手がどこまで強気かも、見きわめないうちに、そこまで受身になってしまう必要はないはずだ……なにも、只でめぐんでもらおうなどと言っているわけじゃなし……ちゃんと食費は払うのだ……金を払った以上、負い目を感じることなど、これっぽっちもありはしない……攻撃こそ、最良の防禦《ぼうぎょ》だと、テレビのボクシング解説者もよく言っていた。
すると……食事を我慢せずにすませる、巧い口実がみつかって、ほっとしたのか……急に視界がひらけて、思考の糸口がほぐれだした。たかだか砂が相手じゃないか。そうとも、べつに鉄格子を破ろうなどと、無理難題をふっかけられているわけじゃない。縄梯子をとりあげられたのなら、木の梯子をつくればいい。砂の壁がけわしすぎるのなら、それをくずして、傾斜をゆるやかにしてやればいい……ちょっと頭を働かしさえすれば、ざっとごらんのとおりだ……単純すぎるようでもあるが、目的にかなっているのなら、単純にこしたことはあるまい。コロンブスの卵のたとえもあるとおり、真に正しい解答は、しばしば馬鹿らしいほど単純なものである。面倒をいといさえしなければ……闘うつもりになりさえすれば……まだまだ万事休したというわけではないのである。
芋をむきおえた女は、それを賽《さい》の目に切り、葉ごと刻んだ大根と一緒にして、かまどの上の鍋に入れた。鍋は大きな鉄鍋だ。ビニールの袋から、大事そうにマッチをとりだし、使い終えると、またきっちりくるんで、輪ゴムでとめた。といだ米を、篩《ふるい》にあけて、上から水をそそいでやる。おそらく砂を流すためだろう。鍋の煮物が、呟《つぶや》くような音をたてはじめ、苦味をおびた大根のにおいがただよいだす。
「お客さん、すこし水が余っているけど、顔でも洗いますか?」
「いや……顔よりも、飲ませてほしいね……」
「あ、すみません……飲み水は、別にとってあります。」やはり、ビニールにくるんで隠すようにしてあった大きなやかんを、流し場の下から取出して、「生ぬるくなっていますけど、一度沸かして消毒してありますから……」
「それはそうと、甕の中の水もすこしは残しておかないと、あとの洗いものなんかに困るんじゃないの?」
「いいえ、食器なんかでしたら、砂でこすっただけでよく落ちます。」
そう言うと、女は、窓ぎわから砂を一つかみ、手許の食器のなかにほうりこんで、まぶすようにくるりとまわし、実演して見せてくれるのだ。本当に清潔になったかどうかは、よく分らないが、それでいいような気もした。すくなくともその砂は、従来彼が持ちつづけていた砂のイメージと、よく一致していた。
食事はまた、傘の下だった。野菜の煮つけに、あぶった干魚……どれもすこしずつ砂の味がする。傘の頭を天井からつるせば、女も一緒に食べられると思ったが、わざわざ誘うほどの気にはなれなかった。番茶は、色ばかり黒くて、味はひどく薄かった。
食べおえると、女は流し場に戻り、頭からビニールの布をかぶって、その下でこっそり自分の食事にとりかかる。その後ろ姿を、虫けらのようだと思う。こんな生活を、これから先も、ずっとつづけていくつもりなのだろうか?……外から見れば、猫の額ほどの土地かもしれないが、穴の底に立って見れば、目にうつるものは、ただ際限もない砂と空だけだ……眼の中に閉じこめられてしまったような、単調な生活……この中で、女はきっと、他人から憐みの言葉一つかけられた記憶もなしに過してきたのだろう……もしかすると、罠にかかった自分をめぐんでもらって、娘のように胸をときめかせているのかもしれない……あまりにもみじめすぎる……
女に何か一言、声をかけてやりたい誘惑にかられ、つなぎに一服しようと、タバコに火をつけてみた。やはりここではビニールが欠かすことのできない生活必需品であるらしい。マッチはなんとかついてくれたが、タバコはまるで使いものにならなかった。頬の肉が、奥歯のあいだにくいこむほど、力いっぱい吸ってみても、どうにか煙の味がする程度だ。その煙も、やたらと脂臭く、舌を刺激するばかりで、とても吸えた代物ではない。すっかり気分を害して、つなぎどころか、口をきく気もなくしてしまった。
よごれた食器を、まとめて土間におろし、のろのろした動作で、その上に砂を盛上げながら、言いにくそうに女が言った。
「お客さん……これからすぐに、天井裏の砂おとしを始めなければなりませんのですが……」
「砂おとし? ああ、いいでしょう……」男は気がなさそうに、いまさら、そんなことが、おれになんの関係があるというのだ……梁が腐ろうと、棟が折れようと、こちらになんの関係もありはしない。
「邪魔だったら、何処かにどいていましょうか?」
「すみませんねえ……」
白っぱくれるな! なぜ白眼の端でも見せようとしないんだ! 内心じゃ、腐った玉ねぎを噛んだくらいの気持でいるくせに!……しかし女は、習慣になった動作だけが持つ、あの無表情な素早さで、二つ折れにした手拭を、顔の下半分にまきつけ、頭のうしろで結び、手箒《てぼうき》と板切れを小脇にかかえて、片側しか襖が残っていない押入れの中仕切の上に、よじのぼっていく。
「率直に、ぼくの意見を言わせてもらえばだな、こんな家は、ぶっつぶれてしまったほうが、いっそせいせいするだろうと思うんだ!」
とつぜん口をついて出た癇走《かんばし》った自分のわめき声に、自分も驚き、女はさらにぎくりとした表情で振向いた。なるほど、まだ虫けらになりきったわけではないらしい……
「いや、べつに、奥さんだけに腹を立てているわけじゃない……こんなことで、一人の人間に鎖をつけられるだろうと考えた、その魂胆が気にくわないんだ。分るでしょう? いや、分らなくたって構いやしない。それじゃ一つ、面白い話をしてあげようか……以前、ぼくの下宿に、下らない雑犬を一匹飼っていたんだ……おそろしく毛深いたちでね、夏になっても、なかなか毛が抜けかわらない……見ているだけでも、うっとうしいと言うので、思いきって毛を刈ってやることにした……ところが、いよいよ刈り終えた毛屑《けくず》を、捨てようという段になって、その犬のやつ、何を思ったか、急に悲鳴をあげるなり、その毛屑の束をくわえて自分の巣のなかに駈け込んでしまったのさ……おそらく、毛屑が自分の体の一部のような気がして、別れがたかったんだろうね。」そっと女の表情をうかがってみる。しかし女は、中仕切の上で、体をねじった不自然な中腰のまま、身じろぎ一つしようとしないのだ。「まあいいさ……人間にはめいめい、他人には通用しない理屈ってものを持っている……砂掻きだろうと、なんだろうと、どうぞ勝手にどしどしやって下さい。しかしぼくには絶対我慢できないね。もう沢山だ! とにかくぼくは、すぐに失礼します……見くびっちゃいけませんよ……その気になれば、ここから逃げ出すくらい、わけなしだからね……ちょうど、タバコも切れたとこだし……」
「タバコなら……」ぎこちないほど間抜けた素直さで、「あとで、水の配給のときに……」
「タバコ?……タバコだって?」男は思わず吹き出してしまう。「問題はそんなことじゃないんだ……毛屑ですよ、毛屑……分らないかな?……毛屑のために、賽《さい》の河原の石積みたいなまねをしたって、仕方がないだろうってことですよ。」
女は黙っていた。言い返しもしなければ、弁解する気配もない。しばらく待って、男が言いやめたことを確かめてから、まるで何事もなかったように、そろそろと体を動かし、やりかけの仕事のつづきを始めるのだ。押入れの天井の上げ蓋をずらし、つっこんだ上半身を肘で支えて、不器用に足をばたつかせながら、よじのぼって行く。あちこちで、細い糸になって、砂が降りはじめた。この天井裏になら、なにか変った虫がいそうな感じだ……砂と腐った材木……しかし、もうけっこう、変ったことは、もう沢山だ!
やがて天井の一角から、砂がめまぐるしく変化する幾本ものテープになって、どっと吐き出されてきた。その流れの激しさにくらべて、いやにひっそりしているのが、なんとも不思議な感じだ。みるみる畳の上に、天井板の隙間や節穴の位置や大きさが、そっくり浮き彫りになって写し出される。砂のにおいが鼻を刺した。眼にもしみた。急いで外に逃げた。
ぱっと、突然火を吹いたような風景に、踵から融けていくような気がした。しかし、体の芯のあたりに、どうしても融けきれない、氷の棒のようなものが残った。やはり何処かで、疚しさを感じているらしいのだ。けもののような女……昨日も、明日もない、点のような心……他人を、黒板の上のチョークの跡のように、きれいに拭い去ってしまえると信じ込んでいる世界……現代の一角に、まだこれほどの野蛮が巣くっていようとは、夢にも思わなかった。しかし、まあいい……ショックから恢復《かいふく》して、やっと余裕をとり戻しはじめたしるしだと考えれば、この疚しさもそう悪くはない。
しかし、うかうかしてはいられない。出来れば暗くなるまえに、やり上げてしまいたいものだ。眼を細めて、融けたガラスのようなかげろうの被膜の下で、波うっている砂の壁を目測した。見るたびに高くなっていくようでもある。だが、自然にさからって、ゆるやかな傾斜を急にしようというのならともかく、急なものを、ただなだらかにしてやろうというだけだ。べつに尻込みすることもないだろう。
一番たしかなのは、むろん上から順にけずり落していくことだ。だが、それが出来なければ、下から掘っていくより仕方がない。まず下を適当にえぐって、上からくずれてくるのを待ち、さらに下をえぐって、上をくずす……それを繰返していけば、順に足もとから高くなり、いつかは上にたどりつけるはずだ。むろん途中で、砂の流れに、おし流されることもあるだろう。しかし、いくら流れだといっても、水とはちがう。砂におぼれたなどという話は、まだ聞いたこともない。
スコップは、土間の外壁に、石油罐とならべて立てかけてあった。丸くすりへった刃の先が、瀬戸物の割れ目のような白い光をはなっていた。
しばらくのあいだは、砂掘りに熱中する。砂はいかにも従順で、仕事もはかどりそうだった。砂にくいこむスコップの音と、自分の息づかいだけが、時を刻むすべてだった。ところがやがて、腕の疲労が、なにやら警告めいた呟きをはじめるのだ。もう、かなり掘ったつもりだのに、一向に成果があがった様子もない。くずれてくるのは、いつも掘った真上の、ほんのわずかな部分だけだ。頭の中にえがいていた、あの単純な幾何学的プロセスとは、何処かがひどく食い違っている。
不安がそれ以上こうじないうちに、休憩もかねて、穴の模型をつくり、たしかめてみることにした。さいわい、材料は、無限にある。軒下の影をえらんで、五十センチばかりのくぼみを掘ってみた。ところがなぜか、側面の勾配が、思っただけの角度になってくれない。せいぜい四十五度……口のひらいた摺鉢《すりばち》程度なのである。底のほうから、けずり取ってみると、斜面にそって砂は流れ落ちるが、勾配はいぜんとして元のままである。どうやら砂には、安定角というようなものがあるらしい。粒子の重さと抵抗が、ちょうど釣合ったところだろう。だとすると、いま彼が挑もうとしているこの壁も、やはりその程度の傾斜なのだろうか?
いや、そんなことはありえない……目の錯覚だとしても、ありえない……どんな勾配でも、下から見れば、むしろ実際以下に見えるはずである。
それでは、量の問題だと考えるべきだろうか?……量がちがえば、しぜん圧力もちがってくるわけだ……圧力がちがえば、重さと抵抗の釣合いにだって、当然変化が生れてくるだろう。砂の粒子の構造にも、問題があるのかもしれない。赤土でも、自然に切り出された赤土と、盛土した赤土とでは、圧力に対する抵抗力がまるでちがうという。さらに、湿度のことも、考慮に入れなければなるまいし……つまり、模型とは、別な法則が働いているのかもしれないということだ。
とは言えその実験が、まるで無駄だったわけではない。壁の傾斜が、過安定の状態にあることが分っただけでも、大変な収穫だった。過安定を安定にするのは、一般的に、さほどむつかしいことではない。
過飽和溶液は、ちょっとゆすってやっただけでも、すぐに結晶を沈澱しながら、飽和点に移行してしまうものである。
ふと、人の気配を感じて振向くと、いつの間にやら女が戸口に立って、じっとこちらをうかがっているのだった。さすがに、気まずいらしく、あわてて片足をひき、助けを求めるように、ちらと視線を泳がせる。その視線をたどっていくと、彼が背にしていた東側の壁の上からも、頭が三つ、行儀よく並んで、こちらを見下ろしているのだ。すっぽり手拭をかぶっていたし、口から下は隠れているので、はっきりしないが、どうやら昨日の年寄りたちらしくもある。とっさに男は身構えたが、すぐに気をとりなおし、無視してそのまま仕事をつづけることにした。見られていることが、むしろ男を仕事にかりたてた。
汗が鼻の先からしたたり、眼に流れこむ。ぬぐう間がなければ、眼をつぶってでもスコップをふるうのだ。絶対にこの手を休めてはいけない。この的確な速度をみれば、いくら薄野呂《うすのろ》たちだって、いやでもおのれの軽薄さを思い知らされるはずである。
時計を見た。文字盤の砂を、ズボンで拭きとると、まだ二時十分だ。さっき見たときも、同じくたしか二時十分だった。急に速度感に対する自信が失われてくる。かたつむりの眼で見れば、太陽だって、野球のボールのような速さでうつるかもしれないのだ。スコップを持ちかえ、あらためて砂の壁にむかって突進した。
急に砂の流れがはげしくなった。ゴムのように響きのない、鈍い物音が、ぐにゃりと彼の胸板にのしかかってきた。様子をたしかめようと、上を見上げるのだが、どちらが上なのだか、もう見当もつかない。二つ折れになった黒い嘔吐のまわりを、淡い乳色の光が、ただぼんやりとなぞっていた。
第二章
11
ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
何んの音?
鈴の音
ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
何んの声?
鬼の声
女が呟くようにうたっている。甕のなかの水垢を、かい出しながら、同じ文句を、飽きもせずくりかえしている。
唄がやむと、こんどは米をとぐ音だ。男は、そっと溜息をつき、寝返りをうって、期待に体を固くしながら、待ちうける……間もなく、女が、水を入れた洗面器をもって、体を拭いに来てくれるだろう。砂と汗でふやけた皮膚は、もう炎症をおこす一歩手前だった。冷たい、濡れ手拭のことを思っただけで、身がすくむ。
砂にうたれて、気を失って以来、ずっと寝たっきりなのだ。最初の二日は、三十九度ちかい高熱と、執拗な嘔吐に悩まされた。だが、その翌日には、熱もひいたし、ある程度食欲も回復していた。どうやら原因は、砂崩れによる傷害というよりも、長時間、直射日光にさらされながら、馴れない労働をつづけたためらしい。結局のところ、大したことではなかったわけである。
そのせいか、回復も早かった。四日目には、足腰の痛みも、ほとんどなくなった。五日目には、気だるさをのぞけば、これといった自覚症状もない。にもかかわらず、こうして床をはなれず、重病人をよそおっているのには、むろんそれなりの理由と計算があったのである。当然のことながら、彼はまだ、脱出の計画をすこしもあきらめてはいなかった。
「お客さん、起きていますか?」
おずおずと、女の呼ぶ声がした。薄目の隅で、モンペをとおした膝のまるみをうかがいながら、言葉にならない、うめき声で答える。でこぼこだらけの、真鍮《しんちゅう》の洗面器のなかで、のろのろと手拭をしぼりながら、女が言った。
「気分、どんなです?」
「まあね……」
「背中、拭きましょう……」
ぐったり、全身を女の手にゆだねてしまっても、病気という口実のせいか、さして気にならない。熱病にかかった子供が、冷たい銀紙にくるまれる夢をみたというような、詩を読んだことがあったっけ。汗と、砂に、塗り込められて、窒息しかかった皮膚が、たちまちすずしく、息をふきかえす。その生き返った皮膚の上を、女の体臭が、微妙な刺戟《しげき》になって、這いまわる。
とは言え、女を完全に許したわけでも、むろんない。それはそれ、これはこれと、一応区別しているだけのことである。三日間の休暇は、とっくに過ぎてしまった。いまさら、じたばたしてもはじまるまい。崖をくずして、砂の傾斜をゆるやかにしようという、最初の計画も、失敗というよりは、むしろ準備の不足だった。日射病などという、不測の事態に邪魔だてされさえしなければ、あれでもけっこう上手くいっていたはずなのだ。ただ、砂掘り作業は想像していた以上に激しい労働であり、もっと上手い工夫があれば、その方がいいに決っている。そこで、思いついたのが、この仮病作戦だったというわけだ。
失神から回復したとき、まだ女の家に寝かされたままであることを知って、男はいささか気を悪くした。部落の連中には、彼をいたわる気持など、毛頭もちあわせていないらしい。そうと分れば、こちらにだって、考えがあるというものだ。医者も呼ばずに、甘くみてかかったことを、逆手にとって、思うさま後悔させてやろう。女が働いている夜のあいだは、ぐっすり眠ってやる。逆に、女が休まなければならない日中は、うんと大げさに苦痛を訴えたりして、睡眠の邪魔をしてやるのだ。
「痛みますか?」
「痛いさ……やはり、背骨のどこかが、脱臼したらしい……」
「揉んでみましょうか?」
「とんでもない! 素人に、変にいじられたりしてたまるものか。背骨の神経は、命の綱だからね。ぼくが、死んだら、どうするつもりなんだ! 困るのは、あんたたちの方だろう? 医者を呼びなさい、医者を! 痛い……もうれつに痛むぞ……早くしないと、手おくれになってしまうじゃないか!」
女は、事態の重みに耐えかねて、やがてくたくたになってしまうだろう。仕事の能率は低下し、建物の安全までがおびやかされることになる。これは部落にとっても由々しき一大事だ。労働力はおろか、とんだ邪魔物をくわえこんでしまったわけである。さっさと、追い出してしまわなければ、それこそ取り返しのつかないことになってしまうのだ。
だが、この計画も、思ったほど順調には搬《はこ》んでくれなかった。ここでは、昼よりも夜のほうが、むしろ生々と息づいている。壁ごしに聞えてくる、スコップの音……女の息使い……モッコを搬ぶ、男たちの掛声や舌打ち……風に吸われて、ふくみ声になった、オート三輪のうなり……犬の遠吠え……寝ようと努力すればするほど、かえって神経がたかぶり、目がさえてしまうのだ。
夜、睡眠がじゅうぶんにとれないとなると、日中のうたた寝はさけられない。その上、いけないことに、これが失敗しても、まだ何んとかなるのだという抜け道の存在が、彼の忍耐力を中途半端なものにしていたようだ。あれから一週間……もうそろそろ、捜索願が出されてもいい頃である。はじめの三日だけは、届けを出してあった。しかしそのままになっている。ただでさえ、他人の行動に神経過敏な同僚たちが、これを見逃してくれたりするはずがない。おそらく、その晩のうちにも、誰かおせっかいやきが現われて、彼の下宿をのぞきに行ってくれたことだろう。西陽にむれた、殺風景な部屋、すえた臭いをたてて、主人の不在を告げている。訪問者は、この穴ぐらから解放された、運のいい住人に対して、本能的な妬みをおぼえるかもしれない。そして、その翌日には、嫌味たっぷりな陰口が、ひそめた眉や、皮肉に曲げた指を添え物にして、囁きかわされることだろう。むりもない……彼の方でも、こんどの風変りな休暇が、そうした効果を同僚たちに与えてくれることを、内心期待していなくもなかったのだから……じっさい、教師くらい妬《ねた》みの虫にとりつかれた存在も珍しい……生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない。彼等は、自分をぼろ屑のようだと感じ、孤独な自虐趣味におちいるか、さもなければ、他人の無軌道を告発しつづける、疑い深い有徳の士になりはてる。勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにはいられなくなるのだ。……事故だろうか?……いや、事故なら事故で、なんとか連絡ぐらいはあるはずだろう……すると、自殺?……じゃあ、やっぱり、警察沙汰というわけか!……まさか、あのお目出度《めでた》い男が、君、買いかぶっちゃいけないよ……そうそう、自分勝手に行方不明になったんだ、いらんおせっかいをする必要はない……しかし、もうかれこれ、一週間になる……まったく、人騒がせな男だよ、なにを考えているのやら、さっぱり分りゃしない……
本気で心配しているのかどうかは、怪しいとしても、すくなくも野次馬的な好奇心だけは、もぎ忘れた柿の実くらいには熟しきっているにちがいない。結局、なりゆきとして、教頭が、捜索願の書式を問いあわせに、警察を訪れる段取りになる。こみあげてくる、たのしさを、神妙な顔の裏に、しっかりとしまいこんで……≪姓名、仁木順平。三十一歳。一メートル五十八、五十四キロ。髪はやや薄く、オールバック、油は使用せず。視力は右○・八、左一・○。肌はやや浅黒く、面長。眼と眼がよっていて、鼻は低い。角張った顎と、左耳の下のほくろが目立つ以外、ほかにこれといった特徴なし。血液型はAB。舌がもつれたような、まどろっこしい話しぶり。内向的で、頑固だが、人づきあいはとくに悪いというほうではない。服装はたぶん、昆虫採集用の仕事着。上に貼付した正面写真は二カ月前に撮影のもの。≫
もっとも、部落の連中だって、これだけ無理な冒険をあえてするからには、一応の予防策くらいは、当然立てているはずだ。田舎巡査の一人や二人、まるめこむくらいわけはない。めったなことでは、よりつかせないくらいの、用意はととのえているに相違ない。しかし、そうした煙幕が役に立ち、また必要なのは、あくまでも彼が健康体であり、砂掻きの労働に耐えうる場合だけに限っている。一週間も寝込んだままの重病人を、それほどの危険をおかしてまで隠し通す価値はない。役に立たないと決れば、あまり面倒なことにならないうちに、さっさと手離してしまったほうが利口だろう。今のうちなら、まだ言いわけはたつ。男が勝手に落込んで、そのショックでおかしな妄想にとりつかれたらしいと申し立てれば、策略にかかって閉じ込められたなどという、非現実的な訴えなどよりは、はるかに筋のとおった説明として受入れられるにちがいない。
牛の喉に、ブリキの笛をおしこんだような音をたてて、何処かでにわとりが鳴いた。しかし、砂のくぼみの中には、距離も方角もない。ただ、ここの外には、道端で子供が石けりをして遊んでいても一向に不似合いでないような、いつものとおりの世界があり、時がくれば普通どおりに夜が明けることを告げていた。そう言えば、米の炊けるにおいにも、夜明けの色がまじりかけている。
それに、女の体の拭きかたというのが、また丹念すぎるほど丹念ときているのだ。濡らした手拭で荒拭きしたあとを、こんどは木片れのようにきつくしぼったやつで、まるでガラスの曇りをおとすようなこすり方をする。朝が来たという暗示にくわえて、そのリズミカルな刺戟が、そろそろ彼を耐えがたい睡りにさそいはじめていた。
「それはそうと……」内側から、むりやり鉗子《かんし》でこじ開けられるようなあくびを噛みころし、「どうだろう、久しぶりに、新聞を読んでみたいんだが、なんとかならないだろうか?」
「そうですねえ……あとで、聞いておきましょう。」
女が、誠意を示そうとしているのは、よく分った。遠慮勝ちな、おずおずとした声の調子にも、彼の気を損うまいとする配慮が、ありありと感じられる。だが、そのことがまた、いっそう彼を苛立たせるのだ。聞いておきましょうだと?……おれには、許可なしに、新聞を読む権利もないというのか……男は、ののしりながら、女の手をはらいのけ、中身ごと洗面器をひっくりかえしてやりたいような衝動にかられる。
しかし、ここで腹を立ててしまっては、ぶちこわしだ。重病人は、新聞くらいで、そんなに興奮したりするものではない。むろん新聞は読んでみたい。風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが、人情というものだろう。だから、風景画は自然の稀薄な地方で発達し、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達したと、何かの本で読んだことがある。それに、あわよくば、尋ね人の広告が出ているかもしれないし、上手くいけば、失踪記事になって、社会面の隅っこくらいを飾っていないとも限らないのだ。もっとも、そんな記事がのっている新聞を、連中がおいそれと渡してくれるはずはない。とにかく今は辛抱が第一だ。
たしかに、仮病も、楽ではなかった。まるで、はじけそうになっているゼンマイを、むりやり手のなかに握りしめているようである。いつまでも、こんなことを我慢していられるわけがない。なりゆきまかせは禁物だ。自分の存在が、彼等にとってどんなに重荷であるかを、徹底的に思い知らせてやらなければならないのだ。今日こそは、なんとしてでも、女を一睡もさせずにおいてやろう!
(眠るな……眠ってはいけない……!)
男は、体をよじって、大げさなうめき声をあげていた。
12
女がさしかけてくれる傘の下で、舌を焼きながら、海草入りの雑炊をすすった。茶わんの底に、砂が沈澱して残った。
だが、記憶はそこで、とだえてしまう。あとは、ながい、息づまるような夢のなかにまぎれこむ。夢の中で、彼は、使い古しの割箸にまたがり、どこか見知らぬ街のなかを飛んでいた。割箸は、ちょうどスクーターのような乗り心地で、さほど悪くもないのだが、ちょっと気をゆるめると、たちまち浮揚力を失ってしまうのだ。街は、近くのほうが煉瓦《れんが》色で、遠ざかるにつれて、緑色にかすんでいく。その色の配合には、妙に不安をそそるものがあった。やっと、兵舎のような、長い木造の建物にたどりついた。安物の石鹸の臭いがただよっている。ずり落ちそうになるズボンを引き上げながら、階段をのぼっていくと、細長いテーブルが一つあるだけの、がらんとした部屋に出た。十人あまりの男女が、そのテーブルを囲んで、何やらゲームに打ち興じているふうである。正面の男が、一組のカードを、順ぐりにくばっている最中だった。くばり終えると同時に、最後に残った一枚を、いきなり彼につきつけて大声をあげた。思わず受取ってみると、それはカードではなく、一通の手紙なのだった。手紙はぶよぶよと、変な手触りだった。つまんだ指先に力をいれると、中から血がふきだした。悲鳴をあげて、目がさめた。
よごれた霧のようなもので、視界がふさがれていた。身じろぐにつれて、かさかさと、乾いた紙の音がした。ひろげた新聞紙で、顔を覆われているのだった。ちくしょう、また寝込んでしまった!……はらいのけると、紙の表面を、砂の被膜が流れ落ちた。その量からして、もうかなりの時間が、経ってしまったらしい。壁の隙間からさしこむ日差しの位置も、ほぼ正午を告げている。だがそれよりも、この臭いはなんだろう? 新しいインクの香り?……まさかと思いながらも、日付け欄に目を走らせてみる。十六日、水曜日……やはり今日の新聞なのだ! 信じられないことだが、事実だった。すると、女は、彼の希望を聞き入れてくれたというわけか?
汗をすって、じくじく粘りつくようなふとんから、片肘をついて上半身を起したが、さまざまな思いが、いっせいに渦まきはじめ、せっかくの紙面も、いたずらに字づらを追いかけるだけである。
≪日米合同委、議題を追加か?≫
……一体、あの女は、どうやってこの新聞を手に入れたのだろう?……やはり、村の連中が、多少なりとも彼に負い目を感じはじめたということだろうか?……それにしても、これまでのしきたりからすれば、朝食後は、一切外との連絡は絶たれてしまうはずだった。女が、彼のまだ知らない、外との特別な連絡方法をもっていたのか、さもなければ、自分で外に出て買ってきたかの、いずれかにちがいない……
≪交通麻痺に、抜本的対策を!≫
だが、待てよ……もし、女が、外に出掛けたのだとしたら……当然、縄梯子なしには、考えられない。どんな方法でかは分らないが、とにかく、縄梯子がつかわれたことはたしかなのだ……そんなことだろうと、うすうす予想はしていた……逃げ出すことしか考えていない囚人ならいざ知らず、部落の住人である女が、出入りの自由まで奪われて、我慢していられるわけがない……縄梯子の撤去は、おれを閉じ込めるための、一時的な措置にすぎなかったのだ……だとすると、このまま油断させつづけていれば、いつかはまた同じチャンスに巡りあい……
≪玉ねぎに、放射能障害治療の有効成分≫
どうやら、おれの仮病作戦には、またまた思わぬ付録がつけ加えられたようである。果報は寝て待てとは、昔の人間も、うまいことを言ったものだ……しかし、心は、なぜか一向にはずんでくれない。なにか釈然としないものが残るのだ。あの、おそろしく胃にもたれる、奇妙な夢のせいだろうか?……たしかに、あの危険な――なぜ危険なのか、理由は分らないが――手紙のことは、変に気にかかる。一体、なにを暗示していたのだろう?
