安藤鶴夫
巷談 本牧亭
目 次
春高楼の
女あるじ
生きる
ある初夏に
梅雨
三越名人会
つばめの唄
晴れた日に
梅雨また
金魚玉
会いろいろ
夜がらす
甘酒
ある恋の物語
寒い日
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春高楼の……
浅草行きのホームを上野広小路で降りて、それでなくっても忙しそうな年の瀬の人波を分けて、近藤亀雄が地下鉄の階段を上り切ったら、やわらかなオルゴールの音が広小路一帯に流れている。
春高楼の花の宴
と鳴ってから、つづいて、
めぐる盃かげさして……
というメロディーである。
電車通りの向ッ側の赤札堂が、毎日、夕方の六時というと知らせるオルゴールである。
芸のことはむろんのこと、日常の茶飯事にも、なにかというと、間《ま》がいいとか悪いとか、すぐに文句をつける近藤亀雄は、オルゴールの間がいかにもよかったことにご機嫌になった。
家かずにして九軒ばかりの舗道を、上野公園の方に向かって歩くと、角に、白い時計台のある交通公社がある。
もうすっかり暮れきった冬の夜空に、白い文字盤の針が六時をさしている。
めぐる盃かげさして……
というメロディーのおわりのところが、まだ尾をひいていた。
「へええ、荒城の月か」
そこで、改めて、そう思った。
さき一昨年《おととし》の秋から、赤札堂が屋上のスピーカーから流しているオルゴールだが、そんな時間に、上野の広小路を通ったことがなかったから、今夜がはじめてのことなのである。
その交通公社と根岸カメラ店の横丁を左へ曲がると、左ッ側に、ほんの一と足で、かわいい幟《のぼり》を立てて、本牧亭(ほんもくていがある。
今夜は五時から、例年の通り、本牧亭と講談組合の忘年会をやっている。
案内の葉書には、会費五百円。酒、弁当、甘味つきとあって、余興、若手競演、その他かくし芸と書いてあった。
夏、糖尿と高血圧を発見されてから、五十|面《づら》をさげて、はじめて自分のからだのことを考えはじめた近藤亀雄は、ことしは、まずたいていたのしそうな忘年会もみんないかなかった。
斗酒なお辞せずの大酒のみが、やめたから、野郎きやアがらねえといわれるのは癪だし、それにのまないでも、酒席はけっしてきらいじゃアないのだが、へんに、ひとりで気をつかう男だから、のんでいた時分より、もっと、あとで、気が疲れる。かたがた、もう、わがままをさせてもらうことにした。
が、今夜の本牧亭の講談忘年会には、葉書がくると、すぐ、出席の通知を出した。
木戸へ顔を出すと、赤いスウェーターに、ブルーのスラックスをはいて、いつもリンゴのような赤い顔をした木戸番のおしげちゃんが、
「先生、ちょうどいいとこ!」
といった。
これから、ことし文部省の芸術祭で、大賞をとった服部伸のお祝いがはじまるというのである。
近藤亀雄は急いでオーバーのポケットへ、桂三木助から教わって、銀座のトラヤで買ったおそろいのマジック・ベレをつっこむと、梯子段を上っていった。
マジック・ベレというやつ、五厘刈りの、くりくり坊主にとっては、すっぽり耳まではいって、あッたかくって、離せないという妙なしろものなのである。
上がると、左に、お茶だの、せんべいなんかを置いたちいさなお茶番の板の間がある。
白い割烹着《かつぽうぎ》を着た女主人のおひでさんが、みつけて、
「すみません、お忙しいのに」
といいながら、軽いこなしで、近藤亀雄の席をみつけようとした。
もう、あしたッから数え日(年の瀬、新年までの日数が、指を折ってかぞえられるまで残り少なくなったことに)なるという晩なのである。
「お神さん、ここがいい」
そういって近亀《こんかめ》は、はいって、すぐのはじっこの席にすわった。窓を背にした客と、向かい合いの場所だから、高座や客席をみるためには、からだをはすにしたり、うしろ向きにしなければならない席である。
高座の前で、のどに白い布を巻いた神田|松鯉《しようり》が、いつもの口癖で、
「だによって、本牧亭さんとわれわれ講談の組合から、服部さんにお祝いの金一封を上げようてえんだが、……ほんとうは、あたしがもらいたいよ」
といった。
春高楼の…… 泣くの、笑うのの色ごとで、からだ中をみがいたような、色の白い、あくの抜けた、いなせないい男前の老人である。
手に、紅白の水引きを掛けた金一封の包みを持って、松鯉はなかなか、それを渡そうとはしなかった。
前に、これも立ち身で、いつものように茶の羽織を着て、いつものように茶の袴をはいた服部伸が、あいているのか、あいていないのかわからないような細い目をして、それでなくっても猫背を一層前こごみに、ちいさくなっている。
明治の浪曲の世界で、節《ふし》の奈良丸、タンカの辰雄《たつお》、声のいいのが雲右衛門≠ニうたわれた一心亭辰雄である。
関東大震災のあと、浪曲から講談に転向したが、タンカというのは浪花節の世界でいう話術である。
芸人とは思えない謹厳実直な伸は、目の前に金一封をちらちらさせながら、
「ねえ、この年の暮へきて、こんなものをもらうなんてなア、あたしゃうらやましい。やだよ。やりたくねえよ」
といって、笑わせている松鯉の前で、なんにもいわずに、笑い顔をうかべて、困惑していた。
「おう隠居ッ、けちけちするねえッ」
という声が、もう酒のまわった客席の奥から聞こえて、また、一座がどっと笑った。そうしたら、
「じゃア、仕様がねえから渡しちゃおう」
そういって、松鯉が渡した。
「ありがとう存じます」
服部伸がそして、金一封の包みを押しいただくようにすると、
「よッ、一心亭辰雄ッ」
とまた声が掛かった。さびのあるいなせな声で、さっきから、すっかりもうご機嫌の、石初《いしはつ》の隠居である。本名を岩井初五郎。谷中の上《かみ》三崎町から通ってくる本牧亭の定連《じようれん》のひとりである。
大きな拍手が起こって、松鯉や伸が、ようやっと、高座のまん前の席に、舞台を背にしてすわった。
年とった講談の先生たちをいたわって、坐椅子が置いてあった。
ちょっと足の悪い松鯉は、坐椅子へ背中をもたせかけると、前に二本膝ア立てて、両膝をかかえこむようにしながら、となりに、弁当もひろげずにちょこなんとすわっている桃川燕雄《ももかわえんゆう》に、
「だって、ほんとうなんだから仕様がねえ」
と、愛嬌のある笑いを笑ってみせた。
芸術祭賞をとったお祝いの金一封を、
「やだよ。やりたくねえよ」
といったのは、実感であるという意味なのであろう。
膝ンとッからメリヤスのももひきをのぞかせてすわっていた燕雄が、目をくちゃくちゃさせて、こどものようなかわいらしい笑い方をしてみせたが、べつに、そうだ、とも、そうですなアともいわなかった。
「では、めでたく服部先生のお祝いもすみましたので、これから、いつも講釈をうかがってる連中のかくし芸に移りますが、どうかひとつ、お客さんも、今夜は芸をお出しなすって下さい」
司会の一竜斎貞丈がそういってから、めがねをきらきらッとさせて、
「石初のご隠居さん、あとで、なんか出して下さいよ」
というと、ちょきがかり(軽快に、さっと)に、
「おいきた」
と、さびのある声が応じた。
本牧亭ができてから、長い間、お茶番をとり仕切っていた働き者の木村さんが、今夜はちゃんと会費を払ってお客さまできている。ついこの間、良縁があって、本牧亭から出ていったひとである。
となりの近藤亀雄に、
「のめなくなっちゃったんですってねえ」
と、かわいそがるような調子で、ジュースをついだ。
近亀《こんかめ》はジュースを一と口のんでから、折りの蓋《ふた》をあけてみた。
コロッケ、鳥の足の揚げもの、ソーセージ、玉ねぎと海老の油でいためたのを串で通したやつに、野菜サラダという洋食弁当である。それに大関の一合の鑵入りと、紙へ、ねり菓子がのせてある。
長いラワンの板の上に、白い布《きれ》を敷いて、そんなものが、一人一人の前に置かれてあった。
いつもの、本牧亭の空気とはまるッきり違ったそんな中を、お茶子《ちやこ》が土瓶に入れた酒をついでまわる。
時間ぎりぎりまで、四谷のうちで仕事をしていた近藤亀雄は、ひるも、ろくずッぽたべものらしいたべものをたべてはいないので、腹がすいていた。
つめたくなったコロッケを、割りばしで口へはこんでいると、
「余興の一番乗りは、ひとつ、あたくしに……」
といいながら小金井|芦生《ろせい》が高座に出てきた。赤羽の駅前で、靴みがきをしている男だが、靴みがきが本業か、講談が副業か、そこはよくわからない。高座の中央には、いつものように、ぴたりと釈台《しやくだい》が置いてあるのも、いかにも本牧亭である。
「あたくしのは声色《こわいろ》じゃアなく、自声《じごえ》というやつで、白浪五人男、稲瀬川勢揃いの場をうかがいましょう」
と、問われて名乗るもおこがましいが、とはじめた。
誰も聞こうというのがいなくって、
「おう、今夜ア講談はやめだよ」
と声を掛けたのは、浅草の鳥越《とりこえ》から通ってくるこれも定連《じようれん》の紋啓《もんけい》である。
来年は喜の字の祝いだという紋啓は、衣類に紋を書かせたら、まず、広い東京にも、もう二人とはいまいという名人|気質《かたぎ》の職人である。
すぐ、高座から、芦生が、ちょっとやめて、
「講釈じゃアありませんよ、今夜ア芝居ですよ、芝居……」
「なんだ、芝居か」
本人は芝居のつもりだろうが、それがそっくり講談の調子だからである。
近亀《こんかめ》はときどきうしろを向いて、客席中をみまわしてみた。
五十面を下げた自分が、この中ではまだ若い衆《し》で、あと、二人ばかり学生服を着たのがいるのは、まったくの例外である。
そういえば、近藤亀雄のすぐ目の上に、この春やった講談長寿会≠ニいう会の写真が、額にはいって掛かっている。
その写真に、邑井《むらい》貞吉(八十六歳)服部伸(八十二歳)神田松鯉(七十七歳)木偶坊《でくのぼう》伯鱗《はくりん》(七十七歳)小金井|桜洲《おうしゆう》(八十五歳)とあって、そのうち桜洲は、この会があって間もなく、死んでしまって、講談組合のたばねをしている頭取の貞吉も、暮から病気をしているので、今夜は顔をみせてはいない。
算術のヘタな近亀は、へええ、となんだかいちどおどろいてから、鉛筆を出して、コロッケのくるんであった包み紙の上で、筆算をしてみた。
合計、四百七。五人で平均年齢を出してみると、五八《ごは》四十、一五《いんご》が五で、二つ余って八十一歳となった。
長老五人の講釈師の年齢を平均すると、八十一歳であることに、近藤亀雄は改めてびっくりし、
「へええ」
と、こんどは声に出しておどろいた。
となりで、まわりの客に酒をついだりしていた木村さんが、近亀の「へええ」というひとりごとをききつけて、
「なに? 先生」
といった。
「いえね、このさ……」
と、額に掛かった写真を指さして、
「この写真、おどろいたね、五人を平均すると八十一ンなる」
「なにを感心してるのかと思ったら……」
と、近亀の筋向かいにすわっている石初《いしはつ》の隠居の茶碗に、酒を足しながら、
「ねえ」
と石初に、
「なにをいまさら」
と近亀にいった。
そしてまた今夜の、この本牧亭の講談忘年会に、集まった客である。
講釈師が十人ぐらいと数えて、あと、四十人ばかりの客の平均年齢を数えたら、いったい、いくつになるだろう。
そのことで、なんだか、講談の芸というものの運命が決定するような気がして、近亀は、
「それアそうだけどさ」
といいながら、残りのコロッケを口へはこんだ。
突然、一角から鉄道唱歌の声が起こった。
白浪五人男を終わった芦生が、こんどは鉄道唱歌をはじめて、それに、客席の一角が和してうたいはじめたのである。
汽イ笛一声新橋を
はやわが汽車は離れたりイ
あーたごのやアまに入りのこる
つウきを旅路の友としてえ
近亀も、すぐそのうた声に和していっしょにうたいはじめたが、こどものときから、どういうわけだか愛宕の山に消えのこるとおぼえちまったので、そのあと、しばらくだまってしまった。
平均年齢六十五から七十とおぼしい本牧亭の定連たちが、わずかな酒にもうすっかり酔って、少年のころにうたった鉄道唱歌を合唱しはじめたのである。
広小路の地下鉄の駅を上ったとたんに、オルゴールの春高楼ときて、こんどは汽イ笛一声新橋をである。
近亀は時間をやりくっても、きてよかったと思った。
うたの切れめで、筋向かいの石初が、
「おい、横浜までやれよ」
と、高座の芦生に声を掛けたが、みると、これも七十をとっくに越したと思われる深いしわのある顔で、一杯に口をあけながら、
ゆうきは消えても消えのこる
名は千載ののちまでもオ
とうたっている。
すぐ、鉄道唱歌の合唱は、講談忘年会の出席者の、みんなのうた声になった。
それが近藤亀雄には、まるで本牧亭というドラマのテーマ・ソングのようにきこえた。
しかし、もう四ばんめの、梅に名をえし大森をすぐればはやも川崎の、となると、がたり、うた声の数がへっていって、そのうちに、すうッとしりつぼまりに終わってしまった。
余興の皮切りの芦生が、それで降りると、色の白い丸顔の神田|光庸《こうよう》が、もう、顔をてかてかさせて、
「こんどはあたしがものまねをやる」
といいながら、客席から立って、いちど高座の横を通って、改めて、高座のうしろの杉戸をあけて、にこにこ笑いながら出てきて、すわった。
「ええ、はじめに、只今入院中の講談組合頭取、邑井貞吉先生をうかがいます」
「待ってましたッ」
と、両手を釈台の左右に張って、かん高い、きれいな調子で、
「今晩はまた、ええ、例年の行事といたしまして、講談の、忘年会でございますが、かてて加えて、また、服部伸さんが芸術祭賞をとられたという、お祝いのお集まりでございます」
「そッくり」
「わたくしはただいま、かりそめのやまいに倒れておりまするが、この席上から、本牧亭の御定連様方に対しまして、ふだんの御厚情を深く御礼申し上げますとともに、服部さんの受賞を、心からお喜び申し上げる次第であります」
気取って、ちょっと切り口上になるところなんかも、そっくり貞吉である。
やんやという喝采《かつさい》に、いい気持ちになった光庸が、こんどは服部伸のものまねをはじめた。
伸は、一心亭辰雄の浪花節の時分から、いつでもめくらの芸人のように、両眼をとじて、苦しそうに発声をするひとだったが、両方の鼻をすぼめて、ほそい調子を一杯に出すくせも、よくとらえて、
「先輩の諸先生方も、大勢さんいらっしゃいますにも拘りませず、わたくしなどが今回の賞をいただきましたのは、夢かとばかり思われまして、まことに、身に余る光栄に存じまする」
と、そっくり、つい、さっき、高座の下の客席で服部伸がしゃべったとおりのことをまねて、これもたいへんな拍手である。
近亀がうしろをみまわすと、もう服部伸の姿はみえなかった。
「では、おあとはひとつ、三代目神田|伯山《はくざん》」
と光庸がいうと、高座のまん前で、背中を向けて、坐椅子によッかかっていた松鯉が、
「おいおい、できンのかい?」
とちゃちゃを入れた。
「さ、これでいきおいをつけてッ」
木村さんが近亀のとなりから、一杯に酒をついだ湯のみを持って立ち上がると、客席から釈台の上にのせた。
「おなじみ清水の次郎長」
とまき舌ではじめたが、すぐ、
「駄目だ、似てねえや」
と頭をかいて、止めた。
本牧亭の女主人のおひでさんが、遠くの方から近藤亀雄に、
「先生、なんかやって下さい」
といった。
まるッきり、しらふの近亀は、いちど、ちょっとためらったが、立ちながら、
「じゃア、やりさびをひとつ」
そういって、舞台の裏にまわった。
舞台裏に、色ものの下座をしているお千代さんが、ひとりぽつんと、三味線を持って待機していた。
「野崎の上がりを弾いて下さい」
近亀が註文した。
桂文楽がいつも使う上がり(落語家が高座へ出る時の出囃子)の三味線である。
すぐ、野崎の上がりになった。
少し、聞いて、洋服の近亀先生が高座に出ていって、下座一杯に、ぴたり、釈台の前でお辞儀をした。
「ええ、一杯のおはこびさまで、厚く御礼申し上げます」
生まれて百五十日目に、医者から母親がはじめて外出を許されたとき、赤ん坊の亀ちゃんを連れて出掛けたのが、日本橋の薬師の境内《けいだい》にあった宮松亭《みやまつてい》という寄席である。
四つのとき、薬研堀《やげんぼり》の立花家という寄席の帰りに、婆アやの背中におんぶしていた亀ちゃんが、
「婆アや、さっきの都々逸《どどいつ》、間がのびたね」
といったというので、それがいまでもひとつばなしに残っている近亀である。
めったにやったことはないが、いまでも、茶の間で、たまには寄席のまねを娘たちにしてみせたりして、
「こんど、寄席に連れてって」
といわれながら、まだ、娘たちはいちどぐらいしか、連れていってはいない。
よっぽど、ご機嫌だったとみえて、
「楽屋のお千代さんにトーンとひとつお三味線を弾いていただいて、音曲噺《おんぎよくばなし》てえとこですが、かけもちの都合で、今晩はやりさびを二個がところお聞き願いましょう。さ、では、おそまつなやりさびをひとつ……」
お千代さんの、調子の高いやりさびの三味線がはじまった。
近亀は、死んだおやじから教わったやりさびで、好きな文句が三つ四つある。
ひとつは、鳶《とび》はさびても名はさびぬ昔アめ組のまとい持ちええさアさよいよいよいよいええよいやさというのも、そのうちのひとつである。
酔って、よっぽどうれしくなると、用いる唄である。
それをやって、すぐつづけて、もうひとつ、身不肖なれどもという油屋の福岡|貢《みつぎ》の文句をうたった。
身不肖なれども福岡貢女をだまして金とろかええさアさまままま万呼べ万呼べ、と、ちょっと字余りになって、ええ万野呼べというやりさびである。
芸者の三味線なんかとは違って、こッちの唄にへんにさぐりを入れたりしないで、堂々とぴたり弾いてくれるので、お千代さんの三味線は、さすがにうたい心地がよかったとみえる。
近藤亀雄はうたいながら客席をみていると、へッ、いやに乙《おつ》う気取りゃアがってという顔だの、じいッと、どんなことをいやアがるかという顔だの、少しばかり感心しているような顔だの、いろいろな顔がみえた。
本牧亭の舞台は三十五年の四月に、いまのように改築されたとき、間口、二間だったのを二間半にひろくしたが、その昔の、ちいさな舞台のときに、ここで、近亀は義太夫を一段語ったことがある。
田辺|南鶴《なんかく》のやっていた寄席大学という会で、南鶴の講談のほかに、村上元三が世話講談を一席読んで、近藤亀雄はおやじの三味線で梅川・忠兵衛新口村《にのくちむら》≠フ段を語った。
おやじは明治、大正の時代に、八丁荒らしとうたわれた義太夫の竹本朝太夫・豊沢松太郎の一座で、美声と、いきな節まわしで人気のあった竹本都太夫である。
晩年は素人《しろと》に稽古をつけながら、ほそぼそ暮らしていたが、せがれの近亀の三味線を弾くのがなによりの楽しみで、せがれも、大学を出たての、まだ、いまのような雑文業などになる前は、三日にいちどは、浅草、下谷、本所、深川の貸し席を、素人義太夫の会に出て、おやじの三味線で語り歩いたものである。
戦後は自前の見台から肩衣まで一切の道具を焼いちまって、すっぱり、義太夫を語ることと縁を切ったが、おやじはときどき未練たらしく、
「たまにゃアやらねえか」
とさそいをかけた。
南鶴にたのまれて、かたがた、めずらしく親孝行も兼ねて義太夫を語る気にもなったのだが、そのときは、二人で並ぶと舞台がせせッこましく、なん年ぶりかで語ったということもあって、ひどく、やりにくかったものである。
今夜はひろく、あかるくなった舞台で、
身不肖なれども……
と、ご機嫌でやりさびをうたっているうちに、そのいろいろな客席の顔の反応をみていて、すぐ、あ、あれだなと思った。そういう近亀のカンは、いつでも狂いがないのである。
近藤亀雄は長い間新聞の演芸記者をしていたが、いまは、朝夕《ちようせき》新聞に劇評を書かせてもらっているほかは、フリーな立場で、いろいろな文筆や、たまにラジオ、テレビでおしゃべりをしている。
そんな中で、もう長い間、毎年、秋になると、文部省が主催する芸術祭の執行委員と、審査員を仰せつかっている。
こんどの、服部伸の芸術祭賞は、この本牧亭の高座で開かれた古典講談|老若《ろうにやく》競演会≠ニいう出演者の中から選ばれたもので、近藤亀雄もその審査の一員になっていた。
明らかに、その服部伸の選賞に不満な顔が、いい間《ま》のふり(いい機会だというふりをして)にやりさびをうたっている近藤亀雄の目にうつってきたのである。
だから、うたいながら、あ、あれだなと、ぴんときた。
むろん、近藤亀雄の筋向かいにすわっている石初《いしはつ》の隠居の岩井初五郎のごとき、特別に、服部伸の芸術祭賞を心から喜んでいる者もいたが、全部が全部、そのことを喜んでいる者ばかりとはいえなかった。
芸術院の会員になりたいばかりに、芸の方はみるみる落ッこちる一方で、そのくせ、そのことばかりを考えて、半狂乱になっている芸人のいることも、近藤亀雄は知っている。
戦後、なんとか賞、かんとか賞と、いろいろ選賞制度が多くなって、そのために多くのひとが出ていく一方、自分のところへくるものとばかり思っていて、いつまでもそれのこないことにいらだって、あきらかに芸の落ちてゆく芸人の多いことはひどいものがある。
芸の世界の一隅に仕事を持っている近亀は、始終、目の前にそれをみせつけられて、いつでもまっくらな気持ちになった。
講談という、日本でたった一軒の、本牧亭という孤塁に依《よ》っている瀬戸ぎわの芸の世界でも、やっぱり、おんなじことだったのかと思ったら、客席が急にくらくなったような気がして、近藤亀雄はやりさびをうたい終わると、さッと、高座を降りた。
席に戻ると、新派の大矢市次郎のような顔をした石初が、
「先生、うめえな」
といって、近亀のジュースの上へ酒をつごうとした。
もういちど、酒がのめなくなッちゃったんで、ごめんなさいといいわけをして、石初の茶碗に酒をついだ。
あとには、どこかのお神さんが、
「こんだ、あたしがやりさびを踊るよ」
といって高座に上がっていた。
なにしろ、昼飯もろくずっぽたべないで、本牧亭へかけつけてきた近亀である。
腹がすいたせいもあると思って、まわりにもなるべく気取《けど》られないようにうまアく立って、さりげなく階段を降りた。
おひでさんの渡してくれたオーバーを着て、マジック・ベレをすっぽりかぶると、
「お神さん、よいお年をお迎えなさい」
「先生も、よいお年を」
そういって、置いてきた鑵詰めの酒と、紙にくるんだお菓子をひとつ、
「ほこりがついちゃったと思いますけど」
と渡した。
クリスマスと正月飾りのごッちゃになった上野広小路の商店街の軒には、かさこそと、竹が軒に鳴って、なんだかせっかちにジングル・ベルがきこえている。
さて、どこで飯を食おう。近藤亀雄はオーバーに手をつっこみながら、広小路の四つ角へ急いだ。
風月の二階に上がった。看板の早いここの店は、もうすぐしまいである。
料理を待ちながら、一服つけると、なにかたまらない孤独感がじわじわと迫った。
まだ、二十人ばかり、本牧亭の客席に残っていたが、すっかり、もうどがちゃかである。
石初の隠居は、うしろへ敷くようにして脱いでいたこげ茶の道行《みちゆき》を着て、上から黒の襟巻を手早く首にまきつけると、洋食弁当のソーセージをつまんでいる木村さんに、
「おさきへ」
といって立ち上がった。
木村さんは、すぐ、
「あら、まだお早いじゃアありませんか」
といったが、無理にはとめなかった。
梯子段の降りぎわにも、女主人のおひでさんから、
「おや、もうお帰りですか」
と声を掛けられたが、ほろッと、酒がまわったとみえて、
「ああ、待ってるんだ、いいのがね」
と、めずらしく冗談めいたことをいった。
おしげちゃんの出してくれる下足を待っていると、黒い角袖に、薄茶の襟巻を大仰《おおぎよう》に着た紋啓が、追いかけるように降りてきたのに逢った。
「紋啓さん、ちょうどいい。ちょいと、ちょいとつきあって」
といいながら下駄をつッかけた。
「これから谷中《やなか》だろ? 帰るがいいんだ」
と紋啓がいったが、そのくせ、十分、色気のある気配である。
「いいよ、ちょいとだよ。いいじゃアねえか。今夜、あたしゃア、誰かにしゃべらねえじゃアねむられない話があるんだ」
「つきあうよ。つきあう」
そういって、紋啓も一緒に本牧亭の表へ出た。
石初が谷中で、紋啓が浅草の鳥越《とりこえ》だから、ほんとうは二人とも、広小路の電車通りへ出るのが道順だが、石初は逆に左へ折れて、ちょっと、つきあたりのスキヤの前に立ちどまった。
老夫婦二人ッきりの、うまい洋食をたべさせるが、慾がなくって、早く店をしめるうちである。もう、あかりが消してあった。
「いけねえ、看板ときた」
石初はそういって、一と足遅れて歩いてくる紋啓に、
「なんかあるよ、大丈夫だよ」
といった。
「やだよ、あたしはカフエーだのバーなんてえなア」
「わかってるよ、大丈夫だよ、あるよ」
おんなじようなことをいいながら、また左へ曲がった。
ぎっちり、小体《こてい》な飲食店ばかりが並んだ横丁である。
すれ違いにバーからギターの流しが、寒むそうな顔をして出てきた。
「あったよ、あったじゃないか」
得意そうに石初が振り返った。
江戸の辻あんどんを置いて、その障子に、お好み焼き・ささふねと書いてある。
硝子の入ったこまかな格子戸の外で、のれんが師走の風に動いている。
「お好み焼き? やだよ、あたしゃどんどん焼きなんて」
すぐ、紋啓が立ちどまるのを、
「だって、お好み焼きなんて、入ったこたアねえだろ?」
と、石初の隠居が、入口を指さしてみせた。
「ないよ」
「だから古いてえの。なにもおめえ、お好み焼きだって、おれたちじじいが入ッちゃアいけねえというわけアねえんだろ?」
「そうだけどさ」
「いいじゃアねえか、こんな時でもなけれア、いい間《ま》のふりに入れるところじゃアねえ」
格子へ手を掛けながら、それでも、もういちど紋啓を振り返るようにして、
「入るよ」
といった。
およそ、らしからざる客である。
なにを入れているのか髪の毛を束《そく》に上へつッ立てて、まッ赤なスウェーターを着た十八、九の女が、いらッしゃいともいえずに、びっくりした顔をしている。
その様子にけおされて、石初は、
「たべさせてくれんだろうね?」
と訊いた。
それではじめて客だと気がついて、そうかといって、あわてたところなんか毛ほどもなく、ひややかに、
「どうぞ」
といって、すぐ、台所ののれんをくぐって入ると、大きな声で笑い声を立てた。
「だからね、だからあたしゃアいやだといったんだ」
「いいよ、仕様がないよ、大丈夫だよ」
と、なんだかわけのわからないような、心細いことをいいながら、みると、鉤の手にうなぎの寝床のような座敷があって、ちいさく仕切られている。
「いいかい? ここへ上がるよ」
と、まだ笑い声の消えていないのれんの奥に声を掛けて、上がって、座蒲団を自分で敷く前に、もう一枚を紋啓にわたした。
四角な台が置いてあって、ガスをひねると、上の鉄板が焼けるようになっている。
「孫からね、お好み焼きやの話だけはきいてるんだ。おもしろいじゃアねえか」
「おもしろかアねえや、きっと、天神様から、形代《かたしろ》かなんか持ってきたとでも思やがったんだろう」
「いいよ、おこるんじゃないよウ、天神様でもなんでもいいじゃアねえか」
「よかアねえ」
そこへ、けろッと笑い顔を忘れたような、なんともいえないぶッちょう面《づら》アして、さッきの女が、
「御註文は?」
と、でも、御の字をつけた。
「なにができるい?」
と石初はちっともご機嫌を損じてはいない。
たぶん、さっき本牧亭の高座に上がって、下座のお千代さんの三味線で、さびのある渋いのどで、有明《ありあけ》の油のもとは菜種《なたね》なり蝶がこがれて逢いにくるとうたったご機嫌が、そのまま、まだつづいているのかも知れない。
「そこにあります」
と、女は頤《あご》でメニューを置いてある台の方をしゃくってみせた。
「あ、これか。紋啓さん、できますものは、いいかい? ええと」
と、メニューを遠く、下の方へはなして、
「親子やき、かに玉、オムレツ、かき天、はま天、はしら天、あ、生いか天てえのもある。いいかい? 目玉やき、やさい、やきそば、えび天、牛天……牛天がいいじゃアねえか、ええ牛天……?」
顔をひとつ、右手でぶるんこしてみせて、
「なんでもいい」
紋啓は、よっぽど、五条天神の使いかなんかに間違われたことが、癇《かん》にきているとみえる。
「じゃアね、牛天を二人前に、そいから、あつくして一本」
女は返事もしずに、ガスをひねって、去った。
「どんどん焼きなんかどうでもいいんだよ。それより、嬉しかったねえ、今夜」
「服部伸だろ?」
「服部伸さ。服部伸が芸術祭のなんだか賞てえのを貰ったってことさ」
「芸術祭賞。嬉しかった」
そういって、はじめて紋啓もやわらかい顔ンなった。
「いえね、お互いに服部伸がまだ一心亭辰雄ッていってた時分からのひいきだ。なんとも、今夜ア嬉しくってね」
「そいで、めずらしく有明節《ありあけぶし》を出したか」
「そうなんだ。懐しくってよ、いえ、あの時分がさ」
「そういやア、この節《せつ》はとしよりが、おッけ晴れて(おおッぴらに)、昔のことを懐しがれねえことンなっちゃったからな」
「それだよ、うっかり昔のことを思い出して、懐しがったりすると、笑やアがる」
「まったくだ。みんな、じじいやばばアなんかにゃアならねえつもりでいやがる」
「いまにみやがれ」
そういって、二人で、はじめて声を出して笑った。
「けどね、あたしは紋啓さんのように、ただ服部伸のひいきだというだけじゃアないんだ」
「と、どういう?」
「いえね、あたしはね、なにをかくそう、一心亭辰雄の弟子ンなろうと思った男なんだ」
「え?」
となりのバーから、低く、しずかに、サム・テイラーのハーレム・ノクターンのレコードがきこえていた。
「じゃア、浪花節語りンなろうと思ったの? 石初の御隠居が……」
紋啓が、ほんとにびっくりしたような顔をした。
と、石初が笑って、
「そのころは隠居じゃねえけどもさ。あれ、服部伸、たしか明治十三年生まれの辰だから、あたしのね、三つ違いの兄《あに》さんてことンなる」
「壺坂じゃないか」
「向こうが、浪花亭駒吉の弟子で、浪花亭|小吉《こきち》を振り出しに、駒子を名乗ってたいした人気だった。駒子時分、きいているかい?」
「きいてるよ、こんどの賞をとった大石|東下《あずまくだ》り≠ネんか、品があって、うまいもんだった」
「だからさ、この間、芸術祭の講談老若競演会でさ、その大石東下り≠きいていて、なんだか涙がこぼれてきて困ッちゃったんだ」
「そうか、あたしも泣いた」
「泣いたろう? いえね、浪花節から、いまは講談に変わッちゃアいるが、おなじ服部伸から、俺アいったいなん十年、おんなじ東下り≠きいてンのかと思ったらね」
そこへ、女が酒を持ってきた。
「まず、服部伸のために、祝盃といこうじゃアねえか」
と、石初が紋啓にさすと、盃を上げて、
「おめでとう!」
紋啓も、
「おめでとう!」
と受けた。
「なん年になると思う? おどろくじゃアねえか、六十年きいてるんだ」
「なるほどねえ」
そういうと、二人とも、そのそれぞれの過ぎた長アい歳月を、からだ中で味わっているような沈黙に落ちた。
「牛天二人前」
ぶっきら棒にそういって、女がこんどはアルミニュームに入れたうどん粉をはこんできた。
いま風に数えると七十八になる石初と、来年は喜の字の祝いだという紋啓の二人の明治ッ子が、黙って、そろって鉄板の上に、アルミのコップを伏せるようにした。
じゅーッと、お好み焼きの鉄板が音を立てた。
店にはほかに客はいなかった。
女が急にテレビを掛けたとみえて、西部劇のガンスモーク≠ェ拳銃の打ち合いをはじめた。
「あれ大石東下り=c…、辰雄が二十《はたち》そこそこの頃じゃアないかな。講釈種からとって、自分で節《ふし》にしたんだ。ほんものの垣見左内と、左内に化けた大石の二人が腹芸でね」
元禄十五年の秋である。
大石内|蔵之助《くらのすけ》が近衛関白の雑掌役《ぞうしようやく》・垣見左内と偽名して、京は山科の里を出立する。
秋晴れの東海道を神奈川の宿《しゆく》まできたとき、荷宰領《にざいりよう》をしていた竹林唯七が、人足頭《にんそくがしら》の弥十に無礼をされて、腹立ちまぎれに蹴とばしたのがもとで、川崎の泊まりを神奈川の脇本陣に変えた。
因果と、おなじ宿の本陣に、ほんものの垣見左内が泊まっていて、左内は怒って、内蔵之助に対面する。
年は四十三、四でもあろうか。威あって猛からず、どうしてこんな人物が、自分の偽名を名乗るのかと、不思議に思われるほどの人品骨柄である。
ほんものの左内と、にせものの左内が証拠争いになって、左内は近衛関白の直筆《じきひつ》を差し出して、これがあるか、と膝詰めになる。
と、悠然と、左内の前に出した紙をみると、
播州赤穂苅谷城 故浅野内|匠頭《たくみのかみ》長矩《ながのり》之臣 前之城代《さきのじようだい》 大石内蔵助藤原良雄 行年四十余歳≠ニあった。
「さては、噂にききし浅野家の城代大石内蔵之助とは、この人であったか。あわれ、主家断絶ののち、京は山科の里に閑居して池田久左衛門と改め、伏見|撞木町《しゆもくまち》、京島原の遊里に通い、君、傾城《けいせい》に心を乱し、最愛の妻子、母親までも追いいだし、但馬豊岡の里方へ送りしという。人面獣心と世間の沙汰には聞きつれど、さては、今日《こんにち》までの所業は敵をあざむく計略にて、このたびはるばる東《あずま》へ下るは、お主《しゆう》の仇《あだ》吉良《きら》上野《こうずけ》を討たんがためか……」
義をみてせざるは勇なきなり。大石の苦衷を察した垣見左内、はッと両手を前につくと、平身低頭。拙者は京地《けいち》の者にて西野五太夫、面目次第もござらぬと、いわれたときの内蔵之助は、
「武士の情、生生世世《しようじようせせ》、忘却は仕りませぬ」
と詫びるも、礼も、心のうち……
かくて元禄十五年|極月《ごくげつ》の十四日、まんじ巴と降りつもる雪や仇なる吉良邸へ討入り、怨敵《おんてき》上野介のしるしを挙げたという、いまに伝えてかけまくも、あやにかしこきすめらぎに、栄冠受けし忠勇義烈、げに、千歳《せんざい》ののちまでも、いまに美名をとどめたる赤穂義士大石内蔵之助東下り、という一席である。
そっくり勧進帳≠フ富樫と弁慶を、世話にくだいたような読みものである。
武士の情けという、こんにち、嘘にもみられないその人情にも泣けたが、石初がもう六十年もの長い間ききつづけてきたその大石東下り≠ナ、さらに涙をこぼしたのは、そっくりその六十年の昔に、駒子といって浪花節語りだったいまの服部伸の芸に惚れて、谷中で古い石屋の業を捨てて、弟子になろうとしたむかしを、そぞろ、思い返したからでもある。
「おやじにかくれてね、辰雄のうちへ、弟子入りをたのみにいったと思いねえ」
石初のついでくれたのを一杯受けて、紋啓がいった。
「あきれたもんだ」
「そうだ、あきれたもんだ」
鸚鵡《おうむ》返しに、自分で、自分のことをそういって、石初は手酌《てじやく》で、自分の盃につぐと、
「でも、その時はいのちがけさ。からだはちいさいが、きりッと江戸前のいい男でね、辰雄ッてえのは。どうしても弟子ンなりたい。どうしても弟子にさして下さいてえとね。だまアって、さっきからこッちのいうことをきいていた辰雄がね、さんざッぱら、こッちばかりしゃべらせておいて、あなた、まことにあいすみませんが、あたくしゃア、生涯、弟子というものは、とりませんつもりですというじゃアないか」
「生涯?」
紋啓が訊いた。
「そうなんだ、生涯てえんだ。生涯、弟子というものはとらないと、こういうんだ」
「そういや、いねえや、辰雄に弟子ッてえものは」
「いないだろ? ひとりもいないんだ。あれほどの芸があって、あれほどの男前で、あれほどの人気があって、とうとう、ひとりも弟子というものをとッちゃアいないんだ」
「なるほど」
紋啓も、少しばかりもう顔へ赤みがさしてきて、感に堪えたようにそういった。
「たいていなら、うちの商売はなんだ、親の許しは得てきたかの、そんなことを訊くはずが、まるッきり訊かねえ。訊かれたら、嘘をつくつもりで、そればッかりを考えてきたのに、まるッきり訊かねえン。師匠が好きなんです、どうか弟子にしておくんなさいと、それ一点ばりで、さんざッぱら、そればッかりしゃべらしといて、いきなり、あたくしゃア生涯弟子てえもなア、とらねえつもりだといわれた時にゃア、おどろいて、びッくらして、とたんに、目の前がまッくらンなった」
紋啓が、こんどはもう相槌も打たずに、なんどもこッくり、こッくりうなずいてみせて、しばらくしてから、
「どうした? それで……」
といった。
「それで? それでしまいさ。それで、また石屋の若旦那に逆戻りよ」
そこへ、十代のアベックが、びっくりするような勢いでとびこんでくると、石初たちの坐ったとなりの、角の小間《こま》にはいった。
「おい、いけねえいけねえ、こげちゃったいこげちゃったい……」
石初があわてて、お好み焼きの鉄板の上を、はがしで、なんどもこすった。
ぷうーんと、牛天のこげたにおいがする。
紋啓も、すぐ、あわてて、おんなじようなことをしたが、これはまるっきりお好み焼きに興味がないとみえて、すぐ、また話のよりをたぐって、しみじみとした調子で石初にたずねた。
「で、どう思う? そン時、浪花節語りにならなくってよかったか」
石初もその調子を受けて、これもしんみりといった。
「どうしてたろう? なってたら、いまごろ……」
本牧亭に忘年会のあった晩、服部伸は週刊人間≠フ記者と、七時に自分のうちで逢う約束がしてあった。
上野広小路の本牧亭と、王子の自分のうちと、歩くといったら、きまって、これが服部伸のせまい東京の地図である。
都電を飛鳥山のわびしい停留場で降りて、それから、二、三十分のみちのりは、明治十三年生まれの老人にとって、つらい日が多い。
それにこの四、五年、めっきり、耳が遠くなったので、革のジャンパーに黒めがねの、オートバイに乗った人殺しのようなあんちゃんが、莫迦《ばか》野郎ッとどなっては、すぐ、鼻ッつァきを風を切っていくことがある。
そのまま、すくんで、歩けなくなったことがなんどもある。
週刊人間≠フ記者は、本牧亭の楽屋で、芸術祭賞の受賞の感想と、伸の芸歴を訊こうとしたが、仲間の講談師のいるところで、そんな晴れがましいお話はできませんといったら、じゃア、うちへうかがいましょうというのである。
車を乗りつけるほどの週刊誌でもなく、カメラ・マンと二人で、教えられたとおりに、たずねたずね、ようやくたどりついたのだが、少しばかり腹を立てたような調子もふくめて、
「いつもあの道、歩くんですか」
と訊いた。
飛鳥山からタクシーを拾ったのでは、大勢はいったといってもせいぜい二、三十人の、本牧亭からもらう給金《わり》がすッとぶ。
「はい……、不便なところを、まことにあいすみません」
伸は、いつもの猫背を一層まるくして、ひとつ、頭を下げた。
ひかりをなん本も火鉢の灰の中につっこみながら、三十がらみの記者は、
「お若いとき、あの有名な浪花節の桃中軒雲右衛門と争ったんだそうですなア」
といった。いかにも、こんなじいさんが、そんなにえらい芸人だったのかねえ、へええッといった調子である。
謙遜な伸は、
「いえ……」
といったが、あと、それにはべつに答えようとはしなかった。
「弟子をとらないッて話ですが、なぜですか、それは?」
かすかに微笑をたたえて、
「さいでございます。あたくしは、自分のむすこたちも芸人にいたしませんでしたし、それに、まして、ひとさんのお子様を、芸人にはさせたくございませんのです」
きりッと、なにかきびしいひびきがあった。
「芸人稼業は、あたくし一代限り。そう思って、それをたて通してまいりました」
「どうして、どうしてです?」
「つらい稼業です。こんな、つらい稼業もござんすまい」
芸人を、つらい稼業です、こんなつらい稼業もござんすまいといったら、服部伸は七十年間の芸人稼業のつらさが、まるで、はげしい滝かなんかにでも打たれたように、からだ中にあびたような気持ちになって、いまにも、泣きだしそうな顔になった。
「しかし、いま、歌舞伎だって、舞踊だって……それどころじゃアない、映画のスターたちだって、みんな、二世をあとつぎにしたがっていますがねえ」
週刊人間≠フ記者は、いかにも不思議なことをきくもんだという風に、メモをしていた目を伸の方に向けた。
「あたくし、よくは存じませんが、あの大阪の人形浄瑠璃の文楽ね、あの文楽の三味線弾きさん、息子さんを三味線弾きにはしないって、承りましたが」
「ああ、生活が苦しいんでね」
それもありますが、ほんとうは芸の修業が苦しくって、つらくって、かりに、それをやり抜けても、さて、一人前の芸になれるかどうかはわからない。生活の苦しさはいわずもがなだが、じつは、そのことの方がもっとつらく、もっと苦しい道なのだといおうとしたが、よした。
「すると、自分の仕事の、あとをつがしているというのは、つまり、その仕事が、わりがいいッてことにもなるんだなア」
と、記者が、自分で答えを出して、カメラ・マンの方を向いてちょっと笑い声を立てた。
「そうかも知れませんな」
伸も、はっきり、そういってその笑いに和した。
「わたくしども、口ひとつでおしゃべりをいたしております芸なんてものは、なかなかどうして、そんなわけにはまいりません」
「なるほど、それで弟子をとらない。そうですか。と? 息子さんは、いま……?」
「はい」
そういったら、こどもたちの顔が順々に伸の前に浮かんだ。
松竹の映画部で労務係を担当している長男の正雄、東鉄の電気部に勤めている二男の雄次郎、茨城の古河《こが》の学校で歴史の先生をしている三男の昭二。みんなそれぞれ学校を出して、みんなそれぞれ、つつましく、しあわせにくらしている息子たちだ。
そこへ、
「おそくなりましてあいすみません」
と、四十がらみの、いかにも清潔で、古風な女が、退屈そうにうちの中をみまわしているカメラ・マンと記者の前に、紙へくるんだ菓子を持ってきて、また、ものしずかに襖をしめて、去った。
「失敬ですが、あの方、奥さんですか」
「とんでもござんせん。長女でして。妻が亡くなりましてから、二十年ちかく、あれが、わたくしの世話をしてくれております」
「戸籍調べのようですみませんが、あの方、旦那さんは?」
「それがあなた、四十を越して嫁《とつ》ぎません」
ちかくのお医者さんを手伝っている。
服部伸の調子に、ちょっとはずかしいような感じと、もうひとつ、それがまた、いかにも誇りのような感じと、ふたつ、あった。
「へええッ」
はっきり、記者は感心した風である。
「それが、もの堅いカトリックの信者でございましてな」
長女の千枝は、おとうさんと一緒にもらってくれるところへなら、いくという娘さんなのである。水仙のような人だった。
それともう一人、妹の芳枝が、証券会社の支店長のところへ嫁にいっていて、横浜で、しあわせにくらしている。伸がまだ一心亭辰雄を名乗っていた頃からの、古い家柄の、ごひいき筋のうちから、望まれていった。
うち中みわたして、これッぱかりも、芸人のうちのような華やかさがない。退職して、もうなん年もたってしまった官吏の家という空気だった。
「そうですか」
ほんの少し、インタービューを取りにきた若い記者の語調が改まって、
「ところで、どうして、そんなにえらい浪花節さんだったのをやめて、講談に転向されたんですか」
芸術祭賞をとってから、そればかり、いったい、なんど話したろう。でも、そんな顔は見せずに、
「さいでございます。あれ、そろそろ、もう五十年の昔になりましょうか」
一心亭辰雄のひいきも多い中に、ひとり、奇妙なひいきがあった。
銀座にまだ寄席があった時分のことで、銀座亭に、やっと中学生になったばかりぐらいの少年が、毎晩、辰雄の浪花節をききにきた。
はねて、帰ろうとすると、にッこり笑いながら、
「おッ師匠《しよ》さん、これ」
と、菓子の折りをくれる。いまのように浪花節を先生なぞとはいわなかった。新橋の清月堂の三色最中《みいろもなか》である。
少年は正太郎といって、新橋の角の藪そばの息子だった。店へ連れていかれて、おふくろたちとも仲よくなる。親戚同然のつきあいになって、この少年が藪の若旦那になる。さア、たいへんな道楽者になった。
清元、新内の稽古のあいだをぬって、節のない一心亭辰雄のものまねが得意である。つまり、浪花節の節をやらないのだから、正ちゃんのは講談ということになる。
座敷で、芸者にきかせているだけではもの足りなくなってきて、といって、まさか東京で興行をするほどの度胸もなく、
「師匠、一週間だけどね、京城で興行をやってみたいんだ。師匠を看板にして、その前で講談を一席ぶちてえんだ、つきあっとくれな」
大正十三年の秋だった。
朝鮮の京城である。
宿に朝風呂はなかったが、その頃の東京なみに、町に朝湯があった。
表に、牛屋のいろはみたいな色硝子がはまっていて、そっくり、まだ明治のにおいを残した銭湯である。
片側のあき地の窓から、朝の陽が一杯に湯ぶねの中にまでさしこんでいて、少し、湯を動かすと、湯の色がいろいろに変わった。
客はほかに誰もいなかった。
女湯の方に、二、三人、近くののみやの女らしい客がはいっているらしく、男湯には誰もいないと気を許したとみえて、いかにも京城くんだりまで荒かせぎにきている女らしいいけぞんざいな調子で、高ッ調子に、ゆうべの客のうわさをしている。
と、ひッそり、ひとりで湯ぶねにつかっている一心亭辰雄は、おや、と思った。
なんだか、へんな音がきこえるのである。
へんな、というのは、銭湯にふさわしくない音だからである。
少し、湯ぶねからからだをのばすようにして、洗い場と脱衣場のあいだの硝子をすかしてみた。
番台で、若い男がバイオリンを弾きはじめたのである。
まさか、京城の朝湯で、バイオリンをきくとは思わなかった。
なんともいい音色《ねいろ》で、なんともすがすがしいあわれにみちていた。
あ、そうかと思って、もういちど、湯の中に顔を浮かした。
そのバイオリンの音色をききながら、ひょいと、
「源さん、若くして死んでかわいそうに」
と声に出してみた。
辰雄が十八番のは組小町≠フ一節である。つづいて、
「髪を切ろうか、のどをつこうかと、思ったこともたびたびだけど……」
というと、なんともいい間《ま》で、バイオリンのメロディーにのるのである。
