『いつか、虹の向こうへ』 伊岡 瞬
角川書店 平成十七年五月二十五日初版
(第25回横溝正史ミステリ大賞及びテレビ東京受賞した「約束」に加筆修正し改題)
1
いつもと同じ小汚い道を、いつもと変わりなく、よれよれになって歩いていた。
駅前まで続く繁華街の裏小路。
ひとつおいた中央通りからは、雑多な喧騒《けんそう》が流れ聞こえてくる。
スピーカーがまき散らす音楽。
ヤケクソのように最後の踏ん張りをみせる呼び込み。
酔客たちの怒鳴り声。
笑い声。
それに引き替え、今私がふらついているこの道は、もはや寝支度が始まっているかのような静けさに包まれている。
あたりに漂っているのは、汚物の臭いと自分のため息くらいのものだ。
「馬鹿野郎」
などとつぶやいてみたが、だれかに向かって言ったわけではない。
目の前には、馬鹿野郎どころか、動くものは猫さえも見あたらない。
要するに、よくある酔っぱらいの決まり文句だ。
情けない、とは思う。
昔は思ったそのあとで落ち込んだものだったが、近頃はただ思うだけになった。
長いつきあいの、ただ一軒行きつけと呼べる飲み屋「志むら」で出来上がっての帰り道だった。
すきっ腹に流し込んだビールと、普段より一杯多かった焼酎のロックのおかげで、雲の上を歩いている。
そろそろ、終電が近い。
私も何とかしてそいつに乗り、我が家にたどりつかなければならない。
かなり効率の悪い歩みだが、頭の隅ではどうにか間に合いそうだと踏んでいた。
少し広い通りに出て、ふと目をやった先に大きな青いポリバケツがあった。
生ゴミ入れだろうか、それとも空きビン専用か。
いや、目が留まったのはポリバケツにではない。
そのすぐ脇でガードレールに腰掛け、街路樹に背中をもたせかけている若い女だった。
少女と呼ぶほうが、当たっているかもしれない年頃だ。
酔いどれの無礼さで、少しばかり観察した。
化粧はきっちりしているようだ。
下はジーンズ、上は白い丸首のニットシャツに濃い茶色のジャケットを羽織っている。
足先は、何と呼ぶのだろうか、突っかけのようなものを履いている。
手には何も持っていない。
どこか不自然な印象を受けて、気にかかった。
放心したような表情で、アスファルトの染みのあたりをじっと見つめている。
ちっとも動かないので、これほど近づくまで気付かなかった。
立ち止まった私に向こうでも気が付いて、ちらりと視線をよこした。
が、すぐに関心なさそうに道路へ戻ってしまった。
私の存在感は染み以下かもしれない。
客を引いているようにはみえなかった。
私は、そのままやりすごすことにした。
ホームセンターで千円ほどで買った腕時計をのぞく。
午前零時までに数分あった。
相変わらず隣の通りから、どこか遠い世界のことのように現実感のない喧騒が漂ってくる。
しかし、私の立つ空間だけ不思議な静寂が支配していた。
今にして思えば、運命の女神などという洒落《しゃれ》たものがいるなら、その時その薄汚い路地に、性悪《しょうわる》な女神がひっそり佇《たたず》んでいたのかもしれない。
私は、彼女とポリバケツの前を通りぬけた。
五、六歩行きすぎたあたりで、後ろから走り寄る気配がした。
どんなに酔っていても、これには身体が反応する。
すばやく振り返ると、彼女が追いついてくるところだった。
「ねえ、おじさん」
わずかに息を切らせている。
初めて会う人とはなるべく口をきかないようにしている。
過去の貴重な経験からだ。
黙っていると、彼女が続けた。
「ホテル、泊まらない?」
もう少しで、せっかくの焼酎が逆流するところだった。
普段なら無視して立ち去るところなのだが、私は酔うと人当たりがよくなるタチだ。
丁寧に答えてしまった。
「せっかくだけど、君が期待してるほど金は持ってない」
彼女は首を振った。
「お金はいらない。泊めてくれるだけでいいよ。そのかわり、あんまりサービスできないけど……」
思ったよりアルコールの量がいったようで、足元がふらふらと揺れた。
どうにか倒れないように踏ん張って言った。
「金はいらない……」
自分の口に出して言ってみないと、すぐには意味が理解できなかった。
「家出でもしたのか。財布落としたか?」
「まあ、そんなとこ」
女は視線をちらりと夜空に向けて、舌先を出した。
その時ようやく彼女の左頬骨のあたりが赤く腫れていることに気付いた。
「俺が断ったら別なオジサンに声をかけるのか?」
「うん」
(拘《かかずら》うのはやめておけ)
賢いほうの自分がささやくが、本体が酔っていてはどうしようもない。
もう一度だけ聞いてみた。
「金が欲しいのか? 泊まるところが欲しいのか?」
「泊まるところ。でも……」
首をかしげて、少し考えた。
「くれるならもらうかもしれないけど」
また、酒が逆流しかけたが、ぐっとこらえた。
我ながら、たいしたものだ。
「手持ちの金は?」
「ゼンゼン」
「いつも、こんなことしてるのかい」
そこで、女はぷいと横を向いた。
「あーあ。なーんだ、説教か」
「電車賃くらいなら貸してもいいが」
今夜の私は、筋金入りのお人好しだ。
「アリガト。でも、泊まるところを探してるから」
「そうか……、ご期待に添えなくてすまない」
とりあえずは元気そうなので、これ以上関わりを持つのはやめることにした。
説教はされるのも嫌だが、するのも嫌いだ。
どこかのオヤジの抱き枕代わりになろうと、ゴミバケツのとなりで一夜を明かそうと、本人の好きでやればいいことだ。
颯爽《さっそう》と立ち去るつもりが、思うようにいかなかった。
たかがアルコールで、どうしてまっすぐに歩けないのか。
毎晩家までジグザグに歩くと、一生ではどの程度体力と時間を無駄にすることになるのか。
そして、そんなことが考えられるのに、なぜ相変わらずまっすぐに歩けないのか。
堂々巡りをしながら十メートルほど進んだころ、三つの人影がこちらへ歩いてくるのに気付いた。
やり過ごしたと思ったが、うち一人と肩がぶつかった。
「んだよ、ジジイ」
ぶつかった男が振り向きざまに荒い声を出した。
たしかに私は人間失格かもしれないが、ジジイではないので、知らんぷりして行くことにした。
第一相手をしていては終電に間に合わない。
「待てよ、コラ!」
私の肩を掴んで引き戻そうとする腕を振りほどいた。
望まずして向き合うことになった。
二十歳そこそこに見える若い男三人組だ。
そろってぐしゃぐしゃの金色に染めた髪と、耳だの鼻だのにピアスをしている。
どれもバカ面だ。
生まれたての三つ子でも、これほど見分けにくくはないだろう。
「なんだ?」
「なんだ、じゃねえだろうがよ。ひとにぶつかっておいてよ。痛えじゃねえかよ」
不健康に痩《や》せた赤いシャツを着た男が、唾を飛ばしながら妙に「よ」を強調して食ってかかってきた。
こういう連中は新しい手を考える脳味噌もないのだろうか。
もっと楽して稼げる新種の詐欺でも考えたらどうなんだ。
「ぶつかってきたのはそっちだろう。俺はただまっすぐ歩いていただけだ。わるいが急ぐんでな」
手を振って去ろうとする前に、三人が回り込んできた。
「何がまっすぐだ。酔っぱらいジジイ」
「なんだよ。謝りもしねえで逃げんのかコラ!」
一番太めの黒っぽいシャツを着た男が脇から口を出した。
もう、うんざりだった。
なんだか胸もむかむかする。
早いとこ帰りたかった。
「あやまりゃいいのか。そうか、悪かったな」
それでも三人は道をあけようとしない。
「おっさんさ。ちょっとタクシー代貸してくんない? 俺ら電車なくなっちまってさ」
一番痩せた、緑と黒の縞《しま》のシャツの裾をだらしなく垂らした男が、急に猫撫で声をだした。
今夜はいったいどうしたというのだろう。
世界中のゆすりたかりが私を目指してやってくる。
頭のてっぺんに千生り瓢箪《ひょうたん》でもおっ立てたような気分だ。
さっき支払いをした時、財布の中には一万円札一枚と、数枚の千円札が残っているだけだった記憶がある。
これが私の向こう一週間の生活費だ。
「金なら、無い」
「ウソつくなよ。さっき女買おうとして断られてたじゃんかよ。その金でいいからさ。どうせ使い道なくなったんだろう。自分でやれよ」
太めの黒シャツが言った。
残りの二人がゲラゲラ笑った。
私は笑うどころではなかった。
まずい事態になった。
さっきから、あまりに程度の低い言葉を聞かされた上に、顔の前で唾を飛ばされたので、本当に吐き気がしてきた。
最近は飲んで醜態をさらしたことなどなかったのに、だ。
口を開くと危ないので、押しのけて進もうとしたとき、痩せの赤シャツがいきなり殴りかかってきた。
鼻に突き通したピアスが異様に大きく見えた。
突き出された右手をかわすと、男がバランスを崩したので、そのまま送り出して尻を蹴飛ばした。
蹴飛ばした反動で、胃がはねあがった。
緑縞のシャツが私の腰のあたりをめがけて蹴りをだしてきた。
面倒くさいのでそのまま男にもたれかかった。
これがまたやわな男だったため、私を受け止められず、ふたりで転がるはめになった。
私は倒れ込んだ男の上に馬乗りになった。
男の髪をつかんで、どうにかしようとしたところで、堪えていたものが限界を超えた。
そこで記憶が途切れた。
2
長い夢の後、不安な感覚で目覚めた。
飲み過ぎた翌日は、必ず同じ戸惑いを覚える。
「ここは何処か。今日は何日か。自分は何処かへ行く途中なのか?」
やがて、頭の靄《もや》が多少晴れてくると、周りに人がいるのがわかった。
なぜこんなに大勢の人間に看《み》取られているのだ。
俺はもうすぐ死ぬのだろうか。
それでめまいがするのか。
いったい何の病気だったのだろう。
そんなことを、瞬きする程度のごく短い時間に考える。
考えてから我に返る。
いやいやそんな格好のいいものじゃなかった。
自分は単に今日も二日酔いの頭を抱えて、仕事にいかねばならない身分であることを思いだした。
しかも、私を覗きこんでいる大勢に見えた顔ぶれは、よく見るとたった三人で、単なるこの家の居候たちだ。
私は、リビングの床に薄いマットレスを敷いた上に横になり、夏物の上掛けをかぶって寝ていたのだった。
「また、ひとり増えたんですか?」
一番若い柳原《やなぎはら》ジュンペイが興味を抑えられないといった口調で聞く。
「深夜の二時頃まで風呂につかってましたね」
めずらしく、リビングで朝刊を読みながらコーヒーを飲んでいる石渡久則《いしわたりひさのり》が、うんざりした表情で言った。
彼らは一体何を言っているのだろうか、と思いながら身を起こした。
はらりと落ちた上掛けの下は、下着を身につけているだけだった。
私が口を半開きにして呆然としていると、残るひとりの住人、村下恭子《むらしたきょうこ》が口を挟んだ。
「あんな娘さんつれて来て、家の方は心配してないんですか?」
「娘……」
つぶやいてみた。
なんとなく引っかかるものがあるが、思い出せない。
頭痛に耐えて集中した。
昨夜帰りがけにちんぴらに絡まれたことがようやく蘇ってきた。
立ち回りをやらかした覚えもある。
勝ったのか、負けたのか。
首をぐるりとまわしてから、手足も動かしてみた。
布団も敷かずに床に寝たので筋肉痛がするが、特に異常はない。
たいした喧嘩ではなかったようだ。
五月半ばとはいえ、さすがに下着だけでは寒くなってきた。
「服は、服はどうした?」
「汚れていたので、洗濯しておきました」
淡々と恭子が答える。
「あんたが脱がしてくれたのか」
少し顔が赤らんだ。
「石渡さんと柳原さんに手伝ってもらいました」
まあ、どうにでもしてくれ。
「それで『娘』とは?」
昨日最後に見かけた女だろうか。
そう言えば夢のなかで化粧品の匂いを嗅いだような気もする。
(まさか)
あわてて下半身を見る。
昨日のパンツをはいたままだ。
脱いで使った記憶はないが、断言する自信もない。
血の気がひいて多少冷静になった私の頭に、ようやく昨日のことが浮かんできた。
「そうだ。あの娘はどうした?」
石渡氏があきれたように首をふって、顔を新聞に戻した。
村下恭子が視線で洗面所を示す。
なるほど、ドライヤーの音が聞こえてくる。
「俺のドライヤーなのにさ、取られちゃって使えないんだよね」
柳原ジュンペイが口をとがらせた。
「まあ、みんな。そう責めないでくれ。なんとなく成り行きだったんだ」
それ以上|喋《しゃべ》ると、からっぽの胃そのものが飛び出してきそうだった。
「なんだかよくわからないけど、仕方ないんじゃないですか。主《あるじ》は尾木《おぎ》さんなんだし」
石渡氏が新聞から頭を上げずに助け舟を出した。
そうだ、もう少し立ててくれてもいいだろう、と思ったが口には出さなかった。
あまり威張れた家主ではない。
村下恭子はテーブルについて、つんとすまして味噌汁をすすっている。
柳原青年もぶつぶついいながら、食卓に戻った。
私はふらつきながら洗面所に向かった。
昨夜のことを確かめておかなければならない。
それに、出勤の時刻も迫っている。
二、三日風呂に入らなくとも、いまさら嫌われる女もいないが、勤め人として無精髭くらいはあたっておかなければならない。
中からドライヤーの音が聞こえてくるドアを軽くノックして返事を待たずにあけた。
一度に吹き飛んだ。
ぐらぐらも、むかむかも、鬱々《うつうつ》も。
世界中の馬鹿野郎のことも。
見たことのない若い女がバスタオルを一枚巻いただけでドライヤーをかけている。
いや、実際には昨夜見たはずなのだが、顔かたちなどほとんど記憶にない。
その記憶にない女が、胸元から上を露出して、アメリカ映画の女優みたいに両手を高く掲げて髪の毛をセットしている。
落ち着いて考えてみれば、夏場のタンクトップとかいう服と露出度は変わらないのだが、突然のことにうろたえていた。
随分修羅場はくぐってきたが、こんなにどぎまぎしたのは久しぶりのことだった。
「い、いや、申し訳ない」
ドアを閉めようとした。
「あ、ちょっとまって」
女が閉めかけたドアをつかんだ。
「おヒゲ剃るんでしょ? どうぞ」
半身に構えて道をあけてくれた。
「尾木さんは、毎朝カミソリでヒゲを剃るから、起きたらゆずってやれって」
「誰が?」
「ぼうや」
ジュンペイ青年か。
まあ、そうだろうな。
気のやさしい青年だ。
「ちょっと風呂場に通してくれればいいんだ」
そう言って、余計なところを見てしまわないようにさっさと風呂場に入った。
中から声を掛ける。
「あのう、一つ確かめておきたいんだが、ゆうべ、変なことはしてないよな」
けらけら笑う声が返ってきて、すぐにドライヤーが再稼働をはじめた。
頭痛がぶり返した。
幸い、シャワーだけでどうにか我慢できる季節だ。
私は着ているものをその辺に放って、頭から熱めのシャワーを浴び、剃刀で髭をあたった。
いつのまにかドライヤーの音がしなくなっていた。
薄いマット一枚で寝たので、首だの腰だのが強張《こわば》っている。
身体を濡らしたついでに頭も洗い、風呂場から出た。
丸めた汚れたものを投げ入れようと、洗濯機の蓋を開けた。
ぎょっとなった。
女ものの下着が入っている。
あわてて閉めた。
あの女だ。
村下恭子はこんなことは絶対しない。
洗濯が終わったあと下着を入れたままにできる性格ではない。
とんだやっかいものをひっぱりこんだらしい。
しかし誰にも文句は言えない。
居間に戻ると、彼女も一緒に朝飯を食っていた。
いつのまにかジャージのズボンとTシャツを着込んでいる。
ジャージは知らないがTシャツは私のものだった。
昔、忘年会の景品でもらったのだ。
胸のところにただCとKの文字がプリントしてあるだけだが、『ブランド品』だと若い奴が言っていた。
そして、そんなことを言われたせいで急に着る気がなくなったシロモノだ。
「あ、シャツ借りちゃった」
私がじっと見ていることに女が気付いて、笑顔を向けた。
恐らく、礼を言ったつもりなのだろう。
その脇で村下恭子がつんとすましている。
彼女が着せたのか。
ついでに下着の替えはどうしたんだ。
まあ、そんなことはどうでもいいことだ、万が一、失態を犯している可能性がゼロではないので、私もあまり強気にはでられない。
何より腹が立つのは、新参者の件でさっきはそろって私に冷たい視線を向けた連中が、その本人とは中学校の同級生みたいに打ち解けていることだ。
何がそんなに楽しいのか?
私の不機嫌を察して、村下恭子がすっと緑茶を出した。
こうなった今でも、気配りは忘れない、やさしいご婦人だ。
私は半分ほど機嫌を直した。
恭子が私の目をじっと見つめている。
(ご飯は?)
と聞いているのだ。
「たのみます」
熱すぎないお茶をすすっていると、彼女がやや深めの器に粥《かゆ》をよそって持ってきてくれた。
まんなかにひとつ大きな梅干しが載っている。
見ただけで口のなかがすっぱくなる。
二日酔いでこみ上げるのとはまったく別の緊張感が広がる。
梅干しをちびりちびりかじりながら、柔らかめの粥を流し込んだ。
ようやく朝が始まった。
私の分以外にも、いつもどおりご飯茶碗が大小二膳よそってある。
誰も手をつけていない。
「あら、また残して」
恭子が誰にともなく言って、茶碗を下げた。
腹ごしらえの済んだところで、みなの紹介をしようかと身構えたが、石渡が察したらしく、「一応、挨拶は済ませました。私はこれで失礼します」と言い残し、自分の部屋へ戻っていった。
ジュンペイに視線を向けると、こくりとうなずいている。
村下恭子は私の目をじっと見ている。
やはり紹介は済んだようだ。
どうやら彼女の名前すら知らないのは私だけらしい。
時計を見た。
家を出るべき時刻まで三十分ほどある。
「さっきのことなんだが、昨夜なにがあったか教えてくれないか」
彼女の名前は高瀬早紀《たかせさき》といった。
自称二十一歳。
昨夜彼女が目撃したことを話してくれた。
私が彼女の誘いを冷たく断ってから、まもなく言い争うような声が聞こえた。
つまり、三人組と私だ。
関わりたくもないので、そのまま見ていた。
やがて殴り合いの喧嘩が始まった。
「でもね、ちょっとびっくり」
「何を?」
「ただの酔っぱらいのおっさんだと思ったのに、三人相手にして、負けてなかったから。尾木さんて、何か格闘技みたいなことやってたの?」
私は照れ隠しに先を促した。
「まあ、そんなことより、その先どうなった?」
「一人目をかるくすっころばして、二人目に馬乗りになったの。……覚えてないの?」
首を二度縦にふった。
「そこまではカッコよかったんだけどね」
「そこまでは?」
「そう、二人目の髪の毛つかんで、『殴るのかな、映画みたい』とか思ってたら、いきなり吐くんだもん」
「吐いた?」
「そう、相手の上に」
なんてことだ。
「それで」
「あいつ、悲鳴あげてたよ。最悪ね。自業自得だけどさ、ちょっと可哀そうだった。私ならトラウマになっちゃうね。そのあと三人目が殴りかかってきたんだけど、なんだか酔っぱらいのくせに、相手を投げ飛ばしてた。そこらじゅう吐きながら」
この傷は当分消えないと思った。
こっちこそトラウマだ。
「それで?」
「さいしょに転ばした奴が後ろから殴ろうとしたから、私が叫んだの『ドロボー、人殺しー、警察ー』って。そしたら、あいつらに急にあわてて『やべーぞ』とか言いながら逃げてった」
しばらく誰も口を開かなかった。
「それは、世話になった」
仕方なく、頭を下げた。
「大変だったのはその後なんだから」
「まだ何か?」
「何かって、どうやって帰れたと思うの」
たしかに、終電には間に合わなかっただろう。
「コンビニでウェットティッシュ買って、洋服拭いてあげたんだよ、だってあれじゃタクシー乗せてくれないからね。そのあと私がタクシーつかまえて、連れてきてあげたんじゃない」
「よくここがわかったな」
「『どこに住んでるの?』って聞いたら、運転手にはっきり住所言ってたわよ。旭町なんとかかんとかって。変な酔っぱらいよね」
なんと言われようと返す言葉もない。
「でもねタクシー乗せるのも大変だったんだから。ぐにゃぐにゃしてるし、重いしさ。運転手は手伝ってくんないし」
「申し訳ない」
タクシーの代金をどうしたか、を聞くのはあさましいような気がしてやめた。
財布を確かめれば済むことだ。
しばらくのり弁当かコロッケパンの日が続くだけだ。
そんなケチくさいことを考えていたら、彼女がとんでもないことを言い始めた。
「そのあと、胸は触るし、手は握るし、キスしようとするし、イヤらしくて最低だった」
私は耳の先まで火照ってくるのを感じた。
「いや、そんな覚えはないんだが、ほかのことも覚えがないし、でも、誓って……」
しどろもどろの私をみて、女がけらけら笑った。
「ウソ、ウソ。ぐーすかイビキかいてた」
頭に上がった血がすっと引いていく感じがした。
「耳元で『しなくていいの?』って聞いたら、『明日にしてくれ』となんとか言ってた。ホント変な酔っぱらい」
そう言って自分だけ笑い転げた。
時計を見るとそろそろ出勤の時刻だ。
「ところで、これからどうするつもりだ?」
早希と名乗る女に聞いた。
どうする、とはもちろん「何時にここを出て行くのか」という意味だ。
「うーん、お金と携帯とってこようかな。不便だし」
立ち上がりかけた腰が止まった。
「なんだ。今夜も泊まるつもりか?」
多少、非難の調子を込めたつもりだった。
「いいじゃないですか。もう一晩くらい」
やはり出勤するために身支度を整えてきたジュンペイが、助け船を出した。
洗い物を済ませた村下女史はつんとすまして、そ知らぬ顔をしている。
つまり反対ではなさそうだ。
ここにはいない石渡氏もきっと「私には関係ありませんから」というに違いない。
元はそうやって出来上がったファミリーだ。
もう一晩くらい客人を泊めても、不都合はないだろう。
「わかった。もう一晩泊まっていいよ」
但し、聞いておきたいことがある、と言う前に早希が喜びの声をあげていた。
「やった。うれしい」
早希はジュンペイに抱きついて喜んでいる。
抱きつく相手が違うだろう、とは言う気も起きない。
「あ、いけね。そろそろ出かける時間だ」
ジュンペイが立った。
自分の茶碗を洗っている。
借りは借りとして、聞くべきことは聞いておかなければならない。
「恩人に失礼なんだが、そもそも君の家はどこなんだ? なぜ家出した? 未成年じゃなさそうだから自己責任だと思うが、心配する人はいないのか?」
前の仕事で、詮索《せんさく》することに飽き飽きしたはずだったが、つい癖がでた。
「うーん」
考え込んでいる。
考え込まれて、昔の虫が穴からもう少し顔を出した。
「家主として最低限のことは聞いておく権利と義務があるような気がするんだがな。たとえば、君が何か犯罪でもしでかして逃げてる、なんてこともありうるし」
「そんなんじゃない、かな……」
最後に一口含んだお茶を吹き出しそうになった。
『かな』とは何だ。
「おいおい、冗談じゃなさそうだな。本当に大丈夫なのか?」
「でも、警察から逃げてるわけじゃないの」
さらに突っ込んで聞こうとしたとき、ジュンペイがあわただしく駆け抜けていった。
今日は彼の現場のほうが遠いらしい。
名残惜しそうにちらちら早希に視線を走らせていったのを見て、なんだか頬がゆるんだ。
彼も健全な若者だ。
「なんだかカワイイわね」
早希も同じことを感じたらしく、くすっと笑った。
「可愛いかい? 顔で道路の掃き掃除したみたいな感じだけどな」
へんなの、と笑った。
「なんていうか、弟みたいな感じ。私、弟欲しかったから」
まあ、二十一歳という本人の弁を信用すれば、ジュンペイよりたしかに年上ではある。
「弟がいたら、思いっきり可愛い格好をさせるんだ。スカートもはかせてね、リボンもつけてあげるんだ」
スカートをはいてリボンをつけ、むすっとしているジュンペイを想像したら、なんだか細かいことはどうでもよくなった。
(そうだ。もう、そんなことはどうでもいい人生じゃないか。他人の身の上話など聞かないほうがいいだろう)
そう思った。
ジュンペイも石渡氏も身の上話を聞いたばかりに住まわせることになった。
村下恭子については昔の仕事の関係で、身の上を初めから知っていた。
「ま、言いたくなけりゃそれ以上は聞かないが、他の住人を巻き込むのはやめてくれ。私に力になれることがあれば、協力する。ただし金はない」
部屋を片付けていた恭子が、ちらりと視線を私にむけた。
私は気付かないふりをした。
「うん。ダイジョブ」
早希は二、三度力強くうなずいていたが、若い女の子の安請け合いほどあてにならないものは世の中にない。
一度しくじったくらいでは懲《こ》りない人間もいるのだ。
最後にもう一度念を押した。
「昨日、ほんとに手出ししてないよな」
「もしかして、後悔してるんじゃない?」
「ばかな」
「今夜してもいいけど、お風呂は入ってね」
あはは、という笑い声が返ってきた。
失神する前に、私も出勤することにした。
制服一式が、現地のコインロッカーで私を待っている。
3
今から五年前のことだ。
その年、警察官の不祥事が相次いだ。
協力費横領、後輩リンチ、窃盗、傷害、そして殺人。
マスコミは、競って警察官の犯罪を連日のように報じていた。
首都圏から離れたこの土地も例外ではなかった。
警察庁から警察本部へ、そして各|所轄《しょかつ》署へ、網紀粛正を求める異例の通達があってまだ間もない夏の夜、あの事件が起きた。
当時私には、二軒だけ行きつけの飲み屋があった。
一軒は安いだけが取り柄の小汚い店の「志むら」。
そしてもう一軒の「弥五郎《やごろう》」という店は、小料理屋と呼ぶほどの気のきいたものではなかったが、うまい焼酎を安く飲ませ、九州の郷土料理を肴に出した。
「弥五郎」を取り仕切るのは十年来の顔馴染みであるごつい女将《おかみ》だった。
まあ、この女将のあだ名が弥五郎といわれれば納得したかもしれない。
だが、それは鹿児島地方にある祭りに由来した名前らしく、「よく聞かれたけどさ、私のあだ名じゃないよ」と豪快に笑っていた。
店が空《す》いていたので、月曜か火曜日だったはずだ。
とにかく蒸し暑い夜だった。
いつもより早めに飲み始めた記憶がある。
事件が起きれば、終電や泊まりが当たり前の生活で、妙に早く帰宅すると生活のリズムが狂うような気がしていた。
しかしそれは自分のために用意した言い訳だったのかもしれない。
家では妻の久美子が待っている。
どんなに遅い日が続こうと愚痴もこぼさない女だ。
もう一年以上、妻の肌に触れていなかった。
籍が入っているだけでは夫婦とはいえない。
喧嘩をするわけではないが、長くいると息苦しい。
そんな夫婦になっていた。
私は、たまに早くあがれる日も、どちらかの飲み屋に寄ってから帰ることにしていた。
私たちには、子供がいなかった。
もしいたら、別な人生があったかもしれない。
いまさら考えてみてもしかたのないことだが。
その日も、粗塩《あらじお》をふった茹《ゆ》でたてのそら豆と、豚骨という名の箸で挟むと千切れるようなやわらかい骨付き角煮をツマミに、好きな焼酎をロックで飲《や》っていた。
ちょうど客足が途絶えて、店に私ひとりきりになった時、おそらくタイミングを狙っていたにちがいない女店員が話しかけてきた。
「ねえ、尾木さん、今日時間ある?」
店を切り盛りするのは弥五郎女将と、この多田美智恵《ただみちえ》という名の三十をひとつふたつ超えた店員の二人きりだった。
「うん、なんだい? 誘ってくれるのかい。まさかな」
そう言って、私はあははと笑った。
時計を見ると九時半を少し回ったところだった。
週に少なくとも一度は顔を出していたので、美智恵とはすでに砕けた会話をかわす仲にはなっていた。
だがこの日まで、尻ひとつ撫でたことがあるわけでもなかった。
「今日、早めにあがれるから、コーヒーでもどう? ちょっと相談したいことがあって」
美智恵がこんなことを言い出すのは初めてのことだ。
「まあ、いいよ」
私は気軽に受けた。
美智恵も私が刑事であることは知っている。
それをあてにしての相談事だろうと考えた。
浮いた話だとは、その時は本当に思いもしなかった。
もし仮にそんな気配があれば断っていただろう。
だが、後に私を取り調べた同僚に一番信じてもらえなかったのは、皮肉なことにまさにその点だった。
「どうせ鼻の下を伸ばして、ノコノコついていったんだろうが。いい歳こいて」
さげずむような目で睨《にら》まれた。
美智恵には亭主がいないことは知っていた。
だから、頼る相手に困って、一番身持ちの堅そうな自分に声をかけたのだと、端《はな》から信じていた。
――魔が差した――
あれほど、この目でいやというほど見てきた「魔が差す」瞬間だった。
二十年近い刑事生活で、いったい何人の犯罪者と関わったか数えたこともないが、手のつけようのない悪党というのにはめったに出会った記憶がない。
罪に手を汚す者のほとんどが、昨日までごく普通の、あるいはせいぜいちょっと風変わりという程度の生活をしていた人間だ。
それがある日、魅入られたように犯罪に引き込まれていく。
五十を超えるまでパチンコすらほとんどしたことのない工場主が、たまたま取引先のつきあいで連れて行かれたバカラ賭博の勝ちに味をしめ、街金に関わり、最後は保険金詐欺を目的に自宅を兼ねた工場に放火した事件。
毎日同じ道を車通勤していたカーディーラの事務員が、ある日何故か普段とちがう裏道を通ってみたくなり、見通しの悪い交差点で一時停止を怠り、たまたま通りかかった塾帰りの小学生をはねて死なせた事件。
アルバイト先のコンビニに新しく入った女の子に惚れ込んでしまい、降りる駅までついていったことが仲間にばれ、ストーカー呼ばわりされた大学生。本人にいいつけるぞと言われ、店にあったフルーツナイフで相手を刺してしまった彼は、犯罪者と呼ぶにはあまりに臆病な目をしていた。
自業自得というのはたやすい。
しかし、どれもこれもその日その瞬間そこにいなければ、そんな出会いがなければ、犯罪者にならずに昨日と同じ生活を送っていたかもしれないできごとだった。
「魔が差す」という言葉でしか説明しようのない人生の深い闇が存在することは、痛いほどにわかったいたはずだった。
だが……、と今でも思う。
後悔することには意味がない。
自分では止められないからこそ、「魔」の瞬間なのだ。
落ちるべくして落ちた穴だった。
午後十時頃だったろうか。
店を早めに退《ひ》けた美智恵と、近くのコーヒーショップで待ち合わせた。
店のお仕着せらしい和服を着ていると、おとなしそうな印象もうけるが、ジーンズにTシャツという格好で現れた美智恵は年齢より若く、生き生きとして見えた。
「ごめんなさいね、お時間とらせちゃって」
「いや、いいんだ。どうせ女房は先に寝てるから。それより、話ってのは何だい?」
セルフサービスの店なので、注文は取りにこない。
美智恵はそのまま、話し続けた。
「うん。やっぱりこういう所じゃ話しづらいし、かといって落ち着けるようなお店も知らないし……。ねえ、私の部屋にきません?」
「部屋に?」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげてしまってから、あわてて周りを見た。
他の客といえば、二つ置いたテーブルでネクタイを締めた男が舟をこいでいるだけだった。
「そう。実はね、ここから歩いて十分もかからないところに部屋借りてるのよ。ワンルームだけど」
美智恵はあっけらかんと言う。
「いや、近い遠いとかいう問題じゃなくてな、なんていうか……」
私が口ごもったので、美智恵が笑いだした。
「大丈夫よ。尾木さんみたいな愛妻家に迫ったりしないから。ちょっとお話聞いてくれればいいの」
乗りかかった舟だ。
酔いもあって、引き受けてしまった。
店を出て、美智恵の示す方角に歩き出した。
十メートルもいかないうちに、美智恵が腕を絡めてきた。
店を出るときに振りかけたらしい香水の匂いが鼻をくすぐった。
「おいおい、話が違うぞ」
そう言ったが、あえて腕を振りほどこうとしたわけでもなかった。
「いいじゃない、ケチらなくたって。尾木さんね、ちょっとシブイからわりと好みかもしれない」
そう言っていたずらっぽい笑みを浮かべ、美智恵は斜めに私を見上げた。
この時に気付くべきだった。
だが、心の中を正直にさらせば、悪い気はしなかった。
美智恵は器量の悪いほうではない。
大きめの瞳で相手を覗くように見上げる癖があり、ぽってりとした唇は男好きがした。
今、楽しそうに腕を組んで歩くこの女と、店ではいつも和服を着てあたりさわりのない会話しかしたことのない女とは、別人のような気がしていた。
むせ返るような熱帯夜の湿った空気と、回りはじめた酔いで、正常な思考が働かなくなっていた、というのは言い訳だろう。
美智恵が絡めた腕の部分がじっとり汗ばんできたが、その腕にわずかにあたる胸の柔らかさを楽しんでいなかったと言い切る自信はない。
確かに十分ほど歩いたころ、「ここなの」と美智恵が言って道路わきに建つマンションを示した。
繁華街から住宅街に変わりかける一帯に建つ、四階建てのこぢんまりした煉瓦のタイルを埋め込んだマンションだった。
案内されて、二階の美智恵の部屋に入った。
店に勤めはじめたころ引越してきたのかもしれない。
綺麗に片づき、生活臭があまりなかった。
美智恵が缶ビールを出してテーブルに置いた。
照れ隠しもあって、すぐにそれに口をつけた。
熱さで喉が渇いていたので、三百五十ミリリットル缶をほとんど一気に飲み干した。
この行為が、後になって判事の心証を悪くしたようだ。
「それで……」
私がいよいよ本題に入るよう促そうとした時だった。
部屋にあがってから十分とたっていなかっただろう。
玄関のドアが勢いよく開いて、男がひとり飛び込んできた。
「チキショー」
そう叫んでいた。
狭い部屋だ、一目でリビングから玄関までが見渡せる。
怒鳴りながら突進してくる若い男の右手に光るものが見えた。
美智恵が何か叫んだようだったが、記憶していない。
何事かおきたのか、瞬時にはわからなかった。
私は酔ってはいたが、それでもとっさに身構え、体当たりしてきた男を突き飛ばした。
「何をする!」
私は一喝《いっかつ》した。
男は遮二無二《しゃにむに》私に組み付いてきた。
手にはサバイバルナイフのようなものを握っている。
そのまま二人は倒れ込んでもみ合いになった。
「チキショー、バカにしやがって」
そんなようなことを口走っていた。
恐らく何かの誤解か人違いをしているのだと思ったが、話し合えるような状況ではなかった。
自分自身が酔っていて、逆上した相手を説得する余裕などなかった。
警察で身につけた武術で本能的に応戦するのが精いっぱいだった。
どのくらい、組み付いていただろうか。
恐らくは一分も経っていないと思う。
私にのしかかろうとしていた男をはねのけ、逆に私が上に乗った。
その時、自分の手がどうなっていたか、今ではどうしても思い出せない。
「ああーっ」
男が叫びともうめきともつかない声をあげた。
男の身体が一瞬非常な力で強張り、すぐに柔らかくなっていった。
私は男から身体を離した。
男はぐったりと横たわり、荒い息をしていた。
我が身に起きたことが信じられないといった表情を浮かべている。
私は自分の汗ばんだ手を見た。
親指と人差し指から血の雫《しずく》が垂れるところだった。
他人の夢をのぞき見ているような非現実感があった。
「キャーッ」
美智恵の悲鳴で我に返った。
男が自分の腹を押さえているその指の間から、いつかどこかの観光地で見た湧き水のように、絶え間なく血が流れだしていた。
男の名は磯崎一樹《いそざきかずき》。
二十八歳。
美智恵の男だった。
いや正確には美智恵が別れようとしていた男だった。
ナイフは肋骨のすぐ下の柔らかい部分に刺さり、肝臓の動脈を傷つけた。
その晩のうちに、磯崎は失血性ショックで死亡した。
私は即刻逮捕され、三日後に殺人罪容疑で送検された。
公平に見て殺人罪は厳しい気がする。
送検までもずいぶん早かった気がする。
一般人だったら「正当防衛の程度を超えた行為」つまり世間でいう過剰防衛程度ですんだのではないか。
悪くても傷害致死。
いやそれ以前にもう少し事実関係の捜査にも時間を割《さ》いてくれたのではないか。
私に対するこの処遇は、私が現職の刑事だったことが関係していたように思う。
個人としてまた組織としての警察の不祥事が続いていた時期であり、社会に対する顔向けの問題があった。
「身内に甘い」という批判を避けるため、そしてこれは穿《うが》ちすぎかもしれないが(こんな時にふざけやって)という身内であるがゆえの増幅された憎悪もあったかもしれない。
私の上司があえて検事に「厳罰を」と頼み込んだのではないかとすら考えていた。
裁判で確認された事実関係はこうだ。
当夜、私が美智恵に誘われるまま部屋にあがりこみ、折り悪しく訪れた交際中の男である磯崎と鉢合わせし、もみ合いになった。
当時美智恵と磯崎の間では別れ話が持ち上がっており、磯崎が美智恵を脅《おど》して縒《よ》りをもどそうと考えて持参したサバイバルナイフで私を脅した。
そして争いの結果、私が磯崎を死に至らしめた。
私の国選弁護人は正当防衛を主張し、真っ向から対立することになった。
そして、いわゆる実際には『司法取引』が行われた。
日本ではあり得ないことになっているが、証拠が残らないだけで実際には存在する。
『事前調査』、『根回し』、呼び名はなんでもいい。
関係者一同がはやいとこ決着をつけたい時に取引が行われる。
警察当局はとにかく早く決着をつけたかった。
現職警察官の不祥事というだけでも、一日も早く世間の記憶から消し去りたいのに、その被告が無罪を訴えて最高裁まで争うようなことがあっては悩みの種が消えない。
一方、私は罪状などどうでもよかった。
今さら、綺麗にやりなおせる人生でもない。
唯一希望があるとすれば、法廷で恥をかき続けるより、早く刑に服したかった。
裁判所も、抱えている案件で飽和状態だ。
当事者が納得するなら、落としどころは理解しているはずだった。
結局、一審の判決は傷害致死で有罪。
情状酌量され、求刑の五年に対して四年の懲役だった。
意外なことに、そもそも原因を作った美智恵はあまり私に好意的な証言をしてはくれなかった。
それがあればさらに刑期は短くなったかもしれない。
私は、恨みはしなかったが、美智恵の冷たさが不思議だった。
私の殺意を肯定もしないかわりに否定もしなかった。
おそらく何もかも正直に話しては自分も罪に問われるのではないか、と考えたに違いない。
私が控訴しなかったため、僅《わず》か四ヵ月の裁判で決着がついた。
拘留期間が加味され、私は三年六ヵ月で仮出所することになったが、その刑務所暮らしの間、どうしても事件のことを考えざるを得なかった。
あの夜、美智恵が私に話した言葉のひとつひとつ、仕草や表情までことどとく反芻《はんすう》してみた。
そして私がたどりついてのは、すべて美智恵が仕組んだことだった、という結論だった。
美智恵は磯崎と仲良くやっていた時期もあった。
それが何故別れ話になったのかは正確にはわからないが、最初は愛おしいと思った若さが鼻につくようになったのではないか。
それに、見た目よりも奔放《ほんぽう》な美智恵にとって、ヤキモチ焼きの磯崎が次第にうとましい存在になっていったのだろう。
別れ話を切り出してみたが、逆効果だった。
美智恵にすっかり惚れ込んでいた磯崎は逆上した。
『無理心中』くらいのことは言ったかもしれない。
困った美智恵は一計を案じた。
「実は新しい男ができた。しかも相手は刑事だ。これ以上つきまとうと逮捕してもらうぞ」
そんな脅しをかけたのだろう。
そしてあの夜、私が美智恵に誘われるまま、同僚が言うように「鼻の下を長くして」外で会うことを了解した時点で、磯崎に連絡をとったに違いない。
「ウソだと思うなら、今夜十時頃、店の前で見ていてごらん。新しい彼氏と一緒のところを見せてやるから」
そう予言しておいて、私と仲のよさそうなところを見せつけたのだ。
いや、それではまだ足りないと考え、私を部屋に引っ張りこんだ。
磯崎という男は恐らく美智恵が証言したとおり、小心者だったに違いない。
どちらかと言えば強面《こわもて》であるこの私を見せつければ、あきらめると考えたのだろう。
女というのは悪魔のように頭がはたらく時もあるが、天使のように間の抜けたお人好しに変身することもある。
磯崎がそんなことで引き下がると考えた誤算が招いた事件と言ってもよかった。
磯崎の小心さは逆の方向に働いた。
予めサバイバルナイフなどという大げさな凶器を準備して、実力行使に訴えた。
目的が誰だったのか今となってはわからない。
だが私は、刺そうとした相手は美智恵だった、と信じている。
あの時美智恵の所にたどりつくには、私の脇を通り抜けて行かなければならなかった。
その途中にいた私に、自分からしがみついてしまったのだ。
私は、好きこのんで罠にはまり、おめでたいことにさらに最悪のとどめというべきトラブルを自分で掴みとってしまった、大間抜け野郎だったのだ。
妻の久美子とは一審判決が出る前に離婚の手続きを終えていた。
一度だけ接見に来て、本当にやったことかどうか私に確かめたのが会話を交わした最後だった。
心底愛想をつかすと、ののしることさえ嫌なようだ。
郵送で届いた離婚届に、申請して入手した自分の三文判を押してすべてが終わった。
結婚の名のもとに多くの悲劇が生まれているが、終焉《しゅうえん》はあっけない。
お勤めを終えても、何もかもが元に戻るわけではない。
私は三年六ヵ月の刑務所暮らしで、住む家以外のほとんどすべてを失った。
4
めずらしく、どこにも寄り道せずに家に帰った。
昨夜のタクシーご帰還で、私の懐《ふところ》具合はかなり切迫していた。
今日の昼食ものり弁どころかコンビニのおにぎり二つだけだ。
さすがに一日労働するとこれでは腹が減る。
飲み屋に寄る金はなかったし、駅の売店でカップ酒を買って飲む気にもならなかった。
私の家が――いまはまだ私の家だ――ある旭町は、光宮駅から私鉄で十分ほど乗ったところにある駅で降りる。
県下で有数の夜の歓楽街を抱える光宮市だが、しょせんは地方都市。
四つも駅をすぎればすっかりベッドタウンに様変わりし、夜など嘘のように寂しくなる。
後ろ前にパンツを穿いてしまったときのような違和感を覚えながら、まだ明るい駅の改札を出た。
煉瓦やタイル風の壁をみせびらかす真新しい分譲棟の間をぬけると、昔ながらの木造モルタルざらざら壁の古びた住宅街が見えてきた。
四年間の留守中にはがれ落ちたため、板に手書きの『尾木』という表札がかかった門を開ける。
鍵のかかっていないドアを開け玄関に入る。
小汚いスポーツシューズが一足、斜めに脱ぎ捨ててあるほかは、きちんと整頓されている。
(こんな時刻に帰ったら、皆どんな顔をするだろうか)
突然、にぎやかな空気が吹き寄せてきた。
「ははは」
と静かに笑う声は、勘違いでないければ石渡氏のものだ。
石渡が笑っている。
一体何事が起きたのか。
職業柄、いや正確には「元」職業柄、ヤクの回し飲みでもしているのではないかと真剣に思った。
左手の階段をやりすごし、つきあたりの居間まで進む。
左が八畳のダイニングキッチン、右手が十畳のリビングになっている。
何しろ築三十五年、居間の畳敷きをフローリングにする程度の改装はしたが、元台所のダイニングと、元居間のリビングは引き戸で分離している。
不安にあおられ六歩で廊下を歩き、勢いよくリビングの扉を開けた。
大皿に載った大量の餃子を囲む四人の男女がいた。
缶ビールやウイスキーのボトルまで並んでいる。
「何だか盛り上がってるじゃないか」
多少皮肉をこめて言った。
その声に、ようやく私の存在に気付いたように、皆がこちらを見た。
「あ、お帰りなさい。今日は早いすね」
柳原ジュンペイが屈託のない笑みを浮かべて言う。
信ずる道に人生を捧げた女教師でさえも、たらしこめそうな笑顔だった。
「これ、旨いすよ」
そう言って、箸でつまんだ餃子をかかげる。
「いや、本当です。皮も手作りだそうで、店で食べるより美味しい」
石渡がいつになく饒舌《じょうぜつ》だ。
第一、彼が面と向かって恭子を褒《ほ》めるところなど初めてみた。
「ワタシも、すっごい美味しい」
早希が、箸を持った手で口元を押さえながら、もごもご興奮味気味に言う。
「これだと、あまりお金をかけずにいっぱい作れますから。それに、量を多く作ると味がなじんで美味しくなるみたいです」
恭子が、謙遜するでもなく自慢するでもなく、淡々と説明した。
「これなら、毎日でもいいなあ」
はははとジュンペイが大笑いして缶ビールを呷《あお》る。
お調子ものが。
「ま、せいぜい楽しくやってくれよ」
「尾木さんも、どうぞ。早くしないとなくなっちゃうよ」
皆の視線が私に向けられた。
「今日のお酒は、みんな早希さんのおごりなんです」
得意げなジュンペイの前には缶ビールが二本立っているだけなのに、ほおずきみたいに真っ赤に熟れている。
「お前、未成年じゃなかったか?」
「まあ、そう堅いこといわないで。あと三ヵ月でハタチだし」
本当は責めたわけではない。
当たり前のようにさりげなくメシに誘われて、どういう態度をとって良いのかわからずに、そんなことを言ってみただけだ。
「まあ、そんなに言うなら……」
腹の鳴る音を聞かれないよう、咳《せき》払いしながら腰を下ろす場所を探す私に、早希が少しずれて空きをつくってくれた。
私は気付かなかったふりをしてジュンペイと石渡の間に座った。
「そういや、おごりって、金はどうしたんだい?」
「今日、友達に連絡してお金貸してもらったの。ちょっとまだ、家には帰りたくないし……。あっ、ここの住所は言ってないから、迷惑はかけないと思う」
けろりとしている。
石渡が、ヴィンテージのスコッチでロックを作ってくれた。
「けっこういけますよ」
からりと氷の音をたてて、グラスを口元へ運ぶ。
冷たい痺《しび》れが喉を焼きながら落ちていき、空っぽの胃に火がついた。
頭の芯がほどけていくような感覚を味わいながら、改めて皆を見回した。
ジュンペイのあんな楽しそうな顔はこれまで見たことがない。
恭子は相変わらず、表情には乏しいが、餃子を絶賛されて内心まんざらでもなさそうだ。
その彼女の無言の横顔が、私に忠告している。
恭子の言いたいことはわかった。
彼女はほとんどいつも冷静で、たぶんいつも正しい。
いやな役だが、盛り上がっているところに水をぶちまけることにした。
「それで、出て行く目処《めど》はついたのか?」
早希とジュンペイがじろりと睨む。
「あのう、できればもう少し……」
早希がとってつけたようにしおらしい態度をみせる。
いまどきのスレた中学生のほうが、もう少しましな演技をするんじゃないか。
きっちり断ろうとして、ジュンペイの視線に気付いた。
わかったよ、わかった。
「まあ、にぎやかなほうが楽しいんだろうし。よかったら、もう一泊していきな」
つい口から言葉が出た。
「やった!」
早希が立ちあがって今度は私に抱きついた。
一瞬のことで、身をかわすことができなかった。
私の首に手をまわし、「ラッキー」なとど、あたりを憚《はばか》らない大声をあげている。
「まあ、もうわかったから」
彼女の手を振りほどいて、ようやく最初の餃子を口に運んだ。
たった今の感激はどこへやら、すでに私を無視して別の話で盛り上がっている。
「えー、それじゃ、小説とかも英語のまま読むんですか?」
早希が石渡に聞いている。
彼はノンフィクション、特に経済関連の翻訳でメシを食っている。
「あまり、趣味で小説は読まないけど、まあそういうことかな」
「スゴーイ」
両手を合わせて感心している。
まんざらお世辞だけではないかもしれない。
ジュンペイが明らかに嫉妬の視線を向けている。
あきらめたほうがいい。
教養じゃ太刀打ちできっこない。
若さでもアピールするんだな。
皆、腹が膨れてきたらしく、飲み食いよりも会話に気持ちが移ったようだ。
私だけは、あやうく事業規模を縮小するところだった胃袋をなだめるため、肉汁の染み出す餃子をふたつみっつと口へ運んだ。
「でも、柳原君て国立大学なんでしょ。スゴイよね」
早希もなかなか如才がない。
あちらを立てれば、こちらも立てる。
「でも、休学中だし」
ジュンペイが赤くなってぽつりとつぶやいた。
おそらく、休学したことを最も後悔した瞬間だったろう。
「ねえ、何学部?」
「法学部」
「じゃあ弁護士とか目指すわけ? もしかして、官僚とか」
玉の輿《こし》ならジャンルは問わず、といったところか。
「いや、それほどのモノでも」
「また、ガッコ戻れるんでしょ?」
「まあ、学費を払えば」
さっきはやきもちを焼いていたくせに、自分のことに話が及ぶと、うつむいてぼそぼそ喋っている。
早希が、妙案を思いついたという表情で、ゆっくり噛み締めるように言った。
「ふーん。じゃあ……、じゃあさ、もし私が学費を立て替えてあげて、卒業できて、弁護士になったら、私と結婚してくれる?」
純朴な青年だとは思っていたが、これほどうろたえるところは初めて見た。
まるで何かのおまじないででもあるかのように、箸を取ったり置いたり永遠に繰り返している。
「いや、そんなことはありえないんで、約束とかは……」
私はあやうく貴重な酒を鼻から吹き出しそうになった。
同じく目をぱちぱちさせている石渡に片手で拝んで、ボトルを回してもらった。
「ジュンペイ、たじたじだな」
ジュンペイが話の振り先をみつけて、ここぞとばかりに言った。
「尾木さんだって、さっきはなんだかデレッとしてましたよ」
「ほんとですね」
恭子がそう言って立ち上がり、後片づけをはじめた。
「新しい人との出会いは、刺激的ではありますがね」
石渡もそう言うなり、自分の食器を持って立ち上がった。
自分の始末は自分でつける。
それがこの家の流儀だ。
料理に関しては村下恭子が一手に引き受けてくれているが、後片づけは共同でするしきたりだ。
「あ、もう片付けるかい」
あわてて、餃子を口に放り込もうとした。
そのあわてぶりが面白いらしく、皆が笑った。
私は少しも面白くなかった。
「なんだか、いいなあ。こういう共同生活。面白そうだな」
早希がだれにともなく言った。
私が代表して答えた。
「はたから見ればそうかもしれないけどね。でも、そんな気楽なもんじゃないんだ本当は」
「でも、なんだかみんな、楽しそうだし」
(楽しそう、か)こころのなかで、つぶやいた。
楽しい? 俺は楽しいのか。
恭子は楽しいのだろうか。
石渡は楽しくてここにいるのだろうか。
ジュンペイは楽しんでいるのか。
「私、家族ダンランっていう経験があんまりないから、すごくあこがれるんだ。ホント言うと、もう一晩泊めてもらいたくなったのはそれが理由」
半分独り言のような口調だった。
この、寄せ集めが団欒《だんらん》にみえるとは皮肉なものだ。
「まあ、ジュンペイの顔をみると……」
「尾木さん」
空いた皿を下げにもどった恭子が私を睨んでいる。
「なにか?」
「なにか、じゃないです」
恭子は落ち着いた口調でたしなめる。
私より年下だが、出来のいい姉に叱られているような気分になる。
「だから、何が?」
「柳原さんの名前。余所の方にまで、嘘を教えてはダメです」
「嘘?」
「嘘の名前。柳原さんの名前は潤です。『うるおう』と書いてジュン。柳原潤。ジュンペイ君じゃないですよ」
脇でジュンペイが、勝ち誇ったようにうなずいている。
私はそんなことよりも、これほど長くしゃべる恭子を見て、どぎまぎしていた。
「何回言っても、きいてもらえないんだもんな。ホント頑固だよね」
ジュンペイがここぞとばかりに攻撃する。
いいじゃねぇか、と心の中で舌打ちした。
名前なんてのは特別な思い入れがあった親以外には記号みたいなもんだ。
私がジュンペイだと思ったら、ジュンペイでいいんだ。
第一、この家の家長はこの私だし。
「えー、ジュンペイ君ってジュンペイじゃないの?」
早希が目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。
「いいじゃないか、そんなもん」
開き直る私を、恭子がさらにたしなめる。
「よくないです。親御さんが一生懸命に考えてつけた名前をいい加減に呼んではいけないと思います」
彼女の言い分はほとんどいつも正しい。
「俺がつけるんだったらジュンペイにするんだがな」
「余計なお世話です」
ジュンペイもぽっちゃりした顔を真っ赤に上気させて口をとがらせている。
「まるで茹でダコだな、ジュンペイ」
「ちがうって」
私と早希が同時に笑った。
ジュンペイも仕方なく笑った。
驚いたことに、恭子の口元にも、かすかに笑みが浮かんでいた。
私は気づかなかったように、すぐに目をそらした。
「あのう」
早希が、私の顔色をさぐるようにのぞき込みながら聞いた。
「みんな、どういう関係なのか、聞いちゃダメですか」
私と、恭子と、ジュンペイの三人が顔を見合わせた。
恭子とジュンペイの顔には嫌がっている顔色が浮かんでいた。
私は、ほんの少し悩んだが結論は決まっていた。
「悪いが、それはかんべんしてくれ」
「えー、ちょっと残念」
早希は、口を尖らせてからビールに口をつけた。
恭子の視線に釘をさされるまでもなく、酔っぱらいにも最低限のルールはある。
その恭子が、今日も手をつけられていない二つのご飯茶碗を片付けていた。
私は意地汚く、スコッチのお代わりを注いだ。
5
妻がこの家を出ていって、五年近い年月が過ぎた。
服役中に離婚手続きを済ませた妻は、いまだに元気な両親が住む実家にさっさと帰ってしまった。
妻の趣味で買ったわずかな家具と身の回りの物を持って。
その日以来、半年前に私が再び住み始めるまで、この家は無人だった。
幸い子供はいなかったので、養育費の問題は発生しなかった。
私の出所を待って双方が立てた代理人経由の話し合いにも決着がつき、慰謝料の金額も決まった。
あとは親から譲り受けたこの家を売り払って、身軽な身体になるだけだ。
「三十年以上前に建てたウワモノだから、売る時は更地《さらち》ですね」
仲介する不動産会社の担当が言った。
つまり、もはや汚そうが壊そうが売値に影響はない。
二ヵ月前に売りに出されたこの家に買い手が決まるまで、お情けで住まわせてもらっている。
丸ごと粗大ゴミで出したり、バラしてゴミの日に出したりしながら、家の中のものもだいぶ減ってきた。
今から四ヵ月ほど前、慰謝料問題がほぼ決着しかけていた頃、「志むら」という行きつけの飲み屋で知り合った男がいた。
この店は光宮市の繁華街のはずれ、小汚い路地裏にある。
のれんもなければ、親爺の愛想もない。
しかし旨いモツ煮を食わせる店で、これが冬といわず夏といわず、一番人気の定番だ。
酒はビールか焼酎、そして冷や酒。
一度、物好きな若者向けの情報誌が紹介したことがあって、どう見ても場違いなカップルや女の子の三人連れなどがのぞいたりした時期もあった。
もっとも、彼らは二度と訪れはしなかったが。
私が四年ぶりに出所して、真っ先にしたことは「志むら」に駆け込んでモツ煮を食うことだった。
ビールをグラスに一杯半一気に流し込み、とりあえず喉をなだめてから、変わらぬ味を噛み締めることにした。
永遠ともいえる時間煮込んだ肉片が、口のなかでとろけた瞬間、不覚にも飴色の小汚いテーブルに水滴が落ちた。
人が見ていたら、口の端から垂れたビールの滴だったと、聞かれもしないのに言い訳をしただろう。
食いつなぐために警備会社のアルバイトに就いた後も、晩飯がてらに「志むら」に通った。
しかしいくら旨くとも、さすがに毎日のこととなると飽きてくる。
それに、私はもともと飲む時にはツマミはあまり食わない。
お新香に冷や奴、せいぜい丸干しを二、三本かじる程度のことも多い。
ただ、締めには少しでいいからご飯ものが恋しくなる。
酔っぱらいとは厄介で、わがままな人種だ。
当時、仕舞いに茶漬けを軽く一杯もらうのが習慣になった。
具にはほとんどの場合、シャケの皮をこんがり焼いたものが浮いてるだけだ。
ここの親爺が知り合いの料理屋から、アラをまとめてゆずってもらうらしい。
これが意外に旨くて、しかも親爺は金をとらない。
少なくとも私からとったことはない。
メニューにはでていない、常連だけの食い物だ。
その日も、飴色のカウンターで飲んでいた私が茶漬けを頼むと、背中で「こっちも、お願いします」という声がした。
そんな丁寧な口をきく馴染みはいない。
私は振り向いた。
見かけない顔の男が親爺のほうに軽く手をあげたところだった。
端正な顔つきをしている。
レストランで講釈をたれながらワインでも嗅いでいるほうが似合いそうだ。
親爺が、苦笑いを浮かべて私をちらっと見た。
(出してやんなよ)目で言ってやった。
やがて香ばしい煙が漂い、愛想のない茶漬けが出た。
親爺は同じものを、テーブル席の男にも無愛想においた。
男はかすかに聞こえるほどに小さくうなりながら、一気にかき込んでいた。
「うん」
食い終えて、うなずいた男がすっと立った。
「勘定、お願いします」
「千七百円」
ぶっきらぼうな親爺の声に、男は暗算したようだった。
「お茶漬け代、忘れてないですか」
「こっちの旦那のおごりだよ」
親爺が無愛想な顔を私のほうに振った。
男がこちらを見る。
私もつい顔を向けた。
役者のように整った顔をした男が不思議そうにお辞儀をした。
それが二番目の同居人、石渡久典との出会いだった。
石渡は逃げていた。
逃げている相手は警察やサラ金ではない。
女でもない。
同棲していた男だ。
石渡は同性愛者だった。
同じ趣味をもつ人間はお互いにわかる、と以前石渡に聞いた。
彼はその整った顔と、もって生まれた気品ともいうべき雰囲気ゆえ、男たちに言い寄られることが絶えなかった。
そのことが、同居人の嫉妬を呼んだ。
嫉妬も愛情のスパイスであるうちは良かったが、同居人のそれは次第にエスカレートしていき、やがて暴力をふるわれるようになった。
石渡は、百七十に一センチ足りない、どちらかといえば小柄な部類にはいる。
同居人は上背十センチ、体重で二十キロ彼より重いらしい。
「筋力の差は二倍」
と、彼は真顔で言った。
言い争いになると、次には手が出る。
力では石渡はまったくかなわない。
逃げ回るしかなかった。
身に覚えのないことで逃げ回るという行為が、彼の誇りを傷つけた。
同居人は地方紙の編集記者だった。
文芸欄を受け持っていて、石渡と知り合ったらしい。
石渡から別れ話をもちかけたこともあったが、同居人の荒れ具合がひどくなるだけだった。
次第に身の危険を感じるようになったある日、同居人が一泊二日の出張に出かけることがわかった。
石渡はこの機会を逃さず、事前に手配しておいた引っ越し業者を使い、主だった荷物はこれも契約済みのレンタル倉庫に運び込み、本人は身の回りのものを持って部屋を出た。
私たちが出会ったころは、石渡が光宮駅前の短期滞在型マンションに住んで二週間になるところだった。
そろそろ見切りをつけて東京にでも出ようか、と考えていたらしい。
もっともそれはかなり後になってから、飲んだ折りに断片的に聞き出したことだ。
何しろ口数が少ない。
同居人のどこに惹《ひ》かれたのか、などとはこの世の終わりが来るまで聞き出すことはできないだろう。
そのときは、同居人ともめて住む家が無い、ということしかわからなかった。
当時、すでに先客のジュンペイがいたこともあり、(ひとりもふたりも同じ)という考えがあった。
翌日も「志むら」で再び顔を合わせ、なんとなく相席で飲んだときに話はそちらの方向へ行った。
「今、手頃な賃貸マンションか、アパートを探している」
という。
今いる短期滞在型も便利なのだがなんとなく落ち着かない。
そうつぶやいた石渡氏に、「それなら」と私はつい言ってしまった。
「次を探すまでの間なら、ウチに来てもいいよ。それまでのマンション代、もったいないだろ」
石渡は喜ぶよりも、怪訝《けげん》な顔をして私を見返した。
当時は彼の趣味を知らなかったが、今から覚えば、私に『その気』がないか訝《いぶか》しんだのだろう。
それはそうだ。
飲み屋で知り合ったばかりの男を居候にしようなどというのはまともな感覚ではない。
だが、私にそういう底意《そこい》がないことはすぐにわかったらしく、「それではお言葉に甘えて」という次第になった。
石渡氏も酔っていたのかもしれない。
さらにいうなら、人は出会うべくして出会うのかもしれない。
翌日、素面《しらふ》にもどって、すこしばかり後悔した。
すでにジュンペイが居候となっている。
もうすぐ追い出される予定のこの家に、何を好きこのんでさらに同居人など置いたのか。
だが、そう思ったのも束の間のことで、すぐにどうでもよくなった。
最近の私は、事態が込み入ってくると、なるようにしかならん、そう考えて悩むことはやめにしている。
石渡の仕事は、おもに英米の経済書の翻訳だ。
どんな本なのか見ようと思ったこともない。
パソコン一台あれば自宅でできる仕事であるところが多少うらやましい。
「メール」で仕事をやりとりするらしい。
「うちじゃインターネットなんかできないよ。第一電話もないし」
といったのだが、「テキストなんとかだからこれで充分です」といって、アンテナのついた薄い名刺入れみたいなものを見せた。
ノートパソコンに差し込むとインターネットに繋がるらしい。
どうせ聞いてもわからないだろうと決めて、それ以上は何も聞かなかった。
テキサスでもインターンでも好きにしてくれ、と、私は言ったのだが、石渡氏にはうけなかったようだ。
頬の筋肉ひとつ、ゆるまなかった。
そんなことで、恨んだりはしていない。
石渡は邪魔にならなかった。
飲んだ時だけ多少言葉数が多くなるが、それ以外ほとんど余計なことは言わないし、しない。
干渉したりされたりが嫌いというよりは、興味がないようだった。
世話をやくと感謝はするが、期待はしない。
自分から他人の世話を焼こうとしないのは、冷たいのではなく、発想そのものがないのだった。
家賃を払う、と主張するのを私が拒んだので、彼が光熱費を出すことになった。
もっともガスも電気もほとんど基本料金に近かったのだが、これが実は大いに助かった。
二日に一度はカップ酒で我慢していたのが、三日に二回は飲みに行けるようになった。
私たちは極めて薄い関係の同居人として、うまくやっていけそうだった。
何日か経って、彼の言動が少し変わっていることに気付いた。
いや、恋愛に関する趣味の問題ではない。
私は朝現場に出勤して夜帰る。
しかも三日に二日は飲んで帰る。
石渡は家にいて、しかも昼間寝て、夜中に仕事をするという生活リズムを持っていた。
顔を合わせるのは、夜の遅い時間帯にほんの僅かだった。
会うたびに彼の表情が、もっというなら目の色が違うことに気付いた。
表情に乏しいのはいつものことだが、暗く沈んだ目の色の時もあれば、飯を食う時のジュンペイ顔負けにきらきら輝いているときもある。
もちろん人間だから機嫌のいい日もあれば不機嫌な時もある。
だが私は、彼の目の色の変化からそういった単なる感情の起伏を超えた異様さを感じとっていた。
話したわけではないが、彼は何かの依存症から抜け出そうとしているところなのだろうと感じた。
そう思ってみれば、「何か」はすぐにわかった。
以前、同じような目の色をした人間と暮らしたことがある。
妻は睡眠薬に頼らなければ眠れない身体だった。
私は気付かないふりをしていた。
前の仕事の経験からも知っている。
説教や脅しは毛ほどの役にもたたない。
どんな中毒であれ、やめさせる方法は二つしかない。
本人がやめようと決心するか、身体を縛り付けておくか。
私には、つききりで面倒をみてやる暇も理由もなかった。
第一、こんなに酒にだらしない私が、偉そうなことをいえた義理ではない。
彼にしてみても、自分が葛藤《かっとう》していることは知られたくないだろう。
そのうち、三人目の同居人として村下恭子まで居候するようになって、石渡はあまり皆の前に顔をださなくなっていった。
乗り越えたのかもしれないと感じはじめたのはごく最近のこと。
ようやく笑顔がのぞくようになったからだ。
「へー、それじゃここの家の人たち、ほんとにホントに他人が同居してるんだ」
「うん」
ジュンペイと早希は、まだ同じような会話を続けている。
「恭子さんも? 石渡さんも?」
「そうだよ」
「ねね、わたしも入れて。入れて下さい。オネガイシマス」
早希が、おかしなアクセントで拝むような仕事をして言った。
ちらとジュンペイに目をやると、一緒に懇願するような目つきをしている。
「残念だけど、それはできない」
「ケチ」
ジュンペイの顔つきも早希に賛同の意を表明している。
「たしかに金を持ってないが、ケチではないだろう。タダで泊めたじゃないか。ジュンペイにだって何度も弁当食わしただろう」
それぞれに向かって言う。
早希もジュンペイも「もっともだ」というようにうなずいた。
「それじゃ、どうして?」
「言ったはずだがな。もうすぐ出ていかなけりゃならないんだよ」
私は簡単に、この家を売りに出していることだけを説明した。
「じゃあ、本当に、おっちゃんたちももうすぐここから出て行くの?」
「そういうことだ」
早希は納得がいかないのか、唇を少しつきだすような表情で部屋を見回した。
「ね、あのひと。恭子さん。あの人は、どうして居るの? 結婚してないの? おっちゃんのいい人?」
よくもまあ、次から次へと質問する女だ。
私は、キッチンを振りかえった。
水仕事を終えた恭子も部屋にあがったようだ。
次にジュンペイも見た。
彼も詳しくは知らないはずだ。
早希のようにあけすけに聞けなかっただけで、興味はあるに違いない。
「そんなんじゃない。昔、知り合いだったひとだ。家族がいないんで、一緒に住んでいる。それ以上は余計なお世話だ。あまり詮索するのなら出ていってくれ」
下を向いた早希の頬がふくらんでいるのが見える。
「さて、俺は風呂に入って寝る。お前さんたち、ごゆっくり。あまり暴れると家が壊れるからな」
あとに残るジュンペイと早希に言い残した。
ふたりは一瞬きょとんとした表情を浮かべていたが、ジュンペイの顔がすぐに耳まで真っ赤に染まった。
風呂場に向かう私の背中に、噴きだした早希の笑い声が届いた。
6
私が出所後勤務している会社は、北南警備保障という。
道路工事の現場での交通整理を請け負う業務が、事業の八割を占める会社だ。
私はそこの契約社員として雇われている。
なんだかんだと言っても、つまるところ日雇いアルバイトだ。
就職にあたって、知り合いの誰の世話にもならなかった。
理由は二つ。
世話になるような知り合いがほとんどいなかったこと。
そして、たとえいても万が一面倒を起こした時に迷惑をかけられないと思ったこと。
履歴書を適当にごまかして、「マエ」のことは隠したままなんとかもぐりこめた。
仕事のサイクルは現場次第。
一週間のこともあれば、二ヵ月近いこともあるらしい。
ただ、長期の現場はよほどきつくなければ人気がある。
安定しているからだ。
そういう仕事は古顔の社員がさらって行くことが多い。
私のような新参者は一〜二週間の短い現場を渡り歩く。
私は、むしろ短期が好きだった。
居候をおくことと矛盾しているが、仕事仲間とはある程度以上親密になりたくなかった。
したがって、ひとが嫌がる夜中の仕事や早朝の仕事なども、話があれば断らなかった。
その日私は深夜勤務明けだった。
早希はすでに三泊していた。
事情はよくわからないが、当座の金と携帯電話と最低限の必需品を取ってきたらしい。
二泊させた時点である程度覚悟はしていた。
ジュンペイ以外は無愛想と無関心と無感動人間の寄せ集めで、かつて笑いの交じった会話などほとんど聞いたことがなかった。
ところが、早希が割り込んできて空気が変わった。
恭子は淡々とではあるが、早希をかばい、面倒をみている。
普段部屋にこもったままが多かった石渡氏も食事時に会話に参加するようになった。
ジュンペイのはしゃぎようは言うまでもない。
三泊目の夜もなんだか盛り上がっていたようだが、私は終電で現場へ向かった。
酒がほとんど飲めないのが、つらかった。
深夜一時から働き始め、昼の十一時にあがりになった。
昼食用に途中で三百八十円のシャケ弁当を買って帰った。
特別「ただいま」と声はかけないが、気配でわかる。
そのとき家にはだれもいないと感じた。
いつもの習慣で確かめはしなかったが。
買ってきた弁当を平らげて、ごろりと横になっていたとき、門のチャイムが鳴った。
インターホン式なのだが、どうも性に合わなくて使ったためしがない。
どうせリフォームのセールスか新聞の勧誘だろう。
無視することに決めたところが、門を開けて入ってきたらしく直接ドアをノックしている。
図々しい奴が増えた。
しかたなく、居眠りしかけた目をこすりながら、玄関に向かった。
「どなた?」
ドアのこちら側から声をかける。
「回覧板です」
事実上自治会などとは縁が切れているものだと思っていた。
声の主は調子からすると若い男のようだった。
おそらくは母親に頼まれた浪人生あたりが、事情を知らずに回ってきたのだろう。
頭からそう決めつけてしまった。
ドアスコープを覗いたが、黒カビが繁殖していてぼんやりとしか見えない。
どうにか若い男らしいことだけはわかった。
油断していた。
ドアチェーンも掛けずに鍵を開けた。
ヤキというのは本当にまわるものである。
ノブを回しかけた途端、ドアの隙間に足が差し込まれ、非常な勢いで押し開かれた。
全く無警戒だった私は、ドアに引きずられてバランスを崩し、前のめりになった。
情けないが思わず膝をついてしまった。
ドアの向こうに、若い大きな男が立っていた。
構える間もなく男に突き飛ばされ、今度は仰向けにひっくりかえった。
すぐに身を起こし膝立ちになって相手の正体を確かめようとした。
見知らぬ若い男だ。
身長は百八十センチ程度。
目尻を吊り上げて私を睨みながら向かってくる。
反射的に、五年前の事件が頭に浮かんだ。
明け方によく見る、筋の通らない夢なのかもしれないと思ったが、突進してくる男には猛烈に現実感があった。
突き飛ばされたときにぶつけた腰も痛い。
混乱していた。
事態を把握するより先に、男は殴りかかってきた。
頭は混乱から回復していないが、身体は反応した。
顔を右に振って男の拳《こぶし》を避け、間をおかずに男の懐にもぐりこんだ。
がっしりした体つきであることがわかった。
私は男の右腕の付け根あたりを掴んで、きれいに投げ飛ばす……つもりだった。
男は飛ばなかった。
いや、身体が浮きさえしなかった。
すっと腰を落とした男の左腕が、逆に私の首にまきついた。
それをどうにか振りほどこうとした時、足を払われた。
何かの正統な武術ではないだろう。
無茶苦茶だが、相手の隙を見て何でもする、実践の喧嘩で鍛えられた腕だととっさに思った。
私はかつて柔道二段、剣道初段をとったこともあったが、「別荘」でのんびり暮らしたあと酒|浸《びた》りになって、すっかり不健康な中年になりさがっていた。
転がった私の脇腹に強烈な足蹴りが入った。
衝撃に息が詰まった。
それで勝負はついた。
吐き気を伴った激痛がはしる。
あばらが折れたかもしれない。
しかし、第二、第三の蹴りが襲ってきて、怪我の具合を気にしている余裕はなかった。
「このクソじじい」
「死ね、すけべ野郎」
などと口走りながら、腹といわず、背中といわず、ところ構わず攻撃してくる。
男が軟らかいスポーツシューズをはいていたので助かった。
昔のやくざが好んで履いたような先のとがった鉄板を埋め込んだ革靴だったら、内臓が破裂していたかもしれない。
頭を抱え、ダンゴムシのように丸まって、私はこの家の住人のことを考えていた。
本当に誰もいないのだろうか。
もちろん、一一〇番してもらいたいからではない。
騒ぎを聞きつけて、のこのこ降りてこないか、それが心配だった。
まず、ジュンペイは仕事。
石渡は、今日は所用で外出すると言っていた。
この時刻では帰っていないだろう。
早希も出かけているはずだ。
ひとり、恭子がいるかもしれない。
声をかけていないのでわからない。
(降りてくるな)それだけを祈った。
やがて、蹴りがやんだ。
殺す気なら、最初に殺している筈《はず》だ、という希望があった。
だが、それは場慣れした奴の話で、こういう頭に血が上った若造は何をするかわからない。
丸めた身体をそっとほどこうとした時、首筋に冷たく硬いものがぴたっと貼りついた。
「動くと殺すぞ」
ナイフだろう。
刃でなはく、腹を押し当てている。
「何が目的だ。金か?」
声が震えないように気をつけながら言った。
本当は、彼のおよその正体と目的は想像できた。
当たっていた。
「早希はどこだ。早くいわねえとぶっ殺す」
首にあたったナイフに力がこもった。
この期に及んでは、いっそ彼が場慣れしてくれていることを願うしかない。
余計なことを言って、これ以上逆上させてしまってはまずい。
「いない」
「どこへ行った」
「知らん。出ていった」
いきなり左の拳で殴られた。
ナイフの方へ顎が動かないよう、歯をくいしばった。
幸い、ナイフの腹を押しつけられているので、切れずにすんだ。
刃があたっていたら、ぱっくりと裂けたに違いない。
「ふざけんなよクソじじい。隠すとマジでぶっ殺すぞ!」
少しでも興奮を静めるために、観念した表情を浮かべようと努力した。
どの程度効果があるかわからないが、極力情けない声をだしてみた。
「本当に出ていったんだ。行き先は聞いてない。ウソじゃない」
「早希はなんでここに泊まってたんだ。やったのか」
慎重にことばを選ぶ。
「夜中、ちんぴらに絡まれて危ないところを助けてもらった。泊まるところがないというので、助けてもらった礼に泊めた。指一本触れてない。本当だ。一泊のつもりだったのに、本人が望んでもう二泊した。さすがに何日もいられては迷惑だといったら、何も言わずにぷいっと出て行った。君は知り合いか?」
刺激しない程度に男を観察した。
顔は隠していない。
二十代半ばくらいだろうか。
二枚目とはいえないが、精悍《せいかん》な顔つきをしている。
つり上がった一重の目が充血して私を睨んでいる。
さっき、組み合った時の感じでは、今どきの若者にしてはがっしりした筋肉質の身体をしていた。
「早希は俺の女だ。あとで、手を出したことがわかったら、絶対許さねえ」
「大丈夫だ。何もしていない。それより、もういいだろう?」
ナイフがすっと引いていった。
ほっとしたのも束の間、今度は右腕で頬骨あたりを殴られた。
どうやら、顔を殴るのが好みらしい。
初めて会ったときに赤く腫れていた早希の頬を思い出した。
後ろに弾き飛ばされ、一瞬意識が遠のきかけた。
男が私の身体をまたぎながら言った。
「動くと今度は刺す」
脅されるまでもなく、三日ぐらいは動きたくない。
男は物色していた。
ほとんど身体ひとつで転がり込んだ早希の遺留品があるはずもなかった。
万一、見覚えのあるバッグでもみつかったら、どんな目に遭わされたかわからない。
彼はなけなしの家具をあさって、何も見つからないので、やがて二階に上がっていった。
誰もいないことを願った。
乱暴にドアを開ける音、そこらじゅうをひっくり返している物音が響いてきた。
人の声がしないところを見ると、恭子も出かけていたらしい。
ほっとした。
ならばこのまま玄関にいて、もし誰かが帰ってきたら、即座に逃がそう。
男はしばらく二階で暴れ回ったあと、踏み抜きそうな音をたてて階段を降りてきた。
早希がいないことを、ようやく納得したようだった。
私のシャツを借りて着ているくらいだから、持ち物が見つかるとは思えない。
替えの下着くらいはあるのだろうが、相変わらず洗濯機の中に入れっぱなしか。
「いいか、外で見張っているからな。もし、早希が戻ってきたら、ただじゃおかねえ。早希の身体は商品だからな。てめえに落とし前つけてもらう。わかったな」
「落とし前?」
余計なことを聞くべきじゃなかった。
「金だよ金。五万や十万の金で済むと思うなよ」
最後の言葉と同時にもう一度頭を蹴られた。
むせかえって、うめいている間にドアが乱暴に閉まる音が聞こえた。
めまいをこらえながら、玄関まで這っていった。
ノブにつかまって膝立ちになり、鍵を掛けようとして力尽きた。
意識が遠のいていく。
完全に気を失う前に、風を感じだ。
誰かがドアをあけ、近づいてきたのかもしれない。
奴が戻ってきたのだろうか?
もう、私にはどうにも抵抗できない。
その人物が、私の上にしゃがみ込んだような気がした。
私の意識はそこで途切れた。
痛みで覚醒した。
全身、痛まない場所はなかった。
とりわけ、最初に蹴られた肋骨の痛みは単なる打撲ではなさそうだった。
指先でそっと押してみる。
思わずうめき声の漏れるような激痛が走った。
腕時計を見る。
失神していたのは、わずか十五分くらいなものだろうか。
息を整えながら、起こった事柄を整理しようと試みた。
立ちあがるとめまいがするので、横になったまま考えた。
早希が逃げている相手は、あの男に違いない。
どうにかして、この居場所を突き止めた。
いまはそれ以上のことは想像してもわからない。
二人はいったいどういう関係なのか。
「商品」と言っていた。
意味はよくわからないが、早希に一定以上の暴力をふるうつもりはなさそうなので、その一点は安心できた。
気がかりなことがあった。
早希はもう一度ここへ戻る。
今朝、出がけにそう言っていた。
「金を借りた友人にもう一度会って、今後のことを相談してみる」と。
男は「見張っている」と脅した。
それもおそらくそのとおりだろう。
早希が本当に出ていったとは信じていないようだった。
さらに気がかりなのは、ほかの住人たちだ。
ことに恭子はちょこっと買い物に出かけただけの可能性が高い。
無警戒にこの家に入ろうとして、奴に捕まることもありうる。
それは回避したかった。
なにをおいてもそんな事態は避けたかった。
助けを求める手もある。
警察に通報すればいい。
この痣《あざ》を見せれば、傷害で告訴することはできるだろう。
しかし、そうなれば、私自身が警察と関わりをもたなければならない。
なぜこのような事態が発生したのか、ある程度は説明しなければならない。
少なくともあの男が逮捕されるようなことがあれば、参考人として出頭するハメになることを避けては通れない。
それには抵抗があった。
想像しただけで、めまいが酷くなった。
取り調べの警官に行きずりの二十一歳の女を泊めた、と申告することに耐えられるはずがない。
もう一度奴に殴られたほうがマシだった。
自分で何とかするしかない。
とにかく外の様子を見にいかなければ。
私は、ドアノブに捕まってどうにか身を起こした。
膝からくずれ落ちそうになる。
「情けないぞ」
つぶやいてみた。
少しだけ効き目があった。
深呼吸をふたつして、表に出た。
7
家に戻った時には、日がほとんど沈みかけていた。
震える指で鍵を差し込むのに苦労した。
どうにかさし込んでみたものの、今度は鍵が回らない。
力を込めると脇腹に痛みが走る。
何度か挑戦してから、ようやく理由が分かった。
回るはずがなかった。
鍵は最初から掛かっていなかった。
さっき、私が掛けずに出かけてそのままになっていたのだ。
ということは、まだ誰も帰宅していないのだろう。
どうにか玄関先にあがったところで、急に力がぬけ、へたりこんだ。
なんだか疲れた。
眠い。
痛さをこらえて歩き、居間に転がり込む。
さっきの男にひっくり返されて、モノが散らばっている。
とてもじゃないが、今は片付ける気分にはなれない。
結局誰かを救うなどという格好のいいことはできなかった。
あの時、ドアの外にすでに男の姿はなかった。
見張ると脅しておいて、早希のマンションに行ったに違いなかった。
早希のマンションまで電車でひと駅、這ってでもいかなければならない。
俺は時々立ち止まったり、電柱にもたれかかったりしながら、昨日聞いたばかりの早希のマンションを目指した。
頭がふらついている。
とっくに酒もきれているはずなのにぼうっと霞がかかったようだった。
途中でいろいろな人間に出会ったような気がする。
ふらふら歩いている私を、すれ違いざま睨んだのは別れた妻ではなかったか。
私の肩にぶつかって追い越していったのは私が死なせた磯崎に似ていた。
道端で泣いている少女は、私が目の前で母親を連行したときの子供かもしれない。
皆が私を蔑むように見ている世界で、ひとりだけ私に無関心で去っていく後ろ姿が恭子に見えた。
私は声をかけようとしたが、うまく言葉にならなかった。
よく見る息苦しい夢に似ていた。
追いかけようとして足がもつれた。
自分は、面倒見るふりをして心の底では彼女に救いを求めているのだろうか。
頭が混乱して、めまいがひどくなった。
私はその場にしゃがんで吐いた。
そして再び気を失った。
ぼんやりと意識が戻ると早希が心配そうにのぞき込んでいる。
やさしい娘だ。
私は道端の電柱にもたれて座り込んでいた。
「……大丈夫ですか。もしもし」
声を掛けてくれたのは、早希ではなく身も知らぬ老婦人だった。
私はうろたえて、思いつくままを口にした。
「あなたの人生の最後の日が、どうか平穏でありますように」
婦人は一瞬目をむいて、すぐに汚いものでも見たような顔をしてさっさと行ってしまった。
自分がこんなところで何をしていたのかすぐには思い出せない。
猛烈な頭痛の隙間で、ぼんやりと、見知らぬ男に殴られたあとのことが浮かんできた。
そうだった。
「早希のマンション」
つぶやいてみた。
早希の住所をメモした紙は家にある。
おぼろげな場所の記憶はあるが、番地や建物の特定はできない。
なんてこった。
自分の馬鹿さかげんにあきれ、あたりをうろうろ歩き回った。
しょせんは徒労だった。
仕方がない、一度家へ帰ろう。
遠くから救急車の近づく音が聞こえたが、もはやでどうでもよかった。
眠り込んでしまうまえに、どうしても確認しておきたいことがあった。
住人たちの部屋の状態だ。
あの男がどれほど荒らしていったのか。
石渡の部屋は、本棚からまき散らかされたらしい本だのコピー用紙だのがそこらじゅうに散乱していた。
幸いノートパソコンは持ってでかけたらしい。
貴重品が壊れている様子はない。
恭子の部屋には散らかすものがほとんどない。
だから、「バイエル」と書かれた薄い本が引き裂かれて、机の上に置いてあるのがよけいに目立った。
たしか昔買ったピアノの教本で、恭子が大切にしていたもののはずだ。
また悲しませることになる。
ジュンペイの部屋では雑誌が散乱していた。
安物のラジカセもひっくり返っている。
なけなしのCDが床に散乱している。
壊れていたら弁償するしかないかもしれない。
そして私の部屋、三日前から早希の部屋。
高性能火薬の調合に失敗したようなありさまだが、実は男が現れる前からほとんど変わっていない。
単に私が整理できないだけだ。
男もまさかこの部屋で早希が寝泊まりしたとは思わなかったろう。
どの部屋もひどいありさまだったが、死体がないだけましなのかもしれない。
昨夜、夜勤に出かけて以来、ほとんど寝ていなかった。
頭の芯が痺れたように感じる。
相変わらず頭痛も続いている。
いちいちため息をつきながら居間に戻って腰をおろし、座布団を枕に横になった。
それだけの間に、普通の紳士が一生に口にするより多い悪態をついた。
いい足りない言葉を探しているうちに、いつのまにか眠りに落ちてしまった。
不覚にも酒も飲まずに。
不快な夢を見ていたような気がするが、覚えていない。
私がドアチェーンを掛けたために、家には入れずに困った石渡氏が鳴らすチャイムの音に起こされた。
ほどなく恭子が、そしてジュンペイも帰宅した。
そのたびに顔の特殊メイクの説明した。
三者三様の反応だった。
石渡氏はひと通り聞き終えるとコーヒーを淹《い》れてくれた。
「ああしろ、こうしろ」などとはひと言も言わない。
恭子はリビングに寄らず、いつものように直接二階に上がった。
見知らぬ人間に部屋を荒らされたことがショックだったようで、急いであとから追いかけた私の話も、どこか上の空で聞いていた。
その後も部屋から出てこない。
当然のことながら、一番うるさかったのはジュンペイだ。
石渡が淹れてくれた、二杯目コーヒーを飲んでいるところに帰ってきた。
私の顔を見るなり、目をむいて尋ねた。
「おっちゃん、どうしたのその顔」
「ちょっとごたごたがあって……」
「ごたごたって、誰かになぐられた? 病院は? 警察は? 相手はだれ」
ジュンペイが息を荒くして床に座り込んだ。
いつになく早口でまくしたてる。
「ちょっと待てよ、そんなに一度には答えられない。まあ、興奮しないで聞いてくれ」
そう前置きしてから、ちょっと前に石渡と恭子にした説明と同じことを話した。
二メートルを超えるかという大男が乱入してきたこと。
相手は空手の達人だったこと。
こちらも応戦してあと一歩まで追い詰めたこと、とどめを差すことにためらった隙をつかれて反撃されたこと。
何より、男の目的は早希だったこと。
家中を荒らして出て行ったこと。
「ええっ、ちょっと待った」
二段飛ばしで二階にあがっていった。
「うわー」
という怒声が聞こえる。
こんどは床を踏み抜きそうな音をたてて降りてきた。
「そいつ誰? 絶対ぶっ殺してやる」
石渡氏は小さく首を振っていたが、ジュンペイの興奮は収まりそうもなかった。
「だから、名前もわからない。高瀬嬢の知り合いだとしか」
「それで、早希さんは?」
それもわからないというように首を振った。
「ほっといていいの? 早希さんが危ないんでしょう。警察に届けよう」
こんなに喰ってかかるジュンペイはめずらいし。
「ちょっと待ってくれジュンペイ。彼女の事情もあるかも知れん。警察に届けると、かえって彼女に迷惑がかかるかもしれないじゃないか」
「迷惑って、どんな迷惑? そんな凶暴な男に追いかけられているんでしょう? 二メートルもある奴じゃ、早くしないと……」
「それに、誰が彼女の本当の居場所を知っているんだ?」
実は、私が早希にマンションの場所を書いてもらったのはポケットティッシュの中紙だった。
さっきから探しているのだが見当たらない。
そのあたりに放り出した可能性はある。
いつも散らかしたゴミを片付けてくれるのは恭子なので、念のために聞いてみたが、「ゴミならたぶん捨てました」と愛想がない。
興奮しているジュンペイに「間違って鼻をかんで捨ててしまった」
とはいえなかった。
「警察ならそんなこと簡単に調べがつくでしょう」
いまにも一一〇番するか、直接警察署に駆け込みそうなジュンペイをどうなだめようか途方にくれていると、石渡が助け船をだしてくれた。
「でもね、柳原君。警察に何を訴えるんだい? 彼女と彼氏の揉《も》め事は、明らかに客観的に暴力行為が認められなければ、第三者が『揉めているみたい』なんて言ったって警察は聞く耳をもたないよ。もし、いま訴えることができるとすれば、その男のこの家への不法侵入と尾木さんに対する暴力行為くらいだ。ところが、尾木さんはどちらでも訴えたくないそうだ。もしくは我々の所持品に対する器物損壊だけど、別件逮捕が目的でもなかったら本やラジカセでは警察は動かないでしょう」
ちっとも助け船ではなかった。
そんな説明をしないでくれ。
ますます、ジュンペイの攻撃が私に集中するじゃないか。
「どうして訴えないのさ? そんな奴は警察に突きだしたほうがいいと思うけどな」
「ほら、いろいろ事情があってな、過去の不幸な出来事とか、そんなこともあって、なかなかそうもいかなくて……」
そんな、国会の予算委員会みたいな答弁が通用するとは思えなかった。
さらに反撃しようとジュンペイが口を開きかけたとき、チャイムが鳴った。
凍りついたような空気のなかで、私たちは顔を見合わせた。
だれも動かなかった。
再びチャイムが鳴った。
「早希さんじゃない?」
ジュンペイはそういいながらも立とうとしなかった。
二人の視線が、私に向いていた。
『家主でしょう』と、語っている。
都合のいいときばかり表に立てる。
だいたい、怪我人だぞ、とぶつぶついいながら腰をあげた。
「はい、なんでしょう」
深呼吸をひとつして言葉を発した。
ドアスコープは相変わらず使いものにならない。
そのうち、セールスマンの髭の剃り残しがわかるほどに磨いてやろう。
今度はドアチェーンをしたまま、ドアを細く開けて聞いた。
そこにいたのは早希ではなかった。
「あ、尾木さん。すみません、こんな時間に」
拍子抜けするほど明るい声を出したのは、不動産会社の営業マンだ。
「ちょっと連絡しておきたいことがありまして」
「まあ、どうぞ」
ドアチェーンをはずし、玄関に招き入れた。
何度か顔を合わせたことがある。
たしか赤坂とかいう名だ。
「いや、いきなり伺ってすみません。電話連絡がとれないものですから」
詫《わ》びにかこつけた嫌味だった。
我が家には電話がない。
五年前に撤去して以来、無い。
さらにいえば携帯電話すら持っていない。
ほんとうなら電話で済むのにこうしていちいち訪ねなくちゃならない。
赤坂の顔にはそう書いてあった。
「それで?」
「売れそうですよ」
「え?」
「えっ、て。もう、やだな、この家ですよ。ようやく買い手が現れました」
口から泡が飛びそうな勢いだった。
初めて通知表に「たいへんよくできました」がついたのを報告しようと、とんで帰ってきた少年のように得意げだ。
「尾木さん、絶対値引きしないっておっしゃるんで、正直いうと心配はしてたんですよ。更地にして二世帯住宅を造るらしいんですが、金額は表示のままでいいそうです。今だからいいますけど、あの値段で買い手がついたのはめっけもんですよ。気が変わらないうちに即、いきましょう」
やや興奮気味に喋る。
ひと周り以上年下であろう不動産会社の営業マンを見ながら、(ああ、そうだった)と他人ごとのように思い出した。
早希の居候事件があってすっかり忘れていたが、この家は売りに出していたのだった。
売れるのが先延ばしになるように値引きはせず、かといって法外な高値をつけていると指摘されないように頑張ってきたのだが、とうとう買い主が現れた。
「それで、いつ?」
「まずは先方さんの銀行の審査がすんでからということになります。そこまで一週間ほど、財務状況を聞いた限りでは問題はないと思います。そのあといよいよ契約ということになりますが、その前にご用意いただく……」
延々と説明をしている営業マンの言葉を、ほとんど聞き流していた。
私は喋り続ける赤坂を遮った。
「いや、そうでなくて、出て行くのはいつごろになるだろうか」
「え? ああ、そうですね……それはこれから、引き渡しの契約日によりますが、まあ通常は契約が済んでから三〜四週間というところでしょうか。もっと早いこともあります」
「半年というわけにはいかないだろうか。いやせめて三ヵ月」
「尾木さん」
さすがに赤坂の営業用の笑顔が崩れてきた。
「あの値に満額で了解してくれたんです。これ以上条件をつけるのは、ちょっと……」
語尾は濁したが、その先はわかっていた。
(だだをこねると、相手方にまずいんじゃないですか)
そう言いたかったのだ。
この不動産会社は向こうの弁護士の紹介だ。
若僧のくせに裏事情は聞いてきているのか。
俺の一件も知っているのか。
そう考えるといわれのない腹立たしさがこみ上げた。
この赤坂に罪があるわけではない。
それどころか、売り主がなるべくなら売れないように願っている物件をよくも売ったものだ。
営業の鏡と言うべきかもしれない。
「わかった。わかったよ。契約の日取りが決まったら教えてくれ」
「ええ、その時はまた夜にでも寄らせていただきます」
最後に、あきらかな嫌味を投げつけて赤坂は帰っていった。
(電話があればすぐに済むんですけどね)
去っていく赤坂の背中に、本人の代わりにつぶやいてやった。
「みんな、別な案件が持ち上がった」
リビングで待ち構えていた二人を見回して言った。
「そんなまわりくどい言い方をしなくていいよ。おっちゃん」
そういえば、いつからお前は私のことを『おっちゃん』などと呼ぶようになったのか。
今まではきちんと『尾木さん』と呼んでくれたではないか。
早希の尻馬に乗ったのか。
なげかわしい、いや、そんなことはどうでもいいんだ。
「みんな聞こえてたから……出ていかないといけないんだろう?」
ジュンペイがさっきの興奮がすっかり醒《さ》めた口調で言った。
石渡も私を見て軽くうなずいた。
恭子に告げるのは明日にしよう。
(みんな、すまない)
口に出しかけた時、再びチャイムが鳴った。
さっきの赤坂が何かいい忘れたのだろうか、それとも別な客か。
今日の我が家には過去半年間の全部を合わせたより多くの客が押し寄せてくる。
待ちきれないように、再びチャイムが鳴った。
二度、三度。
ピンポンピンポンと鳴り続ける玄関に向かって「はい」と怒鳴るように返事をした。
くそ、追い返してやる。
「一度鳴らせば聞こえるよ」
チェーンをかけ、怒鳴りながらドアを開けた。
隙間から見覚えのある顔が二つ並んでいるのが見えた。
「尾木|遼平《りょうへい》さんですね」
二人組のうち、若くて背の高い方が言った。
追い返すことのできない相手のようだった。
8
「光宮警察署の者です。夜分申し訳ありませんが、少し話を聞かせてもらえませんか」
しぶしぶドアを開けた私に、若い男はそう言って、型通りに身分証を出した。
私が塀の向こうにいる間に変わってしまったそいつを、アメリカ映画に出てくるみたいにはらりと開いて呈示した。
年上の刑事も胸ポケットから面倒くさそうに取りだして、ちらりと見せた。
できることなら私とは口をききたくない、と顔に書いてある。
「話? どんな話だ?」
まさか、昼間の暴行事件が発覚したわけではないだろう。
嫌な予感がした。
「高瀬早希という女、知ってますね」
彼らの手の内はわかる。
そう聞くからにはウラがとってあるはずだ。
とぼけても意味がない。
黙ってうなずいた。
「彼女を泊めましたか?」
「高瀬?……ああ」
仕方なく、あいまいにうなずく。
二人の刑事は顔を見合わせた。
彼らは光宮市警察、刑事一課の強行犯担当だった。
くそ面白くもない一日の最後の客にふさわしいかもしれない。
さっきからひとりで喋っている背の高い若い刑事の名前は忘れた。
私が現役だった頃は、まだ駆け出しだったはずだ。
「その顔、どうかしましたか?」
胡散《うさん》臭いものを嗅ぎつけたときの刑事はこういう顔をするのか、と興味を持って観察した。
「階段から落ちたんだ。ちょっと酔ってたもんで」
「階段ね」
若僧が小馬鹿にしたような視線を向けている。
「実は、高瀬早希との関わりを、署でもう少し詳しく聞かせていただきたいんですが」
「ちょっと待ってくれ、彼女が何かしたのか」
型どおりの抵抗を試みた。
我慢できなくなったらしく、今まで脇で睨んでいただけの年上の刑事が口を挟んだ。
こいつの名前は近川《ちかがわ》という。
年は四十になるかどうかといったあたりのはずだ。
昔、一緒に仕事をしたこともある間柄だが、今は私と会話しなければならないことが、とても腹立たしそうだった。
「あんまり手を焼かせるなよ。引っ張ってもいいんだぞ」
「だから、聞いてるだろう。そりゃ一体どんな理由からだ」
「あんた、あの女が何者か知って泊めたのか? ありゃな、美人局だ。最近デビューしたばかりの新顔だがな、先週までに二件届けが出てる。二課の連中がマークし始めてたところだ」
「つつもたせ……」
その言葉に別な意味があるような気がして、口のなかでつぶやいた。
しかし美人局は美人局、ほかの意味はなかった。
近川は構わず、はき出すように続けた。
「その美人局のヒモが死んだ」
奥歯が一本痛んだ。
昼間、若造に殴られてわずかにぐらついていた歯だ。
さっきから気になって、舌の先でずっと触れていたその歯がずきりと痛んだ。
「久保裕也《くぼゆうや》、二十五歳。前科二犯。この間まで違う女とつるんでた。今日の午後、建築中の陸橋から落ちて死んだ」
うかがうように私の目をのぞき込んだ。
どうせ、酒と寝不足で濁った目だ。
近川は続けた。
「落ちた現場は高瀬早希が住んでるマンションのすぐ近くだ。今署に呼んで聞いてる」
「彼女をか?」
「そうだ」
「ずいぶん手回しがいいな」
「くだらん嫌味はいわなくていい。ところが事情聴取の最中に、この家に三日も泊まったと言いだした。あんたの名前を聞いてすぐに思いだした署員がいて、署内は大騒ぎになった」
私はもう言い返さなかった。
昼間私をいいようにこづき回した若造が、その久保とかいう男に間違いないだろう。
奴がこの世で最後に殴ったのは俺だったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えた。
近川が続けた。
「もしそれが本当なら、自分がどういう立場に置かれているかわかるだろう。え? あんたも元は県警のやり手だったんだからな」
『やり手』といったのはここ数年に聞いた中では最高クラスの嫌味だったが、今はそんなことはこれっぽちも気にならなかった。
どうやら警察と関わり合いにならずには、すまないようだ。
それに、中の三人に聞かれながらの立ち話も面白くなかった。
「わかった。同行するからちょっと待ってくれ」
「どのくらい」
「すぐ済む」
若いほうが、(大丈夫だろうか?)という表情で近川を見た。
近川は不機嫌そうな顔をしていたが、いかせてやれという顔つきをした。
さすがに、私が裏口から逃げだすことはないと思っているらしい。
リビングに戻ってみると、騒ぎを聞きつけたらしく恭子も降りてきていた。
私は彼らに手短に事情を説明した。
ジュンペイが口を聞く前に釘をさした。
「人がひとり死んだんだ。『イヤ』だの『後で』だのとは言ってられない。ゴネてもむりやり引っ張られるだけだ。まあ、心配しないでくれ」
玄関に戻り近川たちに同行に合図をしたとき、昨夜も風呂に入っていなかったことを思い出した。
まあこの際、些細《ささい》なことはしかたない。
どうせ取り調べるほうだって風呂など入っていないはずだ。
覆面|PC《パトカー》に乗せられた。
特別待遇だった。
光宮署に『覆面』はたしか二台しかないはずだ。
そのうち一台を回すなんてことは、VIP待遇だ。
連続殺人犯並みの扱いじゃないか。
若手が運転し、後部座席の隣に近川が座った。
近川は(面倒かけるなよ)という目で一度睨んで、それきりこちらを見ようとしなかった。
署までは十分ちょっとだろう。
ひとつ聞いておきたいことがあった。
「今日の当番は?」
もちろん宿直当番のことだ。
若手がちらりと振り返り、近川と見合った。
話しても問題ないと判断したようだ。
それはそうだ、どうせ間もなくご対面するんだから。
「室戸《むろと》さんだ」
となりの近川が言った。
聞き返さずにはいられなかった。
「もちろん、あの室戸警部補だよな」
返事も返ってこない。
わかり切ったことを聞くな、という意味だろう。
ますます気が滅入ってきた。
無性に酒が飲みたかった。
思ったとおりの楽しい夜になった。
人がひとり死んで、他殺の可能性もある。
到着したのは十時近い時刻だったが、署内にはまだ多くの署員が残っていた。
若い刑事にカマをかけて聞き出したところ、どうやら直接現場の指揮をとっているのは、今夜の当番でもある室戸警部補のようだった。
室戸という男は、私が初めて着任した警察署で二年先輩だった。
三年後、私は警察の刑事部に異動になり、彼は楡川《にれかわ》署で刑事なった。
そしてこれは後のことだが、私の方が二年ほど先に警部補に昇進した。
楡川市も光宮と並んで県内では割と大きな繁華街を抱えているため、凶悪な事件も多く、合同捜査本部、いわゆる帳場が良く立った。
当然、室戸とは顔を合わせる機会も多かった。
そのたびに顔つきや態度から、彼が私を毛嫌いしていることをいやというほど感じさせられていた。
五年前私が失職したとき、この世で一番喜んだのは、かつて私が挙げたどのホシたちよりも室戸だったに違いない。
光宮署に転属なっていたとは知らなかった。
その室戸警部補と最悪の状況で再会することになった。
楽しい夜にならないはずがない。
ジュンペイがいくら口をとがらせようと、あの男に暴行を受けたことを届け出もしなかったのは、昔の顔見知り――とりわけ室戸と顔を合わせたくなかったからだった。
しかしどう避けてみたところで、一旦ぬかるみにはまれば、足首まで泥にまみれるしかないのだろう。
9
通されたたのは取調室だった。
ほとんど犯人扱いの処遇である。
もちろん異議をとなえることもできるが、どうせその後の嫌がらせが増すばかりなのはわかっていた。
さっさと、喋ることは喋って、帰らせてもらおう。
いや、その前に早希はどうなったかを聞かなくてはならない。
せっかくその気になったのに、誰もやってこない。
しばらく待たされたあげく、十一時近くなってひとりの男が入ってきた。
お待ちかねの人物登場だ。
「今日は帰れないと思ってくれ」
不機嫌そうな顔をした室戸が、入ってくるなり言った。
予期したとおり、「久しぶり」で「元気か」でもない。
唾を吐きかけられなかっただけマシかもしれない。
顔を合わせるのはほぼ六年ぶりのはずだ。
一段と人好きのする顔つきになっているという印象をもったが、口には出さなかった。
目だけクローズアップすればそこそこ可愛げがないともいえない。
黒目が大きくて多少愛嬌がある。
しかし、顔の真ん中で正面を向いている低めの鼻と、その下の薄い唇がセットになると、どうしても爬虫類を思い出さざるを得ない。
トカゲや蛇が、今ペットで大人気らしい。
人なつこくて、やさしい性格がよく合ってる。
「これから書き上げる報告書がいったい何枚あるか、お前にも想像がつくだろう。まったくこのクソ忙しい時に」
黒目がちの瞳で、じろっと睨んだ。
男の私でも吸い込まれそうなほど、魅惑的だ。
「高瀬早希という女、知ってるな」
「だから連れて来られたんだろう?」
「あんたからは詳しく聞くことになる。少しでも早く帰りたかったら、余計なことを言わずに正直に喋るんだな」
私は黙ってつぶらな瞳を見返した。
「どういう関係だ?」
「飲んで帰る途中に偶然知り合った。ちんぴらに絡まれているところを助けてもらった上に、家まで送りとどけてもらった。しばらく泊めて欲しいというので、恩返しのつもりで三泊させた」
「やったのか」
「意味がわからない」
室戸の口元がゆがんだ。
「まあ、いずれわかる。久保裕也、知ってるな?」
「知らない」
「高瀬早希の男だ。高瀬が美人局をしていたことは?」
「知らない」
室戸の口元が歪《ゆが》んだ。
「何も知らないんだな。母親の命日くらいは覚えているんだろうな」
母親は、私が刑事になって七年目の夏、胃ガンで死んだ。
仕事が忙しく、死に目には会えなかった。
室戸もそのことは知っている。
いまさら、ほじくられて痛むような傷でもない。
「余計なことを言ったのはそっちだろう」
室戸は、へっというような声をあげて、目を細めた。
「今日の午後はどこにいた?」
「自宅だ。少しばかり買い物にでかけたが、家でごろごろしていた」
「証明できるか?」
「ちょっと待ってくれ」
私は手のひらをあげて、制止のジェスチャーをした。
「これでも、昔のよしみで、権利だ弁護士だと騒がずに協力しているつもりだ。何があったのか。俺から何を聞きたいのか。そのくらい教えてくれないか」
室戸が両手の指を、机の上で組んで身を乗りだした。
赤ん坊をあやす母親くらいのところに室戸の顔があった。
煙草臭い息がかかった。
「いいだろう。じっくり話そうか。ま、こっちは元々|宿直《とまり》だ」
指先で弄《もてあそ》んでいたボールペンを脇へ置いた。
「今日十五時半頃、光宮市東仲町の建設中の陸橋下で男が倒れている、という通報が入った。五分後、救急隊が現着した時には息はあった。救急病院に搬送したが、直後に死亡確認。さっき終わった司法解剖の結果も、死因は脳|挫傷《ざしょう》。持っていた免許証から身元はすぐにわかった。石関市在住、久保裕也。二十五歳。今、ウラをとってるが檜山《ひやま》組の準構成員らしい」
「檜山組」
おうむ返しにつぶやいた。
あの若造の名が久保裕也だということ、檜山組の下っ端だったこと、それははじめて知ったので、多少は驚いた顔をしてやった。
室戸がどう思ったかはわからなかった。
「そう、あの檜山組だ。現場を見る限り、自殺、事故、他殺、どれもありうる。しかし目撃者が出た。久保裕也は突き落とされたんだ」
「現場は?」
「西宮下駅の西よりに建設中の陸橋だ。知ってるだろう?」
「いや」
首をふった。
室戸は信用していないはずだが、事務的に書類を読み上げた。
「今はまだ車は通れない。通行止めの障害物はあるが、歩行者は通している。北側が道路に繋がっていないので、ごく近くの住人がたまに通る程度だ。ほとんどは百メートルほど駅よりの踏切を渡る」
私は、およそわかったというようにうなずいた。
「目撃者というのは?」
「久保が落ちたのが、およそ十五時二十分。その十五分ほど前に若い男女が言い争いをしているのを目撃した人間がいる。ほとんどつかみ合いの喧嘩をしていたらしい。それ以上は言えない。女は高瀬早希だった可能性が高い。今、面の確認に行っている」
「それで、俺に何が聞きたい?」
探るように私の目を見た。
「もう一度、あの娘との関係を聞かせてもらおうか、もっと詳しく。但し、ウソはつくなよ」
嘘をつく気はなかった。
個人的には嫌いだが、この室戸という男は刑事としては有能な部類に入る。
下手な嘘は吐《つ》く前《さき》からばれる。
刑事と元刑事、どうつくろってみても、だまし合い、さぐり合いの泥仕合は見えている。
だから、面倒くさいのはやめようと思った。
私は、さっきより詳しく早希を拾った夜のいきさつを説明した。
私につきそったことで、結果的に身体を売るかもしれない事態を回避できた、と強調した。
どこまで信用したのか、顔つきからは判断できなかったが、私の証言というだけで、何も信じようとはしないことはわかっていた。
「それで、あんたは?」
室戸が無愛想に聞く。
「それで、とは?」
「とぼけるな。誘いは断らないタチだろう。昔から」
答える気もなかった。
「久保には、やったのがばれて脅されたんだろう」
私の返事に対して、室戸が目を好色そうに細めて言った。
「じゃあ、何が目的で女は泊まったんだ。若い女が、タダで酔っぱらいを介抱して家まで付き添ってくれるわけがないだろう。ふつう美人局ってのはヤル前に踏み込むもんだが、三泊したところをみると、そうとうがっちり食い込んだらしいな」
ヤニ臭い息がかかった。
「え? 金が払えねえんで久保に殴られたんじゃないのか。その顔みりゃわかる」
「さすが署で一番のキレ者だ」
「面白いこと言うじゃないか。あんまりなめた口はきかないほうがいい。だいたい……」
室戸がテーブルの上に身を乗り出した。
また、息が直接顔にかかる。
火災報知器に吹きかけたら誤作動を起こしかねない。
「よく恥ずかしくもなく、このあたりに住んでいられるな」
恥ずかしいさ。
だから住んでいる。
しかし、口には出さなかった。
「余計な話はやめようじゃないか。お互い忙しい身だ」
努めて冷静に言った。
そして先を続けた。
ときどき、室戸が口を挟むのにも答えながら、知る限りのことをほとんど脚色をせず、話した。
死んだ久保が襲ってきた時のことも今度は正直に言った。
小馬鹿にしたように見ていた室戸の目が、その話題の時は鈍く光った。
「するとこうなるわけだ。美人局の高瀬早希はなぜかその時だけ商売抜きで道端に立っていた。そしてたまたま通りかかった。すてきなおじ様が絡まれているところを救った。そのまま家まで付き添い、三日も泊まった。それなのに女の素性にはまったく気付かなかった」
黒目がちの瞳を私に向けたが、私はただ見つめかえした。
「美人局の女役は今日、四日ぶりに偶然かどうかわからんが、ヒモに会ってもめた。その直後、ヒモは陸橋から落ちて死んだ。そしてそいつは死ぬ直前にあんたをボコボコにぶん殴った」
「まあ、そういうことになる」
室戸が椅子に反り返ってのびをした。
何本目かの煙草に火をつけ、小さな取調室は靄がかかったような状態になった。
「尾木さんよ。久しぶりに会ったのに、こんなクソみたいなヤマが手土産かい。ずいぶんな仕打ちじゃねえか、相変わらず」
室戸は組んだまま目を閉じていた。
居眠りしているのか。
考え事をしているのか、判断できなかった。
腕時計を見ると十二時を少し回ったところだ。
私も、そろそろ眠くなってきた。
「少し、そとの空気が吸いたいんだがね。いや、それより、あらかた話は済んだだろう? 帰ってもいいかね」
室戸が目を開いた。
「だめだ」
交渉の余地はなさそうだった。
「こういうのはどうだ。高瀬は暴力を振るう上にピンハネがひどい久保に嫌気がさしていた。たまたま、女のためなら殺しもするお前のマエを知った。たらし込んでお前に久保を始末させようとした。一発じゃ不安なんで、三泊もした。お前はまんまとはまった。そして二人で協力して久保を殺した。どうだ、わかりやすいだろう」
得意げに室戸の鼻の穴がやや開いた。
「目撃者がいるんだろう。俺を見たのか」
「見られていないからって、いなかった証明にはならない」
たしかにそのとおりだ。
「自分がおかれている立場がわかったら、正直に全部話してもらおう。まずは、久保に殴られたあと、あんたは何をしていたか。それを誰が証明できるか。それを聞かせてくれ。その後、もういちど初めからだ。羨《うらや》ましい出会いのロマンスのところからな。俺が納得いくまで何度でも聞くぞ」
10
室戸に同じ話を繰り返しながら、三日目の出来事を思い出していた。
事件の前日のことだ。
私が出かけようと身支度をはじめたら、早希が途中まで一緒にいくと言い出した。
まあ、断る理由もないので一緒に歩くことにした。
近所の住人に見つかったら多少は気恥ずかしいかもしれないが、今さら何を、という気持ちが強かった。
五年も前に世間体を気にするような人生ではなくなっていた。
おそらく、道ですれ違う主婦も、むこうで顔をそむけるだろう。
たとえ、となりに若い女をつれていなくとも。
「ジュンペイくんだけ、ちょっと浮いてるよね」
「浮いてる?」
「そう、石渡さんはかなりクールだし、恭子さんもなんか近寄りがたい雰囲気あるし、なんだかんだいって、おっちゃんも酒のんでなければ、けっこう渋いし」
苦笑いが浮かんだが、どう答えていいかわからなかった。
「三人ともカゲのあるオトナって感じだけど、ジュンペイちゃんだけは、人畜無害な若モンって感じでしょ」
「人畜無害か」
ジュンペイのふくれっ面が目に浮かんだ。
確かに、他人からみたら少し変わった一団かもしれない。
目つきの悪い中年の親爺と、綺麗という言葉が似合う年齢不詳の男と、むっつり口もきかない三十半ばの女。
そして多少ごついが純情そうな顔をした青年と。
近所の住人、特に主婦の連中は聞きたくて知りたくて身もだえしていることだろう。
だから、だれにも言ったことはない。
私たち四人だけが、お互いの身の上を半分くらい知っている。
早希の表情を見ると、彼女の顔中に好奇心が表れていた。
ただ、昨夜釘をさされたこともあって、あまり根掘り葉掘り聞いてはいけないと思っているのだろう。
口のきき方はひどいが、素直なところもある。
それがなんだか嬉しい発見のようが気がして、一番あたりさわりのないジュンペイのことを話してやる気になった。
話題に困ったせいもある。
「あの家《うち》の最初の居候は、ジュンペイなんだよ」
「そうなの?」
「その時のいきさつを話してもいいけど、聞きたいか?」
「聞きたい、聞きたい」
そう言って早希は私の腕にすがりついた。
私はそれを、さりげなくふりほどいた。
もちろん、若い女の子にすがりつかれること自体はいやではない。
だが、どうしても腕を組むことはできなかった。
あの苦い夜を思い出すからだ。
私がはじめてジュンペイと会ったのは、ジングルベルまっさかりの季節。
凍てついた現場でだった。
十二月中旬、下水管交換工事の現場でこの青年とはじめて一緒になった。
事務所へは何かの手続きか給与を受け取る時くらいしか、顔をださない。
従って、現場で顔を合わせる人間以外に、仲間の顔を知らない。
会ってすぐ、ずいぶん生っ白《ちろ》い労働者だな、と思った。
じゃがいもみたいな顔つきをしているくせに、ブンガク青年を連想させる弱々しさがある。
『柳原』と書かれた名札をつけた作業服は、上と下のサイズが違うのではないかと思えるほど、似合っていなかった。
朝のミーティング後に近寄ってきて、ぺこりとお辞儀をした。
「よろしくお願いします。今日ご一緒する柳原です」
私も義理で聞いた。
「この仕事、長いのかい?」
「いえ、九月からです」
「へえ、あまり変わらないね。俺は八月」
「そうですか」
「なんだか、顔色悪いけど大丈夫か? 今日は冷え込みがきつそうだぞ」
身体を心配してやっているのではない。
仕事に支障があると、こっちにとばっちりがくるからだ。
「大丈夫です」
青年は、「気を付け」でもするような姿勢で答えた。
自分で大丈夫と言う人間に、それ以上世話をやく習慣はすでに無くしていた。
さっそく、現場の上手《かみて》と下手《しもて》に分かれて整理をはじめた。
もともと双方通行が難しいような裏道なので、交代要員はいない。
メシの時間と、時々一服いれるほかは立ちっぱなしだ。
案の定、早くも十時ごろには柳原の調子が悪くなったのが、すぐにわかった。
フラフラしはじめたと思ったら、しゃがみ込んでしまった。
幸い交通量が少なかったので、持ち場を放りだして駆け寄った。
道路にぺたんと座り込んでいる柳原の脇に腰をおろした。
「どうした。大丈夫か?」
かすかにうなずいたような気もしたが、両膝の間に頭《こうべ》を垂れている。
「こんな所に座ってないで、あっちの風のあたらないところで休めよ」
そう言って、立たせようと彼の腕をとった。
一瞬、振りほどくだろうか、と思った。
若者は、こういう慈悲を嫌う特性がある。
しかし、彼は掴まれるまま、よたよたと歩いて、道路ぎわの塀の窪みに座り込んだ。
尻の下にマットを敷いてやった。
「すみません」
若者はそれだけを、なんとか口から吐いた。
「幸い、車もあまり通らないようだから、休んでいていいぞ。俺ひとりで大丈夫だろう」
さっきから手持ち無沙汰なほど車の通りは少ない。
交替で一服するか、と声を掛けようかと思っていた矢先のことだった。
柳原青年は垂れた頭をさらに、ぺこりと下げたようだった。
私は、工事作業の責任者に事情を説明して、その日一日をなんとか一人でやりくりする段取りをつけた。
「おい。もう、帰れよ。あとは大丈夫だから」
青年にそう言ってやったが、なかなか帰ろうとしない。
ふと、その理由がわかった気がした。
「あ、そうか。日当が気になるんだな。大丈夫だ、大丈夫。最後までいたことにしとくよ。現場の連中だって告げ口はしないだろう」
「ありがとうございます」
それでもなかなか立とうとしない。
「どうした。全然立てないのか? 救急車呼ぶか?」
「それが……」
ようやく、本音を聞き出すことができた。
彼は腹が減って動けないのだった。
私は、あきれて、笑って、感動した。
腹が減って立てない、などという経験ははるか昔の思い出だ。
なんとなく、青年が気に入った。
「弁当食うか?」
「はい」
小さな声で答える。
「じゃあ、ちょっと二人分、いや三人分だ。買ってきてくれ。それと温かい飲み物だ。どうだ、行けるか?」
彼はうなずいて立ち上がり、私から金をうけとると、コンビニに歩いていった。
「なんだ、歩けるじゃないか」
再びあきれたが、まあ人間の心理とはそんなものかもしれない。
結局、柳原は弁当二つ半を腹に収めて、動けるようになったため、午後は仕事に復帰した。
その夜、「志むら」で一緒に大笑いし、翌週には月三万二千円のアパートを出て私の家の居候第一号になった。
彼は浮いた家賃分で、やや人並みのメシが食えるようになった。
私たちの仕事は、会社が請け負った現場へ行けと指示されるだけである。
彼とはその後、二、三度現場がいっしょになった。
お世辞にも二枚目とはいえない。
しかしごついが木訥《ぼくとつ》で、ひとの好さそうな顔をしている。
苦労をしらずに育ったお坊ちゃんのような口をきく。
そして、彼の目を見て話す人間は一瞬どきりとする。
今時、青く澄んだ目をした青年だ。
柳原ジュンペイは十九歳。
昨年の春、ここの県名を冠した国立大学の法学部に入学した。
実家が東京にあるのに、わざわざこんな地方の大学に入学した変わり種だ。
理由は、民事訴訟法の権威が専任教授でいるからだった、とちらと聞いたことがある。
しかし、ひと月後には講義にでなくなったそうだ。
今時の若い連中にも五月病なんてものが残っているとは驚きだった。
あれは一種の燃え尽き症候群ともいうべきもので、今の青少年には燃え尽きるほどの情熱など、初めからそなわっていないと思っていた。
普通、そのままずるずると講義にでなくなるのだろうが、真面目な男だったので、とりあえず休学の手続きをとった。
休学の確認手続き用の書類が、東京の親元に届いた。
何かの間違いだと思った両親は、慌てて電話をしてきた。
そして、それが事実と知って狼狽《ろうばい》した。
説得し、怒り、最後は懇願したがジュンペイの意志は固かった。
私にいわせれば、意志の強さを発揮するならもう少し前か、もう少し後にすればよかった。
一番本人に損な時期だったのではないか。
とにかく、両親は最後に「仕送りの打ち切り」を通告してきたが、それでも彼は折れなかった。
両親はそのとおりにした。
そして彼は飯を食うのにも事欠くようになった。
それが彼から聞きだした、腹が減ってぶっ倒れるようになったいきさつだ。
何故、休学する気になったか。
その理由は聞いていない。
「へえ、おなか空いてたの?」
早希が感心したように聞いた。
朝のラッシュの時間帯は過ぎたようで、電車のシートには二人ゆったりと並んで座ることができた。
「ああ。あの時の彼は、金の心配さえなければ弁当屋の二軒分くらいは食ってたかもしれないな」
早希が喉を見せて笑った。
「おっちゃんたち面白いね」
「そのおっちゃんっていうのはなんとかならないのかい」
「どうして?」
「言われるたび、へたへたっと力が抜けていく。それにジュンペイの奴が、真似してよぶんだ」
「だってえ」
早希が眉間《みけん》にしわを寄せて、考えをまとめようとしているようだった。
「尾木遼平さんでしょ。リョウちゃんて柄じゃないし、オギなんて愛想ないわよね」
「別に愛想は必要ないと思うが」
「だから、頭文字で『おっちゃん』。いいでしょ」
そういうなり大きなくしゃみをした。
「しまった。おっちゃんティッシュ持ってない?」
ますます力が抜けていくような気もしたが、まあそんなことはどうでもいい。
私は五月の陽光を浴びてきらきら光る木々をみつめていた。
「それで、その時高瀬はどこへ行くと言っていた?」
早希と電車で一緒に出かけたことを話すと、室戸がさっそく突っ込んできた。
実はこの時、早希が、マンションの場所を教えたのだった。
『このティッシュの広告の裏に書いとくね。家、追い出されたら、泊まりに来てもいいよ』
『わかった』
そんな会話のことは、室戸には黙っていた。
聞かれたことだけに答えた。
「まだ、マンションには戻りたくないから、友達に金を借りると言っていた」
「その友人の名は?」
「聞いてない」
「男か女か?」
「女だと思う」
「何故?」
そういえば、はっきり聞いたわけではなかった。
「『あの子』という言い方をしていたような気がする」
「年下の男かもしれんぞ。美人局の金でツバメでも抱えてるのかもしれん」
「かもしれん」
「そして、その夜もお前のところに泊まったんだな」
「泊まった」
「次の日、つまり今日……じゃねえ、日付が変わったから昨日だ。四日目はどうすると言っていた?」
「何も」
「何も?」
「俺は深夜からの勤務だったので、仮眠をとるため夜は早寝した。飯の時、同居人と何か話してたようだが、詳しくは知らない。そして俺は夜中に出かけた」
「それが高瀬に会った最後か?」
「そうなる」
どうせ他の住人たちのウラもとっているのだろうから、できるかぎり正直に答えた。
仕入れた情報と矛盾しないのか、室戸はあまり突っ込んでこなかった。
思ったより、すんなりいきさつの説明が終了した。
(意外に早く帰れるかもしれない)
ふと、思った。
間違いだった。
11
さらに同じ話をもう一度繰り返した。
さすがにうんざりしてきた。
自分も昔、こんなことをしていたのだ。
いかに容疑者相手とはいえ、罪なことをしたのものだ。
話題を変えてみたくなった。
「本部は立つのか? 指揮は誰だ?」
未解決の殺人事件となれば、合同捜査本部が設置される可能性が高い。
室戸がまともにしゃべるとは思っていなかったが、意外にすんなりと答えが返ってきた。
「余計なお世話だが、教えてやる。帳場はたたない。今、例の一家三人放火殺人事件で手一杯だ。こんな見え見えの事件《ヤマ》の看板書いている暇もない。残念だったな」
つまりは、県警の顔馴染み連中とは顔を合わせずに済む。
心のどこかでほっとした。
つぎに気になるのは早希のことだ。
「彼女はどうなんだ。何か言ってるのか」
「調子にのるんじゃねえ。そんなこと教えられるかよ。ムショで酒が切れてボケたんじゃないのか」
その点については同じ意見なので、思わずうなずいてしまった。
室戸の私を見る目が、次第に嫌悪から軽蔑に変わってきたのを感じた。
(虫酸《むしず》が走るほど嫌いだが、もはや憎む価値もない)
彼の目つきがそう語っていた。
私のほうも、この部屋に閉じこめられることにうんざりしていた。
「いい加減に帰してくれ。俺がかんでる証拠でもあるのか。あれば出せ。なければ今すぐ帰らせれてもらう。そうだ当番弁護士を呼んでくれ」
少しだけ爆発してみせた。
どうせ下手に出てもいびられるのだ。
最後に小石のひとつも投げ返してやりたかった。
「任意で足を運んでいただいたんだ。当番弁護士の出る幕じゃない」
否定はしたものの、室戸はじっと私の顔を見つめたあと、「ちょっと待ってろ」とだけ言い残して部屋を出ていった。
少し前に、室戸と話している途中で刑事課長の須藤《すどう》が顔を出した。
私の顔をちらりと見て、汚らわしいものでも見たようにすぐに視線を室戸に振った。
ひとつうなずいてそのまま去った。
おそらく室戸は、私を帰していいものか須藤に相談にいったのだろう。
さすがにいびるのにも飽きたのかもしれない。
問題は、私を本当に容疑者の一人とみているかどうかだった。
本気で容疑者とにらんでいるなら、すんなり帰すとは思えない。
私ごときを拘束するなら、どんな手だって使える。
十分ほど待たされて、室戸が戻ってきた。
「帰っていいぞ。分かってると思うが、遠出はしないように。連絡なく居所が不明になった場合は、公開捜査対象にする」
「わかった」
「場合によったら、明日も任意で来てもらう。覚悟はしといてくれ」
「もう、今日だ」
腰をのばしながら立ち上がった。
「彼女は? 帰れるのか」
室戸は首を振った。
「だめだ」
「なぜ? 参考人でそんなにはひっぱれんだろう。フダの用意もできる前から無茶すると、あとで困るんじゃないか」
参考人はあくまでも任意の出頭だ。
何をしゃべろうが、いつ帰ろうが自由なはずだった――法律的には。
私は脅したつもりだったが、あまり効果はなかった。
室戸はあきれた表情をくずさずに言った。
「たしか昔は、お前さんもそんな人権屋の弁護士みたいなことは言ってなかったような気がするがな。まあそんなことはどうでもいい、もうすぐ任意じゃなくなる」
「なくなる?」
「こりゃ、ききしにまさる色ぼけオヤジだな」
おおげさに口をぽかんと開けて見せた。
「その、色ぼけの頭に少しは焼き付けておけねえのかよ。あのスケは美人局だ。そのヒモが死んだ。喧嘩も目撃された。どこに帰す馬鹿がいる。二週間前に殴られて届けをだしたカモ野郎を朝一番で呼びに行かせる。面通しがすんだら、フダとって終わりだ。ヒモ殺しも吐かせてやる。こんど娑婆に出てくるときは、年がいきすぎて美人局にゃ無理だろう」
一気に喋り、室戸はそっくりかえっていた身体を前かがみにして、楽しくてしょうがないという顔つきをした。
私も、思わずつられて笑いそうになるところだった。
「女が吐いたら、お前もすぐに引っ張ってやる」
笑顔が消えていた。
「わかった、弁護士をつれてくる」
捨てぜりふをひとつ残して部屋を出た。
室戸が何かいいかけたが、最初の一声が聞こえるころには、階段を駆け下りていた。
ロビーの公衆電話でタクシーを呼んだ。
時計の針は三時になろうとしている。
このままロビーで夜を明かす手もある。
今、タクシー代を払うと明日の飯代にも事欠くが、ここにはこれ以上一秒も居たくなかった。
タクシーの運転手になけなしの金を払い、そっと玄関のドアを開けた。
二階にあがる気力もなく、リビングに横になる。
無性に酒が飲みたかった。
最後に飲んだのが、遠い昔に思えた。
だが、これからしなければならないこと、会わなければならない人がいることを思うと、飲んでいる場合ではない。
せめて二時間か三時間寝ようと思ったが、目がさえて眠れなかった。
二階でかすかに人の動く気配がする。
石渡と村下恭子だ。
気になって起きていたにちがいないが、だからといって「どうだった?」と自分から聞きに来る連中でもない。
話すのは夜が明けてからでいいだろう。
一番興奮していたジュンペイは深い眠りに落ちているに違いない。
健全な勤労青年の健やかなる眠りだ。
とりとめもないことを考え、三十分ほど悶々として、結局寝つくための酒を少しばかり飲むことにした。
冷蔵庫に冷やしておいた、秘蔵のカップ酒を取り出す。
ディスカウントの店で一本三百八十円で買ったものだ。
二リットルパック入りのほうが単価は安くつくが、それだと二日ももたない。
カップ酒なら一度に一本限りと区切りがつけられる。
半透明のカバーを開け、こぼさないよう慎重にアルミのプルタブを引く。
透明な液体が常夜灯の黄色い光にゆれた。
そっと口にあてて飲み下す。
酒好きがごくりごくりと音をたてて飲む、というのは嘘だ。
ビールやチューハイならいざしらず、日本酒の冷やでは喉は鳴らない。
すーっと入っておしまいである。
特別美味いとも思わない。
酒に旨さを求める人間は本当の酒好きではないのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
一本を三秒ほどで一気に飲み干した。
しばし、そのままの姿勢でいる、胃の中の冷たい液体からぽっと炎が燃え上がる。
一気に顔まで熱くなる。
寝るなら今この瞬間しかない。
すっかり耐性の出来上がったこの身体では、この後はいくら飲んでも酔いつぶれることすらない無間地獄だ。
「はーっ」
大きなため息をひとつついて、そのまま浅い眠りに落ちた。
目が醒めると八時近かった。
どうにか寝過ごさずにすんだ。
ジュンペイは仕事だろう。
石渡と恭子は自分の部屋だろうか。
タンスの引き出しからA4サイズのファイルケースを持ってきて開ける。
この中に、今の自分に必要な最低限の書類がすべてがしまってある。
中を探って一枚の名刺を取り出した。
手に取って眺めてみたものの、やはり迷った。
再びあの人の好意に甘えることになるのか。
心苦しいがやむえを得ない。
他に頼む人物を知らない。
私の心は、本当は取調室で室戸にいたぶられている時から決まっていた。
家には電話がないし、携帯電話も持っていない。
しかたなく小銭を探して、近くの公衆電話まで歩いた。
名刺に記載されている事務所の方の番号を押した。
数回の呼び出し音でかちゃりと受話器の持ち上がる音がした。
「はい、花房《はなぶさ》です」
聞き覚えのある、花房本人の声だった。
事務所の名称を名乗らず、個人名で電話に出る癖は直っていなかった。
私はすぐには言葉が出ず、もう一度ゆっくり深呼吸して受話器に向かって言った、「尾木です。先日はお尋ねいただいてありがとうございました。その後は挨拶もしませんで」
「気になさることはありません。それより、変わりはありませんかな」
「おかげさまで。ところで先生……」
挨拶もそこそこに、本題に入った。
「実は、ご相談したいことがあります」
「相談。と言われますと、例の関係で?」
例の、とは離婚問題のことだろう。
相変わらず淡々とした話しぶりに、心が落ち着いて来るのが自分でもわかった。
同時に、いい年をしていつまでも親に甘えるような心苦しさも覚える。
「いえ違います。ちょっとやっかいな事に関わりまして、刑事事件なんですが……」
「なるほど。まあ、電話ではなんでしょう。こちらにおいでになりますか?」
「お忙しくはありませんか」
「忙しければ言わずに済むような用事なのですか?」
私は、すぐ伺いますと答えて電話を切った。
もう一件、かけるところがあった。
今の私が、唯一|諳《そら》んじている電話番号だった。
時計は八時半、だれか出社しているだろう。
二度の呼び出し音で受話器が持ち上がった。
「はい、北南警備保障です」
男性事務員の声が聞こえた。
「急で申し訳ないが休みたい」
と用件を伝えた。
受話器の向こうから了解の返事が戻る前に、身内に不幸があったことにして、ついでに給与の前倒し支払いを頼んだ。
誰かに相談しにいったのだろう。
しばらく保留音が流れたあと、事務員は「午後ならお支払いできます」と答えた。
ほっと息がもれた。
財布の中身は千円札が二枚にまで減っていた。
県の庁舎がならぶ一角へ、電車とバスでたどりついた。
私のかつての勤め先だった県警本部の入った合同庁舎もある。
そのとなりには地裁。
道路を挟んだ街区には、住宅や小さなオフィスに交じって弁護士事務所が散在している。
三階建ての老朽化したビルの二階が、目指す『花山《はなやま》法律事務所』だった。
古いが掃除のいきとどいた石の階段を昇りかけた時、ふいに半年前ここを訪れることになったいきさつを思い出した。
12
妻の、いや元妻の久美子が、弁護士を通して慰謝料の請求をしてきたのは、私が出所した後になってからだ。
それも、相手側の弁護士によれば本人は慰謝料を請求するつもりがないと言い張るのを、まわりがどうにか説得して同意させたらしい。
事実上は親をはじめとした親族が弁護士を雇い、久美子に追認させたという形だろう。
さっさと事務的に処理したいので、私の側も弁護士をたてて欲しいと要求された。
「なにもかも、全部譲るから」
と言ったのだが、そういう無茶は、あとで裁判沙汰になったとき覆《くつがえ》ることもあるそうだ。
一時的に自暴自棄になった心情を利用して、素人の本人相手に示談を交わすのは弁護士としてはあまり上手いやりかたではないようだった。
出所した直後の私は、あらゆることがどうでもよかった。
慰謝料をよこせと言われれば支払いもするし、弁護士をたてろと要求されれば、そうする気持ちになった。
自暴自棄な気持ちに加えて、刑務所内で培《つちか》われた従順さの余韻が残っていたのかもしれない。
とにかく、弁護士を頼もうとして私は困った。
雇う現金がない。
裁判の結果、どの程度の金額が手元に残るのかわからない。
たしかに、刑事時代の知り合いに弁護士も何人かはいた。
その中で、相談できそうな人物がいるかどうか思い浮かべてみた。
考えるまでもなく、ほとんどは私の名を聞いただけで特大の臨時休業の札を掛けそうな先生たちだ。
しかたなく、なるべく貧乏そうな事務所を見つけて飛び込むか、と決めた時、ひとりの弁護士の名を思い出した。
ひとりだけ、ただひとりだけ、(もしかしたら)と思い当たる人物だった。
花房|伊佐夫《いさお》という名の弁護士だけは、相談に乗ってくれるかもしれない。
そう思いつき、恥を忍んで訪ねた。
花房弁護士は久しぶりの再会を大げさなほど喜んだ。
しかし、その見事な白髪をした弁護士の笑顔がいつまで続くか、疑問だった。
私は、全部正直に話した。
手持ちの金はほとんどないこと。
したがって、唯一残った財産といえるのが、親から相続した中古の一戸建てで、これを処分するまで弁護料が払えないこと。
そして、示談あるいは裁判の結果によっては、売却金額のほとんどを持っていかれてしまうかもしれないこと。
それらの事情を、目を伏せてほとんど一気にはき出した。
但し、『貧乏事務所』の連想で思い出したことだけは黙っていた。
花房弁護士の返事がないので、顔を上げた。
目を閉じて考え込んでいるようだった。
どう言って断ろうかと考えているのだ。
かつて彼は、私に恩義があると会うたびに言ってはいたが、そんな言葉に甘えてのこのこやってきた私は、相も変わらず底なしのお人好しだ。
相手がそれ以上苦しまないようこちらから断ろうとしたとき、花房氏は目を開き、ゆっくりとしかし法廷で鍛えられたよく通る声で話し始めた。
花房弁護士はこう言った。
「私は仕事柄、勝ち負けを争う世界にいます。時には辛辣《しんらつ》な手で相手を挫《くじ》かなければなりません。しかしだからこそ、これまで個人的には他人の不幸を喜んだことはただの一度もないと断言できます。しかし、今日、いま、それを破ってしまいました。あなたが、そんなに困った状況に陥って、私を頼らざるを得なくなったことを、そしてやっと借りていたものの一部が返せる時が訪れたことを、喜んでしまいました。どうか許して下さい。こんな気持ちで何が弁護士でしょうか。……しかし、このあさましさを許していただけるのなら、もちろん謝礼などはいりません。誠心誠意、ことに当たらせていただきます。どうですか、よろしいでしょうか?」
彼の手が、頭を垂れて聞いている私の肩にそっと触れた瞬間、鼻の脇を何かが流れた。
昔、借金を抱えた両親の心中の巻き添えを食った少女がいた。
顔つきもわからないほど赤黒く膨れ上がった、三歳の女児の水死体を見てくやし泣きしたのは、私が新米警官だった二十四歳の時だ。
私が人前で涙を見せたのは、その日以来だった。
私は、彼のおかげでどうにか一人前に離婚することができた。
13
法律関係の本と、ぱんぱんに膨れたファイルノートが隙間なくつめこまれた本棚に囲まれ、花房弁護士はにこやかに座っていた。
「まもなく、的場《まとば》さんが見えたらお茶でも淹れてもらいましょう。それまで、お話をうかがいましょうか」
私はこれまでのいきさつを説明した。
こちらが話している間は、目を閉じてだまって聞いている。
それが、昔から変わらない癖だった。
よほどの矛盾点があるとき以外、口を挟まない。
あまりに反応が無いので、ひょっとして寝ているんじゃないかと疑う時もある。
夜道で早希を拾ういきさつでは、やはり恥ずかしい気持ちもあって、正直なところ寝ていて欲しいくらいだったが、残念ながらちゃんと聞いているのだった。
花房氏はあきれるでもなく、冷やかすでもなく、ただ黙って机の上で両手のひらを組み合わせている。
警官から自分だけ追い返されたあたりで、この事務所で雇っている的場という事務員が入ってきた。
「おはようございます」
事務員は、最初花房氏に、つぎに私に気付いて同じことばをかけてきた。
私も挨拶を返した。
この事務所は、花房と米山《よねやま》という二人の弁護士が共同で開いている。
それで名前も『花山法律事務所』だ。
今入ってきた的場という名の四十代とおぼしき女性の事務員はふたり共通のセクレタリーだ。
一旦話を区切り、的場嬢がいれてくれたお茶を含んだ。
「それで、なんとか彼女から事情を聞き出す方法がないかと思いまして」
花房氏がようやく机の上で組んでいた手のひらをほどき、目を開いた。
例の、多少|嗄《か》れてはきたがよく通る声で言った。
「あなたには説明するまでもないと思いますが、当番弁護士制度でさえ逮捕後の接見を前提としています。参考人として事情聴取されているだけで弁護士の立ち会いを希望しても、現実としてまず門前ばらいでしょう」
それはわかっていた。
自分自身二十年近くも刑事をやっていたのだ。
ヒモが不審死を遂げた美人局の事情聴取で、弁護士を立ち会わせるなどとは聞いたためしがない。
「しかし、逮捕となれば別です」
私の目をじっとみつめたまま言う。
「すぐに接見できるように手続きをとります」
それが望んでいた答えだった。
「先生に接見をしていただければ助かります。いや、任意の弁護までお願いしたいとは申しません。とりあえず、本人はどう申し立てているのか、やってないならどうにかして証明できるアリバイでもないのか、聞いていただけないでしょうか。――それから、金が入る見込みがつきました。女房に慰謝料払っても、弁護士費用は残ります」
「費用のことはいいんですが、それよりその女性には親兄弟や親戚はいないのでしょうか?」
一度目を開くと、今度はただじっとこちらを見据えている。
嘘は通じないと、相手が勝手に思いこんでしまう目の色だ。
「本人には何も聞いてませんが、頼れる親族が近くにいれば、ヒモから逃げるのに街に立ったりしないと思います」
――それに、自分たちのあんな疑似家族を『うらやましい』と何度も言っていたではないか。
「それであなたが、面倒をみようと?」
「ええ、おせっかいなのはわかっています」
照れ隠しに私は頭を掻いた。
はらりとフケが落ちたのであわててやめた。
「あなたは無実だとおもいますか?」
花房氏が、あいかわらず私の目を見つめたまま聞いた。
こちらの何かを探るのでもなく、責めるのでもなく、ただ純粋な質問として聞いているとしか感じない。
私は、どういえば心のうちを理解してもらえるか、考えながら話した。
「三泊させた身としては、無実であって欲しいとは思います。そして冤罪《えんざい》であるなら力になりたいと思います。……ほかに頼る人間がいないなら」
「なるほど」
弁護士の口元に笑みが浮かんだ。
自分の気持ちを理解して欲しいと思いながら、その一方で心の底まで見透かされてしまうことは恐れていた。
「失礼ですが、尾木さんの先月の収入はいかほどですか?」
弁護士の突然の質問に面食らった。
「は?」
「大丈夫です。これでも弁護士。守秘義務は自覚しています」
このひとは、冗談なのか真面目にいっているのか、私には判断できない。
「いや、別に弁護士さんの名誉にかけて守秘するほどの機密でもありませんが……たしか手取りで二十万円ちょっとでした」
「失礼だが、それほど裕福とはいえないでしょうな」
「たしかに」
「そのあなたが、何故に三人も居候を置いているんでしょうか? そして……その娘さんが四人目ですか」
先月、「近くを通りかかった」といって、花房氏が突然我が家を訪ねてきた。
「一度寄ってくれ」と前からしつこく言っていたので、義理を果たしてくれたのだろう。
ちょうど夕刻でもあり、ささやかな晩餐に招待した。
もっとも、料理は恭子の手作りだったし、酒はほとんど石渡氏のものだったが。
ともかく、我が家に三人も居候を置いていることは、その時から知られていた。
「いや、ただ寂しかったような、酔った気まぐれだったような……」
私は返答に困った。
その困った顔をみて、花房氏は今日はじめて笑った。
「わかりました。今はその理由は不詳ということにしておきましょう。今回の接見費用は、いつかその答えと引き替えということにします」
今は、金を支払う支払わないの問答をしていても時間の無駄だと思った。
私は素直にお願いすることにして、深々と頭を下げた。
花房氏は書類をぺらぺらめくりながら、言った。
「とにかく、いまは私でも手をうつのは難しい。警察に動きがあれば連絡します」
私はくれぐれもよろしくと頼んで事務所を後にした。
14
二台の車が、私の進路をふさぐように停まった。
花山法律事務所からの帰り道でのことだ。
たしかに、車を停めておける上に人通りは少ない。
私を襲うなら、もってこいの場所だった。
前が黒塗りのシーマ。
後ろが同色のベンツ。
尻をこちらに向けているので、リヤとサイドウィンドーしか見えないが、スモークガラスどころか、黒ペンキでも塗りたくったみたいに何も見えない。
ありがちな趣味だ。
つまりは、やりそうなことも想像がつく。
うんざりして脇道を探したが、そううまくはいかない。
いとしの我が家まで、もう二百メートルもなかった。
いっそ振り切って走ってみるか。
だがそれでは、わざわざ家まで連れて帰るようなものだ。
いや、そもそもここにいるということは、家を知っているということだ。
逃げてみても意味が無い。
抵抗することは同居人を巻き込む恐れがあると思わなければならない。
彼らには悟られぬよう、腹の中で観念した。
二台の車から、ばらばらっと四人の男が降りてきた。
皆、同じような格好をしている。
黒いスーツに黒いネクタイ。
ギャング映画のエキストラでなければ、葬式にでも行く途中だろう。
私は男たちに囲まれ、ベンツへ押しやられた。
理由はわからないが、彼らの目的は想像ついたし、彼らもそのことを察していた。
周りに人通りはない。
中途半端に抵抗してみても殴られる数が二つ三つ増えるだけだと、すぐにあきらめがついた。
ベンツの後ろのドアが開き、そのまま押し込められた。
映画のワンシーンのように、誰も一言も口をきかないほんの短い間のできごとだった。
車の中ではシートの真ん中に座らされた。
悪い席順ではない。
右側には、私を押し込めた身体の大きな男がそのまま座った。
筋肉質の太腿が触れる。
左奥で待っていたのは、六十過ぎに見える、やや小太りの男。
高価そうな生地の喪服を着ている。
これが、ボスだろう。
見覚えのあるような気がしたが、思い出したくもなかった。
そして前には運転手がひとり。
左側の男から身を離そうとして、右の大きな男のほうに寄ってしまった。
さっから触れている股のあたりが次第に熱を持って汗ばんできた。
あまり気色のいいものではなかった。
「忙しいところ申し訳ない。少し顔を貸してくれ」
左のボスらしき人物が、煙草か酒で焼いたようなしわがれ声で言うと、運転手に車を出すよう命じた。
運転手がパッシングをし、二台はほとんど同時に動き出した。
シーマが先導した。
中は見えないが、少なくともさっき私を取り囲んだ三人が乗っている。
総勢六人以上のお出ましというわけだ。
だれひとり口を聞かないまま、車は市街地を走り抜け、工業団地跡に出た。
全国どこの地方都市にもある、バブル時代の無謀な開発の残骸《ざんがい》だ。
更地に雑草が生えているのはましなほうで、建てかけで放り出されてた建築物は痛々しい。
やがて車は工場のような建物のある敷地に入っていった。
あきらかに堅気《かたぎ》ではない二人の男が立っている姿が、門を抜ける時にちらりと見えた。
通り抜けるベンツに向かい、きびきびとお辞儀をして道をあけた。
ここは少なくとも工場として稼働していた時期もあったようだ。
しかし、平日だというのに、人の気配がない。
そもそも機能しているようには見えない。
要するにつぶれたのだ。
車は、屋根がかまぼこの形をした倉庫のような建物に入っていった。
もとが何の機械だったのか見当もつかない残骸が点在していた。
床にはそれ以外にも金属製のパイプだのL字形の鋼材だのが散らばっている。
紳士的に話し合うのに最適な場所だ。
(さて)と思った。
中に六人、外に二人。
なかなか豪気だ。
腹の真ん中あたりが強張って、酸っぱいものがこみ上げそうになった。
最初に受けた印象より、手間がかかっている。
こういう連中が手間をかけた時はそれなりの元をとる。
手ぶら無駄足という文字は、かれらの辞書にはない。
元がとれそうもなければ、むりやりにでもむしりとる。
考えているうちに、ひびの入った肋骨が痛み出した。
車から引きずり出されるものと思っていたが、意外なことにその気配はなかった。
座ったまま、左側のボスらしき男が口を開いた。
「裕也は何故死んだ」
かすれかけたしわがれ声に、妙な抑揚をつけてゆっくり言う。
ぼんくらの私にも、そろそろ事情が把握できてきた。
左の人物の顔を、もういちどみつめて確信しした。
直感はあたっていたようだ。
鼻歌でも歌えば、気が紛れるだろうか。
「私は知らない」
一応は身構えるつもりでいたのだが、それよりも早く右側の大きな男の拳が鳩尾《みぞおち》に食いこんだ。
「うん……」
私は言葉をはくことも出来ず、頭が膝につくほど身体を折った。
大きな図体は見かけだけではなかった。
死んだ久保のパンチが五ナンバーなら、こいつのそれは三ナンバーのフルサイズだ。
しかも、このあと話ができるように、きちんと手加減している。
男が襟首を掴んで私を引き起こした。
「口のきき方に気をつけろ」
襟首をつかんだまま、体つきのわりには甘い声ですごむ。
そんな理由で人の腹を殴るんじゃない。
俺の腹だ。
私は、肋骨にひびが入っていることを告げて手加減してもらおうと一瞬本気で考えたが、あわてて思いどとまった。
ヤキがまわったな、尾木遼平。
そんなことを告白すれば、次からやつはそこを狙ってくる。
なにも自分から弱みを教えることはなかった。
「木村《きむら》、枝葉のことはいい。話が脇に逸《そ》れる」
「はい」
木村と呼ばれた馬鹿力の男は、襟首を掴んだ手の力をぬいた。
「尾木さん、だったな。俺を知ってるかね」
左の男が尋ねる。
私はうなずいた。
直接言葉を交わしたことはないが、顔と名前と職業は知っていた。
檜山景太郎《ひやまけいたろう》、檜山興業の社長であり、私が最後に知っている情報では九峰会の会長だった。
九峰会というのは少し変わった組織で、県下に九つある組の連合団体だ。
いわゆる広域暴力団の県内への進出を阻止するため、二十年ほど前に地場のやくざの親分衆が集まって結成した。
とりたてて大きな産業も歓楽街もない土地柄のせいか、いまのところ派手な抗争がおきた様子はない。
実際のとろこは、阻止とか対抗とかいう表現より、提携、妥協という言葉が実態に合っていると聞いたことがある。
会ができたことで、お互いの暴走を牽制する役目を果たすことになり、おかしな話だが警察としては歓迎らしい。
ウラはともかくその元締めたる会長は、二年に一度全組長の会合で推挙により選ばれる。
名誉職ではあるが、実際組どうしのいざこざがあった場合などには、抗争に発展する前に手打ちの仲介をしたりもする。
田舎のやくざは都会もんより冠婚葬祭にうるさいのかもしれない。
それなりに彼ら特有の人望があり、胆力のある人物でなければつとまらないだろう。
左隣にいる檜山景太郎は六年前、第四代の会長に選ばれたことは知っていた。
今でも会長の座にあるのだとしたら、三期目ということになる。
長期政権だ。
暴対班ではなかった私でも、その程度のことは知っている有名人だ。
気にかかるのは、会長に推挙される条件に、慈悲の心が入っているかどうかはなはだ疑問なことだ。
「まだ会長さんか」
「おかげさんでな」
ますます楽しいほうへ事態が転がっていく。
「知っているなら、話が早い。あんたも刑事だったなら、とぼけるのはお互いの時間の無駄なことはわかっているだろう?」
「何が聞きたい?」
努めて平然と聞いた。
「どうやら、居眠りでもしてたらしいな。ねぼけてやがる。俺はな、くどくど言うのも言われるのも嫌いだ」
檜山の猫撫で声が急に棘《とげ》を帯びた。
顎をわずかにしゃくって、木村に合図した。
木村の右手がのび、私の右脚、膝上十センチあたりを掴んだ。
親指と中指、人差し指で挟む。
それが万力のように筋肉をしめつけた。
ただ、それだけだった。
彼のような馬鹿でかい手のひらをもった人間でなければできない技だが、簡単で効果的な拷問だった。
中途半端なプライドや意地は肉体の苦痛のまえでは、ほとんど役立たずなことを思いださせられた。
私はいい年をして、声をあげた。
そして懇願した。
「やめて、くれ。たのむ」
檜山が合図したらしく、木村の指の力がぬけた。
汗が吹き出した。
私はしばらく、息を整える精一杯だった。
「これから通夜に行かなきゃならん。忙しいんだ。同じことは二度聞かんから、覚えておけ」
私は、早希を拾ってから昨日の夜までのことをべらべらと喋った。
多少省いたところもあるが、話した内容に嘘はなかった。
檜山はほとんど口を挟まずに聞いていた。
右膝の両脇の筋肉が、ずきずきと痛んだ。
「ウソをついてりゃすぐわかる」
檜山が私の目をじっとのぞき込んだ。
正直な感想では九つの組を束ねるほどの人物とは思えない。
以前に聞いたところでは、この檜山興業すなわち檜山組資金が最も潤沢《じゅんたく》らしい。
九峰会長の座についたことと、そして三期もその座を守っていることとは無関係ではないかもしれない。
「いいか、よく聞け。裕也はな、俺の甥っ子だ。妹の息子だ。妹はショックで寝込んじまって遺体の確認にも行けない状態だ。そして俺は妹思いだ。だれが殺ったにしろ、落とし前はつけなきゃならん」
陳腐な台詞だ、と思ったが、口にはださなかった。
別にすごんでみせているわけではなく、それが彼らの仕事の一部だからだ。
檜山は、さっきから無言の運転手を顎で指してから続けた。
「この新藤《しんどう》のところに預けて、ぶらぶらしてても食い扶持《ぶち》だけはやっとったのに、美人局なんぞしやがって」
「申し訳ありません」
運転席の男がはじめて口を開いた。
半身振り返って、お辞儀をした。
これも知った顔だった。
いままで、ただの運転手だと思っていたが、違った。
そういえば、さっき私を拉致する時もこいつだけ降りてこなかった。
新藤|拓郎《たくろう》、檜山組の幹部だ。
組長の乗る車は、やり手の幹部みずから運転か。
「みっともねえと思わねえか。甥っ子が美人局のヒモなんぞした上に、相手の女に殺されたんじゃ、いい笑いもんだ」
「申し訳ありません。何度もやめてくださいとお願いしたんですが」
少しの沈黙があった。
檜山が大きなため息をひとつついた。
気を静めているようにも見える。
やり取りを聞いていると、運転手役という屈辱は一種の罰なのかも知れない。
「まあ、処遇はそのうち考える」
檜山が、新藤に向かって言った。
新藤はもう一度深々とうなずいて、一瞬檜山に冷たい視線を走らせてから私を睨んだ。
檜山は気づいていないようだった。
「お前にも裕也さんを殺りたい理由はあった」
やっと私に話しかけたと思えば、なんということを言いだすのだ、こいつは。
檜山もうなずいている。
さっきの説明では裕也に殴られたことも正直に話した。
痛めつけながら小出しに話すほどのマゾヒストではない。
「しかし、俺は殺ってない。もし、疑わしかったら、警察が釈放しない」
「泳がせてるだけかもしれん」
「いくら泳がせても、やってないものはやってない」
「俺らには、証拠はいらん」
檜山が特別脅す風でもなく言った。
あたりまえのことなので、脅す材料だとは思っていないのかもしれない。
泣いて詫びれば許してくれるだろうか。
きっと無理だろう。
最悪の状況も覚悟した。
(やはり、下着は替えておけばよかった)
ふと、そんなことも考えた。
解剖にまわるだろうか。
こいつらの手際じゃ司法解剖だろう。
ケツの穴までのぞかれる。
風呂にも入っておけばよかったかもしれない。
いや、恥ずかしいのではない。
知った顔が検死や解剖に立ち会ったときに「この落ちぶれたざまを見ろ」と嘲笑する機会を与えてやるのが少し悔しかっただけだ。
それにしても、どうしてどいつもこいつも私を人殺しにしたがるのだ。
「まあいい。あの女がやったと思うか」
「え?」
「サツがとっ捕まえてる女だ」
雲行きが変わってきた。
檜山がシートに少し深めに座り直した。
初めて気付いたが、名前を知らないオーデコロンの香りが流れた。
「わからない。たぶんやってないと思う」
「なぜ、そう断言できる。他に心当たりでもあるか」
木村の右手が伸びてきた。
気の早い野郎だ。
私はそれをさりげなく払いのけながら言った。
「いや、確証はない。だが、そういうことをする女には見えなかった」
「元刑事のカンか?」
鼻をフンと鳴らした。
笑ったらしかった。
私は、それには答えなかった。
檜山は、先を続けた。
「しかし、警察は目撃者を押さえている。二人が取っ組み合いの喧嘩をしてたそうだ。聞いてるか?」
「詳しくは知らない。しかし、喧嘩してたからって殺したとは限らない」
今日最も意外な出来事は起きた。
私の言葉に檜山がうなずいている。
灰皿に置いてあった吸いさしの葉巻をくわえた。
すかさず木村が火を差し出した。
煙草のように簡単に火はつかない。
檜山もつけてもらうつもりはないらしく、ライターを受け取って、自分の口元へ運んだ。
二度、煙を吐き出して、続きをしゃべり始めた。
「何故そこまでかばう。あの女とやって情が湧いたか?」
「やってない」
「それとも……」
そう言って私を睨んだ目にはさすがにすごみがあった。
「やっぱりお前が殺ったか」
「俺は本当に殺ってない」
突然、檜山が笑い出した。
私も肋骨の痛みを忘れて、つられて笑いそうになるほどだった。
木村の拳が再び鳩尾に埋まった。
直前に檜山が合図するのを感じた。
予測がついたので、身をひねることもできたが、それでは傷ついた肋骨を殴られる可能性がある。
完全に折れてしまっては、今以上に動きが取れなくなる。
私は泣きたい思いで、そのまま拳を受け入れた。
「いいか、よく聞け」
再び二つに身を折った私の背中を、檜山がぽんぽんと叩いた。
「その高瀬とかいう女がやってないんだとしたら、犯人を捜せ。お前を雇おう。日給三万。今の仕事より少ないということはないだろう。刑事の経験も活かせるしな」
「その前に、この木偶《でく》の坊にも殴らないように言ってくれ」
どうにか声をしぼりだした。
「それはお前さんの返事次第だ」
「俺に何をさせたい? いくら殴られても、知らんものは知らん」
「まあ、聞け。実は俺も噂を聞いた。裕也を突き落としたのはあの高瀬とかいう女じゃないかもしれん、という噂だ。本当か嘘かわからん。もし本当だとしたら、どこかに犯人野郎がいるはずだ。そいつをさっさと見つけ出せ。もうすぐ会長の推挙がある。手際よく白黒つけないと面子《めんつ》が立たん。大塚のところの三代目が最近のしてきてる。今度の推挙は厳しいんだ」
そんなヤクザの選挙など知ったことか。
「俺には仕事が……」
「知ってる。命と天秤にかけるほどの仕事でもないだろう。いいか。俺としては死んでもらうのはべつにお前でもかまわん。新藤なぞ、『はやいとこ埋めましょう』ってうるさいくらいだ。だが、お前を始末した後で、本物の犯人が出てきたんじゃ恥の上塗りもいいとこだ。つまりお前は、やる、やらない、は選べない。選べるのは、うまくやってもう少し長生きするか、下手うって霧駒山に寂しく眠るか、だ」
ふと背中においた手が止まった。
「あそこにゃ、コオロギがいっぱいいるぞ。夜になるとうるさいくらいだ。おい、コオロギってのは、人の肉を喰うのか?」
「はい、いや自分は……」
急に話をふられた木偶の坊が、しどろもどろに答えた。
私は、うんざりした表情を浮かべないように必死だった。
この馬鹿どものやりとりにも笑う余裕はなかった。
「捜す気になったか?」
「ほかにホシがいるなら、警察が見つけるだろう」
いつの間にか、自分の声がかすれていることに気づいた。
「警察より先に見つけろ」
「見つけてどうする?」
「お前の知ったことじゃねえ」
「そんなことは無理だ」
「無理じゃねえ」
「いや。俺が犯人を見つけることが、だ」
檜山は、まだ前かがみになっている私の髪の毛を掴んで引き起こした。
「いいか、今夜が通夜で、明日が告別式だ。来週初七日の法要をやるんだが、それまでに白黒つけろ。警察より先にだ」
まったく聞く耳を持っていなかった。
私はなんとか、この頭の固い暴君に理解させようと試みた。
命がけの言い訳だった。
「機動力が違う。ひとりでやれることは限られている。……それに、新しい目撃者がでるかもしれない。そうなれば、あっさりカタがつく」
「捕まったときは仕方がねえ、出てくるまで十年だろうと待って、ぶっ殺す。ただし、手ぶらじゃすまんから、お前のあそこか耳でも殺《そ》いで妹への土産にする」
「誰もみつからなかったら?」
「そんときは仕方ない。お前に埋まってもらう。その早希とかいう女がでてきたら、隣に埋めてやる」
無茶苦茶だった。
理屈だの道理だの通じる相手ではなかったが、それにしてもひどい。
説得はあきらめるほかないようだった。
「教えてくれ。何故、俺なんだ?」
「有野川《ありのがわ》事件」
檜山が煙と一緒に吐きだした。
そういうことか。
「恨みか」
短く聞いた。
「いや、あれは済んだことだ。だが、あの事件を一人で解決したのなら、こんな事件は簡単だろう。え?」
私の顔に煙を吹きかけた。
私が口を開きかけた時、木村の筋肉が強張るのを感じた。
私は言葉を呑《の》み込んだ。
(このことを覚えていろよ)と思った。
きっとこの分だけは借りを返す。
檜山が続けた。
「まだ、質問があるか?」
私は、返事のかわりにため息をついた。
檜山は了解と受け取ったようだ。
もう、どっちでも良かった。
「以後の連絡は新藤に入れろ。一日一度電話で報告するんだ」
新藤が振り返り、かすかに微笑んだ。
檜山の饒舌さに比べてやけに口数すくない。
目元に笑みを浮かべていた。
ボスの無茶ぶりを冷笑しているようでもあり、ひょっとすると私に親愛感を示しているようでもあった。
新藤が私に、名刺くらいの大きさのカードを手渡して言った。
「毎日夕方六時にここへ電話してくれ」
私は瞬間|躊躇《ちゅうちょ》したが、結局は受け取った。
これ以上腹を殴られては流動食しか食えなくなる。
もっとも、今もそう変わりはないのだが。
「携帯はあるか?」
「ない」
「すっかり、使えないおっさんだな。まあ、せいぜい交通事故に巻き込まれたり、電話ボックスが見つからなかったりしないよう気をつけろ。会長も俺も言い訳がきらいだからな」
檜山のだみ声に比べれば、声優のようによく通る声だった。
ロックアイスほどの温かみもない澄んだ声だった。
帰りは送ってくれなかった。
もっとも、誘われても断っただろうが。
鳩尾のあたりに違和感を覚えながら、やや前かがみになって歩いた。
今はまだ、私にも利用価値がある。
使い物にならなくなっては意味がないので、あれでも手加減するよう言われていたのだろう。
おかげで、食欲が落ちた程度のダメージで済んだ。
一食分が浮いた。
立ち止まり、電柱を見上げる。
昔から、考え事をするときは意味のないものをじっと見つめる癖があった。
結婚相談所かなにかの看板をながめながら、自分に与えられた選択肢を考えてみた。
ひとつ、檜山の登場を無視する。
今までがそうだったように、自分のしたいと思うことをして生きてゆく。但し、極めて短い期限つきになる可能性が高い。
ふたつ、警察に泣きつく。
きっと室戸がさげすんだ笑みを浮かべて登場し、パトロールの順路に私の家を加えるくらいのことはしてくれるだろう。そして一週間後、私は五十キロも離れた霧駒山のコオロギの餌になっている。
みっつ、七日間だけ檜山のいいなりになる。
もともと、早希のために何かしてやろうとしていたところだ。自分に対する言い訳もたつ。先のことは七日後に考える。
警察を辞めてから、めっきり根性がなくなった。いや、もともとなかったのかもしれない。身分証を胸ポケットに入れている間、自分のことをタフガイだと錯覚していたのだろう。
自分は、せいぜい「志むら」の小汚いカウンターを拭く雑巾だと思えば、世の中に耐えられないことはぐっと少なくなる。
そう考えて決めた。
七日分の日当を安酒で飲み尽くせば、胸の痛みも流れてくれるかもしれない。
新藤から渡されたカードをポケットにしまって歩きはじめた。
15
痛む腹と肋骨をかばいながら家に帰った。
家に上がり込むなり、リビングの床に身体を投げ出した。
音を聞きつけてめずらしく恭子が降りてきた。
「どうしたんですか?」
私の身体の心配とはさらにめずらしい。
それほどひどい顔をしているということかもしれない。
「ちょっと、ころんだ」
そういって風呂場に転がり込んだ。
鏡に顔を映してみる。
昨日より痛みは引いたが、顔の痣はむしろ凄さを増している。
身体のあちこちに打撲傷があるし、腹全体が乾きかけた紙粘土みたいな気分だ。
春のそよ風にまどろむような穏やかな顔つきとは言えないかもしれない。
私は、例によって悪態をつきながら、どうにかシャワーを済ませた。
バスタオルで身体を拭きながら居間にもどると、恭子が持っていた。
「何か食べますか?」
そういえば昼食をとっていなかった。
食欲はない。
「いや、食い物は遠慮します。水を一杯もらいたい。末期《まつご》の水」
必死の思いで言ったのだが、恭子はくすりとも笑わなかった。
水道の水をコップに一杯汲んでテーブルの上に「とん」と置いた。
何か機嫌でも悪いのだろうか。
仕方なく、
「昨夜、警察は?」
とだけ聞いた。
「尾木さんが連れて行かれたあと、別な刑事がきていろいろ聞いていきました」
「高瀬嬢のことを?」
うなずいてから、
「それと尾木さんのこと」
まあ、そんなことだろう。
話題を変えてみた。
「あなたは、どうする?」
(何が?)
恭子は目だけで聞き返した。
「居場所、住み家、寝るところ」
ここを追い出されて皆の行く先がどうなるのかは、早希の逮捕問題と同じくらいの心配ごとだった。
「あてはありますか?」
恭子は半分だけ笑って、私が飲み終えたコップを見ていた。
恭子にはもう滑り止めの土塁がない。
大抵の人間は、崖っぷちまですべっていっても、これだけは超えられないという障壁があって、そこで踏みとどまる。
崖の向こう側へはいかない。
ところが、恭子にはその土塁がない。
低いのではなくて、おそらく無い。
私はそれ以上、重ねて聞くことができなかった。
話題を変えることにした。
「石渡氏は?」
「打ち合わせに行くと言って、出て行きました」
「そう」
ごろりと横になった。
気付け薬でも飲《や》るかと思ううち、眠りに落ちた。
枕ほどもある消しゴムを、いつまでも食い続ける夢を見た。
夕食の雰囲気は、昨夜以上に沈んでいた。
飯が不味かったのかもしれない。
恭子は昼以来、部屋にこもってしまった。
私の口から早希に関する朗報が聞けなかったのが不満なのかも知れない。
ときおり料理の腕をふるう石渡も帰ってくるなり部屋に直行して出てこない。
なんだか反抗期の子供をかかえた父親のような気分だった。
まもなく、大飯喰らいのジュンペイが帰ってくる。
仕方なく私は、歩いて五分ほどの一番近いスーパーまで買い物にでかけた。
生姜焼き用の肉と、出来合いのポテトサラダを買った。
スーパーの名前が大きく入ったポリ袋をさげて歩きながら、思った。
(このちぐはぐさは何だ?)
道端で出会って三泊させた若い女は実は美人局で、私を殴ったそのヒモが死んだ。
女は今のところ最有力候補の容疑者になっていて、泊めた自分も呼び出された。
そして死んだヒモの野郎は県下指折りの会長の甥っ子で、会長からは『警察より先に犯人を見つけないとあそこを切り取ってコオロギに喰わせる』などと脅かされている。
さらに、覚悟していたこととはいえ、長年住んだ家をあと三週間ほどで出ていかなければならない。
人生の不都合を一堂に集めて膠《にかわ》で固めたような今日のこの日に、何が哀しくて生姜焼きを作らなければならないのか。
しかも、レトルトごはんを買い忘れたので、米を磨いで炊かなければならない。
いやいや炊いた飯は不味いようで、皆の食の進みが悪かった。
石渡など肉をふたかけら口に入れただけで、「ごちそうさま」と去った。
だが、この沈んだ空気の本当の理由をみんな知っていた。
早希だ。
あの、訳がわからない、好奇心と人なつこさの固まりのようなうるさい女がいなくなったので、この火が消えたような暗さが漂っている。
みんな知っていたが、口にはださなかった。
ジュンペイだけは、淀みなく飯と肉を口へと運んでいるが、いつものペースには程遠かった。
「そういえば、……」
何かを切り出そうとしたとき、電報が届いた。
あまりない経験なので、何事かと緊張した。
花房弁護士からだった。
『タイホ。アスセッケンス。デンワコウ』
ジュンペイに借りたテレホンカードを持って、一番近い公衆電話へ向かった。
「花房です」
事務所にかけると、本人が出た。
「尾木です。電報を見ました」
花房氏は「ああ」と返事をしてから、
「さきほど、身柄はそのまま、逮捕状が執行されました。明日の十時に接見の予約をとりました。同行しますか」
「よく、そんなに早く接見の許可がでましたね」
「まあ、伊達にそこらじゅうの皺《しわ》をふやしたわけでもないですよ」
あはは、と気持ちよさそうに笑った。
「ぜひ、一緒に行かせてください。といっても、署の外で待ちますが」
「わかりました。九時に事務所へ来てください」
礼を言って電話を切った。
リビングにいた恭子とジュンペイに早希が逮捕されたことを簡単に説明した。
異なった反応が返ってきた。
ジュンペイの表情にはわずかに怒りが浮いていた。
早希の職業については説明してある。
正義感の強い青年だ。
早希に対して好意を寄せはじめていただけに、裏切られた気持ちもあるだろう。
だが、何も発言しなかった。
思い切りほおばった口の端から、生姜焼きの肉がはみだしていた。
恭子はほとんど表情を変えないが、目には悲しみが浮いていた。
注意深く見なければ気付かない程度の変化だったが、早希が来て、少しほどけ始めた恭子の心が、まだ何物かの蔭に潜んでしまったように思えた。
「みんな、酒でも飲んで忘れよう」とは言い出さなかった。
16
私が恭子と再会したのは、三ヵ月ほど前の仕事中のことだった。
その日、私は境南市のきちんと歩道のある比較的広い国道で、交通整理をしていた。
交通量は多いが、こういう道路のほうが整理するのは楽だ。
この仕事をやっていて気づいたのが、幹線道路を運転する時と裏道を抜けるときではドライバーの心理に明らかに違いがある。
幹線道路を走るときの運転手は比較的協力的というか、指示に従う傾向にある。
しかし、いわゆる裏道のような細い道路では、制止を振り切って通り抜ける強引な車も多い。
デパートの前では立ち小便はできないが、さびれたタバコ屋の前でならできる、という理屈だろうか。
まあ、今日は型通りに流して、給料をいただいて帰るか。
そんな気持ちでながめると、雨があがってまもない灰色の空でさえ、なんとなく明るく見えた。
私が停止棒を振っている車線の反対側には、見覚えのある大型スーパーがあった。
昔、仕事で関わったことを懐かしく想い出す。
この境南市はわりと受け持つことが多かった。
県有数の商業地域を抱える光宮市から、ベッドタウンへと変わっていく地帯で、本来の住人と一部の時間帯だけの住人が入り混じる複雑な地域事情から犯罪も多かった。
辛い思い出もあるが、懐かしい時代でもあった。
私は、ぼんやりと昔のことを想い出しながら、いつもよりノンビリした気分で現場に立っていた。
時々雲間からのぞいた青空を見上げる。
ほんの少し、幸福感がわき上がりそうになったその時、向かいの歩道でなにか揉め事が起きていることに気づいた。
昔の習性で、すぐにピンときた。
万引きした女性とそれを捕まえた警備員がもめているのだ。
というより、ほとんど抵抗しない女性の腕を警備員がつかんで引きずりもどそうとしている。
なんとなく、気にかかった。
なりゆきをみているうちに、女の顔に見覚えがあることがわかった。
村下恭子。
以前私が逮捕したことのある女だった。
私は彼女を認めると、仲間に「ちょっと頼む」と声をかけて、道路を横断した。
スーパーの通用口に向かって村下恭子を引きずっていく警備員に声をかけた。
「あの、ちょっとすみません」
振り向いた警備員が、私の格好をみて、怪訝な表情を浮かべた。
似たような制服だ。
(何か?)という表情を浮かべた。
「その人……何をしたんでしょうか」
半身だけでこちらを振り返っていたのが、完全に向き合う形になった。
「失礼ですが、どちらさまで?」
「尾木と申します。そこで……」
親指で、後ろの現場を肩越しに指した。
「交通整理をやってます」
警備員は指差した方角を『ちら』と見て、ますます怪訝な表情になった。
「この人の知り合いですか?」
「まあ、そんなところですが。……その方、何かしたのでしょうか?」
「万引きですよ。これで三度目だ」
警備員は私と恭子を交互に見ながら、吐き捨てるように言った。
私は恭子を見た。
無表情のまま、道路に視線を落としている。
抵抗する気配もないが、謝って許してもらうつもりもないらしい。
万引きしたというのはおそらく本当なのだろう。
「私が弁償します。今日のところは見逃してやっていただけないでしょうか?」
その時、納品のトラックが軽くクラクションを鳴らしてすり抜けて行った。
警備員は大げさに身を避けながら言った。
「まあ、立ち話もなんですから、とにかく事務所へ来てください」
警備員は先ほどから一度も力を緩めないまま、恭子の腕を引いて通用口に向かって歩き出した。
私は、赤い停止棒をふっている仲間に向かい片手で拝んで、後を追った。
そこは三坪もないような狭い事務所だった。
かぎ裂きが目に付くレザー貼りのソファに三人で座った。
「とにかく、これで三度目ですから、りっぱな常習犯ですよ」
警備員は腕を組んでやや身を反らした。
私は、胸の名札を見た。
『ORD警備保障 田端勝幸』と読めた。
次に彼女が万引きしたというカレールウの箱に視線を移してから言った。
「もちろん代金は払います。私が身元引受人になりますから、どうか穏便に」
「そう言われてもねえ。こうしょっちゅうじゃあねえ。とにかく、規則ですから警察に連絡します」
「そこをなんとか、お願いします」
私は、彼との間にあるテーブルに額をすりつけるようにして頼んだ。
田端警備員が受話器に手をのばそうとした時、ドアをあけてワイシャツにネクタイ姿の男が入ってきた。
「あ、岩崎さん」
男の姿を認めるなり、田端が中腰になってお辞儀をした。
救われたような表情を浮かべていた。
私も岩崎と呼ばれた男を見た。
私よりやや若そうなその顔に見覚えがあった。
「どうしたんです?」
その岩崎が聞いた。
田端が、聞いてくれといわんばかりの調子で答えた。
「また、この女です。三度目ですから、警察に通報しようとしてるんですが、この人が割り込んできて、やめてくれってしつこいんです」
そう言って私を指さした。
「あなた……、確か警察の方。ええと、お名前は」
考えているので助け船をだしてやった。
「尾木です」
「そうで、尾木さん。尾木さんでしたよね。刑事さん」
仕方なくうなずいた。
「どうされました? その制服。警察のじゃなさそうですが」
「いや、警察は辞めました。今は、警備会社に勤めてます」
「そうですか。それで、どうしてここに?」
岩崎は改めて、恭子と私を交互に見比べた。
田端も意外な話の展開に意味が理解できないようだった。
私はごく簡単に説明した。
「この女性……村下さんというんですが、実は以前からの知り合いです。偶然もめている現場を見たもので、なんとか穏便にすませられないかとお願いしていたところです」
私は岩崎の口元あたりを見つめながら言った。
「お知り合いですか。うーん……」
岩崎もさきほどの田端のように腕組みをして、パイプ椅子の上で身を反らせた。
「さっき、田端さんが言っていたように、この方これで三度目なんですわ。それも見つけただけですから、余罪はもっとあるかもしれない。簡単に放免というわけには、ちょっと……」
「二度とさせません。私が責任をもって二度とさせませんから、どうかお願いします」
私は再び、テーブルに額をすりつけた。
岩崎があわてて声をかけた。
「尾木さん、尾木さん。顔をあげてください。困ります。……そうですか。そこまでおっしゃるのなら。わかりました。今度だけ、ほんとうに今度だけ、見逃します」
「え、そんなこと。いいんですか、岩崎さん」
田端があきらかに不服そうに抗議した。
「いや、いいんです。この尾木さんには世話になってるんですよ、昔。あれは、もう七年近く前になりますか。深夜に強盗が入って、金庫を壊され、警備員も重傷を負う事件が起きたんです。その犯人を捕まえてくれたのが、この尾木さんなんです」
そんな前のことを持ち出されても、私は恐縮するほかなかった。
「別に私が捕まえたわけではありません。警察は組織ですから」
「いや、あのとき私は本部の総務課にいて、事件の後始末にてんてこまいしていました。尾木さんがてきぱき指示しているのを拝見して、刑事さんというのは格好いいんだなと思いましたよ」
「やめてください」
穴があったら入りたいとはこのことだろう。
けなされたほうが気が楽だ。
「その私がこの店の店長をしているのも、何かの縁かもしれないですね」
そして田端のほうを向いて。
「どうでしょう。田端さん。今度だけは穏便にすませるわけにはいかないでしょうか、どうか、私からもお願いします」
岩崎にまで頭を下げられ、田端は困りはてていた。
「そんな。……私はただ会社から派遣されて来ただけですから、岩崎さんのほうで問題にされないのでしたら、私も異存はありません」
田端は、ぎこちないお辞儀をひとつして、部屋を出ていった。
「いいんですか? 揉めませんか」
田端が去った後、さすがに気になって岩崎の顔色を見た。
「大丈夫です。一応筋を通しただけで、クライアントはこちらですから」
岩崎がさばさばした口調で言った。
私は、さっきから一言も口をきかない恭子を促した。
「さあ、貴女からもお詫びを」
恭子はぺこりと頭を下げた。
それで終わりだった。
「お詫びはきちんと声にだして言わないと」
恭子をたしなめようとしたが、かたくなに押し黙ったままだった。
私がすまなさそうに岩崎をみやると、「いいんです」という目で私を見返した。
事情も多少知っているらしい。
この場ではこれ以上謝罪問題に触れないことにした。
「それじゃ、いきましょうか?」
恭子を促して立った。
「また、寄って下さい」
と社交辞令を言ってくれる岩崎にもう一度お辞儀をして退室した。
「ありがとうございました」
スーパーの敷地を一歩出たところで、恭子が私に深々と頭を下げた。
数日後、恭子は私の家に転がり込んだ。
三人目の居候である。
その日は、私とジュンペイの休日が合ったので、しぶる石渡氏を誘って、恭子の引っ越しを手伝いにアパートに向かった。
なぜなら、免許証を持っているのは石渡久典だけだったからだ。
「一番おんぼろでいいから」
とレンタカー屋で値切って、一トントラックを借りた。
恭子が今まで住んでいたアパートは、驚いたことにジュンペイのアパートより老朽化していた。
荷物は小さな箪笥とその中身であるわずかな着替え、布団、調理器具が少々、CDさえついていない小型のラジオ、中身の不明なスポーツバッグ。
それだけだった。
一トントラックの荷台に半分もなかった。
かりにも、三十数年生きてきた一人の女性の持ち物として、寂しいような気がした。
あの事件がなければ、もしかすると笑いの絶えない経済的にも恵まれた家庭にいたかもしれない。
そんなことを考えかけてやめた。
一線を越えた同情は禁物である。
「これで女手が出来た。少しは華やかになるかな」
そんな冗談でごまかした。
ジュンペイはうんうんとうなずいていたが、石渡はいわれのない力仕事を手伝わされて不愉快なようすだった。
その表情が面白くて、今度はほんとうに笑った。
私とジュンペイの笑い声につられて、恭子の頬がわずかにほころんだのを見たが、気のせいだったかもしれない。
恭子は料理が上手かった。
昔は包丁を何種類も持っていて、専門の研ぎ師に頼んでいたと、語ったことがある。
煮付けを作るのに、材料ごとに味付けを変えて別々に煮ているのに感心したら、「きっと奥様もしてらっしゃいましたよ。気付かなかったんですか」と言われた。
木村とかいう木偶の坊に殴られるよりきつい一発だった。
「鰹節のだし、とってもいいですか」
と聞くので、いいよ、と言ってから、はじめてそんな物がないことに気付いた。
料理に集中している間は、彼女の表情も生き生きとしている。
私たちは収入に応じた家計負担をしてきた。
そのおかげで、ジュンペイと私は共同生活の前より食生活が充実した。
恭子は現金収入が極端に少ないので、この負担を免除した。
その代わり、食事当番を頼むことにした。
労働での代償だ。
家事を全部頼むわけではない。
洗濯や掃除は見様見真似でなんとかなるが、料理は一朝一夕には上達しない。
恭子が食事当番になったその日から、私たちの食生活が変わった。
いままでは、三人顔が揃ってしまったときに鍋をやるくらいで、ほとんど晩飯は外食だった。
数日後には私もジュンペイも晩飯を楽しみに家に帰るようになった。
石渡も外へ食べにでなくなった。
早希の言いぐさではないが、この不思議な共同体で初めて「団欒」というものを知ったのかもしれない。
もともと自分がまいた種だが、かつての私に「妻」はいたが「団欒」はなかった。
思えば、別れた久美子には申し訳ないことをした、といまさらながら心のはしが疼《うず》いた。
17
花房氏を事務所に訪ね、光宮署へ同行することにした。
途中口数の少ない花房氏がなにごとか喋ったが、よく覚えていなかった。
九時を数分回った時には光宮署の前に到着した。
せめて一階ロビーくらいまでは一緒に入るつもりでいたのだが、署の建物が見え、入り口が近づくにつれ息苦しくなってきた。
暑いほどの陽気ではないのに、額には汗が浮いてきた。
「花房さん」
立ち止まって声をかけた。
「なにか?」
弁護士も歩みを止め、振り返った。
「申し訳ありませんが、やはり私は外で待たせてもらってよろしいでしょうか?」
花房氏は相変わらず無表情に私の目を見ていたが、わずかにうなずいて答えた。
「わかりました。……終わるまで待ちますか?」
「道を一本はさんだ西側に公園があります。そこで待たせて下さい」
「了解しました」
そういい残して、再び同じ歩調で署の中へ入っていった。
一時間ほど、酒を飲まずに時間をつぶした。
いろいろと考えることだけはあったので、退屈はしなかった。
やがて、花房氏が出てきた。
公園の一番隅にあるベンチに並んで座った。
少し離れた砂場で三人の母親が四人の子供を遊ばせている。
少し目を放した隙に、砂をかける、口にいれる、顔から転ぶ、ひっくり返る。
泣き声と母親の叱ったりなだめたりの声が絶えることがない。
見とれていると、花房氏がぽつりぽつりと話し始めた。
「中で随分待たされました。せめてもの嫌がらせでしょう。あまり早く任意弁護士がつくと、たまにあることです」
「それで?」
「ご存じだとは思いますが、話せる時間も内容も限られています。私が聞き出させたのは、ほんとのあらましです」
私は無言で続き待った。
「逮捕された直接の理由は恐喝と傷害の共犯です。しかしながら、久保裕也殺しの重要参考人でもあります」
「久保殺しについては何か?」
「本人は否定しています。久保裕也が死んだことに関わりはない、と言っています」
とりあえず、肩の荷がひとつ下りた。
「二人の言い争いが目撃されていることについては?」
「その事実は認めました。しかし、口論しただけで別れたそうです」
「証明する方法は?」
「喧嘩の現場に友人がいました。名前は二宮里奈《にのみやりな》。おそらく二十五歳。境南市のマンションに住んでいる」
「物証は?」
「まだのようです」
勇み足。
思ったまま口にした。
「やつら、少し急ぎすぎじゃあありませんか」
弁護士も同意した。
「美人局だけが目的なら立証できるかもしれませんが、久保裕也殺しについては、過去の例からみてもちょっと気が早いかもしれませんね」
美人局だけなら、初犯でもあり、改悛《かいしゅん》の情をみせれば情状酌量される。
殺人となると話は別だ。
「当日の行動は、こうなります。あなたの家を出たのが午前九時半すぎ、そのあと光宮のデパートでショッピング。パンツを一着買った。ちなみにパンツといっても下着ではない。いわゆるズボンですな」
眼鏡をずりあげて私を見る。
そのくらいは私でも知っている。
花房氏は手帳を読み上げた。
「買い物の途中で、携帯電話からその二宮という友人に連絡をとり、気晴らしに映画を見ることになった。そのまま映画館で待ち合わせ。昼食は館内のハンバーガーショップで調達。映画の題名は『ルビコンの風』今、公開中の歴史スペクタクルというやつです。十一時三十分の開演まで二十分ほど食べたり喋ったりして過ごした。二時間三十五分の大作映画で、終了は十四時五分。終了後、友人にマンションまでついてきてもらう。久保がいた場合の護衛役をしてもらうつもりだった。部屋へ荷物を取りに向かう途中、自宅近くの工事中の陸橋で、久保にばったり出会う。口論となり、友人の二宮が仲裁に入った。二宮のとりなしもあって、とりあえず、その場は収まり、翌日場所を変えて話し合うことになり別れた。それが十五時ちょうどごろのこと。部屋でコーヒーを淹れ、一時間ほど雑談。二宮は用事があると言って一人で帰った。十七時十分ごろ、支度を終えて部屋を出ようとしていたところ。刑事の訪問を受けた。本人確認の上同行を求められ、そのまま署へ。ま、そんなところです」
「なぜそんなに早く早希との関係が、いや、住んでる場所までわかったんでしょう」
「被害者のポケットに高瀬さんの免許証があったそうです。『取られて、返してもらえなかった』と言っていました。逃がさないための『かた』に大切なものを押さえていたんでしょう」
「久保が落ちた時刻は?」
「落ちた直後に発見されたと思われますが、通報の記録では十五時十六分」
「その場にいた、と思われても仕方ない」
「まあ、そういうことでしょうか」
「すると、その二宮という友人の証言があれば、嫌疑は晴れるということですか?」
「まあ、純白ではないですが、私の白髪くらいでしょうか」
あまりに多くのケースを見てきたので、彼は断定的な言い方は決してしない。
「それで、その友人は?」
「それが……」
花房の顔がわずかに曇った。
「その日から部屋に戻っていないらしい」
「戻っていない?」
思わずおうむ返しに聞いた。
「警察でも捜しているようですが、居所がわからないらしい」
偶然として片づけるにはタイミングがよすぎる。
「彼女のマンションをもう一度教えて下さい」
「彼女とは?」
「二宮という友人です」
花房は手帳の一部分を示した。
「番地はわからんですが、警察がまだ教えんので。高瀬さんの言うところによりますと……」
ノートの文字を指で追った。
「境南市蔵元町にある『レジデンス蔵元』というマンションの502号室だそうです」
境南市といえば光宮市に隣接している。
マンションであれば、地図を見ればすぐにわかるだろう。
早速本屋を探すことにした。
もちろん立ち読みで事は足りる。
「ありがとうございました。お礼には改めてうかがいます。私は、これからその友人を当たってみます」
急いで立ち去ろうとする私に、花房氏があわてて声をかけた。
「ちょっと待って下さい」
「は?」
「やっぱりあなたはせっかちだ。それに、まだ刑事の血が流れている」
笑っていた。
私もつられて苦笑いした。
「当たるのはおおいに結構ですが、さっきも言ったとおり昨夜から帰ってないみたいですよ」
「もう、帰っているかもしれません」
花房氏が、今日初めて声をあげて笑った。
「まあ、待って下さい。かりに、捕まえても、そうすんなりいかないかもしれません」
意味がわからない、というように弁護士の眉間のあたりを見つめ返した。
「詳しくは聞けませんが、どうもその友人というのも、堅気の娘さんじゃなさそうですね。ふらふらと遊び回っているのかもしれない。わりと懇意の刑事がもらしてくれました。『仮に話がとれても、アリバイにはならないですよ』と」
花房氏は、視線を砂場で遊ぶ男の子に向けて続けた。
「確かに今回のケースは別件の容疑があるとはいえ、警察の勇み足だった気がします。こう言ってはなんだが、あわてて別件逮捕したのは、あなたに参考人の身柄拘束問題をつつかれたので、尻を押された形になったんじゃないでしょうか」
私も男の子の握るスコップが、小さな砂山を築いていくのを見ていた。
弁護士が続けた。
「それから、これは本筋とは関係ありませんが、早希さんがあなたに謝って下さいと言っていました」
「謝る?」
「ええ、迷惑かけて申し訳ない、と」
顔が火照ってくるのが自分でもわかった。
もう、完全に捨てたつもりだった。
情熱を燃やすなどということとは一切縁を切ったつもりでいた。
恭子ほどではないしにしろ、人生などもうどうでもいいと思っていた。
自分のも他人のも。
居候を集めたのは、家が残っているあいだにもう一度家族のマネがしたかっただけかもしれない。
家長の気分を味わって見たかったのかもしれない。
家族ごっこが終われば、酔ってそのまま道端のゴミバケツの脇で眠るような生活が待っているものと思っていた。
だが今、濡れたろうそくの芯のように萎《な》えた私の心が疼きはじめた。
早希を救い出そう、自分のやりかたで。
ただし、檜山に大切なものは抜かれないように気をつけながら。
18
いきさつはどうであれ、多少は意気込んで始めた捜査活動だった。
すぐに途方に暮れた。
意気込みがそのまま実をむすぶことは少ない。
二宮里奈のマンションを探し当てることは簡単だった。
しかし、本人に面会できなければ意味はない。
今さらながら、捜査権というものの力を認識した。
身分証一枚のあるなしで、多少くたびれたスーツを着てはいても国家警察を背負った捜査官と、みかけどおりのただのくたびれた酔いどれオヤジとの違いになる。
境南市というのはどちらかといえば文教都市で、所得の高い層が多い。
この蔵元町はその中でも高級住宅がならぶ。
目の前に建つ、八階建ての煉瓦調のマンションは二十代の普通に働く女性が買ったり借りたりできるようには見えなかった。
今、そのマンションがオートロックで見知らぬ人間を拒んでいる。
エントランスに入る方法が全くないわけでもない。
しかし入ってどうする。
今の私が一軒ずつチャイムを鳴らしながら「502号室に住んでいる若い女性の失踪先を知らないか」などと聞いてまわろうものなら、三十分もしないうちに警官がやってくる。
どうにか素早く立ち回ったとしても、防犯ビデオに映るのは避けられない。
早希の口から二宮里奈の名がでているとすれば、光宮署の刑事も当然しばらくの間チェックするだろう。
一発で面が割れる。
そのあとの騒動は想像したくもない。
同じで理由で管理人に話を聞くことも危険だった。
「そういえば、こんな男が……」
などと喋られたら同じくおしまいだ。
今の私は一般の人間よりはるかに行動が不自由だ。
それに加えて、ここの住人はいったいどういう生活をしているのか。
普通、この時刻に五分も立っていれば子連れの専業主婦が通るものだ。
ところが、皆で私のことを警戒しているかのごとく、人影が消えている。
仕方なく、映画館をあたることにした。
――だめだった。
写真もないのに、三日前にハンバーガーを食いながら映画をみたというだけの女性二人組を、店員が覚えているはずもなかった。
切符もぎりの女性は、幸い閑《ひま》そうで、私の説明を最後まで聞いてくれはしたが、「申し訳ありませんが」と首を横に振った。
さらに望み薄とは思ったが、早希がショッピングしたという駅ビルや映画のあとに入ったという喫茶店をあたったが、やはり空振りだった。
早くもお手上げである。
しかし、自分でも意外だったのだが、刑事生活で身に付いたすきっ腹のハイエナのようなあきらめの悪さだけは、抜けていなかった。
タクシーなら十分もかからないのだろうが、次に早希のマンションへ電車と徒歩でいくことにした。
駅は一駅、そこから歩きで十分。
番地を書いたメモをなくしたので、およその場所とマンション名をもとに地図で調べた。
最初に、問題の陸橋の下に寄った。
たしかにここを渡れば、近道かもしれない。
ほぼ完成しているように見える陸橋下の、久保裕也が落ちたと思しき場所の道路端に、小さな花屋が開けるほどの花束が献げてあった。
檜山の関係者なのだろう、ずいぶん豪華な花束もあった。
しかしあるのはそれだけで、昔こういう場所で何度か目にした愛情のこもったメッセージなどは一枚も見当たらない。
少しの暖かみも感じられない光景だ。
奴は奴で、寂しい一生だったのかもしれない。
あたりに目を配りながら、陸橋の昇り口に立ってみた。
車道には通行止めの障害物が置いてあるが、歩道では通行人を黙認していたらしい。
今はロープが張り渡され、『通行禁止』の札がかかっている。
私はロープを押し下げ、またいで越えた。
車道は二車線、その両側にガードレールに保護された歩道がある。
歩道の外側には、今は腰の高さ程度のコンクリートの障害が設けられているだけだ。
久保裕也はこれを越えて落ちた。
発作的に飛び降りるほど繊細な性格には見えなかった。
状況からして、誰かに突き落とされたのだろう。
背の高い久保にすれば、コンクリートは腰よりも低い。
勢いよくだれかに突き飛ばされたら、バランスを崩して転落することは充分ありうる。
いや、事実はどうでもいい。
問題なのは、警察もそう見ているし、檜山もそう考えていることだった。
突き落とされたのだとしたら、犯人がいなくてはならない。
半身を乗り出すようにして、下を見た。
ビルでいうと四階程度の高さだろうか。
久保は落ちる瞬間、自分を突き飛ばした人間を見ただろうか。
そんなことを考えながら、(いまこの瞬間後ろから押されたら、俺も同じ運命だな)そう思うと、首筋の毛がざわざわと起きあがった。
あわてて辺りを見回したが、誰もいなかった。
平然とした顔をして、向こう側にある早希のマンションへ向かった。
「パークサイド・ハイツ」という名の五階建てのマンションが、住宅街と公園の間に窮屈そうに建っている。
おそらく建築中は反対運動もあったのだろうが、いまはしずかに周囲に溶け込んでいる。
二宮里奈のマンションよりは値が張らなそうだ。
というより、当然のことながら早希は賃貸で住んでいたのだろう。
二十歳そこそこの定職をもたない女の子が不動産を買おうと思ったら、現金を積む以外に方法は無い。
駆け出しの美人局では、マンションを現金で買えるほどの稼ぎはないだろう。
事件後三日目で、立入禁止のテープも消えていた。
警官の姿も見えない。
ついでにマスコミも引き払ったようだ。
恐喝ペアの仲間割れないし痴情のもつれでは、今どき三日も視聴者を惹きつけてはおけないのかもしれない。
昨日県内で起きた、小学生の集団登校の列に酔っぱらいの車が突っ込んで三人死んだ事件の話題で今日のマスコミはもちきりだ。
しかも運転していた酔っぱらいは町長の義理の弟で、不動産でしこたま儲けたいきさつが、これまたかなり胡散臭いらしい。
二週間は保つネタだろう。
ここの警察には関係ない事件だろうが、マスコミがうろうろしていないだけで随分助かる。
マスコミは、まだ私のことまで嗅ぎつけていないらしい。
「美女恐喝犯、痴情の清算!? 三角関係の相手は殺人の前科を持つ元刑事」
ワイドショーが好きそうなネタだ。
さてと、気を取り直して聞き込みにとりかかることにした。
入り口からやや離れて立った。
早速買い物用のキャリーバッグを引いた六十歳前後とおぼしき婦人が歩いてくる。
住人のようだ。
予め、不動産屋で聞いてある。
ここの間取りは二LDKから三LDK。
独身から新婚夫婦向けだ。
この婦人は夫と二人暮らしだろうか。
捜査の先行きを占う意味で声をかけてみる。
「あの、ちょっとすみません。警察関係のものですが」
関係にもいろいろある。
斜め下に視線を落としてとぼとぼ歩いていた婦人が、私に進路をふさがれて驚いたように顔をあげた。
私は、無表情を保ったまま、胸元から花房に借りた黒い手帳をのぞかせる。
もちろん弁護士手帳などではない。
あとでばれた時に迷惑がかかる。
『使い古した手帳をもらえないか』と頼んだところ、『昔ほどじゃないが、それでも手帳ばっかりあつまってね』と引き出しのひとつをあけた。
『捨てるのも惜しくて毎年、年末まで放り込んである。好きなのを持っていってください』
七、八冊あるなかから、例の手帳に似たようなものを選んで借りた。
本当は、数年前から身分証はアメリカの警官が持つような二つ折りに変わっている。
私が塀の中にいる時にかわったので、手にとって見たことはない。
まあしかし、一般の市民はそんなことに興味はないだろうから、昔からドラマによくでてくる黒手帳をみせればそう思い込むはずだ。
刑事の仕事は板についている。
コツは下手に出ないこと。
正々堂々と尋ねる。
「このマンションにお住まいですか?」
相手が躊躇しているあいだにたたみかける。
この年代は公僕に対して従順である。
「はい、そうですが、何か」
怪訝な表情を浮かべてはいるが、この三日間に警察の姿を随分見たことだろう。
むっつりした黒い手帳を持つ男はみんな刑事に見えるはずだ。
ただ、ひょっとして自分もしくは連れ合いが何か不始末をしでかしたのだろうか、という不安も頭を掠《かす》める。
その心の隙に入り込む。
「お尋ねしたいことがあります。ただし、聞かれたことをあまり他言しないでください」
「あ、はい」
最初に浮いた眉間の皺が消え、不安そうな色が浮いてきた。
「一昨日の夕方、近くの陸橋で事故があったのはご存じですね」
「ええと、はい、男の人が落ちて、結局亡くなったんですよね。まだ若いのに、なんであんなことが起きるんでしょう。私たち実は前のところでも……」
身の上話をべらべら喋りだしそうな勢いだ。
私は喋った。
「亡くなった男性とつきあいのある女性が逮捕されました。ご存じですか」
婦人は即答せず、玄関わきの植え込みを見つめた。
「このマンションに住んでるお嬢さんですよね」
声をひそめて逆に聞いてきた。
「そうです。もうご存じだと思うので言いますが、高瀬さんという名です。顔見知りですか?」
「名前は知りませんけど、見かけたことは何度かあったと思います。時々、入り口ですれ違いました。私には笑顔でお辞儀してくれたんですけど、人はわからないものですね」
「その女性は、太って、髪の毛が長くて、耳だとか鼻だとかピアスだらけですか?」
婦人の目に驚きと、失望の色が差した。
「いいえ。確か棒みたいに痩せてて髪の毛はさっぱりと短くて、ピアスは気付きませんでしたが、それじゃ……いやだ、私勘違いしてました?」
「いや、あってますよ」
婦人は訳がわからない、という顔で私を見つめた。
私はおかまいなしに先を続けた。
「知りたいのは、あの事故のあった日、その女性が誰かと歩いているところを見なかったか、ということです」
婦人は再び植え込みに相談している。
「いえ。あの日はお昼前に買い物を済ませて、それきり部屋から出なかったんです。普段どおりの時刻に買い物してたら、みかけたと思うんですけどねえ」
幾分残念そうだった。
「お知り合いで、見かけたという噂を聞きませんか?」
「そういえば……」
やはり植え込みを見つめて考えている。
そろそろ、葉っぱが何枚あるか数え終わる頃だろう。
「川崎さんの奥さんが、買い物帰りにあの女の人と男の人が陸橋で喧嘩しているところを見かけたらしいって噂です」
それが、警察の押さえた証人ということか。
「他には?」
「さあ」
たっぷり十秒待った。
何も出てこない。
もう聞くこともなさそうだった。
「ご協力ありがとうございました。大変参考になりました。ただ、今の話をあまり言いふらさないでください。断定した噂を流すと捜査妨害になります。特にマスコミには注意してください。いいですね?」
我ながらいい気なものだ。
「はい」
神妙にうなずいて植え込みを見つめている。
その蔭あたりに亭主でもしゃがんでいるのじゃないか。
覗いてみたくなった。
もう一度、短くお礼を言って、まだ何か聞きたそうな婦人と縁を切った。
幸先はいい。
小凶といったところか。
さらに、ベビーカーを押した主婦と職業不詳の二十代らしき男に聞いてみたが、特別なことは何もでなかった。
早希はここではきわめて大人しく生活していたようだ。
裕也も住み込んでいたわけではなく、時折訪ねてきた程度らしい。
あまり長居して、元同僚に見つかると面倒なので、そろそろ退散することにした。
空振りには慣れている。
二週間も二ヶ月も不発のことだってざらだ。
ただ、無駄足はつらくはないが時間が惜しい。
今の私には時間が貴重品だった。
いつの間にか、六時五分前になっていた。
公衆電話を捜す。
幸い、喫茶店の店先に、スタンド式の電話を見つけた。
いちいち小銭を用意するのが面倒でとうとう買ったテレフォンカードをさし込む。
渡された名刺にある携帯電話の番号をプッシュする。
三回ほどコールしてつながった。
「はい」
とぎれとぎれで聞き取りにくいが、新藤の声だった。
「尾木だ」
「正確だな」
笑った。
脅しが利いたことが嬉しいようだった。
「それで?」
新藤が事務的に問いただす。
「報告するような進展はない」
「真面目にやってるのか」
「やってる」
「ずいぶん、そっけないな。会長の機嫌が悪くなると不愉快な思いをすることになるぞ」
「忠告ありがとう」
「あわれだな」
「どういう意味だ?」
思わず聞き返してしまった。
今の自分はいろいろ哀れすぎて、他人からみたら何が一番惨めに見えるのか聞いたみたかった。
「もとの警察仲間にさえ唾かけられているのは知ってるんだ。川に浮いても捜査してもらえるのか?」
「山かもしれないしな」
私の言葉は無視された。
「昔の仲間から軽蔑されるのは、死にたくなるほど情けない」
(お前に同情されるのはもっと情けない)
そう言おうかと思ったが、やめておいた。
しょせんは負け犬の遠吠えだ。
「明日も連絡してくれ。進展があればその前でもいい」
私の返事を待たずに、通話は切れた。
喉にホコリでも吸い込んだかのように、無性に喉がむず痒《がゆ》かった。
19
そのバーは、メモを頼りに探し当てた。
一階が店舗になっている築年数の浅いマンションの一角に、目当ての店があった。
派手な看板もないため、あやうく通り過ぎかけて気付いた。
つや消しの濃紺の扉に、小さく浮き上がった銀色の英字が私にも読める。
「ナイトアンドデイ」。
ここに間違いないだろう。
ノブを押しまわして店内に入る。
すぐに薄暗い照明の店内に目を走らせた。
カウンターに五席、四人がけのボックス席が二セット。
カウンターの中にバーテンダーが二人。
おそらくはマスターと使用人。
そしておそらくは夫婦。
客はカウンターに二人。
四十代後半からせいぜい五十代前半の男女。
男の職業は……。
そこで、やめた。
昔の癖だ。
今でもはじめての場所、とりわけ狭い店や部屋に入るときはとっさにすべてを観察する癖が抜けない。
目つきが悪いので、ゆすりのネタを探しにきた地回りのやくざ者ぐらいにしか思われない。
今までさんざん、人を見た目で判断してきたバチがあたった。
今夜ここへ誘ってくれた当人は、ボックス席に座っていた。
私を認めて、軽くうなずく。
「やあ」でも「どうぞ」でもない。
分厚いバインダーのようなものに何か書きとめて、バッグにしまった。
私は、客として再び店内を見回した。
カウンターの奥にならぶ洋酒の半分は見たこともない銘柄だ。
別に驚きはしない。
ポケットには一昨日、前倒しで貰った半月分の給料がほぼそのまま入っている。
今なら、この程度の店など丸ごと買い占めることもできる。
私はなるべく堂々と、空けてあるソファ側の席に腰を下ろした。
「景気はどう?」
私が先に挨拶した。
薄暗い空間に、ジャズのBGMが邪魔にならない程度に流れている。
石渡は、私の顔をちらりと見て言った。
「それはこちらが聞きたいですね。あまり景気よさそうには見えませんが」
「ちょっとスランプなんだ」
石渡氏は顔の右側を少し歪めた。
微笑んだつもりなのかもしれない。
冗談だと理解してもらえただけで幸せだった。
バーテンダー姿の女がおしぼりを持って現れた。
「ビール、ジョッキで。それと」
石渡が飲んでいるグラスを顎で示した。
「同じものを、一緒に。ダブルで」
「かしこまりました」
お辞儀をして戻っていく。
肩の凝る酒になりそうだが、今日はせっかくのお誘いでもあるし、ましてここは彼のホームグランドだ。
粗相のないようにしよう。
「調べ物は、はかどりましたか」
私は返答に詰まった。
どう答えてよいかわからなかったからではない。
石渡が私の行動に関心を持ったことが信じられなかった。
「捜査なんてものは、大体が無駄足。運がよければ空振り、と相場が決まってますから」
そう、そのおかげで喉が渇いている。
目の前に置かれた、ジョッキとは名ばかりのグラスビールを三口で飲み干した。
泡が流れきっていないグラスをテーブルに置くと、石渡が感心したように言う。
「いつ見ても気持ちいい飲みっぷりですね。身体のことは脇へおくとして……」
「まあ、本人はあまり愉快なものでもないんだが」
「酒は飲むほど酔いが醒めるっていつかおっしゃってましたね」
「あんたもつまらんことを覚えている。どうせ酔っぱらいの屁理屈だから、忘れてやってください」
今度はロックグラスを目の高さに挙げて、挨拶する。
普段なら、ここで終わりだった。
私も愛想のないほうだが、石渡はさらに二枚くらい上手のそっけなさだ。
クールとかいうやつか。
しかし、今夜の彼は何故か饒舌だった。
思えば、早希が舞い込んだ夜からどこか様子がいつもと違う。
もちろん、彼の趣味ではないはずだ。
オンザロックを口に含んだ。
燻《いぶ》したような香りが口いっぱいにひろがる。
「癖のあるスコッチだね」
酒飲みの端くれとして、とりあえず気の利いた風なことを言ってみる。
頭の隅では、この一杯でシャケ弁が何個買えるのかなどと考えていた。
石渡が唐突に言った。
「あなたがなぜ体を張って高瀬早希のことに関わるのか、興味が湧きました」
それが、今日ここへ誘った理由か。
「こりゃまた、今頃になって。まさかヤキモチじゃないんでござんしょうね」
石渡は吹き出しかけたウイスキーをかろうじて飲み込んだ。
その後で、口を開けて笑った。
根はやさしい人間なんじゃないか。
そんな気にさせる笑い声だった。
「僕ももう四ヵ月近く居候させてもらっています。尾木さんの性格はだいたい理解できました。無愛想なのは何事もないときです。事態が深刻なほど、軽口になる。あなたがおふざけを言うのはかなり切羽詰まったときではないですか」
私は心の動きを悟られないよう、スコッチを流し込んだ。
弁当何食分かが、あっという間に胃に収まった。
さすがの私でも今日は少しペースが早い。
その霞がかかりはじめた頭で考えた。
もう一度人生がやり直せて、もう一度刑事になれて、もし気の合う相棒と組めるのだとしたら、この石渡でも面白いかも知れない。
アルコールが脳の中枢を冒し始めると、気の利いたことは言えなくなる。
そのかわり、本音の言葉が口の端からこぼれたりもする。
(ひとりくらい、悩みを打ち明けてもよいかもしれない)そう考えて、椅子に深く座り直した。
そして、まずはスコッチのお代わりを頼んだ。
久保裕也が檜山興業社長にして九峰会会長である檜山景太郎の甥だったこと。
彼らはホシを挙げたがっていること。
私がその役をおおせつかったこと。
だめな時は霧駒山のコオロギどもの餌になること。
その前祝いに、木村とかいう木偶の坊にやさしくしてもらったこと。
あまり楽しそうなので、新藤というやんちゃな坊主まで仲間に加わったこと。
今日一日足を棒にしたが事態にまったく進展がないこと。
それらを正確に話した。
早希と一緒にいた二宮という女の行方がわからず、早希のアリバイを立ててやれないことも話した。
「尾木さんは高瀬嬢が犯人ではないと考えているのですか?」
グラスを口につけたまま、うなずいた。
「根拠は?」
「まあ、カン、というところかな。それに、檜山の連中も他に犯人がいると考えているようだ」
「何か知っているんでしょうか?」
「わからない。その可能性はある」
「その二宮という女の目星は?」
首を振る。
「どんな、感じの女です?」
私はごく少ない情報をはなしてやった。
目が印象的な、一見モデルのようないい女らしい。
背格好は早希と同じくらい。
メンソールの煙草を吸う。
わずかに関西なまり。
「なるほど、それだけですか。……それで、真犯人を挙げる目星は?」
無言で首を横に振る。
「期限内に見つからなければ、檜山組の連中は本当にあなたをどうにかするでしょうか」
「檜山の面子がどのくらいかかっているかによる。まさか、ホントに殺しはしないと思うが、耳を殺ぐというのは本気かも知れない」
石渡は、もう聞きたくない、というように目を閉じた。
「無茶苦茶だとは思いませんか?」
「何を?」
「何って」
今度は、あきれ果てたように私を見た。
彼の言いたいことがわかったので、説明してやった。
「彼らは理屈じゃない。面子と金。それがすべてなんだ。面子そのものは一銭にもならないが、こいつをつぶされると、シノギに響く。面子をつぶされたまま引き下がっては、以後の商売ができなくなる。だから、落とし前を大事にする。組長の甥っ子が殺されて、ホシが挙がらんでは檜山の面子は丸つぶれだ。九峰会会長の座も終わりになるかもしれん。だから、本物だろうがガセだろうがかまわない。いけにえが必要なんです」
「仮に、仮にです。早希さんが本当に犯人だったら、奴らはどうする気でしょう」
「私と一緒に埋めるそうです」
石渡はあきらめた、とでも言いたげに首を振って、グラスに口をつけた。
喉を湿してから、質問を変えてきた。
「だけど、何故尾木さんなんです? こういっては失礼ですが、いくら元刑事だって、ひとりで犯人を見つけるなんて無理でしょう。それとも何か特別な能力でもお持ちですか?」
超能力があればこんな生活はしていない。
檜山がその理由にいくつか挙げていたことを説明した。
なかでも一番気になったのは「有野川事件」だ。
飲酒運転で、車ごと橋から落ちて死んだ男がいた。
落ちた川の名が有野川だ。
保険にも入っていたが、保険金は僅かな金額で怪しいところはなかった。
みんなが事故だと思った。
当然本部も立たなかった。
だが、私には何かがひっかかった。
係長にかけあって、私ひとり専従にしてもらった。
半年たっても何も出なかった。
専従をとかれたが、他の事件の合間に、聞き込みは続けた。
二年後、事故と思われたのは、実は死んだ男の妻とその愛人が結託して起こした偽装殺人であったことを突き止めた。
浮気がばれて夫に強請《ゆす》られたためというのが動機だった。
事件後、ふたりは全く会うことすらせず、ほとぼりが冷めるのをまった。
二年経って、そろそろ大丈夫だろうと考えた彼らが密会した現場を押さえた。
車に残った小さな証拠をつきつけると、あっさり吐いた。
それ自体は、派手さのない事件だったかもしれない。
多少事情が込み入っていたのは、その愛人、高松智彦《たかまつともひこ》という男が、檜山組お抱えの税理士だったことだ。
県警は色めきたった。
裏金の流れを吐かせれば、檜山組を追い込める。
私自身は、高松という男、責めれば落ちると思っていた。
檜山組はやり手の弁護士を三人つぎ込んで、なんとか高松を取り返そうとした。
検察はがんとして応じなかった。
綱引きが続いたが、高松自身の身柄取引が無理だとわかると、奴らは方向を転換した。
残された高松の家族に脅しが始まった。
小学生の登校の列に車が突っ込んだ事故、子供が旅行先で行方不明になり三年たっても見つからない事件、原因不明の火事で家が全焼し家族五人が焼け死んだ事件、それらの新聞記事が切り抜かれて郵送されてくる。
脅しの文句どころか、ひとことの文字もない。
巧妙な脅迫だった。
結局高松は拘置所内で、入手先不明のヒモで首をくくって死んだ。
檜山組に関しては一言もしゃべらなかった。
高松の妻は、書類上は離婚していたが、家を手放すこともなく二人の男の子は大学に進んだ。
檜山組の肝を冷やした事件のきっかけを作った刑事を顎で使うことは、復讐心を満足させることでもあり、当時の事件を知る内輪の人間に対するアピールでもあるのだろう。
事情を聞いた石渡は小さくうなずいただけだった。
私は続けた。
「無理なのはやつらも半分承知でしょう。だが、昔煮え湯を飲ませた私を顎で使って仕返しでもしているつもりなのでしょう。他の組へのパフォーマンスにもなる。あの時の刑事を使って捜索したぞ、とね。おそらく奴らは奴らなりに探っていると思う」
「あなた、それでいいんですか?」
「よくはないが……」
「もし仮に」
石渡が人の話の腰を折って発言するとはめずらしいことだった。
「もし仮に、犯人を見つけるなり、高瀬さんの無実が証明されたとして、そのあとはどうするんです?」
「本ボシをあげることと、彼女の無実を証明することは、イコールではないかもしれんと思う」
「というと?」
誰かに聞かれる恐れはなかったが、私はさらに声を落とした。
「もしも、久保を殺ったのがやつらのお仲間だとしたら、とても危険な綱渡りです。中でも一番まずいのは内輪の揉め事です。気づいたと知られた時点で、たぶん私の命はない」
「その可能性があると」
「わかりません。警察に泣きつくわけにもいかない。どうせ不自由な動きしかできないのだとしたら、高瀬早希の濡れ衣を晴らしてやりたい」
「それでタイムリミットになった時は?」
「犯人をほじくりだしてしまうより、檜山に泣きを入れて、大切なところだけは勘弁してもらうほうが被害は少なくて済むかも知れない。それとも……」
できるだけ笑顔になるように努めて言った。
「いっそ、予定を早めて夜逃げでもするか」
石渡は、二、三度頭を振ってから、電池の切れかけたおもちゃのように突然|寡黙《かもく》になった。
黙って苦い顔をして飲んでいる表情は、そのまま酒のコマーシャルに使えそうだ。
私も考え事をしたくて、壁にかかったモノクロームの写真をつまみに飲むことにした。
それから仕舞いまで、二人ともほとんど口を聞かずにグラスを空けた。
気づいた時には石渡が支払いをすませていた。
これほど飲んでもそつがない。
この男はいったい、何が楽しくて私の家に居候しているのか。
そんなことを考えていたら、帰り支度をはじめた石渡がぽつりと言った。
「ま、そんなことはどうでもいい」
「え?」
「あなたの口癖ですよ」
帰り道、いつものようによれよれになって歩いていた気がするが、あんまりよく覚えていない。
20
翌日の捜査活動も似たようなものだった。
途中、花房弁護士に電話で確認したところ、早希はまだ送検はされていないらしい。
久保裕也殺しの物証がでていないということか。
光宮署の連中も今頃は、勇み足を悔やんでいるか、恐喝単発で送検するか決めかねているところだろう。
こっちの成果もさっぱりだった。
二宮里奈のマンションで住人をひとりだけつかまえたが、他人の居所はおろか、自分の鼻のありかさえ興味のない様子だった。
次の獲物を探していたところ、むこうから目つきの悪いのが現れた。
といっても元同業者なのだが。
奴らに捕まると、へたなやくざより始末が悪いので退散することにした。
こんなハンデを背負って真犯人を見つけるなど、ディック・トレーシーだってお手上げだろう。
あちらこちら廻って、昨日と似たりよったりの聞き込みをした。
最後にもう一度だけ二宮里奈のマンションに寄った。
買い物帰りの主婦がぽつりぽつりと通る。
早希のマンションの住人より警戒心が強いように感じる。
着ているものの値段が上がると、その分だけ警戒心も強くなる、ということか。
「さ、よくわかりません」という返事を三人からもらって、引き上げることにした。
時計を見ると、あと十分弱で新藤に連絡する時刻だ。
電話ボックスを探して、歩き出しかけた足を止めた。
急ぐ必要はなかった。
見覚えのある黒いシーマが停まっていた。
反射的に後ろの逃げ道を探したが、こそこそするいわれがないことに気付いて思い直した。
踏みとどまるのに、少しばかり奥歯に力が入った。
助手席から馬鹿力の木村が降りてきた。
私の前にたち、車に乗るよう顎で示した。
私は素直に従った。
後ろのシートで陰気な目を光らせていたのは新藤だった。
「こんなところで何をしている?」
胸ポケットからラークマイルドを取り出し、口にくわえた。
すかさず運転手の若造が振り向いて火をつけようとライターを差し出す。
新藤は若造のライターをすっと抜き取り、ウィンドーを半分ほど下げ、当たり前のようにそれを投げ捨てた。
そのまま流れるような仕草で、胸ポケットから出した自分のライターで火をつけた。
「お前、初めて見る顔だな」
今、初めて気づいたような口調で、新藤が運転手の若造に話しかけた。
「あ、はい」
ライターを捨てられてあっけに取られていた若造が、あわてて返事をした。
「そういや、さっきから気になっていた。新人か? 高橋はどうした」
しどろもどろの若造に変わって木村が答えた。
「事故って入院中です。会長の命令で若いもんのなかから、運転のうまいやつを代わりに使ってます」
この前の「久保を預けた」という檜山のセリフや、今の会話の流れからして、どうやら新藤は自分の事務所を構えているようだ。
新藤は木村から若造に視線を戻した。
「二度と百円ライターで俺のタバコに火をつけようとするな」
若造は、先ほどとは打って変わって聞き取れないほどの小声で返事をした。
新藤が手のひらで弄んでいたライターをぱちんとしめた。
ブランドものにはうとい私でも十万円近くするシロモノというのはわかった。
かしこまっている若造を見ていたら、目が合った。
どこかで見かけた気がして、思い出そうとしたとき、新藤がこちらに話しかけてきた。
「あまり真剣に仕事をしていないらしいと聞いて様子を見に来た」
誰に聞いたのか気になったが、尋ねたとしても教えてはくれないだろう。
「やっぱり、だめだな」
私は首をふった。
「早希と一緒にいたらしい女が行方不明だ。聞き込んだが掴めない。
警察がうろうろしていて動きづらい。金がない」
思いつく限りの言い訳をした。
新藤は、物わかりの悪い人間に言って聞かせるように喋った。
「いいか、よく聞け尾木の旦那。あんたの役目はその高瀬とかいう女の無実を証明することじゃねえ。その女がホシじゃねえなら、本当にやった奴を捜すのが仕事だ。会長にあれほど言われただろうが。こんなところで油を売ってる暇があるのか」
「その女が犯行を、つまりホシを目撃しているかもしれない」
そう言い返そうとして、木村の肩に力が入っているのに気付いた。
口答えが嫌いな連中だ。
思わず腹に力をこめた。
「木村だって、たまには殴る以外の気の利いた仕事がしてみたいだろう」
殴り専門業にとってはその言葉がいやみだったらしく、木村は顔を赤くゆがめた。
殴られたくないのはこっちも同様だった。
何しろ私の腹だ。
もし、木村が自分の仕事に誇りをもっていて、今、私の折れかけた肋骨にとどめをさす気なら、いちかばちか反撃にでようかと本気で考えた。
左で気を利かせているつもりの木村の顔にヒジ打ちを喰らわせ、木偶の坊がひるんだ隙に新藤に襲いかかれば勝機がまったく無いわけではない。
運転席の若造は問題外だ。
痛む腹にそっと力を込め、ぶっこわれ具合を確かめようとしたとき、新藤が口を開いた。
「あと四日しかないのは良く覚えておくんだな。なにしろ霧駒山のコオロギだからな」
鼻だけで、ふんと笑った。
私を解放すると、シーマはなめらかに走り去った。
どうして新藤と話をすると、これほど喉が渇くのか。
新藤の車を見送ったあと、すっかりなまった脳細胞を酷使した。
昔、使っていたあたりの兵隊たちが飯も食わずに働いているはずだった。
私は悩んだ挙げ句、奇手を打つことにした。
簡単にいえば一か八かのヤケクソだ。
刑事の近川と連絡をとることにした。
署の代表番号に偽名で電話を掛け、本人が出たところで名乗った。
「なんだ、あんたか」
「切らないでくれ」
ここは下手《したて》にでるより仕方がない。
「何だ?」
「会って話したいことがある」
「こまるな、そういうのは」
「五分聞いてつまらなければ帰ってもらって構わない」
「それなら、今ここで言ったらどうだ」
「電話では言えない」
「電話で言えないようなことに俺を巻き込まないでくれ。はっきり言うが、あんたから電話が来ただけで迷惑だ。悪いが他をあたってくれ」
「まて、頼む。この借りは忘れない」
近川が沈黙した。
考えている。
「それに、あんたにとっても割りの悪い話じゃない」
「……」
切れたのかと思い、「もしもし」と話しかけようとした時、近川の声が流れた。
「明日の夕方なら時間を作ってみる。二十時」
夜の八時は夕方とは言わない。
世間一般の人は。
私にはその感覚がわかって、懐かしかった。
「いつかの店でいいか」
「わかった」
ぶつっと切れた。
近川とは現役時代、三度ほど相方として組んだことがある。
もちろん、その前から顔は見知っていた。
その事件だったのか、今では覚えていないが、一度だけ打ちあげ代わりに「志むら」で飲んだ記憶がある。
もちろんその時は、今のような最悪の人間関係ではなかった。
私は腹の底に漬け物石を呑み込んだような気分で、電話ボックスを出た。
21
大捜査網も三日目となった。
新藤にどやされなくとも、そろそろガッツを見せようか。
近川がどのくらい協力してくれるのか、今は読めない。
こちらはこちらで、独自の道を行かなければならない。
ジュンペイが「今日は非番なので手伝う」と言ってくれた。
断ったのだが、どうしてもきかない。
「早希さんの無実の、証人捜しでしょう?」と、しつこく食い下がる。
一時は憎みかけた反動で、余計に親愛の情が増したのかもしれない。
美人局の嫌疑もまとめて濡れ衣だと思い込んでいるようだった。
仕方なく、聞き込みを手伝ってもらうことにした。
二宮里奈のマンション近辺の店で、彼女を見かけた人間がいないか。
話した人間がいないか。
そのほかにどんな情報でもいいので、とにかく犬っころのように嗅いで廻れと指示した。
喫茶店、パスタ屋、美容院、花屋。
あとは自分で適当に考えろ、と言った。
本当に、ボールを投げられた子犬のように、はりきって出かけていった。
さて私はといえば、二十年も前の刑事ドラマみたいな聞き込みはやめることにした。
考えてみれば、私はもともと頭脳労働が得意だった。
意気揚々とバスに乗って市役所へ向かった。
市役所の市民課窓口には、絵に描いたように陰険そうな女が座っていた。
たとえ、申請書の文字の書き順が違っていても見逃さない、といった顔つきをしている。
私が近づく途中から、ゴミバケツを見るような目つきでこちらを見ていた。
ひとを見る目もあるようだ。
実は、どういう手段で調べるかは、迷った。
住民台帳という手もある。
しかしあれは身分証明書を提示しなければならない。
そこへいくと住民票は、ほとんどの場合単なる申請だけで通る。
万一怪しまれたら仕方ない。
急な腹痛でも起こすしかない。
私はなるべく堂々と二宮里奈の住民票の写しを請求した。
ここ数日の捜査で、初めておどおどせずに相手の目を見ていた。
ところが、受付嬢の答えは意外なものだった。
「この名前で、この住所には登録されていません。間違いなくこちらにお住まいですか?」
女性職員は、訝しげな表情を浮かべている。
密出国者を見つけた某国公安のような冷酷な表情だ。
彼女の言葉遣いが変なのを突っ込んでいるヒマは無い。
本当に腹が痛くなってきた。
大汗をかきながら、私は理屈にならない言い訳をし、ほとんど逃げるようにして帰った。
通路の角を曲がるとき、ちらと振り返ると女がまだこちらを目で追っていた。
現行犯逮捕は免れたが、警察に通報された可能性はある。
ますますやりづらくなった。
それでなくとも、私がこそこそ嗅ぎまわっていることは、室戸あたりはとっくに承知だろう。
途方に暮れて、線路脇の公園のベンチに座っていた。
住民登録していないとは計算外だった。
これが安アパートならわかる。
不動産屋で仕入れた話では、あのマンションの802号タイプは中古で四千万円を少し超えるそうだ。
二年前の分譲時なら五千万円を超えていたはず、と言っていた。
買うにしろ、賃貸にしろ、住民票を移さずに住むことは考えにくい。
捜査のまねごとを始めてから、昼間に酒はのまないことにしていた。
いまや向上心のかたまりみたいなものだ。
空を見上げて、大きなため息をつく。
子連れの母親が、不審者を見る目つきでこちらを睨んでいる。
仕方がない。
私が現役だったら、まちがいなく職務質問しているところだ。
次は法務局だ。
現役時代ならこちらを先にしたはずだが、すっかりカンは鈍っている。
台帳閲覧の申請を出して、さっそく二宮里奈が住む部屋の権利関係を調べた。
森田誠一という人物から小宮山久夫という人物に所有権が移転していた。
半年前のことだ。
わずか一年半で手放したことになる。
そこから先は想像するしかない。
今夜の晩酌をかけてもいい。
表も裏も含めて、このあたりの金融会社をしらみつぶしに調べれば、おそらく小宮山という社員が発見できるだろう。
森田誠一なる人物は一旦どこかへ住民票を移しただろうが、すでにそこには住んでいない可能性が高い。
ひとことで説明するなら夜逃げだ。
これで、公的な記録から二宮里奈に迫る道も失った。
近川と約束した時刻までの間、花房弁護士と打ち合わせをすることになっていた。
節約のため、電車と歩きで事務所に向かった。
普段は気にしたことのない通行人に目がいく。
何気ない表情のその裏に、他人からは想像のつかない面倒を抱えているのだろうか。
今の私のように。
白髪が見事な初老の男と、二十代の娘が仲良さそうに笑っている。
娘の手には買い物袋が提げられている。
何かの祝いに買ってもらったのだろうか。
それとも見立てただけだろうか。
ふたりでこっそり、母親へ贈り物でも買ったのか。
とりとめなく、そんなことを考えているうちに、父親らしい男と、花房弁護士がだぶって見えた。
花房弁護士には、二人の娘がいた。
どちらかに事務所のあとを継いでもらいたいと考えていた。
上の娘は、期待に反して音楽家になった。
何とかいうオーケストラでヴィオラを弾いているそうだ。
同じ楽団の男と結婚し、しょっちゅう演奏旅行にいくそうだ。
子供はいない。
「孫はあきらめました」
今は笑って話す。
花房氏の妻は、アルツハイマー病を患っている。
幸い進行はそれほどひどくはないらしい。
「今年いっぱいで引退しようと考えとります。あれの気持ちがまだ確かなうちに、少しばかり楽しませてやろうと思います」
気負いもなければ悲愴感も感じさせない。
静かな口調の中に、歩むべき道を進むだけという意志の強さが秘められている。
しかし、大樹のような精神力を持つ彼でも、笑って話すどころか、口に出すことすら出来ない思い出があった。
あれは十四年前のことになる。
下の娘さん――名を麻梨子《まりこ》といった――の身に起きた事件だ。
当時私は防犯課、いまでいう生活安全課にいた。
二十歳の娘が大学から帰ってこない、という一一〇番通報が県警本部の通信司令室を経由して管轄署にあった時、誰も本気で取り合おうとはしなかった。
きょう日、帰宅が遅い大学生を捜索していては、警官の数を倍に増やしても手が回らない。
私が相談を受けたとしても、「もう一日様子を見て下さい」と答えただろう。
ところが、花房氏は引き下がらなかった。
「娘は何の連絡もせず、八時を過ぎて帰宅しなかったことはない。それが、いまや十一時になろうとしている。事件か事故に巻き込まれたことは間違いない」といってきかない。
そして、所轄署では埒《らち》があかないとみて、直接県警の幹部に話を通してきた。
この花房氏というのは、警務部長の個人的な知り合いで、しかもなにがしかの借りのある人物らしかった。
「形だけでも話を聞いてやってくれ」
そういう依頼が、県警内部と所轄の所長に届いたらしい。
急遽《きゅうきょ》、県警から人を出して、所轄署と共同で捜索をすることになった。
殺人、強盗、誘拐の可能性があるなら、一課の仕事である。
しかし、当時未解決の重大事件をいくつも抱えていた県警は、一課から割ける人数がいなかった。
ましてや、今のところ家出とか夜遊びではないと断言できない。
そこで、当時私が所属していた防犯課に話が回ってきた。
「ひとりでいいから、出してくれ」
私が行くことになった。
所轄ではだれも乗り気ではなかった。
そもそも、一週間前の通り魔事件の帳場がたっているのだ。
ホシの目星もたっていないのに、女子大生の家出にかまっている余裕はなかった。
相方がひとりつくことになったが、断った。
異例のことだが、私ひとりで捜査を進めることにした。
麻梨子が大学を出たあとの足取りを徹底的に探った。
同時に交遊関係を洗った。
校門に立ち、ひとりひとりに麻梨子の顔写真を見せ、「当日見かけなかったか」「親しい友人、とくに男の友人はいなかったか」とひたすら聞き廻った。
三日目、さすがに署内にもただの無断外泊とは違う、という空気が流れていた。
それでも、「家出」説が圧倒的に強かった。
署を出ようとした時、聞き慣れない声を聞いた。
怒鳴るというほどの大声ではなかったが、部屋の隅まで通る声だった。
私はとっさにこれが花房氏だと理解した。
対応していた刑事が根負けして、私のところへやってきた。
「尾木さん、ちょこっと話をきいてやってもらえませんか。このままだと、帰ってくれそうにないんですわ」
ま、仕方がないだろう。
私は簡素な応接セットに彼を座らせた。
「尾木といいます。お嬢さんの件で、専任で捜索しています」
「専任で?」
「はい」
「他には何名くらいが?」
ウソはつきたくなかった。
「専任は私ひとりです」
「ひとり?」
「はい。今、例の通り魔事件をかかえていて人がまわせないんです。理解して下さい」
納得はできないものの、とりあえずは了解したようだった。
藁《わら》にもすがるとはああいう気持ちだろう。
「実は、今日にもお宅に伺ってお話を聞こうと思っていたところでした。ちょうど良いので、娘さんのことでいくつか聞かせてください」
「なんでしょう」
やや気を取り直した花房氏から、麻梨子の交遊関係や日頃の行動傾向などを聞きだした。
話が長くなるので、結論をいおう。
麻梨子は殺され、埋められていた。
大学のゼミの先輩にあたる、藤木《ふじき》という二十三歳の四年生が犯人だった。
日頃、麻梨子に一方的に思いを寄せていた藤木はあの日、「これで最後だから」と強引に喫茶店に誘った。
つきまとわれてうんざりしていた麻梨子は、本当にあきらめてくれるならと、一度だけつき合うことにした。
喫茶店でコーヒーを飲んだ麻梨子は、急に体調がおかしくなった。
汗を浮かべたかと思うと、意識が朦朧《もうろう》となった。
藤木は店の人間に「持病の発作だから」と説明して裏に停めておいた自分の車で麻梨子を運んだ。
自白と解剖の結果、ケタミンという薬物が使われたことがわかった。
後の取り調べで、開業医の伯母から入手したものと自白した。
麻梨子にとって不幸だったのは、様子がおかしいことに気付いて通報してくれる気の利いた店員がいなかったことだが、藤木はそれさえも事前に調べ、計算の上であった。
麻梨子を車に乗せ、これも下見済みの、夜間には人の絶える河原まで運んだ。
藤木は、人事不省の麻梨子を相手に思いを遂げた。
沸騰していた血が醒めてくると、急に恐ろしくなった。
もしも麻梨子が意識を取りもどせば、自分の身は破滅である。
このまま、麻梨子が目覚めなければ誰にも知られない。
これほど用意周到だった藤木が、その場になって殺意を抱いたというのは信じがたいが、後の裁判では認められたようだ。
意識のない麻梨子の首を締めて殺すことは簡単だった。
藤木は麻梨子の持ち物から身分を証明するものを奪い、服も全て剥ぎ、白倉岳山中に運びその夜のうちに埋めた。
持ち物は切り刻み、三重にビニールにくるみ、十箇所以上のゴミ捨て場に分けて捨てた。
目撃者の話と、交遊関係から藤木を呼んで少し脅したら、あっけないくらい簡単に落ちた。
泣いて謝りながら呼んだ名は母親のものだった。
私は奴の髪を掴んで、額とテーブルを挨拶させてから、じっくりと話を聞きだした。
翌日、本人を連れて現場に向かった。
藤木の額にうっすら血が滲んでいることに所轄署の刑事課長は気付いたようだったが、何も言わなかった。
掘り出し作業が始まって間もなく、立入禁止のロープ際で揉める声を聞いた。
どこで情報を仕入れたのか、花房伊佐夫が現場に入ろうとしていた。
遠ざけようとする署員ともみ合いになっている。
すでに県警から刑事官や一課長が来て立ち会っている。
鑑識やらその他の刑事でごったがえしているなかでの騒ぎだった。
私は、幹部が追い返す命令を出す前に駆けつけた。
「まあ、ちょっとまって」
両者を引き離し、署員に言った。
「どのみち、遺族には確認してもらうんでしょう。じゃまにならないところで立ち会わせてあげて下さい」
署員は、上司である刑事課長の顔色を見た。
刑事課長は、県警一課長の顔を見た。
一課長は私に視線を戻した。
「尾木のいうとおりだ。どのみち確認していただくことになる。作業のじゃまにならないところで待機していただくように」
一課長の一声で決まった。
初動捜査のまずさに対する引け目があったのかもしれない。
掘り出された、麻梨子の遺体は痛々しかった。
(子供がいないことは、あるいは幸せなのかもしれない)
立ち会う者に、そんな気持ちを抱かせる瞬間だった。
神も仏もないといいながら、何ものかに祈りたくなる刹那《せつな》だった。
藤木が泣く声を聞いた。
「お母さん」
私は逆上した。
藤木の髪を鷲づかみにして、ぐいぐいゆすった。
「ふざけるなこの野郎。貴様、泣くんだったら、被害者のために泣け。遺族に詫びて泣けよ。貴様みたいなクズ野郎に人生を踏みにじられた悔しさがわかるか。え、さあ、謝れよ」
髪をつかんだまま、今は横たえられ、毛布をかぶせられている被害者の側まで引きずっていった。
誰もとめようとはしなかった。
「さあ、謝れ。地べたに頭こすりつけて謝れ、この野郎」
地面にめり込むほど藤木の顔を押しつけた。
その時、ようやく私の腕を引く者があった。
ふりむくと、幾度も世話になっている、ベテランの刑事官だった。
(もういい)その目は語っていた。
程なく、茫然自失の花房氏によって身元の確認がなされた。
「娘です」
その一言を漏らすのが、精一杯だった。
ほどなく、私は一課に転属になった。
この事件の影響もあったかもしれない。
一年ほどして、花房弁護士の訪問を受けた。
二つの点で礼を言いに来た、ということだった。
一つは、ほかの警官が「家出だろう」といって相手にしなかった中、私ひとりが真剣に捜査をしたこと。
それによって、痛みの少ないうちに遺体が発見できたこと。
「当日のうちに殺されたとなれば、救うことは無理だったでしょう。遺体がほとんど綺麗な状態で還ったことは救いでした」
そう語った。
もう一点は私が、現場で逆上したことだった。
「私らのために泣いて怒鳴ってくれる刑事さんがいたことに感動しました。初動捜査の遅れについて、訴訟も考えましたが、警察に尾木さんひとりがいらっしゃることで、思いとどまりました。ありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げた。
まだ、完全には立ち直れないが、いずれ弁護士としてお役に立てる時がくるよう祈っております。
そう言って帰った。
暑中見舞いと年賀状は欠かせずに貰った。
私からは出したり出さなかったりだったが。
こんなに義理堅い男がまだ存在したのかと思わせる人物だった。
義理堅さが尋常でなかった証拠には、今こうして空っぽのゴミバケツ並みの価値しかない男に、親切に相談にのってくれている。
今、この世に生きている人間の中で、最も頭の上がらない存在だった。
22
約束の五分前に、「志むら」のガラガラ鳴る引き戸を開けた。
ウーロン茶を頼むと、無愛想な親爺が欠けた前歯を見せて笑った。
私がアルコール以外のものを飲むのがそんなに愉快なのだろうか。
だが、少なくとも近川が現れるまで赤い顔をして待っているわけにはいかない。
混んでいるようなら、場所を替えようかと思ったが、カウンターに座っていた二人連れが帰ったあとは私ひとりになった。
「久しぶりに顔出したと思えば酒も飲まねえ。どこか身体の具合でも悪いのか?」
めずらしく親爺が聞いた。
私が酒も飲まずに待つ相手に興味があるようだ。
「昔の知り合いと待ち合わせなんだ。ついでに言っとくが、残念ながら女じゃない」
「酒の嫌いな奴なのかい」
「そうじゃない。酔って台無しにしたくない。もう、いろんなもんをいくつも台無しにした」
親爺は、そりゃそうだろう、などと言いながら板場の仕事を始めた。
枝豆を一粒、二粒口へ運んでいると、やがて引き戸を開けて、近川が入ってきた。
私を認め、無言のままテーブルの向かい側に座った。
「忙しいところをすまない。ビールでいいか?」
「話を聞くまでは、水もいらん」
無愛想に言って、胸ポケットから出したセブンスターに火をつけた。
「久保裕也殺し、高瀬はホシじゃない」
結論を口にした。
近川はぷわっと煙を吐いた。
言葉はない。
横目でチラリと視線を向ける。
私は安心させてやった。
「大丈夫だ。日本語が話せない」
「相変わらずだな」
友情と呼ぶにはほど遠い目つきで私を見た。
誰にあれ、軽蔑されるというのは晴れがましいとは言い難い。
だが、今日そんなことは気にしていられない。
「何故?」
「なぜ、とは?」
逆に聞いた。
「何故、あの女のことにそう熱心なんだ。前からの知り合いか? 寝たのか?」
どうしてこう、どいつもこいつも同じ質問をするのか。
この分だと、あの世に行った時、母親にまで同じことを聞かれるに違いない。
「いや、偶然三泊させた以外の関係はない」
「なら、ほっときゃいいだろう。むしろ、あんたも迷惑したほうだろうが。なぜ、首を突っ込む。室戸さんが面白くないだろう。不愉快な事態を招くんじゃないか」
親爺に、身振りでビールを頼んだ。
「その室戸だが、どう思う」
「どういう意味だ」
「警察官としてどう思うか、と言う意味だ。信用しているのか」
「大胆なことを聞くな。むろん信用しているさ。あんたに言われたんじゃ、室戸さんも立つ瀬がないってもんだろう」
「厳しいな」
めずらしく親爺がビールをテーブルまで運んでくれた。
さっきの話を聞いていたのか、ひと言も口をきかない。
俺は噴き出しそうになるのをこらえ、近川のグラスに注いでやってから、自分でも満たした。
喉を湿したかった。
近川は手をつけようとしなかった。
「久保殺しの件。何かおかしくないか?」
近川が直接それには答えず、再び親爺に視線を走らせた。
落ち着かないようだ。
「親爺、煙草あるかい」
「ないよ」
近川が俺を睨んだ。
「やはり、場所を変えよう」
「そんなに気になるなら、奥の間を借りればいい」
苦笑いを浮かべる親爺に、「ちょっと借りるよ」と声を掛け、奥の引き戸を顎でしゃくった。
親爺はだまってうなずいた。
店の突き当たりに、貧相な引き戸がある。
ここを開けると五畳の汚い部屋がある。
調味料のストックだとか、割り箸だとか、使わない鍋だとかで、部屋の半分が埋まっている。
要するに物置だ。
普段、客には使わせない。
ただ部屋に見合った汚さのちゃぶ台が置いてあって、二、三人が飲むくらいのスペースはある。
現役時代もたまに使わせてもらった秘密のルームだ。
ビールだけ抱え、焼き鳥の盛り合わせを頼んで部屋にあがった。
「ここなら、聞こえない。少なくとも機密漏洩に関してなら、ホワイトハウスよりクリーンだ」
部屋をぐるりと見回して、近川がやっとビールのグラスに口をつけた。
彼もこの程度の部屋の汚さで食欲を落としたりはしないだろう。
「もう一度聞くが、久保殺し、本当に高瀬一本でいくのか?」
「いくもなにも、明日にも再逮捕だろう。俺たちがどうこういう段階じゃない。それとも何か、室戸さんが言うようにあんたも手を出したのか?」
「冗談じゃない。俺は本気で言っている。すぐに釈放しろとは言わない。もう少し延ばせないか。いや、高瀬のためだけじゃない。泥かぶるぞ」
「どういう意味だ」
「高瀬をホシにしたがったのは誰だ?」
「したがったわけじゃない。正当な捜査の結果だ」
「証人は誰だ?」
「それは言えない」
私はなおも食い下がった。
「事件の直前に揉めてるところを見た主婦がひとりいるだけだろう」
近川は何かひとりごとを言いかけて、私を睨んだ。
「なんと言われようと、そんなことに答えられない」
私はもう一つ駒を進めることにした。
「彼女の友人の二宮里奈という女が一緒にいた。無実を証明できると思うんだが、見つける方法がない」
近川は少し驚いたような表情で私のほうを見た。
「捜査の秘密は話せない」
こうなれば根比べだ。
「事件以来、消息がふっつり消えた。死んだか、逃げたか。俺はおそらく隠れたんだと思う。それにしても、こうきれいさっぱり足跡が消えるのは何かある。いっとき、お前さんのところでも捜したようだが見つからなかった。今じゃ見つからないほうがいいと思っているやつもいるかもしれん」
「何のことか、わからない」
「高瀬早希の線でいきたがったのは、室戸じゃなかったか?」
近川は黙っている。
「取り調べは?」
近川は返事をせず、グラスに残ったビールを呷った。
ビンからついでやった。
ちょうど親爺が無愛想に焼き鳥の皿を持って来たので、ビールの追加を頼んだ。
「ま、つまんでくれよ。あのころと変わらない味だ」
近川はねぎまに一味唐辛子を一振りして口に運んだ。
熱かったらしく、ふうふういって噛んでいた。
「五分で帰るといいながら、こうしてつき合ってくれているのは、どこかで引っかかっているからじゃないのか。君のことだ、もしかしたら納得していないんじゃないか」
「めったなことは言わないでくれ。あんたもよく知っているだろう。俺はあんたみたいに嫌われて去りたくない」
串の残りの肉をビールで流し込みながら、近川は立ち上がろうとした。
「やはり来たのはまずかった」
「ちょっと待ってくれ。こういうのはどうだ。本ボシを用意する」
一世一代の大博打だ。
しかも、元手のないはったりであることを悟られてはいけない。
「本ボシ?」
中腰になっていた近川が、もう一度あぐらをかいた。
「ああ、本ボシに多少心当たりがある。どうだ、二宮里奈の居所を教えてくれないか。そして、できれば会うお膳立てをしてくれないか。ムシのいい話なのはわかっている。だから、見返りに近いうち本ボシを提供する」
「あんた自分で何を言ってるか、わかってるのか」
「わかってる。署内じゃ課長あたりまで泥をかぶるだろう。ひっくり返すのに君が関わったことが知れたら、やりづらくなるだろう。だが、高瀬だけの問題じゃない。その他の膿も出る可能性がある。この際、出さないか」
「巻き込むのはやめてくれ」
「俺はな、実は刑務所《ムショ》の中で悪い噂を聞いた。警察《サツ》の中、それも刑事《デカ》から時々ネタがもれてるらしい。最近まで信用していなかった。俺みたいな馬鹿はいても、腐っているとは思いたくなかった。というより、もうそんなことには関わりたくなかった」
近川の目をじっと見つめた。
「だが、どういうめぐり合わせか顔を突き合わせることになった」
近川の目がこちらの真意をさぐろうとしていた。
私はさぐらせてやった。
「檜山に脅されている。初七日の法要までに本ボシを見つけないと、コオロギの餌にされる」
「コオロギ?」
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。問題なのは、檜山が本ボシがほかにいるとうすうす知ってることだ」
さらにもう一つ駒を進めた。
「室戸は警部の昇進試験は何度目だ?」
近川は少し考えてから、ちゃぶ台に水滴を三つたらした。
「検挙率をあげたいんじゃないか。一家三人放火殺人のヤマも進展がないんで、マスコミがつつき始めただろう。署内に焦りがあるんで、課長あたりも室戸の勇み足を見て見ぬふりしてるんじゃないか。美人局の仲間割れでさっさと片づけようという雰囲気があったんだろう、署内に。違うか?」
思いつくままにべらべらとしゃべっていた。
図星のようだった。
「頼む、二宮里奈の居所に心当たりがあるなら教えてくれ」
近川が血走った目で私を見た。
「なぜ、俺が?」
「駆け引きはやめよう。二宮里奈は堅気じゃないという話を聞いた。確かにこう綺麗に消えたのはだれか手助けしたやつがいるはずだ。堅気でない連中がからんでいるかもしれない。二課のやつらなら居場所とまではいかなくとも、からみぐらいは知っているんじゃないか。そいつを聞き出してくれないか」
「無理だな。だいたいやつらがこっちにネタを廻すわけないだろう」
「たしか、あそこに岩村という刑事がいただろう。同期じゃなかったか。……たのむ」
テーブルに手をついて頼んだ。
頭の上から近川の声が降る。
「昔、あんたを尊敬していた。今じゃ、そのことを最高に後悔している。裏切られるのは一度でたくさんだ」
「過去のことは弁解しない。今だって自慢できるような生活はしていない。せっかくの仕事も二日酔いで休んだりしている。親からもらった家は離婚の慰謝料で消える。わずかに手元に残る金もおそらく全部飲んじまうだろう。そしていつか路地裏でくたばる。だけどな、俺も二十年も警察にいたんだ。愛情はある。今度だけは信じてくれないか」
熱演が行き過ぎて、自分でもどこまでが本気なのかわからなくなってきた。
「ちょっとまってくれ」
近川がわずかに身を乗りだした。
「あんたがどこでくたばろうと興味はない。それより、さっきからの話だと、室戸さんがそのどこかの堅気じゃない連中と繋がっていると?」
「可能性はある。そして……」
「そして、なんだ?」
近川の顔つきを見て、ひらめいたことがあった。
「その相手というのは、実は檜山のところじゃないか。この狭い土地だ。二宮の失踪にもからんでいないとは言い切れない」
近川が深く吸った煙草の煙を吐いた。
「ばかな」
「昨日、俺が二宮のマンションで聞き込みをしていたら、檜山組の新藤が現れた。そんな偶然があるわけない。それじゃあ誰に聞いた? 俺が二宮里奈に固執しているのを一番知っていたのは室戸だ」
「ちょっとまて、こう言いたいのか? 檜山と室戸さんはなんらかの繋がりがある。二宮という女が高瀬早希のアリバイを握っている。そして二宮の失踪には檜山が絡んでいる可能性がある」
「そうだ」
「それは話が合わないんじゃないか」
煙草を挟んだままグラスをつかんで、ビールをすすった。
「檜山が高瀬早希のアリバイを知っていて、室戸さんと檜山組につながりがあるんだとしたら、どうして檜山はそのことを室戸さんに言わないんだ」
「もう、言っただろう」
「え?」
「おそらく、檜山も、警察がこんなに早く逮捕するとは思わなかったんじゃないか。二宮から、無実だと聞いていたから。ところがよりによって室戸が突っかけた。あわてて、檜山は教えてやった。今さら証人を出せないんで、二宮を本格的に隠した」
「まあ、たしかにそこだけをとれば、辻褄《つじつま》が合う」
私もビールで喉を湿した。
「それにな、想い出したくない噂を思い出すハメになった」
「どんな噂だ」
「奴はムシが好かない野郎だが、刑事としちゃ有能だった。そんな人間を変えるものはいくつかしかない。……奴はギャンブルが好きだろう」
黙っているということは、認めたことと同じだろう。
「競輪か、ボートか?」
近川は私の目を見て少し考えて言った。
「たしか、競輪じゃないか」
私は、ようやく腹を割った近川の目を見返した。
「ギャンブルが好きで借金のない奴の話を聞いたことがあるか」
「いくらでもいる」
「俺が言うのは、たまの休みにレースを見ながら、なけなしの小遣いはたいてビールを飲んで、幸せ感じてる連中のことじゃない」
「かりに競輪好きでそれとこのヤマと何が関係ある?」
「俺たちの……いや、そうじゃないな、悪かった。あんたらの給料で、ノミ屋に電話で買いをいれる余裕があるか。女房子供持ちで」
近川は黙ってセブンスターを一本灰にした。
空になったビール瓶を見つめていた近川が言った。
「この店にはもっと強い酒はないのか」
「あるさ」
腰をあげた。
引き戸をあけ、酒瓶の並ぶ小汚い棚から一本を手に取った。
親爺にひとつうなずき、ロックグラスもかってに二つ抱えて部屋に戻った。
二つ並べたグラスにそれぞれ半分ほど液体を満たした。
古酒《くうすう》の三十五度だ。
名の通ったブランドではないが、喉の焼き加減は性に合ってる。
グラスに口を近づけると、優しい香りが鼻の粘膜を刺激する。
「さ、やってくれ。天国に行けるぞ。ただし、行っちまう前に、さっきのことを約束してくれ」
近川がグラスの液体を口に含んで流し込んだ。
最後に咳き込んで少しむせた。
チェイサー代わりにビールを呷った。
私は思わず笑った。
近川も苦笑いを浮かべた。
むせたせいか目元にはうっすら涙が滲んでいた。
「何故、あんなことをしたんだ」
近川がぶっきらぼうに聞いた。
「あの事件ことか?」
近川はこくりとうなずいた。
「ずるい言い方だと思うだろうが。分からない、というのが正直な気持ちなんだ。ただ、人には魔が差す瞬間がある。まるで夢見るように、魅入られたように、行き止まりの道に進んじまうんだ。君も見てきただろう? 室戸だって、気付かないうちにいつの間にか一歩足を踏み外しただけかもしれない」
近川は火をつけた煙草を吸いもせず、じっと見ていた。
「……室戸さんの昇格は見送りだな」
ぼそりとつぶやいてから、私を見た。
「携帯電話は?」
私は首を横に振った。
「ない。ついでにパソコンもない」
近川も予想していたらしく、何の反応もなかった。
古酒をもうひとくち流し込み、ほーっと息を吐いた。
「明日の昼前に一度、電話をくれないか」
手帳を破り、携帯電話の番号を書き留め、私のほうへよこした。
「ありがとう」
そんなセリフは失礼だと思ったが、つい口をついて出てしまった。
照れ隠しに泡盛を流し込んだ。
喉を焼いたが酒に罪はない。
23
近川と店にいたのは一時間足らずだった。
飲み足りなかった私は、グズグズと腰をあげずにいた。
意地汚く飲んで、いいことがあったためしがない。
あまり度を超すと明日の大捜索に影響が出るので、そこそこに切り上げることにした。
いつもと同じ道を、いつもと同じようによれよれになって歩いていた。
どこかで見たような人相|風体《ふうてい》の男が三人、私に近づいてくる。
以前何かで読んだ、外国のことわざを思い出した。
『降る時はいつも土砂降り』
この一週間ほど、毎日バケツでぶちまけたようなトラブルの土砂降り続きだ。
見覚えがあった。
早希と出会ったきっかけの夜のちんぴら三人組だった。
すっかり忘れていたが、顔を見たところで、一部記憶が蘇った。
しかも、そのうちの一人にはつい最近出会った。
檜山組の新しい運転手にとりたててもらった若造だ。
何故あの時、思い出せなかったのか。
気付いていないふりをして脇道を探し、記憶では抜けれられたはずの路地を目指して、いきなり突進した。
あとわずかの所で捕まった。
運転手が振り下ろした光る棒をよけた隙に、もうひとりが伸ばした足にひっかけられ転んでしまった。
すぐに一番重そうな奴が馬乗りになった。
足をひっかけた奴がすかさず蹴りを入れてきた。
私の上に乗った男は一番体重がありそうで、その上力も強かった。
よくは覚えていないが、早希の話では、私が馬乗りになって殴りつけた相手らしい。
いまじゃ、すっかり逆だった。
私はどうにか身体をねじって仰向けになり、またがっている男の下から腕を抜こうとしたが、こいつは重かった。
猛烈に肋骨が痛んだ。
頭を五分刈りにした金髪野郎は薄笑いを浮かべて、私の横っ面を殴った。
「クソオヤジ、この前の借りを返すからな」
頭の芯が「じん」と痺れた。
陰に隠れて見えない男は、さっきから猛烈に膝やむこうずねを蹴っている。
「ふざけんな、この野郎」
声がうわずっている。
そうとう興奮しているらしい。
運転手は、暴行に加わっていないようだ。
見張り役か。
どうにか右腕を引き抜いて、二度目のデブの拳を腕で受け止めた。
「やめろ!」
ようやくそれだけ叫んだ。
「うるせえ。このゲロじじい」
その得意の武器は、今回は鳴りをひそめていた。
今度は左がきまった。
頭がぼうっとなった。
一瞬、何が起きているのか、よく把握できなかった。
口の中に少し塩味のある鉄臭いものが染み渡った。
切れたのか、折れたのか、考えないようとした時、左頬に三発目を喰らった。
今度こそ、意識が闇に沈んだ。
アスファルトに当たった右の頬が痛かった。
失神していたのはほんのわずかの時間だったらしい。
横向きに去っていく、三人の後ろ姿が見えた。
もっとも横向きになっているのは私のほうだったが。
この短い時間に、伸びている私を好きにしたらしい。
顔も腹も手足も、痛くないところはなかった。
唾を吐くと血で赤い。
右上の奥から二、三本目の歯がぐらぐらしていた。
身を起こそうとして、再び失神しそうな激痛が走った。
折れかかっていた肋骨がとうとう音をあげたらしい。
この痛み具合は完全に骨折したようだ。
起きあがるのをあきらめて、しばらく寝ていることにした。
寝ているついでに尻ポケットを探った。
かすかな期待は裏切られた。
半月分の給料が入った、つまり全財産が入った財布がなくなっていた。
私には、起きあがって奴らを追いかける体力も残っていなかった。
道の端まで這っていって、ごろりと寝ころんだ、起きあがれそうになかった。
時折、酔っぱらいか商売関係の人間が通るが、飲んだくれが寝ているとしか見えないのだろう。
関わりをさけて声もかけない。
根掘り葉掘り聞かれるよりはマシかもしれない。
それに引きかえ、あの夜の早希の行動は、いまにして思えば英雄的だった。
あまりいつまでも寝っ転がっているので、とうとう近所の人間が通報したらしい。
派出所の警官が二名近づいてくるのが見えた。
このタイミングの遅さからして、殴られている私を救おうとしたとは思えない。
猫の死骸を引き取ってもらうのと同じ感覚だろうか。
「あんた、大丈夫か。酔ったのか」
心配している声には聞こえない。
初めから酔っぱらいが管を巻いていると思いこんでいる。
まあ、それほど見当違いなわけでもないが。
「酔ってはいるが、起きれないのはそのせいじゃない」
精いっぱいやせ我慢して声を出した。
本当は喋るのも億劫《おっくう》だった。
二人顔を見合わせて苦笑いしている。
どうせ、酔っぱらい特有の屁理屈だと受け取ったらしい。
「ほら、こんなところに寝てちゃしょうがないだろ。家《うち》どこ?」
などと言いながら二人で私を立ち上がらせようとした。
無神経に腕を引っ張られたり、腰に手をまわされたりして、激痛が走った。
「ぐぐ」
再びしゃがみ込んだ私の様子を、さすがに変だと思ったのか、二人は怪訝そうな顔つきでのぞき込んだ。
「あんた、口から血が出てるぞ」
「どうしたんだ。服もえらく汚れている」
下手な漫才じゃあるまいし、とぼけた二人の掛け合いに応える気もなくなった。
塀に寄りかかったままの私の身体をあちこち点検しては、今さらのように、「こりゃ、ひどい」などと言っている。
痛いのと、酔ったのと、面倒くさいのとで、彼らに何を聞かれてもいい加減に答えた。
若いほうの警官はそれでも無線機を使って救急車を手配してくれた。
更には、自宅に電話がないと言うと、同居人に直接伝えてくれるという。
制帽の下には脳味噌のかわりに、お人好しのエキスがつまっているのだろう。
二度ほど救急車に同乗したことはあった。
自分が主役として乗るのは生まれて初めての体験だった。
居心地の悪いベッドでゆられながら、病院に着くまでの間、ずっと同じことを考えていた。
あの三人とこんな場所で出会ったのは偶然だろうか。
それとも奴らは私がここにいることを知って、待ち伏せしたのだろうか。
だが、何のために。
頭の打ち所が悪かったのか、いくら考えても明快な答えは浮かばなかった。
24
左頬が切れていて、縫うことになった。
医者が釣り針のチャンピオンみたいなものを取り出した時には、都合のいい時だけ拝む自分専用の神様に思わず祈った。
もちろん、聞き届けてもらえなかった。
三度目に針を刺された時、来週生きていたら絶対に献血に行くから、今すぐこいつを止めてくれ、ともう一度祈った。
今度はどうやら祈りがきいて、結局四針で済んだ。
肋骨は骨折していた。
今度はサポーターの親玉のようなしろものを胸に巻かれるはめになり、仮面ライダーの悪役みたいな動きしかできなくなった。
抗議しようと思ったそばから、「あんた、手術しないで済んだのは運がよかったんだよ。あまり無茶すると死ぬよ」と医者に脅され、引き下がった。
ひととおり、傷の手当てを終え、ベッドで寝ていると人相の悪い男が二人入ってきた。
知らない顔だった。
最近お近づきになった対極にあるはずの二つの世界は、どうも人相だけでは見分けることが難しい。
この二人は膝が出たスラックスをはき、装飾品といえば一人がごくありきたりの結婚指輪をはめているだけだ。
刑事に違いない。
身元だけは正直に告げたが、怪我の原因は「転んだ」としか言わなかった。
手を焼いた刑事が、私が被害者であることを忘れて脅し始めたとき、連絡が入った。
連絡を受けた一人がもう一人にぼそぼそと何か告げた。
二人の態度は急変し、示し合わせたかのように同じ視線を私に向けた。
そのまま、口をきくのもけがらわしいといった感じで出て行ってしまった。
入れ替わるようにして、石渡氏が入ってきた。
私のありさまを見て、驚いたように言った。
「顔を合わせるたびに、痣だの傷だの増えるような気がしますね。来週あたりはICUですか」
「あまり、冗談には聞こえない」
笑わずに、言った。
石渡は、何故か哀しそうな目をしていた。
「室戸という名の刑事が来ました。貴方のことを色々聞いていきました。差しさわりのなさそうなことは正直に話しました」
私は軽く瞬いて、了解の意を表した。
石渡はもう一度私の顔をのぞき、ケットはいだ。
病院のお仕着せの寝巻きの中は、母親にも見せたくないようなみっともない姿だ。
肋骨が一本折れ、二本折れかけているとはいえ、こうあちこち包帯だの湿布だらけなのは、在庫が余っていたとしか思えない。
まるでコメディ映画のような格好を見ても、くすりとも笑わなかったのはさすが石渡だ。
彼は、ケットをもとどおりにしながら、ぽつりと言った。
「私にも責任があります」
「責任? どんな」
「少し長くなりますが」
そう前置きして話し始めた。
今夜は身動きがとれない。
私は楽な姿勢をとってから、言った。
「その前に、ちょっと喉が渇いた、ビールか水か、どっちか手に入りやすい方を一杯もらえないだろうか」
25
「私はバルビツール系睡眠薬の依存症でした」
私に水を飲ませてくれたあと、石渡氏が、今日の平均株価でも伝えるような口調で言った。
私は黙ってうなずいた。
感づいていたと言葉にしなくても、石渡は察しているだろう。
「今はやめています」
先を促す意味で、軽くうなずく。
「ご存じだと思いますが、あれも耐性があって、だんだん量を増やさないと効かなくなってくるんです」
「そうらしいね」
「酒の量も増えました」
アルコールやある種の薬物には交叉耐性といって、ほかの物質にまで耐性ができる性質がある。
よく、『酒飲みには麻酔が効かない』というあれだ。
石渡がいくら飲んでも酔わないのは知っていた。
「最近では処方してくれる病院は減りました。大きいところはまず無理です。それに、一度に処方してくれる量や種類では足りない。ダブって処方させるため、いくつもの病院を回るのも手間と時間がかかる。多少ワリ高でも、簡単に買える方法を選びたくなる」
黙ってうなずく。
「境南市にある『ブルーノート』というジャズ喫茶はご存じですか?」
私は知らなかった。
少なくとも私が現役だったところには捜査の対象になった記憶がない。
そのままを伝えた。
「わりと新しいのかもしれません。僕自身は五年ほど前、この市に越してきたからのメンツですから」
「なるほど」
「その店では、バルビツールからマリファナあたりまでは手に入りました。シャブやコカインはなかったですね。もっとも僕はミン剤専門でしたが。――その店には、手入れの情報が漏れていました。危険な日は一日中ヴォーカルがかかるんです。普通はインストゥルメンタルといって楽器の演奏だけです。店の前まで行ってダイアン・リーヴスがかかってる日は寄らずに帰りました。ま、私の場合見つかってもほとんど罪にはならなかったでしょうが、面倒は嫌いだった」
薬の話は理解できるが、ジャズはわからない。
なんとかリーブスというのは男の四人組じゃないかと思ったが、話題にだすほどのこともないだろう。
「売り手も客として先に店に入り、隅のカウンターに座っている。あとから、運び屋の若いのが入れ替わりで荷物を届けにくる。だから、知った人間がみればウリが始まる時がわかる。まあ、そんなことはどうでもいいですね。ともかく、その運び屋の中に女がひとりいて、わりと目鼻立ちがはっきりした、男の目を引きそうな女でした。ミン剤専門に運んでいるようでした。なぜ、こんな目立つ運び屋を使うのか、不思議に思って、少しばかり観察した覚えがあります。まあ、そのときは別段、だからどうということもなかったのですが、それから三年くらい経って、つまり一昨年頃ですね。偶然、道端でその女を見かけました。同年代の女の友人と喋りながら歩いていました。二人とも目を引くタイプだったので、すぐに気づきました。もちろん、向こうは気付かなかったとおもいますが。その時運び屋の女と一緒に歩いていた女性に、先日偶然にも会いました」
私に視線を落とした。
「誰だと思いますか?」
「運び屋の友人?」
「ええ」
そう聞かれるからには、二人とも想像はついた。
「高瀬早希?」
「そうです」
「最初の日から気付いていた?」
「ええ、あなたが連れてきた――というのかな、最初の晩から。でも、知ってる理由が理由ですから、自分から言う気にはなれませんでした」
「どうも、あなたにしては珍しくみんなと談笑したりしてると思った」
「向こうでも覚えているか、確かめたかったんです。それと、一体何をしに来たのか」
「知らなかった?」
「ええ、そぶりも見せなかったですね。芝居ではないと思いました。本当に偶然だったんでしょう。まあ、繁華街といってもしょせんは地方都市です。尾木さんみたいに毎晩飲み歩いていれば、堅気じゃない人間には、あらかた出会う機会はあるでしょう」
今夜の彼は妙に饒舌だった。
私に何を告げに来たのか。
話の内容にも興味はあるが、同時にそちらが気になった。
「彼女が逃げていると聞いた時、当然ながら相手は堅気じゃないだろうし、場合によっては薬がらみかな、と感じました。そのとき私が話していれば、尾木さんも巻き込まれずに済んだ可能性が大きい筈です。そのことで責任は感じています」
「そういう発想は石渡さんらしくない。私は偏屈だから第三者から聞いた身の上話で態度を変えたりしませんよ。たいだい、昔のことなど言えない身体ですから。それより、その『運び屋』というのが二宮里奈でしょうか」
「人相を聞いたかぎりでは、そうだと思います」
「なるほど」
「ついでに言うと、あなたを殴ったという木村という名の大きな男に心当たりがあります。人相風体を聞くと、その『ブルーノート』で売買がある日によく見かけた男だと思います。いざこざが起きた時の収め役だったんでしょう。そして、その女が二宮里奈だとすると、二人は顔見知りのようでした。男と女の仲というのではなく、仕事上のパートナーに見えました」
「なるほど」
ぼんやりとした想像にすぎなかったことが裏付けられた。
人間関係も次第にはっきりしてきた。
近川にかましたはったりも間違っていなかった。
「黙っていたことをお詫びします」
私は笑って首を横に振った。
これでお詫び問題は終了だ。
もう、石渡も口にすることはないだろう。
私は独り言のように続けた。
「二宮里奈と木村の木偶の坊が顔見知りだった、ということになると少し面白くなってきた。でも、里奈と木村がいまでも仕事だけの仲とはいえないかもしれない。何年もパートナーを組めば、深い仲にならないほうが不自然だ。まして、そんないい女なら。……こういうのはどうです。自分の女と早希が友人だった。その早希が会長の甥っ子を殺した可能性がある。あわてて、里奈を会長の目の届かないところに隠した」
「隠したかもしれません。しかし、深い仲ではないでしょう。たぶん今でも」
今でも?……私は、歯切れの悪い言い回しにひっかかった。
石渡の目を見た。
悲しい色をたたえていた。
我が家の居候全員に共通しているのは、この目の色だ。
あの、能天気にしか見えないジュンペイでさえ五月晴れのような瞳に影のさす時がある。
その目を見て、私は理解した。
おそらく木村は石渡と同じ習癖をもつのだ。
私が理解したことを石渡も察知したようだった。
小さくうなずいて言った。
「二、三度しつこく誘われたことがあります。もちろん、相手にしませんでしたが」
私は話題を変えた。
「売人の用心棒から、組長のボディーガードとは、随分出世したもんだな」
石渡は嘆息して、中空を見ている。
二枚目というのは、どんな表情も絵になる。
絵になりすぎて、真剣みが足りないような気がするときもある。
それはそれで損をしているのかもしれない。
私は、ふざけた調子で言った。
「実際はボディーガードなんて呼ぶほど格好のいいもんじゃないが……。弾よけと力仕事専用の人足といったところだ。土佐犬の代わりに人間連れて歩いてるみたいなもんです」
石渡は私のその言葉には答えず、じっと何か考えていた。
「教えてもらえませんか」
私は右の眉を上げた。
「誰が何のために、こんなことをしたんでしょう」
私の身体のことだ。
「私を襲ったのは、高瀬のお嬢さんと出会いのきっかけになったちんぴらです」
「それは聞きました。偶然の再会でしょうか」
「今のところはそう考えるしかない」
石渡が腕を組んで苦笑いを浮かべている。
仕方なく、自分の考えを少しばかり披露することにした。
「実は、その中の一人は檜山組の若造です。昨日木村たちを乗せていた運転手です。一軍のレギュラーが故障したので、急きょリトルリーグから昇格したひよっこです。わからないのは、やつの個人的な判断なのか、誰かの命令なのか」
「あなたが気付いたということは、向こうでも気付いていた可能性はあります。あなたが、あの辺で調べものをしているのを嗅ぎつけるのは簡単でしょう」
「しかし、昨日のあの場で気付いたなら、私が組の仕事をしていることはわかったはずだ。顔も知れている。自分たちの勝手で私に怪我をさせれば、あとでばれたらお目玉くらいじゃすまない。落とし前をつけるはめになる。構成員でもない奴らにそんな度胸があるだろうか」
「ということは、組の公認?」
「命令だとすると、理由がわからない。調べろと言ったり、痛めつけたり。おかしな奴らだ」
腕を組んだ石渡の眉間に、また皺がよった。
「それだけ?」
石渡が不服そうに聞く。
「それだけ、とは」
石渡を見返す。
「犯人を捜せといわれて捜した。進展がないからという理由なのか、脅し程度じゃすまない怪我をさせられた。いくら理不尽といっても、限度がある。それなのに、尾木さんは『おかしな奴らだ』で済ませるんですか? どうしてそんなにあっさりしているんです」
「たしかに。おかしい」
石渡はあきらめたように、かるく左右に首をふった。
「その身体じゃ、もう無理ですね」
「そんなことはない。今夜寝たら、明日から再開だ。なにしろ日当三万円だからな」
そういえば、三日分の日当を払ってもらいにいく必要があるかもしれない。
「二宮里奈の居所を探ってみます」
石渡が突然言った。
「どうやって?」
石渡の目は笑っているように見えた。
「心当たりがあります。店のマスターが今も変わらなければ顔見知りですから」
「それは、その……」
私が言いよどんだ質問を、石渡は察して答えた。
「ええ、そうです。『ブルーノート』に集まるのは、薬の売買が目的の人間だけじゃないんです。木村より、彼のほうが先に誘いをかけてきていました。木村の登場でやめたようですが」
石渡を止めるべきだったかもしれない。
だが、私は何も言わなかった。
人の心も果実と同じだ。
腐りはじめると、加速度がついていく。
石渡の横顔から視線をそらして、天井の無愛想な蛍光灯を見つめた。
時々不整脈のようにまたたくほかは、何も語りかけてはこなかった。
26
石渡が部屋を出ていったあと、寝付けずにちかちか瞬く蛍光灯を見ていた。
あれはひと月程前のことだ。
石渡氏が、仕事の区切りがついたとかで彼にしては極めて上機嫌のときに、「志むら」で飲む機会あった。
「私が外国の出版物に興味を持つようになった理由を聞いてもらえますか」
その時、こちらが聞きもしないのにそんなことを言いだした。
「古酒一杯で聞き役をしましょう」
石渡の頬がゆるんだ。
「いいでしょう。家主さんだし。……しかし、人に酒をせびって美味いですか?」
「自分のフォークでも他人のフォークでも、食べ物の味は同じ。とかいう諺《ことわざ》がありましたね」
苦笑いが続いた。
「ま、わかりました」
私は、親爺に泡盛を頼んでから、代わり映えのしないツマミを口に運んだ。
「高校一年生の時、英語の授業で翻訳という課題がでました。英字新聞のコラムでもいい。ペーパーバッグの一章でもいい。五百語以上の文章を自分で翻訳するという夏休みの宿題がでました」
たった一杯のために、ふむふむいいながら聞いていた。
「私は洋書店に行って絵本を買いました。比較的文字量が少ないけど、一冊全部翻訳した気分になれると思ったからです」
親爺が置いた泡盛をひと口ふくんだ。
水と見分けのつかない液体が、喉を焼きながら落ちて行く。
「私はなんだか、その時の話が妙に気に入ってしまって、自分なりの絵本を作りました。それ以来外国の物語を翻訳して日本人に紹介する仕事がしたいと思うようになりました」
「なるほど。それが翻訳になったきっかけですか」
「結果的に、そういうことになります」
ご馳走になった以上、もう少し聞かねばならない。
「どんな話ですか」
「『虹売り』の話です」
「虹? 空にかかるあの七色の虹?」
「そうです」
「あんなモノが売れるのかねえ」
「まあ、絵本の話ですから」
「今度是非読ませて下さい」
最後に社交辞令を言った。
「いいですよ。部屋にありますから」
この話はこれで済んだと思ったが、石渡氏は真面目に受け取ったようだ。
「志むら」を切り上げて家に戻ると、彼は早速絵本を持ってきた。
大事そうに抱えてきた、角や縁がだいぶすり切れている絵本を、私もうやうやしく受け取った。
たいした文字数ではないので、我慢して読むことにした。
次からは、ご馳走になるのは二杯にしようと思った。
虹の話だというので、能天気に明るいハッピーエンドだと決めつけていたが、思い違いしていたようだ。
彼が自分で描いたという絵も、どこか暗い感じだった。
意外なことに、読み始めて次第に引き込まれた。
ある日、『虹売り』が町にやってきた。
見たことのない変わった幌馬車に乗ったその男は『虹の種』を売るのではなく、あるものと交換するために町を訪れた。
その『虹の種』というのは、土に埋めると、最初の雨が降った翌日、その場所から本物の虹がたつ。
とてもめずらしい種なので、みんななんとか売ってもらおうとする。
しかし、男は金では売らない。
男は種をもらいに来た人を馬車の中に招き入れて、こう言う。
『あなたが今までで一番悲しかった話を聞かせてください』
実は虹の種の材料は、人の悲しみでできていた。
だから話の中身が悲しいほど大きな虹ができる。
男は、その悲しみの材料のなかから、二割をもらって、それをひとつにまとめて大きな大きな虹をつくり、お城でお祝いごとのある時に売って金を稼ぐのが商売だった。
そして残りの八割を虹の種に変えて、話してくれた人に返す。
男は一週間程滞在した。
みんな次々に悲しい話をしては、自分の土地に虹を作ってみた。
仲良さそうな新婚夫婦の家から大きな虹が立ち上がったり、いつも泣いて愚痴をこぼしている婦人が、にんじんくらいしかない虹しか作れなかったり、いろいろだった。
ある日、一人の少女が訪れてこう言った。
『わたしにも虹の種をください』
両親を亡くして、親戚の家で育てられている少女だった。
彼女はとても朗らかで、誰にも親切にして、皆から好かれていた。
育てられている家の主人は町で大きな店を経営している金持ちで、いい人だという評判だった。
少女はとても恵まれて、幸せそうに思われていた。
だから、少女が虹の種をもらいに来た時、みんなはこう思った。
『今夜は雨だから、明日はきっと虹が見られる。あの子の腕くらいしかないかわいらしい虹がな』
次の朝、窓を開けた町の人々はびっくりした。
いままで見たこともないような立派な虹が町の空にかかっていたのだった。
そしてその虹は、なんとあの少女の住む家の庭から立っていた。
人々はその意味を悟った。
こんな立派な虹を見たというのに、町中がまるでお通夜のように沈んだ空気に包まれた。
そしてその日以来、だれひとり少女の姿を見なかった。
町中の人間が総出で、森も草原も川も捜したが、どこにも少女はいなかった。
少女を育てていた親戚の夫婦は、それ以来、店番を使用人にまかせて、ほとんど人前にでなくなった。
教会にたくさん寄付をして、とても長い懺悔《ざんげ》をきいてもらったという噂がたった。
実は、あの大きな虹ができた朝、牧場で家畜にエサをやる下働きをしている、町で一番の早起きの少年は、小さな女の子が虹をかけのぼっていくところを見た。
ところがそれを旦那さんに話すと、『でたらめを言うな』とモップで叩かれて、信用してもらえなかった。
少年は一番なかよしの雌牛にこう話しかけた。
『そうさ、僕は知ってるぞ。あの子はお母さんとお父さんのところへいったんだよ。あんなに嬉しそうに笑っていたもの』
焼酎で焼けた胸に、別な痛みが湧いた。
私はとっておきのカップ酒をふたつぶら下げて石渡氏の部屋を訪れた。
「これ、絵本のお礼代わり」
「いや、読んでいただいて、お礼するのは僕のほうです」
ま、いいから、と言いながら、部屋に座ってカップのふたをあけた。
「悲しみでできた虹というのは意外だね」
石渡氏は手にした酒をながめている。
返事がなかったので、続けた。
「私にはどのくらいの虹ができるだろうか」
「太いかもしれませんね」
「灰色だったりしてな」
石渡の目元が微笑んだ。
そのまま、視線を宙に向けた。
天井からぶら下がったカバーのひび割れた電灯を見たわけではなさそうだった。
「あの時の新鮮な気持ちは、どこかへ消えました」
今度は私が返事をしなかった。
「さて」
私は「よいしょ」と気合いを入れて立ち上がった。
「明日も仕事だ」
そう言い残して、照れ隠しにポケットに手を突っ込んで部屋を出た。
(明日は、どんな虹が立つか)
石渡には恥ずかしくて言えないが、なんとなく虹売りの話を信じたくなっていた。
『虹の種』というものが、どこかに本当にありそうな気がした。
しかし、手に触れたのは小銭が二、三枚だけだった。
急に恥ずかしい気持ちがして、小銭をジャラジャラ鳴らしながら階段を降りた。
27
人の気配に目が覚めた。
看護師が、ぶら下がった点滴液を取り替えている。
虹の話を思い出しながら、いつのまにか寝てしまったようだ。
外はうすぼんやりと明るい。
もう夜明けだろうか。
「今何時ですか?」
看護師に聞く。
壁の時計を見るには寝返りを打たなければならない。
そんなことも億劫だった。
「そろそろ六時です。食事はどうします? お腹空いたんじゃありません?」
たしかに、腹がへっていた。
呑気《のんき》な話しだ。
枕元のワゴンに載った花束が目にとまった。
「これは?」
「昼間、女の方が見えて活けていかれましたけど」
誰だろう。
恭子か。
何を思って花束など買ってきたのか。
そういう感情があるとは意外だった。
一見豪華な感じはしたが、二、三本元気のない花がある。
少ない手持ちの中から見切り品を値切って買ったのかもしれない。
恭子にはふさわしくない行動だが、私を思ってしてくれたことだ。
猛烈な尿意を感じて我に返った。
動きたくない気分だが、こればかりは他人には頼めない。
やむを得ず身を起こしながら尋ねた。
「今日、退院できますか」
「さあ、私にはわかりませんけど、今日はもう無理でしょうねえ。この時間だと」
内向きにはめた腕時計に目をやりながら答えた。
「もう?」
もう、とは何だ。
そういえばさっきは「昼間来た」などと言っていた気もする。
窓の外をもう一度よく見る。
夜明けではなかった。
夕暮れだったのだ。
一日中寝ていたことになる。
なんてことだ。
まる一日無駄にした。
だるいなどとは言っていられない。
あわてて起き上がり、ベッドから足を投げだした。
「いや、困る。今すぐ退院させてくれ。手続きなんか明日だっていいだろう。とにかく……」
私の態度の豹変《ひょうへん》ぶりに、ぽかんと口をあけている看護師を後にして部屋を出ようとした。
「あ、ちょっと待って下さい。いくらなんでもそんな急に……」
看護師があわてて引き止める。
私は振り向いて答えた。
「違う。まずはトイレだ」
ようやく人心地がついて部屋にもどると、来訪者が待っていた。
この忙しい時にあまり歓迎したい顔ではなかった。
「随分派手にやってるな」
室戸が言った。
「最初に言っとくが、ここは禁煙だ」
「大人しくしていられんなら、こっちにも考えがある」
聞き飽きた脅しは無視した。
「おたくの若いのに言ってくれ、被害者にはもう少し丁寧な対応をするように」
「何が被害者だ。ふざけるな。昨日寄った二人が、『ばかにしたような態度をとって非協力的だった』と言っている」
「歯が折れたんで、よく喋れないんだ」
「残りの歯も折ってやろうか」
愛嬌のある顔を近づけてきた。
仰《の》け反《ぞ》ろうとしたら、ベッドのパイプに頭が当たって大げさに痛がるはめになった。
「遠慮しとく。俺は八十歳まで自分の歯でかめるように気を遣っている」
室戸の顔つきがまるで、唾でも吐きそうなので私はあわてた。
ここは病室だ。
さっき煙草と一緒に注意しておけばよかった。
「お前、高橋のマンションだの、その友人とかいう女のマンションのあたりを嗅ぎまわっているらしいな。何のつもりだ」
「彼女がホシではないことを、確かめようとしている」
「余計な真似をするな」
脅すたびに息がかかる。
「あの女の代わりに、お前をしょっぴいでもいいんだぞ。誰も反対しないだろう。いいか、スピード解決のおかげで帳場もたたずに済んだ。本部ができりゃ、お前の元のお仲間がやってくる。恥の上塗りをしなくて済んだんだ。感謝して欲しいくらいだ」
あの夜、自分が考えた通りのことを室戸が言った。
ひとの口から聞かされると、新しい考えがうかぶこともある。
「なるほど、それも理由か」
「どういう意味だ」
「県警の連中が乗り込んできて主導権を奪われる前にホシを挙げたかった」
室戸の左眉がぴくりと上がった。
そのままにやりと笑った。
笑顔がさわやか過ぎて、本心がつかめない。
「つまらんことを考えてると、また転ぶぞ。こんどはそのよく回る頭を割らないように気をつけろ」
どうにか最後まで唾を吐かずに出ていってくれたので、ほっとした。
28
医者は止めたが、強引に退院手続きを迫った。
最後に、「二泊以上しても金は払えない、踏み倒すしかない」と言うと、汚いものを見るような顔つきで退院を認めた。
昨日、石渡が、「返すのは後でもいいから」と置いていった金で支払いをすませた。
夜間の窓口で「清算は明日です」などと言われて、有り金のほとんどをむしりとられた。
犯罪被害者といえども、とりあえずは自分で病院代を支払わなければならない。
身体と相談して、タクシーも呼んだ。
このところすっかり浪費癖がついてしまった。
石油王ではないのだから、明日からは倹約しよう。
家に着いた時、時刻は午後の八時半だった。
恭子が無表情な顔をみせた。
ジュンペイはすでに仕事に出かけたのだろう。
今日は確か遅番で夜中の帰宅のはずだ。
「おかえりなさい」
恭子が事務的に言った。
私は努めて明るく応えた。
「大丈夫。かるい怪我です。病院も金をとろうとして無理に一晩泊めたんですよ」
「そうですか」
それ以上追及して聞かないのが恭子のよいところだ。
最近、そのクールさに磨きがかかって、石渡氏を凌《しの》いでいるような気さえする。
さて、その石渡だ。
恭子に様子を尋ねると、「昨夜遅くに帰られて、今日はほとんどお部屋に籠《こ》もったきりです」
再び事務的に言う。
「恭子さん」
「はい?」
洗い物をはじめていた恭子が顔を半分こちらに向けた。
「いや、なんでもないです」
(この先どうするつもりだ?)などと聞いてみても、意味がないかも知れない。
蛇口からひねり出した水を一杯飲んで、階段を昇った。
昨夜、石渡の身の上に起きたかもしれないことを、私のなかでは察している部分があった。
階段を昇る時、とても息苦しかったのは怪我のせいばかりではないだろう。
彼は床に座り、壁に背をもたせかけていた。
やや、顔をあげ、目を閉じ、何かの考えをまとめているようだった。
ほんの一日前とは別人のように無表情な顔の、目と頬骨の間に浅黒い影を作っていた。
それは修行者が瞑想している光景を連想させた。
私はひとことも口を聞かずに、壁際の床に座り、待った。
空気は痛みに満ちていた。
ずいぶん長く感じられたが、おそらくは数分ほど経って、石渡が言葉を発した。
瞼は開いたが、視線はいまだ上空にあった。
「二宮里奈のことが少しわかりました」
軽々しく(それで、どうなんだ?)とは聞けなかった。
彼が喋るにまかせた。
話すからには、必要なことはもれなく話す男だ。
「彼女は檜山景太郎の女です。つまり、愛人という意味です。運び屋のアルバイトはとっくにやめて本多町のクラブのママに納まっています。姿を消しているのは警察に呼ばれて余計なことをしゃべられてはまずいので、どこかに隠したのでしょう」
私はただうなずいた。
石渡が続ける。
「組長の愛人を、殺人事件の証人なんかで出頭させるのは、みすみす警察に獲物を差し出すようなものですからね」
ようやく視線を私に向け、私が想像もしていなかった事実を口にした。
「二宮里奈は、少なくとも四年前までは木村里奈という名だったそうです」
石渡も私もしばらく、口を開かなかった。
私の崩れかけた脳細胞が懸命に活動している。
あちこち霞がかかっていた事実関係に日が射してきた。
「あまり役にたてませんでした」
私が黙っていることを、誤解して受け止めたのだろうか。
「とんでもない。大変な進展です」
石渡氏の頬のあたりを見ながら、(どうしてそんなことをした)という言葉が、何度も喉まででかかった。
努力して、どうにか呑み込んだ。
私にその言葉を発する資格はない。
「ありがとう」
出たのは、それだけだった。
もう、充分だ。
彼をひとりにしてやるため、部屋を出ることにした。
だが、ひとつだけ確認しておかなければならないことがあった。
「その情報の出所は、例のジャズ喫茶のマスターですか」
石渡が二度瞬いた。
私も無言でうなずいて部屋を出た。
石渡氏が「ブルーノート」のマスターと関係を持ったことは明白だった。
初めから肉体を代償に与えるつもりだったのか、話の流れでそうなったのか、あるいは完全に暴力的に制圧され逆らう余地もなかったのか。
そのマスターと面識さえない私には想像することもかなわない。
いずれにしても、本意でなかったことは間違いない。
石渡は、自分が黙っていたことで招いた事態を悔いていた。
私は気にするなといい、彼も納得したと思っていた。
だが、彼の行動をまったく予想していなかったと言えば嘘だ。
わずかばかりの情報と引き替えに、あの端然とした男の誇りが汚れたかと思うと胸の締め付けられる思いだった。
(もう、終わりにしよう)
自分の気まぐれを通すために、最後の家族をこれ以上傷つけるわけにはいかない。
早希を早く出してやることと同時に、石渡の無念をも晴らしてやろう。
早希にアリバイがあることはほぼはっきりした。
二宮里奈の行方がようとしてつかめなかったのは、やはり檜山が隠していたからだった。
檜山のもってまわったような口調もこれで納得がいく。
奴らは、少なくとも檜山は、早希が犯人ではないことは知っているが真犯人が誰かまでは掴んでいない。
そういうことなのだ。
何はともあれ、その二宮という女に会うことだ。
会って、早希のアリバイを証言してもらう。
私は、木村に会いにいくことにした。
古くさい言い方だが、虎の子供はやはり虎の穴に入らなければつかまえることはできないのだろう。
もう、自分以外の人間が汚れ悲しむ姿は見たくない。
29
檜山興業の所在地、すなわち、檜山組長の自宅は現役の頃から知っていた。
県内でも指折りの住宅一等地に、三百坪ほどの邸宅を構える。
敷地の奥まったところに三階建ての住宅用建物。
周りをぐるりと高い塀が囲み、通りに面して形ばかりの檜山興業の事務所用建物がある。
ここを通りぬけないと、住居へはたどりつけない構造になっている。
つまり、事務所は番人のいるちょっとばかり大きめな門といったところだ。
今日会いにきたのは会長自身にではなく、優しげな顔つきのわりにひとをいたぶるのが仕事の木偶の坊のほうだった。
木村が詰めていることは確認してあった。
近川とは連絡がとれていない。
その後、二度ほど電話したが、不在だった。
生まれて初めて、携帯電話というものがうらやましくなった。
初七日の法要はすでに明日に迫っている。
どういう決着にしろ、そろそろ肚《はら》をくくらなければならない。
私はひとりぼっちだった。
都合よく、昔押収して隠しておいた拳銃が箪笥の奥から出てきたりもしない。
凶器の類はなにも身につけていない。
半端なものを隠し持ったところで意味がない。
「檜山興業」とシール印刷の入った重いサッシのドアを開けた。
願わくは、ここから自分の足で歩いて出たいものだ。
「ごめん下さい」
事務用の机が三つ。
応接セット。
テレビ。
神棚。
冷蔵庫。
キャビネットに洋酒。
応接セットに身を投げ出してテレビを眺める若いのが二人。
とっさにそれだけを見て取った。
「どちらさん?」
襟のながい、シルクのようにてかる真っ赤なシャツを着た、頭を刈り込んだ男がじろりとにらんだ。
眉毛がほとんどない。
目つきも確かに悪いが、いまひとつ迫力に欠ける。
「木村さんに会いたい。尾木といえばわかる」
二人は一瞬顔を見合わせた。
下手打って木村の兄貴にどやされないようにしないと、ふたりの顔にはそう書いてあった。
「約束あるんすか」
もうひとりの、Tシャツの上からスーツを着込んだ、金髪オールバックの男が聞いた。
こちらの正体が不明なので、言葉遣いがやや丁寧だ。
「いや。ないが。是非会いたい。尾木が大事な用件だと言ってると伝えてもらえないか」
「大事ってのは、どんな用件で?」
オールバックが組んでいた足をほどいて、やや身を乗り出した。
つけっぱなしのテレビでは、ワイドショーらしきものをやっていた。
司会をするお笑い二人組が、ゲストのおばさんタレントと掛け合いをしている。
さかんに観客席から爆笑が起きる。
笑い声しか理解できない。
脇見をしたのは一瞬で、すぐに我に返った。
「内容は本人でなければ言えない」
本来なら、(舐《な》めたことを言ってるんじゃねえ)という展開になるのだろうが、木村の客と名乗ったことで、迷いがあるようだ。
二人で顔を見合わせている。
追い返して後で叱られるのと、取り次いでどやされるのと、どちらが被害が少なそうか、必死に計算しているようだった。
正直言えば、あまり長い時間立っているのはつらい。
助け船を出してやることにした。
「大丈夫だ。取り次いでもあんたらを殴ったりはしない。なにしろ、俺をいたぶるのが趣味なんだから。喜んで来るさ」
また、顔を見合わせている。
お前らはお見合いでもしてるつもりか、と言いかけた時、ようやく赤シャツが立ち上がった。
「とにかく、話だけはしてくる」
最後に、眉毛のない目で私をじろりと睨んでから、ドアの奥へ消えた。
五分と経たないうちに、勢いよくドアが開いて木村と使いの若造が入ってきた。
「何しに来た」
木村が二歩で私の前にそびえた。
いつ見ても、私の身長より少なくとも十五センチは背が高い。
「誰も来いとは言ってない」
私の目を見下ろして言った。
髪はいわゆるスポーツ刈りで、染めてはいない。
眉毛もしっかりある。
キングサイズという点を除けばどこにでも売っていそうなコットンのシャツをごく普通に着ている。
両脇で突っ立っているチンピラよりよほど堅気に見える。
それでも、二人合わせたより存在感があった。
「聞きたいことがあって来た。ちょっと話できないか」
「何の用だ。報告は新藤さんにすることになっているんだろう?」
「折り入ってあんたに聞きたいことがある。新藤がいない方がいいこともあるだろう?」
いきなり、ボディブローをくらった。
息が止まった。
肋骨にも響いた。
私はホコリだらけの床に、身体を二つに折って転がった。
しばらく、声も出なかった。
出すつもりもなかったが……。
呼吸を整えることに精神を集中した。
顔の縫い傷までずきずきしてきた。
「だせえ。何だぁこのオヤジ」
若造のどちらかが、茶化したように言った。
「連れてこい」
へらへら笑っている二人に言い残して、木村が部屋を出ていった。
私は、ようやく息が吸えるようになったところだった。
「立てよ、オラ!」
我に返った赤シャツが私の背中を蹴った。
さっき、私に丁寧な口をきいてしまったのが、口惜しいのかも知れない。
蹴られなくとも、いつまでもこんな小汚い床に寝そべっているつもりはない。
むせながら、膝立ちになった。
「さっさと立てよ。グズグズしてんじゃねえよ」
金髪が私の太腿のあたりを蹴った。
二人とも、早くつれていかないと木村に殴られる、それだけを心配しているようだった。
私もどうにか自力で立ち上がり、両腕を二人に握られて部屋を出た。
似たような光景を昔見たと思った。
ああ、そうだ。
逆だった。
相棒の刑事と二人で容疑者をがっちり掴んで何度も搬送した。
その記憶が蘇ったのだった。
ドアの向こうは廊下だった。
これも防衛の意味だろうか、随分狭い廊下だ。
右と左に別れている。
左を見ると出入り口のようだった。
はめ込んだガラスが明るい。
それとは逆の右に曲がるよう指示された。
突き当たりの一つのドア。
右手にもドア。
突き当たりのドアの前までつれて行かれた。
オールバックがノックする。
「連れてきました」
「そいつだけ入れて、お前らは戻れ」
「うっす」
「失礼します」
元気よく返事をして帰っていった。
私はドアノブをまわして部屋に入った。
これもどこかで見た部屋だった。
懐かしいような息苦しいような感覚が一度に湧いた。
ひとつ呼吸して、ぐるりと見回した。
灰皿しか載っていない事務机。
パイプ椅子が四脚。
格子の嵌《はま》った窓。
一切調度品や装飾などない。
そうだった。
かつての勤務場所。
ここは取調室によく似ていた。
窓を背にして、木村が座っていた。
「座れよ」
私はパイプ椅子をひとつ、机の前に引き寄せて腰をおろした。
どうやらただの土佐犬代わりではなさそうだった。
「それで、もう一度用件を聞こうか」
「その前に……」
それを言っただけで、息が切れた。
「俺は馬鹿じゃない。……いや、馬鹿だが話は通じる。何かというと腹を殴るのはやめてくれ」
木村の唇がニヤリとゆがんだ。
「俺だって、殴る趣味はない。仕事でやっている。さっきは若いモンの前で舐めた口をきくからだ。舐められたままにしては示しがつかない。目下の人間の前で、俺たちに生意気な口をきかないほうがいい。痛い思いが嫌ならな。それに」
蔑むように笑った。
「そうとう手加減してやった」
確かに、手心はくわえてくれたようだ。
だがそれでも普通の人間の力任せとかわらない。
「道理でしょんべんみたいなパンチだと思った」
「ふざけてたことを言ってると、マジで生ゴミにするぞ」
「新藤は、いちいち殴らない」
木村の笑いが消えた。
「あの人のことはほっとけ」
おしゃべりを楽しみに来たわけではない。
本題に入ることにした。
「二宮里奈このとだ」
木村の目が無表情になった。
ただ、じっと視線を合わせている。
「彼女と話がしたい」
何のことかわからないという問答が二度続いた。
「時間がもったいない。大事なことなんだ」
「むりだ」
吐き捨てるように言った。
手は出なかった。
趣味で殴っているわけではない、というのはまんざらウソではないのかもしれない。
「何故? どうして隠す。彼女の証言があれば、高瀬という女の子の無実が証明される。あんたらが興味があるのは本ボシだろう。彼女を出してやってもいいじゃないか」
「お前、あの高瀬という女の何だ」
お前こそ、二宮里奈とどういう関係だ。
と言ってやりたかったが、今はまだ切るべきカードではない。
「特別な関係はない。なりゆきで、三日ばかり泊めることになっただけの清い間柄だ。もう五百回も同じことを喋っている。そろそろ、うんざりしてきたから、全国紙に広告を打とうと思ってる」
木村は睨んでいたが、しつこく追及はしなかった。
「あの高瀬という女がホシじゃねえなら、余計にそんなわけにはいかない。サツはあの女がやったと思っている。その間に本ボシがふらふら出てくるかも知れねえじゃねえか。第一、里奈を証人でサツにあずけるわけにはいかない」
木村の答えは、想像していた通りの理屈だった。
だが、どうしてもいまだに腑《ふ》に落ちないことがある。
「しかし檜山も、俺ひとりで犯人を挙げられるなんて正気で考えているのか?」
「これは本当は秘密だが、教えといてやる、あんまりヤケクソになられても困るからな。新藤さんが、別に興信所を雇って調べている。今、五人くらいはり付いている。聞くところじゃ使える連中らしい」
なるほど、そういう裏もあったのか。
「それで安心した。ところで、最初の話に戻るが、二宮里奈の居所を教えてくれないか。もしくは会えるようにお膳立てしてくれないか」
「むりだな」
「なぜ?」
「命令だ」
木村が無表情に言った。
「誰の?」
「言えるか」
「新藤か?」
自分でも馬鹿ではないかと思う。
あちらこちらで殴られているうちに、そういう意地が身に付いたとしか思えない。
案の定、木村が目を細めた。
「死にたくなかったら、それ以上はやめとけ。新藤さんは会長とは違う。霧駒山なんて呑気なことは言わねえ。二時間後にはコンクリ着てどっかの埋め立て地の土の中だ」
「覚えとく」
「今日来たことは新藤さんにはだまっといてやる。さっさと仕事にもどれ。ぐだぐだ言ってると、お前が何か余計なことを嗅ぎ回っていると報告する」
木偶の坊と呼んだのは悪かった。
図体だけのごろつきとは違った。
しくじらなければ、将来幹部に昇れるかもしれない。
よほど運がよくて、怪我もしないで、妬《ねた》まれず、綱が渡れたら話だが。
「分かった。もう一度話を戻すが、何なら檜山会長に話してもいい。今から話を通してくれ」
「お前も相当しつこいな。俺もさすがに殴るのに飽きた。もうあきらめろ。代わりにひとつ教えてやる。組のモンの間じゃ秘密でもなんでもないからな……」
ニヤリと笑った。
「二宮里奈は会長のコレだ。お前みたいな薄汚い男に会わすわけにはいかない」
そう言って、小指を立てて見せた。
これ以上は無理だろう。
あと一発脇腹を殴られたら、本格的な入院になってしまうかもしれない。
手を変えて出直すことにした。
石渡が誇りと引き替えに手に入れてくれた札は、まだ切らずにおくことにした。
「帰ってもいいか?」
「好きにしろ」
帰りかけて振り返った。
「たった四、五年で、薬売りのボディガードからえらい出世だな」
顔色がすっと変わったが、立ち上がって殴ってはこなかった。
今日は誰か身内の命日なのかもしれない。
出入り口の事務所には、さっきのうすら馬鹿がまだテレビを見ながらソファに身を投げ出していた。
私が入っていくと二人の目つきが陰険になった。
私はかまわず、どかっとソファに腰をおろした。
「木村さんとは、ちょっとした行き違いがあったが、理解しあえた。俺たちはパートナーなんだ。なんなら、きいてみるといい」
そういって、木村のいた部屋のほうを顎でしゃくった。
若いのふたりは無理矢理ピーマンを茶碗に載せられた好き嫌い坊主のような顔をした。
「これからも、仕事の件で何度か顔をだすことになると思うがよろしく」
二人は顔を見合わせるだけで返事はしない。
「しかし、二宮里奈ってのはいい女だよな。会長のナニじゃ、手だしたら命ないけどな」
この馬鹿何を言い出すか、という表情で私を見る。
「お互い、はやく金貯めてあやかりたいもんだよな。おれなんかたまに安ソープいくくらいでせがれがかわいそうでしょうがない」
「下らねえこといってんじゃねえよ」
赤シャツがようやく苦笑いをした。
それを待っていた。
「そうだな。つまらんこと言った」
立ち上がり帰りかけて、思い出したように振り返った。
赤シャツに五千円札を出した。
「そうそう……」
ある名前を口にした。
「あの旦那に小銭借りたんだ。今度来た時でいいから、この中から三千円返しておいてくれないかな。のこりは手間賃だ」
赤シャツがしかめっ面をしながら、手を伸ばした。
「この馬鹿」
金髪スーツが横から止めた。
「待ってろ、木村さんに相談してくる」
金髪が席を立とうとした。
「ま、そうだな。自分で返す。聞かなかったことにしてくれ」
手を出しかけてぽかんとした赤シャツと、中腰でこちらを睨んでいるオールバックを残して、さっさと事務所をあとにした。
30
檜山の事務所を後にして帰る途中、電車の窓から例の陸橋が見えた。
私はひとつ手前の駅でなんとなく下車することにした。
リミットの初七日は明日に迫ったが、もう聞き込みなどする気にはなれない。
ただ、この騒動の始まりになった陸橋に、もう一度行ってみたい気がしただけだ。
通行禁止のロープははずされ、時折自転車に乗った主婦や小学生が通っていく。
久保が地面と衝突した場所にあった花束は何者かに荒らされていた。
酔っぱらいのいたずらか、学生の悪ふざけか、それとも生前恨みを買った女か。
豪勢だった花束は、折れたりちぎれたりした無惨な残骸をさらしていた。
やはりこんな場所に用はなかった。
久保の魂でさえ、いまさらこのあたりに漂泊などしていないだろう。
早く帰って、皆の顔を見たい。
めずらしくそんな感傷的な気分になりかけたとき、歩き出した足がとまった。
ジュンペイは、今日は非番のはずだった。
昨夜の夜勤が最後で、二日ほど仕事にあぶれる、そう言っていた。
その時は深い意味を持たなかったが、今は違う。
ジュンペイに、二宮里奈を捜すのはもうやめろと、はっきり釘をさすのを忘れていた。
今朝、家を出るときはまだ寝ていたが、起きればじっとしていないだろう。
おそらく昨日の続きの探偵ごっこに出かけるに違いない。
私は数秒間、立ち尽くしていた。
自分の馬鹿さ加減に、我を忘れていたのだ。
とにかく、一刻も早くジュンペイを捕まえなければならない。
しかし、どうやって連絡する。
家に電話はない。
石渡が携帯を持ってるが、番号を暗記しているわけではない。
そもそも、すでに家にいない可能性が高いのだ。
里奈のマンション近辺に直接行くのが確実かもしれない。
あのあたりをうろちょろしているはずだ。
やつが元気にしていて、無駄足になったらそれでいい。
ポケットには石渡に借りた治療費の残りがまだ数千円入っている。
私は、最初に通りかかったタクシーを呼び止め、里奈のマンションの場所を告げた。
近くを捜すといっても、当てはない。
とりあえず、警察が来るような傷害沙汰が起きていないかを見回ることにした。
マンションの敷地をぐるりと廻る。
ここは静かなものだった。
次に北へ延びるこぢんまりした商店街に向かった。
コンビニ、スーパー、花屋、パスタ屋、そんなものが並ぶ。
通りを歩きながら交差する道も確かめる。
一ブロック歩いて、反対側をもどった。
異状は認められない。
次に西の道路だ。
商店街はないが三百メートルほど先に全国チェーンの大型スーパーがある。
小走りでその方角へ向かう。
途中の道に異状はない。
スーパーを一周してみたら、一旦家に帰ろうか。
そんなことを考えた。
小走りの足が止まった。
おそらくは、スーパーを立てた時の区画整理で出来た公園だろう。
新しい感じでこざっぱりしている。
公園の脇を通りながらのぞいて、顔から血の気が引くのを感じた。
険しい顔つきをした主婦が公園の隅で立ち話をしている。
どうみてもバーゲン情報の交換には見えない。
しかし、さらに私の動悸が速くなったのは、一仕事終えて後かたづけをしている二人の制服警官の姿を見たためだった。
「何かあったんですか?」
警官に走り寄りながら尋ねる。
「おたくは?」
ブロンズ色の縁をした眼鏡をかけた警官が、作業の手を止めて逆に聞いてきた。
「身内のものを探しているんですが、ここで何か事故でも?」
私の剣幕に圧されたのか、私と同年輩らしきもう一人の警官が、意外に素直に答えた。
「喧嘩だよ。若いのが、二、三人でひとりを袋だたきにしたらしい」
「それで……襲われたほうは?」
足元の力が抜けていくようだった。
どうにか踏ん張りながら、相手の答えが返ってくる一瞬の間に、今度こそとっておきの自分の神に祈った。
もし、命に別状でもあろう時には、正気を保てる自信がなかった。
「あんた、身内の方?」
多少心配そうな表情を浮かべて、年上の警官が聞く。
「被害者の名前は? 怪我の具合は」
矢継ぎ早に言葉が出る。
「名前は……聞いてるか?」
年上が眼鏡のほうに顔を振った。
手帳を取り出しかけた若い警官は、見る前に思いだしたようだった。
「たしか、柳原潤」
相手の警官の顔に焦点が合わなくなった。
「怪我は、命は」
年上のほうが答える。
「命に別状は無いと聞いている。市立中央病院……に搬送された。……あんた、大丈夫か。怪我してるみたいだし、顔色悪いよ」
私の顔を覗くように聞く。
答える余裕はなかった。
「市立中央病院」
それだけ復誦するのがやっとだった。
タクシーを拾おうと駅に向かって歩いた。
こんなときに限って空車が通らない。
駅の建物が見えるほどに近づいてようやく流しのタクシーを捕まえることができた。
病院の名を告げた。
「出来るだけ急いでくれ」
シートに身を投げ出す。
目を閉じ、意識を集中する。
なぜ、このような事態を招いたのか。
もちろん、自分の愚かさが原因なのはわかっている。
しかし、自己批判ならあとでいくらでもできる。
これから自分は何をすべきなのか。
ジュンペイの身を案じながら、ただその一点を考えていた。
31
清算している婦人を押しのけるようにして、受付で大声を上げた。
「二時間ほど前、急患で入った柳原ジュンペイ、いや潤はどこですか」
「いやだ、何」
押しのけられ財布を開いたままの婦人が、聞こえよがしに文句を言っているが、かまっている暇はない。
「入院患者さんのことは、あちらの受付で」
制服を着た病院職員が、左手の窓口を手で示した。
すぐに移動したものの、入院患者用の窓口は無人だった。
一番近くで書類を作成している事務員に同じことを聞いた。
「お待ち下さい……その患者さんは、ええと、412号室……」
慌てた事務員がノートに指を這わせるようにして読み上げる。
最後まで言い終える前に歩き始めた。
「あの、面会時間は……」
背中に声をかけられたが、振り向くつもりもなかった。
入院病棟のエレベーターの前に立て札があった。
面会時間の注意書きがあるが、これも読むつもりはない。
上階へのボタンを、せわしなく幾度も押し続ける。
歩行器を押した老婦人が暴漢でも見るような目つきで脇を通り過ぎた。
中に入って四階のボタンを押し、今度は『閉まる』を押しつぶすほど力で押した。
エレベーターの扉が開くなり、小走りで412号室を探す。
途中、三十代とみえる女の看護師が私を見とがめた。
「あの、面会ですか?」
(わかっている)という風に手をあげて、廊下を進む。
「あの、ちょっと」
看護師が追いかけてくる気配を感じた。
廊下の突き当たりがそうらしい、病院には不似合いな格好をした二人の男が看護師と立ち話をしている。
ちいさな揉め事が近づいてくる気配に、ふたりの刑事はこちらを見た。
ひとりは知った顔だった。
一緒に組んだことがある。
あのころはまだ三十前だったはずだが、いまは四十に手が届く年だろう。
確か平田《ひらた》という名だった。
「あんた……」
平田は、不審者をとがめるというよりは、見知った顔であることに驚いたようだった。
「柳原潤の身内のものです。合わせて下さい」
「面会は、今ちょっと……」
バインダーを抱えた看護師が顔を曇らせる。
押しのけて進もうとしたら、顔を知らない刑事が私の腕を掴んだ。
「ちょっとあんた」
「身内だって言ってるだろう」
握った手を振りほどいた。
刑事の顔色が変わった。
こんなところで揉めている暇はない。
「いいぞ。通してやれ」
平田が相棒に言った。
「え、だって……」
「この人は知ってる。大丈夫だ。但し」
後半は私に言った。
「離れたところで見るだけにして下さい。命に別状はありませんから」
「ありがとう」
平田の目を見返して、部屋に入った。
そこは個室だった。
ベッドの上でジュンペイは目を閉じていた。
よそよそしさを感じるほど真っ白なシーツにくるまって。
起こさないよう、そっとベッドに近寄った。
顔に包帯をまいている。
薄い上掛けのうえに出した左手に包帯がぐるぐる巻きにされている。
見える傷痕はそれくらいだった。
もっと怒りが湧くと思っていた。
激情にかられて、とんでもないことをしでかしてしまうのはないか、と不安だった。
ところが、湧いてきた感情のほとんどは悲しみだった。
ジュンペイをこんな目に遭わせたのは、自分の馬鹿さ加減にほかならない。
ジュンペイの寝顔に(すまん)と謝った。
もう少し寝顔を見つめてから、部屋を出ようと思った。
ジュンペイが目を開いた。
「起こしたか?」
一瞬、宙をさまよった視線が私に向けられた。
「ううん。起きてた。考え事してた」
意外にしっかりした声だった。
腰から下の力が抜けた。
「どうせ、今度の現場の側にある女子校のことでも考えてたんだろう」
「ひどいな、怪我人に」
二人で笑って、二人でそれぞれの傷にしっぺ返しされた。
「いてて」
顔をしかめるジュンペイに頭を下げた。
「すまない。申し訳ない。本当に」
「別におっちゃんのせいじゃないでしょ」
「いや、俺のせいなんだ。俺が人並みの頭を待ってたら、妨げたんだ」
「相変わらず大げさだな。気にしないでよ」
どうやら取り返しのつかない大怪我ではなさそうで、心の底からほっとした。
「具合はどうだ、ジュンペイ」
「なんとか」
休みたいのを承知で、少しばかり取り調べをさせてもらうことにした。
「やったのはどんな奴らだった?」
「刑事さんにも言ったけど、よく覚えてないんだ。公園をとおりかかったら、いきなり頭殴られて、しゃがんだところをメチャクチャ蹴られたから」
「何人いた?」
「たぶん三人」
「デブひとりに痩せ二人か」
「わからないけど、一番蹴ってたやつは確かに太ってたかも」
私に馬乗りになったデブだ。
今度みつけたら、腹の脂を抜きとって、ケツの穴から流し込んでやる。
いやいかん、そんなことを口にしては恭子に叱られる。
「何か言ってなかったか」
「『この野郎』ぐらいしか聞こえなかった」
「襲われたのは何時頃だ」
「昼前、十一時くらいかな」
誰かの指図だとすれば、すでに昨日のうちに命じられたはずだ。
「昨日、どこで何を聞いたか、思い出してくれ」
ジュンペイがいくつかあげた店の名前のなかに、知ったものがあった。
やはり、そういうことだった。
「尾木さん……」
ここ数日、ひとのことを『おっちゃん』などとふざけた名称で呼んでいたジュンペイが、真面目な声で話しかけてきた。
いい予感はしなかった。
「なんだ。若い女に見舞いに来てほしいか」
「違うよ。たいだいそんな知り合いいないくせに。……そんなことじゃないんだけどさ、なんで俺のこと『ジュンペイ』って呼ぶのか教えてよ。この前、恭子さんが注意してくれた時もとぼけてたじゃない。ちゃんと、『潤』って名前があるのにさ」
いやな予感は当たった。
「別に理由なんかない」
「おっちゃん、ホントに刑事だったのか? めっちゃくちゃウソが下手だよね」
「刑事は嘘がうまいのか?」
「この前、石渡さんが言ってた。尾木さんは刑事のくせに嘘が下手だって」
言いそうなことだ。
それだけ元気なら、私のほうでも言いたいことがあった。
「それよりな、その『おっちゃん』というのやめてくれないか。もうこれ以上、何もなくす物はないと思ってたが、その呼び名を聞くと、ホントの最後の最後の糸くずみたいな心のハリがふっとんでいくような気がする」
ジュンペイは、三回クシャクシャと強く目を閉じた。
うれしくてたまらない時の癖だった。
「じゃあ、ジュンペイって呼ぶわけを教えてよ」
「ないない。訳なんかない」
手をふって腰を上げた。
「そんなことより、もう寝ろ。そして早く身体を治すんだな。元気になったら教えてやる」
「うん」
疲れたのか、再び目を閉じ頭を枕に預けたジュンペイに、別れを告げて部屋を出た。
「仇《かたき》をとってやる」
というようなセリフを、ジュンペイは好きじゃないだろう。
私が自分の腹のなかで決めればよいことだ。
ドアの外に、まだ刑事たちが立っていた。
平田と目があったので、話しかけた。
「ホシの目星は?」
平田は、駆け出しのころ合同捜査で、私と組んだことがあった。
何をどう勘違いしたか、本部が解散になる日、私と飲みに行きたいと言いだした。
酒を飲みながら、こちらのケツがこそばゆくなるようなことをいろいろ言っていた。
その時は、どうせ奢《おご》ってもらいたくてお世辞を言ってるのだろう、程度に思っていた。
それはそれで可愛いものだ。
ところが、後に知ったのだが、私が逮捕され裁判が始まると、減刑嘆願の署名を署内で集めようとしたらしい。
係長あたりに窘《たしな》められてやめたらしいが、単細胞な男であることは間違いない。
その平田が、私に声をかけられて、どう対応していいか迷っているのがよくわかった。
平田は正直に答えた。
「いや、まだです。目撃者がいなくて」
「ちょっと」
目配せをして、平田を相棒から引きはなした。
「何です?」
「あっちの石頭にしゃべったら、騒ぎだすからな。ジュンペイ、いや柳原を襲ったホシに心当たりがある」
「えっ」
平田の両方の眉が近づいた。
「近いうちにネタを渡す。かわいがってやってくれ」
「ネタって、心当たりがあるんですか?」
私はシャツをめくって少しだけ中を見せた。
「これをプレゼントしてくれたガキどもだ。絶対に顔は忘れない。居所も見当もつく。だが、今は優先事項がある」
「よくわからないが、見当がつくなら警察にまかせたらどうですか」
「そうもいかない」
警察の一部がからんでいることを、かなりぼかして伝えた。
平田は、私の怪我を見た時より目を見開いていた。
「まだ、聞かなかったことにしてくれ。三人組のやつらは、叩けばほかにもいろいろ出るだろう。今月の表彰は決まったようなもんだ」
「表彰なんて……」
「それより、見張りをつけてやってくれないか。まさかここまで襲うことはないと思うが、万一のことがあると大変だ」
ジュンペイの部屋を顎で指した。
平田は当たり前であるかのようにかるく頷《うなず》いた。
「係長にもそう言って、了解とってます」
ときおりすれ違う看護師に軽く頭を下げながら、廊下を歩く。
入院病棟特有の匂い、音、目につく器具。
ジュンペイと呼び名の由来を聞かれたこともあって、かつて幾度か通った小児病棟の情景を思い出した。
純平は生後まもなく、先天性心疾患であることがわかった。
私が三十二歳の時、結婚して三年目に生まれた初めての子供だった。
今では、正式な病名は忘れてしまったが、心臓から出る動脈のあるべき場所が普通の人と違っているということだった。
その他にも、中隔《ちゅうかく》という名の心臓の壁に穴があいているなど、合併症を起こしていて、重症と診断された。
「なぜ我が子が」
と酒を飲んで恨みの言葉を吐くのは私だけだった。
妻は泣き言を言う代わりに、総合病院、大学病院のハシゴをした。
しかしそれも五つ目であきらめたようだった。
手術して成功する可能性は二十パーセント程度。
それよりも、生活習慣に注意して暮らすほうが延命の可能性が高いといわれた。
私は仕事で帰りが遅いことを、いつも妻に詫びていた。
妻はひとりで重荷を受け止めていた。
私もつらい顔をしていたが、正直に告白すれば、仕事の間は忘れることができた。
妻は、私には気付かせぬようにして自分の両親にも助けてもらっていたようだ。
食べ物、運動、その他日常生活に神経を遣いながら、純平も成長していった。
一歳を過ぎれば片言を話すようになったし、二歳を過ぎると意思の疎通が出来るようになった。
日ごと可愛さを増していく我が子に、私は恐怖を感じるようになった。
あまりに愛情を注いでは、失った時の喪失感を埋めることができないのではないか。
それゆえに、私は余計に仕事に没頭した。
三歳と三ヵ月目に突然それはやってきた。
意識不明の重篤《じゅうとく》な状態が三日間続いて、純平は死んだ。
営利目的の誘拐が結果的に殺人に至った事件が山場を迎えた時だった。
事情を話せば、課長ははずしてくれたかもしれないが、我が子が最期の時を迎えようとしていることを、私は誰にも言わなかった。
結果、危篤の純平にも、最後の瞬間にも立ち会えなかった。
病院からの伝言を聞いてはじめて事情を知った課長が、私に帰宅するよう命じた。
私が病院に駆けつけた時、人形のような顔をして眠る純平の脇で妻は声を立てずに泣いていた。
「遅れてすまない」
私は謝った。
妻は責めもしなかったが、許しの言葉もなかった。
妻はただ、純平だった身体に、何かを謝り続けていた。
私は、けっして純平の代わりにならないことは知っていたが、二人目を作ろうとした。
妻は気が乗らない様子だったが、私が半ば強引に行うと抵抗はしなかった。
愛情というより、義務感、使命感のようなもので関係を持った。
なかなか二人目は授からなかった。
二年後のある日、妻がひどく青白い顔をしていることに気付いた。
「大丈夫か」
と声をかけて、背中にふれようとした私の手を、妻の手が払いのけた。
私は瞬間何が起きたのか理解できなかった。
私に向けられた涙が一杯に溜まった妻の瞳に、憎しみと悲しみが半々に満ちているのを見たとき、私はすべてを理解した。
やがて、妻の口から吐き出された言葉で、それは裏づけられた。
妻は妊娠し、堕胎してきたのだった。
しかもそれは二度目だった。
その日以来、私たちはお互いに指先すら相手に触れたことがなかった。
私が潤をジュンペイと呼ぶのは、死んだ我が子を懐かしがってではない。
日々反省するためでもない。
妻に対する贖罪《しょくざい》でもない。
そしてたぶん、頭がいかれたわけでもない。
それはただ、純平の名は口にするたびに、かつて自分が最低のクズ野郎だったことを忘れずにいることができるからだった。
32
病院の外で探した公衆電話ボックスに入った。
「もしもし」
新藤の声が聞こえた。
「尾木だ」
「昨日は連絡してこなかったな」
「ちょっと取り込み中で電話ができなかった」
「怪我したそうじゃないか」
「誰に聞いた」
派手にやらかしはしたが、組関係の連中は知らないはずだ。
新藤はそれには答えなかった。
これでほぼ確信することができた。
「それに、今日はまだ約束の時間じゃない」
こちらも無視することにした。
「あれはお前の指図か」
「何のことだ」
「なぜ、関係のない人間にまで手を出した。まだ、子供じゃないか」
「さあ、俺は知らん。だが、噂は聞いた」
「どんな噂だ」
「お前たちがうろちょろしてることを、気にいらねえ人間がいるってことだ。しばらく大人しくしててもらいたいんじゃないのか」
「だったら、そう言えばいいだろうが。何も知らない子供に手をかけることはないだろう」
「言えば聞くのか? 俺の想像だが、お前さんにはその方が効き目があると考えたんじゃないか。我が身のことより、他人の心配をするそうじゃないか」
「理由くらい説明しろ。何ならこれから聞きに行く」
「そんなことより」
私の質問になどまったく答える気もなく、新藤は言いたいことだけを言う。
「そろそろ自分の身体のことも考えたほうがいいんじゃないか。行方不明になっても、昔のお仲間に捜索してもらえるのか? いいか、一度だけ忠告しておく。これ以上いろいろ嗅ぎ回るのはやめておけ。会長には俺から報告しておく。適当に入院を延ばして養生してろ」
私は尚、食い下がった。
「どういうことだ、調べろといったのは檜山会長だぞ。これはお前の一存か」
「あのな、尾木さんよ」
新藤の声が一段低くなった。
「勘違いもいいかげんにしておけよ。お前はもうデカでもなんでもねえ、ただのくたびれたオヤジだ。道を歩けるのは明日の初七日が終わるまでだと思え。会長の気まぐれが済むまで、生かしておいてやる」
大声で怒鳴るより凄みがきいていた。
伊達に県下指折りのやくざ組織の幹部はしていない。
あの木村が、新藤の名を出すと借りてきた猫みたいに大人しくなるのがわかった気がした。
それでも怖じ気づいてるわけにはいかない。
私は、通話状態になっていることを確認して、ゆっくり言った。
「償いはさせる。覚えておけ。七年前のことも合わせてだ」
「ふん」
もうひと言かけた時、ツーツーという信号音が流れた。
新藤を怒らせた行為は一つしかない。
二宮里奈の探索だ。
気になるのは、怒っているのが新藤であって、檜山ではない、ということだ。
いや、私とジュンペイに対する暴行の事実すらも檜山は知らない可能性が高い。
新藤の脅し文句が証明している。
これほどふっつり姿を消したことといい、新藤が血を上らせたことといい、二宮里奈には檜山も知らない何かがある。
単に早希のアリバイをしゃべらせたくないだけではないようだ。
大きく深呼吸して、勤務先に電話を入れた。
葬式の後始末で、もう二日ばかり仕事に出られないと告げた。
「わかりました」
いつもは機械よりも事務的に聞こえるその担当者の声が、ひどく人間的に感じられた。
33
七年前の夏のことだった。
村下恭子には、ふたつ年上の夫と一歳になったばかりの男の子がいた。
その日はお盆休みを利用して、車で一時間ほどの夫の実家へ泊まりに行くところだった。
渋滞と暑さを避けるために、一家は朝の五時に家を出た。
比較的道は空いていたし、ドライブは順調に思えた。
インターチェンジすぐ手前の交差点で、信号待ちのために停まった。
そこへ、北川貴弘《きたがわたかひろ》の運転するジープのグランドチェロキーが通りかかった。
北川は朝まで飲んだ帰りで、右側の助手席には愛人同然のホステスが乗っていた。
酩酊の上に、ホステスとじゃれあいながら運転していた北川は、赤信号で停まっている村下家のミニバンに気付かなかった。
チェロキーは時速七、八十キロのスピードを出したまま、ほどんどノーブレーキで追突した。
追突の勢いでミニバンはその前のトラックに玉突きで追突。
二台の車に挟まれる形になった村下家の車は大破した。
後部シートに座っていた恭子は、シートベルトしていなかったこともあり、座席から転がり落ち、前後のシートの隙間の空間におさまった。
バスケット形のベビーシートに寝かされていた長男|諒一《りょういち》と運転席の夫|雅明《まさあき》は、シートや車体に挟まれて身動きのとれない状態だった。
押しつぶされる形となったミニバンの満タンだったガソリンが漏れ、何かの火が引火した。
通行人に、よじれたドアの隙間から引っ張り出され、介抱を受けた恭子が意識を取りもどした時には、ミニバンは元の色もわからないほどの炎に包まれていた。
半狂乱になって、車へ飛びつこうとする恭子を押しとどめるのに、大人の男三人が必要だった。
解剖の結果、夫の雅明は生きたまま焼かれ、赤ん坊は炎に包まれたときには既に死亡ないし心肺停止の状態だったことがわかった。
窓から半分ほど顔を出していたホステスは、頬骨から顎にかけて十二針縫う大怪我を負った。
運転していた北川は背筋を痛めた程度の軽傷で済んだ。
裁判の結果、北川には禁固六月執行猶予一年の判決が下った。
検察も控訴しなかった。
半年後、家族や支援者の励ましもあり、恭子は相手の北川貴弘を民事で訴えると同時に、検察に対し量刑不当で控訴するよう署名運動をはじめた。
北川貴弘の実家は、全国展開する量販店を除けば、県内トップの店数をほこるスーパーマーケットチェーンを経営していた。
北川一族は、金銭補償で恭子側の動きを止めようとしたが、恭子側は受け入れなかった。
弁護士を通じた交渉のテーブルに恭子がつくことがないと確信した北川側は、方針を転換した。
即日、嫌がらせが始まった。
玄関の前に猫の死体が置かれた。
いずこからか飛んできた石で窓ガラスが割れた。
放置自転車が、庭に捨てられた。
無言電話、脅しの電話、どちらもひっきりなしにかかるようになった。
当然、警察に訴えたが、どこで情報が漏れるのか、警察が調べにくる日は、ふっつりと嫌がらせがなくなる。
ただ、ゴミや通話記録などの証拠は残るので、これをもとに相手不詳で恭子が――実際は両親が――告訴した。
そして、あれが起こった。
当時、恭子は家族と住んでいた家を売り、両親と実家で暮らしていた。
恭子が一人で家にいるところを狙われた。
いとも簡単に鍵をこじ開けて、三人の男が乱入してきた。
生まれてこのかた、殴り合いの喧嘩すらしたことのない恭子には、護身の術はなかった。
あっという間に裸にむかれ、三人に交互に犯され、写真を撮られた。
「自分たちは北川とは全く関係ない人間だ。お前らが死んだ人間をダシにして、補償金をつり上げようとしているのに義憤を感じて、天誅を加えにきた。即刻、署名運動その他あらゆる嫌がらせをやめないと、写真を大量にばらまく」
男たちはそう脅して帰った。
帰宅した恭子の両親は、半裸のまま座り込んでいる恭子を発見して、あわてて警察に通報し、救急車を呼んだ。
三人の犯人はつかまらず、当然北川との関係も立証できなかった。
恭子の関係者は涙をのんだ。
近所の電柱に引き延ばした写真を貼られても、恭子本人だけが、ほとんど表情を変えなかった。
治療をうけて、恭子の身体に傷痕は残らなかったが、心は元へ戻らなかった。
恭子は、ふらふらと町中を歩き回り、スーパーで万引きするようになった。
北川家が経営するスーパー以外でも、似たような店構えのスーパーでは万引き騒ぎを起こした。
幾度か警察にも通報されたが、さすがに事情を知る警察側は穏便に済ませるように計ったらしい。
その一年後、光宮の繁華街を歩いていた恭子は、襲った三人組のうちのひとりを偶然見かけた。
男はつけられていることに気付かないまま、パチンコ店に入っていった。
男が入っていった店を確かめた恭子は、金物店で包丁を買い、パチンコ店にもどった。
男の隣の席が空いていたので、そこに座った。
恭子が包装を解き、箱から包丁を取り出した時、初めて男は異変に気付いた。
悲鳴をあげて、腰を浮かしかけた男の脇腹に、恭子の持った包丁が刺さった。
盛り場の事件でもあり、派手に血が流れたので、一時騒然となった。
男は一命をとりとめた。
当時県警にいた私は、事件の担当者として現場に向かった。
この時が、恭子との初対面だった。
ほとんど興奮する様子もなく、幾人もの男たちに取り押さえられて座っている。
血まみれの彼女を見た時、すぐに精神が病んでいることに気付いた。
刺された男は私が事情聴取をした。
一連の出来事の中で唯一恭子に幸いだったのは、刺した相手が一番根性のないちんぴらだったことかもしれない。
最初は恭子を襲った事実を否認していたが、「正直に吐かなければ、今後何年経とうとお前の居場所をあの女に教える」と脅したところ、あっさり吐いた。
二週間後の退院を待って逮捕した。
他の二人も身元が割れ、相次いで逮捕された。
しかし、なんとしても北川との関係は認めようとしなかった。
北川貴弘は恭子の錯乱に恐れをなしたのか、『留学』と称してアメリカへ逃げた。
私も含め、村下一家にまつわる経緯を知る刑事は悔しがった。
それにしても、北川貴弘より先に私が刑務所に入ることになったのは皮肉なものだ。
その後の様子も、刑務所の中で人づてに聞いた。
後継ぎとされていた貴弘がアメリカで遊び回ったためか、事件の与えたイメージが多少影響したのか、北川チェーンは売り上げが落ちつづけた。
ついに、会社更生法の適用を申請したが、もともと、乱暴な同族経営をしていた北川チェーンは、ほどなく倒産が確定した。
北川貴弘自身の消息を知ったのは、出所後のことだ。
実家が倒産した後も、アメリカに残った貴弘は、麻薬売人逮捕劇の現場に居合わせて、一緒に逮捕された。
私選弁護人を雇う金はなく、裁判で二年の実刑をくらった。
とばっちりとも言えるが、それこそ自業自得だろう。
アメリカの刑務所の中で、尻が痛む度に恭子のことを思い出すよう、願った。
恭子が警備員と悶着をおこしている現場にでくわしたのは、そのニュースをきいてまもなくのことだ。
心神|耗弱《こうじゃく》が認められ、数年の入院だけで実生活に戻ったあとも、北川のスーパーを連想させる構えの店を見ると、万引きしてしまう衝動が抑えられないようだった。
物陰に腰掛け、身の上を聞き出すと、恭子の実家が悲惨な状態に陥っていることもわかった。
心労から、父親は脳梗塞で倒れ、しかし命はとりとめた。
中途半端な悲劇には救いがない。
看病で疲労|困憊《こんぱい》し、次に母親が倒れるのも時間の問題である家を出て、恭子はひとり暮らしをしていた。
父親を施設に入れる手続きをしてやり、恭子を引き取ることにした。
我が家には、当時すでに二人の居候がいた。
もうひとりぐらいふえてもどうということはない。
四人で暮らすうちに、能面のようだった恭子の顔つきが、次第にほぐれてきた。
軽口もきくようになった。
万引きもしなくなったようだ。
意外なことに、早希が現れてからの三日ほどは、驚くほど饒舌になっていた。
決して食べる人のいないご飯茶碗をふたつ、テーブルに並べる習慣は直らなかったにしてもだ。
ところが、久保の事件が起きて早希が逮捕された日から、夏の日の残照が一気に燃え尽きるように、いつの間にか恭子の顔から明るさが消えた。
破れたバイエルの教本は痛ましかった。
以前恭子にいきさつは聞いたことがある。
恭子が普通に幸せだったころ、気の早い夫が出産する前から「子供にピアノを習わせるんだ」といって買ってきたのだそうだ。
夫の親ばかぶりにあきれて大笑いしたと言っていた。
恭子の数少ない宝物のひとつだったはずだ。
恭子の笑顔を取り戻すために、昔のことは封印して二度と日のあたるところへ持ち出さないつもりでいた。
だが、私のていたらくのせいで最後の家族が次々と傷ついていく。
当時事件に直接関わった人間たちのほとんどは、なんらかの形で罪を償うことになった。
その中にひとりだけ、涼しい顔をして切り抜けた男がいた。
証拠不十分で、起訴はおろか逮捕状さえ執行されなかったが、北川に頼まれて恭子を襲った連中を操っていたのは、あの新藤拓郎だった。
当時からすでに中堅幹部だった新藤は、二つ返事で引き受けると組の若いものを使って襲わせた。
証拠がなかった。
実行した三人も新藤を恐れて、幾ら責めてもその名は口に出さなかった。
間もなく、新藤のしっぽを捕まえる前に、こちらが塀の中へはいるハメになった。
恭子の心の病には、事件を思い出させないことが一番よいと思っていた。
私も当時のことを、口に出した覚えはない。
新藤と再会した後も、七年前の出来事を極力考えないようにしていた。
新藤の目に浮かぶ(腰抜け)という蔑視にも耐えた。
それももう、限界かもしれない。
家に戻ってリビングに顔を出したとき、恭子と目があった。
すでにジュンペイの怪我のことは聞いているようだ。
石渡の事件と続けて起きたのでショックだったかもしれない。
すっかり、初めて出会ったころの表情に戻ってしまっている。
私を責めるなと願うことは勝手すぎるだろう。
私は、無感動にこちらをじっと見つめる恭子の存在に、立っていられないほどの脱力感に襲われた。
許してくれ。
だが、もうすぐケリがつく。
ほんとうだ。
そのときこそ、自分の思いを伝えよう。
34
近川に連絡をとるため、署に電話を入れた。
一度「もう少し待ってくれ」という返事をもらったきり、話がついていない。
放火殺人のヤマが忙しいのかもしれない。
電話口に出た男から「近川は不在」という素っ気ない返事が返ってきたので、電話のあったことを伝えてくれるよう頼んだ。
折り返しの電話を頼めない生活が不便だった。
空を仰いだ。
ずいぶん久しぶりのことだ。
悲しみの虹を探したわけではないが、何かましな道標《みちしるべ》がみつかりそうな気がした。
晴れ渡ったとは言いがたい空に、うす寝ぼけた雲が浮いていた。
仕方なく、その雲に相談してみた。
自分がしようとしていることを、純平はどう思うだろう。
『すきにやればいいだろう。どうせぬかるみの道だ』
雲がそう答えたような気がした。
時計を見る。
午後四時を十分まわったところだ。
もう一仕事やっつけるには充分すぎる時間がある。
およその所在地と名前を告げる。
「ご利用ありがとうございました」のあとに続く機械音が番号をはきだした。
「もしもし」
やや警戒心を含んだ声の主が出た。
間違いないようだ。
「尾木といいます。菊池隆一郎《きくちりゅういちろう》さんはご在宅でしょうか」
「どういったご用件でしょう」
「会って話したいことがあります」
「用件は?」
「それは、本人に」
「もう一度お名前を」
「尾木遼平。以前お世話になりました」
いきなり保留音が流れた。
一分ほど待たされて相手が戻った。
「五時半に来られますか」
時計を見る。
まだ一時間以上ある。
間に合うだろう。
「わかりました。うかがいます」
ふたつの隣の市まで電車に乗り、駅前の案内所で聞いてバスに乗った。
テレビドラマに出てくる、腹黒い政治家の住む屋敷のようだった。
力強い文字で『菊池』と書かれた表札で確かめる。
家は間違えようがない。
住人が替わっていないかだけ確かめたかった。
インターホーンを鳴らす。
「はい」
割れた男の声が流れた。
「先ほど電話した、尾木というものです」
少しの沈黙。
「お待ち下さい」
ぶつっと回線の切れる音がした。
門の上部に目をやると、太い旧式の梁《はり》に不釣り合いな監視カメラが据えつけられていた。
こちらを確認しているのだろう。
随分待たされた気がしたが、煙草でも吸っていれば一本分くらいの時間だったかもしれない。
唐突に通用門があいた。
出てきた男は、意外にもダークグレーのスーツを着込んでいた。
ここ数日見飽きたような、原色のシャツの胸元から金の鎖が覗いているスタイルを想像していたので、いくらか拍子抜けした。
(まさか堅気になったんじゃないだろうな)とっさに思った。
「お一人ですか」
男が軽く会釈して聞いた。
電話の声の主らしい。
顔つきも普通のビジネスマンのように平凡だったが、目は隠しようがない。
心配はいらないようだ。
その鋭い目をあえて見返しながら、答えた。
「そうです」
「こちらからどうぞ」
男は顔をかるく振って、通用門から入るよう促した。
門をくぐる時に、筋肉が強張った。
しかし、いまさらどうなるというものでもない。
誰かに殴られることもなく、羽交い締めにされることもなく、中に入ることができた。
案内役の男が後ろから入ってきて、門を閉めた時、汗がひと筋背中を伝った。
「それで、ご用件は」
「本人に直接でなければ話せない」
電話と同じことを繰り返した。
男は私の顔を覗いたあと、ひとわたり身体を目で舐めた。
私のカンでは、中に通すかどうかの判断を一任されているようだ。
物腰といい、使い走りではあるまい。
見たところ三十を少し越えたくらいだ。
よほど信頼されているのか。
「調べてもらっていいが、何も持っていない。できるだけ早く話がしたい」
男はうなずいて、歩きかけた。
「こちらへ」
私は男のあとをついて小石を敷き詰めた道をあるいた。
柘植《つげ》や椿、楠などが鬱蒼《うっそう》と茂っている。
手入れは行き届いていた。
玄関の引き戸を開けると、土間に三人の男が立っていた。
三十前後がふたり、私と同年代がひとり。
いずれも、ひと目でそれとわかる堅気ではない身なりをしていた。
私が入った瞬間は、彼らの緊張が伝わってくるようだったが、私の後ろから案内役の男が顔を覗かせると、三人は半歩ずつ身体を引いた。
ぴかぴかに磨き上げられた廊下を進んで、案内された部屋は十畳ほどの応接間だった。
建物に似合わず、フローリングにソファセットがおいてある。
そこに菊池隆一郎は座っていた。
険がとれたように感じたほかは、七年前とあまり変わっていない。
和服を着て夕刊を読んでいる。
目の前には灰皿とコーヒーがあった。
菊池は新聞から目をあげ、私に続いて案内役の男にすわるよう手で示した。
私は向かいのソファに腰をおろし、男は菊池の右脇にある腰掛けに座った。
すぐに立ち上がれるような背の高い簡素な椅子だった。
「久しぶりです」
軽く頭を下げた。
やくざといえども向こうが紳士的に振る舞う限り、こちらも礼儀はわきまえないとならない。
無駄に粋がってみても何も生まれない。
菊池は相変わらずのかすれ声をしていた。
若い頃、喧嘩で声帯を痛めたと聞いた。
「これはめずらしい。ほんとに尾木の旦那だ。いや、何かの間違いかと思いましたな」
最後に、ははあ、と独特の笑い声をあげた。
「それで、どんなご用で?」
すっかり気のいい爺さん風だが、やはり目つきはごまかせない。
檜山組と拮抗する県下有数のやくざの組長だ。
菊池組は、硬派で鳴っている。
檜山のように、儲かることは何でも手を出すという主義ではないので、シノギは厳しいと以前聞いた。
懐具合の割りに、躾が厳しいので構成員数も右肩下がりらしい。
「ちょっと、込み入った話なので」
ちらりと視線を脇の男に向けた。
男は別段怒る風でもなく、座っていた。
自分を軽く見られて、怒りを表に出さないのはやくざにはめずらしい。
「これは心配ない。というより……」
菊池が、どっこいしょ、と声をあげて、埋もれていたソファから半分身を起こした。
「俺も最近ぼけてきたんで、これがいないと困るありさまだ。義理の弟の甥っ子なんだが、東京の大学出てたのにこんな所で働いている。なんでも俺が死んだ後、組を乗っ取って近代化するのが狙いらしい」
「私はそんな……」
はじめて男の顔色がかわった。
「ははあ。ごまかさんでいいよ。顔にそう書いてある。俺もそれでいい。もともと俺一代で終いにしようと思っていた。こんなにしんどい商売はないからな。いつでもお前にくれてやる。それよりな、そんな簡単に顔色変えてちゃ舐められるぞ」
「申し訳ありません」
男が頭を下げた。
菊池が顔を私に向けて続けた。
「ま、そういうことだ。名前は辻隆介《つじりゅうすけ》。隆の字は俺の一字を継いでくれたんだ。オシメしてたガキのころから、可愛がってる。俺には娘が二人いたが、堅気に嫁いでいる。今も言ったように、この組も俺の代で終わりだと思ったが、この若い物好きが現れたもんでな。以後ひいきにしてやって下さい」
最後に菊池が頭を下げた。
「お見知りおきを」
と口の端に苦い笑いを浮かべた辻も頭を下げた。
時間がないので、適当に挨拶をすませて話を進めることにした。
「前置きぬきでいきます。檜山組長の甥っ子が死んだのはご存じですか」
「ああ、知ってるよ。葬式も出た。明日は初七日だろ。少しぐらいは包まんとならん。金がかかってしょうがない」
菊池が、参った、という表情を浮かべた。
強面だが、どことなく愛嬌もある。
「その久保を殺した犯人として警察が高瀬早希という女を逮捕しました」
菊池は黙って聞いている。
「この高瀬という女は無実です。それを証明できるのが、その時一緒にいた二宮里奈という友人です。檜山会長の女です」
「それで?」
既に、すべて知っているようだった。
「二宮を捜しているのですが、みつからない。どうも、組ぐるみで隠しているらしい。特に幹部の新藤がムキになっている」
新藤という言葉がでた時、辻の表情が硬くなった。
菊池が言うように、そこだけは修行が足りない。
「それで。俺に用とは」
菊池が煙草に火をつけた。
辻は、ライターをとるどころか、ちらりと煙草を睨んだ。
喫煙に反対なようだ。
私は次第にこの辻という男が好きになった。
「二宮里奈の居所を教えて下さい」
菊池と辻が顔を見合わせた。
辻の表情は硬かったが、菊池の顔はほころんでいた。
「こりゃ面白い」
やや身を乗り出して、菊池が言った。
「檜山の女の居所を、俺に教えろと?」
「はい」
「檜山に直接聞いたらどうだ」
「私は今、檜山に雇われています。金と命が代償です。檜山にはわからないように会いたい」
「無茶苦茶だな」
ここ数日の間に、何度その言葉をきいただろう。
「無茶は承知です。しかし、檜山の女の居所くらいはお宅でも掴んでいるでしょう」
相変わらず菊池はニヤニヤ笑っている。
「そりゃ知らんこともないが、何故俺があんたに教える義理がある」
「いや、義理はない。だからお願いしてます。礼金も家の整理がついたら、多少は払えるでしょう」
ははあ、とますます愉快そうな菊池のかすれ声が響いた。
辻は無表情に聞いている。
「金なんかいらない。何故知りたい? それに仮に教えたとして、どうなる? ウチにどんな得がある?」
「二宮と話ができたら、一つにはさっき話した高瀬という女の無実を証言してくれるよう頼みます。もう一つは、新藤がなぜそこまでムキになって二宮を隠したがるのか探ります」
「ほお」
煙をふーっと吹き上げた。
不機嫌そうだった辻が口を挟んだ。
「社長、一日五本の約束です」
「いいじゃないか。なんだか面白くなってきやがってな。明日一本減らしゃいいだろう」
辻はあきらめたように首を振った。
菊池はお構いなしに煙を吐きながら話の続きをした。
「後で、お前さんに手引きをしたのがウチだとばれたら、抗争になるぞ。うまみはひとつもないな」
「もし二宮の存在が新藤の弱みだとしたら、あんたたちにも面白いんじゃないですか」
「弱み。どんな弱みだ」
「それはまだわからない。だいたい想像はつくが……それについてはあなた方のほうが詳しいでしょう」
菊池は返事をしなかった。
辻の瞳が興味の色を帯びたように見えた。
辻が菊池の耳元に顔を寄せて何か話した。
菊池の表情からは内容は読みとれない。
さすがに狸オヤジだ。
菊池が短く言葉を返す。
辻がそれについて説明する。
そんな会話のようだった。
二分ほど会話は続いた。
「わかった。まかせる」
最後に菊池が言った。
「この先は、俺は知らんことになってるほうが、いいそうだ。新聞の続き読んでるから、二人で話してくれ。いいか、俺は聞いていないからな」
「結構」
私は辻に顔を向けた。
菊池に代わって辻が話しかけてきた。
「居場所がわかったら、どういう手を使って会うつもりですか」
「いくつか考えはある」
嘘だった。
なんとかひとつひねり出すのが精一杯だ。
辻は軽くうなずいただけで、それ以上追及しなかった。
彼の問題ではなく、私の問題だからだろう。
「こちらの条件をいいます。ウチは表に出ない。場所を教えるだけです。そちらは、女に会って何か掴んだら、ウチにも情報をまわして下さい。もしくは、できるなら檜山組をかき回してもらいたい。混乱するほどいい。警察にタレ込んでもこちらはかまいません」
「かき回す?」
「そう、しばらく統制が乱れるくらいに。その材料も今から話します」
「ちょっと待った。俺をそんなに買い被らないでくれ。小説に出てくるようなハードボイルドな探偵じゃないんだ。新藤の顔色を窺《うかが》いながら、ゴキブリみたいにこそこそ逃げ回るのが関の山なんだぞ」
「ひとりでこんなところまで乗り込んでくる図々しさがあったら、大丈夫でしょう。それに、取引というのはお互いに給付しあうものではありませんか?」
面白い男だ。
石渡と三人で飲んでみたい、と思ったが口には出さなかった。
余計なことを言っている場合ではない。
私の沈黙を、辻は承諾と受け取ったようだ。
「新藤は、最近気になる動きをしています。それも檜山会長に隠れての活動らしい。先日、嫌な噂を聞きました。広域指定西南会系の高端《たかはた》組の幹部と会ったという情報です。その一週間後、出所の不明なシャブやコカが流れ始めました。今まで、他から流れてきていたのとは別なルートです。まだ量が少ないので、警察も感づいていないはずですが」
私は口を挟まず聞いていた。
「もともとは、街金で流れた車や、抵当でがちがちの不動産をさばくのが新藤の商売です。二宮という女は、新藤がいくつか押さえているマンションのひとつにいます。表にはほとんど出ません。玄関先に組の若い者が貼りついていますが、目立ちすぎても困るので、夜中の十二時ころには引き上げます。そのマンションまでお連れします。出来るのはそこまでです」
至れり尽くせりじゃないか。
眉を少しあげて先を促した。
「先ほども言いましたが、何があっても絶対に菊池の名前は出さないで下さい。抗争は好むところではありません。仕掛けるなら圧倒的に有利になってからです」
「わかった。何があろうとしゃべらない」
(どんな拷問にも音をあげたことはない)と言ってやろうかと思ったが、余計なことはやめておいた。
「もうひとつ。薬の件で何か掴んだら、教えて下さい。警察より先に」
「できるだけ、そうしよう」
辻は私の表情を見て何か計算しているようだったが、それ以上は条件を出さなかった。
この男が、本格的に菊池組を切り盛りするようになれば、いずれ檜山組を凌ぐこともあるかもしれない。
願わくは、女子供をなかすようなシノギには手を出さないで欲しい。
「おう、話は終わったか?」
菊池が新聞から目を上げた。
「どうだ。ビールでも持ってこさせようか?」
普通の爺様然としている。
「せっかくだが」
私は自制心を総動員して断った。
「ちょっと待っていて下さい」
辻が、部屋を出ていった。
手持ち無沙汰になった菊池が、新聞を置いて世間話のように聞いてきた。
「今は何を?」
「交通整理や、檜山の雇われ探偵など」
ははあ、と笑う。
「どうだい。ウチで働く気はないか。少しはいい目を見させるが」
有り難いが断った。
昔、駅前でやくざ同士の喧嘩があった。
交番の警官が割って入って、逮捕しようとした。
当夜、たまたま地取りの途中で、私もその交番に立ち寄ったところだった。
「この程度で逮捕してみてもしかたない。説諭して帰してやれ」と指示した。
警官にしてみれば面白くないだろう。
(横から口を出すな)というところだ。
私はかまわず、「今度この辺りで騒いだら、ぶち込むぞ」と脅して帰した。
深い理由はない。
その時はそんな気分だった。
疲れていたのかもしれない。
数日後、どこで調べたのか自宅に高級ウイスキーが届いた。
菊池の組の人間からだった。
私は、貰ったのよりも少しだけ高いブランデーを送り返した。
後になって事情を知った。
追い返した若造の中にひとり、堅気がいた。
県会議員の道楽息子だ。
菊池組幹部の息子と同窓生だった県議の倅《せがれ》は、時折受ける接待に、舞い上がってしまった。
自分が大物であるかのように錯覚した。
父親とのつき合いの手前、菊池組の若い者に酒と女を適当にあてがわれた遊興が身についてしまったらしい。
その夜もご乱行《らんぎょう》の帰り道、すっかり気の大きくなった倅が他所《よそ》の組の若い者に因縁をつけた。
留置場《トラバコ》にでもお泊まりになれば、大変なスキャンダルだ。
預かっていた菊池の面目は丸つぶれだ。
組長も後で聞いて、さぞ肝を冷やしたことだろう。
後日、その一件とは別に本格的な出入りがあった。
参考人として菊池本人も呼ばれた。
その時のはじめて署で顔を合わせた。
初対面の菊池が、私を見つけて深々とお辞儀したのを覚えている。
勘違いも甚《はなは》だしい。
もし、県議の倅がまじっていると知っていたら、警官の尻を叩いてでも、ぶち込んだものを。
思い起こすも腹の立つ出来事だった。
しかし、恭子一家の事件の折、数少ない情報源のひとつが菊池だった。
檜山のところの新藤が絡んでいると知って、日頃多少はつき合いのあった連中もすっかり口を閉ざした中で、皮肉なものだった。
間もなく、辻がスーツケースを持って戻った。
中から携帯電話をひとつ取り出した。
「使い方は?」
首を振った。
辻はうなずいて、しばらくボタンをカチカチ押していた。
「このまま持っていって下さい。万一、新藤が奴のマンションを出たら合図します。新藤のマンションから二宮の所までは車で十二、三分。深夜だと十分そこそこかもしれない。そのときは至急退去してください」
私は携帯電話を受け取り、秘境に向かう冒険家が発信機を仕舞うように、胸ポケットにそっと入れた。
35
黒いブルーバードに乗せられて、菊池邸の門を出たのは十二時五分前だった。
「十分もあれば着きます。見張りの連中も飽きてきて、近頃じゃ早めに上がるようになりました。おそらくもういないでしょう」
「本人が寝てることは?」
「絶対ないとは言えませんが、何度か見張ったウチの者の話では、部屋のライトが消えるのは二時ごろだそうです」
今は信用するしかない。
「あれです」
程なく道路の前方に見えたマンションを辻が示した。
念のため、一度前を通り過ぎひと回り廻って、手前で車を停めた。
「私のお手伝いはここまでです。あとはお手並み拝見です」
「いろいろとありがとう」
多少は感情を込めたつもりだったが、辻は表情を変えず走り去った。
その建物は、蔵元町にある二宮が住んでいるマンションに劣らず高価な感じの造りだった。
エントランスには当然のごとくオートロックが掛かっている。
事実を話すしかない、と初めから決めていた。
聞いていた部屋番号308のインターホンボタンを押す。
ゆっくり十秒待った。
返事がないのでもう一度押そうとした時、さーっという雑音が流れて、回線が繋がったのがわかった。
「はい」
気だるそうな声が返ってきた。
しかし反応の時間からすると寝ていたわけではなさそうだ。
「やぶんすみません。高瀬といいます。高瀬早希の父です」
家族は遠くにいる、とだけ聞いていた。
生死も確かめておけば良かったと後悔したが、いまさら仕方がない。
「ほんの少しでいいので、お会いして話を聞いていただけませんか」
インターホンに向かってそれだけ言うと顔をあげた。
カメラで見ているだろう。
人畜無害のお人好しに見えることを祈った。
「ちょっと待ってください」
声の主がそう言うと、ぶつっと回線がきれた。
非常に永い五分だったように思う。
もしかすると新藤に連絡しているのではないか。
そう思うと、胸の携帯電話がビリビリ震えているような気がした。
辻の配下の人間が見張っているはずだ。
今はそれを信じるしかない。
「どうぞ」
という声に続いて、小さな音を立ててロックがはずれた。
36
部屋に漂っているのは香の匂いだろうが。
彼女は話に聞いていた以上に、人目を引く女だった。
ガラスのテーブルを挟んだ向かい側のソファに座り、スリットの入った黒いタイトスカートをはいた長い脚を組んだ時、二宮里奈自身からもきつい香水の匂いが流れた。
一度見てしまうと、視線を引き剥がせない脚だった。
短く切った髪。
瞬きのときに音を立てそうな大きな目。
薄く長い唇。
鼻だけはおまけのように顔の中心に小さく収まっている。
透き通るように白い耳には小ぶりのピアスが揺れている。
白地に派手な花柄をプリントしたシャツをラフに羽織っている。
下に着けている黒いシャツがだぶだぶな割りに丈が短く、可愛いヘソが見える。
胸元も開いているので、前かがみになった時にはあまり大きくない胸の膨らみが見える。
すぐに視線をそむけたので、それ以上のことはわからない。
気をまぎらわせようと、しばらく壁のリトグラフをみていた。
「それで。何です?」
「こんな非常識な時刻に申し訳ありません」
「まだ、寝る時間じゃないから、いいわ」
投げやりというのか、無関心というべきか、他人事《ひとごと》のように言う。
「何か飲む?」
同じ調子で聞いてくれた。
見た目の怜悧《れいり》さとは違った、やや間延びしたようなしゃべり方だ。
「とんでもない。どうぞ、お構いなく」
女は安心したようにうなずいて、煙草を取り出した。
緑色と銀のパッケージのフィリップモリスだった。
光っている薄い唇の間に煙草が心地よく収まった。
私は用件に入ることにした。
「随分捜しました」
「それで、何の用でしたっけ?」
ふーっと天井に煙を吐く。
その視線は私を見ているようでもあり、身体を突き抜けてずっと後ろの亡霊を見ているようでもあった。
「久保裕也が陸橋から落ちた時間に、早希と一緒にいたことを証言していただけませんか。当然、彼女が突き落としたんじゃないことを警察に証明して下さい」
「どうして?」
どうして、と聞かれて返答に困った。
どうして盗んではいけないの。
どうして殺してはいけないの。
どうして助けなくてはいけないの。
どうしてどうして。
ここで逆上しては苦労が台無しだ。
仕方がないので、ありのままに答えた。
「早希が、久保を突き落とした容疑者として逮捕されました。あなたが証言してくれれば、釈放してもらえます」
眉間に皺を寄せて考えている。
私は石渡の言葉を思い返しながら女の顔を観察した。
「警察にいくの?」
お茶を飲むか、と聞くの変わらない口調だ。
もし、目の前に銃があれば、顔色を変えずに引き金が絞れるかもしれない。
「娘の友人じゃなかったんでしょうか」
「そりゃ友達だけど、警察はいやよ」
抑揚のない間延びした喋りが、次第に私をいらいらさせた。
「別に証言したからといって、あなたが困るものではないんじゃないですか」
「だって、やなんだもん」
投げやりに言う。
さっきから、時折咳き込んでいる。
「風邪ですか?」
間を置くために聞いてみた。
女は、返事のかわりに面倒くさそうに首を横に振った。
「喉のためには煙草はやめたほうがいいですよ」
目で、二宮の指先の煙草を示した。
「癖なの。それよりなんの話だっけ?」
刑事時代を思い出した。
完全黙秘《カンモク》はいつか落ちる時がくるが、のらりくらりピントがずれているのは、話しているだけで体力を消耗する。
しかも、そのずれが意図的でない場合はかなりの忍耐力を要求される。
「警察で証言しても、二宮さんに不利は無いでしょう」
「あなた、早希のお父さんじゃないでしょ」
比較的落ち着いて聞くことができた。
最後まで騙《だま》せるとは思っていなかった。
父親と名乗ったのは、まず部屋に入ることが目的だったからだ。
「正直に言う。私は、早希が転がり込んで三泊した家の主だ。尾木という」
「やっぱり、そうじゃないかと思った。早希からハナシ聞いてたから。あの子、ファザコンなのよね。恐い顔してるのにほんとは優しい、とかいうおじさんが好きなのよ。かなり歪んでるわよね」
君ほどには歪んでいないだろう、という言葉は呑み込んだ。
「正体を暴露したところで、もう一度頼む。証言してくれないか」「『行くな』って言われてるの」
「会長に?」
「それもあるけど」
「新藤?」
「まあ、そんなとこ」
私は、なんとなく落ち着きのない里奈の瞳に視線を据えたまま言った。
「留置所か刑務所に入ったことは?」
「あるわ。サツのなんとかカンゴクってとこ。最低。暑いし」
「彼女はもう五日もあの中にいる。出してやろうとは思わないか。友達なんだろう?」
再び同じことを繰り返した。
彼女は自分の膝あたりに視線を落としたまま、考え込んだ。
スカートの上についたゴミが気になるのか、しきりにつまんで捨てている。
「そりゃ友達だけど、……でも、私が怒られるし、恐いのよあの人。それにね、ほっといてもそのうち釈放されるから心配ないって……」
「それも新藤さんか?」
里奈はあいまいにうなずいた。
否定とも肯定ともとれる仕草だった。
突然、ぷいっと立ち上がり、キッチンの方へ歩いていった。
日本語の書いてないミネラルウォーターのペットボトルを二本ぶら下げて戻った。
一本を私の前に置き、もう一本のキャップをあけるやいなやごくごくと飲んだ。
白い喉が動くのをみていた。
五百ミリリットルボトルの半分近くを空にしてようやく落ち着いたようなので、私は続けることにした。
「君たちはどういうきっかけで檜山や新藤とつきあいができたんだ」
「そんなことしゃべっていいのかな……。まあ、早希が信用していた人だし……」
斜めの視線を私に向けた。
これに参った男が何人いたのだろう。
私も、目の前のミネラルウォーターで喉を湿した。
「私、ある仕事の手伝いをしていたの。薬をね、運んだの。麻薬とかじゃなくて、ちゃんと医者でくれる薬だって聞いてたから、悪いことだって知らなかった。そしたら、警察に捕まって、カンゴクに入れられたの。初めてだからって起訴されなかった。出てきたあと、知らない人が来て、『迷惑かけましたね』って食事おごってくれたの。それが新藤さん。そのあと、新藤さんに社長さん紹介してもらって、お店もたせてもらった。その代わり……」
二宮が言いよどんだ。
「夜の相手をさせられた」
「うん。社長さんて、あんまり元気ないのにシツコイの。私ちょっとイヤ」
「それは大変だね」
話を戻すことにした。
「ところで、さっきのこと、怒られなかったら証言してくれるか?」
「そうねえ、考えてみる。……あなた! その顔どうしたの?」
今さら気付いたように目を見張っている。
「転んだんだ」
里奈はあはははと口を開けて笑った。
「ドジね。死んじゃえばよかったのに」
「自分でもそう思ってる」
あははは、と更に気分良さそうだった。
「それはそうと、新藤さんがうらやましいね、こんな美人と」
普段、称賛を受け慣れてる女は、これくらいではお世辞とは思わないらしい。
あっさり白状した。
「あのひと、ちょっと乱暴なの。それにすぐ怒るし。でもね、優しいところもあるのよ。信じられないでしょ」
「信じられないね。人が殴られるのを見るのが趣味だと思ってた」
「ホント」
無邪気に笑っている。
新藤も危ない橋を渡ったもんだ。
会長に進呈した女に手を出すとは。
よほど好みのタイプだったのか。
いろいろ具合が良かったのか。
「薬は新藤さんがくれるのかい?」
ゆるんだ鎧《よろい》の隙間から、匕首《あいくち》をつき立ててみた。
奥までは刺さらなかった。
里奈が急にしかめっ面になったので、顔の下半分が笑ったままで目だけが険しい。
ちぐはぐな表情になった。
「知らない。何のことかわからない」
「ごめんごめん。タブーだった。ついうっかりした」
「あの人、怒ると怖いわ」
中空を見つめている。
恐かったできごとを思い出しているのかもしれない。
「最後にひとつ教えてもらえないか」
「なあに。私、少し眠くなっちゃった」
「早希は、何故美人局なんかやる気になった」
「ツツモタセ?」
「女が、行きずりの男といちゃつく。丁度いい場面になったところへ彼氏が現れる。『お前、俺の女に手をだしたな。落とし前つけろ』と脅す。金を巻き上げる」
多少身振りもつけて言った。
「ああ、あれね。早希はすごく嫌がってた」
煙草の火をつけようとして、うまくいかなかった。
どうにかついて、幸せそうに煙を吐き出した。
「それじゃ何で」
「仕方ないじゃない」
「仕方ない?」
「そう、実家のお父さんのお店、たしか酒屋さんだったけど、コンビニに変えたのね。それがうまくいかなくて、赤字で潰れそうになったんだって。早希は高校卒業するときに親と喧嘩して東京に出たから、後から知ったらしいけど。……実家じゃどうしても支払いの手形が落とせなくて、足りない分サラ金から借りたんだって。最初は三十万くらいだったらしいわね。少しずつ増えて、いつの間にか四百万円になったんだって。それでね、知らない間に早希の名前をつかって別のサラ金からお金借りたらしいの。その借金取りが東京まで行ったんだって。あいつらすごいのよ、知ってる? それで早希は、東京からこの辺まで逃げてきたの。だからね、お父さんが訪ねて来るはずないのよ。合わせる顔ないでしょ」
そういうことだったのか。
その時、突然ポケットの携帯電話がビリビリと震えた。
菊池のところで一度テストはしていたが、やはりどきりとなった。
約束通りきっちり三回震えて止まった。
(早ければ十分)
時計を見て時刻を頭に入れる。
残された時間は少ない。
「それがどうして檜山組と?」
「彼女、仕事したくて、住民票移したの。そうしたらサラ金の取り立てにばれて……でも、そういう時って遠くまで取り立てにくるのは割にあわないんで、債権を売るんだって。早希の債権を買ったのが新藤さんが経営してる金融だったの」
「なるほどな。何時の話だ」
「三年くらい前。最初はパブで働かされてたの。その店で私たち知り合ったのよ。そのあといくつか替わったみたいだったけど、裸になる仕事はどうにかして断ってたらしいわ。それが、三ヵ月くらい前、新しい仕事をやるぞって言われたんだって。それが、えーと……」
「ツツモタセ」
「そう、それだったのね。詐欺みたいでイヤだって言ってた」
詐欺じゃなくて恐喝だが、この女に言ってみたところで仕方がない。
「しかし、稼ぐなら風俗のほうが効率がいいだろう」
これが元警官の吐くセリフだからあきれたものだ。
「風俗じゃだめなのよ。ちゃんと相手が決まってるの」
「決まってる?」
「ねえ、私、もうこんな話つまらないんだけど」
半分しか吸っていない煙草をもみ消した。
もう少しだけ機嫌を損ねないでくれ。
「誰を相手にしているのかだけ教えてくれないか」
時計を見る。
早くも残り時間は半分だ。
「公務員関係の人」
里奈が面倒くさそうに言った。
「公務員?」
「そう、貰うのはお金じゃないんだって聞いたことがある。でも、まだ三人くらいしか成功していないんだって言ってた。もうやめたいって早希が言って、久保君といつも喧嘩してた。それに、仕事で組んだだけなのに『俺の女』呼ばわりするって怒ってた。あいつ、その前まで私にしつこく言い寄ってたくせに」
「君に?」
「そうよ。しつこいの」
「寝たのか?」
「うるさいから、一回だけ」
聞きたかったことはだいたい聞くことができた。
私はそろそろ引きあげることにした。
「頼みがある」
「なあに」
眠そうだ。
「私がここに来たことを、明日一杯まででいい、黙っていてくれないか。新藤にも」
「うーん。どうしようかな」
「早希にまだ友情があるのなら、彼女のために頼む」
「おじさん。ちょっと気に入ったから、考えとくわ」
「えっ?」
立ちあがりかけた動きがとまってしまった。
「だって、イヤらしい目でみないしね……。私、胸ジロジロ見られるのいやなのよ。胸はあんまり自信がないの」
「どこなら自信があるんだい?」
いやだ、と噴きだしてから、大笑いし始めた。
今度の笑い声が一番大きかった。
自分で言っておきながら、何がおかしいのかわからなかった。
里奈は涙を拭きながらまだ笑っている。
「本当に頼んだぞ」
「いいわ」
私は、彼女に軽く会釈して出口に向かった。
確かに、あれでは気が変わったとしても証人の役を果たさないだろう。
外からドアを閉める時、奥から鼻歌が聞こえていた。
体中に痣をつくり、肋骨を一本折り畳み式に換えて、ようやく探し当てた女は半分夢を見ている。
もう、こんな猿芝居も、下らない世の中にもうんざりだった。
今度転ぶ機会があったら、本当に死んじまおう。
時計を見る。
すでにロスタイムに入っている。
通路のフェンス越しに下を見た。
車種はわからないが、ハイビームのライトが角を曲がってくるところだった。
私は、棟の反対側の階段をそっと降りた。
二階からもう一度覗く。
いた。
沈んだ色のジャガーが停まって、見慣れた男が降りてくるところだった。
一人きりということはないだろう。
とっさに逃げ道を計算する。
エントランスからは出られない。
もう半階おりて、南側の踊り場に立った。
防護用のフェンスから下を覗く。
一階のサンルームのような部屋の屋根が二メートルほど突きだしている。
私は手すりを乗り越え、その屋根に乗った。
誰に見とがめられるかわからない。
庭を見回すと、生け垣と低いフェンスで囲まれている。
フェンスの一部に、鍵のついた扉が見えた。
部屋の灯りは消えているようだ。
もう新藤は、里奈の部屋に入っただろうか。
すぐに後を追ったとすればグスグズはしていられない。
私はうめき声を押し殺しながら、屋根の端から指先だけでぶら下がった。
折れた肋骨だの打ち身の手足だの、引きつった体中が悲鳴をあげている。
両腕が一杯に伸びきったろころで、手を離した。
地面まで一メートルも無かったと思うが、世界で初めてスカイダイビングをやった人間の勇気を称えたくなった。
私はその場にうずくまり、全身を襲う激痛にしばらく動けずにいた。
物音に気づいた住人がカーテンを開けないか、何かの気まぐれに庭へ出てきはしないか。
窓から視線を逸らさずに何度か深い深呼吸をし、ようやく自分を取り戻すことができた。
ふと気付けば、芝生の上にぺったりと尻餅をついている。
きちんと手入れされていたらしい花壇の花が台無しだ。
今この時期に殺生とは幸先《さいさき》がよくない。
もし三日後に生きていたら、そっと庭先に花を置きにくると約束しよう。
つまらないことを考えているうちに、どうにか普通の呼吸ができるようになった。
私は、身を低くして庭の扉を開け、手入れの行き届いた共有の植え込みの中にまぎれた。
どこから誰からも呼び止める声は聞こえてこなかった。
37
新藤と二宮里奈の間でどんな会話が交わされたのかわからない。
尻尾をまいて逃げたかったが、侵入者の義務として顛末《てんまつ》を確かめなければならない。
エントランスが見える建物の陰から、しばらく覗いていた。
変わった動きはみられない。
どうやら少なくとも、即告げ口はしなかったようだ。
新藤がただ、欲望を満たすためだけに訪れたのならほとんど会話のない可能性もある。
だが、里奈がひと汗かいた後にぺらぺらしゃべっては今度こそ私の命はないかもしれない。
それ以上に同居人の安全も確保しなければならない。
もう一度、辻に連絡をとることにした。
「一応、説明しておきます」と辻が説明してくれた方法で、借りた携帯電話から辻宛に掛けてみた。
気の抜けたような発信音の後、すぐに相手が出た。
「はい」
「尾木だ。今出てきた」
「それで」
「頼みがある。明日の朝までかくまって欲しい」
少しの沈黙があった。
「ずうずうしいのはわかっている。しかし二宮が新藤に話した可能性がある。俺は明日、檜山のところに乗り込むつもりだが、せめてそれまで自分で動ける状態でいたい」
「わかりました。自力で来られますか」
「いけるが、ついでにもう一つお願いがある」
「何ですか」
「同居人も一緒にお願いしたい」
さすがの辻も怒るだろうか。
「ははは」
意に反して笑い声が聞こえてきた。
「あなたも相当なものですね。社長が仲良くしとけと言った理由が、わかったような気がします。……わかりました。引き受けましょう」
「これからタクシーで行く」
切るなり、緊急の連絡用に聞いておいた、石渡の携帯番号を押した。
メモで持つことは危険なのでやっとの思いで記憶したのだ。
電源を切って寝込んでいないことを祈った。
「もしもし」
石渡の声が聞こえた。
「詳しい理由を説明している暇がない。今からある場所に移る。皆の安全のためだ。十五分でいくからそれまで支度して待ってて欲しい」
石渡は理由は聞かなかったが行き先を聞いた。
菊池の名と素性を説明すると、「私はビジネスホテルへ行きます」と断った。
ジュンペイは病院だ。
さすがに新藤も病院にまで手はださないだろう。
平田にも頼んである。
タクシーで家に乗り付けると、恭子と石渡が既に支度を済ませて待っていた。
「すまんな。迷惑掛けて」
「なんですか、今さら」
石渡が答えた。
別れの挨拶はそれだけだった。
私は恭子を連れ、タクシーに乗った。
間もなく、石渡が呼んだタクシーも到着した。
「明日の夕方にはカタがつくと思う。連絡する」
それだけを言い残して、運転手に行き先を告げた。
恭子は、車の中でじっと私に身を寄せていた。
「なぜ」とも、「どこへ」とも聞かなかった。
「大丈夫ですからね」
軽く恭子の手を叩く。
小さくうなずくだけで、声は出さない。
菊池の屋敷に着き、客間に通されても恭子は何も喋らなかった。
辻に人数を言ってあったので、布団が二組並べて敷いてあった。
「さ、今日はもう遅いから寝たほうがいいでしょう」
恭子は言われるままパジャマに着替えた。
離れていた布団を寄せて、その一方に潜り込んだ。
「尾木さん」
少女のような声で恭子が言った。
いつもの姉が諭すような調子ではなかった。
「なんです」
「どこにも行かないで下さい」
「わかりました。ただ、明日の朝早くに出かけます。でも必ずもどって来ます」
「きっと戻ってきてくださいね」
「約束します。寝る前にここの連中に挨拶してきますから、先に休んでいて下さい」
「はい」
私は応接間で待っていた辻に簡単に顛末を説明した。
「どうしますか?」
辻が聞いた。
さすがに目の縁が赤い。
「明日の朝早く檜山を訪ねる。そして全て暴露する。新藤ももう終わりだ」
「もし新藤が先に手を打っていたら?」
「かりに、二宮里奈が俺のことを話したとしても、まさか檜山にたれ込むつもりとは思わないだろう。そう思うしかない」
「なんだか、危ない橋ですね」
「それに、新藤が動くとしたら、俺を狙うより檜山に対して先手を打つだろう。新藤に乗っ取らせてはいけない」
「そうですね、それは最悪だ」
「明日の法要に新藤が出てたら、こっちの勝ちだ。だめ押しで警察にもたれ込んでやる」
辻は鼻先でふんと笑った。
「ウチの出る幕がなさそうですね」
「ゴタゴタがおさまってから、ゆっくり料理方法を考えればいい」
辻はかるくお辞儀をして部屋を出ていった。
私に目付役がいないのは、信用されているということなのか。
部屋に戻って少しばかり寝ることにした。
まだ、起きていた恭子が布団のなかから手を伸ばしてきた。
私はその手を握り返した。
柔らかく、ひんやりした手だった。
その指先を通して血液がお互いの身体に通うような気がした。
最後の家族と思っていたものが、あっという間にバラバラになろうとしている。
いっそのこと、このまま恭子と誰も知らない世界に逃げて行こうか。
檜山も新藤も室戸もいない場所へ。
だが、そうできないことは自分でわかっていた。
私は飲み残しのぬるいビールほどの値打ちしかない人間だ。
恭子のような汚れのない人間に、これ以上のことはできない。
やがて恭子の寝息が聞こえて来た後も、その手を握り続けていた。
38
夜が明けた。
いよいよ期限の日が来た。
ほとんど寝付けなかったので、五時半にタクシーを呼びさっさと出かけることにした。
すでに起きていた辻が、朝食を摂って行くよう言ってくれたが、固形のものは喉を通りそうになかった。
恭子のことをくれぐれも頼んでひとりタクシーに乗った。
初七日の法要に出掛けるまでは、会長は在宅のはずだった。
入り口のインターホンに来意を告げる。
木村が出てきた。
泊まり込んだのだろう。
昨日と同じ道順で、木村の部屋に入った。
「こんな朝っぱらから何だ。くだらないことであんまり顔を出すな。報告は新藤さんにしろと言っただろう」
「報告はもういらないそうだ。寝てていいと言われた」
「だったら余計気をつけたほうがいいぞ」
私は勝手にバイブ椅子を引き寄せて座った。
顔はハリウッドの特殊メイクみたいになっているし、アクビをしただけで肋骨は痛む。
この数日で立派なタフガイになれたような気がして、そろそろビクついて生きるのはやめにしようと思った。
「あんたは新藤ほど気が短くないだろう。それで先に相談を持ってきた」
「お前、頭が悪いんじゃないか。そんなみっともない格好になっても、懲りねえんだな。俺が手を出すのは会長がいる時だけとは限らねえぞ」
「まあ、運動は話を全部聞いてからにしてくれ。今日は法要があるんだろう。のんびりしてる暇はない」
不服そうであるが、殴ろうともしなかった、どうやら少しは聞く気になったらしい。
「新藤はヤクに手を出してるな。コカインか? シャブか?」
いきなり切り出した。
木村は否定も肯定もしない。
「そのことを檜山会長は知らないだろう。九峰会では、今のところ建前上では御法度《ごはっと》だ。だが、最近の不景気でシノギが厳しい。ヤクに手を染めたい組と、依然として反対する組長がいて、足並みが揃わなくなった。檜山は推進派だろう? ひとりずつ根回しして九峰会の親分さんたちに黙認してもらう腹づもりだったんじゃないか?」
木村の沈黙が肯定していた。
「ところが、先走って新藤が手を出しちまった。これがばれたら、話は一度ご破算だ。それに、檜山の顔も丸つぶれだ。あの性格からして血が流れるのは間違いない。な、どうだ、どうせなら血を流さない側につかないか」
木村は、ものすごい目でにらんでいる。
私は構わず続けた。
「シャブだけじゃない。二宮里奈だ、会長の女が、配下の新藤と出来てたら、潰れる顔がいくつあっても足りないわな。そして……」
私は一息ついて、木村を観察した。
煙草をふかしているが、目はじっと私を睨んだままだ。
ゲーム半ばで絵札を切ることにした。
「二宮里奈、もと木村里奈は、血の繋がったあんたの妹だ」
木村の顔色が、ほんの短いあいだに青く、そして赤く変わった。
「新藤の命は助けようがないとしても、会長の耳に、妹の浮気には木村が一枚噛んでいるらしいと吹き込む奴がいたら……。おっと」
身を起こしかけた木村を、手で制した。
「短期は起こさないでくれ。話し合いが台無しになる」
「てめえ、ぶっ殺すぞ」
「まあ、聞いてくれ。いい加減なカマをかけてるわけじゃない。そんな噂を聞いたんで、悪いが委任状を勝手に作って戸籍謄本とらせてもらった。日本じゃめったに名字は変えられないことになっているが、実は簡単に変えられるんだな。結婚して相手の名字に変えて、離婚する。それだけだ」
謄本などとは全く出任せだが、図星だったようだ。
真っ赤に血を昇らせている木村が自制心を無くす前に一通り話してしまう必要があった。
「それに俺だって、まんざらのトウシロウじゃない。なんの手も打たないで、あんたのところにこんな話をしに来るわけないだろう」
一瞬驚いたようだったが、思ったほどの怒りの色は浮かんでいなかった。
むしろ、哀れむような目で私を見ていた。
「お前、本当に死ぬぞ。脅しじゃない。馬鹿なやつだ」
しばらく睨み合いが続いた。
肚をくくったらしく、木村の顔に薄笑いが浮かびはじめた。
私の頑固さに興味が湧いたのかもしれない。
私には減らず口をたたく余裕ができた。
「残念だが、死神は俺から離れたみたいだ。随分しつこくしがみついていたがな」
木村はほとんど聞いていなかった。
「それで、俺にどうしろって言うんだ」
「新藤のいないところで、檜山組長と会えるように段取りをつけてくれ。今すぐがいい」
「馬鹿な」
「今日はこれから親族集めての法要だろう。そこでぶちまけてもいいんだぞ」
再び、木村の顔に朱が差した。
「ここから出さねえ」
「俺の口をふさいでも、いずればれる。ばれたらあんたも終わりだ。せっかく、妹のおかげで便所掃除当番からはい上がれたんじゃないか。うまく立ち回ったほうがいい」
「俺は何も関わっていない」
激情が醒《さ》めて、我が身にふりかかるかもしれない厄災を想像したら、私に対する怒りは薄らいだようだ。
「どのくらい深く噛んでいたかはあまり関係ない。『知っていた』というだけで充分だ。法律用語ではそれを『悪意』という。一般人の使う悪意とは多少意味合いが違うが、知ってれば悪意なんだ。あんたの親分さんが法律よりも物わかりがいいとは思えない」
木村が初めてにやりと微笑んだ。
「お前をぶっ殺す。死体を土産にして潔白を信じてもらう。裕也さんの殺しもお前のせいにする」
「残念だが、そう簡単には済まなくなった。さっき、言っただろう。おれもせっぱつまってる。俺がここから戻らなかったら、今話した内容を書留で組長宛に送る手筈《てはず》になっている。組長というは檜山だけじゃない。九峰会の全ての組長だ。まあ、弁解する時間がもらえたらめっけもんだな」
木村は私のことを睨みつけていた。
十秒だったか十分だったか、時間の感覚はなかった。
やがて、木村の眉間の強張りがゆるんだ。
ぎりぎりのところで自制心をはたらかせたようだ。
「わかった。会長に会えるよう話してみる。今日は機嫌が好いといんだがな、それにしても、馬鹿なのか、根性あんのか、わからねえ野郎だ」
確かに大馬鹿だがお前よりはマシだ、と言おうとしてやめておいた。
まがりなりにも取引の途中だ。
必要以上に感情的にさせることはない。
「それより、可愛い妹の薬はやめさせたほうがいいぞ。あれは、ミン剤か?」
眉間に皺をよせていた木村の目が見開かれた。
「直接彼女と話せば、警察学校の生徒にだってわかる。いまならまだ取り返しがつきそうだ。少し入院すれば元にもどれる。引き返せなくなる前にやめさせてやれよ。新藤がいなくなればそれもできるだろう? せっかくの美人が早死にしちゃもったいない」
木村は相変わらず私を睨んでいたが、殺意の色はだいぶ薄くなったようだった。
「それじゃ、会長さんに会いに行こうか。今すぐに」
39
お馴染みになった事務所を通り抜けて、庭に通された。
ごちゃごちゃしている事務所とは裏腹に、庭は意外なほど何もなかった。
菊池の屋敷とは対照的だった。
手入れされた芝生。
小ぶりな池。
紅葉や松などのこざっぱりした立木が数本。
ひとめで全体が見渡せる。
これも防犯上の理由なのか。
こんな朝早くだというのに、その中を組員が忙しそうに歩き回っている。
「法要はどこでやるんだ?」
「豪徳寺だ。あと二時間で、みな出かける」
「新藤は?」
「ここへは来ない。直接行くと聞いてる」
「好都合だな」
この十日ばかりで初めて拾った、ちっぽけな幸運だった。
さっき、木村が電話を入れた相手は恐らく檜山本人だろう。
かしこまって喋っていた。
口調からして、ご機嫌はそこそこらしい。
庭の奥に、鉄筋造りの三階建ての住まいがあった。
こんな代物を百個ばかり海岸に並べたら、ノルマンディーは落ちなかったことだろう。
我が家のリビングほどもある玄関を抜け、一番手前の部屋に応接セットがあった。
家の造りのわりには、質素なセットだ。
応接間にも、相手に応じてランクがあるのかもしれない。
私は当然最下位だろう。
檜山はまだ、パジャマを着ていた。
誰の見立てかは知らないが、サイケデリックとしかいいようのない絵柄が、いっそ気持ちいいくらいに似合っていない。
よっこいしょと声をあげて檜山がソファに身を沈めるのを待って切りだした。
前置きは無しで、いきなり結論をぶつけた。
「あんたの甥ごさんを殺した犯人は今日明日中には必ず警察に身柄を渡す。それで了解してもらえないだろうか」
檜山は胸ポケットから出した葉巻の端を、専用のカッターで切り落とした。
口にくわえた葉巻の先に、脇から木村がライターに火をつけて差し出した。
時間が止まる。
ようやく火がついて、すぱすぱと二、三回煙を吐き出し、言葉が返ってきた。
「それはハナシが違うな。新藤から聞いてるぞ。お前どこかのちんぴらと喧嘩して入院してたそうじゃないか。今日の法要が終わったら落とし前つけさせるつもりだった。身柄がどうのという前に、ホシがわかったならさっさとつれて来い」
普段から憮然とした表情なので、どの程度機嫌が悪いのか判断しかねる。
だが、ここが肝心だ。
この権力ぼけ爺さんを説得できないと、計画は白紙にもどる。
「あんたが、出頭させたことにすればいい。噂はすぐにひろまる。警察がドジ踏んで誤認逮捕したので、前科のある元刑事を雇って本当の犯人を見つけた上に、警察に差し出した。――あんたの度量の大きさをほめる人間はいても、笑うやつはいない」
檜山は少し考えていた。
「外にはそれでいいかもしれん。しかし、身内にどうやって納得させる?」
「檜山組、いや檜山興業の身内という意味なら、この先大きなトラブルが発生して内輪のメンツどころの騒ぎじゃなくなるだろう」
檜山の眉間に皺がよった。
煙をこちらに吹き出した。
「どういう意味だ?」
「お宅の組の火種を偶然掴んだ。そいつを教える。引き替えに久保裕也殺しの犯人のことは忘れてもらえないだろうか」
「忘れる?」
「そう、それが誰であっても、司法にまかせて、あんたのところでは手を出さないと約束して欲しい」
「何寝ぼけたことを」
「くどいようだが、甥っ子殺しの犯人をサツに差し出しても笑うやつはいないだろう。しかし、今から話す不祥事を見逃したら、次の会長は回ってこないのは確実だと思うが」
「お前、よっぽど馬鹿か、死にたくてヤケクソなのか。それとも、脳味噌代わりにべったら漬けでも詰め込んでんのか? 俺に向かって何を言ってるのかわかってるのか。おい」
最後の「おい」のところで、隣の木村の図体がビクッと反応した。
皮肉なことに、檜山があげた理由は三つとも当たっていた。
だが今は、檜山の慧眼《けいがん》を褒めていても仕方ない。
「このところ、怪我のおかげで酒がほとんど飲めない。多少はものを考えることができる。考えた挙げ句に頼んでる」
檜山は、葉巻をゆっくり二回ふかす間考えた。
「いいだろう。その度胸に免じて、話だけは聞いてやろう。つまらん寝言だったら、途中で木村に預ける」
私は、安堵《あんど》感を悟られないように、小さくうなずいた。
私は新藤の名前だけを伏せて、概要を語ってやった。
半分も話さないうちに檜山の顔に朱が差し、女を寝取られていると匂わせたところでは、泡でも吹きそうなほど興奮していた。
「そ、それは誰のことだ。お前……知ってるのか」
一重のやや垂れた瞼を精一杯つり上げて木村を睨んだ。
「や、ちがいます。自分は……」
木偶の坊の顔が引きつった。
私は割って入った。
「それを全部話す。最初の条件で」
檜山はせわしなく吸っていた葉巻をもみ消した。
「見逃せと?」
うなずいた私を睨む檜山の目が細くなった。
「木村」
「はい」
檜山は、私を睨んだまま、葉巻で自分の耳をかるく叩いた。
「今、ここでですか?」
多少青ざめた表情の木村が確認を求めた。
軽々しく「ぶっ殺す」などとさっきまで口にしていたが、さすがに腹を二、三発殴るのと、消えない傷を負わせるのとは意味合いが違う。
木村のためらいに気付いたのかどうか、檜山は答える代わりに簡素なサイドボードの引き出しから何かを取り出して、ごろりとテーブルに置いた。
身の細いフォールディングナイフだった。
私はとっさに計算した。
檜山がどのくらい本気なのか。
私の耳を殺いだくらいで寝覚めが悪くなるような人物ではないだろう。
やれと言われれば、結構気の弱い木村も逆らえないに違いない。
とにかく、話を聞く気にさせなければならない。
「ちょっと待ってくれ。逆にひとつ聞きたい。興信所もつかっているらしいが、裕也殺しの犯人については何か掴めたか?」
檜山の顔つきが再び険しくなった。
「あの穀潰《ごくつぶ》しどもが、金ばかりとってちっとも働かん。まったくどいつもこいつも」
「その興信所の手配をしたのは誰だ」
「そういうことは全部新藤にまかせている」
言ってから、何かに思い当たったように口を半開きにしていた。
さすがに感づいたようだった。
その調子で私の耳のことは忘れてくれ。
「そう、新藤だ。そして、久保はその手伝いをしていた」
少し引きはじめた赤みが、一気に逆流した。
何も言わなかった。
本当に激昂《げきこう》すると人は口が聞けなくなるのかもしれない。
ただ、指先が少しばかり震えている。
「会長」
木偶の坊が態度を決めかねて、檜山に指示を仰いだ。
檜山が手のひらを木村にむけて「待て」の合図をした。
額から吹き出した汗を、私はさりげなく袖口で拭った。
「お前、そこまで言うからには、腹は括《くく》ったんだろうな」
檜山の目には、今までに見たことのない真剣な色が浮かんでいた。
やはり、身内の復讐と組の存亡をはかりにかけて判断を誤るほど耄碌《もうろく》はしていないらしい。
「もう一回最初から話してみろ」
今度は名前を隠さずに、さっきより丁寧に話してやった。
檜山はだまって聞いていた。
「新藤は、今のあんたのやりかたでは満足できなかった。実入りのいい、シャブやコカインに手を出したくなった。ところが九峰会では御法度になっている。やつは、広域指定西南会系の高端組と手を組むことにした。今はルートを作り上げているところだろう。もしかすると九峰会の他の組とも組んでるかもしれない。現に、少しずつ流し始めている。ルートを確立したところで、この組を乗っ取るつもりだったのか、独り立ちをするつもりだったのか、それはわからない。久保裕也はその高端組との連絡役をしていた。ついでに奴は、あんたの女二宮里奈も手に入れたくなった。つなぎ止めるためにシャブを使っている」
木村の顔色が今度は赤くなった。
睡眠薬と言ったのを信じていたのだろう。
シャブとなれば話が違ってくる。
「ばかな」
「俺は直接会った。顔をつき合わせて話せばシャブをやってるかどうかくらいは誰でもわかる」
「畜生」
「たまには妹に会ってやれよ。兄弟だったらすぐに気付いたはずだ」
木村は怒りの矛先を何処へ向けるべきか迷ってる様子だった。
新藤に植え付けられた恐怖心は簡単にはとりはらえないのだろう。
「そこで問題が起きた。久保裕也殺しで捕まった高瀬早希は二宮里奈の友人で、事件の直前に会っていた。久保が落ちた時も早希と一緒にいた。だから無実を証明できるはずだった。だが、のこのこ警察に出向けばシャブをやってるのは一発でばれる。そんなことになったら身の破滅だ。だから、奴は二宮を隠した」
「証拠はあるのか?」
「新藤は、二宮を隠す理由をなんて説明した?」
「里奈も美人局に関わった。早希が吐けば呼ばれる可能性がある」
「そんな事実はない」
檜山の唇のはしが震えている。
「証明できるか」
「二宮里奈本人だ。彼女は知ってるはずだ」
檜山が木村を睨んだ。
「自分はまったく知りません。本当です。知ってたら……」
「その男の言うのは本当だ」
助け船をだしてやった。
木村を追いつめすぎて寝返られては、新藤に逆転される可能性もある。
「実は、彼女と直接話してきた。彼女にも罪はない。新藤にいいようにおもちゃにされたんだろう。すっかりラリってた。あんたは気が付かなかったのか?」
檜山の眉がつりあがっていた。
「最近忙しくて、会ってやらなかった」
「どのくらい?」
「二ヵ月か、そこらだ。せいぜい店で酒を飲むくらいだった」
「その間にたらしこまれたんだな」
「しかし、いずれはばれるだろう。新藤もそんな馬鹿じゃあるまい」
まだ、逃げ口を探してやっている。
できることなら、子飼いの裏切りを信じたくないようだった。
ふんぎりがつくようにしてやった。
「ばれる前に手を打つつもりだったんじゃないか。実行力はある男らしいからな」
さすがの檜山も黙ってしまった。
「畜生……妹に聞いてきます」
木村がぼそりと吐いた。
檜山が思いついたように顔をあげた。
「いや、ここへ呼べ。話したい」
やれやれ、危なっかしくて見ていられない。
「ちょっと待ってくれ。慎重にやったほうがいい。新藤は馬鹿じゃない。気付かれたら先に手を打たれる。下手に追い詰めたら何をするかわからないぞ」
私を睨む目にだんだん迫力がなくなってきた。
事実として受け入れたようだった。
「……田原だ、田原を呼んでこい。奴に相談しよう」
木偶の坊がどこかへ消えた。
田原のことは私も知っている。
檜山組の古株だ。
派手な稼ぎは新藤ら若手に奪われた形だが、組の要であることに違いはない。
武闘派の新藤に対して、田原は派手さのない分、陰湿だ。
「久保が新藤に加担したことを不問にすれば、あんたの妹さんに対する義理も果たせるんじゃないか」
黙っている。
認めたくない気持ちはわかるが、事実は受け入れざるを得ない。
私はこれ以上内紛には関わり合いたくなかった。
「それじゃ、あとはそちらでお好きなように落とし前をつけてくれ。それから、約束を忘れないでくれ」
檜山は考え込んでいて返事をしなかったが、ダメだとも言わなかった。
私はそれを了解の返事とみなして、部屋を出た。
七日分の日当を受け取っていないことは不服だったが、この際こまかいことは言っていられない。
テーブルの上にはぶっそうなものが置かれたままになっている。
田原が一部始終を聞き終わるまでこの場にいたら、自分の身の保証はない。
修羅場には立ち会いたくなかった。
まあ、檜山もぼけてきたとはいえ、九峰会の会長までつとめた男だ。
田原もついている。
ぬかることはないだろう。
唯一の不安は木村だが、あえて巻き込んで話に加わらせた。
いざとなれば、妹の行く末より、自分の身が可愛いだろう。
それよりも、身内のごたごたが片づいた途端に、檜山が心変わりしない保証はない。
決心がついているなら、はやいところ警察に身を預けたほうがいいだろう。
約束どおり、辻に電話を入れた。
「この番号は安全です」という番号に公衆電話からかけた。
安全とは盗聴されていないという意味だろう。
「内輪モメは今日、カタがつく」
「なるほど」
「警察も入るだろう。証拠も押さえられる」
「仕方ないですね」
抗争になるよりはるかに、辻の望んだ展開だろう。
「ひとつふたつ用事をすませて、恭子を迎えに行く。それまで預かっていてほしい」
「わかりました」
私は、一旦置いた受話器を取り上げた。
出頭の準備の打ち合わせをするべく、花房弁護士に電話を入れた。
今日、事務所に訪ねて何もかも話す約束をした。
飄々《ひょうひょう》とした話し声を聞いて、何か肩の荷が下りたような気がした。
テレホンカードの度数が残り少ない。
電話機の脇に設置された販売機に千円札を呑み込ませて、新しいカードを買った。
覚えている番号を押す。
「はい、こちら光宮警察です」
「刑事課の室戸さんをお願いします」
40
その後どうなったかは、気の弱い私には聞くのもつらかった。
結論から言えば、新藤はまだ檜山に造反するほどの力はなかった。
細かいところは田原の差配だろうが、あの急場では他に手はなかったかもしれない。
いろいろ集まった情報をつなぎ合わせると、こういう様子だったらしい。
それは、檜山がお坊さんのお経のあと、集まった親族と飲み食いしている間に起きた。
アリバイとしては完璧だ。
檜山は会の途中で、新藤と田原、そしてついでのように木村にもある指示をだした。
今日の期限が来て、尾木がやけくそになり、何かふざけたことを言っているらしい。
お前たちで先に白黒つけておいてくれ、というものだ。
新藤としては最も断りづらい、そして冷静な判断を欠くに違いない用件だっただろう。
私が何か嗅ぎ付けたのだとしたら、檜山に会う前に始末しなければならないからだ。
三人の他に、付き添いでもう二人の組の人間が、ベンツに乗った。
例の廃屋のような工場が現場に選ばれた。
車から降りるやいなや、田原の合図でいきなり木村が新藤に飛びかかろうとした。
だが、新藤もうすうす気付いていたのだろう。
心の構えはあったようだ。
木村が動くのと当時に、新藤はシグのオートマチックを懐から出した。
木村の腹に二発、田原めがけて一発ぶっ放した。
新藤が、この時ピストルを持っていた本当の理由はわからない。
ばれたことに感づいていたのか、あるいは新藤のほうでも、檜山に対してこの日にケリをつけるつもりだったのか。
コレは想像したくもないのだが、本当は私に会うなり頭を打ち抜くつもりだった可能性が一番強いかもしれない。
それにしても最後まで気障《きざ》なやつだ。
木村は腹に二発くらいながら、新藤に突進して押し倒した。
映画なんかでは、腹に弾をくらいながら、ひと仕事しでかすタフガイがいるが、そう簡単なもんじゃない。
あの木村の木偶の坊でさえ、新藤を押し倒して重しの土嚢代わりになるのが精一杯だった。
身動きの取れない新藤に、残りの組員が匕首を突き立てた。
木村がのしかかっている脇から、子分その一が匕首を柄まできれいに押し込んだとき、肉塊の下からうめき声が聞こえたそうだ。
最初に田原が死の合図を送ってから一分ほどの間のできごとだった。
田原に向かった弾はそれた。
田原は木村の身体をどけて新藤の死亡を確認すると、組員に「二十分してから通報するよう」言い置いて車にとって返した。
親分のアリバイのお相伴にあずかるつもりで。
さて、腹に弾をくらってうめいているのに、田原の命令で二十分も救急車を呼んでもらえなかった木村は、いい面の皮だった。
しかし、日頃の行いがよほど良かったのか、あるいはお釈迦様に顔も見たくないほど嫌われたのか、一命を取り止めることができた。
罪作りな医者もいたものだ。
木村は退院と同時に、殺人の共同正犯で逮捕されるだろう。
先に自首した他の組員二名と一緒に裁判にかけられるはずだ。
理由は喧嘩、内輪揉め。
上の人間の名は絶対に出ない。
その代わり出所後は、さらに旨い汁が吸えるところにあがるのだろうか。
もはや私とは関係のない世界のことだった。
午後の早い時間に、菊池邸へ恭子を迎えに行った。
彼女はいつでも出掛けられる支度をして、心細げに待っていた。
「さあ、帰りましょうか」
「はい」
菊池と辻に重ね重ね礼を言い、恭子の世話を焼いてくれた組の人間にも挨拶をして自宅に向かった。
その日のうちに、義理堅く檜山が寄越した使いから顛末と伝言を聞いた。
「犯人はまかせる」
それが、伝言だった。
あんな極道さえ、義務を果たしたのだ。
どんなに気が乗らなくとも、私にはもうひとつしなければならないことがある。
私は残り少ない金をはたいてスコッチを買った。
明日、警察に出頭しなければならない。
これが素面《しらふ》でいられるわけがない。
だが、飲む前にやるべきことがあった。
41
「ちょっと出かけてきます」
家に着くなり、靴も脱がさずに再び外出することにした。
不安そうな顔を向ける恭子に、「大丈夫、すぐ戻ります」と告げてドアを閉めた。
一人なって考えたかった。
別に個室に閉じこもる必要はない。
見知らぬ人間たちとすれ違いながら、足を動かした。
昔から、考えごとをするときはこれが一番効率が良かった。
気がつけば、例の陸橋の上にいた。
いや、本当はここを目指して歩いていた。
距離から考えて一時間ほど歩き続けたことになる。
裕也が落ちたらしい場所に立って、下を見る。
荒らされた花束は誰かが片付けらしかった。
時間は何も解決しない。
すべてを風化させるだけだ。
何を見るともなく遠くの風景に目をやった。
梅雨も間近い湿った風が吹き抜ける。
死ぬのはどうだ。
そう難しい選択肢ではないように思えた。
(久保を突き落としたのは自分です、尾木遼平)
遺書を残して久保と同じこの場所から飛び降りる。
一件落着だ。
丸くおさまる。
この下らないゴミバケツ人生にようやく終止符が打てるじゃないか。
純平にも会える。
もう虹はいらない。
しかし……、できなかった。
そんなことをして純平のことろに行っても、会ってはくれないだろう。
私はうなだれて陸橋を下った。
私は水を二杯飲んでから、恭子の部屋の前にたった。
めずらしく緊張していた。
二度大きく息を吐いて、ドアをノックした。
「はい」
小さな、そして冷静な声が返ったきた。
そう、恭子はいつも冷静で正しい。
私なんかよりよっぽどまっとうな人間だ。
恭子は、床に座って薄い本のようなものを抱えていた。
表紙には緑色の地に白い文字で「バイエル」と書かれている。
一度引き裂かれたものを丁寧に補修テープで繕《つくろ》ってあるのが見えた。
恭子はかるく身体を揺すりながら小さな声で鼻歌を歌っていた。
「直ったみたいですね」
教本をかるく顎で示して言った。
「こんなにぼろぼろになっちゃって」
そういいながら、ぱらぱらとめくった。
目の色は冬の湖のように沈んでいた。
「入院の時には、花束をどうもありがとう」
「いいえ」
「でも、何本か萎れていた。というより傷んでいた」
「ごめんなさい」
そんな話はもういい。
いつか切り出さなければならないあのことを話そう。
私はあぐらをかいて、恭子と目を合わせた。
「私が放り出しておいたポケットティッシュのメモを見たんですね」
恭子がかすかに微笑む。
「早希さんのマンション。行ってみました。あんな可愛らしい人がすんでいるお部屋、のぞいてみたかったんです」
やはり、あの日恭子はメモを見て、早希のマンションに出かけたのだ。
これで最後の疑問も解けた。
「あの男を陸橋から突き落としたのは、あなたですね」
恭子はじっと私の目を見つめ返して、自信なさそうにうなずいた。
私は、恭子の手にそっと自分のごつい手を重ねて、なるべく普通に言った。
「明日、一緒に警察に行きましょう」
恭子は不安そうな顔を私に向けた。
「大丈夫です。花房さんという弁護士も一緒です。奴らに乱暴なことはさせませんから」
恭子の顔から不安な表情が消えたわけではないが、こっくりとうなずいた。
「そして、病院で診てもらいましょう。大丈夫。きっと治りますよ」
恭子は床をみつめながら何かを思い出そうとしていた。
「私、夢を見たと思っていました。あの出来事以来、たくさんイヤな夢を見たので、どれが本当かわからなくなって……」
「久保裕也、あの日この家に押し入って、私を殴りつけた男。その教本を引き裂いた男。あいつの後をつけていったんですか」
「よく覚えていないんです。早希さんのマンションを見て帰ってきたら、変な男が家から出て行って、尾木さんが玄関に倒れているし、こんなのきっと夢だと思って部屋に行ったら、破れたこの本をみつけて。そうしたら身体が熱くなって、そのあとは……」
恭子は頭を抱えた。
「何も?」
「男のあとをついていったら、何だか高い所にいたような気がします。尾木さんを殴った男が、いつの間にか早希さんにも乱暴をしていました。ああ、やっぱりまた夢なんだと思いました。夢に出てくる男たちはいつも、誰かを殴ったり怒鳴ったりしています。どうして良いのかわからなくて……しばらく、じっと見ていたら、逃げていった早希さんに、まだ大声で乱暴なことを言っていました。それにその場所からは、少し前に見たばかりの早希さんのマンションが見えました。恐い夢はずっと続くんです。胸がどきどきして、いけない、いけないと思って、私、夢を終わらせたくて、男を突き飛ばしたような気もします。いつもそうすると、恐くて目がさめるんです……。ひどく賑やかなパチンコ屋のような所で、男に包丁を刺す夢もよく見ます。やっぱり、私の……」
すがるような目で私を見上げた。
「私があの男を突き飛ばしたのが本当で、早希さんはその身代わりで……」
呆然とした恭子はその先の言葉が見つからないようだった。
「無理しなくてもいい。あとからゆっくり思い出せばいいんです。そして早希さんにもきちんと謝りましょう。そして……」
できるだけ明るく言おうと試みた。
「みんなとお別れをしないと」
「お別れ……、家がなくなるから?」
「そう、家もなくなる。でも、あなたが治って退院する頃には、あたらしい棲み家を探しておきます。アパート一間かもしれないが」
「石渡さんや潤君は?」
「他の連中とはお別れです。彼らは一人で生きていけるから」
ほとんど表情の変わらない恭子の目から、涙がぽろりぽろりとあふれてはこぼれた。
あの日、徒労に終わった彷徨《ほうこう》から帰宅した私は、なけなしの体力で家の中を見て回った。
どの部屋も裕也に荒らされていた。
カーテンがひきちぎられたり、小物が床にぶちまけたりしてあった。
恭子の部屋に入って、二つに引き裂かれたバイエルの教本がひとまとめにしてあるのを見たとき、背中を冷たいものに触れられたような気がした。
久保が自分で破いておいて、丁寧にまとめるわけがない。
他の誰かがやったのだ。
つまり、裕也のあとからこの部屋に入った人間がいる、ということだ。
そして、それは恭子以外にない。
私が気を失う寸前に帰宅し、私の様子をうかがったのは恭子だったのだ。
私が先のマンションの近くで、もうろうとした意識の中、恭子を見かけたような気がしたのは幻ではなかった。
だが、それですぐに恭子が犯人だと考えついたわけではない。
はじめのうちは、どうせ新藤かその手下の犯行だと思っていた。
理由はわからないながらも、新藤の檜山に対する殺意と呼べるほどの視線に気付いたとき、出来の悪い甥っ子を始末することなど新藤にとっては朝飯前なのだと思った。
ばからしくて真剣に犯人捜しをする気にはなれなかった。
しかし、調べていくうちに久保はむしろ伯父を裏切って新藤になついていたことがわかってきた。
新藤にしてみれば、とりあえずは自分になついている久保を殺して造反劇の前に騒ぎを起こす理由がない。
新藤でなければ、ほかに久保を突き落とした人物がいる。
そう思ったとき、引き裂かれたバイエルの教本が思い浮かんだ。
久保が死んだ日以来、恭子の心は何処かへ飛んでしまっている。
恐らく『もう一つ世界』に身をひそめたのだろう。
そして時折こちら側にやってきて、自分の家族を害する悪しきものを壊そうとする。
心がうつろになった恭子は、男を刺して床が血の海と化したパチンコ店で取り押さえられていたあの日と、同じ目の色に戻っていた。
なんの罪悪感もなく、ためらうこともなく、人を奈落に突き落とせる目だ。
それでも、私は信じたくなかった。
恭子の中に潜む純粋な狂気の存在を。
だが、私の病室に活けてあった花は、久保の墜落現場から恭子が持ち去ったものに違いない。
高価そうなのに傷んでいたのはそのためだ。
完璧主義の恭子があんな傷んだ花束を買うはずがない。
あのひと束を奪い、残りの花は足で踏みにじった。
北川スーパーと似ているというだけで万引きの衝動を抑えられなかった恭子の病だ。
あの花束を見たときに確信した。
久保を突き落としたのが早希の犯行でないのと同じくらい、恭子の行為であることはまちがいなかった。
高瀬早希を確実に釈放させるためには、恭子に自首させることが最適ではあったが、私にはどうしてもその決心がつかなかった。
なんとか、恭子には触れずに早希の無実を証明してやりたかった。
罪は罪とわかっていても、見逃してやりたかった。
おそらく恭子の心は、倫理の垣を越えた世界に在るのだ。
しかし、二宮里奈があの状態で、檜山組に死傷者が出ては、そう言ってもいられなかった。
私が遺書を残して死んでみても、問題は解決しない。
恭子を自首させて、心の病を治し、再び社会に戻る日がくるなら、私が出迎えてやらなければならない。
考えにふけっていた私がふと顔を上げると、恭子がシャツを脱ぐところだった。
自分ではずした下着のなかから現れた、小ぶりな乳房が痛々しかった。
恭子は立ち上がり、スカートのホックをはずし、床に落とした。
あっという間に、小さな布きれ一枚だけになった恭子が、さらにそれにも指をかけた時、私はようやく我に返った。
「恭子さん。何をするんですか」
「ご迷惑をおかけしました」
「それとどういう関係があります」
「私には、何もありませんから」
そういって、最後の下着も足から抜いた。
「やめなさい」
出会って以来、恭子に対してはじめて大きな声をだした。
本当は抱きたかった。
いや、抱きしめてやりたかった。
私の不遇など、自業自得の見本市でひと山いくらで陳列できそうなものだが、恭子が味わった悲しみにはいわれがない。
私のような人間で恭子をなぐさめることができるなら、抱いてやりたかった。
しかし、恭子が本当に求めているぬくもりが、本当は私ではないことも、また知っていた。
私は、深呼吸をひとつして、空っぽの頭にかかった靄《もや》を吹き払った。
「気持ちはわかりました。もう、服を着てください」
そう言って横を向いていると、恭子の身支度する音が聞こえてきた。
すっかり、服を身にまとったことを確かめてから、もう一度彼女の目を見つめて言った。
「明日は、きっと大変だと思います。今日は早めに寝て下さい」
恭子がうなずいた。
「心配はいらない。あなたがどういう処遇になろうと、社会に戻る時、私がきっと迎えにいく」
そう言って部屋を出た。
この狭い階段を降りるのもあと何回あるだろう。
いつだったか、石渡氏に虹の話を聞いてこの階段を降りた時、自分の虹について想像したことがあった。
それならば、恭子の虹はどんなだろうか。
金門橋ほどもあるその大きな虹を、彼女は渡るだろうか。
明日になれば、と淡い期待が湧いた。
路傍で眠る我が身を、間違えてゴミ収集車がさらってくれないものか、と考えているような毎日は終わるかもしれない。
週に一度くらいは、酒を飲まずに眠れるようになるかもしれない。
自分を必要とする人間がひとりでも存在するのだとしたら、その間だけは踏ん張ってみよう。
(そしていつか)
うす暗い階段を降りながら思った。
もしもいつか、自分にも虹が立ち上がったら。
自分にその虹を渡る資格があるなら。
そしてその向こうで誰かが持っていてくれるなら。
その時は思い残すことはないだろう。
私も、虹を昇って純平に会いに行こう。
42
中央公園という、全国に千個くらいはありそうな名前の公園のベンチに私たちは腰掛けていた。
一時の激しいにわか雨が過ぎた後、どこかに避難していた人々がいつの間にか集まってきた。
芝生の上ではバドミントンを楽しむ若い連中や、走り回る子供たち、それを見ながらおしゃべりが止まらない母親たちがいた。
私の隣には、この明るい公園がよく似合う、室戸刑事が座っている。
「村下恭子の精神鑑定が始まるらしいな」
私が聞いた。
「そうだ」
「世話になった」
室戸は答える代わりに、横を向いて煙草の煙を吐き出した。
室戸の愛嬌のある顔が引きつったのかと思ったが、どうやら機嫌がいいらしいので、微笑んだのかもしれない。
どちらでもいいことだ。
おかれた状況がどう変わろうと、あまり好きになれない顔なのでなるべく見ないように話した。
「大変だったか」
「何が」
「その後の収拾だ」
「自分でひっかきまわして、よく言う。俺も危ないところだった。高瀬早希の一件だけだったら、飛ばされていただろうな。新藤の事務所からごっそり出たんで、どうにかちゃらだ」
「ちゃらということはないだろう。高瀬早希の逮捕の理由は、まだ美人局だけだったんだろう? 結果的に捜査がピントはずれだったにしても、片やコカイン、シャブにハジキまで出たんだ。本部長賞モノじゃないか」
たっぷりと仕返しをしたつもりだったが、本人は嫌味と気付かなかったようだ。
「いいところは上の連中が持っていく。近川の名前の入った書類がでてきたからな。もみ消すのに、いろいろ駆け引きがあったんじゃないか。課長あたりが横滑りで転任になって、ちゃんちゃんだ」
まあ、そんなところかもしれない。
相変わらずの茶番だ。
「近川は?」
今日、どうしても聞きたかったことのひとつだ。
「クビにはならん。依願退職の形をとる。まあ、最後の情けだ」
それでよかった。
口には出さなかったが、そう思った。
「理由は聞いたか?」
「奴のカミさんが、ストレス解消で買い物を始めた。ストレス解消のために何かにはまると、際限がなくなる。すぐに金はなくなった。サラ金から借りた。最初は十万だったそうだ。近川が気付いた時には三十倍にふくれあがっていた。もちろん、貯金は一銭も残っていなかった。奴は、なんとか表沙汰にしないで支払いがのばせないか、交渉した。そのサラ金のケツ持ちをしていたのが、檜山興業だった」
つい最近、似たような話をきいた気がする。
「なるほど。まあ、そんなことだろうと思った」
「持ちかけたのは、新藤らしい。檜山は知らんと言っているが、それもおそらく本当だろう。近川が新藤の知りたい情報を流す。新藤は、近川の借金を棒引きにする。ごくシンプルな取引だ。あんたが言うように、新藤が近々シャブのあつかいを始める準備だったんだろう。予行演習みたいなもんだ。流れたネタはたいしたものはなかった。せいぜい風俗の一斉が無駄足になったくらいだ。まあ、それだから軽い処分ですんだ。シャブが噛んでいたら間違いなく免職だし、第一送検だったろうな」
「運が良かった、……か」
電灯のない夜道を歩いて行くみたいなもんだ。
穴にはまるか、石につまずくか、クソを踏んづけるか、何事もなく行き着くか。
できることは、星に願いを唱えるだけだ。
三百万という金で刑事の職を棒に振った近川は、本当に運が良かったのか。
野望の第一歩でいきなり転げた新藤はどうだ。
「恥をさらすだけだから上の連中には言ってないが、高瀬がホシだと強く押したのは近川だった。『本部の連中が出張る前に身柄を押さえましょう』と言われて、俺もその気になった。課長に相談しても、例の放火殺人で毎日マスコミに突かれて、上の空だった。俺も試験が近くてあせっていた」
室戸がこれだけ吐露するのは、よほどのことだろう。
借りを返せるいい機会だったが、冷やかしはやめておいた。
「すると、近川のやつ、新藤から高瀬が本ボシじゃあないことを聞いて知ってたんだな。あんたも目障りだったらしい」
室戸がふん、と鼻を鳴らした。
「奴が檜山のところに入るのを見た者がいる。俺は捜査の都合だと信じ込んで、軽い気持ちで確かめただけだったんだが」
「やましい気持ちがあると、周りがみんな敵に見える」
「お前は、何故近川が怪しいと思った?」
たて続けに煙草に火をつけた室戸が聞いた。
私は煙をよけながら答えた。
「最初はつながっている奴がいるとすればあんただと思っていた」
「何を」
煙草を投げ捨てて、私を睨む。
こんなに短気で、よく今まで刑事なんかやっていられたもんだ。
「まあ、聞いてくれ。ほかに頼る相手もないので近川に相談した。最初はとりつく島もないほど拒絶していたのに、檜山の話が出ると急に興味を示し始めた。酒の一杯で態度が変わるのも、話がうますぎるとは思った。そこで、あんたの悪い噂を持ち出したら、食いついた」
「悪い噂?」
「悪く思うな。作り話だ。あんたがギャンブルで首がまわらないと言ったら酒が美味くなったようだった」
「ギャンブル?」
「競輪だとさ。あんた、車券の買い方知ってるか?」
室戸のこめかみが赤くなった。
昔、ぱっとしない競輪選手に女房を寝取られて以来、私を憎むのと同じくらい競輪選手を嫌っている事実を私は知っていた。
「新藤にいい土産が出来たと喜んでいたんだろうな。ただ酒飲ませてやったのに。その挙げ句が、この始末だ」
まだ、抜糸のあとがなまなましい傷痕を見せた。
今度は私が聞く番だ。
「新藤と久保が美人局で公務員を狙っていたらしいが、何が目的だったんだ」
「さあ、ふたりとも死んじまったんで、確かなことはわからんが、どうも名簿を集めようとしていたらしい」
「名簿?」
「そうだ、職員名簿だ。たぶんそうやって弱みを握った役人をできるだけ作ってから、商売を始めようとしたんじゃないのか。被害者のひとりは、警察の職員名簿が手に入らないか聞かれたと言っている。被害届を出したのはふたりだが、高瀬は五回はやったと言っている。恐喝の内容までは知らないらしい。新藤の事務所にもなかった」
おままごとは始まったばかりだった。
たいした収穫もなかったのだろう。
新藤が死んで、木村が腹の脂肪を一キロばかり吹き飛ばされた。
木村は腹の傷が治り次第、刑務所に直行するだろう。
私の腹をなんども撫でてくれたバチがあたったのならうれしいのだが、神様がそんな洒落たことをしれくるとは思えない。
二宮里奈は逮捕後即入院させられた。
退院後は大嫌いな場所へ直行することになるだろう。
あの美人に二度と口を聞いてもらえないと思うと残念な気もする。
檜山は参考人聴取で済んだ。
メンツも保てた。
噂では四期目の会長の座をまだ諦めてないらしい。
新藤の事務所からは、面白いほどいろいろ出たが、檜山邸は綺麗なものだった。
辻が期待したほどのダメージは与えられなかったかもしれないが、新藤が消えたのは、将棋でいえば飛車落ちみたいなものだ。
それで貸し借りなしにしてもらおう。
室戸が思いだしだように言った。
「そういえば、お前らを襲ったちんぴら三人組を挙げたのは、平田のやつなんだが、ネタ元を明かそうとしない。あのボケがこんなに早く挙げられるわけがない。もしかしたら……」
「世話になった」
室戸の質問には答えず、立ち上がった。
最後に一度だけ室戸の顔を見て言った。
「できることなら、もう出会いたくないもんだ」
「同感だ」
室戸が優しい目で私を睨んだ。
「こんど、殺人《コロシ》のホシをかくまったりしたら、間違いなくしょっぴくぞ。目こぼしに二度目はない」
「わかってる。俺だって二度とごめんだ」
そして握手もせずに別れた。
公園の出口でひとりの女が待っていた。
化粧をほとんどしてないように見えた。
随分こざっぱりした印象だが、それでも通り過ぎる男はふりかえって早希を眺めていく。
「待たせたね」
「終わったの?」
「どうせたいした用事じゃない。いこうか」
促して歩いた。
美人局については、脅されてしたことでもあり、被害届が二件しかなく、実害もほとんどない。
不起訴になった。
久保殺しで責めたてたことへの償いもあるだろう。
そういえば、室戸の昇進試験がまた延びたとしたら、気の毒なことだ。
早希に、恭子に差し入れる下着や、そのほかのものを買うのにつき合ってもらうことになっていた。
正確には、早希に買わせて私は離れて見ているだけだ。
女の下着売り場など入ろうものなら、蕁麻疹《じんましん》ができて病院通いだ。
今はすっからかんで、とても病気になる余裕はない。
「恭子を恨んでないかい」
歩きながら、いままでどうしても聞けなかったことをぼそっと吐きだしてみた。
早希が目をむいて、私のほうを見た。
「どうして?」
「君の彼氏にあんなことをした。そして、君が拘留されているのに名乗りでなかった」
早希が口を尖らせて早口で言った。
「あんなの彼氏なんかじゃない。もともとは、あの仕事で組まされただけだったのに、勝手に彼氏ヅラされてすごい迷惑だった。やきもち焼いてすぐ殴るし。恭子さんには、感謝感謝よ。それにもともと騒ぎの種をもちこんだのは私だし……。私が何日も泊まらなかったら、裕也が押し掛けてくることもなかったし、事件は起きなかったのよね。だから、全部私がわるいんだ」
「そうか」
否定も肯定もしなかった。
早希がどう思おうと過去は変えられないし、口先だけなぐさめてみても仕方ない。
「それより私……、裕也をやっつけたの、おっちゃんだと思ってた」
よかった。
酒を飲んでいたら、間違いなく逆流するところだった。
「どうしてそんなことを」
「決まってるじゃん。私のためにでしょ。やってくれるならおっちゃんしかいないと思ったのにな。ちょっと期待したんだけど……。私はヒロイン、ちょっとくたびれたヒーロー登場、って」
私は相手をせずに、歩調を速めた。
「ちょっと待ってよ、照れてるの?……ねえ、タクシー乗ろうよ」
苦笑いをして立ち止まった。
「まあ、そうだな」
私たちの脇を、雨後の湿ったなま暖かい風が吹き抜けた。
路面の所々が光を反射している。
ふと予感がして、空を仰いだ。
しかし、虹は出ていなかった。
ただ、濃い灰色と輝くような白が重なった雲の切れ間から、鮮やかなほど青い空が覗いていた。
純平が行った所へは、あそこから行けるのかもしれない。
さりげなく、ポケットに手を入れてみた。
馬鹿と思われてもいい。
そこに虹の種がありそうな気がした。
――何もなかった。
手に触れたのは、いつかと同じように数枚の小銭だけだった。
今度もまた、照れ隠しにじゃらじゃらと鳴らしてみた。
(嘘じゃないぞ純平)
「いつかきっと行くからな」
誰にも聞かれないよう、空に小さくつぶやいてみた。