無関係な死
安部公房
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)驚愕《きょうがく》がおそってくるまでには、数秒の間があった。
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客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。
もっとも、事態をすぐに飲込むというわけにはいかなかった。驚愕《きょうがく》がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。
つづいて、唇《くちびる》のまわりの毛細血管が、急激に収縮し、瞳孔《どうこう》が拡張して、視界が白っぽくなり、ふいに嗅覚《きゅうかく》がするどくなって、ぷんと生皮のにおいを嗅《か》ぐ。Mアパート七号室の住人、Aなにがしは、その臭《にお》いにゆすり覚《さ》まされたかのように、身ぶるいして、はじめて事の重大さに思い至ったものだ。見知らぬ男が、断りもなしに、自分の部屋で死んでいる。死体であることは、頭の上で不自然にねじれた右腕をみただけでも、ほぼ確実だった。
Aは、まだ閉め切ってなかったドアの隙《すき》を、そっと振向いてみた。首筋がマッチの軸を折るような音をたてた。階段の手摺《て す 》りが白く光ってみえるほか、動く気配は何もなかった。ほっとしながら、あわててドアを閉め、そのほっとしたことに、いささかのこだわりを感じる。もしも、誰か居合わせたら、彼はすぐさまその相手に救いを求めていたにちがいない。なんら疚《やま》しいことはないのだから、そうするのが当然のはずだ。しかしいま彼は、そう出来なかったことで、むしろほっとした。むろん、事態を冷静に判断するために、多少のゆとりを持つことが必要であったにしても、その心理の動きには、どこか納得しかねる部分があった。
もしかそのとき、すぐにその矛盾の裏にあるものを見とどけ、ちがった行動をえらんでいたとしたら、事件の結末も、ずいぶん違ったものになっていただろう。しかし、いったんドアを閉めてしまえば、その結果として、すぐに内側から掛金をおろすという、必然的な動作がつづかざるをえない。内容は、必然に、席をゆずった。とは言え、このためらいを、ささいなものとして見のがしてしまったからといって、彼を咎《とが》めたりなど、できるだろうか。事態はあまりにも重大であり、緊迫しすぎていた。
せかされるように掛金をかけてしまった。掛金は、ごくふつうの型のものだったが、厚い真鍮板《しんちゆうばん》の打ち抜きでできていた。受け金の内側に、ゴムを埋めこんであって、やわらかくしっかりと留まるようになっている。親指の腹で、おしこむようにすると、気持のいい手ごたえがあり……と、ふいに、あらたな衝撃におそわれて息をとぎらせてしまうのだ。いや、まちがいはない……たしかに、鍵《かぎ》をまわして、ドアを開《あ》けた記憶がある。死体が、自分で錠をかけたり出来るはずがないとすれば、死体に気づいた瞬間から、彼が半ば予期しつつも打ち消そうとつとめてきた、他殺の可能性が、はっきりと暗示されているわけだ。そればかりではない、こうした事態が、まず無断で鍵を開けるという不法行為によって始められたことをも、同時に意味している。……とすると、すべてが計画的に仕組まれていたのではあるまいか。ねらわれていたのは、単にこの死体だけでなく、彼自身もこの犯行プランに必要な一とコマとして、最初からすでに組みこまれていたのではあるまいか……思わぬ悪意に、敏感になった皮膚が、毛を逆立ててこたえる……すぐに人を呼ぼうとしなかったのも、あるいはこうした可能性を計算に入れての、本能的な自己防衛であったのかもしれない。
もっとも、このアパートの部屋の鍵は、あまり上等とは言いがたい。一応、シリンダー錠の体裁はしているものの、どこまでシリンダーの機能をはたしているかは、すこぶる疑わしい。彼自身も、ずっと以前に自分の鍵はなくしてしまい、管理人から、ありあわせの鍵をもらって、それで用を足しているというのが実情なのだ。多少の要領を必要とはするが、けっこう間に合ってくれている。もしかすると、幅と厚さが適当であるかぎり、どんな鍵でも、合鍵の役目をしてくれるのかもしれない。そうなると、とくに彼の部屋がねらわれたというわけではなく、階段に一番近いというような単純な理由から、たまたま選ばれたにすぎないのかもしれず、また、入りしなに鍵を開けたという記憶だって、なめらかさを欠いた鍵の動きからくる錯覚であり、ドアは最初から開いていたとも、考えられないことはないわけだ。……そうかと、言って、べつに事態がもつ悪意がやわらげられたわけでもない。さまざまな可能性がありうるという以外に、これといった見とおしは、なにもなかった。
おずおずとまた、死体のほうを振向いてみる。首筋がまた、マッチの軸を折ったような音をたてる。死体には、いら立たしいような感じがあった。動いていないのに、かすかにしかし絶え間なく、時計の針のように動きつづけているような印象をあたえるのだ。おそらくその姿勢のせいだろう。まるで跳躍中の男性舞踏手のスナップ写真のように、人工的にねじくれている。左腕を肩から体の下にたくしこみ、右腕を関節がなくなったような角度で外側にねじまげ、床におしつけた額の一点に、首から上の重さをすっかりかけてしまっている。そのくせ下半身は、型にはめてととのえでもしたように、まっすぐなのだ。死んだあとから外力が加えられたことを、ありありと物語っていた。
死体は折目の消えた、紺のズボンをはいていた、膝《ひざ》のうしろが、皺《しわ》だらけになっていた。靴は、踵《かかと》のへった、ラバソールで、色は薄茶。ぶつぶつ大粒の砂がめりこんでいる。めくれたズボンの折り返しにも、砂があった。尻《しり》から内股《うちまた》にかけて、大きな黒いしみになっていた。首をしめられたのかもしれないと思う。首つり死体は、かならず小便をしているという話を聞いたことがある。上着は、背割りのついた、明るいブルーの背広。裾《すそ》がはね上がっていて、ワイシャツが見えた。なぜかバンドをしていなかった。
Aはそれからあわただしく部屋の中を眺《なが》めまわした。かわったところは、べつに無さそうだ。洗面所のついた、上りがまち……水がもれつづけている、水道の蛇口《じゃぐち》……畳の上に、薄縁《うすべり》をしいた、六畳の間……十文字に桟が入った、ベニヤ板の天井……テーブルと椅子と、小さな本棚《ほんだな》……西陽《にしび 》をうけて、ミカン色に輝いている、壁半分の大きな出窓……出窓の上の、葉のおちた何かの植木鉢《うえき ばち》と、使いっぱなしの洗面用のタオル……
