[#表紙(表紙.jpg)]
銀のくじゃく
安房直子
もくじ
銀のくじゃく
緑の蝶
熊の火
秋の風鈴《ふうりん》
火影《ほかげ》の夢
あざみ野
青い糸
[#改ページ]
銀のくじゃく
むかし、遠い南の島に、腕ききのはたおりがいました。
まだ若者でしたが、彼の織った布地《ぬのじ》の色どりの美しさと、手ざわりのよさにかなう者はめったにいませんでした。そのうえ、これほど仕事熱心な男もめずらしかったのです。織り物をはじめたら、もう寝ることも食べることもわすれて、|はた《ヽヽ》の前にすわりつづけているのでした。
織り物をしていないとき、彼は、材料の糸を染めていました。樹《き》の皮や、草の根をつかって、思いどおりの色の糸ができるまで、やはり日がな一日、家の前にうずくまっているのでした。
また、ぼんやり寝ころがっているときには、新しい模様のことを考えていました。はたおりは、よく森で見かける、大きな藍色のあげは蝶を、布の中にとばせてみたいと思ったり、空の星を織ってみたいと思ったりしました。また、海を――あの大きな青い海そのものを、その音もにおいも輝きもいっしょにして、一枚の布の中に、すっぽりととじこめてみたいと考えました。そればかりか、目に見えないさまざまのものを織ってみたかったのです。たとえば、「夢」とか、「かなしみ」とか、「歌」とか、「しあわせ」とか、そして「むかしの思い出」とか……。
そんなことを考えているとき、はたおりのほおは、ばら色に燃え、胸は、コトコトと躍りました。けれど、まずしい島の人々が、このはたおりにたのんでくる仕事は、どれもこれもまったく単純な実用品ばかりでした。そしてまた、彼の持っている道具も糸も、実用品を織るにふさわしい、そまつなものでしかありませんでした。
ただただ、はたおりの夢ばかりが、ふつりあいに大きかったのでした……。
さて、ある晩のこと。このはたおりの家へひとりの男がたずねてきました。
霧にまぎれて、足音もたてず、まるで、くらやみの切れはしのように、この男は、やってきたのです。男は、はたおりの家の戸口に、ぺたりと耳をつけて、しばらくのあいだ、家の中から聞こえる規則正しい|はた《ヽヽ》の音に聞き入っていましたが、やがて、小さくコツコツと、とびらをたたきました。そして、中からの返事も待たずに、黒い蝶のようなす早さで、するりとはたおりの家の中にはいりこみました。
「こんばんは。ご精《せい》が出ますね」
男は、いきなりそういいました。
|はた《ヽヽ》のところだけがランプで照らされたほの暗いへやです。へやのすみでは、はたおりの小さい弟が、寝息をたててねむっていました。はたおりは、思いがけない人声に、ぴくりと肩をふるわせてふりむきました。すると、そこには、黒ずくめの服を着た小さな老人が立っていたのです。ランプの光をあびて、目だけが緑色に見えました。
「こんなにおそく、いったい何のご用で……」
用心しながら、はたおりはたずねました。すると、相手は、ひくい声で、はっきりとこういいました。
「仕事をひとつ、おねがいにきました」
「…………」
それがどんな仕事なのか、はたおりには、なんとなくわかるような気がしました。悪魔のおつかいというのは、よくこんなすがたで、夜おそくやってくるのだと聞いていましたから。
村の大工は、いつかやっぱり、こんな男に仕事をたのまれて、もう少しで、おそろしい悪魔のすみかにつれてゆかれるところだったといいます。とちゅうで、かなづちをわすれたからとかけもどって、やっとたすかったのだということです。
――その、むかえの男の目ときたら、緑色の火のようで、こいつに見すえられたら、もうおしまいだと思った。おれはなるべくその目を見ないように見ないように、こう、目をふせて話をしたんだ。それから、いっしょにきてほしいといわれて、しばらくあとをついてゆくと、ほれ、あのジャングルの中へはいってゆくじゃないか。おれは、とっさに、あ、わすれもんだーってさけんで、いちもくさんにかけもどった。追っかけてきたかって? さあ、そいつあわからない。おれは、一回も、うしろ見なかったもんなあ。――
ついひと月前に聞いた大工の話が、ありありと思いだされて、はたおりは、ぶるっと身ぶるいしました。そういえば、こういった話は、ほかにもいくつか聞いたことがあったのです。
(とうとうおいでなすった)
はたおりは、どうやって、この男を追いかえそうかと、全身で考えました。が、考えがまとまらないうちに、相手が用件をきりだしたのです。
「ぜひ、あなたに織っていただきたいものがあるのです」
老人のことばは、しずかで、ていねいでした。はたおりは、そのことに、よけいどぎまぎして、
「い、いま、とてもいそがしくてねえ、仕事がいっぱいあるんだ……」
と、聞きとれないほど小さな声でいいました。すると、男は、つかつかと、はたおりのそばへきて、織りかけの布地《ぬのじ》を手にとって、つくづくとながめると、
「もっと上等の糸で織ったら、あなたの仕事も、いちだんと見ばえがするだろうに……」
と、ひとりごとのようにつぶやいたのです。
(もっと上等の糸?)
はたおりの心は、少しうごきました。じっさい、彼は、ついさっきまで、そのことを考えていたのでしたから。身分の高い人たちが使う、あのつややかな絹糸や、金銀の糸を使って、一度思いきり美しいものをこしらえてみたいものだと……。すると、男は、もうはたおりの心の中がちゃんと見えるように、こういうのでした。
「緑の絹糸、日の光より上等の金の糸、月の光よりしなやかな銀の糸、そんな材料を使って、ぜひあなたに織ってもらいたいものがあるのです」
「そ、そんな糸が、いったいどこにあるんです?」
はたおりは、あこがれとおそれの入りまじった目で、おどおどと男を見つめました。
男は、しずかにいいました。
「わたしについてきてください」
これを聞いてはたおりは、しぼり出すような声をあげました。
「ジャングルの中なら、おことわりだ」
男は、ふとかなしそうな顔をしました。それから、うちあけるように、
「わたしはけっして悪魔なんかじゃありません」
と、いうのです。
「ある尊《とうと》いおかたのために、おねがいにあがったのです。あなたをだましたり裏切ったりする気もちは、これっぽっちもありません」
なるほど、そう思って見ると、この老人の顔には、気品がありました。彫《ほ》りの深い目鼻だちが、どこかしら由緒《ゆいしよ》ありげに見えました。大工がいった、火のようにもえる緑色の目というのも、それはそれで、勇気と忠誠のしるしというふうに見えました。だいいち、あの大工は、ジャングルの中へはいってみたわけではないのです。それならいったいどこに、この男が悪ものだという証拠を見たというのでしょうか……。
(あいつは、おくびょうものなんだ)
はたおりは、そう思いました。それから、こうも考えました。
(それに、金糸銀糸を|はた《ヽヽ》にかけて、思いどおりの仕事ができるのなら、少しぐらいおそろしい思いをしたって……)
そこで、今度は、すっかり落ちついて、こうたずねました。
「ジャングルの中には、|はた《ヽヽ》があるんですね?」
すると老人は、ほっとしたようにうなずきました。
「ありますとも。りっぱなへやにりっぱな|はた《ヽヽ》が、あなたを待っています」
そこで、はたおりは決心して、
「それじゃ、おともしましょう」
と、いいました。
ほんのしばらくのつもりでした。あすの朝までには帰ってこられるような、そんな気もちでいったのでした。
はたおりは、ふしぎな男のあとについて家を出ました。
月も星もない晩でした。海のうねりだけが、かすかに白《しら》んで見える道を、ふたりは一列になって、ひたひたと歩いてゆきました。
男は、はだしでした。はたおりも、はだしでした。ふたりの歩調は、よくそろっていました。それだけのことで、はたおりは、前を行く男のことばも心も信じられるような気がしていました。
道は、海からそれて、ゆるい坂になり、森の方へとつづきました。森のおくで、鳥が、ほうほうと鳴いていました。風は、ありません。森は、息をひそめている黒い大きな生きもののようでした。
「だいぶおくなのですか」
はたおりがたずねると、前を行く男はうなずいて、
「ずいぶんおくです。たぶん、これまでだれも行ったことのない場所でしょう。けれど、どうかご心配なく。お帰りのときも、必ずこうしてお送りしますから」
それで、はたおりは、安心できました。男は、生い茂った草のつるを、両手ではらいのけて道をつくりながら、まるで野生の猿のように進んでゆくのです。はたおりは、そのあとに、ただぴったりついてゆくだけですみました。
はたおりの心は、新しい仕事のことでいっぱいでした。織り上がった美しい布を目にうかべると、もうどんなに遠くまででも歩いてゆきたいと思いました。こうして彼は、まるで、前を行く男の影のようになって、進んでいったのです。
ジャングルのところどころに、おそろしく大きな赤い百合《ゆり》が咲いていました。その、むせかえるような花のにおいが、はたおりの頭を、くらくらさせ、強いお酒を飲んだあとのような気分にさせました。はたおりはいつか、家を出てから、いったいどれほど時間が過ぎたのかわからなくなりました。
「まだですかあ」
はたおりは、いくどか、間のぬけた声でたずねてみました。すると男は、きまって、
「もう少しです」
とこたえるのです。そして、やっぱりおなじ足どりで進んでゆくばかりでした。そんなふたりをからかうように、木の上の鳥が、けたたましい声をあげました。
こうしてふたりは、なんと三日も歩いたのでした。
緑の昼と黒い夜は、規則正しくかわるがわるやってきました。日がのぼると、前を行く男は、黒い服を頭からすっぽりかぶって、おしだまって歩き、夜になると、ひと休みして、火をおこして、バナナを焼きました。
三日目の夜、はたおりは、ずっとおくの木々の間に、かすかなあかりらしいものを見つけて、はっとわれにかえりました。それは、ずいぶん高い位置にありました。
「あれは……」
はたおりが、ゆびさしてたずねると、前を行く老人はうなずいて、
「あそこが、わたしたちの塔なのです」
と、こたえました。
「塔」
はたおりは、ふしぎな気がしました。塔などというものは、話に聞くだけで、一度も見たことがなかったのです。村には、屋根を、ヤシの葉でふいた、軒の低い家々があるだけでしたから。
「塔というのは、ずいぶん高いものなんだなあ」
はたおりは、その光を見上げて、あこがれるようにつぶやきました。すると男は、とくいそうに、
「高いですとも。このあたりのいちばん高い木とおなじくらいの高さです。今あかりのついているあそこが、あなたのおへやなのです。あのへやに、あなたがこれから使う|はた《ヽヽ》と糸があるのです」
「…………」
はたおりは、すっかり感心しました。それにしても、あんなに高いところで、いったい何を織らされるというのでしょうか……。
そんなことを考えているうちに、いつかふたりは、森のおくの塔の下にたどりついたのでした。よくよく目をこらすと、その灰色の建物には、あかりのついていないいくつもの窓があって、その、下から五番目、つまり五階の窓だけが、星をひとつともしたように明るかったのです。
「では、ご案内しましょう」
男は、塔の中へ、するりとはいりました。
塔の中は、まっくらで、しずまりかえっていました。男は、慣れた足どりで階段をのぼりはじめました。はたおりは、そのあとから、おくれないように、けんめいについてゆきましたが、階段のけわしさは相当のもので、とても休みなしにのぼってゆくことはできません。
「も少し、ゆっくりのぼってくださいよ」
かすれた声で、はたおりは、たのみました。老人の足どりは、少しおそくなりました。はたおりは、立ちどまって、荒い息をしずめてから、そっとたずねてみました。
「ねえ、いったい、この塔にはだれが住んでいるんです? ほら、下の方のあかりのついていない窓、あそこにはだれがいるんです?」
すると老人は、ひくいくぐもり声で、こんな歌をうたいました。
「ぎんぎん銀のお月夜に
あやしい風が吹いてきて
緑の木の葉はとばされた
千里のかなたへとばされた
のこったものは四枚のはなびら
クックル ククー」
はたおりは、階段をのぼりながら、この歌をそっとくりかえしてみましたが、さっぱりわけがわかりませんでした。
やがて、ふたりは、塔の五階につきました。階段をのぼったところの重たいとびらをギイとおすと、そこが、あのあかりのついたへやだったのです。
壁にとりつけた燭台《しよくだい》に、一本のろうそくがゆらめいていました。その青白い光に照らされて、大きな|はた《ヽヽ》と、金銀の糸が、ぱっとはたおりの目にはいりました。
「これだこれだ!」
はたおりは、へやの中にかけこんで、思わず糸のたばにふれてみました。金銀の糸は、さらさらとして、つめたい水の手ざわりににていました。ああ、こんな糸をつかって織り上げたら、どんなにか美しい布ができることか……。
「これで、身分の高い人の晴れ着でも織るんですね」
はたおりは、いきごんで、たずねました。すると、老人は、そっと首をふりました。
「ああ、それじゃ、壁かざりですか。いいのができますよ」
老人は、また首をふると、しずかにこういいました。
「この糸を使って、一枚の旗を織ってほしいのです」
「旗というと、つまりその……」
はたおりは、片手をひらひらとふってみました。
「そう。この塔のてっぺんにひるがえす、ま四角の大きな旗を」
「…………」
「つまり、王家の旗です。旗の中に、緑色のおすのくじゃくを一羽、大きくうきだしてほしいのです」
「おすのくじゃく……すると、はねのきれいなやつですね」
「そうです。緑の尾ばねを、思いきりひろげたすがたです。はねには、黒と銀のまるい模様があります。とさかは、黒い王冠です」
はたおりは、目をつぶって、みごとなくじゃくのすがたを思いうかべてみました。その耳にそっと口をよせて、老人は、こんなことをいいました。
「いいですか。緑のくじゃくですよ。けっして、ほかの色ではいけませんよ」
「わかりました。尾をひろげた緑のくじゃくですね。すばらしいのができそうだ」
はたおりは、ひくい声で、うなるようにこたえました。そして、こんな仕事は、あとにもさきにもはじめてだと思うと、もう腕がなって、今すぐに、仕事をはじめたいと思うのでした。老人は、そんなはたおりのようすを、満足そうに見つめて、
「それでは、今夜は、ここで休んでください。そして、夜が明けたら仕事にかかってください」
と、いいました。
気がつくと、へやのすみには、竹で編んだ寝台がありました。それを見つけたとき、はたおりは、家にのこしてきた弟のことを思いだしました。弟は、やっと十になったところです。今ごろは、きゅうにいなくなった兄をさがしまわって、泣いているかもしれません。
(ひとこと、ことわってくるんだったなあ。大きな旗を一枚織るのに、十日や二十日で帰れるわけがない。いや、ひょっとして、ひと月以上かかるかもしれない……)
けれど、ほんのしばらく考えたあと、はたおりは、弟のことをわすれることにしました。自分が帰るまで、弟は村の誰彼《だれかれ》の世話になって、けっこう元気にくらすことができるでしょう。
(あいつが二、三日泣いても、おれが、こんなよい仕事をして、うでをあげて帰れるなら、けっきょくは、そのほうがいいにきまっているんだ)
そう思うことで、はたおりの心はおちつきました。じっくりと腰をすえて、仕事をしてみようという気もちになれました。
「よし、あしたからやらせてもらいましょう」
はたおりは、職人らしく、きっぱりといいました。黒ずくめの男は、あの燃える目を輝かせてうなずくと、こんなことばをのこして、へやを出てゆきました。
「たのみますよ。あなたの食べものは、わたしがはこんできます。あなたは、はたを織りあげることだけ考えてください。ほかのことは、何も考えないでください。よけいなことを知ろうとしたり、見ようとしたりしないでください」
*
はたおりは、いわれたとおりに働きました。ふしぎな塔の中で、何のために使われるのかわからない布地を織ることに専念しました。
塔の五階の窓からは、日がな一日、規則正しいはたの音がひびきました。
夜になると、あの男が、水と食べものをはこんできました。ふしぎなことに、はたおりは、ここへ来てから、一日に一度、ほんの少しの食事をするだけで充分でした。それも、草の実や、木の芽や、果物ばかりの。ときどき、窓の下で、「フゥー、フゥー」という鳥の声が聞こえたり、風が木の葉をばさばさとゆする音が聞こえましたが、はたおりは、窓の下を見ることすらしませんでした。
こうして、いく日か過ぎたのです。ほんとうのところ、いったいいく日過ぎたのか、はたおりにもよくわかりません。布地の中に、二本の鳥の足が、やっと織りこまれ、これからいよいよ、くじゃくの、あのみごとなはねにとりかかるところでした。
日は暮れかけて、へやの中は、青むらさきの光に満たされていました。テーブルの上には、つい今しがた、老人が置いていった食べものの皿がありました。
はたおりは、目をつぶって、これから描《えが》くくじゃくのはねの模様を思いうかべていました。彼の頭は、仕事のことでいっぱいでした。それで、ずっとさっきから、うしろのとびらがほそくあいて、そこから、いくつもの大きな目が、じっと自分を見ていることに、少しも気づきませんでした。
「何をこしらえてるの?」
うしろから、いきなり、そんなふうによびかけられたとき、はたおりは、ふとべつの世界の声を聞いたような気がしました。それは、ことばではなくて音――そう、つりがね草が歌をうたったら、たぶんこんな音をだすでしょう。
「何をこしらえてるの」
「何をこしらえてるの」
「何をこしらえてるの」
ふりむいて目をこらすと、ほそくあいたとびらのすきまから、いく人もの娘たちが、じっと自分を見ていたのです。いくつもの緑の目が、はたおりには一瞬、これから織りはじめるくじゃくのはねの模様のように思われました。はたおりは、何がなんだかわからなくて、目をしばしばさせていました。
すると、とびらが大きくあいて、長い黒い髪の娘たちが、どっとへやの中にとびこんできたのです。娘たちは、はたおりのまわりをとりかこんで、
「何をこしらえてるの」
と、声をそろえてたずねました。
はたおりは、なんだかまぶしくなって、目をふせて、どぎまぎしながら、「くじゃくの」と、それだけこたえて目を上げると、そこには四人の、まだ若い娘たちがかがみこんで、織りさしの布地をじっと見ていたのでした。はたおりは、少しほっとしました。
(なんだ、もっとおおぜいかと思ったら、四人だけか)
四人の娘たちは、髪に思い思いの花を一輪ずつかざっていました。大きなまるい金の耳輪をしていました。はたおりの目には、それがとてもまぶしく思えました。こんなりっぱな装飾品を、村の娘たちはだれも身につけていませんでしたから。
「どこからきたんだね」
はたおりは、ぼそっとたずねました。すると、娘たちは、順々にこたえました。
「四階から」
「三階から」
「二階から」
「一階から」と。
どれもこれも、おなじ顔をしていました。まるで、一度に生まれてきた四人|姉妹《しまい》のように。
「なるほど。それじゃ、あなたたちは、この塔の……つまり、その、四枚の花びらか」
ここへくるとき、あの案内の男がつぶやいた歌を、はたおりは思い出しました。すると、四人の娘たちは、うなずいて、まるで、なぞなぞの答えをあかすように、声をそろえてうたいました。
「四枚のはなびらお姫さま」と。
「ほう……お姫さま」
そう思ってみると、この娘たちの顔には、どこかしら気品がありました。はたおりが、すっかり感心していますと、四階のお姫さまがいきなりこんなことをいいました。
「あたくしのへやは、このすぐ下でしょ。毎晩、音がうるさくて、ねむれやしない」
「音って、何の音さ」
「ほら、とんぱたとんぱたって」
すると、あと三人の娘たちも声をそろえて、
「ほんとにねむれやしない」
と、さけびました。そういえば、はたおりは、毎晩、ずいぶんおそくまで仕事をしていたのです。
「ふうん……。だけど、そんなにひびくものかなあ」
はたおりは、自分のはたの音が、塔の一階や二階までひびくなんて、とても考えられないと思いましたが、あんまりあれこれいうのもどうかと思って、
「そりゃ、わるかったですねえ」
と、あっさりあやまりました。すると娘たちは、もうそんなことはどうでもいいという顔つきで、また、|はた《ヽヽ》にかかった布に身をのりだして、口々に、
「何をこしらえてるの」
と、たずねるのでした。はたおりは、少しとくいになって、
「旗。くじゃくの旗」
と、こたえました。
「すばらしいやつさ。こうはねをひろげたみごとなくじゃくが、これからここに、ぽーっとうかび上がるんだ。ほら、これが、そのくじゃくの足で……」
はたおりの話がおわらないうちに、四人の顔は、びっくりするほどしんけんになりました。やがて、一階のお姫さまが、そっと、はたおりのそばへ寄ってきて、耳うちするようにたずねました。
「それは、銀のくじゃく?」と。
「いいや、緑だ」
はたおりは、銀のくじゃくなんて、見たこともなかったのです。くじゃくといったら、青か緑か、せいぜい紫にきまっていると思っていました。すると今度は、二階のお姫さまが、耳輪をゆすって熱心にいいました。
「銀色のになさいよ。ね、銀色のに」
三階のお姫さまもいいました。
「どこからどこまでも銀色なの。冠から、つばさから、足の先まで」
「そう、声まで銀色なの」
と、四階のお姫さまがいいました。
はたおりは、あきれかえって、
「声まで銀色だって?」
と、さけびました。
「だいいち、くじゃくがどんなふうに鳴くのか、知ってるのかい?」
そうたずねますと、お姫さまのひとりは胸に手をあてて、
「フゥー、フゥー」と、鳴いてみせました。
はたおりは、おやっと思いました。それはよく、昼間、塔の下で鳴いている鳥の声にそっくりでしたから。
「フゥー、フゥーか。あれがくじゃくの声か。なるほど。すると、このあたりには、ずいぶんくじゃくがいるんだなあ」
はたおりは、感心していくどもうなずきました。お姫さまたちはよろこんで、いっせいに胸に手をあてると、声をそろえて、フーウ、フーウと、鳴いてみせました。はたおりは、わらいころげながら、
「それじゃ、銀色のくじゃくは、どう鳴くんだい?」
と、たずねました。
一瞬、四人は、顔を見あわせました。そして、なんだかとてもこまったような顔つきで、首をふりました。やがて、四階のお姫さまが、ぽつりと言いました。
「知らないわ。まだ会ったことないんだもの」
「そりゃそうだろ。そんなくじゃくは、いるわけがないもの」
はたおりが、そういいますと、三階のお姫さまは早口に、
「いるの。ほんとにいるの。それは、くじゃくの王子さまなの。あたくしたち、銀色のくじゃくがくるのを、毎日待っているの」
と、いうのでした。そして、小さな両手を組んで、うっとりと窓の外をながめるのです。
そのようすを見ているうちに、はたおりはふと、とっぴょうしもないことを考えつきました。もしかして、この人たちは、くじゃくなのじゃないだろうかと――。このジャングルのおくに、ひっそりと生きているくじゃくの化身なのじゃないかと。
はたおりは、子どものころ、夜になると、人間にすがたを変えるくじゃくの話を聞いたことがありました。くじゃくは、高貴な鳥です。鳥の中の貴族です。だから、めすのくじゃくが、人間のすがたになれば、こんなお姫さまになるのかもしれません……そう思ってながめると、お姫さまたちのようすには、どことなく神秘的なものがありました。ちょっと首をかしげたり、長い髪を、さらさらとふったりするとき、あたりに、なぞめいた香木《こうぼく》のかおりが、ただようのです。また、大きく見ひらかれた目の中に、ちらっと鳥の影がうつるように思われることもありました。
「あなたたちの、お父さんやお母さんは?」
はたおりは、そっとたずねてみました。すると、四人は、そろって首を横にふりました。
「それじゃ、ほかの人たちは? つまりその、けらいとか、めしつかいとか……」
するとお姫さまたちは、声をそろえて、
「今じゃ、じいやがひとりだけ」
といいました。
(すると、この塔にいるのは、四人のお姫さまと、あの老人だけで、ほかにはだれもいないんだ。ああ、きっと、ほろびかけているくじゃくなんだ……)
ほろびかけた王国を再興するために、あのとしとった忠実なけらいは、まず旗をたてることを考えたのかもしれません。
