密会
安部公房
夏の朝、突然救急車が妻を連れ去った。妻を求めて辿り着いた病院の盗聴マイクが明かす絶望的な愛と快楽。現代の地獄を描く長編。
22行2段組
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密 会
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弱者への愛には、いつも殺意がこめられている――
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ノートT
性別 男
氏名(略)
コード・ナンバー M―73F
年齢 三十二歳
身長 一・七六メートル
体重 五九キロ
一見やせ型だが筋肉質。両眼とも中程度の近視でコンタクト・レンズを使用。多少のくせ毛。唇の左端に目立たぬ程度の傷痕《きずあと》の引きつれ(学生時代の喧嘩《けんか》が原因らしいが、本人の性格はきわめて温厚)。タバコ一日十本以内。特技はローラー・スケート。一時男性ヌード・モデルの経験あり。現在はスバル運動具店に勤務。ジャンプ・シューズ(裏底に特殊な弾性体=気泡バネを使用した運動靴)の販売促進係長。趣味は機械工作。小学六年のとき、某新聞社主催の学生発明コンクールで銅賞を受賞。
以下の報告は、右の男に関する調査の結果である。非公式のものらしいので、とくに形式にはこだわらない。
夜明け前、たしか四時十分頃、約束どおり旧陸軍射撃演習場跡に馬の食事を届けに行き、そこでいきなりこの仕事の委嘱を受けたのだ。もともとぼくの方から、調査にもっと本腰を入れるよう強く申し出ていた矢先でもあったし、悪い気はしなかった。ただしぼくが調査してほしかったのは、妻の行方についてである。あいにくその場では相手について、男女の別はもちろん、なんの指示もなかったので、当然ぼくの要求が容《い》れられたものと思い込んでしまったわけだ。ふつう調査には内容に応じた権限が伴うものである。やっとそれなりの信頼をかち得たのだと考えられなくもなかった。
しかも今朝の馬は、いつになく上機嫌だった。全長二百四十八メートルの、踏み固められた射撃場跡を、端から端まで跼[#「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34]足《だくあし》で走りつづけて、八往復もしたらしい。その間、たったの三度しか転倒しなかったというから、本当だとすればたいしたものだ。
「要するに、後の二本脚だけで走る心構えなんだね。」せわしい呼吸音に言葉をとぎらせながら、首にまいた手拭で顔の汗をふき、搬《はこ》んでやった紙パックの牛乳を息もつかずに飲みほすと、得意気に後脚だけで立って、軽くスキップを踏んでみせた。「普段の習慣で、つい前脚にたよってしまうだろ。あれがまずいんだな。馬らしく走ろうと思えば、蹴《け》りはあくまでも後脚にまかせて、前脚は、そう、舵取《かじとり》ていどに軽く添えてやるくらいの気持でね。」
洞窟《どうくつ》のように長く東西にのびた射撃場の、着弾地に近い側だった。側壁の天井際に、嵌《は》め殺しの明り採りが列車の窓のように並んでいたが、まだ暗すぎる。突き当りの壁には、幾重にも土嚢《どのう》が積み重ねられ、そのすぐ手前が標的操作用の深い壕《ごう》だ。壕の左右に、やはり標的用の大きな照明器具が据えられ、場内を照らしているのはその片流れの明りだけである。射撃位置である西側の端は、黒い穴のようだ。馬がスキップを踏むと、白く乾いた地面の上にひょろりと二重の影になって伸び、蜘蛛《くも》の巣にかかってもだえる虫のように見えた。
相手が馬のつもりでいるらしいので、面と向ってさからいはしなかったが、本物の馬とはかなりの隔たりがある。バランスが悪すぎるのだ。胴がずんぐりと短く、腰が落ち、後脚は便器にしゃがむときの姿勢に近い。あれでは紙細工の鞍《くら》だって滑ってしまうだろう。どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、佝僂病《くるびょう》にかかった仔駱駝《こらくだ》か、四本足の駝鳥《だちょう》がいいところである。
おまけに、上半身には嚥脂《えんじ》の縁取りをした水色のランニング、下半身には前後ともそれぞれ濃紺のトレパンと白の運動靴、さらに胴まわりには、シャツとパンツの合わせ目を隠すようにたっぷり巻きつけられた晒木綿《さらしもめん》。無神経すぎる。
「たしかに、考えてみると、自転車なんかもそうですよね。後の駆動輪から先にブレーキを利かせてやらないと、とくに下り坂なんか危いですから。」
「でも、この調子だと、明日あたりはジャンプ・シューズを履いて跳ねまわれるんじゃないかな。」
馬が短く笑い、ぼくは笑わなかった。かわりに残響が息のように駈けぬけて通った。アーチと直方体を交互に並べた天井の構造は、防音を配慮したものらしいが、あまり効果はなさそうだ。それとも柱を使用しないための構造なのだろうか。
レタスとハムのサンドイッチを、ろくすっぽ噛まずに飲込んでしまうと、馬は魔法瓶《まほうびん》のコーヒーを砂糖抜きですすりながら、もう少し残って練習を続けたいと言った。出場予定の記念祭を四日後にひかえ、かなりあせっているようだ。効果をあげるために、それまでは自分の存在をなるべく内緒にしておきたい意向らしいが、あの時間に射撃場跡を覗《のぞ》いたりする物好きがいるわけはなく、その点はまず心配ないだろう。
問題の調査を依頼されたのは、その別れぎわのことだった。一冊のノートと、三本のカセット・テープが、さりげなく手渡された。ノートは大判の上質紙で、つまり今ぼくが書き始めているこのノートである。カセットの背のレッテルには〈M―73F〉という共通の符牒《ふちょう》と、通し番号がふられていて、調査対象である相手の人物を、盗聴器その他で追跡した記録が収められているという説明だった。
つい勘繰らずにはいられなかった。やはり連中は妻に関する情報を手にしながら、白を切っていたのだ。いまいましく思う一方で、それでもなんとか方針を切替えてくれたらしいと、胸を撫《な》でおろしていた。なにしろ妻の失踪《しっそう》以来、もう三日にもなるのだ。騒ぐなという方が無理だろう。部屋にとって返した。取るものもとりあえず、頭からテープを再生してみた。二時間ちょっとかかった。聞き終えてから、さらに小一時間、ぼんやりとただ坐り込んでいた。
予想は裏切られた。その録音の何処《どこ》にも、妻らしい人影ひとつ認められなかったのだ。妻はおろか、女っ気さえなかった。盗聴器や尾行者に、刻まれ、皮をむかれ、探りまわされているのは男だった。舌打ち、咳《せき》ばらい、調子っ外れの鼻唄、咀嚼音《そしゃくおん》、懇願、心にもない追従《ついしょう》笑い、げっぷ、鼻水の音、おずおずとした申し開き……そんな破片に寸断され、陳列されている見世物男。しかもその男というのが、ほかでもない、消えた妻を捜して右往左往しているこのぼく自身だったのである。
狼狽《ろうばい》が冷めるにつれて、腹が立ってきた。いい加減な話もあったものだ。からかわれているとしか考えられない。妻を捜したければまず自分を捜せ、とでも言いたいのか。しかしぼくが捜しているのは、あいにくそんな面倒なものではなく、単なる居場所なのだ。自分で自分の居所を捜すなんて、掏摸《すり》が自分の財布をくすねたり、刑事が自分に手錠をかけたりするようなものじゃないか。いまさらそんな教訓なんか真っ平だ。
おまけにもっともらしい条件までつけられていた。たとえばぼくが、自分に有利なように事実を捩《ね》じ曲げたりしないよう、申し出があり次第、いつでも嘘発見器のテストに応じてほしいというのだ。さらにこんな注文もつけ加えられた。なるべく固有名詞は避け、ぼく自身についても、原則的に三人称を使用すること。つまり、ぼくのことを「彼」と書き、彼のことは「馬」と呼べ、というようなことらしい。ぼくに猿轡《さるぐつわ》をかませ、馬以外の誰とも直接取引させまいという腹なのだろうか。何をびくついているのだろう。
でも結局のところ、ぼくはこうして書き始めてしまっている。いやいや注文に応じただけとは言いきれない。今朝の馬の態度には、そんな駆け引きを感じさせないだけの誠実さがあったようにも思う。練習には熱がこもっていたし、調査の件を切り出すときの表情には、たしかな思いやりが感じられた。それに、そう、はじめて「事件」という言葉を使ってくれた点も見逃せない。間接的にもせよ、ぼくのおかれた苦境を認めてくれたことになる。この奇妙な自己調査だって、より精密な被害届の作成だと考えられなくもないわけだ。三人称使用の注文にしたって、被害届の信憑性《しんぴょうせい》を増し、組織のなかの関係者――たぶん防犯、統制、規律などの担当者がいるに違いない――の注意を喚起するのが狙いかもしれないのだ。遠慮も度が過ぎると、しばしば嫌がらせと混同されがちなものである。
出来れば注文どおり、明日の朝までには報告らしい形をととのえてみたいと思っている。テープに記録された断片を、ぼくだけしか知らない事実で修復し、彼[#「彼」に傍点]というぼくが追い込まれた迷路の状況を、出来るだけ忠実に再現してみるつもりだ。たしかに一人称でははばかられるようなことでも、三人称でなら切り抜けられそうな気がする。
さて、ここまでの前置きは、不必要なら後で削除してもらって構わない。そのへんのことは馬の判断に一任する。
ある夏の朝、誰も呼んだ覚えがないのに救急車がいきなり乗りつけて、男の妻を連れ去った。
まったく寝耳に水の出来事だった。不意のサイレンに起されるまでは、夫婦ともぐっすり眠り込んでいたので、なんの準備も出来ていなかった。だいたい当の妻自身が、後にも先にも、自覚症状らしいものなど何一つ訴えていなかったのだ。しかし担架をかつぎ込んだ二人の隊員は、寝不足のせいかひどく不機嫌で、急患に準備などないのが当然だろう、と取合ってくれようともしない。それに隊員たちは、ちゃんと徽章《きしょう》のついた白いヘルメットをかぶり、糊《のり》のきいた白衣を着け、大きなガーゼのマスクまで掛けていた。おまけに示されたカードには、妻の名前から生年月日までが正確に記入されていて、いまさら逆らったりする余地はなかったのだ。
ここは成行にまかせるより仕方あるまい。妻も、たぶん皺《しわ》になって縮みすぎた寝間着姿を羞《はじ》らったのだろう、指示されるまま担架の二本の棒のあいだに膝《ひざ》をすくめて横たわり、すると隊員たちがすかさず白布でくるんでしまったので、それっきり夫婦は声を掛け合う機会もなかった。
ヘア・トニックとクレゾールを混ぜ合わせたような臭いをひるがえし、担架がきしんで、アパートの階段を降りて行く。妻がパンツをはいていたことを思出して、ほっとした。やがて救急車が、赤ランプを点滅させ、二連音のサイレンを響かせながら走り去る。男がおずおずとドアの隙間から見送って、時計をのぞくと、午前四時をやっと三分ほどまわったところだった。
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(以下の会話は一本目のテープの裏面からの抜粋である。再生機カウンター目盛の表示は729。時刻は事件発生当日の午後一時二十分頃。場所は男の妻が収容されたとみなされる病院の副院長室。副院長はよどみのない低い声でゆっくりと喋《しゃべ》り、たまに力を抜くと、その部分が皮肉めいて聞える。ぼくの声も急《せ》き込んでいるわりには表情があって、悪くない。ただ語尾で唇をすぼめる癖はやめた方がいい。マイクのすぐ近くでせわしげに時を刻みつづけている時計の音が耳ざわりだ。)
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副院長 しかし、腑《ふ》に落ちないな、なぜその場ですぐに手を打たなかったのか。
男 湯沸器のスイッチを入れたりしましたけど、やはり気が転倒していたんだと思います。
副院長 救急車に同乗すればよかったんだよ。
男 一一九番に問合わせたときも、そう言われました。
副院長 当然さ。
男 でも、そういう遠慮って、よくある心理だと思いませんか。
副院長 私ならそんな遠慮はしないな。救急車ってやつは、その気になれば、霊柩車《れいきゅうしゃ》にも負けない偽装だろ。犯罪にはもってこいの小道具さ。その走る密室のなかに、腰紐《こしひも》一本の若い女と、マスクを掛けた屈強な男が三人。これが映画だったら、次のシーンはひどいものだぞ。君の説明だと、奥さんが着ていたのは薄手のクレープとかいう生地らしいけど、あれは通気性がよくて、べとつかないかわりに、張りがないから前がはだけやすいんじゃないの。
男 嫌なこと言わないで下さい。
副院長 冗談だよ。ただ私は現実主義者でね、あまり変った話を鵜呑《うの》みには出来ないな。
男 でも問題の救急車が、病院に到着したってことは、先生だってご存知のはずです。
副院長 記録上はね。
男 じゃ、あの守衛、出まかせを言ったんでしょうか。
副院長 証拠もなしに、予断は許されないよ。
男 だったら、妻が病院の中にいることは確かなんだ。着替えもなしに、外を出歩けるわけがないでしょう。おまけにあの時間に開いているのは通用口だけで、その通用口だって、ちゃんと守衛が眼を光らせていたわけですからね。
副院長 呼出し放送くらいなら、何時《いつ》だってしてあげる。でも、一人前の大人が、それも白昼、病院の中で迷い子になったりするかな。そんな話、警察だって取合っちゃくれないと思うよ。
男 誤解から強制入院なんてことはあり得ませんか。
副院長 だって君の奥さん、診察を拒否したんだろ。
男 こんな手の込んだこと、病院関係者以外に出来っこありませんよ。
副院長 いまのところ、確実なのは、誰かが一一九番したってことだけだ。
男 どういう意味です。
副院長 事実なら、とんだ災難だったね。力になれることなら、なってあげたい。そのためにも、まず裏付けがなけりゃ。守衛のことなら、こちらでも調査中だから、委《まか》せておいてほしい。それより、この際、むしろ君の潔白を証明することの方が先決じゃないかな。
男 言いがかりですよ。
副院長 ただ可能性を論じているだけさ。
男 ぼくは被害者なんだ。
副院長 だからと言って、病院側のおちどという事になるかどうか。
男 どうすればいいんです。
副院長 とりあえず、警備の方と相談してみたら。やはり現場を自分の目で確認しておかなかったというのは、片手落だよ。いずれ時間も場所も、限定されているわけだし、もう一度振出しに戻ったつもりで、待合室の辺で聞き込みをしてみるんだな。目撃者の一人や二人、あんがい簡単に見付かってくれるかもしれないよ。
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(この面会の後、副院長は会議に出席するため部屋を離れ、ぼく=「男」は秘書の案内で、警備主任に紹介された。その時の様子はいずれ詳しく報告するつもりだが、とりあえず、男の妻の収容に立合った守衛の供述を書き抜いておこう。前と同じカセットの表側。カウンター目盛の表示は206。この内容については、後に嘘発見器によって、信憑性がたしかめられた。)
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――あのとき先生(副院長)が、さらに詳しくお尋ねであれば、自分もすべてを包み隠さず申し述べるつもりでありました。また、そうしていれば、事件も手後れになることなく解決していたであろうと思われ、残念でなりません。
はじめに、お尋ねの患者の来院時の情況について申し上げます。救急センターよりの収容要請があってから、約十三分後、午前四時十六分に救急車が到着、患者は隊員たちと何やら激しく言い争っておりました。隊長の説明によりますと、夜間通用口前に停車するまではきわめて大人しくしていた患者が、とつぜん騒ぎだし、自分は病人ではない、まったくの健康人だなどと主張して、降車を拒否するに至ったのだそうです。自分も現場に出向き、素人《しろうと》の自己診断はよくない、とにかく当直医に診てもらいなさいと強く諭《さと》したのですが、なかなか聞いてもらえず、やむなく当直の医師ならびに看護婦への呼出連絡もすべて解除せざるを得なかったような次第でした。そのうち隊員たちが、いつまでもこうしてはいられない、引揚げようと言いはじめ、自分は困ると申し立てましたが、病人でない者を搬送する義務はないと言われれば、反論もならず、そのうえ大野隊長とはすでに昵懇《じっこん》でありましたから、引継伝票に認めの印を押し、いちおう身柄あずかりの処置としました。昨今、収容を断られ、たらいまわしにされる患者が珍しくないことを思えば、この処置がとくに不都合であったとは考えられないのであります。看護婦詰所からは折返し間合わせの有線がありましたが、扱いを取消す旨申し送り、了解を得ました。
患者は(ここで男好き、と言いかけて訂正し)人好きのする小柄な女性で、丸顔、色白く、どんぐり眼、薄着にもかかわらず多少汗をかいておりました。着衣は浴衣(薄地の木綿もしくは化繊、ピンクの地に黒チューリップの花模様)、腰紐(黒と緑の編紐)、木綿のパンティ(オレンジ色のビキニ)のみで、他に所持品はありません。救急伝票によって年齢は三十一歳と確認しましたが、氏名、住所はついに本人の協力が得られず、未確認のままであります。
患者は私と二人きりになりますと、常ならぬ羞らいを見せ、胸元まで赤らめる有様でありました。このような事を申し述べますのも、患者の人となりについて、参考の一助にでもなればと考えたからであります。さらに、主人と連絡をとりたいから、電話を貸してほしいとの申し入れがありましたが、あいにく院外との通話には待合室の赤電話しか使用できぬ旨、丁重に説明しますと、では十円玉を貸してほしい、主人が迎えに来れば、百円にでも、千円にでもして返済するから、となおも言いつのるのです。あいにく私は千円札しか持合わせがなく、貸そうにも貸せませんでした。からかう気持もあって、待合室のベンチの下を探せば十円玉の一枚や二枚、ころがっているはずだと申しますと、本気にして出て行きかけるので、気の毒に思い、サンダルを貸し与え、ここで待っていればいずれご主人が迎えに来るのだからと引留めたのですが、聞き入れず、振り切って行ってしまいました。私は責任上、持場を離れるわけにはいかず、またあらぬ誤解を避けるため、後を追うようなことはしませんでした。
そのまま患者が戻って来ないので、もしかすると本当に十円玉を拾えたのかもしれないと思いながら、読みさしの週刊誌に読みふけっておりましたが、なおも連絡を絶ったままなので、あるいは呼出しの解除が徹底せず、当直の医師が直接出向いて患者を発見したのかもしれないと想像したほどです。あの先生については、たまたま女性関係の噂《うわさ》なども耳にしておりましたから、何やらほっとした気持になったことを憶《おぼ》えております。ほっとした理由について、重ねてお尋ねでありますが、それにはお答え出来ません。後になって、当直医は仮眠室から一歩も出られなかったと聞き、そのような邪推をしたことについて後悔し、心から申し訳なく思いました。そして、その後の患者の消息に関しては、まことに不可解としか申し上げられません。いま確実に言えますのは、あの時刻以後、通用口を利用した者は一人もいなかったという事実だけであります。
以上述べました内容を、再読し、すべてここに書かれているとおりであったことを認め、署名|捺印《なついん》に応じました。
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この辺でもう一度、男の部屋に引返してみるとしよう。ちょうどその頃、沸騰した湯沸器のアルミの蓋が音をたてはじめていたはずだ。気を静めるために、コーヒーでもいれようと思った。ところがいくら探しまわっても、濾紙《ろし》が見当らない。あらためて寒々とした喪失感におそわれる。救急車は、妻だけでなく、そうした日々の細部まで一緒に搬び出してしまったらしいのだ。立ったまま白湯《さゆ》をすすった。額は汗ばみはじめたのに、胃に突き刺さっている氷片はさっぱり融《と》けてくれそうにない。
どこかで猫が鳴いている。いや、あれは何百本も向うの路地を走っている救急車のサイレンだ。やっと手違いに気付いて、妻を送り届けに戻って来たのだろうか。窓を開けてみた。目隠しの波型トタンに蜘蛛の巣が夜露に濡れて光っている。サイレンの音がとだえた。さかり[#「さかり」に傍点]がついた機械猫が、どうやら新しい相手にめぐり合ったらしい。人通りがたえたこの時間には、いずれ街全体が発情した機械猫どもの巣になってしまうのだ。
豆を炒《い》るような甘い風が吹いている。そろそろフィルム工場の焼却炉が稼動《かどう》しはじめる時間らしい。脳に染みるような風に乗って、現実感覚が戻ってくる。窓を閉めた。自転車のブレーキがきしんだ。ゴム底の靴音をしのばせて朝刊がとどいた。読む気はしなかったが、読まずにいられなかった。一面の政治欄にざっと目を走らせ、最後のページの運勢欄を見る。
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〈額広く頂高く耳垂珠頭まるく腹垂れ足厚く衣食住備わる象〉
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急に妻が着替えを持って出なかったことが気になりだす。あんな格好では、タクシーにだって乗れはすまい。病院から電話を掛けてよこすしか手はなさそうだ。まあ、電話代くらいなら、誰からでも簡単に貸してもらえるだろう。彼女を見舞ったこの滑稽な事情を知れば、誰だって悪意のない笑いで心を開き、寛大な気持になってくれるはずである。
電話を待ってみることにした。待ちながら三度、繰返して新聞を読んだ。それにしても、十円玉一枚くらいに、なんだってこう手間取るのだろう。プロパンの爆発で焼けた中華そば屋の写真が出ていた。同じページの右下に、小さく「尋ね犬」の広告が目についた。
思い切りがついた。こちらから一一九番に問い合わせてみることにした。
緊急電話らしく、二つめのベルが鳴りおえるのも待たずに答えが返ってきた。
「こちら一一九番、どうぞ。」
うながされると、早まりすぎたような気もした。ばつの悪い思いで、こっそり受話器を戻した。折返し呼出しのベルが鳴りはじめ、うろたえた男は、思わず部屋の反対側まで後じさった。緊急電話の場合、いったん繋《つなが》ったラインは自動的に固定され、用件が済むまでは切れない仕掛になっているらしいのだ。ベルはいつまでも鳴りやまず、容赦なく男を責めつづけた。
降参するしかなかった。受話器を取上げた。
いざ説明し始めてみると、懸念していたとおり、そう簡単に説得できる状況ではなかった。当事者自身にさえ釈然としない出来事に、他人が納得しないからといってべつに不思議がることもない。
電話の向うの相手は、我慢強く、慎重に言葉を選びながら答えてくれた。行き倒れでもない限り、家人からの入院先の問合わせ自体が、あまり前例のないことである。要請がなければ、救急車の出動もあり得ないし、その事実があった以上、そこに関与した家人がいたと考えるべきだろう。現に被収容者がいるにもかかわらず、その要請を否認するような家人は、はたして家人かどうかも疑わしい。回答の義務も認められない。救急センターの記録はすべて部外秘であり、教えなくても知っている当事者だけが知っていれば、それで済むはずのことである。
納得したわけではないが、反論も出来なかった。掌の汗をシャツの裾でぬぐい、背筋をのばして、気をとりなおす。それにしても救急業務は予想以上に堅実に運営されているようだ。あわてる事はない、まだ六時にもなっていないのだ。いま妻が接触できるのはせいぜい夜勤の数人だけだろう。その数人が、そろって十円玉を持合わせていない事だって、決してあり得ない偶然とは言い切れまい。
それに陽が差しはじめていた。早朝、それも夏場だけの数分間、目隠しのトタン板の継ぎ目を照らすだけの日射しだったが、日射しにはちがいない。暗がりはとかく人間を弱気にするものだ。下手に騒ぎ立てて、妻に恥をかかせるような羽目になってもつまらない。ひげを剃《そ》り、顔を洗って、丸洗いしたトマトをかじる。仕事鞄《しごとかばん》の内容を点検し、ジャンプ・シューズのカタログの残数を確認しておく。
ジャンプ・シューズというのは、裏底に特殊な気泡バネを仕込んだ運動靴のことだ。一面に空気を密閉した合成ゴムのチューブを配列してあり、その復元力は上質のゴムボールにも劣らない。はずみに上手《うま》く乗れば、平均三十七パーセントものジャンプ力向上が測定されている。小、中学生中心に、学外ゲームとしてすでに流行の兆が認められるが、工夫次第では、さらに公認の新スポーツとして大きく発展の可能性もささやかれている画期的新製品なのである。
今日は大口、小口を合わせて、少くも六箇所は消化したい。あまり商売熱心でない事務系の会社の購買部などでも、健康増進器具には意外な関心を示すのが最近の風潮である。なかには「医者いらずコーナー」を特設した売場さえあるほどだ。ネクタイは明るい紺に、銀の鍵束《かぎたば》をあしらった、陽気なやつにした。
とりあえず近くの消防署まで、足を運んでみることにする。すでに一一九番で、さんざん思い知らされていたことでもあるし、とくに気休め以上の期待を抱いていたわけではない。ところが中庭で若い隊員相手に体操の号令をかけていた、渋皮色の肌をした司令補が、役目を別の隊員にゆずってまで、質疑に応じてくれたのだ。距離は近いが所轄が違うということで、わざわざ隣の署に電話で問い合わせてくれ、おまけに結果を待つあいだ、熱い番茶のもてなしまで受けたのである。
午前四時に出動した救急車の記録はたしかに残っていた。住所、氏名が申し立てに一致すると、あとはなんの注文もつけずに、搬送先の病院を教えてくれた。発端の唐突さとくらべると、すべてが順調すぎて、笑い出したくなったほどである。消防署の大きな地図で、病院の所在と道順の説明を受けた。遠すぎるような気もしたが、急患の受入条件は距離とは無関係だと言われ、納得した。その足で、バスの停留所に直行した。早すぎるような気もしたが、せっかく廻って来はじめたつき[#「つき」に傍点]を取り逃したくなかったのだ。
七時三十二分、停留所にはすでに十四、五人の行列が出来ていた。バスから私鉄に乗り換え、地下鉄に乗り継ぎ、もう一度バスに乗った。
教えられたとおり、〈病院前〉で降りると、バス通りと直角にまじわる広い道の奥に、一見してそれと分る病院の門があった。桜並木がアーチ型に葉を繁らせ、一面にぶどうの種のような毛虫の糞《ふん》がちらばっていて、交通量の少い病院専用の道であることが一目で分る。門はまだ閉まっていた。片側は黒く塗上げられ、もう一方は埃《ほこり》にまみれ赤錆《あかさび》が浮出したままだ。塗替え作業の途中なのだろう。
交差点の角に、公衆電話のボックスがあった。八時六分前、開門までにはまだ間がありそうなので、会社に連絡を入れてみることにする。販売部員はまだ誰も出社していなかった。会社の裏の寮に住んでいる若い社員を呼び出してみた。ちょうど靴を履きかけたところだったらしい。午前中の予定を肩替りしてくれるように頼んでみた。無理もない、男にはまだ、妻探しにどれほど手間取らされる事になるのか、見当もついていなかったのだ。若い社員は、ろくに説明も聞かず、気軽に協力を約束してくれた。ジャンプ・シューズの売れ行きは、今のところ急カーブの上昇線をたどっていて、シューズの担当者は得意先の争奪戦に明け暮れている。係長自身が午前中に予定していた、大口の組合購買部を一つ譲ってもらえたのだから、文句などあるわけがない。
さすがにシューズ班の責任者に選ばれただけあって、男の契約成績はいつも群を抜いていた。とくに大口契約を成立させる手腕には定評があった。客の前で実際にジャンプ・シューズを使用してみせる特技のせいかもしれない。男がそいつを履いて走ると、一流の中距離選手のラスト・スパートをスローモーションで見ているようだった。しかも現実にスピードが伴っている。トランポリンの上のアクロバットのように、助走なしに軽々と宙返りすることも出来た。しかし実際には、仕事の量に応じたエネルギーを消費しているので、それなりに疲労もはげしいのだ。ただ素人目には、いかにも能力の向上のように映るので評判がいい。べつに超能力をうたっているわけではないから、詐欺にはならないだろう。ほんの僅か羞恥心《しゅうちしん》を麻痺《まひ》させて、曲芸を披露すれば、三つに二つは確実に契約に持込める自信があった。この午前中を棒に振ったくらいで、気に病むこともないわけだ。
ただ午後からの販売会議には、なんとしてでも顔を出したかった。カナダの玩具《がんぐ》見本市を廻ってきた社長が出席する予定なのだ。かねがね工夫を重ねていた、気泡バネの改良プランが一応図面化できたので、じかに社長に手渡したい。男は学生発明コンクール入選者としての誇りと野心を未だに捨てきれずにいた。出来れば技術面の才能で認められたいものである。思いすごしかもしれないが、いまの係長という椅子も、けっきょくは趣味のスポーツや、ヌード・モデルの経験が買われたせいのような気がして、不本意なのだ。それなりの成績をあげてはいるものの、自分の本領が発揮されているとは思えない。首尾よく新案特許でも物にすれば、さらに実のある待遇が期待出来るのではないだろうか。
電話ボックスのガラス越しに、廻り込んで来た影が、男の影と重なりあった。
同年配の女が、ボックスの角に体をすり寄せるようにして、中を覗き込んでいた。視線が合っても、縁無しの眼鏡の奥の眼は、まるで物を観察しているようにたじろぎもしない。太腿《ふともも》の輪郭をくっきりと見せている濃紺のスラックス、白地に卵色の水玉のブラウスを上手に着こなし、背筋はしゃんと伸びきっている。場所柄からして、看護婦だろうと思った。受話器を置いて外に出た。扉をおさえ、場所をゆずった。
しかし相手は立ったままの位置から、まるっきり動こうとしないので、鼻を突き合わせるような不自然な形になってしまう。髪がマッチの燃えさしのように臭っていた。斜めの光を受けて、眼鏡のレンズが薄く色づいて見えた。胸のくぼみに滲《にじ》んだ汗が光の粉になって浮いていた。
「どこがお悪いの。」
秘密めかした囁《ささや》き声で、いきなり話しかけられ、男は口ごもった。
「別に、どこも……」
「がっしりしているじゃない、スポーツをしているのね。」
女は男の肘《ひじ》のあたりを軽くつまみ、筋肉にそって肩の付根まで指を這《は》わせた。医学的な検査にしては、挑発的すぎる。つい後じさってしまう。しかし井桁《いげた》に組んだ並木の囲いに圧しつけられて、もうそれ以上は退《さが》れない。
からかい気味に女が言葉をつづけた。
「いやね、鳥肌たてたりして。きっと、神経痛か、喘息《ぜんそく》でしょう。筋肉質の人は、どうしても自律神経のほうが弱いみたい。誰か先生に紹介状でも持ってるの。」
「ぼくが病気ってわけじゃないんだ。」
「そうなの。」いったん声を落したが、すぐに調子をとりもどし、「でも、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》って言うでしょう。下手な知合い関係の紹介なんかより、やはりちゃんとした専門の紹介代理業者に委せたほうが確実ね。そりゃ先生の格によって、値段も違うけど、安くてもその道にかけちゃ一流っていう若手の先生もいることだし、どの病気なら何科の何先生がいいか、どうしたって長い経験と信用の積み重ねがなけりゃ無理な相談よ。」
言い終えると同時に、一枚の名刺を差出してよこす。
[#名刺「真野斡旋」]
創立十年 急患・外来・入院・退院・その他
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公認紹介代理業   真 野 斡 旋
病院前並木通八号
電話(二四二)二四二四
とつぜん携帯マイクの声が鳴りひびいた。
――駐車場利用の方は、こちら。駐車場利用の方、こちらですよ。
別の携帯マイクが応じた。
――お徳用入院セット。入院患者の身のまわり品セット。午前中にかぎり、出血大サービス中。
女が下唇を軽く噛んで、はにかむように笑った。
「競争がはげしいのよ。」
桜並木の両側に、ぎっしり建ち並んだ売店風の建物が、いっせいに開店の準備にかかるところだった。雨戸やシャッターを開け、打ち水をしたり、幟《のぼり》を立てたりしている店もあれば、すでに体勢をととのえ終えて、携帯マイク片手に軒下の椅子に陣取った連中もいる。軒並み手続代行の看板をかかげた便利屋だった。
「ぼくは本当に結構。べつに診てもらう予定はないし。」
「診療関係以外のことでもいいわよ。よろず相談に乗るから。」
「自分でなんとか出来るよ。」
「せんだってなんか、寝たまま打てるマグネット将棋板の卸屋さんを購買部にお世話して、すごく喜ばれたし、患者さんの死にぎわの表情を撮りたがっていたテレビの人にだって、注文どおり話をまとめてあげたし……」
「ぼくはただ、夜間受付っていうのか、急患を受付ける窓口があるでしょう、そこの係の人に会って二、三、確めてみたいだけなんだ。」
「新聞記者、じゃなさそうね。」
「まさか。」
「確めるだけって、簡単に言うけど、あそこは固いので有名。救急車以外は立入禁止よ。甘やかしていたら、きりがないでしょう、宿無しや酔っぱらいまでが、なんとか口実をもうけて潜り込もうとするんだから。」
「ちゃんと表玄関から入って、正式に面会の手続をとれば……」
「これだから素人は困っちゃう。表の受付開始は九時よ。宿直の引継が八時で、半には帰ってしまうのに、どうやって間に合わせるつもり。」
「いま何時。」
「二分過ぎね。」
「弱ったな。」
「だから、言ってるじゃないの、蛇の道は蛇って。申し込み料は、七百八十円。これは協定料金だから負けられないけど、うまく話がつけば、そうね、相手に払う礼金込みで、二千五百に勉強しておくわ。」
[#ここから2字下げ]
(自分自身の調査という目的からすると、さほど重要とは思えないこの公衆電話の前の場面に、ぼくは必要以上にこだわりすぎたようだ。と、一人称を使うのが具合悪ければ、遠慮なく三人称に書きあらためてもらって構わない。実は馬からあずかった録音テープの冒頭の部分が、ここから始まっていたのである。まだ病院の誰にも名乗りをあげていなかった、あの時点で、すでに盗聴器による監視が始められていたというのは、どうも腑に落ちない。妻の失踪も、あらかじめ計画されていたものと考えざるを得なくなる。この疑問は、いずれ明朝、直接馬にぶっつけてみるつもりだ。)
[#ここで字下げ終わり]
女の店は、電話ボックスと同じ側の七軒目だった。店の半分がショーウィンドウで、〈御見舞〉〈祝全快〉などの見本品が、定価表といっしょに陳列されている。引戸のわきに立て掛けてある巻いた簀《す》の子《こ》は、西陽よけに使うのだろう。店のなかは暗く、片側を仕切ったカウンターの奥に、禿《は》げた髭《ひげ》の小男がひかえていた。
「お客さんよ。」女がはずみをつけて、髭に声をかけ、「お代のほう、お願いね。」男に目くばせを残して、大きな水着モデルのカレンダーを目隠しに貼《は》ったドアから、奥に消えた。
髭がカウンターの下から、用紙を一枚取出し、男に椅子をすすめた。
「今日も暑くなりそうですな。」
「いくらでしたっけ。」
「七百と、八十……」
百円玉は、手提げ金庫に、残りの十円玉は、高さ三十センチほどの招き猫[#「招き猫」に傍点]の口の中にほうり込む。形ばかりの領収書にぽんとゴム印をついてよこす。腰を前にずらし、椅子の背に寄りかかると、穴のような眼でぼんやり通りを眺めながら、胸の前で合わせた指をせわしげに動かしはじめた。指の間に、十円玉が一枚、ひょいと現れた。くるくる廻りながら、その十円玉が二枚に分れた。すぐまた一枚に融合し、こんどは三枚に分離した。その変化は素早く、一枚が三枚に見えているのか、三枚が一枚に見えているのか、はっきりしないほどの指さばきである。
「素人離れしてますね。」
「本職ですよ。でも、もう、最近はマジックのご時勢だからね。手品は流行《はや》りません。」
「違うんですか、マジックと、手品は。」
「手品は芸だけど、マジックはただの仕掛だからね。」指の間から十円玉が消えた。「お客さん、性病ですか。」
「なぜ。」
「来院の目的を、はっきり言いたがらない人は、だいたい性病にきまっている。」
「病気じゃないんだ。」
桜並木にさざ波が立ち、久しぶりに風が出そうな気配である。通りをへだてた向い側の店で、携帯マイクが一段と声を張上げた。
――貸衣裳《かしいしょう》なら、桜商事。寸法、色、スタイル、なんでも揃《そろ》う桜商事。女物ならアクセサリー一点を無料奉仕中。在庫豊富、経験と信用を誇る桜商事。保証金格安、運転免許証持参の方には、半額サービスだよ。百聞は一見にしかず、貸衣裳の桜商事……
「そうだ、貸衣裳がいる。」
思わず腰を浮かせかけていた。妻の行方を突きとめることに気を奪われて、肝心の着替えの用意を忘れてしまっていたのだ。
「連れ出しですか。」
髭は左の掌に、右の拳《こぶし》を叩きつけ、共犯者めかした音をたてた。
「連れ出しって……」
返事のかわりに、大判のアルバムをカウンターに持出し、熱っぽい早口でまくしたてはじめる。
「年齢、サイズ、お好みの色は……いや、大体で結構、おおよその身長が分れば、男物と違って、フリーサイズでいけますからね。」
「一メートル六十くらいで、肉付きは、まあ標準かな。」
手早くアルバムのページがくられ、袖なしのワンピースを着た脚の細いマネキンが、ピンクの唇をすぼめて笑っていた。胸元からふんわり襞《ひだ》をとった軽そうな生地で、腰のベルトが胴にたっぷりたるみを持たせている。色が明るいベージュでなかったら、多少古代的な印象を与えかねないデザインだ。
「いかがです、こんなところで。ベルトで自由に長さの調節が出来るし、たためばポケットにでも入っちまいますからね。本当、連れ出し用には最高のお薦め品。ついでに、指輪、ネックレス、サングラスなんかもいかがでしょう。貸衣裳も、小物一つで、見違えるようになじんでくれますからね。」
奥の電話で夜勤の守衛と掛合っていた女が引返してきた。守衛はすでに帰り仕度にかかっていたらしい。きわどいところで交渉をまとめてくれたのだ。礼金は、貸衣裳の保証金を合わせると、一万五千五百円にもなった。財布のなかには千二百三十円しか残らない。勘定をすませている間に、髭が衣裳を包んでくれた。触れ込みどおり、無理するとなんとか上衣のポケットにねじ込めた。アクセサリーに何かサービスしてくれたと言ったが、何をサービスしてくれたのか確める間もなく、せき立てられて外に出た。
