安岡章太郎
犬をえらばば
目 次
犬は飼い主に似るか?
――江藤淳における平等思想――
近藤啓太郎の親切心について
コンタと命名
人犬一如、コンタとゴリ
人徳犬徳
――丹羽氏の仁、石坂氏の徳――
佃煮《つくだに》とシチューと飼犬と
――安吾夫人の愛情――
遠藤|狐狸庵《こりあん》のダメニシ庵犬
黒きは猫の皮にして、白きは
――吉行淳之介のナミダ?――
花の三十四年
隣家の犬
――志賀文学と動物――
マニアの心情
――五味康祐のメカニズム――
交尾
あとがき
犬は飼い主に似るか?
――江藤淳における平等思想――
犬は飼い主に似るという、こういうことを言い出したのは、きっと犬も猫も飼う気のない――或《ある》いは、すでに飼うことをアキラめた――人であるにちがいない。
すくなくとも、これは現に犬を飼っている人には言えっこない言葉だ。いま自分が飼っている犬に自分自身が似ている、こんな怖《おそ》ろしいことは、普通の人間に考えられることではない。ことほど左様にこの言葉は、犬なり、人間なりを、正確に、かつ冷酷につかんでいるのである。
実際、犬が飼い主に似ること、これは単に犬に於《お》ける環境の影響力の大きさといったことではなく、むしろ一種宿命論的な血縁関係を感じさせるほどのものである。
志賀|直哉《なおや》氏の小説に、夜遅く自分が家へ帰ってくると、よろこんで跳《と》びついてくる犬に向って、
「お前は好いやつだ。世間には『犬にも劣る』などという言葉があるが、そういうことを言う人間の大半は、実際に犬に較《くら》べてはるかに下等な動物だ」
という意味のことを述懐する場面を書いたものがあり、これを「志賀氏の人間|蔑視《べつし》のあらわれである」とフンガイする批評もあるが、これなどは犬と人間とはどちらが高等かという価値論ではなくて、犬と飼い主との同化をあらわしたものと言うべきである。要するに、犬には飼い主の顔がうつっており、飼い主はそれに向ってヒトリゴトをつぶやいているに過ぎない。
つまり犬を飼うということは、そういう孤独な遊びであって、犬をつれて散歩している人は、孤独な自分のタマシイを犬の姿に結晶させ、それを引っぱって歩いていると言ってもいいのである。
人間が犬を飼いはじめて、どれぐらいになるのか、私は知らない。エジプト時代の彫刻には、すでにダックス・フントに似た犬が、椅子に腰かけた主人の足もとに腹這《はらば》っているものがあり、これによっても犬の歴史はエジプトよりはるかに古いことだけは、たしかだろう。ダックス・フントというのは、土管みたいな胴体に、水掻《みずか》きみたいな短い脚がくっついて、全体にヌラヌラした感じで無気味であるが、一ぴきの野性の犬があんなに人工的な姿態につくられるまでには、よほどの長い歳月を要したはずである。エジプト人はきっと毎日、朝となく晩となく、一ぴきの犬を塩水につけたり、油をすりこんだり、餌《えさ》にナメクジを食べさせたりして、あんな犬ともオットセイともつかぬ動物をこしらえ上げたわけだが、私はその根気の好さに驚くと同時に、捉《つか》まえられてきた犬の胴体が次第次第にエジプト人の鼻みたいな恰好《かつこう》に、長く長く延びて行くさまを想像すると、そこに親和力というものの恐ろしさを感じないではいられない。
ダックス犬の胴体がエジプト人の好みで、あんなに長く引き延ばされると同時に、エジプト人の鼻もダックスの面倒を見ているうちに、どんどん長く延びて上唇《うわくちびる》にとどきそうなほどに垂れ下ってしまったのかもしれないではないか。犬が飼い主に似るものだとしたら、人間だって飼っている犬に似てくる道理であろう。――すくなくとも、犬好きの人の眼を見ていると、たいていは犬の眼にそっくりに思われてくる。
たとえば江藤淳と向い合っていると、よく私は江藤の顔が真っ黒な毛に覆《おお》われたコッカー・スパニエルのそれに見え、熱っぽい口調で語りかけてくる江藤の声が、突如、私の耳のなかで、
「わんわん、ウー……」
と、犬の吠《ほ》える声になって聞えてきやしないかという幻覚になやまされる。
勿論《もちろん》、幻覚はそれを起す側にも問題があるのであって、この場合は江藤が犬好きであるということが、私の中で犬的な反射作用を起しているに過ぎない。つまり私が犬になってみたいという気持を、どこかで起すために、江藤の顔が犬になって見えるということなのであろう。決して、江藤自身に犬的な要素が濃厚で、そのために一瞬彼が犬に化けるというわけではない。
しかし、このような幻覚、ないしは反射作用を起すのに、私の側に問題があるとしても、それは決して私一人のことではない。江藤のまえでは誰でも多少とも、このような状態にならざるを得ないところがある。とくに彼の家庭を訪問した場合は、必ずや、そうである。
私は、市《いち》ヶ谷《や》の江藤のマンションをたずねて、玄関のホールに立つと、まずエレベーターのボタンを押すときから、アメリカの南部人が、北部人(ヤンキー)の家庭のパーティーに呼ばれるときの心境にならざるを得ない。つまり私は自分自身に向って、
(汝《なんじ》、これより犬に対する偏見を捨てよ)
と、口の中で三べん程は、つぶやきかえすのである。――ご承知のようにアメリカの南部人は黒人に対する人種偏見を捨てていないが、これは私たちが犬を犬であると思っているのと同じぐらい強い偏見なのである。
ところで、江藤の家では犬が家族の一員である、というより家庭の中心は犬なのであって、そのことを失念しては江藤の家で招客の役はつとまらない。私は一度、江藤夫人がほんもののキャビアのカナッペを、犬のダーキイに食べさせようとしているのを見て、つい思わず、
「あ、もったいない!」
と叫び、江藤夫妻の失笑を買った。キャビアといえば、欧米人の珍重する食糧だが、とくにその日のキャビアは江藤の親戚《しんせき》の外交官がソ連のおみやげに置いて行った本場モノで、これをレストランでたのむと、カクテル・グラスの底にちょっぴり盛ったやつでも、簡単に千円ぐらいはとられてしまう。そのキャビアを山盛りにしたカナッペを、犬にくれてやろうというのであるから、私が叫び声を発したのも、あながち品性下劣のためとばかりは言われない。私は、そのようなことを江藤夫妻に、ひと通り説明してきかせた。
「へーえ、これがそんなに高いものなの? ちっとも知らなかった」
江藤の細君は、いかにもものめずらしげに自分の手にしたカナッペを眺《なが》め、それからおもむろにチンチンしている犬に向って、
「ねえ、ダー子、これはとっても高くて、おいしいものなのよ」
と話しかけながら、あんぐり開いた犬の口に押しこんでしまった。
こういうことでショックを受ける人がいたら、まだその人は犬に対して偏見を持っていることになる。
≪世に親馬鹿というものがあれば、犬馬鹿というものがあっても不思議はない。ところで、現在私は、その「犬馬鹿」というものの典型になりつつあるところである≫(「犬馬鹿」江藤淳)
≪彼はすっかり父親らしくなった。それはダーキイという犬がわが家の娘になってからである。ダーキイが来たときからわたしは、彼をパパと呼ぶことにした≫(「夫のこと」江藤慶子)
これは江藤の『犬と私』という本からのヌキガキだが、私はこれを読んで彼|等《ら》夫妻の仲むつまじさにアテられた。しかし本当は、彼等の犬に対する情愛にアテられたというべきであることが、だんだんにわかってきた。
もっとも、これはどうだっていいことだ。よその家の夫婦仲がよくてアテられるのも、その夫婦が犬を仲立ちにして仲良くしていることでアテられるのも、同じことだからだ。要するに、アテられるというのは、愛し合っている他人同士を前にして、自分はその中に入って行けないというだけのことである。これを当世流にいえば、疎外感に陥るというわけであるが、このような疎外感から脱け出るためには、どうしたってこちらは≪犬≫になって見せる他はない。その結果、江藤と話している間、ときどき江藤の顔が犬になって見えてくるという錯覚を生じることも、避け難い。そして、もしどうガンばってみても≪犬≫に同化できないとなると、そのときには批評家になるより仕方がない。
「犬は飼い主に似るものだ」
などという言葉が浮んでくるのは、そういうときである。
私は、坂口|安吾《あんご》氏を生前一度だけ、桐生《きりゆう》のお宅に、文芸雑誌のインターヴューをとりにたずねたことがある。安吾さんは当時、書上さんという土地の旧家の離れ家を借りて住んでおられたが、何しろ屋敷内にクジャクの鳥小舎《とりごや》があったり、ゴルフの屋内練習場があったりするような家だから、離れといっても普通の独立家屋より、ずっと大きく、たとえば便所なんかも、ケヤキ造りの板の間が、六畳間ぐらいの広さで、座敷はみんな、ちょっとしたお寺の本堂みたいにガランとしていた。
安吾さんは、その家でコリー犬を二頭飼っていた。テレビの「名犬ラッシー」がそうだったように、外国人はよくコリーでも何でも家の中で飼うらしいが、日本人でコリーを家へ上げて飼っていたのは、安吾さんぐらいのものではなかったろうか。玄関をあけると、いきなり顔の長さが三十センチぐらいありそうなコリーが、式台の上からこちらを眺め下ろしていたのには、びっくりした。……たしか、この犬が「ラモー」というハイカラな名前で呼ばれていたと思うのだが、毛のふさふさしたラモーが、つかつかと座敷の中を大股《おおまた》に巨体をゆさぶりながら歩くところは、いかにも安吾的な感じだった。
犬も、これぐらい大きくなると、イヤでもその存在を失念するわけには行かない。私は安吾さんを訪問して、何時間かお邪魔している間、ほとんど犬のことばかり考えていたと言ってもいい。実際、安吾さんのお話をうかがいながら、そのメモを取ろうなどとしているとたんに、頬《ほ》っぺたを毛皮で撫《な》でられ、
「フン、フン」
という生温《なまあたた》かい吐息をふきかけられて、ふと見ると、ラモーが私の背中ごしに、その長大な鼻づらを私の顔に寄せているのである。これではラモーが、いかにおとなしく飼いならされた善良な生きものであろうとも、私としては脅威を禁じ得なかったわけだ。あえて言えば私は、ラモーに迎合していたかもしれない。
さいわいにも、ラモーは客人である私には何らの危害を及ぼさなかった。しかし安吾さんが私に向って何か話し掛けているスキに、皿の上のトンカツをひょいと口にくわえて、安吾さんが、
「ああコレコレ、ラモー、何をする」
などと呼び上げるヒマもなく、二た口か三口で、たちまち丸のまま、手のつけてないトンカツを平らげてしまったりするのである。動作は決してコセつかず、悠然《ゆうぜん》とふるまっているのだが、何しろ体躯《たいく》が大きいので、アッと言う間にこれぐらいのことはやってしまう。
「こいつは、お客さんが好きなのだよ。客が来るとウマいものにありつけることを、ちゃんと知っているのだよ」
安吾さんは、カラになった自分のお皿と、ラモーの顔をいくらか名残《なご》り惜しげに見較べながら、そういって笑った。……あれは、たしか昭和二十九年、戦後の食糧難からはどうやら脱け出していたが、トンカツはまだウマいものの部類に入れられる時代だった。そしてラモーは客が来ると、めずらしがってウキウキするほどに、当時の安吾さんの暮しは閑雅なものになっていたのかもしれない。三千代夫人との間に生れた綱男くんは、まだ座敷の隅《すみ》の古風なユリカゴ(?)の中に入れられたままスヤスヤと眠っており、競輪事件だの、税金闘争だので、新聞の社会面をにぎわわせていた一と頃の安吾さんからは想像出来ない、やすらかな家庭の雰囲気《ふんいき》が家全体に漂っていた。
私は、安吾さんの仕事では戦争中に書かれたもの、たとえば『日本文化私観』や、それに『ラムネ氏のこと』などという小品文にしても、甚《はなは》だすぐれたものが多いと考えていたので、この落着いた環境から何か充実した作品が生れるのではないかという期待を持った。坂口安吾といえば戦後の動乱期を代表する人物の一人であるにはちがいないが、それは安吾氏が敗戦後の事態をあのように真正面から受けとめたというまでであって、安吾氏はむしろ静謐《せいひつ》の作家であったろう。
この日の安吾さんは、私がビールを飲む速度で、ウイスキーを飲んでいた。――おそらく酒の飲み方だけが伝説的な安吾像に近かったかもしれない。酒の弱い私と比較したってはじまらないが、それにしても私がビール一本飲む間に、安吾さんは封を切ったウイスキーの瓶《びん》をカラにして、次の新しい瓶のフタをあけているのである。それをコップに八分目ほど注《つ》いだうえに、何のオマジナイか水をたらたらと何滴かたらしこみ、ほとんどウイスキーばかりの「水割り」にしたやつを、マラソン選手が水を飲むいきおいで、飲みほしてしまう。そしてまた新しい水滴入りのハイボールを自分で調合する。
そんな安吾さんの飲みっぷりを見ているうちに、私は三つか四つの子供で市川《いちかわ》に住んでいたころ、隣の家にいたチュウちゃんという人のことを憶《おも》い出した。私が、その人のことを「チュウちゃん」などと呼んでいたのは、単にまわりの大人が呼んでいるのを真似《まね》しただけで、私より十幾つも年上の、ほとんど完全な大人だった。チュウちゃんはいつも太い桜の木を杖《つえ》について、分厚い朴歯《ほおば》の下駄《げた》をはいて、あたりを濶歩《かつぽ》していたが、チュウちゃんが中学を中途で退校になったのは、外で喧嘩《けんか》したとき、その下駄で相手の頭を叩《たた》き割ったからだという話が、何となく近所じゅうに伝わっていた。私は、そのチュウちゃんに江戸川べりのカフェーへ連れて行かれ、そこでハヤシライスを御馳走《ごちそう》になったことを憶《おぼ》えている。
「この子にハヤシを一丁やってくれ」
チュウちゃんは、そう言って、白いエプロンを胸から掛けた女給さんに、ハヤシライスを持ってこさせ、そのうえにウスター・ソースを掛けて食べることを、私に教えてくれたりした。……おそらく、これは私が両親以外の大人と付き合った最初の記憶であり、外で飲食したはじめての経験でもあって、私はいまだにその時の緊張と感激が残っているのだが、何でそれが安吾さんのお宅でビールを御馳走になったことと一緒になるのかは、わからない。ただ、安吾さんが自分のコップにウイスキーを注いだ手で私のコップにビールを注いでくださるたびに、私は市川の町はずれの昼間のカフェーで、白いエプロン姿の女給さんにかこまれたチュウちゃんが、私のハヤシライスの皿に、テーブルの上のソース瓶のソースを振りかけてくれたことが、しきりに憶い出された。
チュウちゃんは、中学校を退学処分になったあと、身の振り方がつくまでの間、しばらく親許《おやもと》をはなれて隣の家の兄嫁夫婦のところに滞在していただけだから、すぐに何処《どこ》か遠くへ行ってしまって、その後の消息もきいたことがない。ただ私には、桜の杖と血染めの朴歯がチュウちゃんのイメージとして残っているだけである……。
「いま、おれが書きたいのは『猿飛《さるとび》佐助』だよ。少年向きのザッシからたのまれたのだが、こいつは大人が読んだってユカイだからね」
安吾さんが、自分の仕事について話されたのは、それだけだったが、たしかに安吾さんの「猿飛佐助」は、おもっただけでも爽快《そうかい》な気がして、私は読者として、ぜひそれが早い機会に着手されることを願った。そして、それには猿飛佐助の友人として、ぜひラモーを活躍させるべきだ、と言った。佐助がキリシタン・バテレンから貰《もら》い受けたラモーをつれて、敵陣内にケムリのごとくに忍びこみ、自由自在に暴《あば》れまくるといい。……すると安吾さんは、愉快そうに笑いながら、
「そうだな、ラモーには、たしかに忍術使いになる素質があるかもしれんからな、この間も、すんでのところで、うちの赤ん坊がラモーに食い殺されるところだったよ」
「赤ん坊って、綱男くんのことですか」
「そうだよ。おれたちが知らないうちに、そこにいたラモーがいなくなっている。ふっと気がついたら、隣の部屋で寝かせてあった綱男のベッドに、ラモーが半身乗り出して、まさに喉首《のどくび》に食いつこうとしているんだな。危なかったよ。ハハハハ……」
安吾さんは、そう言って、また大声で笑うのだが、私はこれには返辞が出来なかった。
「本当ですか、それは」
「ああ本当だ。ラモーは赤ん坊に嫉妬《しつと》したんだね。これまで自分が家の中の中心だったのに、赤ん坊が出来てから関心をそっちの方に奪われちゃったのが、腹が立ったンだよ。おれもギョッとしたがね、その時は……」
誰にとってだって、それはギョッとさせられる話だ。しかし、ギョッとしたと言いながら安吾さんは、くったくなげに笑い、その危険な猛獣を座敷に上げて、これまで通りに自分の赤ん坊と同居させているのである。私には、犬の気持よりも、その飼い主の気持は、まったく不可解になった。いったい安吾氏にとっては、犬と子供と、どっちが大切なのだろう?
「どっちが大事? そんなことは較べられるものじゃない。犬は犬、子供は子供さ。要するに、犬は二度と子供に食いつかんように気をつけておけば、だいじょぶさ……。それよりも、この間はラモーがおれに、あんまり忠実なのが腹が立って、ゴルフのクラブで思い切りぶん殴《なぐ》ってやった。さすがに、そのときは犬も怒ったらしく、主人のおれに食いついたよ。ほら、ここンとこさ。ハハハハ」
なるほど、見ると安吾さんの手の甲に、噛《か》まれた疵《きず》あとがある。犬は犬、子供は子供、これは私にもわかる。そして犬といえども、あまりに主人に従順すぎると、不愉快になるというのも、同感できる。ただ、その犬を殴って自分に噛みつかせなければ気がすまないとなると、これはもう不可解である。――おそらく安吾さんは、ラモーのなかに、自分自身を認めて、それが徹底的に自分に対して従順であることが、無気味であったのでもあろうか? それとも、これは犬とも、犬を飼うこととも関係のない、もっと深いところからやってくる狂暴性なのだろうか。
私は、そんなことを考えながら、ラモーと安吾さんを見較べ、安吾さんの大きな笑い声に引きこまれて、つい自分も無意味に笑い出したが、安吾さんの場合、犬はちっとも飼い主に似ていないように思われた。
近藤啓太郎の親切心について
えらいことになった――、と私は思った。
その晩、柳橋《やなぎばし》の料理屋で出版社の招宴があり、これは年に一度か二度しかないことだから、私は緊張して定刻よりすこし前に、その料理屋へ着いた。すると広い座敷に、近藤啓太郎がひとり、肘《ひじ》まくらで寝ころびながら、ガラス戸ごしに黒い大きなドブみたいな隅田川《すみだがわ》をながめている。そして白い眼を上げて、私をジロリと見ると、
「おまえも退屈な男だなア」
と言った。――たしかに私は退屈な男である。しかし近藤がこういうことを言うのは、彼自身に何かオモシロくないことのあった証拠である。花札か麻雀《マージヤン》で、むちゃくちゃな敗《ま》け方をしたとか、女にデートをすっぽかされたとか……。そういうとき、彼の眼には世の中の人間が、みんな自分と同じく不幸そのもののようにうつるらしく、仮に私がどんなにシアワセそうな顔つきをしてみせたところで、やっぱり彼には、そのウレシげな顔つき自体が、孤独な人間のミジメさを感じさせるだけのことだ。
したがって私は、なるべく当らず触《さわ》らず、近藤から畳二枚ぐらいの距離をおいたところで、座ぶとんを枕《まくら》に寝ころんだまま、
「ううん、まったくなア」
と、あいまいにツブやいて見せた。せめて近藤の鬱屈《うつくつ》の原因がわかっていれば、何とか返辞のしようもあるが、たとえば彼が女のことで悩んでいるのに、「カケごとなんて、つまらんもんさ」などと言ってみても、慰めにもならないのである。すると近藤は、
「おまえ、このごろ体の調子は、どうだ? 何か運動でもした方がいいんじゃないか」
と、これはまた意外なことを訊《き》く。そして、この点が近藤の非常に不思議な持ち味なのだが、こんな何でもないことを言っただけで、一瞬ひとをホロリとさせるような、ヘンな温《あたた》かさが近藤にはある。――いまどきオレの健康状態を、こんなに親身になって訊いてくれるやつなんて、めったにいるものじゃない、と私は近藤の友情に感謝した。
もっとも、この近藤のやさしさは、一つまちがえて出ると大変なことになる。いつかも何処《どこ》できいてきたのか近藤は、「最近おそろしく潜伏期間の長いバイドクが流行していて、それに感染すると痛くも痒《かゆ》くもないのに、二十年ぐらいたって或《あ》る朝、ぽろりと鼻が欠け、顔の真ン中に穴があくようなことになる」と、いかにもそんな病気が、われわれの間にも既に蔓延《まんえん》しているようなことを言って、一同を恐怖に陥れたりしたことがあった。無論それは近藤の妄想《もうそう》から出た架空な恐怖なのであるが、こちらがそれを架空だと思っていると、近藤はヤッキになって自分の恐怖心を執念ぶかく主張しつづけるから、ついには誰もが自分の顔に洞穴《ほらあな》があいてしまったような、不吉な錯覚に捉《とら》われざるを得なくなる。……だから私は、そのときも、
「調子はいいよ、どこも悪くない」
とこたえながら、いくらか尻ごみするように近藤の顔色をうかがって、「運動は、まア散歩するぐらいだがね」と言いたした。
「散歩か……」
近藤は、またツマラなそうに、ぽつりと言い、ひとりで天井に向ってタバコの煙を吹き出した。しかし、青南小学校、市立一中、と私の同じ学校の一年上級の組にいた近藤は、子供のころから私が運動などやるタイプでないことは、よく承知しており、いまさら訊いてみるまでもないはずだった。
「これで、もし犬でもいれば、散歩ももっと規則的に、毎日やるだろうが……」
たしかに私の散歩は、ときたまアテもなしに、ふらふらと歩き出し、いつかとんでもなく遠くの方まで行ってしまったりするだけのもので、あんまり健康的とは自分でも思ってはいない。すると、
「犬か、それはいいところに気がついた」と、近藤の眼は急にかがやいた。
えらいことになった――、と思ったのは、つまりこのためだ。
一体おれは、どんなつもりで、あんなことを言ったのか、私は自分で自分の気持がよくわからない。
その一年ぐらいまえから、近藤がシバ犬《いぬ》を二頭、つがいで飼い出して、最近はコンクールで賞をとったとか何とか、しきりに自慢したがっているふうだが、誰もそんなことには大して興味は示さないから、しぜんにそれは近藤のひとりごとに終ってしまう。そういう近藤に犬の話を持ちかけたら、これは犬を飼え、とすすめられるにきまっている。それも、いったん言い出したからにはガムシャラに主張しつづける近藤のことだから、もうイヤでもオウでも、犬は半分がた私の家の中へ入りこんだも同じようなものだ。そういうハメに落ちこむと知りながら、あんなことを言ったのは、おそらくそのときの私は、道ばたで通りがかりの誰にでも尻っぽを振りたがる迷い犬と同じ心境になっていたのであろうか。とにかく私は、決して犬など飼う気はないくせに、近藤から犬をしつっこくすすめられる気持は悪くないという、われながら奇怪な心理状態になっていた。
「飼えよ、それも絶対に日本犬を飼え」
と、果して近藤は額をこちらにツメ寄るように向けながら言った。
「日本犬ね、そいつはいいかもしれないな。洋犬はおれにはダメだ。まえにスパニエルを飼って、あいつにはこりた」
数年前、子供にせがまれてスパニエルの仔犬《こいぬ》を買い、さんざん手古摺《てこず》らされて、処置に窮したことは事実だった。しかし、それ以来、私はもうどんな犬も飼いたいとは思わなくなった。第一、犬と人間とのあいだに愛情がかよい合うということ自体、何か不自然で濃厚な雰囲気《ふんいき》が漂う例を多く見過ぎるような気がして、イヤになっていたのだ。
「スパニエルか、あいつはダメだ。あんな甘ったれた根性の犬は、おまえじゃなくたって、誰だって厭《いや》になるにきまっている。飼うンなら日本犬さ。……とかくシロウトは、コリーだの、シェパードだの、チワワだの、ダックスだの、洋犬にばっかり手を出したがるものだが、飼ってみてすぐに飽きて、それっきり犬が嫌《きら》いになるのがオチさ。……しかしコリーなんて、あれはテレビに出てくると名犬≠セが、ほんとは馬鹿なんだ。退化して脳がダメになっちゃってる。ああいうのは人間でいえば映画女優か、テレビ歌手みたいなもんで、犬としてマトモなものじゃない。……そこへ行くと日本犬こそは犬、犬のなかの犬、ジス・イズ・ア・ドッグの犬、……子供のときから、ずっと何びきも犬を飼ってきたおれの経験じゃ、いま犬といえるのは日本犬しかないね」
そういう近藤の意見に、私も大体同感だった。しかし近藤の言うことには同感はしても、いつもなぜか、どこか根本的に信用しかねるところがあって、結局そのために私は何度か、要《い》らざる失敗を、これまでにかさねてきた――。その失敗については、また後で述べるとして、とにかく近藤から持ちこまれた話に半信半疑で乗ってしまうと、かならず後悔することになる。だから何と言われようと、犬の話も断わらなくてはならないが、それには一つだけ、ウマい口実を私は、最初から用意してあった――。
「たしかに日本犬はいい。オレも飼うなら日本犬だと思ってる。しかし、いくら日本犬が好くても、オレが土佐犬《とさいぬ》に綱をつけて引っぱって歩いたんじゃ、さまにならない……」
「ははは、それはそうさ。サマはともかく、おまえの体力じゃ、土佐犬は引けないヨ」
「そうだろう。そうなるとシバ犬だが、これはたしかにいい……。ただ、あいつを連れて歩いてるとき、向うから大きな犬がやってくると、こっちはあわてて抱き上げてやったりしなくちゃならない。あれが、こまるね……。抱くことぐらいは何でもないが、おかげで自分まで、相手の犬のまえで、小さくなってオドオドさせられるのは、いやだね」
近藤は笑った。そして私が半分も話しおわらないうちに、愉快そうに膝《ひざ》を叩《たた》きながら、私の言うことに早くも同感の意をしめした。そんなにうまく近藤が私の気持を了解してくれるとは、こちらの予想した以上の効果であった。
「わかるよ、そいつは……。まったく、あれは気分の悪いもんだよなア。とくに、デッカい犬を引っぱってるのが、若い女中か何かでさ、こっちが避けると、向うはそれで自分がスッカリ強い犬になったつもりで、道路のまん中を、わざと犬の名前なんか呼びながら、ゆっくり歩いて行くやつなんか、不愉快だよなア、あれは……」
実際、近藤はこちらが拍子ヌケするほどあっさりと自分の主張をひっこめた。しかし、これで私が安心したのは、早計だった。
「おまえの気持はわかったよ……。だから、さ」と、彼は言った。「シバじゃなくて、もう少し大きいのを飼えよ。中型の……、そうだな、キシュウはどうだ。あれなら、おれが好いのを世話してやる。明日にでも、話をつけといてやるよ……」
「待ってくれ。ちょっと、そいつはキシュウってのは、いったい何だ?」
「紀州犬《きしゆうけん》だよ、知らなかったのか、ムリもねえな、おまえはシロウトだからな……。紀州犬というのは、イノシシ狩り専用につくった猟犬だよ。戦争で繁殖を中止して、いまは原産地の紀州には、ぜんぜんいなくなったが、戦争がおわったときに何頭か生き残ったやつがいるのを見つけ出してきたのが、ようやく少しずつ増《ふ》えてきたところだ……。おまえの話をきくまで、おれも紀州犬のことを度忘れしてたが、おまえにはアレが一番だな……。いい犬だぞ、全身、まっ白な毛でな」
勿論《もちろん》、私はイノシシ狩りをする気もなく、イノシシ狩り犬なぞ聞いたこともないし、飼おうとは毛頭おもわない。第一、近藤が私の話をきくまで度忘れしていた、などということからして、それは怪しげだった。もし彼が言うように、それが好い犬だとしたら、度忘れするはずもないし、彼自身がすでに飼っていなければ、おかしい。私が、近藤のいうことを、いつも根本的なところで疑りたくなるのは、つまりそういう点なのだ……。だいたい近藤は、むかしから犬が大好きで、ずいぶんと数多くの種類の犬を飼い、私などをシロウト呼ばわりするが、彼が犬のクロウトだという話は、つい最近まで、一度も聞いたことがない。小学生、中学生時代はさておき、この十数年来、ずいぶん親しくなってからでも、近藤が犬を飼ったことがあるという話さえ、彼がいまのシバ犬を飼いはじめるまで、仲間の誰も知らなかったはずである。
しかし、だからといって私は、近藤の言うことを全面的に否定して、耳をかさないというわけにも行かなかった。――ここが近藤のムツかしいところで、彼はいつも、まったく藪《やぶ》から棒に、何処からどうして出てきたかと思うようなことを、自信ありげに宣言し、しかも案外それは非常に適確であったりする――そういう不可思議千万なところが、付き合いはじめた最初から、近藤にはあった。
あれは私たちが、同人雑誌以外のところで一二篇、短篇を発表しはじめたころ、或る文芸雑誌の仲介で十人ばかりの新人作家が集まって、毎月会合をひらいていた。その何度目かの会のとき、
「安岡も、そろそろ結婚した方がいいな。おれが好い娘を世話してやろう。……何、結婚はしなくても付き合うだけでもソンはないよ、美人だからな」
と近藤は、藪から棒に、そう言った。私は、たぶんいい加減な返辞をしたのだろう。次に会ったとき、近藤から、
「この間、おまえに話したあの娘なア。きのう、あの娘をつれて、おまえの下宿へ行ったんだよ。おまえは留守だったから、その娘と一緒に映画をみてきた」
と言われて、しばらく私は、何のことか見当もつかなかった。第一、私は近藤に結婚の世話をしてもらうつもりはまるでなかったし、その気もないのに突然、見知らぬ娘さんを下宿にひっぱってこられては、むしろ迷惑だから、留守をして会わずにすんだのが好運だったと思った。しかし近藤は、
「まア、がっかりすることはないさ、まだ機会はいくらでもあるから、そのうち紹介してやるよ」
と、まるで私がその娘さんと会えないのを残念がってでもいるように、一人で勝手にそんなことを言って、私を慰めたつもりでいるらしかった。……そのE子という娘さんに引き合されたのは、それからさらに二箇月くらいもたってからだろうか。そのときも別に私は、娘さんに会う気もないし、まったく考えてもいず、ただ近藤が何を思ってか、やはり出しぬけに、
「安岡よ、おまえは本当の江戸前の芸者というものを知らないだろう。そんなら一度、見ておいてもいいだろう」
と言うので、吉行や庄野も誘い合せて、むかし近藤が上野の美術学校へかよっていたころから知っているという下谷《したや》の待合へ出掛けたのだ。――そのころ私たちは「江戸前」はおろか、待合で芸者あそびをしたという者さえ、仲間のなかには一人もいなかった。私が知っているのは空襲で焼けるまえの吉原《よしわら》や玉の井であり、吉行にいたっては青線赤線の知識は該博でも、守備範囲はそこから一歩も出なかったのである。したがって、また私たちは、自分たちの知らない世界に近藤だけが通じているなどとは、信じてもいなかった。近藤といえば、私たちには千葉県|鴨川《かもがわ》しか頭になく、「江戸前」の何のと言っても、おおかた鴨川の漁師相手の芸者が東京見物にやって来たのをつかまえて、それを見せびらかすのにワザと、そんな大仰な勿体《もつたい》をつけただけのことだろうぐらいに考えていた。とにかく近藤が、どんな待合にしても東京の旧市内の待合を知っているというだけでも、ふだんの彼からはちょっと想像のつかぬことなのだ。
だから、そんな私たちの前に、髪を何という型か、とにかく日本髪に結った芸者が、座敷着の裾《すそ》をひきずって、
「あら、コンちゃん、おひさしぶり」
と、したしげに呼びながら現われると、もうそれだけで、ドギモをぬかれるおもいがした。吉行は跳《と》び上って居ずまいを正し、庄野は式の日の学校で校長先生にお勅語を差し出すようにカシコまった姿勢で、
「ねえさん、お酌をさせて下さい」
と、うやうやしくトックリを持ちかえて、ささげる始末だった。すると近藤は、そこへあのE子という娘さんを呼ぼうと言うのだ。
「だって、それはマズいだろう」
私は、座のシラけるおもいで言った。
「どうして?」と、こんどはその江戸前の芸者が言った。「Eちゃんは、あたしが妹分に可愛《かわい》がってる娘よ。呼んだって邪魔にゃならないことよ」
「そうとも、したくはしなくてもいいから、そのままの恰好《かつこう》で、すぐ来いって、そう言っとくれ」
と、すっかり近藤は言葉つきまでダンナ風になっている。
――何だ、その娘さんは芸者か、と訊くと、
「そうじゃないよ。シロトだよ。ただ、おれたちが昔から知ってる人の娘で、この近くに家があるのさ」
それから五分もたたないうちに、その娘さんはやって来た。ブラウスにスカートの、ふだん着のままで……。それを見た瞬間、私は先刻の芸者のときとは、また違ったショックを受けた。まさに、それは息をのむほどの美人なのである。横目で吉行の方を見ると、彼はまた突然、考えぶかげな顔になって俯向《うつむ》いたまま、盃《さかずき》をしばらく宙に泳がせながら、
「うーッ」
と、うなるように言い、それから一人でぶつぶつ何かつぶやいた。よく聴くと、「ビジュツコーゲイ、テンネンキネンブツ、ジューヨーブンカ、テンネンキネンブツシテイ、コーゲイ、ビジュツコーゲイ、キネンブツ、キネン……」