しかし、夢のことなど、いちいち気にしていてもはじまらない。とにかく、始めたことを、やりとおすだけだ。
女は、いつものとおり、囲炉裏をへだてた上りがまちのそばで、頭から洗いざらしの浴衣をかぶり、その下で膝をかかえるように丸くなって、軽い寝息をたてていた。あの日以来、さすがに、裸をさらすようなことはしなくなったが、浴衣の下は、相変らず裸のままなのだろう。
素早く、社会面と、地方欄に目をとおす。むろん、失踪記事も、尋ね人の広告も見当らなかった。それは予期していたことだし、べつに落胆することもない。そっと起上って、土間におりる。男も人絹のステテコをはいたっきり、上半身は素っ裸だ。たしかにこの方が、ずっとしのぎよい。ステテコの紐がくいこんだ、胴のまわりに、砂がたまり、そこだけが赤くかぶれて、むず痒《がゆ》かった。
戸口に立って、砂の壁を見上げた。光が眼にしみ、あたりが黄色く燃えはじめた。人影も、縄梯子も、むろんない。ないのが当りまえだ。ただ念のために、たしかめてみただけである。縄梯子がおろされた形跡さえなかった。もっともこの風なら、どんな痕跡でも、五分とかからずに消してしまうだろう。戸口のすぐ外でも、砂の表皮がたえまなく、流れるようにめくられつづけている。
引返して、横になる。蠅が飛んでいた。小さな、薄桃色の、しょうじょう蠅だ。どこかで、何かが、腐っているのかもしれない。枕元の、ビニールにくるんだやかんで喉をしめしてから、女に声をかけた。
「ちょっと、起きてくれないかな……」
女は、体をふるわせて、はね起きた。浴衣がずり落ち、胸の下まで、むきだしになった。たれ下った、しかしまだ肉づきのいい乳房に、静脈が青くにじんでいる。あわてて、浴衣をかきあわせながら、視線は宙をさまよい、まだ完全には醒《さ》めきっていないらしい。
男はためらう。ここぞとばかりに、声を荒げて、縄梯子の問題を詰問すべきだろうか?……それとも、新聞の礼をかねて、やんわり尋ねてみる程度にしておいたほうがいいのか? もし、相手の眠りをさまたげるだけが目的なら、かなり攻撃的にでたほうがいいにきまっている。難くせをつける口実はいくらでもあるのだ。だが、それでは、重病をよそおうという、せっかくのねらいから外れてしまうことになる。脊椎が脱臼したほどの男には、あまり似つかわしいやり方とは言えまい。ここで心要なことは、もはや労働力として役に立たないことを、彼等に認めさせ、とにかく警戒心をとかせてしまうことだ。新聞をよこすところまで軟化した彼等の心を、さらに無抵抗なものにしてしまうことだ。
しかし、あっさり期待を裏切られてしまう。
「いえ、出たりなんかするもんですか。偶然、まえからたのんでおいた、防腐剤を、農協の人がとどけに来てくれましてね……それで、ついでに、おねがいしてみたんですよ……でも、この部落じゃ、新聞をとっている家なんか、ほんの四、五軒しかありませんものねえ……わざわざ、町の販売店まで、買いに行ってくれて……」
たしかに、偶然の一致ということも、ありえないことではない。だが、それではまるで、合鍵のない錠前で、檻《おり》のなかに閉じこめられてしまったようなものではないか。地元の人間でさえが、幽閉に甘んじなければならないとすると、この砂の壁のけわしさはただ事でないものになる。男は、やっきになって、食い下った。
「そんなことって……あんた……ここの主人なんでしょう?……犬じゃあるまいし……自由に出入りするくらい、なんでもありゃしないじゃないか! それとも、部落の連中に、なにか顔向けできないようなことでもしたのかな?」
女の、睡たげな眼が、びっくりしたように見開かれた。こちらがまぶしくなるほど、赤く充血した眼だ。
「いいえ、顔向けできないだなんて、めっそうもない!」
「じゃ、なにもそんなふうに、悪びれたりすることはないじゃないか!」
「でも、表に行ってみたって、べつにすることもないし……」
「歩けばいい!」
「歩くって……?」
「そうさ、歩くんだよ……ただ、歩きまわるだけで、充分じゃないか……そういう、あんただって、ぼくがここに来る前は、自由に出歩いていたんでしょう?」
「でも、用もないのに歩いたりしちゃ、くたびれてしまいますからねえ……」
「ふざけているんじゃない! ようく自分の心に聞いてみなさい、分らないはずはないんだ!……犬だって、檻の中に入れられっぱなしじゃ、気が狂ってしまうんだからね!」
「歩きましたよ……」ふと、女は、殻を閉ざした二枚貝のような抑揚のない声で、「本当に、さんざん、歩かされたものですよ……ここに来るまで……子供をかかえて、ながいこと……もう、ほとほと、歩きくたびれてしまいました……」
男は、不意をつかれる。まったく、妙な言いがかりもあったものだ。そうひらきなおられると、彼にも言い返す自信はない。
そう……十何年か前の、あの廃墟の時代には、誰もがこぞって、歩かないですむ自由を求めて狂奔《きょうほん》したものだった。それでは、いま、はたして歩かないですむ自由に食傷《しょくしょう》したと言いきれるかどうか? 現に、おまえだって、そんな幻想相手の鬼ごっこに疲れはてたばかりに、こんな砂丘あたりにさそい出されて来たのではなかったか……砂……1/8m.m.の限りない流動……それは、歩かないですむ自由にしがみついている、ネガ・フィルムの中の、裏返しになった自画像だ。いくら遠足にあこがれてきた子供でも、迷子になったとたんに、大声をあげて泣きだすものである。
女が、がらりと調子を変えて言った。
「気分、よろしいんですか?」
豚みたいな顔をするのはよせ! 男は苛立ち、相手をむりやり捩じふせてでも、泥をはかせてやりたいと思った。そう思っただけで、皮膚がけばだち、ばりばり乾いた糊をはがすような音をたてはじめる。ねじふせるという言葉から、皮膚が勝手な連想をしてしまったらしい。いきなり女が、背景から切りとられた、輪廓だけの存在になっている。二十歳の男は、観念で発情する。四十歳の男は皮膚の表面で発情する。しかし三十男には輪廓だけになった女が、いちばん危険なのだ……まるで、自分自身を抱くように、気安く抱くこともできるだろう……だが、女のうしろには、沢山の眼がひかえている……女は、それらの視線の糸であやつられる、あやつり人形にしかすぎないのだ……女を抱けば、今度はおまえがあやつられる番だ……脊椎の脱臼などという、大ぼらだって、たちまち馬脚をあらわしてしまうことになる。こんなところで、これまでのおれの生活が、中断されたりしてたまるものか!
女が、にじりよって来た。膝のまるみが、尻の肉におしつけられた。眠っていたあいだに、女の口や、鼻や、耳や、腋の下や、その他のくぼみの中で醗酵《はっこう》した、ひなた水のような臭いが、あたりを濃く染めはじめる。そろそろと、遠慮がちに、火のような指が、背骨にそって、上下にすべりはじめる。男は全身をかたくする。
急に、指が脇腹にまわった。男は悲鳴をあげた。
「くすぐったい!」
女が笑った。ふざけているようでもあり、悪びれているようでもあった。あまり唐突すぎて、とっさの判断はつきかねた。一体なんのつもりだろう?……わざとやったことなのか、思わず手がすべったというだけか?……ついさっきまでは、目をしょぼつかせ、やっとの思いで、起きていたくせに……そう言えば、最初の夜にも、通りすがりに脇腹をついて、妙な笑い声をたてたことがあったっけ……あの動作に、女はなにか、特別な意味づけでもしているのだろうか?
それとも、彼の仮病を、本心から信じておらず、疑いをたしかめるために、さぐりを入れてきたのかもしれない……可能性はある……うっかりはできない。女のさそいは、結局、甘い蜜の香りをよそおった、食肉植物の罠にすぎなかったのかもしれないのだ。暴行という、醜聞の種をまいておき、次は、恐喝《きょうかつ》の鎖が、彼の手足をつなぎとめて……
13
蝋のように汗ばみ、融けていた。毛穴が、汗にひたっていた。時計がとまっているので、はっきりはしないが、穴の外では、まだ案外昼間なのかもしれない。しかし二十メートルの、この穴底では、もう夕暮だ。
女はまだ睡りこけていた。夢をみているのか、手足をぴくぴく、ふるわせている。いまから睡りの邪魔をしてみたところで、はじまるまい。彼でさえ、もうたっぷり寝足りていた。
体をおこして、皮膚に風をあてる。寝返りの際に、顔の手拭が落ちてしまったらしく、耳の後ろや、鼻のわきや、唇の端などに、こそげ落せるほどの、砂がこびりついていた。眼薬をさしては、手拭の端でおさえ、何度かくりかえすうちに、やっと普通に眼が開けていられるようになる。だがこの眼薬も、あともう二、三日でおわりだ。このためだけにでも、早く勝負をつけてしまいたいものである。鉄の服を着て、磁石の寝床にねているように、体が重かった。焦点を合わせるのに、苦労しながら、戸口からさしこむ淡い光をたよりに、死んだ蠅の脚のような活字に視線をおよがせる。
本当を言えば、昼間、女にたのんで読んでもらうべきだった。そうすれば、女の睡りをさまたげることにもなり、一石二鳥の効果があがったはずだ。残念ながら、こちらが先に、睡りこんでしまった。あれほど、気張っていたのに、何んというへまをやってしまったものだろう。
おかげで、今夜もまた、やりきれない不眠をかこつことになるのだ。呼吸にあわせて、百から逆に数えてみる。歩きなれた、下宿から学校までの道を、たんねんにたどってみる。科と、目とに分けて、知っているかぎりの昆虫の名前を列記してみる。なんの効果もないことが分っているだけに、よけいに苛立ってしまうのだ。穴のふちをかすめて走る風のふくみ声……しめった砂の層を切る、スコップの音……犬の遠吠え……蝋燭《ろうそく》の火のようにゆらぐ、遠いざわめき……神経の末端めがけて、たえまなく降りそそぐ砂のやすり……それでもじっと、耐えていなければならない。
まあ、なんとか、我慢しとおせたとする。しかし、すがすがしい群青の光が、穴のへりからすべり込んできたとたん、こんどは逆に、あの濡れた海綿のような眠りとの格闘だ。この悪循環を、どこかで絶ち切らないかぎり、時計ばかりでなく、時そのものまでが、砂の粒子に、動きをとめられてしまうおそれがある。
新聞記事も、相変らずだった。どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。
≪法人税汚職、市に飛び火≫……≪工業のメッカに、学園都市を≫……≪相つぐ操業中止、総評近く、見解発表≫……≪二児を絞殺、母親服毒≫……≪頻発する自動車強盗、新しい生活様式が、新しい犯罪を生む?≫……≪三年間、交番に花をとどけた、匿名少女≫……≪東京五輪、予算でもめる≫……≪今日も通り魔、二少女切らる≫……≪睡眠薬遊びにむしばまれる、学園の青春≫……≪株価にも秋風の気配≫……≪テナーサックスの名手、ブルー・ジャクソン来日≫……≪南ア連邦に、再び暴動、死傷二百八十≫……≪女をまじえた、泥棒学校、授業料なし、テストに合格すれば、卒業証書≫
欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう……要するに、日常とは、そんなものなのだ……だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。
それから、ふと、思いがけない記事が目にとまった。
≪十四日午前八時ごろ、東亜建設で建築作業中の横川町三○の東亜住宅建設地で、作業中の日ノ原組ダンプカー運転手田代勉さん(二八)は、くずれ落ちた砂の下敷きになり重体、近くの病院に収容したが、まもなく死亡。横川署のしらべでは、十メートルの砂山をくずしているうち、下の砂を取りすぎたのが原因らしい。≫
なるほど……この記事が、連中の目的だったというわけか。只で注文に応じてくれたりしたわけじゃない。記事のまわりに、赤インクで枠を入れてなかっただけでも、めっけものだ。そう言えば、ブラック・ジャックとかいう、物騒なしろものがあったっけ……皮の袋に、砂をつめたもので、鉄や鉛の棒に匹敵するほどの打撃力をもっているという……いくら、流れ動くからといって、砂は水とはちがうのだ……水は泳ぐことができるが、砂は人間を閉じこめ、圧し殺す……
事態を、甘く見すぎていたようである。
14
しかし、作戦変更にふみきるまでには、やはり、かなりのためらいと、時間が必要だった。女が砂掻きに出て行ってから、四時間はたっていただろう。ちょうど、二度目の、モッコ搬びの男たちが、予定の仕事を終えて、オート三輪の方に引返していったところだ。耳をすませ、男たちが戻ってこないのを見とどけてから、そっと起出して服をつける。女が、ランプを持って行ってしまったので、万事手さぐりだ。靴のなかには、口元までいっぱいに砂がつまっていた。ズボンの裾を、靴下のなかにたくしこみ、ゲートルをとり出して、ポケットにねじこんだ。採集道具などは、分りやすいように、戸口のわきにまとめておくことにする。土間に降りてしまうと、厚い砂の絨緞《じゅうたん》のおかげで、足音に気をくばる必要はなかった。
女は、せっせと砂掻きに余念がない。砂に切りこむ、軽いスコップの手さばき……乱れのない、力のこもった息使い……足もとのランプにおどる、ひき伸ばされた影……男は、建物の角に身をひそめ、じっと呼吸をととのえる。手拭の両端を、両手でつかんで、強く左右に引き、あと十数えたら、飛び出そう……すくった砂をもち上げようと、重心を傾けた瞬間をねらって、一気に襲いかかるのだ。
むろん、危険がないとは断言できない。それに、あと三十分もすれば、彼等の態度が急変しないともかぎらないのである。たとえば、例の、県の役人のこともあるわけだ。最初、部落の老人は、彼をその役人かと思い違えて、ひどい警戒の色を示したものである。役人の調査が、近く予定されていたのだろう。だとすると、その実現によって、部落内の意見が対立し、もはや彼の存在を隠しきれず、これ以上閉じ込めておくことを、あきらめてくれないとも限らないのだ。ただし、その三十分が、半年、もしくは一年以上に引きのばされないという保証も、同様にない。三十分と、一年が、五分と五分との確率に、賭けたりするのはもうまっぴらである。
もっとも、救援の手がとどいた場合のことを考えると、仮病のふりをつづけていたほうが、事は有利にはこぶにちがいない。彼が、思いまどったのも、やはりその点についてだった。法治国家に住んでいる以上、救援を期待するのが当然である。失踪者がしばしば、謎の霧の向うに消えたまま、消息を絶ってしまうといっても、それは多く、本人の意志によるものだろう。それに、犯罪のにおいがしないかぎり、刑事あつかいではなく、民事のあつかいになるので、警察も、必要以上の深入りは出来ないらしいのだ。だが、彼の場合は、まるで事情がちがっている。このとおり、救いを求めて、死にもの狂いの手をさしのべているのだ。なにも、直接、彼の声を聞き、あるいは姿を見なくても、主人を失った彼の下宿を一と目みただけで、はっきり感じとれるにちがいない。ページを開いたままの、読みさしの本……小銭をほうり込んだままの、通勤着のポケット……額は少なくても、最近おろした跡のない貯金通帳……まだ整理を終えてない、乾燥中の昆虫箱……切手をはって、出すばかりになっている、新しい採集瓶の注文書……すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている彼の意志を示すものばかりだ。訪問者は、いやでもその部屋中から聞えてくる、哀訴の声に耳をかさずにはいられまい。
そう……もし、あの手紙のことさえなかったら……あの馬鹿気た手紙のことさえなかったら……しかし、あったものは、あったのだ……夢でさえ、ああして真実を告げているというのに、いまさら自分で自分を言いくるめるようなことをして、何になる? 言いのがれはもう沢山だ。遺留品たちはもう死んでいる。彼自身の手によって、とっくに息の根をとめられてしまったのだ。
彼は、こんどの休暇について、ひどく秘密めかした態度をとり、同僚の、誰にも、わざと行先を告げずにきてしまった。それも、ただ黙っていただけでなく、意識して謎めかすように努めさえした。これは、日常の灰色に、皮膚の色まで灰色になりかけた連中を、じらせてやるには、この上もない有効な手口である。灰色の種属には、自分以外の人間が、赤だろうと、青だろうと、緑だろうと、灰色以外の色をもっていると想像しただけで、もういたたまらない自己嫌悪におちいってしまうものなのだ。
めくるめく、太陽にみたされた夏などというものは、いずれ小説か映画のなかだけの出来事にきまっている。現実にあるのは、硝煙の臭いがたちこめる新聞の政治欄を下に敷いて寝ころがる、つつましやかな小市民の日曜日……キャップに磁石がついた魔法瓶と、罐詰《かんづめ》のジュース……行列して手に入れた一時間百五十円の貸ボートと、魚の死骸から湧く波打際の鉛色のあぶく……そして最後が、疲労で腐りかけた満員電車……誰もがそんなことは百も承知でいながら、ただ自分を詐欺にかかった愚かものにしたくないばっかりに、その灰色のキャンバスに、せっせと幻の祭典のまねごとを塗りたくるのだ。むりやり、たのしい日曜日だったと言わせようとして、むずがる子供を小突きまわす、みじめな不精ひげの父親たち……誰もが一度は見たことのある、電車の隅の、小さな光景……他人の太陽にたいする、いじらしいほどのあせりと妬み……
だからと言って、それだけなら、ことさらむきになるほどのことでもない。もし、あの男までが、他の同僚たちと同じような反応を見せたりしなかったら、はたして、あれほど依怙地《いこじ》になっていたかどうか、疑わしいものである。
彼は、その男だけには、一応の信頼をよせていた。いつも、顔を洗ったばかりのような、はれぼったい眼の、組合運動に熱心な男だった。めったに見せたことのない本心を、真面目に打明けてみたことさえある。
「どうでしょう?……ぼくは、人生に、よりどころがあるという教育のしかたには、どうも疑問でならないんですがね……」
「なんです、その、よりどころと言うのは?」
「つまり、無いものをですね、あるように思いこませる、幻想教育ですよ……だから、ほら、砂が固体でありながら、流体力学的な性質を多分にそなえている、その点に、非常に興味を感じるんですがね……」
相手は、まごつき、ひょろりとした猫背を、いっそう前こごみにする。しかし、表情はいぜんとして、開けっぱなしのままだ。べつに嫌がっている様子はない。誰かが、彼のことを、メビウスの輪のようだと評したことがある。メビウスの輪とは、一度ひねった紙テープの両端をまるく貼り合わせたもので、つまり裏も表もない空間のことだ。組合活動と、私生活とが、メビウスの輪のようにつながっているというほどの意味だろうか。皮肉と同時に、多少は称讃の気持もこめられていたように思う。
「つまり、リアリズム教育ということですか?」
「いや、ぼくが砂の例をもちだしたのは……けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか……砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだという……どうも、上手く言えませんが……」
「分りますとも。実用教育には、どうしたって、相対主義的な要素が入りこんできちゃいますからねえ。」
「そうじゃないんだ。自分自身が、砂になる……砂の眼でもって、物をみる……一度死んでしまえば、もう死ぬ気づかいをして、右往左往することもないわけですから……」
「理想主義者なんだなあ、先生は……思うに、先生は、生徒たちをこわがっているんじゃないんですか?」
「しかし、ぼくは、生徒もまあ、砂のようなものだと思っていますから……」
そんな噛み合わないやりとりにも、一向に気を悪くした様子はなく、白い歯をみせて、さわやかに笑うのだ。はれぼったい眼が、肉のひだの間にかくれてしまう。仕方なしに、彼も、ぼんやりと微笑を返す。まったくこれは、メビウスの輪だ。いい意味にも、悪い意味にも、メビウスの輪だ。そのいい半面だけにでも、じゅうぶん敬意をはらってやる価値はある。
ところが、そのメビウスの輪までが、彼の休暇に対しては、他の同僚たちと同じ、灰色の妬みをあからさまに示したのだ。おおよそメビウスの輪らしくない。がっかりすると同時に、小気味よくもあった。美徳に対しては、誰もがとかく、意地悪になりがちなものである。おかげで、じらすたのしみに、ずっしり重みがくわえられることになってしまった。
そこで、例の手紙になるわけだ……すでに、くばられてしまった、とり返しのつかないカード……昨夜の夢の強迫は、決していわれのないものではなかったのである。
彼とあいつとのあいだに、まるで愛情がなかったといえば、それは嘘になる。ただ、互いにすねあうことでしか、相手を確かめられないような、多少くすんだ間柄だったというだけだ。たとえば、彼が、結婚の本質は、要するに未開地の開墾のようなものだと言えば、あいつの方では、手狭になった家の増築であるべきだと、わけもなく憤然として言い返す。逆を言えば、おそらく逆の答えをしたにちがいない。もうまる二年と四カ月、あきずに繰返してきた、シーソーゲームだ。情熱を失ったというよりは、むしろ情熱を理想化しすぎたあげくに、凍りつかせてしまったと言ったほうがいいかもしれない。
そこで、彼は、わざと行方を告げずに、しばらく一人旅に出ることを、いきなり手紙で知らせてやることにしたわけだ。同僚たちに、あれほど効果のあった休暇の秘密が、あいつにだけは、無効であったりするはずがない。だが、宛名を書き、切手まではったものの、いざとなるとさすがに馬鹿らしく、そのまま机の上にほうり出して来てしまった。
その無邪気ないたずらが、結果としては、持主にしか開けられない、盗難防止装置つきの自動錠の役目をすることになってしまったのだ。あの手紙が、誰の目にもとまらなかったなどと言うことはありえない。まるで、逃亡が自分の意志であることの声明書を、わざわざ残してきたようなものである。現場にいたことを、すでに目撃されていながら、ごていねいにも指紋を拭き消したりして、かえって犯意を証拠だててしまった、愚かな犯人のやり口にそっくりではないか。
チャンスは、はるかに、遠ざかってしまった。いまさらそんな可能性にしがみついてみたところで、期待の自家中毒に苦しめられるだけのことである。いまとなっては、扉を開けてくれるのを待たずに、こちらからこじ開け、力ずくでも出ていくしかない。もはや、どんなためらいも、口実にはなりえないのだ。
痛いほど砂にくいこませた爪先に、全身の重みをかけ、十かぞえたら、飛び出そう……しかし、十三まで数えても、まだ思いきれず、それからさらに四呼吸も重ねて、やっとふみきっていた。
15
その意気込みのわりには、男の動作は緩慢だった。砂に力を吸われてしまうのだ。すでに女は振向き、スコップを斜めに身構えて、呆然とこちらを見つめている。
もし女が、本気で抵抗する気になっていたら、結果はまるでちがったものになっていただろう。しかし、不意をつこうという彼のねらいは当っていた。男のあせりもひどかったが、女も驚愕《きょうがく》にいすくめられていた。構えたスコップで、男をおし返す才覚さえ働かなかったらしい。
「声を出すな……乱暴はしない……静かにしているんだ……」
ひきつった声で、囁《ささや》きつづけ、やみくもに手拭を口の中におしこんでしまう。その不器用で盲めっぽうな行為にたいしてさえ、女はさからいもせず、ほとんどされるままになっていた。
女の受身に気づいて、やっと自制をとりもどす。すでに半分ほど押しこんであった手拭を、いったん引出してから、あらためて口にかませ、首の後ろで、固く結んだ。つづけて、用意してあったゲートルで、女の両手を、力いっぱい後ろ手にしばりあげた。
「さあ、家の中に入るんだ!」
女は、よほど気勢をそがれたらしく、行動に対してばかりでなく、言葉に対しても、ひどく従順だった。敵意どころか、抗議の色さえ示そうとしない。おそらく一種の、催眠状態にあるのだろう。われながら、あまり手際がよかったとは思われず、それがかえって暴力的な効果をあらわし、女の抵抗力をうばってしまったにちがいない。
女を土間から追いあげる。もう一本のゲートルで、両足のくるぶしのあたりを、くくり合わせる。暗がりの中の、手さぐりの仕事だったので、念入りに、残った部分で、さらにもう一とまきしめつけておく。
「いいか、じっとしているんだ……大人しくさえしていれば、危害はくわえない……しかし、こっちだって、必死なんだからな……」
女の息使いがするあたりに、目をこらしながら、戸口の辺まで後ずさり、そこから急に駈けだして、ランプとスコップをつかむと、すぐまた中にとって返した。女は、ややうつむきかげんの横倒しになり、呼吸にあわせて、しきりと顎を上下していた。息を吸うとき、顎を前につきだすのは、畳の砂を、いっしょに吸込んでしまうのをさけるためだろう。吐くときには、逆に、小鼻をふるわせ、それで顔のまわりの砂を、吹きちらしているつもりらしい。
「まあ、しばらく、がまんしてもらうんだな。モッコの連中が戻ってくるまでの辛抱だ。ぼくがさんざん舐めさせられた、でたらめと比べりゃ、文句を言えた義理じゃあるまいさ。それに、宿泊料も、ちゃんと払わせていただきますしね……もっとも、こっちで勝手に計算させてもらった、実費だけどね……かまわないでしょう?……かまうもんか!……本来なら、只が当然のところなんだが、そんなことで帳消しにされちゃかなわないから、むりやり置いていってやるんだ。」
シャツの襟元をつまんで、空気を送りこみながら、気負い立った落着かない様子で、しばらく外の気配に耳そばだてる。そうだ、ランプの灯は消しておいたほうがよさそうだ。ほやを持上げ、吹き消しかけたが……いや、その前に、もう一度女の様子をたしかめておこう。足の結び目は、じゅうぶんに固く、指をさしこむ余地もない。手首もすでに、赤黒くむくみを帯びて、箆のようにつぶれた爪も、古いインクのしみのような色に変っていた。
さるぐつわの具合も、申し分なさそうだ。ただでさえ冴《さ》えない色の唇を、ほとんど血の気が失せるまでに、左右に強くひきのばし、そこだけ見ると、まるで妖怪の形相である。したたる唾液が、頬の下の畳を黒く染めている。ランプの焔《ほのお》がゆれるたびに、そこから声にならない絶叫が聞えてくるようだった。
「しかたがないさ、自分でまいた種なんだからな……」思わず、気ぜわしげな早口で、「だまし合いは、お互いさまだろう? こっちだって、人間なんだから、犬に鎖をつけるようには、簡単にいかないってことさ……誰が見たって、立派な正当防衛だよ。」
ふと、女が首をねじまげ、薄目の隅で、彼をとらえようとした。
「なんだ?……なにか、言いたいのか?」
きゅうくつそうに、女が首を動かした。うなずいたようでもあり、否定したようでもある。ランプをよせて、その眼の色を読もうとする。すぐには男は信じられない。うらみでも、憎しみでもない、ただ無限の悲しみをたたえて、何かを訴えているようなのだ。
まさか……気のせいさ……眼の色などというのは、要するに言葉の言いまわしにすぎないんだ……筋肉がない目の玉に、表情なんかがあってたまるものか。そうは思いながらも、男はたじろぎ、さるぐつわをゆるめようと、つい手をのばしかけていた。
手をひっこめる。あわててランプを吹き消す。モッコ搬《はこ》びの声が近づいていた。消したランプを、分りやすいように、上りがまちの端におき、流し場の下のやかんから、口づけで水を飲んだ。スコップをにぎって、戸口のわきに身をひそめる。汗が吹出す。もうじきだ……あと、五分か十分の辛抱だ……採集箱を、しっかりと片手に引きよせた。
16
「おうい!」
つぶれた声が叫んだ。
「何してるんだよお!」
まだ幼い感じが残っている、はずみのある声があとをつづけた。
穴の中は、手ざわりを感じられるほどの闇に閉ざされていたが、外にはすでに、月が出ているらしく、砂と空との境界線に、男たちの影が一とかたまりになって、ぼんやりにじんで見えていた。
男は、スコップを右手に、穴の底を這うようににじりよった。
崖の上から、卑猥な笑い声がおこった。石油罐をつり上げるための、鈎《かぎ》つきのロープが、たぐりおろされてきた。
「おかあちゃん、早いとこ、たのむよお!」
同時に、男は、ロープをめがけ、全身をばねにして砂を蹴上げた。
「おい、上げるんだ!」石の中にでもめり込ませそうな力をこめて、十本の指を、こぶだらけのロープにからみつかせ、あらんかぎりの声をふりしぼるのだ。「上げるんだ! 上げるんだ! 上げるまで、この手は離さんからな!……女は、しばって、家の中にほうり込んである! 助けたけりゃ、早くこの綱をあげろ! それまでは、女には、指一本だって触れさせはしないからな!……うっかり、降りて来たら、脳天をスコップで叩き割ってやる……裁判になりゃ、こっちの勝だ! 手加減なんぞするものか!……さあ、なにをぐずぐずしているんだ! いますぐ上げてくれれば、訴えるのはやめて、見のがしてやってもいい……不法監禁の罪は、軽くはないぞ!……どうしたんだ? さっさと引上げたらどうなんだ!」
降りそそぐ砂が、顔をうつ。襟元から、シャツの中に、ひんやりとした感触が、みるみる重みをましてくる。熱い息が唇を焼く。
上では、なにやら、意見の交換がはじまったらしい。と、いきなり強い手ごたえがあって、ロープが引上げられはじめた。予想以上の、はずみのある重さが、指からロープをむしり取る。男は、力を二倍にして、しがみついた……胃のあたりから、笑いに似た激しいけいれんが、しぶきをあげて噴き上ってくる……一週間の悪夢が、ばらばらになって、飛び散って行くようだ……よかった……よかった……これで、助かったのだ!