通用口は、正門から塀《へい》にそって、左に三百メートルほど行った所にあるという。女は守衛との応答の仕方について、簡単な指示をした後、男の脇腹に指を這わせながら、意味ありげな囁き声でうながした。
「さあ、走って。何かあったら、またいつでも電話してみてね。」
男は桜並木の下を走りだす。今でもその気になれば、百メートル十三秒を切る自信があった。
塀の切れ目に空地があった。滑り止めの刻みを入れたコンクリートのスロープがある。目当てのドアはその奥だ。赤い軒燈のわきの、斜めに突き出している円筒状のものは、たぶん監視用のテレビ・カメラだろう。教えられたとおり、救急車専用の赤ボタンのすぐ下の、黒ボタンの方を押すと、インターホンから声が返ってきた。真野|斡旋《あっせん》の受付番号を告げると、ドアが開いた。遠隔操作の自動ドアらしい。誰もいない灰色の空間が、ひんやり濡れた紙のように顔にはりついた。
眼が馴れるにつれて、くすんだ灰色が、純白の待合室に変っていく。急患専用のせいだろう、さして広くはない。患者搬送用のベッドに、ほぼ四分の一を占領されてしまっている。床は手術室なみにタイル張りで、天井の照明は可動式だ。状況によっては処置室をかねているのかもしれない。非常口の正面に受付窓口があり、すぐ右手にドアが二つ並んでいる。奥のドアはステンレス張りだ。そこで直角に交わる壁は、全面を荷物用エレベーターの大扉で占められている。ステンレスのドア以外は、すべて白一色だ。受付の窓枠《まどわく》はもちろん、ガラスの向うに引かれたカーテンも白い。
男はその白ずくめに、たじろいだ。この非個性的な色には、感情を凍りつかせる暴力的な作用がある。いままで以上に、妻との距離が遠のいたように感じた。
カーテンが動いた。ガラス窓が半枚分ほど横にすべり、粉っぽい老人の顔が上眼づかいに現れた。そのぼんやりとした、無気力な表情に、男は重ねて失望させられてしまう。
しかし自己紹介の必要はなかった。守衛は男の来訪の目的をちゃんと飲込んでいた。いい兆候だ。妻がここに搬び込まれたことの証拠だろう。全身の関節がほぐれていく感覚に、それまでの不安と緊張の激しさをあらためて思い知らされる。それに、真野斡旋からの割戻し金がけっこう物を言っているらしく、いったん口をききはじめると見掛けによらず饒舌《じょうぜつ》なのだ。無気力に見えたのは、たぶん、思案に暮れていたせいだろう。喋りながら上唇を舐《な》めるくせがあった。ちらつく舌先が不自然に赤い。頬骨のあたりの老人斑と白髪のせいで、実際以上に老けて見えるだけなのだろうか。
それにしても口数が多すぎた。必要なのは、妻の居所という単純明快な事実だけなのに、なぜそんなに喋りまくるのだろう。まるで壺の底の澱《おり》をかきまわして、わざと水を濁らせようとしているみたいだ。あらためて不安がこみ上げてくる。
[#ここから2字下げ]
(カウンター目盛表示68――盗聴は、公衆電話前での真野斡旋の女とのやりとりの後、いったん中断され、このあたりから再び開始される。マイクも、録音の方式も、それまでとは違うらしく、音質的にかなりの開きが認められる。
この68から始まる場面のうち、妻が診療を拒否し、十円玉を探しに外来待合室に向ったという説明の件《くだ》りは、すでに書き抜いた守衛の供述――目盛表示206――に詳しいので省略する。ここでは消滅としか言いようのない、不可解な妻の行方について、守衛の弁明を中心に整理してみよう。一部は後で仕入れた知識と推測で補ってみた。)
[#ここで字下げ終わり]
守衛は混乱しきっていた。もし男が尋ねていなかったら、すべてを無かった事にしてしまいたい所だったろう。
午前八時十八分、真野斡旋から照会を受けたとき、守衛は八時の事務引継を終えて、ちょうど部屋に戻ったばかりのところだったらしい。ふつうその交替の手順は、次のような段取で行われる事になっていた。まず手鏡をのぞいて髪に櫛《くし》を入れ、抜け毛の数をかぞえ、白衣の襟元《えりもと》をただす。守衛用の白衣は、腰までしかなく、襟に黒の縁取がしてあるので乱れが目立つのだ。鍵束に異常がないことを確認し、非常口とは反対側のドアから出て、狭い専用の廊下を外来待合室に向う。外来待合室はテニス・コートほどもある大広間だ。正面玄関から見ると、右手に薬局と会計、左手に各種受付の窓口が並び、突き当りの診療室や検査室に通ずる幅五メートルほどの開口部は、鉄の防火シャッターで遮断《しゃだん》されている。薬局の窓口の上に、調剤済みの番号を告げる電光掲示板が設置されている。その掲示板に向けて並べた九脚ずつ四列のベンチが、広間の大半を占領している主な備品だ。シャッターの左隅に、小さなくぐり戸がついている。そのくぐり戸の向うから、掃除婦たちの点呼をとっている日直の声が聞えている。
八時に五分前を告げるブザーの音が鳴りひびく。守衛は待合室の全景をざっと見まわしてから、くぐり戸の錠を外す。背をこごめて日直が乗込んでくる。襟に黒の縁取をした腰までの白衣は、夜勤とそっくりだ。二人はきまりの挨拶をかわす。鍵束を手渡す。申し送り事項があれば、口頭もしくは文書で申し送る。
その頃には、薬剤師や事務の連中も、下っ端の方から順に出勤しはじめる。しかし彼等は、職員専用のロッカーがある二階から(建物が高台の斜面添いに建っているので出入口も二階だ)、それぞれ仕事場に通ずる階段で直接降りてくる。だから、窓口の中で気ぜわしく人影が動きはじめても、待合室の方はいぜんとして静まり返ったままだ。二人の守衛は連れだって待合室を一巡する。一種の儀式でそれ以上の意味はない。これで引継が終了し、日直が外来者用の手洗と清掃具の小部屋の鍵を開け、くぐり戸越しに合図を送ると、五人の掃除婦たちが噂話などに打ち興じながら声高に繰込んで来て、一日の活動が開始されるというわけだ。日直は玄関わきの守衛室に向い、夜勤は仕事から解放される。
ところがこの朝に限って、いささか事情が違っていた。救急車で搬び込まれて来た、例の女患者のことがあった。考えてみると、彼女が十円玉を見付けに外来待合室に出て行ってから、おっつけ五時間にもなろうとしているのだ。誰も迎えの者は現れなかった。嫌な予感がする。灰皿の底で燃えさしがくすぶっているような、いがらっぽい感じだ。そのくせ確めに行くのは、なぜか憚《はばか》られた。いまさら取越し苦労をしても始まらない。たぶん十円玉探しに疲れて、ベンチで一服するうち、ついうたた寝をしてしまったのだろう。交替の引継をする前に、非常口から送り出せるよう、なんとか着替えの手筈なんかもととのえてやった方がよさそうだ。交渉次第では、どこかの周旋屋に、料金後払いで請負わせることも出来なくはない。
そして結局、懸念していた最悪の事態に遭遇してしまったと言うわけだ。女は完全に姿を消していた。もともと見通しのいい広間で、捜してみるまでもなかったのだが、いちおう柱の陰や、壁のくぼみ、ベンチの下なども、一つ一つ念入りに覗いてまわった。無駄を承知で、待合室に通ずる薬局や会計や受付などのドアも改めてみた。ドアはすべて内側からしっかり錠をかってあった。
厄介な問題を抱え込んでしまったものだ。どう申し送れば、昼の守衛を納得させられるだろう。夜間、この外来待合室は、非常口に引返すしかない袋小路になってしまうのだ。犯罪小説なんかでよく使われる例の密室というやつである。むろん彼は彼なりに一応の推理を働かせてはいた。この密室にだって、抜け穴がまったく無いわけではない。しかし一人では絶対に無理だ。どうしても誰か共犯者の手を借りる必要がある。全部のドアが、内側からはノブだけで開けられるのに、待合室の側からは鍵なしでは開けられない構造になっているのだ。
いったい誰がそんな粋《いき》な真似をしでかしたのだろう。心当りが無くもなかった。ただ、不都合なのは、すべてが守衛の勘繰りにすぎないという点である。それにもし、臆測どおりだとしたら、相手が悪い。うかつに嫌疑をかけたりすると、痛い目を見るのはこちらである。かと言って、女の消滅を単なる事実としてだけ申し送るのも考えものだ。わざわざ勤務中の居眠りを疑ってくれと頼み込むようなものだろう。そう、ここは最初から、何も無かったことにしておくに越したことはない。
守衛は腹を決めた。女の件には一切触れないでおくことにした。
と、せっかく腹を固めたその直後に、真野斡旋からの照会で男の来意を告げられたのだ。運が悪かった。用件は聞くまでもない。どうせあの女のことに決まっている。出来れば会わずにすませたかった。しかし、面会を拒否すれば、自動的に男を昼の守衛の管轄に追いやってしまうことになる。よけいにまずい。申し送りの嘘がいやでも露見してしまう。報告義務違反は、罰則を明記された重大な違反行為なのだ。他人の情事をかばって、詰腹を切らされるなんて、割に合わなさすぎる。とにかく会ってみるしかなさそうだ。いずれ朝っぱらから女房を寝取られる程度の男だし、なんとか言いくるめてお引取り願うとしよう。
[#ここから2字下げ]
(次に貼付《ちょうふ》するのは、急患受付台帳の最後の行のコピーである。)
[#ここで字下げ終わり]
[#「急患受付台帳の最後の行のコピー」]
「この人じゃないかな、あんたが探しているのは。」
守衛はいかにも夜勤明けらしい、しわがれ声で、堅表紙の帳面を窓口にすべらせてよこした。開いたページの最後の行に、途中までしか書き込みがない欄があって、抹消《まっしょう》のしるしだろう、上から二本赤インクで線を引いてある。
「年齢は合っているし、受付時間も、だいたい符合しているみたいですね。」
「だったら、大してお役には立てないな。ごらんのとおり、名前も住所も空欄のままだ。正式に受付けたってわけじゃないんですよ。」
「あれっきり戻って来ないんです。おかしいでしょう。何処を探せばいいのか、教えてもらえれば、自分で探してみますけど。」
「何処って聞かれりゃ、此処《ここ》と答えるしかないけど。」
「此処って……」
男の姿勢や目くばりに、微《かす》かな緊張の波が走る。守衛は気まずそうな薄笑いを浮べた。前の二本の継歯が不自然に白い。
「つまり、此処にいなけりゃ、ほかを探したって無駄っていうくらいの意味だけどね。」
「居るんですか。」
「見れば分るでしょう。」
守衛は男が覗きやすいように、窓口から身を退《ひ》いた。宿直室は八畳ほどの単純な直方体で、棚も机も、すべて奥行の浅いパイプ製だ。人が隠れるような余地はどこにもない。
「でも、あの格好じゃ、まさか外には出られないだろうし……」
「そう、あの格好じゃね。」
「警察に届けた方がいいでしょうか。」
「私ならやめておくね。そんな、恥の上塗りみたいなこと……三十一歳といったら、もう一人前どころか、四人前も五人前もの女でしょうが。じたばた騒いじゃ、かえってみっともないよ。」
「でも、そんな帽子のなかに兎が消えたような話、いくら信じろと言われたって……」
「たしかに、種のない手品なんて、ありっこないけどね。」
「そのエレベーター、何処に通じているんです。」
男の目くばりが、奥のエレベーターを、動作の射程内にしぼり込んだ。守衛も素早く動いた。ドアから出て来るなり、立ちはだかるようにして、男の頭から足先まで無遠慮に眺めまわす。
「未練がましい人だね。じゃ、言うけど、三階に直通さ。当直医の仮眠室や、看護婦の詰所や、応急処置室なんかがあるんだ。昇りは受付票を下げた急患、下りは医師が死亡を確認した死体……でも、あんたの奥さんは乗っけてなんかいないよ。まだどっちでもないんだからね。」
「だったら、何処にいるんです。」
守衛は振向いて、ステンレス張りのドアを開けた。ずっしりと滑らかなドアだ。ひんやりとした風が、見えない層になって足元に溢《あふ》れる。
「ここは冷凍装置完備の死体安置室でね、空いている時はビールを冷したり、けっこう重宝しているよ。職員の中には、仏さんがいても平気で使っているのがいるけど、私は嫌だな。ぜったい留守中だけと決めているんだ。」
持出して来たビール瓶を、把手《とって》の角にあてがい、手馴れた仕種《しぐさ》で栓を抜いた。冷えているせいか、ほとんどこぼれない。窓口から腕を差しのべ、湯呑を取り、縁を指の腹でくるりと一と撫でしてから瓶のなかみを注ぎ込んだ。
「質問をはぐらかさないでほしいな。」
守衛は一杯目を息もつかずに飲みほし、二杯目を注ぎながら、平板なくぐもった声で呟《つぶや》くように言った。
「なんなら連絡先を聞いておこうか。何か分ったらすぐに知らせてあげるから。」
男は黙って守衛の手許《てもと》を見詰めた。そのまま瓶を空けきってしまうまで、身じろぎもせずに見詰めつづけた。
さすがに守衛も居心地が悪くなったらしい。汗をぬぐったり、溜息《ためいき》をついたりしながらも、男の見掛けによらぬ依怙地《いこじ》さに根負けし、けっきょく折れるしかないと判断したようだ。湯呑の底に残った泡《あわ》を視線でなぞりながら、秘密めかした調子で、やっと口を割りはじめる。
男の妻が消息を絶った外来待合室が、夜間いかに通り抜け不可能な袋小路であるか、出来れば現場に出向いて実地検証すべきところだろう。しかしあいにく、昼の守衛とすでに引継を終えたし、掃除婦たちの作業も始まってしまった。うっかり覗いて顔を憶えられたりすると、今後の作戦に支障を来たすことになる。成功の鍵は、万事どこまで内密に進められるかにかかっているのだ。ここは自分を信用して、兎を閉じ込めたのが、他に逃げ道のないシルクハットだったことを飲込んでほしい。
彼女の失踪は、決して男が考えているように、偶然や手違いなどではなかったのだ。誰か共謀者がいない限り、あの密室から脱け出す方法はあり得ない。男としては認めがたいところだろうが、勇気をもってこの事実に直面してもらうしかないのだ。
ところで手を貸した共謀者がいたとしたら、いったい何者だろう。とっさに思いつくのは――男には気の毒だが――やはりあの急患当番の若い医者をおいてはない。病棟の当直医や職員だって、疑って疑えないことはないが、人数が多いだけに、看護婦や仲間どうしの監視の目をまぬかれることは難しい。しかも、外来関係の建物に辿《たど》り着くまでには、長い廊下を渡ったり、庭の水銀燈の下を横切ったりしなければならず、いくら通行証がわりの白衣を着ていても、途中見廻りの夜警に見咎《みとが》められたりすれば、やはり不審な挙動として記憶されてしまうだろう。その点、外来の当直医は単独行動が可能だし、二階のロッカー・ルームの合鍵も渡されていることだから、誰にも見られずに三階の仮眠室から待合室まで自由に出入りすることが出来る。手引するには申し分のない条件だ。しかもあの外科医は、看護婦なんかともとかくの噂があるようだし、髪なんかもひどく油っぽいくせに、まだ独身らしい。どう考えてみても、最初から示し合わせておいた、計画的な密会だったとしか思えないのだ。それにしても乳繰り合いに救急車まで駆り出すとは相当なものである。きっと脳味噌の中まで発情しっぱなしなのだろう。
「そこまで疑いをかけていながら、みすみす手をこまねいていたんですか。」
「まがりなりにも相手は医者なんだよ。」
「だから、なんだって言うんです。」
「お互、カルテの患者評定欄に、めったなことは書かれたくないじゃないか。」
「関係ないよ。病気なんて、まだ風邪と麻疹《はしか》くらいしかやってないんだ。」
「いい度胸しているな。」
「番号を教えてくれたら、自分で掛けてみるよ。」
「電話はまずい。電話で白状するようなお人好しが何処にいるものか。直接現場に踏み込んで、有無を言わさぬ証拠を握ることだね。あんたが本気でやるつもりなら、手くらい貸してあげるさ。仮眠室までは案内するから、こっそり後を付けてみてごらんよ。九時には先生、部屋を出るはずだ。でも、断っておくけど、巻添えはごめんだよ。こう見えても私は模範患者なんだ。せっかくいい仕事にありつけているのに、いまさら評判に傷をつけたりはしたくないからね。」
二階が無くて、三階止まりの、風変りなエレベーターだった。ひどくのろのろとしか動かないくせに、騒々しい。消毒液の臭いが鼻を刺す。
守衛から病院内で目立たないための心得を教えられた。むろん外部の人間らしい普通の服装でも構わない。しかし見舞客か取引関係者に限定されるので、おのずと時間帯や行動範囲に制約を受けてしまう。いちばん安全なのは、やはり白衣だろう。白衣にも、医者、技師、職員などで微妙な違いがあり、細かく分類すると十二以上のタイプに分けられるらしい。それだけにまた手に入れにくいという難がある。売店で購入する場合も身分証明書の呈示を求められる。次は患者か、用務員の服装だ。患者の場合はとくに決まりはない。寝間着なりパジャマなり、そのままベッドで寝られるようなものであればいい。(その点、男の妻は、もっとも目立たずに行動できる服装をしていたと言えるわけだ。ただし、午前八時から十時過ぎまでは、あまり患者が出歩かない時間帯である。)最後に、用務員は、当然ながら一見して作業着らしい外見が望ましい。
とりあえず男に出来そうなのは、上着を脱ぎ、ネクタイを外し、なるべくくつろいだ感じになり、白衣を汚してしまった技師か、作業着に鉤裂《かぎざき》をこさえてしまった用務員といった、どっちつかずの役柄で押し切ってしまうことである。ふと男は鞄の中のジャンプ・シューズの見本のことを思い出し、履き替えることを提案してみた。底が肉厚な点を除けば、普通のズックの運動靴と変りない。守衛も賛成してくれた。革の短靴とくらべれば、ずっとくだけた印象に変ってくれる。
降りた所は、廊下の外れだった。突き当りの壁に、〈夜間通用口〉と白地にオレンジのよく目立つ標識が吊《つ》ってあり、下向きの矢印がついている。振返ると、右側には等間隔でアルミ枠の窓がつづき、直接外光が差し込んでいるわけではないが、廊下全体がすっぽり光の筒のように見えた。左には、似たような観音開きのドアと、腰板までの明り採りと、階段の降り口らしい切り込みが、鋭い影を刻んでいる。何かの検査室があった。次が看護婦の詰所で、気ぜわしく立働く人影が見えるのに、無声映画のように静まり返ったままだ。しぜんこちらも足音をしのばせたくなる。さいわいジャンプ・シューズはあまり音をたてないのだ。詰所を過ぎると、最初の階段に出た。
階段といっても、わずか四段しかなく、建増した別棟との段差のつなぎのようだ。斜めに交わる廊下があった。採光が悪く、幅も狭い。すぐ木枠にベニヤの衝立《ついたて》にさえぎられ、その奥は臨時の資料室か何かに使われているらしい。衝立の手前にドアがあった。〈関係者以外立入禁止〉の文字が赤枠で強調されている。くぐり抜けると、また別の廊下に出た。急に眩《まぶ》しいほど白く、最初の廊下によく似ていた。
階段とエレベーターが並んでいた。いつの間にか二階だった。表示のないドアや、ドアのない器具置場や、手洗所の前を通り、さらに進むとちょっとした喫煙所に出た。木製のベンチが三脚、金属製のパイプで支えられた灰皿、壁ぎわにそれぞれタバコとコーヒーの自動販売機、その横に車輪が片方外れかかった車椅子が押しつけられている。廊下はそこから、右と斜め左の二方向に分れていた。標示板も二つあって、緑の地に〈第三診療〉と白抜きで書かれた標識は、直角に右を指していたが、〈外来勤務〉と黒で書かれたオレンジの標識が指示しているのは、逆にいまやって来た方角なのだ。だから斜め左の方にはなんの表示もない。
その表示のない廊下も、やはり建築時期にずれがあるらしく、継ぎ目にゆるやかな傾斜をとってある。ここまでをプラスチックの白だとすると、その先は安ペンキの白だ。床も板張りに変り、ひっそりした感じも気のせいか湿っぽく、まばらな窓のせいで、白と灰色の蛇腹の内側のようだ。
当直医の仮眠室は、その蛇腹の奥にあり、先は行き止まりなので、かならずこの喫煙所を通って目的地に向うはずだと教えられた。守衛もここまで来ると、さすがに落着かぬげな表情で、くどいようだけど、巻添えはごめんだからね、お互これっきりにしておこうよ、と押しつけるように言い残し、しきりに耳のうしろを掻《か》きながら緑色の標識の方へ足早に立去った。
八時四十三分になっていた。ベンチに腰を下すと、汗でズボンが股《また》にはりついた。尿意をもよおしていたが、見逃すのが心配で我慢する。しかし、まるっきり何もしないのもかえって目立ちそうな気がして、百円玉でコーヒーを出し、ゆっくり啜《すす》りながら時間をかせぐことにした。つくづく、ややこしい道順だったと思う。とても一人では引返せそうにない。若い看護婦が、何か湯気の立つ広口|瓶《びん》をささげるように持ち、緑からオレンジの標識の方へすり足で駈け抜けて行った。呟くような機械音が、絶え間なく床を叩き、アルミ食器を入れた籠のようなものが天井裏をこすって行く。どこかで数秒、押殺した女の泣声が聞えたような気がした。
紙コップを半分ほど空けたとき、表示のない廊下の奥で、ドアの開閉する音がした。踵《かかと》を引きずるような靴音が、板張りの廊下を近付いてくる。白衣が短く見えるほど、大柄で体格のいい医者だった。顎《あご》を突き出し、上体をそらし、レールの上を滑るようなよどみのない歩き方だ。太い黒縁の眼鏡のガラスが厚い。
急患の当直は一人だけらしいから、この医者に間違いなさそうである。本当にこの男が、妻を連れ出し、何処かにかくまったのだろうか。というより、妻が、この医者の誘いに乗って、あんな芝居がかった家出をやってのけたのだろうか。妻の挙動に、何かちょっぴりでも疑いを抱かせるような節があったかどうか、記憶を手当り次第に圧搾機にかけて、力まかせにしぼってみる。しぼり汁はきれいに澄み切っている。これほどあざやかに騙《だま》されるものだろうか。自分で自分がやりきれなかった。急に相手の姿が、色調整をしくじったテレビの画像のように、どぎつく誇張されて見えた。
びくついたわけではない。その医者に人を威圧するものがあったことは認めるが、ぼくだって体力には自信がある。着痩《きや》せする方なので、見掛けはさほどでもないが、かなり鍛え込んでいるつもりだ。多少の体重差なら恐くない。尻込みしたのではなく、自制したのだ。ここで感情のままに動いて、みすみす機会を取逃すような事はしたくない。強がりだけでないことは、いっときぼくがヌード・モデルをしていた事実からも判断してもらえるはずである。最初の誘いが、スポーツ医学の雑誌用だというので、つい乗せられてしまったが、ホモ雑誌が売り込み先だと分ったので、すぐに断った。それが機縁で、今のスポーツ店に就職もできたのだから、文句も言えないが、自慢できる話だと思っているわけでもない。ただ、そのカメラマンの言い分によると、ホモ雑誌のモデルに対する注文もけっこう厳しいらしいのだ。むやみに凶暴なのも困るが、脆弱《ぜいじゃく》なのはもっといけない。適度に身軽で機敏な攻撃性が、絶対に欠かせない条件なのだそうである。
脱線しすぎたかもしれない。おまけに、うっかり一人称を使ってしまった。しかし、平静さを保つには、手に余る瞬間だったことも考慮に入れてほしいと思うのだ。現にいま、再生機から流れる、あの靴音に聞き入っているところである。カウンター目盛の表示は874。底皮の薄い、スリッパ風の短靴なので、音量はさほどでもないのに、際立って感じられる。ぼくがベンチの上でじっと動かなかったせいもあるだろう。遠浅の波のような背景音は、ぼくの息づかいだ。靴音はますます鮮明に、歩き癖や裏底の減り具合まで見えそうな距離に近付いてくる。マイクに接触する寸前で、やっと遠ざかる。再び雑音がまぎれこみ、そこで最初のカセットの表側が終る。目盛表示を874まで巻き戻す。スイッチを再生にすると、また靴音が近付いてくる。何度でも繰返して近付いてくる。
妙な仕事を請負ってしまったものだ。いくら自分を尾行したって、見えているのは何時《いつ》も自分の背中だけじゃないか。ぼくが見届けたいのは、その向う側なんだ。たとえばこの当直医の靴音に踏み込まれてみるまでは、そんな場所があるとは思ってもみなかった空間……それ以来、ぼくと妻との間に、際限なく広がりつづける場所……誰でもが自由に歩きまわれる、誰のものでもない地面……熔岩台《ようがんだい》のように、激情の形だけを残して、冷え固まった嫉妬《しっと》……
当直医は男に目もくれなかった。喫煙所を左に折れて、緑色の標識の方へ向う。守衛が立去ったのと同じ方角だ。厚いレンズの後ろで薄眼を宙に据えたまま、姿勢も歩調も変えずに通り過ぎて行く。男は飲み残しのコーヒーを、紙コップごと灰皿にねじ込んで立上った。十五メートルほど間隔が開くのを待ってから、後をつけはじめる。
最初の角にエレベーターがあった。当直医がボタンを押すと、すぐに扉が開いた。ちょうどこの階に停っていたらしい。医者が乗り込む。とても間に合いそうにない。早くも尾行しそこなったと思い、あわてて駈け出した。ジャンプ・シューズのせいで、七、八十センチも跳ね上り、つんのめりながら突進する。さすがに医者の注意をひいたようだ。停止ボタンをおさえて、待っていてくれた。敵に人格を示されるくらい、気詰まりなものはない。無言のまま頭を下げると、相手も無言のままこちらの足元を見つめた。
当直医が五階のボタンを押したので、男も見なかったふりをして同じボタンを押した。表示は七階までだ。医者はまだ何か院内で用を足すつもりだろうか。それとも五階の何処かに、密会用の私室を用意してあるのだろうか。
降りたところは、ロビーだった。簡素だが、明るく小奇麗にまとめられ、廻転《かいてん》ドアがついている。信じられない事だが、そのすぐ外が地面なのだ。屋上やテラスに土を盛った、人造地面などではなく、地球の芯《しん》まででも掘り進める本物の地面である。車寄せの先は道路で、広くはないが、ちゃんと歩道も取ってあるし、街路樹も植わっていた。表からは五階のはずが、ここでは地上一階になるらしい。きっと高台の急斜面を削って建てたので、こんな構造になってしまったのだろう。
受付も番人もいなかった。誰にも見咎められずに、医者について外に出た。突然の熱気に首が腫《は》れ上ったような感じがした。天頂だけが青く、地平線に近付くにつれて、どんよりと暗い。今日もひどいスモッグになりそうだ。すれ違った小型バスが、車寄せに一団の白衣の男女を吐き出した。構内バスが走るからには、よほど敷地の広い病院なのだろう。
しかし通りの光景は、むしろ普通の街の印象に近い。一見して病院の別館か検査室と分る建物もあるが、隣り合わせにありふれた雑貨屋やカメラ店などが並んでいたりする。病院に街がまぎれ込んでいるのか、街に病院が割り込んでいるのか、見方次第でどちらにも取れそうだ。最初の交差点は、立体化されていて、下をくぐる片側二車線の大通りは、すでに上下線とも車で埋めつくされていた。たぶん病院が二つの高台にわたって拡張される以前からあった、主要幹線道路なのだろう。だが、その交差点の角にそびえている全面ガラス張りのビルになると、いったい道路側に属しているのか、それとも病院側に属しているのか、やはり迷ってしまう。最上階の窓ぎわに、〈貸ふとん〉と目立たない字体がやっと読みとれた。なるほど、大病院が相手なら、貸ふとん屋もいい商売になるだろう。やはり構内の一角とみなすべきなのかもしれない。
続いて信号のある三叉路《さんさろ》に出た。一方が急な下り坂になっていて、角から二軒目に小さな食堂があった。医者がさも常連らしい足取で中に消えた。軒下から看板がわりに大きなフォークが突き出している。スパゲッティの専門店のようだ。たしかに逢引の場所としては、一応気がきいている。すぐにでも踏み込んで行けるように、呼吸をととのえ、肩と脚の筋肉をほぐしてやる。何くわぬ気に店の前を通過してみた。客は一人きりだった。時間が早すぎるせいか、妻はおろか、医者の他には誰もいない。〈本日のサービス タラコまぶし・味噌汁付・三百七十円〉……たしかにサービス品だが、我慢しておこう。医者はメニュー片手に、おしぼりを使っている最中だったから、男には気付かなかったはずだ。やり過して、坂の下の路地の角で張込むことにする。それにしても釈然としない。救急車まで繰り出して女を誘拐《ゆうかい》した男のする事にしてはとぼけすぎている。それとも妻は遅れて来ることになっているのだろうか。いずれにしても今のところは、男の方が有利な地歩を占めている。
空腹の方はまだ我慢できたが、膀胱《ぼうこう》の緊張はそろそろ限界に近付きはじめていた。まだ店を開けていない畳屋の横で立小便をはじめる。いぜんとして構内らしく、人通りはめったにない。とつぜん路地の角を曲って、トレーニングパンツの二人組が姿を現わした。いがぐり頭に、そろいの口髭を生やし、どことなく空手部の学生といった印象である。かなり走り込んで来たらしく、全身が汗の被膜で包まれている。すれ違いざま、その中の一人が、男の脇腹に強い突きを入れた。小便が途中で止まった。あわててチャックを閉じた。漏れた小便が、外から分るほどズボンに染みをつくった。二人組は駈け去り、ほっとする。もし小便の途中でなかったら、たぶん黙ってはいなかっただろう。あぶなく騒ぎを起して元も子も無くしてしまうところだった。
タバコに火をつけた。そばだてている耳のあたりを、突風のように時間が過ぎて行くのに、下腹の辺にたまった時間は、じっとよどんだまま流れようともしない。いつの間にか四本の吸い殻が、腹を割って足元にちらばり、唇には五本目がくわえられている。一日の予定本数の半分を消費してしまったわけだ。あとの配分はよほど慎重にやらなければならない。
五本目を二センチばかり吸ったとき、医者が店から姿を現わした。べつに苛立《いらだ》った様子も、未練がましい素振りも見受けられない。妻との約束があったわけではなさそうだ。確信はぐらつき始めたが、ここで尾行をやめたりしたら、かろうじてすがっていた望みの綱まで、完全に絶たれてしまうことになる。医者は白衣を脱いでいた。鞄《かばん》のふくらみは多分まるめた白衣なのだろう。それとも妻への土産に詰めさせたスパゲッティ弁当でも入っているのだろうか。
三叉路まで引返し、左に折れたところに、地下鉄の駅があった。わずかながら、人の出入りもあったので、ためらわずに後に続いた。医者は改札口を素通りして、そのまま地下道をくぐり抜け、反対側に出た。風景は一変し、さびれた崖《がけ》ぞいの狭い通りで、道端には身の丈ほどもあるブタクサが生い茂っている。頭上のトンネルから通りと平行に、レールを敷いた切り通しが始まっていた。地下鉄ではないのかもしれない。確認しておこうと思ったが、こちら側の出入口には駅名の表示がなかった。
振向かれては具合の悪い一本道だが、さいわい相手は周囲にまったく無頓着《むとんじゃく》だった。自信たっぷりのようにも見えたし、思い詰めているようにも見えた。ブタクサの葉影をとおして、眼下に灰色の海がひろがっていた。岸壁ぞいに黄土色の建物が横縞の列をつくり、八月の陽光に焼かれてゆらいでいる。ひょっとしてゴム会社の倉庫だとすると、なんとなく地理関係をつかめそうな気もした。
切石を積んだ急な石段を降りると、斜面の中腹に商店街が姿を現わした。岩盤が庇《ひさし》のようにせり出しているので、上からは見えなかったのだ。五軒に一軒は、花屋か果物屋なので、閑散としているわりには印象がはなやいでいる。やはり病院相手の商売なのだろうか。街の中ほどに、再び高台側に抜ける隧道《ずいどう》があった。入口に、耳の穴に蘭《らん》の造花を插《さ》した地蔵が立っていて、排水口からあふれた水が、その足元に泡だらけの池をつくっている。隧道は途中から階段になっていた。昇りつめると、こんどは空が開けた住宅地に出た。
手入れの悪い芝生とまばらな雑木の斜面に、似たような建物が点々とちらばっている。凸レンズ形に強く湾曲した斜面なので、視界はよくないが、見える範囲内だけでも二、三十戸はありそうだ。どれも二階建で、中央に共同の入口があり、左右で二世帯、もしくはそれをさらに上下に割って、四世帯で使用しているようだ。旧式な造りで、表面をざらつかせたモルタルでくるみ、小ぶりの窓を、がっちりした木枠で囲ってある。医者か職員用の住宅らしいが、それにしても殺風景だ。ねじ曲った古自転車や、昔は何か小動物でも飼っていたらしい鳥籠型のひしゃげた檻《おり》の残骸などのせいで、すっかり生活臭を消されてしまっている。むしろ特殊な目的の研究室か、病室のようにも見えなくはない。それとも再開発計画で、住民が立退かされてしまった後なのだろうか。
やっと一軒の建物の前に足を停める。建物どうしを結ぶ道が、子供の落書のように不規則に曲りくねっている上に、植込みで見通しをはばまれているので、尾行には好都合だった。しかし相互の位置関係をひどく分りにくくしている。その建物にしても、〈ホ四〉という壁面の表示以外は、モルタルの地色が他より多少緑がかっているくらいで、これといった特徴は何もない。隧道からの道順を尋ねられても、説明はまず不可能だろう。かなり奥まっていたとしか言いようがない。
医者が郵便受をあらため、階段を上って行ったのを見きわめてから、植込みの下をくぐって一気に庭を駈け抜け、中の様子をうかがった。郵便受は四つあったが、埃や錆の具合から、使われているのは一つだけらしい。汚れっぱなしの明り採りを背に、医者の影が踊り場にかがみ込んで、鍵のあつかいに手古摺《てこず》っている。向って左の二階のドアだ。空気が飴色《あめいろ》にうるみ、死んだ動物の臭いがした。男は嫌な予感に身をふるわせ、急に思考が熱湯のなかの脂身のように縮み、紙のように薄くなる。こうなると密会どころか、妻の生死が気がかりだった。ここも病院の一角なら、生体実験の可能性だって無いとは言えまい。それも何か猥褻《わいせつ》な実験で、看護婦の立合いもはばかられるほど、ひどい事かもしれないのだ。
壁ぎわにそって、建物のまわりを一巡してみた。裏側は、北北東に面していて、窓もずっと小さく、台所か浴室にでも当てられているのだろう。一周して引返して来たとき、二部屋に仕切られているらしい南側の、中央よりの窓が開いた。壁にはりつき、全身を耳にする。呼吸困難を訴えているような汽船の喉笛《のどぶえ》。あらゆる細部に染みついている街の地鳴り。どこかでヘリコプターが飛んでいた。人声らしいものは、しかしまったく聞えない。二人は普通の声など必要としないほど、くっつき合い、声をひそめて、囁き合っているのだろうか。さもなければ、すでに妻は口をふさがれ、会話どころではない状態におかれているのかもしれない。医者があんなふうに、スパゲッティ屋で落着きはらっていられたのも、妻がもはや時間に左右されない物体になり切っていたせいかもしれないのだ。
男は窓までの距離を目測し、足場になりそうな突起物や、手懸りになってくれそうな窪《くぼ》みなどを、慎重にさぐりまわった。絶対に見ないで済ませたい場面に出会う可能性も覚悟していた。差し当っては報復である。いまさら傷を恐れるには、すでに手負いの傷が深すぎた。正面玄関の飾り枠にそって雨樋《あまどい》がある。位置としては悪くないのだが、傷《いた》みがひどく、とても体重を支えられそうにない。かと言って、ジャンプ・シューズで飛びつくには高すぎる。何か巧《うま》い手はないものだろうか。隣の建物の平屋根のちょうど階段の真上あたりに、片面をそぎ落した楔形《くさびがた》の構造物が見えている。屋上への出入口らしい。当然この棟にだって同じ仕掛があるはずだ。下から攻められないなら、上から攻めてみよう。
階段を忍んで行くと、予想どおり、踊り場からさらに上に向う階段が続いていた。ドアに南京錠《ナンキンじょう》がついていたが、錆びきっていて、ねじると留め金ごと根元から抜け落ちた。蝶番《ちょうつがい》もきしんだが、短く鋭い音だったので、尾長鳥の声とまぎらわしい。しばらく待ってみたが、反応はなかった。うまく聞き逃してもらえたようである。それほどの日射しでもないのに、屋上の照り返しが眼にしみた。厚い埃が、ビスケットのように足元で砕けた。
膝《ひざ》までしかない低い手摺に、腹這になり、ぎりぎりまで上半身を乗り出してみた。窓の庇が邪魔になって、開かれた窓枠の両端がかろうじて見えるだけだ。庇の幅は、せいぜい十五センチしかなく、降りても上に立つだけがやっとだろう。
とつぜん下の部屋からうめき声が聞えた。女の声だ。非人格的な発声なので、妻の声かどうかまでは判別できない。短い不明瞭な会話があり、再び圧し殺した低いうめきが跡《と》切れとぎれに続く。
不意をつかれた男は、熱湯をかけられたミミズのように居すくんだ。部屋を覗《のぞ》くことしか念頭になくなった。手摺の角に靴の爪先を掛け、雨樋にすがって逆吊りになる。壁面に腹を向けたその姿勢からは、もう引返しがきかないことも分っていた。さいわい雨樋は下の方ほど腐蝕《ふしょく》が進んでいない。とにかく降りられる所まで降りてやろう。固定の金具さえしっかりしていれば、そこで体をひねって、窓から踊り込める可能性だってなくはない。運悪く雨樋が折れたり砕けたりした場合は、思いきり壁を蹴《け》って背面宙返りで飛び、後はジャンプ・シューズの緩衝力に身をゆだねるだけである。
女のうめきに、短い悲鳴がまじった。部屋の隅にベッドが見えた。白いカバーの上に、裸の医者が仰向《あおむ》けに寝ていた。毛布が床にずり落ち、ベッドの上は丸見えなのに、なぜか女の姿はない。しかし声はいぜんとして続いている。音源はどうやら枕元に据えられた大型スピーカーらしい。壁一面に、大小のヌード写真が貼りめぐらされていた。スピーカーの声が、しだいにうねりを増し、複雑に変化しながら、部屋いっぱいに充満する。その中で医者は勃起《ぼっき》したペニスの先に何か器具をあてがい、膝をよじらせながら、毎秒五回もの速度で手首をふるわせつづけているのだった。
視線が合った。医者が跳ね起き、枕元のタオルをつかんで腰に巻きながら、窓をめがけて突進して来た。男は反射的に雨樋にしがみつく。医者が腕をのばして、男のズボンのベルトを掴《つか》んだ。振りほどこうとした男が腰をゆすると、音もたてずに雨樋が折れた。男はいったん宙吊りになった。医者は手を離そうとしたらしいが、しっかり食い込んだベルトを抜くことが出来ず、男の体重に引きずられて墜落してしまった。勃起したペニスをかばおうとして、腰を浮かせすぎたのかもしれない。
二人は連結したまま地面に落ちた。途中半廻転して、落ちた時には、医者のほうが下になっていた。男が何か所か擦り傷をつくっただけですんだのに、打ち所が悪かったのだろう、医者は気を失っていた。色白で体毛の目立つ巨体が、素っ裸のまま、両眼を見開いて地面に仰向けになっている姿は、かなり不気味だ。しかし、息はしていたし、脈も早いがしっかり打っていた。それに、いい事かどうかは別にして、ペニスも勃起したままだった。