「……としをとったおとッつァんに、この上のなげきをかけることはできない……」
びっくりした。
なん十年という長い間、三味線でばかりやっていた浪花節が、なんと、ぴったりバイオリンに合うのである。
誰もいないのをさいわいに、辰雄はさらには組小町≠フもっとも高調した場面をやってみた。
「享保十六年正月、七草の夕方、浅草田原町三丁目から出た火は、風にあおられて炎々とほのおは空をなめんばかり、さらに火さきは風にあおられて、駒形西側二か所に燃えぬけた。……上総屋という呉服屋の大屋根に、第一番に上ったのがい組の纏《まとい》三五郎。あれみよ、つづいて上ったのが、は組の纏の二本である」
江戸はいろは四十八文字のうち、んのかわりに、本を入れて、へ、ひ、らは縁起が悪いというところから、百、千、万の文字をつかっている町火消の、い組とは組の纏あらそいに、火あぶりにさせられたは組の源次の仇を討って、女房のお初が、見ン事、燃えさかる大屋根には組の纏を上げる場面である。
あくる朝、また朝湯にでかけると、これも客は辰雄ひとりで、また、番台で、そこの若旦那らしい青年がバイオリンを弾いている。
「こんどはわたくし堀部安兵衛の生い立ち≠やってみますと、これもぴったり合いますんでな」
帰りがけに、番台の青年に、なんという曲かと訊ねたら、滝廉太郎作曲の荒城の月≠セという。
浪花節も、いつまで三味線にたよっている時代ではあるまいと思った。
関東大震災で古い東京が焼け野原にかわって、俺は河原の枯すすきという演歌のはやったあとをうけて、こんな京城あたりにまでも、ストトンストトンと通わせてだの、月は無情というけれど、などといううたが流れてくる時代である。
日本へ帰ると、大阪でまず、一心亭辰雄は三味線の伴奏を捨てて、バイオリンで、いままでの浪花節で語っていた演目を、物語りという形式でやってみた。
節をなくして、語りだけで、新しい芸をつくろうというのである。
昔から一心亭辰雄の浪花節は、細くふりしぼるような、繊細な味の声だったが、そのころ、一層、節を語る声に苦しんでいた。のるか、そるかの転機である。
「東京ではやらんのですか」
週刊人間≠フ若い記者が、ひかりを一本、また火鉢の灰の中につッこみながら訊ねた。
東京は青山会館で試演した。
神様のように思っている長谷川伸から、一字名をもらって、ながいなじみの一心亭辰雄の看板をおろすと、服部伸になった。結果は賛否二つにわかれた。
バイオリンの伴奏をつかって、いいというひとが、半分以上いるならとにもかくにも、半々なら、いっそ、なんにも伴奏をつかわないで、話術だけの芸をやったらどうか、と思った。
「あ、それが講談ですか」
講談なんてきいたこともないような記者が、そういって、また、伸の顔をみた。
「さいでございます。そこで、先年亡くなられました講談の、田辺南龍さんに御相談申し上げましてな。皆さんのお許しを得まして、講談になりましたので」
浪花節から転じて講談になって、だから、もうそこにも、四十年に近い歳月が流れた。
芸術祭の受賞の感想はと訊かれて、伸は、そしてこんなことをいった。
「また一層、芸がやりづらくなりましてございます」
カメラ・マンが途中で二、三度アングルを変えて、インタービューしている服部伸の写真をとったあと週刊人間≠フ二人が帰っていった。
娘の千枝と二人きりになった。
「どうでした? 今夜の講談忘年会は……」
夜食の膳をそろえながら、千枝が父親にそういうと、
「そうそう、本牧亭さんと、講談組合からお祝いをいただいてね」
いつも右手にさげている袋から、さっき松鯉のわたしてくれた金一封を出すと、中身もみずに、それを頭のところまで上げて、ちょっとお辞儀をした。
「そうですか、それアよかったですね」
「おツナにみせてやらなくッちゃア」
立つとき、よく、ひょろひょろッとする。
娘からよく、おとうさん立つ時気をつけて下さいねといわれるのだが、講談芸術祭の高座で大石東下り≠一席終わって立ち上がった時にも、服部伸はひょろひょろッと舞台でよろめいて、あやうく、右手でうしろの杉戸でからだをかばった。
本牧亭のお神さんも、
「名人の松助という役者さんも、揚げ幕がちゃりんと音をたてると、とたんに、曲がっていた松助さんの腰がぴんとして、舞台に出ていったとうかがいましたけど、服部さんでも、松鯉さんでもそうですね。梯子段を上ってくるときは、よろよろしていてあぶなッかしいのに、いざ、舞台へ出たとなると、しゃんとなるんです。長年、きたえた芸の力というんでしょうか」
とよく話すが、この時も、伸はちょっと、ひょろひょろッとして、それを千枝がかばった。
おツナというのは二た昔前に、苦労をし抜いて死んだ女房である。
いまでも自慢の女房で、めったに自慢らしいことを口にしない伸が、この女房のことだけは自慢をする。なんども、前へのめりそうになるような苦しい芸人のくらしの中から、五人の子供たちを、芸の世界から切り離して育てた母親であった。
箪笥の上の、ちいさな仏壇の観音びらきをあけると、短い香水線香に火をつけてから、チンと、ひとつ鉦《かね》を鳴らして、服部伸が礼をした。
賞を受けてからがらり世の中が変わった。正月に放送するといって、NHKのテレビがいちばん早くビデオ・テープを申し込んできたり、民間放送のテレビやラジオからも註文がくる。方々の新聞や週刊誌にも写真が出たり、葭町《よしちよう》だの、柳橋の料亭からお座敷がかかるといった変わりようである。
たらちりで、親子二人が遅い晩の食事をすましたら、遠くで、工場の九時を知らせる音がきこえた。
伸が蒲団をまくると、敷布の下になにかもうひとつ敷いてあった。
さわると、ぽおッとあったかかった。電気敷布である。
「子供たちでね、おとうさんへ贈りものです」
勝手口で千枝が、耳の遠くなった伸に、そう声をかけた。
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女あるじ
住み込みのおしげとおきんの二人が、本牧亭の下の座敷の、将棋のくらぶの方を掃除しはじめたとみえて、硝子戸をあけたり、はたきをかける音が遠くの方から聞こえてきた。
それで、女主人のおひでが目をさました。
雨戸から、細く陽がさしている。
なん時だろう? そう思って、枕もとの置き時計をみると、九時をちょっとまわっている。
たいてい、夜中の一時から二時ごろに寝るので、起きるのはいつもこんな時間である。
つい表通りの、鈴本演芸場の並びのかどの、福神漬の酒悦《しゆえつ》のとなりにある第一銀行の土地が、この間、坪五百万円だという噂があったくらいの、土一升、金一升の土地である。
仲町通りといわれている元黒門町のそのあたりから、本牧亭のある北大門町《だいもんちよう》という上野広小路にかけて、坪、平均二百万円から二百五十万円という呼び声のある土地だが、本牧亭はこのへんではめずらしく、たっぷり敷き地に中庭がとってある。
二階が寄席、下が将棋くらぶという建てものがあって、中庭をへだてて、別棟になってちいさな座敷、ここは講談組合の寄り合いに使ったり、ちょっとしたお客さんなんかを通したりする。
そのうしろにお神さんの部屋と、八畳ばかりの土間があって、上の四畳半二た間を、二人の娘が使っている。
それでなくっても、自分の時間というもののまるでないお神さんは、ここだけを自分と娘たちの砦《とりで》だと思って、むやみにひとを入れないことにしている。
ついでに腕をのばして、置き時計のねじをまいた。
なにかの時に、講談組合が、よくも、あッしどもの講談をやらして下さいますという感謝をこめて、贈ってくれた時計である。
ねじをまくのもいそがしくって、ときどき、とまッちゃうのである。
すぐ、きょうはクラス会だなと思った。
一時から、本牧亭の筋向かいの、とんかつやの武蔵野の二階で、むかしの府立第一高女のクラス会がある。
おひでがまだ鈴本の娘時分に、下谷の竹町《たけちよう》の女学校へ、五年間通ったおなじクラスの集まりをときどきやっていた。
きょうは四国で、病院の院長さんの奥さんになっているお君さんが、めずらしく東京へ出てくるというので、十人ばかりが集まることになっている。
ゆうべ、娘たちや、この四月、長女の孝子と結婚する清水などと一緒に、本牧亭のはねたあと、とり鍋でゆっくり夜食を終えて、許婚《いいなずけ》の清水が少し酒をのんで、ご機嫌で白山下のうちへ帰ったあと、娘たちが二階に散らかっていってしまって、ひとりで、ことこととあと片づけをしたあと、一服つけたら、もう二時ちかくになっていた。
でも、そんなたったひとりの時間が、おひでにはまたたのしいのである。
起きて、蒲団を片づけ終わったら、帳場机の上の、電話のベルが鳴った。
本牧亭がはねたあとから朝にかけて、いつも、電話はおひでの部屋に切り変えることにしている。
電話は、朝のうち、いつでも五、六ぺんは掛かる。
「はい、本牧亭でございます」
歯切れのいい東京弁である。
五十がらみの男の声で、きょうはひるまなにをやっているか、夜は? という電話である。
昼席の講談は十日間がわりだが、夜は席貸しになるので、毎晩、いろんなものが、とッかえ、ひッかえかかる。
「はい、いつも昼席は講談をやっておりますんですが、今日《こんち》だけ、特別に女義太夫の土佐広さんの会にお貸ししています」
竹本土佐広の義太夫のさらいである。
「夜は、六時から浪曲の会がございます」
すぐ、どういう会か、どんなひとが出るのかという質問である。
「ちょっとお待ち下さいまし」
おひでは、いそいで帳場の机から、今夜のプログラムをさがすと、
「お待たせいたしました。浪曲研修会、新春公演……」
とプロの通りに読んだ。
もう、松飾りもきのうと過ぎて、大寒《たいかん》のひどい寒さがつづいていた。
「出演の方は、ええ、京山|華千代《はなちよ》さん、東家幸楽さん、林|松猿《しようえん》さん、それから三門柳《みかどりゆう》さん、ええと、佃|雪舟《せつしゆう》さん、玉川桃太郎さん、それに木村|重松《しげまつ》さんという方たちです」
へええ浪花節なんかもやってるの? おもしろいね、晩にいきますと電話が切れた。
夜席《よせき》はゆうべ竹本重之助だの、小津賀だのの女義太夫がかかるかと思うと、あくる晩は一竜斎貞花の講談の独演会があったり、古今亭|朝太《ちようた》の落語の勉強会があったり、そうかと思うと岡本文弥の新内があったりする。
講談の定席《じようせき》としても日本中でたった一軒の本牧亭だが、そんな東京らしいにおいのする芸をやっているのもここだけである。
孝子と妹の久子の二人が、そろって松坂屋へ買いものに出ていったあと、おひでがひとりで朝の食事をしていると、
「お神さん、数をみて下さい」
とおしげが顔を出した。
あわてて茶をのんで、となりの土間に並べた中売りの品物を数える。
この間死んだ父親の遺言で、ちかくの鈴本演芸場の売店もおひでがやっている。本牧亭ばかりでは出す一方で、はいるものが少ないという父親のいきとどいた気くばりなのである。
だから、本牧亭で売るものもふくめて、結構、品数も多い。
キャラメル、チョコレート、せんべにみかん、それにのみものはジュースにラムネ。
中で、本牧亭でだけ売っているものがある。
かるく、うすいかきもち。さっぱりと気取らずに、駄菓子の味を残した豆板。それに、これもいかにも下町好みの薄荷糖《はつかとう》である。
かきもちは袋に入れて二十円。
豆板が十円、薄荷糖が五円。
そんな、中売りの品ものにまで、本牧亭のお神さんは、東京ッ子らしい心づかいをした。
本牧亭の客もうれしい客で、一袋二十円のせんべいに、豆板を一枚とか、薄荷糖をひとつとか買って、それであまカラの味を味わって、お中入りの休憩時間に、しずかに茶をのむのである。
みんな、古い日を思い出すのであろうか。そんなとき、なにかしみじみと、東京の感傷があった。
新聞社や客からの電話がまた四、五回あって、そんなことをしているうちに、もう正午。
おひでは、中庭を通って、将棋くらぶの裏口からはいると、まだ、くらぶの方には誰も客がいなかったが、二階の本牧亭の方には、ぱらぱら、三、四人の客がやってくるのに、
「いらっしゃいまし」
と、あいそのいい声を掛けた。
将棋の座敷の、障子をあけて、
「お早うございます」
と里《り》う馬《ば》がじゃらじゃらしたしゃがれッ声で挨拶をした。
古い落語家《はなしか》の土橋亭《どきようてい》里う馬である。
寄席に出掛けて高座には出してもらえずに、顔だけ出すと、わずかだが給金《わり》をもらえるという落語家である。それをかわいそがって、鈴本の死んだ主人からの話で、一昨年の暮から将棋くらぶの方の帳場を働いている。
「あ、里う馬さん、ごはんたべたの?」
「へ、いえ」
「たべて下さいよ。おしげちゃん、里う馬さんにごはん上げて」
食事つきである。
そこへ、向柳原の紋啓が、いつもの格好ではいってきた。
「あら、紋啓の旦那、きょうはお早いじゃアありませんか」
「ああ、燕雄《えんゆう》が出てるからね」
そういって、下足《げそく》の札を受けとらずに、すぐの階段を上っていった。
高座では桃川燕雄が、恰度《ちようど》、国技館の初場所にあてて、十八番の寛政力士伝≠読んでいる。
ちょっと、二階へ上がって、おひでは、すぐ左側にある売店の板の間にはいると、おきんに、
「前の武蔵野さんの二階にいるからね。中入りン時、手が足りないようだったら呼びにきてちょうだい」
「大丈夫ですよ、お神さん」
「いいんだよ、夕方までやってるクラス会だからね。ちょっとぐらい抜けたってさ。たのむよ」
そういって階段を降りると、下駄をつッかけて、筋向かいの武蔵野ののれんをくぐった。
おひでの顔をみると、武蔵野の小女《こおんな》が、
「お二人さん、みえてます」
といった。
「そう? もうみえてんの、十人だと思うんですけど、お願いしますね」
そういって、二階の座敷の襖をあけると、やにわに、
「あら、おひでさん」
大きな、黄色い声で、なつかしさがいっぱいにあふれていた。
日本橋の小網町で、風呂敷き問屋のお神さんになっているおかずさんである。竹町の女学校に通っている頃はバレーの選手をしていた。
もうひとりは病院の院長夫人で、四国から久し振りに東京にやってきたお君さんである。いつも教室の片隅で、雑誌の口絵やレター・ペーパーの表紙になった竹久夢二の絵を集めては、うっとりとながめていた。
そういえばおひでも体操が得意で、いつでも体操をやっていたような府立第一高女を選んだくらいだから、女学校時分には、いかにも下町娘らしいおきゃんな娘だった。
「いちばんちかいのが遅くなっちゃって、ごめんなさい」
おひではそう詫びてから、
「お君さん、お久し振り……」
とていねいに礼をして、
「なん年になるかしら、もう?……」
ちょっとお君も改まって礼をしてから、すぐに昔の調子をそのままに、
「なん年といったって、あなたまだ結婚してなかった」
といって、笑った。
遅い結婚で、おひでが一つ毬(口にくわえた撥《ばち》で、投げた毬や土瓶を受けとめたりする曲芸)の名人といわれた春本《はるもと》助治郎と一緒になったのが二十九で、ことし五十一になったから、そういうと、もう二十なん年逢っていないことになる。
「あら、そうだったかしら。じゃア、この前お君さんと逢った時は娘でさ、じゃア、こんだ逢った時にゃア、もうやもめッてわけ。やんなっちゃうね」
ほんとに、やんなっちゃうねと思った。
「でも、えらいわね。去年の秋だったかしら? テレビでみたわよ、明治座からの新派でさ孤塁<bて芝居。市川翠扇があんたンなってさ。花柳武始が息子さん。ほら、母親と息子と二人で、寄席を守っていこうという芝居……、あれ、おひでさんとこの本牧亭がモデルだって、新聞に書いてあった」
榎本|滋民《しげたみ》がオール読物≠フ一幕物で入選した脚本である。
「あれ、べつにうちッてわけでもないんだけど、似てたわね。あたしもみせて貰いました」
「翠扇のお神さんもうまかったねえ。あたしは町内の連中でみた。似てたわよ、あれ、おひでさんにさ」
そこへ、二、三人の、これも大きな声で二階に上がってくる声がきこえた。
愛宕下で毛糸屋をやっているお松、プロ野球の東京ヤンガーズの監督夫人におさまっている秋子、尾久《おぐ》でおでん屋のおせきである。
すっかり女学生時分のはしゃいだ気分をそのままに、おせきが、
「遅れてごめんごめん。亭主野郎がさ、買い出しから帰ったのが遅くなったんでね」
そういうと、坐って、一斉に、あっちこっちで挨拶がはじまった。
おなじ東京の、空の上から円を描いたら、こんなにちっぽけなところでいながら、そのおなじ東京の町に住んでいて、みんな、泣いたり笑ったりの毎日を送りながら、おなじような町をいったりきたりしながら、こんなにクラス会みたいなことでもないと、めったに顔を合わせることがない。
とくに戦後の、自分たちの生活を一生懸命に守ることだけで、精いッぱいなくらしの中では、むだばなしをすることさえ少なくなっている。
そのあと、間もなく、あとの四人も顔をみせて、一時半には、ぴたり、十人のクラス会の顔が揃った。
必要以上に、貧乏ぐらしだ貧乏ぐらしだというのがいたり、少しばかり、寄席だのおでんやとは身分が違うといった感じを、ほそい金ぶちのめがねの中できらりとさせるのがいたり、はじめッからしまいまで、亭主やこどもの自慢ばなしばかりをするのがいたりしたが、結局、旦那に死に別れたのは本牧亭のおひでだとわかると、急に、
「でも、えらいわよ、ねえ……。女手ひとりで、日本の昔ッからの古い芸てえものを守ってんじゃないの」
「えらいわよ」
「あたしたちン中の、ホープじゃない?」
ひと通り、みんなのいまのくらしから、昔の先生たちのあだ名なんかがすむと、話はそこへしぼられた。
「べつにえらかないわよ」
おひでは、改まってそんなことをいわれると、なにか、こそばゆく、
「だって、おとッつァんから貰った寄席でしょ、それをただ、なんとかやり通そうと思ってさ、それで働いてるだけなんだもの」
といった。
「だからえらいンじゃないか」
尾久のおでんが、小網町の風呂敷きの顔をみて、ねええ、という顔つきをした。この二人は、ときどき、うちを訪ねッこしている仲である。女学生の時分から、いつも御神酒徳利だった。
少し、めんどくさくなってきて、
「じゃア、えらいッてことにしときます」
ぴょこりッと、おひでが頭を下げたので、それでまたみんな大笑いになった。
「お待ち遠さま」
小女がとんかつとなめこ汁をはこびだした。
「会費会費」
風呂敷き問屋の、苦労人のおかずがみんなにそう号令をかけた。
百円玉を並べるのがいたり、きっぱり札《さつ》で出すのがいたり、五千円札でおつりをとるのがいたりして、おひでの前にクラス会の会費が集まった。
五百円の会費である。
みんなでとんかつをたべた。
みんななんとなく、女学校の時分のお昼を思い出して、毛糸屋のお松がいった。
「おせきさん、あんたアよくさ、お弁当を前の時間にたべたわね?」
「だって、あたしゃ昔ッからすぐおなかがすいちゃうたちなんだもん」
「いまでもそうなの?」
情けないひとねえ、といった調子をありありとむきだしに、東京ヤンガーズの監督夫人がそういうと、
「ああ、すきますねえ、いまでも……」
大きな口をあけて、いかにも人のよさそうな笑い方をした。もう六人の母親である。
暮の十二月に昭和と改元されたが、みんな大正のいちばんさいごの年に卒業して、だいたい同年の女たちである。
東京ッ子ばかりの集まりだが、関東の大震災の時には、まだほんの娘ッ子で、苦労がなく、そのかわり、こんどの戦争では、みんなこどもをかかえて、いやッというほどさまざまな苦労をして、そしてたくましくなった女ばかりである。
ちょっと、戦争のときの苦労ばなしがあって、きょうの主賓ともいうべき四国からきたお君から、つい話題がそれていくのを、みんなで気にしながら、
「でも、お君さんはしあわせよ、なにしろ空襲がいちどもなかったッていうんだもの」
と、ようやく、お君のことになった。
「そうかしら? まア、東京にいるよりはね」
「いるよりはねッて、あたしなんかね、亭主とこどもに米をたべさせようと思ってさ、いまの、四番目の息子がおッぱいのんでんのにさ、お乳が出てこないじゃないの、そうなのよ」
と、おでんやのおせきがいった。
「始終、おなかがすいてるひとが、かわいそうに……」
おひでがそういったが、こんどはだれも笑わなかった。
みんな大なり小なり、おなじような思いをしたのである。
武蔵野のこの座敷は、夕方まで、置いてもらってもいいことになっている。
「あたしだけ、商売をしちゃア悪いんだけど、十五分ばかり、いい?」
とおひでがみんなに訊いた。
「なにさ?」
「いえね、中入りにね、おせんべやお茶をお客さまに売って歩くのよ」
「あ、休憩ン時に?」
「へええ、またえらい。おひでさんが自分でそんなことするの?」
「あたりまえよ、寄席のお神さんじゃありませんか」
是非、それをみたいというのを、とめて、おひでは急いで筋向かいの本牧亭に帰った。
小走りに、おひでが本牧亭へ帰ると、二階の高座から邑井操《むらいみさお》の声がきこえていた。
操が降りると、中入りである。
リンゴのようなほッぺたをした木戸番のおしげが、
「あら、お神さん、クラス会どうしたんです?」
と声をかけた。
このおしげとおきんの二人が住み込みで、あとは通いで、女のひとが三人、それに下足の留さんが本牧亭で働いている。
「いいんだよ、ちょいとひまを貰ってきたから……」
そういって階段を上った。
長崎抜天の口ききで、とんち最中《もなか》というのを売っているが、その出入りの菓子屋から贈られた少し丈の長い紺ののれんの中に、お茶番の、三畳ばかりの板の間がある。
もう、ちんちんと、大きな薬鑵が湯気をたてていた。
「あ、あたしたちでやりますのに……」
お神さんの顔をみると、また、みんながおしげとおなじようなことをいった。
「いえ、いいの」
それから、ちょっとのれんの外に戻って、目立たないように、ざッと、客の頭数をかぞえる。
この頃、講談の昼席はだいたい三十人見当だが、でも、ありがたいもので、日曜の昼席には目にみえて客がふえてきた。第一と第三がとくによく、八十から百《いつそく》、第二と第四が六十から八十であろうか。
ついこの間までのことを考えると、嘘のような数字の上がり方である。
おひでの、講談をなんとかしようという真剣な気合いが、少しばかり通じてきたといっていいだろう。
客種は昼の講談と、夜の席貸しの客とでは、みんな、そのやるもので違ってくる。
新内の客にはやっぱり粋なひとが多く、本牧亭にはめずらしく芸者なんかもくる。中年の女のひとがいちばん多くって、わざと無造作に髪をひッつめにして、珊瑚のかんざしを一本、ひょいとさしたりしたのが、たいてい、目をつぶって、てんぷらくいたい、てんぷらくいたいという新内のメロディーにききほれている。
小手《こて》のところまで、いっぱいに、くりから紋々のいれずみをした鳶職の客も、新内には多い。
浪曲は中年が多く、男と女と、まず、半々であろうか。
義太夫の客が、いちばん、としよりが多い。
この頃、本牧亭では講談の、いわゆる夜講《やこう》もはじめたが、講談だと思って、夜、やってきた若い客が、女義太夫の会だと知って帰ろうとするのを、おしげが、
「おもしろいんですよ、女義太夫ッて」
それで入って、帰りがけに、こんなことをいった。
「今夜は養老院の買い切りかい?」
中入りに、客席を売って歩く品ものの、いちばんたくさん売れるのは新内である。
二十円の、自慢のかきもちなんか、帰りにおみやげに買っていくひとも多い。さっぱりと、かるく、東京風なかきもちである。
いちばん売れないのがまた義太夫の客ときている。
女義太夫の場合には、ちゃんと入場料をとっているから、多少、買う客もいるが、入場料をとらないで、素人《しろと》義太夫のおさらいの時なんかは、まるっきり売れないこともある。
尤も、素人義太夫なるものを、無料《ただ》できかせるんだからくるだろうなどと、いばっていたらとんだ間違いで、出演者がみんなで、二十円のおせんべかなんかを買って、これを客にくばる。
つまり、おみやげつきというやつである。
おみやげつきで、自分の義太夫をきかせようというのだが、敵もさるもので、二十円のおせんべぐらいじゃ、幕の上がった時に声を掛けてくれず、拍手も少ない。
少し苔のついた素人義太夫になると、都電の回数券を買っておいて、廊下でうろちょろしている客に、二、三枚切って渡す。
いったい、なんの商売をしているのか、まるッきりわからないそんな素人義太夫のききてだが、年にいちどは、浴衣の一反もやると、だいたい、半年ぐらいの間は、幕が上がると、
「よッ、待ってましたッ」
「義太夫の神様ッ」
など、声が掛かる。それで、半年はまず語り心地もいいというものである。
本牧亭では、めったに素人義太夫に席を貸したことはないが、たまに、そんなことがあっても、十円のお茶もそんなには売れない。
ときどき、腹のすいた客が、隣りの、これもおひでがやっているほんもくという店から牛めしをとりよせてたべたりする。一杯、五十円の牛めしである。
毎月、築地の金田中だの、吉原の松葉屋なんかで会をやっている大正会が、去年、その一周年記念の集まりを、しゃれに、この本牧亭でやったとき、三島由紀夫がうめえうめえといって、四杯、おかわりをした牛めしである。
おひでは、いつも中入りの二十分ぐらい前に、売店に上がってきて、客の頭数をしらべると、ひと通りまたその日の売りものに目を通す。
そこののれんの前からだと、舞台からみて、右ッ側の舞台寄りの客席はみえなかったが、ぴたり、なん人、お客さまがきているか、当てるのである。
五十五人、七十人、二十五人という風に、たいてい、そのひと目でみる目測に狂いはなかった。それで、茶碗の数なんかも、むだのないように桶に入れる。
桶は丈の浅い、あかがねのたがの、たいらな桶で、これに土瓶と茶碗。あとの菓子類は竹のかごに入れる。
邑井操の渋沢栄一伝≠ェ切れて、中入りになると、えんじ色のスウェーターを着た女の子が、
「おみかんいかがでございますか」
と、客席に出ていった。
この頃の映画館やヌード・ショーの小屋で、アイス・クリームなんかを売りにくるのとは違って、金高《かねだか》からいったらアイス・クリームの半分よりも安く、中には、一とかけ五円というような、薄荷糖《はつかとう》のように、その十分の一という値段のものもありながら、本牧亭の中売りには、なんともいえない昔ながらの情《じよう》があった。
すぐ、割烹着を着た住み込みのおきんが、
「お菓子の御用はございませんか」
ただアイス・クリーム≠ニかええジュース≠ニか、ただ、売りものの品名だけをいうのではない。
ちょっとしたことが、おみかんいかがでございますか。お菓子の御用はございませんか、なのである。
「最中ある?」
「最中はお生憎《あいにく》さまですけど」
「じゃア、どらやきは?」
「ございます、三十円、いただきます」
煙草のけむりのいっぱいたちこめた客席の中での、そんな客とのとりやりにも、この頃ではめったにもう聞かれなくなった東京のひとの、さらッとした会話の味がある。
これも割烹着をつけたおひでが、みかんや菓子の中売りが、客席の半分ぐらいをまわったあと、さりげなく、土瓶と茶碗をのせた桶を、左手にかるくさげると客席に出た。
おひでが、なんにもいわないうちに、方々から声が掛かる。
「お茶を下さいな」
「ここへもひとつ」
それに、ひとつ、ひとつ、
「はい、ただいま」
と、返事をしながら、手ぢかな客に、茶をくばっていく。
いままで、湯気をたてて沸いていたものを、客に手渡しをするか、あるいは客の膝の前に置くのである。
少し、足許のせまい時だの、ぎッしり客のつまった時には、それをこぼさずに、ぴたり、それをするということだけでも修練がいった。
それに、二人《ふたり》一組の客もあれば、三人連れもある。だから、ひとりひとりに、
「そちら、お二人様ですか」
という風に、茶碗の数を訊ねる。
これで、十円。
割烹着の右のポケットに、十円玉のつり銭を用意しておいて、手早く、片手で数えると、
「はい、四十円のおつりでございます」
と渡す。
渡すと、すぐ、
「おあともうお茶の御用はございませんか」
と、念押しをする。
せいぜい十分から十五分ぐらいの間に、きれいにすませるというのは、客席の中入りにも適当な間《ま》が必要だからである。
あんまり中入りの時間が長いと、折角、中入りにまで盛り上げてきた芸をきく気分が、ぷつり、中断される。
そうかといって、あんまり急いで中入りの時間を走っては、客がひと息つくひまもなく、休憩の意味をなさない。
この兼ね合いがむずかしい。
むろん、二十人の客の時の中入りと、四十人の時の中入りとでは、おのずから時間も違うが、客が大勢だから長くとって、少ないから短く、でもいけない。
そこに、席亭といわれる寄席の主人の気働きがある。
高座から正面の壁によりかかって、薄荷糖をしゃぶっていた紋啓が、お茶を売って客席を歩いているおひでに、
「お神さん、今夜はなんだッけ?」
と大きな声で訊いた。
「今夜はね、浪曲の研修会です」
けさも、電話でどこからか訊きにきた時、答えたあれである。
「浪花節か」
「はい、下にプロが出来てますから、いま、お届けします」
寄席の神さんと定連の客の、まったくさりげない会話である。そんなことが、客席の方々でかわされる。
おひでは、二、三度、からになった桶の上に、さらに土瓶をのせかえてきては、それをきれいに売り切ると、楽屋の方に、
「ありがとうございました」
と、声を掛けた。
これが、中入りは終わったというしらせである。
これをきっかけに、落語などの色物の席では、陽気な上がりの三味線が入るのだが、むろん、講談にはそれがない。
楽屋で、だれかが、
「はい」
といってから、すぐにまた、講釈師が杉戸をあけて、高座に出てくる。
きょうは服部伸が、また背中を丸めて、ひッそりと笑いながら出てきた。
おひでは、客席の迎い手《で》をきくと、
「あと、たのむわよ」
と、そういって、いそいでこんどは階段を降りた。
もう階下《した》の将棋のくらぶの方も、四、五台は客がきているらしく、ぱちり、ぱちりという将棋の音がきこえていた。
「上がったんですか」
下足の留さんが訊ねた。
中入りはすんだのか、という意味である。
留さんというのはまた妙な男で、世界中で、なにがいちばんえらいかといって、鳶の者くらいえらいもなアねえと思っている。
ちょっと酔うと、すぐにきやりくずしをうたって、
※[#歌記号]格子づくりに御神灯《ごじんと》さげて……
といっただけで、留さんの目がもううるんでくる。
つづいて、
※[#歌記号]兄貴ゃうちかと姐御《あねご》に問えば、兄貴ゃ二階できやりのけいこ……
などというところになると、留さんの両眼から、こんどははらはらと涙が落ちてくるという男である。
強い相撲ばかりをひいきにしたり、有名な野郎ばかりを尊敬したりするよりは、この下足の留さんが鳶の者を世界中でいちばんえらいと思っている方が、よっぽど罪がない。
おひでは、留さんが、上がったんですかというのにちょっとうなずいてみせて、
「なんか、用があったら呼んで頂戴……」
それからまた、武蔵野の二階のクラス会の座敷にはいっていくと、いきなり、
「えらいもんだね」
と尾久のおでん屋のおせきが、からだ中で感心したような声を出した。
それには構わず、おひではていねいに、
「すみません、勝手をして」
「いや、えらいもんだ」
また、おせきが男のような口をきいた。
みんなで、おひでが中入りに茶を売ってるところを、本牧亭までみにいこうとなったが、それではあんまり大仰に過ぎるというので、おせきと、愛宕下の毛糸屋のお松の二人が、代表して、そっと、みにいくことになった。
ほんの、二、三分のことだったが、客席の中を、
「お茶はいかがでございますか」
と売って歩くおひでをのぞいてみて、びっくりして帰ってきた。
「あれア出来ない」
改めて、また感心しきったようにおせきがいうと、女学校を出てから、ずうッとつき合っている小網町の風呂敷き問屋のおかずが、
「おせきちゃんでもかい?」
「そうだよ、あたしでも出来ない」
そういって、ちょっと真顔になって、
「あれアむずかしいわねえ、第一、恥ずかしいわ」
と急に女らしい調子に変わった。
おひでも、自分の寄席の本牧亭なら、もうなんのことはないが、そこの売店も自分がやっているのに、たまに鈴本演芸場の中入りに、茶を売りに出たりすると、ひどく、ぎごちなく、たまらなく恥ずかしい思いがする。
「自分ンちだから出来んのよ。おせきちゃんだってやれるわ、自分のとこなら……」
おひではそういって笑った。
空襲というもののいちどもなかった四国のしずかな町から、こんど、娘の結婚ばなしで、久し振りに、生まれ故郷の東京に帰ってきた病院の院長夫人の顔をみると、おせきは、
「あら、お君さん、泣いてるよ」
といった。
可愛い下げ髪の途中に、いつも桃色のリボンをつけていたおひでが、お君にとっては、まるで娘の頃に集めた竹久夢二の絵のように思われ、そして、突然、三十年あまりの歳月がすっとんで、おひでが本牧亭のお神さんになって、目の前にあらわれたからである。
それに、こうしてクラス会で十人も集まっているのに、本牧亭のおひでだけが夫に死に別れている。
おでん屋のおせきではないが、たとえ、どんな亭主野郎だろうとなんだろうと、夫のいるということは、女にとって、どんなに力になるものか。
それなのに、えらいな、かわいそうだな、と思ったら、大正のお嬢さん気質《かたぎ》の抜けないお君は、ひょいと涙ぐみ、それをおせきがみつけたのである。
「あら、泣いたりなんぞしやしないわ。おひでさんがえらいと思ってさ……」
そして、こんどは袂からハンカチを出すと、お君ははっきり、涙をふいた。
ちらッと、めがねごしに、この人はまだ竹久夢二が抜けないよという顔をしてから、東京ヤンガーズの監督夫人の秋子が、アメリカ煙草のセーラムに火をつけた。
武蔵野の小女《こおんな》が電気をつけてからも、まだ話はつきなかったが、
「お君さんのお嬢さんがさ、秋に結婚なさる時、また、東京へみえるんでしょ?」
その時、またクラス会をやろうということになって、終わったのは、もうあかりがそろそろなじみそめるころであった。
「こんだ、講談、ききにくるからね」
みんな、そんなことをいって別れた。
石田博英だの、森繁久弥だの、山田五十鈴だののやっている大正会から贈られた白地にのしを淡い紅で描いた幟《のぼり》が、横丁を吹いてくる風に、はたはたと音を立てていた。
本牧亭の入り口には、入山形《いりやまがた》の庵看板《いおりかんばん》に今晩 第三十一回 浪曲研修会≠ニ紙が貼ってある。
昼の講談がはねて、そろそろ、本牧亭はまた、夜の客がくる時間である。
下足の札を片付けていた留さんが振り向いて、
「お帰ンなさい」
と声を掛けた。
土橋亭里う馬が、電話の置いてある下の台所のところで、立って、寒そうに茶をのんでいたが、これも、かるく、
「お帰り」
といった。
おひでは、里う馬に、いちど、訊こう訊こうと思っていたことを思い出して、
「そうそう、里う馬さん、お宅は、いまどこなの?」
「へ?」
すぐ、にやッと笑って、
「せんのとこです」
「やだよ、里う馬さん、うちを訊くとすぐ、せんのとこだ、せんのとこだってさ。それじゃアまるでうなぎの幇間《たいこ》じゃないか」
と笑った。
「いえ、ちかく、そのウ、燕雄さんちへ越そうかと思ってんですがね」
名代なる哉、桃川燕雄の家にである。
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生きる
桃川燕雄のうちは谷中《やなか》の初音町《はつねちよう》にある。
台東区谷中初音町四ノ二六で、郵便がとどくから妙である。
ちかくに鶯谷があって、法華の寺の多い町で、それで初音とあっては、さだめし、ほうほけきょうと鶯の鳴きにもきた町であろうに……
ほんとうは、うちといっては嘘になる。
うちのごときもの、といった方が正しい。
燕雄はよく歩くのが好きな男だが、日本中で、たった一軒の職場である本牧亭に、一と月に十日か、一か月半に十日ぐらいの割りで、出番がまわってくる時なんか、乗りものに乗るとすると、日暮里の駅で国電に乗って、上野か、御徒町の駅で降りるのがいちばんいい。
都電の団子坂下でもいいが、それでは、少し横丁が多く、燕雄のうちのごときものの道順を知る上には、いちばん、日暮里の駅からがいいようだ。
降りたら、駅を左へ出る。
いまごろの、冬の季節だと、一層、なにかしらじらとした道で、途中から道が二た股にわかれて、坂が出てくる。
まッつぐの坂が御殿坂、左へ曲がるのが七面坂――
その三角形のところに、へんな金網のかこいが出来ていて、パール畜犬鳥獣店という看板がかかっている。
やせッぽちな犬が、右イ向いちゃアワン、左イ向いちゃアワンと、通りがかりの自転車やオート三輪にほえついている。
御殿坂の方はアスファルトの段になっていて、自動車はむろん降りられず、自転車は、降りて、段々のはじッこをすべらせていく。
下に、賑やかな商店がぎッちり並んで、赤や白の幟や旗を立てて、いつでもちんどんやの楽隊が音を立てて、一年中、大安売り、大売り出しをしているような街である。
そんな街が目の下に出てくるのに、自動車に乗ったやつは、そこを降りることが出来ない。谷中銀座である。
燕雄のうちのごときものは、ここからではなく、左の七面坂を降りた方が、わかりがいい。七面坂は、ゆるく、右まわりに弧を描いて曲がっている。
途中、右ッ側に質屋のおじさん≠ニ書いたおよそ質屋らしくない建て物がある。
この界隈の電柱に広告がたくさん出ているが、屋号なんかは書いてないで、ただ質屋のおじさん≠ニある。それで売り込んだ古い質屋である。
すぐの、曲がりッ角に、ちいさな古ぼけたお地蔵さまがまつッてあって、赤んぼを背負って、もうひとり、こどもの手を引いて、もうひとつの手に、買いものかごをぶらさげたお神さんなんかが、ていねいにおがんでいるのをみかける。
そんな古びたお地蔵さまなのに、いつも、首へかけた赤いよだれ掛けが、真新しい。
よッぽど、願いごとのかなうお地蔵さまとみえる。
その七面坂を降りてゆくと、すぐ左ッ側に、長い塀が出てくる。
長明寺《ちようめいじ》の墓地である。
坂を降りながら、片側に、塀の中の古びた墓や塔婆《とうば》がみえ、それがこの坂を一層くらく、佗しく、陰気な坂にしている。
始終、ちんどんやが音を立てていて、生きていることを大きな声でみんなにどなっているような、活気にみちた坂が御殿坂なら、七面坂は、ひッそりと、なにかもう世の中のことをあきらめてしまったような、古びて、かなしい坂である。
この七面坂を降り切ると、四つ角の右手が、これも日蓮宗の本授寺《ほんじゆうじ》、左がそばやの大黒屋。
大小、八十ぐらいの寺がある町で、燕雄が歩いていると、たいてい、どこかで木鉦《もくしよう》を叩いて、勤行の音がしている。
坂を降りると、左へ折れて、すぐの右ッ側に、食料品と雑貨という看板のある卸し屋の硝子戸がしまっている。
細い路地があって、左の角から、宗林寺の塀が、少しつづく。
船守《ふなもり》のお祖師《そつ》さまがまつってある寺で、江戸から大正にかけては、境内の萩が名物になって、萩寺で通った寺である。
この路地から燕雄のところへかけて、大正十二年の関東大震災で助かり、さらにこの間の戦争にも焼け残ったうちが並ぶ。
たとえば、この二間半の間口のうちである。
このうちと向かい合って、みると、おや、俺はまだ宿酔《ふつかよい》じゃアねえか、と思う。
二間半の間口のうちの左右が、まん中の古風な格子戸をめがけて、両方から、まるで、もたれかかるかのように、ゆがんでみえる。
宿酔でゆがんでみえるのではなくって、事実、ゆがんでいるのである。
左の窓は左に傾き、右の窓は右に傾いて、なんだか、うちぜんたいが、くたびれて、笑っているようにみえる。
そんなうちのひとが、
「燕雄さん、うどんが出来たからね、あついうちにお上がンなさい」
そういって、うどんのどんぶりの蓋と糸底へ両手の指をかけて、大事そうに、持ってきてくれたりするのである。
燕雄は、そこの路地を右へまわったつきあたりに住んでいる。
毎月、月末になると、大家さんが家賃をとりにくる。下落合の方のひとで、いつも、口数をきかないで、ひっそりと、
「こんちは」
と声を掛けて、戸をあけてはいってくる。
戸は、物置きとおなじ引き戸である。
「これはこれは」
ようこそ御入来《ごじゆらい》といわないだけの、そっくり、古武士の調子で、桃川燕雄が迎える。
「寒いですね」
そういって、一か月六百円の家賃を受けとると、また、ことことと、路地を帰っていった。
そして燕雄は、いともいんぎんに、
「左様でございます。こんへんでも、あたくしンとこのお家賃が、いちばんお安いンじゃアござんせんか」
六百円の家賃である。
日割りにすると、二十円である。
裸の電気が、ひとつだけ、ぶらアんと燕雄の頭の上にぶらさがっている。
電気代が月に百六十円。
ある日、お巡りさんがやってきた。
引き戸をあけて、はいると、六畳の土間である。
みると、その土間の隅ッこのところに、畳にして二畳ぶりの板敷きがあって、もうなん年か前までは、畳か、茣座《ござ》が敷いてあったとみえて、それでも、もう藁ンなるひとつ手前ぐらいのものが、まア、敷いてある。
そこに、端然と、膝もくずさずに、ぴたり、両膝を揃え、両手を膝に置いて、燕雄が坐っていた。
若いお巡りさんは、自分のうちにいて、こんなに行儀のいいひとというものをみたことがない。
不意を打たれたような形で、ひょいと、なんだかどぎまぎしながら、少しあわてて、そこら中をみわたしてみた。
土間に、なんだかわけのわからないいろいろなものが、足の踏みどころがないように置いてある。
鼠《ねずみ》不入《いらず》のようなものの上に、木の火鉢のようなものがのっているかと思うと、たらいのようなものの中に、椅子のようなものがはいっていたりしている。
みんな、もとは火鉢だったり、たらいでもあったろうが、いまはまるッきり、そうではない。ただ、……のようなものばかりである。
みんな御近所の預かりものである。
預けてからこッち、もうなん年にも、とりにきたということがないから、ときどき、燕雄は、そんなものをみわたしては、
「これは、お預かり申しているより、お捨てになった方がいいんじゃないかな」
と、ふと、そんなことを思ったりした。
でも、預かっているのである。
お巡りさんは、あ、物置きに住んでるんだなと思って、もう少しよくみると、うしろの方に、戸だの、板だのが立てかけてあって、それがその向こうッ側との仕切りになっている。
昔は、実はその向こうッ側の方が表口で、いま、燕雄が端然と坐っている方が、裏口だったのである。
三、四年前までは、そっちの方にもひとが住んでいたが、主人が死んでから、始終、咳ばかりしていた痩せた神さんと女の子が、どこかへ越していったきり、いまではもう誰も住みてがない。
そうなると、すぐ、そこはもう、外とおなじになったのである。
お巡りさんは、いちばんはじめにこういった。
「ははア、天井がないですねえ」
天井がない。
それだけではなく、よくみると、ほんとうは屋根も半分ぐらいはないのとおなじである。
上の廂《ひ》あわいに、屋根の形をした三角の、大きなすきまがぽかんとできていて、そこにうしろの方から、トタンを張った雨戸が二、三枚、蓋をするようにのッかっている。
すぐ、ひと足の上三崎《かみさんさき》に住んでいる石初の隠居家を少しばかり直したとき、入らなくなった雨戸や硝子戸を、石初が若い者にはこばせてきて、
「燕雄さん、こんなもんでもあれア、少しゃア風よけにならねえかい?」
そういって、若い者に、そのすきまに雨戸をそっとのせさせてから、
「すまねえな」
といった。
まるで石初の隠居が、そんなうちに燕雄を住まわせてでもいるかのような、すまねえなという調子だった。
雪が降ると、寝ている燕雄の毛布の上に、いつの間にか、うッすら雪がつもった。
秋の晩なんかには、寺町だけに虫の音が降るように鳴いて、わざと、早くから電気を消して、そこからさし込む月の光を浴びながら眠った。
まるで水の底にでもいるように、あたりが美しくなって、毛布の上から両手を出して、ときどき、こどものように泳ぐようなかっこうをしたりした。
「そうですか」
と、いかにも感に堪えたように、若いお巡りさんがいった。
あたりをみまわして、そして、そんなところに、寂然《じやくねん》と端坐している燕雄に、なんだか感動したのである。
黒いクロースの、厚ぼったい控えをめくって、ちょっと改まると、
「河久保金太郎さんですね?」
といった。
「はい、河久保金太郎でございます」
ござりまするといわないのが不思議なくらい、きっぱりと、古風で、凜々とした調子である。
「おいくつですか」
「はい、明治二十一年十二月二十一日」
といってから、
「東京、四谷南伊賀|町《まち》二十八番地に出生《しゆつしよう》いたしました」
まるで、本牧亭の高座で太閤記≠ゥなんかを読んでいるような口調である。
四谷で、石屋のせがれである。そしてまた金太郎である。
石のように強く、丈夫で、いつも石のようにひとり黙然《もくねん》としていた。
「御職業は、なにをしとられます?」
お巡りさんの言葉も、いつの間にかひどくていねいになっていた。
「講釈師にございます」
「コーシャクシ?」
いつでもこんな時、講釈師といったって、いちどで、素直にわかって貰えたためしがない。
お巡りさんが、ちょっと困ったような顔をして、燕雄の、でッぷりとして、太い眉の、いかにも人のいい顔をみ直すと、
「あのラジオですな、ラジオ。あのラジオなどで、日の下開山は四代の横綱・谷風梶之助であるとかな、あるいはまた室町の末、常陸の国にその人ありと知られたる剣道の名人・塚原卜伝などという方々の事績を物語る講談をな……」
といいかけたら、
「ああ、あの講談ですか」
と、ようやくわかったような顔をして、
「そうですか、講談の先生ですか」
お巡りさんが、なんどもうなずいた。
なんだか、みんな、それでいままでのことがすっかりわかったようないい方である。
それからもういちど、改めて、燕雄の顔をみ直して、
「そうなんですかア」
といかにもまた感に堪えたような声を出した。それから、
「おひとりですね、おひとりじゃさびしいでしょう?」
と訊いた。
天涯の孤独である。