しかし、北側の壁にはめ込みになっているベッドの中は、カーテンにさえぎられて、見えなかった。魚の図案をちらした、枯葉色の安物のカーテン。気配をかぎとろうとして、耳をすませてみたが、外の騒音にさえぎられて、役に立たない。あたりがこれほど音で充満しているとは気づかなかった。どこか遠くを走っている、オート三輪のスプリングのきしみまでが、はっきり手にとるように聞えている。三匹以上の犬が、たえまなく吠《ほ》え立てている。通行人の甲高い笑い声がする。鍋《なべ》を洗う音がする。電車の音が聞えたし、雲に反射する船の汽笛の音まで聞えていた。
カーテンがゆれた。気をつけて見ると、カーテンはいつもゆれつづけているようだった。しかしなぜか、それほど不安は感じなかった。彼をおびやかしているものが、そういう形で姿を現わしたりするはずがないことを、無意識のうちに理解していたのかもしれない。靴をぬぎ、死体の方を見ないようにしながら、ベッドの中がのぞきこめるところまで近づいてみた。もちろん中は空《から》だった。寝乱れた跡が、そのまま残っていた。ひどく無防備な感じだった。ついでにベッドの下もたしかめてみる。ほうろう引きの、便器の白い肌《はだ》が、ぼんやり光って見えていた。
恥じるように、カーテンを引いて、もう一度死体と向い合った。こんどは上半身がよく見えた。短く刈りこんだ、かたそうな髪……無理に引き出したような、高いカラー……そのカラーの白さと対照的な、よごれた色の、小皺だらけの首筋……血の気がなくなった、しなびた耳……粉をふいたような感じのやせた青い指……指先の紫色の爪《つめ》……
顔は直接見えなかったが、見おぼえのない人間であることは、ほぼ確かだった。Aは急いで死体の傷口をさがそうとした。小ぜわしく死体のまわりをまわって、死体と床のあいだをのぞいてまわった。血で床がよごされていはしまいかということが、この際なによりも重要に思われたのだ。見当ちがいな行動だったかもしれないが、しかしこの動作は、彼をそれまでの麻痺《ま ひ 》状態から立ち直らせるためには、効果はあったようである。目にうつったかぎりでは、どこにも血痕《けっこん》らしいものは見当らなかった。Aは立ち止って、じっと死体の顎《あご》のあたりを見すえた。剃《そ》り残したひげが一本、顎のうしろに、つっ立っていた。
急に、さまざまな観念が、せきを切ったようにあふれ出してくる。いや、想念というよりも、まだ言葉には定着できない、衝動のようなものだ。とにかく、逃げだそうとする意志だけをもった、顔のない生き物の群だ。しかし、出口をさがしているにしては、彼等の行動はあまりにも混乱しすぎていた。それはむしろ、出口をふさがれた家畜のうごめきを思わせる。本当に出口はないのだろうか。いや、出口はそこにある。ちょっと振向いて見さえすればいいことを、彼は知っている。むろん振向くためには、勇気がいる。彼をおびやかしているのは、まさにその出口そのものだったのだから。……しかし、この不安と衝動に、言葉をあたえようと思えば、やはり振向いてみるよりほかしかたあるまい。
もちろん、この死体と、自分とのあいだには、なんの関係もあるはずがなかった。それは確かな、動かしがたい事実だった。だが、身におぼえがないということは、彼の身になってみなければ分らないことだ。事実もそのかぎりでは、直接に体験したものの内部だけで終ってしまう。他人とも共有できる、公認のものにしようと思えば、それが事実であることを証明してみせなければなるまい。現在の彼の立場は、明らかにその証明を求められていた。出口の通過にさいしての、安全保証も、その証明が通行証の役目をしてくれるはずだった。ただし、その証明の難易のほどは、まだよく分らない。自明であることは、難易のよりどころとは、あまり関係がなさそうだ。たとえば、平行線は交わらないという公理は、その明白さにもかかわらず、絶対に証明不可能だし、逆に、平行ならざる二直線はかならず交わるという定理なら、ごく簡単に解けてしまう。具体的に問題を検討してみるまでは、なんとも結論を下しかねることだった。
ではなぜすぐに、歩きだそうとしないのか。出口はすぐ目のまえに見えているというのに。なにがいったい、彼をそれほどためらわせているのか。もちろん、こうなった以上、証明をぜんぜん省いてしまうというわけにはいくまい。しかし、そんな証明など、番人の出方をまって、それからだってすこしも遅くはないはずだ。むしろ、無実らしくふるまったほうが、ずっと自然なのではあるまいか。書類の不備くらい、当然大目にみてくれるだろうし、うまくいけば、一緒になって証明に協力してくれるくらいの、親切心だって持ち合わせているかもしれない……だが、本当にそうだろうか……そんな、一般的な例で考えていいほど、これはありふれた事件なのだろうか。見知らぬ死人が、なんの前ぶれもなく、いきなり部屋にころがっているなどということが、事務的に苦情処理扱いをうけるほど、しばしば起りえただろうか。いや、ありえない。こんなことは、どんなに慎重にかまえても、慎重すぎるという非難はあてはまらないほど、例外的な事件なのだ。証明の難易など、このさい問題ではあるまい。出口の通過にさいして、通行証が必要だというそのこと自体が、すでに危険な罠《わな》の暗示だった。
ふと、廊下の外で、軽い咳《せき》ばらいが聞えた。顔の裏で、なにかがはじけた。そのまま、身じろぎもせずに、じっと耳をそばだてる。戦慄《せんりつ》の輪が、皮膚をしめつけ、刺しながら、足もとからはい上ってくる。だが、それっきり、なんの物音もつづかなかった。そういえば、前にも、こんな経験はなんどかしたことがあるようだ。建物の構造のせいか、ほかの部屋の中でした音が、すぐドアの外で聞えたりする。それも、どんな音でもというわけではなく、紙を裂く音だとか、長い溜息《ためいき》だとか、ふだんならむしろ聞えにくいような音にかぎられていた。……こんども、たぶん、そのたぐいだったのだろう。
一応はほっとして、顎をつきだし、唇を開いて、深く息を吸いかけたが、あわててまた唇を閉じ、死体から顔をそむける。死体から出ている物質を、一緒に吸い込んでしまいそうな気がしたのだ。すると急に、死体が臭いだしはしまいかという不安に、かられはじめた。いまのところはまだそんな兆候はない。しかしいずれ臭いはじめるにちがいないのだ。要するに時間の問題にすぎまい。彼はまだ死臭をかいだ経験はなかったが、なんとなく想像することはできた。おそらく、我慢のならない、ぞっとするようなものにちがいない。