男は相手の失神以上に、その勃起しつづけているペニスに狼狽《ろうばい》した。タオルを掛けなおしてやった。目立つことに変りはないが、剥出《むきだ》しのままよりはましだろう。次に思いついたのは、ますます気ぜわしく叫び続けている女の声の電源を切ることだった。ついでに何処《どこ》かに電話を掛けてやってもいい。探せば常用番号をひかえた手帳くらいはあるはずだ。とにかく部屋に上ってみることにする。玄関は内側から錠がかってあった。今度は人目を忍ぶ必要がないので、屋上から直接窓の庇に両手で下り、反動をつけて中に飛び込んだ。スイッチを切った。女の最後のあえぎが耳の底に粘り着いた。
電話機を見つけ出す前に、向うから鳴りだした。ためらっていても仕方がない。三度だけ待って、受話器を取った。
おだやかな男の声が、すぐ耳元で話しかけてきた。
「大丈夫、事情はよく分っていますから。そのまましばらく待っていて下さい。」
「見ていたんですか。」
「怪我人はどんな具合です。」
「気絶しているみたいです。」
「そのまま動かさないで、出来れば濡れ手拭で頭を冷してやって下さい。それから、こうもり傘か何かあったら、顔にかけておいてもらえるといいな。すぐに飛んで行きますから。」
べつにあの老いぼれの守衛だけを責めるつもりはない。それなりに筋の通った説明だと思い、まんまと口車に乗ってしまった自分にも責任の一半はある。それにしても、とんだ傍杖《そばづえ》をくってしまったものだ。妻の足取に関しては、完全に無駄足だったばかりか、とんだ面倒にまで巻込まれてしまった。警察沙汰の恐れだって無いとは言いきれまい。電話の声は、大丈夫だと言っていたが、何が大丈夫なのだろう。事情は分っているとも言っていたが、なんの事情だろう。感じの悪いほのめかしだ。逃げ出すのなら今のうちかもしれない。
とりあえず鞄と上着を取りに、屋上に引返すことにした。部屋から出しなに、思いついて、カセット・デッキから例の女の声のテープを抜き取り、ズボンの尻ポケットにおさめた。玄関の鍵は開けたままにしておいた。風が出はじめていた。屋土を一周してみた。地上からの眺めよりは、かなり視界が開けていたが、思ったほどではない。南側の庭先には、いぜんとしてペニスを勃起させたままの医者が仰向けに横たわり、遠く沖合いでは、切れた薄雲の下で波が鍍金《めっき》されたように輝いている。当然崖下の町に通ずる隧道もその方角だろう。西には同じ住宅地が、視界の切れる所まで続いていた。勘としては、東の方に市街地をはさんで病院の建物があるはずだが、生い茂った楓《かえで》の林にさえぎられて見通しがきかない。反対の北側は、せり上った丘の稜線《りょうせん》がそのまま空に続き、正面に一つビルの頭が突き出している。左手に見える、赤白まだらに塗り分けた焼却工場の煙突より僅かに低いだけだから、かなりの高層ビルなのだろう。
エンジンの音が近付いてきた。とつぜん丘の稜線を越えて、白いライトバンが姿を見せた。かなり吹かし込んでいる感じで、建物の間を突き切り、まっすぐこちらに向ってくる。逃げるのなら今だ。しかし数秒のためらいで、手後れになってしまった。階段を降り切る前に、正面出入口が急ブレーキの音でふさがれてしまう。こうなったら、変におどおどするよりは、平然と悪びれずに迎えてやろう。部屋に戻った。
わずかずつ形が違う白衣を着た三人の男が降り立った。いや、二人は男で、一人は髪を短く刈り上げた少年っぽい感じの女だ。男の一人は、痩せて背も低く、いま一人は中背で胸幅が目立って厚い。三人は同時に男のいる窓を見上げ、小柄な白衣が仲間を代表するように、軽く一本指を立ててみせた。敵意がないことを示したつもりらしい。
その小柄な男が、倒れている当直医の傍にかがみ込む。瞳孔《どうこう》をのぞき、いくつかの間節の反射を調べ、さすがに手馴れた素早さだ。あとの二人はやや遠巻きにじっと見守っている。小柄な男が、やおらタオルを取り除き、病人のペニスの寸法を測りはじめた。つまんだり、はじいたりしてから、手帳に書込みをする。白衣の女性は、目をそらせ、ぎこちなく足を踏みかえたりしていた。
がっちりした方の男が、車の後ろから担架を引出して来た。それを合図に、白衣の女がこちらに向ってやってくる。男は狼狽した。自分の部屋を覗かれるような、気恥ずかしさを覚えた。もっとも、勃起したペニスの測量に立合うくらいのしたたか者なのだから、普通の女性なみに扱う必要はないのかもしれない。
「早く、いらっしゃいよ。」
年齢は二十代の後半、くりくりと筋肉が固そうな色の浅黒い女性で、いかにも勝気そうだが、上から髪型で判断したほど男っぽいわけではない。
男は廊下まで出向いて弁明した。
「ぼくの責任じゃないんだ。いろいろと、説明はしにくいんだけど……」
女はなだめるように頷《うなず》きながら、男の脇をすり抜けて部屋に入った。皮肉な笑いを浮べて、壁一面のヌード写真を見渡し、まっすぐベッドに向う。そばにあったティッシュ・ペーパーを何十枚か束にして掴み、それでベッドの上から当直医が手淫に使っていた変な器具をつまみ上げた。
「これ、なんだか分る。」
彼女の説明によると、精液採取用の容器なのだそうだ。精液銀行に買上げの制度があって、価格は年齢、健康状態、体力評価、IQ指数、遺伝係数、それに美学的見地などから総合的に割出されるが、この当直医の場合、グラム当り千二百八十円の査定を受けていたらしい。そのこと自体は、ともかくとして、問題は彼が連日のように射精しつづけていたことだ。人工授精の希望者がそう多いわけでもないのに、制度をたてに持込みをつづけるので、銀行の貯蔵精液の比率が偏ってしまい、下手をすると彼に似た子供だらけになる危険さえ生じているほどだという。それも、自分の子孫を増やそうというような精神的野心があるわけではなく、もっぱら金銭的な欲求だけらしいのだ。三百六十五日、欠かさず採取したとしても、年に五十万円見当にしかならないのに、よくよくの吝嗇家《りんしょくか》がいたものである。この建物にしても、墓地の拡張用地として年内に取壊しの予定で、すでに水道も止められているくらいなのに、家賃の取立てがないというだけで、いまだに居すわり続けているのだという。
下から出発をうながす呼び声がした。
女も窓から大きく手を振って合図を返し、「あのおちびさんの方が、副院長。軟骨外科の部長も兼任しているの。私はその秘書ってわけ。」あらためて名乗をあげながら、当直医のズボンを探って、鍵束《かぎたば》を見付け出した。次にカセット・デッキからテープを抜き取ろうとして、すでに空っぽなのを認め、からかうような目つきで男を振向いた。男は気付かなかったようなふりをして、目をそらせた。
二人が下に降りてみると、当直医はすでにライトバンの後部に担架ごと搬《はこ》び込まれていた。体格のいい方の男が運転席に着いていた。女秘書が助手席に乗り込んだので、男は副院長と並んで担架の脇のベンチに掛けさせられた。
ライトバンが発車し、冷房装置が作動しはじめた。妻が連れ去られた救急車の内部もこんな風だったのだろうか。高台の稜線を越えると、広い簡易舗装の通りをへだてて、病室らしい木造二階建の横長い建物が、針金を二本渡しただけの低い柵《さく》にそって何処までも続いていた。
西の方から雲がひろがり始めている。雨になるのかもしれない。
「でも、なぜ……」
言いかけた男の言葉をさえぎるように、副院長が足元の当直医の下腹部のタオルをめくり上げ、
「君のと較べて、どう思う。短小というほどじゃないけど、図体のわりには、一つぱっとしないな。もちろん、性欲がペニスの大小に比例するとは限らないけど……」
「これから、何処へ行くんです。」
「この先生を、とりあえず病室に搬んでやらなけりゃ。」
「でも、ぼくは……」
「君は、私の部屋で待っていてくれないか。入院の手続きをすませたら、すぐに戻る。」
「わけの分らない事ばっかりなんです。」
「精子の再生機能にかけては、抜群だったらしいけどね。」
「午後の会議に間に合うように、なんとか出社したいし……」
「そう、勃起のメカニズムについちゃ、現代医学はまったくの手つかずなんだよ。」
小皺《こじわ》がよりかけていたペニスを、副院長が爪先ではじくと、再びつややかに膨脹した。やがて前方に楓の林が姿を現わし、木造二階建の外れに出た。赤土がむき出しになった広場をへだてて、向うは深くえぐられた低地だ。その谷間から、広場の端に肘《ひじ》をかけたような形で、ビルがそびえている。たぶん〈ホ四〉号の屋上から稜線越しに見えていた、あのビルだろう。十五階ほどもあり、上はやや細身だが、下の方で急に四方に巨大な腕をひろげ、地面に爪を立てて威嚇している怪鳥の脚のようにも見える。
張り出した腕の一つの屋上が、赤土の広場と同じ高さになっている。キャッチボールをしている幾組かの白衣の男たちの傍を通り抜け、建物の中心部まで、車で直接乗りつけることが出来た。男と女秘書はそこで降ろされ、ライトバンはそのまま何処かに走り去った。
副院長室は建物の最上階にあった。
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(白のライトバンが走り去った後、副院長室で待たされていた間の四十分余りが、テープからすっかり省略されてしまっている。当然かもしれない。ぼくはそのほとんどの時間を、女秘書から差入れてもらったサンドイッチとコーヒーを平らげることに費やしてしまったのだ。彼女との会話は、ぎこちなく断片的なものだった。例の尻ポケットにしのばせた女のうめき声のテープの秘密を、見破られてしまっているという負い目で、彼女の存在そのものが煙たくて仕方なかった。今から思い返してみると、向うでもそのことを意識し、計算に入れていたような気がしてならない。とにかく録音向きの時間でなかったことは確かである。つづいて、前に書き抜いておいた例の副院長との面談の場面があり、これで最初のカセットはぜんぶ終了したことになる。)
[#ここで字下げ終わり]
今ぼくは〈ホ四〉号棟のあの部屋で、このノートを書きすすめているところだ。例の、勃起したまま気を失った当直医が住みついていた、墓地拡張予定地の中の、ヌード写真だらけの部屋である。差し当っての寝場所として、副院長から部屋の鍵をまかされたのだ。テープ再生装置は、かなりの水準だし、水が出ないことを除けば、とくに不自由はない。当直医はあれ以来、意識を回復しないまま、軟骨外科の病棟に寝たっきりらしい。
もう真夜中だ。おっつけ十一時になろうとしている。早朝からこのノートに掛かりっきりで、なんとか一本目のカセットだけは片付けることが出来た。しかしまだ予定の三分の一をこなしたに過ぎない。日数にすると、全体の六分の一にも満たない量である。書くという作業がこれほど難儀なものだとは想像もしていなかった。
少し細部にこだわりすぎたかもしれない。踏み固められたフェルトのような聞き分けにくい雑音の中から、記憶を頼りに必要な音だけを選り分けるのは、どうしても時計の組立てのような微視的な作業になりがちだ。もっと簡潔に整理して、徹夜を覚悟で頑張れば、あるいは夜明けまでには約束を果せるかもしれない。しかしもう疲れた。使い馴れない右親指の筋が痛む。字も乱れてきた。今夜はこれくらいにしておこう。続きを書くかどうかは、明朝もう一度馬に真意をただした上で、あらためて考えることにする。
率直に言って、釈然としないのだ。馬のやつにいっぱい食わされたような気がして仕方がない。いくらこと細かに被害調書を作成してみたところで、しょせんは徒労の記録じゃないか。たしかにぼくのアリバイにはなってくれるだろう。だが、いま必要なのはアリバイなんかじゃない。妻の行方に関する手懸りなのだ。たしかに院内を自由に通行出来る白衣も支給されたし、臨時職員として登録もしてもらえた。しかしそれだって、他に気をそらせるための飴玉で、実はぼくを大人しく机に釘付《くぎづ》けにしておくのが狙いだったのかもしれないのだ。
馬はこのところ、ひどく神経質になっている。記念日を四日後にひかえ、最後の仕上げにかなり焦っているようだ。責任のがれしたい気持も分らなくはない。それにこのノートを思いついた裏に、ぼくの思想調査という含みもなかったとは言い切れないだろう。知りすぎた人間の裏切くらい危険なものはない。第一、ぼくが健康すぎることが、彼には立場上やりきれないらしいのだ。
鼻の先からしたたった汗のしずくで、三つも染みが並んでしまった。もっともこの疲労のおかげで、なんとか正気を保っていられるような気もする。いか舟の灯が見え隠れする黒い海の縁に、ぼってりとオレンジ色の半月が懸かり、その見馴れた陳腐さが、なぜかぞっとするほど恐ろしい。
会社を休みはじめてもう四日にもなる。これはきっと取返しのつかない事なのだ。
ノートU
午前四時四十三分、馬の電話で叩き起された。
寝不足によるぼくの不機嫌とは対照的に、今朝も馬は、昨日におとらず上機嫌だった。たしかに走りっぷりは見違えるほどで、蹄《ひづめ》の音がしないのが惜しいくらいの上達ぶりだ。前後二本ずつの歩幅とリズムが正確に合い、しかも着地の順序が微妙にずれて、いかにも一体感が感じられる。胴がゆれたり、よじれたりしないのが何よりもいい。連動感が欠けていると、どうしても芝居の馬じみてくるのだ。欲を言えば、上体を安定させるために両腕を振るくせはやめてもらいたい。六本足動物じみてくる。
練習を中止し、ランニングの裾をあおって風を通しながら、軽快な足取で近付いてくる馬の表情は、真剣で物問いたげだった。出来ばえについての意見を求めているのは分ったが、黙殺した。サンドイッチと魔法瓶のコーヒーを渡し、ノートが仕上らなかったことだけを、ごく事務的に報告した。
ところが馬は、その途中までの一冊目に、予想以上の興味を示し、暇をみて熟読したいからと、取上げてしまったのだ。かわりに二冊目のノートの代金を渡された。
遠慮なく通告してやった。
「もう沢山だよ。こんな自分との鬼ごっこみたいな真似、いくら続けてみたって、きりがない。支払い条件がはっきりしない取引に応じる義務はないと思うんだ。」
馬はおだやかな困惑の表情を浮べ、最後の数ページに注意深く目をとおすと、指先で額をこすりながら答えた。
「見破られたか。たしかに、君が疑っているとおり、このノートは一種の思想調査かもしれない。でも調査の狙いについては、勘違いがあるようだな。あえて忠誠を問うなら、むしろ君の奥さんに対する姿勢だろう。奥さんをどこまで本気で探しているのか、まずその辺のところを確認しておかないと……」
「その調子だから、嫌なんだよ。」ぼくも負けてはいなかった。「妻というものは、めったやたらに行方不明になったりするものじゃないからね、居なくなれば捜すのが当然でしょう。すぐに、そういうすり替えをするから、信用できなくなっちまうんだ。」
「言い過ぎだよ。」体重をうしろ脚にあずけて前脚を組み、あまり馬には似つかわしくない姿勢で、二杯めのコーヒーを注ぎながら、「私だって、出来る範囲で、力になってあげているつもりだけどね。」
「たとえば、どんな。」
「どんなって、ほら、例の密室同様の外来待合室から、どうやって奥さんが姿を消したのか、そのへんの謎《なぞ》を解く鍵だってちゃんと提供してあげたし……」
「どこに。」
「まさか、聞きもらしたんじゃないだろうね。」
「もったいぶるのは止《よ》してください。」
「カセットの、最初の部分、掛けてすぐのところさ。」
「ああ、あの問題についてなら、ぼくも首をひねらされたんだ。ノートにも書いておいたけど、第一あの時点では、ぼくが何者で、何しに来たのか、まだ誰にも分っていなかったはずだのに……」
「君が言っているのは、例の真野|斡旋《あっせん》のかみさんとの立ち話のことかな。」
「その時から、すでに見張られていただなんて、どう考えてみても不自然ですよ。ぼくに仕掛けられた盗聴器について、警備のほうから受けた説明とも、完全に矛盾しているし……」
「あれは違うんだ。べつに君個人を対象にしたものじゃない。原則として、周旋屋での客の会話は、すべて総合予診室で傍受されている。君に関する資料をととのえるために、予診室の記録係にたのみこんで、とくにまわしてもらったのさ。警備で盗聴したところと、聞きくらべてみてごらんよ、音質からしてまるっきり違うだろ。君だって、病院の内情がどんなふうか、そろそろ分ってもいい頃だと思うけどね。医療体系の改革と、病院経営の健全化とは、なかなか両立させにくいものなんだ。あの斡旋業者を利用するシステムだって、けっして望ましいものじゃないが、現状ではやはり一種の必要悪なんだな。」
ごく最近あった例として、馬はある不運な患者の場合を話してくれた。ある中年の男が停留所でバスを待っていると、そこに卵を五十箇ほど入れた透明ビニールの袋を持って、自転車の娘が片手運転で通りかかった。まだ習いたてらしく、いかにも不安定なハンドルさばきだ。運悪く、そこに前と後ろからトラックがやって来た。二台のトラックが並ぶと、道幅をいっぱいに占領してしまうだろう。中年男の目測では、ちょうど自転車の娘のところで、すれ違いになりそうなのだ。男の空想のなかで、娘がハンドルを電柱にとられ、ビニール袋がわきのブロック塀《べい》にたたきつけられた。五十箇分の卵が、一気に砕け、黄色い粘液塊に変ってしまう瞬間がありありと目にうつった。気分が悪くなり、うずくまり、意識を失った。(参考までに書いておくと、トラックは当然、娘を避けてすれ違ったし、ビニール袋のなかみはピンポン玉だったということだ。)
十三分たって、救急車が到着した。昼間だったので、病院での受付事務は、某斡旋業者が代行した。斡旋業者の代理問診は、無線中継で総合予診室に送られ、スピーカーの前で患者待ちしていた六つの科の担当医の関心をひいた。末梢《まっしょう》循環器科、内分泌科、細胞代謝科、神経外科、薬物中毒科、感覚神経科、といった比較的規模の小さい専門的な科の連中である。
斡旋業者としては、申し合わせもあり、なるべく予診室からの勧告に応ずるよう患者を説得しなければならない。しかし本人なり家族なりが意志を表明できる場合、原則的にその意志を尊重することになっているので、けっきょくは一般的な内科、外科、精神科といったところに落着くことになりがちである。患者が自分の病気を正確に認識していないからといって、咎めるわけにはいかないが、弱小の科にとっては、まことに困ったことなのだ。患者の全員が、義理で入院している病気の医者と看護婦ばかりという、極端な場合も現にあるらしい。本来なら、一般的な科は予診科とでもいうべき科にまとめてしまうのが理想かもしれないが、経営的には、むしろ患者難にあえいでいる専門科を整理し切り捨てたほうが、はるかに合理的なのである。予算獲得にそなえて、なんとか実績をかせいでおこうと、患者の争奪戦は年々泥沼の様相を呈しはじめているという。
ところがこの中年男の場合、本人は意識不明のままだし、同行する家族もいなかったので、専門科の連中にとってはまたとない機会にめぐまれたわけだ。しかも、目撃者の話では――まさか卵を持った自転車の娘のせいだなどとは誰も思うわけがなく――まったく原因不明の失神であり、それほど老齢ではないし、病弱な印象も認められず、痙攣《けいれん》や発作があったわけでもなく、しかも昏睡《こんすい》が続いているというのだから、各科とも自分のところに該当していると考えたのも無理はない。ふつうは、ある程度の談合で折り合いがつくものだが、この日はよほど風向きが悪かったのか、互に主張してゆずらず、ついには他科の医師の女癖や、将棋のさしかたの批難にまでおよぶ泥仕合に発展してしまったらしい。
斡旋業者としては、予診室からの応答がなければ、書類をととのえるわけにもいかず、苛々《いらいら》しながら時間かせぎをしているうち、患者の容体が急変し、ついに死亡してしまった。そして、蘇生科《そせいか》というとんび[#「とんび」に傍点]に、せっかくの油揚をまんまとさらわれてしまったというわけだ。
中年男は蘇生科で息をふきかえした。しかし、病気の治療にはあまり関心のない科だったので、患者の感謝をいいことに、そのまま放置してすぐまた死なせてしまった。だが、さすがに蘇生科だけのことはあって、男はいまでも四、五日おきに、死んでは生きかえり、死んでは生きかえりしながら、感謝の日々を送っているということだ。
「でも、それと妻の行方とに、どんな関係があるっていうんです。」
「誰も関係があるなんて言っちゃいないさ。」
「言いましたよ、出だしのところに、密室の謎を解く鍵とやらが、ちゃんと録音されているって。」
「それは、そのもっと前のところ。ほんの十秒くらいの、短い場面だけど、あっただろう。」
「ありませんね。」
「聞きもらしたんだ。ただの雑音だと思って、はしょったんだろう。帰ったら、もう一度よく聞き返してみてごらんよ。」
「何が聞えるんです。」
「実際に聞いてもらった上で、いずれ一緒に検討してみようじゃないか。」
「そんな具体的な手懸りがあるのなら、すぐにも行動を起すべきだと思うな。ノートなんかで、ぐずぐず手間取っていないで……」
「ぐずぐずしていたのは、君のほうだぞ。それともなにか先に進むのをためらわせるものがあって、わざとブレーキを掛けたのかな。」
「勘繰りすぎだよ。」
「だったら結構。すると君は、SOSを残して消息を絶った船に、救助船を出すことしか思いつかないのかな。燈台に灯をともす手だってあるじゃないか。行動もいいけど、犬みたいに嗅《か》ぎまわるばかりが能じゃないだろう。居なくなった者のために、戻ってくる道を照らしてやるのだって、立派な現実的対策だと思うがね。私の心づもりじゃ、このノートは、君の奥さんが引返して来るときのための地図のつもりなんだ。分るだろう。無駄骨かどうかを決めるのは、結果を見てからでも遅くはないと思うよ。」
分ったわけではないが、言い負かされていたようだ。むしゃくしゃしながら、反論もできず、無実の人間がつい自白してしまいたくなる心理も理解できるような気がしていた。馬と別れて、部屋に戻り、さっそく一巻目のテープを再生機にかけてみた。馬の指摘どおり、そのつもりで聞けば確かにいわくありげな物音が録音されているのを確認した。
二冊目のノートを買いに、本部の地下に出掛け、ついでにエレベーターで最上階に上り、副院長室をのぞいてみる。ちょうど女秘書が出勤して来たところだった。精神賦活剤を二錠と、鍵をもらって、廊下をへだてた警備室をたずねた。外来待合室周辺に仕掛けられた監視用マイクの配置図を見ておきたかったのだ。マイクが設置されているのは、薬局の中だけだった。マイクの位置が決まれば、あの物音の分析も出来そうな気がする。多少興奮気味だったようだ。馬の様子を聞きたがり、他にもいろいろと話したそうにしている女秘書を振り切って、部屋に急いだ。
まず大まかに、薬局をふくめた外来待合室の平面図を作成した。マイクの位置を書込んだ。自分がそこにいるつもりになって、テープの頭の部分を何度も聞きなおしてみる。時間と方角の、二つの軸にそって、音質と音量の変化をさぐり、組立てなおす。最初はただの雑音にすぎなかったものが、しだいに形をともなった情景として浮び上ってきた。
薬局の窓ガラスを鳴らしている風の音……待てよ、風が出て来たのは夜が明けきってからだった……クーラーの音かもしれない……近付いてくる足音……ゴム底のサンダルの音だ……ためらいがちに近付いてきて、急に明瞭になる……いや、騒音のほうが止《や》んだのだ……足音はいぜんとしてためらいがちに進みつづける……そんなに突然静止する自然音があるだろうか……もう一度、聞きなおしてみる……気のまわしすぎか、薬局の戸棚を誰かがいたずらしているように、想像できなくもない……足音がやんだ……一瞬の間があって、鋭い金属的なきしみ……つづいて、すぐ近くで重量感のある鈍い物音……
と、こうしてぼくは、けっきょくまた書きはじめてしまった。どうやらこの取引に応じるしかなさそうだ。馬はたしかに何かを知っている。この物音の部分を、わざわざカセットの頭に組入れて編集したということ自体、ぼくより多くの情報をすでに入手している証拠だろう。いや、もしかすると情報以上のものかもしれない。
気掛りなのは、この報告の使われ方だ。妻が迷宮から脱出して来るときのための地図、という譬喩《ひゆ》の裏に隠されている真のねらいは何なのだろう。結果をすべて調査内容のせいにされたのではたまらない。次にこのノートを手渡すときには、一つ条件を付けさせてもらうことにしよう。ぼくも誤魔化しをしないかわりに、使途を明確にしてもらい、自分に不利な証言と感じた部分は、削除する権利を保証してほしい。
[#ここから2字下げ]
(カセットの二本目は、副院長との面談の後、女秘書の案内で、警備主任に引き合わされるところから始まっている。警備室は、同じ階の、廊下をへだてた向い側にあった。廊下を横切りながら、女秘書が囁《ささや》いた。「副院長先生、インポなんだ。」いくら広い廊下でも、渡り切るのに数秒とはかからない。ぼくには返事を準備する余裕もなかった。いや、ぼく[#「ぼく」に傍点]はこの辺にして、そろそろ三人称に戻したほうがよさそうだ。男はどう反応していいやら、まごついた。しかし彼女に副院長を傷つける意図があったとは思えないから、反応などより、ただ自分を印象づけるのが狙いだったのかもしれない。だとしたら一応の効果はあった。そうでなくても男性には、女性が性に関する話題を口にしただけで、すぐにそれを挑発と決めこんでしまう身勝手さがある。しかも白昼、当直医の勃起したペニスを間近に眺めるという、非日常的な体験を共有した直後のことでもあり、一種の仲間意識を感じていたことも否めない。)
[#ここで字下げ終わり]
警備室は、広さも構造も、ほぼ副院長室に準じていた。入ってすぐの所に、ちょうど秘書室にあたる続き部屋に通ずるドアがあり、正面奥の広い二重ガラスの窓が、明るさと静けさを同時に保障してくれている。金属パイプに黒の人造皮革を張った接客用の椅子のセットも、そっくり同じだ。しかしそれ以外に共通点はまるでない。副院長室はとにかく簡潔にまとめられていた。ちょっぴり色取りを添えている、交尾中の馬のデッサンの額を別にすれば、床の絨毯《じゅうたん》からプラスチックのカレンダーにいたるまで、すべてが壁と同系の青灰色か、それに近い色という徹底ぶりだ。それに較べると、こちらはむしろ乱雑としか言いようがない。壁面という壁面を、ダイヤルやスイッチを組込んだ大小のパネルの類が埋めつくし、色とりどりの電線の束が、その間を縫って縦横に張りめぐらされ、垂れ下り、床には工具や部品の類が積み上げられている。もっと整理されていて、多少の統一感でもあれば、あるいは放送施設なり電算機室なりを想像したかもしれないが、こうまで計画性に欠けていると、せいぜい電気器具の部品問屋くらいを連想するしかなかった。
窓ぎわの作業台に背中を見せてかがみ込んでいた白衣の男が、廻転椅子ごとくるりと向きを換え、頭からヘッドホンを取り外した。
「さっきは、どうも。申し遅れましたが、私が警備担当の主任です。」
副院長に同行していた、例の白いライトバンの運転手だった。初対面でなかったことに、ほっとする反面、胡散《うさん》臭《くさ》い気もした。何からなにまでが、妙に仕組まれすぎている。
男の疑念を見すかすように、主任が言葉をつづけた。喉の筋肉を感じさせる、抑えのきいた早口だった。
「いや、自己紹介は結構。前口上もいっさい必要なし。君のことはすっかり分っています。」
「でも、なぜ……」
主任はぼってりとした肉厚の掌を上げて、男を制した。作業台から五センチ角ほどの黒い器具を取上げ、スイッチを入れた。蚊が鳴くような音がしはじめた。得意気に下唇を突き出して笑いながら、腰を上げ、テーブル越しにその計器を男のほうに差しのべた。蚊が虻《あぶ》に変り、さらに男の上衣の左ポケットのところで、鋭い耳ざわりな電気音に変った。
「その中のもの、ちょっと出してみせて下さい。」
「これは……」
「分っていますよ、貸衣裳《かしいしょう》の婦人服でしょう。」
見抜かれているのなら仕方がない。しぶしぶ男は、ポケットの中ではちきれそうになっていたベージュ色の布の塊りをひきずり出した。主任は手馴れた動作でベルトを抜き取り、バックルの裏金を爪で開いて、中から小型の水銀電池をつまみ出す。計器の音がぴたりと止んだ。
「呆《あき》れたな。」
「FM発信機ですよ。こんなものを持ち歩いていたんだから、君の行動は、すべて筒抜けだったわけだ。種が分ってしまえば、不思議でもなんでもないよね。いまさっき私たちが、事故発生と同時に現場に急行できた理由も、これで納得がいったでしょう。」
「ひどい小細工をしやがったな。そう言えば、あいつ、あの周旋屋のおやじ、以前は手品師だったらしいし……」
「それは関係ない。なにもあの店に限ったことじゃないんだ。貸衣裳や、アクセサリーには、かならず何処かに小型発信機を仕掛けるきまりなんですよ。」
主任が軽くかかとで床を蹴って、椅子を廻転させ、乗り出すようにして作業台の左端に設置された大型のパネルを操作しはじめた。そのすぐ横の壁面には、縦に九台、横に六台、計五十四台ものテープ・デッキが、リール面を表に向けてぎっしり積み重ねられている。何台かのリールがゆっくりと廻転をつづけ、ときたまどれかが停止したり、どれかが動きだしたりしているようだが、とくに法則らしいものはなさそうだ。
部屋の隅から、誰かの呟《つぶや》きが聞えてきた。スピーカーからの声だった。しかし見えないのが不思議なくらいの臨場感なのだ。内容はどうということもない、男と女が何やら金勘定をしているだけなのだが、それが奇妙に生々しく、聞いていることに罪悪感を感じるほどである。スピーカーやアンプの性能のせいもあるだろうが、それだけではなさそうだ。話し合っている二人には、それでじゅうぶんだが、当事者以外にはまず通用しそうにない、その閉じられた省略法のせいらしい。
「連れ出し[#「連れ出し」に傍点]のB三だけど……大したことはなさそうだね。」
スイッチを切って、主任が説明をしてくれた。周旋屋から貸衣裳を借りるのは、特別な例外をのぞいて、まず連れ出し[#「連れ出し」に傍点]が目的だという。連れ出し[#「連れ出し」に傍点]というのは――男もそう誤解された一人だったわけだが――入院患者を病棟、もしくは許された行動範囲の外に連れ出すことである。
ところが一般に、入院患者は身のまわりに外出着を用意していない。面会は病室か面会所ですませられるはずだし、外出できるくらいなら最初から通院患者でいればいいわけだ。それも独身患者ならともかく、既婚の患者がこっそり外出着をしのばせていたりすれば、いやでも配偶者の疑惑をまねいて、家庭争議の原因にもなりかねないだろう。
さて、そんな患者に、わざわざ貸衣裳まで準備して会いにくる訪問者というのは、一体どんな連中なのだろう。密通者に決まっている。外出着を持っていないというアリバイのせいか、患者のほうもけっこう大胆になれるらしく、男女を問わず、入院患者の姦通率は一般の三・五倍から四倍近いと言われている。入院患者どうしの密会のためには、ちゃんと貸衣裳の配達制度まで用意されているほどだ。(その点さすがに副院長は、患者の性欲を外出着の有無だけで割切るほど簡単には考えていないようだった。しかしいずれ副院長の患者哲学として、まとめて触れる予定だから、ここでは見解に差があることを指摘するにとどめておく。)
衣服が解決すれば、次は場所の問題だ。孫の手で背中を掻《か》くていどの性欲処理のためなら、べつに場所は問わない。病院本部と、赤土の広場をはさんで、南東の斜面一帯にひろがっている楓林のなかが病院直営の墓地だ。墓石は平らだし、木陰は多いし、いちばん離れた病棟からでも歩いて十分以内である。ただし、ムカデが多いことと、土壌中に破傷風の菌が検出されているので、外傷の危険を伴うような激しい動きにはくれぐれも注意が肝心だ。その心配がある場合は、周囲への気兼ねもあるだろうし、やはり屋内のほうが望ましい。さいわい本部と外来棟との間の谷間に侵入して来ている市街地には、それを当て込んだ十数軒もの休憩用ホテルが、すぼめた穴のような口を開けて待ち受けている。
警備室の窓から眺めると、そうした位置関係がよく見渡せた。くびれめで折り曲げた瓢箪《ひょうたん》のような二つの隆起のへこみに、西北の方角から往復四車線の幹線道路が突きささり、鞍部《あんぶ》の下のトンネルをくぐって、海側に抜けている。幹線道路をはさんで、商店や事務所やアパートなどがぎっしり群がっているが、その市街地と病院の境界はあまりはっきりしない。本部の建物のほうは、細長い角棒の芯を、四つの直方形で根元をがっちり四方から支えただけの単純な構造だが、外来棟のほうは、台地全体が旧式の軍艦のように、ただ無計画に積み上げた構造物のかたまりだ。当直医を尾行した道順も、おおよその見当がついた。最初は鞍部の内側にそって、市街地との境界線を幹線道路の手前あたりまでまわりこみ、地下道をくぐっていったん海側に出てから、再び地蔵隧道を抜けてこちら側の台地に辿《たど》り着いたらしい。警備の窓からは、あいにく死角に入ってしまっている。たぶん今ぼくがノートを書きすすめているこの部屋の、左正面をそっくり覆いかくし、枝の重みで猫背になりかけているヒマラヤ杉の方角にあたっているはずだ。主任の話だと、この墓地拡張予定地の無人の住宅も、利用者にはけっこう評判がいいらしい。行為の前後に汗を流すとか、手洗いを使用するとかの贅沢《ぜいたく》さえ言わなければ、たしかに格好の密会所かもしれない。
主任と副院長は、彼等密通者の性衝動に強い興味をもち、なんとかその現場を盗聴しようと考えた。偶然一回目に、予想以上の成功をおさめ、それが二人を病みつきにした。しかし、盗聴器を仕掛けた場所に、いつでも希望どおりの獲物がかかってくれるとは限らない。かと言って、密会の可能性があるすべての場所に仕掛けるというのも、現実的でなさすぎる。モニターの煩雑さ、電池の浪費、交換の手間(連続使用で約八十時間)など、とにかく無駄が多すぎるのだ。さんざん試行錯誤を重ねたあげく、やっと辿り着いたのが、斡旋業者と提携して、連れ出し[#「連れ出し」に傍点]の必需品である貸衣裳にあらかじめ小型FM発信機を仕込んでおくというやり方だった。おかげで、内容の濃い情事を、効率よく、しかも確実に狙い撃ちできるようになったというわけだ。
「どんな目的か知らないけど、悪趣味すぎるな。」
「そういう君だって、さっき当直医の部屋でちょろまかしたやつを、ちゃっかりズボンの尻ポケットにしまい込んでいるじゃないか。」
言いこめられて男は、その分だけまた守勢に立たされる。主任は妻の捜索にどこまで本気で手を貸してくれるつもりなのだろう。苛立ちを伝えようとして、腕時計をのぞいて見せたりしたが、あっさり黙殺されてしまった。肩越しに振上げた親指の先で、背にした五十四台の録音機を差し示し、得意気に言葉をつづけた。
現在すでに四千人を越す密会テープの愛好者が組織されていて、月々二千円の会費で毎月一本の新作テープを借り出せる仕組になっている。年商一億ちかい売上げだ。警備室にとっては重要な資金源である。おかげで高速転写機を三台も買いそろえられたし、去年の暮からは、マイクロ・コンピューターを導入し、情事の場面の無人録音も可能になった。連れ出し[#「連れ出し」に傍点]の客があると、周旋屋から警備室に電話で貸し出した発信機の符牒《ふちょう》を連絡してくる。その符牒をコンピューターに指示しておくと、衣裳の脱着音をとらえて音声発振式の中継機が作動し、警備室のデッキが自動的に録音を開始してくれるわけだ。当面この態勢で、会員八千人くらいまでは、じゅうぶん対応していけるはずである。
「しかし君の場合は、ちょっと異例だったからね。」主任はふと声を落して、厚いアクリル樹脂のテーブルを覗き込んだ。逆さに映った糺《ただ》すような視線が男を見上げていた。「連れ出し[#「連れ出し」に傍点]が始まるのはふつう、早くても午後の二時くらいからなんだ。それがとにかく、早朝の一番乗りだろ。なんとなく自動録音には委《まか》せておけないような気がして、ずっと聞いてしまったわけだ。でも、よかったじゃないか、おかげで手後れにならずに済んだようだし……」
やっと流れが本筋に向いはじめたと思い、方向を狂わせまいとして、慎重に舵《かじ》にしがみつく。
「でも、どうかな。ぼくにとっちゃ、もう手後れかもしれないでしょう。」
「弱気は禁物。」笑うと口がほぼ円形になり、犬歯が退化した穏和な動物に似ていた。「あの当直医の容体のことなら、いぜんとしてかんばしくないらしいよ。しかし、差し当っては、過失傷害や不法侵入の容疑なんかで、君をどうこうしようなんていう気はないからね。」
さりげなく、しかも正確に、ちゃんと男の弱味に釘を刺してくる。口を円くして笑ったくらいで騙《だま》されてはいけない。
「不可抗力ですよ。勝手が分らないところにもってきて、唯一の目撃者である守衛に、あそこまで真にせまった言い方をされちゃ……」
今日六本目のタバコを引き抜いて、口にくわえた。
「禁煙。」と、無表情にたしなめて、「あの守衛のことも、大丈夫。ちゃんと手を打っておきました。副院長あての供述書が届いているかもしれないから、問い合わせてみてあげようか。」
主任はインターホンのボタンを押して、詰所を呼び出した。
詰所というのは、同じ建物の地階にある、警備関係者の詰所のことで、昼夜を問わず十八人の警備要員が、三交替で部署を固めているのだそうだ。会員に対する密会テープの配達、会費の徴収、新会員の勧誘や受付、特定の場所の定期巡回、さらには喧嘩《けんか》や盗難にさいしての緊急出動など、けっこう人手を要する作業も少くないらしい。とくに、二百数十か所におよぶ常設盗聴器と中継機の電池交換が大変で、脚自慢の若者が二人で組をつくり(肩車での作業が多いため)、駈け足で廻って歩いているほどだという。男が当直医を待ちながら、例のスパゲッティ屋のわきの路地で立小便をしていた時、突然現れて男の脇腹に突きを入れて走り去った、トレパン姿の坊主頭もその仲間だったのだそうだ。べつに悪意があったわけではなく、主任からの無線指令で、男の様子を見に立寄っただけだったらしい。
あの二人に限らず外勤の連中はすべて、耳鼻科や皮膚科や精神科などの患者ばかりで、空手や柔道に凝っている者も多いくらいだから、君のジャンプ・シューズも話の持っていきようでは結構人気が出るはずだと、また巧みに男の戦意をくじくような文句も忘れなかった。
インターホンのブザーが鳴って、学生ふうの切れの悪い答えが返ってきた。守衛の身柄を何処とかへ送ったとき、供述書も一緒につけて廻してしまったらしい。そのよく聞きとれなかった何処とかは、主任の解説によると言語心理研究所のことで、供述の裏付けをとるため、守衛を嘘発見器にかける目的で連行したらしいのだ。