ふいに体重が消えて、宙に浮んだ……船酔いのような感覚が、すうっと体の中を通りぬけ、それまで手の皮膚をよじってさからっていたロープが、無抵抗に手のなかに残った。
上の連中が、手を離したのだ!……半廻転して、首のつけ根から下に、砂の上に投げだされる。体の下で、採集箱が、いやな音をたてた。つづけて、何かが、頬をかすめて飛んだ。ロープの先の、鈎だったらしい。ひどいことをする奴等だ。倖い、けがはなかった。採集箱が当った、脇腹のへんをのぞけば、べつに痛むところもない。反射的に立上って、ロープを探した。もう、引上げられてしまった後だった。
「馬鹿やろう!」
男は、切々に、声をつまらせ、わめき立てる。
「馬鹿やろう! 結局、後悔するのは、そっちの方なんだぞ!」
なんの反応もかえってこない。ただ無言の囁きが、煙のように、ただよっているだけだ。それが、敵意であるのか、それとも笑いをこらえた嘲りであるのかも、判断がつかず、ますます耐えがたく、男を追いつめるのだ。
怒りと、屈辱が、一本の鉄芯になって、男を内側から硬直させた。爪を、ねばつく手のひらに食い込ませながら、なおも叫びつづけた。
「まだ分らないのか! 口で言ったって、分りそうにないから、分るようにしてやったんじゃないか! 女は、しばってあるって、言っただろう?……いますぐ、おれを引上げるか、さもなけりゃ縄梯子をよこすまで、女はずっとあのままだからな!……もう、誰も、砂掻きする者なんかいなくなるんだ……それでもいいのか?……よく考えてみろ……ここが、砂で埋まったら、困るのはそっちの方なんだろう?……砂が、ここを越えて、どんどん部落に侵入しはじめるんだぞ!……どうしたんだ?……なぜ返事をしないんだ!」
返事のかわりに、男たちは、あっけないほど無造作に、モッコを引きずる音だけを残して、立去ってしまった。
「なぜだ?……なぜ、そんなふうに、黙ったままで行ってしまうんだ?」
それはもう、自分だけにしか聞えない、かすかな悲鳴だ。男は、ふるえながら身をこごめ、手さぐりで、こわれた採集箱の中身をかきあつめる。アルコールの容器に、ひびが入っていたらしく、手をふれた瞬間、すみきった涼しさが、指のあいだにぱっと拡がった。男は、声を殺してすすり泣いた。べつに悲しくはなかった。まるで他人が泣いているような感じだった。
ずるい獣のように、吸いつく砂。足をもつらせながら、闇の中に、かろうじて戸口をさぐり当てた。蓋の蝶番《ちょうつが》いが外れた、採集箱を、いろりのわきに、手探りでそっと置く。空いっぱいにこもって鳴る風の音。いろりの隅の空罐のなかから、ビニールでくるんだ、マッチをとりだして、ランプに灯をつけた。
女は、姿勢を変えず、角度だけを、もとの位置からわずかにずらせていた。顔を、いくらかでも戸口の方へ向けかえ、外の様子をたしかめるつもりだったのだろう。光に、一瞬、またたいたが、すぐまた固く眼を閉じてしまった。彼がうけた、あの無残な仕打ちを、女はいったいどう受取ったのだろう?……泣きたけりゃ、泣くがいいし、笑いたけりゃ、笑うがいい……まだ負けと決ったわけじゃないのだ。いずれ、時限爆弾の鍵をにぎっているのは、このおれなのだ。
男は、女の後ろに、片膝をつく。一度ためらい、それからむしり取るように、さるぐつわを解いてやった。べつに後ろめたく思ったわけではない。まして憐みや、いたわりの気持などでは、さらになかった。
ただ疲れ果てていた。これ以上の緊張には耐えられなかった。それに、考えてみれば、さるぐつわの必要など、もともとなかったのだ。あの時だって、女が救いを求める叫び声でもあげていてくれたほうが、かえって相手を狼狽させ、勝負を早めていてくれたかもしれないのだ。
女は顎をつきだしてあえいだ。手拭は、女の唾液と口臭で、鼠の死骸のようにずっしりと重い。痣《あざ》になって刻みこまれた手拭の跡は、おいそれとは消えてくれそうにない。干魚のようにこわばった頬のしこりを、解きほぐそうとして、しきりに下顎の運動をくりかえした。
「もうじきだ……」指先につまんだ手拭を、土間にむかってほうり投げ、「そろそろ、相談がまとまっている頃だ。縄梯子をかついで、じきに、すっ飛んでくるさ。このままじゃ、なんたって、困るのは向うの方なんだからな……だって、そうだろう……もしか、困らないってのなら、なにもわざわざ、このおれを罠にかけたりする必要もなかったわけだし……」
女が、生唾を飲込み、唇をしめした。
「でも……」女の舌は、まだじゅうぶんには機能を回復していないらしく、卵を殻ごとほおばったような、含み声で、「星は、出ていますか?」
「星?……星が、どうしただって?」
「やはり、星が出ていなければ……」
「出ていなければ、なんだって言うんだ?」
女は、ぐったり、それっきりまた黙りこんでしまう。
「どうした? 言いかけたことを、途中でやめることはないだろう! 星占いでもやろうってのかね? それとも、この地方の迷信かな?……星のない晩には、縄梯子を下ろしちゃいかんとかなんとか……どうなんだ、え、黙っていちゃ分らんよ!……まあ、星が出るまで、待ちたいって言うのなら、そりゃそっちの勝手だが……しかし、そんな事をしているうちに、大風にでもなったら、どうするつもりだ……それこそ、星どころの騒ぎじゃなくなるんだぞ!」
「星が……」女は、ちびたチューブから、ひねり出すような声で、「星が、こんな時間に、まだ出ないようじゃ、とても強い風にはなりませんものねえ……」
「なぜ?」
「星が、見えないのは、靄《もや》のせいですから……」
「そんなことを言ったって、風は現に、あのとおり吹いているじゃないか。」
「いえ、あれは、ずうっと上のほうで、風がまき返している音ですよ……」
そう言われてみれば、そのとおりかもしれない。星がけむっているということは、つまり風に、空中の水蒸気を吹きはらうだけの力がないということだろう。今夜は大した風にはなるまい……すると、部落の連中も、そう結論をあせったりはしないだろう……らちもない、たわごとだと思っていたのが、意外に筋のとおった答えだったのだ。
「なるほど……しかし、こちらは、一向に平気だね……そっちが、そのつもりなら、こっちも持久戦だ。一週間が、十日になろうと、十五日になろうと、いずれ五十歩百歩さ……」
女が、足の指を、強く内側に折りまげた。小判鮫の吸盤のようになった。男は笑った。笑いながら、吐気がした。
一体なにをそんなにびくついているのだ?……敵の急所をおさえているのは、おまえじゃないか……なぜもっと、落着いた、観察者の気持になれないのだ! そうとも、無事に帰りつけたら、この体験は、ぜひとも記録しておく価値がある。
ほう! これは驚きました、先生がついに、ものを書く決心をされたとはねえ。やっぱり体験なんだな。皮膚に刺戟をあたえないでおくと、ミミズだって、一人前には育たないって言いますからね……ありがとう、実はもう、題まで考えてあるんですが……ほう、どんな題です?……≪砂丘の悪魔≫か、さもなければ、≪蟻地獄の恐怖≫……こりゃまた、ひどく、猟奇趣味だな。ちょっと、不真面目な印象をあたえすぎるんじゃないですか?……そうでしょうか?……いくら強烈な体験であっても、出来事の表面をなぞっただけじゃ、無意味ですからね。やはり、悲劇の主人公は、あくまでも地元の人たちなんだし、それを書くことによって、すこしでも解決の方向が示されるのでなければ、せっかくの体験が泣いてしまいますよ……畜生!……なんです?……どこかで下水の掃除をやっているのかな? それとも、廊下にまいた消毒液と、先生の口から出るにんにくの分解物とが、なにか特殊な化学反応をおこしているのかもしれない……なんだって?……いえ、どうぞ御心配なく、いくら書いてみたところで、ぼくなんぞ、いずれ作者などという柄じゃないんだから……これはまた柄にもないご謙遜《けんそん》だ、作者をそんなふうに特別視する必要はないと思いますがね。書けば、それが作者でしょう……さあ、どうかな、教師というやつは、とかくやたらに書きたがるものと、相場がきまっているが……そりゃ、職業がら、比較的いつも作者のすぐ近くにいるからですよ……例の、創造的教育ってやつですか? 自分じゃ、チョーク入れ一つ、こさえたこともないくせに……チョーク入れとは、恐れ入りましたな。自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?……おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる……希望だってあります!……その希望が本物かどうか、その先までは責任を持たずにね……そこから先は、めいめいの力を信じてやらなけりゃ……まあ、気休めはよしにしましょう、いずれ教師には、そんな悪徳なんぞ、許されちゃいないんだから……悪徳?……作者のことですよ。作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。女の化粧と、本質的には、なんの変りもありゃしない……きびしいですな。しかし先生が、作者という言葉を、そういう意味に使っておられるのなら、たしかに、作者と、書くこととは、ある程度区別すべきかもしれませんね……でしょう? だからこそ、ぼくは、作者になってみたかったんですよ。作者になれないのなら、べつに書く必要なんかありゃしないんだ!
……ところで、駄賃をもらいそこねた子供は、どんな表情をしていたっけ?
17
崖の正面の下あたりで、短く鳥が羽ばたくような音がした。ランプをつかんで、飛び出してみる。こもでくるんだ、包みが一つ落ちていた。すでに人影はない。すかさず、大声で呼んでみた。返事のもどってくる気配もなかった。こもにからげた縄をむしりとる。なかみの分らない荷物は、好奇心という引金つきの爆薬だ。いやでも、崖をのぼるための道具が入っているのだと、想像せずにはいられなかった。連中も、いまさら顔出しもならず、道具だけをほうり込んで、そのまま逃げだしてしまったのだろう。
しかし、こものなかみは、小さな新聞紙の包みと、きつく木の栓をした四合瓶だけだった。紙包みの中には、二十本入りの新生が三箱。そのほかには、嘘のように何もない。あらためて、こもの端をつかんで強くふってみたが、こぼれ落ちるのは砂ばかり……せめてと期待をかけてみた、手紙のきれはし一枚、見当らないのだ。瓶の中身は、餅かびの臭いがする、焼酎だった。
いったい何んのつもりだろう?……取り引きだろうか?……インディアンは、友好のしるしに、タバコを交換しあうと聞いたことがある。酒も、一般に、祝いごとのしるしだ。するとやはり、妥協の意志を、まえもって、こういう形で表示してきたと考えてもいいのではあるまいか? とかく田舎の人間は、気持を言葉であらわすのを、はにかむ傾向がある。つまりはそれだけ、正直者だということだ。
一とまず、納得すると、なにはさておき、まずタバコだ。一週間、よくも辛抱できたものだと思う。なれた手つきで、ラベルのわきを、四角く破ってむしりとる。すべすべした蝋紙の感触。底を指ではじいて、叩きだす。つまむ指先が、小刻みにふるえる。ランプの焔で、火をつける。深々と、ゆっくり、胸いっぱいに吸いこむと、落葉の香りが、血管の隅々にまでしみわたった。唇がしびれ、瞼の裏側に、ずっしりとしたビロードの幕がたれた。しめつけられるような眩暈《めまい》に、総毛立った。
四合瓶をしっかり抱えこむと、借り物のように遠くに感じられる脛の上に、やっと重心を支えながら、ゆらめく足取で家にもどった。頭の鉢には、まだしっかりと、眩暈のたががはまっている。女の方を見ようとするのだが、どうしても顔が正面にむけられない。片眼の隅で、はすかいにとらえた女の顔が、ひどく小さく見えた。
「おくりものだよ、ほら……」四合瓶を高くかかげて、ふって見せ、「まったく、気がきいているじゃないか、前祝いに、いっぱいやってくれって言うんだな。言わんこっちゃない……ちゃあんと、最初から分っていたことさ……ま、すんだことは、すんだこと……どうです、いっぱい、つき合いませんか?」
返事のかわりに、女はじっと目を閉じた。いましめを解いてもらえないので、すねているのだろうか? 馬鹿な女だ。いい返事の一つも聞かせてくれれば、すぐにも解いてやったかもしれないのに。それとも、ふさぎ込んでいるのだろうか? せっかくつかんだ男を、引きとめておくことが出来ず、けっきょく手離さなければならなくなったことについて。それも一理ありそうだ……女はまだ、三十そこそこの寡婦《かふ》なのだ。
女の足の裏と、甲との、境い目に、いやにくっきりとくびれ目がついていた。わけもなくまた笑いがこみあげてくる。女の足が、なんだってそうおかしいのだろう?
「タバコ、吸うんだったら、火をつけてやろうか?」
「いえ、タバコは、喉がかわきますから……」かすかな声で、横に首をふる。
「じゃあ、水を飲ませてあげようか?」
「まだ、よろしいです。」
「遠慮はいらんよ。べつに、個人的なうらみで、あんたをこんな目にあわせているわけじゃないんだ……作戦上、やむを得ない手段だったってことは、あんたにだって分るはずだろう? おかげで向うも、どうやら、折れてきたようだし……」
「男手のあるところには、毎週一度、酒とタバコの配給があるんですよ。」
「配給……?」せっせと飛んでいるつもりで、実は窓ガラスに鼻づらをこすりつけているだけのオオイエバエ……学名、Muscina stabulans……ほとんど視力をもたない、見掛け倒しの複眼……狼狽をかくそうともせず、うわずった声で「しかし、なにもそんな面倒なことをしてもらわなくたって、勝手に自分で、買いに出りゃいいじゃないか!」
「でも、なかなか、きつい仕事ですから、とてもそんな時間はありませんしねえ……それに、部落のためにもなっていることですから、部落会の方で、費用ももっていただけるんですよ。」
すると、妥協どころか、降服の勧告だったのかもしれない!……いや、もっと悪いことだって考えられる。彼の存在は、すでにここの日常を動かす歯車の一つとして、部品台帳に登録ずみなのかもしれないのだ。
「ちょっと、念のために、聞いておきたいんだが、いままでに、こんな目にあったのは、ぼくが始めてなんだろうか?……」
「いえ、なにしろ、人手が不足しておりますでしょう?……財産もちも、貧乏人も、働きがいのあるものは、つぎつぎ部落から出て行ってしまいます……とにかく、砂ばかりの、貧乏村ですからねえ……」
「すると、なんだろうか……」声までが、保護色に身をひそめ、砂の色になり、「ぼくのほかにも、誰か、捕まっているやつがいるわけなんだね?」
「はい、去年の秋口のころでしたか、たしか絵葉書屋さんが……」
「絵葉書屋?」
「なんでも、観光用の絵葉書をこさえる会社の、セールスマンとかいう人が、組合の支部長さんのところに、たずねて見えられましてねえ……宣伝さえすれば、都会人むきの、けっこうな景色だとかで……」
「つかまったのか?」
「ちょうど、人手に困っていた、並びの家がありましてね……」
「それで、どうなった?」
「間もなく、亡くなられたそうですよ……いえ、もともと、体があまり丈夫なほうじゃなかったそうで……それも、運わるく、ちょうど台風のころで、とくべつ仕事がきつかったんでしょうねえ……」
「なんだって、すぐに逃げ出さなかったんだ?」
女は答えない。答える必要がないほど、分りきったことだったのだろう。逃げられなかったから、逃げなかった……おそらく、それだけのことなのだ。
「ほかには?」
「ええ……今年に入ってからは、なにか本を売ってまわっていた、学生さんがいましたっけね。」
「行商かな?」
「何か、反対なことを書いた、十円ばかりの、薄っぺらい本でしたっけ……」
「帰郷運動の学生だ……そいつも、やっぱり、つかまったのか?」
「三軒おいた隣に、いまも、いるはずですよ。」
「やはり、縄梯子をはずしてあるんだな?」
「若い人たちは、なかなか、居ついてくれませんのですよ……どうしたって、町場のほうが、給金もいいし、映画館や食堂だって、毎日店を開けているんでしょう……」
「しかし、ここから逃げ出すことに、まだ一人も成功しなかったってわけじゃないんだろう?」
「はい、ぐれた仲間にそそのかされて、町に出た若いものがおりましたけど……そのうち、刃物をふりまわすかして、新聞にまで出されて……刑期があけてからは、すぐに連れもどされて、無事に親元でくらしているようですが……」
「そんなことを聞いているんじゃない! ここを逃げ出したっきり、帰ってこなかった人間のことだ!」
「ずっと、以前のことでしたら……家族ぐるみ、まんまと夜逃げをしたのもいましたっけねえ……しばらく、空家になっているうちに、あぶなく、とり返しがつかなくなりかけて……本当に、あぶないんですよ……どこか、一カ所でもくずれると、あとはもう、堤防にひびが入ったようなもので……」
「その後は、ないって言うのか?」
「ええ、ありませんと思います……」
「ばかばかしい!」耳の下の血管が、瘤になって喉をしめ上げる。
とつぜん、地蜂《ぢばち》が卵を産みつけるような姿勢で、女が体を二つ折れにした。
「どうした?……痛むのか?」
「はい、痛みます……」
色の変った手の甲にふれてみる。結びめに指をとおして、脈をよむ。
「感じはあるんだろう? 脈もはっきりしているし……まあ、大したことはないらしいよ。悪いけど、文句は、部落の責任者に言ってもらいたいな。」
「すみませんが、首の、耳のうしろの辺を、掻いてもらえませんか?」
不意をつかれ、拒めない。皮膚と、砂の膜のあいだに、融けたバターのような、濃い汗の層があった。桃の皮に爪を立てる感じだった。
「すみません……でも本当に、出て行った人は、まだいないんですから……」
ふと、戸口の輪廓が、色のないほのかな線になって、浮び出た。月だった。ウスバカゲロウの羽のような、淡い光のかけらだった。目がなれるにつれて、砂の摺鉢の底全体が、脂っこい若芽の肌のように、艶やかなうるおいをおびてくる……
「いいともさ、それじゃぼくが最初に逃げ出してやる!」
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待つ時間はつらかった。時間は、蛇腹のように、深いひだをつくって幾重にもたたみこまれていた。その一つ一つに、より道しなければ、先に進むことができないのだ。しかも、そのひだごとに、あらゆる形の疑惑が、それぞれの武器を手にひそんでいる。それらの疑惑と論争し、黙殺し、あるいは突き倒して進んで行くのは、なみ大抵の努力ではなかった。
結局、待ち呆けのまま、夜が明けてしまう。朝は、窓ガラスの向うから、鼻や額を、なめくじの腹のように白くつぶして、彼をからかっているようだ。
「すみません、水を下さい……」
どうやら、ちょっぴり、ほんのちょっぴり、うたた寝をしていたらしい。つかの間の寝汗で、シャツはもちろん、ズボンの膝の内側までが、ぐしょぐしょに濡れていた。その汗に、こびりついた砂は、色も感触も、しめった麦落雁《むぎらくがん》にそっくりだ。顔に、被いを忘れたせいで、鼻も口も、冬の水田みたいに、干上ってしまっている。
「すみません、おねがいします……」
女も全身、砂一色に塗りかためられ、熱病にかかったように、乾いた音をたてて、ふるえていた。女の苦痛が、電線でつないだように、そのままこちらに伝わってくる。やかんのビニールをはいで、まず自分が、かじりつく。最初の半口で、口をすすいでみたが、とても一度や二度で、すすぎ切れるものではない。吐き出したものは、ほとんどが砂のかたまりだった。しかし、あとは、かまわず、そのまま水と一緒に胃のなかに流しこむ。まるで岩石を飲んでいるようなものだった。
飲んだ水が、そのまま汗になって、噴き出してきた。肩甲骨から背筋にかけて、鎖骨から乳のまわりにかけて、脇腹から腰骨のへりにかけて、ただれた皮膚が、薄皮をむかれるように痛んだ。
やっと、飲みやんで、言いわけがましく女の口におしこんでやる。女はやかんに噛みつくと、口をすすぐこともせず、そのまま鳩のようにうなって、飲み込んだ。たった三口で、空になってしまった。むくんだ瞼のかげから、男を見すえる女の眼に、はじめて容赦のない非難がこめられる。空になったやかんは、紙細工のように軽かった。
気まずさを、まぎらせようとして、体の砂をはたき落しながら、男は土間に降りた。濡れ手拭でもこさえて、女の顔を拭いてやるとしようか。そっくり汗にして、流してしまったりするよりは、よほど理屈にかなったやりかただ。文明の高さは、皮膚の清潔度に比例しているという。人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない。水のことを思っただけで、よごれた皮膚は、何万個もの吸盤になる。氷のように冷たく透明で、しかも羽毛のようにやわらかな、魂の包帯……あと一分おくれたら、全身の皮膚がべろべろに腐って、はげ落ちてしまうだろう。
だが、水甕をのぞいた男は、絶望的な悲鳴をあげる。
「おい、からっぽじゃないか!……こいつは、ぜんぜん、からっぽだぞ!」
腕をつっこみ、かきまわす。底にこびりついた黒い砂が、わずかに指先をよごしただけだった。はぐらかされた皮膚の下で、無数の傷ついたむかでが、もがきはじめる。
「奴等、水をとどけるのを、忘れやがったな!……それとも、これから、搬んでくるつもりだろうか?」
気休めにすぎないことは、自分でもよく分っていた。オート三輪が、最後の仕事を終え、戻っていってしまうのは、いつも夜が明けて間もないころだった。奴等のねらいは分っている。このまま水の補給を絶って、音をあげさせようというのだろう。考えてみれば、砂の崖を下から崩すことが、どんなに危険かをじゅうぶんに知りながらも、黙ってするにまかせておいたほどの連中である。彼の身を案じる気持など、毛ほども持ち合わせていないにちがいない。たしかに、ここまで秘密を知ってしまった人間を、いまさら生かして帰すわけにもいくまいし、やるとなれば、徹底的にやるつもりだろう。
戸口に立って、空を見上げた。朝の陽差しの、赤いくまどりで、やっと見分けられる。遠慮がちな綿毛の雲……とうてい、雨を望めるような空模様ではない。吐く息ごとに、体の水分が失われていくようだ。
「一体、どうするつもりなんだ! おれを殺す気か!」
女は、相変らず、黙ってふるえつづけるばかりだ。おそらく、何も彼も、知りぬいた上でのことだったのだろう。要するに、被害者面をした、共犯者だったのだ。苦しむがいい!……それぐらいの苦しみは、当然のむくいだ。
しかし、その苦しみが、部落の奴等に伝わってくれるのでなければ、なんの役にも立ちはしない。しかも、伝わってくれるという保証は、どこにもないのだ。それどころか、必要とあれば、女を犠牲にしてはばからないことも、じゅうぶんに考えられる。女がおびえているのも、そのせいかもしれない。逃げ道だと思って、身をおどらせた柵の隙間が、実は檻の入口にすぎないことに、やっと気づいた獣……何度か鼻面をぶつけて、金魚鉢のガラスが通り抜けられない壁であることを、はじめて知った魚……ふたたび、素手でほうり出されてしまったのだ。いま、武器を握っているのは、彼等の側なのである。
しかし、おびえてはいけない。漂流者が、飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ欠乏にたいする恐怖のせいだという。負けたと思ったときから、敗北がはじまるのだ。鼻の先から、汗のしずくがしたたった。また、何分の一CCかの水分が失われたなどと、一々気にかけたりするのが、すでに敵の術中におちいったことなのだ。コップの水が蒸発してしまうのに、どれほどの時間がかかるかを、考えてみるがいい。不必要に騒いで、時間という馬を、駆り立てることもないだろう。
「どうだ、縄を、解いてやろうか?」
女は、疑わしげに、息をとめた。
「ほしくなければ、かまわないがね……ほしければ、解いてやる……ただし、条件があるんだ……許可なしには、絶対にスコップを持たないこと……どうだ、約束できるかい?」
「おねがいいたします!」犬のように耐えてきた女が、突風で裏返ったこうもり傘のように、哀訴しはじめた。「約束なんか、いくらでもしますから! おねがいいたします……おねがいしますよ……」
いましめの跡は、赤黒い痣になっていた。その痣の表面に、白くふやけた膜がかかっている。女は、仰向けになったまま、足首同士をすりあわせ、手首を交互につかんで、ゆっくりともみほぐしはじめる。うめきをこらえ、歯をくいしばり、顔中から汗がぶちになって吹き出してくる。そろそろと、体をまわし、尻のほうから、四つん這いになる。最後に、首を、やっとの思いで引き上げる。しばらく、そのまま、ゆらゆらと揺れていた。
男も、上りがまちに、じっとうずくまった。唾液をしぼり出しては、飲み下す。くりかえしているうちに、唾液が糊のようにねばって、喉にからみだした。さすがに、睡気は感じなかったが、疲労で意識が濡れた紙のようになる。すかしてみると風景が、濁ったまだらや線になって浮ぶのだ。まるで絵さがしの風景だ。女がいる……砂がある……空っぽの水甕がある……よだれを流している狼がいる……太陽がある。……それから、彼の知らない何処かには、熱帯性低気圧もあれば、不連続線もあるにちがいない。さて、この未知数だらけの方程式の、一体どこから手をつけはじめればいいのだろう?
女が、立上って、のろのろと戸口の方へ歩きはじめた。
「どこへ行く!」
避けるように、口ごもったが、よくは聞きとれない。しかし、その間のわるそうな素振りを、男は理解した。やがて、板壁のすぐ向うで、ひっそりと放尿の音がはじまった。なんだかひどい無駄のように思われた。
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なるほど、時が馬のように駈け出したりすることはないかもしれない。しかし、手押し車より遅いということもなさそうだ。みるみる朝の気温が、本格的な暑さになり、目玉や脳味噌を茹ではじめ、さらには内臓を焦がし、つづけて肺に火をともす。
夜のあいだに吸い込んだ湿気を、蒸気にして、再び大気に吐きだす砂……光の屈折のせいで、濡れたアスファルトのように光りだす……。だがその正体は、ほうろくで炒り焦がされた麦粉よりも、まだ乾ききった、まじりっけなしの1/8m.m.にすぎないのだ。
やがて、最初の、砂なだれ……もう日課になった、聞きなれた音だったが、思わず女と顔を見合わせる。一日砂掻きをしなかったことが、はたしてどれほどの影響をおよぼすものか……大したことはあるまいと思いながらも、やはり不安だった。しかし女は、黙って目をそらせてしまう。勝手に一人で心配するがいい、と、ふてくされているようでもあり、そうなると、それ以上つっこんで聞くのも、癪《しゃく》だった。なだれは、糸のように細まったかと思うと、ふたたび帯になって広がり、それを不規則にくりかえしながら、やがて事もなく止んだ。
やはり、気に病むほどのことはなかったらしい。ほっとすると、いきなり顔の内側が、ごくごく脈うちながら火照《ほて》りだした。するとそれまで、つとめて意識にのぼせまいと努めてきた、例の焼酎が、暗闇に浮んだ灯のように、とつぜん彼の全神経を、一点に引きよせはじめる。なんでもいいから、喉をしめしたい。このままでは、体中の血が死んでしまう。けっきょくは、苦しみの種をまき、あとで後悔することを百も承知していながら、もう抗うことはできなかった。栓をひきぬき、瓶の口を歯にぶち当てながら、ラッパ飲みにする。それでも舌は、まだ忠実な番犬だった。不意の闖入者におどろいて、あばれだした。むせかえった。すり傷にオキシフルをふりかけたようなものである。そのくせ、三口めの誘惑にも、ついにうちかてなかった。とんだ祝い酒もあったものである……
行きがかり上、女にもすすめてみた。むろん女は、強く断わった。まるで毒を強いられでもしたような、大げさな拒みかただった。
あんのじょう、胃に落ちこんだアルコールは、すぐにピンポン玉のように、耳のへんまではね返り、そこで蜂の羽音をたてはじめる。皮膚が、豚皮のように、こわばりはじめる。血が腐る!……血が死んでしまう!
「なんとか、ならないのか! 自分だってつらいんだろう? こっちも、縄を解いてやったんだから、なんとかしろよ!」
「はい……でも、部落の誰かに、搬んでもらわないと……」
「じゃあ、そうすればいいじゃないか!」
「それは、私たちが、仕事をはじめさえすれば……」
「冗談を言うな! やつらの何処に、こんな無茶な取引きをする権利があるってんだ……さあ、言ってみろ!……言えはしまい?……そんな権利なんてどこにもありゃしないんだ!」
女は目をふせ、口をつぐむ。なんてことだろう。戸口の上に、ちょっぴりのぞいている空は、もうとっくに青をとおりこし、貝殻の腹みたいにぎらついていた。仮に、義務ってやつが、人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証《さしょう》をうけなきゃならないんだ!……人生はそんな、ばらばらな紙片れなんかではないはずだ……ちゃんと閉じられた一冊の日記帳なのだ……最初のページなどというものは、一冊につき一ページだけで沢山である……前のページにつづかないページにまで、いちいち義理立てする必要などありはしない……例え相手が飢え死にしかかっていたところで、一々かかわり合っている暇はないのだ……畜生、水がほしい!……しかし、いくら水がほしいからって、死人ぜんぶの葬式まわりをしなければならないとしたら、体がいくつあったって足りっこないじゃないか!
二度目の砂崩れがはじまった。
女が立上って、壁から箒をはずした。
「仕事はしちゃいかん! 約束だろう?」
「いえ、ふとんの上を……」
「ふとん?」
「そろそろ、おやすみにならないと……」
「睡たくなりゃ、自分で勝手にするよ!」
地面をゆするような衝撃をうけて、立ちすくむ。天井から降りだした砂に、一瞬あたりがけむって見えた。砂掻きを休んだ影響が、ついにあらわれたのだ。はけ口をなくした砂が、のしかかってくる。こらえようとして、梁や柱が、苦しげに関節をきしませる。しかし女は、奥の鴨居のあたりをじっとにらんだまま、べつにうろたえた様子もない。どうやら、圧力はまだ、土台のあたりにかかったばかりのところらしい。
「ちくしょう、奴等……本気でいつまでも……こんなまねを、つづける気なのかな……」
なんていう、大げさな心臓だろう……まるで、おびえた小兎みたいに、跳ねまわっていやがる……きめられた巣に落着けないで、口だろうと、耳だろうと、尻の穴だろうと、もぐり込めそうなところなら、どこでもかまわないと言わんばかりだ。唾液のねばりが、前よりもひどくなった。しかし、その割には、喉のかわきは変らない。おそらく、焼酎の酔いで、適当に中和されているせいだろう。アルコールが切れたとたんに、火を吹くのだ。燃え上って、ちりちりの灰になってしまうのだ。
「こんなことをして……いい気になりやがって……鼠の脳味噌ほどもありはしないくせに……もしか、おれが死んだら、一体、どうするつもりなんだ!」
女は、なにか言いたげに、顔を上げたが、すぐまたもとの沈黙にもどってしまう。言っても無駄なのだと、最悪の答えを、肯定しているようにも思えた。
「よかろう……どっちみち、結末が一つだというなら、試せるだけのことは、ためさせてもらうとしようじゃないか!」
男は、もう一と口、口づけで焼酎をあおると、気負いこんで外にとび出した。いきなり両眼に、白熱した鉛の一撃をうけて、よろめいた。足跡のくぼみにそって、めくれた砂が、渦をまく。昨夜、女を襲って、しばり上げたのは、たしかあの辺だ……スコップも、多分、そのあたりに埋まっているにちがいない。砂崩れは、ちょうど中休みに入っていたが、それでも海側の崖では、たえず幾らかかの砂が流れつづけていた。ときおり、風のせいか、壁面をはなれて、布切れのように宙にひるがえったりする。なだれを警戒しながら、足先で、砂の中をさぐった。
すでに、砂崩れがあったあとらしく、かなり深くさぐりを入れているつもりなのだが、いっこうにそれらしい手応えがない。やがて、太陽の直射が、耐えがたくなった。きつく絞りこまれた瞳孔……くらげのように踊りだす胃袋……額をつきぬける激痛……もう汗を流してはいけない……これが限度だ。それよりも、おれのスコップの方は、どこにやったっけ?……たしかあのとき、武器にするつもりで、持って出て……そう、それなら、あの辺に埋まっているはずだ……地面をすかしてみると、砂が、スコップの形に盛上っているのがすぐ分った。
唾を吐きかけて、あわててやめる。わずかでも水気を含んだものは、体の中に還元してやらなければならないのだ。唇と歯のあいだで、砂と唾とを分離し、歯にこびりついて残った分だけを、指先でこそげおとした。
女は、部屋の隅で、あちらを向いて、着物の前をどうにかしていた。多分、腰紐をゆるめて、たまった砂をかき出してでもいるのだろう。男は、スコップの柄の中ほどをつかみ、肩の上に水平にかまえた。戸口のわきの、土間の壁をめがけ、刃を先にして……
背後で女の叫び声がおこった。全身の重みをかけて、スコップをつきだした。スコップは、あっけなく、板壁をつきとおしてしまう。まるで、しけった煎餅のような手応えだ。砂に洗われ、外見はいかにも新しそうに見えるのだが、実質はすでに腐りかけているらしい。
「なにをするんです!」
「こいつをひっぺがして、梯子の材料をつくるのさ!」
べつな場所をえらんで、もう一度ためしてみる。やはり同じことだ。砂が木を腐らせるという、女の言葉は、どうやら事実だったらしい。どこよりも日当りのいい、この壁でさえそうだとすると、あとはおして知るべしだ。よくも、こんなぶよぶよの家が建っていられたものである……傾き、ゆがみ、半身不随になりながら……もっとも最近では、紙やビニールだけの家でも建つらしいから、ぶよぶよには、ぶよぶよなりの、力学的構造というものがあるのかもしれないが……
板の部分がだめなら、今度は横木をためしてみてやろう。
「いけませんよ! やめて下さい!」
「どうせ、そのうち、砂におしつぶされてしまうんだろう?」
かまわず、打ち込もうと構えた腕に、わめきながら、女がむしゃぶりついてきた。肘をつっぱり、体をねじって、ふりほどこうとした。ところが、どう計算ちがいしたのか、ふりまわされたのは、逆に男のほうだったのだ。すかさず反撃をこころみる。しかし、スコップと女は、鎖で結び合わされてしまったみたいに、もうびくともしないのだ。わけが分らない……すくなくも腕ずくでなら、負けるはずはなかったのに……二度、三度と、土間の上をもみあったあげく、なんとか組みふせることが出来たと思ったのも束の間、スコップの柄を楯に、あっさり逆転させられてしまった。どうかしている、多分、焼酎のせいなのだ……もう相手が女であることなど念頭になく、反射的に、曲げた膝頭で、女の腹を蹴上げていた。
女が叫んで、急に力をぬいた。すかさず、はね起きて、女を上からおさえこむ。胸がはだけて、汗みどろになった素肌のうえに、男の手がすべった。
とつぜん、映写機が故障したように、二人はじっと動かなくなった。どちらかが、何かしなければ、そのままいつまでも続きそうな、固くこわばった時間だった。網目になった女の乳房の皮下組織を、ありありと腹のあたりに感じながら、男の指はまるで独立した生物のように、じっと息をひそめる。身じろぎのしかた一つでは、スコップの取り合いが、まったく別のものに変ってしまいかねなかった。
生唾を飲み込もうとして、女の喉が、大きくふくらんだ。男の指も、それを動く合図だと感じた。女がしわがれ声で、さえぎった。
「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」
都会の女?……たちまち男は鼻白《はなじろ》む……腫れあがった指の熱もさめていく……危険はあっさり通りすぎてくれたらしい……メロドラマの影響が、こんな砂の中でも、生きつづけられるものとは知らなかった。
どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思いこんでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっているというのに……
彼は、あいつとの時には、いつもかならずゴム製品をつかうことにしていた。以前わずらった淋病が、はたして全快したかどうか、今もって確信がもてなかったのだ。検査の結果は、いつもマイナスと出るのだが、小便のあとで、急に尿道が痛みだし、あわてて試験管にとってみると、はたして白い糸屑みたいなものが浮んでいたりする。医者はノイローゼだと診断したが、疑惑がとけない以上、同じことだった。
「まあ、私たちには、おあつらえむきなんじゃない?」血がすけて見えるような皮の薄い、小さな顎と唇……その効果を計算に入れた、変に身軽な意地の悪さで、「私たちの関係は、いずれ商品見本を交換しているようなものでしょう?……お気に召さなかったら、いつでもお引き取りいたします……封を切らずに、ビニールの袋ごしに、ためつ、すがめつ、値ぶみしてるってわけよ……どうかしら?……本当に信用できるのかしら?……うっかり買って、あとになって、後悔したりするんじゃないかしら?」
しかし、あいつが、本心から、そんな商品見本的な関係に満足していたわけではない。たとえば、あいつがまだ寝床の中で、股に手拭をはさんだまま、素裸でいるというのに、こちらはすでに、追い立てられるような気持で、ズボンのボタンを掛けはじめているといった、あの過酸化水素の臭いがする時刻……
「でも、たまには、押し売りしてやろうくらいの気持になってもいいんじゃない?」
「いやだね、押し売りなんて……」
「だって、もう、なおっちゃっているんでしょう?」
「君が本気でそう判断するのなら、合意のうえで、素手にしようじゃないか。」
「なんだってそう責任のがれするのよ?」
「だから、押し売りは嫌だって言っているだろう?」
「変ねえ……あなたの淋病に、私が一体どんな責任があるのかしら?」
「あるかもしれないさ……」
「馬鹿言わないでよ!」
「まあ、とにかく、押し売りは願い下げだってことさ。」
「それじゃ、一生、帽子は脱がないつもり?」
「どうして、そう非協力的なんだろうなあ……一緒に寝ていて、やさしい気持があれば、それくらい当然じゃないか。」
「要するに、あなたは、精神の性病患者なんだな……それはそうと、私、明日は残業になるかもしれないわ……」
あくびをしながら、精神の性病患者か……あいつにしては、うまい文句を思いついたものだ……だが、それがどんなにおれを傷つける文句であったかは、決してあいつには分るまい……第一、性病は、メロドラマとは正反対なものだ……メロドラマなんぞが、この世に存在しないことの、もっとも絶望的な証拠の品でさえある……コロンブスが、ちっぽけな船で、ちっぽけな港に、こっそり持ち帰ったものを、みんながせっせと手分けして、世界中にひろげた……人類が平等だと言えるのは、死と性病に対してだけかもしれない……性病は、人類の連帯責任なのだ……だのに、おまえは、絶対に認めようとしない……おまえは、鏡の向うの、自分を主役にした、おまえだけの物語りに閉じこもる……おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病をわずらいながら、取り残されるのだ……だから、おれの指は、帽子なしでは、萎《な》えてしまって役に立たない……おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ……女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。
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糊をぬったようにこわばる顔、風速二十メートルの呼吸、乾いて焦げた砂糖の味がする唾液……おそるべきエネルギーの損失だ。すくなくもコップ一杯分の水は、汗になって蒸発してしまったにちがいない。女も、顔をふせたまま、のろのろと起上った。女の砂まみれの頭が、ちょうど眼の高さにあった。とつぜん女が、手鼻をかみ、すくい上げた砂を両手でもんで、紙がわりにした。こごめた女の腰から、モンペが、ずり落ちた。
男はいまいましげに、目をそむける。だが、いまいましい一方かというと、そうも言いきれない。舌の先には、渇きとはまたちがった、奇妙な情感も残っていた。女が、あの馬鹿気た文句で、彼を萎えさせるまでは、ほんの短い時間ではあったが、ゴム製品なしに、彼の指は立派に脈うち、いきみかえったのだ。その名残りの火照りはまだ残っている。発見などと言っては、大げさすぎるかもしれないが、これは一応、注目にあたいする。
彼はべつに変質者ではないつもりだった。ただ、精神的強姦だけは、どうにも気がすすまない。生こんにゃくを、塩もつけずに食うようなものだ。相手を傷つけるより前に、まず自分を侮辱することだ。そのうえさらに、精神的性病まで引受けなければならないというのは、一体どういうことだろう? 踏んだり蹴ったりじゃないか。女の粘膜は、おれの視線がかすめただけでも、血を吹かなければならないほど、果してか弱いものなのか?