(なるほど、塔のてっぺんに、くじゃくの旗をかかげて、同志をよびあつめようとでもいうのかもしれない)
これまで布を織ること以外にまったく心をうごかされることのなかったはたおりの心に、あとからあとから、さまざまの疑問がわいてきました。そのはたおりのまわりで、むじゃきなお姫さまたちは、耳輪をぴらぴらゆすりながら、銀のくじゃくの話に花を咲かせているのでした。
「あたくしたちのお父さまやお母さまが、きゅうにどこかへ行ってしまったのだって、ねえ、銀のくじゃくのせいなのよ」
「そう。銀のくじゃくは、あんまり美しくて、一目見たら、もうどうしても、そのあとをついて、とんでゆかないわけにはいかないのですって」
「それで、お父さまとお母さまは、暖めかけた四つのたまごのことなんか、けろっとわすれて、とんでいってしまったんですって」
「そのあとについて、ほかのみんなも、とんでいってしまったんですって」
「そ。わたり鳥みたいに、行っちゃったんですって」
まるで、ガラスの鈴をふるように、四人のおしゃべりはとまりません。それで……それから……そうそう、それから……というぐあいに、いつまでも、いつまでもつづいてゆくのです。
いつか、はたおりは、頭がくらくらしてきました。両手をひたいにあてて、しばらく、|はた《ヽヽ》の上にうずくまっていますと、
「ねえねえ、はたおりさん」
と、お姫さまは、声をそろえてよぶのでした。
「あたくしたちも、銀のくじゃくに会いたいの。そして、遠くへ行きたいの」
「だから、ねえ、塔のてっぺんには、銀のくじゃくをかざってちょうだい」
「そうすればきっと、銀のくじゃくは、あたくしたちをむかえにきてくれるから」
きみょうなことに、だんだんはたおりは、自分も銀のくじゃくに会いたいと思うようになりました。せめて、これから織り上げる布地いっぱいに、はねをひろげた銀のくじゃくをうかび上がらせてみたいと思うようになりました。
けれども、このとき、あの老人との約束を思いだして、はたおりは、はげしく首をふってつぶやくのでした。
「いやいや、そんなわけにはいかないなあ」と。
やがて、しらじらと夜が明けてきました。
すると、お姫さまたちは、ぴたりとおしゃべりをやめました。それから、落ちつかない目つきで、きょときょとまわりを見まわすと、あいさつもせずに、へやをとび出していったのです。はたおりが、あっけにとられているうちに、お姫さまは、階段をかけおりて、どうやら、それぞれのへやへ、もどっていったようでした。
はたおりはとうとうひと晩、仕事もできなければ、ねむることもできませんでした。
やれやれといった顔つきで、はたおりは、窓によりかかって、なんの気なく、窓の下を見やりました。
すると、すぐ下の四階の窓わくに、緑色のめすのくじゃくが、ちょんととまっているではありませんか。体をのりだしてながめると、三階の窓にも一羽、二階の窓にも一羽、一階の窓にも一羽……そして、いちばん下の地面には、年をとって、はねのぬけ落ちたおすのくじゃくが、長いしっぽをふりながら、するどい目で、じっと空を見あげていたのです。はたおりは、どきっとして窓からはなれました。
*
その夜、あの男が、いつものように、食事をはこんできました。そのお皿を見やりながら、はたおりは思いました。
(これは、くじゃくの食べものじゃないだろうか)
そう考えると、これまではなんとも思わず食べていたものが、どうにもふしぎなにおいがするような気がしてならなくなりました。
(こんなものを食べて、それも、これっぽっちの量で、よくこれまで生きてこられたもんだ)
はたおりは、もしかしたら、自分の体が知らないうちに、魔法にかけられているのじゃないかと思いました。
食事をはこんでくるたびに、老人は、|はた《ヽヽ》にかかった布をのぞきこんで、その日のはたおりの仕事を、たしかめるのです。まるで、きびしい監督のような顔つきで。それは、だんだん織り上がってゆくくじゃくの色が、緑にまちがいないかどうかを、いっしんにたしかめているように見えました。そして、ときどき念をおすように、
「くじゃくの色は、緑ですよ」
と、いうのでした。
この日、はたおりは、そっとためすように、
「ほかの色ではいけませんか」
と、たずねてみました。すると老人は、
「ほ、ほかの色だって!」
と、もうとんでもないという顔つきをするのでした。そして、顔をまっ青にして、腕をぶるぶるふるわせながら、
「く、くじゃくに、ほかの色があるでしょうか」
と、はたおりのそばへ、つめよってきました。
はたおりは、しばらくだまってから、小さな声でささやくように、そっといってみました。
「たとえば銀色」と。
「…………」
老人は、あっけにとられたように、はたおりの顔を、まじまじと見つめていましたが、やがて、そのしわだらけののどをコクリとならして、うめくように、
「あれは、まぼろしだ」
と、いいました。
「銀のくじゃくが、ほんとうにいるわけがない。あれは、雲や虹とおなじようなものなんだ。おてんとさまやお月さまのぐあいで、遠い空にちらっと見えて、すぐにきえてしまうまぼろしなんだ。そんなものを追いかけて、みんなとんでいってしまったんだ。のこったのは、四人のお姫さまだけ……そのお姫さまがたが、また銀のくじゃくにあこがれはじめた。ああ、緑のくじゃくの王国は、もうほろびかけている……」
男は、頭に両手をあてて、ゆかにうずくまりました。
「ああ、ああ、ほろびかけている」
はたおりは気の毒になって、老人の横にかがみこむと、なぐさめるようにささやきました。
「すると、あなたひとりで、きょうまで努力してきたんですねえ」
老人は、つかれはてた顔つきで、うなずきました。もう何もかも知られてしまっていることに、今さらあわてはしませんでした。
「ああ……」
老人は、あえぐようにこたえました。
「むかしの美しい王国を、わたしはここに再現したいのです。おおぜいの緑のくじゃくが、ここで平和に暮らしていました。王さまくじゃくの祝宴、木の実ひろいの会、泉のほとりの散歩……ああ、そんな、のどかな日々を送りながら、いったい、どんなくらしにあこがれて、みんなは、とんでいってしまったのでしょう……。
わたしは、遠くへ行った、たくさんの緑のくじゃくたちを、よびもどすために、高い塔をたてて、そこに、王国の旗をかかげることを考えました。それには、どうしても、人間の力をかりるしかないと思って、わたしは、村へ、よびにいったのです。あっちの家、こっちの家とたずね歩いて、大工や石工を」
「そうして、はたおりには、わたしが選ばれたというわけですね」
老人は、うなずきました。
「ええ。どうかおねがいだ。旗には、まちがいなく緑のくじゃくを織り上げてほしい」
このとき、老人は、とてもおそろしい顔をしました。はたおりは、ふと背すじが寒くなりました。もし、この約束をたがえたら、この男はきっと自分をどうかするでしょう。そして、二度と村へは帰れなくなるでしょう。弟の顔も、見られなくなるでしょう……。
そんな、はたおりの心が、ちゃんとわかるように、男はいいました。
「わたしは、ずっと王家の魔術師でしたからね」と。
「魔術師ですと?」
「そう。わたしは、生きもののすがたをけすことだってできるんですよ」
けれど、それは、ほんの少しのあいだでした。男は、すぐにしずかな顔つきになりました。
「いや、これは、あなたが約束をたがえて、銀のくじゃくなんかをこしらえたときの話。約束どおり、緑のくじゃくを織り上げてくださったなら、わたしは、あなたにたっぷりおみやげをつけて、村までお送りしますよ」
これを聞いて、はたおりは、少し安心しました。
(まったくだ。そうでなくちゃ、かなわないよ)
はたおりは、少し臆病になっていました。そういうことなら、まちがっても、銀のくじゃくなど織るまいと思いました。老人は、はたおりが、緑の糸を|はた《ヽヽ》にかけるのを見とどけると、ほっとした顔つきで、へやを出ていきました。はたおりは、またしずかに、仕事をはじめました。
ところが、それから一時間もたたないうちに、あの四人のお姫さまが、どやどやとやってきたのです。お姫さまは、ゆうべとおなじように、はたおりのそばによってきて、布をながめていましたが、やがて、四人が四人、口をとがらせて、不服そうにたずねました。
「銀のくじゃくは?」
「…………」
「ねえ、銀のくじゃくは、まだできないの」
そう聞かれると、はたおりの心は、しぼんだ花のようになりました。うつむいて、あいまいな返事をしながら、だんだん胸がいたくなるのでした。
四人のお姫さまは、毎晩やってきて、おしゃべりをしていくのです。ときどき、うれたマンゴーの実を、どっさり持ってきて、はたおりにすすめました。
「そんなもの、食べてるひまはないなあ。仕事がいそがしくて」
はたおりがそういうと、お姫さまは、きゃらきゃらとわらいながら、かわるがわるマンゴーの皮をむいて、はたおりの口へはこんでくれました。それからまた、耳もとで、銀のくじゃくの話をするのです。
銀のくじゃくのことを話すとき、四人の目は、どれもこれも、あこがれでいっぱいになりました。そのいくつもの目に見つめられると、はたおりは、なんだか、やりきれないほどせつない気もちになりました。
やがて、はたおりは、こんなふうに思うようになりました。
いっそ、自分が、銀のくじゃくになってしまいたいと――。もしも、自分が、そのりりしい鳥に身を変えることができるなら、もう人間の暮らしは、すててもよいとさえ。
いつのまにか、そう、自分でも気づかぬうちに、はたおりは、四人のお姫さまが、すきになっていたのです。四人の中の、とくにだれがすきというのではありません。ただ、四人のお姫さまにとりかこまれると、はたおりは、におやかな花園にすわっているような気がして、胸がふるえるのでした。そのはなやかな笑い声を聞いていると、そわそわしてきて仕事がはかどらなくなるのでした。そして、この人たちが、こんなにもあこがれている銀のくじゃくに、自分がなれたらと、本気で考えていることが、よくあるのでした。
けれど、そんな願いは、かなうはずもありません。はたおりは、目をつぶって、首をふって、つまらない夢を、ふりおとそうとしました。その耳もとで、お姫さまたちは、かわるがわるささやくのです。
「ね、おねがいだから、銀のくじゃくを織って。じいやのことなら、ちっともこわがらなくていいのよ」
「そうよ。銀のくじゃくの旗が、塔の上にひるがえりさえしたら、ほんものの銀のくじゃくが、むかえにくるんだから」
「そうしたら、今度こそ、じいやだって、じっとしていられなくなるわ」
「あたくしたちといっしょに、とんでゆくわ。この森をすてて、ひろびろとした輝いた国へ、みんなで、とびたつのよ」
ひろびろと輝いた国――。
このことばを聞くと、はたおりの胸も、ふくらみました。ああ、そんなことを、自分も考えたことがあったのです。弟と浜へ行って、砂の上にねそべっているとき、この小さな島をすてて、海のむこうの知らない国へ、行ってみたいと思ったことが……。
そしてこのとき、はたおりの心に、ふいと、すばらしい思いつきがうかびました。
一枚の布に緑のくじゃくと、銀のくじゃくを同時に織ることです。よほど腕ききの職人でなければできないこの仕事を、はたおりは考えついたのでした。
つまり、裏糸に銀を使い、表の糸には緑を使って織るのです。すると、できあがった一枚の布地の模様は、表から見れば緑、裏から見れば銀です。そして、老人には、表のくじゃくだけを見せ、お姫さまには、裏返して、銀のくじゃくを見せるのです。自分の命もたすかり、かわいいお姫さまたちの願いもかなえることのできるこの方法を思いついて、はたおりの心は、少しらくになりました。
「ねえ」
と、はたおりは、お姫さまたちに話しかけました。
「どうだろうか。わたしは、これからここに、銀のくじゃくを織ってあげるから、それは、約束するから、できあがるまでは、仕事を見にこないでほしいんだ。そばでじっと見ていられると、気が散ってしかたがないんでねえ」
お姫さまたちは、しばらくだまって顔を見あわせていましたが、やがて声をそろえて、
「ほんと?」
と、聞きました。
「ほんとに、銀のくじゃく、できるのね」
「かならず、銀のくじゃくなのね」
「まちがいないわね」
「やくそくするわね」
はたおりは、心をこめて、きっぱりとこたえました。
「ああ、約束だ。まちがいない」
さあ、それから、はたおりは、われをわすれて仕事にうちこみました。一枚の布の裏と表に一度に色のちがうくじゃくをうかびあがらせること、そして、それがどちらから見ても表に見えるように、きれいにしあげること――それは、これまで、一度もためしたことのないむずかしい技法です。腕ききのはたおりも、ときどきまちがってはなおし、なおしてはためらい、なかなかはかどりません。そして彼は、いつか、このふしぎな仕事に、のめりこむように熱中していきました。
はたおりの心は、ただただ、一羽のくじゃくにそそがれていました。ひとつの体で、緑と銀と、両方のすがたをもっている、美しい鳥に……いいえ、ほんとうのところ、はたおりの心は、裏がわのくじゃくにだけ注《そそ》がれていました。手さぐりでつくり上げてゆく一羽の銀の鳥にだけ。
それは、目の見えない人が、心の目で、ものをつくるのににていました。銀のくじゃくをかたちづくるひとすじひとすじの糸には、はたおりの手さぐりの愛情と夢がこめられてゆきました。
老人は、毎晩やってきました。
けれど、|はた《ヽヽ》にかかったくじゃくは、いつ見ても、完全な緑なのでした。ひろげたはねの模様に、黒と銀色の玉が散っているだけで。その模様に使われた銀の糸のつづきが、布の裏がわで、ひそかに銀のくじゃくのすがたをつくっていることに、老人は、夢にも気づいていないのでした。
「ご精がでますね」
と、老人はいいました。が、はたおりは、返事もしませんでした。それほど、仕事に熱中していたのです。
仕事が進むにつれて、はたおりの顔は、青ざめてきました。ますます食欲はなくなり、だんだん、やせおとろえてゆくようでした。
やがて、はたおりは、老人に、食事をさし入れてもらうことをことわりました。老人は、たしかに、緑のくじゃくができてゆくことに安心して、しばらくこないでほしいという、はたおりの申し入れを快くうけました。
塔の五階のはたの音は、昼も夜もつづきました。まったく休みなしに……。
こうして、いく日過ぎたでしょうか。ある晩、そのはたの音がぱたりととまりました。
一瞬、何もかもが死に絶えたようなしずけさになりました。
やがて、はたおりのへやのとびらを、四人のお姫さまが、はげしくたたきました。
「はたおりさん、はたおりさん」
「銀のくじゃくは、できたのかしら」
「ちょっとあけてもいいかしら」
「中にはいっていいかしら」
中からの返事は、ありませんでした。
四人は、とびらに耳をつけて、またよんでみました。
「はたおりさん、はたおりさん」
へやの中は、しずまりかえっています。
「きっと、はたおりは、おこっているのよ」
一階のお姫さまが、ひそひそとささやきました。
「いいえ、はたおりは、ねむっているんだわ」
と、二階のお姫さまがいいました。すると、三階のお姫さまが、おそろしそうにつぶやきました。
「ううん……ひょっとして、はたおりは死んだのかもしれない……」
四人は、ぞっとして、青ざめた顔を見あわせました。それから、ほそめにとびらをあけて、中をのぞきこむと、口々に、かん高い声をあげたのです。
「はたおりが、きえちゃった!」
そこに、はたおりのすがたは、なかったのです。
まったく、影もかたちも。
まるで、草の上の露がきえるように、はたおりのすがたはなくなっていたのでした。
にげてゆくにしては、あんまり早すぎます。|はた《ヽヽ》の音がとまって、ほんのひと呼吸かふた呼吸のあいだのことなのですから。
四人のお姫さまは、へやの中にとびこんでゆくと、たった今織りあがって、|はた《ヽヽ》にかかったままの布を、じっとながめました。
布の中のくじゃくは、みごとな緑のはねをひろげていました。それは、まちがいなく、王国の旗でした。そのきらびやかな色あいに見とれながら、四人のお姫さまは、布地を、|はた《ヽヽ》からはずしました。そして、なんの気なく、布を裏返して、目を見張ったのです。
そこには、銀のくじゃくが、美しいはねをいっぱいにひろげていたのですから。
何と高貴なすがたでしょうか。その冠は、みごとな銀細工のようでした。ひろげたはねの先は、まっ白い波しぶきのようでした。そして、その目は、生きていました。くろぐろと輝いて、どこか遠いところを、じっと見つめているのでした。
お姫さまたちは、息をつくのもわすれ、あこがれでいっぱいの目で、銀のくじゃくを見つめました。
「この旗を塔にたてたら、ほんものの銀のくじゃくがくるわね」
「ええ。きっとむかえにくるわ」
四人のお姫さまは、旗を持って、五階のへやをとびだすと、まっ暗な塔の階段を、かけのぼりました。
上へ上へ、貝のように巻きこまれた、らせん階段です。四人のお姫さまの、かろやかな足は、まるで、いく枚もの花びらのように、音もたてずに、塔のてっぺんにのぼっていきました。
そのあとを、ずっとおくれて、あの老人が、よろよろと階段をのぼってゆくすがたが見えました。
塔の上には、黄いろい満月が、ゆらりとかかっていました。四人のお姫さまは、塔のてっぺんに、たかだかと、あの旗をかかげました。
旗は、ぱたぱたと、風になりました。
旗の中の緑のくじゃくは西を向き、銀のくじゃくは東を向いていました。と、いきなり、東がわのくじゃくが、フゥと、ないたのです。それは、まぎれもなく、あのはたおりの声でした。
「ええ?」
お姫さまは、顔を見あわせました。
「銀のくじゃくが、ないたわ」
「はたおりの声で、ないたわ」
ああ、はたおりは、いつのまにか、布の中の銀のくじゃくに、体も魂もすいとられてしまっていたのでした。
「はたおりさん、はたおりさん」
お姫さまは、声をそろえてよんでみました。すると、布の中の銀のくじゃくは、きらきら光りながら、
「フゥー、フゥー」
と、なきました。
銀のくじゃくは、黒い森のむこうを、じっと見つめていましたが、やがて大きく口をあけて、こんな歌をうたいました。
「銀のくじゃくは、海の波」
「ええ?」
お姫さまたちは、びっくりして遠くをながめました。そして、かん高いよろこびの声をあげました。
「銀のくじゃくがいるわ、ほら、あそこに」
四人のお姫さまのゆびさしたあたりには、月の光に照らされた遠い遠い海が、キラリと銀色に光っていたのです。
「銀のくじゃくは、海の波」
海は、銀のくじゃくの歌声にあわせて、ゆらりゆらりと、ゆれて見えました。それは、はたおりの魂がよびよせた、まぼろしなのでしょうか。それとも、月の光のいたずらで、見えるはずのない遠い東の海が見えたのでしょうか……。夜明けの海は、大きな息をするように、ふくらんでいました。
「ほうら、むかえにくるわ」
「銀のくじゃくが、むかえにくるわ」
「くるわ」
「くるわ」
四人のお姫さまは、耳輪を、ぱらぱらとはずしました。それから、髪の花を、つぎつぎに足もとに落とすと、たちまち、くじゃくのすがたになって、ついついと、とび立ったのです。
遠い海へむかって、あの銀色の波へむかって――。
塔の上にのこされた老人は、そのすがたを、ぼんやりと見送っていましたが、やがて、うなだれて、よろめきながら、塔をおりていきました。
老いたくじゃくは、フゥフゥとなきながら、森のおくふかくきえていきました。
それから、ひと月も過ぎたころ。
十ぐらいの裸の少年が、このあたりにやってきました。少年は、
「兄ちゃん、兄ちゃん」
と、よびながら、森の中を歩きまわっていましたが、やがて、行く手に、おそろしく大きなガジュマルの木を見つけました。
その木は、二十メートルもあったでしょうか。枝は伸び、葉は生い茂って、まるで、大きな鳥か、けもののすみかのようでした。
この木のてっぺんには、ふしぎな旗がひるがえっていました。旗は、片側が緑、片側が銀色でしたが、いったい何が描《えが》かれているのか、あんまり高くて見ることができませんでした。
旗は、風にゆれながら、うたっていました。
「銀のくじゃくは、海の波
銀のくじゃくは、海の波」
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緑の蝶
いつかも、こんな夕ぐれがあったのです。
夕日が、庭の松の幹をあかあかと照らし、そのうしろの、つつじの花のしげみが火のようにもえて見えるひととき、ぼくは、花の上をとびかう、大きな緑の蝶を見たのでした。
去年もおととしも、そして、ずっと以前にも……。
その蝶のはねは、まるで、ビロードのようにつややかで、つかまえた人の指先を、たちまち緑色に染めてしまいそうに思えました。
が、去年もおととしも、ぼくは、この蝶をつかまえることはできませんでした。蝶は、ゆったりと、庭をとびまわりながら、いつか必ず、夕やみにまぎれてしまうのです。
ぼくは、胸をドキドキさせ、からだじゅうの神経をとぎすませて、この蝶を追って追って、追いつかれて、気がついたときには、うすくらがりの庭にぽかんととりのこされているのでした。
あの蝶は、いったい、何なのでしょうか。
まるで、夏のまえぶれのように、毎年、五月の庭にやってきて、ぼくをせいいっぱい夢中にさせたままきえてゆく、ふしぎな生きもの。
きょうこそぼくは、この蝶をつかまえようと、胸をときめかせていました。そのために、かるい運動ぐつをはきました。新しい網も用意しました。
そして今、赤いつつじの花の上で、いっしんにみつをすっている、あのつややかな緑のはねに向かって、ぼくは、ぬき足さし足、ちかづいているのです。蝶の呼吸と、ぼくの呼吸は、ぴったりひとつになっていました。まわりの緑も、いっしょに息づいていました。
風もなく、鳥も鳴かず、もの音ひとつしない夕ぐれ――きょうこそ、ぼくののぞみはかなえられそうな気がしました。
けれども、ああ、ぼくの白い網がぱっとみごとに、蝶の上にかぶさったと思ったとき、蝶はもう、舞い上がっていたのです。
ゆらりと、大きく、あざやかに。
そして、このとき、ぼくは思いがけない蝶の声を聞いたのでした。
網の下を、するりとぬけるとき、蝶は、なんと、わらったのでした。それは、女の人の、はなやかな高笑いににていました。ほ、ほ、ほ、ほ、という感じに、蝶はわらったのです。そしてわらいながら、庭のおくへおくへと、とんでいったのでした。
ぼくは、網をほうりだして、蝶のあとを追いました。木《こ》かげから木かげへ、植えこみからつぎの植えこみへ……。
それにしても、ぼくの家の庭は、それほど広くはなかったはずです。十五メートルも走れば、古い石のへいにぶつかるはずなのです。へいの向こうには、大通りがあるはずです。
それが、きょうはどうしたことか、ぼくが走れば走るほど、庭は広がってゆくように思われました。ぼくは、蝶を追いながら、見たこともない、ばらのアーチをくぐり、ひまわりの花畑なんかを走っていたのです。
まわりの緑はどんどん、濃く深くなってゆきました。それはもう、五月の庭ではなくて、たけなわの夏の森でした。
波だつ緑のおくで、蝶はときどき、ほほっとわらうのです。それは、ガラスでできた鳩笛《はとぶえ》のようなひびきでした。蝶は、どうやら、生い茂ったかしわの木の中にかくれているらしいのです。
ほほ、ほほ、ほ、ほ、ほ、ほ……。
耳をすますと、その声は、一ぴきではなくて二ひきも三びきもが、いっしょになって、わらっているように聞こえました。
走りつかれて、もう、たおれそうになりながら、ぼくは、その木の中へ手をのばします。息をひそめて見当をつけて、まるくかこった両手の中へ、緑の蝶をひょいととじこめる……。
あ、とうとうつかまえた。
そう思ったとき、ぼくの手は、大きなかしわの葉を一枚、つかまえているだけでした。
あたりは、しいんとしずまりかえって、それっきり蝶の声はしません。ぼくは、かしわの木の下に、ぺたりとすわりこんで、自分が迷いこんだ、ふしぎな森を見まわしていました。
このとき、うっそうと生い茂った木々のおくに、赤くちろちろと、何かが燃えて見えました。どうやら、たき火のようでした。だれかが、火をたいているのです。そして、そのまわりでわらっているのでした。
ほほほほと、いかにもたのしそうにさざめく声がかさなり合い、美しいコーラスのように聞こえました。
蝶の声!