言語心理研究所に電話を入れて、結果を尋ねることにした。まだ細部の分析は終っていないが、基本的に真実を述べていると判断して差支えないとの返事だった。
「副院長の奥さんだよ。」主任は受話器を置くと、舌にコンドームをかぶせたような言い方をした。「いまは別居中だけど、嘘発見器についちゃ、ちょっとした権威なんだ。」
「その供述で、なにか新事実でも出て来たんですか。」
「まさか。」例の貸衣裳のバックルの裏蓋をのぞきこみ、「君のコード・ナンバーはMの73Fだから、憶《おぼ》えておくといいよ。この符牒で、その録音テープの中から君に関する部分をいつでも自由に抜き出せるんだ。なんなら聞いてみるかい。君も情報だけは、かなり正確なところを入手していたみたいだね。」
「冗談じゃない。ぼくが聞かされたのは、消えるはずのない所から、消えてしまったという、あり得ないような話だけですよ。情報が無い、という情報だって、そりゃ情報かもしれないけど……」
電話が鳴りだした。その日、二度目の(男を別にすれば最初の)、連れ出し[#「連れ出し」に傍点]客の通報だった。客は三十二、三の、色の黒い大柄な女性で、借り出した衣裳は、若い男性向きの派手なTシャツに細身のパンタロンだという。コンピューターの入力装置を操作しながら、息で薄められた含み声で主任が呟いた。
「見ると、聞くとでは、大変な違いさ。この手の組合わせには、がっかりさせられることが多いんだ。」
男は椅子の上で、重心を前に移動させた。じらされすぎた猫が、思わず毛を逆立ててしまうような気分だった。
「それで、実際問題として、何か手を貸していただけるわけですか。」
「仕方ないだろう、副院長じきじきの口添えとあればね。」主任は顎《あご》を突き出し、そらせた太い喉をゆっくり手の甲で撫《な》で上げた。「ごらんのとおり、常時この部屋に詰めているのは、私一人だけだ。関係者もめったに立入らせないようにしている。情報の影響力が大きすぎるからだよ。外部の人間でここに立入りを許されたのは、君が最初じゃないかな。」
「でも、何か新しい手懸りを見付けないかぎり、ぼくが置かれているのは、いぜんとして袋小路ってことでしょう。」
「君の努力次第さ。」
「副院長さんは、掃除婦なんかにも当ってみるように言っていましたけど……」
「無駄だね。守衛の供述を読めば、日直との事務引継の様子がよく分るよ。完全に誰もいないことを何度も確認してから、用務員通路の鍵を開けているんだ。目撃者がいないことは、まず確実さ。」
「じゃ、どうすればいいんです。」
男はつい声を張り上げ、椅子の肘掛に両手の指をくい込ませていた。主任は例の筒にした口で、子供っぽく笑い、すると余った顔の肉が眼の下で菓子パンのように盛上った。
「だから、隣の再生室を、当分君に開放してあげようじゃないか。それなら文句ないだろう。君は同時に何十人もの透明人間になって、病院中を嗅ぎまわって歩くことが出来るんだ。」主任は作業台の下の棚から、洗いたての糊《のり》のきいた白衣を取出し、胸のポケットの三本の黒線に、器用な手捌《てさば》きでナイフを入れて一本だけにした。「とりあえずこいつを、正式に君の身分が決まるまで、貸しておいてあげよう。食堂に出入りしたりするのに便利だからね。」
糊のはがれる乾いた音が、気持よくひびいた。肩幅が広すぎたが、丈のほうはまずまずだ。主任が男をうながし、機械の隙間をくぐって壁のドアを開け、隣の部屋に招き入れた。
[#ここから2字下げ]
(そのドアの閉まる音で、二巻目のカセットの表側が、十数秒の空白を残して終っている。じつはその十数秒のあいだに、五時間近くが経過してしまっているのだ。内容が重要でなかったせいではない。男の立場からすれば、むしろもっとも充実した時間だった。妻の失踪《しっそう》から、九時間目に、やっと本格的な捜査に手をつける事が出来たのだ。その魔法の鏡のような小部屋で、主任の言葉どおり、男は同時に何十人もの人間に分身し、じっとしたまま構内のあらゆる場所に出没し、鼻を突っ込み、覗いてまわることが出来たのである。)
[#ここで字下げ終わり]
男は最初、痛みにちかい圧迫を感じて、たじろいだ。パラシュートで空中に飛び出したような気分だった。むろん実際にそんな経験があるわけではない。映画かテレビで見たことがあるだけだ。あれはたしか、スカイ・ダイビングと言ったっけ。すぐには傘がひらかず、風圧で顔を変形させながら、存在しない丸太に虫のような姿勢で腹這《はらば》いになってしがみつき、航空写真のような遠い地面めがけてまっしぐらに落ちて行く。墜落というよりは、むしろ外界の喪失だ。経験がないのに、理解できるような気がするのは、ある種の目覚めの感覚と似ているせいだろう。
タイル張りの床に、ビール瓶《びん》をころがす音……冷房のききすぎに腹を立てている、中年の女の声……おびえている年齢不詳の息づかいと、それをはげましている男の事務的で苛立たしげな決まり文句……せわしげに駈け抜けて通ったスリッパの音……まだ乾いていない洗濯物にあびせられた罵《ののし》り……「いいでしょう、だからって、ね。」「まあ、傾向としては、でしょうね。」「あきらめましょう、か、ねえ。」「まあ、まあ、その辺がいいところです。」……放尿、もしくは水道の蛇口からコップに水を注ぐ音……階段をころがり落ちていくアルミ罐《かん》……女のあえぎ、しのび笑い、紙を引裂く音……完全に音程がくるった、隙間風のような口笛……仔猫《こねこ》の鳴き声……「さて、どう言ったらいいか、ね、そうでしょう。」……
一トラック(全面一方向)、六チャンネルという特殊な録音方式なので、左右のヘッドホンからそれぞれ三系統ずつ、合わせて六つの無関係な音が同時に聞えてくる。その六つの音に、同時に神経を働かせなければならないわけだ。かなりの時間、持続する音もあれば、二、三秒で消えてしまう音もあった。消えては現れ、消えては現れする、執念深い場面もあれば、一瞬ちらついただけで二度と姿を見せない音色もあった。その選択は、マイクロ・コンピューターが行なっているらしい。まず音質なり音量なりの急激な変化に反応して、中継機が作動しはじめ、ついで人声の場合は、声帯緊張系数が三・二以下のとき、それ以外の自然音の場合には、リズムやピッチが一定の法則で反復したとき、三秒以内に録音が自動停止する仕掛だ。声帯緊張系数というのは、心理的緊張に対応する生理反応の数量化であり、自然音の反復度は、その背景にある人間の行動の逆関数だという解釈らしい。
だから、限られた容量のチャンネルで、それをはるかに上回る音源を処理することが可能になるわけだ。この一年で、中継機は総数二百十四台に達し、一台の受持ち範囲が半径約百メートル、容量八チャンネルなので、計千七百十二の回路同時作動の能力をもち、病院全域をほぼ漏れなく監視下においているという説明だった。
その、小刻みにジャンプしながら流れて行く、もつれ合った六つの時間帯にまんべんなく耳を傾け、ふるいにかけ、ほんの断片でもいいから妻の声を選び出してみようという狙いである。気になった音声に出合ったら、テープを停め、操作盤のスイッチを使い分けて、確信が持てるまで何度でも反復再生することが出来る。また、その録音部分の頭に刻まれたパルスを解読すれば、何号中継機を経由したかを知ることも可能だし、盗聴器の設置場所だって、かなりの精度で予測できるはずだという。
男は全神経を集中させて聞き入った。長時間の作業を考慮してか、窓には黒の紗《しゃ》のカーテンが二重にかかり、クッションのきいた片袖のソファまでが備えてある。だが、こんなことで妻が探し出せるとしたら、ちょっと話が上手《うま》すぎはしまいか。どうしても野球のネットでミジンコをすくっているような、心もとなさを拭いきれないのだ。いくら男が困っているといっても、病院側にとっては、しょせん部外者の小さな災難でしかないはずである。もし、この集中監視システムが、主任の触れ込みどおりの威力を持っているとしたら、こんなふうにあっさり城を開け渡してくれた気前のよさには、かえって首を傾《かし》げざるを得ない。騙し甲斐《がい》があると思うほど、うぬぼれはしないが、やはり騙されているとしか思えないのだ。むしろ正攻法で、足をつかった地味な聞き込みに力をそそぐほうが、本筋だったような気がして仕方がない。
だが、そんなためらいにはお構いなしに、物音は次から次へと休みなく湧《わ》き出し、容赦なく男を翻弄《ほんろう》しつづけた。次の瞬間へのかすかな期待が、そのたびに疑惑から目をつむらせ、男をソファに釘付けにしてしまうのだ。あらゆる物音、音声が、これ見よがしに手懸りをちらつかせているように思われる。手懸りに餓えているから、そんなふうに感じられるのか、それとも物音のなかには本来暗号が隠されているものなのか、その辺のことはよく分らない。それにしても、べらぼうな音の氾濫《はんらん》だった。追従《ついしょう》、怒り、不満、嘲笑《ちょうしょう》、ほのめかし、妬《ねた》み、ののしり……そして、それらのすべてにちょっぴりずつ滲《し》み込んでいる猥褻《わいせつ》さ。とくに囁き声というやつは、便器にまたがった下半身の形にそっくりだ。疚《やま》しさが好奇心のマスクをつけると、人間はめくれ反って、裏返しの他人になる。急性盗聴中毒症。視覚を軸に構成されていた、外界との関係の崩壊が、高所恐怖症に似た眩暈《めまい》をひきおこす。同時に存在しえても、同時に体験することは絶対に出来るはずのない、時間のモザイク。暗闇に似たところがある。
聴覚というやつは、視覚にくらべると、かなり受動的に出来ているらしい。五十万トンのマンモス・タンカーだって、瞼《まぶた》を閉じるだけで消してしまえるが、一匹の蚊の羽音からはなかなか逃げ切れない。逆に、タンカーの船体にはりついている一匹のフジツボは、簡単に見分けられるが、街の雑踏の中から特定の靴音を聞き分けようと思うと、大変な努力が要求される。それだけ疲労の度合もはげしいわけだ。
そろそろ限界が近付きはじめているようだった。鉛の帽子をかぶったように、首筋が腫《は》れあがり、眼球をいっぱいに頬張って前頭部が脈打ちはじめていた。
それからとつぜん思い当ったのだ。もしかすると妻はとうに家に戻って、男を待ち受けているのかもしれない。そうだ……そうに決まっている……今ごろは、いなくなった男の行方を案じて、心当りを電話で尋ねまわったりしていることだろう。時計を見ると、いつの間にかもう六時をまわっている。すでに五時間近くも操作盤にしがみついていた勘定だ。会社にも、遅刻の伝言を入れたっきり、連絡しそびれてしまった。社長が出席予定の重要会議に、無断欠席した失点を、元どおり穴埋めするにはさぞかし手間取らされるに違いない。
とりあえず飽和状態に達した膀胱《ぼうこう》の緊張を解いてやる必要があった。隣の警備室には声をかけずに、直接廊下に通ずるドアから外に出た。静まりかえった黄土色の陶板タイルの床を、エレベーター脇の手洗いまですり足で走り抜けた。
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(ここから再び録音が開始される。二巻目のカセットの裏面である。しかし、貸衣裳のベルトに仕込まれた発信機の場合のように、マイクが一緒についてまわるわけではないので、音質も音量も一定していない。移動する足音……小便の音……それからドアの開閉……といった具合に、とびとびの時間が、どもりながらつなぎ合わされた感じだ。
電話がかかって来た。ノートの進行状況についての、馬からの問い合わせだった。ぼくも負けずに聞き返してやった。たしかに馬の指摘どおり、一巻目のカセットの最初の部分に、何やら思わせぶりな気配と足音が録音されている。あれを手懸りと呼んだからには、それなりの根拠があってのことだろう。今すぐ率直な意見を聞かせてほしい。情報の出し惜しみは、けっきょく相互不信を助長するだけのことである。
すると馬は、遅めの夕食を一緒にしようと誘った。詳しい説明はその時にしたいというのだ。そのかわり、二本目のカセットだけは仕上げておいてほしいと条件をつけてきた。どこに狙いがあるのか、おおよその見当はつく。それもいいだろう。窓から見えていた水平線が消え、海と空がつながってしまった。本降りになるのかもしれない。
ここらで一と息いれるとしよう。八本目のタバコに火をつけ、カップ焼ソバに魔法瓶の湯をそそぎ、罐入りのコーラをすすりながら、出来上りを待つ。コンタクト・レンズを外して、目薬をさす。)
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手洗いから戻ってくると、待ち受けていたように副院長室の続き部屋のドアが開いた。隙間から女秘書が顔半分の微笑をのぞかせている。黙って通り過ぎるわけにはいかなかった。
「電話、貸してもらえる。」
彼女は腰でドアを押し開けると、素早く奥に引込んだ。中に入るようにうながしたつもりなのだろうか。それとも何処《どこ》かに仕掛けられている盗聴器を警戒して、なるべく口をきかない方針なのだろうか。
「ドアを閉めて。」囁くように言うと、壁ぎわのソファの肘に浅く腰をかけた。「外線はゼロ発信……」
「すぐに済みますから。」
ダイヤルの戻りが軽い改良型の機種だった。最初の呼び出し音が聞えはじめたとき、男はあらためて今日一日の異常な体験を振り返り、驟雨《しゅうう》の中をやっと軒下にたどり着いたような気分になっていた。なぜもっと早く思い付かなかったのだろう。あと何秒かすれば、電線の向う側で妻が受話器を取上げ、次の瞬間カーテンが開いて外の光がなだれ込み、スクリーンの上の絵空事はかき消えてしまうのだ。一目散に逃げ出して、二度とこんな所にかかわってやったりするものか。男は自分の健康が、皮膚の下で水色のネオンのように艶《つや》やかに輝き出すのを感じていた。
ベルは鳴りつづけた。
「駄目みたいね。」
「ためしに家に掛けてみているんだよ。」
女秘書が肘掛けの上で姿勢を変えると、白衣の前が割れて、片膝《かたひざ》が太股《ふともも》の上までむき出しになった。陽焼けした固ぶとりの肌が、ワックスをかけたようになめらかだ。白衣の下には、下着しかつけていないのだろうか。
ベルの音が十回を越えた。
「出ないじゃないの。」
「手が離せないんじゃないかな、台所で、揚げ物かなにかしていて……」
女秘書は答えなかった。男の視線を感じたはずの白衣の裾を、なおそうともせず、投げ出した素足の指先で軽くりズムをとっている。膝頭の靨《えくぼ》に指をあてがってみたくなった。
電話は鳴りつづけた。三十五回目であきらめた。女秘書が腰を上げた。白衣の裾を閉じて、膝が隠れた。自己中心的な女性が媚《こび》を売るとき、こんな調子の身軽さをよそおうことがある。
「職員食堂、八時半までなんだけど、よかったら付き合わない。」
「もう一か所、掛けてみたいんだ。」
ダイヤルを廻す手許《てもと》をのぞきこみながら、男の肩に顎を乗せるようにして女秘書が言った。
「会社ね。」
「どうして知ってるの。」
「もう誰もいないと思うよ。」
録音された声が返ってきた。
――本日の業務は午後六時をもって終了させていただき……
受話器を戻すと、遠くで仏壇の鉦《かね》をたたいたような音がした。墜落の夢から覚めても、いぜんとして墜落の最中といった感じだった。
「その白衣、あまり合っていないみたいだけど、どうせ同じ建物の中なんだし……」上眼づかいに、自分の白衣の襟元《えりもと》のボタンをつまんで引張ってみせた。くりの深いブラジャーは赤紫、もっと色白でないと似合わない色だ。「副院長から、食券をあずかっているの。でも、アルコール類は自前でお願いね。」
「まだ食べるっていう気分じゃないな。」
「先の長い仕事でしょう。」
彼女は男をうながし、先に立って廊下に出る。男もつづいて外に出たが、それ以上先に進む意志のないことを示そうとして、両足をふんばった。
「早いとこ、残りのテープを片付けてしまわないと……」
「まだやっと一本目のリールじゃないの。あせったって無駄よ。」
「何本もあるの。」
安全|剃刀《がみそり》の刃を舐《な》めたような気分だった。女秘書は、喉の穴が覗《のぞ》けるような大口を開け、声をたてずに笑った。
「きまっているじゃない。何百、何千っていう盗聴器が、病院中にばらまかれているのよ。たった六つのチャンネルに納まりきれるわけがないでしょう。」斜めに廊下を横切ると、ノックもせずに警備室のドアを引き開け、首を突っ込んで、「今日は全部で何リールになった……」
待ち受けていたように、主任の響きのいい早口がはね返って来た。
「六本半かな。」
「午前中だけで。」
「そう、正午までで……」
肘でドアを閉めたはずみを利用して、踵《かかと》でくるりと体を半|廻転《かいてん》させると、ゴム底の赤いサンダルを小刻みに鳴らして引返してくる。すれ違いざま、腕をからませてきたが、男は思わず振りほどいてしまっていた。
「詐欺じゃないか。」
「どういう意味……」
「一時間分を聞くのに、七時間かかるわけだろ。だんだん伸びていく自分の影と、鬼ごっこしているようなものじゃないか。何時《いつ》までたっても追いつきっこないよ。」
「だって、奥さんの声を聞き分けられるのは、君だけでしょ。他から応援を頼むわけにもいかないじゃない。」
「こんなの、乗り遅れた新幹線を、自転車で追い掛けるような話だよ。」
「現実って、そういうものじゃないかな。籤《くじ》を引くとき、ぜんぶ引きおえるまでは、一等が出ないってわけでもないでしょう。」
そうかもしれない。留置場で夢見る無罪よりは、刑務所で数える刑期満了までの日数の方が、ずっと現実に近いこともよく分る。しかし、これが現実だとしたら、妻が連れ去られるまでのあの平穏な日々は、単なる追憶にすぎなかったのだろうか。ふと、妻の耳たぶの産毛が、風のように鼻先をかすめたような気がした。
女秘書が、今度は腕のかわりに、視線をからませてきた。苛立たしいほど輪郭のはっきりした女だ。それにくらべると妻の印象は、泡立《あわだ》てた卵の白身のように淡い。
「元気出してよ、そんな、テレビの深夜劇場を見過ぎたような顔してないで……」
彼女は天井と壁面が交わる線にそって、すばやく眼を走らせると、唇に指を当て、足早に歩き出す。その芝居がかった仕種《しぐさ》にひきずられ、男もつい後に従ってしまっていた。
エレベーターの標示ランプは、四階を下降中だった。しばらく待たされそうだ。廊下は両端の採光窓からの夕日で、グリスをきかせたシリンダーの内側のように輝いていた。彼女は慎重に左右を見渡し、上眼づかいに共犯者めいた微笑を浮べ、しかし喋《しゃべ》りだした内容は、ごく当り障りのないものだった。後で説明してくれたところによると、盗聴マイクを計算に入れた陽動作戦だったのだそうだ。
「ここが建物の中心で、左右がちょうど対称になっているわけね。こっち側がぜんぶ、副院長用の区画でしょう。向う側は、もともと院長専用だったらしいんだけど、三年前から院長室も、会議室も、秘書室も、そっくり資料室に転用しちゃったの。とにかく、テープだけでも、すごい分量じゃない。あと二、三年でここも満員らしいけど……」
「院長は、別の所に越したってわけか。」
彼女は首を傾げただけで、答えなかった。エレベーターが到着した。彼女は乗り込むとすぐに、〈満員〉の赤ランプを押し、鼻の上に皺《しわ》をよせて意地悪く笑った。これで地下二階まで、相客なしのまま、停らずに行けるわけだ。
[#ここから2字下げ]
(ここから再び録音が中断されている。カウンターの目盛表示は382。馬がわざわざ電話までよこして、ノートの進行をうながし、とくに夕食を餌《えさ》にしてまで、二本目のカセットを仕上げさせようとしたのは、たぶんこの録音されていない数時間が目当てだったに違いない。もちろん洗《あら》いざらい書いてしまうつもりだ。彼女だって、今となっては、その事でぼくをなじったりはしないだろう。)
[#ここで字下げ終わり]
「エレベーターの中は、盗聴器がきかないの。言いたいことがあったら今のうち。貸切りだけど、時間がないから、急いで言って。何か私にしてほしい事があるんじゃない。なけりゃこっちから先に言うよ。私、主任に、強姦されたんだ。」
かなりの早口だったので、言い終えたときには、まだ九階だった。しかし、なんと答えたものか見当もつかない。強姦[#「強姦」に傍点]、と字で読まされる分にはさほどでもないが、直接当事者の口から声にして聞かされると、耳元で紙火薬が破裂したくらいの効果があった。
彼女の印象も一変した。医者の一味らしい高飛車さはもう跡形もない。張りのあるすべすべした肌の感触でさえ、物おじしない加害者のしるしに見えていたのが、こんどは被害者のしるしに見えはじめる。彼女もそれっきり口をつぐんでしまった。
降りたところは、職員用のロビーだった。白衣にサンダルという独特の風俗や、薬品臭さえなかったら、退社時間どきのビルの地下街を思わせる混雑ぶりだ。さすがに副院長の秘書だけあって、何人もの人間が彼女に親しげな挨拶を送ってきた。意味ありげに二人を見くらべる者もいた。人ごみを縫って駈けて来た、例のトレパン姿に坊主頭の二人組が足をとめるなり、鋭角的に腰を折って物欲しげな目つきをする。彼女はいかにも身についた仕種で、軽くいなして追いやった。この物おじしない態度は、やはりどう見ても医者の一味のものである。強姦というのは、何かの聞き違いだったのだろうか。それとも、病院の中では、強姦でさえ、世間とは違った扱いを受けるのだろうか。
理髪室、日用雑貨品売場、旅行案内所、花屋、通路まで椅子を持ち出した喫茶室、スピード印刷所、盗聴器売場、DP店、コイン式自動洗濯室、それから広角レンズでのぞいたような、湯気でかすんだ大食堂。
その大食堂の奥まった一角に、特大のテレビが据えつけられていた。床から二メートルほどの高さに、鉄パイプが組まれ、受像機をのせる台が深く庇《ひさし》のように張り出している。その下の、ちょうど死角になっているあたりの席が、特に混み合っていた。六時台の番組にろくなものは無いにしても、そんな騒々しい場所が、なぜ好まれるのだろう。騒々しいからかえって好まれるのだ。そこなら盗聴マイクからも死角になる。
そう言われて見ると、誰もが不自然に肩をよせ合い、耳打ちをしている感じだ。一見して男女の内緒話と分る組合わせもいたが、むしろ取引相手と密談中らしい二人連れの方が目立った。テーブルの間をぬって、彼女が近付いて行くと、動揺がおきた。さりげなく席を立ってしまう組もあった。監視者はいつだって嫌われ者にきまっている。
二人は、四人掛けのテーブルの角に、膝を触れ合わんばかりに寄りそって掛けた。確かにそうでもしないと、相手の声が聞き取れない。注文とりの給仕に、彼女は指でAの字を描き、コップにビールを注ぐ手つきをしてみせた。定食は、アルファベット順に、AからEまでの五種類で、今日のA定食は中華風の豚の煮込みと玉蜀黍《とうもろこし》のスープだ。テレビでは、何やらロボット怪獣の悲鳴を合図に、子供番組が終り、周囲の客の顔が琥珀《こはく》色に点滅して、電子蚊取器のコマーシャルが始まるところだった。
「わたし、強姦されたの。」
彼女は男の耳に囁きかけ、すぐに顔を正面に戻して、右手の人差指で白いプラスチックのテーブルを叩いた。返事を催促されていることは分ったが、どんな返事を期待しているのかまるで予測がつかない。主任を告発しようとしているのか、被害者どうしの連帯を表明しようとしているのか、それとも単に同情をさそおうとしているのか。
的外れを承知で、当り障りのない答えをしておくことにする。
「いつ頃。」
彼女は首をすくめ、全身をよじった。耳の穴にもろに息を吹き込んでしまったらしい。こんどは負けずに男の耳に息を吹き掛けてきた。
「奥さんが救急車に誘拐《ゆうかい》されたって話、本当。」
「本当でなきゃ、会社をすっぽかしてまで、こんな所でぐずぐずしてるわけがないだろ。」
「そうかな。」
「なぜ。」
どんな短い言葉でも、いちいち口から耳、耳から口へと切換えなければならないので、ひどく意味ありげに聞えてしまう。
「君が私立探偵だったとしたら、もっと違った探し方をしていたと思うよ。」
「ぼくだって私立探偵なみのことはやったさ。尾行もしたし、聞き込みもしたし……」
「結婚して何年目。」
「五年目。」
「奥さんの素行調査はまだなんでしょう。結婚前の交際範囲、現在の交友関係。手帳の住所録や、カレンダーの書込み、それから電話番号帳の手垢《てあか》のつき具合なんかから、意外な手懸りが発見されることがあるんだって。近所の人からの聞き込みも大事ね。毎週何曜日というような定期的な外出はなかったか、家を空けている時間帯、その時の服装や化粧はどんなふうだったか……」
「君は知らないのさ。自分で言うのはおかしいけど、だいたいぼくは……」
「そうよ、君はいい男よ。」
「ちがう、そんな意味じゃなくて……」
ビールが搬《はこ》ばれて来た。堅いゴムボールのような膝頭を押しつけられ、乾杯をうながされると、やはり応じないわけにはいかなくなってしまう。あたりを窺《うかが》ってみた。いくつもの視線が、追われた蝿《はえ》のように、未練がましく四方に飛び散った。流し込んだビールが、胃に届く前にどこかに消えてしまう。
「奥さんて、どんな人。」
膝の感触にはまぎれもない挑発が感じられた。無視すれば相手を傷つけてしまうし、ここで機嫌をそこねられるのは得策でない。かと言って、受け入れてしまえば、妻を探している自分の立場がひどく切実さを欠いたものになる。男は途方に暮れた。
「家に戻れば写真があるけど……学生時代、ミス東京の地区予選まで行ったりしたので、専門家が写した大きなカラーの水着写真なんかもあるんだ。」
「つまり、体自慢で、派手好きなタイプってことか。」
「そんな事はないさ。」
「なぜ。」
「なぜって……」
「奥さんだと、そんなふうに庇《かば》ってもらえるのかな。」
男は注意深く相手の表情を盗み見た。その種の質問にともないがちな嫌味は、ほとんど認められない。それだけに、かえって油断ならないような気もした。返事をためらっていると、かまわず彼女が言葉をつづけ、
「これだけは知っていた方がいいと思うよ。」じっと男の目を覗き込み、見えないストローを使っているように、とがらせた唇の先でビールの残りを吸いおえた。「誰も君のこと、本気で心配なんかしていないってこと。」
それはその通りだろうと思った。しかしあらためて宣告されると、やはりいい気持はしない。踏みつけられた海綿のように、ねばねばした嫌な感じが毛穴からにじみだす。冷凍ミカンの表面についた氷の薄皮のように、希望がばらばらと剥《は》げ落ちる。
「でも、外部の人間にはなかなか使わせてもらえないらしいじゃない、あの盗聴テープを聞く部屋……」
「手に入りにくいものが、役に立つとは限らないでしょう。」
思わせぶりな警告だ。ねらいは何処にあるのだろう。嫌がらせ、策謀、それとも好意。しかし、手に入りにくいものと同様、好意がかならずしも役に立ってくれるとは限らないのだ。男は他人から好意を示されることに馴れすぎていた。
アルミの盆に並べた二人前のA定食が搬ばれて来た。返事がわりに、早速スープを口にふくむと、味が分らないほど空腹だったことに気付いた。しばらく二人は、咀嚼《そしゃく》運動に熱中する。豚の煮込みが、あらかた煮汁だけになりかけた頃、彼女が腕時計をのぞき、ついでに手首を差し出して眼で笑った。三センチほどの赤い傷跡が、時計のバンドと平行に走っていた。
男は想像をめぐらせる。二度も聞かされた強姦事件とやらに関係がありそうだ。自殺未遂をほのめかして、同情をさそおうとしているのだろうか。彼女と警備主任は一見いかにも親密な協力関係にあるようだが、見掛けほどにはしっくりいっていないのかもしれない。被害者と加害者という危険な関係のあいだで、あぶなっかしい綱渡りを演じているだけなのかもしれない。わざわざ向うから、つけこむ隙をちらつかせてくれたのだとすれば、こちらも進んでつけこんでやるべきだろう。
先を越されてしまった。
「私、不幸そうに見える、それとも幸福そうに見える。」
「べつに不幸そうには見えないな。」
「なぜ。」
不幸そうだと答えるべきだったようだ。そうすれば互に補い合えるものがあることを、暗に認め合ったことになる。
「印象さ、ただ、なんとなく……」
彼女は上唇をめくって薄笑を浮べ、乱暴に椅子を引いて立上った。
「私の部屋によって行かない。」
中腰のまま、男はあいまいに答えた。
「何か得になることでもあるのかな。」
踝《くるぶし》のあたりに焼けるような感覚が走った。サンダルの先で蹴《け》りつけられたのだ。皮がむけて血が流れていた。
「なんだってそう自分の事にばかりこだわるの。感じが悪いよ。」
「だって、仕方がないじゃないか。」
彼女は振向きもせずに、先に立って歩きだす。男は口を拭いた紙ナプキンで傷をぬぐい、後を追って狭いテーブルの間を縫いながら、こみ上げてくる腹立ちを傷の痛みにまぎらせた。まるで甘やかされた子猿じゃないか。なんの権利があってそんな態度がとれるのだろう。
食堂を出たすぐの壁ぎわに、二十人ほどの人だかりが出来ていた。例の坊主頭にトレパンの二人組が、白衣の中年男を交互になぐりつけているところだった。前に出会ったのと同じ連中のようでもあり、違うようでもある。犠牲者は、ボタンを引きちぎられた白衣の前をはだけて、床にすわりこんでいた。だぶついた皮下脂肪にくいこんだランニング・シャツに、鼻血が網になってひろがっている。蒸しパンのように腫れぼったい顔の坊主頭が、犠牲者の眼鏡をひったくって踏み砕いた。開きっぱなしの義眼をひきつらせた相棒が、熟れたブドウのように変形した鼻の頭を膝で蹴りつづけていた。しかし誰一人として仲裁に入ろうとする者はいない。下手に干渉したりしてはいけない事情でもあるのだろうか。
蒸しパンが彼女を認めた。耳のうしろに立てた掌を、象の耳のようにひらひらさせた。義眼がきれいにそろった白い歯を見せて微笑《ほほえ》んだ。どちらにともなく、彼女が声をかけた。
「九九を言ってみてごらん。」
蒸しパンが得意そうに唇をすぼめ、頬を指ではじいた。瓶の口を叩いたような音がした。節をつけて朗唱しはじめた。
二二が四、二三が六、二四が八、二五の十、二六の十二……
見物人は目をそらせ、ぎこちなく体をこわばらせた。誰もが不機嫌なふくれっ面をしていた。その非難が彼女に向けられたものか、二人組に向けられたものか、それとも犠牲者に向けられたものかははっきりしない。その間義眼の坊主頭は、疑わしげに、見えるほうの片眼をじっと男に据えていた。むりに人前で排便を強要されているような気まずさだった。
九九の朗唱が終るのを待たずに、彼女はその場を離れて歩きだした。心残りだったが、男も後に従った。来たときとは違う道順のようだ。しだいに照明がまばらになり、売店やコーヒー店のかわりに、事務所か物置ふうの閉めきったドアが目立ちはじめた。いりくんだ地下道の角を一つ曲るたびに、みるみる人通りが少くなり、やがてひっそりとした狭い階段の下に出た。いきなり彼女が振向いて言った。
「なんの用。」
罠《わな》にかかったような気がした。
「案内してくれているとばかり思っていたから……」
「何処に。」
「一人じゃ迷っちゃうよ。」
彼女が首をすくめて笑い、男はけっきょく後について行くしかなかった。地上に出た。振向くと、暮れかけた紫色の暗い雲の中に病院本館の建物がそびえている。よごれた水銀燈の光をあびて、何百台もの自転車が車輪とハンドルをからみ合わせて並んでいた。彼女がろくに選びもせずにその中の一台を引出して走り出した。男もつづいて駈けだしていた。ここはジャンプ・シューズの威力の見せどころだ。相手がプロの競輪選手でもないかぎり、一キロ以内だったら負けっこない。彼女は男を振向き、夢のように追いすがってくるのを見て、さらにスピードを上げた。白衣の裾がひるがえり、付根までむき出しになった素足が闇を掻く。
平行に何列にも並んだ、木造二階建の建物の間、生い繁った雑草のなかの小道を走りぬけた。例の当直医の墜落事件のあと、副院長室に案内される途中で見掛けた、あの長期入院患者のための病棟群らしい。古い血の色をしたグラジオラスの花を何本か、自転車の車輪がなぎ倒すと、下りの斜面にさしかかる。彼女が急ブレーキを踏み、男はかろうじて衝突をさけることが出来た。鉄筋モルタル三階建の別棟が行手をさえぎっていた。青灰色の壁いちめんに蔦《つた》がからみ、窓のまわりに赤煉瓦《あかれんが》をあしらった、かなり時代がかった建物だ。昔はここが病院の本館の一部だったらしい。いまは〈軟骨外科特別病棟〉と墨がにじんだ木札が掛かっている。
彼女の部屋でなかったことに、男は内心ほっとしていた。さしあたっては執行猶予の身だということだ。
[#ここから2字下げ]
(七時四十三分。窓の外の闇がめくれて、雲の割目が輝き、三秒後に雷鳴、大粒の雨が降りだした。そろそろ馬が迎えに来るころだ。テープのカウンター表示はいぜんとして〈582〉のまま。きっと馬は不満をもらすだろう。窓から雨が吹きこみ、部屋のなかに緑色の臭気が充満しはじめた。頼むからこんな気違い沙汰はそろそろ終りにしてくれないか。)
[#ここで字下げ終わり]
狭い車寄せのある玄関の重いドアを肩で押して入ると、待合室風の広間があった。消毒薬の臭いが鼻を刺し、換気扇のうなりが床を這っていた。人の気配はあったが、姿はない。彼女はせわしく息をはずませながら、白衣の襟元を開いて風を入れ、男も息をはずませながら、顎の下の汗をぬぐった。
正面階段わきのエレベーターに向いながら彼女が言った。
「この辺で待っていて。副院長に話して、部屋の鍵をもらって来てあげる。」
「部屋って……」
彼女は鋭く振向き、握りしめた両手をそろえて突出し、腹立たしげにサンダルで床を蹴った。
「悪いようにはしないんだから、言われたとおりにしてよ。いちいち家から通ったりするより、病院で泊ったほうが、ずっと時間を節約できるだろ。」
いくら言われても、男はやはり家に戻るつもりだった。さっき電話に応答がなかったのは、妻の方でもおなじく彼を探しまわっていたせいだとも考えられる。それに箪笥《たんす》の引出しの裏あたりから、何か思いがけない手懸りが発見されないとも限らないのだ。しかしここで逆らってみても始まらない。霧が晴れてしまうまでは、妄動《もうどう》をつつしみ、力の温存をはかるのが、探険家の心得である。エレベーターに乗込む彼女を黙って見送り、木枠《きわく》に黒いビニールを張った狭いベンチに腰を下した。疲れ果てていた。でたらめに聞えてくる六つの音源の選別作業は、予想以上の重労働だったようだ。
幕が落ちるように、眠りが襲ってきた。眠り込む直前、階上のどこからか、彼に呼びかけてくる細い息のような声を聞いたように思った。夢を見た。石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]虫《せっけんむし》に喰われて穴だらけになった石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]で手を洗うと、手が穴だらけになる夢だった。ベンチからころげ落ちて夢から覚めた。
突然の目覚めだったので、時間経過がはっきりしなかった。一瞬だったような気もするし、何時間も眠り込んでしまったようでもある。女秘書に置き去りにされたのかもしれないという、根拠のない不安にかられ、跳ね起きた。警備室に戻って、早く盗聴テープに取組まなければならないという焦りもあったようだ。ベンチから落ちた時に肘《ひじ》を打ったらしく、左手の小指の側がしびれていた。
エレベーター脇から、奥に廊下がのびている。青い非常燈がぼんやり光っているだけで、両側のドアの小窓はどれも明りが消えていた。足音をしのばせ、階段を上ってみた。喫煙所があり、左の壁面に交尾中の馬のカラー写真が額に入れて飾ってある。副院長室の絵とくらべると、性器の結合部が拡大されていて、むしろ学術的な印象が強かった。正面には胸の高さに横長のガラス戸があり、内部は陰影が見分けられないほど隅々まで照明がゆきとどいているのに、人影はない。事務机に書類、ステンレスやガラスの器具、ゴムのチューブに薬瓶、いかにも痛そうな道具類などがまとまり悪く整頓《せいとん》されていて、看護婦詰所であることが一見して分った。
右手に観音開きの板戸、その向うは油の滲みこんだ板張りの廊下だった。臙脂《えんじ》の横縞を走らせた腰板の端に、明りがもれているドアがある。ノックしてみたが応えはない。適当な言い訳を考えながら、ドアを細目に開けてみた。広い病室のベッドに娘がひとり横になっていた。
娘が枕から首をおこし、視線が合った。引返そうとして、しかし半ば彼の訪問を予期していたような、物問いたげな表情に、つい足をとめてしまう。
「まだ無理よ……お願い……」
パステルの粉をまぶしたような声で娘が哀願した。借着の白衣が誤解の種をまいてしまったのだろうか。病院の事情に通じている患者には、これが警備関係者の白衣であることを見分けられるのかもしれない。しかし娘の唇は微笑んでいた。トマトの皮のように中が透けて見える、無邪気でちぐはぐな微笑だった。
「何もしやしないよ。」
男は肘を体から離し、開いた両手を肩の高さにかかげて、とにかく敵意がないことを強調してみせた。
「でも、父ちゃんに頼まれたんだろ。」
娘は言葉の途中から、ベッドの脇の椅子に視線を移動させた。まるでそこに透明な父親が掛けているような感じだった。
「明りが点《つ》いていたから、覗いてみただけさ。君、知らないかな、副院長さんを探しているんだけど……」
娘は視線を男に戻した。こんどは眼元も微笑んでいる。
「本当だってば、歩くとまだふらふらするよ。」
「誰なの、君のお父さんて……」
「知ってるくせに。」
「ぼくが誰か知ってるの。」
「知らないけど。」
一版の入院患者ではないのかもしれないと思った。通常の個室とくらべて、広さもひろいし、手入れも行きとどいている。ベッドは特注品のようだし、毛布の毛足は長く、カーテンは白い綿布のかわりに象牙《ぞうげ》色のナイロン地が使われている。ミルクを焦がしたような匂いは、娘の体臭らしい。男は心がなごむのを感じていた。妻の体臭に似ていたのかもしれない。
「誰だろう、君のお父さんて、ぼくが知ってる人だとすると……」
娘はもう一度ベッドの脇の椅子を指さし、唇をとがらせた。男は最初、見舞いに来てそこに掛けるはずの誰かを、ばくぜんと暗示しているだけだろうと考えていた。しかし、無理な角度に曲げた指先をたどってみると、どうも椅子の脚の特定の一点を差し示しているようだ。頭のなかで指をはじく音がして、思い当った。警備員の白衣が、父を知っている証拠だと言われて、とっさに思い浮べられるのは今のところ一人しかいない。警備主任である。