広い世界に、身寄りたよりがひとりもない。
この間の戦争の終わりごろまでには、それでも一軒、親戚みたいなものがあったが、なんども空襲があるうちにその親戚もいなくなってしまって、いまではまったく音沙汰もない。たぶん、もう、死んじゃったンだろうと思っている。
こんな質問のとき、燕雄の答えはいつもきまっていた。こどものような、可愛い笑い顔をして、こんな風にいうのである。
「はい。しかし、ひとりの方がよく気が合います」
負け惜しみでなく、燕雄の、これは実感である。
そういったら、ちらッと、ついこの間まで、ここで一緒に暮らしていた川崎福松の、頬骨のとがった陽焼けのした顔を思い出した。
このうち、実ア川崎福松の住んでいたうちなのである。
「昔から、おひとりだったんですか」
お巡りさんは、そういいながら、その板の間のごときところへ掛けようとしたが、よした。掛けると、燕雄の方に背中を向けて、外の方を向いちゃうことに気がついたからである。だから、そのまま、土間に立っていた。
「いえ、はじめは、このうちの食客でございました」
ちょいと、また笑い顔をみせていった。
はじめ、川崎福松の居候だったのである。
「すると、いつごろからここへ?」
「さいでございます。昭和二十年のことでございますから……」
そのころはまだ、多少はこのうちもうちの形をしていた。
「昭和二十年の、あれが三月の九日でござんしたな……」
と、なんともすばらしい記憶力である。
一回ごとに東京が無惨に焼けただれていく中に、それでも、なんとなく春めいてきた日である。
ひどい空襲があった。
神田は須田町から神保町にかけて、日本橋は大伝馬町から小伝馬町、それに横山町から堀留界隈という生粋の下町――
浅草は柳橋、鳥越、飛んで橋場のあたりから、本所、深川の一帯はむろんのこと、尾久、南千住、三河島、日暮里、そんな東京の、町中とか、市井とか、あるいは庶民とかいうことばの、ぴたりとする町々が一ッ気に焼かれた。
「あれ、被害家屋が二万と六百八十一軒、罹災者の数がと申しますると、七万六千二百八十五人と聞いております」
お巡りさんは、燕雄から講談でも聞いているような気持ちになってきて、思わず、
「ふーん」
と、感服とも、相槌ともつかないような声を出した。
「まず、それまでの東京空襲の中で、あれが最も大きな被害といわれました時のこッて……」
その中のひとりに桃川燕雄もいた。
のちの、アメリカ風の満年齢で数えると、五十七歳である。
その晩、二十年間住みなれた三河島のうちを焼け出されて、ちかくの真土《まつち》小学校に避難をしていたら、
「おう、燕雄先生じゃアねえか」
と声を掛けた男がある。
おなじうきめにあっているんだという気持ちも多分にあって、ひどくなれなれしい調子だったが、燕雄の方ではまるッきり知らないひとである。
小柄で、色の浅黒いきりッとした男前で、いかにも呼吸《いき》のいい調子で、ひと目で、なんだか頼母しそうにみえた。
川崎福松。燕雄より一つ兄貴の、五十八である。
昔、清水の次郎長、夕立勘五郎、幡随院の長兵衛を読んでは、八丁荒らしとうたわれた三代目の神田伯山が、浅草の千束町《せんぞくまち》で中村屋という芸者屋をしていた時分に、気に入られて、伯山という提灯を梶棒にぶらさげると、
「あらようッ!」
と威勢をつけちゃア、
「今夜アね、千束から須田町までの間によ、どうでえ、ええこう、三十八台抜いたんだぜ」
と自慢をして、まるで伯山のおかかえのように、いつも名ざしで呼ばれていた人力の車夫である。
それに、二十四代の横綱は鳳《おおとり》谷五郎のおかかえ車夫をしていたということの二つを、生涯の誇りとしていた。
それが日雇いの人夫になっていた。
川崎福松は世が世であれば、生涯、人力の車夫でいたい男であった。
二人でかついでいた駕籠から、一人でひく人力車が発明されたという魅力は、ちょんまげがざんぎり頭になり、行燈《あんどん》かららんぷになったのと、そっくりおなじような変わり方であった。
文明開化の明治のひとは、人力車の発明を、えれえもんだと心から感動したのである。
人力車が出来たての、明治のはじめのころにくばられたビラに、こんなことが書いてある。
あて字や漢字が多いので、それをいま風に少し直すと、
万華《ばんか》開けし世の中に、上下貴賤の差別なく、それからそれと工夫をこらし、有易《うえき》をきそう世の中に……
と、これ、べつに唄の文句じゃない。
御願済《おんねがいずみ》人力車御披露≠フビラの文句だが、あ、スチャラカ・チャンという三味線にのりそうなところがまた明治である。
このたび新規に製造なし、御披露申す人力車は、諸事|高価《こうまい》の折りからなれど、至って賃銭お心やすく、かつたちまちに走りの早きは、すなわち車の製作方便、急げばかならず一時《いつとき》千里、風雨をしのぐ仕度もあり、そが上ひとりびきなる故、いささか車のふるうことなく、御安座なされて四方《よも》の風景、お心まかせに見晴せべければ、第一鬱気を散ぜしめ、車器《うつわ》は高きにあらざれば、たとえ老少女子たりとも、怪我あやまちの憂いなし、必ず諸君こころみに、ひとたびこれを召したまわば、なお再々の思召しに、きわめてかない申すになん
とんと、すちゃらかぽくぽく阿呆陀羅経である。
このビラには、豆しぼりの向こう鉢巻きというちょんまげのあんちゃんが、梶棒をぐっと両手でつかんで、法被《はつぴ》をもろ肌ぬいで、腹掛けに、足はにょッきり素足であることがいかにもいなせにみえる。
あとから警視庁のお達しによって、車夫の服装《なり》は法被に股ひきときまったが、いつも頭に饅頭笠をかぶって、雨の日には桐油《とうゆ》の合羽か、ゴムの合羽を着ていた。
足ごしらえはたいてい紺足袋をはいていたが、川崎福松は足袋をはくのはどじだといって、伯山だの、鳳をのっけていた若いころには、いつも素足に草鞋《わらじ》をはいていた。
いなせなことの好きな神田伯山は、よく、
「福、いいこしれえだな」
と褒めてくれた。
その一と言でまた、タッ・タッ・タッと音をさせて走る足の速度が、自分でも気持ちのいいように進むのである。
その人力車が、円タクに追いこされて、駕籠とおなじ運命に追いこまれると、れッきとした車宿の帳場の車夫から、辻で、
「旦那、いかがです」
という客待ちの車夫に落ちた。
燕雄は、いまでもときどき、こんな風についこの間まで、一緒にこのうちで、十三年も暮らしていた川崎福松のことを思い出すのだが、そんなとき、
「しかし、待てよ、世の中ッてえものは……」
なにもそんなにびっくりするほどには変わってはいないと、ひとり、そう思うのである。
なるほど、江戸のころの駕籠が、明治になって人力車にとって変わり、それがまたいまの自動車に変わっていったが、考えてみると、やっぱり、人間をのせるのに、なににしたって、みんな、人間がなにかを動かしているのである。
「飛行機だって、やッぱり、そうじゃねえか」
と思って、
「たいして変わっちゃアいねえや」
と、少しばかり安心をしたような顔をするのである。
そんなことを考えたあと、燕雄はすぐまたこんなことも考えた。
「変わったのは人間だ」
しかし、川崎福松は、その変わった人間の中で、さいごまで変わらない男の一人だった。
帳場の車夫だったのが、町かどで、
「旦那、いかがです? お安くいきましょう」
と客を引く車夫になった。
そこからもうひとつ落ちて、車をやや仰のけ気味に、だらしなく引きずりながら、こんどは、
「旦那、おもしろいとこがありますよ」
と、小声で呼ぶようなこともした。
浅草の公園裏から、国際劇場の裏へかけての、ひッそりと格子戸をしめて、くらアいあかりをつけたしもたやへ客を案内して、送りこむと、
「御苦労さん、頼むわよ、また」
そういわれて、なにがしかの金になった。
饐《す》えたどぶのようなからだをした女が、ぱッちりという安白粉を顔中に塗りたくって、しいんと男を待っている。
あんまり、客のないときは、たまにそんなことをするようになったが、昔、八丁荒らしの伯山や、横綱の鳳の車をひいたという福松の誇りが、そんなことをいつまでもさせてはおかなかった。
それにはまた鬼畜米英との戦争もたけなわになって、とくべつな花柳界に残った車宿を除いて、みるみる、人力車の姿が東京から消えていった。
いやンなって、とうとう四十年もの間ひいていた車夫をやめた。
福松のひいていた車は、二束三文で、なんでも下総の佐原とかへ売られていった。
それから日雇いの人夫になった。
もう、戦争がはっきり負けだしたころである。
その福松が、そのころ講談の定席だった八丁堀の聞楽亭《ぶんらくてい》だの、高橋《たかばし》の永花亭《えいかてい》へ、木の枕をして、ごろッと、客席へ横になりにきていた。
自分とおなじ戦災者の燕雄をみつけて、燕雄先生じゃアねえかといったのは、そこで馴染《なじ》みの芸人だったからである。
燕雄も、福松も、べつべつに三河島の家を焼け出されて、ちかくの真土《まつち》小学校の、ガラスというガラスのこわれた教室に世話になっていたが、さて、だからといって、これからどうなるということは、これっぱかりもない。
なんとつかず、そこに一ッ時のがれの避難をしていた連中も、五人去り、二人散り、七人いなくなっていって、だんだん心細くなってきた。
ガラスのない教室の中から外をのぞくと、いやにがらアんと白ッちゃけた校庭のすみッこに、桜がかわいいつぼみを持っていた。
「川崎さん、もうじき、桜が咲きますな」
と燕雄がいった。
すると、聞こえたのか聞こえないのか、福松はそれとはまるでとんちんかんなことをいった。
「どッかい、いくとこはあんのかい?」
燕雄に、お前はこれからどこかへいって、世話になるところはあるのかというのである。
桜のつぼみが、ぽおッとふくらんでいるのを窓越しにみていた燕雄は、あんまりそれとは縁のなさすぎることをいわれたので、
「へ?」
少し大きな声を出した。
「いえね、お前さん、これからどッかいいくとこはあんのかッてんだよ」
東京はおろかなこと、この広い日本中に、いくとこなんか、ない。
「ござんせんな」
平然たるひびきがあった。
配給タバコのなけなしのゴールデン・バットを、根もとまできゅうきゅう吸って、その火先を、骨だらけの大きな手さきでまたていねいに消すと、残りを左の耳ンとこへはさんで、
「あすこなら焼けちゃアいねえと思うんだ」
といった。
「うちですか」
「うん」
少し考えていたが、もういちど、
「あすこなら、関東の大震災にも焼け残ったしな、こんども、なんだか焼けちゃアいねえと思うんだ」
「しかし、それじゃアあなた、ひとが住んでましょう」
「それがね……」
と、いうと、もう立ち上がって、
「ちょっくら、さきのりに、いってみてくら。待ってなよ」
と、どんどん教室を出ていった。
小一時間して福松が帰ってくると、燕雄はさっきの通りのかっこうで、端然と板の間にすわっていた。
「うめえうめえ、うめえよ燕雄さん、すっかり話をつけてきたい、さ、いこう」
いこうと、まるで燕雄の手をひっぱるようにした。
その町は、お伽噺かなんぞのように、いけどもいけどもみわたす限りの平原の中に、あッという間に美しい町が出来たかのように、残っていた。
谷中初音町の一角である。
嘘のようだった。
寺ばかりの町で、だから境内がどこも広くとってある。そのせいかも知れない。
大正十二年の大震災にも焼け残った一角で、空の上からみると、もしかすると、もう焼いたあとの町のようにみえたのかも知れない。
これが、いま燕雄のひとりで住んでいるうちである。
川崎福松がときどき臨時やといで手伝っていた大工の棟梁が持っていて、これがあとで、いまの大家さんに売ったものとみえる。
二人とも、なんにもなかった。
着たきり雀で、そのまま二畳のところに、背中を向け合うと、そっと、配給の毛布を掛けては、寝た。
なんであろうと、小学校の教室ではなく、自分のうちが出来たのである。
川崎福松は朝のしらしらあけに、むっくり、起きて、働きに出掛けた。
帰ってくると、両手を膝に置いて、きちんとすわって待っている燕雄に、
「帰《けえ》ったよ、腹アすいたろう? いますぐ仕度をするよ」
といッちゃア、そのまんま、戸の横の、外後架《そとごうか》のある脇で、三分の一はこわれているような七輪に、ばたばたと音をさせて、火をおこしては、二人分の夕方のたべものをつくった。
なにからなにまで福松の世話になっているのに、燕雄はまたなんにもしない。
出来ないのである。
たまに土瓶を火にかけようとしたりすると、かけがえのないその土瓶の口をかいたり、大切な茶碗をこわしたりするのである。
「先生はね、黙って、そこにいてくれれアいいんだ、たのま」
といった。
福松は燕雄先生といったり、ただ先生といったり、燕雄さんとさんづけにしたり、お前さんといったり、ときどきはまたおいといったりした。
たまにゃア腹も立ったであろう。
しかし、大事にした。
一とッかたまりの飯に、みんながたいてい目をぎらつかせた時代に、いつも、
「はい、お上がり」
と、よくもこう、はっきり半ちんずつ、きちんと分けられるもんだと燕雄が感心するくらい、ぴたり、食いものを折半した。燕雄がなんにも出来ないのは、生まれて六十年このかた、ただのいちども、そんなことをしたことがなかったからである。いつも外で食べた。
断るまでもないが、結婚はしたことがない。自分ひとりで生きていくことが精一杯で、神さんは養えないと、答えははなはだ明瞭である。
女に惚れられたことがない。
そのかわり、生まれてからこっち、ただのいちども、女に惚れたこともなかった。
だから燕雄は、女というものの情はまるっきり分らないといって、男の出てくる講談ばかりを読んだ。
たとえば、
「遠近《おちこち》びとの肌寒く吹くや嵐の大井山……」
という、上野《こうずけ》は雪の佐野の夜《よ》、北条時頼と源左衛門常世の鉢木《はちのき》=B
「捨つる身になき友の里、いまぞ浮き世を離れ坂、墨の衣《ころも》の碓井川、くだす筏の板鼻や佐野の渡りに着きにけり」
の、男の物語りである。
自分のしゃべっているそんな古武士のこころみたいなものが、自分の一部にのりうつったとでもいうか、二日ぐらいものをたべないでも、平然としている。
死ぬほど辛い、かなしいような目にあっても、泣きごともいわなければ、また他人さまにたのみごとをしたこともない。
石屋のせがれに生まれて、金太郎というだけのことはあった。
しかし燕雄のまわりの者は、燕雄なんて、辛いことも、かなしいこともないんだと、思っているだけのことである。
好きなものは天ぷら。そばならもり、寿司ならのり巻き、それにバタつきの食パンである。
だから、燕雄のことを、そんなものを食ってれアそれでいいんだと思っている。
「あれアたべだめの出来る男でね。いつかね、もりを二十六たべやアがった」
という奴がいたが、嘘である。ほんとうは、十二たべた。
たべだめは出来なかったが、二日ぐらいならたべないことがあっても、凜《りん》としているのである。それを、世の中は、意地悪くそういった。
いくら困っても、自分からたのみごとをしたことがない。
「燕雄さんうどんが出来たよ、あついうちにお上がりなさい」
「燕雄さん、俺の着てえたシャツと股引だけどね、着てくれますか」
はい、ありがとうございますと、受けた。その受け方に、微塵も、いやしいところがなかった。
川崎福松も、燕雄のそんなところが好きだった。日本中に講談をやる職場が一軒もなくなッちまって、なにからなにまで福松の世話になっているのが、それでも悪いと思ったとみえる。
「川崎さん、わたしもそのウ……労働ッてえのをやってみましょう」
といって、一緒に福松と出掛けたが、帰りがけに、現場監督が、
「おい、あしたア、そッちのは入らねえよ」
といった。
一ン日で駄目ンなった。
「お前さんはね、ほかのことをやッちゃアいけねえ、いいかい? また、講談をするしか能のねえ男なんだ、わかったね?」
帰ってきて、晩めしをすまして、くらい電気のともっている二畳で、膝をつき合わせるようにして、川崎福松がしみじみした調子でいうと、燕雄は、こくりとひとつうなずいて、
「どうも、そうのようでございますな」
といった。
「そうのようでございますなアじゃねえ、そうなんだよ」
そういってから、福松は、
「それでいいんだ」
すかッとした、きびしいひびきがあった。
そういってから、ちょっとしばらくして、
「なにも、ちっともみッともねえこたアねえ」
……若いお巡りさんは、あれで十分ぐらい、いたであろうか。
「なにか、相談のようなことがありましたら、いつでも、わたしにいって下さい」
ていねいに挙手の礼をして帰っていった。
燕雄は、お巡りさんの帰ったあとも、しばらく、川崎福松のことを考えていた。
みも知らぬ赤の他人の男と、生きていくことだけで一杯な、あの敗戦の前後を、十三年もの長い間、このうちの、この二畳で暮らしたのである。
しまいには、逆に、こんどは燕雄が福松の世話をするようになって、恩は返したようなものの、
「あれア、なかなか出来るこっちゃアねえ」
と思ったら、めずらしく、突然、涙が出てきた。……
もう戦争もぎりぎりのどたん場にきているころである。
不思議に、いつも空襲に焼け残る町で、空襲のない晩なんかは、うっかりすると、まるで戦争なんかしていないような気がした。
きょうは言問橋《ことといばし》のこっち岸で、死骸を片付けてきたといっていた福松と二人で、あとはもう寝るッきりである。
いましがた暮れ切った長屋の路地に、もう月の光がさして、ときどき、風がはいってきた。
「川崎さん、ひとつ、あたしの講釈をきいてくれますか」
と燕雄がいった。
びっくりして、
「どうしたんだい?」
「いえね、やらないでいると、忘れちゃうしね……」
それから、お前さんにあたしがして上げられることといったら、たったひとつ、講談じゃねえか、といおうとしたが、燕雄ははずかしくって、そんなことはいえなかった。
福松と差し向かいで、燕雄は太閤記≠フ秀吉の生いたちをはじめた。
「天文《てんもん》五年、尾張愛知|郡《ごおり》中村に生まれて……」
しずかに、訥々《とつとつ》、凜々たるひびきがあった。
「天文五年、尾張愛知郡中村に生まれて、姓を木下、その幼名を日吉。のちに羽柴と改めては筑前守に任じ、従一位太政大臣関白と累進したまい、天晴れ、豊臣の姓をたもうては日本統一の偉業を完成されたという……」
そういやア、好きな講談を、いったい、どのくらいきかねえでいることか。
東京中の、といえば、それはすぐ日本中の、ということになるのだが、講談の定席という定席が、不況のために、一軒一軒古い看板をおろしていって、あれはいったいいつごろのことであったろうか、俳句なんてものの、なんにも知らない川崎福松が、たったひとつだけ、妙におぼえている句に、
講釈場すくなくなりし袷かな
というのがあった。
雪中庵・増田|竜雨《りゆうう》である。
むろん、作者の名もなんにも知らずに、いつだか、都新聞の、寄席の記事の中に引用されているのを読んで、
「うめえことオいうじゃアねえか」
そう思って、そう思ったとたんに、その句が頭ン中にこびりついて、ときどき、福松は思い出すのである。そのたびに、かなしい句だなと思った。
燕雄の太閤記≠ききながら、久し振りにまたその句を思い出して、福松は、
「すくなくなりしにもなんにも、まるッきり、なくなッちまったじゃアねえか」
と思うのである。
やめたり、焼けたりして、もう講談の定席は一軒もなかった。
福松は、やめたことにも腹が立った。やめさせるようにした世の中にである。
焼けたことにも腹が立った。焼けるようにしたやっぱり世の中にである。
なん百年という長い間つづいた日本の芸を、なくなそうとしている世の中に、腹が立つのである。
「てめえの生まれた国で、なん百年とつづいた古い芸を、ほろぼそうとしていやアがる」
そんな国だから、たいへん、えらいことのように、こんな戦争なんてえものもしやアがったんだ。
そんなことを思っていた。
燕雄はまた太閤記≠なん年ぶりかでしゃべりながら、
「おや、俺ア忘れちゃアいねえや」
と、そのことが、ひどく、なんだか嬉しかった。
明治三十七年、十六で浅草三好町に住んでいた桃川実に入門、いまの木偶坊《でくのぼう》伯鱗《はくりん》に修羅場《ひらば》(軍記、軍談の合戦場面)を教わって以来の芸である。
芸に花はないけれども、さすがに古く本筋の稽古できたえた芸だけに、いまの世の中に、毛筋ほども汚されない古風な講談の味があった。
五、六人、いつの間にか、戸口の外に立って、燕雄の芸をききにきていた。
それ以来、ときどき燕雄は、働いて帰ってきた福松に、講談を聞かせた。
なんにもたのしみというもののなかった近所のひとも、二人寄り、三人集まってきて、土間に腰をおろしたり、戸口に掛けたり、立ったりして、聞いた。
灯火管制のうすッくらい電気の下で、七、八人のききてが、もやもやと燕雄の前に、勝手なかっこうで半円形を描いた。
そんなとき、みんな燕雄の講談のひとつひとつが、なんだか、じかにこころに触れて、戦争を一ッ時忘れるような思いがした。
「川崎さん、今夜アやって貰えますか」
そんな定連が出来た。
蛍坂《ほたるざか》のそばの寺男である。いちど、味をしめてから、わざわざ蛍坂の寺から、夕方、今夜は講談をやってくれるのかと訊きにくる。
外で、足を洗っていた福松が、少しばかり得意ンなって、
「燕雄先生に訊いてみな」
という。
寺男がちょっとうちン中へ顔を入れて、
「先生、今夜はやって戴けますか」
すると、燕雄は、心持ち、のび上がるようなかっこうをして、外の福松に声を掛ける。
「川崎さん、やりますか、今夜?」
こんな時、ぴたり、家のあるじの顔を立てる。
「聞かして上げなよ」
そういってから、福松は、
「あとで、おいでなさい」
と、寺男にいった。
「有難う存じます、のちほど、お邪魔をさして貰います」
たまに、埼玉の方からいもを貰ったといッちゃア、二、三本やせたのを持ってきたりした。
読みものはといったら、太閤記、塚原卜伝から、毛谷村六助、荒木又右衛門、成田|利生記《りしようき》、それに越前、越後の騒動は両越評定《りようえつひようじよう》――みんな天下の豪傑か、武士か、力士か、まるッきり女ッ気のない講談ばかりである。
しかし、そんな燕雄の艶ッけのない講談を聞きながら、ひとりひとり、みんな、昔はいい世の中だったなアと思った。
出てくる人間も、みんないいひとたちばかりである。
配給のねぎが一本足りないといって、泣き声をたてたり、いがみ合ったりしているような人間はひとりもいなかった。
ときどき、途中で警戒警報が出たり、突然、空襲警報が発令されたりした。
みんな、あわてて、路地を散りぢりになっていき、燕雄と福松は、土間の片すみの、素掘りの壕のごときものに、そこらにあるバケツだの、桶みたいなものを頭からかぶって待避した。
その実、待避したような形だけで、まるで、待避なんかにゃアならないのである。
そんな時、いつでも燕雄は、生きたいなと思った。自分が芸の出来る間は、生きていたいな、と思うのである。
燕雄はいままでにも、いちど、生きたいと思ったことがあった。
三代目の神田伯山が、昭和七年の一月に、昔風に数えて六十一で死んだとき、
「人間、五十というけれど、ま、七十までは生きてえもんだ」
と思った。燕雄が四十四の時であった。
その燕雄が、生きて、五十七になった時、戦争が負けて、終わった。
なんにも生きていく喜びなんて、べつになかったが、ただひとつ、芸がやりたいためばかりに、生きていたかったのである。
「舌がもつれて、芸がやれなくなったんじゃア、生きちゃアいたくねえけどさ、そうでしょ?」
ッて、福松にいうと、
「えれえもんだ、大丈夫《でえじよぶ》だよ、その意気があれア」
感心して、さらに、
「燕雄さん、お前さんなら七十ンなったって、八十になったって、大丈夫、芸がやれるよ」
といった。
その日も働きに出ていった福松が、ひるすぎ駈けこむようにして、帰ってきて、
「たいへんなことンなったぜ、天皇陛下が、なんか、ラジオでしゃべったッてえぜ、えれえこッた」
「なんです、天皇陛下がなんだって仰有《おつしや》ったんで?」
「そいつがね、なんだか、ラジオがよく聞こえねえッてえ話なんだが、なんでも、戦争はやめたらしいてえのと、いや、みんなもっと覚悟オしろッてえのと、どうも、ラジオ聞いた奴の話がよくわからねえんだ」
そういって、
「とにかく、天皇陛下がラジオでしゃべったんだからね、たいへんなことンなったもんだ」
福松はめずらしくひどく昂奮して、飯の仕度にとりかかった。
萩寺の塀の前の、印刷局に勤めている職工さんが帰ってきて、そのひとの口から、戦争は負けたとわかった。
福松は、七輪をあおいでいた渋うちわを、土間の上におっぽり出すと、おいおいと声を上げて号泣した。
燕雄も涙が出たが、福松ほどには泣かなかった。
負けたとなると、もう、空襲もあるまい。
もしかすると、講談もしゃべれるような世の中になるかも知れない。
いままで、しゃべらせてくれなかったんだから、こんどはきっと講談のやれる世の中になるだろう。
きゅうッと、両方の目をつぶって、黙って、ぽろぽろ涙を流していたが、きゅうッとつぶった目の中に、なんだか、ぽおッとあかるみがさしてきたような気がした。
「やれるよ、きっとやれる、きっと、芸の出来る時がやってくる」
それからへんなことばかりあった。
大将だの、元帥だのというえれえ奴が自殺したり、死にそこなうのもいたり、銀行でいッぺんに十なん人も殺されたり、法隆寺の金堂《こんどう》なんてえとこが焼けちまったり、国鉄総裁とかいうひとが、なんだかわけのわからない死に方をしたり、六代目・菊五郎が死ンじゃったり、人のいない電車が走ッたり、列車がひとりでにひッくり返ったり、へんなことばかりがつぎからつぎへと起こった。
しかし、いつまでもそんなことにおどろいちゃアいられなかった。自分ひとりが生きていくことの方が、そんなことより、もっと、たいへんなことだったのである。
そんな中に、なんども、ひどい台風が日本を襲った。キャスリーンだとか、アイオンだとか、キティだとか、燕雄や福松には、どうして、台風なんかに英語の名前《なめえ》があんのかわからなかったが、息も出来ないような、そんなひどい台風がなんどもきて、そのたびに、谷中初音町の二人のうちは、少しずつこわれていった。
キティ台風の時なんか、てッきり、こいつア、からだごと空中に舞い上がるのかと思ったのに、舞い上がらず、朝ンなったら、いつものようにまた路地に陽がさしてきて、二人とも、ちゃんと生きていた。
舞い上がるにも、前後左右の路地がせまく、お互いにうちとうちとが左右からそっと寄り添っていて、舞い上がろうにも、舞い上がれなかったのである。
そのかわり、そのたびに、次第に、うちが、うちのごときものに変わっていった。
本牧亭が講談の定席として出来たのは、負けて五年目、昭和二十五年である。
「川崎さん、これから恩返しの万分の一をさせて貰います」
と、燕雄は頭を垂れて、福松に挨拶した。
福松は、どういうわけだか、なによういってやがんでえという風な顔をしていたが、燕雄は気がつかなかった。
たった一軒だが、天下晴れて、講談をやれる舞台が、東京に出来たのである。
始終というわけにはいくまいが、なん年ぶりかで釈台の前にすわれる。
「百花一時に開く思いとはこのことか」
ちょうど、季節も春である。
燕雄は口に出して、そうつぶやいた。
「ひとつ、出てみねえか」
講談組合の頭取・邑井貞吉《むらいていきち》から声が掛かった。
「ありがとう存じます」
もうそのころ、ありがとう存じますなどという日本語は、だんだん、東京の言葉から消えてなくなろうとしていた。
銀座のバーで、月が出た出た月が出た、うちのお山の上に出た、あんまり煙突が高いので、さぞやお月様けむたかろサノヨイヨイという唄がうたわれたり、新橋の芸者が、座敷で、笛にうかれて逆立ちすれば、山がみえますふるさとの、わたしゃ孤児《みなしご》街道ぐらし、などという美空ひばりの、越後獅子の唄をうたっていたころである。
本牧亭は、いまは高座が間口二間半、奥行き一間半になったが、二十五年の春に、講談定席の看板を揚げた時は、いまよりもっと狭かった。
高座の間口が二間の、奥行きは一間。釈台を前に置いて、宝井馬琴だの、燕雄のような男が、両手を左右に張って釈台を構えると、それでもう一杯になるような気がした。
客席も、いまと違ってもうひとつ狭く、二十畳敷きに、うしろの階段の脇に、ちょっと鉤の手になって二畳のはんぱがあった。
つまり、二十二畳の寄席である。
いまでもかわいらしい寄席だが、いまよりもっとかわいらしかった。
寄席の定員は、畳一畳に三人ということになっているから、六十六人。それで一杯になる寄席である。
東京に、まだ講談をやる芸人が二十人ぐらいは残っていて、十日間ずつ、かわりばんこに出た。
いつも一杯になることなんかなく、いつでも、ぱらぱらと、壁に寄りかかっている。
しかし、本牧亭という、日本でたった一軒の講談の寄席が出来たのである。
「ありがてえこッた」
それだけで、生きていくということはむろんむずかしかったが、みんな、そういって、大事に、そのかわりばんこの舞台を勤めた。
燕雄にも、一と月半にいちどか、二た月にいちど、出番がまわってくる。
少し、歯の欠けはじめた口を、きゅッと一文字に結んで、それでも、こわい顔にならず、いつも、うッすら微笑のただよっているような顔で、ひとりで、ことことと、そこらを片付けたりしては、ひとりで戸をしめて、本牧亭に通った。
戸は、そのころから、引き戸で入口をふさいでいたので、出る時、手ごろな石を、戸の外に置いて、かいものにする。
いくら留守にしても、泥坊ははいらなかった。
いつも一時間ぐらい前に楽屋入りをして、端然とすわっていた。
「燕雄さん、うしろから足がみえるよ」
と、注意された。
二寸ぐらいのほころびが、二、三|日《んち》たつと、三寸ぐらいになり、やがて五寸ぐらいの穴になった。
そこから、歩くと、ふくらッぱぎがのぞいてみえる。
「どうも、あいすみません」
とあやまる。
湯の好きな男で、毎日、必ずちかくの初音湯にはいるので、色の白い肌が、いつもすべすべとしている。
そのかわり、そういう着物や肌着を着るから、いくら毎日湯にはいっても駄目ンなッちゃうのである。
「天から授かったもの」
燕雄は昔からそう思って、そんなこと、べつに苦にしたことがない。
でも、夏には夏の、冬には冬のものを着ていた。それで、自分は満足しているのである。
苦にしたのは、まわりである。
だいぶ昔の話だが、燕雄の着ているものが、あんまりひどいといって、ともだちの伯鱗に、
「これ、女物で悪いんですけどね、仕立て直して、燕雄さんに着て貰ってくれませんか」
須田町の立花亭の中番をしていたおたきさんが、女物の着物を二枚、伯鱗にわたした。
おたきさんは太った女だった。
直接、燕雄にそんなことをいったら、なんだか悪いような気がしたからである。
伯鱗が心得て、
「結構ですな。早速、燕雄君に着せます」
わけを話すと、燕雄は大げさにしないで、その女物の着物を、ちょっと押しいただき、
「ありがとう存じます」
と、いった。
そこまではよかったが、燕雄は仕立て直さないで、そのままおたきさんの着物を着て、八丁堀の聞楽《ぶんらく》の高座に出た。
少しばかりくたびれた茶のお召しで、こまかな縞である。
黒襟はとっていたが、振りのとこから赤いものがみえる。裾を腹ンとこでたくし上げて、このかっこで、いつものように堂々と高座へ出てくると、客席は、
「やア、蝙蝠安《こおもりやす》(歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」に出てくる人物)じゃアねえか」
蝙蝠安だと口々に騒いで、十分ぐらいの間、だアれも燕雄の講談を聞こうとはしなかった。
仕立て直せなかったのである。……
本牧亭が出来て、少し経って、ある時、楽屋を掃除していた手伝いの木村さんが、
「あら、やだッ!」
と金切声をあげた。
しらみが一ぴき落ちていた。
誰が落とした観音さまかわからなかったが、それから燕雄は本牧亭に出なくなった。ぱたり、出演の話がこなくなってしまったのである。
しかし、燕雄は、本牧亭のお神さんのおひでにも、それから組合の頭取の松鯉《しようり》にも、仲間にも、出してくれとはいわなかった。
それからまた二年ばかり歳月が流れる。
燕雄はその間、またもとのように、日雇い人夫をしている川崎福松の世話になった。
ある日、
「おや、いいお宅だよ」
と、いまにもおでこンとこを扇子で叩きそうな、すッ頓狂な声を出してあらわれた男がある。
谷中初音町四ノ二六の、このうちを、いいお宅だといったものは、あとにもさきにもたったひとり、この男だけである。
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ある初夏に
三代目・都々逸坊扇喜《どどいつぼうせんき》。
燕雄とは生まれてからこッち、あれで、二度ぐらいは逢ったことがあったであろうか。
それも、挨拶らしい挨拶さえ、したことのない仲である。
扇喜も古い寄席の音曲師だが、色物の席に出ているので、燕雄が講釈場専門だけに、まだ、二度ぐらいしか逢っていない。
姓を加藤、名を大勝利というのは、扇喜が日清戦争に勝った年に、生まれたときにつけた名だからである。
そのころ、法界節《ほうかいぶし》なんかと一緒にはやって、あとで改良剣舞なんかにさかんに使われた剣舞節という文句に、
日清談判破裂してえ 品川乗りだす吾妻艦
というのがあった。
改良剣舞というのは、紺がすりの筒っぽに白だすき、きりりと白鉢巻をうしろへ垂らして、足袋は紺、袴の股だちをきりッと取って、そんなところは、詩吟を用いる剣舞とだいたいおなじだが、女芸人が白粉《おしろい》を塗って、そんな服装《なり》をして、
つづいて金剛オ浪花艦 国旗堂々ひるがえェしイ
などとうたって、しまいに、
難なく支那人打ち倒しイ 万里の長城オ乗ッとって 一里半ゆきゃ北京城オ……
こんな、おなじ単調な節を、なんどもくり返すのだが、そのたびに、踊りてはときどき、
「はッ」
と掛け声を掛けては、両手をかわるがわる前へ出したり、ときには、ぽんと上へはね上がったりすることを、これもくり返すばかりで、いったい、どこで終わるのだろうと思うようなしろものだったが、しかし、やがて終わる。終わりの文句が、戦争に勝って、
実《げ》に満足慶賀の至り 欣慕 欣慕 愉快 愉快 大勝利
扇喜の父親は、その大勝利という名をせがれにつけた。日清戦争のごとくに、この子も、世に勝たせたいと思った親ごころである。
しかし、福松と燕雄の住むこのうちを、
「おや、いいお宅だよ」
と、いかにも百年の知己のような調子ではいってきた扇喜の姿は、嘘にも、大勝利という名にふさわしくなかった。
三味線も器用に弾いて、腕のある芸人だったが、道楽者で、ずぼらで、怠け者で、しくじりにしくじりが重なって、戦後、もうどこの寄席へも出しては貰えず、浅草の門跡様《もんぜきさま》(ここでは、台東区西浅草一丁目にある東本願寺のこと)の地内《じない》に、菰《こも》をかこって暮らしていると聞いてから、ずいぶん経っていた。
突然、いいお宅だよと褒められて、さすがの燕雄も、とっさのことにどぎまぎしていると、
「ねえ、ごらんな……」
と、扇喜は自分のうしろの、戸の外の方を、ちょっと振り返るようにして、
「ようがすよ、ようがす」
すると、五十がらみの女が、ぬッと顔を出した。
「こ、ん、ち、わ」
と、一字一字いって、
「あら、いいお宅」
扇喜とおなじようなことをいった。
扇喜の神さんのお美代である。
仕様がないんで、燕雄は、
「いらっしゃい」
といった。
相手が二人ともいかにも馴れ馴れしく、しゃべる調子もいかにもまた軽くって、いやでも、いらっしゃいぐらいなことはいわないわけにはいかないのである。
まだ、梅雨には早いころだというのに、扇喜も、お美代も、よれよれの浴衣を着て、二人とも、揃って、鼠色をした白足袋をはいていた。
すると、この燕雄がいらっしゃいといったすきをみて、目ばしッこく、扇喜は隅っこに立てかけてある莚《むしろ》をみつけると、あッという間にそれをひろげて、土間の隅にすわると、
「お美代、おい、ここンとこイすわらして貰いな」
そういうと、こんどは、お美代がひょいと戸の外をみたッけが、
「ちょいとオ、お前もここンとこイすわらしてお貰い」
とたんに、
「へッ」
といったかと思うと、脱兎のごとく二十五がらみの男が、もうひとり、飛びこんできた。
だんだんすり切れたり、だんだん破けてきたりしたとみえて、長かったズボンが、膝ッきりになっちまったのをはいていた。
扇喜の弟子の都々逸坊|扇子《せんす》である。
扇喜、お美代、扇子と三人が、ぴたり、目白押しに並んで、土間の莚の上にいやにかしこまってすわって、同時に、あッけらかんとしている燕雄の顔を少しみ上げるような形になると、一斉に、
「えへ、へ、へ、へ、へ」
と、笑った。
燕雄も、びッくらして、少し、それよりは短く、
「へへへへ」
と笑ってみせた。
それなり、ずうーッと、扇喜夫婦と弟子の三人が、そこで寝起きをするようになった。
東京に、どこにもいるところがなく、燕雄のうちをたよって、そこに置かして貰いにきたのである。
扇喜も、東京ッ子である。根ッからの悪い男ではなかった。しかし、そうするよりほか、もう仕様がなかったのである。
ときどき、鼻うたで、扇喜は、
「こんな男にだれがしたア」
とうたった。
扇喜が高座に出ていたところに、十八番《おはこ》でうたった都々逸の文句ではなく、流行歌を、自分で替えてうたうのである。
川崎福松の肩に、また三人の扶養家族が加わった。
はじめ、扇喜は、初対面の福松に、
「ノセる方は、あたくしども、自分でやりますから」
と、いった。
ノセというのは寄席芸人の隠語で、ものをたべるということである。
だから、この土間の隅ッこの、ここンとこイ置いといてくれさえすれア、たべる方のことは、自分たちでやりますからという話なのである。
「誰だって、困る時アお互い様だよ」
福松はそういい、びっくらして、困っている燕雄に、
「いいじゃアねえか、置いてやんなよ」
といった。
この世の中に、俺ンとこを頼る人間がいたのか。そのことが、川崎福松には嬉しかったとみえる。
扇喜夫婦と弟子の三人が、福松のうちの居候になって二日目の夕方、福松と燕雄が、少し遠くの肉屋から、三つ十円のコロッケを買ってきて、飯をたべていると、扇喜がみてみないふりをしては、ちらちらと、福松と燕雄をぬすみみしている。
神さんのお美代は、目のやりばに困って、ぽかんと口をあけて、煤けた天井を、これも、みているようなふりをしていた。
天井には、なんだか、油ッ紙に大事にくるんだちょっとした大きさの包みが、ぶらさがっている。
うしろのこわれた廂間《ひあわい》から、少し風が吹ッこむと、その油ッ紙の包みが、ふわふわと動くのである。
弟子の扇子は、真ッ正面から、二人のたべているところを、にらむようにしてぎゅッとみている。
その土間に敷いた莚の上をどくと、いまにも誰かにその場所をとられてでもしまうかのように、三人は、ずうーッとその上にすわりッきりである。
好物のコロッケを半ちんかじって、それを皿の上に戻そうとしながら、福松がなにげなく、ひょいと扇喜の方をみたら、ちらッとぬすみみをしている扇喜の視線とぶつかった。
「えへ、へ、ヘ……」
とまた扇喜が笑ったが、福松も、そして燕雄も、お美代も、扇子も、ほかにはだアれも笑わなかった。
福松が、朝、仕事に出ていったあと、少しばかりいづらくなった燕雄が、
「ちょいと、そのへんを歩きます」
と、出ていったあとなんかに、谷中銀座からなにか買ってきて、三人は急いでたべるらしかった。
三日目の夕方、また福松と燕雄が晩の飯をたべていると、こんどは、三人ともらんらんたる目つきをして、はっきり、それをみていた。
それから福松は、朝と晩の二度、乏しいたべものを、扇喜たち三人に分けてはたべた。
するするッと、五回ぐらい気前よくたぐッちゃうと、
「はい、御馳走さまッ」
といわなくッちゃならないようなうどんなんかをたべながら、よせばいいのに、扇喜は昔たべたうまいもんの話をした。
「河金《かわきん》のとんかつ、ようがしたな。こんなに厚い切り身でね、こんがり揚がっててさ。あれがまた妙にね、衣《ころも》と肉とがはがれやしたよ」
そこで、ナイフとフォークを持つ手つきまでしてみせて、
「そいつをね、こうジャブジャブにかけたソースん中からね、ホークでもってその衣をすくい上げて、こう……」
と、口へはこぶ形をしてみせる。
「河金ッてどこさ?」
そんな時、きっと、お美代がそんなことを訊く、
「河金?」
さもさも、お前みてえな田舎ッぺえは知れアしめえといった軽蔑を、はっきり顔に出して、
「お前なんかア知れアしねえよ、浅草だよ」
「だって、いちども連れてッてくんないじゃアないか」
そういって、また喧嘩ンなった。
「かき揚げは天春《てんはる》に限るね」
弟子の扇子の顔をみて、
「お前なんかア知ッちゃアいねえがな、こう、お前、こんがり、かき揚げが揚がっててよ、くらいつくてえと、かしゃッて音オたてやがるン」
神さんが相手にならないと、うんともすんとも、誰も返事なんかする者はなかった。
福松と燕雄が、少し長い時間うちを留守にすると、大事な配給の米が、目にみえてへっていた。
留守にも出来ず、福松の働きに出ている間、燕雄は膝に手を置いて、配給の米を守った。
蚊の早い土地で、また蚊が出てくるころのことである。
ある時、突然、
「あれ、なんです?」
なんともいい呼吸《いき》で、つッと、扇喜が燕雄に訊ねた。
風が少し吹ッこんでくると、ふわふわと揺れる包みである。天井のまん中に、油ッ紙で大事にくるんでつるしてある。
なん日間も、その包みのことを訊こうとしていて、なんとも長い間、その機をうかがって待っていたような、そういう気迫のごときものがあった。
あんまり、その間《ま》と呼吸がいいので、燕雄は、扇喜のつッと指さした天井の包みをみ上げたとたんに、
「高座着ですッ」
といった。
笹りんどうの紋のついた着物を石初に、かたばみの紋のついた羽織を紋啓に、袴は葛飾の古いひいきから貰った。
そっくり、揃えてくれるほどの客はいなかったが、石初のうちの紋の笹りんどう、着物である。
白抜きの紋が長い歳月《としつき》に、もう鼠色にぼやけていて、文字通り、ようかん色になっている。一と目で、明治のにおいがした。
紋啓のうちの紋のかたばみ、羽織である。白く抜いた紋が長い歳月に、これも鼠色にぼやけて、むろん、これもようかん色になっていたが、びっくりするような大きな紋で、そのことがまたいかにも明治という時代をぷんぷんさせている。
葛飾の古いひいきから貰った袴は、もとはといえば、たぶん、茶のこまかい縞の柄があったのに違いないと思われるが、いまではもうそんなもの、跡方もなく、これも明治からの、そのまま風雪にさらされて、ただぼーとしたような色ンなっていた。
燕雄はあの大戦争の最中、この三つだけを、いのちと一緒に大事にして、火水《ひみず》の中をくぐりぬけて、そしていのちと一緒に守り通した。
釈台を前にしてすわる時、いつも必ず着るものではないが、ここという晴れの舞台には着て出た高座着である。
このうち中、みわたしても、それを安全かつ無事に置いておく場所がない。
いちど、枕許の、いろいろなものを入れているミカン箱の中に置いてみたが、ときどき、鼠がやってくるのを知って、夜中に起きて、胸にかかえて、寝た。
あくる朝、福松が仕事に出ていったあと、燕雄は改めてうち中をゆっくりみまわしてみた。
大きな、古い箱で、ラジオがある。
鶴賀鶴兵衛という風変わりな新内のおッ師匠《しよ》さんが、これも燕雄の古いひいきで、たまたま、小松川の鶴兵衛のうちが大掃除の時に出ッくわしたら、
「燕雄さん、古いラジオだけどね、聞こえるよ、持ってきませんか」
といってくれたのが、置いてある。
そのあと、一週間ばかりして、神田明神の納豆のわらづとを二本持って、礼にいったことがある。
そういえば、燕雄はそんな時、よくちょっとした手土産を持っては、礼を返した。
それも、横からのぞいてみただけで、餡《あん》が白くかわいているのがわかるような最中《もなか》なんかじゃアなく、三河屋の納豆とか、芋坂の羽二重団子なんかを持っていった。ぴたり、本筋である。
鶴兵衛は聞こえるよといったが、妙なラジオで、NHKの第一放送しか聞こえてこない。
それもときどき、すうッと音が細まり、遠くで、こちょこちょなんかいっている時が多く、そんな時、軽く、右手の拳骨で張ッ倒すと、また、しばらくは聞こえるというラジオである。
「これがいいや」
そういって、うしろのうすい板をはがしてみたら、一杯、いろんなものがはいっていて、駄目ッ。
それから、燕雄は三十分ちかくも、坐ったまんま、あそこか、ここかとうち中をにらみまわしていたが、大事な高座着を置いて、安心の出来る場所は一か所もみつからなかった。
「そうだ、天井てえもなアどうだろう」
そう思いついたら、なんだかからだ中がぽーッとした。
じいッと、み上げて、
「うん、天井だ」
口へ出して、そうひとり言をいった。
老人がひとり言をいうのは、あれは、さびしいからである。それに、ひとり言なら、なにをいったって、反対をする者はなかった。
萩寺の塀にそった左官屋《しやかんや》の竹さんのとこへいって、
「御商売もの、まことにあいすみませんが、寸時、梯子を拝借願えませんでございましょうか」
こんな時、燕雄は一層切り口上になる。
ときどき、夜、ぐらぐらと前後左右にゆれて、いまにもこわれそうな妙な椅子を持っては、燕雄の講談を聞きにくる左官屋の竹さんである。
「おいきたッ、ゆっくり使って下さい」
「御大切なものを、まことにあいすみません」
一字一字はっきりそういって、借りてきた。
いのちとおなじ大事な高座着である。
この壁のねえとッからは、風がはいってくる。少し横降りだと、雨もはいる。雪なんてえなアたまのこったが、ここはいけねえ、と。
そうするてえと、ちょうどこのへんのとこイぶらさげれア、まず、雨にも、風にも、大丈夫だろう。それに、少し長めに紐を結んで垂らしゃア、鼠の野郎もかじりにゃアこねえ。
「よオしッ」
燕雄は長い梯子を無理しておッ立てると、夢中になって、油ッ紙に包んだ高座着を、天井からつるした。
竹さんに梯子を返してきて、二畳にすわって、きゅッとしてみ上げたら、ぶらぶら、少しばかり油ッ紙の包みが揺れていた。