ぼくは、はっとして、バネのように立ちあがると、そっちへ歩きはじめました。
うす暗い森の中で、たき火は、パチパチと燃えていました。そして、火のまわりには、緑の服を着た女の人が五、六人、立っていたのです。ぼくは、もう息がとまるほどおどろいて、目をまるくして、そのようすを見ていました。
それはまさしく、これまで木々の間を、めまぐるしくとびまわっていた蝶たちが、日ぐれに地上におりてきて、火を囲んでひと休みしているすがたでした。
ぼくは、思わず、たき火のすぐそばまで、かけてゆきました。
すると、ひとりの女の人が、こっちを向きました。そして、やさしくわらったのです。ぼくのお母さんより、少し若い人でした。いつかテレビで見た、オペラ歌手のような感じの人です。
そのオペラ歌手は、お酒のグラスをもって、すばらしいソプラノでうたっていたのでしたが、今この人たちも手に手にグラスをもっていたのです。グラスの中には、あわだつ緑色の飲みものが、なみなみとつがれていました。それは、夏がグラスの中に閉じこめられて、ひそかに息づいているような感じでした。
女の人は、グラスをもった手を、ぼくのほうにのばして、飲む? と、目で聞きました。ぼくは、きゅうに、のどがかわいてきて、思わず手をのばしました。と、ぼくの手が、その人のすきとおった緑のそでにふれたとき、ぱらぱらと、花粉のような粉が、こぼれおちたのです。
ぼくは、ドキッとして、あわてて首をふって、ぶっきらぼうに、
「いらない!」
とさけびました。
この飲みものをのんだ者は、たぶん、もう帰れなくなるのです。そう、このふしぎな夏の森で、蝶のおばさんたちのとりこになってしまうのです……。
ぼくが、あんまりいつまでも首をふっていたので、女の人は、ほほほと、わらいました。すると、あとの人たちも、いっしょにわらいはじめ、まるで、鳴りだしたらとまらない鈴のように、いつまでもいつまでもわらっているのでした。
その笑い声が、風を呼んだのでしょうか、どこからか、ゴーッと風が吹いてきました。たちまち、木々がざわざわとゆれ、たき火が、ふいに大きく燃えあがりました。
赤い炎は、二倍にふくれあがって、蝶のおばさんたちを、今にものみこもうとしました。
(うわああ……)
ぼくは、じりじりと、あとずさりしました。けれども、勢いよく燃え上がる炎の、なんという赤さ、なんというまぶしさ……。やがて、この森ぜんたいを、めらめらと燃やしてしまいそうな炎の勢いにおののきながらも、ぼくは、その美しさにみとれて、うごくことができませんでした。
気がついたとき、ぼくは、たったひとりで、たき火にあたっていました。火は、赤くしずかに燃えているようでした。が、あつくも、暖かくも、ありませんでした。
それは、花ざかりの、つつじでしたから。
いつのまにか、とっぷりとくれた庭の、見慣れた赤い赤いつつじのしげみの前に、ぼくは、さっきからずっと立っていたのでした。
つぎの日、強い風が吹いて、つつじの花は、ほとんど散りました。そして、夏のにおいが、どっとあたりを満たしました。
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熊の火
1
ああ、むこうから人がくる、と小森さんは思いました。声も足音も聞こえませんでしたが、よくわかったのです。豆つぶほどのたばこの火が、闇の中にチラチラとうごいていましたから。
「おーい」
小森さんは、思わず両手をふりました。
この深い山の中で、人に出会うのは何日ぶりでしょうか。なかまとはぐれて(というより、おいてきぼりをくって)、西も東もわからないまま、沢の水だけをたよりに、よろよろと歩きつづけてきたのです。くじいた右足はなまりのように重く、つかれと寝不足のために、目はぼうっとかすんでいました。が、そのかすんだ小森さんの目にも、たばこの火は、赤くはっきりと見えたのでした。
(たしかにだれかくるんだ。山仕事の人かもしれない。それとも営林署の夜まわりだろうか……。ああ、たすかったぞ。いよいよたすかったぞ……)
小森さんは、あえぎあえぎ、そう思いました。すると、きゅうに腰の力がぬけてしまって、小森さんは、その場にぺったりとすわりこんでしまったのでした。
たばこの火がちかづくにつれて、相手の足音も聞こえてきました。たっ、たっ、たっ、と力強いその音は、とても体格のよい人が、地下足袋《じかたび》でもはいてくる音でした。いかにもゆったりとした、たよりがいのある足音でした。
(おやじの足音ににてるな)
小森さんは、ふとそんなふうに思いました。そして、数年前に亡くなった父親のことを思いうかべました。太った大きな人だったのです。末っ子の小森さんを、いちばんかわいがってくれたのでした。
(おやじ、たすけにきてくれたんだろうか……)
ぼんやりとそんなことを思ったとき、ぬうっと大きな影が、小森さんの前にあらわれました。
「こんばんは」
いきなり、その人は、そういいました。へんなくぐもり声だったのは、たばこをくわえてしゃべったせいかもしれません。小森さんも、こんばんはといいかけて、星あかりによくよく目をこらして、そのとき、ぎょっとしました。
相手は、熊だったのですから。
大きな熊が、二本足でのっそりと立って、人間なみに、たばこをくわえていたのですから。そのうえ熊は、麦わら帽子なんかかぶっているのでした。小森さんは、わなわなふるえました。にげようにも、こんな近くで出会ってしまったのでは、もうどうにもなりません。
(そうだ死んだふりだ。死んだふり死んだふり)
小森さんは、熊の目の前で、とても不器用に、ばたんとたおれてみました。それから、目をつぶって、じっと息をひそめました。が、体のふるえは、どうしてもとまりません。
すると熊は、かみなりのようにわらったのです。
「ハッハッハッハ。なにも、そんなかっこうしなくたって……」
そういうと、熊は、小森さんの横にどっかりすわりました。
「…………」
小森さんは、うす目をあけてみました。熊の毛のもっくりとした暖かさが、闇の中からつたわってくるようでした。そして、その大きな体からは、なつかしいあのほし草のにおいがしたのです。熊は、うまそうにたばこをふかしながら、星をながめて鼻歌をうたっていました。
小森さんは、すこし安心して、死んだふりをやめることにしました。そろりそろりとおきあがると、ひからびた声で、そっとたずねてみました。
「たばこ、おいしいですか」
ちょっとしたあいさつのつもりでした。すると熊はうなずいて、上きげんで、
「うまいですとも。どうです、あなたも一服」
と、いいました。
「あいにくたばこ、落としてしまいましてねえ」
「ほう、いつ? どこで?」
「さあ……きのうか、おとついでしょう。あっちのほうの沢で」
「ほう、それで、これからどこへ行くつもりなんです?」
「ど、どこって、つまりその、家に帰るところですよ。ところが、とちゅうで道にまよってしまいましてねえ」
このとき小森さんは、この熊が、なんだかほんとうのおやじのように思えてきました。そして、これまで心の中で、ひとりぶつくさ思っていたことを、みんなはきだして聞いてもらいたいような、そんな気もちになっていました。小森さんは、ぽつりぽつりとしゃべりました。
「道にまよったっていうより、なかまからおいてきぼりをくっちゃったんですよ。ぼくは、ちょっと足をくじいたもんだから、少しおくれて歩いていたんです。はじめのうちは、みんな親切でした。足にこうやくはってくれたり、肩をかしてくれたりしました。でも、日が暮れかけて、雨がぽつぽつふりだしたときには、みんなの足どりは、しぜんに早くなってねえ、とうとう追いつけなくなってしまいました。ぼくが、いくらよんでも、もうふりむいてもくれなかった……。
あしたは月曜日だから、仕事を休むわけにはいかないんだって、だれかがいってたっけ。
なんのかんのときれいごといったって、人間ってのは冷たいもんです。けっきょくみんな、自分のことしか考えてないんだから」
ふんふんと、熊はうなずきました。
「そこいくと、熊の世界なんかは、ずうっと人情が厚いっていうじゃありませんか」
こんなことをつけくわえて、小森さんは、ちょっと熊のきげんをとってみたのでした。ところが、熊は、はげしく首をふりました。
「とーんでもないや。わしらの世界だって、おんなじことですさ」
「そんなもんですかねえ」
「ああ、そんなもんです」
ここで話は、ぷつりと切れました。
どうやらこの熊も、胸の中に、何かモヤモヤしたものをかかえているらしいのでした。熊は、ため息をついて、ぽつりとつぶやきました。
「ほら、よくいうでしょ、弱肉強食ってやつですよ」
「なるほど」
あいづちをうちながら小森さんは、でも、こんな大きな熊が、いったい何に負けるんだろうかと思いました。するとこんどは、熊がしゃべりはじめました。
「早い話が、熊の世界じゃ、冬ごもりの穴ひとつほるのだって、たいへんな競争です。いい場所は、みんな、はしっこいのがさきに取ってしまう。そのうえ、冬ごもりの前には、たっぷり食べておかなけりゃならないが、これまた競争だ。競争がはげしくなったら、もう殺しあいですからねえ。そうなったら、友だちもしんせきもあったもんじゃない」
「でもあなたは、そんな大きなからだしてるんだから、ほかの熊に負けることはないでしょう」
すると熊は目をふせて、ぽつりといいました。
「わしひとりなら、なんとでもなったんだが、小さい娘がいましてねえ」
「ほう、娘さんが……」
「そう。やっぱり、足をくじいていたんですよ」
これを聞いて小森さんは、すっかり熊に同情しました。
「ふうん。そりゃいけないなあ。こういうところでは足が不自由だと、なにひとつ思うようにいかないから」
「まったく。あれは、何年前の秋だったかねえ」
熊は、たばこの煙を、遠い星にむかって、ふうっとはきました。
「もう風が冷たくなってきたっていうのに、われわれは、冬ごもりのしたくが、まるでできていなかった。穴の用意もなければ、腹もからっぽだった。その年は、雨がおおすぎて、山の果物や木の実は、みのる前に、ほとんどくさってしまったのさ。少ないえさを、熊たちは、われがちに食べあさった。
食べはぐれて、わしら親子は、小雪のチラつく林の中に、ならんですわっていた。このとき、娘が、ぽつりといったっけ。
――とうちゃん、どっか遠くへ行きたいねえ。年じゅう花が咲いていて、年じゅうナナカマドの実が赤くうれているところに行きたいねえ――。
ふがいない父親は、こんなことばに、もう涙が出そうだったよ。
――ほんとになあ。そんなところに行けたらなあ――。
熊ってものは、こういうとき、心をふるいたたせて里へおりていって、畑の作物でも家畜でも、ことによったら人間でも食べてくるもんだが、わしは、あの鉄砲ってやつがおそろしかった。わしがあいつにズドンとやられたあとで、小さい娘はどうするだろうかって思うと、そんなことは、とてもできなかった。
あの日、わしらは、林の中で、落葉をあつめてたき火をしたんだ。赤いナナカマドや、赤い野いちごや、赤いざくろのことを考えながら、火を見つめていたんだ。
松の落葉は、よく燃えた。白い煙が、天までとどくかと思われるほど高く立ちのぼった。と、その煙の中に、わしと娘は、はっきりと見たんだ。ふしぎな景色が、ぽおっとうかんでいるのを。
煙の中には、春の野山があってねえ、いちめんの若草色なんだ。よくよく見つめると、ほれ甘草《かんぞう》だのフキだの水芭蕉《みずばしよう》だの、わしらの大すきな草がどっさりあるじゃないか。そのうえ、遠くのほうには、山桜が、ほっほと咲いている。娘は、すっかりはしゃいで、かん高い声をあげたっけ。
――とうちゃん、あすこに行こうよ――。
わしは目をつぶって、だめだだめだとさけんだ。あんまり寒くて腹がへっているもんだから、ふたりして、こんなまぼろしを見ているんだと思った。うっかり煙の中にはいろうものなら、焼けておしまいだと思った。ところが、わしが目をつぶっている間に、娘はもう不自由な足をひきずって、煙の中にとびこんでしまったのさ。そして、そのまぼろしの緑の中で、おいでおいでとわしをよぶじゃないか。わしは、あぶないとさけんで、娘をこっちへ引きもどすつもりで、自分も煙の中へとびこんでしまった。あっというまのできごとさ。
ところがどうだろう。気がついてみると、わしも、緑の草の上にすわっているじゃないか……。
火の中にとびこんだっていうのに、やけどひとつしなければ、あつくもなんともない。そのうえ、煙の中の世界の何とひろびろして気もちのいいことだろう。行っても行っても、春の野山はつづいていて、そっちこっちに、うまそうなアリ塚もあれば、はちの巣もある。小川には魚も泳いでいる。娘とわしは、もう、のどをびくびくさせて食べたんだ。食べて食べて、腹がはちきれそうになるまで食べて、ふーっと一息ついたとき、きゅうに背中のあたりがぞくっとして、気がつくと、わしらはやっぱり、吹きっさらしの林の中にすわっていた。燃えつきたたき火に両手をかざして、みじめな穴無し熊にもどっていたのさ。火がきえたんで、夢もおしまいになったんだ。
――とうちゃん、もっと火を燃やそうよ――。
と、娘が、ふるえながらいったっけ。
――もっと、どんどん落葉をくべて、いつまでもきえない火をたこうよ。そうして、ずうっと、その中にはいっていようよ――。
ああ、わしだって、どんなにそうしたかったろう。たき火が、永遠に燃えてくれるものなら、その煙の中で、一生安らいでいられるのにと思った。が、火というものが、どんなにはかないものか、わしはよく知っていた。山火事だって、三日も燃えれば、おしまいだ。わしは、娘をだきよせて、ようくわけを聞かせてやった。すると娘は、目をくるんとまわしていったっけ。
――そんならとうちゃん、山のてっぺんに行こうよ――。
娘の指さすあたりに、頂上の火口の煙が、白く、ひとすじ、空にたちのぼっていたんだ。
――ね、とうちゃん、あすこでは、煙がきえることはないのでしょう?――
思いがけない話に、わしの頭はくらくらした。しばらく考えこんでから、そりゃそうだ、と思った。この山は、百年前から火山なんだから。
(火口の煙の中にも、ひょっとして、いまみたいな楽園があるだろうか……)
ぼんやりと、熱にうかされるように、わしは考えた。このとき、わしの頭に、子どものころ、わしのおやじがうたっていた歌が、ひょいとうかんだんだ。それは、こんな歌だっけ。
火の中には、熊の楽園がある
そいつを見つけた奴《やつ》は果報者
きえない火ならなおのこと
はいれた奴は果報者
しかし二度とはもどれない
わしは、子どもをだいたまま、ふらりと立ちあがった。それから、娘を肩ぐるまにして、山をのぼって行ったんだ。ヒューヒュー木枯らしの吹きはじめた道を、頂上へ頂上へ、火口の煙へむかって歩いて行ったんだ……」
熊はここで、ほっと息をつきました。
小森さんは、いつのまにか、すっかり熊の話にひきこまれていました。
「それで? 火口の煙の中には、やっぱりあったんですか。熊の楽園が。たき火の中にあったとおなじような、春の野山が」
熊は、ふかぶかとうなずきました。
「ありましたとも。そりゃもう、ゆたかな美しい森がありました。娘とわしは、そこにはいって、もう長いことそこに住んでいるんです。あれから何年たったでしょうかねえ。わしも、としをとったし、娘も、としごろになった。今じゃ、われわれすっかり煙の世界の生きものなんですよ」
「ほう、するとあなたは、今夜も、煙の中からやってきたんですか」
「そう。このところ、毎晩です。どうしても、外へ出なきゃならないことがあって、わしは、いつもこのへんを歩いているんです」
「でも、煙の中の国から、自由に出入りできるんですか。さっきの歌では、はいったら最後、もう出られないって……」
「たばこです」
熊は、きっぱりといいました。
「たばこをのみながらなら、わしも、ふつうの熊とおなじように、山を歩きまわることができるんです。つまり、煙につつまれているあいだだけ、ふつうの熊とおなじ場所にいられるんです」
「なるほど。でも、いったい、なんの用事があって、こんなところにいるんです? 火口の煙の中にいれば、娘さんとふたりで、らくらく暮らしてゆけるんでしょう?」
すると熊はじっと小森さんを見すえて、こういったのです。
「わしらには、あんたみたいな、話のわかる若者が必要になったんです」
小森さんは、あっけにとられて、ぽかんと口をあけました。すると熊は、いきなり、こんなことをいいだしたのです。
「ねえあんた、わしのむすこになってくれないだろうか」
「…………」
「いっしょに、火口の煙の国へ行って、わしらといっしょに暮らしてくれないだろうか」
小森さんは、あきれてしまいました。
「そ、そんなこといったって、ぼくは人間だし、あなたたちは熊だし……」
「すがたかたちのちがうことなど、問題じゃない。そんなことは、どうにでもなるものさ」
熊はそういうと、どこからか、たばこの箱をとりだして、
「どうです? 一服」
と、いいました。暗いので、たばこの種類はよくわかりません。小森さんは、思わず手をのばして、箱の中から、白いたばこを一本もらいました。すると、熊は、かがみこんで、自分のたばこの火を、わけてくれたのです。
赤い火は、ぽっちりと二つになりました。ふうっとたちのぼるたばこのにおいを、小森さんは、ひどくなつかしく思いました。そして、それが、熊のたばこであり、熊の火であることも考えずに、ふかくふかくすってしまったのです。
こうして、熊のたばこを一服のんだとき――つまり、鼻から一息,白い煙をはいたそのとき、小森さんのすがたは、たちまち熊に変わっていました。
「さあ行こう」
熊のおやじさんは、立ちあがりました。
空に、銀河が流れていました。熊は、さきにたってすたすたと歩きはじめました。熊になった小森さんも、のっそりと立ちあがると、そのあとについてゆきました。
山をのぼりながら、熊のおやじさんは、火の中の楽園の歌を、いい声でうたいました。小森さんも、うしろでそっと口ずさみました。なんだか、ふしぎなほど晴れやかな気もちになっていました。
くじいた右足は、やっぱりいたかったけれど、秋の夜風に吹かれながらすうたばこは、目まいがするほど、うまかったのです。
2
熊になった小森さんが、おやじさんの熊といっしょに、山の頂上にのぼったそのとき、火口の煙の中には、ほんとうに輝いた春の森が見えたのです。
「ほうれ。あすこが、わしらのすみかです」
熊のおやじさんは、たばこをふかしながら、とくいそうに指さしました。小森さんの目にも、はっきりと、そのふしぎな風景が見えました。それどころか、あまやかな花のかおりや、小鳥の声までわかりました。それから、フキや甘草《かんぞう》や、笹の芽のにおいが、もうたまらないほどの強い力で、小森さんの胃をくすぐりました。
「わたしのあとについて、中におはいり」
そういうと、おやじさんは、するりと煙の中にもぐりこんで、もう、その緑の中で手まねきをしているのでした。
小森さんは、大きくひとつ息をすると、目をつぶりました。なんだか、なわとびのなわの中に、とびこむような気がしました。
「思いきって前へ進む。そう、ずんずん進む」
おやじさんの声にあわせて、小森さんは、進んでゆきました。すると、いつのまにか、自分も煙の中に、すうっとはいれてしまったのです。かんたんなことでした。少しの苦労もありませんでした。
と、「こんにちは」と、だれかがいいました。
やさしい声でした。目をあけると、小森さんの前には、熊の娘が立っていたのです。紅《あか》いシャクナゲの花を頭にかざって、熊の娘は、なかなかうつくしく見えました。
「これが、わしの娘でねえ」
熊のおやじさんは、うれしそうに、小森さんに話しかけました。
「ここへきたころには、ほんの子熊だったが、ごらんのとおり、すっかりいい娘になった。おむこさんをもつのに、ちょうどのとしになった。わしもとしをとって、いつまで生きていられるかわからないし……」
小森さんが、ぼんやりしていますと、おやじさんは、
「ひとつ、よろしくたのみますよ」
と、いうのでした。そして、どこからとりだしたのか、古い土のつぼと、土で焼いたそまつな器《うつわ》を三つもってきて、
「さ、とっときの酒で、かんぱいしようじゃないか」
そういいながら、どっかりと草の上にすわりました。
(な、なるほど……そういうわけだったのか……)
小森さんは、なんだか計略にかかったような感じがしましたが、それほど悪い気はしませんでした。こんなに気もちのよい森で、およめさんをもらって、一生のんびり暮らせるのならば、もう人間の社会へなど帰れなくてもよいと思えたのです。小森さんは、まだ、自分をおいてきぼりにしたなかまをうらんでいましたし、このあいだまでつとめていた、村の生活協同組合の会計係という仕事にも、あきあきしていたのでした。
(毎日ソロバンはじいて、帳尻あわせで一生おわるより、熊のほうが、しあわせかもしれない)
そんなふうに思ったのも、小森さんの心がすでに熊の心になりかけていたせいかもしれません。
こうして、熊になった小森さんは、火口の煙の中で、およめさんとなかよくくらしました。
小森さんは、はじめ右足が不自由でしたが、およめさんのかいがいしい世話で、すっかりよくなりました。熊のおよめさんは、よもぎの葉で、とてもじょうずに湿布《しつぷ》してくれたのでした。よもぎの葉が、薬になるということを、小森さんはちっとも知りませんでした。
「ほう、こりゃ、たいしたききめだ。おどろいたなあ」
小森さんは、すっかり感心しました。するとおよめさんの熊は、うれしそうにわらって、自分も子どものころ、やっぱり足をくじいて不自由な思いをしていたけれど、よもぎの湿布ですっかりよくなったのだと話しました。そしてこの煙の中の森が、どんなに住み心地のよいところかを、くりかえしくりかえし語るのでした。
じっさい、そこは、楽園でした。気候はいつも暖かでしたから、なにひとつ苦労せずに木の芽や果物や魚が手にはいりました。ききんのひもじさや、冬の寒さや、思いがけない外敵から身をまもる苦労もありませんでした。
のどかにあまやかに、月日は流れていったのです。
やがて、およめさんには、三びきのかわいい子熊が生まれました。
小森さんは、子熊たちと、川へ魚をとりにいったり、およめさんに、花輪をこしらえてやったり、おやじさんのお酒の相手をしたりして過ごしました。
おやじさんは、今では、森のおくのエニシダのしげみの中に、ひとりとっぷりとうもれて暮らしていました。娘におむこさんがきてからというものは、すっかり安心して、毎日お酒をなめるように飲んでは、余生をたのしんでいるのでした。そして、お酒を飲めばかならず、いつかのあの歌をうたいました。歌のあとには、こんな話がつづきました。
「煙の中に住みついた熊は、わしらだけじゃない。むかしっから、ちょくちょくそんなのがいたのさ。けんかに負けて、傷ついた熊だとか、としとって、だれにも相手にされなくなった熊だとか、そんなのがあっちの山の煙の中にも住んでいるし、ほれ、海のむこうの火を吹く島の煙の中にも住んでいるのさ」
おやじさんは、寝ころがって、歌のつづきをうたいました。
ところで、小森さんがこの歌の中に、みょうにさびしいひびきを感じはじめたのは、いつのころからだったでしょうか。とくに、ゆうぐれどき、風にざわざわと鳴る木の葉の音といっしょに聞くと、この歌は、どうしようもなくけだるく、うらがなしく思えてきたのです。
あの晩から、いったい何年の月日がすぎたのでしょうか。足をくじいて、たったひとり、夜の山をさまよい歩いていた人間の小森さんは、あのとき、世間というものが、なんだかとてもいやになっていました。ですから、あの日の熊の身の上話は、いたいほど心にしみたのです。そして、こののどかな森で、のんびりと暮らせることを、どんなにしあわせに思ったかしれません。
けれども、そのしあわせに慣れてくると、小森さんはだんだん、弱気の自分が、情《なさけ》なく思われてきました。
小森さんはいつか、自分の心の一か所に、小さい穴があいていて、そこを、へんにむなしい風が吹き過ぎるような気がしてきました。そして、そんなときには、かならず、こんなひとりごとが、口をついて出るようになりました。
「食べものは、もっとべつの方法で手に入れるものだ」
およめさんの熊は、子熊を寝かしつけながら、これを聞いてけげんな顔をしました。小森さんは、心の中でつぶやきました。
(そうだ。なんとかして、もう一回外へ出てみることだ。外へ出て、男らしく戦ってみることだ。要するに、ひと旗あげることだ。金もうけでもいい、出世でもいい、どんどん人を追いこしてゆくことだ……)
いつのまにか人間の気もちになるとき、小森さんは、そんなことを考え、また、熊の気もちになるときは、こう思いました。
(一度、力いっぱい戦って、生きのいい食べものを手に入れてみたいものだ。いや、せめて、ほんの一息、あの冬のくる前の、つめたい山の風を、胸いっぱい、すいこんでみたいものだ)
ある日、熊の小森さんは、およめさんにこういいました。
「外へ出て、もっとうまいものを手に入れてみたくなったから、おやじさんに、たのんでみてくれないか。たばこを一本わけてほしいって」
これを聞いて、およめさんは、はげしく首をふりました。
「お父さんのたばこなら、だめですよ。お父さんは、もうけっしてあれをすわないし、だれにも使わせないために、どこかへしまいこみました」
「どこに? いったいどこに?」
「さあ……どこだか知りません。だいいち、あんなものは、もう、あたしたちに必要ありませんもの」
そこで、小森さんは声をひそめて、たのみこむようにいいました。
「ほんのしばらくのあいだだけさ。ちょっと新しい空気をすって、すぐに帰ってくるよ」
「…………」
「そうしないとぼくは、もう息がつまって死んでしまいそうなんだ」
これを聞いて、およめさんはしばらく考えこんでいましたが、やがて、ひそひそといったのです。
「お父さんはね、たばこを、大きな木の箱に入れて、カギをかけて、それを、枕のかわりにしているんです。箱のカギは、お父さんの耳の中にあります」
これを聞いて、小森さんは、なんて頭のいいおやじだろうかと思いました。
それからというもの、小森さんは、寝てもさめても、たばこの箱とカギのことを考えつづけたのです。そうしてある晩、よいことを思いついて、のっそりおき上がりました。
「ちょっと行ってくるよ」
小森さんは、およめさんにそういいのこすと、のそのそと歩きはじめました。おやじさんのねむっている、エニシダのしげみにむかって――。
森の小道に、月の光がほろほろとこぼれていました。
(こんなことするのは、少し心苦しいけどなあ)
小森さんは、なんだか、自分自身が、かなしくもありました。
(けっきょくはおれだって、自分のことしか考えてないんだから)
黄いろい、エニシダの花の中に、おやじさんの熊は、ねむっていました。お酒をたっぷり飲んで、たった今寝入ったところらしいのです。小森さんは、しげみの外で、よんでみました。
「おやじさん、おやじさん」
するとおやじさんは、いびきといっしょに、
「だれだ――」
と、いいました。
そこで、小森さんは、そっとうたうように、こんなことをいいました。
「おやじさん、おやじさん、あなたのむかしの友だちが、あなたに会いたがっています。煙の外で待ってます」
するとおやじさんは、ねぼけた声で、
「ばかいっちゃいけない」
と、いいました。それから、こんなふうにつぶやきました。
「わしには、友だちなんか、ひとりもいないさ。なにしろ、ひどいめにあったんだ。穴無し熊だったんだ」
「そんなら、あなたの兄弟かもしれません。いいえ、ひょっとして、むかしの恋人じゃないでしょうか。ぼくは、さっき聞いたんです。遠くで、おやじさんおやじさんってよんでる、あれは、たしかに熊の声でした。それとも、風の音だろうか。それとも、くまざさの歌だろうか……」
小森さんがそこまでいうと、おやじさんは、エニシダのしげみを、ざわざわゆすっておきあがりました。それから、酔っぱらった赤い目を、かっと開いてさけびました。
「どっちにしたって、会いたくないね。今さら、どんな顔して話をするんだ。いったい、なんの用事があるっていうんだ。帰ってもらってくれ!」
このとき、月の光で、おやじさんの耳の中は、ピカリと光りました。
(なるほど、たしかにカギがあるぞ)
そこで、小森さんは、勇気を出していいました。
「そんならおやじさん。ぼくに、たばこを少しわけてください。そしたら、それをすいながら、煙の外へ出て、おやじさんのかわりに、話をつけてあげましょう」
「な、なるほど……」
おやじさんは、あきれるほど素直にうなずきました。そして、自分の耳の中に手を入れて、小さな金色のカギをとりだしたのです。それからおやじさんは、しげみの中に、しゃがみこみました。
カタカタと箱をあける音がして、つぎにおやじさんが顔を出したとき、火をつけたばかりの一本のたばこが、小森さんの前につき出されていました。
「ほうれ。これをすいながら、会っておいで。そして、いってやってくれ。ここは、わしら家族が、やっと見つけた楽園なんだからって。とっとと帰ってくれって」
「…………」
たばこをうけとるとき、小森さんの手は、少しふるえました。こんなふうにして、相手をだますのは、はじめてのことでした。
(いいさ。めずらしい食べものでも手に入れてもどれば、それでゆるされることさ)
心の中で、そうつぶやきながら、熊の小森さんは、森の道を歩きはじめました。
久しぶりのたばこの味を、舌の先でたのしみながら、なんだか夢の中の道をたどるように、歩いてゆきました。
3
どこをどう歩いて、煙の外へ出たのか、小森さんにも、よくわかりません。
気がついたとき、小森さんは、ひんやりと寒い山の夜道を歩いていたのです。月が、あかあかとあたりを照らし、すすきの穂が、白くゆれていました。
「ほう、秋なんだなあ」
小森さんは、あたりを見まわしました。なつかしい秋でした。草むらで虫がないていました。
(今度は、子どもたちをつれてくるといいな)
小森さんは、そんなことを思っていました。そして、足もとに落ちている栗《くり》の実をひろおうとしたそのとき、はっとしたのです。
道に、くろぐろとうつっている自分の影が、人間のかたちをしていたのでしたから。髪をボサボサにした男のすがたでしたから。
小森さんは、自分の体をさすってみました。胸や、腕や手足を、それから、背中や顔や髪の毛を――。
どこからどこまで、まちがいなく、人間の小森さんでした。それは、道にまよって、いく日も山の中をさまよった若者、村の生活協同組合職員の小森さんでした。
(お、おどろいたなあ……)
小森さんは、ぺたりと道にすわりこみました。しばらくめまいがとまりませんでした。
と、このとき、遠くでだれかが自分をよんだのです。
「おーい、小森くーん」
「小森くーん」
小森さんは、はっとして顔を上げました。すると、遠い木《こ》の間《ま》がくれに、ぽちぽちと、赤い灯《ひ》がうごいているのでした。ざわざわと人のけはいがして、どうやらおおぜいの人が、こちらへ向かってやってくるらしいのです。
「おい、そこでたばこすってるのは、小森くんじゃないか」
聞きおぼえのある、友だちの声でした。
小森さんは、だまっていました。とっさのことで、声が出なかったのです。そのうえ、自分が人間なのか熊なのか、わけがわからなくなって、小森さんは、うずくまったまま、いつまでも、こきざみにふるえていました。
たすけられて、村へ帰ってからも、小森さんは、ぼんやりしていました。
つとめに出かけても、仕事が手につかず、人と会っても、うまく話ができませんでした。それで、村の人たちは、小森さんがあの一週間(なんと、一週間しかたっていなかったのです)、いったいなにをしていたのか、まったく知ることができませんでした。そのうえ、小森さんは、煙の中の世界であんなにあこがれた出世や金もうけをする気力もなく、やっぱり、前のように、うずくまって、ソロバンをはじくだけの若者になっていました。
ときどき小森さんは、遠い山の煙をながめて思いました。
(どうしてあそこを出てきたんだろうか)
それからまた、いやいやと首をふって、
「それでも、ぼくはやっぱり人間なんだものなあ」
と、つぶやくのでした。小森さんは、熊の家族のことを、けっしてわすれたわけではありません。ときには、胸がきゅんとなるほど、なつかしく恋しく思われました。けれども、あそこからとび出して、人間のすがたにもどってしまった今、もうけっして、帰ることはできないのだということを、なんとなく、さとっていました。
ちょうど、人間が、魚といっしょに海に住むことはできないように。また、鳥といっしょに空に住むこともできないように――。
こうしてゆっくりと一年が過ぎてゆきました。
つぎの年の秋、空を雁《かり》がわたるころに、ふしぎなことがおきました。
ま夜中に、小森さんの家の雨戸を、トントンたたく音がして、
「こんばんは」
と、だれかがよんだのです。聞きおぼえのある声でした。小森さんは、もっくりおきあがって、耳をすましました。
「こんばんは……ちょっとあけてください」
小森さんは、はっとしました。それから、ころがるように、えんがわへかけよると、ガタリと一枚、雨戸をあけたのです。すると、月あかりの中に、熊が一ぴき、ぼっと立っていました。
熊は、シャクナゲの花を頭にかざっていました。
「お、おまえ……」
ああ、それはたしかに、およめさんの熊だったのです。
「おまえ……いったい、どうやってここへ……」
小森さんの声は、かすれました。すると、めすの熊は、
「山を焼きながらきました。あんたに一目あいたくてきました」
そういいながら、うしろの山をゆびさしました。目を上げて、小森さんは、あっと声をあげました。
熊の指さす山の、頂上からふもとまで、いいえ、小森さんの家の庭先まで、うねうねとひとすじの火の道ができていたのですから。まるで、赤いたいまつの行列のように。それとも、あざやかな火の川のように。
小森さんは、目をまるくして、息をのんで、くいいるようにそれを見つめました。すると、熊は、かなしそうにいいました。
「あの火がきえるまでに、わたしは、頂上にもどらなければなりません」
それから、めすの熊は、小森さんに、一本のたばこをわたしたのです。
「ね、もどってきてくださいな。これをのみながら、またもどってきてくださいな」
小森さんは、ふるえる手で、たばこをうけとりました。それから、
「おやじさんは元気かい」
と、たずねました。熊は、うなずきました。
「子どもたちは、元気かい」
熊は、またうなずきました。
「そうかい。そりゃよかった……」
小森さんは、なんだか、かなしいような、すまないような、もうほんとに、やりきれない気もちになって、そっとうつむきました。そして目をふせたまま、
「庭の柿、持ってゆくといい」
と、いいました。
「それから、畑のさといもやねぎも持ってゆくといい。なんでもみんな、持ってゆくといい」
そういいながら、小森さんは、畑におりてゆくと、柿やいもやねぎをどっさり取って、大きなかごにつめてやりました。そうしながら、涙があふれてなりませんでした。
熊は、かごをせおって帰ってゆきました。
山の火は、まだ燃えていました。小森さんは、ひとばんねむらずに、その火を見つめていました。
「またこいよ……いつでもこいよ……」
そうつぶやきながら。
けれど、こんなことは、たったの一度でおわりでした。
小森さんが、だんだん人と話をするようになったのは、そのころからです。このふしぎな話を、小森さんは、だれにでも話しました。話しだしたら、小森さんの話は、とまりませんでした。
山で道にまよってからのできごとは、だれが聞いてもおもしろく、毎日、いれかわりたちかわり、新しい人が聞きにきました。けれど、だれも、この話をうそだとは思いませんでした。
なぜなら、あの晩、めすの熊が山を焼きながらやってきたという道すじに、それまで咲いていなかったまんじゅしゃげの花が、まるでくさりのように、つらなって咲いたからです。その赤い花の列は、たしかに、小森さんの家の庭から、山のいただきまで、うねうねとつづいていました。
小森さんの話の最後は、かならず、こう結ばれました。
「熊からもらったたばこを、ぼくは、思いきってすってみようとしたことがあった。しかし、あれは、つかいものにならなかった。まるで、土の中からほり出された大むかしのたばこみたいにしめっていて、まったく火がつかなかったんだ。これで、あの煙の中の森は、ぼくにとって、もう二度と行けない場所になった。けっしてけっしてはいることのできない世界になったんだ」
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秋の風鈴《ふうりん》
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おたくの風鈴がうるさくて夜ねむれません。あたしたちはもう長いあいだ寝不足なのです。夏のあいだはがまんしていました。でも、もうそろそろとりこんでくださったらいかがでしょう。
[#ここで字下げ終わり]
ある日、こんなはがきが、ぼくのへやにとどいたのでした。ブルーのインクの、ほそい字で書かれていて、さし出し人の名まえはありません。
ぼくは、びっくりしてしまいました。
(風鈴《ふうりん》がうるさいって?)