いつまでもこうしているわけにはいかないのだ。いくら出口に、危険が待ちかまえている可能性があるからといって、ドアの外に立つのが、いつも実体のない咳ばらいばかりとはかぎらず、また死体が、いつまでも大人しくしていてくれるとはかぎらない。勤務先の同僚の、思いがけない訪問ということだってありうるし……もちろん、もっと悪いことだってありうるし……さらには、死体のやつが悪臭をアパート中にまきちらして、なだめようのない自己主張をはじめることだってありうるのだ。いたずらに、出口の危険から尻込みすることは、そのまま脱出を断念することにもなりかねまい。まるで、自分の尻尾《しっぽ 》をくわえた蛇《へび》のような、解決のない矛盾におちこんでしまうのだ。どこかで、蛇の胴は断ち切ってしまわなければならない。
とは言え、蛇の胴というやつは、単なる決断くらいでは、なかなか始末しおおせるものではない。一見、どこを切っても、大して変りばえはしないようにみえながら、しかし、むろん、どこを切っても同じというわけにはいかない。そこで、せっかく決断をふりかざしたまま、またも、ただうろうろと、時の空費をしてしまうことになるわけだ。そして、蛇の輪は、ますますその緊密さを増していく。
身ぶるいがでた。気温が下りはじめていた。いつの間にか、出窓で燃えていた西陽が、跡形もなくかげってしまっている。どれほどの時間がたったのだろう。もっとも夕刻の陽脚《ひ あし》は早い。ほんの短い間だったのかもしれない。しかし、ずいぶん長い時間だったような気もする。思いだしたように、あわてて、腕時計をのぞいてみた。五時十分だった。それにしても、なぜあのときすぐに時計を見ておかなかったのか。後ればせながら、はげしい悔恨におそわれる。どうやら、思考力も、あまり信用のおける状態にはないらしい。
間もなく、日が暮れるだろう。暗くなれば、明りをつけなければいけない。明りのついた窓の様子が、ちらと脳裡《のうり 》をかすめた。とたんに、首筋のあたりに、焼けつくような感じが走った。誰かがその明りを認めるかもしれない。見られた以上、もはやアリバイは成立しないのだ。死体の隠匿は、ただちに彼を罪におとしいれてしまうだろう。
そうかと言って、明りを消したままにしておけばいいというわけでもなさそうだ。第一、暗がりのなかでは、なんにも出来やしない。仮に、うまい解決法を思いついたとしても、それを実行にうつすことはさまたげられる。それに、安全度の点だって、疑わしいものだ。このアパートでは、さっきの咳と同様、ほんの微《かす》かな音が、意外に遠くまで伝わっていくことがある。靴音、鍵をまわす音、ノブのあそび、ドアの蝶番《ちょうつがい》のきしみ、そうしたものから、彼が戻って来たことに気づいて、記憶している者がいなかったとはかぎるまい。さらには、こちらではそのつもりでなくても、案外、どこかに、目撃者さえいたかもしれないのだ。そうした連中が、窓の明りが消えていることを不審に思い、あとで死体の存在と結びつけたとき、いったい何《ど》んな空想をほしいままにすることか……
いずれにしても、状況はすこぶるよろしくない。この死体から完全に逃げきろうと思えば、自分がぜんぜん部屋に戻らなかったことにするか、さもなければ死体を消滅させてしまうかする以外にないわけだ。しかしそのどちらも望めないとすれば、一体どうすればいいというのだろう。いさぎよく、観念して、死体の発見を交番にとどけに行くか……
とんでもない。それこそ、犯人にとっての思う壼《つぼ》ではないか。どんな罠がしかけられているやら、分ったものではないのだ。警官は薄笑いを浮べて、問い返すことだろう。「あかの他人だって? 本当かね?」なんと答えようと、それを証明できないかぎりは、同じことなのだ、事実彼には、証明するてだては、何もない。彼の言葉を信じてもらえないかぎり、知人である場合の証明は比較的容易でも、他人であることの証明は、絶望的にむつかしい……
こうしてまた、蛇のどうどう巡りに、まきこまれる。
すでに、部屋の隅《すみ》には、暗がりがにじみはじめた。死体の色も、いっそう暗さをましてくる。ふと、死体の顔を、まだはっきりとは見きわめていなかったことを思いだした。たしかめておくのなら、今のうちだろう。あかの他人であることに、ほぼ確信はあったが死体の印象は、生きているときの印象とは、かなりちがっているかもしれない。
しかし、死体にさわるのは、あまり気のすすむことではない。なるべく、一動作で、すませてしまいたかった。まず、髪をつかんで、頭をもち上げよう。同時にそれを、左に引けば……うまくいくようでもあるし、ただ首を傾《かし》げるだけの効果しかないようでもある。自分の頭をつかって、ためしてみた。おおむね、いいようだが、まだ完全とは言いがたい。やはり、もう一方の手をそえて、ねじってやる必要がありそうだった。頭は重いから、力がいるだろう。死体に直接さわるのは嫌《いや》だったから、出窓にかけてあった手拭《て ぬぐ》いをとって、右手をくるんだ。あとで、この手拭いは、すててしまおう。死体のわきに、片膝をついて、身がまえる。手をおろしたら、とにかく、一気に片づけてしまわなければならない。
首はおそろしく固かった。まわすことはまわせたが、とうてい、一気になどというわけにはいかなかった。最初は、力の配分を誤り、はずみをつけすぎて、死体の上にのしかかるように倒れてしまった。死体は全体として、こわばっていた。あるいはこれが、死後硬直というのかもしれない。
重い、きしむような抵抗を押しのけながら、ゆっくりとまわしてやらなければならなかった。髪は冷たく、ねとついていた。やっと顔がこちらを向いた。死体は、酸《す》っぱがっているような、おかしな口つきをしていた。半開きの上瞼《うわまぶた》に、黒眼がわずかにのぞいている。頬骨《ほおぼね》のはった、しかしどちらかというと、面長の顔だ。鼻のまわりに、おどけたような表情が浮んでいた。色のことをのぞけば、まるで寝すぎたことを、はにかんででもいるみたいな、人の好さそうな死顔だった。
Aは、声にならない悲鳴をあげて、とびのいた。全身がひきつり、手足の関節が、いまにも勝手にはねだしそうな感じだった。ぎごちなく、右手の手拭いをむしり取ると、死体の顔をめがけて、たたきつけるように投げかけた。完全ではなかったが、とにかく顔はかくれた。