そういう高座着である。
戦後、まだいちどもその高座着を着たことはなかったが、燕雄は、いつか、なんだかきっと、その高座着を天井からおろして、着て、晴れの高座に出るような気がしていた。いつの間にか、それをそう堅く信じていた。
ひとの、虚をつくとでもいうか、なんともいえない巧い間と呼吸《いき》で、あれ、なんです? と扇喜が訊いて、高座着ですッと燕雄が答えたら、扇喜は、
「おお、さすがに桃川燕雄先生ですよ」
そういってから、神さんのお美代へとも、弟子の扇子へともつかずに、
「えれえもんじゃアねえか」
えれえもんじゃアねえかといったあくる日の夕方、かき消すごとく、その高座着が消えた。
少し遠かったが、その日もコロッケの特売日だったので、燕雄がコロッケを買いに出掛けて帰ってきたら、もう、天井には、高座着の油ッ紙の包みはなかった。
すぐ、あとから帰ってきた福松が、お前さん達ア留守をしていなかったのかと、扇喜たちに訊こうとしたら、それをいうかいわないうちに、
「いやどうも、申しわけござんません」
と扇喜が頭を下げた。
「それがね、上州の旅だけど、あたしに都々逸をうたってみねえかッてね、芝崎町の村井興行部の男がやってきたン。ここでもなんだからッてえんでね、裏のさ、谷中銀座のミルク・ホールへ案内したと思いなさい。いえ、その男、こいつとも顔なじみなんでね」
と、ちょっとお美代の方へこなしがあると、
「そうなんですよ、あたしもついてッちゃったンですよ、そのミルク・ホールへさ」
とこんどはお美代と割りぜりふである。
「いえね、扇子の野郎は留守番に置いてッたんですが、それがね……」
てえと、こんどは、扇子がまるで待ってましたとばかりに、
「そこイね。あたしが洗濯屋の小僧オしてた時分の金坊がね、おい、こんなとこイいるのかてえン」
「川崎さん、あなたの前だけど、いまの若え者てえもなア頼りになりゃせんな。まったく」
と扇喜。
「いえ、そいつがね、ラーメンでもおごるてえますからね」
と、それでちょいと、留守にしたというのである。
まるで掛け合い漫才かなんかのような、さらさらと、いかにもきげんのいい調子である。
うっかりきいていると、つられて、
「ふんふん」
だの、
「へええッ」
「なるほど」
なんかんと、相槌を打ちたくなるような話しッぷりである。
しかし、燕雄も、福松も、さすがにそんなことはいえなかった。
燕雄は達磨《だるま》のような口もとを、きゅッと一文字につぐんでいた。いつも、どんなに辛いめにあっても、きげんの悪い顔をしたことのない男だから、それだけでも、なんだか少し、おこったような顔にみえた。
福松はきりッとした顔に、ぎゅっと眉間のたてじわを寄せて、扇喜たちの話をきいているのか、きいていないのかわからないような風をしていた。
三人が、ひどくはしゃいだ感じで、いよいよ、雄弁になるのに、燕雄も、福松もまったく無言である。
三人よりも一と足早く、燕雄がコロッケの特売を買って帰ってきたら、すぐ、高座着の油ッ紙の包みが、消えてなくなっているのを発見した。
燕雄はすぐ、もしや紐でも切れて、天井から落ッこちて、その包みがどッかに置いてあるんじゃないかと思って、急いで、そこいらをみまわした。
ものの三秒もあれば、うち中、ぜんぶみまわせるが、ない。
こんどは少しあわてて、もういちど、そこいら中をみまわしたが、こんどもなかった。
とたんに、
「やれアがったな」
と思った。
そして、すぐ、つぎの瞬間、
「いけねえいけねえ」
そう思うと、ぱッと、
「七度《ななたび》尋ねて人を疑え」
という諺《ことわざ》を思い出した。
始終、講談の中で燕雄がいっている毛吹草《けふきぐさ》の中の諺である。
燕雄はその教えの通り、それで、ぴたり、疑わないことにしたが、ないとわかって、それからあとの、扇喜たち三人の、いやにはしゃいだおしゃべりには、さすがに少し気を悪くして、口を一文字に結んだのである。
福松は、やがて、あきらかに、
「なによウぺちゃくちゃいってやんでえ」
という顔つきになっていた。
「今夜のコロちゃん、今夜のコロちゃんはね、あたくしに買わして下はいよ」
扇喜はコロッケのことをコロちゃんといった。
「いえね、その上州の巡業の手つけだってッてね、少うしばかり、ふんだくってやったン。そうさして下はいよ、ねえ」
燕雄も、福松も、返事をしなかったが、めずらしく、ふところから大きな布《きれ》の財布を出すと、くるくると紐をほどいて、さッと、五十円玉と十円玉を一つずつ、ラジオの箱の上に置いて、どういうわけだか、
「すみません、お願いします」
といって、ぺこり、扇喜が頭を下げたら、おんなじように、お美代も、扇子も頭を下げた。
都々逸扇喜。
れッきとした落語家《はなしか》の家に生まれた。
燕雄に五つばかり年は下だから、そのころ、六十に手が届くか届かないという時分だったが、ふッくらとした色の白い愛敬のある顔が、げッそり、貧相にゆがんで、なんだか、目だけがぎょろぎょろしている。
麗々亭麗楽《れいれいていれいらく》という人気はないが、人情噺の巧い落語家のせがれということになってはいたが、ほんとは、明治から大正にかけて、一時、色物席の天下をとって、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった談洲楼天枝の落とし子だという話である。
そういわれないでも、扇喜が高座へ出てきてひょいと顔を上げると、二代目の左団次によく似ていた天枝に、そっくりの顔をしていた。
母親は清元のお延《えん》。天枝がよく自分の前の高座の、膝がわり(寄席で真打の前に出る芸人)に使っていた女である。
清元お延は二十二、三で死んじゃったが、その子が、藁の上から、麗々亭麗楽の家に、ひきとられたという噂なのである。
扇喜は、はじめ清元の三味線弾きの修業をさせられた。二年とつづかず、落語家になった。
落語家には不向きないい男で、それに三味線も弾けるので音曲師になった。麗々亭麗太、麗之助から、都々逸坊扇喜の三代目を襲名した。
かるい落語を一席やってから、
「さ、えゝ楽屋からお三味線をとりよせまして、ひとつ、お陽気にとーんとぶつけやしょう」
始終、楽屋の方を気にしているような男で、芸は達者なんだが、高座になんだか身がはいっていない。
「わかる客にだけわかって貰やアいいんだ」
といった風な、どこか、捨てばちな空気が漂っていた。
都々逸が十八番《おはこ》だが、長唄の鞍馬山なんかのはいるとッちりとんだの、橘家橘之助のたぬきなんかもあざやかなものである。
落語家風に、ぶつぶつちょん切った都々逸で、そのくせ、妙にひっぱるところはひっぱッてうたう。
一時も過ぎ二時も過ぎ三時も過ぎて四時と五時から夜が明けた。
という字余りの都々逸を、意味ありげにうたった。
ひどく、色っぽい目つきで、
「一時も過ぎイ……」
とうたうと、客はみんな、へええ、なるほどねえとまず思ッちゃう。
「二時も過ぎ三時も過ぎイて」
ッてえと、こいつアどうもたいへんなことンなってきたぞ、と、ちょいと、かすめて小声ンなった扇喜の都々逸に、なんだか、客がのり出すような気分になる。
すると、
「四時とオ五時からア……」
と、ちょいと、ここで語呂をまわして、小節《こぶし》をきかせながら、ひッぱってうたっておいて、ぷつッと、
「夜が明けた」
と、さらりとうたい終わって、べつに、なんのこたアなかったという都々逸である。
それを、さも、なにごとか起きるかのように色ッぽくうたう演出に、扇喜らしい芸があった。
客が、
「なアーんでえ」
とがっかりするのを、うたい終わったとたんに、扇喜が自分でそのかわりになって、ひょいと、
「あたりまいだい」
というところに、昔の寄席芸人らしい愛敬があった。
それに、よく、新内の流しも弾いた。
扇喜の新内の流しは、ひとりで三味線を弾いているのに、もう一挺、替え手のツレ弾きがいるような弾き方に、おもしろさがある。
テンプラクイタイ・テンプラクイタイと聞こえる新内の流しの遠弾きが、だんだんに近づいてきて、それがまたいかにも二人で弾いているように聞こえて、やがて、また遠くなっていく。
しぐれの降る晩なんか、佗しい寄席の客席で、ぽつんとひとり、扇喜の流しの遠弾きをきいたりしていると、観音様の裏の、霊験あらたかなるお稲荷さんにおこもりがしたくなったり、それともこんな晩は、洲崎の弁天さまも悪かアねえな、などと、起きると、磯の香のする町などが恋しくなった。
客席を、そんな空気にしておいて、ころ合いをみはからうと、一と二と三の糸を、大きく一遍に、ガチャンと音をたてて、終わる。
新内の流しが、自動車に轢かれちゃったというサゲである。
なんとも、よく女の出来る男で、神さんだけでも、五人。
はじめの神さんは、江戸のころから有名な日本橋の紐善《ひもぜん》という紐屋の娘で、芝の恵智十《えちじゆう》で扇喜をみ染めて、紐善が許さないので、大阪へ駈け落ちをした。
まだいろいろとまた古風なことばのあった時代で、女はむろん勘当された。駈け落ちだの、勘当などということばのあったころの話である。
こどもが一人出来て、別れて、二番目の神さんはおせんという寄席の下座《げざ》である。ひとの畑へちょいと鍬入れて、またも苦労の種をまく、さいさいさいという二上がりのすちゃらかちゃんが、いかにも下卑て、うまかった。
こどもが一人出来て、別れて、三番目の神さんは吉原|堤《どて》の牛屋《ぎゆうや》の、いろはの軽子《かるこ》である。東京中に二十一軒あったいろはの中の、第九支店で、「ええ御新規さん三人前、御酒《ごしゆ》二本ッ」とやっていたが、腕がいいので実入りがよく、朝、おろした足袋を、夜、はき捨てた。梯子段の上り降りに、一ン日で、十日もはいたくらいに、すり切れるという女だった。
別れて、四番目の神さんは、浅草六区の遊楽館の高場《たかば》で、切符をうけとっていた俗にもぎりで、少し酔うと、すぐ新派大悲劇の活弁の真似をして、お前正宗わしゃさび刀、お前切れてもわしゃ切れぬ、浜唄ちょとあしらいまして悲涙紅涙は逗子海岸の別れというのを、よく、自分も涙を流しながら、やった。
こどもが一人出来て、別れて、五番目の神さんがお美代である。
品川の万金楼で、いつも売れないくせに、悪い病気ばかりしていた女で、字を書けるというのが自慢で、始終、客の名刺をそっと一枚抜いちゃア、
「拝啓春になったわねえ」
といった書出しで、結びは、いつでも、食いものを持ってきてくれ、と書いて送った。
「こないだのともらいまんじゅう大きくってうれしいわもてきてねえ」
だいたい、神さんと称する者は五人いたが、三人のこどもは、神さんの変わるたンびにどッかへ預けたり、行衛不明になったりした。
お美代とは、東京にはじめて空襲があったころ一緒になったが、そのころから扇喜は少し変なことをした。
だいたい、うっかり、新しい下駄でもはいて、湯にでもいこうものなら、大川から拾い上げて、それから半年もはいていたような、もうこれ以上はただの板ッ切れだというような、ちびて、ひしゃげた下駄に、帰りは、変わっていた時分である。
自分よりいいものを身につけていると、それが気になって仕様がなくって、それで次第に一億総泥坊になろうとしていたころだから、そんな中で、歯を食いしばって泥坊をしなかった日本人は、よほど、立派なひとたちである。
そんなことには、たちまち御時勢の浪にのっかる扇喜は、ある日、仲間の雀家翫太郎《すずめやかんたろう》のうちから帰るとき、翫太郎が便所へはいったので、翫太郎の角袖のコートを着て、翫太郎の軍靴《ぐんか》をはいて出ていったのを、坂本二丁目から下車坂の停留所まで追っかけていって、
「それいけないよ、それ……」
といって、翫太郎がとり返したことがある。
この時、扇喜は少しもあわてず、
「おや、これは失礼」
といった男である。
翫太郎が感心して、楽屋で、
「失礼ッてえン!」
てえと、仲間がまた、
「失礼にゃ違えねえッ!」
と、さらに感心した。
「この御時勢に稽古でもござんすまい」
売って上げましょうといって、ひいきさきのシャツ屋から、稽古三味線を持っていって、売った。
売ったことはたしかに売ったが、シャツ屋はただ三味線を売られてしまっただけである。
そんなこんなが仲間に聞こえて、
「やだよ、あたしゃア……」
というのが多くなった。
戦争が、急速に負けいくさになっていったのと、おなじ速度で、扇喜はみるみるどん底の生活に落ちこんでいった。
なんども、芸が惜しいといっては、助けようとしたが、負けいくさのまっ只中にある東京の寄席で、べつに扇喜の都々逸はきかないでもよかった。
「今夜のコロちゃんはね、あたくしに買わして下はいよ」
と、五十円玉と十円玉を一つずつ、ラジオの箱の上に置いたあと、
「今夜はね、そいからひとつ、一杯のまして貰います、上州行の前祝いッてやつ」
そういって、神さんに、焼酎の三合三勺入りの瓶を買いにやった。
燕雄も、福松もまったくの下戸《げこ》である。
はじめ、
「おひとつ、い、か、が?」
とお美代がまた、しまいの方を一字一字切って、焼酎を推めたが、二人とも、むろん、のまない。
扇喜とお美代と扇子の三人は、久し振りにのんだ焼酎にしたたか酔った。
扇喜なんか嬉しがって、
「土手の芝アひとにイ踏まれえて……」
という都々逸をうたいだす始末である。
お美代が口三味線で、
「テツトン」
「いちどはア枯れえてえ露のなさけでえまた起きイる」
うたい尻を、ぶつり、切るところなんかに、それでもまだ昔のおもかげが残っていた。
それでなくっても、あんまり口数の多くない燕雄と福松は、いよいよ黙りこくって、あしたが早いからといって、福松が二畳に横になり、間もなく、燕雄も、そッと、福松と背中を合わせて寝た。
燕雄の高座着の油ッ紙の包みがなくならなければ、扇喜たち三人は、もっと、長い間このうちにいたかも知れない。
しかし、そのことがあってから、燕雄、福松の組と妙に気まずくなって、それから二日目に、上州の巡業に出るといって、三人で谷中初音町のうちを出ていった。
朝、働きに出ていく前、
「お前《めえ》さんたちも、上州から帰《けえ》ッたら、あとはどッかうちを捜して貰わなくッちゃア」
と福松がいったら、
「いえ、ほんとうに長い間お世話ンなっちゃって」
と扇喜が、それでも頭をかいた。
三人が出ていったあと、しばらくぼんやりしていた燕雄が、扇喜たちの寝ていた土間を片付けていたら、古いハトロンの封筒が落ちていた。
そんなもの、このうちにある筈がないので、あけてみたら、高座着を入れた質札である。
燕雄は黙って、それを大事そうにミカン箱の底にしまって、これは、福松にはいうまいと思った。いわずに、なんとか請け出しさえすればいいのである。
夕方、いつもよりほんの少し遅れて、福松が帰ってきた。
「おや、なんです、それ?」
燕雄が、福松の抱えてきた鉢に目をやりながら訊ねた。
「いえね、大観音《おおがんのん》の縁日でね、あんまり、これがかわいそうなんでね……」
ひなげしの鉢である。
団子坂の上の大観音の縁日で買ったのだが、福松はあんまりかわいらしいということを、かわいそうだと、間違えていったのである。
また福松と燕雄だけの生活に戻った。
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梅雨
「鳥越《とりこえ》神社もすっかり立派ンなりましたねえ、しばらくみないうちに、いえ、びっくりしちゃった」
上がり框《がまち》に掛けて、きちんと、こまかい唐桟(綿織物の一種で、紺地に浅葱、赤などの色合いを細い竪縞に配したもの)の膝の上に、両手を置いていた新内語りの鶴賀鶴兵衛は、そういうと、渋い濃げ茶の手提げから、ピースの箱を出して火をつけた。
浅草、鳥越。
昔から仕舞屋《しもたや》の構えでいながら、文房具だの、雑貨のたぐいの小体《こてい》な問屋だの、そんなものに関係した職人が、ひッそりと住んでいる町である。
戦後は構えもそれらしく変わって、狭い路地に小型のトラックだの、オート三輪などを置いている町になったが、紋啓のうちは鳥越神社へ一とまたぎの横丁に、親の代から数えて百年にちかいのれんを掛けている。
どッしりした紺の手織り木綿ののれんのまん中に、白抜きで、大きくかたばみの紋があって、右の上に、紋章上絵師、左の下に紋啓。
そののれんの外に、二、三日前から降りだした雨が、きょうも、しとしとと降っている。
その年も、もう梅雨になっていた。
「立派ンなったでしょ? 鳥越さま。いまの宮司がまた働き者《もん》でしてね、それに、自慢じゃないが、氏子の気がまたよく揃う」
紋啓が、そこで仕事をする机の前に坐ったまま、少しからだの向きを鶴兵衛の方に向けて、笑いながらいった。
「鳥越さんは十八か町でしたか、そういや、祭でもなんでも、よく気の揃う土地でしたね」
「そういやァ……」
とまた、紋啓もおなじようなことをいって、
「ずいぶん、あなたおみえンならなかった」
「へえ、すっかりもう御無沙汰しちゃって」
戦後、鶴兵衛は紋啓に紋を描いてもらうような機会がなかったが、久し振りでNHKのラジオから蘭蝶=i初世鶴賀若狭掾作曲の新内)という註文があって、ひょいと、それを潮に、舞台の紋付を新調する気になって、なん年ぶりかで紋啓ののれんをくぐった。
「例の細手でひとつ」
そういって、
「御存知ですか、紋?」
と訊いたら、紋啓は少しおこったような調子で、
「存じております。播磨屋さんとおなじ、揚げ羽の蝶だ」
といった。
明治天皇の時代から、順宮《よりのみや》さま、孝宮《たかのみや》さまの婚礼衣裳まで、紋というと、いつも紋啓に荷が降りる。
なかでも、明治天皇がふだん着にお召しになるという羽二重に、菊の紋章を入れたときの感動は、生涯、忘れられませんねという男である。
腕がよくって、それにまた、いちど、註文を受けたとなったら、いちどで、その家の紋がなんだか、一遍におぼえた。昔ながらの職人|気質《かたぎ》である。
そんな職人気質もむろんのことだが、戦後、紋章上絵師などという古風な職業が、みるみるなくなって、広い東京にも、あと、なん軒と数えるほどになっている。
ことし六十を二つ三つ越した鶴賀鶴兵衛は、もう三十年も紋啓にばかり紋を描いて貰っているが、柳橋、葭《よし》町の芸者たちはむろんのこと、東京の、古い生え抜きの芸人で、紋啓ののれんをくぐらない者はないといわれた。
「けど、紋啓さん、ちっともお変わりンなりませんね、おいくつンなりました?」
鶴兵衛がちょいとからだを右にひねって、瀬戸の火鉢にピースの灰を落としながら訊くと、目もとに可愛い笑いを浮かべて、
「もういけません。からッきし、根《こん》がなくなりましたね」
「御冗談を。けど、そうするとおいくつ?」
「もう少しでね、こどもたちが喜の字の祝いをしてくれるッて、いってます。やンなッちゃった」
低い声で笑った。
「へええ、もうじき喜の字? 若いや、どうしてどうして」
鶴兵衛はピースを灰にさすと、
「相変わらず講談へはお出掛けですか」
「ええ、本牧亭、一軒きりですからね、いま」
「まったく、あすこだけンなっちゃいましたね、いえ、あたしたちもね、ときどき、夜席《よせき》を借りちゃア、新内を語らして貰ってます」
紋啓も、鶴兵衛も、桃川燕雄や服部伸がひいきで、殊に鶴兵衛はたまに自分のうちへ燕雄をよんでは、一席、しゃべらせているくらいのひいきである。
話は、当然、それからそこへいこうというところへ、格子戸が二寸ぐらいッつに、少しずつあいて、五十がらみの、よれよれの浴衣を着て、泥のはねた汚い白足袋をはいた女の顔が、なにか、おずおずとのぞきこんだ。
「も、ん、け、い、さんですか」
一字一字、そういって訊ねた。
都々逸坊扇喜の神さんのお美代である。
少し、こわい顔をして、首を曲げると、
「紋啓です。誰方《どなた》さま?」
やれやれ、いてくれたかという顔をありありとみせて、こんどは、さッと格子戸をしめて、狭い土間に立つと、
「あのウ、桃川燕雄ンとッからまいりました」
紋啓も、鶴兵衛も、話の流れで、いま、燕雄か伸のことか、どッちからか、その話が出ようとしているやさきだったので、思わず、顔をみ合わせた。
「桃川燕雄さん? へええ……」
と紋啓が、どういうこッたいという顔をして、女をみつめて、
「ま、そこへお掛けなさいまし」
丸い、木の椅子が置いてあるが、お美代はそこへは掛けず、改めて、軽く頭を下げると、
「桃川燕雄儀、長い間お世話になりましたが……」
と、いった。
びっくりして、また、紋啓と鶴兵衛が急いで顔をみ合わせた。
そしてすぐ、紋啓が、
「燕雄」
といって、つづけてすぐ、
「燕雄さん、どうかしたんですか」
すると、お美代はもういちどまた軽く頭を下げて、
「桃川燕雄儀、長い間お世話になりましたが……」
と、さっきとおなじことをくり返した。
鶴兵衛が、その調子を受けて、
「死んだの? 燕雄さん」
ッてえと、
「はい、長い間皆さまのお世話になりましたが、昨夜、亡くなりましてございますのよ」
亡くなりましてございますじゃなくって、亡くなりましてございますのよッてえのが、ひどく、二人にはおかしかったが、人の死である。
笑えずに、紋啓が、
「ゆんべ? 燕雄さんが? へええッ」
といって、あきれたような声を出した。
「なんなんです? 病気……」
と鶴兵衛。
「へッ? それが病気なんてえもんじゃアないんです。ころッとね、ころッと……」
そういって、浴衣の袖を、目へ持っていった。
「あの、丈夫な燕雄さんがねえ」
紋啓が、まったくあきれけえッたという風に、首を振った。
梅雨|寒《ざ》むで、少し風邪ッけだったので、紋啓はこの五、六日、本牧亭へ講談をききにいくのを休んで、うちでごろごろしていた。
本牧亭へ、そんなに無沙汰をすることなんて、めったにないことである。
尤も、燕雄はあの事以来、本牧亭の高座には出ないで、もう、なん年か経っている。
定連の間で、燕雄の噂が出ないではないのだが、われから名乗って、燕雄を本牧亭の高座に出させようという者はいなかった。
紋啓も、それを考えないではなかったが、それを進んでしていなかったことに、じゅうーッと、まるで、墨汁でものんだようないやな思いがした。
「だって、あれ、十日かな? 二週間にもなりますかねえ、うちへね、ふらッと寄ってね」
と、鶴兵衛。
「いつもの通り、丈夫丈夫してたッけが……」
しかし、いくら丈夫丈夫していても、誰だって、みんな死ンじゃうのである。
「わからないもんだなァ」
「つきましては、ささやかながら、告別式を営みます」
べつに身よりもたよりもないので、あしたの十時に、小石川は茗荷谷の歓喜寺《かんぎじ》に於て告別式をするということを、お美代はいやにしゃッちょこばってしゃべった。
あしたは朝のうち、横浜までいく用があって、鶴兵衛は燕雄の告別式にはいけない。
横を向いて、もぞもぞしていたが、
「紋啓さん、すみません、半紙でもいただけませんか」
なにがしかを半紙にくるんで、硯箱を借りて御仏前と書いて、
「あいにく、あしたいけないんでね。すぐ、お参りにいきますけど、これを……」
といって、出した。
「さ、い、で、す、か」
お美代という女は、ときどき、一字一字、区切ってものをいった。
品川の万金楼に出ていた時分も、よく、
「や、だ、よ、や、だ、て、ば」
などといった。
それがへんにきたならしい色気に聞こえた。
それを知って、悪用しているという風もあった。
香典を出した鶴兵衛は、少し、その、さ、い、で、す、かというのにびっくりしたような顔をして、女をみつめた。
お美代は、そういいながら、ことばの調子とは逆に、さッと香典を胸の中にしまって、
「ありがとう存じます。さだめし、草葉の向こうから、ありがたいッて申しましょう」
と、またへんなことをいった。
燕雄が草葉のかげで喜ぶという意味なのであろう。
「それに、なんでござんしょ? あたくしどもも、その日暮らしの身でござんすからね、こうやって、頂戴致しますものが、おともらいの費用やなんかにねえ……」
といってから、こんどは、大きな声で、
「おほほほほ……」
と、笑って、あわてて、浴衣の袂で口をおさえた。
紋啓も、なんだか机の上で書いていたが、かたりと、硯箱に筆を置くと、
「あなた、誰方?」
と訊いた。
「あ、た、し、ですか? あたしゃ、近所の者《もん》です」
「御近所の方?」
「へえ、近所の左官屋《しやかんや》です」
紋啓は、さっきの墨汁でものんだような気持ちも手伝って、
「これ、あたしゃあしたその小石川のお寺へいきますけどね、とにかく、御仏前へおさめといて下さい」
これも香典を渡した。
「すンませんねえ」
そういって、鶴兵衛の香典をいちど胸のとこから出して、改めて、二つを重ねて、大事にしまった。
寺は天徳山・歓喜寺。小石川の竹早町で電車を降りたら、区役所の石段を降りて、すぐを右へ曲がって、清水の出ている少しさきの右ッ側、と、はっきりしている。
燕雄の告別式の朝も、きのうのまんま、まだ、しとしとと雨が降っていた。
紋啓は外へ出ると、久し振りだなと思った。
高校の先生をしている息子の嫁が、おとうさん、鳥越神社の前から自動車《くるま》へ乗ってらッしゃいといってくれたけれど、なアに、十時までには、電車でいっても、たッぷり時間はある。
鳥越さまの前を通って、蔵前から電車に乗って、厩橋で乗りかえて、いつも本牧亭へいく時に降りる上野広小路を、横目でみて通った。
がらあきの電車で、掛けて、しばらく、外の雨のけしきをみていたが、やがて目をつぶって燕雄のことを考えていた。
あれが一ぴき楽屋に落ちていた。誰がそう決めたでもなく、それからこッち、ぱッたり、本牧亭へ燕雄が出されなくなって、あれからもう三年は経ったであろうか。
ほんとうはきれい好きな男で、毎日、湯に入っていたというから、あながち、あれを落としたのは燕雄とばかりは決められない。それを、そういうことに誰ともなく決めちまって、日本で、たった一軒の講談の席に出られなくなったのを、われわれ本牧亭の定連が、なんとか口をきけば、出られないということもなかったに違いない。
それを考えないではなかったのに、いわば、みぬ者清しで、知らん顔をしていた自分を、紋啓はひどく自分でいやな野郎だと思った。
そんな人間じゃアねえつもりだったのに、どうしてそんな野郎になっちまったのか。考えると、あの石初だってそうだ。やっぱり知らん顔をしていた。
世の中には、たいして骨を折らずにそのことをやって、それが、ある人にとっては、たいへんなことになるということがあるのに、このごろは、そんな時でも、知っていて、みんな知らん顔をしている。どうも戦後の人情のようだ。してみると、俺もやっぱりその一人になッちゃったのか。
紋啓は、きのう、お美代から燕雄の死を知らされて以来、そのことばかりを考え、そして、そのことで自分をいじめた。
気がついて目をあけたら、電車は伝通院のとこを通っていて、筋向かいのジー・アイ刈りをした若いのが、びっくりしたような顔をしてみていた。
紋啓は、よッぽど、自分がこわい顔でもしていたんだろうと思った。
竹早町で降りて、傘をさして、区役所の石段を降りると、こんどは地下鉄がすごい勢いで頭の上を通っていった。
この春から、池袋とお茶の水の間を開通した地下鉄が、なんでも地面の上を通るッてえことはきいていたが、なるほど、ここがそうなのか。
たしか、このへんが切支丹坂だと思ったが、そんなもの、かげもないようだ。道が、なんどもよろよろと曲がりながら、高い塀のような高架線の切ッ立ッた目の前に、佗しい寺があった。女のいった通りである。
みると、仮本堂の建っている裏の方に、電車通りの崖を背にして、苔蒸した墓がたくさん並んでいるのがみえる。
そこだけみると、佗びて、くすんで、まるで、江戸のころのようである。
ゴム長をはいた男が、左手にあるちいさな庫裏《くり》の硝子をあけて、なにか訊ねていたが、
「へええ、じゃア、なんにもないッ?」
と、びっくりした声でいった。
紋啓が近づいて、
「こちら歓喜寺さんですか」
すると、ゴム長の男に、庫裏の狭い板の間からなにかいっていた老女が、
「歓喜寺ですが、今日《こんち》、告別式はございませんですよ」
その調子に、もうなんどもおなじことをいっているらしいひびきがあった。
ゴム長の男が振り向いたのをみると、音曲噺の雀家翫太郎である。扇喜が翫太郎の便所にはいったすきをみて、翫太郎の角袖のコートを着て、翫太郎の軍靴をはいて出ていっちゃったのを、坂本二丁目から下車坂の停留所まで追いかけていって、それいけないよ、それ、といって、扇喜からとり返した翫太郎である。
翫太郎の方では知らないが、紋啓は寄席の高座でよく知っている顔である。
「師匠、お前さんも燕雄の告別式かい?」
そこが芸人である。百年の知己のごとくに、それを受けて、
「旦那もですか」
「そうなんだよ」
「駄目、駄目。燕雄の告別式はないよ」
天徳山・歓喜寺。
まぎれもなく、そこは歓喜寺に違いなかったが、寺では桃川のモの字も、燕雄のエの字も、まるッきり知ッちゃアいない。
「けどね、どうして、あいつ、ここまで手のこんだ芝居が出来たろう?」
翫太郎は硝子戸から少し遠のいて、老女を紋啓と半々にみられるような位置になりながら、それから、
「あッ」
といった。で、すぐ、
「こちらのお墓にね、だれか、落語家《はなしか》の墓アありませんか」
「ございます。まるで無縁になっておりますがね、なんでも麗々……」
「麗々亭麗楽!」
扇喜のおやじということになっている麗楽の墓である。それで、わかった。
「仕様がりませんからね、麗楽の墓でも、おがんでやろうじゃアありませんか」
ゴム長をはいた雀家翫太郎と紋啓が、樒《しきみ》を持った老女に案内されて、しとしと、雨の中を墓へいった。
黙って、かわるがわる麗々亭麗楽の墓に合掌した。
その目の前を、細い道をへだてて、轟々と地下鉄が通っていった。
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三越名人会
その年も、初|時雨《しぐれ》とか、酉《とり》の市とか、小春とか、そんな季寄せのことばがうかぶ十一月になっていた。
四谷公園を抜けて、赤坂離宮の正面がみわたせる舗道で、近藤亀雄はタクシーを待っていた。
しきりに枯れ葉が舞い落ち、そんな時、そんな角度からみるもとの離宮は、あんまり自慢をするところのなくなった東京のけしきの中で、いつも、東京ッ子の近亀《こんかめ》が、ああ東京だな、と嬉しくなるけしきの一つである。
劇場へいくのにも、放送局に出掛けるのにも、たいてい、いつもそこでタクシーを拾うことにしている。
自分ではまだ新聞記者のはじッこぐらいにはいるつもりだが、世間では近亀《こんかめ》は劇評家ということになっている。
雑誌になんか書いた時なんか、文章の終わりのところに(筆者紹介)というのがつく時など、電話で、劇評家と書きますか、それとも演劇評論家としましょうか、などと訊かれることがある。
そんな時、劇評家というよりは、演劇評論家といわれる方が、さもえらそうなので、少してれながら、ああ、それア演劇評論家ッてえ方がえらそうでようがしょうという。
そのくせ、落語の本だの、随筆なんかの本を出していながら、まだ、一冊も演劇評論に関する本を出したことのない妙な男である。
グレーの色が好きで、一年中、グレーのものばかり着ていて、ある時、桂三木助が、高座で、
「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃアいろいろまた好きずきてえものがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたッてえン」
ベレーと靴だけは黒だが、たしかにあとはみんなグレーずくめである。
三木助が高座からそういってからかったら、顔を赤くして苦笑した男である。
あんまり、好ききらいがはっきりしているので、近亀をはり倒そうと思った者も大勢いたが、まだ、はり倒されたことはない。
始終、ひとのことで腹をたてたり、感動をしたりするので、仲間は、あれア近藤亀雄じゃアなくってカンドウスルヲだと、かげ口をいっていた。
ホープを一服つけると、赤坂見附の方から、一台、黄色いのがやってきた。文字通り、イエロー・タクシーである。
いやだなと思ったが、手を挙げ、乗ると、
「三越へいってくれませんか、日本橋のね」
東京ッ子の習性で、タクシーの運転手なんかにまで、ひどく気をつかうたちである。
毎月いちど、三越名人会のプログラムを決める集まりがあるが、きょうは、これから十二月と正月のプラン会議がある。
三越名人会は昭和二十五年の一月からはじまった。
世の中がくらく、東京がまるで東京らしくなくなって、芸の世界も、バケモノのようなのばかりが大きな顔をしてのさばり、日本の古い芸はいったいどこにいッちゃったのかという時代だった。
「名人会をつくろう」
といいだしたのは堀倉吉である。
古い芝居の興行師で、七代目・幸四郎を持っては、日本中を巡業した男である。
そのゆかりで、海老蔵や松緑の世話をしていたが、その頃は松緑の勘右衛門の、藤間流の顧問のようなことをしていた。
興行の世界にいると、始終、腹の立つことばかりが多かったのを、きれいにやめて、たまに、市川少女歌舞伎なんかを、三越劇場に上げたりするようなお道楽はやったが、藤間の家元の相談役のような形で、のんきに、しずかに暮らしていた。
近藤亀雄とは、近亀がまだ新聞記者をしていた時分からの知り合いで、頑固なところが気に入ったとみえて、近亀が新聞記者を止めてからも、ときどき、四谷のうちに遊びにきた。
「これじゃア仕様がない。古い芸ッてえものが、いったいどうなッちゃうんだろう?」
そういって、近亀に、名人会をつくろうといいだした。
自分がやって、半年か、一年でつぶれるのでは意味がない。
「ひとつ、三越劇場へ話してみる」
といった。
それには、誰がみてもきいても、これが日本の芸だということの出来るいいものばかりを集めて、昔の有楽座の名人会のような舞台を再現しようというのである。
毎月、いちど、顧問の久保田万太郎を中心に、三越の別室に集まって、出演者の顔ぶれを決めた。
たとえば、第一回を例にとると、こんなプログラムである。
幕があくと、松羽目(能・狂言から取材したものには、能舞台をうつしたものをつかう場合が多い。背景に松を描いた羽目板を使うので、松羽目という)、下手《しもて》に勾欄《てすり》をつけて、三宅藤九郎の狂言木六駄≠ツぎがしんみりと、哥沢芝金が玉川≠竍松竹梅≠うたう。松竹梅は、その初回が正月だからである。
それからがらッと舞台がかわって、徳川夢声の漫談、つづいて豊吉の三味線で二三吉の俗曲があって、桂文楽の寝床=B
そのあと富崎春昇が地唄の鳥辺山≠うたって、さいごは杵屋六左衛門の長唄で、吾妻徳穂と藤間|万三哉《まさや》が時雨西行≠踊るという番組である。
近藤亀雄は春昇の地唄を客席でききながら、涙がこぼれてきて、仕様がなかった。
あれほどの大きな戦争の中を、この老いたるおめくらさんの芸人が、よくも生き抜いてくれたものだという感慨と、それに、老いて、いよいよその芸の冴えたことに対する感動の涙である。
出演者も力一杯の芸を出したが、三越劇場を埋めた東京の客もたいしたものだった。
その頃、歌舞伎座でも、うっかり持ちものを椅子に忘れて立ったがさいご、すうッと、かげも形もなくなるという物騒な世の中だった。
だから、幕間《まくあい》になると、絶えず、椅子にものを置いて立つな、という場内アナウンスばかりをしていた時代である。
三越名人会の客席では、それが、なにを置いて立っても、もののなくなるということが、いちどもなかった。
出るひとたちも天下一流の芸なら、客も、東京でよりすぐった客だった。
月にたった一と晩のことではあったが、毎月、休みなくつづいて、きょうはその第六十回、十二月の番組みを決めようというプラン会議である。
七五三の買いもので、こどもづれの多い売り場をちらちらみながら、エレベーターを六階で降りると、茶道具や美術工芸の売り場を急ぎ足に、近藤亀雄は三越劇場の前まで歩いていった。
モギリのところに待っていた係りの藤岡が、
「久保田|先生《せんせ》からお電話がございまして、三十分ばかり遅れるというお言伝《ことづ》てがございました」
すぐ、おなじ六階の別室へ近亀を案内しながら、
「堀さんは、さきほどからみえております」
デパートにこんな別室があるのを、近亀はこの会議に出るようになるまで、知らなかった。
画廊にいく途中は花器の売り場である。
さまざまな形をした美しい花器を並べた一隅に、ことりと、一枚、ドアが立っている。
あけると、さっぱりとしたロビーになっていて、つきあたりに、四枚、化粧ガラスのはいったドアがあって、名人会の会議は、いつもその奥の部屋でやった。
ロビーの左側の隅にはもう一つ大きな部屋があって、右側の手前の隅にはまた大理石の段を二つ上って、びっくりするような、豪華でゆったりとしたトイレットがついている。
近亀はつきあたりのガラスのドアをあけて、
「すみません、遅くなりました」
と、堀倉吉に挨拶をした。
いつも、定刻の十分や十五分前にはきているという律義な江戸ッ子である。
近亀も時間には遅れていないのだが、それを受けて、堀は、ちょっとにッこりして、
「毎度のこッて」
そういうと、
「ちょいとちょいと」
と、近亀を窓のところへ手招きした。
いま、暮れかかろうというほんの少し前で、日本橋の通りのざわめきが目の下にみえる。
こどもの時分から古い馴染の、日本橋の脇の帝国製麻の煉瓦づくりの建て物に、夕陽が淡いかげをつくって、お城の塔のような青銅の丸屋根が美しい。
窓をしめているので、実際には聞こえてこないのに、なにか、下の日本橋の町のざわめきが、この三越の六階にまで這い上がってくるような気がした。
秋なんか、そんな日暮れ時、高いところから、東京の町をみおろしたりしていると、あと四、五年で五十|面《づら》を下げようというのに、近藤亀雄はいつでも歯ぐきのゆるんでくるような感傷と、そしてほんのり、なにかしら生きている喜びというようなものを感じた。
堀倉吉は、たぶん、その東京の街の中の、秋の日の夕映えをみせようとしたのであろう。
近亀も黙ってそれをみていて、堀もべつになんにもいわなかった。
戦争に根こそぎやっつけられたあと、にょきにょきビルが建っているのに、こんどはまた、ビルの上にさらに鉄骨を建てているのや、まるで思いもかけない場所に、新しくビルの鉄骨が立ちつつある。
「日本橋も変わったねえ、そこのほら帝国製麻と……」
と、堀は右手の人差し指を少し左へ動かして、なんだッけかなという、ちょっと間があった。
「向こうッ角の野村証券?」
「そうそう野村証券」
そういえば、この三越名人会の顔ぶれを決める集まりを、毎月、開くようになって五年の歳月は、この窓からみる日本橋のけしきだけでも、みるたびに、びっくりするように変えていった。
藤岡が、
「お茶をどうぞ」
といったのを潮に、二人は窓から離れて、白い布《きれ》を掛けたテーブルの前に向かい合って、茶をのんだ。
山茶花《さざんか》の八重が置いてある。
「堀さん」
近亀はさびのある義太夫声で、
「来月はね、どうです? ひとつ年忘れッてんで、肩のこらないものを並べちゃア」
「結構ですね」
そういって、藤岡に、
「いつ? 来月は」
「二十五日、クリスマスになります」
三越名人会は、毎月、月末の土曜の夜である。
「落語家《はなしか》の芝居はどうです? 大切《おおぎり》(その日の最後の演しものをいう。大喜利とも書く)に」
「シカシバイ? どんな顔ぶれ?」
「いつものさ、文楽、志ん生、円生、三木助に小さんで、五人男はどう?」
みんな名人会の定連である。
「けど、落語がなくなッちゃうな」
と堀。
「役を振ってみましょう」
近亀がそういうと、藤岡が、すぐ便箋に、メモをとりはじめる。
「文楽の弁天小僧は動かねえな」
そこへ、久保田万太郎が、女の店員に案内されてはいってきた。
近藤亀雄は遅れてきた久保田万太郎に、年忘れの趣向はどうでしょうと訊くと、
「いいでしょ」
という返事である。
落語家《はなしか》芝居は? と訊ねたら、ハンカチで、鼻の頭を二、三度こすりながら、
「稽古が出来るかい?」
すぐ、堀倉吉が、
「それア、ちゃんとした役者をつけます」
「そんならいい」
「いま、役を振りだしたんですがね、いつもの連中を五人男にしちゃうと、落語がなくなっちゃうって心配なんです」
近亀はそういってから、つづけて、
「文楽が弁天小僧。南郷は三木助。日本駄右衛門は志ん生かな」
「日本駄右衛門はむずかしゅうござんすよ」
文芸春秋の文士劇で日本駄右衛門になって、ぴたり、正面を切ったら、身ぶるいがして、かた・かたと下駄の音がして、しばらく止まらなかった万太郎である。
そんなこともあって、むずかしゅうござんすよがひどくおかしくって、みんなで、声を出して笑った。
こんな時、万太郎は決して一緒になって笑わない。
「だけどね、円生がそうなると赤星|十三《じゆうざ》だろうけど、さて、それじゃアおさまるまい」
苦労人らしく、堀からダメが出る。
小さんの忠信《ただのぶ》利平は文句なしで通る。そこで近亀が、
「じゃアね、志ん生を五人男に出さないで、芝居のすぐ前に寝床≠一席しゃべらせるのはどう? そうすると、円生を日本駄右衛門」
少し考えて、万太郎が、
「志ん生の寝床<bてものはどう?」
「大丈夫です。志ん生のはね、店の者が、旦那の義太夫をきくのはいやだッて逃げだすやつをね、追いかけながら語るンですがね、文楽のとは違うけど、ひどく、おかしい」
「ふーん」
いいとも悪いともいわない。
こんな時、いつも構わず近亀はプランを進めることにしている。
「そうすると赤星は誰だ?」
そういってからすぐ、堀が、
「小文治の赤星、いいじゃないの?」
「賛成」
円生の駄右衛門、文楽の弁天、小文治の赤星、小さんの忠信、三木助の南郷、――それで大切《おおぎり》の稲瀬川勢揃いの場が出来た。
前に、志ん生の寝床≠つけるのがミソである。
いつも、師走の三越名人会には、吉原の幇間《たいこもち》たちに獅子を舞わせて、そのあと、久保田万太郎が舞台に出て、江戸じめでいちど、客席も一緒になって手をしめて、よいお年をお迎え下さいというのが、吉例になっていた。
ことしはその獅子舞を序開きに使おう。
桜川忠七、松廼家《まつのや》喜代作、富本半平、松廼家喜久平という四人である。
こういう吉原の幇間たちの獅子舞いを、そわそわしている数え日の、名人会の夜更けの舞台でみていると、獅子のうしろに立って太鼓を叩いている忠七の、その太鼓の音にもひとしお東京のあわれがあって、しみじみと年を送るという感慨がわいた。
「と、あとは徳川夢声の年末漫談」
堀倉吉が、メモをとっている藤岡の方を向いてそういうと、近亀がすぐ、
「題はね、昭和二十九年を送る、かな? いいですか」
と、久保田万太郎に訊くと、うなずく。
「あとはなんです? 踊りと唄だな」
その踊りが若柳|光妙《みつたえ》の清元の文屋《ぶんや》£猿オたちと一緒に、栄太郎、みな子、歌代、よし松、それに三味線にせい子、松寿、半玉で志げ松、きく松という吉原の芸妓連中でお座附き≠ネんかをうたわせて、もうひとつ、なにか三味線もののいろどりがほしい。
「おたッつァんはどう?」
久保田万太郎が声を掛ける。
浮世節の西川たつ子である。
しめて七つの、年忘れのプログラムが決まったが、そうなると、なんだかもうひとつ、落語でも漫談でもない話術がほしい。
「講談。……桃川燕雄ッ」
近藤亀雄がまた義太夫声でいった。
すぐ万太郎が、
「なアに? 桃川燕雄ッて」
「桃川燕雄ッてね……」
それから例によって、ちょいと身振りのはいる話で、近亀は、桃川燕雄における人間の研究を一席ぶった。
万太郎も、堀も、ひどく興味を持って、へええッ、へええッと相槌を打ちながら、近亀の、いささか独演会めいた長講一席をきいていた。
近亀はようやく四十になってから、はじめて、人間発見が、生きていく最大の喜びだということを知った。
自分が、他人を発見し、自分も、他人に発見して貰うということである。それが、生きていくいちばん大きな喜びだと信じるようになった。
だから、そんな話をする時、いつでも必要以上に力を入れる話しッぷりが、一層、熱を帯びた。
一と通り、話のすんだあと、
「芸は?」
ぴたり、という感じである。
その万太郎の問いに、近亀ははっきり答えた。
「太鼓判を押します」
「堀さん、いいじゃないの、近藤君を信じましょう」
「そうですね。信じてもいいでしょう」
みんなで笑った。
女の店員が鰻のお重《じゆう》と酒をはこんできた。
三越名人会の出演者の交渉は、いつでも、藤岡がとことこと出掛けてやっていた。
京都弁の、訛《なまり》のある当たりのやわらかい苦労人で、自分も、狂言だの、義太夫なんかを稽古した男だから、そんな仕事が好きなのである。
近藤亀雄は、プラン会議では、いろいろうるさいことをいうが、ただのいちども、名人会の出演者に、自分で、出てくれなどと頼んだりしたことはなかった。
そんなことで、顔みたいなものが出来たりするのが、極度にきらいなためである。
しかし、桃川燕雄を、三越名人会に出すということになった時だけは、
「ぼくが話します」
と、買って出た。
なんだか、藤岡に、谷中初音町の燕雄のうちをみせたくなかったからである。
四谷のうちへ帰ると、すぐ、湯浅喜久治《ゆあさきくじ》の青山のアパートへ電話を掛けた。
めったに近亀から電話なんか掛かったことのない湯浅は、おかしなことがあるもんだというひびきをありありとみせて、
「なにごとすか」
といった。
湯浅喜久治という男、いつも、……ですね、というところを、でを抜きの、……すねといった。
なにかいうと、
「実アすね」
実アすねというくせがある。実アですね、の、で抜けである。
それが、電話口で、びっくりしたように、なにごとすかといった。
「実アすね……」
こんどは、わざと、近亀が湯浅の口真似をしたが、湯浅は笑わなかった。
笑っても、いつも口のあたりが少し笑ったみたいになる程度で、まだ二十五だというのに、めったに若い者らしく、声を出して笑ったりしたことがない。
「燕雄さんにね、三越の名人会に出て貰いたいと思うんだけど」
ちょっと間《ま》があって、
「桃川燕雄すか」
「そう。来月のね、年忘れの名人会、二十五|日《んち》の土曜日の晩だけどね。ひとつ、君、燕雄ンとこイ、お使者に立ってくんない?」
「はい」
めずらしく、生き生きとはりのある声になって、