反射的に行動を起していた。椅子を持上げ、裏返す。予想どおり一本の脚の底を刳《く》り抜き、小型FM発信機が仕掛けられていた。電池を抜き取ってズボンのポケットに落し込む。
「ひどいじゃないか、娘にまで盗聴器を仕掛けるなんて。」
「ひどいよね。」
声をはずませ、炭酸飲料の栓を抜いたような雰囲気《ふんいき》が、娘の周囲にあふれ返った。盗聴されることに馴れっこだっただけに、この新しい経験は刺戟《しげき》的だったらしい。
「なんの病気なの。」
答えるかわりに娘は上半身を起こし、片肘を枕にかけて微笑んだ。体をねじったはずみに、片足が膝の上までむき出しになる。最初の印象よりもはるかに幼い小娘のようだ。せいぜい十五、六だろうか。一人前の娘だと錯覚したのは、毛布越しに見た体形にまどわされたせいらしい。伸びきった手足の感じが、すでに少女期を終えた印象なのだ。しかし正面から見る表情はひどく子供っぽく、太腿の曲線だってまだ未熟なままだ。
「お父さん、退院させたがってるのかい。」
「知ってるくせに。」
娘が仰向《あおむ》けに姿勢を変えて、膝を立てた。開き気味にした両膝の間で、毛布が天幕のように左右に張られた。男をうかがうように見詰めながら、娘の手が毛布の中でリズミカルに動きはじめる。じかに手の動きが見えたわけではない。肩のふるえと、肘にふれている毛布の波立ちで、昆虫《こんちゅう》の触角のような手首の律動がはっきり分るのだ。狼狽《ろうばい》した。顔の裏が、水を吸った砂みたいに、ぼってりとむくんだ。
「よせったら。」
喉《のど》に栓をしたように、声がかすれた。
「でも、こうしている時が、一番かわいいって……」
「誰が。」
「先生。」
「副院長のことかい。」
娘は小さな形のいい鼻の付根に皺をよせて笑い、すぼめた唇から唾の泡をしぼり出し、毛布から抜き取った細い指先にまぶした。
「よせと言ったら、よすんだ。」
とっさにその手をはらいのけていた。娘の唾が男の手首にはりついた。せっかく気を利かせたつもりで盗聴器を取外したりしたのが、かえって裏目に出たようだ。警備主任は盗聴装置越しに聞き耳を立てていたに違いない。機械が作動していてくれたら、あらぬ嫌疑をかけられる恐れもなかっただろうし、娘ももっと自制してくれたはずである。
「どうして……」
透けるような娘の皮膚が赤らんだ。すべての表情が下になっている顔の左半分に流れて集り、右眼だけがぽっかり穴になって取残された。
「そんなこと、しなくてもいいんだ。いくら相手が先生だって……」
「父ちゃんもそう言うんだ。」
「そうだよ、したくもないことを、無理にすることなんかあるものか。」
「したいんだよ。」
「嘘つけ。」
「でも、あの額のなかの写真、私と先生なんだって。」
「どの写真。」
「待合室に掛かっているでしょう、馬が、アレしてる写真。」
しのび笑い。馬鹿なのだろうか。一瞬、気を抜いた隙に、ふたたび娘が毛布の下に手をすべり込ませる。
「やめろったら。」
「でも、本当は、見たいんでしょ。」
「君、いくつなの。」
「十三。」
その間にも、ためすように、ねぐらに帰るナメクジのように、そろそろと膝の間にむかって手を移動させはじめている。どうやら取引をしているつもりらしいのだ。十三歳ぽっちの小娘を、こんなふうに仕込むだなんて、いくらなんでもひどすぎる。その嫌悪《けんお》と腹立ちの裏に、ちょっぴり嫉妬《しっと》めいた感情がひそんでいたことも、べつに隠そうとは思わない。娘にはたしかに逆らいがたい脆《もろ》さがあった。しかしあんなインポテンツの中年男に、このしぼりたてのオレンジみたいな感触を、これほど薄汚く浪費したりする資格があるだろうか。
男の怒りを読み取ったらしく、娘の手が動きをやめた。
「やめたら、連れ出さないでくれる。」
最初からそんなつもりなんか毛頭ない。だが、これほど差し迫った情況にいなかったとしたら、疑われついでにそうしてもいいような気もした。大した荷物はなさそうだし、連れ出し[#「連れ出し」に傍点]という文句の符合も刺戟的だった。枕元の棚の上の洗面器、苺《いちご》をプリントしたガラスのコップ、ピンク色の柄の歯ブラシ、練歯磨のチューブ、けばけばしい色刷りの漫画雑誌、それから棚の中にはたぶん脱脂綿、ティッシュ・ペーパー、爪切り、乳液の瓶などが詰め込んであるのだろう。毛布も私物らしいから、まとめてくるんでしまえば、ほんの一と抱えだ。男は薄眼のあいだからじっと宙を見据えた。ちょっと芝居を打っておくのも悪くない。さんざん迷ったあげく、やっと取引に応じたようなふりをして、貸しをっくっておいてやろう。
しぶしぶ小出しにうなずいてやる。
気懸りなほど無邪気に娘が下唇を咬《か》んで笑った。魚のように跳ね上った。毛布がずれてパジャマの前がはだけた。ふくらみかけた胸に乳首がめり込んでいる。過ぎていく時におびえて身をひそめているようだ。腕をのばして男の肩越しに、部屋の反対側を指さした。貝殻の内側のような白い腋《わき》の下。焦げたミルクの匂いが部屋中にたちこめる。
「飲みたかったら、冷蔵庫の中にコーラがあるよ。」
ちょうどドアほどの幅で、織柄のある緑色のカーテンが掛かっていた。はじめは洗面台の眼隠し用くらいに思っていたが、シャワーやガス台まで備え付けた、ちょっとした小部屋だった。小型の冷蔵庫の中にはオレンジやメロンやパパイヤがぎっしり詰まっている。幼い娼婦には似つかわしい彩りだ。コーラの瓶を手に引返そうとして、出入口のすぐ横に梯子《はしご》が掛かっているのに気が付いた。壁にそって垂直に固定してある木の梯子だ。まっすぐ天井の切穴に通じていて、見上げると奥から淡い光がもれていた。
この秘密の通路がなんの目的で使われているのか、おおよその見当はつくような気がした。コーラの瓶を壁に打ちつけ、手間取っているように見せかけながら、梯子を上ってみた。一段目がわずかにきしんだだけで、後は音をたてずに上ることが出来た。切穴の内部は、一メートル四方ほどの狭い空間で、頭が触れると上板が動いた。撥《は》ね戸になっているのかもしれない。梯子のある側、つまり娘の部屋の真上にあたる方角に、長さ十センチ、幅五ミリばかりの覗き穴があり、明りはそこから漏れているのだった。
中で行われていることの意味をすぐに理解できたわけではない。今でこそ言葉にして説明も出来るが、その時は目にしたものを自分に納得させるのがやっとだった。
すぐ間近に、女のふくらはぎが見えた。手をのばせば届きそうだった。素肌のくせに磨き上げた家具のような艶《つや》をしている。視線を移動させるとサンダルの踵が床をこねまわしていた。女秘書だ。その向うにベッドが二台。覗き穴の位置が低いので、じゅうぶんな視界は得られないが、それでも男が二人、それぞれのベッドに寝ているのが分る。一人は手淫の最中に二階から墜落して気絶した例の当直医で、いま一人は副院長だ。当直医は裸のまま仰向けになっていた。ペニスも相変らず勃起《ぼっき》しつづけている。気のせいか昼間よりも多少青みがかってきたようだ。副院長は当直医に背中を向けて横になっていた。上半身はワイシャツ姿で、下半身は裸だ。魚の臓物そっくりのペニスがだらりと内股《うちまた》に垂れ下っている。
数十本もの細いコードが網目になってからみ合いながら、二人の腰を結んでいる。コードの両端はそれぞれの皮膚に色分けされた接着テープで固定され、ベッドの中間に据えられた計器に接続されているようだ。一人の看護婦がその計器をにらみながら、記録をとり、別の看護婦が瓶から油をしたたらせながら、野良猫がミルクを舐める音とリズムで、当直医のペニスをせっせと摩擦しつづけていた。副院長は眉のあいだに深く皺を刻み、Nの十三……Kの十四……などと、ときおり呟《つぶや》くように言っては、宙にかかげた指先を屈伸させてサインを出す。それに応じて計器係の看護婦が、ダイヤルを操作したり、接着テープの位置を変えたりする。ペニス係の看護婦が、手を休めたり、早めたりする。
よくもこんな連中に妻探しの協力を期待したりしたものだ。まるで廃品回収のトラックから逃げだしてきた虫食い人形一座の気違いパーティじゃないか。
[#ここから2字下げ]
(後で分ったことだが、あれは勃起しつづけている当直医のペニスの感覚を、電気信号に変えて副院長の大脳に送り、ちょうど当直医の射精と同時に、副院長を完全なオルガスムに到達させようという、風変りな実験の最中だったらしい。)
[#ここで字下げ終わり]
「二階八号室の見舞客のかた、二階八号室の見舞客のかた、許可なく病室への出入りは禁じられています。至急看護婦詰所まで出頭して下さい。至急看護婦詰所まで出頭して下さい。繰返します。二階八号室の……」
小型スピーカーらしい、かん高くてひずんだ、そのくせ職業的な威嚇を感じさせる中年女の声が、梯子の下から呼び掛けてきた。娘が笑いながら何か言い返している。覗き穴の向うの副院長たちも敏感に反応した。スピーカーの声は、娘の部屋にだけでなく、同時に建物全体に流されたらしい。
看護婦たちと視線が合った。女秘書のふくらはぎが姿勢を変えた。男は反射的に左手で穴をふさいだ。
激痛……
梯子をすべり落ちた。鋭いピンのようなもので掌を突かれたらしく、血が玉になって吹き出していた。狂犬もいいとこだ。傷に口をあてて吸いながら、娘の病室に引返した。
「もう平気、スイッチ切っちゃったから……」
片腕を枕の下に敷き込んだ姿勢で、娘が得意気に目を細めていた。もう一方の手が、顔の上で茎の細い花のようにゆれている。その手の先に、本物そっくりの造花の百合《ゆり》が重そうに首を垂れ、その陰に監視用の有線インターホンが取付けられていた。すると娘との会話はすっかり筒抜けになってしまっていたのだろうか。どんな話をしたんだっけ。互に相手が分ってしまうだけに、盗聴マイクよりも、もっと質《たち》が悪い。
気を取りなおす間もなく、梯子のある隣の小部屋で物音がした。建てつけの悪い木戸がきしむような音だ。手の傷がうずいた。男は浮足立った。誰かが後を追って来ようとしているのかもしれない。べつに疚しいことはないと思う反面、なぜか共犯者めいた後めたさにせきたてられてしまうのだ。
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(ふと一つの構図を思い浮べていた。盗聴マイクを取外され、耳に栓をされてしまった警備主任は、さぞかし狼狽したことだろう。さっそく看護婦詰所に連絡をとって、有線チャンネルに切換えることにした。
男がコーラを取りに隣の部屋に行くところまではうまく傍受できた。
だがそれっきり会話が跡切《とぎ》れ、不自然に長い沈黙がつづく。実際にはさほどの時間ではなかったのだが、猜疑心《さいぎしん》のとりこになった主任は、ついに自制しきれなくなった。有線放送で警告を出すことにした。
十三歳の色情狂を娘に持った父親としては、いかにも当然の処置だったと言えるだろう。)
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いきなり娘が猫の鳴き真似をした。ついでに片脚を大きくまわして、ねじった毛布を股のあいだに挟《はさ》み込んだ。伸ばしすぎた飴細工《あめざいく》のような脚には、女らしいふくらみに欠けているかわりに、舐めてみたいような清潔感がある。チャコール・グレイのパンツに包まれた球形の尻には、手のひらの触覚に目覚めをうながす磁石のような力がある。
しかし猫の鳴き真似はいささか場違いだ。これも副院長のお仕込みなのだろうか。副院長のために彼女が発情した猫の役を演じている情景を想像しただけで胸が痛んだ。
「またじき、寄ってみるからね……」
自分でも驚くほどのいたわりの調子がこめられていた。妻が無事発見され、一段落したら、いつか本当にそうする事があるかもしれない。
廊下に出ると、いくつかのドアが音をたてて閉まった。逃げ遅れて、すり足で部屋に駈込むパジャマ姿もいた。さっきの警告放送を耳にして、様子を窺っていた患者たちだろう。まるで足音におびえたヤドカリのようだ。
看護婦詰所は、相変らず空っぽのままだった。放送室は何処かほかにあるらしい。ドアが半開きになっていた。二、三分寄り道してみたって、どうということもないだろう。女秘書に先まわりして待合室に戻っていたところで、いまさらなんの弁解にもなりはしない。どのみち覗きの現場をおさえられてしまったのだ。傷につける消毒薬でも見付けるほうが先決である。傷口は小さくても、刺し傷は切り傷よりもずっと化膿《かのう》しやすいという。
奥の壁の半分をカルテの整理棚が占めていた。アイウエオ順の分類だ。妻のカルテを探してみた。発見できなかった。期待もしていなかったので、落胆もしなかった。
娘の名前を聞いておかなかったことを後悔した。引返して尋ねてみようか。しかし病室の番号は分っている。二階の八号室だ。どこかに病室別の記録があるにちがいない。部屋の中央に据えられた、両側から使えるようになっている大きな事務机の上を見まわしていると、積み上げた書類の陰で、細い瓶の口から水を注ぐような音が聞えた。
しのび笑いと一緒に、看護婦の白い帽子が現れた。婦長かそれに準ずるクラスらしく、帽子のまわりに黒線が三本入っている。小鼻のわきの黒子《ほくろ》が目立つ。水の音がやんだ。いつまでも屈《かが》み込んだままなので、まわり込んで覗いてみると、婦長は専用の低い作業台(小型の放送設備をそなえた)を前に、床すれすれの丸椅子をまたぐようにして掛けているのだった。
「見られちゃったな。」
「八号室の患者さんの病名、知りたいんだけど……」
「ごめんなさいね。」ボールペンの先で机の縁の穴をほじりながら、婦長が重そうに下顎をゆるませて笑った。「警備関係の人だと知ってたら、放送なんかしなかったのに。」
男の白衣を見る目に、まぎれもない畏敬《いけい》の念がこめられている。あらためて警備室の威光を思い知らされ、ますます落着かない気分にさせられた。
「誰だと思ったのさ。」
「よく来るんですよ。テープを聞いて血迷った、連れ出し[#「連れ出し」に傍点]屋が……」
「テープって……」
「あの娘《こ》のテープ。あんな猫のしゃっくりみたいな声、どこがいいんだろう。でも、いい人には、いいんでしょうね。副院長さんからして、もうあのとおり骨抜きなんだから。」
「それを父親が売っているわけ……」
「でも、どうやって嗅《か》ぎつけるんでしょうねえ。何処の誰って、はっきり名前を出しているわけでもないのに。」
「本当に病気なんだろうか。」
「病気は病気ね。この前だって、誰かに連れ出されたと思ったら、三日もしないうちに十八センチも縮んで戻って来たわ。」
「縮むの。」
「溶骨症って、厄介な病気よ。怪我してるんじゃないの。」
「大丈夫。」
手首にこびりついた血を、唾でしめして白衣の袖で拭き取った。
「駄目。見せてごらんなさい。」
また水をこぼす音がしはじめた。すぐ近くだ。べつに倒れた瓶もコップも見当らない。婦長が体をこわばらせ、上眼づかいに男を見た。眼のふちが微《かす》かに赤らんだ。
「なんだろう。」
「オシッコ。」スカートを腰の上までたくし上げると、大きな尻のミシンの縫目のような皺の下に、まわりをスポンジで囲った琺瑯引《ほうろうび》きの便器がのぞいていた。「膀胱の括約筋がいかれちゃって、言うこときいてくれないのよ。」
「不便でしょうね、移動するときなんか……」
「そうなの。今だってこの三階で、何か面白い実験してるらしいじゃない。みんなして覗きに行っちゃったけど、私だけは指をくわえて……でもないけど……まあね。まさか襁褓《おしめ》ってわけにもいかないし。汗っかきなの。いやね、そんなにじろじろ見ることないでしょ。」
そのくせ、鼻にかかったくすくす笑いをつづけ、めくり上げたスカートを下ろそうとしないので、小便の雫《しずく》が泡になって液面を走りまわるのがどうしても見えてしまう。
「ぼくもその三階の実験、ちょっと覗いてこようかな。」
「冷蔵庫にビールが冷えてるわ。」
男は微笑にまぎらせながら、手をふって断り、相手を傷つけない程度の急ぎ足で外に出た。
待合室の中央に、両脚を半ば開いた姿勢で女秘書が立っていた。迎え撃つ感じで、開いた両脚に均等に重心をかけている。うしろからの照明で髪の周囲がくまどられ、陰になった丸顔がよけいに丸い。キー・ホールダーのリングに通した指を、細かくふるわせながら胸元に突き出している。そのまわりで鋼鉄の鍵《かぎ》がきらめきながら廻っていた。
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(車の音だ。やっと馬が迎えに来たらしい。)
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ノートV
ここは旧病院跡の地下の一室だ。昨夜の雨は完全にあがって、通風筒の割目から、まぶしい正午の光が差し込んでいる。いま思い立って、ダンボールの箱を机がわりに、ノートをつけ始めたところだ。いつまで書き続けられるのか分らない。陽が傾いてしまえば、もう仕事にはならないし、追手にこの隠れ家を嗅ぎつけられれば、それで終りである。
この三冊目になって、ノートの意味も目的も、すっかり変ってしまった。これまでの二冊は馬の注文だったが、今度のには依頼主がいない。おかげで遠慮も気兼ねもいらなければ、自分を庇うために嘘をつく必要もなくなった。いくら馬の機嫌をそこねたところで、これ以上不利になることはあり得ないのだ。今度こそ真相をぶちまけてしまう。前の二冊が調査報告なら、これから書くのは告発である。誰に読んでもらえるのか、今のところまだ当てはないが、とにかく泣き寝入りだけはしたくない。
ダンボール箱のすぐ向うで、ねじった毛布を腿《もも》の間にはさみ込み、軽い寝息をたてているのは八号室の少女である。鼠の小便の刺戟臭に負けて、焦がしたミルクのような匂いはもうしない。六時間後にひかえた前夜祭の前景気をあおる、花火とエレキ・バンドの響きが、地下の迷路に反響し合って、複雑に息づいている。その残響にまぎれて、人間の呟きやしのび笑いが聞えたような気がしたが、ただの臆病風だろうか。
とりあえず、二冊目のノートに続く形で始めてみよう。
昨夜、約束どおり遅めの食事を迎えに来た馬は、最初から苛立《いらだ》ちを隠そうともしなかった。白いライトバンに乗り込んだとたんに、空がはじけて雨が降りだした。フロントガラスに厚く水のフィルムが張り、ワイパーもまるで役に立たない。馬は沈黙したままハンドルにしがみつき、男も黙って両側のこめかみを指先で揉《も》みつづけた。朝から書きつづけだったので、神経が古電線のように錆《さ》びついていた。馬の迎えは約束より二時間近くも遅かったし、そろそろ精神賦活剤が切れかけていた。
「どこに行くんです。」
「私の部屋にしたよ、くつろいでもらおうと思って。」
くすぶっていた灰の中に、風が吹きこみ、火がついた。まるで私生活なんか無いようにふるまっていた馬が、急に自宅に招こうと言いだしたのだ。好奇心と同時に、警戒心が、男の気持をひきしめる。大あくびをすると、涙があふれた。
ひどい雨だったので、何処《どこ》をどう走ったのか、正確にはおぼえていない。長い坂を下って、また登ったが、けっきよく迂回《うかい》してまた病院と同じ高台の別の場所に出ただけのような気もする。だとしたら、多分この高台の西の外れだ。木造の病棟群にそった道は、軟骨外科の建物の前で終り、当然車も行き止まりになる。その向うには、取り壊された病院の旧館の土台が、身の丈ほどもある雑草に埋まって、古代の遺跡のように枝を入り組ませたり、ぽっかり地底に通ずる穴をのぞかせたりしている。その地下の一室がこの隠れ家だ。さらに横切って進むと、馬が走行訓練に使っている例の旧陸軍射撃場跡を囲んで、野球場を三つ合わせたほどの乾ききった不整地が広がっている。いつだったか、馬に届ける弁当を持ってその空地を横切っていたとき、はるか射撃場の屋根越しに、朝日を受けてきらめく切子細工のような構造物を認めて首を傾《かし》げたことがあった。あの海にせり出した崖《がけ》っぷちの林の中なら、たしかに新しい住宅地にふさわしいかもしれない。
水銀燈の光を吸って、緑色のゼリーのようにふくらんだ芝生の中に、ガラスと象牙色のタイルで組上げた抽象画風のアパートがあった。各階ごとに深いベランダを取ってあるので、上に行くにつれて狭くなり、小型ピラミッドの模型のようだ。屋外駐車場にライトバンを乗り捨て、玄関に駈込むと、一センチはありそうなガラスの自動ドアが音もなく開き、一面に淡い青灰色の絨毯《じゅうたん》が、猫の仲間入りを強制するような厚さで敷きつめられていた。
馬の住居はその最上階にあった。
入ってすぐのところが、広い客間だった。正面いっぱいの一枚ガラスに、掻《か》き傷のような雨脚で飾られた闇が広がり、その両端に奇妙な照明器具が据えられている。照明器具というよりは、切り口から光を照射するように設計された、等身大のアクリル樹脂の彫刻だ。左右の壁面の入口に近い側に、それぞれ隣室に通ずるドアがあり、一方はガラス戸つきの棚で埋められ、他方は大型のステレオ装置と、全紙大のカラー写真で占められていた。被写体はやはり馬だが、後脚で立上った牡馬《おすうま》の勃起したペニスを正面から撮ったもので、装飾にしては細部の描写が克明すぎる。
窓ぎわによせて、薄紫の大理石を磨《と》ぎ出した丸テーブルが置かれていた。その上に、魚の模様を白抜きにした紺の布巾を掛けた、朱塗りの仕出し桶《おけ》が用意してある。椅子も、壁紙も、床の敷物も、すべて緑青色の小さな花柄をあしらった象牙色で統一され、と、字で書いてみるといかにも優雅な取合わせなのだが、実際にはむしろ荒廃した印象を受けるのだ。窓枠の塗装はささくれ立って変色し、棚の花瓶は肩に埃《ほこり》のショールをまとい、椅子の背の鉤裂《かぎざき》からは詰物がはみ出している。酔っぱらい運転のような結婚生活が通過していったあとに取残された、ものぐさな独身生活の姿なのだろう。
馬が無愛想にビールをすすめながら、紺の布巾をめくった。本物の笹の葉を飾りに使った値の張った感じのにぎり鮨《ずし》が、放射状に並んでいた。
「さてと、君の方の調査、どの辺まではかどったのかな。」
男は応じなかった。ノートを手渡す前に、まず最初のカセットの頭に入っていた、あの足音らしい録音について、納得のいく説明をしてほしいものである。編集に際してなにか特別な意味を認めたのでなければ、あんな断片をわざわざ収録したりするわけがないだろう。
馬はなだめるように小刻みにうなずいた。
「時間はたっぷりあるよ。それはそうと、昨日あずかった一冊目のノート、なんとか奥さんの手元に届いたらしいね。」
「居所が分ったんですか。」
「そこまではいかない。連絡員に一任なんだ。」
「連絡方法が分れば、居所だって突き止められるはずじゃないか。ぼくが自分で当ってみるから、その連絡相手に引き合わせて下さい。」
「あせっちゃいけない。」鮨のわさびが効きすぎたのだろう、鼻から吸った息を大きく口から吐き、「無理押しはまずい。相手を警戒させたりしちゃ、元も子も無しじゃないか。」
「そのつもりになれば、方法くらいいくらだってあるはずでしょう。」
馬は返事のかわりに急ハンドルを切って、問題のカセットの冒頭場面について説明しはじめた。あれはそう、秘書にテープの作成を依頼した日の朝のことだから、たしか一昨日のことじゃないかな。間近にせまった病院の創立記念祭のために臨時評議員会が開かれ、その席上でちょっとした耳寄りな情報を聞き込んだのだ。君の奥さんが救急車で搬び込まれたという、ちょうどその同時刻に、外来の薬局で盗難事件があったらしい。盗難と言っても、中庭に面した窓ガラスが一枚割られ、解熱剤と睡眠誘導剤が少々、それに八十万円見当の避妊用ピルがやられただけで、普段なら話題にもならない程度のわずかな被害だった。べつに盗難事件が日常茶飯事になっているというわけではない。むしろ病院内での犯罪発生率は、きわめて低いというのが定説だ。もっとも、犯罪の規定の仕方によって、率はいくらでも上下する。もし一般概念を適用すれば、病院こそ犯罪の巣だという説だって成立つかもしれない。しかしいったん患者になりきると、まず所有概念に大きく影響をこうむるものだ。所有概念が変質すれば、おのずと犯罪についての見方も変ってくる。被害が成立ちにくい所では、当然加害も成立ちにくいはずだろう。
ただこの日、ピルの盗難がとくに取上げられたのは、それが事後に効く新製品だったため、かねて呼び物になっていた前夜祭の出し物と関連づけて話題になったためだ。その出し物というのは、女性のオルガスムの回数と持続時間を競うコンクールで、前評判も高く、かなりの一般患者が参加のためにこっそりピルで武装し、練習にはげんでいるらしいという噂《うわさ》だった。
その報告を聞いて、とっさに勘が働いたというわけさ。奥さんの密室消滅事件と、薬局荒し、この二つの事件の場所と時間の一致は、決して偶然ではあり得ない。奥さんがそのピル泥棒と接触したと考えると、万事まことに都合よく説明がついてくれる。正直言って、それまでは、奥さんの失踪《しっそう》を事件扱いすること自体に抵抗があったからな。誰かあらかじめ打合わせておいた内部の人間によって手引されたとしか考えられないじゃないか。君が嘘を言っているのか、さもなけりゃ、まんまと奥さんに騙《だま》されたのか……いずれにしても、本気で相談に乗る気にはなれなかったね。
「それじゃ、なぜ、部屋をあてがってくれたり、警備室の盗聴テープを自由にさせてくれたりしたんです。」
「べつに私が引き留めたわけじゃない。」
「じゃ、誰です。」
「私の秘書さ。」
「なぜ。」
「負けん気だから、彼女も。いったん手に入れようと思ったものは、手に入れるまでは諦《あきら》めないからね。」
「おかしいんじゃないですか、彼女……」
「君はよほど彼女の好みのタイプだったらしいね。」
「一度は血が出るほど向う脛《ずね》を蹴られたし、一度は針で手のひらを突き刺されたし、もう一度なんか、肉を食いちぎられそうなほど腕に咬みつかれましたからね。」
「試験管ベビーなんだ。」
「だから、なんです。」
「天涯孤独を地で行ったような娘《こ》さ。」
「合成人間ってわけじゃないんでしょう。」
「母親は死んでいた。死んだ直後に摘出した成熟卵から育ったんだ。父親は精液銀行から貸し出した一CCの混合精液だ。彼女には肉親の感情というものがまったく欠けている。人間どうしの関係感覚[#「関係感覚」に傍点]とでも言うべきものが、完全に欠落してしまっているんだね。」
「薄気味悪いな。」
「たとえば孤独感というのは、一種の帰巣本能らしい。そして結局は皮膚感覚が、すべての感情や情緒の巣らしいよ。彼女にはその帰って行くべき巣さえないんだからな。」
「ぼくの責任じゃないよ。」
「彼女の責任でもない。いずれ彼女には理解出来ないだろう。なぜ君が奥さん探しにやっきになっているのに、彼女だけが指をくわえて待ってなけりゃいけないのか。」
「勝手すぎるよ、別問題じゃないか。」
「でも彼女には分らないだろうな。」
馬はビールの残りを飲みほし、新しい瓶《びん》の栓を抜いて話をつづけた。
五年ほど前、馬の指導のもとに、ある実験が行われた。馬の、と言うより、別居中の彼の妻(言語心理研究所勤務)の計画と言った方がいいかもしれない。「性の表象による興奮ならびに抑制」と題された実験で、簡単に言えば記号化された性行動(ポルノ・テープ等)が観察者に影響を及ぼすメカニズムの数量化がねらいだったという。被験者には褒賞金《ほうしょうきん》目当ての一般応募者の他に、各科から選抜推薦された感覚失調を伴う奇病の患者がそろえられた。本題から外れてしまうので詳しくは触れないが、けっきょく音声による刺戟が、他のいかなる表象も及ばない、抜きん出た喚起力をそなえていることが判明した。人間の場合、嗅覚《きゅうかく》は退化しすぎてしまったし、視覚は進化しすぎてしまったので、その中間の聴覚がもっとも有効に作用するということらしいのだ。
彼女も選抜被験者の一人だった。そして一人だけ、まるで異例の反応を示し、実験を混乱させてしまったのである。当然被験者によって反応はまちまちだったが、まちまちなりに一定の法則が認められ、個体差として許容できる範囲を出るものではなかった。ところが彼女だけが、まったくの無反応だったのだ。無反応どころか、生理的な拒絶反応を示しさえした。無理に聞かせようとすると、首のまわりに発疹《はっしん》が出来たり、視力障害を起したりした。
じつを言うと、この実験のそもそもの狙いが、頑固なインポテンツに悩まされていた馬の治療にあったのだ。べつに肉体的欠陥がないとすれば、なんらかの外的刺戟によって引き起された条件制止だろうと言うので、言語心理研究所がその治療に当ることになった。馬は医者であると同時に、別居中の妻の患者でもあるという、ややこしい立場におかれることになったわけだ。馬の病名が〈人間関係神経症〉であることはすでに判明していた。また人間関係の匿名化が有効な療法になるだろうという見通しも立っていた。そこで匿名の度合の強い隠し録《ど》りのテープなら、処方次第では、かなりの効果をあげるはずだと踏んだわけである。いちおう結果は予測どおりだった。だが、一例にしても、こんな例外にまぎれ込まれたのでは、せっかくの実験の成果がふいになってしまう。
ためしに彼女の快感中枢を直接刺戟してみることにした。反応に異常はなかった。短時間だが子宮の痙攣《けいれん》をともなう強いオルガスムさえ見られた。馬とおなじく、べつに器質的な疾患はないらしい。やはり〈人間関係神経症〉の一種なのだろうか。
この馬の症状との類似がさらに関心をひき、実験はしだいに彼女一人に集中して行われるようになった。〈実験過敏症〉との合併症の疑いもあった。純粋試験管育ちだというので、とにかく珍しがられ、各研究所から引く手あまただったのだ。緊張を和らげるために、実験場所が高級住宅地の一室に移され、テーブルの上の銀器には、ひそかに向神経剤を仕込んだチョコレートが、いつも山盛りになっていた。なんとか突破口を見付け出そうと、多様な性行動のパターンを採集するため、盗聴に詳しい電気技師も起用された。たまたま軟骨外科特別病棟の八号室に長期入院していた患者の父親である。だがそうした苦心を嘲笑《あざわら》うように、いつまで経っても彼女に取付けた計器の針は、どれ一つぴくりともしないままだった。
ある夜のこと、実験が長引き、技師は彼女と二人きりで残された。部屋にはステレオ装置から湧《わ》き出すオルガスムの叫びがいっぱいに渦巻いていた。技師はつい倒錯した興奮におそわれ、彼女を強姦してしまったのだ。今夜に負けない蒸し暑い季節で、薄い下着しかつけていなかったから、強姦は容易に、わずか数分間で完了したらしい。彼女は血にまみれながらも、抵抗らしい抵抗は示さず、声もたてずに技師の動作をじっと観察していたという。しかしあれ以来、あらゆる性的刺戟に対してますます冷笑的になったのだから、肉体だけでなく、精神的にもけっこう深手を負ったとみなさざるを得ないだろう。
事件は評議員会に持込まれた。審査の結果、検討すべき症例は存在するが、べつに犯罪の形跡は認められないという点で意見の一致を見た。なにしろ彼女自身が、すすんで無抵抗に終始したことを認めたばかりでなく、技師と組んでさらに実験を継続したいと申し出たのである。あれでは彼女があの実験に、けっこう不感症の治療の期待を掛けていたと勘繰られても仕方あるまい。評議員の中には、強姦願望を疑った者さえいたほどだ。
本人の意見を尊重して、評議員会は彼女の身柄を言語心理研究所があずかり、長期観察をつづけるよう勧告した。技師としても異存などあるはずがなかった。罪をまぬがれたせいだけでなく、すでに彼女に対して激しい恋愛感情を抱きはじめていたのである。
だが馬は内心、腑《ふ》に落ちない思いだったらしい。評議員の一人として賛成の一票を投じはしたものの、本心からの一票ではなかった。試験管を母親にして育ったあの向う見ずな娘にしては、不自然すぎる協調ぶりである。なにか裏の理由があるに違いない。強姦相手と鼻を突き合わせている苦痛に耐えてまで、手に入れたい物があるとしたらなんだろう。相手が身につけているもの、たとえば、技術。小娘の鼻にしては利きすぎのような気もしたが、性行為の録音テープなど、ただの口実で、狙いは盗聴という作業そのものにあったのかもしれないのだ。
勘は当っていた。気付いた時には、盗聴の仕事が、実験をそっちのけに独り歩きしはじめていた。そのまま成長し、自己増殖をつづけ、いつか事業として成り立つまでに組織化されていた。彼女は馬の秘書になり、電気技師は警備主任におさまった。考えてみると、こうした一連の出来事は、すべて彼女の手によってひそかに仕組まれていた事のようにも思われるのだ。
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(八号室の娘が寝返りを打った。通風筒から差し込む光がまぶしいのかもしれない。車椅子の固定ピンを外して、向きを変えてやった。薄眼を開けて微笑《ほほえ》んだ。針の先にとまったような平和。唇に指を当ててやると、音をたてて吸いついてきた。床に滲《し》み込んだ昨夜の雨が蒸発しはじめたのか、空気が重く、息苦しい。今日もまた暑い一日になりそうだ。)
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ところで、すでに何度か言外にほのめかしておいた事だが、副院長と馬とはむろん同一人物である。馬は副院長の「良き医者は良き患者[#「良き医者は良き患者」は太字]」という哲学の産物で、病院的規準では別人格になるらしいが、ぼくの常識では歯を磨く前のぼくと、磨いた後のぼくほどの違いもありはしない。要するに副院長は自分のペニスが言うことを聞いてくれないので、まともな他人の下半身を借り、その借り物のペニスが受けた刺戟を電気的に自分の性中枢に伝達して、代理体験をしようというのが狙いだったのだ。ぼくが病院に潜入した最初の夜、軟骨外科八号室の天井の切穴から覗《のぞ》いた薄気味の悪い実験風景(詳細は二冊目のノートを参照のこと)も、けっきょくそのための予備実験だったわけである。
あの代理体験は、予想以上の成功をおさめたらしい。ぼくが覗いた時は、ちょうど当直医が看護婦のマッサージによって失神したまま射精し、同時に副院長が最初のオルガスムに達した直後のことで、ほんの短時間だが副院長のペニスも八割がた勃起していたという。しかし、いくら薄気味悪くても、実験はしょせん実験にすぎない。そこまでだったら、べつにどうという事もなかったように思うのだ。妻の失踪という切実な問題を抱え込んだぼくには、とてもそんな他人の悩みにまで気をまわしている余裕はなかった。
ところがその日のうちに、馬人間という副院長の構想を聞き知ってしまったのだ。見通しが悪いというのは、見えないことではなく、目ざわりな物が見えすぎることなのだ。ただでさえ覗きにくかった望遠鏡のレンズに、何色ものペンキを塗りたくられたようなものだった。
ちょうど二冊目のノートに続く場面……つまり女秘書が当直医の部屋の鍵をあずかり、半ば強制的にぼくを〈ホ四〉号棟に案内してくれた時のことである。彼女は当然のように、一緒に部屋に上り込み、ベッドのまわりのヌード写真を顎《あご》でさしながら、不機嫌そうにいきなり切り出した。
「この中で、どの女だったら、手淫させてみたいと思う。」
返事にとまどっていると、彼女はさらにたたみかけて、
「好みを聞いているんだよ。」
「急にそんなこと言われても……何か誤解しているんじゃないか、ぼくはただ……」
「レントゲン検査の結果、聞いた。」とつぜん話題を変え、「頭蓋《ずがい》骨折なんだってさ、後頭部に……明日になっても意識が恢復《かいふく》してくれないと、駄目らしいね。」
「まさか、あんな事になるなんて……」
「いいのよ、どうせ独身なんだし。身内といっても白衣の縫製工場に勤めているメニエール氏病の叔母さんが一人いるきりなんだって。それで、明日、やはりあんな状態が続くようなら、ちょん切ってしまうらしいよ。」
「何を……」
「この辺で、」と、水平に構えた掌で臍《へそ》のあたりを横に切る仕種《しぐさ》をしてみせ、「上と下に切り離して、下だけを副院長先生の代理ペニスにする計画なんだって。」
「まさか……」
「先生はご機嫌。」
「犯罪だろ、そんなこと……」
「手淫してみせてくれない。」
「なんだって。」
「言語心理研究所で出している〈相性テスト〉に書いてあるんだけど、相手が手淫する場面を想像しても嫌悪感を感じない場合は、心身ともに理想的な結合が期待されるんだってさ。」
「冗談じゃない。」
「私、まだ一度もそんな相手に出会ったことがないんだ。あきらめかけていたんだけど、君ならちょっと見てもいいような気がするんだな。」
「こっちが断るよ。」
「いいだろ、せっかく頼んでいるのに。」
「でも、下半身だけを、どんなふうにして使うんだろう。」
「腰のうしろにつないで、馬みたいな形にするんだって。」
「馬……」
「手淫、してみせてよ。」
「いやだね。」
「なぜ。」
ぼくにはまだ彼女の嗜虐《しぎゃく》的な苛立ちの意味がよく飲込めていなかった。嫌がらせか、悪ふざけとしか受取れなかったのだ。もうしばらく再生室でテープを聞く作業を続けたいという口実で、かろうじてその場を切り抜けた。代理ペニスにせよ、相性テストにせよ、ほとんど信じてはいなかったが、とにかく鼻をつまんだまま、早くこの異臭の中を駈け抜けてしまいたかった。
だが、すでに何度も書いたように、副院長は現に[#「現に」に傍点]馬人間なのである。
女秘書の予告どおり、当直医が切断されて馬の下半身になったのだろうか。
じつはその夜のうちに、当直医のペニスは看護婦たちのいい遊び道具にされ、実際に性交をこころみた者もかなりいたらしいが、むしろ電気掃除機のホースに捩《ね》じ込まれたり、コピー用紙を何枚まで破れるか硬度テストをされたりで、さんざん玩具《おもちゃ》にされたあげく、朝までには血まみれの肉塊に変形し、まったく使いものにならなくなってしまったらしいのだ。誰か煽動者《せんどうしゃ》がいたという説もあるが、はっきりはしない。その後、他の科に引取られたとも聞くが、その消息もよくは分らない。
にもかかわらず、副院長は現に[#「現に」に傍点]馬なのだ。すると、下半身を盗まれた、誰か別の死体がいることになる。
そう、じつは一冊目のノートを書きはじめた時点で、警備主任はすでに死亡していたのである。当然だろう。下半身だけになって生きていられるわけがない。上半身はその日のうちに火葬に付され、病院墓地に鄭重《ていちょう》に埋められた。仏式によって戒名も授けられたし、功労職員として正式な死亡告示も出された。誰の目にもいまや立派な故人なのである。