彼がそれほどおびえたことに、べつに新しい意味はなかった。むろん、見知った顔などではなかった。ただ、死体に、これほど個性的な表情を期待していなかった。彼の想像力の欠如が、ちょっぴり復讐《ふくしゅう》されたというだけのことらしい。意志とは無関係に、間歇《かんけつ》的なうめき声がもれてくる。すり足で、死体の頭の上をまわり、部屋を横切って、テーブルの上につっぷした。両肘《りょうひじ》をついて、親指の腹で、こめかみを揉《も》みはじめた。
ながいあいだ、そうして、揉みつづけていた。それから、唐突に、体を起した。彼が思いついたことも、その動作におとらず、唐突だったようである。そうだ、死体をどこかに移してしまえばいいのだ……死体が、この部屋にあることは、死体をここに搬《はこ》びこんだ犯人と、自分だけしか、まだ知らないはずのことである……誰か知っている者があれば、今まで黙っておいておくわけがない……早速にも、乗りこんできて、いまごろは大騒ぎになっていたにちがいない……死体をここから搬び出しても、犯人はむろん黙っているだろうし、自分に疑いがかかってくる気づかいは、まずないはずである……
蛇というやつは、とにかく何処《ど こ 》かで、断ち切ってみるべきものらしい。この死体移動の思いつきは、単に一つの解決法を発見したというだけでなく、出口を恐れるどうどう巡りから、彼を立ちなおらせた。ゼンマイの一ヵ所が切れて、ほどけはじめるみたいに、出口の矛盾も、跡形もなく消えてしまう。すくなくも彼には、そう思われた。なにをあんなに思いあぐんでいたのか……考えつくしているようなつもりで、実はなんにも考えていなかったと言っていい……しかし、今はちがう。理窟《り くつ》のとおった推理や、現実的な判断が、次から次に、解きほぐれてくる。この死体移動のプランだって、単に悪あがきのはての思いつきと言ったようなものではなく、つけようと思えば、いくらだって説明がつく、はっきりとした根拠をもったものだった。
他人の立場に立ってみることの、効用だったかもしれない。とくに、死体を動かそうとすることで、犯人の立場に身を置いてみたことがよかったのだろう。見知らぬ死体が一つという、単純すぎてまるで手のつけようがない状況も、犯人を間において見なおしてみれば、案外いろんな手掛りを残してくれている。たとえば、その犯人が、おそらくこのアパートの中の住人にちがいないということなども、その一つだ。死体が部屋に持ち込まれたのが、日中であったことは、まず疑う余地がない。彼が部屋を空《あ》けていた、十時間足らずの間の出来事なのだ。町なかで、昼日なか、こんな荷物をしょって歩くわけにはいくまい。移動は、アパートの中だけで行われたと考えるのが、まず妥当だった。
もちろん、犯人が、計画的に彼の部屋をねらったのか、それとも行き当りばったりに、彼の部屋がえらばれたのか、その点はまだよく分らない。いずれにしても、彼が日中ほとんど部屋をあけており、またドアの錠が不完全で、どんな鍵でも簡単に開けられるということなどは、かなりの人間に知れわたってしまっているはずだ。しかし、そんな条件は、なにも彼の部屋だけとはかぎるまい。階下と階上を合わせて、十五の部屋の中には、ほかにもまだ幾らもあったはずである。もっとも、階段を上って、とっつきの部屋というのは、犯人が階下の人間である場合、すこぶる好都合だったにちがいない。まあ、そのへんの兼合いといったところが、真相だったのではあるまいか……
ただ、はっきり言えることは、この被害者が自分に無関係である以上、加害者だって、同様に無関係であるはずだということだ。死体は単なる手段にすぎず、彼に対する嫌がらせが目的だったというような場合も、一般論としてなら考えられなくもないが、しかし彼の交際範囲には、どこをどう見廻したって、そんな大それたことをしそうな人間なぞ、まず見当りそうにない。また、そんな恨みをかうようなことをした億《おぼ》えもなかった。犯人にとっては、おそらく、ただ他人の部屋でありさえすれば、それでよかったのだろう。そのためにはむしろ、無関係なほうがよかったにちがいない。とくに彼の部屋でなければならない理由など、これっぱかりもなかったのだ。
死体の移転計画をさまたげる条件は、なにもなかった。多分、なさそうだった。多分というのは、犯人が意識的に、彼と死体を結びつける工作をしていなければ、という意味だ。その点はむろん、彼も考えないではなかった。彼が犯人だったとしても、やはり計画の一部として、当然考慮に入れていたにちがいない。いろんな場合が考えられる。たとえば、管理人あたりに、昨夜Aの部屋に泊り客があったと思いこませるのも一つの手だ。または外から、Aあてに、呼び出しの電話をかける。管理人が留守を伝えると居留守にちがいないとさんざん嫌味を言い、約束を破ったとかなんとか、思いっきりやくざっぽい調子でわめくのだ。管理人は、Aを、そういう人間の仲間だと思いこんでしまうにちがいない。Aが犯人だったら、おそらくこの手を使っていただろう。強い印象をあたえ、しかも自分は表に立たずにすむ。
だが、そうした布石が、彼に不利な証言として働くのも、まず部屋に死体があってのことである。死体がなければ、そんなことは、最初っから話題にもなるまい。アパートの中を、一部屋、一部屋しらべていけば、なんらかの疑いを差しはさめないような住人など、一人だっていはしないのだ。死体を背負いこんだものの負けである。いくら無関係だと言いはってみても、死体がその部屋にあったという事実には、いずれかないっこないのだから。そこで彼、もしくは彼女には、あらためて死体と無関係であることの証明が要求されることになる。あの、あまりに明白すぎて、かえって手のつけようもない不在証明を。……死体処理の方法として、これほど単純で、かつ確実なやり方は、そうめったにあるものではない。穴を掘って埋めたりするより、ずっといい。
ところで、実際問題として、どの部屋を死体の移転先にえらぶべきか。Aは、窓を背にして、死体ごしに、じっとドアを見つめた。そうしていると、ドアをとおして、アパート中が見わたせるような気がした。しかしどうも、思ったよりも、ざわついた感じだ。五時五十五分……このアパートは、独身者か、せいぜいが共稼ぎの夫婦者どまりなので、比較的出入りの少ないほうなのだが、どうやら時間がわるかったらしい。もっともこのざわつきを、逆に利用するという考え方だって出来るわけだ。騒々しいといっても、廊下のどこかで、たえず人目がちらついているというほどではなく、一つの足音が通りすぎたあと、ほかのことを考えずに、次の足音を待つことができる、といった程度なのだから、うまくそのリズムにのせてやりさえすれば、かえって事がスムーズに搬ぶかもしれない。すくなくとも、ドアの開閉などには、あまり気をくばらなくてもいいことになるだろう。