ただ、薄々と感じているのは、性欲にも、二つの種類があるのではないかと言うことだ。たとえば、メビウスの輪のやつは、女友達をくどくとき、かならず味覚と栄養についての講義からはじめることにしているらしい。――そもそも、飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、神戸牛だとか、広島の牡蠣《かき》の味だとかいうものは、まだ存在していない……一応、満腹することが保証されてから、はじめて個々の味覚も意味をもってくる……同様、性欲についても、まず性欲一般があり、ついでさまざまな性の味が発生する……性も、一律に論ずべきではなく、時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、うなぎ丼が必要になったりするというわけだ。いかにも整然とした理論だったが、惜しむらくは、その理論に応じて、性欲一般、もしくは固有の性を、すすんで彼に提供した女友達は、まだ一人もいなかったらしい。当然のことだ。男だろうと、女だろうと、理論にくどかれる奴なんているわけがない。馬鹿正直なメビウスの輪も、そんなことはすっかり承知のうえで、ただ精神的強姦がいやなばかりに、せっせと空き家の呼び鈴を押しつづけていたのだろう。
むろん彼だって、純粋な性関係などというものを夢想したりするほど、ロマンチックだったわけではない。そんなものは、おそらく、死に向って牙をむきだす時にしか、必要のないものだ……枯れはじめた笹は、あわてて実を結ぶ……飢えた鼠は、移動しながら、血みどろな性交をくりかえす……結核患者は一人のこらず、色情狂にとっつかれる……あとは階段を降りるしかない、塔の頂上に住む王や支配者は、ひたすらハレムの建設に情熱をかたむける……敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす……
だが、幸い、人間はそうやたらと死の危険ばかりにさらされているわけではない。冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になることが出来た。しかし、戦いが終れば、武器はかえって足手まといになる。秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、かならずパンチを入れてもらわなければならないことになる。しかもその回数券がはたして本物であるかどうかの、確認がいる。ところが、その確認たるや、秩序のややこしさにそっくり対応した、おそろしく煩瑣《はんさ》なもので、あらゆる種類の証明書……契約書、免許証、身分証明書、使用許可証、権利書、認可証、登録書、携帯許可証、組合員証、表彰状、手形、借用証、一時許可証、承諾書、収入証明書、保管証、さては血統書にいたるまで……とにかく思いつく限りの紙片れを、総動員しなければならないありさまだ。
おかげで性は、みのむしのように、証文のマントにすっぽり埋まってしまった。それで気がすむのなら、それもよかろう。だが、はたして、証明書はこれで終いなのだろうか?……まだ何か証明し忘れているのではあるまいか?……男も、女も、相手がわざと手を抜いているのではないかと、暗い猜疑《さいぎ》のとりこになる……潔白を示すために、むりして新しい証文を思いつく……どこに最後の一枚があるのか、誰にも分らない……証文は、けっきょく、無限にあるらしいのだ……
(あいつはおれが、理屈っぽすぎると言って非難した。しかし、理屈っぽいのはおれではなくて、この事実なのだ!)
「でも、それが、愛情の義務ってものじゃないかしら?」
「とんでもない! 消去法で禁止事項を消していった、残り滓さ。それほど信じられないのなら、始めから信じなきゃいいんだよ。」
性に贈答用の熨斗をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。性にも、毎朝きちんとアイロンをかけましょう……性は、袖をとおしたとたんに古くなり……アイロンをかけて、皺をのばせば、すぐまた新品同様になり……新しくなったとたんに、またすぐ古くなる……そんな卑猥な話にまで、真面目に耳をかす義務があるというのか?
むろん、秩序の側で、それに見合っただけの生命の保証をしてくれるというなら、まだ譲歩の余地もある。だが、現実はどうだろう? 空からは死の棘が降り、地上でも、ありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。性の方でも、うすうすは感じはじめているらしいのだ。どうやら、つかまされたのは、空手形だったらしいと。そこで、不服な性を相手の、回数券の偽造がはじまる。こいつはけっこう、いい商売になる。あるいは、精神的強姦が、必要悪として黙認される。こいつなしには、ほとんどの結婚が成り立たなくなる。性の解放論者がやっていることだって、大同小異だ。互いに強姦し合うことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。そんなものだと思ってしまえば、それだって結構たのしめるだろう。しかし、しまりの悪いカーテンを、たえず気にしながらの解放では、いやでも精神的性病患者になるしかないわけだ。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。
女も、敏感に、男の感情の動きを感じとったらしかった。結びかけていたモンペの紐を、途中でとめた。ほどけた紐の先が、女の指のあいだからたれ落ちた。兎のような眼で、男を見上げる。兎に似ているのは、瞼の赤さばかりではなかった。男も、時間のなくなった眼で、女に答える。すじ肉を煮るような、強い臭いが、女のまわりに立ちこめていた。
紐を手でおさえたままの姿勢で、女は男のわきを通りぬけ、部屋に上り、モンペを脱ぎはじめる。前からつづきの動作を、そのまま続けているような、よどみのない自然さだ。こういう女が、本当の女なのだと、男は心の中でもみ手する。しかしすぐに反省する。間抜けな男は、そんなふうに後れをとって、ぶちこわしにしてしまうのだ。急いで男も、バンドに手をかけた。
これが昨日までだったら、あのえくぼや、しのび笑いと同様、女の見えすいた芝居だと決めこんでいたかもしれない。実はそれが真相なのかもしれないのだ。けれど、そうは考えたくなかった。女の体が、取り引きに使われる段階は、とうに過ぎてしまった……いまは暴力が状況を決している……かけひきを度外視した、合意のうえの関係だと考える根拠はじゅうぶんにあるわけだ。
ズボンといっしょに、一とつまみほどの砂が、指のつけ根をくぐって、内股に流れおちる……むれた靴下のような臭いが、こみ上げてくる……ゆっくりと、しかし確実な充実が、断水しかけた水道管のような音をたてて、再び指をみたしはじめる……帽子なしに方向をさした指……翼をひろげ、すでに裸になっている女の後ろに、融けこんだ。
たのしめそうかい?……当りまえさ……すべてが等間隔な、方眼紙の目にはめこまれたようだ……呼吸も、時間も、部屋も、女も……これが、メビウスの輪いうところの、性欲一般というやつなのだろうか? だとしても、どうだい、この堅肥りした尻のあたりは……街でひろった、栗のいがみたいな欲求不満などとは、くらべものにもなりゃしない……
女が片膝をつき、まるめた手拭で、首から順に砂をしごきはじめた。とつぜんまた、砂崩れがはじまった。家全体が、胴ぶるいしながら、きしみだす。とんだ邪魔が入ったものだ。霧になって降る砂に、女の頭がみるみる白く粉をふく。肩にも、腕にも、砂がつもる。二人は抱きあったまま、なだれが過ぎるのを待つしかなかった。
つもった砂の上に、汗がしたたり、その上にまた砂が降る……女の肩がふるえ、男も過熱して、いまにも吹きこぼれそうだ……それにしても、女の太股に、なぜこれほど激しく誘いよせられるのやら、わけが分らない……体中の神経を引き抜いて、一本一本、女の股にまきつけてやりたいくらいだ……食肉植物の食欲が、ちょうどこんなふうなのだろう……野卑で、がつがつしていて、ばねを仕込んだみたいに力みかえっている……あいつとの時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。あのベッドの上では、感じている男と女……見ている男と女……感じている男を見ている男と、感じている女を見ている女……男を見ている男を見ている女と、女を見ている女を見ている男……合わせ鏡にうつる、性交の、無限の意識化……さいわい、アメーバからつづく、何十億年もの歴史をひかえた性欲は、そうめったにすり切れたりはしないだろう……だが、いまのおれに必要なのは、このがつがつした情欲なのだ……神経がぞろぞろ、女の股にむかって這い出していく興奮なのだ。
なだれが止んだ。待ちうけていたように、男も一緒になって、女が体の砂をはらう手伝いをはじめる。かすれた声で女が笑った。乳房から、腋の下へ……腋の下から、腰のまわりへ……男の手はしだいに丹念さを増していき、首にかかった女の指に、力がこもり、ふいに驚きの声があがったりする。
それがすむと、こんどは女が、男の体をふく番だ。男は眼をとじ、ゆっくり女の髪をなでながら待っている。髪はこわばり、ざらついていた。
けいれん……同じことの繰返し……いつも、別なことを夢みながら、身を投げ入れる相も変らぬ反復……食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること……
21
無数の化石の層をつみ重ね、のりこえてきた、人類のけいれん……ダイノソアの牙も、氷河の壁も、絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機の行く手をはばむことは出来なかった……やがて、身もだえながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火……無限の闇をつらぬいて、ほとばしる、流星群……錆びた蜜柑色の星……灰汁の合唱……
そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい……男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。女の股をめがけて這い出していった、神経も、霜にうたれたひげ根のように、ちりちりに枯れ、指は、貝の肉のあいだで、萎えつきる。しばらくは、みれんがましく腰を突き出したりしていた女も、やがて、息切れのした放心のなかに、ぐったりと身を沈めてしまった。
タンスのうしろで、酸っぱく腐った、古雑巾……悔恨のほこりをあびて、引返す、競輪場前の大通り……
結局、なにも始まらなかったし、なにも終りはしなかった。欲望を満たしたものは、彼ではなくて、まるで彼の肉体を借りた別のもののようでさえある。性はもともと、個々の肉体にではなく、種の管轄《かんかつ》に属しているのかもしれない……役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。倖せなものだけが、充足へ……悲しんでいるものは、絶望へ……死にかけていたものなら、死の床へ、と……こんなぺてんを、野性の恋などと、よくもぬけぬけ思いこんだり出来たものである……回数券用の性とくらべて、はたしてどこかに取り柄らしいものでもあっただろうか?……こんなことなら、いっそ、ガラス製の禁欲主義者にでもなっていたほうがましだった。
腐った魚油のような、汗と分泌物のなかを、反転しながら、それでも束の間、まどろんだらしかった。夢をみた。割れたガラスのコップと、床がはずれかかった長い廊下と、大便が便器の上まであふれた共同便所と、水の音だけがして、いつまでも見つからない洗面所の夢だった。水筒をもって走っている男がいた。ほんの一口わけてくれるように頼みこむと、キリギリスのような顔でにらんで、駈け去った。
目がさめた。ねばねばと、舌のつけねで、熱いにかわが融けている。渇きが二倍になって戻ってきていた……水がほしい!……キラキラ光る、水晶の水……コップの底から、わき立つ気泡の、銀の軌跡……魚みたいにあえいでいる、ほこりにまみれ、蜘蛛《くも》の巣だらけになった、廃屋の水道管……
起上ると、手足が、水枕のようにだらりと重かった。土間にほうり出してあった、空のやかんを、仰向いた口の上に、傾けた。三十秒以上もかかって、やっと二、三滴が、ちょっぴり舌の先をぬらした。だが、吸取紙のように乾いて、待ちうけていた喉は、よけい狂ったように、のたうちはじめた。
男は、水を求めて、流し場のまわりを、手当りしだいに、かきまわした。あらゆる化合物のなかで、水は、もっとも単純な化合物である。机の引き出しから、一円玉をひろうくらいの調子で、見つけ出せないともかぎらない。ほら、水のにおいがしている。まぎれもない、水のにおいだ。男はいきなり、水甕の底から、しめった砂をつかんで、口いっぱいにほおばった。吐き気がこみあげてきた。体を折って、胃をひくつかせる。黄色い胃液と、涙が、あふれ出してきた。
頭痛が、鉛のひさしになって、眼の上にずり落ちてくる……情欲は、結局、破滅への距離を短縮しただけのことだったらしい。とつぜん男は、四つん這いになって、犬のように土間の砂を掘り返しはじめた。肘の深さまで掘ると、砂が黒く、しめり気をおびてくる。その中に顔をおしこみ、焼ける額をおしつけて、胸いっぱいに、砂のにおいを吸いこんだ。うまくすると、胃のなかで、酸素と水素が、化合してくれないともかぎらない。
「ちくしょう、きたならしい手をつかいやがって!」手の腹に爪をつき立て、声もひきつらせて、女を振向いた。「一体、どうするつもりなんだ! 水は、本当に、もう何処にもないのか!」
むきだしの股に着物をひきよせながら、上半身をねじって、女がささやいた。
「はい、ありません……」
「ありません?……ありませんですむと思っているのか!……こうなりゃ、こっちだって、命がけだからな……くそったれめ!……早く、どうにか、してくれよ!……たのむ……たのむと、言っているんだぞ!」
「ですから、私たちが、仕事にかかりさえすれば、すぐに……」
「よし、負けた!……仕方がない、負けてやるよ……」いわしの干物じゃあるまいし、こんな殺され方は、まっぴらだ。なにも本心から屈服したりしたわけじゃない。水を手に入れるためになら、猿踊りだっておどって見せてやるさ。
「負けてやるとも……しかし、いつもの配給の時間まで待たされるなんて、ごめんだぞ……だいいち、こんなにカラカラに干上っていちゃ、仕事にもなりやしないじゃないか……なんとか、すぐに連絡をつけてもらいたいね……自分だって、喉はかわいているんだろう?」
「仕事にかかれば、すぐに通じますよ……いつも誰かが、火の見から、双眼鏡でのぞいていますから……」
「火の見?」
監房で、拘禁されたという実感をひしひしと感じさせるのは、鉄の扉よりも、壁よりも、まずあの小さな覗《のぞ》き窓だという。男は、うろたえながらも、すばやく記憶のなかを、見まわしてみる。水平に仕切られた、空と砂……火の見櫓が入りこむ余地など、どこにもありはしない。こちらから見えないのに、向うから見えるとは思えないが……
「裏の、崖ぎわから見れば、すぐに分りますけど……」
男はすなおに、腰をこごめて、スコップをひろった。いまさら、自尊心など、垢にまみれたシャツに、アイロンをかけるようなものだ。追われるように、外に出た。
砂は、空鍋のように焼けていた。まぶしさに、息がつまった。鼻に吹きこむ風は、石鹸の味がした。しかし、一歩進めば、それだけ水に近づくことが出来るのだ。海側の崖の下に立って、見上げると、なるほど黒い櫓の先端が、小指の先ほどの頭をのぞけている。あの棘のような突起が、監視人かもしれない。もう気づいただろうか? さぞ小気味のいい思いで、この瞬間を待ちうけていたことだろう。
男は、その黒い棘にむかって、スコップをかざし、力いっぱい左右にふった。スコップの刃が、反射して、相手の目につきやすいように、角度を工夫してみたりした。……眼の奥に、焼けた水銀の膜がひろがる……女のやつ、なにをしていやがるんだ、早く、手伝いに来ればいいのに……
ふいに、ひんやりと、濡らしたハンカチのような影がおちた。雲が出たのだ。しかし、空の片隅に吹きよせられた、落葉ほどの雲だった。ちくしょう、せめて雨でも降っていてくれれば、こんな目には会わなくてもすんだのに……両手をひろげれば、両手いっぱいの水……窓ガラスには、水の帯……雨樋からふきだす、水の柱……アスファルトにけむる、雨しぶき……
夢をみているのか、それとも幻が現実になったのか、彼のまわりで、突然ざわめきがおこった。われに返ると、砂崩れのなかに立っているのだった。軒下にさけて、壁にもたれた。骨が、罐詰の魚のように、融けていた。渇きが、こめかみのあたりで、破裂した。その破片が、意識の表面にちらばって、ぶつぶつの斑点になった。
顎をひき、胃の上に手をあてがって、やっと吐き気をこらえた。
女の声がした。崖にむかって、呼びかけているのだった。重い瞼のあいだから、のぞいて見る。最初に彼をここに案内してくれた、例の老人が、ロープの先にかけたバケツを、たぐり下ろそうとしているところだった。水だ!……とうとう、やって来たのだ!……バケツが傾き、砂の斜面に、しみをつくった。正真正銘、まぎれもない水だ!……男は、わめき、宙を泳いで駈けよった。
バケツが、手のとどくところまで来ると、男は女をおしのけ、足をばたつかせながら、しっかり両手でおさえこんだ。ロープをはずすさえ、もどかしげに、いきなり顔ごとつっこみ、ポンプになって体を波打たせる。顔をあげ、息をついでは、またつっこむ。三度目に、顔をあげたときには、鼻と唇の端から、水が吹きだし、苦しげにむせかえった。ぐにゃりと膝を折って、眼をとじた。こんどは女が、バケツをかかえこむ番だ。女も負けずに、全身ゴムの弁になったような音をたて、たちまち中身は、半分に減ってしまう。
女がバケツをさげて、土間に引返し、老人がロープを、たぐりはじめた。とっさに男は跳ね起き、ロープにすがって哀訴した。
「待ってくれ! ちょっと、聞いてほしいんだ! 聞くだけでいいから、待ってください!」
老人は、さからわずに、手をとめた。困惑気味に、目をしばたたいたが、ほとんど無表情のままである。
「水をもらった以上、するだけのことはします。その約束のうえで、聞いてほしいんだ。あんた方は、絶対に計算ちがいをしている……ぼくは学校の教師なんですよ……仲間もいれば、組合もあるし、教育委員会や、PTAだってひかえている……ぼくが行方不明になったことを、世間が黙っているとでも思っているんですか?」
老人は、舌の先で上唇をしめすと、気のなさそうな薄笑いをうかべた。いや、薄笑いなどではなく、ただ風といっしょに吹きつける砂を防ごうとして、眼尻に皺をよせただけだったのかもしれない。しかし、やっきになった男には、皺の一本だって、見のがせなかった。
「なに? なんだって?……まさか、あんたにだって、これが犯罪すれすれだってことが、分らないわけじゃないんでしょう?」
「なにね、あれから十日も経ったが、べつに駐在からの、沙汰があったわけじゃなし……」老人は、ひどく律儀そうに、一言一言をゆっくりと確かめながら、「十日たっても沙汰なしとなれば、やはり、まあ、なんだろうねえ……」
「十日じゃない、一週間だ!」
それっきり老人は口をつぐんでしまう。たしかに、ここでそんな言い合いをしてみても、はじまらない……男は、はやる心をおさえて、背筋に定規をあてがったような声色で、
「まあ、そんなことは、どうでもいい……それより、下に降りてきて、ゆっくり腰をすえた話し合いをしませんか? 絶対に変なまねなんかしない。しようったって、多勢に無勢じゃ、かないっこないんだから……約束します。」
やはり老人は黙ったままだ。男は次第に、息をはずませながら、
「そりゃ、ぼくにだって、この砂掻きの仕事が、部落にとって、どれほど重要なことか、分らないわけじゃない……なんと言ったって、生活問題だからね……深刻ですよ……よく分ります……なにも、こんなふうに強制までされなくたって、あんがい、自発的に協力する気になっていたかもしれないくらいだ……本当だとも! この実情を見れば、協力したくなるのが、人情ってものでしょう? しかし、だからと言って、こんなやり方だけが、果して真の協力だろうか?……ぼくは疑いますね……もっと他に、適切な協力の方法が考えられなかっただろうか?……人間には、適材適所ってことがある……所を得なければ、せっかくの協力の意志も、くじけてしまう……そうでしょう?……なにもこんな危い綱渡りまでしなくたって、もっとましな、ぼくの使い道があったんじゃないでしょうか?」
老人は、聞いているのか、聞いていないのか、ぼんやり首をまわして、じゃれつく猫をはらい落すような仕種をした。それとも、やはり、火の見櫓の監視を気にしているのだろうか? 彼と話し込んでいるところを見られては、具合がわるいのだろうか?