「なにをやらせます?」
「そうだね、寛政力士伝かな、小野川と雷電なんかどう?」
「わかりました」
「それからね。服装《なり》はどうだろうなア、紋付きはあるかな、高座着?」
「あります、いつもね、天井ンとッから、ぶらぶらぶらさがってます」
「なにが?」
近亀は燕雄の高座着が、天井からぶらさがっていることを知らなかった。
わけをきいて、えれえもんだなと感心した。
「それから……」
と、近藤亀雄は少し電話口で調子を落として、
「いやなことをいうようだけどね……」
すると、すぐ、その意味がわかったとみえて、
「はい、……ぼく、当日は燕雄と一緒に、湯に入って、ちゃんとして連れてきます」
「すまねえ、たのむよ」
湯浅喜久治という男も妙な奴《やつ》である。
若い癖に、なんとも寸法のいい男で、たとえば、そんな時、こっちにいい憎いことなんかいわせなかった。つウてば、かアなのである。
自分の字がへたで、きらいで、手帖に書きこむ自分のスケジュールを、自分の好みに合った字を書く他人に、きれいに書きこんで貰っていた。
つまり、十一月の
3(火)9時 馬の助とあう(新宿・みち草)
などという予定なんかを、全核連に勤めている字のうまいともだちを二日目ぐらいに訪ねていっては、いちいち、自分のメモを読みあげて、そして自分の手帖に写して貰うのである。全核連は全国結核予防連盟の略で、ともだちは、それを待ってでもいるかのように、うまいことに一日《いちんち》中いつでもデスクに掛けていた。
手帖はラジオ東京のが、まアまアすねといっては、毎年、それを手に入れると、神田の文久堂へ出掛けていって、余計な附録は全部とって、渋いダーク・ブルーかなんかの、バック・スキンの表紙などに直しては、使っている。
バック・スキンも、あんまり出し入れがはげしいと、すぐ、ぴかぴかしてくるのがいやで、そんなに厚くもなく、そんなに薄くもない手頃な厚みのビニールを、カバーにしていたりした。
世界中で、小泉信三と志賀直哉の二人を神様のように尊敬していて、そのつぎがなくって、そのつぎもなくって、そのまたつぎもなくって、二人からだいぶ飛んでから、近藤亀雄が好きだったらしい。
たぶん、近亀は、きっと、まアまアすね、というとこぐらいだったのであろう。
湯浅喜久治が近亀のうちへはじめてきた時、近亀は、なんでえ、眠り男セザーレじゃねえかと思った。
昔カリガリ博士≠ニいうドイツの表現派の映画を、徳川夢声の名説明でみたことがあるが、その中に出てくるコンラット・ファイトの眠りの男セザーレにそっくりの、始終、あおざめた男である。
セザーレは、その時、
「実アすねえ、先生に、女義太夫のことを書いていただきたいんです」
と、いった。
八頁ばかりのガリ版のパンフレットでほんもく≠ニいうのを出していた。
本牧亭の講談だの、新内だの、女義太夫だの、そんなことを、作家や随筆家に書いて貰っていた。気の利いた、しゃれたパンフレットである。
近藤亀雄は、初対面の眠り男セザーレの目が、いかにもきれいに澄んでいて、いつも、なにか遠い、美しいものに憧れているような目をしているのにひかれた。
クセジュ文化学園の演劇科に在学中だが、もう一年半も月謝をおさめていないのに、退学もされず、手帖の間に、きれいな学生証を挟んでいた。
そんな男が、女義太夫について書け、というのも奇妙だったが、近亀はすぐ、例の小言幸兵衛の癖が出て、
「女義太夫も、べつに悪いッてわけじゃアないけどね」
そこで、ちょっと、一服、煙草に火をつけてから、
「あんまり、君たち、若《わけ》え者《もん》の買う株じゃあるめえ」
などといった。
その癖、近藤亀雄も、学生の時分には、そっくり、おんなじようなことをしていたことを、えらそうにそういってから、ひょいと思い出して、ひやりとした。
そういって、近亀は湯浅喜久治のために、女義太夫の原稿を書いた。むろん無料《ただ》である。
それが縁になって、三日にあげず、四谷のうちへくるようになった。
くると、お辞儀をして、頭を上げるか上げないかで、いつも、
「実アすねえ」
といった。
近亀の家では、眠り男セザーレ改め、実アすねえの湯浅喜久治ということになった。
はじめて逢った時、近亀は、
「あ、この男はなんか変な死に方をするな」
そう思った。
近亀は奇妙にそんなカンが当たるのである。
ある時、あんまりひどい靴をはいているので、
「君、靴のサイズは?」
と訊いたら、近亀とおなじである。
はいてくんないかといってやったら、いちどもはいてこないで、間もなく、こんどは銀座のヴェルサイユの最高品の靴をはいてやってきた。
「もう、なんにもやらねえからな」
と、面と向かって、近亀は啖呵《たんか》を切ったが、少し笑ったような、困ったような顔をして、下をうつ向いている湯浅をみると憎めないのである。そんな風に、なんでも最低か、最高でなければ駄目で、中途半ぱなことは、一切、きらいな男である。
近亀から電話を貰った湯浅喜久治は、すぐ、これも銀座の百番館でつくらせたチャコール・グレーの服に着更えると、青山四丁目の電車通りで車を拾って、谷中初音町の桃川燕雄のうちへ急いだ。
盆だ、暮だには、いつも燕雄のところに、なにかしらものを持っていくのだが、そういえば、久し振りだなと思った。
秋晴れの、あくまで美しく晴れ上がった午後で、足を組んで表をみていたら、めずらしく口笛を吹いていた。
萩寺のところで車を降りて、片側が長い寺の塀、片側が左右にゆがんで、なんだか笑っているようなうちばかりが並んでいる横丁を右へ曲がると、湯浅喜久治は少し足をゆるめた。
いてくれれアいいがと思った。
たぶん、みかんなんかたべちゃアいまいと思って、途中、紀ノ国屋へ寄って、ひどく大げさな包みを買ったのを、小脇に抱えていた。
「こんちはッ」
と、つきあたりの戸を手前に引いて、あけてみたら、燕雄は、きょうも粛然と両手を膝に置いて、ひとり、端座していた。
「これ、たべつくさい」
たべて下さいというのが、湯浅の早口の東京弁になると、たべつくさいになる。
「これはこれは」
燕雄はその重いみかんの包みを、両手で捧げるようにちょっと上へ上げて、礼をしてから、どっこいしょといった感じに、NHKの第一放送だけがきこえるラジオの前に置いて、
「ありがとう存じます」
といった。
なにか、ひとから貰うとき、燕雄はいつもそうした。
明治の東京ッ子が、こんどの戦争の前までは、誰だってみんな、他人《ひと》さまからものを貰った時、いちど、それを両手に持ってそうしたものだが、それを燕雄は、ぴたり、いまでもそうしているのである。
銀座の百番館でつくらせた一分のすきもないやや細めのズボンの足を、湯浅は燕雄の坐っている二畳の上がり框に斜《はす》ッかいに掛けて、組んでから、
「実アすねえ」
といった。
「はい?」
燕雄の調子にも、なにごとかというひびきがあった。
「来月の三越名人会すねえ、あれにひとつ、出ていただきたいんですが」
泰然と、
「あたくしにでございますか」
「そうなんす」
そうなんです、である。
「けど、あなたの前でございますが、三越名人会ッてとこは、われわれ講談の先輩諸先生方も、まだ、あんまり出ちゃアいらッしゃらないような会じゃアござんせんのですか」
そんなこと、なんにも知ッちゃいないと思いのほか、燕雄はちゃんと知っていた。
その通りなのである。
「そんなこたアどうだっていいじゃアないすか」
酔った時はむろんのことだが、湯浅はときどきべらんめえンなった。
「はい」
「演題は、寛政力士伝の小野川、雷電のくだりという註文す。出てくれますか」
少しも騒がず、
「はい、出させていただきます」
とたんに、燕雄は、川崎福松が、さぞ喜ぶだろうと思った。
「二十五日の晩なんすがね」
湯浅はそういってから、ちょっと間をおいて、突然、
「このへん、お湯はなん時にあきます?」
と訊いた。
へんな質問なので、
「へ?」
燕雄がけげんな顔をした。
「このへん、お湯ウ、なん時に始まります?」
「へえ、……二時に開《あ》きます」
「二時? じゃア、ぼく、二時にきます。一緒に、湯に入って、そいから、三越へいきましょう」
ああそうか、と思い、
「はい」
「川崎さんは? きょうは……」
「へい、川崎はいま荒川の方へ働きにいっとります」
「席を取らせておきますからね、川崎さんも御一緒にどうぞ」
川崎福松にも、燕雄の、三越名人会の晴れの高座をきかせようという心意気である。
「ありがとう存じます」
頭を下げた。
「いかがです、この頃は?」
湯浅はあんまりそんなことをいわない男だが、長い長い間、本牧亭へも出られず、東京中で講談をしゃべるところもなくって、いったい、どうして暮らしているんだろうと思って、それで、この頃はどうしていますかというつもりで、そういった。
すると、燕雄は、ちょぼちょぼと、鼻の下からあごへかけて、白いのが少しまじったひげの生えている顔へ、達磨《だるま》さんが笑ったら、きっと、こんな風だろうというような可愛い笑いを浮かべると、
「さいです、秋晴れのよい天気がつづきますな」
といった。
一瞬、湯浅は、なんだか、えらいひとだなと感心するような気持ちになって、それ以上、そのことはもう訊かずに
「川崎さん、元気すか」
「はい、よく働きます。若い頃からきたえたからだてえものはえらいもんですな。けど、この、季節のかわりめ頃から、腰が痛いなど申しております」
殿様が、家来のことをいっているような調子があった。
「そいから……?」
と、ちょっと上をみて、
「名人会ン時、紋付はありますね」
「はい、ございます」
ひょいと、厳然たるひびきがあった。
みると、天井の中央に、高座着の油ッ紙の包みが吊ってある。
「ああ、ありますね」
扇喜のいなくなる二日前に、煙の如くに消え失せたあの高座着の包みは、きょうも相変わらず、ぶらぶらと揺れながら、いつものように、そこにあった。
三越劇場。
暮の二十五日である。
師走の客が、忙しそうに買いものをしている売り場を目の前に、モギリのテーブルを構えて、藤岡が京都訛のあるやわらかい調子で、
「いらっしゃいまし」
いらっしゃいましと、切符を切っている。
脇で煙草をのみながら、近藤亀雄が、客のざわざわした人波の、遠くの方をみて、いつにもなく心配そうな顔をしていた。
燕雄の出番は、吉原の忠七たちの獅子舞いがすんだあとの二つめだから、まだ、幕のあく四時には早い時間だが、なんだか、気になる。
すると、人波を分けて、湯浅喜久治が、つウッつウッと早足にやってくるのがみえ、そのうしろに燕雄の大きな頭がみえた。湯浅は近亀が待っているらしいのをみつけると、
「燕雄さん、連れてきました」
連れてきましたというのもなんだかおかしかったが、
「御苦労さま」
というと、燕雄がつかつかと近づいてきて、近亀に頭をさげた。
「近藤先生でいらっしゃいますか、お初にお目に掛かります。桃川燕雄にございます、以後、よろしくお願い申し上げます」
と、いった。
まるで、講談の中に出てくる岩見重太郎のような挨拶である。
「きょうは御苦労さまです」
そういったとたん、再び、面《おもて》を上げると、燕雄は、
「只今、入浴致してまいりましてございます」
といった。
湯浅は、にやっと笑った。
湯浅は、きょう二時に初音湯のあくのを待って、燕雄と、福松と、三人で一緒に湯に入った。燕雄はいつもあくのを待って湯に入る男だが、むろん、この日も、三人が一番乗りである。
三人で、師走の銭湯の湯ぶねに三つ顔を浮かせて、並べ、福松と湯浅はなんとなくそわそわしていたが、燕雄はいつに変わらず泰然としていた。
烏の行水で、さッと上がり、団子坂から湯浅が車を拾って、三越へ乗りつけたというわけである。
燕雄も、福松も、湯浅も、三人とも、てらてらした顔をしていた。
近亀は、改まって、いま、湯に入ってきたから安心してくれという意味のことを伝える燕雄に、ほろッとした。そして、
「すみません」
といった。いってから、すみませんというのもへんなものだな、と思った。
獅子舞いがすんで、いちど幕が降りて、また上がると、金の屏風をうしろに、釈台がひとつ。
少し、ほほえみをたたえて、燕雄が登場した。
パチリ、張り扇の音をたてて、燕雄が一礼すると、満員の三越名人会の客席から、五、六人の拍手が起こった。
そのうちの一人は近藤亀雄である。中央、前から五列目の、角の席である。
近亀は忠七たちの獅子舞いの途中から、なんだか胸がどきどきした。めずらしいことである。
ちょいちょい、人前にひっぱりだされて、芝居の話だの、落語の話だの、人形浄瑠璃の文楽の話だの、ときには近亀が感動した四谷のたいやきの話なんかをよくしゃべらされているが、そんなことなんて殆どない。
なんとか、三越名人会の舞台で桃川燕雄の芸を認めて貰いたいものだと、なにかに祈るような気持ちになって、それが心配で、めずらしく胸がどきどきしてきたものとみえる。
両腕をじっと胸の上で組んで、にらむような目つきをして、燕雄の舞台をみている。
もう一人手を叩いたのは、川崎福松である。
福松は、湯浅から切符を一枚受け取ると、案内の女のあとについて、席に着いた。
ローズ色の絨毯の上を歩きながら、二度ばかりつまずいて、ちょっとよろけた。こんなとこ、むろん、はじめてである。
舞台に向かって、前から五番目の、いちばん右の席なので、燕雄を斜ッかいにみることになる。
子守り唄のような笛がひょう・ひょうと鳴って、その間を、ぽつんぽつんと、太鼓が入る。
獅子がいねむりをしているところをやっていたが、それが、なにか夜更けのような感じがして、それにいましがた三人で初音湯につかって、大急ぎで三越までやってきた気疲れも出て、少し、その席に落ち着いてくると、自分もなんだかうっとりとしてきて、ときどき、ちいさなからだを、椅子の上で、腰をのばすようなかっこにしてみたりした。
燕雄が出てきたら、すぐ、手を叩こうと思っていたが、なんだか、自分ンとこの人間に拍手をするのが気恥ずかしく、一瞬、ためらったが、二、三人の拍手が起こると、とうとうたまんなくなって、ぱちぱちと手を叩いた。
不意に、ぼろぼろッと涙が落ちた。
誰だって、燕雄が紋付きの衣裳を着けたのをみた者はそんなにないが、福松ははじめて、燕雄が紋付きを着たのをみたのである。
「立派なもんじゃアねえか」
うっかり、そう、声に出しそうになった。
馬子にも衣裳てえが、その通りである。
昭和二十年の三月から数えてみると、もうそろそろ十年にもなろうというのに、福松が借りているあの谷中初音町のせまい家《いえ》の如きものに、二人で寝起きをして、福松が一切合財世話をしているのに、燕雄という男を、ただのいちども、いやな野郎だなと思ったことがない。
たまには、なんか手伝いそうなもんだと思うこともあるにはあったが、燕雄はいつも殿様のように泰然とし、なにもしない。
お世辞でも、なにかしようとしそうなものなのに、福松が飯ごしらえをしたり、そこらを片付けたりしているのを、燕雄はいつでも膝に手を置いて、ゆったりとみている。
はじめのうち、えれえ野郎を連れてきちまッたいと、時に、福松は思わないでもなかったが、すぐ、反って、なんだか、その事が、いかにも燕雄らしい気がしてきて、逆に、
「えれえもんだ」
と思うようになった。
そのかわり、燕雄という男、なにひとつ、愚痴ッぽいことや、不平がましいことをいったことがない。
どんなにへんなものや、妙なものをたべさせたって、毛ほども不満な顔をみせたことがなく、いつも、心から感謝している様子が、ありありとみえた。
だから、この頃では、福松は、
「いや、ほんとうにえれえ人間なんだ」
と、堅くそう信じるようになっていた。
まるッきりの赤の他人が、そんなうちに十年ちかくも一緒に暮らしていて、ただのいちども、いやな思いをしたことがないというのは、考えてみると、たいへんなこったなと思った。
燕雄が舞台に出てきて、釈台を前にして一礼したとき、一瞬、手を叩くのを躊躇したが、こらえ切れずに手を叩いたら、なんだかわけのわからない涙があふれてきて、福松は自分でびっくりした。
もう六十七になっていたが、五十年ぐらいの間、泣いたということがなかった。そんなもなア、とッくの昔になくなッちまったと思っていたのが、泣いたのである。
福松は、だからびっくりして、急に自分が恥ずかしくなり、思わず、前にのり出したちいさなからだを、あわてて、椅子のうしろに、ぴたッとくッつけた。
五、六人、ぱたぱたと手を叩いた中の、もう一人は湯浅喜久治である。
湯浅にとっては、この世の中はおどろくことばかりだ。
たとえば、海抜なん千メートルだかの山に登るのは、
「あれアいったいなんのためなんす」
と、ほんとうにそう思って、不思議で不思議でたまらなくなって、近藤亀雄に訊ねる。
近亀も、そんなことはほんとうは知ッちゃアいないが、仮りにも、先生などといわれているのに、まさか、
「さあねえ?」
などともいえず、
「あれアね、君の前だがね、自分の体力とだね、そいから、自分の精神力を鍛練するためだよ」
と、そういったあと、
「たぶんね」
と、つけ加えたりするので、湯浅は一向に、
「なるほど」
などという顔つきはしずに、へんに、うす笑いを頬にうかべたりするのである。
「マラソンすね、マラソン……」
と湯浅がいい出すから、近亀はまたはじめやがったと思いながら、うなずくと、
「あれ、なんのためにするンす」
マラソンというものは、なんのためにするのか、というのである。
そんな時、もう近亀は笑って答えないことにしていた。
近亀は、しかし、そういうことを疑問に持つ湯浅に、非常な興味を持った。自分だって、そういう疑問を持ったことがあったのに、誰だって、みんな、そんなことを不思議には思わないのに、自分だけが不思議に思って、そんなこと、ひとに訊くのはおかしいと思ったから、実は、誰にも訊かずにいただけのことなのである。
それとおなじように、湯浅は、桃川燕雄を世の中が認めないことに、大きな疑問を持った。どうして山になんか登るのか、どうしてマラソンをするのか、その湯浅の不思議とおなじように、どうして、こんなにも立派な人間を、世の中は認めようとはしないのかと、不思議で、不思議で堪らないのである。
燕雄が三越名人会の金屏風の前に、ぴたり坐ると、湯浅は手を叩き、そして、額《ひたい》でみるような角度で、じッと、その高座をみすえた。
寛政力士伝――
筑後久留米は二十一万石、有馬侯のお抱え相撲、日の下開山五代の横綱・小野川喜三郎が、わしが国さでみせたいものはとうたわれた四代の横綱・谷風梶之助の愛《まな》弟子、天下三すくみの名力士といわれた雷電為右衛門との、遺恨相撲の一席である。
「時は寛政四年の春、晴天十日の大相撲は、初日からしてぎッちり満員の客を迎えて六日目、あと、四、五枚で打ち出そうという時にチョーン・チョーンとあたりにひびく柝《き》の音は、さながら、江戸八百八町にも聞こえわたろうという、まことにさわやかなものでございます」
淡々として読みだした燕雄は、ひょいと、ああ、ずいぶん久し振りの高座だな、と思った。
湯浅がお使者に立って、三越名人会で寛政力士伝≠やってくれといいにきて以来、ときどき、ちいさな声でやってみると、もう三年ばかり、本牧亭の高座に出てはいないというのに、すらすらと言葉が流れ、いい違いもなく、あとからあとからまた言葉がついで出る、ありがたいものだと思った。
だから燕雄は、べつに、三越の名人会だからといって力まない。
ただ本牧亭の客と違って、なんだか、他人の中でしゃべっているような気がするのは、いつもだと、おじいちゃんばかりが多いのに、女の客が多いためかと思った。
客席から、ぷうーんと、なんともいえない華やかなにおいがした。
それがまるで、春さきの花屋の店さきのようなかおりで、それに、人いきれがまじっていると思えばい。
近亀は、はじめの五分ばかりをきいて、これなら大丈夫だと思った。
「東西《とうざい》――」
たいていの講釈師なら、そんな時、東オー西イー、と、のばしていうところだが、燕雄はそういう芝居じみたことが気恥ずかしくって、いえなかった。
ぷつり、そういうと、訥々たる口調で、
「これより憚りながら、明日《みようにち》の取り組みを御披露仕ります」
一番一番、七日目の取り組みが披露される中に、
「小野川に雷電、小野川に雷電」
と、ひと際高く読み上げられる。
「うわアッ、という場内の喚声でございます」
いい出来である。
福松は、なんだか自分も、大きな声でうわアッといいたくなるような気がして、困った。
少し、目をぱちぱちして、また、燕雄をみつめる。
「いよいよ七日目、小野川喜三郎と雷電為右衛門の取り組みと相成りましたからして、さア、その騒ぎというものはたいへんでございます。ともに六日の間、土つかずの白星」
お抱え相撲の小野川が有馬の太守《たいしゆ》に呼ばれて、明日《あす》の相撲に間違いがあったら、再び有馬家の門をくぐると思うな、といいわたされる。
一方、雷電は雷電でまた、お抱えの出羽の殿様に召されて、万が一にも貴様が負けたら、永のいとまをつかわすといわれる。
「ここに、小野川、雷電、ともに負けられぬ相撲と相成ります」
小野川に母親がいた。
せがれをいのちと思う母親であった。
「相撲番数も取り進みまして、今日打ち止めの一番は、天下を二分した大取り組み」
立行司・木村庄之助の軍配がさッと上がって、
「はッけよいッと引く軍配ともろともに、とんとーんとつッかける小野川、すぐにでも左を入れるかと思うと、そうでない。立ち上がった途端につッかけたのは、雷電が右の肘を離さない。小野川は左が得意中の得意だから、さア、左を差したのでは分の悪い相撲になると思うから雷電、右の脇に気をくばっていた」
左が差せないから、小野川は立ち上がりざま、雷電をついた。
ここが小野川の相撲上手であろうか。
「つッかけた途端に、つッと手をのばすと、身の丈《たけ》六尺五寸という雷電の首をひとつ、はたいた」
小野川ほどの力士に、つッかけてはたかれれば、まず、たいていの相撲ならそれできまるところだが、
「そこが雷電為右衛門。ちょいとこう、首が前へ動いたぐらいで、雷電のからだはびくともしない」
湯浅は舞台の燕雄をみすえるように、額の方でじっとみながら、顔を動かさずに、ちょっと目を左右に動かして、客席の気配をうかがってみた。
「しめた」
と、湯浅は思った。
三越名人会の客は、いいンだか、悪いンだか、凡そ感情をみせない客が多いのだが、みんな、とにかく、燕雄の講談にひきつけられていることは事実である。
こまかな小野川と雷電の取り組みのさまを凜々と語って、燕雄は少し調子を張ると、
「さっと勝負の軍配は雷電に上がった」
といった。
有馬の方《かた》からものいいはついたが、容《い》れられず、小野川が負けて、両国広小路の絵双紙屋の二階、場所中、有馬で借り受けた座敷で、小野川は永のいとまを告げられる。
天下の横綱が、若き雷電に負けたのである。
そこへ、小野槌《おのづち》という部屋の者が、息せき駈けてくる。
雷電との取り組みの時をはかって、わが子の勝ちを祈願して、水垢離《ごり》までとった母親が、
「あわれ、自害をしたという。えッ? 親孝行の小野川喜三郎、たった一人の母親が最期を遂げるというのも、雷電との相撲に負けたため」
有馬のお抱えを止めさせられたのも、それも雷電のためだと思うと、
「いまさら、どの面《つら》下げて故郷なる江州大津へ戻られるでもなし、えゝまゝよ、卑怯者よといわばいえ……」
と、小野川にさッと殺意が起きる。
「聞けば雷電は、いま蜻蛉籠《とんぼ》(棒の前端に横木をわたし、その両端を二人でかつぎ、後端を一人でかつぐ駕籠のこと)に乗って四谷の家へ帰ったという」
有馬の殿様から拝領した腰のものをさすと、
「さッと、はだしで表へ飛び出したが、折りから、降りいだした雨の中を、たッたッたッたッ、たッたッたッたッ、雷電の駕籠を追ったッ」
へんに、客をおどかすような、突拍子もない大きな声を出したりすることもなく、燕雄の芸は、そのくせ、そんな時、ひどく迫力があった。
六十六歳だというのに、芸に、ぴーんと切ッさきがあって、そくそくと迫るのである。
近亀は、
「えらいもんだな」
と、思った。
湯浅にしても、自分にしても、燕雄があんな暮らし方をしているから、かわいそがるのじゃアない。
江戸以来の講談という話芸《わげい》を踏まえて、その芸をぴたり今日まで持ちつづけているのに、それが世の中に、あまりにも迎えられないことに対して腹が立ち、そして燕雄をかわいそがるのである。
そのことが、なにか、心の隅でときどき気になっていた近亀は、はっきり、そうじゃアないんだと思えて、そう思ったら、なんだか、ぐうッときた。
福松は福松で、いつの間にか、目を閉じて燕雄をきいていた。昔、講談の定席だった八丁堀の聞楽《ぶんらく》だの、高橋《たかばし》の永花《えいか》へよくききにいった時分のくせなのである。
燕雄は、それでも少し、鼻の頭に汗をかいているようだったが、いつものように、懐から手拭いを出しては拭かなかった。
「おーい、おーい、早足の出た蜻蛉籠が、うしろから呼ぶ声に、ひょいと歩みを遅くする。降りしきる雨の中、恰度、九段の牛ヶ淵です」
雷電は自分の駕籠が呼ばれていると知って、駕籠屋の足をとめさせる。
息せき切って小野川が駈けつけて、
「卑怯者よといわばいえ、笑わば笑え、雷電ッ、こんたのいのちゃア貰ったから、覚悟しなせえ」
客席は、しいんと水を打ったようにしずかに、息をのむ。
「有馬の太守から拝領した備中《びつちゆう》水田の住人・国重《くにしげ》の名剣、鞘を払って身構える。雷電も松江の殿様から下された相州《そうしゆう》の住、名刀・秋広《あきひろ》の鞘を払って身構える」
ここで、ぴたッ、とひとつ張り扇が鳴ると、調子がかわって、
「雪月花、屹度《きつと》受け合い申しそろ、よって九段の上のお物見《ものみ》(貴人の家などで遠方を見渡すために高く構えた楼)と、大田蜀山人の歌に詠んだ田安《たやす》のお物見を横ににらんで、雷電、小野川のいのちのやりとりは、また後日《ごじつ》の読みつぎと致します」
と結んで、燕雄は深く頭を垂れて、一礼した。
毎月、徳川夢声に漫談とか、新講談の宮本武蔵≠ニかをやらせて、めったに講談の出たことのない三越名人会だが、みんな、大事にきき、みんな、感心したようだった。
はじめ、近亀だの、湯浅だの、福松だのが手を叩いたほかは、あと、せいぜい二、三人だったのに、こんどは名人会の客席が、一斉に、桃川燕雄に拍手を贈った。
しずかに幕が降りてきた。
近亀は、よかったと思った。ほッとしたのではなく、よかったと思ったのである。
福松は、こんどは、どうでえ、という顔ンなって、少し、あたりをみまわした。
それにしても、広い東京にゃア、きれいな服装《なり》をしてえる人間が大勢いるもんだなアと、はじめて、感心したような気になった。
四、五人さきの、めがねを掛けた五十がらみの奥さんが、また二人ばかりさきの、少し若い奥さんに、
「講談もおよろしゅござアますわね」
と大きな声でいっているのが聞こえる。
広い日本に、東京でたった一軒、本牧亭という、講談の定席のあることを知らないひとたちである。
湯浅は、急いで、いちばんうしろの席から立ちあがると、ドアをあけて出ていった。燕雄の労をねぎらいに、たぶん、楽屋へ急ぐのであろう。
なにか、客席のあかりがぱアッとあかるくなったようになって、幕があくと、浮世節の西川たつ子が、三味線を抱えて、いつもの、愛敬のある笑いをみせながら坐っていた。
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つばめの唄
「たいへんッ、若いひとがきてるわよッ」
楽屋へ、入ってくるなり、すッとんきょうな声で、豊竹駒春《とよたけこまはる》がみんなにそういった。
いつだって、おじいちゃんか、おばアちゃんしか聞きにこないのに、若いひとが聞きにきているというのである。
駒春は本牧亭の楽屋の戸口と廊下をひとつへだてた売店へ、土瓶と茶碗をもらいにいって、ひょいと客席をみると、正面の、梯子段の勾欄《てすり》を背に、ちょっと膝を立てて、両手を組んで、膝を抱えている青年をみつけて、びっくりした。
三月《みつき》に二度ぐらいずつは、本牧亭の夜の会に出ているのだが、めったに、そんな若い人間が聞きにきたのをみたことがない。
「あらッ」
といッちまって、お茶子《ちやこ》のおきんが、
「はい」
と出してくれた盆を受けとると、
「なにさ?」
といわれた。
あら、といったのが、自分でも少しおかしくなって、
「いえ、……すみません」
もういちど、ちらッと客席をみて、楽屋へ帰った。
今夜は女義太夫の若手の勉強会である。
三味線弾きは勝広《かつひろ》にしろ、津賀栄《つがえ》にしろ、春助にしろ、みんなもう六十以上の年配だが、あとは伊達玉《だてぎよく》と東昇《とうしよう》がもう三十を出たというところか。駒春と綾菊《あやぎく》が二十五がらみで、竹本桃枝《たけもととうし》が十八で、これがいちばん若い。
しかし、義太夫の世界では、女の場合でも、三十、四十で、まだ若手の中に入れられる者もあるくらいである。
そんなこと、もうないようでいて、やっぱり芸のよしあしで、そんな分けかたがされていた。
「洋服? 着物《きもん》?」
綾菊が駒春の持ってきた盆を受けとりながら、顔を上げて訊ねる。
「洋服だけどさ」
「なんだねえ、お客様の噂アするんじゃありませんよ」
三味線の糸をつけ変えながら、窓にちかい奥の方から、いちばん年かさの勝広が、男のような声でそういった。
「はい」
綾菊と駒春の二人が、そう一緒にいって、逢って、ちょっと舌を出したのも一緒である。
すぐにみつけて、もう肩衣を着けて、高座に出るばかりの春助が、笑いながら、
「お前さんたちときたしにゃア、叱られても笑ってるよ。ほんとに……」
といって、トーンとひとつ、膝の上に構えている三味線の二の音を弾いた。
それがまるで、義太夫の稽古でもしているような呼吸《いき》に聞こえた。
桃枝が、楽屋でそう呼ばれている本名の桃ちゃんそっくりの、白い桃のような顔を、もうひとつ明るくして、
「湯浅さんじゃない?」
と、いった。
「湯浅さんッて、なにさ?」
駒春は、いつか、楽屋で、文楽座の櫓下《やぐらした》・山城少掾の話が出た時も、
「ヤマシロノショージョーッてなにさ?」
といった女である。
荒川の方のカバンをつくっている町工場の娘で、おやじが素人《しろと》義太夫で、こどもの頃からおやじの聞き真似で、それア聞こえませぬ伝兵衛さんとやっていたのが、おやじの自慢で、女義太夫になった。
いちど、宇都宮かどこかに嫁にいったのを、おやじが取り返したともいうが、不思議に、誰もそのことをよく知らない。
下げ髪の時分から、そんな義太夫好きのうちで育って、東京へ文楽が出開帳《でがいちよう》をしても、まだ、いちどもいったことがないという女である。
桃枝は、またはじまったという顔をして、
「湯浅ッてひとはね、ここのね、ほんもく≠ニいう雑誌みたいなもん、つくってるひと」
「へええ、そう。そのひとかも知れない」
桃枝は二た月ぐらい前に、いちど、帝劇のこれがシネラマだ≠ニいう総天然色のシネラマにさそわれて、帰りに、銀座のシャトーでご飯をたべたことがある。
「シネラマッての、みた?」
本牧亭の下足のところで、湯浅喜久治に、大きな声でいわれて、
「いいえ」
といったら、下足を手伝っているおしげちゃんなんかが聞いている前で、
「じゃア、こんだ連れていか」
といった。
たまに、ごひいきのおじいちゃんから、三味線の春助なんかと一緒に、本牧亭のちかくのたべものやへさそわれたりしたことはあるが、青年から、シネラマのさそいを受けたことはなかった。
「わア嬉しいッ」
といったら、そばからおしげちゃんが、
「湯浅さん、あたしも連れてッて」
すると、
「駄目だよ、おしげは駄目。桃枝君は義太夫語りだろう? やっぱり、シネラマぐらいみとかなくッちゃア」
といった。
おしげはどういうわけだかわけはわからなかったが、湯浅にそういわれると、へええそう、と思った。
「駒ちゃん、足りないよ、茶碗が」
綾菊にいわれて、もいちど、駒春が立とうとするのを、こんどは桃枝が立って、売店へ茶碗を取りにいった。
ぱらぱらと、七、八人の客である。
みんなが桃枝をみつけて、桃枝はみんなに愛敬のある目礼《もくれい》を送ったが、湯浅は膝を立てたかっこで、こんどはじいっと手帖をひろげてにらんでいて、桃枝の存在を認めなかった。
「やっぱり湯浅さんよ」
桃枝が貰ってきた茶碗に茶をついで、駒春と自分の前に置くと、
「へええ、じゃア桃ちゃん、今夜は帰りに来々軒の五目そばよ」
と、綾菊がいった。
「あらそうなの? じゃアあたいもだ」
駒春が駄々ッ子のような口調でそういう。
桃枝は、一と口、茶をのむかのまないで、
「あら、そんなんじゃアないわ」
事実、そんなんじゃアなかった。
こんな青年ッて、いま時、あんのかと思った。
いままで、たべものやにさそわれたりして、肩ひとつさわられなかったのは、湯浅と、帝劇のシネラマからシャトーというフランス風の料理店へさそわれた時が、たったいちどである。
さも、おじさまがっておさまっている客が、酔ったふりをしては、きっとへんなことをした。
しないまでも、どんよりした目つきで、じッと女だけの場所をみていた。
そんな時、桃枝はびりびりとからだ中にいやらしさが電波のように流れ、感じた。
さりげなくされればされるほど、それが、自分のからだでよくわかった。
湯浅喜久治とシネラマをみて、シャトーでご飯をたべている間はむろんのこと、帰りに、青山のアパートへ帰る湯浅が、ぜんぜん、方角ちがいの東駒形《ひがしこまがた》の桃枝と母親の住んでいるうちの、酒屋とクリーニング屋の角まで、タクシーで送ってきてくれて、
「お母アさんによろしく、おやすみ」
といって車が走り出すまで、ただのいちども、いつもの、男から伝わってくるあのいやらしいびりびりがなかった。
血の気のない、ほそい顔をしていて、いつでもきれいに目が澄んでいて、その目が、なにか遠いものを、ぼんやりみているような顔をしていた。
血の気のないのは、きっとネプローゼとか、ネフローゼとかいう病気をしたせいだろうと思った。
ぴたり、湯浅と自分との間に、なんともいえないきれいなレースのカーテンのようなものがあって、それがほんのりと、美しいにおいをさせているような気がして、桃枝はこんな青年ッて、いま時、いるのかしらと思うのである。
することがなんともさらさらとしていて、淡々としたさりげない中に、じゅうッと情《じよう》が感じられる。
なんだか、男でもなければ、女でもないべつのもので、もしかすると、この人は恋愛なんて、一生、出来ないひとではないのかしらと思うようになった。
帰りのタクシーの中で、車が、恰度、駒形橋を渡っている時、突然、
「桃枝君、誕生日いつ?」
と、訊いた。
ちょっと、びっくりして、白桃のような顔で、すぐ、ちょっと笑うと、いった。
「五月の十八日」
あんまり、いままで誕生日なんか訊かれたことがなかったので、桃枝は湯浅の横顔をみると、
「どうして?」
といった。
「うーん、誕生日にね、なにがしてみたい?」
ああそうかと思い、少し考えて、
「スケート。スケートやりたいな」
こんどは湯浅が少しびっくりしたような声になって、
「スケート?」
「はい」
「へええッ、おどろいたね、スケートッてあの、ぐるぐるまわる……?」
「えゝ、ローラー・スケート」
「へええッ」
と、もういちどおどろいて、
「じゃア、それへ連れてッてあげら」
「だって、湯浅さん、出来ないんでしょ? スケート」
浅草の松屋の側だけに、とくに、あかるい灯のゆらめいている隅田川の夜景が、ちらッと、車の窓を過ぎた。
「あんなもん、やるわけがねえじゃアねえか」
と、湯浅はちょっとべらんめえンなった。
「じゃア、悪いわよ、あたしだけすべるンじゃア……」
「いいよ、義太夫の竹本桃枝が、ローラー・スケートをやるとこなんざア、だアれもみちゃアいまい」
そうなのである。
桃枝は三年前の十五の時に、竹本土|佐広《とさひろ》の一座で、口語《くちかた》りがいないから、桃ちゃんに是非出て貰えまいかといわれて、母親の竹本|重枝《じゆうし》が、どうだい? といった。口語りというのは、いちばん、しょッぱなの語り場所である。
桃ちゃんも赤ん坊の時から、うちで母親が素人《しろと》の旦那衆に稽古をつけるのを聞いていたし、子守唄がわりに、母親から、あすの夜《よ》誰か添乳《そえぢ》せん、らむ憂い目みる親ごころなどと、寺子屋のいろは送りなんかで寝かしつけられていたから、まだ七、八つの小学校へ通うか通わない頃から、重枝に見台の前に坐らされると、
今頃は半七つァん……
などと語っていた。
十五の春の晩、本牧亭で初舞台を踏んで、重枝は、
「御簾内《みすうち》におしよ」
といったが、桃ちゃんの希望で、初舞台から、ちゃんと肩衣《かたぎぬ》をつけて、出て、語った。
御簾内というのは、幕をしめて、語るのである。
先代萩≠フ御殿の奥を語って、
思いまわせばこのほどからうとうた唄に千松が七つ八つから金山《かなやま》へ一年待てどもまだみえぬ……
というところでは、客席から、
「どうするどうする」
と声を掛けられた。
どうするどうするというのは、いまのことばで、いかす、とおなじ意味である。
本名の桃子の桃と、母親の古い芸名の重枝《じゆうし》の枝《し》をとって、竹本|桃枝《とうし》と名乗った。
父親は自分では語らなかったが、横山町のシャツ問屋の番頭で、義太夫をきくのが好きで、重枝と一緒になったほどだが、桃子が五つの時に死んで、それからは、母親ひとりで育て、娘にした。
血である。
いちど舞台に出たら、たまらなく義太夫が好きになって、母親の稽古のほかに、いまでは土佐広のうちへ稽古に通っている。
母親は三味線を習わせたいのだが、桃枝は語る方が好きで、それでもうちでは三味線の稽古をしている。
始終、今頃は半七つァんだの、まいちど顔をひき寄せてなどとばかりやっていると、こんどは急に、まるで、義太夫とは逆なものがほしくなる。
いちど、小学校時分のともだちの、菓子屋のおしんちゃんに連れられて、後楽園のスケート・リンクへいって、ローラー・スケートですべったら、筋もよく、三十分ぐらいで、すべられるようになった。
義太夫をつめて稽古したあと、厩橋まで歩いて、あすこから春日町まで都電に乗って、春日町から水道橋のスケート場までまた歩いては、ローラー・スケートをやりにいった。
一時間すべると、からだ中から義太夫がきれいにとれて、さばさばし、それからまた亀沢町の土佐広のうちへ稽古にいった。
母親は、桃枝がローラー・スケートにいくことを、まるで、悪いことでもするかのようにいやがった。
だから、湯浅喜久治から、誕生日に好きなことをさせてやるといわれて、即座に、ローラー・スケートといった。
天下晴れて、すべりたかったのである。
そのシネラマをみた晩以来、桃枝は湯浅に逢えず、今夜、久し振りに本牧亭の客席に湯浅を発見して、ときめいた。
駒春なら、そんな時、客席に出ていって、挨拶をする女だが、桃枝には出来ない。
きっと、あとで、約束をしにきてくれるだろうと思った。
口を語る綾菊が、春助の三味線で高座に上ると、桃枝が、母親ゆずりの少しさびのある声で、高座のうしろから口上をいった。
チョン・チョンと、自分で拍子木を二つ打つと、
「東オー西イー」
とゆっくりのばして、
「このところお聞きに達しまする浄瑠璃|外題《げだい》、艶姿女舞衣《はですがたおんなまいぎぬ》題語りまするは竹本綾菊、三味線、豊沢春助、まずはいよいよ三勝半七酒屋の段、東オ西イ」
そして、チョンと一つ柝《き》を打った。
それでももう三十人ばかりの客になって、迎え手がたくさん鳴った。
春助の甲《かん》高い三味線が酒屋≠フおくりを弾き出した。
湯浅喜久治は、べつに女義太夫が好きなわけではない。
湯浅が女義太夫に興味を持ったのは、木下杢太郎の食後の唄≠フ中の街頭初夏≠ニいう詩のためである。
湯浅は東京の町に燕が飛ぶ頃になると、いつも、その詩を思い出し、口ずさんだ。
紺の背広の初燕《はつつばめ》
地をするやうに飛びゆけり。
という詩である。
まづはいよいよ夏の曲、
西《ざい》――東西の簾《みす》巻けば、
濃いお納戸《なんど》の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田《しつた》もすずしげに
街は五月に入りにけり
赤の襟飾《ねくたい》、初燕
心も軽くまひ行けり。
そしてそのあと、杢太郎は活字をちいさくして、こんなことを書いている。
珈琲の中にコニャックの酒を入るるを好みたまふほどの人は、この行の次に「いよ御両人待つてました」の一行を入れ試みたまへ。
この行のつぎにというのは、
花の「昇菊、昇之助」
というところである。
姉が昇菊、妹が昇之助、姉が妹の三味線を弾いていた。大阪の靱館《うつぼかん》という席の娘だが、姉の昇菊はしっとりと落ちついた女で、昇之助は牡丹の花のように華麗であった。明治の末に、東京の寄席へ出て来て、昇菊・昇之助の姉妹《きようだい》は娘義太夫といっていたそんな舞台ばかりでなく、その頃、東京の町々の至るところにあった落語や浪花節の寄席の人気までも、一と手にさらった。
ボヘミヤン・ネクタイをした若き日の木下杢太郎が、そして、花の昇菊・昇之助とうたったのである。
湯浅は杢太郎の詩に憧憬して、それ故に女義太夫をたまに本牧亭できくようになった。
むかしは、みんな花の昇菊・昇之助であったであろうに、出てくる女義太夫は、湯浅の考えているイメージとはまるで違っていた。
そんな中に、二、三年前から高座に出た竹本桃枝だけは、白桃のように、清楚な色気をたたえていた。
ともだちの若い落語家《はなしか》が結婚するといったら、
「お前《めえ》、なんで、そんな不潔なことをすんの?」
と、冗談でなく、本気に、そういった男である。
杢太郎の詩をいとしむのと恰度おなじように、湯浅は、娘義太夫の竹本桃枝をいとしんだ。
それでも桃枝を高座で知って、三年目に、はじめて口をきいたのである。
誰かが、本牧亭の客席のうしろの硝子戸をあけたとみえて、夜の微風が湯浅の耳をくすぐる。
町は五月になっていた。
綾菊が春助の三味線で酒屋≠語っている途中で、およそ、本牧亭の客でない若い男が二人、ひとりは、客席をにらむような顔をして、ひとりは、いかにもひとを小馬鹿にしたようなうすら笑いを浮かべながら入ってきた。
二人とも、流行のマンボ・スタイル。
二十《はたち》がらみのは頭をリーゼントに刈っていて、裾へいって、やや、細めになった黒のズボンに、まッ赤なソックスをはいている。
十八、九の、うすら笑いを浮かべた方は、ピンク色のシャツを着ていて、頭の前の毛だけ、パーマをかけている。
そろそろ、マンボにも飽きがきて、そろそろ、もっと刺戟の強いものが求められてきはじめてはいたが、エンリケ・ホルンのチャチャチャが、あと、ほんの少しでアメリカからやってくる時分で、それでも、東京の街を歩くと、いつでも、どこかでマンボの音がきこえている時代である。
二人とも典型的なマンボ族で、二人とも、まるで、凶悪な山猿のような顔をしていた。
お茶子《ちやこ》のおきんが、びっくりしたような顔をして、座蒲団を二枚持つと、
「このへんはいかがですか」
と客席のまん中より、少し、うしろの方へ座蒲団を敷いた。
「どこだって構やしねえよウ」
うすら笑いのマンボがそういいながら、右足で、その蒲団を乱暴にずらして坐ると、両足を、にょッきり前へ出した。
おこったような顔をしたマンボは、まッ赤なソックスの左足の方を、右の膝の上に抱えるようにして上げ、大きな声で、
「ビールはねえのか、ビールは?」
と、いった。
高座では、綾菊が、甲《かん》高い調子をひときわ張り上げて、
※[#歌記号]去年の秋のわずらいにいッそ死んでしもうたら こうした難儀は出来まいもの……
と、お園のくどきを語っていて、その節尻《ふしじり》をのばしながら、それをうれいに落として、えぐるように、女のかなしみをうたい上げると、
「ようようッ」
と声が掛かり、拍手が起こった。
湯浅喜久治は、いまのいままで、杢太郎の詩を思い出したりしながら、窓から入ってくる五月の夜の微風に、なにか、古い東京の、郷愁のようなものを、からだいっぱいに感じていたのが、突然、二人のマンボ族が本牧亭の客席に入ってきたら、にわかに、周囲が、まったく異様なものに変わったのにびっくりした。
いまのいままで、少しもそんな気がしなかったのに、二人の山猿が登場したとたんに、なにもかもがみんな異様に思えてきたのである。
なんという髪だか知らないが、明治時代の唐人|髷《まげ》をちいさくしたような髪を結って、見台の上にのび上がって語っている綾菊――。
男のような声で、ときどき掛け声をしながら、三味線を弾いている春助。
桜の花を、下の方へいってぼかしている二人の肩衣。朱の色の房の垂れている見台《けんだい》。
※[#歌記号]添い伏しはかなわずともおそばにいたいと辛抱して これまでいたのがお身の仇……
と語っているその義太夫の文句。
それを壁によりかかって、目をつぶって、腕を組んで、綾菊の語る節につれて、からだを左右にちいさくゆすりながら、まるで、からだ中で、義太夫をきいているような客たち。
そうかと思うと、大あぐらをかいて、煙草をのんだり、茶をのんだりしながら、これは高座と客席を半々ににらんでいるような石初の隠居は、よくみると、まるで天下でも取ったように、えらそうに構えている。
みんな、湯浅には異様に思えてきた。
むろん、この二人のマンボ・スタイルの山猿も異様だが、自分だって、ひどく異様だと思った。
そう思うと、この土《つち》一升、金《かね》一升といわれる上野広小路の目抜きの場所で、本牧亭なんていう、売れない講談だの、こういう女義太夫をやったりしている本牧亭そのものも、異様に思えてきた。
そういえば日暮里の裏町で、小体《こてい》に、手堅く、ちいさな文房具の卸をやっている親たちから、月々、五万、十万と金をせびっては、若い落語家《はなしか》をおごったり、女義太夫の誕生日の日に、自分からスケート・リンクへ連れていってやろうなどとしている自分くらい、いちばんへんな、異様な野郎はねえな、と思った。
しかし、考えてみると、なにも綾菊だの、石初だの、本牧亭だの、マンボ野郎だの、てめえだのばかりだけが異様なんじゃアない。いま、世の中ぜんたいが異様なんじゃアないかと思った。
そう思って、湯浅は少し安心したような顔になったが、それでも、眉間《みけん》にきゅっとたて皺が残っていた。