死体運搬には、あの手をつかうつもりだ。いつか映画でみて感心した、酔っぱらいを介抱しているように見せかけるやり方である。生きた人間と腕を組むことだって、めったにしたがらない彼の性格だ。まして、死人と肩を組むなど、まっぴらと言いたいところだろうが、この際そんな性格のことなど、考慮の余地もない。それに、ふとん包みにしたりして、変に隠し立てしたりするのは、かえって人目をひくことになる。死体は隠すものだという通念の、逆をいかなければいけないのだ。あかの他人の部屋に、黙ってほうりこんでおくという、この犯人のやりくちも、やはりその原理の応用にほかなるまい。隠したものは、いずれ発見されてしまう。どうせ発見されてしまうものなら、はじめから、その発見され方に工夫をしておけばいいというわけだ。
もっとも、この時間に、階段を下まで搬びおろすというのは、いささか冒険にすぎるだろう。いくら、人目をごまかす工夫をしているからと言って、見られないにこしたことはないのだ。それに、移動の方向は、つねに玄関から奥への線をたどるべきである。つまり、いま戻って来たというような状況が必要なのだ。それに逆らった行動は、特殊であり、不自然であり、気づいた者に、行先を見届けたいなどという、つまらぬ好奇心をおこさせかねない。実際問題として、目標は、やはり二階の部屋だけに限られるだろう。
それも、階段から、この部屋の前をとおって、奥の三つが、もっとも理想的だということになりそうだ。運のいいことに、その三部屋とも、日頃からわりに留守がちだった。ただし今日の様子はまだよく分らない。あれから、前を通る靴音を聞いたおぼえがないところをみると、まだ誰も戻っていないのかもしれない。すぐの隣が、やはり独身で、壁ごしに聞えるほどの音をたてて舌打ちをするくせのある、ひげの濃い丸顔の大男だ。酸素|熔接《ようせつ》の器具をつくっている会社の、販売係とかいうことで、酔って帰ってくると、その度合に応じて、舌打ちの回数が多くなる。銭湯で、二、三度出会ったときのほか、ほとんど言葉をかわしたことはない。
その向うは、何をしているのかはっきりしないが、もみあげを長くのばした、猫背の男で、部屋の前を通るときは、かならずと言っていいくらい、小唄《こ うた》のようなものをうなっている。出入りはまったく不規則で、やたらとあわただしくしている時があるかと思うと、何日ものあいだ、こんどはぴたりと気配一つさせなかったりする。ときたま、気が狂ったような音をたてて、ラジオを鳴らしはじめ、我慢できなくなった誰かが、苦情を言いに行ってみると、部屋の中はからっぽだったというようなこともあった。
三つめの、つき当りのドアには、夫婦者が住んでいる。残念ながら、この二人については、まるで知識がない。もっとも、こんどの仕事に、べつに知識はいらないわけだ。要するに、他人であれば、それでいいのだから。知らなければ、知らないほど、かえって好都合かもしれない。
しかし、その夫婦者が、死体を抱《かか》えこんで狼狽《ろうばい》する様子を想像すると、ちょっぴり気の毒な気もした。夫婦である以上は、互いに、相手の不安にも責任をもたねばならず、結果として、苦痛と混乱は倍加されることだろう。出口に待ちかまえている、検問のきびしさについて、冷静に思いをめぐらすなどというゆとりはなく、いきなり駈《か》け出して行って、まんまと罠《わな》におちこんでしまうかもしれない。……だが、おれの責任ではない……おれだって、同じような羽目におちいって、見事に切りぬける方法を見つけだしたのだ……めいめいが、自分の力で、それを発見すればいいのだ……他人のドアは、ほかにもまだ幾らもある。それに、そうだ、彼の部屋にこの死体を持ち込んで来たものだって、案外同じように誰かから押しつけられた組だったのではあるまいか。死体は、アパートの中を、ぐるぐるたらい廻しになっているのかもしれないのだ。歯をくいしばるような可笑《お か 》しさがこみ上げてきた。深刻に考えることは何もない。誰もがやっていることを、自分もやっているというだけの話ではないか。死体を他人におしつけることで、ほんのちょっぴり感じていたやましさも、これできれいに解消してしまった。
彼のつもりでは、手順は大体、次のようになる予定だった。まず、もちろん、その部屋が留守であることをたしかめておく。それから、あらかじめ、鍵《かぎ》をあけておく。自分の部屋の経験からいって、多分なんとかなるだろう。すくなくも、三つのうちの、どれかは上手《う ま 》くいくはずだ。とにかく順にためしてみよう。その鍵の調子が、目標選定の規準にもなるわけだ。次に、いったん部屋に戻って、窓から通りの様子を見とどける。視野に入ったところから、玄関をとおって、階段の下までくるのに、歩いてどれくらいかかるだろう。いくぶん早めに、視線でたどりながら、はかってみると、約三十五秒かかった。つまり、この瞬間に、誰も見えていなければ、あと三十五秒は安全だということになる。すぐに、死体と肩を組んで、廊下に出るのだ。その際、自分の部屋のドアは、開《あ》けっぱなしにしておく。無駄《む だ 》な時間がはぶけるばかりでなく、ちょっとした遮蔽物《しゃへいぶつ》にもなってくれる。奥の部屋をえらんだ効用は、こういうところにも現われているわけだ。死体を目指す部屋にほうりこんで、鍵をもとどおりにしめ、戻ってくるまでの動作を思いうかべながら、部屋の中で実演してみると、きっかり二十四秒かかった。まだ十秒以上も残っている。仮に、途中で死体の靴が脱げ落ちるというような事故があっても、らくに取り戻せるだけの、ゆとりがあるわけだ。
いつか、死体から、無気味な恐ろしい印象は消えていた。しかし、不愉快であることには変りない。まったく、むかむかするほど、間抜けた代物だ。順ぐりに、たらい廻しにされながら、他人に迷惑をかけて歩く、邪魔物なのだ。だが、もう、ほんの少しの辛抱である。すでに死体は、青みをおびた影になり、まるで重さがなくなったように見えた。
ポケットからつまみだした部屋の鍵を、宙に投げ上げ、受けとめて、両手のあいだで、もみほぐすような動作をくりかえしながら、あと十分……あと十分たてば、新聞の字が読めない程度の暗さになる。どんな無精者でも、明りをつけずにはいられまい。それでもまだ、ドアの隙間《すきま 》から光がもれて来ないようなら、その部屋は疑いもなく留守だということが分り、そこで直ちに、行動が開始されて……
タバコをくわえる。マッチをさがす。
しかし、考えてみれば、ずいぶんおかしな話ではないか。死体をほうり出してしまったからといって、べつに死体との関係が変るわけでもないのに。まあ、法律が咎《とが》めようとしているのは、関係そのものよりも、関係がないことを証明しなければならないような立場に、自分を置いてしまったという、その不手際《ふ て ぎわ》についてなのかもしれない。悪く言えば、杓子《しゃくし》定規だろうが、好意的に解釈すれば、奥ゆかしさということにもなる。つまり、へまさえしなければ、人間はつねに自由だということだ。
もちろん、人間はいつだって、知らずにへまを犯す危険にさらされている。だからと言って、不平を鳴らすのは、いささかお門違い、というものだ。現に、たとえば、これから死体を押しつけてやるつもりの相手が、実ははじめに持ち込んできた当の犯人だったというような、馬鹿気た道化芝居にだって、けっこうなりかねないのだから。これこそ法の公平というべきではなかろうか。……だが、このせっかくの思いつきも、なぜかいっこうに彼をはずませてはくれなかった。いったい、どうしたというのだろう、この奇妙な胸苦しさは……
彼の手は、しきりにテーブルの上を、まさぐっている……つみ上げた、古雑誌のあいだ……食器をのせたアルマイトの盆の下……マッチが見つからないのだ。たしかに、この辺に、置いた記憶があるのだが。それとも、死体のやつが、くすねてポケットにしまったのか……
とつぜん、ピシッと、頭の中で何かがはぜる音がした。死体がマッチを隠したかもしれないという、そのとんでもない連想と、犯人のところにもう一度、死体が送り返されるかもしれないという思いつきとが、ふれ合ったとたん、それは恐ろしい現実的な警告に変っていた。そう、物的証拠というものもありえたのだ。そんな分りきったトリックに、なぜもっと早く気づかなかったのだろう。犯人にとって、死体が悪循環をおこさないように、歯止めをかけておくくらい、ほんのちょっとした工夫でよかったのだ。
たとえば、テーブルの上のマッチをとって、死体のポケットに入れておく。それは、スリー・キャッツという、彼の行きつけのコーヒー店の、店名入りのマッチだ。意匠がまた凝っていて、金色の地に、黒と緑の縞模様《しまも よう》の猫が三匹、めざしのように串刺《くしざ 》しになっている。そのうえ、もしかすると、彼の字で、何かのメモが書きつけてあったかもしれない。なくても、彼とマッチとの関係は、とうてい隠しおおせるものではない。なんともうかつなことだった。証明の困難さは、単なる一般論にとどまってなどいなかったのだ。もちろんマッチは、そのほんの一例にすぎない。そのかわりに、名刺かもしれないし、一枚の写真かもしれないし、あるいは、死体の指にからんだ彼の髪の毛、といったようなものかもしれないのだ。部屋の中にちらばっている、彼の痕跡《こんせき》ならば、どんなものだって役に立つのだ。
唇《くちびる》から、タバコが落ちた。落ちるにまかせた。タバコに重さがあることを、はじめて感じた。うかがうように、窓の方を振向いてみる。しかし、求める光は、もうどこにもない。あるのはせいぜい、ものの輪郭を包む淡い透明だ。死体に仕掛けられた、贋《にせ》の関係をはぎとろうと思えば、どうしても明りをつけなければならない。その時刻に、彼が在室したことを、もはや打ち消しがたいものにする、はっきりとした証拠を……
出来れば、明りをつけるまえに、死体の始末をつけておきたかった。むろんまだ、死体移転の計画をすてたわけではない。得心のいくまで、死体をしらべおえれば、やはりその計画は実行するつもりだ。いくら贋の証拠品をとりのぞいてみても、無関係であることの証明という、一般的負い目は、いぜんとしてそのままなのだから。もし、死体搬出にうまく成功しさえすれば、明りをつけたって、それはもう一向に差支《さしつか》えない。むしろ、無実であることのしるしに、つけることが望ましいくらいだろう。だが、その計画実行の前提として、まず死体をしらべなければならず、そのためには明りがいるということなら、成功を信じて、思いきるより仕方ないのではあるまいか。死体を持ち出すことが出来ず、しかも明りをつけてしまった場合におこる、種々の懸念にまどわされたりするのは、やめにして……
こういちいち、なんにでも驚くのは、よほど神経が安定を失っているせいなのだろう。電燈の明るさにまで、汗ばむような衝撃を感じた。いっせいに息を吹きかえした空間が、関係の恢復《かいふく》を求めて、せまってくるようだ。なかでもあざやかに、死体がおのれの存在を誇示していた。見なれた壁や、家具ならともかく、死体からまで、関係を求められたりするいわれはない。しかしもう、明りはつけられてしまったのだ。動かない石が、水の流れをいっそうきわ立たせるように、死体のまわりで、ようしゃなく動きはじめた時の経過にせき立てられて、おずおずと死体のそばに近づいた。
上衣《うわぎ 》のポケットは、左右とも体の下になっていた。ズボンのポケットも、このままの姿勢では、あつかいにくい。やはり、仰向けに、一廻転させてみる必要がある。全身の、ひそめたり、すくめたり出来る部分の、ありったけを使って抵抗しながら、加えるべき力と、位置と、方向と、さらにそれによって起る結果とを、目測してみた。死体の身に触れるのは、なるたけ最小限にすませたい。箒《ほうき》の柄を床とのあいだに差し込んで、それを挺子《て こ 》にしてころがしてみたら何《ど》うだろう。それとも、反対側にまわって、洋服をつかんで引張るか。いや、さっきの首の固さからすると、あのつきだした右手だって、もうかなり硬直してしまっているにちがいない。あれを持って、ぐるりとまわせば、簡単に反転してくれそうだ。しかし、手首というやつは、いかにも表情たっぷりである。顔以上に、死が濃厚に集中していて、うっかり触れでもしたら、たちまち死を伝染されてしまいそうだ。開いた週刊誌のページのあいだに、はさみこみ、上からつかんで、引き上げた。予想に反して、手首はぐにゃりとまがった。まがったのは、手首だけでなく、肘《ひじ》の関節も、ぐらぐらだった。最初から不自然だったのが、よけい妙な具合に、ねじくれてしまった。……どうやらこの腕は、はじめから骨折していたらしい。損傷した死体には、生きた人間の傷以上に、胸をむかつかせるものがある。いちど折れた関節は、もう硬くならないのだろうか。それとも何か、もっと他の事情があるのだろうか。
