ドリアン・グレイの肖像
オスカー・ワイルド/渡辺純訳
目 次
画家の序文
序文
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
第十三章
第十四章
第十五章
第十六章
第十七章
第十八章
第十九章
第二十章
解説
あとがき
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画家の序文
一八八四年の春の間、オスカー・ワイルドは画室に現れた。私のモデルの一人に一青年|紳士《しんし》がいたが、大変な美貌《びぼう》で、友人たちが「輝ける青春」と綽名《あだな》をつけたほどだった。毎日午後ワイルドは作品の進行ぶりを眺《なが》め、その間、才気|煥発《かんぱつ》の談話でわれわれを魅了したのだったが、ついに肖像画も完成し、当のそのモデルは去ったのである――解放されたよろこびに彼がひたったことももちろんである。
さて「ドリアン」の美貌は、その魅力が色彩と表情にかかっているといった種類のものだった。髪は金髪で波打っており、健康をあらわす赤らみが頬《ほお》を染め、眼は健全なふざけ気分、すぐれたユーモア、高邁《こうまい》な思想にきらめいた。東風が吹きすさぶ時ですら、この世を楽しいものに思わせるといった、そんな種類の青年だった。善良さと陽気さが、それとわかるほどに彼から発散し、どんな暗い部屋でも、彼が入ってくると明るく輝くのだった。
「あんなにすばらしい人間が、年をとっていくなんて、なんて惜しいことだろう」とワイルドがためいきをつきながら言った。
「まったくその通りだ」と私は言った。「もしも『ドリアン』がそっくり今のままで、その代わり肖像画《ヽヽヽ》のほうが年をとりしなびていくのだったら、どんなに嬉《うれ》しいことだろう。そうだといいんだがなあ!」
それだけだった。ものの十五分くらい、私は肖像画のことにかかっていたが、その間ワイルドは感慨にふけるように煙草をふかしていたが、一言も口をきかなかった。やがて彼は立ちあがると、戸口のほうへぶらぶらと歩いていったが、部屋を去る時、ちょっとうなずいただけだった。
間もなく家事の都合でロンドンを去り、私はワイルドにも「グレイ」にも会うことがなくなったのである。
その後幾年も経てある日のこと、この書物が、どこでどんなふうにしてかはおぼえていないが、私の手に入った。もっとも、とりとめもない談話に何気なくまかれた萌芽が、作者のわざにより、「ドリアン・グレイの肖像」にまで成長したのを見るのは、私のおどろきだったが。ワイルドはこのテーマについて長い間考えつづけたにちがいない。「輝ける青春」が、ワイルドの悪人の主人公とはまったくの正反対だったことはたしかだ。しかし、著者の逆説愛好熱は大変なもので、この性質の反定立は、詩人としての彼の心を魅惑するには格好《かっこう》のものだったのだ。以下のページはその詩人の心から育ったものだ。
[#地付き]バジル・ホールワード
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序文
芸術家は、美しいものを創造する人である。
芸術を現わし、芸術家を秘するのが、芸術の目的である。
批評家は,美しいものに対する自己の印象を、別の様式もしくは新しい素材に移して表現できる人である。
批評の最高の形式は、その最低のものと同じく、自叙伝の一様式である。
美しいものに醜い意味を見いだす人々は、魅力とてもたない堕落者である。これはあやまった行いである。
美しいものに美しい意味を見いだすのは教養人である。かかる人々には希望がもてる。
美しいものがただ美としてのみ意味のある人々は選ばれたるものである。
道徳的もしくは不道徳的な書物というようなものは存在しない。書物はうまく書かれているか、まずく書かれているかのいずれかである。ただそれだけのことである。
写実主義《リアリズム》に対する十九世紀の嫌悪は、キャリバンが自己の顔を鏡にうつして見た時の憤怒にほかならない。
浪漫主義《ロマンティシズム》に対する十九世紀の嫌悪は、キャリバンが自己の顔の鏡に見えない時の憤怒である。
人間の道義的生は、芸術家の主題の一部を形成するが、芸術の道徳性は不完全な媒体を完全に利用することに存している。いかなる芸術家も、何物をも立証しようとするものではない。真なることさえも立証しうるものである。
いかなる芸術家も、倫理的共感を持たないものである。芸術家における倫理的同情は、様式《スタイル》の許しがたきマンネリズムである。
いかなる芸術も病的なものはない。芸術家はあらゆるものを表現しうるのである。
思想及び言語は、芸術家にとって芸術の手段である。
悪徳及び美徳は、芸術家にとって芸術のための素材である。
形式の見地からすれば、あらゆる芸術の典型は、音楽家の芸術である。感情の見地からすれば、俳優の技が典型である。
すべての芸術は、表面的であると同時に象徴的である。
表面下に至るものは、危険を冒してこれをなす。
象徴を読むるものは、危険を冒してこれをなす。
芸術が真に映しだすのは、人生ではなくて人生を観る人間である。
ある芸術作品について種々な意見が行われることは、その作品が新しく、複雑でかつ生命力あることを示すものである。
批評家たちの意見が一致を見ない時、芸術家は自己自身と一致している。
その作品がそれを賞讃しない限りにおいて、彼が有用なるものをつくることをわれわれは許すことができる。無用なるものをつくる唯一の口実は、人がそれをいたく賞讃するということである。
すべての芸術はまったく無用である。
[#地付き](オスカー・ワイルド)
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第一章
画室は薔薇《ばら》のゆたかな芳香に充ちていて、夏のそよ風が庭の木立ちをぬけて来ると、開いた扉からライラックの強い香りや、淡紅色の花をつけた|さんざし《ヽヽヽヽ》のおだやかな匂いが流れてきた。
ヘンリ・ウォットン卿が例によって身を横たえて幾本となく煙草をくゆらしている、ペルシアの鞍嚢地製《サドル・バッグ》の長|椅子《いす》の一隅からは、蜜のように甘く蜜のような色をした|きんぐさり《ヽヽヽヽヽ》の花の輝きが見られるのであった。そしてそのきんぐさりのおののく枝は、火焔のような美しい花の重みにたえかねる風情であった。大きな窓に張られた、山繭《やままゆ》絹布の長いカーテンを、時折り飛鳥《ひちょう》の夢幻的な影がかすめ、ほんの一瞬、一種日本的な効果をあらわした。すると彼の頭には硬玉のように蒼《あお》ざめた顔をした、東京の画家たちのことがうかんだ。この画家たちというのは、必然的に不動のものである一つの芸術を媒体として、速さと動きの感覚を伝えようとするものなのだ。伸び放題の長い芝生の中をかきわけたり、ぶらぶら垂れ下がっている|すいかずら《ヽヽヽヽヽ》の金色の埃《ほこり》っぽい角《つの》型の花の周囲を、単調なしつこさを見せて飛び回っている蜜蜂の羽音が、静寂をいっそう重苦しく思わせるようであった。ロンドンのかすかな騒音は遠くのオルガンの低音にも似ていた。
部屋の真中には、まっ直に立っている画架に、並はずれて美しい青年の等身像がうちつけてあり、その前にはやや離れて画家バジル・ホールワードが腰をおろしていた。彼が数年前、突然行方不明になったとき、世間では大騒ぎをして、いくたの奇怪な憶測のたねをまいたものだった。
自らの芸術にかくも巧みにうつし出した美《うる》わしの姿を眺《なが》めやった時、喜びの微笑が画家の顔にただよい、しばらくは消えぬかに見えたが、急にはっとして立ちあがって眼を閉じ指を瞼《まぶた》にあてた。あたかもそれは、覚めるのがこわい不思議な夢を頭の中に閉じこめようとするかのようであった。
「バジル、君の最高作品だ、今までの最高傑作だ」とヘンリ卿はものうそうに言った。「来年は是が非でもグロヴナーに出品しなくちゃいけない。王立芸術院《アカデミー》のほうは大きいばかりであまりに俗っぽいからね。アカデミーと来たら、いつ行っても見物人が多すぎて、画が見えない始末でとてもやりきれない。さもなければ、画のほうが多すぎて、人が見えないと来ている。こいつのほうはなおさら困るんだ。グロヴナー以外ちょっと場所はないね」
「僕はどこにも出品する気持ちはないんだ」と画家は、オックスフォード時代に友人連の笑いのたねとなった奇妙な癖で、頭を後ろへふりたてながら言った。「そうだ、どこにも出品するつもりなんかない」
ヘンリ卿は眉《まゆ》をつりあげて、強い阿片入りの巻煙草のゆらゆらと立ち昇る淡い紫煙の輪越しに驚いて画家を見た。
「どこにも出さないって? なぜだ? 何かわけがあるのか? 君たち絵かき連中は実に変人だね。名を売るためならどんなことだってやるくせに、名が売れるとすぐにそれをすてたくなるようだ。馬鹿馬鹿しいことだよ。なぜって、噂《うわさ》されるよりもっとひどいことがたった一つあるんだ。そいつは噂されないことさ。こんなにすばらしい肖像画だったら、英国中の青年よりも君を上位においてくれるだろうし、老人連中にも妬《ねた》ましく思わせるだろう。もしも老人連が感情なんて持ちうるとしてね」
「君に笑われることはわかってるんだが」と彼は答えた。「実際出品できないんだ。僕は自分というものを、この絵の中につぎこみすぎたんだ」
ヘンリ卿は長|椅子《いす》の上に長々と寝そべって笑った。
「そうだ、君が笑うことはわかってたよ。だがやっぱりそいつはまったくのところほんとうなんだ」
「絵にあまり自分をつぎこみすぎただって! たしかにバジル、君がそんなにしょってるってこと、僕も知らなかった。いかつい、強そうな顔でまっ黒な髪をしている君と、まるで象牙と薔薇《ばら》の花びらからできたみたいな顔をした、このアドーニス〔ギリシア神話でヴィーナスに愛された美少年から一般に美少年をいう〕とは、たしかに月とすっぽんだ。ねえ、バジル、この青年はナーシサス〔ギリシアの伝説で、泉の水に映った自分の姿の美しさを恋いこがれて溺死し、水仙の花に化した青年〕だ。それに君ときたら――もちろん君には、知的表情とか何とか色々あるにはあるさ。だけれど、美、真の美は、知的表情のはじまる処《ところ》で終わるものなんだ。知性とは、元来誇張の一様式だ。そうしてどんな顔にせよ、その調和を破るものだ。坐って考え始めるやいなや、人間は顔中鼻とか額ばかりになったり、見るも嫌《いや》なものになってしまう。学問的職業で成功してる人間を見るがいい。何と見るもいまわしい奴ばかりだろう! もちろん教会だけは別だがね。ところで教会では考えるってことをしないんだ。教会の監督は十八歳の時に教えられたことを、八十歳になっても相変わらずしゃべってるんだ。しぜん、実に愉快そうな顔をしていられるというものさ。君が名前をあかさないんだが、このほれぼれする、肖像画の|ぬし《ヽヽ》の若い、いわくありげな君の友人は、考えることをしないんだ。僕はこの点絶対確信があるんだ。眺《なが》める花もない冬にも知性のほとばしりをさましたいと思う夏にも、ぜひ一緒にいて欲しいような、頭っていうもののない美しい人間さ。バジル、自惚《うぬぼ》れるんじゃない。君が似たところは薬にしたくもないな」
「ハリー、君は僕の言うことがわからないんだ」と画家が答えた。「もちろん僕は彼に似ちゃいない。それはわかりすぎるくらいわかってる。実のところ、彼に似ることはごめんだ。君、肩をすぼめたな。ほんとうのことを言ってるんだ。肉体的、知的優越性には何かしら宿命的なところがある。そうしてこいつが王者のよろめく足取りに昔からつきまとっているのだ。仲間と変わったところがないほうがいいさ。醜い奴、馬鹿な奴がこの世では勝つ。奴らは楽々と坐って、ぽかんと口をあけて高見の見物だ。奴らは勝利の味を知らなくても、少なくとも敗北だけはまぬがれている。奴らは平穏無事に、無関心の生きかたをしている。これが万人のお手本というところだよ。他人に破滅をもたらさず、他人から破滅をこうむることもない。ハリー、君の地位と富、貧弱ながら僕の頭――たいした価値もないにせよ、僕の芸術、ドリアン・グレイの美貌――僕たちは神からさずかったもの故に苦しむ――うんと苦しむんだ」
「ドリアン・グレイ? それが彼の名前か?」とヘンリ卿は画室を横ぎってバジル・ホールワードのほうへ歩きながらたずねた。
「そうだ、それが彼の名前だ。僕としちゃ君に言うつもりはなかったんだ」
「だってなぜ言っちゃいけないのさ?」
「うん、ちょっと説明できないんだ。 僕がひどく気にいった人の名は誰にも言わないことにしてるのさ。名を言うと何だかそういう人の一部を明け渡すみたいでね。ぼくは秘密を愛するようになって来た。それが現代生活を神秘化したり、すばらしいものにしたりしてくれるように思えるんだ。どんなにありふれたものでも、隠しさえすれば嬉《うれ》しいものさ。ロンドンを離れる時だって行先を言わないことにしている、言えば楽しみがなくなってしまうんだ。ずいぶんくだらぬ習慣だろうけど、どうしたものか、そうすると、生活にとてもロマンティックな雰囲気が出てくるんだ。こんな僕をずいぶん馬鹿野郎と君は思うだろうな?」
「とんでもない」とヘンリ卿が答えた。「ねえ、バジル、とんでもない。君は僕が既婚者だってことを忘れてるようだ。結婚生活の魅力の一つは、夫にも妻にも嘘の生活が絶対必要だという点だ。僕は妻の奴《やつ》の居場所を全然知らないし、妻のほうも僕の行動を全然知らない。僕たち二人が顔をあわせる時には――時折り顔をあわせるだけだが、つまり一緒に外で食事をしたり、公爵邸へ出かけたりする時なんだが――実に真面目くさった顔をして、実に馬鹿げた話をするんだ。妻の奴はそれの名人でね――実際僕のとても及ぶところじゃないんだ。妻のやつは日付のことでこんがらがることは絶対ないんだが、僕のほうはしょっちゅうそれをやらかす。僕が|へま《ヽヽ》をやらかしているのがわかっても、妻の奴いっこう平気なんだ。時には大騒ぎをしてくれたらと思うんだが、彼女のほうじゃただこちらを笑うだけなのさ」
「ハリー、君の結婚生活をそんなふうに言うのは僕は嫌《いや》だ」とバジルは、庭園につづく戸口のほうへゆっくり歩きながら言った。「僕は君がほんとうは善良な夫だのに、自分の美徳を心から恥ずかしがってるんだと信じるね。君は変わった人間だ。かたいことは何一つ言わないでいて、悪事を何一つしない。君の皮肉癖《シニシズム》はポーズにすぎないさ」
「気取らずに振舞うってこともポーズにすぎないんだ。しかもずいぶんいらいらするポーズだがね」とヘンリ卿は笑いながら叫んだ。そこでこの二人の青年は一緒に庭に出て、高い月桂樹の陰の長い竹製のベンチに腰をおろした。日光はつやつやしたその葉に輝き、芝生には白いヒナギクがふるえていた。
しばらく途切れてから、ヘンリ卿は懐中時計をとり出して、「バジル、もう失礼しなくちゃならない時間だ」とつぶやいた。「それでその前に是非さきほどの質問に答えて欲しいな」
「それは何だろう?」画家は地面をじっと見つめたまま言った。
「君にはよくわかってるくせに」
「ハリー、わからないんだ」
「それじゃ教えよう。なぜ君がドリアン・グレイの肖像画を公開したくないのか、わけを話してもらいたい。ほんとうの理由が知りたいのだ」
「ほんとうの理由はもう言ったはずだ」
「いや、まだ聞いていない。あまり自分をつぎこみすぎたからだと君は言った。でも、そいつは子どもじみすぎてるじゃないか」
「ハリー」とバジル・ホールワードが相手をまともに見ながら言った。「感情こめて制作した肖像画は、画家の自画像なんで、モデルの絵じゃないんだ。モデルってのは、単に偶然、誘引にすぎない。画家があらわすのはモデルじゃなくて、むしろ画家自身が彩《いろど》られた画布《キャンバス》に現れて来るんだ。僕がこの絵を公開したくないわけは、僕がこの絵の中で自分の魂の秘密を見せてしまったと思うからなんだ」
ヘンリ卿は笑って、「秘密っていったい何だ?」とたずねた。
「教えよう」とホールワードは言ったが、当惑の表情がその顔にうかんで来た。
「バジル、こちらは手ぐすねひいてお待ちかねだ」と画家を眺《なが》めながら相手は言葉を続けた。
「ハリー、実際言うこともほとんどないんだよ」画家が答えた。「それに、君にはわかってもらえないだろう」
ヘンリ卿は微笑《ほほえ》み、身をかがめて芝生から桃色の|ひなぎく《ヽヽヽヽ》を摘《つ》みとって、それを調べた。「そりゃわかるにきまってるさ」と白い羽毛の生えた可憐《かれん》な金色の花盤《ディスク》に熱心に見入りながら答えた。「そして信じることにかけちゃ、まったく信じられないようなものなら、何だって僕は信じる男だからね」
風が木々の花を散らし、星型の花のかたまっている重そうなライラックの花が、ものうい大気の中で左右に揺れた。塀ぎわで|きりぎりす《ヽヽヽヽヽ》が鳴き、青い糸のようにか細いとんぼが、褐色の紗《しゃ》の翼を拡げて流れていった。ヘンリ卿には、バジル・ホールワードの心臓の鼓動が聞こえるように思われ、どんな話が出て来るのかと怪しまれた。
「話は簡単だ」としばらくして画家が言った。「二ヶ月前、僕はブランドン夫人のところの込み合ったパーティに行ったんだ。君も知ってる通り、僕たち貧乏画家は時折り社交界に顔を出して、僕たちが野蛮人でないってことを、世間の連中に思いしらせなきゃならないんでね。君がいつだか言ったように、燕尾服《えんびふく》と白いネクタイさえありゃ、株の仲買人だって誰だって、垢《あか》抜けした人間だという評判をとれるわけさ。ええと、十分ばかりたった頃かな、こてこてに着飾った大柄な未亡人や退屈な美術院《アカデミー》の会員連と話してると、突然誰かが僕を見てることに気がついたんだ。僕は半ば振り返ってはじめてドリアン・グレイを見た。二人の眼が逢《あ》った時、僕は顔が蒼《あお》ざめるのを感じた。奇妙な恐怖感におそわれ,そのままにまかせておけば、僕の全本能、全霊、全芸術を吸収してしまうほど魅力的な個性の持ち主と、いよいよ面と向ったのだという気がしたね。僕は今までに外部からの感化力など必要としたことはなかったんだ。君自身も知ってる通り、生まれつき独立独歩さ。いつも僕は思う通りに振舞って来た。少なくとも、ドリアン・グレイに会うまではそうだった。するとだね――だが、君にはどう説明したらいいのか、虫の知らせで、何だか僕の生涯での恐るべき危機にのぞんでるんだという気がした。運命がいみじき喜びと悲しみとを前途に用意しているという、奇異な感じがしたんだ。僕はこわくなって部屋を出ようと振り返った。そうさせたのは良心じゃなくて、一種の臆病風だったんだ。僕は逃げ出そうとしたことを、自分の名誉ともなんとも思ってやしないんだ」
「バジル、良心も臆病も同じものだ。良心が屋号というまでのことさ」
「ハリー、僕はそうは思わない。それに君だってそう思うと僕も考えない。しかし、僕の動機が何にしたって――おそらくいつもお高くとまるほうだったから、高慢からだったかもしれないんだが――たしかに僕は戸口のほうへやっとのことで向かっていったんだ。すると、案の定、ブランドン夫人に突き当たったわけさ。『ホールワードさん、まさか、こんなに早くからお逃げになるんじゃございませんわね?』と彼女が甲高い声で言ったものさ。変にきーきーするあの声は君も知ってるだろう?」
「知ってるとも。何から何まで孔雀《くじゃく》よろしくというわけだが、ごきりょうだけはそうはいかない婦人だ」とヘンリ卿は、長い神経質な指でひなぎくをむしりながら言った。
「僕はブランドン夫人から逃れることはできなかったんだ。彼女は、王族だの、勲章をやたらとつけた人たちだの、大きな頭飾りをつけて、鸚鵡《おうむ》のくちばしのような鼻をした老婦人だのといった連中のところへ僕をつれていって、親友呼ばわりをしたわけさ。以前一度しか逢ったことがないのに、僕をかつぎ上げることを考えついたんだ。そのころ僕の作品のどれかが大当たりをとったことはたしかで、少なくとも三文新聞じゃもてはやされたんだ。そういうことは、不滅の名声の十九世紀的基準というわけだがね。突然気がつくと、僕の心をあんなに妙に動揺させた例の青年と僕は顔をつき合わせていた。ほとんど触れ合わんばかりになってね。僕らの眼が再び行き逢った。向こう見ずな話だが、ぼくは紹介の労をブランドン夫人に頼んだというわけ。もっとも結局たいして向こう見ずでもなかったんだ。のっぴきならぬ成行きになっていたんだろう。ドリアンが後日そう言ったことなんだが、彼もお互いに知り合いになる運命だったと思ったんだ」
「そこでブランドン夫人は、このすばらしい青年をどう言ったのか?」と相手がたずねた。「彼女といえば、お客というお客全部の略歴を手っとりばやく話すのが大好きでね。忘れもしないが、勲章や飾り紐をべた一面に飾った、赤ら顔の毛虫おやじのところへ僕をつれてってさ、部屋中みんなに聞こえるような悲劇的ささやき声で、たまげるような話をこまごま耳元でするじゃないか。僕としては、逃げ出すより手はなしさ。僕の好みは自分で人の素性をさぐり出すことなんだ。だがブランドン夫人にかかると、お客は競売人の扱う品物同然だ。人が知りたいと思うこと以外、何から何までしゃべるんだ」
「ブランドン夫人お可哀《かわい》そうに! ハリー、君は夫人にずいぶん酷だね!」と気のなさそうにホールワードが言った。
「ねえ君、彼女はサロンを開こうと思って、やっとレストランが開けたというところだ。どうしたって賞められたもんじゃないさ。だがドリアン・グレイ氏のこと何と言ったのか話してほしい」
「『ああ、とてもチャーミングな方――この方のお母様とわたしとは、ほんとうにもう離れられないくらいなの。この方何をなさるのだか、すっかり忘れてしまいましたの――それともグレイさん、ヴァイオリンでしたの?』とか何とか言ったような次第さ。僕たち二人は思わず笑ってすぐ友だちになったというわけなんだ」
「笑いという奴《やつ》は友人関係のいとぐちとしては悪くないもんだ。そうして関係の終わりとしては最上のものだ」と若い貴族はまた一つひなぎくを摘《つ》みながら言った。
ホールワードは首を振った。「そのことでいえば、君は友情の何たるかを理解していない」とつぶやいた――「それとも、敵意が何たるかを。君は誰だって好きだ。つまり誰にも冷淡だということだ」
「ごあいさつだな!」とヘンリ卿は、帽子をあみだにして、トルコ玉を思わせる夏の青天井を、つややかに輝く、もつれた白い絹糸のように漂っていく雲を見上げながら叫んだ。「そうだ、実にごあいさつだ。僕はずいぶん人見知りするほうだ。美貌《びぼう》の人は友人とし、人格のすぐれた人は知人とし、知力のすぐれた人は敵にまわすんだ。敵を選ぶのに、いくら用心しても、しすぎることはないさ。まだ馬鹿を敵としたことはない。奴《やつ》らはみんなある程度の知力をもってる連中だ。従ってみんな僕の価値をみとめてくれるってわけさ。これはちょっと自惚《うぬぼ》れすぎるだろうか? どうも自惚れと思えるんだがね」
「ハリー、どうもそう思われるね。だが君の範疇に従えば、僕は単に君の知人くらいのところにちがいないんだ」
「ねえ、バジル、君ははるかに知人以上のものだよ」
「そうして友人よりはずっと水くさいところで、まあ兄弟ってところかなあ」
「あ、兄弟だって! 兄弟はごめんだ。兄の奴は死にそうもないし、弟たちは死ぬことよりほかに何もしそうにないんだ」
「ハリー」ホールワードが顔をしかめながら叫んだ。
「君、僕はふざけすぎたようだが、どうも僕は親類縁者ってものを、毛嫌《けぎら》いしないではいられないんだ。おそらく、僕たちは他人が自分と同じ欠陥《けっかん》をもつことに我慢できないってことから来ると思うんだ。いわゆる上流社会の悪徳に、英国庶民どもが憤慨する気持ちも僕にはよくわかる。大衆は酩酊《めいてい》、愚行、不品行などは当然自分たちだけの特別の財産だと考えていて、もしも僕たち貴族の誰かがくだらぬ真似でもしようものなら、禁猟区へ密猟に入られたくらいに思うんだ。可哀《かわい》そうにサザークが離婚裁判をおこしたとき、彼らの怒りようといったら実に見事だった。それでいて、プロレタリアートの一割も正しい生活をおくっていないと思うんだ」
「今までの君の説には、ひとことだって僕は同意しかねるね。それに君だってきっとみとめないだろうさ」
ヘンリ卿は尖《とが》った褐色の髭《ひげ》をなで、房つきの黒檀《こくたん》の杖《つえ》でエナメル革の靴のつま先をこつこつ叩いた。「バジル、何て君は英国流だ! 君がそんないい方をしたのはこれで二度目だ。ちゃきちゃきの英国人にある一つの思想を披瀝《ひれき》するとき――そんなことをするのは、無謀なことに相場はきまってるんだが――その思想の正邪など誰も考えてもいないんだ。大切だと思われる唯一のことといえば、自分でそれを信ずるか否かということなのだ。さて、思想の価値は、その思想を表明する人間の誠実さとは縁もゆかりもないんだね。おそらく、人が誠実さを欠けば欠くほど、その思想は一層純粋に知的になるんだ。なぜって、その場合、その人の色々な欲求、願望、偏見に色づけられないからさ。しかし、僕は何も政治だの、社会学だの、哲学などを君と論じようというんじゃない。僕は主義原則なんかより、人物のほうが好きなんだ。そして主義なんか持たない人が何より好きなんだよ。ドリアン・グレイ氏のこともっと話してくれないか。彼にどの程度よく会うの?」
「毎日さ。毎日会わなかったら淋しいよ。僕には彼が絶対必要なんだ」
「こいつは驚いた! 君は自分の芸術以外に関心のない男だとばかり思ってたのに」
「今じゃ彼は僕の芸術すべてなんだ」と真面目《まじめ》な調子で画家が言った。「ハリー、僕は時々考えるんだが、世界史において重要な時代は二つしかないよ。第一が芸術の新しい手段の出現、第二が芸術のための新しい人物の出現だ。ヴェネチア人に対する油絵の発明は、後期ギリシア彫刻に対するアンティノアス〔ローマ肯定ハドリアンに愛せられた美青年〕の顔と同じ関係をもってたんだ。そうして、ドリアン・グレイの顔が将来いつか僕にそんな関係をもつだろう。僕は単に彼という人物をもとにして、色を塗り、描き、スケッチするというだけじゃない。もちろん僕はそういうことも全部やったんだが、彼は僕にとっちゃモデル以上だ。僕は彼についての僕の作品が不満だとか、彼があまり美しすぎて芸術で表現することができないなどと言わない。芸術が表現できないものは何一つないんだし、僕がドリアン・グレイに会って以来かいた作品がすぐれており、僕の生涯での最大傑作だということはわかってるんだ。だが奇妙千万にも――君にわかってもらえるかどうか怪しいものだが――彼の人柄が全然新しい芸術手法、全然新しい様式、を暗示してくれたんだ。僕のものの見方、考え方が変わって来たんだ。今までとは異なった手法で人生を再現することができるんだ。『思想の昼間に見る、形式についての夢想』――そう言ってるのは誰だったっけ――僕にとっちゃドリアンはそう言える関係なんだ。眼の前にただこの少年がいるというだけで――なぜって二十歳は越えているだろうけれど、まだほんの少年としか思われないんだから――眼の前に彼がただいるというだけで――果して君にその意味がわかるかどうか。無意識に彼は僕のために新しい流派、ロマンティックな精神のあらゆる情熱を湛《たた》え、ギリシア的な精神のあらゆる完全さを持つはずの流派の傾向を規定してるんだ。魂と肉体の調和――実に大したことだ! 僕たちは狂気のあまり、このふたつを分離させてしまって、俗悪な写実主義《リアリズム》と空虚な理想を発明したんだ。ハリー、僕にとってドリアン・グレイが何ものであるか君がわかってくれさえしたら! ほら、君おぼえてる? 例の僕の風景画――アグニューが大金を出すと言ったのに、僕が手放そうとしなかった奴《やつ》さ。それは僕の最高傑作の一つだ。そしてなぜそうかといえば、僕が描いてる間ドリアン・グレイがそばに坐っていてくれたからだ。何か微妙な感化力が彼から伝わって来て、生まれてはじめて、何でもない森林の景色に、今までいつも求めていていつも見のがしていた驚異を見出したんだ」
「バジル、これはすばらしい! 是が非でもドリアン・グレイに会わなくちゃならない」
ホールワードは立ち上がって庭を行きつもどりつした。しばらくしてもとの座に帰って「ハリー」と言った。「ドリアン・グレイは、僕にすれば、単に芸術の題材《モチーフ》にすぎないんだ。君なら別にこれといって彼に見ることもないかも知れないが、僕にすれば一切のものを彼に見るというわけだ。僕の絵に彼の姿があらわれていないときほど、僕の絵に彼があらわれているときはないのさ。さきにも言ったように、彼は新しい手法の暗示なんだ。線の曲がり工合に、色彩の美しさと精緻《せいち》さとの中に僕は彼の姿を見出すんだ。ただそれだけのことなんだよ」
「じゃ、なぜ彼の肖像画を出品しないんだ?」とヘンリ卿がたずねた。
「なぜかと言えば、別にそんなつもりもなくて、僕はこの奇妙な芸術的偶像崇拝の表現を、いくぶん絵の中に入れたんだ。もちろん、それについては、彼に一度だって話そうなどとはしたくもなかったし、彼のほうでも全然知らないわけさ。将来も全然知らさないつもりだ。だが世間じゃそれを感づくだろうよ。それに世間のあさはかな、せんさく好きな眼に僕の魂をさらしたくないんだ。僕の心を世間の顕微鏡下に置くなんてまっぴらだ。ハリー、あの絵には僕という人間があまりにも入りすぎているんだ――あまりにも僕という人間がね!」
「詩人だって君ほどもの堅くはないさ。彼らは恋愛が出版にどんなに有用か心得ている。今日じゃ、失恋などは何版も版を重ねるだろうからね」
「だから僕は詩人が嫌いだ」とホールワードが叫んだ。「芸術家は美しいものを創造すべきだが、自己の生活をその中につぎこんじゃいけない。僕たちは芸術をまるで自叙伝の一つの形式のように取扱う時代に生きてるんだ。僕たちは美に対する抽象的な感覚を失ってしまっている。いつか世間にそれが何であるかを知らせてやろうと思うよ。だからこそ、僕のドリアン・グレイの肖像画は世間に絶対見せられないというんだ」
「バジル、君は間違ってるようだ。だが、君と議論するつもりはない。議論するのは知的にだめな人間だけがするもんだ。ねえ、ドリアン・グレイは君が好きなのか?」
画家はちょっと考えて、「僕を好いてるんだ」と答えた。「好いてることはわかってる。もちろん、ひどくお世辞を言って嬉《うれ》しがらせてるんだ。言わないでおけばよかったと後悔するようなことを彼に言うのが奇妙に楽しくてね。たいてい彼は僕に対して愛嬌《あいきょう》があって、一緒にアトリエに坐って四方山《よもやま》の話をするんだ。だが時折り、彼は恐ろしく軽率で、僕を苦しめるのが面白いらしい。そんなときにはね、ハリー、僕は僕の魂をまるで上衣につける草花か、虚栄心を満足させるための飾りか、夏の一日だけの装身具みたいに考えてる人間に、僕の魂をすっかり渡してしまったような気がするんだよ」
「バジル、夏の日は長いんでね」とヘンリ卿がつぶやいた。「おそらく、君のほうがさきに飽きるだろう。考えると悲しいことなんだが、天賦の才は美より長持ちする。それだからこそ、僕たちは大変に苦労して過度の教育を自分に与えようとするんだ。生存競争のはげしさのあまり、何か永続的なものを求める結果、自己の地位を保持しようとの馬鹿な希望から、がらくたや事実を頭につめこむんだ。十分博識な人間――これが現代の理想だ。十分博識な人間の頭と来たら実にたまらない。化けものと埃《ほこり》で一杯で、しかもどの品も値段の法外に高い骨董品《こっとうひん》店みたいだよ。やはり君のほうがさきに飽きるだろうよ。いつか君はその友人を眺《なが》めて、いささか彼が画法にはずれてる様子に見え、色の調子だとか何とか気にくわなくなるだろう。君は心の中で友人をひどく非難して、相手が非常にけしからん仕打ちをしたと思うだろう。今度彼が訪ねて来ても君はまったく冷淡で無頓着《むとんちゃく》だろう。ずいぶん惜しいことだ。なぜって、それが君を変えてしまうだろうからさ。君が話したことはまったく夢物語《ロマンス》、まあ芸術の夢物語《ロマンス》というところだ。そうしてどんな夢物語《ロマンス》にしろ、その後で人をひどく非ロマンティックにしてしまうという点が一番いけないんだ」
「ハリー、そんな言いかたはよしてくれないか。僕の生きている限り、ドリアン・グレイの人柄は僕を支配するだろう。僕の感じてることを君は感じることができない。君はとても変わりやすい人間だから」
「ねえ、バジル、だからこそ僕には気持ちがわかるんだ。誠実な連中には愛のつまらない一面しかわからない。愛の悲しみを知ってるのは不実な連中に限るというものさ」そう言ってヘンリ卿は好みの銀のケースで火をつけ、世界を一句に要約しかしかたのように、自意識の強い満足した様子で煙草をすい始めた。つやつやした緑色の蔦《つた》の葉隠れに、さえずる雀のざわめきがきこえ、青い雲の影がつばめの様に芝生の上をかけすぎた。庭にいることのなんというこころよさ! 他人の感情というものがなんと楽しいものか! 他人の思想などよりかずっと楽しいもののように彼に思われた。自分自身の魂と友人の熱情――これらのものこそ人生の魅力あるものであった。彼はバジル・ホールワードのところに長居をしたために逸した退屈な昼飯のことを心に描くと、ひそかなよろこびが湧《わ》いて来た。叔母のところに行っていたら、きっとグッドボディ卿に会って、話は貧民に食糧を与えること、模範宿泊所の必要、などということばかりだったろう。それぞれの階級のものが、自分の生活ではその実行の必要のない美徳の重要性を説いたことだろう。金持ちは節約の価値を説き、怠《なま》けものが勤労の尊厳に雄弁を振るったことだろう。そんなこと一切をのがれたことの嬉しさ! 叔母のことを考えていると、ふとある考えが浮かんだ様子だった。彼はホールワードのほうに向いて言った。「ねえ君、今ちょうど思い出したよ」
「ハリー、何を?」
「ドリアン・グレイの名を聞いた場所をさ」
「どこだった?」とホールワードがちょっとしかめ面をしながらたずねた。
「バジル、そんなに怒った顔をしないでほしい。叔母のアガサ夫人のとこだ。貧民救済の手助けをしようというすばらしい青年をみつけたとかで、名前はドリアン・グレイという人だった。ぜひことわっておかなくちゃならないんだが、叔母はドリアン・グレイが美男子だなんておくびにも出さなかったんだ。婦人は美貌《びぼう》というものに対して、鑑識眼を持たないものだ。少なくとも善良な婦人はそうだ。彼女はドリアン・グレイが非常に熱心で立派な性質の人物だと言った。僕はすぐに、眼鏡をかけた、長髪の、そばかすだらけで大きな足を踏みならすような人物を想像したんだ。君の友人だということがもっとはやくわかればよかったのに」
「ハリー、君が知らなくてよかった」
「なぜ?」
「彼に会ってもらいたくない」
「僕が彼に会って欲しくないって?」
「うん、そうだ」
「ドリアン・グレイ様が画室におみえになっていらっしゃいます」と執事が庭にやって来て言った。
「さあ、是非紹介してくれないか」と笑いながらヘンリ卿が叫んだ。
画家は日光の中に眼をしばたいている召使のほうに向いた。「パーカー、グレイさんに待っていただくように。すぐに参りますからとね」召使は一礼して小径《こみち》を帰っていった。
そこで彼はヘンリ卿を見やった。「ドリアン・グレイは僕の親友なんだ」と彼は言った。「彼は純真で立派な性質の持ち主だ。君の叔母様のドリアン評はまったくあたっている。彼を台なしにしないでくれ。君の感化力を与えないでくれ。どうもよくないからね。世間は広くて実にすばらしい人が沢山いる。僕の芸術の魅力など大したことはないにしても、その魅力を与えてくれる一人の人物を、僕からうばわないでくれ。画家としての僕の生命は彼にかかっているんだ。いいかい、ハリー、僕は君を信用してるんだよ」彼の話し振りは実に緩慢《かんまん》で、一言一句がほとんど彼の意志にさからってしぼり出されているように思われた。
「ずいぶん馬鹿げたことを言うもんだ!」とヘンリ卿は微笑《ほほえ》みながら言うと、ホールワードの腕をとってほとんど連れ込むようにして家の中へ入った。
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第二章
二人が入って行くと、ドリアン・グレイの絵が眼についた。彼は二人のほうへ背を向けたまま、シューマンの「森の情景」の楽譜をめくりながら、ピアノの前に腰をおろしていた。「バジル、是非これを貸してもらいたいね」と彼は叫んだ。「習ってみたいんでね。とてもすばらしく魅力的な曲なんだもの」
「ドリアン、それもまったく今日の君のモデル振りによりけりだよ」
「ああ、もうそれには飽き飽きしちゃった。それに等身大の僕の肖像画なんかまっぴらだね」と青年は演奏用椅子にかけたままぐるぐる回りながら、我儘《わがまま》な気むずかしい調子で答えた。ヘンリ卿の姿をみつけると、ほんの一瞬|頬《ほお》をかすかに赤らめて立ち上がった。「バジル、これは失礼。お客様が御一緒だとは知らなかった」
「ドリアン、こちらはヘンリ・ウォットン卿、僕のオックスフォード時代の旧友なんだ。君が実にすばらしいモデルだとこの人に言ってたところなんだが、これですっかりぶちこわしだね」
「グレイさん、あなたに会った僕の喜びまでぶちこわしになったわけじゃありませんから」とヘンリ卿は進み出て手をさしのべながら言った。「叔母からよくお噂《うわさ》をきいております。あなたは叔母のお気に入りの人物の一人ですが、また犠牲者の一人だともいえるでしょう」
「僕はいまのところ、アガサ夫人のごきげんを損じているんです」と奇妙な悔恨の表情を浮かべてドリアンが言った。「先週の火曜日、夫人と御一緒にホワイト・チャペル〔ロンドンの東部の地区。ユダヤ人の居住地で倶楽部が多くある〕のある倶楽部《くらぶ》に行く約束をしたのです。ところが実際それをすっかり忘れてしまいました。そこで夫人と二重奏をたしか三曲やる筈《はず》だったのです。夫人がどうおっしゃるかわかりません。こわくてお訪ねもできない始末です」
「ああ、僕がうまくとりなしてあげましょう。叔母はまったくあなたに参っていますからね。それにおいでにならなくたって大したことはないですよ。聴衆は叔母のピアノをおそらく二重奏だと思ったことでしょう。アガサ叔母のピアノと来たら、二人分の音はたっぷり出すんだから」
「それは夫人にあまりひどいおっしゃり方です。僕にだってあまり御親切なおっしゃり方でもありません」とドリアンが笑いながら答えた。
ヘンリ卿は彼を眺《なが》めた。なるほど彼はすばらしい美男子だ。赤い唇《くちびる》は美しい曲線を描き、青い眼は気さくさを帯び、金髪がちぢれている。その顔にはすぐにも人を信用させるようなところがある。青年特有の熱烈な純潔さと共に、青年特有のあけすけなところが現れていて、俗世の汚れをまったく帯びていない感じだ。バジル・ホールワードが彼を崇拝するのも当然だ。
「グレイさん、あなたは慈善事業なんかに熱中するには美しすぎますね――あまりにも美しすぎる」そう言ってヘンリ卿は椅子に身を投げてシガレット・ケースを開けた。
画家のほうは絵具を混ぜ、絵筆を準備するのに忙しかった。彼は気がかりそうな顔付きをしていたが、ヘンリ卿の最後の言葉をきくと、彼をちらっと見て、しばらくためらってから言った。「ハリー、僕は今日中にこの絵を仕上げたいんだ。僕が御退散願いたいといったら、ずいぶん僕のことを無作法な奴《やつ》だと君は思うだろうか?」
ヘンリ卿は微笑して、ドリアン・グレイを眺《なが》めて、「僕は帰らなくちゃならないものでしょうか?」とたずねた。
「ああ、ヘンリ卿、お帰りにならないでください。バジルがふくれ面をしてることはわかります。彼にふくれられるとやり切れないのです。その上、なぜ僕が慈善事業に熱中したらいけないのか、わけが知りたいのです」
「グレイさん、それをあなたに話したものかどうか僕にもわからない。あまり退屈なことだから、話すとなると大真面目にならざるを得ないでしょう。だが、あなたに行くなと言われた以上、絶対逃げ出しはしない。バジル、ほんとうにいてもかまわないだろうね? 君はよく、モデルには雑談をしかける人があったほうがいいって言ってたっけ」
ホールワードは唇《くちびる》をかんだ。「もしドリアンがのぞむのなら、もちろん君はいなくちゃならない。ドリアンの気まぐれは、御本人は別として、誰にとっても法律だからね」
ヘンリ卿は彼の帽子と手袋とをとりあげた。「バジル、君のずいぶんのっぴきならぬおすすめにわるいんだが、失礼しなくちゃね。オーリアンズで人に会う約束があるんだ。グレイさん、さようなら。カーズン街の僕のところへ、いつか午後にでもやって来てください。五時にはほとんどいつも家にいます。おいでの折りには手紙をください。会えないと残念ですからね」
「バジル」とドリアン・グレイが叫んだ。「ヘンリ・ウォットン卿が帰られるなら、僕も帰ります。絵を描いている間、君はひとことも口をきかないんだもの。台の上に立って楽しそうな顔をしてるのが実に退屈なんだ。ヘンリ卿に帰らないように頼んでください――是が非でもいて欲しいのです」
「ハリー、いてくれないか。ドリアンにも僕にもありがたいことだから」とホールワードが絵を一心に眺《なが》めながら言った。「なるほど、ドリアンの言う通りだ――制作中僕は絶対に口をきかないし、人の言うことにも耳をかさない。だから気の毒に、僕のモデルになる人は、たまらなく退屈にちがいない。どうかいてくれないか」
「だが、オーリアンズで待ってくれてる相手の男はどういうことになるかね?」
画家は笑って言った。「別に大したことでもあるまい。ハリー、もう一度腰をおろしてくれないか。さあ、ドリアン、台の上にのってあまり動きまわったり、ヘンリ卿の言うことにもかまったりしないように。この男は友人連中全部に悪影響を及ぼす奴《やつ》でね。ただ僕一人が例外というわけだ」
ドリアン・グレイは若いギリシアの殉教者といった様子で台の上にのって、ヘンリ卿にちょっと不満そうにしかめ面をして見せた。どちらかというと、彼はヘンリ卿を好きになりかけていたのだ。彼はバジルとまったく違っていて、この両者は面白い対照をなしていた。そしてヘンリ卿の声は実に美しかった。しばらくして彼はヘンリ卿に言った。「あなたはほんとうに、バジルの言うほど悪い感化力を及ぼすお方ですか?」
「グレイさん、善い感化力なんてそんなものはありません。すべての感化力は悪い――科学的に見て悪いんです」
「なぜ?」
「なぜって、人に感化力を与えることはすなわち自分の魂を与えることなんです。感化を受ける人間は、自分の自然な考え方をしないし、また自然の情熱をもやすこともしない。彼の美徳は本物じゃない。彼の罪悪は――もしもそんなものがあるとして――借物なんだ。誰か他人の奏《かな》でる音楽の反響になるか、また自分のために書かれたものでない役を演ずる役者となるのです。人生の目的は自己発展ということなんで、自己の本性を完全に実現すること――それが僕たちのこの世に生まれて来た目的なんです。近頃、人々は自分をこわがってる。最高の義務――自己自身に負っている義務――を忘れてしまった。もちろん、人々は慈善家で、ひもじい連中に食わせ、貧しい連中に着せてやっている。だから彼ら自身の魂は飢えて裸なのです。勇気が僕ら人間の心になくなってしまった。恐らく実際ははじめからなかったのだろう。社会に対する恐怖――これが道徳の基盤なんだが――と神に対する恐怖――これが宗教の秘密なんだが――この両者が僕たちを支配してるんです。それだのに――」
「ドリアン、いい子だから頭をもう少し右に向けて」仕事に夢中になって、若者の顔に今まで見たこともない表情があらわれて来たことのみを意識しつつ、画家が言った。
「それだのに」とヘンリ卿は低い、耳に気持ちよくひびく声で言葉をつづけた、いつもの彼の癖で手を上品に振りながら。しかもこの癖はすでにイートン〔富裕家庭の子弟が入る学校で、ロンドンの郊外にある〕校時代において彼独特のものだった。
「僕は信じてるんだが、もしも人が自分の生活を充分にまた完全に生きることができたら、もしもあらゆる感情に形式を与え、あらゆる思想に表現を与え、あらゆる夢に現実性を与えることができたら、きっと世界は非常に清新な歓喜の衝動を与えられる結果、僕たちは中世思想の疾患をすっかり忘れ、ギリシア的な理想に復帰するでしょう――おそらくギリシア的な理想よりもさらに洗練されて豊かなものにね。だが僕たち現代人の中でどんなに勇敢な連中でさえ、自分がこわいんだ。野蛮《やばん》人の四肢切断というあの行為が、悲劇的にも、現在、自己否定という形で残存していて、それが僕たちの生活をそこなっているのだ。僕たちはこの拒否の故に罰を受けている。つとめてしめ殺そうとするあらゆる衝動が、心にわだかまって僕たちを毒するのだ。肉体が一度罪を犯すと、もう罪とは縁が切れたことになる。なぜって、行為は一種の浄化作用なんだから。僕に残るものと言えば、ただ快楽の思い出かそれとも悔恨という楽しみだけだ。誘惑を取り除く唯一の方法は、誘惑に屈することのみだ。人間の魂は自ら禁止したことをあこがれるあまり病みなやみ、魂の醜悪な法則が醜悪不法ときめつけたものを欲求するあまり病みなやむ。この世の大事件は頭の中で起こると言われている。この世の大犯罪が起こるのも頭の中であり、しかも、頭の中でのみ起こるんだ。グレイさん、あなた自身にしても、薔薇《ばら》色の青春時代、白薔薇の少年時代をもつ故に、こわくなるような情熱を感じたことも、恐怖におののくような考えにふけったことも、思い出しただけでも、頬《ほお》の赤らむような夢を白昼夢として、眠っている時の夢として見て来たこともあるはずだ――」
「止《や》めてください!」とドリアン・グレイが口ごもりながら言った。「止めてください。あなたの言葉をきいていると、とまどってしまいます。どう言ったらいいかわかりません。あなたの言葉に返すべき返答があるはずですが、ちょっと見当たらないのです。何もおっしゃらないで、僕に考えさせてください。というよりむしろ、僕に考えないように努力させてください」
ものの十分間も、彼は身動きもしないで、口を開けたまま、異様に目を輝かせながら台の上に立っていた。全然新しい感化力が心のうちに働いていることが、彼にはおぼろげながらわかっていた。しかしその感化力は実際には、自分自身から来たもののように思われるのであった。バジルの友人の言った言葉――偶然口にされた、しかもその中にわざと逆説《パラドックス》を含んだ言葉――が今までふれたことのない心の琴線にふれたのだ。しかもその琴線は今や、奇妙な脈動におののきふるえているのが彼に感じられた。
音楽がそんなふうに彼の心を動かしたことは過去にあった。音楽は幾度となく彼の心を悩ましたのであった。だが音楽は明白に語られたものではない。音楽がわれわれの中につくり出すのは新しい世界ではなく、むしろ別のもう一個の混沌だ。だのに言葉というものは! 単なる言葉というものは! なんと恐るべきものか! なんと明瞭で生き生きしていて残酷なんだろう! 誰もそれから逃れることはできない。しかもその中にはなんという微妙な魔力がひそんでいることだろう! 言葉は形なきものに塑像《そぞう》的形体を与えることができ、またヴァイオルや琵琶《びわ》に劣らず、美しい独特な調べを持っているように思われる。たかの知れた言葉が! 言葉ほど迫真的なものがあるだろうか?
そうだ、彼の少年時代には、理解できない色々のことがあった。が今やそれがわかったのだ。人生が突然焔の色を帯びて来た。彼には自分が火の中を歩いて来たように思われた。なぜ自分にそれがわからなかっただろうか?
ほのかな微笑をうかべて、ヘンリ卿は彼をみつめた。彼は沈黙すべき正確な心理的瞬間を心得ていた。彼は強い興味を覚え、自分の言葉が産み出した突然の感銘力に驚き、十六歳の時に読んだ書物が、それまで知らなかった多くの事柄をはじめて明かしてくれたことを思い出して、ドリアン・グレイもまた同じ体験を経過しつつあるのだろうかと考えた。彼は単に空に向かって矢を射ただけなのだ。矢は的中しただろうか? この若者はなんと魅惑的なんだろう!
