安岡章太郎
犬と歩けば
目 次
散 策 独 言
喧嘩とコンクール
猫の声、人の声
犬にも劣る……
動物愛護について
万 病 の 薬
怕いお辞儀
逃げられる話(上)
逃げられる話(下)
動物園の憂鬱
ペットの情念(上)
ペットの情念(下)
犬 と 敗 戦
ハチ公の想い出
バルセロナの白ゴリラ
ヨーロッパは変ったか
ところ変れば
犬とタバコと原爆と
雁と鴨とについて
不釣り合いなペット
消えた馬屋
正月・酒・誕生日
コンタの上に雪ふりつもる
静かな激写
「狗子図」の仔犬
第二の犬(上)
第二の犬(下)
或 る 悔 恨
教育について
おのれを知ること
最古の友情
あ と が き
散 策 独 言
私は、十数年前から一頭の犬を飼っており、他にこれといった趣味もないせいもあって、この犬をつれて朝夕、近所を散歩するのが唯一の趣味らしいものになっている。
犬の種類は紀州犬、毛並みは少し茶がかった白で、名前はコンタ、こういうと「ああ近藤啓太郎さんのところから来た犬ですね」と、よくいわれるが、これは正確ではない。たしかに、これは近藤にすすめられ、その世話で買った犬だから「コンタ」と命名したのだが、当時近藤自身が飼っていたのはシバ犬であって紀州犬ではなかった。それが、私のところで紀州犬を飼いはじめると、間もなく近藤自身、牝牡二頭の紀州犬を飼うようになり、やがてそれが繁殖して、あっちこっちで近藤のところで生れた犬が飼われるようになったというわけだ。
ま、そんなことはどうでもいい。だいたい、私のところのコンタと、近藤のところの初代の牝犬ヒメとは同時に同じ母犬から生れた同胎だから、顔つきも性質も良く似ており、知らない人はこれが近藤のところから来たと思うのも無理はない。
それにしても、早いものだ、私がこの犬を飼いはじめたのは、東京オリンピックの翌々年、つまり昭和四十一年の秋である。その頃、コンタは生後二箇月であったから、ことしの八月で満十四歳を迎えることになる。そして私自身はこんどの五月三十日が還暦であるから、逆算すると当時は四十六歳であったことになるわけだ。
私は、この犬が初めてわが家へ連れてこられたときのことを、まだ昨日のことのように憶えている。かなりの距離を自動車でゆられてきたせいで、車から下されると、しばらく庭の芝生の上でグッタリと這《は》いつくばっていたが、「おい、どうした」と声をかけてやると、急にシャンと立ち上って私の顔を見上げ、それから人をからかうように横っ飛びに、ぴょんぴょんと、すっ飛んでみせた。この跳躍力が紀州犬の特色だというのだが、それは妙にこましゃくれた感じであった。こましゃくれたといえば、この犬は最初から仔犬らしい鳴き声は立てたことがない。普通、母犬からはなされた仔犬は、三日間ぐらいは母親をしたってキャンキャンとうるさく鳴きつづけるものだが、この犬はあきらめが好いのか、ふてくされているのか、小舎の囲いの中で前肢を揃えて坐ったまま、まるでお稲荷《いなり》さんのキツネのように身動き一つしないのである。
私は、あきれて家の中に入り、ことによるとこの犬は唖《おし》ではないか、知恵おくれかもしれぬなどと、女房と話し合っていた。やがて日が暮れて、かれこれ八時ちかくになった頃、突然、「ウオー」と、聞きなれぬ妙な声がして、私は女房と顔を見合せた。
「何だ、あれは。たしか犬小舎の方から聞えてきたな」
「まさか、仔犬があんな声で鳴くものですか」
しかし、そう言っているうちに、またしても「ウオーオオオオーン」と、山犬の遠吠えのような野太い声がきこえてきた。私が戸をあけて、庭の隅を覗《のぞ》くと、金網の向うで、あの仔犬が喉《のど》をのけぞらせるように口を開けて鳴いているではないか。
「やっぱり、あいつだぜ、驚いたな」
言いながら、私がパンと牛乳を持って行ってやると、犬はうれしそうに小さな尻尾を振って、ぴしゃぴしゃと音を立てながら牛乳を飲み出した。それはコンタが初めて見せた仔犬らしい表情であった。
そのコンタが、いまやすっかり老いぼれて、毛艶《けづや》もめっきり悪くなり、一日じゅうウトウトと眠ってばかりいるのを見ると、私自身も年とったことを思わずにはいられない。
犬の一年は、人間の五、六年に当るらしいから、十四歳のコンタは、人間なら八十歳前後ということになるだろう。一方、私の方はもう少しで六十歳になるところだが、十四年前の自分がどんなであったかと考えると、どうもハッキリしたイメージは浮かばない。白髪もいまよりは少かったろうし、歯もムシ歯はあったが入れ歯はなかった。しかし、だからといって当時の私が、とくにいまより若々しかったとも思えないのである。いや、そんなことより、この十四年間、自分がいったい何をやって暮らしてきたかと思うと、朝夕、近所のほぼ同じコースを犬を連れて歩きまわったというだけで、その間に何の進歩も変化もなく、甚だムナしい心持がするのである。このぶんでは、私が仮りに八十歳まで生きるとしても、今後の二十年はやはり一日の如くに過ぎることであろう。
もっとも、こんな風に考えるのは、あまり犬に付き合いすぎるせいかもしれない。人間の社会は、この十四年間は必ずしも平穏無事ではなく、ニクソン・ショック、石油ショック、円高、円安、まことに天下大乱、物情騒然として、一日として平和なときはなかったかのようである。このぶんでは西暦二〇〇〇年まで、地球そのものが保つやら保たぬやら、いかなる賢人にもシカとはこたえられないくらいであろう……。かくいう私も、外見は至極のんびりと怠け者をきめこんでいるようであっても、内心では結構あくせくと懊悩《おうのう》し、心に想い患うところは人並み以上のものがあるのだ。そして、コンタを引っぱって歩きながらも、絶えず口の中で、ぶつぶつと何ごとかをつぶやいたり、かと思うと突如、にやりと憶い出し笑いをもらしたり、どうも傍の人が見ると、ひとかたならず奇っ怪なものに思われるらしい。
しかし、いったい何を考えて、ぶつぶつ言ったり、ひとり笑いしたりしているのかと訊《き》かれても、私自身にもこたえようがない。どうせそれは、犬が道の両側をクンクンと嗅《か》いでまわって小便をしかけたり、ときどきシタリゲな顔つきになって脱糞《だつぷん》したりするのと同様、一種無意識の習性でやっていることにすぎないからだ。犬が道みち排泄《はいせつ》して歩くのは単なる排泄ではなくて自己のテリトリーを確認しているのだ、というのが一般の通説であるが、その確認の内容は何なのかと、犬に訊いてみても犬にはこたえられないだろう。それと同じで、私の思索ないしは探究の内容も、訊かれてこたえられるようなものではない。
「世に救われざるもの、不平家の善人と怠惰の悪人とである」
といったのは、ラ・ロシュフーコーであったか、誰であったか忘れてしまったが、犬を連れて歩いているときの私は、いわばこの箴言《しんげん》の悪人と善人とが同居しているような具合で、ぶつぶつとさかんに不平を並べ立てたり、またにやりと狡猾《こうかつ》な笑いを浮かべてみたりしても、所詮《しょせん》は世に救われ難い不毛なものに過ぎないだろう。散歩を終って家へ帰りつく頃には、雲散霧消して跡形ないのである。
――昭和五十五年四月
喧嘩とコンクール
坂口安吾によれば、日本犬を連れて歩いていると、暴力団のチンピラと一緒に歩いているようで、いつ他の犬と喧嘩《けんか》をしないかと、それが心配でこまるという。まことに、それはそのとおりだ。
わが家のコンタも、人間に対しては頗《すこぶ》るおとなしく、いやしくも人に咬《か》みついたりすることは絶対にないのだが、紀州犬はイノシシ狩りの猟犬につかわれてきたというだけあって、相手が犬だととたんに戦闘的になる。だいいち、いきなり跳び出して行くので、気をつけていないと、こちらが引きずり倒されてしまう。だから、散歩の途中でいちばん心配なのは、いつ何処《どこ》で、よその犬に出会いはしないかということなのだ。もっとも、この三、四年、すっかり年とってからは、以前のように威勢よく跳び出すということもなくなった。シバ犬のように、小さな犬がとおったりすると、めんどう臭さそうに横を向いてしまったりするぐらいのものである。人間にたとえれば、八十歳という年齢になってみればいかに任侠《にんきよう》的な犬であろうと、吉良常《きらつね》のごとく物静かに、おとなしくならざるを得ないのであろう。
しかし、うちの犬に限らず、この頃は路上で喧嘩している犬を見掛けることは、めったになくなった。そういえば、私の知っている外国文学者が翻訳のとき、「うし、うし」という言葉をつかったら、編集者に、
「先生、どうしてここに牛が出てこなくちゃいかんのですか」
と、訊かれたという。つまり、「うっし、うっし」というのは、犬をけしかけるときの掛け声だということを、その編集者は知らなかったわけだ。念のために、私の大学生の娘に同じことを訊いてみたら、やはり知らなかった。とすれば、その言葉は、いまでは死語にちかいのかもしれぬ。勿論、私は犬の喧嘩は好まないし、闘犬などというものは見るのもイヤだ。しかし「けしかける」とか、「指嗾《しそう》」とかいう言葉は使われているのに、「うし、うし」ということが通用しなくなったとすれば、やはり淋《さび》しい気はする。
犬の喧嘩はなくなったが、犬のコンクールはさかんにおこなわれているようだ。近藤啓太郎なども一時はずいぶん熱中して、自分の犬を日本全国あっちこっちのコンクールに出場させていた。近藤のところのシバ犬は、このコンクールで特賞をとったため、天然記念物に指定されたものだ。犬も、天然記念物となると首環に金メダルをつけて歩くようになり、たとい野放しにしてあっても、野犬狩りで掴《つか》まえられることもないというから大したものだ、といばっていた。
この犬のコンクール――日本犬の場合、展覧会と称する――は、私も近藤にいわれて二度ばかり行ってみたことがあるが、犬好きの人間が大勢あつまって、犬のコンクールというよりは、人間の展覧会の気味がある。場所は、たしか一度目は神宮外苑、二度目が芝公園だったようにおもうが、場内の雰囲気は相撲場のようでもあり、また幼稚園か小学校の運動会のようでもある。しかし、一番似ているのは、入学試験場のそれだろう。この頃は、大学の入学試験にも親が附きそって行くというが、一頭の犬を家族総出でとりかこんで、卵を食わせたり、牛乳を飲ませたり、ブラシをかけたり、マッサージをしたり、いろいろ面倒を見てやっている有様は、まことに教育熱心の母親や父兄が、おろおろと子供の顔を見まもったり、肩を抱いたり、激励したりしている様子を彷彿《ほうふつ》たらしめるところがある。
勿論、タカが犬畜生などという差別用語(?)は、こういうところでは絶対にきかれない。それはそうで、なかには犬のために家業をなげうって家産を蕩尽《とうじん》させたり、家族と別居して犬と同居しているという人さえいるのである。こういう人は、たいてい眼が落ちくぼんで鋭く光り、鉄錆色に日焼けした頬は肉が削《そ》げたようにとがって、何かそばへも近寄り難い感じがするのだが、犬はふしぎなもので、そういう人に綱をとられると突然、しゃんと背をのばし、尻尾を上げて、精一杯、凜々《りり》しい姿勢を示そうとするのである。そういえば昔の予備校にも、こういうタイプの先生がいたものだ。よれよれのセビロに、ひしゃげた帽子などかぶって、外見は尾羽打ち枯らしたという姿だが、教壇に立つと、『文章軌範』をすみからすみまで暗記していて、目をつむったままでも、生徒がちょっとでも読み違えると、たちまちキビシい声で誤りをただすというような、或いは英語の定冠詞と不定冠詞の用法に関してだけは、どんな大学者とわたりあっても絶対に引けを取らぬと自負しているような……。
こういう犬のコンクールのおかげで、だんだん道ばたで喧嘩する犬を見掛けなくなったり、一般に犬の飼い方がうまくなったりするのだとすれば、たいへん結構なことだ。しかし、コンクールが喧嘩の代用だとすると、何ともそれは陰湿な闘争心を刺戟するもののようだ。わが家のコンタも、この二度のコンクールで天然記念物とまではいかないが、優良犬とやらの賞状やら、銀色のカップやら、いろいろと貰《もら》って帰ってきたが、二、三日、昂奮して飯もあまり食わなくなり、何となく犬相が悪くなるような気がして、以後、出場を見合せることにした。
犬の審査は、場内をグルリと一周する間に、何人かの審査員が前後左右から、犬の体格やら姿勢やら歩き方やらを観察して、採点するという、ファッション・モデルの美人コンテストと同じやり方をするのであるが、犬もこういうかたちで他の犬と優劣を争うことになると、普通の喧嘩とは勝手が違って、力のやり場もないままに、やたらに気疲れがするらしい。とにかく一日じゅう気取っていなければならないのだから、犬も自身の美意識でくたびれるのであろうか、餌をやりに行っても、前肢をつっぱったまま食おうとはしない。そっと様子を見に行くと、それまでグッタリと頭を地べたにつけて平つくばっていたのが、はっとしたように立ち上り、鼻先きを前にツンと向けて、「さア、あっしの恰好《かつこう》を、ようく見ておくんなさい」といわんばかりの姿勢をとるのである。最初のうちは滑稽な気もしたが、そのうちイタイタしくなってきた。
しかし本当の弊害《へいがい》は、そんなことよりも、もっと深刻なものがあるらしい。犬の種類によって、頭の大きさや、脚の太さ、胴の長さなどの基準がきめられており、なるべくその基準にヨリ正確に合ったものを人工的につくろうとするものだから、たとえばコリー犬など、八頭身美人というか、頭の小さなものばかり出来上って、とうとう頭脳の方がすっかり退化してしまったというのである。こういうことを聞いていると、犬の話というよりは、何か現在の受験教育のことを考えさせられるではないか。
――昭和五十五年五月
猫の声、人の声
動物好きにも、犬派と猫派があって、この両派はおたがいに、まったく相容れぬものがあるらしい。たとえば犬派は、犬にだけ狂犬病の予防注射を強制してネコにそれを行わないのは不当な差別であるといい、猫派はネコは犬と違って自主独立の精神にとんだ存在であるから、ネコに鑑札を交付してクサリでつなぐなどは無意味であり、ましてネコに狂犬病の予防注射を強制するのは猫権侵害もはなはだしい、と反駁《はんばく》する。
このような党派性は、しろうとのペット愛好家のあいだに見られるだけではなく、客観性を尊ぶはずの専門的科学者のなかにもあるらしい。この間もちゃんとした動物学者の書いた『猫と犬』という本を読んでいたら、猫がいかにスマートなハンターであり、それに較べて犬はいかに愚鈍で粗雑な存在であるかというようなことばかり、縷々《るる》として述べてあったのにはあきれてしまった。だいたい犬と猫とは種属の異った動物であり、どちらが優秀なハンターであるかなど比較することは無意味である。それを、猫がいかにスマートであるかとそればかり繰り返して述べているこの学者は、かならずやネコ派の一員であるにちがいない。
勿論、猫が狩猟においてすぐれていること、つまり獰猛《どうもう》な性質であることは、何も動物学者にきくまでもなく明らかである。私は、自分の家のニワトリが隣家の猫に襲われる有様を、再三再四、いやというほど見せつけられたが、その素速さは驚くべきものだ。とにかく猫が一発、急所を狙《ねら》って前肢の爪をひっかけただけで、そのニワトリは完全に死んでしまう。一見、無事で何処に疵痕《きずあと》があるのかわからないような場合でも、いったん猫に襲われたトリは翌日までには必ず死ぬのである。要するに猫は、いかに小さな躯《からだ》つきでも、猛獣の本能が保存されており、それが最大の特徴なのだ。だから、もし仮りに何かの加減で、飼い猫が普通の中型犬ぐらいの大きさに成長してしまったとすると、これは非常に危険であって、おそらく千葉県神野寺の虎騒動のときのような大恐慌が現出するであろう。
その点、犬は発生の段階からして猫とはちがって、狼やジャッカルなど野生の動物が小型化してイヌになったというわけではない。大きさは現在の犬と大して変りない動物を、だんだんに飼い慣らして家畜にしたというわけだ。勿論、犬にも狩猟本能はのこっているが、それは人間が猟犬につかうために、人工的に作為的にのこしたものだから、猫の場合のように野生的な本能が持続しているのとは違って、ハンターとしてスマートというわけには行かないはずだ。猫好きの人にとってはそこがイヌの物足りない点であり、犬好きの人にとってはそこが何とも愛らしいところということになる。
私自身は、べつに犬派でも猫派でもなく、ノンポリのつもりである。ただ、子供の頃は母親が猫嫌いであったし、結婚してからは女房が猫を怕《こわ》がるたちなので、ひとりでに犬を飼うことになっただけだ。そして、実際に犬を飼ってみれば、犬のほうに愛情が傾くのは自然のなりゆきだろう。それに犬は、他人志向型というのか、たぶんに家族主義的な性格であって、個人主義的な猫にくらべて、飼いやすいといえば飼いやすい。
わが家のコンタは、前にも述べたように生後二箇月で母犬からはなされて連れてこられたときにも大して鳴きもしなかったほど強情な性質で、人間に対してもソッケないところがある。名前を呼んでも、すぐには近づいてこないし、どんなにうれしいときでも飛びついてきて甘えるということはない。そして、気にくわないときには、いくら名前を呼んでやっても、どでんと横になったまま、うるさそうに耳をピクピクさせるだけで、そばへ寄ってこようともしないのである。その点、この紀州犬は普通の犬より猫に似ているというか、おそらく野生に近いのであろう。しかし、それなら人間が嫌いで誰にもなつかないかというと、勿論そんなことはない。たとえば私が、仕事の用でしばらく家をあけたあと、帰ってくると何ともウレシそうな顔をして寄ってくる。
犬のよろこぶ顔つきというのは、ちょっと説明のしようがないが、ふだんはピンと立てるか、後へなびかせるかしている両耳を、横のほうへのばして、首をひょこひょこ振りながら、顔じゅうの筋肉を弛緩《しかん》させ、全身がふにゃふにゃになった感じで、すり寄ってくるのである。こういうときは、まったく人間の子供が甘えかかってくるのと、そっくりであり、思わず人間と同じ言葉を発するのではないかという気がするくらいだ、「おかえんなさい」とか、「とうたん、待ってたよゥ」とか……。
しかし、そうやって、あわや口をききそうになりながら、口のまわりを二、三度モグモグさせただけで、ふっと悲しげな眼つきになって、もう一度こちらの顔を見上げ、それからくるりと振りかえって、いつもの自分の寝場所へすたすたと行ってしまうところが、哀れとも、おかしいとも言いようのない、一種独特の動物の存在感をおぼえさせるのである。
こんなことを言うと、犬馬鹿になっていると思われるといけないから、断っておくのだが、犬は或る程度、人語を解するのである。訓練をうけた警察犬などが、「待て」とか、「伏せ」とか、「かかれ」とかいう命令をききわけることは、よく知られているとおりだが、もっと日常的な会話を、べつに訓練をへてない犬でも何かで感じて聞きとっていることは、あきらかなのだ。その何よりの証拠には、犬のまえで他の犬のことをホメると、大抵の場合、犬は機嫌を悪くしてソッポを向いてしまうのである。嘘だと思うなら、一度ためしてごらんになるがいい。
もっとも、犬に向って一生懸命話しかけている人を、傍で見ていると、どうもこれは孤独な感じがしてイケない。おそらく私自身、散歩の途中では絶えず犬に向って、何や彼や話しているに違いないのだが、こういうのを通りがかりの人が聞いたら、何と思うだろう……。かといって、もし犬が私に向って人間の言葉で返辞しはじめたら、これはもう何ともいえぬ薄気味悪さだ。
しかし、薄気味悪いといえば、夜中に聞える猫の鳴き声は、やや動物が人語を発するに似た不気味なものだ。徹夜で仕事をしている最中、私の坐っている床の下のあたりから、「あウ、あウ」とか、「おーウ、おーウ」とかいう赤ん坊の泣き声のようなものが聞えてくるのに、どきりとなって、よく耳をすませると、二匹の猫のじゃれ合う物音がドタンドタンと急に響いてきたりして、思わず私は、
「ちえっ、馬鹿にしてやがらあ」
と、どなりつけたくなるのである。それにしても発情した猫の声帯は、なぜ人間の赤ん坊に似てくるのだろうか? 一度、識者にきいてみたいところだ。
――昭和五十五年五月
犬にも劣る……
門口《かどぐち》で飼犬が尾を振つて待つてゐる。さういふ時、私は不意に「貴様は実に善い奴だ」と痛切に思ふ。そして犬にも劣るなどいふ比喩は実に飛んでもない比喩だと思ふ。(志賀直哉『菰野』)
志賀直哉氏は犬が好きで、その作品にはしばしば犬が登場する。しかし、犬の嫌いな人はこういうものを読んでも腹が立つらしく、≪そして犬にも劣るなどいふ比喩は実に飛んでもない比喩だと思ふ≫という一節をとらえて、これは志賀氏の人間|蔑視《べつし》の思想をあらわしたものだ、などと憤慨する人もいる。
私自身は、犬と人間の優劣を比較したことはないが、人間が犬より劣っている場合があっても、べつに不思議はないようにおもう。だから「お前なんかより犬の方がよっぽど立派だ」といわれても、別段、腹は立たないのである。もっとも、そういうのは大体、犬を讃《ほ》めるときの常套句《じようとうく》のようなものであって、もし誰かが自分の犬を自慢して、「お前よりこの犬の方が上等だ」などといったとすれば、これは腹が立つだろう。要するに、犬は飼い主にとって一種の分身であって、自分の犬と人間とを比較するのは、手取り早くいえば、自分を他人とくらべているようなものではないか。
実際、犬をつれて歩いていると、犬が自分の分身だというだけでなく、自分自身すくなからず犬的な存在になっていることがわかる。犬が立ちどまって小便をしたり、そのへんのにおいを嗅いだりするのを待っていると、自分も何か犬と一緒になって、よその犬の通った跡を探しまわっているような心持にひとりでになっている。困るのは、そういうとき他の犬がやってきて、喧嘩をはじめることだ。
コンタも六、七歳までの頃は大抵の犬と喧嘩をしても負ける気づかいはなく、相手が小型の犬だと前肢でポンと蹴飛ばしただけで、向うの犬は地べたに叩きつけられ、ほうほうのていで逃げ出して行くので、簡単にカタがついた。中型犬以上の大きさのものでも、コンタと取っ組み合をして対等に戦える犬は、まずないといってよかった。ただ、喧嘩をしたあと、自分の犬が興奮して眼を血走らせ、歯から血を出したりしているのは、見ていてあまり好い気持がしないというぐらいのことだった。ところが、十歳を過ぎて、とくにこの二、三年来、コンタの体力は急におとろえてきた。あれは一昨年であったか、Wというプロダクションの宿舎のまえで、いつもうろうろしている半分野良犬のような犬と喧嘩をしたとき、相手は栄養不良で体力もなかったから、たちまち敗けて悲鳴を上げながら逃げて行った。しかし、相手がいなくなると、コンタは立ちどまったまま、なぜかションボリした顔つきで大きく息をはずませていたかと思うと、急にバタリと道の真ん中に倒れてしまった。ちょうど小刻みなボディー・ブロウを何度もうけた拳闘の選手が、目立たぬ疲労がたまりにたまって、不意にリングの中央で引っくりかえってしまうような、そんな感じであった。
コンタは、ほんのしばらく――おそらく三十秒間ぐらい――寝そべっていただけで、またクルリと起きなおると、案外元気に家まで歩いて来たが、私の方がかえって気が滅入ってしまった。相手がもっと堂々とした犬ならば、敗けても恰好がつくのであるが、いかにも心身ともに弱り果てているような赤毛の犬と取っ組んで、自分から息を切らせて引っくりかえったというのは、何とも情ない。通りがかりに立ち止って見ていた学生たちに、私は、「なにしろ、こいつは老犬なんでね、人間でいえば、七十か、八十に手の届きそうなとしなんだ」と、よっぽど弁解してやりたい気もしたが、そのままに帰ってきた。
そんなことがあって以来、私はコンタをつれて散歩の途中、どんなよぼよぼの犬であろうと、綱をつけていない犬の姿が、遠くの方にちょっとでも見えると、用心して脇道にそれるようにしていた。しかし、いくら用心しても、用心し切れないときがある。先日も、田園調布の裏手の坂を上り切ったところで、真っ黒な中型犬が、不意にあらわれて、あっという間にコンタと格闘しはじめた。向うは綱がついていないし、こちらはついている。それだけでも不利である。さいわい、直ぐに黒い犬の飼い主がオートバイでやってきて、どうやら犬を引き分けた。その男は、
「こいつ!」といいながら、犬の尻のあたりを叩いてみせたあと、「すみません」といったが、私はうなずいただけで、返辞もせずにコンタを引っ立てて先の方へ歩いた。十メートルばかり行って、コンタが電信柱のにおいを嗅ぎはじめたので待っていると、いきなり後から、さっきの男が、
「あんた、おれのバイクを何で素っ倒して行った」というのである。
「何だって……」私は急に腹が立った。相手の口のきき方も乱暴だが、それ以上にその男のオートバイを倒すなど、私はまったく身に覚えもないことだからだ。だいたい犬に綱もつけずにやってきて、ひとの犬と喧嘩をさせたうえ、インネンまでつけようとは、了見違いも甚しい。顔を見ると、丸ぽちゃで、口と頤《あご》のまわりに疎らなヒゲが生えているが、幼児がそのまま大人になった感じである。こんな男と話をしたってはじまらない、親の顔が見たい、そう思って私は言った。
「君の家は何処だ、お父さんか、お母さんに会って話したい」
「いやだ」と男は言った。「あんたに大体、そんなケンリがあるのか、僕だって成年だ、親に出て貰う必要はない」
「ケンリ? おれはお前の親の顔が見たいと言ってるだけだ、お前の親父かおふくろに会うのに、何のケンリが必要なんだ」
私は完全に頭に血がのぼった。それから二十分近くも、その大人こどものような男と、愚にもつかぬ口論をえんえんと続けたのである。怒りのあまり胃が焼けたようになり、口の中がカラカラになった。ふと見ると、犬の方はもう仲が良くなったのか、じゃれ合っている。私は、それにも腹が立った。
「コンタ、そんな薄汚い雑種の犬なんかに近づくのはよせ」
言ったあとで私は「しまった」と思った。たとえ犬であろうと、血統のことなど言い出したのはマズかった。そう思いながら、しばらく黙ってその黒い犬の顔を見ていると、奇妙なことに、だんだん可愛らしくなってきた。黒い犬は、自分の悪口をいわれているにも拘らず、丸い眼をパッチリあけて、うれしそうに私の顔を見上げているのだ。私は、相手の男にはまだ腹が立って堪らなかったが、こういう犬のために争っている自分自身のことを考えると、何とも情ない気分になってきた。そして志賀氏の≪犬にも劣るなどいふ比喩は実に飛んでもない比喩だ≫というのを想い出しながら、
「気をつけろ」
と、ありったけの声でどなりつけると、コンタの綱をぐいぐい引いて歩き出した。
――昭和五十五年五月
動物愛護について
あれは、十年ぐらいも前のことであったか、英国で「日本人に犬を売るな」という運動が起って、大騒ぎになったことがあった。何でも「日本人は残酷な人種で、犬を一箇所に監禁して棒でなぐったり、さまざまな虐待を加えているから、今後、英国の犬を日本に輸出することは禁止すべきだ」というようなことで、御丁寧にもドテラのようなものを着た丸坊主の男が、犬に向って丸太棒を振り上げている絵がそえてあったりしたという。
何でイギリス人がこんなことを言い出したのか、私は知らない。しかし、こういうヘンな運動の底にあるものは、イギリス人の動物愛護の精神というよりは、われわれ日本人といわず、黄色人種全般に対する嫌悪感や恐怖感がはたらいているものと考えて、間違いないだろう。いや、英国人だけではない。クジラ愛護、イルカ愛護にことよせて、日本人の残虐性を強調するアメリカ人にしたって、同じことだ。だいたい動物愛護という事柄自体、生存のための自己矛盾というようなものであって、ふだん牛肉をたくさん食べる人たちこそ、それだけ動物に感謝し、動物を可愛がるようになるわけだ。したがって彼等が私たちを非難するのは、自分たちの罪悪感を他人になすりつけようとしているわけで、まことに弱い卑劣な心根と言うほかはない。
しかし考えてみれば、ついこの間まで七つの海に君臨していたイギリス人が、英国病とかに取り憑《つ》かれて、ポンドは下落するし、尾羽《おは》打ち枯らす有様になっているのだから、新興成金のわれわれに何かと言いがかりをつけたくなるのも、止むを得ないといえば止むを得ない。つまり、倒産した金持ちが犬まで手放さなければならなくなったわけだから、その心中の悲痛さは察するに余りあるというべきだろう。
そういえば、あの騒動の起った頃、たしかに日本にイギリス犬がめったやたら集中豪雨的に輸入されていたようだ。小生宅にも、「セント・バーナード犬を飼わないか」とか、「シェトランドのシープ・ドッグはいらないか」とか、○○ケンネルとか称する犬屋のセールスマンが、入れかわり立ちかわり註文とりにやってきたものだ。
想えば、そのセント・バーナードやら、シープ・ドッグやらは、みんなかつては英国の名家や資産家で飼われていた名犬の子孫であったのかもわからない。しかし、それらの人々もいまは財産税や所得税の関係で、広大な屋敷も、牧場つきの山荘も売りに出し、名犬の子孫は檻《おり》に詰めこまれて、遥かな極東の小さな島国のゲイシャやサムライのところへ送り出されたと知って、イギリス人たちは内心、傷つけられた誇りに疼《うず》くような痛みを覚えたことであろう。
私は別段、そういうイギリス人に同情したわけではないが、輸入されたイギリス犬を買う気にはなれなかった。第一、シェトランドのシープ・ドッグといわれたって、それがどんな犬か見当もつかないのだから、いくら○○ケンネルが魚屋や八百屋の御用聞きのようにやってきても、うかつに手を出すわけには行かなかった。そういえば、その少し前に、吉行淳之介がセント・バーナード種の犬を飼っていたことがあり、散歩につれ出そうにも、吉行よりも体重のおもいその犬が家の前の坂路の途中で腹這いになってしまうと、押せども突けども、どうしようもなくなるといって、嘆いていたことがあった。――もし、こういう有様を英国動物愛護協会の人が、たまたま傍を通って目撃したとしたら、いったい何と言うであろうか?