とにかく、こんな吐き気がする状態には、早速にもけりをつけなければいけない。入口のたたきから、右足に靴をひっかけてきた。多少手荒でも、それで死体の胴のあたりを蹴《け》って、ころがしてしまおうというわけだ。じっと、足をつっぱりつづけていると、上半身から下半身へ、しなうように力を伝えながら、死体は音をたてて仰向いた。上手くはいったが、青い上衣に、くっきりと白い靴跡を残してしまった。ぞっとした。なんとも不吉な、とり返しのつかない感じだった。あわてて、洋服ブラシをとってきて、そのよごれをはらった。さいわい、靴の裏はよく乾《かわ》いていたらしく、すぐ落ちてくれた。すくなくも、一見したくらいでは、分らない程度になった。
それにもう、靴跡どころのさわぎではなかったのだ。すぐつづいて起きた事態は、それまでに予測できた、あらゆる危懼《き く 》を完全に上まわっていた。はじめは、眼の隅《すみ》にとまった、赤ちゃけたただの汚点だった。そいつは、死体の上衣の襟《えり》の下から、ちょっぴり片隅をのぞかせていた。小包用の、包装紙の、切れっ端のようにも見えた。襟をつまみ上げて、のぞいてみると、シャツが破れて、その破れ口が折れ返っているのだった。そして、その色は、変色した血のしみだった。
反射的に、足もとに目をおとす。死体が、うつぶせになっていたとき、その胸のあたりが当っていた場所だ。案のじょう、ちょうど一円のアルミ貨くらいの、茶褐色《ちゃかっしょく》のしみがこびりついていた。周辺がかすかに光沢をおびた、かさぶた様の不規則な形で、その中心部に、やや透明な感じの赤い点がはめこまれている。シャツの切れ端をつたって流れた血の数滴が、そこで乾いて、固まったのだろう。
しかし、想像されるような、はげしい衝撃というようなものではなかった。それは、深い、麻痺《ま ひ 》していくような、虚脱感だった。死体を動かすときに顔からずり落ちた、手拭《て ぬぐ》いをひろって、機械的にその血痕をこすりはじめた。唾《つば》をたらして、またこすった。そのうち、表面はなんとか、はげ落ちたが、薄縁の繊維のあいだにしみこんだ分は、そんなことでは何《ど》うにもならない。洗面台に、手拭いをぬらしに行く。通りすがりに、何気なく死体の顔を見た。一面に痣《あざ》がひろがっている。それは顔の左半分で、いまは上になっているが、さっきまでは下側になっていた部分だ。だが、待てよ、こんなよごれが、最初に見たときは、鼻の周辺と、顎《あご》の下あたりに、かたまっていたように思うのだが……痣などではなく、これがあの死斑《し はん》というやつなのかもしれない……すると、死斑というのは、姿勢を変えるたびに、重力にしたがって移動してまわるものなのだろうか。なるほど、死体など、色つきの水にひたした、ただの海綿の袋にすぎないのかもしれない。
濡《ぬ》らした手拭いも、薄縁の目のあいだが、どんなにあつかい難いものかを、思い知らされただけだった。ライター用の油か、アルコールか、せめてインク消しでもあればよかったのに。とりあえず、石鹸《せっけん》を使ってみたらどうだろう。剃刀《かみそり》で切った血のあとでも、石鹸で洗えば、たいていは落ちてしまう。ためしてみるに越したことはない。まず血痕のまわりに、じかに石鹸をすりこみ、つぎにたっぷり水をふくませた手拭いで、叩《たた》くようにして泡立《あわだ 》てた。手拭いをしぼって、ぬぐいとる。二度くりかえすと、さすがに、気をつけて見ないと分らない程度になった。ところが、まずいことに、その部分の繊維までが、いっしょに白く洗われてしまったのだ。
誰の目もごまかすことは出来ないだろう。どんなさりげない一瞥《いちべつ》だって、この細工の跡を見のがしてはくれまい。そして、いったん疑いをかけられてしまえば、もうおしまいなのだ。なにやら科学的な検査法があって、その薬品をふりかけると、あるかなしかの血痕が、たちまち青く螢光《けいこう》を発するのだという。
どうやら死体は、この小さな血痕で、しっかり彼の部屋に錨《いかり》をおろしてしまうつもりらしい。移動計画も、こうなってはあまり効果がなさそうだ。いずれ何処《ど こ 》かで、死体が発見されたとする。さっそく聞きこみが開始されるにちがいない。容疑のあるなしにかかわらず、刑事たちはアパート中の各部屋を、残らず見てまわるだろう。そしてこの、「最近なにかを拭《ふ》きとった形跡」が、刑事たちを小躍《こ おど》りさせることになる。家具を置いて隠そうにも、ちょうど入口からの通路にあたるところで、すこぶる都合がわるいのだ。
ところで、刑事につかまった血痕は、いったいどんなお喋《しゃべ》りをはじめるつもりなのだろう。まず、血液型の一致とかなんとか、お定まりのところから説きおこすつもりにちがいない。それから多分、時間関係だ。たしかに、時間に関するかぎり、この血痕のもつ意味はほぼ決定的だ。それは死体が、まだ血を流していた時刻……すなわち、殺された瞬間か、ないしはその直後に、間違いなくこの部屋にいたという事実についてである。その事実は、一体これから、どんなふうに彼をまきこみ、おとしいれていくつもりだろう。すくなくも、最後までまつわりついて、彼を手離すことなど、まずありえまい。
いくら拭っても、拭いきれないからといって、べたつく手垢《て あか》を、拭わずにはいられない。血痕のことで、動転させられながらも、彼の手はやはり死体の所持品検査にとりかかる。いくら、絶望的な状態だからといって、みすみす贋の証拠物件に甘んじたりすることはないだろう。自殺者だって、身のまわりの整理くらいはする。しかし、どのポケットも、完全にからだった。彼の名刺や、スリー・キャッツのマッチ箱はおろか、軸木の折れかす一本、入ってはいないのだ。いや、彼との結びつきを暗示するものがないというだけでなく、小銭も、ハンカチも、電話番号をひかえた紙きれも、普通身につけているはずのどんなものも見つからなかった。洗濯屋から戻ってきたばかりか、さもなければ電気掃除機で吸い取ったとしか思えないほど、きれいさっぱりからっぽなのだ。それが計画的なものであることは、上衣のネームまで切りとってあることでも分る。この死体の身許《み もと》を示すものは何もない。靴の裏と、ズボンの折り返しについている大粒の砂以外、ぜんぶがおそらく最もありふれた既成品なのだ。
事態はべつに、良くなったわけでもないし、悪くなったわけでもない。要するに、振り出しに戻っただけのことである。ある意味では、予想どおりの結果だった。犯人としても、下手《へ た 》に贋の証拠を残したりしておくよりは、このほうがずっと利口なやり方だ。この、下らない血痕さえなければ、万事がうまくいっていたはずなのに……こんなものは、犯人にだって、とくに必要はなかったはずなのだ……