あれは二日目の午後のことだ。看護婦たちの悪ふざけで、肝心の部分が再生不能なまでに傷《いた》めつけられてしまった当直医を前にして、声もなく呆然と立ちすくんでいた副院長の鼻先に、かねて巨根が自慢の(認めざるを得まい、直径七・二センチ、長さ十九センチはあるそうだ)主任の死体がころがり込んで来てくれたのだから、渡りに船だった。持病と言っても癲癇《てんかん》の発作だけだったし、とやかく詮索《せんさく》するのは抜きにして、新鮮なうちにまず死体の上下を切断してしまった。下半身の切り口に慎重な処理をほどこされ、いつでも馬が補助下半身として使えるように、いまも生命維持装置の中で大事に保管されている。
だが、あれを単に死亡ですませてもいいのだろうか。病院用語ではなんと言うのか知らないが、ぼくの用語では明らかに殺人だ。ここにだって警察権は及んでいるはずだろう。求められれば、何時だって、目撃者として証言台に立つ用意がある。
そのときぼくは、新しいリール(二十三本目)と交換してもらうために、ちょうど主任室を訪ねたところだった。主任は帳簿の上にかがみ込み、一週間分の売上成績を整理中だった。突然ノックもなしに、例のトレパン姿に坊主頭の若者たちが五人、なだれ込んで来た。四人が主任の手足を抑え込み、一人が椅子のクッションを顔に押し当てた。その間、誰一人口をきく者はなく、なんとも手際のいい殺しっぷりだ。枕を使って窒息死させるのが、最近の暗殺プロに好んで使われる流行の手口だという記事を、つい半月ほど前の新聞で読んだばかりである。次はぼくの番だと思うと、日ごろ自慢の筋肉も、メザシのようにからからに干上ってしまって動かない。しかし連中はぼくを黙殺した。中の一人などは、共犯者めいた目くばせさえ送ってよこしたほどだ。かえって気味が悪かった。威勢よく主任の死体をかつぎ上げると、廊下に待たせてあった運搬用のベッドに積み込み、足並をそろえて駈去った。
折返し女秘書から電話がかかってきた。
「上手《うま》くいった。」
「やはり君だったんだな……」
「こうなると、誰か後任を考えなけりゃならないわね。君、推薦してあげようか。」
受話器の向うから、なだれを打って闇祭の底に押し寄せていくような、男たちの喊声《かんせい》が聞えてきた。地下の警備員詰所らしい。死体運搬の連中が到着したのだろうか。彼女が腹立たしげに何か叫び返し、電話が切れた。本気で腹を立てているというより、すでに了解済みの拒絶といった、馴れ合いの印象が強かった。
いったい彼女は何を餌《えさ》にして連中をそそのかしたのだろう。個人的には強姦の報復という動機があった。それにしても、いささか時期外れだし、今になって急に連中の同情を集めたとは考えにくい。それとも日頃主任の言動に、よほど若者たちの恨みを買うような事でもあったのだろうか。トレパンの制服、そろいのイガグリ頭、空手の訓練、統制のとれた挙動……もし意に反して強制されたものだったら、叛乱《はんらん》もありえない事ではない。だが、これまで耳にした限りでは、彼等の行動規律はすべてリーダー格の青年(甲状腺腫《こうじょうせんしゅ》をわずらっている、構内一の花屋の息子)の発案によるもので、他からの干渉は一切なかったらしい。ぼくも最初は主任のことを、打ち解けがたい、気の許せないところのある人物のように受取っていた。しかし今になってみると、それも技術者にありがちな非社交性のあらわれで、彼としては盗聴システムの保守管理と、カセットの販売組織の拡大以外には、ただもう女秘書の歓心を買うことしか念頭にない、むしろ不器用なくらい一途な性格の男だったように思う。わずか二日間の付き合いだったが、もっと知り合いになっていてもよかったような気がしてくる。
スプリング付きの主任の椅子が、音もなく静かに廻転《かいてん》しつづけていた。正直言って、恐ろしかった。後で副院長の差し金でなかったと知って、さらに恐ろしくなった。いま目の前で、乾いてはりついた二枚の唇の薄皮をひきつらせ、声にならない寝言を呟いているこの哀れな八号室の娘に、あの父親の残酷な運命をなんと説明してやったらいいだろう。とにかく馬になった副院長には、なんとしても会わせられないし、また会わせるべきでもない。
馬は、ぼくがノートを書く手を遅らせ、時間かせぎをしていると言ってなじった。当然じゃないか。こんな気違い沙汰を、やつらの機嫌を損じないように書いたり出来るわけがないだろう。馬のためのアリバイ作りをさせようたって、そうはいくものか。ぼくだってもう素手というわけではないのだ。
信じられないかもしれないが、ぼくは今、病院中の権力を手中におさめるほんの一歩手前のところまで来ているような気がする。殺人事件があった翌朝、早くから緊急評議員会がもたれ、ぼくは一方的に警備主任に任命されてしまったのだ。まだ正式に引受けたわけではないが、女秘書は勝手にぼくの白衣の黒線を三本に戻してしまうし、誰もがそう思い込んでいるようだから仕方がないだろう。手に負えないほど巨大化し、さらに休みなく情報を吸収しつづけている盗聴システムは、事実操作している者など誰もいないのに、存在しているというだけで畏怖《いふ》され、服従心を起させるようである。とくに愚者たちには、嗜虐的な安心感を与えるらしく、見えない盗聴マイクに向って延々と自虐的告白を続ける者から、FM発信機を体につけて私設放送局になり、排泄音《はいせつおん》を聞かせたり、嘲笑《ちょうしょう》をあびせられながら人前で手淫をしてみせる者まで、実にさまざまだ。ぼくが再生装置の前に坐った、三日足らずの間だけでも、男女を問わずそうした数百人もの常連たちと、たちまち顔なじみになってしまったほどである。
まだ本当には権力の運用法を飲込んだわけではない。しかし、その気になりさえすれば、すぐにも病院中を足元に這《は》いつくばらせることが出来そうだ。前の主任もはっきりとは意識していなかったらしいが、べつに特別なことをしなくても、権力は権力なのだ。誰もがぼくの顔色をうかがい、ぼくはただそっぽを向いて顔色を隠すようにしているだけでいい。あれ以来、評議員会でさえ、議題の予定表をあらかじめ通告して来るようになった。すでに密告者や弁明の投書は後をたたない。
今日も昼の休みに食堂の入口で、コレクターの一人から手刷りのちらし[#「ちらし」に傍点]を手渡された。コレクターというのは、高性能のFM受信機を肩に、こぼれ電波を漁《あさ》り歩いている覗き屋のことだ。小型FM発信機を、他人の軒下や、ベッドや、化粧箱の底や、サンダルの踵《かかと》や、傘の柄などに仕掛けるのは、ほぼ習慣化していたから、まず構内中に行き渡っていると見ていいのだが、それでも位置や方角によっては、どうしても警備室の集中管理体制の網から洩れてしまう部分が出てくる。開口部の少い鉄筋コンクリートの地下室だとか、亜鉛鉄板で囲った特殊倉庫の陰などである。そういう場所がコレクターたちのよき猟場なのだ。死んだ警備主任だって、言語心理研究所から技師として協力を求められるまでは、単なるコレクターの一人にすぎなかったし、実験が始まってからもしばらくは、四、五人の腕のいいコレクターと契約を結んで、テープの提供を受けていたのである。誰だってこっそり盗み聞きくらいはしているのに、なぜ彼等だけが密告屋あつかいをうけ、毛嫌いされるのだろう。けっきょくはそれが権力の反面なのかもしれない。
ちらし[#「ちらし」に傍点]の内容は大したものではなかった。上半分に線描の絵が書いてあった。黒い球体にいくつも穴が開いていて、その穴の一つ一つに人間が首を突っ込んでいるのだ。球体には遠心力が働いているらしく、誰もがごく自然な姿勢で下半身を放射状に外に向けて浮んでいる。走っている者、タイプを打っている者、便器にかがんでいる者、レース編みに熱中している者、隣どうしで交接し合っている者……全体として旧型の地雷のようにも見えるし、大頭を共有している集合人間のようでもある。下半分にスローガンめいた文句が連ねられていた。
〈誰だって本当は一人なのだ。君は健康が恐《こわ》いのか。退院という言葉を声をひそめずに言えないのか。昔は花束で迎えられたあの言葉。退院。さあ、思い切って叫んでごらん。早く治って退院しよう。退院促進連盟〉
ところで、邪推かもしれないが、殺人を請負わせた代償として、彼女が警備の若者たちに何を支払ったのかおぼろげながら想像できるような気もする。
あれっきり彼女は顔を見せず、次にやっと姿を現わしたのは、翌朝、それも昼近くなってからだった。略式の辞令と、預金通帳や印鑑の入った封筒を片手に、瞼《まぶた》と鼻の頭だけは勝ち誇ったように白っぽかったが、肌はにごっていたし、気のせいか腰の位置がいつもより低く落ち、歩き方も引きずるような小股だった。つい想像をめぐらさずにはいられなかった。馴れない体で連続五人もの若者を相手にしたら、歩き方にだって多少の影響は出るはずだろう。それに、もし想像どおりだったとしたら、彼女の支払い能力には限りがないことになる。ずいぶん危険な爆発物に周りをうろつかれているわけだ。
暗くなるのを待って、ここを出るとき、ノートは残して行った方がいいかもしれない。壁も天井も割目だらけだし、隠し場所にはこと欠かない。隠し場所を明記した地図を、手紙に同封し、誰か信頼できる人物宛てに投函して……。
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(娘が目を覚ました。車椅子の背を起こしてやる。体型の変化がかなり目立つが、むしろ少女っぽく丸味がかって、よく似合うくらいだ。尿瓶を当てがってやると、首筋に抱きついてきた。髪が茄《ゆ》でたての莢《さや》エンドウのように臭った。バナナを一本ずつと、魔法瓶の白湯《さゆ》を飲んだ。ぼくの時計では二時四十六分。しかし今のサイレンが三時の合図かもしれない。しばらく休んでいたバンドが、再び演奏を開始した。屈折した地下道に乱反射して、曲目はほとんど聞き分けられない。)
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さて、どこまで進んだんだっけ。そう、馬が最後の鮨を頬張ったところだった。
「そうさ、今度は君が目をつけられたのさ。彼女、言ってたよ、手淫してる場面を空想して、気持悪くならない始めての男性なんだそうだ。」
「関係ありませんよ、ぼくには……」
馬は鮨の噛《か》み残しを、残ったビールで飲み下し、濡れ雑巾を振ったような派手な音をたてて下腹を叩いた。
「腹筋の刺戟《しげき》は、頭をしゃんとさせるんだ。」
それから、いかにも値が張った感じの大型ステレオ装置のデッキに、あらかじめ準備してあったらしい棚の上のカセットを嵌《は》め込んだ。
「よして下さい、そんな気持にはなれないよ。」
馬は一瞬、とほうに暮れたような表情になり、口をおさえて長いげっぷをした。
「早合点されちゃ困るな、例の一巻目の頭の部分の写しだよ。問題のピル泥棒と、奥さんの接触の情況を……もちろん、そういう事実があったと仮定しての話だが……もう一度再現しながら、音に即して検討しなおしてみようじゃないか。」
スイッチが入れられた。何か連続する背景音……近付いてくる、ゴム底のサンダルらしい足音……足音が急に明瞭になり、背景音が消える……
「ここの音質の変化だけど、君はどう思う、レベル自動調整装置が作動している時に、ほら、マイクに近い方の音がやむと、遠くの音を拾いやすくなる現象があるじゃないか。」
「そんな感じですね。」
「この音を拾っているのは、薬局の、それも問題のピルを入れてあった棚の裏板に仕掛けてあったマイクなんだ。」
「何をやっていたんだろう。」
「薬の移し替えじゃないかな。とにかく敏感すぎるマイクの、至近距離だからね、どうしたってノイズの方が立つさ。」
「足音に気付いて、動きやんだってわけか。」
「そう、だから足音だけが近付いてきて……」
足音だけが近付いてきて……立停り……ふいに鋭い金属的なきしみ……
「ドアの音かな。」
「薬局の側からは、鍵なしで開けられるからね。」
乾いた短い衝撃音……つづいて重量感のある鈍い物音……
「犯人に襲撃されたのだろうか。」
馬はテープ・デッキを停めて、顎をこすった。半白の不精ひげの切口が光って見えた。
「気の毒だけど、その可能性がいちばん濃いようだね。」
「でも叫び声くらいは上げるでしょう。」
「そう、私もそこにこだわった。やはり、おたがい顔見知りだったかもしれないという線を、どうしても捨て切れないわけさ。」
「それじゃ、すぐ後で聞えた人間が倒れたような音、あれはどう説明するんです。」
「重曹か澱粉《でんぷん》の袋を倒したって、似たような音がするだろう。」
「もっと違った説明だって、つかないわけじゃない。妻はあの時、誰か十円玉を貸してくれる者はいないかと思って、探しまわっていたんですよ。薬局の人影に気付いた時には、まずほっとして、だから、犯人がなに食わぬ顔でドアを開けて、中に招き入れたとしたら……」
「そうね、まるっきり警戒心なんかなしに、のこのこ入って行って、不意討ちをくらう……」
馬は力いっぱい上げた手を振りおろし、テーブルの角に指を打ちつけて、顔をしかめた。コップが床に落ちたが割れなかった。さすがに上等な絨毯らしい。
「そのピル泥棒のことで、何か心当りはないんですか。」
「私に聞くことはないだろう、いまや君が警備主任なんだ。」
「思わせぶりはよして下さい、先生はまだ何か知っているはずですよ。」
「そりゃ臆測くらいはあるさ。でも臆測と事実とは違うからね。はっきりしている事実と言えば、いま一緒に聞いたテープくらいのものだよ。」
「でも、前の主任だったら、もっと何か情報をつかんでいたと思うな。」
「なぜ。」
「つかんでいたから、口封じに、殺されたとは思いませんか。」
「なるほど。彼女としちゃ、一石二鳥だ。考えられない事じゃないね。」
「前夜祭の実行委員会みたいなものが、何処かにあるわけでしょう。」
「そっちの方の情報には、とんと疎《うと》いんだ。」
「評議員会で取上げられたのに……」
「風の便りってやつさ。そりゃ記念祭当日の挨拶は、恒例どおり私がやらせてもらうよ。そのための馬だからね。しかし、前夜祭の方は、一体どういう仕掛になっているのか……評議員会としては、原則として干渉しない方針なんだ。」
「でも、いずれ公認の行事なんでしょう。当然誰か全体を掌握している人間がいるはずですよ。」
「だから、いるとしたら、当然君だろう。」
「院長さんに会わせて下さい。」
「無理言わないでくれよ。」雨脚が激しくなった。馬は暗い窓に向って背筋をのばし、両手の指を後ろで組合わせた。雨が焔《ほのお》のひだのようにガラスに沿ってゆらぎ、その中で馬の表情も負けずにゆらぎはじめる。「病院全体のことなんか、誰に分るものか。そりゃ出来ることなら知りたいさ。知りたくて、知りたくて、気が変になりそうなことさえある。でも、口にするだけでも度胸がいるからな。まして、院長だなんて……もう何年も、そんな質問はされたこともないし、したこともない。ときおり夜更け、一人になって、つくづく考えたりすることがあるんだ。いまごろ病院の何処かで、院長が、居場所や専門や名前はおろか、居るかいないかさえ知らされていない私のことを、不安な気持で空想しているんじゃないかってね……」
「盗聴装置に、何か前夜祭関係のニュースが入って来ないか、もっとよく注意しているようにしてみます。」
「それがいい。」表情を和らげて振向いた。「立場上、君はみだりに聞き込みをしたりしちゃまずいんだ。警備主任なんだからね。一切が君には筒抜けになっているはずだろ。そうでなくても、そんなふりをして、そう思い込ませておかなけりゃ。」
「限度がありますよ。現に女房を保護というか、捕獲というか、ともかく何処かに引留めている連中には、いずれ見抜かれているわけでしょう。」
「黙認してもらっているつもりかもしれない。」
「まさか。」
馬は棚の隅からウイスキーの瓶と、小さなグラスを二つ持って引返してきた。なみなみと注ぎ分け、一つを乾杯するように捧《ささ》げてから、直径二センチの丸薬を飲み下す感じで口にふくんだ。
「君もやってくれよ。水はビールのコップでいいだろう。さてと、そろそろノートを拝見といきますか。」
これ以上、いくら口先だけの駆け引きをしてみても、無駄に思えた。
たしかに馬は約束の情報を提供してくれはした。おかげで待合室からの妻の消失が、べつに謎《なぞ》めいたものでなかった事だけははっきりした。しかし手懸りをつかんだという興奮は、意外に稀薄《きはく》だった。むしろ不安が、穴の開いたボートの浸水のように、ゆっくり、しかし確実にせり上ってくる。ピル泥棒との接触は、どう考えてみても偶然で、呼びもしない救急車がなぜやって来たのかという根本の問いには、すこしも答えてくれていない。しかも妻の行方は、今やその小さな偶然の割目から、予想もしていなかった洞窟《どうくつ》の闇の底へと落ちて行ってしまったのだ。
「二た晩もかけて、やっとここまでか……」ノートの最後の部分を拾い読みしながら、馬が皮肉めかして言った。「まだ君の部屋までも辿《たど》り着いてもいないぞ。この先、よほど書きにくい事でもあるのかな。」
ぼくも負けずに言い返してやる。
「この先、よほど知りたい事でもあるのかな。」
馬はさりげなく笑ってウイスキーを注ぎ足した。
「もちろん、今夜、この後も仕事を続けてくれるつもりなんだろう。」
「どうしようか。」
「たのむよ。明日になると、前夜祭で、何かとせわしくなってしまうから。」
「嘘なんでしょう。」
「何が……」
「ノートを、ぼくの女房に届けるなんていう話……」
「なぜ。」
「いい加減すぎるよ、何も彼も……」
「君が最初っからもっと協力的だったら問題なんかなかったんだ。」
いきなり声の調子が引きつった。チューインガムを一箱いっぺんに噛んだみたいに、顎の動きがねばり、鼻の頭が白く乾いて見えた。そういう興奮には感染力があるらしく、ぼくも胸から腕にかけて、電気の粉を振りかけられたような感じがした。
「冗談じゃない、協力しすぎて、後悔してるくらいだよ。」
「たのむよ、書くのが面倒なら、口で喋《しゃべ》るだけでいい。」
「何を……」
「分っているんだろう。私が何を知りたがっているかくらい。」
「ぼくのペニスの直径ですか。」
いきなり馬がウイスキーの瓶の首をつかんで、テーブルの上に振り下した。指を打った痛さにこりて、今度は瓶にしたのだろう。なぜか瓶は割れずに、大理石のテーブルにU字型のひびが入った。押しつけてやると、元どおりに嵌まり込んだ。
「最近じゃ、ガソリンスタンドでも、けっこう強力な瀬戸物用の接着剤を売っているみたいですよ。」
「知らないとは言わせない。」馬は肩先で浅い息をしながら、奥歯を強く咬《か》み合わせた。「八号室の患者のことさ。君の前任者の下半身が、無事機能を恢復して、私との神経的接合に成功したあの日のことだ。全面的に協力してくれた人工臓器科の連中や、神経工学科の連中との打ち合わせや会食が長びいて、八号室の回診にまわったのはたしか夜の九時過ぎだったと思う。ベッドは藻抜《もぬ》けの殻だった。私が馬として生れ変ったその日にだよ。あの娘《こ》だって待っていたはずなんだ。誰かが連れ出したに決まっている。」
「ぼくがその犯人だって言うんですか。」
「もちろん一番の容疑者は、君の前任者さ。あの娘《こ》の実の親だったし、患者らしくもなく、私たちの関係を心よく思っていなかった。でも、下半身だけになってしまった人間を、疑おうにも疑いようがないじゃないか。しかもアリバイがある。あの日の大半の時間を、シリコンゴム被覆の白金線で、私の運動神経の末端に縛りつけられていたんだからな。」
「関係と言ったって、たった十三歳なんでしょう。あの娘《こ》……」
「そういう言い方が、そもそも怪しいんだ。」
「ぼくを疑っていたのなら、なぜあの時そうとはっきり言わなかったんです。馬鹿々々しい。せっせと自分の調査報告なんかで時間つぶしをさせられて……」
「こちらも半信半疑だったからさ。」
「そろそろ失礼させていただきますよ。」
「そうはいかない。君が犯人だってことは、もはや疑う余地のない事実なんだ。」
「何か証拠でもあるのかな。」
「あるさ、大ありだよ。」馬はノートをテーブルに叩きつけたが、多少手加減を加えたようにも見えた。「ほら、ちゃんとこの中にも書いてある。」
「まさか。」
「君はどちらのノートにも、書いている場所をわざわざ書き込んで見せた。つまらない小細工をしたものさ。今日私が迎えに行く電話を入れた時には、たまたま在室していたから、居残らざるを得なかった。しかし、昨日も、一昨日も、ほとんど部屋にはいなかったじゃないか。夜だって何処かで外泊だ。私も、秘書も、さんざん君の居場所を探しまわったんだから、言い逃れはきかないよ。」
「尾行は失敗でしたか。」
「君の足の早さには、恐れ入ったよ。」
「ジャンプ・シューズ、先生の分も発注しておきましょうか。」
「降参だ、たのむ、あの娘《こ》には慎重な看護が必要なんだ。おっつけもう三日になるだろ。」
「まだ、まる二日ですね。」
「〈溶骨症〉というのが、あの娘《こ》の病名だけどね、骨が流体化していく、やっかいな病気なんだ。すこしでも手当を怠ると、重力が作用した分だけ、軸方向に短縮がはじまる。妙に変形したりしたら、君の責任だぞ。たのむ、お願いだよ。これじゃ、せっかく馬にまでなったのに、骨折損もいいとこじゃないか。」
「泣き落しなんて、似合わないな。」
「今朝のテストで、補助ペニスがばっちり立ったんだ。見せてやりたかったよ、なにしろ直径七センチに、長さ十九センチだろ。立合いの看護婦までが息を飲んでいたっけ。」
「奥さんでも、秘書でも、看護婦でも、相手に不自由はないでしょう。」
「薄汚いこと言うのはよしてくれ。君には分っちゃいないんだ。私にとって、あの娘《こ》がどんなに掛け替えのない存在だったか……」
「でも要するに、手淫を覗かせてもらっただけなんでしょう。」
「そんな肉の棒や、肉の穴のことなんか言っているんじゃない。手淫だけなら、ストリップ小屋でだって拝めるよ。こいつは哲学の問題なんだ。『良き医者は良き患者[#「良き医者は良き患者」は太字]』さ、分るかい。」
「肉の棒だけが問題なのかと思っていましたよ。」
「本来医者というやつは、精神的視野|狭窄症《きょうさくしょう》を宿命づけられていてね。」蜘蛛《くも》が糸をつむぎ出すような早口で喋りはじめた。しかし喋っていることと、考えていることの間に、ずれがあるような気もした。「必要なのは怪我人の痛みに同情することではなく、止血し、消毒し、傷口を閉じること。怪我人を、怪我した人間としてでなく、人間の怪我[#「人間の怪我」に傍点]として扱うことなんだな。その関係に馴れた医者は、人間|面《づら》した患者を見ると、むしょうに腹が立つものさ。腹を立てられまいとして患者は、人間であることをやめようとする。医者はますます孤独になり、苛立ち、さらに人間から遠ざかることになる。患者に対する偏見が、名医の条件だといっても言いすぎではないだろう。しかしこの医者の孤独こそ、もっとも人間的なものだという逆説も成立つんじゃないかな。人間だけが、適者生存の原則にそむいて、弱者や病人を抱え込み、その生存権を保証してしまったわけだ。英雄は亡びても、弱者は生きのびるというわけさ。事実、文明の尺度は、その社会が含む不適格者のパーセンテージで計れるからね。現代を〈患者の、患者による、患者のための時代〉と規定した政治学者(氏名不詳)さえいるらしいよ。だから病める時代だなどと愚痴はこぼさないこと。医者の孤独はいわば患者の権利なんだな。それでもなお医者が孤独から逃れようと思うなら、仕方がない、自分も同時に患者になって、二重の資格を取得するしかないだろう。私はずっと、そういう心構えでやって来たつもりさ。だから、インポテンツだって、本気でくよくよした事なんか無かった。嘘じゃない。インポテンツでさえ、それだけ患者に近付いたしるしだと思えば、むしろ慰めになったくらいさ。」
「いい加減だよ。いつだったかも、言っていたじゃないか、患者も年季が入れば入るほど、それだけ性欲|亢進《こうしん》の傾向が見られるって。」
「だから今、それを言いかけていたんじゃないか。たしかに盗聴例が増えるにつれて、事実としても認めざるを得なくなってきた。本物の患者には、インポテンツなんて無いらしい。病気の内にも入らないらしいんだな。でも、なぜだろう。もしかすると患者社会の構造と関係があるのかもしれない。刑務所や兵舎では、あけすけな猥談《わいだん》が交流の鍵になる。商談の裏取引には、しばしば性の供応が効果をあげる。倦怠期《けんたいき》の夫婦が、寝室を有料化して危機を切り抜けた例もある。すべて性を利用した、人間関係の再編成だね。むろん患者社会は、刑務所や兵舎とは違うよ。人目をしのぶ必要もなければ、人間関係崩壊の危機にさらされているわけでもない。しかしその構造の何処かに、人間関係中枢の負担を軽くする秘密が隠されているに違いないのだ。患者とは何か。いったい何が患者の本質なのだろう。それから、ふと気付いたのさ。少くもあの娘《こ》は自分のインポテンツを忘れさせてくれる。医者という檻《おり》の扉を開けて、患者の領分に誘ってくれる。きっと完全患者の魂を持ち合わせているからに違いない。私に分配できるほど密度の濃い魂なんだ。なんとか彼女の心を理解してやろう。せめて彼女の魂に似せるよう努力してみよう……」
「あいにく似ている所なんて、これっぽっちも無さそうだけどな。」
「理想の患者……患者の中の患者……永久に癒《いや》されぬ者……死と添い寝する日々……宿主よりも大きくなった寄生木《やどりぎ》……不具の化身……怪物……そして、〈馬人間〉……」
「でも、分っているんですか、その補助ペニス、あの娘《こ》の父親のペニスなんですよ。」
「あいにく交接は、生殖器でするものじゃない、人間関係中枢でするものなんだ。」
「なんだか知らないけど、虫のいい話だよ。」
「そりゃ生殖器自体にだって、発情をうながす作用はあるさ。アメリカのブラッシ某とかいう医者が発見したのだそうだが、生殖器の粘膜が摩擦によって受ける感覚は、『痒《かゆ》み』の感覚と似ているらしいね。『痒み』はその周辺の組織に、なんらかの生理的異物が停滞、もしくは蓄積した場合、機械的摩擦(くだいて言えば掻《か》く動作)によってその異物を拡散させるための感覚だ。まず異物の刺戟を受けた皮膚感覚器は、その周辺にATC(記憶違いかもしれない)という物質をつくり、大脳に信号を送って痒い[#「痒い」に傍点]という感覚を誘発する。その感覚が引金になって、掻く[#「掻く」に傍点]という欲求行動がうながされるわけさ。性衝動の場合にも、やはりATC類似物質が生殖器粘膜に蓄積される。しかしこちらは、『痒み』ほど明確ではなく、『ほてり』とか『うずき』と言った漠然としたものらしい。したがって大脳側の条件が大きくものを言う。制止の条件が取り除かれないかぎり、『ほてり』や『うずき』が具体的な性行為に移されることはないらしいよ。つまり、人間関係中枢という見張り役が、納得ずくで始動スイッチを入れてくれない限り、その気にもなれないってことだな。」
「そんなにやりたいのなら、その見張り小屋を爆破しちまえばいいじゃないか。」
「断っておくけど、君は私の手からあの娘《こ》を取上げたけど、私は君からなんにも取上げちゃいないからね。」
「同じことさ。病院が取上げたじゃないか。」
「でも、奥さんの場合、もしかしたら志願したのかもしれないだろ。」
「なんに……」
「前夜祭のオルガスム・コンクールにさ。そうだよ、そう考えてみると、いろいろ辻褄《つじつま》も合ってくる。かなり幅広く一般公募していたらしいし、ピル泥棒とも、あらかじめ示し合わせてあったんじゃないかな。それにしても救急車とは、考えたものだね、かなり内情に詳しい病院関係者が手引きしたのかもしれないぞ。」
「あいにく夫婦そろって、底抜けの健康体なんだ。病院との接触なんてあるわけがないよ。」
「病院と外の境界線なんて、君が思っているほど確かなものじゃない。そうか、君の奥さん、自分から応募したんだとなると、仮に居場所を突き止めてみても、その後がやっかいだな。」
「あの八号室の娘《こ》だって、自分から希望して病室を脱け出したのだとしたら、仮に居場所が分ったところで、後がやっかいだな。」
「断っておくけど、私は奥さんの居場所を知っているわけじゃないからね。」
「断っておくけど、ぼくだって、彼女の居場所なんか知っちゃいないからね。」
ぼくも、馬も、ありったけ傷ついていた。馬は最初っから立ちっぱなしで、ぼくは椅子に掛けっぱなしで、せわしい小刻みな息づかいを隠そうともせず、じっとにらみ合っていた。ぼくが先に目をそらせた。目をそらせたのは、コンタクト・レンズがずれそうになったためで、それ以上の意味はない。
「なんだってそう、突っ立ってばかりいるんです。目ざわりだよ。」
馬はベルトをゆるめ、チャックを下ろし、ズボンを膝《ひざ》のあたりまでずらすと、シャツをたくし上げて見せた。厚さ五ミリはありそうな、黒い合成ゴムのコルセットが、肋骨《ろっこつ》のすぐ下から太腿《ふともも》の中ほどまでを、すっぽり包み込んでいる。コルセットの表面に、色分けされた電線の束が複雑に配線され、その合流点ごとに金メッキされた電極が配置されていた。股《また》の部分に、郵便受けを縦にしたような開口部があって、黴《かび》がはえた中華料理の材料のようなペニスが、金属タワシのような毛と一緒にだらりと垂れ下っている。
「どうしようもないだろ。」
「分ったから、ズボンを上げてください。」
そのコルセットの上に、刻みに合わせてマイクロ・コンピューターのベルトを巻き、小型生命維持装置(本体から分離して使う移動用のもので、六時間有効)ごと補助下半身を接続してやると、それだけでちゃんと感覚の連合が起きてくれるらしいのだ。コルセットは三日に一度、人工臓器科で洗滌《せんじょう》してもらう以外、自分で勝手には脱着できないので、立っているか、寝てしまうかしかないわけだ。もしいつか、馬を許せるほど寛大な気持になれた時、(まず見込みはなさそうだが)彼のために立ったまま休める椅子を設計してやりたいような気もする。
ズボンを上げながら馬が言った。
「よし、君がそこまで言い切るのなら、約束どおり、嘘発見器にかかってみてもらおうか。」
「構いませんよ。」
本音を言えば、八号室の娘のことが気掛りで、一刻も早く引揚げたいだけだった。もう五時間近くも例の地下道に待たせっぱなしなのだ。飲み水や食糧はちゃんと確保してある。しかし退屈もしているだろうし、第一心細い思いをしているに違いない。それにこの雨では浸水の恐れもあった。
だがこの建物の周囲には、いずれ女秘書の息のかかった坊主頭が何人か、物陰にひそんでぼくの帰りを待ち受けているはずである。ここからでは地理不案内で、うまく尾行をまける自信がなかった。さいわい嘘発見器の専門家である別居中の馬夫人は、言語心理研究所と並びの宿舎に寝泊りしているらしい。機械は研究所の備品だから、テストも当然そこで行われることになるだろう。病院墓地と道路をへだてた、本館東隣の白い直方体の建物だ。音も光も、外界を一切|遮断《しゃだん》するため窓がなく、出入りも地下から行うように設計されている。あそこからなら、墓地の地形を利用して、どんな尾行だってまいてみせられる。
もちろん本気でテストを受けたりするつもりはなかった。適当な口実をもうけて、馬を追い返したら、あとは夫人を口説いて、テストの中止なり延期なりを頼み込むつもりだった。
それまでぼくは、副院長夫人について、かなり誤解をしていたようだ。なにしろ「嘘の論理学=儀式化による構造への適応」という論文一つで、ただのタイピスト兼患者から、いきなり研究員の資格を手に入れるほど聰明《そうめい》な女性なのだ。しかもインポテンツを理由に、夫と別居するほど打算的だとなると、どうしても三角定規が服を着たような女性を想像してしまう。
しかし実際に会ってみると、予想は完全にくつがえされた。鼻と上唇の、敏捷《びんしょう》で負けず嫌いな印象をのぞけば、全身に過不足なく皮下脂肪が行きわたっている。眼は熟れたぶどうのように重く哀れげで、声はやわらかく息で薄められ、しかも白衣の襟《えり》は午後になっても糊《のり》がきいたままといった感じなのだ。
ぼくは方針を変更して、一応のテストを受けてみることにした。たぶん水中で空気を求めるように、正常な感覚を求めてあえいでいたのだと思う。単に馬や、その周辺で起きた事の異常さに辟易《へきえき》していただけではない。自分自身の鏡が、どこまで平面性を保ってくれているのかの確信さえ、ぐらつきはじめていたのだと思う。
いよいよ危険な質問にかかったところで、拒否すれば済むことだ。
彼女は期待どおりの応対をしてくれた。別居の理由についても、隠さずに話してくれた。副院長夫妻は結婚したその日から、すべての会話を嘘発見器で確認しながら行うという、風変りな取り決めをしたらしい。嫉妬心《しっとしん》や、猜疑心《さいぎしん》からではなく、むしろ素朴な愛の確信から出た積極的な選択だったという。咎《とが》めるためにではなく、むしろ許すために、嘘という言葉の技巧を排除しようとしたわけだ。
結果は予想に反してまったくの裏目に出た。日を迫って二人の間の緊張感が薄れ、ついには生フィルムのような空白を残すだけになった。
「べつに何かが変ったってわけじゃないの。言ってみれば、電気が流れていない電球みたいなものね。嘘発見器って、冷凍作用があるんじゃないかな。真実が表なら、嘘は裏。ものごとをすべて、裏と表の関係だけで割切ってしまうでしょう。」
「味気ないでしょうね。」
「コンピューターも、すべてを二進法で考えるわね。イエスかノー。感情と理性の間に矛盾がなけりゃ、それでもいいかもしれない。でも、人間からその矛盾を取り除いてしまったら、どうなると思う。事実だけが残って、嘘も本当もなくなってしまったら……」
「すごく論理的だな。」
「そういう自分が、たまらなく嫌ね。」
対話を失った夫婦の間には、やがて磁力もなくなった。引き合うものもなく、反撥もなく、乾いた心だけが虫の死骸のように残された。副院長はひどいインポテンツにおちいり、言語心理研究所の所長は二人のために、別居を処方した。
「〈嘘の論理学〉っていう論文は、そのときの体験が元になっているわけですね。」
「読んだの。」
「無理でしょう、ぼくなんかには……」
「たとえば性交開始の予告に、結婚式という名前をつけたり、交接に専念するための一時的離脱を新婚旅行と呼んだりする、社会的な嘘があるでしょう。とたんに猥褻感《わいせつかん》が消えてしまうわね。儀式化された性行為には、人間関係中枢も安心して通行証を発行しちゃうのよ。」
「今日二度目だな、その人間関係中枢って言葉を聞くの……」
「三度聞くと心臓に悪いって言うわよ。」彼女は笑って、機械の調整を終えた。「始めてもいいかしら。」
「どうぞ。」
単調で分り切った、長い質問の羅列が始まった。犬が好きですか……いまは朝ですか……雨が降っていますか……トマトを食べたことがありますか……歯をみがくのは顔を洗う前ですか……今朝の夢には色がついていましたか……
それから突然、思いがけない質問に意表をつかれる。
「私と寝たいと思いますか。」ぼくが何も答えられずにいると、副院長夫人は紙ロールの上のグラフの波を見ながら、白い歯を下唇にくいこませて笑った。「ほら、嘘をついた。」
「まだ何も答えていませんよ。」
「なんと答えても、どのみち嘘なの。」
「言いがかりですよ。」
「やはり密通が人間関係中枢の最大の敵なんだって。」
「じゃもう一度、聞きなおしてみて下さい。」
「私と寝たいと思いますか。」
「はい。」
「変だな……」
「本当と出たでしょう。」
「人間関係中枢の機能低下かな。たぶん嘘発見器が儀式化の役目をしてくれているのね。」
「そろそろ最後の質問にしませんか。」
しかし彼女は質問のかわりに、機械のスイッチを切り、ぼくの体から電極を取り外しはじめた。
「どうせ最初から、答えるつもりなんか無かったんでしょう。」
喉《のど》を詰め、遠くにいる別の誰かに話しかけているような感じだった。盗聴器を意識しているのかもしれないとも思った。べつにぼくのために質問を打ち切ってくれたわけではなく、副院長に対する意思表示だったとすれば、馬になってインポテンツから恢復した以上、まず自分のところに戻って来るべきだと訴えたかったのかもしれない。たしかに馬が代理ペニスを使って交接する場面を想像すると、他のどんな組合わせよりも、この二人の場合が淫《みだ》らに感じられた。そしてなぜか、この場合に限って、ぼくは淫らという言葉を、芳醇《ほうじゅん》だとか成熟だとかいった、肯定的な意味で使っていたようである。
「まだ私と寝てみたい。」
なぜか答えられなくなっていた。電極板と一緒に、儀式も終ったせいだろうか。すると彼女は、はにかみながら写真を撮らせてほしいと申し出て、パンツ一枚のぼくの全身像を四、五枚、いろんな角度からポラロイド・カメラにおさめた。夜、彼女が独りでその写真に見入っている場面を想像すると、ちょっぴり悔まれた。これほど豊かな肉体が、これほど孤独だというのは、不公平すぎるような気がする。同時になぜか似合っているような気もした。
未練を残しながら、彼女を宿舎に送り届けた後、ぼくはいったん墓地沿いの通りまで引返した。まばらな水銀燈の下で、濡れた直線の鋪装《ほそう》道路が、よどんだ運河の水のように黒い。それ以上黒いものはありえないから、黒猫の仔《こ》が一匹横切っても、まず見逃す気づかいはないだろう。ゆっくり墓地側に渡って、肩までのブロック塀《べい》を乗り越え、繁った桜の枝の間から様子をうかがった。あんのじょう、三秒ほどおいて、五つの人影が道を横切った。ぼくの前任者を殺《や》った連中だろうか、それとも五人という編成が、女秘書の好みの数なのだろうか。
ぼくはしばらく足元の石を蹴《け》ったり、植込みの枝を鳴らしたりして、尾行者の注意を引きつけながら進んだ。それから急に駈出してやった。と言っても、ただ道なりに走ったわけではない。障害物競走の要領で、墓石を飛び越しながら、道を無視して一直線に走ったのだ。さいわいこの天気では、密会中の男女に衝突の心配もなかった。すでに雨は上って、裂け目だらけの雲間を疾駆する半月が、濡れた墓石の頭を照らし出してくれている。どの墓石も、ジャンプ・シューズには手頃な高さだが、普通の運動靴では、いったん這い上ってからあらためて跳び降りなければならない。それだけでまず時間の差がついてしまう。その上、墓石の位置はきっちり碁盤割になっているのに、一つ一つの方角がわずかずつ狂わせてあり、道はそれぞれの墓石の面に添わせてあるので、唐草模様を拡大したように複雑に入り組んでいる。ここの設計者は、よほど死人どうしの仲間付き合いを嫌っていたのだろう。死人でなくても、墓石の形をたよりに乗り越えると、次はどれが直線上に位置する墓なのか、すぐには判断を下しかねる。追手はぼくとの距離が広がるにつれて、しだいに方向感覚を失い四散して、互に仲間どうしを追い掛けながら、ついにはぼくを見失ってしまうはずだった。