これまで、考えてもみなかったことでした。ぼくが毎日いい気もちで聞いている、というより、もうすっかり耳になじんで、あれなしでは一日も過ごせないような気のする軒《のき》の風鈴の音が、うるさいといってきたのです。あの音が気になって夜もねむれずにいる人がいるというのです……。
(いったい、だれだ)
一瞬、ぼくは息をひそめ、耳をそばだて、全身で、となり近所の人々の顔を思いうかべました。
かえで荘という、古いアパートの一階に、ぼくは住んでいました。ひとりぐらしの、びんぼうな絵かきでした。ステレオも、テレビももっていないぼくの、たったひとつのよろこびが、あのガラスの風鈴なのだといったら、わらわれるでしょうか。けれども、それは、うそでも、おおげさでもないのです。あれは、たいせつな思い出の品なのですから。
あれを、窓のところにかけておきさえすれば、ぼくは、しあわせでした。しずかな心で、仕事に集中することができました。そして、気のせいかもしれませんが、あれを軒にぶらさげた、この夏のはじめごろから、ぼくはきゅうにいい絵がかけるようになり、世間からも、少しは認められるようになってきたのです。いってみれば、あれは、とても縁起《えんぎ》のいい風鈴なのです。それを、とりこめだなんて……。ぼくは、うらめしい気もちになって、はがきをしばらくじっと見つめていました。それから、
(はーん、となりだろうか)
と、思ったのです。そのほそい、神経質な文字は、となりのへやの、青白い女の人を思わせました。そういえば、きのう廊下で出会ったとき、あの人は、ふきげんな顔をしていましたっけ。
(なるほど。風鈴のことで、ずっとおこってたのかもしれないな)
ぼくは、なんだか少しすまないような気がしてきました。が、つぎの瞬間、ぼくはまたべつのことを思いだして、きっと顔を上げました。
(だけど、となりのピアノの音、あれはなんだ。朝っぱらからおなじ曲ばかり、ポンポンかきならして。あれをやめないで、人の風鈴に文句つけるなんて、もってのほかだ)
ぼくは、もう一度ゆっくりと、はがきを読みなおしました。すると、
『あたしたちはもう長いあいだ寝不足なのです』
という文章にぶつかりました。主語は、複数でした。
「それじゃあ、となりじゃないぞ。となりは、ひとり暮らしだからな」
ふっと、ぼくは、気味が悪くなりました。顔のわからない、いく人もの人たちが、スクラムを組んで、じっとぼくを見張っているような、そんな気がしてきたのです。今、ぼくがこうして、はがきを片手に、風鈴をとりこむべきかどうか考えこんでいるようすまで、その人たちは、見ているんじゃないだろうか……。
(むかいかもしれない)
と、ぼくは思いました。むかいのアパートの太った奥さん。ときどき、けたたましい声でわらうあの人――。けれど、あの奥さんなら、こんなはがきなど書かずに、文句があれば、じかにどなりこんできそうなものです。
(とすると、二階かな。それとも、管理人だろうか。管理人が、だれかにたのまれて、こんなはがき、書いたんだろうか……)
あれこれ考えているうちに、ぼくは、すっかりくたびれてしまいました。そして、だんだん、はらがたってきたのです。
「文句があるなら、堂々と自分の名まえを書いてよこせばいいんだ。こんなひきょうなはがきで、あれをしまうわけにはいかないぞ」
ぼくは、風鈴を見つめました。ぼくのたいせつなガラスの風鈴は、秋風にちりちりと鳴っていました。
目をつぶると、それは、星のきらめく音に思われました。星たちは、きらきらと光りながら、ふりこぼれてくるのです。あとからあとから、まるで、小さな銀の花びらのように……。やがて、その音は、少女の笑い声に変わってゆきました。ガラス玉のはじけるような、さわやかな笑い声――。
女の子というのは、どうしていつでも、あんなにたわいなく、たのしそうにわらえるのかと、ぼくはふしぎに思ったことがありました。
(ひょっとして、胸の中に、ひとつずつ、鈴をかくしているのかもしれないな。それで、風が吹いても、わらうのかもしれないな)
この風鈴を、ぼくにくれた少女は、十二でした。うす桃色の服のよくにあう、ひょろんと背の高い子でした。いっしょに歩くと、あとからあとからおしゃべりをする娘でした。ぼくはだまって、小鳥のさえずりでも聞くように、そのおしゃべりに耳をかたむけていればいいのでした。
ところが、そのおしゃべりが、ぴたりととまって、きゅうに少女が、かけだしたことがあったのです。
「うわあっ、たいへん!」
少女の帽子が、風にとんだのでした。
ほそいリボンのついた麦わら帽子は、風にきりきり舞いながら、春の野原を、とばされてゆきました。少女とぼくは、まるで、にげてゆく鳥を追うように、そのあとを追いかけました。走って走って、へとへとになるまで走りつづけて、やっと帽子をつかまえたとき、少女は、野原にぺたりとすわりこんで、シロホンのようにわらいましたっけ。
それからというもの、少女は、風が吹くと、このときのことを思い出して、わらうのでした。
「あのときは、おもしろかったねえ」
「ああ、おもしろかったねえ」
ぼくも思わず、つられてわらうのです。
山の村で過ごしたそのひと月、ぼくのスケッチブックには、さまざまの野の花の絵といっしょに、少女のあどけない顔が、いくつもわらっています。
わかれるときに、少女は、小さいガラスの風鈴を、ぼくにくれました。
「これ、夏になったら、窓にかけてね。あたしの思い出にね」
そんなおしゃまなことをいって、少女はまた、ころころとわらいました。
その笑い声を、そのままポケットに入れて、ぼくは、列車に乗ったような気がします。
アパートの窓に、ぼくが風鈴をかけたのは、夏のはじめでした。
たちまち風鈴は、ぼくにあの子の笑い声を思いださせ、山の満天の星空や、谷川のきらめきや、咲きこぼれる雪やなぎの花を思いださせました。寝ころがって、目をつぶって、しばらくその音に聞き入っていると、ふいと、すばらしい絵の構図がうかんできて、がばりとおきあがったことが、いくどもありました。
こうしてぼくは、すっかりこの風鈴が気に入って、とうとう秋になるまで、ぶらさげっぱなしにしておいたのでした。
いいえ、それどころか、あのはがきをうけとったあとも、ぼくは、なかば意地になって、知らん顔をつづけていました。
ところが、それから十日ほどして、|きも《ヽヽ》がつぶれるようなできごとがおきたのです。
ぼくのへやの小さな郵便箱が、とつぜん、郵便物の重みで、どさりと落ちてしまったのです。おどろいて、ドアのところへ行ってみると、もうほとんど小包に近いほどのはがきの束が、郵便箱といっしょに、床にころげていました。
(い、いったい、なにごとだ……)
秋の風鈴 ぼくはあきれて、しばらくぽかんとつっ立っていました。それから、はがきの束をひろい上げて、パラパラめくってみると、なんと、一枚のこらずが、ぼくの風鈴に対する抗議文なのでした。文面は、いつかのとほとんどおなじでした。そして、一枚残らずが、やはり匿名《とくめい》なのでした。
「おどろいたなあ……」
ぼくは、その場にすわりこんでしまいました。
(いよいよ、となり近所が結束したんだ。よっぽどおこってるんだ……)
ぼくの知らないところで、奥さんがたの会議が開かれたのにちがいありません。怒りにもえた顔をよせあって、ひそひそと、何時間も、話し合いがつづいたのかもしれません。そして最後に、みんな一枚ずつはがきを持ちよって、これを書いたのにちがいありません。
けれども、と、ぼくはまた考えました。
(それにしては、筆跡があんまりよくにてるじゃないか)
そうです。はがきの字は、どれもこれも、草のつるのような、ほそいペン字なのでした。じっと見ていると、それらは植物の葉を思いださせました。たとえば、エニシダとか、アスパラガスとか、いや、もっと繊細な|しだ《ヽヽ》類。
(それじゃ、これは、ひとりの人間が書いたのかもしれない。植物みたいな字を書く女の人が、いく日もかかって、これだけ書きあげたのかもしれない)
そう思いついたとき、ぼくはやっと、風鈴をしまう気になりました。ひとりで、これだけたくさんのはがき代と、時間と労力をむだにするほど、ぼくの風鈴にめいわくしている人がいるのだとしたら、これはやはり、こちらが素直にひきさがるべきかもしれないと。
「よし。残念だけど、こっちの負けだ」
ぼくは、いさぎよく軒の風鈴をおろしました。
こうして、ぼくのたいせつな山の思い出は、ハンカチにくるまれて、机のひきだしにねむることになりました。
それから、なにごともなく、一週間が過ぎてゆきました。ぼくが風鈴をしまったからといって、だれもお礼をいいにきてくれるわけでもなく、新しいはがきも、とどきはしませんでした。そして、あの風鈴の聞こえない日々は、ぼくにとって、水の底にでもしずんでいるような、むなしいものとなりました。
風が吹いても、わらわない少女。
あの子がうつむいて、さびしい顔つきで、どこか遠くへ行ってしまう夢を、ぼくはいくども見ました。今まで、とても調子よくはかどっていた仕事が、ちっとも進まなくなり、なんだか食欲までなくなってきたような気がします。
(むこうはらくになったかしれないが、こっちは、こんなにつらい思いをしなけりゃならないんだ)
ぼくは、内心、あのはがきの主をうらみました。風鈴がなくなったおかげで、毎晩高いびきでねむっている人たち。すっかり太って、血色もよくなった人たちの、勝ちほこった笑い声が聞こえてくるような気がしました。
ところがある朝、何もかもが、すっかりわかったのです。
それは、十月のすばらしい秋晴れの日でした。雨戸を一枚あけたとたん、ぼくは思わずあっと目を見張ったのです。
ぼくの窓の前の、雑草の生い茂っていた小さな空地に、うす桃色の花々が、どっと咲きそろっていたのでしたから。
ぜんぶ、コスモスでした。まるで、奇跡のように一晩で開いた、なよやかな花のむれでした。ぼくが風鈴をしまったちょうど一週間後の朝に! ほんとうならば、もっと早く、秋のはじめに咲くはずの花が、今ごろになっていっせいに開いたのです。ぼくはしばらくのあいだぼうぜんとしていましたが、やがて、
「そうだったのか」
と、つぶやきました。
(そうだったのか。風鈴のおかげで、夜ゆっくりねむれなくて養分がとれなくて、それで今まで花を開くことができなかったのか)
ぼくは、ひとりで、いくどもうなずきました。
「あの手紙は、君たちがくれたのか。そうか、わるかったな……」
コスモスの花は、どこかしら山の少女ににていました。うす桃色で、ひょろんと背が高くて、風が吹くたびに、ゆらゆらとわらうのでした。
ぼくの心の中は、いつかほうっとあたたまってきて、思わず涙がこぼれそうになりました。
花が手紙を書くなんて、そんなばかなことあるもんかと、わらう友だちがいます。あれはやはり、だれか近所の人が書いたのにきまっていると、彼はいいました。
「そうだろうか……」
ちょっととぼけてわらいながら、ぼくはやっぱり、あれは花たちの抗議文だと思いたいのです。なぜって、あのはがきの文字は、見れば見るほど、コスモスの葉ににているからです。そのうえ、あの朝咲いた花の数は、ぼくのところにとどいたはがきの数と、ほとんどおなじだけあったからです。
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火影《ほかげ》の夢
1
ある港町に、小さなこっとう品店がありました。
間口《まぐち》はせまく、奥行きばかりが思いがけなく深い、その店の中には、古びためずらしい品々が、ごたごたとならんでいました。そして、そのいちばんおくまったうす暗い場所に、この店のとしとった主人が、これまた置き物のひとつのように、じっとすわっているのでした。
ずっとむかしから、この人は、ここでこうしていました。ときどき、気まぐれに店の中をのぞきにくるお客を、すわったままじっと見ているのが、この人の仕事でした。それは、お客をむかえるというより、見張っているといった姿勢でした。じっさい、こっとう屋に来るお客は、ほとんどひやかし半分で、ならんでいる品物を、ためつすがめつながめて、あれこれとかってな品定《しなさだ》めをしたすえに、何も買わずに出てゆくのがきまりでした。そこで、長年この商売をしていますと、ひとりでに、顔つきは無愛想《ぶあいそう》になり、人間よりも、古い金属や陶器のほうが、ずっとすきになってくるものなのです。
この老人も、まちがいなく、そういうひとりでした。老人は、かびとほこりのにおいのする、そして、それぞれ何かしら|いわく《ヽヽヽ》のありそうな品々にかこまれていると、それだけで心がおちついて、ゆたかな気分になれるのです。そのうえ、この店には、なかなかめずらしい品物がそろっていました。たとえば、外国の貨物船がはこんだらしい、大理石の仏像だとか、みごとな彫刻のある壺だとか、とても小さな錫《すず》のさかずきだとか、貝のモザイクのある食器だとか、長いあいだ海の底にねむっていて青いさびのついた首かざりだとか――。
けれども、これからこの店にもちこまれる品物ほどふしぎなものを、老人は、まず見たことがなかったのです。
「こんにちは。ちょっとおねがいがありましてねえ」
こんな、なれなれしいあいさつで、そのお客は、やってきました。老人が、びっくりして顔をあげると、そこには、赤茶けた髪の、若い男が立っていました、一目で、船員とわかりました。男は、そのへんの居酒屋で、一杯飲んできたといったふうの顔つきで、よたよたと店のおくにはいってくると、
「ちょっと、見てもらいたいものがありましてねえ」
と、いうのです。こっとう屋の主人は、すわったまま、そっけなくいいました。
「よっぱらいは、きらいだよ」
「よってなんか、いるもんかい」
若い男は、さっさとそばの丸いすに腰をおろすと、上着のポケットから、小さな筒のようなものをとりだして、老人の机の上に置きました。
「これなんですよ、これ」
みょうな品物でした。すすだらけの鉄のかたまりとしか老人には思えませんでした。手にとって、よくよくながめると、その筒型の下の方に、とびらのような、窓のようなものがついていました。
「これ、ストーブなんですよ。そこから火をくべるんですよ」
男は、とくいそうでした。老人は、なかばあきれた顔つきで、
「ストーブだって?」
と、聞きかえしました。この客は、何をいってるんだろうかと思いました。こんなに小さなストーブが、いったいどこの世界にあるでしょうか。子どものおもちゃにしては、あんまりきたなすぎます。飾りものにしては、あんまりみすぼらしすぎます。老人が、あきれて、ものもいえずにいますと、船員は、こんなことをいいだしました。
「ねえおやじさん、ちょっとしたお願いなんだが、これを二、三日、おたくにあずけて、いくらか貸してもらえないだろうか」
「いくらかって?」
「金ですよ」
「…………」
老人は、魚のような目で、じっと男を見すえました。それから、
「あんた、店をまちがえたんじゃないのかね?」
と、いいました。「うちは、質屋《しちや》じゃないんだよ」
「わかってますよ。おれも、質屋をだいぶさがしたんだ。ところが、この町には、そんな気のきいたものは一軒もありゃしない」
「だからって、こっとう屋が、質屋のかわりになるわけがないでしょう。だいいち、こんな品物で、金を借りようなんて、とんでもない。たとえ、買ってほしいっていわれたって、こっちはごめんだ」
これを聞いて、男は、ひらき直ったように老人を見すえました。それから、ぼそっとつぶやいたのです。
「こんな品物ですと?」
こっとう屋の主人は、なんだか気味が悪くなって、口をモゴモゴさせたきり、だまっていました。すると船員は、ズボンのポケットからライターをとりだしました。そして、例の小さなストーブの小さなたき口を指でつまんで、
「ちょっと、ためしてみましょうか。もう燃料は、ちゃんとはいってるんですから」
そういうと、シュッと、ライターの青い炎を出して見せました。思わず、老人は、とびあがりました。
(ば、ば、ばくだんだ。たすけてくれ)
声にならない声で、老人はさけびました。いそいでにげようとしましたが、うしろは壁でした。すると、船員は、にやりとわらったのです。
「何をあわててるんです? ちっともこわいことなんかありゃしない。それどころか、すてきにたのしいことが、これからはじまるんじゃないですか」
そして、す早くライターの火を、ストーブのたき口にちかづけました。火は、ストーブの中の燃料にもえうつり、しばらくのあいだ、赤く小さくゆらめいていましたが、やがて、ゴーゴーと、気もちよく燃えはじめました。そしてたちまち、まっ赤な鉄のかたまりのようになりました。うす暗い店の中でしたから、その色は、いっそうあざやかに見えました。そして、そのうちにいつか、机の上をまるで夕焼けのように赤く照らしはじめたのです。
と、そのあかるんだ机の上に、ひょいとふしぎなものが見えてきました。
小さな人かげでした。
その小さなストーブにあたるのにちょうどの、とても小さな人がひとり、まるで、スポットライトをあびたように、ぽーっとうかびあがってきたのです。よくよく目をこらすと、それは、まだ若い娘でした。黒い長い髪をして、青い服を着て、まるでたった今開いたすいれんの花のように、ひっそりとストーブの前にすわっていたのです。娘のまわりには、小さな魚が泳いでいました。緑色の海草がゆらめいて、どうやらそこは、海の底のような感じでした。
娘は、しばらくのあいだ、ストーブに両手をかざしてあたたまっていましたが、やがて、ひざの上に白い布をひろげて、ぬいものをはじめました。その四角い布のふちを、ほそいつややかな糸で、ていねいにかがっているのです。その手つきは、びっくりするほどあざやかでした。
こっとう屋は、ぼっとつっ立ったまま、息をつくのもわすれて、机の上を見つめていましたが、やがて、かすれた声で、
「いったいあれは……あれは、だれなんだ」
と、つぶやきました。すると船員は、ポケットに片手をつっこんだまま、こんな話をしました。
「その娘は、魔法にかけられてましてね、ストーブの光の中に、とじこめられているんですよ。
知ってますか、むかし、地中海だか、北海だかに大きな津波があって、海辺の町がひとつすっぽり海にのまれてしまったことがあるんです。外国じゃ、有名な話ですよ。伝説にまでなってます。なにしろ古い港町でしたからねえ。その町が、海にしずむときに、どういうわけか、あの娘だけ、海の魔物にひょいとたすけられて、死なずにすんだんだが、そのとき魔法にかけられて、こんな小さなすがたになってしまったんだそうです。ちょうどその日、娘は自分のへやのストーブにあたって、やっぱりこんなふうにぬいものをしていたそうですよ。魔物は、娘を、そのストーブごと魔法にかけて、海の底にしずめてしまった。娘は、もう長いこと――そう、かれこれ百年だか二百年だか、海の中でねむっていたのが、何かのひょうしに水の上にすくいあげられて、ストーブが燃やされるときだけ、人の目に見えるんですよ」
老人は、疑いぶかい目で、じろりと男を見すえました。
「だけど、それがなんだって、あんたのポケットから出てきたんだね」
老人は、ひょっとして、この男こそ魔術師なのではないかと思いました。ふつうの人間がどうして、こんな変わったものを無造作《むぞうさ》にポケットにねじこんで歩くでしょうか。ところが、男は、こともなげに、こうこたえました。
「もちろん、おれは、これを買ったんですよ。だいぶ前の航海のときに、地中海の小さい島でねえ。あのへんには、ずいぶん変わった品物があるんですよ。古い魔法の道具なんかも、だいぶ出まわってる。もっとも、百のうち、九十九までは、インチキですがね。ところが、このストーブは、まちがいなく、百のうちのひとつ、つまりほんものでした。島の年とった巫女《みこ》から、半信半疑で買ったんだが、おれも、まさかこんなにおもしろい品物だとは思わなかった……」
船員は、とくいそうにわらいました。が、わらいながらも、その目は、相手の心の動きを、ぬけめなく観察していました。それから、老人のひじをつついて、
「ほらほら、見ててごらんなさい。まだまだ、おもしろいことがあるんだから」
と、ささやきました。机の上に目をうつすと、青い服を着た小さな娘は、ふちかがりをとちゅうでやめて、その白い布を、ゆかにひろげました。すると、それは、一枚のしゃれたテーブルかけに見えてきました。その上に娘は、お皿を二枚と、スプーンをふたつ、ならべました。それから、ガラスのコップだとか、銀のティーポットだとか、二枚のナフキンだとか……つまり、ふたり分の食卓のしたくをはじめたのです。なるほど、これからあそこに、お客でも来るんだろうかと、老人は思いました。すると、なんだかきゅうに、うきうきしてきました。老人は、ふと自分がお客になって、あのテーブルかけの前にすわってみたいと思いました。
テーブルのしたくがすっかりできあがると、娘は、どこからか、大きな鉄のなべをはこんできて、燃えているストーブの上にのせたのです。そして、そのなべで、何やらふしぎな料理をつくりはじめたのでした。
まあ、一口でいえば、魚のスープでした。とれたての魚や貝を、つぎつぎになべの中に入れ、しばらくコトコトと煮こむと、塩だかコショーだかで手早く味つけをしました。
「うまそうでしょ」
船員が、老人の耳もとでささやきました。
「あっ……ああ……」
老人は、返事とも、ため息ともつかない声をあげました。それから、かすれた声で、
「だけど、あんなものが、ほんとに食べられるんだろうか……」と、つぶやきました。
「食べられますとも。ためしに、一口食べてみませんか」
そういうと船員は、店の中を見まわして、そばのたなから、スプーンをひとつとりおろしました。銀細工の上等のスプーンでした。この店の自慢の品のひとつでした。それを、いきなり小さななべの中につっこむと、スープを、ひとさじすくいあげて、まず、味見をしました。それから、おおげさに目をつぶって、ぶるんと頭をふると、
「こりゃすばらしい味だ」
と、さけんだのです。これを見ていて老人は、がまんができなくなりました。そこで、スプーンを船員の手からひったくると、自分もまねをして、小人のなべの中につっこみました。だいじな店の品物を、こんなふうにあつかうことを、なぜか老人は、このときなんとも思わなかったのです。ひとさじのスープを、老人は、おそるおそる自分の舌の上にのせてみました。そして思わず、
「なるほど!」とさけんだのです。
まったく、すばらしい味でした。ただの魚のスープとは、とても思えません。こんなによい味の料理は、まずどこにもないでしょう。老人は、ゴクリとのどをならすと、もう一度、なべの中にスプーンをつっこみました。そして、思ったのです。これが、小人の料理などでなかったらいいのに、と。そうすれば、もっとどっさり食べられるのに、と。まったく、人間にとっては、このスープを、ひとなべのみほしたって、せいぜいコップに半分の量もなさそうでした。
老人が、ふたさじめのスープを、なめるようにあじわったとき、船員は、ずるそうな目をして、こうきりだしました。
「どうです? おやじさん。このストーブを二、三日、おあずけしますから、少しばかりお金を貸してもらえませんかね」
老人は、目を大きく見開いて、しばらくだまっていましたが、やがて、
「いいとも!」
と、さけびました。その目は、熱にうかされた人のように、赤くうるんでいました。老人は、せかせかと、机のひきだしをあけると、ひとつかみの札束をひっぱり出して、かぞえもしないで、船員にわたしたのです。船員は、もう、うれしさをかくしきれない顔つきで、す早くそれを受け取ると、内ポケットにしまいこみました。それから、早口にいいました。
「あさっての夕方には、必ず返しにくるよ。これをもとでに、ちょいとカルタをして、たっぷりもうけてもどってくるからねえ。おやじさん、それまで、このストーブでたのしんでてください」
「あ、ああ……」
こっとう屋の主人は、小さくうなずきました。すると船員は、こんなことをいいました。
「だけどねえ、スープをあんまり飲みすぎちゃ、いけませんよ、せいぜい、スプーンに五、六杯だ。これを、ひとなべ飲んだりしたら、たいへんなことになりますからね」
「たいへんなことっていうと?」
「つまり、頭がおかしくなって、たぶんおしまいには、ぶったおれて、あの世行きだ」
「そりゃ、おおごとだ」
老人は、うめくようにつぶやきました。
「まあ、たしかなことはわかりませんがね。おれもためしてみたわけじゃないんだから。だけど、とにかく、飲みすぎないことだ。いいですか、そこのところを、よーく気をつけてくださいよ。それから、もうひとつ、火がきえたら、このストーブは、もとどおりの鉄のがらくたになっちまいますからね。あの娘もおいしいスープも、きえちまいますからね」
「すると、もう一回ストーブを燃やしたいときには、どうするんです?」
「そこんところが、かんじんなんです」
そういうと、船員は、手品師のように、おおげさな身ぶりで、ポンと手をたたきました。それから、
「いいですか、気をつけてほしいのは、燃料なんですよ、燃料」と、ささやきました。
「おれは、このストーブを買ったときに、島のばあさんに、いくども念をおされたんだ。つまりね、干した海草と、海の砂を半々にまぜて使うんです。そのほかの燃料じゃ、効果があません」
「干した海草と、海の砂を、半々にまぜる……」
老人は、目をつぶって、あんしょうするように、くりかえしました。そうして、目をあけたとき、ああ、なんというす早さでしょうか、船員のすがたは、もう目の前からきえて、かげもかたちもありませんでした。
2
それからというもの、こっとう屋の主人は、まるで、ものにとりつかれた人のように、この小さな鉄のストーブのとりこになりました。あのあとすぐに老人は海岸へ行き、袋にいっぱいの砂をとりました。それから帰りに、浜の漁師の家へよって、やはり袋にいっぱいの干した海草を買って、もどってきたのです。そして、あのうす暗い店のおくの机の前にすわって、さっそくたのしい魔術にとりかかりました。
干した海草と海の砂をていねいにまぜあわせ、ストーブのたき口につめこむと、マッチをすりました。
燃料は、しずかに燃えはじめ、やがて、ストーブ全体が、赤く赤く輝きはじめました。その赤い色を、じっと見つめているうちに、老人は、なんだかとてもしあわせな気分になってきました。それは、これまで、古いつめたい品物だけを相手にくらしてきて、それで十分満ち足りていた、あのしあわせの感じとはずいぶんちがっていました。それは、砂漠の中で、思いがけなく花のにおいをかいだときのような……それとも、むかし、結婚したばかりのころにあじわった、あのあまくかぐわしい、しあわせの感じににていました。
そういえば、こっとう屋の奥さんも、むかし、大きな鉄のなべで、料理をこしらえてくれました。夜のひとときには、やっぱり、火のそばで、ぬいものをしていましたっけ……。けれど、その奥さんは、たった一年で、この家を出てゆきました。たぶん、こっとう屋があんまりけちで、あんまりがんこだったために。
老人は今、ストーブの前で、無心にぬいものをしているその小さな小さな人が、ふと、むかしわかれた奥さんのように思えてきました。
「娘さんや……」
机を指でたたいて、老人は、そっとよんでみましたが、その小さな娘は、何もこたえませんでした。
「あんたは、だれかを待っているんだね。いったい、だれが来るんだね」
娘は、テーブルかけのふちかがりを、とちゅうでやめて、またしずかに立ちあがりました。それから、スープをつくる準備をはじめました。いそいそと食事のしたくをする女の人のすがたを見るのは、久しぶりでした。老人はまた、わかれた奥さんのことを考えはじめました。
「こっちも悪かったかしれないが……だからって出てゆかないでもよかったじゃないか……」
だれにともなく、老人は、つぶやきました。こんな、ぐちっぽいひとりごとをいうのは、はじめてでした。すると、これまで長いあいだ思い出したことのない(というより、思い出すまいと、じっとこらえていた)むかしのできごとが、まるで苦《にが》い汁《しる》のように、胸につきあげてきたのです。
店のガラスケースの中に、今もかざられている首かざり。外国の貨物船がはこんだ古い銀細工の品物――。
それが、奥さんとのけんかの、直接の原因だったのです。
あれが店にはいったとき、若い奥さんは、とてもほしがりました。一度でいいから、あれを首にかけてみたいと、いくどもこっとう屋にたのんだのでした。そのたびに、彼は首をふりました。
「だめだだめだ、これは、|値うちもの《ヽヽヽヽヽ》なんだから」と。
そのうちに奥さんは、その首かざりに、とりつかれたようになって、毎日、ガラスケースの前につっ立ってうごかなくなりました。ケースの前に立ちつくす時間は、日に日に長くなり、いつか奥さんは、お料理もぬいものもしなくなりました。これまでちりひとつなかったへやには、ほこりがたまってゆきました。
それほど、その首かざりには、魅力があったのです。どこか遠い国の海の底に、長いあいだねむっていたほりだしものでした。ところどころにうきだした青いさびまでが、この品物に、重みをくわえていました。そのうえ、この首かざりのデザインが、また変わっていたのです。それは、銀細工の小さな魚をつないだものでした。魚の数は、ちょうど三十ぴきで、一ぴき残らずに、美しいうろこが彫《ほ》りこまれていました。そして、どの魚の目も、生き生きと光っていたのです。
(こりゃきっと、貴族の女の持ちものだったにちがいない)
こっとう屋は、そう思いました。
(売りに出したら、どれほどの値がつくだろう。今売ってしまうのがとくか、それとも学者にでも鑑定させたうえで、ぐっと値をつりあげたほうがとくか……)
こっとう屋は、毎日、そんなことを考えました。ところが、奥さんのほうは、むかし、この首かざりをかけていた遠い国の娘の物語を、ひとり、とりとめなく織りつづけていました。すると、その物語は、どんどんふくらんでゆき、いつか、たとえようもないほど、美しくなぞめいたものになっていました。この首かざりは、どこかの若者が、その恋人か婚約者に、心をこめて贈ったものかもしれないと、奥さんは考えました。その若者は、ひょっとすると、まずしい銀細工師だったのかもしれません。彼は町の大きな装飾品の店に、職人として働いていたのかもしれません。そして、愛する人のために、ほんの少しずつ店の銀をぬすんでは、この首かざりをこしらえあげたのかもしれません。毎夜、一ぴきずつの魚を、そのうろこのひとすじひとすじにまで、精魂こめてこっそりと――。
そんなことを考えているうちに、奥さんは、いつか自分自身がその物語の中に、どっぷりとのめりこんでいました。そして自分が、銀細工師の恋人になったような気分になっていたのです。
奥さんは、こっとう屋のるすに、ときどき、ガラスケースのかぎをあけて、首かざりを取り出しては、こっそり自分の首にかけてみました。どこにも出かけはしませんでした。ただ鏡にむかって、何時間も、とろんとすわっていただけなのです。
それだけのことでしたのに、ある日、これを見つけたこっとう屋は、火のようにおこったのでした。いきなり、奥さんの首から、首かざりをもぎ取ると、ありとあらゆる悪口をあびせました。
そのあと、どんなはげしいやりとりがあったか、もうわすれました。が、それから長いあいだ、たがいに口をきかない日々がつづいたすえに、奥さんは出ていったのです。いったいどこへ……? がんこなこっとう屋は、一度も、奥さんのゆくえをさがしませんでした。が、こっとう屋は、このごろになって、あの奥さんが、彼女自身の夢の中にきえたような気がしてならないのでした。くゆりたつ、うす紫の夢の中で、彼女は、異国の美しい娘になって、今も、だれかをじっと待っているのではないかと。
あれから、三十何年の月日が過ぎていました。老人は今も、あの青さびのついた品物を見ると、胸のあたりが、きゅんとしてくるのでしたが、なるべく、むかしのことは、思い出さないことにきめていました。そして、あれをよい値で買いとってくれる人がいたら、早く処分してしまおうと思いつづけていたのでした。が、じっさい、値段の交渉の段階になると、ずいぶん安くたたかれてしまうのです。がんこ者の老人のことでしたから、はじめに自分がいいだした値段よりも安くされるのは、どうしてもがまんできずに、そんならやめだということになり、今も首かざりは、この店のケースの中に、ひっそりとねむっているのでした。
(こいつの値うちがわかって、相応の値段で買ってくれる人でなけりゃ、売ってやるわけにはいかないや)
そう思いつづけて、三十年が過ぎてしまいました。そしてこのごろ、老人は思うのです。あの首かざりを、ほんとうに美しいと思ってくれたのは、けっきょく、出ていった奥さんだけじゃなかったかと……。そしてまた、ひそかに、こんなふうにも思うのでした。あと三十年、月日をあともどりさせて、もう一度、やり直しをすることができたらなあと。
「だからって……むかしのこと、思い出したって、しょうがないじゃないか……」
われにかえって、老人は、ぶるんと頭をふりました。そして、机の上の、小さな娘に、目をうつしました。
ぐらぐらと煮たったなべに、娘は、塩をふりこんでいました。青い袖口からのぞいた、そのほそい手首には、腕輪が光っていました。
それは、銀の腕輪でした。いくつもの、小さな魚をつないで輪にしたもので、そのつなぎ目のところどころに、かすかな青いさびが、点のようにういて見えました。
(おやあ……)
こっとう屋は、このとき、ひどくおどろいて、頭が、くらんとなりました。
その腕輪の感じが、あの首かざりととてもよくにていたからです。いいえ、そっくりだったからです。もちろん、まるで大きさがちがいます。が、そのデザインと銀の光りぐあいと、さびのつきぐあいは、まったくおなじでした。
(ひょっとして……)
老人は、あることを思いついて、胸をおさえました。
(ひょっとして、あの首かざりと、この娘の腕輪とは、|つい《ヽヽ》の品物じゃないだろうか)
ああ、なんと、とっぴな!