小さな、ためらうような足取りで、誰かが階段を上って来た。不安定な、ハイヒールの踵《かかと》の音だった。あいつ[#「あいつ」に傍点]だろうか……しかし今日はまだ水曜日のはずだ……いったい、なんだって、水曜日なんかに……自分でも信じられない早さで、死体をベッドの下に、おしこんでいる。便器が、死体と壁のあいだで、ひしゃげる音がした。足音は、よちよちとドアの前を通りすぎた。かすかに、つき当りのドアの、鍵がまわる音がした。
息をはずませながら、唇をなめまわした。いくらしめしても、唇の乾いた感じはとれなかった。乾いているのではなく、しびれているのかもしれない。女が戻ってきてしまったので、多少仕事がやりにくくなったことはたしかだ。しかし、そのことだけで、これほど焦《あせ》ったりしているわけではない。抜け道はいくらもある。もしあの女が、どうしても目ざわりだというなら、仕事をしているあいだ、外におびき出しておけばいいのだ。角の公衆電話から、女を呼びだす。どうせ明りもつけてしまったのだし、いまさら人目をはばかることもないだろう。管理人が、女に声をかけるのをたしかめてから、受話器を外《はず》したままにしておいて、アパートに戻る。女が、管理人の部屋で、相手のいない電話の応答を待ちつづけているあいだに、手早く死体を片づけてしまおうという寸法だ。二十四秒以内に、女が電話をあきらめてしまうなどということは、まずありえまい。これっくらいのことを、とっさに思いつくくらいの頭は、もっているつもりだ。
もっとも、これが、二間ともふさがってしまって、残っているのは一間きりということにでもなると、ことはいささか面倒になる。不可能ではないにしても、危険率はずっと高くなる。片づけてしまうのなら、今のうちかもしれない。しかし、やって効果のないことを、やっても無駄《む だ 》だ。妙な細工をしたということで、かえって立揚を悪くするだけのことだろう。このいまいましい血痕から、なんとかのがれる方法はないものだろうか……
死体を動かしたあとの空間は、いやに広々として見えた。そして、その広がりの中で、血痕をぬぐったあとの薄縁の白さが、ひとしお目立った。急に、その白さを、そのまま周囲におしひろげたい誘惑にかられた。それは最初、考えというよりも、むしろ生理的なものにちかかったのだが、意識すると同時に、たちまち大きな意味をもって、ふくれ上って来る。そうだ、あの白い斑痕を消すためには、この薄縁の全体に石鹸をつけて、洗い流してしまえばいいわけだ……
その考えは、さらに先におし進められた。それならいっそ、この薄縁そのものを、失くしてしまったらどうだろう。むろん表に捨ててくるというようなわけにはいかない。かならずそこから足がつく。端から、小さくちぎって、灰皿の中ででも、燃してしまうのだ。不精のつもりで買った、特製の大型の灰皿が、こういうときに役立ってくれる。灰はまとめて、便所の中に捨ててしまえばいい。
これで万事が解決だ。死体の始末はそれからだって遅くはない。今夜が駄目なら、明日になってからでも差支《さしつか》えないのだから。
薄縁の繊維は、カロリーも高いらしく、よく燃えた。一本、一本、ちぎってくべていくのは、なかなか楽しくもあった。その一本ごとに、自由にむかって、近づいて行っているのだ。それにしても、この煙はひどい。何度か咳《せき》こんでは、涙をぬぐった。いや、煙だけなら、まだ辛抱できる。問題は、この焼ける臭いだ。ちょっとした臭いにも、極端に敏感な管理人に、この臭いをかぎつけられずにすませられるだろうか。顔を上げると、部屋の中は、すでに煙で充満していた。電球までが、どんよりにごって見えるほどだった。まだ最初の一とつかみも、燃え切っていないというのに、これでは到底、見込みがない。用意しておいたやかんの水を、つぎこんだ。湯気の柱が立ちのぼり、ピシッと灰皿にひびが入った。
面倒でも、どうやら、洗うしかなさそうだ。洗面器に水をはり、ズボンの裾をまくり、腕まくりして、せっせと洗剤をぬりはじめた。無罪というのも、けっこう骨の折れる仕事である。
それから、ふと、とんでもない廻り道をしていたかもしれないことに気づいたのだ。あるいはこの、ただ消すことにだけ専念していたこの血痕《けっこん》こそ、実は彼の無罪を証明し、救い出してくれる何よりの証拠だったのではあるまいか……。つまり、こういうことである。死体を慎重に検証しさえすれば、死後硬直や死斑の状況などからして、当然死後経過時間も推定されるはずだ。それが分れば、さらに死体がこの部屋に搬《はこ》び込まれた時間も割り出せるにちがいない。血痕はまぎれもないその物的証拠になってくれるはずである。そして、その時刻のアリバイが成立しさえすれば……事実彼は退社時刻まで一度も机を離れなかったのだから、その成立は間違いのないところだ……それで彼の無罪も立証されたことになる。
だが、そう思いついたときには、すでに床ぜんたいが、白々と洗いあげられてしまった後だった。最近の洗剤の漂白作用は強力である。そのやたらに白く洗われた床を見まわし、彼はただ呆然《ぼうぜん》と立ちすくむばかりだ。この馬鹿馬鹿しい白さを、いったい他人になんと言って説明したらいいものだろう。いたずらに注目をひき、かえって不審の念をそそるだけの話ではないか。せっかく、血痕のおかげで、救われていたかもしれないというのに……
そして、もっといけないのは、死体を発見しながら、いままで黙って、ひた隠しにしてきたことだろう。これについてはもはや弁解の余地もない。このおかげで、せっかくのアリバイの可能性も、帳消しになってしまいそうだ。しかも、待てば待つほど、事態はますます悪化していく一方である。あれこれ迷ったりせずに、いさぎよく決断し、自首して出るべきではあるまいか。決断するなら、早ければ早いほどいい……
それにしても、このとてつもなく白い床……もう何をしても取返しなどつきそうにない……弱音ははかずに、やはりこのまま、死体と闘《たたか》いつづけるべきではなかろうか。いずれにしても、さあ、勇気を出そう。自首をえらぶか、死体との格闘をえらぶか、とにかく勇気が必要なのだ。どちらであろうと、より大きな勇気を必要とするほうが正しい解決にきまっている……
しかし、すでに夜明も近く、何が勇気であるかを決めるにも、彼は少々疲れすぎていたようだ。
[#地付き](「群像」昭和三十六年四月)
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無関係な死 時の崖
昭和四十九年五月二十五日 発 行
昭和四十九年六月三十 日 二 版
著 者 安部公房
発行者 佐藤亮一
発行所 株式会社 新潮社
平成十八年十一月五日 入力 校正 ぴよこ