「いいですか……たしかに、砂掻きは、大事なことだ……しかし、それは手段であって、目的ではない……目的は、いかにして砂の脅威から生活を守るかだ……ね、そうでしょう?……さいわいぼくは、砂についての多少の研究もつんでいる。とくに深い関心を持っているんですよ。だから、こうして、わざわざこんな所までやって来たわけだ。まあ、言ってみれば、砂には現代人をひきつける、不思議な魅力があるんですね……この点を利用するっていう手もあるわけだ……新しい観光地として発展させていく……砂にさからうのではなく、砂に従って、それを利用する……つまり、思いきって、頭の切りかえをしてみるんですよ……」
老人が眼をあげ、気がなさそうに、ぽつりと答えた。
「観光地には、やはり、温泉がなけりゃねえ……それに、観光でもうけるのは、いつも商人か他所者と、相場がきまっておるし……」
思いなしか、嘲《あざけ》りの気配が感じられ、男はふと、観光絵葉書のセールスマンが、彼と同じ運命にあって病死したという、女の話を思いだした。
「そう……もちろん、そんなことは、ほんのたとえ話ですよ……砂の性質にあった、特殊な農作物だって考えられるわけでしょう?……要するに、無理して古い生活様式にこだわっている必要はないということなんだな……」
「そりゃ、いろいろと、研究はしておりますわ……落花生や、球根の栽培なんぞも、ためしておりますしな……チューリップなんか、あんた、見せたいくらいの出来栄えでねえ……」
「じゃあ、砂防工事はどうなんです?……本格的な砂防工事……ぼくには、新聞記者の友人もいるしね……新聞をつかって、世論を動かすことだって、不可能じゃない。」
「世間様から、いくら情けをかけていただいたところで、肝心の補助金をまわしていただかないことには、なんともなりません。」
「だから、その補助金を獲得する運動をおこそうってわけですよ。」
「役所のきまりで、飛砂《ひさ》の被害は、災害補償の枠に入っちゃいないらしいんですわ。」
「それを認めさせるように、働きかければいい!」
「こんな、貧乏県に、なにが出来るもんですかね……私ら、はっきり愛想つかしております……とにかく、いまのやり方が、いっとう安上りなんだね……役所なんぞに、まかせておいたら、それこそ、そろばんはじいている間に、こちとら、とっとと砂の中でさあ……」
「しかし、ぼくにだって、ぼくの立場というものがある!」たまりかね、ついに肺をよじらせて叫びだし、「あんたたちだって、子の親なんでしょう? それなら、教師の義務というものが、分らないことはないはずだ!」
とたんに、老人が、ロープを引き上げた。不意をつかれた男は、うっかり手を離してしまう。なんていうことだ……ただ、ロープを取り上げる機会を待つために、話を聞くふりをしていただけなのか……呆然と、さしのべた両手を、宙におよがせる。
「気違いじみている……正気じゃないよ……こんな、砂掻きなんか、訓練すれば、猿にだって出来ることじゃないか……ぼくには、もっと、ましなことが出来るはずだ……人間には、自分のもっている能力を、じゅうぶんに役立てる義務があるはずだ……」
「さあねえ……」老人は、世間話の席から腰をあげるような、さりげない調子で、「まあ、なにぶん、よろしくお願いいたしますわ……わしらに出来るだけのお世話は、いたしますから……」
「待て! 冗談いうな! おい、待ってくれよ!……後悔するぞ!……あんたには、まだ、ぜんぜん分っちゃいないんだ!……たのむ……待ってくれってば!」
しかし、老人は、もう振向きもしなかった。重い荷物をかつぎでもするように、すくめた肩から立上り、三歩あるくと、その肩が見えなくなり、四歩目には、すっかり視界から消え去ってしまった。
男は、ぐったり、砂の壁によりかかった。両腕と頭を、砂の中にめりこませた。襟元から流れこんだ砂が、シャツとズボンの境で、ごろごろ枕のようになる。いきなり、胸、首筋、額、内股の順に、はげしく汗がふきだしてきた。いま飲んだ水が、そっくりそのまま、流れ出してしまうのだ。汗と砂が化合すると、芥子入りの貼り薬にでもなるのか、ひりひりと皮膚にしみた。皮膚は、はれあがって、ゴムびきの合羽になる。
女は、すでに、仕事にかかっていた。とつぜん、男は、深い疑いにとらわれる。残りの水を、女が飲みつくしてしまったような気がしたのだ。あわてて家に引返す。
水はそっくり残っていた。もう一度、三口か四口を一気に飲み下し、あらためてその透明な鉱物の味に驚嘆しながらも、やはりこみあげてくる不安は、かくしきれない。これではとうてい、夕方までも、もちはしないだろう。もちろん、食事の仕度など、できっこない。連中は、ちゃんと、計算ずみなのだ。渇きの恐怖を手綱にして、たくみにおれを、あやつるつもりなのだ。
麦藁で編んだ日除けの帽子を目深かにかぶり、追われるように、外に出る。思考も、判断も、渇きの前では、熱にほてった額に降った雪の一とひらにしかすぎなかった。十杯の水が飴なら、一杯の水はむしろ鞭にひとしい。
「どこにあったんだい、そのスコップは……?」
女は、ちらと軒下を指さし、疲れた微笑をうかべ、袖口を額の汗におしあてた。ねじふせられながらも、とっさに、道具の仕末だけは忘れなかったものらしい。砂のなかで暮しつけた者が、しぜんに身につけた心構えなのだろう。
スコップを手にしたとたんに、折りたたみ式の三脚のように、疲労で骨がずるずると短くなる。そう言えば、昨夜からほとんど一睡もしていないのだ。なにはおいても、最少限しなければならない仕事の量を、あらかじめ女と打ち合わせておく必要がありそうだ。しかしもう、口をきくのも、おっくうだった。老人相手に、力を出しきったせいか、声帯が、のしいかの繊維のように、ぼろぼろになってしまっている。機械のように、女とならんで、スコップをふるいだす。
二人は、もつれ合うようにして、崖と建物のあいだを、掘り進んだ。板壁は、ぶよぶよ、生乾きの餅のようで、そのまま蕈《きのこ》の苗床になりそうだった。やがて、一カ所に、砂の山ができる。石油罐に入れて、広い場所に搬び移す。うつしおえると、また先に、掘りすすむ。
ほとんど、意志をもたない、自己運動だ。卵の白身の味がする、口いっぱいの、あぶくだらけの唾……顎に流れ、胸にしたたっても、気にしない。
「お客さん、左手は、こう、もっと下のほうを握って……」女が、そっと注意してくれた。「そこは動かさずに、右手を梃子のようにつかえば、ずっと疲れも少なくてすみますよ。」
鴉《からす》の鳴き声がした。とつぜん、光線が、黄から青に変った。大写しになっていた苦痛が、そっと周囲の風景のなかに引いて行く。四羽の鴉が、海岸と平行に、低くすべるように飛んでいった。ひろげた翼の先が、暗緑色に輝き、すると男は、なぜか殺虫瓶のなかの青酸カリのことを思い出していた。そうだ、忘れないうちに、別の容器にうつして、ビニールでくるんでおこう。湿気にあうと、あいつはすぐにどろどろに融けてしまう……
「これぐらいで、いまは、やめておきましょうか……」
女が言って、崖を見上げた。さすがに、女の顔も、かさかさになり、はりついた砂の層を透してでも、血の気が失せてしまっているのがよく分った。とたんに、あたりが暗く、錆色に塗りつぶされる。かすんでいく意識のトンネルのなかを、手さぐりで進み、魚のはらわたのように脂のにじんだ寝床にたどりつくのが、やっとだった。女が、いつ戻って来たかは、もう記憶にない。
22
筋肉の隙間に、石膏を流しこまれたら、おそらくこんな気分になるにちがいない。目は、覚ましているつもりなのに、なぜこんなに暗いのだろう? どこかで、鼠が、巣をつくる材料でもひきずっているらしい……喉がひりひり、やすりを当てたように痛んでいる……内臓が、汚物処理場のように、泡をたてている……タバコが吸いたい……いや、その前に、水が飲みたい……水!……とたんに、現実に引き戻される……そうだ、あれは鼠などではない、女が仕事をはじめているのだ!……一体どれぐらい睡っていたのだろう?……起上ろうとして、また、おそろしい力で、ふとんの上に、ねじ伏せられた……思いついて、顔の手拭をむしりとると、開けはなたれた戸口から、ゼラチンを透したような月明りが、淡く涼しげにさしこんでいる。いつの間にやら、また夜だった。
枕元に、やかんと、ランプと、焼酎の瓶がおいてあった。さっそく、片肘をついて、口をすすぎ、すすいだ水を、いろりめがけて、吐きとばした。ゆっくりと、味わいながら、喉をうるおした。ランプのわきをさぐると、柔らかな包みが手にふれ、マッチと、それにタバコもあった。ランプをともし、タバコに火をつけ、焼酎を一口、かるく含んでみた。ばらばらだった意識が、おもむろに形をととのえてくる。
包みの中は、弁当だった。まだぬくもりが残っている、麦のまざった握り飯三つ、めざし二本、乾いた皺だらけのたくあん、それに苦い味のする野菜の煮つけ……野菜はどうやら、干した大根の葉らしい。めざし一本に、握り飯一個が、やっとだった。胃が、ゴム手袋のように、冷たくひえていた。
立上ると、節々が、風に鳴るトタン屋根の音をたてた。こわごわ、水甕をのぞきこむ。口元までたっぷり補充されていた。手拭をぬらして、顔におし当てた。戦慄《せんりつ》が、螢光を発して、全身をつらぬいた。首と、脇の下を洗い流し、指のまたの砂を拭きとった。人生の目的も、この瞬間でとめておくべきものなのかもしれない。
「番茶でも、いれましょうか?」
戸口に女が立っていた。
「いいよ……すっかり水っ腹なんだ。」
「よく睡れましたか?」
「一緒に起してくれりゃよかったのに……」
うつむいて、女はくすぐったそうな笑い声をたてた。
「本当に、途中で、三度も起きて、顔の手拭をかけなおしてあげたんですよ。」
大人の愛想笑いの使いみちを、やっとおぼえたばかりの三歳の子供がみせる、あの媚態《びたい》だ。いそいそした気持を、どう表現していいのか分らず、まごついている様子が、むきだしになっている。うっとうしげに、男は目をそむけた。
「掘るほうを手伝おうか?……それとも、搬んだほうがいいかな?」
「そうですねえ……もうじき、次のモッコが来るころですから……」
いざ仕事にかかってみると、なぜか思ったほどの抵抗は感じられないのだ。この変化の原因は、いったい何だったのだろう? 水を絶たれることへの恐怖のせいだろうか、女に対する負い目のせいだろうか、それとも、労働自身の性質によるものなのだろうか? たしかに労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ。
いつだったか、メビウスの輪にさそわれて、なにかの講演会を聞きに行ったことがある。会場は、低い錆びた鉄柵で、ぐるりと取りまかれ、柵の中は、紙屑や、空箱や、その他得体の知れないぼろ布などで、地面が見えないほどになっていた。設計者は、どういうつもりで、こんなものを取り付ける気になったりしたのだろう? すると、彼の疑問を写しとったように、鉄柵の上にかがみこみ、しきりと指先でこすってみている、くたびれた背広の男がいた。あれは、私服刑事なのだと、メビウスの輪が小声で教えてくれた。それから、会場の天井には、まだ見たこともないほど大掛りな、コーヒー色の雨もりの跡があった。そのなかで、講師が、こんなことを言っていた。――「労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」
指の輪を吹いて鳴らす、鋭い口笛の合図が聞えた。つづいて、モッコを引いて走る、屈託のない掛け声……さすがに、近づくにつれて、ひっそりとなる。無言のうちに、モッコがおろされる。はりつめた警戒の気配が感じられ、しかし今さら、壁にわめいてみても、はじまるまい。予定量の砂が、無事に搬び上げられてしまうと、ほっと緊張がゆるんで、空気の手ざわりまでが変ってしまったようだった。誰も、何も言わなかったが、これで当面の諒解《りょうかい》は成り立ったようでもある。
女の態度にも、はっきりした変化が見られた。
「一服しましょう……お茶をいれてきます……」
声も、動作も、はずんでいる。見当をつけそこねて、はみ出してしまったような、はしゃぎかただ。男は、砂糖をなめすぎたように、げんなりする。それでも、通りすがりに、後ろから、そっと女の尻をなで上げるくらいのことはしてやった。むろん、電圧が上りすぎれば、フィラメントは焼け切れてしまう。決して、そんなぺてんにかけたりするつもりはない。いずれは、幻の城を守る衛兵の話でもしてやるつもりである。
城があった……いや、城でなくても、工場でも、銀行でも、賭博場でもかまわない。当然、衛兵が、守衛か、用心棒であっても、一向に差支えないわけだ。さて、衛兵は、つねづね、敵の侵入にそなえて、警戒をおこたらなかった。ある日、ついに、待ちに待った敵がやってくる。ここぞとばかり、警告の合図を吹きならした。ところが、奇妙なことに、本隊からは、なんの応答もこないのだ。敵が、衛兵を、難なく一撃のもとにうち倒してしまったことは、言うまでもない。うすれていく意識のなかで、衛兵は見た。敵が、何者にもさまたげられず、門を、壁を、建物を、風のように通りぬけて行ってしまうのを。いや、風のようなのは、敵ではなくて、実は城のほうだったのだ。衛兵は、ただ一人、荒野のなかの枯木のように、幻影を守って立っていたのだった……
スコップに腰をおろして、タバコに火をつける。三本目のマッチで、やっと火がついた。水にたらした、墨のように、よどんだ疲労が、輪になり、くらげになり、くす玉になり、原子核模型図になって、にじんでいく。野鼠を見つけた夜の鳥が、嫌な声で仲間を呼んでいる。胃を吐きだして吠える、不安な犬。高い夜空で、鳴りつづける、速度のちがう風の摩擦音。地上では、一枚一枚、砂の薄皮をむいては流しつづける、風のナイフ。汗をぬぐい、手鼻をかんで、頭の砂を掻きおとした。足元の風紋は、ふいに動きを停めた波頭に似ていた。
もしこれが、音の波だったとしたら、一体どんな音楽が聞えてくるのだろう? 鼻の穴に、火箸をたたきこみ、その血糊で耳を詰め、歯を一本一本、槌でくだいて、その破片を尿道におしこみ、陰唇を切りとって、上下のまぶたに縫い合わせれば、人間でも、それくらいの歌は歌いだすかもしれない……残酷に似てはいるが、残酷とも、少しちがうようだ……ふと、自分の目玉が、鳥のように高く飛び立ち、じっと自分を見下ろしているような気がした。こんなところで、奇怪さについて考えている自分こそ、よほど奇怪な存在にちがいない。
23
Got a one way ticket to the blues, woo woo ――
(こいつは悲しい片道切符のブルースさ)……歌いたければ、勝手に歌うがいい。実際に、片道切符をつかまされた人間は、決してそんな歌い方などしないものだ。片道切符しか持っていない人種の、靴の踵は、小石を踏んでもひびくほどちびている。もうこれ以上歩かされるのは沢山だ。歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。そんな、傷だらけの片道切符を、鼻歌まじりにしたりできるのは、いずれがっちり、往復切符をにぎった人間だけにきまっている。だからこそ、帰りの切符の半分を、紛失したり、盗まれたりしないようにと、あんなにやっきになり、株を買ったり、生命保険をかけたり、労働組合と上役に二枚舌をつかったりもするわけだ。風呂の流し口や、便所の穴から立ちのぼる、片道切符の連中の、助けを求めるあきらめの悪い叫び声から、耳をふさごうとして、やたらに大きな音でテレビをかけたり、せっせと片道切符のブルースを口ずさんだりすることにもなるわけだ。とらわれた人間の歌が、往復切符のブルースであっても、いぶかることは少しもない。
男は、暇をみては、こっそりロープの用意をしはじめた。着替えのシャツをほぐして、撚り合わせ、それに女の死んだ亭主のへこ帯をつなぐと、五メートルほどになった。時がくれば、その端に、錆びた裁《た》ち鋏《ばさみ》を半開きにして、棒切れをはさんで固定したものを、しっかりとくくりつける予定である。むろん、ロープの長さは、まだ不充分だ。魚と唐黍を干してある土間の荒縄と、洗濯物用の麻縄を、一緒につなぎ合わせれば、ほぼ必要なだけの長さになってくれるだろう。
その思いつきは、かなり唐突にやってきた。だが、なにも、時間をかけてねり上げた計画だけが、首尾よく成功するとはかぎらない。そこにたどりつくまでの道すじが、意識されていないというだけで、突然のひらめきにも、ひらめいたなりの、もとでがかかっているのである。むしろ、下手にいじりまわしたものよりは、成功率も高いはずだ。
ただ、問題は、実行にうつす時間だった。脱け出す時は、女が寝ている、昼間の明るいうちがいいにきまっている。しかし、村を通過するには、やはり夜でなければ、具合がわるい。けっきょく、女が目を覚ます、ぎりぎり直前にここを出て、適当なところにしばらく身をかくし、日が沈むのを待って、行動を開始するという順序になるだろう。月の出までの、暗闇を利用して、バスが走っている国道まで出るのは、さほど困難なことではあるまい。
その間、男はたくみに、部落の地形や配置について、女から聞き出すことに努めた。海に面していながら、漁船一つないこの部落の経済は、どんなふうにして成立っているのか?……いつの時代から、こんな状態になったのか?……人口はぜんぶで、どれくらいあるのか?……チューリップの栽培は、誰が何処でやっているのか?……子供たちはどうやって学校に通うのか?……そうした間接的な知識でも、彼がここにたどりついた最初の日の、あのおぼろげな記憶と重ね合わせてみれば、おおよその地図はつくりあげることが出来た。
理想を言えば、部落の中は通らずに、迂回して逃げるに越したことはないわけだが、西側は、かなり険しい岬《みさき》にさえぎられ、高さはそれほどでないにしても、古い時代の波の浸蝕で、いわゆる屏風《びょうぶ》岩になっているらしいのだ。部落の連中が、たきぎを拾いに行くための足場はあっても、藪にさえぎられて、簡単には見分けがつきにくいらしく、あまりくどい聞き方をして、女に疑いをいだかせるのもまずかった。反対に、東のほうは、深くくびれた入江になっており、無人の砂丘を十キロ以上も上ったり下ったりしたあげく、結局ぐるりとまわって、また元の部落の出口あたりに舞い戻る仕掛けらしい。要するに、この部落は、屏風岩と入江で首をしめられた、砂の袋なのだ。まごまご時間をついやして、連中に警戒のゆとりを与えたりするよりは、思い切り中央突破の作戦に出たほうが、安全率も高そうである。
しかし、それで、問題が無くなったわけではない。たとえば、例の、火の見櫓からの監視の目だ。さらに、彼の脱走に気づいた女が、さわぎ立てて、脱け出す前に、部落の口が閉鎖されてしまう懸念もある。もっとも、この二つは、結局一つの問題に要約できるかもしれない。最初のモッコ搬びの連中が、水や定期の配給品をもってやって来るのは、何時もたいてい日が落ちた後、かなり経ってからだった。女が、彼の逃亡を、それ以前に告げようとすれば、やはり火の見の監視人を通じてしかないわけである。問題は火の見の監視をどうするかにしぼられる。
さいわい、このあたりでは、急激な気温の変化のせいだろう、日没前の三十分から一時間、きまって地表に靄がたちこめてくれる。熱容量の少ない砂の中の硅酸が、日中たらふく飲みこんだ熱を、いきなり吐き出してしまうためらしい。火の見から見れば、こちらは、ちょうど逆光線の方角にあたり、わずかな靄でも、厚い乳色の幕になって、すっかり視界をさえぎってしまうにちがいない。その点は、念のために、昨日のうちに、確かめておいた。海側の崖の下から、何度も手拭をふって、合図を送ってみたが、予想どおり、なんの応答もなかった。
実行は、計画を思いついてから四日目……いつも、行水用の水が配給されることになっている、土曜の夜をえらぶことにした。その前夜は、あらかじめ風邪をよそおって、ぐっすり眠っておくことにする。念のために、無理を言って、アスピリンを探して来させた。雑貨屋の奥に、棚ざらしになっていたものだそうで、すっかり変色してしまっていた。二錠を、焼酎といっしょに飲むと、効果はてきめんにあらわれた。女が、仕事をおえて戻って来るまで、モッコ搬びの音を一度聞いた以外は、ほとんど記憶にない。
久しぶりに、一人で働かされた女は、さすがに疲労の色が濃かった。遅めの炊事の仕度に、ただでさえ気がせいている女に、あれやこれやと無駄口をたたき、あげくに、前から具合のわるかった流し場の修理をしようなどと、もちかけたりする。しかし男の身勝手さは、足に根を生やしはじめたしるしでもあり、機嫌をそこねるのが恐さに、女は迷惑そうな顔一つ出来なかった。さて、一と仕事おえた後は、どうしても行水がしたくなる。とくに、寝汗でうるけた皮膚に、砂がはりつく気分は、なんともやりきれたものでない……ちょうど、行水用の水が配給になった日だったし、それに、男の体を洗うことに、特別な嗜好をよせていた女は、むろん拒んだりするはずがなかった。
洗われながら、男は、興奮をよそおい、やにわに女の着物をはぎとった。お返しに、相手の体も洗ってやろうというわけだ。女は、狼狽と期待のあいだで、立ちすくむ。拒もうとする手つきも、何を拒もうとしているのやら、はっきりしない。男は手早く、裸の上に、手桶《ておけ》の湯をあびせ、手拭をつかわず、石鹸をぬった手で、じかに女の体を撫でまわしはじめた。耳朶からはじめて、顎の下にうつり、肩をさすりながら、片手をまわして乳房をつかんだ。女は、声をあげ、男の胸から下腹に、ぬるぬるすべって、しゃがみこむ。むろん、待ちうける姿勢だ。だが男は、あせらない。ことさら、時間をかけて、細部から細部へと、丹念な摩擦の指を搬んでいく。
女の興奮は、当然、男にも感染した。しかし、いつもとはちがった、奇妙な哀しみのしこりがあった。女は、いま、夜光虫の波をあびたように、内側から輝いている。それを裏切るのは、逃がしてやった死刑囚に、いきなり後ろから発砲するようなものだ。さめていく感覚に、鞭うとうとして、ひときわ男は狂暴にふるまった。
だが、倒錯した情熱にも、限度がある。はじめは、むしろせがんでいた女も、やがて、男の狂乱に、あからさまなおびえをみせる。男も、射精したあとのような、虚脱感におそわれる。そのたびにまた、勇気をふるいおこし、あれやこれやの卑猥な幻影の鎖でむちうって、乳首を口にふくみ、石鹸と汗と砂で、鉄粉まじりの機械油のようになった体を叩きつけ合っては、興奮をかきたてるのだ。すくなくも二時間は持続させるつもりだった。ついに女が、痛みを訴え、歯をがちがち鳴らせて、うずくまってしまった。その後ろから、兎のように、数秒でことを済ませた。水をかけて、石鹸をおとし、アスピリン三錠と湯呑いっぱいの焼酎を、いやがるのもかまわずむりやり飲ませてやった。これで、日暮れまでは……上手くいけば、モッコの連中に大声で呼び覚まされるまでは……ぐっすり、寝すごしてしまってくれるにちがいない。
女は、紙栓をされたような寝息をたてている……呼吸は、深く、長く、踵のあたりを軽く蹴ってみたが、ほとんど変化を示さない……情欲をしぼり出されてしまった古チューブだ。ずれかけている顔の手拭をなおしてやり、下腹でよじれて縄になっている着物を、膝のへんまで下ろしてやった。さいわい、計画の最後の仕上げに忙殺されて、感傷にふけったりする暇はない。目をつけておいた古鋏に、細工をしおえると、ほぼ予定の時刻になった。さすがに、出しなの一瞥には、ひきさかれるような痛みがあった。
穴の上縁から、一メートルほどのところに、淡い光が、輪になって浮んでいた。およそ、六時半から、四十分くらいの見当だろう。ちょうど頃合だ。両腕をつよく後ろに引き、首をまわして、肩の筋肉をときほぐす。
まず、屋根にのぼらなければならない。物を抛《ほう》るには、仰角四十五度に近いほど、効率がいいわけだ。本当は、屋根に上るにも、ロープを使って、具合を験してみたいところだったが、屋根に鋏が当る音で、女に目を覚まされたりしてはかなわない。テストははぶいて、裏手にまわり、以前なにかの干し場だったらしい、雨除けの名残りを足場にして、よじのぼることにする。半分、腐りかけた、細い角材なので、気骨《きぼね》がおれた。しかし、大変なのは、その後だった。飛砂に研ぎ出されて、屋根は、葺《ふ》きたてのように白く柾目《まさめ》を浮き立たせていたが、いざ乗ってみると、やはりしっけたビスケットのように、ぶよぶよなのだ。踏み抜いたりしては、ことである。這いつくばって、体重を分散させ、そろそろと先に進んだ。やっと棟までたどりつき、またがる姿勢で、膝で立つ。屋根の上も、すでに影の中だったし、西側の穴の縁の、凍った蜜色の淡いつぶつぶは、そろそろ靄の出はじめたしるしである。もう櫓の見張りを気にする必要はなさそうだ。
鋏から、一メートルばかりのところを、右手に持ち、投げ縄の要領で、頭上に輪を描いてまわす。目標は、モッコの上げ下ろしの際に、滑車がわりにしている、例の俵だ。縄梯子を固定できたくらいだから、かなりしっかり埋めこんであるにちがいない。しだいに廻転を早め、ねらいを定めて、ほうり投げた。まるで見当ちがいの方角に飛んでしまった。投げるという考え方がいけなかったのだろう。鋏は円周の切線にそって飛ぶわけだから、ロープが目標に対して、直角になった瞬間か、あるいはそのほんの直前をえらんで、ただ手を離せばいい。そう、その調子!……だが、残念ながら、今度は崖の途中に当って、落ちてしまった。廻転速度と、仰角のとりかたが足りなかったらしい。
何度か、繰返すうちに、距離も、方角も、かなり安定してきた。とは言え、命中にはまだほど遠い。幾分かでも、上達の気配が見えてくれれば、まだ気が楽なのだが、誤差がちぢまってくれる様子はさらになく、疲労と、あせりで、かえってむらがひどくなるようでさえある。どうやら簡単に考えすぎていたようだ。誰に、だまされたわけでもないのに、むしょうに腹立たしく、泣き出したいような気持だった。
もっとも、可能性は反復に正比例するという確率の法則に、嘘はなかったらしい。なんの期待もなく、ほとんど捨て鉢な気持で投げた十何度目かのロープが、まっすぐ俵の上をとおってのびてくれたのだ。ぞっと、口の中がしびれた。飲み込むはしから、生唾が、あふれ出した。だが、有頂天になるのは、まだ早い……やっと、籤《くじ》を買う金を、手に入れたというだけだ……当るか、当らないかは、これからなのだ。全神経をロープに托し、蜘蛛の糸で星をひきよせるような思いで、そっと手元に引きよせた。
手応えがあった。すぐには信じかねたが、ロープは事実動かない。さらに引く手に力をこめてみる……幻滅の瞬間を、今か今かと、身がまえて待ちながら……だが、もう、疑う余地はなかった。鋏の鈎は、がっちり俵に、咬みついてくれたのだ。なんて間がいいのだろう!……どえらく、ついていやがる!……この分だと、これから先も、うまく行ってくれるにちがいない!
いそいそと、屋根を降り、いまはただ静かに砂の壁を垂直に切っているロープの下に立つ。地上はもうすぐそこだ……信じられないほど、すぐそこなのだ……顔がこわばり、唇のまわりに、しびれが走った。コロンブスの卵は、きっと茹《ゆ》で卵だったにちがいない。あまり、あたためておきすぎると、かえって傷みが早いのだ。
ロープにつかまり、そろそろと、体重をかけていく。急に、ゴムのように、のびはじめた。ぎくりと、毛穴から、汗が吹き出した。さいわい、三十センチほどで、とまってくれた。すっかり、体重をあずけてみたが、どうやら今度は心配はなさそうである。手のひらに唾をはき、足の裏でロープをはさんで、のぼりはじめた。玩具の木登り猿の要領だ。興奮しすぎているせいか、額の汗が変に冷たい。なるべく、砂をかぶらずにすませようと、ロープだけをたよりにするので、体がくるくるまわって落着かない。思ったよりも、はかどらず、なるほど引力というやつはしぶといものだ。それにしてもこのふるえは、一体なんとしたことだろう? しまいに、腕が、意志とは無関係におどり出し、自分で自分を、はじきとばしそうになる。まあ、あの、毒にまみれた、四十六日間のことを思えば、無理もないかもしれない。一メートルはなれれば、百メートルの深みになり、二メートルはなれれば、二百メートルの深みになり、次第に深さを増して、目くらむばかりの深淵になる……疲れすぎているのだ……下を見てはいけない!……ほら、もうそこが地上だ……どちらを向いても、世界の果まで、自由に歩いて行ける道のついた、地上なのだ……地上にあがれば、すべては追憶の手帳のあいだで、小さな押し花になってくれるだろう……毒草だろうと、食肉植物だろうと、薄い半透明な一片の色紙になり、居間で、番茶でもすすりながら、電燈の光にかざして、世間話の薬味にすることができるのだ。
だからと言って、いまさら女をとがめたりするつもりなど、毛頭なかった。彼女が、淑女でもなければ、淫売でもなかったことは、おれがはっきり保証する。もし、添書が必要だというなら、判子の十や二十くらい、いつでもよろこんで押してやろう。ただ、おれと同じく、往復切符にしがみつくしか能のない、馬鹿な女だったということだ。しかし、同じ往復切符でも、出発地がちがえば、しぜん目的地もちがってくる。こちらの帰りの切符が、相手には往きの切符になっても、べつに不思議はないわけだ。
仮に女が、なにか勘違いしていたとしても、しょせん、勘違いは、勘違いにすぎない。
……下を見るな、下を見てはいけない!
登山家だろうと、ビルの窓拭きだろうと、テレビ塔の電気工だろうと、サーカスのブランコ乗りだろうと、発電所の煙突掃除夫だろうと、下に気をとられたときが、そのまま破滅のときなのだ。
24
うまくいった!
砂止めの俵に爪を立て、はがれそうになるのにもかまわず、しゃにむによじのぼる。そら、もう地上だ! もう手を離しても落ちる気づかいはない。それでも、かたく俵にしがみついたまま、しばらくは腕の力をぬくことが出来なかった。
その四十六日目の自由は、はげしい風に、吹きまくられていた。這いつくばっていると、顔や首筋に、ちかちか砂の粒が突きささった。こんなひどい風は、計算にいれていなかった!……穴の中では、普段より海鳴りの音が近いくらいにしか、感じられなかったし、いつもなら、ちょうど夕凪《ゆうなぎ》の時刻なのだ。しかしこれでは、靄など、とうてい期待できそうにない。すると、あの空のにごりは、穴の内側だけの現象だったのだろうか? それとも、飛砂の流れを、靄ととりちがえたのだろうか? いずれにしても、まずいことになったものである。
こわごわ、上目づかいに、うかがってみる……薄らいだ光のなかに、火の見櫓は、妙にひょろひょろと、傾いで見えた。意外に貧弱だし、距離も遠かった。だが相手は双眼鏡でのぞいているのだ、距離に期待はできない。もう見つけられてしまっただろうか?……いや、気がついたらすぐに、半鐘《はんしょう》を鳴らすはずだ。
つい半年ばかりまえの、ある嵐の夜、西の外れの穴で、ついに防ぎきれずに、家が半分埋まってしまったことがあるという。つづいて雨になり、雨をふくんだ砂は、二倍の重さになる。家は、マッチ箱をつぶしたように、くしゃりとつぶれ、さいわい怪我人は出なかったが、翌朝、その一家が逃亡をこころみた。半鐘が鳴りだしたと思ったら、五分とたたずに、裏の道を引きたてられて行く、老女の泣きわめく声が聞えたという。噂によれば、その一家には、脳患いの血筋があるらしいと、まことしやかな口調で、女はつけ加えていたが……
とにかく、ぐずぐずしてはいられない。思いきって頭を上げてみた。一面どんよりと赤味をおびた、砂の起伏にそって、けだるそうに長い影が落ち、影から流れ出した飛砂の膜が、次々と、また別の影の下に吸いこまれていく。その飛砂の膜のおかげで、うまく発見をまぬがれているのだろうか?……逆光の効果を確かめようと、振向いて、男は思わず目を見張った。沈みかけている太陽を、クレヨン色にぼかし、あたりを乳色にけむらせているのは、ただ飛砂のせいだけではなかったのだ。たちまち、吹きちぎられ、むしり取られながらも、やはり靄が、たえまなく地面から湧き出て来ている。こちらで吹き消されれば、あちらで湧き、あちらで追いはらわれれば、こちらから顔を出す……穴の中の経験で、砂が湿気をよぶことは、よく分ったが、これほどだとは思わなかった……まるで、消防が帰ったあとの焼跡の光景だ……むろん、逆光でやっと目立つ程度の、淡い靄だったが、それでも監視の目をくらませるには、いい迷彩になってくれるにちがいない。
靴をはき、まるめたロープを、ポケットにねじこんだ。鋏つきのロープは、いざというとき、武器としても役立ってくれるだろう。逃げる方向は、とりあえず、逆光がかばってくれる、西の方角だ。一刻も早く、日暮れまでをすごす、適当な隠れ場所を見つけ出さなければならない。
さあ、急ごう!……うんと、腰をおとして、低いところを走るのだ!……べつに周章てふためくことはない……慎重に、充分あたりに気をくばって、急ぐのだ……そら、そのくぼみに身をふせろ!……怪しい物音はしなかったか?……不吉な予感はないか?……なければ、立って、また前進だ……右によりすぎてはいけない!……右の崖は、低すぎて、中からのぞかれるおそれがある……
夜毎のモッコ搬びで、穴と穴とのあいだに、まっすぐ一本溝が刻まれていた。溝の右側は、起伏の多い、ゆるやかな斜面だ。その下に、二列目の家並が、ちょっぴり屋根をのぞかせて並んでいた。海側の列に守られているおかげで、崖もずっと低く、砂防用の粗朶垣《そだがき》も、ここではまだ役に立っているらしい。表の崖からなら、おそらく自由に出入りできる程度にちがいない。すこし姿勢を高くすると、ずっと部屋の奥の方まで見渡すことができた。広く、扇形にひらいた砂の起伏のかなめのあたりに、瓦屋根や、トタン屋根や、板葺きの屋根が黒く群がり……貧弱ながら、松林もあったし、池らしいものも見えた。わずかこれだけの風景を守るために、海に面した十数軒が、どれいの生活に甘んじているわけなのだ。
その、どれいの穴は、いま、道の左側に並んでいる……ところどころに、モッコを引き込む溝の枝があり、その先に、すり切れた俵が埋めこまれて、穴のありかを告げている……目をやるだけでさえ、苦痛だった。俵には、縄梯子を取り付けてないところもあったが、つけてある方が多いようだった。すでに脱出の意欲さえなくした連中も、少なくはないということだろうか?