と、意味をなさぬタワゴトみたいなことを、口の中でしきりに繰りかえしてばかりいた。
いま私は、近藤の紀州犬のはなしをききながら、そのときのことを憶《おも》い出すともなしに想いうかべていた。
「そりゃ、好い犬だぞ、全身まっ白くてな」
と、近藤がその犬の毛の白さを強調するとき鼻の穴のふくらむのをみながら、私はあのE子のことを話したときにも近藤の鼻の穴はこんなふうにふくらんだろうか、と考えたが、すでに記憶はうすれてハッキリとは憶い出せない。しかし、あのときには彼はもっとアッサリ、「美人だよ」としか言わなかったようだ。
その傍《かたわら》で吉行が、おもわず絶句したほどの美しい娘さんE子と、私は結局、縁がなくて結婚にはいたらなかったが、あのときもし私が最初から近藤の言うことに耳を傾け、信用していたならば、ことによるとあの眼が水晶みたいに青ずんでパッチリした娘さんとの話も、もっとウマく進行していたかもしれない。――私は、いまの自分の女房もワレ鍋《なべ》にトジ蓋《ぶた》で、大変ヨロシイと思っており、別段あの娘さんとのことを後悔はしていないが、とにかく近藤の生活の背後に「本当の江戸前の芸者」がいたり、あんな美人の娘さんがいたり、ということは、あの晩までまるきり想ってもみなかったのはたしかで、それを思うと、全身純白の毛に覆《おお》われたイノシシ狩りの紀州犬とやらが、実際に天下の名犬であるかもしれない、という気もした。
「その犬は、ひとに咬《か》みついたりはしないかね?」
「咬みつくもんか、主人の命令には絶対服従だよ。敵、つまり動物に向うときは勇猛果敢で、人間に対しては全然おとなしい、これが紀州犬のいいところさ」
「へーえ、じゃ吠《ほ》えるかい。おれは全然吠えない犬がほしいんだ」
「吠えないね」
「ぜんぜん?」
「まア、よっぽど怪しい者でも来なきゃ吠えない。ふだんは一日中、いるかいないかわかんないほど、おとなしい犬さ」
聞けばきくほど、まことに理想的な犬のようであるが、それだけにそんな具合のいい犬が実際に存在しているかどうかは疑わしい。それに犬好きの近藤が、そんな好い犬を、なぜ度忘れしてしまったりするのか――? これこそは不可解というものだが、しかし、あの娘さんを昔から知っているという近藤が、自分では手出しもしないで、しきりに私に引き合せようと、あんなに熱心に取りはからってくれたことを考えると、近藤はあの娘さんのことも自分が結婚するときには「度忘れ」していたのかもわからない。
しかし、じつのところ何よりも私は、犬の場合も近藤に、あんまり熱心にすすめられると、それだけで気分が重苦しかった。……ようやく客の顔も、だんだん揃《そろ》いはじめたので私は、近藤と別れ別れに席についた。
どうしようかな――? 席についたまま、まだ考えこんでいた。芸者が酒を注ぎにまわって来る。柳橋は勿論、花柳界としては下谷より格が上であろう。その晩は、吉行も、庄野も、この席に招かれていたが、もう誰も跳び上ったり、サカズキを芸者にうやうやしく捧呈《ほうてい》したりもしない。ここには、「本当の江戸前の芸者」はもういないのか、それともわれわれが、もう世馴《よな》れて、すれてしまったのか?――私は、そんなことばかり考えて、いつまでたっても犬を飼う決心はつかなかった。
帰りがけに、玄関で靴をはいていると、うしろから近藤に声をかけられた。
「おい、おまえの犬なア、もうたのんだから安心しな。さっき便所に立ったとき、廊下に電話があったから、たのんどいたよ」
「ええ?」
私は、近藤のあまりの手廻しの速さに、おどろく暇もなく、ただアッケにとられて、片方の靴だけはいて、しばらく茫然《ぼうぜん》と立ちつくした。
「いい犬だぞ。全身、まっ白でなア。おまえ、よかったなア。ああ、愉《たの》しみだ、愉しみだ」
近藤は、ひとりでよろこびながら、さっさと靴をはくと、肩を二三度、ゆすぶりながら長身を猫背にかがめて、夜の中へ歩き出した。
コンタと命名
近藤啓太郎に犬を飼えと、柳橋《やなぎばし》の料亭の宴席ですすめられたのは、いま憶《おも》い出すと燈籠《とうろう》ながしのあった晩で、つまり夏の半ばであるが、わが家にその紀州犬の仔犬《こいぬ》があらわれたのは、庭の芝生《しばふ》もすっかり黄ばんで枯れかけたころだ。
なぜ、そんなことを憶えているかというと、じつはその夏、わが家の軒下三尺しかない細長い庭――というより通路であるが――の南側に、地つづきの地面が売りに出たのを少しばかり買い足し、そこを芝生にして、女房と私とは、一と夏せっせと草むしりにはげみ、その甲斐《かい》あって、ようやく何とか芝の根が張ったばかりのところだったからだ。
その年まで私は草むしりなど、まったく何の興味もなかったのであるが、所有欲というのは、どうやらひどく人間を変えてしまうものらしく、その小さな土地のために自分の金を投じたとなると、急にそこにビンボウ葛《かずら》やペンペン草をはびこらせておくのが、おろしたての服にハネでも着いたように気になり出した。はじめ草むしりは女房の役目で、私は朝と晩とに水をまくだけだったが、拡がったとはいっても、そこにはおのずから限界があり、ホースの先を少し上へ向けると、迸《ほとばし》り出た水は忽《たちま》ち、雄大なる弧をえがきながら、庭を一と跨《また》ぎにお隣の家の屋根を濡《ぬ》らし、あわてて筒先を下へ向けると、こんどは窓からお食事中のお茶の間に飛びこむといった具合で、わが家の芝生にはほんのシズクほどの水しか掛らない。それで結局、主として水はジョウロで女房に撒《ま》かせ、私は草むしりの方を手伝うことに転向したのだが、やってみると草むしりという爺《じじ》むさい作業が意外に面白い。
四つん這《ば》いになって地ベタを見つめるということは、傍目《はため》にはどう映ろうと、じつに何とも言葉にはつくせぬ興味がある。毎日、同じ地面に同じような草が、翌日も同じように生《は》えてくるというだけでも、それは私にとって一つの驚異だった。それに雑草でも、芽を吹いたばかりのミドリは美しく、引きぬくと黒い土の中から繊細な根が、生きもの特有の色艶《いろつや》とネバリ気をおびて出てくるのは、ほとんど肉感的な快感を覚えさせるほどだ……。しかし、こんなことに興味を持つのは、おそらく年のせいに違いなく、そう思うと私は遠からず自分が完全に老化してしまいそうな不安から、草むしり自体に或《あ》る恐怖のようなものを感じた。――近藤から犬の話を持ちかけられたのは、そういう時期だった。
子供のころから犬好きだったという近藤が、最近になってまた急に犬を飼い出したというのも、つまりは年のせいだろう。そういえば庄野潤三は数年前、生田《いくた》に引っこもって以来、頭髪がとみに白くなったうえテッペンの所まで禿《は》げ上り、たまに訪《たず》ねてみると梅の木にコヤシを掛けていたりする。われわれは、そんな庄野を、ひそかに、
「生田の先生も、まったく老成して枯淡の風格をおびられましたなア」
などと語り合ったものだが、このごろでは冗談ではなく庄野は、完全に生田の郷《ごう》のオキナと化し、われわれ全体がいつとはなしにコタンの気風に同化されつつある。
同じ老化現象でも、草むしりや、梅の木の世話をやくより、犬を飼う方が、相手が動物であるだけにいくらかマシかもしれない。――とはいうものの、実際に犬を飼うとなれば私が掛りきりで面倒を見るわけにも行かないから、家族の同意を必要とする。とくに女房は私以上に庭の手入れに熱中しているので、これを説得するには犬が絶対に庭を荒さないという、およそ自信のないことを保証しなければならず、その他かんがえはじめると厄介なことがキリもなく起って来そうで、私ははやくも余計な荷物をしょいこまされたような重苦しさに悩まされた。
近藤のやつ、何とか犬の話をケロリと忘れてくれないものか――。
私は真剣に、そう思った。この際、唯一のたよりは近藤が鴨川《かもがわ》に住んでいて、それほど頻繁《ひんぱん》に顔を合わせる機会がないことだった。とかく私たちは、重要な仕事の約束でも顔を見ていないと、つい忘れがちであり、まして仔犬のやりとりなど、犬屋でもないかぎり、その場かぎりの口約束だけではウヤムヤになるのは、むしろ普通のことである。実際、柳橋の宴席で話があってから三箇月ばかりもたつのに、近藤からはウンともスンとも言ってこず、私の願いはまんざらかなえられないものでもなさそうに思われた。
しかし、まさにそういう甘い期待を既定のことのように考えはじめた或る日、私は進藤|純孝《すみたか》からドキリとするような話をきかされた――。家族づれで鴨川へ遊びに行った進藤は私の顔をみるなり、
「近藤ってやつは、ほんとに犬気違いなんだなア。おれも編集者時代に、いろいろ犬の好きな作家や絵かきの家へも出掛けたが、近藤みたいなやつは見たことがない」
と、いかにもシンから感嘆した声で言った。何でも近藤は、進藤たちの泊った宿屋の部屋に、二匹の犬を抱いてあらわれると、何時間も犬の自慢ばなしを立てつづけにして、そのへんを犬の毛だらけにして帰ったらしい。家にいるときの近藤は、朝から犬のために、野菜を刻んだり、レバーを煮たり、魚屋にアラを買いに行ったり、また犬小舎《いぬごや》の掃除をしたりという話は、まえから近藤自身にきいて知っていたが、進藤の話ではその犬小舎も普通のものではなく、まわりに広大な運動場があり、いろいろ犬の遊び道具もしつらえられてある他、犬舎の屋根には犬専用のトランジスタ・ラジオが置いてあって、一日中、音楽やらニュースやらを流しているという。
犬にラジオをきかせて、一体どうするつもりか――? これは別段、犬に情操教育をほどこしたり、時局の知識をさずけたりするためのものではなく、東京その他の都会地でもよおされるコンクールに犬を出場させる場合、犬が会場の雰囲気《ふんいき》におびえて、シッポを後肢《あとあし》の間にはさんで逃げ出したりせぬよう、ふだんから適度の騒音に馴《な》れさせておくためなのである。
それも驚くべきことには違いないが、進藤からきいた話で、私が最も脅威におもったのは、鴨川の町のいたるところに近藤の世話した犬がいるらしいということだ。すくなくとも、ふだん近藤が仲良くしているような家――そのなかには進藤が泊った鴨川一の旅館、Gホテルもふくまれる――では、ほとんど一軒残らず、近藤のすすめによって犬を飼い、近藤はその飼犬家たちのリーダーになっている模様である。近藤に指導者の素質があることは、近藤が画を教えていた鴨川中学の子供たちが、二科展、院展など、有力な美術展に大挙して入選したことによって、すでに私たちの間では相当なものだという評価を得ていたのであるが、いまや近藤はその指導力を美術よりも犬の飼育に向けはじめたわけであろう。……このぶんでは、遠からず鴨川は、画の展覧会のみならず犬のコンクールにも大量の入選犬を輩出し、犬のメッカとして斯界《しかい》の注目をあつめるようになるかもしれぬ、と私は近藤の情熱に怖《おそ》れと期待とを持った。
どっちにしても私は、近藤のすすめる犬を飼わされる運命にあり、近藤がそれをケロリと忘れることなど、到底のぞみ得ないことだと覚悟した。事実、進藤の話をきいて数日後に、一匹の純白の紀州犬が、わが家に到着したのである。
その日、近藤は都合があって出て来ず、かわりにSさんという人が、犬と犬舎と運動場の金網その他の材料をトラックに積んでやって来た。……生後、三箇月の仔犬は長道中のトラックに酔い、大きな猫ぐらいの体をグッタリさせて庭の隅《すみ》にうずくまっていたが、運動場の囲いが出来上るころには、もう元気にそこらを駆けはじめた。しかし、こちらが正面から近づこうとすると、いきなり横っ飛びにすっとんで、じっと眼を上げて様子をうかがうところは、Sさんに言わせると、イノシシ狩りの猟犬の特質だそうだが、小シャクな感じで、いささかイヤらしくもある。
どうせ私はイノシシ狩りなど、豪快な趣味の持ち合せはない。それよりも気になるのは、この犬があまり庭を荒さず、うるさく吠《ほ》え立てないかどうかだ。
数年前にコッカー・スパニエルの仔犬を飼ってみて、半年あまりでイヤ気がさし、ついに先輩のO氏のところへ押しつけるようにして追い払ったのは、何よりも鳴き声がうるさかったからだ。とにかく誰かが相手になってカマいつけていてやらないかぎり一日中、吠えつづけに吠え、来客があっても話し声さえ聞きとれぬほど、やかましく吠え立てる。
女房にいわせると、それは私がこのスパニエルを最初のうち、甘やかし過ぎたからで、
「あなたって人は、誰にでも甘い顔を見せて結局、最後には自分でもどうにもならなくなって、ひとに後始末の尻拭《しりぬぐ》いを押しつけることになるのよ。犬でも、女でも……」と言うのであるが、そうなるとますますこの犬のキャンキャンいう声は耳障《みみざわ》りであり、(おまえさんには、犬一匹満足に飼えないのかネ)と犬までが私を愚弄《ぐろう》しているような気がした。
たしかに私は、この金茶色の毛をしたスパニエルに対しては、その興味の持ち方からして軽薄であったかもしれない。最初、家の女の子の遊び相手にするつもりで買ってやったのだが、じつは私自身がこの玩具《おもちや》みたいな犬のハイカラな雰囲気に、ガラにもない少女趣味的な関心をよせ、食事のたびにリボンでその長い両耳を縛ってやったり、いまに大きくなったら細い革のヒモでもつけて口笛を吹きながら散歩してやろう、などとまことに以《もつ》て気恥ずかしいほど甘い空想にふけっていた。この空想は、しかし三日とは保《も》たなかった。第一に困ったことは尻の始末の悪いことで、連れて来ると早々、家の中じゅう、あらゆる場所に小便をしかけて廻った。そのたびに女房と子供は雑巾《ぞうきん》を持って追い駆けたが、三十分とたたないうちに、こんどは部屋の真ン中にしゃがみこんで、体に似合わぬ大きな大便を盛り上げた。それでも二十日間ぐらいは、何とか我慢して家の中で飼ったが、大小便をあたりかまわずひり散らかすクセは、どんなに努力しても改まらず、とうとう家の外へ小舎をつくって下ろしたのだが、それ以来、やみなしに吠えつづけることになった……。だから女房の言うことも、当っていないとはいえない。しかし犬が飼い主に似るということからすれば、この間断なしに吠え立てて欲求不満を訴えつづけるスパニエルは、だんだん顔つきまでが女房に似てくるようで、その点でも私は閉口させられたのだ。
「ぜったいに吠えない犬が欲しい、と近藤には言っといたんですが、だいじょぶですかね、こいつは」
と私はSさんに訊《き》いた。無論、吠えるのは犬であってSさんではない。しかしSさんは、
「ぜったい、とまでは言えませんが、まず今晩ひと晩鳴いたら、もう鳴かなくなるでしょう」と保証した。
「もう鳴かない……?」
「そう、ごくたまに、三日に一度か、一週間に一度ぐらいは吠えるかもしれません。それ以上は吠えません」
Sさんは、口数すくなく、ほほえんで見せた。「もし今晩、吠えたらパンと牛乳をやって下さい。それで鳴きやみます」
それだけ言うと、Sさんは帰った。取り残された仔犬は、囲いの中でしばらく戸惑ったように立ちどまっていたが、やがてそのへんの地べたをクンクン嗅《か》ぎながら、前肢でそっと土くれを掻《か》いてみたりしているのが、かえって何か哀れげに思われて、私は自分の部屋に引き上げた。
日が暮れた。私は差しせまった自分の仕事をつづけ、晩飯になるまで犬のことは忘れていた。それを憶い出したのは、台所とつづいた食堂で、女房が新しいアルミニュームの鍋《なべ》を片手に、
「いやになっちゃうわね、餌《えさ》の世話から何から、結局、あたしが全部みなけりゃならないんだから」
と言ったからだ。こういうときには何か言うより、黙って夕刊でも見ているにかぎる。しかし心の中では、犬の餌用に新しい鍋をいつの間に買ってきたんだろう、とその手廻しのよさにヘンに感心させられてもいた。
「しかし、おとなしい犬ね、いるのかいないのか、わからないみたい……」
そう言えば、犬小舎も運動場も私の部屋のすぐ傍にあるのに、私が仕事をしている間、何の物音もしなかった。
「まさか、Sさんのあとを追っ駆けて、逃げ出したんじゃないでしょうね。あなた、ちょっと行って、様子を見てきてよ」
女房は自分の言ったことに自分自身で驚きながら、私をセキ立てた。――まさか、とは思ったが、私も心配になり、おもわずその場で耳を欹《そばだ》てた。
「本当に、イヤに静かだなア」
しかし、ガラス戸をあけて庭のすみの方を覗《のぞ》いてみると、暗闇《くらやみ》の金網ごしにキチンと前の両肢をそろえて坐っている犬の姿が仄白《ほのじろ》く浮んで、一瞬、私は犬というよりお稲荷《いなり》さんのキツネが、家の庭へ来てしゃがみこんでいるような、幻想に取り憑《つ》かれた。
「コン、……」
と私は何げなく言った。すると犬は、自分の名を呼ばれたものと思ったのか、立ち上って白いフサフサした尻尾《しつぽ》をしきりに振った。
「いるよ、ちゃんと……」私は、女房を振りかえって言った。「餌はどうだ、もう出来ているんなら、持ってってやろう」
「まだダメよ、もう少し冷《さ》ましてからでないと……。こんな熱いものをやったら、次から犬は用心して餌を食べなくなるのよ」
女房は、しさいげなことを言い、鍋を手許《てもと》に引きよせた。――このぶんなら、こいつはこの犬を飼う気でいる、と私は一と先《ま》ず安心した。私の女房はまことに奇妙な性分で、ネコは蛇《へび》よりも嫌《きら》いだが、そのぶんだけ犬が好き――というほどではないにしろ、犬に対しては寛容である。ただ、このまえのスパニエルには、私以上に懲《こ》りているのだ。
そのスパニエルは吠えるだけではなく、じゃれつくときでも強く咬《か》みつくクセがあり、餌をやるときには手袋をはめなければならなかったが、犬専用に下ろした私の革の手袋は鋭い歯で裂かれてアナだらけになっていた。しかも、そんなふうにさんざん手を焼かせながら、主人の顔は全然憶えようとしない。あれは、もう飼い出してから三箇月以上たったころだが、家から姿を消したまま、何処《どこ》を探《さが》しても見当らず、一週間めかに女房が買物に出掛けた途中の道で偶然、近所のガソリン・スタンドの青年にひかれて歩いているのに出会《でくわ》して、そのまま家へ引っぱって連れ戻した。
「しつれいしちゃうのよ、こいつったら……。向うから、うちのに良く似たスパニエルが来るな、と思ってよくよく見たら、やっぱりうちのアンリでしょう。『アンリ』って、大きな声で呼んでやったのに、いくら呼んでも知らん顔をして、あたしがすぐ眼の前へ行くと、ようやく立ち止ってキョトンとした目つきで、こっちの顔を見上げてるのよ」
女房は憤慨して語ったが、じつはその頃はもう私の方でもその犬に愛想をつかしていたので、犬が敏感にそれを察して寄りつかなかったのかもしれない。いずれにしても、それ以来、ますますその犬と私たちとの感情は疎遠になり、厄介もの扱いされることになった。
大体、「アンリ」などと、あのスパニエルは名前からして妙ちきりんだったが、あれは当時幼稚園にかよっていた娘が、何となくそう呼んだのを、たまたま家に来ていた洋裁屋の男が、「それはいいです。お嬢ちゃんのセンスは、まさにフランス式です」と、くだらぬお世辞を言ったため、それが犬の名前になった。こんどは、こういう命名はやめて、もっと普通の名をつけよう――。
こんな話を、晩飯のときにかわしながら、まだ私はこんどの紀州犬が無事に家に居つくようになるかどうかが不安であった。
たしかに、おとなしいことは大変おとなしい。しかし、ただおとなしいというだけの、いるのかいないのかわからないものは、無表情で、飼ったってツマラないということにもなるだろう。実際、そのときの私は、連れてこられて数時間になるのに、まだワンとも、キャンともいわない犬に、そろそろ物足らぬ気持にもなっていた。一体に、日本犬は洋犬に較《くら》べて野性がのこり、まだ本当に家畜にはなり切っておらず、そのため人にナジまないし、愛きょうにも乏しい、という話もきいた。
吠えることが、犬と人間とのコミュニケーションなら、まったく吠えない犬というものは、われわれにとって無意味な存在ではないか――。せっかく、吠えない犬を頼んでおきながら、こんなことを考えるのは身勝手であるが、こんなに静かだと犬を飼っているという反応がない。というより犬の沈黙は、次第に無気味なものにも思われてきたのである。
「だいじょぶかなア。さっきは、どんな具合だった?」
と、犬に晩飯をやりに行った娘に、私は問いかけた。
「どうって? 別に、ふつうの犬と同じに、よろこんで食べてたわよ」
娘はテレビの画面を見つめたまま、気のない返辞をしただけだ。何を思ったか急に、「あの犬、昨晩まではお母さん犬と一緒に寝てたの? それで一人っきりにされて、よく淋《さび》しがらないのねえ」
「きっと、おまえみたいなボンヤリした子なんだろう。親がいなくなっても、気がつかないような……」
すると、そのとたんだった。戸の外で、強い風が吹いたような、
「ウォーッ」
という声がした。――一体、何だろう? 私たちには、それは犬の声、すくなくとも生後三箇月の仔犬の鳴き声とは到底かんがえられなかった。すると、つづいて、また一と声、こんどはハッキリ犬とわかる声で、
「ウー、ウー、ウォーッ、オー、オー」
と、いやに長く尾をひいて鳴いた。女房と子供は、その異様な鳴き声に、ふと笑いかけながら、中途で耳をふさいだ。実際それは犬というよりオオカミの遠吠えをおもわせ、まだコロコロした仔犬が天を仰いで鳴いたのかと思うと声そのものが滑稽《こつけい》だった。しかし、それが尾をひいて夜空にひびくのを聞いていると、不意に遠くの親を呼ぶ悲痛な気持を、いやでも想い出さずにはいなかったのである。
「おい、パンと牛乳だ」
私が言うよりはやく、女房は台所から牛乳の入ったボールとパンとを両手に持って差し出した。
「はやく、はやく行ってやってよ。あの声を一と晩じゅうやられちゃ、たまんないわ」
私は、闇の中で物狂わしくノタうっている犬の姿を想像し、犬小舎へ近づいた。しかし物凄《ものすご》かったのは声だけで、仔犬はやっぱり先刻と同じく前肢をそろえて、おとなしくひかえている。
「おい――」と私は声をかけて、何と呼んでいいかわからず、そのお稲荷さんのキツネみたいな顔つきに、「コン、……コンタ、あんまり変な声でなくなよ」
と牛乳とパンとを小舎の中へ入れてやった。犬は、しばらく私と餌とを交互に見較べていたが、
「食べろよ、コンタ」
と言ってやると、いかにも素直にウナズきかえすように首を振ると、ボールに首をつっこんで牛乳を飲みはじめた。その瞬間、私は近藤の顔が想いうかび、
「どうだ、いい犬だろう、これは」
と、れいの潮風のシミこんだようなガラガラ声で言うのが耳もとで聞えるような気がした。たしかに私は、この瞬間、いままでに経験したことのない奇妙な満足感のやってくるのを覚えていた。それは友情でもない、愛情でもない、一種ふしぎな充足感だ。
このとき私はまだ、この犬が「コンタ」を自分の名前だと想いこんでしまったものとは思わなかった。第一、コンタでは近藤のコンと、啓太郎のタとをくっつけて呼んでいるようで、もし近藤が家に遊びにきたりすると、困ったことになるではないか。いまは仮の名前だから、いいようなものの……。
しかし犬にとっては、仮の名も、本当の名もあったものではないのである。
人犬一如、コンタとゴリ
愛知県犬山市にある「日本モンキー・センター」は、サル専門の動物園として世界にも類の少ない存在だし、日本のサル学はその分野で、おそらく世界をリードしているもののようだ。
ところで、自然科学のなかで、どうしてサル学がとくに目立って進歩したかといえば、一つにはサルの研究には大して金がかからず、紙とエンピツと望遠鏡をぶら下げて、一日中サルを眺《なが》めていればいいからだという。なるほど日本では望遠鏡も高くはないし、サルはいたるところの山にいて、安上りには違いない。しかしもう一つ、理由がある。それは日本人だけがサルの社会に溶けこんで、サルの世界を内側から眺めることが出来るということだ。勿論《もちろん》これには反対意見もずいぶんある。サルに感情移入をしてみたって、それでは客観的に正確な観察が出来るものではない、という……。たしかに、ヨーロッパ人やアメリカ人から見れば、日本のサル学者たちのやっていることは、やたらにサルの群れの中に跳《と》びこんで、二六時中サルのなかに囲まれたまま、見境もない妄想《もうそう》をサルと自分との間に繰りひろげているだけかもしれない。しかし何と言われようと、日本人は今日まで、そういう方法でかずかずの研究成果を上げてきているのであり、それを「人猿《じんえん》一如」と称して、ますますさかんにやろうとしている。それは「人間の祖先がサルだ」という近代論さえ、なかなか認めようとしなかった国、つまりヨーロッパの伝統をひいた国の学者には、たとえ真似《まね》したくても、出来っこないことなのだ。それは科学だの、学問だのというよりもっと以前の、肉体的な感覚の違いから出ている問題である。
勿論、これはサル学者にかぎったことではない。たとえば私はアメリカだのフランスだのの金持ちの婦人が、毛を刈りこんだ犬に、縞《しま》のチョッキだの、上衣《うわぎ》だの、甚《はなは》だしい場合には毛皮の外套《がいとう》だのを着せて、街を引っぱり廻しているのを見ると、感覚的に反発したくなる。何も、わざわざ犬の毛を刈ったうえに、ほかの動物の毛皮を着せることはないじゃないか、と理屈をこねるまでもなく、端的にギョッとさせられ、不愉快を覚えさせられる。彼女らの虚栄心や自己顕示欲のすさまじさに腹が立ってくるのは、その生理的不快感が一と通りおさまった次の段階である。
もっとも、そういう欧米婦人の愛犬振りも、何かの拍子に彼女らの内面の暮しを、ちょっとでも覗《のぞ》いてみる機会があると、その臆面《おくめん》もない悪趣味はやはりイヤ味だとしても、腹が立つより滑稽《こつけい》な気がしてくる。そして滑稽なものは、やがて悲惨に思われてくるし、最後には身の毛のよだつ恐ろしいものが感じられる。毛皮を着せられた犬には、それを引っぱっている老婦人の孤独が、じつにマザマザと映し出されており、犬と二人(?)きりで暮している家のなかのガランとした様子が、いやでも眼の前にチラついて、おもわず顔をそむけたくなってしまうのである。
老人が孤独なのは日本でも西洋でも変りはない。しかし、サルと一緒に「人猿一如」になることの出来る私たちの場合は、同じ孤独な生活を送るにしても、何処《どこ》かにそれをマギらわせるゆとりがありそうだ。たとえば欧米の老婦人が、あんなに一生懸命に犬を人工的に飾り立てるのは、彼女らがどんなに努力しても決して愛犬と「人犬一如」になれないからではないか。犬はどんなに利口であっても所詮《しよせん》は犬で、人間の自分とは全然別箇の生きものだということは、神さまがこの世界をお創《つく》りになったときに定められたことだ、そういう思想が彼女らの骨のズイまでしみこんでいる。だからこそ彼女たちは、犬に自分と似たことをやらせよう、なるべく自分に似た恰好《かつこう》をさせ、少しでも自分に犬を近づけよう、と必死になって犬の散髪屋やら洋服屋やらを呼びよせたり、さまざまな工夫をこらして精一杯やってみる。犬が人間と同じ恰好をすれば、かえってますます犬の本性を露骨に目立たせるばかりなのだが……。そこへ行くと、われわれの場合は、いつも自分の方から犬に近寄って行く。たとえばわれわれが犬を連れて散歩するとき、自分では犬を引っぱっているつもりでも、本当はたいてい犬が人間をひっぱっているのである。ここから、坂口安吾氏の名言が出てくる。
「犬を連れて歩いていると、まるでヨタ者と肩を組んでサカリ場を通る時のようだ。いつ何処でよその犬にインネンを吹き掛けられ、取っ組み合いの喧嘩《けんか》に血の雨が降るやもしれぬ、と絶えず気が気でない……」
という。この坂口氏の言葉を、単に犬が喧嘩早い、ヨタ者的な動物だというだけに解釈しては間違いだ。われわれが散歩の間中、犬の喧嘩が起りはせぬかとハラハラさせられるのは、われわれ自身が犬に影響されて犬の特質である闘争心やら嫉妬《しつと》心やら敵対心やらのトリコになっているからである。
私自身、犬を連れて歩くようになって以来、散歩区域の様相がこれまでとは一変してしまった。これまでと同じ家並みの、同じ道を歩きながら、それがまるで異なって見えるのは、つまり私が犬の眼でそれらを眺め出していたからだ。どの横丁の、どの家に、どんな犬がいるかということが、いつの間にか地図みたいに私の頭に焼きついてしまって、通りの曲り角に差しかかるたびに、ほとんど無意識のうちに、小径《こみち》の両側の何軒かが飼っている犬の顔をたちまち憶《おも》い出すのである。そこには雑種のスピッツと口のまわりだけが黒い赤毛の犬が待ち構えていること、その吠《ほ》えついてくる顔や声ばかりでなしに、つながれている鎖をジャラジャラ引き摺《ず》って、踏み板のうえでカラの食器をひっくりかえすクセのあることなど、仔細《しさい》に記憶している事柄がいっぺんに思い浮んでくる。……こんなとき、ああウルさいことだな、おまえ気をつけて行けよ、と自分の犬に心の中で呼びかけてやったりするのはいいとしても、気がつくと私自身、いつか両肩をイカらせ、脚をガニ股《また》に踏んばって、歩く姿勢が柔道家みたいになっているのである。
同じ犬を散歩させるときの自己顕示でも、西洋の婆《ばあ》さんたちと私とでは、意識の内容も構造も、このように違っている。いや私ばかりではなく、たとえば江藤淳などのように、思想でも日常の行動でも日本的な湿潤さを排して、意識のシンバリ棒を欧米市民のように強く突っ立てていそうな男でさえも、ポケットからパス入れに収めた愛犬の写真を取り出す時の顔つきには、やはり「人犬一如」の非西洋的融通性が熱っぽく漂うのである。つまり、それは意識ではなくて体質の問題だから、どうすることも出来ないのかもしれない。ポケットにいつも愛するものの写真を入れて、ことあるごとに人にも見せ、愛情を自分でたしかめている様子は、進駐軍のアメリカ兵の間でよく見掛けたが、江藤の場合はその写真が犬であるために、その愛が何か少年風に感じられ、彼と犬との間柄も『家なき児』の主人公、つまり孤児の哀愁を覚えさせられるのである。
こういう江藤の愛犬ぶりは、子供のいないためだと、すぐに考えたくなる。勿論それはあるかも知れないが、本当は江藤にかぎらず、犬を子供のように可愛《かわい》がっている人は、要するに犬が好きだから可愛がっているまでで、子供のあるなしは関係がない。やはり「人犬一如」の愛犬家、近藤啓太郎のことを考えると、そう思わざるを得ない。
彼の家には、小学校六年の女の子と、三年の男の子が一人ずついて、文字通り一姫二太郎の理想的家族構成だが、犬も十頭近くいる。ことし小学校を卒業といえば、上級学校の受験準備や何かで、父親までいろいろわずらわされることが多いのは世間一般の例だろう。私の周囲には、およそマイ・ホーム型の教育パパとは逆の連中しかいないが、それでも子供の入学試験期には、女房に尻をつつかれて何や彼《か》や、ガラにもない父親の役を演じざるを得ないハメに陥って、さまざまの珍騒動や美談を巻き起している。しかるに近藤の口からは、子供の入学試験についてのことは一ぺんも聞いたことがない。彼に会うと、かならず聞かされるのは犬のコンクールの話である。
入学試験と犬のコンクールとは、どちらが余計に馬鹿馬鹿しいかという比較はさておき、近藤の犬のコンクールに示す熱意のほどは、ただ唖然《あぜん》とさせられるばかりである。近藤が犬小舎《いぬごや》の上でトランジスタ・ラジオを一日中鳴らしっぱなしにして、犬をコンクール会場の騒音に馴《な》らす訓練をしていることは、前にも述べたとおりだが、そんなことは序の口で、朝夕の運動だの、餌《えさ》の世話だの、犬のためにつくす苦労や心配ごとの数々は、まったく枚挙にいとまない。……その努力の甲斐《かい》あって、近藤の飼育したシバ犬は、ついに昨年、千葉県下で一等賞となり、天然記念物の指定の金メダルを貰《もら》った。といっても、それだけでは私にはピンとこなかったが、天然記念物の金メダルを首環《くびわ》につけておくと、その犬はたとえ野放しになっていても野犬狩りにつかまえられない、という話を他からきいて、はじめて大したものだと感心させられた。
私が感心させられたくらいだから、さぞや近藤はウレしかろうと、早速《さつそく》よろこびの電話を掛けてやったが、意外にも近藤は大した感動を示さず、こちらが何を言っても、むしろブッキラ棒に、「ああ」とか「うん」とか、気のない声でこたえるばかりで、金メダルのことも、
「へーえ、そういうことになっているのかなア」などと、いかにもソラゾラしい返辞であった。しかし近藤のこのソッケない態度は、むしろこんどのことが彼にとって、それだけ大きな出来事だったからかもしれない――、私は十年以上も前、近藤の芥川賞《あくたがわしよう》をうけたときと憶い合せて、そう考えた。