さっき、ビールはねえのかとおきんに訊ねて、
「お酒の類はお売り致しておりません」
といわれて、
「のどがかわくんだよウ、なんかねえのかよウ?」
そこで、ラムネを二本持ってこさせたマンボ族の中の、おこったような顔をした赤いソックスが、ストローなんか使わずに、ラムネを一といきにラッパのみにすると、連れのピンク色のシャツに、
「おウ、へんなもん着てやがるじゃねえかよウ」
と大きな声でいった。そこいら中に聞こえるような声である。
さっき、湯浅もやっぱり異様なもんだと思った肩衣のことらしい。
すると、ピンクのシャツが、
「まるでフクスケの看板じゃねえか」
と、これも大きな声でいうと、こんどはどんよりした目で客席をみまわした。
二人とも、少し酒をのんでいる様子である。
黙って、なにか聞いているということが苦痛らしく、そのうちに、聞くに堪えないみだらなことを、大声で話しだした。
少しでもからだを動かしていないでは、これも苦しいらしく、赤いソックスの方は絶えず、両足をかわるがわる片ッ方の膝の上にのせ変えては、その足さきを動かしつづけながら、田舎ッぺのべらんめえでしゃべりつづける。
高座に向かって両足を投げ出したピンクのシャツの方は、Vの字に、大股に開いて、なにかいっては、けらけらと笑いながら、そのたびに客席をみわたす。
四十人足らずの本牧亭の客は、まるで、二人のマンボ族に嘲弄されているような空気で一杯になった。
それなのに、誰ひとり、しずかにしろという客はいなかった。
湯浅は綾菊の酒屋≠ェもうじき終わるから、終わったら、しずかにしてくれといおうと思った。
途中で、なんども、
「うるせえッ、しずかにしろいッ」
といおうと思ったが、やめた。
そんなことをいえば、どんな事件になるかということもよくわかっていた。
酒屋≠ェ終わって、綾菊が見台に置いてあった床本《ゆかぼん》を、段切《だんぎ》りで、両手にとって顔の上へ上げると、赤いソックスが、
「へッ、本をおがんでやがら」
といって、ピンクのシャツと二人で、またけッけッと大声に笑った。
湯浅も、うっかり、そういえば、本を押しいただいておがむというのもおかしなもんだな、と、ひょいと、そう思ったりした。
柝《き》が入って、するすると緞帳《どんちよう》が降りた。
その幕が降りたか降りないかというなんともいい間《ま》に、すッすッと、やわらかく風を切るように、若い女が客席に向かって入ってきた。
竹本桃枝《たけもととうし》である。
湯浅は、しまったと思った。
これから、自分が、二人の山猿に、しずかに聞いてくれと、頼もうと思っていた出端《では》を切られたと思ったのである。
案の定、桃枝は、色の白いぽッちゃりした顔に、おだやかな微笑をたたえて、つッと、二人の前に膝をつくと、悪でいねいでもなく、ぞんざいでもない、ほどのいい一礼をして、
「お客さん」
と、いった。
「まことにあいすみませんが、お静かにお聞き願えませんでしょうか」
一瞬、やわらかいことばの中に、凜としてさわやかなひびきがあった。
「あたくしども、月に、たった五日ばかりしきゃ、この舞台で義太夫を語れません。それに、折角、聞きにみえてるお客様の御迷惑にもなります」……
なんとも、やわらかく、しかもぴんとした桃枝の口調である。
二人のマンボ族は、もしかすると、こんな風なもののいい方というものを、誰からも、いちどもされたことがなかったのかも知れない。
あるいはまた、なにをしたって、いったって、まさか、こんな風にいわれるということを、まるで考えてもいなかったともみえる。
山猿のような顔の表情をとめて、二人とも、桃枝の顔をみつめた。
「わたくしたち、こうやって、たまに義太夫の勉強会をさせて戴いております」
そこで、ちょっと、ことばを切って、なお、おだやかな笑いを顔中にたたえながら、
「なにかのお間違えで、入っておいでンなったんじゃアないんですか。それなら、失礼でございますけど、入場料をお返し申し上げますから、お引き取り願えませんでございましょうか」
赤いソックスが、唾をのんだような声で、ようやく、
「入場料、返《けえ》すッてえのかよう?」
「はい、失礼でございますけど、それで、お引き取り願えませんでしょうか」
こんどはピンクのシャツが、
「けえれッてのか?」
「いえ帰れなんて申し上げません。義太夫がお気に召しませんでしたら、入場料をお返し申し上げますから、お引き取り願えませんでしょうかと、申し上げているんです」
桃枝の、どこから、こんなにやわらかく、丁寧な、切り口上が出てくるのかと、本牧亭の客はみんな感心しながら、そのなりゆきをみつめた。
そして、この時、はじめてみんなあからさまな憎しみの顔で、二人のマンボ族をみた。
そんな空気は、じつはなんとも敏感にこたえる若い者である。
赤いソックスがあきらめよく、
「けえろうけえろう」
と、うながして、思い切りよくさっと立ちながら、
「こんな妙てけれんなもん、金え貰ったって聞いちゃアいられねえや」
といった。
ピンクのシャツも、あわてて、おなじように立ち上がりながら、
「ふん、こんなもん、銭イ出して聞いてる奴がいやがらア」
そういってから、
「世の中アひれえもんだな」
と、こんどはみんなの顔をみずにそううそぶいた。
少しも騒がず、
「あいすみません」
というと桃枝は、ぴんとした声で、
「おきんちゃん」
と、お茶番のところで、二、三人、かたまって、不安そうにこッちをみていた本牧亭の女たちに、
「お二人さんお帰りンなるよ。木戸銭をお返し申して頂戴ッ」
二人のマンボ族は、下の下足のところで、入場料を受け取るときに少し暴《あ》れて、ラバソールの紐を結ぶと、帰りぎわに、
「おう、いまの姐《ねえ》ちゃんなんてんだい?」
と、下足番に訊いた。
「桃枝さんてます」
「トーシ? トーシだってよウ」
と、連れに呼びかけ、
「すげえ姐ちゃんだね、いかれたよ」
すると、もうひとりが、
「もうこねえからな、あの姐ちゃんによろしくいってくれいッ」
がばッと、痰を吐いて帰った。
綾菊と春助のあと、駒春と津賀栄《つがえ》の玉三《たまさん》≠ェあって、それから桃枝が新口村《にのくちむら》≠春助の三味線で語った。
桃枝はいつも母親の重枝《じゆうし》の三味線で語っていたが、半年ぐらい前から、母親はうちで素人《しろと》の旦那衆に稽古をつけるだけが精一杯で、始終、右の腕が痛い痛いといっては、この頃では娘の三味線を、古いともだちの春助に弾いて貰っている。
だから、三味線の春助は口を語る綾菊と、三枚目の桃枝の三味線をかついで弾いていた。
その晩の竹本桃枝はまるで観音様のように思えた。
石初の隠居は、自分が本牧亭の定連のくせに、ひとことも、あの野郎たちに文句をつけられなかったのがちょっとくやしかったが、桃枝の、なんともさらっとして、いき届いた捌《さば》きッぷりに感心したことで、やっぱり、自分なんか出ない方がよかったんだと思いこもうとした。
湯浅喜久治はただ茫然として、そのまま、桃枝の語る新口村≠フ語り出しを聞いていた。
※[#歌記号]落人《おちうど》のためかやいまは冬枯《ふゆが》れて すすき尾花《おばな》はなけれども世を忍ぶ身のあとやさき……
桃枝の義太夫が、今夜はまた特別に巧く聞こえた。
つい、さっき、マンボ族が本牧亭にまぎれ込んできたら、急に、なにもかも異様に思えたことを思い出した。
ところが、いまはそうじゃない。
杢太郎の詩の花の「昇菊、昇之助」≠ナはないが、そっくりおなじ濃いお納戸の肩衣を着けて、きゅうッと長い黒髪をやや頭の上の方で、ふッくらとちいさく束ねた桃枝の舞台姿をみていると、さっき、女義太夫を異様だと思ったことなんか、きれいさっぱりけしとんで、桃枝がなんとも清浄で美しいものに思え、女義太夫そのものさえ、異様どころか、なんとも正常なものに思えた。
出来もよく、
……かくせど色香《いろか》梅川が 馴れね旅路を忠兵衛がいたわる身さえ雪風に こごえる手さきふところに
というところでは、しんしんと降りつむ雪の田舎道が、しっとりと湯浅のこころに描かれた。
桃枝がうまく抜き抜き新口村≠段切りまで語って、また緞帳が降りたときは、やんやの声援と拍手が起きた。
大切《おおぎり》の伊達玉《だてぎよく》と勝広の幕が上がる前、中入りの駄菓子をつまみながら、客席は誰も彼も、今夜の桃枝の、マンボ族に対するあざやかな捌き方を褒める話で賑わった。
石初は、まるで自分が桃枝にそうさせたかのような口ぶりで、
「ちかごろの流行歌手なんてえ奴にゃア、あれア出来めえ」
といばったりした。
ひと通り、茶や菓子がいきわたった頃をみて、幕をおろしたまま、チョン・チョンと柝《き》が二つ鳴ると、
「幕内御免な蒙りまして、明晩の語りものを御披露仕ります」
という昔ながらの古風な口上が始まる。
すずしい桃枝の口上である。
ぴたり、客席は私語をやめ、茶をつぐ音もしずかになる。
「初段《しよだん》、御祝儀宝の入船、入登《いりと》相勤めます。つぎに至りましてお俊伝兵衛堀川の段、綾菊、春助相勤めます。つぎに至りまして太功記尼ヶ崎の段、駒春、津賀栄相勤めます。つぎに至りまして阿波の鳴戸巡礼歌の段、桃枝、春助相勤めます」
というと、期せずして、客席から、大勢の、
「ようよう」
と、いう声が起こった。
「つぎに至りまして朝顔日記宿屋の段、東昇、津賀栄相勤めます」
そこで、もうひとッ調子張り上げると、少しゆったりと、
「まった大切《おおぎり》と仕りまして奥州|安達原《あだちがはら》三段目の切《きり》、袖萩祭文の段、太夫《たゆう》、竹本伊達玉、三味線、野沢勝広にて相勤めますれば何卒明晩も仰せかわされまして、賑々しく御来場のほどを、ひとえに乞い願い、上ーげ奉ります」
チョンチョンと、そしてまた柝が鳴って、あしたの晩の呼び触れが終わる。
湯浅はもう少し前なら、この口上も、恐らく異様なものの中に数えたであろうに、こんどはそうは思わなかった。
それどころではなく、この女義太夫の古風な口上の方が、ことばも正しく折り目もきちんとしていて、テレビやラジオのコマーシャルなんかよりは、なんぼ気持ちがいいかわからないと思った。
そうだ、みんなが異様になっているから、日本の、昔ながらの古いものが、異様に思えるんだなと思った。
桃枝の口上がすむと、湯浅はちょっと石初の隠居に目礼をして立った。
楽屋の戸が少しあいていたので、のぞくと、恰度、桃枝がこっちをみたのと視線が会って、桃枝は立ち上がりながらいった。
「あ、さっきはすみません。御挨拶もしないで」
「ごめんね」
なんだか、あやまって、こんどは大きな声でいった。
「誕生日、迎いにいきます」
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晴れた日に
橋ひとつで、浅草は三社《さんじや》の祭りである。
湯浅喜久治は、駒形橋《こまかたばし》を向こう側へ渡りながら、ひょいと腕時計をみてみた。
約束の時間は三時。十分前だから、橋を渡って、東駒形の桃枝のうちへはぴたりである。
潮のかげんか、きょうはあのいやなにおいもしずに、蒸汽の曳き船が大きな澪《みお》をひいて、ポンポンと、古風な音をひびかせながら通っていく。
湯浅は厩橋の側の橋げたにちょっと右手をのせて、川を眺めた。
あくまで明るく、あくまで晴れわたった五月の空に、遠くの方で飛行機が飛んでいる。
きょうは五月十八日、竹本桃枝が十九の誕生日である。
さわやかな風が吹いて、空が晴れて、桃枝の誕生日で、橋の下を浅草と新橋を結ぶ遊覧船が、うしろのデッキに十二、三人の客をのせて通って、これから桃枝を迎いにいって、ローラー・スケートに連れていってやるときて、湯浅はあんまりなんだかみんなお誂《あつら》えなのに、苦笑した。
これで、好きな杢太郎の、
紺の背広の初燕
地をするやうに飛びゆけり
とくれば、いうとこアねえなと思ったが、戦後、東京につばめはだんだんいなくなっていった。
烏が二羽、東駒形の河岸の屋根の上を、ゆるく、大きな輪を描《か》いてとんでいる。
この川のそばで生まれて、育ったので、湯浅はときどき、ひとりで、このくさい川をみにきたくなった。
中洲《なかす》の砂利置き場が好きで、あそこの護岸をしたコンクリートの淵《ふち》に腰掛けては、よく、ぼんやり川をみた。
十五分もぼんやりしていると、なんだか歯ぐきのゆるんでくるような、ほろ甘い感傷にひたって、これが東京ッ子の郷愁ッてやつかな、と、そう思った。
橋を渡って、四つまたの道を、熊谷稲荷の方に少し歩いて、酒屋とクリーニング屋の角を曲がると、せまい路地のつきあたりに、入山形《いりやまがた》の庵《いおり》のちいさな看板に、義太夫稽古所、竹本重枝と書いてある。
二階から、まるで水調子《みずぢようし》(三味線の絃の調子の特に低いもののような低い三味線)で、男の胴間声が、これみ給え光秀殿と、太功記の操《みさお》のくどきを語っている声が、つつぬけに聞こえてきた。
格子をあけると、
「わアッ、時間、ぴッたり」
と、桃枝が土間の向こうの障子をあけた。
すぐに出掛けられる格好で、白のカーディガンに、ダーク・ブルーのタイト・スカートを着て、まるで本牧亭で義太夫を語っている桃枝とは別人のようである。
白桃のような顔に、あからさまな喜びを一杯にみせて、
「すみません。いま、かアさん呼んできます」
二階の三味線がやんで、重枝がにこにこ笑いながら出てくると、
「よろしいんですか、なんですか、おねだり申し上げたそうで」
上がりがまちのところで、両手をついて礼をした。
「そんなに遅くなりませんけど、桃枝君、借ります」
湯浅はもじもじしながら、
「これ」
そういって、本所一ツ目の越後屋の菓子折を出した。うるさい菓子屋で、一昨日《おととい》註文しておいた。
「まアまア、なんですか結構なものまでいただいちゃって」
受けて、もういちど礼をすると、
「ちょっと、お茶でもひとつ」
というのを、湯浅は辞退した。
ひらりと桃枝が土間へ降りて、黒のカッター・シューズをもうはきだした。
ちいさなボストン・バッグを左手に持ち変えて、通りへ出るところで、桃枝がちょっと振り返ると、母親は格子に手を掛けて、二人をみ送っていた。
軽く、バイバイという風に桃枝は手を振ったが、母親はなんどもうなずき返してみせた。
湯浅は、そんなことを感じながら、うしろをみなかった。
ひどいてれやで、桃枝と路地を出てきたところを、酒屋だの、クリーニング屋なんかの若い者に、み送られたりするのがいやなのである。
早くタクシーを拾いたくって、熊谷稲荷の広い道をみまわしたが、トラックとワゴンがいきかうだけで、タクシーはかげもなかった。
駒形橋を渡ろうとするところで、車を拾って、
「水道橋へいッつくさい」
といった。いって下さいが、こう、ちぢまるのである。
「きょうはね、いちいち、礼をいッちゃやだよ」
と、いった。
桃枝は、これも東京ッ子の口癖で、すぐに、すみませんというからである。
「はい」
といった。それがまたひどく素直でかわいらしかった。
後楽園のローラー・スケート・リンクの前で車を降りると、湯浅が、
「どうすんの?」
と、訊いた。
スケート・リンクなんて、生まれてはじめてのことである。
どこでティケットを買っていいのかもわからない。
その時分は観覧券というのも、滑走券とおなじに一時間五十円の頃で、桃枝のあとについて入り口に入ると、桃枝はすぐタイムのところで、時間のスタンプを捺《お》させた。これで、入場と退場の時間が明記される。
湯浅はそれをのぞきながら、
「ぼく、どこでみるのさ」
スケート・リンクの建て物に入ったとたんに、桃枝は急にからだ中が燃え、生き生きと躍動してくるのを感じた。
湯浅はいつも以上に、すうッと、なにか血のようなものがからだ中から抜けていって、ひどく、自分がむなしくなった。
ダンス用のフィギュアのではなく、レース用のスピードといっているスケート靴と、着更えのジーパンを入れたちいさなボストン・バッグをさげて、どんどん、クロークの方へいってしまいそうな桃枝のうきうきした様子に、すっかり圧倒されて、湯浅は、
「よう、ぼかア、どこでみてれアいいのさ?」
と、明らかに心細い声を出した。
「あ、すみません、すみません。湯浅さんはね……」
と、もう歩きだしながら、
「二階がいいんじゃないかしら。二階でみてて下さらない?」
そういって、トイレの前の階段へ、湯浅をいざなうようにした。
「いいよいいよ。この上に、みるとこアんだね?」
湯浅は、なんだか自分が、一遍にみじめッたらしくなって、二階へ自分を案内しようとする桃枝をとめて、
「自分でいくよ」
まるで、おこってるような調子になって、ひとりで階段を上っていった。
うしろで、明るく、大きな声で、
「大丈夫ですか?」
という声が聞こえたようだが、もうスケートの音と、その音の向こうの方に聞こえるようなレコードの音楽が大きくって、はっきり桃枝の声は聞こえず、湯浅は振り向きもしないで、そのまま二階の観覧席へ上った。
赤、青、黄、白のスウェーターか、シャツを着た若い男と女の群れ、群れ、群れが、左旋回の美しいスピードでリンクの上を廻っているのが、ぱっと、湯浅の目に入った。
こんなものも世の中にゃアあったのか。
湯浅にははじめての世界であった。
うしろがスタンドになっていて、前に椅子が並んでいる。
湯浅のほかには誰アれもいず、それが反ってちょっとほッとした気にもさせて、そこのまん中の、いちばん前の椅子に掛けた。
酒は、まるでそれが病気かなんぞのように、がぶのみをしたが、煙草はのまない。
だから、こんな時、黙ってみているよりてはなかった。
チャコール・グレーのズボンの間に両手を挟むような格好にして、湯浅はリンクを茫然とみつめた。
そのうちに、群れの中の一人一人が目に入ってきた。左の手を、ちょっと腰にあててすべっている黄色いシャツの男、二人とも髪をポニー・テールにして、手をつなぎ合っている女の子……
そんな、ひとりひとりの中を、右に左に体《たい》をかわしながら、いくつもの群れをかき分けてすべっていく黒いシャツの男。
コーナーでは、ときどき、重なり合って、男や女が、まだ、テラゾールを使っていたフロアの上に倒れると、とたんに、整理員のホイッスルが鳴る。
そこのコーナーを、気をつけろという笛である。
絶え間なくローラー・スケートの滑走者が、一定の高さでリンク一杯にあふれ、まだマンボがはやっていた頃のことで、ペレス・プラドのチェリー・ピンク・マンボが軽やかに流れている。
湯浅はそんなひとりひとりの流れを、二階の観覧席からたったひとりでみおろし、そんなひとりひとりを目で迎え、またみ送っているうちに、なんだか、うっとりとねむくなってくるようだった。
桃枝はいったいどこからこのリンクに出てくるのだろうか。
目を右の下の方にして、ずうッとリンク・サイドを追っていった。
四百坪にちかいリンクの面積の、大きく、中心を除いた大部分を、若い男と女が流れている。
こッち側のリンク・サイドには、三か所の口があって、パイプの勾欄《てすり》を片手に持って、ひょろひょろよろけながら、リンクの中にも入れず、そこで稽古をしているような中年の男だの、そこのベンチに足を大きく前に開いて、煙草をのんで、ちょっと、休憩している者もいる。
湯浅からいちばん遠くの、初心者が練習するサブ・リンクの口から出てくるのだろうと、湯浅はしばらくそのあたりをみていた。
案の定、そこへ桃枝が出てきた。
桃枝は、さっきの白いカーディガンと、タイト・スカートの清潔な服装《なり》とはがらり変わって、本牧亭に出ている時、アメヤ横丁で買ったいなせなジーパンをはいて、紺と赤の、あらいチェックのシャツを着ている。
二、三回、菓子屋のおしんちゃんと一緒にこの後楽園のスケート・リンクへ通ったら、貸し靴ではなんだかへんな癖があって、自分の思うようにすべられないような気がした。
めったに、おッかさんにものをねだったことのない娘だが、ねだって、二た月目に、リンクの前の、電車通りの向こうッ側の君津屋に註文して、スピードの靴をつくった。
くるぶしまでの黒い靴で、太くって、黄色い長い紐を、はすに、かかとへひっかけて結ぶと、それでもうなにかすべっているような気がした。
きょうはアップにした髪を、うしろの、少し上の方で、きゅッとちいさめに束《たば》ねて、リンクに出ていこうとして、ちょっと勾欄《てすり》につかまって、湯浅のいる遠い二階の方をみた時には、誰だって、これが、あたためられつあたためつなどと、本牧亭の舞台で語っている娘義太夫だとは思えない。
桃枝は、にこにこ笑いながら、すぐ湯浅をみつけると、右手をかるく振ってみせた。
湯浅はそんなことをされると、身も世もなくつらくなる男で、二階の観覧席に自分ひとりしかいないのに、ぱッと、顔を赤くした。
そして、これだからやンなッちゃうんだと思った。
桃枝の誕生日に、なんでもしたいことをさせて上げるといって、思いもかけず、ローラー・スケートにいきたいといわれた時には、びっくりもしたが、まさか自分が、こんなにも孤独で、こんなにもみじめッたらしく、こんなにもなんだか気恥ずかしい思いをさせられるとは、思いもかけなかった。
目の下を、そのことにだけ陶酔して、そのことだけに打ち込んでいる自分とおなじぐらいの年配の、若い男女の群れの美しい流れをみせられて、しんしんと心がしずんだ。
この間の晩、本牧亭にまぎれ込んできたマンボ族の山猿は、あれアたしかに異様な野郎どもにゃア違いはなかったが、いま、目の前の、このひろいリンクで、ローラー・スケートをしているわかものたちは、うそにも、異様とはいえない。
湯浅だって、さっきからみているうちに、自分だってあんな風にすべることが出来たら、さだめしたのしいだろうなと思った。そう思うようになった。
ローラー・スケートなんて、実際、みているものではない、これア、自分でやるもんだな、と、すぐに思った。
そして誕生日にスケートをしたいという桃枝が、きわめて正常な今日の娘で、そのスケートが出来なくって、それをただこうやってみている自分は、たいへんにまた異様な野郎なんだなと思ったら、こんなに大勢いる若い者たちの中で、たったひとり、自分だけがとり残されているようなさびしさにかきたてられた。
湯浅は、桃枝がこっちをみて、明るく、気軽に手を振ってみせて、さ、これからすべるから、みていて下さいねといっているらしいのを、大きな目でみていながら、わざと知らんふりをした。
そして相変わらず、ズボンの間に、両手を合わせて挟むような格好で、少し、貧乏ゆすりをつづけた。
誰かがみたら、こんな時の湯浅の顔は、世の中ッて、なんてつまらねえもんなんだ、と、そう思っている顔にみえたであろう。
桃枝は、さッと、リンクの一群の中に入ると、すべりながら、ぷりんとしたかわいいお尻を、ちょっと両手でかるく撫でるようにしてから、チェックのシャツのうしろを両手でひッぱった。
誰でも、すべりだしにみせる気取ったポーズのひとつである。
大きく外側を廻りはじめて、すぐ二つのコーナーを通って、まッ正面に、湯浅のいる二階をみ上げるところまですべってきて、なにか声を出したが、そのまままた、すぐ、目の下のコーナーをゆるいカーブを描《えが》いて、こんどはうしろ向きになって流していった。
いつの間にか、曲はテネシイ・ワルツに変わっていた。
まるで、桃枝のために、わざと、そうしたように美しかった。
スケート・リンクの窓の外が、一面に燃えたつようなまッ赤な夕映えで、それをうしろに、ゆったりと大きくリンクの外側をまわっている桃枝は、あたりを払って、美しく立派だった。
はじめ桃枝は、湯浅のまッ正面に向かってすべってきながら、かならずそのたびに手を振ったり、なにか叫んだりした。
上を向いちゃア、よく通る義太夫声で、
「大丈夫ですか、ひとりで?」
だとか、
「さびしそうですね」
などといった。
そんな湯浅のことなんぞ、このひろいリンクの中の、誰ひとりとして注意を払いはしないのに、湯浅は二十秒か、二十五秒おきに、おなじスケートの群れが自分に向かって流れてきて、その中から桃枝が、そのたびに、そう二階に向かって声を掛けることに、ひどくまいった。
しまいに、湯浅は、桃枝が二階を向いてなにかいおうとすると、よせよせという風に、右手を、一生懸命に、顔の前で横に振ってみせた。いいよ、わかったから、なんかいうのやめとくれよ、という意思表示である。
それがようやく二、三回目に桃枝にわかって、それからは無言で、笑い顔だけをぱッと湯浅に向けた。
この方が、なにかいわれるよりも反って困ったが、まさか自分に向かって笑うことまで、よせよせという風に手を振ってみせるわけにもいかず、湯浅は仕様がないので、そのたびに顔をそらしては、大きな電気時計の方をみたりした。
桃枝は、そんな風に湯浅がてれているのは知っていたが、笑い顔を向けることだけはやめなかった。一定の間隔をおいて、桃枝は湯浅のいる二階に微笑みを投げ、湯浅はまたそのたびにそっぽを向いた。
ローズ色の、燃えたつような夕映えを背景に、そんな、おなじようなことをくり返している間に、湯浅は急に、世の中ッてたのしいもんだなと思った。
そんなこと、生まれて二十五年の間、めったに思ったことがなかった。
どうしてこの世の中がたのしいのだか、わけはわからない。わけはわからないが、なんだか急にたのしくなってきた。生きていくッてこたア、まんざらじゃアねえなと思ったのである。べつに、さびしいこたアねえじゃアねえか……
そのうちに、湯浅は椅子から立ち上がった。なんだか、みんなに演説がぶちたくなったような気がしたのである。
諸君、ローラー・スケートの諸君。そこをすべってる女性、誰だと思う? 娘義太夫のね、竹本桃枝という花形なんだぜ。ええ? たまにゃア本牧亭へもききにきてくれ給えよ。たのむぜ、諸君、というのである。
湯浅はその演説をほんとうにぶったかのように、昂然と、そしてうッすら笑いをたたえて立っていた。
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梅雨また……
「お神さん、湯浅さんがね、紋啓さんとお二人で、ちょっとなんかお話があるんですッて」
「あたしにかい?」
ちょうど、昼間の講談が終わったところで、夜の無声映画の夕べ≠ワでには、二時間ばかり間《あいだ》があった。
二、三日前から降りだした雨が、ことしもしとしとと、すっかり梅雨になって、本牧亭の前の路地をひっそりと濡らしている。
おひでは、ゆうべ入りそこなったので、この間に湯に入ろうと思って、別棟の、自分と娘の孝子たちと一緒の、庭ひとつへだてた住まいの方に湯をたてておいた。
そんな、自分で決めた予定みたいなものは、おひでは始終こわされる。
お神さん、週刊ウワサの方が、カメラの方を連れて……
お神さん、ちとせさんがね、とんち最中、きょういくつにしましょうかッて……
お神さん、今夜の活動写真の会は、なにをやるんだって、お電話なんですけど……
「ああもしもし、いつもありがとう存じます。今夜の無声映画の会でございますか、ちょっとお待ち下さいまし、ただいまプログラムをみます」
いつものように帳場から、孔版《あなばん》でつくったプロをとると、
「お待たせ致しました。ええ、はじめに東亜京都作品、昭和五年七月封切りの大仇ヶ原の涙陣<bて書いてあります。へ? 大仇ヶ原は、大きな仇討の仇の原でございますか。ルイジンてのはね、涙の陣、涙は落つるナミダの涙、陣はいくさの陣の、陣でございます。原作、脚色は堀川一平、監督は橋本隆文ッてんですか。主演は羅門光三郎、小川雪子、はいそうです。それからエッサネー社特作チャップリンの拳闘≠ェございまして、あ、それに満洲事変ニュース≠ニ、セカイフイルム社製作不滅乃木≠アれは駒田好洋監督と書いてございます」
いまどき、今夜の活動写真はなにをやるんだという電話を掛けてくるくらいのひとだから、よッぽど嬉しかったらしく、大勢さそって出掛けるよといって、入場料はいくらか、と訊ねた。
「会員券は百円でございます」
またびっくりしたらしく、大喜びで、電話を切る。
そんなことばかりで、一日が終わるといってもよかったが、おひではそんなこともたのしかった。
生まれた時からの寄席の娘で、それがもう血になっているんだろうと思った。
お茶子《ちやこ》のおきんに、湯浅と紋啓がちょっと逢いたいといわれて、おひではいまのいままで、昼席で顔を合わしていたのに、改まっていったいなんだろうと思った。
階下《した》の、楽屋の梯子段のある狭い部屋に、湯浅と紋啓は、いやに、ちょこなんといった感じに坐っていた。
「あら、なんなんです、改まって……」
湯浅は、ほんの少しの間、紋啓の横顔をみて、ちょっと様子をうかがうような間《ま》があったが、紋啓の表情に、いいから、ひとつ、お前さんからいっておくんなさいといったかげがさしたのをみて、湯浅は、いつものように、
「実アすね」
と、いった。
例によって、実アですねの、で抜けである。
おひでは、おや、また湯浅さんの実アすねがはじまったよ、と思った。
傘を一本貸してくれといやアいいものを、湯浅はそんな時にまで、実アすねえというのである。
「実アすね、そのウ桃川燕雄《ももかわえんゆう》さんすねえ……」
少し間をおいて、
「燕雄さんに、なんとか、ひとつ、本牧亭に出て貰えないもんかと思いましてねえ」
おひでがちょっと、おや、そういうことなのかと思って、
「へえへえ」
そういうと、湯浅たちの方には、なんだかそのことについて、並み並みならぬ気構えといったようなものがあるのを、おひでは感じた。
「これ、……こんなもの」
湯浅喜久治という男は、よくグレーの、渋い画バンを持っていた。どんなプログラムでも、ぜんぶ、その画バンの中にきちんと入れて、つまり、皺ひとつつけずに、保存をするという習癖があった。
そのプログラムも、たとえば三越名人会なら三越名人会のプログラムを、入り口で、十枚ぐらいずつ手にとって、その中から気に入ったのを一枚みつける。紙の切り方に少しでもゆがみがあったり、一字の印刷に、刷りの悪いのがあってもダメなのである。
十枚ばかり手にとった中から、気に入ったのがなければ、また、さらにさがす。
たかが、プログラムで、そうである。
だから、本を買うのには、自分でも、いやになるほど苦労した。
小売り店の、書棚に並んでいる本なんかは、絶対に買わなかった。いちいち、発行所をたずねていっては、その出版社の倉庫に案内をして貰って、そこで、心ゆく限り、自分の気に入る一冊の本を選んだ。
だんだん、方々の出版社と顔馴染みになり、一時間ぐらい、倉庫の中にひとりでおッぽりだしておいてくれるとこなんかも出来たが、湯浅の顔をみると、
「あッ、ダメです! あなたに売る本、ありませんッ!」
といって、てんで、本をみせてくれない新聞社の出版部もあった。
そのプログラムを保存する画バンの中から、丁重な扱いで、なんだかハトロンの大きな封筒をとりだすと、湯浅は、
「これ、みつくさい」
といって、おひでに渡した。
封筒に、講談組合頭取 邑井貞吉殿、並べて、本牧亭、石井英子殿とあって、裏に本牧亭で燕雄をききたい集まり≠ニあった。
湯浅にしても、紋啓にしても、始終、気軽に冗談をいいあっている仲なのに、いやに、殿、などと、時代に改まったのがおかしく、おひではほんとうはちょっと笑いそうになったのをこらえて、
「拝見します」
といって、中を出した。
無地のレター・ペーパーに、大きな字でこんなことが書いてあった。
わたしたち 桃川燕雄の芸と人間を愛する者が集まって どうか本牧亭の高座に燕雄さんを出したいと協議しました 本牧亭は日本でたった一軒の講談の席であり わたしたちは本牧亭を芝居でいうなら歌舞伎座とおなじ檜舞台だと思っています 芸道五十余年 ただひたすらに講談の芸に精進している燕雄さんを どうか本牧亭の高座に戻して下さい
とあって、
昭和三十年六月
さらに、
右 心からそれをねがう者は
とあって、十二、三人の署名がある。
署名は、湯浅がひとりひとり出掛けていって、書いて貰った。
べつに、いろは順やなんかじゃなく、でも、
岩井 初五郎
と筆頭にあるのは、石初の隠居である。
つづいて、
川村 与太郎
とあるのは、川柳の大家で、燕雄の古いひいきである。
よッぽど、気を入れたところをみせたいと思ったのか、四角く大きな、川柳江戸ッ子社という判が捺《お》してあった。川村の主宰する川柳の雑誌の印である。
近藤 亀雄
は、例の四谷の先生である。
燕雄を本牧亭の高座に戻してくれという文章を書いて下さいと、湯浅がたのんだら、眉間に皺を寄せて、こわい顔をしていたが、すぐ書いて、自分でそれを読んで聞かせた。
それに、
堀 倉吉
堀は、三越名人会のすんだあと、いちど、近亀《こんかめ》と二人で、燕雄を本牧亭のそばの洋食のスキヤにさそったことがあった。
燕雄に血のしたたるビフテキをごちそうしたのだが、その時の燕雄の、凡そいやしくない立派な態度に感心して以来、なにかというと、方々で燕雄の話をしている。
いつも谷中銀座のコロッケをたべている燕雄が、東京でもなん軒と指を折るくらいのスキヤのビフテキをたべて、毛ほどもいやしい気配がみえなかった。
特売日には、三つ十円というお惣菜のコロッケを買ってたべている者が、なにがしといわれる店のビフテキなんかをたべさせられたりすると、たいてい、こんな反応を示すものだと、堀倉吉は思っていた。
たとえば、こんなにうまいもんは、生まれて、たべたことがないという風に褒める者。
たとえば、逆に、こんなもの、べつにちっともうまかアねえや、という風な顔つきをする者。
あるいは、そのどッちともつかずに、不感無覚の者。
堀は、燕雄がスキヤのビフテキをたべる前後の振る舞いが、なんとも、立派なことに感動した。
たいへんなごちそうさまでと、むろん褒めるでもなく、そうかといって、べつにたいしてうまくもねえやといった風な、そんな悪びれたところもなく、それでいてどっちつかずの無感動でもなく、スキヤのビフテキをたしかにうまいと思ってたべた。そのことを、燕雄は夢中ンなってありがたいと思うのでもなく、その堀と近亀の好意を、きょうは雨が降っているが、あしたはまた晴れかもしれないといった風な、極めて自然に、極めて淡々と燕雄に受けとめられたことを、堀はひどく感動したのである。
貧《ひん》――などというものが、これッぱかりも、こころの上にはなんの影響もなく、それ故にいやしいとか、それ故のひがみとか、そんなものの、毛ほどもないことに、堀は打たれた。
明治以来、浅草で鳴らしたするどい興行師だから、ずいぶん、いろいろなひとも知っていたが、こんな男ッて、かつてなかった。
堀は署名をしてから、湯浅に、なんか、金は出さないでもいいのかと訊いて、べつに、そういうことではなく、ただ、燕雄を本牧亭の舞台に戻したいという署名運動だといわれた。
そのつぎの署名は、
土田 啓吉
紋啓である。
「あたしゃね、こうみえても、桃川燕雄のとむらいにいってんですからね」
と、湯浅はその時はじめて、小石川の寺へ、わざわざ雨の降る中を、紋啓が燕雄の告別式に出掛けていったら、燕雄の告別式はやっちゃアいなくって、まるッきり燕雄は死んじゃアいなかったという話をきいて、めずらしく、湯浅は少し声を出して笑った。
そのほか、向島の待合《まちあい》のあるじだの、指圧の学校の先生だの、葬儀社の主人だの、天婦羅屋のおやじだの十二、三人の署名で、湯浅喜久治はいちばんさいごに、へたな字で署名した。
おひでは、
わたしたち 桃川燕雄の芸と人間を愛する者が集まって どうか本牧亭の高座に燕雄さんを出したいと協議しました
という書きだしを読んだだけで、なんだかぐっと胸にきた。
あんなことで、本牧亭と燕雄とは縁が切れたけれど、おひでは、燕雄こそ本牧亭で死んで貰わなくッちゃならないひとだと信じていた。
戦争の前までは、そんなこと、てきぱきとなんでもやったつもりだが、戦後、他人《ひと》さまのことは、ついおっくうになってやらなくなってしまった。
ほんのちょっとしたことだけをすればいいのに、そのことをしなくちゃいけないな、と思っているうちに、だんだん、それがおッくうになって、しまいには忘れてしまうということが多いのである。
世の中が、みんな、自分のことだけで一杯で、他人さまのことなんぞ、考えちゃアいられないンだろう、と思っているうちに、世の中が少し落ち着いてきたのに、みんな、もう他人さまのことを考えるなんてことは、けろりと、忘れちまった人間ばかりになってしまった。
おひでは、本牧亭の舞台に燕雄を戻してくれという署名の便箋をみて、なんだか、急に恥ずかしくなった。
鈴本演芸場の娘に生まれて、一つ毬の名人といわれた春本助治郎と一緒ンなって、自分の猩紅熱をうつして亭主に死なれた前後は少し苦労はしたものの、普通、たいていのひとがする金の苦労というようなものは、あんまりしないですんだ。鈴本の父親がいるからである。
そのかわり、人情に関する苦労、というのもへんないい方だが、こと、人情にかかわる苦労は、いまもしつづけている。
たとえば他人の世話である。
本牧亭で働いているひとたちの一人一人について、みんな、ひとりひとりに人情噺めいたことがあるのだが、おひでは、はたでみていて、よく、あそこまでめんどうがみられると思うほど、ひとに人情をかけた。
それでいて情におぼれず、きっぱりとした折り目切れ目がある。
そんなおひでが、ここ二、三年の間、忘れるともなく、燕雄のことを忘れていた。
なんでも川崎とかいうニコヨンの世話になっているという噂はきいたが、その時、世の中ッてものはありがたいものだと思ったまんま、そのまま、忘れるともなく忘れてしまった。
芸道五十余年 ただひたすら講談の芸に精進している燕雄さんを どうか本牧亭の高座に戻して下さい
そこを読んで、おひではそうだと思った。燕雄ッてひとは、講談のほかには、なにひとつ出来ないひとだ。
そして、そのひとの、日本でたった一つの舞台は、うちの本牧亭の高座なんだ。
おひでが便箋の文章を読み、十二、三人の署名をみている間中、湯浅は少し顔にうすら笑いをうかべ、紋啓はさもさも天下の一大事のごとき顔を、眉間のたて皺にきざんで、おひでの顔をみつめていた。
「すみません御心配をかけまして……」
それから、おひでは少し改まった口調で、
「頭取の邑井《むらい》さんとも御相談を致しまして、みなさんの御満足のいくように致したいと思います」
湯浅と紋啓の二人侍《ににんざむらい》は、しとしとと降りつづく中を、おひでに、もういちど、たのみますなどといって、本牧亭の表で左右にわかれた。
紋啓は、ちょっと帰りに、松坂屋へ寄って仕事の打ち合わせをし、それから鳥越《とりこえ》のうちへ帰る。
湯浅は、本牧亭でまた六時半からはじまる無声映画の夕べ≠ノ戻ってくるつもりだから、それまで、外でつながなくてはならない。
おひでは奥の座敷の帳場に、湯浅たちの持ってきた署名の便箋を大事にしまって、いちど、また今夜の映画はなにをやりますかという電話に、さっきとおなじようにプログラムを持って答えて、それからひとりで湯にはいった。
湯から出て、居間の鏡台であっさり化粧をしていると、表のほうからレコードが聞こえてきた。
なんだか、懐しい曲なのだが、ちょっと思い出せず、なんだッけ、と考えたら天然の美≠フジンタ(明治・大正時代、曲馬団の人寄せや広告宣伝の町廻りなどに演奏された小編成の吹奏楽隊)のレコードだとわかった。サーカスの呼びこみにつかうあのジンタである。
しかし、そのレコードは、たぶん、あんまりそれを昔懐しいジンタ風に演奏すると、その楽団の名誉に関するとでも思ったのであろうか、あるいはまた、ジンタ風に演奏するだけの技術がないのかもしれない。おひでが、おや、懐しい曲だけどなんだッけと、ちょっと思い出せなかったのはそのためである。
ジンタともつかず、かといって、まともな演奏ともいえず、そんな中途はんぱな天然の美≠フレコードだった。
まだあかりのはいらない夕方で、音もなく、ひッそりと、梅雨の降っている東京の町中《まちなか》で、本牧亭の木戸番のうしろの狭い座敷から天然の美≠フレコードが、流れてくるというのは、なにか梅雨のころの感傷にふさわしかった。
今夜の無声映画の夕べ≠フ主催者・井手芳朗《いでほうろう》というひとは詩人だというが、だれも彼の詩を読んだことがない。
もうとっくに六十を出たと思われるが、一見、地方の農科大学かなんかの教授風で、四季に構わず、古びたモーニングを着ている。
口ひげを生やしているのは、たぶん威厳を保つ意味なのであろうけれど、その口ひげのすぐ下のくちびるが、上下ともに、赤いまぐろの切り身のようにまッ赤で、そのことが、へんに威厳をそこなっていた。
半年ぐらい前から、月に一と晩だけ本牧亭を借りては、無声映画のころの、古いフィルムを集めては、一と晩のプログラムを組んでおほ懐しい無声映画の夕べ≠ニいうのをやっていた。
宣伝もいきとどかず、したがってだアれも知ッちゃアいないので、いつも二、三十人ぐらいの客がひッそりと集まり、まるで、悪いことでもしているかのように、またひッそりと散っていった。
天然の美≠ヘ、今夜、無声映画の会がありますよというその呼び込みの音楽である。
両膝を抱えた芳朗が、蓄音器の脇で、うッとりと、それを聞いていた。
蓮玉庵《れんぎよくあん》で湯浅がそばをたべていると、ひどく威勢のいいあけ方をして、紺のレイン・コートに、とものベレ・ハンティングをあみだにかぶった男が入ってきた。
日本タイムズの映画記者田村である。
同時に、目と目が合って、同時に、なんでえ、いまごろ、こんなところで、といい合った。
夜更けて、西銀座のケティーだの、ローランサンなどというバーでばかり逢っているので、こんな時間に、上野の池の端のそばやで逢ったことは、まるで外国ででも逢ったかのようなめぐりあいに思えた。
「どこへいくのさ?」
と湯浅が訊くと、田村は、少しばかりはずかしそうに、
「それがね、いいとこなんだがね、いやア笑うだろう、きっと」
といった。
「へええ、なんだか似てんな」
そういって、湯浅は、少し早口に、
「もしかすッと、二人とも、おんなじとこへいくんじゃアねえのか」
田村も、東京ッ子らしく、もうかくしてはいられないといった調子をありありとみせて、
「本牧亭だよ」
「あ、無声映画の会だろ?」
「そうだ。なんだ、おめえもか」
めずらしく、湯浅も少し笑った。
「けさね、本牧亭へ電話したらね、チャップリンが一本あってさ、それから東亜映画の、なんだかが原の涙陣ッてえン」
そこで、田村はもいちど笑って、
「ルイジンてえなアどういうこったッて訊いたらね、涙の陣だッてやがら。涙陣てえなアはじめてきいたな、ルイジン……」
そういって、また大きな声で笑った。
「はじめてなのかい? 無声映画の会」
「知らなかったんだよ、そんな会があるッてえことをさ、君ア、定連か」
「定連ッてこともないけど、まア、だいたいね。自分がまだ生まれちゃアいねえうちの映画をみるッてえのは、おもしれえぞ」
湯浅は、ほんとは、自分が生まれない前に出来た映画をみるということは、気味が悪いもんだといおうとしたが、よした。
「それにね、サイレント時代の映画ッてえのはね、フィルムの回転が違うだろう? だから動きが早くって、ちょこまかしてね、どんな大悲劇も、みんな喜劇になッちゃうんだ」
「しかし、あれがいいんだよ、あれが君、昔のまんまのテンポで、うつされてごらんよ、退屈でみちゃアいられねえから」
田村はたてつづけにホープに火をつけて、
「そいからさ、今夜は満洲事変ニュースと乃木大将の写真があるんだって? 満洲事変のニュース! ニュースッてえのがまたおかしくってさ。おかしいじゃアねえか、そうだろ?」
田村は、笑いながら急に力を入れて、喋りはじめた。
「ニュースなんてもなアね、ちょいと時が経ちゃアニュースでもなんでもねえンだ。そうだろ?」
田村はぽろっとホープの灰を落としたのも知らずに、
「だって、満洲事変のニュースだって、乃木大将の水師営の会見だって、その時アニュースだが、いまンなってみれア、満洲事変だって、乃木大将だって、両方ともおんなしに、遠い遠い昔のニュースじゃねえか、実際には、満洲事変の方がずうっと新しいのに、乃木大将の古さと、いまじゃアちっとも違ッちゃアいないよ。ということはだ!……」
そこでひょいと気がついて、
「なにもそう力を入れるこたアないけどさ。ぼくのいいたいこたア、ニュースがすぐに古くなる。新しいものッてのは、すぐにもう古くなる」
すると、湯浅がめずらしく、そんな青年らしい調子にのって、
「ということはだ!……」
と、そっくり、田村のいった調子をわざと真似て、
「そして、古いものは、つねに新しいッてことか」
田村は、どういうわけだか、ぺろッと舌を出してみせて、
「どうも、そうらしい」
といった。
義太夫や新内の会と違って、無声映画の会は、くらくならないとはじめられない。
少しまだ間《ま》があるので、湯浅と田村はイケモトでゆっくりコーヒーをのんでから、まん前の路地を本牧亭の方へ歩いていくと、とんかつ屋の双葉の角で、本牧亭から天然の美のジンタのレコードがきこえてきた。
湯浅が入場料を払おうとして、ちょっとみると、主催者の井手芳朗がさっきとおなじ恰好をして、立てた両膝を両手で抱いて、さっきから、くり返し自分で掛けている天然の美の音楽に、まるで酔い痴れているかのような放心のさまで、じっと、本牧亭の木戸口の方を凝視している。
湯浅は、田村をあとで芳朗に紹介しようと思って、そのまま、挨拶をしずに二階の客席へ上がった。
今夜の本牧亭はまたなんとなく空気が違っていた。
正面、舞台の幕を上へしぼり上げて、うしろの杉戸のところに、白い布《きれ》のスクリーンが一杯に垂れている。
と、相対して、客席のうしろの、梯子段の勾欄《てすり》のある廊下のところに、映写機が置いてあって、その足もとに、山羊ひげを生やした技師がちょこなんと坐っていて、耳にはさんだ煙草に、また火をつけてのみはじめた。
客が、湯浅と田村を入れて、七、八人。
呼び込みのジンタのレコードを止めて、若い男がポータブルの蓄音器を舞台の前に、よちよち、はこんできて坐った。
そこで伴奏の係りを勤めようというのである。
やがてのっそりと井手芳朗が上がってきた。
いつでも黒い服ばかり着ている男である。
客席の、誰も坐らないまん中へ坐った。
湯浅が田村を紹介すると、芳朗は、伝言用の、罫が朱の色で印刷してある名刺を出した。
そして日本タイムズ文化部という田村の名刺をみて、
「ほほう」
と、いった。