けれども、また、なんとロマンチックな推量でしょうか。たちまち、老人のほおは燃えあがり、ふしぎな興奮のために、胸が、とどろきわたりました。
(そうだ。この娘こそ、あの首かざりの持ち主だったのかもしれない)
もしも、あの船員の話がほんとうなら、この娘は、魔法にかかる前は、ふつうの大きさの人間だったはずです。それまで住んでいた町に、海がおしよせてきて、波にのまれるとき、この娘の首から、首かざりだけがはずれて、海に投げ出された――そのあと娘は、おそろいの腕輪をはめたまま、海の魔物の魔法にかかって、小人にされてしまった。そして、首かざりも娘も、長いことべつべつに海の底にねむっていた――。
「それが、たまたまおなじこの店に、前後してはこばれてきたんだ……そんなふうに考えることはできないだろうか……」
老人は、有頂天《うちようてん》になりました。埋《う》もれていた物語を、たった今、自分の手でほりあてたという気がしました。
「娘さんや、娘さんや」
彼は、そっとよんでみました。
「そうだろ? それにまちがいないだろ?」
老人は、できあがったスープを食べることも、わすれていました。
「あんたの腕輪は、たしかに、魚をつないだ銀細工だね? そして、そろいの首かざりも、持っていたんだろ?」
そういいながら、老人は、娘の腕に、よくよく目をちかづけてみました。すると、ああ、たしかに、 腕輪の魚は、 そのうろこやひれの形まで、 店にある首かざりの魚とおなじでした。
「なんというぐうぜんだ」
老人は、しばらくのあいだ、ぼうぜんとしていましたが、やがて、ぽつりとつぶやきました。
「あんたが、並《なみ》の大きさならなあ」と。
「そうすりゃ、あの首かざりを、すぐにも返してあげられるんだがなあ」
老人は、心から、そう思いました。あの首かざりが、三十何年も売れずに、この店にのこっていたのも、ひょっとして、こんな日の来るのを待っていたためかもしれません。老人は、このふしぎなめぐりあわせを、たいせつにしたいと思いました。
「あんたを、なんとか、たすけてあげられるといいんだが。そんなところに、いつもひとりぽっちで、さびしいだろ?」
そう話しかけたときです。小人の娘は、ふっと上を向きました。そして、何かささやくような声をあげたのでした。
「ええ?」
老人は、思わず耳をそばだてました。
「何かいったかい?」
けれども、もう何も聞こえはしませんでした。老人は、ふーっと大きなため息をつきました。
「そうだなあ。聞こえたところで、あんたのことばは外国語なんだから、わしにはわかるまい」
ところが、これを聞いて、娘は、首をふったのです。老人を、じっと見あげたまま、長い髪をゆすって、はげしく老人のことばを否定したのでした。それから、小さな指で、スープのなべを示しました。早く食べなさいというように。
「それじゃ、ひとまず、ごちそうになろうか」
老人は、スプーンをとりだして、魚のスープを飲みました。ひとさじ、ふたさじ、そして三さじ……。
すると、老人の舌の先に、遠い記憶がよみがえってきました。
(この味は、なんだか、おぼえがあるぞ)
老人は、そう思いました。
(ああひょっとして、味つけに、サフランを使っているんじゃないだろうか……)
むかし、サフランの花の球根をどっさり持って、奥さんは、およめにきたのでした。地中海のほとりに咲くその紫の花を、奥さんは、とても愛していました。球根を大きな鉢に植えて、毎日水をやりながら、この植物は、薬にも香料にもなるのだと、たのしそうに話していたのでした。が、その花が咲かないうちに、奥さんは家をでていったのです。
サフランがはじめて咲いた朝、この家にはこっとう屋がたったひとりでした。紫の花はつぎつぎに開いて、ふしぎなにおいが、いく日もへやを満たしました。
「うん。これはたしかに、あの花のにおいだ。あれを、味つけに使っているにちがいない」
老人は、思わず四さじめを口にはこんで目をつぶりました。すると、まぶたのうらに、一面の紫の花がひろがり、その花の中で、若い美しい奥さんがわらっていました。
ふいに、老人の胸は、あまい悲しみでいっぱいになりました。思わず涙ぐんで、
「おーい」
と、よびかけたそのとき、あの船員のことばが、老人の胸によみがえってきたのです。
――せいぜい、スプーンに五、六杯だ。これをひとなべ飲んだりしたら、たいへんなことになりますからね――
こりゃいけないと、老人は思いました。そういえば、耳のあたりが、ぽっとほてるような気がしてきました。
(まさか。酒を飲んだわけじゃあるまいし)
老人は、頭をふりました。するとこのとき、娘の声が、かすかに聞こえてきました。はっとして目をこらすと、娘は上を向いて、何かしきりにたのみこんでいるように見えました。小さなひとさし指が、スープのなべを示していました。どうやら、もっと飲めと、いっているらしいのです。
「それじゃ、あといっぱいだ」
老人は、スプーンをなべの中に入れて、五杯めをすくい上げると、目をつぶって、す早く口にはこびました。
じつにうまいと、彼は思いました。こんなにすばらしいスープを、心ゆくまで飲めるなら、そのあとすぐに死んだって悔いはないと、そんな乱暴な思いまでが、わきあがってきました。
このときです。目をつぶっている老人の耳に、あの小さな鈴の音《ね》のような娘の声が、はじめて意味のあることばになって聞こえてきました。
「コノハヲクベテ、コノハヲクベテ」
娘は、そんなことを、いったのです。
「な、なんだって?」
老人は、目をあけて、もう一度娘のことばを聞きとろうとしました。が、その声はまた鈴の音のようになり、娘は、なおも何かいいながら、スープのなべをゆびさしているのでした。
(なるほど、スープを飲めば、あの子のことばがわかるんだ。飲めば飲むほど、はっきりわかるんだ)
老人は、勇気がでてきました。このスープこそ、なぞを解くカギのようでした。
「飲みすぎたら死ぬなんて、ありゃうそだ。うそっぱちだ」
老人は、そうさけぶと、たてつづけに、スプーンを、なべの中につっこみ、とうとう、ひとなべ飲みほしてしまいました。それから、目を白黒させ、体じゅうの神経をとぎすませて、じっとようすをうかがいました。
老人の体には、何ひとつ異常は、おきませんでした。そして、今度は、はっきりと娘のことばが、わかるようになったのです。それは、こうでした。
「木の葉をくべて。
春の若葉と匂う花、
ほそい小枝もふたつみつ。
それで、あたしの夢は、かなうの」
娘は、はっきりと、そういいました。けれど、いいおわったとたん、ストーブの光がきえ、娘のすがたも、きえました。燃料がつきたのです。
老人は、両手で、机の上を、まさぐるように、なでまわしました。いつまでも、いつまでも、まるで、出ていってしまった家族をさがすように。それから、さっきの娘のことばを、ゆっくりと思い出してみました。
木の葉をくべて。
春の若葉と匂う花、
ほそい小枝もふたつみつ。
それで、あたしの夢は、かなうの。
「なるほど!」
老人は、立ちあがりました。
「燃料だ。燃料を変えることだ。そうすれば、きっと何か新しいことがおきるにちがいない」
こっとう屋は、そうさけぶなり、店をとびだしてゆきました。
外はもうすっかり日が暮れて、そこかしこに、青い街灯がともっていました。潮のにおいのする風が、港の方から吹いていました。老人は、ひとりで、ぶつぶつと、つぶやきました。
「あの船員も、こんなことは、知らなかったにちがいない。スープをすっかり飲むと、娘のことばがわかるなんて、夢にも知らなかったにちがいない。そして、港から港へわたり歩きながら、あのストーブを人にあずけては、金を借りて、遊びに使っていたんだ。そんなやつの持ちものになって、あの小さい娘も、これまで気の毒だったなあ」
老人は、あのストーブが、もうすっかり自分のもののような気になっていました。彼は、そっと口ずさんでみました。
春の若葉と匂う花、
ほそい小枝もふたつみつ。
そんな燃料をさがして、今、こっとう屋は、近くの公園へゆくところでした。
「今なら桜だ。早咲きのばらもあるかなあ……。それに、菜の花も、なかなかいいにおいがしているぞ」
それにしても、花のことなど考えるのは、何年ぶりでしょうか。よくも、きょうまで、花の名をわすれずにいたものだと、老人は、自分でも感心しました。そして今、自分の心の中に、長いあいだはりつめていたものが、少しずつ少しずつほぐれていくような、そんな気がしてきました。
夜の公園で、こっとう屋は、桜の花びらをたくさんひろいました。それから、うす緑の若葉をむしりとり、ほそい枝を、少し折りました。
港の灯《ひ》が、宝石のようにきらめいて見えるベンチにすわって、老人は、あつめた「燃料」を、かばんにしまいました。それから、風に吹かれて、あの小さな娘のことを考えました。あの娘の住んでいた町のこと、その港町の古めかしい建物や、人々の服装や食べものや、市場のざわめきや、歌声や――。
老人は、いつのまにか、自分が遠い国のふしぎな物語の中におぼれてゆくような気がしてきました。それは以前、およめさんが、魚の首かざりを手にしてふけった夢とそっくりでした。
けれどこのとき、港の船の汽笛がボーッと鳴り、むこうの通りで酔っぱらいのわめき声が聞こえました。そのとたん、こっとう屋は、あの船員のことを思いだして、はっと立ちあがりました。
(そうだ。こうしちゃいられない。あいつは、二日たったら、またやってくるんだ。ストーブを取り返しにくるんだ。それまでに、なんとかしなくちゃならないぞ)
老人は、あたふたと歩きはじめました。
3
その夜、店にもどった老人は、ストーブに「新しい燃料」を入れました。そして、いよいよ、マッチをすったのです。
ストーブは、しずかに燃えはじめました。その小さな炎を、老人は、おごそかな儀式の火を見るような思いで、じっと見つめていました。
桜の花と、若葉と小枝は、よく燃えました。そして、しだいに、ストーブぜんたいが、赤く染まっていったのです。机の上は、いつものように、ぽーっと明るくなり、そろそろあの娘のすがたが、うかびあがってくると思われるころでした。とつぜん、まるで、まったく新しいフィルムをはめこんだように、思いがけないものが、机の上いちめんに、うつしだされたのです。
それは、風景でした。
石造りの、古い港町のすがたでした。港には、いくそうもの、古めかしい帆船が停泊していました。月の光をいっぱいにあびて、このパノラマのような町は、ひっそりねむっていました。
季節は、春なのでしょうか。広場には、うす桃色の花が咲きこぼれ、においたつ若葉が、町をおおっていました。教会のとがった塔が空にそびえ、そのむこうには、ひろびろとした畑や牧場《まきば》が、かすんでいます。
燃えさかるストーブが、この小さな町を、ありありと映しだしたとき、老人には、すぐにわかりました。これはたしかに、むかし海にしずんだ町なのだと。波にのまれる前の、平和な港町のまぼろしなのだと。すると、どこからか波の音が聞こえ、出帆する船の汽笛の音までひびいてくるのでした。
それにしても、あの青い服の娘は、どこにいるのでしょうか。この町の、どの家の中にねむっているのでしょうか。
「娘さんや、娘さんや」
町の上から、老人は、そっとよんでみました。それから、目をちかづけて、いっしんにさがしたのです。通りのひとすじひとすじ、一軒一軒の家の窓の中、そして、まだめざめているさかり場の、ゆらめくあかりの中を――。
「娘さん、銀の腕輪の娘さん……」
けれど、この町には、人影ひとつ見えないのでした。
「娘さん、銀の腕輪の娘さん……」
老人の姿勢は、ますます前のめりになり、やがて、彼は、このまぼろしの町にとびこんで、家から家を、いっしんにたずね歩いていました。
「もしもし、青い服の娘を知りませんか、
銀の腕輪の娘を、見ませんでしたか」
どこかで、犬がほえていました。どこかの家のバルコニーから、すすり泣くような、バイオリンの音が流れていました。ああ、あれは……あれは、なんというセレナーデだったろうかと、老人は考えていました。
ゆるい坂をおりてゆくと、かすかに、港の場末のにおいがしてきました。潮の香と、たばこと、べとついた油のにおいと――。
港へつづく、入りくんだ横町には、小さな酒場が、ごちゃごちゃと軒をつらね、その、なぞめいたうすあかりの中から、けたたましい女の笑い声や、ギターにあわせてうたう、けだるい歌声が、こぼれてくるのでした。
早く早く! 早くしないと、この町はまたきえてしまうのだ。海にのまれて、おしまいになるのだ。いいや、闇にのまれて、きえてしまうのかもしれない……。
古めかしい石だたみの上に、老人の足音は大きくひびきました。
(早く、あの娘をさがしだして、首かざりを返してやらなきゃならない)
老人は、そのことばかり考えているのでした。
(そうすればきっと、あの娘はたすかるんだ。ふつうの娘にもどれるんだ)
そんなふうにも、思っていました。
(だけど……まてよ)
このとき、老人は、はたと立ちどまりました。いそいで、ポケットに両手をつっこみました。それから、ズボンのポケット、シャツのポケット、上着の内ポケット……そして、うめくようにつぶやいたのです。
「なんてこったい」
かんじんの首かざりを、わすれてきてしまったのです。
「うっかり店におきわすれてきた」
老人は、がっくりと肩をおとしました。
と、このとき、頭の上の方で、かすかな音がしました。小さな鈴のなるような、貝のこすれるような、それとも、枯葉が風にころがるような……思わず顔を上げると、目の前に古めかしいレンガづくりの建物があって、そのずっと上の階の、いちばん、はしの窓から、白い手がのぞいていたのです。青い袖口が見えました。手首の金属の腕輪が、しゃらしゃらと、鳴っていました。
「こ、こんなところにいたのかい!」
おどろいて、老人は、大声をあげました。銀の腕輪をはめた白い手は、まるで蝶のように、ひらひらとおどっていました。それは、招《まね》いているようにも、たすけをもとめているようにも、また、なにげなくそうしているようにも見えました。老人は、目をこらして、その窓の位置をたしかめました。七階でした。
「おーい」
と、老人は、よんでみました。
「今、そっちへ行くぞー」
そうさけんで、レンガの家の中にとびこもうとしたそのとき、老人は、うしろから、ポンと肩をたたかれました。
「おい、おやじさん」
上きげんの男の声でした。ドキッとしてふりむくと、ああ、たった今、むかいの酒場からとびだしてきたあの男が――そう、まぎれもないあの船員が、帽子をあみだにかぶって、にやりとわらっていたのでした。
「こっとう屋のおやじさん、いいところであったじゃないか」
船員は、酒くさい息を吹きかけました。それから、ぽってりとふくらんだ上着のポケットに片手をつっこむと、おどろくほどたくさんの札束をつかみだして、
「さあ、だいじなストーブ、返してもらおう」
と、いったのです。こっとう屋は、青くなりました。
「し、しかし、まだ約束のひにちは、たってないじゃないか」
「早けりゃ早いほど、けっこうじゃないか。利息は、たっぷりつけてあるさ」
老人の足は、ガクガクふるえました。
(今さら、手ばなせだって? あのストーブを、いや、あの娘を、手ばなせだって?)
なぜかこのとき、老人は、自分のこめかみを、つめたいいなずまが、つーんと走るのを感じました。
(いや、そんなことは、けっしてさせないぞ。あのストーブは、命がけでまもらにゃならん。ここまできて……ここまできて、どうしてあの子を、小人のままほうっておくことができるだろうか……)
そう思ったとき、老人の心には、おどろくほどの勇気がわいてきました。彼は、じろりと男を見すえました。それから、ひくい声で、つぶやきました。
「返すわけには、いかないねえ」
「な、な、なんだって?」
酔っぱらいは、老人に、つめよりました。それから、血走った赤い目で、
「おやじさん、約束がちがうじゃないか」
と、いいました。「あれは、もともと、おれのもちものじゃないか」
「…………」
月の光が、男のすがたを、はっきり照らしだしました。その右手に、キラリと光るものを見つけた一瞬、老人は、ぎょっとして、思わずあとずさりしました。
(ナイフ……)
まさか、刃ものを持っていようとは思いませんでした。けれどもこのとき、老人の頭は、そのナイフよりも、とぎすまされていました。若者のような勇気と血の気《け》が、彼の体じゅうに、みなぎりわたりました。
にげるかわりに、老人は、げんこをかため、いきなり相手に、なぐりかかりました。この不意うちで、船員のナイフは、魚のように光って、チャリンと石の上に落ちました。いそいでひろい上げようとかがみこんだ男の上に、――その頭だったか、顔だったか、背中だったか、もうおぼえていません。――老人は、ぽかぽかと、げんこをふりおろしました。
ううっと、酔っぱらいは、うめきました。そして、あっけなく、石の上にたおれたようでした。
老人は、しばらく、ぼうぜんとして、そのすがたを見おろしていましたが、むかいの酒場のとびらが、ギイと開いて、女の赤い髪の毛がのぞいたとき、ぴくりと肩をふるわせました。はじめて老人は、自分が、たいへんなことをしたと思ったのでした。女が、金切声で、警察とか、人殺しとかいう意味のことばをさけんでいるのが聞こえました。
彼は、いきなり、くるりとむきをかえて、かけだしました。
どこをどう走ったか、よくおぼえていません。迷路のような坂道を、あえぎあえぎかけのぼり、ゆきどまりの路地にはいりこんでは、冷汗をかいてひきかえし、いくどもころびそうになりながら、めちゃくちゃに走ったのです。だれひとり、追いかけてくる者など、いないというのに。そう、彼のすがたを見ているのは、桃の実のような月ばかりでした。このふしぎな港町は、寝静まっているのでした。あのさかり場の一画だけが、夜もひくついている心臓のように、めざめているだけで。
それでも、老人は、走りました。ぜいぜいと、荒い息をつき、今にもたおれそうになりながら、走りました。そしていつか、よく知っている古ぼけたドアの前にたどりついて、わっと中にとびこんだのです。そのとたん老人は、くらくらと、めまいがして、前のめりになり、思わず両手を、机の上につきました。
気がついたとき、老人は、ま夜中の、自分の店の中に立っていたのでした。目の前に、小さな鉄のストーブが置かれていました。たった今、火のきえたストーブは、まだかすかに、ぬくもっていました。
「なんてこった。夢をみてたんだ。いつのまにか、まぼろしの町の中にはいりこんだ夢をみたんだ」
青すじのたったこめかみを、ひくひくさせながら、老人は、つぶやきました。そして、いすにすわりながら、思ったのです。
(そういえば、このところ、ろくにねむっていないし、食べものだって、あの魚のスープ以外は、何ひとつ食べてなかったんだからなあ。こんなふうになるのも、あたりまえかしれない)
それにしても、さっき、夢の中で、ぽかぽかと船員をなぐった右手が、いたみました。
「気のせいさ」
老人は、ひきだしをあけて、栄養剤のびんをとりだすと、薬を、二、三つぶ、口の中にほうりこみました。
(きょうはもう、寝ることだ)
老人は、よろよろと、二階へあがってゆきました。
4
こんなことがあってから、こっとう屋は、あの鉄のストーブを、ほんの少し、気味悪く思うようになりました。
翌日は一日、あれを机の上に置いたまま、火をたかずに考えこんでいました。あしたになれば、あの船員が、お金を持って、これをとりもどしにくるでしょう。そうしたら、約束どおり、あっさり返してしまおうかとも思いました。けれども、老人はやはり、あの小さな娘を手ばなす気には、なれなかったのでした。あの娘を、いつまでも小人のすがたで、ストーブの光の中にとじこめておくことが、あわれでならなかったのです。もし、どうしても、魔法をといてやることができないのなら、せめて、いつまでも、自分の手もとにおいてやりたいと思いました。あんな、がらの悪い船員のポケットに入れられて、また、どこか遠い国を旅させることは、とてもがまんできないと、老人は考えました。この思いは、しだいにつのってゆき、こっとう屋は、一日考えこんでから、ある決心をしました。
「よし、思いきって、そうしよう」
老人はさっそく、机の下の手下げ金庫のカギをあけ、あらいざらいのお金をとりだしました。それは、何かよいほりだしものがあったときのために、用意しておいたお金でした。今、老人は、それを全部はたいて、あの船員から、ストーブを正式に買いとってしまおうと思ったのです。早いほうがいいと、彼は考えました。
(あいつがやってくるのを待たずに、今夜こっちから出かけてゆくことだ。港のさかり場へゆけば、会えるにちがいない。めんどうな話は、早くけりをつけてしまったほうがいい)
その夜、老人は、どっさりのお金をふところにしまって家を出ました。
町には、青い街灯がともり、公園の桜が、けむっていました。港のそばのさかり場に、老人は、まだ一度もいったことがありませんでしたが、だいたいの方角は、わかっていました。ゆるやかな石の坂を、どこまでもどこまでも、おりてゆけばいいのでした。そうして、港の方へ曲がれば、あとはもう、匂いでその場所はわかるはずでした。潮と煙と油と、人いきれの、あのむせかえるような、ごたまぜの雰囲気。近くまでゆけば、たぶん、けだるい歌声や笑い声が、ひびいてくるはずでした。
老人は、そこへ(まだ一度もいったことのないはずのそこへ)ゆく道が、手にとるようにわかり、そのあたりの雰囲気を、ちゃんとのみこんでいる自分を、少しばかりみょうだなと思いました。
町には、うっすらと、もやがたちこめていました。なま暖かい晩でした。老人は、どっさりの札束で、すっかり重くなった上着をあつくるしく思いました。早くこのお金を、あの船員にわたしてらくになりたいと、そればかり考えました。
(しかし、あの男が、うんというだろうか。ストーブを、やすやすと手ばなす気になるかどうか……)
老人は、きのう夢でみた船員の、いやらしい笑い顔を思いうかべました。
(是《ぜ》が非《ひ》でも返せというかもしれない……そしたら、そのときは……)
老人は、肩をふるわせました。
(きのうの夢みたいなことにならんともかぎらない。そうしたら、こっちは、老いぼれだからなあ。あんなふうに、かんたんに、ポカポカなぐって帰ってくるなんてことは、とうてい……)
気がつくと、老人はもう、ごみごみしたさかり場にきていました。
焼鳥のにおいがして、軒の低い小さな店に、オレンジ色のネオンがともっていました。おなじような店は、いくつもいくつもつづいているのです。こういった店の、いったいどこに、あの男がはいりこんでカルタをしているのか、老人には見当もつきませんでした。船員すがたの男は、いく人も通りました。老人は、そのたびに立ちどまり、じっと目をこらして、その中から、赤茶けた髪のあの男を見つけだそうとつとめました。が、髪が赤ければ、ついでに目も青い外国人でしたし、うしろすがたがにていると思って、しばらくあとをつけてみると、とんだ人ちがいだったりするのでした。老人は思いきって、一軒の店のドアをおしてみました。
「こんばんは」
まのぬけたあいさつをして中をのぞくと、青白いあかりの下で、酒を飲んでいた数人がふりむきました。どの顔も、海底の魚のようだと、老人は思いました。ひとわたり見まわして、あの船員がいないとわかると、彼はいそいで、とびらをしめました。それから、ならんでいる二、三軒の店の中を、たてつづけにのぞきこみ、また通りへ出て、ふっと顔を上げたとき、老人は目まいのようなものを感じたのでした。
(おやあ……)
一瞬、こっとう屋はまた、夢をみたのかと思いました。
目の前に、見おぼえのある、レンガの建物があったからです。きのうの、まぼろしの町にあったのとまったくおなじ、すすけた大きな家でした。古めかしい窓のまわりに、つたがからんでいました。ドアのない入り口が、四角い黒い口をあけていました。まるで、夢の中から、そっくり切りとられて、ここにうつされてきたように、その家は、たっていたのです。
「…………」
老人は、しばらく、ぽかんとしていました。が、やがて、気をおちつかせて、あたりをながめると、そのむかいには、やはり、見おぼえのある酒場のドアがあるのでした。そこから、赤い髪の女が顔をだして、金切声をあげた、あのとびらが……。
(そうだっけ。きのう、ここで、あいつに会ったんだ。おいおやじさんとかなんとか、肩をたたかれたんだっけ……すると、すると……)
老人は、両手で頭をおさえ、その場に、しゃがみこんでしまいました。そうして、しばらくのあいだ、じっと考えこんだすえに、ある、とんでもない疑問が、その頭にのろのろと、わきあがってきたのでした。
「あれは、ほんとのできごとだったんだろうか……」
老人は、そっと、自分の右手をにぎってみました。すると、まるでその証拠のように、にぎりこぶしは、かすかにいたいのでした。
(ゆうべ、まぼろしの町へはいりこんだつもりが、いつのまにか、本ものの町にとびだしていて……それで、それで、ほんとうに自分は、あんなことをしたんだろうか……)
老人は、ふらりと立ちあがりました。するとますます、その疑いは、つのってゆきました。自分が今立っているこの場所こそ、きのうの道路にちがいありません。そう、船員の手から、チャリンと、ナイフの落ちた石だたみ。酔っぱらった相手を、ポカポカとなぐりたおした道――ああ、たしかに、たしかに。
老人は、思わず身ぶるいすると、通りかかった男を、よびとめました。それは一目で、このへんの店の主人らしい、でっぷりとしたチョウネクタイの男でした。老人は、しどろもどろに、たずねてみたのです。
「ゆうべ、このあたりで、何かありましたかね。そのう、ちょっとした傷害事件のようなものが」
「傷害事件……」
チョウネクタイの男は、しばらく考えこんでいましたが、
「ああ」
と、やっと思いだしたように、うなずきました。
「そういえば、あけがた、ここに船員がひとり、たおれていたっけねえ」
「ど、どんな男でした?」
「どんな男って……よくおぼえてないが、なにしろ、若い男で、酔っぱらってけんかしたらしいや。そばに、ナイフが落ちていたっけ」
「そ、それで? その男は、どうしました? まさか、死にやしないでしょう? けがは、どの程度でした?」
「たいしたけがも、なかったらしいねえ。たぶん、船員どうしが、酔っぱらって、けんかしたのさ。勝った相手は、さっさとにげていったらしい。よくあることさ」
「で? たおれていた船員は? その人は今……今、どこにいます?」
ガクガクとひざをふるわせながら、老人は、いちばん、かんじんのことをたずねてみました。すると男は、こうこたえました。
「けさ早く船に乗ったって聞いたよ。港で、予定より一日早く出る貨物船があって、それの乗組員だったそうだ。今ごろは、海の上にいるだろうさ」
老人は、こくっと、のどをならしました。
(船に乗ってしまったって? 今ごろは、海の上だって?)