ぼくは息をととのえ、膝にはずみをつけ、なめらかに素早く走りつづけた。間もなく自信を失った五つの足音が、入り乱れながら後ろに遠のいていくはずだ。ところが同じように滑らかな足さばきが、重なり合った影のように、どこまでもぴったりと追いすがってくる。気のせいかと思い、速度をあげてみた。後ろの足音も速度を早めた。方角を変えてみた。メダカの群のように、瞬時に方向転換をやってのけた。どうやら連中も、ジャンプ・シューズを手に入れてしまったようである。誰か会社の同僚が売り込みに成功したのだろうか。そんな抜け駆けは許せない。それとも連中が勝手に自分たちで発注したのだろうか。ぼくがセールスをしているのだから、ぼくを通して注文してほしかった。一定の歩合は、当然ぼくの権利だし、ぼくの販売成績にだってかかわってくることだ。
しだいに息切れがしはじめていた。連中はぼくのやり方を飲込んで来たらしく、五人が方形に散って、犬が兎を狩り出すような手を使いはじめたのだ。方向を変えるたびに、新たな追手が入れ替る。しかし逃げるのはぼく一人だから、いずれ限界が来るだろう。べつに捕って抑えるつもりはないらしく、ぼくが根負けして隠れ家に逃げ戻るまで、この鬼ごっこを続ける作戦らしいのだ。もしぼくがこのまま帰らなかったら、八号室の娘はどうするだろう。ぼくの裏切りに絶望し、鼠におびえ、ありったけの声で泣き叫んで人を呼ぼうとするかもしれない。それも連中の思う壺だ。ぼくはすっかり追い詰められかけていた。
だが待てよ、ぼくは三本筋の警備主任じゃないか。まがりなりにも連中の直接の上司なのだ。副院長秘書が連中と、どんな話をつけたかは知らないが、ここで自分の権限をためしてみても損はあるまい。不成功に終って、もともとである。
墓石の一つに飛上り(何か鈴がころがるような音がした)、振向きざまありったけの大声で号令をかけてやった。
「全員停れ。動くな。」
繰返す必要はなかった。間合と気合が、当を得ていたのかもしれない。追手は闇の中で、身じろぎもしない影になって消えた。虫の鳴き声がしはじめた。ぼくにとっても初めての体験だったが、連中にとっても初めての体験だったような気がする。ぼくの前任者も、もし号令のかけ方を知っていたら、ああむざむざとは殺されずに済んだかもしれない。
夜道を駈け抜け、病棟わきを通って、草叢《くさむら》に埋もれた旧病院跡にたどりつく。しばらく虫の声に耳をすませ、尾行されていないことを確めてから、半分水にひたった下水管をくぐり抜け、便器の穴から這い上った。崩れた壁で半ば埋まった通路を手探りで進み、目標の鉄パイプ(天井から突き出していて、耳をあてがうとなぜか電車の線路工事の音がする)のところで、やっと懐中電燈を点《つ》けた。
瓦礫《がれき》の間の狭い隙間にもぐり込み、しばらく行くと、かなりしっかりしたコンクリートの廊下に出る。その突き当りの板戸の向うが隠れ家だ。苦しげなうめき声が聞えたように思い、警戒心を忘れて駈出していた。それでも、予期していたぼくの足音に対する反応が返って来ないので、よけいうろたえてしまう。板戸をはねのけると、娘はちょうどオルガスムに達したところだった。わざと気付かなかったふりをして、腿の間でせわしく動いている手首ごと、上から強く抱え込んでやった。気のせいか、弾力のかかり方に、ひずみが感じられた。ますます骨の流体化が進行しているのだろうか。手首が動きやめ、娘も力いっぱいしがみついて来た。泣きじゃくりはじめ、やがて押さえていられないほど激しく震えはじめていた。
いま前夜祭の会場予定地を、旧病院跡の高台の外れから、ざっと見廻して来たところだ。さっきよりは、多少人出も増えていたが、相変らず閑散としたものである。しかし、何かが行われるのは確からしく、公園ぞいの道路わきに、何軒かの露店がコンロの火を起したりして、店開きの準備をはじめていた。
カレーパンと林檎《りんご》ジュースで簡単に腹ごしらえをする。これ以上娘が縮んでしまわないように、車椅子の背を水平に倒し、背骨にそってマッサージを始めてみたが、発情の徴候をみせたので三分ほどで中止した。通風筒を利用した外部アンテナのおかげで、感度が良くなったラジオのイヤホーンを耳に、娘はうつらうつらしはじめている。
もうしばらくノートを続けてみようか。
弁明ではなく、ぼく自身、こうして八号室の娘と人目をしのびながら、しかも妻の行方を追っているという矛盾した行為に、じゅうぶん納得のいく説明をつけられずにいる。納得できないのは何もぼくだけではないはずだ。誰だってぼくのごまかしをののしり、嘲笑するに決まっている。
しかし、ぼくがピル泥棒と妻の接触の可能性を知ったのは、つい昨夜のことなのだ。それまで口をぬぐっていた馬の背信こそ、むしろ酌量の余地がないように思う。その仕返しのためにも、八号室の娘を返すわけにはいかないのだ。ぼくは今朝一番で、警備員詰所に電話を入れ、ピル泥棒についての情報収集を重点的に行うよう、指令[#「指令」に傍点]しておいた。そう、指令[#「指令」に傍点]だ。その効果については、昨夜すでに経験済みである。あれから一時間おきに、通りまで出て、公衆電話で報告を受けている。残念ながら今までのところ、希望をもたせるような報告は何一つ入って来ない。
それとも女秘書のやつが妨害しているのだろうか。考えてみれば例の前任者殺しだって、当直医の身代りを欲しがっていた副院長に対するサービスというより、前任者がピル泥棒について何かつかみかけていたために、口を封じられたのだと疑って疑えなくはないのである。そうまでしてぼくを捕えようとしているのだとしたら、ぼくもうかうかしてはいられない。生かして逃すくらいなら、むしろ殺して捕える方を選ぼうとするだろう。
外に出た機会に、何度か聞き込みもしてまわった。黒筋三本の警備主任の白衣には、裁断上の符牒《ふちょう》でもあるのか、協力を拒む者は一人もいなかった。医者も、看護婦も、職員も、患者も、すすんで情報を提供してくれようとした。しかしどれも見えすいた作り話ばかりなのだ。さもなければ、泥棒一般についての分析だったり、ピルを利用した新しい犯罪についての臆測だったりで、その情報をもとに行動を起そうにも、起しようがない。善意に解釈すれば、警備主任じきじきのお声がかりに、知らないと答えるにはしのびなかったのだろう。ピル泥棒グループはよくよく隠密裡《おんみつり》に事をはこんでいるようである。
しかしいくら隠密裡に事をはこんだところで、いずれは時間の問題にすぎない。前夜祭の幕が開いてしまえば、連中だってもう逃げ隠れは出来ないのだ。前夜祭の出し物のための準備だったのだから、嫌でも姿を現わさないわけにはいかないはずである。例年だと午後五時に、副院長が恒例のテープを切り、呼び込みの太鼓が鳴り渡ることになっているらしい。あと一、二時間で、自動的に連中との対決が実現させられてしまうのだ。こうして待っている間にも、ぼくは刻一刻と連中に接近しつづけている。誰もこの時の進行を妨げられる者はいないはずだ。
しかしぼくは子供の頃から、祭りというものがどうしても好きになれなかった。不吉な予感がつきまとう。見えている祭りの向うの、もう一つ別の祭りから、魔物たちにじっと見物されているのが分ってしまうのだ。
[#ここから2字下げ]
(精神賦活剤を飲み足し、今日四本目のタバコに火を点ける。コンタクト・レンズを外して、しばらく目玉のマッサージをする。涙腺が雨蛙《あまがえる》のような声をだして鳴いた。娘は軽い寝息をたてていた。寝るのもいいが、すこし寝すぎのような気がする。病状悪化の兆候でなければいいのだが……)
[#ここで字下げ終わり]
あれはそう、ぼくが一方的に主任に任命された翌朝のことだった。前の主任の死を黙認して共犯者にされるのは嫌だったから、とにかく副院長に直接、目撃したことを伝え、責任の所在だけは明確にさせておくつもりだった。しかしいっこう、本館の方には姿を見せてくれないので、こちらから軟骨外科病棟に出向いてみたわけだ。
朝の八時というと、病棟がいちばん騒がしく活気をおびる時間である。採血される子供が泣きわめき、体温計を持った看護婦が病室から病室へと白衣をひるがえし、尿瓶を下げた患者が廊下をうろつき、窓を開けるか開けないかで患者と付添婦が口論し、若い男の患者が勃起《ぼっき》したペニスを女医から爪先ではじかれる。
直接三階に上って、部長室のドアをノックしてみたが、〈在室〉の札が掛かっているのに返事がなかった。把手《とって》をまわすとドアが開いた。すでに当直医の姿はなかったが、最初の日に八号室の天井の切穴から覗《のぞ》いたとおり、ベッドが二台並んでいて、さまざまな電気器具や計器の類が、乱雑にちらばったままである。壁ぎわによせて、事務机があった。気のせいかその下の腰板がわずかに浮いている。たぶんあそこから八号室の切穴に抜けられるのだろう。ドアを閉め、掛け金を差した。机の下にもぐって、腰板をさぐってみる。素人《しろうと》っぽい細工で、片隅に針金の輪が取付けられていた。それを引くと、腰板がちょうど机の幅分だけ、手前に倒れかかってきた。こちらからの操作は容易だが、切穴の側からでは多少やっかいかもしれない。
明りが差し込んでいた。頭を下に、ゆっくりもぐってみる。錆臭《さびくさ》い粉が、直接鼻の穴に降り込み、くしゃみをこらえようとすると、胸が張り裂けそうに痛んだ。音がしないように、両手で一段ずつ梯子《はしご》をたぐって行き、最後に両膝を壁に突張って、逆吊《さかさづ》りになる。カーテンの隙間から、かろうじて部屋の下半分が見えた。裸の娘が、腰を突き出し、小さな膝頭を開いて細い両手をこすりつけ、首を前後に振りながらマラソン選手のようにあえいでいた。そのすぐ足元で副院長が、片手を娘の太腿に這わせ、もう一方の手でズボンの上から自分の股間《こかん》を揉《も》みつづけている。何か喋っているようだが、よくは聞き取れない。とにかく午前八時に耐えられるような光景ではなかった。
急いで切穴から這い出し、腰板の辺を音をたてて歩きまわってやった。物音を聞きつけた副院長は、人がいるのにまさか秘密の通路を使うわけにもいかず、外をまわって部屋に引返そうとするに違いない。しかし掛け金が差してあるので、ドアは開かない。あれこれためしてみた後、あきらめて施設の人間を呼ぶまでには、二、三十分はかかってしまうはずである。
すべてが予想どおりに搬《はこ》んでくれた。八号室のドアの音を確認し、ふた呼吸ほどおいて、今度は足から下に降りた。娘はぼくを認めても、なぜかさほど驚いた顔は見せなかった。ぼくが笑って見せると、指をしゃぶりながら、はにかんだような笑いを返して来た。
「急ごう。荷物はどこ。」
「荷物なんて、ない。」
「着替えをしなけりゃ。」
「着替えもない。」
まるまっていたパジャマを、足の指先でつまみ上げてみせる。関節の病気だとは思えないほど、すんなりと伸び切った脚だ。
「いいから、それを着ちゃいなさい。」
娘は寝たままの姿勢で、素直にパジャマの袖に手を通しはじめた。その間にぼくは、ベッド脇の棚を点検した。バナナが二本、半分に切ったパパイヤ、ブラシ付きのヘヤドライヤー、ボールペン二本、少女雑誌二冊、編みかけのレース、鈴がついた赤い革の財布。財布の口金が壊れていて、中味を床にぶちまけてしまった。現金で六千三十円と、血液型のバッジ、患者登録証、三ミリほどの金色の狐、凝《にご》った血のような小さな石がついた十八金の指輪、などと言ったところ。タオルをひろげ、洗面器を置き、ありったけを詰め込んで、四隅をゆるめに結んだ。こうしておけば、肩にかけられるし、娘のために両手を空けておくことも出来る。
「君、歩けるの。」
娘はちょうどズボンをはきおえ、ベッドの端に腰を下したところだった。小首を傾《かし》げ、両腕を突っ張って、ベッドの角をゆっくり滑り降りる。いったん直立したが、すぐに両手を差出し、倒れかかってきた。腕を貸してやると、軽くつかんで重心を取り戻し、うれしそうに二枚の前歯を光らせた。腕にすがって一歩踏み出し、歯の間から舌を突き出した。耳朶《みみたぶ》のひだに乾いた垢《あか》がこびりついている。
「とっても高い……」
「何が。」
「二階の窓から見ているみたい。」
「自分で立って歩いた事はないの。」
「前はもっとデブだったの。」
「無理なんだね、自分で歩くのは。」
「急に体が伸びたから、神経が引っ張られて疲れやすいんだって。」
そうゆっくりもしていられなかった。もし三階の部長室に、あのドア以外の出入口があったとしたら、副院長は今にも外れっぱなしの腰板に気付き、たちまち事態を見破ってしまうだろう。
「インターホンのスイッチ、入れてあるの、切ってあるの。」
「切ってある。」
荷物を首から胸に吊るし、娘を背負って廊下に出た。人目を引きすぎるようにも思ったが、あり得ないような身仕度のほうが、病院ではかえって目立たずに済むようだ。誰一人、特別な視線を向ける者はいなかった。きっと朝の八時という時間もよかったのだろう。
しかしさすがにエレベーターは危険な気がした。彼女は背中に生ゴムのように隙間なく貼《は》り付いていて、まだほとんど体重を感じさせない。階段を駈け降り、出口に向って待合室を横切ろうとして、思わず足を止めた。なんという勘の良さだろう。エレベーターを待つ何人かの中に、副院長秘書がまじっているのだ。ぼくを探しに来たに決まっている。誰もが苛立《いらだ》たしげに針の動きを見上げていた。大きな荷物の積み降しに手間どって、停ったきりになっているのだろうか。気ぜわしげに床を蹴る女秘書のサンダルの踵《かかと》が、しだいに速度を早めてきた。待ち切れなくなって、彼女に階段を使う気でも起されたら事である。なにしろ背中の娘の父親殺しの主謀者なのだ。こういう時、逃げ場を求める視線は意外に論理的な動きをするものらしい。それまでは、高く積み上げた木箱のせいで、つい見落してしまっていたのだが、階段は木箱の裏をまわって、さらに地下へと続いているのだった。
なんとか木箱の裏側に抜けられた。足音をしのばせ、階段を降りきった。木箱越しの明り以外には、まるで差し込む光のない暗い廊下に出た。ひんやりと、古い物置の床下の臭いのような風が吹いていた。
「何処《どこ》に行くの。」
「何処に行こうか。」
まさか、迷いに、とも答えられまい。とにかく歩き出してみることにする。
「疲れたら、どこかで休んで、バナナ食べようよ。」
「まだ歩き出したばかりじゃないか。」
廊下はいったん左に折れ、いっそう暗くなった。しかし目が馴れてくると、なんとか足元を確めるくらいの明るさはあった。廊下はどこまでも続いていた。建物の構造を思い浮べ、腑《ふ》に落ちなかった。かなり前に建物の外に出てしまったはずだと思う。べつに分れ道はなかったし、左右に部屋らしいものもない。これは廊下ではなく、何処か他の建物に通じている地下道なのかもしれない。
「もう帰ろうよ。」
「駄目だよ。」
「だって、尿瓶忘れて来ちゃったじゃないか。」
「すぐに新しいのを買ってやるから。」
「何処に行くの。」
「何処に行きたい。」
「もっと明るいところ。」
「もうじきだよ。」
疲れてきた。かなり歩いたようだが、はっきりしない。ゆっくり歩いているので、まだそれほどの距離ではないのかもしれない。
「君、家は何処なの。」
「前は第三病棟……お母さんが、ふとんになる前ね。」
「なんになる前って。」
「ふとん……寝るときに敷く、綿が入ったの、あるでしょう。」
「なぜ。」
急に背中の娘が体をふるわせ、聞えるか聞えないかの声で、痛みを訴えた。同じ姿勢を続けていたのが、いけなかったのかもしれない。急いで娘を降ろし、壁ぎわに腰をすえ、膝の上に横抱きにしてやった。娘はぐったりぼくに体をあずけ、肩にまわした手の甲に頬ずりしてきた。大した事はなかったらしい。通路の壁面は、コンクリートの打ちっぱなしで、粗《あら》い凹凸が背中に食い込む。床は湿っぽく、居心地が悪い。しかしすぐに歩き出す気にはなれなかった。引返しもならず、さりとて先に進む当てもない。迷う前から迷ってしまったような感じだった。
「痛みはよくなった。」
「よくなった。」
「なぜ、お母さん、ふとんになったの。」
「綿吹き病って知ってる。」
「知らないな。」
「毛穴から、綿が吹いてくるの。」
「綿じゃないだろ。脂肪か何かが変形したものだよ。」
「綿だってば。ちゃんと試験所で検査してもらったんだ。」
「珍しいね。」
「はじめは、手の甲の、このへん……」頬ずりしていたぼくの手を取り、指先でなぞりながら、「子供のころだったけど、憶《おぼ》えてるな。恐《こわ》い夢を見てるみたいに、抜けてくるの、ボロボロ、ボロボロ、取っても、取っても、ボロボロって……手の皮に、だんだん大きな穴が空いちゃって、骨が見えた。痛くないっていうけど、父ちゃんも心配になって、赤チンつけてみたの。でも、綿でしょう、すぐに染み込んでしまって、間に合わないんだ。どんどんつけているうちに、一と瓶《びん》ぜんぶ空になっちゃった。赤い手袋みたいだったよ。光にすかしたら、きれいに骨が見えるの。次の日、入院したんだけど、手後れだったみたい。首や、おしりや、耳や、おっぱいの中まで、綿だらけなんだって。他にひろがる前に、早く取ってしまった方がいいって先生に言われて、父ちゃんと二人で毎日綿摘みよ。手や足なんか、骨がだぶだぶの手袋や足袋はいてるみたいになって、気味悪いったらないの。入院して半年目に、綿が心臓にまわって死んじゃったけど、可哀相だったな。綿は、石油ストーブの箱に三杯もたまったから、ふとんにしたの。自分で使うつもりでいたのに、父ちゃんのやつ、縁起でもないって、記念館に寄付しちゃったんだ。きっと賞状かなんかもらいたかったんだよ。いまでも記念館に飾ってあるらしいけど、本当はあれ、私のふとんなんだ。」
話しおえたとたん、娘の息遣いが変った。眠り込んでしまったのだ。娘の眠りを妨げないように、ぼくは身じろぎもせず、壁の固さと床のしめっぽさに耐えていた。
[#ここから2字下げ]
(いま警備員詰所に六度目の電話を入れて戻って来たところだ。ピル泥棒については、いぜんとしてなんの情報も得られなかった。副院長や秘書が心配しているから、早く戻って来てほしい、とおせじにもならない花屋の息子の猫撫《ねこな》で声を聞かされたときには、さすがに毒気を抜かれてしまった。それとも、ぼくの隠れ家など、とうに突き止めてしまっているという皮肉だったのだろうか。
帰りは尾行を警戒して、いつもと多少違うコースをとることにした。記念館わきの、昔動物を飼っていたらしい檻の池(いまは涸《か》れている)の底から、地下にもぐってしまうのだ。地下道の距離が何倍にもなるし、よほど気をつけていないと迷ってしまう。それだけ安全性も高いわけだ。前夜祭に出なおす時にも、いずれこのコースを使うつもりでいるから、事前の点検だと思えば、無駄にはならない。途中一箇所、壁の煉瓦が崩れて道をふさいでいた。車椅子が通れる幅だけ、片側によせておいた。
記念館の庭からだと、前夜祭の会場をちょうど裏側から見下ろす形になる。通りをへだてた公園の噴水前で、熱狂的なリーダーに怒鳴られながら、ふてくされて練習中のロック・バンドと、それを見物中の患者数名以外、とくにそれらしい雰囲気《ふんいき》もない。触れ込みほどの事はないのだろうか。病棟区の方から公園前通りを、屋台を引いて下って行く老夫婦がいた。それぞれ、萎縮《いしゅく》性胃炎と、下垂体性悪液質〈シモンズ病〉の患者だそうだが、ぼんやり夢見るような表情で、例年の熱狂と興奮ぶりを過去形で語ってくれた。
おっつけ四時になろうとしている。幻の伝説を相手に、力みかえっていただけなのだろうか。だから祭りなんて信用できないんだ。)
[#ここで字下げ終わり]
ぼくも眠り込んでいたらしい。娘の声で目を覚ました。
「なんの音。」
「虫だろう。」
「墓地には、死体を食べる虫がいるって、本当……」
「だって今はみんな火葬だよ。」
「そうね。」
体じゅうが痛かった。組合わせた脛《すね》が、ふくらはぎに食い込んでいる。姿勢を変えてみた。娘が叫び、大人びた調子で詫《わ》びるように言った。
「私の骨、ゼリーみたいに、少しずつ流れているんだって。姿勢が変ると、引力も変るでしょう。骨の流れが変るから、神経が引っ張られて痛むのね。」
「いちばん楽な姿勢は、どういうの。」
「どんな姿勢にでも、すぐに馴れるから平気……」
娘の頭を支えている手首のあたりに、雫《しずく》がしたたった。涙か、涎《よだれ》かは、分らない。空いている方の手を、娘の背筋にそってすべらせてみた。予想される体の曲線とはかなり違っている。どんな姿勢をとっているのか、はっきりしないのだ。組んだぼくの脚の起伏に合わせて、彼女の骨格までが変形してしまったのだろうか。
「我慢していてね。」
狼狽《ろうばい》したぼくは、彼女を膝からおろし、関節の外れた人形をあつかう慎重さで、そっと上半身を壁にもたせかけてやった。かなりゆがんだ感じだった。闇の中で感覚が誇張されていたせいかもしれない。
「だいぶ縮まったみたい。」
「そうでもないさ。」
時計の針の夜光塗料が、ひどく読みづらかった。二本の針が重なって、八時と九時の間にあるようだ。八時四十四分ということらしい。かなり眠ったつもりだが、ほんの一瞬だったらしい。
ゆっくり、バターを握りつぶすような感じで、現実感覚が戻って来た。ちがう、これは夜の八時四十四分なのだ。娘を部屋から連れ出したのが、午前八時四十分頃だった。あれから四分しか経っていないなどということはあり得ない。すくなくも半時間以土は経っている感覚だ。すると、十二時間近くも眠り込んでいたのだろうか。時計の夜光塗料の弱まり方も、かなりの時間経過を裏付けている。娘の体がいびつになってしまったのも無理はない。体の痛みがさらに激しくなった。尻の肉に小石が突き刺さり、肋骨に丸太が食い込んでいる。娘はもっとつらい思いをしているに違いない。
「ぼくら、何時間くらい寝たと思う。」
「飽きるくらい。」
「昨日、ほとんど寝ていないんだ。」
「バナナ、半分残してあるよ。」
「おしっこ、させてあげようか。」
「自分で、しちゃった。」
立上ろうとして、転倒した。左足が、何処にあるのかも分らないほど、しびれていた。手さぐりで床に娘のタオルを敷き、その上に脱いだ白衣を重ね、さらにズボンとシャツを広げた。娘を抱えて、横たえた。床が平らなのが、せめてもの救いだった。
「待っていてね、すぐに戻るから。」
「もう帰りたい。」
「駄目だよ、せっかく逃げて来たんじゃないか。」
「逃げたくなんかないよ。」
「いま、車椅子を探してくるからね。」
「お風呂に入りたいんだ。」
「後で入れてあげる。ほかに欲しいものはない。尿瓶も忘れないようにしなけりゃ。暗いから、懐中電燈もいるな。」
「ベッドじゃないと、体が変な形になるよ。」
「だから、ふとんがあればいいんだろ。」
「どのふとん。」
「車椅子に合うようなのがいいね。どんな色が好き。」
「お母さんのふとん……」
「記念館にあるやつかい。そんなのもう、黴だらけだろう。」
「だったら早く帰ろうよ。」
「よし、それじゃお母さんのふとん、取返しに行こうか。」
「もういい、恐いから。」
「ほら、さわって見てごらん、この力瘤《ちからこぶ》。以前、学生ボクシングで、選手権持ってたこともあるんだぞ。」
娘の手の甲はひんやり乾いていたが、掌は熱く湿っていた。よほどの緊張状態にあるらしい。頬を撫でた指先で、ついでに二、三度髪をすいてやった。
「ここ、ノミがいるね。」
「じきに戻るから……」
片手で壁面をなぞり、もう一本の腕を触覚にして闇をさぐりながら、ぼくはパンツ一枚の姿で駈け出していた。
負け惜しみではなく、あの計画性を欠いた行動が、結果的にはぼくに運をもたらしたのだと思う。もしあの時、十二時間近くも眠り込んでしまうという、間抜けた失態をしていなかったら、事情はまったく違ってしまっていたはずだ。
あの地下道は、いまは土台だけになって草むらの中に埋もれてしまった病院旧館と、もともと旧館の一部だった軟骨外科の病棟とを結ぶ、古い通路だったのである。軟骨外科(昔は一般外科)の地階と、旧館の三階が、同じ平面で結ばれていたため、かなり利用度も高かったという。
後になって分ったことだが、あの時ぼくらは、その地下道のほぼ終点近くまで来ていたらしいのだ。もしあのまま前進を続けていたら、十メートルもしないで行き止まりになり、左の上り階段か、右の廊下かの、いずれかを選ばされていただろう。まだ車椅子の用意はなかったし、薄明りがさしている階段に向うのが、自然の成行きというものだ。階段の上で通路は右に折れ、ほどなく腐蝕《ふしょく》寸前の木戸に行き当る。鍵穴《かぎあな》からのぞくと、生い繁った夏草の上に青空が輝き、ぼくのために安全を保証してくれているとしか思えない。木戸を押し倒し、一歩外に出たとたん、頭上から笑い声が降ってくる。ぼくは逃げ場もないコンクリートの枡《ます》の中にいて、枠《わく》の上から笑い声の主が見物しているのだ。ここは旧館の時計台跡で、追手のための最良の監視所の一つだったのだ。
だが、すでに十二時間が経過し、追手は警戒体勢を解きはじめていた。とくに隅から隅まで調べつくされた病棟内は、むしろ安全地帯に近かった。車椅子もスエーデン製の最新式のやつが手に入ったし、懐中電燈も大、中、小と三種類、それに高性能のFMラジオから、大型魔法瓶まで、必要なものはほぼそろえられた。
娘は車椅子がことのほか気に入ったようだった。クローム鍍金《めっき》の大きな車輪も美しかったし、スプリングのきいた黒い模造皮の椅子もしゃれていた。指一本で利くブレーキもよかったし、左右の車輪の廻転比《かいてんひ》を自由に調節できるレバーも便利だった。それに何より、椅子の背を百三十度微調整できる軽いハンドルが素晴らしかった。
そして、その車椅子のおかげで、ぼくらは階段を選ぶことが出来ず、旧館跡の迷路へと奥深く迷い込んで行くことになったのだ。
迷路というのは譬喩《ひゆ》でも誇張でもない。回廊式に中庭を囲んだ建物が、一辺に三つずつ短い廊下の腕で連結され、さらに大きな中庭をとりまいて正方形の一区画をつくり、その区画が三つ、正三角形に配置されているのだから、三種類の蜂《はち》の巣を重ね合わせたくらいの複雑さなのだ。しかも、肉の厚い旧式のコンクリート造りと、煉瓦造りの部分とが混っているので、昔の構造をしっかり保っている所もあれば、完全に崩壊して土砂に埋もれてしまった所もある。仮に、全体の構造についての予備知識があったとしても、何処をどう通ってここに辿《たど》りついたかを説明するのは無理だろう。もう一度あの地下道から出発しなおしたとして、はたしてこの同じ場所に辿り着けるかどうか、まったく自信はない。
あの日、まず最初に、便所の跡からマンホールを抜けて地上に出る最短コースを確保し、その後機会を見ては、少しずつ足をのばして、他の出入口の発見につとめた。けっきょく引返すしかない袋小路が、ほとんどだったし、外界と連絡している開口部もめったになかった。傷《いた》みかけた動物の剥製《はくせい》を思わせるこの臭気を除けば、どうやら理想的な隠れ家にめぐまれたようである。おまけになぜか、ノミもいない。
ただ二回だけ、多少気がかりな事があった。一度は昨日の朝、ぼくが馬に会いに旧射撃場跡に出掛けていた留守中、彼女が壁ごしに誰かの話し声を聞いたというのだ。かなりの大声で、一人が遠くの誰かに呼び掛けると、相手は短く答え、すると壁ぎわの誰かも嘲《あざけ》るような笑いを残して遠ざかって行ったというのである。しかし、あり得ないことだ。第一この部屋には壁の向うというものがない。何度も綿密に調査済みだから、確信をもって言えるが、出入口の木戸を除くと、残りの三方とも壁の向うはただの土砂なのである。あってもせいぜいモグラの通路くらいのものだろう。彼女ははっきり、木戸越しの声ではなかったと断言した。信じてもいいだろう。木戸側の廊下には、針金を加工した警報装置が三段構えで取付けてある。だとすると、夢か、耳鳴りか、通風筒をゆすって行った風のいたずらくらいしか考えようがない。あまり取り越し苦労はしないことにした。
いま一つは、ついさっきの事だ。記念館わきの動物の檻の跡に通じている、例の最長コースを引返していた途中のことである。隠れ家にかなり近くなってから、通路の端にタバコの吸殻が落ちているのを見付けたのだ。フィルターから二センチほど残して、先を何かにこすりつけて消した感じの吸いさしだった。すでに、煙はもちろん、触っても熱も感じられない。しかし気に入らないのは、しめりすぎず、乾きすぎず、しかも巻紙の白さが新しすぎることだった。もっとも、生きているようなミイラが発見された例もあることだし、タバコはミイラよりもずっと単純なはずだから、そう騒ぐほどの事はないのかもしれない。それに、銘柄がぼくのと同じセブンスターだったのも、救いと言えば救いだった。自分の意識や行動を疑えばそれで済むことだし、その方がずっと気も楽である。ところで、セブンスターが発売されたのは、何時《いつ》頃のことだっけ……
ゆっくり、間をおいて、地面が吠えるように鳴りはじめた。
五時二分――
通風筒にはめ込んだ発泡スチロールの袋を引き抜いてみる。やはり大太鼓の音だ。形式だけは、しきたり通りに守られているらしい。残響が、地下の迷路に屈折して、海鳴りのようだ。いまごろは馬が、まばらな拍手に迎えられ、上体を硬直させたままテープに鋏《はさみ》を入れているところかもしれない。
通風筒の穴の形に仕切られた、夕暮の空を、煮すぎた餅のような雲が飛んで行く。ぼってりと肉厚で、いまにも裂けて水を吹き出しそうだ。
やっとこの隠れ家とも、別れの時がせまったようだ。このノートは、濡れないようにビニール袋に入れ、しっかりセロテープで封をしておこう。隠し場所は、あの野球帽の形をした壁の割目がいい。鍔《つば》のところが、ぱっくり剥《はが》れ、中がポケット様の空洞になっているのだ。いまは現金と、定期券と、八号室の椅子の脚から抜き取っておいたFM発信機のための、金庫がわりに使っている。
あと三十分もしたら、娘を起してやろう。
ぼくの都合だけを言わせてもらえば、無事に妻を連れ戻すまでは、なるべく単独行動を取りたいと思う。妻をどんな状態で発見することになるのか、どんな状況で顔を合わせることになるのか、それさえ今は皆目見当がつかないのだ。妻の失踪《しっそう》にピル泥棒が噛《か》んでいるらしいことは、ほぼ間違いなさそうだが、それだって情況証拠を一歩も出るものではない。単に巧妙な馬の暗示で、そう思い込まされてしまっただけなのかもしれない。本当は妻が病気だったのかもしれず、ちょっとした手違いからぼくに連絡しそびれたまま、入院を続けているのかもしれないのだ。ひるがえって妻の側から見れば、あの日以来、ぼくの方こそ行方不明人の見本みたいなものだろう。ぼくの行方を尋ねかたがた、本館の図書室あたりに臨時の職を得ているだけなのかもしれない。同時に、ピル泥棒に殴られた後遺症で、記憶喪失にかかりっぱなしといった可能性だって無視は出来ないのだ。最悪の場合には、強制的に、あるいは催眠術だとか薬品の力によって、自由意志を奪われているのかもしれないのである。
ともかく、そうしたすべての状況に対して、臨機応変の処置がとれなければならないわけだ。必要とあれば、暴力だって辞さないつもりでいる。ジャンプ・シューズの跳躍力と、脇の下に吊《つる》して行くつもりの、この二十五センチの鉄パイプがあれば、かなりの攻撃力を発揮できるはずだ。娘が嫌がるので――他人の跳躍を見ただけで体の縮む思いがするらしい――ここのところ練習不足だが、やはり生れつきの反射神経というものがあって、誰でも履けば跳べるというものではないのである。
そんな場所に、車椅子の娘を連れて行くというのは、あきらかに足手まといだ。下手をすると共倒れにもなりかねない。
しかし、状況が悪ければ悪いほど、それだけこの隠れ家に引返して来られる機会も少いはずである。なんとか活路を切り開き、病院の外へ妻を連れ出すのがやっとかもしれないのだ。あの辺から逃げるとしたら、北側の坂道を、街の方へ駈け下りるしかないだろう。こことはまったく逆の方向だ。だから、娘を残して出掛けることは、ここに置き去りにしてしまう事になる。ノートなら、壁の割目の中で忘れられたまま、二度と誰の目にも触れずじまいになってもまだ諦《あきら》めがつく。しかし娘はノートとは違うのだ。
とりあえずの食糧を、車椅子の下のトランクに詰め込んだ。
コーラ四本、ロール・パン五箇、コロッケ四枚、きゅうり二本、茄卵《ゆでたまご》二箇、銀紙でひねった塩少々、バター四分の一ポンド、板チョコ一枚、傷みかけた桃四箇、紙ナプキン一包……
娘がラジオのイヤホーンを耳に入れたまま、薄目を開けてほほ笑んだ。片手は相変らず股《また》の間に押しつけたままだ。もうあまりうるさく言わないことにする。ほほ笑んだと思ったら、またすぐ眠り込んでしまった。体はすっかり寸詰りになってしまっている。変なゆがみ方をしないように、気をつけて姿勢の修正をしてやるのだが(スエーデン製車椅子はそういう点でも配慮が行き届いている)、餅でも飴《あめ》でも饅頭《まんじゅう》でも、いじればいじるほど球体に近付いてしまいがちなものだ。口惜しいが、その点では、軟骨外科部長としての馬の技量を認めざるを得ない。
時とともに幼児化していく娘を見ていると、時間が逆行しているような錯覚におそわれる。しかし失われていないのは眼の表情だ。人がこの娘にひきつけられるとしたら、あまり遠くばかり見すぎて、足元が分らなくなったような、この下りめの目尻のせいに違いない。
白衣はどうしようか。人ごみにまぎれ込むのに、都合がいいような気もするが、逆に追跡の目標にされそうな気もする。前夜祭の状況によりけりだから、持つだけは持っておくとしよう。使わないことになっても、娘の枕がわりには役立ってくれるはずだ。
どうしても心残りなのは、あの廃屋の部屋に残してきたセールス用の鞄《かばん》である。なかみは、ジャンプ・シューズのカタログ三十枚、申し込み用紙十五通、記念品贈呈券十五枚、といったところで大したことはない。未練がましいようだが、イタリー製の本革で、ぼくにはいささか奮発しすぎの品だった。あきらめが肝心とは思うが、なぜぼくがこんな損をしなけりゃならないのか、さっぱり理由が分らない。
六時七分――
出掛けるとしよう。ルートは、8484332。これは曲り角を記憶しやすいように符牒化した、記念館わきに出るコースの番号である。
「石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]《せっけん》が腐った夢みちゃった。」
「石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]は腐らないよ。」
「なぜ。」
「腐るような石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]は、石鹸[#「鹵+僉」1-94-74]じゃないからさ。」
やはりノートも持って出るべきかもしれない。病院の外からわざわざ取りに来てもらったりするよりは、直接外に持出す算段をした方がずっと確実なはずだ。そんな必要が生じた時は、いずれ追い詰められた状況だろうし、なるべく手許《てもと》において、臨機応変に動いた方がいいに決まっている。車椅子の裏のスプリングと、座席の裏地との間にはさみ込んでおくことにする。足まわりの修理の必要でも生じないかぎり、めったに覗いたりはしない場所である。
付  記[#「付  記」は2段階大きな文字]
車椅子ごと、腕に抱えるようにして、人工の岩の隙間から這《は》い上ると、記念館前の広場は前夜祭見物の車ですでにいっぱいになっていた。ほとんど人目をはばからずに石段下まで辿り着いた。
「記念館だ。ほら、屋根の上に、旗をあげる竿《さお》が立ってる。」
「アンテナだよ。」
「竿だってば。」
「両方兼用かもしれないね。」
とつぜん駐車中の車の陰から声がした。
「せっかくの祭日に、旗を出さない旗竿なんてないわよ。」
その声は、瞬間接着剤みたいに、ぼくの靴底を固め、車輪をねばり着かせた。底を割られた樽《たる》のように、闘志が抜け落ちた。まさかと思い、人違いを願いながらこわごわ振向いてみたが、期待には応じてもらえなかった。やはり副院長の秘書だった。
はち切れんばかりになったデパートの買物袋を片手に、こわばり気味の笑顔を浮べて立っていた。はじめて見る、薄茶のブラウスにココア色のスカートは、いつも牙《きば》をむいているような印象をうまく鞘《さや》におさめていて、悪くない。
「筒抜けだったらしいね。」
「君って、だんだん素敵に見えてくる。」
「こっちは命がけだったんだ。」
「だから手間をはぶいてあげたんじゃないの。欲しかったの、これなんでしょ……」
女秘書が、上眼づかいに下唇を咬《か》み、買物袋にかぶせてあった新聞紙をめくった。ぶよぶよした緋色《ひいろ》の布のかたまりが、まるめて突っ込まれていた。娘がひきつけを起した幼児のように体をこわばらせた。
「こわい。」
「欲しくないのなら、捨てちゃってもいいわよ。せっかく陳列棚のガラスを破って、盗《と》って来てあげたのに……」
女秘書は腹立たしげに、地面から拾った小枝の先でその布のかたまりを引きずり出すと、力まかせに振りまわした。車に轢《ひ》きつぶされた緋色の猫の死骸のように見えた。
「それが例の、綿吹き病にかかったお母さんかい。」
「古いフェルトみたいに、ごわごわ。おまけに防虫剤びたしでしょう、防毒マスクでもしなけりゃ、使えたもんじゃないわよ。」
とつぜん娘が、叫びを喉につまらせながら、その緋色のぼろに掴《つか》みかかった。うなり声をあげ、涙ぐんでいた。女秘書は圧倒されて後じさり、ぼくはその激情に嫉妬を感じたほどである。
「よろこんでいるんだよ。」
「私にも、それくらい優しくして欲しかったな。」
あまり気乗りがしていない女秘書の手を借りて、車椅子と娘の間にふとんを敷き込んでやった。緋色のふとんと、機能的な美しさをもった車椅子とは、ひどくちぐはぐだ。娘はふとんの両端をしっかりと握りしめ、項《うなじ》をそらせて鼻詰まりの声で言った。
「虫よけの臭いだから、仕方ないよね。」
疲れが出てきた。石段の端に腰を下ろして、女秘書と一緒に生ぬるいコーラを飲んだ。娘はふとんに夢中で、コーラどころではないらしい。女秘書がスカートの下から突き出した素足を、ぼくの脛に押しつけてきた。