ようやくくらくなったのと、伴奏用のレコードなんかを木戸から二階へ上げてきたり、芳朗が、客席へ出てきたりしたことから、田村は、もうじきはじまるのだと思ったが、それにしては、いかにも客が少ない。そこで、
「いつも、こんな入りですか」
と芳朗に訊いた。大きな声である。
「はア、だいたいまア、いつでも二十五人から三十人ぐらいッてとこでしょうか」
これも大きな声なので、みんな、客に聞こえる。
「すると、百円の入場料じゃア、やってけんじゃないですか」
「やってく? いや、やってくなんて、そんな、そんなこたア駄目ですよ」
「というと、これア井手さんのお道楽ッてことですか」
極めて、紳士風に笑って、
「それアそうですよ、毎月、かわいそうだって、ここのお神さんがね、席料をまけてくれます」
まわりの客は、聞こえないふりをしながら、みんな聞こえて、へええ、と思ってる。
「失敬ですが……」
と、田村がまた例の通り、大きな声で、踏ンごんで質問をしそうになったので、湯浅はとめようとしたが、間に合わなかった。
「これ、費用、いくら掛かるんですか」
井手芳朗も芳朗で、これも大きな声で、
「沢仙楼《さわせんろう》先生にね、一と晩、三千円で受け合って貰ってるんです」
ぜんぶ、本牧亭の客席中、筒ぬけである。
「すると一と晩のフィルム代とね、そいから映写の技師さん……」
といって、田村がちょっとうしろを振り返ったら、映写技師はちょっともじもじして、そっぽを向いた。
「ええそう。それから、伴奏のレコードの係りの方」
「あ、それから弁士がいるわけですね」
「それは沢先生と、お弟子の方」
沢仙楼というのは、明治の末から大正にかけて、星移りもの変りて星霜ここに二十年、いまなおわたる旅人の噂に残る物語り、アントニー、エンド、クレオパトラ全巻、というかの名代なる活弁・染井三郎の時代からの弁士で、沢は、なにかというと、これまたちょと、というのが口癖であった。
たとえば、映画のはじまる前の、いうところの前説《まいせつ》で、こんなことをいうのである。
「恋とはなんでありましょう、曰く、これまたちょといい難し。恋という字をちょと分析すれば、いとしいとしという心とや」……
とッぷり暮れて、客が十七、八人になって、客席にいる芳朗のところに、沢仙楼の弟子の岩田|仙蹊《せんけい》という二十五、六の顔色の悪いのがやってきて、
「もう、やってもいいですか」
と訊きにきて、芳朗が、ちょっと本牧亭の客席をみまわして、
「いいでしょうねえ」
といったら、二分ばかりして、楽屋からぴいーッと笛の音がした。
すると、舞台の前の、やや上手《かみて》よりのところにいたレコード係が、なんともその笛につづいたいい間で、レコードを掛けた。曲は、キスメット。
それをやや聞かせてから、少しちいさめの上着に、替えズボンの仙蹊が、しずかにキスメットの曲に合わせて、客席へ出てきた。
元来、キスメットなどは前説の音楽なんかには使わなかった曲だが、たぶん、ほかに適当なレコードがなかったからのことであろう。
したがって、仙蹊の出てき方の方が、キスメットの曲に合わせているといった風があって、それが少しおかしいのである。
仙蹊が礼をするのと一緒に、レコードが消える。よほど、そういう演出も研究したものとみえて、恰度《ちようど》、弁士が頭を下げいいような曲の筋尻《ふしじり》で、巧くレコードを消すようにしてある。
「えへん」
とせきばらいをひとつしたから、田村は、おやと思ったら、つづいて、
「諸君、満堂の諸君よ」
と、きた。
「一瞬、千里をおとずるる電信あれば、年がら年中、闇の夜なしの電灯がある。非情の蓄音器、声を張り上げて談笑すれば、ああ、東京の茶の間に、ヒットまたランの甲子園の野球がみらるる。死物《しぶつ》の写真画もまた、五体四肢を動かして踊るは、げに驚くべし、天工《てんこう》(自然のわざ。自然になりたるたくみ)なんかは糞をくらえの、これやこれ理学の応用……」
田村はちょっと急にはものもいえないくらいにびっくりした。
こんなおもしろいみものというものは、戦後、自分が日本タイムズの映画記者と、演芸関係の記者を兼ねて動いている仕事の中で、ちょっとなかったといっていい。
この岩田仙蹊が八字ひげを生やして、フロック・コートを着て出てきたら、そっくり、明治三十年の神田の錦輝館《きんきかん》じゃないか、と思った。
むろん、田村はそんなことを知る由もないが、ヴァイタスコープ、すなわち、活動写真を錦輝館でやったときの、当時の場内のスケッチをみたことがあって、小規模とはいえ、そっくり、それが今夜の本牧亭だと思った。
それに、仙蹊の喋っている前説の文句も、たしか、その時の広告のチラシの文句を使っているような気がする。一瞬、千里を、というチラシが、少し田村の記憶に残っていた。
してみると、この無声映画の夕というものの演出は、実ア、たいへんに凝ったものらしい。
仙蹊は活動写真というものを紹介する一席から、つづいて、
「時しもあれや昭和六年九月十八日、奉天柳条溝に突如起こる爆破事件は、やがて、今次の満洲事変勃発の動機となって、当時、北大営は通州の戦闘経過を事こまやかに、ありし日のニュースにしのぶという、くわしくは画面によって説明致しまアす」
といって、レコード係のそばまで歩いていくと、そこに置いてある椅子に掛けた。
客席の電気が消える。満洲事変のニュースである。
日本の兵隊ばかりのニュース映画だから、鉄砲に倒れたりする場面はむろんないのだが、行軍中に、一人、なにかにつまずいた兵隊がいると、その少し前から、仙蹊は、軍歌の戦友≠フ軍律きびしき中なれど、これが見捨てておかりょうか、といっておいて、
「しッかりせよと抱き起こし……」
という文句が、なんとも、すん分の隙もなく、その場面にぴたりとするのである。
遠い日露戦争のうたが、なん十年をへだてたあとの満洲事変のニュース映画の説明にも、ぴったりと合うのがおもしろく、今夜の本牧亭にいると、いろいろの時代が、がらがらとこんがらかり、それがなんとも奇妙なムードをつくった。
昭和も三十年だというのに、いま時、こうやって沢仙楼の弟子になって、活動写真の弁士の修業をしている青年がいるのだから、田村はものもいえないくらいおどろいた。
世の中は全部トーキーで、ワイド・スクリーンだ、シネラマだといっている時に、なん十年も前の、音のしない映画を懐しがってみている一群がいる。しかし、考えてみるとまた、それだからこそ懐しく、それだからこそ貴重なのだと思った。
同時に、東京ッてとこは広いなと思った。
そして田村は、井手芳朗というひとのことを考えた。
芳朗はたぶん現世がしあわせなのではあるまい。
さっき入り口で天然の美のジンタをきいている恰好だって、よくみると、この世の中のさびしさを、ひとりで背負っているようなかげがあった。現世がしあわせでないというのは、なにも貧乏ばかりのことじゃアない。いまの世の中がいやだということだって、しあわせでないということにもなる。
またあかるくなって、こんどはまたお馴染みの、ブロンの勝利の旗の下に≠フレコードで、沢仙楼が出てきた。
「こたび御清覧に供しまする時代劇、東亜映画京都作品は、これまたちょと悲涙紅涙、題して大仇ヶ原の涙陣という……」
乃木大将でも、羅門光三郎でも、昔の映画だからコマが違っていて、みな一様に、ちょこまかとし、せかせかと動いて、フィルムそのものはただ滑稽にすぎなかったが、結局、沢仙楼と岩田仙蹊の弁士によるショーの演出としては、なんともたのしい一夜であった。
田村は興奮し、帰りがけに、来月の例会にもっと客が入るように、大々的にこの会のことを報道しますといって、芳朗を喜ばせた。
雨はまだ止まなかった。
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金魚玉
梅雨《つゆ》が明けると、すぐばたばたッと夏がきた。古い馴染みの木偶坊伯鱗が使いに立って、本牧亭からまた出ないかといわれて、燕雄は世の中ッてものは、なんてありがたいものだと思った。
朝、しらしら明けに、ことことと音をさせて、ひとりでニコヨンの仕事に出掛けていっては、夕方、日の暮れぐれに帰ってきた川崎福松が、この頃、がッくりとくたびれて、仕事が出来なくなったからである。
三越名人会に燕雄が出て、帰ってきて、二、三日、なにかというと近所のひとに、そのことを、まるでわがことのように自慢していた福松の腰が、突然、ぽきんと音を立てて、折れたように曲がったのは、だから、去年の暮からである。
ある朝、仕事にいこうとして、上がりがまちのところへ腰を掛けて、足ごしらえをしようとして、地下足袋のこはぜの、さいごのやつをはめようとしたら、前の晩、水ッ溜りへ足をつッこんだ時のしめりのせいか、妙に、こはぜがはめにくい。
むろん、なにもそんなに力を入れるわけはないのだが、でも、ほんの少しばかり、きゅッとしたことは事実である。
腰のつがいが、ぽきんと、大きく音を立てたと、福松は思った。
同時に、
「しまッた!」
と福松は、声を出したと思った。
ほんとは、声なんか出なかった。
それッきり、上がりがまちに腰を掛けて、上体をかがんで、足ごしらえをしているまんまの形になった。
二、三日、そのまんまの形でいて、燕雄が一ン日中もんだり、押したりして、四日目ぐらいからやっと動けるようにはなったが、福松の上体は、両足と直角に前へ曲がりッぱなしになってしまった。
いくらなんでも、それではニコヨンは勤まらない。
福松も、燕雄も、二人とも途方に暮れた。
ところが、まるでこの世の中に、生涯、働きに生まれてきたような男で、二週間ばかり経ったら、ぴんと無理に腰をおッたてて、福松はまた働きに出ていった。
燕雄に、さんざッぱら、
「大丈夫ですか」
大丈夫ですかと訊かれて、しまいに、まるで腹を立てたかのように、福松は、
「心配《しんぺえ》すンなってことよッ!」
とどなった。
「いってらッしゃい」
と、福松の出ていくうしろ姿をみ送ってから、燕雄は、なんだかたまらなく、自分が情けなくなった。
この世の中に、講談をしゃべるよりほかに、自分にゃア、なんにも出来ることがない。
それを考えると、なんと情けねえ野郎なんだ、と思った。
しかし、もうそろそろ、こんどは自分が福松に恩返しをする番がまわってきそうだぞと、ふと、そんなことも考えた。
そんなところへ、本牧亭からの話である。
たった一軒の職場である本牧亭に出ないのだから、長い間、燕雄はまるッきりの無収入である。
ぜんぶ、福松の世話であった。
その福松が腰が曲がって、だんだん働けなくなってきたところへ、取るものはたとえ僅かにもせよ、とにかく、本牧亭という舞台へ帰れるのである。
福松も喜んだ。
嘘だが、
「こんだア、半分ぐらいは手伝えましょう」
と、めずらしく燕雄がお世辞みたいなことをいったら、福松は、はっきり、嘘オつきゃアがれという顔をしてみせた。
「またお世話に相成ります」
いつもの几帳面な挨拶をされて、本牧亭のおひではさりげなく、
「よろしくお願い致します」
といったが、三年ばかり逢わなかったのに、燕雄が、なにからなにまで変わっていないのをみて、なんだかじいーんときた。
本牧亭に出なくなったことを、うらみにも思っていなければ、こんどからまた出られるようになったことを、とくべつに有難いとも思っている風がない。
鼻の下から、あごにかけて、半白の薄ッぴげが生えていることも、それに服装《なり》も、まったく嘘のように、きのうのことのように、おなじである。
桃川燕雄という男にとっては、まるで歳月の流れというものがないのではなかろうかと、おひでは思った。
顔はみえないが、売店のところで聞いていると、これも相変わらず、訥々と、古風な調子で、
「天文《てんもん》五年、尾張愛知郡中村に生まれて、姓を木下、幼名を日吉、のちに羽柴と改めて筑前守に任じ、従一位太政大臣関白と累進し給い、天晴れ豊臣の姓を給うては、日本統一の偉業を完成した……」
太閤記≠フ、秀吉の生い立ちを語った。
燕雄の出番は、二つ目の早いところである。
梅雨の明けたあと、急に暑さの加わった夏の空が、本牧亭の窓の外にぎらぎらしているのが、高座からよくみえた。
十四、五人の客が、ぱらッと客席のまわりに散らかっていたが、燕雄が終わると、これも、まるでずうーッと燕雄が、本牧亭になんのこともなく出ていたのと、まったくおなじような拍手が、ぱらぱらと起こった。
三年ぶりで、また燕雄が本牧亭の高座に戻ってきた、といったような、とくべつな反応は、これッぱかりもない。
本牧亭で燕雄をききたい集まり≠ニいう連署をした中から、石初と紋啓の二人が、いつもの座に坐っていたが、この二人も、べつに燕雄がまた帰ってきてよかった、といったような反応はなにも示さなかった。
燕雄も、そんな署名をみんながしてくれたことを、たぶん知らないようである。
燕雄は久し振りに本牧亭の高座から降りてきて、楽屋へ帰ると、あとへ出る西尾|鱗慶《りんけい》が、
「お久し振りです」
と挨拶をして、すれ違いに高座へ出ていって、そのあと、ひとりになった。
いつものように、両膝を揃えてきちんと坐って、腕を組んで、いつの間にか、楽屋の中をゆっくりとみまわしていた。
二階の軒さきに、金魚玉がつるしてある。
高座の杉戸を通して、鱗慶が、なにかまた新物《しんもの》らしく、聞いたことのないものを読んでいるのが聞こえてくる。
燕雄はなんだかまったく久し振りに、俺は生きているんだなという喜びのようなものに、自分がふんわりととりかこまれているのを感じて、ひどく、しあわせに思った。
めったに夢をみない男だが、休まされている間中、ほんとうは、みると、本牧亭の夢ばかりをみていた。
どこか遠くの方で、お祭りの太鼓が低く、にぶく鳴っているのが聞こえる。
五条天神の祭りにはまだ早いから、どこかの、ラジオから聞こえてくるのだろうと思った。
そういえば、そっくり、いまとおんなじことが、そのまんま、前にもいちどあったような気がした。
なん年ぶりかで本牧亭の高座に出て、やっぱり太閤記≠やって、楽屋へ降りてくると鱗慶がすれ違いにまた高座へ出ていって、自分だけ、楽屋でひとりンなって、窓の外はくっきりと夏の真昼で、どこかで祭りの太鼓が鳴っていて、なんだかさびしくって、そのくせ、またなんだかしあわせで……
そんな、いまのことが、そっくりそのまんま、前にもいちどあったような気がして、考えてみると、そんなこと、あるわけがないので、燕雄は妙なもんだなと思って、立ち上がった。
階下《した》の便所で用を達して、また楽屋へ上がろうと思ったら、びっくりするような勢いで電話が鳴った。
いつも、誰かしらいるのに、誰もいないので、受話器を取った。
「本牧さんかね?」
ひどい田舎なまりで、なんだか警察かなんかのような調子である。
「はい、本牧亭でございます」
と、いった。
「今夜無声映画の夕べ≠ソゅうのやりますね?」
不意で、すぐにはぴんとこず、
「ムセイエイガ?」
「無声映画、映画ですよ」
「はアはア、活動写真でござんすか」
「活動写真?」
少しおどろいたようだが、ずいぶん、古風なことをいやアがるという調子をあからさまにみせて、
「ま、活動写真でしょう。実はそのウ、きょうの日本タイムズに、大きな記事が出とるんで知ったんですがね、ああいうことをされては、困るのです」
燕雄もびっくりして、こいつアとんでもない電話を取ッちゃったわいと、受話器を耳にあてがったまんまの、達磨のような目つきで、きょろきょろ、そこらをみまわしたが、お神さんのおひでも、お茶子のおきんも、誰の姿もみえない。
「失礼でございますが、あなた様はどなたさまでいらっしゃいますか」
と燕雄が訊いた。
なんだか、今夜、この本牧亭でやるらしい活動写真の会のことで、この電話のひとは怒っているらしいのだが、燕雄にはなにがなんだかさっぱりわけがわからない。
そこで、誰か、本牧亭の人間が、この電話を受け取ってくれるまでの、いわばつなぎのつもりで、そんなことをいってみた。
「わしかね?」
そのあと、あーん、といわないのが不思議なくらいな、地方色まるだしの調子と話しッぷりで、その電話の主はつづけた。
「わしはじゃね、わしは松竹の者です、松竹の……、わかりますか」
と念を押すから、燕雄は、
「はいはい、松竹さんのお方様で」
といった。
「今朝のですよ、今朝の日本タイムズの記事をみてびっくりしたんですがね、今夜お宅でですよ、夏の日の恋≠上映するちゅうじゃないですか」
なんだか、よくはわからねえけれども、燕雄は仕様がないんで、
「へえへえ」
すると、
「あんたへえへえなんちゅッとるがね、あの夏の日の恋≠ソゅう映画はですよ、わが社がまだ蒲田に撮影所のあった頃のもんでね、原作は久米の正雄先生、監督は野村芳亭……」
出演は岩田祐吉、八雲恵美子、島田嘉七、奈良真養、松井潤子に岡村文子という顔触れで、
「よろしいかね? 昭和三年の夏に、東京は浅草の電気館で封切ッとる、よろしいか? よろしいねえ」
てえから、燕雄はやむを得ず、
「はいはい」
「あんた、はいはいなどというとるがね、著作権法ちゅうの知っとりなさるか」
「へ?」
「いえ、著作権法ッ」
「存じません」
「存じません? あのねえ、ではいいますがね、よく聞いて下さいよ、著作権法の第六条にです、ええですか? 官公衙 学校 寺社 協会 会社其ノ他団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行又ハ興行シタル……よろしいか、興行ですぞ、興行!……著作物ノ著作権ハ発行又ハ興行ノトキヨリ三十年間継続ス、とあるんです、おわかりかな?……もしもし? もしもし、おわかりかな?」
いくら、おわかりかなといわれても、燕雄には著作権法の第六条なんて、ちんぷんかんぷんで、なにがなんだか、まるっきりわからない。
それなのに、あんまりたてつづけに、おわかりかな、おわかりかなとやられたので、燕雄は、いえ、まるっきりわかりませんともいえず、そうかといって、こんどは、なんだかたいへん重大な事柄のような気もしてきて、うかつに、はいはいとも、へえへえともいえず、達磨のような顔に半べそを浮かべて、黙って、ただ受話器を耳にあてがっていた。
そこへ、おひでがひょいと廊下を歩いてきた。
「あ、お神さん」
おひでは燕雄のただならぬ顔つきで、その電話が、なにか重大な話だと直感した。
「ちょいと、お待ち下さいまし」
燕雄は、電話の主にそういってから、手短に、いままでの電話の経緯をおひでに伝えようとしたが、そう簡単にはいえなかった。
おひでは、少し燕雄の話をきいてから、
「あたしがね、もいちど、伺ってみましょう」
そういって、改めて、電話口に、
「あいすみません、電話がかわりました。本牧亭の責任者でございます」
と、名乗った。
もういちど、そっくり、はじめッからくどくどと説明があって、
「あなたね、いま昭和のなん年です?」
と訊いた。
おひでも、少しびっくりしたが、
「……はい、昭和三十年……」
「そうですそうです」
と、ひどく大仰な声を出して、
「するとですよ、夏の日の恋≠ヘ昭和三年の八月の封切りじゃで、著作権法第六条中のですね、発行日ちゅうのは従来封切り日と解釈されとオる。よろしいかな? よろしいねえ、著作権は三十年、したがって、れっきとして、あの映画はですよ、あの映画は、わが社がその上映の権利を有しちょるちゅうわけです」
おひでも、もう話の途中から、その電話の意味がだいたいわかって、
「では、今夜の会で夏の日の恋≠ニいうのを上映してはいけないと仰有るんですね?」
と、いった。
「そうですそうです。ジャンク屋からでも流れたもんでしょうがな、それを敢てするに於てはです、その会の責任者はたちどころに、罰せらるるちゅうことなんですわ、おわかりかな?」
おひでは電話を切ったあと、人間の善意というものの、奇妙な効果におどろき、へんな気持ちになった。
先月、日本タイムズの記者の田村が、はじめておほ懐しい無声映画の夕べ≠ニいうのにやってきて、主催者の井手芳朗に、来月の会の時は、大きく報道しようと約束した。
田村は、いまどき、こんなにたのしいショーというものが、この東京に、ほかにあるだろうかと感動したのである。
沢《さわ》仙楼という男、昔、華やかだった活弁の時代がいつまでも忘れられず、一本、二本と古いフィルムを集めては、昔ながらの説明をつけて、ときどき、会を開いた。
中には、筋もなにも通らないものさえ多いが、それはそれで、沢仙楼の活弁の話術で、反っておもしろおかしくなるのである。なまじ、はじめからおわりまで、ちゃんとしているフィルムよりも、その方が弁士の腕をみせることが出来た。
種類もニュースものから実写、新派大悲劇、忍術もの、洋画ではどたばたの喜劇から、冒険大活劇と、なんでもある。
毎晩替わりで、半月や二十日ぐらいのプログラムはすぐにも組めて、これが始終というわけではなかったが、ときどき、お座敷がかかって、主催者の好みによってプロを組んでは、沢仙楼の一行が、なにからなにまで、そっくり持って出掛けていく。
時には泉天嶺、熊岡天堂、竹本嘯虎、それに谷天朗などという沢仙楼とだいたいおなじ時代の昔の、弁士も出演して熱弁をふるった。
伴奏はレコードだが、これも新内の流しがあるかと思うと、汽車や自動車の音、かなしげな尺八があって、あわれ秋の虫の声などと、ひと通り効果の音まで揃って、あとはラブ・イン・アイドルネスなどという昔懐しい映画音楽の名曲の数々が取り揃えてある。
田村は動きの早いフィルムで、そんなレコードの伴奏で、沢仙楼のこれまたちょとという説明をききながら、なんともいえない不思議なおもしろさにうっとりとし、そしてなにか滑稽で、なにかかなしいことに感動した。
こんどは松竹蒲田映画夏の日の恋≠フほかに、長編戦記映画武漢作戦≠ニいうプログラムだが、田村は前の月、自分が本牧亭でみたおなじ無声映画のおもしろさの感動をふくめて、記事を書いた。
「原子時代に昔の夢をそのまま」という三段抜きの本牧亭の今夜の無声映画の夕べの記事は、読みものとしても変わっていてたのしかった。
毎月、井手|芳朗《ほうろう》が、三千円出して、沢から一と晩のプログラムを買って、客席のまん中で、芳朗が懐しさにほろほろと涙を流して、客がこないので、本牧亭のお神さんが会場費を負けてくれて、ということを知って、田村が、一人でも余計に客がきてくれればいいと願って書いた記事が、それが反って仇となったのである。
そんな記事が出なければ、細ぼそ、来月もまた無声映画の夕べは開かれたであろうに、人間の善意というものも、決して思うようにはいかないものだと、おひでは日本タイムズを改めて膝の上にひろげて、田村の書いた記事をみ直しながら、しみじみ、そう思った。
夕方、桃枝を誘って湯浅が本牧亭へやってきたら、芳朗の字で、木戸口にこんなことが書いてあった。
「諸般の事情にかんがみ今夕の映画会中止致します。不悪《あしからず》願上げます。主催・井手芳朗」
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会いろいろ
湯浅喜久治という男は、なんとも寸法のいい男で、近藤亀雄が、こんな日にこねえかな、と、ふと、思ったりすると、
「実アすねえ」
といッちゃア近亀《こんかめ》の茶の間へやってくる。
そろそろ帰らねえかなア、と思うと、そう思うか思わないうちに、
「じゃア……」
といって、帰っていく。
なんとも間《ま》のいい男である。
だから、近藤亀雄は湯浅と話をしている時は、たいていいつも機嫌がよかった。
その日も、恰度、新聞を読み終えて、朝飯をすまして、ピースに火をつけて、一服、煙をふきながら、ちいさな庭に雀が餌を拾っているのをみていると、湯浅がやってきた。
「実アすねえ、無声映画の夕べッてえのが本牧亭にありましてねえ、いちど、お誘いしようと思ってるうちに、それが駄目ンなッちゃいましてねえ」
と、井手芳朗のことだの、日本タイムズに記事が出たばッかりにやれなくなってしまったことだの、そんな話をする。
近亀が聞いていて、おもしろいそんな話をしている時でも、よく聞いていると、湯浅の話の底には、人生の退屈というか、くだらなさというか、あるいはまたさびしさとでもいうか、ひやりとするような、なんともいえないつめたい感じが流れる。
このへんな青年には、いつでも、なにか熱中の出来るようなおもちゃを持たせていないと、かッくり、不意に死んじゃうんじゃないかと、近亀はいつもそう思った。
「落語も、若手の継承者をつくんなくッちゃ駄目だな」
「そうなんす」
そうなんですの、で抜けである。
「三木助や小さんだって、ついこの間まで、まだ若手だったんだからな、あと、筋ッぽいのをつくんなくッちゃア」
「そうなんす」
そうなんすといっちゃア、きれいな目を、ちょっと、くるくるッとさせた。
自分もそう思っていたところを、近亀にいわれて、畜生ッ、さきイ越されちゃッたい、という感じがありありとみえる。
近藤亀雄の心配しているのは、おなじ落語でも、新作落語ではなしに、昔ながらの古典落語である。
新作落語なら、商業放送のラジオなんかでも、すぐ商売になって、志望者は大勢いたが、古典落語の方は、たとえば船徳《ふなとく》≠ネら文楽とか粗忽長屋≠ネら志ん生とかがいるので、若手が勉強をしても、すぐには商売にならず、つまり、割りに合わない。したがって、古典落語を継承する者の方が、数が少ない。
「だけど、いるかい?」
「います」
そういって、湯浅は馬の助だの、夢楽だの、小ゑんだの、木久助だのの名を挙げた。
それから間もなく、湯浅は若手落語会≠ニいうのをつくった。
いちばん年かさが三十五歳の金太郎で、いちばん若いのが十九の小ゑんである。
本牧亭を借りでもするのかと思ったら、日比谷の第一生命ホールを、年に四回、予約してきた。
湯浅がこんなに実行力のある男だとは意外だった。
プログラムは、武者小路実篤の題字で、紺がすりの模様を凸版にした表紙に、絣のように――と、白抜きで印刷してある。
新劇の客ではないかと思うような、びっくりするような若い客ばかりが集まった。
湯浅は銀座の百番館でつくらせたチャコール・グレーの服に、ちいさく、細手なイタリー製の靴をはいて、客席と入り口の間をいったりきたりしては、ときどき、客席の近藤亀雄の顔色をうかがいにきたりした。近亀は、ちいさな声で、客席のあかりの強い弱いまで、そっと、湯浅に注意する。
その若手の会は、近亀と並んで、文楽、小さん、それにときどき志ん生、三木助もききにきた。みんな、湯浅がひっぱり出しにいくと、奇妙な魅力を持っていて、寄席を抜いても、こないではいられなくなッちゃうのである。
いつも竹本桃枝がききにきていた。
たいてい、さっぱりした洋装をしているので、誰ひとり、桃枝を娘義太夫だと思う者はいなかった。
湯浅とは月に一回逢ったり、二回のこともあったりするが、そのたびに、いつでも東京のうまいものやへ、桃枝を連れていってくれた。
湯浅は、桃枝の指一本、触れたことがなかった。いつも、湖の水のようなきれいな目をして、ほんの少し、いたずらッぽく桃枝をみている。
このひとは、あたしのこと、好きなんじゃないな、と思ったり、やっぱり、好きらしいと思ったり、始終、逢うたびに桃枝はそんなことを思って、いったり、きたりした。
「桃枝君、なにたべたい?」
と訊いた。
本牧亭の客は、たいてい、桃枝のことを桃ちゃんといって、そんな呼び方をしながら、なんとなく馴れ馴れしくしたりするのだが、湯浅はいつも、ちゃんと、
「桃枝君」
といった。
桃枝もそう呼ばれる方が、なんだかさっぱりして、清潔な感じがして、好きなのである。
「そうねえ、鳥たべたいな」
「鳥? 鳥はどこかな?」
そういって、そのつぎにはちゃんと池之端の鳥栄に案内してくれた。
はじめ、さッぱりとソップ煮でたべて、あと、御飯のとき、たたきを、甘く煮てたべる。
鳥栄の若い主人が二階に上がってきて、鍋の中を介錯したりすると、湯浅はこどものように、心持ち顔を赤くしたりした。
酒は四、五本飲むが、けろりと、いつもあおざめている。
桃枝は、逢うたびに、湯浅からいろいろな夢を聞かされる。
若手落語会もそのひとつだった。
桃枝が第一生命ホールの、若手落語会にきて、いちばんびっくりしたのは、客席の空気も、舞台の雰囲気も、なんともいえない清潔なことである。
入り口で若い落語家《はなしか》たちがくばるプログラムからして、まず、いままでの落語の会のプロではなく、番組の演題を、ひとつひとつ横山泰三が書いたのを、凸版にして使ったりした。
舞台は、正面に大きな白い屏風が一双、しずかに立っていて、その前にシルバー・グレーの高座蒲団だけが敷いてあって、火鉢もなければ、湯呑みも置いてない。
「おい、みんながね、一人前の芸になるまで、火鉢も、湯呑みもよそうな」
と湯浅が提案して、若手落語会のみんながそれに賛成した。
上手《かみて》に演題と演者を知らせるめくりがあって、あとは、ぜんぶ黒一と色の舞台である。
どこをつッついても、湯浅の好みで一杯だった。
年に四回だから、桃枝は、三月おきにちゃんと聞きにきたが、くるたびに、みんなの芸が、はっきり巧くなっていることに、いつも目をみはった。
自分も芸をやる女である。
そんな時、ひどく、そういう清潔な、美しい条件の中で、芸のやれる若手の落語家たちが羨ましいと思った。
学生服の若い客が多く、それがみんないきをつめてしんと聞き、そして、ちゃんとかんどこで笑った。
こういう条件の中では、芸が巧くならないわけにはいかないように思えた。
同人の中の春風亭橋之助《しゆんぷうていきようのすけ》が死んだ。
色の黒い、どこか、すッとん狂なおかしみのある若手である。
NHKの公開放送で辻占《つじうら》≠一席やった。
終わって、うしろの控え室に帰ってきたら、急に気持ちが悪くなって、あくる日、心臓麻痺で死んだ。湯浅と似たりよったりの、まだ、二十八の若さである。
「桃枝君」
湯浅は、横浜の南京街の汚い海員閣の二階で、鳥そばをたべながら、こんなことをいった。
「こんどの若手落語会ね、死んじゃった橋之助をね、舞台に出してみようと思うんだ」
桃枝はかわいらしい顔に、はっきり、眉間に八の字を寄せてみせて、
「あらいやだ」
といった。
夜も、八時を過ぎると、この南京街は、へんに薄ッ気味悪くなる。ほかには、二階に客がなく、それに、どこかの路地から、明笛《みんてき》のような笛の音がきれぎれに聞こえてくる。
おまけに、湯浅が、いやに、げたッとした感じに、笑ってみせた。
桃枝は義太夫こそ語っているが、幽霊なんてものは、むろん、あるとは思っていなかった。
でも、芝居なんかで、幽霊の出てくる前の、あの空気にはとても興味があった。
湯浅がいったいどんなことをするのだろうと思って、それがひどく楽しみになった。
当日、若手落語会のプログラムに辻占 橋之助≠ニ出ている。
死んだ落語家である。だから、みんな、どんなことをするのかと思った。
桃枝は第一生命ホールの客席に入ると、いつもの席に掛けた。恰度、まん中の、舞台に向かって少し右寄りの席である。
幕があいていて、いつもの白い屏風に、高座蒲団、上手《かみて》のめくりにも、プログラムとおなじことが書いてある。
すうっと、客席と、舞台がくらくなった。
すると、途端にまッくろけ節の下座《げざ》がはじまる。下座は橘つやの弾くナマの三味線である。
橋之助は色の黒い落語家だったので、洒落に、いつも、まッくろけ節を出ばやしに使った。
桃枝は、なんだか、はッと息をのんだ。
と、さッと舞台の上から、ちんとひとつ置いてある高座蒲団をめがけて、サスペンション・ライトがかけられた。
それがまたまッ白な照明である。
まるで死んだ橋之助が、まっくろけのけという出ばやしに送られて、高座へ出てきて、ちょっとにやッと笑ッて、歩いて、蒲団に坐って、お辞儀をして、
「ええ……」
と、頭を上げたのとおなじくらいの間《ま》で、ぴたり、下座がとまった。
途端に、スピーカーから辻占≠ェ流れはじめる。
桃枝は首すじの毛穴が、一ッ時、ぷッと開いたかのように、ぞッとした。
NHKから借りてきた録音テープの中で、けらけら、けらけら、女の客が笑うのである。
おかしいところはおなじで、それにかぶさって、さらに、第一生命ホールの、客席のナマの笑い声が重なる。
桃枝はこわげだって笑えなかった。そのうちに、こわいけど、やっぱりおかしいところはおかしいのである。くすッと笑い、ひょいとやめて、それからまた少し笑った。
先月死んでしまった若い落語家に、こんな風に笑わされるということの奇怪さに、桃枝はなんどもぞおー、ぞおーと、鳥肌だった。
終わると、テープの拍手と、第一生命ホールの拍手がまたまざり合った。
すうッと、こんどはまた舞台と客席があかるくなり、桃枝はほッとした。
と、上手から馬の助と夢楽が出てきて、ひとりはめくりをひっくり返した。いつもは、いま喋り終わった落語家が、自分のめくりをひッくり返して引ッ込むのだが、それが出来ないからである。
もうひとりは、高座蒲団をひっくり返した。
いままで、死んだ落語家が坐っていた蒲団だからである。
また出ばやしの曲が変わって、こんどは馬太郎《うまたろう》がにこにこ笑いながら出てきた。
桃枝は、途端に、それで、ぱッと、橋之助がいなくなったような気がした……
若手落語会をつくったあくる年の春である。
桃枝が、湯浅に、
「あたし、神田の神保町ッてとこ知らないの、連れてッて下さらない?」
といった。
古本というものをひどく汚がって、どんなに欲しい本でも、古本では絶対に持ったことのない湯浅は、
「よせよ、あんなとこ」
といった。
「だって、あたし、古本屋さんの街、知らないんですもの、連れてッて?」
駿河台から左側の電車通りを、急ぎ足で神保町の方へ歩きながら、湯浅は、桃枝がちょっと古本屋の店へ入ろうとすると、
「汚えからよせよッ」
と叱るようにいって、どんどん、さきへ立って交差点を右へ曲がって、すぐまた左へ曲がって電車通りを渡ると、柏水堂の古風な椅子に掛けて、やれやれといったような顔をした。
見本の菓子をのせた皿を、女の子に持ってこさせて、桃枝にも選ませ、自分も二つ註文して、コーヒーをのみながら、またいつものどこか遠くの方をみるような、ぼんやりとした目つきをして、
「桃枝君、落語好きんなった?」
と、訊いた。
「ええ、とてもおもしろい。話ン中へ出てくるひとが、みんな、いいひとばかりじゃありませんか」
桃枝は、ほんとうに、落語を聞いているうちに、そう思うようになった。
みんな、いいひとばかりなのに、それでいて、いろいろな事件が起きて、それでいてまたおかしい。
「こんどね、またひとつ落語の会がね、東横ホールに出来るんだ」
「そう、渋谷か? 少し遠いな」
でも、桃枝のうちからだと、地下で、浅草から渋谷まで乗ればいいんだと思い直した。
「誰だと思う? 文楽にね、志ん生、それから円生に三木助、それともうひとり小さん。どう? この五人がレギュラー」
「あら、それじゃア古典落語の五人男じゃない?」
「巧いこというね。キャッチ・フレーズにいただけら。あとはね、若手落語会から、一人ずつ、前座《ぜんざ》を出す」
それが東横落語会≠ナある。一と月おきに開いた。湯浅は出演者の一人一人のうちを歩いたりして、一切の責任を持った。
桃枝は東横落語会≠ナ、若手とはまた違った大人の、完成した古典落語を聞いて、ひどく感心した。
「今夜、帰りにつき合って」
と湯浅にいわれて、東横百貨店の、夜の出口のところで少し待たされて、それから旅愁≠ニいう道玄坂の、民芸風な、渋く、いやみのない店に連れていかれて、かにをたべさせられたりした。
そんな時、湯浅は必ず東駒形の桃枝のうちへ入ろうという路地の角の酒屋へ電話を掛けて、母親の重枝《じゆうし》を呼び出すと、
「すみません、もう一時間半ばかり桃枝君貸して下さい、お送りします」
といって、それから受話器を桃枝に渡す。
桃枝は、
「今夜はね、越前のね、かにを御馳走になるの。おいしそうよ」
なんていった。
東横落語会は、古典落語の檜舞台のような、華やかな名物になった。
東横落語会が出来て、それからあくる年のはじめに、湯浅はこんどはまたおなじ東横ホールで東横寄席≠ニいう和洋のバラエティーの舞台をつくった。
これも落語会とてれこに、一と月おきに、たったひと晩の舞台だったが、桃枝にはこの東横寄席がいちばんおもしろい。
桃枝はこの会でまたいろいろな勉強をした。
ある晩はこんなプログラムである。
真木小太郎の、シックなフランス風な装置の舞台に、勅使河原霞の、大きな花が飾られてある。これに今井直次の、やわらかい、水の底にでもいるような照明がかかって、桃枝ははじめてラモーの室内楽団で、ドビュッシーやファリアのたのしい曲を聞いた。
洋楽というと、なんだかこわいもののように思っていたのに、そんなんじゃアなく、しっとりと、心の濡れるような音楽である。
と、黒いカーテンがさッと降りて十郎・雁玉の漫才が出てくる。さんざっぱら笑わして、こんどは富山清琴《とみやませいきん》の地唄で、歌舞伎の大谷友右衛門が若衆姿でこんきょうじ≠ニいう軽く道化た舞をみせる。
それがすむと、カーテンの前に、なにやら奇怪なムードの、明治の頃の、紙の写し絵という感じの道具が、上からぬうッと降りてきて、徳川夢声の物語楢山節考≠ェはじまる。
休憩があって、第二部の幕あきは、これも雁玉たちとおなじように、わざわざ大阪から呼んできた秋月恵美子と芦原千津子のボレロとルンバ・ラプソディーの踊りがあって、これがトニー谷の夢を売る男≠ニいうモノローグに変わる。
ここでしばらくして、またあかりがふんわりと入ると、越路吹雪が松井八郎のピアノでシャンソンをうたって、しずかにフィナーレの幕が降りてくる。
桃枝はこんなにおもしろく、たのしい和洋の芸を並べてくれる湯浅が、ひどく頼母しかった。
湯浅はまた桃枝にこんなことをいった。
「いいかい? 雅楽からジャズまでをね、きっと、あの舞台に出してみせるからね」
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夜がらす
くの字に腰が曲がったまんまの形で、なにかつくろいものをしていた川崎福松が、
「先生」
といった。
燕雄のことをたまに福松は先生といったが、めったに、そんなことはなかった。
燕雄は、きょうはなんだッけな、と考えていた。
きょうはこれから、自分はどうすンだッけと、一日の予定を考えていたところである。
きょうは、本牧亭を二つ目に上がるから、一時半には高座《こうざ》を降りて、それから末広町の白湯《しろゆ》がある日だな、と思った。
白湯というのはまた妙な湯屋で、普通の湯屋が十五円取っている時に、十七円とって、そこを、なかば老人の家のような施設にしていた。
施設というほどのことはないが、みんな湯に入っては、出ると、二十畳ばかりの畳敷きにゆっくりと休んで、あんまさんの学校から稽古にきている生徒が二人、牡蠣《かき》のような目をむいては、老人の肩をもんだりする。
老人たちには、それでも結構からだが休まって、それにときどき、演芸があった。
演芸は、落語は土橋亭《どきようてい》里う馬、講談は、里う馬からさそわれて、燕雄がたまにくる。
里う馬はもう二、三年つづけて喋っていたが、少しくたびれたので、たまに、燕雄にかわりをたのんだ。
七、八人の、湯上がりの爺さん婆さんが、思い思いのかっこをして聞いているのを前に、子供の机のようなのを構えて話す。
だいたい、その時の調子で、三十分から小一時間も喋って、帰りがけに白湯のひとが、
「御苦労さん、またきておくんなさい」
といって、百五十円くれた。
なんでも、都会議員の選挙に出ては、二度も落ちたひとがやっているとかいう湯屋である。
福島の方の温泉から取り寄せる白い薬で、燕雄はそのにおいをかぐと、いつも、どこか遠い田舎を思い出した。
燕雄はこの年になるまで、生まれ故郷の東京以外の土地は、まるッきり知らないといってもいい。
だけど、その白湯のにおいをかぐと、いつでも、なんだか、知らない田舎のけしきを考える。
二、三日前、里う馬から、
「白湯、たのみますよ」
といわれていたことを思い出して、そうだ、きょうは本牧亭の帰りに、末広町へまわらなくッちゃ、と考えていた。
そこへ、福松が、めずらしく先生などと声を掛けたので、少し、間《ま》をおいて、
「え?」
といった。
福松はつくろいものの手を休めずに、いかにも、返事を待っていたという調子で、
「なん年になるかな?」
といって、これもちょっと間があって、
「戦争に負けてッからさ」
燕雄は福松が突拍子もなく、へんなことをいいだしたなと思ったが、すぐ、
「十三年経ちます」
「十三年?」
福松はつくろいの手をとめて、くの字の形のまんま、痛いのをこらえるような顔をして、少し燕雄の顔を下からみ上げるようにした。
その福松の、十三年? という調子には、へええ、戦争に負けて、もう十三年も経ッちゃったのかという、なにか、あきれ返ったようなひびきがあった。
そのまんま、燕雄も、福松もまた黙ってしまった。
くる日も、くる日も、あくまで空の高い、さわやかな秋の日がつづいて、初音町のうちの、穴のあいた屋根の上を、ゆるく秋の雲が流れている。
燕雄はいつものように軽く腕を組んで、考えごとでもしているようなかっこをして、その雲をみている。
どこかで、羅宇屋《らおや》(きせるの竹管を、ラオスから渡来した黒斑竹を用いたので、羅宇といった。きせるの掃除、羅宇のすげ替えをするのが羅宇屋)のピーという音が、つづけざまに、さっきから聞こえる。羅宇屋なんてものも、もう広い東京にすっかりかげを消したが、それでも、このあたりには、ときどきやってくる。
二人とも、しばらくそうしていたが、福松がひとりごとのように、
「よくもまアやってきたもんだい」
と、つぶやいた。
その調子に、もうこれ以上はいけませんや、といったようなひびきがあった。
いつにも、福松が、そんな弱ッ気なことをいったことがない。
福松の腰が曲がって以来、燕雄がへんだなと思ったのは、これが三度目である。
いちどは苦しくなって、高座着の入った油ッ紙の包みを天井から降ろして、質屋へ持っていった。
燕雄は、その時生まれてはじめて、質屋ののれんをくぐったのである。どんなに貧乏をしても、強情に質屋へいったことがなかった。
質屋にいくということが、なんだか、質屋に情けをかけられるようで、ひとに、ものをたのむのとおんなじだと思って、それが、いやだったのである。
でも、その時だけは出掛けた。恰度、福松が腰が曲がって働きに出掛けられなくなって、本牧亭からはまだ出ろといってはこなかったその間のことである。
帰ってきたら、毛布の中から首を出して、福松が、
「すまねえ」
といった。
十三年も一緒に暮らしているが、そんなこと、福松がいったことはなかった。いつでも、福松は自分が燕雄のめんどうをみているということに、ひそかな誇りを持っているらしかった。だから、すみませんといわれるのは好きだが、自分からすまねえというのは、気に入らないのである。
この時に、燕雄は、おや、へんだなと思った。
二度目は、つい、この間、浅草の三社さまの境内で、辻講釈をやったあと、折り詰めの弁当をもらって、燕雄は、そんなもの、福松がひどく喜ぶのを思い出して、土産に持って帰って、
「あたしゃ、向こうでやってきましたからね、川崎さん、お上がンなさい」
といったら、たいへん喜んで、二た箸ばかり手をつけたら、福松は、
「もういいや」
といって、止めた。
そんな折り詰めなんかだと、折り蓋の裏ッ側にくッついている飯粒を、一と粒一と粒、大事にとッちゃア、折りの中をなめたように、きれいにたべていたついこの間までのことを考えて、燕雄は、この時もへんだぞ、と思った。
だから、戦争に負けて、十三年経ったときいて、よくもまアやってきたもんだいと、まるで、ひとりごとのようにいったのをきいて、燕雄はまたこれアへんだと思ったのである。
どんなに辛い時でも、そんな弱音を吐いたことのない男である。
「あたしゃきょうは本牧から白湯へ廻りますがね、帰りに、晩のコロッケを買ってきます」
しばらく経って、突然、燕雄が土間に降りて、ちびた下駄をつッかけながらそういった。
燕雄もきらいじゃアないが、コロッケは福松がひどく好きなのである。
そういうと、気のせいか、なんだか少し機嫌を直したような声になって、
「いっといでなさい」
といって、そのまんま、また、つくろいをつづけた。
夕方、燕雄がコロッケを買って帰ってくると、福松は毛布を掛けて、横になっていた。
あかりもつけず、釣瓶《つるべ》おとしの秋の陽が、もううす墨のように夕暗を濃くして、そン中で、
「お帰り」
と、声を掛けた。
「はい只今」
いつも、きちんと、二人のどッちかが、どッちかのことをいった。
「買ってきましたよ、コロッケ」
ッてえと、すぐ、
「ああ、飯アたいてあるからね」
燕雄は飯をたくことが、どうしても苦手なのである。
「あ、すみません」
あかりをつけて、ことことと膳ごしらえをして、福松が起きて、二人で、長アい時間をかけて、ゆっくり、飯をたべ終わったら、もうすっかりくらくなっていた。
なにを思い出したのか、急にまた福松が、
「なんてッたッけな? あの、神さんと弟子を連れてやってきたさ、ほら……?」
「ああ、扇喜《せんき》ですか」
「扇喜、扇喜。どうしたろう、あいつ?」
燕雄は、おや、このひと、扇喜の死んだことを知らなかったかな、と、そう思いながら、
「扇喜ア、死んじまったアね」
「死んだ? へええ、ちっとも知らなかった……」
と、まるでコロッケの話をしているような調子で、福松は、
「いつ?」
と、訊いた。
「話したと思いましたがねえ、話さなかったかな?」
「聞きませんよ、いつ死んだい?」
「去年? いえ一昨年《おととし》ンなるかな。あたしも、あとから聞いたんでね、お焼香にもいけなかった」
すると、福松がめずらしくちょっと笑って、
「ふふ、燕雄先生が、扇喜の焼香にいッちゃアおかしいじゃアねえか」
「どうしてです?」
「どうしてですッて、お前さんが死んだって嘘オついてさ、お前さんの香典を集めて歩いた男じゃアねえか」
「なるほど……」
「ふ、それをお前さんに焼香をされたんじゃア、いくら扇喜でも浮かばれめえ」
そういって、気持ちよさそうに、声を出して笑った。
燕雄は笑わないで、
「けどね、あれからいちど、隅田公園ンとこで逢ったらね、乞食に声を掛けられたと思って、びっくりしたんだが、扇喜がね、いつものあの調子で、いずれ、お家御帰参《いえごきさん》の節は御挨拶に上がりますッて、向こうから声を掛けてきたんだが……」
そこで、ぷつんと、ちょっと、ことばを切ってから、少し経って、