と、あふれるほどのよろこびの思いが、ゆっくりその胸にわきあがってきたのです。
(よかった……よかった……あいつはもういなくなったんだ。そのうえ、ゆうべのことは、だれにも見つからずにすんだんだ)
二重三重のよろこびが、老人の心をひたしました。
(あの男は、ストーブを、あきらめたんだ。ああ、そうだろうとも、だいたい、最初に、こっちが貸してやった金だけだって、とほうもなく多かったんだ。あのとき、こっちは夢中で、ひきだしからとりだして、かぞえもしないでわたしてしまったんだからな。そのうえ、あいつはそれをもとでに、カルタで、たっぷりもうけたんなら、もう文句はあるまい)
老人は、ゆうべ自分が、ふしぎな熱にうかされて、船員をなぐったことを、むしろ快く思いました。そして、これで、あの小さな娘を手ばなさずにすんだことが、彼の何よりのよろこびでした。
それにしても、と、このとき、老人は考えこみました。ゆうべ見た、あの青い袖口と、白い手は?
あれは、いったい、なんだったのだろうか……。
彼は思わず、レンガの建物を見あげました。
どこかしら、ふしぎな家でした。遠いまぼろしの町から、風にはこばれてきたような、それとも、紙と板と絵の具でつくられて、ほのかな照明をあびている舞台装置の家のような……。
そしてあの七階の窓からのぞいた白い手は、たしかに、銀の腕輪をはめていたのでしたっけ。自分はてっきり、海にしずんだ町の、まぼろしの中にはいりこんだつもりでいましたから、それを、あの娘の手と思ったのでしたが……。
(まさか。あの子が、あそこにいるわけがない。あの子は、まだ小さなすがたで、ストーブの光の中にいるはずだ)
それでも老人は、あの窓の中の人に、ひと目あってみずにはいられませんでした。
老人は、レンガの建物の中へはいってゆきました。
しずまりかえった石の階段には、月の光がゆれていました。この階段をのぼりつめたところにひっそりとすわっている人のことを、このとき老人は、なぜかふしぎなほどなつかしく思いました。
コツコツと、くつ音をひびかせて、こっとう屋は階段をのぼりはじめました。二階から三階へ、三階から四階へ――。
それぞれの踊り場の窓から、月の光がさしこんで、のぼればのぼるほど、階段は、明るくなってゆくようでした。そして、みょうなことに、のぼればのぼるほど、こっとう屋の足は、かろやかになってゆくのでした。これまで彼は、自分の家の二階へのぼるだけで、荒い息をしていましたのに、これはいったい、どういうことなのでしょうか。いつのまにか、彼の足は、少年のように強くなっていて、階段の百段や二百段、いっきにかけのぼっても、まだつかれないように思われました。足ばかりではありません。いつのまにか、目は生き生きと輝き、体ぜんたいに、ふしぎな若さが、みなぎりあふれていました。彼の髪は、ふっさりと黒く、ほおは、ばら色にもえていました。そのうえ、ひとりでに、口笛までとびだしてくるのです。
今、月の光をあびて階段をのぼってゆくのは、あのこっとう屋の老人ではなくて、ひとりの元気な若者でした。それは、老人が、ちょっきり三十年若がえったすがたなのでした。いいえ、若かったころの、あのがんこでいじわるな彼ではなく、あたたかい目をしたやさしい青年でした。
若いこっとう屋の胸は今、後悔の思いでいっぱいなのでした。
「首かざりのひとつぐらい、あんたにあげてもよかったんだ。あれがいちばんよくにあうのは、あんたなんだから……」
若者は、階段をのぼりながら、そんなひとりごとをいっていました。
いっきにかけのぼった七階の、いちばんはしのドアを、彼はそっとノックしました。そしてしばらく待ちました。が、なんの返事もないので、とびらに耳をつけてみました。すると、かすかな歌声が聞こえてきました。若い女の声でした。こっとう屋は、いきなりドアをあけました。
すると、月の光をいっぱいにあびたへやの中に、青い服の娘がひとりすわっていました。長い髪を肩までたらし、銀色の腕輪をゆらめかしながら、娘は、ぬいものをしていました。ひざの上にひろげた、まっ白いテーブルかけのふちかがりが、もうほとんどおわるのでした。やっぱり……と、こっとう屋は思いました。けれども、なぜか少しもふしぎな気はしませんでした。ずっと前から、こんな出会いが予定されていたのだという気がしていました。
「いよいよ、ふちかがりがおわるね」
と、こっとう屋は、つぶやきました。テーブルかけができあがると、娘は、それをていねいにゆかにひろげて、ふたり分の食器をならべました。お皿を二枚と、スプーンをふたつ、ガラスのコップや、銀のティーポット、二枚のナフキン……。それから、娘は立ちあがって、そばのストーブに、大きななべをかけて、スープをつくりはじめたのです。
何もかも、あの机の上のできごととおなじでした。けれども今、自分とおなじ大きさになっているあの娘は?……あれはいったい、だれなんだろう……。
このとき、こっとう屋の胸は、ふいに、なつかしさでいっぱいになりました。青い服の娘が、むかしの奥さんに見えてきたからです。遠い外国の港の娘は、いつのまにか、まぎれもない、彼の奥さんと二重うつしになり、今、自分の方に、あのなつかしい笑顔《えがお》を向けたではありませんか。そして、自分に話しかけるではありませんか。早くこっちへいらっしゃいと――。
こっとう屋は、思わず大きな声で、奥さんの名まえをよびました。そして、へやへはいってゆきました。奥さんの整えたテーブルの、正式のお客になるために。
ストーブは、暖かくもえていました。
こっとう屋は、まるで小さな子どものようにいそいそとテーブルかけの前にすわり、ごちそうのできるのを待ちました。
お皿に、できたてのスープをそそぎながら、奥さんは、しずかに、こんなことをいいました。あなたも、ストーブの光の中の人になってくださいと。そして、いつまでも、ここでいっしょに暮らしましょうと。
若いこっとう屋は、そっとうなずきました。
するとそのとき、窓からさしこむ月の光が、まるで青い波のようになって、その小さなへやいっぱいに、ひたひたと満ちてきたのです。青い光の波は、ゆらーんとゆれながら、あとからあとからおしよせてきました。
(ああ、津波だ、津波だ。町が海にのまれるぞ。海の底にしずむぞ……)
そう思って目をつぶって……それから、おそるおそる目をあけたとき、こっとう屋と、青い服の娘は、海の底の、ゆらめく水の中にすわっていました。まわりには、魚が泳いでいました。海草がしげっていました。
そんな海の底の白い砂の上に、一枚のテーブルかけをひろげて、ふたりは、これから、たのしい食事をはじめるところなのでした。そばでは、古い鉄のストーブが、赤々と、もえていました。
5
港町の、小さいこっとう屋の主人が、いったいどこにきえたのか、知っている人はだれもいません。店のいちばんおくの机の上には、とても小さな鉄のストーブがむぞうさに置かれていますが、この品物の秘密を知っている人も、だれもいません。
そして、店にならべられたさまざまの品物といっしょに、このストーブにも、ほこりがつもってゆきました。
港には、毎日新しい船がつきました。が、あのふしぎな船員が、二度とこの町をおとずれることはありませんでした。
[#改ページ]
あざみ野
北国の、みわたすかぎりの原野を、ある日、ひとりの若い男が通りかかりました。
男は、名まえを清作《せいさく》といって、毛皮商人でした。山の猟師の家から、安く買いとったうさぎの皮や、たぬきの皮を、馬に積んで、街《まち》へもっていっては売りさばき、ささやかなくらしをたてていました。
寒い地方のことでしたから、毛皮は、よく売れました。けれど、山から街へたどりつくまでの長い道のりは、元気な若者にとっても、けっしてらくなものではありません。ことに、その荒れ野をわたるときが、いちばんつらいのでした。
野原は、果てしなく広く、見えるものといったら、いちめんの草と、遠い雲ばかりでした。旅人は、その一本道を、ひとりで歩いているうちに、よく、奇妙な幻覚におそわれました。風の音が、若い娘の笑い声に思えたり、草のむこうに、大きな緑色の城を見たり――。
清作は、その野原のまん中で行き暮れることを、いつもいちばんおそれていました。人っ子ひとり通らない荒野で、野宿をすることを思うと、えたいの知れないおそれで、背中のあたりがぞっとするのでした。
これには、とくべつなわけがありました。
清作は、もともと、すきで毛皮商人などになったのではなかったのです。父親に早く死にわかれ、体の弱い母親と、おおぜいの弟妹《きようだい》を養うために、しかたなく選んだ仕事でした。彼は、はじめて猟師の家へ行って、とれたての、まだボトボトと血のしたたっている熊の皮を見せられたとき、もう、たまらないほど、いやな気分になったのでした。
そのときの、とりはだのたつような思いが、いつも、彼の胸の中で、ざわめいていました。もし自分が、山ほどの毛皮を積んだ馬をひいて、街に行きつかぬうちに夜をむかえたなら、仕入れたうさぎやたぬきや、きつねの皮が、ひょっとして息をふきかえし、おそろしい声をあげるのではないかと、いつも、そんなおそれになやまされていました。
(おなじ皮の商売でも、皮細工なら、ずっとたのしいんだが)
彼は、いつもそんなふうに思うのでした。手先の器用な清作は、ときどき、あまった商売ものの鹿の皮で、財布とか、たばこ入れとか、スリッパなどをこしらえて、たのしんでいたのです。そして、そんな品物が、もしも、いい値で売れて、生活をささえることができるなら、こんなにらくなことはないのにと、考えたりするのでした。
さて、あれは、北の短い夏がおわろうとしているころのことでした。
清作は、その日も、やせ馬をひいて、とぼとぼと街の方へ向かっていました。太陽は、遠い黒い森のあたりに、明るく燃えていました。
清作の心は、その日、いつになくはずんでいました。それは、荷物の中に、これまで見たこともないほどみごとな銀ぎつねの皮が一枚はいっていたからです。これは、高く売れそうでした。これを売ったお金で、母親の薬と、妹たちの着物を買い、残りで、何かうまいものでも食べてこようかと、彼は考えていました。そんなことを思うと、毛皮の商売も、まんざら悪いものではありません。いつものいやな思いも、わすれることができました。
「この調子で、銀ぎつね十枚も仕入れたら、たいした金持ちになれるんだが」
清作は、そんなひとりごとをいいました。
「そうすりゃ、こんなやせ馬で、トボトボ商売しないでもすむだろうなあ」
彼は立ちどまって、汗をぬぐいました。すると、馬は、はあはあと、荒い息をしました。きょうは、ばかに、のどのかわく日でした。もってきた水筒は、すでにからっぽでした。清作はふと、このあたりに、古い井戸があったのを思い出しました。旅人が、よくそこで、ひと休みする場所でした。こんな荒れ野のまん中に、いったいだれがほったのか、その井戸は、おどろくほど深く、水は、手が切れるほど、つめたく澄んでいました。
(あそこで、ひと休みすることにしよう)
清作は、馬をひいて、井戸のある方へと歩いてゆきました。
井戸は、大きなにれの木の下にありました。
ところがこの日、清作が、そのにれの木かげにたどりついたとき、古い石の井戸のふちに、みょうな感じの小娘がひとり、こしかけていたのです。清作は、おどろいて、思わず立ちすくみました。すると、
「こんちは。清作さん」
いきなり、そんなふうに娘がさけんだものですから、清作は、あっけにとられて、ものもいえなくなりました。娘は、茶色い木綿《もめん》の服を着ていました。そのすそから、棒きれのような、はだしの足が二本、ふらりとのぞいているのを、彼は、なんとなく無気味に思いました。
「だ、だれだ……」
清作は、かすれた声をあげました。すると娘は、長い髪をゆすって、わらいました。
「あんたは、あたしを知らないかもしれないけど、あたしは、あんたのこと、よーく知ってるよ。行きには、毛皮山ほど積んで、帰りには、お金どっさり持って、ここを通るのを、いつもいつも見てるもの」
「だから、だれだって聞いてるんだよ」
清作は、娘をにらみました。すると、娘はにっとわらって、
「あたしは、井戸の精《せい》」
と、こたえました。
「井戸の精だって?」
清作は、まじまじと、娘を見つめました。
「すると、この中に住んでるのかい。つまり、水の精というやつかい」
娘は満足そうに、うなずきました。それから、こんなふうに説明しました。
「つまり、あたしは、地下水の精だよ。この野原の木ぜんぶ、草ぜんぶ、動物ぜんぶ、虫ぜんぶ、鳥ぜんぶ、あたしが養ってるのさ」
清作は、小娘の自慢話を、少しばかり、にくらしく思いました。
「そんなことは、どうでもいいさ。こっちは、のどがかわいてるんだ。ちょっとそこをのいてくれ」
これを聞いて、娘は、すかさず、こういったのです。
「そんなら、かわりに毛皮一枚、あたしにおくれ」
「…………」
清作は、あっけにとられて、ぽかんと、その娘を見つめました。たかが、水一杯を――いつもなら、ただで、すきなだけ飲める井戸水を、商売ものの毛皮と、とりかえろですと? 清作が、ものもいえずにつっ立っていますと、娘は、いきなり、
「あたしは、銀ぎつねがほしいなあ」
と、いうのでした。清作は、青くなりました。すっぽりとおおいをかけた荷物のいちばん下にしまいこんである銀ぎつねを、この娘は、いったいどうやって、かぎつけたのでしょうか。ひょっとして、きつねのしっぽでも、のぞいていたかしらと、清作は、馬の背を、なめるようにながめてみましたが、荷物からは、毛の一すじすら見えはしないのでした。
ふと、彼は、気味が悪くなりました。だいじなときに、いやな奴につかまったと思いました。けれど、のどのかわきは、ますますつのってゆき、ここで、どうしても水をもらわないことには、もう一歩もうごけないような気がしてきました。相手は、やせっぽちの小娘でしたから、つきとばしてしまえば、かんたんに水にありつくことはできるのでしたが、その娘の、大きな黒い目が、なんとなく清作には、おそろしかったのです。そこで、清作は、どもどもと、こういいました。
「ぎ、ぎんぎつねは、ちょっとこまるんだ。もう買手がついてるんでね。そのかわり、うさぎか、たぬきをあげよう。そう、たぬきの皮なんかは、あったかくていいもんだ」
これを聞いて、娘は、はげしく首をふりました。それから、清作の荷物を指さすと、いきなり、ヒュッと口笛を吹いて、
「出ておいで。あたしのかわいい銀ぎつね」
と、いったのです。
すると、どうでしょう。
清作の荷物は、モクモクとふくらんで、すっぽりかけたおおいの中から、いきなりぴょーんと、銀色のきつねが、とび出したではありませんか。
きつねは、生きていたのです。黒い目を、きろきろさせ、ふっさりとしたしっぽをふり立てて、草の上に、ちゃんと立っていたのです。仕入れたときには、正真正銘の毛皮だったものが。清作は、もう少しで、腰をぬかすところでした。
娘は、満足そうにうなずくと、井戸のふちからとびおりて、まるで、そのきつねの飼主ででもあるように、
「こっちへおいで。あたしのかわいい銀ぎつね」
と、いいました。それから、きつねを抱きあげて、自分のほそい首に巻きました。
清作は、ぶるぶるふるえました。
いつもおそれていたことが、たった今、おきたのです。もぬけのからの毛皮が、息をふきかえしてうごきだしたのです。ひょっとしたら、この小娘は、これからおなじ魔法を使って、自分の荷物の中の品物を、つぎつぎににがしてしまうかもしれません。
清作は、のどのかわきもわすれました。馬をひきずって、できるだけ早くここからにげだしたいと思いました。すると、娘は、こんなことをいいました。
「清作さん、あんたには、この商売はむかないから、もっとべつのことをするといいよ」
このとき、娘の目が、なんだかとてもいい感じにわらっていましたから、ふっと清作の心は、うごいたのです。
「べつの仕事?」
「そう。たとえば、皮細工。シャレた長ぐつなんかつくるのは、どうだろう」
「…………」
ああ、なんとこの娘は、清作の心の中をよく知っているのでしょうか。彼は、きゅうにいい気分になって、その場にすわりこむと、素直にうなずきました。
「ああ、おれも……おれも、前からそんなふうに思っていたんだ。何かこう、きれいなもの、たくさんつくってみたいってねえ」
「そんなら、そうすればいい」
娘は、こともなげに、そういいました。
「しかし、それでは、暮らしてゆけないのさ。手づくりのくつなんか、なかなか買手がつかないだろうからね」
「そんなら」と、娘は、いいました。「あたしが、いいことしてあげる」
彼女はかがんで、足もとに咲いている、あざみの花を一輪つみました。べにむらさきの花でした。とげだらけの葉でした。それを、そっと口もとまでもってきて、娘は、こんな歌をうたったのです。
「こぼれろ こぼれろ 花の種」
それは、歌というより、呪文《じゆもん》でした。娘が三度、これをくりかえしますと、たちまち、風がひゅーっと吹いてきて、あざみの花は散りました。ちょうど、たんぽぽが枯れて、風に吹き散らされるように。
と、そのほそい花びらの一枚一枚が散ったところに、まるで、手品のように、新しいあざみの花が咲いたのです。ぜんぶで、何輪あったでしょうか。たった一本のあざみが、みるみるうちに、ふえたのです。娘は、その咲いたばかりの一輪をまたつみ取ると、おなじことをくりかえしました。
「こぼれろ こぼれろ 花の種」
このかんたんな文句を、たった三回となえるだけで、花は、どんどんふえてゆくのです。たちまち、井戸のまわりは、あざみの花畑になりました。明るい野原の陽《ひ》の下で、べにむらさきの花むれは、さやさやとゆれていました。
ところが、そのうちにこまったことがおきました。花がふえてゆくにつれ、あざみのとげで、娘の素足《すあし》が、いつのまにか、きずだらけになっていったのです。
「いたたたたた」
と、娘はさけびました。そして、そのきずだらけのほそい足をあげて、こんなことをいいました。
「清作さん、長ぐつ一足、つくっておくれ」
清作が、きょとんとしていますと、娘は、またいいました。
「今すぐに、皮の長ぐつつくっておくれ。そうしないと、とげがいたくて歩けない」
すると、清作は、まるで、魔術にでもかけられたようになって、ふらふらと自分の馬の方へ進んでゆき、荷物の中から、鹿の皮を一枚とりだしました。
すべすべと、なめらかな皮でした。草の上にひろげてみると、上等の長ぐつが、何足も、とれそうでした。
「しかし、こまったなあ。道具がないんだ」
清作は、残念そうにつぶやきました。すると娘は、
「道具なら、あたしの針と糸とはさみがあるよ。ほーら、ほーら、ほーら」
そういいながら、ポケットに片手をつっこんで、色とりどりの糸や、皮細工用の長い針や、りっぱなはさみをとりだしたのです。小さなポケットに、どうしてそんなにたくさんのものがはいっていたのか、清作にはわかりません。けれど、その針も糸も、彼がこれまで見たこともないほどよい品物でした。
針とはさみは、ほんものの銀でできているようでした。糸は、どれもこれも、つややかで、さえた色をしていました。まるで、虹をほぐして、草の上にばらまいたような……。
清作は、すっかり感心して、大きなため息をつきました。すると、娘は、こういいました。
「それみんな、あんたにあげるから、あたしに、すてきな長ぐつ一足つくっておくれ」
「いいとも」
清作は、うなずいて、さっそく仕事にかかりました。
鹿の皮に、美しい糸でぬいとりをした一足の長ぐつができあがったとき、もう陽《ひ》はだいぶ西へまわっていました。野原は、いちめんあかね色。その光の中で、咲きたてのあざみの花々が、あざやかに燃えて見えました。
「しまった。たいへんだ」
清作は、おどろいて立ちあがりました。
「もう夕方じゃないか。街までは、まだまだだというのに、こんなところで道草くって……」
「そんなら、とまってゆけばいい」
こともなげに、娘はいいました。
「ここで夜あかしして、あしたの朝出発すればいい」
「そ、そんなわけにはいかないさ」
清作は、長ぐつを娘にわたすと、自分の荷物をまとめようとしました。すると娘は、それをさえぎるように、こんなことをいうのです。
「あんたはひと晩、ここで仕事して、皮の長ぐつを、どっさりこしらえるといいよ。そのあいだに、あたしが、いいことしてあげるから。あんたが、大金持ちになれるようにしておいてあげるから」
「…………」
「ね、あたしが、あざみの花を、もっともっとふやして、ここら一面、あざみの野原にしてあげる。むこうの街も、村も、そのまたむこうの大きな街も、あざみの花でいっぱいにしてあげる。そうしたら、だれもかれも、とげがいたくて一歩も歩けなくなるから、あんたの長ぐつは、よく売れるよ。きっと、つくってもつくっても、たりなくなるよ」
一息にそういうと、娘は、清作のこしらえた長ぐつをはいて、スキップをはじめました。首に巻いた銀ぎつねが、するりとすべりおりて、娘のあとを追いました。
「こぼれろ こぼれろ 花の種
こぼれろ こぼれろ 花の種」
あざみの花は、ずんずんふえてゆきます。長ぐつをはいた娘のほそい足は、なんとかろやかに遠ざかってゆくことでしょうか。清作が、あっけにとられて、そのうしろすがたを見送っていますと、娘は、とちゅうでひょいとふりむいて、風に吹かれながら、こうさけんだのです。
「大金持ちになったら、あたしを、およめさんにしておくれ――
大きな家をたてたら、むかえにきておくれ――
りっぱな馬で、むかえにきておくれ――」
それから、スカートをひろげて、どんどん走り去ってゆきました。
「こぼれろ こぼれろ 花の種」
歌声だけが、いつまでも野にひびきました。銀ぎつねは、まるで白いまりのように光って、娘のあとを追ってゆきました。
「あきれたもんだ」
清作は、大きなため息をつきました。が、このときもう、彼の心はきまっていたのです。今夜は、あの子のいうとおり、ここで仕事をしてみようと。一枚の鹿の皮で、できるだけたくさんの長ぐつをこしらえてみようと。
その夜、明るい月の光をあびて、清作は長ぐつを十足ほどこしらえました。
夜が明けたとき、その中の一足を、彼はさっそく自分の分にしてはき、九足を馬に積んで街《まち》へ出発したのです。街へ――あのにぎやかな大通りがあり、人々が、はなやかにざわめいている街の方へ――。
ところが、野原を進んでゆくにつれて、清作のおどろきは、ますます大きくなりました。
野原は、みわたすかぎりのあざみの花! 行っても行っても、べにむらさきの花々が咲き乱れ、風にゆれているのです。これまであったはずのほそい一本道も、あざみでうめつくされ、いったいどこに道があったのか、見当もつきません。こんなに歩きにくい野原が、またとあるでしょうか。こんなにあぶない野原が、またとあるでしょうか。耳をすますと、今度は、花たちが、自分でうたっていました。
「こぼれろ こぼれろ 花の種
こぼれろ こぼれろ 花の種」
あの娘とそっくりの調子で。そして、針のような、かん高い、とがった歌声で。あざみの花々は、風にゆれながら、ひとりで、ずんずんふえているらしいのでした。おそろしいほどの勢いでした。たったひと晩のうちに、みわたすかぎりとげの野原となり、そして、先に行けば行くほど、あざみの丈《たけ》は高く、葉は大きく、草むらは深くなってゆくのです。清作はいつか、草をかきわけかきわけ、進むようになりました。
もうそろそろ、街にさしかかってもよいと思われるころ――いいえ、道のりから考えて、もう、街のまん中まで来たと思われるころ、ゆくての草むらが、ざわざわっとゆれて、清作の耳に、こんな声が聞こえてきたのです。
「足がいたくて歩けない。清作さん、長ぐつ一足売っておくれ」
清作が、きょとんとして足をとめますと、目の前に一ぴきのたぬきがとび出してきて、小さな黒い目で清作を見あげました。
一瞬、彼は、ぎょっとしました。そのたぬきの背中には、鉄砲のたまのあとがあったからです。くろぐろとした、古いきずあとでした。そして、その顔つきと、その毛なみには、なんだか見おぼえがあるような気がしました。
(そうだ。たしかにそうだ。これは、おれがこの商売はじめたばかりのころに、街の大きな毛皮屋へ売ったたぬきだ)
清作は、このたぬきに話しかけてみようかと思いましたが、舌がもつれて、声が出ませんでした。するとたぬきは、もう一度、
「長ぐつ一足、ゆずっておくれ」
といって、口の中から、一枚の銀貨をおとしたのです。銀貨は、ころりと清作の足もとにころがりました。
「…………」
青ざめた顔つきで、清作は、荷の中から、新しい長ぐつをとりだして、たぬきにやりました。するとたぬきは、あと足にそれをはいて、しっぽをふりふり、草の中にきえてゆきました。きゅうに、清作は、おそろしくなりました。えたいのしれない気味悪さが、足もとから、ざわざわとはいのぼってくるような気がして、銀貨をひろう気になど、とうていなれませんでした。ふしぎなあざみの花が、ひと晩のうちに、野原も街も村も、家々も人人も、うめつくしてしまったのです。そして、今、このあたりに生きているのは、命をとりもどした毛皮たちだけなのかもしれません……。
と、このとき、あざみの花の間から、まるでもう、わきあがるこだまのように、さまざまの声がひびいてきたのでした。
「長ぐつ一足、ゆずっておくれ」
「清作さん、長ぐつゆずっておくれ」
「ゆずっておくれ……」
はっと気がつくと、清作のまわりには、もうかぞえきれないほどの、きつねやたぬきや、うさぎが、すわりこんでいるのでした。どの動物も、胸や背中に、鉄砲のたまのあとがあり、口には、銀貨をくわえていました。中には、五枚も十枚もくわえているのもいるのです。それを、ポロポロと、清作の前に落として、動物たちは、長ぐつをねだるのです。清作は、夢中で長ぐつを馬からとりおろして、動物たちにわけてやりました。が、たった八足の長ぐつは、すぐなくなってしまいました。清作は、うわずった声でさけびました。
「もうおしまいだ。長ぐつは、これでおしまいだ――」
それから彼は、馬にまたがりました。
いつのまにか、馬の背は、からっぽになっていました。長ぐつといっしょに積んできたきつねの皮も、たぬきの皮も、きえていたのです。
清作は、馬にひとムチあてると、みわたすかぎりのあざみの野原を、命からがらかけぬけました。山へむかって、自分の家の方へ向かって……。
風が、ヒューヒューと、耳のうしろへとんで行きました。ふしぎなことに、このとき、馬の足は、ほとんど地についていませんでした。まるで、はねがはえたように、宙をとんでゆくのでした。
そして気がついたとき、清作は、山の自分の家についていました。そのときの清作の顔は、まっ青で、三日ぐらいは、腰も立たなかったということです。
それっきり、彼は、毛皮の仕事をやめました。
ただ、たった一足のこった美しい長ぐつを、彼は一生、だいじにしまっていました。こまかくぬいとりをした色糸は、いつまでもつややかで、色あせませんでした。
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青い糸
1
「ね、思ってること、みんないっておしまいよ。そうすると、気もちがらくになるから。胸にためておくの、いちばん毒だよ」
やさしく、そう話しかけられても、千代はだまっていました。
「ね、いま、ここには、あんたとわたしとふたりっきり。店の者は、もうみんな、ねてしまったし、それにねえ、わたしは、だれにもしゃべらないから」
おかみさんは、親切でした。半年ほどまえから店で働いている小娘に、どうやら何かたいへんな悩みごとができて、仕事も手につかず、食事も満足にのどをとおらないのを見かねて、何とか力になってやりたいと思っているようすでした。けれど、その思いやりをいっぱいにたたえた目のおくに、ちらりと、ひとかけらの好奇心を読みとると、千代は、青ざめた顔を横にふるばかりでした。
「ふうん。やっぱり言えないの。そう。どうしても言いたくないならしかたないけど……でもねあんた、うちは、お客商売ですからね。も少し明るい顔をしててもらわないとねえ」
そういいのこして、おかみさんは、娘のへやを出てゆきました。階段のきしむ音が、ゆっくりと、闇の中におちてゆきました。
屋根裏べやの月あかりの中にうずくまって、千代は、そのあといつまでも考えこんでいました。
まだ一度も会ったことのない人をすきになって、その人のことを思うと、胸がいたいほど苦しいのだなどと、どうして人にいえるでしょうか。そんな話をしたら、おかみさんは、とたんにわらいだすでしょう。秘密の約束など、ころりとわすれて、あしたになったら、このうちあけ話を、大きな声でくりかえすでしょう。あのけたたましい笑い声のあいだから、こぼれてくることばが、たちまち千代の秘密を、店じゅうにばらまき、彼女は、それからあと、まともな顔で、この町を歩くことができなくなるかもしれません。
――あっはっはっは。まあおどろいた。小さい千代が、一人まえに男をすきになって、それも、まだ会ったこともないのに、苦しいほどだなんて。それで、手紙を書きたいけど、住所も名まえもわからなくてこまってるってさ。まあまあ、あきれた。
千代は、それが、おそろしかったのです。ばかげた娘だと、みんなにわらわれることが。そして、そこから、もうひとつの重苦しい秘密が、みんなに知れわたることが。
千代は、十四でした。
みなしごで育ち、そこかしこの家々の、子守《こも》りや使い走りをしながら大きくなりました。学校は、ほんのいろはを習っただけでやめました。そして、十四になったばかりのある日、やさしそうな、きれいなおばさんが、その山の村に、千代をたずねてきて、いったのです。
「どう、あんた、うちで女中をしない? 町の宿屋なの。お給金はずむよ」
こってりとお化粧した顔をほころばせて、その人はわらいました。おしろいのにおいが、千代の心をくすぐりました。
千代は、一も二もなく承知して、翌日にはもうこのおかみさんといっしょに汽車に乗っていました。
かど屋というその宿屋は、ふもとの町の駅前にありました。千代は、かど屋についたその日から、もうたすきをかけて、ふきそうじやら、水くみやら、洗濯をしました。千代は働くことを、いといませんでした。みなしごの自分には、どこへ行ったって、そうらくのできる場所があるわけがないと思っていましたから。