そうでなくとも、吉行の家の前の坂路はかなり頻繁に自動車のとおる道であるから、そこの真ン中でセント・バーナード犬に寝ころがられてしまったら、ちょっとした交通渋滞は起ったことであろう。
ただし、私が○○ケンネルのセールスマンの意見にしたがわなかったのは、そういう実例をきいているからというわけでもない。たしかに、犬に限らず動物は一般に、大きければ大きいほど面白いのである。これは理屈ではなく、実感としてそうなのだ。たとえばゴリラとチンパンジーを較べた場合、チンパンジーの方が遥かに活溌《かつぱつ》で、動きがあって、行動生態学上も興味があるといわれているが、私たちが動物園で眺めるぶんには、やはりゴリラの方が圧倒的に面白い。べつに芸などはしなくても、あの巨大な体つきでジッと坐っているだけでも、何か漠々とした生きものの存在感が肉感的に迫ってきて、私はいつまで見ても見倦《みあ》きることのない興味をおぼえるのである。だから、犬だってセント・バーナードを一度飼ったら、他の犬なんか馬鹿々々しくて飼えないというような魅力があるに違いない。ただし、そのためには貴族の荘園のように広大な屋敷がたぶん必要なわけだ。
ところで私がイヤになったのは、○○ケンネルのセールスマンは、決して広大とはいえない私の家の庭先きへやってきて、セント・バーナードを飼うことが、いかに利殖になるかということを強調するからであった。つまり、セント・バーナード犬を飼って仔犬を生ませたら、いかに尨大《ぼうだい》な利益が上るかという……。これは無茶苦茶である。勿論、私だって金を儲《もう》けることはイヤではない。しかし、このセールスマンは、要するに私にセント・バーナード犬の繁殖飼育の牧場をやれといっているのだ。しかも、この広大ならざる家の中で、家庭の副業としてそれをやれと言うのである。
「そういったって君、この庭の何処でいったい、セント・バーナードの犬にお産をさせたり、何匹もの仔犬を育てたりすることが出来るっていうんですか。われわれ人間の住むところがなくなっちゃうじゃないですか」
「いや、そうでもないですよ。犬小舎をですね、アパート式にこう並べて、積み上げれば、結構かなりイケますよ」
冗談ではない、犬はブロイラーの鶏とは違うのである。まして、それは成長すれば犢《こうし》ほどの体重と容積のあるセント・バーナード種である。
私は、終戦直後に父がアンゴラ兎《うさぎ》の繁殖をやって失敗したことを憶えている。当時は食物も衣類もなく、アンゴラを飼えばその毛で優秀な毛糸や毛織物と交換できるから、それを売ればいくらいくらの利潤が上るということで、飼い始めたものだ。それがいかに大変なことであったかという話は、むかし小説に書いたこともあるから省略するが、要するに一《ひ》と番《つがい》の兎はたちまち十数匹に増えてしまい、そうなると庭先きの小舎だけでは飼い切れず、家の中でも子兎を飼って、それがピョンピョンと家じゅうを跳び歩くため、家族一同、居場所もなくなるという仕儀であった。兎でさえもそうなのだ。これがセント・バーナード犬なら、どうなることか。
私は、われわれが残酷な人種であるとは思わない。しかしイギリス人が、「日本人に犬を売るな」といったのは或る意味で正しかったと思う。
――昭和五十五年六月
万 病 の 薬
最近、また幼い女の子が犬に噛まれるという事件があった。――犬が人を噛んでもニュースにはならないというのが、ジャーナリズムの初歩の鉄則だそうだが、犬を飼っている者としては、こういうニュースが新聞に出ていると、やはり気になる。とくに噛んだのが大きな秋田犬か何かで、噛まれたのが幼児だとすると、生命にもかかわる問題だから、冗談ごとではすまされない。太宰治の『畜犬談』は、冒頭に次のように述べている。
≪私は、犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰《く》いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過して来たものだと不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。(以下略)≫
犬が猛獣だということは、泉鏡花も述べており、私もそれは否定しない。じつをいえば私自身、わが家のコンタは例外として、よその犬は恐しいのである。ただ、太宰氏の意見には多少の異論がある。もう少し先を読んでみよう。
≪(犬は)もともと馬を斃《たお》すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を曝露するか、わかったものでは無い。犬は必ず鎖に固くしばりつけて置くべきである。少しの油断もあってはならぬ。≫
これが間違いなのである。犬は鎖にしばりつけられているときが最も狂暴になりやすいのである。この点を誤解しているのは太宰氏には限らない。現に犬を飼っている人たちでもそうなのだ。人を噛んだ犬の飼い主は、きまり文句のように言う。「ちゃんと、鎖につないどいたんですがねえ」
考えてみると、これは何とも腹立たしい言い草だ。まるで鎖につないだ犬のそばに近寄った方が悪いとでも言っているようではないか。こういうのは犬の飼い主として、無責任であるばかりでなく、人に対しても犬に対しても、まったく愛情が感じられない。
断っておくが、私は決して犬を鎖につないではいけないなどと言っているのではない。東京のように人家が密集して、車や人通りのはげしいところで、犬を放しておくことがどんなに危険かというぐらい、わかりきったことだ。だから、犬を置いておく場所がないときには、鎖でしばっておくより仕方がない。しかし、それは止むを得ざる一時の手段であって、二六時ちゅう鎖につながれていれば、どんなにおとなしい犬でもイライラするにきまっている。そこへ何も知らない子供が近づいていったりすれば、ガブリとやられる惧《おそ》れは充分にある。
何だかこんな言い方は、知ったか振りをいうようで恐縮であるが、だいたい犬は子供が苦手である。名犬ラッシーだのベンジーだの、映画やテレビでは犬と子供は大の仲良しということになっているようだが、あれはドラマであって現実ではない。ベンジーもラッシーも、訓練の行きとどいた芸当犬であって、あれだけの演技力は大したものだが、楽屋裏へまわってみれば、相手役の子供などより訓練士の方にずっと良くなついているに決っている。
もっと、あからさまに言えば、犬は一般に人間の子供に嫉妬《しつと》しており、敵意を抱いているといってもいい。つまり、犬は人間の家族のなかでいつまでも自分が子供になっていたいのだ。坂口安吾は犬が好きで、生前、大きなコリーを二頭、座敷の上で飼っていたが、その安吾夫妻に子供が生れると、犬は愛情を子供にとられたことを悲しんで、安吾夫人が子供をベビー・サークルに入れて寝かしつけたあと、ちょっと眼をはなした隙に、一頭のコリーが赤ん坊のベッドの蚊屋のなかに頭をつっこんで、まさに子供を食い殺そうとしていた、という……。こういう話は、犬を飼ったことのない人には、おそらく信じ難いことかもしれない。私自身、むかし桐生のお宅で、安吾さんから直接この話をきいたときには、まさか、という気がしたものだ。しかし、これは誇張でも何でもない、事実だということは、安吾夫人の『クラクラ日記』を読んでみれば、よくわかる。
いやにナマ臭いような話になってきた。しかし、鎖につながれた犬が、どんな気持でいるかということを理解するためには、こういうナマ臭い事実を知っておかなくてはならない。
実際、鎖につながれた犬は、みんな途方に暮れたような顔つきをしている。あるいはフテくされたように、ぐったりとなって寝そべっている。しかし彼等は、表面はどんな恰好をしていようと、心の底では人間の仕打ちに対して怒りに燃えているのだ。彼等は言うだろう。――太宰氏もいうとおり、おれたちは元来、猛獣なのだ。もとは狼か何かの一族で、大家族のムレになって山野を彷徨しながら、獲物を見つけると全員で襲いかかって、馬でも牛でも斃して、それを全員で分け合って食べる、そういう生活を先祖代々やってきた。それがいつの頃か、そそっかしい先祖の一員がひょっこり人間のなかにまぎれこんで、犬というものにされてしまった。それは、まァいい。しかし、せっかく人間のなかに連れてこられたのだから、家族なみに扱って貰いたい。いや、犬と人間とは違うから、家族同様にしてくれとはいわない、せめて家族の末席にでもつかせて貰いたい。なにも、同じ屋根の下に同居させてくれなくたっていい、場合によっては戸外の鎖につながれていたってかまわない。ただ、そのかわり、おれたちを鎖でつないでおくように、心の紐《ひも》でもつないでおいて貰いたい、鎖でぐるぐる巻きにされたまま、ただ外へおっぽり出されているというのではあんまりじゃないか……。
彼等の心情を忖度《そんたく》すれば、だいたいこんなところだろう。だから、そういう気持でいるところへ、よその犬が通りかかったり、子供が近づいてきたりすれば、彼等はけたたましく吠えたてて、ときには噛みついたりもするのである。
ところで、『畜犬談』はなかなか秀逸な物語である。犬の大嫌いな太宰氏の家に、のら犬が一匹、舞いこんで、太宰氏は飼う気もなしにその犬を飼うことになるのだが、一向に可愛くもないその犬が見るも無残な皮膚病に取り憑かれ、おまけに犬の蚤《のみ》が太宰氏の衣服につくにおよんで、ついに我慢がならず太宰氏は犬を薬で処分することにした。朝もやに包まれた練兵場に犬を連れ出して、太宰氏は毒薬を塗った生肉をポトリと足元に落して犬に食わせる。しかるに、その犬は見掛けによらず頑健で、肉をペロリと平らげたのに、いつまでもぴんぴんと生きていて、太宰氏の後を申し訳なさそうについて家へ帰ってきてしまう。そこで太宰氏は、奥さんに、
「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。あいつには、罪が無かったんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ」
そう言って太宰氏は、浮かぬ顔をしている奥さんに、生卵を持ってこさせて、犬に食わせるように命ずるところで終っている。まことに感動的な結末である。――但し、獣医さんにきくと、卵のコレステロールは皮膚病には禁物である由。しかし太宰氏は、あくまでも卵を万病の薬と信じていたらしい。
――昭和五十五年六月
怕いお辞儀
私は、この年齢になっても、まだロクに挨拶《あいさつ》というものができない。いや、何もきちんとした挨拶を述べるなどということではなく、道ばたでご近所の人に、ちょっと頭を下げて通るというだけでも、どうもウマく行かないのである。
これは、おそらく私が子供の頃から野放図に育てられて、お辞儀とか、挨拶とかいうものをキチンと教えこまれなかったせいだろう。それで、いまだに人と出会って頭を下げるということに、どういう意味があるのであろうか、などと妙に構えて考えこんでしまうのだ。いや、これは私だけではないかもしれない。日本人というものが全般的に、合理主義とか近代主義とかを中途半端に身につけてしまった結果、こういうヘンなことを考えこむようになったのかもしれない。
もう二十年もまえに、私はアメリカの地方都市でしばらく暮らしたとき、道で出会う少年が必ずニコニコと顔をほころばせながら、「グッド・モーニング」と、元気よく挨拶の言葉をかけて行くのに、感心させられたものだ。道ばたで誰かと行き合ったら、たとえ相手が見知らぬ東洋人であろうとも、こちらから挨拶をして通るということを、彼等は幼年時代からしつけられているのである。
それ以来、私もこの少年に見習って、なるべく爽《さわ》やかな挨拶ができるようにと心掛けているのであるが、どうもあんまりウマく行かない。
それでも、まあ向う三軒両隣、おたがいに良く顔を見知っている人になら、「こんにちは」とか、「おはようござい」とか言いながら、頭を軽く下げることぐらいはできる。また、自分の家から五百メートルもはなれた家の人たちは、先ず他人であると考えて、べつに挨拶はしなくても失礼には当らないだろう。しかし、困るのは、その中間にある人たちと出会った場合である。この十数年来、朝晩、犬をつれて散歩している私は、自分の家から三百メートル、ないし四百メートルはなれた家の人たちの顔は、たいてい見憶えがあるし、向うだって私の顔はまんざら知らないというわけでもなさそうだ。しかしこれを、おたがいに「顔見知りの間柄」というわけにも行かない。そういう人たちと道の真ン中でばったり顔を合せた場合、お辞儀すべきかすべからざるか、またそのお辞儀はいかようなかたちのものであるべきか、私はまったく判断に苦しむ。そのあげく、視線をそらして犬の方を眺め、
「来い、コンタ」
などと、号令をかけて、頭を下げるとも下げないともなく、アイマイのうちに擦《す》れ違ってしまう。
しかし、こういう場合はまだいい。もっと困るのは、一本道の遥か向うから、顔見知りともつかない人がやってくるときだ。「あ、まずいな」私は一瞬おもう。と、次の瞬間、相手にもそれはテレパシーとなって伝わってしまうらしい。こうなると、おたがいに顔を外《そ》らせるわけにもいかず、道をくるりと引き返すわけにもいかない。そして、だんだんに距離は近づいてくるのである。こういうとき、コンタが小便をしてくれることが、私にとってはせめてもの救いだ。なるべく道の端へ寄って、塀の下の臭いなど嗅がせながら、相手がすうっと通り過ぎてくれるのを待つのだが、その気まずさは何とも名づけようのないものだ。
おもうに、こういう悩みは、東京という半植民地的な田舎とも都会ともつかない寄合い所帯の町に特有のものかもしれない。アメリカはもともと歴史の浅い寄合い所帯の国だが、そういうところでは、たとい顔見知りでなくとも道で出会えば声を掛けあうというエチケットが、かえってよく確立される。しかし東京郊外の住宅地のように、古い伝統的な国のなかでの新開地となると、これは見知らぬ他人同士がイキナリ出会って声を掛けあうわけにもいかないのである。仮りに、どちらか片方が勇をこして親愛の情を示したとしても、それがスゲなく無視された場合、傷つけなくともいい心を傷つけられることになる。こういうことは何でもないといえば、何でもない。しかし、それだけにかえって厄介《やつかい》なのだ。
私のところから、東へ十分ほど歩くとP女子学園の小、中、高校があり、西へ十分ほど歩くとZという幼稚園がある。P女子学園の登校時には、道いっぱいに並んだ生徒たちであふれ、Z幼稚園の登園時には園児とつきそいのお母さんたちが引切りなしに通る。したがって、朝の散歩がその時間帯にぶっつかると、西へ行っても、東へ行っても、その集団に出会うことになる。
P女子学園も高校生ぐらいになると、皆すましこんでいるから何ということはないが、中学生、小学生たちは無邪気であるし、犬をつれているのを見ると、ときどき、
「わー、可愛い」
というような声を上げる。一人がいうと、それに釣りこまれるように他の生徒たちも声をそろえて、「可愛い、可愛い」という。おそらくそれは、ほとんど無意味に発しているだけであって、とくにコンタのことを讃《ほ》めているわけでもない。それでも私はやたらとテレ臭くなり、俯《うつむ》いて足早に通り過ぎることになる。すると相手は、なお声をそろえて、「わー、可愛い」を連呼するのである。ところが、どうだろう、コンタはまるで観兵式に出てくる軍馬のように、胸を張り、鼻づらをツンと前に向けて、ギャロップするような軽い足どりになって歩き出すのだ。その姿は、二六時中うつらうつらと居眠りばかりしている老耄《ろうもう》したふだんのコンタからは想像も出来ないようなものだ。あきらかに彼は、P女子学園の小、中学生の声を意識して得意になっているのである。そして、そういうコンタを見ると私自身、テレ臭がりながら、やはり内心では犬と同化した気持で得意になっているのか、と思わざるを得ない。
一方、幼稚園児の登園時には、こういうことはない。コンタを見て、立ちどまって「こわい」という子はいても、それを皆で合唱したり連呼したりすることはない。しかし、犬好きの子供も結構いて、なかにはコンタの頭を撫《な》でさせてくれなどと言い出すのもいる。いつかも若い綺麗《きれい》なお母さんにつれられた女の児が一人、いかにも興味ありげにコンタを見詰めているので、そばへつれて行ってコンタの頭を撫でさせた。おカッパ頭の何かおとなびた顔つきのその子は、細長い指さきの小さな手で、犬の頭を一と撫ですると、すぐにその手を引っこめた。
「おそれいりました」
と、母親は礼をいった。すると、女の児は犬に向ってとも私に向ってともなく手を振って、
「いってまいりまーす」
というのである。これには私は返辞ができなかった。コンタに代って私が、「おそれいりました」というのもヘンであり、かといって「いってらっしゃい」などというのは、なおさら気恥ずかしい。――しかし、この気恥ずかしさは何だろう?
それは見知らぬ人と挨拶するときの具合の悪さとも、また違ったもののようだ。何か突然自分に孫が出来て、その子の友達が幼稚園へ行くのを見送っているとでもいうような、まことに奇妙な心持であった。
しかしコンタは、そういう主人の困惑も知らぬげに、そのへんに他の犬のしかけた小便の跡でもあるのか、いぎたなく鼻を鳴らしながら、しきりに地べたの上を舐《な》めまわしていた。
――昭和五十五年六月
逃げられる話(上)
つかぬ話であるが、近頃評判の映画『クレイマー、クレイマー』というのは、イプセンの『ノラ』の後日譚《ごじつだん》のようなものであるらしい。つまり、『ノラ』は近代的自我に目覚めた女性が或る日、決然として家を出て行くところで終っているが、『クレイマー、クレイマー』は、その家に残されたノラ的女性の亭主の苦労ばなしである。わがくににも、クレイマー的亭主が増加しつつあるというが、考えてみると。近代≠ニいうものにはロクでもない要素が含まれているようだ。
もっとも、女房が逃げ出すことを、そのまま近代と結びつけて考えるのは、間違っているかもしれない。女房でも犬でも、発作的に家を飛び出すということは、何も近代でなくたって、昔からよくあることだからだ。私は散歩の途中、電柱などに、「尋ね犬」のビラが貼《は》りつけてあるのを見ると、――ああ、ここにも苦労している人がいるんだなァ、と、犬のことより飼い主に、同情と共感と、そして或る種の優越感のごときものを、覚えるのである。
いや、まったくのところ飼い犬に逃げられる気持は、女房に出て行かれるよりも、悲しみという点ではヨリ純粋なものがあるかも知れない。有名な動物学者、コンラッド・ローレンツは、少年時代に自分の飼っていたダックスフントの犬が逃亡して、よその男に飼われてしまったことがあり、ガッカリして、何年間も犬を飼う気になれなかったということだ。ローレンツの動物行動学の研究には、そういう経験が根底にあるわけだ。
私自身、小学一、二年生で朝鮮にいた頃、赤毛の仔犬を貰って育てたことがあり、その犬が、半年ほどたった頃、不意に姿を消してしまったときの失望と昏惑《こんわく》は、いまだにおぼえている。道を歩いていても、茶色っぽい犬を見掛けると、胸がドキンとして、あっと息をのむ。しかし、あとを追いかけて行ってみると、みんなそれはよその犬なのである。そのうち誰かが、「このへんには、犬の肉が好きな人がいて、ことに赤毛の犬には目がないから、もう何処かで食べられているだろうよ」と、余計なことを教えてくれた。それで私は、しばらくの間、ちょっと精悍《せいかん》な顔つきのひとに出会うと、必ず自分の犬のことを憶い出さざるをえなかった。
しかし、飼い犬が逃げ出して、そのまま居なくなってしまうのは、まだいい。見知らぬよその人の持ちものになったのを見掛けるよりはマシなのである。
ローレンツによると、犬には大別して、ジャッカル系のものと、オオカミ系のものとがあり、西洋犬のほとんどはジャッカル系であるが、日本犬や中国犬は大抵オオカミ系である、ジャッカル系の犬には少くとも五万年以上の歴史があるが、オオカミ系の犬は人に飼われて五百年からせいぜい五千年ぐらいの歴史しかなく、しばしば近年までオオカミとの交配がおこなわれていた形跡があるという。したがって、ジャッカル系の犬は人間に近く、利口であるが、オオカミ系の犬のような野生味が失われている、逆に、オオカミ系の犬は人間に狎《な》れていないから、訓練やシツケが行きとどかないが、動物本来の性格はよく保たれている、というのである。
このローレンツの説が完全に正確なものであるかどうか、私は知らない。ローレンツの『人、犬にあう』という本は、非常におもしろく、たしかに名著であるが、私が読んでも疑問におもうところは二、三にとどまらないからだ。これはローレンツの観察が不充分であるというより、動物というのは個体差が激しくて、なかなか普遍的な一般論は出しにくいということだろう。とは言うものの、ジャッカル系の犬、たとえばシェパードは、訓練をほどこすといろいろの芸をおぼえこんで、軍用犬や警察犬や盲導犬などにつかわれ、人間も及ばないぐらい役に立つことは良く知られているとおりで、たしかに利口である。ところが日本犬、たとえば紀州犬の場合、昔からイノシシ狩りに使われているとはいうが、どうも訓練は一向にきかないようだ。無理をして訓練をつづけると、かえって犬をイジけさせてしまう。とくにシェパードの訓練士に紀州犬をあずけるのは、よくないらしい。私の知っているK氏やI氏の飼っている紀州犬は、訓練士のところから帰ってくると、ショボンとなって元気をなくし、二六時ちゅう尻尾を垂らして、何ともイタイタしい有様になってしまった。この点、ローレンツの言うことは、まことに正しい。
もっとも、ローレンツは、ジャッカル系の犬よりもオオカミ系の犬の方が自分は好きだといっているが、そのじつ自身で、純血のオオカミ系の犬を飼ったことはないらしい。シェパードと中国犬のチャウの混血で、比較的チャウの血が濃く出たものを飼った経験から、オオカミ系の犬についての観察を述べている。ローレンツの本で、疑問におもわれる点も、主としてそのへんにあるのだ。
つまり、ローレンツは自分の飼ったことのない純血のオオカミ系の犬について、これを理想化し、美化して考え過ぎているようにも思われるのである。それというのも、ローレンツが少年時代に飼っていて、いつの間にか他人の持ちものになってしまったダックスフントについての記憶が、よほど苦々しいものだったからであろう。
つまり、ローレンツはこういう意味のことを言っている。「犬は元来、集団動物であり、したがって自分の属した集団の中で誰がリーダーであるかを、何よりも先きに本能的に察知する。家庭で飼われている犬にとってのリーダーは、普通その家の主人であり、場合によってはその犬に餌をくれている誰かであるが、いずれにしてもリーダーが誰であるかを忘れる犬は、もはや最も大切な本能を見失っているというべきだ」。そして、ジャッカル系の犬の中でも、ダックスフントは、とくに賢い種類に属し、人の言うことはよく聞き分けるが、この基本的な本能が怪しくなっている、というのである。
しかし、ダックスフントがすべて、主人を見忘れるような犬であるかどうか、これはことによればローレンツの偏見ではないかと思われる。私の隣に、十数年、ダックスを飼っている人がいて、その犬は別段、主人を見忘れたことなどありそうに見えないからだ。ただ、ジャッカル系といえば、私自身、以前、コッカー・スパニエル犬を飼っていたが、これが或る日、逃げ出したまま、何処かへ消えてしまった。そうして一週間ぐらいもたってから、私の女房が近所に買い物に行ったとき、偶然、ガソリン・スタンドの青年が、一匹のコッカー・スパニエルをつれて散歩しているのにぶっつかった。おや、うちの犬によく似た犬だこと――、と、女房はそう思いながら、念のために、
「アンリ……」
と、その犬の名を呼んでみた。しかし、スパニエルは、こちらを振り向きもせず、いそいそと青年につれられて行き過ぎようとした。その瞬間、やっぱりそれが確かに自分の家の犬だと気がついた、というのだ。
「思わず、カーッと頭に血がのぼっちゃったわよ」と、女房はいった。
私自身も、話をきいただけで腹が立った。そして、そのままその犬は、二度とわが家で飼う気がしなくなった。
――昭和五十五年七月
逃げられる話(下)
何も逃げ出す犬は、ジャッカル系の洋犬には限らない。オオカミ系の日本犬だって、よく逃げ出すのである。それも名犬といわれるような犬ほど、よく逃げ出す傾向があるようだ。志賀直哉の『畜犬に就いて』によると、志賀さんが理想的に好い犬だと思って飼っていたテルというグレー・ハウンドの雑種犬は、挙措動作も落ち着いて非常に上品な犬であったというが、これが「縄脱けの名人で大概な事では逃げられて了うのです」とある。
つまり、ふだんどんなに落ち着いて、優雅に柔順に振る舞っている犬でも、どうかした拍子にふっと居なくなってしまうのが、犬という動物の特性であるらしい。
いったい犬は、どんなときに、どんなつもりで逃げ出すのか?――まず考えられるのは、近所にサカリのついた牝犬がいる場合だろう。志賀さんのテルは、あんまりよく逃げ出すので、東京から我孫子《あびこ》の家に医者を呼んで去勢の手術をしたところ、再三たしかめて頼んだにもかかわらず、やはり医者が失策をして、出血多量のために死んでしまったという。こんなのは聞いただけでも無残な心持のする話だが、あんまり度たび逃げ出されると、そういう処置でもとらないわけには行かなかったのだろう。
しかし本当をいうと、この志賀さんの犬は手術がうまく行ったとしても、それで逃げ出す習慣が止まったかどうか、わからない。犬が出奔《しゆつぽん》するのは、必ずしも性欲に取り憑かれたときだけではないからだ。わが家のコンタの場合、何か目的があって逃亡するとは思えない。ただ、何となくこちらが犬のことを忘れていると、いつの間にかスーッといなくなってしまうのだ。それは、スネた子供が姿を隠して、何とか自分に関心をひこうとしているときにそっくりである。こういうとき、犬を探しに出掛けるのは、まったく腹立たしい。つまり、何とかして人に手間をかけさせてやろうという魂胆があって逃げ出したとしか思えないからだ。
人間なら、こういうときは放って置いても、いつか一人で帰ってくるにきまっている。しかし、犬の場合はそうはいかない。第一、保健所の犬捕りに見つかったら、すぐ持って行かれてしまう。第二に、コンタは人を噛む心配はまずないが、よその家へ勝手に入りこんで、そこの犬を噛んで怪我させるおそれは充分ある。第三に、コンタは人は噛まないといっても、かなりの大きさだし、力も強い。万一道ばたで遊んでいる子供にどしんと正面からぶっつかったら、やはり大変なことになる……。そんなわけで、面倒でも探しに行かなければならない。
昼間でも、犬を探して歩くのはイヤなものだ。いつか、これは私の方にも落ち度があって、首環の糸が少しばかりほつれかかっていたのをそのままに、コンタをつれて散歩に出掛けたところ、道の曲り角でイキナリ他の犬に出会い、あっという間にコンタは首環を引きちぎって、その犬に飛びかかって行った。さいわい相手の犬は、塀の向う側へ逃げこんだから、怪我をさせずにすんだが、コンタはそのまま全速力で道を走りぬけて行く。犬を後から追い駈けるぐらい馬鹿なことはない、追えば追うほど逃げて行くにきまっているのだが、何しろ勢いづいて素っ飛んでいったものを放っておくわけにもいかず、私は夏の日ざかりの道を真っ赤になって田園調布の駅の近くまで、かれこれ三十分ばかりも駈けどおしに駈けなければならなかった。やっと取りおさえた犬の首に、こわれた首環のかわりに引き綱をかけ、停っているタクシーの運転手にたのみこんで、犬と一緒に乗せてもらって、どうやら家まで辿《たど》りついたときは、精根つき果てるおもいであった。
しかし、このように逃げて行く犬の姿が見えているときは、まだいい。本当にイヤになるのは、何処へ行ったかわからない犬を探して歩くことだ。早く見つけなければ、と気はあせるのだが、どっちへ向って行けばいいかわからないものを、駈け出してみたって仕方がない。四つ角に立ちどまって、遠くにきこえる犬の吠え声に耳をすませながら、ジッと四方を睨《にら》めまわしているところなんか、知らない人が見たら、狂人かと思うだろう。そこで私は、通りすがりの人を見ると、片っ端から訊《き》いてみる。
「あの、すまんですが、犬を見掛けませんか……。白い、中っくらいの大きさの日本犬なんですが」
たいていの場合、いきなりそんなことを訊いたって、知るものか、という顔をされるだけだ。しかし、なかには、薄笑いをうかべながら、
「うん、あの犬か、人の好さそうな、こまったような顔つきをした犬だろ……。あれなら、さっき向うの方へ走っていったっけ」
などと教えてくれる人もある。漠然と「さっき」といっても、どれぐらい前のことかわからないし、「向うの方」といったって、どっちの向うだか見当もつかないのだが、とにかく一応礼だけいってまた小走りに駈け出すのだ……。そうやって一、二時間も探しまわって、あきらめて家へ帰ってみると、案外にもコンタは先まわりして、玄関の前でチョコンと坐っていたりすることもある。しかし、また夜になっても帰ってこないこともある……。昼間でも見つからない犬を、夜になって見つけ出すことは、ほとんど絶望的である。犬捕りに掴《つか》まるなら掴まったで仕方がない。(もう、金輪際、犬なんか飼うこっちゃない)と、自分自身に言いきかせるように、大声にいって寝ようとするのだが、とたんに犬の遠吠えがきこえてきたりすると結局、落ち着かず、また起き上って探しに出掛けることになる。
その夜も、そのようにして私は、足の向くまま、近くの玉川堤の方へ歩いていった。すると、長い塀でかこった工事現場のかげに、コンタの白い姿が、思い掛けず眼近かに見えるではないか。しかも彼は、五、六匹、よその迷い犬らしいものを後ろに従えて、昂然《こうぜん》とした様子でこちらへ向ってくる途中だった。
「コンタ!」
私は、ほっとすると同時に腹立たしく、大声に呼んだ。と、コンタは、はっとこちらを向いたかと思うと、しまった、といった顔つきになって立ちすくんだ。私は、自分がかつて遊びざかりの不良少年であった頃、仲間といるところを母親に呼び止められたときのことを憶い出した。外の世界から、内の世界へ、一瞬のうちに引き戻されるこの気まずさ! まことに家庭は牢獄である。コンタは、たったいままで自分の引き連れていた犬が、(何だツマらねえの、さァ行こうぜ)といった感じで、ぞろぞろと塀の向う側へ一列になって引き上げて行くのを、しょんぼりと見送ると、迎えにやってきた私の方を、おびえた眼つきで詫《わ》びるように見つめながら、ジッと立ちすくんでいるのである。
(馬鹿な奴め)私は、舌打ちしながら犬に首環をつけてやる。と、もういつもの散歩の足どりで、とっとと家の方へ向って歩き出すコンタに綱を引っぱられながら、私は何やら全身から孤独な重い箍《たが》がはずれて行くような安堵《あんど》を覚えているのである。
――昭和五十五年七月
動物園の憂鬱
上野の動物園でカンカンが死んだという記事が新聞やら週刊誌に出ていたのは、つい一と月ぐらいまえのことだが、けさの新聞には、≪北京、七月九日、共同発≫として、中国山西省でパンダを射殺して食べた男に、懲役一年六月、および罰金刑が言い渡されたとある。何でも、人民公社で会議中、近くの谷間で熊の鳴き声がきこえたので、行ってみると熊ではなくてパンダが木の上に坐っていた、それで早速、公社の社員が鉄砲でうって、八十キロほどの肉を、みんなで山分けにして食ったというのである。
さすがに中国は広い、と私は感心した。そして、これでなくてはパンダも育つまい、という気もした。勿論、射殺されて食われるということはパンダにとって災難であるが、動物園の檻《おり》の中で毎日、何万という見物人の眼にさらされたあげく、原因不明の死をとげたカンカンにくらべればマシではないかと思うのだ。
元来、パンダ――に限らず大抵の動物――にとって、人間は敵である。パンダは、おそらく北京原人によって食われたこともあるだろうし、人間に掴まったり殺されたりしてきた歴史は長いのだ。だから、迂闊《うかつ》に人間のいるところに近づいて、熊みたいな声で鳴いたりすると、殺される危険があることは、パンダも知っているはずで、仮りに知らないとしても遠い先祖代記憶のなかに、そういう警戒心は受けつがれてきているに違いない。しかるに、動物園というものは、パンダにとってどう警戒したらいいのか、わけのわからぬシロモノであろう。
カンカンやランランの死について、これは過保護がイケないのだ、と有識者がこたえていたが、そうだろうか。動物園がパンダに手厚く保護≠加えていたのはたしかだとしても、それはパンダの人気が動物園の客寄せだの、日中友好親善だのに利用されているためのものであって、パンダそのものはあんなところに閉じこめられて、ちっとも保護されていたとは思えない。それどころか、早く子供が出来ないものかと、ヘンなところをケンビ鏡でのぞかれたり、写真にうつされたり、血液をとられたり、毎日、検査、検査に明け暮れていただけのことではないか。
これはパンダだけではない。似たようなことはゴリラにもあった。同じことを前にも書いたことがあるが、かいつまんで繰り返させてもらうと、先年、京都の岡崎の動物園でゴリラに赤ん坊が生れて、わがくにの動物ファンの間で大評判になった。何しろ都会の動物園の中でゴリラが出産したという例は当時、世界中でも数えるほどしかなく、これまで名古屋東山や東京上野の動物園では飼育係が、文字通りゴリラの手とり足とり、何とか子供を生ませようと、必死で努力を重ねてきたが、一向に子供が生れるどころか、身ごもったという気配もなかったのである。そこへ京都岡崎という小さな動物園で突如、ゴリラの子供が生れたのだから、まずそれでビックリしたわけだ。
しかし、誰よりも驚いたのは当の岡崎動物園ゴリラ飼育係のT氏であった。というのもT氏は、自分の飼育しているゴリラの性行為を一度も見たことがなかったからだ。しかも、同じ檻の中に入っていた雄雌一対のゴリラのうち、赤ん坊が生れる半年ほど前に雄ゴリラは死亡していたのである。となると雌ゴリラは一体、いつどのようにして受胎した? これは甚だミステリアスなことになってきて、一時は動物園長以下、職員一同、頭を抱えこんでしまった。だが、この謎は解けるのも簡単であった。主任飼育係のT氏は、月に何度か公休があり、そのときは助手のS君が代りにゴリラの餌をやりに行っていた。
「Tさんは、あれを知らんかったんですかなア」と、S君はいうのだ。「ゴリラは、Tさんが休みの日になると、朝から張り切って大ハシャギをやっとったんですワ、手を叩くやら、でんぐりがえしをするやら……。そしてセックスを盛大に、日に三べんも四へんも、やっとりましたんや」
つまり、ゴリラは主任飼育係のT氏を、自分のボスであると考えて尊敬し、その前に出ると行いをつつしんで、セックスなど淫《みだ》らなことは一向にいたしておりません、という顔をしていたわけだ。そしてT氏がいなくなると、助手のS君のまえではハメをはずして、ふだんやりたくてもやれなかった行為を、そのぶん余計に励んでいたのである。
もともと、生殖本能というのは、どんな生きものにだって無いはずのないものだから、パンダであろうがゴリラであろうが、普通ならこれをイヤがる理由はない。彼等がそれをイヤがるとすれば、その生活環境にどこか普通でないものがあるからだ。
といっても、動物がすべて二六時中、生殖本能に取り憑かれて、それだけで生きていると考えるのもコッケイである。或る尖鋭な女流前衛芸術家が、「セックスはメシと同じであるから、三度々々のごはんを食べるように、セックスも解放的におこなわれなくてはイケない」という意味のことをいっていた。そのこと自体、私もべつに反対ではない。ただし、性行為が本来解放的なもので、いつでも何処でもおかまいなしに、その行為にふけるのが自然にかなったやり方だと主張しているのだとしたら、それは前記のゴリラの例から見ても誤りである。
いうまでもないことだが、われわれも動物も、そんなに自由奔放に生きているわけではない。生きのびるためには、絶えず周囲を警戒し、餌をさがして一生懸命走りまわり、何とかその日その日を食いつないでいるというのが、ライオンから鼠一匹にいたるまで、生きものの生活の実態であろう。
なかでも性行為というのは、甚だ集中力を必要とするもので、ライヴ・ショーなどに出てくるクロウトはともかく、一般にわき見や、よそ見や、鼻歌まじりにおこなわれるものではない。そして、それだけ自己に集中的になれば、外部に対しては無警戒にならざるを得ない。だから、セックスをおこなうときは、いかなる動物でも、メシを食うときよりは慎重に、その時や場所をえらぶことになるわけだ。そして、この「えらぶ」ということが、性行為そのものにも充実感をもたらすことになるのではないか。
ところで、岡崎の動物園では、その後、もう一度、雌ゴリラに子供を生ませようとして、上野の動物園からハンサムな雄ゴリラを婿入《むこい》りさせたりしたが、結果はあまりおもわしくなかったようだ。これは当然といえば、当然のことで、第一回の出産以来、ゴリラは岡崎動物園の名物になってしまい、何としても彼等を無警戒に、性行為にはげますことは出来なくなったからだ。私自身、ヤジ馬根性から京都岡崎まで出かけて行ったが、その雌ゴリラはすっかり神経質になっていた。彼女は一日中、体の毛をむしってばかりいるために、体半分が赤裸のようになっていたのである。
――昭和五十五年七月
ペットの情念(上)
ペットを飼うのに、犬派と猫派があることは良く知られているが、同じ犬が好きでも、メス派とオス派がいるらしい。たとえば、川端康成氏はメス派で、メス犬ばかり飼っておられたようだ。
≪雄はよほど優秀なものでないと、種雄として通用しない。買入れに金がかかるし、活動役者のような宣伝もせねばならず、従って人気の盛衰があわただしい。(略)彼はある犬屋へ行って、種雄として名高い日本テリアを見せてもらったことがあった。二階の蒲団《ふとん》に一日中もぐりこんでいる。階下《した》へ抱いて下《おろ》されさえすれば、もう習わしで、雌が来たものと思うらしい。熟練した娼婦のようなものである。毛が短いから、異常に発達した器官があらわに見えて、さすがの彼も目をそむけ、無気味な思いをしたほどであった≫(『禽獣』)
たしかに、こういうのを読むとオス犬は不気味である。勿論、生きものにはどんなものでも生殖力はあるにきまっているが、犬はかなり大きな生きものだし、それが目の前で本能を発揮したりすれば、これは誰だって目をそむけたくもなるだろう。しかし、オス犬のために弁解すれば、川端さんの右の文章に出てくる犬は、特殊な例であって、オスに対する一般論というには偏見にみちている。だいいち性欲はメスにだってあるのだし、メス犬を座敷に上げて飼うとなれば、それはそれでかなり面倒なことが、いろいろと出てくるはずだ。生きものである以上、メスでもオスでも何処《どこ》かに生臭いものが出てくるのは止むを得ないだろう。
しかし、犬を飼ってみて、交尾というのがどうも厄介であることは、私も川端さんに同感である。
わが家のコンタは、≪種雄として通用≫するほど優秀なものではないから、そんなに千客万来、交配の申しこみなどあるわけではないが、私としては飼い犬の子孫は残しておきたい気はするので、同じ紀州犬の持主と話し合って、何回か交配はさせてみた。ところが結論からいうと、どうもウマく行かないのである。だいたい川端さんの言われるように、≪二階の蒲団に一日中もぐりこんでいる。階下へ抱いて下されさえすれば、もう習わしで、雌が来たものと思う≫ような具合には、とても参らないのである。
勿論、メス犬がやってくれば、コンタは喜びはする。しかし、相手の犬がちょっとでも警戒心を示すと、コンタの方も神経質になって、
(どうも、おれはフラれてしまったらしいな?)
といった顔つきで、しかし精一杯気どったつもりか、ツンと横を向いてしまう。これは一つには、コンタの性格が内気なためでもあるだろうが、もう一つは東京の街中にはあまり紀州犬を飼っている人はいないので、メス犬がたいてい千葉だの埼玉だの遠くの方からやってくるからでもあるだろう。近藤啓太郎の紹介で、鴨川の近くからわざわざ国鉄のストのときに来てくれた人もいたが、何時間も自動車にゆられてくると、犬もしばらくの間、落ち着かないのは当然だろう。しかし、コンタもパンダほど気むずかしいわけではないので、交尾はすることはする。そして相手の飼い主からは、メス犬が妊娠したという報告がくるのである。
相手のメスに仔犬が生れると、そのなかの一番いいのを一匹、種雄の飼い主が選んでいいことになっており、私はこんどは一つメスの仔犬を貰《もら》って育ててみようか、それともやはりオスにするか、などとあれこれ考えるのだが、どういうわけかいつまでたっても仔犬が生れたという知らせがこない。そして、出産予定日を一と月ぐらい過ぎてから、
「じつは、あれはどうも想像妊娠だったらしいです」
という返辞がかえってくるのである。
こういうことが一再ならずあって、私はコンタの仔犬をとることは、あきらめてしまった。しかし、コンタ自身には、欲望がないわけではないらしく、近所のメス犬に発情期がくると、庭じゅうを駈けまわって、塀のまわりを往《い》ったり来たり、また垣根の下の土を掘りかえすなど、いろいろのことをやった。そして、ありとあらゆる努力のあげく、どうしても外へ出られないとわかると、庭の真ン中に立ちつくして、天を仰いだかと思うと、突如、
「ア、ア、ア、ウォーオオオーン」
と、一と声、長く尾を引いて吠え、それがおわると、ばたりとその場で横倒しに倒れてみせたりした。まさか、それは演技でやっているはずもないのだが、私が見ていると、それは孤島に一人とりのこされた俊寛僧都《しゆんかんそうず》が海上遥かに遠ざかって行く船を見送って悲嘆にくれる所作を、コンタが一人で演じているようにも思われるのであった。
見るに見兼ねて、家内がいった。
「コンタに結婚の相手を見つけてやりましょうよ。相手はどうせ想像妊娠するだけだから、どうだっていいじゃないの……。とにかく、あれじゃ可哀そうよ」
それもそうだ、と私も思った。しかし、どうせ想像妊娠するだけだから、どうだっていいという考え方には、私はなじめなかった。単なる性欲の処理というようなことは、犬の心理としてはどういうものか知らないが、妙に人間的な考えに近いような気がして、イヤなのである。川端さんの言われる≪二階の蒲団に一日中もぐりこんでいる≫種雄として名高い日本テリヤにしたって、それがイヤらしく思われるのは、オス犬としての器官がどうのこうのというより、その犬の生態がへんに人間に近過ぎるためではないか。
だいたい動物を可愛がるという心持のなかには、自分自身の人間臭さから離れたいというようなものがありはしないか。人間には裏切られるが、動物の飼い主によせる信頼は絶対のものだ――などと、つまり人間嫌いから動物を飼いはじめることは、結構多いのだ。
そんなことを考えながら、私はふと想いついた。そうだ、五味のところの紀州犬≠ネらいいかもしれない――。先日、亡くなった五味康祐は、私にとってはステレオの指導者である。私の現在愛用しているクオードの真空管のアンプは、じつは十数年前、五味から六万円という嘘みたいに安い値段でゆずってもらったものだ。その代り、これを他人に譲渡してはいけない、もし倦《あ》きたら五味に返すこと、という約束である。そんな関係から、私はその頃、しばしば五味の家へ出掛けた。そこに紀州犬≠ニ称する赤毛のメスが一頭いたのである。五味はそれを獣医の世話で買い入れたというのだが、はっきり言うとその犬には紀州犬の特色はまったくない。ただの雑種なのである。
勿論、雑種の犬だからといって軽蔑《けいべつ》するのは馬鹿げたことだ。しかし、そういいながら私が、コンタの遊び相手に五味の犬を想い浮べたのは、やはり雑種を軽んじているからだといわれても仕方がなかった。
――昭和五十五年八月
ペットの情念(下)
五味康祐の飼っていた赤犬は、雑種ではあったが、気質はあきらかに良かった。眼はドングリ目で、鼻はむっくりと丸く、耳は垂れ耳ではないが顔にくらべて大き過ぎ、シロウトの私が見ても、紀州犬らしい特色を何一つとしてそなえていないことは一と目でわかった。私は最初見たとき、思わず言った。
「ひどいね、こんなのを紀州犬だなんて、売りつけるのは」
すると、どうだろう、その犬は私の足許にうずくまっていたのだが、急に申し訳なさそうに五味と私の顔を見上げ、もじもじと体をあとずさりさせると、その場から立ち去ろうとするではないか。私は誇張でなく、その姿に胸を打たれた。
プラトンは、生きものには生得観念(innate ideas)というものがあるとして、次のようなことを言っている――。
「生れてくる赤ん坊は、いろいろの生得観念をすでに持っているのであって、学ぶ≠ニいうことは以前の人生において知っていたことを、この世で何かに触発されて憶い出しているのだ」
私は、五味の犬にも、このプラトンの生得観念がはたらいているのだ、と思った。つまり彼女は、前世においてどういう生きものであったのかは知らないが、この世では何かウサン臭げな存在として生きていることを、或る直感によって、ちゃんと理解しているのである。いや、犬が或る程度、人間の言葉を聞き分けることは、かなりの学者が認めているところであって、五味の犬も私の言ったことを、おおかた聞きとったものだろう。しかし、根性の悪い犬ならば、こういうとき、私に吠えかかってきたに違いない。
「ふん、はばかりながら、あたしゃれっきとした紀州犬でね、こうやって剣豪作家の五味さまのお傍で飼われているんだよ。それを何だよ、へんなインネンをつけたりしやがって! とっとと帰っておくれ! いま直ぐ出てかないと、噛みついてやるからね、さァ出てけったら、出てけ!」
とでもいうふうに……。しかし、五味の犬はそうではなかった。あたかも自分の生れを恥じるがごとく、また主人の五味に対してはひたすら恭順《きようじゆん》の意を表して、尻尾を股《また》の間に巻きこむようにして、自分から身を隠そうとしているのである。これほど素直に、しおらしい態度をとられると、恥じ入らなければならないのは私の方だった。私は、犬の頭を撫《な》でながら弁解につとめた。
「おう、すまん、すまん……お前はいい犬だよ、純血であろうがなかろうが、そんなことは関係ない。お前は、しんから性根のいい奴だ」
私は、五味のところへ電話をかけて、そのメス犬をつれてきて貰《もら》い、コンタとかけさせることにした。夕刻、五味の奥さんが運転手つきの自家用車に乗って、犬をつれてきてくれた。五味の奥さんは、純白の毛並みのコンタを見ると、
「ま、これが紀州犬なんですか、ほんものの……。たしかに、うちの犬とは違いますわ、何て、気品があって、おとなしいんでしょう」
と、おどろいたように言った。そういわれても、私は挨拶のしようがなかった。自分の犬を讃《ほ》められるのは、たしかに悪い気分はしないのであるが、そうなると「わが家のコンタは、子種がないのですが、ただちょっと遊び相手にお宅のメス犬を拝借……」とは言いにくくなるのである。
たしかに、この頃は犬も過保護なのかもしれない。昔は、シェパードや土佐犬など、特別獰猛な犬は例外として、普通は純血の犬であろうが何であろうが放ち飼いにしてあった。それで私など、子供の頃、幼稚園にかよう途中、よその犬に襲われて怕《こわ》いおもいをしたこともあったが、いまみたいに度《た》び度《た》び子供が犬に噛み殺されるという話はきかなかった。そして発情期になると、犬の交尾などは、あっちこっちの町角でよく見掛けたものだ。いまから考えると、ひどく乱暴で危険千万な話だが、いまはまた世の中全般に管理が行きとどき過ぎて、しかも結構危険は多い……。何にしても、たかが犬の交尾のために、練馬の奥から多摩川のはずれまで、わざわざ高級の自家用車でお輿入《こしい》れになるというのは、どうも人間も犬も度はずれてゼイタクになり過ぎているのではないか。私は、自分の方から頼んだことなのに、いざ連れてこられた五味の犬を見ると、そんなふうにも思った。
しかし、五味の犬はあくまでも性格のいいメス犬であって、コンタと顔を合せても、妙な警戒心を示して、吠えたり、噛みつくマネをしたりということは全然なく、尾を振りながらコンタと連れ立って庭の隅の方へ消えて行く態度は、いかにも姉さん女房というような落ち着きがあった。
犬の交尾というのは、なかなか時間がかかり、これまで私が覗きに行くと、コンタは尻を牝犬とくっつけたまま、たいていは物想いにふけったような、困惑したような顔つきで、ジッと静かに立っている。牝犬の方も静かなことはコンタと同様で、荒々しさや、殺気立ったものは、まったくない。こんなふうにして二、三十分もたたなければケリがつかないのである。――ことによると、あんな風に静かに尻をくっつけているだけだから、子供が生れないのだろうか? そう思って近藤啓太郎に訊《き》いてみると、近藤は、
「なァに、どんな犬だって、そんなもんだよ、吠えたり、騒いだりしているのは、出会いのときだけで、実際にはじまっちまうと、シーンと静かなもんさ」
という……。今回は、その出会いのときの騒がしさもなかったから、また特別に静かである。私も一度だけ覗きに行ったが、すでに夜になっているうえに、ふだんから薄暗い庭の隅は、コンタの白い姿が仄《ほの》かに浮き上って見えるだけで、牝犬の方は闇の中に溶けこんだように何も見えない。ただシンシンとして風のない冬の夜、一と晩かけて雪の降りつもるときのような静けさである。これがあの恋に狂って庭じゅうを駈けまわり、「ウォーオオオン」と、へんな声で鳴いていたコンタかと思うぐらいだ。
その間じゅう、五味の奥さんは、居間で五味から譲ってもらったクオードU型の真空管アンプで、ベートーヴェンの弦楽四重奏一三一か何かをきいていたが、ちょうどそれが終った頃に、コンタたちの逢引もおわって、また運転手つきの車で、犬ともども引き上げていった。
それから、どれぐらいたってからか、私はコンタの交尾のことなどすっかり忘れていたが、突然、五味から電話がかかってきた。
「おいおい、あのなァ、お前んとこの犬の子なァ、生れたでえ。三匹や……。ええ子やでえ」
そういう五味の弾んだ声をききながら、私はしばらく受話器のまえで、声も出ないほど驚いていた。
――昭和五十五年八月
犬 と 敗 戦
ことしは、八月十五日、終戦記念日にも、とくに目立った行事はないようだ。これは、あたりまえである。人が死んでも、初七日とか、四十九日とか、一周忌とか、七回忌とかで、だんだん周期が長くなってくる。終戦の日を振りかえるのだって、これからは五十周年とか、七十五周年とか、次第に間遠になって行くに違いない。
しかし、私個人の話は別である。あれから三十五年、よくいままで生きてこられたという感慨が先ずある。私の入営した歩兵第一連隊の同年兵は、ほとんどがレイテ島で全滅したはずであるし、中学校の同級生も戦争がすんでみると三分の一は、必ずしも戦死ではないけれども、病気で死んだり、戦犯になったりして、どこかへいなくなってしまった。私自身、軍隊の病院から帰されたときは、昔の言葉でいえば廃兵≠ノなっていた。結核性カリエスで、ひところは立って歩くことも出来なかったのである。あの頃は食糧難ではあるし、家は焼けていて売り食いするにも売るものもないし、まったくどうやってこれから生きて行こうかという毎日であった。
秋になって、鵠沼《くげぬま》海岸の親戚の空き別荘を借りて住むことになった。そのときの、ほっとした心持は忘れ難い。鵠沼は、空襲をうけていなかったので、家並みも道路も松並木も、昔のものがそのまま残っていた。焼け跡の赤茶けた土地ばかり眺めてきた眼に、それは何と美しく落ち着いたものに見えたことだろう。戦乱の廃墟から忽然《こつぜん》と日常生活がよみがえったようなあの町のたたずまいは、これが平和というものかと思った。そして、生けるしるしありという気がした。
ある朝、新聞をとりに門の外へ出てみると、桃色のモンペをはいた娘さんが、小径の四ツ角の垣根のそばにしゃがんでいた。一瞬、私は眼をうたぐり、夢を見ているような心特になった。何と彼女は尻をこちらに向けて用をたしていたのだ。当時、被災地では婦人でも野天で用をたすことが珍しくはなかった。しかし、この平穏な町で、それはまったく意外な光景だったのである。それにしても森閑とした朝、松の梢ごしに降りそそぐ秋の日を浴びて、娘さんの尻が白く輝いているのは、じつにのどかな眺めだった。そして私は、これもまた生けるしるしありか、と思った。
その頃、私は一匹の犬を飼いはじめた。このあたりは敵の上陸作戦の地点になる惧《おそ》れがあるといわれていたせいで、別荘に来ていた人たちの大半は何処かに疎開して、まだ帰ってきていなかった。この犬も、おおかた飼い主が疎開するときに棄てられて行ったものでもあろうか。まだ生後、半歳ぐらいの幼犬で、スコッチの雑種にシバ犬か何かも混ったような不思議な恰好《かつこう》の犬だった。しかし、東京の焼け跡ではノラ犬の姿さえ見掛けることはほとんどなく、私は懐しいものに出会った気がして、自分の食い残したものを少しばかりくれてやった。すると、次からその犬は、私が飯を食っていると必ず何処かから姿をあらわすようになり、代用食のふかし芋の切れ端など放ってやると、よろこんで食った。
「ごらんよ、お母さん、犬がイモを食ってるよ」
そういっても、生きものの嫌いな母は興味を示さなかった。さつま芋といえども、当時は貴重な食糧で、百姓家で三拝九拝しなければ頒《わ》けてくれなかったから、それを息子が物好きにノラ犬などに食わせたりするのは、母としては不愉快だったのだろう。実際、私が犬に餌をやったりするのは、多少とも気取った心持がないことはなかった。勿論、食糧が大切なことはわかりきった話だが、右を見ても左を見ても、食い物のことばかりが余りにも切実な関心を呼んでいるのをみると、私は何か食うことを考えるだけで憂鬱になり、物を食うこと自体に罪悪感のようなものを覚えたりした。新聞などで、「ことしの冬は数百万の餓死者が出るものと見込まれる」といった記事を見ると、かえって自分の食うものを削ってでも、この犬は絶対に飼ってやるぞ、とへんに力んだ気持になった。
いつの間にか、「チビ」というのが、この犬の名前になり、私は郵便を出しに行ったり散歩に出たりするとき、人の見ている前で、わざと声高に、
「おい、チビこい!」
などと叫んだりして、どうだ、おれは犬を飼っているんだぞ、という態度を誇示したりした。もっとも、人がこれをどう見たかは知らない。なにしろこの犬は、虚栄心で飼うにしては、あまりにも不恰好な姿をしていたのだから。しかし、他人がどう思おうと、この犬が私に完全になついてしまったことはたしかだった。べつに餌をやるときでなくとも、チビは私のそばをはなれず、私が家の中で母と話したりしていると、縁側の端にアゴを乗せて、自分も話の仲間に加わるようにジッと聞き耳を立てているのだ。そして私が庭へ出ると、跳びついてきてじゃれる。それは、ときどきウルさくなるぐらいだった。実際、脚にかじりつかれて、腰をへんな具合に動かされたりすると、いかにもワイセツなものが連想され、その生臭さに困惑せざるを得なかった。
やがて、厳しい冬がやってきた。わが家は一同、どうやら餓死することもなかったが、私の病状は悪化し、床に就いたまま身動きすることもかなわなくなった。自分が二六時中、一切の面倒を母に見てもらっている状態では、チビに餌をやることなど思いもよらず、私は忘れるともなく、この犬のことは忘れていた。そうでなくとも、新円切りかえとか、預金凍結とかで、わが家の経済はいよいよ逼迫《ひつぱく》してきて、文字通り食べるものに事欠く有様になった。戦時中の軍需工場が閉鎖されて、電力だけはいくらか余裕があるようなことが言われていたのに、それもたちまちダメになって、連日のように停電の夜がつづいた。私は暗闇の中で天井を向いて眼をあけたまま、自分が死ぬことだけを考えていた。しかし、そうやっているうちに春がきて、縁側にポカポカと日が射すようになると、私も病牀《びようしよう》から這《は》い出して日溜りでうずくまることぐらいは出来るようになった。
その日も私は、母の出掛けた留守に、一人で縁側で日向ぼっこをやっていた。「ごめんください」と玄関で声がしたが、立つのが面倒なので、庭から縁先きへまわって貰った。一と月ほど前に疎開先きから帰ってきた隣の別荘の奥さんが、回覧板をまわしにきてくれたのであった。奥さんは四十過ぎだというが、到底そんな年には見えない若々しさだった。回覧板を手渡されると、白い手に香水のにおいがした。
「すみません」私は、礼をいって、ふと彼女がつれている犬を見て驚いた。
「おい、チビ……」
しかし私は、それきり声をのんだ。チビは一瞬びっくりしたように私の顔を見上げたが、その表情はまことにシラジラしく、(へえ、旦那はいったいどなたで……)というように眼をきょとんとさせると、そのままクルリと振り向いて、奥さんと一緒に門の方へ歩み去ってしまったのだ。その後姿を見送ると、奥さんもチビも、足取りも軽く、歩くたびに尻が左右に同じリズムで揺れていた。
その頃から私は、この戦災をうけなかった鵠沼の町がうとましくなってきた。
――昭和五十五年八月
ハチ公の想い出
近頃は東京中、何処もかしこも街の様子が変って、本当にわからなくなった。先日も、渋谷でハチ公の銅像というのを探そうとして、ひと苦労してしまった。ハチ公≠ニいえば、ついこの間まで渋谷のシンボルみたいにいわれていたのだが、いつの間にか渋谷の中心は駅前から遥かはなれた何処かへ移ってしまったらしい。では、何処が中心かとなると、私にはわからないのである。
それでも、ハチ公の銅像を知っている人は、かなりいるにちがいない。だが、生きているハチ公を見たことのある人は、いまどれだけいるだろうか? いや、生きているハチ公でなくても、そもそもハチ公の伝説を知っているという人が、いまはほとんどいないのではないか。何しろ、あの老秋田犬が死んだのは、まだ私が小学生の時分だから、かれこれ五十年もむかしのことである。
あれは、満州事変の最中だった。東横線の渋谷駅前、いまの東横デパートが、まだ東横食堂と称する大衆レストランであった頃のことだ。年とって、全身毛の黄ばんだ秋田犬が、いつも食堂の入口の近くでうろうろしていた。当時私は渋谷の先きの松見坂というところに住んでいたが、青山の小学校まで電車で通学していたので、学校のかえりに渋谷で市電――ああ、これも懐しい名前だ――を下りると、よくこの犬が改札口の手前で、ジッと坐っていた。体はたいそう大きいが、ひどくおとなしいので、通りがかりの人たちが、よく頭を撫でてやったり、食いものをやったりしていた。そのうち、誰かが犬の首環にハンカチをくくりつけて、その中に金を入れたりしはじめた。すると、犬のそばに坐っていた乞食がときどき顔を上げて、犬の方をジッと見詰めたりしていた。
この犬が、いつの間にか姿が見えなくなったと思ったら、或る日、新聞に大きく写真といっしょに、こんな見出しで記事が出た。
「忠犬ハチ公、死す……」
ハチ公は、いつも主人の帰りを待ちうけて、渋谷の駅まで出迎えにきていたが、その主人はじつは一年ばかり前に死んでいた。にもかかわらず、ハチ公は雨が降ろうが、雪が降ろうが、必ず夕方になると渋谷の駅で主人の帰りを待ちうけていた、何という可憐な犬であろうか、というのである……。私は、それを読んで初めて、ああ、あの犬はそういう犬であったのか、と知った。おそらく新聞は、この日はよくよく書くタネがなかったにちがいない。しかし、この記事の反響は大きかった。ちょうど世の中は、爆弾三勇士などといって、騒ぎ立てている頃であったせいでもあろう。この犬の忠誠心もまた人間に劣らざるものであるということになって、とうとう銅像が立つことになってしまったのだ。
あるいは、私の記憶には間違いがあるかもしれない。とにかく、これは五十年もまえの話なのである。しかし、われわれの記憶は不思議なもので、私はハチ公に関する想い出よりも、あれから半世紀もの歳月が流れているということの方が、何とも信じ難い気がするのである。実際、歳月の感覚がアヤフヤになるというのは、老化現象の最たるものであるにちがいない。昨日のことは忘れても、若い頃のことだけはハッキリ憶えていて、それを何度も繰り返すのは、老人のつねである。
私といえども、今日の渋谷が五十年まえの渋谷でないことは、よく知っている。しかし「シブヤ」というと、私の頭の中にはジャリを積んだ大きな昆虫みたいな恰好の玉川電車が鈍い音をたてて走り、馬糞《ばふん》臭い道玄坂を乗合自動車(!)が泥水を蹴立ててとおっていた頃の光景の方が、先きに浮かんでしまうのだ。大正の半ば頃まで水車がまわっていたという渋谷川は、さすがに都会のドブ川に変り果てていたが、その橋のたもとには、陸軍払い下げの廃馬を料理して出すという馬肉屋があって、その隣には貸し衣裳屋の花嫁さんの看板が立っていた。ガードをくぐって、駅前の市電の終点に出ると、東京パンがあり、そのさきに「甘栗太郎」の人形が立っていて、電気仕掛で鈴を振っていた……。こういう現在の渋谷とは何の関係もない昔の渋谷の様子が、私の頭にはハッキリと焼き付いていて、いま渋谷の街を若者の波に押されて歩きながら、自分が何処を歩いているのか、一瞬夢を見ているような心持になってくるのである。
永井荷風の随筆には、しばしば昔の東京の町をなつかしんで、現在の都会の風俗を憎むようなことを書いたものが多い。私は、それを読んで、何とイヤ味なことをいう爺いだろうと思ったのだ。しかし、いまにして荷風の気持もわかるのである。いや、私自身は昔の渋谷をなつかしんで、いまの渋谷の町を悪く言うつもりはない。むかしも今も、渋谷は雑駁《ざつぱく》な町であり、いつまでたっても新開地の泥臭さの消えない盛り場である。昔をなつかしもうとしても、そこに美しい想い出があるわけではない。ただ、いわば生理現象として、子供の頃に見慣れた町の風景の記憶が強く残り、それが現在眼の前に見えている街の印象を押しのけてしまいそうになるのである。これはイヤ味でも何でもない、どうしようもないことなのだ。
かんがえてみれば、忠犬ハチ公というのも、こうした老化現象をきたしていたのであろうか。あの当時、ハチ公が何歳ぐらいになっていたのか、私は知らない。しかし、犬の年齢が人間の七、八倍の早さで経過して行くことを考えれば、おそらくいまの私よりも年寄りであったことは間違いない。だから、ハチ公は自分の主人の死んだことは忘れても、主人の帰りを出迎えるという習慣からは脱け出せなかったのであろう。そうして、彼は眼の前の雑踏を眺めながら、頭の中では子供の頃からの記憶を繰りかえし辿《たど》っていたにちがいない。
私は、いつの間にか、自分自身がハチ公になったような気分で渋谷の町を歩いていた。満州事変、シナ事変、太平洋戦争、そして敗戦……。あのときは、青山から渋谷にかけての一帯は丸焼けになって、道玄坂の途中から百軒店へ出ると、代々木の原まで一面によく見渡すことができた。赤茶けた台地の端の方にポツンと一つだけ砦《とりで》のようなものが焼け残っていて、それはどうやら二・二六事件の被告を処刑した陸軍刑務所のようであった。そこいらへんまでは、私の記憶は一応たしかである。しかし、そこから先き、昭和二十年代の終りから三十年代のはじめにかけて、だんだん印象は混濁してきて、玉電がなくなったり、高速道路が出来たりしたのが、いつ頃のことかわからなくなってくる。そして昭和四十年代の中途からは、まったく渾々沌々《こんこんとんとん》として何が何やら、見当がつかない……。高層建築が立ち並んで、そのくせ道路はだだっ広くなり、やたらに交通信号が増えて、ゴー・ストップを見ながらでなくては一歩もすすめない。そう思いながら私は、自分の探していたハチ公の銅像が、眼の前にあることに突然気がついたのである。
――昭和五十五年八月
バルセロナの白ゴリラ
バルセロナという街の名は、何か悲愴《ひそう》な感じがする。スペイン戦争のとき、市民軍の抵抗した最後の都市がバルセロナで、この街が陥落《かんらく》すると人民戦線は完全に敗北して、間もなく第二次世界大戦がはじまるわけだ。市中には大きな淫売街があって、泥棒がめったやたらと多いことでも有名である。たしか、『地の果てを行く』という映画では、パリから逃げてきたジャン・ギャバンが、バルセロナで有り金みんな盗まれて、やむを得ずスペイン軍の外人部隊に入ることになっていた。
要するに、フランスからみると、スペインはアフリカの一部で、バルセロナはアルジェリアの隣ぐらいの感じらしい。しかし、バルセロナの人は、自分たちをスペイン人だとは思わず、半分フランス人であるようなつもりでいるのかもしれない。言葉も――どうせ私にはちんぷんかんぷんだが――、カタロニア語というのは一般のスペイン語とはだいぶ違っているようだ。
しかし、私がバルセロナへ出掛けたのは、そういうカタロニア地方の特殊性を研究しようなどというつもりからではなかった。私の目的はただ一つ、世界でバルセロナの動物園にしかいない白ゴリラに会うことであった。
白ゴリラといっても、全身の毛が真っ白で皮膚がピンク色をしているというだけで、とくに他のゴリラと変った点があるわけではない。要するに、突然変異で生れたゴリラの白ッ子であるにすぎない。ただ、この白ゴリラの顔は写真で見ても人間そっくりであり、とくにまだ毛の生え揃っていない赤ン坊の頃は白人の赤ン坊かと思うぐらい、よく似ていたものと思われる。
いまから十五年ほど前の一九六五年、スペイン領リオ・ムニ(現在の赤道ギニア共和国)で生後間もない一頭のゴリラが捕獲《ほかく》され、バルセロナ動物園におくられた。動物園側では最初、これを単なるゴリラだと思ったらしい。生毛が白くて肌が赤ければ、人間と変りないように見えたはずだが、そうでなくともゴリラの赤ン坊はかなり人間に近いので、飼育係は到着したゴリラの肌の色がピンク色をしていても、大して気にはとめなかったのであろう。ところが、やがて真っ白な体毛が生えてきたので、これは大変だということになった。この白いゴリラの噂は日本にもすぐ伝って、当時から私なども何とか一度、見ておきたいものだと思ったものだ。だが、ヨーロッパまでは何度か行く機会はあっても、バルセロナに立ち寄るチャンスはなかなかなかった。それが、こんど日本航空でマドリッド直行便が出来たというので、それに乗って出掛けることになったわけだ。
しかし正直なことをいうと、私のゴリラ熱はすでに冷めかけており、十五年まえほどには白ゴリラに会うことに大きな期待は持っていなかった。というのは、私は最初、白いゴリラというものに、何か進化論の幻影を見ていたのだ。もしかするとこれはゴリラが人間に進化しつつある第一段階であるかもしれないぞ、というような……。だが、その後、アメリカの雑誌「ナショナル・ジェオグラフィック」などに何度か報道された記事を読むと、べつに白いゴリラも、毛や皮膚の色が白くて淡いだけで、知能や動作は普通の黒いゴリラと変りないらしく、やっぱりタダの突然変異らしいとわかってみると、以前ほどの興味は持てなくなっていたのだ。
考えてみれば、ゴリラと人間がいかに近いにしても、それが北京原人のようなものに進化するまでには何十万年かかるといわれているわけで、黒いゴリラが白くなって、やがて人間になるなどということは、有り得るわけがない。
私は、バルセロナの動物園の入場料が一人一〇〇ペセタ(三百円)もとるとは、スペインもずいぶん物価が上ったものだと、ひどく散文的なことを考えながら、なかに入った。切符売場にも白ゴリラの写真が貼《は》ってあり、さしずめそれは上野動物園のパンダのごとく最大の客寄せにつかわれているに違いなかった。そうなると、何かますます興醒めの感じだった。――どうせ白ッ子のゴリラじゃないか、大したことはないだろう。
ゴリラのいるところは、別棟になっていて、五十坪ほどの運動場の中のゴリラを一方からガラス越しに眺めるようになっている。見物人はここに一番多く集っており、かれこれ五、六十人が横幅十メートルほどのガラスの前にむらがっていた。最初、私は最後列にいたが、前の客がどんどん帰って行くので割りに簡単に最前列に出られた。白いゴリラはいた。しかし、ガッカリしたことに、彼はガラスに背を向けて、後向きにジッと腰を下ろして、しゃがんだままなのである。バルセロナの残暑はきびしかったが、この日はとくに蒸し暑く、ゴリラたちもうんざりして、群衆の顔は見たくもないのであろう。白ゴリラの他に、黒いゴリラが二頭(おそらく両方とも雌)、同じ囲いの中にいたが、二頭ともぐったり寝そべっている。そのうち一頭の黒い雌ゴリラは、何か挑発するように、白ゴリラのまわりを、丸い腹を突き出してぐるぐる歩き出した。白ゴリラは雄だから、背丈も横幅も雌の二倍ぐらいある。白ゴリラは、うるさくなったのか、急に四ツん這いになった。そして何か腹の中のものを戻すように、地ベタの臭いを嗅《か》いでいたが、不意にくるりとこちらを振り返った――。ああ、そのときの感激を、私は一生忘れないだろう。
彼は何と、大勢いる見物人を眺めまわして、私の方をチラリと見ると、つかつかと私の真ン前へやってきて、片腕を差し上げて頭の上にまわしながら、にいっと、歯を剥《む》き出して笑って見せたのだ。そして、懐しげに鼻面をガラスにぴたりと押しつけてくるではないか。それは、まるで、
「おお、ハポネスよ、よく来てくれた。ブエノス・ディアス!」
と叫びかけているようであった。私は、馬や犬が人の顔を見て笑いかけることは知っている。しかし、ゴリラ――といわず類人猿――が笑うのを見たのは、初めてだった。それは何とも人間的で、愛嬌があり、親近感にあふれるものであった。その点、馬が前歯を剥いて笑うグロテスクな顔とは全然ちがう。白いゴリラは、あきらかに私の方を見て、眼尻と小鼻の脇にシワをよせ、口の両端をつり上げるようにして、つまり人間と同じ笑顔になって笑うのである。――このように人間そっくりの顔つきになって笑うということは、このゴリラのメンタリティーも完全にわれわれ人間と通じ合うところがあるからではないか? 私は思わず握手の手をガラスに向って差しのべそうになりながら、そう考えた。
実際、それは不思議なものであった。あらためて見直すまでもなく、ガラスの向う側にいるのは、あきらかに白毛に包まれたゴリラであって人間ではない。しかし、ゴリラは人間ではないが故に、私のまわりに群がっているカタロニアのスペイン人たちよりも、私にとっては心の通い合う人間的な存在におもえるのだ。それとも、こういう考え方は人間にとっては危険なことであろうか――?
私は茫然《ぼうぜん》として、白いゴリラが小指の先きを鼻穴につっこんで鼻クソをほじくっているのを眺めながら、この断絶のなかの親近感を、胸の内でツブヤきかえしていたのである。
――昭和五十五年十月
ヨーロッパは変ったか
目下、ヨーロッパは不景気とインフレが同時進行して、街じゅうに失業者があふれて大変なことになっている――と、新聞やら週刊誌やらを見ると、こんなふうに書いてある。それは、きっとその通りなのだろう。
たしかに、スペインの物価は四、五年まえとくらべても、異状に高くなっている。バルセロナの動物園の入場料が百ペセタということは前回述べたが、マドリッドのプラド美術館の入場料も百ペセタ、そして王宮博物館にいたっては三百ペセタ(九百円)である。ちなみに十六、七年まえ、初めてスペインに行ったときは、プラド美術館はたしか十ペセタ(もしかしたら三ペセタ)で、こんなに安くていいものだろうかという気がしたものだ。
しかし、その頃にくらべて、スペインの街は格段に綺麗《きれい》になっていた。乞食の姿も目立たなくなったし、街を歩く人たちの服装も身綺麗になり、みんな活溌《かつぱつ》だった。すくなくとも旅行者の私の眼には、どう不景気なのかわからなかったし、とくに失業者が多くなっているとも思えなかった。もっとも外人というのは、見掛けは誰でも堂々としているから、貴族とルンペンの見分けも、私にはつかないのであるが……。ただし、私たちにもハッキリわかることがある。それはヨーロッパの都会には、ちゃんとした設計があるということだ。
マドリッドなんか、ヨーロッパでは大変な田舎町であるにちがいない。それでも、わが東京などとは比較にならないほど、街はキチンとしているのである。道路でも、建物でも、街角の広場でも……。とくに公園となると、これはもう問題にならない。プラド美術館を出たあと、裏手の公園を散歩したが、林の中に池があり、その池の中を二階建の遊覧船――つまり芦ノ湖なんかに浮かんでいるような――が、大勢の見物客を乗せて、ゆらゆらと遊弋《ゆうよく》しているのである。勿論、池の広さは芦ノ湖ほどはありはしない。せいぜい上野の不忍池《しのばずのいけ》ぐらいのものだろう。その不忍池のまわりのゴミゴミした建物を全部、取っ払って森林にしたら、きっとこんな風になるだろうな、と思うようなものだ。
たしか、石原慎太郎が環境庁長官とかになったとき、国土の美観をどうにかする、といっていたが、あれは一体どうなったのだろう――? 日本国中、街も田んぼも立て看板だらけで、おまけにお役所までが、
「街の美観は、まず犬糞の始末から」
なんて看板をあっちこっちに吊《つ》るしたり、おっ立てたりしているのは、甚だ美的でない。なるほど、外国の街はパリでもロンドンでも犬の糞だらけで、その点は日本の方が清潔かもしれない。しかし、これは私の主観だが、犬のウンチと街の美観とはあまり関係がないのである。あれはむしろ公衆衛生の問題であって、もし犬糞が本当に公共の衛生上実害があるというのなら、法律で取り締って、罰金でも何でもドンドンとるがいい。わざわざ金をかけて、看板なんか出すことはいらないのである。
それにしても、私たち日本人は、どうしてこう看板だの、標語だのが好きなんだろう。
「このところ小便無用!」
などと、道ばたの倉庫の壁や、コンクリートの塀などにヘタくそな字で書いてあるが、あんな文句を見ると、かえって立ち小便がしたくなるだけだし、書いてあること自体が汚ならしいのである。勿論、犬に限らず、人間でも、ネコでも、排泄行為によって道路や建物なんかを汚すことが良くないことは、誰だって知っている。知っていながら、なおかつそれを犯すのは、たいてい万止むを得ざる場合だろう。
そういえば、こんどパリのテュイルリー公園の花壇のそばで、真っ昼間、子供にウンチをさせている若夫婦がいて、これには少々おどろいた。
これまで何度か、あっちこっち海外を赤ゲット旅行して、文明国民でも結構、自然の欲求があれば、それに従うことは知っていたが、そういうのは大体、郊外の原っぱや畑のあるところであって、パリのまん中のルイ王朝の宮殿のお庭で、人間の子供が野糞《のぐそ》をしているところを見たのは、こんどが初めてだ。しかも両親とも、インテリらしい顔つきで、背の高いパパは頤鬚《あごひげ》をはやし、ママは白粉《おしろい》けのない顔に金色の髪を引っつめに結っていた。二人は、可愛らしい女の児をつれて、公園の椅子に静かに腰を下ろして読書などしていたのである。
すると、女の児はツマらなくなったのか、それともお天気があんまり好くて、ぽかぽかと暖かくなったせいか、一人でパンツを脱いでそのへんを走りまわり出した。ママが追い駈けて行って、何度もパンツをはかせようとしたが、女の児は言うことをきかない。とうとうママがあきらめると、女の児は豪華なバラの咲きほこっている花壇のそばでしゃがみこんで、うんうん、イキみはじめたものだ。――ああ、それはまったく公衆衛生上は思わしくなかったが、少しも美観をそこなう光景ではなかったのである。
封建時代ならば、これはまさにギロチンものかもしれないが、一九八〇年のパパは本から眼を上げてニコニコ笑い、ママはちょっとこまった顔でこっちを向いて苦笑し、女の児は上機嫌で用をたしていた。用がすむと、ママは女の児のお尻を拭《ふ》いてやり、それから何処かで棒切れをひろってくると、それでちょこちょこと穴を掘って、かんたんにウンチの始末をつけると、何ごともなかったように陽当りのいい椅子で、澄み切った青い空に顔を向けて日光浴をしはじめたものだ。
よく、外国人は子供のシツケにはきびしくて、日本人の母親のように無闇に子供を甘やかすことはないという。たぶん、その通りにちがいない。しかし何事にも例外はあるもので、私がテュイルリー公園で見た光景は例外中の例外だろう。――これだから、旅行者の見聞はアテにならないといわれれば、一言もない。ただ、ヨーロッパ人はわれわれが不浄とするのを案外、不潔とも思わず、われわれがそれほど気にもとめない行為を、意外にも迷惑がったりはするようだ。
ことのついでに、赤ゲット旅行者の感想をもう一つ言えば、ヨーロッパはたしかに変りつつあるかもしれない。スペインで驚いたのは、物価が上ったことの他に、坊さんの姿がめっきり減ったことだ。以前は街のいたるところで、黒いオカマ帽をかぶって、黒い長い服を引き摺《ず》るように歩いているカトリックの坊さんに出会ったものだが、こんどはそういう恰好の人を、ほとんど見掛けなかった。これは、何でもないといえば何でもない、要するにフランコ総統が死んで、スペインでも坊さん商売にウマ味がなくなっただけのことだといえば、そうかもしれない。しかし、以前はスペインには輸出するものが何もないので、坊主を輸出するしかないといわれていたのに、その坊さんがいなくなったということは、もしかするとこれはスペイン人の心の中から何かが消えてしまったということになるのではないか。そうだとすると、これは失業者が増えることよりも、もっと本質的な意味で大変なことかもしれない。
――昭和五十五年十月
ところ変れば
ヨーロッパを歩いて、特にウマい食べ物や、欲しくなるモノがあったかといえば、それは何もなかった。
スペインでは、ウナギの稚魚《ちぎよ》を塩とオリーヴ油で煮たアンギュラスと称するものが、私は好きで、こんども早速マドリッドで一番ウマいといわれるレストランで食べてみたが、どういうわけかそれほど感心しなかった。素焼きのドンブリ鉢の中で、細い白魚のような小さなウナギがぐつぐつと煮えているやつを、そのままテーブルに持ってきて食べるのは、わがくにの柳川鍋を連想させるところもあって、なかなかの珍味なのであるが、こんど食べたのは塩辛さが後まで残って、あんまりウマいとは思えなかった。
スペインの珍味には、もう一つ、コチニージョと称するブタの胎児の丸焼きもあるが、これは今回は最初から敬遠した。何しろ、胎児といってももう完全にブタの恰好をしたやつが、鯵《あじ》のひらきよろしく、頭からまっ二つに割れて、熱い鉄板の上でジュージュー焼けながら出てくるのである。身も皮も、とろけるように柔らかく、食えばウマいことは良く知っているのだが、肋骨《ろつこつ》が爪楊子《つまようじ》ぐらいしかない仔ブタを食うのが何とも可哀相であり、見るからにグロテスクでもあって、到底食う気にはなれなかった。
このように、昔食べてウマかったものや、好きだったものが、ウマいとは思えなくなったことは、あきらかに年齢のせいであろう。食べることもだが、観る方も闘牛やフラメンコ踊りの見物にも行かなかった。
闘牛というのは、日本で考えられているほど残酷なものではなく、むしろ一種の古典芸能というべきものであるが、やはり牛殺しの見せ物であるには違いなく、わざわざ出掛けて行くのも面倒だった。一方、フラメンコは街の何処ででもやっていて、見物に行くのに面倒なことも何もないのだが、踊りの始まるのが真夜中頃で終るのは明け方ちかくになるのだから、昼寝の習慣のないわれわれには体力的に無理であり、それに、フラメンコ踊りにつきものの、「アーアー」と声を長く引っ張ってうたうあの歌声が、どうにも耳になじめなくなってしまった。つまりは、これも年齢のせいにちがいない。
こんなに、観るものも、聴くものも、食べるものも、自分の体に合わなくなってしまっては、せっかく外国へ行っても何も面白いことはないようなものだが、実際はそうでもなかった。街角のカフェに腰を下ろして、通る人の顔を見ているだけでも結構退屈はしなかったし、公園の木陰のベンチで風に吹かれているだけでも、愉しかったのである。スペインの日射しは強く、日陰は濃い。そして風は乾いている。
「アンダルシアを一日じゅうドライブしていたら、眼玉が乾燥して眼蓋《まぶた》がどうしても下りてこなくなっちゃったよ」
とは、目下スペインに滞在中の堀田善衛氏の話であるが、皮膚がカサカサになるだけではなく、眼玉の中まで水分がなくなってしまうとは、話半分としても驚くべきことだ。実際、幅のひろい自動車道路には日陰はほとんどないし、車の冷房などはまったくきかない。窓をあけると熱風が侵入してくるので、閉め切ったままで走らなければならない。そんなふうにして一日じゅう走ったとしたら、たしかに中にいる人間は干物のようになるに違いない。私は、アンダルシアよりはずっと気温の低いカタロニアの道路を三時間ほど、堀田夫人の車に乗せてもらったが、眼玉が眼蓋にひっつくほどのことはないにしろ、車内でツバのひろい帽子をかぶらなければいられないほど暑かった。
しかし、それは日射しの中の話である。いったん木陰に入ると嘘のように涼しい。そして夜になると、霜でも下りてきそうなほど、冷えこんでくるのである。――よく、まア堀田さんは、こんなところに住んでいられるものだ、と感心もするが、光と影のいちじるしい対照の中では、見るものすべてが目新しく、そこで出会う人間の顔かたちも、私たちが日常感じている人間≠ニは、別のものになって映るのである。目の前に立っている人間でも、まるでガラス越しにみる額縁の中の絵のようで、それが実際に生きて動いているのだから何とも不思議な感じがする。
以前は、外国へ行って、自分が周囲とは違った存在だということを意識すると、妙に孤独なイラ立たしさを覚えたものだ。いまだって言葉の通じない国を旅していると、不便でもあるし、心細くもある。しかし、周囲と自分とが違ったものだということは、もうわかり切っているので、いまさら違和感を覚えさせられるということはなくなった。これも年齢のせいだろうか?
ところで、いつも外国へ行って感心するのは、街なかで犬を連れて歩いている人が多いこと、そして犬がじつにおとなしく、よその犬と出会っても一向に喧嘩などしないことだ。これはスペインでも、イギリスでも、フランスでも同様であった。
実際、わがくにでは犬は喧嘩をするのが通り相場のようなもので、私など朝晩、犬を連れて散歩するたびに、道の向う側から放ち飼いの犬がやってきはしないかと、そればかり心配している。いや、綱をつけている場合だって、道で犬を連れた人同士がすれ違うときは、おたがいに綱を短く持って、犬と犬とがぶっつからないようにするのがエチケットみたいになっている。もし、綱をはなせば、おたがいに組んづほぐれつの大喧嘩になることは必定だからである。
しかるに外国では、ヨーロッパでもアメリカでも、犬が路上で喧嘩しているのを私は一度も見たことがない。綱をつけずに犬を連れている人もずいぶん見掛けるが、その犬がよその犬のところへ素っ飛んで行って噛みついたりすることは、まず絶対になさそうだ。これは、どういうわけだろう?
一つには、犬の種類にもよることだろう。総じて日本犬は喧嘩っ早く、坂口安吾によれば、日本犬を連れていると暴力団の若い衆と一緒に歩いているようなものだ、という。しかし私の見るところ、わがくにの道路で喧嘩をしているのは日本犬には限らない。大はセント・バーナードから、小はマルチス、ダックスフントにいたるまで、こちらが犬を連れて歩いていると、あらゆる種類の犬が猛烈な勢で吠えついてくるし、どうかすると囲いを破って飛び出してきて、こちらの連れている犬に噛みついてくる。してみると、日本で犬が喧嘩をするのは、犬の種類によるものではなく、その土地柄によるとしか思えない。何年か前に、英国動物愛護協会とかいうところのオバさんたちが、
「日本人は、犬をイジめて、けしからぬ」
と、へんなインネンをつけてきたことがあるが、われわれは犬を決してイジめたりはしない。動物に対して残酷なのは三度三度、肉食を主にしている西洋人なのである。ただ、わがくにで犬が勝手に喧嘩をすることは、どうもたしかなのである。――それとも、犬は飼い主に似るというから、これはやっぱりわれわれ自身が、喧嘩っ早い人間だということだろうか。
――昭和五十五年十月
犬とタバコと原爆と
川崎の工場地帯では、肺ガンになる犬が、住宅地や商店街にくらべて倍以上もいる、と二、三日まえの新聞に出ていた。飼い犬のなかで、年齢や飼育地のわかっているもの千匹を解剖したところ、肺ガンにかかっていた犬は、全体で七匹、うち工場地帯が四匹、住宅地が二匹、商店街が一匹であったという。
千匹のうちの七匹というのは、大したことはないような気もするが、肺ガンにかかっているのは、みんな八、九歳以上の老犬で、その数は三九三匹である。つまり四〇〇匹ちかくのうちの七匹だから、かなりの率だろう。しかも老犬の死因の大半は、フィラリヤによるものといわれており、この統計では老犬のフィラリヤ罹病率《りびようりつ》は出ていないのでハッキリしたことはわからないのだが、三九三匹の老犬のうち、過半数がかなりひどいフィラリヤに冒されているとみていいだろう。そうなると、犬の肺ガン罹病率は統計の表面にあらわれた数字よりずっと高いはずである。
犬の病気といえば、狂犬病とか、ジステンパーを連想するのが普通だが、じつは狂犬病もジステンパーも、わがくにではこの数十年来、発生を見ていない。オオカミとか、ヤマイヌとか、日本では絶滅したとされている動物が、最近また何処かに生息しているのではないかと言われ出したのも、そのためだ。つまり、ヤマイヌやオオカミは、これまでジステンパーのために死滅したといわれていたのだが、ジステンパーがなくなれば、山奥の何処かにひそんでいたヤマイヌやオオカミが、少しずつでも自然繁殖しはじめるだろうというわけだ。
勿論、だからといってジステンパーや狂犬病の予防が必要でなくなったとは言えないが、とにかく感染率からいえば、現在それはゼロに近いものらしい。そして犬の病気の大半は、フィラリヤを含めて寄生虫によるものなのである。そんな中で、老犬三九三匹のうち七匹、工場地区だけでいえば一六六匹のうち四匹が肺ガンにかかっていたというのだから、これはいささか脅威である。
工場地帯の汚れた空気のなかで、とくにガンを発生させる原因になるのはクロームとかニッケルとかの金属類で、その粉の混った空気は重いから、人間よりも背が低く、いつも地べたに鼻をくっつけそうにクンクンと臭いを嗅いで歩いている犬は、人間よりも遥かに肺ガンにかかる率が多いわけだろう。
勿論、犬にとって悪い空気は、人間にとってもいいはずはない。とくに川崎と限らず、工場地帯に住む人は、用心するにこしたことはない。
もっとも、私自身、住宅地に住んではいるが、一日にタバコを五、六十本も吸っているのだから、これは肺のためには良くないにきまっている。
そういえば、先年、肺ガンで死んだジョン・ウェインは、フィルターなしのフィリップ・モリスを愛用しており、最初の肺ガンの手術のあとでも、パーティに出席すると早速、大勢の客のまえでフィルターのないキング・サイズのフィリップ・モリスを、ぷかぷかと吸って、大いに男らしいところを披露《ひろう》して見せたという。馬鹿々々しいといえば馬鹿々々しいが、好きなものは止められないのは仕方がないだろう。
ところで、そのジョン・ウェインの肺ガンは、じつはタバコのせいではなくて原爆実験のせいかもしれないと、やはり最近の新聞に出ていた。何でも一九五三年、ジョン・ウェインたちは原爆実験のおこなわれたネバダの砂漠から遠くないところへ、映画撮影のロケーションに出掛けた。
そのときの撮影隊の一行は、総勢三百何名かであったが、いまわかっている範囲で、そのうちの九十何名かがガンにかかり、死んだ者はジョン・ウェインを含めて五十一名とかに上るというのである。映画の撮影隊がどんなものか、私はよく知らないし、三百何人の一行がどれぐらいの日数、そのロケーション地に滞在していたものかも、わからない。しかし何にしても、そのときロケーションに参加した人員の三〇パーセントばかりがガンに犯されたというのは、もし本当だとすれば大変なことだ。ジョン・ウェインの遺族たちの弁護士は、
「これだけの数字が出ていれば、告訴すればアメリカ合衆国政府に勝てる見込みが充分にある」
といっている由――。ジョン・ウェインは有名なタカ派の愛国者であるから、地下でこんな話をきいたら、どんな顔をすることだろう?
しかし、この話の焦点は、ジョン・ウェインの遺家族がアメリカ政府を訴えて、勝てるかどうかということでは、勿論ない。ウェインの一家が裁判に勝とうが負けようが、それは私たちの関心事ではない。私たちの関心は、もっぱら原爆実験の跡地と、ジョン・ウェイン他、撮影隊一行のガンの罹病率との間に、どれだけの因果関係があるかということだろう。
だいたい原爆実験地と、撮影隊のロケーション地との距離や地形など、位置関係のくわしいことは、新聞には出ていなかったので、一切わからないのだが、三百何名の団体を組んで出掛けた以上、常識的には安全を見込んだうえでのことに違いない。そして撮影隊員のガン罹病が原爆実験地にのこった放射能その他の物質のせいであるとすれば、この影響力は彼等の常識的判断をこえて、遥かに強いものだったということになる。これは当然、ウェインの一家が裁判に勝てるかどうかなどより、ずっと大きな問題である。
それにしても、アメリカ人は原爆について何と鈍感な連中だろう。これは勿論、この新聞記事があくまでも正確なものだとしての話だが、ジョン・ウェインが死んだのは一年前、そのガンの罹病が発見されてからは十年近くもたっているだろうに、いま頃になって原爆実験地の近くへロケーションに行ったことが問題にされるというのは、彼等の原爆についての認識が私たちとは、まったくカケはなれてノンキであることを示すものだ。
私たち日本人は、原爆アレルギーといわれるほどに、核に対する恐怖心が強い。或いは、この恐怖心は水鳥の羽音におどろく式の無意味なものでもあるだろう。私たちは一般に、理科的知識や科学的常識のうえで、アメリカ人よりもそんなにまさっているとは思えないからである。しかし、こと核分裂作用の害について、常識的判断などというものが通用するものだろうか? 何といっても、それは過去に例のない未知の分野のものである。経験によって学んだり判断したり出来ない種類のことなのだ。
それにアメリカ人たちは、原爆をつくって戦争に使用したということに罪悪感を持ちたくないという意識が、つねに有形無形にはたらいている。ジョン・ウェインが原爆のせいなどではなく、タバコのせいで肺ガンにかかったと思いたがっているのである。しかし原爆について、われわれは責任を追及するなどというよりも、まずその害毒を出来るだけハッキリと具体的に突きとめる必要があるだろう。
――昭和五十五年十一月
雁と鴨とについて
雁《がん》は上野不忍池の名物である。晩秋のきょうこの頃、池のあちこちに羽根をやすめた雁の群れが見られる。雁は私の家の近所の多摩川にもやってくる。巨人軍のグラウンドのある河川敷《かせんしき》の向う側の水辺に、雁が巣をつくるのに好い場所があるのか、真っ黒いかたまりになって浮かんでいる。
以前はよく、そのへんまでコンタをつれて散歩に行った。朝早く、まだ誰もいない枯れ草の河原でコンタを放してやると、その気配を察するのか、遥か向うの水辺から数百羽の雁がイキナリ空に舞い上ったりして、壮観であった。
ところで、雁は鴨《かも》ともいう。字引きをひくと、どちらも「がんかも科の一種」とあって、雁と鴨との違いについては述べていない。しかし、秋の空を長い列になって北方から飛んでくる鳥は、「かも」ではなくて「がん」である。また、鉄砲打ちが仕止めて鍋にして食う場合は、「がん」ではなくて「かも」と呼ぶべきである。そして|森※[#区が區]外の小説『雁』は、青年のたわむれに投げた石に当って死ぬ鳥が「がん」だから悲劇になるのであって、あれがもし「かも」だとすると喜劇的になってしまう。
鴨といえば、先頃、私は或る先輩のすすめにしたがって、湘南海岸の小さな町のそば屋へ行き、ひどい失敗をやらかした。先輩は根っからの東京人で、そばだの鮨《すし》だのは子供のときから食いつけているから、なかなか味の註文がうるさい。たとえば行きつけの鮨屋に入って、一緒に鮨をつまむと、
「きょうの鮨は馬鹿に塩っ辛いな。君はどう思う」と訊かれる。
こちらは、大して自信がないから、
「まア、こんなもんじゃないですか。きょうみたいに蒸し暑い日には塩辛くしないと飯がイカれちまうんでしょう」
と、いいかげんなことを答えておくと、たちまち、
「そういうことだから、お前の文章はダメなんだ」
とやられてしまう。
先輩は、一日に一度、散歩かたがたおそばを食べに行かれるが、あいにく近所にうまいそば屋がない。ところが或る日、バスに乗って少しはなれた町のそば屋へ行かれたところ、近在にはまれにみるうまいそばを食べさせたという。そのそば屋は、そばも好いが、鴨もよく、酒もいいのが置いてある。だから、鴨の焼いたやつで、一っぱい飲みながら、仕上げにセイロを取って食うとちょうどいい、君もついでがあったら一度行ってみたまえ、とのことであった。
それは、話にきいただけでもウマそうだったから、その翌々日かに私は早速、出かけて行った。小さな店だが、そば屋はすぐにわかった。なかに入ると、
鴨なんばん
英国オックスフォード直輸入鴨使用
と、半紙に墨で大きく書いたビラが、あっちこっちに貼ってある。ははァこれだな、と思ったので、開口一番、そのオックスフォード直輸入の鴨のやきとりをくれ、と註文したところ、これがイケなかった。
「それはメニューにないので、出来ません」
と、註文とりに出てきたお神さんがいうのである。そんなはずはない、鴨のやきとりがダメなら、鴨の焼いたやつならあるだろう、と重ねてたのむと、やっぱり、
「それは出来ません」
と、お神さんはいうのである。私は、アテがはずれたというより、何か不当な扱いを受けているような気になった。勿論、そば屋はやきとり屋ではない。しかし、私は神田のそば屋では合鴨の焼いたやつはよく食べるし、げんにこの店でも先輩は鴨の焼いたのがウマかったと言っておられるのだから、私に限ってそれを出さないというのは、おかしいではないか。だいたい「メニューにない」という言い方が気に入らない。そば屋なら「品書きにない」とか何とか言えばいいではないか。そうなると「オックスフォード直輸入」というのも、しゃらくさい。何がオックスフォードだかしらないが、外国産の鴨なら冷凍にきまっている。それをれいれいしく「直輸入」だなどといばって見せるところはご愛嬌だが、メニューがどうの、ビンチョーの炭がこうのと言われると、私はだんだんこのそば屋がヘンに格式ばって横柄であるように思われて、腹が立ってきた。
「そうか、わかった。じゃ、鴨なんばんをくれ」私は気色ばんでいった。「そのかわり、鴨なんばん、そばヌキだ」
すると、相手はいささかも動じない顔つきでこたえた。
「へえ、鴨なんばん、そばヌキでよろしいんですね」
それをきいたとたんに、私は完全に逆上した。こうなったら、もうヤケクソである。
「ちがう、鴨なんばん、そばヌキ、汁ヌキだ……」
さすがに、お神さんは白粉《おしろい》っけのない顔をこわばらせ、肌に粉《こ》を吹いたような面相になって、物もいわずに台所へすっとんだ。私は覚悟をきめた。そば屋の職人は、気が荒くて乱暴だときいている。いまにメン棒か何かを持って、殴りかかってくるかもしれない。そのときは、もう仕方がない。頭を殴られるのだけはこまるが、他のところは打つなり叩くなり勝手にさせて、あとで言うことだけは、とっくり言ってやろう。いくら気取ったって、そば屋はそば屋じゃないか、メニューだの、オックスフォードだの、場違いなことを言うのは止めてくれ……。しかし、考えているうちに、われながら自分のやっていることが、だんだん馬鹿々々しくなってきた。いったいおれは何に腹を立てているんだ。
いまどき、そば屋だろうと何屋だろうと、飯をライスといい、品書きをメニューというのは常識じゃないか。そばをくれと言って、日本そばですかと聞き返されないだけでも、まだマシというものだ。もし、お神さんが機嫌を直して出てきたら、普通の鴨なんばんを註文しなおして、それを食っておとなしく帰ることにしよう。それにしても、イヤに遅いなァ、いったい台所で何をしているんだろう……。
そう思っているところへ、お神さんがまたあらわれた。手に焼き鴨をのせた皿を持っている。
「この前、○○先生がお見えになったときは、じつは試供品の鴨を差し上げたので、店で商売用に出したわけじゃなかったんです。鴨をお出しするかどうかは、これから良く考えて、出すなら出すでそれなりの準備をしなくちゃなりません。だから、これは特別サーヴィスです」
と、鴨の皿をぽんと膳の上において引っこんだ。私は、気ぬけがすると同時に、自分がさんざんダダをこねたことが気まずくなってきた。ふと見ると、まわりじゅうの客もアキレた顔つきで、こちらを見詰めているではないか。私は、そそくさと鴨を食って、酒を飲み、それからセイロを一枚、腹の中へ流しこんで、店を出た。
味はどうだったかと思い返そうにも、まるで物を食ったような気もしないはずだが、痩せ我慢のせいばかりでもなく、なかなかウマかったように思うのである。それにしても、おれもまったく年甲斐もないことだなァ、と反省しかけていると、お神さんが追い駈けてきた。
「これ、お客さんのお忘れものじゃありませんか」
見ると、それは私の老眼鏡であった。
――昭和五十五年十二月
不釣り合いなペット
埼玉県の民家で飼われていたライオンが、何処かの動物園に無事収容されたという話をきいて、ひとごとながらホッとした。
ライオンをペットにすることの可否はともかく、檻の間から手を出して、来訪者の頭を引っ掻いたりなんかするようでは、ライオンのいる家の近所隣の人たちは、迂闊に傍には寄りつけない気持であったであろう。ふだんはいいとしても、火事や大地震でもあって、その家が焼けたり毀《こわ》れたりしたときのことを考えると、甚だ心安からぬ思いがあったにちがいない。
昔、上野の動物園の近くに住んでいた人が、夜になると動物の遠吠えする声がきこえるというので、なかなかロマンチックなものだと思ったが、自分の直ぐ隣のプレハブ住宅にライオンがいて、これが夜な夜な吠え立てたりしたら、ロマンチックどころではないだろう。何でも、このライオンを飼っていた女性は、一人暮らしで、独酌の酒に酔っぱらってくると、檻からライオンを引っぱり出して、居間で一緒に寝ころんでみたり、じゃれつかせたりして愉《たの》しんでいたという。こういう「美女と野獣」ごっこは、やっている当人にとっては面白いにちがいない。ただし、こういう遊びは、やはりヨーロッパの都会をはなれた森の中のお城にでも住んでいる人に適しているのではないか。日本のように人口|稠密《ちゆうみつ》で、農村地帯でも結構、人家が建ち並んでいるところでは、ライオンを個人で飼うのは危険というより、不釣り合いなのである。
不釣り合いといえば、千葉県のお寺で、虎を何びきも飼っている和尚《おしよう》さんがいて、その虎が逃げ出したというので大騒動になったこともあるが、この和尚さんの心境なども、いったいどういうつもりだったのか、私には計り兼ねるものがある。紀州の何とかいうお寺には、蘆雪《ろせつ》のかいた虎の立派な絵襖があるから、お寺に虎は必ずしも縁が無いわけではなかろうが、生きた虎を境内の檻の中で飼っているという神経は、何処か狂っているとしか思えない。
仏教には殺生戒というものもあるだろうに、何で肉食の猛獣を十頭ちかくも寺の中で飼う必要があるのだろう。虎の餌になる動物が可哀相とかいうよりも、檻に閉じこめられている虎そのものが哀れではないか。何でも、そのお寺の和尚さんは、俳人としては相当有名な人らしい。まさか、
古寺や猛虎とびこむ藪の中
では句にもならないだろうに、まったくどんなつもりで檻の中の虎なんか眺めていたのだろう。
作家の火野葦平氏も、生前ライオンを飼っていたという。火野さんの家は、たしか九州で沖仲仕か何かの組長だったときいている。これはお寺の坊さんが虎を飼うのと異って、或る意味では似つかわしいと言えるだろう。しかし、いくら似つかわしいといったって、火野さんは犬を連れた西郷さんのように、ライオンを連れて散歩するわけにも行かなかっただろう。やはり檻に入れるか、太い鎖でつないでおくかするしか方法がなかったろう。当然ライオンは運動不足で、体力を衰弱させていたにちがいない。火野さんが急死したあと、そのライオンは餌が充分に貰えなかったこともあって、鎖につながれたままボロ屑《くず》のようになって死んだという話をきいたが、事実とすれば無残という他はない。
虎やライオンでなくとも、犬でもやたら図体の大きいのを飼うのは考えものではなかろうか。たしかに、大きな動物というのは、その大きさだけで一種の魅力がある。セント・バーナード犬など、顔つきにも茫洋としたなかに、小型犬にはない微妙な表情のうごきがあって、好きな人には見倦きぬ興味があることだろう。しかし、そういうセント・バーナード犬を東京都内で飼うのは、やはり無理があるようだ。吉行淳之介のところには、「ブースカ」とかいう名前のセント・バーナード犬がいて、いつでも窓の下で這いつくばって寝ているようだが、いつか吉行がこの巨大な犬を散歩に連れ出そうとしたところ、家の前の坂道の途中で、どでんと腹這いになったまま動こうとしなくなった。何しろセント・バーナードの体重は百キロを超えるほどだし、非力な吉行では押そうが引っぱろうが、どうなるものでもない。それが道路の真ン中をふさいでいるものだから、たちまち自動車が上り下りとも停って、延々長蛇の大渋滞になってしまった――と、これは吉行自身の小説に書いている。
小説では、主人公の私≠ェ自分の体力のおとろえをユーモラスに嘆いているところに焦点が当っていたが、読みながら私は、主人公の困惑ぶりもさることながら、むしろこのセント・バーナード犬が気の毒でならなかった。元来、犬は散歩が好きで、おそらく三度の飯を一度に減らしても、散歩に連れ出してもらう方がうれしいのである。しかし、家の外へ出たことのない犬は、自動車の往来のはげしい道路などでは怖がって、動けなくなってしまう。吉行の「ブースカ」も、おそらくそれまで家の門から外へは、ほとんど出たことがなかったのだろう。そう思うと私は、この「ブースカ」君には同情を禁じ得なかったのである。
セント・バーナード犬は、スイスの山中で遭難した登山家の救援に使われることは、ブランデーの広告や何かでも良く知られている。まあ、そんなことに実際に使用されるのは、よほど訓練をつんだ特別優秀な犬にちがいない。私は、スイスへは行ったことがないが、アメリカの中西部ウィスコンシン州の牧場で、放ち飼いにされているセント・バーナード犬は見たことがある。とにかくそこは、見渡す限り茫漠たる草原で、山もなければ、坂道さえもない。やたらダダッぴろい沼みたいな河が、うねうね曲って流れているのが、唯一の景観といえば言えるようなところなのだが、そういう場所に置くと、セント・バーナードという犬は、まことに堂々として、いかにも曠野《こうや》の主人公といった感じにすら見えるのである――。これを見ると、まったく東京のようなところで、大型犬を飼うのは罪なものだという気がする。
ところで埼玉県のライオンであるが、麻酔銃で眠らせたのを何処かへ運んだという記事は読んだが、そのあとどうなっただろう? いつか近藤啓太郎が、飼い犬に鑑札をつけさせるよりも、犬の飼い主を免許制にして、免許の鑑札のない者には犬を飼えないことにした方がいいと言っていた。たしかに、中型、小型の犬ならともかく、大型犬やシェパードのような犬は、飼い主にも一定の資格や経験が必要かもしれない。まして、猛獣の飼育など、野放しに素人に許しておくというのは、為政者の怠慢である。近所迷惑というだけではなく、飼われる猛獣そのものが結局は可哀相なことになるからだ。あるいは猛獣の飼育鑑札など出すよりも、猛獣の輸入業者をもっとシッカリ行政指導するべきかもしれない。
――昭和五十六年一月
消えた馬屋
新年早々、こんな話もどうかと思うが、毎年十二月中に何通か、ことしは身内に不幸があったから年末年始の挨拶は遠慮するというハガキがくる。つまり、これは年賀状は出さないから、そちらからもよこしてくれるなという断りを兼ねた挨拶状であって、まあ一種の虚礼といえばそんなものだろう。
しかし、型通りの文句を印刷しただけのそういうハガキでも、貰ってみると普通の年賀状よりも印象の強いものもある。とくに昔の友人から、「亡母の喪中につき」というような文句のあるハガキを貰うと、活字の字づらの下から、中学生の頃、世話になった同級生のお母さんの顔が浮かんできたりする。だが昨年の暮、長野県北佐久郡軽井沢町のIという人からきた喪中の欠礼状には、また別の意味での感慨があった。ああ、あの子の親父さんも、とうとうイケなかったか――そう思うと、その親父さんの顔よりも馬の顔が眼に浮かんだ。
Iさんというのは、軽井沢の貸し馬屋であって、かれこれ二十年近くも前、うちの娘がまだ幼稚園か小学校の低学年の頃、よくその家の馬に乗せてもらった。私は別荘など持っていないし、家族づれで軽井沢へ出掛けたのは大抵、五月とか、十月とか、若葉か紅葉の季節である。いまの軽井沢は、ほとんど一年じゅう混み合っていて、客足の絶えるということはないらしいが、二十年ばかり前のその頃は、八月に入ると旧道の避暑客目当ての店も全部閉まって、人っ子ひとりいなくなった。私は、行きつけの旅館の一室で、ものを読んだり書いたりすることになるのだが、その間、娘は家内につれられて、近所を散歩したあと、必ずといっていいぐらいIさんの貸し馬屋へ遊びに行っていた。
時間ぎめの貸し馬というのは、何処でもそう安くはないもので、おまけに小さい子供が乗るときは馬屋の誰かが、クツワをとって歩いてくれることになっているので、馬と一緒に馬方も借りるようなものだから、そうそう一日に何度も馬に乗られると、親としては懐具合を考えないわけには行かない。それで、貸し馬に乗るのは午前一回、午後一回で、それ以上はダメだ、と固く言い渡してあったのだが、娘は馬に乗れなくても、馬のそばにくっついているだけで面白いらしく、宿屋で朝飯をすますと、途中でニンジンか何かを買って、真直ぐ馬屋へ行き、昼飯のあともまた同じようにして馬屋へ出掛けて、何の彼のとほとんど一日じゅう馬のそばで時間をつぶしてくる様子であった。
どうして、この娘がそんなに馬が好きになったのか、理由は私にはわからない。一人娘できょうだいがいなかったせいもあるだろう。それに生来、非常に臆病で、三、四歳の頃は、木馬に乗せてやろうといっても、それさえこわがって、無理に乗せると泣き出した。それがどういうわけか、貸し馬屋の馬にだけは最初から平気で乗った。そして一度乗ると、味をしめたように、何度でも乗りたがり、軽井沢へ行くといえば、貸し馬に乗りに行くことだと思うようになった。
彼女の乗馬熱が冷めたのは、いつ頃からか? これもハッキリした記憶はない。たぶん小学校の二年か三年の秋、オリンピックの馬術競技が軽井沢であって、私の従兄《いとこ》につれられてそれを見に行き、あんまり立派な馬を見たので、貸し馬屋の馬に乗るのがイヤになったのかもしれない。それに、その頃から学校で友達も出来て、動物と遊ぶより友達と遊ぶ方が面白くなったということもあるだろう。しかし彼女は馬が嫌いになったわけではないらしく、たしか中学生の時分に乗馬クラブに入りたいようなことも言っていたが、これは貸し馬に乗るような簡単なことではないので、いつとはなしに沙汰やみになった。そして私自身、その頃から軽井沢というところへは行くこともなくなった。
とくに、何という理由があるわけでもない。強いていえば行きつけの旅館が火事で丸焼けになったというぐらいだが、べつに古い旅館の建物が好きで軽井沢へ出掛けていたわけでもないのだから、これは理由にはならない。要するに、何となく足が遠ざかったというまでのことだ。
ところで一昨年の秋、或る出版社の要請で軽井沢のホテルに何日間かこもって、長い対談をやることになった。娘が、ひさしぶりだから自分も行きたいというので、対談が終った頃に呼び出して、ひさしぶりに新しく建て直った軽井沢の旅館で二、三日すごした。正確なことは忘れたが、最後に軽井沢へきてから、たぶん十年以上たっているはずだ。それにしては旧道の様子など、大した変りはなかった。ただ、もう九月も半ばだというのに、結構、人の姿の目立つのが以前とはちがうところだろう。しかし、この変化は大きいといえば大きい。歩いているうちに、吉祥寺か立川か、そんな町の盛り場にいるような気分になった。
Iさんの馬屋へも行ってみた。それが変り果てていることは、一と眼でわかった。以前は十頭近くの馬のいた場所がモーター・プールになっていたからである。家は、もともと同じ百姓家で、厩《うまや》のあともそのままだったが、馬を運動させていた柵《さく》の中に自動車がギッシリ詰って乗り棄ててあるのは、異様な眺めであった。
Iさん夫妻は健在で、東京の大学へかよっていた息子さんも元気そうだった。
「小父さん、小母さんも、お変りなくて……」
と娘が言うと、
「それがねえ」と小母さんは、すこし顔色をくもらせた。「小父さんは、あんまり元気でもないのよ、馬がいなくなってから」
貸し馬屋をやめて、駐車場にしたのは、二年ほど前であるという。
「何しろ、この混みようじゃ、馬も飼えないんですよね。どこへ行っても、自動車はしょっちゅう通るし、馬の歩くところもなくなっちゃって……」
そればかりではない。何でも、軽井沢のまわりだけでゴルフ場が十五箇所も出来て、馬が草を食うところがなくなったというのである。それに、いたるところ、テニス・コートつきの民宿が出来たのはいいが、その民宿にもあぶれた若者たちは車の中で寝ることになる。その車を駐《と》めるところがないので、勝手に馬屋の柵の中へ突っこんで、そこで一と晩じゅう、ロックだの何だのとラジオをかけっぱなしにして、大騒ぎに騒ぎ立てるものだから、厩の馬は眠ることができず、あくる日散歩につれ出しても、馬は歩きながら居眠りばかりしている。そんなこんなで、貸し馬屋は廃業する他なくなったという……。ゴルフ場やテニス・コートが出来たおかげで、馬が飼えなくなったというのは初めて聞く話だったが、手放した馬はいったい何処へ行ったのだろう? ところで、話がそこへ行くと、いままで小母さんのそばで話の合槌《あいづち》を打っていた小父さんが、すうっと立ち上って何処かへ消えるようにいなくなってしまった。
「馬は、他人の手にかかるのも何だからというので、小父さんが自分で処分したんですよね。それから小父さんは、すっかり元気をなくしちまって……」
そこまでいうと、小母さんは声をのんで俯向いた。そうか、そういうことであったのか。私は、肩を落した姿ですうっと立って行ったIさんの猫背を想い出しながら、つぶやいた。
亡父の喪中につき……
という、Iさんの息子さんのくれたハガキを読みながら、やはりそのときのIさんの後姿が、処分された馬の顔と一緒になって、眼に浮かぶのである。
――昭和五十六年一月
正月・酒・誕生日
松飾りもとれたところで、正月の話をするのも間がぬけているが、「お正月」という花やいだ気分は、年々うすれて、もはや何処にも残っていないのではなかろうか。
これは一つには、年齢を満でかぞえるようになって、正月がきても年をとらず、誕生日がこなければ馬齢を重ねるということにならないからだろう。
そういえば、元号法制化とか、憲法改正とか、最近さかんに鼓吹《こすい》されている復古調にもかかわらず、「数え年」を復活せよという声をほとんどきかないのは、やはりいかなる保守的な老人といえども、少しでも年をとるのは先に延ばしたいという気持があるからだろうか。そういう私自身、大正九年生れだから、数えなら今年は六十二歳になったわけだが、なるべくそんなことは人前では言いたくないし、みずから認めるのさえ愉快でない。他人から見れば、六十歳でも、六十二歳でも、大した変りはないに違いないのだが、当人にとっては、なかなかそうではない。
しかし、「もう、いくつ寝たら、お正月」という子供の頃の正月を待ちわびる心持は、やはり数えで年をとらないことには、実感がわかないだろう。
年功序列というのはいまでも続いているが、昔はもっと長幼の序はきびしかったから、子供はみんな、一つでも余計に早く年をとりたいと願っていたのである。そして正月がくると、皆で一斉に年をとるから、誰の顔を見ても、
「お芽出度うございます」
と、素直な気持で言えたわけだ。この頃のように、青少年までがなるべく年をとりたくない、いつまでたっても子供でいたい、と思うようになっては、正月も一向にめでたくも何ともない。ただのヴァカンスになるのも当然のことだ。
最近の、金属バットで両親を殴り殺した例をはじめ、こういうのは皆、現今《げんこん》の青年が乳離れが遅くなって、いつまでも赤ん坊から抜け出せないためであるという。しかし、これを生理的現象としていえば、乳離れの遅い子は、昔から結構多かったようだ。げんに私の父親など、八歳(数え年)になっても、まだ母乳をのんでいたというし、文壇では私と同年の某君(名前をいうと怒られるから言わない)なども、学校から帰ってくると、カバンを放り出し、いきなり、
「ダチュチ!」
とか叫んで、母親のふところにしがみついたという。「ダチュチ」というのは、ダッコでチュッとオチチを飲みたいというのを省略して、早口に言ったものらしいが、この頃の児童心理学ではこういうのを何と解釈するのだろう。断っておくが、某君は文学者として当今一流であり、私の父も職業軍人として敗戦まで無事につとめ上げ、べつに金属バットも振るわず、社会に害毒をおよぼすようなこともなかった。
評論というのは何でもそうだが、とくに野球評論、社会評論、犯罪評論など、結果論が多く、結果を見てから、あれこれいろんなことをそれに結びつけて、いかにも本当の原因がそこにあるようなことを言う傾向がある。だが、本当のところ、金属バットと乳離れの遅さとは、どういう因果関係があるか、そのへんのところは、解説をきくと、一応もっともらしくはあるが、実証することはまず不可能なことだろう。
勿論、金属バットの少年が、甘やかされて育ったということは、想像に難《かた》くない。最近の子供は総じて、われわれの子供の頃より甘やかされているという印象は、誰の眼にもたしかなことだからだ。しかし、都会のエリート・サラリー・マンの家庭の子というのは、昔も今も大して変りないのではあるまいか。私の子供の時代から、受験競争はさかんにおこなわれていたし、父親は勤め先きの仕事やら宴会やらで、毎晩、帰りが遅く、家で一緒に食事をすることなどめったになかったのも、いまと同様である。――だから、お前みたいにへンな奴が育ったんだ、といわれればそれまでであるが、私などよりマトモに育った連中だって、家庭の中を覗けば私のところと似たりよったりだったと思う。
甘えっ子が多くなったというのは、要するに日本が経済的に成長したからで、それ以外に理由は考えられないではないか。
国民一般の生活水準が平均して上ったので、貧乏人の子沢山ということもなくなった。子供の数がへって、暮らしも一と通り余裕が出来れば、その子が甘やかされるというか、甘い暮らしになじむのは当然だろう。
ただ、金属バットの少年で私などがちょっと驚くのは、酒がべら棒に強くなっていることだ。浪人二年といえば、もう成年に達する年頃だから、酒ぐらい飲むのはアタリマエといえば言えるが、夜中に一人でウイスキーのボトルを半分もあけるというのは、私自身の青少年時代をかえりみると、周囲にもちょっとそんなのはいなかったように思う。
だいたいウイスキーなどというのは、よほど高価で、学生や、まして浪人受験生の小遣いなどでは、気軽に買えるものではなかった。まず台所で親の酒を盗み飲みするというぐらいのことしか出来なかった。そういう意味では、この少年はたしかに異状に甘やかされていたというべきだろう。
そういえば、この頃は正月だからといって、とくに酔払いが街を歩いているということもなくなったようだ。いや、少しはふだんよりは飲む機会が多いかもしれないが、最近の日本人は正月でなくとも、男も女も、老人も少年も、飲む連中は四季を通じて、よく酒を飲むようになった。むしろ、盛り場の飲み屋街など、暮から正月にかけて店を閉めてしまうから、家の外で酒を飲むことは少なくなっているはずである。これも、この頃、正月気分が失くなった一因にちがいない。
しかし、繰り返して言えば、数え年の習慣がなくなったことは、正月の意味を大半失わせたことになるだろう。それに代って、誕生祝いというのが、普及してきたようだ。私など、自分の誕生日が来ても、例年ほとんど気がついたこともないが、これは子供の頃から誕生祝いなどやって貰ったことがないせいである。実際、そういうことをやるのは、キリスト信者の家庭や何かで、一般にはよほどハイカラな人でもそんなことはやらなかった。つまり、年は正月にとるものときまっていたから、個人的な誕生日なんか、べつにどうということはなかったのである。
この頃、レストランへ行くと、家族づれらしい一団が、突然、声を合せて、
「ハッピ・バースデイ・ツー・ユー」
など歌い出す光景にぶっつかることが、ときどきある。そういうとき、私は他人事なのに何となくテレ臭くて、顔が上げられないような気分になってしまうのだが、これも私の時代遅れのせいだろうか。
言い遅れたが、わが家のコンタも、ことしの正月で十六歳となった。人間なら、百歳に近く、中型犬としては珍しい長寿であろう。個人的な心情をいえば、これが一番、めでたい感じがする。
――昭和五十六年一月
コンタの上に雪ふりつもる
二月十七日、東京ではことし初めて雪らしい雪がふった。二、三日、めずらしく暖かい日がつづき、この日も朝、目を覚ましたときは雨で、春先きのような暖かさだった。それがミゾレまじりになり、雪になって、昼近くから逆に冷えこんできた。
わからないものだな――、と私は思った。この日からちょうど一と月まえの一月十七日、コンタの死んだことを憶い出したからである。兼好法師は、死というものは正面からやってくるとは限らない、むしろ必ず背後から忍びよってくるものだといっているが、これは人間の場合だけではない、犬の死ぬときだって同じである。
コンタはことし数え十六歳、人間なら米寿にも相当する年恰好だから、お祝いをしてやらなくてはならない。とついこの正月、皆さんに言ったばかりであった。無論、そんな老犬がこれからさき、そう長く生きられるとは思ってはいなかったが、まさかそれから二週間そこそこで死ぬとは、夢にも考えられなかったのである。
実際、コンタの体力がこの一、二年、ひどく衰えていることは、何かにつけて明らかだった。朝夕の散歩も、数年前までは三十分から一時間ぐらいずつもやらせていたが、この一年ばかりはもう二十分も歩くと、もうへとへとで自分の方から家へ帰りたがるようになっていた。それに、みちみち小便をするのでも、牡犬らしく後脚の片方をピンと上げるやり方はめったにせず、たいていは四つ肢を地べたにつけたまま、何か不安げな眼差しで私の顔など見上げながら、やっていた。コンタにしてみれば、そんな恰好で放尿するのは、わびしくてタヨリない想いだったが、それでも片脚上げて立っているのが大儀でたまらず、自分の小便が両脚の間を流れて行く気分の悪さを我慢していたのであろう。私は、そういうコンタを見るにつけて、哀れさよりも妙に滑稽なおもいがしたものだ。何という情無しの主人だろう。
情無しといえば、あれはコンタの死ぬ一週間ばかり前のことだ。カメラマンのS氏が雑誌のグラビア写真をとりにくるというので、その前日、私はコンタを風呂場で洗ってやった。コンタは、もともと水は怕がらない方だし、とくに私の言うことはよくきくから、いつもおとなしく体を洗わせる。しかし元来は野生的な日本犬なのだ。無闇に自分の体に触られるだけだって好きではないのに、体中に石鹸《せつけん》を塗りたくられて湯をぶっかけられることなんか、まったくありがた迷惑もいいところ、イヤで仕方がないのだが、主人のすることだからというのでジッと我慢していたのである。
とくに、その日は寒かった。濡《ぬ》れた体がすぐ乾くように、部屋には煖房《だんぼう》をきかせ、ストーヴにも薪《まき》をたくさんくべて温かくしておいたが、風呂場には煖房はない。コンタの体に湯をかけてやると、そのときは気持よさそうにしているが、すぐに冷えるらしく、体を震わせはじめた。それでまた湯をかけてやると――こんなことは初めてなのだが――流し場で小便をしはじめた。不潔にはちがいなかったが、私はコンタを叱《しか》る気にはなれなかった。
(ああ、こまった! 相済みません、こんな粗相をしちまって……)
と言うように、私の顔を申し訳なさそうに見詰めるコンタのオドオドした眼つきを見ると、私は叱るよりも自分の方が辛い気がした。コンタは仔犬の頃、まだ庭の隅の小舎で飼っていたときでも、自分のねぐらのまわりでは排泄《はいせつ》はしたことがないくらい、シモの始末はよかったのである。それがいま、風呂場のタイルの上に垂れ流してしまったのだから、コンタ自身がどんなにか情ない想いをしているに違いなかった。
本来なら、こういうことがあれば、コンタの老い先きがもはや長くはないことを察知すべきであったろう。しかし、なぜか私はコンタに死期がくるということが信じられなかった。ずいぶん弱っていることは知っていたが、それでもまだあと一年や二年は生きているものとばかり考えていたのだ。まだ、目は見えていたし、歯もシッカリしていた。そして毛艶《けづや》も決して悪くはなかったからだ。それに何よりも、げんに自分の傍で生きているものが、ある日、ぽっくり死んでしまうなどということは、到底有り得べからざることのように思われたのだ。まことに、
……死は前よりしも来《きた》らず、かねて後《うしろ》に迫れり。人、皆、死ある事を知りて、まつこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る……。
とは、このことであろう。
コンタは、しかし風呂場で湯を使ったその翌日から具合が悪くなったというわけではない。むしろわれわれの眼からは、真白く洗われたコンタは、いつにも増して凜々《りり》しく見え、食欲もあり、散歩も元気にした。それが一月十四日の夕刻、来客があり、私は一緒に街に出て食事をしたあと、家に帰ってみると煖炉《だんろ》のそばで寝ていたコンタが、何か吐いている。よく見ると、吐瀉物《としやぶつ》のなかに血が混っているので、かかりつけの獣医のOさんに電話で相談すると、すぐ連れてくるようにとのことだった。Oさんは、ふだんから何でもない病気を騒ぎ立て、人をおどかすような獣医ではない。むしろ、のんびりし過ぎるくらい、のんびりかまえている人なのだ。私は即刻、家内の運転する車にコンタを乗せて、Oさんのところへ連れて行った。コンタは、ふだんから車に乗るのは大好きで、ドアをあけてやりさえすれば、いつでも喜んで飛び乗ってくるのだが、この日は前肢をドアのステップにかけたなり、体を私が支えてやらなければ自分の力では自動車の中にも上れないほど弱っていた。しかし、何ということだろう。それでも私は、これでコンタが永遠に帰ってこなくなるだろうとは考えられなかったのだ。
翌日、Oさんから電話で連絡があり、コンタは腎臓の機能が悪くなって、このままでは尿毒症を起こすおそれがあるので、何とか尿を出させるように努めているとのことであった。私は初めて不吉な予感を覚えた。風呂場で小便をしたときのコンタのやるせなげな眼つきが憶い浮かんだからである。私が「急性の腎臓炎でも起こしたのでしょうか」と訊くと、Oさんは「いや、急性というわけじゃありません。ずっと前から少しずつ機能が衰えていたのです。まァ老衰でしょうね」とこたえた。
老衰か、老衰とあっては仕方がない。普通、紀州犬は十歳ぐらいまでしか生きられないように聞いている。それをコンタは満五年近くも長く生きのびたのだ。このままイケなくなるとしても、以って瞑《めい》すべきだろう。しかし、Oさんは名医である。ことによったら、という気持は、まだ私のなかでつづいた。翌々、十七日の昼間、私はOさんの診療所をたずねた。すでに前夜から、点滴をうけているコンタは、相変らず尿が出ず、やはり尿毒症の症状があらわれたのか、こんこんと眠りながら、ときどき小さな声で泣いていた。そして、その晩、私がOさんに電話で連絡をとり、もう一度、診療所に出向いてみると、たったいまコンタは息を引きとったばかりであった。私は茫然とした。
あれから一と月、私はまだコンタの死んだのが本当のことだと思えない。遺体を庭の片隅に埋め、家内が花と水をそなえてやっているが、私は何となくコンタはOさんのところへでも預けてあるのだという気がしてならなかった。それが、きょうの雪のふる庭を見ているうちに、なぜかコンタの死が実感としてやってきた。雪はボタン雪にちかい大粒のもので、それが絶え間なく音もなしに白くなった庭の上に降りつもって行くのを眺めていると、そこに仔犬の頃のコンタが転げまわって遊んでいる姿が眼にうつり、すると年老いたコンタの死んだことがハッキリとわかってきた。それは淋《さび》しいとか悲しいとかいうものではなく、何とも名づけようのないムナシサであった。もし私に詩才があれば、そういう心持を詩に託することが出来よう。しかし私には、その才能もない。ただ、先輩の抒情詩人を口真似して、次のようにつぶやいてみるだけだ。
コンタの庭にコンタを眠らせ
コンタの上に雪ふりつもる……
――昭和五十六年三月
静かな激写
カメラマンS氏のとってくれた写真が出来てきた。コンタが死ぬ一週間前のものである――。庭へ出て写真をうつすとき、ふだんのコンタは落ち着かず、そのへんを走りまわって、植込みの中にもぐりこんだり、なかなかうまくカメラのアングルの中に入ってくれないのだが、この日は馬鹿に素直に、まるでシャシン屋さんへ連れられて行った子供のように、神妙な顔つきでカメラマンの言う位置にきちんと腰を下ろして、行儀よく前肢をそろえたりするのであった。
S氏といえば、激写≠ニ呼ばれるほどの激しいカメラ・ワークで知られる人で、私は内心おそれをなしていたものであるが、実際に写されてみると、ハゲシくおそいかかってくるような感じはまったくなかった。むしろ有能なる歯科医に似ていて、にこにこと笑いながら近づいてきて、アッという間に撮影はおわってしまうのである。なるほど、この手でいかなければ、激しいヌード写真などはとれないものかもしれない。
それで、コンタもまったく警戒心をとき、ほぼS氏に言われるとおりの場所で立ちどまって、しゃがんだり、横向きになったり、正面に向き直ったり、言われるとおりのポーズをとった。――何て、ききわけのいい奴だ。私は、心ひそかにコンタの素直さを、S氏やS氏の助手の諸君たちに誇りたい気持であった。
しかし、考えてみると、この日のコンタの素直な態度は、じつは体力が弱り切っていたせいかもしれない。私は、あとになって、そう思った。だいたい家の中で飼われている犬が、外へ出たら、しばらくはハシャギまわって解放感にひたるのが当然ではないか。それを、おとなしく人間の言うことをよくきくからといって、ただ行儀のいい犬だなと思っていた私は、何と手前勝手な人間だったことだろう。
先年亡くなった河上徹太郎氏は、よく「ぼくは犬に散歩させて貰っているんです」と言っておられた。私も、コンタが死んだいま、その言葉がいかに正しかったかが、わかるようになった。たしかに、われわれは犬を散歩させているつもりでも、じつは犬に散歩させてもらっているのだ。私は、コンタの生きている間、毎日、朝晩の散歩を欠かしたことがなかった。雨が降ろうが雪が降ろうが、犬には散歩が必要で、それをやらないでいると犬は欲求不満に陥って、最悪の場合は人間に噛みついたりもする。ときどき新聞などに、
「ちゃんとクサリにつないでおいたはずなのに、犬が近所の子供を噛んで大ケガをさせた」
などと、その犬がいかにも獰猛《どうもう》であるかのように書き立てた記事を見受けるが、これは犬の習性を知らざること甚しいものと言わなくてはならない――。まえにも一度言ったことがあるが、犬はクサリにつないでおけば安全というものではない。クサリにつながれた犬は、むしろ放し飼いになっているとき以上に危険なのである。とくに二十四時間、つなぎっぱなしにされているような犬のそばには、絶対に子供など近づけてはいけない。犬だって人間と同じで、クサリにつながれていることは決して愉快ではない。まして年がら年じゅうつなぎっぱなしにされている犬は、あきらめ切っておとなしそうな顔をしている場合でも、心の中は怒りにもえていることだってあるからだ。だから、犬を飼う以上、餌をやることは忘れても、散歩をさせることは忘れてはならない。
正直のところ、犬の散歩は厄介だなと思うことがないわけではない。しかし、飼犬に死なれてみると、この厄介な日課が自分にとってどれほど愉しいことであったかがわかるのだ。コンタが死んで以来、私は朝晩、まったく手持無沙汰である。
「そんなに散歩したければ、一人で行ったらいいじゃないの」
と、家内はいう。ところが、いったん犬をつれて散歩する習慣が身につくと、犬と一緒でなければ歩けなくなるのだ。いや、用事があって出掛けるのならいいのだが、そうでなく純粋にブラブラと歩くとき、犬がそばにいてくれないと、じつに不安で、何だか裸で往来を歩いているような心細さを感じる。二、三日まえにも一度、私は思い切って一人で散歩に出掛けてみた。けれども近所のF女子高校のそばを通ると、不意にある架空な不安におそわれて、大急ぎで帰ってきてしまった。じつは、そのとき自分がチカンと間違えられはしまいかと思ったのである。
何でそんなことを思うのか? おそらく、それは私の内心にいくらかでもチカン的要素が眠っているせいかとも思われるが、それ以上に犬もつれずに歩いていると、そのこと自体にある端的なヤマシサを覚えさせられるのだ――。要するに、私たち人間は、用もないのにタダ歩くということができない、そういう哀れむべき存在なのである。そこで、犬に散歩をさせてもらうという仕儀になるのである。
河上さんは、愛犬のセッターが死んだとき、私の友人の家でモーツァルトのヴァイオリン・ソナタのレコードを聞きながら、
「モーツァルトはいけない、こういうときに聞くのには明る過ぎていけない、あまりにも明る過ぎる」
といって、レコードを止めさせ、しばらく眼に涙を浮かべておられたということだ。私は、じつのところ河上さんほどには敏感でないせいか、モーツァルトのレコードを聞いても一向に悲しくもなければ、涙も出ない。たぶんそれは、犬と一緒にモーツァルトを聞いた経験がないからかもしれない。わが家のコンタは、いつもステレオのスピーカーの直ぐ裏側のところで寝ていたが、モーツァルトであろうが、ベートーヴェンであろうが、私がよほど大きな音でレコードを鳴らさないかぎり、一向無感動に眠ってばかりいたのである。これは、やはり犬は飼い主に似るということなのであろうか?
それとも、イギリス種のセッター犬と、在来日本種の紀州犬とでは、音楽に対する好みや感受性が異るのであろうか? しかし、私はときたま津軽三味線や新内や尺八などのレコードをきくこともあるのだが、そういうときでもコンタは西洋音楽のレコードを鳴らしているときと同様、まったく無関心に眠りつづけるか、「ああ、うるさいなァ」といいたげに、のっそり起き上って、だるそうに何処かへ行ってしまうかするだけであった。
ところで、S氏のとってくれたコンタの写真だが、これを観ていると、さすがに私も何やら胸に迫ってくるものを覚えずにはいられない。私には写真の技術的なことなどわかるわけもないのだが、そういうものを超えて画面のなかのコンタの顔は何とも言いようのない静かな感動を、私に訴えかけてくるのである――。一体、それは何なのか? コンタの横顔は私の胸のあたりをジッと見つめている、私はそれを上から見下ろしている。画面にうつっているのは、ただそれだけのことで、他の人が見れば別段、何ということもない写真かもしれない。しかし、その画面にあらわれた静けさは、私にとっては写真以上の何かである。人間と動物、生者と死者の無言の対話を、その静かなものは語りかけてくるように思われる。
――昭和五十六年三月
「狗子図」の仔犬
「おまえ、コンタが死んだぐらいでガッカリしてちゃいけないよ。後継ぎを直ぐ飼えよ、こんどはメスがいいな。ちょうど、おれのところにメスの紀州犬の素晴しいやつが生れたから、これを取りにこいよ」
鴨川の近藤啓太郎から、そういう電話がかかってきたのは先月末である。近藤の親切心は有り難かったが、私は二つの理由で躊躇《ちゆうちよ》した。
一つは、これから新しい仔犬を飼うとして、自分の体力がそれに耐えられるかということだ。紀州犬は中型で、秋田犬や土佐犬のように大きくはない。しかし、それを引っ張って歩くことは相当な体力を要するのである。ふだんは、それほどのことはないとしても、瞬間的には恐しく強烈な力を発揮する。コンタの体重はせいぜい二十キロぐらいしかなかったが、六十キロ以上の体重のある私は散歩の途中で何度か引き倒されたことがある。また或るときは首環を引きちぎって、向うからきた犬に飛びかかって行ったこともある。だから、引き綱なども縫い目がちょっとでも綻《ほころ》びてきたら、すぐに新しいのと取り換えてやらないと危険であった。さすがに、ここ数年、十歳を過ぎた頃からは、めっきりおとなしくなって、道でよその犬に出会ってもヤタラに飛びかかったりはしなくなったが、それまでは散歩のたびに私は、いつよその犬が出てきはしまいかと、絶えず気をくばっていなければならなかったのである。
そればかりではない。犬が脱走した場合、追い駈けて走ることは、満六十歳をこえた私には、もはや不可能である。実際、コンタはまれにみる従順な犬であったが、それでも若い頃は一年に何度か、柵を跳びこえたり、金網を食い破ったり、穴を掘ったりして、脱走した。これは以前にも述べたことがあるが、私は逃げ出したコンタを追って、尾山台から田園調布近くまで駈け通し、心臓が破裂しそうな想いをしたことがあった。それでも脱走が昼間のときは、まだいい。夜間、ふと犬小屋から姿を消した犬のあとを追って、よその犬の吠え声などをたよりに探し歩くときの心持は、まったくヤリ切れたものではない。――もう犬を飼うことなど懲りごりだ、金輪際、犬なんて飼うもんじゃない、と誰でもが思うだろう。
実際、犬に逃げられると、女房に逃げ出されるより面倒なのである。何といっても女房は人間だから、探すにしても見当はつけやすいし、感情的にも対応のしようがあるわけだ。ところが犬は、いったん逃げ出したとなると、完全に犬≠ノなって、われわれ人間とのつながりは切れてしまう。われわれは、ふだん、犬を家族の一員と考え、犬のなかに人間を想像している。しかし、それが所詮、われわれの錯覚に過ぎないことを、犬に逃げ出されてみると痛切に悟らされるのである。この認識はまことに孤独なものであり、それは誰に訴えようにも訴えようがない。
ところで、私が近藤に新しく仔犬を飼えといわれて、これを躊躇する二番目の理由は、この認識とはまったく相反するものだ。つまり、私のなかにはコンタに対する感情的な想い入れがありすぎて、他の犬を飼う気にはなれないのである。ちょうど、細君に死なれたばかりの男が、後妻を貰わないかといわれたような心境であろう。しかし、私はそれを近藤に言うわけには行かなかった。なぜなら、近藤は愛妻をガンで失ってから、もう十年近くになるのに再婚もせず、一人で鴨川で家事の面倒を女中さんたちに見て貰いながら暮らしているからだ。
話が脱線するが、われわれは近藤が男ヤモメの生活を三月と続けられるものではあるまいと思っていた。『微笑』にも描かれているように、近藤は細君を深く愛していたが、同時に細君に日常茶飯事のすべてを頼り切っており、傍で世話をやいてくれる伴侶《はんりよ》がいなければ、到底まともに暮らして行ける男ではないと、誰もが考えていたからである。しかるに近藤は、いかなる理由かはわからないが、後添いも貰わず独身生活をつづけながら、長女を嫁にやり、息子は大学にやって一流会社に就職させるなど、結構世間並みの父親以上に親の義務も果している。その間には、生活上の苦労もいろいろあったには違いないのに、そういうグチを仲間の誰彼にコボしたりしたことは一度もない……。そんな近藤が、コンタの後継ぎを飼えと言ってくれているのに、私がセンチメンタルな理由から無下にこれを断るわけには行かないのである。
「ま、どんな犬か、見るだけでも見に行ってこよう」
私は、女房にそういって家を出た。じつは、その女房がコンタの後釜《あとがま》を飼うことには最も強硬に反対なのである。
「せめて、コンタの四十九日ぐらいすませてからにしたらどうなの。世間の人にみっともないわよ」
などと、まるで自分が死んで、その後妻がやってくるようにでも思いこんでいるふしがある。しかし、そういわれると私は、かえってそのような感傷癖から離れたい気持になった。そういえば、コンタを飼うときだって、女房は反対し、私は近藤に無理矢理にすすめられて飼い出したようなものだった。もし、新しい仔犬が近藤の言うようにコンタに劣らぬ良い犬なら、女房だっていつまでも反対するわけはないだろう。そして、仔犬というのは、実際に見てみれば可愛くなるにきまっている。だから、「どんな犬か、見に行ってこよう」などと言い出したときには、私の気持はもう新しい犬を飼うことに決っていたも同然だった。
「どうだい、良い犬だろう」
鴨川の家に着くと、近藤は早速、犬舎からその犬を出して、私を振りかえりながら、そういった。
「そうだなァ」
私はアイマイにこたえた。じつのところ、私には犬の良し悪しなど、とくに仔犬のうちからでは見分けはつかないのである。しかし、とにかく可愛らしいことは間違いなく可愛らしかった。メス犬にしては、体つきがガッチリしており、尻尾も太いようだ。そして、巻き上った尻尾の下から、小指の先きほどの肛門がピンク色に覗いて見えるのもユーモラスだった。そんなのが、太い棒のような四つ脚をちょこちょこ動かして、母親のうしろをついて歩きまわっているところは、これはもう良いも悪いもない、ただ理屈ぬきにやたらに可愛らしいだけだ。
「どうだい、宗達の『狗子図』の仔犬にそっくりだろう」
近藤は、また言った。こんどは私も同感だった。近藤によれば、日本犬の仔犬は動物ではなくて神様のようなものだという。神様であるかどうかはともかく、人工的に洗練された西洋犬にくらべて、原始的で野性の強い日本犬の仔犬には、何かしら無垢《むく》な素朴さがあることは事実だろう。クンクンと土の臭いを嗅ぎまわっているその姿は、生きものそのものであり、見ているだけで生命力が伝わってきそうな感じがする。
ああ、こいつのおかげで、また一と苦労することになるのかな――。私は心の中でつぶやいた。しかし、その苦労の予想よりも愉しさの方が遥かに強く実感になって迫ってきた。
――昭和五十六年三月
第二の犬(上)
近藤啓太郎にもらった仔犬は、生後四箇月になっていた。コンタを貰ってきたときはまだ二箇月と少々だったから、すでにだいぶ大きい。動物の年齢を人間に比較するのはムツかしいが、犬の場合、最初の一年間は人間の十年に当るといわれている。その比率でいえば、コンタが家へきたのは人間の満二歳、こんどの犬は満四歳ぐらいということになるだろうか。ただし、コンタはオス、こんどの犬はメスであるから、体の大きさはコンタの二箇月の頃とたいして変りない。
名前を訊くと、近藤は、
「正式の登録名は『菊女《きくめ》』というのだ。何だか芸者みたいだろ」といった。
「そうだな、菊女か。じゃ、呼び名は『キク』にするか」
しかし、まるまると肥ったその仔犬は、尻尾も太く、メス犬とは思えないぐらい元気がよくて、キクなどという優しい名前よりも、クマとか、トラとかいった方が当っていそうだ。ニボシが殊のほか好物らしく、近藤が鑵《かん》から出してあたえると、そいつを横ぐわえにくわえてバリバリ食う。それは田舎の餓鬼大将がオヤツにもらった干し芋を食いちぎっている様子を想い出させた。
以前、三浦哲郎の飼っていたブルドッグは、食パンとシューベルトの「野ばら」の歌が大好きで、食パンをあたえると渦巻き状の小さな尻尾を揺り動かし、「野ばら」のレコードをかけてやると、ウーウー唸りながら合唱(?)したということだが、そういう高雅な趣味は、このキク――或いはクマ――にはなさそうだ。ブルドッグは、犬好きの英国人が人知の限りをつくして育て上げた傑作の犬種であるといわれているが、日本の風土にはなじみにくいのか、いずれも短命で、三浦氏の飼っていたのも五、六歳で死んだと聞いている。その点、日本犬は野育ちで文明的に開化したところは少しもないかわり、一般に粗食に耐えて頑健である。
千葉県鴨川から、東京|等々力《とどろき》のわが家までは、自動車で三、四時間かかる。仔犬のキクも車に酔って二、三度、もどしはしたが、家へ着いて水を飲ませてやると、もうすっかり元気になって、いきなり庭を駈けまわった。
「これまで、おれが飼ったなかで、こんなに陽気な犬は初めてだよ」
と近藤は、このキクのことを言った。よく知られているように、近藤は鴨川の自宅の犬舎ですでに何十匹もの紀州犬を育てた経験をもっているのである。おそらく近藤は、コンタが死んでふさぎこんでいる私を元気づけるために、そういう稀《まれ》にみる陽気な犬をえらんでくれたものに違いない。
たしかに、キクは陽気で、人見知りせず、私が最初にこの犬を見に行ったときにも、手をひろげて、
「来い」
というと、ぱっと腕の中にとびこんできて胸にかじりつき、こちらの顔を舐《な》めまわしそうになった。コンタは、仔犬の頃でも、こんなに人なつっこいしぐさはしたことがなかったのである。まして、成犬になってからは、抱きついたりすることはおろか、主人以外の人間には体を撫でられることさえ好まなかった。名前を呼んでやっても、自分にその気がないときは、尻尾を二、三度、ぱたぱたと振るだけで、そっぽを向いて寝ころんだまま、動こうともしない。そして私は、そういうコンタのものぐさな、無愛想な態度を好ましいものに思っていた。八歳過ぎてからは、庭には下さず、家の中だけで飼っていたが、来客でもあると、挨拶するつもりか、すうっとそばへ近寄って、クンクンと鼻をうごめかせて匂いを嗅ぐと、またすうっと部屋の隅の自分の居場所に引っこんで、何時間でもジッとしている。そんなだから、家の中にコンタがいても、何処にいるのかいないのか、わからないことの方が多かった。
実際、こうなると、いくら落ち着いて無愛想なところがいいといっても、いささか物足りない思いがしないでもなかった。とくに晩年の一、二年、コンタは私が旅行や外出先きから帰ってきても出迎えにも来なくなった。以前なら、私が自動車から下りる音をききつけると、玄関で待ちかまえ、小さな土間のまわりをグルグルまわってよろこんでいたものだが、最近では帰ってきた私を部屋の中で寝ころんだまま、大儀そうに待ちうけるだけになっていた。これでは私も、犬を飼っているということさえ忘れそうになるのである。
しかるに、キクはこれとはまったく反対だった。いくら仔犬だからとはいえ、庭の中で一秒間とジッとしていない。どうせ狭い庭だが、植込みの間をチョロチョロと駈けまわっていたかと思うと、こんどは軒下に並べてあった蘭の鉢に鼻をつっこんで何かやっている。と見ると、たちまちその中から茶色いアブラカスの固まりをくわえて、走り出した。アブラカスは蘭の肥料である。そんなものをウッカリ呑み下しでもしたら、体に毒かもしれないので、つかまえて取り上げてやるのだが、いくら取り上げても、すぐまた蘭のそばへ近づいてはアブラカスをくわえて、ガリガリと噛みはじめる。
これは、よほど腹でもへっているのかと、飯が出来るまでの間、近藤のところから貰ってきた生の鯵《あじ》を丸のまま一匹持たせて、遊ばせることにした。かなり大ぶりの鯵をポンと眼の前に放ってやると、キクは一瞬、はっとなって後へ跳びのいた。どうやら生きた魚が芝生の上で泳いでいるものと、カン違いしたらしい。キクは、用心深く魚のまわりを一周すると、そろそろと前肢をのばして、魚のそばに寄って行った。まるで猫がネズミを狙《ねら》うときのようだ。そして次の瞬間、素早く右肢で魚を引っかけ、いったん口にくわえて、ぽとりと前に落した。そのときのキクの嬉しそうな表情といったら、なかった。
(しめた、こりゃァ御馳走じゃないか、いただき……)
といったふうに躍り上ったかと思うと、ころんと仰向けに引っくりかえり、空に向って四つ脚をバタバタさせて、また起き直ると、鯵の頭をガッシリくわえこんだ。くわえたままで鯵を五、六回、激しく振った。どうやらキクは、獲物の息の根を止めたつもりになっているのだ。そうやって死んだ鯵を放り投げては、またくわえる動作を何度か繰り返していたが、やがてバリバリと音をたてて、鯵を頭から食いはじめた。私はギョッとした。ご承知のとおり、鯵の骨は固い。それを、まだ小さな乳歯しか生えていないキクが、噛みくだいて食っているのだ。もし、骨が喉にでも刺さったら厄介なことになる。私は、そう思って止めようとした。ところがキクは、鯵をくわえて逃げながら、あきれたことに丸のまま呑みこもうとするのである。勿論鯵の胴体はキクの食道よりも遥かに太い。
「馬鹿、そんなことをして喉に魚がつっかえたらどうする」
私は叱ったが、キクはやめなかった。仕方なく、遠くの方から手をつかねて眺めていると、キクはまたもや大きな音をたてて鯵の背骨を噛みくだき、腹から内臓をたらしている生の鯵を、たちまち丸ごと平らげてしまった。私は滑稽な気もしたが、笑う気にはなれなかった。キクの顔からは、先刻までの愛嬌のある幼さは消えて、野生の獣の獰猛さが漂っていたからだ。気がつくと、すでに日は暮れて、あたりは暗くなっている。私は、キクをつかまえて、新しくつくった犬小舎の寝藁《ねわら》を敷いた巣の中に寝かせてやった。
――昭和五十六年四月
第二の犬(下)
私は、コンタがはじめて私の家に連れられてきた晩、「ウォーン」と一と声、山犬の吠えるような声で鳴いたきりで、あとは諦《あきら》め切ったように物静かになってしまったことを、これまで何度か吹聴してきた。そして、この思い切りのよさ、自己の運命に対する従順さこそは、日本犬の特質であるというようなことを、とくとくとして人に語って聞かせもした。大袈裟なことをいうようだが、私はこのときのコンタの態度から、マナイタの上の鯉《こい》とか、花は桜木、人は武士とか、日本人の美意識や美徳に通じ合うものを感じ取ったぐらいである。
しかるに、キクを犬小舎へ入れて、ものの二分とたたないうちに、「キュンーッ」とカン高い声がひびきはじめた。しかも、それはコンタのときのように、一と声で鳴きやむのではなく、連続的に鳴きつづけるのである。私は女房にバタを塗ったトーストと牛乳を持っていかせた。コンタのときも、山犬のような鳴き声を発したあと、これを食べさせると、おとなしくなって寝た。その点は、キクも同じであった。ただし、コンタは食べ物をやっても、決して人の手から直接食うことがなく、パンでもビスケットでも必ずいったん地べたに落し、しばらく匂いを嗅いでから食ったものだが、キクは女房がトーストを引き裂いて食わせようとするのを待ち兼ねて、手の中に鼻を突っこんで、片っ端からむさぼり食うのである。
「もう少し、ユックリ食べなさい、ユックリ……」
女房は言ったが、キクはたちまちトーストを平らげると、女房の胸の上まで這い上って、頤《あご》や頬を舐めまわした。
「ずいぶん、甘ったれるのね、この犬は」
「ま、いいじゃないか、仔犬のうちは腕白でも」
しかし、鴨川から東京まで三時間半も自動車に揺られてクタビレているのか、食うものだけ食うと、キクは犬舎の中の巣箱にもぐりこんで、すぐに寝入った。
キクのために新しく設けた犬小舎は、私の仕事部屋の南側に、窓にくっつくようにしてつくってある。私は十二時過ぎまで仕事をして、一と区切りついたところで、机のそばに敷きっぱなしになっている寝床に入っていた。それからほんの小一時間、とろとろとしたところで、窓の外の犬小舎でガタゴトと床板を引っ掻く物音に目が覚めた。
キクのやつ、何を寝呆《ねぼ》けているのだろう?――
私は、動物がネゴトを言ったり寝呆けたりするところを見るのが好きだ。コンタも、よく眠ったまま四肢を激しく動かしては、ウーウーと唸り声を上げていることがあった。私はそれを見ると、何となく、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
という感じがする。勿論、当時はコンタはべつに身体に異常があったわけではなかった。しかし、動物が人の家に飼われているということは、やはり「病んで」いる状態ではないか。平和に飼われ、平和に病みながら、夢の中でだけ野生に立ちかえって原野を駆けめぐっているのかと思うと、私は何ともいえぬ心の痛みを感じ、同時に家畜化された動物たちに同病相憐れむような共感をおぼえずにはいられないのだ。
ところでキクは、しばらく小屋の中でゴトゴトやっていたかと思うと、
「アウゥーン」
という甘い、メゾ・ソプラノの声で、嘆くがごとく訴えるがごとく鳴いた。いったい彼女は、何を夢見てそんなに悩ましげに泣いているのか――? しかし、私の幻想は長くは続かなかった。彼女は「アウーン、アウ、アウ」と二、三度つづけてアクビでもするような声を発したあと、急にはっきり目が覚めたものか、こんどは「キャン、キャン、キャン……」と、鋭い引き裂くような声で吼《ほ》え立てだした。
時計を見ると、午前一時半である。何しろわが家は、鴨川の近藤の家とちがって、まわり中、家が建て混んでいる。しかも、近年までは「風致地区」とかで、騒音防止その他に関して、ことのほか皆さん気をつかっておられるところである。そこでキャンキャン、吼え立てられては、向う三軒両隣どころか、そのまたまわりの家々の人たちも、いっせいに目を覚まされたであろう。なかには受験生で、明日は入学試験という人もいるかもしれない。私はたまりかねて、雨戸ごしに、
「おい、キク、静かに」
と声をかけたが、これはかえって逆効果であった。キクは、私の声をききつけると、やっと目を覚ましてくれたかといわんばかりに、こんどは仔犬の体つきからは想像もつかない大きな声で、ガンガンとヒステリックにがなり立てはじめた。こうなっては、もう寝ているわけには行かない。私が起き出すと、同時に女房も起きてきた。
「おい、何か食うものをつくってやってくれ、オジヤか何か……」
「だいじょうぶ? あの犬、きのうから食べつづけじゃないの、アブラカスだの、生の鯵だの、トーストだの」
「だって、仕方がないだろう。何か食わせて寝かせなきゃ……。とにかく、おれはあの犬をつれて、一とまわりしてくるから、消化の良さそうな食い物をこしらえてやっといてくれ」
三月初旬、まだ寒気はきびしいが、私はパジャマの上に外套《がいとう》をはおり、頭から毛糸のマフラーで頬かむりして、キクを深夜の散歩に連れ出した。そのへんを、しばらく歩かせて、帰ってから雑炊をやると、キクはこれをがつがつ食って、ようやく眠ってくれた。しかし、それですべてが終ったわけではない。翌朝は、また七時から鳴き出した。こんどは娘が散歩に連れ出し、そのあと三時間ほども遊んでやって、やっと静かになった。そして、その晩もまた十二時過ぎる頃から、前夜と同じように鳴き、私はキクを小屋から出して、庭で明方ちかくなるまで遊ばせた。三日目の夜も同じことがつづいた。目が覚めると、窓の外で音がする。はじまるな、と思う間もなく、「ウォーン、オーン、キャンキャン」とやり出す。こうなると、もう私は、犬の夜泣きをきいているというより、歯痛に耐えているような気持だった。歯が痛み出すと、一日中、頭の何処かで歯のことばかり考えているように、私は間断なしにキクの鳴き声を心の何処かで聞いていなくてはならなくなった。
四日目の晩は雨が降った。れいによって夜半過ぎに鳴き出したキクを、私はしばらくアヤしてやっていたが、物凄い吹き降りの中で犬とたわむれているうちに、ふと『捨て子』という剣舞を想い出した。私の子供の頃、軍人だった父のところへ部下たちが遊びにくると、なかの一人がきまって、座ぶとんを背中にくくりつけ、
「この子、捨てざればァ……」
と、へんな節廻しで詩を吟じながら、サーベルを振るって舞うのである。私は子供ごころに、それはいかにも陰気で生存の憂鬱ということを考えさせられたものだが、いま真夜中の雨のなかで、泥んこの仔犬に引きずりまわされて付き合されている自分をかえりみると、その悲惨な馬鹿々々しさにおいてあの剣舞の男と変りないように思われた。
何処なりと行っちまえ――、私は庭にキクを放り出して寝てしまおうとするのだが、実際に雨のなかをこの仔犬がアテもなしにそのへんをさ迷い歩いて、自動車にひかれでもすることを考えると、それも出来かねた。仕方がない、今夜はこれで犬が疲れ果てるまで付き合ってやって、明日になったらSさんとでも相談して、別の犬と取りかえて貰うことにしよう。せっかくの近藤の好意を無にするのも悪い気がしたし、仔犬一匹飼えない自分の忍耐心のなさを思うと、甚だ屈辱的でもあった。が、もうこれ以上、我慢は出来なかった。やはり縁がなかったものとして諦めよう。
――昭和五十六年四月
或 る 悔 恨
生きものを飼うということは、何かしら悔恨めいた苦痛をともなうものなのであろうか? 先年亡くなった荒畑寒村氏には、自殺した犬の話≠書いた名文があって、犬と人間との内心の交流を見事に描いておられるのであるが、犬に自殺された場合の飼い主の悔恨というものは、想っただけでも胸が重くなるようだ。
しかし、どんなに気を使って、苦労して飼っても、犬もまた生きものである以上、死ぬときには死ぬ。
来ん世には 犬と生れて われもまた 尾を打ちふりて マルと遊ばな
これは荒畑氏が犬に捧げる哀悼の歌であるが、「マル」はマルクスの略称であって、その犬は荒畑氏のところで生れたものを友人の向坂逸郎氏に分けたものであるという。他人の犬に対してさえ、こうなのだから、荒畑氏が自身で飼っている犬に死なれたときの心痛は、どれほどのものであったか想像の他である。それにしても、この犬の名がマルクスになぞらえられたものであるとすると、この歌の「来ん世には」という言葉には、仏教の来世ではなくて革命後の新世界というような意味が含まれているのであろうか。
いや、あまり深読みをするのは滑稽であるし、だいいち歌が語呂合せのようになって、面白味が消えてしまう。ここはやはり単純に、自分も死んだら犬に生れ変って、無邪気に尻っ尾を振りながら、そのへんを跳ねて遊びたいというだけにとどめておくべきだろう。だいたいマルクスであろうが、毛沢東であろうが、名前なんぞは飼い主の気分次第で、犬には関係のないことだ。
話を前に戻そう。いま、私は新たにメスの仔犬を飼いはじめたことで、悔恨とも何ともつかぬおもいに悩まされているところだ。コンタが死んだあと、近藤啓太郎にすすめられるまま、彼のところから生後四箇月のメス犬を貰ってきたのはいいが、一日じゅう鳴き通しに鳴かれて、とうとうSさんに引き取ってもらったことは、すでに述べた。
その犬は元来、Sさんのところで生れたもので、容貌も姿態もまず理想的にととのっており、体は頗《すこぶ》る頑健、気性も極めて活溌で、もの怖《お》じするところは少しもないから、無事に育てば、あらゆるコンクールで一等賞をとる可能性が充分にあった。そんなだから、Sさんのところに引きとられると、直ぐに貰い手がついた。そして私は、その犬のかわりに、Sさんのところでこれから生れる犬のなかで、なるべく素直でおとなしそうな性格の犬を貰い受けることにした。
実際、他のことはどうでもいい。コンタを飼うときだって、やたらに吠えたり鳴いたりしないということを第一条件に、紀州犬をえらんだのであった。そしてコンタは、十二分にその要望にこたえてくれた。コンタの顔や姿態や毛並みは、決して悪くはなかったが、それ以上にすぐれているのは性格であった。もう何度も述べたが、コンタは生後二箇月あまりの仔犬のときに、わが家に連れてこられると、その晩、一度だけ「ウオーン」と長く尾を引く山犬のような声で鳴いたきり、あとはまったく鳴かなかった。親や兄弟から引きはなされて、淋しくなかったはずはない。しかし、コンタはあきらめが良かった。
じつをいうと私は、その頃、日本人が何につけても淡白で、あきらめの良過ぎることを、民族的な弱点であるかのように思っていた。敗戦後、マッカーサー元帥の言うことを無条件に受け入れて、一夜のうちに全国民が民主主義者に衣更えしたことはよく言われる例だが、連れてこられたばかりのコンタが暗い犬小舎の中で、物音ひとつ立てずにジッとうずくまっている様を見ると、日本人の性格のエッセンスがこの犬に籠っているようで、いささか不気味なくらいであった。たしかに、右を向けと言われたらいつまでも右を向き、左を向けと言われたら即座に左に向きかえるような性格は、人間としては甚だタヨリない。しかし、この素直さと忠実さは、犬を家族の一員として暮らすには、何ものにも換え難い美徳であることがわかってきた。いや、コンタの持っている従順な行儀のよさは、じつは人間などの遠く及ばぬすぐれた資質であり、われわれはこの犬に学ばなければならないのではないかとさえ思うようになった。
そんなわけで私は、コンタの死んだあとも、犬を飼うなら日本犬、それも紀州犬以外にはないと決めていた。しかるに、紀州犬といってもいろいろあって、すべての紀州犬がコンタのように素直で従順な性格ではないということが、いま他の犬を飼ってみてわかってきたというわけだ。
五月一日、メーデーの日に私は、Sさんが「これなら大丈夫、二、三日、ちょっと鳴くぐらいで、あとはもう鳴きませんよ」と受け合ってくれた仔犬を貰ってきた。
三月三日生れだというから、生後二箇月足らずである。前の犬にくらべて二箇月ほど若く、ちょうどコンタが家へ来たときと同じぐらいだ。しかし、これはメスなので、当時のコンタより体も小さく、足腰もそれほどシッカリしていないように見えた。
「器量や体形はいいんだが、尻尾がちょっとね」
とSさんは言った。コンタも、よく鳴いた前の犬も、堂々とした真直の指し尾であったが、こんどのは巻き尾である。しかし、白いにこ毛に包まれた丸まるとした尻に、巻き上った尾の先きがクルクルと小さく曲っているのは、愛嬌があって可愛らしい。呼び名は「ハナ」ときめた。
しばらく庭で遊んでやったあと、こんど新しく私の部屋の南側の窓に接してつくらせた犬小舎に入れてやった。この犬小舎は、一坪半ほどあって仔犬の寝る巣箱は二段式の棚の上にあるから、下段の床は全面、運動場になっている。仔犬にとっては充分な広さで、これだけあれば当分は小舎の中だけで暮らせるだろう。
さて、第一夜はどうか? これはSさんも言っていたように鳴き声は、前の犬と違って、さほど大きくはないが、キュンキュンとかん高い声で鳴きつづける。私は心の中で、自分自身に言いきかせた。――コンタのことを憶い出すのはよそう、仔犬だから鳴くのはあたりまえで、コンタは、特別の犬だったのだ。
十二時頃、あまり鳴くので、南側の窓をあけ、すぐ眼の前の金網ごしに小舎の中を覗きこむと、ハナは棚の上で立ちあがり、金網いっぱいこちらへ身をよせてきた。私が金網の隙間に指を突っこんでやると、ハナは両前肢でその指をはさむようにしながら、口をよせて指を吸いはじめた。おおかた母親の乳房だと思っているのだろう。十分間ほど、そうやって遊んでやっているうちに、ハナはおとなしくなって寝た。可憐であった。
次に、私がハナの鳴き声で目を覚ましたのは、午前三時頃であった。眠くもあり、面倒なので、しばらく寝床の中でその声をきいていた。キュンキュンという声が、ウーウーと唸る声に変り、やがてキャーン、キャーンと大声を発して、金網をガタガタゆさぶりはじめた。コンタのことは憶うまいとするのだが、こうなるとやはり、あの最初の晩からひっそりと小舎の中でたたずんでいたコンタの顔を憶い出さずにはいられないのである。
――コンタだって、あの晩はどんなにか淋しく心細かったことだろう。しかし彼は、それを耐えたのである。ああ、もうお前のように好いやつにめぐり会うことはできまい……。ハナが激しく鳴きつのればつのるほど、私はそんなことを思った。
――昭和五十六年五月
教育について
この頃、日本人は変ったという。善く変ったのか、悪く変ったのか、私は知らない。とにかく、これだけ社会そのものが激しく変っている時代だから、人間が変らないというわけはないだろう。
しかし、私がガッカリしているのは、人間ではなくて、どうやら犬が変りつつあるということだ。ハナはキクほどに我《わ》が儘《まま》ではなく、朝から晩まで何日間も鳴きつづけているということはなかったし、鳴き声もキクにくらべるとハナはおとなしかった。しかし、それにしたってコンタのあの潔い態度とは、まるで違うのである。そういえば近藤啓太郎も、
「この頃は紀州犬も、だんだん昔と違って、ムダ吼えをしたり、甚しい場合は、人間に噛みついたりするようなものまで出てきた」
といっていた。まえにも述べたが、紀州犬の特色は、やたらに鳴いたり吼えたりしないことと、動物に対しては獰猛だが、人間に対しては頗る温順で人を噛んだり襲ったりすることは絶対にないということであった。その特色が二つながら失われたとあっては、もはや紀州犬もタダの犬と変りないことになる。変ったのは性格ばかりではない、顔立ちや体型も以前とは違ってきたという。日本犬にくわしい獣医のOさんによれば、
「日本犬も脚が長くなって細っそりとスマートになってきましたね。顔立ちも、眼がパッチリとして、ファッション・モデルのようなのが増えました」
という。言うまでもなく、脚が細長いのは西洋犬一般の特色であり、日本犬の脚はスリコギのように太くて短いのが好いとされてきた。また、眼がクリクリと大きいのが洋犬の特徴であって、日本犬の眼は切れ長でキリリと吊り上っていたものだ。そして、毛並みも、これまでの日本犬は中毛で、手触りが粗《あら》く、緊張するとその毛がパッと逆立って、いかにも野性のあらあらしさを感じさせたものだが、この頃の日本犬は短毛でビロードみたいに優しい感触のものが多くなったらしい。
一体どうして、こういうことになってしまったのか――? 展覧会とかコンクールとかいうもので、ちょっと見のいい犬や、一見威勢のよさそうな犬ばかりが、もてはやされるためだろうか。それもあるだろう。しかし、もっと根本的には、われわれ自身の性格や日常生活の感情が昔の日本人と違ってきてしまったためではなかろうか。
紀州犬は、戦争や、食糧事情の悪かった時代に、ほとんど絶滅しそうになっていた。それを何とか持ちこたえ、現在みるように普及させたのは、もっぱらSさんなど、良心的な繁殖家の熱意と努力のたまものである。しかし、せっかくここまで隆盛になった紀州犬が、純血種であるにもかかわらず、その体型や性格までが変ってしまったとすれば、何とも残念なことではないか?
しかし、何と悔もうがどうしようが、われわれ自身、古い日本人の性格を失っているのだとすれば、犬にだけそれを求めたって仕方のないことだろう。いや、私自身、正直にいって、コンタのあまりにも素直で従順な性格を食い足りないように思ったことがないわけではない。コンタは、あまりにも無愛想であり、もっといえば人間嫌いであった。コンタは、じつに我慢強く、どんなに辛いことでも大抵のことは辛抱したが、一つだけどうしても我慢しきれなかったのは、人間に抱きつかれることだった。
たまに頭を軽く撫でられる程度のことならコンタもよろこんだし、耳の裏など掻いてやると心持好さそうに眼を細めたりした。しかしそれ以上のこと、たとえば首ったまに抱きついたり、頬ずりしたりされると、コンタは嫌がって首をのけぞらせ、一瞬するりと抜け出して、遠くの方へ逃げて行ってしまう。その有様は、ちょうど昔の日本人がハワイあたりで、頬っぺたに歓迎のキスをされて、恥ずかしそうに顔をしかめたり、おどろいて跳びのいたりする様子を憶い出させた。
恥ずかしがるといえば、コンタは何度家へ種つけのメスがやってきても、牝犬は想像妊娠するばかりで、ついに一度も成功したためしがなかったが、これも彼の恥ずかしがり屋の性格のせいであろうか。べつにコンタの精子に異状があるわけではなく、五味康祐の家の雑種の犬と交尾させたときには、ちゃんと仔犬が生れたし、また近所の多摩川べりの飯場などには、コンタが脱走したとき孕《はら》ませたとおぼしき御落胤《ごらくいん》の仔犬が、何匹もぴょんぴょん跳びはねていたこともあるから、やはりコンタは家で正式に交尾させられるのを恥ずかしがって、それでウマく行かなかったものとしか考えられない。
話をハナにもどすと、Sさんが「三日もたてば鳴きやみます」と言ったにもかかわらずハナは四日目の晩も五日目の晩も暗くなると母親が恋しくなるのか鳴いた。そして私は、その鳴き声をきくたびに、仔犬のハナを哀れむよりもコンタの忍従心を憶い出し、やはりハナには日本犬らしさがない、ダメな奴だなどと思った。
七日目の昼、近藤啓太郎が遊びにきた。
「どうだい、犬は」
「まあ、見てくれ」
私が、犬小舎の扉をあけると、ハナは飛び出してきて、近藤の足もとにまつわりつき、なつかしげに臭いを嗅いだ。近藤の体には、われわれにはわからないが、たくさんの犬の臭いがしみついているに違いない。しかし何よりも不思議だったのは、近藤が、
「おっ、こりゃ好いじゃないか。いい犬だぞ、これは……」
そういったとたんに、ハナはかしこまって、お宮の狛犬《こまいぬ》みたいな姿勢でしゃがみこんだ。
「うん、よしよし。いいぞ、お前は……。こりゃあ、たのしみだ、いい牝犬になる」
と、近藤がなおも賞讃の言葉をつづけながら、ハナを抱き上げると、ハナはちんちんをするような恰好で、行儀よく近藤の胸に抱かれ、顔を正面に向けて、瞳をジッと私の方にこらした。得意満面というべきか、優等生が学校で先生にほめられたときの顔つきであった。その顔は、こんな風に言っていた。
(どうです、わかる人にはちゃんとわかるんですよ。さすが近藤先生は、やっぱりお目が肥えていらっしゃる……)
まったく、これはどうしたことか――。ハナは、しばらく近藤の手に抱かれたあと、犬小舎へもどされたが、その態度はじつに素直で、キュンとも鳴かないのである。
「おかしいな」と私は言った。「あいつは、ふだん、小舎に閉じこめられると、キャンキャンいって『出してくれ、出してくれ』と騒ぐんだがな……」
「そうかね、おれの見たところ、あの犬は顔立ちも古雅なおもむきがあって、いまどき珍しく日本犬らしい日本犬だと思うがなァ」
近藤は、そんなことを言いのこして帰って行った。ハナは犬小舎の中で、依然として狛犬の彫像のように坐って、近藤を見送った。それはやはり家庭訪問にきた先生を送り出すときの子どもの顔つきだった。
夕方になり、あたりが暗くなった。そろそろハナが鳴き出す時刻である。しかし、鳴かなかった。犬小舎の中は物音ひとつしない。ひょっとして逃げ出したのではあるまいか、と小舎の中を覗いてみると、金網ごしにキチンと正坐したハナの姿が仄白く浮かび上り、私はおもわずそこにコンタがいるような気がして、つぶやいた。
――いや、コンタのことばかり憶い出してすまなかった。お前もいい犬だよ、きっとますますよくなるよ。
あれから、もう二週間近くになるが、近藤が来た日からハナはぴたりと夜鳴きすることをやめた。ことによると、近藤は偉大なる教育者かもしれないと思った。
――昭和五十六年六月
おのれを知ること
いま、ハナは私の部屋の隣の小舎の中で、ふてくされたように眠っている。赤い革の首環をはめてやったのだが、彼女はこれが気に入らないのである。
いったい、牝犬は牡犬よりも利口で聞き分けがよく、盲導犬などは牡ではいくら仕込んでもつとまらない。牝犬でなければ役に立たないという話をきいた。
なるほど、ハナはコンタにくらべて、たしかに頭はいいかもしれない。しかし目下のところ、聞き分けがいいというわけにはいかず、むしろズル賢いのである。たとえば小舎から出して庭に放してやると、よろこんで駈けまわり、なかなか小舎に戻りたがらないのは当然のことだが、それでもコンタなどは、小舎の戸をあけてやって、
「お入り」
といえば、いやいやながらでも小舎に入ったものだ。ところが、ハナは言うことをきかない。つかまえて無理矢理、小舎へ入れるより仕方がないのだが、これが容易なことではつかまらない。わが家の庭はせいぜい三十坪程度の狭いものだが、それでもチョロチョロ逃げまわる仔犬を追い駈けるのは大変である。先ず植込みの中へ逃げこむ。ドウダンだのツツジだの背の低い庭木の下に入られると、こちらはしゃがんで手を延ばしても、なかなか仔犬の体にはとどかない。それでも何とかして植込みから追い出すと、こんどはハナは庭石のうしろに隠れる。初めは、後向きになって、頭だけ庭石のかげに突っこんでいたから、つかまえるのも簡単だったが、ハナは直ぐに智恵がついて全身で隠れることをおぼえた。石のうしろにピッタリ身を寄せて隠れられると、こちら側から突進してつかまえるわけには行かない。へたをすると石にぶっつかって大怪我することになりかねないからだ。それで石のまわりをグルグルまわってつかまえようとするのだが、ハナはなかなか脚が速いうえに小廻りがきいて素ばしこい。五、六回、庭石のまわりをまわっているうちに、するりと私の足もとを通りぬけて、こんどは家の床下に這いこんでしまう。昔の家の縁の下なら人間が這いこむこともできたが、いまは床が低いからそんなわけには行かない。もう完全にお手上げである。ハナが隠れん坊に倦《あ》きて、自発的に出てくれるのを待つ以外にない。
それにしても、ハナは牝犬としても神経質な方らしい。雨が降ると、体の濡れるのをイヤがって、小舎から出たがらない。これは或る意味では、彼女の美点であった。コンタにしても、キクにしても、濡れるのは一向に平気で泥んこになって駈けまわる。だから私は雨の日でも、雪の日でも、コンタを散歩につれ出してやった。ミゾレ混りの雪の降るなかを、中年過ぎの白髪頭の男が、レーンコートに雨傘をさして犬を引っぱって歩いている姿を、道行く人は何と見たであろうか? 私は、雨や雪の日の散歩を辛いとは思わなかったが、なにか世間態の悪いおもいがした。その点、ハナはこれから外へ散歩に出るようになっても、雨の日にはその必要はないから気ラクである。
犬に散歩させるのは生後四箇月ぐらいたってからで、各種の予防注射もすんでいないハナは、庭で遊ばせておくだけでいい。しかし、小舎へ戻すのにこう手間がかかるのではこまるので、首環だけでもはめておくことにした。ハナは、何によらず紐状のものに興味を示すので、私は買ってきた赤い首環をハナの前で振って見せた。
「ほら、ハナ、蛇だぞ」
果してハナは、私の指先きで動いている首環を、ジッと不思議そうに見詰めていた。その隙に、私はハナをつかまえて首環をはめた。と、そのとたんにハナは、
「キャン」
と驚くようなカン高い声を上げ、前肢を宙に浮かせて三、四度、もがくような動作をした。もがいても首環がとれないとわかると、こんどは狂ったように植込みのなかへ突進し右に左に激しく体をふるわせながら駈け出した。
「おい、蛇じゃないよ、蛇じゃ……」
私はあわてて声をかけたが、無論ハナにはそんなことは通じるはずもない。ハナは植込みの間から跳び出すと、芝生の庭を一直線に走り抜け、どうしたことか自から進んで小舎の中へ飛びこんだ。そして棚の上の自分の巣箱の中に、四肢をちぢめてもぐりこんだ。
私は、しばらく呆然とせざるを得なかった。首環をはめるといっても、決して喉がつまるほど強過ぎたわけではない。頭からすっぽり抜けない程度のゆるめのものだ。或いは革に特殊なにおいの加工がしてあって、それがイヤだったのだろうか? またしてもコンタを引き合いに出すが、コンタがこんな風に暴れたのは生涯に二度――一度はペニシリンの注射でショックを起したとき、もう一度は庭の蟇《ひき》ガエルをからかっていて蟇の毒にアテられたとき――だけである。
いずれにしても、こうイヤがるようでは仕方がないので、いったん首環をはずしてやることにしたが、首環そのものには別段欠陥があるわけではなかった。結局、ハナは神経質でワガママなだけである。
それにしても首環をはめられたハナが、自分から小舎の中へ飛びこんでしまったのは、滑稽であった。ふだん、それほどイヤがって、なかなか小舎に戻りたがらないのに、いざ何か異物が首に巻きついて、自分の身に危険が迫ったとなると、やはり自分の家へ帰って巣箱の中にかくれるより仕方がないと観念しているのだろうか――? そう考えると、この生後二箇月半の仔犬が、小さな頭の中でいかにしてわが身を守るべきか、ちゃんと心得ているということが、小癪《こしやく》でもあれば可憐でもあるように思われてきた。
しかし、何だってハナは、そんなに首環をはめられるのがイヤなのか? ことによるとハナは、首環をはめられることで、自分が犬であるということを自覚させられるのが不満なのであろうか――。私は、ハナに首環に慣れさせるために毎日、短時間ずつ首環をつけてやることにしたが、最初のときほどではないにしろ、首環をさせられると、やはりハナはイヤがって、芝生の上で七転八倒、ごろんごろんと寝返りを打ちながら、首を地面にすりつけるようにしてみたり、いろいろやって、ついに首環がはずれないことがわかると、とたんに意気|沮喪《そそう》したように、よろけながら立ち上ってトボトボと庭の周囲を歩きまわる。家の中から呼んでやると、ハナは近づいてきて、鼻づらをガラス戸の隙間へおそるおそる突き出しながら、
「だんなサン、何とかして下さいよゥ」
というように、哀れっぽい眼つきで私の顔を見上げる。その様子を見ていると、ハナは自分で自分の置かれた地位を不承不承みとめざるを得ないといった心境にあるように思われる。動物は、それぞれ自分が何物であるかということを、生後何箇月かの或る時期に悟るようになる。それをプリント・イン(刷りこみ)と称するらしいのだが、どうやらハナは首環で自分が犬であることをプリント・インされたのではなかろうか? そして私は、巣箱の中で赤い首環をつけたままアキラメたように眠っているハナの姿を眺めていると、生きものそれぞれにあたえられた宿命というようなものを考えさせられるのである。
――昭和五十六年六月
最古の友情
犬は人類最古の友だという。古代エジプトの彫刻には、貴族がいまのダックスフントみたいな犬をはべらせたものがたくさんあるから、その頃から犬を飼う習慣はあったわけだろう。
しかし、こんなにたくさんの動物の中から、どうしてとくに犬を人間は飼うことになったのだろう? これは考えてみれば不思議である。
東アフリカは、最も早くから人類の発生したところだといわれており、気候も暑からず寒からず、まことに人間の生存条件の良いところだと思われるが、ここを旅行してみて、チンパンジーをはじめ大小各種のサル、種類も到底おぼえきれないほどの無数の蛇、トカゲ、ワニ、朝ごとに奇怪な声で鳴きながらホテルの窓のそばまで飛んでくる色とりどりの野鳥、また郊外にいくと必ず地平線の上に高い頭を突き出して立っているキリン、さらにシマウマ、シカ、ゾウ、そしてライオンなど、たいていの動物にはうんざりするほど出遇ったが、犬だけは二週間の旅行中、ほとんど見掛けたことはなかった。一度だけ、ウガンダの奥地のブドンゴの森林地帯で、現地人の家の裏庭みたいなところに、灰色の毛のフサフサした犬とも、ブタとも、仔牛ともつかぬ奇妙な動物がつながれているのを見たが、あれがもし犬だったとすれば、私の見た東アフリカ唯一の犬ということになる。
実際、私たちはこの地球上に犬ほどありふれた動物はいないように思っているが、私が東アフリカで出遇ったキクユ族やマサイ族、或いはピグミーなどの諸族のなかには、生涯に一度もイヌもネコも見たことがないという人たちが珍しくはないはずである。いや、アフリカほど離れたところでなくとも、中国でさえ一と頃は、犬の姿を見掛けたことがないと日本から行った旅行者たちが言っていたではないか。
中国の場合、犬は他の家畜と同様、食用にされるから、一時期食べつくされた状態になっていたのかもしれない。何にしても、犬が人間の友人として、私たちのすぐ傍に暮らしているということは、私たちの住んでいる社会全体が餓《う》えもせず、誰もが一応ゆとりを持って暮らしているという証拠だろう。
それにしても、数ある動物のなかから、とくに犬というものが選ばれて、何千年も昔からわれわれ人間と一緒に暮らしてきたということを考えると私は、何か永遠なる信頼関係といったものを感じないではいられない。コンタが達者だった頃、私は早朝、コンタをつれて、よく多摩川べりへ出掛けた。人っ子ひとりいない河原でコンタを引き綱からはなしてやると、草原の中を真っ白いコンタが尻尾を一直線になびかせて素っ飛んで行く。そして縦横に駈けまわったあと、ふと立ちどまって主人の存在をたしかめるように、こちらを振りかえる。そんなとき私は、犬というより友情≠サのものが、朝靄《あさもや》に包まれてそこに立っているように思ったものだ。
また、晩秋から初冬にかけて、川べりにそって霜の下りた枯草の間をコンタと一緒に歩いて行くと、半分氷のはった薄暗い河面から不意に驟雨《しゆうう》のような羽音が伝って、飛び立った雁の群れが一瞬、空を黒い斑点で覆ってしまう。そんなとき凝然と立ちどまったコンタの全身に、野生の血の騒ぐのが引き綱をひいた私の体にまでかよってきて、何か狩猟で暮らしを立てていた昔の人の呼び声がきこえてくるようでもあった。
いや、またしてもコンタの話になってしまった。しかし、じつをいうと私は、この頃ようやくコンタのことを忘れようとしているのだ。
以前は、ハナを見てもそのうしろにまるでコンタの幻が立っているように、いちいちコンタのことを憶い出し、こんなときコンタはどうだったこうだった、とそんな比較ばかりしていたが、やっと最近にいたってハナはハナとして可愛がってやれるようになった。ハナがわが家にやってきて、これで一と月、今月の三日で三箇月の誕生を迎えることになるわけだ。
この一と月の間に、ハナは顔つきも体つきも、めっきり大人っぽくなった。もう夜鳴きすることもないし、首環をつけてもイヤがらなくなった。キクをここへ連れてきたのは、生後四箇月目であったが、あの頃のキクと較べても、いまのハナは体も大きく、性質もたしかに大人びているようだ。キクは庭に放しておいても家の中へ入りたがって、しきりにガラス戸に跳びつき、ガラス戸の下半分ぐらいはキクの泥足でどろどろに汚れてしまったが、ハナはそういうことはしない。
人恋しがるのは犬の特性だから、ハナも家の中へは入ってきたがるが、ガラス戸をあけておいても、勝手に中へ這入ってくるようなことはない。敷居に前肢をかけると、叱られることを知っていて、そばで人が見ているかぎり、それ以上のことはしない。這入りたいのに、じっとがまんして、両前肢をすり合せるように足踏みしている。そのへんのところが、犬嫌いの人に言わせると、いじましくてイヤらしいのかもしれない。しかし、私にはそれは、いじましいのではなくて、いじらしいのである。しかも、抱いて家の中を見せてやると、両眼をぱっちりあけて、文字通り別世界を覗いたように、驚いた顔をする。そういうところが、何ともいえず可憐なものに思われる。
可憐といえば、家族の誰かが外出するときは、庭で遊んでいても必ず、木戸のところまで飛んできて、扉の鉄格子の間から鼻先きを突き出すようにして、見送りをする。それは「いってらっしゃいッ、はやく帰ってきてね」といっているみたいだ。
また、家族の誰かが外から帰ってくる場合も同じである。門前に足音がきこえただけでもう誰の足音か聞き別けがつくらしく、木戸のところへ素っ飛んで行く。そして木戸から入って行くと跳びついて喜ぶ。こうなれば、もう完全に家族の一員である。
そろそろ、外へ散歩につれ出す訓練もしてやらなくてはなるまい。柔順で大抵のことはイヤがらなかったコンタも、初めて散歩につれて出ようとしたときは、道路の真ン中で四つ肢を踏んばり、地べたに腹を擦《す》りつけて歩くのを怖がった。勿論、それは最初の一日だけで、慣れると直ぐに散歩を待ち遠しがるようになったが……。
コンタより遥かに神経質なハナは、散歩に外へ出るのもきっとひどくイヤがるだろう。しかし、いったん慣れたが最後、こんどは、勝手に垣根をこえて出て行きたがるに違いない。そうしたことを考えると、いまから気苦労のタネはつきない。
しかし、どの途《みち》友情≠ノ苦労はつきものであろう。犬と猟銃を何よりも愛していた河上徹太郎氏も「犬を一頭飼うのは、女を一人囲うより、何層倍も苦労がいる」とこぼしておられた。しかも、そういいながら、ご自分の家のセッターのことを話すときの何と愉しそうだったことか。
もうあと三月もすれば、私もまた、ハナを飼う苦労ばなしを、誰彼かまわず話しかけたがるようになるだろう。そのときの自分がどんな顔つきになっているかは知らないが、とにかくそれは私にとって生きる≠ニいうことであるに違いない。
――昭和五十六年六月
〈了〉
あ と が き
犬の本を出すのは、『犬をえらばば』についで、これが二冊目である。本文で述べたように、私はコンタを昭和四十一年の秋から飼いはじめ、ことし昭和五十六年の一月に失った。満十五年ちかくの附き合いであるが、人間の十五年より余程長い気がする。
幼犬から老犬にいたるまでの十五年は、人間の年齢に当てはめると九十年ぐらいであろうか。その間に私自身も結構年をとったし、いろいろのことがあった。コンタを飼いはじめたときの私は、四十代の半ばであったが、いまは還暦を過ぎて一年余りになる。しかし、自分自身を振り返ると、この十五年間はまったく一瞬のうちに過ぎてしまったような気もするのである。これから先き自分がどのくらい生きるかは分らないが、その年月はおそらく、これまでの十五年間よりも、もっとずっと速くたつに違いない。私の壮年期はコンタと共にあり、コンタと共に去ったといえるであろう。
本文でも何度も繰り返したように、コンタはじつに善い犬であった。しかし、その善さについて、私はどう言いあらわしていいか、表現するすべを知らないのである。つまり、それはコンタの中に、それだけ私を超えてすぐれた資質があったということであろう。馬が人間よりもすぐれて上品な存在であることを説いたのは、『ガリヴァー旅行記』の作者スウィフトであった。「馬の国」へ行くと人間は、ヤフーと呼ばれる陋劣《ろうれつ》下品なものとしてさげすまれ、高貴な馬の下に鞠躬如《きつきゆうじよ》とつかえる奴隷にすぎないというのである。けれども、もし馬にこの小説を読ませたら、馬はただ人間とは何と奇妙なることを考える動物であることかとアキレかえるだけで、そういう人間に自分が賞讃されたところで何ということもない、と思うであろう。
実際、動物を見て、上品であるとか利発であるとかいってみても、それは人間の価値基準を動物に当てはめるだけのことであって、動物のすぐれた資質を評価したことには少しもならない。コンタにしても、それは言えるのであって、コンタは決して学者犬のように利口なところはなく、またテレビ・ドラマに出てくる名犬|某《なにがし》のような能力は一度として発揮したことはなかった。コンタがすぐれていたのは、ただ自然なかたちの生きものとして優秀な存在であったという他にない。そして私は、そういうコンタを見ていると、何となく慰められたり、はげまされたりして、生きているということは有難いことだという気がしてきたのである。
おわりに、この随筆を書かせてくれた「週刊読売」前編集長の佐野さんと、現編集長の杉林さんとに、お礼を申し上げておきたい。佐野さんとはコンタがわが家へ来る前からの附き合いであるが、杉林さんとはこの連載がはじまるまで殆ど未知の間柄であった。しかし杉林さんは、私などより遥かに犬好きの、おそらくは犬キチともいうべき人である。先日も、この二人は、こんど飼いはじめた牝の幼犬ハナを見にきてくれたが、その際、杉林さんはハナを膝に抱き上げたうえ、興に乗ってくると、
「さあ、ハナちゃん、お遊戯いたしましょう」
と、ハナの両手両脚を持って動かしながら、
「ムスンデ、ヒライーテ……」
とやりだしたのには驚いた。こういう無類の犬好きの人がいてくれたおかげで、私は何とかこの本を書き上げることが出来たのである。その間、読者にも編集部の方々にも多大の迷惑をお掛けしたが、ご寛恕《かんじよ》を乞う次第である。
昭和五十六年七月
安岡章太郎
本書に収録したエッセイは、「週間読売」の昭和五十五年四月二十七日号から、昭和五十六年六月二十一日号まで、三十八回にわたって連載されたものの中から、犬と動物について触れたものだけ三十一回分を選んだ。
昭和五十六年九月読売新聞社刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年七月二十五日刊