そんな生活がありうることも、むろん理解出来なくはなかった。台所があり、火の燃えている竈《かまど》があり、教科書をつんだ机がわりのリンゴ箱があり、台所があり、囲炉裏があり、ランプがあり、火の燃えている竈があり、破れた障子があり、煤《すす》のたまった天井があり、台所があり、動いている時計や止っている時計があり、鳴っているラジオやこわれたラジオがあり、台所と、火の燃えている竈があり……そして、それらの間にちりばめられた、百円玉と、家畜と、子供と、性欲と、借用証書と、姦通と、線香立てと、記念写真など……恐ろしいほど完全な反復……それが心臓の鼓動のように、生存には欠かすことのできない反復であるとしても、心臓の鼓動だけが、生存のすべてではないこともまた事実なのだ。
しっ、早く伏せろ!……いや、なんでもない、ただの鴉だった……とうとう、つかまえて剥製《はくせい》にしてやる機会はなかったが、もうそんなことはどうでもいい。入墨やバッジや、勲章をほしがるのは、信じてもいない夢を、夢見ているときだけのことである。
やがて、部落の外れに出たらしく、道が砂丘の稜線に重なり、視界がひらけて、左手に海が見えた。風に辛い潮の味がまじり、耳や小鼻が、鉄の独楽をしばいたような唸りをあげた。首にまいた手拭がはためいて頬をうち、ここではさすがに靄も湧き立つ力がないらしい。海には、鈍く、アルマイトの鍍金がかかり、沸かしたミルクの皮のような小じわをよせていた。食用蛙の卵のような雲に、おしつぶされ、太陽は、溺れるのをいやがって駄々をこねているようだ。水平線に、距離も大きさも分らない、黒い船の影が、点になって停っていた。
そこから先、岬まではまだゆるやかな砂丘が、幾重にもうねりつづけているばかりだ。このまま進むのは、危険かもしれない。迷いながら、振返ってみると、さいわい火の見は小高い砂の隆起にさえぎられて、視界から切れている。姿勢を、すこしずつもたげていくと、すぐ右手の斜面の陰に、その角度からしか見えない掘立て小屋が、ほとんど横倒しになって埋もれているのが目にとまった。風下の方は、匙《さじ》ですくったような、深いくぼみになっている。
おあつらえ向きの隠れ場所だ……砂の肌は、貝殻の腹のようになめらかで、人が歩いたりした形跡はどこにもない……だが、おまえ自身の足跡はどうなるのだ?……たどってみると、三十メートルあたりから先は、もうすっかり拭き消されている……すぐ足もとのでさえ、みるみる崩れ、変形していく……風の日にぶっつかって、悪いことばかりでもなかったようだ。
小屋の後ろに、まわりこもうとしたとたん、中から黒いものが這い出してきた。豚のように、ずんぐりとした、赤犬だった。おどかしちゃいけない、あっちに行け! だが、犬は、じっと男を見返したまま、たじろぐ気配もない。片耳がちぎれ、不相応に小さな眼が、いかにも陰惨な感じだ。鼻をひくつかせている。吠える気だろうか? 吠えてみろ……ポケットの鋏をにぎりしめ……そんなことをしたら、こいつで、脳天に穴をあけてやるぞ! うなり声一つあげず、黙ってこちらをにらみ返す。野犬だろうか?……つやのない、すり切れた毛……皮膚病のあとらしい、鼻面のかさぶた……吠えない犬は、危険だという……畜生、なにか食い物を用意してくればよかった……そうだ、食い物といえば、青酸カリを忘れて来てしまったっけ……まあいい、女も、あの隠し場所には、まさか気がつくまい……小さく口笛を吹き、手を差しのべて、犬の気を引いてみる……返事のかわりに、燻製《くんせい》の鰊《にしん》のような、薄い唇をめくり上げ、隙間に砂がつまった黄色い牙をむきだした……こいつ、まさか、おれに食欲を感じたりしているのじゃあるまいな?……いやに太い喉をしていやがる……一と突きで、うまく、くたばってくれればいいのだが……
急に、犬は視線をそらせ、うなじを下げると、何事もなかったように、のっそり立去って行った。どうやらおれの殺気に負けたらしい。野犬をにらみ負かすとは、おれの気魄も、ちょっとしたものだ。ずるずる、くぼみの中にすべり込むと、そのまま斜面にもたれかかった。風からさえぎられたせいか、ほっと呼吸までが楽になる。犬は、風によろけながら、飛砂の向うに消えて行った。野犬がすみかにしていたということは、とりもなおさず、人間が近よらないことの保証でもあるだろう……犬のやつが、農協の出張所に告げ口でもしないかぎり、まずは安全とみてよさそうだ。じわじわと滲みはじめた汗さえ、いまはかえって気持がいい。静かだ!……まるでゼラチンの底に閉じこめられているようだ……いつ爆発するかも分らない、時限爆弾を抱えこんでいながら、それが目覚し時計のテンプの音ほども気にならない……メビウスの輪なら、たちどころに状況分析して、言うところだろう……
「そいつは、君、典型的な、手段の目的化による鎮痛作用ってやつだよ。」
「まったくだ、」彼は手もなく同感する。「しかし、手段だ、目的だと、そういちいち区別しなけりゃならないものだろうかねえ?……必要に応じて、適当に使いわけたって……」
「そうはいかないさ。まさか時間を縦に暮したりするわけにはいかないだろう? 時間ってやつは、本来横に流れるものと相場がきまっているんだ。」
「そいつを縦に暮してみたら、どういうことになる?」
「ミイラになるにきまっているじゃないか!」
男は、くすくす笑って、靴をぬいだ。たしかに時間は横に流れているらしい。靴の中にたまった汗と砂とが、我慢できなくなったのだ。靴下もぬいで、指のまたをひろげ、風を当ててやる。それにしても、動物のすみかというのは、どうしてこう嫌な臭いがするのだろう?……花のような匂いの動物がいたって、一向に差支えないと思うのだが……いや、これは、おれの足の臭いだ……そう思ってみると、急に親しみがわいてくるのだから、おかしなものだ……誰だったか、自分の耳垢の味ほどうまいものはない、本場もののチーズ以上だなどと言っていたやつがいたっけ……それほどではないにしても、腐った虫歯の臭いなどには、たしかにいくら嗅いでも嗅ぎあきない蠱惑的《こわくてき》なものがある……
小屋の入口は、半分以上砂にふさがれていて、ほとんど見透しがきかなかった。古井戸の跡だろうか? 砂を防ぐためには、小屋掛けの井戸があっても不思議はないわけだ。もっとも、こんなところから水が出るとは思えないが……のぞこうとして、こんどは本物の犬の体臭をあびせかけられた。動物の体臭というやつは、たしかに哲学以上の存在だ。朝鮮人の精神は好きだが、あの臭いだけは我慢できないと言った、社会主義者がいたっけ……それにしても、時間が横に流れているものなら、さっと流れて見せてくれればいい!……期待と、不安……解放感と、あせり……こんなふうにじらされるのが、いちばんやりきれない。顔に手拭をかけて、仰向けに倒れ込んだ。こいつは、おれの臭いだが、おせじにも上等とは言いかねる。
もぞもぞと、何かが足の甲を這っている……ハンミョウ属なら、あんな歩き方はしっこない……どうせ、貧弱な六本足でやっと体重を引きずっている、ゴミムシかなんぞに決っている……男はもう、たしかめてみる気さえしなかった。もっとも、それが仮に、ハンミョウ属だったとしても、果して追い掛ける気になっていたかどうかは、疑わしい。おそらく、彼自身にも、確答はできなかったにちがいない。
風で、手拭がめくれ上った。眼の端で、砂丘の稜線の一つが、金色に輝いた。なだらかに盛上ってきた曲面が、その黄金の線を境に、急角度で影のなかにすべりこむ。その空間の構成には、異様に緊迫したものがあり、男は妖しいまでの人恋しさに、ぞっとしてしまった。――(さよう。まったくロマンチックな風景です……こういう風景こそ、最近の若い観光客には、大もてなんですな……大した優良株だ……その道の経験者として、将来の発展は、絶対に保証しますよ。ただし、そのためにも、まず宣伝! 宣伝しなけりゃ、蠅だってよりつきやしません……知らないってのは、無いと同じことですからな……とんだ宝の持ち腐れです。では、どうすればよろしいか?……腕のいい写真家に頼んで、きれいな、楽しい、絵葉書をこさえます。昔は、名所があってから、後で絵葉書が出来たもんだ……ところが今じゃ、まず絵葉書……それから名所が出来るってのが、常識なんですね。ここに、二、三、見本を持って参りましたから、とにかくそいつをご覧いただくことにして)――罠にかけたつもりで、逆に罠にかかり、そのまま病死してしまった、哀れな絵葉書屋のセールスマン。だが、その絵葉書屋が、からっきしの舌先三寸だったとも思えないのだ……あんがい本気で、ここの風景に夢を托し、事業を賭けていたのかもしれない……一体、この美しさの正体は、何なのだろう?……自然のもつ、物理的な規律や、正確さのためか、それとも逆に、あくまでも人間の理解を拒みつづけようとする、その無慈悲さのせいなのか?
もっとも、昨日までだったら、そんな風景のことなど、考えただけでも胸がむかついたにちがいない。事実、絵葉書屋などという、ぺてん師になら、まさにおあつらえの穴だと、つい腹立ちまぎれに思ったものだった。
とは言え、あの穴の生活と、この風景とを、対立させて考えなければならない理由はどこにもない。美しい風景が、人間に寛容である必要など、どこにもありはしないのだ。けっきょく、砂を定着の拒絶だと考えた、おれの出発点に、さして狂いはなかったことになる。1/8m.m.の流動……状態がそのまま、存在である世界……この美しさは、とりもなおさず、死の領土に属するものなのだ。巨大な破壊力や、廃墟の荘厳に通ずる、死の美しさなのだ。……いや、ちょっと待ってくれ。だからと言って、おれが往復切符を握って離さなかったことを、云々されたりしたのでは、立つ瀬がない。猛獣映画や、戦争映画のたのしみは、たとえ心臓病が悪化するほど、真に迫ったものであったとしても、ドアを開ければすぐそこに、昨日のつづきの今日が待っていてくれるからなのだ……映画館に、実弾をこめた銃を担いで行ったりする馬鹿が、どこにいるものか……沙漠のなかで、風景に生活を調和させられるのは、水がわりに自分の小便を飲むという特別な鼠か、腐肉を餌にしている昆虫か、せいぜいまともなところで、片道切符しか知らない、遊牧の民ぐらいのものである。切符は、もともと片道だけのものと思い込んでいれば、岩にはりついた牡蠣を真似て、砂にへばりついてやろうなどという、無駄な試みもせずにすむ。もっとも、その遊牧も、今では畜産業と、呼び名まで変ってしまったが……
そうだ、女に、この風景の話をしてやればよかったのかもしれない……絶対に往復切符が通用する余地のない、砂の歌を、多少音程が狂ってもかまわないから、聞かせてやっていればよかったのかもしれない……だのに、おれのしたことと言ったら、たかだか、別の生活という餌で女を釣り上げてやろうという、下手な色事師の真似事にすぎなかった。精神までが、砂の壁に鼻面を抑えこまれて、紙袋をかぶった猫同様になっていたのだ。
稜線の光が、ふっと消えた……風景全体が、みるみる闇に沈んでいく。いつか、風もおさまり、この分だと、靄も、また勢いをとり戻しはじめているにちがいない。この急な日暮れも、多分そのせいなのだろう。
さあ、出掛けよう。
25
モッコ搬びの連中が、仕事にかかる前に、とにかく部落を、通り抜けてしまわなければならない。これまでの経験からすれば、あと約一時間の猶予はある。安全を期して、四十五分とみておこう。岬の延長が、部落を抱き込むように、次第に奥に曲りこみ、東側の入江まで達して、部落の通路を狭い一本の道にしぼっているわけだが、その辺になれば、もう岬の屏風岩も終って、せいぜいが化粧剥げした、小高い砂丘といった程度のものらしい。靄ににじんだ部落の明りを右に見て、まっすぐ進めば、ほぼそのあたりに出る見当である。距離にして、約二キロ……その先は、もう部落の外だし、ぽつぽつ、砂まじりの落花生畠があるくらいで、家らしいものがあった憶えはない。丘さえ越えてしまえば、あとは道を通ることにしてもいいだろう。一応、赤土を下地にした道だったし、力いっぱい駈け出せば、国道までざっと十五分。そこまで行きつけば、もうこっちのものだ。バスも走っていれば、人間の正気も走っている……
そこで、部落を抜け出すまでの持ち時間は、差し引き三十分という計算だ。この砂地で、時速四キロは、かなりの難行である。砂地の辛さは、足がめりこむことより、踏み切るときの、力の無駄にある。駈け足などは、浪費もはなはだしい。むしろ踏みしめるような大股のほうが、能率的なくらいである。ただ、砂は、力を吸収した埋め合わせに、足音のほうも吸い取ってくれる。足音を気にしないですむところが、取柄といえばまあ取柄だろう。
ほら、足もとに気をつけろ!……ころんでも大したことはないと、たかをくくってしまうせいか、ほんのちょっとした隆起やくぼみにも、すぐにつまずいて、膝をついてしまう……膝をつくだけなら、かまわないが、万一、また深い砂の崖にでも出っくわしたら、どうするつもりなのだ!
あたりは暗く、砂はどこまでも不規則なうねりをくりかえす。うねりのなかに、またうねりがあり、その小さなうねりが、さらに幾つもの小刻みな起伏に分割されているのだ。目標に定めた部落の明りも、はてしないうねりの峰にさえぎられてめったに視界に入ってこない。そのあいだ、勘にたよって、修正しながら進むのだが、いつも呆れるほどの誤差があった。おそらく、無意識のうちに明りを求めて、つい高いところに足がむいてしまうせいなのだろう。
そら、また違ってしまった! もっと左だ!……このまま行ったら、まっすぐ部落のなかに入りこんでしまう……もっとも小山みたいな丘を、三つも越えて来たっていうのに、明りはほとんど近づいていなかった……まるで、同じところを、どうどう巡りしているようである。汗が眼に流れこむ……一と足休んで、肩で息をつく。
女は、もう、目を覚ましただろうか?……目を覚まして、おれがいなくなったことに気づいたら、どんな反応を示すだろう?……いや、そうすぐには気づくまい……裏で、用便の最中だぐらいにしか思うまい……今夜、女は疲れている……暗くなるまで、寝すごしたことに驚いて、あわてて這い起きるのがやっとだろう……それから、股のあいだが、ばりばりに乾き、まだ微かに痛みの残っている火照りに、やっと今朝の狂態を思い出す……女は、ランプを手さぐりながら、はにかみ笑いを浮べることだろう……
だからといって、その笑いに、おれが義務や責任を感じなければならないという法はない。おれの脱出によって、女が失うものはと言えば、たかだかラジオと鏡でおきかえられる、生活の破片にしかすぎないはずだ。
「本当に、助かりますよ……一人のときと違って、朝もゆっくり出来るし、仕事じまいも、二時間は早くなったでしょう?……行くゆくは、組合にたのんで、なにか内職でも世話してもらおうと思って……それで、貯金してね……そうすれば、いまに、鏡や、ラジオなんかも、買えるんじゃないかと思って……」
(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)――まるで、人間の全生活を、その二つだけで組立てられると言わんばかりの執念である。なるほど、ラジオも、鏡も、他人とのあいだを結ぶ通路という点では、似通った性格をもっている。あるいは人間存在の根本にかかわる欲望なのかもしれない。いいとも、向うに着いたら、ラジオくらいすぐに買って送ってやるよ。あり金をはたいて、最高級のトランジスターでも買ってやる。
しかし、鏡のほうは、ちょっと受け合いかねるな。鏡はここでは、消耗品だ……半年目には、裏の水銀膜が浮き上がり、一年たつと、たえず空中を流れている砂の摩擦で、表のガラスまでが曇ってしまう……いまの鏡と同様、片眼をうつせば鼻がかすみ、鼻をうつせば、口がうつらないといったことになるわけだ。いや、なにも、もちの点だけを問題にしているわけじゃない。ラジオとちがって、鏡が通路になるためには、まず見てくれる他人の存在が前提にならなければなるまい。もはや、見てもらえる機会さえないものに、いまさら鏡がなんの役にたつ?
そら、ぎくりとして、耳をそばだてるがいい!……大便にしては、あまり時間がかかりすぎはしまいか……そのとおり、奴はまんまと、逃げおおせてしまったのだ……わめき立てるだろうか?……呆然自失するだろうか?……それとも、ちょっぴり、涙ぐむだけだろうか?……どっちにしても、もうおれの責任じゃない……鏡の必要を拒んだのは、おまえ自身だったのだから。
「……これも、何かで読んだ話だが……ほら、最近は、大変な家出ばやりだろう?……生活環境の悪さのせいかと思っていたら、どうも、そればかりじゃないらしいんだなあ……なんでも、中程度の農家で、新しく土地を買い足したり、機械を入れたりで、経営もまあまあだった家の長男が、ひょっこり家出してしまったって言うんだよ。大人しい、仕事熱心な青年だったし、さっぱり原因が分らなくて、両親も頭をかかえこんでしまったらしい。農村じゃ、世間体だとか、つき合いの義理ってこともあるし、跡取りの家出ともなれば、よくよくの事情がなけりゃねえ……」
「そうですよ……義理は、なんたって、義理ですから……」
「そこで、親戚のものが、わざわざ出掛けて行って、話を聞いてみたらしい。ところが、実際にも、女と同棲しているわけじゃなし、道楽や借金に追いまわされている様子もなし、具体的な動機は、何一つないって言うんだな。それじゃ一体、どういうわけなんだ?……すると、青年の言い分ってのが、これまたさっぱり要領を得ない……ただ、これ以上我慢できないという以外、自分でもうまく説明できないらしいんだ。」
「本当に、世間には、向う見ずな人がいますからねえ……」
「しかし、考えてみれば、その青年の気持も分らないじゃない。百姓ってやつは、働いて土地をふやせば、それだけまた仕事の量も多くなる……結局、苦労に限りはないし、あげくに手に入れられるのは、もっとよけいに苦労できるという可能性だけだ……もっとも、百姓の場合は、米や芋の収穫というお返しがあるだけ、まだましってものかな? それにくらべると、この砂掻きときたら、まるで賽の河原の石積みじゃないか!」
「賽の河原って、あれ、しまいに何うなるんでしょうねえ?」
「どうもなりゃしないさ……どうにもならないから、地獄の罰なんじゃないか!」
「それで、その跡取り息子のほうは、それからどうなりました?」
「どうって、そりゃ、あらかじめ計画的にやったことだし、就職先ぐらい、前もって決めておいただろうさ。」
「それで……?」
「だから、そこに勤めたんだろう……」
「それで、その後……」
「その後って、まあ、給料日になれば給金をもらうだろうし、日曜日には、シャツを着替えて、映画にでも行ったりしただろうな。」
「それから?」
「そんなこと、直接本人に聞いてみなけりゃ、分りゃしないよ!」
「やっぱり、貯金がたまったら、ラジオを買ったりしたんでしょうねえ……」
……やれやれやっと登り切ったと思ったのに、まだ途中か……いや、ちがう……ここはもう平地だ……それじゃ、目標の明りは、どこに行ってしまったのだろう?……信じられない気持で、しばらく前進をつづけてみる……たしかにここは、かなりの丘の稜線の上らしい……それで、明りが見えないというのは、一体どうしたわけか? 不吉な予感に、足もとがすくんだ。どうやら、さっきの横着が失敗の原因だったらしい。急な坂を、方向もたしかめずに、すべり下りてしまった。想像した以上に、長い谷間だった。深いばかりでなく、幅も広かった。おまけに、幾層ものうねりが、その底でややこしく交錯し、それが判断を狂わせてしまったのだろう。それにしても、まるで明りが見えないというのは、腑に落ちない……たかだか行動半径一キロ以内の誤差である……迷ったところで、たかが知れている……気分としては、左に行きたいところだったが、それは部落に対する警戒心のせいかもしれず、むしろ明りに近づくためには、思いきって右を選ぶべきであるような気もする……間もなく、靄が晴れて、星も出るころだ……とにかく、なるべく展望を得るためには、方角を問わず、すこしでも高みへと登って行くのが、結果的には一番の早道だろう……
それにしても、分らない……女が、あの賽の河原に、なぜあれほど執着しなければならないのか、さっぱりわけが分らない……「愛郷精神」だとか、義理だとか言っても、それを捨て去るときに、一緒に失うものがあって、はじめて成り立つことではないか……いったい彼女が、失う何を持っていたというのだ?
(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)
むろん、ラジオは、送ってやるさ……しかし、結果からみて、かえってなくしたものの方が多かった計算になりはしまいか? たとえば、おまえが大好きだった、おれに行水をつかわせる儀式も、もうなくなってしまった。洗濯を犠牲にしてでも、おれの体を拭く水だけは、かならず残しておいてくれたものである。股のあいだに、湯をとばし、まるで自分がそうされたように、体をよじって、きゅうきゅう笑い声をたてたりする。もう二度と、あんな笑い声をたてる機会は、なくなってしまったのだ。
いや誤解してはいけない……おれと、おまえとの間には、契約めいたものなど、最初から何もなかった。契約がない以上、契約破棄ということもありえない。それに、おれの方にだって、ぜんぜん損失がなかったわけじゃないのだ。たとえば、あの、堆肥をしぼったような、一週一度の焼酎の臭い……雨樋のような筋肉がういてみえるおまえの内股の肉のはずみ……焦げたゴムのような、黒い襞にたまった砂を、唾でしめして指で拭きとる、破廉恥な感触……そして、それらをいっそう猥褻なものに見せる、あのはにかみ笑い……その他、合算していけば、かなりの額になるはずである。信じられないといっても、事実なのだ。男は、女以上に、ものの破片や断片に耽溺《たんでき》する傾向があるものだ。
さらに部落の仕打ちのことを考えに入れれば、おれがうけた被害は、とうてい計算しつくせないほどになる。二人のあいだの、個人的な貸し借りなど、問題ではない。いずれ徹底的な復讐をしてやるつもりだが……ただ、どうすれば最大の打撃になるのか、そこのところがまだよく分らない……最初は、部落全体に火をかけてやるとか、井戸に毒を入れてやるとか、罠を仕掛けて、責任者を端から穴のなかに引きずり込んでやるとか、そんな直接的な手段で、もっぱら空想に鞭うち、自分をはげまして来たものだが、いざ実行の機会をあたえられてみると、そう子供っぽいことばかりも言っていられない。いずれ、個人の暴力など、たかの知れたものだ。やはり、法律に訴えるしか、手はないだろう。その場合、はたして法律に、この事件の残酷さの意味が、どこまで理解できるものやら、多少の懸念もなくはないが……まあ、とりあえず、県の警察にだけでも、報告かたがたとどけておくとしよう。
そうだ、それから、最後に、もう一つだけ……
待て!……なんだ、いまの音は?……聞えなくなった……たぶん、そら耳だったのだろう。それにしても、部落の灯は、一体どこに行ってしまったのか? いくら地形が複雑だからといっても、ちょっと、ひどすぎる。想像できることは、おれの舵には左にふれる癖があり、岬の方に迂回しすぎて、部落との間を、どこかの高い稜線でさえぎられてしまったという場合だ……ぐずぐずしてはいられない……思いきり、右よりに、方向転換してみてやろう。
……最後に、もう一つだけ、忘れてほしくないことは、おれの疑問に、おまえ自身も、ついにはっきりとは答えられなかったという点だ。たしかあれは、二日つづいた、雨の日だった。雨が降ると、なだれの威力が増大するかわりに、飛砂の量もずっと減ってくれる。最初の日に、すこし仕事を余分にしておけば、翌日はずっと楽ができた。久しぶりのくつろぎを利用して、おれは執念深く、追求してみることにした。おまえを、ここに引きとめておくものの、正体を、皮膚病のかさぶたを剥ぐような根気で、つつきまわすことにした。われながら驚くほどの、ねばりようだった。はじめは、はしゃいで、裸を雨にうたせたりしていたおまえも、ついに追いつめられて、泣きだしてしまった。あげくに、ここを離れられない理由は、ほかでもない、以前台風の日に、家畜小屋と一緒に埋められてしまった、亭主と子供の、骨のせいだなどと言いだす。なるほど、それならば、納得もいく。すこぶる、実際的だったし、今までおれに言いづらかった気持も、分らなくはない。とにかくそのまま信じることにした。早速、翌日から、睡眠時間をけずって、骨さがしに当てることにした。
おまえが指示した場所を、二日にわたって、掘りつづけた。だが、骨どころか、小屋の破片一つ出て来やしない。するとおまえは、ちがった場所を示した。そこでも、やはり、何も見つからなかった。さらに、指定が変更される。こんなふうにして、場所で五回、日数にして九日にわたる無駄掘りのあげくに、おまえはまた泣き出しそうな顔で、弁解しはじめた。どうやら家の場所が変ってしまったらしい、絶え間ない砂の圧力で、母屋自身の位置も、角度も、ずれてしまったのかもしれず、ことによると穴自体も、もとの位置から移動したのかもしれないというわけだ。家畜小屋も、亭主と子供の骨も、隣との地境いの、厚い砂の壁の下になっているのかもしれないし、場合によっては、そっくり隣の庭に入りこんでしまった可能性もあるという。たしかに、理屈としては、ありうることだ。だが、おまえの、その不幸そうな、うちひしがれた表情は、嘘を言っている、というよりは、はじめから教えるつもりなど、少しもなかったことを、あからさまに示していた。骨も、要するに、口実にすぎなかったのだ。おれにはもう、腹を立てる気力もなかった。そして、それ以上、貸し借りにこだわるのはやめにした。そのことは、おまえだって、納得しないわけにはいかないと思うのだが……
何んだ、これは!……男はうろたえた、頭から地面に、つっ伏した……あまりの唐突さに、すぐには事情が飲み込めない……いきなり、部落の全景が、目の前にあったのだ!……部落に接した砂丘の峰に向って、直角に歩いて来ていたらしい……視界がひらけたとたんに、彼は部落の中に入りこんでしまっていた……判断をめぐらすゆとりもなく、すぐ間近の粗朶垣のあたりから、敵意をこめた犬のうなり声がした。つづいて、一匹、また一匹と、すさまじい連鎖反応をおこして、ひろがりはじめる。闇の中で、カタカタと、白い牙の群が舞いながら、迫ってくる。男は、鋏つきのロープをつかみ出し、はね上って、駈け出した。もはや選択の余地はない。あとは、村の出口に向って、最短コースを走るだけだ!
26
男は走った。
ランプの薄明りに浮ぶ、村の建物も、いまはただ、一本の軌跡にそった、通路と障害物の二つに区別されるだけである。音をたてて、狭い喉の隙間を流れる、風の味……生ぬるい鉄錆の味……いまにもくだけ落ちそうな、たわみきった薄いガラス板の上の、絶望的な賭。モッコ搬びの連中が、まだ家を出ていないと期待するには、すでに時間が遅すぎるが、海岸の方に、出はらってしまったことを期待するには、まだ早すぎる。現に、オート三輪の音を、耳にした憶えがない。あの気違いじみた二気筒エンジンの響きなら、一キロ先からだって、聞きのがすはずがなかった。条件としては、まさに最悪なのである。
ふいに、影のなかから、黒いかたまりが飛び出してきた。独特の、はげしい息づかいで、かなりの大きさの犬らしい。ただ、犬のほうも、攻撃用の訓練は受けていなかったらしく、せっかく歯を立てようという直前に、一声吠えるという、へまをやってくれた。すかさずふるった、ロープの先の鋏に、手応えがあり、犬は、うらみがましい悲鳴をあげて、ふたたび影に融ける。おかげで、ズボンの裾を食い裂かれただけですんだ。はずみで、足をとられはしたが、倒れながら一廻転して、立上るなりもう駈け出している。
だが、犬は一匹だけではなかった。五、六匹はいるようだった。最初の奴の失敗に気をくじかれたのか、遠まきに、強迫がましく吠えたてながら、隙をうかがっている。あの、ずんぐりした掘立て小屋の赤犬が、後ろの方から、けしかけているのかもしれない。半径五十センチほどの、ロープの廻転面をつくり、楯《たて》に構えて、左右に牽制《けんせい》しながら、空地の貝殻山をとびこえ、狭い粗朶垣の間を走りぬけ、藁をひろげた中庭をつっきり、やっと広い道に出る。さあ、もう一と息で部落の外だ!
道の手前に、小さな溝があった。その溝の中から、姉弟らしい幼い子供が二人、あわてて這い出してきた。気づいたときは、もう遅かった。ロープを脇によけるのが、せい一杯だった。三人、一と塊りになってころげこむ。溝の底に、樋のようなものがあり、板が砕ける鈍い音がした。子供が悲鳴をあげた……ちくしょう、なんだってそう、大げさにわめきやがるんだ!……力いっぱい、はねとばし、這い上ったとたんに、懐中電燈の光が三つ、横にならんで、行手をさえぎっていた。
同時に、半鐘が鳴りだした。子供が泣いている……犬が吠えつづけている……半鐘の一と打ちごとに心臓がちぢみあがり、毛穴が開いて、ぷつぷつ米粒のような虫が、無数に這い出してくる。懐中電燈の一つは、焦点調節式らしく、光がやわらいだかと思うと、またいきなり白熱する針になって、つき刺さってきた。
かまわず、蹴散らして、正面突破をしてやるか……そこを、越えれば、もう部落の外なのだ……あとで、後悔するもしないも、すべてこの瞬間にかかっている……さあ、ぐずぐずするな!……瞬間というものは、いますぐ捕まえなければ、間に合わない……次の瞬間に便乗して、後を追いかけるなどというわけには、いかないものなのだ!
そう思っている間にも、懐中電燈は、彼を包囲する体勢で、左右にひろがりながら、ゆっくり距離をちぢめて来ていた。ロープをつかんだ腕に、力をこめ、腰にはずみはつけてみたものの、なかなか決断がつかず、いたずらに脆《もろ》い地面に爪先をつき立てるばかりだ。ひろがった懐中電燈の間を、さらに幾つかの、黒い人影が埋めていた。おまけに、あの、穴のように見える道端の暗いかたちは、たしかにオート三輪である。かりに、一度はきりぬけてみても、すぐに後から、追いつかれてしまうだろう。後ろで、泣きやんだ子供が、駈けだす音がした。とっさに、すばらしい考えがひらめいた。子供をつかまえて、楯にすればいい! 子供を人質にして、やつらの接近をはばむのだ!……しかし、追いすがろうと振向いた目にも、またべつの光が待ちうけていた。道は絶たれた!
はじき返されるように、今来た路地を、力いっぱい、駈け戻っている。ほとんど、反射的な判断だったが、出来れば、岬のつづきの丘を、どこかで横切ってやるつもりだ。わめきながら、部落の男たちも、後を追いはじめる。あせりすぎか、関節が抜けたみたいに、膝が、がくがくした。それでも、一応は、意表をつくことになったらしく、時たま振向いて確かめられるくらいの、距離のゆとりは保つことができた。
どれだけ走っただろう……すでに、幾つもの傾斜をよじのぼり、斜面を駈け下りてきた。力めば、りきむほど、夢のなかのように、虚しく力が空転してしまう。だが、いまさら、力の効率を論じたりしているときではない。舌の奥から、血のまざった蜜の味が、あふれ出してくる。吐き出そうとしてもねばって吐き切れない。指をさしこんで、掻き出した。
半鐘は、鳴りつづけていたが、もう距離も遠く、まばらだった。犬も、あきらめの悪そうな、遠吠に変っている。いま、あたりの空気をかき乱しているのは、むしろ鋳物にやすりを掛けるような、彼の呼吸音だ。追手の灯は、相変らず、三つ横に並んで、上下にゆれながら、とくに近づいた様子もなければ、遠ざかった様子もない。逃げる側にとっても、追う側にとっても、この走りにくさは同じことなのだ。あとは、結局、耐久力の問題だろう。その点になると、しかし、あまり気休めも言っていられなかった。緊張がつづきすぎたせいか、ふと、意識に断層ができ、いっそのこと、早く力つきてしまってほしいと願うような、弱気がかすめたりする。危険な兆候だ……その危険を自覚しているうちは、まだいいのだが……
靴にびっしり、砂がつまって、爪先が痛みだした。振向くと、いつか追手は、右後方、七、八十メートルのところにまで、遠のいている。なんだって、あんなに、コースを外れてしまったのだろう? おそらく、斜面をさけようとしすぎて、かえって、あんな不手際をしでかしてしまったのだ。けっこう向うも疲れてきたらしい……追手の方が、疲れやすいとは、よく言うが……すばやく、靴をぬいで、はだしになる……ポケットをふくらませては、邪魔になるので、ズボンのバンドにはさみ込むことにした。気をとりなおして、かなりの坂を、一気に駈けのぼった。この調子だと、うまくすると、連中を適当にまいてしまえないとも限らない……
月はまだ出ていなかったが、星明りで、ぼんやりあたりが濃淡のむらをつくり、むろん、遠くの稜線などは、はっきり見分けることができた。どうやら、岬の先端あたりに、向っているらしい。よくよく、おれの舵は、左にふれるくせがある。向きを変えようとして、はっとした。それは、とりもなおさず、追手との距離をちぢめることだ。はじめて、追手の意図に気づいて、愕然とする。
一見、不器用そうにみえた、彼等の追跡は、じつは、彼を海の方に追いつめようという、きわめて計画的なものだったのだ。知らずに、彼は、誘導されていた。考えてみれば、あの懐中電燈だって、わざわざ自分たちの位置を教えていたようなものである。つかず、離れずの、この距離のとり方だって、おそらく、計算ずくでのことだったにちがいない。
いや、あきらめるのは、まだ早い。どこかには、屏風岩をのぼる道もあるということだし、いざとなれば、海を泳いで、岬の裏側にまわることだって不可能とは言いきれまい。捕まって、つれ戻されることを思えば、いまさら迷ったりする余地はないはずだ。
長いゆるやかな上り坂につづく、急な下り坂……急な上り坂につづく、長いゆるやかな下り坂……一と足、一と足を、ビーズ玉をつなぐように、つぎ足し重ねていく、忍耐の連続だ。いつか半鐘は鳴りやんでいる。風も、海鳴りも、耳鳴りの音も、もう区別がつかない。坂を一つ這い上ったところで、振り向いてみた。追手の明りは消えていた。一呼吸、二呼吸まで待ってみたが、やはり現われない。
うまく、逃げきれたのだろうか?