「ピクニックみたいじゃない。」
空は内出血したように黒ずみ、いまにも一と雨やって来そうだ。空瓶をわきの草むらに投げ込むと、誰か女の悲鳴が聞えた。負けずに女秘書も叫び返していた。
「うるさいよ。」
さっぱり気勢の上らない出発だった。ここまで見透されていたのだとすると、収穫なんかあるわけがない。かと言って、いまさら引返しもならないのだ。
記念館前の広場を抜け、公園ぞいに鋪装道路を下って行くと、やがて屋台の列がアセチレンガスの臭いをただよわせながら、歩道をふさぎはじめる。通用門から公園の中を抜けて行くことにした。いぜんとして閑散としたままである。空に白煙が上り、景気づけの花火の音がした。
「この娘《こ》、入院する前の形に戻ってしまったみたいね。」
「これ以上ひどくなる事はないのかな。」
「骨の張力が、どこまで内臓圧を支えきれるかよ。」
「どういうこと。」
「傘の骨が急に融《と》けはじめたら、どんな形になると思う。似たようなものじゃないかな。」
噴水広場では、ハッピ姿のエレキ・バンドが、まだ練習のつもりか気がなさそうに、盆踊り風のロックを演奏中だった。他には、金魚すくいや、しんこ細工の露店が、細々と店開きしているだけだ。びっくりするような太腿《ふともも》をむき出しにしたショート・パンツの看護婦(なぜか制帽をつけている)と、皮膚病にかかった黒犬をつれた片足の少年が、並んでベンチに掛け、板状にねじれて息づいている水のしぶきにじっと目をこらしていた。
足元で水がはねた。噴水が風に吹き流されて出来た水溜《みずたま》りに、小鳥ほどもある桃色の蛾《が》が飛び込んだのだった。
「寒い。」
娘が肩をふるわせた。その肩を緋色のふとんでくるんでやると、田舎道の地蔵のよだれ掛けのように見えた。ぼくの襟元《えりもと》には汗がにじんでいた。
再び公園の正門から、通りに出る。
いきなり薬玉《くすだま》がはぜた感じで、湧《わ》き返るような賑《にぎ》わいが姿を現わした。長い坂道の中腹に近く、かなりの高さになった崖《がけ》っぷちを掘り抜いた感じで、地下商店街が口を開けているのだった。ネオンで縁取られたアーチに〈祝・病院創立記念。見晴銀座〉と大書してあり、娘が両手をばたつかせて歓声をあげた。その周辺には何百台もの自転車が乗り捨てられ、勤め人風の者から、ジーパンの若者、白衣のままの医者や看護婦、一見して病室から抜け出して来たばかりと知れるパジャマ姿までが、人待ち顔に群がっていて、やはり普通の街ではないことを思い知らされる。
前夜祭の会場というのは、ここの事だったのだろうか。
「地下街に、見晴銀座とは、恐れ入ったな。」
「地名よ。崖の上にのぼると、富士山だって見えるらしいわ。」
「危険じゃないか。ちょっと掘り進んだら、すぐに旧館の土台の下に出ちゃうぞ。」
「土台っていうのは、最初っから下にあるものよ。」
「でもこの地下街は、もっと下だろ。」
「分ってないんだな。君が隠れていた、あそこ、旧館の三階だったんだよ。」
「まさか。」
「以前、院長だった人が、病院を建物ごと埋め立てちゃったんだって。空襲神経症か何かにかかって……」
一滴一滴、重さを感じさせるような、大粒の雨が地面を叩きはじめた。娘が口を開けて雨を舐《な》め、ませた口調で歌うように言った。実際に歌の文句だったのかもしれない。
「いくら天気が悪くても、思い出のなかでは、いつもお天気……」
雨をさけて地下街に移動しはじめた群衆に押され、ぼくらもネオンのアーチをくぐっていた。入ってしばらくは、両側にすずらん燈が並んだごく普通の街並だった。やはり病院の中の街らしく、花屋、果物屋、寝具店、手芸材料店などが幅をきかせ、靴屋、眼鏡屋、書店、玩具《がんぐ》店、化粧品屋、菓子屋、文具店、そば屋、タバコ屋などがその間を埋めている。やがて道幅が狭くなった。しかし街は不規則に枝別れを繰返しながら、客を奥へ奥へと何処までも誘い込んで行く。多少難儀させられるような階段もあったが、かまわず先に進んでみた。娘はべつに痛がりもせず、興奮気味にはしゃいでいたし、女秘書もぼくが選んだとおりに歩調を合わせてくれていた。
道筋によって、店の毛色も変ってくるようだ。
自動車のアクセサリー屋、ジーンズ専門店、漢方薬の材料問屋、レコード店、電気製品の安売屋、派手に軍歌を流しているコーラ飲みほうだいのパチンコ屋、ビールの空瓶で道をふさいでいる焼鳥屋、カメラとDPの店、貸本屋、カレーライスとサラダの店、盗聴器専門店、スタンド式のソフト・クリーム屋……
そのスタンドで、チョコレートをまぶしたクリームを三つ買った。娘は片手でふとんの端を握りしめたまま、うっとりとした表情でクリームの頭に舌先を突っ込んだ。時が凍りついていくような悲しい味がした。
狭い路地を一本へだてて、公衆便所の標識が見えていた。そこから先は街のおもむきが一変する。挑発的な看板にネオンが踊り、ゲーム・コーナー、キャバレー、ストリップ小屋などが目白押しに並んでいる。小娘をのせた車椅子を押し、女秘書をはべらせて通るには、あまり似つかわしくないし、ためらいを感じさせる道筋だ。だがこの先には何かしら嗅覚《きゅうかく》を刺戟《しげき》するものがある。もし妻に巡り合えるとしたら、おそらくこの奥をおいてはないだろう。やっと目的地に接近できたらしいという、さしたる根拠はないが、確信めいた予感が警報器のベルを押しつづけていた。
車椅子を女秘書にあずけて、単独行動がとれれば、それに越したことはない。
「君のこと、信用しても、大丈夫かな。」
「大丈夫よ、信用されれば、信用されたようにするから。」
「君が約束を守ってくれたら、かわりに何をしてあげればいい。」
「そんなこと、自分で考えてよ。」
こめかみの間を走った、放電管のような怒りに焼かれ、両方の黒目が縮むのが分った。しかし、いくら信じるとしても、せいぜい二人がソフト・クリームを平らげるまでの時間がいいところだろう。それ以上の時間をまかせる気には、やはりなれなかった。
とつぜん娘が声を上ずらせた。
「先生だよ、ほら、あそこ……」
クリームのコーン・カップが差し示しているのは、スタンドのすぐ斜向いの、不動産屋に似た構えの店だった。金色の切抜き文字で〈各種臓器売買の相談に応じます〉と窓ガラスの幅いっぱいに表示があり、その下に〈採血センター〉〈精液銀行〉〈角膜保険〉などの相場表が、所せましと貼り出されている。ドアには〈娯楽|綜合《そうごう》案内所〉と、あまり目立たない木札が掛けられていた。
相場表の貼紙の隙間から、店の内部が切れぎれに見えていた。眼の位置を娘と同じ高さにしてみると、隙間の部分が多いせいか、左右の視差で補い合って、なんとか判読可能な嵌《は》め絵になる。窓ぎわに、来客用のテーブルがあり、七、八人の白衣を着た医者が輪になってビールを飲みかわしていた。ひげの剃《そ》り残しをさすりながら体を前後にゆすっている者、必要以上に歯を見せて馬鹿笑いしている者、パイプの皿をマッチの軸でほじっている者、それぞれが勝手にふるまっていて、いかにもくつろいだ印象である。女医も混っているような気がしたが、はっきりはしない。その奥にカウンターがあり、不自然に背筋をこわばらせた白衣の男が、中の女と話し込んでいた。女は広い額に、縁無しの眼鏡をかけ、深い襟刳《えりぐ》りで胸の厚さを誇張していて、病院前の周旋屋の真野圭とそっくりである。するとあの背筋を突っ張らせているのが、副院長なのだろうか。
手の中でコーン・カップが、濡れたパンのようにつぶれた。車椅子の下に投げ込み、指についたクリームを舐めながら、女秘書を窺《うかが》うと、やはりぼくと同じ中腰になって、じっと店の中に視線をこらしている。
「副院長かな。」
「そうね。あとは医局の先生たちと、たぶん、人工臓器科の先生よ。」
「ぼくらのこと見付けたら、どうすると思う。」
コーン・カップの端をかじりながら、娘が声をひそめて言った。
「私のこと、うんと叱ると思うな。」
「そんな権利はないさ。やつらにそんな権利なんか、あるものか。」
しかし女秘書は、口をつぐんだままだった。事態をどう受け止めるべきか、高速演算の最中といった表情で、店の中の様子を窺いつづけている。たぶん女秘書は知っているに違いないのだ。連中があそこで何をしているのか、これから何をしようと企んでいるのか。ぼくにだって薄々は察しがついている事なのに、副院長の秘書である彼女が知らないはずがない。ただぼくに話した場合の損得を計算して、口をきけずにいるだけなのだろう。
「帰ろうよ。」
ぼくらの緊張を感じたらしく、娘がおびえた声で言った。
「どこに。」
「どこでもいい。」
娘の頬を撫で、目脂《めやに》をぬぐってやった。指先に片栗粉をまぶしたような感覚が残った。
女秘書があわただしく腰を上げ、あたりに目をくばりながら言った。
「見付かりさえしなければ、べつにどうって事もないんじゃない。」
どうやらやっと、ぼくの味方をする決心をしたらしい。店の中では、白衣の男たちが立上るところだった。車椅子ごと、スタンドの柱の陰に身をひそめ、こんどはオレンジ・シャーベットを一本ずつ買うことにした。
医者仲間は、副院長をまじえて全部で七人だった。真野圭らしい女の賑やかな挨拶に送られながら、一行は足早に道を横切り、向い側の公衆便所にそろって姿を消した。
消えたっきり、誰もなかなか戻って来なかった。シャーベットはすでに半分になっている。この滞留時間はどう見ても大便だ。しかし七人がそろって大便というのは、いくらなんでも不自然すぎる。それに副院長は、例のゴムのコルセットのせいで、普通の型の便器では用が足せないはずなのだ。何か予期しなかったような事件でも起きたのかもしれない。あと二分、いや一分待って、それでも駄目なら中に踏み込んでみてやろう。
二人を待たせておいて、便所の中をのぞいてみる。〈故障中〉の貼紙があり、その下に〈男〉と、かすかに字画の痕《あと》をとどめている目隠しがあった。誰もいなかった。この明るすぎる螢光燈《けいこうとう》と、アンモニヤの異臭の中では、七人がそろって身を隠せるような物陰などありそうにない。変色した男性用便器が六箇、左の壁にそって並んでいた。手前の一つは、黄色い液体で満たされ、虫が一匹、泡《あわ》にすがってくるくる泳いでいる。反対側に三つ、大便用の個室が並んでいた。そこだけが真新しいベニヤで、今夜のために臨時に囲いなおしたものらしい。まさか一箇所に二人、ないしは三人ずつひそんでいるとは思わなかったが、念のためにノックしながら、順に開けて行ってみた。どれも空っぽだった。
ただ最後の扉の中だけが、他と様子が違っていた。便器がないのだ。かわりに四角い穴が開いていて、薄暗い地下に通ずる階段がついていた。天井にも切穴があって、鉄の梯子がかかっている。貨物船の船艙《せんそう》の昇降口の感じだ。連中は、このどちらかから、姿をくらましたに違いない。しかし手懸りらしいものは、まったく発見出来なかった。七人が通過するには、ある程度の時間を必要としたはずである。なぜあの時すぐに踏み込んでみなかったのかと、あらためて悔まれた。公衆便所に入るのに、べつに言い訳なんかいらないのだ。
引返そうとして、出会いがしらに大声をあびせられた。
「故障中って書いてあるでしょ。読めないの。」
案内所の女だった。値ぶみするような目つきで、ぼくを見据えている。ぼくも負けずに値ぶみし返してやる。何が故障なものか。七人の医者を送り込んだのを、こちらはちゃんと目撃しているのだ。しかしここで言い争ってみても始まらない。必要なのは、連中がどっちの道を辿ったのかを聞き出すことである。
「真野さんでしょう。」
相手は気を許すどころか、ますます疑わしげに、眉間《みけん》の小皺《こじわ》を深めただけだった。
「何処かで見た顔ね。病院前の店じゃなかったっけ。」
車椅子を押して追い付いた女秘書が、声を掛けてくれた。
「この人、新任の主任さんなの、警備のほうの……」
覿面《てきめん》だった。そう言えば、病院前の斡旋《あっせん》業者は、警備主任の監督下に置かれていると聞かされた記憶がある。案内所の女は、ばつが悪そうに上唇だけで笑い、後はもう応戦にまわる一方だった。
「おかげさまで、足が早いんですよ、あまりいい賭《か》け率でもないのに、一枚残らず売り切れてしまいましてね。そうですか、新任の主任さんでしたか。ご苦労さまです。つい今しがたも、副院長先生が若い先生方を六人もお連れになって、残りの券をすっかり……」
「連中、何処に行ったの。」
「ご存知のくせに。」
「質問には、ちゃんと答えてほしいな。」
「答えますとも。」
「上、それとも、下。」
「下は機械室だけですよ。まさか……」
「ありがとう。」
しかし女秘書が妙なためらいを見せた。男便所に入るのは、女として抵抗を感じるというのだ。修理中だからという説得にも耳を貸そうとしないので、〈男〉という表示の痕を、用意してきた鉄パイプでこそげ落して、やっと納得してもらえた。
まず女秘書に、梯子を上ってもらい、娘を手渡し、最後にぼくが車椅子をかついで上ることにした。車椅子の重量はともかく、かついだまま通り抜けるには、切穴の広さがじゅうぶんでなかったので、いったん車輪を切穴の縁に引っ掛け、均衡をとりながら頭で押し上げてやらなければならなかった。
途中で娘が泣き出した。痛みを耐えるような、抑《お》し殺したすすり泣きだった。女秘書がうろたえ気味にあやしている。どちらがどちらに嫌がらせをしているのか、車椅子と格闘中のぼくには見極めがつかなかった。咎《とが》め立てはしない事にした。二度とこんな機会を作らないようにすれば済むことだ。
ひんやりとした、土の臭いがする廊下だった。両側の部屋は、すべて板で閉ざされ、人の気配はまるでない。約十メートルごとに、二十ワット程度の裸電球が吊ってあるだけだ。しかし角ごとに、赤いビニールテープで矢印があり、それをたどって行けば、ともかく何処かに辿り着けそうである。それに四日間の隠れ家暮しの経験で、この建物の構造はある程度飲み込めていた。
乾いた粘土のような床が、足音を吸い取ってしまうので、耳にゴム栓をしているような感じだった。そのくせ喋《しゃべ》ると井戸の中みたいに響くので、つい囁《ささや》き声になってしまう。
「君、もちろん知っているんだろ、何があるのか……」
「大体はね。」
「何があるの。」と、娘までが声をひそめた。
「いいじゃないの、」神経質に女秘書がさえぎる。「どうせ用はじきに済むんだから。」
かなり歩いて、直角でない角を曲り、別のブロックに移ったようだ。急にざわめきが高まり、廊下の照明が明るくなった。賑わっている一区画に出た。中庭を囲んだ六つの部屋からなる構造体の、最小単位の一つである。展覧会場のように、その周囲を、かなりの見物客が神妙な足取で時計廻りにまわっていた。途中、誰とも出会わなかったのは、いま来た道がたぶん関係者専用の特別の通路だったせいだろう。
科学記者の解説のような、淡々とした調子のアナウンスが聞えていた。
――予選を通過した六名のうち、トップグループの二名がいぜんとして……は、すでに二十九ステップを終了……ただいま六回、アベレージ九以上の持続、延べ百十四秒と……見せておりません……冷却棒を插入《そうにゅう》して、三分間……との医師団の保証をとりつけ……コンピューターによる予測グラフを参照してみますと、やはりその差は……
見物客に混って、とにかく一周してみることにした。数は少なかったが、女性客もいないことはない。しかしさすがに子供連れは見掛けなかった。
部屋ごとに、掲示板がかかげられ、女の全裸写真が貼ってある。出演者の写真なのだろう。その脇に、磁石で脱着のきく数字板を使って、いく通りかの数字が表示してあった。表示を変更中のところもあった。何を意味しているのかはよく分らない。ドアの上に、〈人形館〉〈津波女〉〈マグマ〉〈白鳥湖〉などと、なぜか三字ずつの名前が派手な色合で大きく書き出されている。たぶん選手の符牒《ふちょう》なのだろう。見物人の大半が、折り畳んだタブロイド版の新聞を片手に、その符牒と数字を見くらべながら書き込みをしていたりして、競輪場なんかの雰囲気とそっくりだ。
〈津波女〉の角を過ぎると、〈マグマ〉の部屋の正面に、飲物や軽食の販売もしている休憩室があった。ぎっしり満員の盛況である。中ほどのテーブル席で、医者らしい白衣の五人が、ポテトチップを肴《さかな》にウイスキーの水割らしいものを飲んでいた。他に、五人とまとまった白衣の客はいなかったから、あれが副院長の連れらしい。副院長自身は、コルセットのせいで椅子席というわけにはいかないから、カウンター周辺の混雑の中にでもまぎれ込んでいるのだろう。
人ごみを利用して、素早く通り抜ける。
次の角が〈仮面女〉だった。名称どおり、顔だけ白くマスクのように塗ってある。それもただの白ではなく、真珠の粉のような艶《つや》をおび、質感がきわ立っているので、顔の表情は完全に殺されてしまっていた。よほど人気があるのか、一段と人だかりが激しい。
「これ、奥さんじゃないの。」
そんな気もしないではなかったが、確信は持てなかった。と言うよりは、認めずに済ませられるのなら、すませたかったのだ。それにまだ、もう一つの部屋が残っていた。足早に角を曲ると、〈火喰鳥〉で、掲示板の写真はまったくの別人だ。するとやはり、前の〈仮面女〉が妻だったのだろうか。全身の毛穴から、無数の蜘蛛《くも》の子が這い出してくるような、いたたまらない気分におそわれる。一応の覚悟は出来ていたつもりだが、どんな覚悟もやはり現実には追いつけない。
もう一と廻りしてみることにした。
〈人形館〉……〈津波女〉……〈マグマ〉……〈白鳥湖〉……どれも妻とは見間違えようがない。そして再び、〈仮面女〉……あらためてよく均整のとれた、美しい体つきだと思った。たしかに妻とよく似ている。しかし本当の妻なら、うしろ姿を一瞥《いちべつ》しただけでも、直観的に判別できるはずだ。このためらいの理由は一体なんだろう。
「他にいないのなら、この女に決まっているじゃないの。」
そうかもしれない。しかし、予選を勝ち抜いたというこのたくましい六人の中に、妻が含まれているという証拠だって、まだ何処にもありはしないのだ。ただ最悪の場合を予想してみたまでのことである。
「でも、おかしいよ。自分の奥さんのこと、そんなに考え込んじゃったりして……」
おかしいだろう。でも妻というものは、いつだって人格の総体として存在しているものなのだ。いくら美しくても、この写真に映っているのは、けっきょく肉体の部分の精巧な繋《つな》ぎ合わせにすぎない。両方を重ね合わせるなんて無理な相談だ。しかも厚く塗り上げられた真珠色の白が、手足の隅々にまで、他人の血を送りつづけている。人格だっていずれ変質してしまっているに違いない。
「三人おそろいとは珍しいじゃないか。君、草稿の清書、片付けてくれた。」
とつぜん副院長がすぐ後ろに立っていた。女秘書はわずかに表情を引き締めたが、べつに驚いた様子もない。
「明日の講演の分だけ、二通タイプして、一通は評議員会の方にまわしたけど……コピーは五部でいいですね。」
「じゅうぶんだよ。」
やはりぐるだったのだろうか。娘が副院長を見上げて、甘えたようなしのび笑いをもらした。裏切られたような気がした。しかしあまり自然な成行きなので、出鼻をくじかれ、出会った時のために箇条書きにしておいたはずの詰問が、一つも出て来てくれない。
「ここの出場者の名前、調べる方法があると助かるんだけどな。」
「そうね、まったく馬鹿気た屋号を思いついたものさ。関係者の中に、トルコ風呂か現代詩でもやっている奴がいるんじゃないのかな。」ふと乱暴に娘の耳をつまんで、冷ややかに言った。「みっともない事になってしまったね、可哀相に……」
見物客の流れが左右に割れて、トレパンに坊主頭の三人組が、ジャンプ・シューズ独特の膝《ひざ》を抱え上げるような走り方で姿を現わした。ぼくらを認めると、三人そろってこめかみに掌を当て、象の耳のようにひらひら動かしてみせた。帯でくくった新聞を肩から掛けている一人に、副院長が声を掛けた。
「一部くれないか。」
「駄目ですよ、明日の新聞なんだから。」
三人組が駈け去り、見物の流れが正常に戻る。
「君、この中の女に興味があるらしいね。」
女秘書がかわりに答えてくれた。
「奥さんかもしれないんだって。」
「なるほど……」副院長は掲示板の写真を見やって皮肉な笑いを浮べた。「しかし、君はまだノートを書き続けているそうじゃないか。」
「しかし、って、どういう意味です。」
「にもかかわらず、というくらいの意味じゃないかな。なんなら、中を覗《のぞ》いてみようか。切符の余分があるから、ゆずって上げるよ。私もこの〈仮面女〉には、ちょっと特別の関心を持っていてね。」振向いて女秘書に言った。「君は、この娘《こ》を連れて、休憩室でコーヒーでも飲んでいてくれないか。」
女秘書がぼくのジャンプ・シューズの甲を、サンダルの踵で踏みつけ、全身の重みをかけながら言った。
「五分しか待たないよ。ちゃんと時計を見ててね。君にうんと優しく触ってもらうつもりでいたんだ。権利はあるはずよ。」
女秘書に押されて遠ざかって行く車椅子の中から、娘が振向き、哀願するようにこちらを見詰めていた。誰を見詰めていたのかはよく分らない。両眼が離れているだけでなく、多少斜視の傾向もあるようだ。涙をぬぐった。足の甲の痛さのせいだったが、副院長は誤解したらしい。
「いまさら君を咎めたりするつもりはない。でも時には、残酷さが必要なのさ。医者は残酷になり、患者はその残酷に耐える……それが生きて行くための法則なんだよ。」
うらやましげに手許の切符を覗き込む、通路の人垣を掻《か》き分けて、〈仮面女〉のドアを押した。四方を黒布で囲われた受付があった。黒布を押し開くと、また次の黒布があった。何重もの黒布を、右や左に(どういう順序になっているのか、いっこうに飲込めなかった)掻き分けながら進んで行くと、やがて白タイルに囲まれた解剖学の階段教室を思わせる場所に出た。正面に、鏡を曲面にそって繋ぎ合わせた半円形の筒があり、ほぼ満員の客席が扇形に取り囲んでいる。
スピーカーから、乾いた無表情な声が流れてきた。
――間もなく三分間の休憩が終ります。どうぞお席におつき下さい。
しかし副院長はどうせ着席出来ないのだ。ぼくも立見に付合うことにした。
場内の明りが消え、円筒の鏡も消えた。かわりに広いベッドが現れた。どうやらハーフ・ミラーで出来ていたらしい。ベッドの上に、看板とそっくりに顔を白く塗った裸の女が、下半身をこちらに向けて横たわっていた。ふるえが体の芯《しん》から、水の波紋のように広がりはじめた。副院長に気付かれまいとして、力をこめると、こんどは奥歯が電気洗濯機のように鳴りだした。
「どうだい、ちょっとしたものだろう。一見きゃしゃに見えるけど、これで二位の〈人形館〉をぐんと引離して、まず優勝間違いなしって言うんだからね。」
片膝を立て、半開きになった股の間に、何やらコードのついた金属の機具が插入されている。膝や、腰や、肩などに貼《は》りつけられた電極が、細い被覆線で枕元の計器に接続されている。そんな格好でも、けっこう火星人の捕虜役を演じている踊り子なみには美しく、魅力的なのだ。
奥から二人、白衣の医者が現れ、股の機具を抜き取り、計器の点検をした。中の一人が、さも仲間内といった気軽さで、女の乳首をつまみ、小声ではげましの言葉を残して行った。女が反射的に身をすくませた。
「すごいじゃないか、ずうっとオルガスム寸前の状態が続いているらしいんだ。」
「治る見込みはあるんですか。」
「病気としても、いわば人格放棄からくる患者病なんだから、治療の対象にもならないし、治す必要も認められないね。」
「ひどすぎるよ。」
「本当に君の奥さんだろうか。」
「はっきりしないんです、どうしてだか……」
「頼りない男だな。ときに、その君の奥さんの件だが……性神経科の連中に言わせると、やはり被姦|妄想《もうそう》の一種だったらしいね。」
「居所、分ったんですか。」
「ほら、ぼくらが一緒に聞いた、例の外来待合室の録音テープ、憶《おぼ》えているだろ。あの澱粉《でんぷん》の袋を倒したような音、やはり奥さんが転倒したらしいんだ。軽い脳震盪《のうしんとう》を起して、気が付くと、いきなりぐるりと白覆面の野郎どもに取り囲まれていた。実はただの外科の処置室だったんだが、奥さんとっさに、輪姦されると早とちりしてしまったらしい。とたんに持続性の発情が始まった。被姦妄想というのは、強姦の恐怖から逃れるための、防衛的発情なんだってね。毒をもって、毒を制すというのか、つまり一種の代償性の発清らしいんだな。」
「下らない。」
「いやに強気に出たじゃないか。」副院長は背筋をそらせて、肩越しに振向き、おどけた駱駝《らくだ》のように上唇をふくらませたり、すぼめたりしてみせた。「そういう君だって、鬼のいない間に結構いい洗濯をしたんだろ。八号室の娘と、何処かの穴倉にしけ込んで、朝から晩まで乳繰り合って……」
「乳繰り合ってなんかいませんよ。」
「そうわめくなよ。」わめいたのはむしろ副院長の方だった。見物の何人かが非難がましくこちらを振り仰いだ。「好きにすりゃいいのさ、あんな小娘。煮て食おうと、焼いて食おうと、君の勝手だよ。そりゃ、ぜんぜん未練がないと言えば、やはり嘘になるかな。たしかにしぼりたての生ジュースみたいに優しい娘《こ》だったさ……でも、この際思い切って乗り換えることに決めたんだ。今夜のコンクールの優勝者にね……オルガスム記録保持者と、馬人間……この組合わせの方が、私の意図もずっと鮮明に出せるだろ。君はどう思う。二、三、意見を聞いてまわった限りでは、全員が賛成してくれたけど……」
「先生の意図のことなんか、まだ聞いてもいませんよ。」
「そんなはずはないだろう。明日の祝典の予定だよ。記念講演の後、馬人間になった私が、参加者全員の前で交尾してみせるんだ。このコンクールの優勝者とね。逆進化の窮極の姿を身をもって示そうというわけさ。」
「まるで怪物ごっこじゃないか。」
「手古摺《てこず》らされるね、君という人間にも。いつになったら健康の醜さを理解できるようになるんだ。動物の歴史が進化の歴史だったとすれば、人間の歴史は逆進化の歴史なんだよ。怪物万歳さ。怪物というのは偉大な弱者の化身なんだ。」
ブザーが鳴った。〈準備中〉の青ランプが消え、〈本番中〉の赤ランプに変った。大柄で色の浅黒い看護婦に案内されて、頭が薄くなりかけた小肥りの中年男が、脇のくぐり戸からおずおずと姿を現わした。気はずかしげに両手でかばっている、勃起《ぼっき》したペニスの上に、陰毛がたてがみのように逆捲《さかま》いている。看護婦がその手をはらいのけると、光沢をおびていたペニスがみるみる艶を失いはじめた。
副院長が軽く舌打ちして言った。
「駄目だな、緊張のしすぎだよ。」
看護婦が中年男のペニスに油を塗り、はげますように一としごきする。再び艶を取り戻し、客席がどっと沸いた。合図を受けて開いた、女の股の間のタバコの脂色の部分に、看護婦が灌腸器《かんちょうき》のようなもので、何か液体を注入する。たぶん潤滑油の一種だろう。女の下腹部から肋骨《ろっこつ》の下にかけて、二、三度、水枕を波打たせたような痙攣《けいれん》が走った。
「先生なら、なにか方法があるんじゃないんですか。あの女の身許なり経歴なりを、詳しく調べ出す……」
「今さらそんなことを言えた義理じゃないだろう。」
中年男が、丸い尻をこちらに向けて、ベッドの上に這い上り、女の股間《こかん》に膝をついた。女が首を右に捩《ね》じまげ、両手を強く握りしめる。その姿勢に憶えがあるような気もしたが、確信はもてなかった。男は不器用に腰の位置を修正したり、首を傾《かし》げたりしていたが、そのままの姿勢で手淫しはじめた。どうやらペニスが萎《な》えてしまったらしい。客席からは失笑が起き、女も首をもたげて男の股間をのぞき込む。
「そりゃ、もっと近くで見れば、分るんだろうけど……」
「そうだ、君がやってみるか。」いきなり副院長が、笑いに声を引きつらせながら言った。「うまくいくと、体が思い出してくれるかもしれないぞ。」
看護婦が注射器を手に、くぐり戸から現れ、恐縮している中年男の尻をぴしゃりとやって、アルコール綿で消毒しはじめる。しかし観客の注意はすでにぼくの方に向けられていた。すぐ前の席の首にギプスをはめた男が、ぼくのペニスに手をのばしながら叫んだ。
「立ってる。こいつ、いい調子に立ってるぜ。」
「いい加減なこと言うな。」
副院長がぼくを通路の下に押しとばした。ステンレスのパイプで組上げられた階段は、一段が四十センチほどもあり、いちど踏み外すと体を支えるだけでもやっとだった。誰かがぼくのシャツの裾を引っ張り、ボタンが千切れて飛んだ。転倒しないためには、無理にさからわず、階段を降りて行くしかなかった。ズボンのベルトが外された。シャツの袖が引きむしられた。チャックが下ろされ、ズボンがずり落ち、足にからみついた。やっと床に辿り着いて、体勢を立て直したときには、パンツと、ジャンプ・シューズと、シャツの背中だけという、かなり馬鹿気た格好になっていた。卑猥《ひわい》な怒号と喊声《かんせい》が、場内に飛び交い、ハーフ・ミラーの中にも届いたらしい。女も肘《ひじ》で上半身を起し、白い首をもたげて、中年男の股の間から外の気配をうかがっている。看護婦が狼狽《ろうばい》気味に奥にむかって合図を送り、中の照明が消えて、ガラスの円筒が元の鏡に戻ってしまった。今度はこちらが見られる番だ。彼女はぼくを認めただろうか……
ぼくは鏡に背を向け、脇の下から鉄パイプを抜いて身構えた。空を切って威嚇しながら、再び階段を上りはじめていた。そろそろ女秘書との約束の五分が切れかける頃だ。いったん引返し、女秘書の了解を取り付けてから、あらためて出直してくればいい。そう自分に言い聞かせながらも、半分は言い逃れにすぎないことをちゃんと自覚していた。ハーフ・ミラーを打ち砕いて突入して行くことだって出来たのだ。だのに退却の道を選んでしまった。理由は自分にもよく分らない。それとも分ろうと努力しなかっただけだろうか。
何度か重い手応えを感じ、悲鳴を聞いた。鉄パイプを振りまわしながら、黒布の仕切の中に駈け込んだ。
仕切の中は、天井に反射している薄明りがあるだけで、のばした手の先を見分けるのがやっとだった。不意を衝かれまいとして、黒布を突いたり叩いたりしながら進んだ。追手が迫る気配はなかったが、仕切の構造は予想以上に複雑で込み入っていた。一辺二メートル四方の囲いの正面に切口があったり、側面にあったりしながら、際限もなく続いていて、どんな規則になっているのかさっぱり分らない。副院長は一分とかけずに通り抜けたはずだと思い、あせればあせるほど、かえって方向感覚が狂ってしまうのだ。
とつぜん黒布の襞《ひだ》をぬって、風が吠えるように、深く悲しげな女のうめき声がひびいてきた。よく晴れた冬の夜、電車の架線に触れてあげる北風の叫びに似ていた。あの中年男が注射のおかげで機能を回復したのだろうか。それとも誰か、選手を交替したのだろうか。ぼくは体ごと、黒布に巻き込まれ、撥《は》ねのけながら、やみくもに前進をつづけた。それが妻から逃れることになるのか、逆に引戻されることになるのか、結果はどちらでも構わないという気持だった。急に声が遠のき、ドアの前に出た。
外は相変らずの混雑ぶりだった。切符を買いそこねた連中が、穿鑿《せんさく》がましくぼくを見据える。誰もが一と目のぞきたがっている場所から、眼を血走らせ、パンツ一枚になって駈け出して来たのだ。怪しむのが当然だろう、鉄パイプをこっそり床に捨て、両腕を腰にあてがい、流れにさからってそのまま駈けつづけることにした。うまくいけばランニングの練習中と見なしてもらえるかもしれない。
休憩室は多少すきはじめていた。しかし女秘書の姿は見当らない。時計を見ると、約束の時間を三十分近くも過ぎている。待ちくたびれて、何処《どこ》かに立去ってしまったのだろうか。ぼくはジャンプ・シューズを使って、天井近くまで跳ね上ってみた。三度目に、奥の隅にうずくまっている薄茶のブラウスと視線が合った。いや、うずくまっているのではなく、車椅子に掛けて、新聞を読んでいたのだ。嫌な予感がした。もう一度飛んでみたが八号室の娘は何処にもいない。約束を破った報復に、娘を投げ捨てるなり、人手に渡すなりしてしまったのかもしれない。ののしりの声を無視して、乱暴に人ごみを掻き分け、まっすぐに部屋を横切った。女秘書は、ぼくを認めると、上から下に笑いをこらえるような視線を走らせ、悪びれもせずに読みさしの新聞を差し出した。
「見てよ、明日の新聞なんだって。」
緋色のふとんと、女秘書の尻の間に、赤味をおびたパテ状の物質がはみ出していた。娘の上に坐り込んでいるのだ。
ぼくは怒りとも痛みともつかぬ感情に我を忘れ、女秘書の腕をつかむなり力まかせに引起してやった。関節が外れるような音がして、女秘書は上体から宙に浮き、大げさな悲鳴をあげながら近くのテーブルの下に倒れ込んだ。車椅子の娘を抱き上げてみると、微《かす》かにうごめき、うめき声をもらした。命に別状はなかったらしい。手足と思われる部分をつまんで、静かに伸ばしてみた。しばらく介抱をつづけていれば、いずれは人間の形を取戻せそうな感じだった。
いきなりトレパン姿の若者が三人、人ごみの中から姿を現わした。一人が女秘書に手を差しのべ、いま一人が空手の構えでにじり寄ってくる。別の一人が脇から音もたてずに拳《こぶし》を突き出してきた。かろうじて体をひねり、攻撃をかわし、娘を車椅子に寝かしつけてやろうとした隙に、正面のトレパンが頭突きの姿勢で突進してきた。しぼり上げるような吐き気を、やっとの思いで飲み下すと、かわりに意識がその吐き気の中に墜落しはじめる。遠まきにしている野次馬の顔が、グラジオラスの花のように赤く見えた。副院長のコルセットよりも厚いゴムの袋に閉じ込められてしまう直前、遠くで歌っている女秘書の声が聞えた。
――九九を言ってごらん。
誰かがぼくのために追悼の辞を読みはじめる。
――二二が四、二三が六、二四が八、二五の十……
闇の中で意識を取り戻した。しばらく手探りしていると、車椅子の車輪に触れ、やっと前後の事情を思い出す。肋骨の下に鈍痛が残っていた。胃をさすりながら、椅子の下のトランクを開け、懐中電燈を取出し、まず娘の様子をたしかめてみた。ふくらませすぎたゴム人形のように変形してしまっていたが、耳を近付けると、かすかに呼吸音が聞える。電気で撫《な》でられたように、全身の毛がそよいだ。やっと二人きりになれたのだという、おおよそ理屈に合わない感情に、思わず涙ぐみかけたほどだ。娘の顎《あご》の下の襞に指を入れて静かにさすってやった。娘が薄目を開け、まぶしそうに目をしばたたいた。斑痕《はんこん》のような乳首に口づけをしてやった。穴のあいたボールを踏みつけたような音が返って来た。
懐中電燈で部屋の中を探ってみた。椅子も、テーブルも、カウンターも、山積みになっていた空瓶《あきびん》や紙コップも、何処かに消えてしまって跡形もない。そのくせ床には何年もかけて積った埃《ほこり》が層をなし、足跡一つ残されていないのだから、昨夜の賑わいがすべて亡霊の祭典でなかったとは言い切れないような気さえしてくる。だが建物の間取は記憶のとおりだし、車椅子の上では娘がつぶれかけていたし、胃のあたりにはまだ頭突きの跡がはっきり残っている。おまけに車椅子のわきには、例の明日の新聞[#「明日の新聞」に傍点]がもみくしゃのまま投げ捨てられていた。
耳をすませてみた。何時《いつ》までも、何処までも、しんと静まり返ったまま、なんの気配もない。
娘を残して、コンクールの会場があったあたりを見廻ってみようかとも思った。しかし戻ってみたら、娘も車椅子も、休憩室の備品同様消えてしまっていたというのでは話にならない。娘に触れると、粉っぽく乾いていた。粘土から形を引出すようなつもりで、つまめる所をつまんでいると、いくぶん人間らしさを取戻して来たような気もした。何かささやいている。声のしているあたりに、耳をよせてみた。
「さわってよ……」
溶けてしまった骨のまわりに、幾層にも肉や皮がたるみ、どこが股間の襞なのか、もう正確には分らない。ぼくは手に触れる襞という襞をさぐっては、さすりつづけた。娘の呼吸が荒くなり、全身が湿っぽくなって、やがて眠ってしまった。
明日の新聞[#「明日の新聞」に傍点]の皺をのばして、床にひろげてみた。一面トップに、二本ペニスの馬人間と、オルガスム記録保持者である〈仮面女〉との、熾烈《しれつ》な交合の模様が微に入り細にわたって克明に描写してあった。馬人間は、二本のペニスを使い分けようとしたが、コルセットのせいで上手《うま》くいかず、けっきょく補助ペニスの使用だけにとどめたが、それでも参加者一同に申し分なく強い印象を与えたという。括弧の中の署名は(馬)となっていた。
しかしまだ始まっていない過去などというものを認めるわけにはいかない。
車椅子を押して歩きはじめた。この建物の構造にはかなり精通しているつもりである。ここはたしか二階だから、上か下への通路を見付け出せばいい。階段はほとんど崩れ落ちているようだから、探すとすればやはり便所の跡だ。ぼくは歩きつづけた。頭の中に地図を描き、線を引いたり消したりしながら歩きつづけた。一区画に一つはあるはずの便所が、なぜかめったに見当らない。たまにあっても、便器がしっかり取り付けられていて、片腕一本通すことさえ出来ないのだ。
何十時間か経ち、懐中電燈の光が弱りはじめた。最初の楽観的な気分が、急な坂道をころげ落ちるように、息苦しいおびえに変りはじめる。盗聴器に電池を入れ、はじめはこっそり呼び掛けてみた。誰に言うともなく、さりげない調子で道を尋ねてみた。
疲れると電池を抜いて、こっそり娘を抱きしめた。時にはぼく自身も勃起することがあった。娘の襞はますます深くなり、人間の形から遠ざかって行くようだった。
ついに懐中電燈の電池が切れた。ぼくは盗聴器に向って、恥も外聞もなくわめき始めていた。呼び掛ける相手は馬だった。自分が病気であることを認め、申し分のない患者になることを、あらん限りの声で訴えつづけた。
もう時計も見えないので、何日たったのかもよく分らない。食糧も底をつき、飲み水もなくなった。それでも疲れると、電池を抜いては娘を抱きしめた。娘はめったに反応を示さなくなった。いずれは盗聴器の電池も切れ、ぼくは誰にも気兼ねなしに娘を抱きつづけることになるのだろう。
ぼくは娘の母親でこさえたふとんを齧《かじ》り、コンクリートの壁から滲《し》み出した水滴を舐め、もう誰からも咎められなくなったこの一人だけの密会にしがみつく。いくら認めないつもりでも、明日の新聞[#「明日の新聞」に傍点]に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて……