ラグナロク
黒《くろ》き獣《けもの》
第3回スニーカー大賞受賞作
たぐいまれなる能力をもちながらも、傭兵ギル
ドをぬけた変わり者、リロイ・シュヴァルツ
ァー。そして彼の信頼すべき相棒である、喋
る剣、ラグナロク。二人の行くところ、奇怪
な武器をあやつる暗殺者から、けた違いの力
をふるうモンスターまで、ありとあらゆる敵
が襲いかかる――かつてないパワー、スピー
ド、テクニックで、格闘ファンタジーに新た
な地平を切りひらくミラクル・ノベル誕生。
安井健太郎《やすいけんたろう》
1974年生まれ。大谷大学中退。本書で第3
回スニーカー大賞を大賞受賞。次作のため
にバイク・ツーリングをあきらめる日々。
イラスト TASA
CONTENTS
序章
第1章
第2章
第3章
第4章
終 章
あとがき
登場人物
リロイ・シュヴァルツァー…フリーランスの傭兵
ラグナロク……………………リロイの剣
レナ・ノースライト…………暗殺者。リロイの古い知り
合い
マナ……………………………レナの妹
フェンリル……………………人語を解する巨大狼
アシュリー……………………娼館の女主人
リリィ…………………………少女娼婦
ユリパルス……………………鋼糸使いの暗殺者
カルテイル……………………暗殺者ギルド〈真紅の絶望〉
の首領
フリージア……………………カルテイルの部下の女戦士
ヘパス…………………………暗殺者ギルドの変態医師
ローク…………………………暗殺者ギルドの牢番
シャルヴィルト………………〈闇の種族〉の上級眷属
アシュガン……………………〈闇の種族〉の上級眷属
序章
まったくこの男は、どうしてこうも理性より感情に走るのか。
考えるよりも先に身体《からだ》が動き、それがもとでトラブルに巻き込まれる。いいかげん、学習し
てもいい頃だろうに。
「ぶつぶつ言うな、気が散るだろ!」
肩口めがけて振り下ろされた剣を弾《はじ》き返し、相手の胴を横薙《よこなぎ》にしながら、直情径行《ちょくじょうけいこう》型の我
が相棒リロイ・シュヴァルツァーは怒鳴《どな》る。
リロイは右に左に攻撃を躱〈かわ〉しながら、巧みな剣捌《けんさば》きで敵を確実に仕留《しと》めていく。
傭兵《マーセナリー》ギルドに属さない自由契約《フリーランス》の傭兵の中でも、S級の腕前を持ち、〈|疾風迅雷のリロイ《リロイ・ザ・ライトニングスピード》〉
の二つ名を持つ男だけはある。黒髪|黒瞳《こくとう》に黒の上下、いつも羽織《はお》っている黒のレザージャケッ
トから、〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉とも呼ぼれている。
ちなみに、この二つ名というものは、それ相応の実力を持つ傭兵にしか与えられない。別に
正式に贈られるわけではないが、二つ名を名乗り、それが認められるのは、A級以上の傭兵に
限られる。
傭兵のランクは、最下級のE級から始まり、A級、S級、そして最高ランクの|SS級《ダブル・エス》まであ
り、ランクによって仕事の内容や報酬《ほうしゅう》が変わる。このランクは大陸全土共通で、傭兵ギルドか
らその実力と功績に応じて与えられる。
ほぼSS級への昇格が決まっていたリロイは、しかし突如としてギルドを脱会。そのおかげ
で、彼の名は一躍有名になった。ギルドが結成されて数百年、SS級の座を蹴《け》ったのは彼が初
めてだったのだ。当然ギルドの記録からも彼の名は抹消《まっしょう》され、S級ランクも剥奪《はくだつ》された。
だが彼の力を象徴する二つ名は、深く人々の間に浸透していた。
その二つ名に恥じることなく、我が相棒は、周りを取り囲んだ数十名の敵をたった一人で圧
倒していた。
おっと、私も含めたら二人か。
まあ、これぐらいの力量がなくては、私の相棒とは呼べまい。
ただ問題なのは、この男の性格だ。
リロイが相手にしているのは、人間ではなく、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉と呼ばれている奴《やつ》らだ。
〈闇の種族〉とは、闇《やみ》から生まれた闇に生きる者たちの総称で、その実態やルーツはほとんど
知られていない。総じて凶暴で邪悪、一般人では太刀打《たちう》ちできない能力を備えている。
その能力に応じておおまかな分類は行われているが、そうやって知られているのは、下級や
中級に属するほんの一部だけだ。上級ともなると、神話や伝説に近く、その存在すら確認され
ていない。その力はまさに想像を絶するであろう。
そのように得体《えたい》の知れぬ、人に仇《あだ》する〈闇の種族〉から人々を守るのも、傭兵の重要な仕事
の一つだ。
ここ数十年、各地で〈闇の種族〉の仕業《しわざ》と思われる襲撃事件が続発し、高い壁で囲まれた街
の中以外は、決して安全とは言いがたくなっている。街から街への移動には、それなりの装備
と、やはり腕の立つ傭兵を雇うのが常識になっている。
大陸の中央に行けば、蒸気機関を利用した車や列車がそれなりに安全な旅を約束しているが、
大陸最南端に近い辺境ともいえるこの辺りでは、移動の手段はもっぱら馬か馬車だ。だから当
然、〈闇の種族〉に襲われる場面も多くなる。
リロイが戦っている相手は身長二メートル前後で、相棒より上背がある。肌は青白く、発達
した筋肉が鎧《よろい》のように全身を覆っている。身にまとっているのは獣の生皮一つで、手には粗末
な剣を握っている。彼らに剣を鍛える能力はないから、大方、襲った人間から奪ったものだろ
う。彼らの姿は、血に濡《ぬ》れたような紅の瞳《ひとみ》と、めくれ上がった唇から覗《のぞ》く牙《きば》がなければ、それ
ほど人間との差異はない。鬼人、もしくは単に鬼と呼ばれる、下級の脊属だ。知能は低いが、
凶暴で怪力を誇る。集団性が極めて高く、単体で見ることは稀有《けう》だ。
S級レベルの傭兵ならば、それほど恐れるべき相手ではない。
この人数でなければ。
「この大勢を一人で相手にしようとは、毎度のことながら、おまえの短絡思考には呆《あき》れてもの
が言えんな」
「だったら黙ってろ!」
リロイは狂ったように剣を振るう。その一振り一振りが、奇跡のように鬼を屠《ほふ》っていく。
まあ、これだけ標的がたくさんいれば、狙《ねら》わなくとも当たるだろうがな。
リロイの背後には、馬車が一台。中には、不安と恐怖に満ちた瞳《ひとみ》で戦いの行方《ゆくえ》を見守る人々。
女子供がほとんどで、御者の老人と怯《おび》えて閉じこもってしまった護衛役の傭兵三人が、数少な
い男だ。
傭兵は、最下級のEランクだろう。鬼の群れを前にして、臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれたか。いくら見習
いとはいえ、守るべき者を守らずして逃げ出すとは、まったくだらしない奴らだ。ランクの低
い傭兵なら数を雇うのが常套《じょうとう》だが、誰《だれ》しもが金に余裕があるわけではないということか。
リロイはもちろん、雇われていたわけではない。
偶然通りかかったリロイが、鬼に襲われようとしている彼らを見つけて、助けに来たという
次第だ。
まったく、後先を考えずに行動する男だ。
おや、腕の動きが鈍ってきた。お、足捌《あしさば》きも危ういそ。
周りを見れば、もうすでに三十数体の鬼を斬《き》り倒している。まあ、それでもまだ二十体以上
残っているが。
なかなか危険な状態だな。
「勇敢と無謀《むぼう》は違うそ、リロイ」
「うるせえ!」
叫びとともに繰り出した一撃は、正面の鬼の首を斬り飛ばし、横にいた奴の頭部になかばま
で食い込んだ。
これはまずい。
リロイも舌打ちする。頭蓋骨《ずがいこつ》に食い込んだ刃は、一瞬相棒の動きを止めてしまった。いつも
なら完全に両断してしまうだろうに、やはり旅の疲れと、これだけ大勢を相手にしたのが響い
たか。
さて、どうするか。
停滞はまさに一瞬。リロイはけしからんことに剣を手放すと、腰に収めていた銃を引き抜い
た。剣の刃を頭に食い込ませたままその鬼は倒れ、その後ろから飛びかかってきた奴に向け、
リロイは銃の引き金を引く。
この銃声というやつは、何度聞いても不愉快なものだ。
額を撃ち抜かれた鬼は、どす黒い血と空っぽの脳髄《のうずい》をまき散らした。
立て続けの銃声に、数体の鬼がもんどりうって倒れる。
しかし、弾に限りのある拳銃《けんじゅう》では、最後まではもたないだろう。
ほれ、早く剣を取り返さんか――と言っても、これだけの数が相手では、そんな暇もないか。
仕方がない、私が手を貸すか――
そのとき、リロイの前方で、鬼が悲鳴を上げた。
断末魔の悲鳴だ。
鬼たちの背後から、何やら銀色の物体が、鬼を薙《な》ぎ倒しながら近づいて来る。
「銀の……狼《おおかみ》?」
リロイは目の前に飛び出して来たそれを見て、驚きと困惑に顔を歪《ゆが》める。それはまるで、狼
が突然現れたことへの驚きではなく、その巨大な銀狼《ぎんろう》を見知っていての困惑と取れた。
直立すれば、鬼に匹敵するほどの巨躯《きょく》を誇る銀狼だ。陽光に照り映える銀色の体毛が全身を
覆い、黄金の瞳は、かなり高度の知性をうかがわせる光を宿している。
銀狼はくわっと牙を剥《む》くと、身をひるがえして背後の鬼の喉笛《のどぶえ》に噛《か》みついた。
一千切《ひとちぎ》りだ。
ばしゃばしゃとどす黒い血を飛び散らせて、鬼は倒れる。巨躯にふさわしい膂力《りょりょく》だ。
「て、ことは……」
何やら思案げに眉根《まゆね》を寄せるリロイ。
その背後に忍び寄る、斧《おの》を手にした鬼。
「馬鹿《ばか》、後ろだ!」
私の声に反応して、リロイは振り返りもせずに銃口を背後に移す。
しかし引き金を引くよりも早く、鬼の身体は真っ二つに両断されていた。
「油断大敵ね、〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉」
二つに分かれた鬼の向こうから現れたのは、細身の長剣を手にした女剣士だ。腰まで伸びた
美しい金髪を後ろで無造作にくくり、それが陽光を映してきらきらと輝き揺れるさまは、何と
も美しい。
白を基調とした男装の麗人で、その凛々《りり》しさは戦乙女《ヴァルキリエ》を思わせる。
リロイは女剣士を見て、愛憎入り混じった、何とも複雑な表情を浮かべた。わけありの相手
と見える。
「〈|冷 血 の レ ナ《レナ・ザ・コールドブラッド》〉……」
その名を口にしたことで、何を思い出したのか、いよいよリロイの表情は険しくなる。
「お久し振り。相変わらず、無茶をしているようね」
そう言う女剣士レナの紅の唇は、かすかに笑みを浮かべてはいるものの、感情がこもってお
らず、形だけの笑みにしか見えない。翁翠《ひすい》色の瞳は、凍えそうなぐらいに冷たい。
〈冷血〉の二つ名も、うなずける。
鬼を一撃でひらきにした剣技から見ても、相当の手足《てだ》れに違いない。これに銀狼も加われば、
私が手を貸す必要はないだろう。
……そういえば、私の自己紹介が遅れたな。
私の名は〈ラグナロク〉。
今、倒れた鬼の頭部に突き刺さっている剣が、私だ。
第1章
運ばれてきた果実酒を、リロイは大量に喉《のど》に流し込んだ。街に着いて早々酒場に向かうとは、
不健康|極《きわ》まりない。
この街アルパスは交易の要所として栄え、南の港湾都市カナンから運び込まれた物資がここ
を経由し、城塞《じょうさい》都市アガトや、ローレイなどの都市に運ばれていく。
街を南北に走る大通りは、商人たちの荷馬車や買い物客でごった返し、脇《わき》にずらりと置かれ
た露店にはさまざまな商品が並べられ、道行く人々の目を楽しませる。
交易によって次第に発展した街だから区画整理もされておらず、大通りを一本外れれば、迷
路のように入り組んだ路地が広がっている。そういった所には、他の交易都市の例に漏れず、
禁制品や密輸品などを取り扱う店がひっそりと隠れている。夜になれば、肌も露《あらわ》な女たちが一
夜の快楽を提供すぺく手招きする、そんな場所だ。
物資や金が集まるから、盗賊なども出没するが、それを警戒するように領主直属の警備兵が
街のそこごこで目を光らせている。
私の相棒は、そんな街の喧噪《けんそう》には目もくれず、まっすぐにこの薄暗い酒場に足を踏み入れた。
「外を見ろ、リロイ。若者たちが胸を張って歩いてるぞ。恥ずかしくないのか」
私の囁《ささや》きに、リロイは興味なさそうに窓の外に視線を向ける。整然と立ち並ぶレンガ造りの
家並をバックに、帯剣した若い男女が颯爽《さっそう》と闊歩《かっぽ》している。
「おまえにも、あんな時代があったはずだろ」
「……あったっけなぁ」
すっとぼけた口調で、リロイは再びグラスを傾ける。酒に関してはうわばみなので、昼間か
らヘベれけになることはないが……何とも情けない姿だ。
「彼らも傭兵志願者か、見習いだろ。皆|SS級《ダブル・エス》昇格を夢見て頑張ってるじゃないか」
「SS級、ねぇ……」
興味がなさそうな中にも嫌悪《けんお》の色をにじませて、リロイは頬杖《ほおづえ》をついた。
この街には、傭兵《マーセナリー》ギルドの支部がある。本部は大陸中央の一大国家、アスガルド皇国にあり、
支部は大陸中の大都市に存在している。どの支部でも傭兵としてギルドに登録でき、最下級の
Eランクから仕事を斡旋《あっせん》してもらえる。
リロイによれば、最初の仕事は内容も報酬《ほうしゅう》も、ランク通り最下級らしい。
私からすれば、真っ昼間から酒をかっ食らっているリロイこそ、最下級だ。
「彼らが今のおまえを見て、元S級の傭兵だと知ったら、どんな顔をするだろうな」
「うるせえよ」
……やめた理由を聞いて、何人が納得《なっとく》するだろうな。
リロイは二杯目を注文し始めた。
やれやれ、この街に来たのが休養のためとはいえ、夜までこのまま飲み続けるつもりか、こ
の男は。この調子では、先の仕事で手に入れたわずかばかりの収入も、あっという間になくな
ってしまいそうだ。
「何をそんなに荒れている。あのレナとかいう女に会ったのが、そんなに気に食わないの
か?」
私は、たまりかねて囁いた。さっきから私は囁き続けているが、なぜかといえば、剣が喋れ
ば誰もが驚き注目するからだ。リロイにはそれがうざったいらしい。
それ故《ゆえ》に、私と話しているリロイは、まるで独《ひと》り言《ごと》をぶつぶつと呟《つぶや》いているように見え、そ
れはそれで人目を引くのだが、この男はそこまでは思いいたらない。
どうにも間の抜けた奴だ。
「ああ、気に食わないな」
リロイは苦々しい表情で呟く。
「あいつとは……ちょっと昔に、な」
なるほど、男と女のいざこざか。
「言い寄られて、でれでれしている間に、稼いだ金でも盗まれたのか」
私の指摘に、相棒はむっとした顔で私を掴《つか》む。
「俺《おれ》はそんなに間抜けじゃない」
おいおい、何をする。
乱暴な。
「ちょっとは黙ってろ。売り払っちまうそ」
なんて相棒だ。私を床に放り投げるなんて。
怪我《けが》でもしたらどうするつもりだ?
「商売道具は大切にしたら?」
お、捨てる神あれば何とやらだ。
柔らかい掌が、私を床から拾い上げてくれる。
その人物を見て、リロイがいよいよ顔を歪《ゆが》めた。顔に朱が差すのは、酒のせいぼかりではな
い。
周りで、リロイ同様に昼間から飲んでいた男たちは、相棒とは反対に顔をだらしなく弛緩《しかん》さ
せ、口笛などを吹いている。下品な。
「俺の側《そば》に寄るな」
それはなかろう、相棒よ。
「嫌われたものね。命を救ってあげたのは誰《だれ》だったかしら」
レナも無表情に言う。確かに〈冷血〉と呼ばれるだけのことはある。男たちの反応でも分か
るように、顔とプロポーションは抜群だ。笑顔を振りまいて見せれば、いくらでも男が寄って
くるだろうに、勿体《もったい》ない。
「別に頼んだ覚えはない。いまさら俺に恩を売りつけて、何のつもりだ?」
リロイの刺々《とげとげ》しい口調にも何の痛痒《つうよう》も示さず、レナはリロイの正面に腰かけた。そして私を、
自分の椅子《いす》の背に立てかける。何と丁寧な扱いか。いっそ相棒を代えてやろうか。
リロイはじろりとレナを睨《にら》みつけ、
「おまえもフリーだろ。この街に何の用だ」
ギルドは、脱会した者をいわば商売敵《しょうばいがたき》として敵視する。フリーの人間は、ギルドのある街に
好んで足を運んだりはしない。むしろ避けて通る方を選ぶだろう。どんな嫌《いや》がらせや、悪くす
ればあからさまな攻撃を受けるか、分かったものではないからだ。
リロイの場合、神経が常人よりも遥《はる》かに図太く、大抵のことなら相手を返り討ちにする自信
があるから、堂々としていられるのだ。
レナは、細い指先でテーブルの上をゆっくりとなぞる。
「傭兵ギルドに頼めない依頼を抱えている人間も、大勢いるわ。私の狙いはそれよ」
「まだそんなことをやってるのか」
リロイは苦々しい表情から、打って変わって険しい顔になる。おや、リロイも同じことをや
っているではないか。
「暗殺なんてやめろ。金を貰《もら》って人を殺すなんて、最低の仕事だ」
リロイの押し殺した声に、レナは初めて表情を動かした。
形の整った赤い唇が、あざやかに笑みを象《かたど》る。
背筋が凍りそうな、真冬の笑みだ。こんな笑い方をする人間は、真面《まとも》な人生を歩んでいない。
相棒にするには遠慮したいな。
「大金を積んでも誰かの死を願う人問は、いくらでもいるわ。失業知らずとはこの商売ね」
「その内、暗殺者《アサシン》ギルドに狙われるぞ。奴らは傭兵ギルドよりも、フリーの暗殺者を嫌うから
な」
リロイはさらに声を押し殺す。
暗殺者ギルドは、その名の通り、金で雇われて人を暗殺する組織だ。国によっては代々おか
かえの暗殺者を雇っている所もある。
大陸中で大小合わせれば十を越《こ》える組織があるが、最も権勢を誇っているのは遥か東方に端《たん》
を発する〈葉隠《はがくれ》〉、この辺りでは〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉が有力だろう。
リロイの言葉に、レナの氷の微笑《ほほえ》みがますます深くなる。
「遅ればせながらの忠告、感謝するわ」
「何?」
レナの言葉に危険な匂《にお》いを感じ取ったリロイは、グラスを持つ手を放し、脇《わき》を探る。
馬鹿め。私はここだ。
酒場の外から、唸《うな》り声《ごえ》が聞こえてきた。
レナは、背負っていた細身の長剣の柄《つか》を握る。
緊張が走った。
バタン、と扉が開き、何者かが飛び込んで来る。
リロイは椅子を蹴飛《けと》ばしながら立ち上がり、レナはすらりと長剣を抜く。
初めに飛び込んできたのは、小剣を横一文字に構えた男。それに続いて、短刀を逆手に握っ
た数人の男たち。いずれも黒装束だ。
レナは私を掴むと、乱暴にリロイに投げつけた。むむ。
私を受け取ったリロイは、反射的に鞘《さや》から抜き放ち、飛びかかってきた男を疾風迅雷《しっぷうじんらい》の二つ
名の如《ごと》く肩口から切り裂いた。見事。勢い良く噴出した血が、ばしゃばしゃとリロイの身体に
かかり、血腥《ちなまぐさ》さが漂う。
一瞬|呆気《あっけ》に取られていた酒場の客たちは、肉が斬《き》られ骨が砕かれる音を聞き、血臭《けっしゅう》を吸って、
ようやく反応を示した。
すなわち、恐慌《ぱにっく》。
出口に殺到する者、窓に取りつく者、二階への階段を駆け上がる者。一瞬にして、酒場は騒
乱と怒号に包まれた。
その混乱の中、黒装束の男が、低い姿勢でレナに駆け寄った。手にした短刀は鈍い光を放っ
ている。これは毒を塗っているな。かすりでもしたら、終わりだ。
レナはまず、軽い捌《さば》きで短刀を弾き、返す刀で男の首を斬り裂いた。頸動脈《けいどうみゃく》を斬られた男は、
鮮血をまき散らしながら床に崩れ落ちる。力よりも技能を重視した剣技、これもお見事。
レナは、足下に転がったその男に、表情一つ動かさずとどめを刺す。心臓を貫かれた男は、
びくり、と痙攣《けいれん》して静かになる。
お、危ない!
風を切って、毒塗りの短刀がレナの胸に飛ぶ。
甲高《かんだか》い音。短刀の切っ先はレナの胸ではなく、酒場の床に突き立った。我が相棒の咄嗟《とっさ》の功
績だ。
男たちは奇襲に失敗したと見ると、身をひるがえして逃走した。
しかし酒場から飛び出した所で、例の唸《うな》りと、くぐもった呻《うめ》き。どうやら酒場の外にいたの
は、あの巨躯《きょく》の銀狼だったらしい。あの鋭い牙の並ぶ顎《あご》に捕われては、一溜《ひとた》まりもあるまい。
「謀《はか》ったな!」
静まり返った酒場の中に、リロイの怒号が響き渡る。リロイはレナの胸倉を掴《つか》んで、彼女を
壁に叩《たた》きつける。レナの顔には、それでもあの冷たい笑みが――ぞっとするね。
「何のこと?」
「初めから、俺を巻き込む算段だったな」
リロイは唸るように言う。
ま、これは上手《うま》くはめられたというべきだな。
リロイはレナから剣を受け取って暗殺者を倒し、レナを狙った凶刃を防いだ。レナの仲間と
見られても仕方があるまい。それがたとえ咄嗟《とっさ》の反応だとしても、相手はそう都合よく考えて
はくれまい。
これで、我が相棒は、暗殺者たちに狙われる身となったわけだ。
こいつはちょっと困った事態だぞ。
「……頼みたい仕事があるの」
レナは冷笑を消して、呟《つぶや》くように言った。この氷のような女にしては、声に感情が現れてい
る。その感情は、焦燥《しょうそう》と――不安、か?
「いまさら何を」
リロイの声は冷たい。そりゃ、こんなことをされれば誰でも怒るわな。生死に関《かか》わる。
「協力せざるを得ない状況に引きずり込んで、その後はしおらしくお願いか」
「どう思ってもらっても構わないわ。とにかく、あなたの助けが必要なの。報酬《ほうしゅう》は……わたし
を好きにしていいわ」
「馬鹿野郎!」
リロイはレナを乱暴に突き放した。おやおや、いい条件だと思うけどな。
「誰がおまえなんか信用するか!」
「わたしには妹がいるの」
レナは、リロイの剣幕にも堅い表情を動かさずに言った。
「わたしのたった一人の肉親よ。暗殺者《アサシン》ギルドに捕えられたの。その救出に、あなたの手を貸
して」
「断る」
リロイは吐き捨てるように言って、窓の外を指差した。
「傭兵なんかその辺にごろごろしてるだろ。他の奴を当たれ。俺はごめんだ」
リロイは私を掴むと、荒々しい足取りで出口に向かう。その背に、レナの言葉がかかる。
「わたしは〈白馬のたてがみ亭〉にいるわ。気が変わったら、尋ねてきて」
「気は、変わらない」
扉を開けながら、リロイは、振り返りもせずに鋭く言い放った。
「待ってるわ」
レナの最後の言葉は、閉じられた扉に空しく当たった。
〈獅子《しし》と雄鹿亭《おじかてい》〉に宿を取ったリロイは、二階の部屋に入ったとたん、手にしていた私を乱暴
に部屋の床に放り出した。最近、扱いが悪い。八つ当たりはやめて欲しいものだ。
「相変わらず、頭に血が上ると思考能力が落ちるな、おまえは」
「そんなことはない」
私の指摘に、リロイは意外と落ち着いた声で答えた。ほうほう、少しは成長しているのか。
出会った頃なら、また癇癪《かんしゃく》を起こすところだったのだが。
「レナの言うことを頭から否定するのは、どうかと思うがな」
「分かってるって言ってるだろ!」
うむ、怒ったか。前言撤回。成長の跡なし。
リロイはベッドに腰かけると、正面の出窓から見える澄み渡った春の空を睨《にら》みつけた。
「あいつに妹がいたかどうかなんて知らないが……本当なら、放ってはおけない。姉への遺恨
に妹は関係ないからな」
「ほう、本当に分かってたか」
思わず口に出してしまい、リロイに足で小突かれた。
「ただ、あの女を全面的に信用するなんてことは、できない」
そう言うリロイの表情には、怒りと憤《いきどお》りが浮かんでいる。よっぽど酷《ひど》い目にあったらしい。
「そんなに毛嫌いするとは、彼女との間に何があったんだ?」
「いろいろだ」
リロイはそっけない。つまらん奴だ。
「話せよ、相棒だろ?」
私はしつこく攻めてみた。理由も分からず相棒が不機嫌だというのは、精神衛生上よくない
ことだ。
決して、単なる好奇心などではない。
リロイは、床の上の私に視線を落とし、口の端にシニカルな笑みを浮かべた。
「なまくらのくせして、そういうとこだけうるさいな、おまえは」
「失礼な。なまくらなのは、おまえの頭だろうが」
売り言葉に買い言葉だ。リロイはムッとした顔で、私を睨みつける。おやおや、こいつは火
に油を注いでしまったというやつか。
この私とて、たまにはこんな失敗もする。
「いいから話せよ。巻き込まれたのは、おまえだけじゃないんだ。状況が分からなければ、適
切なフォローもできないし、それがおまえの命取りになるかも知れんのだぞ」
「なまくら一本ぐらい、なくたって平気だ」
……強情な奴め。
「だがそれで、暗殺者ギルドに囚《とら》われているかも知れん少女の命を、危うくするつもりか」
「…………」
私の言葉は、リロイの痛いところを的確に突いたようだ。無言の中にも、苛立《いらだ》ちとの葛藤《かっとう》が
感じられる。
「……分かったよ。ったく、古女房みたいにやかましい奴だ」
リロイは遂に、観念した顔で首の後ろを揉《も》みほぐした。
しょせんこの男の口の固さなど、この程度だ。
「……おまえと出会う前の話だがな」
当たり前の切り出しで、リロイは始めた。
「あれはちょうど、俺がギルドをやめた直後ぐらいのときだったかな。カルジアって王国で内
乱が起こったんだ。外交政策に常に弱腰だった王家に対して業《ごう》を煮やした将軍一派が、反国王
派の貴族たちを丸め込んで、王位|簒奪《さんだつ》を謀《はか》ったんだ」
「よくある話だな」
私の茶々に、リロイは素直にうなずいた。
「そうだ、よくある話だ。だが、俺はあの国の王太子と浅からぬ縁があってな。俺が駆け出し
の傭兵だった頃、命を救ってもらったことがあるんだ。だから俺は、彼に恩を返すつもりで、
国外脱出を手伝ったんだ。国王も王妃も捕えられ、クーデターの成功は目に見えていたからな。
せめて彼だけでも、助けたかったんだ」
リロイの瞳《ひとみ》は、その王太子を思い出しでもしたのか、ふと哀《かな》しげに沈んだ。
だがすぐに、暗い怒リへと変わっていく。
「そこに、あいつがいたんだ。クーデター側に暗殺者として雇われていたレナは、何食わぬ顔
で、こちらの護衛としても雇われていたんだ。……俺は、奴の企《たくら》みに気づかなかった」
リロイは慙愧《ざんき》の表情を浮かべる。
「あの晩……ようやく国境ぞいの山中に入り、王太子の亡命を受け入れてくれる隣国に、明日
には到着するという、あの晩……」
相棒の漆黒《しっこく》の瞳は、暗い輝きで過去の忌《い》まわしい記憶を睨《にら》みつけていた。
「俺は野営のための薪を集めに出て、後《あと》をレナたち数人の護衛にまかせた。今思えば、俺も心
に油断があった。これで恩が返せると、慢心してたんだ」
言葉が途切れる。膝《ひざ》の上で、かすかに、拳《こぶし》が震えている。心の奥に押し隠していた記憶を引
き摺《ず》り出す苦痛に、相棒の表情が歪む。
ためらいがちに、リロイは先を続けた。
「……血の匂《にお》いがしたんだ。あの瞬間の、心臓をじかに鷲掴《わしづか》みにされたような恐怖は、今でも
覚えてる。俺は急いで、王太子のもとへ駆け戻った。
だが、遅かった。護衛の騎士や傭兵はことごとく斬《き》り捨てられ、その向こうに、レナがたた
ずんでいた。血刀を手にしたあいつの足下には、王太子が――リーナスが、倒れてた。血の海
の中にな。
レナは、ゆっくりと俺の方を振り向いた。
あいつは、笑ったんだ。
俺を見て――何もできなかった俺を見て、あいつは笑いやがった……」
「…………」
まざまざと甦《よみがえ》る負の感情に、リロイの全身から暗いオーラが立ち上るようだ。ともすれば激
しくなりそうな口調を抑え、淡々とした言葉で語る。
「カッとなった俺は、あの女に飛びかかった。殺してやろうと思ったよ。だが、あの銀狼《ぎんろう》に邪
魔されて、揉《も》み合っている内に、あいつは姿を消しやがった。それを待っていたように、銀狼
も俺から離れ、逃げ出した。
俺はまんまと、あの女に出し抜かれた――そういうわけだ」
リロイは話をくくるようにして言った。
私は素朴《そぼく》な疑問を抱いたので、ぶつけてみた。
「どうしてレナは、おまえを殺そうとしなかったんだろう? 暗殺なら、目撃者は消すのがセ
オリーだろ?」
「知ったこっちゃない、そんなこと」
苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で、私から視線を逸《そ》らすリロイ。長い付き合いだ、その顔だけで
概《おおむ》ね何があったかは想像できるが……。
助平《すけべい》め。
「とにかく、俺はあの女を信用できない。それからだって、ロクな目にあってないんだ」
「まだあるのか?」
私が呆《あき》れて呟いたとき。
扉を、遠慮がちに叩く音がした。
リロイは弾《はじ》かれたように私を鞘走《さやばし》らせ、ゆっくりと開く扉の向こうから現れた人影の喉《のど》もと
めがけ、突き出した。
「ひっ」
喉に何かが詰まったような、怯《おび》えた悲鳴。
リロイは目を丸くして、相手を見つめる。
そこに立っていたのは、平凡な、赤毛をおさげにした十四、五歳の、そばかすの目立つ少女
だった。
暗殺者の襲撃だとでも思ったか、リロイ?
どこの世界に、ノックしてから襲いかかる暗殺者がいる。
「あ……す、すまない」
リロイは慌てて剣を引き、目に涙をうっすらと浮かべた少女に向かって、しどろもどろに謝
る。やれやれ、|SS級《ダブル・エス》間違いなしと謳《うた》われた傭兵のくせして、もっと毅然《きぜん》とした態度は取れな
いものか……。
「君は……」
見覚えのない顔に、リロイは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる。
「あの、さっき、助けてもらった――」
目尻《めじり》の涙を掌で拭《ぬぐ》いながら、少女は言った。ああ、とうなずくリロイ。
「お礼がまだだったんで、わたしが代表でお訪ねしたんですが……」
「礼なんていらないって、言ったのに」
困った様子で、リロイは頬《ほお》をかく。
リロイは、咄嗟《とっさ》の人助けに報酬《ほうしゅう》を求めたりしない。実際のところ、正式な依頼でも、ただ同
然で引き受けることが多い。
お人好しなのである。
経済観念が欠如しているとも言う。
「でも、あなたがあの高名なリロイ・シュヴァルツァー様だと知っては、このまま済ますわけ
にはいきません」
どんな高名なのだろうか。おだてればただで働いてくれる、便利な何でも屋か?
「済ませていいのに……」
どうしたものかと思案するリロイ。少女は、その傍《かたわ》らを通って部屋に入って来た。
「受け取って下さい。わたしたちの気が済みませんから」
少女はそう言いながら、ためらいもなく上着を、そして下着すらも脱ぎ始めた。部屋の薄明
りに浮かび上がった、まだ十分に発達していない幼い裸体に、リロイはぎくりと顔をこわぼら
せ、息を飲む。
助平のくせに、だらしない。
リロイは足早に駆け寄ると、彼女が脱ぎ捨てた上着を、慌てて白い肌の上にかけ直す。少女
は、驚いた表情でリロイの狼狽《ろうばい》した顔を見上げた。
「何のつもりだ?」
言われて、今度は彼女がうろたえる。
「え、でも、謝礼は、お金よりもこちらの方が――って聞いたんですけど」
「誰がそんなことを?」
リロイの怒気をはらんだ声色《こわいろ》に少女は怯《おび》え、顔を青くする。
「あの、シュヴァルツァー様と一緒にわたしたちを助けてくれた、あの女性が……」
「――やっぱり、あいつか」
リロイは低く呟く。うむ、相棒の言う通り、レナはリロイに厄介事を押しつけるのがお好き
のようだ。
いや、これは考えようによっては、おいしい話のような気もするが。
「わたしは、その……構わないんです。娼館《しょうかん》に売られるところでしたし、初めてでもないです
から」
少女の言葉に、リロイはぎりり、と歯を鳴らす。最大限の自制心を総動員して、リロイはそ
っと少女を扉まで連れて行く。
「あれは俺の好意だ。謝礼はいらない」
「でも……」
まだ何か言いかけた少女を、優しい手ぶりで扉の向こうへ押しやる。お、何とかまだ平静を
保っている。罪もない少女を、怯《おび》えさせるつもりはないようだな。
しかし。
「一体何考えてやがる、あの女は!」
少女を部屋の外に送り出すと、抑えていた怒りがついに爆発したのか、リロイは壁を力まか
せに蹴《け》りつけた。あ、壁がへこんだぞ。修理代を請求されるだろうな。また余計な出費を……。
「俺を馬鹿にしてるのか? くそっ!」
リロイは剣呑《けんのん》な表情で私を掴み、唸《うな》るように言った。
まったく、血の気の多い男だな、こいつは……。
〈白馬のたてがみ亭〉は、リロイの宿から徒歩で五、六分の所にあった。少なくとも四ランク
は上だ。ただ働きの得意なリロイでは、いつまで経ってもこんな宿には泊まれないだろう。
扉を荒々しく開けると、正面のカウンターにいた中年の男が、呆気《あっけ》に取られた顔でこちらを
見つめた。ずかずかと凄《すご》い形相《ぎょうそう》で迫り来るリロイに、危険なものを感じた男は、カウンターの
下にあるベルを鳴らした。
カウンターの横にあった扉が開き、いかにも荒事慣れしたごつい男が二人、リロイの前に立
ちふさがる。
馬鹿だな。
男たちが何か言うより早く、リロイの拳《こぶし》が男たちの腹と顎《あご》に突き刺さる。人間以上に強力な
〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉を相手にすることが多い傭兵に、彼ら如きでは敵《かな》うはずもない。
その一撃で、屈強なる二人の用心棒は床を舐《な》めた。
カウンターの男は、顔面|蒼白《そうはく》で、リロイの接近を凝視《ぎょうし》していた。
「レナ・ノースライトはどの部屋に泊まっている?」
リロイの怒りにまみれた恫喝《どうかつ》を含む声に、男は慌てて帳簿めくる。かわいそうに、目尻《めじり》が
濡《ぬ》れてるぞ。
「二〇五号室……です」
「ありがとう」
リロイの言葉に、緊張の糸が切れたのか、男はがっくりと膝をつき、カウンターにもたれか
かった。そんなことには目もくれず、リロイは階段を駆け上がる。騒ぎを聞きつけて扉から顔
を出していた泊まり客が、リロイのただならぬ様子を見て、慌てて扉を閉める。
二〇五号室に辿《たど》り着いたリロイは、走って来た勢いを緩めもせずに、扉を蹴りつけた。重厚
な樫木造《かしぎづく》りの扉は、蝶番《ちょうつがい》がねじ切れ、派手《はで》な音とともに、部屋の中にふっ飛んだ。
「あら、早かったわね」
飛び込んだリロイを迎えたのは、身体にバスタオル一枚を巻いただけのレナの、落ち着いた
声だった。湯上がりに火照《ほて》った白い肌の上を、黄金の髪が濡れて這《は》っている。そのなまめかし
い姿態に、さすがにリロイも虚を突かれた顔をする。剣術で鍛《きた》え上げられたレナの身体は、無
駄な脂肪がまるでなく、しかも出る所はこれでもかといわんばかりに出っぱっている。これに
見惚《みほ》れない男はいないだろう。
しかし、あれだけの怒りを一瞬忘れるとは、悲しいほど助平だな、おまえは。
しかし、レナもこれを意識してやったとすれば――恐るべし。
「そんなに怖い顔をして、どうしたの? 何か飲む?」
レナの声はいたって穏やかだ。これで顔に妖《あや》しげな微笑《ほほえ》みでも浮かべていれば、男はイチコ
ロだろう。
実際は、冷たい視線だけだが。
「おまえ、彼女たちに何を吹き込んだ」
「彼女たち?」
リロイの気を取り直した言葉に、レナは少し考えるふうに眉《まゆ》を上げ、
「ああ、あの娘たちね」
軽くうなずく。もう一枚タオルを取り出し、歩きながら髪を拭《ふ》く。扉が開け放しなので、い
つ誰が覗《のぞ》くかもしれない状況で、落ち着いたものだ。
と、思えば、いつのまにかあの銀狼《ぎんろう》がのっそりと部屋の奥から現れ、戸口に座り込む。
ううむ、あれでは誰も近寄れまい。
「素直でいい子たちよ。私の言うことを頭から信じ込んで」
「さっき、俺の所に一人来た」
リロイは厳しい視線をレナにぶつける。彼女はといえば、それを気にもせず、目を細める。
ぞっとするほど、冷たくなまめかしい瞳《ひとみ》だ。
「それで? 楽しんだの?」
「……おまえという女は」
リロイは怒りに声を震わせた。剣の柄を握る手が、小刻みに揺れる。
レナは髪をかき上げながら、ンファに身を沈める。大胆に組んだ脚は、根もとが見えそうだ。
いわゆる挑発というやつだろうか。しかしほとんど感情を表さない冷たい顔からは、何も読み
取れない。
「まさか、追い返したとでも言うの?」
レナは指先を頬《ほお》に走らせる。嘲《あざけ》るような、ほんのかすかな笑み。
「当たり前だ!」
思わず怒鳴るリロイ。落ち着けったら。相手の思う壼《つぼ》だぞ。
レナは、わざと身じろぎして、胸元が露《あらわ》になるようにする。乳房の上半分が、タオルからこ
ぼれる。
そこで初めて、レナは、満面の笑みを浮かべた。嘲りと誘惑を混ぜ合わせた、理性を溶かす
妖艶《ようえん》な、快楽中枢を刺激するような総毛《そうけ》立つ微笑みを。
「わたしでは、存分に楽しんだのにね」
濡れた唇が紡ぐ、残酷な言葉。守りたかった者を守れなかった者への、あからさまな嘲笑《ちょうしょう》と
揶揄《やゆ》。
……あの晩も、レナはこんなふうに笑ったのだろうか?
リロイの脳裏にあの光景が甦《よみがえ》り、怒りが爆発して思考を破壊し、理性のたがを外してしまっ
た。
「黙れっ!」
リロイは、荒々しくレナの剥《む》き出《だ》しの肩に手をかけた。その勢いでソファが倒れ、二人は抱
き合うように床に倒れる。弾《はず》みで、レナの肉体を覆っていたタオルが外れ、魅惑的な裸体が露
になる。
リロイはレナの白い首に手をかけ、空いた手で剣を抜き、切っ先を心臓のある二つの乳房の
聞に押しつけた。
レナは赤い舌で、ぺろりと唇を舐《な》める。
「わたしを斬《き》る? それとも抱く?」
「…………」
リロイは目を血走らせ、剣を持つ腕に、わずかに力を込めた。切っ先が白い肌を刺し、かす
かに赤い血がにじむ。
今のリロイは、あの悪夢の晩を追想しているのだろうか。
レナは、リロイが自分を殺すわけがないと高《たか》をくくっているのか、落ち着いたものだ。
その自信はどこからくるんだろうか。
「抱くなら報酬の前払いということで契約成立、斬るんなら、せめて妹の救出と面倒《めんどう》は見てく
れるんでしょうね?」
「…………」
レナの冷静な言葉に、リロイは無言だったが、喉《のど》の奥で低く唸《うな》った。
「〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉は、暗殺業だけでなく、娼館《しょうかん》も手がけているわ。もしもわたしが死ねば、
人質としての価値のなくなった妹は、娼婦としての生き方を余儀なくされる――わたしを殺す
のは構わないけど、事後処理ぐらいは責任を持ってくれるんでしょうね?」
「そういうことか……!」
怒りに顔を紅潮させながらも、リロイは辛《かろ》うじて剣を引いた。まだ、一片の理性が残ってい
たようだ。
「あの娘たちが連れて行かれる娼館は……」
「〈真紅の絶望〉の経営する店。今のところ、唯一の手がかりよ」
では、昼間にあの馬車を助けにレナが現れたのは、偶然ではなかったということか。
やれやれ、あのときから、まんまとはめられていたわけだ。一本取られたな、相棒。
「娼館に潜《もぐ》り込んで情報を引き出すのは、女のわたしより、男のあなたの方が都合がいいの
よ」
レナの言葉に、リロイはちらりと裸体を見下ろし、
「おまえが娼婦《しょうふ》として潜ればいいだろ」
言ったとたん、ぱしぃん、と小気味いい音。
平手打ちを食らったリロイは、そのことよりも、レナが初めて見せる、恥辱《ちじょく》にまみれた苦悩
の表情に驚いたようだ。私も、驚いた。
「あんな所、二度と戻りたくないわ」
自尊心のためか、声に動揺はない。むしろ動揺したのはリロイの方だろう。まだまだこの手
の状況において、メンタルな部分が弱いな、相棒よ。
「…………」
リロイは無言のまま立ち上がった。その表情を見れば、相棒が何を考えているかなど、すぐ
に分かる。
やれやれ、結局こうなるわけだ。
厄介なことにならなければいいが。
「来てくれたんですね」
弾むような声でリロイを迎えてくれたのは、昨晩宿に押しかけて来た、あの少女だった。
薄くひらひらとしたネグリジェのような物を身にまとい、派手《はで》な化粧を施した赤毛の少女は、
平凡というには少し垢抜《あかぬ》けていた。
女は、化ける。
「昨日は、その……悪かったな」
リロイはばつが悪そうに言った。少女の変貌《へんぼう》に戸惑っているらしい。
未熟者め、助平《すけべい》のくせに。
少女は、何の屈託もなく、にっこりと笑う。こんな笑い方のできる少女が身体を売らなくて
はならぬとは、世も末だ。
「とにかく、来てくれて嬉《うれ》しいです。たっぷりサービスしますね」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
もうそばかすの跡もない少女に腕を引っ張られ、リロイは慌てて言った。いいから落ち着け
よ、おまえは。
「ここの館主に会いたいんだ。お願いできるか?」
「え、ママをご指名するんですか?」
少女は少し不満な様子で唇を尖《とが》らせた。こんな表情をすれば、まだ全然子供なのに。
「できるかな?」
「分かりました」
少女はリロイの腕を放すと、残念そうに言った。だがすぐに顔を上げ、爪先立《つまさきだ》ちになると、
さっとリロイの頬に唇を寄せる。
「わたし、リリィって言うの。次は必ず、指名してね」
ウインク一つ残し、リリィという名の少女は、店の奥に軽やかに消えていった。
「いい子じゃないか」
私がぼそりと言うと、リロイは、
「だから余計に腹が立つんだ」
吐き捨てるように言った。おっと、ご機嫌斜めらしい。だが私とて、胸中穏やかなわけでも
ない。身売りしなくてはならなかったあの少女の境遇を思うと、哀《あわ》れでならない。
リリィが売られて来た娼館〈|紅 の 淑 女《スカーレット・レディ》〉は、街でも一、二を争う人気を誇っていた。門構
えも一見すればただの瀟洒《しょうしゃ》な屋敷で、中へ入ってもけばけばしさはなく、上品だ。それと知ら
なければ、ここがまさか娼館だとは思うまい。
カウンターを中心に、左右から二階に通じる螺旋《らせん》階段がある。その右の階段の上に、入影が
生まれた。紫のシンプルなドレスをまとい、たっぷりとした黒髪を綺麗に結い上げた、三十代
なかばの美女だ。黒というよりは濃い紫の美しい瞳は、長い睫《まつげ》に彩《いろど》られてリロイに向けられる。
まるで心の中を見透かされそうな視線だ。それを真っ向から受け止めて平然としているリロイ
は、心がまっすぐだからだろうか、それとも単に馬鹿正直なだけだろうか?
ここでの言及はやめておこう。
「あなたが〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉、リロイ・シェヴァルツァーさんね。リリィたちがお世話になった
らしいわね。お礼を言うわ」
ハスキーで男心をくすぐる熱っぽい声が、青く塗られた形の良い唇から漏れる。いやいや、
これほどの娼館の女主人ともなれば、声だけでも一味違う。
リロイは肩をすくめ、
「お世話ってほどでもないさ」
さらりと言う。大人《おとな》が相手だとこの余裕だ。
女主人は完壁《かんぺき》な笑みを唇に乗せた。
「本来なら常連でもないあなたが、わたしを指名なんてできないのだけれど、リリィたちの件
もあるし、高名なフリーランスの傭兵ということで、特例にしますわ」
「そいつはありがたいね」
リロイはにやりと笑う。おい、目的を忘れてやしないだろうな?
心配だ……助平だから。
約二時間ほどが、経過した。その間に何があったかは省《はぶ》かせてもらう。いちいち説明するの
は虚《むな》しすぎるからだ。
二階にある女主人の部屋は、まるで貴族並の豪華さだった。踝《くるぶし》まで埋まる絨毯《じゅうたん》、大人が優に
五人は寝そべられる天蓋《てんがい》付きベッド、少なくとも百着は服が収まっていそうなクローゼット、
対面式キッチンには、そこらの人間では一生お目にかからないような高価な酒が、ずらりと並
んでいる。
私は、部屋の隅に脱ぎ捨てられた服と一緒に放り出されている。何と情けない。
しばらく静かになったかと思うと、先に女主人が身を起こした。シーツで豊満な胸元を隠し、
汗に濡《ぬ》れた額にくっつく前髪を、優雅な動作で払う。
「馬鹿な男」
その顔に浮かんだ笑みは、上品でも妖艶《ようえん》でもない。残忍で凶暴だ。あらら、これは……。
「わたしの身体に溺《おぼ》れて、すっかり油断したわ」
誰かに話すような口ぶり。
扉が開いた。
入ってきたのは、すらりとした長身の優男《やさおとこ》。顔はいいが、長髪がうざったい。
「よくやった、アシュリー」
男はベッドへ近づき、女主人――アシュリーの頬を優しく撫《な》でた。
リロイよ、二日で二度も女にはめられたか。
もう呆《あき》れて何も言えん。
「|SS級《ダブル・エス》の実力の傭兵と聞いていたから、どんな男かと思っていたけれど、大したことなかっ
たわね――あっちの方も」
アシュリーは低く笑う。
哀《あわ》れなり、我が相棒。
「まだ殺してないだろうな?」
「薬で眠らせただけよ。でも、こんな男、さっさと殺してしまえば?」
アシュリーは、横で眠るリロイをちらりと見て言った。恐ろしいことを何気なく言う女だ。
男は、首を横に振る。
「連れて帰れという命令だ。我らが主《あるじ》は、この男の身体に興味があるらしい」
「……どう見ても普通よ。あっちも並程度」
無残な。今度ばかりは同情してやろう。
男は口もとに、下品にならない程度の侮蔑《ぶべつ》の笑みを刻んだ。
「この男をどうするかは、俺たちが決めることじゃない。とにかく、こいつを運び出そう」
「ええ」
アシュリーはするりとベッドから抜け出すと、紫のドレスを身に着ける。
このままでは危ないな。やはりここは、私が手を貸してやるべきだろうか。
アシュリーは、私と服の方へ近づいてくる。さすがに、リロイを全裸のまま運び出すつもり
はないようだ。
優男は、リロイの方へ手を伸ばそうとしている。
仕方ないな。
私がその気になった瞬間。
「狙いはレナじゃなかったのかり」
流れる言葉とともに、打撃音と苦鳴《くめい》。
振り返ったアシュリーの視界に、顔を押さえて床に転がる優男と、ベッドの上に立ち上がっ
ているリロイの姿が飛び込む。
アシュリーは、動揺を隠し切れない表情で、声を震わせた。
「致死量ぎりぎりの薬を盛ったのに!?」
無茶をする女だ。
リロイは、格好つけて、ニヒルな笑みを浮かべる。
「俺の身体は、薬が効かにゃい特異体質にゃんだよ」
たどたどしい口調に、ふらつく足下。
……効いてるじゃないか。
だがまあ、致死量に近い睡眠薬を盛られてこれだけ動ければ、特異体質と言っても過言じゃ
ないだろう。
「き……貴様!」
鼻面《はなづら》に蹴《け》りを食らって倒れていた優男が、ようやくショックから立ち直り、起き上がった。
鼻を押さえた掌から、ぽたぽたと血がこぼれている。鼻の軟骨が折れたな、これは。
「落ち着いて、キリル!」
怒りに顔を歪《ゆが》める男に向かって、アシュリーが叫ぶ。
「名を呼ぶな、馬鹿者!」
裏返った声でキリルという名の優男は叫び、腕をひるがえす。袖口《そでぐち》から飛び出した、短剣と
いうよりもさらに小さな小刀が、アシュリーの肩口に深々と突き刺さった。アシュリーは小さ
く呻《うめ》いてよろめく。
突然の事態に少したしろぐリロイに、キリルは凄《すさ》まじい怨念《おんねん》のこもった、狂気の瞳《ひとみ》を向ける。
「よくも、よくも俺の顔を足蹴《あしげ》に……」
低く怒りを抑えつけた声は、ぞっとするほど冷たい。レナもかくやといわんばかりだ。
リロイは、そんなキリルを鼻で笑った。
「ナルシストめ……鼻が潰《つぶ》れて男前が上がったじゃないか。感謝しろよ」
情けないものをぶらぶらさせながら格好つけようとするな、相棒よ。しかし、もうろれつが
回っているとは、不気味な体質の男だ。
キリルは、どこから取り出したのかと疑う素早さで、右手に短剣を握る。気づけば左手には
鎖鎌《くさりがま》。歩く武器庫みたいな男だ。
「貴様の顔をずたずたにしてやる……!」
「今度は鼻だけじゃすまないぜ」
リロイの挑発に、キリルは狂ったような雄叫《おたけ》びを上げ、鎖鎌を振り回した。
馬鹿め、私はここだぞ? 素手で、暗殺者二人を相手にする気か。決して後《おく》れをとることは
ないだろうが、何もわざわざ不利な状況で戦いを挑《いど》まなくてもよかろうに。
まるで狂人のように口角から泡を飛ばし、キリルはリロイに鎌で斬《き》りかかった。ごうっと唸《うな》
りを上げ、切れ味鋭そうな鎌が、ベッドの上のリロイに弧を描いて飛んだ。
リロイは軽やかに跳躍し、それを躱《かわ》す。
あざやか――股間《こかん》でぶらぶらしている物がなければな。
どうやら、身体の動きももと通りのようだ。私の横で、アシュリーが低く呻《うめ》いたのは、肩の
傷だけが原因ではあるまい。
ひらりと床に降り立ったリロイは、素早くベッドのシーツに手をかける。その首に短剣が突
き出されるが、一瞬早く身を引き、リロイはそのシーツをくるくるっと捩《ねじ》った。
ほほう、あれを武器にするか。
キリルは、にいっと唇を横に割る。鼻から下は血まみれなので、不気味なことこの上ない。
「そんなものをどうするつもりだ」
自分の有利を確信しているキリルは、リロイの行為をただの悪《わる》あがきだと嘲《あざけ》る。
これにリロイは、同じように、にぃっと笑う。
「こうするんだよ、ブサイク」
最後の言葉が、さらにキリルの狂気を加速させた。血走った目が大きく見開かれ、罵声《ばせい》とと
もに飛びかかる。空中で振られた服の袖から、無数の小剣の雨がリロイに降りそそぐ。それに
呼応して、鎖鎌と短剣の連撃。
三段構えの攻撃だ。
リロイは慌てた様子もなく、挨ったシーツを目にも留まらぬスピードで操った。布切れが鋼《はがね》
の武器を弾き返す光景は、驚愕《きょうがく》に値した。
なるほど、シーツとはいえ、一定以上のスピードと力を加え、それにタイミングが備われば、
立派な武器足り得るというわけか。
キリルは、鎌を振り下ろし短剣を突き出したが、それは空《むな》しくシーツに弾かれた。着地した
ところで再び攻撃に移ろうとしたが、リロイの方が速い。
ぐしゃっ。
そんな嫌《いや》な音が響く。
アシュリーの息を飲む音。
リロイの攻撃を、こめかみに真面《まとも》に受けたキリルは、衝撃で壁までふっ飛んだ。
壁際に倒れ込んだ彼の身体は、ぴくぴくと小刻みに痙攣《けいれん》する。大量の鮮血が耳や目、口から
流れ出して床を汚す。耳からは血だけでなく、脳髄《のうずい》も滴《したた》り落ちる。これは頭蓋骨《ずがいこつ》が砕けたな。
容赦のないことだ。
リロイはキリルには一顧《いっこ》だにせず、アシュリーに目を向ける。我が相棒の戦闘能力に目を奪
われていた彼女は、慌てて身構えた。
「よくもあれだけ、人のことをぼろくそに言ってくれるもんだ」
リロイの静かな声に、アシュリーは緊張を隠せない表情で、身じろぎする。
「本当のことを言ったまでよ。確かに、あなたは強い。でも、ベッドの上じゃ、キリルの足下
にも及ぼないわ」
辛辣《しんらつ》な言葉を投げられて、リロイは傷ついた表情を浮かべる。
「がんばったんだがなぁ」
そういう問題でもあるまい。
アシュリーは、じりじりと私に近づいている。
「何なら、もう一度頑張ってみる?」
挑発的に微笑《ほほえ》み、これ見よがしに服の裾《すそ》から色っぽい脚を覗《のぞ》かせる。時間稼ぎをしているこ
とは、私もリロイも分かっていた。
そしてどうするか、ということも。
「悪くないな。悔しいが、あんたは娼婦《しょうふ》としては一流だよ」
アシュリーの笑みが深く妖《あや》しくなる。
その白く柔らかな指先が、私に触れた。
うむ、いい感触だ。リロイの言葉に嘘《うそ》はないようだ。
「命までは取らないわ。命令だから」
アシュリーは私を掴《つか》み取ると、素早く抜刀し、その切っ先をリロイに向けた。やはり、こう
きたか。
リロイはくるくるっと捩ったシーツをもてあそび、呟《つぶや》いた。
「だけどな……」
「暗殺者としては二流だな」
後《あと》のは私の言葉だ。
手もとからの思いも寄らぬ声に、アシュリーは驚きと得体の知れぬ物への恐怖に、一瞬気を
取られた。まあ、剣が喋《しゃべ》るなどとは誰も思うまい。
その一瞬に、リロイは素早く対応した。挨られたシーツがするするっと伸び、アシュリーの
足首を叩《たた》く。
ぽきり、と鈍い音。
美しい脚が折れてしまったようだ。手荒いことを……。
アシュリーは、思わず私を手放して、もんどりうった。倒れた拍子に傷ついた肩を打ち、全
身を走る激痛に陣く。
しかしその後、素早く床を転がってリロイとの間合《まあ》いを取ったのは、まあ褒《ほ》めておこう。
リロイは、ゆっくりとした動作で私を拾い上げた。
「この展開を狙っていたわけではなかろう」
私の言葉は的《まと》を射たようだ。リロイはむっとした顔で呟く。
「警戒はしてたよ」
「薬を盛られたくせに。へらへらしてるからだ」
私のつっこみに、リロイはますます渋面《じゅうめん》を作る。
リロイは何か言おうと口を開いたが、私に敵《かな》わぬと見て閉じてしまった。ふふ、私に勝とう
などとは百年早い。
「さて、おまえをどうするかな」
リロイはアシュリーを見下ろして、言った。アシュリーは悔しそうに唇を噛《か》み、燃えるよう
な憎悪《ぞうお》の瞳でリロイを睨《にら》む。
「殺しなさい」
アシュリーは吐き捨てるように言った。
リロイは困った顔で溜ため息《いき》をつく。
「覚悟はできてると言うわけか。情報が欲しかったんだが……」
「何も喋《しゃべ》らないわ」
「そうだろうな」
リロイは、諦《あきら》めたように、再びシーツを掴んだ。
「これで縛り上げて、クローゼットにでもぶち込んどくか。縛られるのも、慣れたもんだ
ろ?」
リロイが戯《たわ》けたことを言ったとき、扉が無造作に開かれた。
リロイはぎょっとして、アシュリーは瞳を光らせて、扉を見る。リロイは部屋の奥、アシュ
リーはほぼ扉の前にいる。
「何だか騒がしいけど、大丈夫ですか?」
遠慮がちに開かれた扉の向こうから、ひょっこりと顔を出したのは、リリィだった。
「リリィ! 入ってくるな!」
リロイが叫ぶ。
リリィは、まず全裸で剣を手にしているリロイに頬《ほお》を赤く染めて目を丸くし、次いでベッド
の脇《わき》に血まみれで倒れているキリルを見て、顔を青くした。
その開かれた口から悲鳴がほとばしるより早く、血に濡《ぬ》れた掌が、それをふさぐ。
アシュリーだ。
舌打ちするリロイに、アシュリーは勝ち誇った笑みを向ける。
「素手《すで》だって、この娘《こ》の首をへし折るぐらいは簡単よ」
突然の状況に、幼い少女はついていけず、恐怖と混乱に満ちた瞳で、自分を拘束する女主人
と、リロイとを交互に見やる。
「その娘を放せ」
リロイは剣を油断なく構え、一歩踏み出す。
「それ以上近づいたら、この娘を殺すわ」
アシュリーの桐喝《どうかつ》に、リロイは喉《のど》の奥で唸《うな》って足を止める。その言葉を耳にして、リリィの
顔が歪み、身体が硬直するのが分かる。
「武器を捨てて」
アシュリーは、リリィの首をがっちりと極《き》めている。力を込めれば、少女の細い首はあっけ
なく折れてしまうだろう。
「捨てなさい!」
躊躇《ちゅうちょ》しているリロイに苛立《いらだ》った彼女は、声を荒立てて、腕に力を込める。くぐもった苦痛の
呻《うめ》きがリリィのふさがれた口から漏れ、身体が震える。
リロイは、剣をゆっくりと床に置いた。
「美人は斬りたくないんだが……」
リロイの呟きに、アシュリーは眉をひそめた。
「子供を盾にするような奴は別だ」
「負け惜しみを」
アシュリーの唇が、嘲笑《ちょうしょう》に歪む。
「剣を蹴《け》ってこちらに渡しなさい」
むむ、蹴られるというのは釈然としないが、状況が状況だ。致し方あるまい。
腹立たしいが、私はリロイに足蹴にされて、アシュリーの足下に転がった。
「喋る剣なんて、不気味なものを」
失敬な。
「さあ、リリィを放せ」
リロイの要求に、アシュリーは薄く笑う。嫌《いや》な笑い方だ。
アシュリーはじりじりと後ろに下がりながら、廊下に向かって声をかける。
「ルディア!」
「ここに」
すっ、と戸口に影が一つ。
娼婦《しょうふ》の一人と思われる、派手《はで》な化粧と薄ピンクのひらひらとしたドレスを身にまとった女が
現れた。
アシュリーは満足げにうなずく。
「あの男を眠らせなさい。少しぐらい痛めつけてもいいわ」
「承知しました」
ルディアは、酷薄な笑みに、真っ赤なルージュを引いた唇を歪めた。青い瞳が、ぎらぎらと
期待に満ちて輝いている。
これはまたとんでもない女のようだ。
相棒よ、おまえもしかして、女運最悪なんじゃないのか?
ルディアは、しゃなりしゃなりと優雅に歩み寄る。
「動いちゃ駄目よ」
身じろぎしたリロイに、アシュリーが釘《ぐぎ》をさす。
ルディアは、おお、何と、腰につけていた鞭《むち》を手に取った!
「女王様か」
私は思わず声に出して呟《つぶや》いてしまった。ルディアがぎくりとして、アシュリーの足下に転が
る私を見やる。
「この変なのは無視して」
アシュリーは鋭く言い放つ。
重ね重ね、失敬な。
気を取り直した女王様は、するりとひらひらドレスを脱ぐ。その下から現れたのは、身体を
最小限に覆っただけの拘束具《こうそくぐ》――いわゆるボンテージだ。
「こいつは目の毒だな」
再び私は呟く。今度は誰も反応してくれない。……少し寂しいものがある。
ルディアは黒い鞭をぴしりと鳴らして、リロイの瞳を覗《のぞ》き込むように見つめる。
「本当の快楽を教えてあげるわ」
粘つくような、興奮に震える声。聞くだけで背筋に快感が走るような、淫靡《いんび》な声色《こわいろ》だ。
リロイはひゅうっと息を吸い込み、
「どちらかというと……逆の方がいいんだがな」
嘆息するように、懲《こ》りないことを言う。
風を切る音と、肉のはぜる音が部屋に響いた。リリィはぎゅっと目を瞑《つぶ》り、アシュリーとル
ディアはにやりと笑う。
ルディアの鞭は、容赦なくリロイの身体を切り裂いた。皮が破れ、肉が抉《えぐ》れ、血が飛び散る。
ルディアの恍惚《こうこつ》とした顔に、点々と赤い斑点《はんてん》が生まれる。
リロイは、歯を食いしばって苦痛に耐える。坤き声一つ上げないのは、立派だ。いやこの男
も、相当意地っ張りだからな。
「いい表情してるわぁ」
ルディアは頬についた血を、ぺろりと舌で舐《な》め取った。瞳がうっとりと濡れている。これは
本物だ。
「ルディア、そろそろよ」
「分かりました」
アシュリーに促されて、ルディアの茫《ぼう》とした瞳に、残酷な色が揺らめく。
「お眠りなさい」
恍惚とした表情から鬼面と化したルディアは、骨も砕かんとする勢いで、鞭を唸らせた。
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げて、床に倒れたのは、しかしリロイでもなく、ルディアでもなかった。
「アシュリー様!」
ルディアが狼狽《ろうばい》を露《あらわ》に振り返る。その手に握られていたはずの黒い鞭《むち》は、今やリロイの掌に
握られていた。
この私でさえ驚くほどの、神業に近いスピードだった。鞭に打たれながらも、ルディアの鞭
捌《さば》きを見切ったリロイは、一瞬の隙《すき》を突いてそれを奪い取り、アシュリーを鞭で打ったのだ。
奪われた本人すらも気づかない神速《しんそく》、疾風迅雷《しっぷうじんらい》の面目躍如《めんもくやくじょ》といったところか。
アシュリーの呪縛《じゅばく》から解き放たれたリリィは、部屋の外ではなく、リロイに駆け寄ってその
背に隠れた。
リロイは、その頭にぽんと掌を乗せる。
「怖かったか? もう大丈夫だ」
優しい声に、張り詰めていた少女の緊張の糸が切れた。鳴咽《おえつ》に身体を震わせ、リロイの背に
しがみつく。
鞭の一撃を受けて床に崩れ落ちたアシュリーは、ルディアに背を支えられ、ようよう身を起
こした。右の額から頬にかけてが見るも無残に切り裂かれ、美しい瞳も潰されて血溜《ちだ》まりとな
っている。唇を小刻みに震わせ、秀麗な美貌《びぼう》を歪《ゆが》めているのは、苦痛と憤怒《ふんぬ》、その両方のため
だろう。
リロイは私を掴《つか》むと、二人から目を離さないようにしながら服を拾い上げた。ようやく、み
っともないものを隠す気になったようだ。
ルディアがその隙を突いて反撃に転じようとしたのを、奪った鞭を振るって牽制《けんせい》する。二の
腕をしたたかに打たれたルディアは、膝を折って、リロイを怒りと畏《おそ》れの眼差《まなざ》しで睨《ね》めつけた。
ズボンだけを穿《は》いて、リロイは二人に剣を突きつける。
「やはり暗殺者なんてのは、ヘドが出るような人種だ。生かしておく価値はない」
リロイは、鋭い目つきで二人の美女を見下ろした。
「そうだ、殺せ」
アシュリーは、再び先程と同じ言葉を口にする。
「そして死ぬまで、我らの同胞に付け狙われるがいい。絶対に逃げられないわよ」
「何を言うかと思えば」
リロイは、アシュリーの言葉を一笑に付した。
「誰が逃げるなんて言った? 子供の命をもてあそぶような奴らは、俺が叩き潰す。暗殺者《アサシン》ギ
ルドだろうが何だろうが、自分の行為を地獄の底で後悔させてやる」
断固たる決意を見せるリロイに、ルディアは青ざめた顔で首を振る。
「おまえは確かに腕は立つが、我が主《あるじ》の恐ろしさを知らない。だからそんなことが言えるのよ
……」
「地獄で見てればいい。そいつが俺の手で打ち倒されるところをな」
「させないわ!」
アシュリーとルディアは異口同音《いくどうおん》に叫ぶと、申し合わせたように同時に襲いかかってきた。
最後の抵抗を試みたか。
リロイは、余裕を持って剣を振り上げた。
だが。
相棒が手を下すより早く、ルディアの表情がこわばり、次の瞬間、その首は滑らかな切断面
を見せて転がり落ちた。
アシュリーの動きが止まる。
夥《おびただ》しい量の血が噴き出し、辺りを一瞬にして血の海に変えた。むせ返るような血の匂《にお》い。
リリィの喉《のど》から、悲鳴がほとばしる。
「彼女たちでは、いささか力量不足だったようですね」
その穏やかな声は、リリィの背後から聞こえた。
振り返ったリロイの視界に、先程まではいなかったはずの影が飛び込む。
真紅《しんく》の影。
「新手か。忙しいことだな」
リロイのやや辟易《へきえき》した口調に、その影は優雅に腰を曲げて一礼する。
「我が名はユリパルス。ディオ・ユリパルスと申します。短いお付き合いになると思いますが、
どうかお見知りおきを」
その男ユリパルスは、全身を真紅の衣装に包んだ、暗殺者としては派手すぎる出で立ちだっ
た。黄金の髪を肩まで伸ばし、それに包まれた顔は、端正で美しい。暗殺者などという血腥《ちなまぐさ》い
生き方よりも、貴族として花や音楽を愛《め》でる生き方が似合いそうな男だ。
だが、ユリパルスを見るアシュリーの瞳には、紛《まぎ》れもない恐怖があった。
「失敗には死を――覚悟はできてるわ……」
彼女は小刻みに肩を震わせる。
ユリパルスは、そんな彼女には一瞥《いちべつ》もくれずに、我が相棒に親しげな微笑《いちべつ》みを向ける。もち
ろん、表情通りの感情を抱いているはずもないが……。
「〈|疾風迅雷のリロイ《リロイ・ザ・ライトニングスピード》〉……その見事なお手並、拝見させて頂きました。どんな武器も自在に
操るフリーランスの傭兵、リロイ・シェヴァルツァー。噂《うわさ》通り――否《いや》、噂以上の戦闘能力です
ね」
ユリパルスは、リロイを褒《ほ》め讃《たた》えた。
リロイはといえば、褒められても嬉《うれ》しくない、という憮然《ぶぜん》とした表情だ。
「一つ、聞きたいと思っていたのですが」
ユリパルスは、小首を傾《かし》げてリロイの意志を問う。
「何だ」
リロイは、怒気も露《あらわ》にした顔を崩さない。口調も、ユリパルスの友好的で朗らかな声色とは
正反対に、刺々《とげとげ》しく堅い。
「なぜ、|SS級《ダブル・エス》への昇格を目の前にして、ギルドを離れたんです? そんなことをすればギル
ドを敵に回し、しかも、SS級傭兵に約束された、優雅な生活と高収入をふいにすることにな
ったのに。聞くところによれば、SS級に回される仕事は簡単で危険も少なく、その割りには
破格の報酬が与えられるとか。そんな夢のような生活を棒に振ってまで、あなたがギルドを離
れた理由とは、一体何なんですか?」
心底不思議そうなユリパルスに、リロイは堅い表情を崩し、どこか嘲《あざけ》りを含んだ笑みを浮か
べる。
「今おまえが言った通り、それが理由だよ」
この言葉に、ユリパルスは眉をひそめる。
「SS級ってランクはな、いわば餌なんだよ。SS級になれば楽な生活ができる、と思わせて、
きつく危険な仕事を雀の涙ほどの報酬でやらせるためのな。そうやってギルドは、報酬の上前《うわまえ》
を撥《は》ねて私腹を肥やしてるんだ」
「そんなギルドのやり方に失望した、と?」
「そんなに俺は、世の中を知らない甘ちゃんじゃない」
リロイは、血溜まりに倒れ伏すルディアと、座り込んで動かないアシュリーを見やり、それ
からちらり、と背後の少女に目を移した。
「俺は、おま、兄たちみたいな悪辣《あくらつ》な外道《げどう》の輩《やから》から、この子のような人間を守るために、戦って
いる。金や名声なんて、必要ない」
「自分の身も守れない弱い人間に生きる価値などないと、そうは思わないのですか?」
「生きる価値がないのは、おまえたちの方だ。人殺しで金を儲《もう》ける人間のクズめ」
リロイの吐き捨てるような言葉に、ユリパルスは少し、笑みを深める。
「辛辣《しんらつ》な人だ。……だけど、どうしてそこまで暗殺者を憎むのです? 愛する人でも殺された
のですか?」
「……貴様などに語る必要はない」
腹にこもった怨嗟《えんさ》を搾《しぼ》り出すように、リロイは一言一言に力を込めて言った。
ユリパルスは目を細め、小さく笑った。
「あなたは思った通りの人のようですね」
「そいつはよかったな。だったら、もうこの世に未練はないだろう。卑劣な人殺しめ」
リロイは厳しい顔つきで、剣を握り直した。
話しながら、ユリパルスからもアシュリーからも、リリィを庇《かば》える位置に移動している。
「御託《ごたく》は終わりだ。俺とお喋《しゃべ》りに来たわけじゃあるまい」
「いかにも」
ユリパルスは、優雅に指先を振るって見せた。何かを手繰るような動き。
「あうっ」
小さな悲鳴は、アシュリーの口から。首を押さえ、顔を赤くして床に倒れる。ばたばたと脚
を動かし、苦しげに顔を歪《ゆが》める。
のたうち回るアシュリーを、ユリパルスは優しげな笑みで見下ろす。
「失敗には死を……良い覚悟です」
短い言葉。それと同時に、アシュリーの苦痛の呻《うめ》きはぴたりと終わる。
アシュリーの頭は、ごろり、と胴体から離れて転がった。絨毯《じゅうたん》を、見る見る内にどす黒く血
が染めていく。
リリィはあまりの惨劇《さんげき》に悲鳴すら出せず、目をぎゅっと閉じて震えている。
リロイは、舌打ちした。
「リロイ、この男……」
「分かってる」
私の忠告を、リロイはぶっきらぼうにさえぎった。
武器に関して、リロイに助言は必要ない。しかし、この相手は厄介だ。
「ほう、喋る剣ですか。面白い」
ユリパルスは、指先をくるくるっと回した。
「その切れ味いかほどか。試させてもらいましょう」
舞いを踊るような手つきで、ユリパルスは宙を裂いた。
来た!
見えるか、リロイ?
しゅっ、と鋭く息を吐き、リロイは剣を振るった。
きん、と見えない何かを弾《はじ》く音。
ユリパルスの表情に、初めて笑み以外のものが浮かんだ。
驚愕《きょうがく》と、それに続く剣呑《けんのん》な瞳の輝き。
「わたしの技を躱《かわ》したのは、あなたが二人目です。一人目はもちろん、我が主ですが」
リロイは、不敵に唇を歪める。全身の夥《おびただ》しい傷をものともしないのは、戦闘への集中力によ
る。剣捌《けんさば》きに、一分の狂いもない。
しかもその傷口は、徐々にではあるが、確実にふさがっていく。驚異的な回復力だ。
「そいつは、よっぽど弱い相手としか戦わなかったんだな……もっとも、暗殺者とはそういう
ものか」
「言ってくれます。よほど暗殺者が嫌いなようですね」
「大嫌いだ。金をもらって人を殺《あや》める奴など、考えただけで虫酸《むしず》が走る」
ユリパルスは、ふと、意地の悪げな光を瞳に瞬《まばた》かせた。
「あなたの恋人のレナさんも、同じ仕事をやっていますが、それはどうなんですか?」
「俺とあいつは関係ない。減らず口叩いてると、その口閉じる前にあの世にぶち込むぞ」
「恐《こわ》いお人ですね」
ユリパルスは、五指をひらひらと泳がせた。
「十本来るぞ」
「造作《ぞうさ》もない」
リロイは軽く請け合った。頼もしいことだ。
「鋼糸使《こうしづか》いと戦うのが初めて、というわけじゃないからな」
そう。ユリパルスの武器は、研ぎ澄まされた鋼《はがね》の糸だ。目に見えないほどの極細《ごくぼそ》の鋼糸を使
って、四肢を断つ。その扱いの難しさから、幻の暗殺技巧とされている。しかし達人ともなれ
ば、遠く離れた所からでも、狙った相手をばらばらにできる。ユリパルスの派手な格好もこれ
で納得がいく。彼は、闇《やみ》に隠れる必要がないのだ。
だが、ならばなぜ、彼はリロイの前に姿を現したのか。
「ほう、わたし以外の鋼糸使いに出会ったことがおありですか」
ユリパルスは眉《まゆ》を上げて驚きを表現する。だが、どこか嘘《うそ》を感じさせる。口調も、疑問とい
うよりも確認に近い。
それを受けたリロイも、何かを悟ったような表情で、短く答える。
「遠く東の異国でな」
ユリパルスの瞳が、すうっと細められた。顔の表情が暖かみを失い、能面のようにのっぺり
とする。
「ナタク・フジカ」
ユリパルスは聞き慣れない単語を口にした。
私の困惑をよそに、リロイは小さくうなずく。
ユリパルスののっぺりとした表情の中で、唇だけが、かすかに憎悪に歪《ゆが》んだ。
「ナタク・フジカ――わたしの師であり、たった一人の愛する人……」
ユリパルスは、複雑な紋様を胸前で描き始めた。リロイはそれに応じて、剣を斜めに構える。
「そうでしたか。やはり、あなたがフジカを」
「故《ゆえ》あってのことだが……許してくれなんて謝るつもりはない」
リロイは、リリィを背後に遠ざけた。
「こちらも、許すつもりなど毛頭ありません」
ユリパルスは何かを抱《だ》きかかえるかのように、両腕を開いた。
常人の動体視力では捉《とら》え切れない鋼の糸が、まるで花びらのように部屋中に広がる。
「殺せないのは残念ですが、たっぷりと苦痛を与えて差し上げます」
「苦痛なら、もう十分だ!」
リロイが動いた。これまた、普通の人間では追い切れない神速だ。
十本の糸が、上下左右、あらゆる方向から襲いかかる。このすべてを見切って躱《かわ》せるのか、
相棒?
きん! きん! と鋼糸を弾《はじ》く音。
一見でたらめに、狂ったように繰り出される剣撃は、狙い違《たが》わず鋼糸の攻撃を弾き返す。し
かし、剣を振るたびに、治り切っていない傷口から血が飛び散る。いかに回復力に優れていて
も、傷を受けた時点でかなり出血しているのだ。このままでは、失血で意識が飛んでしまう。
ユリパルスもそれを見取ったのか、余裕の表情を取り戻し、いよいよ激しく指をくねらせる。
「リロイ!」
私が思わず漏らした呼びかけに、リロイはにやりと笑みをとばす。この状況下で笑えるとは、
大した胆力だ。が、よく見れば、大量の出血で顔邑が青ざめてきている。
ずびゅっ。
「くっ」
肉を断つ音と、リロイの小さな呻《うめ》き。
ユリパルスの、深まる笑み。
とうとう鋼糸の一本が、リロイの身体を捉えた。切り裂かれた太腿《ふともも》から、どくどくっと血が
吹き出す。
「こんなものか!」
リロイは、自分への活も込めて吠《ほ》える。旋風が巻き起こったかのような、リロイの斬撃《ざんげき》。
押しているのは、リロイだ。ユリパルスは、じりじりと下がって行く。
信じられない、といった表情が、ユリパルスの貴族顔をよぎる。当然だろう。私でも、この
男には幾度も驚かされる。
さらに三度、鋼糸がリロイの身体を切り裂いたが、相棒の歩みを止めるにはいたらなかった。
さらにリ イの攻撃は、激しさを増す。
突然、ユリパルスの攻撃に、隙《すき》ができた。
網の目のように紡がれた鋼糸の防御陣に、一撃を加える穴が生じたのだ。
リロイはそれを見逃さなかった。
襲いかかる鋼糸を無視し、背や腕を切り裂かれながら、瞬時に踏み込む。まさに雷光と化し
て、ユリパルスのふところに飛び込んだ。
切っ先が、まさにユリパルスの心臓を捉えんとした、そのとき。
背後に膨れ上がる、もう一つの殺気。
リロイの全身を、強い衝撃が襲う。
切っ先は、ユリパルスの胸に突き立つ前に、力を失った。
どうっ、と崩れ落ちるリロイ。
罠《わな》だったのか。
リロイは、全身を強く襲う激痛に耐えながら、背後を振り返る。
その顔に浮かぶのは、どこか悲しげな微笑《ほほえ》み。
「君、だったか……」
「ごめんなさい」
リリィは、リロイの血に濡《ぬ》れた剣の向こうで、言葉とは裏腹に酷薄《こくはく》な微笑を浮かべている。
こんな笑い方をする少女では、なかったのに。
「大人《おとな》しくアシュリーの薬で眠っていれば、痛い思いをせずにすんだのに。この剣の刃に塗り
込んであるのは、普通の人間ならば全身を襲う激痛に苛《さいな》まれて、死にいたる劇薬よ。あなたな
ら、気を失う程度で済むでしょう?」
リリィは、横倒しになっているリロイにゆっくりと近づいた。その表情は大人びていて、少
女の面影はまるでない。アシュリ!に捕えられ、怯《おび》えていたあの表情は、すぺて演技だったわ
けだ。
だが、恐らくアシュリーは、リリィの正体を知らなかったのだろう。リリィは、この店の監
視役として派遣されたに違いない。アシュリーがすべてを取り仕切る館主に見えて、実際のと
ころは、このリリィが本当の館主だったのだ。
リリィは、ユリパルスに軽くうなずいた。
「リロイの身柄《みがら》はまかせたわ」
「分かりました」
ユリパルスは憎しみの残る表情でリロイを見下ろしたが、何もせずに抱き上げた。
「馬鹿《ばか》な男よね」
リリィは、ふん、と鼻でせせら笑った。
「あの馬車に乗っていたのは、皆《みな》暗殺者よ。鬼人なんて、わたしたちだけでどうとでもできた
のに、あんなに必死になって守ろうとして……つくづくおめでたい男」
何と酷《ひど》い言いぐさか。さすがの私も、むかむかと腹が立ってきた。
私とリロイ、そして恐らくレナも、あのときから騙《だま》され続けていたとは。いくら女が演技に
長《た》けているといっても、リリィの年齢を考えれば、末恐ろしくなる。あの笑顔としぐさを見れ
ば、どうしてこの少女が恐ろしい暗殺者だと思えるだろう?
リリィが宿を訪れた晩、もし彼女を抱いていれば、何も知らないまま、一足早くリロイは捕
えられていたかも知れない。それを思うと、暗殺者ギルドの用意周到さにぞっとする思いを禁
じ得ない。
しかし、つくづく女運の悪い奴だなあ、おまえは。
二つ名を、〈女難のリロイ〉に変えた方がいいんじゃないのか?
もちろん、この先命があれば、の話だが……。
第2章
所変わって、ここはじめじめとした薄暗い石造りの牢屋《ろうや》だ。
背中に毒塗りの刃を受けて昏倒《こんとう》した相棒は、ユリパルスに運ばれて、街の中央寄りにある巨
大な図書館の地下に運ばれた。まさか、こんな所の地下に暗殺者《アサシン》ギルドの本部があろうとは、
図書館を利用している者の誰《だれ》一人思いはしないだろう。
傷だらけのリロイは、すぐに医者のもとに運ばれた。ギルドおかかえの医師だけあって、こ
れがなかなかの曲者《くせもの》だったが、意識のなかったリロイは知るところじゃない。知らない方がい
いと思うが……。
「つ……」
小さく呻《うめ》きながら、リロイがうっすらと目を開いた。ようやくお目覚めか。
「リロイ、どうだ。痛むか?」
「……いや。そういえば、あんまり」
完全に意識を取り戻したリロイは、身体のあちこちをまさぐりながら困惑している。
「ここの医師が治療していた。腕だけは、幸運にも真面《まとも》だった」
「だけは?」
リロイは不安げに眉根《まゆね》を寄せる。私はあえて口を閉ざした。
しかし、いくら医師の腕が良いといっても、あれだけの傷を負ってけろりとしているとは、
やはり並の身体ではない。
「お、気づいたか」
少し甲高《かんだか》い、こんな場所には不釣合な陽気な声が、牢屋に響く。鉄格子の向こうから、背の
低い男がこちらを覗《のぞ》き込んでいる。
リロイの物問いたげな視線にぶつかると、男はふけのたまっていそうなぼさぼさの黒髪を、
ぽりぽりとかきむしった。リロイと同年代ぐらいだろうが、卑屈さと怯懦《きょうだ》を感じさせる表情が
若さを裏切っている。
「俺はただの牢番だ。そんな目で見られても、何も出ないぜ」
「ここから出る方法ぐらい知ってるだろ?」
リロイのあっさりとした口調に、男は目を丸くした。そりゃそうだろう。牢番に脱獄のルー
トを聞く奴《やつ》なんて、そうそういない。いや、もしかしたら、リロイぐらいのもんじゃないだろ
うか。
男は、ケラケラと笑いを弾けさせた。
「面白い奴だな。気に入ったぜ。ここにいる間は、少しは優遇してやるよ」
「長くいるつもりはない」
リロイはぶっきらぼうに言って立ち上がると、ずかずかと鉄格子に歩み寄る。男は慌てて後
退《ず》さった。
「何をするつもりだ?」
牢番の男は、リロイと十分な距離を取ってから、腰に差した短剣に手を置く。鉄格子の向こ
う側の、素手《すで》のリロイに対してこの怯《おび》えよう……臆病《おくびょう》な男だ。
「別に何もしやしない。少し話がしたいだけだ。そんなにびくびくするなよ」
リロイは肩をすくめると、鉄格子の側にどっかりと腰を下ろした。
「ほ……本当か?」
男は疑いの眼差《まなざ》しを向けながらも、リロイの方に少しずつ近寄って来る。まるで、檻《おり》の中の
猛獣に怯える子供のようだ。どうしようもなく情けない奴だが、それでもこの街に来てから出
会った人間の中じゃ、しごく真面《まとも》な方だろう。
そう思うと、ロクな人間に出会っていないことに気づく。出会いは大切だと言うが……。
「ん、あんた、それは何だ?」
牢番は、リロイが掌の中でもてあそぶ小さな宝玉に目を奪われた。それが、剣の鍔《つば》もとに埋
め込まれていた物であり、私の意識、つまり魂の器であることを、牢番は知らないし、リロイ
も教える気はなかった。
「お守りさ。こいつのおかげで、何度も命を救われた」
ほう、分かってるじゃないか。それならば、それなりの扱いってものがあるだろうに。
牢番は、不思議そうにリロイを上から下まで眺《なが》め回した。
「ここに連れ込む前に、身体検査をしたが、そんなもの、どこにもなかったぞ」
「人間の身体には、隠し場所はいくらでもあるんだぜ」
牢番の疑問に、リロイは軽いウインクで答えを返す。納得のいかない牢番は、口をへの字に
曲げて、首を傾《かし》げる。
リロイは娼館《しょうかん》での戦いの際、隙《すき》を見て私を取り外し、隠しておいたのだ。最悪の場合を考え
たのだろう。
どこに隠したかは、口にしたくない。
「銃を置いてきたのは正解だったな」
ぽそり、と呟く。それはそうだろう。掌に乗るような小さな私ならともかく、あの鉄の塊は
隠しようがない。
「あんた、銃を持ってんのか? 随分羽振りがいいんだな!」
牢番は、驚きにさらに声を高くする。
「貰《もら》いもんだがな」
リロイは、私をレザージャケットの内ポケットに仕舞《しま》い込みながら、言った。銃の製造元は、
大陸北端の商業都市ベネチアにある武器製造会社ゼノスだ。製造工程を独占し、注文を受けて
から製作する完全なハンドメイドで、その価格たるや一丁がおよそ金貨五千枚に相当する。金
貨一枚が一般人の生活費二ヶ月分に相当することを考えれば、銃がいかに法外な値段で取り引
きされているかが分かるだろう。ちなみに、銃弾に使用する火薬も希少価値が高く、一発が金
貨十枚もするのだ。
貰いものでなければ、この年中金欠男が手にできるようなものではない。
「じゃあ、金持ちの友達がいるんだな。すげえ」
変なところで感心している牢番に、リロイは、私の代わりに一枚の金貨を取り出し、それを
ぽん、と放り投げる。
牢番は、ぽかんとした表情で、掌の中の金貨と、リロイの悪戯《いたずら》めいた笑みを浮かぺる顔を見
比べた。
「まるで手品師みたいだな」
「おまえにやるよ。その代わり、情報が欲しい」
リロイの提案に、牢番は考え込んだ。金貨一枚は、彼の二ヶ月の稼ぎに当たるだろう。
随分と太っ腹だが、必要経費のつもりか、リロイ? だが、あの女が認めるとは思えんぞ。
牢番は、考えを決めた顔で金貨をふところに仕舞い込んだ。
「何が聞きたいんだ? 初めに断っとくが、大したことは教えられねえぞ」
牢番は、リロイへの警戒を解いたのか、鉄格子を挟《はさ》んですぐ横に座り込む。リロイは、分か
ってるといわんばかりにうなずいて、口を開いた。
「最近、十五、六歳の女の子を見かけなかったか? 髪はブロンドで、長さは肩口。瞳《ひとみ》の色は
エメラルド・グリーン。なかなか可愛《かわい》いはずだが」
リロイは、レナから聞いた彼女の妹の特徴を口にする。最後のは、リロイの勝手な思い込み
にすぎない。
牢番の男は、すぐに反応した。
「ああ、そういえば少し前に、そんな感じの女の子を見たことあるなあ」
「どこでだ?」
リロイの声が思わず鋭くなる。牢番の男は一瞬うろたえたが、言葉を続ける。
「ユリパルス様が、連れて歩いてたな。ここで見たのは一度きりだから、まだここにいるのか、
どこかに連れていかれたのかは、ちょっと分かんないな」
ふむ。情報としては正確さに欠けるな。娼館経営を手がけているこの組織では、ブロンドの
少女など珍しくもないだろう。
「ユリパルスか」
リロイは小さく呟く。リロイと因縁の深いあの男。あの男が鍵《かぎ》を握っているのだろうか。
「食事を持って来てやるよ」
牢番はリロイが黙りこくってしまったのを見ると、そう言って立ち去った。
私は彼が十分離れたのを確認してから、口を開いた。
「ユリパルスと言えば……」
「何だ?」
「あいつとおま、兄を結びつけている、フジカ……とかいうのは、どういう女だったんだ?」
私の問いに、リロイは、奇妙な表情を浮かべた。苦々しいというか、嫌悪《けんお》というか、ただ引
きつっているだけのようにも見える、奇妙な笑みだ。
「フジカ……ナタク・フジカか? あいつは、残忍で冷酷な鋼糸使い、狂気の暗殺者だった。
今思い出しても恐ろしい、〈男〉だったよ」
ははあ、なるほど、リロイの笑みの意味が納得できた。
「おまえも、狙われたんじゃないのか?」
「割るぞ」
私のからかいに、リロイはぞっとした顔で、私の魂の器である宝玉を強く握り締《し》めた。あな
がち、私の予想も外れているわけではなさそうだ。
「とにかく、ここを脱出しないとな。身体を弄《いじ》られるのを黙って待ってるなんて、ごめんだ」
「私もそれに賛成だ」
とりあえず、早く私の身体を取り戻して欲しいものだ。あれに収まってないとどうもしっく
りこない。実際は、それだけに終わらないほど深刻だ。今の私は、いわゆる幽体離脱に近い状
態で、この状態が長く続けば、意識がどんどん薄れていき、最後には消滅してしまうのだ。
「だが、どうやって逃げ出す?」
私に言われて、リロイは鉄格子に触れてみたが、素手では破れそうもない。
ちょうどそのとき、牢番が戻って来た。手に食事を持っている代わりに、二人の男を引き連
れて。
一人は、噂《うわさ》をすればのユリパルス。
もう一人は……うげっ、あの医師だ。
「ご機嫌はいかがですか、リロイ・シュヴァルツァー」
ユリパルスは、相棒をフルネームで呼んだ。その馬鹿丁寧さの裏側に、彼の怨恨《えんこん》が見え隠れ
していて無気味だ。
リロイは、にやりと頬を歪め、
「おまえの顔を見るまではご機嫌だったよ、ユ|ニ《`》パルス」
「ユリパルスです」
リロイの軽いからかいに、ユリパルスは双眸《そうぼう》をぎらりと光らせた。うむ、存外底の浅い男か
も知れない。
「おい、ユリパルス」
暗く、恨《うら》みを抱いた死霊《しりょう》の唸りのような生気のない声は、例の医師が発したものだ。栗色の
髪をぼさぼさに伸ばし、猫背の上に羽織った白衣も皺《しわ》くちゃで小汚い。眼鏡の奥では、細い目
が陰気にこちらを観察し、口元は神経質に震え、歪んでいる。
予想通り、リロイは苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔になる。
「いつになれば、この男を解剖できるのだ」
「おいおい……」
医師の危険な発言に、思わずつっこむリロイだが、声に力がない。こういう陰湿で根暗な人
間は、リロイの苦手なタイプだ。
「慌てないで下さい。彼はどこにも逃げられませんよ」
「では、先にあの剣を調べておこう。この男を弄らせる気になったら、呼んでくれ」
ううむ、私の身体を弄る気か。こいつはたまらん、マッド・サイエンティストめ。
医師は去り際に、狂気を宿した瞳をリロイに残していった。ぶるり、と相棒は身を震わせる。
ユリパルスは大仰《おおぎょう》に両手を広げ、
「変わり者ですが、大目に見てやって下さい。腕は確かなのですよ。あなたの身体の傷を治し
たのも、彼なんですから」
「うげ」
リロイは悲鳴を上げて身体を探る。安心しろ、まだ何もされてない。あくまで、まだ、だが。
「…………!」
突然、リロイの身体が緊張した。筋肉が盛り上がり、アドレナリンが大量に生じる。
ユリパルスの薄い唇が、半月の形に裂けた。リロイは、身じろぎせずにユリパルスを睨《にら》みつ
ける。
「早くあなたをいたぶりたくて、身体が疼《うず》きますよ」
ユリパルスはうっとりとした瞳で、リロイの全身を舐《な》めるように眺めやる。
「今ここで、ヘパスの楽しみを奪ってもいいのですが……」
彼の指が、言葉に合わせて滑らかに動く。
すでにリロイの全身をからめ取っていた鋼糸に、微妙な力が込められる。うっすらと、リロ
イの両腕、両足に、血の線が生じる。もう少し力が込められれば、相棒の身体は一瞬でバラバ
ラになる。
「できるんなら、やれよ」
絶体絶命の状況にあって、リロイの口調に恐怖や絶望はない。肉体的には緊張していても、
精神的にはリラックスしている。一体この余裕が、どこからでてくるものか。
ユリパルスは、剣呑《けんのん》な光を浮かべた目を細めた。
「死が恐くない、とでもいうつもりですか」
「まさか」
リロイは、何を馬鹿なことを、と失笑する。
「死が恐くないなら、手を血に染め、人を斬《き》ってまで、生きていたいと思わないさ。だが、あ
の変態医師に身体中弄《いじ》くり回されて死ぬんだったら、すぱっとあの世に行く方を選ぶ。それに
……」
リロイはそこで一旦言葉を切り、たっぷりと皮肉を乗せた言葉に続ける。
「俺は、男同士で身体を弄くり合うほど、物好きじゃないからな」
「…………」
この挑発に激昂《げっこう》すると思いきや、ユリパルスは、目から生気が失《う》せたような無表情になった。
これはこれで恐い。
リロイの全身を締めつげる鋼糸が、わずかに絞られ、さらに肉に食い込んでくる。皮が破け、
血が流れ落ちる。このままでは、本当に四肢を切り落とされかねない。
挑発に乗ってこないユリパルスを見て、リロイはふん、と鼻を鳴らした。
「おまえも、あの方とやらが恐いのか」
この言葉に、びくり、とユリパルスの頬が動いたが、それ以上の反応はなかった。
いや、反応はあった。
リロイの全身をからめ取っていた鋼糸が、突然、はらりと解《ほど》けたのだ。
どうなってんだ、と拍子抜けした顔のリロイを、ユリパルスは相変わらずの無表情で見下ろ
していた。
その瞳に、わずかに揺れる感情の色は――
畏怖《いふ》だ。
「あの方の命がなければ、ここがあなたの死に場所でしたよ。あなたほど、わたしを愚弄《ぐろう》した
人は初めてです――許しがたい人だ」
口調にはあからさまな憎しみがにじみ出ていたが、瞳が語るのは、やはり何者かへの絶対的
な畏《おそ》れだった。
「別に許してくれなくてもいいって、さっきも言ったろ。それより何だって、そいつをそんな
に恐がるんだ? 何か特別なわけでもあるのか?」
「あの方は〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉そのもの……わたしや、あなたのような傭兵崩れでは、足下にも
及ばぬ力を持った方です」
ユリパルスの口調は、神を語る神官の如《ごと》く敬虔《けいけん》で、畏れに満ちていた。それは如実に、語ら
れる者の絶対的な力を表している。
残虐で冷酷な人殺し集団である暗殺組織をまとめるには、それ相応の力と、彼らを恐怖で縛
りつけるに足る闇《やみ》のカリスマが必須だ。超絶的な技能を持った暗殺者であるユリパルスを、こ
こまで畏れさせて意に従わせる者の実力は、どれほどのものであろうか。
「どうしてあの方が、あなたなどに興味を持つのか、実際のところ腑《ふ》に落ちないのですよ、わ
たしとしては。危険分子であることに変わりはないのだから、早めに処分すべき……と、そう
思うのですがね」
「そんなに力を持った人間が、なぜ、か弱い少女を拉致《らち》するのか……その方が、腋に落ちない
と思うがな」
リロイは、低く静かに言った。声こそ荒立てはしないが、そこに込められた憤怒《ふんぬ》は、咆哮《ほうこう》の
如くユリパルスに叩《たた》きつけられる。
「女一人おびき出すのに幼い少女を監禁する……それが〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉のやり方なら、よく
覚えておけ。おまえたちを皆殺しにしてでも、その少女を助け出すのが、俺のやり方だ。命の
価値が平等だなんて考えは、俺の中にはないからな」
淡々としたリロイの言葉には気負いはなく、それが却《かえ》って真実であると信じ込ませる力があ
った。私も、相棒の言葉が、脅しや勢いだけでないことは知っている。
以前、男たちが少女に乱暴をしようとしている現場に偶然出くわしたことがあったが、その
ときリロイは、問答無用で彼らをぶちのめしたのだ。ほぼ全員が、その後《ご》数ヵ月は、ベッドの
上での生活を余儀なくされた。それも、行為前だったからで、もしも暴行後であったなら、再
起不能にされていただろう。その点において、彼らはまだ幸運だった。
子供に対する暴力や、非道な行いに対し過敏に反応するのは、リロイが恵まれない――とい
うよりも、陰惨と形容してもいい少年時代を送ったからだろう。
リロイの行動が常に正しい、とは思わない。
やりすぎの場合も多々あるだろう。
だが、無辜《むこ》の人間を力で傷つける輩《やから》が許せないリロイは、犠牲者の悲鳴を無視することなど
到底できないのだ。
安っぽい正義感だと謗《そし》られても、それが相棒の生き方だ。
もしくは、内に秘めた激情と力を持て余しているのか
ユリパルスは、リロイの言葉に、恍惚《こうこつ》とした笑みをうっすらと浮かべた。
「素晴らしい考えです。賛同しますよ。あの方のお命に比べれば、しがない傭兵や少女の命な
ど、ものの数ではありません。あの方を知れば、あなたも自分の矮小《わいしょう》さにきっと気づくはずで
す」
自分の言葉を皮肉られたリロイは、小さく舌打ちする。
「悪いが、俺はそいつを好きになれそうにないな。会ったら、とりあえず二、三発は殴ってや
らないと気が済みそうもない」
「血気盛んなのも結構ですが……そんなことをすれば、あなたもただでは済みませんよ」
ユリパルスは、恐いもの知らずな無鉄砲さをリロイに見たのか、どこか宥《なだ》めるような口調だ。
「心配してくれてありがとよ」
お返しとぼかりに、嫌《いや》みったらしくリロイは言った。どうしてこう、大人げないのか、こい
つは。
「あなたがどうなろうと、わたしは一向に構いません。ただ、最後にとどめを刺す役は、わた
しに回して欲しいだけです」
「そんなに俺が憎いのか?」
これはまさに、挑発以外の何物でもない。
触れなくていいことに、好んで触れようとする男だ。嫌った相手には、どこまでも突っかか
っていかないと気が済まないらしい。
「ええ、憎いですよ。寸刻みにして、豚の餌《えさ》にしてやりたいほどに」
ユリパルスは呪《のろ》うように言ったが、手は出そうとしなかった。何度も挑発に乗るほどの間抜
けではないようだ。感情を、能面のような仮面の下に押し込めている。
「では、後程《のちほど》」
優雅な動作で踵《きびす》を返し、歩き去ろうとする。
「待て」
リロイは、思い出したように引き留めた。
「なんです? 食事ならすぐにお持ちしますよ。意地汚い人だ」
「そうじゃなくて……おまえ、レナの妹をどこに隠した? 俺とおまえの誼《よし》みで、教えてくれ
ないか?」
どんな誼みだ、図々しい奴め。
ユリパルスは、さすがに失笑する。
「残念ですが、それはできません」
少しも残念そうでない顔で、言う。
「ただ、もしあの少女に会う機会があったら、きっと驚かれるでしょう。姉に似て、綺麗《きれい》な娘
ですよ」
「どういうことだ?」
リロイは眉根《まゆね》を寄せて、胡散臭《うさんくさ》そうにユリパルスを見る。
それには答えず、含みのある笑みを口もとに浮かべたまま、靴音も高くユリパルスは歩き去
った。
牢屋に、静寂が戻る。
「さてどうする、相棒。このままじっとしていたら、いずれあの変態医師に解剖されてしまう
ぞ。私の本体だって、弄《いじ》られるんだ。何か考えぐらいはあるんだろうな?」
私の言葉に、リロイは思案顔で顎《あご》を撫《な》でる。
「それよりも、ユリパルスの言葉だ。レナの妹がここにいるかどうかも分からないし、レナの
奴、まだ俺に何か隠しごとをしているかも知れない。――気に食わないな」
気に食わないのはこっちだ。ここを脱出できなければ、そもそもレナの妹を助け出すことな
ど不可能なのだ。もしかしてこいつは、自分が囚《とら》われの身だという事実を忘れているんじゃな
いだろうな?
「で、具体的にはどうするんだ? このまま、事態の展開をじっと待つつもりか?」
私の再三の問いかけに、リロイは、顎を撫でていた掌で、半面を覆った。
「そんなわけないだろう。ちゃんと考えてたよ。あのとき、もう少しあいつが――」
そこまで言って、リロイは言葉を切り、顔を上げた。
「今、何か聞こえなかったか?」
耳を澄ませながら囁《ささや》く。そう言われてみれば、遠くの方から、人の叫び声や怒声が聞こえて
くる。
何が起こっているんだ?
「こんなに簡単に捕まってしまうなんて、何て役立たずなの」
美しいが、突き放したように冷たい声が、静寂を破った。
この氷のように冷え冷えとした声は……。
レナだ。
「どこにいる?」
驚きながらも、リロイは立ち上がり、声を低くして呼びかけた。
「目の前よ。目まで見えなくなったのかしらり?」
「ぎょっ」
リロイは変な声を出して、少し後退《あとず》さる。
牢屋の前の通路、その薄暗い一角からすうっと現れ出たのは、声の主ではなかった。そこに
いるのは眉目秀麗《びもくしゅうれい》なレナではなく、巨躯《きょく》の銀狼《ぎんろう》であった。
「驚いている暇はないわ。どう、妹の所在は掴《つか》めて?」
何と、レナの声は、銀狼の口もとから流れ出てくる。リロイが思わず目を丸くしてぽかんと
していると、銀狼は、元来の低く獰猛《どうもう》な唸《うな》り声《ごえ》を発した。
「時間がないと言ってるでしょう。妹は、マナはどこにいるの?」
その稔り声にようやく我に返ったリロイは、それでも胡乱《うろん》げな眼差《まなざ》しを銀狼に向けながら、
言った。
「正確な情報が掴めない。ここの親玉にでも直接聞き出すしか手はないだろうな」
銀狼の黄金の瞳が、酷薄な光を湛《たた》えてリロイを睨《ね》めつける。
「本当に役立たずね」
「うるせえ。もとはといえば、おまえが悪いんだろうが。大切な妹なら、面倒ぐらいちゃんと
見てやれ!」
リロイが言うと、銀狼は今にも襲いかかろうとするように牙《きば》を剥《む》いた。ぐるぐると喉《のど》が鳴っ
ている。なかなかの迫力だ。
だが、銀狼は、そのままあっさりと背を向けると、闇《やみ》の中へと歩み去ろうとする。慌てたの
はリロイだ。先程遠くに聞こえていた騒乱がだんだんこちらに近づいてくる。
「おい、俺はこのままか!?」
「それぐらい自分で切り抜けなさい。それができないような男に、用はないわ」
闇の中から流れてくる、無情なレナの氷の声。
そして、それきりだ。
同情はしないそ、相棒。自業自得だ。
リロイが憎々しげに舌打ちするのと呼応するように、どかどかと荒々しい靴音が響いてくる。
侵入した銀狼を追って、ここまで辿《たど》り着いたのだろう。
惜しい、タッチの差だな。
リロイは、むっつりとした顔で座り込む。
置き去りにされたんだから、無理もあるまい。相棒としては、もうちょっと泰然自若《たいぜんじじゃく》とした
態度を望みたいところだが、感情のまま生きるのがこの男の性分だ。仕方ない。
牢屋の鉄格子の向こうに、ユリパルスを筆頭にして、数人の男たちが立ち並ぶ。ニリパルス
は無傷だが、他の男たちは腕や脚に傷を負って服を血に染めている。
「レナ・ノースライトですね、あれは」
ユリパルスが断定口調で言う。イライラとした心の焦りが丸分かりだ。若いな。
「あれはでかい狼《おおかみ》だ。レナは人間だぜ、少なくとも見た目はな」
リロイは辛辣《しんらつ》な口調で言った。誰《だれ》に対してかはさておき。
「口の減らない人ですね」
ユリパルスの指が持ち上がった。拷問《ごうもん》でもするつもりか。だが、リロイの瞳が、このとき、
厳しく光る。待ってました、といわんばかりの会心の笑みが、唇の端に浮かぶ。
ぱっ、と血が飛び散った。床にぽたりと落ちたのは、人差し指だ。
リロイのものでは、ない。
「これは」
痛みより驚きが先行した表情で、ユリパルスは呆然《ぼうぜん》と切り取られた指を見下ろした。
「鋼糸返《こうしがえ》し……どこで、この技を」
ユリパルスの声は、答えを予感しながら、それを否定したい熱情に震えていた。
リロイはゆっくりと立ち上がり、今や彼のものとなった鋼糸を操った。鋼《はがね》の剣でも難儀しそ
うな鉄格子は、鋼の糸によって難なく切り刻まれた。
リロイが先ほど言いかけたことは、こういうことだったのか。
男たちは色めき立ち、手にした武器を構える。だが、彼らの中で最も腕が立つユリパルスの
秘技は、破られた。勝ち目がないと分かっていて向かって来るような者は、彼らの中にはいな
いだろう。じりじりと後ろに下がり、逃亡を計っている。
ユリパルスはそれに気づかないほど、狼狽《ろうばい》していた。目は赤く充血し、噛《か》み締めた歯は唇を
噛み切り、顎《あご》を赤い血の糸が伝う。
「誰だ、貴様にそれを教えたのは! 言え、シュヴァルツァー!」
狂ったような咆哮《ほうこう》。
突如として、彼の心の均衡は崩れ落ちた。精神に、歪《ゆが》みが生じてしまっている。
狂った愛の末路とは、こういうものか。
リロイは静かに言葉を吐き出す。
「ナタク・フジカ」
「嘘《うそ》だっ!」
ユリパルスは、手もとに残された鋼糸を一斉に繰り出した。だが、冷静さを欠いた彼の攻撃
は、リロィに通じるはずもない。
恐らく鋼糸使いにとって、鋼糸返しとは、技を殺されるが故《ゆえ》に、外部に漏らすことは絶対の
禁秘だったのだろう。
まさか自分の愛した相手が、敵であるはずのリロイにそれを教えていようとは……信じたく
ないというユリパルスの心情も、分からないではない。
リロイはユリパルスの動きに合わせ、微妙に指をくねらせた。二人の間の空間を極細の糸が
うねり、一方からの力の波動が、威力をそのままに――否《いな》、倍の威力で逆戻りする。
今度は指では済まなかった。
ユリパルスの指先から肩口までが、鋼糸返しを受けてずたずたに裂け、真紅の衣装がさらに
濃い赤に染められる。苦鳴を漏らさないユリパルスだったが、がっくりとその場に膝をついた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……」
独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》くユリパルス。それを見るリロイの表情は、堅い。
「ナタク・フジカは俺に自分を殺させるために、この技を教えたんだ」
「嘘だ!」
リロイの告白に、ユリパルスは絶叫を返す。
「事実だ」
その絶叫を受け止める、厳しい言葉。
「あの男は、手の施しようのない狂人だった。自分を唯一現実につなぎ止めている殺人の技で、
無差別に犠牲者を生み出していた。殺すことが、奴にとっての現実、世界だった。血を見るこ
と、断末魔の悲鳴だけが、辛うじて奴の中の均衡を保つ役を果たしていた……。
俺に、自分を殺す術《すべ》を教えたのは、狂人故の狂気か、それとも一片の正気の部分か……俺に
は分からないが、この技を二度と使う気にはなれなかった。狂った男を、ただ殺すためだけに、
身につけた技だったからな」
リロイの言葉は、憎むべき相手への、それでも最後の情けだったか。
「う……そ……だ」
ユリパルスは、途切れ途切れに、低く呻《うめ》いた。リロイを見やる瞳は、死人のように暗く濁っ
ている。リロイの言葉を聞いていたかも怪しい。
「哀《あわ》れな師弟だな」
私は思わず呟いた。リロイは小さくうなずく。
「フジカが、地獄で待っているぞ」
リロイがひゅっと腕を横に薙《な》ぐと、ユリパルスの首は呆気《あっけ》なく両断された。ゆっくりと後ろ
に倒れる首の付け根からは、服が溶け出したかのような錯覚を覚える、大量の真紅の血が溢《あふ》れ
出した。
転がった頭の、虚空《こくう》を見つめる瞳から、涙が糸を引く。
リロイは、無言でユリパルスの身体を踏み越え、牢を出た。封印したはずの技を使わざるを
得なかった自分自身に対して、やはり不甲斐《ふがい》なさと怒りを覚えているようだ。そして、最後に
ユリパルスが見せた人間の部分――狂気へと至った愛の業が、リロイを苛《さいな》むのだろう。
それは、リロイの心の、最も弱い部分かも知れない。だが、忘れてはならぬ弱さもあるのだ。
それすら凌駕《りょうが》してしまっては、もはやそれは、人間とはいえまい。
ただの戦闘マシーンだ。
私はリロイに、そうなって欲しくはない。
戦いのための機械など、私だけで十分なのだ。
牢屋《ろうや》があったのは、どうやら最下層だったようだ。しばらく陰湿な通路と階段が続いたが、
人影はない。ユリパルスに付き従っていた男たちは、戻って報告していることだろう。いずれ、
ユリパルスより上手《うわて》の刺客《しかく》が現れるはずだ。
鋼糸を捨ててしまったリロイは、得物《えもの》もなくどうするつもりか。体術だけでも、そうそう引
けは取らないだろうが。
「とりあえず、このまま脱出するか?」
私はようよう口を開いた。
「その前にちゃんと、私の本体を取り戻して欲しいんだが……」
「分かってるよ。心配するな」
リロイの声は、いつも通りだ。肉体的にも精神的にも、回復が早い。これは賞賛すべき美徳
だ。単細胞、といってしまえば、それまでだが……。
「あの医師……ユリパルスが言っていたヘパスとかいうのは、奴のことだろう。まずあいつを
探す。剣を取り戻してから――」
そこで一息ついたリロイは、いつもの不敵な笑みを浮かべる。
「|あのお方《````》とやらに、直談判《じかだんぱん》だ。レナの妹を大人《おとな》しく返すか、それとも最後の一人になるまで
俺と戦うか。まあ、大人しく引き渡すとも思えないがな。だが、それはそれで構わない。その
ときは、二度と立ち直れないほど痛い目にあわせる。脱出は、その後だ」
「ここを潰《つぶ》すつもりか?」
私の驚いたような指摘に、リロイは、心外だといった顔をする。
「そう言ったつもりだったが、伝わらなかったか?」
「……いや、よーく伝わってきた。おまえの無謀《むぼう》さも、そこまでくると国宝ものだな」
私は、実際のところ、それほど驚いたり呆《あき》れていたわけではない。リロイならそうするかも、
とある程度は予想していた。だが、傭兵が一人で立ち向かって勝てるほど、ギルドの組織力は
甘くない。これがリロイでなければ、一笑に付すところだ。
「明るくなってきた。近いそ、気をつけろ」
階段の上の方が仄《ほの》かに明るく、徐々に清潔感が生まれてくる。牢獄の終わりが近づいた証拠
だ。ここまで何の襲撃もなかったからといって、油断はできない。暗殺者たちが、全員|尻尾《しっぽ》を
巻いて逃げ出すはずもないからだ。
「誰《だれ》に言ってるんだ? 暗殺者の十人や二十人、素手《すで》でも打ち倒せるぜ」
階段を上り切った所の扉に手を当てながら、リロイは確固たる自信を持って言った。
頼もしい限りだ。
リロイは、問答無用で扉を蹴《け》り開けた。手加減しなかったので、蝶番《ちょうつがい》が吹っ飛び、扉は部屋
の中に倒れ込む。扉を潰したのは、この街に来てから二つ目だ。これは彼にすれば、少ない方
だろう。
一気に飛び込み部屋を見回したリロイは、小さく唸《うな》る。
暗殺者十人より厄介と思える相手が、そこにいたのだ。
「待ってたわよ、シュヴァルツァー。ユリパルスを屠《ほふ》るなんて、S級ランクは伊達《だて》じゃなかっ
たのね」
「できれば、もう会わずにいたかったが」
リロイは疲れたように言った。
「今度の相手は君か、リリィ」
相捧をまんまと騙《だま》し、背後から毒塗りの刃で斬《き》りかかった少女は、悪びれもなく笑った。そ
ういう笑い方はできればして欲しくない。どうも調子が狂う。
リロイが苦しげに顔を歪《ゆが》めたのは、私と同じ理由だろう。
「わたしでは不満かしら、〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉のお相手は?」
リリィの姿は、露出度が多かった。ピッタリと密着した黒装束が隠しているのは、わずかに
胸と腰だけだ。防具類も一切身に付けていない。武器は、腰に下げた短剣が一本。
後ろで一つにくくった赤毛だけが、少女であった頃の面影を残している。
「リリィ――」
「まだわたしをそう呼ぶつもり? それは娼婦《しょうふ》としての名前よ。暗殺者としてのわたしの名は
――」
「君はリリィだ。それでいい」
リリィの言葉を、リロイはさえぎった。
まだ、彼女に幼い少女の影を重ねているのか、相棒よ? それでは命がいくつあっても足り
ないそ。目の前の少女は、おまえが助けた田舎育ちの素朴《そぼく》な少女ではなく、暗殺者集団に身を
置く恐ろしい女なんだ。
殺されかかったというのに、なぜそれを認めようとしないんだ。
見た目は少女でも、襲われてなす術《すべ》もないか弱き乙女ではないのだ、彼女は。
リリィは、そんなリロイに侮蔑《ぶべつ》の微笑《ほほえ》みを投げかける。
「わたしの名はアイリィ。これでも、ユリパルスと並ぶ実力と称されているのよ」
そう言う口調は、自信に満ち溢《あふ》れていた。
「でも自分では、ユリパルスを超えた、と自負しているわ」
「……だから何だってんだ」
リロイは、自分の胸の辺りまでしか身長のない少女を、もどかしげに睨《にら》む。殺しの手腕を誇
っている少女に対し、どうしようもない苛立《いらだ》ちを覚えているのだろう。
だが、この少女には、その思いは伝わらない。アイリィは、リロイのためらいを嘲笑《あざわら》うかの
ように、口の端をつり上げた。
「だから、あなたは逃げられない。ここで再び、わたしに捕えられるのよ」
リリィ――否《いな》、アイリィは、唯一の武器である短剣を鞘走《さやばし》らせた。
対するリロイに武器はない。相棒は身構えもせず、ただ真摯《しんし》に、暗殺者の少女を見据える。
「どうしても、やらなくちゃいけないのか? こんなことは何の意味もない。やめるなら、今
だぞ」
リロイの執拗《しつよう》な態度に、アイリィは嘲《あざけ》りを通り越した呆《あき》れ顔《がお》で、それでもゆっくりと胸の前
に武器を構える。
「安心して、殺しはしないわ。命令ですからね」
「俺は、君を殺せる。だけど、そうしたくはないんだ」
リロイは悲しげに言った。
アイリィは眉《まゆ》をきりりとつり上げ、軽く腰を落とした。怒りに頬《ほお》を紅潮させ、
「わたしを馬鹿にしない方がいいわよ」
その言葉を残して、彼女はすすっと流れるように横に移動する。リロイの死角に入り込むつ
もりか。
リロイは軽いステップで後ろに下がった。
アイリィの動きには無駄がなく、幼い頃から暗殺技術を叩き込まれたことを思わせる。
それが一層、リロイの裡《うち》の憐れみを誘う。
リロイはまだ迷っていたが、アイリィは最初から本気だった。その心の差が、リロイに最初
の一撃を甘んじて受けさせる結果になった。
アイリィはまだ間合《まあ》いに踏み込んでいないのに、突然リロイの左足ががくり、と力を失った。
太腿《ふともも》の肉がはぜ割れ、筋肉に何かが食い込んでいた。
「あなたにこれが見えて?」
アイリィは指をばちん、と弾《はじ》いた。
続いて右腕が衝撃に揺らぎ、血が弾ける。
再び何かが腕に食い込んできたのだ。
鋼糸に続き、またもや見えざる武器か!
リロイはためらわず、指を腕の傷口に潜り込ませ、筋肉に食い込んでいる異物を掴《つか》むと一気
に引き抜いた。血がさらにこぼれ、頬が痛みに引きつる。
親指と人差し指に掴まれて出てきたのは、直径五ミリほどの、透明な球体だった。
リロイの行動に、アイリィは可愛《かわい》い唇を窄《すぼ》めて口笛を吹いた。
「腑抜《ふぬ》けとばかり思っていたけど……まさか、自分の傷を抉《えぐ》るような真似《まね》をするなんてね」
アイリィは掌を上にして、その上で何かを転がすようなしぐさをする。
「でも、正体が分かったぐらいでは、躱《かわ》せないわ。線の攻撃の鋼糸に対して、これは点の攻撃。
武器に精通したあなたなら、これがどういうことか分かるはずよ」
リロイはすでにそれを悟《さと》り、徐々に顔つきが変わっていく。単純なことだ。線と点、どちら
がより捉《とら》えにくいか。その答えは明らかだ。
アイリィが、ユリパルスを超えたと自負するのも、あながち自惚《うぬぼ》れではないらしい。
「その気になれば、あなたの身体を穴だらけにすることも可能よ。さあどうする、
〈|疾風迅雷のリロイ《リロイ・ザ・ライトニングスピード》〉? その二つ名の如き神速で、この攻撃が躱せるかしら」
自信満々に言い放ち、アイリィの白い指が続けざまに透明の球体を放った。音も残影もなく、
それはりロイに向かって飛来する。
リロイは、痛む左足を鞭打《むちう》って、それの気配だけを頼りに身を捩《よじ》る。背後の壁が弾け、リロ
イの脇腹《わきばら》や肩が裂ける。直撃は辛うじて避けたものの、やはり完全に見切ることは不可能だっ
た。
「まだまだよ」
アイリィは攻撃の手を緩めず、追撃に移る。防戦一方のリロイは、床上を転がりながら、撃
ち出される球体を躱《かわ》す。だがすべては躱し切れず、肉が弾け、血が飛び散る。
これでもまだ、本気にならないというのか、おまえは?
「いつまでそうやって逃げ回るつもり?」
アイリィは、間合いを詰め、さらに激しい攻撃を放つ。
私とリロイは、同時に、その異変に気づいた。
アイリィの様子が、おかしいのだ。薄暗い照明に、彼女の汗が照り光る。汗をかくのがおか
しいわけではない。その量が問題なのだ。
夥《おびただ》しい量の汗は、彼女の全身を濡《ぬ》らし、動くたびにそれが飛び散る。
そして、この香りは――
部屋の中に、いつの間にか甘い香りが漂っている。吸い込みすぎたら、頭の芯《しん》が痺《しび》れそうに
甘い、甘ったるい香り。
「リロイ、これは!」
「もう遅いわ」
アイリィが会心の笑みを浮かべる。
「わたしの武器は、一つじゃなくてよ」
リロイの身体がぐらりと揺れて、そのまま膝が砕けて倒れる。両手をついて、倒れ伏すこと
までは何とか防いだが。
「やはり迂闊《うかつ》な男。この香りを吸ってしまったら、もう立てないわよ。全身の筋肉が弛緩《しかん》し、
思考能力を奪い取るの。あなたはもう、わたしの思うがままよ」
アイリィは含み笑いを漏らす。
「わたしはこの痲薬《くすり》をミルク代わりに育ったの。汗にも涙にも、体液すべてにこの痲薬が含ま
れているわ。あの晩、わたしを抱いていたら、この痲薬に囚《とら》われて、快楽の内にあなたはわた
しの人形になっていたはずよ。――その方が、幸せだったのに」
アイリィは隣れむように、四つん這《ば》いのリロイを見下ろした。
リロイは、ゆっくりと顔を上げた。
「まだ続けるというのなら、リリィ、君は俺の敵だ。分かって、いるのか?」
リロイの表情はしっかりとしていたが、声には痲薬による影響が見られる。さすがの特異体
質も、今回はわずかに及ばなかったようだ。これだけ強力な痲薬だ。子供の頃から服用してい
たというアイリィだが、それに耐え切れずに死んでしまった子供も多かったことだろう。
何と過酷なことか。
「その身体で、まだそんなことを言うの? あなたはわたしに囚われたのよ。そのまま眠りな
さ――」
言葉が、ぷつり、と途切れた。
アイリィの頬がすっぱりと切れ、背後の壁に小さな穴が開く。壁の破片がばらばらとこぼれ
る音が、しんと静まり返った部屋で白々と流れる。
アイリィの目が大きく開かれ、呆然《ぼうぜん》として頬から流れる血を指でなぞる。
リロイは、球体を放った腕の向こうで、アイリィを見つめていた。その瞳は厳しく、哀《かな》しい。
「こんなのはお遊びだ」
自分の技を至極あっさりと奪われ、あまつさえ遊び呼ばわりされたことに、アイリィの顔が
屈辱と畏怖《いふ》に歪む。
「やるべきじゃなかったんだよ、リリィ。気持ちの問題じゃないんだ。これは、歴然とした力
の差なんだ」
「……今のでわたしを殺さなかったのが、あなたの甘さね」
アイリィは、矜恃《きょうじ》を砕かれながらも、それでも挫《くじ》けなかった。痲薬の影響で床に這ったまま
のリロイを見て、自信を取り戻す。
「何とでも言うがいいわ。現に、指は動かせても、身体は動かないでしょう。いいわ、わたし
自身の手で、眠らせてあげる」
小刀を逆手に、それでもアイリィは油断なく、慎重にリロイに歩み寄った。いよいよ痲薬の
匂《にお》いがきつくなり、リロイの脳を刺激する。とうとう肘《ひじ》を床につき、頭が垂れる。
アイリィは、頬を流れる痲薬の混じった汗と血を、丁寧に拭《ぬぐ》った。それを小刀の刃に塗りつ
けて、痲薬に侵されているリロイを満足そうに眺《なが》め下ろす。
「せめて、いい夢を見てね」
優しく囁《ささや》き、小刀の刃をリロイの首筋に当てる。この痲薬が直接血管内に入れば、その効果
は数十倍にもなるだろう。これではさすがにリロイといえども、昏倒《こんとう》は免れない。
「…………!」
声にならない驚愕《きょうがく》の叫びが、アイリィの喉《のど》をふさいだ。
小刀を握る、思ったよりも細いその手首が、リロイの掌にがっちりと掴《つか》まれたのだ。
その力強さに危険を感じたアイリィは、咄嗟《とっさ》に身を引こうとした。だが、リロイはそれを許
さない。逆に、ぐいっと引き寄せる。
額同士がくっつきそうな距離で、リロイの視線とアイリィの視線がぶつかり合う。
「どこに、こんな力が……」
「たまには、俺も騙《だま》すさ。得意じゃないがな」
アイリィの瞳が、ぎらりと光る。勝利を確信していた相手に騙され、憤怒に唇を震《ふる》わせた。
「あうっ」
ぽきり、と骨の砕ける音。堪《た》え切れぬ苦痛に呻《うめ》きを漏らし、アイリィの掌から小刀が落ちて、
床に転がる。リロイが、彼女の手首を握り潰《つぶ》したのだ。何とも惨《むご》いやりようだが、リロイの苦
苦しい表情を見れば、好きでやっているわけではないのだろう。
「夢を見るのは、君の方だ」
突き上げられた拳《こぶし》の一撃がアイリィの腹を抉《えぐ》り、続く手刀が、首の後ろを打ち据えた。
アイリィの身体は力を失い、ぐったりとリロイにもたれかかった。その細い身体をしっかり
と抱き留め、リロイは立ち上がる。
「目覚めたとき、〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉はない。悪夢は、終わりだ」
気を失っているアイリィに聞かせるように、リロイは独《ひと》りごちた。
「利き腕を失ったんだ。できれば、暗殺者としての道は断念してくれ」
「やはり、子供は殺せないか」
私は、どこかホッとして言った。子供を殺す姿は、この男に似合わない。
「しかし、暗殺者としての生き方しか知らぬこの少女が、普通の生活に戻れると思うか? 下《へ》
手《た》をすれば、再び暗殺者としておまえの前に現れるかも知れないそ」
「そのときは……」
言葉は、続かなかった。
気を失ったアイリィを見下ろす漆黒の瞳は、彼の内心の葛藤《かっとう》を表して悲痛に揺らぐ。その先
を言わなかったというよりは、言えなかったというべきだろう。
リロイ自身、どうすべきなのか分からないでいるのだ。
私が答えを出すような問題ではない。
リロイが自分で、どんなに苦しもうとも、出すぺき答えなのだ。
そして私は知っている。相棒は、そのときが来れば、必ず答えを出すであろうことを。決し
て逃げ出したりしない心の強さを持った男だと、私は信じている。
リロイは顔を上げた。ためらいを湛《たた》えた瞳に、やがて強い決意が漲《みなぎ》り始める。
「そのときは、そのときだ」
口調からも苦悩の響きが薄れ、迷いが払拭《ふっしょく》される。
「今、この子のために俺ができることは、この組織を叩《たた》き潰《つぶ》すことだけだ。こんな組織がある
から……腸《はらわた》が煮えくり返るような思いをするはめになる」
相棒らしい短絡的思考だが、こうなってはもう止めようがないだろう。
止める気は、毛頭ないが。
地下本部の通路は、侵入者を惑わせるためか、複雑に入り組んだ迷路のように造られていた。
薄暗い照明と、右に左に折れる絶え間ない行程は、方向感覚を狂わせる。
「くそったれ」
小刀についた血と脂《あぶら》を振り払い、リロイは忌ま忌ましげに吐き捨てた。
彼の背後には、暗殺者たちの屍《しかばね》が転がっている。その力の差は歴然で、まるでリロイに斬《き》り
捨てられるために現れているようなものだった。
「どこからこんなに湧き出てくるんだ?」
「隠密《おんみつ》は得意だろうからな」
「ずっと隠れてろってんだ」
使い物にならなくなった小刀を叩きつけるように捨て、リロイは返り血に濡《ぬ》れた掌を見やる。
「本当に皆殺しにしなきゃ、そいつの所に辿《たど》り着けないっていうのか?」
辟易《へきえき》した顔で、汚れた手を革ズボンで拭《ぬぐ》った。
「命令の変更でもあったのかな。皆、おまえを本気で始末しようとしているぞ」
リロイは振り返り、累々《るいるい》と横たわっている屍に、厳しい視線を向ける。
「その方がいい。俺を殺そうとするなら、殺されても文句は言えないだろ」
リロイは躊躇《ちゅうちょ》なくそう言った。
相棒の生と死の捉《とら》え方は、この言葉に象徴されるように、どこまでも苛烈《かれつ》だ。
どこぞの宗教家が聞けば、目を剥《む》きそうなセリフだが。
「人を殺すより、殺されたほうがまし、とは思わないんだな」
「死んで何になるっていうんだ。生きてこそ、後悔も、やり直すこともできる。死んだらそれ
までだ。黙って殺されてやるほど、俺もお人好しじゃないからな」
「お人好しとか、そういう問題じゃないだろ……」
リロイの極論的な言い分も分からないではないが、刹那《せつな》的な嫌いはあるだろう。
だがこの男には、人間というものの本質を、いつも感じさせられる。
つまり、死の積み重ねの中で生きていることへの苦悩と、それを踏み越えても得たいと願う
生への渇望だ。その矛盾した感情が、常に人を苦しめるのだ。
リロイとて、それは同じに違いない。
――やがて、無数に枝分かれしていた通路が、一本道になった。道幅も広くなり、照明がわ
ずかに明るくなっている。
やがて、その通路の先に、壁一面の大きな扉が見えてきた。
そして、十数人の黒装束の男たちも。
その扉を死守しようという決死の覚悟が、顔を覆う覆面のわずかに覗《のぞ》く双眸《そうぼう》から、うかがえ
る。
リロイは素手《すで》にもかかわらず、自信満々に足を進めた。その無造作な前進に、男たちは色め
き立ち、周りを囲むように移動した。
リロイは自然体のまま、それを見回した。
「いいだろう。来い」
だが。
「そこまで」
凛《りん》とした、野太い声がその場を支配した。
男たちの背後で、ゆっくりと両開きの大扉が開く。開かれた扉から現れた声の主は、今まで
の刺客とは打って変わって武骨者だ。背はリロイよりも高く、腕は一回り太い。スキン・ヘッ
ドの、なかなか迫力ある相貌《そうぼう》だ。
男は暗殺者たちを睥睨《へいげい》し、薄いブルーの瞳で威圧する。
「下がれ」
怒っているわけではないのだろうが、そうとしか思えない厳《いか》つい声だ。暗殺者たちは、敵意
のこもった視線をリロイの上に残しながら、通路の闇に消えて行く。
それを見届けてから、男はリロイをぎろりと睨《にら》みつけた。
「リロイ・シュヴァルツァー――我らが主がお待ちだ、入るがよい」
「何が入るがよい、だ。偉そうに」
リロイは、頬についた返り血をぐいっと拭《ぬぐ》い、怒気も露《あらわ》に言った。
「初めからその気なら、どうして俺を襲わせた。第一、俺は、おまえたちに許可される覚えは
まったくない。お願いされてもいいくらいだ! どうぞお入り下さいませ、とそう言えないの
か、でかぶつ?」
「――調子に乗るでないそ、シュヴァルツァー」
男の眼光が鋭さを増し、殺気と鬼気が烈風の如《ごと》く吹きつける。この筋肉|達磨《だるま》、それなりにや
りそうだ。
「やるってのか? 俺は少々虫の居所が悪い。手加減はしないそ」
リロイの全身からも、闘気がぞわりと立ち上る。一触即発の緊張感が張りつめた。
そのとき、部屋の中から、含み笑いが漏れ出てきた。
「触れれば切れる刃のような男だな」
その声はどこか発音がおかしく、くぐもっていた。
「丁重にお迎えしろと言ったはずだぞ、ザザン」
「申し訳ございません」
ザザンという名の巨漢は、低く頭《こうべ》を垂れた。
「ユリパルスとアイリィを退けたか、リロイ・シュヴァルツァー。大した腕だ。一流の暗殺者
も夢ではないそ」
自分に向けられた言葉に、リロイは、ふんと鼻で笑った。
「|SS級《ダブル・エス》の次は、一流の暗殺者か……」
自嘲《じちょう》するように咬き、まだ見えぬ声の主に向けて挑《いど》みかかるように言う。
「最近の暗殺者は、おべっかも使うようになったのか?」
賞賛の言葉に対する無下《むげ》な返答に、再び低い含み笑い。
「是非、おまえと話がしたい。こちらへ来てはくれないか」
声の主は丁寧に言葉を紡いだ。それでも、少し聞き取りにくい。
「いいだろう」
おおまた
リロイは、ザザンにはもう目もくれず、大股《おおまた》に部屋に足を踏み入れた。
細い迷路の行き着く先にあるその部屋は、地下にしては天井が高く、広い。
だが、照明は最小限に絞られていて薄暗く、妙な匂《にお》いが漂っている。一つは、香を焚いてい
るその匂いだろうが、それはもう一つの匂いを消すためのものだ。一体、何の匂いだ?
声の主は、少し段の高くなった所に据えられている長椅子に、横になっていた。扉付近から
では、暗くて様子が見えない。彼の背後は、真紅の椴帳《どんちょう》に飾られている。香が焚かれているの
は、その帳《とばり》の向こうのようだ。
その入物は、ゆったりとした絹の衣装を身に着けていた。真紅だが、ユリパルスほど派手《はで》な
色合いではない。そして不思議なことに、頭部をフードで覆い、喉《のど》もとから鼻筋にかけてを服
の長い襟《えり》で隠している。
躊躇《ちゅうちょ》なく近づくリロイを、男は身を起こして迎えた。そのときすでに、リロイは段を上り切
り、男の目の前に立っていた。
「大胆な男だ。恐れを知らんのか」
男はリロイを見上げて言った。わずかに垣間《かいま》見える紅の瞳は、瞳孔《どうこう》が細く、不気味に輝いて
いる。嫌《いや》な目だ。
「恐れる理由があればな。俺がおまえを恐れる理由は、一つたりともない――怒りを覚える理
由なら、いくつもあるがな」
リロイは、今にも殴りかかりそうなほどの怒気をはらんで言った。
男は、紅の瞳を笑いに細める。
「嫌われたものだな。初対面だというのに」
「自分のしたことを鑑《かんが》みてみろ。一つでも、他人に好意を寄せられる行為があったのか?」
男は長椅子の背《せ》もたれに背を預け、深く息を吐いた。
「そう、貴様の言う通りだ。俺は……」
「黙れ。聞きたくない」
自嘲《じちょう》気味の男の言葉を、リロイは激しくさえぎった。自分で問いかけておいて、黙れ、もな
いものだとは思うが、そうやって自分のペースに持っていくのは悪くない。
「俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。どうしておまえが、俺に興味を持ったかだ。レナ
に協力したからじゃないはずだ。初めから、俺が目的だったのか?」
リロイの言葉に、男は大様《おおよう》にうなずいた。
「ずっとおまえを探していた。アイリィが、この街に貴様が向かっているという情報をもたら
したとき、俺の胸は高鳴ったぞ」
まるで、遠く離れていた恋人との再会を喜ぶような、男の言葉。
「俺は、おまえに興味があるのだ。その身体に秘められた力に、な」
「何のことだ? 俺を調べて、それでおまえに何の得がある?」
リロイはしらばっくれた。
実際は、彼自身が狙われていると分かったときから、その理由は大体察していた。
だが引っかかるのは、なぜか、だ。なぜこの男は、リロイの身体の秘密を知りたがる?
「俺を見るがいい」
男はおもむろに、フードを取り払い、同時に長襟も払い除けた。
男の顔が、薄暗い照明の下、露《あらわ》になる。
おお、これは――
「俺の名はカルテイル。ハーマン・カルテイルだ」
男の声がくぐもっている理由が分かった。顎《あご》や舌が、人間のそれと形状を異《こと》にしているから
だ。鼻から顎にかけてが前に突き出し、口は横に長く裂け、鋭い牙《きば》がずらりと並んでいる。顔
全体が白金の毛に覆われ、隈取《くまど》りのように黒い毛が紋様を描く。耳は側頭部ではなく、頭頂に
ついている。
たとえるならば――否《いな》、彼の頭は、まさしく白虎《びゃっこ》そのものだった。人間の身体の上に、白虎
の頭が乗っかっているのだ。
香の薫りに隠された匂《にお》い、あれは、獣の匂いだった。
「闇の……種族?」
リロイは、なかば呆然《ぼうぜん》としながら、呟いた。
カルテイルは、指で頬の長い髭《ひげ》を軽く弾いた。
「〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉ではない。と、思いたいところだがな」
自嘲気味に呟く。喋《しゃべ》り方といい、紅の瞳に宿る高度な知性の光といい、本人が言うように闇
の種族とは異なるようだ。
下級のそれならば。
上級|眷属《けんぞく》ともなれば、人間と同等かそれ以上の知性を持つ者もいるのだ。
組織の名前を思わせる真紅の瞳が、リロイの漆黒の瞳を正面から見つめた。
「俺には、幼い頃の記憶がない。自分を自分だと認識したときから、俺はこの姿で存在してい
た。人であるのか、獣であるのか、それとも〈闇の種族〉か――アイデンティティの欠如に、
俺は長い間苦しめられてきた」
カルテイルの顔は、獣のそれでありながら表情豊かだ。苦悩や自己|嫌悪《けんお》の陰がありありとう
かがえる。
「どこで、どうやって、俺のことを知った?」
リロイは戸惑いを隠せない。リロイの肉体の秘密を知る者は、私ぐらいなものだろうに。
「ナタク・フジカ」
カルテイルは、獣の口を歪めた。笑ったのだろうか。
「知っているのか、あの男を」
「彼から直接、ユリパルスの世話を頼まれた。俗世間に入り込めない者同士の、歪んだ友情と
いうやつだ。もっとも、フジカに先立たれたユリパルスは荒れていて、手懐《てなず》けるのに手を焼い
たがな。そのユリパルスも、フジカを葬った男に倒された。世界は、狭いな」
誠に、奇妙な縁だ。
「フジカの死に際の伝言を受け取った。俺の探し求める〈仲間〉が見つかったとな。それがお
まえだ、リロイ・シュヴァルツァー。獣の魂を宿す者よ」
「随分と粋《いき》な表現をするな」
リロイは肩をすくめる。だが、否応《いやおう》もなしに緊張は高まる。
「だが、〈仲間〉なんて気安く呼ばないでくれ。俺とおまえは、厳然とした敵同士だ」
「では、どう説明する。獣の姿へと変わり果てる自分の身体を。おまえはそれでも、自分が人
間だと言い張るつもりか」
「…………」
カルテイルの言葉に、リロイはぐっと歯を噛《か》み締める。
獣の姿への変身。獣化現象は、古今東西あらゆる場所で、伝説として語り継がれている。満
月の晩に狼《おおかみ》へと変身する狼男が、その最も有名な例だ。他《ほか》にも、獅子《しし》や蜥蜴《とかげ》、鼠《ねずみ》や豹《ひょう》に変身す
るものもある。それらは一般に、ライカンスロープと呼ばれている。明らかに人間を敵視する
〈闇の種族〉とは違い、ライカンスロープの性質や行動はまさに十人十色《じゅうにんといろ》で、一口に邪悪な存
在だとはくくれない。彼らは亜人《あじん》と呼ばれ、〈闇の種族〉よりも人間に近い存在だと認識され
ている。
ライカンスロープの特徴としては、回復力が異常に高く、獣化した状態では不死身に近い肉
体を誇る。また、動体視力や反応速度、筋力などの身体機能が普通の人間より数段優れており、
戦闘能力はずば抜けている。
リロイの身体も、それと同じ特質を備えているが、一口にライカンスロープといってしまう
には少し語弊がある。
なぜなら――
「ライカンスロープ――と言うには、おまえの身体は少々変わっているらしいな。フジカの言
によれば、獣化の起因は、死に値する肉体的・精神的ダメージだというではないか。そんな話、
聞いたこともない。極度の緊張と興奮により分泌されるアドレナリンの異常か、肉体の構造が
人とは根本的に違うのか……どちらにせよ、実に興味深い事実だ」
「おまえに言われたくはないな」
カルテイルの白虎《びゃっこ》の頭部を見ながら、リロイは撫然《ぶぜん》と言い放つ。
私に言わせれば、二人とも興味深い存在だ。人であって人でないもの。〈闇の種族〉でもな
く、ライカンスロープでもないもの。存在定義の中庸に位置する二人を、人は、何と呼ぶのだ
ろうか。
「ヘパスは、おまえを調べたがっている。科学者にとっても、おまえは貴重な存在のようだ」
カルテイルはどこか楽しげだ。それとは対照的な、リロイのしかめ面《つら》。
「俺よりも、おまえを解剖すればいい。俺の身体をかっさばいたって、人間の内臓以外出てく
るものか」
「獣化したときは、どうかな」
カルテイルはゆっくりと立ち上がった。何気ない動作だったが、しなやかで隙《すき》がない。獲物
に近づく肉食獣の、一分の無駄もない、堂々たる身のこなしだ。
「生物の最優先事項は、まさに生きることだ。あらゆる状況において、生物は、自分の生命を
守り抜こうとする。そして生きるものにとっての最大の恐怖は、死だ。傷つき、倒れ、意識が
無に帰すことを、生物は恐れる。その死の瞬間、第二の力によってその生命を維持しようとす
るおまえは、あるいは、究極の生命体なのか――」
カルテイルは、見せつけるようにゆっくりと、手袋を外した。頭部と同じく白金の毛に覆わ
れた、鋭い爪《つめ》を擁《よう》する掌が現れる。
「おまえはどう考える、〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉」
「そんな御託《ごたく》に興味はない」
リロイは、カルテイルの威嚇《いかく》ともとれる動きに、挑《いど》むかのように眼光を鋭くする。
「つまるところ、おまえの目的は何なんだ、ハーマγ・カルテイル」
「俺は何者か。その存在意義は。俺の依《よ》るべき所はどこか、何なのか。
俺は、何をすべきなのか」
カルテイルは、両の掌を、神に挑むかのように天高く突き上げた。紅の瞳は、燗々《らんらん》と熱っぽ
く輝く。その鈍く光る爪で何かを掴《つか》むように、腕をリロイに向ける。
「おまえはそれを考えたことはないか、リロイ・シュヴァルツァー」
殺気とは違う、闘気ともいうべき不可視のエネルギーの奔流が、二人の間の空間を焦がす。
この二人は、どこか似ている。姿形ではなく、裡《うち》に内包する精神の在りようが、似通ってい
るのだ。
リロイの全身の筋肉が、次の一瞬の爆発に向けてぎりぎりと撓《たわ》み、アドレナリンが大量に放
出される。
我が相棒は、それを悟らせないように平静を装ったが、炯々《けいけい》たる眼光がそれを裏切っていた。
「自分が何者か……か。確かに、俺も考えた。人並外れた力、異常な回復力、そして、時々自
分でも抑え切れないほど沸き上がってくる戦いへの興奮――明らかに他人と違う自分の存在が、
酷《ひど》く疎《うと》ましいときもあった。俺を見る周りの目、そこに込められた嘲《あざけ》りと恐怖に、自分自身が
異常な存在であることをいつも認識させられた。他者と違う自分、誰とも相容《あいい》れられない自分
……あの孤独、疎外感は、耐えがたかった。肉親もなく、自分のルーツも分からず――俺は絶
望した。あまりに周囲と異なる自分自身と、それを受け入れてくれない世界にな」
リロイは饒舌《じょうぜつ》だった。自分と似た境遇の男を前にして、やはり感じ入るところがあるのだろ
うか。
カルテイルは、たたずんだまま、じっとリロイを見つめている。その紅の瞳には、理解の色
が浮かんでいた。
「やはり、おまえと俺は似ているのだ、シュヴァルツァー。俺と同様に、異端者の孤独を知っ
ている。だが、なぜだ。なぜ貴様は、自分を受け入れてくれない人間たちと、世界を守るため
に、血を流すのだ? その力を、どうして自分を蔑《さげす》み疎んじた者たちのために使おうとするの
だ?」
カルテイルは、長く解けなかった命題の答えを求める研究者の如《ごと》く、瞳を狂おしく輝かせた。
リロイは、ふ、と笑みをこぼす。
「そう考えたこともあった。自分以外のすべてが敵だと信じ込んだときも、確かにあった」
「では、なぜだ?」
カルテイルは、その言葉の先を熱望した。
リロイは、期待に応《こた》えるかのように続けた。
「違う、と気づいたんだよ。世界に、人々に背を向けたら、それで終わりだと気づいたんだ。
人々を憎めば、憎しみしか返ってこない。心は荒《すさ》み、孤独はいや増すぼかり……その方が耐え
がたいことだった、俺にとっては。
だから、さらに考えた。自分のこの力を何かに使えないかと。俺は一体何ができるのか、何
をすべきなのか。一体どうすれば、俺は世界に受け入れられるのか……。そして俺は、傭兵に
なることを選んだ。カルテイル、おまえが暗殺者を選んだようにな」
リロイは、カルテイルに、忘れがたい怒りをぶつけるように言った。
「だが、俺とおまえの明確な違いは、自分を受け入れようとしなかった世界を、それでも受け
入れようと戦ったか、背を向けて逃げ出したか、だ。逃げ出してしまったおまえは、そうやっ
ていまだに何も掴《つか》めずにいる。
おまえは、自分自身に負げたんだ、カルテイル」
リロイの糾弾に、カルテイルは一瞬、紅の瞳を怒気に輝かせた。だがすぐに平静を取り戻し、
リロイを探るように睨《ね》めつける。
「それは、世界に媚《こ》びているだけではないのか? 戦っているのではなく、受け入れてくれと
許しを請《こ》うているのではないのか?」
「違う。自分が納得して生きるために、俺は戦ってきた。これからもだ。死ぬまで、俺は戦い
続ける。世界と、自分自身と、な」
カルテイルは、どこか哀《かな》しげに、溜《た》め息《いき》をついた。
「……同じ境遇ながら、俺とおまえは考えの行き着く先がまったく異なったようだな。だが貴
様とて、まだ自分自身を見つけたわけではあるまい。あるいは死ぬまで見つからぬ答えかも知
れん。それでもおまえは、異端者であることを認めず、自分を排斥しようとする世界を守ると
いうのだな? ならば、やはり、戦うしかあるまい。今の俺には、それ以外、自分を見つける
道があるとは思えん」
「異存はない」
リロイはうなずいた。リロイとて、言葉よりも行動を重んじる男だ。
そして、カルテイルと戦う理由は明確だった。
「だが、マナ・ノースライトという名の少女だけは解放してやってくれ。おまえたちとレナと
の確執は知っているが、レナの妹にそれは関係ない。彼女を、自由にしてやれ」
「それはできん」
カルテイルは、間髪《かんぱつ》入れずに返答した。
「〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉は、アイデンティティを持たぬ俺の、唯一《ゆいいつ》の寄《よ》り辺《べ》。ようやく手に入れた、
自分の居場所――俺の世界だ。それを脅《おびや》かすかも知れぬあの女は放置できぬ。どんな手段を持
ってしても、敵対者は葬り去る」
「あくまで世界に背を向けるか、カルテイル」
「それが我が道ならば」
二人の視線が絡《から》み合い、見えない火花を散らせる。一触即発だ。だがよく考えろ、相棒。カ
ルテイルは、牙《きば》と鋭い爪《つめ》を持った凶暴な獣だ。いくら優れた体術を誇っていても、素手《すで》で勝て
る相手じゃない。
「久しく血が滾《たぎ》るぞ、シュヴァルツァー!」
先に動いたのは、カルテイルだった。
結果を先にいえば、カルテイルの一撃目は、リロイの背後の壁を砕いたに終わる。だが、攻
撃に移る予備動作がほとんどなく、そのスピードはリロイを凌《しの》ぐといっても過言ではなかった。
リロイの反応速度をもってしても、躱《かわ》せたのは僥倖《ぎょうこう》以外の何ものでもない。
リロイの頬《ほお》がぱっくりと裂け、顎《あご》を伝って血が滴《したた》る。頬の傷と背後の壁は、カルテイルの腕
の一振りが生み出した衝撃波によるものだ。
二人は、弾《はじ》かれたように飛んだ。
リロイは右へ、カルテイルは上へ。
動きの取れない空中へ移動するのは、圧倒的に不利な状況を作り出す。
だが、カルテイルは上空から続けざまに衝撃波を放った。リロイの足下が吹き飛び、直撃は
避けたものの、大きくバランスを崩す。
これは、やばい。
相手の戦闘能力から鑑《かんが》みて、この一瞬の隙《すき》は命取りだ。
リロイは無理に体勢を戻さず、前方にそのまま飛び込む。
背後からの追撃。
くるりと床を転がって立ち上がるリロイの顔は、苦痛に歪む。右脚のふくらはぎに爪を突き
立てられ、肉をごっそりと持っていかれたのだ。夥《おびただ》しい出血に、どっと脂汗《あぶらあせ》がリロイの身体を
濡《ぬ》らす。
もし相棒が、あそこで体勢を戻す動きを取っていたら、右脚ではなくて、首を持っていかれ
ていたはずだ。
起き上がった足下に、瞬《またた》く間に血の海が生まれる。神経と筋肉までに到達する深い傷だけに、
右脚の自由が利かなくなってしまった。
リロイの動きは、封《ふう》じられた。
カルテイルは、牙を剥《む》き出《だ》しにして、鼻面《はなづら》に皺《しわ》を寄せた――笑ったのだろうか?
「疾風はやんだ。人の姿のおまえは、俺の敵にあらず。少女を救いたくば獣になれ。他《ほか》に手は
ない」
今のリロイは、罠《わな》に脚を取られた獲物同然だ。
奴《やつ》の言う通り、獣化したリロイでなければ、勝ち目はないだろう。
だがそれは、諸刃《もろは》の剣だ。
「そんなに見たければ、俺の胸を抉れ、喉をかき切れ! 言葉をいくら弄《ろう》したところで、何も
変わりはしない!」
リロイは、言葉とは裏腹に、死ぬことなど考えていない強い意志の光を、瞳に湛《たた》えていた。
カルテイルは、くわっと口を大きく開く。血に染まったような真っ赤な口腔《こうこう》と、ずらりと並
んだ野獣の牙が、リロイの視界を覆い尽くす。
「ならば、呼び覚ましてくれよう。獣の魂を」
カルテイルは、リロイに覆い被《かぶ》さるようにして、追って来た。
薄暗く、香気に満ちた空気を、銀光が断ち切る。
「がっ!」
喉の奥で弾ける苦痛の喘《あえ》ぎ。
果たして、ようりと一歩下がったのは、カルテイルの方だった。片膝をついたリロイの掌に
は、血を吸った短刀が握られている。
ここに来るまでの戦いでくすねたものを、今のこのときまで隠していたのだ。
「抜け目がないというか、はしっこいというか……」
私は思わず、安堵《あんど》の呟《つぶや》きを漏らす。答えて相棒は、無邪気ともいえる笑みを浮かべる。
「俺の本業は格闘家じゃないんでね」
さらにリロイは、もう一本、短刀を取り出す。脚の血は、すでに止まっていた。異常なまで
の回復力で、傷がふさがれていく。
一方、隙を突かれ、甘んじて攻撃を受けたカルテイルは、低く獣の唸《うな》りを発している。下か
ら突き上げられた切っ先は、カルテイルの左頬から瞳を抉り、額にまで抜けた。押さえた獣の
掌から、吹き出すように鮮血がこぼれる。白金の毛並が、見る見る内に真紅に染まっていく。
カルテイルは、迎撃の体勢にはなかった。
リロイはまだ完治せぬ右脚を酷使し、二本の短刀を振りかざして飛びかかった。
反射的に伸びてくる爪の一撃をあざやかに躱《かわ》すと、ふところに入り込む。片目を失い、その
衝撃に囚《とら》われたカルテイルの動きは鈍っている。リロイは、後退しようとするカルテイルを追
尾し、まさに神業的なスピードで斬撃《ざんげき》を繰り出した。
逆手に持った短刀の刃は、容赦なくカルテイルの全身を切り刻んだ。ぱっ、と血の華《はな》が咲き、
続いて噴水のように吹き上がる。
全身を朱に染めたカルテイルは、無言のまま、どうと背中から崩れ落ちた。
リロイの全身も返り血で濡れ、髪も血に固まる。何とも凄惨《せいさん》な姿だ。
だが、リロイの顔に勝利の喜びはない。
かといって、哀しみや辛《つら》さがあるわけでもない。
口元を引き締め、瞳に闘気と緊張を漲《みなぎ》らせた、まさに戦闘中の顔つきだ。
そのわけは、倒れたカルテイルにあった。何と、全身につけられた深い切り傷が、しゅうし
ゅうと赤い煙を吹き出しながらふさがろうとしているのだ。
その回復スピードは、リロイのそれを大きく上回る。リロイの右脚の傷は、まだ完治してい
ない。
傷口から吹き出す赤い煙は、急激な細胞活動が生み出した熱による、血の蒸発か。
リロイは、カルテイルの回復を黙っては見ていなかった。手にした短刀を、一気に心臓めが
けて振り下ろす。
それを、がっちりと、獣の腕がさえぎる。
ぎらり、と潰れたはずの紅の瞳が、リロイを睨《にら》みつけた。
喉《のど》から吹き出す血に濡れたカルテイルの口が、陰惨な笑みにぐにゃりと歪む。
「いい動きだ。片目では捉《とら》え切れん」
二人の視線が、間近でぶつかり合う。不思議なことに、憎しみはなかった。本気で殺し合い
ながらも、二人の間には純粋な闘争本能があるだけだ。
まさに、獣と獣の、生存と自己を賭《か》けた戦いだ。
手首を凄《すさ》まじい力で握られながらも、リロイは渾身《こんしん》の力で、短刀を心臓に突き立てようとす
る。先が動の戦いならば、これは静の戦いだ。
リロイの膂力《りょりょく》は常人を超えているが、カルテイルはそれすら凌駕《りょうが》していた。わずかずつで
はあるが、短刀の切っ先は押し戻される。
両者が力を込めるたび、お互いの傷口から血が溢《あふ》れる。今や、香の薫りよりも、腥《なまぐさ》い血の匂《にお》
いが、薄暗いその部屋を満たしていた。
リロイは、空《あ》いている方の掌に握っていた短刀を、カルテイルの脇腹《わきばら》に突き立てた。だが、
集中力を逸《そ》らしたために、一気に押し返される。上体が仰向いた途端、カルテイルの脚が跳ね
上がって、リロイのこめかみを強打した。
リロイの身体は無防備にふっ飛んだ。あまりに重い一撃は、リロイを脳震盪《のうしんとう》状態に陥《おとしい》れた。
リロイの意識が、一瞬途切れる。
「おまえの裡《うち》なる獣、見せてもらおう」
カルテイルが素早く起き上がり、眩暈《めまい》に囚《とら》われているリロイに襲いかかる。
そこに、一発の銃声。
立ち上がり、拳《こぶし》を振り上げた状態で、カルテイルはぴたりと動きを止めた。銃弾は、カルテ
イルの耳をかすめ、緋色《ひいろ》の緞帳《どんちょう》を突き抜けた。半面だけ後ろを振り返ったカルテイルは、開け
放たれた扉の前に立つ人影を、面白そうに眺めやった。
「ザザンを倒したか」
「雑魚《ざこ》に用はないわ」
細身の長剣を背負い、こちらに銃口を向けたまま、その人影、レナ・ノースライトは、嘲《ちょう》
笑《しょう》混じりに言った。
「何をしてるんだ、レナ」
リロイは驚きを隠せぬまま、惚《ほう》けたように呟いた。
返答は、低く笑ったカルテイル。
「シュヴァルツァーは、俺の所までの血路を開く捨《す》て駒《ごま》か。恐ろしい女だ」
レナはそれに反論しない。図星だったのだろう。まったく、何て女だ。
「妹を――マナを返しなさい」
レナは銃口の狙いをカルテイルに定めたまま、身じろぎ一つしない。美しい翡翠《ひすい》色の瞳は、
いつになく冷ややかで厳しい。
カルテイルは振り上げたままの拳を下ろし、ゆっくりとレナを振り返る。
「それはできん」
その言葉と銃声が、重なった。ぽっ、とカルテイルの腹に小さな黒点が穿《うが》たれ、背中から倍
以上の大きさになって大量の血と臓器が飛び出す。反動で、その巨体がリロイの頭上を越えて、
緞帳の向こうに消える。
レナは銃を腰に収めると、リロイに近づいて来た。いや、カルテイルの死を確かめるためだ
ろう。その背後からは、のっそりと、あの銀狼《ぎんろう》が姿を見せる。口元にべったりと付着した血と
脂《あぶら》は、ザザンのものだろうか。
かなりの力量と思われたあの男を屠《ほふ》るとは、この銀狼の力は計り知れないものがある。
「そういうことか」
リロイはふらつく脚を叱咤《しった》して、立ち上がった。
レナは冷然とした態度を崩さずに、
「悪く思わないで」
しれっとして言う。可愛《かわい》げのない女だ。
まあ、利用する方もする方だが、される方にも問題がある。まだまだ若いな、相棒。
「妹のためよ」
「言い訳とは珍しいな。〈冷血のレナ〉も、妹思いの優しい姉か」
「…………」
リロイの言葉を、レナは表面上無視して足を進めたが、その頬はかすかに上気していた。
レナは緞帳の手前で、背中の長剣を抜いた。そして油断なく、切っ先で椴帳を捲《まく》り上げる。
「レナ!」
リロイが緊張をはらんで叫ぶ。
頭上から降って来る、人影。
レナがふり仰ぐ。間に合わない。
リロイが二人の間に飛び込み、レナを庇《かば》う形になる。咄嗟《とっさ》に胸前に構えた短刀に、何かがぶ
ち当たり、その衝撃で弾き飛ばされてしまう。襲撃者は、着地と同時に鋭い斬撃《ざんげき》を繰り出して
きた。
残った武器で応戦するリロイ。その口から、警告の叫びがほとばしる。
「こいつは、カルテイルじゃない」
「!」
そちらに気を取られていたレナが、注意を椴帳の方に戻すのと、復活したカルテイルがそこ
から飛び出したのとは、ほぼ同時だった。
いや、カルテイルの方がわずかに速い。
その鋭い爪《つめ》が、閃《ひらめ》きとなってレナを引き裂く。身体を反射的に捻《ひね》ったおかげで、致命傷は免
れたが、肩口をやられ、白い頬に血が飛び散る。
「フェンリル!」
銀狼が、主人の呼びかけに答えて、咆哮《ほうこう》を上げて飛び出した。二つの巨影は、揉《も》み合いなが
ら床を転がり、血飛沫《ちしぶき》をまき散らす。お互いの牙と爪が、皮を裂き、肉を抉《えぐ》る。喉《のど》からほとば
しる咆哮が、空気を揺るがす。
上空より来《きた》る刺客《しかく》は、人間ではなかった。リロイが強敵と見なすや、覆面をした頭部がぐに
ゃりと歪む。全身が波打ち、身体のサイズが二回りほど大きくなる。
獣化だ!
一瞬にして刺客は、巨大な熊に姿を変えた。
リロイの頭を一握りで潰せそうな掌が、横殴りに叩きつけられる。パワーは申し分ないが、
スピードがない。右脚が完治したリロイにとっては、それほど恐ろしい攻撃ではない。
腰を低くして一撃をやりすごし、素早く熊男のふところに入る。胴体は、固い体毛と分厚い
脂肪に覆われている。
狙うは、首筋。頸動脈《けいどうみゃく》を断ち切れば、いかにライカンスロープといえどもただではすまない。
「そこまでだ!」
鋭い声と、そこに含まれた愉悦に、リロイはぴたりと動きを止める。短刀の刃は、首筋の皮
と肉に食い込み、あと少し押し込めば、勢い良く血が吹き出す。熊男の人ならざる瞳に、恐怖
と安堵《あんど》がよぎる。だが、動けはしない。
振り返ったリロイは、ぎりっと歯を食いしばった。
カルテイルは、肩口と脇腹《わきばら》から血をどくどくと流し続け、顔色も青ざめたレナの喉元に、爪
を押しつけていた。細い血の糸が、レナの白い喉を伝う。
フェンリルは、カルテイルの足下で、ぐるるるっと唸《うな》りを発しているものの、かなりの痛手
を負って動けないようだ。
にいっ、とカルテイルが口の両端をつり上げる。
「さあどうする。おまえを利用した女を見捨てるか、それとも……?」
「汚い奴め。見損なったぞ」
リロイは諦《あきら》めの表情で咬いた。
カルテイルは、喜悦に紅の瞳を輝かせる。
レナは口惜《くちお》しげに、下唇を噛《か》み締める。瀕死《ひんし》だが、それにもまして、屈辱の炎が瞳に燃える。
どこまでも気丈な女だ。
リロイはあっさりと短刀を引き、床に投げ捨てた。熊男の全身が弛緩《しかん》する。
レナが、信じられぬものを見た驚きに、顔をこわばらせる。
「どうして……」
白い顔の中で一層あざやかな赤い唇が、震えながら呟きを漏らす。
リロイは肩をすくめた。
「ここでおまえを見捨てたら、自分が許せなくなる。別におまえのためじゃない」
私は、リロイが武器を引くものと分かっていたが、レナには予想外の出来事だったらしい。
一時親密な仲であったというのに、リロイのことは理解していなかったようだ。
しかしこれは、絶体絶命の危機だ。どう切り抜けたものか。リロイの頭も、凄《すさ》まじい速さで
回転していることだろう。
「ゲナン、殺せ」
カルテイルは短く命令を飛ばす。
それに答えて、熊男は、先程のお返しとぼかりに、渾身《こんしん》の一撃を放ってきた。
「甘んじて受けろ。反撃は許さん」
身をひるがえして熊男の一撃を躱《かわ》そうとしたリロイに、カルテイルが釘をさす。
動きを止めたリロイの腹に、すくい上げるような激しい打撃が加えられた。リロイの足が床
を離れ、宙に浮く。
そこに、すかさず第二撃。
頬を強打され、リロイは横っ飛びに投げ出される。床で全身を打ち、ごろごろと、受け身も
取れないまま転がるにまかせる。
レナが、顔を歪める。
喉の奥から吐き気が込み上げ、ばしゃっと床にぶちまける。どすぐろい血だ。内臓をやられ
たようだ。血に混じって落ちる白いものは、砕かれた歯だ。
「わたしを殺しなさい」
耐えられないかのように、レナが低く呻《うめ》いた。カルテイルは、ふん、と鼻を鳴らす。
「自分が、捨て駒として利用した男だ。今《いま》さら何を思う」
レナは、その言葉に俯《うつむ》き、身を震わせて下唇を噛《か》み切った。
ふん、どうやら〈冷血〉にも感情はあったらしい。だが、それでリロイの危機がどうにかな
るわけではない。
カルテイルは、リロイの獣化を熱望している。獣と化したリロイと戦い、倒し、そしてそこ
に何らかの自己存在の証《あかし》を認めようとしている。
発想があまりに野蛮で、不器用だ。
第一、彼は獣化したリロイの恐ろしさを知らない。随分と長く生き、さまざな体験をしてき
た私でさえ、あれには身震いを禁じ得ない。
できれば避けたいところだが、状況はそれを許しそうにない。
しかし一抹《いちまつ》の不安は、リロイが獣化できるかどうかという、矛盾したものだ。死にいたる重
傷を負えば獣化する、という確固とした根拠はどこにもない。実際、致命傷を負って獣化しな
いことは何度もあったのだ。
獣化しなければ、リロイはこのままなぶり殺しだ。
「とどめを」
カルテイルは、内心の渇望を隠せぬまま、浮わついた声で言った。
リロイは腹をくくったようだ。彼にしても、獣化に対する恐怖は私と変わりあるまい。自分
が自分でなくなり、他の何かの強烈な衝動に突き動かされ、獣となってしまう恐怖。それを自
分自身で抑えることのできない、憤《いきどお》り。
そして何より、死の瞬間の、苦痛と闇《やみ》。
だが、振り下ろされる死の一撃を見つめるリロイの瞳には、それらを包含した決意の光があ
った。
彼の中に、私には分からない何らかの確信があるのか。彼自身も気づいていない、獣化への
確信が。
その一撃が、リロイの身体を砕いたと見えた瞬間、それは始まった。
――変貌《へんぼう》だ。
ぐぉおおおおおおおお!
地獄の底から響いてくるような、怨嗟《えんさ》の咆哮《ほうこう》。それは徐々に、解放への、自由への喜びに満
ちた雄叫《おたけ》びに変わっていく。
それが漏れ出してくるのは、間違いなく、私の相棒、リロイの喉《のど》からだ。
カルテイルは期待に満ちた眼差《まなざ》しを、レナは驚愕《きょうがく》と畏怖《いふ》の眼差しを、リロイの身体にそそい
でいる。
「おお……」
カルテイルが感嘆の吐息を漏らす。
リロイの再生が始まった。内側から新しい細胞組織と神経組織が生み出され、瞬《まばた》きする間に
傷口をふさいでいく。そしてそれは、回復に留《とど》まらず、異形《いぎょう》の存在を生み出そうと、凄《すさ》まじい
速さで肉体を再構成していく。
ごぉおおおおお!
それは地獄の産声《うぶごえ》か。リロイの身体は、どくどくと脈打つ異質の肉体へと変化を遂《と》げ、骨さ
えもばきばきと音を立てて変形していく。こめかみの辺りの皮膚がぶちりと裂け、ぬめぬめと
した、捻《ねじ》れ曲がった硬質の角が二本、生え出てくる。身体を流れる血液は、より再生作用を高
めるためか、異なる液体へと変わる。変身にともなう出血は、彼の全身を黒に染め上げた。
身体の内側から新たに生まれた肉と筋肉が、彼の身体を三倍近くも巨大化させる。表面には
皮膚がなく、筋肉が剥《む》き出しだ。だがその筋肉も、鋼《はがね》の剣を容易に弾き返す鋼鉄の装甲だ。
瞳を失った眼窩《がんか》は、この世のものならぬ銀光を炯々《けいけい》と漲《みなぎ》らせている。耳もとまで裂けた獣の
口は、カルテイルに勝る、長く鋭い牙を備え、そこから吐き出される吐息は、まさに毒そのも
のだ。
リロイは、カルテイルの望み通り、獣へと姿を変えた。だが、これを果たして〈獣化〉と呼
ぶべきだろうか。こんな姿の獣が、一体どこに存在するというのか。
GUOOOOOOON!
完全に変化した声帯が、びりびりと空気を揺るがせる不気味な遠吠《とおぼ》えを発した。
ばさぁっ、と黒い帳《とばり》が下りる。
翼だ。リロイであったものの背中から、黒い翼が羽開く。
「悪魔《デヴィル》……」
レナが、かすれた呟きを漏らす。
そう、この暗黒の生物は、そう呼ぶにふさわしい禍々《まがまが》しさを擁《よう》している。
短気で直情径行型、馬鹿が付くほどのお人好しだった相棒は、そこにはいない。
そこにいるのは、人から生まれた悪魔に他ならなかった。恐らく、遺伝子的に見ても、リロ
イとはまったく違う生き物に違いない。
「狂ってるわ。こんなものを目覚めさせて、何をするつもりなの?」
するりとカルテイルの腕から抜け出したレナは、そう呟いた。カルテイルは、もはやレナに
は一顧だにしなかった。憑《つ》かれたように、変わり果てたリロイに視線をそそぐ。
「シュヴァルツァーよ……これほどの獣を裡《うち》に秘めたおまえを、世界が受け入れるはずがなか
ろう。どうあっても、排除しようとするに違いない。だが俺は違う。俺はおまえを認めよう。
そして、全力をもって戦う! そして答えを!」
カルテイルは、興奮に声を高くする。レナの言う通り、狂っているとしかいいようがない。
リロイはまず、すぐ側で射《い》すくめられたように動かない熊男に目を向けた。熊男は、凄惨《せいさん》な
リロイの眼光に、びくん、と身体を震わせたが、足がすくんで逃げることもできないようだ。
リロイの腕が、かき消える。
一瞬の後、熊男の上半身が、ぱあんと弾けた。まるで風船を破ったように、堅固な熊男の身
体は爆発した。内容物がぼらばらに飛び散り、血煙が漂う。
フェンリルの側に駆け寄っていたレナは、その光景を惚《ほう》けたように眺めていた。
無理もない。これほどの破壊力を持った生物を見ることなど、そうあるまい。
カルテイルは、両腕を腰だめにし、腰を落とした。これを見てもまだ戦う意志が萎《な》えないと
は、この男の胆力も桁外《けたはず》れだ。
カルテイルは、しゅっと息を鋭く吐き出し、一筋の雷光となって、リロイに飛びかかった。
リロイが、ばっ、と翼を大きく広げ、両腕を斜めに差し上げた。
凄《すさ》まじい衝撃波が、部屋全体に飛ぶ!
真紅の椴帳《どんちょう》が細切れになり、壁も天井《てんじょう》も、一瞬の内に破壊される。突進してきたカルテイル
は、咄嗟《とっさ》に腕を交差させ身を縮めたが、巨人の腕で殴られたようなショックで弾き飛ばされた。
レナとフェンリルも、あらがい切れずに吹き飛ばされ、崩れかけた壁に激突する。
さらにリロイは、全身を、バネにして、激しい一撃を床に叩き込む。それが、この部屋全体の
均衡を打ち崩した。
激しい轟音《ごうおん》と砂煙が上がり、部屋全体が崩壊する。その部屋にいた者は、揃《そろ》って足場を失い
落下する。下の部屋は、あっという間に瓦礫《がれき》の下敷きだ。
この勢いでリロイが暴れ続ければ、この地下本部どころか、街全体すら破壊しかねない。
瓦礫の中一人仁王《におう》立ちのリロイは、首をゆっくりと巡らせた。破壊するものを探しているの
だ。部屋の端《はし》の方に、フェンリルを大事そうにかかえたレナが、気を失ってうずくまっている。
幸い、まだ死んではいない。
だがそれも、リロイが目をつければ一巻の終わりだ。今のリロイには、カルテイルもレナも、
均《ひと》しく破壊の対象でしかない。
ゆっくりと瓦礫の上を移動しようとしていたリロイに、白金の塊が襲いかかった。
カルテイルの強襲だ。
全身の勢いを乗せた拳《こぶし》が、リロイの顔面を捉《とら》える。人間の頭なら、その一撃で砕いてしまう
だろう強烈な攻撃だ。
人間ならば。
リロイはその攻撃にも何ら痛痒《つうよう》を感じず、カルテイルが引くよりも早く、その腕を掴《つか》んだ。
そしておもむろに、片手一本で、カルテイルの巨躯《きょく》を軽々と持ち上げた。
そして、容赦なく、足下に叩きつける。
瓦礫の砕け散る音とともに、肉が潰《つぶ》れ、骨が砕ける音が響く。肺が圧迫されて吐き出したの
は、大量のどす黒い血。内臓にかなりのダメージを受けた証《あかし》だ。
リロイは再びカルテイルの身体を持ち上げ、叩きつけた。何度も、何度も。
ライカンスロープ以上の驚異的な回復力を誇っていたカルテイルにしても、これは致命的だ
った。一撃一撃が必殺の破壊力を持っている上に、それが間断《かんだん》なく続けられ、肉体を回復する
暇さえ与えられないのだ。
やがて、凄《すさ》まじい勢いで振り回されるのに、カルテイルの身体が持ちこたえられなくなった。
あまりにも呆気《あっけ》なく、彼の右腕は、根本から引き千切《ちぎ》れた。
血の筋を残して、カルテイルは瓦礫の中に頭から突っ込む。
リロイは、手の中に残った腕を、壁に投げつけた。ぐしゃり、と獣の腕は無惨にも肉塊と化
す。
カルテイルといえども、これほどのダメージを受けてしまっては、そうそう立ち上がれない
だろう。
瓦礫が持ち上がり、その下から何者かが這《は》い出したのは、カルテイルが投げ出された場所と
は反対側だった。
「な……何が起こったというのだ。人の研究を邪魔するとは、まったくもってけしからん」
ぶつぶつと場違いな愚痴をこぼしながら立ち上がったのは、あの変態医師、ヘパスだった。
とすると、ここは彼の研究所か。
これは思いがけない幸運だ。
ここに私の本体があれば、リロイの暴走を食い止められる。
ヘパスは、頭の上に降りかかってきた埃《ほこり》を神経質そうに振り払い、そして初めて気づいたよ
うにリロイの姿を視界に収めた。
ひび割れた眼鏡の向こう側で、血走った細い目が限界一杯に開かれた。口はだらしなくあん
ぐりと開き、顔が驚きに引きつっている。
「おお……おお、お?」
言葉にならない呟きを漏らし、彼は突然リロイに駆け寄った。
おいおい、危ないって。
だが、興奮の絶頂にあるヘパスには、周りの惨状など目に入っていないらしい。
「これが、これがカルテイル様の仰《おっ》しゃっていた貴重なサンプルか! なるほど、これは興味
深い。この変化は、分泌器官の異常などではあり得ん。とすれば、やはり根本的な肉体構造が
……」
ヘパスは、リロイの身体にべたべたと触れながら、一人で捲《まく》し立てた。研究に没頭し続けた
せいで、現実感というものを喪失しているらしい。
ヘパスは、首根っ子を掴《つか》まれ、まるで人形のようにぶんぶんと振り回された。そこにいたっ
て、ようやく恐怖というものが沸き起こったのか、でたらめに手足を振り回し、喚《わめ》き立てる。
その悲鳴を断ち切るように、唸《うな》りを上げて飛来した槍《やり》が、リロイの背に突き刺さった。装甲
板のようなリロイの身体に突き刺さるとは、一体どんな怪力によって、あの槍は放たれたのだ
ろうか。
リロイは興味を失って、ヘパスの身体を放り投げた。変態医師は、ごつん、と瓦礫《がれき》に頭をぶ
つけて沈黙する。
背中に突き刺さった槍を無造作に引き抜き、リロイは背後を振り返った。
十数人はいるだろうか。黒装束に身を固めた男たちが、この部屋の入り口だった辺りにずら
りと立ち並んでいる。槍を投擲《とうてき》したのは、その先頭に立つ長身の女だろう。プロテクター付き
の戦闘服で身を固め、背中に大振りの段平《だんびら》を背負った、鍛え上げられた肉体の女戦士だ。荒々
しく野性的な美貌《びぼう》の中で、怒りを湛《たた》えた瞳が、ぎらぎらと異様に輝いている。
「化け物め」
その紅《べに》を引いていない唇が、憎々しげに歪められる。女戦士は、背中の段平に手をかけた。
あのリロイの姿を見てやる気になるとは、カルテイル並に剛毅《ごうき》な女だ。
後ろの男たちも、一斉に武器を握り締める。今度は短刀などではなく、幅広の長剣や長槍を
用意している。
女戦士とは違い、その表情には、一抹《いちまつ》の怯《おび》えと恐怖が浮かんでいた。
どちらにしても、彼らには荷の重い相手だ。
「下がれ、フリージア」
私と同意見だったのだろう。瓦礫を押し退《の》け、再び立ち上がったカルテイルが、そう命令を
飛ばす。千切れた腕はさすがに生えてこないようだが、その傷口は完全にふさがっている。あ
れだけの打撃を受けてまだ復活できるとは、やはりただのライカンスロープなどではない。
女戦士フリージアは、段平の切っ先をリロイに荒々しく向け、戦意に歯を剥《む》き出しにした。
美人が台無しだ。
「そうはいきません。あたしたちがこいつを引きつけておく間に、カルテイル様はお逃げ下さ
い。あなたが死んでしまっては、〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉は終わりです。どうか」
「おまえたちでは、相手にならん」
部下の心遣いに、カルテイルは無下《むげ》な言葉で返答した。しかし、事実だから仕方がない。こ
こで部下を退かせるのも、一種の思いやりというものか。
だが、女戦士は納得しなかった。
段平を上段に構え、腹に響く咆哮とともに突撃した。それに、男たちが続く。
足場の悪い瓦礫の山を、それを感じさせないスピードでリロイに迫る。
「馬鹿な」
カルテイルは顔をしかめる。
「やあああっ!」
フリージアは赤茶色の長髪を振り乱し、一刀両断の気迫で、段平をリロイの頭頂に振り下ろ
した。相当の怪力を誇る戦士だ。決まれば、いかにリロイの強固な肉体といえども、無事では
済むまい。
当たれば、だ。
フリージアの視界が、黒に包まれる。
翼だ。
女戦士の身体は、巨大な翼に叩き落とされ、リロイの足下の瓦礫に激しく激突する。疾風迅
雷の二つ名は健在だ。フリージアは、パワーはあってもスピードがない。人間相手なら十分す
ぎるほどのそれでも、リロイにはまったく通用しない。
戦闘の雌雄《しゆう》を決するのは、常にスピードだ。一撃で敵を葬る攻撃力を有していても、当たら
なければ意味はない。
その点、疾風の如《ごと》き俊敏さと怪力を誇り、無限大の回復力を備え持つ今のリロイは、最強の
戦闘生命体だ。
雪崩《なだれ》を打って、男たちが一陣の黒い風に変わる。上下左右、すべての方向からの一斉攻撃。
だが彼らは、今のリロイの恐ろしさを十分に理解していなかった。
黒い翼が、それ自体が別の生き物のように空を裂いた。鋭い動きが空気中に真空を生みだし、
見えない刃となって四方八方に散開する。
ズビュッと音を立て、見えない真空の刃が男たちの身体に食い込み、それを切り裂く。
雨のような流血。手を、脚を、あるいは首を失う暗殺者たち。瓦礫の上を血の雨が叩き、肉
片がばらまかれる。
その力の差は圧倒的だ。
即死した者は、まだ救われる。運悪く死にはぐれた者は、さらなる恐怖を味わう羽目になる
のだ。
リロイの第一撃で、暗殺者たちの三分の二が血の海に沈んだ。
私は探索の目を部屋に向けた。これは一刻も早く本体を見つけ、リロイを静める必要があり
そうだ。だが、研究室は瓦礫《がれき》の下敷きになり、探索は容易でない。この程度の落下物で本体が
破壊される心配はないが、発見は遅れること必至だ。
リロイは、脚を失って倒れた男を掴《つか》み上げた。男は持ち上げられながらも、手にした武器を
所構わず突き立てる。だが、不安定な姿勢からの攻撃は、あっさりと弾かれて、傷一つつけら
れない。
その頭を握るリロイの腕に、ぐっと力が込められる。
ぐしゃり、と果物が砕けるような耳障《みみざわ》りな音が、男の動きを止めた。リロイの指の間から、
どろり、と血と脳漿《のうしょう》が溢《あふ》れ出す。
動かなくなったその身体を無造作に放り投げ、肩口から胸元にかけて致命傷を負って倒れて
いる男の頭を踏み潰す。片腕になった男が絶叫して飛びかかったが、リロイの腕の一振りで壁
に叩きつけられ、絶息した。
これは、もはや虐殺だ。
瓦礫で全身を強打したフリージアは、その光景を朧《おぼろ》に霞《かす》む眼差《まなざ》しで見上げていた。頭上から
降りそそぐ仲間の血潮で、全身が赤く染まる。
リロイに掴まった一人が、まるで人形のように首を引き抜かれた。叫ぶことの適《かな》わなかった
断末魔の代わりとばかりに、激しい勢いで血が噴出する。
降りかかる、生暖かい血飛沫《ちしぶき》。
目の前に、ごとり、と落ちる仲間の頭。
その瞳は、恐怖と絶望に見開かれている。
フリージアの顔に朱がさっと差し、瞳に力が宿る。
まるで上から引っ張られたように立ち上がったフリージアは、段平《だんびら》を渾身《こんしん》の力でリロイに打
ちつけた。
斬《き》られたというよりは、砕かれたように、リロイの左腕が肘《ひじ》より断たれる。黒い血が、赤に
染まった瓦礫の上を汚す。
段平の方も、限界を越えた圧力に、根もとからへし折れた。
フリージアは一矢報《いっしむく》いた高揚感に、にっと笑みを浮かべる。
「下がれ、フリージア!」
二度《にたび》、同じ言葉を叫ぶカルテイル。叫ぶと同時に、敏捷《びんしょう》な動きで彼女に駆け寄る。
断ち切られた肘の所から、肉と神経の束がぞろぞろと生えだし、失った肉体の再生を開始す
る。
まるで、サンショウウオのようだ。
カルテイルでさえ、失った器宮は再生できない。が、リロイには容易なことだ。
カルテイルがフリージアを抱きかかえて飛び退《の》いたのと、リロイが復活した腕を振り下ろし
たのとは、まさに紙一重の差だった。
再び砕かれた瓦礫の破片が飛び散り、砂煙が舞い上がる。
「カルテイル様……」
「ここを脱出しろ、フリージア。これはおまえには関係のないことだ」
カルテイルは冷たく突き放した。フリージアは、口惜しげに下唇を噛《か》む。
「しかし……」
「くどい。おまえでは役に立たん」
さらに何かを言い募《つの》ろうとしたフリージアを、カルテイルは無情な言葉でさえぎった。女戦
士は、傷ついた表情で俯《うつむ》く。
ま、他人の男女関係に口を挟《はさ》むのはよそう。
カルテイルは、リロイに挑むように立ち上がった。引き抜かれた右腕を除けば、ほぼ完全に
復活している。だが、身体のバランスは狂ってしまっただろう。
それでも、挑むというのか。
黒装束の男たちは、ことごとく倒れ伏している。しかも、四肢バラパラの無残な姿で。
それをゆっくりと見回したカルテイルは、鼻面《はなづら》に皺《しわ》を寄せ、歯を食いしばった。怒りの慟哭《どうこく》
を無理やり抑え込んだような、引きつった唸《うな》り声《ごえ》がごろごろと喉《のど》から漏れ出す。
「これはおまえの、世界への怒りなのか、シュヴァルツァー」
カルテイルは、水面《みなも》を流れるが如《ごと》き優美な足取りで進んだ。
「そうだとしたら、むしろ世界は、おまえに感謝すべきかも知れん。おまえがその気になって
いれば、国をいくつも滅ぼすことができただろう。それを止めることなど、人間どもにできる
はずもない」
白金の毛並に覆われたカルテイルの肉体が、筋肉の膨張で一回り大きく見える。自分の言葉
通りの強敵に立ち向かうカルテイルだが、悲壮感はない。
「もう俺の言葉は届かぬかも知れぬが、言っておこう、シュヴァルツァー。やはり俺たちは、
どうあがこうとも異端者なのだ。世界は、受け入れてなどくれぬ。戦うために生まれたとしか
思えんこの身体――ならばその役目、十全に果たそう!」
カルテイルは、恐れるふうもなく、リロイの間合いへと踏み込んで行った。
それをなす術《すべ》もなく見送るフリージア。だがその瞳に、一つの決意が生まれている。
裂帛《れっぱく》の気合いを道連れに、カルテイルの身体は白金の旋風となった。
リロイが吠える!
そのとき、私の探索の視界に、よろよろと起き上がったヘパスの姿が。
その腕が持っているのは……間違いない。
私の本体だ!
それをどうするつもりか、ヘパスは非力な腕で構え、よろよろと歩き出す。
リロイの獣化のときに、部屋の隅に転がり出ていた私は、ヘパスに向かって飛んだ。
カルテイルとリロイが、二つの、白と黒の突風となってぶつかり合う。バシュ、パシュ、と
肉を引き裂く音と、飛び散る赤と黒の血。
ヘパスはその余波を食らって、情けなく尻餅《しりもち》をつく。
その視界に私が飛び込んだのだろう。ヘパスは何かをわめき立てながら、剣を振り回す。
完全に精神錯乱状態だ。
これでは、近づけん!
私が焦燥に駆られ、一か八か飛び込む決心をしたその瞬間、ヘパスの身体は、糸を切られた
操り人形のようにがっくりと倒れた。
レナだ。
ヘパスの首筋に手刀を叩き込んだ彼女は、再びよろめいて膝をつく。酷《ひど》い出血量だ。気力だ
けで、意識をつなぎ止めているのだろう。
その美しいエメラルド・グリーンの瞳が、私を捉《とら》える。
「リロイを、止め……られるの?」
途切れ途切れの、しかしはっきりとした口調。彼女は私の存在を見抜いている。魂の器の中
の、私の意識を知覚したのだ。
私は、無言で剣のもとへ漂い、柄の部分の空洞にすっぽりと収まった。
やはり、ここが一番落ち着く。
だが、のんびりとはしていられない。幸い、変に弄《いじ》られてはいないようだ。機能に狂いはな
い。
もっとも、ヘパス如《ごと》きにどうこうできる代物《しろもの》ではない。
私は、それに必要なコードを取り出し、中枢部にアクセスした。コードを受納した中枢部は、
即座にそのプロクラムを実行に移す。
一瞬の浮遊感と、殻に閉じ込められる束縛感が私を襲う。探索の目が閉じ、代わって狭隘《きょうあい》な
五感が備わる。世界の在りようが若干《じゃっかん》変化し、肉体というものの重さがずしりと加わる。
「何……?」
レナが、起こったことが理解できず、困惑に眉《まゆ》をひそめる。
彼女の翡翠《ひすい》色の瞳に映るのは、薄い銀髪を腰まで長く伸ばし、純白のローブを幾重にも重ね
て着込んだ、見目麗《みめうるわ》しき青年の姿だろう。
私は、呆然《ぼうぜん》とこちらを見上げるレナに、微笑《ほほえ》みかけた……が、少し、引きつってしまった。
自然な、柔らかい表情を作るのは、難しい。
私は軽く咳払《せきばら》いした後、口を開いた。
「これは立体映像《ホログラム》だ。と言っても、空気中の分子を利用して作られた超高密度の幻像だから、
触れることもできる」
「?」
レナはわけが分からず、怪訝《けげん》な表情をする。
原子、分子の理論など、この時代の人間に理解できるはずもないし、ここで彼女を納得させ
ている時間もない。
私は彼女の側にひざまずき、その傷に手を伸ばした。
「大丈夫」
咄嗟《とっさ》に身を引く彼女を安心させるよう、私は慎重に、笑みを形作った。
私が掌を傷口に当てると、レナは痛みに顔をしかめたが、すぐに穏やかになる。ゆっくりと
だが、血の気も戻ってくる。
「何をしたの?」
レナは不思議そうに私を見つめたが、警戒心は解いていた。私の存在を捉えた女だ。やはり、
見えないものを感じ取れる力が備わっているようだ。私に邪気がないことを悟ったのだろう。
「特別には何も。身体が本来持っている治癒能力を、促進しただけだ。厳密にいえば、局部的
に時間の流れを短縮したのだ。傷はいずれ治る。そのときを早めただけだと理解してくれたら
いい」
「……よくは分からないけど」
レナは、傷の回復にともなって、鋭い視線を部屋の中央に戻す。カルテイルとリロイの激闘
は、まだ続いている。
「どうにかできるの?」
「そのために、このプログラムを発動させた」
私の言葉に、レナは困惑を現さず、うなずいた。理解できないことは排除して、そこから導
かれる現状への影響だけを考える。やはり、リロイを簡単に丸め込んで利用しただけあって、
頭が切れる。
「フェンリルは後で治そう。思ったより傷は浅い。まだ大丈夫だ」
「お願い」
私たちは立ち上がり、レナはフェンリルのもとへ、私は戦いを続ける二人の方へ向かった。
戦局は、やはリリロイが有利だ。牙と牙が、鋭い爪と爪が交差する中、それを彩《いろど》るのは黒で
はなく赤が多い。
リロイの一撃一撃を受け止め、受け流すたびに、カルテイルの肉は弾け、骨は軋《きし》む。
二人の動きに周りの空気が渦を巻き、吹き出した血が落下せず、霧状になって膜を張る。
一瞬の隙《すき》をかいくぐって、カルテイルがリロイの首筋に食らいついた。一気に牙を突き立て、
残った左腕でリロイの顔面を爪で抉《えぐ》る。
どす黒い血の奔流がカルテイルを闇《やみ》に落とし、感情を読み取れない咆哮《ほうこう》がほとぼしる。
がしゅっ、とカルテイルの歯が噛《か》み合う。リロイの首は半分を噛み切られ、爪に両の瞳を抉
られる。
だが、カルテイルもただではすまなかった。
追撃を与えようとした刹那《せつな》、死角から黒い翼の一撃を、真面《まとも》に受ける。胸を横一文字に切り
裂かれ、その傷は心臓にまで達した。全身を流れる血が一気に飛び出したかのような大量の出
血と、とどめとばかりの剛腕の打撃。
頭蓋骨《ずがいこつ》が陥没《かんぼつ》したかと思わせる鈍い打撃音を残し、カルテイルは瓦礫《がれき》の上に仰向けに倒れた。
フリージアの悲鳴。続く、変貌《へんぼう》。
彼女の鍛え上げられた肉体は、音を立てて別の存在へと変化していく。彼女も、ライカンス
ロープだったのか。
それを目の端に留めながら、私は精神を集中していった。そして、その場に存在するすべて
のものに語りかけた。
存在するすべての物質には、有機、無機を問わずに意思が宿っている。そして物質の存在を
構成する最も根源的な要素が、素粒子である。この素粒子の中に、その意思は潜んでいるのだ。
〈存在意思《ノルン》〉と名付けられたそれは、存在を構成し、維持しようとする膨大なエネルギーを有
し、局部的、短期間ならば時間の逆行と促進すら成しえてしまう。そこから、古代神話の時を
司《つかさど》る運命の三女神の名を与えられたのだ。
〈存在意思《のるん》〉の中でも、生物を構成するものが最も力強い。私はレナやフェンリル、倒れてい
る男たちの中にまだ存在するそれを召喚《しょうかん》した。〈存在意思《ノルン》〉がなければ、当然物質は存在を維
持できなくなるわけだから、大量に奪うことはその物質を消滅させてしまう。少量ならば、人
間の場合、眩暈《めまい》や体調不良程度の副作用しかない。私の中にはそれを防ぐための|安 全 装 置《S・ディヴァイス》が
組み込まれていて、一つの物質から一定量以上の〈存在意思《ノルン》〉を召喚することはできなくなっ
ている。
私のもとに、次第に〈存在意思《ノルン》〉のエネルギーが集まってきていた。
リロイがそのエネルギーの流れに気づき、私の方に徐々に復元される瞳を向ける。
それに、横合いから猛烈な勢いで獣がぶつかった。それは、一頭の巨大な豹《ひょう》へと獣化したフ
リージアだった。まだ傷のふさぎ切っていないリロイの喉笛《のどぶえ》へ、一気に食らいつく。
私の裡《なか》で〈存在意思《ノルン》〉のエネルギーが練られ、収束していく。このままだと純粋なエネルギ
ーにすぎないが、これに明確な意志《``》を与えれば、対象物の構成要素にまで到達する破壊攻撃も、
その逆に修復も可能だ。また、このエネルギーを剣の表面にコーティングすれば通常攻撃の数
百倍に匹敵する攻撃力が得られるが、制御はかなり困難で、長時間の使用は難しい。
今回は、それが目的ではない。
私は過去に一度だけ、このやり方で獣化して暴れ出したリロイを止めたことがある。危険だ
が、再びそれをやるしかない。
私は〈存在意思《ノルン》〉に、明確な意志《``》を与えた。
そして、巨大な豹に足留めされているリロイに向け、収束した〈存在意思《ノルン》〉のエネルギーを
一本の剣のようにして撃ち出し、刺し貫いた。光のきらめきである大量のエネルギーに襲われ
たリロイの身体が、びくん、と跳ねる。
リロイの身体を構成する〈存在意思《ノルン》〉に、エネルギーの奔流となった〈存在意思《ノルン》〉が干渉す
る。リロイの異常な獣化は、遺伝子に原因があるはずだ。そこに〈存在意思《ノルン》〉のエネルギーを
ぶつけ、先程レナにやったのとは逆に、時間の局部的後退を、強引に促《うなが》す。なぜだか分からな
いが、リロイの身体を構成している〈存在意思《ノルン》〉は私には従わない。従うのであれば、これほ
ど危険な方法を取る必要もないのだ。
とにかく、強制的に時間を後退させ、リロイが獣化する前の状態へと戻す。
それが精一杯だ。
〈存在意思《ノルン》〉が物質を構成するのなら、遺伝子こそは人間個人、人類種にとっての〈存在意《ノル》
思《ン》〉である。確かに遺伝子を変換し組み替えることが可能なら、リロイを二度と獣化などしな
い身体にすることも不可能ではない。だが、残念ながら、私にはその能力はない。下手《へた》に手を
出せば、リロイの身体が素粒子レベルで崩壊することもありうる。
そんな危険は、到底冒せない。
「離れろ、フリージア!」
私は、声を限りに叫んだ。
雌豹《めひょう》は、興奮し冷静ではなかったが、私の声に含まれた緊張と、リロイに生じた異変に何か
を読み取った。牙を引き抜くと、素早く飛び退《の》く。
「すべての〈存在意思《ノルン》〉よ、私に従え!」
さらに強制的にエネルギーを収集し、リpイの周りにバリアを張り巡らせる。〈存在意思《ノルン》〉
による強制的な時間の後退や促進《そくしん》は、莫大な破壊的エネルギーを副産物に生み出してしまう。
リロイの身体は、私の干渉によりもとへと戻りつつある。
その瞬間、無音の光の爆発。
そこに外部から、〈存在意思《ノルン》〉を、今度は純粋なエネルギーの爆発として浴びせ、相殺《そうさい》する。
そうしなければ、この地下本部どころか、この街、この国自体が地上から消え去るほどの破壊
の嵐《あらし》が巻き起こっただろう。それほど、物質が裡《うち》に秘める〈存在意思《のるん》〉のエネルギーは膨大な
のだ。
すべてが白光に包まれるが、物理的な衝撃はまったくない。
時間の逆行と、エネルギーの相殺は、上手《うま》くいったようだ。光が消えた後、何も変わらぬ部
屋の中央には、リロイが人の形を取り戻して倒れている。
さすがに、私は大きく安堵《あんど》の吐息をついた。国を滅ぼす結果にならなかったのもそうだが、
相棒を失わなくてすんだことに、やはり一番喜びを感じた。私はまだ、リロイを失いたくはな
かった。いずれそのときが来るとしても、それにはまだ早すぎる。
レナはフェンリルを抱《だ》きかかえ、突然の光の爆発と静寂に、戸惑いの目を私に向ける。
私は、安心させるように、ゆっくりとうなずいた。
「終わった」
レナは、目をぱちぱちと瞬《まばた》かせ、そしてゆっくりと、笑みを浮かべた。
羨望《せんぼう》さえ覚える、極上の微笑みだ。リロイがこれを見られないとは、可哀想《かわいそう》に。
ふと、視線を巡らせる。
私は、大きく溜《た》め息《いき》をついた。
カルテイルとフリージアの姿が、いつの間にかかき消えていたのだ。
「まだ終わりじゃない……のか」
私は、うんざりとして、呟いた。
その私の視界の隅に、ちらりと映る白いもの。
それは、純白の羽根だった。
羽根は血溜《ちだ》まりへと落ち、瞬く間に赤く染まっていく。天使の象徴たる白き羽根が血に染ま
るとは、何と不吉な兆しか。
だが、飛ぶ鳥とてないこの地下で、一体誰《だれ》が残していったのか。
まるで本当に、天使の背にある翼の一片のような、白い羽根だった。
第3章
リロイは一週間、昏々《こんこん》と眠り続けた。
相棒が眠っている間に、一連の騒ぎは、中央図書館の地下書庫の老朽化《ろうきゅうか》による落盤が原因と
発表されていた。幸いにも全壊というわけではなかったので、街の人間はそれをすんなりと受
け入れていた。しかしそれ以降、街で見かける警備兵が多くなったことを不審がる者も多かっ
たが、一週間も経つと、慣れもあるのか、一時街を覆っていた騒然とした雰囲気はゆるやいで
いた。
図書館の地下にあった暗殺者《アサシン》ギルドの本部も見つかっただろうが、捜査の手はそれほど厳し
くなかった。大方、街の権力者とカルテイルに少なからず結びつきがあったのだろうが、驚く
に値することでもない。
カルテイルとフリージアの行方《ゆくえ》は杳《よう》として知れなかったが、それを探し出そうとする動きは、
街側にはない。恐らく、暗殺者ギルド同士の抗争か何かと考え、放置しているのだろう。〈真《クリム》
|紅 の 絶 望《ゾン・ディスペアー》〉が壊滅しても、街側に深刻な影響があるわけでもないからだ。
七日目、そろそろ夕闇《ゆうやみ》が街を覆い始める頃、リロイは目を覚ました。のろのろと身を起こし
たが、かすかに顔をしかめる。あれだけの戦闘を行ったのだから、身体《からだ》にダメージが残ってい
てもおかしくはないが、思ったほどではないらしい。
「……最悪の事態は、避けられたようだな」
リロイは部屋を見渡し、ベッドの足下に立てかけられた私を見つけると、ホッとしたように
そう言った。
「見事な暴れっぷりだったがな」
私は軽い調子で言い、相棒が変身してからの顛末《てんまつ》を語って聞かせた。身体の各所の調子を調
べながら、ほとんど口を挟まず、リロイは聞き入っていた。
以前もそうだったが、変身した後のことは、まったくといっていいほど覚えていない。完全
に別の存在へと変化してしまうため、記憶も受け継がないらしい。もとに戻った後|昏睡《こんすい》状態が
続くのも前と同じだが、そのときはほぼ二週間もの問、眠り続けていた。
私がすべてを語り終えると、リロイは思いのほかしっかりとした様子で立ち上がり、窓辺に
歩み寄った。夕餉《ゆうげ》の支度《したく》も始まり、薄い煙が立ち上る紅の街を眺めやり、リロイはぼそりと呟《つぶや》
いた。
「レナはどうした?」
やはり気になるか、相棒よ。
「妹の手がかりを探すため、街に出歩いていたがな。ここ数日は見ていない」
「そうか」
リロイの返事は上の空だった。出窓にもたれかかり、窓ガラスに額をつけて吐息をつく。
らしからぬことだ。
リロイの漆黒の瞳《ひとみ》は、まるで羨《うらや》むように平凡な街の営みを見つめている。
「俺《おれ》は……」
その視線を、自分の掌に落とし、ためらいがちに言う。
「初めて、自分が恐《こわ》いと思ったよ」
相棒の声は、信じられないことだが、間違いなく恐怖に戦《おのの》いていた。たとえ数百の敵に囲ま
れても、恐れなど感じないだろうと思っていたリロイが、今、恐怖に打ち震えている。
「今の俺なら、自分の人並外れた力も、激情だって、どうにか制御できる。だけど、ああなっ
てしまった俺は、自分でもどうにもできないんだ。心の奥底から這《は》い上がってくる破壊と殺戮《さつりく》
への欲望を、俺には止めることができない……。
あの欲望には、俺ではない別の意志を感じる。俺の中に、すべてをぶち壊したいという意志
が、潜んでるんだ……いいや、違う!」
リロイは激しく頭《かぶり》を振った。
「あれは、俺自身かも知れない。口ではどう言っていようが、本当はこの身体を、世界を、俺
は恨んでいるんだ。自分を蔑《さげす》んだすべての人間に、復讐《ふくしゅう》したいんだ……」
「リロイ……」
呆然《ぼうぜん》とした面持《おもも》ちで、相棒は独《ひと》り言《ごと》のように続ける。
「前にああなったときは何も感じなかったけど、今回は違った。身体が変わっていく瞬間、あ
の意志を感じたんだ。抑えつけていた俺の精神の呪縛から解き放たれ、あいつは歓喜の声を上
げてたよ。思う存分暴れられる喜びに、あいつは悦楽を覚えてた……」
リロイは私の方を見もせずに、どこか無感動に言った。
「あいつは、もう一人の俺なんだ。偽善者《ぎぜんしゃ》ぶる俺が隠した、本当の俺自身なんだ。あいつが心
の奥で生きてる限り、おれはこの世界に受け入れてもらえない。どこまでも、異端者なんだ…
…」
「だったら、やめるか?」
私の一言に、リロイはゆっくりと振り返った。その顔には、苦悩と恐怖、そして何かの希望
にすがろうという弱さがあった。
「やめれば楽になるぞ。おまえがカルテイルに言ったように、世界に背を向けてしまえば楽に
なれる。逃げるのが悪いとは、私は思わないからな。どこまでも逃げ続ければいい。すべてを
否定して、殻に閉じこもってさえいれば、もうそんなに苦しむこともない」
「…………」
「私には、おまえの苦しみは分からない。共感もできない。だから、逃げるな、とは言えない
んだ。どうしてもおまえがそうしたいというのなら、死んだように生きればいい。それも、一
つの選択だ」
リロイは無言で聞いていたが、戦《おのの》き、疲れ果てたような表情の中に、やがてゆっくりと、感
情の色が生まれ始めていた。それは純粋な怒りとなって、無感動だった顔を覆っていく。
「しょせん、おまえは口だけの男だったということだ。人の弱さを糾弾《きゅうだん》して、それで自分の弱
さから目を背けていた卑怯《ひきょう》者だ。私は、おまえという男を相棒に選んだことを、恥ずかしく思
うよ」
「…………!」
リロイは無言のまま、突然、握り締めていた拳《こぶし》を思い切り壁に叩《たた》きつけた。弱い壁はあっさ
りと砕け、拳がめり込む。食いしばった歯の間から、腹腔《ふくこう》で燃え上がる怒りに熱い吐息を漏ら
しながら、リロイは何度も拳を壁に打ちつけた。木片が突き刺さって拳から血が流れても、ま
ったく頓着《とんちゃく》せずに殴り続ける。
いつもなら修理代がどうのと口を挟むが、今回は相棒の激昂《げっこう》を黙って見守った。
ついには、額さえも壁に叩きつけ、傷口を広げるように押しつける。
「畜生……! くそ!」
低い声で罵《ののし》り、全身を怒気で震わせる。
その怒りの対象が私でないことは明白だ。そうでなければ、私は本当にこの男の相棒である
ことを恥じるだろう。
私は、その孤独にも見える背中に、そっと声をかけた。
「落ち込んだり、怒ったり、忙しい奴だ。おまえは本当に直情型人間だな」
リロイは、額から流れる血もそのままに、ようやく落ち着いた態度でこちらを振り向いた。
その顔から、苦悩と恐怖は激しい怒りに払拭《ふっしょく》され、代わりに自嘲《じちょう》と自憤《じふん》がちりばめられていた。
「感受性が強いと言ってくれ」
それでも、減らず口を叩く。
「だけど腹立たしい。自分がこんなに臆病《おくびょう》で弱い奴だったなんて、知らなかったよ」
「おまえは、おまえだよ。弱さも含めてな」
私は声を強くして言った。
「弱さは誰《だれ》もが持っているものだ。おまえにそれがあるからといって、私は責めたりはしない
よ。だが、その弱さに飲まれてしまったら、おまえのこれまでの葛藤《かっとう》はどうなるんだ? それ
が分かった上で、おまえはこの生き方を選んだんじゃなかったのか? いまさら怖《お》じ気《け》づいて
踏みとどまるなら、何のために戦ってきたっていうんだ。おまえは、自分の心に負けるような
男だったのか? 私は、そんな情けない男を相棒に選んだつもりはないそ」
「……おまえは」
リロイは、かすかに苦笑いを浮かべた。
「落ち込んでる相棒に、優しい言葉の一つもかけられないのか?」
「私は十分慰めたつもりだ」
リロイは、どこがだよ、と小さく呟《つぶや》き、どこか照れ臭そうに流れる血を拭《ぬぐ》った。
「けど……確かにそうだな。自分で決めた生き方だ、責任を持たなくちゃな。俺……格好悪か
ったな」
「格好良かったことがあるのか、おまえは」
「…………」
私の冷たいつっこみに、リロイは撫然《ぶぜん》として口をへの字に曲げた。
「なあ、リロイ。知るべきことなら、いずれ分かるときが来る。今は、やるべきことをなすだ
けだ。そうだろ?」
私の言葉に、リロイは自分の中の迷いを打ち消すように、力強くうなずいた。
「そうだ。ありがとよ、相棒」
「分かればよろしい」
実のところ、わたしもリロイの不安と恐れは痛いほど分かる。だがそれにかかずらわってい
たら、一歩も前に進めないのも事実だ。なすべきことをなしていけば、いずれその先に答えが
ある。それが、望んでいないような答えであってもだ。
「で、どうする?」
「まずは、腹《はら》ごしらえだ。まだ仕事は終わってないからな」
リロイは黒のレザージャケットを羽織《はお》ると、私を引っ掴《つか》んで扉を開けた。
「……何だ?」
リロイの、驚きと胡乱《うろん》げな声。
「探したぜ」
扉の向こうで、小柄な男が、にっと笑った。
地下本部で会った、牢番《ろうばん》の男だった。
そこは、アルパスで最も治安が悪く、俗に〈切り裂き通り〉と呼ばれていた。街の東北に位
置するその一角は、警備隊も滅多に近づかない無法地帯だ。強盗、殺人、強姦《ごうかん》が多発し、真面《まとも》
な人間はまず足を踏み入れない。
夕陽が街を赤く照らし、そこここに闇《やみ》が落ち始める時刻。〈切り裂き通り〉でも、一番危険
な時間帯に差しかかろうとしていた。
「本当にこんな所なのか?」
リロイは、どこか暗い雰囲気を漂わせる街並を、認しげに見回した。
「ヘへ、信用してくれよ、ここは俺の庭みたいなもんなんだぜ」
背の低い、鼠に似た風貌《ふうぼう》の男は、卑屈なもの言いでリロイを見上げた。いつも背中を丸めて
歩いているので、男の視点はリロイの胸の下ぐらいだ。
男の名はローク。暗殺者《アサシン》ギルドの牢番だ。
「お探しの少女の居場所が分かったぜ」
突然の男の来訪に戸惑うリロイに、ロークはそう言い放った。本部壊滅後、何とか生き延び
た彼は、カルテイルが行方《ゆくえ》不明と知り、古巣であるこの〈切り裂き通り〉に戻ってきて、その
情報を掴んだと言う。
何とも疑わしく、胡散臭《うさんくさ》い話だ。
リロイもさすがに警戒し、すぐに飛びつくような真似《まね》はしなかったものの、手がかりの残さ
れていない今の状況では、その話に乗らざるを得なかった。
最初の言葉通り、空っぽになった胃袋に食い物を詰め込むと、レナの泊まっている〈白馬の
たてがみ亭〉に伝言を残し、この〈切り裂き通り〉へと向かった。
「こっちだ」
ロークは言葉通り、すいすいと入り組んだ路地を進む。この】角を知りつくしているという
のは嘘《うそ》ではないらしい。
道端には、死んでいるのか生きているのか、ポロをまとった人々がうずくまっている。時折、
どこからか悲鳴や怒号が耳に飛び込んでくる。
「何て酷《ひど》い場所だ。領主は、ここをどうにかしようとは思わないのか」
リロイがやや憤《いきどお》った口調で呟く。
「黙認してるんだよ。職にあぶれた者や、働けない人間、犯罪者たちの面倒を見るより、一所《ひとところ》
に集めた方が監視しやすいし、楽だからな」
ロークが振り返らずに言う。口調は淡々としている。ここがいわゆる掃《は》き溜《だ》めだということ
に、何ら感情を抱いてない。
それが、この場所で生きるための姿勢であるようだ。嘆いたり憤ったところで、今日の食事
にありつけるわけではない。
「気に入らないな」
リロイは顔をしかめた。かつて自分が受けた仕打ち、世界から拒絶を受けた過去を、この場
所と重ねているのだ。そしてそれを甘んじて受け入れているロークたちに、不甲斐《ふがい》なさをも感
じているに違いない。
抜け出そうとも、反発しようともしない無気力感に、相棒は静かな怒りを感じている。
それは先程見せた、リロイ自身の中にもある弱い部分への怒りでもあった。
強くあろうとするのは、難しい。
「おい、そこの」
背後から、最悪のタイミングで、物騒な声がかけられる。
ロークは、半身を向けて、ちっと舌打ちする。前方にも、どこからともなく人影が現れる。
狭い路地で前後をふさがれてしまった。
ただならぬ雰囲気に、周囲のボロを着た人々がのっそりと動き出す。
「邪魔だ」
声をかけてきた男が、傍らを通りすぎようとした一人を、手にした段平《だんびら》で斬りつけた。ポロ
をまとったその人物は、声もなく、血をほとばしらせて崩れ落ちる。
リロイは目を細め、こめかみをぴくりと引きつらせた。
男は、にたり、と笑う。
「こうなりたくなかったら――」
それだけしか言えなかった。
一陣の風の如《ごと》く動いたリロイに、男の首はにたにたと笑みを浮かべたまま宙を舞った。
首のなくなった男の身体は、ふらふらと揺れ、路地の両側の壁に鮮血を浴びせた後、ばたり
と倒れる。その上に、ぽとり、と首が落ちてくる。
ロークを含め全員が、ぽかんとした表情でそれを眺めていた。彼らの常識を上回る早業に、
何が起こったか理解できないでいるのだ。
相棒の身体は、完全に回復しているようだ。リロイは、前後の男たちを睨《ね》めつけた。
「こうなりたくなかったら――」
そこで、わざと一拍置き、にたり、と笑って見せる。
「この街から出て行け。次に見つけたときは、その首もらい受ける」
男たちはそれを聞くと、捨てゼリフも吐かずに、蜘蛛《くも》の子《こ》を散らすように逃げ出した。
「仕置人にでも鞍替《くらが》えするか?」
私はリロイにだけ聞こえるように呟いた。
リロイは私を無視して、剣についた血糊《ちのり》を払う。
「カルテイル様たちに勝ったのは、まぐれじゃなかったんだな……」
ロークは溜《た》め息《いき》をつくように言った。瞳には、感嘆と畏敬《いけい》が輝いている。
「さあ、案内してくれ」
リロイは何事もなかったかのように言った。
一瞬の激昂《げっこう》も、その対象も、一度の斬撃《ざんげき》で拭《ぬぐ》い去ってしまった。
その姿が、ロークにさらに憧憬《どうけい》を強くさせる。
「あんただったら……」
「何?」
ロークがぼそりとこぼした呟きに、リロイは眉《まゆ》を上げる。ロークは、何でもない、と両手を
顔の前で振った。
「…………」
リロイはそれ以上何も言わなかったが、思っていることは私と同じだろう。
すなわち、怪しい。
その思いは、ロークに運れられて入った一軒のバラック小屋の中が人っ子一人いない空き家
だったとき、確信に変わった。
「騙《だま》したな? いい度胸だ」
リロイは底冷えのするような声で言った。手は剣の柄《つか》にかかっている。
「待ってくれよ!」
ロークは慌てて部屋の隅に走って行き、床に両手をつけた。そして、ぐいっと持ち上げると、
ぽっかりと地下への隠し通路が現れる。
「この下だ。騙すなんて、人聞きの悪い」
ロークは拗《す》ねた表情になる。
リロイは、ふん、と鼻を鳴らし、
「暗殺者《アサシン》ギルドの牢番《ろうばん》が、何言ってる」
リロイはそれでも油断なく周囲に気を配りながら、ロークの後について地下への階段を降り
て行った。
地下通路は、下の岩盤をくり貫《ぬ》いただけの洞窟《どうくつ》だった。一定間隔で壁に取りつけられたラン
プが光を放っているので、視界は悪くないが、じめじめとして居心地はよくない。
「こんな所に女の子を閉じ込めておくなんて、暗殺者ギルドってのはまったく酷《ひど》いことをしや
がる」
「この奥の部屋は、随分ましなんだぜ」
ロークは、リロイの機嫌を損ねないよう慌てて言った。
「閉じ込めるのに、ましも何もあるか」
むっとした様子で、リロイはロークを睨《にら》みつけた。
ロークは情けない顔で、
「閉じ込めたのは俺じゃないんだぜ」
「…………」
ロークの言うことはもっともだったので、リロイは押し黙ったまま足を速めた。
いくつにも枝分かれした洞窟は、ロークの案内がなければ、目的地に辿《たど》り着くのに一体どれ
だけかかったか分からないほど、入り組んでいた。レナの妹を閉じ込めるだけの場所でなく、
有事のときの隠れ場所として造られたに違いない。
地下本部以上の迷宮《ラビリンス》だ。
「ここだ」
方向感覚が狂うほどぐるぐると歩かされた末に、ようやく辿り着いたのは、何の変哲もない
岩の壁がある行き止まりだった。
そして、背後には、降って湧《わ》いたような人の気配。
リロイは、右手で剣を背後に突き出し、左手で銃を抜きロークの鼻面に突きつけた。
「ひっ」
ロークは目を大きく見開き、喉《のど》の奥で悲鳴を上げた。
「やっぱりか」
リロイはうんざりして呟いた。まったく、何度騙《だま》されれば済むものか。
突き出した剣の先には……お、これは?
「敵ではないわ――今のところは」
切っ先を突きつけられても、何の動揺もなく落ち着いて言い放ったのは、逞《たくま》しい身体つきの、
厳しい顔立ちの美女だった。
確か名前は、フリージア。
「今のところは?」
リロイは眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せる。
フリージアは、顎《あご》をしゃくってロークに合図する。
ロークはおずおずと動きながら、
「撃たないでくれよ……」
目に涙さえ浮かべながら、行き止まりの壁に両手をつけた。リロイも発砲せずに、油断なく
二人を見張る。
行き止まりの壁は、そう偽装された隠し扉だった。真ん中を中心軸にして、かすかなきしみ
とともに、扉はゆっくりと開かれる。
「あんたが探している少女は、その部屋にいるよ」
フリージアは、首筋に押し当てられた切っ先を、手の甲で静かに払う。リロイもそれに逆ら
わず剣を引き、銃を収める。
罠《わな》ではないという証拠のつもりか、ロークとフリージアが先に隠し部屋に足を踏み入れる。
リロイはすぐには続かず、隠し扉の前で足を止めた。
「あの女が、フリージアか」
私が聞かせた話から推測して、リロイはそう言った。
「だったら、俺は憎んでも憎み切れない敵だろうに、今は敵じゃないと言う――一体どういう
つもりだ?」
リロイは納得していない顔で、腕を組む。
「どうせ何か思惑があるんだろうが、それがさっぱりだ。やはり、俺の命だろうか。組織を壊
滅させた復讐《ふくしゅう》、か?」
「そういうシンプルな企《たくら》みだったらいいんだがな」
私は囁《ささや》く。命を狙われるのがシンプルでいいとは何事だ、と言わんばかりのしかめ面で、リ
ロイは私を睨《にら》みつけた。
「虎穴《こけつ》に入らずんば虎児《こじ》を得《え》ず」
「…………」
リロイはむっとしたままの顔で、慎重に、部屋の入り口をくぐった。
ロークの言う通り、この部屋は洞窟状の通路とは違い、湿気が少なく温度も適温だ。壁も岩
盤|剥《む》き出《だ》しではなく、白い壁紙が貼《は》られていて、床も絨毯《じゅうたん》に覆われている。
机と本棚が置かれ、奥には簡単な造りのキッチンと風呂《ふろ》、トイレが備わっている。
そして右手に、ベッドが置かれ、その上に少女はいた。
「君が、マナか?」
リロイは、その少女が本当にレナの妹であるという確信がないだけに、慎重な口調だった。
その少女は、確かにレナに似ていた。黄金の髪を肩口で切り揃《そろ》え、じっとリロイを見つめる
瞳は、宝石のように輝くエメラルド・グリーンだ。服はさらわれたときのままなのか、多少汚
れが目立つ。
リロイは用心しながら、少女に近づいた。もしも罠であれば、この少女も暗殺者である可能
性が高い。油断したところを毒塗りの刃でぐさり、ということもあり得る。
ベッドの縁に腰掛けていた少女は、足をぷらぷらと揺らしながら、リロイを見上げている。
その桜色の唇が、きゅっとつり上がる。
リロイはぎくり、と足を止めた。
その笑みは、少女にしてはあまりに酷薄《こくはく》だったのだ。
「あたしの名はエフィル。マナではないわ」
目を細め、楽しそうに含み笑いを漏らす。
リロイはそれを聞いた瞬間、剣を鞘走《さやばし》らせ振り向きざまにフリージアの喉《のど》もとに突きつける。
「騙《のど》したな」
リロイの瞳は、怒りにぎらぎらと輝く。まあこれだけ幾度も騙されれば、冷静でいうという
のもせんなきことか。
フリージアは、切っ先が喉に食い込んでいるのに、その表情はいたって平静だった。むしろ
その後ろにいるロークの方が、この成り行きに落ち着かなげに両手をすり合わせている。
「騙していないわ。その少女は、間違いなくレナ・ノースライトの妹よ」
「では、俺を騙しているのは、おまえじゃなくて、この少女だというのか」
リロイはフリージアの言葉をまるで信じていない口調で、少女を指差した。
フリージアは、奇妙な表情で首を左右に振る。
「誰《だれ》もあなたを騙していないわ。第一、こんなことをして、あたしに何の得があるという
の?」
リロイは押し黙って、ロークにちらりと視線を飛ばし、
「覚悟はできてるか?」
静かだが、憤怒に彩られた言葉。それを聞いたロークは、今にも泣き出しそうな顔で両手を
振り回す。
「そ、そりゃないぜ! 俺はちゃんと、あんたが捜してた少女の居場所に連れてきたじゃない
か!」
リロイは、見せつけるように銃を抜き、その銃口をロークに向ける。ロークは、かわいそう
になるほど怯《おび》え、がたがたと震えている。
「俺が捜しているのは、マナ・ノースライトだ。エフィルじゃない」
「あら、あなた、マナに会いたいの?」
しぼらく黙って成り行きを傍観していたエフィルが、椰楡《やゆ》するように言った。
リロイは、そこであえて少女に言及しなかった。もう虚言はまっぴらだ、と厳しい表情が語
っていた。
「おまえも、〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉の一員か」
リロイは固い声で詰問する。そうであれば容赦はしないという意を込めて。
それに対し、エフィルは、クスクスと笑い出した。
「あたしが暗殺者か何かに見える? もしそうだったら、あなたが背を向けた一瞬に、毒塗り
の短剣を突き刺しているわ」
「今はあなたを害するつもりはない、と言ったはずよ」
エフィルの言葉に重なるように、フリージアが強い口調で言った。
リロイは今にも爆発しそうな苛立《いらだ》ちと憤怒を抑え、獣の唸《うな》りのように言葉を発する。
「ならば、マナを渡せ」
「マナには、まだ会えないと思うわ」
エフィルはからかうように、小首を傾げる。
「だってあの子は、眠っているから」
「マナはどこにいる!」
がつん、とエフィルの背後の壁が崩れる。堪忍袋の緒が切れたか、リロイは剣の切っ先を壁
に打ちつけた。エフィルの髪が数本、はらりと落ちる。
少女は、その蛮行にも一向に怯《ひる》まず、むしろそれを楽しむかのように、小悪魔的な微笑《ほほえ》みを
浮かべた。
その白魚のような指が、まだ発達し切っていない、薄い胸を押さえる。
「ここよ。マナは、ここでずっと眠ってるわ」
これには、リロイも鼻白《はなじろ》んだ表情で剣を引いた。狂っているようないいぐさだが、その翡翠《ひすい》
色の瞳には、それ特有の暗く濁った不気味な光はない。引き込まれそうなほどに、澄んで美し
い。
「あたしたちが彼女を捕えたときは、まだマナだったわ。でも、ここに連れ込んでからは、ず
っとエフィルのまま。ヘパスによると、この子は――」
「二重人格か」
フリージアの言葉を、私は思わずさえぎる。
フリージアは口を開けたまま、声の出所と思えるリロイの手もとに視線を向けた。ロークは、
ぽかんとした表情でこちらを眺めている。
「今、その剣が喋《しゃべ》らなかったか?」
フリージアは、胡乱《うろん》な目つきでじっと剣の柄《つか》、私の魂の器がある辺りを凝視《ぎょうし》している。
「話をややこしくしやがって」
リロイは大きく舌打ちする。悪かったって、そんなに怒るなよ。ミスの一つや二つ、お互い
さまだろうが。
……仕方あるまい。
私は、例のプログラムを呼び出し、立体映像としてフリージアたちの前に出現した。その突
然の登場に、フリージアは目を丸くし、ロークはまたもや悲鳴を上げ、エフィルは両手を口に
当てて私をまじまじと見つめた。
「おまえは――あのときの?」
フリージアは、最初の驚きからいち早《はや》く回復すると、すっとんきょうな声を漏らした。
私は、やはり慣れないながらも笑みを浮かべようとした。なるべく、嘘臭《うそくさ》さがないように。
「君には、感謝しなくてはならないな」
私が言うと、フリージアは不審げに小首を傾げた。
「あたしが何かしたか?」
「私の言葉を信じてくれた」
真摯《しんし》な眼差《まなざ》しでじっと彼女を見る。フリージアは、その視線が落ち着かないのか、ふと目を
逸《そ》らした。
どうやらこの女戦士、戦いにおいては勇猛果敢でも、女としてはレナなどよりもずっと奥手《おくて》
のようだ。
かすかに頬が上気しているさまなど、実に可愛《かわい》いものだ。
――おっと、そんな場合ではなかったか。
「あのとき信じてくれたのだから、今も信じて欲しい。私は敵ではない。こんな現れ方をすれ
ば、怪しむのも無理はないが……」
「魔導士か?」
そう言うフリージアの声には、わずかに畏怖の念が込められていた。
大陸中央、アスガルド皇国近辺では、魔導士などという概念はすでに失われている。だが南
方のこの辺りでは、得体の知れない呪術《じゅじゅつ》を操る魔導士の存在が、まだ信じられていた。まあ、
そのほとんどが、少し占星術やサバトの儀式をかじったことがある、ぐらいのものだ。
しかし、どうやって説明したものか。
リロイの言う通り、私の出しゃばりが、話をややこしくしてしまった。反省すべきだな。
「こいつは俺の相棒だ」
悩む私を尻目《しりめ》に、リロイは強い口調で言った。
「相棒が気に入らないというのなら、俺もおまえたちの話は聞かない。どうする?」
リロイの口調にためらいはない。どこまでも強気《つよき》な男だ。しかし今回は、それが助けになっ
た。
借りが一つ、できてしまったな。
「……分かった」
フリージアは、躊躇《ちゅうちょ》したもののうなずいた。ただでさえ、リロイは機嫌が悪い。これ以上怒
らせたところで益はない、と踏んだのだろう。
この辺の決断の早さは、好感が持てる。
リロイは私に、目で促す。つまり、言いたいことがあるなら言え、だ。
私はうなずいて、口を開く。
「つまりだな、この少女がマナであるという可能性を完全には否定できない、ということなん
だが」
「何だって?」
リロイはちらりと少女に目をやる。
話題の中心である少女は、それが嬉《うれ》しいのか、皆の顔を順繰りに見回しながら、何かを企《たくら》ん
でいるような妖しい笑みを浮かべている。
私は目にかかる前髪を軽く払い、
「フリージアが言わんとしたことだ――彼女は、二重人格障害かも知れない」
「二重……何だって?」
頭の悪い相捧は、頭の上に?マークをたくさん浮かべる。そんな知識をおまえに期待したり
はしないよ、リロイ。
しかし私は、それでも出来得る限り分かり易く、簡単な言葉だけで説明しようと努力した。
「迷信深い人々が、狐憑《きつねつ》きや悪霊憑《あくりょうつ》きと呼んだ症状だ。一人の人間の中に、二つの人格が生ま
れてしまう精神病――それが二重人格だ。
新たに生まれた人格は、言語も、特技も、性格も、すべて同一人物とは思えぬほど、一変す
る。これは幼児期に受けた虐待などが原因といわれている。精神に耐え切れぬ衝撃や恐怖を受
けたとき、それに耐え得る人格を自分で造り出して、もともとの人格を心の奥に隠して守って
しまうんだ。脅威が去ればもとの人格に戻ったりもするが、また何かあれば、その人格が現れ、
結果として精神が分裂していく――しかし、間違ってはならないのは、この病《やまい》が決して精神分
裂症ではないということで……」
「待て!」
私の講釈を、リロイが慌ててさえぎる。
人の話の腰を折るとは無粋者《ぶすいもの》め。人の話は最後まで聞けと、子供の頃に言われなかったの
か?
「ちょっと待ってくれ。おまえの話は、長ったらしくて駄目だ」
むむ、失礼な。
「要はなんだ、このエフィルの中に、マナが眠っていて、二人はもとを正せば同じ人間だって
ことだろう?」
「ま、そういうことだ。簡略にするとな」
私は少し不機嫌に言った。確かに私の話は長くて難しいかも知れないが、ちょっとは理解し
ようと努力してもいいだろうに。ただでさえ黙っていることを強要され、従ってやっているの
だから、こんなときぐらい喋《しゃべ》らせろ。
「じゃあ、レナが探しているのは、間違いなくこのエフィルなんだな?」
リロイはそう言いながらも、困惑した表情を私に向ける。私は顎《あご》を指でなぞりながら、エフ
ィルを眺めやる。
「そう。ただし、この少女が本当に二重人格者で、マナがその精神の奥底に眠っていれば、の
話だがな」
「どうやって確かめろっていうんだ、そんなもの?」
リロイのその言葉に、フリージアも口もとをきつく結ぶ。それはもっともだ。
「何か、レナとマナしか知らないようなことをエフィルが知っていれば、証拠になると思うの
だが」
「それをどうやって確認する」
リロイの冷静なつっこみに、私は苛立《いらだ》ちの視線を向ける。単細胞の癖して、人の揚《あ》げ足《あし》を取
るとは。
「証拠があれば、あたしをここから出してくれるの?」
口を出してきたのは、当の本人のエフィルだった。リロイをまじまじと見た後、フリージア
に視線を移す。
「俺が納得すればな」
「こいっを納得させられればな」
リロイとフリージアが、同じようなことを口にする。そして、それに気づくと、これまた同
じように顔をしかめる。
エフィルは思案顔でしばらく黙り込んでいたが、少々悪戯《いたずら》っぽい表情を浮かべてうなずき、
顔を上げた。
「これなら、納得してくれるはずよ」
声は自信に満ち溢《ある》れていた。
リロイは口出しせずに、少女の言葉を待った。
エフィルは意味ありげな笑みをリロイに向けながら、口を開く。
「カルジア王国の事件、覚えてる?」
「……ああ」
リロイは嫌《いや》な記憶を呼び覚まされ、無愛想に答えた。それをエフィルは意に介さず、相変わ
らず何かを含んだ笑みを崩さない。
「あのとき、姉さんが、なぜあなたを殺さなかったか知ってる? リロイ・シュヴァルツァー
さん」
その言葉に、リロイは押し黙って答えなかった。無愛想な顔に、苦々しさが溶け込んでいく。
エフィルは、リロイの反応を楽しんでいる様子だった。
「答えは簡単。さすがに姉さんも、幾晩もともにすごした男を、無下《むげ》に殺したりできなかった
……というよりも、惚れた男を、かしら?」
「……馬鹿な」
リロイは乾いた声で呟く。むっつりとした表情は同じだが、わずかに動揺が見られる。
エフィルはくすくすと笑い、
「姉さんはあなたになんて言ったの? その言葉が嘘《うそ》だったと思う?」
探るように、リロイを下から上目遣いに見やる。リロイは、記憶の底に仕舞い込んでいたも
のを引き摺《ず》り出され、不快げに顔をしかあた。
「どうやって信じうって言うんだ。あいつは、俺の目の前でリーナスを殺したんだ」
吐き捨てるような言葉に、少女はふと、妖《あや》しい笑みを消し去った。
「本当に残酷なのは、あなたね」
「…………」
エフィルの一言に、リロイは戸惑いと憤りに言葉が詰まった。それを見て、エフィルは目を
閉じて吐息をつく。一瞬の後開かれた瞳には、再びあの悪戯《いたずら》めいた光が湛《たた》えられていた。
「ま、いいわ。今《いま》さら、あなたをあたしが責めてもしょうがないものね」
エフィルは目を細めてリロイを眺めやり、
「どう、あたしを信じてくれる? もっとも、こんな話、マナは知らないでしょうけど。姉さ
んは、マナには何も喋《しゃべ》らないのよ」
形の良い唇を赤い舌がぺろりと舐《な》め、かすかな怒りを含んだ言葉が紡ぎ出される。
「もちろん、昔姉さんが身体を売っていたことも……」
「もういい」
リロイは強く言った。
「もうやめろ」
「じゃあ、あたしを信じてくれるの?」
エフィルは、けろりとした顔で、小首を傾《かし》げる。
「……分かった」
リロイは重々しく言った。複雑な表情で、フリージアに向き直る。
「だが……」
「一つ条件があるわ」
リロイが口を開くより早く、フリージアは口火を切った。私は、やはり、と目を光らせる。
「その子を渡す代わりに、一つ、仕事を請け負って欲しいの」
フリージアの表情はかたくなで、嘘の気配はなかった。瞳は真摯《しんし》な思いに揺れている。
「そんなとこだろうな」
リロイは肩をすくめた。まあ、ただでくれてやる、と言われても信じられないが。
「いいかしら?」
「俺がおまえたちを斬《き》って、マナを奪っていくとは考えなかったのか?」
リロイは剣を持ち上げて、フリージアの顔の前で振って見せる。
彼女は、そこで表情を緩め、口もとにあえかな笑みを浮かべた。
そういう表情をすれば、なかなかいけるのに。
「あたしの聞き及ぶリロイ・シュヴァルツァーは、そういうことをする男ではない。今のあた
したちは、おまえの敵ではないと言っているのだから」
「その通りだ」
答えたのは私。リロイも特に反論はせず、剣を鞘《さや》に戻した。
「仕事の内容は?」
「カルテイル様を、見つけ出して欲しい」
自憤《じふん》に凝《こ》り固まった口調で、フリージアは言った。
リロイは予想していたのだろう、別に驚きもせずに、しかしやや眉根《まゆね》を寄せる。
「なぜ俺に? 組織の人間を使えぱいいだろうに」
「組織はおまえのせいで半壊した。その上カルテイル様がいない今、指揮能力はないに等しい。
散り散りになった者を集めるだけでも、容易ではないのだ」
リロイの何気ない言葉に、プリージアは怒りと憤《いきどお》りのこもった表情で、しかし努めて平静に
言った。この辺りの自制心は、暗殺者としての修練の賜《たま》ものだろう。
それに比べて、我が相棒ときたら……。
リロイはさすがに居心地が悪くなったのか、視線を泳がしてぽりぽりと頭をかく。
フリージアは、切れ長の目を憤怒《ふんぬ》に燃やして、リロイを睨《にら》みつける。
「正直に言えば、おまえの手など借りたくない。むしろ、この手でおまえを殺してやりたいの
が本心だ。だが傭兵《マーセナリー》ギルドなどには頼めぬし、フリーで腕が立ち、我々のような者の依頼を引
き受けそうな傭兵となると、おまえしか思い当たらなかった。本来なら、あたし一人で助け出
したいのだが……」
そこで唇を噛《か》み、フリージアはかすかに俯《うつむ》いた。肩が小刻みに震えているのは、力及ばない
自分への苛立《いらだ》ちと怒《いか》り、そして――恐怖だ。
「カルテイルは、一体|誰《だれ》に拉致《らち》された? 君はそれを知っているのか?」
私は机に備えつけの椅子に腰かけ、頬杖《ほおづえ》を突く。それを見たリロイは、何を偉そうに、と唇
を歪める。
無視、無視。
「知っている。だからこそ、助けを求めたのだ。カルテイル様はお怒りになるだろうが……お
命には代えられない」
フリージアは拳《こぶし》を強く握り締めた。もしもリロイが断ったとしたら、死を覚悟で彼女は救出
に向かうだろう。
そういう目をしていた。
「あなた、カルテイルに惚《ほ》れてるのね」
「なっ……?」
突然のエフィルの茶々に、フリージアは頬を赤らめ、絶句する。自分の密《ひそ》かな気持ちを暴か
れたこと、その相手が自分より年下の、しかも少女であったこと、そしてそれを、男たちに聞
かれたこと――それらが渾然《こんぜん》一体となって、彼女の自制心を打ち崩した。
やはり、恋愛に関しては、どこまでも幼いようだ。
フリージアはかっと頭に血が上り、
「お黙り!」
鋭く叫び、エフィルの胸倉を掴《つか》んで壁に押しつけた。
「痛い!」
エフィルはこの暴挙に悲鳴を上げ、非力な腕で、胸倉を掴むフリージアの腕を解《ほど》こうと暴れ
る。無論、できるはずもない。
苦しんでいるエフィルには悪いが、勇ましい女戦士の意外な一面を二度にわたり目撃してし
まった私は、それが妙におかしくて、口もとに笑みを浮かべてしまった。
だがすぐに、真顔を作る。笑っているところを見られでもしたら、フリージアに何をされる
か分かったものではないからだ。
「よせ、相手はまだ子供だ」
リロイが落ち着き払った態度で、フリージアの腕を掴む。リロイの膂力《りょりょく》は、フリージアのそ
れを遥《はる》かに上回っていたようだ。あっさりと、エフィルを掴む腕が離される。
「……そんなに怒らなくても」
エフィルはごほごほと咳《せ》き込みながら、それでも恨めしい目でフリージアを睨《にら》む。
「エフィルのことは気にするな。先を続けてくれ」
リロイの言葉に、フリージアはおとなしく従った。リロイの、自分を凌駕《りょうが》した力に、彼女も
頭が冷えたらしい。
「エフィルもしぼらく黙っていてくれ。そうじゃないと、姉さんには会わせない」
「……分かったわよ。イジワル」
エフィルは、しぶしぶうなずいた。やはり言うことは大人びていても、中身はまだ子供だ。
姉さんに会わせない、という一言が効いたのだ。
フリージアはまだかすかに赤らんでいる顔で、しかし深刻な表情で話を続けた。
「あのとき――白い爆発光で目を焼かれる一瞬前、あたしはカルテイル様に目を向けた。カル
テイル様は完全に気を失って倒れていたが、そこに突然、本当に降って湧《わ》いたように、人影が
現れた。そいつはカルテイル様を担ぎ上げると、再びかき消えた。あたしは気配だけを頼りに
追跡したが、相手はただ者じゃなかった。追いつきはしたものの、獣化して普段の数倍の戦闘
能力を持っていたあたしを、あいつは、カルテイル様を肩に担いだままで圧倒した。あたしの
実力は、あいつには遠く及ぼなかった。その姿さえ、はっきりと見ることができなかったの
だ」
そこで言葉を切り、フリージアはおもむろに服をはだけた。日に焼けた赤銅《しゃくどう》色の肌が露《あらわ》にな
り、二つの双丘《そうきゅう》が目に飛び込む。ロークが慌てて目を逸《そ》らす。
「それでこのザマよ」
「酷《ひど》いな……」
リロイは思わず呻《うめ》いた。
フリージアの豊かな乳房の下辺りに、包帯が巻かれている。傷口はふさがっておらず、今も
じくじくと血がにじんで白い包帯を赤く染めている。
私は嫌《いや》な予感にとらわれ、肩にかかる銀の髪をいささか乱暴に払った。
「ライカンスロープの治癒能力をもってしても回復しない傷とは……まさか」
私の懸念《けねん》に、フリージアは服を再び着込みながら大きくうなずいた。
「そう。あたしもこんなことは初めてだわ。この傷を受けたときもあっさり昏倒《こんとう》してしまった
し、あれからかなり時間が経っているのに、なかなか回復しない。話で聞いたことしかないけ
れど、こんな傷を与えられるのは――」
「〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉か」
私は忌《い》ま忌《い》ましげに呟いた。それを聞いて、エフィルとロークの顔が青ざめる。
〈闇の種族〉といっても、ライカンスロープにこれほどのダメージを与え得るのは、中級もし
くは上級に当たる眷属《けんぞく》だろう。
一体どんな目的があって、カルテイルを拉致《らち》したのか?
「恐らく、ユリパルスやアイリィ、ザザンたちが生きていたとしても、あいつには太刀打ちで
きなかっただろう」
フリージアは悔しげに唇を噛む。
「そこで、俺に白羽の矢が立ったか」
リロイは納得してうなずいた。
「身勝手な言い分だとは思うが、引き受けてくれないか」
ここまで黙っていたロークが、身を乗り出すようにして懇願した。
「カルテイル様は、こんなに臆病《おくびょう》で見栄えのしない、おまけに何の取《と》り柄《え》もない俺に仕事を与
えてくれた。カルテイル様がいなかったら、俺は今頃《いまごろ》この街で野たれ死んでいたかも知れない。
だから、あの人には返しても返せない恩があるんだ。俺だって、この手でカルテイル様を助け
たい。でも、〈闇の種族〉と戦う力なんて俺にはねえ。非力で能無しだから。フリージア様が
敵《かな》わなかった相手なんて、俺だったら瞬《まばた》きする間にやられちまうさ」
「そうだろうな」
リロイはあっさりと首肯《しゅこう》した。
ロークの顔が、見る見る暗くなる。
少しは気を遣ってやれよ、おまえは。
「だが、できないことが悪いことじゃないんだ。悪いのは、何もしないことだ。おまえはおま
えのやり方で、恩を返す方法を見つければいい」
私の心の声が聞こえでもしたか、リロイはそう続けた。その言葉に、ロークの暗かった顔が
ぱっと明るくなる。ふむ、単細胞の言葉でも、たまには人に感銘を与えるようだ。
「この仕事、引き受けよう。あいつとは、色んな意味で、まだ決着をつけていない――つけな
きゃならないからな」
リロイはうなずきながら言った。ロークは安堵《あんど》に息を大きく吐き出し、フリージアの顔も少
し和らぐ。
「ただし、エフィルは先に引き取る。構わないな?」
「……承知した」
リロイの提案に、一瞬フリージアは沈黙したものの、すぐに了解する。報酬《ほうしゅう》の先払いは、
わばリロイへの信頼の証《あかし》である。フリージアもそれを分かった上で、了承したのだろう。
「それともう一つ」
人差し指を顔の前で立てて、リロイはフリージアの瞳を覗《のぞ》き込むようにして言った。
「何だ?」
「カルテイルを助け出しても、再び組織を立て直さないこと。〈|真 紅 の 絶 望《クリムゾン・ディスペアー》〉は、二度と活
動をしない――それが条件だ」
これには、フリージアも即答できなかった。
それはそうだろう。組織の活動停止は、そう簡単に、彼女一人の決断でできることではない。
リロイも酷な条件を突きつけるものだ。
「それは、あたしの一存では決めかねる。やはり、カルテイル様の裁定を仰がねば……」
フリージアは言い淀《よど》む。彼女にしては、珍しく歯切れが悪い。
「これは後払いでいい。助けた後に、カルテイルと相談しろ」
リロイは助け船を出したが、これにロークが口を出してくる。
「じゃ、じゃあ、もしもカルテイル様がその条件を認めなかったら、一体どうするつもりなん
だ?」
へた
「契約違反だ。下手をすれば、命のやり取りになるだろうな」
冷酷で、容赦のない言葉だ。そこに含まれる決意と厳しさにロークは圧倒されて、それ以上
二の句がつげなかった。
「分かった。その条件で仕事を依頼する」
フリージアが、これまた厳しく強い意志を瞳に宿らせて、噛み締めるように言った。
リロイは満足気に微笑《ほほえ》んだ。
「商談成立だ」
物騒な商談もあったものだ。血で染まるかも知れない商談を笑顔で請け負うとは、相棒には
ほとほと呆《あき》れさせられる。
カルテイルが条件を飲まなければ、リロイは本気で戦うだろう。そうなれば、当然フリージ
アとも刃を交えることになる。
むしろ、それがリロイに笑みを浮かべさせたのかも知れない。
この男は、命懸けの行動を最も重んじる傾向がある。自分の意志は、命をもって貫かなけれ
ばならない――それがリロイの確固たる信念だ。
出来得るならば、これ以上悲惨な流血は見たくないのだが……。
レナとの契約は、エフィルの身柄を保護した時点で終了した。この二重人格の少女をレナに
引き渡せば、リロイは報酬を受け取ることができる。
受け取るかどうかは、さておき。
だが、〈切り裂き通り〉から戻って来ても、まだレナは〈白馬のたてがみ亭〉には姿を見せ
ていなかった。再び伝言を置いて、とりあえずはエフィルを〈獅子《しし》と雄鹿亭《おじかてい》〉に連れて来る。
この少女を一人にするのは、どうにも不安で仕方がなかったのだ。
「ここで姉さんを待つつもり? 嫌《いや》よ、こんな小汚《こぎた》ない宿は。やっと地下から出て来たんだか
ら、さっきぐらいの宿がいいわ」
エフィルは、〈獅子と雄鹿亭〉に入るや否《いな》や、大声でそう宣《のたま》った。
しかも、宿の主人の目の前で。
何と非常識な娘だ。
宿の主人の突き刺さるような視線を背中に感じながら、リロイは逃げるように、エフィルを
引っ張って二階の自分の部屋に駆け込んだ。
「こんないい宿を小汚ないだなんて、一体どんな生活をしてたんだか」
そう小さく呟《つぶや》いたのは、ロークだった。フリージアは独自に捜索を行い、もし糸口を見つけ
ればすぐさまリロイに知らせる手筈《てはず》になっている。暗殺者として隠行《おんぎょう》や密偵の訓練を受けてい
ないロークは、フリージアのもとにいても足手まといなだけなので、エフィルの世話役という
形でリロイに同行していた。
私には、ロークがリロイを慕ってついて来ているだけ、としか思えないが。
「レナは妹にだけは甘そうだからな」
リロイも辟易《へきえき》した表情を浮かぺている。食事にはどんな難癖をつけるだろうか、と考えただ
けでうんざりしてくる。
「ねえ」
エフィルが、胸の前で腕を組み、リロイを睨《にら》みつける。
「まさか、三人一緒の部屋じゃないでしょうね?」
食事の前にも難癖がついたか。
リロイは、ほとほと困り果てた様子で、掌で顔を覆う。
「もう一部屋取る金なんて、俺にはない」
「お金を借りてでも用意して」
リロイの情けない顔も口調も無視して、エフィルは頑として言い張った。
「俺は廊下でも馬屋でも構わないぜ。慣れてるから」
「じゃ、そうして」
ロークの気遣いにも、エフィルは当然、という顔でうなずいた。言った本人も、これには思
わず鼻白《はなじろ》む。
私はすでにもとに戻っている。やれやれ、もしもそうじゃなかったら、私もこの騒動に巻き
込まれるところだった。
「言っとくけど、その剣も駄目よ。覗《のぞ》かれてるみたいで落ち着かないから」
「失礼な」
私はぎくりとしながらも、憤然として言った。さすがにレナの妹だ。鋭い感覚をしている。
結局その夜は、リロイとロークが馬屋に泊まることで話がついた。
私も巻き添えだ。まあ、私はどこでも同じだが、あの臭さはどうも……。
リロイが疲れ果てた様子で、まだ出て行く気はないと言わんばかりに、どっかと椅子に腰か
けた。
「ちょっと……」
エフィルが、リロイに何か文句を言おうと口を開いたのと同じくして、階下からざわめきと
悲鳴が部屋の中に飛び込んできた。
リロイは前に立ちふさがるエフィルをなかば押し退《の》けるようにして立ち上がり、私を掴《つか》むと、
一目散に部屋を飛び出した。
「どこへ行くんだ?」
ロークは、リロイのその素早さに面食らいながらも、どたどたと後を追って走って来る。階
段を飛び跳ねるように降り、一階の食堂兼酒場に駆け込んだリロイは、あっ、と声を上げた。
店の中にいた泊まり客は席も立てずに硬直し、店の主人は戸口の辺りで腰を抜かしてへたり込
んでいる。
宿の扉の前には、巨大な影。
その影は、銀光を放っている。
「フェンリルか」
リロイは、訝《いぶか》しげに眉《まゆ》をしかめた。レナと一緒でない単独のフェンリルとは珍しい。
しかも銀狼《ぎんろう》の身体は、いたる所に傷を負って、銀の体毛が赤く斑《まだら》になっている。切れ味鋭い
牙が血に濡《ぬ》れているのは、一戦交えた証拠か。
後《あと》を追って階段を駆け降りて来たロークは、この血《ち》まみれの銀狼を目にすると、うおっ、と
悲鳴を上げて床に転がった。勢いのついた身体が、驚きにバランスを崩してしまったのだろう。
「な、なな……」
「大丈夫だ。敵じゃない」
狼狽《ろうばい》して床の上でじたばたするロークに、リロイは軽く手を上げて安心させる。その落ち着
き払った様子に、ロークはもがくのをやめ、這《は》いつくばったままこちらを見上げた。
フェンリルは、ゆっくりとした、堂々たる足取りでこちらに近づいてくる。その通り道にい
た人々は、逃げ出すほどの胆力もなく、顔を恐怖に歪めながら身をのけぞらせた。
そんな人間は歯牙《しが》にもかけず、銀狼はリロイに向かって一歩、また一歩と足を進める。その
誇り高き黄金の瞳は、戦闘の興奮からか、険しく猛々《たけだけ》しい輝きを宿している。
「……レナに何かあったのか? その傷はどうした?」
思わず問いかけたリロイだったが、狼《おおかみ》に答えられるはずもなく、困った様子で後頭部をぽり
ぽりとかく。
(彼女は、奴らに捕えられた)
「…………!?」
それは二重の衝撃だった。
突如、私とリロイの脳内に、その思念が飛び込んできたのだ。言葉ではなく、それを意味す
る思念が、直接精神に投げかけられたのだ。
思念言語、というやつだ。テレパシーともいうが、言語形態がまったく違う狼の思念が読み
取れるとは……しかるにこの銀狼は、人語を解しそれを操れるようだ。ただの狼ではないと思
っていたが、人語を完全に理解し、それを思念で送り込むとは、何という奴だ。
思念言語は、特定の相手にだけ思いを伝えられる。私にも聞こえたのは、単なる余波に近い
のだろう。
「レナが?」
最初の衝撃が去ると、再度の驚愕《きょうがく》がリロイを襲った。巨大な狼に話しかけるリロイを、ロー
クを含め他の人々は呆気《あっけ》に取られて見守っている。
(カルテイルの痕跡《こんせき》を追っている内に、奴らと出食わしてしまった。彼女も奴ら如きに後《おく》れは
取らないが、何分、数が多すぎた)
フェンリルは悔しげに喉《のど》を鳴らした。周りの人間が、びくっと身じろぎする。
「奴らとは?」
ダロク ワン
(〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉)
リロイの問いに、予想通りの答えが返ってくる。どうやらレナは、カルテイルを拉致《らち》した
〈闇の種族〉にまで肉薄し、そこでドジを踏んだようだ。
(助けが欲しい。わたし一人では、彼女を助けられない)
フェンリルは懇願するように頭を低く垂れた。
「虫のいい話だな」
リロイが答えるより早く、私が口を出した。突然の第三者の声に、フェンリルばかりか、店
の人間も驚きにざわめく。
今はあえて、それを無視する。
「リロイを何度も騙《だま》しておいて、窮地に陥ったから助けてくれとは、あまりに身勝手というも
のだろう。レナの妹の身柄《みがら》はこちらが保護している。それ以上は契約外のことであるし、危険
を冒すほどの義理も借りもないはずだ」
私は冷酷に、平坦な口調でそう言い放った。
フェンリルがどう反応するかと思えば、耳をぺたりと折り曲げ、どこか悲しげに首を小さく
左右に振る。
(……是非もない)
一言小さく呟くと、フェンリルはくるりと身をひるがえした。その動きにも、全身の傷の影
響が見られないほど優雅さが漂っている。
「待て」
リロイがそれを引き止める。
やはり、な。
「正式な依頼なら、報酬《ほうしゅう》次第では引き受けても構わない」
フェンリルは振り返る。誇り高き狼《おおかみ》の瞳は、驚きと、予期せぬ喜びに見開かれている。
エフィルが言ったように、レナのリロイに対する気持ちがそうあったとしても、第三者とし
てレナのリロイへの仕打ちを見ていれば、この返答は驚愕に値する。
ま、私はもうこれぐらいでは驚かない。この返答は容易に予想できた。私は、フェンリルに
釘をさしただけのことだ。
(心から礼を言う。報酬はそちらの言い値で構わない。必ず、支払おう)
「報酬は、レナが暗殺業から足を洗うこと。安いもんだろ?」
リロイのこの言葉に、一瞬フェンリルは口を閉ざした。
だがすぐに、大きくうなずく。
(了承した)
「よし、契約成立だ」
リロイはにかっと笑う。
カルテイルの救出と、レナの救出。この二つの救出劇を、〈闇の種族〉相手に一時に行う難
しさを、果たしてこの男は理解しているのだろうか。
いや、していようがしていまいが、リロイには関係ないのだ。
楽観主義ともとれるリロイの行動は、しかしいつでも確固たる信念と自信、そして決意に裏
打ちされている。困難か、不可能か、そういう状況判断は、問題ではないのだ。
やるか、否《いな》か。その単純な二者択一《にしゃたくいつ》が、リロイの行動を左右する。やるべきことならどんな
犠牲を払ってでもやり遂げる意志の強さ、徹頭徹尾の精神が、リロイをしてS級の傭兵に、そ
してここまで強くあれる人間に導いたのだろう。
もちろん、先に見せたような弱さも持ち合わせているし、愚かな選択をすることもあるだろ
う。だがそれでも、恐れず、迷わず、前に進んで行く。私は、そんな人間らしくどこまでも未
完成なリロイの生きざまが気に入って、こうやって一緒にいるのだ。
「さあ、レナの居場所は――」
リロイはそこでぴたりと口を閉ざした。
フェンリルも、全身に緊張を漲《みなぎ》らせ、舌打ちしそうな口調で呟く。
(まいたと思ったのだが……甘かったか)
「この鬼気は、下級じゃないな」
全身が鳥肌立ち、じわり、と汗が背中を濡《ぬ》らす。存在を感じさせるだけでこれほどの影響を
及ぼすのは、中級または上級の眷属《けんぞく》に間違いないだろう。
「とんでもないものを連れて来てくれたな」
(面目ない)
フェンリルは威嚇《いかく》の唸《うな》りを漏らす。自分の不始末は自分でつけるつもりらしい。
相棒のレナとは、また違ったタイプだ。
誇り高き狼にふさわしい。
そのフェンリルが頭を下げて助力を請うてきたのだから、どれほどレナが彼にとって大切な
存在であるかがうかがえる。
「皆、店から逃げろ!」
リロイの突然の怒号と、それに続くフェンリルの咆哮《ほうこう》に、金縛《かなしば》りにあっていた人々は、背中
を強く押されたように立ち上がり、まるで泳ぐかのように駆け出して行く。店の主人も、不安
と恐怖がない混ぜになった表情でリロイを眺めながら、それでも】番最後に扉をくぐって外に
出た。立派、立派。
「ローク」
「な、何だ?」
声をかけられ、裏返り嗄《しわが》れた返事をしたロークは、相当戸惑っているものの、客たちと一緒
には逃げ出さなかったらしい。リロイを信頼しているのか、それともただ単に、腰が抜けて立
てなかっただけか。
「エフィルを頼一む」
リロイの頼みに、ロークはぱっと顔を輝かせる。
「分かった!」
嬉々《きき》として答え、一散に階段を駆け上がって行く。慕うリロイに頼みごとをされて、純粋に
喜んでいるのだろう。
かさこそかさこそ。
ロークの姿が階上に消えた頃、耳障りな音が聞こえてきた。
天井《てんじょう》からだ。
剣を抜き、天井を見上げるリロイ。その視線の先に、異物が映る。
天井に張りつくようにしてこちらをうかがっているそれは、見かけは人間の四肢を備えてい
た。だが、頭部が普通ではない。大きな複眼と、鋏《はさみ》状の口、そして額と顎《あご》にいくつもの触手が
生えている。身体は黒いスウェットスーツに包まれていた。
その顎の触手からぽたりぽたりと滴り落ちる唾液《だえき》は、じゅわっと白い煙を上げて、床に穴を
開ける。強酸性の唾液だ。
(下がっていてくれ。始末はわたしがつけよう)
ずいっ、とフェンリルが足を踏み出す。
「もう仕事は始まってる。ただ黙って見ているわけにはいかないさ」
リロイは上空からの攻撃に備え、剣を斜めに構える。
(重ね重ね、すまない。報酬に上乗せしよう)
「そんなに気を遣うなって」
バカン! と窓が砕け散った。
そこから、同じく黒装束に包まれた人影が飛び込んでくる。不気味なことに、頭部はすっぽ
りとフードに包《くる》まれている。あれでは視界がないに等しい。
その両腕が、まるで粘土細工のように、にゅうっと伸びる。これは予想できなかったのか、
その掌がリロイの喉《のど》をがっちりと掴《つか》む。
それに呼応して、天井の奴が飛びかかって来た。
フェンリルは流れる銀光となって宙を飛び、天井の刺客に食らいつく。その鋭い牙が、そい
つの脇腹《わきばら》を抉《えぐ》った。ぷしゃっと飛び散ったのは、人間と同じ赤い血。〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉といえども、
人間と同じような赤い血を有するものもいる。もしかすれば、ルーツが同じなのかも知れない。
それはリロイたち人間にとってすれば、悍《おぞ》ましい想像に違いない。
リロイは剣を振るって、軟体動物のような刺客の両腕を叩《たた》き斬《き》った。それはあっさりと両断
され、床の上でくねくねとのたうつ。
血は出ない。
「何だ、こいつは」
気味悪そうに、リロイは顔をしかめた。
「こいつの身体は単細胞生物に近い構造だ。痛みなどの知覚がなく、簡単な電気信号だけで動
いている。単純なだけに、回復も容易だ。倒すには、電気信号の発信地を叩くしかない」
「頭か」
リロイは、私の説明にうなずいた。戦闘中は、何事にしろ理解が早い男だ。いつもこの調子
ならば、私の苦労も少しは減るだろうに。
刺客の、今し方リロイに斬られた両腕の切断面がくねくねと波打ち、新たな腕を構成しよう
としていた。
リロイは床を蹴《け》った。一足飛びで間合いを詰め、黒いフードに包まれた頭部めがけて剣を薙《な》
ぐ。躱《かわ》せるタイミングではない。
だが、斬撃《ざんげき》は空を切った。
そいつは、胸の辺りでぐにゃりと上半身を湾曲させ、紙一重のところで剣の刃をかいくぐっ
たのだ。まさに人間には真似できない異形《いぎょう》の動きだ。
その予想外の動きに攻撃を躱されたリロイは、たたらを踏んだ。その背中に、新たに生え出
した腕の一振りが襲いかかる。
くねくねとしている割りには強烈な一撃だった。リロイの身体はテーブルや椅子に突っ込み、
ごろごろと転がって壁にぶつかる。
そこにたたみかけるように、左右から拳が襲う。一発目はリロイの腹に命中したが、二発目
は辛《かろ》うじて受け止める。
それが油断だった。
刺客の腕は棒のように叩きつけられ、リロイの差し上げた腕がそれを防ぐと、そこを支点に
ぐにゃりと曲がった。
広げられた掌が、吸いつくようにリロイの首を鷲掴《わしづか》みにした。握力は相当のものだ。苦鳴《くめい》を
漏《も》らすリロイの身体を腕一本で軽々と持ち上げ、力任せに床に叩きつけた。
床は砕け、盛大に砂埃《すなぼこり》を巻き上げる。リロイは背中を床で強打し、息が詰まる。
「ラグナ……」
軟体動物のようなその眷属《けんぞく》は、たどたどしくそう漏らした。
「……ラグナ……ロク……」
驚きが衝撃となって私を襲った。
なぜ、私の名を?
私に出会ったのは、フェンリルを追って来た故の偶然ではないのか?
どうにも拭《ぬぐ》い切れない不安と不気味さが、重いしこりとなって残る。
刺客は、さらに私の名をぶつぶつと呟きながらリロイの脚を掴んで床下から持ち上げ、今度
は壁に叩きつける。
これまた薄い壁は微塵《みじん》に砕け散り、リロイの上半身が店の外に飛び出す。
外で様子をうかがっていた店主と野次馬たちが、どよめきを上げた。
リロイの額が割れて、大袈裟《おおげさ》なほど血が吹き出す。頭の傷は、思ったよりも出血が多い。
三度《みたび》持ち上げられようとした瞬間、リロイはその腕を叩き斬ろうと剣を振り下ろした。
カキン! と甲高《かんだか》い音。剣は弾かれ、リロイの身体はまたもや持ち上げられる。
分子の結合を強くし、密集させることで、肉体の強度を高めたのだ。脚を取られた今の不安
定な姿勢からの一撃では、この強度を誇る腕はそう易々《やすやす》とは潰《つぶ》せまい。
「おわぁっ!」
リロイの悲鳴は、壁から、カウンターの向こうに流れて消え、破砕音に続く。そこに並んで
いた酒瓶が次々と割れて、中身を床とリロイの身体にぶちまけた。つん、と鼻を突くアルコー
ル臭。
「これだ」
リロイは朱に染まる顔の中で、会心の笑みを浮かべ、ぺろりと舌を出して唇についた血と酒
を舐《な》め取った。
脚をまたもや引かれる前に、手近にあった割れていない酒瓶を手にする。
リロイの考えは分かったが、それはちと乱暴な作戦だな。
リロイは、カウンターから引き出されるのを見計らって、手にした酒瓶を刺客に向けて投げ
つけた。
刺客の胸に当たった酒瓶は、狙い通りその身体を中身で濡《ぬ》らす。
リロイはふところから取り出したライターを手に、刺客に向かってウインクを一つ。
「火遊びは危険だぜ」
格好をつけるのはいいが、その火を自分に燃え移らせるなよ。おまえも酒《さけ》まみれなんだから
な。
火の点《つ》いたライターが、ぽん、と放り投げられ、狙い違《たが》わず、刺客の足下に落ちる。
そして、ごうっ、と火は燃え上がり、瞬《またた》く間に刺客の全身は炎の人型と化した。リロイの脚
を掴んでいた腕も、びくびくと痙攣《けいれん》しながら離れていく。
「この宿を燃やすつもりか?」
思わず聞いてしまう。リロイもそこは考えていて、それなりの処置を施すに違いない……と
思いたい。
リロイは自由になった身体で軽やかにカウンターを飛び越え、
「さて」
と呟きやがった。
……何も考えていなかったか。
度しがたい男だ。
それは十二分に分かっていたはずなのに。
「店の外に放り出すか」
リロイは独《ひと》りごちて、言葉とは裏腹に、フェンリルが戦っている方に足を向ける。一体何を
考えているのか。大体、酒まみれのおまえでは、全身|松明《たいまつ》と化した刺客には一歩も近寄れまい。
「こっちも厄介なようだな」
どこか楽しげに、リロイは言った。
確かに、厄介な相手のようだ。
フェンリルは、手足を白い粘液にからめ取られ、眼前に迫った鋏《はさみ》状の牙と、そこから滴る溶
解液から必死で身を捩《よじ》って逃れようと奮闘している。だが一方的に劣勢ではなく、二人が戦っ
ている床下には、節くれ立った腕が二本転がっていた。
それでもその刺客には、まだ都合四本の腕が残っていて、それがフェンリルの動きを牽制《けんせい》し
ている。
「……禍蜘蛛《まがぐも》の眷属《けんぞく》か」
その姿は、まさに巨大な蜘蛛そのものだった。〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉のすべてに名が冠《かん》されているわ
けではないが、この眷属はその姿から、禍蜘蛛、または闇《やみ》蜘蛛と俗称されている。
フェンリルをからめ取っている白い粘液は、奇妙に変形した股《また》の間から噴出されたものだ。
蜘蛛の糸は粘着性と伸縮性に富み、強度も抜群だ。巨躯《きょく》の銀狼の膂力《りょりょく》をもってしても、引《ひ》き千《ち》
切《ぎ》れる代物《しろもの》ではない。
無論、私になら話は別だ。
顎《あご》からじゅるじゅると吐き出される強酸性の唾液《だえき》が、銀狼の美しい毛並を焦がし、その下の
皮膚と肉を溶かす。
フェンリルの聞くも痛々しい苦痛の怒号が、鼓膜を打つ。
「あの糸をいただこう」
「どうするつもりだ」
怪訝《けげん》な口調で、私は相棒の真意を計った。
「おまえなら、あの糸を斬《き》り、その後《あと》それ以上斬らないように振り回すこともできるな?」
リロイの確信に満ちた問いに、
「できるが……なるほど」
私はその突飛な考えに首肯《しゅこう》した。
第二のフェンリルの咆哮《ほうこう》が響くより早く、鋭い斬撃が空間を飛び、禍蜘蛛《まがぐも》とフェンリルの間
をすっぱりと両断した。
フェンリルはこの機を逃さず、素早く飛び退さり、禍蜘蛛は新たな敵に鋏を打ち鳴らして威《い》
嚇《かく》を発した。
四本の腕をあらぬ方向に捩《ね》じ曲げながら、蜘蛛特有の地を這《は》うような動きでリロイの足下に
肉迫《にくはく》する。
そこに、横合いからフェンリルが、銀光となって飛びかかり、がっぷりと胴に食らいつく。
動きが止まった。
リロイは剣の柄頭《つかがしら》に掌を添え、剣の切っ先を禍蜘蛛の頭部に突き刺した。切っ先は完全に脳
を破壊して、床に突き刺さる。
ぷしゅっ、と緑の体液に混じって、脳漿《のうしょう》が噴き出した。
くけ、と断末魔の鳴咽《おえつ》を漏らし、禍蜘蛛《まがぐも》の身体はぴくりと痙攣《けいれん》したきり動かなくなった。
「ナイス・フォローだ」
リロイは血に濡《ぬ》れた凄惨《せいさん》な顔でにやりとフェンリルに笑いかけ、引き抜いた剣に白い粘着液
をからめた。
燃え盛る人型|松明《たいまつ》は、よろよろと店の中をさまよっていた。すでに床やテーブルにも燃え移
ってしまっている。
このままでは、宿全体を焼き尽くしてしまうだろう。
リロイは、禍蜘蛛の糸を釣りの要領で燃える刺客の足下に投げつける。糸はべたりとからみ
つき、足を取られた刺客は、ごろんと床に転がった。
ごおっ、と床にごぼれていたアルコールに引火して、火炎が吹き上がる。
「上手《うま》くやれ、馬鹿」
「釣りは苦手なんだ、よ!」
最後の一言に力を込め、リロイは駆けながら剣を引っ張った。肩と腕の筋肉が盛り上がり、
人型松明は釣糸の先の餌《えさ》のように、糸に引かれて持ち上がった。
ぶうん、と宙を舞い、戸口に激突する。
燃え続けたまま戸口を突き破り、刺客の身体は宿の外の地面に激突した。
これで、これ以上燃え移ることもない。
「アイデア賞ものだな」
リロイの軽口に、私は厳しく答えた。
「その前に店の中の火を消せ、うつけ者」
「……ちっ」
リロイは満面に不満の色を浮かべたが、文句をいう暇がないのは分かっていた。
「二階に飛び火したら、マナの身が危険だ」
「分かってるって」
リロイは私の忠告を、駄々っ子のように手を振り回してさえぎった。一体何歳になる、おま
えは。
(これで放水すれば、今ならまだ消せるだろう)
フェンリルが、口にホースをくわえてやってきた。水が大量にほとばしっている。台所から
持ってきたのだろう。やはりフヱンリルの知能は、口ぶりからも推し量れる通り、相当高そう
だ。ひょっしたら、リロイよりも知能指数があるんじゃなかろうか。少なくとも、リロイより
は役に立ちそうだ。
「黙ってろ、なまくら」
おっと、最後のは思わず口にしていたらしい。用心せねば。
フェンリルからホースを受け取ったリロイは、その口を燃え上がるカウンターの方に向けた。
そして、身体を硬直させる。
水は空《むな》しく、ばしゃばしゃとリロイの足下の床に染《し》み込んでいく。
これは……。
リロイとフェンリルは、妙にぎくしゃくとした動きで、首を戸口に向けた。そこは壊れた破
片と炎に渦巻ぎ、一刻も早く消火せねば大惨事を招くであろうことを容易に想像させた。
だが、リロイはホースをそちらには向けず、視線だけをそそいでいる。視線で炎が消せるは
ずもないのに、だ。
リロイとフェンリルを、火炎が放射する熱以上の寒気が襲う。悪寒《おかん》だ。
これは、先程感じたものと同じだ。ということは、この鬼気の源はあの刺客ではなかったと
いうことか。
……考えてみればそうだ。あれほどの鬼気を有する者を、そう簡単に倒せるはずもない。
炎が、まるで生き物のように立ち上がった。
リロイの身長ほども伸び上がった炎は、その後、まるで何かに路《みち》を譲るかの如《ごと》く、二つに割
れた。聖者の歩みを阻《はば》まぬために開かれた、大海のように。
炎のアーチの向こうには、男が一人。
いつ、どのようにして現れたのか、見当もつかない。
男は、床の上を滑るような足取りで炎の門をくぐった。炎が発する熱波に、艶《つや》やかな黒髪と
漆黒のマントが揺れるが、燃え移りはしない。むしろ炎の方が、男を恐れて避けているように
も見える。
炎の路を通り抜けた所で、黒いブーツの踵《かかと》が、かつん、と鳴った。
「黒は闇《やみ》の色、夜の色――」
男の形の良い、血に濡《ぬ》れたように赤い唇から、国]番の歌姫もかくやと思わせる美しく魅力
的な声が流れ出る。これを耳もとで囁《ささや》けば、どんな美女もうっとりと瞳を濡らすだろう。
「貴様の如き輩《やから》が黒をまとうとは、笑止《しょうし》」
透き通るように白く、それでいてはかなさよりも永遠を感じさせる細面《ほそおもて》の中で、紅の唇が完《かん》
壁《ぺき》な弧を描く。
リロイのこわばった身体に力が漲《みなぎ》り、強固な意思によって瞳に敵愾《てきがい》の炎が甦《よみがえ》った。
リロイはホースを手放すと、両手で剣を握り締め、その切っ先を男の胸に向ける。掌からに
じむ汗は、リロイの緊張を如実《にょじつ》に伝える。
リロイと同じく全身黒ずくめのその男は、さらに足を進めた。剣の切っ先が胸にめり込む辺
りで、ようやく足を止める。
二人は、近距離で瞳を向け合った。リロイの黒瞳と、男の紫紺の瞳がぶつかり、溶け合った。
男の強烈な眼光は、リロイの精神に潜《もぐ》り込む。
いかん、|邪 眼《イビル・アイ》だ!
これに侵されれば、リロイの精神は闇に染まって崩壊し、自我を失った心は、男の意のまま
に操られる。
リロイの瞳は霞《かすみ》がかかったように、ぼんやりと光を失っていく。このままではまずい。
私は柄を握る掌を通して、相棒の精神に接触した。思った通り、闇の触手がリロイの心を蝕《むしば》
もうとしている。
私は、直接精神に語りかけた。言葉というよりも思念、思念というよりも刺激、に近いもの
を、リロイの剥《む》き出しの心にぶつけた。
リロイの身体が、びくん、と跳ねる。
危険な賭《か》けだ。
私と男の干渉に、リロイの心がもつかどうか。もったとして、一体どちらに答えるのか。
下手《へた》をすれば、あの獣の意志を呼び覚ましてしまう危険もある。
私は、リロイの強固な精神力に賭けた。
リロイの全身を脂汗《あぶらあせ》が濡らす。直接精神に干渉される苦痛に顔は歪み、噛《か》み締めた唇が破れ、
血が顎《あご》を伝う。
ぶるぶると小刻みに身体が痙攣《けいれん》し、顔色は蒼白《そうはく》、握った剣の切っ先が大きく揺れた。
耐えろ、リロイ!
男が、さらに瞳を輝かせ、口もとの笑みを大きくした。
静かなる戦いは、およそ数分ぐらい続いただろうか。
やがて。
ぐらぐらと揺れていた剣の切っ先が、ぴたりと止まった。
そしておもむろに、前に突き出される。
男は、ふわり、と後退した。
リロイは肩で息をつき、目に入り込んでくる汗を拭《ぬぐ》った。
「変な術を使いやがる」
賭けは、私の勝ちだ。
自分の心に無理やり入り込まれた屈辱に、リロイの瞳は憤然と男を睨《にら》みつける。
「良く耐えた」
私の声は、安堵《あんど》に震えていた。らしくないことだ。
「おまえのおかげだ」
リロイは素直にそれを認めた。それはそうであろうが、結局、あの男の邪眼に耐え切ったの
は、リロイ自身なのだ。
こういうとき私は、この相棒を誇らしく思う。
「……大したものだ」
男は、自分の|邪 眼《イビル・アイ》が破られたことに、少なからず驚きと怒りを感じていた。それを裏付け
るように、男の全身から、さらなる鬼気が立ちのぼる。
「たかが人間にわたしの術が破られるとは……これほどの屈辱、六百年ぶりか」
「ろ……六百年?」
落ち着け、リロイ。この男が〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉ならば、それも驚くには値しない。中には千年単
位の寿命を誇る眷属《けんぞく》もいるのだ。
「やはりその剣、ただの鋼の塊ではないようだな」
男の視線が、リロイの手もとの私に向けられる。
リロイはちらりと私に一瞥《いちべつ》を加え、
「ただの鋼の塊だ」
言うにこと欠いて、それはなかろう、相棒。
「ふん。知らぬわけではあるまい」
男は嘲《あざけ》るように鼻を鳴らした。
「貴様が手にしているのは、我々に対抗するため、貴様たち人間が造り出した憎むべき兵器、
〈ラグナロク〉シリーズ。もっとも、それをもってしても我々を根絶やしにすることはできな
かったがな」
「シリーズだと?」
リロイは、その問いかけを、私を見ながら口にした。
できれば、知られずにいたかった。この男とは、そんな過去のことなどとは関係なく、付き
合っていたかったのだが……。
しかし、〈闇の種族〉を相手にしていれば、いずれこういうときが来ると覚悟はしていた。
私は、重々しく口を開いた。
「そうだ……私は、対〈闇の種族〉用兵器として造られた、〈ラグナロク〉シリーズの一体だ。
今からおよそ五千年前……今とは別の文明がこの世界を支配していた頃《ころ》、私は生み出された」
私の独白を、リロイは男を睨《にら》みつけたまま聞いていた。
「〈闇の種族〉は今よりも数が多く、世界の覇権を奪わんと幾度も戦いを仕掛けてきていた。
圧倒的な力を持つ〈闇の種族〉の前に、人間は長い間劣勢に苦しめられた。高い鋼鉄の壁に囲
まれた街から一歩も出られず、その中でも安心して眠れる夜はなかった。
あるいはその時点で、〈闇の種族〉に覇権を奪われていたのかも知れない……。
だが、人々は諦めなかった。数少ないデータを基に、奴らに対抗し得る武器の開発を、それ
こそ死に物狂いで進めた。従来の武器では歯が立たない〈闇の種族〉の上級|眷属《けんぞく》に、一体どの
ような攻撃方法が有効なのか? どうすれば、〈闇の種族〉を駆逐《くちく》できるのか? 人間は持て
る限りの英知を結集し、気が遠くなるほどの失敗を繰り返していった。
次第に人は、街すらも奴らに奪われ、その人口も激減し、世界の片隅に追いやられて行く。
まさにあの時代は、人類の黄昏《たそがれ》だった」
「そう」
男が、ゆっくりとうなずいた。彼もリロイたちと同じく、あの時代は聞き知っているだけに
すぎない。だが、根本的に寿命の長さが違うため、人間にとっては遥《はる》か昔の話にしても、彼ら
にとってはそう遠い昔話ではないのだろう。
「我々は、まさにそのときこの世界を支配していた。我らが祖先は、貧弱で愚かな人間をこの
世から消し去るという偉業を成し遂《と》げるはずだった」
陶酔したような男の口調。
それとは裏腹に、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔のリロイ。
私は言葉を続けた。
「人口は最初の十分の一以下にまで激減し、人々は絶望して、なす術《すべ》もなく人類の終焉《しゅうえん》を迎え
ようとしていた。私たちはその絶望の中、上級眷属にも絶大な有効性を持った汎用《はんよう》兵器として
生み出され、〈ラグナロク〉と名づけられた。古代神話で、巫女《みこ》が主神オーディンに語ったと
される、古き神々の終末予言――それが〈|神々の黄昏《ラグナロク》〉だ。この予言は、新たな神々の到来と、
新たなる人類の誕生をもって終わっている。人々はその予言の通り、この暗黒時代がすぎれば、
新たなる喜びの時代が訪れることを願い、そう名付けたのだ。私たちの誕生は歓呼で迎えられ、
絶望に蝕《むしば》まれた人々の心に希望の灯を点《とも》した。
そして人類は、〈ラグナロク〉を手に立ち上がった。オーディンは、予言の日が来るのをじ
っと待ち続けたが、人々は自《みずか》らの手でそれを成就させるため、最後の戦いを挑んだのだ」
私が語るにつれ、男の顔が陶酔から覚めていく。血に流れる屈辱と憤怒の記憶を思い出した
のか、その秀麗な顔が歪み、開かれた口からは、白く生々しい牙が覗《のぞ》く。
「それは以前にも増して激しい戦いだった。その戦いに負ければ、人類種は地上から消え失せ、
世界は闇《やみ》に染まる。主義主張や個々人の思惑《おもわく》を超えた、種としての生存本能に導かれた、ある
いは最も純粋な戦いだった」
「…………」
初めて聞く前時代史に、リロイは興味と驚嘆を隠し切れない表情だ。それもそのはず、五千
年前の前時代文明の記録など、今はほとんど残ってはいないのだ。長きにわたった戦いは、後
世に伝えるべき文明の痕跡《こんせき》を、地上から消し去ってしまうほどの戦禍《せんか》を残したのだから。
「存在と未来を賭《か》けた最後の戦いに、辛《かろ》うじて人類は勝利した。だが、決して喜ぶべき結末で
はなかった。世界中にあった都市群は、何世代にも及んだ戦いによって無惨に打ち砕かれ、p
国どころか街を一つ維持できるかどうか、というわずかな数しか生き残りはいなかった。文明
はこの戦いで完全に崩壊し、人々は生きる糧《かて》を失ってしまったのだ。
生き残った少数の人々は、原始の生活を余儀なくされた。しかも、勝利したとはいえ、〈闇
の種族〉のすべてを葬れたわけではなかった。まだ生き残り、闇に潜む彼らの脅威は、それか
らも長く人々を苦しめた。
戦いが終わったとき、〈ラグナロク〉シリーズは、わずか数体しか残っていなかった。戦乱
の中でどこへともなく失われ、また破壊されたのだろう……。
そして私も、主人の死とともに、長い間眠りに就くことになったのだ」
「……俄《にわ》かには信じられない話だが、おまえがそんな嘘《うそ》をつく理由もないしな」
リロイは、私に信頼の眼差《まなざ》しを向けた後、男を視線で刺し貫く。
「それに、〈闇の種族〉がなぜおまえに目をつけたか、よーく分かった。古い敵《かたき》、というやつ
だな」
「その通り」
男は、再びこちらに進み出る。
「〈ラグナロク〉は、我々の大敵、恩讐《おんしゅう》の相手。その存在を認めることは、五千年の時を経て
も許されん。最後の一体に及ぶまで破壊し、消し去らねばならない。さすれば、再び我々が世
の覇権を握る日も訪れよう」
男は詩句でも口ずさむように朗々と言った。その紫紺の瞳に、陶酔と敵讐《てきしゅう》の憤激が燃え上が
る。
フェンリルが、ぐるる、と喉《のど》を鳴らした。
(〈闇の種族〉はあらゆる生命の仇敵《きゅうてき》。その支配を甘んじて受ける気などさらさらない。命を
賭《と》して立ち向かうのみ)
「その通りだ。滅びるのは俺たちではなく、おまえたちだ」
リロイとフェンリルは、その言葉を発して戦闘態勢に入った。ごうごうと燃え盛る炎は、い
よいよ勢いを増していく。だが、この男を前にして、消火活動などと悠長なことはいっていら
れない。
「フェンリル、ここは俺にまかせて、エフィルたちを頼む」
リロイは男から目を離さずに言った。
フェンリルから、躊躇《ちゅうちょ》の気配が感じられた。しかし、すぐに、
(承知した。すぐに駆けつける)
頼もしい言葉を残し、銀狼《ぎんろう》は軽やかに階段を駆け上って行った。
男はそれをあえて邪魔はしなかった。この私しか目に入っていないのだろう。
男は両腕を広げ、マントをばさりと打ち広げた。
「我が名はシャルヴィルト。汝《なんじ》の死をもって、この名を讃《たた》えるがいい」
「その名は、地獄で冥王《めいおう》にでも告げろ!」
男の繊細にも見えた口もとが、一気に耳まで裂けた! そこにずらりと並ぶ牙、そして全身
から放たれる血と腐敗臭。
「リロイ、こいつは吸血鬼《ヴァンパイア》だ!」
思わず声が大きくなる。
吸血鬼といえば、最も有名で、最も恐れられている眷属《けんぞく》の一つだ。永遠に近い生命と不死身
の肉体、そして絶大な超能力を有するこの上級眷属は、人間の血液を養分にして若さと力を保
つ。前時代の戦いでも、闇夜《やみよ》の魔人として恐れられた眷属だ。
リロイは、一直線にシャルヴィルトに疾走した。剣は紫電となって叩きつけられる。私の刃
をもってすれば、いかな吸血鬼でもただでは済むまい。
シャルヴィルトの動きは、なめらかで優雅でさえあった。〈ラグナロク〉の一撃を受ける愚
を悟っているのか、マントをひるがえし、最初の一撃をやりすごす。まるでリロイの太刀筋《たちすじ》を
知りつくしているかのような動きだ。
一撃目を躱《かわ》しながら、身体を開き、リロイのふところにすいっと潜《もぐ》り込んでくる。
ぴたり、と広げられた掌が、リロイの腹部にそっとあてがわれる。
その緩やかな動きからは想像できない衝撃が、リロイの身体を軽々と弾き飛ばした。くるく
るっと錐揉《きりも》み状になって、リロイは壁に激しく叩きつけられる。
「げうっ」
くぐもった呻《うめ》きとともに吐き出されたのは、血の混じった胃の内容物だった。たった一撃で
内臓に損傷を与えるとは、何と重い一撃だ。あの技を受ける瞬間、咄嗟《とっさ》に飛び退《の》いて威力を軽
滅していなければ、ダメージはこの程度ではすまなかっただろう。
「やりやがる」
リロイは口の中に残った血を吐き出し、勢い良く立ち上がった。今のリロイには、傷の痛み
よりも、敵の攻撃を蝶し切れなかったことへの痛恨の念の方が大きい。
炎はさらに広がっていた。シャルヴィルトの背後でも、立ちのぼる火炎が獣のように蠢《うごめ》き、
天井《てんじょう》に食らいつかんとしている。
熱気も相当なものだ。リロイのこめかみを、汗が伝って落ちる。
「この火事は、おまえの責任だな」
私の冷静な一言に、
「いや、あいつらのせいにしておこう」
と、リロイは床に倒れている禍蜘蛛《まがぐも》を顎《あご》で指し示した。
この悪党。
立ち上がり、油断なくシャルヴィルトを見やりながら、リロイは思い出したように言った。
「吸血鬼が相手なら、にんにくとか用意した方が良かったな」
「それは迷信だ。聖なる十字架や流れ水も、彼らの力をほんの少し低下させるにすぎん。いざ
戦いとなれば、おまえが助平だということぐらいにしか、影響はない」
「何てたとえを出しやがる」
リロイは苦笑を浮かべた。無駄口を叩ける余裕があれば、まだまだ大丈夫だ。
「どうした〈ラグナロク〉の戦士よ。だらしがないではないか」
シャルヴィルトは、リロイを見下すように嘲笑《ちょうしょう》した。上級眷属、特に吸血鬼たちのように人
間を餌《えさ》としている眷属は、人間を過少評価し、弱い存在と見なす傾向がある。
そこに付け入る隙《すき》があるといえば、ある。
「〈ラグナロク〉を手にしたところで、脆弱《ぜいじゃく》な人間などでは相手にならんということが、身に
染《し》みて分かったか。しょせん餌にすぎんのだよ、人間など」
シャルヴィルトは、まさに得意の絶頂だった。かつて同族を苦しめた私たち〈ラグナロク〉
を破壊できることに、歓喜と誇らしさを感じているようだ。
「そんなセリフは、俺の息の根を止めてから、屍《しかばね》に向かって言うんだな」
リロイは挑むような眼光を叩きつけた。
それを受けて、シャルヴィルトの切れ長の目が細められる。愉快そうに。
「では、遠慮なくその命いただこう」
二人は同時に動いた。シャルヴィルトはマントをなびかせて直進し、リロイは転がっている
椅子を蹴《け》り上げながら横に走る。
次々と蹴り上げられる椅子が、シャルヴィルトの行く手を阻む。そのことごとくを、指先か
ら発する不可視の力が粉々に打ち砕いた。それはやがて、リロイにも向けられる。
間一髪《かんいっぱつ》でそれを避ける。リロイの背後の壁が、まるで巨大な鉄球を打ち込まれたようにへこ
み、砕けた。不可視といっても、そのエネルギーは微妙に空間を歪めている。到達スピードか
らすれば些細《ささい》な現象だが、リロイの動体視力からすれば十分だ。躱《かわ》すのはそう難しいことでは
ない。
シャルヴィルトの攻撃は、空間を歪曲《わいきょく》させ、それがもとに戻ろうとする反動の力を利用した
ものだ。空間の維持能力は強力で、大きな空間の乱れとそれにともなう修正の余波は、建物一
つ、街一つを簡単に飲み込んでしまう。
シャルヴィルトのそれは、局所的なものだ。
それでも、十分な脅威ではある。
もしリロイが再び突撃していたら、この力に四肢を砕かれていたかも知れない。上手《うま》い牽制《けんせい》
だったといえよう。
リロイは右に左に攻撃を躾しながら、神速の動きで間合《まあ》いを詰めてゆく。剣を横一文字に構
え、必殺の一撃を首筋に叩き込もうと力を溜《た》めている。吸血鬼を倒すには、心臓を抉《えぐ》り出して
燃やしつくすか、胴から頭を切り離して潰《つぶ》してしまうか、この二つの内のいずれかしかない。
齢《よわい》を重ねた吸血鬼ともなると、ダミーの心臓を持っていたり、首を切り離しても遠隔操作で
身体を操る者もいる。
シャルヴィルトがどれほどの齢を重ねているかは不明だが、まだそれほどの超常能力を持ち
合わせていないことを祈るしかない。
間合いぎりぎりの所に、リロイは足を踏み入れた。目前の空間がぐにゃりと歪むが、身をか
がめてそれを躱す。そして上体を起こす反動を利用して、一気に斬撃を叩き込む!
シャルヴィルトは両腕を交差させ、マントの裾を、ばっ、とひるがえした。
ザムッ! と肉を切る音。
赤い血が飛び散り、炎に焼かれて蒸発する。
シャルヴィルトはマントをたくし上げ、その鋭い刃になっている裾についた血を、長く伸び
た赤い舌でぺろりと舐《な》め取った。
二の腕を斬《き》りつけられたリロイは、やむなく後退し、その傷の深さに舌打ちする。押さえる
掌の間から、血がどくどくと溢《あふ》れ出している。
これで、容易には近づけなくなった。不可視のエネルギー波をかいくぐっても、間合いの広
いマントの刃が迎え撃つ。下手《へた》に突っ込めば、首を切断されてしまう。そこらの剣よりはよっ
ぽど鋭い武器だ。
「手を貸そうか」
私は見るに見かねて提案した。
「いや、任せておけ」
リロイはそれを跳ね除《の》ける。その表情に迷いやためらいはない。安易に助けを求める男では
ないが、意地を張って無理をする奴でもない。
まだしばらくは、静観していよう。
シャルヴィルトは、マントの端を腕にからめ、それをひらひらと闘牛士《マタドール》のようにはためかせ
た。
挑発だ。
リロイはあえてそれに乗った。
超高速移動からの、目にも留まらぬ斬撃の連打。斬り落とし、突き入れ、横薙《よこなぎ》に振り払う。
それらはまさに一陣の烈風のようにシャルヴィルトに襲いかかった。
シャルヴィルトは巧みにマントを操り、身体を華麗に捌《さば》き、この雷光の如《ごと》き攻めを踊るよう
に躱す。
リロイは休む暇も与えず、さらに速度を増した。その攻撃が無数の銀光にしか見えなくなる。
それを捌くシャルヴィルトの動きも、漆黒の残影にしか見えない。二人の激突が生み出す衝撃
波が付近の火炎を煽《あお》り、床板やテーブルを打ち砕く。
スピードは、リロイに分があった。徐々にシャルヴィルトは押されていく。剣の切っ先が幾
度かかすめ、マントや腕に裂傷を与える。
シャルヴィルトは己の劣勢に気づくと、攻撃をかいくぐり反撃をしながらも、それに合わせ
て空間歪曲能力を行使した。
リロイが、にやりと笑う。
二人は近接戦闘の最中だ。当然、空間歪曲の始点は、二人の間の狭隘《きょうあい》な空間に生まれる。
その瞬間、リロイは身を捻《ひね》って伏せながら、その歪曲した空間に、刀身を力まかせに叩き込
んだ。
バカンッ!
まるで爆弾が爆発したような轟音《ごうおん》とともに、リロイの背中、シャルヴィルトの目の前で、空
間がはぜ割れた!
これを狙って、リロイは接近戦に持ち込んだのか。
歪曲され売空間は、ある固体にぶつかることによって、その反作用から一定の空間に破壊の
エネルギーを生み出す。
ではその歪曲空間に、固体ではなく破壊のエネルギーをぶつけたらどうなるか。
その答、又がこれだ。通常の反作用爆発の数倍に匹敵するエネルギーが膨脹し、破裂する。
理論はどうあれ、直観的にこれを見出《みいだ》し、戦いの中で実践《じっせん》してのけたリロイの戦闘に関する
天賦《てんぶ》の才には、ほとほと敬服する。
「ざまあみろ!」
地に伏せてごろごろと転がっていたリロイは、思わず喝采《かっさい》する。咄嗟《とっさ》に避けたとはいえ、背
中に少なからず衝撃を食らって、顔は苦痛に歪む。
シャルヴィルトはそれだけでは済まなかった。あの至近距離でエネルギーの奔流に巻き込ま
れたのだ。
のけぞったシャルヴィルトの右腕は肩口からごっそりと失われ、顔全体が眼球が飛び出るほ
どに抉《えぐ》れ、頭が半分飛び散っていた。衝撃を真面《まとも》に受けた身体の前半分は見るも無残に引《ひ》き千《ち》
切《ぎ》れ、弾け飛んでいる。
ぽとり、と糸を引いて、眼窩《がんか》から眼球が床に落ちて潰《つぶ》れる。牙だけが剥《む》きだしになった口も
とが、かちかちと歯を鳴らす。
「おの……れ……」
怨嗟《えんさ》の呟きが、地獄の底から噴き上がってきたかのように、しゅうしゅうと牙の間から漏れ
る。
それに戦《おのの》く暇はない。
リロイは追撃に立ち上がり、よろよろと後退するシャルヴィルトに向かう。
その瞬間、開かれたままだった戸口から、二本の黒い流線が飛び込み、意表を突かれたリロ
イの頬をしたたかに打ちつけた。
先程の爆発の余韻が残っていたリロイは、受け身も取れず、無様《ぶざま》に後ろ向きに倒れた。
炎を突き破って登場したのは、あの人型|松明《たいまつ》と化して燃えつきたはずの刺客だった。黒装束
は完全に消し炭になっていたが、皮膚が所々爛《ただ》れ落ち、炭化している他《ほか》は、まだまだ五体満足
の状態だ。
紅蓮《ぐれん》の炎に包まれた瞬間、細胞を耐熱強化して難を逃れたに違いない。
自分の情けない倒れ方に憤慨したものか、リロイは腹筋を使って飛び起きると、こちらに向
かってくる刺客に、雄叫《おたけ》びを上げて斬《き》りかかった。
ガキン! と剣と腕が打ち合う。今や鋼鉄の塊となった刺客の両腕が、リロイに打ちかかる。
見れば、シャルヴィルトはこちらに背を向けていた。
「逃げるのか、蝙蝠《こうもり》野郎!」
ぶうん、ぶうんと稔《うな》りを上げて振り回される鋼鉄の腕を避けながら、リロイは怒鳴った。
振り返ったシャルヴィルトは、恥辱のあまり憤死しそうな表情を、残った瞳に漂わせ、がり
がりと牙を噛《か》み合わせた。
「……これほどの屈辱、忘れはしない。誇り高き我が名にかけて、必ずや貴様の命、最後の一
滴まで啜《すす》ってやる」
「空《むな》しいな、負け犬の遠吠えは!」
このリロイの挑発に、シャルヴィルトは再びこちらに向き直った。己より劣っているはずの
人間にこれほどの侮辱を受け、高潔なる吸血鬼は、我を忘れて掴《つか》みかかろうとした。
そこに、戸口から第二の影が。
義憤に燃える銀狼フェンリルの牙が、がっちりとシャルヴィルトの残った腕を咥《くわ》え込んだ。
ぐいっと顎《あご》を捻ると、ぶちり、と生々しくも痛々しい音を立て、腕は根もとから引っこ抜か
れる。
フェンリルは反撃を予想してすぐさま飛び退《の》いた。一瞬前まで銀狼がいた辺りの空間が歪《わい》
曲《きょく》し、床がごっそりと消滅する。
「きゃっ!」
「何だ?」
リロイは盟友の登場を胡乱《うろん》な顔つきで迎えた。この場にふさわしくない甲高《かんだか》い声が、白々と
流れる。
(なかなか放してくれなかったものでな)
フェンリルは苦笑いでも浮かべそうな口調で、背中にしがみついてぎゃあぎゃあわめいてい
る少女をちらりと見上げた。
「何なのよぉ、これは?」
エフィルは、全身ぼろぼろのシャルヴィルトと、火傷《やけど》の痕《あと》も生々しい刺客《しかく》の姿を視界に収め、
悲鳴を上げた。
どこまで迷惑をかければ気が済むのか、この少女は。
「邪魔……が、入ったか」
シャルヴィルトはたどたどしく言って、憎しみに燃える隻眼《せきがん》をリロイに向けた。
「次は、必ず……」
その呟きを残し、シャルヴィルトの姿が、まるで消えゆく蜃気楼《しんきろう》のように霞《かす》んでいく。
フェンリルが飛びかかったが、その前足が届く前に、吸血鬼の姿は完全にその場から消滅し
ていた。
空間を渡って、退却したのだろう。現れたときもそうだったに違いない。二つの地点の間の
空間を縮め、一瞬にして移動する〈空渡り〉も、吸血鬼ほどの上級眷属ならば歩くぐらいに容
易なことだ。
リロイはそれを悔しげに視界の隅で捉《とら》えながら、怒濤《どとう》の如《ごと》く斬撃を繰り出した。シャルヴィ
ルトでさえ退けた連続攻撃は、中級レベルの眷属に捌《さば》けるものではなかった。
シャルヴィルトを討ち逃した悔しさを晴らすような激しい攻撃に、さしもの鋼鉄の身体も長
くは持たなかった。
フェンリルが加勢するまでもなく、四肢バラバラに切り刻まれた刺客は、断末魔の悲鳴も上
げずに肉片となって転がった。
それを見て、うえっ、とエフィルが口を押さえる。
(ここはもうもたない。早く逃げよう)
フェンリルの言葉に、リロイはうなずいた。
「このまま、レナとカルテイルを救出に向かおう。案内してくれ」
(カルテイル……だと?)
フェンリルは一度|相見《あいまみ》えた敵の名に反応し、ぎらり、と黄金の瞳を剣呑《けんのん》に光らせた。
リロイはそれに、戦闘の緊張と興奮の残る猛々《たけだけ》しい笑みで答えた。
「依頼が重なってる。商売繁盛だ」
フェンリルは、尻尾《しっぽ》を左右に振って、
(レナを助けてくれれば、文句はない)
もの分かりよく、そう言った。
だが、エフィルはそうはいかなかった。
「ちょっと、本気であの怪物を助けるつもりなの? あたしを助けるための嘘《うそ》じゃなかった
の?」
目をつり上げ、フェンリルの背中にしがみついたまま、捲《まく》し立てる。
リロイはうんざりしたように溜《た》め息《いき》をつき、
「それ以上騒ぐと、ここにおっぽり出していくそ」
できるだけ厳しい声色《こわいろ》で言った。
ぴたり、とエフィルは口を閉ざす。そういうところは可愛《かわい》げもあるのだが。
リロイは満足してうなずいた。
「じゃ、案内を頼む」
(承知した)
リロイたちは、燃え崩れ始めた宿の裏口に回り、脱出した。正面から出れば、宿の人間と野
次馬、そして駆けつけているだろう警備隊に捕まる恐れがあるからだ。
外は、すでに闇《やみ》が落ちていた。燃え上がる宿から噴き出す黒煙は、暗い空に溶け込んでいく。
もはや止める術《すべ》もなく、宿は辺りを紅に染めながら燃え盛っていた。
「派手《はで》にやったもんだ」
私は嘆息して言った。
「悪いことしたな……」
リロイは、肩越しに振り返り、呟いた。
これからは善後策をちゃんと考えてから、行動に移るようにするんだな、相棒よ。
「リロイ」
私が声をかけると、相棒は視線を炎上する宿から引き剥《は》がし、私へと移す。
「何だ? 文句なら後で聞くそ」
「黙っていて悪かったな」
私がそう言うと、リロイは、何だ、とでもいいたげな表情をした。
「おまえのことか? まあ、驚かなかったといえば嘘になるが――ろくでもない剣だってのは
出会ったときから分かってたしな」
そう言うか、おまえは。
「別に黙ってたところで害になる話でもなかったし……いいんじゃないのか」
「……私といれば、この先も、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉に狙われるかも知れないそ」
私は念を押すように言った。しかし、返ってきたのは、軽い調子の言葉だった。
「俺も大概狙われるからな。お互い、覚えのないことで命狙われて、大変だよな」
覚えのないことかどうかは分からないが、多分、リロイは私を気遣っているのだろう。
無器用なこの男なりに。
リロイは私を指先でこんと叩き、
「おまえは、俺の相棒だ。それで俺には十分だよ」
「そうか」
私はもしかして、この言葉を待っていたのかも知れない。そう言わせたかっただけ――その
言葉を聞いて、再確認したかっただけかも知れない。
私自身の、価値を。戦いのためだけに創《つく》られた私の、戦い以外の価値を見出《みいだ》したかっただけ
なのかも知れない。
「ありがとよ、相棒」
私は、数時間前にリロイに言われた言葉を、そっくりそのまま返した。
第4章
その古い教会は、街の片隅にひっそりとたたずんでいた。新しい教会の建設にともない忘れ
られ、寂《さび》れたその建築物は、昔日《せきじつ》の神々しさをわずかに留《とど》めるものの、廃嘘《はいきょ》特有の不気味なま
での静寂と妖気《ようき》に包まれている。
教会を中心にした一角は、街の拡大事業の推進によって捨てられたゴーストタウンだった。
人気はなく、街のざわめきが遠くにある。エフィルとロークは連れてくるわけにはいかなかっ
たので、レナの宿に移動させ、絶対に外出しないように言い置いてある。
リロイは、足下に転がる血《ち》まみれの死体を見下ろした。それの身体は人に酷似《こくじ》していたが、
関節が奇妙に曲がっていて、頭部には目や鼻がなく、大きく開かれた口が一つ、あるだけだ。
間違いなく、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉だ。
点々と、教会の入り口まで、いくつもの死体が打ち捨てられている。ここがゴーストタウン
でなければ、大騒ぎになるところだ。
「レナか」
リロイは傍らの巨大な銀狼《ぎんろう》、今やともに戦う戦友フェンリルの方を見た。
(ここに辿《たど》り着いたとたん、襲いかかってきた。ま、これぐらいは彼女の敵ではなかったが…
…)
フェンリルはぎりりと歯を噛《か》み鳴らす。
これぐらい、と言うが、累々《るいるい》たる屍《しかばね》を晒《さら》している中には、中級に属する眷属《けんぞく》と見受けられる
ものもある。どの屍も、首や心臓などの急所を一太刀にされている。レナの剣技は、やはり相
当なものだ。
リロイはフェンリルを引き連れ、赤や緑の体液に彩られた路を進んだ。その行く手を阻《はば》むも
のはない。教会の大きな画扉の前に立っても、〈闇の種族〉の邪魔が入ることはなかった。
「まさか、ここを引き払ったなんてことはないだろうな」
あまりの静寂と気配のなさに、リロイは少し不安げな呟きを漏らす。もしもここで足取りを
見失ってしまえば、レナとカルテイルの救出は非常に困難になってしまう。
一刻を争うからこそ、宿の炎上も無視する形で駆けつけてきたのだ。
(そこまでの確証はない。そうでないことを切に祈るばかりだ)
フェンリルはそう言わざるを得ない自分自身に対する憤《いきどお》りに、喉《のど》を低く鳴らした。
「……なあ、おまえは一体何に祈るんだ?」
教会の大扉に掌を当て、ふと思いついたようにリロイは尋ねた。この場に及んで、狼《おおかみ》の宗教
観が気になるというのか、この男は。
「神の概念……というか、神は人間が造り出したものだろ? だったら、人間じゃないものは、
何に祈るんだ?」
(その通りだ。わたしたちに、人間でいうところの神という概念はない。祈りを捧《ささ》げるのは、
大自然の叡智《えいち》そのものだ。存在それ自体に対する祈願ではなく、存在すること、その存在の恩
恵そのものへの祈りだ)
フェンリルは敬虔《けいけん》な眼差《まなざ》しで答えた。
「その方が正しいよな」
リロイは分かったようにうなずく。どこまで理解していることやら……。
「おまえでも神の存在が気になるときがあるのか、リロイ」
「いや。俺は端《はな》から神なんて信じてない。信じられるような生き方してないしな」
リロイは苦笑らしきものを浮かべ、それから、憎しみと戸惑いの視線を屍《しかばね》たちに向けた。
「奴らは――〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉は祈ることがあるのか、と思ってな。祈るとすれば、一体何に祈る
んだろうかと」
「本人に聞いたらどうだ? 少なくとも、私は、奴らが祈るほど殊勝だとは思えないが」
私は、自分でも冷ややかだと思うほどの声色で言った。それに、リロイは少し驚いたように
私を見やり、神妙な顔つきになる。
「五千年の仇敵《きゅうてき》か。……でも、俺にはたったの二十数年だ。憎しみだけじゃなく、興味もある。
他人事《ひとごと》とは思えないしな」
「私に追従する必要はない」
私が言うと、リロイは肩をすくめる。もとより、追従など考えもしない男だ。
(奴らが人間の祈りの場所を隠《かく》れ家《が》に選んだのは、一種の嘲《あざけ》りだろうか?)
フェンリルはぼそりとこぼし、シニカルな雰囲気を顔に漂わせた。人語を駆使するだけあっ
て、表情豊かな狼《おおかみ》だ。
リロイは、ぐいっと大扉を開いた。錆《さ》びついた蝶番《ちょうつがい》が、ぎぎいっ、と大きな悲鳴を上げる。
「嘲るなら、嘲ればいい。奴らが俺にできることは、その程度だ」
不敵な笑みが、相棒の顔を覆った。神学者の如《ごと》き言葉よりも、この血に飢えた餓狼《がろう》のような
表情の方が、リロイには似合う。
おっと、餓狼という表現は、フェンリルに失礼だったか。
リロイはさすがに、慎重に教会の中に足を踏み入れた。
教会の内部には、黴臭《かびくさ》い匂《にお》いが充満していた。天井に嵌《は》められたステンドグラスを通して、
七色の月光が、舞い上がる埃《ほこり》を浮かび上がらせている。しん、と静まり返った教会内は、そこ
が神に祈りを捧げる聖域であることを思い出させるに足る神秘さに満ちていた。
だが、それをなお抑え、開かれた扉に押し寄せてきたのは、烈風のように吹きつけた禍々《まがまが》し
い鬼気だ。その圧倒的な暗黒の波動は、リロイの歩みをさえぎり、外に押し返すかのように放
たれていた。
にやり、と頬を歪め、リロイは次の一歩を踏み出した。この程度で怖《お》じ気《け》づくリロイではな
い。むしろ、これほどの存在感を持つ相手と対峙《たいじ》することに、喜びすら見出《みいだ》している表情だ。
その喜びが、彼自身のものか、それとも相棒の中の獣の喜びか――それは分からない。
フェンリルも全身の毛を逆立てながら、ゆっくりとした足取りでリロイに続く。黄金の瞳は
復讐《ふくしゅう》の怒りに燃え、牙は血を求めて鈍く光を放つ。
教会内の造りは長方形で、手前から奥まで、礼拝者用の椅子が整然と並ぺられている。そし
て一番奥には説教壇があり、その背後に聖なる十字架が掲げられている。
「……何てことを」
リロイが思わず漏らした呟きには、驚愕《きょうがく》を怒りで燃やしたような枯《か》れた響きがあった。
(レナ!)
先に飛び出したのはフェγリルだった。フェンリルが向かうのは、聖なる十字架。そこには、
殉教者の姿ではなく、傷つき憔悴《しょうすい》したレナが磔《はりつけ》にされていた。そして説教壇には、カルテイル
が横たわっている。傷はすでに回復しているようだが、意識はない。
「待て、フェンリル!」
この場合、珍しいことにリロイの方が冷静だった。他人が取り乱すのを見ると自分は妙《みょう》に落
ち着いてしまう、という人間の性質だろう。
私を鞘《さや》から抜き放ち、周囲に気を配りながらも、リロイはフェンリルを追って教会の奥に突
き進んだ。
ふと、ステンドグラス越しの月光が陰《かげ》る。
反射的に、リロイはその影の下から逃げ出すようにして、横に飛ぶ。
ふわり、と重力を無視したゆったりとした動きで、その影は床に降り立った。
「再びあい見《まみ》えたな、〈|黒 き 雷 光《ブラック・ライトニング》〉」
ばさり、と黒マントをひるがえし、吸血鬼シャルヴィルトは凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべた。
「さっき会ったところだろ」
リロイは憎まれ口を叩きながらも、シャルヴィルトを見て感嘆せずにはいられなかった。
あれほどのダメージを受けていながら、この短時間でほぼ全快している。一見しただけでは、
あれほど傷ついていたことでさえ疑わしい。上級|眷属《けんぞく》の回復力は無限大か。
椅子と椅子の問という戦うにははなはだ不便な場所で、リロイは剣を両手で構え直し、ふん、
と鼻を鳴らす。
「せっかく治ったところで悪いんだが、邪魔するならもう一度痛い目にあうぜ」
「図に乗るな、下等動物め!」
シャルヴィルトは、長く伸びた牙を剥《む》き出《だ》しに、低く唸《うな》った。紫紺の瞳は、そこが瘴気《しょうき》の吹
き溜《だ》まりででもあるかのように、暗く邪《よこしま》な光を吐き出している。
剣の切っ先を左に向けて、リロイは無言のまま飛んだ。
左から右へ、横殴りの一撃が、空気を切り裂いてシャルヴィルトの首もとに叩き込まれる。
わずかに後退し、シャルヴィルトは紙一重でそれを躱す。
剣の切っ先は、右から左へと、軌道を逆戻りして再び襲いかかる。
これも、軽いステップで躱される。
だが、躱される直前、慣性の法則を無視したような動きで、切っ先はシャルヴィルトを追っ
て突き込まれた。切っ先はシャルヴィルトの頬の肉を抉《えぐ》り取り、その血で刀身が濡《ぬ》れる。
シャルヴィルトの双眸《そうぼう》が、憤怒に輝いた。人間に二度までも傷つげられた屈辱が、美しい顔
を醜く歪める。
リロイの動きはいよいよ鋭さを増していた。
そして剣を右手一本で握り直し、左手は、ふところからすでに銃を抜《ぬ》き放っている。
銃口が、零《ゼロ》距離でシャルヴィルトの胸に向けられた。
「愚かな」
その呟きは、連続する銃声に重なってかき消された。
弾倉に込められていたのは、炸裂弾《さくれつだん》だ。
シャルヴィルトの胸上で小爆発が立て続けに起こり、彼の身体は衝撃で跳ね上がった。まる
で糸に引かれるように宙を飛び、教会の壁に激突する。
飛び散った肉片と血潮が、その軌跡を彩る。
だが、どんなに肉体を破壊しようとも、通常武器では吸血鬼の生命は断ち切れない。
それを証明するかのように、シャルヴィルトはぽたぽたと血をこぼしながらも、すっくと立
ち上がった。破れた腹腔《ふくこう》から、赤黒い腸が飛び出している。だが、彼の顔に苦痛や憔悴《しょうすい》の色は
ない。
リロイもそれは承知していた。
シャルヴィルトが立ち上がり体勢を整えるより早く、無数の残像が残るほどの神速で斬撃《ざんげき》を
繰り出した。
あくまで銃は牽制《けんせい》だ。
腕がそれこそ何本にも増殖したように見えるリロイの攻撃を、命に別条はないとはいえ、今
のシャルヴィルトに躱《かわ》せるとは思えない。
だが、シャルヴィルトは、赤い唇に笑みの形を象《かたど》った。
背後に膨れ上がる、もう一つの殺気。
慌てはしなかったものの、リロイは忌ま忌ましげに舌打ちして、振り返りざまに剣の一撃を
浴びせかけた。
躱される。
左下から伸び上がるようにして向かってくる、鈍く光る刃。
身体を回転させながらそれを躱し、剣を足下に叩きつける。
剣が食い込んだのは、教会の床だった。
リロイは右足だけで跳躍し、間合いを取った。そして背後からの襲撃者を見て、顔を歪《ゆが》める。
「リリィ――」
何ということだろうか。そり返った短剣を手に立ち上がり、濁った瞳をこちらに向けてきた
のは、あのアイリィという名の少女だった。
「ほほう、その少女、おまえと知己《ちき》であったか」
シャルヴィルトは、悦に入った表情で言った。
「あの女剣士にあらかたの僕《しもべ》を殺されてしまったからな。新たに僕を探していたら、その少女
がふらふらと街を放浪していたのだ。なかなかの戦闘能力を有していたので、僕に加えてやっ
たが、まさかおまえに縁のある娘であったとは……」
残忍な含み笑いが、静寂の中に流れた。
アイリィは短剣を構え、猫のような足取りでこちらに間合いを詰めてくる。瞳は輝きを失い、
虚《うつ》ろな眼差《まなざ》しをそれでも殺気だけは湛《たた》えてリロイに向けている。唇の間からは、牙の先端が覗《のぞ》
いている。
完全に、シャルヴィルトの僕《しもべ》と化しているようだ。
こうなってしまっては、彼女の命を絶つより他に、闇《やみ》に染まった魂を解放してやれる方法は
ない。
だがそれは、リロイにとっては苦しい選択だ。二度までもその命を助けた相手を、三度目の
正直で倒せるだろうか?
まさか、決断の時がこれほど早く訪れようとは。運命の過酷さは、容赦がない。
「リリィに……意識はあるのか?」
リロイは、どこか冷めた口調で、そう私に尋ねた。
「いや、ないだろう。吸血鬼の僕となった人間は、体内にウィルスを注入されている。そのウ
ィルスは血管を通して脳に侵入し、脳細胞を食い荒らす……完全に神経系統を破壊したら、そ
れにウィルスが取って代わり、身体を操る。
アイ――リリィは、今やシャルヴィルトの完全な操り人形だ」
「そうか」
リロイの声はかすれていた。
「辛《つら》いなら、私が手を貸そうか?」
「必要ない」
はっきりとそう言ったリロイの表情は、まるで能面のように無表情だ。人はあまりに辛いこ
とがあると、表情をなくしてしまうというが……リロイはそうではあるまい。感情を完全に押
し殺してしまったが故のこの表情だ。
リロイは、リリィを手にかける決心を固めたのだ。
だが、吸血鬼の虜《とりこ》となった人間は、肉体の損傷を気にすることなくフルパワーで向かってく
る。全能力を傾けてくる暗殺者と、シャルヴィルトを牽制《けんせい》しながら、どのように戦うか……。
「シャルヴィルト」
リロイはアイリィとの間合《まあ》いを計りながら、こちらの様子をうかがっている吸血鬼に言った。
「僕《しもべ》にする相手は、よく選ぶべきだったな」
「貴様もすぐに、僕にしてくれるわ」
シャルヴィルトは、憎むべき相手に一矢報《いっしむく》いた高揚感に浸っていた。だが、リロイの雰囲気
が変わってきているのにめざとく気づき、眉根《まゆね》をかすかに寄せた。
それは、気の高まりだった。徐々にではあるが、リロイの発する闘気が膨れ上がっていく。
まるで、獣化するときのように。
それに気を取られることなく、アイリィが先手を取った。規則正しく並べられた椅子の間を、
一個の弾丸となって疾走する。
何かが風を切って飛来した。
アイリィの武器である透明の球体だ。その速度も、かつてのものとは比べるべくもない。
さすがに躱《かわ》せないか? 私の中で、瞬間的に不安が爆発する。
しかし、このときのリロイの戦闘能力は、私の知っているそれを遥《はる》かに上回っていた。
リロイは、横殴りの雨のように無数に打ち出されるその武器を、驚くべき正確さで打ち払っ
た。目では到底|捉《とら》え切れない見えざる武器を、相棒はカンだけを頼りにことごとく撃墜する!
アイリィはそれに驚きもせず接近すると、身をかがめ、突進してきた。そして予想通り、シャ
ルヴィルトが呼応して攻撃を仕掛けてくる。
空間の歪みが、先の戦いとは異なり、リロイをアイリィごと押し潰《つぶ》そうと広範囲にわたって
広がった。
操り人形のアイリィには、それを恐れる気持ちがない。まったく意に介さず、スピードを緩
めるどころか加速して突きかかってきた。このままでは、どちらかの攻撃に身を晒《さら》すはめにな
る。
必殺を確信し、シャルヴィルトは目を細め、血の味を想像でもしたのか、赤い舌で唇をぺろ
りと舐《な》めた。
だが、彼の視界に、ばさりと黒い帳《とばり》が広がる。
同時に響く轟音《ごうおん》。
足下の床と椅子が砕け、細切れになって飛び散る。しかし、リロイをも砕くことはできなか
った。
黒い翼が、空間の歪みが引き起こす衝撃波から、リロイの身を守ったのだ。
余波を食らったアイリィの身体がバランスを崩し、隙《すき》が生まれた。
リロイはそれを逃さなかった。
「すまない」
ぐさり、と剣は根もとまでアイリィの心臓を貫き通した。それをさらに捻《ひね》り、渾身《こんしん》の力で肩
口から引き出す。
歪みの余波が、吹き出した鮮血をまき散らし、リロイの頬にもべったりと張りついた。
アイリィの小柄な身体は、噴き出した血に赤く覆われながら、宙をきりきりと舞った後、椅
子の上にどさりと落下した。
これで、再びアイリィが起き上がることはない。吸血鬼の僕《しもべ》は、心臓を引き裂かれると絶命
する。ウィルスは血液に潜《ひそ》んで全身を巡っているため、その源《みなもと》が破壊されると、肉体を操るこ
とができなくなるのだ。
リロイは眼光鋭くシャルヴィルトに向き直った。椅子の上で血の海に溺《おぼ》れているアイリィに
は、もう一顧《いっこ》だにしない。
非情なまでに戦士に徹している。
哀《かな》しいが、その強さが今は必要だった。
シャルヴィルトは、会心の波状攻撃を躱《かわ》され、僕《しもべ》をも奪われた怒りと屈辱に、唇を歪め、拳《こぶし》
を握り締めた。その紫紺の瞳は、リロイの背後に向けられていた。
彼の背中から生えている、黒い翼に。
「貴様……何者だ?」
シャルヴィルトが発したその問い。その問いの答えを最も望んでいるのは、リロイ本人に違
いあるまい。
リロイは、窮地を救った黒い翼を、忌まわしげに見やった。投げかけられた問いに、彼は答
えることができない。
そう、カルテイルと同じように。
「俺は、人間だ」
リロイはそれでも言った。答えというよりも、それは願いに近かった。しかし、その言葉を、
背中の翼が哀しいほど裏切っている。
この事態をどう受け止めるべきだろうか。
リロイの獣化は、恐らく遺伝子に原因がある。彼の遺伝子に含まれたある因子が、獣化を促
しているのだ。それがもともと人間の遺伝情報に含まれていたものか、それともまったく別の
経路から組み込まれたものか、私には分からない。分かっているのは、その因子が活動するの
は、リロイが致命傷を受け、死に瀕《ひん》しているときだけだということだ。
それさえも、確実なわけではない。
相棒の獣化には不安定な要素が多すぎる。
そして、この翼だ。このような一部分だけの獣化は、初めてのケースだ。
遺伝子の中のその一因子が何らかの意志を有し、リロイの意識、魂とリンクして、身を守る
ために部分的獣化を行ったのだろうか?
リロイは言っていた。変貌《へんぼう》する瞬間、確かに何らかの意志を感じたと。
そうだとすると、私は戦慄《せんりつ》を覚えずにはいられない。その謎の因子は、リロイをどこへ導く
つもりなのか? 彼の存在は、魂は、一体どうなってしまうのか?
否《いな》。
遺伝子の中の意志を持った因子――それはあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な想像だ。そんなことがあるは
ずがない。リロイの言葉も、別の存在へと変わってしまう恐怖が生み出した幻影に違いない。
……そうであって欲しい。
一瞬の間《ま》の後、低い含み笑いが流れた。
「人間だと? わたしは見たことがないよ、背中に翼の生えた人間などはな」
シャルヴィルトに言われ、リロイはぎりっ、と歯を食いしばった。
紫紺の瞳は、興味深げにリロイの身体を舐《な》め回した。
「どうりで人問にしては手強《てごわ》いはずだ。膂力《りょりょく》、動体視力、反応速度――どれをとっても、わた
しの知る人間の限界を優に超えていたのだからな。
それに、その姿だ。その姿を人が見れば何と言うか、分かるか?」
「…………」
リロイは無言のまま、自分の掌に視線を落とした。掌に浮かぶ血管が、いつもより黒く見え
る。皮膚も、わずかに硬質化している。
シャルヴィルトは、邪悪そのものの笑みを浮かべ、苦悩するリロイに言い放った。
「人々はおまえを指してこう言うだろう。
〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉、と」
「黙れ!」
ガキンッ!
シャルヴィルトの投げかけた言葉を宙で叩き切るように、リロイは剣を振り下ろした。その
まま切っ先で床を抉《えぐ》りながら、すくい上げるような一撃を、シャルヴィルトに送り込む。
ふわり、と重力の楔《くさび》を断ち切るように、シャルヴィルトは宙に飛んで逃れた。
「どうしたシュヴァルツァー。わたしとおまえは同じ種族だ。なぜ戦う必要があるのだ? と
もに人間どもを滅ぼし、種の繁栄を導こうではないか」
「黙れ、と言ってる」
リロイはシャルヴィルトを見上げ、鼻面《はなづら》に獰猛《どうもう》な皺《しわ》を寄せた。
「俺はこれまで人間として生きてきた。そしてこれからもだ。たとえ身体がどうなろうとも、
人間の心だけは絶対に捨てない!」
リロイの怒号に、上空から嘲笑《ちょうしょう》が浴びせられる。
「そんなにいいものか、人間が? 貴様の心の中に、人間に対する憎しみと怒りがないとでも
いうのか? 迫害され、疎《うと》まれた記憶が、貴様のその言葉を裏切っているぞ。どこまでも卑劣
で薄汚い人間に、おまえ自身、絶望しているのではないのか?」
シャルヴィルトは、その超能力でリロイの記憶に忍び込もうとしている。奴の言葉は、まさ
にリロイが私に漏らしたものだ。自身が嫌悪《けんお》する弱く脆《もろ》い部分を覗《のぞ》き見られ、リロイは嫌悪も
露《あらわ》に激昂《げっこう》した。そう、その怒りは、まさに自分自身へも向けられたものだった。
「絶望したのは人間に対してじゃない、そう考えた自分自身、人間を捨てようなんて思った自
分自身にだ! 誰も認めなくても、俺が自分で認めるために、戦ってきた。それを捨てたりは
しない!」
「……なるほど、貴様の中に見える二人の人間――それが理由か」
さすがの吸血鬼も、強固な精神力を持つリロイの心には深く入り込めないでいるらしい。し
かし、表面だけとはいえ、自分の心に土足で踏み入れられたリロイの怒りは凄《すさ》まじかった。
喉《のど》の奥、腹の底から噴き出した憤怒の雄叫《おたけ》びが、天に向かって放たれる。
それを受けたシャルヴィルトは、鋭く息を吐き出し、足下のリロイを睨《ね》めつける。
「よかろう。人間として死にたければ、そうしてやる。虫ケラのように潰《つぶ》れろ!」
シャルヴィルトを支点として、空間の歪みがほぼ教会内全域にわたって広がり、頭上から覆
い被《かぶ》さるようにリロイに迫ってきた。
これでは、いかに神速を誇ろうとも逃げられない。
刹那《せつな》、大爆発が起こった。
巨大な空間の歪みと復元作用が、耳を聾《ろる》する轟音《ごうおん》と激しい衝撃波をともなって、教会内を吹
き荒れた。床は衝撃で撓《たわ》み、引き裂かれ、壁が粉々に打ち崩される。ステンドグラスが砕かれ、
きらきらと輝きながら余波に巻き上げられる。椅子は飛び散り、アイリィの死体も人形のよう
に吹き飛ばされた。
屋根が衝撃に耐えられず、ぐらりと傾き、あえなく落下する。
もうもうと粉塵《ふんじん》が舞い、一瞬で瓦礫《がれき》となった教会を、神の目から隠すように覆い包む。
そして説教壇と聖なる十字架は、奇跡のように破壊の手を免れていた。月光に照らされ、闇《やみ》
の中に浮かび上がるさまは、まるで神の加護を受けた聖域そのものだ。
闇の中に浮かぶシャルヴィルトは、眼下の破壊の跡を見下ろし、悦楽の笑みをこぼした。
そして、すぐに愕然《がくぜん》として顔をこわばらせた。
リロイが、その瓦礫を押し退《の》けて立ち上がったからだ。
身体を保護するように閉じ合わされていた黒い翼を開くと、無傷のリロイが現れる。この翼
は、空間の歪みが発する衝撃と、それに続く破壊の嵐《あらし》から、二度リロイの身体を完全に守り通
したのだ。
リロイは危なげなく立ち上がり、レナとカルテイルの無事を確かめると、胸を撫《な》で下ろす。
しかし、フェンリルの姿がどこにも見えないことに眉根《まゆね》を寄せた。
教会を全潰《ぜんかい》させるほどの一撃に、リロイは、戦いに必要な冷静さを取り戻していた。だが依
然として、尽きることのない怒りの炎が、黒い瞳を爛々《らんらん》と輝かせている。
自分の力に絶対の自信を持っていたシャルヴィルトは、それがまったく通用しなかったこと
に、激しい怒りと動揺の表情を浮かべた。
空中でくるりと回転すると、頭からリロイに突っ込んできた。
リロイは腰を落とし、待ち構える。
交差は一瞬。
銀光が閃《ひらめ》き、刀身が月の光を照らして青白く燃え上がる。月をさえぎるものは何もない。
一度も地に足をつけぬまま、再び舞い上がったシャルヴィルトは、信じられぬ事態に唇を噛《か》
んだ。
リロイは、シャルヴィルトの一撃をあざやかに躱《かわ》していた。
だが、シャルヴィルトは脇腹を大きく抉《えぐ》られているのだ。断続的に吹き出す血が高みから降
りそそぎ、砕けた床にびたびたと跳ね返っている。
スピードも技量も、明らかにリロイが上回っていた。上級|眷属《けんぞく》である吸血鬼の潜在能力を鑑《かんが》
みれば、これは驚くべきことだ。
かつて私の兄弟姉妹たちを手に、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉に立ち向かった人々も、上級眷属との潜在的
な能力の差は埋められず、多くの命が奪われていったのだから。
「そこまでだな、シャルヴィルト。人の命を糧《かて》にして生き延びてきたおまえも、ここが潮時《しおどき》の
ようだぞ。俺に出会ったことを、地獄で後悔しろ」
この言葉に、シャルヴィルトは身を震わせ、屈辱を受けたことの怒りを表した。
仇敵《きゅうてき》である私にではなく、リロイの能力に劣っているという事実が、シャルヴィルトにかつ
てない屈辱を与えていた。
「貴様のような半端者《はんぱもの》に、このわたしが……」
シャルヴィルトは、唇を噛《か》み切りながら呟いた。
「認めん……認めんぞ!」
続く、咆哮《ほうこう》。
優雅な仮面をはぎ取った、闇《やみ》に生きる者の狂気が、紫紺の瞳を妖《あや》しく輝かせる。白い面《おもて》に赤
く血管が浮かび上がり、耳まで裂けた口の奥から牙の間をすり抜けて、超音波が咆哮《ほうこう》に混じっ
て放出された。
「つっ!」
鼓膜を傷つけられ、リロイは咄嗟《とっさ》に耳を押さえた。指の間から、細い血の筋が流れる。
その瞬間を狙《ねら》って、シャルヴィルトは急降下してきた。この一瞬が、戦いにおいてはまさに
命取りなのだ。
リロイは跳ねるように飛び退《の》いたが、脳を直接叩きつけるような超音波の放射に、動きはわ
ずかに遅滞している。
長く伸びた鋼鉄の爪《つめ》が、降下の勢いに乗ってリロイを襲った。
間一髪!
運動能力の上昇は、ここでも辛《かろ》うじてリロイの命を救った。喉《のど》もとを狙った爪は、
最後の一瞬で身を逸《そ》らしたため、狙いを外した。
だが、胸を横に引き裂かれて、血が大量に吹き出す。浅い傷ではない。
血の帯を空中に引きながら、リロイは大きく跳躍し、シャルヴィルトから離れた。
シャルヴィルトは追撃をかけず、余裕を取り戻した表情で、爪に付着したリロイの血を長い
舌で舐め取った。
「いかに戦闘能力が向上しようが、肉体的欠陥は如何《いかん》ともしがたいようだな。この程度の振動
に耐えられぬ脳では、その力も宝の持ち腐れだ」
この攻撃が功を奏したことで、シャルヴィルトの口調は高飛車《たかびしゃ》なものに変わった。
確かにこの攻撃を繰り返されれば、最悪の場合、脳を破壊されてしまう。
「こんなに繊細な頭だったとはな。意外だったよ」
リロイは強気《つよき》に言ったが、傷口から溢《あふ》れ出す血が、足下に血溜《ちだ》まりを造っている。〈闇の種
族〉に受けた傷は、常より治りが遅い。
「その愚かな脳を、完全に破壊してくれる」
シャルヴィルトは、またもやふわりと舞い上がった。
それと同時に、リロイは背中の黒い翼を、床に叩きつけるようにして羽ばたかせた。
飛ぶには不向きの翼のようだったが、その力強い 振りと、強化された脚力が、シャルヴィ
ルトへの追撃を可能にした。
リロイの身体は、空中のシャルヴィルトに向けて、空を突き破って進んだ。
しかし、その動きは読まれていた。
傲慢《ごうまん》な笑みが、リロイの視界に飛び込む。
笑みの形にぱっくりと開かれた口から、再び死の破壊音波が放射された。
ぷしゅ、と耳孔《じこう》から血が噴き出し、リロイの身体が平衡感覚を失ってよろめき、そのまま地
面に激突する。翼を使い慣れていないせいか、空中で姿勢を取り戻すことに失敗し、頭から瓦《が》
礫《れき》に突っ込んでしまった。
砕けて飛び散った瓦礫が落ちるより早く、シャルヴィルトはリρイに向かって急降下からの
とどめの 撃を狙う。
がしゅっ!
肉を突き破る音と、シャルヴィルトの驚愕《きょうがく》の呻《うめ》きが、その企みの失敗を告げる。
胸に突き刺さり、背中から抜けて飛び出した槍《やり》を見下ろして、シャルヴィルトは空中でバラ
ンスを崩した。
そのまま墜落するかに見えたが、それは矜恃《きょうじ》が許さなかったらしい。地面すれすれでくるり
と一回転し、足から着地する。膝をついたがすぐに立ち上がり、身体を貫通した槍を怒りにま
かせて一気に引き抜いた。
全身の血が抜け出たのでは、と思わせるほどの出血に、しかし微動だにせず、シャルヴィル
トはリロイの背後に激怒の視線を向けた。
「遅くなったな、シュヴァルツァー」
槍を放った人物は、瓦礫となった教会の、入り口があった所に姿を見せた。
屈強な女戦士フリージアだ。
フリージアは段平《だんびら》を右手に持ち、ペロリと乾いた唇を舐めた。相手が〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉の上級|眷《けん》
属《ぞく》と知っているだけに、緊張は隠せない。
身体から抜いた槍を二つに折り、シャルヴィルトはそれを地面に突き刺した。
「邪魔をするつもりか――ならばその命、捨てたつもりであろうな?」
剛毅《ごうき》な女暗殺者は、その言葉に、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「あたしを殺すなら、その首の一つも落ちると思え、薄汚い闇《やみ》の落とし子め」
辛辣《しんらつ》な嘲《あざけり》りに、尊大な吸血鬼の秀麗な顔に、さっと朱が差した。
「その言葉、我の下僕《げぼく》となりて償《つぐな》うがいい」
瓦礫に突っ込んだままのリロイには見向きもせず、シャルヴィルトはフリージアに向かって
飛びかかった。両手の鋭い爪が、彼女の身体を引き裂かんと繰り出される。
フリージアは、段平を見事に操って、シャルヴィルトの攻撃を捌《さば》いた。
しかし、フリージアにはやはり荷が重い相手だ。幾度となく攻撃の手を出しながらも、こと
ごとくが躱《かわ》される。彼女本人も言っていたが、やはり上級眷属には、ライカンスロープの力は
及ばない。
しかしリロイは違う。この私を手にしたリロイは、吸血鬼をすら圧倒したのだ。
しかも今は、半獣化で戦闘能力が格段に向上している。脳に受けたダメージも、瞬《またた》く間に回
復するはずだ。
シャルヴィルトは、それを忘れていた。
いや、忘れさせられた、というべきか。
あのフリージアの挑発は、ひとえに、リロイからシャルヴィルトの目を引き離すためのもの
だったのだ。
しかしそれも、いつまでももつわけがない。
シャルヴィルトの爪が、ついにフリージアの腕を切り裂き、次いで太腿《ふともも》を抉《えぐ》った。
彼女の顔が苦痛に歪み、それを見たシャルヴィルトは、にたり、と笑う。
そこで初めて、背後の動きに気がついた。
振り向いたその視界一杯に、剣を叩きつけるリロイが映る。
咄嗟《とっさ》に両腕を持ち上げ、ガードする。
そこに、私の鋭い刃が、渾身《こんしん》の力をもって横薙《よこなぎ》に食らいついた。
両腕をばっさりと両断し、その抵抗に勢いをわずかに殺《そ》がれたものの、刀身はシャルヴィル
トの首になかばまで食い込んだ。
シャルヴィルトの喉《のど》が、悲鳴を上げ、大量のどす黒い血を吐き出す。首は心臓と並び、吸血
鬼の致命的弱点だ。
ばしゃばしゃと浴びせられる血に身を染めながら、リロイはさらに踏み込み、首を両断せん
と力を込めた――
「そこまでにしてもらおうか」
血《ち》まみれの、破壊的なその場には似つかわしくない落ち着き払った声色《こわいろ》が、悠々と流れた。
「そのまま首を落とされれば、シャルヴィルトは滅びてしまう。それはあまり面白《おもしろ》いことでは
ないのでな」
リロイは、剣を抜かず、そのまま首を巡らせた。
十字架の所に、巨大な影が佇《たたず》んでいた。その影は、手にしたこれまた巨大な漆黒の剣を、
磔《はりつけ》になったレナの胸に押し当てている。
そして、逆の手に握られているのは……。
「フェンリル!」
リロイは思わず一歩踏みだし、その反動でシャルヴィルトの傷がさらに広がった。血と体液
が噴き出し、苦痛の呻《うめ》きが喉を鳴らす。
「おっと、気をつけろ。この女が死ぬところは見たくあるまい」
「…………」
リロイは梅しげに顔を歪めたが、乱暴に剣を引いた。さすがにダメージが大きかったのか、
シャルヴィルトはその場に倒れ伏し、動かなくなる。
「それでいい」
巨大な影は、無造作にフェンリルを放り投げた。腹に大きな傷を受けている銀狼《ぎんろう》は、瓦礫《がれき》の
上に投げ出されても、起き上がれなかった。
「シャルヴィルトから離れてこちらに来い」
言われるがまま、リロイとフリージアは十字架に向かった。
近づくにつれ、その巨大な影の姿が明確になり、そして二人とも同じ呟きを漏らした。
「カルテイル?」
「カ……カルテイル様?」
そう。
その巨大な人影は、カルテイルと瓜二《うりふた》つの姿をしていた。
白金の毛並の虎《とら》の頭、その中で輝く一対の紅の瞳。大剣を握る掌も白毛に覆われ、鋭く硬い
爪《つめ》が伸びている。
だが、体格はカルテイルより二回りは大きい。まさに巨人だ。
白虎《びゃっこ》の顔が、笑みを浮かべた。笑い方までそっくりだ。
「似ているか、そんなに?」
その問いにリロイは、戸惑いながらもうなずいた。
「生き写しだ――レナを人質《ひとじち》にするところなんかもな」
多少の皮肉を込めて言ったが、そこには不安と予感がにじみ出ていた。
男は、リロイに言われたからでもないだろうが、レナから大剣を引き、説教壇に横たわるカ
ルテイルを見下ろした。
紅の瞳に、忌ま忌ましげな表情が浮かぶ。
「……似すぎているな。まさかここまでとは」
「誰なんだ、おまえは?」
予感が確信に変わりながらも、リロイは聞かずにはいられなかった。フリージアは、唇を引
き結び、厳しい表情で男を睨《にら》みつけている。
男は、泰然とした態度で口火を切った。
「我が名はアシュガン」
太く無骨《ぶこつ》な指で、カルテイルの胸を差し、
「この男の父親だ」
「嘘《うそ》だ!」
反射的にそう叫んで、フリージアは段平《だんびら》を振りかざして躍《おど》りかかった。
それを予期していたレロイは、咄嗟《とっさ》にフリージアの腰を掴《つか》み、引き戻《もど》す。彼女の狂乱にも、
アシュガンと名乗る異形《いぎょう》の男は、一向に感銘を受けた様子はない。
「邪魔《じゃま》するな、シュヴァルツァー!」
フリージアは声も嗄《か》れよと絶叫した。さもあらん。慕った相手が、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉の血を受け
継ぐ者だったとは。
「落ち着け。おまえの敵《かな》う相手じゃない」
リロイは、腕を振り解《ほど》こうと暴れるフリージアを、傷つけない限りで押さえつけた。
「おまえたちの目的は、俺が持ってる〈ラグナロク〉じゃなかったのか?」
リロイのもっともな疑問に、アシュガンは獣の瞳で私を見る。
「〈ラグナロク〉か――シャルヴィルトは固執していたがな」
アシュガンは、私たちの後方で倒れているシャルヴィルトに、侮蔑《ぶべつ》の視線を送った。
「〈ラグナロク〉の破壊……その目的は確かにあった。我らの身体に流れる古き高潔なる血筋
は、〈ラグナロク〉を見ると騒ぎ、沸《わ》き立つ。仇敵《きゅうてき》たる貴様たちを、我らの血は許しはしない。
だが――それはいささか古い考えというものだ」
アシュガンの意外な言葉に、私だけでなくリロイも驚きを禁じ得なかった。
「古き怨讐《えんしゅう》に囚《とら》われるのは愚かなことだ。それでは何一つ変わりはしない」
「それと、カルテイルに何の関係がある? 我が子を捨てることが新たな変化か?」
驚きを振り払い、リロイは言った。
「いまさら現れて、父親づらするつもりか!」
「勘違いしてもらっては困るな」
アシュガンは、わずかに首を横に振った。
「この男は、わたしの力を受け継いでおきながら、組織の頂点で満足していたような愚か者
だ。父の意を汲み取らぬ不肖《ふしょう》の息子などに、用はない」
「……まさか」
私は、悪寒と不快感に襲われながら、小さく呟いた。アシュガンの言葉が、ある一つの推測
を生み出す。
しかし、そんなことがあるだろうか。カルテイルは、確かに〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉と呼ぶには、奴ら
が持つ独特の邪《よこしま》なる雰囲気が薄い。
かといって、人間であるはずもない。
単純な、しかしおぞましい答えだ。
「まさかカルテイルは、おまえと――」
「ようやく気づいたか、〈ラグナロク〉」
アシュガンは、かすかな嘲笑《ちょうしょう》を私に向けた。
「カルテイルは、わたしが人間の女に子種を仕込み、孕《はら》ませたのだ」
恐るべき告白に、リロイとフリージアの顔が歪《ゆが》む。私と同じ不快感と、そして驚愕《きょうがく》に。
重々しく、アシュガンは続けた。
「わたしたちは、おまえたち人間とは肉体的にも精神的にも構造が違いすぎる。人間社会に足
を踏み込めば、勘のいい者なら一目でそれと見破るだろう。
だが、同じ人間の血が混ざっていればどうだ? 薄められた血は、上手《うま》くすれば巧みに人間
社会への侵入を果たすはずだ。
カルテイルは、わたしの血を人間社会に浸透させるために造った布石、というわけだ」
そこでアシュガンは言葉を切り、横たわるカルテイルを悔しげに睨《にら》みつける。
「だがここまでわたしの血が顕現してしまっては、それも不可能だろう。おまえたち人間に真
実を悟られる前に回収し、処分せねばならんと思っていた。
そこに現れたのが、リロイ・シュヴァルツァー、貴様だ。〈ラグナロク〉の存在については
懐疑的だったが、あの力を見た者がいては、信じるしかあるまい。しかもこうやって、対峙《たいじ》し
ているのだからな」
「人間社会を、内部から乗っ取る気か!」
私は愕然《がくぜん》とした。かつて、〈闇の種族〉は、あくまで力をもって覇を成さんとした。それが、
このように巧みで深遠な思惑《おもわく》をもって動く者が現れようとは。
アシュガンは、遥《はる》か遠くの惑星に思いを寄せる天文学者の瞳で、私を射抜《いぬ》いた。
「力ですべてを成就しようなどとは思わぬ。それには一度失敗したのだ。それを再び繰り返そ
うとするシャルヴィルトのような輩《やから》は、いずれ滅びの道を辿《たど》るだろう。
人間は、個々としては我らの足下にも及ばぬほど脆弱《ぜいじゃく》で愚鈍だ。だが種としての人類は、思
いの外《ほか》しぶとく狡猪《こうかつ》だ。そこに気づかなかった先達《せんだつ》たちは、貴様たちを追いつめ、かえって致
命的な〈ラグナロク〉の登場を促してしまった。
人類を駆逐し、我らが王国を造り上げるには、貴様たちがそれと気づかぬほど密《ひそ》やかに、緻《ち》
密《みつ》な計算と知謀をもって当たらねばならんのだ」
「…………」
私はその深謀遠大なアシュガンの策略に、戦慄《せんりつ》と、畏敬さえ覚えてしまい、言葉が出なかっ
た。あの戦いから五千年を経て、このような形で人類が脅《おびや》かされようとは……。
この事件に関《かか》わったのは、果たして偶然か、それとも運命の必然か。
リロイは、我が相棒は、何を思うか。
「カルテイルは、道具にすぎない、ということか」
静かだが、ふつふつと沸き上がる怒りに、リロイの声は震えていた。
その震える声は、彼の怒りの激しさと憤《いきどお》りの大きさを物語っていた。
「そうだ」
アシュガンは涼しい顔でうなずいた。
「そして失敗作は破棄せねばならん。放置していては、我が計画に支障を来《きた》す」
「よくも、そんなことを……」
はち切れんばかりの憤怒と憐憫《れんびん》に、フリージアの、剛毅《ごうき》な女戦士の瞳は濡《ぬ》れ光り、感情の荒
波に揺れていた。
その身が、さらなる戦闘能力を求めて、より戦いに適した形態、獣の姿へと変化していく。
それを冷静な眼差《まなざ》しで見やりながら、アシュガンは、黒い大剣をゆっくりと持ち上げた。
「貴様たちも、我が計画の障害だ。速《すみ》やかに処分する」
「あいつは――カルテイルは、言った。〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉でないことを望む、とな。おまえの汚ら
わしい血は、あいつの心には届かなかったようだ。おまえが与えたのは、あの姿と、長い苦痛
の日々だけだ。この上、命すらも奪うと言うのか!」
リロイの怒りは、人類に対する狡猾《こうかつ》な侵略計画にではなく、カルテイルを道具の如《ごと》く扱った
その精神に対して向けられていた。リロイの中に、自分と同じ境遇の者に対する、何らかの感
情が生まれていた。ともに異端者として苦しんだ二人は、全く違う道を進んできたとしても、
やはり相似《そうじ》しているのだ。
「不思議な男だ」
アシュガンは、黒い大剣の切っ先をリロイに突きつける。そこから発せられる鬼気に、黒い
翼が突風を受けたように膨らんだ。
「その姿、どう見ても人間ではない。むしろ我々に近い存在だ。潜在能力も、人のそれとは比
べるべくもない……そのおまえが、なぜにそれほど、人間のように愚かな精神構造を持つに至
ったのか――理解できんな」
「解《わか》ってもらおうとは思わん。どうせ、おまえには永遠に理解できない。命をもてあそぶ闇《やみ》の
者め」
「貴様は、自分がそうでないと言い切れるのか? カルテイルと同じく、我らの血が身体の中
に流れていない、と断言できるか、その異形《いぎょう》で? わたしは知っているぞ。貴様の真の姿を
な」
叩きつけるようなアシュガンの言葉に、リロイはぎりり、と歯を鳴らした。
アシュガンは、紅の瞳をぎらぎらと輝かせ、さらに残酷な言葉を紡ぐ。
「わたしが生ませた子供は、カルテイル一人ではない――貴様はこの男と兄弟ではないのか?
わたしが、おまえの父なのではないのか? 闇に生きる、貴様たちが嫌悪し憎悪する、このわ
たしが!」
「黙れ、ケダモノ!」
押し殺した叫びが、リロイの喉《のど》からほとばしる。
「おまえのような悪しき存在が俺の父だと? 笑わせるな。たとえそうだとしても、父殺しす
ら俺は厭《いと》わない。おまえのような、忌むべき邪悪な闇の者ならばな!」
「父すら手にかけようと言うか。よかろう」
アシュガンは、一歩、踏み出してきた。彼の身体が発する鬼気が烈風の如《ごと》く、リロイの身体
に吹きつける。
「それほどまでに自分自身の血を認めぬのなら、この場でその血をすべて吐き捨てろ」
アシュガンの威圧感は圧倒的だった。その巨大な身体が、さらに一回り以上も大きく映る。
しかしリロイは、それに怯《ひる》むことなく、前に進み出た。漆黒の髪がちりちりと逆立ち、黒い
翼は鬼気の放射に立ち向かうかのように、力強く広がる。
アシュガンが、自らを鼓舞するように吠えた。
「来い、シュヴァルツァー! 脆弱《ぜいじゃく》なその魂を叩き潰《つぶ》し、我が裡に取り込んでくれるわ!」
リロイは、それがすべてを物語るかのような迷いのない瞳で、白金の巨人を見据えた。
「脆弱かどうか……その身体に刻み込んでやる!」
雄叫《おたけ》びを上げて、リロイは先手を打った。その剣の太刀筋《たちすじ》にも、迷いはない。
それにアシュガンは、壮絶な、すべての思いを断ち切るような強烈な斬撃《ざんげき》で答えた。
金と黒、二筋の光が激突した。
巨体から繰り出される強烈な一撃は、その衝撃が受けたリロイの身体を伝い、瓦礫《がれき》となった
足下の床を粉砕した。がくっ、とリロイの身体が沈み、飛び散った床の破片が、リロイの頬を
裂いた。
頬を伝う血を舌で舐《な》め取り、リロイは渾身《こんしん》の力で黒い大剣を押し返した。
アシュガンはあえて逆らわず、それを反動に間合いを取った。頭上で大剣を振り回し、興奮
の熱い息を吐き出す。
その呼気に乗せ、まるで小規模の竜巻が発生したような斬撃を打ち込んできた。黒の大剣は
黒の竜巻と化して、リロイの肉体を切り裂かんと襲いかかった。
裂帛《れっぱく》の気合いに押し出されるように、リロイの剣が跳ね上がる。
背中の翼が羽ばたき、加速を後押しする。
両者の激突は、さらなる暴風を呼び、フェンリルとフリージアを吹き飛ばした。砕かれた破
片が四散し、足下が大きく抉《えぐ》れる。
それに混じり、血臭が漂う。
その激突から、何かが飛び出した。
肘《ひじ》から切断された、相棒の右腕だった。
今のリロイの力をもってしても、この獣人の眷属《けんぞく》には敵《かな》わないというのか?
リロイは辛《かろ》うじて剣を失いはしなかったものの、利き腕をなくした。これは由々《ゆゆ》しき事態だ。
危険を承知で、〈存在意思《ノルン》〉による干渉攻撃をすべきだろうか。
「手を出すな!」
その思考を読み取ったように、リロイは私を制止した。しかし、このままでは、相棒の命が
危ない。死んでも獣化して助かる、とは限らないのだから。
右腕を失ったリロイは、一時後退し、間合《まあ》いを取った。
「だが、どうするつもりだ? 勝機はあるのか?」
私は正直、怯《おび》えていた。
相棒を失うかもしれない、という恐怖に。
そう、人類に対する策謀よりも、だ。
「おまえが手を出すのは――」
リロイはそこで悪戯《いたずら》めいた笑みを浮かべた。
「俺が自分を見失ったときだけでいい」
「…………」
このときほど、言葉の虚《むな》しさを痛感したことはない。私には、一言も、相棒にかけるべき言
葉がなかった。
リロイは安心させるように力強くうなずき、左手一本で剣を構えた。
アシュガンは自分の力が上と確信し、荒々しい中にも余裕の表情を垣間《かいま》見せた。
「素直に〈ラグナロク〉に頼ればよかろう。それは、我々に対抗するために造られた武器であ
ろうが」
「獣を狩るのに、そんな大げさなものは使わない。俺だけの力で十分だ」
不屈の魂を宿した漆黒《しっこく》の瞳が、紅の瞳を射貫《いぬ》く。
その紅の瞳が、訝《いぶか》しげに細められる。
ぼこ、とリロイの右肩が盛り上がったのだ。
それはまるで、皮膚の下を生き物が這《は》っていくように、切断された肘《ひじ》に向かう。出血がぴた
りと止まり、続いて増殖するように、肉と神経束が切断面から飛び出す。
瞬く間に、リロイの右腕は再生されていく。完全に獣化したときと同様の再生能力だ。
ひとまずは、安心できそうだ。
新たに生まれた右腕が、がっちりと剣の柄《つか》を握る。
アシュガンは、低く唸《うな》った。
「大した復元力だ。貴様の中に流れるのは、余程高貴な者の血に違いあるまい。惜しむらくは、
貴様の軟弱なる汚《けが》れた魂か」
アシュガンの独白に、リロイはわずかに頬を歪めた。
だが、無言で斬《き》りかかる。
アシュガンの攻撃力に呼応するかのように、リロイの斬撃も威力を増す。次第に戦闘能力を
上昇させるリロイに、アシュガンは驚きを隠し切れない。
その一瞬のアシュガンの隙《すき》を、虎視眈々《こしたんたん》と狙っている者がいた。
フリージアだ。
彼女は、二人の最初の激突で吹き飛ばされた位置から、巧みにアシュガンの死角に移動して
いた。そこから、音もなく、襲いかかったのだ。
それを目に留めたリロイは、舌を打ち鳴らして床を蹴《け》った。
攻防はまさに一瞬。
剣を交えたリロイは、アシュガンの力をよく知っていた。
死角からの、不意を突かれた攻撃にも、アシュガンは停滞なく反応した。黒い大剣は、まる
でフリージアの動きを追尾したかのように、動く。
フリージアの顎《あご》ががっちりとアシュガンの首もとに食らいついた途端、黒い刃が、豹《ひょう》に変身
した彼女の柔らかな腹部に突き立っていた。
そこに、リロイの斬撃が襲う!
一撃目は躱《かわ》されたものの、素早い連撃で、反撃の余地を作らせない。
業《ごう》を煮やしたアシュガンは、フリージアを突き刺したまま、剣を振るった。リロイは、その
まま突っかかればフリージアを傷つけると悟り、横っ飛びにそれを躱す。
アシュガンは大きな掌でフリージアを掴《つか》むと、無造作に剣から引き抜いた。
か細い苦鳴《くめい》。
腹を引き裂かれたフリージアは、床に叩きつけられて、びくびくと痙攣《けいれん》する。血が洪水のよ
うに流れ出て、臓物《ぞうもつ》が食《は》み出している。
リロイはすぐさま飛びかかり、アシュガンを押し返す。立て続けの攻撃に、それを躱しなが
らも、アシュガンの足はわずかに後退する。
リロイはフリージアをちらりと見やり、指先で私を叩いた。
私はすぐに相棒の意図を汲み取り、立体映像で例の姿を取ると、血の海でのたうつフリージ
アに駆け寄った。意識の混濁から、彼女の姿は獣から人間に戻っている。ライカンスロープは、
意識のない状態では獣の姿を保っていられないのだ。
私は急いで治療を施した。ライカンスロープの生命力は常人を優に超えているが、不死身で
はない。
リロイの機転がなければ、フリージアは絶命していただろう。死んでしまっては、さすがに
治療の仕様がない。ただ、これで助かったという確証もない。後は、彼女自身の生命力と、生
きようとする意志に賭《か》けるしかないのだ。
私はフリージアを抱《だ》きかかえ、リロイとアシュガンの戦闘区域から遠ざかった。
私の意識はこの幻像にあるから、今リロイが手にしているのはただの剣と変わりはない。だ
が、私の力を使うことをあまり好まないリロイにとっては、何の問題もあるまい。
たとえ手を出すな、と言われていなくても、二人の戦闘に手を出す余地はない。凄《すさ》まじい剣
と剣のぶつかり合いが、余波でもって教会の瓦礫《がれき》にとどめを刺す。
そして刮目《かつもく》すべきことは、リロイの戦闘能力の上昇が、上限を知らないことだ。
最初の激突ではあっさりと腕を奪われたのに、今では互角の勝負を繰り広げている。
アシュガンの顔からも、嘲《あざけ》りが消えている。
謎の遺伝因子は、一体どこまでリロイを変貌《へんぼう》させ、力を与えるのか。
このまま、いずれはあの悪魔の姿へと変化していくのだろうか。
「カ……」
足下で、呻《うめ》き声に混じって呟きが漏れる。
「気がついたか?」
私はホッとして、倒れているフリージアの側《そば》に片膝をついた。フリージアは、薄く目を開き、
血《ち》まみれの口もとを必死で動かしている。
「カル……テイ……ル」
「喋《しゃべ》るな。内臓のダメージが酷《ひど》い」
フリージアは、私の諫《いさ》めを耳に入れず、震える腕を持ち上げて、説教壇を指差した。
そこに横たわっているはずの、カルテイルの姿がなかった。しかも、十字架に磔《はりつけ》にされてい
たレナも、姿を消している。
私は首を巡らせたが、目の届く所にあの獣人の姿は見当たらない。
当然、戦いに身を置く二人は、それに気づいていない。気づいたとしても、それに気を取ら
れていては首が飛ぶ。
意識を取り戻したカルテイルが、レナを助け脱出を計ったのだろうか。だが、そのまま安全
な所に隠れているような男ではない。
問題は、カルテイルがリロイにとって敵か味方か、ということだ。アシュガンに加え、カル
テイルが敵に回れば、いかに今のリロイとはいえ、絶望的窮地に追い込まれる。
突然、後方が騒がしくなった。
振り返った私は、目を丸くした。
「あたしをどうしようっていうのよ!」
その甲高《かんだか》い叫び声には、間違いなく聞き覚えがあった。エフィルだ。
「な……何なんだよぉ……」
情けない、怯《おび》え切った声は、ロークだ。
二人がなぜこんな所に?
その答、兄はすぐに分かった。二人の後ろから、狂気に濡《ぬ》れた目を炯々《けいけい》と光らせている人物が
その理由だろう。
そうか……こいつが生きていたのか。
「素晴らしい……」
リロイとアシュガンを目に留め、恍惚《こうこつ》の表情で、その男ヘパスは呟いた。相変わらず危ない
奴だ。この男にかかれば、〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉も研究心を煽《あお》る対象でしかないのだろう。
「変態! あたしに触るな!」
「黙ってろ、淫売《いんばい》!」
きゃあきゃあと騒ぐエフィルに、ヘパスは口角から泡を飛ばしながら罵声《ばせい》を浴びせた。
侮辱の言葉に、エフィルは怒りで顔を赤くして、唇を震わせる。
リロイとアシュガンは、この闖入者《ちんにゅうしゃ》に一時刃を引き、間合《まあ》いを取った。
「……どうして見つかったんだ」
私はなかば呆《あき》れ返ってロークに問うた。
「俺は言いつけを守るつもりだったんだ! だけど、この娘がどうしても外に出たいって騒ぐ
もんだから……」
ロークの言い訳は尻窄《しりすぼ》みになって消えていく。
「あたしのせいにしないでよ! ずっと閉じ込められて、やっと助かったと思ったらまた閉じ
込められたのよ? 少しはこっちのことも考えて欲しいものだわ!」
その前にまず状況を考えて欲しかったものだ。今さら言っても後《あと》の祭りだが。
「何が望みだ、変態医師」
リロイが、苛立《いらだ》ちに声を荒立てて詰問した。
ヘパスは、にやあっと下卑た笑いを満面に浮かべた。
「もちろん、リロイ・シュヴァルツァー、貴様の肉体を調べることだ」
ヘパスは、細い目の奥で研究意欲に瞳を燃やしていた。だが、遺伝子の存在すら掴《つか》めていな
いこの時代の科学では、どんなにがんばってもリロイの身体の謎を解き明かすことなど不可能
だろう。
ククク……と忍び笑いが漏れる。ヘパスではなく、アシュガンだ。
「さてどうする、シュヴァルツァー」
言外に、人間への侮蔑《ぶべつ》を露《あらわ》にする。
リロイは、アシュガンから注意を逸《そ》らさず、じりじりとヘパスに向かって進んだ。
「動くな!」
神経質な叫びが、ほとばしる。
「それ以上近づいたら、この二人の命はないそ!」
ヘパスはリロイに、手にした幅広のナイフをちらつかせた。その鋭い刃は、エフィルやロー
クの喉《のど》を易々《やすやす》と切り裂くだろう。
「どうしろって言うんだ」
こめかみの辺りをぴくぴくと引きつらせながら、それでも慎重に、辛抱強く、リロイは足を
止めた。ヘパスのような異常性格者は、ほんの些細《ささい》なきっかけで凶行に及んでしまうのだ。
「これをつけろ」
ヘパスはふところをまさぐり、取り出したものをリロイの足下に放り投げた。がしゃりと金
属音が響く。
「わたしが開発した手錠だ。それで手足を縛れ」
「…………」
リロイはさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。これをつけたところで、リロイの今の膂力《りょりょく》をもってすれば、そ
の束縛力はないに等しい。
だがそれは、アシュガンに絶好の機会を与えてしまう。
「早くしろ!」
ヘパスの声が一オクターブ高くなった。危ない兆候だ。リロイは足下の手錠を拾い上げると、
ゆっくりとした動作でまず左手に輪をかける。
この状況では、手の出しようがない。下手《へた》をすれば、エフィルとロークの首が切り裂かれる。
アシュガンは、がしゃり、と大剣をことさらに振り回した。リロイが身動きの取れない状態
になれば、いつでも斬《き》って捨てるという意志表示だ。
「早くしろ! 余計なことは考えるな!」
わめき散らし、ナイフの刃をロークの喉《のど》に押し当てる。か弱く情けない悲鳴が、ロークの喉
から漏れる。
「男のくせにだらしない!」
エフィルが嘲《あざけ》り丸出しに、涙目のロークを叱《しか》りつける。この状況で、自分勝手なことをわめ
けるエフィルの方が、少々変わっているだけだと思うのだが。
「うるさい。邪魔だ」
その言葉が、一体誰が発したもので、誰に向けられたものか、一瞬私にも分からなかった。
ヘパスは弾かれたように、背後を振り向いた。
伸びてきた掌が、ヘパスが握っている幅広のナイフを、一握りで鉄塊に変えた。
ヘパスの掌ごと。
驚愕《きょうがく》と激痛に、ヘパスの顔はぐにゃりと歪み、しかしあまりに突然のことに、口は大きく開
かれたものの声は出せない。
「愚者たる貴様|如《ごと》きが、わたしの一部となれることを、光栄に思え」
ヘパスは、がっちりと掴《つか》まえられ、身動きが取れない。相手は、大きく開いた傷跡も生々し
く、全身血に濡《ぬ》れている。
シャルヴィルトだ。
闇夜《やみよ》から降りそそぐ月光。月は天頂にある。夜は、月の支配する夜は、吸血鬼の世界。その
能力を遺憾なく発揮できる時間だ。
くわっと開かれた赤い口腔《こうこう》に、ずらりと並んだ鋭い牙がぎらりと光る。
ヘパスの代わりに、エフィルが悲鳴を上げた。
シャルヴィルトは、一気にヘパスの首もとに食らいついた。喉が大きく動き、吸い出した血
を嚥下《えんか》している。
「吸……血……鬼」
ヘパスは恍惚《こうこつ》に瞳を濡らし、ごぼごぼと不明瞭な声で呟いた。
「素晴らしい……わたしは……吸血鬼の……眷属《けんぞく》に……」
「愚か者め」
血を吸い続けるシャルヴィルトだったが、言葉は不思議と明瞭だ。
「貴様のような愚かで醜い者を、誰が僕《しもべ》になど選ぶものか」
「……そん……な」
ヘパスの表情は、一気に絶望へと落ち込んだ。
肌は水気がなくなり、見る見る内に手足が干涸《ひから》びていく。
「貴様などただの餌《えさ》よ」
血の気の失《う》せたヘパスの顔は、恐怖と落胆に彩《いろど》られ、どんどん萎《しな》びていく。それとは反対に、
血を吸ったシャルヴィルトの身体は、傷痕がふさがり、力が漲《みなぎ》っていく。
やがて全身の血を吸われつくしたヘパスは、骨と皮だけのミイラとなり、絶命した。シャル
ヴィルトはその残骸《ざんがい》を打ち捨て、口もとを拭《ぬぐ》う。
次は、エフィルかロークか。
二人とも、あまりの出来事に身体が硬直し、その場に突っ立っている。まるで餌食《えじき》にして下
さいといわんばかりだ。
リロイと私は、ほぼ同時に動いた。
シャルヴィルトめがけて、一目散に駆け寄る。二人が食らいつかれる前に、シャルヴィルト
を牽制《けんせい》しなければ。
しかし、私たちの予想を裏切り、シャルヴィルトはすうっと飛び上がった。エフィルとロー
クには目も向けない。
「聞かせてもらったぞ、アシュガン」
シャルヴィルトが敵意を込めた目で睨《にら》みつけたのは、私でもリロイでもなく、アシュガンだ
ったのだ。私とリロイは、当惑に目を合わせる。
「人間と交わるとは、恥知らずの異端者め。あまつさえ、我らを辱めるような言動を取るとは
――裏切るつもりか」
誹謗《ひぼう》されたアシュガンは、しかし涼しい顔でそれを受け流した。
「古くなり腐ったものは排除されるべきであろう。それが人間であろうが、同族であろうがな。
それを裏切りと呼ぶのは正しくあるまい」
「戯言を《ざれごと》!」
シャルヴィルトは牙を剥《む》き、アシュガンに飛びかかった。この同士討ちに、リロイは戸惑い
の表情を浮かべている。
〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉といえども、主義主張の違いがあるということだ。一つの確固とした信念に貫か
れているわけではない。そうであったとしたら、人類はこうものうのうとこの世の春を謳歌《おうか》で
きなかったはずだ。
落下速度が加えられた爪《つめ》の一撃を、アシュガンは大剣でがっちりと受け止め、それを受け流
すように横に薙《な》いだ。シャルヴィルトの身体は、剣に引っ張られて放り投げられ、残骸の上に
叩きつけられた。
そこに、容赦なくアシュガンの追撃が撃ち落とされる。瓦礫《がれき》に深く突き刺さった剣は、土煙
と破片を剣風で巻き上げた。
間一髪それを躱《かわ》したシャルヴィルトは、身体ごと大きく旋回し、至近距離でマントの刃をア
シュガンに食らわせた。
アシュガンの鋼鉄の肉体がすっぱりと切れ、血がぱっと吹き出す。が、それを気にも留めず、
間合《まあ》いに踏み込んだシャルヴィルトに斬撃《ざんげき》を与える。まさに空間を両断するような激烈な一撃
は、シャルヴィルトの胴を薙《な》ぎ、勢いで彼の身体を吹き飛ばした。胴が半分ほど千切れかかり、
ずるりと臓物《ぞうもつ》がこぼれ落ちる。
だがそれでは致命傷とは呼べず、シャルヴィルトは一瞬の怯《ひる》みもなく向き直った。
空間が歪み、続いて轟音《ごうおん》をともない爆発が起こる。
アシュガンは咄嗟《とっさ》に両手を交差して防御したものの、近接戦闘であっただけに、爆発に完全
に耐えることは不可能だった。その格好のまま、巨漢は数メートルを飛び、しかし見事に宙で
一回転して着地した。
シャルヴィルトは、その瞬間を狙っていた。
爆発は、アシュガンの両腕を焦がし、動きに停滞を及ぼすほどのダメージを与えていた。
シャルヴィルトの接近に気づいたものの、アシュガンが剣を突き出すより早く、その首もと
に吸血鬼は食らいついていた。
牙が白金の毛並に食い込み、一気に血を吸い上げる。広げた両腕が、アシュガンの両腕ごと
身体を締めつけ、束縛する。
シャルヴィルトの紫紺の瞳が、勝利の愉悦と血の味に、陶酔の光を浮かべた。
「裏切り者よ、我が僕《しもべ》となりてその罪を贖《あがな》え」
声は断罪の快感に震えていた。
アシュガンは、シャルヴィルトを嘲《あざけ》りの瞳で見下ろした。
「愚かなるは人間だけではなかったか」
シャルヴィルトの顔から、愉悦と会心の笑みが消えた。よく見れば、血を嚥下《えんか》しているはず
の喉《のど》が動いていないことが分かる。
アシュガンの全身の筋肉が、ごほっと盛り上がる。その筋肉の膨脹がシャルヴィルトの牙を
締めつけ、血管を収縮させ、血の流れをふさぎ止めたのだ。
ばきん! と破砕音。シャルヴィルトがのけぞった。牙が砕かれたのだ。
その晒された喉笛を、アシュガンの腕が捉《とら》える。さらに腕は力を増し、喉笛を握り潰《つぶ》さんと
締めつける。
「が……が」
意味を成さない声が、声帯を潰されたシャルヴィルトの喉から漏れ出す。
闇夜《やみよ》の魔人と畏怖され続けた吸血鬼も、この獣人の前では赤子の如くだ。
「滅びよ、古き者」
ぐしゃり。
耳障りな音がすると、シャルヴィルトの身体がぐったりとなる。喉を完全に潰されて、絶命
したのだろう。
「同族の命すらも、価値なしと見れば奪い去るか」
朗々と流れ出す、力強い言葉。
十字架のあった壁の後ろから、巨大な影が姿を現す。その影には右腕がない。
カルテイルだ。
アシュガンは目を細め、鼻を鳴らし、見せつけるようにシャルヴィルトの首を捩《ね》じり切った。
その引き抜かれた首を、ぽん、とカルテイルの足下に投げ捨てる。
それを見たエフィルが、さすがに耐え切れなくなったのか、意識を失いふらりと揺らぐ。
私が手を差し伸べるより早く、白い腕が伸び、優しく少女の身体を抱き留めた。
「レナ」
リロイが、傷だらけで憔悴《しょうすい》したレナを、さらにその横から支える。翼を背に生やしたリロイ
を見て一瞬《いっしゅん》たじろいだものの、あの変身を一度見ているレナは、余計な詮索《せんさく》をしようとはしな
かった。これは彼女の美徳だろう。
「依頼は果たしてくれたようね」
レナは腕の中で気を失った少女を愛《いと》しげに見やり、優しい声で言った。それが逆にリロイを
怯《ひる》ませた。
「……一度引き受けた依頼は、依頼主に問題があってもやり遂げる」
ぶっきらぼうに言って、すっと顔を逸《そ》らす。
「いつ逃げ出したんだ?」
私はレナの傷に手を当て、治療を始めた。レナは私を信頼して身をまかせながら、アシュガ
ンと対峙《たいじ》して睨み合っているカルテイルに視線を向けた。
「気を失っていたから覚えていないけど、あの男がわたしを救い出したようね」
「カルテイルがか……」
カルテイルは何を思って彼女を助けたのだろうか。彼にとって、レナは敵であったはずなの
に。
「でも、どうしてここが分かったの?」
不思議そうに、そして戸惑ったように、レナは私とリロイを見た。
リロイが、側《そば》で倒れたままのフェンリルを顎《あご》で差し、
「あいつが、おまえの救出を俺に依頼したんだ。感謝するなら、相棒思いの狼にするんだな」
「命に別条はない。頑丈な奴だ」
私はリロイのそっけない言葉に、そうつけ足した。レナはほっとしたように身体の力を抜い
た。
リロイの態度が味気ないのは、エフィルの言葉があったからだろう。助平のくせして、こう
いうところは不器用な奴だ。
「もう一つの依頼も、完了させなくてはな」
そう言い捨てて、リロイは対峙する二人の獣人に向き直った。
アシュガンとカルテイルは、瓜二《うりふた》つのお互いの顔をじっと睨《にら》み合い、威嚇《いかく》にごろごろと喉《のど》を
鳴らしている。父子の再会の場面とは到底思えない。抱擁《ほうよう》よりも、殺し合いが似合う親子だ。
「俺の身体に〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉の血が流れていようとは――だが、それでこの異形《いぎょう》にも、説明がつ
く」
「不肖《ふしょう》の息子よ、おまえはわたしの期待を裏切った」
二人の間に、見えない網が張り巡らされた。お互いに相手の隙《すき》を探り、好機があれば襲いか
かろうとして身体に力を漲《みなぎ》らせている。
カルテイルは、遠い目付きで父を見やり、
「母は……母はどうなった」
これに、アシュガンは哄笑《こうしょう》で答えた。
「母が恋しいか。とんだ軟弱者だな」
手に持った大剣を、がすん、と足下に突き刺して、余裕を見せるかの如く腕を組み、顎《あご》をそ
「おまえの母は……そう、人間の基準でいえば美しかったのであろうな。身ごもらせるため拉《ら》
致《ち》し、汚したときのあの恐怖と絶望に歪んだ表情は、なかなかに愉快であったぞ」
「母は生きているのか」
アシュガンの挑発の言葉にも、カルテイルはじっと耐え、詰問を続けた。それはまるで、次
の瞬間の爆発のために、怒りを溜《た》め込んでいるように見える。
「死んだわ」
アシュガンは何の感慨もなく言い放った。あくまで、子を生《な》すための道具としてしか思って
いなかったのだろう。まるで心を持たぬかのような非道ぶりを見せつける。
「貴様が殺したのか」
カルテイルの瞳は、溜め込まれた怒りが、限界を越えて吹き出してきたかのように燃え上が
った。
「そうではない。おまえを生み落としたときに死んだのだ。自分の腹から出てきた子が、獣の
姿をした化け物だと知った瞬間、畏《おそろ》しさと悍《おぞま》しさに気が触れて、狂い死にしたわ」
咆哮《ほうこう》が、廃嘘《はいきょ》の教会に響《ひび》き渡った。あまりの悲痛と憤怒《ふんぬ》に、胸が痛むような叫びだ。
カルテイルは、怒りを爆発させ、灼熱《しゃくねつ》の弾丸となって飛び出した。足を踏み出すごとに瓦礫《がれき》
を巻き上げ、まるで重戦車の突撃のように進撃する。
「よせ! 片手で何ができる!」
事態をしばし静観していたリロイは、カルテイルの突然の行動に、驚愕《きょうがく》し、そしてつられる
ように飛び出した。
「手出しするな、シュヴァルツァー!」
奇《く》しくも、同じ言葉が、父と子から発せられた。
虚を突かれ、思わずリロイは足を止める。
そして、異形《いぎょう》の父と子は、激突した。
カルテイルは初めから武器を携帯せず、アシュガンも大剣を足下に突き刺したままだ。
素手《すで》対素手の攻防だ。
カルテイルの拳が、唸《うな》りを上げて叩き込まれた。がうん! と鉄と鉄が噛《か》み合う響き。アシ
ュガンはその場を動かず、勢いに乗ったカルテイルの攻撃を受け止める。カルテイルの連打を
腕でいなし、右の死角から蹴《け》りを叩き込んだ。
それをもろに脇腹《わいばら》に受けたカルテイルは、息が止まり、動きも止まる。続いて左から、膝が
鳩尾《みぞおち》にめり込んだ。苦鳴は喉《のど》に詰まり、代わりに血を吐き出す。鋼鉄の肉体であったはずのカ
ルテイルも、アシュガンの二発の蹴りで内臓をやられてしまった。
カルテイルの足は完全に止まった。そこに、一撃で鋼鉄の壁すら砕きそうな左右の拳が、連
続で叩き込まれる。鼻の頭にくらって顎《あご》が上がり、下からすくい上げるようなアッパーカット
が襲う。
巨体が宙に浮き、無防備な身体を晒《さら》す。
こちらにまで衝撃が伝わってきそうな強烈な回し蹴《げ》りが炸裂《さくれつ》し、カルテイルは身体を二つに
折って崩れ落ちた。
「脆弱《ぜいじゃく》な息子よ、我が前から消え失《う》せろ」
大剣を引き抜き、それを振り上げる。
勝負は圧倒的に、アシュガンの有利に終わりそうだ。倒れたカルテイルは、血に濡《ぬ》れた牙を
悔しげに噛み鳴らし、それでも立ち上がろうとする。瞳の力は一向に衰えていない。
その敵意と憤怒の視線が、アシュガンの癇《かん》に触ったようだ。倒れているカルテイルの頭を踏
みつけ、瓦礫《がれき》の上にカ一杯押しつける。砕けた壁の破片が顔に突き刺さり、めり込んでいく。
残された左腕が持ち上がり、頭の上に乗っている足を掴《つか》んだ。渾身の力を込め、それを除こ
うとする。
アシュガンは顔を歪め、低く怒りの呻《うめ》きを漏らした。
「このような男に、我が血が流れているとは……考えただけで虫酸《むしず》が走る」
振り上げられた大剣が、カルテイルの首めがけ、それを両断せんと振り下ろされた。
「邪魔をするなと言ったはずだ!」
怒号は、カルテイルの首もとすれすれで、斬撃をリロイに止められたアシュガンが発した。
そのまま引き下げようとしたが、受け止めたリロイの剣はそれを許さない。
カルテイルへのとどめを断念したアシュガンは、剣を引き、その苛立《いらだ》ちを込めた一撃をリロ
イに見舞った。
躱《かわ》すでもなく、リロイの背の黒い翼がばっと身体を覆い、その攻撃を弾き返す。意外な反撃
に体勢を崩すアシュガン。
翼が開き切らぬ内にリロイの突き出した剣の切っ先が、その隙《すき》を突いて、白金の毛並に潜《もぐ》り
込む。
ぱっと赤き血の花が咲き、狼狽《ろうばい》の表情を浮かべたアシュガンは、大きく飛び退《す》さった。今の
リロイの攻撃が見切れなかったことへの驚きだろう。なかば呆然《ぼうぜん》として、抉《えぐ》られた腋《わき》の下を押
さえ、掌にべっとりとついた血を見やる。
私にも、リロイの身体が霞《かす》んだようにしか見えなかった。ふところに潜り込まれてあのスピ
ードで斬撃を繰り出されては、いかにアシュガンといえども躱し切れまい。彼の表情がそれを
一番物語っていた。
「……良かろう。我が全力をもって、まずは貴様を葬ろう」
鬼気が一気に膨れ上がり、アシュガンの足下の瓦礫がそれに巻き込まれて浮き上がる。
「まずはも何もない。俺で終わりだ」
初めは気圧《けお》されていたリロイも、今や闘気ぐらいでは怯《ひる》まない。むしろ、それに立ち向かう
リロイの表情は嬉々《きき》としている。
怒りも憤《いきどお》りもあろう。だが、彼の中にある異質の因子が、戦いを求め疼《うず》くのだ。
先にリロイがしかけた。翼の羽ばたきを利用して常より大きな跳躍力を得、頭上から全身を
バネにして剣を叩きつける。
今度はアシュガンも後《おく》れを取らなかった。
リロイが間合《まあ》いに入るのを見極《みきわ》め、半円を描くように剣を流し、胴を両断せんとする。
黒の大剣は大きく空を切った。
またしても、アシュガンはバランズを崩す。
リロイは翼を使い空中で巧みに身体を捌《さば》き、落下スピードを遅らせて、アシュガンの攻撃を
やりすごしたのだ。この短時間で、リロイは新たな器官を使いこなすようになっていた。
「間抜け」
言い放ち、リロイの攻撃は、真面《まとも》にアシュガンの左の肩口に命中した。ずぶり、と刃がめり
込み、ぶしゅっと音を立てて、血が噴水のように吹き出す。深い。恐らく筋肉を断ち切り、内
臓にまで到達したはずだ。
アシュガンは吠える。
剣を振るには近すぎると判断し、右手を伸ばしてリロイの腕を掴《つか》む。剣はびたりと止まり、
それ以上進むことは出来なくなった。
ぐぐっと押し返される。
リロイは力の勝負には挑まず、あっさりと剣を引き抜き、翼で一撃を与えて後退する。
したたかに顔面を打ちすえられ、アシュガンは追撃の機会を失う。そこを逃さず、一旦後退
したリロイが素早くふところに潜り込む。
必殺の間合いだ。
剣が唸《うな》り、無数の銀光となってアシュガンを押し包む。躱《かわ》すのは無理、と判断したか、アシ
ュガンは跳ね飛んだ。
それをさらに、リロイが追う。アシュガンの動きをすべて見切っているかのように、その逃
亡を許さない。
剣の生んだ真空波が、間合いの外からアシュガンの身体を切り刻む。わずかに、動きが鈍る。
リロイはさらに加速した。
まさに疾風迅雷!
ざしゅっ、と一筋の光がアシュガンを貫き、続いて上から下への苛烈《かれつ》な打撃が打ち下ろされ
る。
巨人は加速したまま地に落ち、瓦礫の間を転がり、勢いに乗ったまま柱の基部に激突した。
その軌跡を、血の雨が彩る。
「……何て凄《すさ》まじい」
レナが吐息をつく。
確かに、異質の遺伝因子の恩恵を授かったリロイは、想像以上の戦士となった。今のリロイ
ならば、アシュガンも仕留めてしまうだろう。
このままいけば、だ。
アシュガンは、まだ立ち上がった。白金の肉体を紅に染めながらも、その覇気は衰えを見せ
ない。あの程度のダメージでは、まだこの獣人に地を舐《な》めさせることは不可能なのだ。
「頑丈な……奴だ」
リロイが、言葉に詰まった。優勢であるにもかかわらず、リロイの顔色は悪く、憔悴《しょうすい》してき
たように見える。
私の悪い予感が現実になるのか?
リロイは焦りを見せた。
正面から突きかかり、フェイントを混ぜたものの、アシュガンに見事に躱され、反撃の余地
を与えてしまった。
黒い大剣がひるがえり、リロイの身体が吹き飛ぶ。
完全に躱し切れなかったのだろう。ごろごろと転がりながら、なんとか体勢を取り戻し立ち
上がったリロイの胸もとは、べったりと血に濡《ぬ》れていた。深くはないが、看過できる傷でもな
い。シャルヴィルトに付けられた傷が、再び口を開く。
アシュガンは、大剣についたリロイの血を振り払い、言った。
「どうした。動きが鈍ってきたぞ」
アシュガンは気がついたのだろうか。
痛みによるものだけではない苦痛の表情と脂汗《あぶらあせ》が、リロイの顔を一層危ういものに見せる。
「限界が来たんだ」
私は、焦燥に後押しされるように呟いた。
こちらを振り返ったレナにも、不安の影が見える。
「あのスピードとパワーは、リロイが獣化してこそのものだった。言い換えるなら、あの力を
制御して使えるのは、怪物の肉体だけなのだ。あの姿のリロイには、負担が大きすぎる。この
ままでは、力の暴走が起こってしまうか……」
「……何?」
レナは、努めて平静を装《よそお》おうとして、口を引き結び、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「リロイの身体が、力に耐え切れず、壊れてしまうか……どちらにしても、楽しいことにはな
らないな」
私の危惧《きぐ》をよそに、リロイは再び攻撃に転じた。だが、一時のあの鋭さはない。むしろ反動
で鈍くなってきたようにも思える。
こうなる前に、倒すべきだったのか。
アシュガンは、余裕を持ってリロイの斬撃を捌《さば》いた。肩口の傷がある分、アシュガンも攻撃
と防御に隙《すき》が多くなったが、リロイの消耗はそれ以上のようだ。
このままでは、なぶり殺しだろう。
意を決して、私は進み出た。ここは、相棒として手助けせねばなるまい。
「わたしもやるわ」
レナは、エフィルをがたがたと震えているロークにまかせおぼつかない様子で立ち上がった。
「その身体では何もできまい」
私は彼女の身を案じ、厳しく言った。だがレナは、あの〈冷血〉にふさわしい毅然《きぜん》とした笑
みを浮かべた。
「リロイには、借りをつくりたくないのよ」
「…………」
そういうレナは、今までになく幼く見えた。
まるで、意地を張っている子供だ。
男などに頼らず生きてきたレナが、これからもそうするであろうとは思うが、リロイに対し
ては少々ムキになりすぎてるようだ。過去の遺恨がどうあれ、お互いのお互いに対する感情は
どうやらそれだけではないらしい。
素直になれない二人か。
そう思うと、自然に笑みが浮かんだ。
お、この表情は実にいい気がする。
レナは眉《まゆ》をひそめたが、私はとりあえず自分の表情に納得し、説明は避けた。私は、ことさ
らにしかつめらしい顔をして言った。
「では、アシュガンの気を引いてくれ。無理はするな。一瞬でいいんだ」
「分かったわ」
レナはいささか胡乱《うろん》げだったが、腰から短剣を引き抜くと、うなずいた。身体の傷のわりに
は、素早い動きで瓦礫《がれき》の陰を移動していく。
これは、一種の賭《か》けだ。
果たして、相棒を救えるのか。下手《へた》をすればここにいる全員が、いやそれどころか街にも被
害が及びかねない。
なんと身勝手なやりようか。しかし、それを自制することはできない。今の私は、ただ相棒
を救いたい、ただそれだけしか考えられないのだ。
事態は急変する。
遂にアシュガンの一太刀が、リロイを捉《とら》えたのだ。衰えだした身体に鞭《むち》打ち、どうにか身を
捌《さば》いて攻防を続けていたリロイだったが、それもそこまでだった。
満身の力で振り下ろされた一撃が、リロイの掌から剣を弾き飛ばしてしまう。それが地に落
ちる前に、横薙《よこなぎ》と突きの二連打が、右腕を切りつけ、脇腹《ばきばら》に突き刺さった。
そこに、レナが飛び出した。
短剣を構えたまま、勢いに身をまかせ、身体ごとアシュガンに突撃する。
無茶をするな、と言ったのに!
短剣は鍔《つば》もとまで深く突き刺さったが、反動でレナの身体は弾き飛ばされ、運の悪いことに、
瓦礫にぶつかって傷を負う。床から飛び出していた尖《とが》った破片が、彼女の太腿《ふともも》を貫いたのだ。
レナは、脚を床に縫い止められた格好になった。
あれでは身動きが取れない!
「なぜ、そんな馬鹿なことを」
リロイは、痺《しび》れるような痛みの中で、それを上回る驚きに打たれていた。
レナは激痛に眉根《まゆね》を寄せたが、悲鳴 つ上げずに冷笑を浮かべた。
「あなたよりはマシよ」
ぎろり、とアシュガンはレナを見下ろした。
「大した度胸だ、女よ。次は貴様に子を孕《はら》ませようか。カルテイルのような軟弱者ではない、
わたしの資質を良く受け継いだ子が生まれそうだ」
「貴様……!」
リロイは信じられないことに、黒い刃を握ると、それを手繰《たぐ》り寄せるように前進した。さら
に深く剣が体内に埋没し、夥《おびただ》しい血が傷口から流れだし、足下に血溜《ちだ》まりを造る。
伸《の》ばされた腕がアシュガンに届く前に、ぐいっと剣が捻《ひね》られる。傷口がさらに広がり、リロ
イの口から苦鳴がほとぼしる。
「わたしが、黙っておまえのような化け物の子を生み落とすとでも思って? おまえはわたし
に指一本触れられないわよ。それとも、試して痛い目を見る?」
レナは辛辣《しんらつ》にアシュガンを挑発した。
獣人は、満足気にうなずく。
「その意気やよし。我が子種を受けるにふさわしい女よ」
「させるか……!」
ずぶり、と鍔もとまで、剣がリロイの脇腹を貫いた。その状態にしては信じられない素早さ
で、手刀がまっすぐに突き出される。
指先は、狙い通りにアシュガンの目を貫いた! そして指を握り締め、視神経をぶちぶちと
引《ひ》き千切《ちぎ》りながら、一気に引き抜く。リロイの掌の中には、アシュガンの血まみれの眼球が握
られていた。
アシュガンは思わず悲鳴を上げ、よろめく。
計らずも、レナとリロイのおかげで、予想以上の好機が訪れた。
「二人とも、離れろ!」
私の声は、実際ぎりぎりのタイミングだった。レナが動けないのは分かっている。リロイも
重傷だ。だが、私は自分の相棒を信じた。
そして、リロイは期待に応《こた》えてくれた。
凄《すさ》まじい激痛をものともせず、脇腹を裂くように身を捩《よじ》って剣の呪縛《じゅばく》から抜け出し、レナに
一足飛びに駆け寄る。そしてためらうことなく、レナの脚を尖《とが》った破片から引き抜いた。
その瞬間、私の掌から〈存在意思《ノルン》〉のエネルギーソードが飛び出し、アシュガンめがけて突
き進んだ。リロイのときとは違い、純粋な破壊目的だ。それだけに、コントロールが難しい。
破壊の規模を、最小限に抑えなければならない。この攻撃は、もともと群れを成す敵を一掃す
るためのもので、単体への攻撃は考慮されていないのだ。
エネルギーソードがアシュガンに接触し、〈存在意思《ノルン》〉同士の激突、相互干渉が膨大な破壊
のエネルギーを生む。それを感じるほんの一瞬前に、アシュガンを取り囲むように〈存在意《ノル》
思《ン》〉のバリアを張り巡らせ、エネルギーの相殺《そうさい》を行う。
夜が昼になったような白光。音をともなわない破壊の嵐は、現実味に欠ける。だが実際は、
この国一つを優に滅ぼせるだけの力を秘めたエネルギーだ。
光が消え、夜が戻る。
衝撃が、私の身体を襲った。立体映像とはいえ、ものに触れ、触れられることができる超高
密度の幻像だ。生身ほどではないにしろ、物理的攻撃の影響は受ける。
腹が破れそうな一撃に、私の肉体は一瞬結合力を失い、その形態が乱れる。しかし死ぬわけ
でもないし、痛みもない。
だが、精神的にはそれを感じる。限界を超える衝撃を受けたら、私の意識は霧散し、いわゆ
る死を迎えるのだ。
「おまえを忘れていたとは……あまりに不覚であったわ」
床に膝をついた格好の私を見下ろし、アシュガンは自嘲《ちちょう》の表情で言った。
どうやら、私の策は失敗に終わったようだ。
アシュガンの左腕が肩から抉《えぐ》られて消失しているが、致命傷にはいたっていない。
爆発から相殺への一瞬のタイムラグを利用し、破壊の嵐をかいくぐったか……。
何と恐ろしい男だ。
万策尽きたとは、このことだ。
アシュガンは、拳《こぶし》を振り上げた。この怪物の渾身《こんしん》の一撃を真面《まとも》に食らってしまっては、私の
精神が持つかどうか、自信はない。
私は、初めて死を覚悟した。
それは何とも言えぬ空虚さと脱力感を私に与えた。生を諦める、絶望するということは、こ
ういうことなのだろうか?
「まだだ!」
そんな、私の弱さを叱咤《しった》するような、力強く、生命に溢《あふ》れた叫び。
そうだ。
まだ、諦めない奴がいた。
いや、あいつは諦めるということを知らない。馬鹿で単細胞で助平だが、生きるということ
の価値をよく知っている男だ。
その声に、アシュガンは背後を振り向き、本能が命ずるまま動いた。だが、彼の視界に飛び
込んできたのは、彼が予想していたものとは違った。
そこには、銃を構えるレナが仁王《におう》立ちしていたのだ。
レナは全弾を撃ちつくすつもりで、引き金を立て続けに引き絞った。炸裂弾《さくれつだん》は、虚を突かれ
たアシュガンの胸板で、腹で、弾頭を炸裂させた。ぱっ、ぱっ、と火花が散り、闇に包まれた
廃墟《はいきょ》を照らす。
アシュガンは着弾の衝撃で二、三歩後退したが、それほどのダメージはない。鉛の弾丸は、
獣人の肉体に突き刺さりはしたものの、深く潜り込み内臓を引き裂くには及ばなかった。
リロイはどこに?
アシュガンも、あえてレナには構わず、超感覚の網を広げる。リロイを捕捉《ほそく》するつもりだ。
夜より黒い翼がばさりと広がり、私の視界を覆った。リロイは私とアシュガンの間に割り込
み、見事にアシュガンの背後を取った。
だが、アシュガンはそれに気づいた。
横殴りの剣撃を、地を這《は》うようにしてかいくぐる。
決死の攻撃も、アシュガンには通用しないのか? 地を這い、そこから片腕をばねにして跳
ね起き、必殺の蹴《け》りが叩き込まれる。
躱《かわ》せる間合いではない。
黒い翼が、リロイの身体を包み込む。
その上から、お構いなしに、回し蹴りが叩き込まれる。リロイの身体はその衝撃に耐え切れ
ず宙を舞い、勢いを殺せずに瓦礫《がれき》の上を二転三転する。
「リロイ!」
絶叫、そして銃声。効かぬと知りながらも、レナが炸裂弾を放った。アシュガンの身体で小
爆発が起こるが、それを気にも留めず、次の標的に向かって疾走した。
「アシュガン!」
怒声は、上から降ってきた。闇夜《やみよ》にもあざやかな白金の巨体が、上空からアシュガンに襲い
かかる。倒れていたはずのカルテイルが、最後の力を振り絞り、黒の大剣を手に急降下する。
「無駄だ」
冷たい、嘲《あざけ》りを含む言葉。二人とも片手だが、力の差は歴然としている。返り討ちに遭うだ
けだ。
アシュガンは身を捌《さば》き、軽々と一撃を躱した。カルテイルは振り下ろした剣を突き上げ、ア
シュガンの心臓を狙う。
あえなく躾された。反撃の拳《こぶし》が、カルテイルの横っ面《つら》を殴打し、折れた牙と血を吐き出して、
どうと倒れる。
レナは間合いを詰め、さらに近距離から銃撃を与える。先程よりも銃弾は深く食い込んだが、
それは、彼女自身をも窮地に陥れた。
アシュガンの巨大な掌が、レナの細い腰を握り、捕えた。締めつけられ、レナの顔は苦痛に
歪む。
「いい表情だ」
アシュガンはにやり、と笑みを浮かべ、ぺろりと舌で牙を舐《な》める。だがすぐに、背後の気配
に振り返り、レナを無造作に振り落とす。
雄叫《おたけ》びを上げ、リロイが剣を突き出した格好で突撃した。
正直すぎる!
アシュガンも、恐れるものではないと感じ、余裕の笑みを浮かべた。
だが、リロイの身体が霞《かす》んだ。私が、精神に負担を負いすぎたせいか?
いや、違う。アシュガンも、同様に、驚愕《きょうがく》に目を見開いた。
そして、超高速の域に達したリロイの身体が、私とアシュガンの視界から完全に消えた。
あまりのスピードに、肉眼では捉《とら》えられなくなったのだ。
「馬鹿な!?」
初めて聞く、アシュガンの狼狽《ろうばい》の悲鳴。
金縛りにあったように動かぬアシュガンの巨体が、後ろに跳ね上がり、そのまま凄《すさ》まじい勢
いで瓦礫の山に突っ込んだ。
四方八方に砕けた破片が飛び散り、もうもうと土煙が舞い上がる。一瞬視界がさえぎられる
が、折しも吹きつけてきた夜風に、さっと流される。
激突の衝撃は、二人の肉体にかなりのダメージを与えるはずだ。骨折や内臓への負荷は避け
られまい。あのスピードは、実際、人の身体が耐えられるそれを超えてしまっていたのだ。
だからこそ、灰塵《かいじん》の中、ゆっくりとリロイが立ち上がったとき、私は心底から安堵《あんど》し、大き
く吐息をついた。
背中の黒い翼は、いつのまにか消えている。
手にしていた剣は、アシュガンの心臓にまっすぐ突き立っていた。
私は、相棒の方へと歩み寄った。
だが、かすかに聞こえてくる声に、ぴたりと足を止めた。
アシュガンだった。
「恐ろしい……力だ」
肺が潰《つぶ》れたのか、血の泡を吹きながら、アシュガンは憎しみを込めてリロイを睨《にら》んだ。
「だが分からぬか、シュヴァルツァー……その姿と力を、人間は、絶対に受け入れん。……お
まえの居場所は、どこを探しても……見つかりなどしない。あるとすれば――」
「なければ、造ればいい。それだけだ!」
リロイは喉《のど》を突き上げてくる血の嘔吐《おうと》をこらえながら、アシュガンの言葉をさえぎった。
その言葉の続きなど、聞きたくなかったのだろう。
「詭弁《きべん》だ……事実は変わらぬ」
さらに大量のどす黒い血が、アシュガンの口腔《こうこう》からこぼれ落ちた。
「いずれ、そのときが来る。居場所のない自分に……絶望するときがな。どのように取り繕《つくろ》い、
己を騙《だま》そうとも……貴様の中に流れる血は、欺《あざむ》けん」
紅の瞳が、最後の力を振り絞るように激しく輝いた。
「苦しみもがけ、シュヴァルツァー! 我らを否定したことを、救いのない絶望の中で、悔や
み続けるがいい!」
そう叫んだかと思うと、アシュガンの瞳から覇気が失《う》せ、光が消えていく。
「愚か者め……」
断よ木魔の苦鳴に代え、アシュガンは凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべた。
「もはやこの世界に、貴様の依《よ》るべき所はない……」
がくり、とアシュガンの首が力を失ってうなだれ、全身から力が抜けて弛緩《しかん》する。
アシュガンは、完全に沈黙した。
黙したまま、アシュガンの最後の言葉を聞いていたリロイは、ぼそりと呟いた。
「なければ、失うこともないだろ……」
そして、がっくりと膝をつく。
私は急いで駆け寄る。近づいて分かったが、リロイの肉体は、限界を越えた酷使に、崩壊寸
前のボロボロの状態だった。
「よくも、こんな身体で……」
私は、感嘆と呆《あき》れ返った気持ちで呟いた。
リロイは、暗い気持ちを払拭《ふっしょく》するかのように、にやり、と笑った。
リロイも、私のように、自分の表情に納得したりするのだろうか?
私が治療を行っていると、カルテイルが、気絶したフリージアを抱《だ》きかかえて歩み寄って来
た。
二人はしばし視線を交わしたが、無言のままだった。
言うべき言葉などないのだろう。
無言の対峙《たいじ》は永遠に続くかと思われたが、リロイが軽く息を吐き、肩をすくめた。
「おまえを助ける報酬は、レナの妹と、組織を再編しないこと――払うか?」
カルテイルの顔に、瞬《またた》く間に厳しい戦士の表情が広がっていく。
嫌《いや》な兆候だ。
「フリージアは承諾したが……どうする?」
カルテイルは、腕の中の女戦士を見やり、
「報酬は、払えん」
断固とした口調で言った。
「そうか」
別に驚いた様子もなく、あっさりとうなずくと、リロイは私を軽く押し退《の》け、立ち上がった。
カルテイルは、そっとフリージアを降ろす。
リロイはアシュガンに刺さったままだった剣を引き抜き、カルテイルは父のものだった黒い
大剣を構える。
どうして、こうなるのか。こうするしかないのか、それともこうすべきなのか……私には到《とう》
底《てい》分からない。
そして、もはや口を挟める状況でもない。
「ど……どうしても……?」
ロークが、懇願の表情でリロイを見つめる。それにリロイは、仕方がない、という表情で首
を軽く振り、カルテイルに向き直った。
「決着をつけよう」
「おう」
二人は同時に地を蹴《け》り、激しくぶつかった。
黒と金の流れが交差し、甲高《かんだか》い音を上げる。カルテイルは、片手でも遜色《そんしょく》なく大剣を操り、
防御に回ることを避けるように連撃した。
リロイも、傷のダメージと疲労を押し隠し、力強い剣捌《けんさば》きで、カルテイルの 撃一撃をいな
していく。
万全の体調ではないが、叩きつげる剣に込められた殺気は本物――二入とも、本気のようだ。
リロイが、得意のフェイントを織り混ぜた攻撃で、カルテイルの右側を攻め込む。左手一本
のカルテイルは、それを捌けないと判断するや、その俊敏さを活《い》かし、リロイの左手に回ろう
とする。
それをさせまいと、リロイは一歩踏み込み、抉《えぐ》るようにカルテイルの腹を狙い、剣を突き出
した。
それを咄嗟《とっさ》に剣で弾いたカルテイルだったが、瞬間、胴ががら空《あ》きになってしまう。リロイ
はそれを見逃さず、大胆にも剣を手放し、身体ごとそこに突進した。
鳩尾に、全体重を乗せたショルダーアタックが突き刺さり、カルテイルは苦悶《くもん》に顔を歪《ゆが》め、
しかしすぐに剣の柄《つか》でリロイの首もとを強打した。だがそれを見越していたリロイは、両手で
カルテイルの手首をがっちりと掴《つか》み、突っ込んだ勢いもそのままに思い切り、捻《ひね》る。
関節が逆に捻《ね》じれる激痛に、カルテイルは黒い大剣を手放し、捻られる方向に自ら飛んだ。
そうやって何とか手首をへし折られることを避け、なおかつ、リロイの腕を逆に取り、一本背
負いの要領で瓦礫《がれき》の上に叩きつけた。
派手《はで》な音と土煙が舞い上がり、その中にリロイの押し殺した苦痛の呻《うめ》きが混じる。あの勢い
なら、普通の人間なら背骨が粉々に砕けるところだ。
カルテイルは、その体勢から、リロイめがけて踵《かかと》を踏み下ろす。真面《まとも》に食らえば、肋骨《ろっこつ》が折
れ、肺に突き刺さるだろう。リロイは反射的に腕を上げると、その一撃をガードする。
ここまで、リロイの骨が軋《きし》む音が聞こえてきそうだ。背中にも、瓦礫の破片がぐいぐいと突
き刺さっているに違いない。
リロイは、なんとかその一撃を堪えながら、器用に腰を捻り、カルテイルの膝裏《ひざうら》を蹴《け》りつけ
た。カルテイルの巨躯《きょく》かがぐらりと揺れ、リロイを踏みつける足が外れた。
リロイは両手を、バネに、逆立ちの格好で、カルテイルの顔面を蹴り上げた。カルテイルの身
体がさらにのけぞり、そこに膝蹴りを叩き込むと、今度は前のめりになった彼の顔面へ、再び
膝を送り込んだ。
ばっ、と血が飛び散り、鼻面《はなづら》を砕かれたカルテイルはたたらを踏んだ。
たたみかけるように、左右の拳《こぶし》を、カルテイルの顔といわず腹といわずに叩き込んだ。肉と
肉が打ち合う生々しい響きに、押し出されるカルテイルの呻《うめ》き。
だが、鋼の肉体を誇るカルテイルを素手《すで》で殴りつけるというのは、無謀《むぼう》だった。リロイの拳
が、それ自体から出血し、瞬く間に血《ち》まみれになっていく。
だが、リロイは殴ることをやめようとはしなかった。カルテイルに対して感じた怒り、共感、
理解――それらをすべて包含したような表情で、リロイは拳を繰り出し続ける。
カルテイルも、黙って殴られ続けるつもりはないだろう。リロイの右のストレートを上体を
傾けて躱《かわ》すと、カウンター気味に左の拳を叩きつけた。
頬を強打されたリロイは、血を吐きながらよろけた。しかし停滞なく反撃に移る。カルテイ
ルのこめかみに向け、直線的な蹴りを放った。
カルテイルはそれを左手で受け止め、お返しとばかりにリロイの胸板を蹴りつける。めきめ
きっ、と肋骨が折れる音。リロイはもんどりうって転がり、息をするだけでも激痛が走るはず
の身体で、それでも立ち上がった。
二人はどこまでやるつもりだ? このままでは、決着をつけるどころか、殴り合いの末に二
人とも息絶えてしまう。
リロイは、すぐそばに落ちていた私の本体を掴《つか》んだ。口の端からこぼれた血が顎《あご》を伝い、黒
いシャツに染《し》み込んでいる。
白金の体毛をほとんど紅に染め、カルテイルも黒い大剣を拾い上げた。
本当に、どちらかが死ぬまでやめないつもりか。
二人は、無言のまま、申し合わせたように飛んだ。両者とも、相手の攻撃を受けとめるつも
りはない。先に一撃を浴びせた方が勝つというわけか!
激突は一瞬だったが、私にはスローモーションのように映った。
カルテイルの横薙《よこなぎ》の一撃が、ずぶり、とリロイの腹を裂き、リFイの振り下ろした斬撃が、
カルテイルの肩口《かたぐち》にずっぱりと食い込んだ。
二人は、そのまま膝をつき、お互いにもたれかかるようにして動きを止めた。
その身体から飛び散る血飛沫《ちしぶき》の量に、私は慌てて駆け寄った。
「……俺の勝ちだな」
そう呟いたのは、リロイだった。
「後《あと》もう少し力を込めれば、おまえの心臓を抉《えぐ》り出せる」
「ならば、そうするがいい」
穏やかな口調で言ったカルテイルの手から、黒い大剣がからりと落ちる。
リロイも同時に、剣を引き抜き、手放した。
「いや、やめとこう」
リロイは、疲れ切ったように言って、大きく息を吐いた。
「なぜだ」
同じように、吐き出す息に乗せてカルテイルは問う。リロイは腫《は》れ上がった頬《ほお》に笑いを浮か
べようとして、痛みに呻《うめ》く。
「レナを助けてくれたからな。おあいこだ」
おどけた口調のリロイを、カルテイルは殺気の消えた紅の瞳で凝視《ぎょうし》する。
「だけどなぜ、レナを助けた? 殺そうとまでした相手だろ?」
「……俺は、ようやく、自分自身を見つけることができた」
深く吐息をつき、カルテイルは静かに目を閉じた。
「長い間探し求めていた答えがもたらされた。だが、喜びも、苦しみからの解放もない。むし
ろ、出自《しゅつじ》を知ったことは、さらなる苦痛で俺を苛《さいな》むだろう」
「…………」
リロイは、恐らく、カルテイルと同じ胸中だったのだろう。無言の中にも、理解が秘められ
ていた。
「だが、一つだけ……少なくとも、過去への呪縛《じゅばく》からは解き放たれたのだ。――過去には、も
はや何の意味もない。〈|闇の種族《ダーク・ワン》〉と人間の間に生まれた異端者として、いかに生きるか。
それが俺の命題だ」
カルテイルは、目を開いた。和《なご》やかな、吹っ切れたような眼差《まなざ》しで、リロイを見る。
「暗殺者として生きた過去は捨てる。――報酬は、支払おう」
ならばなぜ、自分と刃《やいば》を交えたのか、とはリロイは聞かなかった。
それがカルテイルなりの決着のつけ方であり、不器用な生き方しかできなかった男の性《さが》であ
ったと考えたのだろう。
大量の出血とダメージに、よろけながらも、カルテイルは立ち上がった。私が傷の治療でも
と差し出した手を、彼はやんわりと拒絶した。
これ以上、情けは受けられないということか。
どこまでも孤高な男だ。
カルテイルはフリージアを抱《だ》きかかえると、ゆっくりとした足取りで、夜の闇《やみ》へと足を踏み
出した。
「その女、大事にしてやれ」
リロイはその背に声を投げる。
カルテイルは一度だけ振り返った、
うなずいたように見えたのは、気のせいだろうか。
「さらばだ」
その言葉を残し、カルテイルの姿は闇に紛れ、消えた。
ふわり、と闇夜から、白い何かが舞い落ちてきた、
それは、風にふらふらと翻弄《ほんろう》されながら、やがてリロイの足下に落ちてくる。
羽根だ。
鳥のものにしては大きすぎる、リロイの黒い翼とは対照的な、雪の一片のような白い羽根。
リロイは知らないだろうが、私がこれを目にするのは二度目だ。
これはやはり、この戦いを見守っていた天使の羽根なのだろうか。そして、神の聖域たるこ
の場所を壊滅させたことに憤怒した天使が、立ち去った名残《なご》りであろうか。
それとも、リロイの存在に恐れをなした天使が、慌てて逃げ去った証《あかし》なのか……。
その天使は、神に何と報告するのだろうか。
私の相棒のことを――
終 章
それは、墓標というのにはあまりに粗末だった。そこに遺体が埋まっているという目印ほど
の役目しか果たさない、一かかえほどの石だ。
石には、乱暴に墓碑銘が刻まれている。
名前だけだ。いつどこで生まれたのか、それすら記していない。
だがリロイは、名前しか、その少女について知らなかったのだ。いたしかたない。
その墓にとっての唯一の慰めは、辺りが野花の群生地だったことか。毎年この季節になれば、
色とりどりの花がこの無骨な墓を彩ってくれることだろう。
リロイはしばらくの間、その墓標を眺めていた。別に哀《かな》しんでいるとか、後悔をしているわ
けではない。ただ、この少女のことを、記憶に刻み込んでいるのだろう。
後悔することは、彼女の生命を悔辱《ぶじょく》することになる――そう考える男だ。
東の空が仄《ほの》かに明るんできた。夜明けが近い。昨夜の騒動が嘘《うそ》のような、静かな夜明けだっ
た。
駆けつけてきた警備兵たちの目をかいくぐり、追手をまいて脱出できたのは僥倖《ぎょうこう》だった。も
し捕まっていれば、しばらくは臭い飯を食うことになっていただろう。
脱出の際、ロークとははぐれてしまった。
だが、彼がどうしたのか、大体の予想はつく。リロイの言葉通り、戦いとは別の方法で、カ
ルテイルに恩を返すつもりなのだろう。
そして、レナは――
「そろそろ行こうか、リロイ」
私の言葉に、相棒はうなずいた。最後の一瞥《いちべつ》を墓石に向け、くるりと踵《きびす》を返す。
その視線の向こうに、レナはいた。
ちょうど上ってくる太陽の方を向いているので、眩《まぶ》しそうに目を細めている。
「――感傷的な人ね。それとも、罪の意識?」
開口一番放たれた嘲《あざけ》りの冷ややかな言葉に、しかしリロイは反応しなかった。無視を決め込
んで、その傍《かたわ》らを通りすぎようとする。
まだ傷が完全に癒《い》えていないので、その足取りはいささかぎこちない。
「報酬はいらないの?」
すぐ横を通るリロイにそっと耳打ちするように、レナは言った。口もとには冷笑が浮かんで
いる。
リロイは唐突《とうとつ》に足を止め、朝日に輝くレナの横顔をじっと見つめた。
無言の凝視に、レナは美しい眉《まゆ》をひそめ、訝《いぶか》しげにその視線を受けとめた。
「――何よ?」
「……別に」
リロイはそっけなく言って、ふと顔を逸《そ》らした。相棒の胸中をよぎるのは、エフィルの言葉
だろうか。だが、エフィルの言ったようなそぶりは、レナからはまったくといっていいほど、
感じられない。
真実は闇《やみ》の中、だ。
相棒もそう判断したのか、やぶ蛇になりそうなことは口にしなかった。
「……報酬《ほうしゅう》、払うつもりがあるのか?」
「踏み倒すつもりはないわよ」
リロイの疑わしげな眼差《まなざ》しを、レナは平然と受け止め、肩にかかる金の髪を指で払った。朝
日を受けて流れ輝くそのさまは、まるで光の奔流《ほんりゅう》のようだ。
「約束通り、わたしを好きにしていいわ」
「――そうじゃないだろ」
リロイは、嘆息するように言った。
苦々しげなリロイの顔に、レナは意地の悪い視線を浴びせかける。
「フェンリルから話は聞いたわ。わたしを助ける条件のこともね」
「だったら、そっちの報酬を払え」
横目で睨《にら》むリロイに、レナは鼻を鳴らし、冷徹な嘲笑《ちょうしょう》を投げかけた。
「勘違いしないで。わたしを助けたのは、あなたではなく、カルテイルじゃないかしら。あな
たは、ただ暴れただけにすぎなくてよ」
「な……」
絶句するリロイに、さらにレナは言葉を紡ぐ。
「あまつさえ、あなたを援護するために、わたしは危険を強《い》いられたわ。それも、あなたの相
棒に」
そこでちらりと、レナは私に悪戯《いたずら》めいた視線を向けた。私は無言だ。関《かか》わりになるのはよそ
う。
「百歩譲って、あなたがわたしを助けたとしても、わたしもあなたを助けたわ。これで貸し借
りなし。わたしが報酬を払うべきは、マナの救出に対してだけよ。それの報酬はわたしの身体
――文句ないでしょ?」
たたみかけるようなレナの言葉に、リロイは圧倒されて口を閉ざした。やはりレナは一筋縄《ひとすじなわ》
ではいかぬ女だ。リロイのような単細胞馬鹿では、太刀打ちできない。
やがて、どこか達観したような表情をすら浮かべてしまったリロイに、背後の木立ちからの
っそりと近づく影があった。
フェンリルだ。
フェンリルは、大きな身体を縮め、リロイに頭を下げる。
(すまない、シュヴァルツァー……)
「おまえが悪いんじゃない、フェンリル」
リロイは、脱力したように肩を落とし、力のない笑みを浮かべた。
「あら、わたしが悪いとでも?」
涼しい顔で、レナ。
リロイは、ぐしゃぐしゃっと髪をかきむしる。耐えろ、相棒よ。悪いのは誰でもない、頭の
回りの遅いおまえなんだ。
「――お姉さま、それはあまりに、シュヴァルツァーさまに失礼というものよ」
その声は、フェンリルの巨躯《きょく》の後ろから聞こえてきた。小柄な影が、すっと前に出る。
小綺麗なブルーのワンピースに着替えたエフィルだった。
レナは目を細め、エフィルに向かって厳しく言った。
「待っていなさいと言ったはずよ。仕事には口を挟まないでちょうだい」
「そうはいきませんわ」
少女は毅然《きぜん》とした態度で、つんと顎《あご》を上向けた。見た目は変わっていないが、エフィルのよ
うな小悪魔的な雰囲気がなくなり、どちらかというと清楚《せいそ》で上品な感じだ。口調も、丁寧で落
ち着いている。よく見れば、顔つきすらも、エフィルのときより二、三歳上に思えた。
これはエフィルではない――とすれば、この少女が本来の人格であるマナということか。危
険が去ったので、防御人格であるエフィルが引っ込み、マナが覚醒《かくせい》したのか。
少女は、透徹した眼差《まなざ》しで姉を見すえ、
「お姉さまは、放っておくと何をしでかすか分かりませんもの――何があったかは、大体察し
がつきますわ」
言って、リロイをまっすぐな瞳《ひとみ》で射貫いた。
その眼差しに、思わずたじろぐリロイ。
マナは、リロイに深々と頭を下げた。
「このたびは、姉妹ともども大変お世話になりました。重ね重ね、お礼申し上げます」
「あ……いや」
例の如く、間抜けな反応のリロイ。
少女に気後《きおく》れしてどうする。
マナは宛然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。エフィルによれば、彼女はレナとリロイの関係を知らないはずだが、
どこか含みのある笑みだ。
その顔が、きりっと引き締まり、彼女の三倍はありそうな巨躯の銀狼を睨《にら》みつけた。
「フェンリル」
厳しい声色に、フェンリルは弱々しく嘶《な》き、尻尾《しっぽ》を股《また》の間にしまい込む。戦いの場において
は勇猛果敢な銀狼も、この少女は苦手のようだ。
「お姉さまを助けるためとはいえ、行動が少し軽率すぎましたね。お姉さまの性格を知悉《ちしつ》して
いるのだから、そんな条件を飲むはずがないと、なぜ分からなかったのです。
それとも何ですか、分かった上で、契約を取り交わしたとでも?」
(…………)
フェンリルはいよいよ小さくなり、申し訳なさそうにリロイを覗《のぞ》き見る。
やはりレナの相棒だけはある。リロイは、フェンリルにまで利用されたというわけか。
まあ、罪悪感を感じているだけ、レナよりはましだが。
リロイは、フェンリルに向かって肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。この辺りは、度量の大き
いところだ。
それとも、ただのお人好しか。
マナは、再度|矛先《ほこさき》をレナに向けた。
「助けてもらってなんですけれども、お姉さまの身体を報酬にしての契約とは感心できません
わ。リロイさまも、それをお望みではないご様子。これは少々、公平な取り引きというには難
がありますね。お姉さまは、もっと自分の身体を大事にして――」
「引っ込みなさい、シェスタ」
くどくどと説教を続ける少女を、レナは厳しい一喝《いっかつ》で押し止めた。
――シェスタだって?
「いいかげん、マナに代わりなさい。もうあなたたちの出番は終わったのよ」
「分かりました……」
シェスタは姉に叱咤《しった》され、意外と素直にうなずいた。すっと目を閉じ、そしてそれが開かれ
たとき、またもや少女の雰囲気が変わった。
清楚なところは変わらないが、シェスタよりも柔らかで優しげな表情になる。瞳は、何かに
怯《おび》えているかのようにきょろきょろとさまよい、口もとが言い知れぬ不安に震える。
「マナ」
レナが、少女の頭を優しく撫《な》でた。
「……姉さん」
少女は、恐怖から逃れるためにレナの胸に飛び込みしがみついた。多重人格者は、別人格が
身体を支配しているとき、基本人格は眠っているのと同じで、その間に起こった出来事はまっ
たく記憶していない。
リロイの獣化と同じだ。
少女にしてみれば、襲われて拉致《らち》されたところから、今のこの場まで、記憶は完全に飛んで
いるのだ。
不安と恐怖がどっと押し寄せてきても、無理はあるまい。
しかし、三重人格とは――さすがは〈|冷 血 の レ ナ《レナ・ザ・コールドブラッド》〉の妹だ。
「もう大丈夫よ、安心なさい」
宥《なだ》める姉の腕の中で、マナは鳴咽《おえつ》を漏らしながら震えている。
それを眺めて、リロイは満足げにうなずいた。
くるりと踵《きびす》を返し、港湾都市のある南へ足を向ける。
そのままスタスタと歩き始めたリロイの背に、レナの声がかかる。
「報酬はどうするの?」
リロイは足も止めずに、
「貸しにしておく」
「借りは作りたくないのよ」
レナの声は、苛立《いらだ》ちに揺れていた。
振り返らず、リロイはにやっと笑う。
「だから、貸しにしとく」
これはリロイのささやかな報復、といったところだろう。
……本当にささやかだが。
背後で、憤慨の声と別れを告げる嘶《いなな》き。
ひらひらと肩越しに手を振って、リロイは進む。
「素直じゃないな、おまえは」
私は呆《あき》れて、呟いた。
「エフィルの言葉、気にしてるのか?」
「そんなことはない」
リロイは、憤慨して言った。
そんなことあるくせに。
ま、そこは長い付き合いだ、意を汲《く》み取ってやるとしよう。
だが、押さえるところは押さえねば。
「ところでリロイ」
「んー?」
私のしかつめらしい声に、相棒は間の抜けた返事をする。
「今回もただ働きだ」
「そうだな」
ことの深刻さを分かっているのか、リロイの返事はまたしても軽い。
「旅費の残りはあるのか?」
「あるよ」
リロイは、腰にぶら下げていた頑丈ななめし革の財布を何気なく開いて覗《のぞ》き見た。
そして、しばしの沈黙。
……ようやく分かったか、馬鹿め。
「それでどうやって飯を食うつもりだ?」
「……ま、まあ、そう言うなって」
わずかに顔を引きつらせ、リロイはどもりながら言った。どう言ったところで、旅費がない
という事実は変わるまい。
経済観念の欠如がここまでとは……まったく救いがたい。
私の沈黙の意を悟ったのか、リpイはそれをごまかすように、眩《まぶ》しげに朝日を見た。そして、
拳《こぶし》でとん、と私を軽く小突く。
「でも、悪くない仕事だったろ?」
そう言って、楽しげに笑う。ま、本人がそう思うなら、それもいいだろう。
この男にとって最悪の仕事、というものが何か聞いてみたいものだが。
「――好きにするがいいさ」
私は、この先も続きそうな相棒の受難を想像し、辟易《へきえき》して呟いた。
まったく、この男は……。
あとがき
おもしろいものが書きたい。
ただそれだけで書き始めた話でした。プロットも何もなく、思いつくまま書き進めた結果、
それは幸運にも第三回スニーカー大賞の大賞に選ぼれてしまいました。驚きはありましたが、
単に嬉《うれ》しい、というのが本音です。
今年に入って書き直しを始めたわけですが、実際書いていたときの気持ちとかはあまり覚え
てません。すでに落ちたときのことを考えて、二作目を書くのに必死だったからです。どちら
かといえば、書き上げたときよりも直しているときのほうがしんどかったというのが正直なと
ころでしょう。
そして一番苦労しているのは、今この瞬間、あとがきを書いているときかも知れません。手
紙のようなものや、学校の論文などはなぜか苦手で、ゼミの先生が、僕が小説で賞を取ったと
聞いたときの言葉が、
「君に文章の才能なんてあったかなぁ」
でした。
友人や母親に大賞の結果を電話したときも、皆一様に、
「駄目だった?」
と聞く始末。僕は自分の小説を他人に評価してもらったことなど一度もなかったのです。で
も書きたい。書けるはずだ。そんな根拠もない自信と思いが、どうにかこうにか結果となって
現れたことは、非常に喜ばしいと思います。
この本を手に取り、ここまで読み終えたあなた。あなたはどう思われたでしょうか。小説家
として続けていくのに絶対的に必要なのは、あなた方ひとりひとりの支持に他ならないのです。
いくら編集部の方が絶賛してくれても、読者がそっぽを向いてしまっては、それは紙屑《かみくず》でしか
ないのです。感想などを聞かせてもらえれば、幸いです。
最後に感謝の言葉を。
選考委員を勤められた先生方、そして編集部の皆様。チャンスを与えていただき、感謝して
います。期待を裏切らないよう、がんばっていきます。
担当の野崎さん。僕自身が気づかないミスの指摘、作品の完成度を高めるための多くの助言、
それがなければ、この話は世に出せるものにはならなかったでしょう。ありがとうございまし
た。これからもよろしくお願いします。
イラストレーターのTASAさん。素晴らしいイラスト、本当にありがとうございます。非
常に多忙とは思いますが、よろしくお願いします。
そして、両親。生まれたときから反抗期で、二十数年経ってもまだ反発し続ける息子を、見
捨てずにいてくれて感謝しています。あれほど望まれていた大学進学も半ばで放りだし、自分
の道を進んでいこうとしているドラ息子ですが、どうか見捨てないでやってください。あなた
方への感謝の気持ちは、言葉では現しきれません。野垂れ死にしないよう、必死でやっていく
つもりです。
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。
では読者の方々、できれば九月に、再びお会いしましょう。
本書は、第三回スニーカー大賞(選考委員:天野喜孝、藤本ひとみ、
水野良、角川歴彦/一九九七年十二月発表)の大賞受賞作「神々の
黄昏ーラグナロクー」を改題したものです。