書斎をたずねて
満州で育って
ぼくは十七歳まで満州で育った。しかしそこでの風景とか生活環境が、直接自分の作品の背景になっているとは思っていない。ぼくにとって重要なのは、つねに経験よりも想像力だった。どんな経験も、自分の中で想像力として生き続け展開したものでなければ、作品の題材とはならないものだ。
だけど結果として、ぼくの作品に砂漠のイメージが強く出てくるのは、逆に、満州で育ったけれども使う教科書は日本の国定教科書だったということがあるのじゃないか。自分たちの住んでいるところは山紫水明で、春になれば桜の花が咲いてと習うわけだけれど、現実の周囲は見渡す限り何の突起物もない荒野なんだ。
のっぺりしていて、山もなければ桜も咲かない。だから意識の中では、山あり川ありというものが、ある記号化された一つの夢のような存在としてあり、そのことが逆に、現実の何もないのっぺりした状態を強く意識させたということもあるのじゃないかな。
ぼくはそれほど自分の経験を重くは考えないが、しかし、常に現実を相対化して見るという習慣がそうした生活を通して植えつけられたことは事実だと思う。また、たまたま医学を勉強したおかげで、人間を神秘的に見ない、いやでも物質的に見てしまうという傾向とも結びついているかもしれない。すべてのものを相対化して、体験の裏づけなしには信じないし、また同時にその体験を絶対視しないという教訓を得たことが、あるいはいま文学的影響を与えているのかもしれないという気もする。
リルケ[#注1]・ポー[#注2]・カフカ[#注3]
ぼくの初期作品について、よくリルケの影響を指摘されるけれど、リルケが自分の中で大きな根をおろしていたのは戦争中だ。リルケというのは非常に叙情的な面を持っているし、平気でぬけぬけと叙情におぼれるところがあって、そういう面はその後とても嫌いになった。ただ、リルケの持っている目に、意外と「物」に強くこだわる面があった。いろんな概念や観念の背景に必ず「物」が媒体にならなければ成り立たないという姿勢があって、それが特に、戦争中のまわりの精神構造に対するアンチ・テーゼになってくれたんだな。だからある意味で、「物」とか「存在」ということに意識を集中させることで、時代の暗さを切り抜ける方法を求めていたのだと思う。あの時代、手に入るぎりぎりの範囲で支えになり得るものといったら、やはりそれしかなかったんだ。
小説を書くという側からいえば、ぼくはポーが非常に好きだった。中学生の頃、教室で友達にいろんな小説のストーリーを話しているうちに、知っている小説が種切れになって自分でお話を作ったことがあるんだけど、その頃はやたらとポーが好きだったな。あれだけうそっぱちの話を作りながら、それでいて非常に論理的だということに、体質的に共通し合うものがあったのかもしれない。よくカフカを引き合いに出して論じられるけれど、カフカを読んだのは小説を書き始めた後だ。むろんカフカは大好きだ。
都市的なものについて
『他人の顔』や『燃えつきた地図』、今度の『箱男』もそうだけど、ぼくの作品に都市を舞台にしたものが多いのは、とくに都市の現実からイメージを喚起されたというより、ぼくにとって関心のある人間を内側からよく見たら、その人間が必ず都市に住んでいたと言った方がいいかもしれない。どのみち小説を書くという作業は、誰か他人のなかに入り込むことだからね。いろんな意味でその運命が、誰にとっても自分の問題だと思えるような人物を見つけて、その中に自分が入り込もうとした場合、その人物が生きている世界を探っていくと、それが現代の都市になるということなんだ。
ただぼくが非常に憎悪感を覚えるのは、都市的なものに対してそれを否定したり、また否定的発言に便乗しようとする人間なんだ。都市を否定できる人間というのは、どこかに自分の場所を持っている人間、旧い農村構造の中で安定していられる人間なんだ。都市が諸悪の根源であるという考え方があるけれど、本来、都市というのは人間に自由な参加の機会を約束していたはずの場所なんだよ。たとえば、一人の人間が一日のうちに出会う人間の数にしたって、農村に比べると問題にならない量だろう。人間と人間が組み合わさることによって何かが生れる、その組み合わされ方の多様化は、絶対に人間にとって可能の展開なんだよ。
最終の帰属を問う時代
農村構造というのは、そのもとへと人間の帰属を強制するわけだが、人間の歴史はその帰属をやわらげる方向に進んできた。しかし、最終の帰属として国家が残った。ここだけは破れないんだな。法律もモラルもすべて帰属したワクの中だけにある。しかしいま、その最終的な国家への帰属自身が問われ始めているわけだ。帰属というものを本当に問いつめていったら、人間は自分に帰属する以外に場所がなくなるだろう。ぼくにとってそれが書くということのモチーフだけれど、特に今度の書下ろし『箱男』では、それを極限まで追いつめてみたらどうなるかということを試みてみたわけだ。
たとえば昨年のテルアビブ事件[#注4]でも、犯人たちは日本という国家への帰属を拒否した反国家的な存在なんだから問題にしなくてもいいはずなのに、日本政府は遺憾の意を表明し、賠償金を払ったりしただろう。ということは、本人たちはどうであろうと、帰属させる国家の方は、帰属の正統性を内側にも外側にも表明したいわけなんだ。ルバング島の大捜索[#注5]も、要するに政府が帰属証明をはっきりさせたいために、みずからあんなに必死になって捜したりするわけだよ。
帰属しないのは悪いことだということを、国家は絶えず反復するんだ。くどいほど反復してそれを頭にたたき込んで、眠っていても帰属離脱に対する不安を引き起すところまでもっていこうとする。だけど、人間が最後の帰属を拒否したらどうなるかということは、これはやはり歴史としてもそれを問われ始めている時代なんだ。歴史上、亡びなかった正統なんて、まだ一つもないからね。