「なアに、扇喜だって、べつに悪い奴じゃアありませんよ」
と、いった。
福松は、それッきりまた、なんにもものをいわなくなって、すぐ、また横になった。
そんな時、べつに怒ったとか、気を悪くしたというわけではない。
二人の老人たちの生活には、よく、そんなぽかんとした空白の間《ま》が出来た。
福松はコロッケを半分しかたべなかった。燕雄がまたことことと片付けていると、萩寺のあたりで、夜がらすの鳴いているのが聞こえた。
いやだなと思い、あかりを消して、福松と並んで、毛布を着て、横になった。
ここは谷中銀座の裏ッ側になるわけだが、そっちの方角の、どこかの長屋から、ラジオの時報が聞こえてきた。
だから、あれが八時。うとうとッとしていたら、背中合わせに寝ていた福松が、こッちへ寝返りを打つような気配をみせて、そのまま、すうッと、やめた。
「どうしたい?」
片肘ついて、片ッぽの手で電灯をひねって、福松の顔をのぞいたら、もう死んでいた。
びっくりして、起き上がって、
「川崎さんッ」
と呼ぼうとしたが、燕雄はあわてて、よした。
見事な、大往生である。
燕雄はしばらく、膝に両手をのせて、もう動かなくなッちまった川崎福松の顔をみていた。
そのうちに、突然、大粒の涙がこぼれてきた。構わず、ひとりで、手ばなしで泣いて、それから枕許に紐をわたして、それに吊ってある手拭いをとって、ぶるん、とひとつ顔を拭いた。
自分もそうだが、福松にも、誰ひとりとして、この世の中に、身寄りたよりというものがない。福松も、燕雄も、お互いに身寄りたよりがないので、そんなことについて、なんにも話し合ったことがない。
どうせ、いつかは死ぬに違《ちげ》えねえけれども、そン時ア、どッちか、あとに残る方がめんどうをみる。
そんなこともべつに話し合ったことはなかったけれど、お互いに、いわず語らず、そう思っていた。
手拭いで、ひとつ、顔をぶるんこしたら、燕雄は急にぴんとなった。
さ、自分で、川崎福松の葬式を出さなくてはならない。
なん時頃かな、と思った。
なんにしろ、ひとりではどうにもならない。
御迷惑だが、お隣りの三島さんを起こそうと思った。三島さんはもう五十を五つ六つ出たひとり者で、古い道具なんかのブローカーをやっているらしいのだが、誰も、なんの商売だか、はっきりは知ッちゃアいない。親切なひとで、
「うどんが出来ましたから上がって下さい」
などと、よく持ってきてくれたりする。いつも、まるで留守かなんぞのように、ひッそりと、たったひとりで暮らしている。
ぎいーッ、と音をたてて、外へ出ると、高アく澄んだ空に、半欠けの月が出ていた。
三島さんはすぐに起きてくれて、交番へ福松の死んだことを届けにいかなくッては、といった。
まるッきり医者にかからないで死ンじゃったから、医者が死を証明してはくれない。だから、警察へ、すぐ届けなくッちゃというのである。三島さんは、そんなことも知っているひとである。燕雄は、なアるほどと思った。
交番に届けた帰りに、七面坂の本授寺《ほんじゆうじ》へ寄って、三島さんが頼んだら、坊さんが間もなくやってきてくれた。
隣りから天井を通して、電気のコードをのばすと、少し、それでもあかるくなった。
そのうち、近所のひとたちが一人起き、二人やってきて、ミカン箱の上に、ロウソクや線香を立てたりして、どうやら通夜らしい形になった。
警察から調べにきて、老衰ということになって、その日が友引なので、あくる日、初音町のうちで告別式をやって、町屋の焼き場へ持っていくことにした。
近所のひとたちが、みんなで香典を持ってきてくれた。たいてい五人名前で、五百円包んである。
アパートの旦那だけが、
「燕雄さん、香典返しゃアなしだよ」
といって、ひとりで、千円包んでくれた。
本授寺さんに、お礼を出したら、とんでもないといって断わられた。燕雄は、きれいに、有難く、経を上げて貰った。
みんな、福松の年を訊いて、七十一ということにおどろいてから、必ず、
「燕雄さんは?」
と、年を訊いた。そのたびに、
「川崎さんの、一つ弟でございます」
と、答えて、また、みんなにびっくりされた。
あくる日、きょうも秋晴れのいい天気である。
萩寺の通りのところまでしか霊柩車が入らないので、みんなで川崎福松の棺桶をかついで、長い路地を進んでいった。ぞろぞろ、大勢、近所のひとたちが表通りまで送ってくれた。
燕雄は三越名人会に着て出た紋付を着た。
近所のひとは、燕雄の、そんな立派な姿をみたことがないので、中には、
「あら燕雄さん、立派ンなっちゃって」
と、口へ出していう神さんがいたりした。
燕雄は福松の柩《ひつぎ》のうしろを歩いて、萩寺の角のところまで出ると、お隣りの三島さんが、
「御近所の方に、挨拶をおしなさい」
といった。
いつもの訥々たる高座の口調で、
「皆さま、お忙しい中を、お送り下さいまして有難う存じます。故人川崎福松も、冥途におきまして、さだめし喜んでいることと存じます、ありがとう存じます」
といったら、その見送りのひとたちの中に、なんだか、腰をくの字に曲げた福松が、自分の霊柩車をみ送っているような気がした。
燕雄と、三島さんの二人が、霊柩車に同乗した。
焼き場のある町屋へいく道は、だんだん、白ッちゃけた町になっていって、それが霊柩車の窓の外に流れていった。
着いて、秋|日和《びより》の、少し強い陽なたぼッこで、待って、こんどは骨《こつ》になった福松を抱えて、また初音町のうちに帰ってきた。
一昨日《おととい》の晩、扇喜の話が出て、知らなかったんで、燕雄が扇喜の焼香にいかなかったといったら、おい、人のいいのもいい加減にしろいッといった風に笑った福松が、きょうはもう骨ンなっちゃったのである。
燕雄は、ミカン箱の上に骨壺を置いて、ああああとうとうひとりンなっちゃったい、と思った。
三十五日に、チリ紙の大きな束を、香典返しにくばった。
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甘酒
都《と》の美術館の石の階段を降りながら、父親がほんの少し振り返るようにして、
「おひで、久し振りだ、清水《きよみず》の観音さまをおまいりしてこうや」
といった。
父親が鈴本(上野広小路の鈴本演芸場のこと)を経営していて、娘が本牧亭をやっているのだから、いつだって、なにか用のことで話す以外は、親子でゆっくりと世間ばなしをしたこともない。
本牧亭に肩を入れてくれて、なにかといってはともだちを大勢連れてきてくれたり、毎月、月はじめに、主だった本牧亭の会ぶれを通知するちいさなプログラムに、表紙の絵を描いてくれている日本画の先生が出品した展覧会があって、そのことを話すと、めずらしく父親が、
「俺もいこう」
といって、そのまんまのかっこで、親子が連れ立って、出た。
絵は、本牧亭の表をそのままスケッチしたような構図で、大きく幟《のぼり》の立っている前に、明治の風俗の美しい年増の女が、傘を半びらきにして立っている。
春雨、という題がついていた。
おひでは、寄席の絵というと、すぐ、明治とか大正の風俗にするのを、なんだか、ぼんやり不満に思っている。
何故、現在の寄席では画題にならないのだろうか、そう思った。
しかし、たまに寄席を描いた絵をみると、殆どぜんぶといっていいくらい、いまの寄席ではなくって、たいてい、明治か、せいぜい大正の時代をとらえている。
おひでは、だから、きょうもそういう絵をみて、寄席というものは、明治か、大正までのもので、今日《こんにち》、あるということがもうへんなんじゃアなかろうかと、ふと、そう思った。
「清水堂さんへ、おとうさんと一緒にお詣りするなんて、なん年ぶりかしら?」
おひでは、父親にそういってみた。
そんな時、ちょっとはにかむようなところのある父親で、それにはわざとなんにも答えずに、
「どうでえ、いい天気じゃねえか」
と話をそらした。
秋晴れの、あくまでいい天気がつづいていた。
おひでは近くに暮らしていながら、めったに上野公園なんて歩いたことはないのだが、でも、たまにこうやって歩くと、自分の暮らしている本牧亭の世界とは、あんまり、かけ違っていることにびっくりし、それに公園の中を歩いているひとたちが、なんだかひどく善男善女《ぜんなんぜんによ》といったような気がして、それがちょっとおかしくなる。
父親に笑いながらそのことをいうと、
「なアにおめえ、公園を歩いているひとよりゃア、寄席へきておくんなさるお客さまの方が、よッぽど善男善女だろうじゃアねえか」
と、いった。
もう八十を越していたが、いつでもぴんとしていた。
こうやって、父親と一緒に歩くということもめずらしかったが、おひでは、清水の観音さまへなんぞ、父親と一緒にきたことがあったろうかと考えてみた。
なんだか、いちど、そんなことがあったような気がして、こんどは清水堂の石段を上りながら、あッと思い出した。
たしか、おひでがまだ小学校の下げ髪の頃で、どういうわけだか、父親に手をひかれて、おなじこの段々を上ると、赤んぼぐらいの、大きな人形を、このお堂に納めたことがあった。
なんで、そんなことをしたのかは、すっかり忘れてしまったが、四十なん年も前の、そんなことを、まるで、ついこの間のことのように思い出した。
親子で、手を合わせて、それからお堂の前の勾欄《てすり》のところに二人で立って、遠くの不忍池《しのばずのいけ》の方をみおろした。
ちいさく、たくさん、ボートを漕いでいるのがみえ、少し、もう赤みのかかった空の色がうつッている。
「おい、甘酒のんでこう」
父親はそういって、こんどは、秋色桜《しゆうしきざくら》のある方の段を降りた。
西郷さんの銅像を横にみる茶店へ入っていって、父親は、
「甘酒を二つ」
と、小女に註文し、ここがいいじゃアねえか、という風にちょっと目まぜをしてみせて、自分も床几《しようぎ》に掛けた。
昔ながらの、緋の毛氈を敷いた縁台である。
おひでも掛けて、なんとなく、そこらをみまわした。
西郷さんの銅像の前は、いつでも、大勢、ひとだかりがしている。
ほんの少し銅像をみてから、たいてい山の下をみおろし、広小路の方から流れてくるおびただしい乗りものと、人の流れに、ちょっとびっくりし、それからこんどは、秋の空を眺めては、なんだか東京ッてとこはたいへんな街だなと、思ったりする。
カメラを構えている青年がいるかと思うと、なにを考えているのか、ぼんやりと、ベンチに掛けている女もあって、この広場は、いまでは西郷さんの銅像がなんだかおかしいように、なんだか、けッたいな場所なのである。
甘酒をひと口のんで、おひでは、恰度いい、こんなときに話そうと思って、
「おとッつァん」
と、いった。
父親は銅像の前の、そんな人の群れをなにげなく眺めていたが、
「え?」
といって、甘酒の茶碗を盆の上に置いた。
いやに改まって、なんなんだいという調子をありありとみせて、
「なんだい?」
そういって、おひでの顔をみた。
「こないだッから、いちど、聞いて貰いたいと思っていたんですけど……」
少し、笑い顔みたいになって、
「いえ、本牧亭のことなんです」
と、いった。
おひではこの半年ばかりの間に、だんだん、本牧亭の仕事に疲れてきて、この頃では、ああもうどうでもいいやとさえ思うようになってきていた。
それには、まず、客が入らない。
明けても暮れても、毎日、つばなれをしたことがない。
寄席のことばで、つばなれというのは、客が十人以上ということである。
一つ、二つ、三つと数えて、七つ、八つ、九つと、九つまでの数には、みんな、つの字がつく。十《とお》と数えて、はじめてつの字と縁が切れるのを、つばなれといっている。
本牧亭の客は、このところ、いつでも、たいてい、そのつばなれをするか、しないかという心細い入りである。そんな日ばかりがつづく。
それでもおひでは、お前さんはね、講談という芸を守るッてことだけを考えれアいいんだと、父親にいわれたことをいつでも思い出しながら、そのことで、歯を食いしばるのだが、経営の出来る、出来ないという金銭の面は、なんとしてでもこたえられるにしても、かんじんの、講談という芸を守っていこうという信念が、ぐらつくのである。
このひとたちは、いったい、自分たちのやっている講談のことを、どう思っているんだろうと思った。
講談というものを、いったい、どうしたら、いまのひとたちに聞いて貰えるか。
そういういちばん大事なことだって、いったい、なん人の講釈師が考えているだろう。
それどころか、いったい講談というものが、こんなにも世の中からとッぱずされているということを、このひとたちは知っているのであろうか。
もしかすると、そんなこと、思いも掛けないことなのかも知れない。
げんに、この間も、週刊誌の記者がおひでに逢いにきて、いろいろ、談話をきいて帰っていったが、その時も、いつものように、ミダシには大きくほろびゆく江戸の芸を守って≠ニ書いてあった。
いつでもそんな時に使われることばは、ほろびゆくとか、孤塁とか、まるで、いまにもくずれてゆくお城のようなことばかりが書いてある。
なんとか、講談という芸を再興させようというような善意ではなくって、いつでも、ほろびゆくものを悼《いた》む東京の哀愁《エレジイ》として扱われる。だから、この間も、
「お神さん、講談をね、いまにもほろびるほろびるッていわねえで貰いたいね」
という講談の先生がいた。
おひでは、そんなことを、ただのひとこともいったおぼえはないのに、記者の書いた記事をみて、あんなこと、いわないでくれという抗議が持ちこまれるのである。
黙って、おひでのいうことを聞いていた父親が、
「それアね、講談の先生がそういうのは無理アねえ」
と、いった。
「いえ、あの先生たちにしてみれア、世の中が、みんな、ほろびゆく講談とかなんとかいうのが、大きに、不思議でたまらないんじゃないかと思うんだ」
なにかいおうとするおひでを、ちょっと、手でおさえるような形をしてみせて、
「つまり、自分じゃア、ほろびるどころか、こんなに、ちゃんとやってるじゃアねえか、そう思ってるに違《ちげ》えねえ」
少し間をおいて、父親は少し笑い顔をしながら、
「だってそうだろう? へい、築地の喜ん楽さんへお座敷。NHKのテレビだ、やれ、ラジオ東京の録音だってさ、いえ、それア極く僅かな、なん人かのひとには違えねえけれども、とにかく、その先生たちア、売れてることに間違いはない、そうだろ? それなのに、さて、世の中はッてえと、いまにも講談はほろびるほろびるッて、助けるんじゃアない、首くくりの足をひッぱるようなことばかりしているとなると、どうだろう? これア世の中の方がおかしいと思うのも、無理アないと思うんだが……」
おひではなるほどと思った。
そういえば、ある特定のなん人かの講釈師は、座敷があったり、放送があったり、結構、売れている。
だから、少なくとも、自分のことだけの場合に限っては、ほろびるどころか、立派にやっていると思うのも無理はないのである。
だから、講談という芸そのものが、日に日に、世の中から忘れ去られていくということに、実感がない。
「そうなんですね、そのためなんですね」
おひでは少しせッこんで、父親のいうことに同意した。
そんなこんなで、おひでは、講談の将来のことを心配しているのは、自分ひとりなんじゃあるまいかと思ったり、また、そう思うことによって、どッと、責任がからだ中にのしかかってくるような気がして、この頃、毎日、くらく、重ッ苦しい気持ちの日ばかりがつづいた。
「でね、いッそ、あすこ、貸ビルにしてね……」
おひでは長い間考えていた夢を、ぼつりぽつりと話した。
三階ぐらいの貸ビルにして、二階をちょっとした小唄のさらいぐらいは出来る貸ホールにする。
それでも、やっぱり本牧亭のこころは残して、一階には、ちいさくってもいいから、理想的な高座を持つ客席をつくって、そこで、ほんとうにやりたい寄席の興行を持つ。
黙って聞いていた父親が、あきれ返ったという風に、こんなことをいった。
「おい、いくつンなった、お前?」
改めて、父親から、いくつになったといわれて、おひではひょいと口をつぐんだ。
父親はほんとにあきれ返ったらしく、そのいい方の中に、おひでに笑わせないようなきびしいものがあった。
父親はしばらくそのまんま黙っていたが、少したって、
「お前ね、ものにはね、分、相応ッてことがあんの知ってッかい?」
と、いった。
おひでは、まるで、急に、小娘の頃にでも戻ったようになって、父親の顔を凝視した。
「ものにゃア、分、相応ッてことがある。いいかい? あたしゃア、お前に本牧亭をやらせた。はばかりながら、色物の席には鈴本がある。あたしは、鈴本を色物の歌舞伎座だと思っている。そのくらいの誇りッてえかな、そんなものがなくッちゃア、いま時、お前、寄席なんてもなアやっちゃアいけねえよ、そうだろ?」
そういって、しばらく間があって、
「だから、落語や、そのほかのいろんな寄席の芸ッてえもなア、鈴本の舞台があれアいい。けど、講談ッて芸の出てゆく舞台ッてえもなア、御承知のように、もう、どッこもなくなッちまった」
べつに、それも、父親に責任があるわけではない。
しかし、父親にしてみると、落語だけが御安泰で、講談の芸がすたれて、それでいいとは、どうしても思えないのである。
漫才ばかりをかわいがって、上方《かみがた》落語というものを、とうとう、全滅の寸前にまで追い込んだ大阪のなにがし興行を、すぐ、考えるのである。
新しいもの、むろん、結構、だが、古いいいものをほろぼして、新しいものが栄えるわけがない。
げんに、上方落語を追い詰めた漫才というものが、やっぱり、一時は上方落語とおなじ運命をたどろうとした。
「だから、お前に、講談をやらせた。お前に、講談を守らせようと思ったんだ。それには、あの本牧亭でいいんだ。あれより、もっと立派にしちゃアいけないし、あれより、もっとあわれッぽくしちゃアいけねえ。あれでいいんだ。あれが恰度いいんだ」
父親は、噛んでふくめるように、自分で、自分のいっていることに、首を動かしながらそういった。
「それをなんだって? 本牧亭を貸ビルにする?」
もういちど、父親は、おひでの顔をゆっくりとみて、
「自分では、一文も稼いだことがないくせによ、図々しいことをいうもんじゃアない」
ぴしり、頬をたたかれたような気がした。
「苦労知らずもいいかげんにしな」
おひでは、ものごころついて、生まれてはじめて父親におこられて、小娘のように、ぽッと顔を赤くした。
その晩、本牧亭は岡本文弥の新内の会である。
昼の講談の客と、客種《きやくだね》がまた変わって、中年の女の客が多くなる。
秋の晩、本牧亭で新内をきいたりしていると、なにか、ぞくぞくするような孤独にとりかこまれた。たいてい、目をつぶり、新内のかなしい節《ふし》にからだ中をゆすぶられて、みんな、遠い昔のことを思い出しているような顔ばかりしている。
だいたい、ぱらッと一杯なのに、舞台の新内の声だけが、筒抜けに階下《した》に聞こえて、まるで、二階に客がいないかのようにひっそりとしている。
木戸番のおしげに、
「芸術祭男さんからお電話です」
といわれて、おひでは、おしげのうしろから、
「誰さ? 芸術祭男ッて……」
と、訊いた。
おしげは、笑いもしないで、
「湯浅さんですよ、知らないんですかお神さん」
といった。
湯浅喜久治が、芸術祭男ッていわれているのを知らないのか、ということである。
「知らないよ、そんなこと、あたしゃア」
そういいながら、受話器をとって、
「お待たせ致しました」
湯浅です、という声が応じた。
この頃、湯浅は、まるで、本牧亭に姿をみせなくなった。だから、
「どうなすったの、この頃?」
というと、さも、頭をかいているような気配があって、
「忙しくってねえ、すみません、いかれなくって」
そのあと、すぐ、
「そいでね、実アすねえ……」
と、相変わらずの口癖が出た。
産経ホールで、オール・スター・イン・ジャパンの、ジャズとオブジェの会がある。
原信夫とシャープス・アンド・フラッツだの、渡辺晋とシックス・ジョーズだの、鈴木章治とリズム・エースだの、中村八大とモダーン・トリオだの、と、英語の入ったいろいろな楽団の名をいったが、おひでには、なにがなんだかさっぱりわからない。そういう芸術祭をやるんだが、お神さんもききにこないか、くるなら、すぐ切符を送るという電話なのである。
湯浅さん、この頃、なんでもナイト・クラブなんかに出ているジャズの連中とつきあって、なんだか、そんな仕事をしているが、例によって一銭の収入もなくって、ぜんぶ、持ち出しだというような噂はきいていたが、やっぱり、そうなのかと思い、自分はいかれないといったら、娘の孝子たちに札を送るといって、電話が切れた。
どういうわけだか、おひでにはそれが妙に不吉な電話に思え、途端に二階から拍手の音が聞こえて、そんな電話の記憶もすぐ消えてしまった。
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ある恋の物語
ある朝、八時少し前である。
いつもより早く起きて、近藤亀雄が庭に雀の餌をまいていると、けたたましく、玄関のブザーが鳴った。
いかにも、とげとげしく、いかにも、いらだった鳴らし方である。
勝手口でことことやっているうちの者に、
「出るよ」
と声を掛けておいて、近亀《こんかめ》がドアをあけると、まるで、よろよろと倒れかかりでもするような感じで、湯浅喜久治が玄関に入ってきた。
いつもあおじろい男だが、その朝は一層ひどく、顔が土気《つちけ》色をしていて、いつものきれいに澄んだ目が、ぎらぎらと光っている。
湯浅が、こんなに無礼な訪問をしたのは、これがはじめてである。
お早ようございますも、こんにちはも、それに実アすねえもなく、やにわに、
「ジャズの会やめようと思います」
といった。
いまにも、そこへ、ぐじゃぐじゃッと、くず折れそうな気配である。
近亀がびっくりして、
「おい、どうしたんだいッ?」
というのも、まるで聞こえない様子で、
「芸術祭のジャズ、やめようと思うんです、やめていいですか」
酒に酔ってるのかと思ったが、そうでもないらしい。ぎゅうッと、目がすわっていた。
「おい、どうしたんだい? しっかりしろいッ」
近亀は、いつものように少しべらんめえになりながら、ともあれ、応接間へ湯浅を連れていこうと思ったが、湯浅はどういうわけだか、てこでも玄関から動かない様子をみせて、ジャズの芸術祭をやめるがいいか、いいかというのである。
湯浅は、その年の春ごろからこんぺえる≠ニいう名のプロダクションをつくっていた。
若い詩人や、作家、演出家、それに作曲家、画家、照明家、そんなひとたちを集めて、大人《おとな》の出来ない清新な仕事をしようというのである。
近亀はその話をきいて、湯浅みたいな神経のもろい男が、そんな仕事の中心になっていくということが、なんだかこわかったが、かといって、実アすねえといッちゃア語りだす湯浅の夢をこわす理由もなく、そのかわり、始終、おい大丈夫か、大丈夫かといっては、はらはらしながら、遠くからみていた。
べつに仕事らしい仕事もなく、第一、仕事仕事というから、そのことでちゃんと収入でもあるのかと思って訊くと、そんなものは、ただのいちども、一文もないらしく、どうやら事務所の経費なども、親から出して貰っているらしいのを察して、近亀はときどき、
「おい、仕事|面《づら》アするない」
と、例の小言幸兵衛になった。
仕事という以上は、たとえ百円でも、自分の力で働け、というのである。
東横寄席の仕事で、ジャズの連中と知り合った湯浅は、ジャズが、まだいちども、芸術祭に名乗りを挙げていないことから、プロダクションをはじめると同時に、
「ことしの芸術祭には、ジャズを参加させます」
と、いった。
その、産経ホールのオール・スター・イン・ジャパンの、ジャズとオブジェの会を、中止しようというのである。
会の、五日前の朝だった。
湯浅はいまにも倒れそうなかっこをしながら、
「もうあと、一週間も日がないのに、誰も、どの楽団も、いったい、どんなことをやるのかさえ、わかッちゃいないンす」
といった。
まさかそんなこともあるまいが、とにかく、芸術祭に参加するからといって、そのためにどんな演出でやろうとか、そのために練習をするとかいうことを、どの楽団も、まだ、まるッきりやっていないというのである。
「そんなこッて、とても、みっともなくって、やれやアしません」
いまにも、ゲロかなんかを吐くみたいないい方だった。
近亀は、しばらく、じッと、湯浅をにらむようにしてみていたが、
「おい、寝てねえな?」
といった。
そんなことが気になって、もう、三日も、一睡もしていないという。
「とんでもねえこッた。ジャズもへッたくりもあるかい、なんでもいいからアパートへ帰って寝るこッた」
そして、
「おい、思い上がっちゃアいけねえよ」
と、いった。
こんな時、近亀はどすの利く義太夫声で、ちょっと、相手をぴりッとさせる説得力があった。
そんなジャズの芸術祭なんてどうなッたっていい。
いますぐ、帰って、寝るこッた。自分ひとりで、そのジャズの芸術祭の幕をあけるなどと、思い上がるな……
「五日経ちゃアな、なんでもなく、産経ホールの幕があくよ」
とにかく、いまは眠ることだ、眠ンなくッちゃいけねえ、そう叱るようにいった。
思い上がるな、というひと言が、利いたとみえる。
すうッと、つきものでもとれたように、しずかになって、
「はい」
といった。
もういちど、早く部屋に帰って寝なくッちゃいけない、といって湯浅を送りだすと、近亀はそのうしろ姿をみ送りながら、あんなタフなジャズの連中の中で、この男、生きていけッこはねえじゃアねえかと思った。
帰って、少し経ったら、雨が降ってきた……
産経ホールのロビーは、そこがまるでジャズかなんぞのように華やぎ、明るく、陽気だった。
まるで、世界が、若い者だけのためにまわっているような空気である。
そんな中で、近亀がいった通り、ジャズとオブジェの会は、ゆったりと、華やかに幕をあけた。
近藤亀雄は、義太夫と小唄を少しばかり稽古したが、それでいて、ひそかにマラカスを買ってうちに置いてある男である。
酔って帰ると、ときどき、娘たちにレコードを掛けさせて、パーシー・フェイスのタブー≠ネんかをききながら、両手にマラカスを持つと、カチャッ・カチャッと鳴らしたりする。
遠くの方から、竹本|桃枝《とうし》が近亀に挨拶して、桃枝は、あら、ジャズの会なんかに近亀先生きてるわと、ちょっとおどろいた様子である。
しかし、近亀の方が、反って娘義太夫とジャズという組み合わせに、少しばかり首をひねったが、すぐ、ああ湯浅に誘われたなと、そう思った。
好きだなんてことは、これッぱかりもいったことはなかったが、近亀は、湯浅が桃枝を好きだということを、いつの間にか知っていた。
湯浅のことである。どうせ、どうということになりッこのないことはわかっていたが、近亀は、湯浅と桃枝の組み合わせに、いま時、ちょっとめずらしい、なにか、ほのぼのとしたものを感じた。
湯浅はこの間の朝のことが恥ずかしいらしく、客席と、ロビーの間をいったりきたりしながら、近亀のところへはあんまり近寄らない。
野郎、てれてやがんな、近亀は、やっぱりこどもだな、と、そう思った。
桃枝は桃枝で、湯浅さん、きょうはどうしたんだろうと思った。
いつもの、湯浅のやる会だと、少し、桃枝が恥ずかしくなるくらいの大きな声で、
「桃枝君、帰り、一緒に帰ろう」
といったり、
「帰り、なにをたべる?」
なんていったりする。
まるで、駄々ッ子の、坊やみたいなとこがあった。
このひと月ばかり、まるで逢わず、それに、ときどき掛かってきた呼び出し電話も、ぱったりなくなって、このジャズの芸術祭も、切符とプロだけ、うちへ送ってきた。
さっきもホールの入り口で、一と月ぶりぐらいで湯浅に逢ったので、桃枝はそばへ寄っていこうとすると、湯浅は、急になにか用事でも思い出したようなかっこで、右手だけを、やアやアという風に振ってみせて、急に、楽屋の方へいってしまった。
そういえば、なんだかプロダクションとかいうものをつくってからこっち、湯浅が、急に遠くへいってしまったような気がして、桃枝はかッかッとするような客席の中で、急にひとりぼっちになったような気がした。
青いライトが掛けられ、舞台ではいまある恋の物語≠フ、甘いメロディーが流れていた。
そんなことがあって、また正月がきた。
元日の新聞に、東宮仮御所を訪ねた美智子さんが、皇太子さまとアルバムをみながら、たのしそうに笑っている写真が出たりした年である。
三十一年に東横落語会≠ナ、寄席の下座《げざ》の演奏で、古くからの須賀まさ、橘つや、池上すずという三人の下座さんが、芸術祭奨励賞をとった。
三十二年には東横寄席≠フ企画と演出に対して、湯浅喜久治自身が、奨励賞を貰った。
そして三十三年には、おなじ東横寄席≠フプログラムの中の、宮城まり子の十二月のあいさつ≠ェ、芸術祭賞を、それに若手落語会≠フ努力と成果に対して、これも団体奨励賞が授けられた。
ぜんぶ、湯浅喜久治の関係した舞台ばかりが、つるべ打ちに芸術祭の賞をとった。
本牧亭の木戸番のおしげが、湯浅からの電話をおひでに取りついだ時、湯浅のことを、芸術祭男といったのは、こんなことからである。
若手落語会≠ェ賞をとったことと、その正月に、第一生命ホールで、つづけて三日間、公演したことを記念して、中野の馬の助のうちで、新年会を開いた。
こんぺえる≠ニいうプロダクションをつくってからこッち、なんだか、少し、湯浅の人間が違ってきていたのを、若手落語会の若い落語家《はなしか》たちも、みんな、なんとなく、うッすらと感じていた。
しばらく、そんな酒ののみッぷりをしたことのない湯浅が、その晩は、
「おう、しみッたれたことオするないッ、湯呑みゃアねえのか、湯呑みゃア……」
と大きな湯呑みに、なみなみつがせると、くいーッと、それを一と息にのんでは、
「おう、どうしたいッ?」
と、すぐまたあとをつがせた。
三木助の弟子の木久助は、そんな湯浅をみたことがないので、さっきから少しあッけにとられたような顔をしていたが、このひと、なんだか、たとえば神様みたいなものが、急に、とれちまったんじゃねえのかな、と思った。
そういえば、いままでは小泉信三先生とか、志賀直哉先生とか、そういった湯浅の尊敬している先生たちの名が、よく湯浅の話の中に出てきたのに、この頃では、八大《はちだい》がね、などと、ジャズの連中の名が始終出てきて、そういうひとたちの名は、まるッきり聞かれなくなってしまった。
木久助が、このひと、神様みたいなものがとれちまったんじゃなかろうか、と、思うのも無理がないのである。
口も八丁、手も八丁の若い落語家ばかりが、十人ちかく集まったのだから、その騒ぎッたらない。
遅れて、寒そうな顔をして三遊亭|笑馬《しようば》が入ってきた。
もう九時を少しまわっていた。
笑馬は、少し出ッ歯で、そのために、いつも少し笑ってるような顔をしていた。
芸も、人間も素直で、湯浅はとくに笑馬が好きだった。
その笑馬が、少し笑ったような顔をして、襖をあけて、
「すみません、遅くなりまして……」
と、一と足座敷へ入るか入らないうちに、
「おい、なんでえッ? その白足袋ア」
と、湯浅が声を掛けた。
みんなが、一斉に笑馬の足許をみた。
白足袋である。
それが、なんでもなくみすごせば、べつに、なんのこともない白足袋だったに違いないのだが、湯浅に、おい、なんでえッ? その白足袋ア……といわれて、さて、その笑馬の白足袋をはいた形をみると、なんだか、へんにおかしいのである。
すみません、遅くなりましてと笑馬が入ってきて、その、おい、なんでえ、その白足袋は、という湯浅との、そんな間《ま》がおかしかったのかも知れない。
みんなが、どッと笑った。
「笑馬ッ」
湯浅は、いつもよりもうひとつあおざめて、じいッと目がすわっていくのに、顔だけ、笑い顔をしようとするのが、反ってちょっと凄みにみえた。
「なんでえッ、その白足袋ア?」
二、三人、くすくすッと笑ったが、湯浅の、その勢いがなんだか普通でないのを感じて、あとの連中はもう笑わなかった。
「おう、白足袋なんてもなアな、そんなな、そんなおめえ、ぶくぶく、たるンでるもんじゃアねえッ」
二、三人、くすくすッ、と笑ったが、
「笑馬ッ」
と、また大きな声で呼んで、
「おめえが白足袋をはいたとこア、まるでおめえ、田吾作の結婚式じゃアねえか」
それから半時間ちかく、湯浅は、白足袋で、笑馬にからんだ。
笑馬が、もう決して白足袋をはきませんというと、なに? 落語家《はなしか》が白足袋をはかねえッ? いえ、はきますッてえと、なに? はく? と、もうどがちゃかで、しまいに、
「出来の白足袋なんぞ買やアがるから、そんなことンなるんだ」
こんど一緒に、大野屋へ連れてッてやるから、そこで型をとらせて、注文をしろ。
そんな時、金は? などといやア、また機嫌を悪くする。そんな時、いつでも、湯浅が自分で払った。
みんな、こんなに大酔した湯浅をみたことがない。
白足袋がようやくすむと、けろッとして、
「笑馬、帰ろうッ」
ひょろッと、立ち上がった。
みんなが、目まぜで、すまねえが頼むよというのを、のみこんで、笑馬が湯浅を送って、表に出た。
ぐにゃぐにゃしている湯浅を、ようやくタクシーにのせて、並んで、横から両手で支えるようにしながら、笑馬は、
「青山のね、南町へいってくんないか」
と、いった。
すると、ぐったりしていた湯浅が、急にぴんとして、
「やだよ、やだよ、アパートなんか帰《けえ》ンねえよ、葭《よし》町へいこう、おい、葭町ッ」
といった。
笑馬は、はいはいと返事をしておいて、運転手には、そのままやってくれと、左手で合い図をした。
前の硝子に、ぽつり、ぽつりとちいさな水滴があたっていくのが、すれ違う自動車のライトに照らされてみえる。
きのうあたりから、くらくつめたい空が、なんだかしきりに雪でも降らせたがっていると思ったが、氷雨《ひざめ》になった。
笑馬は、ちらっと腕時計をみたら、十一時、少し前である。
もう一と足だという都電の明治神宮前の停留所で、湯浅は、突然、車をとめて、降りると、
「笑馬、おい、電話電話ッ」
と、なにかに憑《つ》かれたようだった。
公衆電話にとびこむと、湯浅はポケットから手帖を出して、指で、ここへ掛けろと番号を示した。
本所の、竹本桃枝の電話だが、角の酒屋の呼び出し電話である。笑馬が、こんな時間に、呼び出して貰ッちゃ悪かろうというと、湯浅は、そんな時間に、ときどき、掛けていたものとみえて、遅くまで起きてる店だから、大丈夫だといった。
「遅く、あいすみません、裏の、義太夫のおッ師匠《しよ》さんとこの、桃枝さんをお呼び願いたいんですが……」
というと、まだ、店をあけているような感じで、中年の男の声が、誰方です、と受けてくれた。
笑馬は、助かったと思って、
「こちら、湯浅でございます」
ちょいとお待ち下さいといってから、少し離れたところで、重い硝子戸のあく音が聞こえた。
すぐまた、若い女の声で、すみません、という声が聞こえて、
「桃枝です、湯浅さん?」
「ちょっとお待ち下さい」
笑馬はそういうと、ボックスの中の、すぐ脇に、ふうふう、酒のにおいをさせている湯浅に受話器を渡しながら、
「桃枝さん、出ました」
と、いった。
まるで、電話をかじるような勢いで、
「桃枝君ッ」
……と、なんにも聞こえない。
「湯浅さん、どうしたの? 酔ってんの?……なんかいって?」
へんな故障で、桃枝の声だけこっちに聞こえて、湯浅の声は桃枝には聞こえなかった。
「もしもし、なんかいってッて、いってるじゃアねえか、いってるようッ、こんなにいってるじゃねえか、こんなによう……」
その駄々ッ子のような湯浅の声が、ひとつも、桃枝の電話には聞こえないらしく、
「どうしたの? 湯浅さんどうしたの? もしもし? なんかいって?……」
と、いう桃枝の声が、湯浅にはそこにいるように聞こえているのに、自分の声は桃枝には聞こえないようである。
しばらく、湯浅は受話器を持ったまんま黙っていたが、突然、
「好きなんだよう、桃枝君、好きなんだ、ぼく……、君だけが好きなんだよう」
そういって、がちゃり、受話器を掛けると、せきを切ったように、顔中、大粒の涙が流れた。
狭い公衆電話のボックスの中で、つい目の前に大酔した湯浅が、大きな声で、こんなにいってるじゃアねえか、と、一生懸命に声を出しているのに、それが向こうには聞こえないらしく、そのうち、湯浅が、桃枝に、好きなんだといいだして、それもまた桃枝には聞こえていないんだと思ったら、笑馬は背筋から首筋へかけて、なんだか、ぞくぞくと寒けがした。
「駄目だ、駄目だよ笑馬ッ!」
それから、どうしても、これから本所の桃枝のうちへいくという湯浅をなだめつ、すかしつ、笑馬は、湯浅のからだをひきずるようにして、すっかり本降りになった雨の中を、湯浅のアパートへ帰ってきた。
笑馬はときどき、湯浅のアパートへきていたが、くるたびに、これがひとり者の男の部屋かといつもびっくりするほど、整然としている。
「泊まんなよ、泊まってきなよ」
と、いうのを無理に寝かせて、笑馬が青山のアパートを出たのが、一時半頃だった。いつもの伝だと、こんなとき、たいてい泊まるのだが、あくる朝早く、師匠が旅へ立つのを送らなくてはならないからである。
いつも、なにかしら夢楽のところへ連絡があるのに、あくる日も、そのあくる日も、湯浅からなんの連絡もない。
文化放送で録音の仕事をひとつすませてから、夢楽が湯浅のアパートへいってみると、玄関の郵便受けに、湯浅宛の郵便物が、こぼれるように一杯になっていた。そんなことッて、いままでに、ただのいちどもない。
二階に上って、ドアを押すと、すうッとあいたので、入ると、蒲団をかぶって寝ている。
一年中、つめたいものの好きな男で、座敷の隅に電気冷蔵庫があって、その上に、関口のフランスパンが置いてあった。
「いいかげんに起きなよ」
といって蒲団をはいだら、湯浅は少し血を吐いて、ころッと、ひとり死んでいた。
枕許に、いつものんでいた睡眠薬のパラミンが、三錠残っていた。
夢楽は膝ががくがくして、いまにもそこへへたばりそうになるのをこらえながら階下《した》へ降りると、近藤亀雄のうちへ電話を掛けた。
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寒い日
一日のうちに、ひとつはとむらい、ひとつはひとを激励する集まりがある。
近藤亀雄は、妙な日だと思った。
ひとつは湯浅喜久治の告別式である。
夢楽から、湯浅がへんな死に方をしているという電話を受けとると、近亀《こんかめ》はすぐ、おとうさんに知らせようといった。
夢楽は、もう、湯浅とは十年以上のつきあいなのに、ただのいちども、湯浅の親たちの話をきいたことがない。
だから、近亀が、おとうさんに知らせようといったら、
「へッ? 湯浅さんのおやじさんいるんですか」
とびっくりした。
近亀も、ほんとうは知ッちゃアいない。
四、五年前から、毎年、湯浅の父親というひとの年始状がきた。はじめてきた時、すぐ電話帳に番号を書いておいた。
そういうカンのひどくするどい男で、なんだか、湯浅がへんな死に方をしそうな気がして、いつか、その電話が役に立ちそうに思えたのである。
はじめてする電話で、父親に、息子の変死を伝えることは、辛かった。
古くから東京で、文房具の問屋さんをやっていたが、自分の代で東京へ出てきて、まだ誰も死んではいないので、寺がない。
通夜の晩、
「如何でございましょう? 三ノ輪の浄閑寺《じようかんじ》では……」
と訊かれて、近亀は、このおとうさん、おもしろいひとだなと思い、
「ようがしょう」
といった。
三輪山《さんりんざん》・浄閑寺。
江戸の頃から、ひきとりてのない無縁の、吉原の女郎たちの死骸をひきうけた寺である。
くらく、かなしい寺で、昔からそこを、投げ込み寺といった。
関東の大震災に残り、こんどの戦争にも焼け残って、このひろい世の中に、誰もひきとりてのない吉原の女郎を葬ったコンクリートの納骨堂には、なんでも、二万なん千人だかの骨《こつ》が入っているという話である。
つめたく、晴れ上がった寒い日で、たいていの会葬者が、そんな三ノ輪の投げ込み寺なんてはじめてなので、迷い、やがてさがして、やってきた。
受付にはテントを張って、白い布《きれ》を敷いたテーブルの向こうに、若手落語会の大勢が名簿をつけたり、香典を貰ったり、オーバーや帽子を預かったりして、みんな、こまめに立ち働いている。
文楽だの、志ん生だの、円生だの、三木助だの、小さんだの、東横落語会で、湯浅の世話になった落語家たちが焼香する間に、久保田万太郎や、本牧亭のおひでや、鳥越の紋啓や、谷中の石初の隠居なんかの姿もみえた。
近亀は、投げ込み寺の本堂の階段の横に、湯浅の父親と、おふくろの三人で立って、会葬者に礼をしながら、なにか無性に腹をたてていた。
とくに、こんどの戦争からこッち、若い者の死には、なんだか、この世の中に責任があるような気がして、堪らないのである。
湯浅のへんな死に方だって、むろん、湯浅そのものに責任はあるけれども、なんだか、世の中の歯車がぴたり合っていないことに、いちばん、責任があるような気がした。
そして、世の中という中には、むろん、近亀自身も入っていた。
だから、さっきから、近亀は自分もふくめて、なんだか、湯浅を死に追いやったなにか漠然としたものに、腹が立ってきて、むッつり、一文字に口を結んでいた。
下を向いて、軽く目を閉じていたが、本堂の階段を上る下駄の音が聞こえたので、ひょいと目をあけると、くちゃくちゃにくずれた着物の裾と、その着物の裾の下から、足首の上の方がのぞいてみえるつんつるてんの股ひきと、穴のあいた黒い足袋に、ちびた下駄をはいている足がみえた。
近亀は、あ、燕雄《えんゆう》だなと思った。
本堂の前の敷き石の両側には、焼香をすましたものの、なんだか、すぐには立ち去りかねた三木助が、小さんと立ち話をしていたり、文楽が、若い者たちにことばを掛けていたりして、なんとなく、たいして長くもない敷き石の道に、会葬者が残っている。
そんな中に、燕雄はそんな服装《なり》で、堂々と、そして心のこもった焼香をした。
近亀は顔をあげて、焼香し、瞑目し、合掌している桃川燕雄の横顔をみながら、世の中にゃア、こんなひともいるんだなと思った。
とたんに、なんだか薄紙がとれたように、目の前がぱっとあかるくなった。
桃川燕雄。
世の中から、なにひとつ、されなくッたって、そんなこと、これッぱかりも不服に思ったことがない。それどころか、このひとは、雨の降ることに感謝し、晴れて、喜び、風が吹いてもありがたいと思い、雪が降っても、ああそうか、と思う。
どんな辛いめにあっても、泣きごとをいわず、たまに、嬉しいことがあったって、ほんの少し、にッこりするだけである。
桃川燕雄。この世の中にゃア、こんな人もいるんだ。
そう思ったら、近亀は、すうッと、湯浅の死が遠くの方へ飛んでいってしまった。
桃枝が、母の重枝《じゆうし》と二人でやってきたときには、若い落語家《はなしか》たちのいる受付がちょっとざわめいた。桃枝をはじめてみる落語家たちも多いのである。
母娘《おやこ》で焼香を終わって、二人で、近亀に礼をした。桃枝は少しあおざめ、無理に笑おうとしているような顔をしていた。
近亀が、みんなにも聞こえるような、大きな声でいった。
「桃枝君。湯浅なんて、早く忘れちゃうんだな。いいかい?」
おなじ日の夕方から、こんどは、本牧亭のお神さんのおひでを激励する集まりが本牧亭にある。
近藤亀雄は、いちど四谷のうちへ帰って、夕方、また出直した。
女手ひとつで、講談という売れない芸を、なんとかして盛り立てようと努力し、ときどきはおひでも、がっくり、くたびれて、ええどうにでもなれと、投げだしたくなる時がある。
げんに、この間、西郷さんの銅像を横にみる茶店《ちやみせ》で、甘酒をのみながら、夢のようなことをいって、おひでが、父親に、苦労知らずと叱られたのも、やっぱり、がくんとくたびれたときである。
恰度そんな時、しばらく、無声映画の会で、本牧亭の世話になった井手芳朗《いでほうろう》だの、石初、それに紋啓なんかがいつの間にきめたのか、おひでを激励する集まりをしようといいだして、それが、だんだん、波紋のようにひろがっていって、今夜は、なんだか本牧亭では、入り切れないぐらいの人数になりそうだという話である。
いつもそういう父親だが、あの時も、おひでを叱ったあと、来年の春ごろには、もう少し本牧亭をひろげようといった。階下《した》は、麻雀の方が金は上がるが、講談の客筋と縁のある将棋のくらぶにして、脇に、これも、むかし懐しい牛めしを売ったりする店をつくって、大げさにいうと、もうひとつ多角経営で、まわりから、なんとか講談を助けようじゃアねえかというのである。
おひでは、井手や、石初たちに、そうなってからやって下さいといったら、その時はまたその時のことだと、今夜の集まりになった。
近亀は、いつものようにまた地下鉄の階段を上っていくと、やわらかなオルゴールの音が、上野広小路一帯に流れている。
赤札堂で、毎日、夕方の六時に鳴らす春高楼の花の宴という荒城の月≠フ曲である。
近亀はそれを聞きながら、ちらッと、自分の腕時計をみると、もう、すっかりあかりのなじんだ本牧亭の横丁を曲がっていった。
恰度その時、松坂屋の前のところで、服部伸と、桃川燕雄が、ぱったり顔を合わせた。
かけ違って、このところ久しく逢わなかった。二人とも、これから本牧亭へいくのである。
二人並んで、そこからハンドバッグの東京堂の方へ渡って、もうひとつ、野村証券のビルに向かって、電車通りを渡ろうとした。
と、信号がこわれていて、いつまで経っても、赤ばかりが出ている。
みんな、そんな中を、要領よく、巧く、いったりきたりし、そしてそのためにひどく広小路の電車通りが混乱した。
「故障のようですな」
と燕雄がいうと、おなじように、
「故障のようですな」
と、伸がいった。
そして二人とも、いつまでも信号が青になるのを待って、そこに立っていた。
とッぷり、もう夜の街になっていた。
安藤鶴夫(あんどう・つるお)
一九〇八―一九六九。東京浅草生まれ。八世竹本都太夫長男。法政大学卒業後「都新聞」入社。以後落語、文楽、演劇の批評、エッセイ、小説を数多く発表。六四年に「巷談本牧亭」で直木賞を受賞した。
本作品は一九六三年七月、桃源社より刊行され、一九九二年三月、ちくま文庫に収録された。なお電子化にあたり挿画、解説は割愛した。