ホールワードは、ともかく芸術においては力のみから来る真の洗練と完全な精妙さをもつ、あの彼の驚くべき大胆なタッチでずんずん描きとばしていった。彼は沈黙に気がつかなかった。
「バジル、僕は立ってるのに飽き飽きしたよ」と突然ドリアン・グレイが叫んだ。「庭に出て腰をおろしたい。ここは息がつまりそうだ」
「君、それはお気の毒だった。絵をかいてる時はほかのことはわからなくなってしまうんだ。だがモデル振りは今までの最上だよ。身動き一つしなかったんだから。それに僕の望みの効果をつかんだのだ――開きかけの口と眼の輝き。ハリーの奴《やつ》が君に何を言ってたか知らないが、実にすばらしい表情をさせてくれたものだね。おそらくお世辞をふりまいていたんだろう。あいつの言うことは一言だって信用しちゃいけない」
「お世辞は何一つ言ってくれたわけじゃない。おそらくそれだからこそ、僕は彼の言うことなんか何一つ信用しないんだ」
「自分じゃ何から何まで信用してるくせに」と夢見るような、ものうい眼《まな》ざしでドリアンを眺《なが》めながらヘンリ卿が言った。「一緒に庭に出ましょう。アトリエじゃ暑くてやりきれない。バジル、何か苺《いちご》でも入った冷たいものが飲みたいね」
「いいとも。ベルをちょっと鳴らしてくれないか。パーカーが来たら、おのぞみのものをいいつけよう。僕はこの背景をかき上げてしまわなくちゃならない。だからいずれあとから行く。ドリアンをあまり長く引っ張らないでくれ。今日ほどかきやすいコンディションだったためしはない。こいつは僕の傑作になるよ。このままだって傑作さ」
ヘンリ卿が庭に出ると、ドリアンは大きな冷たいライラックの花に顔を埋めて、まるで葡萄酒のようにその香気を熱狂的な様子で吸っているところだった。ヘンリ卿は近づいて彼の肩に片手をかけ、「あなたのやってることはまったく正しいんだ」とつぶやいた。「感覚のほかに魂をいやすことができるものはない、ちょうど魂のほかに感覚をいやすことができるものがないようにだね」
若者ははっとしてあとへさがった。彼は無帽だったので、ライラックの葉のために巻毛がかき乱されて、金色に輝く糸がもつれていた。まるで急に呼び起こされた人のように、眼には恐怖の色をたたえていた。格好《かっこう》よく彫られた鼻孔はふるえ、ある隠れた神経が彼の朱《あか》い唇《くちびる》をふるわせ、さらにふるわせつづけた。
「そうだ」とヘンリ卿は言葉をつづけた。「それが人生の大きな秘訣《ひけつ》の一つなんだ――感覚のたすけをかりて魂をいやし、魂のたすけをかりて感覚をいやすことが。あなたはすばらしい傑作だ。あなたは自分で知ってると思う以上にたくさん知ってるんだ、ちょうどあなたが知りたいと思うよりは知るところが少ないと同じようにね」
ドリアン・グレイはしかめ面をして顔をそむけた。彼はそばに立っているこの長身の上品な青年が好きにならないではいられなかった。オリーヴ色をしたロマンティックな顔と疲れたような表情は興味をそそった。その低いものうげな声には何かしらまったく魅惑的なところがあった。冷たくて白い、花のような手さえ、奇妙な魅力をもっていて、彼が口をきくとその手は音楽のように動いて、独得の言葉をそなえているかのように思えた。だがドリアンは彼がこわかった。そしてこわがるのがはずかしく思われた。自己を自分自身に示すことがなぜ未知の人の手にゆだねられていたのか? バジルと相識ってから何か月にもなるのに、二人の交友は少しも自分を変えていない。人生の神秘を解明してくれるかに見える人が、突然彼の生活に入って来たのだ。だが何をこわがることがあろうか。自分は学校生徒でも小娘でもない。こわがるなんて馬鹿の骨頂だ。
「木陰に入って坐ろうじゃありませんか」とヘンリ卿が言った。「パーカーが飲みものを持って来てくれました。あなたがこんな日向《ひなた》に少しでも長居をしたら、すっかり台なしになってしまって、バジルも二度とあなたの絵を描くと言わないでしょう。ほんとに日焼けは絶対禁物です。あなたらしくもないだろうから」
「それがいったいどうしたというのです?」とドリアン・グレイは庭のはずれにあるベンチに腰をおろしながら、笑って言った。
「グレイさん、そいつはあなたには大問題だ」
「なぜ?」
「だって、あなたは実にすばらしい若さの持ち主で、若さは持つだけの価値のあるものなんだから」
「ヘンリ卿、僕はそうは思いません」
「そりゃ、今は思わないでしょう。いつかあなたがしわくちゃの醜い老人になった時、思いにやつれてひたいにしわがより、激情が恐ろしい焔で唇《くちびる》に焼印をおす時、あなたはそれを感じる――しみじみと痛感するでしょう。今のところ、あなたはどこへ行こうと、世間の人を魅惑する。いつまでもそうだろうか? ……グレイさん、あなたの顔はすばらしく美しい。顔をしかめないでください。事実そうなんだ。美というのは天才の一つの型なんだ――天才よりずっと高いものだ、だってそれは説明を要しないが故になんだ。美とは日光とか春とか、僕たちが月と呼ぶあの銀色の貝が暗い水面に映るのと同じように、この世の偉大な事実に属することなんだ。異論をはさむ余地なんかない。美は最高の神権を持つ。その持ち主は王侯になれる。あなたは笑ってますね? ああ! あなたにその美しさがなくなったら、あなたも笑えない……美は皮相的にすぎないと時に人は言う。そうかも知れぬ。しかし美は思想ほども皮相的じゃないんだ。僕にとって美は驚異中の驚異だ。外観によって判断しないのは、ただ浅はかな人間のみだ。この世の真の神秘は眼に見えるものでこそあれ、見えないものじゃない……そうだ、グレイさん、神々はあなたに親切だった。だが神々は与えるものを速やかに奪い去るものだ。あなたが真に、完全に、そして充実して生きるのは数年にすぎない。青春がすぎれば、あなたの美しさもそれと共に消えるだろう。そうしてその時、あなたには勝利が何一つ残されていないことが突然わかるだろう。あるいは、過去の思い出故に、敗北よりもなお一層悲痛なものとなる、けちな勝利でもって満足せざるを得なくなるだろう。過ぎゆくひと月ごとがあなたを何か恐ろしいものに近づける。時があなたを妬《ねた》み、あなたの美貌《びぼう》と闘うのだ。顔は血色を失い、頬《ほお》はこけ、眼はどんよりとくもるだろう。あなたはひどく悩むだろうよ…… ああ! あなたに青春があるうちに青春を実感するがいい。退屈な奴《やつ》の言うことに耳をかしたり、絶望的な不足をなんとか改善しようとしたり、無知な人間やくだらぬ俗物どもに生命を捧げたりして、あなたのせっかくな貴重な日々を浪費してはいけない。これらは現代の病的な目的であり、誤った思想なんだ。生きるんだ! あなたの中にあるすばらしい生命を生きるんだ! 何一つ取り逃さず、常に新しい感覚を探すんだ。何も恐れることはない…… 新しい快楽主義《ヒードニズム》――それこそ現代の欲するものなんだ。あなたがその快楽主義の眼に見える象徴《シンボル》となるだろう。あなたのような人柄をもってして、何一つあなたにできないことはない。しばらくの間世界はあなたのものだ。あなたに会った瞬間、あなたが実際どんな人間なのか、またどんな人間に実際なるのか、いっこうにあなた自身わかっていないことがすぐよめた。あなたには僕を魅惑する点があまり沢山あるから、是非ともあなた自身のことで少しあなたに教えておかなくちゃいけないと思ったほどだ。もしもあなたが無駄に朽ちはててしまったらどんなに悲劇的なことかと思ったんだ。だって、あなたの若さがつづくのはほんの束の間なんだよ。岡に咲くありふれた花ならばしぼんでもまた咲くし、|きんぐさり《ヽヽヽヽヽ》は来年の六月になれば、今と同じように黄色く咲くことだろう。ひと月たてば、|せんにんそう《ヽヽヽヽヽヽ》は紫の花をつけるだろう。そして毎年毎年|せんにんそう《ヽヽヽヽヽヽ》の緑の葉の夜には、紫の星がきらめくというものだ。だが僕たちは青春をとり戻すわけにはいかない。二十歳の時に脈動する歓喜の脈はのろくなってくる。四肢は衰え、五感はきかなくなる。こうして我々はいまわしい|でく《ヽヽ》の坊に堕し去って、あまり恐れすぎていた激情や、身をゆだねるだけの勇気のなかった精妙な魅惑の思い出に悩まされるだろう。青春! 青春! 青春をのぞいてこの世に何があるというのだ!」
ドリアン・グレイは眼を大きく見開いて感激しつつ耳を傾けた。ライラックの小枝が彼の手からすべって砂利《じゃり》の上に落ちた。柔毛におおわれた蜜蜂《みつばち》が来て、ほんのしばらくあたりをぶんぶん飛び回った。それから蜂は、可憐《かれん》な花が星のように集まった楕円《だえん》球にたわむれはじめた。ひどく重大なことがわれわれをこわがらせたり、筆舌に尽くしがたい、何か新しい感情に動かされたり、またわれわれをこわがらせるようなある思想が突然頭をとりかこんで、われわれに降伏を迫る時などによくするように、なんでもないことに奇妙な興味を無理にわかせようとするあの態度で、彼はそれを眺《なが》めていた。ややあって、蜂は退散した。彼はその蜂が汚れた紫色の昼顔の花の筒の中に入って行くのを眺めた。花はふるえるような様子をしてから、左右に静かに揺れた。突然画家が画室の戸口の処《ところ》に姿をあらわして、彼らに中に入るよう断音的《スタカート》な合図をした。二人は顔を見合わせて微笑した。
「待ってるんだ」と彼は叫んだ。「さあ入ってくれ。光線の工合は完璧だ。飲物は御持参に及べばそれでいい」
彼らは立ち上がって小径《こみち》を一緒にぶらぶら歩いて行った。緑と白の斑《まだら》になった二ひきの蝶が彼らをかすめて飛び、庭の片隅にある梨《なし》の木では|つぐみ《ヽヽヽ》が啼《な》きはじめた。
「グレイさん、僕に会って嬉《うれ》しいでしょう」と彼を眺《なが》めながらヘンリ卿が言った。
「ええ、今は嬉しいです。これからいつも嬉しいだろうか?」
「いつもだって! それは恐ろしい言葉ですよ。その言葉をきくと身震いが出る。女性はこの言葉を使うことが大好きだ。女性はロマンスを永久につづかせようとして、あらゆるロマンスを台無しにしてしまうんだ。またそれは無意味な言葉だ。気まぐれと一生にわたる情熱との唯一の相違は、気まぐれのほうが少しばかり余計に長つづきするということだ」
二人が画室に入った時、ドリアン・グレイは片手をヘンリ卿の腕にかけた。「そうでしたら、僕たちの仲は気まぐれということにしましょう」と自分の大胆さに赤面しながらつぶやいてから、台上の人となって再びポーズをとった
ヘンリ卿はやなぎ枝細工の大型肘掛椅子に身を投げて彼を見つめた。時折りホールワードがうしろにさがって、離れたところから絵を眺《なが》める時は別として、キャンヴァスの上を勢いよくすべる画筆の運びが、静寂を破る唯一の物音だった。開かれた戸口から斜めに射す日光の中で、埃《ほこり》が金色に光って舞っていた。薔薇《ばら》の濃密な香が一面にたちこめているように思われた。
十五分ほどたつと、ホールワードは描く手を止めて、巨《おお》きな画筆の端を噛《か》み噛み、しかめっ面をしながら、長い間ドリアン・グレイを、また次に長い間絵を眺めていた。「これですっかりでき上がった」とついに彼は叫んで、身をかがめてキャンヴァスの左隅に細長い朱色文字で署名した。
ヘンリ卿はやって来て、ためつすがめつ絵を眺めた。まさにそれはすばらしい芸術作品であり、同時にすばらしい生写しでもあった。
「君、心からおめでとうを言うよ」と彼は言った。「現代随一の肖像画だ。グレイさん、こっちへ来てあなたの姿をごらん」
若者は夢からさめたようにはっとした。「もうほんとうにでき上がったのかな」と台から降りながらつぶやいた。
「すっかりでき上がりだ」と画家が言った。「君のモデル振り、今日はすばらしかったよ。実に今日はありがたいと思ってるところだ」
「そいつはひとえに僕のおかげさ」とヘンリ卿が口をはさんだ。「グレイさん、そうじゃないですか?」
ドリアンは答えないで、気乗り薄の様子で絵の前を通りすぎてから振り返った。絵を見ると思わずあとずさりした。すると両の頬《ほお》は一瞬喜悦のあまり赤らんだ。生まれてはじめて自分というものがわかったかのように、歓喜の表情が眼にあらわれて来た。じっと驚異の感に打たれたままたたずんでいる間、ホールワードが話しかけていることは、ぼんやりわかっていても、その話の意味は上の空だった。自分が美しいという意識がまるで天啓のように彼におこって来たのだ。これまでそれを感じたことは一度もなかった。バジル・ホールワードのお世辞は、単に親しい間柄の美《うる》わしい誇張にすぎぬと思われていた。その言葉を聞いても笑って忘れ去ってしまい、何の感化力も彼の本性に与えなかったのだ。そこへヘンリ・ウォットン卿が現れて青春に対する変わった賛美の言葉を伝え、その束の間の命を恐ろしくも警告したのだった。その時には彼の心は動揺したのだったが、今こうして自分の美わしい姿のうつし絵をじっと眺《なが》めていると、その言葉の現実性がしみじみとわかって来た。そうだ、いつかは彼の顔も萎《しな》びてしわだらけとなり、眼はかすんで色つやを失い、優美な姿もくずれ醜悪なものになり果てるのだ。朱《あか》い唇《くちびる》の色も失せ、金髪もその色が消えてしまうであろう。彼の魂をつくるはずの生命は、彼の肉体をそこない、彼は恐ろしい、いまわしいそして|ぶざま《ヽヽヽ》なものとなり終わるだろう。
このことに考え及ぶや、刺すような痛みが刃のごとく彼の心をつらぬき、彼の本性の繊細な一つ一つの繊維をふるわせた。彼の眼は紫水晶の色へと深まり、涙の|もや《ヽヽ》がかかって来た。彼はまるで氷のように冷たい手が胸にあてられたごとき思いがした。
「絵が気に入らないの?」とついにホールワードが叫んだ、若者の沈黙が何を意味するかわからぬままに、いささかそれにむっとした気持ちで。
「もちろん気に入るさ」とヘンリ卿が言った。「気に入らない人がいるだろうか? これは現代画の最大傑作の一つだよ。おのぞみ次第なんだって上げるから、是非僕にゆずってくれないか?」
「ハリー、僕のものじゃないんだ」
「誰のだ?」
「ドリアンのさ、もちろん」と画家が答えた。
「実に幸運児だね」
「なんて悲しいことなんだろう!」とドリアン・グレイは自分の肖像画に眼をすえながらつぶやいた。「なんて悲しいことなんだろう! 僕は老人になっていやらしい、恐ろしいものになるのに、この絵はいつまでも若いことだろう。この絵は六月の今日というこの日より、一日だって年をとることはない……これが逆だったらいいのに! 僕のほうがいつまでも若くて、絵のほうが年をとって行ってくれたら! それができたらなんだってあげるよ! そうだ、この世の中で惜しいものは何一つない! そのためになら、僕の魂だって惜しくはない!」
「バジル、君はそんな協定は嫌《いや》だろうね」とヘンリ卿が笑いながら叫んだ。「君の作品にしてみれば、むしろ災難だろうからね」
「僕はまっぴらだよ、ハリー」とホールワードが言った。
ドリアン・グレイは振り返って彼を見た。「バジル、あなたはまっぴらでしょう。あなたは友人より絵のほうが好きなんだから。僕はあなたにとっては緑のブロンズ像にすぎない。いや、おそらく、それほどのものでもないだろう」
画家は驚いて眼を見張った。あんな口のききかたはまったくドリアンらしくもない。何が起こったのだろう。ドリアンは怒ったような様子をして、顔は紅潮して頬《ほお》は燃えている。
「そうだ」と彼は言葉をつづけた。「あなたにして見れば、僕は象牙のヘルメス〔ローマ神話のマーキュリー。ゼウスとアトラスの女マイアの子。牧畜・商業・音楽・競技の神〕像や銀製のフォーン〔角と尾のある林野および牧畜の神〕にも及ばないのだ。あなたはいつまでもそんなものが好きだろう。僕をいつまで好いてくれるだろうか? おそらく、僕の顔にはじめてのしわのすじが入る時までだろう。それがどんなものにせよ、美貌《びぼう》を人が失う時、すべてを失うことが今僕にわかった。あなたの絵がそれを教えてくれたのだ。ヘンリ・ウォットン卿の言ったことはまったくその通りだ。青春こそ持つ価値のある唯一のものだ。老人になっていることがわかったら、僕は自殺してしまうだろう」
ホールワードは蒼白《そうはく》になって彼の手をつかんだ。「ドリアン! ドリアン!」と叫んだ。「そんな口のききかたは止《よ》してくれないか。今までに君のような友人はなかったんだし、これから先もまたとないだろう。君はまさか、物質的なものを妬《ねた》んでいないだろうね?――そのどれよりも美しい君がね」
「僕はその美しさが滅びないものはなんでも妬《や》けるんだ。君が描いてくれた僕の肖像画を妬いてるんだ。僕が失わなくちゃならないものを、なぜその絵はいつまでも持っていなくちゃならないのか? 過ぎゆく一瞬ごとに、僕から何かが失われて行く。そしてそれが絵のほうに加わって行く。ああ、これが逆でさえあったら! もしも絵のほうが変わって、僕のほうが今のままだったら! なぜ君はそれを描いたの? いつかその絵は僕を嘲笑《あざわら》うだろう――ひどく嘲笑うだろう!」熱涙が彼の眼に湧《わ》いて来た。彼は手をふりほどいて長椅子に身を投げかけて、祈るような様子で顔をクッションに埋めた。
「ハリー、君がこんなにしたんだ」と悲痛な調子で画家が言った。
ヘンリ卿は肩をすぼめた。「これがほんとうのドリアン・グレイだ――ただそれだけさ」
「そうじゃない」
「そうじゃないとしても、僕にどんな関係があるというのだ?」
「僕が帰ってくれと頼んだ時、帰ってくれたらよかったんだ」と彼はつぶやいた。
「君が居てくれと言ったから残ったまでのことさ」というのがヘンリ卿の返答だった。
「ハリー、僕は同時に二人の親友と喧嘩《けんか》はできない。だが君たち二人で僕のこれまでの最大傑作を僕が憎むようにさせてしまった。だから僕はこれを破ってしまうんだ。たかがキャンヴァスと絵具だけじゃないか。こんな絵が僕たち三人の人生に割り込んで来て、それを目茶目茶にしてしまうのを許してはおけないからさ」
ドリアン・グレイは金髪の頭を枕から上げて、カーテンをおろした高い窓の下に置いてある樅《もみ》製の画机のほうへ画家が歩いて行くのを、蒼白《あおじろ》い顔をして、涙にうるむ眼で眺《なが》めた。画家はいったいそこで何をしようとするのか? 彼は雑然といれてある錫のチューヴや乾いた画筆の中をごそごそ探《さが》していた。そうだ、彼の求めているのは、しなやかな鋼鉄薄刃のパレット・ナイフなのだ。とうとう彼はそれを探しあてた。今まさにキャンヴァスをずたずたに引き裂こうとしているのだ。
べそをかきながら若者は長椅子から飛び出して来て、ホールワードのそばへかけより、彼の手からナイフをもぎ取って、画室の突当たりまで投げとばした。「いけない、バジル、いけないったら!」彼は叫んだ。「人殺しも同然だ!」
「ドリアン、とうとう僕の絵のよさがわかってもらえて嬉《うれ》しいよ」とようやく驚きから心をとりもどした時、冷やかな調子で彼が言った。「君にはとてもわかってもらえようとは思えなかったんだ」
「わかるって? バジル、大好きなんだ。僕自身の一部とも言えるから。そんな気がするよ」
「それじゃ、乾いたらすぐにニスを塗って、額ぶちに入れて家へおくり届けさせよう。それからはお好きなようになさいませだ」そう言って彼は部屋を横切って歩いて行き、ベルを鳴らして茶を命じた。「ドリアン、もちろんお茶を飲むだろうね? ハリー、君もだろう? それとも、君はこんな単純な楽しみには反対だというのか?」
「単純な楽しみは多いに結構だ」とヘンリ卿は言った。「それは複雑な人間の最後の逃げ場所なんだ。だが、舞台じゃともかくとして、泣いたりわめいたりはまっぴらだ。君たち二人はなんと馬鹿げた人間なんだろう! 人間を理想的動物と定義したのは誰だったっけ。こいつはまたとない早計な定義だった。人間にも色々なところがあるわけなんだが、理性的ではないね。でも結局、僕にはそのほうがありがたいんだ。しかし君たち二人に絵のことで喧嘩してもらいたくないな。バジル、この絵は僕にくれたほうがいい。この馬鹿な奴《やっこ》さんは本当は絵が欲しくないんだ。僕こそ本当に欲しいんだ」
「バジル、もし君が僕以外の誰かにこの絵をやったら、絶対勘弁できないからね」とドリアン・グレイが叫んだ。「それに僕は馬鹿者呼ばわりはしてもらいたくない」
「ドリアン。絵は君のものなんだよ。まだ制作されない先から君にあげたものだ」
「グレイさん、それに少しばかり君がお馬鹿さんだったこともおわかりだろうし、君が実に若いってことをおそわったって、実際異存はないってこともね」
「ヘンリ卿、今朝だったら大いに反対するところでした」
「ああ、今朝ならね! 君がほんとに生きはじめたのはそれ以来というところだ」
ドアにノックが聞こえ、召使頭が茶道具をのせた盆《ぼん》を運んで来て、それを小さな日本式のテーブルに置いた。茶碗《ちゃわん》や受皿の触れ合う音や、竪溝《たてみぞ》模様のジョージ王朝〔一七一四〜一八三〇〕風の湯沸かしのたぎる音が聞こえた。球形をした陶器の鉢《はち》が二つ給仕によって運ばれた。ドリアン・グレイはテーブルのところへ行って、茶をついだ。例の二人の男は、ものうそうな様子でそこまで歩いて行って、蓋《ふた》の下のものをのぞいた。
「今夜は芝居に行って見よう」とヘンリ卿が言った。「どこかで、何かやってるはずだ。ホワイトの店で食事する約束だったが、相手は旧友ただ一人だけだから、気分が悪いとか、後約《ヽヽ》のため出席不可能とか、電報で言ってやればいい。むしろ、そのほうが口実としては立派だろう。あけすけであっといわせることになるだろうからさ」
「夜会服を着るのも、いい加減うるさいことだ」とホールワードがつぶやいた。「それに、着てるととてもやり切れないよ」
「その通りだ」とヘンリ卿が夢見心地で答えた。「十九世紀の服装は実に嫌《いや》だ。地味で陰気すぎる。罪が現代生活に残された唯一の色彩要素だからね」
「ハリー、そんなことをドリアンの前で言うもんじゃないよ」
「どちらのドリアンの前だって? お茶をついでくれてるほうか、それとも絵の中のほうか?」
「どちらのほうでもだ」
「ヘンリ卿、あなたと芝居へ御一緒したいな」と若者が言った。
「じゃ、行ったらいい。バジル、君も行くだろう?」
「とてもだめだ。行きたくないんだ。仕事が山ほどあるから」
「じゃ、グレイさん、僕たち二人で行くことにしよう」
「大賛成です」
画家は唇《くちびる》を噛《か》んで、茶碗《ちゃわん》を手にしたまま絵のほうに歩み、「僕はほんもののドリアンのところにとどまることにしよう」と悲しそうに言った。
「それがほんもののドリアンだって?」と肖像画の主が、彼のほうへ歩いて来て叫んだ。「僕はほんとうにあれに似てますか?」
「そうだ、そっくりだよ」
「バジル、なんてすばらしいことだろう!」
「少なくとも外見上は似ている。だが、絵のほうは不変だ」とホールワードが歎息まじりに言った。「それはなかなかありがたいことだ」
「忠実さということで、世間の人はなんと大騒ぎをするんだろう!」とヘンリ卿が叫んだ。「だってそうだろう、恋愛の場合にしても、それは純粋に生理学上の問題なんだ。人の意思とはなんの関係もない。若い連中は忠実になりたいと思ったって、それができないし、老人連中は不忠実になりたいと思ってもだめなんだ。言えることといえばそれだけさ」
「ドリアン、今夜は芝居はやめにしないか」とホールワードが言った。「ここにいて僕と一緒に食事をしないか」
「バジル、それはできない」
「なぜ?」
「ヘンリ・ウォットン卿のお供をするよう約束してしまったんだ」
「約束を守ったからって、余計に君が好きになってはくれないよ。彼ときたら、いつも自分で約束を破ってるんだから。どうか行かないでくれ」
ドリアンは笑って首を振った。
「どうか切に頼むからね」
若者がためらってヘンリ卿のほうを眺《なが》めると、ヘンリ卿はさも面白そうに微笑を浮かべながら、茶卓のところから彼らを眺めていた。
「バジル、どうしても僕は行かなくちゃ」と彼は答えた。
「結構だ」とホールワードは答えて、茶卓のところまで行って盆《ぼん》の上に茶碗《ちゃわん》を置いた。「もう遅いんだし、君たちも着|更《が》えをしなくちゃならないから、ぐずぐずしないほうがいい。ハリー、さようなら。ドリアン、さようなら。また近日中にやって来ないか。明日来てくれ」
「参りますとも」
「忘れないだろうね?」
「もちろん、忘れはしませんよ」とドリアンが叫んだ。
「それから……ハリー!」
「なんだい、バジル?」
「今朝庭で君に頼んだこと、忘れないでくれ」
「忘れてしまったさ」
「君を信用してるからね」
「自分で自分を信用できたらと思うよ」と笑いながらヘンリ卿が言った。「グレイさん、さあ行こう、馬車が待たしてあるから、君の家のところで降ろしてあげればよい。バジル、さようなら。おかげで今日の午後は実に面白かったよ」
扉がしまって、彼らの姿が消えると、画家は安楽椅子に身を投げかけた。すると、苦痛の色が顔にあらわれて来た。
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第三章
翌日十二時半、ヘンリ・ウォットン卿は叔父ファーモア卿を訪ねるべく、カーズン街からオールバニーのほうへぶらぶら歩いて行った。叔父はやや無作法ではあるが、快活な独身老人で、世間からは利己的な人間と称せられていた。その理由は、世間が彼のために特別得をするということがなかったからだ。しかし、自分を楽しませてくれる連中に御馳走《ごちそう》を振舞ったから、社交界では気前のいい人間だと思われていた。彼の父は、イザベラ女王〔一八三〇〜一九〇四、スペインの女王イザベラ二世のこと〕が若く、プリム〔一八一四〜七〇、スペインの将軍・政治家〕の存在がまだ人から考えられもしなかった頃、マドリッド駐在の英国大使だったが、自分がパリ駐在大使の職が与えられなかったことに気を腐らせて、外交官勤務から身をひいてしまったのである。彼の考えるところでは、生まれからいって、また怠《なま》け癖、公文書に書く立派な英語、並はずれた快楽欲などからいっても、その地位は彼として資格十分というものだったのである。父親の秘書役だった彼の息子も父親と共に辞職してしまっていた。これは当時世間でもそう考えられたごとく、いささか馬鹿げたやり方だったのである。そうして数ヶ月、爵位《しゃくい》を引きついだ時には、絶対無為に過ごすという、貴族的大技術を真面目に研究しはじめたのである。彼は広壮な邸宅をロンドンに二つ持っていたが、気楽だというので、アパート住まいのほうを好み、たいてい食事はクラブですることにしていた。中部地方の炭坑経営に若干の注意を払ったが、その勤勉という汚点に対する言訳は、石炭を持っていると、紳士が自分の家の炉では、薪《まき》をたく上品さが与えられる特典を持つということであった。政治観においてはトーリー党員だったが、それもトーリー党が野党の時のみで、その党が与党の間は彼らを露骨に過激派呼ばわりしたものである。彼は従者《ヴァレー》にとっては英雄だったが、逆に従者《ヴァレー》からいじめからかわれ、大部分の親類縁者にとって、彼は恐怖的存在だった。ほかでもなく彼が今度は彼らをいじめる番にまわったからである。英国なればこそ彼のような人物が生まれたであろう。しかも彼の言い草は、英国はもうだめになりかかっているということだった。その主義は旧式であったが、その偏見には賛成すべき点が多分にあった。
ヘンリ卿が部屋に入ると、叔父は目の粗《あら》い狩猟服を着て椅子に坐し、両切り葉巻をふかしながら、ぶつぶつつぶやきつつタイムズ紙を呼んでいるところだった。「やあ、ハリー」と老紳士が言った。「どうしてこんなに早く出て来たんだ? 君たち伊達者《ダンディ》連は、二時までは起きないし、五時までは姿を見せないもんだと思ってたんだが」
「ジョージ叔父さん、まったく家族的愛情という奴《やつ》ですよ。実は少々お願いしたいことがあるんです」
「金だろう?」としぶい顔をしてファーモア卿が言った。「まあ坐って、残らず話してしまいなさい。当節の若い者は金がすべてだと心得ているんだ」
「その通りです」とヘンリ卿は上衣のボタン穴の花を直しながら言った。「そうして、年をとるとそのことがわかって来るのです。ところで僕は金なんか欲しくないのです。ジョージ叔父さん、金が欲しいのは、勘定書の支払いをする連中だけで、僕は支払いなど絶対しないです。信用という奴は次男坊の資本金で、これをもとに実に面白くやっていけるのです。それに僕はいつもダートモアの商人と取引していますから、彼らに煩《わずら》わされることは全然ありません。実はちょっと教えて頂きたいことがあるのです。もちろん、たいして役に立つことでもなく、つまらぬことなんです」
「そうだな、ハリー、英国議会の報告書に出てることならなんでもわかるよ。もっともこの頃じゃ、くだらぬ事ばかり出てるんだが、わしが外交官生活をしてる頃は、万事もっとましだった。だが今じゃ、試験で採用してるそうだね。何が期待できるというのだ? 試験て奴《やつ》は徹頭徹尾ごまかしだよ。紳士ならば、十分わきまえているだろうし、紳士でないならば、何だってその男の知ってることは、本人のためにならないからな」
「ジョージ叔父さん、ドリアン・グレイ氏は議会報告書に載ってるわけはないでしょうね?」とヘンリ卿はものうそうに言った。
「ドリアン・グレイ? 誰のことか?」とファーモア卿は、太い白い眉《まゆ》を寄せながらきいた。
「それを伺いに上がったわけです、叔父さん。というより、その人のことはもうわかってはいます。彼は最後のケルソー卿の孫に当たります。母親というのが、デヴァルー家のひとで、マーガレット・デヴァルー夫人です。この母親のことを話して頂きたいのです。この婦人はどんな様子の人でしたか? 誰と結婚したのですか? 叔父さんは、若い頃にはほとんどどんな人だって御存じだったんだから、おそらくこの婦人も御存じだったでしょう。目下僕はグレイ氏にひどく興味をもっています。まだ会ったばかりなんだけれど」
「ケルソーの孫だって!」と老紳士は鸚鵡《おうむ》返しに言った。「ケルソーの孫!……もちろん、その母親なら親しく知っていたよ。たしか洗礼式には立ち合ったはずだ。彼女マーガレット・デヴァルーは特別の美人で、一文無しの青年と駆け落ちして、世間の男性どもをうならせたものだ。その男は、さる歩兵連隊の、なんでも中尉か少尉あたりのつまらぬ奴《やつ》だった。まるで昨日のことのようにはっきり覚えているよ。可哀《かわい》そうにこの男は、結婚後数ヶ月でスパー〔ベルギー東部の町、鉱泉で有名な保養地〕の決闘で殺されたんだ。これにはいまわしい噂《うわさ》がまつわっているんだよ。それによると、ケルソーはベルギー人のごろつきを雇って、娘の婿を公然と侮辱させようとしたんだ。しかも金をやってやらせたんだ。するとその男は、相手をまるで鳩《はと》でも刺すようにやってしまったんだ。この話は握りつぶされていたんだが、ああ、ケルソーは、その後しばらくクラブで独りぼっちで食事をしていたっけ。噂によると、彼は娘を連れ戻したが、娘は二度と彼と口をきかなくなったということさ。そうだ、ろくなことでもないんだ。女のほうもそれから一年経たないうちに死んで、子供を一人残したんだね。そいつはつい忘れていた。どんな子供かな? 母親になら、美男子に相違ない」
「とても美男子です」とヘンリ卿が相槌《あいづち》を打った。
「ちゃんとした人に面倒見てもらえるといいと思うよ」と老人が言葉をつづけた。「もしケルソーの奴がその子に関して|いんちき《ヽヽヽヽ》をやらないならば、大金が彼を待ってるはずだ。ドリアンの母親のほうも金持ちだった。祖父さんの方からセルビイの地所がそっくり彼女に舞いこんだのだ。彼女の祖父さんは、ケルソーを嫌《きら》って、彼のことを卑劣漢だと思ってたんだ。また実際その通りだった。わしがマドリッドにいた頃、奴《やっこ》さんやって来たことがある。まったくはずかしい思いをしたよ。女王〔イザベラ〕はいつも車賃のことで馭者《ぎょしゃ》と喧嘩《けんか》をする英国人の貴族がいるそうだがとよくおたずねになる始末で、大変な語り草になったものだ。わしも一と月の間は宮廷に顔を出す勇気が出なかった。あの野郎は辻馬車の馭者よりは孫のほうを大事にしたことだろうよ」
「それはわかりませんな」とヘンリ卿が答えた。「この若者は将来金持ちになるでしょう。まだ成人に達していないのです。セルビイの地所は彼のものでしょう。自分でそう言ったのだから。それに……母親というのは大変な美人だったんですね?」
「ハリー、マーガレット・デヴァルーはまたとないほどの美人だった。一体全体どうしてあんなことをする気になったのか、まったく納得が行かない。彼女は自分の好みの相手と結婚できたのに。カーリントンが彼女にすっかり夢中になっていたんだが、彼女のほうがロマンティックときているんだ。大体あの一族の女はそうだった。男はみんなろくでなしだったが、女連中はすばらしいものだったよ。カーリントンは自分でもわしに話してくれたんだが、彼女に三拝九拝ってわけさ。ところが彼女のほうで奴《やつ》を一笑に付してしまった――当時ロンドン中の娘っ子が彼のあとを追いかけたというのにな。ところでハリー、馬鹿げた結婚話といえば、君の親父から聞いたことなんだが、あのダートモアが、アメリカ婦人とつまらぬ結婚をするって話はどうなんだ? 英国娘じゃ不足だとでも言うのか?」
「叔父さん、この節はアメリカ娘と結婚するのがはやりですからね」
「ハリー、わしは世界を向こうにまわしても、英国婦人の肩をもつよ」とテーブルを拳固《げんこ》でたたきつつファーモア卿が言った。
「勝目はアメリカ婦人のほうですよ」
「相手は長つづきしないというじゃないか」と叔父がつぶやいた。
「長い婚約期間だったら、彼はまいってしまいます。でも野外障害競争《スティーブル・チェイス》にかけちゃ実にうまいもんです。あっという早業《はやわざ》でものを捕えるのだから。ダートモアの勝目はまずなさそうです」
「その娘の親たちはなんというのだ?」と老人が不平そうにつぶやいた。「親はいるのかな?」
ヘンリ卿は首を振った。「アメリカ娘は、英国婦人が自分の過去を隠すのに劣らず、両親のことを隠すのがなかなか巧妙なんです」と腰をあげながら彼は言った。
「両親は豚肉の罐詰業者といったところかな?」
「叔父さん、ダートモアのためにそうであってほしいと思います。アメリカじゃ、豚の罐詰業は、政治の次に一番もうかるというじゃありませんか」
「ところで、彼女は美人かい?」
「大体アメリカ婦人はみんなするんですが、美人みたいに振舞うんです。それがまた彼らの魅力の秘訣《ひけつ》なんですがね」
「なぜこうしたアメリカ婦人連は、自分の国にひっこんでいないのかな、アメリカは女の楽園だと口ぐせのように言ってるくせに」
「まさにそうなんです。だからこそ、イヴのようにむやみにそこから逃げ出したがるのですよ」とヘンリ卿が言った。「叔父さん、失礼します。これ以上ぐずぐずすると昼食におくれます。お伺いしたいことを教えて頂いてありがとうございます。僕はいつも新しい友だちのことはなんでも知りたくて、旧友のことは何も知りたくない男です」
「ハリー、昼食はどこでするのか?」
「アガサ叔母さんのところです。僕自身とグレイさんとを招んであります。彼は叔母の一番新しい|お気に入り《プロテジエ》なんです」
「ふん! ハリー、アガサ叔母さんに伝えてくれないか、これ以上慈善事業のための寄付嘆願でわしを困らせないようにとな。もううんざりしてるんだ。叔母さんときたら、彼女のくだらぬ道楽のために小切手をかく以外、わしには何もすることがないと考えてるんだ」
「よろしい、叔父さん、叔母に申しつけましょう。でもあまりききめはないでしょう。博愛家というものは、人情味を持ち合わせていないものですからね。それが目立った特徴なんです」
老紳士は賛成だという様子でうなるような声を出してから、ベルを鳴らして召使を呼んだ。ヘンリ卿は、低いアーケイドを通って、バーリントン街へ出て、バークレイ広場のほうへと足を向けた。
かくてドリアン・グレイの素性がわかったのだ。そのものずばりの物語とはいえ、不思議な、ほとんど現代的ロマンスといえるものを思わせるところが、彼の心を動かした。気違いじみた情熱のために、あらゆるものを賭《か》ける美しい女性、恐ろしい裏切りの罪悪によって断ち切られた、狂おしい幸福の数週間。声にも出せない苦悩の数か月、ついで苦痛のさなかに生まれた子供。母親は死の手に奪い去られ、孤独と、愛情のない老人の暴虐とにゆだねられた子供。そうだ、これは興味ある背景だ。この背景がこの若者にポーズを与え、いわば彼をさらに完全なものにしたのだ。世にあるすべての精妙なものの背後には、悲劇的なものがまつわるものだ。どんなつまらぬ花でも、それが咲くためには、世間は陣痛を味わわねばならぬ……昨夜は晩餐《ばんさん》の席でなんと彼は魅惑的だったことか、はっとした驚きの眼を見張って、嬉《うれ》しそうな様子にも驚愕を交えて、口をあけたまま、クラブで向かいにすわっていた様子といったら――赤いランプの笠が彼の顔の眼覚めていく驚異をいっそう濃厚な薔薇《ばら》色に染めて――。彼に話しかけるのは、まるで妙《たえ》なるヴァイオリンを奏《かな》でるにも似ていた。彼は弓の一つ一つのタッチと顫動《せんどう》に反応したのだ。相手に感化力を及ぼすということには、まったく人の心をとりこにしてしまうようなところがある。こんなふうなはたらきは他に類がない。美しい人に自己の魂を投射して、一瞬そのままにしておくこと――まるで美妙な液体か不思議な香気ででもあるかのように、自己の気質を他人に伝えること――こういったことにこそ、真の喜悦があるのだ――おそらく現代のように制限された、俗っぽい時代にあっては、その快楽が実に肉欲的で、目的とするところが実にありふれている時代にあっては、これこそわれわれに残された最も満足の行く喜びであるだろう。奇縁によってバジルのアトリエで会ったこの若者は、驚くべきタイプだ――それとも、少なくとも、驚くべきタイプに作ることができるものだ。優美さは彼のものであり、少年期の清らかな純潔さと、古代ギリシアの大理石の彫刻がわれわれに残してくれた、あの美しさ、それらは彼のものだ。彼に対してできないことは何一つない。巨大なタイタン〔ギリシア神話で天と地を父母として生まれた大力の一族に属する巨人〕にも、可愛《かわい》い玩具にでもつくりなすことは可能なのだ。こんなにも美しいものが、色あせるべき運命とは、なんたる惜しいことだろうか!……そしてバジルは? 心理学的な見地からすると、彼はなんと興味深い男だろうか! 芸術の新様式、人生を眺める新しい方式が、それを全然意識しないでいる一個の人間によって奇《く》しくも暗示されたのだ。ほのぐらい森に住み、広々とした野原を人眼にもつかず歩いていた無言の精が、突然|森の精《ドライアッド》のように大胆に姿をあらわしたのだ。なぜかと言えば、それに対してのみ驚くべき事物が明示される、驚くべき洞察力が、その精霊を探し求める人の魂の中に眼覚めたのだ。事物の単なる外形と様式が、いわば洗練され、一種の象徴的な価値を得たのである。あたかもその外形や様式が何か別の、より完全な形の様式であって、その完全なるものの影を、それらの様式が現実化したかのように。なんと不思議きわまる事なのか! 彼は歴史上の類似の事柄を思いおこしてみた。それを最初に分析したのは、思想の芸術家プラトンではなかっただろうか? それを連続ソネットというべき彩色大理石に彫刻したのは、ミケランジェロではなかっただろうか? 今世紀においては、それは不思議なことだ……そうだ、ドリアン・グレイに対する自分の関係を、このすばらしい肖像画を制作した画家に対するこの青年の関係――しかもこの関係は青年にはわかっていないのだ――にあやからせてみよう。この青年を支配してやろう――実際既に半ば支配しているのだ。あのすばらしい精神を自分のものにしてやるのだ。愛と死から生まれたこの子には、人の心を魅了するものがあるのだ。
突然彼は足を留めて家並を見上げた。叔母の家を少し行き過ぎていることがわかると、微笑を浮かべながらとって返した。いくぶん薄暗い玄関に入ると、召使頭が皆がすでに昼食の席についている旨を告げた。下僕の一人に帽子とステッキを渡して彼は食堂へ入っていった。
「ハリー、例によって遅いのね」と叔母は彼の方へ首を振り振り叫ぶように言った。
彼はすらすらと口実を言ってのけ、彼女の隣の空席を占めると、客の顔ぶれを見回した。ドリアンは喜びに頬《ほお》を染めながら、気はずかしげにテーブルの端の席から彼に一礼した。向かいはハーリー公爵夫人。実に見事にも気だての好い婦人で、彼女を知るほどの人はみんな好いていて、公爵夫人でなかったら、現代の歴史家が肥満型と称するような肉付きの好い婦人だった。彼女の右隣にはサー・トマス・バードン――急進派の国会議員で、公的生活では自己の指導者に追従し、私生活では最上の料理番の言うことに従い、トーリー党員と会食し、自由党員に共鳴するという始末で、これも賢明かつ周知の原則に従ったまでのことである。公爵夫人の左の席は、相当な魅力と教養をそなえた老紳士、トレッドレイのアースキン氏だった。この紳士は、以前自分からアガサ夫人に説明したところによると、言うべきことは全部三十歳になるまでに言い尽くしたというわけで、厄介なだまり癖がついてしまっていた。ヘンリ卿の隣には、ヴァンデルー夫人がいた――叔母の旧友の一人で、女性間の聖人ともいうべき人物だったが、装丁の悪い讃美歌集を思わせるほど、身なりの野暮《やぼ》な婦人だったのである。彼のために幸運なことに、この夫人のもう一方の隣にフォーデル卿が坐っていた。実に頭の良い中年の平凡型の人物で、頭の禿《は》げ工合は、下院の声明書のように味気ないものであった。この人物と彼女は目下ものすごく熱心に話しこんでいるところだった。さてこの熱心さなんだが、彼自身のいい草によれば、それは真に善良な人々がおちいって、とうていそれから逃《のが》れるすべもないような、欠点なのだ。
「ヘンリ卿、ただいま可哀《かわい》そうなダートモアの噂《うわさ》をしているところなの」テーブルの向こうから愉快そうに彼の方を向いて、うなずきつつ公爵夫人が叫んだ。「あなた、本当にあの方、魅惑的な御婦人と結婚なさるとお考えになって?」
「公爵夫人、どうやら彼女のほうから結婚を申し込む決心をしたようです」
「まあ嫌《いや》なこと!」アガサ夫人が大声をあげた。「ほんとに誰か邪魔に入らなくちゃいけませんわ」
「確実な筋から聞いたんだが、あの婦人の父親というのは、アメリカのドライ・グッズ〔アメリカでは織物類、英国では穀物をいう〕商だってね」とサー・トマス・バードンが横柄《おうへい》な様子で言った。
「サー・トマス、叔父は豚肉罐詰業らしいと言っていましたが」
「ドライ・グッズですって! アメリカじゃドライ・グッズって何のことですの?」と公爵夫人は、不審そうに大きな手をあげて、「です」に力を入れつつ訊《たず》ねた。
「アメリカ小説のことです」とヘンリ卿は、勝手に鶉《うずら》の肉をとりながら答えた。
公爵夫人は途方に暮れた顔付きをした。
「甥《おい》の言うことをお気におかけなさいませんことよ」アガサ夫人がささやいた。「あれは何を言うにしても、本気じゃないんですから」
「アメリカが発見せられた時には」と急進派の党員が言って、少し退屈な事実をあげ始めた。一つの問題を洗いざらい究明しようとする人々の伝に従って、彼も聴き手をうんざりさせてしまった。公爵夫人は溜息をついて、話の腰を折る彼女の特権を行使した。「アメリカなんか発見されなかったらよかったと思いますわ」彼女が大声で言った。「ほんとうに、今日じゃ、英国の娘に勝目はありません。とても不公平ですわ」
「おそらく結局のところ、アメリカはまだ発見せられていないですよ」とアースキン氏が言った。「ちょっと嗅《か》ぎつけられたところだといいたいのです」
「まあ! でもわたくし、そこの住民の標本を見ましたの」と公爵夫人が漠然としたいい方をした。「白状いたしますと、たいていのアメリカの御婦人はとてもお綺麗《きれい》で、着こなしも御立派ですわ。ドレスはみんなパリ仕立ですのね。わたくしもあの真似ができたらと思います」
「善良なるアメリカ人が死ぬとパリへ行くってね」とサー・トマスはくすくす笑いながら言った。この人は、脱ぎすてた服といったユーモアの入った大きな箪笥《たんす》の持ち主だった。
「なるほどね! さてそれじゃ、善良でないアメリカ人は死んだら、どこへ参りますの?」公爵夫人が訊《き》いた。
「アメリカへ行くのです」とヘンリ卿がつぶやいた。
サー・トマスは眉《まゆ》をしかめて、「あなたの甥御《おいご》さんは、なんだかあの大国に対して偏見をお持ちのようで」とアガサ夫人に言った。「わたしは、重役連中の準備してくれた特別列車でアメリカ中を旅行しました。こういう連中は、こうしたことについては至極礼儀正しいのです。たしかにアメリカ訪問は得るところがありますよ」
「でも、得るところを目的に、実際どうしてもシカゴを見る必要があるでしょうか?」とアースキン氏が悲しげな調子で訊《き》いた。「どうもわざわざ出かけて行く気になれないのです」
サー・トマスは手を振って、「トレッドレイのアースキン氏は全世界を書棚に持っていられます。われわれ実際家は書物で勉強するよりも眼で見るほうが好きでしてね。アメリカ人はまったく面白い人種です。彼らは絶対的に合理的なんです。そこが彼らの特徴だとわたしは思います。そうなんです、アースキンさん、まったく合理的人種です。アメリカ人には馬鹿げた不条理なところが全然ないのです」
「なんとやりきれないことだ!」とヘンリ卿が叫んだ。「わたしは暴力は辛抱《しんぼう》できるとしても、野暮《やぼ》な理屈はまっぴらです。理屈をふりまわすことには、何か公正を欠くものがあります。知性の腰より下をねらうようなものなんだから」
「どうもおっしゃることがよくわかりかねます」とサー・トマスは顔を赤らめながら言った。
「ヘンリ卿、わたしにはわかります」とアースキン氏が微笑《ほほえ》みながらつぶやいた。
「逆説というものもなかなかそれなりに結構ではあるのですが……」とトマス准《じゅん》男爵がやり返した。
「あれが逆説だったでしょうか?」とアースキン氏がたずねた。「わたしはそうは思わなかった。いや、逆説だったでしょう。さて、逆説の道は真理の道です。事実を試すには、綱渡りをさせて見ることですよ。真理が軽業師《かるわざし》になった時、はじめて判断することができるのだから」
「おやおや!」とアガサ夫人が言った。「あなたたち殿方の議論なさることと言ったら! 何をお話しになっているのか、さっぱりわかりません。まあ、ハリー、あなたにもほんとに困ります。なぜこの思いやりのあるドリアン・グレイさんに、イースト・エンド〔ロンドン東部で下層民の多く住む区域、もちろんここではイースト・エンドの貧民救済のことに関して意味している〕をおやめになるようにすすめるの? あの方はとても貴重な方となるでしょう。あの方の演奏はみんな大好きでしょうから」
「僕は彼が僕のために演奏してくれることをのぞんでいますよ」とヘンリ卿は微笑《ほほえ》みを浮かべながら叫んで、テーブルを見渡した。するとドリアンの晴々とした|まなざし《ヽヽヽヽ》がそれに答えてくれた。
「でもホワイトチャペル〔ロンドン東部の地区、ユダヤ人居住地〕の人たちはそれは不幸よ」とアガサ夫人が言葉をつづけた。
「僕は何にだって同情はもてるのですが、ただ苦悩というものだけは別です」と肩をすぼめながらヘンリ卿が言った。「それだけは同情できない。あまりにも醜悪で恐ろしく、悲惨です。苦痛に対する現代人の同情には、どこか恐ろしく病的なところがあります。色彩美、人生の喜悦といったものにもっと共感すべきです。悲痛な人生問題については、あまり言わないほうがいいのです」
「だが、イースト・エンドはやはり重要問題なんですな」とまじめくさった様子で頭を振り振りトマス氏が言った。
「まったくおっしゃる通りです」と若い貴公子が答えた。「これは奴隷問題ですよ。ですから私たちは奴隷を楽しませることによって、この問題を解決しようと努めているのです」
政治家は、きっと彼の方を見て、「それじゃ、君はどんな改革を行なえばよろしいとおっしゃるわけですか」と訊《き》いた。
ヘンリ卿は笑って、「英国では、天候の他に変えたいと思うものは、何もありませんよ」と答えた。「僕は哲学的思索でまったく満足しています。ですけれども、十九世紀は同情の濫費《らんぴ》で破産しましたから、これを直すのに科学のたすけを求めるべきだと考えます。感情の美点は人を迷わすことにあり、科学の美点はそれが感情的でないという点にあります」
「でも、私たちにはとても重い責任がありますのよ」とヴァンデルー夫人がおどおどしながら口を出した。
「とても重い責任ですわ」とアガサ夫人が鸚鵡《おうむ》返しに言った。
ヘンリ卿はアースキン氏のほうを見た。「人間は自分のことをあまり真剣に考えすぎますよ。それが世界の原罪というものなのです。穴居民族が笑いを知っていたら、歴史はもっと別のものになっていたでしょう」
「あなたのおっしゃること、ほんとうに心のなぐさめになりますわ」と公爵夫人がさえずるように言った。「わたくし、イースト・エンドに全然興味がないものですから、あなたの叔母さまにお目にかかりに参りますと、いつも気がとがめていたのです。この先は、顔の赤らむ思いをしないで、叔母さまにお会いできますのよ」
「顔が赤らむなんて、いかにもお似合いですね、公爵夫人」とヘンリ卿が言った。
「それも若い時だけですわ」と公爵夫人が答えた。「わたしみたいなお婆さんが顔を赤らめるのは、いけないしるしですの。ああ、ヘンリ卿、あなた若返り法でもお教えくださったら」
彼はちょっと考えて、「公爵夫人、あなたはお若い頃おかされた大失錯を、何か覚えておいでですか?」とテーブル越しに彼女のほうを見ながら訊《たず》ねた。
「ずいぶんたくさんございますわ」彼女は叫んだ。
「でしたら、それをまたやり直すことですね」と真面目くさって彼は言った。「若返り法としては、愚行をくり返すことだけです」
「面白いお説ですこと!」と彼女は叫んだ。「実行に移さなくてはなりませんわ」
「危険な説ですぞ!」という言葉が、サー・トマスの堅く結んだ口からもれた。アガサ夫人も首を振りはしたが、内心面白く思わざるを得なかった。アースキン氏は耳をすましていた。
「そうです」と彼はつづけた。「それが人生の偉大な秘訣《ひけつ》の一つです。この頃の人はたいてい、一種の卑屈な常識がもとで死んでしまいます。そうして、決して後悔することのないのは、ただただ自分のあやまちだけだということがわかるのですが、時すでにおそしというわけなんです」
笑い声がどっとテーブルをめぐってわいた。
彼はその考えをもてあそび、次第に我がままになり、その考えを宙に投げあげ、さらにそれを変形した。そしてまたその考えを逃してはまた捕え、空想でもって虹色に染め、逆説《パラドックス》の翼を与えた。彼が言葉をつづけるにつれて、愚考に対する賞讃の辞は、一種の哲学にまで高まり、「哲学」自身が若返り、「快楽」という狂暴な調べを帯び、空想的に言えば、葡萄酒に染まった服と蔦《つた》の環をまとって、バッカス神の祭尼の如く、生の岡の上で踊り、動作の鈍いサイリーナス〔森の神中の最年長者〕が|しらふ《ヽヽヽ》でいることを嘲《あざけ》った。事実が哲学の前では、おじけついた森のけもののように逃げてしまった。「哲学」の白い足は、賢人オーマー〔五九二頃〜六四四、正統派マホメット教主としての第二代トルコ国王〕の坐っている大きな圧搾機《あっさくき》を踏んで、ついには煮え返る葡萄の汁が紫の泡の波となって、そのあらわな四肢の回りにわき上がり、あるいはまた桶《おけ》の黒い、したたる、丸味をおびた側面を、赤い泡となって這《は》い流れた。それは非凡な即興であった。彼はドリアン・グレイの目がじっと自分に注がれているのを感じ、彼の聴き手の中で特に自分が魅了したいと願う人がいると思うと、機智はとぎすまされ、空想は色彩を加えるようであった。彼は才気に輝き、奇想を見せ、奔放《ほんぽう》になった。聴き手は魅せられて我れを忘れ、笑いながら彼の吹く笛について来た。ドリアン・グレイは彼から眼を離さず、魅入られた者のように坐し、微笑が唇《くちびる》のあたりに次々とあらわれ、次第に影を深めてゆく眼の中で、驚異の色が重々しさを加えて行った。
ついに、現代風の定服を着けて、「現実」が召使の姿をとって部屋に入って来て、公爵夫人に馬車が待っていることを告げた。彼女は絶望を装いつつ手をもみしぼって、「なんてうるさいことでしょう!」と叫んだ。「失礼しなくてはなりませんの。主人を呼びにクラブに寄ってから、ウィリス事務所《ルームズ》のくだらない会合へつれて行かなくてはならないのです。その席では、主人が議長をつとめることになってますの。遅れでもしようものなら、主人はかんかんに怒るにきまっていますわ。それにわたし、こんなボンネットかぶってちゃ、派手な活劇さわぎはとてもできないでしょう。すぐにこわれてしまいますもの。荒っぽい口をきかれただけで、このボンネットは台無しになってしまいますもの。いいえ、アガサ、もう失礼しなくちゃ。ヘンリ卿、さようなら、あなたずいぶん愉快なお方ですこと、それにとても頽廃《たいはい》的でいらっしゃるのね。あなたのお考えについてなんと申し上げてよいやらわかりかねます。いつか是非|晩餐《ばんさん》にいらしてください。火曜日は? 火曜日でしたらあいていらっしゃって?」
「公爵夫人、あなたのためにだったら、誰だってすっぽかしてしまいますよ」とヘンリ卿は一礼しつつ言った。
「まあ! それはとてもありがたいことですけれど、ずいぶんいけないことよ」と彼女は叫んだ。「是非いらしてくださいませ」彼女が裾《すそ》をひいて部屋から出ていくと、アガサ夫人や他の婦人連がこれにつづいた。
ヘンリ卿が再び腰をおろすと、アースキン氏が席をうつして彼の傍に座をしめ、彼の腕に手をかけて言った。
「本にしたら何冊分にもなることをしゃべるんですね。なぜ本を書かないのです?」
「アースキンさん、僕は読むのがとても好きですから、書きたいとは思いません。そりゃ、小説だったら書きたいと思っていますが、ペルシア絨緞《じゅうたん》のように美しくまた現実離れのしたのをですね。ところが、英国には文学のわかる大衆層というものがいないのです。ただ新聞、入門書、百科全書がわかるくらいでしてね。世界中の人間のうちで、英国人ほど、文学の美しさのわからぬ奴《やつ》はまずないですな」
「どうも、お説の通りらしい」とアースキン氏が答えた。「僕自身も文学的野心を抱いたものですが、ずいぶん昔に断念してしまいましたよ。さて、お若い方――そう呼ばせていただいてもかまわんでしょうな――午餐《ごさん》の席であなたが言われたことは、全部本気だったのですか?」
「どんなことをしゃべったのか、忘れてしまったのですが」とヘンリ卿は微笑《ほほえ》みつつ言った。「ずいぶんいけないことでしたか?」
「実にけしからん。実際、あなたは大変な危険人物だと思います。それに、あの公爵夫人に万一のことでも起こったときには、まずあなたが責任をとるべきだと考えます。でも、人生論でも一つあなたとやりたいですね。僕の生まれた時代は退屈でした。いつかロンドンに飽きたら、トレッドレイへおいでください。ちょうどさいわい、すばらしいバーガンディ酒の持ち合わせがありますから、それでもやりながら、あなたの快楽の哲学をきかしてもらいましょう」
「それはすてきでしょうな。トレッドレイ訪問とは光栄の至りです。御主人といい、蔵書といい、この上なしというものです」
「あなたが来られたら、それで三拍子そろうというわけです」と|いんぎん《ヽヽヽヽ》に一礼しながら老紳士が答えた。「さて、あなたのすばらしい叔母さまにおいとまを申さなくちゃ。アシーニアム〔ロンドンの文芸クラブの名〕に行って居眠りをする時間なんですよ」
「皆さんがですか、アースキンさん?」
「会員一同四十人が四十脚の肘掛椅子でね。さしずめ、英国学士院〔フランス学士院をもじったもの〕の練習中というところです」
ヘンリ卿は笑いつつ立ち上がって、「僕もハイド・パークへ出かけます」と叫んだ。
彼が部屋を出ようとすると、ドリアン・グレイが彼の腕にさわって、「御一緒に参りましょう」とつぶやいた。
「でも、君はバジル・ホールワードに会いに行くように約束されたと思ったんだけれど」とヘンリ卿が答えた。
「御一緒させてもらうほうがいいです。是非お供しなくちゃいけないような気がします。どうぞ、そうさせてください。そうしたら、御一緒にいる間ずっとお話してくださると約束してくれますか? あなたのように、お話のすばらしい人はありません」
「ああ、今日の分はすっかりしゃべってしまった」とヘンリ卿が微笑《ほほえ》みつつ言った。「今僕の望むところといえば、人生を眺《なが》めるということだけです。なんだったら、一緒に来られて、人生を眺められたらいいでしょう」
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第四章
一か月後のある午後、ドリアン・グレイはメイフェア〔ロンドンのハイド・パーク東方の上流住宅地〕のヘンリ卿の家の小じんまりした書斎で、贅沢な肘掛椅子によりかかっていた。この書斎は、この部屋特有の魅力あるものであった――オリーヴ色のオーク材の高い腰羽目板がはまり、クリーム色に塗られたフリーズ〔小壁〕と天井には浮き出しになった石膏細工が施され、赤|煉瓦《れんが》色の毛氈《もうせん》には、絹の長い房のついたペルシア絨緞《じゅうたん》がところどころ敷いてあった。繻子《しゅす》木製の小さなテーブルには、クローディオンの手になる小彫像が置かれ、そのそばに「短篇小説百話集」が置かれていた。これはマルグリット・ド・ヴァロア〔フランス王ヘンリ二世の娘〕のために、クローヴィス・イーヴが装丁し、彼女が紋章用にえらんだ金色の雛菊《ひなぎく》模様で飾ったものだった。炉棚には派手なチューリップを挿《さ》した数個の大きな青磁の壷《つぼ》が並べてあり、窓の小さな鉛張りの鏡板から、ロンドンの夏の日の、あんず色した光が流れ込んで来た。
ヘンリ卿はまだ部屋に来ていなかった。時間厳守は時間泥棒なりという主義にもとづいて、彼はいつも決まっておそかった。そのため、この若者は、本棚に見つけた、精巧な挿絵入りの『マノン・レスコー』のページを、大儀そうに繰りながら、さも不機嫌そうな顔付きをしていた。ルイ十四世時代の柱時計が、固苦しい単調な音をきざむのに彼の心はいらだち、一二度はもう帰ってしまおうかとも思った。
やっと外に足音が聞こえてドアが開いた。「ハリー、ずいぶんごゆっくりですね」ドリアンがつぶやいた。
「グレイさん、ハリーじゃございませんことよ」甲高《かんだか》い声が答えた。
すかさず振り返って見て、彼は立ち上がった。「どうも失礼しました。ついちょっと……」
「主人だとお考えになったのでしょう。おあいにく、家内のほうなのですわ。自己紹介させて頂くことにいたしましょう。お写真でよく存じ上げておりますの。主人はあなたのお写真を十七枚も持ってると思います」
「奥様、十七枚じゃないでしょう」
「じゃ、十八枚でございますわ。それに、先だっての晩、オペラで主人と御一緒のところをお目にかかりましたの」と彼女は話しながら神経質な笑いをもらし、とりとめのない、忘れな草色をした眼で彼を眺《なが》めた。一風変わった女性で、そのドレスはまるで激怒の中にデザインされ、嵐のさなかに身につけたといった様子が常に見られた。常に誰かを恋していても、まだ手ごたえのあったためしがないので、いつも幻を見つづけていた。彼女は美しく見せようとして、ただだらしなく見えることに成功するにすぎないのであった。名前をヴィクトリアといい、教会通いにかけては、まったく熱狂的だった。
「奥様、あれは『ローエングリン』のときでしたね」
「そうですの、大好きな『ローエングリン』のときでした。わたくし、ワグナーの音楽が一番好き。とても大きな音がしますから、ずっとおしまいまでおしゃべりをしていても、人にきかれなくていいですわね。それがとても好都合なのね。グレイさん、そうお思いになりません?」
前と同じ神経質な、断音的《スタッカート》な笑い声が、彼女のうすい唇からもれ、その手の指は、長いべっこう細工のペーパー・ナイフをもてあそびはじめた。
ドリアンは微笑して首を振った。「奥様、どうもそうは思われません。演奏中は、少なくともすぐれた音楽の演奏中は、僕は絶対に口をきかないことにしています。下らぬ音楽のときは、しゃべってそれを消してしまうのが当然でしょうが」
「まあ、それは主人の意見じゃございませんこと。いつも、主人の意見はお友だちの方から承《うけたまわ》りますのよ。わたくしが、主人の意見を知る唯一の方法ですの。でも、わたくしが良い音楽が嫌《きら》いだなんてお考えあそばさないことよ。崇拝するほどの気持ちなんです。でも怖《こわ》いのです。わたくし、音楽をきくと、とてもロマンティックになってしまいます。ピアニストの方をそれは崇拝したことがありましてよ――どうかすると、一時に二人だったと主人は申しますの。ピアニストのどこがどうなのかよくわからないのですけれど、おそらく、彼らが外国人だからなのでしょう。ピアニストたちはみんなそうですわね。英国生まれのピアニストでも、しばらくすると外国人になってしまいますの。かしこいやり方です。それにまたそれが芸術にとても敬意を払うことにもなるのでございましょう。それでまた芸術も世界的になりますもの。グレイさん、あなた、まだ一度もわたくしのパーティにおいでくださったことございませんわね。是非いらしてくださいませ。わたくし蘭《らん》を買う余裕はございませんけれど、外国のお方には、お金に糸目をつけませんの。外国のお方がいらっしゃると、お部屋がとても美しく映えますの。でも、ハリーが参りましたわ! ハリー、少しおたずねしたいことがあって、あなたを探しに参りましたの――さあ、何のことでしたかしら――そうすると、グレイさんがいらしてましたの。わたくしたち、音楽のことでとても楽しいおしゃべりをしてたところよ。考え方がすっかり同じなの、いいえ。全然別だと思うわ。でもこの方、とても愉快でしたわ。お会いしてほんとに嬉《うれ》しく存じてます」
「それはよかった、お前、とてもよかった」とヘンリ卿は黒い三日月|眉《まゆ》をあげて、興味ぶかそうな微笑《ほほえ》みを浮かべつつ、彼ら両人を見ながら言った。「ドリアン、おそくなってすまない。ウォーダー街へ古い綿の切れを探しに行ってね、何時間も掛け合わなくちゃならなかったんだ。この節は世間の人間ときたら物の値段を知っていても、物の価値というものを全然知らないからね」
「わたくし、もう失礼しなくちゃなりませんわ」とヘンリ夫人が叫んで、間の悪い沈黙を突然の馬鹿笑いで破った。「公爵夫人と馬車でドライヴの約束をしましたの。グレイさん、さようなら。あなた、さようなら。あなた、お食事はそとでしょう? わたくしもそうなの。もしかしたら、ソーンベリ夫人のところでお目にかかれるかも知れません」
「まあね」とヘンリ卿は、彼女を送り出したドアを締めながら言った。そのときの彼女は、一晩中雨に濡《ぬ》れていた極楽鳥のような恰好《かっこう》で部屋を急ぎ足で去って、あとにはかすかな赤素馨《フランジパニ》の匂いが漂っていた。卿はそこで巻煙草に火をつけると、ソーファに身を投げた。
「ドリアン、麦わら色の髪の女と絶対に結婚するもんじゃないよ」と二、三度煙草をふかしてから彼が言った。
「ハリー、なぜですか?」
「とてもセンチメンタルだから」
「でも、僕はセンチメンタルな人が好きだな」
「ドリアン、決して結婚なぞするもんじゃない。男は疲れたから結婚するし、女は物好きのため結婚するんだ。そこで両方とも失望するってわけさ」
「ヘンリ、僕は結婚なんかしそうにないです。あまり熱烈に愛しすぎてるから。これはあなたの警句《アフォリズム》の一つです。僕は今これを実行にうつしているところです、あなたのおっしゃることはなんだってやるんです」
「いったい君は誰と恋仲になってるの?」とちょっと間をおいてヘンリ卿が訊《たず》ねた。
「相手は女優なんです」ドリアン・グレイは顔を赤らめつつ言った。
ヘンリ卿は肩をすぼめた。「そいつは初舞台《デビュウ》にしちゃ月並だな」
「ハリー、あなただってあの人をひと目見たら、そうは言わないでしょう」
「何ていう女優?」
「シビル・ヴェインといいます」
「全然初耳だな」
「僕も初耳です。でも、いつかは名が出るでしょう。天才なんだから」
「ねえ君、女性に天才はいないんだ。女性とは装飾的な性だ。もともと言うことは何一つないのに、言い方がうまいだけ。女性なんて、精神を物質が征服してる実例だよ、ちょうど男性の場合は、道徳を精神が征服してることの実例になるようにね」
「ハリー、よくそんなことが言えますね?」
「ねえ、ドリアン、それはまったくほんとうさ。僕は目下女性を分析してるところだ。だから万事わかっているというもの。この問題は、はじめに考えたほどむずかしいものでもないんだ。結局、女性には二種類しかないということになる――地味なのと派手なのとね。地味な方は大いに有用だ。品行方正の評判を立てたいと思ったら、ちょっとこういう女性を夕飯に連れて行けばそれでいい。もう一方のはひどく魅力的だ。だが、その連中はまたそれで間違いをやらかしている。連中は若く見せようとして、顔を塗りたてることだ。僕たちの祖母連中は才気縦横の口のきき方をするため、顔に塗ったんだ。紅《ルージュ》と才気《エスプリ》とがうまく伴っていたものだ。それももうおしまいさ。自分の娘よりも十才も若く見えれば、今の女性は至極御満足だ。会話と来たら、ロンドン中で共に語るに足る女性は五人いるだけだ。しかも、そのうち二人は、上品な社交界へとても出られたものじゃない。ところで、君の天才娘の話をしてくれないか。知り合ってからどれぐらいなの?」
「ああ、ハリー、あなたの考えは実におそろしい」
「それは気にかけないことだ。知り合ってからどれぐらい?」
「三週間ぐらい」
「どこで会ったの?」
「ハリー、今お話しますよ。だけれど、お手やわらかにお願います。結局、もしも僕があなたに会わなかったら、こんなことにもならなかったろうから。あなたの言葉をきいて、僕は人生についてすべてを知りたいという、狂暴な欲望に満たされたのです。あなたに会ってから、幾日も、何かが僕の血管に脈打っているようでした。ハイド・パークを散歩したり、ピカデリーをぶらついたりするときも、僕は通りすがりの一人一人を眺《なが》めて、狂おしい好奇心を抱きつつ、人々がどんな生活を営んでいるのだろうと考えたものです。中には僕の心をひきつけたものもあり、また恐怖で僕の心を一杯にしたものもありました。絶妙な毒気が空中に漂っており、僕は感覚を求める烈しい情熱を感じました。……ところで、ある晩七時頃、冒険を求めて外出する決心をしたのです。この灰色の巨大なわがロンドン――いつかおっしゃったように、無数の人間が住み、けがれた罪人もあれば、すばらしい罪もやどすこのロンドンが、何かを僕のために用意しているに違いないと感じたのです。色々な空想が浮かび、危険ということを考えただけで、歓喜の気持ちが湧いて来ました。僕たちがはじめて食事を共にしたあのすばらしい晩、美の探究が人生の秘訣《ひけつ》だとおっしゃった、あなたの言葉が思い出されたのです。自分でも何を期待していたのか、よくわからないのだけれど、家を出て東のほうにさまよって行くうち、ついにうす汚い通りや、暗い、芝生も無い、広場の迷路に迷いこんでしまったのです。八時半頃、大きなガス燈がきらめいて、けばけばしいビラの出ている、お粗末な芝居小屋の前を通りかかりました。見るも恐ろしいユダヤ人が、僕の見たこともないほどのものすごいチョッキを着て、安葉巻をすいながら入口のところに立っている。巻毛は油でべたべたしていて、|しみ《ヽヽ》のついたワイシャツのまん中には、とても大きなダイヤモンドが光っている。『だんな様、特別席《ボックス》はいかが?』彼は僕を見るとそう言って、仰山な卑屈さを見せつつ帽子をとったのです。その男には、何かちょっと僕の興味をそそるところがありました。まるで大変な怪物でしたから、あなたに笑われるのはわかっていたのですが、僕は入って行って、舞台脇の特等席のために、一ギニー奮発したというものです。なぜあんなことをしたのか、今もって了解に苦しむところです。もしも僕がそうしなかったら、ハリー、僕の人生最大のロマンスを逃すところでした。笑ってるんですね。ひどいひとですよあなたは!」
「ドリアン、笑ってなんかいない、少なくとも、君のことを笑ってるんじゃない。だが君の人生の最大のロマンスと言わないことだ。生まれてはじめてのロマンスとでも言うところだ。君はいつも愛されることだろうし、君自身も恋をすることだろうさ。身も心も打ちこんだ恋愛沙汰というものは、何も仕事の無い人間の特権なんだ。それこそ、一国の有閑階級の一つの効用というものだ。こわがることなんかない。君の前途には、すばらしいことが待ってる。まだほんの序の口というもんだ」
「僕をそんなにうすっぺらな人間と思われるのですか?」とドリアン・グレイが怒って叫んだ。
「いや、ずいぶん深みのあるほうだと思うな」
「それはどういう意味?」
「ねえ君、一生に一度だけ恋をする人は、実際にはうすっぺらな人間なのさ。彼らのいわゆる忠実とか誠実とかいうものは、僕から言えば、習慣から来る無気力とか想像力の欠如というわけだ。感情生活における忠実さというものは、知性的生活における首尾一貫性と同じわけで――単に失敗の告白に過ぎない。忠実さ! いつかこいつを是非分析しなくちゃならない。その中には、所有欲がひそんでいる。他人に拾われるかも知れないという怖れがなかったら、僕たちから逃げ出したいと思うようなものが、世の中に沢山ある。だが、何も君の話の邪魔をしようというのじゃないんだ。話をつづけてくれ」
「さて、僕はせまくるしい、ひどい貸切特等席におさまったというわけです。眼の前には、俗っぽい垂れ幕がかかっている。カーテンの陰から小屋を見渡すと、一面にキューピットやコーニュコーピア〔豊穣の角(角《つの》の中に花、くだもの、穀類を盛った形で物の豊かな象徴)〕で飾りたてた安ぴかのつくりで、まるで三流の婚礼菓子よろしくといったものでした。天井桟敷と平土間正面の二階下はだいたい満員でしたが、うす汚い平土間一等席二列はがら空きで、いわゆる二階正面桟敷《ドレス・サークル》と思われるあたりには、ほとんど一人の入りもない有様。女どもはオレンジやジンジャ・ビアをあちこち売り歩き、みんなが|くるみ《ヽヽヽ》を割ってたべる有様といったら、それはすさまじいものでした」
「まさに、英国演劇はなやかなりし時代そのままというところだったにちがいないね」
「まさにそうだったでしょう。しかも、実に気のめいるようなことだったのです。僕は一体全体どうしたらよいものか考えはじめました。とその時、番付が眼につきました。ハリー、何の劇だったと思う?」
「『白痴小僧またの名|唖《おし》ながら無邪気者』くらいだったろう。僕たちの先祖は、そう言った場所が好きだったのさ。ドリアン、長生きすればする程、僕たちの先祖に結構だったことは、何事にしろ、僕たちにしてみれば、大して結構じゃないってことをますます痛感するね。政治だって、芸術のことだって、祖先はいつも間違ってるよ」
「ハリー、芝居はなかなか結構なものでした。『ロメオとジュリエット』でね。シェイクスピアがこんなみじめな、穴みたいなところで演ぜられるのを見ると思うと、あんまりいい気持ちはしなかったのですが、まあ少しは興味もわいて来たので、ともかく、第一幕を待つことに決めたのです。オーケストラはもうひどいもので、指揮は若いヘブライ人が担当していて、その男が音のつぶれたピアノを弾くので、それを聞くと逃げ出したいほどでしたが、ついに幕開きになって劇がはじまりました。ロメオのほうは、でっぷり太った、年配の紳士で、焼きコルクで黒く眉をひき、しわがれた悲劇声で、まるでビール樽《だる》よろしくといった恰好《かっこう》でした。マーキューシオのほうも、ほとんどこれに劣らず、ひどいもので、演ずるのは、茶番役者で、勝手な場あたりの|せりふ《ヽヽヽ》を入れて、平土間のお客とは実に仲良しの様子でした。ロメオもマーキューシオもともに道具立同様、グロテスクで、その道具と来たら、田舎《いなか》の掛小屋から持って来たと言わんばかりの様子でした。だが、ジュリエットときたら! ハリー、まあこんな少女を想像して見てください――年は十七になるかならぬといったところ、小さな花のような顔で、濃い褐色の髪を編んだ小さなギリシア型の頭、情熱をたたえた菫《すみれ》色の泉のような眼、薔薇《ばら》の花びらのような唇。まったく見たこともない美少女でした。あなたは、いつか僕に、哀感《ペーソス》には感動しないが、美しいもの、単に美しいだけのものに接すると涙があふれるとおっしゃったことがあります。ハリー、ほんとうに、涙にぼやけて、この少女の姿が見えないほどでしたよ。それにあの声――あんな声はきいたことがない。最初はごく低くて、深みのある豊かな調子をおびており、その調子の一つ一つが耳にとおって来るようだった。すると今度はそれが少し高くなり、フルートか遠くできこえるオーボエかのようにひびいた。庭園の場では、夜明け前のナイチンゲールの歌声のもつ、あのふるえるような恍惚《こうこつ》感をたたえており、後になると、ヴァイオリンのもつ狂おしい情熱をこめているようなときも出て来た。声が人の心をどんなに動かすものか、あなたも御存じです。あなたの声とシビル・ヴェインの声は、僕のとうてい忘れられぬ二つのものなんです。眼を閉じると、両方の声が聞こえ、それぞれ違ったことを言うのです。どちらに従ったらいいか、僕にはわからない。どうして彼女を愛してはいけないの? ハリー、僕はほんとうに彼女を愛している。彼女こそこの世のすべてだ。夜ごと夜ごと、彼女の演技を見に行く。ある晩はロザリンド〔シェイクスピアの『お気に召すまま』の女主人公〕を演《や》るかと思えば、次の晩はイモジェン〔同じく『シムベリン』の女主人公。貞節の典型〕を演る。彼女が恋人の唇から毒を吸いとって、暗いイタリアの墓場の中で死んで行く〔『ロメオとジュリエット』への言及〕ところも見たし、またズボンをはき、胴着《ダブレット》にしゃれた帽子といういでたちの美少年に扮してオーデンの森をさまよう姿〔『お気に召すまま』への言及〕も見た。狂乱となって罪深い王の前にあらわれ〔『ハムレット』のオフィリアへの言及〕、これを身につけてとヘンルーダを、これを味わってと苦《に》がい薬草を与えたこともある。何の罪もない身でありながら、嫉妬《しっと》の黒い手にその葦のような咽喉《のど》をしめつけられるところも〔『オセロ』のデズデモーナへの言及〕見た。僕はあらゆる年号の、あらゆる衣装《いしょう》の彼女を見たのです。普通の女性は決して想像力に訴えない。その世紀に限定されていて、魔法で変形されることがないのです。彼女たちの頭の中は、ボンネット同様すぐわかってしまう。いつだって見つけることができる。神秘的なところは何一つ宿っていない。午前中は、ハイド・パークを乗りまわし、午後は、お茶の会でおしゃべりする。笑い方もおきまりで、身体のこなしも、はやりのもの。実に見えすいている。ところが、女優というものは! すっかり様子が違う! なぜあなたは、愛する価値のあるのは、ただ女優あるのみと教えてくれなかったの?」
「ドリアン、僕があまり沢山女優を愛しすぎたからなんだ」
「ああ、そうだ、髪を染めて、顔を塗りたてた、ひどい連中をね」
「髪を染めて、顔を塗りたてる連中を、くささないでくれたまえ。時には、大した魅力を持ってることもあるんだから」とヘンリ卿が言った。
「シビル・ヴェインのことあなたに話さなきゃよかった」
「ドリアン、君は話さずにいられなかったんだ。一生涯、君はなすことすること一切、僕に話すだろうさ」
「そう、ハリー、その通りでしょう。あなたに話さずにいられない。あなたは不思議な感化力を僕に及ぼしている。たとえ万が一、僕が罪でも犯したとしても、あなたのところへ告白にやって来るでしょう。あなたなら、わかってくれるでしょうから」
「君みたいな人間――人生の気儘《きまま》な日光とも言える人間は、罪になるようなことはしないものだ、ドリアン。だがやはり、君のその御挨拶はかたじけなく思うよ。さてと――すまないが、マッチをとってくれないか。ありがとう――実際のところ、シビル・ヴェインとはどんな関係になっているの?」
ドリアン・グレイは頬《ほお》を赤らめ、燃えるような眼を輝かせながらとび上がった。「ハリー! シビル・ヴェインは神聖なんです!」
「ドリアン、触れる価値のあるのは、ただただ神聖なものだけなんだ」とヘンリ卿は、その声に一抹の異様な哀愁をこめて言った。「だが、なぜ君はいらいらするんだ? いつか彼女も君のものになるだろうさ。恋をすると、誰もまず自分を欺き、いつも最後に他人《ひと》を欺くことになる。ともかく、彼女を知ってはいるのだね?」
「もちろん知っています。劇場に行ったあの最初の晩、芝居がはねてから、あの怖ろしいユダヤ人が特別席へやって来て、楽屋へ連れて行って彼女に紹介してやると言い出した。僕はかっとなって、ジュリエットは数百年の昔死んでしまって、ヴェロナの大理石の墓場に死骸《しがい》が入ってるんだと言ってやった。あきれて茫然となった奴《やっこ》さんの様子からすると、僕がシャンペンでも飲みすぎたと思ったらしい」
「あたり前じゃないか」
「そこで彼は、僕が新聞にものを書くのかと訊《き》くんで、新聞なんか読みもしないと言ってやった。それを聞くと、彼はひどく失望した様子で、劇評家がみんな|ぐる《ヽヽ》になって自分をかたきにしている、その連中はどいつもこいつも買収できる奴《やつ》だと言ったんです」
「その点、そいつの言うことは当たってるよ。だけどまた一方、連中なんて、風采から考えてみたって、大して金のかかりそうなのもいない」
「でも、あのユダヤ人は、連中をとても自分の手にはおえないものだと考えてる様子だった」とドリアンは言って笑った。「しかし、ちょうど、劇場の燈火が消されるところだったから、出るよりほかなかった。奴《やっこ》さんたいそう御自慢の葉巻を吸わないかとすすめたけれど、僕はことわってやった。翌晩ももちろん出かけて行ったわけです。僕の姿を見ると、腰を低くかがめて、あなたは実に気前のいい、芸術のパトロンだと言うんです。この男、シェイクスピアには異常な熱をもっていたけれど、とても不愉快な野郎でね。奴《やつ》が得々として言ったところによると、五回も破産したのも、まったくこの≪詩人《バード》≫のせいだって。シェイクスピアのことを彼が≪詩人《バード》≫といってきかないのです。しかも破産を大したことだと考えるらしい」
「そりゃ大したことだ、ドリアン――大変な名誉だよ。たいていの奴は、人生の散文に金を注ぎ込みすぎて破産してしまう。詩のために破産するなんて名誉なことだ。ところで、君がシビル・ヴェイン嬢とはじめて話をしたのは、いつのこと?」
「三日目の晩です。彼女はロザリンドを演《や》っていた。どうしても行かないではいられなくなってね。花を投げてやると、彼女は僕を見た――少なくともそう思われたのです。例の老ユダヤ人は、どうしても僕を楽屋に連れて行こうとするんで、僕はそれに同意したわけです。僕が彼女と知り合いになりたいと思わなかったのは、ちょっと奇妙なことでしょうがね?」
「いや、そうは思わない」
「ハリー、なぜ?」
「わけはまたいつか言うよ。今はその娘のことを知りたいんだ」
「シビルのこと? ああ、彼女は内気で実にやさしかった。どこか子供っぽいところがあるのです。僕が彼女の演技批評をすると、彼女は、ふるいつきたいような驚きの眼を見開いて、まるで自分の才能を知らない様子だった。どうやら僕たち二人は、興奮していたように思う。例の老ユダヤ人は汚い楽屋の入口のところに立ってにやにやしながら、まるで子供のように立ったままお互いに相手を眺めている僕たち二人のことを、なんだかんだとしゃべっていた。ユダヤ人は僕のことを『御前様』よばわりして仕様がないので、シビルには決して僕がそんなものじゃないってことを、はっきり言ってやらなくちゃならなかった。すると彼女はとてもあどけない調子で、『それより、あなたは貴公子《プリンス》みたい。|美わしの貴公子《プリンス・チャーミング》と申し上げなくちゃなりませんの』って言うんです」
「ドリアン、シビル嬢はお世辞の言い方をちゃんと心得てるんだな」
「ハリー、あなたは彼女のことがわかっていない。彼女は僕のことを単に劇中の人物としか考えていない。人生のことなんか何も知らないのです。母親と一緒に暮らしているけれど、その母親というのが、もう|うばざくら《ヽヽヽヽヽ》で、初日には真赤な化粧着みたいなものを着て、キャプレット夫人を演じた。どうやら昔は相当鳴らしたらしい様子だった」
「その様子なら僕にもおぼえがある。気のめいるようなことだがね」と指輪を|しさい《ヽヽヽ》に眺めつつヘンリ卿がつぶやいた。
「ユダヤ人は彼女の身上話をきかせたがったが、僕はなんの興味もないと言ってやった」
「君の言う通りだ。他人の悲劇にはすこぶるくだらぬところがあるものなのさ」
「僕が気にしてるのは、シビルのことだけ。彼女の生まれがどうであろうが、どうだっていい。あの可愛《かわい》い頭のてっぺんからつまさきまで、絶対神聖なんです。僕は一生涯毎晩、彼女の演技を見に行く。そうして毎晩彼女はすばらしさを増して行く」
「そのせいだろうね、きみがこの頃僕と一緒に食事しなくなったのは。僕が何か珍しいロマンスがあるに違いないとにらんでいたら、まさに図星というところだね。だがいささか予想とは違ったものだった」
「だってハリー、僕たちは毎日、昼か晩に一緒に食事してるじゃないですか。それに、オペラにも何回か一緒に行ったはずだし」とドリアンは、青い眼を驚異のために大きく見開きつつ言った。
「君はいつもひどい遅刻さ」
「でも、シビルの芝居を見に行かずにいられないから」と大声で彼は言った。「ほんの一幕だけでもね。彼女に会いたくてたまらなくなって来る。あの可愛《かわい》い象牙《ぞうげ》色の肉体の中にかくされているすばらしい魂のことを考えると、畏敬《いけい》の念で一杯になってしまう」
「ドリアン、今夜は食事つき合えるだろうね?」
彼は首を振って答えた。「今夜はイモジェンを演《や》るんです。あすの晩はジュリエットになる」
「それじゃ、いつシビル・ヴェインになるのか?」
「決してなりっこない」
「おめでとう」
「実にひどいことを言うひとだ! 彼女こそ、世界のヒロインを全部一身にあつめたようなものだ。個人以上のものだ。あなたは笑ってるが、彼女は天才だ。僕は彼女を愛している。だから彼女に僕を愛させなくちゃ。あなたは人生の秘密をすっかり心得ているんだから、シビル・ヴェインを魅惑して僕を愛させる方法を教えてください。僕はロメオに妬《や》かせてやりたい。世界中の死んだ恋人たちに僕たちの笑い声をきかせて悲しがらせてやりたい。僕たちの情熱の息吹きが、死んだ恋人たちの死骸《しがい》を生気づけ、その屍灰を目覚めさせ、苦痛を味わわせてやりたい。ああ、ハリー、僕が彼女を崇拝していることと言ったら!」彼は話しつつ部屋をあちこち歩いていた。頬《ほお》は病的に紅潮して、恐ろしい興奮ぶりだった。
ヘンリ卿は名状しがたい快感をもって彼を見守った。バジル・ホールワードの画室で会ったあの内気なおじおじした少年とは、なんという変わり方だろうか。彼の本性は花のように成長し、真紅の焔の花をつけていた。その秘密の隠れ家から彼の魂が抜け出し、欲望が途中まで魂を迎えに来ているのだ。
「ところで、これからどうしようというのだ?」ついにヘンリ卿が言った。
「いつか晩に、あなたとバジルに一緒に行ってもらって、彼女の演技を見てもらいたいと思います。結果については全然心配していません。きっと彼女の天才を認めてもらえるに違いない。次に僕たちは、あの子をユダヤ人の手から救い出さなくちゃならない。彼女はこれから三年間――少なくとも、二年八か月は彼に縛られている。もちろん、あの男にいくらか金を出さなくちゃならないだろう。万事解決したあかつきには、どこかウェスト・エンドの劇場をゆずりうけて、彼女にデビュウさせるのです。僕を夢中にさせたと同じほど、彼女は世間の人を有頂天にするでしょう」
「それは君、無理というものだろう」
「いいえ、彼女なら大丈夫。彼女には単なる芸術、完全な芸術本能ばかりでなく、人格がそなわっています。あなたからよくきいたものですが、時代を動かすのは、主義原則じゃなくて、人格だってことをね」
「それじゃ、いつの晩にする?」
「ええと、今日は火曜日と、そう明日に決めましょう。明日はジュリエットを演《や》る番だ」
「よろしい。八時にブリストルで。バジルを連れて行く」
「ハリー、八時はだめ。六時半にしましょう。開演前に行っていなくちゃならないのです。第一幕のロメオとの出会いのところを是非見てもらいたいのです」
「六時半だって? なんて時間だ! まるで肉料理付きの|お茶《ティー》を飲むか、英国の小説を読むかみたいだね。七時でなくちゃ。七時前に食事する紳士なんていないからね。それまでにバジルに会う? それとも、僕から手紙を出しておこうか?」
「ああ、バジルと言えば、もう一週間も会っていない。われながら、ずいぶんひどいことだ、だって彼は自分でデザインしたすばらしい額ぶちに入れて、僕に肖像画をよこしてくれたんだから。それに、絵のほうが僕より丸一か月若いのにちょっと妬《や》けるけれど、やっぱり嬉《うれ》しい。あなたから手紙を出してもらったほうがいいでしょう。僕|独《ひと》りで彼に会いたくない。彼は僕をいらいらさせるようなことを言う。なかなかいたい忠告をしてくれるから」
ヘンリ卿は微笑した。「人というものは、自分に一番必要なものを他人に与えることがとても好きなんだ。それが僕のいう寛大の深遠さって奴《やつ》さ」
「ああ、バジルは実にいい人間だが、いささか俗物のようだ。ハリー、あなたと知り合いになってから、僕にそれがわかった」
「ねえ君、バジルの奴、自分のもってる好ましいところを何から何まで作品に注ぎ込んでしまうんだ。その結果、人生に対しては、彼の偏見、主義、それに常識しか残されていないことになる。僕が今までに知っている芸術家で個人的に愉快なのは、へぼ芸術家なのだ。立派な芸術家は単に作品の中に存在するだけで、その結果、人間的には全然面白くない。大詩人――真の大詩人――というのは、最も詩的ならざるしろものさ。だが劣等詩人こそ実に魅惑的だ。詩がへたくそであればあるほど、詩人は見る眼に美しい。二流の十四行詩《ソネット》集を出したという事実だけで、人をまいらせてしまう。つまり、その二流詩人って奴《やつ》は、詩に書けないことを生活にうつすというわけさ。一流の連中は、実現する勇気のないところを詩に書くというまでだ」
「ハリー、ほんとうにそうかしら」とドリアン・グレイは、卓上の金口の大きな|びん《ヽヽ》から香水をハンカチにふりかけながら言った。「あなたがそう言うのなら、本当でしょう。では失礼します。イモジェンが待っているんです。明日のことをお忘れなく。さようなら」
彼が部屋を出ると、ヘンリ卿は重いまぶたをふせて考えはじめた。確かに、ドリアン・グレイほど、彼の興味をひいた人間は今までにあまりない。しかも、この若者が他の人をやっきになって崇拝していることも、困惑、嫉妬《しっと》の苦痛を少しもひきおこすものではない。それがかえって面白く、一段と興味深い研究課題を与えてくれる。彼はいつも自然科学の方法に心を奪われていたが、その科学の普通の題目は、つまらぬなんら意味のないもののように思われていた。かくして、彼はまず自己分析からはじめて、ついに他人の分析にまでおよんだ。人間生活――それが研究価値のある唯一のものであるように見えた。それに比べると、他に価値あるものは何一つなかった。なるほど苦痛と快楽の奇妙な坩堝《るつぼ》に入れて人生を眺《なが》める時、ガラスのマスクをかぶったり、硫黄臭い臭気に頭脳を苦しめられないようにしたり、奇怪な空想や醜い夢で想像力を混乱させないようにしたりすることは、とうていできない相談だ。その特質を知るためには、それに飽きるまでにならなければならない微妙な毒薬もあるし、その性質を知ろうとすれば、どうしてもそれにかかって見なければならないような奇妙な病気もある。しかもなんという大きな報酬が得られることか! 全世界がなんというすばらしいものになることか! 情熱の奇妙なきびしい論理《ロジック》と、知性の感情的な多彩な生活とに注目し――その両者の行き会う点、離れる点、調和する点と不調和になる点を見ること――そこになんという喜悦があることか! その代償がいかほどであろうと、なんのことがあろうか。感覚のいかなる代償も、高価すぎることはないのだ。
彼にはわかっていた――しかも、そのことを思うと、褐色の瑪瑙《めのう》色をした彼の眼に喜悦の色があらわれた――ドリアン・グレイの心が、この色白の乙女《おとめ》に向き、彼女を崇拝する気持ちでひざまずいたのも、音楽的な調子で言ってやったある音楽的な言葉のせいだということが。この若者は大部分彼の創造になるものだ。彼の手でこの若者は早熟になった。これがまた意味のある事柄だ。普通の人間は、人生がその秘密を露呈するまで待っているものだが、選ばれた少数のものにとっては、人生の神秘は、ヴェールがとり去られる前に明らかにされるのだ。時折りこれが芸術の効果、ことに主として、直接情熱や知性を取扱う文学の効果、なのだ。だが時折り、複雑な人格が芸術にとって代わり、その役目を果たすことがあり、実にそれなりに一個の真の芸術作品となることがある、人生が詩や彫刻絵画同様、巧妙な傑作を持つが故に。
そうだ、この若者は早熟だ。彼はまだ春だというのに、もう収穫《とりいれ》をやっている。青春の脈搏《みゃくはく》と情熱をもっているのだが、自意識的になりつつある。彼を見るだけで心楽しく、その美しい顔といい、美しい心といい、驚嘆すべきものだ。それがどのような結末に終わろうと、またどのような結末に運命づけられていようと問題ではない。まるで何かの野外劇か演劇中の優美な人物のようで、その悦びは人とかけはなれているようでも、その悲しみは美観をそそり、その傷手は紅い薔薇《ばら》にも似ている。
霊と肉、肉と霊――なんと不可思議なものだろうか。霊の中にも獣性が宿り、肉にも霊的瞬間が宿るのだ。感覚も鈍化することができるし、知性も堕落し得るのだ。肉欲的な衝動がどこで終わるか、肉体的衝動がどこではじまるかを誰が言い得ようか。一般心理学者の独断的定義がなんと浅薄なことか! また様々な学派の主張のいずれを決定するかのむずかしさといったら! 霊とは罪の家に宿れるひとつの影だろうか? それとも肉とは真実ジョルダーノ・ブルーノ〔イタリアの哲学者〕の考えた如く、霊の中にあるものだろうか? 物質と精神の分離はひとつの謎《なぞ》であるが、この両者の結合もまた謎だ。
一つ一つ小さな生命の泉が解明されるほど、心理学というものを絶対的な科学となし得るかどうか、彼は考え始めた。だが、実を言えば、われわれは自己を常に誤解し、めったに他人を理解することもないのだ。経験にはなんらの倫理的価値もない。経験とは自らのあやまちに人々が与える名前にすぎない。モラリストたちは一般に、経験というものを警告の一様式と見なし、人格形式においては、経験がある倫理的効果を持つことを主張し、何に服すべきか、何を避くべきかを教えるものなりとして経験を賞讃したのである。しかし、経験にはすこしの原動力もない。それは良心そのものと同様、積極的動因とはほとんどなりにくいものなのだ。それがほんとうに示すものはただ次のことだ――われわれの未来は過去と同じものであろうし、かつてわれわれが嫌悪をもって犯した罪をば、将来も幾度となく、しかも喜びをもって犯すだろうということなのだ。
実験的方法が情熱の科学的分析に到達し得る唯一の方法であることは、彼に明瞭であった。しかも、確かにドリアン・グレイは、あつらえ向きの実験材料であり、豊かな結果を約束するかに見えた。シビル・ヴェインに対する彼の突然の狂おしい愛情は、少なからず興味ある心理学的現象だ。疑いもなく、それには好奇心――好奇心と新しい経験に対する欲望――が多分に関係している。だがそれは単純ではなくむしろ非常に複雑な情熱だ。その中の少年期の純粋に感性的本能は、想像力の作用によって変形されて、若者自身には感覚から遠く離れたもののように思われる何物かに変わっている。しかもその理由のためにこそ、いっそう危険きわまりないものとなっている。われわれに最も暴虐をふるうのは、その根源についてわれわれ自身を欺いている情熱なのだ。われわれの最も弱い動機とは、その本性についてわれわれが意識している動機なのだ。他人を実験に供していると思っているのに、実は自分自身を実験材料にしていることはよくある奴《やつ》だ。
ヘンリ卿がこういったことどもについて夢想にふけっていると、扉《とびら》にノックが聞こえ、従僕が入って来て、晩餐《ばんさん》のために着がえをする時刻だと知らせた。彼は立ち上がって街路を眺《なが》めやった。夕日が向こう側の家々の階上の窓を、真紅色を帯びた金色に染めていた。窓ガラスはまるで白熱した金属板のように輝き、上空は色|褪《あ》せた薔薇のようだった。彼は友人の若々しい焔の色をした人生を思い、それがどんな結末に至るであろうかと考えた。
十二時半頃家に帰ると、彼は玄関のテーブルに一通の電報がのっているのを見た。開けて見ると、ドリアン・グレイからのもので、シビル・ヴェインと婚約したことを知らせるものだった。
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第五章
「お母様、お母様、わたしとても嬉《うれ》しいのよ!」と少女は容色の衰えた、疲れた顔付きの婦人の膝《ひざ》に顔を埋めてささやいた。その婦人は、射し込んで来る烈しい光線に背を向けて、汚い居間にそなえつけられた、たった一つの肘掛椅子に坐していた。「わたしとても嬉しいのよ!」少女は繰り返した。「お母様だって嬉しいに違いないことよ」
ヴェイン夫人はたじろいで、おしろい焼けのした両手を娘の頭に置いた。「嬉しいって?」と彼女は鸚鵡《おうむ》返しに言った。「わたしはね、シビル、お前がお芝居をするのを見るときに限って嬉《うれ》しいのですよ。お前はお芝居のことだけ考えていればいいの。アイザックスさんはとても御親切にしてくださるし、それにあの方にはお金の借りもあることだからね」
少女は頭を上げ、ふくれ面をしながら「お母様、お金ですって?」と叫んだ。「お金なんかどうだってかまわないことよ。愛はお金より大切なものですわ」
「アイザックスさんは、私たちの借金の払いが済ませるようにまたジェイムズの支度がちゃんと整えられるように、五十ポンドも前払いしてくださったんだよ。シビル、お前はそのことを忘れてはなりません。五十ポンドといえば大変なお金です。アイザックスさんは、ほんとに思いやりのあるお方です」
「お母様、あの人紳士じゃないわ。それにあの人がわたしに話しかける口のきき方がとても嫌《いや》なの」と少女は立ち上がって、窓の方へ歩きながら言った。
「あの人がいてくださらなかったら、わたしたちどうして暮らしていけるでしょう」と年配の婦人はぐちっぽく答えた。
シビル・ヴェインは頭をぐいと上げて笑った。「お母様、もうあの人なんかいらない。プリンス・チャーミングがこれから私たちの生活を支配してくださるのだわ」そこで彼女は言葉を止めた。一輪の薔薇が彼女の血の中で揺れ、両の頬を染めた。花弁なす彼女の唇から吐息がもれた。唇がふるえ、激情の南風が彼女の全身をかすめ、華美な着物の襞《ひだ》を揺り動かした。「わたし、あの人を愛してるの」彼女は言ったきりである。
「お馬鹿さんね! お馬鹿さんね!」というのが、それの返答として投げ返された機械的な繰り返しの文句だった。まがいの宝石をはめた曲がった指を振る仕草が、その言葉にグロテスクな趣を加えた。
少女は再び笑った。その声には籠《かご》の鳥の喜びが現われていた。彼女の眼は声の調子をとらえ、それを響き返す輝きを帯びた。そうすると、その眼は秘密を隠そうとするように一瞬閉じた。開いた時には、すでに夢のもやが眼をかすめていた。
薄い唇をした「分別」が古ぼけた椅子から少女に話しかけ、慎重な行動を暗示し、その著者が「常識」という名を装う「小心の書」から引用した。彼女は耳をかさなかった。情熱の牢獄の中で彼女は自由の身で、彼女のプリンス――プリンス・チャーミングが一緒にいるのだった。彼女は記憶をたどってプリンスを再現した。彼女が彼を探しに魂を送り出すと、魂は彼を連れて戻って来た。再び彼の接吻が彼女の唇の上で燃え、瞼が彼の息吹きで暖かかった。
すると、「分別」は手を変えて、探偵したこと発見したことを語った。この青年は金持ちかも知れない。もしそうだとすれば、結婚のことを考えなければならない。世故にたけた賢さが彼女の耳朶《みみたぶ》を打った。狡猾《こうかつ》の矢が彼女の傍をかすめ去った。薄い唇の動くのを眺めて彼女は微笑した。
突然彼女は口をきく必要を感じた。黙っておしゃべりを聞いているのが苦しくなったのだ。「お母様」と彼女は叫んだ。「なぜあの人はそんなに私を愛するの? わたし、自分ではなぜあの人が好きなのかわかってよ。愛の神そっくりだからなの。でも、あの人わたしのどこがいいのかしら。わたしは、とてもあの人に愛していただくほどのものじゃないわ。それでいて――どういうわけだか――わたし、とてもあの人に寄りつけない感じがするのに、自分を卑しい人間と思わないの。かえって誇らしい、とても誇らしい感じだわ。お母様、わたしがプリンス・チャーミングを愛してるみたいに、お母様はお父様を愛した?」
この年配の婦人の顔は、なすりつけた粗《あら》いおしろいの下で蒼白《そうはく》となり、乾いた唇は苦痛の発作にゆがんだ。シビルはかけよって母親の首にしがみついて接吻した。「お母様、許してね。お父様のことをお話するのが、お母様につらいことはわかってるのよ。でもそれは、お父様をとても愛してたからなんでしょう。そんなに悲しそうな顔しないで。二十年前のお母様みたいに、今日はわたしとても嬉しいの。ああ、いつまでも幸福にさせといて!」
「お前はね、まだまだ恋を考えるなんて、そんな年令《とし》じゃないよ。それに、この若い方のことでお前に何がわかってるというの? 名前さえ知らないじゃないの。ほんとに不都合なことね。それにほんとのところ、ジェイムズもオーストラリアへ行こうという矢先で、わたしも考えごとが山ほどあるというのに、お前にももっと分別を見せてほしかったわ。でも前にも言ったように、もしその方がお金持ちなら……」
「ああ、お母様、お母様ったら、わたしを幸福にさせて!」
ヴェイン夫人は娘をちらっと眺《なが》め、俳優にはよく一種の第二の天性となる芝居気たっぷりな仕草で娘を抱きしめた。このとき、扉《とびら》が開いて、ばさばさの茶色の髪をした青年が入って来た。ずんぐりした|つくり《ヽヽヽ》で、手足は大きく、動作がいくぶん無器用だった。その育ちは姉ほどよくはなかった。二人の肉親関係はとうてい想像もつかぬほどのものだった。ヴェイン夫人はじっと彼を見つめ、ますます微笑を強めた。彼女は心の中で息子を観衆の域にまでひき上げた。この劇的場面が興味深いものであるという確信をもっていたのだ。
「シビル、僕にも接吻を少し残しておいてくれただろうね?」と人のよさそうな、恨み口調で若者が言った。
「ああ、ジム、でもあんたは接吻されるの嫌《きら》いでしょう」と彼女は叫んだ。「あんたは恐ろしい熊みたいな人」そう言って彼女は部屋をかけて行って彼を抱きしめた。
ジェイムズ・ヴェインは愛情をこめて姉の顔を眺《なが》めた。「姉さん、一緒に散歩に出てほしいな。二度とこんな嫌なロンドンを見ることもないだろう。まったく見たくもないさ」
「お前、そんなひどいことお言いでないよ」ヴェイン夫人はつぶやきながら、溜息《ためいき》まじりに、けばけばしい芝居衣装をとりあげ、繕《つくろ》いにかかった。彼女は息子が自分たち一座に加わらなかったことにがっかりした。もしも加わってくれたら、その場の芝居じみた美しさがもっと高められたろうに。
「お母さん、なぜいけないんだ? 本気で言ってるんだぜ」
「お前はわたしを苦しめます。お前がお金持ちになって、オーストラリアから帰ってくれるだろうと信じています。植民地には、社交界なんていえるものは何一つないだろうね。だから、一財産かせいだら帰って来て、ロンドンで一旗あげてくれなくちゃね」
「社交界だって?」と若者はつぶやいた。「そんなもののことは少しだって知りたくもない。僕は金をもうけてお母さんとシビルに芝居から足を洗わせたいんだ。芝居は大嫌《だいきら》いさ」
「まあ、ジム!」と笑いながらシビルが言った。「何て思いやりのないこと! でもほんとにわたしと一緒に散歩する? すてきだわ! あんたはお友だちにおいとまに行くんだろうと思ったわ――あの嫌《いや》なパイプをあんたにくれたトム・ハーディだの、それをあんたがすってるのをからかうネッド・ラングトンだの。あんたの最後の午後を一緒にすごさせてくれるなんて、ずいぶんいいひとね。どこにしましょう? ハイド・パークにしたら」
「僕の服がみすぼらしすぎるよ」としかめ面をしながら彼は答えた。「あすこへ行くのはしゃれた連中ばかりだから」
「馬鹿おっしゃい、ジム」彼女は弟の上衣の袖《そで》をなでながらささやいた。
彼はちょっとためらったが、ついに「じゃいいさ」と言った。「だが、気がえに時間があんまりかかるのはごめんだ」彼女は足取りも軽く、扉を開けて出て行った。彼女が二階へかけ登りながら歌う声が聞こえ、頭上で彼女の小さな足がぱたぱたと鳴った。
彼は二、三度部屋を往来した。それから椅子に身動き一つしないですわっている人物のほうへ振り向いて、「お母さん、荷物の用意できてる?」と訊《たず》ねた。
「すっかりできていますよ、ジェイムズ」と彼女は針仕事から眼を離さずに答えた。この荒っぽい、口やかましい息子とさし向かいでいると、この数か月彼女は落ち着かなかったのである。彼らの眼が合うと、ひそみかくれたあさはかな女心は乱された。息子が何か怪しみはしないかといつもいぶかるのが、彼女の習慣になっていた。彼が他に何も言わないので、沈黙に堪えきれなくなって来ると、彼女はぶつぶつ言い始めた。女性というものは、攻撃によって自己を防衛する、これはちょうど彼らが突然の奇妙な降服によって攻撃するのと同じ手口なのだ。「ジェイムズ、お前は船乗り生活に満足おしだろうね」彼女は言った。「これはお前が自分で選んだ道だってことよく覚えておいておくれ。弁護士の事務所入りもできたのですからね。弁護士といえば、ずいぶん立派な人たちで、田舎じゃよく有力者の方々と食事をすることもあるのです」
「僕は事務所なんか大嫌《だいきら》いだ。書記なんて大嫌いさ」と答えた。「だが、お母さんの言ってる通りだ。僕は勝手に僕の人生を選んだんだ。僕の言うのは、ただシビルによく気をつけてほしいということだけさ。姉さんにもしものことがないように、お母さんに是非気を配ってもらわなくちゃね」
「ジェイムズ、お前ずいぶんほんとに変なことをお言いだね。もちろん、私はシビルに気をつけています」
「噂《うわさ》じゃね、紳士が毎晩のように劇場へやって来て、楽屋裏の姉さんのところへ話しに来るというじゃないですか。ほんとうですか? それはどうなんです?」
「ジェイムズ、お前はわかりもしないことを問題にしているのです。この稼業じゃ、いつも世間のごひいきにあずかるのはごくあたりまえのことです。このわたしだって、いちどきに沢山の花束《ブーケ》を頂いたものですよ。それは演技というものがほんとに理解された時なの。シビルのことといえば、あの子の愛情が本ものかどうか、今のところわたしにはわかりかねます。でも、あのお若い方がとてもご立派な紳士だってことに疑いはありません。その方はいつもわたしにほんとに丁重なんです。それにお金持ちらしい御様子で、贈って頂くお花の美しいこと」
「でもお母さんその人の名前もわかっていないだろう?」と荒々しく若者が言った。
「ええ」母親は落ち着いた表情を浮かべつつ答えた。「まだ本名を明かされていません。それがまたロマンティックだと思います。たぶん貴族なんでしょう」
ジェイムズ・ヴェインは唇をかんで、「シビルに気をつけてください。気をつけてください」と叫んだ。
「お前はほんとにわたしを困らせます。シビルにはいつもわたしが特に気をつけています。もちろん、もしもこの紳士が裕福なお方なら、その方と縁組して悪いわけはなに一つないのです。きっとあの方は貴族です。どう見てもそういう御様子がそなわっています。シビルにしても、たいそうすばらしい結婚でしょう。ほれぼれするような夫婦ができ上がるでしょう。あの方の男っ振りときたら大変なものです、誰だって眼につくんだもの」
若者は何事かを独《ひと》りごちて、窓ガラスをごつごつした指でどんどんたたいた。何かを言おうとして振り返ると、扉が開いてシビルが駆け込んで来た。
「まあ、二人ともなんて真面目くさってるの!」彼女は叫んだ。「いったいどうしたの?」
「なんでもないさ」と彼は答えた。「時には真面目にならなくちゃいけないこともあるよ。お母さん、さようなら。五時に食事をします。シャツの他はすっかり荷作りできてるから、御心配御無用」
「さようなら」彼女は強《し》いて威厳ある一礼をして答えた。
彼女は息子が自分に対してとった口調にひどく悩まされていた。なんだか母親を不安にさせるようなものが彼の顔付きに現われていた。
「お母様、接吻して」と少女は言った。彼女の花のような唇が色あせた頬《ほお》に触れ、その霜をあたためた。
「わたしの可愛《かわい》い子! わたしの可愛い子!」とヴェイン夫人は架空の大向こうを求めて天井を見上げながら叫んだ。
「シビル、さあはやく」と弟がいらだたしそうに言った。彼には母親の気取った様子が気にくわないのだ。
彼らは、風に吹かれて明暗が急速に交替する日光の中へ出て行き、淋《さび》しいユーストン・ロードを歩いて行った。通行人は、粗末な身体に合わぬ服を来て、かくも美しい上品な顔付きをした少女と並んで歩いて行く、不機嫌そうで陰気な青年を驚異の眼で眺《なが》めるのだった。この青年はまるで薔薇の花をかかえた一介の庭師の風情《ふぜい》であった。
ジムは行きずりの人の|せんさく《ヽヽヽヽ》好きなまなざしを見ると顔をしかめた。彼は、天才には老年になってやって来るが、平凡人には絶えずつきまとう、あのじろじろ見られるのを嫌《きら》う気持ちを持っていた。しかしシビルのほうは、彼女がかもしつつある効果について全然気付かなかった。彼女の愛情は笑いとなって唇にふるえていた。彼女はプリンス・チャーミングのことを考え、もっと彼のことを考えられるようにと、彼のことはおくびにも出さず、ジムの乗りこむ船のこと、弟がきっと発見するはずの黄金のこと、さては、赤シャツを着た豪州の匪賊《ひぞく》の手から救い出すはずのすばらしい女相続人のことなど、しゃべりつづけた。なぜなら、弟は平水夫とか船荷監督とか、その他なんとか風情でとどまるんじゃないんだもの。ああ、だめ! 船乗り稼業なんてとてもたまらない。考えてもごらん、ひどい船の中に閉じこめられたままで、ざわめく|せむし《ヽヽヽ》のような波が入り込んで来ようとするし、恐ろしい風がマストを吹き折って、帆をずたずたにさいて、ひゅうひゅう鳴らす時といったら!
「あんたはメルボルンで船をすて、船長に丁寧なおいとまして、すぐさま金鉱地へ行くのです。一週間とたたないうちに、純金の金塊《ナゲット》――今までに見たこともない大きな金塊――に行き当たり、六人の騎馬巡査に護衛された荷馬車にのせてそれを海岸まで運ぶの。匪賊は三回も襲って来て、さんざんな目に殺されて撃退されるのよ。ああ、そうじゃないの。あんたは金鉱地へ全然行かないわ。金鉱地なんてひどいとこなのね。酔ぱらって酒場でピストル騒ぎをやるし、言葉づかいはとても悪い連中なのよ。あんたはやさしい羊飼いになるのよ。そうするとある夕方、家へ帰る途中、黒い馬に乗った盗賊にさらわれて行く美しい女相続人を見つけて追跡し、彼女を救うことになるの。もちろん、その彼女はあんたに、あんたは彼女に、恋をするの。そして二人は結婚して帰国し、ロンドンの広壮な邸宅に住むわけよ。そうだわ、あんたの前途には楽しいことが待ちうけてるの。でも、あんたはおとなしくして、怒ったり、お金を馬鹿なことに使ったりしないことよ。わたしはあんたより一つだけ年上だけれど、世の中のことはあんたなんかよりよく知ってるの。便船のあるたびにきっと手紙よこしてね。それから寝る前のお祈りをきっとかかさないでちょうだい。神様は良いお方なんだからあんたを見守ってくださるわ。わたしもあんたのためにお祈りする。二、三年もすれば、大変なお金持ちになりしあわせになって帰って来るでしょう」
若者は不機嫌そうに彼女の言葉に耳を傾けるだけで、いっこうに返事をしなかった。彼は故国を去る悲しみにくれているのだった。
だが彼を陰気に不機嫌にしたのは、ただそれだけではなかった。世間知らずとはいえ、彼はなおシビルの身の上の危険を強く感じていた。姉に恋をしかけて来ているこの若い伊達男《ダンディ》はどうせ姉のために|ろく《ヽヽ》なことになるはずがない。相手が紳士だからこそ憎いのだ。自分でも説明のつかない種族本能とでもいうようなもののために彼が憎かった。しかもその本能は、説明できない故にこそ、いっそう心の中につのって来るのだった。彼とてもまた、母親の性格の浅薄さと虚栄に気付いており、その点に、シビルとシビルの幸福に対する果てしない危険を見た。子供は両親を愛することからはじめるが、成長するにつれて親を批判し、時には親を許すのである。
おれのおふくろ! 俺は母親に訊《たず》ねたいと気にかかることがあった、幾月も幾月もだまって考えている問題があったのだ。劇場で偶然耳にした言葉、ある晩楽屋口で待っているとき聞こえたささやきの冷笑が、一連の恐ろしい考えを解き放った。それがまるで狩猟用の鞭《むち》のしなやかな革紐で顔をぴしりとあてられたような感じがしたのを彼が覚えていた。彼の額には|くさび《ヽヽヽ》のように深い溝が刻まれ、苦痛の|けいれん《ヽヽヽヽ》を感じつつ彼は下唇《したくちびる》をかんでいるのである。
「ジム、あんたわたしの言うことちっともきいていないのね」とシビルが叫んだ。「それだのに、わたしといったら、あんたの未来のためにすばらしい計画なんかたてているんだわ。なんとか言ってよ」
「何を言えというんだい?」
「もちろん! いい子になって姉さんたちのこと忘れないって」と彼女は弟を見て微笑しつつ言った。
彼は肩をすぼめて言った。「僕よりか姉さんのほうが僕を忘れそうだな」
彼女は赤面した。「ジム、それどういう意味?」と彼女は訊《たず》ねた。
「噂《うわさ》じゃ、姉さんに新しい友だちができたってね。いったいその人は誰だい? その人のことなぜ僕に話してくれなかったの? どうせ姉さんのために|ろく《ヽヽ》な奴《やつ》じゃないよ」
「ジム、お止《よ》し!」彼女は叫んだ。「あの人の悪口言うもんじゃなくってよ。わたしあの人を愛してるの」
「だって、姉さん相手の名前さえ知らないだろう」と若者は答えた。「いったい誰なの? 僕としちゃ知るだけの権利がある」
「プリンス・チャーミングっていう方よ。いい名前じゃないこと? ねえ、このお馬鹿さん、その名前忘れちゃだめ。あの人を一目見るだけで、世界中で一番すばらしい人だと思うわ。いつかあの人にあんたも会うでしょう。オーストラリアから帰ったらね。あんたあの人がとても好きになるでしょう。誰だってあの人が好きなの、そうしてわたしは――愛してるの。今夜あんた劇場へ来られたらいいのに。あの人も来るわ、そしてわたしジュリエットを演《や》るの。まあ、どんなにしてジュリエットを演ったらいいかしら。ジム、考えてごらん、ほんとに恋をしていてジュリエットを演るなんて! あの人が来て坐ってるの! あの人を喜ばせてあげるためにお芝居するなんて! わたし一座の人をびっくりさせてしまうんじゃないかしら、びっくりさせるかそれともすっかりとりこにしてしまうかでしょう。恋してるってことは自分よりもえらくなることよ。可哀《かわい》そうにあのいやらしいアイザックスさんは、酒場の|のらくら《ヽヽヽヽ》連中に向かって、「天才」「天才」と呼びちらすことでしょう。あの人はわたしをまるで教義みたいにして、お説教の種にして来たのよ。今夜はあの人はわたしを天啓だなんて言うことでしょう。それがわかるの。それもみんなプリンス・チャーミング――すばらしい恋人――美の神のおかげよ。でもわたし、あの人と比べたら貧乏だわ。貧乏だってそれがいったいどうしたというの。貧乏が戸口からこっそりやって来るのに、愛は窓からとび込んでくるの。わたしたちの諺《ことわざ》書きなおさなくちゃいけないの。冬につくられたんだもの、それに今は夏だし、わたしにしてみたら春よ、青い空に花が舞う時よ」
「相手は紳士だぜ」と気むずかしそうに若者が言った。
「プリンスよ!」と調子よく彼女が叫んだ。「それ以上に何が不足だというの?」
「相手は姉さんを奴隷にしてしまうつもりさ」
「自由の身になること考えてもぞっとするわ」
「相手に警戒してもらいたいなあ」
「あの人を一目見たら崇拝してしまうし、あの人のことを知ったらもう信用してしまうの」
「シビル、まるでもう夢中なんだね」
彼女は笑って腕をとった。「ねえ、ジム、まるで老人みたいな口のききかたね。いつかあんたも自分で恋をする日があるでしょう。そうすれば、どんなものだかわかるわ。そんなにむずかしい顔をしないでちょうだい。あんたは行ってしまうけれど、今までにないほど、わたしがしあわせになれることを考えたら、きっと喜んでくれると思うわ。この世は今まで、わたしたち二人にとてもつらくて難儀だったけれど、これからは違ってよ。あんたは新世界へ出かけて行くし、わたしはまた新世界を見つけたってわけ。椅子が二つあるわ。腰かけてしゃれた人たちの通るのを眺《なが》めましょう」
彼らは衆人環視の中に腰をおろした。道をへだてたチューリップの花壇はまるで脈動する火の輪のように燃え、|においしょうぶ《ヽヽヽヽヽヽヽ》の根茎の細かい粉がふるえるように白い埃《ほこり》が、喘《あえ》ぎ苦しんでいるような空中にかかっていた。派手な色のパラソルが巨大な蝶々のように上下にちらちらと動いていた。
姉は弟に、自分のこと、彼の希望、将来の見込みついて語らせた。彼はゆっくり苦しそうに語った。彼らの言葉のやりとりは、トランプ遊びをする人が数取りをやりとりするにも似ていた。シビルは重圧感を感じた。どんなにしても彼女は、自分の喜悦を弟に伝えることができない。あの不機嫌な口もとをほころばせるかすかな微笑が、得られた唯一の手ごたえだった。しばらくすると、彼女は黙りこんでしまった。と、突然、金髪と笑っている口もとがちらっと見えたと思うと、二人の婦人と一緒に幌なしの馬車に乗ってドリアン・グレイが駆けすぎた。
驚いて彼女は立ち上がった。「あら、あの人だわ」と彼女は叫んだ。
「誰?」ジム・ヴェインが言った。
「プリンス・チャーミングよ」と彼女は軽四輪馬車を見送りつつ答えた。
彼はとび上がって彼女の腕を荒々しくつかんだ。「見せとくれよ。どれだ? おしえとくれ。是非見ておかなくちゃ!」彼は叫んだ。だがその瞬間、ベリック公爵の四頭だての馬車が間に割り込んで来て、それが通りすぎた時、例の馬車は公園から抜け出してしまっていた。
「もう行ってしまったわ」とシビルが淋《さび》しげにつぶやいた。「ひと目見せてあげたかったのに」
「見ておきたかった。だって、あいつが姉さんに少しでもひどい仕打ちをしやがったら、きっと、きっとやっつけてしまってやるからさ」
彼女は恐怖にかられて弟を眺《なが》めた。彼はその言葉を繰り返した。その言葉は短剣のように空を切った。あたりの人々が茫然として見つめ始めた。彼女のすぐ傍に立っている一人の婦人がくすくす忍び笑いをした。
「ジム、あちらへ行きましょう」と彼女がささやいた。彼女が群集を押し分けて進んで行く間、弟はむっつりした様子でついて行った。彼は今言ったことで気が晴れた思いだった。
彼らがアキレスの像のところまで来ると、姉はくるりとふり返った。彼女の眼には憐れみの情がわき、それが唇の上の笑いとなった。彼女は弟に向かって頭を振った。「ジム、あんたはお馬鹿さん、ほんとにお馬鹿さんね。ずいぶん意地悪坊やといったところだわ。どうしてあんな恐ろしいことが言えるの? あんたは自分の言ってることがわからないのよ。ただあんたは妬《ねた》み屋で不親切なだけよ。ああ、あんたが恋をしてくれたらいいと思うわ。恋は人間を善良にするものなの。それに、あんたの言ったこといけないことだわ」
「僕はもう十六だ」と彼は答えた。「だから、自分でやることくらいはわかってるさ。お母さんは、姉さんのなんの助けにもならない。どんなにして姉さんを見てあげていいのかわからないんだ。オーストラリアなんか行くんじゃなかったと、今になって思ってるんだ。何もかも投げ出してしまいたい。契約書に署名さえしてなかったらなあ」
「まあ、ジム、そんなに|むき《ヽヽ》にならないでちょうだい。あんたは、昔お母様が演《や》るのがとても好きだったあの馬鹿馬鹿しいメロドラマの中の主人公みたいだわ。何もあんたと喧嘩しようってんじゃないの。わたし、あの人を見たわ。ああ、それだけでとてもしあわせ。喧嘩はよしましょう。わたしの愛する人だったら、どんな人だって傷つけないわね?」
「姉さんが愛する限りはね、たぶん」というのが不機嫌な返答だった。
「わたし永久に愛するわ!」彼女が叫んだ。
「じゃ、相手のほうは?」
「やっぱり永久に!」
「そのほうが奴《やつ》の身のためさ」
姉は思わず身をひいた。それから笑って弟の腕に手をおいた。弟はまだほんの子供だ。マーブル・アーチ〔ハイド・パーク東北入り口の門〕のところで彼らは乗合馬車を呼び止め、ユーストン・ロードのみすぼらしい彼らの家の近くで降りた。時刻は五時をまわっており、シビルは出演までに二時間ばかり寝る必要があった。ジムは姉に是非そうしろと言ってきかなかった。ジムは母の居合わせないところで姉と別れたほうがいいと言った。母親はきっと愁嘆場を演ずるだろうし、そんな場面は何によらずまっぴらだったのである。
シビルの部屋で二人は別れた。若者の心に妬《ねた》みがあり、自分と姉との間に割り込んで来たように思える未知の男に対するはげしい、殺意的な憎しみがあった。だが、姉が両腕を彼の首に投げかけ、姉の手の指が彼の頭髪をなでつけてくれると、さすがに彼の心は和らぎ、心から愛情こめて姉に接吻した。階下へ降りて行く時、彼の眼に涙が宿っていた。
母親は階下で彼を待っていた。部屋に入ると、母親は彼がおそいといってぶつぶつ小言をならべた。彼は答えず貧しい食事に向かった。蝿《はえ》がぶんぶん食卓のまわりを飛び、しみのついたテーブル掛けの上をはいまわった。乗合馬車や辻馬車の響きを通して、彼に残された一分毎を滅ぼして行くその単調な声を耳にすることができた。
しばらくすると、彼は皿を押しやって、両手で頭をかかえた。自分には知る権利があると思った。万一自分がもしやと疑っているとおりだったら、今までに当然知らされているべきだ。恐怖のために無気力になって、母親は彼を見守った。言葉が機械的に彼女の口からもれ、ぼろぼろになったレースのハンカチは彼女の指の中で|けいれん《ヽヽヽヽ》した。六時が打つと、彼は立ち上がって戸口のほうへ進んだ。そこから引き返して彼は母親を眺《なが》めた。二人の眼が合った。彼は母親の眼の色に、哀れみを乞《こ》う烈しい訴えを読んだ。それが彼にむっと来たのだ。
「お母さん、ちょっとききたいことがあるんです」と彼が言った。彼女の眼はあてもなく部屋をさまよった。彼女の返答はない。「ほんとのことを教えてください。僕には知る権利があるんだ、お父さんと結婚していたのですか?」
彼女は深い溜息《ためいき》をついた。それは安堵の溜息だった。恐ろしい瞬間が――夜となく昼となく、幾週間も幾月も恐れていた瞬間――がついにやって来たのだ。だが、彼女は恐怖を少しも感じなかった。実際ある程度それは失望とも言えた。その質問の野卑な単刀直入さが答えを要求した。この事態は徐々にそこまで高められたものではなかった。いかにもお粗末だ。彼女は下手《へた》くそな下稽古《したげいこ》を思い出した。
「いいえ」と彼女は人生の苛酷な単純さにおどろきながら答えた。
「それじゃ、お父さんはならず者だったわけだね?」とこぶしを握りしめつつ若者が叫んだ。
母親は首を振った。「お父さんが自由のきく一人身でなかったことは知っています。わたしたちは深く愛し合っていました。もしもお父さんが生きておいでなら、わたしたちの生活の面倒を見てくださったことでしょう。お前、お父さんの悪口はお言いでないよ。なんと言ってもお前のお父さんでしょう。それに紳士でした。ほんとにえらい方々とつづき合いになっていたのですよ」
呪詛《じゅそ》の言葉が彼の口からもれた。「自分のことはどうなったってかまわない」と彼は叫んだ。「でもシビルだけは……姉さんと恋仲だとかなんとか言ってる奴《やつ》も紳士なんだね。それに、こいつもえらい連中とつづき合いになってるんだね?」
一瞬、烈しい屈辱感が彼女を襲った。彼女は頭を垂れて、ふるえる手で両眼をふいた。「シビルにはちゃんと母親があります」と彼女はつぶやいた。「わたしにはなかった」
若者は心を動かされた。母親のほうへ進み出て、身体をかがめて接吻した。「お父さんのこと訊《き》いて、お母さんを苦しめたんだったら、ごめんなさい」と彼は言った。「でも、どう仕様もなかったんだ。さあ、もう出かけなくちゃ。さようなら。あとに世話する子供は一人だけだってこと忘れないでください。いいですか、もしもこの男が姉さんにひどいことをしようものなら、絶対、この男が何者であるかさぐり出し、追跡して捕え、やっつけてやる」
このおどし文句の大げさな馬鹿馬鹿しさ、それに伴うはげしい身振り、気狂いじみたメロドラマティックな言葉が彼女に人生をより生き生きしたものに思わせた。彼女はこの雰囲気によく慣れたものだった。今までよりも呼吸が楽になり、幾月ぶりにはじめて息子を讃美する気持ちになった。同じ感動的な調子でこの場をずっと演じつづけたかったが、息子のほうでそれを打ち切ったのだ。トランクも運ばなければならぬし、マフラーも探さなくてはならなかった。下宿の下僕がばたばた出入りするし、馭者との交渉もあった。時間はつまらぬ些事《さじ》に失われた。息子が馬車で去って行くのを窓からぼろぼろのレースのハンカチを振って見送った時、彼女はいまさらのように失望を禁じ得なかった。一大好機会が無駄になったという感じがした。あとには世話する子供がたった一人になったから、これからどんなに淋《さび》しいくらしをすることになるのかとシビルに話して自らを慰めた。母親はその文句を覚えていて、それが心楽しかった。おどし文句のことは何も言わなかった。それは実に真に迫って、劇的に表現されたのである。いつかはみんなでそのおどし文句を笑う日の来ることを感じた。
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第六章
「バジル、ニュースはきいただろうね?」その晩、ザ・ブリストルのささやかな奥まった部屋へホールワードが招じいられた時、ヘンリ卿が言った。その部屋には三人分の晩餐《ばんさん》が用意されていた。
「いや、きいていない、ハリー」と画家は、お辞儀をしているウェイターに帽子と外套を渡しながら答えた。「なんだい? まさか政治のことじゃないだろうね? いっこう興味なんかないんだ。下院議員中一人として絵にかくに足る人間はいないんだから。もっとも、ちょっとばかり白く塗ってやれば、見直せる連中も多いことだろうがね」
「ドリアン・グレイが婚約したんだ」とヘンリ卿は画家をじっと見まもりつつ言った。
ホールワードははっとしたが、やがてしかめ面をした。「ドリアンが婚約したって! まさか!」彼は叫んだ。
「百パーセントほんとうさ」
「誰と?」
「どこかの女優か何かだよ」
「信じられない、ドリアンはそんな馬鹿じゃないぜ」
「ドリアンは賢明だからこそ、時折り馬鹿な真似もしかねないというところさ、ねえ、バジル」
「ハリー、結婚なんてことは、時折りやるわけには行かないことだよ」
「アメリカ以外じゃね」とヘンリ卿はものうげに答えた。「だが、僕は彼が結婚したと言わなかった、婚約したと言ったまでだ。ずいぶんの違いだからな。僕も結婚した記憶ははっきりしてるんだが、婚約した思い出は全然ない。僕は婚約したことは全然なかったと考えたいんだ」
「だが、ドリアンの生まれとか、身分とか、富のことを考えてみたまえ。あまり賤《いや》しい相手と結婚するなんておよそ馬鹿げてるからね」
「もし君がドリアンとこの娘を結婚させたいと思うなら、バジル、今そのことを言ってやるといい。きっと結婚するぜ。人間がまったく馬鹿げたことをやる時は、いつも実に高尚な動機からだから」
「ハリー、その娘《こ》が善い娘であってくれるといいが。ドリアンの本性を堕落させ、知性を台無しにするような下劣な女となんか一緒になってもらいたくないんだ」
「ああ、娘は善良どころじゃない――美人なんだ」とヘンリ卿は、オレンジ苦味《ビターズ》入りのヴェルモットをすすりながらつぶやいた。「ドリアンも彼女が美人だと言ってる。そういう事柄について彼はあまり間違ったことは言わない。君の描いた肖像画のおかげで、他人《ひと》の容貌に対するあの男の鑑識眼は鋭敏になったわけだ。あの肖像画の効果もいろいろあることだろうが、そういうすばらしい効果もその一つさ。僕たちは今夜彼女に会うことになっている、彼が約束を忘れていなければね」
「君は本気かい?」
「本気だとも。もっと本気になることがあろうなんて、考えただけでもみじめだなあ」
「だがハリー、きみはこれに賛成かい?」と画家は唇をかみかみ部屋の中を歩き回りつつ訊《たず》ねた。「おそらく賛成はすまい、馬鹿馬鹿しい一時の気の迷いだろうさ」
「今のところ僕は、なにごとも是認も否認もしない。あまりはっきりした態度をとることは、人生に対してとる態度としては馬鹿げている。僕たちは何も道徳的偏見を見せびらかすために、この世に生まれて来たのじゃない。僕は一般庶民がなんと言おうがいっさい頓着しないし、魅力的な人間のすることにはいっさい干渉しない。もしもある人間が僕の心をひきつけるならば、その人がどんな表現形式を採ろうと、それはことごとく僕にとって愉快だ。ドリアン・グレイが、ジュリエットを演《や》る美少女に恋をして彼女に結婚を申し込む。それがなぜいけないのか。たとえ彼がメッサリナ〔ローマ皇帝クローディアス一世の第三の妻で乱交で有名〕と結婚しても、やっぱり興味ある人物であることに変わりはないだろう。君も御存じの如く、僕は結婚の擁護者《チャンピオン》じゃない。結婚の真の欠陥は、そのために人間が利己的でなくなるってことだ。利己的でない人間は色彩がなく個性に欠けている。それでも、結婚によって複雑になる気質の持ち主もあるわけだ。彼らは自己中心癖《エゴティズム》を捨てることなく、その上にさらに多くの別の自我《エゴ》を加えるんだ。いや応なしに、一つの人生というよりももっと沢山の人生をもたらされることとなる。彼らは高度に組織化されるが、これこそ人間生存の目的だと僕は思う。そればかりか、一つ一つの経験が価値のあるもので、どんなに結婚をくさしてみたところで、こいつはたしかに一つの経験なんだ。ドリアン・グレイがこの娘を細君にして半年間熱烈に崇拝し、それから急に別の婦人に心ひかれるようになってくれたらと思ってるんだ。彼こそすばらしい研究題目になるだろうぜ」
「ハリー、君はその一言だって本気で言ってるわけじゃないだろう、自分でもよくわかってるはずだ。もしもドリアン・グレイの人生が台無しになってしまうならば、一番悲しむのは君自身だろう。君は悪人ぶってはいるが、実際はずっと善人なんだからな」
ヘンリ卿は笑った。「僕たちがみんな他人のことをとてもよく思いたがる理由というのは、自分で自分がこわいからなのさ。楽天主義の根底をなすものは純然たる恐怖心だ。僕たちは自分の役に立ちそうな美徳を隣人が持ってると考えるからこそ、自分が寛大だと思うんだ。僕たちが銀行家を賞めるのも、なるべくよけい借越しができるようとの魂胆《こんたん》からだし、追いはぎにも美点があるなんていうのも、追いはぎにこちらの懐中を見のがしてもらいたいとの下心からなんだ。ぼくの言ってることみんな本気なんだよ。僕は楽天主義にはこの上ない軽蔑を感ずる。ところで、人生を台無しにする云々《うんぬん》のことなんだが、その成長が止められた人生以外台無しになった人生なんか無い。ある性質を傷つけたかったら、それを改善すればそれでいい。結婚と言えば、もちろん馬鹿げてはいるだろうが、男女間には他にももっと興味深い関係があろうというもの。僕はそちらをさかんにすすめたいね。当世風という魅力もあるしさ。さて、ドリアンその人の御入来だ。僕よりも多くを語ってくれるだろう」
「ねえ、ハリー、ねえ、バジル、二人でおめでとうを是非言ってくれなきゃ!」と若者は繻子《しゅす》裏の翼《はね》のついたイヴニング・ケープを脱ぎすてて、次々に二人の友人と握手を交わしつつ言った。「こんなに幸福なのは生まれてはじめて。もちろん突然の幸福だけど。ほんとうに嬉《うれ》しいことってみんなこうなんだ。それでいて、生まれてから一生ずっと探してたことみたい」興奮と喜悦で顔が紅潮してひどく美男子に見える。
「ドリアン、君がいつもしあわせであるよう祈る」とホールワードが言った。「だが、君が婚約のことを僕に知らせてくれなかったとは、ちょっと許せない。ハリーには知らせたのに」
「それに、食事におくれるとは怪しからん」とヘンリ卿は口をはさんだ。そうして片手を若者の肩において微笑した。「さあ、席についてこの新しいコック長の腕前を味わってから、ドリアンにことの次第を詳しくきかせてもらおう」
「実際には大して話すこともないんだけど」とドリアンは、一同が小さなテーブルについた時叫んだ。「ことの次第はざっとこんなところです。ハリー、昨晩あなたのところを辞してから、着がえをして、いつかあなたに紹介してもらったルーパート街のささやかなイタリア料理店で食事をすませ、八時に劇場に行きました。シビルはロザリンドの役だった。もちろん道具立てはひどいもので、オーランドと来たら見られたものではない。でも、シビルといったら! 是非あなたに見せたかった。少年の服装で登場した時は実にすばらしかった。肉桂色の袖《そで》つきの苔《こけ》色のびろうどの短上衣《ジャーキン》を着、十文字型の靴下止めのついたほっそりした褐色の長靴下をはき、宝石で留めた鷹《たか》の羽つき帽子をかぶり、褐色《かっしょく》の赤い裏をつけた頭巾《フード》つき外套を着ていた。これほどいみじくも美しく彼女が見えたことは今までにない。バジル、君の画室にあるタナグラ人形〔ギリシアの小都市タナグラより発掘される小彫像〕のあのデリケートな優美さを彼女がそなえているんだもの。髪の毛は、ちょうど蒼白い薔薇のまわりをとりまく黒い葉のように、彼女の顔をゆたかにかこんでいた。演技のことは――そう、今夜お目にかけよう。実に彼女は生まれながらの芸術家なんだ。うすぎたない桟敷《さじき》におさまったまままったく心うばわれ、わが身がロンドンにあることも、十九世紀に生きていることも忘れ果てていた。僕は誰もまだ見たこともない森の中に、恋人と一緒に行ってしまっていた。芝居が終わると楽屋裏へ出かけていって彼女と話をした。一緒に坐っていると、突然彼女の眼に今まで一度も見たこともない色があらわれて来た。自然僕の唇は彼女の唇のほうへと動き、二人は接吻した。その時の気持ちとても口では言えないほどです。なんだか僕の全生涯が、薔薇色をした喜びのこのこよなき一点に集中したという気がした。彼女は全身をふるわせ、白い水仙のように揺れた。それからいきなりひざまずいて僕の両手に接吻した。こんなことまでみんな話してしまってはいけないとわかっているんだが、やっぱり言わずにいられない。もちろん、僕たちの婚約のことは全然秘密。彼女は母親にさえ打ち明けていない。僕の後見人たちがなんというかわからない。ラッドレイ卿がかんかんに怒るにきまってる。かまやしない。もう一年もしないうちに僕は成年になる。そうすれば、自分の好きなことができるんだ。バジル、僕が恋人を詩の中から連れ出し、妻をシェイクスピアの劇中に見つけたのは間違っちゃいなかったね? シェイクスピアが話し方を教えた唇が、その秘密を僕の耳にささやいたんだ。僕はロザリンドの腕の中に抱かれて、ジュリエットの唇に接吻したんだ」
「そうだ、ドリアン、君が間違っていなかったと思うよ」とホールワードがおもむろに言った。
「君は今日、彼女に会ったかい?」とヘンリ卿がきいた。
ドリアン・グレイは首を振った。「僕は彼女をアーデンの森に残して来ました。今度はヴェローナ〔イタリア北東部の町で『ロメオとジュリエット』の舞台〕の果樹園の中で見付けることだろう」
ヘンリ卿は感慨にふける様子でシャンペン酒をちびちび飲んだ。「ドリアン、君はどの辺りで結婚話を持ち出したんだ? そうして彼女の答は? おそらく君はそんなことすっかり忘れてしまったんだろう」
「ねえ、ハリー、何も僕は商売取引みたいにやったわけじゃありませんし、別に形式的な申し込みはしなかった。彼女を愛していると言うと、彼女は僕の妻にふさわしくないと言うんです。ふさわしくないって! どうしてどうして、全世界だって彼女と比べたら物の数じゃない」
「女ってものは驚くほど実際的だ」とヘンリ卿がつぶやいた――「男より遥かに実際的なのさ。そういった場合、男は結婚のことをよく言い忘れるものだが、女はいつも男に思い出させるんだ」
ホールワードはハリーの腕に手を置いて言った。「ハリー、止《や》めてくれ。ドリアンを君は困らせてるんだ。彼はほかの連中とはちがうんだ。人をみじめな目に遭わせるようなことはしないよ。立派な性質がらとてもそんなことはできないさ」
ヘンリ卿はテーブル越しに眺《なが》めて、「ドリアンは僕の言ったことで困ってなんかいないさ」と答えた。「僕が訊《たず》ねたのは、人が質問する口実となる最善唯一の理由から――つまり単なる好奇心からに過ぎないんだ。僕の持論としては、プロポーズするのは女のほうで男のほうじゃないということだ。もちろん、中流階級は例外だがね。だって中流階級って奴《やつ》は近代的じゃないんだから」
ドリアン・グレイは笑って急に頭をもたげた。「ハリー、あなたはほんとに手に負えない人だ。でも、別に気にしていない。あなたに怒るなんてできない相談だ。シビル・ヴェインをひと目見たら、彼女にひどい仕打ちをするような奴《やつ》は、冷酷なけだものだということがわかるだろう。自分が愛するものをどうしてはずかしめようなんて考えられるだろうか? 僕はシビル・ヴェインを愛している。彼女を金の台座にのせて、世界中の人々が僕のものであるその婦人を崇拝するところを見たい。結婚っていったいなんだろう? 取消しのきかぬ誓いなんだ。その理由であなたは結婚を馬鹿にする。ああ、それだけはやめてほしい。僕がしたいのは、その取消しのきかぬ誓いなんです。彼女の信頼が僕を忠実にしてくれ、彼女の信仰が僕を善良にしてくれるのです。彼女と一緒にいるときには、あなたに教えてもらったすべてのことを後悔します。僕はあなたが知っている僕とは別人になってしまう。僕は変わってしまって、シビル・ヴェインの手にちょっとふれても、あなたやあなたの邪悪な、魅力たっぷりな、毒気のある、愉快な理論をすっかり忘れてしまうのです」
「その理論というのは――?」ヘンリ卿はサラダをとりながらたずねた。
「ああ、あなたの人生論、恋愛論、快楽論、ハリー、実際のところ、あなたのすべての理論なんです」
「快楽というのは、理論を云々《うんぬん》する価値のある唯一のものなんだよ」と彼はゆったりした音楽的な声で答えた。「だが、どうも僕の理論は僕自身のものだとも言えないようだ。快楽こそが自然が課するテストであり、自然の承認の標識なんだ。僕たちが幸福なときには、いつも善良なんだが、善良な時にいつも幸福とは限らない」
「だがね、君の言う善良とはどんな意味だね?」とバジル・ホールワードが叫んだ。
「そうです」椅子にもたれ、テーブルの中央におびただしく群れ活けにされたアイリス越しにヘンリ卿を見やりつつドリアンが、そっくり言葉をまねた。「あなたの善良とはどんな意味ですか?」
「善良であるというのは、自己と調和してることなんだ」と彼は蒼白《あおじろ》く細くとがった指をグラスの細いあしに触れながら答えた。「不調和とは無理やりに他のものと調和させられることだ。自己自身の生活――こいつが大切なのだ。隣人の生活はどうかと言えば、やかまし屋か厳格家《ピュリタン》になりたいなら、隣人の生活についてとやかく自分の意見をひけらかしたっていいだろう。だが、隣人の生活なんていうものは、こちらの知ったことじゃない。その上、個人主義というのは、実際もっと高い目的をもっているんだ。近代道徳とは自分の時代の標準を受け入れることにある。僕の考えじゃ、教養人が時代の標準を受け入れることは、最もはなはだしい不道徳の一様式だな」
「だがね、ハリー、たしかなところ、もしただ自分一人のためだけに生きるとしたら、恐ろしい代償を払わなくちゃならないんだぜ」と画家が言った。
「そうだ、現在僕たちは何によらず、ひどく高い代価をふっかけられているんだ。貧乏人の真の悲劇は、彼らが自制以外何も買うゆとりがないってことだと思う。美しい罪は、美しい物と同様金持ちの特権だからね」
「人は金以外いろんな方法で代償を払わなくちゃならない」
「バジル、どんな方法で?」
「ああ! 後悔や苦悩やそれから……そうだ堕落したっていう意識で」
ヘンリ卿は肩をすぼめた。「ねえ君、中世の芸術は魅惑的だが、中世の感情は時代遅れだね。もちろん、中世的感情も小説に使うことはできるにはできるが、小説に使えるものといえば、実際には使わなくなったものだけなんだ。いいかい、文明人で快楽を後悔する奴《やつ》は一人もいないし、未開人にして快楽がなんたるかを知ってる奴はまた一人もいない」
「僕は快楽のなんたるかを知っている」とドリアン・グレイが叫んだ。「それは誰かを熱愛することだ」
「そいつはたしかに、熱愛されるよりはましだな」とヘンリ卿は果物をもてあそびつつ答えた。「熱愛されるのは迷惑千万だよ。女性が男性を遇するやりかたは、まさに人類が神を遇するやりかただ。彼らは僕たちを崇拝して、しょっちゅう何かをしたもらいたいと僕たちを困らせるんだ」
「彼らが求めるのは、なんでも最初に彼らが僕たちに与えたものだ、と言うべきところだった」と若者は真面目くさってつぶやいた。「彼らがまず僕たちの心に愛を創造する。だからそれを返してくれと要求する権利を持っている」
「ドリアン、まさにそのとおりだ」とホールワードが叫んだ。
「まったくの真理など何一つありはしない」とヘンリ卿が言った。
「いや、これだけは真理だ」とドリアンがさえぎった。「ハリー、あなたも女性がその生命の黄金《かね》そのものを男性に与えるんだということをみとめなくちゃ」
「まあね」と彼は溜息《ためいき》をついた。「だが女性は、決まってそれを少しづつ小銭の形で返してもらいたがるものでね。そこが困るところだ。気のきいたフランス人がいつか言ったっけ、女性は男性に傑作を作りたい意欲をおこさせておきながら、いつもそれを実行させないように邪魔するんだって」
「ハリー、あなたは実にひどいことを言う人だ! どうしてこんなにあなたが好きなのか、自分でもわからない」
「ドリアン、いつも僕が好きだろうさ」と彼は答えた。「君たち、コーヒーはどう? ――給仕、コーヒーとリキュール・ブランデーと巻煙草を少しくれ。いや、巻煙草は要らぬ。少しもってるから。バジル、君が葉巻をすうのはけしからんね。是非巻煙草にしたまえ。巻煙草こそ完全な快楽の完全な典型だ。こいつは実にいい味のくせに、これで満足したということがない。これ以上不足があるというの? そうだ、ドリアン、君はいつも僕が好きだろうさ。僕という男は、君が犯すだけの勇気のなかったすべての罪の象徴なんだからね」
「ハリー、なんて馬鹿なことを言うの!」と若者は給仕人が食卓に置いていった、火を吐《は》く銀の竜をかたどったケースからマッチをとりながら叫んだ。「劇場へ行きましょう。シビルが登場したら、あなたは人生に対する新しい理想を持つでしょう。彼女は、あなたが今まで夢にも知らなかったものを見せてくれるでしょう」
「僕はなんでも知ってるよ」とヘンリ卿が疲れたような色を眼にたたえて言った。「だが、僕はいつも新しい感情を喜んで迎える。しかし少なくとも僕の眼から見れば、どうもそんなものはなさそうだな。でもやっぱり、君のすばらしい恋人が僕の心をときめかすことだろう。僕は芝居好きだ。芝居は人生よりもいっそう現実的《リアル》だ。さあ、出かけよう。ドリアン、君は僕と一緒だ。バジル、お気の毒だが、四輪馬車《プルーム》には二人分の席しかない。二輪馬車《ハンサム》であとから来てもらわなくちゃ」
三人は立ち上がって外套を着、立ったままでコーヒーをすすった。画家は沈黙しぼんやりしていた。陰鬱《いんうつ》の気持ちが彼を襲った。彼にはこの結婚はとても我慢ができないものだったが、まだ他のことよりはましだという気がした。数分の後彼らはみんな階下へおりた。彼は予定どおりひとりで馬車をはしらせ、彼の前を行く小さな四輪馬車のきらめく燈火を見守った。奇妙にも喪失の感じが襲って来た。今までのようなドリアン・グレイは自分にとって、決して存在しないだろうという気がした。人生というものが彼らをへだてたのだ……彼の眼はくもり、雑踏する燈火のきらめく街路はかすんで来た。馬車が劇場につくと、彼はもう何歳も年老いたような気がした。
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第七章
何かの理由で、その劇場は大入りだった。入口のところで彼らを迎えた例の肥満体のユダヤ人の支配人は、臆病そうなお追従《ついしょう》笑いを見せて、耳までさけるほど顔をほころばせていた。彼は宝石をちりばめた太い手をふりふり、ありったけの声を張り上げて話しながら、大げさな卑屈さを見せて一行を桟敷《さじき》へ案内した。ドリアン・グレイはこの男がいっそう嫌《いや》になって、まるでミランダ〔シェイクスピアの劇『テンペスト』の女主人公〕を探しに来てキャリバン〔同じ劇中の半獣人。奴隷である〕に会ったような気がした。ヘンリ卿はこれと反対に彼が好きになった。少なくとも、好きだと公言した。そして、どうしても彼と握手をし、真の一天才を発見し、一詩人のために破産の羽目におちいった男に会えて得意に思っていると相手に言ってやるんだといってきかなかった。ホールワードは平土間の見物人の顔を眺《なが》めておもしろがっていた。場内の熱気はむっとするほどで、太陽を思わせる巨大な燈《あか》りが黄色い花弁をつけた大ダリヤのように燃えていた。大向こうの若い連中は、上衣やチョッキを脱いで傍に掛け、劇場の向こうとこちらで話し合ったり、傍に腰かけているけばけばしい女たちとオレンジを分け合ったりした。平土間では笑っている婦人連もあり、その声は甲高《かんだか》くて耳障《みみざわ》りだった。ポンポンとコルクを抜く音が酒場から聞こえて来た。
「女神を見つけるにしては大変なところだな!」とヘンリ卿が言った。
「そうですとも!」とドリアン・グレイが答えた。「僕が彼女を見つけたのはここだし、彼女はあらゆる生きものにもまして神聖なんです。彼女が芝居をしている間は、あなたはすべてを忘れてしまう。野卑な顔や身振りをした下品な連中も、彼女がステージに立っているとまったく別人のようになってしまう。黙って坐って神妙に見ている。彼女の望むままに、彼らは泣いたり笑ったり。まるでヴァイオリンのように感応しやすいものになってしまう。彼女は連中を精神的に高めてくれるから、連中もやはり僕たちと同じ血と肉を持った人間だと言う気がして来る」
「同じ血と肉だって? ああ、僕はそうは思いたくないな」とオペラ・グラスで大向こうの連中をしげしげ見ているヘンリ卿が叫んだ。
「ドリアン、彼には一切かまうことはないさ」と画家が言った。「君の言うことはよくわかる。そうして、僕はこの娘を信じるよ。君が愛するほどの人だったら、誰だってすばらしい人だろう。君の言うような効果を持ってる娘さんなら、きっと立派な人に違いないんだ。自分の時代を精神的に高めること――これこそやる価値のあることだ。もしもこの娘が、魂というものを持たないで生きてきた人々に魂を与えることができるなら、もしも彼女が汚いみにくい生活をしてきた人々の心に美感覚を創造することができるなら、もしも彼女が彼らの利己心を除くことができ、彼ら自身のものでない悲しみに涙を流させることができるなら、彼女はまったく君の熱愛にも、世界中の人々の熱愛にもふさわしい人だ。この結婚はまったく正当だ。僕もはじめはそう思わなかったが、今じゃそれを認めるよ。神々が君のためにシビル・ヴェインをつくったんだ。彼女なしでは君も不完全だったろう」
「バジル、ありがとう」とドリアン・グレイは彼の手を強く握りながら答えた。「君にはわかってもらえると前から知っていた。ハリーはあまりひどい皮肉屋で恐いくらいだ。でも、オーケストラがはじまった。まったくおさむいものだけれど、ほんの五分間ぐらいで終わります。すると幕があいて彼女が現れるんだ――僕が全生命を与えようとしており、僕という人間のもつ善良なるものすべてを与えたあの娘を」
それから十五分後には、ものすごい拍手|喝采《かっさい》のまっただ中に、シビル・ヴェインが舞台に現れた――今まで見たこともない美人だとヘンリ卿は思った。彼女のはにかんだ優美さと驚いた眼には小鹿を思わせるものがあった。ぎっしりつまった熱狂的観衆を一べつすると、銀の鏡にうつる薔薇の影のようにかすかな赤らみが彼女の顔に浮かんで来た。彼女は二、三歩ひき下がると、唇がふるえるように見えた。バジル・ホールワードはとび上がって拍手しはじめた。ドリアン・グレイは夢見心地にじっと腰をおろして彼女をみつめた。ヘンリ卿はグラスをのぞいて「すばらしい! すばらしい!」とつぶやいた。
場面はキャピュレット家の大広間で、ロメオが巡礼姿でマーキューシオや友人たちと登場していた。楽団はまことにお粗末ながら、音楽の数節を奏で出しダンスが始まった。不恰好《ぶかっこう》な、衣装のみすぼらしい俳優たちの間を、シビル・ヴェインは別世界から来たもののように動いた。ダンスの間、彼女の身体はまるで水中の水草のようにゆらめいた。その咽喉《のど》の曲線は白百合のそれにも似、両の手は冷やかな象牙でできているかの観があった。
だが、彼女は奇妙に熱のない様子だった。彼女の眼がロメオにそそがれた時にも、何一つ喜びの色を見せなかった。彼女の受け持ちの台詞《せりふ》も――
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巡礼のお方よ、それではあなた様のお手にあまりお気の毒、
こうしてねんごろな御信心ぶりを見せておりますのに、
聖者さまと巡礼の手の触れるお手をお持ちですもの、
掌と掌の触れあうは聖なる巡礼のくちづけとやら
〔『ロメオとジュリエット』第一幕第五場〕
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それにつづく短い対話も、まったく不自然きわまる話し方だった。その声は絶妙だったが、調子の点から見ると、全然間違っていた。音色の点から誤っており、詩句から生気というものがすっかり抜けてしまい、激情も現実離れのしたものとなってしまった。
ドリアン・グレイがじっとみつめているうちに、その顔は蒼《あお》ざめて行った。彼は困惑し、心配でならなかった。二人の友人はいずれもあえて口をきかず、二人にはこの女優は全然大根だと思われた。彼らの失望は大きかった。
だが彼らは、誰がやるにせよ、ジュリエットの真価がきまるのは、第二幕のバルコニーの場だという気持ちでそれを待った。その場で味噌をつければ、もう彼女には何一つ見どころはないわけだ。
月光の中へと出てきたときには、彼女は実に美しく見えた。それは否定すべくもなかった。だが、彼女の演技の芝居くささはもう鼻持ちならぬもので、演技をやるにつれてますますはなはだしさを加えて行った。その仕草は馬鹿馬鹿しいほど不自然になり、台詞《せりふ》はすべて誇張しすぎたものだった。あの美しい句――
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御存じのように、夜なる仮面がこのわたしの面にかかりおります、
さもなくば、乙女《おとめ》のはじらいがこの頬《ほお》を染めましょう
今宵《こよい》あのようなことをお耳にいれましたれば
〔第二幕第二場〕
[#ここで字下げ終わり]
も二流の朗読法の教授に暗誦を教えられた女学生よろしく、聞くも苦しいほどの正確さで誦せられたのである。バルコニーに身をよせて、次のすばらしい詩句に及んだ時――
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あなたさま嬉《うれ》しいお方なれど、
今宵《こよい》のちぎりは嬉しうもございませぬ。
あまりにも早急で無分別で唐突で、
あ、稲妻が、と言う間もあらせず消え失せる
稲妻にあまり似ておりますもの。いとしい方、おやすみなさい!
この恋の蕾《つぼみ》も実りの夏の風にさそわれ
またの逢瀬《おうせ》にうるわしき花と咲きますよう
[#ここで字下げ終わり]
彼女はその台詞《せりふ》が自身には何の意味ももたないかのごとく言ってのけた。それは神経質すぎるというのでもなかった。実際、神経質どころか、彼女はまったく自若としていた。まったくそれは大根演技という他なく、まるでなっていなかった。
平土間や大向こうの教養のない大衆も、劇に対する興味を失った。彼らは落ち着きを失い、大声でしゃべり、口笛を吹きはじめた。特別桟敷の奥のところに立っていたユダヤ人の支配人も地団太踏んで怒り毒づいた。平然たるものと言えば、その娘自身だけだった。
第二幕が終わった時、しっしっという声が嵐のように烈《はげ》しくなり、ヘンリ卿は椅子から立ち上がって外套を着た。「ドリアン、あの娘は実に美人だ。だが芝居は演《や》れないんだね。さあ帰ろう」
「僕はしまいまで見る」と若者はきびしい悲痛な声で答えた。「ハリー、一晩無駄にさせてしまってまことにすまない。お二人におわびします」
「ドリアン、ヴェイン嬢は気分が悪かったんだろうね」とホールワードがさえぎった。「いつかまた改めて来るとしよう」
「気分が悪かってくれたらと思います」と彼は答えた。「だが彼女はまったく無神経で冷淡に思われる。まったく別人になってしまった。昨夜は一大芸術家だったが、今夜はつまらぬへぼ女優にすぎん」
「ドリアン、君の愛する人のことを、そんな風に言うもんじゃない。愛は芸術よりずっとすばらしいもんだ」
「どちらも単に模倣の形式にすぎないんだ」とヘンリ卿が言った。「だが、もう帰ろうじゃないか。ドリアン、長居は無用だ。へたくそな演技を観《み》るのは道徳上よくない。それに、君も細君に芝居を演《や》らせたくはないだろうからね。だから彼女がでくの坊みたいにジュリエットを演ったって、それがなんだというんだ。彼女はずいぶん綺麗《きれい》だ。そうして、たとえ彼女が演技同様、人生についてもまったく無智だとしても、彼女は実に愉快な経験となるだろう。ほんとうに魅力的な人間というのは、世の中に二種類しかない――つまり、あらゆることを知り尽くしている人間と、全然何も知らない人間だ。おやおや、そんなに悲しそうな顔をするなよ。いつまでも若さを保つ秘訣は、不相応な感情を絶対に抱かぬことだ。バジルや僕と一緒にクラブへ来たまえ。煙草をすって、シビル・ヴェインの美しさに乾杯しよう。彼女は美人だ。それ以上君は何を望むのだ」
「ハリー、帰ってください」と若者は叫んだ。「僕は独《ひと》りになりたい。バジル、君も帰ってくれなくちゃ。ああ、あなたたちは僕の胸の張り裂ける思いがわからないの?」熱涙が彼の眼に浮かんだ。唇をふるわせ、桟敷の奥までつき進み、両手で顔をかくしながら壁にもたれかかった。
「バジル、帰ろう」とヘンリ卿が声に奇妙なやさしさをこめて言った。かくて二人の若者は連れだって出て行った。
ほんのしばらくして、フットライトが灯って、三幕目が開いた。ドリアン・グレイは席に戻った。顔色は蒼《あお》ざめ、高慢となり、無関心になった。劇はだらだらと続いて、際限もないように思われた。観衆の半分は重い靴をふみならし笑いながら出て行った。全体がぶちこわしだった。最後の幕はほとんど空席に向かって演ぜられ、しのび笑いや不満の呻《うめ》き声の中に幕となった。
劇が終わるや否や、ドリアン・グレイは楽屋裏へととんで行った。娘は得意満面の様子で、ひとりたたずんでいるところだった。眼はいみじき焔に輝き、身体は光輝につつまれていた。開かれた唇は、その唇の持つ秘密を思って微笑していた。
彼が入っていくと、彼女は彼を眺《なが》めた。そうすると、限りない喜びの表情が浮かんで来た。「ドリアン、今夜はわたし、なんてへたなお芝居をしたことでしょう」と彼女が叫んだ。
「まったくひどいもんだ!」と彼は驚いて彼女を見つめながら答えた。「まったくひどい! あれはあんまりだ。気分でも悪いの? あれがどういうことなのか、君には想像もつかない。僕がどんなに苦しんだか、君にはまったく想像もつかないんだ」
娘は微笑して「ドリアン」と、その呼び名が彼女の赤い花弁のような唇に、蜜より甘いものであるかのように、声を長くひいて答えた――「ドリアン、あなたはきっとわかってくださるはずだったわ。でも、もうおわかりくださったわね?」
「何がわかるというんだ?」と怒って彼が訊《たず》ねた。
「なぜわたし今夜へたくそだったか。なぜわたし、これからいつもへたくそだろうか。なぜ二度とうまいお芝居をしないかのわけよ」
彼は肩をすぼめた。「君は気分でも悪いんだろう。そんな時に芝居に出るもんじゃない。物笑いになるだけだよ。僕も友人連中もうんざりしてしまった」
彼女はそれにはいっこう馬耳東風の様子で、喜悦のために変身し、幸福感にうっとりとなってしまっていた。
「ドリアン、ドリアン」と彼女は叫んだ。「あなたを知るまでは、お芝居をするのがわたしの人生の唯一の現実でした。わたしが生きているのは、劇場の中だけでした。それがみんなほんとうだと思いました。ある晩はロザリンドになったかと思うと、別の晩にはポーシアになるという工合に。ビアトリスのよろこびはわたしのよろこびでしたし、コーデリアの悲しみはまたわたしの悲しみでした。わたしはすべてを信じていたのです。わたしと一緒にお芝居する人たちが、神さまみたいに見えましたわ。画にかいた背景がわたしの世界だったの。わたしは影のほかは何も知らないで、それをほんとだと思い込んでいたのです。そこへあなたがいらっしゃったの――ああ、わたしの美しい恋人! ――そうして、あなたはわたしの心を獄屋から解放してくださったのです。あなたは現実がほんとにどんなものか、教えてくださいました。今夜という今夜、生まれてはじめて、わたしが今までお芝居をしてきた空虚な派手な見世物のそらぞらしさ、ごまかし、馬鹿馬鹿しさを見破ったのです。生まれてはじめて今夜、ロメオがいまわしい年寄で、顔を塗りたてた男で、果樹園の月光は|にせ《ヽヽ》ものだってこと、背景の道具立は下品で、わたしの台詞《せりふ》も現実ではなく、わたしの本音でも、わたしの言いたいことでもないってことがわかりました。あなたは、何かもっと高いものを授けてくださったのです。すべての芸術も実はその高いものの影にしかすぎません。恋愛というものがほんとにどんなものか、あなたはわからせてくださった。わたしのいい人! プリンス・チャーミング! いのちのプリンス! 影なんかにはもうあきあきしました。あなたはわたしにして見れば、すべての芸術よりももっと大切なお方ですわ。お芝居のあやつり人形とわたしとなんのかかりあいがあるの? 今夜ステージに立ってみて、どうしてこんなにすっかり気抜けしてしまったのか、わかりませんでしたの。一つすばらしいお芝居をしてやりましょうと思っていたのに。でもだめなことがわかって来ました。その時、急にこの意味がよめて参りましたの。これがわかったのは、わたしにはたとえようもなくすばらしいことでした。みんながしっしっと言う声をきいて、わたしは微笑《ほほえ》みました。あの人たち、私たちのような愛のこと何がわかるでしょう? ドリアン、連れてってください――二人だけでいられるところへ連れてって。わたし舞台なんかきらい。心にもない情熱なら、まねることもできましょうけれど、火となってわたしを燃やしている今の情熱をまねるなんて、とてもできません。ドリアン、ドリアン、この意味もうおわかりになりまして? たとえわたしにそれができたとしても、恋愛ごっこのお芝居するなんて、罰当たりなことですわ。あなたのおかげでそれがわかりましたの」
彼はどかりとソーファに身を投げ、そっぽを向き「君は僕の愛情を殺してしまったんだ」とつぶやいた。
彼女は不思議そうに彼を眺《なが》め、それから笑い出した。彼の返事がないままに、彼女は寄りそって可愛《かわい》い指で彼の髪をなでつけた。彼女はひざまずいて、彼の両手を唇におしあてた。すると彼は手を引っ込めた。身震いが彼の全身を走った。
それから彼はとび上がって、戸口のところまで行き「そうだ」と叫んだ。「君は僕の愛情を殺してしまった。以前の君は僕の想像力をかきたてたが今じゃ僕の好奇心をおこさせることさえない。ただなんの効果もかもし出さないというまでだ。君を愛したのも、君がすばらしかったし、君には天才と知性があり、君が偉大な詩人の夢を実現し、芸術の影に形と実体を与えたからなのだ。ところが、君はそれらをすっかりすて去った。君は浅はかで馬鹿な奴《やつ》さ。君を愛するなんてまったく気狂い沙汰だ。僕はなんて馬鹿だったんだろう。今じゃ、僕にとって君はなんでもないんだ。二度と君に会いたくない。君のことを考えるもいやだ。君の名を口にしたくもない。かつて君が僕にとってどんな存在だったか、君は知らない。そうだ、以前はだね……ああ、考えるだけでもたまらない! 君なんかにいっそ会わなけりゃよかった! 君は僕の生活のロマンスを台無しにしてしまった。恋愛が君の芸術をそこなうなどと君が言うのなら、なんて恋愛というものが君にわかっていないんだろう。君から芸術をとれば、君はまるでゼロだ。君の名声を高め、すばらしい、大した女優に仕上げようと思ったのに。世界中の人が君を崇《あが》め、君は僕の家名をなのるところだったのに。今じゃ君はなんだ? 顔の小綺麗《こぎれい》な三流女優というところさ」
娘はまっ蒼《さお》になってがたがたふるえた。両手をしっかり握り、声が咽喉《のど》につかえそうな様子だった。「ドリアン、それ本気でおっしゃってるんじゃないでしょう?」と彼女はつぶやいた。「お芝居なさってるのね」
「芝居だって! そのほうは君にまかせるよ、君のお手のものなんだから」と彼は痛烈な言葉をむくいた。
彼女はひざまずいた姿勢から立ち上がり、哀れっぽい表情を浮かべて彼の傍に歩み寄り、手を彼の腕に置いて、その眼をのぞき込んだ。彼は娘を押しやり、「僕にさわらないでくれ」と叫んだ。
低い呻《うめ》き声が彼女からもれると、彼女は彼の足もとに身を投げかけて、踏みにじられた花のように倒れた。「ドリアン、ドリアン、わたしをすてないで!」とつぶやいた。「わたしうまくお芝居しなかったのすまないと思いますわ、ずっとあなたのことを考えていたの。でもやって見ます――ほんとにやって見ますわ。あなたへのわたしの愛情は、ほんとに突然のことでした。もしもあなたが接吻してくださらなかったら――もしもわたしたちお互いに接吻しなかったら、わたしもあなたへの愛なんてこと一度も知らなかったでしょう――あなたもう一度接吻して。わたしをすてないで。それにはとても耐えられそうにありません。ああ、わたしを置いて行かないで。弟が……いいえ、心配はいりません。弟はそんなつもりで言ったのじゃない。弟は冗談を言ってたんだわ……でもあなた、今夜のところだけは許して頂けません? 一生懸命勉強して、うまくやるようにいたします。わたしに辛《つ》らく当たらないで。だって世界中で一番あなたを愛しているんですもの。結局、あなたのお気に召さなかったのは、今までにたった一度ってわけですのね。でも、ドリアン、あなたのおっしゃることほんとうですわ。もっと芸術家らしくやるのが本当でした。わたしお馬鹿さんでしたわね。でも、どうしてもあんなにしないではいられなかったんですもの。ねえ、わたしを見すてないで」
こみあげて来る烈《はげ》しいすすり泣きのために咽喉《のど》がつまった。彼女は傷ついたもののように床にうずくまり、ドリアン・グレイは美しい眼で彼女を見下ろし、彫刻のようによくととのった唇は、烈しい軽蔑の念にゆがんでいた。自分が愛さなくなった人々のあらわす表情には、どこか常に笑うべきものが存している。彼には、シビル・ヴェインが馬鹿馬鹿しいほどに芝居がかっているように思われ、彼女の涙とすすり泣きがなんともうるさかった。
「もう帰る」ついに彼は静かなはっきりした声で言った。「別に君につれなくしたいとは思わないんだが、二度と君に会うわけには行かない。僕をがっかりさせてしまったんだから」
彼女は声を立てずに泣き、答えもしなかったが、さらに近く寄って来た。めくら滅法に可愛《かわい》い両手をさしのべ、彼を求める様子だった。彼はくるりと後ろを向いて部屋を去った。たちまちにして彼は劇場を出ていた。
どこへ行ったのか自分でもほとんどわからなかった。ただ覚えているのは、燈《あかり》のほのぐらい街々を抜け、ものすごい、暗い影をもつ拱路《アーチウェイ》や怪しげな家々を通りすぎてほっつき歩いたことだった。かすれ声の耳障りな笑声をたてる女どもが、彼の背後から呼び掛け、酔いどれが毒づいたり、奇怪な猿のように独語《ひとりご》ちたりしながら、傍らをよろめいて行った。彼は、戸口への階段のところにグロテスクな子供がくっつき合っているのを見、陰気な中庭から呼び声や罵《ののし》りの言葉をきいた。
夜が白々と明け初める頃、彼はコヴェント・ガーデン〔ロンドンの青物市場の名〕のごく近くにいることがわかった。闇《やみ》が次第にうすれていって、空がほんのり赤らんで来て、完全円満な真珠のかたちにくぼみを見せていた。首をうなずかせる百合の花を満載した大型馬車が、磨き上げられた人気のない街路をゆるやかに轟いて行った。空気は百合の香でむっとするほどで、その花の美しさが彼の苦痛を鎮めてくれるように思われた。彼は百合を積んだ馬車のあとについて市場に入っていって、荷車から人夫たちが荷物を降ろすところを眺《なが》めた。白い仕事着を着た馬車引が彼にさくらんぼをくれた。彼は礼を言ってからなぜこの男が代金をうけとらぬのかといぶかりつつ、大儀そうにそれを食べはじめた。そのさくらんぼは夜中に摘《つ》んだもので、月の冷たさがしみこんでいた。縞模様《しまもよう》のチューリップや黄や赤の薔薇を入れた籠《かご》を持った少年たちの列が、うずたかく山と積んだ硬玉のように青い野菜の間を縫って、彼の前を一列になって進んで行った。日にさらされて白くなった円柱のある柱廊玄関のところには、無帽のだらしのない一団の娘たちがせり売りの終わるのを待ち待ちさまよっており、また広場のコーヒー店の旋回戸の周囲に集まっているものもあった。のろくさい馬車馬が、ベルや馬具をゆすぶりながら、ごつごつした石の上をすべったり、踏みならしたりした。馭者の中には、袋の山の上で寝込んでいるものもあった。虹色の首をして、桃色の足をした鳩が実をついばみながらとび回っていた。
しばらくして彼は二輪馬車《ハンサム》を呼び止めて、家へとはしらせた。家の戸口の階段の上でしばらく彼はたたずんで、ひっそりした広場を眺《なが》めた。家々の窓はぴったりと鎧戸《よろいど》をとざして面白味《おもしろみ》もない様子を呈し、日覆《ひおおい》がいやに眼につくけばけばしさをもっていた。今や、空の色は完全な乳光色になって、家々の屋根はその空を背景に銀色に輝いていた。向こうの煙突からは、淡い煙の条が立ちのぼり、青貝色の空に紫色の帯となってうねり上がっていった。
オーク材の鏡板をはめた大玄関の天井から下がっている、大きな金めっきのヴェネチア式ランタン――これはあるドージ〔総督〕の遊山船からの分捕品だったが――には三つの火口からまだあかりがちらちらしていてそれが白い火にふちどられたうす青い焔の花弁とも見えた。彼はそのあかりを消し、帽子とケープをテーブルに投げ出すと、書斎を抜けて寝室のほうへ歩いて行った。その寝室たるや、一階の大きな八角形の部屋で、近頃の彼のぜいたくな好みから、自ら飾り付けを施したもので、セルビイ・ロイアル邸の使用されていない屋根裏にしまってあるところを発見された、風変わりなルネサンス時代の綴織《タペストリ》がかかっているのだった。扉《とびら》の取っ手を回す時、バジル・ホールワードが描いてくれた例の肖像画の上に眼がおちた。と、彼は驚いたようにあとへさがった。それから彼はいささか戸まどいした様子で自分の部屋に入った。上衣のボタン穴に挿《さ》した花をとってから、ためらっている風だったが、ついに絵のところまでとってかえしてそれを綿密に調べた。クリーム色の絹の日除け越しにはいって来るおぼろげな遮蔽光《しゃへいこう》の中で、絵の顔が少し変わったように思われるのだった。表情が違って見えるのだ。口の辺りに一抹の残酷さが漂っているとも言えようか。これはたしかに不思議なことだ。
彼はくびすをめぐらして窓辺に歩み寄り、日除けを上げた。輝かしい朝の光が部屋にあふれ、怪しい影をほの暗い隅《すみ》へと追いやると、影はその隅のところでふるえていた。だが、肖像画の顔に見られた奇妙な表情はなおそのまま残って、前よりいっそう強くなっているかのようである。ふるえおののく強烈な太陽の光が、まるで何か恐るべき悪事を働いた後に鏡をのぞき込んだみたいに、はっきりと、口の辺りに漂う残酷な線を見せつけたのである。
彼はたじろいで、ヘンリ卿からの多くの贈物の一つである象牙のキューピッドの枠にはめられた楕円形の鏡をテーブルからとりあげ、急いでその磨きあげられた深みをのぞきこんだ。そのような線は何一つ彼の赤い唇をゆがませてはいない。これはいったい何を意味するのであろうか?
彼は眼をこすって絵に近寄り、もう一度しらべて見た。現実その絵をのぞきこんだ時、変わった兆候は何一つ見られなかったのだが、それでいて全体の表情が変わっていることは疑う余地がない。それは決して単なる空想ではなく、おそろしくはっきりしていた。
彼はどっかりと椅子に坐り込んで考えはじめた。あの肖像画が完成された日、バジル・ホールワードのアトリエで言ったことが当然心に浮かんで来た。そうだ、とてもよく覚えている。自分の身が若さを持ちつづけ、肖像画の方が年をとっていくようにとの気違いじみた願望を口走ったのだ。自分の美しさは変わらぬままに、キャンヴァスに描かれた顔のほうが、彼の情熱や罪悪の重荷を負ってくれて、描かれたすがたが苦悩や思索の皺《しわ》に老けていき、彼のほうが、折りしも意識しはじめた少年のあらゆる美しさを保ちつづけることができたらという気狂いじみた願望を。たしかに彼の希望がかなえられたのではないだろうか? こんなことはあり得べからざることだ。考えるだけでも馬鹿げた話だ。しかし眼の前の絵の口の辺りには、一抹の残酷さが漂っているではないか。
残忍性! 自分はいったい残忍な仕打ちをしただろうか。それこそあの娘が悪いのであって、自分ではない。娘を大芸術家だと考え、偉大な人間だと思えばこそ、愛情をささげたのだ。そこへ、彼女がこちらをがっかりさせてしまったのだ。彼女は浅はかな、つまらぬ人間だった。それでも、彼女がまるで幼児のようになきじゃくりながら、彼の足もとにひれ伏した姿を思いおこすと、限りない悔恨の情におそわれるのであった。どれ程の冷酷さでもって彼女を眺《なが》めていたかを彼は思い出した。どうして自分はこんな人間なのか? なぜこのような魂が与えられたのか? だが、自分だって苦しんだのだ。あの劇の三時間というものは、苦痛の幾世紀とも、拷問《ごうもん》にかけられる永劫また永劫とも言えるものだったのだ。おれの人生もあの娘の人生と同じ価値のあるものだ。たとえおれがあの娘を一時代にわたって傷つけたにしても、彼女もまた瞬時の間おれをそこなったのだ。それに、女性というものは、悲しみに堪えるのには男性より適している。彼らは自己の感情を糧として生き、自己の感情のみを考える。彼らが恋人を見つけるのは、ただ単に、愁嘆場《しゅうたんば》を演ずる相手を求めるためなのだ。女の何者たるかを心得ているヘンリ卿が、そう教えてくれたっけ。なぜシビル・ヴェインのことで心を悩ますのか? もう自分にとってはなんでもなくなっている女だ。
だが、絵のほうは? あの絵についてはなんと言ったらいいのか? あの絵がおれの生活の秘密を握っていて、おれの身の上話をするのだ。わが身の美しさを愛することを教えたのはあの絵だ。わが身の魂を嫌悪《けんお》することを教えようとするのか? あの絵を二度と見ようとするだろうか?
いや、そうではない。それは悩める感覚にかもされた幻想にすぎないのだ。彼の過ごした恐ろしい一夜があとに残した幻影なのだ。人を狂気においやるあの緋色の小さな斑点が、突然彼の脳をおそったのだ。あの絵は変わってなんかいない。そう考えるのは馬鹿げている。
とは言え、やはりその肖像画は、美しいそこなわれた顔と残忍な微笑を見せながら彼をみつめている。つやつやした髪が早朝の日光に輝き、その青い眼が彼自身の眼と行き会った。自己に対してでなく、自己の肖像画に対する無限のあわれみの情が襲って来た。それはすでに変わっていた、そして更に変わって行くだろう。金髪も衰えて白髪となるだろう。紅白の薔薇の美貌《びぼう》も滅びゆくであろう。彼のおかす罪の一つごとに汚点がつき、その美しさをけがしそこなうであろう。だが、もうこれからは、罪なんか犯すまい。絵が変わろうが変わるまいが、その絵は彼にとっては、良心のあらわな象徴となるであろう。誘惑なんかに負けはしない。もうヘンリ卿には会うまい――少なくとも、バジル・ホールワードの家の庭園で不可能なるものに対する熱情をはじめて彼の心の中にかきたてた、あの微妙にして毒性のある理論には耳をかすまい。もとの鞘《さや》におさまってシビル・ヴェインに償いをし、彼女と結婚し、もう一度彼女を愛するように努めよう。そうだ、そうするのが義務なのだ。可哀《かわい》そうに! あの娘は自分以上になやんだに違いない。あの娘には利己的で残酷な自分だった。彼女の及ぼした魅惑の力は再びよみがえるだろう。二人は一緒に幸福に暮らせるだろう。彼女との生活は美しく純潔なものだろう。
彼は椅子から立ち上がって、大きな衝立《スクリーン》を肖像画の直前へ引き寄せた。その時ちらっと絵を見ると、身ぶるいが出るほどだった。「なんと恐ろしいことだろう!」と独語を言って、窓のところに歩み寄ってそれを開けた。窓の芝の上に出て深く息を吸った。すがすがしい朝の気があらゆる陰気な熱情を追い払ってしまうようだった。彼はシビル・ヴェインのことのみを考えた。彼の愛情のかすかなこだまがかえって来た。繰り返し繰り返し彼はシビル・ヴェインの名を呼んだ。朝露に濡《ぬ》れた庭にさえずる小鳥は、彼女のことを花に語りきかせているかに思われた。
[#改ページ]
第八章
彼が眼を覚《さ》ましたのは、午《ひる》もだいぶすぎてからだった。従者《ヴァレー》が忍び足で主人のお眼覚めをうかがいに何度もやって来ては、若主人がこんなに遅くまで寝ているのはどうしたことかといぶかった。やっとベルが鳴ったので、ヴィクターは茶と手紙の束を、古いセーブル陶器の盆にのせて静かに入って来て、三つの高い窓の前にかかっている、ぴかぴか光る青い裏地のついたオリーヴ色の繻子《しゅす》のカーテンを開けた。
「旦那様《ムシュウ》、今朝はずいぶんよくお休みでござりましたな」と微笑《ほほえ》みながら言った。
「ヴィクター、何時だ?」とねむそうにドリアン・グレイが訊ねた。
「はい、一時十五分過ぎで」
なんと遅いことか! 彼は起き直って茶をすすり、手紙を裏返してみた。その中にヘンリ卿からの一通があった。しかもそれは、その朝わざわざ届けられたものであった。彼は一瞬ためらってからそれをわきに置き、他の手紙を大儀そうに開封した。それらは例によって、晩餐会招待状、展覧会内見切符、慈善音楽会の番組などといった色々の案内状《カード》が束になって来たもので、こういったものは、社交期《シーズン》の間、上流の成年紳士に毎朝雨と注がれるものだ。その中に、かなり重荷となる請求書があった。それは浮彫りを施したルイ十五世時代風の銀の化粧道具セットの請求書で、後見人たちのところへ回すだけの勇気がまだ持てないものであった。なぜなら、その後見人たるや、極端に旧式な連中で、不必要なものがわれわれの唯一の必需品だという時代にわれわれが生きているということのわからぬ連中だったから。それと、ジャーミン街の金貸しからの丁重をきわめた手紙も数通あって、いかなる金額でも速刻しごく恰好《かっこう》の利子で都合するという趣旨のものであった。
十分ほどして彼は起き上がり、絹の縁取りをしたカシミヤの凝った化粧着をはおって、縞《しま》瑪瑙《めのう》張りのバス・ルームへ入って行った。長い睡眠のあととて、冷水に彼の心はさわやかになった。遭遇して来たすべてのことを忘れたような気になった。ある奇妙な悲劇に一役買ったというおぼろげな感じが、一、二度浮かんで来たが、それとても、なんだか夢のように現実離れのしたところがあった。
着がえるや否や、彼は書斎に入り、開かれた窓ぎわの小さい円テーブルに用意された軽いフランス式の朝餉《あさげ》に向かった。じつにすばらしい日和《ひより》だった。暖かい大気は芳香に満ちているように思われる。蜂が一ぴき飛び込んで来て、硫黄のように黄色い薔薇をいっぱい活けた、彼の眼の前の、青竜の鉢《はち》のまわりをぶんぶんとび回った。彼はこよなく幸福に感じた。
突然、彼の眼が肖像画の前に置いた衝立《スクリーン》に落ちて、彼ははっとした。
「旦那様《ムシュウ》お寒うございますか」従者《ヴァレー》がオムレツをテーブルに置いて訊ねた。「窓を閉めましょうか?」
ドリアンは首を振って、「寒くはない」とつぶやいた。
あれはすべてほんとうだったろうか? 肖像画は実際に変わったのだろうか? 喜悦の顔のあったところに邪悪の顔を見させたのは、単に彼の空想だったろうか? 確かに、絵のかかれたキャンヴァスが変わるはずはないではないか。馬鹿馬鹿しくてお話にならない。バジルの奴《やつ》笑うことだろう。
それにしても、すべての記憶がなんとまざまざとあざやかなことか! 最初はおぼろげな薄明の中で、次に明るい朝の光の中で、確かにあのゆがんだ唇の辺りに漂う一抹の残忍さを見たのだ。従者《ヴァレー》が部屋を出て行くのが、彼には恐ろしいほどだった。独《ひと》りぼっちになったら、どうしてもまたあの肖像画を調べてみないではいられなくなることがわかっていた。彼ははっきり知ることがこわかった。コーヒーと巻煙草が運ばれて召使が辞し去ろうとする時、彼はこの男をむしょうにひきとめたくなった。扉がまた閉まって彼の姿が見えなくなろうとするとき、彼を呼びもどした。召使は立ったまま言いつけを待った。ドリアンはちょっと彼を眺《なが》めて、「ヴィクター、誰が来ても留守だといってくれ」と溜息《ためいき》まじりに言った。召使は一礼して引き退《さが》った。
そこで彼は食卓から立って、巻煙草に火をつけ、衝立《スクリーン》は古いもので、ルイ十四世時代風の派手な模様を刻み、鍍金《めっき》を施したスペインの革製のものだった。彼はそれを穴のあくほど珍しそうに眺《なが》めて、かつてこれが一個の人間の秘密を隠したことがあったかしらと考えた。
結局、これをほかへ動かしたものだろうか? そのままにしておいてなぜいけないのか? 知って何になろう? もしも事実だとしたら恐ろしいことだ。もしも事実でなかったら、なぜ気にやむことがあろうか? だが、もしも何かの運命とか、それよりさらにすさまじい偶然がもとで、自分以外の眼がこっそりうかがって、怖るべき変化を見たとしたらどうだろうか。もしもバジル・ホールワードがやって来て、自分の描いた絵が見たいと言ったらどうしよう。バジルの奴《やつ》きっとそうするにきまっている。いや、やはりこの絵は調べてみなくちゃいけない。しかも今すぐにだ。こんな風にどっちつかずでいるよりは、どんなことになろうとそのほうがましだ。
彼は立ち上がって、両方の扉に錠《じょう》をおろした。自己の恥辱の仮面を眺《なが》めるときは、せめて独《ひと》りでいたいのだ。それから彼は衝立《スクリーン》を横へ引き、自己の姿に面と向かい合った。まさにまぎれもなく肖像画は変わっている。
後になって何度も、しかも少なからざる驚異の念をもって思いおこしたのであるが、最初彼は科学的興味ともいえる感情で、その肖像画を見つめている自分自身を発見した。かかる変化がおこるなどとは、とうてい彼には信じられなかった。だのに、それは事実だった。キャンヴァスの上で、形体と色彩を形成している化学的原子と彼の内なる魂との間に、微妙な親和性があるとでもいうのか? 魂の考えるところをそれらの原子が実現するなどということが果たしてあり得ようか? ――魂の夢想することを原子が実現するのだろうか? あるいはまた何か別のさらに恐ろしい理由があるのだろうか? 身震いが出てこわくなり、彼は再び長椅子にもどり、胸の悪くなるような恐怖を抱いて、じっと絵をみつめたまま横になっていた。
しかし、その絵が彼のために役立ったことが一つあることがわかった。シビル・ヴェインに対して彼がどんなに不当な振舞《ふるまい》をし、どんなに残酷な仕打ちに出たか、それが絵によってわかったのだ。その償いをするのにまだおそすぎはしない。まだ彼女を妻にすることはできる。彼の現実離れのした、利己的愛情は、何かあるより高貴な感化力に従うであろうし、またより高貴な熱情へと変わって行くであろう。そうして、バジル・ホールワードの描いてくれた肖像画は、一生を通じて彼の人生案内となり、ちょうど神聖さがある人々に、また良心がまた別の人々に、さらにまた神に対する恐れがわれわれすべてに対する同じ関係を彼に対して持つことであろう。悔恨に対しては麻酔剤すなわち道徳観念を眠らせる薬もあるが、ここにこそ、罪の堕落のシンボルが眼前にぶらさがっているのだ。ここにこそ、人間が自己の魂にもたらした破滅のしるしが常在しているのだ。
三時が鳴った。そして四時。さらに半時間をあらわす二重のチャイムが鳴っても、ドリアン・グレイは動かなかった。彼は緋色《ひいろ》の生《ライフ》の糸を集めて一つの模様に織りなそうと努めていた、すなわち自分が今さまよっている熱情の血に燃える迷路の中に、道を発見しようと努めていた。どうしたらよいのか、何を考えたらよいのか、彼にはわからなかった。とうとう彼はテーブルのところへ行って、かつて愛した少女に対し熱烈な手紙を書き、その中で彼女の許しを乞い、自分を気狂いだと責めた。彼は狂おしい悲しみの言葉やいっそう狂おしいほどの苦悩の言葉で次々にページを充たして行った。自己非難ということには一種の悦楽がある。われわれが自己を責める時、他人には一人として自分を責める権利がないと感ずるのだ。われわれに免罪を与えるものは、僧侶ではなく、|ざんげ《ヽヽヽ》なのだ。ドリアンは手紙を書き終えると、許されたという感じがした。
突然、扉にノックの音がして、ヘンリ卿の声が外から聞こえた。「ねえ、君、是非とも君に会いたい。すぐ入れてくれ。君がこんなに閉じこもってるなんてたまらないね」
はじめはそれに応えもせず、彼はじっとしていた。ノックは依然としてつづき、しだいに大きくなった。そうだ、ヘンリ卿を入れて、これからはじめようとしている新生活のことを彼に話し、もし必要とあらば、彼と喧嘩の一つもやり、やむを得ないならば、絶交したほうがましだ。彼はとび上がり、あわてて絵に衝立《スクリーン》を立てて扉の錠《じょう》を外した。
ヘンリ卿は入るや、「ドリアン、まったく気の毒だ。だが、あまり気にしちゃいけないよ」と言った。
「シビル・ヴェインのこと?」若者が訊いた。
「もちろんそうだ」とヘンリ卿は椅子に身を沈め、黄色い手袋をおもむろにとりながら答えた。「ある見方からすれば、恐ろしいことなんだが、別に君のせいじゃないんだ。君、芝居がすんでから楽屋へ回って彼女に会った?」
「ええ、会いました」
「そうだと思ったよ。派手に劇的にやったのか?」
「僕は残酷だった、ハリー――実に残酷だった。だがもう大丈夫です。できてしまったことなんか悲しんでいない。おかげで自分という人間がよくわかったわけです」
「ああ、ドリアン、君がそんなふうに考えてくれて嬉《うれ》しいよ。きみが悔恨の情に悩まされて、美しい巻毛をかきむしってるだろうと思ってたんだ」
「もうそれはすっかり卒業しました」とドリアンが頭をふりふり微笑しながら言った。「今ではまったく幸福です。まず第一に、良心のなんたるかがわかりました。あなたのおっしゃったようなものじゃない。われわれの心の中で一番神聖なものです。ハリー、これからは良心を馬鹿にしないでください――少なくとも僕のいるところではね。僕は善良な人間になりたい。自分の魂がいまわしいものになるなんて、考えるだけでもたまらない」
「ドリアン、倫理学の基礎としちゃ、なかなか魅力的で芸術的なものだね! おめでとう。だが手始めにどうするっていうの?」
「シビル・ヴェインと結婚することからです」
「シビル・ヴェインと結婚だって!」とヘンリ卿は立ち上がって、当惑した驚きの様子をみせて彼を眺めつつ叫んだ。「だがねえ、君――」
「ええ、ハリー、あなたが何を言いたいかわかっています。結婚をくさすひどい言葉にきまってる。それを言わないでください。二度とこんなことは僕に言わないでください。二日前に僕はシビル・ヴェインに結婚を申し込んだのです。約束を破りたくない。シビルは僕の妻になるんだ」
「君の細君に! ドリアン! ……僕の手紙受け取らなかったのか? 僕は今朝書いて召使にわざわざ届けさせたんだ」
「あなたの手紙? ああそうそう。ハリー、まだ読んでいなかった、嫌《いや》なことが書いてありはしないかと思って。あなたはお得意の警句《エピグラム》で人生を寸断してしまう人だから」
「それじゃ、何も知らないんだね」
「なんのこと?」
ヘンリ卿は部屋を横切って来て、ドリアンの傍《そば》に腰を掛け、ドリアンの両手をしっかり握りしめて言った。「ドリアン、驚いちゃいけない――僕の手紙はシビル・ヴェインの死んだことを知らせるためだったんだよ」
苦痛の叫びが若者の唇からもれ、ヘンリ卿の固く握っている手をふり放しつつ彼はとび上がった。「死んだ! シビルが! まさか、大嘘でしょう! よくもそんなことが言えたもんだ」
「ドリアン、まったく事実だよ」と真面目な調子でヘンリ卿が言った。「どの朝刊にだって出てるんだ。僕が来るまで誰にも会うなって君に言うために手紙をかいたのさ。もちろん、検屍《けんし》があるはずだから、君はそれに巻き込まれないようにしなくちゃいけない。パリだったらこんな事件で人気男にもなれるんだが、ロンドンじゃ人間がとても偏見を持ってるんだからね。ロンドンじゃ醜聞《スキャンダル》で社交界へデビュウなんて決してするもんじゃない。そんなことは老年になるまでとって置きにしておいて、面白い語り草にでもするんだな。劇場の連中は、君の名前なんか知らないんだろう? そうだとすれば大丈夫だ。君が彼女の部屋へ行くところを誰か見た者があるだろうか? そこが重要なポイントなんだ」
ドリアンはしばらく答えなかった。彼は恐怖のため茫然となっていたのだ。とうとう彼は息苦しそうな声で口ごもりつつ言った。「ハリー、検屍だと言ったの? それはどういうこと? シビルが――? ああ、ハリー、とてもそれはたまらないことだ! でも、はやくして! 洗いざらい話してください」
「ドリアン、この事件が事故でないことはまったく確かだ。もっとも世間にはそうしておかなくてはならないんだが。大体の模様はこうらしい。十二時半頃だったろうか、彼女はおふくろさんと一緒に劇場を出るとき、二階に何か忘れ物をしたと言ったんだ。しばらく彼女を待ったんだが、降りて来ないもんだから行って見ると、化粧部屋の床に死んで倒れていることがわかったわけさ。彼女は誤って芝居につかう何か恐ろしい薬品を嚥《の》んだのだ。なんだったか僕も知らないが、青酸とか白鉛とかが含まれていたわけだ。僕の見当じゃ、青酸じゃないかな、なぜって即死だったようだから」
「ハリー、ハリー、恐ろしいことだ!」と若者が叫んだ。
「そうだ、もちろん、とても悲劇だ、だが、君は巻き込まれちゃいけない。スタンダード紙によれば、彼女は十七歳だった。僕はもっと若いだろうくらいに思っていたんだが、まるで子供みたいで、演技のことはほとんどなんの心得もなかったようだね。ドリアン、君はこんなことで神経をいらいらさせちゃいけない。僕と一緒に是非食事に行かなくちゃ。そのあとでオペラをのぞいて見よう。今夜はパティ〔一八四三〜一九一九、イタリアのソプラノ歌手〕だから、みんな行くだろう。君は僕の妹の桟敷《ボックス》へ来ればいいんだ。妹の連れには、スマートな婦人が若干いる」
「そういうわけで、僕はシビル・ヴェインを殺してしまったのか」と半ば独語のようにドリアン・グレイは言った――「まるで彼女の可愛《かわい》い咽喉《のど》をナイフでかき切ったも同然だ。だがそれでも、薔薇は美しく咲いているし、小鳥は庭で楽しそうにさえずっている。そうして今夜は、あなたと一緒に食事をしてからオペラへ行って、その後でおそらくどこかで夕食を食べるってわけ。人生ってなんとひどくドラマティックなんだ! ハリー、こんなことを僕が本で読んだとしたら、それに涙を流したことだろう。それがどうしたものか、現実にしかもわが身におこってみると、あまり不思議で泣けないほどだ。これは僕が生まれてはじめて書いたラヴ・レターだ。奇妙なことだ――生まれてはじめてのラヴ・レターを死んだ娘に書いたというのは奇妙なことだ。死者と呼ばれている物言わぬ青白い人間が感じるってことができるだろうか? ああ、ハリー、かつて僕は彼女をどんなに愛していたことだろう! 今では何年も昔のことのようだ。彼女は僕にとってすべてだった、そこへあの恐ろしい晩だ――ほんとにまだ昨夜のことだったかしら――彼女の演技がまったくなってなくて、僕が断腸の思いをしたあの晩だ。彼女はすっかり打ち明けてくれた。まったくほろっとするほどだった。でも、僕の心は少しも動かされなかった。彼女を浅はかな女と思うばかりだった。突然僕をぞっとさせるようなことが起こって来た。それがなんだとは言えないが、恐ろしいことだった。僕は彼女のもとへ帰って行こうと思った。悪いことをしたと感じたのだ。だのに、今彼女はもう死んでる。ああ、ああ、ハリー、どうすればいいの? 僕の身にどんな危険がふりかかっているか、あなたは知らない、しかも僕をまともにしてくれるものは何一つない。彼女がいたら、僕をまともな人間にしてくれたことだろう。彼女には自殺する権利なんかなかった。それは身勝手というもんだ」
「ねえ、ドリアン」とヘンリ卿はケースから巻煙草を一本とり出し、金を薄張りにしたマッチ箱を出しながら答えた。「女性が男性を矯正し得る唯一の方法は、男性を完全に退屈させてやって、人生に対する興味をすっかり失わせることだね。君が万一この娘と結婚していたら、君は悲惨だったろうよ。もちろん、君は彼女に親切をつくしたことだろう。自分がなんとも思ってない相手に、いつも親切にしてやれるから。だが、彼女のほうじゃ間もなく、君が全然なんとも思ってないことがわかったろう。夫がそんなだってことがわかると、妻は恐ろしくだらしなくなるか、とてもスマートなボンネットをかぶるようになるか、どちらかだ。そのボンネットの代金は別の婦人の夫《ハズ》が支払うことになるんだが。僕は君たちの結婚した場合の社会的失策をとやかく言わない。それは目も当てられぬものだったろうし、もちろん、僕としても許すわけに行かなかったろう。だけれど、どのみち、これはすべて失敗に終わっただろうということは、はっきり言えるね」
「おそらくそうだったでしょう」と若者は部屋をあちこち歩き回り、恐ろしく蒼《あお》ざめた顔をしてつぶやいた。「でも、僕はそれを義務だと考えたんです。この恐るべき悲劇のために、僕が正しいことをやれなくなったのは、何も僕のせいじゃない。いつかあなたが言ったこと忘れもしないけど、立派な決意には宿命的なところがあるってこと――立派な決意をする時分には、時すでにおそしということね。僕の決意も確かにおそすぎました」
「立派な決意という奴《やつ》は、科学的法則に干渉しようとする無益な試みなのさ。そういった決意の源は純粋の虚栄であり、結果は絶対的の零《ゼロ》なんだ。それは心の弱い連中には、ある魅力をもったあのぜいたくな無益な情緒を与えはする。まずせいぜいそれくらいのとこだ。その決意は、なんの取引もない銀行あてに小切手をふりだすようなものさ」
「ハリー」とドリアン・グレイは彼の傍にやって来て腰をかけながら叫んだ。「僕は今度の悲劇を身に沁《し》みて感じたいと思うほど感じられないのは、どうしたわけだろうか? 自分じゃそれほど冷酷な人間とは思っていないけれどね。あなたは僕をそう思う?」
「君はこの二週間、馬鹿げたことをあまりやりすぎたから、そんなふうに自分を冷酷呼ばわりする資格はないんだ、ドリアン」とヘンリ卿はやさしい憂鬱《ゆううつ》な微笑を浮かべて答えた。
若者は顔をしかめた。「ハリー、そういう説明は嫌《いや》です」と彼は言い返した。「でも、あなたが僕のことを酷薄な人間だと思っていないのは嬉《うれ》しい。僕はそういった人間じゃないのです。それは自分でもわかっている。それでもやはり、今度の事件が当然と思われるほどに僕の心を動かさないことを認めないわけにはいかない。ただすばらしい劇のすばらしい結末だくらいにしか思われない。まるでギリシア悲劇の持つすごい美しさがあります。僕はその中で大役を演じたわけだけれど、別になんの傷も負わなかった」
「それは興味ある問題だな」と若者の無意識な自我主義《エゴイズム》をもてあそぶことに、こよなき快感を見出したヘンリ卿が言った――「実に興味ある問題だ。僕の思うところじゃ、ほんとの説明はこうなんだ。よくあることだが、人生の現実の悲劇はすこぶる非芸術的な様式でおこる故に、その野卑な狂暴さ、まったくの矛盾、馬鹿馬鹿しいまでの意味の欠如、さては風格《スタイル》のまったくの欠乏の故に、僕たちの心を傷つける。ちょうど下品なものを見たときのあの感じだ。全然獣的な力の印象を与えるから、僕たちの心がこれに反発するんだ。しかし、ときには美の芸術的要素をもつ悲劇に出くわすこともある。もしもこれらの美の要素が現実のものであるならば、全体はもっぱら僕たちの劇的効果の感覚に訴えてくる。突然、自分がその劇の俳優ではなく観客だってことがわかってくる。あるいはむしろ、僕たちは演ずる者と観る者との両方を兼ねているってことが。僕たちは自分の姿をみつめ、そのスペクタクルの驚異にただもうとりことなってしまう。今度の場合では実際のところ、何がおこったのだろうか? 君を愛する故に、誰かが、自殺したのだ、僕もこんな経験があったらと思うね。そうしたら一生涯恋していられただろうよ。僕を熱愛した人々――そんなに多くもないが少しはあったんだ――は僕が連中を、あるいは連中が僕を、好かなくなってずっと後まで、しつこく生き続けて来た。連中は肥って退屈な人間になり、僕に会うとすぐ思い出話にふける。女性のもつあの恐るべき記憶力! なんとすごいもんだろう! なんという知的沈滞を物語っていることだろう。人生のはなやかさを吸収しても、その細部を覚えるもんじゃない。細部って奴はいつも邪悪だからな」
「忘れるために、是非庭に|けし《ヽヽ》を蒔《ま》かなくちゃ」とドリアンが嘆息をもらした。
「その必要はないさ」相手が返答した。「人生は常に|けし《ヽヽ》をもっているんだ。もちろん、時折り後に残るものもある。僕は以前|社交期《シーズン》中ずっと菫《すみれ》の花しかつけなかった、ほろびることのないだろうところの一つのロマンスのための芸術的な喪章《もしょう》として。だがとうとうそのロマンスもほろびたよ。どうしてほろびたか僕も忘れてしまった。どうやら、相手の女性が僕のために全世界を捧げるとかなんとか申し出たせいのようだ。その申し出の瞬間というのはいつも恐ろしい瞬間だ。永遠に対する恐怖で心が一杯になる。ところで――まさかと君も思うだろうが――一週間前、ハムプシャー夫人の家で問題の婦人と隣合わせに晩餐の席についてたんだ。すると彼女はもう一度全部復習して、過去を掘り上げ、未来をほじくり出そうとしたが、僕のほうはロマンスなんかとうに水仙《ダフォデル》の花壇に埋めてしまっていたのさ。すると彼女は、もう一度それを引っ張り出して来て、僕のせいで彼女の一生が台無しになったなど言うんだ。是非ことわっておかなくてはならないが、彼女ときたら、しこたま御馳走を召し上がったんだから、心配御無用というところだ。ところが趣きなんて、薬にしたくもないんだ。過去の魅力は、それの過去たることにあるもの。ところが、女性というものは、いつ幕が降りたか少しも御存じない連中だ。きまって六幕目〔劇は五幕で終わるのが伝統となっている〕を欲しがって、劇の興味がなくなってしまうや否や、またそれをつづけようとする。連中の勝手にまかせたら、喜劇の終わりはいつも悲劇になってしまうし、悲劇はみんな茶番劇に終わることになる。連中は惚々《ほれぼれ》するほど人工美をもってはいるが、芸術的センスは持っていない。君は僕より幸運だ。たしかにドリアン、シビルが君に尽くしただけのことを、僕の知った女で一人として僕に尽くしてくれるのはいなかったろう。世のつねの女どもはいつも自分で慰めているものだ。一部の女どもは、センチメンタルな色彩を好むことで自らを慰める。鮮紫色《モーヴ》の服を着る女だったら、年令がいくつだろうが信用しちゃいけない。またピンクのリボンを好む三十五歳以上の女も信用しちゃいけない。いつもそれは|いわく《ヽヽヽ》つきの証拠だ。また別の女どもは、夫に突然美点を発見して自らを慰める。連中はまるで一番魅惑的な罪だと言わんばかりに、人前で自分たちの結婚生活の幸福を見せびらかす。宗教で慰められるのもいる。ある婦人の言葉だが、宗教のもつ神秘は、恋愛遊戯の魅力を持つんだって。僕にもそれはよくわかる。お前は罪人だと言われるほど人間の虚栄心を助長するものはないからね。良心って奴《やつ》がみんな自己中心主義者《エゴティスト》にするんだ。そうさ、実際女性が近代生活に発見する慰めには際限もない。そうそう、一番重要なのをまだ言い落としてる」
「ハリー、それは何?」と若者が気乗り薄な様子で言った。
「ああ、例のわかりきった慰めだ。自分に熱をあげてくれる者を失ったら、他人さまのものを横取りするって術《て》さ。上流社会じゃ、そういったことがいつも女の汚名を雪《そそ》ぐことになるんだったが、ドリアン、実際のところ、そんじょそこらの女たちと、シビル・ヴェインがなんと相違していたに違いないことだろう! 彼女の死には実に美しいところがあると思う。こんな驚異のおこる世紀に生きてることが嬉《うれ》しくなるね。こんな驚異があるからこそ、ロマンス、情熱、恋愛などという僕たちの遊び道具の現実性を信じたくなろうというもんだ」
「僕は彼女にとても残酷だった。あなたはそれを忘れてる」
「どうも女どもは、ひどい残酷さを何より一番ありがたがるようだ。連中は驚くほど原始的な本能をもっている。男性が彼らを解放したんだが、やっぱり主人を探し求める奴隷のままだ。連中は支配されることを愛する。きっと、君はすばらしかったろう。君が真底から怒ったところをまだ見たことがないけれど、君がどんなにチャーミングに見えたか想像できる。そうして結局君は一昨日、その時ほんの気まぐれぐらいにしか思えないようなことで、今となるとまったくの真実だとわかるようなことを僕に言ったね。しかもそれがすべての鍵をにぎってるんだ」
「ハリー、それは何?」
「君は言ったっけ――シビル・ヴェインが君にとって、ロマンスのあらゆる女主人公《ヘロウィン》の代表だってこと――つまり、今夜デズデモナかと思うと次の晩はオフィーリアになるとか、たとえジュリエットになって死んでも、イモジェンとなってよみがえるってことなんだ」
「今では、二度と生き返ることはない」と若者は顔を両手に埋めながらつぶやいた。
「そうだ、もう生き返ることはないさ。彼女は最後の役を演じたんだ。だが君は、安っぽくけばけばしい化粧部屋でのあの淋《さび》しい死を、ただ単に、ジェイムズ一世時代の風変わりな、妖《あや》しげなひとこまとして、たとえば、ウェブスターだの、フォードだの、シリル・ターナーといった連中の劇のすばらしい一場面だくらいに考えるべきだ。彼女は実際に生きていなかったんだから、実際に死んだのでもない。少なくとも君にしてみれば、彼女はいつもシェイクスピアの劇の間を飛び回って、その存在の故にこそ、シェイクスピアの劇をいっそう美しいものとした、一つの夢とも幻ともいえるもの、シェイクスピアの調べがいっそう豊かに楽しく響く、一本の葦笛《あしぶえ》といったものだったんだ。彼女が現実の生にふれた瞬間、彼女はそれをそこない、それがまた彼女をそこなった結果、彼女はほろび去ったわけだ。なんなら、オフィーリアのために悲しむがいい。コーデリアが首を絞《し》められたが故に君の頭上に灰をまくがいい。ブラバンシオ〔『オセロ』中のデズデモナの父〕の娘が死んだ故に天に向かって号泣するがいい。だが、シビル・ヴェインのために無駄な涙を流さぬことだ。彼女は今あげたヒロインたちよりなおのこと現実性のすくないものだ」
言葉が途切れた。部屋にはしだいに夕闇《ゆうやみ》が濃くなってきた。音もなく、銀の足をした影が庭のほうからしのび寄ってきた。物象の色彩がしだいにうすれていった。
しばらくしてドリアン・グレイは顔を上げた。「ハリー、あなたは僕自身に説明してくれた」と安堵《あんど》の嘆息らしいものをもらしながらつぶやいた。「僕はあなたが言ってくれたことそのまま自分で感じていたけれど、なんだかこわくて自分にそれを表現することができなかった。あなたは僕のことをよくよく知っている人です! でも、今度のことは二度と話し合わないことにしましょう。不思議な経験だった――それだけのことです。これほど不思議なことが他にまだこの先、人生にあるかしら」
「ドリアン、君の前途にはあらゆることが待ち受けている。君の並外れた美貌《びぼう》をもってすれば、できないことは何一つないさ」
「でも、ハリー、もし僕が老《お》いぼれ、しわだらけになったら、そのときは?」
「ああ、そのときは」とヘンリ卿は去らんとする気配で腰をうかしながら言った。「ドリアン、そのときは君の勝利のために戦わなくちゃならないだろう。だが、実際勝利は君のものだ。いや、君はその美貌をいつまでも維持しなくちゃいけない。あまり読みすぎて賢明になれず、あまり考えすぎて美しくなれない、そんな時代に僕たちは生きている。僕たちは君がいなくては困るんだ。さて君は、着がえをしてクラブへ馬車で出かけたほうがいい。実際もうだいぶおそいよ」
「ハリー、あとでオペラで落ちあいます。あまり疲れていて何も食べたくないんです。妹さんの桟敷《ボックス》は何番?」
「たしか二十七番だ。二階の雛《ひな》段席のね。扉に彼女の名前が書いてある。だが、一緒に食事ができないのは残念だな」
「とてもその気になれない」とドリアンは気乗り薄の調子で言った。「でも、あなたの言ってくれたこと大変ありがたく思っています。たしかにあなたは最良の友人です。あなたほど僕を理解してくれた人はありません」
「なあに、僕たちのつきあいはほんの序の口だよ、ドリアン」とヘンリ卿は握手をしながら言った。「さようなら。九時半より前に会えるといいがね。いいかい、パティが歌うんだ」彼が扉を閉ざして姿を消したとき、ドリアン・グレイはベルを鳴らした。数分すると、ヴィクターがランプを持って現われ、鎧戸《よろいど》をおろした。ヴィクターが出て行くのが、いらいらするほど待ち遠しかった。召使が何から何までひどく手間どるように思われた。
召使が去るや否や、ドリアンは衝立《スクリーン》のところへかけ寄って、それをのけた。いや、絵にはこれまで以上の変化はおこっていなかった。その絵は、彼がシビル・ヴェインの死を知る前に、彼女の訃報《ふほう》をすでに受けていたのだ。絵は世の中の事件がおこるままに知っていた。口元の美しい線をそこなう邪悪な残忍さは、疑いもなく、どのような毒にせよ、彼女が毒を嚥《の》んだその瞬間に現われていたのだ。それとも、その絵は結果に対して無関心なのだろうか? 単に魂の中に去来する事だけを認めるのだろうか? 彼はいぶかりかつ希望した、いつか眼の前でその変化のおこるところを見てやろうと。しかも希望しつつ、身震いを禁じ得なかった。
哀れなシビル! いっさいがなんというロマンスだったことよ! 彼女はしばしばステージで死を真似た。そのうちに死神自身が彼女に触れて道連れにしてしまったのだ。その恐ろしい最後の場面をどのように演じたのだろうか? 死にのぞんで彼を呪《のろ》っただろうか? いや、彼女は彼を恋するが故に死んだのだ。そして愛は今や彼にとって常に一つの聖餐礼《サクラメント》となるであろう。彼女は自己の生命を犠牲にすることによって、あらゆるものの償いとしたのだ。劇場でのあの恐ろしい晩に、彼女ゆえに味わわされた事については、今後考えないことにしよう。彼女のことを考えるとすれば、愛の至高の実在を示すために、この世のステージに送られた驚くべき悲劇的人物と考えよう。驚くべき悲劇的人物? 彼女の子供っぽい顔付き、愛くるしい、気まぐれな癖、さては内気なおののくような優美さ、を思いおこすと涙がうかんで来た。あわてて涙を払いのけて彼は再び絵を眺《なが》めた。
いよいよ選択をなすべき時が到来したという気がした。あるいは、すでに選択の決定はなされたのだろうか? そうだ、人生がすでに彼に代わって決定してくれていたのだ――人生と人生に対する彼自身の無限の好奇心とが。永遠の青春、無限の情熱、微妙にしてまた秘密の快楽、狂おしい喜悦やさらに狂おしい罪――彼はこう言ったものをすべて持とうというのだ。肖像画が彼の恥辱の重荷を負うてくれるまでのことだ。
キャンヴァスに描かれた美しい顔の前途に待ちうけている冒涜《ぼうとく》のことに思い及ぶと、苦痛の情がおそって来た。ある時、子供らしくもナーシサスを真似て、今ではかくも残酷に微笑《ほほえ》みかけている描かれた唇に接吻した、否、接吻するふりをしたことがあった。来る朝も来る朝も、彼はその肖像画の前に腰をおろして、その美しさに感嘆し、自らも時折りそう思われるほどに、ほとんど心うばわれてしまうのであった。その美しい絵姿は、彼が抗し切れずそれに負けて行くあらゆる気分に従って、変わって行くのだろうか? またそれは奇怪ないまわしいものとなり、締《し》めきりの部屋に隠され、波打つ驚異の髪の毛をさらに美しい金髪へと、幾度となく染めなしたあの太陽の光から締め出されてしまうのだろうか? なんとも惜しむべきことだ!
一瞬、彼は絵と自分の間に存在している恐ろしい感応力が、いっそ消滅してくれるよう祈りたい気持ちになった。その絵はすでに祈りに応えて変わったのだ。ひょっとすると、祈りに応えて変わらないままでいるかも知れない。しかし、人生について少しでも知るところのある人ならば、常に若さを保ち得る見込みをいったい誰がみすみすのがすだろうか、たとえその見込みがどんなに根拠のないものであろうと、またその見込みがどのような運命的結果をはらんでいようとも。その上、その絵は実際彼の力でどうにでもなるものなのだろうか? あたかもキリストの如《ごと》く、絵が彼の身代わりとなったのは、祈りのせいだろうか? それには何か不思議な科学的理由があるだろうか? もしも思想が生ける有機体に対し、感化力を及ぼし得るとするならば、思想が、死せるもの無機物に対し感化力を及ぼすことはあり得るのではなかろうか? いやそれどころか、思想とか意識的欲望とかがなくとも、人間外部にある事物が原子間の不可思議なる親和力に対する秘密の愛の力によって、われわれの気分や情熱と一体となって震動するのではなかろうか? だが、理由なんか問題じゃない。祈りによって、いかなる怖るべき力でもさそいかけることは二度とすまい。絵が変わるものならば変わればいいのだ。それだけのことだ。あまり細かくせんさくするには当たらない。
なぜなら、じっとその絵を眺《なが》めることにこそ真の楽しみがあるだろうから。彼は自己の心の後を追ってその心の秘密の最奥まで達することができるであろう。この肖像画は彼にとって、世にも魔術的な鏡の一つとなるであろう。彼自身の肉体を見せてくれたように、彼自身の魂を見せてくれることだろう、絵姿が冬枯の様子を見せようとも、自分はなお、春が夏隣のあたりでふるえる姿を見せることだろう。血の気が絵の中の顔から失せて、どんよりした眼を見せている、蒼白《あおじろ》い白亜の仮面を後に残す時が来ようとも、彼は若々しい、魅惑的な美しさを保っていることだろう。彼の美しさの花一つさえ色あせることもなく、彼の生命の脈搏《みゃくはく》一つさえ弱ることもないであろう。ギリシア人の考えた神々の如く、強健で敏捷《びんしょう》で楽しげであろう。キャンヴァスの絵姿に何が起ころうとかまわない。自分は安全だ。それが何よりなのだ。
微笑《ほほえ》みつつ(衝立《スクリーン》衝立を絵の前にもとどおり立てて、彼は寝室へ入っていった。そこには従者《ヴァレー》がすでに待っていた。一時間後に彼はオペラに行っており、ヘンリ卿は椅子によりかかっていた。
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第九章
翌朝彼が朝食の席についていると、バジル・ホールワードが部屋へ通された。
「ドリアン、君が見つかってとても嬉《うれ》しいよ」と彼は真顔で言った。「昨夜訪ねてきたんだが、君はオペラへ行ったということだった。もちろん、そんなことありっこないとわかっていたけれど、ほんとうの行先を言っておいて欲しかった。また悲劇が続いておこるんじゃないかと、昨夜はこわごわだったよ。君が最初あの事件のことをきいた時、電報ぐらいくれたってよかったのに。僕はまったく偶然クラブで見たグローブ紙の遅版であの事件のことを読んだんだ。すぐさまこちらへ飛んで来たのに、君がいなくて実に情けなかった。今度の事件で僕がどんなに悲嘆にくれているか、ちょっと言えないくらいだ。君だってどんなに苦しんでいるに違いないかよくわかるよ。だが、君はいったいどこへ行ったのか? 例の娘の母親に会いにでも行った? 君のあとから追っかけて行こうかとも考えたんだ。新聞には住所も出ていたからね。ユーストン・ロードのどことかだってことだった。だがね、僕なんかがのこのこ出かけて行ってみたところで、悲しい思いが軽くなるわけでもあるまいと思ったんだ。可哀《かわい》そうに! おふくろさんはどんな気持ちでいることだろう! それに一人娘ときているしね。なんと言っていた?」
「バジル、僕にどうしてそれがわかる?」とドリアン・グレイは細かい金の泡模様入りヴェネチア製のコップから薄黄色い酒をすすりながら、ひどく退屈した様子でつぶやいた。「僕はオペラに行ってたんだ。君も来ればよかった。ハリーの妹のグェンドリン夫人にはじめて会ったよ。僕たちは彼女の桟敷《ボックス》にいたのさ。彼女はすばらしく魅力的でパティの歌も実に堂に入ったものだった。いまわしい話はしないで欲しい。どんなことだって話に持ち出さなければ、それは起こらなかったことになるんだ。ハリーの言うように、物事に現実性を与えるのは、単に表現にすぎないからね。ちょっと言って置きたいが、シビルはあの婦人のひとりっ子だったわけではないんだ。他にもう一人息子がいる。いい男なんだろうが、このほうは芝居畑とは違うんでね。船乗りかなんかだ。さて君自身のこと、今描いてる絵のことを話してくれないか?」
「オペラへ行ったって?」とホールワードはゆっくりとそして切なさそうな調子をこめて言った。「シビル・ヴェインがどこか薄汚い下宿で死んでいるというのに、君はオペラへ? 君の愛した娘が墓場に安置されもしない矢先、他の婦人が美しいの、パティの歌がすばらしいのと、よくも言えたもんだ。あの娘の可愛《かわい》い白い肉体を、色々の恐ろしいことが待ちうけているというのに」
「バジル、やめて! 僕は聞きたくない!」とはね上がるように立ってドリアンが叫んだ。「もう言ってもらいたくない。できたことは仕方がない。過去は過去なんだ」
「たった昨日のことを過去だって言うの?」
「現実の時の経過がそれとどんな関係があるだろうか? 一つの感情を精算するのに数年も要するのは、浅はかな人間にすぎないんだ。自己を支配することのできる人は、楽しみをつくり出すのと同じほどやすやすと悲しみに|けり《ヽヽ》をつける人だ。僕は感情の支配下に置かれたくない。それを利用し楽しみ支配してやりたい」
「ドリアン、こりゃひどい! 何かのせいで君はすっかり変わってしまった。相変わらず君は、僕のアトリエへ日参してモデルになってくれた頃のすばらしい若者そのままだ。あの頃は君も純真で自然でやさしかったものだ。世の中で君ほど|うぶ《ヽヽ》な人間はいなかった。それが今はどうしたというんだろう。まるで慈悲も情けもまったくないような口のきき方だ。ハリーの感化だってことはよくわかるよ」
若者はぽっと顔を赤らめると、窓のところへ行って太陽に輝く緑の庭をしばし眺《なが》めた。「バジル、僕は君よりも」とついに言った――「ハリーに恩恵をこうむっている。君は僕に自惚《うぬぼ》れることを教えてくれただけだ」
「そうだね、ドリアン、僕はその罰をうけてるんだ――それとも、いつか罰をうけるだろうさ」
「バジル、君の言うことよくわからないね」と彼はむき直って叫んだ。「君は何が欲しいのか僕にはわからない。何が欲しいの?」
「僕はいつも描いていた頃のドリアン・グレイが欲しいのだ」と画家は悲しげに言った。
「バジル」と若者は画家のところへやって来て、その肩に手を置いて言った。「君の来たのが遅すぎた。昨日僕がシビル・ヴェインの自殺事件を聞いた時――」
「自殺だって! 驚いた! それに間違いはないんだね?」とホールワードは恐怖の表情をたたえて彼を見上げつつ叫んだ。
「ねえ、バジル! まさか君はこれを低俗な事件だとは考えないだろうね? もちろん、自殺なんだ」
年上の男は両手に顔を埋めた。「なんと恐ろしいことだ」とつぶやいた。身震いが全身を走った。
「いや」とドリアン・グレイが言った。「何も恐ろしくはないよ。現代のロマンティックな一大悲劇というところだ。いったい俳優というものは、ごくありふれた生活をするものだ。彼らはよき夫であり、忠実な妻であり、また退屈な人間なんだ。僕の言うことわかるだろうね――中流階級の美徳とかそう言ったものだ。シビル・ヴェインだけはまったく別だった。彼女こそ自己の最も美しい悲劇を生きたのだ。彼女はいつも女主人公《ヘロウィン》だった。彼女の演じた最後の晩――君が見た晩だ――彼女は愛の現実を知ったが故にまずい芝居をやったんだ。愛の非現実性を知った時、まるでジュリエットがこんな死にかたをするかと思われるように死んでしまった。彼女は再び芸術の国へと入って行った。彼女にはどことなく殉教者めいたところがある。彼女の死には殉教のもつ、哀愁をさそう無益さと浪費された美しさのすべてがそなわっている。だが、前にも言ったように、君は、僕が少しも苦しまなかったなんて考えちゃいけないよ。もしも君が昨日ある特定の時刻――五時半頃か六時十五分前に――来たら、僕が涙にくれているところを見たことだろう。ここへそのしらせを持って来てくれたハリーでさえも、実際僕がどんな悩みを味わってきたか想像もつかなかったくらいだ。僕はものすごく苦しんだのだ。それからその悩みは消え去った。ある一つの感情を繰り返すことは僕にはできない。センチメンタリストでない限りできっこない相談だ。それに君は実にけしからん。わざわざ慰めに来てくれたのは実にありがたい。ところが、僕の心が慰められていることがわかると、ひどく怒ってる。いかにも思いやりのある人間らしいやりかたさ! 君を見ると、ハリーが話してくれたある博愛家のことを思い出すね。その人は――はっきり覚えているわけではないんだが――何かの不平の種を除こうとか、何か不審な法律を変更しようとして、二十年もかかってやっとそれに成功したのに、これ以上の失望はなかったと言うのだ。何一つすることがなくなってしまい、生の倦怠《アニュイ》のため死にそうになり、コチコチの人間ぎらいになってしまったんだ。それに、ねえバジル、君がほんとに僕を慰めてくれるというのなら、今度の事件を忘れるように、それとも、それを適当な芸術的見地から見るよう教えて欲しい。いつも|芸術の慰め《ラ・コンソラション・デ・ザール》について書いたのはゴーティエ〔フランスの詩人・小説家〕じゃなかった? 忘れもしないけれど、君のアトリエで犢《こうし》皮紙の表紙のついた可愛《かわい》い本を見つけて、偶然この好ましい句にぶつかったっけ。ところで僕は、ほら、いつかマーロウで君と一緒だった時、君が話したあの青年とは違うんだ。その青年が、黄色の繻子《しゅす》は人生のあらゆる悲哀を慰めるものだと口癖のように言ってたんだね。僕は手にとって触れることのできる美しいものを愛する。古い金襴《きんらん》、青色のブロンズ製品、漆器類、象牙の彫物、えもいわれぬ美しい環境、ぜいたく、豪華、こう言ったものから得るところは非常に大きいのだ。でも、こう言うものが創り出したり少なくともあらわす、芸術的気質は、僕にとってはなおさら尊いものなんだ。ハリーのいわゆる自己の人生の傍観者《スペクテーター》となること、これすなわち人生の苦悩を逃《のが》れる道なのだ。僕がこんな口のききかたをするから、君が驚いていることはわかる。僕が近頃どんなに成長して来たか、君にはわかっていない。君が僕と知り合いになった頃は、ほんの学童《こども》だったけれど、今じゃおとなだ。新しい情熱、新しい思想、新しい観念の持ち主になってね。僕は別の人間になったけれど、やっぱり好いて欲しい。僕は変わったけれど、君はいつも僕の友だちであってほしい。もちろん、僕はハリーが大好きだ。でも、君がハリーより善い人間だってことはわかってる。君は彼より強くはない――君は人生をあまり恐れすぎる――だが、君は彼より善人だ。なんと楽しく一緒にすごしたことだろう! バジル、僕を見すてないでほしい。そして喧嘩もしないでほしい。僕はこれだけの人間だ。これ以上言うことはない」
画家は不思議に感動を受けた。若者は彼にとって限りなく尊いものであり、その人格は画家の芸術における一大転機をもたらしたのだ。これ以上若者を責めることにはとても耐えられない。結局、彼の冷淡さも一時の気分で、すぐ消失するだろう。この若者には善いところも高貴なところも多分にあるのだ。
「じゃね、ドリアン」と画家はついに悲しそうな微笑を浮かべつつ言った。「これからはこの恐ろしい事件のことは、決して二度と君に言わないことにしよう。僕としては、君の名前がこれに関連して持ち出されないことを信ずるばかりさ。検屍《けんし》は今日の午後行なわれるはずだが、君は召喚《しょうかん》されてる?」
ドリアンは首を振った。そして、「検屍」という言葉を聞くと、困惑の色が顔をかすめた。この種の事柄は何事によらず、実に野蛮《やばん》で下品なところがある。「僕の名前は知られていないんだ」と彼は答えた。
「だが、彼女は確かに知ってたわけだね?」
「ただ洗礼名だけだ、それも、他人には誰にも言わなかったと思う。彼女がいつか言ってたんだが、みんな僕の名をとても知りたがっているけれど、いつもきまって、プリンス・チャーミングだって教えてやったと言うんだ。なかなか可愛《かわい》いところがあったわけだね。バジル、ぜひシビルの絵をかいてほしい。二、三度の接吻とか、切れ切れの哀れをさそう言葉などの思い出以上のものが欲しいと思うんだ」
「ドリアン、君が喜ぶなら何かかいてみよう。だが、是非もう一度、君自身もモデルになってくれなくちゃ。君がいなくてはやって行けないんだ」
「バジル、二度とモデルになることはお断わりだ。とてもできない相談だよ!」と彼はあとずさりしつつ叫んだ。
画家はじっと彼を見据えた。「ねえ君、馬鹿言っちゃいけない!」と彼は叫んだ。「僕の描いた例の絵が気に入らないとでも言うの? 絵はどこ? なぜ衝立《スクリーン》なんか前に置いたの? ちょっと見せてもらいたいね。僕の今までの最大傑作だ。ドリアン、衝立《スクリーン》をのけてくれないか。あんなに僕の作品を隠してしまうなんて、君の召使もずいぶん恥さらしな話さ。入って来た時、なんだか部屋の様子がちがうと思った」
「バジル、召使になんの関係もないよ。まさか僕の部屋の整理まで召使にさせてるとは考えないだろう? 時に花を活けてくれるくらいのものだ。それは僕のしわざだ。光線があまり強くあたりすぎるもんだから」
「強すぎるって! まさか、そんなことはないよ。まったくあつらえ向きの場所さ。まあ見せたらいいじゃないか」そう言ってホールワードは部屋の一隅に向かって行った。
恐怖の叫びがドリアン・グレイの口から発せられ、彼は画家と衝立《スクリーン》の間にとび込んだ。「バジル」と彼はまっ蒼《さお》な顔をして言った。「見ちゃいけない。見て欲しくないんだ」
「自分のかいた絵を見るなって! 君は本気じゃないんだ。なぜ見ちゃいけないの?」とホールワードは笑いつつ叫んだ。
「バジル、もしも君がどうしても見るというなら、僕の名誉にかけて一生君とは口をきかない。大|真面目《まじめ》で言ってるんだ。何も説明はしない。君にも説明を求められたくない。だが、よく覚えておいてほしい。もしも君がこの衝立《スクリーン》にちょっとでも触れたら、僕たち二人の間はそれでおしまいだ」
ホールワードはあっけにとられてしまった。彼はまったく驚きあきれてドリアン・グレイを眺《なが》めた。画家はドリアンのこんな様子を見たことがなかったのだ。若者は実際怒りに蒼ざめていた。こぶしを握りしめ、眼の瞳孔《どうこう》は青い火の円板のようだった。全身が震えている。
「ドリアン!」
「黙って!」
「だが、いったいどうしたというの? もちろん、君がいやと言うのなら見ないさ」と彼はやや冷然と言って、向きを変えて窓のほうへと歩いて行った。「だが、実際いって、自分のかいた絵を見るななんて、ずいぶん馬鹿げた事だね。特にこの秋にはパリに出品しようと思ってるんだ。それまでにはおそらくもう一度ニスを塗りかえなくちゃいけないだろうから、いつかぜひ見せてほしいんだ。それになぜ今日じゃいけないんだい?」
「出品するって? 出品したいって?」とドリアン・グレイは不思議な恐怖感の迫るままに叫んだ。世間に自分の秘密を見せようというのか? 自分の生活の秘密を人々が唖然《あぜん》として眺《なが》めるというのか? とんでもないことだ。何をしたらいいかわからないが、今すぐなんとか手を施すべきだ。
「そうなんだ。まさか君が反対するとは思わない。ジョルジュ・プティが僕の傑作全部を集めて、セーズ街で特別展をやろうというわけだ。この展覧会は十月の第一週に開かれる予定だ。例の肖像画もほんの一月くらい出してもらえばいい。そのくらいの期間なら、君だって手離しやすいだろう。実際のところ、君もきっとロンドンから離れることもあるはずだし、衝立《スクリーン》の影にいつも絵を隠しておくくらいなら、大してその絵に御執心もないはずだからね」
ドリアン・グレイは片手で額をなでた。額には汗が玉と宿っていた。恐ろしい危険のふちに臨んでいるような気がしたのである。「君は一か月前、あれは絶対出品しないと言ったじゃないか」と叫んだ。「なぜ気が変わったの? 矛盾しないことを志す君たちも、やはりごたぶんにもれず気まぐれなんだね。ただ違う点は君たちの気まぐれがむしろ無意味だという点だ。どんなことがあっても、絶対あれを出品しないと、あれほどキッパリ誓ったことを君が忘れるはずはない。ハリーにも、まったく同じことを言ったじゃないか」彼は突然言葉を切った。するときらりと光る光明が眼にあらわれて来た。いつかヘンリ卿が半ば真面目に、半ば冗談に言った言葉を思い出した。「もしも十五分間奇妙な経験をしたいならば、バジルになぜ君の絵を出品しないかのわけを言わしてみたまえ。僕にはそのわけを話してくれたんだ。まったくはじめて知って驚いたよ」と。そうだ、ひょっとすると、バジルにもまた秘密があるかも知れない。彼に訊ねてみよう。
「バジル」と彼はぐっと傍に寄り、まともにバジルの顔をみつめながら言った。「僕たち二人とも秘密を持ってるんだね。君が教えてくれたら僕も明かそう。僕の肖像画を出品することを君が拒絶したのは、どうしたわけだったんだろうか?」
画家は思わず身震いした。「ドリアン、もしも僕が教えたら、君は今のようには僕を好いてくれなくなるだろうし、僕のことを笑うだろう。僕としては、嫌《きら》われるのもたまらない。君が二度とあの絵を見せたくないならそれで結構だ。君という人がいて、いつも見ていられるんだから。君が僕の最大傑作を世間の人の眼から隠しておきたいというなら、僕はそれでいい。君の友情のほうが、名声や評判より僕には大切なんだから」
「いや、バジル、ぜひ教えてくれなくちゃ」とドリアン・グレイは言い張った。「僕には知る権利があると思う」彼の恐怖感は消えて代わりに好奇心がおこって来た。彼はバジル・ホールワードの秘密をさぐろうと決心していた。
「ドリアン、腰をかけよう」さも困ったという様子をして画家は言った。「かけよう。で、たった一つ質問に答えてくれないか。君はあの絵に何か奇妙なところがあるのに気が付いた? ――おそらく、はじめには気がつかなかったが、突然わかって来たという様なことにね?」
「バジル!」と若者は震える手で椅子の腕木をつかみ、狂おしい恐怖の眼で彼を見つめながら叫んだ。
「君やっぱりそうだったんだね。何も言わないで。僕が話さなくちゃならないことを聞くまで待ちたまえ。ドリアン、君に会った瞬間から、君という人物は実に異常な感化力を僕に及ぼした。僕は魂も頭脳も力もすっかり君に支配されてしまった。君は僕にとっては、まるでいみじき夢のようにその思い出が僕たち画家をおそって来る、あの眼に見えない理想、その理想が眼の前に人間の姿をとって現われたかと思われた。僕は君を崇拝した。君が口をきく相手がねたましくなって来た。君を独占したかったんだ。僕が心楽しいのは君と一緒にいる時だけだった。君が僕から離れている時でも、君は依然として僕の芸術の中にいた……もちろん、こんなこと何も君に知らせなかった。そんなことできるもんじゃない。君にもわかってもらえなかったろう。僕自身にだってよくわからなかったんだからね。僕にわかってることと言えば、ただ完全円満というものに面と向かい合ったということと、世界が僕の眼にすばらしいもの――おそらくあまりにもすばらしすぎるもの、となって来たということだった。と言うのは、かかる狂おしい崇拝には危険があるんだから。そういう崇拝を保ちつづける危険に劣らず、それを失う危険もあるんだから……幾週間がすぎていった。僕はますます君に心を奪われていった。すると新しい事態の発展がやって来た。僕は君を、華美な鎧《よろい》を身にまとったパリス〔トロイア王の子、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネを奪ったためトロイア戦争おこる〕の姿として、また狩人の外套をまとい、磨きあげられた猪狩用の槍をたずさえたアドニスの姿として描いたのだった。重い蓮の花を頭に飾って君はハドリアヌス〔ローマ皇帝〕の屋形船の船首に坐って、緑色に濁ったナイル河を眺《なが》めていた。君はギリシアのどこかの森の中の静かな池に身をかがめて、しずまり返った銀色の水鏡に君のすばらしい顔をうつしていた。しかもそれはすべて芸術が当然あるべき姿として、無意識で理想的でまた遥かなものだった。ところがある日――これは運命的な日だとよく考えるのだが――僕は、実際ありのままの君の姿を、昔の時代の服装でなく、君が現に着ている服装で現に君が生きているままの姿を、一つ立派に描いてやろうと決心したんだ。それが手法のリアリズムなのか、それとも、このようにして|もや《ヽヽ》やヴェイルをかけないで直接僕に示された君自身という人物に対する驚異の念だったのか、ちょっとわからない。だが、だんだん制作して行くにつれて、絵具の一つ一つの断片や膜が僕の秘密をあらわして行くように思われて来た。他人に僕の盲目的崇拝ぶりを悟られはしないかと心配になり出した。ドリアン、僕はあまり多くを語りすぎた、絵の中へ僕自身をあまり多く注ぎ込みすぎたと思ったんだ。それで、あれを絶対出品しない決心をしたわけさ。君は少し困惑した。だが、その時には、それが全体僕にどんな意味を持つのか、君にはわからなかったんだからね。ハリーにそのことを話すと僕を嘲《あざけ》り笑った。だけど、僕はそんなことは平気だった。絵が完成してあの絵とさし向かいでいると、僕の考えの間違っていないのを感じた……さて、二、三日すると絵は僕のアトリエを去った。その絵が共にあることからするたえがたい魅惑を失って見ると、君がひどく美男子で、僕に絵がかける、ということ以上に何かをその絵の中に見たと僕が想像したのは、いかにも僕がおめでたい人間だったという気がした。今ではこんなふうに感じないではいられない――すなわち、創作の時に人が感ずる情熱が、創作する作品の中にいつも実際に示されると考えるのは、間違いだってことさ。芸術は僕たちが空想する以上に、いつも抽象的なものだ。形態と色彩は形態と色彩を僕たちに告げる――それだけのことだ。芸術は芸術家を現わすよりも遥かに完全に芸術を隠すものだというふうによく思われる。だからパリから今度の申し込みをうけた時、君の肖像画を僕の展覧会の主体にしようと決心したわけだ。君に断られるなんて夢にも思い浮かばなかった。今やっと君の正しいことがわかった。あの絵は公開するわけには行かない。ドリアン、僕がこんなことを言ったからって、怒っちゃいけないよ。僕がいつかハリーに言ったように、君は崇拝せられるようにできてるんだ」
ドリアン・グレイは深い吐息《といき》をついた。生気が頬《ほお》によみがえり、微笑が唇《くちびる》の辺りに漂った。危険は去ったのだ。当座のところ彼は安全だ。しかし彼は、かくも不思議な告白をきかせてくれた画家に対し限りない憐憫《れんびん》を禁じ得なかった。そして、もし自分だったら友人の人格にこんなにまで圧倒されることがあるだろうかといぶかった。ヘンリ卿は危険人物という魅力を持っていた。だがそれだけのことだ。ヘンリ卿はあまり賢すぎるのと、あまり皮肉屋なのでほんとに好きになれない。不可思議な偶像崇拝で心をいっぱいにみたしてくれる人間があるだろうか? それは人生が行手に用意しておいてくれるものの一つであろうか?
「ドリアン、僕にはとても大変なことなんだが」とホールワードは言った。「君がこのことをあの絵に見たってことが。ほんとうに君は見たの?」
「ある何かを僕は見た」ドリアンは答えた。「僕にはとても不思議に思われることを」
「じゃ、もうあれを見たってかまわないんだね?」
ドリアンはかぶりを振った。「それを訊《き》かれると困るんだ。とても君をあの絵の前に立たせるわけにはいかない」
「いつかきっとね?」
「絶対だめ」
「なるほど、君の言うことが正しいかも知れない。ドリアン、これで失敬しよう。君は、僕の芸術にほんとうの感化力を及ぼした唯一の人物だ。僕のものした佳作はいずれにせよ、すべて君のおかげなのだ。ああ! 今言ったことを君に話すのにどんなに辛い思いをしたか、君にはわかってもらえまい」
「ねえバジル」とドリアンは言った。「君の話はいったいなんのことだったの? ただ、君があまり僕のことを讃美しすぎたと感じたというだけじゃないか。それじゃお世辞《せじ》にもならない」
「お世辞のつもりじゃなかった。告白だったんだ。告白をしてしまってみると、なんだか気抜けしたみたいだ。自分の崇拝の気持ちなんか言葉に移すべきではないかも知れない」
「あれが告白だなんて、がっかりしたね」
「ほう、ドリアン、君はいったい何を期待してた? あの絵に何か他のことは見えなかったんだね? 他に何も見たものとてなかったわけだね?」
「そうだ、何も見なかったよ。なぜきくの? 崇拝だなんて言っちゃいけない。馬鹿馬鹿しいことなんだ。バジル、君と僕は友だちだ、そしてこれから先もそうあるべきだ」
「君にはハリーがついてる」画家が悲しそうに言った。
「ああ、ハリー!」と若者は笑いのさざめきをたてながら叫んだ。「ハリーは、信じられないようなことを言って昼を過ごし、ありそうにもないことをして夜を過ごしている。僕のまさにやってみたいと思うような生活ぶりだ。でもやはり、困った時には、ハリーを頼りにするより、バジル、君を頼りにするだろう」
「もう一度モデルになってくれる?」
「とてもだめだ!」
「ドリアン、君が断るもんだから、画家の僕の生活がぶちこわしになってしまうんだ。理想的な二つのものにめぐり逢う人はごく少数なんだ」
「バジル、君にちょっと説明できないんだが、二度と君のモデルにはなれない。肖像画というものには何か運命的なところがある。一つの生命をそなえているんだ。いずれまたお邪魔してお茶でも御馳走になろう。それもなかなか愉快だろうからね」
「僕よりも君のほうが愉快だろうさ」と残念そうにホールワードはつぶやいた。「さてこれでおいとまだ。もう一度絵を見せてもらえないのが残念だ。だが致しかたない。君の気持ちもよくわかる」
彼が部屋を去ると、ドリアン・グレイは一人|微笑《ほほえ》んだ。哀れなバジル! 彼はほんとうの理由が少しもわかっていないのだ。こちらの秘密をばらすような破目におちいらないで、首尾よく、ほとんど偶然に、相手の秘密を強奪することができようとは実に不思議だ。あの不思議な告白がいかに多くのことを彼に物語ってくれたことか。画家の馬鹿げた嫉妬《しっと》の発作、狂おしいまでの献身的愛情、法外な讃辞、奇妙な無口さ――今やこれらすべてが彼には理解され、画家を気の毒に思った。かくまでロマンスに彩られた交友には、何か悲劇的なところがあるように思われた。
彼はため息をついてベルを鳴らした。あの絵はどうあってもかくしてしまわねばならぬ。危うく人目につきそうになるような破目に二度と会うのはごめんだ。友人がだれかれなく入って来るような部屋に、たとえ一時間でもこんなものを置いておいたというのは、まったく気狂い沙汰としか思われなかった。
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第十章
召使が入って来ると、ドリアンはじっとそのほうを見すえて、この男ははたして衝立《スクリーン》の後ろをのぞこうと思ったことがあったかしらと考えた。召使はまったく平然としていいつけを待った。ドリアンは巻煙草に火をつけ、鏡の傍へ歩み寄って中をのぞき込んだ。ヴィクターの顔がすっかり映っているのが見える。その顔は従僕気質の落ち着き・った仮面《マスク》そっくりだ。なんの心配もいらない顔付きだ。だが、警戒するにしかずとドリアンは考えた。
彼は非常にゆっくりした調子で、家政婦に用があることを伝えてほしいということ、額ぶち屋に行ってすぐさま二人のを人夫まわしてくれるよう頼むことを命じた。召使が部屋を出て行くとき、その眼が衝立《スクリーン》の方向へ動いたように思われた。それとも、これはドリアンの気の迷いにすぎないとでも言うのか?
ほんのしばらくして、黒い絹の服を着て、皺《しわ》の寄った手に旧式なより糸製の手套《ミトン》をはめたリーフ夫人が、急ぎ足で書斎へ入って来た。彼は勉強部屋の鍵《かぎ》が欲しいと言った。
「ドリアンさま、あの昔の勉強部屋のでございますの?」と彼女は叫んだ。「まあ、あそこは塵《ちり》だらけでございます。お入りになります前に片付けて、ちゃんとしなくてはなりません。とても御覧になれるようなところじゃございません。とても、とても」
「リーフ、別にちゃんとしてもらわなくていい。鍵が欲しいだけだ」
「はあ、さようでございますか。でも、もしあそこへお入りになれば、蜘蛛《くも》の巣にまみれておしまいでございましょう。そりゃもう、五年ほども開けたことございませんものですから。大だんな様がお亡くなり遊ばしてからでございます」
彼は祖父のことを言われてたじろいだ。祖父については嫌《いや》な思い出があったのだ。「そんなことかまうことはない」と彼は答えた。「ちょっと部屋が見たいだけだ。鍵《かぎ》をくれ」
「これでございます」と老婦人は、こまかくふるえるたしかな手で、鍵束を調べつつ言った。「これでございます。すぐ束からはずします。でも、こんなに結構なお部屋がおありですのに、まさかあの勉強部屋におすまいになるおつもりではございませんでしょう?」
「うん、そんなことはしないさ」と彼はむっとして叫んだ。「ありがとう、リーフ。それでいいよ」
彼女はしばらく留まって、家事の細々したことを何かやかましくしゃべっていた。彼は溜息《ためいき》をついて、彼女が最善と考えるとおりにきりまわしたらいいだろうと言った。彼女は微笑に顔をよじらせながら部屋を去った。
扉がしまるとドリアンは鍵をポケットに入れて部屋を見回した。彼の眼は、金の刺繍をふんだんに施した、大きな紫色の繻子《しゅす》の掛布団に落ちた。これは祖父がボローニャ近くのある尼僧院で見つけた、十七世紀後期のすばらしいヴェネチア製のものだった。そうだ、これならあの嫌《いや》な絵を包むのに恰好《かっこう》なものだろう。これはおそらく、死人の柩《ひつぎ》を覆《おお》う布として使われたものだった。いまやこれは、死そのものの腐爛《ふらん》よりもなおさらいまわしい一種の独得の腐敗をもつもの――恐怖を産み出しはしても決して滅びないあるものを包むことになったのだ。ちょうど死骸を蛆虫《うじむし》が食い荒すように、彼の罪はキャンヴァスに描かれた像を食い荒していくであろう。彼の罪が絵の美しさをそこない、その優美さを蚕食《さんしょく》して行くだろう。彼の罪は絵を汚《け》がし、恥ずべきものとするであろう。だがなおも絵は生きつづけ、常に生き生きしつづけることだろう。
彼は身震いして、絵を隠したいという本当の理由をバジルに告げなかったことをちょっとのあいだ悔いた。バジルだったら、ヘンリ卿の感化力、自分自身の気質から来るなおいっそう有毒な感化力、に抗する助けとなってくれただろう。バジルが彼に対して抱いている愛――それは実際愛と言えるものなのだ――は高貴かつ知的でない何ものをも含んでいないのだ。それは感覚から生まれ、感覚が疲れて来ると滅びて行くような、単なる美に対する肉体的賞讃ではない。それはミケランジェロ、モンテーニュ、ヴィンケルマンさてはシェイクスピアその人が知っていたような愛なのだ。そうだ、バジルなら彼を救ってくれただろう。だが今では手おくれだ。過去は常に消滅できるものだ。悔恨も拒否も忘却もそれができるものだが、未来は不可避なのだ。彼の心の中には情熱がひそみ、恐るべきはけ口を見つけようとするだろうし、また夢がやどってその夢の悪の影を実現しようとするだろう。
彼は長椅子にかかっている紫と金の模様のついた大きな布をとりあげ、両手にかかえて衝立《スクリーン》の後ろにまわった。キャンヴァスに描かれた顔は前よりいっそう卑しいものになっているだろうか? 以前のままのように彼には思えた。が彼の嫌悪《けんお》の情はいっそう強烈になった。金髪、青い眼、真紅の唇――すべてがもとのままだ。変わったのはただ表情だけだ。その冷酷さはとてもたまらないものだ。その表情に見られる非難と叱責《しっせき》に比べたら、シビル・ヴェインのことで彼に対してなされたバジルの非難などはなんと浅薄なことだろう! なんと浅薄でつまらないものだろう! 自分の魂がキャンヴァスから彼を眺《なが》め、彼を審判へと呼び出しているのだ。苦痛の色が彼の顔をかすめた。そこで彼はその豪華な棺衣《かんい》を絵にかぶせた。かけ終わると扉にノックが聞こえた。召使が入って来ると同時に彼はその陰から出て来た。
「あの人たちが見えました、だんな様」
彼はこの男を速刻追い払わねばならないと感じた。この男に絵の運ばれる先を知らせてはいけないのだ。奴《やつ》はどこかずるいところがあり、思惑たっぷりで不実そうな眼付きをしている。彼は机に向かってヘンリ卿宛に、何か読物をさし回して欲しいこと、今夜八時十五分に会うはずだってことを知らせる短信を走り書きした。
「返事をもらって来るんだ」と手紙を手渡しながら言った。「それから、お客をこちらへ通してくれ」
二、三分経つと、またノックが聞こえて、サウス・オードレイ街の有名な額縁屋ハバード氏その人が、いくぶん荒っぽい感じの助手をつれて入って来た。ハバード氏は血色のよい、赤い頬鬚《ほおひげ》をたくわえた小男で、その芸術的愛好心は、彼と取引する大部分の画家たちの慢性的貧困によってかなり減殺《げんさい》されていた。通常彼は決して店を離れなかった。彼は人々が店へやって来るのを待った。ところが、常にドリアン・グレイのためには例外を認めたのである。ドリアンにはすべて人を魅するところがあった。彼に会うだけでも楽しかったのである。
「グレイさま、どんな御用でしょうか?」と彼はそばかすだらけの肥った手をもみながら言った。「店のものでは失礼と存じ、わたくし自身参上いたしました次第で。ただ今ちょうど実に見事な額ぶちを手に入れましたところで。さる売立てで手に入れましたものでございます。古いフィレンツェ物でして、たしかフォントヒルから出たものと存ぜられます。グレイさま、これは宗教画には、まったくもってこいのものでございます」
「ハバードさん、わざわざ御足労とは恐縮です。またきっとお訪ねして額縁を見せてもらうとしましょう――もっとも、今のところ、大して宗教美術には気もないんだが――今日はただちょっと、絵を一枚家の一番上の部屋まで運んで欲しいんだ。ずいぶん重い|しろもの《ヽヽヽヽ》なんで、お店の二人くらい借りたいと思ったんだよ」
「グレイさま、お安いことでして。お役に立つことでございましたら、なんなりと喜んでいたしますとも。その絵と申しますのはどれで?」
「これなんだ」とドリアンは衝立《スクリーン》を後ろへ押しやりながら答えた。「覆《おお》いも何もそのままで動かせる? 二階へうつすのにかすりきずができると困るんでね」
「なんの造作もございません」とこの愛想のよい額縁屋は言って、助手の手を借りて絵のかかっている長い真鍮《しんちゅう》の鎖から絵をはずし始めた。
「さてグレイさま、どこへ運んだらよろしうございますか?」
「ハバードさん、案内するからついて来てもらおう。いや、それとも先においで願ったほうがいいだろう。恐れいるけど、家の頂上までやってもらうんだ。正面の階段から行くとしよう。そのほうが広いから」
彼は扉を開けて彼らを待ち、彼らは玄関へ出て階段を登りはじめた。凝ったつくりの額縁のために絵はかさばり、紳士が何か有用な仕事をするのを見るのがはなはだきらいだという、いかにも商売人肌を見せて、ハバード氏がお追従《ついしょう》的に抗議はしてみても、それにかまわずドリアンは時折り手をかしたのである。
「ちょっとばかり荷物ですな、だんな様」と一番上の踊り場についた時、この小男はあえぎながら言って光った額《ひたい》をぬぐった。
「なかなか重いようだね」とドリアンはつぶやきながら、自己の生活の奇怪な秘密をかくし、彼の魂を衆目から隠すべき部屋の扉を開けたのである。
ここへ入らなくなってからも四年以上も経っていた――実際、最初に子供の時分に遊び部屋として、次に少し長じてからは書斎としていたころ以来のことなのである。大きな均整のとれた部屋で、先代のケルソー卿が特に孫のためにつくったものだった。彼は孫が奇妙に母親似である点やその他の理由から、常に孫を嫌《きら》って遠くに離して置きたかったのである。ドリアンにはその部屋がほとんど変わっていないように思われた。奇妙な模様を描いた鏡板と、つやのなくなった鍍金《めっき》の繰り型のついた、イタリアのカッソネ〔十五世紀頃イタリアで使われた嫁入道具|櫃《びつ》〕があったが、この中へ子供の頃よく隠れたものだ。またそこにある繻子《しゅす》木製の本箱には、隅のよれよれに折れた教科書がいっぱいつまっている。本箱の後ろの壁には、昔とおなじ、ぼろぼろになったフランドルの綴織《つづれおり》が掛っており、それには色|褪《あ》せた王と女王が庭園で将棋《チェス》を楽しんでいる傍を、籠手《こて》をはめた手首に、頭巾をかぶせた鷹《たか》をとまらせながら、一団の鷹匠が馬に乗って過ぎて行く有様があらわされていた。すべての思い出のなんとあざやかなこと! 辺りを見回すと淋《さび》しい幼年の一瞬ごとがよみがえって来た。彼は少年の日のけがれなき純潔さを想いおこし、この宿命的な肖像画を隠す場所がところもあろうに、この部屋になったことがいかにもそら恐ろしい思いであった。前途にどんな運命が横たわるか、昔はものを思わざりけりだ!
しかし、家中でここほど|せんさく《ヽヽヽヽ》好きの眼から安全な場所はどこにもないのだ。彼が鍵《かぎ》を持っているのだから、他人は入りっこない。紫の棺衣に覆《おお》われているのだから、キャンヴァスに描かれた顔は獣的になろうが、酔いほほけてけがらわしくなろうが、いっこうかまわない。誰も見る人はない。彼自身も見ないのだ。自己の魂のいまわしい、腐敗をなぜ見守っていかなければならないのか? 彼は若さを保持している――それだけで充分なのだ。それに、結局彼の本性も立派なものになるのではなかろうか。未来がそれほど恥辱に満ちたものとは限らない。なんらかの愛にひょっくりめぐりあって心を清められ、今やすでに霊と肉に胎動《たいどう》しつつある罪――それが未知なるが故に、微妙さと魅力をもつ、奇妙な、想像も及ばぬ罪――から守ってくれるかも知れない。おそらく、冷酷な表情もいつかは紅い敏感な唇から消え失せてしまうだろう。そうしたら、バジル・ホールワードの傑作を世間に公開してやってもいい。
いや、それは不可能だ。刻一刻、週一週、とキャンヴァスに描かれたものは老いて行く。たとえそれが罪のいまわしさを逃《のが》れても、老齢のいまわしさは逃れられないのだ。頬《ほお》はこけたりたるんだりするだろう。黄色い小皺《こじわ》が衰えていく眼の周囲に寄って、見るも嫌《いや》な顔になってしまうだろう。髪の毛も光沢を失い、口元も老人のそれのごたぶんにもれず、あんぐりと開いたり、垂れ下がったり、愚かしくなるか下品なものになりかねない。咽喉《のど》には皺《しわ》が寄り、手は冷たく青筋立って、身体は曲がってしまい、彼の少年時代にあんなにもきびしかった祖父そっくりになるだろう。絵はどうしても隠しておかねばならない。他に致し方はないのだ。
「ハバードさん、中へ入れてください」と彼は振りかえりながらものうそうに言った。「待たせてすまなかった。ちょっとほかの考えごとをしていたものだから」
「グレイさま、一服するのはいつでも大歓迎でございますよ」と額縁屋は、まだ息を切らしながら答えた。「だんな様、どこへ置いたらよろしゅうございましょう?」
「ああ、どこでも結構。ここがいい。掛けてもらわなくていい。ちょっと壁にもたせかけて置いてもらおう。ありがとう」
「だんな様、ちょっと拝見してよろしいでしょうか?」
ドリアンははっとした。「ハバードさん、見たって大して面白くもないだろう」と相手から眼を離さないで彼は言った。自分の人生の秘密を秘めているこの豪華な掛布を、もしも相手があえてもち上げようとしようものなら、今にもとびかかっていって、相手をなぎ倒してやろうという気構えだった。「もうこれ以上御迷惑はかけないですよ。わざわざおいでを願ってありがとう」
「グレイさま、いえいえ、どういたしまして。いつでも喜んで御用を承ります」そう言ってハバード氏は助手を従えて階段を踏み鳴らしつつ降りて行った。その助手は荒っぽい醜い顔におもはゆそうな驚異の色を浮かべながらドリアンを見返した。こんな美男子をいまだ見たことがなかったのだ。
彼らの足音が消えていくと、ドリアンは扉に錠《じょう》をおろして鍵をポケットにしまった。やっといま彼は安全感を覚えた。この恐ろしいものを見る者は一人もいないだろう。彼の眼以外彼の恥辱を眼にするものはいないだろう。
書斎に帰ってみると、ちょうど五時をまわったところですでにお茶が運ばれていた。彼の後見人の細君で、前の冬をカイロで過ごした、小ぎれいな、病人も職業的となったラッドレー夫人からのプレゼントがあったが、青貝を一面にちりばめた、黒い香木製の小テーブルの上に、ヘンリ卿からの短信とその傍に、少々表紙が破れふちが汚れている黄色い紙装丁の書物があり、セント・ジェイムズ紙の第三版が盆の上に置かれていた。して見ると、ヴィクターが帰宅したことは明らかだった。彼は、この男が玄関で連中の帰るところに行き会い、どんな仕事をやったのか、うまく探り出しはしなかったろうかと考えた。この男は絵のなくなっていることにきっと気付くだろう――疑いもなく、茶道具を置いているときに気付いたに違いない。衝立《スクリーン》はまだもとに戻してなくて、壁にあきができている。ひょっとすると、いつか晩には、あの男がこっそり二階へ上がっていって、例の部屋の扉をこじあけようとしているところを見とがめるかも知れない。家の中にスパイがいるとは恐ろしいことだ。召使に手紙を読まれたり、会話を立ち聞かれたり、宛名を書いた名刺を拾われたり、枕の下に凋《しぼ》んだ花とか皺《しわ》くちゃになったレースを見つけられて、一生涯ゆすられた金持ちの話を聞いたことがあった。
彼は溜息《ためいき》をついて、自分で茶を注いでからヘンリ卿の短信を開いた。手紙には簡単に夕刊と、彼に面白いと思われる書物を差し回すことと、八時十五分にはクラブに出掛けている旨が書かれていた。彼はセント・ジェイムズ紙をものうげに開いて眼を通した。五面の赤鉛筆のマークの個所が彼の眼をひいた。それは次の記事に注意をひくためのものであった。
[#ここから1字下げ]
女優の死体検屍――ホルボーンのロイヤル劇場に最近出演中の若い女優シビル・ヴェインの死体に対し、今朝ホクストン・ロードのベル・タバーンにおいて、該地区検屍官ダンビー氏によって検屍が行なわれ、過失死の判定が下された。自己の証拠事実申し立て中並びに検屍解剖を行なったビレル博士の証言中、一方ならぬ興奮を呈した死者の母親に対し少なからぬ同情が表明された。
[#ここで字下げ終わり]
彼は顔をしかめ、新聞を二つに裂き、部屋を横切って行って紙片を投げすてた。なんという醜さ! 醜さ故に物事がなんと恐ろしく現実味を帯びて来ることだろう! ヘンリ卿がこのしらせを差し回してよこしたことに対し、いささか腹が立った。それに赤鉛筆で印をつけるなんて確かに馬鹿げている。ヴィクターが読んだかも知れない。こんな記事なら楽々読めるくらい英語の知識はある男だ。
ひょっとすると、彼はすでに読んで怪しみはじめていることだろう。だがそれがなんだ。ドリアン・グレイとシビル・ヴェインの死となんの関係があろうか。怖れることは何もない。ドリアン・グレイが殺したのではないのだ。
彼の眼はヘンリ卿が差し回してくれた黄表紙の書物に落ちた。なんだろうかと彼は思った。彼は小さな真珠色をした八角形の台のところに行った――この台はいつも彼にはまるでエジプトの蜂が銀細工をしたのではないかと思われるものだった。そしてその書物をとりあげ、肘掛椅子に身を投げてページを繰りはじめた。しばらくして彼は夢中になった。これはまだ読んだこともない不思議な書物だった。まるで、絶美な衣服をまとい、微妙なフルートの楽の音に合わせて、世界の罪が無言の劇をなして彼の前を過ぎ行くかに見えた。彼がおぼろげに夢想していたものが突然現実化された。夢想だにしなかったことがしだいに現われて来たのだった。
これは筋のない、登場人物がたった一人の小説で、ある若い巴里人《パリジャン》の心理学的研究にすぎなかった。このパリジャンは十九世紀において、その世紀以外のあらゆる情熱、あらゆる思考様式を実現しようとし、いわば世界精神が経験して来た様々な気分を自己自身のうちに概括しようとして、人々が愚かにも美徳と呼んで来た自制克己を、また、賢明な人々がなおも罪と呼んでいる自然本来の反逆をも、それが単に人工的なるが故に愛しようとしつつ世を送ったのである。この書物にかかれた文体は奇妙な宝石をちりばめたようで、鮮明でありまた同時に曖昧《あいまい》でもあり、隠語や古語がたくさん使われ、専門的表現や凝った解説が豊富に見られる奇妙な装飾的な文体で、まさにフランス象徴派の最もすぐれた若干の芸術家たちの作品の特徴をなすものであった。蘭《らん》のように型はずれの奇怪な比喩《ひゆ》もあれば、また蘭のように色彩の美しい比喩もある。感覚の生活が玄妙な哲学の言葉で描写され、中世の聖者の霊的法悦のことを読んでいるのか、近代の罪人の病的な告白を読んでいるのか、時折りわからなくなるのであった。まさに有毒の書だった。どぎつい香《こう》のにおいがページにつきまとい頭をかき乱すかに思われた。文章のもつ単なる抑揚、文章の調べのいみじき単調さは、繰り返される複雑な繰り返しや楽章にまさにあまりにも充ち充ちているので、一章また一章と読み進む若者の頭に一種の幻想、病的な夢をかもし出して、うすれいく日も、迫りくる夕影も忘れさせたのである。
雲もなく、一つの孤独な星をちりばめた青銅色の空が窓越しに輝いていた。彼はうす明りをたよりに読みつづけたが、ついに読めなくなってきた。何度も従者《ヴァレー》から時間の遅いことを注意されたあげく、彼は立ち上がって隣の部屋に入り、寝台の傍にいつも置いてあるフィレンツェ製のテーブルにその書物を置いて、晩餐のために着がえはじめた。
クラブへ行き着かないうちに、かれこれ九時になるほどの時刻だった。クラブでは、ヘンリ卿がとても退屈そうに居間で独《ひと》りすわっているところだった。
「ハリー、申し訳もありません」と彼は叫んだ。「でも、これはほんとうはあなたのせいです。届けてもらったあの書物にすっかり参ってしまって、時間の経つのも忘れてしまったのです」
「そうだ、君の気に入るだろうと思ったよ」と彼の亭主役は椅子から腰を浮かせながら言った。
「ハリー、好きだと言ったんじゃありません。すっかり参ったと言ったんです。大変な違いですからね」
「ああ、それがわかった?」とヘンリ卿がつぶやいて、彼らは食堂へ入っていった。
[#改ページ]
第十一章
何年にもわたって、ドリアン・グレイはこの書物の感化力から逃《のが》れることができなかった。あるいは自ら逃れようとしなかったと言うほうが、おそらくもっと正確かもしれない。彼は大型の初版本を九部もパリからとり寄せ、彼の様々の気分や、時折りもうほとんど手にあまるほどに見える性質をおびた、次々に変わりゆく気まぐれにふさわしいように、様々な色の装丁を施した。ロマンティックな気質と科学的な気質が、奇妙にもまざり合った人物である若いパリジャンたる主人公は、ドリアン自身の姿を予表する典型となってきた。そしてまことに、この書全体が彼自身の生活の記録であり、彼がその生をいとなむ以前に書かれたもののように思われたのである。
ある一つの点で彼は小説中の奇怪な主人公より幸運だった。鏡や磨きあげられた金属の表面や静止した水面に対するあのいくぶんグロテスクな恐怖心をドリアンは全然知らなかったし、また実際知るべきいわれも全然なかった。しかるに、この恐怖心は若いパリジャンにはごく若い時に襲って来たものであり、かつてはいかにもきわだっていた美貌が突然衰えたことに起因するものだった。他人においてまた世の中において、主人公が最高に評価しているものを喪失した時の悲哀と絶望を、いささか誇張しすぎとは言え、真に悲劇的に述べてある後半の部分を、ドリアンはいつも残酷に近い喜悦を感じつつ読むのであった――おそらくすべての快楽同様、ほとんどあらゆる喜悦には残酷さが存しているのだ。
なぜなら、バジル・ホールワードやその他多くの人々をあれほど魅了した彼のすばらしい美貌は、絶対に彼から消えそうになかったから。彼について最もひどい風評を耳にした人々も――時折り彼の生活ぶりに関して奇妙な噂《うわさ》がロンドン中に拡がり、クラブの噂の種となったのだが――さて彼に会うと、彼の不名誉になるようなことは何一つ信じることができなかった。彼には世の中の汚れに全然染まないでいる人の様相が常にあった。下卑《げび》たことをしゃべっている連中も、ドリアンが部屋に入って来ると黙ってしまうという始末。彼の純潔さをたたえた顔には、何かしらそういった連中を非難するようなところがあった。彼がただ居合わせるというだけで、彼らが汚した純真の追憶をよみがえらせるのであった。人々は、彼の如《ごと》く美しく魅力的な人物が、不潔で肉欲的な現代の汚れをよくも逃れ得たものだといぶかるのであった。
長い時間不思議に家を明けるため、友人や友人と自任している人たちの間に奇妙な憶測の種をまいたのだが、そんなに家をあけた後で帰宅すると、よく彼は締切りの部屋へこっそり忍んで行き、今では肌身を離したことのない鍵で扉を開け、鏡を持ってバジルの描いた肖像画の前に立って、キャンヴァスの上の邪悪な年老いて行く顔に見入るかと思えば、また磨きあげられた鏡の中から笑い返している美しい若々しい顔に見入るのであった。その対照のいかにもきわだっていることがかえって彼の快感をそそった。彼はいよいよ自己の美しさに魅惑され、ますます自己の魂の堕落に興味を抱くようになった。彼は皺《しわ》のふえて行く額をひからびさせたり、鈍重な肉欲的な口の辺りに這《は》いまわったりしているいまわしいすじを、細心の注意をもって、時には恐るべき烈しい歓喜をもって調べてみて、さらには時として、罪の兆候《ちょうこう》と老齢の兆候といずれがより恐ろしいものだろうかと考えるのであった。彼は絵の中のきめのあらいふくれ上がった手のそばに自分の白い手を置いて思わずにたりと笑うのだった。彼は醜い肉体や衰えていく手足をあざ笑った。
実際夜など、わが家の香りも妙なる寝室に、または偽名変装していつも出入りする習慣となっている波止場近くの小さな怪しげな酒亭の不潔な部屋に、寝られぬままに身を横たえていると、純粋に利己的なるがゆえにいっそう痛切な憐愍《れんびん》の情を感じつつ、自らの魂にもたらした破滅のことを思う折々があった。だが、こんな折は稀だった。かつてヘンリ卿と一緒に友人バジルの家の庭園に坐している時、はじめてヘンリ卿が彼の心の中にかきたてた、あの人生に対する好奇心は満足の情と共にいよいよたかまっていくかに見えた。彼は知れば知るほどなおいっそう知りたがった。彼の狂おしい飢渇《きかつ》は、充たせば充たすだけ、なおいっそう飢えていくのだった。
だが、彼はともかく社交関係においては実際向こう見ずではなかった。冬の間は月に一、二度|社交季節《シーズン》の間は毎水曜日の夜、彼は美しい邸宅を世人に開放し、当時の最も著名の音楽士を招いて、その驚異的なわざによって賓客たちを魅了するのであった。ヘンリ卿がいつも彼を助けて取りきめた小晩餐会は、食卓の飾り付けに際して異国的な花や、刺繍を施したテーブル・クロスや、古い金銀製の皿などを調和美しく配置することに示される絶妙な趣味のためのみでなく、客の念入りな選択と配置の点でも著名だった。イートンとかオックスフォード在学時代によく夢見たタイプ――何ほどかの学者の真の教養と、世界の市民のあらゆる優美さ、卓越、完全な作法などを結合させるタイプが真に実現された姿をドリアン・グレイにおいて見、あるいは見ると想像した人が特に青年に実際多かったのである。彼らにとってドリアン・グレイは、ダンテの言う「美を崇拝することによって自己を完全ならしめる」ようつとめた人々の一員であるかに見えた。ゴーティエの如《ごと》く、彼はその人のために「眼に見える世界が存在する」そんな人間だったのである。
しかして確かに彼にとって、人生そのものが芸術の中で第一のもの、最大のものであり、そのためにあらゆる他の芸術が単に準備にしかすぎないものだった。実際には奇怪なものをもしばしの間普遍的なものにする流行と、独得な方法で美の絶対的な近代性を主張せんとする試みである|伊達好み《ダンディズム》とはもちろん彼に対して魅力を持っていた。彼の服装様式や彼が時々好んで用いる特別のスタイルはメイフェアの舞踏会やペル・メル・クラブの窓にあつまる若いめかし屋たちに著しい影響力を持っていた。これらの若いめかし屋は、彼のなすことすることすべてを真似て、彼の優美ではあるが彼としてはほんの冗談半分にするおめかしの偶然の魅力を再現しようと努めた。
なぜかと言えば、成年に達するや否や与えられた地位を受け入れることにかけて彼は実に喜びいさんでいたし、ネロ治下の帝政ローマに対して『サチュリコン』の著者〔ペトロニウス〕が持っていたと同様の関係を、彼は当時のロンドンに対して実際持ち得るかもしれぬという考えに、微妙な喜悦を感じたけれども、いっぽう心の底では、宝石のつけ方、ネクタイの結び方、さてはステッキのこなしについて人から相談を受けるだけ程度の単なる「趣味の判定者」以上のものになりたいと念じたからだ。彼は推論された哲理と秩序正しい原則を持った生活の計画を案出し、感覚を精神化することにその計画の最高の実現を見出そうとした。
これまでの感覚の崇拝は、しばしば、しかも正当な理由のために非難されて来た。これは人々が自分よりも強いものと思い、より下等な存在形態と共にもつことを意識しているような、情熱や感覚に対して、自然本能的な恐怖感を持っているからなのだ。だが、ドリアン・グレイには次のように思われた、すなわち、感覚の本質がまだ理解されたことがなく、感覚というものを、美に対する鋭敏な本能がその支配的な特徴をなすはずの新しい精神性の要素にしないで、単に感覚を飢えさせて屈服せしめようとしたり、苦痛によって滅ぼそうと世人がしたために、感覚が野蛮で動物的な状態に留まってしまったのだと。歴史をつらぬいて動いている人間をふり返ってみると、いかにも損失を被ったという感じに彼はつきまとわれた。いかに多くのものが放棄されたことか! しかも、いかに効果のうすかったことか! 狂気じみた故意の感覚排斥、恐るべき自己|拷問《ごうもん》や自己否定の数々が行なわれ、それらの起因は恐怖であり、その結果と言えば、人々が無智のあまり、それから逃れんとした空想上の堕落よりもさらに無限に恐ろしい堕落だったのである。しかも、自然は皮肉たっぷりに、隠遁者を砂漠へと追いやって野獣と共に餌を食《は》ましめ、世捨人にその友として野のけだものを与えたのである。
そうだ、ヘンリ卿が予言したごとく、生を改造し、現代において奇妙にも復興を見つつあるあのきびしい醜い清教主義から生を救うための新しい快楽主義《ヒードニズム》がおこるべきなのだ。確かにその快楽主義は知性の奉仕を受けはしても、いかなる様式の情熱的体験の犠牲をもいとうことを意味するごとき理論、さては体系を絶対に認めるものではない。その目的とするところは、実に経験そのものであり、たとえ甘かろうが苦かろうが経験の結果ではない。感覚を滅ぼす禁欲主義については、感覚を鈍らせる野卑な放蕩についてと同じく、それはなんら関知するものではない。しかしその快楽主義は、それ自体ほんの一刹那にすぎない人生の刹那刹那に自らを集中することを教えるものだ。
あやうく死を恋い求めたくなるような夢も見ない夜とか、あるいは現実そのものよりなおさら恐ろしく、あらゆるグロテスクなものにひそみ、ゴシック芸術――ゴシック芸術こそ病的な幻想に心悩まされる人たちの芸術だと言えようから――に永続的活力を与えるあのなまなましい生命に満ちた幻影が、頭脳の部屋々々を動き回るような、恐怖と奇形的な喜悦の夜とか、をすごしたあと、夜明け前に時として眼を覚《さ》ましたことのある人も少なくないであろう。しだいに白い指がカーテンをとおして忍び来りふるえているように見える。黒い奇怪な形をなして無言の影が部屋の隅に這《は》い寄って来てうずくまる。外では、木の葉の間を往来する小鳥の気配が聞こえたり、仕事に出かけて行く人々の足音がしたり、あるいはあたかも眠れる人々を眼|覚《ざ》ますことを恐れるかの如く、しかも眠りをその紫色なせる洞穴から呼び起こさざるを得ないといったふうに山から吹き下ろして、沈黙に沈む家の周囲をさまよっている風の嘆息とすすり泣きが聞こえたりするのである。ほの黒い薄い紗《しゃ》のヴェールは次々にはがされ、徐々に物の形と色が復元されて、曙が世界をその昔ながらの模様に再現するのをわれわれは見守る。蒼白《あおじろ》い鏡は人生を再び写し出す。火の消えた蝋燭《ろうそく》は昨夜のままに置かれており、その傍《そば》には読みさしの、ページを切りかけた書物だとか、舞踏会でつけた針金つきの花だの、こわくてとても読めそうもない手紙、あまりにもよく繰り返し繰り返し読みすぎたりする様な手紙が置かれている。何一つ変わった様子はない。夜の非現実的な闇《やみ》から、われわれの既知の現実的生がよみがえって来る。やめて置いたところから再び始めなければならない、そしておきまりの習慣の同じ退屈な繰り返しにおいて精力を連続させていくことの必要性を痛感したり、またある朝眼を開けたら、世の中が一夜のうちにわれわれの快楽に都合のよいように新しく作りかえられ、事物が新しい形と色をそなえて面目を一新したりまた別の秘密を持ったり、もしくは過去という奴《やつ》がほとんどあるいは全然なくなってしまう、すくなくとも義務とか悔恨のごとき意識的な形において決してあとに残らない――思い出となると喜びにも痛ましさがあり、快楽にしても苦痛があるのだから――そんな世が来たらと、烈しいあこがれを秘かに感じたりするのである。
ドリアン・グレイにとって、人生の真の目的――真の目的の一つに属するもの――と思われたのは、かかる世界を創造することであった。新しくて楽しいと同時に、ロマンスには不可欠なあの新奇さの要素を持つ感覚の探究において、彼は実際自分の性質にとっては縁遠いとわかっている思考様式を採用し、その微妙な感化力に身をゆだね、次に言わばその色彩をとらえて知的好奇心を満足せしめてから、真に熱烈な気質と相容れぬものではない、否、実にある近代心理学者によれば、よくその条件となるある奇妙な無関心さでそれを棄て去るのであった。
一度は彼がすぐにもカトリック教徒になるんだという噂《うわさ》が伝わったことがある、そして確かにカトリックの様式は、いつも彼に対し非常な魅力をもっていた。古代のあらゆる|いけにえ《ヽヽヽヽ》よりも実際さらに畏敬すべき日々の聖餐《せいさん》は、そのパンと葡萄酒との原始的単純さによりまたそれが象徴せんと求めた人間の悲劇の永遠の哀感によるばかりでなく、感覚のあかしをみごとにも排除していることによってもまた彼の心を動かしたのである。彼はよく冷やかな大理石の舗石にひざまずいて僧がこわばった花模様の法衣をまとって白い手をもっておもむろにタバナクル〔聖餐物または聖餅器などを入れる飾り匣《ばこ》〕の垂衣《たれぎぬ》をかかげているところ、あるいは時折りまさに「パニス・ケレスティス」――天使のパン――と考えたくなるような蒼白い聖餅《ウェーファー》をのせた宝石入りの提灯《ちょうちん》型聖体顕示台を高く捧げているところ、またはキリスト受難の衣服をまとって聖餅を聖盃の中にくだき入れて、自己の罪ゆえに胸をたたいている様子をじっと見守るのが好きだった。レースと真紅の衣に飾られ厳粛な面持ちをした少年たちが、金色の花のように高々と揺り上げる、煙を吐く香炉《こうろ》は、彼にとって微妙な魅力をもつものであった。退出する際、彼はいつも驚異の念をこめて黒い懺悔《ざんげ》室を眺《なが》め、そのほの暗い影に坐して、すりへった格子越しに生活の真相をささやいている男や女の話に耳を傾けたいと念願したものだった。
だが、彼は一信条、一体系を形式的に認めることによって、自己の知的発達を阻止するという誤りに一度としておちいったこともなければ、またほんの一夜のやどりか、星もなく月も生まれ出る陣痛に悩んでいるような夜、ごく数時間いるだけのみふさわしい宿を住家と混同するごとき誤ちに一度もおちいったこともなかった。神秘主義は、ありふれたものを珍しく思わせる驚くべき力と、常にそれに伴うかに見える微妙な道徳律廃棄論をもって、しばらくは彼の心を動かした。またある期間、彼はドイツにおけるダーウィン主義運動の唯物的理論に傾いて、人間の思想や情熱の起源を脳髄のどこかの真珠色の細胞とか肉体の白い神経にまでたどることに奇妙な喜びを発見して、精神がたとえ病的にせよ、健全にせよ、正常にせよ、不健全にせよ、ある肉体的な条件に絶対的に依存しているという概念を大いに喜んだ。だが、前述のごとく、人生に関するいかなる理論も人生そのものに比べれば、なんら重要性を持たないもののように彼には思われた。彼は、あらゆる知的思索が行動や実験と分離した場合には、いかに効果のないものであるかということを強く意識していた。魂に劣らず、感覚とても、示現すべき霊的な秘密をもっていることを彼は知っていた。
かくて彼は今や、香りの強い油を蒸留し、東洋渡来の香り高い粘性樹脂《ガム》を燃やして香料とその製法の秘密を研究するのだった。精神的気分にして官能生活にその相対物を持たないもののないことを知って、彼は両者間の真の関係の発見にとりかかった。乳香が人を神秘家たらしめ、竜延香《りゅうえんこう》が情欲をわきたたせ、菫《すみれ》がほろびしロマンスの思い出を呼び覚《さ》まし、麝香《じゃこう》が頭脳を悩まし、|きんこうぼく《ヽヽヽヽヽヽ》が想像力を汚《けが》すのはいかなる理由によるものかと彼はいぶかり、しばしば、真の香料心理学を集大成しようとして、芳香ある木根、花粉のついた香り高い花、かんばしい樹脂《パーム》、黒ずんだ香木、胸の悪くなるような甘松香、人を狂気にするホヴェニア、心の憂鬱《ゆううつ》を追い払う力ありとされている蘆薈《ろかい》などそれぞれの効力をはかってみたいと考えた。
またある時、彼はまったく音楽に凝って、天井が朱と金に彩られ、壁がオリーヴがかった緑のラッカーに塗られた、格子造りの長い部屋で、風変わりな演奏会を催すのを常とした。さてこの演奏会では、狂おしいジプシーたちが小さなツィターを鳴らして奔放《ほんぽう》な音楽をかなで、黄色いショールを掛け、真面目くさった顔をしたチュニス人たちが、奇怪な琵琶《びわ》の張りつめた弦《げん》をつまぐるかと思うと、またいっぽうでは歯をむき出して笑っているニグロが単調に銅鼓を打ち鳴らし、緋色《ひいろ》の筵《むしろ》にうずくまってターバンを巻いた痩身《そうしん》の印度人たちが葦や真鍮《しんちゅう》の笛を吹いて、冠を頂いた大蛇や恐ろしい角のある毒蛇を魔魅したりあるいは魔魅するふりをした。シューベルトの優美さも、ショパンの美しい悲哀も、さてはベートーヴェンの力強い階調さえ、馬耳東風ときき流す時にも、野蛮人の音楽の耳|障《ざわ》りな音程や甲高《かんだか》い不協和音が彼の心を動かすことがあった。彼は世界各地から、たとえ滅びた民族の墓場の中からでも、西洋文明との接触にも滅びることなく生き延びて来たごく少数の未開種族の間からでも、見出し得るかぎりの最も珍しい楽器を蒐集《しゅうしゅう》して、それを手にとって鳴らしてみることを愛した。リオ・ネグロのインディアンの楽器で婦人に見ることを禁ぜられ、青年でさえ、断食と鞭《むち》の刑に服するまでは見ることを許されぬ、不思議なジュルパリスとか、鳥の甲高い啼声《なきごえ》を出すペルー人の素焼の壷、アルフォンゾ・デ・オヴァーレがチリで聞いたと同じ人骨製の笛とか、クスコ付近で発見せられる、不思議に美しい調子を出す響きのよい緑の碧玉《へきぎょく》とかが彼の所有するところであった。小石がつまっていて、振るとかさかさ鳴る彩色|瓢箪《ひょうたん》、演奏者が息を吹きこむのでなく息を吸い込んで鳴らすメキシコ人の長いクラリン、高い樹に終日すわっている見張りが鳴らすと、三リーグの遠方からでも聞こえるというアマゾン種族の耳|障《ざわ》りなテューレ、木製の振動舌が二枚ついていて、植物の乳白液から得られる弾力性のある樹脂を塗った棒で打ち鳴らすテポナズリ、アズテック人の楽器で葡萄状の房になって垂れているヨットル鈴、さてはベルナール・ディアスがコルテスと共にメキシコの寺院に入って行った時見て、その悲哀の響きについて実に生き生きした記述を残しているあの楽器と同じような、大蛇の皮を張った巨大な円筒型の太鼓、などが彼の所有であった。これらの楽器の奇怪な特徴が彼の心を魅了し、芸術が自然同様、怪物《モンスター》を有し、獣的な形をして恐ろしい声をもったものを有することを考えて彼は奇妙な歓喜を感じた。それでも、しばらくすると彼はそういったものに倦《う》み、独りぼっちであるいはヘンリ卿と一緒にオペラのボックスにすわって「タンホイザー」にききとれ、この一大芸術作品の序曲に自己の魂の悲劇の表現を見るのであった。
あるとき彼は宝石の研究を始め、五百六十個の真珠をちりばめた服をまとい、フランスの提督アンヌ・ド・ジョアイオーズに扮して仮装舞踏会に現われた。この好みは長年にわたって心を奪い、実際のところ一生彼から離れなかったと言えよう。ランプの光にあたると赤くなる、オリーヴ色を帯びた緑の金緑玉、細い銀線の入ったサイモフェイン、|ふすだしゅう《ヽヽヽヽヽヽ》色の橄欖《かんらん》石、淡紅色や葡萄酒の黄色を帯びた黄玉、四筋の光にまたたく星入りの、火のように赤い紅玉、焔の赤さをもつ肉桂《にっけい》石、オレンジ色や紫色の尖晶石、さてはルビーとサファイアの層が交互に入った紫水晶といった色とりどりの蒐集《しゅうしゅう》宝石を、ケースに納めたり取り出したりして、まる一日を過ごすことがよくあるのだった。彼は日長石の赤味を帯びた金色や月長石の真珠のような白さやミルク色のオパールのきれぎれの虹色を愛した。彼は、アムステルダムから特別大型の色彩豊かなエメラルドを三個手に入れたし、あらゆる鑑定家の羨望《せんぼう》のまととなった、年代の古いトルコ玉を持っていた。
彼はまた宝石に関する色々の不思議な物語を見つけだした。アル・フォンゾの「聖職者教育《クレリカリス・ディスチプリナ》」の中には、ほんものの風信子《ヒヤシンス》石の眼をした蛇のことが出ており、アレキサンダー大王のロマンティックな伝記には、このエマシア〔マケドニアの旧名〕の征服者がヨルダンの谷間で「ほんもののエメラルドの輪が背面にできている」蛇を見つけたと言われている。フィロストラトスの語るところによると、竜の脳の中に宝石が宿っていて「金文字と真紅の服を見せると」この怪物は魔法の眠りにとりつかれ、殺すことができるという。偉大な錬金術師ピエール・ド・ボニファスによれば、ダイアモンドで雲隠れすることもでき、印度の瑪瑙《めのう》で雄弁になることもできるという。肉紅玉髄は怒りをしずめ、風信子《ヒヤシンス》石は眠りを催させ、紫水晶は酒気をさます。ガーネットは悪魔を払い水腫石は月からその色を奪う。透明石膏は月と共に満ちたりかけたりし、盗賊を発見する舐瓜石《メロシウス》は子|山羊《やぎ》の血によってのみ影響を受けるといわれた。レオナーダス・カミラスは殺したばかりのひきがえるの脳髄からとりだした白い石を見たがこの石はある種の解毒剤となるものであった。アラビアの鹿の心臓の中に発見せられる糞石《ふんせき》は疫病をなおすまじないであったし、アラビアの鳥の巣の中には清浄石があり、デモクリタスによれば、それは身につけていると、いかなる火難をも逃れるということであった。
セイランの王は戴冠式《たいかんしき》の時、大きなルビーを手にして市中を騎《の》り回した。洗礼公ヨハネの宮殿の門は「何人も毒薬を持ちこめないように角ある蛇の角をちりばめた肉紅玉髄でつくられていた」破風《はふ》の上には、「中に二個の紅玉が入った二個の金の林檎《りんご》があり」、昼はその金が光り、夜はその紅玉が光るのだった。ロッジの奇談「アメリカの真珠雲母《マーガライト》」の中の話によると、女王の寝室では「銀で浮き彫りになった世界中の貞女たちが橄欖《かんらん》石、紅玉、サファイア、エメラルドの美しい鏡からのぞいている」のが見られるのであった。マルコ・ポーロはジパングの住民たちが死人の口の中へ薔薇色の真珠を入れるのを見た。ある海の怪物は、潜水夫がペロージズ王に献上した真珠を恋い求め、その盗人である潜水夫を殺し、七か月の間真珠の喪失を嘆き悲しんだのであった。プロコピウスの話によると、匈奴《きょうど》がその王を大きな坑《あな》の中へおびき込んだ時、王はその真珠を投げすててしまい、アナスタシウス皇帝が金貨五百貫を賭《か》けたがついに発見できなかったという。マラバルの王はあるヴェネチア人に三百四個の真珠でできた数珠《じゅず》を見せたことがあったが、その真珠の一つ一つは彼の礼拝する一柱ごとの神にささげられたものであった。ブラントームによれば、アレキサンダー六世の子ヴァレンチノ公がフランス王ルイ十二世を訪問した際、彼の馬は金箔で飾られ、帽子には二列のルビーが並び、その光り輝く有様は非常なものだったという。英王チャールズの乗馬のあぶみには四百二十一個のダイアモンドが垂れていた。リチャード二世のルビーをちりばめた上衣は三万マルクと評価されていた。ホールの記すところによると、ヘンリ八世は戴冠式に先立ってロンドン塔におもむく途中、「金を浮き出しにした上衣を着、ダイアモンドその他の宝石で縫いとりをした胸衣をつけ、大型のルビーの飾り帯を首の周りに」つけていたという。ジェイムズ一世の寵臣たちは、金線細工にはめこんだエメラルドの耳環をつけていた。エドワード二世はピアズ・ゲイヴストンに風信子《ヒヤシンス》石をちりばめた赤金の鎧《よろい》一揃、トルコ玉をはめた金の薔薇の頸章、真珠をちりばめた鉄冑《てっちゅう》を与えた。ヘンリ二世は宝石をちりばめた肘《ひじ》まで達する手袋をはめ、十二個のルビーと五十二個の上質真珠《オリエント》を縫いつけた鷹狩用手袋を持っていた。最後のブルゴーニュ公だった大胆公シャルルの公爵帽には、梨型の真珠がさがっていて、サファイアがちりばめてあった。
かつて人生はなんといみじくもみごとだったことか! 華麗さと装飾の点でなんと|けんらん《ヽヽヽヽ》だったことか! 先人の豪奢《ごうしゃ》のあとを読むさえ驚くばかりである。
次に彼は、刺繍《ししゅう》と、ヨーロッパ北方諸民族の寒冷な部屋の壁画の役割を果たした綴織《つづれおり》に注意を向けた。この問題を探究するにつれて――しかも彼は、取りかかるいかなる事柄にもその場はまったく夢中になってしまう異常な能力を常にそなえていたのであるが――時の流れが、美わしい驚異的なものに対してもたらした破滅のあとを思うと、彼は悲しくなるほどであった。とにもかくにも彼のみはそれを逃《のが》れたのだ。夏は夏につづき、黄水仙は幾度となく咲きまた凋《しぼ》み、恐怖の幾夜はその恥辱の物語を繰り返したが彼は変わらぬ姿をとどめていた。いかなる冬も彼の顔をそこなうことはなく、花の如《ごと》き盛りの美しさを汚《けが》すこともなかった。それが物質的なものとなると、なんという相違のあることか! それらのものはどこへ逝《い》ってしまったのか? 女神アテナを喜ばすため日焼けした乙女たちが織ったサフラン色の大いなる衣――それには神々が巨人どもを相手に戦っている有様が描かれていた――あれはどこにあるのか? ローマのコロセウムに皇帝ネロが張りめぐらしたあの巨大な天幕、すなわち星空と金色の手綱《たづな》をつけた白い軍馬の曳く戦車を駆るアポロの姿とを描いた紫の巨大な帆布はどこへ行ったのか? 太陽の神の司祭のために織られ、饗宴に必要なありとあらゆる山海の珍味の描かれている珍しいテーブルナプキン、三百ぴきの金の蜜蜂の模様のあるチルペリック王の屍体布、ポントゥスの司教を憤慨させた、「実際画家が自然から写し得る限りのもの――ライオン、豹、熊、犬、森、岩、猟師」を描いた風変わりな衣、オルレアンのシャルルが着ていたあの上衣――その袖に「マダム、僕は最高に嬉しい」ではじまる歌が刺繍され、その伴奏の楽譜が金糸で縫いつけてあり、当時四角形だった音符の一つ一つが四個の真珠からできていた――こうした様々のものを彼は切に見たいと願ったのである。ブルゴーニュの女王ジャンヌのためにランスにある宮殿内にしつらえられた一室は「王の紋章《もんしょう》を描いた刺繍づくりの千三百二十一羽の鸚鵡《おうむ》と、その翼《つばさ》が同じく女王の紋章で飾られた五百六十一羽の蝶で飾られ、すべて金細工だった」ことを彼はものの本で読んだ。カトリーヌ・ド・メディシスは、三日月と日輪をあしらった黒いビロードの喪の寝床をつくらせた。その帷帳《とばり》は綾緞子《あやどんす》で金と銀の地の上に葉の多い花環と花飾りをうき出させ、真珠の刺繍でふちどり、寝台は、銀の布の上に黒いビロードを裁《た》ってあらわした女王の紋章が列をなしてかかっている部屋に置かれていた。ルイ十四世の部屋には高さが十五フィートもある、金の刺繍を施した女人柱像があった。ポーランド王ソビエスキの来賓用寝台は、コーランの句をトルコ玉で刺繍したスミルナの金襴《きんらん》でできていた。その寝台の支柱は美しい浮彫を施した銀めっきでできていて、七宝流しや宝石飾りの円形浮彫がふんだんに施されていた。それはウィーン包囲のトルコ陣営からとって来たもので、マホメットの旗が金を塗ったそのふるえる天蓋の下にかつて立っていたこともあったのだ。
かくして彼はまる一年間、見出しうる限りの織物や刺繍の最も精巧な標本を集めようとかかった。金糸の掌《てのひら》状の葉と光彩陸離たる甲虫《かぶとむし》の羽を一面に縫いつけた精巧なデリー産のモスリン、あまりの透明さに東洋では「空気の織物」「流れる水」さては「夕の霧」という名で知られているダッカ産の紗《しゃ》、ジャヴァ渡来の奇妙な模様の布、精緻《せいち》な中国産の黄色い掛け布、朽葉《くちは》色の繻子《しゅす》や青絹で装丁し、いちはつ、鳥、その他の像を刺繍した書籍、ハンガリーの手編レース製の網細工のヴェール、シチリアの金襴、硬いスペインビロード、金色の貨幣模様のあるグルジア地方の刺繍、さては緑色を帯びた金糸にすばらしい羽をした鳥の描かれた日本の袱紗《ふくさ》といったものだった。
実際彼は教会の儀式に関連したあらゆるものに好みを持ったが、法衣に対して特別の好みを持っていた。彼の屋敷の西側の回廊に並んでいる杉の長櫃《ながびつ》の中には、まさにキリストの花嫁の衣装の珍しい美しい標本をたくさん蔵していた。そしてこの花嫁は、自ら求める苦悩にやつれ、自ら加える苦痛のゆえに傷つけられた蒼白《あおじろ》い、断食にやせ衰えた肉体を隠すために、紫衣を着、宝石をつけ、立派な下着を着なくてはならないのだ。彼は真紅の絹と金糸の緞子《どんす》とで織った豪華な長袍《クープ》を持っていた。それには、おきまりの六枚|花奔《かき》の花模様の中におさまった金のざくろがいくつもばらまかれ、その先には両側に小粒真珠細工のパイン・アップルの意匠があらわされていた。金襴《きんらん》の帯は聖母一代のいくつもの場面をあらわす部分にわかれ、聖母|戴冠《たいかん》は頭巾の上の色つきの絹であらわされていた。これは十五世紀イタリア産のものであった。もう一つ別の長袍《クープ》はハート型をしたアカンサスの葉が集団をなして縫いつけられた緑のビロード製のものだった。その葉から茎の長い白い花が拡がり、その花の細部は銀糸と色つき水晶とで浮き立たせてあった。長袍《クープ》のとめがねは金糸を浮き出しにして、天使《せラフ》の頭をあらわしたものだった。金襴の帯は赤と金の絹の菱形模様で織ってあり、いくたの聖者や殉教者たちの円形肖像がちりばめてあり、その中に聖セバスチャンも含まれていた。彼はまたチャズブル〔儀式用の袖無僧衣〕を種々蔵していて、琥珀《こはく》色の絹のもの、青絹に金襴のもの、黄色の緞子と金糸の布からできたものなどがあり、それらにはキリストの受難と磔刑《はりつけ》の絵がかかれており、ライオン、孔雀その他の姿が刺繍されていた。またチューリップ、海豚《いるか》、イチハツなどの装飾のある白|繻子《しゅす》や桃色綾緞子のダルマティック袍衣《ほうい》、真紅のビロードや青いリンネルでできた祭壇正面掛布、聖杯布、聖面布《スダリウム》が多数あった。こういった様々のものが使用に供せられる神秘的な儀式には、何か彼の想像力を刺激するものがあったのである。
というのは、これらの財宝や彼が美しい邸宅の中に蒐集するすべてのものは、彼には忘却の手段となり、時折りほとんど堪えがたいまでに思われる大きな恐怖からの逃避手段となるべきものだったから。少年時代の多くの時間をそこに過ごした、今では閉め切りの淋《さび》しい部屋の壁に、彼は自らの手であの恐るべき肖像画を掛けたのだった。而《しか》してその絵の変わり行く容貌《ようぼう》は彼の生活の真の堕落を彼に示した。そして彼はその絵の前に、カーテン代用に紫と金色の模様のある棺衣を掛けたのだった。幾週間にもわたってそこへは行こうとしないで、あの恐ろしい肖像画のことを忘れ果て、軽快な心、驚くべき快活さを取り戻し、再び単なる生存に熱中して我を忘れるのであった。かと思うと、突然とある晩、わが家をこっそりと抜け出して、ブルー・ゲイト・フィールズ付近の悪所におもむき、来る日も来る日も追い払われるまでいつづけるのであった。帰って来ると絵を前にして、絵にも自分にも愛想をつかすかと思うと、また時には、半ば罪のある魅力ともなっている個人主義の誇りを感じつつ、本来自分自身のものとなるべきはずの重荷を負わされるこの醜い影をみて、心ひそかな快感にひたってほくそ笑むのであった。
数年たつと、彼は英国から長期にわたって離れているのが堪えられなくなって、ヘンリ卿と共有のトルヴィーユの別荘も、一度ならずヘンリ卿と共に避寒に行った、アルジェのあの塀をめぐらした、白亜の小じんまりした家も手放してしまった。彼は自己の生の一部となりきったこの絵から離れることを極度に嫌《きら》い、またいっぽう、入念に扉に閂《かんぬき》をとりつけたにもかかわらず、留守中誰かがその部屋に入り込みはしないかと心配だった。
こんなことぐらいで、世間の人の何もわかりっこないことは彼にはよくわかっていた。なるほど、例の絵は顔のけがらわしさと醜さの陰にも、なおはなはだしく彼と似通ったところをもっていたものの、それだけで世間の人に何がわかろうと言うのだ。自分をののしろうとする奴《やつ》は誰かまわず嘲笑《ちょうしょう》してやろう。描いたのは|おれ《ヽヽ》じゃない。絵がいくら下劣に恥ずかしいものに見えても、それが自分にとってなんだ? 自分から進んで人に話しても、おそらく信用してもらえまい。
だがやはり、心配だった。時にはノッティンガムシャーの大邸宅で、彼の主要な仲間である若い貴族のモダンな連中を歓待して贅沢三昧の豪華を誇る生活様式で一群の人々をあっと言わせているときでも、突然、賓客を置き去りにしてロンドンに舞い戻り、扉がいじられていないか、絵が無事にそこにあるかを確かめるのであった。もしも絵が盗まれでもしたら? ちょっと考えるだけでも恐ろしさにぞっとするのだった。そうなると、世間もきっと彼の秘密を知るだろう。ひょっとすると、世間はすでに怪しんでいるのかも知れない。
なぜなら、彼は多くの人々を魅了したが、彼を信用しない人間も少なくなかったから。生まれからいっても、社会的地位からいっても、彼としては充分その会員になる資格がある、ウエスト・エンドのあるクラブから彼は危うくのけものにされそうになったことがあった。噂《うわさ》によると、あるときチャーチル・クラブの喫煙室へある友人に伴われて入っていくと、ベリック公ともう一人の紳士がこれ見よがしに立ち上がって出ていってしまったという。二十五歳を過ぎた頃から彼について奇妙な噂が伝わりはじめた。ホワイトチャペルのはずれにある下等な魔窟で外人水夫と口論しているところを見られたとか、泥棒や|にせ《ヽヽ》金つくりのやからと交わって、その稼業の秘密を心得ているとかいう話だった。彼が家を空けるのは有名なもので、交際場裡へ再び顔を出すと、人々は隅っこで互いに耳打ちをし合ったり彼の前を通っても微笑を見せたり、冷たいさぐるような眼で彼をみつめるという次第で、まるで彼の秘密をあばいてやろうと考えているかの様子だった。
かかる不遜《ふそん》な振舞や下心ある軽蔑にたいしてもちろん彼はいっさい頓着せず、大多数の人の意見では、彼のあけすけな浮き立つような様子、魅力ある子供っぽい微笑、彼から少しも消えそうに見えないあのすばらしい若さのかぎりない美しさというものが、それだけで、彼について言いふらされた中傷――世間の人はそう名付けたのだが――にたいするじゅうぶんな解答だった。しかし彼ともっとも親しくしていた人たちの中には、しばらくして彼を避ける様子が見えたと言われる。かつて彼をむやみに崇拝し、彼のためにはあらゆる社会的非難を物ともせず、旧来の習慣を無視した婦人連も、ドリアン・グレイが部屋へ入って来ると、はずかしさとか恐ろしさに顔が蒼《あお》ざめるのが見られた。
だが多くの人の眼からすると、かかるひそやかな醜聞も彼の奇妙なまた危険な魅力を増すばかりであった。彼が大金持ちだということも、たしかに彼の身を安全にしてくれる一要素だった。社会――少なくとも文明的なそれ――は、金があって心ひきつけるような人間の仇《あだ》になるようなことは、何一つ信じようとしないものなのだ。その社会が本能的に感ずることは、礼儀作法のほうが身持ちよりも大切だということであり、この社会の意見からすれば、最高の品行方正ということも、良いコック長をかかえていることほどにも価値のないことなのである。まずいディナーや不当な酒をふるまう人が、私生活の面で非のうちどころがないというのは、まことにお粗末ななぐさめにしかならないというものだ。いつかヘンリ卿がこの問題に関して言ったように、冷えかかったアントレ〔魚と肉との間に出る料理、英国では焼肉の前に出る〕の埋め合わせは基本的な美徳〔cardinal virtues のこと。justice, prudence, temperance, fortitudeの四つ。キリスト教では hope, faith, charity を加えて七徳とする〕をもってしてもだめなのだ。ヘンリ卿のこの意見を弁護する余地はおそらく相当あろう。なぜならば、上流社会はその非現実性と共に儀式ばった威厳を必要とし、ロマンティックな劇のもつ不誠実さと、かかる劇を観客に面白く見せる機知並びに美とを結合させる必要があるのである。不誠実さというのはそれほど恐るべき事柄だろうか? そうは思われない。それはわれわれの人格を複雑多様にする一方法にすぎないのだ。
ともかく、これがドリアン・グレイの考え方だった。彼は人間における自我《エゴ》を単純な、永遠の、信頼に足る、そして一つの要素よりなるもの、として考える人たちの浅薄な心理に驚くのが常だった。彼にしてみれば、人間は無数の生と無数の感覚を持った存在であり、その中に思想と情熱の奇妙な遺産をうけついでおり、その肉体そのものまでが先人の奇異な疾病《しっぺい》で汚されている複雑多様性のものなのである。彼は田舎にある邸宅の寒々とした画廊をさまよい、彼にその血を伝えたいろいろの人の肖像を眺《なが》めるのが好きだった。まずフィリップ・ハーバート。彼はフランシス・オズボーンの「エリザベス女王並びにジェイムズ王治世懐古録」によれば「美貌《びぼう》の故に宮廷の人々の寵を受けたが、その美貌も長くは彼のもとに留まらなかった」のである。ドリアン・グレイが時折り営む生活は、若き日のハーバートのそれなのだろうか? 何か有毒な病原菌が肉体から肉体へ伝わって、ついに自分まで及んだのであろうか? 自分の生活をこんなにも変えてしまったあの気狂いじみた祈りを、あれほど突然、しかもほとんどわけもなくバジル・ホールワードの画室で言わせたのは、あの滅びた美しさに対するおぼろげな感覚だったろうか? さらに金の刺繍を施した赤い緊着胴衣《ダブレット》に宝石をちりばめた陣羽織《じんばおり》、金のふちどりをした襟《えり》ひだと袖口という恰好《かっこう》で銀色と黒の鎧《よろい》を足もとに積み重ねて、アントニー・シェラード卿が立っている。この人が自分に残してくれたのは何か? ナポリのジョヴァンナの恋人だったこの人は罪と恥辱の遺産をいくらか残してくれたのだろうか? ドリアン自身の行動は、単にこの過去の人が実現できなかった夢にすぎないのだろうか? さらに色の褪《あ》せかかった画布からエリザベス・デヴァルー夫人が、紗《しゃ》の頭巾をかぶり、真珠を飾った胴衣を着て、切口《スラッシュ》を開けた桃色の袖《そで》をつけて微笑《ほほえ》んでいる。右手には一輪の花を持ち、左手は白と石竹色の薔薇の花模様のある七宝の頭飾りをしっかりとつかんでいる。彼女の傍のテーブルにはマンドリンと林檎《りんご》が描かれている。彼女の小さいとがった靴には大きな緑色の薔薇形飾りがついている。彼はその婦人の生涯と彼女の恋人たちについての奇妙な話を知っていた。彼女の気質のいくぶんでも受けついでいるのだろうか? 例のあの卵型の瞼《まぶた》の重い眼が、もの珍しそうに彼を眺《なが》めているかの様子だ。髪に粉をふりかけ、奇妙な顔粧《かおかざり》をつけているジョージ・ウィロビーはどうであろう? なんという悪相だ! その顔はむっつりとしていて浅黒く、肉感的な唇は軽蔑にゆがんでいるように見える。優美なレースの襞飾《ひだかざ》りが、指輪をべた一面にはめたやせた黄色い手にかかっている。彼は十八世紀のイタリアかぶれのしゃれ者で、若い頃にはフェラズ卿の友人だった。摂政皇太子《プリンス・リージェント》が最も放埓《ほうらつ》をきわめた時代の友人で、皇太子とフィツハーバート夫人との秘密結婚の証人の一人である二代目ベックナム卿はどうであろう? 栗色の巻毛と横柄《おうへい》なポーズをしている彼の姿は、なんと尊大で立派に見えることだろう! どのような情熱を彼は伝えたのだろうか? 世間では破廉恥漢《はれんちかん》と見なされていた。彼がカールトン・ハウスの底抜け騒ぎを先導したのだ。ガーター勲章が彼の胸に輝いている。傍には顔の蒼《あお》ざめた唇のうすい、黒衣の彼の妻の肖像画が掛っている。彼女の血もまた自分の身内にたぎっているのだ。すべてがなんと奇妙なことか! 最後にハミルトン夫人風の顔をして、しめった、葡萄酒のかかった唇をしている母――彼女から何をもらっているのか自分にもよくわかる。自分の美貌と、他人の美に対する情熱なのだ。彼女はゆったりした、バッカス神奉仕尼の服装をまとって彼に笑いかけている。髪には葡萄の葉をさしていて、紫の液が彼女の持つ杯《さかずき》からこぼれおちている。絵の肉色はあせても、眼が依然として深い輝かしい色をあらわしているのは驚くばかりだ。その眼は、彼がどこへ行ってもついてくるかに見える。
しかし、自分の一門においてはもちろんのこと、文学上にも先祖というものがいる。しかもその多くは型においてまた気質において、ずっと近いものだ。しかもそういう型や気質の感化力を意識することはさらに強いのである。時として、全歴史が単に自分自身の生活の記録にすぎないとドリアン・グレイに見えるようなこともあった。しかもそれとても、行為や環境において彼が生きたようなものとしてではなく、彼の想像力が創造したもの、彼の頭の中に、彼の情熱の中にあったものとしてであった。これらすべての者すなわち世界のステージを横切って過ぎて行き、罪をかくまですばらしいものとなし、邪悪をかくも微妙なものとなした不思議な恐ろしい人物を、すでに知っていたという感じがしたのだ。なにかしら神秘的な方途《ほうと》でもって、彼らの生活が自分自身のものだったというふうに思われた。
彼の生活に深く影響したあの驚異的な小説の主人公自身も、この奇妙な空想をしていた。この小説の第七章で主人公は語っている――雷電に撃たれまいと月桂樹の冠をいただいて、ローマ皇帝ティベリウスよろしくカプリの島のとある庭園に坐して、矮人《わいじん》や孔雀が気取って歩き回り、笛吹きが香炉《こうろ》を揺する人を嘲笑している中に、エレファンティスのいかがわしい書物を読み耽《ふけ》ったことを。さらにまた、ローマ皇帝カリグラとして、緑のシャツを着た博労《ばくろう》どもと馬屋の中で酒宴を開き、宝石を飾った額紐をかけた馬とともに象牙の秣桶《まぐさおけ》で夕食をしたことを。さらにはまた、ローマ皇帝ドミティアヌスとなって、命を断つべき短剣が映るのを、やつれ衰えた眼で追い求めつつ、人生に何一つ不足のない人たちにおそって来るあの恐ろしい|生の倦怠《アニュイ》にうんざりしながら、大理石の鏡の並んだ通廊をさまよい歩き、澄んだエメラルドをすかして血染めの修羅《しゅら》の巷《ちまた》なす闘技場をのぞき、次に銀の靴をはいた騾馬《らば》のひく真珠色と紫色をしたかごにのせられて、「ざくろの街」を通って「黄金の館」へと運ばれ、道みち人々が皇帝ネロに哀訴する声を耳にし、またエラガバルス〔ローマ皇帝、淫蕩をもって有名〕となっては顔を彩《いろど》って女たちに交ってせっせと糸を紡ぎ、カルタゴから月の女神を伴って太陽神と神秘的な結婚をさせたことを。
ドリアンはこの奇怪な章とすぐそれにつづく二つの章を繰り返し繰り返し読むのが常だった。その二つの章では珍しい綴織《つづれおり》や巧妙につくりなされた七宝細工の絵に見られるように、「悪徳」「血」「倦怠」から怪異にまた狂暴になった人々の恐ろしくも美しい姿が描かれているのであった。すなわち、妻を殺し、死んだその愛妻の口から彼女の恋人が死を吸いとるようにと、唇に緋色《ひいろ》の毒を塗ったミラノ公フィリッポのこと。虚栄心のあまり、美男子《フォルサモス》の称号を僭称《せんしょう》せんことを求め、当時二十万フロリンと値踏みされた三重冠――それも恐ろしい大罪を犯してあがなわれたものなのだが――の持ち主にしてパウロ二世として知られたヴェネチア人のピエトロ・バルビのこと。生きている人間を追いたてるために猟犬を使い、彼が殺害されたとき、その死体は彼を愛した娼婦《しょうふ》のささげる薔薇の花で埋められたというジャン・マリア・ヴィスコンティのこと。「兄弟殺害神」をかたわらに、ペロットの血で汚されたマントを着て白馬にまたがったボルジアのこと。その人の美貌に匹敵《ひってき》するものとてはその人の淫乱《いんらん》のみであり、ニンフや半人半馬獣が沢山いる、白と紅の絹の大天幕に、アラゴンのレオノーラを迎え、酒宴の席にガニメデ〔ゼウスのため酒の酌をしたトロイアの美少年〕やハイラス〔ヘラクレスに愛せられた美少年〕のように奉仕せしめるために、少年に金を塗った人、すなわちフィレンツェの若い大司教でシックストス四世の寵愛《ちょうあい》する子供であるピエトロ・リアリオのこと。死の光景を見ることによってのみ陰鬱《いんうつ》がいやされ、人が赤い葡萄酒を求める如《ごと》く赤い血を切望し、噂《うわさ》によれば、「悪魔の子」であり、自己の魂を賭けて父親と賭博をしている時に彼をペテンにかけた男エゼリンのこと。|罪なきもの《イノセント》の名を嘲弄《ちょうろう》的に用い、麻痺したその血管の中へユダヤ人の医者の手で三人の若者の血を注ぎ込んだジャンバティスタ・チボーのこと。神と人との敵としてローマにおいてその像を焼かれ、ナプキンでポリセナの首を絞め、エメラルドの杯でジネヴラ・デステに毒を飲ませ、恥ずべき欲情を祝して、キリスト教徒の礼拝のために異郷の教会を建てたリミニの領主にしてイソッタの恋人なるシギスモンド・マラテスタのこと。弟の妻を熱愛するあまり、ある癩病《らいびょう》患者から気狂いになると警告され、いよいよ頭が変になったとき、「愛」と「死」と「狂気」の姿が描かれたサラセンの骨牌《かるた》によってのみ心慰められたシャルル六世のこと。さては、飾りを施した短上衣《ジャーキン》を着、宝石つきの帽子をかぶり、アカンサスのごとき巻毛をしたグリフィネット・バグリオニ――彼はアストレをその花嫁もろとも殺害し、シモネットをその近習と共に殺害したが、彼の眉目《びもく》のあまりの秀麗さのため、ペルシアの黄色い広場に死に倒れていた時、今まで彼を憎んでいた人たちといえども泣かざるを得なかったし、彼を呪っていたアタランタも彼を祝福したほどだったことなど。
それらすべてには、奇妙な魔力がひそんでいた。夜それを読むと、白昼も彼の空想はそれに悩むのであった。ルネサンス時代の人々は毒殺の種々珍しい様式を心得ていた――ヘルメットと燃える松明《たいまつ》、刺繍を施した手袋と宝石をちりばめた扇、金箔《きんぱく》つき香錠入れ、琥珀《こはく》の鎖などによって毒殺する方法を。ドリアン・グレイは一冊の書物によって毒せられたのだった。時折り彼は悪を美の概念を実現する一様式と見なすにすぎないことがあったのである。
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第十二章
忘れもしない、それは彼の第三八回の誕生日の前夜なる十一月九日のことだった。
ヘンリ卿の家で食事をして、十一時頃家に帰る途中だった。そしてその夜は寒くて霧が深かったので、厚い毛皮の外套《がいとう》にくるまっていた。グロヴナー広場と南オードレイ街の交わる角で、鼠《ねずみ》色のアルスター外套の襟《えり》を立て、非常に足早に霧の中で彼を追い越した一人の男があった。男は鞄《かばん》を手にしていた。ドリアンにはそれがバジル・ホールワードだということがわかった。わけのわからぬ奇異な恐怖感が襲って来た。彼はまったくそしらぬふりをして、急ぎ足で自分の家の方へ歩いて行った。
ところが、ホールワードのほうはすでに彼を見ていた。ドリアンは画家がまず舗道に立ち止まり、つぎに急いであとを追ってくる足音を聞いた。すぐに画家の手が彼の腕をおさえた。
「ドリアン! 実に幸運だ! 僕は九時からずっと君の書斎で君の帰りを待ってたんだ。しまいに、疲れた君の召使が気の毒になって、僕をおくり出してくれたときはやくやすむよう言ってやったよ。僕は真夜中の汽車でパリへ発《た》つ。だから特に発つ前に君に会いたかったんだ。僕の傍を通り抜けたとき、はっきり君だと、いやむしろ君の毛皮の外套だと思ったんだが、自信はなかった。僕だってことがわからなかったかい?」
「バジル、この霧だというのに? もちろん、そりゃ僕としちゃ、グロヴナー広場さえどこだかわからないくらいなんだ。確か僕の家はこの辺りだと思うんだが、どうもはっきりしない。君に行かれるのは辛いね。ずいぶん長く会わなかったんだから。じきにまた帰って来るんだろう?」
「いや、ちがう。半年間英国を離れる予定だ。パリにアトリエを借りて、今考えてる一大傑作を完成するまで、そこに閉じこもるつもりだ。だが、話したいと思ったのは、僕自身のことじゃなかったんだ。もう君の家の入口だね。ちょっとお邪魔させてもらうよ。君に一言いいたいことがあるんだ」
「そいつはとても嬉《うれ》しい。だが、汽車は大丈夫?」ものうい調子でドリアン・グレイは言って、階段を昇り、鍵で表戸を開けた。
ランプの光は霧を通してやっと届くほどで、ホールワードは懐中時計を見た。「時間はたっぷりある」と彼は答えた。「十二時十五分まで汽車は出ないし、それにまだ十一時になったばかりだ。実はクラブへ君を探しに行く途中で君に会ったというわけさ。ほら、重い荷物は全部発送ずみだから、荷物のことで遅れる心配は全然ない。僕の持物はいっさいこの鞄《かばん》の中だ。だから、ヴィクトリア駅へは二十分で楽々行けるわけだ」
ドリアンは彼を見て微笑《ほほえ》んだ。「流行画家のお出かけにしちゃずいぶん手軽だね! グラッドストン鞄一つにアルスター外套だけってわけか! さあ、入って、さもないと霧が家の中へ入って来る。いいかい、真面目な話は止してくれたまえ。今日、真面目なものは何一つないんだから。少なくとも、何一つ真面目であっちゃいけないんだ」
ホールワードは入りながら首を振ってドリアンについて書斎に通った。大きなひろい炉《ろ》にはあかあかと薪《まき》が燃えている。ランプがともり、寄木細工の小テーブルには、ソーダ水のサイフォンとカットグラスの大杯と一緒にオランダ製の銀の酒入ケースが開けっぱなしになっている。
「ドリアン、君の召使がとてもくつろがせてくれたんだ。僕の欲しいものは何でもあてがってくれてね。例の君のとっておきの金口の煙草までも出して。実にもてなしのいい男だな。前にいたフランス人の召使より、あのほうがずっと好きだ。時にあのフランス人はどうした?」
ドリアンは肩をすぼめた。「あいつ、たしかラッドレイ夫人の女中と結婚して、パリで彼女を英国流のドレス・メーカーに仕立てたんだ。目下パリじゃ英国心酔熱《アケグロマニー》が大流行だそうだ。フランス人も馬鹿なことをやるもんだね。でも――君が知ってるかどうか――あいつは決して悪い召使じゃなかった。虫の好かない奴《やつ》だった。といって、別に不平をいう点もない男だった。人間って奴は、よく実に馬鹿げたことを考えるものだ。あいつは実際よく仕えてくれて、ひまをもらう時は、ずいぶん悲しそうだった。ブランディソーダをもう一杯どう? それとも白葡萄酒をセルツァーソーダで割ったのがいい? 僕はいつもこれにしている。たしか隣の部屋にあったはずだ」
「ありがとう、もう充分」と帽子と外套を脱いで、片隅に置いた鞄《かばん》の上に投げながら画家は言った。「さて君、真面目に一つ話したいと思うんだ。そんなにしかめ面するなよ。とても話しにくくなってしまうじゃないか」
「いったい全体なんのこと?」とドリアンはソーファに身を投げてむっとした調子で叫んだ。「僕のことでなかったらいいがね。今夜は自分という人間に飽《あ》き飽きして、誰かほかの人間になりたいところなんだ」
「君自身のことだ」とホールワードは重々しい底力のある声で言った。「しかも、ぜひ君に言わなくちゃならないんだ。たった三十分でいいんだ」
ドリアンは溜息《ためいき》を吐いて巻煙草に火をつけ「三十分!」とつぶやいた。
「ドリアン、大したお願いでもない。それに僕がこう言ってるのも、まったく君自身のためなのさ。君も知っておいたほうがいいと思うんだが、ロンドンじゃ君の悪評はとてもひどいもんだ」
「そんなこと何も知りたくない。他人の醜聞《スキャンダル》は好きだけれど、自分のスキャンダルなんかぞっとしないさ。新味の面白さというものがてんでないんだから」
「ドリアン、面白くないはずがない。紳士は誰だって善《い》い噂《うわさ》をたてられることに関心を持つからね。君は他人に嫌《いや》な下品な噂をたてられることを望まないわけだ。もちろん、君には身分だの金だのそういったものがそなわっているさ。だが、身分や金がすべてじゃない。よく聞いてくれ、僕はこんなデマなんか全然信じやしない。少なくとも、君に面と向かうと信じられなくなるんだ。罪悪は人の額に書かれるものだ。隠しおおせるものじゃない。人は時々隠れた悪事を言うもんだが、そんなものはありゃしない。もしもあさましい奴《やつ》が悪事をしておれば、それは口元とか伏し目になる瞼《まぶた》とか手の恰好《かっこう》にさえ自然にあらわれるものなんだ。ある人――名前は言いたくないが、君はその男を知っている――が去年僕のところへやって来て肖像画をかいてくれと言った。以前彼に会ったこともないし、当事は何も噂をきいていなかったが、あとになったずいぶん聞かされたものだ。法外な謝礼を出すと言ったが僕は断った。その男の手の指の形に僕の嫌なところがあったんだ。今じゃ僕の想像がまったく当たったことを知っている。その男の生活は実にひどい。だが、君に限って、ドリアン、その澄んだ晴れやかな無邪気な顔付きとなんの屈託もない若さを見ると、君についての悪口なんかとても信じられないんだ。だが、君にはめったに会わないし、今じゃ僕のアトリエにもちっともやって来ない。それに、君から離れていて、君のことで世間のいまわしいひそひそ話を聞くと、なんといっていいかわからない。ドリアン、君がクラブへ顔を出すと、ベリック公爵のような人が席をはずすというのはなぜなのか? ロンドン中のたくさんの紳士連が君を訪ねもしなければ、招待もしないのはどうしたわけなのか? 君はもとステーヴレイ卿の友人だった。先週僕は、ディナーの席で彼に会ったんだ。ダッドレイの展覧会に君が貸した微細画のことで、偶然君の名前が出たのさ。ステーヴレイが口をゆがめて言うのに、君はまったく芸術趣味たっぷりな人間だろうけれど、心の純潔な娘が知り合いになったり、貞淑な婦人が同室すべき男じゃないんだって。僕が君の友人だってことを彼に言ってやって、彼がなんのことを言ってるか訊《たず》ねたんだ。すると彼は大勢の前ではっきり言ったよ。まったくひどいことだった! 君と交際することが若い人たちになぜそんなに命とりになるの? 可哀《かわい》そうに自殺した男が一人|近衛《このえ》連隊にいたが、君はその男の親友だった。不名誉なことを仕出かして英国にいられなくなったヘンリ・アッシュトン卿も君とは無二の親友だった。あの恐ろしい果てかたをしたエイドリアン・シングルトンはどうだ? ケント卿の一人息子とその成り行きは? 僕は昨日、セント・ジェイムズ街で彼の父親に会ったけれど、恥と悲しみにひしがれてる様子だった。若いパース公のことはどうだい? 今どんな生活をしてることか? どんな紳士が彼の交際相手なんだろうか?」
「止してくれバジル。君は自分の何も知らないことをしゃべってるんだ」とドリアンは唇をかみ、声に無限の軽蔑の調子をこめて言った。「君は、僕が部屋に入ると、なぜベリックが出て行くか訊《き》いている。そのわけは、僕が彼の生活についていっさいを知ってるからで、彼が僕の生活のいくぶんでも知ってるからじゃない。あの男の血管に流れてるような血の持主で、どうしてその履歴《りれき》が清浄であり得ようか? 君はヘンリ・アッシュトンとパース青年のことで訊《たず》ねている。僕がヘンリにある悪行を教え、パースにあの放蕩《ほうとう》を教えたとでもいうのか? ケントの馬鹿息子が巷《ちまた》の女を妻にしようが、それが僕にいったいなんだというのか? もしもエイドリアン・シングルトンが手形に友人たる僕の名前を書いたら、僕は彼の番人なんだろうか? 英国人のおしゃべりの仕方はちゃんとわかっている。中産階級の連中は、低俗な晩餐の席で連中の道徳的偏見をひけらかして、いわゆる上流の連中の放蕩についてひそひそささやき合う。これも自分たちがしゃれた社交界に出入りして、自分たちがくさす当の連中とじっこんにしてることを見せかけたいからこそなんだ。この国では、人から悪口を言われるのには、名声があって頭がいいことで充分なのさ。さて、自分が道徳堅固だというポーズをするような人間どもは、いったいどんな生活をしてるんだろう? ねえ、君、君は僕たちが偽善者の郷土にいることを忘れてるんだ」
「ドリアン」とホールワードが叫んだ。「それは問題じゃない。英国がずいぶんひどいことも僕にはわかってるし、英国の社交界にいたっては、まったくなってないよ。だからこそ、僕は君に立派になってもらいたい。君は今まで立派にやって来なかった。友人に及ぼす影響でその人を判断する権利は誰にだってある。君の友人連には、名誉心、善良、純潔などの観念はまったく薬にしたくもないようだね。君は彼らの心を快楽に熱中させた。彼らが深みへおちこんで行ったのも、君がそこまでつれて行ったのさ。そうだ、君はそこまでおちこませておきながら、今君がやってるように、ほくそ笑んでいられるんだ。さらにもっと悪いことが後にひかえている。君とハリーとが不可分の関係だってことは、僕にもわかっている。他の理由はともかく、確かにそれだけからでも、君はハリーの妹の名前を物笑いの種にしちゃいけなかったんだ」
「バジル、気をつけてほしい。あんまり言葉がすぎる」
「僕は言わなくてはならぬ、君には聞いてもらわなくてはならん。何がなんでも聞いてもらうよ。君がグエンドレン夫人と知り合いになった時分には、醜聞なんて爪の垢《あか》ほども彼女にまつわったことはなかったんだが、ロンドン中の相当な婦人の一人だって今じゃ、ハイド・パークを彼女と一緒にドライヴしようという婦人はいないじゃないか。それどころか、彼女の子供たちだって一緒には暮らせないんだ。それと、他にも噂《うわさ》が色々ある――明方に君がけがらわしい宿からこっそり抜け出すところを見たとか、君が変装してロンドン中でまたとない不潔な魔窟《まくつ》にこそこそ入って行くところを見たとかいうんだがね。ほんとだろうか? ほんとのはずがない。始めてその噂《うわさ》をきいた時、僕は一笑に付した。今では、それを聞くと身震いが出る。君の田舎の邸宅とそこでの生活はいったいどうなんだ? ドリアン、君は人からどんなことを言われてるのか、わからないんだ。僕は君に説教したくないとは言わない。ハリーの奴《やつ》がいつか言ったっけ、その当座だけ素人副牧師になる奴《やつ》は、いつもはじめに、説教はしたくないと言っておきながら、その口約束を破りにかかるってね。僕は説教したいんだ。世間の人が君を尊敬するような生活ぶりをやって欲しいんだ。名を汚さないで立派な経歴を残してもらいたい。君が交際してる恐ろしい人間どもを追っ払ってもらいたい。そんなに肩をすぼめないでくれたまえ。君はすばらしい感化力の持ち主だ。その感化力を悪いほうにでなく、良いほうに向けて欲しい。人の噂《うわさ》では、君は親しくする人間を全部堕落させるそうだ。きみがある家へ入れば、もうそれで後から不名誉がついて来るというんだ。これが事実かどうか僕は知らない。どうしてそれが僕にわかる? だが、そういう噂だ。どうも疑いかねるようなことを聞いている。グロスター卿はオックスフォード時代の僕の友人の一人だ。彼は細君がマントンの別荘で一人|淋《さび》しく死にかかっているとき、夫宛に書いた一通の手紙を僕に見せてくれた。今まで読んだこともないほど恐ろしい告白の中に、君の名前がかかり合いになって出てきた。それは馬鹿げたことだとグロスター卿に言ってやった――僕には君という人間が完全にわかってること、そんな種類のことは君に限ってとてもやれそうにないってこともね。君のことわかってるって? わかってるかしら。それに答える前に、僕は君の魂を見なきゃならないんだ」
「僕の魂を見るって!」とドリアン・グレイは、ソーファから急に立ち上がって恐怖のあまり蒼白となってつぶやいた。
「そうなんだ」とホールワードは重々しく、声に深い悲しみをたたえて答えた。「君の魂を見るんだ。だが、こいつは神様でなくちゃできない相談だ」
悲痛な嘲笑《ちょうしょう》が、若いほうの男の口からもれた。「今夜はそれを君に見せよう!」とテーブルからランプをつかんで彼は叫んだ。「さあ、くるんだ。君の手に成ったものだ。君が見ていけない理由はない。お望みとあらば、あとからそれを世間に御披露《ごひろう》に及んでくれてもかまわない。君の言葉を信じる奴《やつ》は誰もいないだろう。もしも信じる奴がいれば、それだけますます僕が好きになるだろう。君は現代についてずいぶん退屈なおしゃべりをするだろうが、僕のほうがよく知ってるよ。さあ、行くんだ。君は堕落について充分おしゃべりをやった。今度はいよいよ面と向かってそれを見せてあげよう」
彼の一語一語には狂おしいばかりの高慢さがあふれていた。彼は子供じみた尊大な様子で足をふみ鳴らした。他人が自分の秘密を共有するんだと考えると、また自分のあらゆる恥辱のそもそもの根源である肖像画の描き主が一生の間、自分の作品のいまわしい思い出の重荷を負わされるんだと考えると、烈しい喜悦を覚えた。
「そうだ」と彼は画家の傍に寄って来て、そのきびしい眼をじっとのぞき込みながらつづけた。「僕の魂を見せてあげる。神のみが見ることができると君が考えているものを見せてあげる」
ホールワードははっとしてあとへさがった。「ドリアン、それは冒涜《ぼうとく》だ!」彼は叫んだ。「そんなこと言うもんじゃない。恐ろしいことだ。それになんの意味もないことだ」
「そう思う?」とドリアンは再び笑った。
「そうだと知っている。今夜君に話したことは、君のためを思えばこそなんだ。君も知ってるように、僕はいつも君の信頼できる友人だった」
「僕にさわらないでくれ。言わなくちゃならないことは、あらいざらい言ってしまったらいい」
ゆがんだ苦痛の色が画家の顔にひらめいた。彼はちょっと言葉を切った。すると烈しい憐れみの情がこみ上げてきた。結局のところ、ドリアン・グレイの生活を|せんさく《ヽヽヽヽ》するどんな権利が自分にあるのか? もしもドリアンが噂《うわさ》の十分の一のことをやったとしても、どんなに苦しんだに違いないことだろう! それから彼は姿勢を正して炉端に歩み寄り、灰が霜のようについて焔の中心が脈動している燃木を眺《なが》めて立っていた。
「バジル、僕は待ってるんだ」と若者は硬い冴《さ》えた声で言った。
バジルは振り向いた。「ぼくの言いたいことはこうなんだ」と彼は叫んだ。「君の受けている恐ろしい非難に対する返答をきかせてくれなくちゃいけない。徹頭徹尾絶対に嘘《うそ》だと君が言っても僕は信じるよ。あの非難を否定してくれたまえ! 僕がどんなに辛い思いをするかがわからない? ああ! 君が堕落した、恥ずかしい、悪い人間だなんて僕に言わないでほしい」
ドリアン・グレイは微笑した。彼の口は侮蔑にゆがんだ。「バジル、二階へ行こう」と彼は静かに言った。「僕は毎日毎日生活の日記をかいている。この日記は僕がつけている部屋から絶対に出さないことにしてるんだ。一緒に来るなら、見せてあげよう」
「お望みなら、ドリアン、お供をするよ。汽車にもう間に合わないことはわかってるんだが、別になんでもないさ。明日|発《た》てばいいんだから。だが、今夜はものを読むのはごめんだ。僕の欲しいのは、ただ僕の質問に対するはっきりした返答だけだ」
「二階へ来ればお答えしよう。ここじゃだめだ。読むのに大した時間はとらせない」
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第十三章
彼が部屋を出て階段を昇《のぼ》りはじめると、バジル・ホールワードがすぐあとに続いた。彼らは夜に人が本能的にするように、足音を忍ばせて歩いていった。ランプは壁や階段に奇怪な影を投げた。風が強くなってきて、窓ががたがた揺れた。
頂上の踊り場に行きつくと、ドリアンはランプを床におろし鍵をとり出して錠にさしこんで回した。「バジル、君はどうしても知りたいんだね」と低い声で訊《たず》ねた。
「そうだ」
「それはありがたい」彼は微笑《ほほえ》みながら答えた。そこでいくぶん荒い調子でつけ加えた。「君は僕のことを洗いざらい知る資格のある、世界中でたった一人の人間だ。君は自分で考えるよりはずっと余計に僕の生活に関係があったんだ」そこでランプを取り上げ、扉を開いて入った。冷たい気流が彼らをかすめ、燈火は暗いオレンジ色の焔となって一瞬そばだった。彼は身震いした。「うしろの扉をしめてもらおう」と彼はランプをテーブルに置いてささやいた。
ホールワードは当惑した顔付きをして辺りを見回した。部屋は長年の間人の住んだ様子がなかった。色|褪《あ》せたフランドルの綴織《つづれおり》、カーテンを掛けた絵、古いイタリアの櫃《カッソネ》、さてはほとんど空っぽの本箱――椅子とテーブルの他はこれらが部屋にある限りのもののようであった。ドリアン・グレイが炉棚《ろだな》の上の燃えさしの蝋燭《ろうそく》に火をつけている間に、彼は全体が一面に塵まみれになっていて、毛氈《もうせん》には穴が空いていることを知った。鼠が羽目板のうしろであばれ、しめっぽいかびの香が漂った。
「バジル、それで君は魂を見るのは神様だけだと考えるんだね。あのカーテンをのけたら、僕の魂がわかるだろう」
その声は冷たく残酷だった。「ドリアン、君は気が狂ったんだ。さもなかったら、芝居をしてるんだ」と顔をしかめながらホールワードが口ごもった。
「のけないの? それじゃ僕がのけなくちゃ」と若者は言って、カーテンを竿《さお》からもぎとって床に投げつけた。
恐怖の叫び声が画家の口から発せられた、おぼろげな光の中で、キャンヴァスに描かれたいまわしい顔が彼に笑いかけているのを見た時、絵の表情には、画家の心を嫌悪の情で充たす何かがあらわれていた。なんとしたことか! 彼が眺《なが》めているのは、ドリアン・グレイの顔に他ならぬのではないか! その恐ろしさはどのようなものにせよ、驚くべきその美貌をまったく台無しにしてしまっているのではない。うすれかかった髪の毛には、まだいくぶん金髪の名残りがあり、肉感的な口元には、いくぶん赤味が残っている。酒にぼやけた眼にも、美しい青色が多少残り、上品な曲線も|のみ《ヽヽ》で彫ったような鼻腔や彫刻的な咽喉《のど》からまったく消え失せたわけでもない。そうだ、それはドリアンその人である。だが誰の作なのか? 絵筆の運びはどうやら自分のものらしい。それに額縁も自分の意匠になるものだ。こんな奇怪きわまることがと思いつつも、心配だった。彼は手にした蝋燭をとって絵に向かってかかげた。左隅には鮮やかな朱色で、長字体の自分の署名が読まれるのであった。
それは何かの汚い戯作《パロディ》であり、何かの恥ずべきいやしい諷刺《サタイア》だ。こんなものを描いたためしはない。だがやはり、自分の絵だ。彼にはそれがわかってみると、まるで一瞬にして、全身の血が火から鈍い氷に変わったような気がするのだった。自分の絵だ! これはどうしたことだ? なぜ絵が変わってしまったのか? 彼はふり返ってドリアン・グレイを、病人の眼差《まなざ》しでもって眺《なが》めた。彼の口はゆがみ、乾ききった舌は、言葉を発することもできかねる様子だった。額をなでると脂汗がねっとりとにじんでいた。
若者は炉棚《ろだな》にもたれて彼をみつめていたが、その表情は、名優の演ずる芝居に見惚《みほ》れている人の顔に見られるような奇異なものだった。その表情には、真の悲しみも喜悦もなく、ただ、観客の熱情があるばかりだった、おそらくその眼に得意の色をちらちらとのぞかせて。彼は上衣から花をとって香をかいでいた。否、むしろかぐふりをしていた。
「いったいこれはどうしたことなんだ?」とついにホールワードは叫んだ。自分の声がわれながら甲走《かんばし》って聞こえる。
「僕がほんの子供だった昔」とドリアン・グレイは手の中で花をつぶしながら言った。
「君は僕に会って、僕をちやほやして、僕の美貌に自惚《うぬぼ》れることを教えたんだ。ある日、君は僕を君のある友人に紹介してくれたんだが、その人が青春の驚異を僕に説明してくれたわけさ。そして君は僕の肖像画を完成し、その絵が美の驚異をはじめて僕にわからせてくれたんだ。今でも後悔してるかどうか自分でもわからないあの狂おしい瞬間、僕は一つの願をかけた。君ならたぶん祈りと呼ぶところだろうが……」
「ああ、あの時のことなら、覚えている! ああ、実によく覚えているのなんの! 否! こんなはずはない! 部屋がしめっぽいんだ。キャンヴァスにかびがしみこんだのさ。僕の使った絵具に何かいけない鉱物質の毒が含まれていたんだ。どうしたって、こんなになりっこない」
「ああ、何がなりっこないって?」と若者は窓のところに行き、霧に濡《ぬ》れた冷たいガラスに額を押しあててつぶやいた。
「君は絵を破ったと言ったじゃないか」
「僕の考えが間違っていた。絵のほうで僕を破ったのだ」
「僕の絵だとも思えない」
「君は、その絵に君の理想を認められぬというの?」ドリアンが沈痛な調子で言った。
「君の言う僕の理想は……」
「君の言った僕の理想さ」
「絵には邪悪なものも、はずかしいものも何一つなかったんだ。君は二度と会えない一つの理想だった。こいつはまるで半獣半人神《サター》〔好色で有名な森の神〕の顔だ」
「それが僕の魂なんだ」
「驚いたね! こりゃ大変なものを崇拝していたに違いない! 眼はまるで悪魔だ」
「バジル、僕たちはみんな天国と地獄をうちに持ってるんだ」ドリアンは、絶望をあらわす狂おしい身振りをみせながら言った。
ホールワードは再び絵のほうに向き直って、それをしげしげと眺《なが》めた。「ああ! もしもこれが本当なら」と彼は叫んだ。「そしてこれが君のやってきた生活だったら、もちろん、君を悪く言う連中の考えるより、もっともっといけないんだ!」彼は再び燈火をかかげて絵を調べた。表面は別に変わった様子もなく、もとのままらしかった。ぞっとするようないやらしさは、内部から来たものであることは明らかだ。内的生命が不思議に生気づいてきて、罪のいまわしい堕落がおもむろにこのものを食いへらして行くのだ。水を含んだ墓場の中で死骸が腐っていっても、これほどまで恐ろしいものではない。
彼の手が震えて、蝋燭は蝋燭|承《う》けから床に落ちてぱちぱち音をたてていた。彼はそれを踏み消してから、傍のぐらぐらした椅子に身を投げて両手に顔を埋めた。
「ああ、ドリアン、なんという教訓だろう! なんという恐ろしい教訓だろう!」なんの返答もなかったが、画家の耳には、若者が窓際ですすり泣いているのが聞こえた。「祈るんだ、ドリアン、祈るんだ」彼はつぶやいた。「子供の時に教えられた文句はなんだった? 『我らを誘惑に導きたもうなかれ。我らの罪を許したまえ。我らの邪悪を清めたまえ』一緒に唱えよう。君の驕慢《きょうまん》の祈りはかなえられたんだから、君の悔恨の祈りもかなえられるというものだ。僕は君を崇拝しすぎた。僕たちは二人とも罰を受けたのだ」
ドリアン・グレイはおもむろにふり返って、涙に曇る眼で彼を眺《なが》めた。「バジル、もう手おくれだ」彼は口ごもった。
「ドリアン、手おくれなんてことは絶対にない、さあ二人でひざまずいて、祈りの文句を思い出せるかやって見よう。どこかにこんな句がなかったかなあ。『汝の罪紅の如《ごと》くなれど、雪の如く白くなさん』というのが」
「今の僕にゃ、そんな文句もなんの意味もないんだ」
「しっ! そんなことを言うもんじゃない。君は今までに充分悪事をやったんだ。ああ、君には、あの呪《のろ》われたものが、僕たちを横目でにらんでいるのが見えないのか?」
ドリアン・グレイはその絵を見た。すると突然、バジル・ホールワードに対する抑えがたい憎悪の情が襲ってきた、あたかもその感情がキャンヴァス上の肖像によって暗示され、あのうす笑いをもらしている唇からささやかれたかのように。狩りたてられた獣の狂暴な熱情が、彼の心にむらむらと湧いてきて、テーブルに向かっているその男を、全生涯にも経験のないほど嫌い憎んだのである。彼は狂おしくあたりを見回した。彼に向かい合わせに置かれた色塗りの櫃《はこ》の上に鈍く光るものがあった。眼がそれに落ちた。それがなんであるかわかっていた。それは紐《ひも》を切るため数日前階下から持ってきて、置き忘れたままのナイフだ。ホールワードの傍を通って、彼はナイフのほうへゆるやかに動いていった。画家のうしろに回るや否や、彼はそれをつかんでふり返った。ホールワードは、立ち上がろうとするかのように、椅子の中で身動きした。彼は画家の傍に駆け寄って耳のうしろの大静脈を刺し、画家の頭をテーブルにたたきつけては何度も刺した。
抑えつけたような呻《うめ》き声がおこり、血のために息がつまりかかった人のような恐ろしい音が聞こえた。両腕が三度、ひきつったように突き上げられ、グロテスクに硬直した手が空に揺れた。さらに二度刺したが、相手は身動きもしなかった。何かが床の上に流れはじめた。なおも相手の頭を押しつけたまま少し待った。それからナイフをテーブルに投げつけて耳をすました。
聞こえるものとては、糸目もあらわな毛氈《もうせん》にぽたぽたと落ちる滴《したた》りの音のみだった。彼は扉を開けて踊り場まで出た。家の中はまったく静まり返っていた。だれ一人起きている者はなかった。彼は少しの間てすりに身を寄せて、暗い沸騰《ふっとう》する闇《やみ》の坑《あな》をのぞいてたたずんでいた。それから鍵を取り出し部屋に戻って、中に閉じこもってしまったのである。
死骸は依然として椅子に坐して首を垂れ、背を丸め長い腕を奇妙に伸ばしてテーブルにのしかかっている。首の赤いぎざぎざの傷と、テーブルの上におもむろに広がっていく濁ったどす黒い血の池がなかったら、まるで眠っているとしか見えなかっただろう。
万事がなんとすみやかになされたことか! 彼は奇妙に落ち着いた気持ちで窓のところに歩み寄って窓を開け、バルコニーへ出た。風は霧を吹き払ってしまって、空はまるで無数の金紋をちりばめた大きな孔雀《くじゃく》の尾のようだった。下を見下ろすと、巡回中の巡査が、ランタンの長い光のすじを寝静まった家々の扉にひらめかせていた。徘徊する二輪辻馬車《ハンサム》の紅い光の点が街角にきらめいて消えていった。ショールをひらつかせた女が、よろめきつつ柵の傍をゆっくり忍び足で歩いていった。時折り彼女は立ち止まってうしろをふり返った。一度はかすれ声で歌いはじめた。巡査が歩み寄って何ごとか彼女に言った。女は笑いながらよろめいていった。木枯しが広場を吹き過ぎた。ガス燈がちらちらして青色になり、葉のない木々は黒い鉄の枝を左右に揺り動かしていた。彼は身震いして部屋に戻って窓を閉めた。
扉のところへ行って鍵を回して開けた。彼は殺害せられた男をちらっとも見なかった。万事の秘訣《ひけつ》は、その場の情勢を実感しないことだと思われた。彼のすべての不幸の原因をなした運命的な肖像画の描き主である友人が、死んだというだけで充分だった。
それから彼はランプのことを思い出した。それはなかなか珍しいムーア人の細工で、磨きのかかった鋼鉄の唐草模様をはめこみ、粗《あら》いトルコ玉を点在させたいぶし銀製のものだった。ひょっとすると、召使がランプのなくなったことに気付いていろいろ訊《き》くかも知れない。ちょっとためらってからとって返し、ランプをテーブルから取った。死骸を見ないわけにはいかなかった。なんとそれは静かなことか! 長い手のなんという恐ろしい白さ! まるで恐ろしい蝋《ろう》人形だ。
扉に錠《じょう》をおろして彼は静かに下へ降りていった。木造の階段がきしって、あたかも苦痛の叫びを上げるようだった。数回立ち止まって待った。誰もいない。あたりはひっそりと静まり返って、自分の足音があるばかりだ。
書斎に来ると、隅にある例の鞄《かばん》と外套《がいとう》が眼についた。どこかへ隠さなければならない。風変わりな変装用の服をいつも入れておく、壁板の中の秘密の戸棚を開けて、鞄と外套を入れた。あとから焼き捨てるぐらいお茶の子だ。そこで懐中時計を取り出して見ると二時二十分前だった。
彼は腰をおろして考えはじめた。毎年――ほとんど毎月――自分の犯したことのむくいとして、英国では人々が絞殺《こうさつ》されている。到るところ殺人熱に満ちているのだ。何かの赤い星が、地球に接近しすぎたせいなのだ……しかも、彼に不利な証拠がどこにあるというのだ。バジル・ホールワードは十一時にこの家から出ていってしまい。戻ってきたところを見た者は誰もいない。召使の大部分の者はセルビイ・ロイヤルにいて、彼の従者《ヴァレー》は寝ていたのだ……パリ! そうだ、バジルが出かけたのはパリへであり、しかも彼の望んでいたように、真夜中の汽車に乗って行ったんだ。風変わりな無口な習慣だから、疑惑がおこって来るのも数か月先のことだろう。数か月! それよりずっと前にすべての証拠は|いんめつ《ヽヽヽヽ》することができるのだ。
突然ある考えが浮かんで来た。彼は毛皮の外套を着、帽子をかぶって玄関へ出た。外の舗道を行く巡査の牛眼燈の光が窓に映るのをみて彼は立ち止まった。息を殺して待った。
ほんのしばらくして、かけがねをはずし、忍び出てそっと戸を閉めた。それからベルを鳴らし始めた。五分もすると従者《ヴァレー》がだらしない様子で非常にねむそうな顔をして現われた。
「フランシス、起こしてすまなかったな」と彼は中に入る時に言った。「鍵を忘れてしまったもんだから。もう何時だろうか?」
「二時十分過ぎでございます」と柱時計を見て眼をしばたきながら従者《ヴァレー》が答えた。
「二時十分過ぎ? 馬鹿におそくなったものだ。明日はぜひ九時に起こしてくれ。ちょっと仕事があるんだから」
「よろしゅうございます」
「今夜だれか訪ねてきたかい?」
「ホールワード様がお見えでした。十一時までお待ちでしたが、汽車におくれるといけないからといって、お出かけになりました」
「ああ、それは会えなくて残念だった。何か言い置いていったかい?」
「いいえ、別に。ただ、だんな様にクラブで会えないなら、パリからお便りなさる由でした」
「フランシス、それでいい。明日は九時に忘れないように起こしてくれ」
「はい、かしこまりました」
従者《ヴァレー》はスリッパの足をひきずりながら、廊下を歩いていった。
ドリアン・グレイは帽子と外套をテーブルに置いて書斎に入った。十五分間、唇をかんで考えこみながら部屋をあちこち歩いた。それから本棚から紳士録をとり、ページをくり始めた。『メイフェア、ハートフィールド街、一五二番地、アラン・キャンブル』そうだ、これが彼の必要とする男なのだ。
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第十四章
翌朝九時、召使が一杯のチョコレートを盆にのせて入ってきて、鎧戸《よろいど》を開けた。ドリアンは右側を下にし、片手を頬《ほお》の下にあてて、いとも安らかに眠っていた。まるで遊びか勉強に疲れた少年の風情《ふぜい》があった。
召使に二度も肩を軽くたたかれて、やっと主人は眼を覚《さ》ました。そして眼を開けると、かすかな微笑《ほほえ》みが彼の唇をかすめた、あたかも何か楽しい夢に耽《ふけ》っていたかのように。しかし、夢は全然見なかった。この一晩、快楽とか苦痛とかの影に悩まされることは全然なかったのである。だが、青年というものはなんの理由もなく微笑むもので、それが青年の持つ魅力の一つなのだ。彼は寝がえりを打ち、肘《ひじ》をついたままでチョコレートをすすりはじめた。なごやかな十一月の日光が部屋に流れ込んで来た。空は晴れ、大気には快い暖かさが満ちて、まるで五月の朝の観があった。
前夜の出来事が、血染めの足音を忍ばせて、しだいに彼の頭にはいり込んできて、恐ろしいほどはっきりした形をとってきた。彼の受けた苦しみのすべてを思い返してみて縮み上がる気持ちだった。すると、バジル・ホールワードを腰掛けたまま殺害するに至らしめた、彼に対する奇妙な嫌悪の情がまた一瞬よみがえってきた。彼はその激情に、ぞっとするような寒気を覚えたほどだった。死人はまだあそこにすわっている、しかも今では日光の中に。なんという恐ろしいことだ! かかる身の毛もよだつようなものは、闇《やみ》にこそふさわしけれ、白日の下に見るものではない。
今までの体験をくよくよと思いつめていたら、病気か気狂いにでもなりそうな気がした。実際、それを犯すよりも、その思い出のほうがより魅惑的であるような罪悪がある、すなわち、情熱よりも誇りの気持ちをよく満足させ、感覚に与えうるどのような喜悦よりも大きい、生き生きした、喜悦感を、知性に与えるような一風変わった勝利である。ところが、これはそうしたものとはわけがちがう。これは心から追い出し、麻酔剤で忘れさせ、こちらの首に締めつけられないように、その首を締めてやらなければならないものなのだ。
半時間が打つと、彼は額をなでてそそくさと起き上がり、ネクタイやネクタイピンの選択に細心の注意を払い、指輪を一度ならずとりかえてみたりして、いつもに似ず念入りに服装をこらした。彼はまたいろいろの料理をつまんでみたり、セルビイ邸にいる召使のためにつくらせようと考えている仕着せのことを従者《ヴァレー》に話してみたり、手紙を調べたりして、朝食に長時間をかけた。思わず微笑させる手紙があるかと思うと、うんざりさせるものが三通あった。一通は数回繰り返して読むと、いささか迷惑だという顔付きをして破ってしまった。ヘンリ卿のいつかの言い草じゃないが、「女性の記憶力という恐ろしい奴《やつ》!」
ブラック・コーヒーを飲みおわるとナプキンでおもむろに口をぬぐい、召使に待っているよう身振りで合図し、テーブルのところへ行って二通の手紙を書いた。一通をポケットに入れ、別の一通を従者《ヴァレー》に手渡した。
「フランシス、これをハートフォード街一五二番地へ届けてくれ。キャンブル氏がロンドンにいないなら、居所をきいてくるんだ」
独《ひと》りになるや否や、巻煙草に火をつけて一枚の紙にスケッチをはじめ、先ず花を、次に建物の部分を、さらに人間の顔を描いた。突然、自分の描く顔が全部、奇怪にもバジル・ホールワードに似ていることを知った。彼は顔をしかめて立ち上がると、本棚のところへ行って、いい加減に一冊とり出した。絶対必要の時まで、今度の出来事を考えまいと決心したのである。
ソーファに身を伸ばして書物の扉を見た。それはジャックマールのエッチングのある、シャルパンティエの和紙版のゴーティエの作になる「七宝と浮彫宝石」だった。装丁はシトロン色を帯びた緑のレザーで、金色の格子細工にところどころ|ざくろ《ヽヽヽ》をあしらった意匠のものであった。これはエイドリアン・シングルトンがくれたものだ。ページを繰っていくうちに、ラスネールの手すなわち赤い産毛《うぶげ》が生えていて「フォーンの指」をした、「苦しみより未だ洗われざる」、冷たい黄色い手を歌った詩が眼にとまった。彼は、われ知らず少し身震いしつつ、自分の白く細い指を眺《なが》めやり、さらに先を読みつづけた。そしてついに、ヴェネチアを歌ったあの美しい節《スタンザ》のところにさしかかった――
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半音階のひびきに乗りて、
その胸真珠をしたたらせ、
アドリア海のヴィーナス号、
薔薇色にまた真白きその船体を水より現わす。
碧《あお》き波の上なる円《まる》屋根は、
清らけき外形《かた》の姿につれ、
恋の吐息に波打てる
円《ま》ろき咽喉《のど》のごとふくる。
纜《ともづな》を杙《くい》に投げかけ、
小舟着きてわれをおろす、
薔薇色の建物正面《ファサード》の前なる
きざはしなす大理石の上に。
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それらの節《スタンザ》のなんといういみじき美しさ! 読み進むにつれて、舳《へさき》が銀色なし、カーテンが長く尾をひくゴンドラに坐して、桃色と真珠色にいろどられた都の、緑の水路を漂っている思いがするのであった。詩の行そのものまで、リド〔ヴェネチア南西の島、海水浴場〕へと進みいくにつれてわがあとを追う、トルコ玉のように碧《あお》いあのまっ直な水の線にも似たと思いなされるのであった。突然ひらめく色彩が、サン・マルコ寺院の高い、蜜蜂の巣のある鐘楼《しょうろう》の周《まわ》りを飛びかったり、威厳をこめた中にも上品さをたたえて、ほの暗い塵《ちり》によごれた拱廊《アーケイド》をのし歩いている、オパール色と虹色の咽喉《のど》をした鳥の輝きをしのばせた。半眼を閉じ、うしろによりかかって、彼は繰り返し繰り返し独《ひと》りで誦《しょう》しつづけた。
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薔薇色の建物正面《ファサード》の前なる
きざはしなす大理石の上に。
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ヴェネチア全体がこの二行につくされている。彼はそこで過ごした秋の事を、気狂いじみた楽しい愚行の数々のもととなった、すばらしい恋愛を思いおこした。ロマンスは到るところにあるものだ。だが、ヴェネチアはオックスフォードと同様、ロマンスにふさわしい背景を持っている。しかも、真の浪漫派《ろまんは》人にとって、背景ほど大切なものはないと言っていい。一時はバジルも一緒にいてティントレット〔イタリアの画家〕に夢中になったものだ。可哀《かわい》そうに、バジルの奴《やつ》、なんという恐ろしい死に方をしたことか!
彼は溜息を吐《つ》き、再びその書をとりあげて、忘れようとつとめた。メッカ参詣をすませた巡礼者たちが坐って琥珀《こはく》の数珠《じゅず》をつまぐり、ターバンを巻いた商人たちが長い房つきのパイプをくゆらせ、重々しい口調で話し合っているスミルナの小さな茶亭を出たり入ったりする燕《つばめ》のことを読み、さてはパリのコンコルド広場のオベリスクのことを読んだ。このオベリスクは、太陽のない淋《さび》しい流寓《りゅうぐう》の身をなげき悲しんで花崗岩の涙を流し、スフィンクスがあり、薔薇色の朱鷺《とき》や金色の爪をした白い禿鷹《はげたか》、小さな緑玉のごとき眼をして、湯気を上げている緑の沼の上を這《は》い回る鰐《わに》、などのいる暑い、蓮に覆《おお》われたナイル河のほとりに帰りたがるのである。彼はさらに、接吻によごれた大理石から音楽の調べを思いつつゴーティエがアルトの声にたとえた奇妙な像、かのルーブル博物館の斑岩《はんがん》の部屋にうずくまる「|うるわしき怪物《モンストル・シャルマン》」について語る詩句のことを考え込みはじめた。しかし、しばらくすると、その書物は、彼の手から落ちた。しだいに落ち着きを失い、ひどい恐怖の発作がおそってきた。アラン・キャンブルが万一外国にでも行ってしまっていたら、いったいどうすればよいのか? 何日も経《た》たなければ、彼は帰国しないだろう。ひょっとすると、来るのをいやだと言うかも知れない。そうしたらどうする? 一瞬一瞬が生死にかかわるほど重大だ。五年前には二人は親友だった――切っても切れぬほどまでの。その親密さは突然断絶したのだ。今では、社交界で顔を合わせても、微笑《ほほえ》むのはドリアン・グレイのみで、アラン・キャンブルは笑顔一つ見せなかった。
アランはきわめて頭の良い青年だったが、彼は視覚芸術に対する真の鑑識眼はなく、詩の美しさを解するわずかばかりの能力は、すべてドリアンから得たものだった。彼の力強い知的情熱は科学に向けられた。ケンブリッジ大学では、実験室での研究に非常な時間を費やし、彼の学年の自然科学優等試験には優秀な成績をあげた。実際彼は今もって化学研究に打ち込んでいて、自分の実験室を持ち、その中に一日中閉じこもって母親をひどく困らせているのだった。その母親というのは、息子が国会議員に立候補することを熱望しており、ケミスト〔化学者と薬剤師と両方の意味あり〕とは、処方箋《しょほうせん》どおり調合する人間くらいにぼんやりした考えしか持たぬ婦人だった。ところが彼はまた音楽のほうは相当なもので、ヴァイオリンとピアノは素人《しろうと》放れのした腕前だった。実際はじめて彼とドリアン・グレイを結び付けたのは音楽であり――音楽と、ドリアンが望みしだい、いつでも他人に及ぼし、実際またよく自分にも気付かないで他人に及ぼしたあの名状しがたい魅惑力と、この両者だったのだ。彼ら両人は、ルービンスタインがバークシャ夫人の家で演奏した晩に知り合いになり、それ以後は、いつもオペラでまた演奏のあるところでは、場所をえらばず席を同じうしたのだった。十八か月間彼らの親交はつづいた。キャンブルはセルビイ・ロイヤルの邸とか、グロヴナー・スクエアの家かどちらかに入り浸っていた。他の多くの人の場合と同じく、彼にとってドリアン・グレイは人生における魅力あるすばらしいあらゆるものの典型だった。彼らが喧嘩したかしなかったか知る由もない。だが、突然、人々は、彼らが顔を合わせてもほとんど口をきかず、キャンブルはドリアン・グレイの出席している会から、いつも早々にひき上げる様子だと噂《うわさ》をした。また彼は人が変わってしまったようになって――時折り奇妙に陰鬱《いんうつ》になり、音楽を聞くのも嫌《いや》そうな様子で、演奏を求められると、科学に没頭して練習するひまがないとの口実をもうけて、いっかな演奏しようとしなかった。これも現にまぎれもない事実だった。生物学に対する興味は日ごとに高まる様子で、彼の名は、一、二度ある風変わりな実験に関連して、若干の科学評論雑誌に載ったことがあった。
ドリアン・グレイが待ち受けているのはこんな男だった。一秒ごとに柱時計を見上げた。時が経つにつれて彼の心はひどく動揺してきて、ついに立ち上がって、まるで檻《おり》に入れられた美しい動物のように、部屋をあちこちと歩き始めた。足取りは大股《おおまた》に忍びやかで、手は奇妙に冷たかった。
不安は堪《た》えきれないものとなった。時が鉛の足でのろのろ進むかに見えるのにひきかえ、彼はものすごい風に吹きまくられて、絶望の暗い割目の鋸《のこぎり》状の絶端へと追いやられているのだ。その絶壁の口に何が自分を待っているかがよくわかっていた――いや実際にこの眼でそれを見たのだ。そこで彼は身震いしながら、しめった手で燃えるような瞼《まぶた》をぐっと押した。あたかも頭脳から視力を奪いとり、眼球をその窩《あな》の中へ押し戻さんばかりに。それも無駄だった。頭脳は自己を養う食物を持っていて、それを食って太り、また想像力は恐怖によってグロテスクなものと化し、苦痛によって生きもののごとくねじられ変形させられて、まるで台上のいまわしい操り人形のように躍り狂い、動く仮面越しに歯をむいて笑う。と突然、時間が彼には静止してしまった。そうだ、あの盲目のゆるやかに息づくものは、もはや這《は》いずることをやめ、「時間」が死滅したが故に、様々の恐ろしい思いが、前を軽捷《けいしょう》にかけ回り、恐ろしい未来をその墓場からひき出して彼に見せる。彼はそれをじっと見つめる。そのあまりの恐ろしさに彼は石と化したようであった。
扉が開いて召使が入ってきた。彼はどんよりした眼を召使に向けた。
「キャンブル様でございます」召使が言った。
安堵《あんど》の溜息《ためいき》が彼の乾ききった唇からもれ、頬《ほお》に血色がよみがえった。
「フランシス、すぐに通ってもらってくれ」自己をやっととり戻したという気がした。臆病風は吹っ飛んでしまっていた。
召使が一礼して退き下がった。すぐにアラン・キャンブルが、非常にきびしいむしろ蒼《あお》ざめた顔付きをして入ってきた。しかも、その蒼さは漆黒の髪と濃い眉毛《まゆげ》のためにいっそう際立って見えた。
「アラン! わざわざ御親切をありがとう」
「グレイ、僕は二度と君の家の|しきい《ヽヽヽ》をまたぐまいと思ってた。だが、君の手紙じゃ、生死にかかわる問題だそうだから」彼の声は冷酷だった。話しぶりは悠然たるもので、ドリアンに向けたそのさぐるような、たじろぎもしない凝視には軽蔑の色が浮かんでいた。彼はアストラカンの外套に両手を突っ込んだままで、相手が迎えてくれた時の身振りにいっこう気づかぬ様子だった。
「そうだ、生死にかかわる問題だ。しかも一人以上の人間にとってね。まあ、かけてくれ」
キャンブルはテーブルの傍の椅子につき、ドリアンは向かい合わせにすわった。二人の男の眼が会った。ドリアンの眼には無限の憐憫《れんびん》がやどっていた。これからやろうとしていることがどれほど恐ろしいものか彼にはわかっていた。
はりつめた無言の一瞬があってから、彼は身体をのり出し、きわめて静かではあるが、呼んでこさせた男の顔に現われる、一語一語の効果を見守りつつ言った。「アラン、この家の一番上の締め切りの部屋――そこへは僕だけしか入れないんだが――ひとりの死人がテーブルに向かってすわっている。死語十時間たってる。騒がないでくれ。そんなに僕を見つめないでくれ。この死人が誰か、なぜ死んだのか、どんな死に方をしたか、などは君の問題じゃない。君にぜひやってもらいたい仕事は――」
「やめてくれ、グレイ。これ以上何も知りたくない。君の今言ったことがほんとだろうが、嘘《うそ》だろうが、僕の知ったことじゃない。君の生活に巻き込まれることはまっぴらだ。恐ろしい秘密は君一人にしまっておくことだ。なんの興味もない」
「アラン、きっと君の興味をそそるはずだ。この秘密はきっと面白いはずだ。アラン、まことに申し訳ないが、僕ひとりじゃどうにもならない。君だけが僕を救うことのできる人間なんだ。僕はいやでも君をこの問題に引きずり込まなくちゃならない。ほかにどうしようもない。アラン、君は科学者だ。化学とかそういったことを心得ている。君はいろいろ実験をやってきた男だ。君の仕事は階上にある例のものを片付けることだ――あとかたを何一つ残さぬように片付けることだ。この男が僕の家に入って来たところを見た者は誰もない。実際今頃はパリに行ってることになってるんだ。いなくなっても、ここ数か月は気付かれることもない。気付かれる頃には、この男の痕跡を何一つ残さないようにしておかなくちゃならない。アラン、君はこの男とその持ち物いっさいを、一握りの灰に変えてしまわなくちゃならない。それを僕が空中にばらまけるように」
「ドリアン、気でも狂ったか」
「ああ! 君がドリアンと呼んでくれるのを待ってたんだ」
「たしかに君は気が狂ってる――僕が指一本でも動かして君を助けるとでも考えるなんて、気が狂ってる。こんな恐ろしい告白をするなんて、気が狂ってる。どんなことだって僕は関係しないつもりだ。僕が君のために、僕の評判を危険にさらすとでも考えてるのか? 君がどんな悪事をやらかそうとしたところで、それが僕にどうしたというのか?」
「アラン、これは自殺なんだ」
「それはありがたい。だが、それまでするように誰がしむけたのだ? 君に相違なかろう」
「まだ君は僕のためにこれをすることを断るのか?」
「もちろん断る。絶対関係したくない。君がどんな恥さらしになろうがかまわん。当然のむくいだ。君が大ぴらに恥さらしになったって、いっこう気の毒とは思わぬ。君はよくもまあ、人もあろうにこの僕をこんな恐ろしい事件に巻き込もうとするのか。君は人間の性格というものをもっとよく知ってると思ってた。君の友人ヘンリ・ウォットン卿も、ほかのことはともかく、心理学のことは大して教えることができなかったんだね。君を救うために一歩だって絶対に動くものじゃない。お門違いというものだ。別の友人にあたってみるんだ。僕はごめんだ」
「アラン、これは他殺だ。僕が下手人だ、あいつがどんなに僕を苦しめたか、君にはわからない。僕の人生がどんなものにせよ、あいつがその形成なり破壊に関係があるのは、ハリーの比じゃない。あいつははじめからそのつもりじゃなかったかも知れないが、結果は同じことさ」
「他殺! おやおや、ドリアン、とうとうそこまで君も落ちぶれたか。僕は密告なんかしない。それは僕の知ったことじゃない。それに、このことで僕が動かなくてもきみはひっぱられるにきまってるさ。誰だって罪を犯せば、へま一つくらいやるもんだ。だが、僕はいっさい関係しないよ」
「ぜひとも関係してもらわなくちゃならない。待ってくれ、ちょっと待ってよく聞いてくれ。アラン、ただ聞くだけでいい。君に頼みたいのは、ある科学的実験をやってもらうことだけなんだ。君は病院だの屍体《したい》置場だのへ行って、そこで恐ろしいことをやってもいっこうなんとも思わない。もしも君がどこか嫌《いや》な解剖室とか、悪臭鼻をつく実験室で、この男が血の流れるように赤い溝を掘った鉛のテーブルの上に横になっているところを見ても、きみはそれを結構な解剖屍体と思うだけで髪一本動かすこともないだろうし、別に悪いことをしてるんだとも考えないだろう。いやそれどことか、おそらく君は、人類に貢献《こうけん》してるんだとか世界の知識の量をふやしているとか、知的好奇心を満足させてるとか、そういうふうに感じることだろう。君にやってもらいたいのは、ただほんの君が今までよくやったことなのさ。実際人間の身体一つくらい片付けることは、君のやり慣れてることに比べれば、ずっと楽なんだよ。それにだね、いいかい、こいつが僕にとって唯一の不利な証拠なのさ。見つかったら僕はもうおしまいだ。君が助けてくれなかったら、見つかるにきまってるんだ」
「君を助ける気持ちは全然ない。君はそれを忘れてる。僕は全体この事件にはまったく無関心なんだ。僕にはまったく無関係のことだ」
「アラン、お願いだ。僕の今の立場を考えてみてくれ。君が来てくれるちょっと前、あまりの恐ろしさに気が遠くなりそうだった。いつか君にも、恐ろしさというものがどんなものだか、わかる時があるだろう。いや、それを考えるのは止《よ》そう。問題を純科学的見地から見てほしい。君の実験死体がどこから来たか、いつも君は問わぬだろう。今度も問わないでくれ。これだけだって君に話しすぎたほどだ。だが、頼むからこれをやって欲しい。アラン、昔は僕たちも友だちだったじゃないか」
「ドリアン、昔のことは言わないことだ。消えてなくなったことだ」
「消えてなくなったことだって時には残るさ。二階の男だって立ち去らずにいるよ。頭を垂れて腕を伸ばしてテーブルにすわっている。アラン! アラン! 君が助けてくれなければ僕はおしまいだ。もちろん、絞首刑になるさ、アラン! わかってくれないの? 犯した罪のため僕は絞首刑になるんだ」
「こんな場面をながびかせてみてもつまらない。今度のことで一役買うことは絶対お断りだ。僕に頼むなんてだいたい気狂い沙汰《ざた》だ」
「断る?」
「そうさ」
「アラン、お願いだ」
「無駄だ」
前と同じ憐憫《れんびん》の色がドリアン・グレイの眼にあらわれた。そこで片手を伸ばして紙片をとり、何か書きつけた。二度繰り返し読むと念入りに折りたたみ、テーブルの向こうに押しやった。こうしてから立ち上がって窓のところへ寄って行った。
キャンブルは驚いて彼を眺《なが》め、それから紙片をとり上げてそれを開けた。読み進むにつれて顔はまっ蒼《さお》になり椅子のままたじろいだ。ひどく気分が悪くなって来た。まるでどこか空虚な穴の中で、心臓が死の鼓動をはげしく打ちつづけているかのような気持ちだった。
恐ろしい数分の沈黙のあと、ドリアンは向き直ってアランのうしろに来て立ち、片手をその肩に置いた。
「アラン、実に申し訳ない」とつぶやいた。「だが、君はほかにとるべき道を許してくれない。すでに手紙は書いてある。これがそれだ。宛て名が見えるだろう。君が助けてくれないなら、僕はその手紙を出さなくちゃならない。君が助けてくれなかったら、あれを出すのだ。どんな結果になるかは君にもわかってる。だが、君は助けてくれるはずだ。今となって断ることはできない。僕は君を助けようと努めた。それくらいことを認めるだけの公平さは、君にあったっていいと思う。君はきびしくて冷酷で無礼な人間だった。君みたいな態度で僕を扱った人間は誰一人としてなかった――少なくとも生きている人間ではね。僕はそれをみんな我慢したのだ。さあ、条件を指令するのはこちらの番だ」
キャンブルは両手で顔を覆《おお》った。すると身震いが全身を走った。
「そうだ、アラン、条件を指令するのは僕の番だ。それは何か君にもわかっているはずだ。ことはしごく簡単だ。さあ、そんなに興奮することはない。仕事はいやでもやってもらうんだ。勇気を出して一つやってくれ」
キャンブルは呻《うめ》き声を発して全身を震わせた。炉棚《ろだな》の上の柱時計の音が、その一つ一つのあまりの恐ろしさに堪《た》えきれぬほどの苦悶の原子に「時間」を刻み分けているように思われた。まるで鉄輪が徐々に顔のまわりに締めつけられるように思われ、またあたかも彼がそれでもって威嚇《いかく》されている恥辱が、もうすでに身に襲って来たかに思われた。肩に置かれた手は鉛のように重かった。とても堪えきれない。身体が押しつぶされそうだ。
「さあ、アラン、すぐに決めてくれなくちゃ」
「できない相談だ」と彼は言葉というもので事態を変更し得るかのように機械的に言った。
「君はやらなくちゃならない。選択の自由はないんだ。ぐずぐずしては困る」
アランはちょっとためらった。「二階の部屋に火はあるかい?」
「あるよ、石綿つきのガスこんろだ」
「家に帰って実験室から道具をとってこなきゃならない」
「だめだ、アラン、ここから出ちゃいけない。入用なものは用箋に書いてくれれば、召使が馬車で行って取ってくる」
キャンブルは数行走り書きにして吸水紙をあて、封筒に助手の名を書いた。ドリアンはその短信をとりあげて入念に読んだ。それから彼はベルを鳴らしてそれを従者《ヴァレー》に手渡し、できるだけはやく道具を持ち帰るよう命じた。
玄関の扉《とびら》がしまると、キャンブルは臆病そうにはっとして椅子から立って炉棚《ろだな》のところへ行った。彼は|おこり《ヽヽヽ》にかかったみたいにがたがた震えていたのである。ものの二十分間どちらの男も口をきかなかった。蝿《はえ》が一ぴきさわがしくとび回り、柱時計の音がハンマーの音のように響いた。
一時が鳴り、キャンブルがふり返ってドリアン・グレイを眺《なが》めたとき、ドリアンの眼に涙があふれているのがわかった。その悲しい顔の純潔さと上品さには、癪《しゃく》にさわるようなところがあった。
「君はまったく破廉恥《はれんち》なまったく破廉恥な奴《やつ》だ!」と彼はつぶやいた。
「しっ、アラン、君は僕の命をすくってくれたんだ」ドリアンが言った。
「君の命? おやおや、なんという命だろう! 堕落から堕落を重ねたあげく、君は今やついにことここに到って罪を犯してしまったのだ。これから僕がしようとすることを、君が無理やり僕にやらせてみたところで、僕の考えてるのは君の命のことじゃないさ」
「ああ、アラン」とドリアンは溜息をつきながらつぶやいた。「僕が君に対して抱いているあわれみの心の十分の一でも君がもっていてくれたらなあ」そう言いながら向こう向きに庭を見て立っていた。キャンブルはなんの返事もしなかった。
十分ほどすると、扉にノックの音がした。すると召使が、化学薬品の入った大きなマホガニーの箱と、鋼鉄と白金の針金を長く巻いたのと、変わった型の二つの|かすがい《ヽヽヽヽ》を持って入ってきた。
「ここに置いて参りましょうか?」彼はキャンブルに訊《たず》ねた。
「そこでいい」とドリアンが言った。「フランシス、もう一件用事があるんだが、セルビイの邸に蘭《らん》を入れてるリッチモンドの男はなんと言ったっけ」
「ハーデンと申します」
「そうだ――ハーデンだったな。すぐリッチモンドへ行き、ハーデンに直接会って、蘭を註文の二倍持ってくるよう、それに白いのはできるだけ数を少なくするよう言ってくれ。実際白いのは一本も欲しくないんだ。フランシス、今日は好い天気だ。それにリッチモンドは大変きれいなところだ。でなかったら、お前をわずらわしはしないんだが」
「お安い御用でございます、だんな様。何時に帰ればよろしゅうございましょうか?」
ドリアンはキャンブルを眺《なが》めて、「アラン、君の実験はどれくらいかかるだろうか?」 落ち着き払ったなにげない様子で言った。第三者がいるために異常な勇気が出た様子だった。
キャンブルは顔をしかめて唇をかんだ。
「五時間はかかるだろう」と答えた。
「それじゃ、フランシス、七時半に戻れば充分だ。そのまま帰らなくてもいい。着がえるものを出しておいてくれ。今夜はひまをやるよ。家で食事しないから、お前にいてもらわなくても大丈夫だ」
「ありがとうございます、だんな様」部屋を出ながら召使が言った。
「さあ、アラン、一刻も惜しい。この箱の重いことといったら! 君の代わりに僕が持つ。君には、ほかのものを持ってもらおう」彼は早口に命令口調で言った。キャンブルは彼に完全に牛耳《ぎゅうじ》られていると思った。彼らはそろって部屋を出た。
彼らが一番頂上の踊り場に行きついた時、ドリアンは鍵をとり出し、錠前にさし込んで回した。そこで手を止めた。当惑の色が眼に現われてきた。身震いしながら「アラン、どうしても入れそうにない」とつぶやいた。
「僕にはなんでもないさ。何も君にいてもらうこともないんだ」とキャンブルが冷然と言った。
ドリアンは扉を半ば開けた。開けると、肖像画の顔が日光をうけて横目でにらんでいるのが見えた。絵の前の床の上には、引きちぎったカーテンがそのままになっていた。今までついぞそういうためしはなかったのに、前の晩例の宿命的なキャンヴァスに覆《おお》いをすることを忘れていたことに気づき、彼はあやうくとび出しそうになったが身震いしつつあとずさった。
まるでキャンヴァスが血の汗でもかいたかのように、片手に濡れて光っているあの嫌《いや》な赤い露はなんだろう? なんという恐ろしさだ! ――テーブルに伸びているはずのあの物言わぬもの、血の痕《あと》の点々とついた|じゅうたん《ヽヽヽヽヽ》の上のあのグロテスクな醜い影から推して、身動き一つしないであのときのままの姿でそこにいたらしい例のものよりも、その一瞬彼にはもっと恐ろしいものに思われた。
彼は深い息をついてもう少し扉を開け、死人には一顧も与えまいと決心して、半ば眼を閉じ、顔をそむけて足早に入った。それから腰をかがめて金と紫の掛布を取り上げ、まっこうから絵に投げかけた。
彼はふり返るのが恐《こわ》くて、そこに立ち止まったまま眼の前の複雑な模様にじっと眼をすえた。彼はキャンブルが、重い箱、鉄製器具、さては彼の恐るべき仕事に必要な他の用具を運び込む音を聞いていた。彼はこの男とバジル・ホールワードが会ったことがあるか、もしそうだとしたら、お互いにどんなに相手のことを考えていたか、考えはじめたのである。
「さあ、もう出ていってくれ」厳しい声がうしろから言った。
彼は向きを変えて急ぎ足で出た。死人が椅子に仰向けにさせられているのと、キャンブルが、てらてらした黄色い顔をじっとのぞき込んでいるのを意識しつつ。階下へ来る途中で、鍵《かぎ》が錠《じょう》の中で回るのをきいた。
キャンブルが書斎に帰って来た時には、七時を相当回っていた。顔は蒼《あお》ざめていたが、まったく落ち着いていた。
「頼まれたことをしたよ」と彼はつぶやいた。「さあ、これで失敬する。二度と顔を合わせたくないものだ」
「アラン、君のおかげで破滅から救われた。それだけは一生忘れない」とドリアンは言ったきりだった。
キャンブルが去るや否や、彼は二階へ上がって行った。部屋にはひどい硝酸の臭気がたちこめていた。だが、テーブルに向かって坐していた例のものの姿はあとかたもなかった。
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第十五章
その夜八時半、実にりゅうとした服装をこらし、パルマ菫《すみれ》の大きな花束をボタン穴にさして、ドリアン・グレイは召使たちのうやうやしいおじぎをうけながら、ナーバラ夫人の客間に通された。額は逆上した神経に脈打ち、烈しい興奮を感じはしたが、女主人公の手に身をかがめた時の彼の様子は、いつに変わらず打ちくつろいでしとやかなものだった。おそらく人がひと芝居打たなくてはならぬ時ほど、打ちくつろいで見えることはないであろう。確かに、その晩ドリアン・グレイを見た人で、彼が現代のいかなる悲劇にも劣らぬほど恐ろしい悲劇を経験したと信じ得たものは、誰一人なかったであろう。あの繊細《せんさい》な指が、ナイフをつかんで罪悪を犯すはずもなかったし、あの微笑《ほほえ》みを浮かべた唇が神頼みをしたはずもなかった。彼とても、落ち着き払った身振りにわれながら不思議の感に打たれざるを得ず、一瞬、二重生活のはげしい喜悦を痛いほど感じたのである。
それはごくささやかなパーティで、ナーバラ夫人が急いで催したものだったが、この夫人と来たら、ヘンリ卿がいつも口癖にしていた「実に驚くべき醜さの残骸《ざんがい》」をそなえたきわめて賢明な婦人だった。彼女はわが英国の最も退屈な大使にとってはまったく優秀な細君となり、自分自身の設計になる立派な大理石の墓にしかるべく夫を葬り、娘たちを金持ちの相当年配の男達にとつがせて後、今やフランス小説、フランス料理、それが得られる時には、フランス流の機知というものの楽しみに浮身をやつしていたのである。
ドリアンは、彼女の特別のお気に入りの一人で、若い時分に彼と知り合いにならなかったのがほんとに嬉《うれ》しいというのが、いつもの口癖だった。「ねえ、きっとあなたに首ったけだったことよ」といつも言うならわしだった。「そうしてね、あなたのために、私のボンネットを風車の上へ投げかけるようなことでもしていたでしょう。その頃あなたのことを思わずにすんだのは、ほんとにしあわせでしたの。実を言えば、その頃私たちのボンネットはとても不似合いなものでしたし、風車は風をおこすのに夢中だったものですから、わたしどなたとも恋愛遊戯なんかしなかったわ。でも、それもみんな主人のせいなの。主人はひどい近眼でした。ですから、何も見えない夫をだましたって、面白くもなんともございませんものね」
今夜の彼女のお客たちはどちらかと言うと、退屈なほうだった。実は、彼女がきわめてみすぼらしい扇の陰からドリアンに説明したところでは、縁づいた娘の一人がまったく突然泊まりにやってきて、さらに困ったことには現に夫まで連れてきたのである。「ねえ、あなた、娘のやりかたはずいぶん思いやりがないと思います」と彼女はささやいた。「もちろん、私のほうだって、ホンブルグから帰ったら、毎年夏には娘夫婦のところへ参りますの。ところで、わたしみたいなお婆さんは、時折り新鮮な空気を吸わなくちゃなりませんのよ。それにほんとうに、わたしが娘夫婦をおこしてやるんですの。娘夫婦がまああんな田舎でどんなくらしをしてることやら、あなたなんかにおわかりになりますまい。まるでもう山だしそのままの生活なんですのよ。仕事があんまりたくさんあるものですから、早起きをするんですけれど、考えることがあんまりなさすぎて寝るのは早いのよ。エリザベス女王時代から醜聞一つ近所に立たなかったのです。ですから二人とも晩餐のあとで寝てしまうの。こんな二人の傍にはおすわりになりませんように。わたしの傍にすわってわたしを楽しませてちょうだいな」
ドリアンは上品なお世辞をつぶやいて部屋を見回した。そうだ、確かに退屈な会だ。二人の来客は彼の未知の人であり、その他の客と言えば、敵もないが、友人連中にはすっかり嫌《きら》われている中年の平凡人で、ロンドンのクラブでは実にありふれた型の人間であるアーネスト・ハロウデン、評判の傷になるようなことをいつもしたがっていても、あまり器量が悪くて誰一人自分に対する悪口を信じてくれないので、ひどく失望している、かぎ鼻で着飾りすぎの四十七歳のラクストン夫人、愉快な舌足らずの癖があり髪がベンガラ色をしている、押しの強いくだらぬ人間のアーリン夫人、ドリアンを招いた女主人の娘で、一度会っても二度と思い出さないような、典型的な英国式の顔をした、身なりのだらしない、退屈な婦人のアリス・チャップマン夫人、さては彼女の夫で、その階級の多くの人間と同じく、並はずれた陽気さというものが、思想を全然欠如していることの埋め合わせになると考えている、頬《ほお》の赤い、頬ひげの白い男だった。
彼は来るんじゃなかったと後悔したが、ついにナーバラ夫人が、赤味がかった藤色の掛布のかかった炉棚《ろだな》にけばけばしい曲線を描いてぶざまにのさばっている大きな金色黄銅の時計を眺《なが》めながら叫んだ。「こんなにおくれるなんて、ヘンリ・ウォットンはあんまりだわ! ひょっとしたらと思って今朝使いのものを出しましたの。そうしたら、あの方堅くお約束なさったのよ、わたしを失望させないって」
ハリーが来ることになっているということが、いくぶんドリアンの心の慰めであった。そして、扉が開いて、ヘンリ卿の静かな美しい声が何か不埒《ふらち》な口実に魅力を添えているのを聞いた時、彼は退屈を感じなくなった。
だが、晩餐の席では何一つ咽喉《のど》に通らなかった。次から次へ皿は手をつけないまま下げさせた。ナーバラ夫人は「特別あなたにといって、献立を考えてくれた可哀《かわい》そうなアドルフに侮辱《ぶじょく》」になるといって彼を叱りつづけた。そして時折りヘンリ卿は、彼が黙りこくって放心したような様子をしているのを怪しんで彼のほうを見た。時々召使頭がシャンパンを彼の盃に満たした。彼はひたすら飲んだが、ますます渇きがひどくなるように思われた。
「ドリアン」とうとうヘンリ卿は、ショーフロワ〔ゼリーまたはマヨネーズをかけた冷肉料理〕が配られている時に言った。「今夜はどうしたんだ? まったく調子が悪いんだな」
「きっと恋でもなさってるのよ」とナーバラ夫人が叫んだ。「それもわたしが妬《や》くといけないと思って言わないのね。ほんとにそのとおりだわ。わたしきっと妬いてよ」
「ナーバラ夫人」とドリアンは微笑《ほほえ》みながらつぶやいた。「この一週間恋愛なんか全然していないです――ほんとのところ、ド・フェロール夫人がロンドンを離れてからは」
「まあ、男の方ってよくもあんな婦人に恋をなさるものね!」と老婦人は叫んだ。「とてもわたしにはわかりませんわ」
「ナーバラ夫人、それは彼女があなたの少女時代のことを覚えてるってだけの理由からなんです」とヘンリ卿が言った。「彼女は僕たちとあなたの短い上衣との間の一つ連鎖なのですから」
「ヘンリ卿、あのひとは何もわたしの短い上衣なんか覚えていませんわ。でも、わたしは、三十年前ウィーンにいた時分のあのひとをよくおぼえています。その頃ずいぶんデコルテ〔えりぐりの深い婦人服〕を着てたこともね」
「今だってデコルテを着ています」とヘンリ卿は、長い指でオリーヴの実を一つとりながら答えた。「それに、彼女がひどくスマートなガウンを着ると、フランスの三文小説の豪華版みたいです。実にすばらしく、あっと思わせることばかりです。家庭的愛情包容力ときたら大変なものですよ。彼女の三番目の夫が死んだ時、悲しみのあまり彼女の髪がすっかり金髪に変わったほどです」
「ハリー、よくもそんなことが!」とドリアンが叫んだ。
「ずいぶんロマンティックな御説明ね」と女主人が笑った。「でも、ヘンリ卿、三人目の夫ですって! まさかフェロールが四人目だとおっしゃるんじゃないでしょうね」
「まさにしかり、ナーバラ夫人」
「とてもとても、信じられませんわ」
「よろしい、グレイさんにお訊《たず》ねください。彼はあの人の一番親しい友だちの一人ですから」
「グレイさん、それほんと?」
「ナーバラ夫人、彼女はたしかにそうだと言っています」とドリアンが言った。「僕は彼女に、ナヴァールのマルグリットの向こうを張って、死んだ御主人たちの心臓を|みいら《ヽヽヽ》にして帯に掛けられたかどうか訊《き》いてみたのです。御主人たちは全然心臓がなかったから、それができなかったと言うことでした」
「御主人を四人もですって! 確かに|過度の熱《トロ・ド・ゼール》というものですわ」
「|過度の大胆さ《トロ・ドーダス》と僕は言ってやります」とドリアンは言った。
「まあ、あの方は何事につけてもずいぶん大胆なのね。御主人のフェロールはどんなお方ですの? わたし知りませんもの」
「美人の夫は罪人階級に属します」とヘンリ卿が葡萄酒をすすりながら言った。
ナーバラ夫人は彼を扇で打った。「ヘンリ卿、なるほど、世間であなたをとても意地悪だと申しているのは、無理もございませんのね」
「ですが、どんな世間でそんなことを言ってるのですか?」とヘンリ卿が眉毛《まゆげ》をあげて訊ねた。「そんなことを言うのは来世でしょう。現世と僕とはとても折り合いがいいんだがなあ」
「わたしの存じ上げてる方はどなただって、あなたが大変な意地悪だって申しますの」と老婦人は首を振り振り叫んだ。
ヘンリ卿はちょっと真顔になって「この頃、世間の人が絶対にまったくほんとうのことを陰でとやかく言いふらしているのは、実にけしからんですよ」とついに言った。
「彼はとうてい直りっこないんじゃないですか」と椅子のまま乗り出しながらドリアンが叫んだ。
「そうだったらいいんですけれど」女主人は笑いながら言った。「でも、もしもほんとうにあなた方皆様でド・フェロール夫人をこんな馬鹿馬鹿しい工合に崇拝なさるのでしたら、わたしだって流行におくれないように、再婚しなくてはいけないことになりましょうね」
「ナーバラ夫人、あなたは二度と結婚なさるまい」とヘンリ卿が口をはさんだ。「あなたは幸福すぎたのです。女が再婚するのは、最初の夫が嫌《きら》いだったからで、男が再婚するのは、最初のワイフを敬愛したからです。女性は運をためし、男性は運を賭《か》けるのです」
「ナーバラは完全ではありませんでしたのよ」と老婦人が叫んだ。
「もしも完全だったら、あなたは御主人を愛されなかったでしょうな」というのが返答だった。「女性は僕たちが欠陥を持ってるからこそ愛してくれるのです。もしも僕たちの欠陥が充分あれば、女性はなんだって許してくれますよ――僕たちの知性さえもね。ナーバラ夫人、こんなことを申し上げては、もう二度と晩餐にお招きくださらんでしょうが、これはまったくほんとうですからな」
「ヘンリ卿、もちろん、ほんとうですわ。もしもわたしたち女性が、男性の方々を欠陥があるからこそ愛さなかったら、男性はどうなりまして? 誰一人男性は結婚なさっていないでしょう。不幸な独身仲間ってとこね。でも、それであなた方大してお変わりになるわけでもございませんわ。この頃じゃ、既婚者の皆様は、独身者のような生活をなさり、独身者の皆様は既婚者のような生活をなさいますから」
「世紀末《ファン・ド・シエクル》なんですな」ヘンリ卿がつぶやいた。
「世界末《ファン・ド・グローブ》なんです」女主人が答えた。
「世界末だったらと思います」と溜息を吐きつつドリアンが言った。「人生は大いなる失望ですよ」
「まあ、あなた」手袋をはめながらナーバラ夫人が叫んだ。「人生を使い果たしたなんておっしゃるもんじゃなくってよ。そんなことおっしゃるのは人生のほうがあなたを使い果たしたってことになるわけですもの。ヘンリ卿ったらずいぶん意地悪なのね。わたしもあんなになれたらと思う時もありますの。でも、あなたは善人にできてるのね――あなたとっても善さそうに見えてよ。すてきな奥様を探して差し上げなくちゃ。ヘンリ卿、グレイさん結婚なさるべきだとお考えになりません?」
「ナーバラ夫人、僕はいつもそう言ってるんです」一礼しつつヘンリ卿が言った。
「そうね、ぜひともお似合いの奥様を探して上げなくちゃなりませんわ。今夜|貴族年鑑《ディープレット》をよく調べて、これはと思われる若い御婦人のリストを作りましょう」
「ナーバラ夫人、年令《とし》もつけてですか?」とドリアンが訊ねた。
「もちろん、年令つきですのよ。それも少し手加減いたしますのよ。でも、急がばまわれですの。モーニング・ポスト紙のいわゆる似合いの縁組となりますように。そしてお二人とも幸福におなりあそばせ」
「幸福な結婚だなんて、なんて馬鹿馬鹿しいことを言うもんだ!」とヘンリ卿は叫んだ。「男はどんな女とだって幸福になれるのです。その女を愛さない限りはね」
「まあ、あなた、なんて皮肉屋さんなんでしょう!」老婦人は椅子をうしろに押しやって、ラクストン夫人のほうに向かってうなずきつつ叫んだ。「近いうちにもう一度ぜひ食事にいらして。アンドルウ卿が処方なさるお薬以上に、あなたにはほんとにすばらしい強壮剤ですわ。でも、あなたどんな方々にお会いになりたいのか、ぜひおきかせくださいましな。楽しい集まりにしたいのですから」
「僕は、未来のある男性と過去のある女性が好きです」と彼は答えた。「それとも、そんなのは女天下の会になってしまうとでもお考えですか?」
「そうなりそうですわ」と彼女は立ち上がりつつ笑って言った。「ラクストン夫人、ほんとに失礼いたしました」彼女はつけ加えた。「あなたまだお煙草全部召し上がっていなかったのね」
「いいえ、ちっともかまいませんの。吸いすぎてますから。これからは量を過ごさないように致したいところなんです」
「ラクストン夫人、そんなことしないように願います」とヘンリ卿が言った。「適度は致命的ですよ。十分というのは並みの食事ってところで、十二分というのが御馳走というところです」
ラクストン夫人は珍しそうに彼をちらっと見た。「ヘンリ卿、いつかまた午後ぜひいらしてそれを御説明くださいな。とても魅力のありそうなお説ですこと」と彼女は部屋を静々と出て行きざまにつぶやいた。
「さて皆さん、ようございまして? 政治論やら醜聞談やらにあまり長く花を咲かせないでくださいな」と扉のところからナーバラ夫人が叫んだ。「もしもそんなことをなさると、わたしたちきっと二階で口論になるにきまってますわ」
男性陣は笑った。すると、チャップマン氏が厳粛な面持ちで末座から立ち上がり、上座のほうにやってきた。ドリアン・グレイも席を変えて、ヘンリ卿の傍に席を占めた。チャップマン氏は下院の情勢について大声で話し始め、自分の政敵をくさして大いに笑った。空論家《ドクトリネール》という言葉――英国人の考え方からすれば恐怖に満ちた言葉――が彼の爆発の合間合間にちらちら現われた。頭韻接頭語が演説の飾りの役をつとめた。彼はユニオン・ジャックを「思想」の頂上に掲げた。この民族伝来の愚鈍さ――彼が健全なる英国式常識と陽気にも呼んだ――が「社会」の正当な保塁《ほるい》だというのであった。
ヘンリ卿は微笑に口をゆがめふり向いてドリアンを眺《なが》めた。
「君、気分はずっとよくなった?」と訊ねた。「晩餐のときはずいぶん気分が悪そうだったじゃないか」
「ハリー、もうすっかりいい。ただ疲れてるだけです」
「昨夜は君がとてもすばらしかった。あの可愛《かわい》い公爵夫人ときたらまったく君に参ってる。セルビイにも御出馬だって言ってるぜ」
「二十日に来るって約束です」
「モンマスも行くはずになっているのか?」
「はい、そうです、ハリー」
「あいつには実にうんざりする。公爵夫人だってだいぶ奴《やつ》にうんざりしてるところだ。彼女はとても頭がいい、女性としちゃよすぎるくらいだ。彼女には弱さという言うに言えない魅力が欠けてることになるんだ。黄金の彫像を貴くするのは粘土の足なんだ。彼女の足は非常に綺麗《きれい》だが、粘土の足じゃない。まず白磁の足というところだ。こいつは火の中を通ってきている。火でもって焼き滅ぼされないものは火で固くなる。彼女は経験をつんでいる」
「結婚してどれくらいになるの?」とドリアンが訊ねた。
「永遠という久しい間だと彼女は言うんだ。貴族年鑑によるとまず十年というところだが、このモンマスとの十年は、永遠と似たものだったに違いない――おまけに「時《タイム》」まで添えてね。他に誰か来るのか?」
「ああ、ウイロビー一家、ラグビー御夫妻、ここの女主人、ジョフレイ・クルーストンという常連なんです。それにグロトリアン卿にもお願いしてあります」
「僕は彼が好きだ」とヘンリ卿が言った。「彼を嫌《きら》う人がたくさんいるんだが、僕はなかなか面白い男だと思っている。時折り着飾りすぎる人だが、いつも絶対的に教養のありすぎということで埋め合わせがついてる男だ。ずいぶんモダンなタイプだ」
「ハリー、彼が来られるかどうかわからない。親父さんとモンテ・カルロに行かなくちゃならないかも知れないって」
「ああ! 世間の連中の親たちときたらなんてうるさい奴《やつ》なんだ! 彼が何とか来るようにやってみたまえ。時にドリアン、君は昨夜ずいぶん宵のうちに退散したね。十一時前だった。あれからどうした? まっすぐ家へ帰った?」
ドリアンはあわてて彼をちょっと眺《なが》めて顔をしかめた。「いや、ハリー」とついに彼は言った。
「大方三時まで家に帰らなかった」
「クラブへ行った?」
「ええ」彼は答えてから唇をかんだ。「いや、そうじゃない。クラブへは行かない。ほっつき歩いた。何をやったのか忘れてしまった……ハリー、ずいぶん、あなたはやかましくせんさく好きなんだなあ! あなたはいつも人がやっていたことを知りたがる。僕はいつも自分のやっていたことを忘れたがるほうです。正確な時間を知りたいというなら、午前二時半に帰宅しました。表戸の鍵を家に忘れて出たもんだから、召使をおこして家に入れてもらわなくちゃならなかった。このことの確証が欲しかったら、召使に訊《き》いてください」
ヘンリ卿は肩をすぼめた。「君、まさか僕が気にするもんか! 二階の客間へ行こう。チャップマンさん、シェリー酒はもうたくさんです。ドリアン、何かあったんだね。話してくれ。今夜は君どうかしてるよ」
「ハリー、気にしないで。いらいらして落ち着きがないのです。明日か明後日お邪魔に上がります。ナーバラ夫人になにぶんよろしく。二階へは行きませんから。家に帰ります。どうしても帰らなくちゃならない」
「よろしい、ドリアン。おそらく明日お茶の時間に会えるだろう。公爵夫人もおいでだ」
「ハリー、なるべく行くようにします」と部屋を出ながら言った。家へ馬車をはしらせる道すがら、息の根を止めてやったと思っていた恐怖感が、また舞い戻ってきたことに彼は気付いた。ヘンリ卿のふとした質問に彼は一時は度肝《どぎも》を抜かれたのだった。そしてなおまだその状態がつづいていた。危険なものは片付けなくてはならぬ。彼はたじろいだ。それにさわることを考えるさえ嫌《いや》であった。
それでもやはりなんとしてもやらねばならぬ。そうと気づき、書斎の扉の錠をおろすと、バジル・ホールワードの外套と鞄を突っ込んでおいた秘密の戸棚を開けた。炉火《ろか》がさかんに燃えている。さらにその上へともう一本丸太をくべた。衣類が焦《こ》げ、革が燃える臭気は鼻もちならぬものだった。全部燃やし尽くすのに四十五分かかった。しまいには胸がむかついて気が遠くなりそうだったので、穴のあいた銅製の火桶の中でアルジェリアの香をたき、|じゃこう《ヽヽヽヽ》入りの冷たい酢で手や額を洗ったのである。
突然彼は、はっとした。眼は異様な輝きを加え、びくびくして下唇《したくちびる》をかんだ。二つの窓の間に象牙と瑠璃《るり》をはめこんだ黒檀《こくたん》のフィレンツェ製の大櫃《おおびつ》が立っていた。それをじっと見つめる彼の様子は、それが彼の心を魅すると同時に恐がらせるものであるかのようであり、欲し求めながら同時に嫌悪するものが中に入っているかのようでもあった。呼吸が乱れ、狂おしい渇望《かつぼう》がおそってきた。巻煙草をつけてもすぐ投げすてた。まぶたが垂れてきてついに眼のふちの長いまつげが頬《ほお》に触れんばかりとなった。それでも依然として彼は櫃《はこ》を眺《なが》めつづけた。ついに横になっていたソーファから身をおこすと、その櫃のところへ行き、錠をはずして開け、秘密のバネに手を触れた。三角形の抽斗《ひきだし》が徐々に出てきた。彼の手の指が本能的にその抽斗のほうへ動き、その中に入り、何物かをつかんだ。それは黒地に金粉をあしらった漆《うるし》塗りの小さな支那の箱で、その作りは精巧をきわめ、箱の四面にうねった波模様があり、箱の紐《ひも》には丸水晶がさがり、金属の糸を編んだ小さなふさがついている。中には蝋《ろう》のように|つや《ヽヽ》のある、変にむっとするしつこい匂いのする、緑の練りものが入っていた。
彼はこわばった微笑を浮かべたまましばらくためらった。部屋の空気はひどく暑いのに身震いしつつ、ひらき直って時計に眼をやった。十二時二十分前だった。彼は箱をもとに戻し、櫃《はこ》の戸を閉めて寝室に入った。
暗い夜空に十二時が青銅の響きを伝えている時、ごく普通の服装をして、首にマフラーをまきつけ、ひそかに家を忍び出た。ポンド街で威勢のよい馬のひく二輪馬車《ハンサム》を見つけて声をかけ、低い声で馭者に行先を告げた。
馭者は首をふった。「遠すぎまさあ」彼はつぶやいた。
「そら、一ソヴリンやるぞ」とドリアンは言った。「速くやってくれたら、もう一ソヴリン奮発するぞ」
「よし来た、だんな」と馭者は答えた。「一時間ありゃ行けやすぜ」客が乗り込むと、彼は馬の向きを変え、河岸めざしてどんどん駆けて行った。
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第十六章
冷雨が降りはじめ、ぼやけた街燈が霧雨の中に気味悪くうかんでいた。居酒屋はちょうど看板になる頃で、うすぼんやりと見える男や女が、三々五々酒屋の入口の周《まわ》りに群がっていた。ものすごい笑い声のもれてくる酒場もあれば、酔っぱらいどもが口論したりひいひい悲鳴をあげたりしている店もあった。
帽子をまぶかにかぶり、二輪馬車《ハンサム》の席にもたれながら、ドリアン・グレイはものうげな眼でこの大都会のきたならしい、恥ずかしい場面を見守り、初対面の日にヘンリ卿が言った言葉を時折り繰り返しひとりごちた。「官能のたすけを借りて精神をいやし、精神のたすけを借りて官能をいやす」そうだ、これが秘訣《ひけつ》なんだ。彼はこれまでによくそれを試みたが、今夜もまた試みようと言うのである。忘却をあがなうことのできる阿片窟《あへんくつ》、すなわち新しい狂暴な罪によって昔の罪の記憶がうち滅ぼされる恐るべき魔窟があるのだ。
月が黄色い頭蓋骨のように空低くかかっていた。時折り巨大な無恰好《ぶかっこう》な雲が長い腕を伸ばして月を隠した。ガス燈の数がしだいに少なくなり、街路はますます狭く陰気になってきた。一度なんか、馭者は道に迷って半マイルも引き返さなければならなかった。泥水をはね返すと馬から湯気が上がった。馬車の左右の窓は、灰色のフランネルのような霧にとざされていた。
「官能の助けを借りて魂をいやし、魂の助けを借りて官能をいやす!」その言葉がどれほど彼の耳に鳴り響いたことだろう! たしかに彼の魂は死ぬほど病んでいた。官能がそれをいやすことができるとは、果たして真実だろうか? 無垢《むく》の血はすでに流されたのだ。それを償《つぐな》い得るものは何か? ああ! 償うすべはない。だが、たとえ赦《ゆる》しは不可能であるにしても、忘却はなお可能だ、そして彼は、それを忘れよう。踏みつぶそう、自分を噛《か》んだ毒蛇を押しつぶすように、それを必ず押しつぶしてやろう。実際、バジルの奴《やつ》どんな権利があってあんな口をききやがったんだろう? 誰が彼を他人の審判官にしたのか? 彼は恐ろしい、ひどい、聞くに堪《た》えないことを言いやがったんだ。
馬車はとぼとぼと進んでいったが、一歩ごとに速度が鈍るように思われた。彼は|はね《ヽヽ》戸を押し上げ馭者に速度を上げるよう呼びかけた。阿片に対する恐ろしい飢餓《きが》感が彼の心をかみはじめた。咽喉《のど》は燃え、繊細な手の指が神経質にぴくぴくひきつった。彼はステッキで目茶苦茶に馬をなぐった。馭者は笑って鞭《むち》をはげました。彼はそれに答えて笑ったが、馭者は無言だった。
道は際限も無いように思われ、街路はぶざまにはいつくばった蜘蛛《くも》の黒い巣のように思われた。単調さは堪《た》え切れなくなり、霧が濃くなるにつれて、彼は恐くなってきた。
それから淋《さび》しい煉瓦工場の傍を通りかかった。ここでは霧が少しうすかったので、オレンジ色をした扇形の火の舌をふき出している、妙なびん型のかまどが見えた。通りかかると、犬がほえ、遠くの闇《やみ》の中では鴎《かもめ》が道に迷って高い声で啼《な》いた。馬がわだちの跡につまずき、脇へそれたかと思うと急に疾駆にうつった。
しばらくすると、粘土道を離れ、舗装の粗《あら》い街路を再びがたがた走った。たいていの家の窓は暗かったが、時折り奇怪な影が、ランプの光に照らされた窓|覆《おお》いにシルエットを描いた。彼は好奇心に満ちてそれを見つめた。影は不恰好《ぶかっこう》な操り人形のように動き、生きもののように身振りをした。彼はその影を嫌《きら》った。鈍い憤怒が胸にわいた。とある街角を曲がると、一人の女が開いた戸口から何やらをわめきかけた。そして二人の男が百ヤードばかりの間、馬車を追いかけてきた。馭者は彼らを鞭《むち》でなぐった。
激情は人の思考を堂々めぐりにおとし入れると言われているが、たしかにドリアン・グレイのかみしめた唇は、魂と官能を論じたあの微妙な文句を、いまわしくも繰り返し繰り返し唱えたのである。そしてついにその文句の中に、いわば彼の気分の全面的な表現を見出し、知的に是認することによって情熱を正当化したのである。この情熱は、かく正当化されなくてもなお彼の心を支配したことだろう。彼の頭脳の細胞から細胞へ一つの考えが伝わった。そして人間のあらゆる欲望のうちで最も恐るべきものすなわち生きたいという烈しい欲望が、震える神経や繊維の一つ一つを活気づけそれに力を与えた。事物を現実的《リアル》なものと化するが故に醜悪さというものがかつてはいとわしかったのに、今やまさしくその理由の故にこそ彼にいとしいものとなった。醜悪さが唯一の現実性なのだ。下品な口論、いまわしい魔窟《まくつ》、乱れた生活のがさつな暴虐さ、盗賊や無宿者の下劣さそのものすら、印象の現実感をもって烈しく迫ってくるために、「芸術」の美しい「姿」や歌の夢幻的な影よりもさらに生き生きとしたものとなるのだ。こういうものこそ、忘却のために彼が必要とするものであった。三日もすれば彼は解放されるだろう。
突然馭者は、暗い小路のはずれでぐいと手綱《たづな》をひいて車を止めた。家々の低い屋根やぎざぎざの集合煙突の上に船の黒いマストがそびえ、白い霧の渦が幽霊じみた帆のように帆桁《ほげた》にまといついている。
「だんな、ここいらじゃごぜえますまいか」と|はね《ヽヽ》戸からかすれ声で馭者がたずねた。
ドリアンは、はっとして辺りを見回した。「ここでいい」と彼は答えてあわてて車を降り、馭者に約束のおまけの料金を与えてから、波止場のほうへ足早に歩いていった。あちらこちら大きな商船のへさきにランタンがぼうっと光る。光は水溜りの中で揺れて砕ける。赤い灯が石炭を積み込んでいる外国行きの船から輝き、泥にねばる歩道は濡れた防水外套《マッキントッシュ》のように見えた。
彼はあとをつけられていはしないかと時々ふり返ってみながら、左のほうへ急ぎ足で進んだ。七、八分で二つの淋《さび》しい工場の間にはさまれた、ちっぽけなみすぼらしい家に行きついた。二階の窓の一つにランプがともっている。彼は立ち止まって特別のノックをした。
しばらくすると廊下に足音がして、鎖をはずす音が聞こえた。扉が静かに開き、彼はうずくまった不恰好《ぶかっこう》な人間に一言も言わないで入った。その人間は彼が傍を通る時、暗がりへへたへたと身を伏せた。玄関の奥にはぼろぼろになった緑のカーテンが掛かっていて、彼のあとに続いて街路から吹き込んだ一陣の風に揺れ動いた。彼はそのカーテンを引きのけて、もとは三流のダンスホールだったらしい、長い、天井の低い部屋に入った。周囲の壁にはひゅうひゅうと高い音をたてるまぶしいガスの裸火が並びそれに面している蝿《はえ》の卵だらけの汚い鏡に鈍くゆがんでうつっている。力骨で支えられた錫《すず》の脂じみた反射鏡がそのガスの焔の背後についていて、ふるえる光の円盤をなしている。床はオーカー色の鋸屑《のこくず》で覆《おお》われ、それがところどころ踏まれて泥まみれになっており、こぼれた酒の|しみ《ヽヽ》が黒く丸くついている。マレー人が数人小さな木炭ストーブの傍にうずくまって、骨製の数取りをもてあそび、白い歯を見せつつ談笑している。片隅には、両腕に頭を埋めて一人の水夫がぶざまな格好《かっこう》でテーブルにかぶさるようにもたれかかり、片側全部を占める、けばけばしく塗りたてた酒場《バー》の傍には、二人のやつれた女が立って、上衣の袖をさも嫌《いや》そうに払っている老人を嘲《あざけ》っていた。ドリアンが通りかかると、「じいさんったら赤蟻でも身体《からだ》にくっついていると思ってるんだよ」とその中の一人が言って笑った。老人はびっくりして女を眺め、めそめそ泣きはじめた。
部屋のはずれにちょっとした階段があり、暗い部屋に続いていた。ドリアンがぐらつく三段の階段を急いで上ると、阿片のひどい臭気が鼻をついた。深い吐息をつくと鼻腔《びこう》は快楽に震えた。彼が入ると、ランプに身をかがめて細長いパイプに火をつけていた、なめらかな黄色い髪の青年が彼を見上げて、ためらいがちにうなずいた。
「エイドリアン、こんなところにいるのか?」ドリアンがつぶやいた。
「ほかにどこに行くところがあるのか?」と気のなさそうに彼が答えた。「今じゃ、おれに口をきく奴《やつ》は誰もいやしない」
「英国にはいないものとばかり思ってたよ」
「ダーリントンの奴は何もしようとしない。僕の兄がとうとう勘定を払ったよ。ジョージの奴もひとことも口をきかない……別にかまうことはない」彼は吐息をついてつけ加えた。「これがある限り友だちはいらない。友だちがどうも多すぎたような気がする」
ドリアンはたじろいで、ぼろぼろの蒲団《ふとん》にいとも奇怪な姿勢をして横たわるグロテスクな者どもを見回した。曲げた四肢、ぽかんと開いた口、とろんと見つめる眼が彼の心を捕えた。彼らがどんな奇妙な天国に苦しんでいるのか、どんな鈍い地獄が彼らに新しい歓喜の秘密を教えているのか、彼にはわかっていた。連中は彼よりも豊かなんだ。彼は思想の中に閉じ込められている。記憶が恐ろしい病魔のように彼の魂を食いやぶっている。時々バジル・ホールワードの眼が自分を眺《なが》めているように思われるのだ。だが、ここに留まることはできそうにもない。エイドリアン・シングルトンのいることが彼の心を悩ませた。自分が誰だか誰も知らないところへ行きたかった。彼は自分自身から逃《のが》れたかったのだ。