それは私にも身に覚えのあることだが、芥川賞の時計は貰った当座、持って歩くのも具合が悪く、といって一人で部屋にこもって一日中、時計を撫《な》でたりさすったりしているのも一層いじましく、結局これでは時計をバラバラに分解することになるだけだと思ったので、そうなる前に田舎《いなか》の父に送ってやった。ところで近藤の場合、時計は貰った翌日からもう動かなくなった。きっとこれは余程安物の時計をくれたにちがいない、と近藤は銀座のHへ修理に持って行ったところ、故障は全然ありません、とそのまま時計は返された。時計が動かなくなった理由は簡単で、つまりゼンマイが全然ほどけていたというだけだ。近藤は賞の時計は自動捲《じどうま》きだと頭からキメてかかって一度もネジを巻かずに腕につけていたのである。それにしても修理に出す前にネジを巻いてみるぐらいのことは、やってみてもよさそうなものだが、それをしなかった近藤の気持は、私にはわかる。要するに近藤は最初から、その時計を疑っていたのだ。時計というより、自分が賞をもらったということ自体が何となく不安で疑わしく、だから時計が止ると、やっぱりそうか、とすぐさま修理に出したのは結局、私と同様、賞そのものが荷厄介だったのである。
実際に近藤が、天然記念物でもらった金メダルに、芥川賞で時計をもらったときと同じ負担をおぼえたものかどうかは知らない。ただ私は、犬が天然記念物になったときの近藤が、一向に浮かぬ声でこたえるのを聞いて以来、何となく彼が犬のコンクールに熱中するのが理解できるような気がしてきた。そして、また彼がなぜ自分の子供のことよりも、犬のことばかり話したがるのか、という理由も……。
それは、一と言でいえば、犬も文学も現世の愉《たの》しみのものではない、ということだ。犬や文学に、ひとが熱中するのは、そこに現世では得られぬ何物かがあると思うからだ。だから自分の育てた犬が天然記念物になったり、小説を書いて芥川賞をもらったりすると、うれしいことは勿論非常にうれしいが、その反面、金メダルだの時計だのという現世的な幸福で、これまで自分の追ってきた現世では得られぬ何物かが置き換えられてしまったような不安と苦痛も覚えさせられる。……無論これは一時の錯覚で、時計もメダルも貰って邪魔になるどころか、有用でありがたいものなのだが、この種の錯覚は現世で暮しながら現世にないものを追いかけて行くという矛盾から生じているのだから、次から次にいくらでも現われるはずである。いずれにしても、犬を飼うことがそういうものだとすると、犬が子供という最も現世的なものの代役をつとめられるわけがない。
ところで、子供は現世そのものの存在であるとしても、われわれが自分たちの子供に現世的な幸福を期待出来るかというと、おそらくその逆だと考えた方がいいだろう。私たちが自分の親に対してそうであったように、子供はまた私たちの期待を裏切るにきまっている。その意味で、私たちは子供のうえに、もう一人の現世のものではない子供を見ているといっていいだろう。だからハッキリそうだとわかってしまえば、犬が子供と同じ役割をつとめられないものでもない。ただ私たちが、そこまで現世を割り切って考えられるかどうかであるが、実際にはこれははなはだ疑問である。……こんなことを言い出したのは、じつは近藤が子供のことを話すのをききながら、ときどき私はまるで犬の話をきいているような錯覚が起るからだ。まえにも述べたように、近藤は子供のことなど、めったに話さない。――これは近藤にかぎらず、たとえば庄野潤三のように家庭小説ばかり書いているように見られがちな男でも、ふだんはそんなに自分の子供を話題に持ち出したりはしない――。しかし、めったに子供の話をしない近藤が、どうかした拍子に話し出すと、はなはだ熱っぽくて感動的である。
「同じ両親から生れても、ずいぶん違った子供が出来るもんだよなア――」
近藤がこんな風に言い出すときは大抵、コンクールで一等をとった名犬から、必ずしも名犬ばかりが生れるとはかぎらないという、そんな話にきまっているから、そのつもりで聞いていると、じつはそれが彼の家の娘と息子のことなのである。
上の女の子の方は、スラリとした筋肉質の体つきで、眼がパッチリしたなかなかの美貌《びぼう》であるが、近藤に言わせるとこれが、
「どうも、目つきからしてギョロリとしていて、その気性の強いことったら、親のオレが見ていていやになるぐらいだよウ――」
ということになる。闘志満々で、水泳大会に出れば、自分よりはるかに年上の中学生を気力だけで抑《おさ》えて一着になるほどだが、同級生の男の子にイタズラ坊主がいると、その子の父兄のところへ一人で談じこんで、「あなたも親ならば、もっとシッカリと子供を監督しなくてはダメではありませんか」とキメつけて来るという。
「だから、おれはもう恥ずかしくて困っちゃうんだよ。いきなり、よその大人に向って、『モシモシ』と切り口上で話しかけるんだからなア。あの子の『モシモシ』をきくと、こっちがギョッとするンだ」
それに反して下の男の子の方は、小学校三年で体重五〇キロの巨体であるが、これはまた気が好くて、ノンキすぎて、牛肉をオカズに丼飯《どんぶりめし》を何杯となくお代りして食べることを無上の愉しみにしているだけで、何ともタヨりなくて仕方がない――。こういう近藤の話をきいていると、何だか秋田犬とスピッツとの比較を論じているような、おかしな気がして笑い出してしまうのだが、それと同時に私が或《あ》る感動をもよおすのは、結局、
(ああ、ついに近藤も父親になったか)
という当然至極の事態についてである。そして、ここから≪父≫というものの何とも言いようのない孤独さが、私自身のなかに大きく拡がってくるのを感じるからだ。私も近藤も、いわゆる親孝行とはサカサマのことばかりやってきた。だから私は、決してその親不孝の因果応報を嘆いているのではないし、第一近藤の子供も私の子供も本格的に親不孝をはたらく年齢には達してはいない。私が近藤の話に、父の孤独を感じたのは、そういうことではなく、我が子を語りながら近藤が日灼《ひや》けした頬《ほお》に浮べていた微笑のためである。けだし父親とは、我が子を犬の仔《こ》のごとくに語ることによって、その情愛のウシロメタさを、微笑のかげに隠そうとつとめる者であり、そのテレ隠しの微笑は友人によって容易に見破られてしまうものと知りながら、なおかつ恥部を語るに似た微笑を浮べつづけずにはいられないものなのであろう――。
無論、これは私の感傷から出た独断であって、近藤の実際の気持とは係わりのないことだ。しかし、このような感傷は必ずや近藤にも相通じるものがあるはずである。
吉行淳之介によれば、このような感傷は、年齢のせいであるという。それはまったく吉行の言うとおりに違いない。だいたい犬を飼うこと自体、少年でなければ、老人の趣味である。近藤が二三年まえから、学生時代の犬仲間との交友を復活し、少年時代に飼ったという犬を、また飼いはじめたのは、ようやく生活に余裕を生じたからということもあろうけれども、それよりはやはり年齢のせいと考えられるし、また私が近藤の甘言(?)に乗って犬を飼い出したのも、そのためである。
それにしても近藤は、私にすすめて犬を飼わせると、それがまた彼自身にハネ返って愛犬熱を刺戟《しげき》したらしく、私の家へ紀州犬を見に来たときには、もう自分も同じ紀州犬を雌雄のツガイで買い入れることに決めていた。ところで近藤が私の家へやってくるについて、女房は、
「あらこまった。コンちゃんが来たら、うちの犬を何て呼んだらいいかしら」
と、何よりもわが愛犬の呼び名が近藤の通称そのままであることを苦慮していたが、この心配はやって来た近藤が、コンタの姿を一と目みただけで氷解した。
「すげえ、これは好い犬だ。Sさんの話をきいたときから、よさそうな犬だとは思ってはいたが、これはおれが考えていたより、よっぽどいい……」
と、たちまちコンタを抱き上げて、顔じゅうペロペロ舐《な》めさせながら、
「安岡、おまえはよっぽど運のいい奴《やつ》だ。はじめて飼った日本犬にこんなにいい紀州犬が当ることは、めったにない。これは十年日本犬を飼っても一度めぐり会えるかどうかという名犬だ」
と、しきりに絶讃《ぜつさん》に絶讃をつらねた。こうなると私は思わず、自分自身のことをホメ上げられてでもいるように、「人犬一如」の心境で、くすぐったいとも、うれしいとも言いようのない気持になった。そんな有様だから近藤は、犬の名をきいても、
「うん、コンタか。よし、よし、コンタ、おまえは好いぞ」
と、いやな顔をするどころか、ますますコンタのことが気に入った様子であったが、ふと私を振りかえると、
「これがコンタなら、こんどおれの飼う紀州犬の雄は、おまえのアダ名を取って『ゴリ』にすべえ」
と言った。なるほど、それはいい考えだ。こうして、われわれは自分と同じ呼び名の犬を、おたがいに飼うことになったのは、実際いいことだという気がした。それから、しばらくたって、鴨川の近藤の家へ、こんどは私が出掛けて行った。
「おい、ゴリは何処にいる?」
と私は、いつか自分の息子を学校の寄宿舎にでも訪《たず》ねた気持になって訊《き》いた。すると、なぜか近藤は一瞬奇妙な笑いをもらし、
「うん、あそこにいる」
と、庭の一部を金網で区切った犬舎を指さした。私は近よって、その一番端の犬舎の金網ごしに、こちらを向いて立っているゴリを見て、近藤の笑いを了解した。その犬はダンゴ鼻の、一見何とも滑稽な顔立なのである。私が思わず声をのんで立ちつくしていると、近藤が後ろから、慰めるように声をかけた。
「そいつは器量はちょいと落ちるが、気持は一番いいんだ。じつに好いんだ。だから、おれはゴリを一番可愛がってるんだ……」
人徳犬徳
――丹羽氏の仁、石坂氏の徳――
文壇で一番エラいのは誰か、ということになると議論百出、大騒動が起るであろう。しかし、もし人徳の士を選出するとなれば、これは十人が十人、丹羽文雄の名を上げるに違いない。丹羽氏が文芸家協会の会長と理事長を兼ねておられるのは、学校で級長が副級長を兼任しているようなもので、いかに名望が高いかがわかろうというものだ。
私は丹羽さんのお宅には十数年前に一度、武田繁太郎、近藤啓太郎の二人につれられて行ったことがあるきりだが、それでも丹羽氏からうけた人徳の印象は、まだハッキリのこっている。そのころ丹羽氏は後輩の作家と日をきめて会っておられたようで、その日は応接間に十人ばかりそういう人たちが集まっていた。私たちは、そのなかでも最も末輩のヒヨコかタマゴぐらいのところであったが、全然遠慮も気兼ねもない気楽な集まりで、私などトビ入りのくせに平気でシャベリまくって帰ってきた。
壁に佐伯祐三《さえきゆうぞう》の油絵がかかっているほか、とくにこれといった飾りっ気のない部屋だが、それがかえってザックバランで、私たちにも気の置けない心持にさせたのかもしれない。なかに一人、禿《は》げ上った頭のよく光る人がいて、それ故《ゆえ》に私は最初のうち畏敬《いけい》の念をおぼえずにはいられなかったが、それは中村八朗氏であって、丹羽門下で最も気立てのやさしい人だということだった。丹羽さんは、窓を背にした安楽椅子に坐って、私が初対面の挨拶《あいさつ》をすると、
「どや、なかなか書いとるようやないか、君らは書けるときには何でも余計に書いとくことやな」
と元気づけてくれた。しかし私は、そういう丹羽氏の両手を高く頭のうしろで組んだ腕の太さに驚いた。和服の袖口《そでぐち》から覗《のぞ》いた二の腕は一升ビンの胴ほど太く、この腕で一と晩に六十枚の原稿を書くのか、とドキンとさせられた。丹羽氏が作家をこころざして東京へ出てきたときには、手荷物の行李《こうり》に一杯、未発表の原稿をたずさえていたという伝説があったが、この腕を見るとそれは単なる伝説ではなく、実際の話に思われた。……週刊誌がさかんになってからは一と晩に六十枚書く人も珍しくはなくなったが、当時の丹羽氏は『哭壁《こくへき》』だの『遮断機《しやだんき》』だの、重量級の作品を続々と発表しており、それが六十枚だから驚異だったのである。勿論《もちろん》、私には一と晩に六十枚どころか、六枚ずつだって毎日書きつづけることは不可能である。そのうえ執筆の合間に、こうやって文学青年を集めて勝手なネツを吹かせて悠々《ゆうゆう》としているのだから、まったく豪の者という気がした。
しかし丹羽氏も決して時間が有り余っているわけではなく、やがて遠くの方からダッダッダッとオートバイの音が聞えてくると、丹羽氏は、
「いけねえ」と立ち上って、窓から門の外の道路を眺《なが》め、「あれは、きょう取りにくる約束になっとったのか……。ちょっと失礼」
と部屋を出て行かれる。それから三十分ほどして、また戻って来られたときには、もう新聞小説の一回分の原稿が書き上げられて、オートバイの音が、ブルンブルブル、ダダダダ、と遠ざかって行くのである。そういうときの丹羽氏は、酒場から消えたかと思うと、何人もの敵を倒して、銃口にまだケムリの漂うピストルを静かに腰に下げ、何食わぬ顔で戻ってくる西部劇の主人公さながらであった。
不死身の強さだけでは西部の勇者にはなれない。最近のマカロニ・ウエスタンはともかく、本来の西部劇のヒーローは強いうえに正義の士でなければならない。ダマされても、自分からダマシ討ちをかけたりは絶対にしない……。その点でも、丹羽氏は西部劇的である。丹羽さんがダマされたという話は、まだ文壇の様子を知らなかった私などもよく聞かされて知っており、誰にでも気前よくダマされて金を貸したり贈ったり、トク名でさんざん叩《たた》かれた批評家を子分のように可愛《かわい》がったりというウワサが、絶えず丹羽氏の名前と一緒に語られて、よっぽどダマされやすい人のようであった。
その日も、会のおわりかけるころに、小柄な撫《な》で肩《がた》の、五十余りの年輩の男がやってきて、風呂敷の中から高さ一尺ばかりの銅の仏像を取り出した。推古仏《すいこぶつ》の出物だという。
「なんぼかね」
丹羽さんは、大して興味なさそうに訊《き》いた。
「へへ、二十万(だったと思う)……。安うがンしょう」
「何、二十万? そら高いな、十二万の間違いやないか」
「ご冗談を……。安いもンです」
「ふうん、いま、わしとこには、そんな金ないなア」
「へへへ、ともかく置くだけでも、ここへ置かして下さい。いえ、お買いになっていただかなくとも、こうやって先生の応接間にちょいと置かしていただくだけで結構、手前どもは観て愉《たの》しんでいただければ、それが何よりでござンして……」
「わしを、またダマそうというのかいな、そんなもの置いといて、失《の》うなっても、わしは知らんぞ」
丹羽氏は横を向いたまま言ったが、男は何を言われてもツンボのように、額のかかっている壁の傍の棚《たな》に仏像を置くと、そのへんを風呂敷で拭《ふ》いてチリを払うふりなどして、
「さア、これで部屋が一段と落着きが出てきた。やっぱり好いものは、置くところへ置いてみないとダメなもんだな。これで、よし……。では、また参ります。どうぞ」
と、男は勝手にそんなことを言って帰って行った。
私には、その男が何者であるのか、まったくわからないし、仏像のことも全然知らない。ただ、金仏《かなぶつ》、とくに推古仏といえば九分九厘九毛、まず全部が全部、ニセ物ばかりだという話を、奈良で一番古い骨董屋《こつとうや》の息子で学生時代からの友人にきいたことがある。げんに彼の家は祖父《じい》さんがつくったニセの推古仏を売って大儲《おおもう》けしたというから、たぶん本当のはなしだろう。……私は、そのことを丹羽邸から帰る途中の道で、武田や近藤に話してきかせ、もし丹羽さんがあれを買いそうになったら誰かが注意して上げた方がいいかもしれない、と言った。
「まア、あの様子なら、丹羽さんも買う気はなさそうだから、そんな心配はいらないだろうが……」
すると、近藤も武田も、異口同音に、
「さア、どうかな、それはオレたちにもわからない……。丹羽さんて人は、じつにフクザツで、ダマされていることがわかっているのに、わざとダマされたフリをするのか、本当にダマされているのか、そこらへんが付き合えば付き合うほど、わからなくなる人だからな……」
と、顔を見合せながらこたえた。
その推古仏がどうなったか、その後のことは聞いていないので、私は知らない。ただ、そのとききいた丹羽氏がフクザツで、深く付き合うほどわからなくなる人だという話は、なるほどそうだろうと思った。
もともと人間は誰だってフクザツなのがあたりまえで、単純そうで複雑な人や、複雑そうで単純な人がいるのは、同じ人物でも見る角度によって単純にも複雑にも見えてくるというだけのことだ。だから丹羽さんが単純でないのは最初からわかりきったことで、それが付き合っているうちに、わかりにくくなるというのは、それだけ私たちが丹羽文雄という人を或《あ》る一定の角度からばかり眺めているということだろう。なぜ丹羽さんにかぎって、そうなるのかということが面白かった。
近藤は美校(芸大)で絵をかいていたころから、丹羽さんの家を知っていて、戦後しばらく丹羽さんと同じ家にくらしたこともあり、またその家を金に困って丹羽さんに買って貰《もら》ったりもしたというから、なかなか深い関係がある。その近藤が丹羽さんのことを、
「あれは、じつにおっかねえ人だよ」
というのは、それから後も何度もきかされたが、一体どういうふうに、おっかねえんだ、と訊くと、彼の返辞はいつも、
「おめえ、それがカンタンには言えねえよ。たとえばだ、丹羽さんが子供を怒るときったら、物凄《ものすご》くおっかねえんだ、なんともかともモーレツな怖《こわ》さで、見ていてこっちが、おっかなくなるンだ……」
と、そればかりである。これでは近藤が丹羽氏を父親のごとく畏《おそ》れているというだけで、丹羽さんの人間の複雑さがどんなものかは、一向にわからない。むしろ、それはただの単純なカミナリ親父《おやじ》の怖さでしかないように思われる。……しかし、カミナリ親父というものは、果してそれほど単純なものであろうか、案外にもそれこそは複雑怪奇なものではないか、このごろになって私はそう考えるようになった。
第一、いまの世の中にカミナリ親父はめったにいない。戦後といわず、戦前から私など、めったに家にいない父よりも、いつも傍にいて欲求不満のタネを一人息子の私にぶっつけたりする母親の方が、ずっと恐ろしかった。そして、これが戦後のこんにちでは世間一般にひろがったまでで、父権の喪失は父親が外へ働きに出掛けるようになると同時に、多かれ少なかれ、どこの家庭でもはじまったものである。だからカミナリ親父というものは、おそらく昭和の初期から、都会ではほとんどみられなくなった。私たちがカミナリ親父と呼んでいるのは、じつはヒステリー親父であるに過ぎない。そして親父のヒステリーに陥る原因は、失われた父権に対するイラ立ちは勿論のこと、他にもいろいろとあって、まことに千差万別、複雑奇妙なものであるにちがいない。
丹羽氏に、強い肉親|憎悪《ぞうお》があることは『厭《いや》がらせの年齢』をはじめ一連の母ものによって私たちも知っている。しかし、私は本当のところ、この一連の作品をどれほど理解して読めたかわからない。生活の環境なり、考え方なりの違う老人と一緒にくらすことで、いろいろの厄介や面倒なことが起るのは、何も肉親憎悪とは限らず、極く普通にどこの家庭でもあり得ることで、それだけに『厭がらせの年齢』は、田舎《いなか》から突然やってきた母親に家の中を掻《か》きまわされて、息子夫婦が困惑する話として読みすごしても面白い。……しかし丹羽氏が、あの一連の小説のなかで語っているのは、ただの厄介者の年寄りを抱《かか》えこんだ息子の苦労ばなしではなく、その厭な母親の血液が自分の中に流れているということの恐怖である。
ところで、近藤のいう丹羽さんのカミナリ親父の恐ろしさが、その肉親憎悪から出たものだとすると、これはたしかに傍目《はため》にも身ぶるいのするような悽愴《せいそう》なものであるかもしれない。肉親憎悪も親に向けられるときは、親の支配をハネつければ目的を達するわけで、自分が親よりも強くなればいいのだから、それほどムツかしいことではない。だが、その厭な血液を自分の子供の中に見出《みいだ》したとすると、憎悪は子供をハネつけたところで、結局その子供の親である自分自身にハネかえって、そのまま自分の内部にこもってしまうから、その憎悪はまったく絶望的に暗いものになる……。
しかも血液に対する憎悪や恐怖は、完全に個人的な内部のものであるから、他人には伝えることも出来ないし、第三者が理解するといっても限度がある……。他人にはあくまでも寛大で、どんなにダマされても絶対に怒らず、逆に自分の家族に対してだけは些細《ささい》なことからも激怒するという丹羽氏の性格が、この肉親憎悪から生れたものだとすると、たしかに丹羽氏のおおらかな寛大さが、だんだんと不可解なものになって感じられてくるというのも、納得できる。
丹羽さんの人徳が、丹羽さんの血液に対する恐怖から生れたものかもしれぬなどというのは、ただの私の空想であって、実際に丹羽氏はあのような寛大な性格を、どのようにして養われたかは、私などのうかがい知ることの出来ないものだ。
じつは、私はこんなことを犬をひっぱって歩いている最中に、ふと想いついただけなのである。……私は、そのとき人にも人徳があるように、犬にも犬徳というものがある、と思ったのだ。
犬徳とは何か、これは曰《いわ》く言い難いものだが、犬の好きな人にはわかってもらえるだろう。何となく落着いて、コセコセしたところがなく、やたらに吠《ほ》えたり歯を剥《む》いたりはせず、吠えるべきときに吠える声も或るおおらかな野性味のある声を出す、品種や優劣とは別に、そういうヨサを持った犬が、すなわち犬徳のある犬だ。
この犬徳はどこから生じるのか――? 血統書つきの名犬が必ずしも犬徳があるとはいえないし、そのへんの雑種の駄犬《だけん》だって、駄犬ながらの徳をそなえた犬もある。訓練だの、飼い方だのによらないとはいえないが、ヘタに訓練をつけられた犬は、かえって性格がいじけてしまうし、いくらシツケがよく出来ていても、それがヘンに人工的でまったく犬徳とは逆の犬もある。結局、犬も人間と同じで、氏《うじ》より育ち、というのが一番当っているかもしれない。
しかし、この「育ち」というのは、またひどくバクゼンたるものだ。育ちというのは勿論、教育のことではないし、また単なる環境のことでもない。氏、つまり家柄だの、名門だのというものより大事な或るものだというから、やっぱり先天的な資質と結びついた何かであるに違いない。……いくら周囲から手をかけてもどうすることも出来ず、その本人の内部からでなければ育って来ない人間の美質、それが「育ち」というものだろう。そこから私は、ながく付き合えば付き合うほどわからなくなるという丹羽氏の人徳のことを、ふとかんがえて、人徳がわけのわからないものであるのは、それが血液と深く結びついて出来た本来孤独な「育ち」から生れるものだからではないかと思ったのだ。
そういう本来孤独な、いくら考えても考えるほどわからなくなる「育ち」というものは、人間にもあるし、犬にもある、人間の場合だとそれが「人徳」になるし、犬の場合は「犬徳」というものになる。……犬は飼い主に似る、というあの無気味な、意地悪なことわざも、結局ここから出てくるものではないか。すなわち人も犬も、おたがいに孤独なものだが、この孤独なもの同士が一緒に暮していると、飼い主の「育ち」がひとりでに犬に移行して、傍目にも犬が何となく飼い主に似てくるという道理である。
だから、おかしな犬をつれているとき、その諺《ことわざ》を想い出すと、心の底まで見抜かれたような、われとわが身が露骨にナサケない姿で、よたよたと地ベタの臭《にお》いを嗅《か》ぎながら、電信柱に近づいて片脚上げてみたりしているようで、具合の悪いことおびただしい。まして、よその人にその犬のことを悪く言われたりすると、わが身の精神の恥部に触れられたような、しかもそれを怒ることも、抗議することも許されないという、じつに悲痛な心持になる。
逆もまた真であって、犬をちょっとでもホメられると、これはわれながらみっともないほど嬉《うれ》しくなる。いつか近藤が、わが愛犬コンタのことを、しきりにホメてくれたときも、そうだった。近藤は私の犬を、さんざんホメてくれたうえで、
「丹羽さんのとこにも、いっぴきシバ犬がいて、丹羽さんは『ええ犬や、めったにないええ毛並みしとる』とよろこんでるけどなア、大きな声じゃいえないが、あれなんざ、野球でいえば、せいぜい高校野球の選手になれるかどうかという程度さ、それに較《くら》べてこのコンタはプロ野球も、アメリカへ行って大リーガーになれるやつだ」
そう言われて、私は一瞬、自分の犬が大リーガー、丹羽さんの犬が高校選手ということを、何とか丹羽さんに言ってみたくてたまらなくなった。
「よせよ、おまえ……。それだけはやめろよ、いくら丹羽さんだって、気分を悪くするにきまってるからよゥ」
近藤が真剣になって、とめるとなおさら、丹羽さんの計りしれない人徳に、犬で挑戦してみたいという、われながらアサマシくて陰険な情念みたいなものが、むくむくと頭を持ち上げてくるのである。
その情念も、翌日になって考えると、さすがにあまりに愚劣なことに気がついて、いささか気恥ずかしくなった。しかし近藤は、そのことがよほど気にかかったらしく、後日、丹羽さんにそのことを、わざわざ告白しに行った模様である。――犬を飼ったことのない人には、これはまったく正気の沙汰《さた》とも思われまいが、近藤にしてみれば、丹羽さんのいないところで私に丹羽さんの犬のことを、あんなふうに言ってしまったことが、まるで丹羽さん自身の人格を傷つけるカゲグチをきいたような気がして、後味の悪いおもいがつのりにつのって、どうしてもそれを告白しないではいられなくなったのであろう。
私としても、いつかそういうことを丹羽さんに言っておいてもらいたい気持だった。……二た月ばかりたって、ある会合の席で私は丹羽文雄氏が廊下のベンチに腰掛けておられるのを見て、挨拶したついでに、
「じつは、このまえ近藤が遊びに来て、うちの犬をたいそうホメてくれまして……」
と言いかけたとたんに、丹羽さんはゴルフで日灼《ひや》けした顔に微笑をうかべて、
「ああ、わかっとる、わかっとる……。うちの犬がアカンちゅうこったろ」
と言われた。とたんに私は自分が、いかにも阿呆《あほう》げたことで、うちょうてんになったり、苦に病んだりしてきたようで、何となく引っこみがつかなくなってしまった。
「近藤がいうのに、丹羽さんの犬が高校クラスなら、わが家のはアメリカの大リーガーだそうで……」
と、ますます自分の言うことが間のヌケたものになるのを意識しながら、つづけた。
「うん、おれのところは、どうも毛の色が赤過ぎてようないらしいな。しかし、わしはあの犬の毛の色の赤いところが気に入っとるンやがなア。それはどうでも、ええワ」
そう言われると、シバ犬の毛色の赤いことが、なぜ悪いか、私にもわからなくなった。……それにしても丹羽さんの顔にうかんだ微笑は、たしかにわからないといえば、じつにわからないものに思われてきた。丹羽さんがタカが犬コロのことなど、何とも思っておられないのはハッキリしているのだが、それかといって、こんな話は愉快なものでも、おもしろいものでもあるはずがない。せめて、(おまえさんたちも、何でそうアホらしいことで騒ぎ立てとるのかな、同じことならもう少し気のきいた話がでけんもンかなア)とでも言ってくれたら、こちらも少しは救われるのだが、丹羽さんはただ微笑したまま、丸い眼をジッとこちらに向けておられるだけなのである。
私は、せめていくらかでも丹羽さんと共感を分かち合うために、自分の飼っている紀州犬も丹羽さんのところのシバ犬も、ともに日本古来の土着の犬で、結局は同じ祖先から出たものだ、などと犬よりもナショナリズムを強調して、その情緒で精神的協調を得られないものかと、けんめいに日本犬の優秀性をのべたてた。日本犬をたたえるとなると、いきおい尊王|攘夷《じようい》になって洋犬のことを悪く言うのは自然の理である。
「とにかく洋犬というのはイケませんなア。ぼくもスパニエルを飼ってこりごりしたんですが、ああいう犬を飼ってよろこぶのも、ただ珍しいうちだけです……。シェパードだの、ボクサーだのって犬を、このせまい土地で飼うのも、ナンセンスですなア、ああいう犬はみんなノイローゼになってますよ、可哀想《かわいそう》に……。でも、それはコリーにくらべりゃ、まだマシなんです。まったくコリーを飼うぐらい馬鹿げたことはありませんな。これは犬の専門家からきいたことなんですが、いま犬屋はコリーを買ってくれるお客を一番有難がるんだそうです。何しろ、すぐにもてあまして、結局、たいていの人が買った犬屋へかえしにくる、それをウンと安く叩《たた》いて引きとって、次の客に売るのがいい儲けなんだということです……。コリーといえばテレビで名犬だということになって、あれをみた子供がコリーならみんな、あんなに利口なんだと思いこんで、買ってくれといってせがむ。ところが、いまのコリーは退化して、すっかりバカになっちゃってるんですよ。ドッグ・ショーのために頭を小さく、小さくつくっているうちに、脳がしぼんでバカになったンですよ。コリーぐらい頭の悪いやつはいません」
すると突然、
「いや、コリーはじつに利口です」という声がして、見ると丹羽氏の隣に石坂洋次郎氏が坐っておられる。「コリーは頭のいいこと、ちょっと類がない……。私のところではずっとコリーを飼っておりますが」
そう言って石坂氏は、じっとめいそうにふけるように半眼を閉じた。私は愕然《がくぜん》としたが、いまさらどういって弁解のしようもない。眠っているとも、考えているともわからぬ石坂氏の温厚な顔を眺めて、私は、ここにもまた「人徳」のおそろしさがあると思った。
佃煮《つくだに》とシチューと飼犬と
――安吾夫人の愛情――
映画やテレビに出てくる小説家というものは、どうにもサマにならぬことになっているようだ。これは演出や、俳優の演技力のせいもあろうけれど、じつはもっと本質的なところで小説家というものは映像にはなりにくい存在なのかもしれない。生活の外見と人間的な内容とが、本当はピタリと一致しているはずなのだけれど、どこでどう一致しているかが、なかなかウマく捉《とら》えることが出来ないらしい。
『クラクラ日記』も、やはりそうだ。若尾|文子《あやこ》が坂口安吾夫人の三千代さんとまるで別人であっても、それはアタリマエであり、何ということもないが、藤岡|琢也《たくや》が安吾さんと似て非なる人物を演じていると、これは明らかに鑑賞上の障害になるのである。藤岡琢也は役者として決して悪くはないし、私は彼が何とかいうドラマで車引きの役をやっているのをみて感心させられたものだが、『クラクラ日記』の藤岡は車引きが小説家に成り上ったというふうにも見えない。要するに小説家というガラには見えないだけなのだが、さて小説家とはいかなるガラであるか、と訊《き》かれても答えようがない。ただ一箇所、私が素直にあのドラマに入りこめて面白かったのは、犬の葬式の場面である。
人間の医者である志村|喬《たかし》が、犬の墓標に向って弔辞を述べ、それを藤岡、若尾の夫婦が傍で沈鬱《ちんうつ》な表情で立っているあの場面は、おそらく実際の場景とはカケ違った、脚色をうんときかせたものであろうが、あのシーンには一種架空な真実ともいうべきものが、ちゃんと出ているように感じられた。
安吾さんを桐生《きりゆう》のお宅にたずねて、巨大なコリーが座敷の中をノソノソと徘徊《はいかい》していたのに驚かされたことは前にも述べたが、犬を飼い出したのは安吾さん夫妻が、あの家へ移る前、伊東ではじめて一軒の独立家屋に住まわれたころのことらしい。
≪我が家で犬を飼うことを提案したのは私で、そのために相当な苦労をさせられる結果になった。それを少しも予測しなかったのは大変なあやまりだった。代々の犬達は、みんな私に大きな重荷を負わせ、それは坂口が亡《な》くなるまで続いた。私には赤ん坊の頃から犬と共に育った記憶があって、少し生活が落ちついてくると、犬のいないのがものたりなくなる≫(『クラクラ日記』)
というのを読んで、私は妙にホロリとさせられた。ここには小説家の女房というものの何とも言えない空虚さが、じつにアザヤカに汲《く》みとれるところがあったからである。
断わっておくが、これはあくまでも私自身の感想であって、三千代夫人が安吾さんとの結婚生活をどうおもっていたかということではない。坂口安吾が戦後≠サのものの人物であったとすれば、三千代夫人は安吾氏との結婚で人の二倍も戦後を体験してきたことになり、その数年間の生活が彼女にとって、いかに大きく決定的な事実となって残っているかは『クラクラ日記』を読めばわかるとおりである。はやい話が、この三百何十ページもの自伝随筆も、彼女自身の文才もさることながら、安吾氏との生活が日常茶飯の間に彼女にあたえた感情教育のたまものであって、それだけでも三千代夫人にとって安吾氏との結婚生活は空虚どころのものではなかったことは、たしかである。
しかし、それにもかかわらず『クラクラ日記』を読むと、私は一般の小説家の女房というものが日々、いかに大きな空白感に悩まされているかを考えずにはいられなかった。――いうまでもなく小説家は小説を書いているから小説家なのであって、ものを書いていないときには、どんな文豪もただのデクの坊であるに過ぎない。ゲーテが死ぬときに、
「もっと光を」