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注1
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、 (1875年12月4日 - 1926年12月29日) は、20世紀を代表するオーストリアの詩人、作家、評論家。独特の言語表現による詩は、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた。また独自の宗教観や時代に対する不安や苦しみといった概念は、20世紀を象徴するようにも捉えられている。
注2
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)は、アメリカ合衆国ボストン市生まれの小説家・詩人。
1841年に発表された小説『モルグ街の殺人』には探偵オーギュスト・デュパンが登場し、史上初の推理小説と評価されることが多くその後の推理小説の発展に寄与した。またホラー小説の分野でも一時代を代表する作家とみなされている。さらに作品に科学的事実を取り入れる手法はジュール・ヴェルヌによって注目され近代SF発展の一因ともなった。詩人としては、自らの詩を解説しながら詩の構築を説いた『詩の原理』で、フランスの詩人、ボードレール、ステファヌ・マラルメなどの象徴派の系譜に多大な影響を与えた。
注3
フランツ・カフカ(Franz Kafka、 1883年7月3日 - 1924年6月3日)はチェコの小説家。ユダヤ人の家庭に生まれ、作品はドイツ語で発表した。
常に不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品世界は、表現主義的とも言われる独特の不条理さに満ちている。生前すでにある程度の名声を博していたが、死後の1958年に友人の編集した全集が刊行されるまで忘れられた存在であった。全集の刊行後、サルトルやカネッティなどに絶賛され、世界的なブームとなった。
注4
テルアビブ空港乱射事件
1972年5月30日、奥平剛士(バーシム・奥平)、安田安之(サラーハ・安田)、岡本公三(アハマッド・岡本)らがイスラエル・テルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製の自動小銃Vz-58(外見が酷似している為、よく旧ソビエト連邦製のAK-47自動小銃と誤認される)と手榴弾で攻撃。民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)。岡本公三が逮捕され、残りの2人は自決した。
なお、この事件の首謀者たちは日本赤軍とは名乗っておらず、日本赤軍としての意識もないので、厳密には日本赤軍の起こした事件ではなく、日本赤軍の前史に属する事件ともいえる。この戦いを記念したオリオン座の三ツ星は京都大学の西部講堂の屋根に描かれており、これは「赤軍版の"靖国神社"」であると言う見方もある。
1974年の第一次石油ショックの際に、アラブ諸国から日本が敵対国指定をまぬがれた背後にある理由として、「アラブの親日感情」があるといわれるが、この事件はそれに少なからぬ寄与があるとされ、生存者の岡本公三は、今でもアラブの民衆の中では「英雄」である。
2000年、テルアビブ空港事件に対してイスラエルで終身刑判決を受け、服役中に「捕虜交換」の名目で釈放されレバノンに滞在していた岡本公三に、再びテルアビブ事件についての刑事責任を問う目的で日本政府が引き渡し要求をしてきたことに対し、レバノン政府は岡本の政治亡命を認めた。
注5
47年10月19日、フィリピンのルバング島において、元日本兵2名が現地警察軍と遭遇し、1名が死亡し1名が逃亡するという事件が発生した。遺体検分の結果と従来の経緯から、死亡した者は小塚元一等兵であり、逃亡した者は小野田元少尉であることが明らかとなった。
厚生省は、小野田元少尉の救出のため、10月22日以降、厚生省及び警察庁の職員、家族、戦友、知人及び山岳会員等延べ106名の派遣団を同島へ送った。
派遣団は、フィリピン側の全面的な協力のもとに約6か月間にわたり、あらゆる手段を尽くした懸命の捜索を実施した。しかし、ついに小野田元少尉を発見するに至らず、小野田家からの申し出もあって、48年4月17日に捜索を打ち切り、今後は引き続き情報の収集に努めることとした。
ルバング島は、マニラの南南西130キロメートルに位置し、東西30キロメートル、南北10キロメートルの島で、先の大戦には75名の日本兵が守備していた。このうち31名が戦死し、40名は21年に帰還したが、小野田少尉、島田伍長、小塚一等兵、赤津一等兵の4名は投降しなかった。このうち赤津一等兵が26年3月二帰還し、その報告により、他の3名の生存が確認されたが、当時は平和条約締結前であったので、フィリピン政府に救出工作を依頼した。29年5月には、フィリピン山岳部隊と交戦して島田伍長が死亡するという事件が発生したため、政府職員及び家族を派遣して約2週間にわたって捜索を行い、また、34年1月には、島民が殺傷されたという報道があったため、政府職員、家族、知人等を派遣して約6か月間にわたる捜索を行ったが、いずれも何の手がかりも得られなかった。このため、2名の元日本兵はすでに死亡したものと考えられていた。
なお、その他の地域における元日本兵の調査、救出については、今後は、在外公館、在外商社、戦友及び民間団体等の協力を得て従来以上に情報の収集を強化し、これに基づき、現地に職員を派遣するか、在外公館又は当該国政府に依頼して調査、救出を行うこととしている。