千代のいちばんすきな仕事は、店のガラス戸をみがくことでした。『お宿かど屋』と書かれた、重たいガラスの引き戸に、はっはと息をかけ、すみからすみまでみがきあげると、ガラスは美しくすきとおり、その大きな四角の中に、遠い山並《やまな》みを、くっきりと映《うつ》しました。千代は毎朝、四枚の引き戸を、ていねいにみがきました。そして、この仕事をしながらふと、自分の遠い未来を思ったりするのでした。
千代が夢みているのは、いつかいい人のおよめさんになることでした。その人は、たぶん千代にとって、たったひとりの身寄りなのでした。そういう人が、いつか自分をむかえにきてくれると思うと、千代はこのごろ、胸の中が、ぽーっと明るんでくるのでした。
さて、ある日のこと。
あれは、春のはじめの、ほんのりとかげろうのたつ朝でした。
店の湯気でくもったガラス戸のむこうに、千代は、ふしぎな人かげが、遠くゆらゆらゆれるのを見たのです。
(こんなに早く、もうお客さんだ)
千代は、いそいでガラス戸のかぎをあけようとしましたが、かじかんだ指は、なかなかいうことをききません。
その人は、馬に乗っているように思えました。そして、ちょうど、白い大きな鳥が、ふうわりととぶような感じに、だんだんこちらへちかづいてくるのでした。それから、千代の方を見て、ゆっくり片手をあげたのでした……。
千代はびっくりして、思わず左手でガラス戸をこすりました。が、透明になったガラスのむこうには、だれもいませんでした。雪どけ道が、駅の方へとつづいているだけでした。
なんだか、ばかされたような気がして、千代は、しばらくぽかんとしていました。
ところが、その翌朝《よくあさ》も、湯気でくもったガラス戸のむこうに、千代はおなじまぼろしを見たのでした。馬に乗った人は、とても大きく、りっぱに思えて、このとき、ふっと千代の胸は、ふるえました。
(あの人、あたしに会いにきたんだろうか)
けれど、大いそぎで戸を開くと、そこにはやはり、だれもいないのでした。
こんな朝がいくどかつづいたとき、千代の心はもう、そのふしぎな影のとりこになっていたのでした。千代は、馬に乗った若者のすがたを、自分の想像でほとんど完全に補いました。それで、四、五日たつうちに、その人は、頭のてっぺんから足の先まで、いいえ、髪の毛の一すじ一すじまではっきりと、まるで絵のようにあざやかにできあがっていました。それは、むかし、千代が育った村にやってきたサーカスの一団の中で、いちばん芸のうまかったぶらんこ乗りの若者にもにていましたし、千代がはじめてのぞいた絵本の中の王子のようでもありました。
ある日、千代は、風呂をくべながら、番頭の正吉《しようきち》じいさんに、こっそりとこの話をしました。
「ガラス戸のむこうにねえ、毎朝あたしのいい人が見えるのよ」
このとき、すすでよごれた千代の顔が、いつになく輝いていましたから、じいさんは、思わず薪《まき》をわる手をやすめました。
「ほう、そりゃいったい、どういうこったい」
じいさんは、腰をトントンたたきながら、おもしろそうに聞きかえしました。そして、よくよく千代の話を聞いてみると、どうやらそれは春のかげろうか、かすみのいたずららしく思われました。が、いかにもしあわせそうな千代の顔つきを見ていると、ほんとうのことを教えてやるのは気の毒になって、口をつぐみました。そして、ついこんなことをいってしまったのです。
「そりゃきっと、あんたのいどころを、たずねまわってたのかもしれないなあ」
すると千代は、
「ほんと?」と、胸に手をあてました。その目は、はじめて身寄りにめぐりあった人の、人なつこいよろこびにあふれていました。
千代は、美しい娘ではありませんでしたが、笑顔《えがお》は愛らしかったのです。そのあどけないえくぼを見たとき、正吉じいさんは、ふいと、千代の夢を、もっともっと、大きく美しくふくらませてやりたくなりました。そして、たわいのないいたずらを思いついたのでした。
正吉じいさんは、千代に手紙を書いたのです。ちょっとした恋文でした。やさしい、いい手紙でした。さし出し人の名を書くのはやめておきました。それを、正吉じいさんは、ほんものらしくするために、念入りにも、駅前のポストに入れたのです。
じいさんは、みなしごの千代に、ちょっとした身寄りをつくってやりたいと思っただけでした。ただただ、それだけのことだったのでした……。
正吉じいさんが、ポストに入れた手紙は、翌朝、かど屋に配達されました。
「ほい、千代ちゃんに郵便だ」
郵便配達は、店先で大きな声をあげました。
「へえ? あたしに?」
千代は、目をまるくして、封筒をうけとると、しばらくは、ぼんやり店の前につっ立っていたのでした。自分に手紙をくれる人など、この世にただのひとりもいないことを、知りすぎるほどよく知っていましたから。けれど、うけとった封筒のおもてには、黒々と千代の名が書かれていたのでした。千代は、それをいそいで、ふところにおしこみました。
その夜、屋根裏の窓辺のほのかな月あかりで、千代はその手紙を読みました。
ひらがなばかりの手紙でした。そこには、千代のかわいいえくぼのことと、きのうしめていた新しい赤い前かけのことが書かれていました。たどたどしく綴られたその文字から、千代は自分を見まもっている暖かい目を感じました。
(だれだろう……あたしのこと、どこかでこっそり見てる人があるんだ……)
たちまち、千代のほおは、ばら色に燃えました。ああだれが? いったいだれが?
千代の頭には、もうあとからあとから、ありとあらゆる若い男の顔がうかんできたのです。店に出入りの八百屋、魚屋、米屋、駅の改札係、新聞配達、そして、いれかわりたちかわりこの家へやってくるさまざまの行商人。
けれども、千代のいい人は、そのだれともちがっていました。それは、汗のにおいや、食べもののにおいのしない人でした。もし、何かにおうとしたら……そう、よもぎのにおいでした。どこか遠い、広い広い野をはるばるとこえて、千代をむかえにくるはずの、りりしい若者でした。千代は、うっとりと夜空を見あげました。そして、思ったのです。
ああ、いつか、ガラス戸の外にいた人かもしれない。わたしがのぞいたら、大いそぎですがたをけしたあの人かもしれない……。そうだ。そうにきまってる。あの人以外に、だれがこんなにいい手紙、書けるだろうか……。
その夜ひと晩、千代は、しあわせでした。いいえ、翌日も、そのまた翌日もしあわせでした。千代は、よく鏡をのぞくようになりました。そしてそのたびに、鏡の中の自分に、そっとわらいかけてみるのでした。千代のえくぼは、いっそう愛らしくなり、赤い前かけすがたは、きりりとかいがいしく見えました。正吉じいさんは、そんな千代のようすをながめながら、自分もまた、ひそかに胸を暖めていたのでした。
ところが、いく日かたつうちに、千代のようすが、少しばかりおかしくなりました。
ぼんやり考えごとをしていてお皿をわったり、水を張った雑巾《ぞうきん》ばけつにつまずいてころんだり、そうかと思うと、夜ふけの月あかりの道に、ぼうっと、いつまでも立っていたりするのでした。それは、目に見えないものに恋してしまった娘がかかる、病気のようなものだったのかもしれません。
ある日、千代はまた、正吉じいさんに話しかけました。
「あたしねえ、あの人から手紙もらったんだけど、名まえも住所もわからなくて、それっきりなんだよ。あたしは毎日つぎの手紙を待ってるんだけど、もう何もこないんだ。ねえ、あの人はもう、あたしのこと、わすれたんだろうか」
すると正吉じいさんは、しわの中にくぼみそうなほそい目をますますほそくして、うなずきました。
「あんたが、いっしょうけんめい働いて、いい娘でいさえしたら、そうさなあ、はたちになるころには、きっとまたあらわれるだろうよ。それまで、その人のことは、心の中にだいじにしまっておいで」
「はたち!」
千代は、その日を、気が遠くなるほど遠いと思いました。はたちになるまで、自分はいったい、何をして暮らすというのでしょう。雑巾がけや、皿洗いや洗濯や、おぜん運びや使い走りや……そんな仕事で、自分の時間を満たしたくはない……千代は、はじめて、そんなふうに思ったのでした。
はたちになるまでの時間を、すべて、あの人のために使えたらいいのに。あの人の着物をぬったり、あの人に手紙を書いたりして過ごせたらいいのに。つくづくと、千代は、そう思いました。そしてこのとき、千代の頭に、新しい思いつきが、まるで星のようにきらめいたのです。
そうだ、セーターを編もう!
千代は、有頂天《うちようてん》になりました。そうだ、そうだ、あの人のセーターを編もう……。
はたちになる日まで、千代は、毎晩少しずつでも編棒をうごかして、あの人のことを考えていようと思いました。そうすることが、自分の心の中のほっこりとしたぬくみをのがさずにおく、たったひとつの方法だと思えたのでした。
千代は、編物がじょうずでした。
村にいたころには、近所の子どもたちの手袋やえりまきを編んで、だちんをもらっていたのでした。千代はよく、田んぼのあぜにすわって、子守りをしながら、編棒をうごかしました。すると、いたずらっ子たちがよってきて、はやしたてました。
「ほーい、ほーい、ひょうたん子、
おまえの母さん青びょうたん」
村で千代は、ひょうたん子とよばれていたのです。おまえさんは、ひょうたんの中に入れられて、どんぶらどんぶら、川を流れてきたのだと、そんなふうに千代のことをからかうおとながいたからです。が、ほんとうのところ、千代はすて子でした。山の村でたった一軒の旅館《はたご》の前に、旅人がすてていった、小さな赤んぼうだったのでした。
「その旅人は、それからどこへ行ったんだろう……」
ほんとうのことを知った千代がそうたずねたとき、はたごのばあさんは、こういいましたっけ。
「さあなあ。どこへ行ったか、とんとわからない。朝早く、まるで鳥がとび立つようにどこかへきえていったそうじゃ。山の方かもしれん。それとも、ふもとの町の方かもしれん。霧が深くてだれもはっきりと見た者はなかったが、なんでも、すらりとした色の白い女で、まるで、白サギがとぶみたいに、すいすいと歩いて、いつのまにか、見えなくなったそうじゃ」
この話は、小さな千代の心にしみました。千代は、いくどもいくども、この話を、心の中でくりかえしました。
あたしの母さんは、鳥なんだろうか……霧の中に住んでる白い鳥なんだろうか……。
もしそうだったらうれしいと、千代は思いました。そして、すきな編物をするときにはいつも、白い鳥のことを考えることにしていました。すると、仕事は、とても調子よく、はかどるのでした。千代は、一日に子どものくつ下を何足も編みました。するすると指の間をくぐる長い糸が、さまざまなかたちあるものに変わってゆくよろこびを、千代は、もう知っていました。
そこで、今度も、編物のことを考えついたとき、千代の心は、またもとどおり、生き生きしてきたのでした。
(何色がいいだろう……)
毎夜毎夜、千代は、まだ見ぬいい人に、さまざまの色のセーターを着せてみました。木《こ》の葉の緑、雲の灰色、落葉の茶色、雪の白、空の青……ああ、空の青!
千代は、おどりあがりました。
その若者には、空の青が、いちばんよくにあったのでした。
(新しい青い毛糸買って、あたし、あしたから編もう)
体じゅうの血が熱くなり、もう息もつけないほどのよろこびが、千代の胸にあふれました。
あのひとにいちばんよくにあう色をさがしあてたよろこび……今、毛糸は、千代とその人を結ぶ、たったひとつの絆《きずな》になりました。
(あした毛糸買おう。青い毛糸買おう)
夢の中にしずみながら、くりかえしくりかえし、千代はそう思いました。
駅前通りの糸屋には、小さな飾り窓がありました。夜になると、そこにはあかりがともって、むぞうさにならべられた何色かの毛糸のたばを、昼間見るよりも、ずっと美しくうきたたせました。
千代は、そこにかざられた青い毛糸が、ひと目で気に入りました。さわやかな、いい色だったのです。まるで、十一月の山の空のような。
(あれにしよう)
千代は、糸屋の戸をガラリとあけて中にはいると、
「窓にかざってある青い毛糸、見せてくださいな」
と、ひといきにいいました。糸屋の主人は、にっとあいそ笑いをしました。それから、
「ああ、あれね、あれは上等品だ。舶来《はくらい》だから」
と、いいました。
はくらいということばを、千代は、はじめて聞きました。まるで、めずらしいたばこの名まえのようだと思いました。
「ほい、おまちどおさま」
飾り窓からとりだされたひとたばの青い毛糸が、ふわりと千代の目の前に置かれました。それは、ささくれた千代の手に、なんと暖かく、かるかったことでしょうか。
「ふう……いい毛糸だ。鳥のはねみたいだ」
千代は、しばらくうっとりと、その手ざわりに酔いました。それから、目をキラキラさせて、
「おじさん、セーター一枚編むのに、どのくらいいるかねえ」
と、たずねました。けれどそのとき、糸屋のおじさんは、新しいべつのお客の相手で、むこうをむいていたのです。千代は、青い毛糸を、にぎったり開いたりして、しばらくうっとりとながめていましたが、そこにつけられたねだんの札が、ぴらりとおもてをむいたとたん、仰天したのでした。今、千代のたもとの中で、ちゃらちゃらと鳴っている、ひと月分の給料よりも、その毛糸のねだんは高かったのでしたから。
千代は、よくよく目をこらしましたが、やっぱり、ねだんはおなじでした。
どうしてか、このとき千代の胸は、ドキドキとたかなり、手がかすかにふるえました。千代はちらりと糸屋の主人をぬすみ見ました。
「……ああ、その赤でしたら、おにあいでしょう。こっちの糸よりずっと冴えていますですからねえ……そうですねえ……セーターでしたら、これだけでちょうどでしょう……」
こんな話し声を、うわのそらで聞きながら、千代の手は、その見本の青い毛糸をにぎりしめると、するりと、たもとの中にうつしました。ほんの、またたくまのできごとでした。
「またきまーす」
うわずった声でそうさけぶと、千代は、糸屋をとびだしました。
それから、千代は、駅前通りを、ひた走りに走りました。背中をざわざわさせ、あえぎあえぎ走りました。ときどき、自分の下駄の音が、町じゅうにひびきわたるような気がして、立ちどまっては、ふりかえりました。そして、荒い息をしながら、あのやわらかい毛糸を、たもとの上から、そおっとおさえてみるのでした。
こうして、千代は、生まれてはじめて、ぬすみをしたのです。「できごころ」ということばは、こんなときのためにあるのでしょうか。
この日から千代は、無口な暗い娘になったのでした。
ぬすみが、どんなに悪い行為なのか、ろくに学校へ行かなかった千代にも、よくわかっていました。たとえ針一本ぬすんでも、死ねば地獄におちるのだと、はたごのばあさんに教えられてきたのでしたから。けれども今、千代がおそれていたのは、地獄などではありません。死んだあとの遠い日に地獄におちることなど、そうおそろしいとは思えませんでした。千代がこわかったのは、あの糸屋の主人でした。それから、この家のおかみさん、女中仲間、そして、町の人たちでした。ある日、ガラリと店の戸をあけてとびこんでくるかもしれない巡査のすがたを思いうかべて、千代は、ひとりわななきました。
「はくらいの毛糸ぬすんだ娘」
そんなうわさが、町じゅうにひろまり、もしも、ああもしも、あの人の耳にとどいたらどうしよう……あたしのえくぼと前かけをほめてくれただいじな人に知られてしまったら……。
千代は、夜もねむれなくなりました。
この苦しい思いを、千代はだれかにすっかりうちあけたかったのです。そうしないと、秘密の重みで胸がつぶれそうな気がしました。
けれども、そのころ正吉じいさんは、重い病気にかかってねていたのでした。ときどき千代が枕もとへ行って、その耳もとで、
「じいちゃん、あたしのいい人、ほんとに来てくれるね。きっとあたしをむかえにきてくれるね」
そうたずねると、正吉じいさんは、ああ、ああとうなずいて、あとは苦しそうにせきこむばかりでした。おかみさんは、千代のようすを気にして、どうしたのかと、しきりにたずねました。が、千代はおかみさんには、どうしても、うちあけることができませんでした。
千代は今、あの人に会いたくて会いたくてたまらなくなりました。
ああ、早く早く! できるだけ早く馬をとばして、あたしをむかえにきてほしい……。両手をにぎりしめ、じりじりといらだちながら、千代は、そう思いました。
店じゅうがねしずまったある晩、千代は、自分の行李《こうり》の底から、ぬすんだ毛糸を、そっととりだしてみました。そして、思ったのです。これを、できるだけ早く、かたちのちがうものに変えてしまおうと。
千代は、毛糸を、首に巻いてみました。そして、青いえりまきを編むことにきめました。
ほんのひとたばの毛糸は、セーターを編むには、少なすぎたのです。それに、青いセーターもすてきでしたが、青いえりまきはもっとすてきだと、千代は思いました。暖かいえりまきを編みあげたその日に、ひょっこりとあの人は、やってくるかもしれない……なぜか千代は、そんなふうに考えました。
その日から、千代の秘密は、みょうにあまくふくらんできました。
それはちょうど、だれも知らない、とざされた小べやでした。けれども、そこには、みかん色のあかりがともっていて、ときどき、あまい花のにおいがするのでした。そのへやにこもるひととき、千代の心は、これまで知らなかったふしぎなよろこびに満たされました。秘密のへやで、あの人の帰りを待っている自分を思いうかべ、その空想のとりこになって、心をおどらせました。
千代は、へやの前の通りを行ききするいくつもの足音やざわめきの中から、あの人の気配《けはい》を聞きわけようと耳をすますのです。そして、しみじみと思ってみるのでした。
あたし、とうとう花よめさんになれたんだ、と。
花よめさんは、長いあいだ千代のあこがれでした。
いつでしたか、千代は、村できれいなおよめさんを見ました。川で大根を洗っていたら、花嫁行列のざわめきが聞こえてきたのです。千代は、大根をぶらさげたまま、はだしで通りにとびだしていって、みんなにわらわれましたっけ。けれど、千代はそのとき、もう目をまんまるにして、うっとりとお嫁さんの衣装に見とれていたのでした。
あたしもいまに、あんな着物きられたらいい。そして、遠いところへ行けたらいい……。千代はあのとき、自分がお嫁さんになることで、「ひょうたん子」の境遇からすくいあげられることを、ひそかにねがったのでした。千代の心の中に住んでいたあの白い鳥は、いつのまにかきえていました。そしてそのかわりに、自分の花嫁すがたが、すわるようになっていたのです。
今、やっと、お嫁さんになれた千代は、秘密のへやで、あの人の足音を聞くのです。それから、戸の外で、「千代ちゃん、千代ちゃん」とよぶ、あの人の声を聞くのです。けれど、その戸が開くことは、けっして、けっしてありませんでした。
千代は昼間、廊下をぬか袋でみがくとき、ぴかぴかにこすりあげた床の上に、あの人の顔がうつるような気がして肩をふるわせ、郵便屋の赤い自転車が、店の前を通れば、それだけで、ぽっとほおを染めて、通りにとびだしてゆきました。そのくせ、このてごたえのないあこがれにいらだって、ときどき涙をこぼしました。あの人はもう、あたしのことをわすれたんだろうか。それとも、あたしをきらいになったんだろうか。
それとも、ひょっとして……ああひょっとして、あの人は、どこにもいないのじゃないだろうか……。
これが、ときどき千代の心をかすめる、いちばんおそろしい思いだったのです。このことを考えるとき、食べものが、のどを通らなくなりました。
千代は、やせました。
――千代は、このごろどうかしてるよ。
――どっか悪いんじゃないだろうか。
――ああ。一度医者に見せるといいよ。
――いや、ほったらかしておくのがいちばんさ。あのとしごろには、よくあんなふうになるのさ。
さまざまな人が、さまざまなことをいいました。けれど、心から千代のことを心配し、千代の話を聞いてくれようとする人は、もうだれもいなかったのです。正吉じいさんは、ひと月前に亡くなっていました。
千代が、いちばんしあわせなのは、仕事のおわった夜のひととき、屋根裏の裸電球の下で、青いえりまきを編むときでした。えりまきは、二段おきのしま模様でした。それはまるで、あとからあとから、おしよせる青い波のようでもあり、走っても、走ってもきえない、野の地平線のようでもありました。こうして千代は、昼間は、たましいのぬけた人のようになって働き、夜は、あまい夢のとりこになって、暮らしたのでした。
やがて、屋根裏の窓から吹きこむ風が、金モクセイのにおいをはこぶようになりました。すると、千代は、完全に、あの秘密のへやの空想にひたることができました。
千代は、その花のにおいの中で、あの人の乗っている馬のことや、あの人と住む家のことを考えました。その家の壁には、ばらが咲いているかもしれません。窓には、小さい蝶がとまっているかもしれません。へやの中には、はち植えの花があって、そして、そして……。
けれど、思っても思っても、その人からは、はがき一枚とどきはしなかったのです。
えりまきの編み目は、ときどきかすかにくずれました。
こうして、いく日もたたないうちに、千代はまったくものをしゃべらなくなりました。目はうつろになり、わらうこともなくなりました。千代はもう、あの人のこと以外、何ひとつ考えられなくなっていたのです。
千代の心の秘密は、むくむく大きくなり、青いえりまきが、ほとんどできあがるころには、もはやその小さい胸の中に、はいりきらなくなっていました。
(はれつしそうだ)
ある晩、千代は、そう思いました。
(でも、はれつしたら、おしまいだ)
できることなら今、千代は、思いきり大きな声でうたいたかったのです。心の中の思いを、長い長い歌にして、声のつづくかぎり、うたっていたいと思いました。
「鳥になりたい」
ぽそりと、千代はつぶやきました。
ことばというものは、ときどき、おそろしい力を持つのです。このひと言が千代の運命をきめました。
「鳥になりたい」
千代は、もう一度つぶやきました。
「鳥になって、木の枝にとまって、はたちになるまでうたっていたい……」
満月の月の光が、千代のすがたを、あざやかにうきたたせていました。編物をしている千代の影が、たたみの上に、くっきりと落ちていました。そのうえに、木の葉の影がゆれました。
けだるい眠りが、この小さな娘の体をつつみました。千代は、編みかけの青いえりまきの上に、だんだんと身をふせてゆき、やがて、ひとかたまりの石のようになってねむりました。
こうして、月の光の中に長いあいだうずくまってねむりつづけ、月がしずむころに、千代のすがたは、その願いどおり、小さな一羽の鳥になっていたのです。
くちばしの青い、すきとおるように白い鳥でした。
鳥は、窓わくにとまって、はねをふるわせながら、ひとしきりうたっていましたが、やがて、どこかへとんでゆきました。
日が高くなってもおきてこない千代をよびに、おかみさんが、屋根裏へやってきたとき、そこには、もう少しでできあがる青いえりまきが一枚、ほろりと置かれていただけでした。
2
それから、二十年が過ぎたのです。
世の中は、すっかり変わりましたが、あの小さな町は、むかしのまま、山のふもとにひっそりとねむっていました。
駅前通りの家並《やな》みもむかしのままなら、人々のそぼくな顔つきも、以前とそう変わりません。
ある秋の昼さがり、ひとりの若い男が、ふらりとかど屋旅館にやってきました。
秋祭りのちかづいた町は、いつになく活気づいていました。そして、この古い駅前旅館も、どうやら満員らしいのでした。
「お客さん、あいにく今夜はいっぱいでしてねえ。お祭りなもんだから」
すっかり年をとったかど屋のおかみさんは、お客の顔を見ると、気の毒そうに、そういいました。
「いや、そこをなんとか、ひと晩だけとめてもらえませんか。どこもみんなことわられたんだ」
男は、片手で汗をぬぐうと、かついでいた荷物を、そっと置きました。それは、カメラのようでした。男は、自分が写真家で、このあたりの風景を写しに、わざわざ東京からやってきたのだと、早口に説明しました。
「雑誌の口絵にするんですよ、雑誌の。晴れた日じゃないと、仕事にならないからねえ。あしたはぜひ、あのへんの山を写したいんだ。どんなへやでもいいから、ひとつおねがいしますよ」
おかみさんは、目をしょぼしょぼさせて、しばらく考えていましたが、やがて、こういいました。
「屋根裏でもよかったら、おとめしますが、お客さん」
「いいとも。足をのばして寝られさえしたらいいんだ」
男はもう、くつをぬいでいました。
ぎしぎしときしむ、きゅうな階段をのぼりつめたところに、そのへやはありました。かしげた天井はすすけて、ひいやりと暗いそのへやは、どうやら物置らしいのでした。たったひとつの窓にはめこまれたガラスは、まるでもう何十年もふかれたことのないように、よごれきっていました。
「うっとうしいへやだなあ」
男は、ガラリと窓をあけました。さっき、どんなへやでもとたのみこんだことなど、けろりとわすれて、窓わくにたまったほこりを、いやな顔でながめました。女中は、彼を案内してすぐもどっていったきり、お茶もはこんできません。おねがいしますと置いていった宿帳が、赤ちゃけたたたみの上で、風にめくれていました。男は、その上にかがみこんで、名まえの欄に大きな字で、佐山周一と書きました。それから立ちあがると、
「座ぶとんはどこにあるんだ、座ぶとんは」
と、戸だなや押入れを、手あたりしだいにあけてみましたが、そこかしこに、ほこりだらけのがらくた道具がぎっしりつまっているだけで、ふとんなどまったく見あたらないのでした。
大きなため息をつくと、佐山周一は、窓の下にどすんとすわって、ひざをかかえました。
すると、遠い笛の音が、きれぎれに聞こえてきました。
「秋祭りだっていってたっけな」
そうつぶやいて周一は、風のにおいをかぎました。やわらかな陽《ひ》ざしが、体をとっぷりとつつんで、周一の心は、だんだんなごんでゆきました。こんなのどかな場所が、いつかもあったっけと、周一は思いました。そう、こんなしずかな日だまりは、子どものころにあったのでした。母親のひざの上で、無心にねむることのできたあのころに……。
ふいに、なんだかとてもよい気もちになって、周一は、ごろりとねころびました。
ねころがってながめる山の空の、なんという青さでしょうか。小さく、ま四角に切りとられたその青の中に、周一はしばらく自分の心をうかべてみたいなと思いました。重いカメラをぶらさげて、街《まち》の中をかけまわる日々に少しつかれていたのです。周一は、これまで写してはすてた、おびただしい数の写真のことを思いました。それから、ついけさまで暮らしていた西陽《にしび》のあたるせまい下宿のへやを思いだしました。
「ああいう生活つづけて、それで、要するに、どうなるんだろう……」
周一は、ぼそぼそとつぶやきました。それから、目をひょいとへやの押入れの方へ移して、そのとき、はっとしたのです。
そこには、今まで見ていた空の色とまったくおなじ青が、きらめいていたのでしたから。まるで、へやの中にうかんだ、空のきれはしのように。
「…………」
周一は、もっくりおきあがりました。それから、よくよく目をこらして、
「なんだ、毛糸じゃないか。マフラーじゃないか」
と、つぶやきました。
さっき自分が、ガラリとあけて、あけたなり閉めわすれた押入れの、古い行李《こうり》の中から、そのマフラーは、はらりとこぼれていたのでした。
「それにしても、よくもまあ……きょうの空とすっかりおなじ色じゃないか」
周一は、なんだかうれしくなって、しばらく目をしばしばさせていましたが、やがて、それを引っぱりだしてみました。
だいぶ古い品物らしく、ほこりだらけでしたが、色あせてはいませんでした。やわらかい、いい手ざわりの毛糸でした。どこかの女の人が、心をこめて編んだもののようでした。けれども、そのマフラーは編みかけで、糸のはしを引っぱると、ほろほろとほどけてゆくのです。
(だれかが、編みかけにして、つっこんでおいたんだな)
よくよくながめると、そのマフラーは、ところどころ模様がふぞろいでした。うきだされたしま模様が、ときどきへんにくずれていて、そこに、これを編んだ人の心の乱れが見えるように思えたのです。
(それにしても、ここまでできあがっていて、どうしてやめたんだろうな。もう少しだっていうのに)
周一はそのことに、何かなぞめいたものをかぎあてたような気がしました。あと二、三段も編めばできあがる仕事を、とちゅうでやめてしまったこのマフラーの「編み手」の、そのときの事情をどうしても知りたいという思いにかられました。
それは、周一の遠い記憶の中に、一足のくつ下の片方だけ編んで死んでしまった人がいるからかもしれません。その人は、今も周一の心の中にひっそりと住んでいて、彼を、ときどきもの悲しい気もちにさせるのでした。
(あのくつ下も、こんな色だったっけ)
と、周一は思いました。するとたちまち、まるで泉がわきだすように、むかしの思い出が胸につきあげてきたのです……。
*
「今度周ちゃんのくつ下編んであげるわね」
「…………」
「何色にする? 茶色? 紺? グリーンがいいかしら。ねえ、何色がいいの」
あのころのぼくは、重苦しい悲しみにおそわれていて、何を見ても何を聞いても、たのしくなどなれなかったのだ。
「ねえねえ周ちゃん、何色がすき?」
色とりどりの毛糸の玉をもてあそびながら、十七の圭子《けいこ》は、花のようにわらっていたっけ。十二のぼくは、ふきげんにうずくまったまま、なんでもいいとかなんとか、まるで気の乗らない返事をしたのだ。すると、圭子は、かごの中から青い毛糸をえらんだ。
「じゃ、これにきめた」
ボールのようにひろいあげられたその青は、真夏の海のきらめきだった。
それから圭子の白い指が、その毛糸のかたまりを、たちまちくつ下のかたちに変えてしまうまでに、いく日かかっただろうか……。
「周ちゃん、かたっぽだけできたのよ。はいてみるう?」
ある日圭子は、青いくつ下をぶらさげてやってきて、ぼくのへやの外でそっとたずねた。
「かたっぽだけじゃしょうがないよ」
気の乗らない返事をすると、圭子はふすまをあけて、はいってきて、寝ころがっているぼくの鼻先にくつ下をぶらさげて、姉さんぶっていたのだ。
「ほら、いいでしょ。周ちゃんにおにあいよ」
「…………」
「今度、スキーにはいていったら?」
何をいっても返事をしないぼくの横にすわって、圭子はささやいた。
「周ちゃん、元気だしなさいね。お母さんのこと、もうわすれなさいね」
(お母さんのこと?)
