たとえば、タブの研究
安部公房
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たとえば、タブの研究
タブというものが存在しているらしい。あいにく、タブについての情報は、まだひどく不十分なものだ。大きさも、形も、ほとんど知られていないのが実情である。
ただ、はっきりしているのは、それがある特定の人物――仮にA氏としておこう――にとって、きわめて重要な存在であり、しかも、A氏以外の者にとっては、まったくなんの利用価値もないということだ。最初ぼくは、誰か親しい者から残された、形見の品のようなものを想像した。辻褄《つじつま》は合ってくれるし、納得もいく。A氏が、問題のタブについて、その重要さの意味を、他人にうまく説明できずにいるというのも、むしろ当然のことだろう。
だが、情報はさらに続けて、A氏にタブを提供しつづけているという、Bなる人物を登場させ、ぼくをすっかり混乱させてしまうのである。タブはそのB氏によって製造され、定期的にA氏に供給されつづけているらしいのだ。ということは、タブが形見のような保存に耐えうるものではなく、なんらかの形でA氏によって消費され、一定の期間をおいてB氏から新製品の補給を受けなければならないことを意味している。つまり、食料や日用品のような、一種の消耗品らしいのだ。それにしても、よく分らない。たった一人の人間のためだけにしか役に立たない日用品。あいにく、いくら考えてみても、思い浮べることが出来ないのである。
腑《ふ》に落ちないと言えば、タブの供給者であるB氏――男女の区別は、聞きそびれた――の存在も、いっこうに釈然としない。タブが、A氏にしか無価値だとすれば、当然B氏にも無用の長物であるはずだ。まして、A氏がタブの使用法を他人に説明できないとすれば、B氏にとっても、われわれと同様、まったく不可解な代物であるはずだ。そんな、用途も効用も分らないタブを、B氏はいったいどうやって製造したりできるのか。
考えられるケースは、一つしかない。B氏がA氏からタブ製法の設計図、もしくは処方箋《しょほうせん》を渡され、自分でもわけの分らぬままに、ただその指示に従って仕事をしているという場合だろう。つまり、まったく職人的な、ただ報酬だけが目当ての請負仕事である。だが、情報は、B氏がタブの製法をA氏に公開伝授できないところに、問題の本質があり、それがB氏の悲劇であり不幸の種なのだと指摘しているのだ。もしA氏がタブを自給自足できるようになれば、B氏もタブから解放されるのだが、それが不可能なばかりに、自分にとってはなんの価値もないタブなどに拘束されつづけているというわけである。べつに報酬目当でもなければ、製造法の出し惜しみをしているのでもないらしいのだ。つまりB氏は、使用目的も分らぬまま、タブの生産に追われつづけ、A氏はA氏で、正体も分らぬままにただ消費をつづけていたということになる。
これはぼくの想像にすぎないが、もしかすると、B氏のタブ製造の作業内容には、なにかまったく意識下の、かなり偶然の工程が含まれているのではなかろうか。多少とも使用方法についての合理的な見通しに立っていれば、その工程を秩序立てて、誰にでも伝達可能な教本をつくることだって出来たはずだろう。しかし、タブのどの部分が、どの性質が、A氏にとって欠くべからざる要素なのか納得できないかぎり、鳥が卵を抱いて雛《ひな》をかえすように、ただその結果を示し、提供するしかないわけである。
さて、ここまでが、夢の中でのタブ研究の成果である。覚めた時ぼくは興奮していた。重大な経済法則を発見したような気がしたのだ。有名な数学者が夢の中で大発見したというような話も、あながち嘘ではないと、ひとりでうなずいたりした。いつものようにテープに吹込んで、半月たった。以下は、そのテープをもとに、覚めた意識で行った推理である。
テープを聞き返して、まず気になったのは、そんな例外的なタブなるものを、B氏の悲劇だとか不幸だとか、ことさら同情的に強調している点だ。たぶんB氏が、心ならずもタブを生産しつづけていることを言いたかったのだろう。それは同時に、二つのことを暗示しているように思われる。一つは、B氏が一方的に製造を中止できないほど、タブがA氏にとって不可欠な物だということ。たぶん、生死にかかわるほど、かけがえの無いものなので、B氏の供給停止が、ただちにA氏の生命をおびやかす結果になるのかもしれない。いま一つは、B氏が、その価値に見合うだけの支払いを受けていないという場合。もし、タブ製造の労力にふさわしいだけの報酬を受けていたとしたら、拘束だとか、不幸だとか、そんな否定的な表現を使う必要はなかったはずである。現代のような分業社会では、多かれ少なかれ、誰もが結果の見えない労働によって賃金を得ているのだから。
おそらくB氏は、もっぱら道義的な見地から、タブ供給者の運命に甘んじているのだろう。だが、このことは、かならずしもA氏の優位を意味しているわけではないのだ。B氏にとって、タブが重荷であるということは、とりもなおさず、A氏にじゅうぶんな支払能力がないことを物語っている。A氏は、B氏のお情けにすがって、やっとタブにありついているに違いない。タブがB氏にとって負担であるなら、A氏にとっても、おなじく不安の種であるはずだ。人道的見地など、なんの役に立つものか。B氏がインフルエンザで寝込みでもしたら、それっきりである。いくら餓死寸前だろうと、レストランで無銭飲食をはたらけば、罪に問われるのはやはり彼の方なのだ。
A氏はたぶん、卑屈な態度で、B氏にタブの供給を哀願しつづけているのだろう。B氏は、それに対して、しぶしぶ仏頂面の応対をしているのだろう。だからと言って、二人が主従の関係にあるとはかぎらない。B氏にとって、得るものは何も無いのだ。強いて言うなら、二人の関係は、互に鎖でつながれた、奴隷どうしのようなものだろう。
この二人が、相手から自由になろうと思えば、タブの鎖を絶ち切ってしまうしかない。たとえば、A氏以外にもタブの利用者を探し出して、タブをもっと一般的な非タブ的存在の中に拡散させてしまうのだ。せめて十万人のタブ利用者が現れてくれれば、B氏はそれで商売が成立つ。A氏もずっと気が楽になるはずだ。
だが、A氏自身にも説明不可能なタブの効用を、どうして世間に宣伝したり出来るだろう。タブが例外的な存在であるように、A氏とB氏の関係も、とにかく例外的でありすぎるのだ。同情はするが、これ以上かかわり合ってみても仕方がない。われわれ非タブ的存在のなかで暮している者にとっては、結局どうでもいいことなのだ。せっかくの夢の発見も、どうやら糠喜《ぬかよろこ》びにすぎなかったようである。
いや、その気になれば、さらに合理的で現実的な説明だって出来なくはない。たとえばタブが、A氏とB氏との間だけで仮に取り決められた符牒《ふちょう》にすぎなかったとしたらどうだろう。そっくり同じものが、別の人間のあいだでは、また違った名称で呼ばれているために、タブ、ならびにタブに準ずる一切のものが、世間から不当に黙殺され、相応の扱いを受けずにしまっているのだという見方だって成立つはずだ。興醒《きょうざ》めもいいとこである。どんな場合にも、一般化できない例外を認めたがらないのが、ぼくの悪い癖らしい。世間の何処《どこ》かに、どうしても共通の話題にしえない運命があったからといって、べつに気に病むことはないだろう。
白昼の意識は、しばしば夢の論理以上に、独断と偏見にみちている。