期待のたかぶりが、心臓の圧力をあげ、そうだとすれば、なおさら、休むわけにはいかない……さあ、もう一と息、次の丘までつっ走れ!
急に、走りづらくなった。やたらに、足が重い。この足の重さは、尋常でない。ただ、そう感じているだけでなく、実際に、足がぬかりはじめているのだった。雪のようだ、と思ったときにはすでに、脛《すね》の半分くらいまで、めり込んでしまっている。驚いて、抜きとろうと、ふんばった反対側の足が、こんどは膝まで、ずぶずぶともぐってしまった。なんていうことだ……人食い砂と言うようなものがあることを、話には聞いたことがあるが……なんとか、脱け出そうと、もがいてみるのだが、もがけばもがくほど、ますます深く、めり込んで行く。両足とも、すでに、太股のあたりまで埋まってしまった。
さてはこれが、罠だったのか!……ねらいは海などではなく、ここだったのだ!……捕えたりする手間はかけずに、いきなり抹殺してしまう腹だったのだ!……まさしく、抹殺である……手品師のハンカチだって、これほど鮮やかにはやれはしまい……一と風吹けば、なにもかもが、消えて無くなる……コンクール一等賞の警察犬にだって、もう歯も立ちはしないのだ……いまさら、奴等が、のこのこ姿を現わしたりするはずがないじゃないか!……何も見なかったし、何も聞かなかった……馬鹿な他所者《よそもの》が一人、勝手に迷い込んで、消えていった……奴等は、少しも手を汚さずに、すませられるのだ……
沈んで行く……沈んで行く……もうじき、腰骨を越してしまう……一体、どうすりゃいいんだ!……接触面を広くすれば、それだけ面積当りの体重が軽くなり、多少でも沈下をふせげるかもしれない……両手をひろげて、がばっと伏せる……だが、もう、手遅れだった。腹ばいになると言っても、下半身は、すでに垂直に固定されてしまっているのだ。ただでさえ、くたびれている腰を、そういつまでも、直角に保ったりしているわけにはいかない。よほど訓練された軽業師ででもないかぎり、こんな姿勢には、いずれ限度がくる。
なんという暗さだろう……世界中が、眼を閉じ、耳をふさいでいる……おれが死にかけているというのに、誰も、振り向いてくれようとさえしないのだ! 唾の奥で、ひくついていた恐怖が、いきなり炸裂した。男は、だらりと口を開けて、けもののような叫び声をあげていた。
「助けてくれえ!」
きまり文句!……そう、きまり文句で、結構……死にぎわに、個性なんぞが、何んの役に立つ。型で抜いた駄菓子の生き方でいいから、とにかく生きたいんだ!……いまに、胸まで埋まり、顎まで埋まり、鼻の下すれすれまでやって来て……やめてくれ! もう、沢山だ!
「たのむ、助けてくれ!……どんなことでも、約束する!……おねがいだから、助けてくれよ!……おねがいだ!」
ついに男は、泣き出してしまった。それでもはじめは、一応自制のきいた、嗚咽だったのが、やがて、手離しの号泣に変り、男はその浅ましい崩壊感に、おぞけをふるいながらも、観念した。誰も見ていないのだから、仕方がない……実際こんなことが、なんの手続もなしに行われるなんて、あまりに不公平すぎる……死刑囚だって、死ねば、あとに記録を残してもらえるのだ……いくらだって、吠え立ててやるとも……誰も見ていないのが、悪いのだ!
だから、いきなり後ろから声をかけられたときの驚きは、ひとしお無惨だった。完全にうちのめされた。屈辱を恥じ入る気持さえ、トンボの羽に火をつけたような、あっけなさで、ちりちりと灰になってしまった。
「ほら、こいつに、つかまっていな!」
長い板切れがすべって来て、脇腹に当った。光の輪が、宙を切って、その板切れにとまった。彼は、不自由な上半身をねじまげながら、背後の気配に、哀願した。
「すみません、このロープで、引っ張って下さい……」
「まさか、あんた、根っこを、引っこ抜くようなわけにはいかないよ……」
どっと、後ろで、笑い声がおこる。はっきりはしないが、四、五人はいるらしい。
「いま、スコップを取りに行っているところだから、もうちょっとの辛抱だ……その板っ切れに、肘をあてがっていりゃ、心配はいらんから……」
言われたとおりに、肘をつき、頭をかかえこんだ。汗で、髪の毛が、ぐっしょり濡れている。ただ、一刻も早く、恥知らずな状態にけりをつけてほしいという以外、なんの感激も湧いてこなかった。
「しかし、なんだよ……わたしらが、あとを追って来たから、いいようなものの、この辺は、あんた、塩あんこと言って、犬も近づかんようなところだからねえ……まったく、あぶないとこだった……知らずにまぎれこんで、とり返しのつかんようになった者が、どれだけいたか分りゃしない……ちょうど、山かげになっておって、吹きだまりになるんだなあ……冬になると、雪が吹きだまる……その上に、砂が吹きだまる……また雪が吹きだまるといった具合で、約百年も、薄焼煎餅を重ねたみたいなあんばいになっておるんだと……こりゃ、町の学校に行っておった、元の組合長んとこの、次男坊の話だがね……面白いもんだねえ……底の方を、掘り返してみたら、何か、金目のものが出てくるかも分らんなあ……」
いったい、なんのつもりだ! いまさら、そんな、白々しい、罪のないような話しっぷりはやめてもらいたい……もっと、歯をむきだしにした文句でも並べてくれたほうが、ずっとこの場にはふさわしい……さもなければ、せめて、このぼろ屑のあきらめのなかに、そっとしておいてもらいたいものである……
やっと、背後がざわつき、スコップが到着したらしい。靴の底に、板を履いた、男が三人、よたよたと、遠まきに彼のまわりを掘り返しはじめる。砂は、ぽくぽく、層になってめくりとられた。夢も、絶望も、恥も、外聞も、その砂に埋もれて、消えてしまった。男たちの手が、肩にかかったときも、だから、びくりともしなかった。命ぜられれば、ズボンを下ろして、見ている前で、糞でもたれてみせただろう。空が明るくなり、間もなく月が出るらしい。女は、どんな顔をして、おれを迎えるだろうか?……どんな顔でもかまいやしない……今なら、殴られ屋にだって、なれそうだ。
27
男は、脇の下に、ロープをかけられ、荷物のように、再び穴のなかに吊り下ろされた。誰も、一言も口をきかず、まるで埋葬の儀式に立ちあってでもいるようだ。穴は、深く、暗かった。月が、砂丘の全景を、淡い絹の輝きでくるみ、風紋や足跡までも、ガラスの襞のように浮き立たせているというのに、ここだけは、風景の仲間入りさえ拒まれ、ただむやみと暗いばかりである。しかしべつだん、気にもならなかった。月を見上げただけで、目がくらみ、吐き気がしたほど、疲れきっていた。
女は、その暗がりのなかで、暗がりよりももっと暗かった。女につきそわれて、寝床のほうに足をはこびながらも、なぜか彼には女がまるで見えないのだ。いや、女だけでなく、すべての輪廓がぼやけてしまっていた。ふとんに、倒れこんでからでも、気持のうえでは、まだせっせと砂の上を駈けていたりする……そしてそのまま、夢の中でも、まだ走りつづけている……そのくせ、睡りは浅かった。モッコの往き来する音も、犬の遠吠えも、そっくり記憶に残っている。女が、夜食に戻って、枕元のランプを点けたのも、ちゃんと知っていた。途中で一度、水を飲みに起きると、それっきり目が覚めてしまった。そうかと言って、まだ女を手伝いに行くほどの気力はない。
所在ないまま、ランプをつけて、ぼんやりタバコをくゆらせていると、ずんぐりした、しかし敏捷そうな蜘蛛が一匹、ランプのまわりを、ぐるぐる廻りはじめた。蛾ならともかく、趨光性《すうこうせい》をもった蜘蛛とは珍しい。タバコの火で、焼き殺しかけたのを、ふと思いとどまる。蜘蛛は、十五センチか、二十センチばかりの半径で、時計の秒針のように、正確にまわりつづけていた。あるいは、単なる趨光性ではないのかもしれない。期待するものがあって、見まもるうちに、やがて一匹のナシケンモンが迷い込んで来てくれた。二度、三度、天井に大きく影をひらめかせ、ランプのほやに衝突すると、取手の金具にとまって、それっきり動かなくなってしまった。下司な外見に似合わず、いやに引っ込み思案な蛾だ。タバコを、胸のあたりに押しつけてやった。神経叢《しんけいそう》を破壊されて、じたばたもがいているやつを、蜘蛛の通路に、はじきこんでやる。すぐに、期待どおりの劇がはじまった。蜘蛛は、跳ねたと思った瞬間、もう生け贄の上にはりついている。やがて、動かなくなった獲物を、顎でくわえて引きずりながら、またのこのこと廻りだす。そうやって、蛾のジュースに、舌鼓をうっているらしいのだ。
こんな蜘蛛がいるとは、知らなかった。巣のかわりに、ランプとはまた洒落れている。巣では、受け身に待ちうけているしかないが、ランプを使えば、積極的に相手をおびきよせられるわけだ。ただし、この方法には、前提としてまず適当な燈火を準備されていなければならない。自然には、残念ながら、そんな灯はありえないのだ。まさか、月や、山火事の回りを、うろついたりするわけにもいくまい。するとこの蜘蛛は、人間以後に進化し、本能を定着させた、新種だというわけか?……説明としては、悪くない……だが、そうなると、蛾の趨光性のほうには、一体どんな説明をつけるつもりなのだ?……蜘蛛の場合とはちがって、ランプの灯が、なにか彼等の種の保存に役立ちうるとも思えない。しかも、燈火以後の現象らしいという点では、まったく同じなのだ。蛾が群をなして、月世界に飛び去ってしまわなかったのが、その何よりの証拠だろう。これがもし、ただ一種類だけの蛾の習性だというなら、まだ合点もいく。しかし、約一万種にもおよぶ蛾の、共通した習性だとなると、これはもはや厳然たる一つの法則だと考えるしかない。人工の灯によって、惹《ひ》き起された、この盲目で、狂熱的な羽ばたき……火と、虫と、蜘蛛の、いわれのない密通……法則が、こんな無謀な現われ方をするのなら、一体、何を信ずればいいと言うのか?
目を閉じた……光の斑点が、ただようように流れていた……捕えようとすると、急に速度をあげて、逃げてしまう……まるで、ニワハンミョウが、砂に残していった、影のようだ……
女のすすり泣きで、目を覚ました。
「何を泣いているんだ?」
女は、狼狽をかくそうとして、あわてて立上った。
「すみません……お茶をいれようと思って……」
その水っぽい鼻声は、男を、まぶしがらせた。かがみ込んで、コンロの火をいじっている、女の後ろ姿は、変におどおどとしていて、その意味を理解するのに、しばらく手間どった。黴《かび》だらけの本のページを、むりにめくっているような、まどろこしさだった。しかし、とにかく、ページをめくることは出来た。急に自分が、いとおしいほど、哀れなものに見えてきた。
「失敗したよ……」
「はい……」
「まったく、あっさり、失敗してしまったもんだな。」
「でも、巧くいった人なんて、いないんですよ……まだ、いっぺんも……」
女は、うるんだ声で、しかし、まるで男の失敗を弁護するような、力がこめられている。なんていうみじめなやさしさだろう。このやさしさが、酬いられないのでは、あまりに不公平すぎはしまいか?
「しかし、残念だったよ……成功したら、すぐにラジオを買って、送ってやろうと思っていたのに……」
「ラジオ?」
「ずっと、そう、思いつづけていたんだ。」
「いいんですよ、そんな……」女は、うろたえ、言いわけがましく、「うんと、内職すれば、ここでも買えます……月賦だったら、頭金だけでいいんでしょう?」
「そうだね、まあ、月賦だったら……」
「沸いたら、体を拭きましょうか?」
ふと、夜明けの色の悲しみが、こみ上げてくる……互いに傷口を舐《な》め合うのもいいだろう。しかし、永久になおらない傷を、永久に舐めあっていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか?
「納得がいかなかったんだ……まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが……しかし、あの生活や、この生活があって、向うの方が、ちょっぴりましに見えたりする……このまま暮していって、それで何うなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなこと、分りっこないに決っているんだけどね……まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」
「洗いましょう……」
はげますように女が言った。しめった、しびれるような声だった。男は、ゆっくり、シャツのボタンを外し、ズボンを脱ぎはじめる。砂が、筋肉の内側にまで、詰ってしまったようだった。(あいつ、今ごろ、何をしているだろう?)……昨日までのことが、何年も昔のことのように感じられた。
女が、手拭に、石鹸をつけはじめた。
第三章
28
十月――
日中はまだ、未練がましい夏の足踏みが、裸足では五分と辛抱できないほど砂を焦がしていても、陽が沈めば、隙間だらけの部屋の壁が、さすがに肌寒く感じられ、湿ったいろりの灰を乾す仕事を、いやおうなしにせかされたりする。その気温の変化で、風のない朝夕など、霧が、にごった川のようになった。
ある日、男は裏の空地に、鴉をとらえるための罠をしかけてみた。それを≪希望≫と名づけることにした。
罠の仕掛けは、砂の性質を利用した、ごく簡単なものである。やや深めに掘った穴の底に、木の桶を埋め、小さめの蓋を、三カ所ばかり、マッチ棒ほどの楔《くさび》で止めてある。その楔のそれぞれに、細い糸が結んである。糸は、蓋の中心の孔を通して、外の針金と連絡している。針金の先には、餌の干魚が、つきさしてある。さて、その全体が、慎重に砂でかくされ、外から見れば、砂の摺鉢の底に、餌だけが見えているという仕掛けなのだ。鴉が、餌をくわえるや、たちまち楔が外れ、蓋が落ち、同時にまわりの砂がどっと崩れて、鴉はすっぽり生き埋めになる……二、三度、実験してみた限りでは、まず申し分なかった……羽ばたく暇もなく、ずるずると砂に吸い込まれていく哀れな鴉の姿が、目に見えるようだった。
……そして、あわよくば、手紙を書いて、鴉の脚にむすび……いや、むろん、あわよくばの話である……第一、逃がしてやった鴉が、二度と人間の手に捕まるかどうか、可能性は、ごく薄い……それに、どこに飛んで行くかも、知れたものじゃない……大体、鴉の行動半径は、ごく限られたものである……もっといけないことは、おれの鴉が逃げたことと、鴉の群のなかに一羽、足に白い紙片れをつけたのがいることと、この二つを結びつければ、部落の連中にも、こちらの意図がそっくり筒抜けになってしまうことだ……せっかくつみ重ねてきた、これまでの忍耐が、まるで無駄になってしまうことになる……
脱出に失敗してからというもの、男はひどく慎重になっていた。冬眠しているくらいのつもりで、穴のなかの生活に順応し、まず部落の警戒を解くことだけに専念した。同じ図形の反復は、有効な保護色であるという。生活の単純な反復のなかに融けこめば、いつかは彼等の意識から、消えさることも不可能ではないだろう。
反復にはまた、べつの効用もあった。たとえば女は、この二カ月あまり、くる日もくる日も糸にビーズ玉をとおす内職に、顔が腫れぼったくむくんで見えるほどの、うち込みようだ。長めの針先が、紙函《かみばこ》の底にひろげた鉄色の粒を、ひょいひょい、踊るようにして拾っていく。間もなく貯金が、二千円になる予定だった。この調子で、あと半月もつづければ、なんとかラジオの頭金にはなりそうだ。
その針の踊りには、そこに地球の中心を感じさせるほどの、重みがあった。反復は、現在に彩色をほどこし、その手触りを、確実なものにしてくれる。そこで男も負けずに、ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。天井裏の砂はらいや、米をふるいにかける仕事や、洗濯などは、すでに男の主な日課になっている。はじめてみると、すくなくもその間は、鼻歌まじりに時がすぎ去ってしまってくれる。睡眠中にかぶる、ビニール製の小型天幕の考案や、焼いた砂のなかに魚をうめて蒸し焼きにする工夫なども、けっこう時を過しがいのあるものにしてくれた。
気持を乱されないために、あれ以来、新聞もなるべく、読まないですませられるように努力した。一週間も辛抱していると、さほど読みたいとも思わなくなった。一カ月後には、そんなものがあったことさえ、忘れがちだった。いつか、孤独地獄という銅版画の写真を見て、不思議に思ったことがある。一人の男が、不安定な姿勢で、宙に浮び、恐怖に眼をひきつらせているのだが、その男をとりまく空間は、虚無どころか、逆に半透明な亡者たちの影で、身じろぎも出来ないほど、ぎっしり埋めつくされているのだ。亡者たちは、それぞれの表情で、他を押しのけるようにしながら、絶え間なく男に話しかけている。どういうわけで、これが孤独地獄なのだろう? 題をつけ違えたのではないかと、その時は思ったりしたものだが、いまならはっきり、理解できる。孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。
だから、心臓の鼓動だけでは安心できずに、爪をかむ。脳波のリズムだけでは満足できずに、タバコを吸う。性交だけでは充足できずに、貧乏ゆすりをする。呼吸も、歩行も、内臓の蠕動《ぜんどう》も、毎日の時間割も、七日目ごとの日曜日も、四カ月ごとにくりかえされる学期末のテストも、彼を安心させるどころか、かえってあらたな反復にかりたてる結果になってしまうのだ。やがて、日を追うてタバコの量が増え、爪垢をためた女と、やたらに人目につかない場所を探してまわる、汗ばんだ夢にうなされたりして、ついに中毒症状を呈しはじめたことに気づいたとき、ふと、このうえもなく単純な楕円運動の周期に支えられた天空や、1/8m.m.の波長が支配する砂丘地帯を思って、翻然《ほんぜん》としたりすることにもなるわけだ。
男が、繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じていたとしても、かならずしも自虐的とばかりは言いきれない。そうした恢癒《かいゆ》のしかたがあっても、べつに不思議はないのである。
しかし、ある朝、きまりの配給品といっしょに、漫画の雑誌が差入れになった。いや、雑誌自体は、べつにどうということもない。表紙は破れ、手垢でべろべろになった、おそらく屑屋から仕入れて来たにちがいないような代物で、不潔という点をのぞけば、まあ、部落の連中が思いつきそうな、心づくしだと言ってもよかった。問題なのは、それを読んで、胃痙攣《いけいれん》をおこしそうなほど、体をよじり、畳を叩いて、笑いころげてしまったということだ。
おおよそ馬鹿気た漫画だった。何がおかしいのか、説明を求められても、答えようのないほど、無意味で粗雑なただの描きなぐりだった。ただ、大男を乗せたために、脚を折って倒れた馬の、その表情がむしょうにおかしかっただけなのである。こんな状態にいながら、よくもそんな笑い方が出来たものだ。恥を知るがいい。現状との馴れ合いにも、限りというものがある。それはあくまでも手段であって、目的などではなかったはずだ。冬眠などと、聞えはいいが、どうやら、土竜《もぐら》に化けたっきり、一生日向に顔を出す気をなくしてしまったのではあるまいか。
たしかに、考えてみれば、何時どんなふうにして脱出の機会がやってくるものやら、見とおしらしいものはまるでなかったのだ。あてもなしに、ただ待つことに馴れ、いよいよ冬ごもりの季節が終ったときには、まぶしくて外に出られないというようなことだって、じゅうぶんに考えられるわけである。乞食も三日したらやめられないという……そうした内側からの腐蝕は、意外に早くやってくるものらしい……そんなふうに、思いつめていながら、例の馬の顔を思い出したとたんに、またあの馬鹿笑いにとりつかれてしまうのだ。ランプの下で、相変らずビーズ玉細工に余念のない女が、顔をあげて、無邪気な微笑を返してきた。男は、自分の裏切りに、やりきれない思いで、漫画本を投げだし、外に出た。
崖の上には、乳色の霧が、大きくうねりながら渦巻いていた。夜の名残が、まだしみになって残っている影の部分……焼けた金属線のように輝く部分……光る蒸気の粒になって、流れ動く部分……その陰影の組合わせは、幻想に満ち、際限のない空想をかきたてる。いくら見ていても、見飽きない。あらゆる瞬間が、そのたびに、新しい発見にあふれているのだ。現実的な形体から、まだ見たこともない奇怪な形体にいたるまで、ここで用のたりないものはないだろう。
男は、その渦にむかって、思わず訴えかけている。
(裁判長閣下、求刑の内容をお教え下さい! 判決の理由をお聞かせ下さい! 被告はこのとおり、起立して待っているのです!)
すると、霧の中から、聞きおぼえのある声が返ってくる。いきなり、受話器をとおしたような、口先だけの含み声で、
(百人に一人なんだってね、結局……)
(なんだって?)
(つまり、日本における精神分裂症患者の数は、百人に一人の率だって言うのさ。)
(それが、一体……?)
(ところが、盗癖を持った者も、やはり百人に一人らしいんだな……)
(一体、なんの話なんです?)
(男色が一パーセントなら、女の同性愛も、当然、一パーセントだ。それから、放火癖が一パーセント、酒乱の傾向のあるもの一パーセント、精薄一パーセント、色情狂一パーセント、誇大妄想一パーセント、詐欺常習犯一パーセント、不感症一パーセント、テロリスト一パーセント、被害妄想一パーセント……)
(わけの分らん寝言はやめてほしいな。)
(まあ、落着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴……各一パーセントとして、合計二十パーセント……この調子で、異常なケースを、あと八十例、列挙できれば……むろん、出来るに決っているが……人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できたことになる。)
(なにを下らない! 正常という規準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)
(おやおや、人がせっかく、弁護してあげようと思っているのに……)
(弁護だって……?)
(いくら君だって、まさか、自分の有罪を主張したりするつもりじゃないんだろう?)
(あたりまえじゃないか!)
(それなら、もっと素直にふるまってほしいものだね。いくら自分の立場が例外だからって、気に病んだりすることは、すこしもありゃしないんだ。世間には、色変りの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もないのだから……)
(毛虫?……不法監禁に抗議することが、なんで色変りの毛虫なんだ!)
(いまさらそんな白を切っちゃいけないよ……日本のような、典型的多湿温帯地域で、しかも、年間災害の八十七パーセントを水害が占めているような条件において、こんな飛砂による被害なんぞ、コンマ以下三桁にもなりはしない。サハラ沙漠で、水害対策の特別立法するくらい、ナンセンスな話さ!)
(対策のことなんか言っているんじゃない、おれの苦しみのことだよ……沙漠の中だろうと、沼地の中だろうと、不法監禁が、不法だってことに、なんら変りはないはずじゃないか!)
(ああ、不法監禁……しかし、人間、欲を言ってちゃ、きりがないからなあ……せっかくこうして、部落の連中からも、重宝がられているのだし……)
(糞でもくらえだ! おれにだって、もっとましな存在理由があるはずだ!)
(いいのかい、大好物の砂に、そんなけちをつけるようなことを言ったりして?)
(けち……?)
(世間には、十年もかかって、円周率を小数点下何百桁とかまでも計算した人がいるそうだ……けっこう……それにはそれなりの存在理由もあったのだろう……しかし、君は、そんな存在理由を拒否したからこそ、わざわざこんな所にまでやってきて……)
(そりゃちがう!……砂にだって、まるで正反対の面もあるんだ!……たとえば、その性質を逆に使って、鋳型をつくるだろう?……それから、コンクリートを固めるにも、欠かすことの出来ない原料だし……その他、雑菌や雑草を除くのが容易な点を利用して、無菌耕や純粋耕作なんかの研究もされているんだ……おまけに、ある種の土壌分解酵素をつかって、砂を土に変えてしまう実験だってあるくらいなんだからね……砂と、一口に言ったって……)
(おやおや、とんだ御|宗旨《しゅうし》変えだ……そう、そのたびに主張を変えられたんじゃ、一体どちらを信じていいのやら、分らなくなってしまう。)
(のたれ死にはいやなんだ!)
(いずれ五十歩百歩じゃないのかねえ……釣り落した魚は、いつだって大きなものさ。)
(ちくしょう、おまえは一体、誰なんだ!)