と言ったというのが本当だとしても、そのコトバに深遠なる意味ありげな響きを感じるのは、あきらかに後世のわれわれがゲーテという名前で、それを文学として受け取っているせいである。だから藤岡琢也ならずとも、どんな名代《なだい》の役者でも、白いツケ鬚《ひげ》などつけた顔を、やおらもたげてベッドの中から、
「おお、もっと光を……」
と一と声、高らかに呼ばわりながら、両手で虚空を掻《か》きむしるしぐさなどあって、白髪頭《しらがあたま》をガックリさせたりすれば、それは滑稽《こつけい》なものにならざるを得ない。この滑稽感は、何も役者のオモイイレやセリフ廻しの巧拙からくるものではない。どんなにウマく演じられようと、舞台の上のゲーテはナマ身の人間のゲーテであるから、そのゲーテに「もっと光を」とやられると、日常会話のセリフの中から詩人のゲーテがいきなり飛び出してきて、とたんに舞台の上でゲーテに扮《ふん》した役者は、カツラとツケ鬚のゲーテ爺《じい》さんになってしまう。ということは、つまり役者が文士になりきれないのは、役者のせいではなくて、見物人の中にある文学≠ェ劇というフィクションと相容《あいい》れないためである。
もっと言うなら、文士が文士の役をやったって、きっとどこかがおかしくなる。これは文学がもともと私たちの実生活とも相容れない性質をもっているからだ。家にいてふだんは単なるデクの坊が原稿用紙に向ったとき、とたんに小説家になったりするのも、文学が眼に見えない抽象世界の産物だからで、それはどんなに私生活をそのまま描いたような小説についてだって言えることだ。所詮《しよせん》小説は抽象の、つまり現実からみればエソラゴトに過ぎないのである。だから、エソラゴトをかいて金になる文士の生活は一種のニセ札つくりであって、違うところは文士のエソラゴトは、よほどワイセツだと認められないかぎり、いくら書いても法律で罰せられないし、正々堂々、書いたものを片っ端から金にかえられるところだ。しかし、そういうことから文士の家の中には何か空白なものが漂い出すのである。そして、そのことを直接|肌身《はだみ》に絶えず感じているのは、家の中で架空な業務にはげんでいる男を、亭主にして暮している文士の女房であろう。
勿論《もちろん》、つとめ人の奥さんも、亭主の仕事とかかわりなしに暮している点では、小説家の女房と同じで、夫が出勤したあとの家の中はガランと空虚なものかもしれない。しかしサラリーマンは原則として、一定時間をつとめて、一定の時刻には解放されて家へ帰ってくる。ところが小説家となると、毎日、朝から晩まで家の中にいて、一日じゅうヒマといえばヒマ、忙しいといえば忙しい。亭主が小説から解放されるのは、つまりデクの坊にかえったときだが、これが頗《すこぶ》るハッキリしない。外見的にはデクの坊でも、頭の中では仕事のことを考えていないとは限らないので、小説家の女房は一日じゅう亭主の傍にいながら、亭主がデクの坊の状態になるのを何となく待っていなければならない。そこのところが普通のカタギの家の奥さんとは決定的に違うはずだ。
≪こんな風に暮していた私は、彼の一顰一笑《いつぴんいつしよう》が、私の心の中の一番、比重の大きいものだった。雑誌社に原稿を届けるとか、買物に行くとか、私はたびたび上京することがあった。そんな場合、私はどんなに目の廻るような忙しい思いをすることか。朝御はんを食べてすぐ飛び出しても、往復の電車に五時間はとられてしまう。終電車の八時半は熱海《あたみ》止りで、そのまえの電車に間に合わせなければならない。私は彼の用事をすますと、デパートに行き、ろくに考えもしないでぱっぱと買物をする。彼の好きな、貝新《かいしん》の蛤《はまぐり》や、小川軒に寄ってオックステイルのシチューなどを買う。友達に逢《あ》う暇もなければ、実家に寄る暇もない。電車に間に合うように新橋《しんばし》のホームにすべり込んで、ヤレヤレと思う≫
新幹線のないころの伊東から東京へは日帰りで出掛けるのは大変は大変だったろう。しかし三千代夫人のこの≪目の廻るような忙しい思い≫は、じつは交通機関の不便のせいばかりではない。あのころだって伊東から東京へ通勤してくる人が大勢いたことを考えれば、雑誌社へ原稿を届けたあと、買物をするぐらいのことはユウユウと出来るはずで、何がそんなに忙しくて、≪新橋のホームにすべり込んで、ヤレヤレと思う≫のかフシギなぐらいである。小川軒だって、貝新だって、みんな新橋の駅とは目と鼻のところにあった店ではないか。……にもかかわらず、三千代夫人は実際に忙しかったに違いない。
これは、わが家の女房が自由ヶ丘へ買物に出掛けて帰ってくるときの様子から判断して、そう思うのである。彼女は偶然|出遭《であ》った女学校時代の友人に言われたそうだ。
「あなたって、いつも駆けながら歩いてるのね、これまでも自由ヶ丘ではちょくちょくあなたを見掛けたんだけれど、そのたんびにあなたはワキ目もふらずに、マーケットの中でも何処《どこ》でも、忙しそうに駆け廻ってるンで、声を掛けようとしても、あっと思う間に見えなくなるのよ」
自由ヶ丘はわが家から徒歩で二十五分の距離である。私は別段、買物に出掛けた女房に駆足で帰ってこい、と命じたことはない。にもかかわらず女房は、タクシーから買物包みをかかえて下りてくると、いつも真赤な顔で息をはずませながら、「アア、いそがしい、いそがしい」と、どんなにあわただしいショッピングであったかを、えんえんと報告し、前記のごとき友人の談話をつたえたりもするのである。
一体、愚妻が何をそんなに忙しがるのか、私には長い間、不可解であった。いまだってわからないといえば、ハッキリとはわからない。ただ、女房自身には気のつかないことで私にわかることは、文士の暮しそのものが元来現実家である女には、何とも言えず不安で耐《たま》らぬものだろうということだ。ふだんはそれでもエソラゴトつくりの亭主と一緒にいるから、不安もそれほどではないが、いったん外へ出て一人になると、俄然《がぜん》この不安は頭をもたげて、まるで家そのもの、亭主そのものがエソラゴトになって感じられるようにもなる。勿論、実際には彼女らの不安はこれほど明瞭《めいりよう》なものではなく、もっとバクゼンとしたままで、彼女らの意識の底にジッとわだかまっているだけだろうが……。
『クラクラ日記』によると、安吾さんは≪一人では食事をしない習慣≫で、三千代夫人が外出すると、≪子供が母親を待つように、夕食もせずに、十二時近くまで、私の帰りを待っていてくれた≫とあるが、ここには愛情にもとづく誤解がある。第一、長い間独身だった安吾さんに、一人で食事をしない習慣があったとは考えられないことだし、十二時になるまで夕食をしなかったのも、おそらく食べるのがメンド臭かっただけではなかろうか? しかし、そんな安吾さんの顔つきが≪子供が母親を待つように≫三千代夫人の眼にうつったのは、母性本能によることは勿論だが、同時に三千代夫人が安吾さんを子供としか考えられなかったことは、彼女の不安が何にもとづいているかを推察するうえで、なかなか重要である。しかし私が最も注目したいのは、上京のときの忙しさをのべたあとで、次のようにシメククっていることだ。≪そして、これが大切なことなのだが、私は浮気の心境とは縁遠い気持で暮していたということ≫……と。
勿論、私は三千代夫人にも、わが愚妻にも、浮気の心境があるとはユメユメ疑いはしない。しかし、わざわざ≪これが大切なことだが≫と強調されたこの一行に私は、ふとヒヤリとしたものに触れた気がした。そして、何となく女房に情事を打ち明けられるときの亭主の心境を想像させられるようでもあった。つまり、ツクダ煮だの、テイルのシチューだのを駆足で、セッパ詰った気持で買いまわっているということが、妙にワイセツであり、胸にせまって怖《おそ》ろしかったのである。
戦後の安吾さんの生活の悽愴苛烈《せいそうかれつ》な様子は、私など話にきくだけでもタジロいだ心持になるが、だんだん年とって自分が安吾さんの亡くなられた年齢に近くなってみると、精神病院を出たり入ったりする間に、税務署や競輪の親分などを相手に、やっても勝ち味のない喧嘩《けんか》をつづけたりという安吾さんの態度に、ヒロイズムを刺戟《しげき》されて感心したり驚いたりはしなくなった。しかし、また安吾さんの行動を面白半分にからかって何かと騒ぎ立てたりした人たちの阿呆《あほう》らしさには、やっと本気で腹が立ってきた。
安吾さんの狂暴な発作については、アルコールや、悪いクスリの飲みすぎが原因だといわれているし、おそらくはその通りであろう。しかし私には、安吾さんの狂暴さをクスリの中毒で説明されてみても、安吾さんが多少バカげた半病人に見えてくるだけのことで、べつに何ということもない。私が安吾さんに、サンチョ・パンザがドン・キホーテに感じたようなイタマシさを覚えるのは、
「ああ、眠れさえしたらなア。ひと晩ぐっすりと眠れたら、ぜったいにオレは傑作が書けるにきまってるんだがなア」
という一と言である。安吾さんはクスリの中毒に悩みながら、口ぐせのようにこんなことを言っていた、と『クラクラ日記』に書いてあるが、この言葉は、いかなるクスリの害毒の何層倍も怖ろしく、かつ痛切に私の胸にひびいてくる。……安吾さんだって、クスリの飲み過ぎが毒だというぐらい知らなかったはずはない、それを承知で飲んだのは安吾さんにはクスリの毒よりも眠れないことが怖ろしかったからだし、眠れないことが怖ろしかったのは、本当の怖ろしさの理由を認めることが何よりも怖ろしかったからである。
では、本当に怖ろしいものとは何か? 文士にとって、それは勿論、いま自分の書いているものが「傑作」だとは、どう転《ころ》んでも思えなくなることである。この怖ろしいものは何処から来るか? それは結局、自分自身の生活の内容が稀薄《きはく》になっているという不安からやって来る。
何度もいうように、小説家は小説を書いているときだけが小説家だ。しかし、或る時期から小説を書けば書くほど自分の中味が消えて、もぬけのカラになって行くのが、ハッキリとわかってくることがある。「傑作」を意識するのもそういうときだ。――本当のところ、あらゆる小説家は自分の書くものが世界一の大傑作だと心の底では信じていて、それが小説家としては一番健康でノーマルな状態である。だから、とくに「傑作」を自分の外側に意識して、ぜったい傑作が書けるはずだなどとは思いもしないし、口にも出さない。だから「ひと晩ぐっすり眠れさえしたら」という安吾さんの言葉が、しかも安吾さんみたいな人の口から出たということには、胸を衝《つ》かれるのである。
こんな怖ろしいことを口走るほどなら、競輪屋とのケンカぐらい何でもない、と一応は誰でもが思いたくなる。ただ、安吾さんはそう思っただけではなく、思ったことを実行に移した点が非凡であり、また安吾さんは自分のなかに「生活」がなくなり、稀薄になって行くことが、われわれの何倍か怖ろしくも感じられたのだろう。
三千代夫人の犬を飼いはじめたという話から、エライところへ脱線してしまったが、じつはこれは脱線ではなくて必要のための迂回《うかい》であり、一応はこういうふうに線路を曲げないことには、安吾さん夫妻が伊東の家に移って、少し生活が落ちついてくると、犬のいないのがものたりなくなったという話に、なぜ私がホロリとさせられたかがわかってもらえないし、またテレビの『クラクラ日記』で犬の葬式の場面に、なぜ一種架空な真実を感じたかという理由も、不明瞭に過ぎるだろうと思ったからだ。
ところで文芸評論家のヴォキャブラリーに「実生活」というのがある。生活の上にわざわざ実の字をくっつけたりして、まことに奇妙不可思議な言葉だが、ただの生活と実生活と何処が違うかは訊かれてもこたえようがない。しかも、これが文士以外には通用しそうな見込みのないところが、さらに奇妙なユエンであって、ちゃんとしたセビロで通勤してくる有楽町《ゆうらくちよう》の乞食《こじき》がその二重生活から「実生活」を見失ったとか、現職のお巡《まわ》りさんが泥棒をはたらいてようやく「実生活」を手に入れたとか、ただの「生活」に較《くら》べていくらか重味のあるこの言葉は、文士の外の職業の人にでもアテはめて使えそうなものだが、まだその例がないのは、文士の生活にはよくよく「実」がないためだろう。……このアイマイな不安は、われわれ日本の文士だけのものではない。ノーマン・メーラーの『僕自身のための広告』という本によると、メーラーもまた『裸者と死者』を書き上げたあと二年ばかり、この不安に包まれてポカンとしていたらしい。何しろ一本の長篇小説にとりかかって、それだけに没頭して暮していると、小説が完成したとたんに、それまでの外界との接触を断たれた生活が、灰色の空気に閉ざされたホラ穴のように見え、自分はその穴から引きずり出された羊のように、何も彼《か》もがマブしくて眼もあけられなかったという意味のことを述べていた。メーラーが、その後、自宅の風呂場で自分の細君をナイフで刺したりしたことは、わがくにの新聞にも出て、彼の社会主義的な思想が行き詰ったせいだとか、いろいろと説明した記事もあったが、私は要するにメーラーも安吾さん同様、「実生活」がなくなって錯乱しただけだと思っている。そういえば、メーラーと安吾さんとは、鼻の頭の丸味のあるところや、猫背の恰好など、風姿にも共通したものがあるではないか。
実生活、つまりリアル・ライフの喪失に、気付いたのも、われわれよりアメリカ人の方が先かもしれない。ニューヨークのホテルの二十何階かの部屋が一日中、井戸の底みたいに真暗だったことを憶《おも》い出すと、あそこで真っ先に「実生活」が稀薄になり出したとしてもフシギでない……。とすると、わがくにでも、そろそろ文士以外の人たちも「実生活」をセッパ詰ったおもいで追い駆ける時代が来ているようにも思う。そして安吾さんは、敗戦直後のあのころ、すでに今日の急激な都市化の風潮を敏感に嗅《か》ぎつけていたのかもしれない。夫を特攻隊で失った軍国の妻がパンパンになるのは祝福すべきだという『堕落論』には、安吾さんの生活の「実」を素手で掴《つか》んだ自信と、意気揚々たる鼻イキが、はなはださわやかに吹き通っていたことと想い合せて、そうおもう。
その安吾さんが、やがて「実生活」の喪失に、誰よりもはやく、誰よりも烈《はげ》しく悩まされることになったのは当然かもしれない。わがくにの金権主義は『金色夜叉《こんじきやしや》』から五十年たった戦後の利己的な個人主義と結びついて、はじめて本格的なものになりつつあるわけだが、合理主義者の安吾さんは素速くそれを見抜いて、大いにわが意を得たというところもあったであろう。しかし予言者は予言の適中に満足するのは束《つか》の間《ま》のことで、いつかは自分の運命を予知して、凡人よりも余計に長く思い患《わずら》わされることになる。それに安吾さんの合理主義は何といっても文学的な観念の上での合理主義で、利潤追求|一本槍《いつぽんやり》の金権思想には結局、ついて行ける人ではなかった。安吾さんが自ら税務署や競輪に喧嘩を吹きかけるようにして争いはじめたのは、何よりも自分の合理主義の能力を実社会でためしてみたかったのでもあろう。と同時に、それは自分の生活の幅をひろげて、稀薄になった実生活をすこしでも余計に抱《かか》えこむことにもなる……。
どっちにしても、こういう安吾さんと結婚して、一生懸命歩調を合わせた三千代夫人の難行苦行は並大抵ではなかったであろう。しかしチェホフの『可愛《かわい》い女』になることは、女として結局一番しあわせな道かもしれない。
『クラクラ日記』は、いたるところ安吾さんの影響歴然であるが、それがまたこの本の一番美しいところでもある。他人の模倣やヒョウセツと違って、妻の筆致に亡くなった夫の手跡が伝わっているのは、不言不語のうちに愛が感じられるからである。
だから、そういう三千代夫人が、犬を飼いはじめたのは別段、彼女が赤ん坊の頃から犬と共に育った記憶があったからではない、それもあるとしても、やっぱり無意識のうちにも夫の感じている「実生活」の稀薄な空虚さを受けとめて、犬でも飼わずにはいられなくなったという方が本当であろう。つまり貝新のツクダ煮、小川軒のオックステイル・シチューと同じく、飼犬にはいささかなりとも確実に生活のにおいや温度を漂わせるものがあるからだ。
先日、私はじつに久しぶりに、おそらくは十年ぶりぐらいで、銀座の喫茶店で坂口三千代夫人――というより、いまはクラクラ・バアのママ――に出交《でくわ》した。
前歯が二本欠けていて――それはちょうどシガレット・ホルダーを差し込むのに具合のいい大きさの穴になっていた――、容色すこしもおとろえずという訳には行かなかったが、長期間の御無沙汰《ごぶさた》が全然気にならないクッタクのなさは、昔通りだった。
桐生のお宅にいた二頭のコリーの消息を訊《たず》ねたが、無論これはとっくに死んで、いまはアイヌ犬が一頭いるということだった。
「へえ、そいつは岩見沢《いわみざわ》ですか、千歳《ちとせ》ですか?」
私は、最近仕入れたばかりのアイヌ犬の知識をそれとなく披瀝《ひれき》すると、クラクラ夫人はしんから驚嘆したらしく、しばらく口をあけたままだったが、
「ずいぶん、くわしいのね――」
と、ひどく感心した模様であった。こういうことで何となく愉快になれるのは、犬の余得である。しかし内地ではアイヌ犬は珍しい。こういう凝った犬を飼うところをみると、やっぱりこの人は子供の頃からの犬好きで、安吾さんも本当は結構、三千代夫人に犬と一緒に飼育されていたのかもしれない。シガレット・ホルダーの大きさに穴のあいた前歯を見ながら、ふとそんな気もした。
遠藤|狐狸庵《こりあん》のダメニシ庵犬
狐狸庵こと遠藤周作も、近藤啓太郎の世話でシバ犬を飼い出した。
そういえば遠藤はだいぶ前にも日本犬を飼っていることを自慢して、そのため先輩のO氏が非常に迷惑したという話をきいたことがある。O氏は、その頃、文芸雑誌「群像」の編集長をやっていた人で、編集室の机の上にも「純文学一辺倒」と書いたダルマの絵が飾ってあったくらい、純文学、純文学、と明けても暮れても、純文学のはなししかせず、われわれが純文芸雑誌以外の、たとえば「小説新潮」などに何か書いた場合は、たちまち「おい、おまえ、おれに隠れて、また妙なことをやっとるな……」と、まるでマンビキでも掴《つか》まえたような顔をして怒る。いかに学校の先輩とはいいながら、なかなかキビシいもので、私たちも自然と純文学以外のものを書くことに何やら罪悪感を覚えさせられた。
その頃から遠藤はテレビや映画が殊《こと》の外大好きで、女優と名がつけばどんなチンピラのことでも尊敬してやまず、「狐狸庵アワー」のような番組にホスト役を演ずる日が、一日も早く来ますように、とそればかり願っていた。しかし、それには何とかしてO氏の眼をクラまさなくてはならず、遠藤はいろいろと対策を思案した末、或《あ》る日一匹の仔犬《こいぬ》を、
「これは犬のなかの純文学ともいうべき生《き》っ粋《すい》の純日本犬の子どもで、ひとつぼくの名代《みようだい》だと思って可愛《かわい》がってやって下さい」
と、見え透いたお世辞をいって、O氏に贈り物にした。勿論《もちろん》O氏は遠藤の下心はよく承知していたが、もともと犬好きでコリーやら何やら何頭か飼っていたくらいだから、こういって純日本犬を持ってこられると悪い気はせず、こころよく受け取った。犬舎もとくに純日本犬にふさわしいものを、という心づもりから大工を呼んで白木造りのものを作らせ、その棟《むね》には、
「仁王《におう》」
と、犬の名を墨痕《ぼつこん》あざやかにしるした表札までかかげて、それが成長したら毎朝、太い綱をつけて引っ張って歩こう、とO氏は大いに楽しみにしていた。しかるに「仁王」は、その後、日を経るにしたがって、だんだんに日本犬らしからぬ容貌《ようぼう》に成育して行き、ついにライオンともタヌキともつかぬ奇妙不可思議な珍獣になってしまったというのである。
遠藤によれば、それは彼の隣家のスピッツ犬の仕業《しわざ》であって、彼の飼っていた秋田犬のメスに不良性のスピッツのオスが、けしからぬ行為におよんだからだというのであるが、何にしても小牛ほどもありそうな大型の犬が、全身白いフサフサした毛に覆《おお》われて、申し訳なさそうにノソノソと徘徊《はいかい》している有様は、いかにも狐狸庵的なムードが濃厚であった。
さすがの遠藤も、これを恥じるあまり、爾来《じらい》十数年、われわれの前では犬のイの字も口にしなかったのであるが、何せ流行に対しては異常に敏感な男だから、男性化粧品の広告に、混血の青年がダルメシアンか何かの犬をつれて歩いている写真が出はじめると、早速《さつそく》どこかからダメニシアンとか称するムク毛の犬を手に入れて飼いはじめた。――私自身は、このダメニシアンは一度も見ていないのであるが、ひとづてに聞くところ、これはボロボロの綿のはみ出た布団《ふとん》みたいな犬だという。
「まるで、寝小便した子供が濡《ぬ》れた布団をかついで歩かされてる、あんな恰好《かつこう》の犬ですよ。目つきもショボンとしてましてね……」
さもありなん、と私は思った。寝小便で濡らした布団をしょわされた犬とは、どういう種類のものか、具体的には少しもわからぬが、雰囲気《ふんいき》としては話をきいただけでも、遠藤の性格にピッタリの犬だということが、よく了解された。
これまでに何度も繰り返したとおり、私は「犬は飼い主に似る」という俗説には反対なのである。したがって「遠藤の飼っているダメニシアンは遠藤にソックリだ」などとは決して言いたくはない。考えてもみるがいい、犬と人間とがどれほど近しい間柄であろうと、もともとそれは別箇の存在なのだ。しかるに私は遠藤の犬のウワサをつたえきくと同時に、「さもありなん」と思った。これは一体、何故《なぜ》であろう。
私と遠藤とには、一箇の共通した宿命がある。つまり、試験において必ず落第するというのが、それである。私も遠藤も慶応の文科の予科に入るまでに三年間も浪人した。これは、われわれの勉学の不足と頭脳の劣弱のしからしむるところで、それ以外には何の説明も要さぬカンタン明瞭《めいりよう》なことがらであろう。しかし、それはあらゆる学校をフリー・パスした秀才か、せいぜい一浪二浪で世間並みに進学した人たちの言うことで、われわれ三浪の当事者にとっては、そのようにカンタンに言ってはすませられないものがある。
私もまた入学試験は学力によって合格不合格がきめられることは否定しない。しかし、三原が近鉄の監督になると、急に連勝しはじめるのと同じリクツで、入学試験でもツキをうまく呼んだ者が受かるし、その逆の場合は如何《いか》にマジメで成績優秀の者でも落ちてしまう。とくに入学試験というのは年に一度の日本シリーズみたいなものであるから、第一戦(最初の入試)に敗《ま》けると、そのままズルズルと四連敗することにもなる。つまり「落ちグセ」というやつだ。
実際、落ちはじめると、どんなことをしても落ちるものらしく、じつをいうと私は或《あ》る私大に裏口入学させてもらうツモリでそれにも落ちたときには、もう自分はコンリン際、試験には縁のないものと観念する気持だった。遠藤も三浪のとしにN大をフラれ、私と同じ心境だったらしい。そういうわれわれを慶応で拾い上げてくれたのは、どういう神のおぼしめしかは知らないが、何といっても感謝しなければならない。
しかし落第の宿命は、その後も私には別のかたちでつきまとい、小説家というヘンな稼業《かぎよう》に落ちつくまでは、しなくてもいいような失敗ばかり重ねて来た。どういうときに、どういう理由で失敗したかは、自分ではよくわからない。――それがわかればツマらぬ失敗など繰り返すこともないわけで、誰でも人間は自分自身のことが一番わからないにきまっている――。ただ、私は遠藤のすることなすことを見ていると、そのオロカシサが自分自身のことのようにわかってくることがある。おそらく遠藤もまた私を見ていて、同じようなことを考えているにちがいない。むかし三田《みた》の山で一緒にウロウロしていたころから、おりにふれて遠藤は私の顔をジッと覗《のぞ》きこむように眺《なが》め、
「おまえは、何ちゅうアホな男や」
と、慨嘆するともなく言う癖があった。ヤブから棒にこんなことを言われて、勿論私は不愉快な当惑をおぼえたが、彼の慨嘆の口調には単に私を愚弄《ぐろう》するというより、私という人間を通して遠藤は自分自身の愚劣さを見ているオモムキがあり、同病|相憐《あいあわ》れむに似た一種の迷惑と共感とを呼び起されるのである。
爾来、二十数年、私が遠藤の愚言愚行によって、どれほど悩まされ、迷惑をこうむったかということは拙著『良友・悪友』その他に書いた通りである。遠藤も先頃、「週刊朝日」誌上で私のことを散々にバトウした記事をのせていたが、これも彼の逆説共感から出たものと思えば、べつに腹を立てたり怒ったりする気にはなれない。
それにしても、あの「週刊朝日」の記事を読んで、事実無根のデータばかり並んでいるのには、いつものことながら驚かざるを得なかった。何だって遠藤はこうデタラメばかり並べられるのか――?
本多勝一のベトナム戦のルポルタージュ『戦場の村』によれば、ベトナム人は無意味な嘘《うそ》を平気でつくらしい。わかりきった見え透いた嘘を、いくらでもついてシャアシャアとしており、それはわれわれが「ウソ」というのとは次元の違った架空なもので、だからベトナム人の話から取材した記事は一切アテにならないという――。私はこれを読んで、遠藤の嘘つきも、またベトナム人の性格に似ているのかと思った。そして、それはことによるとフランス文化の影響かとも思われる。
フランスでも南部のマルセーユ人の嘘吐《つ》きは有名だが、さらに南のアラビア人はもっとホラ吹きであるらしい。つまりフランス文化の影響は南へ下るに従って、嘘吐きを育てる傾向が見られるのだが、ベトナムに入ると衆生済度《しゆじようさいど》の東洋的仏教思想がこれに加わるから、嘘の度合はますます際限もなく拡がり、ウソとマコトの境界線がなくなってしまう、こういうことを私は或る程度まじめに考えているのである――。というのは遠藤に劣らずフランス文学から深い影響をうけている大江健三郎だって、かなり派手な、われわれ普通の日本人とは次元の違ったウソを平気でつくことを、私は聞いているからだ。
犬の話が、またこんな脱線になって申し訳ないが、もう十年ばかりも前のこと、新宿のバアで遠藤と大江が大立ち廻りを演じたことがあり、あとで遠藤が何でそんなことになったかということを話したときの言い草が振るっている。「大江のやつ、若僧のくせに、ウソばっかり吐きおって、おれもついにカンニン袋の緒が切れた」というのである。
喧嘩《けんか》のイキサツについて、くわしいことは私は知らない。なぜなら私はその晩、つまらぬことで指を怪我《けが》して家で早くから寝ていたからだ。
何でもその晩、遠藤が吉行淳之介たちとバアで飲んでいるところへ、ふらふらと大江が現われて、遠藤をチラリと一瞥《いちべつ》すると、彼等《ら》の席に尻を向けてトマリ木の椅子に腰を下ろし、いきなり聞えよがしの大声で、
「ぼ、ぼかア、ト、トーダイの拳闘部《けんとうぶ》のキャキャキャプテンなんだ。あーア、こ、こ、こんやは腕が鳴る。ぼ、ぼくのパンチの一発を、ボイーンとやったら、え、え、遠藤周作のウソ吐きも、ちちちったア、骨身にしみてこたえるだろう」
と、口の中で舌をプロペラみたいに回転させて、まくしたてたらしい。大江がいったい何のために、そんなことを言い出したのかは、よくわからない。私にわかっているのは、それが遠藤にはカチンと来たということだけだ。おそらく遠藤は大江の嘘に同類項のベトナム%I性格を感じたのが、腹に据えかねたのかもしれない。とにかく彼は咄嗟《とつさ》にジャン・ギャバン演ずるところの退役ギャングの心境になったらしく、ボックスの椅子から立ち上ると、
「おい、若えの、ちょいと来な……」
と、関西ナマリのべらんめえで呼び掛けると、大江の肩先に手をかけた。すると、その手が大江の体に届くか届かないうちに、意外にも大江は悲鳴を発しながら椅子ごとひっくりかえって床にドスンと尻もちをついた。その転倒ぶりが、あまりにアザヤカに大仰なので、遠藤は拍子ヌケがするというより、ぎょっとなって、しばらく茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた――というのが私が後になって聞いた二人の乱闘のアラマシである。
何にしても、そこまでは私にとっては他のよそごとに過ぎなかった。それが私に掛り合ってくるのは、その翌日、出版社主催のパーティーで遠藤と出会ってからだ。遠藤は見るも無惨にしょげかえった顔つきになっていた。彼は私の顔をみるなり、物陰に呼んで言った。
「おれ、ゆうべ、えらいことやってしもうてなア……」
「わかってる、わかってる」
実際、私はその年の正月、或る若い作家とツマらぬことから立ち廻りを演じ、やはり翌日、ミジメな心持を遠藤に慰められたことがあるから、真実、彼のヤルセない気持には同情出来たのである。――何がナサけないといって、酔ったまぎれに仕出かしたことを酔いざめの朝に憶《おも》い出すほどイヤなことはないが、それでも自分が一人でやったことなら自分が忘れてしまいさえすればカタがつく。だが、喧嘩となると相手があるから忘れてくれと言ったって、向うが忘れてくれるものとは限らないし、自分の一番恥ずかしい部分をすっかりサラけ出したようなつらさは、いつまでもつづく。
(それにしても遠藤よ、アホウさ加減はおまえも、おれと変りないな。いいとしをして、学生作家≠フ大江に何を言われたからって、何もそんなにハッスルすることはないじゃないか。それで、あげくの果ては自分の方がすっかりションボリしちまってさ……)
私は、こころひそかにツブやいて、遠藤の心境をあわれんだ。私にも遠藤と同じくヘンなときに、ヘンにハッスルしてむかっ腹を立てることがあり、もし私がその場に居合せたら、私自身が大江と取っ組み合って、いまごろは遠藤の嘆きを私が嘆いていたかもしれない。そうならないですんだのは指を怪我したおかげだが、じつはこの指の怪我というのも、つまらぬことから女房と言い争っているうちに、私は無闇《むやみ》と腹が立ち女房の鼻先にドアを叩《たた》きつけるようにぴしゃりと閉めるつもりで、力いっぱい取っ手をひっぱったところ、勢いあまってガーンと自分の拇指《おやゆび》をはさんでしまったのだ。指の骨が折れやしないかと医者が心配したほどだから、かなり痛い目にあったわけだが、それでも遠藤みたいなことになるよりはマシだ。そう思うと私はホウタイをぐるぐる巻きつけて、肩先から吊《つる》した自分の指を、いくらか祝福したいような気分になった。
遠藤を一と通り慰めてから、私は一人で大勢の人たちのいる方へ歩いた。するとB誌の編集長のT氏が、私のホウタイの指に目をとめて、
「お、名誉の負傷」
と言った。私は一瞬、戸惑ったままボンヤリしていると、T氏は、
「いや、聞きしにマサるものですなア」
と言う。私は、自分の夫婦喧嘩のことなどどうしてT氏が知っているのかと驚いた。だがT氏は言葉をつづけて、さらに私をガク然とさせた。
「だいぶ派手に大江氏とやったという話はきいてましたが、まさかこんなにスゴイとは思わなかった」
と、T氏は両手のコブシをかためて拳闘のマネをしてみせた。……話が何処《どこ》でどう食い違ったのか、遠藤と私とがスリ替って、昨夜の乱闘は大江と私との間に行われたことになっているのである。
私が最初に「落第生の宿命」といったのは、つまりこういうことなのだ。遠藤がツマらぬことでカクトウを演じ、もの笑いになるのも、落第生的宿命だが、自分が何の関《かか》わりもないことに汚名を着せられる私は、それ以上に落第の宿命に取り憑《つ》かれていると言わなければならない。世の中のあらゆるミットモナイこと、醜態なことは、みんなこの私に似つかわしいのであり、何もせずジッとしているときでも、失態≠フ事故はひとりでに私のところへ勝手にやってくるとしか考えられないではないか。
そこで話は遠藤のダメニシアンの犬に戻ろう――。男性化粧品の広告にも使われるようなダルメシアン種の犬を、遠藤が飼いはじめると、とたんに寝小便小僧の布団みたいにミスボラしげになってしまうということは、いかにもわれわれの生れついての宿命を、そのまま暗示しているかの如《ごと》くではないか。
この話を近藤啓太郎にすると、近藤は、
「そりゃ、おめえの言うようなことあるかもしれねえが、遠藤のところのダメニシアンは最初からダメだから、ダメなだけだよ。その証拠におめえのところの紀州犬は、おめえに似合わずシッカリしてるだろう」
と、私の宿命論を一笑に付し、
「遠藤のところへも、おれの家のシバ犬の仔をやることにしたから、それがどういう犬になるかを見ていれば、おまえの言ったことが本当かどうかが、わかるだろう」
と言った。なるほど近藤の天然記念物のシバ犬の子供なら、ダメなシバ犬であるわけがない。もしこの犬がダメになったとしたら、これは遠藤の影響をうけてダメになったということにもなるリクツである。しかし遠藤自身は、自分の犬がそういうリトマス試験紙みたいな役割を負わされているとは、たぶん気がついてはいなかっただろう。
ただ、そういうことを近藤と話し合ったあとで、私自身は何となく自分の犬で自分がタメされているという気にはなった。そして遠藤も、それに近いものを気配としては感じ取っていただろう。彼はときどき、それとなしに私に犬の話をしかけてくる。
「おまえんところの犬は何だっけな、うん紀州犬か、そうだったな……。どうだい、ちゃんとマトモに育って行きそうか。何、非常にいい? ふうん、そうか、そうだろうなア」
まことに要領を得ないこういう語り口は、じつはひそかに他の会社にサグリを入れている産業スパイを想わせるものがある。本当のところ遠藤は、私の犬が私に似て、すこぶるダラシなく、あっちこっちのメス犬にふられたり、失敗ばかり演じることを期待しているのかもしれない。
あれは、私たちが犬を飼いはじめて一年と少したったころだ。近藤とSさんとが私の家へやってきて、私のコンタを見ると、
「うん、これはいい若犬になった。ぜひ展覧会に出したらいい」
と言われると、私は自分自身をホメられたように、或る光栄と羞恥《しゆうち》とで全身がムズ痒《がゆ》くなるのを覚えた。しかし犬の展覧会には私は抵抗を感じていたから、いくらホメられても自分の犬をそこへ連れて行く気にはなれなかった。ところが、
「遠藤のところも出すんだから、おまえも出せよ」
と近藤に言われると、私はボツ然とコンタの出場を決意した。そして、一週間ばかりたった日曜日の朝、犬をハイヤーに乗せて芝公園の展覧会場に出掛けた。そこには二〇〇匹ほどの犬と、その飼い主たちとがはやくも集まってきている。私は一種異様な緊張と戸惑いをおぼえた。何となく犬よりも自分が入学試験を受けるために、校門前の広場で教室の明くのを待っているときと、そっくりの気分になっていたからだ。
しばらくして、赤い小型の自動車が眼の前で止った。なかから遠藤が奥さんや子供と一緒に出てきた。
「おう」
「やア」
私たちは声を掛け合ったが、いつものように話が出来ない。(タカが犬のコンクールじゃないか、何をそんなにカタくなる必要がある)そうは思っても、気分はやはり不安と緊張に閉ざされたままだ。
「ど、どれがいったい、おまえの犬だ。ああこれか、なるほど、ふうん……」
遠藤は早口にドモリながらそう言ったが、そのじつ私の犬なんか見ていなかった。彼は血走った眼を大きくみひらいて、そのへんをキョロキョロながめまわしていたに過ぎない。そういう私も、遠藤が抱きしめている小犬をチラリとみて、
「うん、なかなか好いじゃないか、眼と耳のかたちが、じつにいい」
などと言ってはみたものの、本当にどの犬を見ても、どこが好いのかサッパリわからなかった。そして遠藤の犬の薄茶の毛並みをみながら、岩切の『代数学精義』の手ずれのした表紙の色を憶い出していた。かれこれ三十分ほどもたったころ、タクシーのなかから紺のセビロを着た近藤が姿をあらわし、われわれに向って白い歯をみせながら、片手を上げてやってきた。私は、このときほど近藤がえらく立派に見えたことがない。長身の近藤が片肩を上げるようにして、ユックリと大股《おおまた》にこちらに近づいてくるのを見ると、まるで古びた白線帽をかぶった旧制高校生が、予備校生のわれわれのところへゲキレイに来ているという心持が本当にした。
事実、近藤はその日は自分の犬は出場させないにもかかわらず、われわれの保護者のかたちで、わざわざ房州|鴨川《かもがわ》から駆けつけてきてくれていたのである。
「やー、諸君、どうかね」
そう呼びかけると近藤は、われわれの犬の前にしゃがみこみ、頭を撫《な》でたり、口を開けて歯並びをしらべたりして、
「うん、これならいい。優良犬になること、まちがいなしだ」
と太鼓判を押した。私は優良犬が何であるかもわからなかったが、何よりも近藤の悠々《ゆうゆう》せまらざる態度にひたすら敬服していた。
コンクールといえば私は一度だけ、鎌倉で美人コンクールの審査員というのをやったことがあり、そのときの記憶はただヤタラに暑かったことと、あとで一等賞になった娘さんに道端で出会って最敬礼をされたことしか残っていないが、あのときの娘さんの最敬礼も、いまになってみるとイジらしい極《きわ》みである気がする。あのとき私はテレ臭さのあまり、ひょいとソッポを向いてしまったが、なぜあのときに、
「よかったですね、本当に……」
ぐらいの言葉をかけておかなかったのかと後悔した。
コンクールの結果、遠藤の犬は幼犬≠フ部で優良犬になり、私のコンタはそれよりも大きい若犬≠フ部で二等になったが、それだけでは何ともタヨリない気のするものだった。
「だいたい優良犬と、二等とはどちらがいいんだ」
と近藤に訊くと、
「そりゃ、二等は優良のなかの二等だから、いいにきまってる」
という。
「じゃ、遠藤の優良は何等ぐらいだ? 三等か、四等ぐらいか?」
「いや、あれは幼犬だから三等も二等もない、タダの優良さ。これから良くなる可能性がありますヨ、ということだ」
そう言われても私には、まだ何が何だかピンと来るものがなく、ただ奇妙にムナしい気ばかりするのである。
「みろよ、おまえの犬に向って、さかんに皆が写真をパチパチうつしてるだろう、あれはおまえの犬がいいからなんだよ」
たしかに、それは私も感じていた。しかし、それは別段ウレしいことでも、クスグったい気持のすることでもなかった。一等になったのはSさんの犬だった。それを見知らぬ誰かが、
「惜しいことをしましたね、あたしゃおたくの犬が一位だと確信してたんですがね」
と言ってくれたとき、ようやく私は二等というものの実感がわいてきた。二等は一等の次であり、それはなかなか大したものであるに違いないが、何よりも私にとってうれしかったのは「惜しい」と言われたことだった。惜しいということは、一等二等に関係なく、要するに何かになり損じているということだ。しかし、それは出来そこないということではなくて、惜しいものなのである。
ああ、おれも遠藤も落第ばかりしてきたが、これだって宿命的な落第生というよりは「惜しい」人間だったのかもしれないな――。
私は、ほとんどの出場犬にまんべんなく配られる小型の優勝カップを手にして、そうつぶやいてみた。
これは負け惜しみといえば負け惜しみに違いない。しかし、つねに何かに出来上ってしまうことと、惜しいところで何かになり損じてしまうことと、どちらかといえば私は惜しまれているものの方が好ましい気がする。それは自分のことではなく、自分の外側のものを眺めて、客観的にそういう気がするのである――。そう考えれば、遠藤の犬がたといダメニシアンであっても、そんなに悲観する必要もないわけだ。
しかし、こんどの遠藤のシバ犬は、なかなかダメニシアンでもないらしい。先だって近藤から、次のような電話がかかってきた。
「いや、昨日、遠藤の家へ出掛けてみたがね、ちょっと見ないうちに、すごく良くなってきていたよ。じつをいうと、おれは遠藤には黙ってたんだが、おれの犬の子供のなかで例外的にダメな奴《やつ》になりそうで、いっそもう一匹他の犬をもってって取り換えてやろうかと思って出掛けたんだが、あれは珍しく中途から急に良くなってくる犬なんだな……」
すると、遠藤の犬は大器晩成型ということになるのだろうか。これは遠藤の人格のしからしむるところかどうかはわからないが、何にしても先《ま》ずは好い報《しら》せであるに違いない。
黒きは猫の皮にして、白きは
――吉行淳之介のナミダ?――
十数年前、吉行淳之介と初めて会ったころ、彼の家には一|疋《ぴき》の巨大な黒猫がいた。彼自身、その猫のことについては小説だの随筆だのの中に何度か述べている――。私は、いまその小説か随筆かが出ている本を探《さが》して、戸棚《とだな》の中じゅう引っ掻《か》きまわしてみたが、入り用のときにかぎって見付からないのが本というものらしい。
≪呼んだときには来ないで、呼ばないときにやってくる。
猫について、ある詩人が言った言葉を思い浮べ、ふてぶてしく居直る気持も動いた≫
これは数年前の「小説新潮」にのった吉行の『猫踏んじゃった』という短篇のなかの文句であるが、これには彼の飼っていた猫のことは出てこない。行きずりに触れ合った女と男の出遭《であ》いを、暗闇《くらやみ》で猫を踏んづけたときの感覚にたとえた一種の心境、乃至《ないし》は幻想小説である。しかし、これを書きながら彼は昔自分の家にいた頗《すこぶ》る大きくて獰猛《どうもう》な猫のことを憶《おも》い出していなかったとはいえない。
いまおもうと、あの昭和二十七八年のころは、まだ東京都内のいたるところに、戦争のキズ痕《あと》は歴然と残っていた。銀座はともかく新宿には、防空壕《ぼうくうごう》の焼け跡で拾い集めたようなトタン板で囲った飲み屋が、いかにも実存主義%Iなムードで並んでいたし、酒もウイスキーと名がつけば高級な感じで、ショウチュウが現在の国産の千円級のウイスキーとほぼ同格ではなかったろうか。無論、売春防止法などというものはまだなく、二丁目の遊廓《ゆうかく》は紅燈を連ねていたから、当時の戦後≠ヘ或《あ》る意味では戦前≠フ延長であり、すくなくとも心情的には極《きわ》めて戦前の名残《なご》りが濃厚であったことが、現在になってみるとよくわかる。
これは前にも何度も書いたことだが、私は当時、吉行と知り合って約一年間ばかりは、ほとんど市《いち》ヶ谷《や》の彼の家に入りびたりの状態であった。私が図々《ずうずう》しく一方的に彼の家に毎日、押しかけていただけでなく、私が何日間か出掛けずにいると、吉行の方から私の大森の下宿に、
「ヨウアリスグレンラクセヨ」
というような電報が来た。電話というものは当時は明らかにステータス・シンボルで、いまの自家用自動車よりも普及率はずっと低かったから、私の下宿には勿論《もちろん》、吉行の家にも電話はなく、隣で美容院をやっているお母さんの家の呼び出しを使っていた。電報を受け取ると私は、その吉行あぐり美容室≠ノ電話をかける。電話口に出てくるのは、美容室ではたらいている誰かであるが、取りつぎをたのむと必ず、
「じゅーんン」
と張りのある女の声が部屋の窓から首を突き出して呼んでいるのがきこえ、そのたびに私は前髪を額にたらした吉行の顔が、急にハイカラな家庭の坊っちゃんらしいものとして想い浮んでくるのを覚えた。
よく言われているように、吉行には御家人崩《ごけにんくず》れのムードがある。つまりヨタ掛ったところがあっても、河内山宗俊《こうちやまそうしゆん》では絶対になく、あくまでも直侍《なおざむらい》である。根っからの悪人ではなく、底に育ちのヨサみたいなものを何となく漂わせて、こう見えても、もとはレッキとした旗本の……、と言わせるようなものが雰囲気《ふんいき》としてそなわっている。このことは彼自身も意識はしていただろうが、そのころ吉行は直侍の三千歳《みちとせ》ならぬミチ子さんというお女郎の客イロになっていた。
もっともミチ子さんは三千歳とちがって新宿二丁目だから、吉行も直侍ではなくて、「鈴木もんどというサムライが」ということになってしまうが、戦後の新宿二丁目が江戸時代の宿場女郎衆の溜《たま》り場でないと同様、吉行にだって「マタも出ました三角野郎がア」という歌の文句はあてはまらない。東大の英文科を中途でやめてカストリ雑誌の編集記者というやくざ稼業《かぎよう》に身を持ち崩し、赤線探訪などをやっている吉行は、戦後の御家人崩れに違いなかったし、何処《どこ》か理知的で中流家庭のムードを持ったミチ子さんは、白菊会の会長さんで、これは格からいえば角海老楼《かどえびろう》のお職《しよく》に当るワケだ。
このように吉行が直侍、或《ある》いは切られ与三郎といった典型的人物を日常不断に演じているとすると、私もひとりでにこれに対応する典型に近付いて行かざるを得なかった。つまり蝙蝠安《こうもりやす》の役柄を知らず識《し》らずにやってしまうことに、ついなった……。こういうわれわれの交友を外部から眺《なが》めれば、キザとも何とも言いようのないヘンテコリンな、わざとらしいもので、たとえば小島信夫などはじめのうちは、傍に坐って話をきいているだけで自分のアタマがおかしくなるようだったと述懐しているのは、まさにその通りだろう。しかし交友というものは、いつも若干の芝居ッ気を必要としており、とくにあの時期のわれわれにとっては、それは心にもない演技というものではなくて、もっと必然的な何かであった。
ひとくちに言うと、私たちは戦争で失った生活≠回復したいと、いつも心の何処かで願っている。ところで、あの昭和二十七八年ごろは、日常生活の面で戦前≠ェちょうど半分方もどり掛けている時期だった。それで私たちは、あとの半分の生活感情を演技でアナウメをしていたと言える。私は吉行の家へ行く途中で一度、大森の駅前の露店じみた店でバナナを半房《はんふさ》ぐらい買ったことがある。バナナは、その少し前まで貴重品だったが、それを無造作に買って新聞紙か何かに包ませて手に持つことが、私には何よりも愉快だったのだ。しかし吉行の家の玄関をあけると、頤《あご》から頭へタオルで頬《ほお》かむりを逆さにしたような恰好《かつこう》の細君が、ひどく不機嫌《ふきげん》な顔をして坐っていた。
「あたし、ゆンべから歯が痛くて、気が狂いそうなんだから」
私は、持って行った紙包みを渡すと、すぐさま退参するつもりで腰を上げかけた。
「いいじゃないか、ゆっくりして行けよ」
吉行はとめたが、奥方の不機嫌は歯痛のせいばかりでもないらしく、やっぱり私は帰ることにして立ちかけると、
「うううん」
と突然、奥方が妙な声を発して私の袖《そで》をひいた。見るとタオルでぐるぐる巻きにした顔に、バナナをくわえて何か言っている。
「あれだ、あいつの歯痛なんて、バナナを見たとたんに治《なお》るんだから、心配いらん、ゆっくりして行け」
吉行が言うと、奥方はまたバナナを口に突っこんだまま、
「モウ、歯ァナオッタッタ……」
と、まるでタオルが口をきいたようなしゃべり方をしたので、三人とも笑い出し、私は言われるままに腰を下ろして居残った。……勿論このときの吉行の細君がやったことは大部分、演技だ。しかし、バナナで歯痛を忘れるというコントは、私たちの長い間遠ざかっていた生活を背景にしており、それがいま自分たちの中にかえってきたという満足感から、あのときの私たちは笑ったのだ。
一事が万事、こういう演技が、あのころの私たちには付いてまわった。まるで回復期の病人のように、私たちは自分の回復状態を自分でたしかめるために、日常生活のあらゆる場面でこうした演技が必要だった。あのころ吉行の飼っていた黒い大きな猫も、そういう演技の重要な小道具の一つだったに違いない――。
あの猫は、たしか鳩《はと》の町《まち》の女が店先の椅子に坐って抱いていたのを、吉行が無理を言って貰《もら》ってきた、というような話だった。だとすれば、それはもともと職業的な意味で小道具に使われていたわけだ――。鳩の町や、あのへんの女は、昔から吉原《よしわら》や新宿二丁目の遊廓など公娼《こうしよう》≠ニ違って、そういう小味《こあじ》な演出技法にたけていた。玉の井の覗《のぞ》き窓の照明などもそうだったが、もっと他に、たとえばダニエル・ダリューにそっくりの化粧をした女は、うしろの壁にさりげなく、「銀座でフランス語」という語学教室のポスターが貼《は》ってあったし、セーラー服を着た女の子が俯向《うつむ》いて坐っていると、その傍には必ずといっていいほど、髪をひっつめに結った、「意地悪ばあさん」の漫画にそっくりのヤリテ婆《ばばあ》が、いかにも恐ろしげな面相で控えているといった具合だ……。だから、あの黒猫を鳩の町の女が店先で抱いていたとすれば、そして吉行がその猫に眼をとめたとすれば、それは充分効果的であったろうし、また吉行が貰った猫を抱いて自分の家へ帰ってくる心持も、充分に察しがつこうというものだ。
しかし、これを吉行の文学青年的ダンディズムだと考えては、吉行は迷惑するだろう。たしかに、あの黒猫は、普通にいう文学趣味というようなものとは逆のものだし、また生活の小道具は小道具でも、それは単なる装飾的な意味での小道具ではない。無論、それは実用上の役に立つものではないが、当時の吉行には生活の必要上欠くべからざる何かであった……。じつのところ私は、吉行の家へ行きはじめてから、かなりしばらくの間、吉行の細君をあの方面の出身の人だとばかり思っていた。無論これは私の早計な一人合点の誤りに過ぎなかった。しかし私は吉行の文学をそういうものだと考えていたし、またコタツに当りながら黒猫を抱いている吉行夫人の顔からは、そういう連想は無意識に、ほとんど自動的に起ってくるのであった。少なくとも、このような錯覚を私に与えたこの黒い猫は、或る程度吉行の精神的領域に属するものだといっても言い過ぎではないはずだ。吉行自身だって、それは否定しないだろう。
「どうも、おまえがこの家へ来るようになってから、ひんぴんとして怪事件が起る」
或る日、吉行は私の顔を見るなり、そう言って猫を私の眼の前にぶら下げて見せた。長くのびた猫の体は尻尾《しつぽ》の先まで勘定に入れると、おそらく一メートル近くもありそうだった。
「よせよ、あぶないじゃないか」
いつか私は吉行の家でスキヤキを食っているとき、口にくわえた牛肉をイキナリこの猫に引っさらわれて、唇《くちびる》のさきに小さな引っ掻きキズをこしらえたことがあり、それ以来この無作法な猫を近付けぬよう用心していた。しかし吉行は笑いながら言った。
「よく見ろよ、こいつの金玉を……」
言われるまでもなく、私はそれを最初から見て、気味悪く思っていたところだ。巨体にふさわしく、それは偉大なもので、猫というよりは小学校五六年の子供のものぐらいの大きさがあったが、グロテスクなことに真黒な体の金玉だけが真赤に塗り上げてある。
「どうしたんだ」
「どうしたも、こうしたもあるものか。ゆうべ屋根の上で、こいつが物すごい声でギャーギャー鳴いたんだが、帰ってきたところを見ると、タマの毛をみんなよその猫にむしられてる。それでおれが手当してやったんだが、この始末だ……。これというのも、みんなおまえのせいだぞ。おまえがうちへ来るようになって、猫までが影響をうけて、こんな奇っ怪な姿になった」
私には、猫の負傷と私との間に、どんな関係があるのか一向に呑《の》みこめなかったが、吉行はしきりに「おまえのせいだ」と繰り返した。そういう吉行の態度が私には不得要領であったというより、そのわからなさがじつは少々不愉快だった……。しかし、いまになってみると吉行がどういうつもりで、そんなことを考えたか、私もその気持がわからないでもない。たしかに、そのころの私は用もないのに友達の家へやって来て、一日中ゴロゴロしており、たまたま発奮して何処かへ恋愛を求めて出掛けると、たちまちタマの毛を全部むしられるようなイタデを心に受けて、また吉行の家へのっそり顔を見せるというようなことを繰り返していた。
或いは吉行は、そのたびに赤チンを盛大に塗りまくるというような治療をしてくれていたのかもしれない。しかし私としては心にどんなイタデを受けていようとも、一向に自分では自覚がなかったから、負傷の手当もしてもらったとしても、何をされたか全然知らずにいた。ただ私があんなにしげしげと吉行の家に出掛け、何時間でも居坐っていたのは居心地が良かったからであり、それはつまり吉行の治療を気付かぬ間に受けていたということかもしれない。
あの黒い大きな猫が吉行の家からいなくなったのは、いつごろのことか記憶がない。ハッキリしているのは、あの猫もタマを赤チン染めにされて以来、とみに威厳を失い、すっかりヨボヨボしてしまったことだ。そして、猫がいなくなるのと入れ代りのように白いスピッツ犬が吉行の家の掘りゴタツの周《まわ》りでうずくまることになった。私はもうそんなに足繁《あししげ》く吉行を訪《たず》ねることもなくなっていたからでもあるが、猫に較《くら》べてこの白い犬についての印象は薄い。スピッツは常識的で利口な犬だから、行儀もよく、よその牝犬《めすいぬ》を追いまわして金玉を摺《す》り剥《む》いてくるような不行跡もなかったのであろう。ただし吉行自身は、この行儀のよい犬を飼い出したころから、漁色家《ぎよしよくか》として本格的な様相をていしはじめた。一つには、このころから彼は健康を回復したからでもあろう。
そういえば猫はゼンソクに悪いから、ゼンソク持ちの吉行はあの黒い猫を何処かへやった方がいい、と誰かに言われたという話もきいた。しかし吉行の体が健康になったといっても、それは肺結核の手術が成功したせいで、ゼンソクの持病は猫とは関係なしに、発作が起るたびに彼は苦しんでいた。ただ、この発作の最中にも吉行は、苦しい息の下で胸を抑《おさ》えながら女を口説きつづけたということで、この美談は「死んでもラッパをはなしませんでした」という木口小平《きぐちこへい》の武勇をしのぐものとして、吉行の名を高からしめたりもした。
精力ゼツリンという言葉は河内山宗俊型の男のもので、直侍型の吉行には似つかわしくない。したがって誰も吉行のことをゼツリンとは呼ばなかったが、特異性体質ではないかという声は、しばしばきいた。私自身は、この世の中に、そうやたらに特異性だの天才だのというものはあるわけがないと考える方だから、吉行の特異性体質$烽ノも大して同調する気にはなれなかった。もっと簡単に、吉行の異常なほどの性欲|昂進《こうしん》は、戦時中から戦後へかけての道徳的圧迫やら貧窮やら飢餓やらで檻《おり》に閉じこめられていた彼の青春≠ェ、昭和三十年代になってそれまでの抑圧が一ぺんになくなり、それと一緒にちょうど胸の具合もよくなったことがあって中年男の思春期≠ニもいうべきエネルギーが、突如爆発的に吹き上げたといえば、それで片付くことだと思った。
これは吉行にかぎらず、私たち戦中派≠ノは共通して言えることで、三十年の暮れに失踪《しつそう》したまま姿を消した服部達《はつとりたつ》はそうだったし、いまは清潔そのものの生活を送っている島尾敏雄や庄野潤三にだって、抑圧から暴発した夢魔のような一時期があった。私が金玉に赤チンを塗られた黒猫のように珍にして醜なる有様であったことも、無器用にエネルギーをバクハツさせたせいであろう。
しかし、このような社会科学的な歴史観にも私は、だんだん自信が持てなくなってきた。われわれのバクハツが一時的のものであったのに、吉行の性的エネルギーは年々歳々、増加の一途をたどって、一向におとろえる気配もなかったからだ。昭和三十年、三十一年、三十二年、三十三年、と年ごとに吉行のまわりには艶聞《えんぶん》が山積し、あたかも皇太子殿下と美智子妃のロマンスが声高に語られるころには、吉行の性望は何処のバアへ行っても、知らぬ者もないほどに高くなった。以前の吉行は、ひとの顔さえ見れば、
「昨日からきょうへかけて、三打席三ホーマーの完全十割だよ。ここのところフシギと球にバットが好くついて、打つ気もないのにバットがひとりでにのびて、さっと入っちゃうんだなア」
と、きく方にはサッパリ面白くない話を、さもうれしげに語ったものだが、そのころになると、もうこんな話はしなくなった。そのかわりどうかしたハズミに、ひょいひょいと打ち明けばなしを手短かにするのが、みんな怖《おそ》ろしく具体性と重味をもって聞えるようになった。いまは打率何割というより、連日連夜、神出鬼没の連続登板であるらしく、その艶福《えんぷく》は羨《うらや》むべきものだとしても、それ以上に彼の精励ぶりには驚嘆し、私もようやく彼の特異性体質を認めざるを得なかった。
それにしても、そんな特異な吉行の精力はいったい何に原因があるのか――? 一つだけ考えられることは、ゼンソクである。ゼンソクは周知のごとくアレルギー疾患であるが、吉行のゼンソクはことによると性的アレルギーによるものかもしれない。もしアレルギーが直接性欲を刺戟《しげき》するものではないとしても、ゼンソクの薬のエフェドリンやコーチゾンの常用はホルモンの分泌を異常に多量にするというから、その影響はたしかに考えられるだろう。
もっともコーチゾンは私も、昭和三十三年にリューマチ熱にかかったとき、二箇月ほども連用したが、それにしては一向に艶福にはならなかった。やたらに腹がへり、情熱的にメシが食いたくなるばかりで、性欲には何等の変化ももたらさなかった。だが、異常なる食欲の増進も思春期の少年の一徴候には違いない。してみると私も、いますこし長期にこの薬をつづけていれば、やがては特異性体質≠ニ呼ばれるようにならなかったとは限らない……。そう考えると、吉行の艶福とゼンソクとには、何か密接なつながりが想像された。そしてゼンソクに悪いというあの黒猫がいなくなって、白いスピッツがやって来たときから、吉行の打率は急上昇したとすると、猫とゼンソクの関係は性欲にからんで、もっといろいろのことがわかってくるかもしれない。だいたい、あの黒猫の金玉を赤チンで真赤に塗ってしまったのは、おれよりも吉行自身の性的衝動から出たことで、おそらく吉行はあのころは、あの巨大な猫の性能力に嫉妬《しつと》してたんじゃないだろうか? そして猫の後釜《あとがま》に行儀のいいスピッツを飼ったことから、吉行は自信を回復した……。
勿論、結局のところ体質は不可解であり、すべては謎《なぞ》に包まれている。だから、いくら私が吉行の特異性を考えてみても、浮んでくるのは妄想《もうそう》だけだ。そしてホルモンだの細胞だのと無闇やたらなことを考え過すうちに、もっと簡単にわかることが一つあることに気が付いた。それは黒猫からスピッツにペットをかえたときから、吉行の書くものの抒情《じよじよう》の質に或る変化が来たということだ。これは無論性欲とは直接の関係はない。しかし或る意味で性欲よりももっと根元的なことと係わり合ってくる問題ではないか。たしかに、あの真黒な巨大な猫は、ある時期の吉行の文学的領域をあらわしている何かであった。それが白いスピッツに変ったというのは、そこに何等かの精神上の脱皮が行われたことを示すものではないだろうか。脱皮は束縛からの解放であるのか、何であるのか、私にはハッキリとはわからなかった。ただ、かんじんなことは彼の性欲の増進は、この精神上の脱皮と関連させてみなければ、捉《とら》えようがないし、たとえ捉えても意味がないということだ。
女性に関しての打率を問題にし、それを上げることに熱中していたころの吉行は黒猫的精神に属しており、打率を問題にしなくなってからの彼は白いスピッツ的な思考に自分をゆだねている。どちらがヨリ良く、どちらがヨリ本質的な吉行であるかなど、比較を論じてみてもはじまらない。重要なことは、どう変ったかではなくて、変化そのもののことなのだ。つまり島尾や庄野が或る時期から聖人≠ニして生きることになったのは、吉行が性人≠フように呼ばれることになったのとは、一見逆に見えるが、じつは同じ変化が彼等のなかで行われたに過ぎない。島尾や庄野がにわかに行いすまして聖人になったわけではないと同様、吉行も性欲をエスカレートして達人の域に上ったわけではない。ただ吉行の場合は変化の曲り角が見えにくいという違いがあるだけだ。
私はその当時は吉行の変化がどんな形で行われるのか、それは少しもわからなかった。ただ確実に変りつつあることだけが感じられ、そのことが怕《こわ》いように思っただけだ。そんな或る日、私はひさしぶりに市ヶ谷の吉行の家に出掛けた。何かの用事があったのか、ただ途中でブラリと寄ってみたのかは忘れてしまった。憶《おぼ》えているのは吉行が小さな鏡台の上に、セトモノの犬の玩具《おもちや》を並べて、それを熱心に覗きこむように眺めていたことだけだ。犬の玩具は白いのと、黒いのがあり、鼻ヅラとお尻とに磁石がついていて、鼻と鼻、尻と尻は、おたがいに吸い寄せられてくっつくが、鼻と尻だと逆を向くようになっている。
「Mさんに貰ったんだ」
と吉行は当時花形のミュージカル女優の名を言った。突然言われても私は何となく遠い世界のことのようで、へえ、とか、ほう、とか間のぬけたアイヅチを入れただけだった。すると吉行は急に、
「Mのやつ、案外、ガラの悪いものをよこしやがったもんだなア」
と、ひとりごとのようにツブやきながら、白と黒の二匹の犬がクルリクルリと横を向きあうのを、何度もやって見せた。そしてその何べん目かに私は、ようやくその犬の玩具のガラの悪さを納得した。そんな種類の玩具を見たのは初めてだったうえに、セトモノの犬から生きものの犬を想像することが、なぜか出来にくかったからだ。そして自分と吉行には、現実の認識の仕方にどこか決定的な違いがあるという気がした。
私は、それきり吉行とMとの付合いのことも、犬の玩具のことも忘れていた。だから、その玩具が吉行の抒情の質をどう変えるか、などということには勿論考え及ぶわけもなかった。それらのことを突然ハッキリと憶い出し、ことによるとこれはエラいことになるかもしれないと思うようになったのは、それから半年か、それ以上もたってからだ。或る晩、吉行から珍しく長いトリトメのない電話がかかってきて、それは自分が中学生時代にかえったかと思うほど、素朴に抒情的な会話が、ほとんど一方的に吉行の方からばかり流れてきた。私は、それがあまりに素朴で、あまりにふだんの吉行と違っていることに気付き、何度も中途で吹き出した。けれども訴えは真剣であり、馬鹿らしいことには思えなかった。ただ、それはあくまでもトリトメがなく、要するに何が言いたいのかは全然わからなかった――。こともあろうに吉行は、その前の晩、彼の家のスピッツ犬が、不意に門の外の道路に飛び出し、自動車に轢《ひ》かれて死んでしまったということを、それがいかに耐えがたく悲しいかということを、繰り返して何度となく述べていたのである。私にも、自分の飼っている犬の死が悲しいことはわかる。しかし吉行はただ単に犬の死を嘆いているのでないことは、たしかだった。
吉行から、じつはMを愛している、ということを聞いたのは、その電話があって何日か後のことだ。
「どうりで、おまえのこの間の電話は様子がヘンだと思ったよ」
私は単にからかい半分に、そう言った。しかし、私が考える以上に吉行はMとの恋愛で彼の内部にある一箇の精神との別離を嘆いていたはずである。一疋の白い犬の死は、たまたま彼の別離の情を代弁していたに過ぎない。
花の三十四年
吉行淳之介から、転居通知が来た。白い厚紙の私製ハガキに、
「この度《たび》左記に転居いたしました」
として、その横に、昭和四十三年○月、の日付と自分の姓名。行をかえて、新住所と新しい電話番号とが、号数の大きな活字で二行になって並んでいる。さらにその脇《わき》に九ポイントぐらいの大きさで四五行、下車する駅、横断歩道、信号機、道路面、家並みの様子、等々、簡単に道順を説明してある文章に、いくらか描写がかった感じがあるが、まア何の変哲もない、印刷の郵便物の一枚である。
私は、寄贈の週刊誌や帯封巻きの新聞など、ひとまとめに配達された他のものと一緒にして、食器入れの下の空《あ》いた棚《たな》のうえに片寄せながら、ふと気になってハガキだけ、何処《どこ》か別の眼につきやすい所に移そうと手にとって、もう一度文面を目読した。
三カ月ほど前には多摩川の向うの新しい住宅地に阿川|弘之《ひろゆき》が引っ越したが、その少し前に何かの用事で阿川から電話が掛り、
「ところで、いま何をしてるンだ」と訊《き》くと、阿川は屈託げに、
「いま、転居通知の原稿書きに四苦八苦している」と、どなるような口調の大声でこたえた――。凝り過ぎて鼻につくのもイヤだし、かといってあんまり事務的な、ソッケないのも困るし、どうも厄介で、めんど臭くて、こまるんだ、というようなことを、阿川はまるで私にも、その厄介な面倒のタネをつくった責任があると言いたげに、受話器にヒビが入りそうなカン高い声で、まくし立てた。
しかし考えてみれば、たしかに転居通知の原稿をつくるのは、なかなかムツかしいに違いない。書家にとって「一」の字が一番|難《むつ》かしく、オムレツがちゃんと焼けるコックなら大抵の料理をこなせるはずだという。それと同じ意味で転居通知を文章にするのは難かしい。住居《すまい》を引っ越したという純然たる私事を印刷物にして、二百人、三百人の人に配り、誰が読んでもワカるように書くのは、難かしいのが当然だ。もっとも私自身、この家に移って来たのは十二三年前のことだが、そのときの転居通知を阿川のように書き悩んだという記憶はない。たしか近所の名刺屋で刷らせたハガキを配ったはずだが、文面は名刺屋の店先で見本を適当にえらんで、その場できめた。これは当時の私に文章家としての自覚がなかったからだろう。いや、いまだって阿川に言われて初めて、ナルホドと思ったまでだから、本当は大して自覚がすすんだわけでもないのだが……。
ところで、そう思って読みかえすと、吉行の転居通知は白いハガキに清朝《せいちよう》活字の並んだだけの文面が、なかなか通り一遍のものでないことに気がついた。苦心の力作、というか、活字の一つ一つのうしろから、積み重なった年月の垢《あか》のようなものが、ふと浮び上り、白いハガキの紙に、文面をなぞって淡い影を落しているのである。単なる道順の説明文が、それなりに路傍を通り過ぎる人間の心境描写的なウルオイをおびていることなどもそうなのだが、最も端的にそのことを感じさせるのは、いったん段落が切れて次に、思い出して唐突に付け加えたような二行たらずの短い言葉だ。
「尚《なお》、この十年近く年賀欠礼をつづけてきましたので、この際お詫《わ》びを申し上げます」という……。
これだけでは、何のことはない、無精して年賀状を出さなかったことを転居通知を兼ねて断わっただけの、見方によってはイケずうずうしい挨拶《あいさつ》だと思われるだけのものかもしれない。その点これは阿川のいう転居通知の名文では決してない。
しかし私は、この二行を見たとたんに、ああ、と憶《おも》い、喜びも悲しみも幾歳月、と口の中でツブやきかえした。
「喜びも悲しみも……」というのは映画の題名で、この映画を私は観ていないのだが、観なくても題だけで観たと同じ気分にひたらせるような文句だから、思わず私の口をついて出てしまったのだろう。つまり「幾歳月」という経過した時間を振りかえらせる言葉は、それだけで連続して流れるフィルムの影像のもたらす情緒に似た響きを持っている。そして、「尚、この十年近く年賀欠礼をつづけてきましたので……」という一行が唐突に眼に入ってきたとき、瞬間的に私は、歳月の流れる音がセセラギのように聞え、無意識に映画の題名を口ずさんだというわけだ。
それにしても、この十年は、まったく想い出すのがイヤになるほど早くて短い十年だった。これは年齢が進むにつれて年をとるのが早くなるという、一種の老化現象であるには違いないが、老化だけでは映画的情緒にはひたれない。「この十年」という文字に、ハッと胸をうつ情感をつたえてくるのは、そこにこの十年を振り返った吉行の心境がうつって見えるからである。――ああ、この十年、おれは誰にも年賀状一つ出さなかった、というのは何も吉行がそのことを申し訳ながって言ったというより(申し訳の意味も当然含まれてはいるにしろ)、それ以上に、何ともはや気忙《きぜわ》しいことでしたなア、という想いが大部分であったろう。
十年近く前というのは、具体的には前回に述べた吉行の飼っていた白いスピッツ犬が、彼の家の前の道路で自動車にハネ飛ばされて死に、そのことで吉行が涙をながして悲しんだという、あの頃である。
吉行にこの話をきいて私は、彼の感情過多を意外におもったが、吉行自身もそのことは意識していて、「どうもヘンだよ、このごろは、天気の具合も、おれの体の具合も……」というようなことを言っていた。
「ま、そういうこともタマにはあるわさ」
などと、私はきいたふうなことを言ったが、いま憶うと、あれは白い犬の死んだことで吉行は自分自身の内面の或るものとの別離を悲しんでいた、とこれも前に述べた通りだ。いってみれば吉行はあの時、ゆるいカーヴで曲る人生の曲り角に立っていたわけで、ただそのカーヴがひどく緩《ゆる》いために、彼自身もそれに気が付かなかっただけだ。
憶えば、あの頃の私たちは、まだ非常に若く、われわれにも、あれは花の三十四年というとしだった。「花の三十四年」という言葉は、じつは私の知っている編集記者のA君からきいたものだが、皇太子御成婚の昭和三十四年は週刊誌ブームの年で、どこの出版社も例年の数倍、或《ある》いは十数倍もの新人記者を採用した。
A君もその一人だが、いまでも各社に三十四年に入社した記者が大量に存在し、そこでA君の口から、しばしば、
「われわれ花の三十四年¢gはですね、いまやジャーナリズムの中軸でありまして……」
という威勢のいいセリフが出て来るわけだ。だから、これは私などには全然無縁の言葉のようであるが、本当はなかなか無縁どころではない。週刊誌ブームはじつは消費ブームであって、あの年から私自身の生活も急激に変って、収入もあの翌年から大体いまと同じ位になった。吉行はあの年、「週刊現代」の創刊号から一年間連載で初めてマスコミ小説『すれすれ』を書き、新聞の一ページ大の広告に、「巨匠」という肩書で名前が載った。もっとも、この巨匠は他の何人かの大衆作家とコミで付けられたフシもあり、必ずしも「巨匠」とよべば「吉行」とこたえるというものではなかったが、われわれは吉行を呼ぶのに、一時はこの肩書を以てした。
「おい、巨匠……」
「はいはい、何ですか? 何、お煙草? どうぞ、どうぞ」
と吉行はタバコをすすめ、当時出たばかりのロンソンのガス・ライターで火を点《つ》けてくれたうえに、一週間ぐらいたつと私にこれと同じライターをくれた。焔《ほのお》が十センチから二十センチ以上も長く延びて、ヤカンのお茶でも沸かせそうな、この新型のライターを私はよほど羨《うらや》ましげに眺《なが》めていたに違いない。だが、吉行自身、そういうことを過度なくらい敏感に察知するタチであることも、たしかなのだ。吉行が自動車を買ったときも、そうだった。一年ぐらい乗った中古のオースチンだったが、彼はどんな方角違いのところへ出掛けるときでも、傍《そば》にわれわれがいると必ず同乗をすすめ、われわれを送り届けてくれると、そのままこんどは大急ぎで自分の目的地に向って走り出す。まるで白タク≠セ、と彼自身言っていたが、勿論料金はタダだった。だから中古といっても、まだピカピカだった紺色のオースチンは、半年もたたないうちに泥だらけ傷だらけになり、シートは垢じみた靴下みたいになってしまった。初めて車を買ったときは、誰でもやたらに人を乗せたがり、また新米のころは車をすぐに傷だらけにするのがアタリマエだとも言える。しかし、そうだとしても、吉行の場合は自動車そのものに或るウシロメタさがあって、必要以上に車を泥んこにしたがる傾向がないでもなかった。
羨むより羨まれる身になりたい、というのは世間の常識である。しかし常識には必ず逆説がふくまれる。同輩に羨まれるよりは、羨んで適当にイヤ味を言ったり、タカったりしている方が、少なくとも気楽で、余計な気苦労がないだけマシということもある。
曽《かつ》て、吉行は裕福になった友人を巧みに散財させるという奉仕の特技≠誇っていた。これをタカリ屋と考えるのは誤解で、むしろ奉仕の精神的事業だと吉行自身は言っていた――。つまり誰でも突然裕福になると、その人は金の出来た理由の如何《いかん》を問わず、何かと肩身の狭い想いをする(と少なくとも吉行は考える)、そういう不幸な人を、肩身の狭さから解放するために、適当な散財をさせる――、これが吉行のいう奉仕の精神であるが、それもただタカルのではなく、相手の人柄その他によって、彼の肩身の狭さは何円ぐらいでほぐされるか、三四千円見当のものから、二万三万はどうしてもかかるというようなものまで、そのシコリの程度を正確に洞察《どうさつ》し、有効適切に消費のみちを講じ、散財の快感と享楽の満足を合わせてもたらしめる。これが特技の特技たる所以《ゆえん》で、なかなか鋭敏な神経と綿密なる推理力を要する技術だが、とくに繊細な心遣《こころづか》いという一見、他人の懐《ふとこ》ろ勘定とは相反する優雅な資質が不可欠であって、たしかに、そうめったやたらに誰にでも出来るという仕事ではない。
ところで、突然裕福になるという肩身の狭さ≠、他人の事でもこれだけ明敏に察しのつく男が、彼自身羨まれる立場になったとしたら、一体どういう事になるか――? 凡《およ》その見当は誰にでもつく。奉仕の精神を、こんどはタカラレることに発揮しようとするだろう。
事実巨匠°g行は想像される通りに振舞った。連載小説の原稿料が入り始めるや否や、われわれ一同を神楽坂《かぐらざか》の待合に招いて、多数の名妓《めいぎ》美女をはべらせ、千紫万紅艶《せんしばんこうえん》を競って、嬌声《きようせい》蛮声の噴出|炸裂《さくれつ》するという大宴会を催した。それを皮切りに、或いはオースチンに友人を満載して横浜のナイトクラブに遊び、或いは都内に隠密裡《おんみつり》に潜在する家に誘って、秘境の歓楽を繰展《くりひろ》げしめるなど、饗応《きようおう》にあずかることの決して嫌《きら》いでない私も、とても毎度は参加する元気はなかったから、よくは知らないが、何となく三日にあげず、そういうことが繰返されていたような印象がある。ワイワイ、ガヤガヤ、何処で、どんな風に騒いだか、どんな顔ぶれだったかも、もうほとんど忘れたが、とにかく吉行のまわりには吉行のれいの奉仕の特技≠フ持主のいなかったことはたしかで、タカリ屋とタカラレ屋と両方の奉仕を一人二役で演じている吉行の袖《そで》を、ときどき誰かが引っぱって、
「もう、いいよ。無理するなよ」と囁《ささや》くと、とたんに吉行は曽てのタカリ屋時代の奉仕を憶い出すのか、一瞬パチリと眼をみひらき、ふところを抑《おさ》える恰好《かつこう》になって、
「うん、うん。だいじょぶ、無理なんかしとらん」と、鳥のクチバシみたいな鼻先を二三度軽くうなずかせると、たちまち現在の突然裕福になった彼自身の役割にもどり、
「さあ行きましょう、ユカイに行きましょう」
とか何とか、大声を上げながら、フロントの男に鍵《かぎ》をあずけて車を呼びよせ、皆を詰めこんで、自分は「よっこいしょ」と畑の大根を引きぬくような――と誰かが言った――どこか不慣れな手つきで、サイド・ブレーキをゆるめ、次なる歓楽に向って車を走らせ出す。こんなとき、ふと私は暗い谷間の橋を渡りながら一瞬、足下に深い裂け目があることを意識する、そんなものが運転席にいる吉行の肩先から伝わってくるような気がした。
こんな風に書くと、吉行は週刊誌に小説を書いたり、またそれが映画化されたりで、「花の三十四年」に酔っている軽薄を絵にかいたように思われるかもしれないが、そうでない事は、少しでも吉行の仕事振りを知っている者ならわかることだ。しかし吉行の肩身の狭さ≠ェ、小説『すれすれ』のもたらす突然の裕福のせいばかりでないことは、彼の周辺にもまだほとんど知られていなかった。
「Mちゃんと吉行は、どういうことになってるのかネ」何度となく訊かれるたびに私は、他人の秘密を知っていることの迷惑と快感を何度となく覚えさせられた。
Mちゃんはミュージカル女優のスタアであり、とくに当時は年度の賞を幾つも一人占めにするほどの上り景気で、人気は大衆芸能界を超《こ》えて拡がっていた。Mに何かがあれば、それだけでゴシップの価値は充分だろうが、しかも相手が吉行というのは、おそらく芸能記者たちにとって盲点であり、或いは奇々怪カイというところかもしれなかった。意外の感はわれわれも同様で、遠藤周作と違って――というか普通のオトナの常識として――吉行は、美空ひばりだの吉永|小百合《さゆり》だのの後援会長になりたがるはずはないし、それもミュージカルときては、酔っぱらっても吉行は「豆がホシイカソラヤルゾ」の歌しかうたわないぐらいミュージックとは縁遠い男だから、Mとの結びつきは、ふだんの吉行を知っていればいるほど不思議なものに思われた。
もっとも、これはMをミュージカルのスタアという概念から考えて奇異なのであって、もしMが女優でもスタアでもない普通の女だとすると、これはまた吉行の好みを典型的にあらわした女性に違いなかった。だから、この二人のことを、Mと吉行と双方の当人から或る日、直接打ち明けられるかたちできいたとき、私はその相縁奇縁に嘘《うそ》から出たマコト≠ニ現実に立ち合ったというショックを受けた。――「おまえ、これは大変なことになったな」と、あとで吉行に会ったとき私は言った。「どうしたって、これは行くところまで行かないと、おさまりがつかなくなりそうだぞ」
私自身、何が大変なのか、それは自分でもわからなかった。ただ、これまでの吉行の艶福とちがって、こんどのは大型≠ナあり、将来どういうことになるか、かいもく見当のつかない茫漠《ぼうばく》としたものが、私に何とない不安と動揺を覚えさせた。無論、吉行にも将来は茫漠たるものであったには違いない。ただ彼には、それが不安ではなくて、動揺はそのまま期待につながっていた。「大変なことは大変だ。おれもそれは覚悟している――、だからさ」と吉行は言った。「おれはMにも、よく言うんだ。とにかく、おまえさんの面倒は生涯おれが見ることにした。これから先何が起ろうと、おまえは親船に乗ったツモリで安心してろ、ってな」
親船に――、と言いかけて吉行はゲンコツで自分の胸を一つ叩《たた》き、自分でもおかしそうに笑った。
たしかに当時、吉行とMとでは収入の面からいっても、吉行の親船は滑稽《こつけい》だった。おまけに彼がゲンコツで叩いた胸は、つい三年ばかり前に手術を受けて中身の何割かがカラッポだった。しかし、そのおかしさも不安も、彼の胸の中に詰っている肺の形や大きさとは関係なかった。私たち――少なくとも私――にとっては、将来を約束する、ということが滑稽だったのである。
それまで将来≠ヘ私には空白だった。別段、戦争のせいではないかもしれない。ただ、いつとはなしに将来は私のなかで空白≠ニ同義語になっており、将来を賭《か》けるのは何も約束しないのと同じ事におもわれた。しかし、いつの間にかそれは空白ではなくなっていた。自分の手に責任を引き受けるべきものとして、中身をさまざまの不安で充満させた将来≠ヘ、眼のまえに確実に陰気な砂袋のようにブラ下っているのを認めないわけには行かなかった。
あれ以来、砂袋に詰った将来≠ヘ、ずうっと私の前にブラ下ったままだ。無意識のうちにも私は、心の何処かで、それが年ごとに水を吸って湿っぽい袋をますます陰気に濡《ぬ》らしながら、重く吊《つ》り下げられているのを感じている。
あれから十年、ひどくアッケなく過ぎた歳月の軽さと、この確実に重くなって行く将来とを計り較《くら》べながら私は、若人に将来があるというのはウソで、若い頃には身近な背後に重苦しい過去≠ェあるばかりで他には何もありはしない、という気がする。そして、年とるにつれて過去は軽く、将来は重く、身に迫って来るのである。これは一見奇妙なパラドックスだが、若気のイタリというものが何処から出てくるかを考えれば、この逆説めいたことが本説であることがわかる。若い頃のアヤマチは、要するに将来が架空に見えていることから起る……。私は別に吉行が将来をあやまった、などと言っているのではない。ただ、あのときの吉行には、やはりM子を親船≠ノのせて漕《こ》ぐことがどんなものか分っていなかった、というだけのことだ。その苦労がどんなものか、これは勿論、吉行だけが知っていることで、当人以外に誰にもわかるはずはない。
スタアは言うまでもなく大衆≠ノ帰属している。だからスタアと恋愛することは、この大衆という漠然とした巨大な夫≠ゥら彼女を奪うだけのエネルギーを要するに違いない。しかし苦労はそれだけではない。ああ見えて吉行は、あの頃すでに或る程度一家|眷族《けんぞく》≠のせた親船の船頭をやっており、そこへもう一|艘《そう》、スクーナー型か何かの親船をつないで、両船ともども走らせるのは、いかに海を知り、目ハシのきく船頭であっても、まったく以て容易ならぬことだ。転居通知に「尚、この十年近く年賀欠礼をつづけてきましたので」とあるのも、あっちの親船、こっちのスクーナー、と船頭はさながら義経《よしつね》八艘とびの如く、船から船へと跳《と》び移り、梶《かじ》を取ってはヒラリと跳び、帆を上げてはまたヒラリで、とても年賀どころの騒ぎではなく、気が付いたら、早くも十年近くもたっていたというわけであろう。
しかし、この年賀の欠礼を新居に転宅の挨拶を兼ねて「この際お詫びを申しげます」とあるのは、どうやら船はどこかの港にたどりついた、と見てよいのであろう。いくら義経だって、壇の浦の合戦を十年近くもつづけたのでは、八艘とびをしようにも腰のバネがきかなくなるわけだ。そういえば吉行は「新潮」の七月号に『鬱《うつ》の一年』というのを書いていた。吉行の体の調子が良くないとは聞いていたが、そして時たま会うたびに、ひどくやつれているとは思ったが、こんなにひどいとは知らなかった。この一年、彼が飲んだ薬のことが述べてあるが、読みながら私は薬局の一つの棚の上に並んだクスリ瓶《びん》が音を立てて吉行の体内になだれ落ちて行くような気さえした。昔から吉行はクスリや注射の好きな男で、私が彼の家に遊びに行き、遅くなって泊めてもらうことになると、彼は私にもネムリ薬を注射してやるといってきかず、私が怕《こわ》がると面白がって、ヤラセロ、ヤラセロと追い駆けてくる。そういうときの吉行は、まるで般若《はんにや》がニタリと笑った顔つきになるので、実際に怖ろしかった。それにしても、こんなに沢山のクスリを彼の体が要求するようになっていたとは知らなかった……。そんなことを思っていた矢先に、私が外出して夜遅く帰ってくると、留守に吉行から電話があったという。何かあったのか、と気になったが、もう夜中の一時近かったので翌日の午前中、電話を掛けた。
「もしもし……」
私は、信号音がやんで向うが電話を取った音がするのに、なかなか返辞がないのは、眠っていた吉行を起したのではないか、と気になり、どうしようかと思っていると、
「ぐ、るるる、れろれろ、ろろろ……」
とイキナリ、受話器の中から、うめくとも叫ぶともつかぬ物音がして、私はギクリとした。それは先年亡《な》くなった私の父親の声にそっくりであり、一瞬父が病牀《びようしよう》から這《は》い出して電話口に出てきたのかと思ったからだ。勿論それは錯覚だった。「れろれろ」とヘンな声がしたのは、どうやら吉行は持病のゼンソクか何かでタンでも喉《のど》にからんだらしい。
「おどかすなよ、……」と私は、いま思ったことをそのまま言った。
「ばか、何ということを言うとるのか、おまえは……」と吉行はさすがにムッとしたのか、怒り且《か》つアキレたような口調で言った。しかし、じつにそういう声がまた、父が終戦の翌年、戦場からリュックサック一つで帰ってきたときの声に似て聞えるのである。そういえば、いまの私自身が後何年かたつと、あのときの父と同じ年になる。このことに私は、いまさら驚きはしない。ただ、れいの砂袋が一層間近に迫って、ずしりと重くブラ下っているのを感じるだけだ……。ところで吉行が昨日電話を掛けてきた用というのは何なのだろう?
「いや『小説新潮』を読んで、おれに関することで一つ間違ってるところがある。あのなかで、吉行が異常体質的にツヨいのはゼンソクでエフェドリンを飲んどるからだ、と書いてあったな」
「うん、そうかも知れぬと書いたつもりだ」
「あれが全然間違いだ。エフェドリンは精力喪失の作用があって、アチラの方の能力検査に使われるぐらいだ。エフェドリンを飲ませて、なおどれだけボッ起能力があるかどうか……。ただ、情緒の方はエフェドリンで昂進《こうしん》してくるということはある」
なるほど、そういうことなら早速《さつそく》訂正しなくてはならない。エフェドリンを飲んでさえ三打席三ホームラン、というのは吉行の強打振りを一層明らかにしているわけだから……。何にしても、こういう訂正を申し込んでくるぐらいなら、彼ももう「鬱の一年」から大分回復しているに違いない。
「それはそうと、君んところの犬だがな、あれはどうなった……?」
私は、話題をかえて訊いた。じつは吉行からこんどセント・バーナードを飼うことにした、という話を余程まえに聞いていた。あれは彼の「鬱」のはじまる前だったのか、それともすでにはじまってからなのか? そういえば「犬が来たから見に来い」という電話が吉行からかかり、その次に私の方から、犬を見に行きたいが、と電話をすると、「まだ体がチャンと出来てないから、もうすこしたってからの方がいい」という返辞だった。勿論、それは犬が仔犬で体がシッカリしていない、という意味だったし、そうに違いないのだが、そのときふと、これは犬ではなくて彼の体の調子のことを言われたような気もして、あえて仔犬でもかまわないから見に行くとまでは言い出し兼ねていた……。そのセント・バーナードのことである。あれはもう相当の大きさになっているはずだ。転居した新しい家を訪ねかたがた、その犬も一度ぜひ見ておきたい。
しかし吉行の返辞は、なんだかあまりハカバカしくもなかった。
「ああ、あれか、だいぶ大きいには大きいんだが、まだ本当にセント・バーナードらしくなっては来とらんようだな。じつに性格は面白くて、何とも言えず愉快なところがあるやつなんだが……。ただ、少し運動不足の気味はあるんだ」
それはそうだろう。セント・バーナードといえば、ちょっとした相撲《すもう》取りが負けそうなほど大きな犬だ。昔、水上滝太郎がこの犬を飼っていたことがあり、そのことを水上氏の随筆で読んだことがある。何でも庭に放しておくと、その犬が走るたびに家屋が震動するということだった。水上氏は明治生命の重役であり、戦前の重役だから家も随分シッカリと建った立派なものだったろうに、それが揺れるというのだから、よほど、巨大で重量もある犬だったろう。何にしても、それは吉行が連れて歩くには大きすぎるし、運動不足になるのは止《や》むを得まい。
しかし、黒い猫から、白いスピッツ、そしてこんどはセント・バーナード・ドッグ、と吉行の飼う動物は、ひたすら大型化して行きつつある。考えてみれば、これはまたスピッツが死んで以来、犬を飼っていなかった彼の生活が、この十年間でセント・バーナードの程度に大きくなったということであろう。そして新築したこんどの家も、やはり犬と同じ規模で大きいらしい。
「まだ、だいぶゴタゴタしていて、職人が沢山、出入りしている情態だから落着かんが、月末ごろには一応落着くだろうから、そのころに来てくれ」
無論、私も是非、それをなるべく早く見に行きたいと思っている。
隣家の犬
――志賀文学と動物――
セント・バーナード・ドッグというのは、何でもスイスか何処《どこ》かの山の中で、行き倒れになった人間がこの犬に助けられたという童話を、むかし中学校の英語の教科書で習ったおぼえがある。そして、この犬の首環にはブランデーの樽《たる》が吊《つる》してあるということから、よくバーのカウンターなどに、ブランデー会社が宣伝用につくったらしいこの犬のセトモノの置物が飾ってあったりするのを見掛けるが、セント・バーナードの実物にお目に掛ったことは一度もない。つまり、それは私にとって一種のマボロシの犬だ。
そういうセント・バーナードを飼うというはなしを、吉行淳之介から聞かされて、私は大いに好奇心をおぼえると同時に、このマボロシの犬が吉行の家の台所口などで、洗面器か何かで餌《えさ》を貰《もら》って食っているところを想像すると、幻滅するというか、或《あ》る落胆の心持と、同時に先をこされたようなクヤシサも感じた。
じつは一年ばかりまえ、アメリカ製の犬のビスケットを輸入している商社の人から一度、セント・バーナードを飼ってみないかと、すすめられたことがあった。「餌はこのドッグ・フードと水だけで他には何もいりません」という。そのときは、いまいる紀州犬のコンタ一匹だけでも、芝生《しばふ》が荒れるの、あっちこっち穴を掘るの、と女房にグチやら文句やらを言われて、面倒臭くなることもあるのに、セント・バーナードともなれば穴を掘るにしても防空壕《ぼうくうごう》か塹壕《ざんごう》ほどもある大きなヤツを明けるだろうし、それだけで一も二もなく断わった。それに私はあのドッグ・フードという茶色の粉をかためた犬の餌に、いくつか悪い印象があって、その会社の人に勧誘されたのも、気のすすまない理由の一つだった。終戦直後の何年間か、私は進駐してきたアメリカ軍の将校の家で留守番をやってすごしたことがあり、そのとき台所の戸棚《とだな》にあった茶色の乾パンともつかぬものに食欲を感じ、同じ家に雇われていた日本人のメードに、犬の餌を食うつもりか、とからかわれた。当時としては常時空腹であることは、むしろ普通のことであり、配給されるトウモロコシの粉や小麦粉のフスマは、実際に動物やニワトリの飼料だったから、犬の餌でも食えるものなら食いたいというのは、別に恥でも屈辱でもなかった。しかし、いま見るとドッグ・フードは私に二重の意味での屈辱を与える。人間の食うべきでない食物に空腹を感じていた自分のイヤシサと、現在の自分がそのイヤシサをけろりと忘れてしまっているということと……。実際犬のビスケットを想うと私は、犬を飼うこと自体、浅薄な軽薄なものが自分の中に感じられる気がしてイヤになる。
しかるに、そのセント・バーナードを飼うという吉行の話をきいたとたんに、私はあの巨大な犬が釣り落した魚のように思われてきた。おそらく吉行は、私や近藤啓太郎が寄ると触《さわ》ると、紀州犬の自慢ばかりして、おたがいに自分の飼っている犬を除くと、おまえのところのが一番好いといってホメ合い、
「おれたちは、こんなに好い犬を持ってシアワセだなア」
という顔つきをするのが、おもしろくなかったのであろう。そこでセント・バーナードという怪物めいて巨大な犬を持ち出して、アッと言わせてやろうというコンタンは、吉行のなかにたしかにアリアリと見受けられた。だから私は、吉行の話にも極《きわ》めて冷静に、
「ほほう、それはオモシロイ」
などと、わざとソラゾラしく、お世辞めいてきこえるように努力してこたえたのだ。
こういう愚劣な心境は、しかし或る程度、誰にでもある。とくに犬を飼うと、われわれの内心の犬%Iな要素からも、それは起ってくる。
よく犬の散歩に、竹竿《たけざお》か棒切れのようなものを持ち歩く人がいるが、あれを最初、自分の犬の途中でした糞《ふん》を片付けるためのものかと思い、うちのコンタがよくよその家の門柱の台石などに糞を山のように盛り上げ、それを私は一度も片付けたりせず、翌日は同じ道を慙愧《ざんき》の念で通りすぎることと考え合せて、大いに反省した。だが、だんだんたってみると、あの棒は何も大してキトクな心掛をあらわすものではない、よその犬が喧嘩《けんか》をしかけてきたとき、それを追い払うためのものに過ぎない、ということがわかってきた。
それ以来、あの棒で武装した人を見ると、何ともアサマシイものだと思いたくなるが、このアサマシさもまた犬を飼う以上、或る程度は避けられないものだ。マルチスだのシバ犬だの、小型の犬を散歩させながら、向うの曲り角から大きな犬が顔を突き出したときのギョッとする気持は、ただの恐怖心ではなく、自分自身が小さな犬になって、相手の大きな犬に畏怖《いふ》と尊敬の念を起しているのであり、そのことを後になって憶《おも》い出すと、まるで自分が人間としての誇りも尊厳も台ナシにされたような、鬱屈《うつくつ》した気分になる……。これが散歩でなく、自分の犬が家の庭で、よそからやって来た犬に噛《か》みつかれたりするとなると、その腹立たしさは一層大きい。そのことは志賀|直哉《なおや》氏の『朝の試写会』という短篇を読むと、よくわかる。
これは志賀氏が戦後しばらく熱海《あたみ》に住んでいたじぶんの、日常的な断片スケッチで、題名の試写会は、スタンダールの小説を映画化した『パルムの僧院』の試写を見に、無理矢理ひっぱられるようにして連れ出され、おかげで風邪《かぜ》をひいたということから取ってある。そういうこともあって志賀氏は、この試写会の間、不機嫌《ふきげん》であるが、映画自体もあまり感心出来ない出来映《できば》えだったらしい。ジェラール・フィリップの扮《ふん》するファブリス・デル・ドンゴオがやたら無性に暴《あば》れまわるばかりで、すくなくともスタンダールの小説を読んでおられない志賀氏には、ファブリスはただ不可解な乱暴者としか考えられず、その暴力ぶりが、まるで志賀氏の家の隣からやってくる黒いワイヤー・ヘヤードの犬にそっくりに思われる――。スタンダールは、このファブリスに自身の自我@邇]《らいさん》のおもいをこめて書いてはいるが、別に暴力団のような活躍はしないはずだ。イタリア貴族の息子で、ナポレオンに憧《あこが》れているロマンチックな少年が、金で買ったフランス軍の軍服を着込んで将軍になりすまし、勝手にワーテルローの会戦にノコノコ出掛けて行って、さんざんな目に会わされるという話だから、ファブリスはむしろ若い頃の志賀氏に似ていないこともない。映画ではそれがどういうわけかムチャクチャに暴れまくる青年になっていたらしく、志賀氏にはそれが戦争直後のヤミ屋のアンちゃん同然のものと思われたらしい――。そこで志賀氏は隣の家の黒いワイヤー犬に、密《ひそ》かに「ファブリス」というアダ名をつけて、家の人たちにそう呼ばせる。
憎むべきファブリスは、近隣一帯を荒しまわり、あたりの犬を全部配下におさめて向うところ敵なき有様である。志賀家で飼っているシバ犬なども、無法にも垣根《かきね》を破って侵入してくるファブリスのために、完全にいためつけられて何をされても手も足も出ない。ファブリスがやって来ると、シバ犬はそれだけでオジ気づき、自分の餌を横取りされて眼の前で食われるのを、じっと我慢して最後まで尻尾《しつぽ》を垂れて眺《なが》めている……。そういうファブリスが交尾期で、遠征に出掛けた或る日、田ンぼの傍の野天の肥溜《こえだめ》に勢いあまって跳《と》び落ちるという奇禍に遭《あ》い、無敵の勇将もあえない最期をとげるのであるが、私は志賀氏がそのファブリスが死んで行く場面を想像している描写力の凄絶《せいぜつ》さに、驚かされた。
牝犬《めすいぬ》のあとを追って、野原を我が物顔に駆けまわっていたファブリスは、眼の前に土色をした、乾《かわ》いた表面にワラ屑《くず》などもちらばっている野天の肥溜があるのに、一見ほとんど普通の地面と変りないその向う側を、目当ての犬が逃げて行くのを見て、平気でまっしぐらに跳び掛る。いったん跳び上ったファブリスの体は、ちょうど肥溜の中心の、空中で真直ぐにのび切った前肢《まえあし》と後肢のどちらもが溜の縁にかからない位置に落下する。溜の上側は厚い膜に覆《おお》われていて、着落した瞬間は地盤のゆるい土に乗ったと同じであるが、踏んばろうとすると四ツ肢《あし》ともヌカルミに吸いとられたようになり、やがて藻掻《もが》けば藻掻くほど、ファブリスの体は自身の重量で、四肢《しし》を前後にのばした姿勢のまま、肥溜の底の方へユックリと沈んで行く……。こうした場景が、志賀氏の実際の文章ではもっと雄渾《ゆうこん》な筆致で活写されているのだが、別の意味で私をさらに驚かせたのは、志賀氏がそのような場面を想像で描きながら、ファブリスの死に少しも同情せず、悪い奴《やつ》がいなくなったことをシンから愉快そうに語って、この話をしめくくっている点だ。
無論、犬のことであり、どこにも憐《あわ》れみをかけて語る必要のない相手だということは、わかりきった話だが、相手が犬畜生だからといって、その犬が悪ければ徹底的に憎み、それについて少しも手加減も容赦もしないという苛烈《かれつ》な態度に、私はやはり何か心のタジロぐようなものを覚えずにはいられない。
犬が肥溜に落ちる話をかいたのは志賀氏だけではない。太宰治《だざいおさむ》の『畜犬譚《ちくけんたん》』、梅崎|春生《はるお》の『Sの背中』などにも、犬がオワイ溜に跳びこむことが出て来るが、いずれも志賀氏の場合とちがって、犬のあわれと滑稽《こつけい》とが主調になっており、そのオロカシさに犬を手放せなくなるといったペーソスが語られているのである。私も『朝の試写会』を読みながら、ファブリスが肥溜に墜落するあたりでは、思わずこの黒い傍若無人の犬に同情していた。これは一つには、われわれ都会に暮している者が田園をロマンチスムと考えるときに、肥溜というものが大きな障害になるからだろう。ベートーヴェンの「田園交響楽」は描写音楽の傑作と称せられているが、あれに肥溜が一つも描かれていないことを考えれば、私の言わんとするところは理解していただけるだろう。あの時代のドイツでも化学肥料はそんなに普及も発達もしていなかったはずで、肥溜はベートーヴェンの散歩の道筋にも必ず存在していたと思われるのに、それを無視したのは何故《なぜ》か? やはりベートーヴェンにとっても、あれは自然がわれわれの排泄物《はいせつぶつ》をもとに植物を育てているという原理的な理解を超えて、圧倒的に醜悪な、怖《おそ》るべき存在だったからに違いない。
これは断言してもいいが、太宰氏や梅崎氏が、犬がオワイ溜に落ちる話を書いたのは、彼等の恐怖心を犬に託して語っているのであり、その潜在意識があの場面に一種の厳粛な滑稽味を漂わせるのである。『朝の試写会』でファブリスが不本意な死をとげる場面にも、それは勿論ある。私はファブリスの体躯《たいく》が空中高く跳躍し、肥溜に落下するあたりから、次第に自分が犬の気持に傾き、乾いた肥料の表皮の上にイカダのように乗ったファブリスの顔が文章とは別箇に眼に浮ぶ。――おや、一体ここは何処なんだ? そう思ううちにも、だぶだぶしたオワイの上のイカダは、カチカチ山の狸《たぬき》の泥舟となって、足もとからヒビ割れて崩《くず》れ、たちまち彼は体ごと溺《おぼ》れて行く。しばらくは犬掻き泳ぎで黄色い飛沫《ひまつ》をハネ上げながら、何とか首だけでも浮んでいることが出来るだろう。しかし、まだファブリスには起った事態が何であるか、理解できていない。夢中になって四肢を動かしているうちに、藻掻けば藻掻くほど体が沈むこの液体が、彼にも無気味になってくる。
――この池は何なのだ? こんなところに野天風呂みたいにあいている穴ぼこの池や、黄色い汁粉みたいな水は……。
私は、ワイヤー・ヘヤード・テリアの、そこだけ毛の短くなった長い平面な鼻筋を見るたびに、まるで鉄で出来ているように頑丈《がんじよう》だと思い、そこにこの種類の犬を育てたイギリス人にそっくりな鼻っ柱の強さが連想されるのだが、ファブリスはいまや広くて長い頑丈な鼻筋の付け根に、奥まった黒い小さな眼をマタタかせながら、懸命に不安とたたかっている。
――どうなるんだろう、おれはこれから……。まさかこのまま死ぬんじゃ、あるまいな?
そう思う一方で、彼の眼にふと自分の跳び掛ろうとした白い牝犬のからだがハッキリと浮ぶ。尻尾を振りながら、ひょいとこちらを振り向いた目つきや、白い毛に覆われた腰つきのやさしさ、など……。ああ、たしかに彼女はオレに気があったんだ。もうちょっとのところでオレはあいつを……。そんなウットリした想いがファブリスの頭を横切っている間、彼の手脚は動きをとめていた。そして、もう一度、白い牝犬のチラリと流し目にこちらを見た視線を憶い出し、ふとその眼の中に妙に意地悪い微笑が冷たく光ったのが突然不吉な予感でよみがえって来た。
――あの、あまァ……。と彼はつぶやいた。そして心の中で(よくも、このおれをペテンに)という言葉が出かかったときに、もう彼はガブリと黄色い水を飲んで、目蓋《まぶた》の裏側まで同じ色の水で浸されるのを感じた。
この圧倒的な臭《にお》い! しかし犬にとって、それは不愉快なものではない。人間の使う化粧|石鹸《せつけん》やシャンプーなどに較《くら》べて、何層倍か好ましいものでさえある。母なる大地の香《かぐわ》しさ……。しかし、それも程度によりけりだ。こう物凄《ものすご》く多量に発酵したやつが、口や鼻や眼や耳の穴から、いっぺんに入って来られては、母なる大地のやさしさも何もあったものじゃない。助けてくれ、死にそうだ、いまのおれにはキレイな空気が一番欲しい。
このとき肥溜の水面には、まだファブリスの黒い鼻先が、かろうじて潜望鏡のように突き出している。しかし、その鼻の頭は吃水線《きつすいせん》上を十ミリ内外の中で、三四度、ピクピクと浮沈を繰返したのを最後に消えて行く。あとにしばらく、小さな泡《あぶく》と緩《ゆる》やかな鈍い波紋だけを残して……。
私は、こんなふうに自分勝手の想像を交えて、あの場面を読みながら、志賀さんもいくら隣の犬の横暴さに腹が立ったといっても、何もこんなにムゴい死に方をさせなくたっていいじゃないか、いや死に方はどうでも、そのあとに何か一と言、ファブリスのために弁じる言葉があったってよさそうなものだろうに、などとひとしきり思い悩んでみたりした。しかし、そういう空想自体、志賀氏の文章から浮んだもので、もともと私のものではない。志賀氏は一匹の性悪な犬のことを述べて、その死に際《ぎわ》のことまでを淡々と語ったまでで、読者がファブリスの死を憐《あわ》れもうが、くたばって好い気味だと溜飲《りゆういん》を下げようが、そんなことは別に氏には関心がない……。ここで志賀氏の関心はただ犬そのものに向けられているだけだ。
太宰治も梅崎春生も、犬が肥溜に落ちてオワイまみれになることは書いたが、それはユーモアがあって面白いのだが、その描写はただ志賀氏ほどには明瞭でも適確でもないのである。志賀氏は隣家の犬が、あんなふうになって死ぬのを想像したということが述べられてあるだけで、また実際にあんな場面にぶつかって自分であの通りを目撃したら、とても黙って見ていられるはずはないし、要するに空想の地獄絵図に過ぎないのに、梅崎氏か太宰氏が散歩の途中で自分の家の犬が眼の前で肥溜に跳びこむ場面に較べて、跳びつく犬の姿勢、落ちて行く恰好《かつこう》や、沈んで行く有様など、跳躍の力動感一つだけをとっても、志賀氏のイメージは段違いに明確である。太宰、梅崎、両氏に限らず、こういう場面で志賀氏ほどハッキリと生きものの姿態を書ける作家は、おそらく誰もいないと言っていいだろう。
これは志賀氏が犬好きで、何度も犬を飼ったことがあるからだということは勿論ある。しかし単に犬が好きで犬をよく観察しているというだけなら、志賀氏などよりも犬のことを知っている作家は沢山いる。たとえば近藤啓太郎だって、日本犬については、知識も経験も、志賀氏の何層倍も豊富だし、観察眼だって鋭いのである。しかし、それだけでは到底、書けないものが志賀氏の犬の描写にはある。志賀氏の短篇『菰野《こもの》』には、夜遅く家へ帰ると、いきなり犬が主人の帰りを待ちわびて飛びついてくるところがあり、外で人間関係の醜悪複雑な問題に悩まされてきた主人公は、暗がりで犬を抱きながら「犬にも劣るなどというが、犬は大抵の人間よりずっと立派だ」という意味のことをツブヤくことが書いてある。これは何も人間と犬との価値の比較を論じたのではなく、要するに面倒な人間関係にヘキエキさせられた主人公の感懐に過ぎない。しかしここを読むと、或いは志賀氏自身、本当に人間よりも犬に親近感を持っている人ではなかろうか、と考えたくもなる。志賀氏の血液の中にそれを想像したくなる。
人間が他の動物より偉いわけはない、むしろ、動物より醜悪で下等なものだということは、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』にも出てくる。ガリヴァーは或る時、馬の国に行くが、そこでは馬が一番尊敬される動物で、人間は馬の言葉でヤフーと呼ばれ、下賤《げせん》な家畜として馬に軽蔑《けいべつ》されながら奴隷になって暮している。ガリヴァーは最初、馬がこちらを向いて何を話しているか全然わからなかったが、だんだん馬国語がききわけられるようになると、馬同士のウワサばなしが耳につく。「しょせんヤフーはもともと下等な動物で、われわれ馬が何を言ったってはじまらんさ……」言われてみると、ガリヴァーの眼にも人間はひどく醜く、到底馬の高貴な姿とは較べものにならない……。こういうスウィフトと違って志賀氏には、悪意も、憎悪《ぞうお》も、イヤガラセもない。ただの素朴な実感として、大抵の人間は犬より劣るものだ、という感想を述べているだけだ。そしてここに、志賀さんは怖い、といって恐れられる理由がある。
馬の高貴さに人間はとても及ばないというガリヴァーの感想は、馬の国の馬の言葉をきいて想いうかんだもので、現実の話でないことは誰が考えても明らかだ。人間の社会を眺めた諷刺《ふうし》の世界は、仮にそれが病的だとしても人間の眼でみた人間そのものの世界であり、つまり話の根本はスウィフトの自己|嫌悪《けんお》というものである。ところが志賀氏の言葉には、そんなものは一切ない。「人間は、犬より下等だ」というのは犬の言葉で犬の考えたというものではないが、そうかといって人間一般の常識では勿論ない。これは犬も人も超越した立場から出てくるものだ。こういうことを極くアタリマエの、何でもない顔つきで言われてみると、たしかにドキリとするし、志賀さんは怕《こわ》い人だと思う……。しかし私は根がズウズウしいためだろう。言われてドキリとさせられもするが、すぐまたナルホド、へたな人間よりは犬の方がよっぽどマシなものだろうな、と思ってしまう。勿論、これは私が無責任に自分を安っぽく値踏みしたがるクセがあるためだろう。ただ、私たちの心の中には犬と人間とが一緒になって住んでいる、西洋人たちから見ると明らかに不思議なものが多少ともあるはずだ。そして、たぶん志賀氏の考えも、ここから生れてくるのである。
志賀氏が隣家の犬にあんなに腹を立て、その最後を肥溜でおわらせるという、石川|五右衛門《ごえもん》の釜《かま》ウデにもまさる残酷な刑罰を下したりするのも、自分と犬とが同じ世界で同居しているという考えがあるからだ。同じ場所で住む以上、悪いことをすれば、人間でも犬でも許してはおけない、不法者のファブリスはあのようにして世を終るのが当然のムクイである……。だからここには苛烈な精神はあっても、それは残酷とはいえない。
この刑罰が残酷なものかどうかは、犬に善悪の判断がつくかどうかで、分れるだろう。そして、犬にはそんなものはない、というのはたぶん西洋人の考えであり、犬でも馬鹿な犬でないかぎり、していいことと悪いことの区別はつくというのは、私たちのものだろう。
どっちにしても、このファブリスに加えられたフン刑の天罰は、志賀氏がただ想像してみただけのものだから、実際はどっちだっていいことだ。本当のところ、志賀氏はただ自分の家の犬が、となりの犬にやっつけられるのが、無性にくやしく、腹立たしかっただけの話だろう。このくやしいという気持には西洋も東洋もありはしない、誰だって喧嘩に負ければ腹は立つし、犬の喧嘩で腹を立てているという愚劣さを自分のなかに感じるだけに、余計ムシャクシャするわけだ。
これは大庭《おおば》みな子さんが群像新人賞の賞を受けとりにやって来たときに聞いた話だが――。たまたまその授賞式をやっている最中に、ロバート・ケネディー上院議員がピストルでうたれたというニュースが入った。集まった新聞記者は勿論、われわれも驚きと昂奮《こうふん》とで場内は一時騒然となったが、そのとき大庭さん一人、悠然と腰かけて額の汗を拭《ぬぐ》い、
「日本はホントに蒸し暑いですわねえ。昨日着いたばかりで、ほらもうこんなにアセモが……」
とワン・ピースの袖《そで》から出ている二の腕を、まわりの人に見せたりしている。それで、ようやく気を取り直した記者の一人が、彼女がアラスカからやってきたことを憶い出したように、アメリカでの銃器の取締りのことをどう考えるか、という質問を発した。
「ハア鉄砲、何ですか、みなさん、よくうちますネえ」
大庭さんは、記者の顔をびっくりしたように眺め、すこしトンチンカンに、そうこたえた。記者がかさねて「やっぱり、それは猟につかいますか、それとも喧嘩のときなんかも……」と訊《き》くと、大庭さんはユックリと、
「ハア、それは両方です。猟のときも、喧嘩のときも……。犬が人に噛《か》みついたりすると、すぐうって殺してしまいます」
「ほう、犬が噛んだら撃ち殺す、なるほど」と記者はメモ用紙に書きこみ、「その場で射殺ですね」と感心したようにきく。
「ええ、そうです……。こういうこともあります。隣の犬が自分の家へやって来てそこの犬を噛んだので、家の主人が鉄砲で噛んだ犬を撃ち殺した。すると隣の家のポーチでそれを見ていた殺された犬の主人が、すぐにまた鉄砲でその犬をうった人を撃ち殺しました」
傍できいていた私たちは、吹き出して笑った。なぜおかしかったのかは、わからない。本当は、これはアラスカ、というよりアメリカ全般の曠漠《こうばく》たる土地のひろさと、そこに住む人の心の荒涼としたサビシサを想わせる悲惨な話なのであり、志賀氏が隣の犬が肥溜で死ぬことを想像して、ウサ晴らしをするのと好対照だといえる。あっちこっちに肥溜があって、犬や子供がよくそこへ落ちたりするのは、それほど農村でさえ人口が密集していることであり、ふんだんにオワイのあることは、それだけでわがくにの豊かさと平和を物語っている。
人糞を肥料にするのは、キタナくて野蛮だと考えられているが、必ずしもそうとばかりは言えない。アメリカで百姓がオワイを畑にまくところは見たこともないが、これは彼等の農耕が近代的だからというより、たとえばアイダホのジャガ芋畑にまくだけでもアメリカ人全体のオワイを掻き集めてまだ不足なほど、土地がひろく人間がいないということもある。化学肥料はつまりオワイの代用品として発明されただけであり、文明がオワイの不潔さを駆逐したわけではない。アメリカ人がいかにオワイを大切にしたかは、前世紀初頭に水洗便所と下水道の技術をフランスから移入しようとしたとき、篤農家の大統領トマス・ジェファースンは、「われわれから貴重な肥料を奪う気か」と大演説をうって反対している。
してみると、私がオワイ溜がわれわれの恐怖心の根源だというようなことを述べたのは間違いかもしれない。そしてオワイ溜の中で憎たらしい犬が溺れて死ぬのを心地よげに語る志賀氏の小説も、人の心の残酷さよりも、やがて遠からず消えて行くわれわれの農村風景への郷愁を語るものかもしれない。
ところで最初に述べたセント・バーナード・ドッグであるが、吉行がはやく見に来いと言うときには、私の方で何となく気がすすまず、私の方で見に行きたいがいいかと訊くと、吉行の方で、まだちょっと毛のぐあいが良くないから、もう少したってからにした方がいい、などと妙に敬遠気味で、全体にヘンにもやもやと異様なものが漂う雰囲気だった。これはどうやら吉行が、われわれの紀州犬に対抗してセント・バーナードを飼ってはみたものの、はやくももてあまし気味だからだ、と見てとって私は、敢《あ》えて深くは追求しなかったが、先日、ふと車で通り掛りに建ったばかりの家の前に、大工や左官があつまって何かやっているのが、何となくこんど引っ越した吉行の家らしい感じがして、車をとめて訊いてみると果してそうだった。
そこで、もし吉行のゼンソクの具合でも悪ければすぐ帰ることにして、私は建築材料のちらばった玄関に立った。
「たのもう」
と言いたくなるぐらい大きな玄関で、家全体も当然これに準じて広そうだ。私は前ぶれなしにイキナリやって来たことが、ふと不安になった。勿論これは吉行に対してシツレイに当るかもしれぬというようなことではない。口に小型のエントツ様の器具をくわえた仏頂づらの吉行が、ゴホンゴホンとせきこみながら出てくるのならかまわないが、もし毛艶《けづや》のピカピカした巨大なるセント・バーナードが、のっそりと現われ、
「吾輩がこの家の主人じゃが何か用かね。石ケンもゴムヒモも間に合っとるから、もしそんなものを売りに来たのなら、いらんよ……」
とでも言いたげに、私の顔を見つめたりしたら、どうすべきかと思ったからだ。
さいわい、そのようなことは起らなかった。吉行の顔は果して不機嫌で、家の構えがイタにつかぬことも予想通りだったが、それでも「ゴムヒモいりません」というほどスゲなくもなく、まだ生かわきの塗料や材木の臭いの強い応接間に案内して、退屈そうに、
「もし新築の祝いをくれるんなら、現金か、ジョーリョクジュをくれよ」と言った。
ジョーリョクジュというのが私には、よく聞きとれず、訊きかえしてやっとわかったが、何でそんなものを欲しがるのかはやっぱり不可解だった。まわり中、樹木がうっそう、とまでは行かなくても、わざわざ植え足すほどのことはないぐらいに茂っている。まさか、一本何十万もする「××の松」といった銘木をくれというわけではないだろうな、しかしことによると吉行もすでに実業家的心境で、そんなものを欲しがる境地に達したのかもしれない。私は、ふと気づまりな想いでセント・バーナードのことを訊《たず》ねた。
「犬どうした」
「ああ、こっちだ」
裏の日本間へ廻って、窓から覗くといた、いた……。茶と白のブチの毛をした奴が、いとも茫洋たる面持で、こっちを見ている。やがて、
"Qui est l ?"
と太い喉《のど》の奥から、でっかい躯《からだ》のフランスの百姓から訊かれた感じで短くウナる。しまりのない口から黄色い歯が覗いて、どうみても半年足らずという若さには思えない。生れながらの老犬みたいだ。
「来ないか」
と吉行がクサリをとって、犬の頭をなでながら言ったが、もしこれが暴れ出したらとても吉行の手に負えまい、という気がして何となく近づけない。完全なオトナになるまでには二年かかるとすると、よほどまだ大きくなるわけだ。しかし犬もこれだけ大きくなると、何となく架空で、思いの他に感動はしなかった。しかし、それは犬よりもむしろ吉行がわの問題かもしれない。何といっても、いまの吉行にはこの犬は借りて来た猫≠ニいう形容はヘンだが、そういうものに近い感じだった。
マニアの心情
――五味康祐のメカニズム――
このところ、二度ばかり続けて五味康祐の家へ遊びに行った。五味といえば、『一刀斎は背番号6』という愉快な小説のことを憶《おぼ》えておられる方も多いだろう。山から出てきた剣術の名人が、後楽園でアメリカの大リーグと試合をやっている巨人軍のピンチ・ヒッターに起用され、いきなり大ホームランをかっとばして、見事に大リーグをやっつけるという話だ。
五味は、あの三十枚ばかりの小説をシメキリ過ぎた校了|間際《まぎわ》の晩に、ふと思いついて一夜で書き上げたというが、代表作というものは得てしてこういう具合に出来上る場合が多い――。これは勿論《もちろん》、一夜づけの仕事が傑作を生むということではない。作家の内部に蓄積されていた或《あ》るものが、どうかした拍子に不意に一箇のイメージとなって一夜のうちに噴出する、そういうときに一気|呵成《かせい》に、ほとんど無意識に書き上げられてしまったもののなかに、しばしば傑作があるということだ。
五味の『背番号……』が出たのは昭和三十年だが、あの頃から日本はようやく戦後≠脱け出し、日常生活にもどうやらユトリが出はじめて、われわれもカストリショウチュウから国産ウイスキーに乗り換えた時期だ。占領時代にアメリカ人に頭を抑《おさ》えられてきた鬱屈《うつくつ》感を何とかハネ飛ばしたいという気持も、庶民一般に漠然《ばくぜん》とながら強く働き出していた――。すなわち山奥にひそんで敗戦も知らず、占領も知らず、一切のアメリカ・コンプレックスに犯されていない超人的剣士、伊藤一刀斎の出現が待望されていた所以《ゆえん》である。
しかし、あの忍者とスーパーマンとを一緒にした一刀斎は、日本人全般の輿望《よぼう》とは関係なしに、もっぱら五味個人の夢想の英雄として、ずっと以前から五味の内面で育てられていた人物に違いない。簡単にいうと、五味はあの小説を書く前から、彼自身いかにも一刀斎じみた男であった。風貌《ふうぼう》姿勢もあの通りで、たとえ真昼間でも五味の体は、まるで闇夜《やみよ》にローソクでも探しまわっているように、そろりそろり、両手を宙に泳がせながら、無重力状態の宇宙人よろしくの恰好《かつこう》でやって来る……。そんな五味を見掛けて、
「おい、五味よ、五味くんよ」
と呼び止めても、たいてい彼は返辞もせずにスウーと、こちらの眼の前を通り過ぎて行ってしまう。それは傍若無人とか、傲慢不遜《ごうまんふそん》とかいう態度ではなく、透明人間が自分では透明になったつもりで、そのじつ透明になる術を使い忘れたまま歩いているといった感じであるから、こちらは無視されても決して不愉快ではない。しかし五味がこんな風に茫然《ぼうぜん》自失の様子に見えても、われわれは彼に油断するわけには行かなかった。ふと背中ごしに異様な気配をおぼえて、振り向くと五味の顔がヌーッと迫ってきて、こちらの耳もとに囁《ささや》きかける。
「おまえのなア、このまえの『新潮』の小説なア、あれずいぶん字が間違うとったぜえ、おれ気ィついたところ三十八箇所ほど、なおしといたンやでえ……。え、おまえまだ自分の書いたもん、どうなってるか知らへんて、まだ読んでえへんのか……? そうか、そんならそれでエエわ」
五味は私よりも一期早く昭和二十八年の春に芥川賞《あくたがわしよう》をとっていたが、賞をとってもしばらくは、以前からやっていた新潮社の校正の仕事をアルバイトにしていたのだ。それでたまたま私たちの書いたものが、彼の机にまわされると、こんなふうにやっつけられる仕儀にもなる……。私たちは「どうも五味のやつ、おれたちの原稿がゲラになるのを狙《ねら》って、わざわざ出掛けて校正を引き受けてるンじゃないか」などと、彼が新潮をやめてくれるまで、何かと落ち着かぬ気持であった。
無論、五味に別段の悪意のないことはわかっている。要するに、当時は芥川賞作家といっても、いまと違ってスタアのように記者会見だのテレビだのと追い廻されるわけでもなく、アルバイトだってオイソレと止《や》めると、たちまち食えなくなる惧《おそ》れがあったというまでだ……。とはいうものの、五味の校正はいくらか趣味的なオモムキもないではなかった。少なくとも彼には何食わぬ顔で、ひとをギョッとさせる趣味はある。黒装束の忍者が、ひたひたと夜道に足音をしのばせながら懐中の短刀をにぎりしめている……、五味は校正の赤ペンを振るいながら、そんな姿を頭に描いていたかもしれない。
『一刀斎は背番号6』にも、五味のそういう趣味は出ている。プロ野球に剣豪を登場させるという趣向自体、ひとの意表をつくものだが、それだけではタダの架空な筋立てであり、小説にはならない。それが小説としてのリアリティーを持つのは、そのなかに思わずドキンとするような現実≠ェ突如何気ない感じで出て来るからだ。
一死満塁、巨人軍はヤンキースに三点リードされたまま九回裏に、ようやく絶好のチャンスを迎える。打順は四番、川上哲治である……。たしか、こんな風な設定であった。いや、このときは相手チームはヤンキースではなく阪神だったかもしれない。重要なことは、ここでベンチを跳《と》び出した水原がバッター・ボックスの川上に耳うちする。ここからが、じつに五味的な小説になってくるので、水原は苦痛にみちた表情で、川上にこう告げるのだ。
「哲……、すまんがここで三振してくれ」
川上は日本一の強打者であり、巨人不動の四番バッターである。しかし、じつは日本中の野球ファンがそう思っているだけで、実際の川上はもう老いこんで打てなくなっている。ただ、川上の打順を下げたり、代打を立てたりすれば、全国の巨人ファン、川上ファンの憤激を買うだけではなく、選手一同にも心理的な動揺をあたえて、巨人というチームのイメージが消滅する惧れがあるので、依然として川上を四番に据えてあるだけなのだ。せめてダブル・プレーを避けるためには、川上にバットを振ってはならぬと命ずる他はない……。いま読めば別段そんなに驚いたりする程の話ではないかも知れない。しかし、昭和三十年は川上が現役の打者として絶頂の時代であり、その当時にこれは、まさに奇想天外の空想と諧謔《かいぎやく》にとんだ場面であった。とくに、
「哲、すまん……、三振してくれ」
という水原のセリフには、いかにもそれらしい実感があり、帽子を少しアミダにかぶった水原の顔が眼に見えるようだった。この実感は五味の批評眼がここで正確にはたらいているからだ――。勿論これは五味の野球批評のことではない。五味が野球に無知|蒙昧《もうまい》なのは私と大差ないだろう――。しかし、野球はわからなくても五味は、巨人軍のプロ野球の人気の秘密が何であり、打撃の神様≠ナある川上の存在が何であるかといったことを、どんな野球の専門家よりもハッキリと見抜いていた。五味が掴《つか》んでいたのは、野球や野球選手の技術や能力についてではなく、プロ野球をつうじての当時の日本人のメンタリティーそのものだった。
このように五味の批評はタンゲイすべからざるものがあり、それ故《ゆえ》に人の意表に出て、単なるハッタリかと思われるようなことが、じつは世間の気付かぬ真実≠衝《つ》くことにもなる。この批評がハッタリか、虚実相半ばしたあたりに、五味の小説美学の真骨頂がある――。たとえば、一刀斎が初出場以来、連続数十ホーマーの超新記録をつづけて行く、その秘密は何か? というと、それは一刀斎が奥山で「かげろうの術」という武術を習得したせいであるという。
「かげろうの術」とはどんなものだったか、その説明は忘れてしまった。私が憶えているのは、一刀斎がアメリカ軍のピッチャーに剛速球をほうりこまれると、めずらしくもこれをカラ振りしてしまう。そこで彼は審判に、「お待ちくだされ」といって何とハチマキで自分の眼をかくしてしまうのである。そして全選手、全観衆がアッケにとられている中で、目かくしのまま見事に大ホームランを打ってしまうのであるが、私はこの一刀斎の目かくしを、五味はどうやら夏の海岸の西瓜割《すいかわ》りから考えついたように思う。つまり、バッターが目かくしをすると、野球のボールが西瓜のような大きさで、しかも静止したままで見えてくる、というように……。
しかし、もっと傑作なのは、その一刀斎が打撃専門で、守備には絶対につかえないということだ。手に棒切れを持っていれば、どんなものでも打ち返すかわり、素手のときには身を翻してよける訓練をつんできた一刀斎は、守備につくと自分の方へ球が飛んでくるたびに、さっと身をかわしてしまって、水原がどんなに熱心に捕球を教えこんでみてもムダであったというのである……。おそらく五味は子供の頃、野球を見るのは大好きだが、飛んでくるタマが怖《こわ》くて自分で野球をする気にはどうしてもなれないタチだったのかもしれない。そのかわり、自分一人でこっそりと、ああ野球のマリが西瓜ぐらい大きくて、もっとゆっくり飛んで来てくれたら、なんぼでもホームラン打ててええのンやけどなア――、としきりに空想にふけっていたのではないか。
ふわりふわり、と透明人間が透明になりそこなったように歩く五味の体つきから、何となくそういう孤独な少年の姿が浮んでくる。ステレオとテープ・レコーダーに熱中して、部屋中を電気のコードだの、真空管だの、ヤットコだの、ソケットだのでいっぱいに散らかしたなかで、弦楽器、管楽器、長唄《ながうた》、地唄《じうた》、童謡など、ありとあらゆる音を取りかえ引きかえ鳴らしている五味を見ていると、やはり一人で蔵の中で遊んでいる子供を憶《おも》い出す。傍《はた》で見ていて、何が面白いのかわからないが、とにかく一人で何時間でも平気でジッとしていて、話し掛けてもロクに返辞もしない、それでいてときたま口をきくと大人のギクリとするようなことをいう……。
ところで私が、最近つづけざまに五味の家へ遊びに行ったのは、このステレオのためだ。十年ばかりも前にも一度、私は深夜に五味の家を訪問したことがあり、壁をブチ抜いてつくったホラ穴のように巨大なスピーカーをきかせてもらうつもりだったが、このときは遠藤周作、吉行淳之介、近藤啓太郎、その他大勢が銀座のバアの女給さんたちと一緒に押し掛け、れいによって遠藤が、五味の八ミリ・カメラを見るや、いきなり、
「おれを主演にエロ映画をとってくれ……。題名は『ハーレムに捕われた美しい男』、おれがその美男になって、欲望に飢えた女たちに襲われる役になるからさア」
女給さんたちに片はしから跳びついてハシャギだしたので、とてもレコードをきくどころではなかった。五味によれば、そのときの遠藤の活躍ぶりは遠藤の知らぬうちに全部、八ミリ・カメラで実際に撮影してしまった由で、
「将来、もし遠藤が芸術院会員になる運動でもやり始めるようなら、このフィルムを文部大臣と芸術院院長のところへ届けんならん」
ということだったが、そのフィルムは果してどうなったか、もし本当に遠藤の顔や姿がうつっていたら、これは見ものだ。とにかく十年ぶりに五味の家へ出掛けたが、私はフィルムのことを訊《き》くのを忘れ、五味もその話はしなかった。おたがいにあの頃とそんなに変らないつもりでいても、もうあんな馬鹿騒ぎは話題にするのも忘れるほど、遠い昔のことになってしまったのだろうか?
私たちは、女の話をするかわりに、犬の話になった。五味も最近、紀州犬を飼いはじめたので、近藤にそのことを話し、一度見に来てくれとたのんだが、近藤はその犬の血統書に出ている犬の名前をきいただけで、
「それはダメだ。おまえはダマされたんだよ」
と言下にきめつけて、見にも来ないという。五味にしてみれば、それは友達|甲斐《がい》もない返辞だったに違いない。
「ほんまに近藤は日本犬のこと、よう知っとるのかな」
と、しきりに首をかしげていた。
「それは、おまえがステレオのことに詳しいのと同じぐらい、近藤は犬のことを知ってるよ」
私は前に、自分の買ったステレオのことを五味に話したところ、「そんなもん、あかんな」とアッサリいわれて腐ったことがある。しかし勿論、五味の方ではそんなことは覚えているわけがない。彼は話題を犬からステレオにかえた。私は最近とりかえた新しい機械のことを話した。
「うーん、おまえもだいぶ、オーディオのこと、わかってきよったな――」と、五味は総髪の髪を片手でかき上げながら、私の顔を薄目をあけて見やり、「ま、そのへんまでわかってくれば中学生というところや。しかし、きみが中学生なら、ぼくは大学院やからな」
五味がいかにステレオの泥沼で苦労したかは、すでに良く知られている。五味のステレオ道楽歴の長さは、じつは大学院の博士課程の数倍にも及ぶであろう。しかし、そういう五味の風姿はドクター・コースの万年学生のそれではなく、塚原|卜伝《ぼくでん》がさっと鍋《なべ》ぶたを突き出して、
「まだまだ、おまえの腕ではおれは斬《き》れんわ、年期がちがうでなア」
と言っている感じだ。何にしても私は経験者のいうことは、素直にきき入れるに限ると思うから、その日も大学院博士コースの装置で、スピーカーやらアンプやらカートリッジやらの組合せを変えて、たっぷり講義をうけた。本当をいうと私は、スピーカーの王様といわれるタンノイの、なかでも最新最高の何とかゴールドというラッパで、のんびりと音楽を愉《たの》しみたかったが、この忍者の山塞《さんさい》をおもわせる要害堅固なリスニング・ルームは、そんなノンキなことは言わせぬきびしい雰囲気《ふんいき》だった。
「貴殿は何をご所望か」
五味は、私のききたいレコードのことを訊《たず》ねるにも、こんな調子だから、こちらも思わず身構えざるを得ない。
「そうだな、まずホロヴィッツ、カーネギー・ホールでやったの、あんなのはどうかな」
私は妙にオロオロしながらこたえた。すると五味は、
「ふん、ピアノで来よったか……。こいつは弱いなア、おまえさんなかなか根性が悪い」
と、そんなことを一人でつぶやいて、さながら老剣士が新入りの弟子《でし》をオダて上げては、その太刀《たち》を軽くイナしてよろこんででもいる様子である。別段、私は五味のスピーカーの弱点を突くために、そのレコードを上げたつもりはなかったが、五味は勝手に私のコンタンをさまざまに空想して探り出すのである。そして、私のステレオにおける学力≠ェどの程度かを検査しているらしくもある。しかし、これは近藤が私に犬の話をするときでも同じで、きびしい眼を三角に光らせながら、私がどの程度に犬の習癖、性格、その他について理解しはじめたかを、たしかめようとしていることが、それとなくわかる。ときどきウレシガラセを言うのも、五味のステレオと同様で、
「うん、おまえはなかなかカンがいいな。はじめて本格的に犬を飼って、それだけわかれば上出来の方だ」
そう言われても、こちらは何でホメられているかわからないから、ただニコニコと笑ってきいていると、やにわに近藤は、
「しかしなア、おれはこれで日本犬には、ずいぶん苦労してきたもんだ」
と、ひとりごとのようにツブやき、言外にあきらかに(オレは大学院、おまえはせいぜい新制中学一年生)という意味のことをホノめかす。
一体どうしてこういうことになるのか――? 犬とステレオとでは、どこにも共通した点はなさそうなのに、音キチの五味と、犬キチの近藤とが、ほとんど同じことを同じように言うのは、なぜだろう――? そういえば、犬が畜音機にききほれているのはビクターのマークだが、まさかあれは犬とステレオの類似性を象徴したわけでもないだろう。
しかし事実、愛犬家とステレオ・マニアとは、たしかに共通したところが多いのである。音キチの諸氏が一般に新しい機械を次から次に買いかえるのは、彼等が自分のオーディオ装置に絶えず劣等感を持ち、自分以外の誰かがホンモノの音≠所有しているという不安におびえているからだが、犬キチの諸氏も多かれ少なかれ、自分の犬がよその犬に何らかの意味で負かされることをいつも怖《おそ》れており、それが嵩《こう》じるとステレオと同じく、次から次へ、何頭も何頭もの犬を買いあさったり、交配させたり、際限もなく犬に憑《つ》かれてしまうらしい。
いつか近藤が、一等賞絶対確実という自慢の紀州犬をつれて、千葉の鴨川《かもがわ》から埼玉の何とか町のコンクールに出掛けた翌日、私の家に文字通りムセビ泣くような声で電話を掛けてきた。
「こんどのコンクールの審査員はまったくデタラメでよう……。おれの犬を特良(等外)に落しやがって、おかげで昨晩は犬の仲間と飲み明かして一睡もせずだ」
大学院の近藤も、こういうときには中学生の私にでも、何とか慰めてもらいたくなるらしい。勿論、私は精一杯、見たことも聞いたこともない犬の審査員の悪口を言い、近藤の犬のいかにすぐれているかを強説してやったが、五味が自分のステレオを誰かにケナされたら、やっぱり同じように悲憤|慷慨《こうがい》して、私のところへ泣き言の電話を掛けてくるに違いない。
私は五味の家で、さんざんレコードをきいたあと、ふと憶い出して、近藤が血統書の犬の名前だけきいただけで歯牙《しが》にも掛けなかったという五味の紀州犬を見せてもらった。その犬は台所の土間のすみに丸くなって寝ていた。なるほど――、私にも一と目でそれが純血種の日本犬でないことが、すぐにわかった――。これでは近藤が見なくてもニセモノにきまっていると断定したことに文句はつけられない。
「日本犬てやつは、もっと耳が短くて、笹《ささ》の葉みたいにピンと立ってるものなんだよ。こうバンビみたいに耳の大きなやつはダメなんだ。それに紀州犬で鼻の頭の黒いのもイケない。そういうのは大抵スピッツの混血だからネ」
私はステレオの講義をうけた返礼の意味も多少は手伝って、そんな知識を五味と五味の奥さんの前でヒレキした。五味はこんどは小学生のようにおとなしく私の言うことを聞いている。
「やっぱりダメなんですのね」
と奥さんも、そばからそんな風に同調してみせた。すると、どうだろう、うずくまって寝ていた犬が、よろよろと立ち上ると、申し訳なげに尻尾《しつぽ》を下げて、そっと外へ出て行こうとするではないか。その瞬間、私は言いようのない悲哀に胸をうたれ、思わず口を閉じた――。犬は、或る程度われわれの言葉を解するが、それよりも気配で私のしゃべっていることを察知し、完全に傷ついてしまったのである。
「おう、よしよし」
私は、すごすごと尻込みする犬を抑えて頭を撫《な》でてやった。そして、怯《おび》えながらウルんだ眼で見上げる犬を慰めるべく、一生懸命言いつづけた。
「いや、これは好い犬ですよ。純血であろうとなかろうと、犬は犬として良ければ、それでいいんですよ」
交尾
ここのところ私は、おそらく大勢の人に迷惑がられているかもしれない。人の顔さえ見れば我が家のコンタの自慢をし、あげくの果ては頼まれもしないのに、そのうち仔犬《こいぬ》がとれたら一ぴき進呈する、という約束を勝手にしてしまい、しかもそれは実行していないからである。
私としては決してデタラメを言ったつもりではなかった。ちょうどその頃、コンタは懇望されて花嫁になる紀州犬がやって来て、ポカポカと日の当る庭の片隅《かたすみ》で婚姻の儀が行われたが、どういうものか仔犬は生れなかっただけである。
それはさておき、わが家のコンタが、いかにムダ吠《ぼ》えせず、鳴かない犬であるかということは前にも述べた。生後三箇月でSさんの家から連れて来られたその晩、八時か九時ごろに、
「ウオオーッ」
と、ひと声、オオカミかヤマイヌが、深山の谷底で孤独な呼び声をたてているような、とても乳離れして間もない赤ン坊犬とは思えない声で吠えただけで、それっきりキャンとも、ワンとも、全然鳴かず、その覚悟の良さは、かえって薄気味悪いほどであり、嘘《うそ》のような音なしさであった。ところが、それから一年ほどたって、花さか爺《じじい》の絵本の「ここ掘れワンワン」のポチそっくりの体つきに成長した頃、突如として物恋しげな「ウオオーン……」という声を上げはじめた。
一と声鳴いては庭の芝生《しばふ》を二周三周、全速力で駆けまわり、その円の中心にバッタリ倒れて、四肢《しし》を宙に浮かせて烈《はげ》しく虚空を掻《か》きムシるが如《ごと》くに動かしたかと思うと、クルリと起きなおって、
「ウオ、ウオ、ウオーン」
と、鼻に掛ったヘンに甘くカン高い音で、いやに長く尾を引いて鳴く。最初それは付近の道路を飛ばして行く、消防車か救急自動車のサイレンの音を真似《まね》しているのかと思ったが、やがてそれはわれわれがコンタをいつまでも仔犬のつもりで飼っていたための誤解であることが判明した。コンクリートのブロック塀《べい》一つ置いたお隣に以前からダックスフントの牝犬《めすいぬ》がおり、コンタは彼女が塀の向う側を通るたびに一緒になって、右往左往、塀のこちら側の植込みの陰を駆け足で走りまわっていたのであるが、時期がくるとそのダックスの牝が、女性特有の悩ましい限りの臭《にお》いを濃厚に発散していたのである。
犬に発情期が来るのは極くアタリマエの常識に過ぎない。しかし、いつの間にか家族の一員になっていたわが家のコンタに限って、そんなものはまだまだ遠い、遥《はる》かな将来に属する事柄であるような心持がしていたのだ。
「ヘンね、吉行(淳之介)さんの犬ならともかく、うちのコンタがこんなことになっちゃうなんて……」
と、女房は、犬は飼い主に似る、という例を持ち出して私の顔を疑わしげに眺《なが》めたりした。しかし、これは愚妻が、夫についても夫の友人についても、どんなに浅薄な誤解を積み重ねているかをサラケ出しているに過ぎない。第一、吉行の艶福《えんぷく》は吉行が常時発情していることだという、その発想からして大変なマチガイである。吉行は、塀越しに悩ましい女性の臭いを嗅ぎつけたからといって、決してあんなにブザマに七転八倒、庭をころげまわって、サイレンみたいな鳴き声を上げたりする男ではない。もっとスマートに、余裕を以て、都会的に悩む……。
何にしてもコンタにとっては、分厚いコンクリート・ブロックの壁の彼方から、モヤモヤと濃密な女性自身≠フ臭いだけが塀を乗り超《こ》えて侵入し、二六時中すっぽりとその中に包みこまれて暮すのは、まことにやり切れたものではなかったろう。生れて初めてのことだけに、体のなかに欲望が湧《わ》き起っても、何が何だかサッパリわからず、とにかくじっとしていると全身ムズ痒《がゆ》さに気も狂いそうになるから、もうムチャクチャにそのへんを駆けまわって、最後に一と声、腹の底から絞り上げて脳天まで突き抜けるように、高く長く、おもいっきり啼《な》いてみるしか仕方がなかったのであろう。
しかし、いくら断腸のおもいで嘆かれたところで、お隣のダックスフントがわが家のコンタの嫁にふさわしい相手でないことは、一目|瞭然《りようぜん》の事実である。もし何かの間違いでそういうことになったとして、まるで土管に手脚をはやしたような、ワニと犬との混血種のような紀州フント≠ェ、大きな図体《ずうたい》でノソノソと何|疋《びき》も這《は》いまわったりする事態が生じたら、私はもはやこの家から立ち退いて、犬の脚では追いかけられぬ三宅島《みやけじま》か何処《どこ》かへ移転しなければならなくなる……。いくらコンタが利口な犬でも、そこまでの想像力はそなわっておらず、無論私が言いきかせるわけにも行かないから、彼は相変らず庭の芝生を蹴散《けち》らして狂暴に駆けては、天を仰いで喉頸《のどくび》をわななかせながら長嘆息を繰り返すばかりだった。
もはや彼の頭には隣家の牝犬のことしかないらしく、一日中ブロック塀のそばにへばりついて、呼んでもこちらを振り向きもしない。それでも餌《えさ》を食う気持だけはあるらしく、飯時になると窓の下の敷石のところへ寄ってくるが、好物のヒキ肉をふんだんに入れた餌を盛ってやっても、鼻先でにおいを嗅《か》いだだけで、ぷいとそっぽを向き、
(おらア、メシなんぞ食いたかねえや)
と言うつもりか、ワザとのように、どたりと体を横倒しにして、頭の真後ろに口もつけない食餌《しよくじ》を置いたまま、寝ころんでしまう。しかし、彼は決して餌を見たとたんに眠気を催したわけではなく、単にわれわれに対するイヤガラセに退屈振って見せているだけだということは、すぐわかった。なぜなら彼は、四肢をつっぱったまま体を横たえながら、ときどき薄目をあけてソッと流し目にわれわれの方を見る、たまたまその眼がこちらの眼とぶっつかると、あわてて彼は目蓋《まぶた》を閉じ、スウスウ鼻息を立てたりしながら、熟睡しているフリを示すからだ。そんな素振りに、われわれが思わず吹き出したりすると、彼は屈辱を覚えるのか、憤然として塀の方へ駆け寄り、せめて愛人の臭いだけでも満喫しようと、孤独にも鼻ヅラをコンクリート・ブロックの空気ヌキの穴に差し込んで懸命に尻尾《しつぽ》を振っている。
そんなことが何日か続くうちに、彼は全然食器のそばへも寄りつかなくなった。朝の食餌はムナしく日にさらされて固くなり、真黒に蠅《はえ》がたかったまま夕闇《ゆうやみ》を迎え、新しく趣向を変えた餌を入れなおしてやっても、手つかずに翌朝まで持ちこされた。そしてコンタは塀の向う側に、空気ヌキの穴からダックスの姿が覗《のぞ》いて見えるときにだけ急に活発になり、あとは一日中ぐったりとした様子で、睡眠不足の眼をマブシげにしょぼしょぼさせながら、足どりもヨロヨロとよろけ歩いた。毛並みはパサパサになって艶がなくなり、肋骨《ろつこつ》が浮き出して、泥に汚《よご》れた尻尾だけが太くダラリと垂れている……。名前を呼んでやっても、たまにジロリと陰惨な眼で見返すだけで、主人の顔も完全に見忘れてしまっている。こちらから近づいて行こうとすると、彼は怯《おび》えた色を顔に浮べて、後退《あとずさ》りするのである。
私は、そんなコンタがもはや自分の愛犬という気がせず、家に迷いこんだノラ犬が貧相で不潔な色情だけをサラケ出して、目の前をうろついているように思った。
無論こんなことになったのは大部分、私が発情期の犬について無知だったからであり、仮にコンタの欲望を手近にかなえてやる相手が見付からなくても、私がもっと犬というものをよく知っていれば、こんなに彼を意気消沈させずに済んだかもしれない。前に飼っていたスパニエルは、ふだんからキャンキャン鳴いてばかりいて、まるで一年中発情しているのと同じ昂奮《こうふん》状態にあったから、とくにどんな変化があったとも気が付かなかったし、また戦前私が中学生時分には、いまほど取締りがウルさくなかったせいもあって、犬は飼っても半分野放しにしたままで、サカリがつくと犬は家を空けるものと最初からきめてかかっていた。それが、こんど犬を本格的に飼ってみて、初めて発情という動物につきものの事態に、現実的にぶっつかったわけだった……。それは、まことに異様なショックであり、これまで確実に健全であった我が家に不意にナマグサイ空気が漂い出す感じで、私は恰《あたか》も僧院の庭に男女のたわむれを目撃した修道僧の如き狼狽《ろうばい》と困惑とを覚えさせられた。
これは私の年甲斐《としがい》もないカマトト振りと申すべきであろうが、それにしても発情期にあたって、コンタほど激しくハンモンし、露骨に取り乱す犬も、珍しいのではなかろうか。コンラート・ローレンツという動物学者の『ひと犬に会う』という本によると、犬にはジャッカルの子孫とオオカミから出たものと二系統があり、家畜として早くから飼い馴《な》らされた犬は、大部分が前者に属し、例えばプードル、シェパード、テリヤ種、等々、いわゆる利口な犬はすべてジャッカル系である。これに反してチャウチャウ犬、ライカ犬など、オオカミ系の犬は野性で、獣的であり、人間になじみにくく、容易に野性にもどるらしい……。私はチャウチャウ犬は見たことがないが、短い耳がピンと立ち、頬骨《ほおぼね》の張った幅広の顔に、斜めに切れた眼が光り、尾は太く毛深く比較的短いのがついている、といった説明書きは、いちいち我が家のコンタに当てはまることばかりだ。紀州犬が日本犬のなかでも特に原種の犬の特色をよく残しており、その点、秋田犬、土佐犬など、大型日本犬はマスチーフか何かの洋犬と混血させてつくったもので、純粋の日本犬とはいえないということは、以前からしばしば聞いていた……。これを要するに、紀州犬はオオカミ系であるか、もしくはそれに最も近いものと言っていいのだろう。
『ひと犬に会う』の著者はジャッカル系よりもオオカミ系の犬を断然愛好しているが、その理由としてジャッカル系の犬はあまりに家畜化され、人間に近づき過ぎて動物の本性を失っていることを上げ、自分が子供の頃に初めて飼ったダックスフントが非常に利口な犬だったにもかかわらず、どんな人間にもすぐなついて結局、本当の主人は誰かという犬として最も大切な判断力が完全に欠けていることがわかったという……。それ以来、ジャッカル系の犬に失望した著者は、オオカミ系の犬ばかり飼いつづけているのであるが、オオカミ系の犬が知能的にジャッカル系に劣っているという一般の説は誤りで、ただジャッカル系は人に馴れやすく、オオカミ系は馴れにくいという違いが、そう見えるだけだと述べている。これには私も大いに同感で、洋犬が利口で聞き分けがよく文明犬であるのに、日本犬は喧嘩《けんか》早くて乱暴でヤタラによその犬に噛《か》みついては忠義顔をして馬鹿な奴《やつ》だという風評は、要するにジャッカル系とオオカミ系の犬の相違を自己の日本人的劣等感や舶来上等趣味に結びつけて出来たものに過ぎない。
話が脱線しかけたが、私の言わんとするところは、いかにコンタの発情ぶりがオオカミ的で、犬にしてもいささか常軌を逸したものかということだ。実際、彼が隣家の年増《としま》のダックスに恋慕して身も世もなく嘆くさまは、銀座のバアのホステス嬢に一と目でコロリといかれてしまう山出しの青年さながらで、「ここは、あんたなんかの来るところじゃないわ」と軽くイナされると、ますます思いがつのり、店の前まで来ても扉《とびら》を押して飛びこむ勇気も金もなく、ウロウロと往《い》ったり来たり、というのがブロック塀の前を朝から晩まで、とぼとぼと歩きつづけるコンタの姿であった……。こうなると彼の耳には、人間の言うことは、たとえ主人の私の言葉でさえも、まったく受けつけない。しかも彼は決して聞きわけや分別を失ったわけではなかった。人間の言うことには耳をかさないだけで、犬としての礼儀や分別はちゃんとわきまえて、不断以上にやさしく、塀の向う側にクンクン、と聞くも憐《あわ》れな甘い鼻声で囁《ささや》きかけている。
そういうコンタの完全に人間の世界を逸脱して犬の本性に立ち返った姿が、私の眼には露《あらわ》に獣的なワイセツなものに映り、これがついこの間まで家族の一員同様に暮していた奴のすることか、と思うとギクリとなって、周章狼狽させられるわけだ。
コンタのなかに、われわれ人間の踏みこめない犬≠フ心を感じたといえば、前にも一度こんなことがある……。それは彼を戸外の散歩に連れ出すようになって、一と月ぐらいたった頃だから、つまりコンタはやっと生後半年になるかならずの幼犬だった。朝早く、まだ六時前に多摩川へ連れて行き、人っ子ひとりない河原《かわら》で綱をはずしてやると、コンタは一目散に草藪《くさやぶ》の中に跳《と》びこんで、無我夢中で駆けまわる。それを見るのがどんなに愉《たの》しいかということは、犬を飼った経験のない人にはわからない。コンタの尾は巻き上がっておらず、いわゆる指し尾で――これが大部分紀州犬の特色の一つであるが――オオカミ同様、尾の先で自分の眼の届かぬ後方のものを敏感に察知し、警戒の役目を果す。白毛に覆《おお》われたコンタが枯草色の叢《くさむら》の中を、全身がバネになったように一直線に素っ飛んで行く。そのときピンと垂直に立てた強靱《きようじん》な尾だけが叢から覗き、先端のパッと開いた尾のさきをクルクルと風車のように回転しながら、見る見る遠ざかって小さくなって行くのは、まるで旗差し物の騎馬武者の突進する感じで、爽快《そうかい》とも何とも言いようがない。
そのときも朝もやの棚《たな》びく河原を、まっしぐらに走って行ったコンタのあとを追って、私はゆっくりと歩いた。見失いかけた犬の姿を探《さが》しながら丈《たけ》の高くのびた雑草の繁《しげ》みの中から、ふと猫の鳴き声がして、見ると一疋の白ブチの猫とコンタが真正面から睨《にら》み合っている。両者の間隔は一メートルもあるかどうかだ。私はシマッタと思った。犬と猫とでは、体力は無論犬の方が強い。しかし一般に猫の性格は犬よりも獰猛《どうもう》であり、必ず眼を狙《ねら》って跳びかかるから、仔犬はとくに目玉を猫の爪に引っ掻かれて白目になり生涯|治《なお》らない……。おまけに河原で立木一本ない草の藪だから、猫は何処《どこ》にも逃げ場がなく、大きく見ひらいた眼でコンタを必死に睨みつけ、コンタはまた幼稚な顔つきながら負けずにそれを睨み返している。私が両者の間に割って入ろうにも、叢の中を三メートルほども距《へだ》たっていては、それは不可能であり、間に合うはずがない。そう思った瞬間、猫は心持ち体を後へ退いた。丸まった猫の背筋に引き絞った弓のような弾力が感じられ、いまにも地面を蹴って全身でコンタの顔に跳びつこうとしている。私は、両眼から血を流しているコンタの顔を想い浮べ、ハッと眼を逸《そ》らしかけたとき、閃光《せんこう》のように白い獣の体がもつれ合うのが映り、一瞬後には、もうコンタの両の前脚がガッシリ猫の胴体を抑《おさ》えこみ、頸筋《くびすじ》に噛みついて、同時にそれを激しく左右に振り廻すのが見えた。
――やったぞ。私はホッとして、コンタの無事を祝ってやりたい気持がしたが、それは束《つか》の間《ま》のことだった。
頸筋をコンタに咬《か》まれ、まるで襟《えり》くびを掴まえられて力まかせに引き据えられる恰好《かつこう》になった猫は、ぐったりとなって四肢を垂らし、体の重味で背中の皮だけがゴム布のように延びている。それはコンタが口に咥《くわ》えて激しく首を振るたびに、ぶるんぶるんと震えながら遠心力が加わって一層延び、見る見るうちに猫の体の白い毛に覆われた部分が灰色に変って行った。間違いなしに、猫の生命はその瞬間に、消え失せて行った。ひと気のない河原の藪の中で、それはまったく燈《ともしび》が風に吹き消されるように、音もなしに眼の前でスウと消えてしまった……。コンタが口に死んだ猫をブラ下げたまま、前脚をぐっと踏ん張り、胸を張って、眼をギラギラと光らせるのを見て、私はアッ気にとられると同時に、背中に悪寒《おかん》のようなものが走るのを覚えた。しかし、それはまだ序の口であり、私が本当に胸のムカつく気分の悪さに襲われるのは、それから後だった。コンタは胸を反《そ》らせ、ふと仰ぐように顔を上に向けたかと思うと、猫の死骸《しがい》をポーンと空高く、十五メートルほども前に放り投げ、落下地点を目掛けて突進すると、またその死骸を遠くへ放り投げる。
「おいコンタ、よせ」
私は、空を弧をえがいて飛んで行く黒い猫に怖ろしいものを感じ、思わず大声に呼んだ。死骸はもう硬直が来ているらしく、四肢が揃《そろ》って真直ぐのび、まるで横臥《おうが》したままの猫が黒い影になって天から降って来る感じだった。
「よせったら、よせ。よさないか、コンタ」
私は必死で呼び止めたが、コンタは全然耳をかさず、嬉々《きき》としてこの残酷なフットボールの遊戯に夢中になっている。ときどき遠くの方で立ち停《どま》ってこちらを振り向くが、コンタは猫を銜《くわ》えたまま首をかしげ、主人が真赤な顔をしてドナったり叫んだりしているのを、さも不思議そうに眺めては、また猫を放る……。私はシンから怒りがこみ上げ、長い棒切れを拾うと、なりふりかまわずそれを振り廻しながら、広い河原を駆けめぐって追いまわし、三十分くらいかかって、ようやくコンタを取り抑えた。
このとき、コンタはたしかに一時的に野性動物にかえっていたに違いない。とにかく、それ以来、私はめったにコンタを河原で放してやれなくなった。大きくなるにつれて彼は、水鳥や魚を追いまわすことを覚えたのはいいが、川の岸辺《きしべ》のコールタールのようなヌカルミの中へも平気で踏みこんで、全身を油と泥で真黒に汚《よご》してしまうし、何よりも困ったことにいったん私の手許《てもと》から遠くへ離れると、いくら呼んでも振り向かないクセがつき、三十分でも一時間でも気がすむまで突っ走ってからでなくては戻って来ないようになったからだ……。猫の死骸のフットボールに興じているコンタを追いかけたとき、私はよほどこの犬を、このまま打っちゃって手放してしまおうかと思った。しかし、そうするとこいつはまた河原の何処かで猫を見付けて引きずり出し、こんどは腹の内臓を食い破って口のまわりを血だらけにしはしまいかと考えると、何としてでも掴まえて我が家へ引っぱって帰らなければならぬ気がした。それは責任感でも、愛情でもなく、私はただ端的な恐怖心から、自分の犬を手許につれ戻さずにはいられなかった。あのとき私自身も多分、いつもとは顔の形相《ぎようそう》が変っていたかもしれない。河原から帰るのをイヤがって、道路の真ン中で前肢を踏んばり、腹を地面にすりつけたりして動くまいとするコンタを、私は無理矢理ひきずり、首環が頸からずり抜けそうになるほど強く綱をひっぱって家へ帰ると、主人の言うことをきかず、噛み殺した猫をオモチャにして遊んだ罰に、そのままコンタを小舎《こや》の中に押し入れ、外から鍵《かぎ》をかけて閉じこめてやった。
憶い出すと、あのときもコンタは二日ばかり餌を食わなかった。小舎へ閉じこめたのは一日だけで、翌日からはまた庭へ放してやったが、それからしばらくの間コンタは家族の誰にも関心を示さず、血走った眼を虚空に向けて、一日中庭の隅でボンヤリしていた。そんなコンタの顔には、もう幼犬のアドケなさは何処にもなく、眼のまわりから鼻筋へかけて何となくドス黒い影みたいなものにクマ取られ、眼に残忍な光をたたえて、ポツネンと坐っているところは、言いようもなく陰鬱《いんうつ》な不潔なものが漂い、コンタ自身にもそのことが直感的にわかって、ひどい自己嫌悪に身動きもならず悩まされているといった風だった。
犬に自己嫌悪があるか、と疑う人もいるだろうが、実際それはある。少なくとも彼等は主人に自分がどう見られているかについては想像以上に敏感であり、少しでも自分が嫌《きら》われたという感じがすると、たちまちその反応は全身にあらわれる――。また脱線になるが、「小説新潮」の編集をやっている丸山さんはこんど近藤啓太郎からシバ犬の仔を譲り受け、目下可愛い最中で、拙宅に来られても原稿の催促にも劣らぬ熱心さでシバの仔犬の話になる。それは私も望むところだから何や彼《か》や先輩ぶって日本犬の特質のことなど談じこむことにもなるのだが、ふと気が付くとコンタの姿が見えない。以前は丸山さんが拙宅に見えるたびにコンタは、庭の敷石に坐ったままガラス戸の隙間《すきま》から顔をつっこみ、敷居にアゴをのせて、私と丸山さんが文壇のよもやま話や楽屋裏のことなど話している間、じっと傍《そば》で耳を傾けるようにしていたものだ。それが丸山さんが自分の飼い出したシバ犬のことを話しはじめると、とたんにコンタの顔がひっこみ、私が外を覗《のぞ》いてみると彼は戸袋の下の植込みに囲まれた狭苦しい地ベタの上に、べたりと小さくなって這いつくばり、物悲しげな眼をチラリと上げて、私の顔を恨みっぽく眺め、また怯《おび》えたように俯向《うつむ》いてしまう。これは一度や二度のことではなく、丸山さんが来られるたびにコンタはしおたれた様子になって同じ場所にシケこんでしまうのである――。犬には多少とも人間の言葉を聞きわける能力があるが、とりわけ自分のことを話されているときと、そうでない話とは、じつに鋭敏に嗅ぎ分ける。主人が無意識に「イヌ」といっただけで彼等は耳をピンと立て眼をかがやかせるのは、極く普通のことだが、同じイヌでも丸山さんの話すイヌは自分のことではない、とコンタは気が付き、そのよその犬のことを主人が一緒になって愉しげに話しこんでいるのが、コンタには堪《たま》らなく悲しく、不安でもあったに違いない。
この犬の嫉妬《しつと》深さは、勿論彼等の主人に対する忠誠と同じ情緒の裏表である。ところでヨリ野性的なオオカミ系の犬が特定の誰かに忠実なのは、彼等が昔集団行動をとっていた時代の習性が性格になって残っているからだという。集団生活ではリーダーを選び彼に服従することが不可欠の要事であり、その習慣を人間に飼われるようになってからもオオカミ系の犬はまだ失わずに持っており、一方はやくから人間に飼われて家畜になったジャッカル系の犬は、原始の集団生活時代の習慣から脱け出して、特定のリーダーに見棄てられても、他にいくらでも代りのリーダー(主人)がいるということから、忠実さも失われたというわけだろう。しかし、比較的忠実さがないといわれるジャッカル系の犬でも、嫉妬心だけはオオカミ系に負けないほど旺盛《おうせい》なのはなぜだろう……。これは要するに、彼等がおしなべて常時不安な生活を送っているからに違いない。一箇の特定のリーダーから、不特定多数のリーダーに代ろうと、犬の日常が絶えず見棄てられる不安につきまとわれていることに変りはない。いや、誰を主人ときめることが人間の社会では無意味だと悟っているだけに、ジャッカル系の、とくに愛玩犬《あいがんけん》のストレスは激しく、不安は大きい。それに彼等は、いくら文明的になり、たとえばシェパードなどのように、いくら利口になってみたところで、結局人間の家族同様に扱われるのが関の山で、どんなに努力しても、たとえ浅草の観音さまに百日|詣《もう》での願を掛けても、犬が人間になれないことは、落語の「もと犬」にもある通りだ。
どっち途《みち》、すべての犬は不安であり、それは彼等が家畜という、動物とも人間ともつかぬ不安定な境界線上で、毎日を送っていることから来る。家畜といっても、ブタや食肉牛のように生きた食料品として飼われるものや、猫のように元来、群れをつくらず、独《ひと》りで餌をあさって暮してきた動物には、こんな不安はない。しかるに犬は、これらと違って、集団で行動した彼等の祖先の生活のパターンを人間の社会や家庭にアテはめ、同じ集団社会のつもりで暮してきたから、どうしたって動揺する……。昔、坂口安吾氏が座敷で飼っていたコリーは、屋敷の中を牧場とカン違いして育ったために、自分は人間以外の何者でもないと思い込んでいたところ、夫妻の間に赤ちゃんが生れるに及んで、家族の愛情も関心も赤ちゃんに集中したことを悟り、嫉妬のあまり赤ん坊を食い殺そうと、夫妻の眼を盗んでベッドの中に首を突っ込んだが、アワヤというところで見付かったという話は、まえにも述べた。
これは坂口家のコリーに限ったことではない。人間と一緒に暮して、すっかりその気になっていた犬が、どうかした拍子に自分が犬だと気が付くと、その動揺や意識の混乱は甚大《じんだい》であり、絶望的に苦しむ。つまり、犬は自分が犬であることに、耐え難い自己嫌悪を覚えることになる。
朝の散歩で猫を殺したコンタが、それから二三日、餌も食わず、黒いクマどりの出来たような顔をして、まったく孤独に陰鬱にすごしていたのは、自分が犬であるということの自己嫌悪と、もっと犬らしい犬でありたいという願望との、二律背反の欲求不満に悩まされていたためであることは、ほとんど疑う余地がない。じつのところ私が、イヤがるコンタを無理矢理、河原で引っ捉《とら》え、家へ引きずって帰って来たのは、何よりもコンタが犬≠セという現実を見せつけられたことが、奇妙に淋《さび》しく怖《おそ》ろしいことに思われたからである。そういう主人の動揺や困惑が、そのままコンタの内心に反映したものと考えて、まず間違いない……。とはいうものの、コンタの衝撃がこれほど大きく、これほど神経質な犬だったとは、意外であった。やがてコンタの充血した眼も澄み、くろずんだクマもとれて、もとどおりの穏和な優雅な顔に戻った。そして私も、いつとはなしにそんなことがあったのも忘れていたのだが、それから四五箇月ぶりに、この陰惨な記憶を蘇《よみがえ》らせたのが、こんどの彼の発情≠ナある。
私は、Sさんに電話して相談を持ち掛けたが、いざとなると、この事情を一体どうやって訴えるべきかに迷った。要するに、コンタの嫁さんを探してくれといえばいいのだが、それがどういうものか口から出ない。こんな羞恥《しゆうち》心は馬鹿げているが、馬鹿馬鹿しいだけに克服しにくいところがある。うしろから女房が、「何をマゴマゴしてるのよ、もっとシッカリしなさい、シッカリ……」と、口うるさくシッカリ、シッカリ、とそればかり連発するので、そのたびに何をシッカリせよというのか、と考えたりして、ますます逆上してしまう。それでもSさんは、どうやら私の言わんとするところを飲みこんで、
「ようがす、うちのゴローもおたくのコンチャンと同いどしだが、そろそろ交尾に使ってもいい条件になって来たところですが、そりゃコンチャンは体もでかいだけ、うちの子よりもマセてますな……。わかりました、早速《さつそく》手配しますから、コンタも体力をつけるように」
と、はなはだ職業的に理解を示し、かつ迅速《じんそく》適確にこたえてくれた。それを聞くと私は一応、心の荷が下りるのを感じ、心なしかコンタまでが急に落ちつきを取り戻した様子で、これまでのようにブロック塀の前にへばりついていても、呼んでやると、すこし足元をフラつかせながら、まっすぐ庭を横切って私のところへやってくる。それが何となくイソイソとした様子で、餌の食い方まで急に元気になってきた。
Sさんが、牝の紀州犬を連れた人と一緒に、ライトバンに乗ってやって来たのは、一週間か十日ぐらいしてからだ。前日に電話の連絡があったから、その日のひる過ぎ、家の前に自動車の止る音がしただけで、Sさんたちだということがわかった。私は遅い昼飯を食いかけたところだったが、自動車のエンジンが鳴りやみ、バタンとドアの音がすると、思わず箸《はし》を置いて、女房と顔を見合せた。
「来たわ……」
と、女房が立ち上った瞬間、私は心の中で、シッカリ、と自分自身に言いきかせた。しかるに、こんどは女房の方が椅子の下のスリッパを左右、まちまちの色違いのを突っかけ、眼をキョロキョロさせながら、
「どうしよう」
と、おろおろ声に言った。
「どうしようも、こうしようも、あるもんか、タカが犬の交尾だ」
私は、そんな風に言い捨てると、飯はそのままにして飛び出し、Sさんたちを木戸から庭へ案内した。Sさんは、禿《は》げ上った額を秋の日射《ひざ》しに光らせながら、
「ヤア、ヤア、どうも……」
と笑いかけたが、その顔つきが不断と違って何となく儀式めき、私は祝言《しゆうげん》の口上でも聞いているような気分になり、Sさんの後ろにジャンパーを着た人にひかれた牝犬を、落ち着かぬおもいで眺めた。牝だけに、やはりグッと小ぶりの犬で、見たところ体重も身長もコンタの七割ぐらいしかない。そのかわり毛並みは、年中庭で泥だらけになって遊んでいるコンタと違って、全身薄クリーム色の豊かな毛に覆われ、いかにも粧《よそお》いをこらした淑女の、何か冷然とした雰囲気を漂わせている。私は、傍で泥まみれの尻尾をウレシ気に振っているコンタがふと憐《あわ》れになり、
「ずいぶん、お手入れがいいですなア」
と、いくぶん底に嘲笑《ちようしよう》をこめて、ジャンパーの人に言った。
「はア、巣の中にオガクズを入れて、毎日新しいのと取りかえてやりますから……」と、その人は頬《ほお》を赤らめながら素直にこたえた。「わたくしンところは家具屋で、オガクズはいくらでも出ますから、三頭いる犬の巣はみんなオガクズを敷いてやるんです」
「へえ、オガクズねえ」
私は、それを聞くと、いくらか安心し、その人のズボンの股《また》の間から鼻先を覗かせている打ち解けぬ表情の牝犬にも、冷たい気取りよりも、よその家へ初めて上りこんだ緊張と遠慮深さとを感じた。それにしても私は犬の交尾というものを、心をとめて見たこともない。子供のころには道傍《みちばた》で何度もその光景にぶっつかったが、犬は勿論のこと、周りの大人や子供たちも、全体に殺気立ち、キャンキャンと悲鳴に似た犬の吠え声に混って、
「おいバケツだ……、水、水……」
などと叫ぶ大人の声が、ただ怖ろしく、ムゴたらしい感じがするばかりだった。この印象は、後に性欲の何であるかを理解するようになってからも続き、動物の性行為に好奇心をそそられたことは、ほとんどない。無論、いまの私には、それに対する恐怖心などありはしないが、一切が頗《すこぶ》る漠然と不安である。
「いったい何処でナニしますか」
私は、犬に踏み荒され、あちこち剥《は》げかけたまま黄ばんだ芝生や、その片隅《かたすみ》の物干し場や、紙屑《かみくず》を燃やすための穴ボコや、葉にムシのついた生垣《いけがき》や、大小|不揃《ふぞろ》いの植込みや、いつも見慣れた景色を眺めまわして訊《き》いた。それは、いま見ても全然、清らかでも、きれいでもない、ただの庭ともいえない庭に過ぎない。ただ、それは住居の一隅《いちぐう》であり、私のこれまでの四十数年間の日常生活の延長上にある何かではある。
「何処だっていいでしょう。何処だって出来ますよ、場所はかからんです」
Sさんは無造作にこたえた。当然である。たしかに場所は、これだって広すぎる位だ。しかし結局Sさんが選んだのは、西側の、家から少し凹《へこ》んだ一隅で、不断から何となく目に付きにくいところだった。隠れるという本能的なチエは、やはり何処かでわれわれの内部にはたらいているに違いない……。だが、ふと気が付くと、いつも昼間は開け放しにしてある部屋の障子が、どこもここも閉め切ってあったのには、私は噴《ふ》き出さざるを得なかった。
「おい」
犬はSさんたちにまかせて、私は部屋に上ると、何となく声を掛けた。女房は食堂の椅子にボンヤリした顔で坐っていた。私の食べ掛けた食器は片付けられて、食卓の上には何もなく、いかにも空白な感じだった。
「どうなってるの……」と女房は訊いた。
「どうなってるも、まだこれからだ。それより障子なんか開けろ。開けてあったって別に、ここからは見えやしないんだ」
私はイラ立たしげに言って、また庭へ下りた。下りたって何もすることはないが、部屋の中で明らかに擬似的母性愛に陥っている女房の暗然とした顔と、自分とが顔をつき合せて坐っているのは、たまらない。しかし私も、自分のなかに同じ愚劣な父性本能がうごくのを感じ、それを否定するには、やはりコンタの交尾ぶりを見て、冷静に観察出来るようでなければならないはずだと、Sさんたちの方へ行った。ひとりでに足音を忍ばせる歩き方になって、西側の家の壁の切れたところまで行くと、突然そこにポカポカした日溜《ひだま》りの静寂さが漂い出していた。
コンタは尻を牝犬の方に向け、さんさんと降りそそぐ日を浴びながら、眼を心持ちマブシげにあけたまま、マツ毛一本うごかさぬ静かな姿勢で立っている。牝犬の方は体が半分日陰に入り、頭を下げ気味に黒い地面を見つめる恰好だが、静かなことはコンタと同じで、全身微動もしない……。そこにはワイセツなものも、殺気立ったあらあらしさもなく、静かな生命のいとなみだけがある。
「うまく行ってます」
近づくと、Sさんは囁《ささや》く声で言った。私もそれを確信した。それにしても、もう一つ私を驚かせたのは、そのいとなみの長さだった。私はSさんの傍にしばらく立っていたが、二疋の犬が尻を向け合ったまま黙ってジッとしているだけの光景は、それ自体、当事者以外の者には無関係な退屈なものでしかなかった。堪りかねて私は訊いた。
「あとどれぐらいかかる」
「そうね」とSさんは、禿げ上った額に汗を浮べて悠然《ゆうぜん》とこたえた。「まだ、あと十五分ぐらいかね、いや二十分ぐらいかかるかな、はじめての時だと、やはり長くかかるだヨ」
私が誰彼となく、紀州犬の仔犬を贈る約束をして廻ったのは、その晩からである。犬の交尾というものに私は感動し、センチメンタルになっていたのであろう。それ自身は平凡であっても、私にとっては新しい経験だった。交尾のおわったあとでコンタはいかにもオスらしく勇壮になり、それにメスが媚《こ》びるようにじゃれつくのも、自然な健康な眺めであり、犬が犬であることの幸福感があたりに横溢《おういつ》して感じられた。
「いいですね」と、ジャンパーの人は言い、「きっといい仔がとれます」と幸福そうに笑った。
オス犬の持ち主は、生れた仔犬のなかの一番気に入った一疋を貰《もら》う権利がある。そういう習慣も私には気持が好かった。それを貰わないとすると、交尾料というものが支払われる。それは私も知っていたが、無論私は仔犬を貰うことにした。するとジャンパーの人は、口ごもりながら言った。
「それでタマゴリョウの方は……?」
「え?」
訊きかえすと、相手はポケットに手を入れかけて、
「玉子料」
という。つまり、それは交尾についての一種の損料だった。私は何かがっかりすると同時におかしくなり、コンタの頭を撫でてやりながら、ささやいた。
(おいコンタ、お前は人間と違って大したもんだなア。何から何まで、おれたちとは逆じゃないか。それともおれたち人間のやっていることの方が、何から何まで間違ってるのかなア――)
残念ながら、そのときはメス犬が発情日を二三日すぎているとかで仔犬はとれなかった。そして、それ以後、まだコンタはこんにちまで無邪気に独身生活を送っているのである。
あとがき
先頃、近くに住んでおられる加藤周一氏から電話があり、
「じつはね、君んとこの犬ね、あれと同じ種類の犬が何とか手に入らないものですかね」
という。こういう依頼をうけた気持は、犬を飼ったことのない人には、たぶんわかるまい。それは子沢山の人が、娘を嫁にくれ、とか、息子を養子にくれ、とかいわれたときと幾分か似たような心持であろう。勿論《もちろん》、嫁にくれの、養子にくれのといわれた場合は、将来のことやら、親の責任感やら、いろいろと気がかりなことが多く、必ずしも芽出たい気持にはならないだろうが、同種の犬の子を世話してくれといわれた場合は、ひたすら同属がふえたような、一種たのもしげな愉快な気分になるのである。
本文中にもしるしたとおり、犬はたしかに飼い主に似るし、犬には飼主の心がそのままうつってしまうようなところがあって、犬をほめられると飼い主はむしろ自分自身がホメられたよりもうれしくなる。また、その逆も真であって、自分の犬をケナされると飼主はわけもなしに傷ついてしまうのだ。無論こういうことは、幼稚で大人げない反応というべきであろう。しかし奇妙なことに、人間は年をとるたびに、こういう面では、幼稚に愚直になって行くらしい。私自身、子供の頃には自分の飼っていた犬をケナされようとホメられようと、そんなことで傷ついたり喜んだりしたおぼえはない。しかるに、いまの私は五十をこえて、散歩の途中、自分の犬に声をかけたり、お世辞をいってくれたりする人がいると、その日一日じゅう、晴れがましいような幸福な気分になるのだから、おかしなものだ。
これは老化現象といえば、そうに違いないが、何よりもわれわれは年とるにつれて孤独になって行かざるを得ないということがあるからだろう。そして犬は、元来、集団動物であるのにムレから離されて人間社会に連れてこられたために、つねに孤独なのである。その点、トラの同類であるネコは、先祖代々ジャングルで孤立した生活を送ってきたから、孤独に慣れて淋《さび》しがるということはない。私と同年輩の友人に毎晩、犬をふとんの中へ入れて一緒に寝ているという男が二人いる。彼等はべつに名犬を飼っているわけでもないし、いわゆる犬気ちがいでもない。彼等に共通しているのは、二人ともジャーナリストで、子供がいないことだ。毎日、外で大勢の人間と接することが仕事だが、家へ帰ると待っているのは犬だけなのだ。私は、この二人に、べつべつのところで、
「こんど飼うなら紀州犬にしろよ」
すると、二人とも、まるで口裏を合せたように同じことをこたえたものだ。
「しかし、いま飼っている犬に死なれると、この次の代には犬より先きにおれが死ぬかも知れないからなァ」
無論、犬の寿命は人間よりずっと短い。だいたい七、八年から十二、三年といったところだろう。だが、五十を越すと人間も、犬とどっちが長生き出来るかわからないというわけだ。
いま私のところで飼っている紀州犬のコンタは、昭和四十一年八月の生れだから、そろそろ八歳になる。仮に人間の年齢にアテはめると、だいたい私自身と同じぐらいの年恰好《としかつこう》になるだろうか。それだけに、この犬がだいぶ老いぼれてきた様子を見るにつけ、私は自分の年齢を憶《おも》い出して、何か気のせく想いにかられずにはいられない。
この『犬をえらばば』は、コンタが満一歳半になった頃、当時「小説新潮」の名物記者だった丸山泰司氏のすすめで、同誌に一年間の連載で書いたものだ。あれからでも、もう六年たっている。あの頃、丸山さんは毎月、拙宅に原稿の催促にこられるたびに、近所となりにも聞えるような大声で、コンタのことをいろいろと讃《ほ》めそやされたものだ。大方、そのほうが私の原稿がはかどると思われたからであろう。そしてコンタは、丸山さんによくなついていた。ところで、それから暫《しばら》くして丸山さんは近藤啓太郎の世話でシバ犬を飼いはじめた。そして、私の家へこられるたびに、そのシバ犬のことを、やはり大声で、いろいろと嬉しそうに語られるのであった。すると、これまであんなに丸山さんによくなつき、丸山さんがくるたびに尻尾《しつぽ》を振って庭からガラス戸ごしに顔を覗《のぞ》かせたりしていたコンタが、急に態度をかえて、丸山さんの顔を見ただけで逃げ出したり、丸山さんがいつまでも話しこんでいると、尻尾をたれてションボリと庭の隅《すみ》の方へ行ってうずくまったりするようになった。コンタは自分が丸山さんに見限られたものと思ってしおたれていたのであろう。
このように、犬は人語を解するし、まして非常に嫉妬《しつと》ぶかいから、自分以外の犬がホメられているのをきくと、敏感に反応するのである。
丸山さんは、その後、間もなく新潮社をやめられたが、七十をこえてなお矍鑠《かくしやく》と週刊誌の編集に活躍しておられる。五十をこえたぐらいで、次に飼う犬とどちらが長生き出来るかわからないなどとボヤくのは、まだ早過ぎるであろう。
昭和四十九年三月
安岡章太郎
昭和四十四年一月新潮社より刊行
昭和四十九年四月新潮文庫版が刊行