秘密を見やぶられた小さな子どものように、ぼくはぴくりと肩をふるわせた。
(ちえっ、お母さんのことなんか、だれも考えてやしない)
きっと口を結んで、天井をにらんだけれど、そのとき涙がでてしまった。ぼくの母は、ぼくをおいて、ふいに結婚したのだった。ぼくをまるで荷物のように親類の家にあずけて、よそへお嫁にいってしまったのだった……。ぼくは、そのときの驚きを、ひと月たってもふた月たってもわすれられず、毎日毎日おどろきつづけて、いつか、いじけた貝のような子どもになっていたのだった。
「ね、あたしが、お母さんのかわりになってあげるから」
と、圭子は言ったっけ。ほんと? と、ぼくが目で聞くと、圭子はにっこりわらって、いくどもうなずいた。白い顔がほころんで、あのときの圭ちゃんは、なんだか泣きぬれた花のように見えたのだった……。
圭子は、エプロンのポケットから編みのこりの青い毛糸をとりだして、それで大きな輪をつくり、ぼくの気をひきたてるように、こんなことを言った。
「あたしねえ周ちゃん、めずらしいあやとり、たくさん知ってるの。見ててごらんなさい」
圭子は、毛糸を白い指にからませて、たちまちふしぎなかたちをこしらえあげると、
「ほうら、ちょうちょ」
と、さけんだ。そうして両手を高くかざすと、ほんとうに! 糸のあやは、ぼくのへやの白い壁を、かっきりと、蝶のかたちに切りとっていた。
ぼくは思わず、むっくりおきあがると、
「ぼくにもできる? 教えて」
と、両手を出した。
圭子は、青い毛糸を、ていねいにぼくの指にかけては「こうでしょ」「こうでしょ」と、教える。
「それから、この指をはずして、こっちの糸を、こうかけるでしょ」
すると、ほんとうに、ぼくにも蝶をつくることができたのだった。
あやとりの蝶は、今にもぼくの指からはなれて、宙に舞いあがりそうだった。ふわりとかるく、まるで、絹のリボンのように――そんな蝶たちを無邪気に追いかけた夏の日々が、ふっとぼくの胸によみがえってきた。
蝶を追ってかけまわる、小さいぼくのうしろには、必ず母がいたのだった。母は、白い夏の服を着て、百合《ゆり》の花のようにわらっていた……。
ぼくは、ぱらりと両手をおろして、蝶をこわした。
それから、圭子とぼくは、さまざまのあやとりをして遊んだ。圭子は、びっくりするほどたくさんのあやとりを知っていて、それをつぎからつぎへと魔術のように、ぼくの前にくりひろげて見せるのだった。
「ほうら、魚」
すみとおった圭子の声は、それまで魚には見えなかった糸のあやを、たちまち魚に思わせてしまうからふしぎだった。骨ばかりの青い魚は、だまって遠くを見ていた。
「ほうら、お琴」
「これはほうきね、こうするとパラシュート」
「かきね」
「あさがお」
「はしご」
「ゆりかご」
「今度は、星」
いつのまにか、ぼくは、このふしぎな糸遊びのとりことなり、日が暮れるまで、じっとひとところにすわりつづけていたのだった。
一本の糸は、いつかぼくにとって、そのまま美しい小さな宇宙となった。それは、ありとあらゆるものを、無限に生みだす夢のとびらだった。そしてまた、こんなにもやさしくぼくの心のいたみをわすれさせてくれるものが、ほかにあったろうか。
ぼくは、数日のうちに、圭子におそわったあやとりを、すっかりおぼえてしまい、そのほかに、自分で新しいものをつぎつぎに考えだしていった。あやとりのために勉強もなまけ、あやとりのために、外で友だちと遊ぶこともしなくなった。
あんまり熱心になってしまったぼくに、ある日圭子は、こんなことをいったっけ。
「周ちゃん、あやとりって、ほんとはこわいのよ。あんまり熱中しすぎて、いく晩もいく晩もねむらずにあやとりをして、最後には、とうとうすがたがきえちゃった人がいるんですって」
「どこに? いったいどこに、そんな人がいるのさ」
「どこか遠い国よ。南の島の土人の話よ。あやとりのとりこになるってこと、あるんですって。そうすると、その人は、まるで、くもの巣にかかった昆虫みたいに、だんだん力がぬけて、最後には、すがたがきえてしまうんですって」
それは、どこかの伝説らしいのだが、この話には、青白い呪文《じゆもん》のにおいがこめられていて、ぼくはあのとき、ドキッとしたのだった。
(そんなことって、あるんだろうか……)
こわごわと、指にからんだ糸を見つめると、それは、魔力の秘められた糸のように見え、自分の指さえ自分の意志ではどうにもならぬ力を帯びているように思えてきた。するとたちまち、あやとりには、色あざやかな恐怖がこもり、ぼくは、背中をぞくぞくさせながら、なおも、この遊びに、のめりこんでゆくのだった。
じっさい、一度だけ、ぼくは、あやとりのとりこになりそうになったことがあった。
あれは、あやとりで、とびらをこしらえたときだった。その青いとびらが、どんどん大きくなり、ぼくは、もう少しで、その中にすいこまれそうな錯覚におそわれたのだ。とびらが、ギイと音たてて開いたとき、そのむこうは、一面の霧で、霧の中から、ふしぎな歌声が聞こえていた。それは、人の声でもなく、鳥の声でもなく、草や木や花の歌声――それとも、もっとえたいのしれないものたちの、なぞめいた呼び声にも思えた。
ぼくは、その霧の中に、のめりこみそうになって、思わず大きな声をあげ、とびらにしがみついて、それからはっと我にかえったとき、うす暗いへやのかたすみにすわっていたのだった。
まるで、がけから落ちそうになって、あやうく命びろいした人のように、ぼくは、たすかったのだった。
ところが、それからまもなく、圭子は病気になり、あわただしく入院して、数か月後には、死んだのだった。まるで、あやとりをしすぎたぼくの身がわりになってくれたように。
青いくつ下は、永遠に片方だけだった。
ぼくは、そのあとも、ときどきそっと毛糸で輪をつくり、指にからめて、はしごをつくった。そして、この青いはしごを、長く長くつなげていったら、ひょっとして、天国の圭子のところまでとどくのじゃないかと思ったりした。
あれからあと、ぼくは、やさしい女の人に出会っていない。ぼくのために編物をしてくれる人にも、ごちそうをつくってくれる人にも、なやみを聞いてくれる人にも――だれにも。そう、まったくだれにも。そうしてぼくは、おとなになり、おとなになってから、ずいぶんの月日が過ぎてしまったのだった。
*
ち、ち、ち、ち。
窓の外に、小鳥の声を聞いたような気がして、周一は、むかしの思い出から、よびもどされました。
彼は、屋根裏べやで見つけた青いマフラーを、そっとほどいてみました。ほどけた毛糸はちぢれて、むかし、圭子のへやにかざられていた人形の髪ににてきました。ほどいた毛糸をぷつりと切って輪をつくり、周一はそっと、あやとりをはじめたのです。
「花火」
青い花火は、ぽっと開いて、周一の手の中で、あやしく燃えました。
「つぎはテント。青いテントひと張り」
すると、あやとりのテントの中には、たちまちランプがともり、その入り口から、子どもたちの歌声があふれてきました。
「つぎは雨傘《あまがさ》」
と、このとき、いきなり、周一の手の中の、その小さな雨傘を、上からひょいとひったくったものがあったのです。
小鳥でした。
すきとおるように白い、そして、口ばしだけが青い、そんな小鳥が、屋根裏の窓辺にやってきて、あっというほどの早わざで、毛糸の輪を、周一の手からついばんだのでした。
「…………」
周一は、あっけにとられて、両手をひろげたまま、しばらくのあいだ、ぽかんとしていました。
小鳥は、糸をくわえたまま、窓の下のさるすべりの木にじっととまっていましたが、やがて、ついととびたって、遠い林のおくへきえてゆきました。
「お客さーん、お風呂わいてますよ――」
階下で、ぶっきらぼうな呼び声がしました。
「お客さーん、お風呂。
お風呂にどうぞ――」
あのおかみさんのしわがれ声は、相手が返事をするまで、くりかえされるらしいのでした。
周一は、ぼんやりしていました。
(なんだって、あんなもの、さらっていったんだ……)
ふと周一には、今見た鳥が、ふつうの鳥とはまったくちがうもののように思えてきました。それは、どこかとても遠い国――たとえば霧の国とか、影の国とか、そんなところからひょっこりとこの世にやってきた生き物のように思えたのでした。
(あれは、ただの鳥じゃないぞ。どんな鳥類図鑑にもない鳥だ)
周一は、これまで仕事で、ずいぶんたくさんの鳥の写真をとりましたから、たいていの鳥の名まえは知っていました。が、今のは、周一の知識の中にあるどの鳥ともちがっていたのです。
「どこがちがうかっていうと……そう、そうなんだ。つまり、どことなく、つかみどころのないところなんだ。つまりその……あれは、ほんとの鳥ではなくて、鳥の影みたいなもので、そのくせ、魂だけは、キラキラ輝いているんだ。胸の中には歌がいっぱいで、うたってもうたってもうたいきれずにいる鳥なんだ……」
周一は、よろよろと立ちあがると、階段をおりてゆきました。そして、廊下であのおかみさんをつかまえると、早口にたずねました。
「このへんに、変わった鳥がいますか?」
「変わった鳥……」
おかみさんは、首をかしげました。
「かささぎかねえ」
「いいや、かささぎなんかじゃない。もっとこう小さくて白くて、くちばしの青い……」
すると、おかみさんは、わらいました。
「鳥ならあんた、このあたりにはむかしっから、いろんなのがいっぱいいますよ。あした林へ行ってごらんなさい。あすこはもう、鳥のお宿だ」
翌日、周一は、宿の裏の林へ行ってみました。そこには、なるほどたくさんの鳥がいました。
けれども、あんな鳥は、どこにもいなかったのです。あんな、物語の中の鳥のようなのは、まったく一羽も……。
一羽もいないことに、周一は、なぜか少し安心しました。それはちょうど、よその人になってしまった自分の母親にはもう会いたくないように、そして、生きていたら、とっくにだれかのおよめさんになっているだろう圭子には会いたくないように、現実のまぶしい光の中で、周一はあの鳥を、鳥類図鑑の中のどれかにあてはまる鳥として認めたくはなかったのでした。
(そうなんだ。あの鳥は、ぼくにしか見えない鳥なんだ)
なぜかそんなふうに、周一は思ったのでした。周一には、あの鳥が、だれかやさしい人の心そのもののように思われました。自分にだけ語りかけるために遠い世界からとんできてくれた鳥なのだと……。
周一は、しばらく林の中を歩きまわったあと、宿へひきかえしました。それから、屋根裏べやへもどって、また、ひざをかかえてすわりました。
周一の心は、もう鳥のことでいっぱいになっていました。カメラをかついで仕事にでかける気分などには、とうていなれませんでした。
そうして気がついたとき、周一は、また、あの青いマフラーをほどいてちぎり、ひとりであやとりをしていたのです。
「ほうら、つづみ」
「ほうら、ほうき。こうすると、パラシュート」
むかしの圭子のことばを、周一はまねていました。
「ほうら魚」
「今度は星」
「つぎは、あこがれ」
(あこがれ? あこがれだって?)
周一は、自分のことばにびっくりして、指にからんだ糸をじっと見つめました。
むぞうさな二本の糸でした。右手の親指から左手の中指へ、ぴいんと張りわたされた二すじの糸は、そう思って見ると、なるほど、あこがれに思えました。張りわたされた、青いあこがれの線――。
と、その線の上に、まるで木の葉のようにほろりと落ちてきたものがあったのです。
ああ、きのうの小鳥!
ふるふると、白い胸をふるわせて、小鳥は青いあこがれの線の上で、ひとしきりふしぎな歌をうたいました。それから、ついと、その線をついばんだのです。
(ふうん。この鳥は、この糸がほしいんだ)
周一は、そっと指の力をぬきました。すると小鳥は、ぱっとはねをひろげ、青い毛糸をくわえて、とびさってゆきました。
周一はまた、マフラーをほどいて、新しい輪をつくりました。そして、今度は、琴をつくったのです。それから、その両手を窓につきだして、
「ほうらおいで。お琴だよ」
と、よんでみました。
すると、空のむこうから、まるで流れ星のように、あの鳥が、もどってくるではありませんか。どこに置いてきたのか、さっきくわえていた糸は、もうありません。小鳥は、できたての青い琴を、つんつんと、口ばしで鳴らしました。それから、その上にとまって、こんなふうにうたったのです。
「ねえねえ あたしはあの人の
やさしい笑顔《えがお》が見たいのよ
よもぎの野原のむこうから
ほら 馬に乗ってくるでしょう
あたしをむかえにくるでしょう」
このとき、周一には、鳥のことばがわかりました。なぜか、ふしぎなほどはっきりと、歌の意味がわかったのでした。
ふっと、周一の心の中に、小さな虹がかかりました。その歌声は、これまで彼が聞いたどんな歌よりも、心にしみたのでした。この歌の中にこめられた、あふれるほどにせつない思いを、周一は、なんとなく感じることができました。
周一は、窓をつくりました。
するとあやとりの窓の中には、これまで見たこともない美しい光景が、ぽーっとうかんできたのです。
窓の中には、ランプのともった、小さなへやがありました。はちうえの花が咲いていました。その花のそばで、着物を着た娘がひとりひっそりとすわって、編物をしていたのです。
ランプの光が、娘の横顔を照らしていました。なんだか圭子によくにていましたので、周一は、思わず声をかけてしまいました。
「圭ちゃん!」
ひょっとこちらを向いた娘の顔に、たちまち、えくぼがうかびました。圭子よりずっと小さい、十三か四の娘でした。が、娘は、窓辺にかけよってきて、まじまじと周一をみつめると、こんなことをいいました。
「あんた、とうとうきてくれたね。馬に乗ってきたの? それとも走ってきたの? ねえ、ねえ、ねえ」
「…………」
周一は、何かこたえようとしましたが、声がでませんでした。自分も長いあいだ、この娘に会いたくて、そのために、きょうまで生きてきたのだという気がしていました。それでいて周一は、自分が、今、あやとりの世界をのぞいているのを知っていました。
ゆだんしてはいけないぞ。とりこになるぞ。のめりこむぞ……。自分にそう言い聞かせ言い聞かせ、それでも、周一は花のにおいが、あんまり甘やかで、そして、その娘のえくぼが、あんまりかわいらしくて、もう少し、もう少しと思いながら、窓の中をのぞきこんでいるのでした。すると、娘は、あの歌のつづきをうたいはじめました。
「ねえねえ あたしはあの人の
よもぎのにおいがすきなのよ
あたしは赤い前かけで
両手をひろげて走るのよ
野原の果てまで走るのよ」
歌は、まだまだつづきました。三番も四番もありました。いいえ、十番だか十二番だかまであったのです。そのうちに、窓の中の娘のすがたは、いつか白い小鳥に変わっていました。
あやとりの青い窓わくにとまって、小鳥は、声をかぎりにうたっていたのです。
すっかりうたいおわると、小鳥はまた、糸をくわえて、とんでいってしまいました。
「おおい、それを、どこへはこぶんだい」
周一は、大きな声で、とんでゆく鳥にたずねてみました。そして、思ったのです。あの鳥の住んでいる世界へ、自分も行ってみたいと。そこは、ふかい霧の中かもしれません。まだだれひとり行ったことのない、閉ざされた美しい森なのかもしれません。それとも、いつかずっとむかし、自分が、もう少しですいこまれそうになった、ふしぎなとびらの中なのかもしれません……。
小鳥は、さっきの糸をどこかにかくすと、また舞いもどってきて、屋根裏の窓わくにとまって、新しくできる|あや《ヽヽ》を、じっと待っているのでした。
周一は、ゆりかごをつくりました。小鳥はよろこんで、それをくわえてゆきました。木の葉をつくれば、木の葉をついばみ、花をつくれば、その咲きたての青い花をくわえました。こうして、小鳥は、ありとあらゆるものをくわえていったのです。家もとびらも、舟もはしごも、垣根も朝顔も。そして、周一は、小鳥と競争でもするように、さまざまのものを、こしらえつづけました。
「ほうら、はたおり機械だ」
「今度は、いすだ」
「ほい、テーブル」
「とだなもいるかい?」
「つぎはピアノだ」
「花かごもできたぞ」
それはまるで、引越荷物をはこぶのににてきました。ああ、なんと生き生きと忙しい引越し! 青いマフラーは、ほどかれて、どんどん小さくなり、やがてハンカチほどの切れはしになって、それでもまだ、この仕事は、つづいてゆくのでした。
「ねえねえ あたしはあの人の
すてきな声が聞きたいの
山や林のまだむこう
風のうしろでさけんでる
声をさがして走るのよ」
いつか周一は、小鳥の歌をすっかりおぼえて、いっしょにうたっていました。鳥の声で、鳥のことばで、そして、鳥の心で――。
すると、少しずつ、周一にはわかってきたのです。こんなにたくさんの毛糸をあつめて、あの小鳥が、いったい何をしているのかが。
小鳥は、巣をこしらえているのでした。
ちょうど、ハタオリ鳥が、さまざまの材料をあつめて、花のように美しい巣をつくりあげるように、この鳥も、マフラー一枚分の青い毛糸で、大きなまるい、あじさいのような巣をつくっているのでした。
周一は、目をつぶりました。
すると、霧につつまれた、大きな森が見えてきました。
森の中に、すっくりと立っている、一本の樹がありました。その枝の上に、まるで、青いあかりをひとつともしたように、できたての鳥の巣があったのです。巣はまんまるで、空にうかんだ美しい天体のように見えました。
ふと、たとえようもないほどはげしいあこがれの思いが、周一の胸につきあげてきました。
「ああ、ぼくも、鳥になりたい!」
周一は、思わずそうさけびました。
秋の陽《ひ》は、いつかすっかりしずんで、あやとりの窓の中に、一番星が光りました。
月が出ると、屋根裏べやのたたみの上には、あやとりをする男の影が、くっきりと落ちました。あの青いマフラーは、もうほとんどなくなっていました。
「ほうら山だ」
「今度は魚」
「魚をとる網」
このとき、周一は、はりめぐらされた青い網の上にすわって、月の光をあびている自分を思っていました。その青い網は、どんどん大きくなってゆき、空をおおいました。
ああ、とりこになる、とりこになる、魚みたいにとりこになる、と、周一は思いました。
あやとりの網は、ますます大きくなり、まるで星座のように空にひろがり、それにつれて周一のすがたは、どんどん小さくなり、やがていつか、一羽の白いおすの小鳥になっていました。
「お客さーん、お風呂わいてますよ――」
「お客さーん、お風呂」
おかみさんは、しわがれ声をはりあげて、いくどもいくどもよんだのでした。それから、はてと首をかしげ、屋根裏へのぼってきました。
「いないはずはないんだ。あの人は、さっきから一歩も外へでなかったんだから」
ガラリとふすまをあけて、「お客さん……」といいかけて、おかみさんは、ぽかんと立ちすくみました。
そこには、だれもいなかったのでした。
あけはなたれた窓からは、まるで金色の布を一枚おとしたように、月の光がたたみの上に落ちていました。
「おや、おどろいた」
おかみさんは、目をしょぼしょぼさせてから、はて、これは、かんちがいをしたのかなと思いました。
「それじゃ、あのお客は、帰ったんだろうか」
階段をおりながら、おかみさんは、いつかずっとずっとむかしにも、こんなことがあったっけと思いました。が、それがいつ、だれのことだったのか、もう思いだすことは、できませんでした。
作品発表一覧
銀のくじゃく『子どもの館』一九七四年二月号
緑の蝶 『小学四年生』一九七三八月号、及び偕成社刊日
本児童文学者協会編『少女の童話四年生』一九七四年
熊の火 『びわの実学校』一九七四年八月号
秋の風鈴 『詩とメルヘン』一九七四年十二月号
火影の夢 書き下ろし
あざみ野 『目白児童文学』一九七五年一月
青い糸 書き下ろし
安房直子(あわ・なおこ)
一九四三年、東京に生まれる。日本女子大学国文科卒業。日本児童文学者
協会新人賞、小学館文学賞、野間児童文芸賞、新美南吉児童文学賞受賞。
絵本や童話集など多数。
本作品は一九八五年十二月、ちくま文庫の一冊として刊行された。