しかし、霧の塊りが大きくうねって崩れおち、相手の声をかき消してしまった。かわりに、定規をあてたような光線が、何本も束になって、なだれ落ちてきた。まぶしさにくらみ、こみあげてきた煤のような疲労を、奥歯のあいだでかみ殺す。
鴉が鳴いた。思いついて、裏の≪希望≫をのぞいてみることにする。いずれ、成功の気づかいはないにしても、漫画本よりはまだましだ。
餌は、相変らず仕掛けたときのままだった。腐った魚の臭いが、つんと鼻をつく。≪希望≫を仕掛けてから、もう二週間以上になるというのに、まるで反応がない。一体、なにが原因なのだろう? 罠の構造には、自信があった。餌を食ってくれさえすれば、あとは絶対にこっちのものなのだ。だが、まずその餌に、振向いてももらえないのだから、取りつくしまがない……
それにしても、この≪希望≫の、どこが一体、それほど連中の気に入らないというのだろう? 怪しいところなど、どこから、どう見ても、これっぽっちもありはしないのに。鴉というやつは、人間の廃物をあさって、人間の周辺をうろついているだけあって、用心深いことにかけては、とにかく抜群である。こうなれば、根気くらべでいくしかあるまい。このくぼみの中の、腐った魚が、連中の意識にとって、完全な反復になってしまうまで……忍耐そのものは、べつに敗北ではないのだ……むしろ、忍耐を敗北だと感じたときが、真の敗北の始まりなのだろう。もともと、≪希望≫というのも、そのくらいのつもりでつけてやった名前だ。希望峰というのは、ジブラルタル……ではなくて、ケープタウンだったっけ……
男は、のろのろと足を引きずり、引返す。……また、寝る時間がやってきた。
29
女は、男を見ると、思い出したようにランプを吹き消し、戸口の側の、明るい方へ場所を移した。まだ仕事をつづけるつもりだろうか? とつぜん、我慢のならない衝動がこみあげてきた。いきなり、女のまえに立ちはだかると、膝から、ビーズ玉の箱をたたきおとした。黒い、草の実のようなつぶつぶが、土間に飛びちり、たちまち砂に滲みこんでしまう。女は、声もあげずに、おびえた表情で、じっと男を見返した。男の顔から、がっくり表情がはげおちた。力なくたるんだ唇から、黄色い唾液といっしょに、萎えたうめきがこぼれだした。
「無益だよ……わるあがきじゃないか……まったく無益な話だ……いまに、毒がまわってしまうぞ……」
女はやはり黙ったままだ。糸にとおしおえたガラス玉が、指のあいだで、かすかに揺れている。飴のしずくのように光っている。男の足のほうから、細かいふるえが、這い上ってきた。
「そうだとも、いまに、とりかえしのつかないことになってしまうんだ……ある日、気がついてみたら、部落の連中は、一人もいなくなって、われわれだけが、あとに残されていて……おれには分っている……本当だとも……いまにきっと、そんな目にあわされるんだ……裏切りだと気づいたときには、もう手後れで……せっかく、これまで尽してきたことも、ただの笑い話になってしまって……」
女は、にぎりこんだビーズ玉に、じっと目をそそいだまま、弱々しく首をふった。
「そんなはずはありませんよ。ここから出て行ったからって、誰もがすぐに暮しを立てられるというわけじゃなし……」
「同じことじゃないか。ここにいたって、いずれ、暮しらしい暮しはしちゃいないんだろう?」
「でも、砂がありますから……」
「砂だって?」男は、歯をくいしばったまま、顎の先で輪をかいた。「砂なんかが、なんの役に立つ? つらい目をみる以外は、一銭の足しにだってなりゃしないじゃないか!」
「いいえ、売っているんですよ。」
「売る?……そんなものを、誰に売るんだ?」
「やはり、工事場なんかでしょうねえ……コンクリートに混ぜたりするのに……」
「冗談じゃない! こんな、塩っ気の多い砂を、セメントにまぜたりしたら、それこそ大ごとだ。第一、違反になるはずだがね、工事規則かなんかで……」
「もちろん、内緒で売っているんでしょう……運賃なんかも、半値ぐらいにして……」
「でたらめもいいとこだ! あとで、ビルの土台や、ダムが、ぼろぼろになったりしたんじゃ、半値が只になったところで、間に合いやしないじゃないか!」
ふと女が、咎《とが》めるような視線で、さえぎった。じっと、胸のあたりに目をすえたまま、それまでの受身な態度とは、うって変ったひややかさで、
「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」
男はたじろいだ。まるで、顔がすげかえられたような、変りようだ。どうやら、女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい。それまで部落は、一方的に、刑の執行者のはずだった。あるいは、意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャクであり、彼はたまたま、それにひっかかった、哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ、自分たちの方だということになるのだろう。当然、外の世界に義理だてしたりするいわれは、何もない。しかも彼が、その加害者の片割れだとなれば、むき出された牙は、そのまま彼にたいして向けられていたことにもなるわけだ。自分と、部落との関係を、そんなふうに考えたことは、まだ一度もなかった。ぎこちなく狼狽してしまったのも、無理はない。だからと言って、ここで退き下っては、自分の正当性を、みずから放棄してしまうようなものである。
「そりゃ、他人のことなんか、どうでもいいかもしれないさ……」姿勢をたてなおそうとして、やっきになり、「しかし、その、インチキ商売で、けっきょく誰かが、しこたまもうけているわけなんだろう?……なにも、そんな連中の肩までもたなくても……」
「いいえ、砂の売り買いは、組合でしているんです。」
「なるほど……それにしても、結局はやはり、持株だとか、出資額の多寡で……」
「そんな、船をもっていたような旦那衆は、とっくにここを引き払ってしまいましたからねえ……私たちなんか、これで、ずいぶんよくしてもらっている方なんですよ……本当に、不公平はありませんね………嘘だと思ったら、帳簿を見せてもらえば、いっぺんで分りますから……」
とりとめもない、混乱と不安のなかで、ついに男は立ちすくんでしまう。なんだかやたらと心細い。はっきり敵と味方に塗り分けられていたはずの作戦地図が、あいまいな中間色で、判じ絵みたいなわけの分らないものに、ぼかされてしまった。考えてみれば、たかだか漫画本くらいで、なにもあれほどいきり立つ必要はなかったのだ。おまえが馬鹿笑いしようと、しまいと、そんなことをいちいち気にかけている者など、どこにもいやしないのに……。こわばった舌の奥で、きれぎれに呟きはじめていた。
「……まあ、そう……むろん、そうさ……そんな、他人のことなんて……そりゃ、そうだよ……」
それから、なんのつながりもなく、自分でも思いがけない言葉が、勝手に口をついて出た。
「そのうち、なにか、植木の鉢でも買おうじゃないか……」自分でも呆れ、しかしそれ以上にまごついている女の表情に、ますます引込みがつかなくなり、「なにかこう、息抜きでもないと、殺風景でしようがないからな……」
落着きのない声で、やっと女が答える。
「松の木がいいでしょうか?」
「松?……松はきらいだね……なんでもいい、雑草でもいいんだよ……岬の方には、だいぶ草も生えていたようだけど、あれはなんていう草だろう?」
「こうぼう麦か、はまぼうふうでしょう。でも、やっぱり、木がいいんじゃないですか?」
「木なら、楓か、桐みたいな、枝が細くて、葉の大きなのがいいね……風で、葉が、ひらひらするようなやつ……」
ひらひらするやつ……逃げようとしても、幹につながれて、逃げられず、ひらひら身もだえている葉っぱの群……
気持とは無関係に、呼吸がうわずってくる。どうやら、泣き出しかけているような感じだった。いそいで、土間の、ビーズ玉がこぼれたあたりに、かがみこんだ。不器用な手さばきで、砂の表面を、さぐりはじめる。
女があわてて立上った。
「いいんですよ、私がします……そんなの、ふるいにかければ、すぐだから……」
30
ある日、穴のふちにかかった、一とかかえほどもありそうな灰白色の月を正面に見て、小便の最中、とつぜん男は激しい悪寒におそわれた。風邪をひいたのだろうか?……いや、この悪寒は、なにかもっとちがった性質のものらしい。熱が出るまえの悪寒なら、いくらも経験ずみだが、そんなのとはまるでちがっている。空気に棘も感じなければ、鳥肌が立った様子もない。ふるえているのは、皮膚の表面よりも、むしろ骨の髄のあたりだ。水の波紋のように、中心から外にむかって、ゆっくりと輪をかきながら広がっていく。鈍いうずきが、骨から骨へと共鳴しあって、いっかな止みそうにない。まるで、錆びたブリキ罐が一つ、風といっしょに飛んできて、カラカラ鳴りながら体の中を通りぬけて行ったようだった。
ふるえを通して、月の表面から、彼は何かを連想しかけている。まだらに粗い粉をふいた、かさぶたのような手ざわり……ひからびた安物の石鹸……というよりはむしろ、錆びたアルミの弁当箱……それからさらに、焦点が近づいて、そこに思いがけない像を結ぶのだ。白い髑髏《どくろ》……万国共通の標識である、毒の紋章……殺虫瓶の底の、粉をふいた白い錠剤……そう言われてみると、風化した青酸カリの錠剤と月の表面とは、なるほど肌合いがよく似通っていた。あの瓶は、まだあのまま、入口に近いあがりがまちの下あたりに、埋めたままだったっけ……
心臓が、割れたピンポン玉のように、ぎくしゃくとはずみだす。連想するものにこと欠いて、なんだってまた、あんな不吉なものを思い出したりしたのだろう。そうでなくても、十月の風には、せつないほどの悔恨のひびきがこめられている。中身がはぜて、からっぽになった種子の莢《さや》を、笛のように吹き鳴らしては、飛び去って行く。月光に淡くくまどられた穴のふちを見上げながら、この焼けつくような感情は、あんがい嫉妬なのかもしれないと思った。街や、通勤電車や、交差点の信号や、電柱の広告や、ネコの死骸や、タバコを売っている薬屋や、そうした地上の密度をあらわすすべてに対する嫉妬なのかもしれない。砂が、板壁や柱の内部を食い荒してしまったように、嫉妬が彼の内部に穴をあけ、彼をコンロの上の空鍋同様にしてしまったのかもしれない。空鍋の温度は、急激に上昇する。やがて、その熱に耐えられなくなり、自分で自分をほうり出してしまわないとも限らないのだ。希望を云々するまえに、この瞬間をのりきれるかどうかが、まず問題だった。
もっと軽い空気がほしい! せめて、自分の吐いた息がまじっていない、新鮮な空気がほしい! 一日に一度、たとえ三十分でもいいから、崖にのぼって海を眺めることができたら、どんなにか素晴らしいことだろう。それくらいは許されてもいいはずだ。いずれ、部落の警戒は厳重をきわめているのだし、この三カ月余りの忠実な仕事ぶりを考慮に入れてもらえば、ごく当りまえの要求なのではあるまいか。禁固刑の囚人だって、運動時間の権利ぐらいはもっている。
「まったく、やりきれんよ! こう年中、砂と鼻面をつき合わせてばかりじゃ、いまに人間の漬物だ。たまには、その辺を、散歩でもさせてもらえないものかねえ?」
しかし女は、迷惑そうに、口をつぐんだままだった。まるで、飴をなくしてむずかっている子供を、もて余しているような顔つきである。
「出来ないとは言わさんぞ!」ふいに男はいきりたつ。記憶にまつわるいまわしさのために、つい口にしづらかった、縄梯子のことまで持ち出して、「せんだって、逃げる途中で、はっきりと見とどけたんだからな……この並びにも、何軒かは、ちゃんと縄梯子をおろしっぱなしの家があるようじゃないか!」
「ええ、でも……」おどおどと、言いわけがましく、「あれは、たいがい、何代も前からここに住みついていた人たちだけなんですよ。」
「じゃあ、われわれの所には、見込みがないってのかい!」
女は観念した犬のように、無抵抗にうなじをたれた。男が、目の前で青酸カリを飲みかけても、おそらく同じようにして、黙って見過してしまうにちがいない。
「いいとも、やつらに、直接交渉してみてやるさ!」
もっともそんな交渉が、成果をおさめるかもしれないなどと、本心から期待したりしたわけではなかった。はぐらかされるのには、馴れっこだった。だから、二度目のモッコ搬びの連中といっしょに、例の老人が、さっそく返事をとどけてくれたときには、むしろ意外に思い、とまどってしまったほどだった。
しかし、その意外さも、返事の内容にくらべれば、ほとんど取るに足りないものだったのだ。
「そうだねえ……」老人は、頭の中で、古い書類を整理しながら喋っているような、間のびのした調子で、「そりゃあ、かならずしも、出来ん相談じゃあるまいねえ……まあ、例えばの話だが、あんたたち、二人して、表で、みんなして見物してる前でだな……その、あれをやって見せてくれりゃ、こりゃ、理由の立つことだから、みんなして、まあ、よかろうと……」
「なにをやるって?」
「あれだよ……ほれ、雄と雌が、つがいになって……あの、あれだなあ……」
まわりで、モッコ搬びの連中が、どっと、気違いじみた笑い声をたてた。男は、しめ上げられたように、じっとつっ立ったまま、ゆっくり、しかし克明に理解しはじめる。理解している自分を、理解しはじめる。理解してみると、その提案は、さほど驚くにはあたらないようにも思われるのだ。
懐中電燈の光が一と筋、金の小鳥のように男の足もとをかすめて飛んだ。それを合図に、さらに七、八本が、いっせいに光の皿になって、穴の底を這いまわりはじめる。崖の上の男たちの、焼けた樹脂のような熱気に気圧されて、反撥するよりまえに、その狂気に感染してしまいそうだった。
ゆっくりと女を、振向いてみる。つい今しがたまで、そこでスコップをふるっていたはずの姿が、消えていた。家に逃げもどったのだろうか? 戸口をのぞいて、呼んでみた。
「どうしようか?」
すぐ壁の後ろで、おし殺した女の声がした。
「ほうっておけばいいんですよ!」
「しかし、外にも出たいからなあ……」
「めっそうもない!」
「なにも、そう、大げさに考えなくても……」
とつぜん女が、すさまじく、息苦しげにあえぎながら、
「あんた、気が変になったんじゃないの?……きっとそうだよ……気がふれてしまったんだよ!……そんなこと、容赦しやしないからね!……色気違いじゃあるまいし!」
そうだろうか?……おれは気が狂ってしまったのだろうか?……女の激しさに、たじろぎながらも、男の内部には、むしろねじれたような空白がひろがっていく……ここまで、踏みつけにされた後で、いまさら体面などが、なんの役に立つだろう?……見られることに、こだわりがあると言うなら、見る側にだって、同じ程度のこだわりがあるはずだ……見られることと、見ることとを、それほど区別して考える必要はない……多少のちがいはあるにしても、おれが消えるための、ほんのちょっとした儀式だと考えればすむことだ……それに、代償として得られるもののことも、考えてみてほしい……自由に歩きまわれる地上なのだ!……おれは、この腐った水面に顔を出して、たっぷり息がしたいのだ!
女の気配に、ねらいをさだめ、いきなり体ごとぶっつかって行った。女の叫びと、二人がもつれ合って壁に倒れかかった音とが、崖の上に、けものじみた熱狂と紅潮をひきおこした。口笛、手を打ち合わせる音、言葉にはならない卑猥なわめき声……人数もずっと増えて、どうやら若い女も混っているらしい。戸口をめがけて殺到する懐中電燈の数も、すくなくも最初の三倍には増えている。
不意をおそったのが、功を奏したのか、ともかくうまく女を外にひきずり出すことが出来た。襟首をつかまれ、女は袋のように、ぐったりとなっていた。穴の三方を、ぎっしり取りまいた光が、夜祭のかがり火のようだ。それほど暑くもないのに、ぺろぺろした薄皮のような汗が、腋の下をつたって流れ落ち、髪の毛までが、水をかぶったように、ぐっしょり濡れていた。一枚の板に圧縮された、耳鳴りに似た喚声《かんせい》が、大きな黒い翼を、空いっぱいにひろげている。男は、その翼を、自分の翼のように錯覚していた。崖の上から、固唾《かたづ》をのんで見守っている連中を、まるで自分のことのように、はっきりと感じることが出来たのだ。彼等は、彼の部分であり、彼等がしたたらせている色のついた唾液は、そのまま彼の欲情でもある。彼のつもりでは、生け贄であるよりも、むしろ代理執行人なのだった。
しかし、モンペの紐では、意外にてこずった。手もとが暗いうえに、ふるえが、指の太さを二倍にしてしまうのだ。いっそ、引き裂いてしまおうと、尻のたるみを両手でつかんで、腰を浮かせた瞬間、女が体をよじって、ふりほどいた。男は、砂を蹴ちらし、追いすがる。すぐまた、鉄の固さで、はね返される。むしゃぶりついて、男は哀願した。
「たのむ……たのむよ……どうせ、出来やしないんだから……真似事でいいんだからさ……」
だが、もう、すがりついたりする必要はなかったのだ。女は、逃げる気など、すでになくしていた。なにか、布が裂けるような音がしたと同時に、全身の怒りと重みをかけた肩の先で、思うさま、男の下腹が突き上げられている。男は、あっけなく膝をかかえて、二つ折れになってしまう。のしかかって、その顔のなかに、かためた拳を、交互にめりこませる。一見、のろのろとした動作だったが、その一つ一つが、塩をくだくような湿った含みをおびていた。男の鼻から、血が吹きだした。血に、砂がこびりついて、男の顔は土くれになった。
崖の上の興奮も、骨が折れたこうもり傘のように、みるみるしぼんでしまった。不満と、失笑と、はげましの声援と、三つが一緒に声を合わせてみても、すでに、足並がそろわず、いかにも隙間だらけだ。酔ったまぎれの、猥褻《わいせつ》な罵声《ばせい》も、いっこう気勢をあげる足しにはなってくれない。何か、ものを投げた者があったが、すぐに誰かにたしなめられた。はじまりが唐突だったように、終りもまた唐突だった。長く尾をひいて、仕事をうながす掛声がかかり、明りの列が、たぐりよせられるように消えてしまうと、あとにはただ暗い北風が、ほとぼりのかけらさえ残さずに、吹きすさぶばかりである。
砂にまみれ、うちのめされて、しかし男は、やはりすべてが筋書きどおりに搬んだのだと、動悸《どうき》だけが痛いように冴えかえる、しめった下着のような意識の隅で、ぼんやり考えていた。火のようにほてった腕が、腋の下にかかり、女の体臭が、棘になって鼻腔を刺した。すべてを委せきった、女の腕のなかで、自分はすべすべした平たい河原の小石になるのだと思った。残った部分は、液化して、女の体に融け込んでしまいそうだった。
31
また、変りばえのしない、砂と夜の何週間かが過ぎさった。
≪希望≫もいぜんとして、鴉たちから無視されたままだった。もっとも、餌の干魚は、もう干魚ではなくなった。鴉に無視されても、バクテリヤからは、さすがに無視されなかったのだ。ある朝、棒の先でさわってみると、魚は皮だけを残して、黒いねばねばした液体に変ってしまった。餌をつけかえるついでに、仕掛けの具合も点検してみることにする。砂をとり除き、蓋を開けてみて、驚かされた。桶の底には、水が溜まっていたのである。底から十センチほどだったが、透明な、毎日配給される金気の浮いた水などよりは、はるかに純粋に近い水だった。最近、いつか、雨が降っただろうか?……いや、すくなくも、ここ半月は降っていない。すると半月前の、雨が、残っていたのだろうか?……出来れば、そう考えたいところだったが、困ったことに、この桶は水もりがする。現に、持上げたとたん、水は見るみる、底からもれはじめた。その深さに、地下水の線でもない限り、もれて行く分だけが、絶えず何処からか補給されていたものと考えなければならないわけである。すくなくも理屈では、そういうことになる。だが、この乾ききった砂のなかで、一体どこから、そんな水が補給されえたのだろうか?
男は、次第にこみ上げてくる興奮を、おさえきれない。考えられる答えは、一つしかなかった。砂の毛管現象だ。砂の表面は、比熱が高いために、つねに乾燥しているが、しばらく掘って行くと、下の方はかならずしめっているものである。表面の蒸発が、地下の水分を吸上げるポンプの作用をしているためにちがいない。そう考えると、朝夕、砂丘が吐き出す、あの厖大《ぼうだい》な量の霧も、壁や柱にこびりついて、材木を腐らせていくあの異常な湿度のことも、すべて容易に説明がつくわけだ。けっきょく、砂地の乾燥は、単に水の欠乏のせいなどではなく、むしろ毛管現象による吸引が、蒸発の速度に追いつけないためにおこることらしい。言いかえれば、水の補給は、たゆみなく行われていたのである。ただ、その循環が、ふつうの土地では考えられないほどの速度をもっていた。そしてたまたま、彼の≪希望≫が、その循環をどこかで絶ち切ったというわけだ。おそらく、桶を埋めた位置や、蓋の隙間の具合などが、偶然、吸い上げた水を蒸発させずに、ちょうど桶の中に流しこむような関係にあったのだろう。その位置や関係が、どういうものか、まだはっきりとは説明できないが、研究次第では、もう一度同じことを繰返すことも出来るにちがいない。さらには、もっと高能率の貯水装置だって、出来ないとは限らないのだ。
もし、この実験に成功すれば、もう水を絶たれて降参したりすることもない。それどころか、この砂全体がポンプなのだ。まるで、吸上げポンプの上に坐っているようなものである。男は、動悸を静めるために、しばらくは、息を殺して、じっとしゃがみこんでいなければならないほどだった。むろん、まだ、誰にも言ったりする必要はない。いざというときのための、大事な武器である。
それでも、笑いが、しぜんに吹きこぼれてくる。≪希望≫について、沈黙を守ることはできても、その心のたかぶりを隠すのは、やはりむつかしかった。男は、寝床の仕度をしている女の後ろから、いきなり奇声を発して、腰を抱えこみ、かわされると、仰向けに倒れたまま、足をばたつかせてなおも笑いつづけた。特製の軽い空気をつめた紙風船で、胃のあたりをくすぐられているようだった。顔にかざした手が、そのままふわりと、宙に浮んでしまいそうである。
女も、仕方なしに笑い声をたてたが、調子をあわせただけのことだろう。男が、砂の隙間をぬって這い上っていく、銀の綿毛のような、見渡すかぎりの水脈の網を思い浮べていたのに対して、女は、これから始まる性交のことでも考えていたにちがいない。それでいいのだ。やっと溺死をまのがれた遭難者でもないかぎり、息ができるというだけで笑いたくなる心理など、とうてい理解できるはずがない。
いぜんとして、穴の底であることに変りはないのに、まるで高い塔の上にのぼったような気分である。世界が、裏返しになって、突起と窪《くぼ》みが、逆さになったのかもしれない。とにかく、砂の中から、水を掘り当てたのだ。あの装置があるかぎり、部落の連中も、めったな手出しはできないわけである。いくら水を絶たれても、もうびくともしないですませられるのだ。連中が、どんなに騒ぎうろたえるか、思っただけで、また笑いがこみ上げてくる。穴の中にいながら、すでに穴の外にいるようなものだった。振向くと、穴の全景が見渡せた。モザイックというものは、距離をおいて見なければ、なかなか判断をつけにくいものである。むきになって、眼を近づけたりすると、かえって断片のなかに迷いこんでしまう。一つの断片からは脱け出せても、すぐまた別の断片に、足をさらわれてしまうのだ。どうやら、これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。
あいつや、同僚たちについても、そっくり同じことが言えた。これまで、思い浮ぶものといえば、異様に拡大された、細部ばかりであり、肉の厚い鼻の穴……しわだらけの唇……のっぺりした薄い唇……ひらたい指……とがった指……目のなかの星……鎖骨の下の、糸のようなイボ……乳房を走っている菫《すみれ》色の静脈……そんな部分ばかりが、やたらと真近にせまって、彼に吐き気をもよおさせてしまうのだ。だが、広角レンズをつけた眼には、すべてが小ぢんまりした、虫のようにしか見えなかった。あそこを這いまわっているのは、教員室で番茶をすすっている同僚たちだ。こちらの隅にはりついているのは、しめっぽいベッドの中で、タバコの灰が落ちかけているのに、まだ薄目のまま身じろぎしようともしない、裸のあいつである。しかも、すこしの嫉妬もまじえずに、その小さな虫たちを、菓子型のようだと思ったりする。菓子型には、輪廓があるだけで、中身はない。だからと言って、それに合わせて、たのまれもしない菓子を焼かずにいられないほど、律儀な菓子職人である必要もないわけだ。もし、もう一度、関係を回復することがあるとしても、それはすべてを御破算にしてからのことである。砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょに、もう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。
こうして、溜水装置の研究が、あらたに日課としてくわえられることになる。桶を埋める位置……桶の形態……日照時間と溜水速度の関係……気温や気圧が効率におよぼす影響……数字や図形の記録が、たんねんに積み重ねられていった。もっとも、女には、男が鴉の罠くらいに、なぜそれほど熱中できるのか、さっぱりわけが分らない。いずれ男というものは、何かなぐさみ物なしには、済まされないものだからと納得し、それで気がすむというのなら、けっこうなことである。それに、どうしたはずみか、彼女の内職にも、積極的な態度を示しはじめてくれた。悪い気持はしない。鴉の罠くらいは、差引きしても、まだたっぷりおつりがくる。とは言え、男の方でも、ちゃんとそれなりの計算や動機は用意されていたのである。装置の研究は、いくつもの条件を組合わせねばならず、意外に手間取った。資料の数は増えても、なかなかその資料を統一する法則がつかめない。さらに、正確な資料をとろうとすれば、どうしてもラジオで、天気の予報や概況をたしかめておく必要があった。ラジオは二人の共通の目標になったのである。
十一月のはじめに、一日四リットルを記録したのを最後にして、あとは一日ごとに、下降線をたどりはじめた。どうやら、気温のせいらしく、本格的な実験は、春を待つしかなさそうだ。やがて、砂といっしょに氷のかけらが飛ぶ、長い、きびしい冬がやってきた。そのあいだ、すこしでも上等のラジオを手に入れるために、せいぜい女の内職に手をかすことにした。穴の中は、風がさえぎられるという利点はあっても、ほとんど一日中陽が射さず、おせじにもしのぎやすいとは言えなかった。砂が凍る日でも、飛砂の量は減らず、砂掻きの仕事に、休みはない。何度も、指のあかぎれが破れて、血が流れた。
それでもなんとか、冬が過ぎ、春になった。三月のはじめに、やっとラジオが手に入り、屋根の上に、高いアンテナをたてた。女は、幸福そうに、驚嘆の声をくりかえしながら、半日、ダイヤルを左右にまわしつづけた。その月の終りに、女が妊娠した。さらに、二た月たって、大きな白い鳥が三日にわたって西から東に飛んでいったあくる日、突然女が下半身を血に染めて、激痛を訴えだした。親類に獣医がいるという部落の誰かが、子宮外妊娠だろうと診断を下し、オート三輪で、町の病院に入院させることになった。迎えがくるまでのあいだ、男は女によりそい、片手を女にあずけ、あいている方の手で、腰のあたりをさすりつづけてやった。
やがて、オート三輪が、崖の上まできて停った。半年ぶりで、縄梯子がおろされた。女は、ふとんごと、サナギのようにくるまれ、ロープで吊り上げられていった。視線がとどかなくなるまで、涙と目脂《めやに》でほとんど見えなくなった目を、訴えるように男にそそいでいた。男は、見ないふりをして、目をそむけた。
女が連れ去られても、縄梯子は、そのままになっていた。男は、こわごわ手をのばし、そっと指先でふれてみる。消えてしまわないのを、たしかめてから、ゆっくり登りはじめた。空は黄色くよごれていた。水から上ったように、手足がだるく、重かった。……これが、待ちに待った、縄梯子なのだ……
口から、息を叩きおとすように、風が吹いていた。穴のふちをまわって、海の見えるところまで、登ってみる。海も黄色く、にごっていた。深呼吸をしてみたが、ざらつくばかりで、予期していたほどの味はしなかった。振向くと、部落の外れに、砂煙が立っている。女をのせたオート三輪なのだろう。……そうだ、別れる前に、罠の正体だけでも教えておいてやればよかったかもしれない。
穴の底で、何かが動いた。自分の影だった。影のすぐ上に、溜水装置があり、木枠が一本、外れていた。女を搬び出すときに、誤って踏みつけられたのだろう。あわてて、修繕のために、引返す。水は、計算で予定されていたとおり、四の目盛りまで溜まっていた。大した故障ではなかったらしい。家の中では、乾いた声で、ラジオが何やら歌っている。泣きじゃくりそうになるのを、かろうじてこらえ、桶のなかの水に手をひたした。水は、切れるように冷たかった。そのまま、うずくまって、身じろぎしようともしなかった。
べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
――――――――――
失踪に関する届出の催告
不在者 仁木順平
生年月日 昭和二年三月七日
右の不在者に対し 仁木しの から失踪宣告の申立があったから、不在者は昭和三十七年九月二十一日までに当裁判所に生存の届出をされたい。届出のない場合は失踪宣告を受けることになります。また不在者の生死を知っている者は、右期日までにその旨当裁判所に届け出て下さい。
昭和三十七年二月十八日
家庭裁判所
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審 判
申立人 仁木しの
不在者 仁木順平
昭和2年3月7日生
上記の不在者に対する失踪宣言申立事件について、告示催告の手続をした上、不在者は昭和31年8月18日以来7年以上生死が分からないものと認め、次のとおり審判する。
主 文
不在者 仁木順平を失踪者とする。
昭和38年10月5日
家庭裁判所
家事審判官
* * *
解説
ドナルド・キーン
書き下ろし小説『砂の女』は昭和三十七年(一九六二年)六月に発行されたが、これを機会に一般の読者に余り馴染みのなかった前衛作家、安部公房は一躍有名になった。日本国内ばかりでなく、一九六四年の英訳から始まって、チェコ語、フィンランド語、デンマーク語、ロシア語等二十数カ国語の飜訳が続々発行された。安部公房の名は世界文学へ仲間入りするとともに、揺るぎない地位を占めるようになり、『砂の女』は二十世紀文学の古典に目されるようになった。
数年ぶりに『砂の女』を読みながらその驚くべき世界的な名声の原因を考えてみた。先ず、物語として極めて上手に出来ていることを指摘しなければならない。出だしから結末までギリシア悲劇で認められるような、不可避的な進行で無理やりに読者を引っぱっていく。寓話的な意味もあろうが、多くの寓話と違い、絶えず隠れている意味を熟考する必要もなく、むしろ推理小説として読んだ方が好いとすら思う。しかし、もともと推理小説を超越する文学作品であるから、推理小説として読んでも、推理小説の主人公に対しては絶対に抱けないような深い関心が当然湧いてくるはずである。不思議の国のアリスのように、主人公は穴に陥るが、その中での生活は読者の常識に反する不思議なものである。しかし、どんなに不思議であっても、別の次元では非常に写実的でもある。
砂穴から脱出するために主人公は有りとあらゆる、具体的な手段を使ってみる。読者は、そのような砂穴で生活している人がいないだろうという常識を完全に忘れ、手に汗を握って数々の脱出の試みの描写を読む。彼は何回失敗しても諦めず、罠にかかった動物のように自由を求めて蠢動しつづける。
あれほど熱望している自由は果してどんなものか、男は余り考えない。自由であった頃の生活を思い出すことが多いが、明るい記憶は一つもない。昆虫の採集や砂の研究に相当の関心があるようだが、彼自身が分っているように、「砂と昆虫にひかれてやって来たのも、結局はそうした義務のわずらわしさと無為から、ほんのいっとき逃れるためにほかならなかった」と。教師であったが、仕事から満足感を得るどころか、「じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍しい……生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない」と考える。学校の同僚に対しては同志のよしみが全くなく、砂丘への旅行へ出発する時、行先を告げず、「意識して謎めかすように努めさえした。これは、日常の灰色に、皮膚の色まで灰色になりかけた連中を、じらせてやるには、この上もない有効な手口である」と思う。男には妻がいるが、彼女にも行先を告げず、「しばらく一人旅に出る」という手紙を書くだけである。そして人生にも幻滅を感じたようである。「めくるめく、太陽にみたされた夏などというものは、いずれ小説か映画のなかだけの出来事にきまっている」と思い、「人生に、よりどころがあるという教育のしかたには、どうも疑問でならないんですがね……」と知人に語る。
主人公の灰色の日常生活を支えているのは、砂地にすむ昆虫の採集である。無論、「蝶やトンボなどに、目をくれたりするものではない。」彼の喜びは新種を発見するという希望であり、そのような発見ができたら、「長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック活字で、昆虫大図鑑に書きとめられ、そしておそらく、半永久的に保存されることだろう。」大して意味のない、楽しみもない自分の一生に生き甲斐を感じるように、「半永久的」な名声を得ることを望む。「虫のかたちをかりてでも、ながく人々の記憶の中にとどまれる」希望がなかったら、不毛の日々を送る他はなく、砂時計の砂のように、彼の一生が流れてしまう。「世界は砂みたいなものじゃないか……砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだ」と知人に言うが、砂は時間であるとも考えられる。絶えず流れている砂の中に立って自分の足跡を残すことは容易な仕業ではないが、足跡を残せないと諦めたら、人生はいかにもみじめになってしまう。
砂が流れることに対しては抵抗できないが、砂の秘密を調べることによって、「半永久的に」砂を征服することができる。征服は無理だろうと半分諦めても、調べること自体がなぐさみ物になる。砂穴の中での溜水装置の研究に対する男の情熱は女にはさっぱり分らないが、「いずれ男というものは、何かなぐさみ物なしには、済まされないものだからと納得し、それで気がすむというのなら、けっこうなことである」と思う。
女にはどういう生き甲斐があるか。それは、家を守ることである。彼女が住んでいる家はみすぼらしいものであり、そこでの生活は極めてつらいが、他所へ行く希望は全然ない。男は彼女が自由に出入りできない生活に満足していることを不思議に思うが、女は「表に行ってみたって、べつにすることもないし……」と言い、「用もないのに」自由に出歩くことに対して何のあこがれもない。
男は家をこわして梯子をつくろうと思うが、女のはげしい抵抗に会う。彼女の家に対する愛着を理解できないが、いくら聞いても合点が行かない。男は、「執念深く、追求してみる」と、女は「追いつめられて、泣きだしてしまった。あげくに、ここを離れられない理由は、ほかでもない、以前台風の日に、家畜小屋と一緒に埋められてしまった、亭主と子供の、骨のせいだなどと言いだす。」男は半信半疑で、彼女が指摘する場所を掘るが、何も見つからない。五回も違った場所を掘っても結果が同じである。「骨も、要するに、口実にすぎなかった」と分る。
では、女は何故砂穴の中にある家にそれほど固執するのか。男が初めて村に着いて組合事務所に入ると、玄関の正面に、≪愛郷精神≫という額がかかっている。女も、「うちの部落じゃ、愛郷精神がゆきとどいています」と男に説明するが、彼は、「しかし、これじゃまるで、砂掻きするためにだけ生きているようなものじゃないか!」と言う。男がそう思っても無理はない。彼がそもそも砂に興味を持ち出したのは、蠅の環境に対する適応性に気がついてからである。「適応性が強いということは、他の昆虫には住めないような悪い環境でも、平気だということだろう。たとえば、すべての生物が死に絶えた、沙漠のような……」
女は最悪の環境に馴れ切っているばかりでなく、それを愛している。男が同じ砂穴に暮すようになってから彼女は幸福であり、男が手伝うことによってできた余暇を利用して内職し、それで得た収入で鏡やラジオを買うことを楽しみにしている。女は自分の生活に諦めているというより仕合せな生活だと思っている。
ところが、郷土愛には残酷な面もある。村人たちが男を罠にかけるのは、砂掻きする人がいなかったら、村が「十日もたたずに、すっかり埋まっちまって……」と女が説明する通りである。部落は「貧弱ながら、松林もあったし、池らしいものも見えた。わずかこれだけの風景を守るために、海に面した十数軒が、どれい生活に甘んじているわけなのだ。」部落の存在の条件として犠牲者が要る。女のように進んで犠牲者になる者がいるが、そうでない場合、人が脱走できないように、村人たちが絶えず監視している。そればかりではない。部落の収入の大部分は掘った砂の密売から入ってくる。男は村人が砂を売っていることを知り、大いに驚く。「こんな、塩っ気の多い砂を、セメントにまぜたりしたら、それこそ大ごとだ。第一、違反になるはずだがね、工事規則かなんかで……」と言う。部落で掘った質の悪い砂でコンクリートを作ったら、ビルの土台やダムがぼろぼろになるに定っている。が、女は落ちついて、「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」と答える。男はたじろぐ。「女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい」ものを見る。
男もだんだん穴のなかの生活に順応する。初めのうちどうしても新聞が読みたかったが、≪法人税汚職、市に飛び火≫≪工業のメッカに、学園都市を≫等の見出しに関心がなくなり、「欠けて困るものなど、何一つありはしない」ということに気がつく。脱出が失敗した後、「気持を乱さないために」新聞をなるべく読まないことにし、「一週間も辛抱していると、さほど読みたいとも思わなくなった。一カ月後には、そんなものがあったことさえ、忘れがちだった。」外の世界への関心が下火になるに従って、「繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じていた」のである。そして溜水装置という「なぐさみ物」ができる。穴の中で、不便ながら完璧に近いほど生活の条件が揃ってくるので、偶然、自由の道が開かれても、逃げないことにする。題辞に書いてある通り、「罰がなければ、逃げるたのしみもない」。
このように『砂の女』を分析すると、安部氏に対して不親切を極めることになる。『砂の女』はいわゆる観念小説ではなく、優れた芸術作品であり、神話的な広がりもある。女が村人たちの前で男とセックスすることを断る場面や男が鴉の罠の中で水を発見する場面は読者の記憶の中で生長しつづけていくので、再び原作を読むと、ほんのわずかの言葉でできたこれらの描写に驚く他はない。
もう一つ忘れてはいけないことは安部氏の文体である。文体の一番の特徴は、比喩の豊富さと正確さであろう。別の次元で、二つの観点から振り返ってみると、あらゆる現象の本質が分ってくる。
『砂の女』は安部氏の創造力によるフィクションである。(主人公は安部氏と同じ月日に生まれたが、私小説だと言いかねる。)同時に、日本いや世界の真相を最も小説的な方法によって描いている。われら二十世紀の人間が誇るべき小説の一つである。
(昭和五十五年十二月)