「例の別のとこへ行く」ちょっと途切れてから言った。
「波止場のかい?」
「うん、そうだ」
「あの気狂い猫の奴《やつ》きっといるさ。もうここに置いてもらえないんだ」
ドリアンは肩をすぼめた。「恋をする女はうんざりだ。人を憎む女のほうがずっと面白い。それに、品もあそこのほうが上等だ」
「似たようなものさ」
「僕はあっちのほうが好きだ。さあ、一緒に何か飲もう。飲まなくちゃやりきれない」
「何も欲しくないんだ」青年がつぶやいた。
「かまわんじゃないか」
エイドリアン・シングルトンは物憂《ものう》そうに立ち上がって、ドリアンについてバーのところに来た。ぼろぼろのターバンを巻き、みすぼらしいアルスター外套を着た混血の男が、ブランデーのびんと二つの杯を彼らの前につき出し、嫌《いや》な笑いを見せて彼らを迎えた。女たちがこそこそやって来てぺちゃくちゃしゃべりはじめた。ドリアンは彼らに背を向けて、エイドリアン・シングルトンに低い声で何事かを言った。
マレー人の用いる短剣のようにゆがんだ微笑が女たちの一人の顔をかすめた。「あたいたち、今夜は大いばりなんだよ」女が鼻で笑った。
「後生だから僕に口をきかないでくれ」とドリアンが足を踏み鳴らしながら言った。「何が欲しいんだ? 金? そら、やるよ。二度と口をきくんじゃない」
一瞬、二つの赤い火花が酒でとろんとなった女の眼にひらめき、それが消えてまた眼はどんよりと曇った。彼女は頭をふりたてて、物欲しそうな指で貨幣をカウンターからかき集めた。つれの女はうらやましげに彼女を見守った。
「無駄だよ」とエイドリアン・シングルトンは嘆息した。「帰りたくないんだ。いったいそれがどうしたと言うのか? ここで結構楽しいよ」
「何かいるものがあったら、手紙をよこすんだぞ」とちょっと途切れてからドリアンが言った。
「ひょっとしたらね」
「じゃ、失敬」
「失敬」青年は答えて、ハンカチでひからびた口をふきふき階段を上がっていった。
ドリアンは苦痛の色を顔に浮かべて、扉のほうへ歩いて行った。カーテンを脇へひくや、嫌な笑いが、例の金を受けとった女の赤く塗った唇からもれた。「そら、あすこを悪魔に買われた男のお通りだってさ!」彼女は|しゃっくり《ヽヽヽヽヽ》まじりにかすれ声で言った。
「畜生!」と彼は答えた。「そんな悪口言うな」
彼女は指をぱちんとはじいて「プリンス・チャーミングって呼んでもらいたいとこだろうさ」と彼のうしろ姿に向かって叫んだ。
居眠りをしていた船乗りは、女のその言葉をきくと急にとび上がって、あたりを狂おしく見回した。玄関の扉の閉まる音が彼の耳におちた。追跡する|てい《ヽヽ》で彼はとび出していった。
ドリアン・グレイは糠雨《ぬかあめ》の中を波止場づたいに急ぎ足で進んだ。エイドリアン・シングルトンに会ったことが妙に心を動かした。そして実際、バジル・ホールワードが非常にいまわしい侮辱をこめて言ったように、あの若者の生の破滅が自分の罪に帰せられるべきかどうかを考えた。彼は唇をかんだ。ほんのしばらくの間、その眼は悲しみの色を帯びた。だが結局、それがいったい自分になんだろう? 人の一生は、他人のあやまちの重荷を背負いこんでやるには短すぎるのだ。各人それぞれの生活を営んで、その生活に対する代価を払っているのだ。ただ一つ悲しいことは、たった一つのあやまちに対しても、あまりにもしばしば償《つぐな》いをしなければならないことだ。人は実際、幾度となく償わねばならぬ。人間との取引において、「運命」は決してその帳簿を閉じないのだ。
心理学者の言うところによると、罪もしくは世間のいわゆる罪なるもの、に対する情熱が、あまりにも強く人の心を支配し、そのために頭脳のあらゆる細胞はもちろん、肉体のあらゆる繊維までが、恐ろしい衝動に満ち満ちているかに見える瞬間があるという。かかる瞬間、男女は意思の自由を失う。彼らは自動人形のように恐るべき終焉《しゅうえん》に向かって進みいく。選択力は奪われ、良心が消滅させられるか、たとえ残存しても、反逆に魅力を与え、不従順に魔力を与えるためにのみ残存する。なぜなら、あらゆる罪は、神学者が飽《あ》くことなくわれわれに想起せしめる如《ごと》く、不従順の罪だからである。かの悪の「暁星〔ルシファー〕」たる高貴の精霊が天から堕《お》ちた時も、反逆者として堕ちたのであった。
無感覚になり、悪にのみ心傾き、けがれた心と反逆に飢えた魂をいだきつつ、ドリアン・グレイは足を早めて道を進んだが、これから行こうとしている悪所への近道としてこれまでもよく利用した、ほの暗い拱道《アーチウェイ》へそれたとき、突然うしろからつかまえられ、身を護るひまもあらせず、獣のような手で咽喉《のど》をしめられ、ぐいぐい壁に押しつけられた。
彼は懸命にもがき、締めつけて来る指をやっとのことでねじのけた。たちまちピストルのかちりと鳴る音が聞こえ、きらりと光る銃身が、まっすぐに彼の頭をねらっており、ずんぐりした男のうす暗い影が前に立ちはだかっているのが見えた。
「何用だ?」彼があえいだ。
「静かにしろ」男が言った。「動くとうつぞ」
「気でも狂ったな。俺はきさまに何をしたか?」
「きさまはシビル・ヴェインの一生を目茶苦茶にした奴《やつ》だ」というのが答えだった。「シビル・ヴェインはおれの姉だ。姉は自殺したんだ。おれにはちゃんとわかっている。姉が死んだのはきさまのせいだ。おれは|かたき《ヽヽヽ》をとろうと心に誓って、長年きさまをさがしていたんだぞ。手がかりも形跡も何一つなかった。きさまの人相を言えたはずの二人の人間は死んでしまった。姉がきさまを呼びつけていた綽名《あだな》だけで、きさまのことはなんにもわかっちゃいねえ。今夜そいつをふと聞いたというもんだ。神様に後生を願うんだ。今夜という今夜、きさまを殺してやる」
ドリアン・グレイは恐怖のあまり胸が悪くなった。
「おれは知らん」彼はどもりながら言った。「名前もきいたことがない。きさまは気が狂ったんだ」
「泥を吐いたほうが身のためだぞ、おれがジェイムズ・ヴェインだってことと同じくらい、きさまを殺すことは確かだぞ」恐ろしい瞬間だった。ドリアンは、何を言うべきか、何をなすべきか、を知らなかった。「膝《ひざ》をつくんだぞ!」男がどなった。「後生を願うためだ、一分間だけ待ってやる――それ以上はだめだぞ。おれは今夜、印度行きの船に乗る、だからそれまでに仕事を片付けなきゃならない。一分間、それだけだ」
ドリアンの両腕がだらりと垂れた。あまりの恐ろしさに腰が抜けて、なすすべを知らなかった。突然、途方もない希望が頭にひらめいた。「待て」彼は叫んだ。「きさまの姉が死んで何年になる? 早く言え!」
「十八年だ」男が言った。「なぜおれにきくのか? 何年になろうが、かまったことじゃない」
「十八年か」勝ち誇ったような調子をひびかせてドリアン・グレイが笑った。「十八年! ランプの下へ連れて行って、おれの顔をよく見るがいい」
ジェイムズ・ヴェインはなんのことかわからず、ちょっとためらった。それからドリアン・グレイをつかまえて、拱道《アーチウェイ》からひきずって行った。
風に吹かれている燈火は暗く揺れがちだったが、彼がおちいっていたらしいはなはだしい間違いをわからせるには充分役だった。というのは、彼が殺そうとした男の顔は、少年のようなういういしさ、汚れのない青春の純潔さをもっているではないか。二十歳の若者同然、昔別れたときの姉とほとんど年も違わないらしい。この男が姉の一生を破滅させた人間でないことは明白だ。
彼はつかまえていた手を放し、うしろへよろめきつつ叫んだ。「こいつは驚いた! 驚いた! あぶないところで殺すところだった!」
ドリアン・グレイは深い息をついた。「きさまはもう少しで恐ろしい罪を犯すところだったぞ」と相手をきっとにらみつけながら言った。「これにこりて、かたき打ちなんかやるんじゃないぞ」
「かんべんしてくんな」とジェイムズ・ヴェインがつぶやいた。「勘違いしたもんだ。あのいまいましい魔窟《まくつ》で小耳にはさんだひと言でとんだへまをやったものさ」
「きさま、家へ帰ったほうがいい。それにさ、ピストルもしまったほうがいい。さもなきゃ、面倒なことになるぞ」とドリアンは言うと、くびすを返してゆっくりと街路を歩いていった。
ジェイムズ・ヴェインは恐怖にうたれて舗道《ほどう》に立ちつくしていた。頭の天辺《てっぺん》から爪先まで震えているのだ。しばらくすると、雨のしたたる塀に沿ってそっと歩いていた黒い人影が、光の中へ出てきて、忍び足で彼に近寄ってきた。彼は手が自分の腕に置かれるのを感じ、はっと驚いて辺りを見回した。それはあの酒場《バー》で飲んでいた女連中の一人だった。
「お前ったら、なぜあいつを殺さなかったのさ?」と彼女はしゅうしゅう音をたてるほどの怒りをこめてがなりたてた。やつれた顔を彼の顔に触れんばかりに寄せて。「お前さんがダリーの家からとび出して行った時にゃ、あいつのあとをつけてやるんだってことはわかったのさ。お前さんは馬鹿ってことよ! あいつを殺しゃよかったのに。金をしこたま持ってやがって、悪人も大悪人ってことだ」
「あいつはおれの探してる奴《やつ》じゃない」と彼は答えた。「それにさ、人の金なんか欲しかないや。ある男の命が欲しいんだ。おれが命を欲しがってる相手っていう奴《やつ》は、かれこれ四十になってるに違いない。こいつはまるで子供だ。ありがたいことに、あいつの血で手をよごさずにすんだというものさ」
女はにがにがしい笑みをもらした。「まるで子供だって!」せせら笑いながら言う。「そりゃね、プリンス・チャーミングが今のあたいにしちまったのは、かれこれ十八年も前のことさ」
「嘘《うそ》つけ!」ジェイムズ・ヴェインが叫んだ。
女は片手を天に揚《あ》げて「神様にかけても、あたいほんとのこといってるんだよ」と叫んだ。
「神様にかけても?」
「嘘だったら首でもやるよ。あいつはここへ来る連中の中で一番悪党だ。噂《うわさ》じゃ、悪魔に身を売ってさ、その代わりにあのつるっとした顔を買ったとよ。あいつに会ってかれこれ十八年になろうか。その時分からあいつは大して変わっちゃいないんだよ。こっちゃずいぶんなんだがね」と彼女は嫌《いや》なながし眼を使いながらつけ加えた。
「誓うか?」
「誓うともさ」鸚鵡《おうむ》返しに女の平べったい口からかすれ声が聞こえた。「だけど、あたいをあいつに引き渡すんじゃないよ」と泣き声で言った。「あいつが恐いんだよ。今夜の宿銭めぐんでおくれ」
彼は毒づきながら急に彼女から離れ、街角まで駆けていったが、ドリアンの姿はなかった。うしろをふり返ると例の女の姿も消えていた。
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第十七章
一週間後、ドリアン・グレイはセルビイ・ロイヤルの邸の温室の中にすわって、美しいモンマス公爵夫人に話しかけていた。夫人は六十歳の疲れ切った様子をした主人同伴で、客の一人として来ていたのである。お茶の時間で、テーブルの上のレース・カバーのついた大ランプの柔らかい光は、公爵夫人が主人役をつとめている茶会の精巧な陶器や薄手づくりの銀器を照らしていた。彼女の白い手が茶碗の間をしとやかに動き、ドリアンが何かささやいた言葉をきいて、ふっくらとした赤い唇が微笑《ほほえ》んでいた。ヘンリ卿は、絹の覆《おお》いをした柳細工の椅子にもたれて二人の姿を眺《なが》めていた。桃色の長椅子にはナーバラ夫人がすわって、最近蒐集の中へ加えたブラジルの甲虫のことを公爵が話してきかせるのをきくふりをしていた。凝った喫煙服を着た三人の若者がお茶の菓子を婦人たちに配っていた。この別荘への招待客は十二人から成っていて、さらに翌日来ると考えられる客が若干あった。
「二人で何を話しているのですか?」とヘンリ卿がテーブルへやって来て茶碗を置きながら言った。「グラディス、すべての物の名前をあらためるという僕の計画をドリアンからお聞きになったでしょうか、こいつはなかなか面白い考えですよ」
「でもハリー、わたくし別に名前を変えていただきたくはございませんわ」と公爵夫人はすばらしい眼で彼を見上げながら答えた。「今の名前にすっかり満足してますの。きっとグレイさんだって、ご自分のお名前で満足なさいますことよ」
「ねえ、グラディス、絶対あなた方二人の名前はどちらも変えたくはありません。どちらも完全なんだから。僕の考えていたのは主に花のことなんです。昨日、蘭《らん》を剪《き》ってボタン穴の飾りにしたところ、それが斑点のある実にすばらしい奴《やつ》で、七つの大罪に劣らぬほど目立つものでした。何気なく庭師の一人にその花の名を訊《き》いたものです。するとそれは、ロビンソニアーナとかなんとか、そういった嫌《いや》な名前のみごとな標本《スペシメン》だということでした。悲しいかな、僕たちは物に美しい名前をつける機能を失ってしまったのだ。名前というものが一番大切なものなのだ。僕は行動というものとは争わない。争うのは言葉とだけだ。だからこそ、僕は文学上の低俗な写実主義《リアリズム》を憎むのだ。鍬《くわ》を平気で鍬と呼べる人間は、いやおうなしに鍬を使わされるわけだ。ほかにぴったりの役はないんだから」
「じゃハリー、あなたをなんと呼べとおっしゃるの?」彼女が叫んだ。
「彼は名は逆説公《プリンス・オブ・パラドックス》ですよ」とドリアンが言った。
「それならすぐにでもわかりますわ」公爵夫人が叫んだ。
「それはいただきかねます」とヘンリ卿は椅子に身を沈めながら笑った。「レッテルをはられると逃れっこないから! その称号はごめんだ」
「王族の退位は許されませんのよ」美しい唇から警告めく言葉がもれた。
「じゃ、僕の王座を守れとおっしゃるんですか?」
「そうです」
「僕は明日の真理を言ってるんです」
「わたくしは今日の誤りのほうをえらびますの」彼女が答えた。
「グラディス、あなたときたら、僕を武装解除してしまう」と彼は夫人の片意地な気分を見てとって叫んだ。
「ハリー、あなたの楯《たて》をね、槍《やり》じゃなくってよ」
「僕は『美』に対しては絶対槍をふるわないことにしている」彼は手を振りながら言った。
「ハリー、それがあなたの間違ってるとこなの。あなたは美を大切になさりすぎるんですもの」
「どうしてそんなことが言えますか? そりゃ、善良であるよりは美しいほうがいいと僕は思いますよ。しかし、またいっぽう、醜いより善良なほうがいいってことを認める点で、僕の右に出る人はまずありませんね」
「じゃ、醜いってことは七つの大罪の一つってこと?」と公爵夫人が叫んだ。「あなたの蘭《らん》についての直喩《たとえ》はどうなりますの?」
「醜いのは七つの大徳の一つです。グラディス。あなたは善良なトーリー党員として、決してこの七つの大徳を見くびっちゃいけませんぞ。ビール、聖書、それにこの七つの大徳、これらが英国を今日の英国たらしめたというわけなんだから」
「じゃ、あなた御自分の国がお好きじゃございませんの?」
「僕はその国の住人です」
「もっともその国をうまくやっつけることができるようにね」
「英国に対するヨーロッパの採決を言わせてもらいましょうか」彼は訊《たず》ねた。
「なんと申しておりまして?」
「タルテュフ〔モリエールの同名の喜劇中の人物、偽善者〕が英国に移住して店を開いたそうです」
「ハリー、それがあなたの御意見?」
「あなたに差し上げます」
「あんまりほんとうすぎて、とても使えそうにございませんわ」
「何も恐れることはありません。英国人って奴《やつ》は、人相書を絶対にみとめないんだから」
「実際的なんですわ」
「実際的というよりずるいですよ。元帳を作製する時に愚鈍さを富で悪徳を偽善で埋め合わせるんだ」
「でも、英国人は偉業をなしとげていますわ」
「グラディス、偉業を押しつけられたまでのことです」
「その重荷を背負ってきましたのよ」
「やっと、株式取引所まではね」
彼女は首を振った。「わたくし英国人種信じてますの」彼女は叫んだ。
「押しの強いものが生き残る代表的実例ですな」
「発展がありましてよ」
「頽廃《たいはい》のほうがもっと魅力があります」
「芸術はどう?」彼女が訊ねた。
「一種の病気ですな」
「恋は?」
「幻影」
「宗教は?」
「はやりの信仰代用品」
「あなた懐疑主義者ね」
「とんでもない! 懐疑は信仰のはじまりですぞ」
「では、あなたは?」
「定義することは限定することです」
「何か糸口くださいな」
「糸はぷっつり切れるもの。あなたは迷路の中で迷子になってしまうでしょう」
「わたしを途方にくれさせる方よ、あなたは、ほかのことを話しましょう」
「ここの主人なんか楽しいトピックになりますよ。ずっと以前、プリンス・チャーミングという名前をもらったものです」
「ああ! それは思い出させないでほしい」ドリアン・グレイが叫んだ。
「今夜はわたしたちの主人役は|おひどい《ヽヽヽヽ》ほうね」と赤面しながら公爵夫人が言った。「あの方、モンマスがわたしと結婚したのは、純粋に科学的原理から見て、わたくしを現代の一番ましな標本ということで結婚したとでもお考え遊ばしてるんでございましょう」
「それで、公爵夫人、御主人があなたをピンで留められませんように」とドリアンが笑った。
「ああ! グレイさん、それでしたら、女中がもうやっています、わたしに腹を立てたときに」
「公爵夫人、女中は何に腹を立てるのです?」
「グレイさん、そりゃもうつまらないことなのよ。たいていわたしが九時十分前にはいっていって、八時半までに私の着がえをすませてくれるよういいつけるものですから」
「なんというききわけのない女中だ! ひまを出すからっておっしゃるべきですよ」
「グレイさん、なかなか思い切ってそれができませんのよ。だって、あの女中がわたしの帽子を考案してくれるんですもの。ほら、ヒルストーン夫人の園遊会でわたしのかぶってたの覚えていらっしゃいまして? お忘れになっていらっしゃいます。でも、覚えてるみたいなふりをなさるなんて、いいお方ね。さて、女中は帽子をごくつまらないものから作ったのです。いい帽子なんて、みんな、ごくなんでもないもので作るものね」
「グラディス、すべていい評判と同様です」とヘンリ卿がさえぎった。「人がかもし出すあらゆる効果は敵をつくります。人気を博するためには、凡庸《ぼんよう》な人間でなくちゃならない」
「女性の場合はちがいます」と公爵夫人は首を振り振り言った。「女性が世界を支配するのです。凡庸なんかにはとても我慢ができませんの。わたくしたち女性は、どなたかが申しますように、耳で恋をしますの、ちょうど、あなた方男性が眼で恋をなさいますようにね、もし恋をなさるとしての話なんですけれど」
「なんだかわれわれが愛することしか能がないみたいです」ドリアンがつぶやいた。
「まあ、それでは、あなたはほんとうに恋をなさるなんてことおありにならないんです」と悲しそうなふりをして公爵夫人が答えた。
「ねえ、グラディス!」とヘンリ卿が叫んだ。「あなたはよくもそんなことが言えますね。ロマンスは繰り返しによって生き、繰り返しは欲望を芸術に変えるのです。それに、愛するそのときそのときが、僕たちの愛した唯一のときなのです。対象が変わっても情熱の誠実さが変わるものではない。ただ強められるいっぽうです。僕たちは人生でせいぜいたった一度偉大な経験をすることができるだけです。ですから、人生の秘訣《ひけつ》は、そういった経験をできるだけたびたび再現することですよ」
「ハリー、たとえその経験で傷手を受けたときでも?」
「傷手を受けたときはなおさらのことです」ヘンリ卿が答えた。
公爵夫人は向きを変えて、眼に好奇的表情をたたえ、ドリアンを眺《なが》めた。「グレイさん、あなたはなんとおっしゃいまして?」と質問した。
ドリアンはちょっとためらってから、頭をうしろにそらし、笑いながら答えた。「公爵夫人、僕はいつもハリーと同じ意見ですよ」
「ハリーがたとえ間違っていらっしゃるときでも?」
「公爵夫人、ハリーが間違うことは絶対ありません」
「それで、あの方の哲学であなた幸福におなりになれて?」
「幸福を探し求めたことなんか一度もありません。いったい誰が幸福を欲しがります? 僕は快楽を探し求めて来たのです」
「で、グレイさん、見つかりまして?」
「たびたび、たびたびすぎるほどに」
公爵夫人は溜息をついた。「わたくし平静を求めていますの」彼女は言った。「もしも着がえに参りませんでしたら、今夜の平静は得られそうもございません」
「公爵夫人、蘭《らん》をとって来て差し上げましょう」とドリアンは急に立ち上がり、温室を向こうのほうへ歩きながら叫んだ。
「あなたが彼とふざけてるのは、どうもあまりみっともよくありませんね」とヘンリ卿は従妹《いとこ》に言った。「気をつけたほうがいいですよ。彼はなかなか魅力的ですから」
「あの方がそうでなかったら、戦いは起こらないでしょう」
「それじゃ、いよいよ両雄相まみゆというわけですね」
「わたくしトロイア側ですのよ。トロイア軍は一人の女性のために戦ったのですもの」
「トロイア軍は負けました」
「敵にとらえられるよりもっといけないことがありましてよ」と彼女が答えた。
「手綱《たづな》をゆるめてどんどん疾駆《しっく》していますね」
「歩調で活気が出ます」と当意即妙の答え。
「今夜日記に書いておきましょう」
「何を?」
「火傷《やけど》をした子供は火遊びがお好きって」
「上皮さえ焦げず、翼は無傷」
「あなたは何ごとにも翼を使うお方だが、飛ぶことだけには使わない」
「勇気は男性から女性へと移りました。わたくしどもには新しい経験ですの」
「競争相手《ライヴァル》が一人います」
「誰?」
彼は笑って「ナーバラ夫人」とつぶやいた。「すっかり崇拝者になっています」
「わたくしにずいぶん心配おさせになるのね。古代に訴えるなんてことは、わたくしたちロマン主義者には致命的ですのよ」
「ロマン主義者! あなたたちはあらゆる科学的方法を持っています」
「殿方が教育なさいましたの」
「だが、説明してはいません」
「一つの性としてお述べなさいませ」という挑戦だった。
「秘密なきスフィンクス」
彼女は微笑《ほほえ》みながら彼を見た。「まあ、グレイさんったらずいぶんおそいこと!」と言った。「御一緒にお手伝いに参りましょう。私のフロック色あの方にまだ申し上げておりませんのよ」
「ああ! グラディス、あなたのフロック、ドリアンの花に合わせていただきます」
「降服が早すぎましょう」
「ロマンティック芸術はクライマックスから始まるもの」
「引っ込みの機会をわたくし保留しておかなくてはなりませんわ」
「パルティア人式にですか?」
「彼らは砂漠《さばく》に安全を発見しました。わたくしにはとてもできそうにございません」
「女性が選択の自由を許されるとは限っていません」と彼は答えた。が、その言葉の終わるか終わらないかに、温室の遠いはずれから息のつまったような呻《うめ》き声が聞こえ、続いてどさりと倒れる鈍い音が起こった。皆がはっとして立ち上がった。公爵夫人は恐怖のあまりじっと立ちつくした。ヘンリ卿は恐怖の色を眼にうかべて、ひらひらと動いている棕櫚《しゅろ》の葉の間をつき抜けて行くと、ドリアン・グレイは死んだように気を失って、タイル張りの床の上にうつ伏せになっていた。
すぐ彼は青色の客間に運び込まれ、ソーファに寝かされた。しばらくして正気に返り、ぼんやりした表情であたりを見回した。
「何があったの?」と彼は訊ねた。「ああ! 思い出した。ハリー、ここなら大丈夫だろうか?」彼はぶるぶる震えはじめた。
「ねえ、ドリアン」とヘンリ卿が答えた。「ほんのちょっと気絶しただけのことさ。疲れすぎたんだ。晩餐に出ないほうがいい。君の代理は僕がつとめるよ」
「いや、僕は出る」と苦しそうに立ち上がって言った。「出たほうがかえっていい。独《ひと》りでいちゃいけないんだ」
彼は部屋に行って正装にかえた。食卓についた彼の態度には、めちゃくちゃに陽気なところがあり、白いハンカチのように、温室の窓にぴったり押しつけられて、ジェイムズ・ヴェインの顔がこちらをじっと見守っている有様を思い出すと、時折りぞっとする恐怖が身内を走るのであった。
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第十八章
翌日彼は家から出ず、死に対するはげしい恐怖に悩みながら、それでいて生そのものに対しても無関心のまま、大部分の時間を自室ですごしたのである。狩りたてられ、わなにかけられ、追跡されているという意識が彼を支配しはじめていた。綴織《つづれおり》がちょっと風にそよいでも身震いが出た。鉛枠のはまった窓ガラスに吹きつけられる枯葉も、彼には、無駄になった決意とはげしい悔恨の念のように思われた。眼を閉じると、またもあの水夫の顔が霧に曇ったガラス越しにのぞいているのが見え、恐怖がまたしても自分の胸に手をかけるかに思われた。
しかし、復讐を夜の闇《やみ》から呼び出し、刑罰の恐るべき様々な姿を彼の前に現わしたのは、ただ彼の空想にすぎなかったかもしれぬ。実人生は混沌《こんとん》であるが、想像力には恐ろしく論理的なところがある。悔恨の情に罪の足跡を尾行させるのは想像だ。一つ一つの罪悪に醜い子供を産ませるのは想像の仕業だ。日常の実世界においては、罪人罰せられず、善人報いられずである。成功は強者に与えられ、失敗が弱者に押しつけられる。それだけのことなのだ。それに、もし見知らぬ男が家の辺りをうろついていたら、召使なり門番なりが見とがめたことだろう。花壇に足跡でもついていたら、庭師が知らせてくれただろう。そうだ、これは単に空想にすぎなかったのだ。シビル・ヴェインの弟が自分を殺しに舞い戻ったわけではない。彼は船に乗り込んでいってしまい、どこかの冬の海に沈んでしまったのだ。ともかくも、彼からは安全なわけだ。もちろん、あの男はこちらの名前も知らないのだ。知りようもない。青春の仮面が自分を救ってくれたのだ。
それにしても、たとえそれが幻想にすぎなかったとしても、良心がかかる恐るべき亡霊をよみがえらせ、それに眼に見える姿を与え、その姿を眼前にちらつかせるとは、考えるだに恐ろしいことだ。もしも、昼となく夜となく、彼の罪悪の影が沈黙した隅々から彼をのぞき見、隠れた場所から彼を嘲笑《ちょうしょう》し、饗宴《きょうえん》の席につらなっても耳にささやき、寝ているときも氷のような指で彼を呼びさますとしたら、彼の生活はどうなるだろうか? この考えが頭に忍び込んできたとき、恐怖のあまり顔は蒼《あお》ざめ、あたりの空気が突然冷たくなったように思われた。ああ! なんという狂暴さのさなかに、友人を殺したことか! あの場面を思い出すさえなんというものすごさ! すべてありありとまた眼にうかんだ。一つ一つのいまわしい詳細が、いっそうの恐怖を加えてよみがえってきた。「時間」の暗い洞穴から、深紅に包まれ恐ろしい形相を呈して彼の罪の映像がよみがえってきた。六時にヘンリ卿がやってきて見ると、ドリアンは胸も張りさけんばかりに号泣しているところだった。
思いきって彼が外出したのは、やっと三日目になってからのことだった。澄みきって松の香りのする冬の朝の大気には、歓喜と生への熱意とを彼にとり戻してくれるものがあった。だが、この変化をひきおこしたのは、環境の物理的条件のみではなかった。彼自身の本性がその完璧な平静さをそこない傷つけようとする過度の苦悶に反抗したのだ。敏感でまた精緻にできている気質にあっては、いつもそうなのだ。その強烈な情熱は相手を傷つけるか、さもなくば、屈するかのいずれかである。人を殺すか、さもなくば、情熱のほうが滅びるかいずれかである。浅薄な悲しみや浅薄な愛情は生きつづける。偉大なる愛や悲しみは、それ自身の豊かさによって滅ぼされる。その上、彼はこれまで恐怖に打たれて空想のとりこになっていたのだと自らに信じこませ、今では彼の恐怖心をいささかのあわれみと少なからぬ軽蔑の念をもってふり返るのであった。
朝食後、彼は公爵夫人と一緒に一時間庭園を散歩してから、狩猟会に加わるべく猟園《パーク》を横切って車を走らせた。かりかりした霜が塩のように草に置き、空は青い金属の盃をさかさにしたようだった。薄い氷の膜が葦の生えた平らな湖をふちどっていた。
松林の角で、彼は公爵夫人の兄弟であるサー・ジョフレイ・クルーストンが、使用ずみの薬包を二つ銃からぽんと押し出しているところを見た。馬車から飛び降り、馬丁に馬を連れて帰るように命じてから、枯れ羊歯《しだ》と粗《あら》い下生えの中を客人のほうへ進んでいった。
「ジョフレイ、獲物はたくさんあった?」彼は訊ねた。
「ドリアン、大したこともない。鳥の奴《やつ》たいてい野っぱらのほうへ行ってしまったらしい。昼食後のほうがましだろうね、新しい猟場だから」
ドリアンは彼と並んでぶらぶら歩いていった。肌をさす、香気ある大気、森の中に輝く赤や褐色の光、時折りひびく勢子《せこ》のかすれ声、それにつづくぱんという銃声、こういったものが彼の心を魅了して、楽しいのびのびした気持ちをみなぎらせた。彼は呑気《のんき》な楽しさと無頓着《むとんちゃく》な喜悦にすっかり支配されてしまったのである。
二十ヤードばかり前方の枯草のかたまった茂みから、突然先端の黒い耳をつんとたてて、兎が後足で蹴ってとび出した。兎は|はん《ヽヽ》の木の茂みのほうへ跳んでいった。サー・ジョフレイは銃を肩に当てたが兎の動作の美しさには、何か奇妙にドリアン・グレイの心を魅惑するものがあった。すかさず彼は大声をあげた。「ジョフレイ! 撃《う》たないで! 助けてやってください」
「ドリアン、馬鹿なことを!」相手が笑い、兎が茂みに跳び込んだとき発砲した。と二つの声がきこえてきた。恐ろしい兎の苦痛の叫びと苦悶する人間の叫びであり、このほうはなおさら恐ろしいものだった。
「しまった! 勢子を撃ってしまった!」とサー・ジョフレイが大声をあげた。「銃の正面にのこのこ出てくるなんて、なんて間抜けだ! おい、撃つのをやめろ!」と彼はありったけの声を張りあげて呼ばわった。「怪我人が出たぞ」
番人頭がステッキを手にしてかけつけてきた。
「どこでございますか? 怪我人はどこでございましょうか?」と叫んだ。同時に射撃は一帯にわたって止《や》んだ。
「ここだ」とサー・ジョフレイは茂みのほうへ駆けながら怒った調子で答えた。「なぜ勢子の奴《やつ》らを引き留めておかないんだ? おかげで今日の猟は台無しだ」
二人がしなやかな、揺れる枝を払いつつ|はん《ヽヽ》の木の藪《やぶ》の中へ跳び込んでいくさまをドリアンは見守っていた。間もなく二人は死体をひきずって日向《ひなた》へと現われた。ドリアンは恐怖のあまり顔をそむけた。不幸が彼の行く手について回るかに思われる。その男がほんとうに死んだのかと問うサー・ジョフレイとその|むね《ヽヽ》を肯定する番人との声を彼は耳にした。森は突然様々な顔がうようよしているように思われた。あたりには無数の足音と低い人声があった。一ぴきの胴色の胸をした大|雉《きじ》が頭上の枝の中を羽ばたきながらやってきた。
彼の動揺する心からすれば、無限にわたる苦痛の時間とも思われるほんの数瞬の後、自分の肩に手が置かれるのを感じた。彼ははっとしてふり返った。
「ドリアン」とヘンリ卿は言った。「今日の猟は止めだと僕から言ってやったほうがいいね。なんだかこのまま続けるのはよくないようだ」
「ハリー、永久に止めたらと思うよ」と彼は沈痛な調子で答えた。「すべてがいまわしくて残酷だ。例のあの男は……?」
彼はしまいまで言い切れなかった。
「どうもそうらしい」とヘンリ卿が答えた。「あの男は一発分の装薬全部を胸に受けたんだ。おおかた即死にちがいない。さあ、帰ろう」
彼は並んで無言のまま並木路の方向へと、ものの五十ヤードばかり歩いた。それからドリアンはヘンリ卿を眺《なが》めて深い溜息まじりに言った。「ああ! 不吉な前兆だ、非常に不吉な前兆だ」
「何が?」とヘンリ卿は訊《き》いた。「ああ! この事故がかい。ねえ君、仕方のないことさ。あの男が悪いんだ。なんだって銃の正面へなんか出てきたのだ? それに、僕たちにしちゃどうってことじゃない。そりゃもちろん、ジョフレイにしてみれば、工合の悪いことさ。勢子《せこ》の奴《やつ》らをあんまりひどく叱るのはよくない。こちらが乱射をやる男だと思われるからね。それにジョフレイはそんな男じゃない。彼の射撃は実に正確だ。だが、この問題は論ずるだけ無駄だ」
ドリアンは首を振った。「ハリー、不吉な前兆だ。僕たちの誰かに何か恐ろしいことが起こりそうな気がする。ひょっとすると僕自身にだ」と彼は苦痛を示す身振りを見せ、眼をなでながら言った。
年上の男は笑った。「ドリアン、世の中で恐ろしいものは|生の倦怠《アンニュイ》だけだよ。こいつは唯一の許すべからざる罪悪だ。連中が晩餐の席でこんどのことを問題にしてぺちゃくちゃつづけない限り、それに苦しむこともあるまい。この問題は御法度《ごはっと》だってことを連中に言ってやらなくちゃいけない。前兆のことなんだが、世の中にそんなものはありゃしないさ。運命って奴は何も先触れをよこすものじゃない。運命はそんなことをするのには、賢明すぎるか、残酷すぎるか、どちらかだ。それにドリアン、一体全体君に何が起ころうと言うのか? 人間の欲しいものを君は全部持っている。君となり代わりたいと願わない人間は一人もいないのだ」
「ハリー、僕のほうからは誰とだってなり代わってほしいのだ。そんな笑いかたしないでほしい。ほんとのことを言ってるんだもの。今しがた死んだあのみじめな農夫のほうが僕よりしあわせなんだ。別に「死」がこわいわけじゃない。こわいのは「死」がやってくることなんだ。「死」の奇怪な翼が僕の周囲の鉛色の空気中に旋回しているような気がする。おや! ほら、あすこの木のうしろに動いている男が見えない? 僕をじっとみつめて待ち伏せてしているあの男が」
手袋をはめた手が震えながら指さす方向をヘンリ卿は見た。「うん」と彼は微笑しながら言った。「庭師が君を待ってるんだ。今夜食卓にどんな花を飾ったらいいのか、君にきこうと言うんだろう。君の神経質にもほどがあると言うもんだよ。ロンドンに帰ったら、僕のかかりつけの医者に見てもらうとするさ」
ドリアンは庭師が近づいてくるのを見ると、安堵《あんど》の溜息を吐いた。庭師は帽子を手にやって、おずおずした様子でちょっとヘンリ卿を見てから、一通の手紙をとり出して主人に手渡した。
「公爵夫人《ハア・グレイス》様がお返事を頂いてこいとのことでございました」彼はつぶやいた。
ドリアンは手紙をポケットに入れて、「夫人に今参りますと言ってくれ」と冷然として言った。庭師は踵《くびす》をめぐらして家のほうへと急ぎ足で帰っていった。
「女性というものは、あぶないことをするのが実に好きなんだなあ」とヘンリ卿が笑った。「それも僕が一番賞讃する女性の性質の一つなんだがね。女性って奴《やつ》は、他人が見ている限り、だれかれかまわず火遊びをするもんだ」
「ハリー、あなたは危険なことを言うのが実に好きな人だ! 今の場合、おっしゃることは全然まとはずれだ。僕は公爵夫人が大いに好きだけれど、愛してはいない」
「それに、公爵夫人は君を大いに愛しているんだが、あまり好きじゃない。だから君たちは実にお似合いなんだ」
「ハリー、あなたは陰口を言ってるんです。陰口には根拠なんて何一つないものだ」
「すべての陰口の根拠は不倫な確実性にあるんだよ」ヘンリ卿は巻煙草に火をつけながら言った。
「ハリー、あなたは警句《エピグラム》一つのためにならどんな人だって犠牲にしたがるんだから」
「世間自らすすんで祭壇におもむく」が答えだった。
「愛することができたらいいのに」とドリアン・グレイが声に深い哀感をたたえて叫んだ。「しかし、僕には情熱もなくなり、欲望も忘れたような気がする。僕自身のことに熱中しすぎている。自分というものが重荷になってきた。僕は逃れたい、去りたい、忘れたい。そもそもここへ出かけるってことが馬鹿だった。ハーヴェイに電報を打ってヨットの用意をさせたらと思う。ヨットに乗っていれば安全だから」
「ドリアン、何が安全だというんだ? 何か悩みがあるんだね。なぜ僕に話さないのか? 力になってあげることはわかってるはずだ」
「ハリー、それが言えない」と彼は悲しげに答えた。「それに、おそらく僕の気の迷いだろう。あの不幸な突発事件で気が顛倒《てんとう》したのだ。何か同じようなことが僕の身の上にも起こりそうな恐ろしい予感がする」
「馬鹿な!」
「馬鹿なことだったらいいのに。でも、そう思わずにいられない。ああ! 公爵夫人だ、仕立て屋づくりのガウンを着たアルテミス〔ギリシアの狩猟の女神〕よろしくといった格好《かっこう》だ。公爵夫人、ちゃんと僕たち帰ってきたでしょう」
「グレイさん、事故のことすっかりお聞きしましたのよ」と彼女は答えた。「可哀《かわい》そうにジョフレイひどく心が顛倒しています。それに、あなたはジョフレイに兎を撃たないようにおっしゃったらしいのね。なんて奇妙なことなんでございましょう!」
「そうです、ずいぶん奇妙でした。どうしてあんなこと言ったのか、自分でもよくわからない。ちょっとした気まぐれからでしょう。小さな生きものであれほど可愛《かわい》らしいのはいないように見えました。もうあの勢子《せこ》のことおききになったことは残念です。いまわしいことですから」
「厄介なことだね」とヘンリ卿が口をはさんだ。「この問題には、心理的価値は全然ない。さて、ジョフレイがわざとやったとしたら、彼はなんと面白い人間だろう。ほんとうに殺人を犯した人間と知り合いになりたいものだね」
「ハリー、なんてまあ嫌《いや》なことをおっしゃるの!」と公爵夫人が叫んだ。「グレイさん、そうじゃございません? ハリー、グレイさん、またお悪くってよ。気絶なさりそうですわ」
ドリアンはやっとのことで身を持ち直して微笑した。「公爵夫人、なんでもありません」と彼はつぶやいた。「神経がひどく参っています。それだけのことです。今朝歩きすぎたせいだろうと思います。ハリーが何を言ったのか聞きもらしました。大変ひどいことでもいいましたか? いつかまたお話承りましょう。失礼して横にならなくてはなりません。お許しくださるでしょうな?」
彼らは温室からテラスのほうへ続く大きな階段のところへ来ていた。ガラスの扉がしまってドリアンの姿が見えなくなると、ヘンリ卿はふり返ってねむそうな眼で公爵夫人を眺めた。「よほどドリアンを愛していられるのですか?」と彼が訊ねた。
彼女はしばらく答えず、景色をじっと見つめて立っていた。「自分でもわかればよろしいんですけれど」とついに彼女は言った。
彼は首を振った。「わかったら最後、百年目ですよ。不確実なればこそ魅力があるのです。|もや《ヽヽ》のおかげでものがすばらしく見えるじゃありませんか」
「道に迷うこともありましてよ」
「ねえ、グラディス、すべての道は同一地点で終わります」
「それは何?」
「幻滅」
「それが人生での私の初舞台《デビュウ》でした」彼女は溜息をついた。
「それが公爵家の冠を頂いてあなたのところに来たわけですね」
「わたくし苺《いちご》の葉〔爵位の意〕なんてものに飽き飽きしましたの」
「でも、よくお似合いです」
「人前だけはね」
「なくなったら淋《さび》しいでしょう」とヘンリ卿が言った。
「苺の葉はともかく、花弁は手放さないつもりでございますの」
「モンマスには耳があります」
「年をとると耳が遠くなりますのよ」
「御主人が妬《や》いたことはありませんか?」
「妬いてくれたらと思います」
彼は何かを探す様子であたりを見回した。「何を探してらっしゃるの?」彼女が訊ねた。
「あなたの試合刀の頭のボタンです」と彼が答えた。「あなたが今おとしたのです」
彼女は笑った。「まだ面はちゃんとつけておりましてよ」
「面があるために、あなたの眼がよけいに美しく見えます」彼の返事だった。
彼女は再び笑った。その歯はまっかな果物の中の白い種子のように見えた。
二階では自室でドリアン・グレイがソーファに横になっていたが、うずくように痛む身体《からだ》の隅々にまで恐怖が拡がっていた。人生が突然あまりにもいまわしい重荷となってきて、とても堪えきれぬほどであった。野獣のように茂みの中で撃たれた不幸な勢子《せこ》の恐るべき死は、また彼自身の死を予表しているかに思われた。ヘンリ卿が皮肉な冗談気分でふと言ったあの言葉をきいて、彼はほとんど失神せんばかりだったのだ。
五時になると彼はベルを鳴らして召使を呼び、ロンドン行きの夜の急行に間に合うように身の回り品を荷造りし、八時半までに四輪馬車を来させるよう命じた。セルビイ・ロイヤル邸ではもう一晩も寝まいと決心していたのである。ここは不吉な場所だ。ここでは死が白昼公然と歩いており、森の草は血で汚れている。
それから彼はヘンリ卿に短信を書き、ロンドンに行って、主治医に診《み》てもらうつもりだということを知らせ、さらに留守中のお客のもてなしのほうをよろしく頼んだのであった。その短信を封筒に入れているところへ、扉にノックの音がして召使は、番人頭が彼に会いたいといっていると知らせた。彼は顔をしかめて唇を噛《か》んだ。「こちらへ通してくれ」彼はちょっとためらってからつぶやいた。
番人頭が入ってくるや否や、ドリアンは抽斗《ひきだし》から小切手帳を取り出してひろげた。
「ソーントン、今朝の不幸な事故のことで来たんだな?」彼はペンをとりながら言った。
「はい、さようでございます」と猟番《ゲイムキーパー》は答えた。
「気の毒なその男は結婚していたのか? 扶養《ふよう》家族はあるのか?」とうんざりした様子でドリアンが訊《たず》ねた。「もしそうだったら、家族を困らせておくのも嫌《いや》だから、お前が必要だと思う金額をいくらでもやるとしよう」
「それがどうも、何者やらわからないのでござります。そんなわけで勝手ながら、参上いたしましたような次第で」
「何者かわからん?」と大儀そうにドリアンが言った。「それはどういうことだ? お前の部下のものじゃなかったのか?」
「はい、違いますんで。ついぞ見かけない男でして。どうやら水夫らしいところがござりまして」
ドリアン・グレイの手からペンが落ちて、心臓の鼓動が急にとまったような気がした。「水夫だって?」彼は大声で叫んだ。「水夫だと言ったな?」
「はい、さようでござります。水夫でもしていたらしゅうござります。両腕にいれずみなんかいたしておりますんで」
「何か男の持ち物はあったか?」とドリアンは身体を前へのり出し、驚いたような目付をして相手を眺《なが》めながら言った。「名前でもわかるようなものが?」
「金が少々――大した額でもござりませんが、それと六連発ピストルでござります。名前らしいものは何もございません。上品な顔付は致しておりますが、荒くれらしいところもござりましてな。まず水夫というところでござりましょう」
ドリアンは、はっと驚いて立ち上がった。恐ろしい希望が彼をかすめ羽ばたいた。彼は狂気のようにそれをつかんだ。「死体はどこだ?」と彼は叫んだ。「早く! すぐ見なくちゃならない」
「地主自作農場《ホーム・ファーム》の空きになった厩《うまや》でござります。あんなものはみんな家に置くのはまっぴらでござりますんで。死体はわざわいをもち込むとか申しまして」
「自作農場《ホーム・ファーム》だって! すぐそちらへ行って待ち合わせてくれ。馬丁にすぐ馬を回すよう言ってくれ。いや、それに及ばん。自分で厩まで出かける。そのほうが手っ取り早い」
十五分たたないうちに、ドリアン・グレイは長い並木道を全力で疾駆していた。木立ちは亡霊の行列のように彼の傍をかすめ、狂乱した影が道におどり出して来るかに見えた。一度は馬が白い門柱をあやうくそれて、今にも彼をふりおとすところだった。彼は鞭《むち》で馬の首を打った。馬は矢のように闇《やみ》を割いて走り、石がひずめからはねて跳《と》んだ。
ようやくのことで農場についた。二人の男が中庭をぶらついていた。彼は鞍《くら》から跳び降りて、その一人に手綱《たづな》を投げ渡した。一番奥の厩で燈火がちらついている。虫のしらせで、死体がそこにあると思われ、彼は戸口へ急ぎ、かけがねに手をふれた。
一瞬彼はそこで立ち止まった――自己の人生がめちゃめちゃになるかならぬかがわかる瀬戸際だという気がして。それから戸をさっと押し開けて中へはいった。
ずっと奥の隅っこのズックの袋をうずたかく積んだ上に、粗末なシャツに青ズボンの男の死体が置かれていた。しみのついたハンカチでその顔が覆ってあった。瓶《びん》に挿《さ》し込んだ粗末な蝋燭がそのそばでぱちぱち音をたてた。
ドリアン・グレイは身震いした。自分の手でハンカチが取りのけられそうに思えないので、作男の一人を傍へ呼んだ。
「顔のものをのけてくれ。顔が見たいのだ」彼は戸口の柱をつかんで身体《からだ》を支えながら言った。
作男がハンカチを取りのけると、彼は前へ進み出た。喜悦の叫びが彼の唇から発せられた。茂みの中で撃たれた男はジェイムズ・ヴェインだった。
死骸を見つめながら彼は数分間たたずんだ。家へ馬を走らせる道々、彼の眼には涙があふれた、もう安全だと知ったから。
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第十九章
「君はいまさら善良な人間になるなどと言ったって無駄だよ」とヘンリ卿は、薔薇香水を充たした赤い胴のボールに白い指を浸しながら叫んだ。「君はまったく完璧だ。どうか変わらないでいてほしい」
ドリアン・グレイは首を振った。「いや、ハリー、僕は今まで恐ろしいことをあまりにたくさんやりすぎた。これからは決してしないつもり。昨日から善行を始めたところです」
「昨日はどこにいた?」
「ハリー、田舎です。独《ひと》りで小っぽけな宿屋にいた」
「君」と微笑しつつヘンリ卿が言った。「誰だって田舎じゃ善良になれるさ。田舎には誘惑という奴《やつ》がないんだから。だからこそ、田舎に住む連中はまったく泥くさいんだ。文明って奴は決して簡単に達成できるものじゃない。それには二つの方法しかない。一つはたくさん教養を受けることと、もう一つは堕落することなんだ。田舎の人間はどちらの機会にも恵まれない――だから沈滞するしかない」
「教養と堕落」とドリアンが鸚鵡《おうむ》返しに繰り返した。「僕は両方を少しだけ経験した。この両者がいつも一緒になっていることが、今では恐ろしく思われる。だって、僕には新しい理想があるんだから。僕は変わるつもりだ。すでに変わったと思う」
「君はどんな善行をやったのかまだ話してくれない。それともその善行は一つどころじゃないと言ったかい?」と小さなピラミッド型に重ねた種子抜きの深紅の苺《いちご》を皿にとり、孔《あな》のあいた貝型のスプーンで白砂糖をふりかけながら、相手が訊ねた。
「ハリー、あなたになら言える。ほかの人にはとても言えないだろうけれど。僕はある人を助けてやった。自惚《うぬぼ》れがましく聞こえるけれど、あなただったら僕の言うことがわかってもらえると思う。その人はとても美しく、不思議にシビル・ヴェインに似ていた。それがまず僕の心をひきつけたんだろうと思う。シビルのこと覚えてるでしょう? 実に遠い昔のことのような気がする! ところで、へティは僕たちと身分の違う田舎娘にすぎない。だが、僕は真から彼女を愛したんだ。たしかに僕は愛した。二人ですごしたすばらしい五月中、僕は一週に二、三度会いに出かけたもんだ。昨日会ったのは小さな果樹園の中だった。林檎《りんご》の花が彼女の髪にひっきりなしにふりかかり、彼女は笑っていた。今朝夜明けに駆け落ちするはずだったが、突然僕は、彼女を、はじめて会ったときの花のようなままにしておこうと決心したのだ」
「ドリアン、感情の新奇さが、わくわくするような歓喜を君に与えたに違いない」とヘンリ卿が相手の言葉をさえぎった。「だが、君に代わってその田園詩に結末をつけるとするとだね、君は彼女に結構な忠告を与え、彼女は断腸の思いというわけさ。それが君の改心の手はじめというものだ」
「ハリー、それはひどい! そんな嫌《いや》なこと言うもんじゃない。へティは何も胸のさける思いはしていない。もちろん、彼女はさんざん泣いたりわめいたりした。だが、彼女が恥辱を受けたわけではない。パーディタ〔シェイクスピアの『冬の物語』中の女性〕のように、薄荷《はっか》とキンセンカの庭に暮らすことができるのだ」
「そして不実なフロリゼル〔同じく『冬の物語』中の人物。ボヘミアの王子でパーディタと恋仲になる〕をうらんで泣くというわけか」とヘンリ卿は、椅子にそり身になって笑いながら言った。「ねえ、ドリアン、君は実に奇妙に子供っぽい気分なんだな。この娘が果たして自分と同じ身分の男に実際満足するなどと考えているかい? おそらく彼女もいつか、荒くれの荷馬車引きか、歯をむき出して笑う農夫とでも結婚するだろうさ。さてそこでだね、君と知り合って君を愛したという事実が、彼女に夫を軽蔑することを教えるだろう。そうなると、彼女はみじめだよ。道徳的見地からすれば、君の偉大な自制というものもたいして高く買えないね。手はじめとしても貧弱だ。それに今も今とて、どこかの星明りの水車池でオフィーリア〔シェイクスピアの『ハムレット』中の薄幸の乙女〕のように、美しい睡蓮につつまれてうかんでいないともかぎらない」
「ハリー、とてもたまらない! あなたはなんでも嘲笑しておいて、大変な大悲劇をほのめかすんだから。あなたに告白して惜しいことをした。あなたがなんといおうとかまわない。僕のやったことは正しかった。可哀《かわい》そうなへティ! 今朝農場の傍を馬車で通った時、ジャスミンの花の小枝のような彼女の白い顔が窓のところに見えたよ。もうこの話はやめにしよう。この長い年月の間に僕の行なった最初の善行、僕の知る限りの最初のささやかな自己犠牲の行為が、実際は一種の罪悪だなんて僕に思わせないで。僕はもっと良くなりたい。良くなろうとしている。こんどはあなたのことを話してほしい。ロンドンの様子は? 何日もクラブへ顔を出していないんだが」
「可哀そうなバジルの失踪《しっそう》を、まだとやかく噂《うわさ》してる」
「その話ならもういいかげん飽きる頃だろうにね」とドリアンは葡萄酒を自分で注ぎ、ちょっと顔をしかめながら言った。
「ねえ君、その噂《うわさ》が始ってからまだ六週間しかならない。英国の大衆って奴《やつ》は、三か月ごとに一つ以上の話題をもつだけの精神的緊張に堪えられないんだ。ところで、奴らは最近とても恵まれている。僕の離婚事件とアラン・キャンブルの自殺、さらに今度は画家の謎の失踪の巻だ。ロンドン警視庁は、十一月九日真夜中の汽車でパリへ発ったねずみ色のアルスター外套の男が、可哀《かわい》そうなバジルだったという説を今でも堅持しているが、いっぽう、フランスの警察じゃ、バジルは全然パリへは来なかったと断言している。二週間もすれば、バジルをサンフランシスコで見かけたものがあるなんてことになるだろう。妙な話だが、行方不明になる奴は誰でもサンフランシスコで見かけたと言われるんだな。よほど愉快な都会にちがいない。そして来世のあらゆる魅力をそなえているにちがいないね」
「バジルはいったいどうなったと思う?」とドリアンは、バーガンディ酒を光にすかしながら、こんなに平然とこの話ができるのはどうしたことかといぶかりつつ訊《たず》ねた。
「まるで見当がつかない。バジルが身を隠したというのなら、僕の知ったことじゃないんだし、あいつが死んでいるのなら、あいつのことは考えたくないんだ。僕が恐ろしいと思うのはただ死のみ。これは大嫌いだ」
「なぜ?」もの憂《う》そうに若いほうの男が言った。
「なぜって」とヘンリ卿は開いた気付薬入りの鍍金《めっき》した格子蓋を鼻の下にあてがいながら言った。
「今の御時世では、死以外はなんでも逃れられるからね。死と卑俗性という二つの事実だけは、十九世紀の人間が言い抜けることのできないものだ。ドリアン、音楽室でコーヒーを飲むとしよう。ぜひショパンを弾いてくれないか。僕の妻と駆け落ちした男、実にショパンがうまかった。可哀《かわい》そうなヴィクトリア! 僕はずいぶん彼女が好きだった。彼女がいないと家も淋《さび》しい。もちろん、結婚生活なんか単なる習慣、悪習慣にすぎないんだ。ところで人間は、最悪の習慣でも、失ってから惜しいことをしたと思うもんだよ。おそらく、それを一番惜しがるだろう。それが人格の本質的な一部なんだから」
ドリアンは無言でテーブルから立って次の部屋に行き、ピアノに向かい、白と黒の象牙の鍵盤の上に指を走らせた。コーヒーが運ばれてくると弾きやめ、ヘンリ卿を眺《なが》めながら言った。「ハリー、あなたはバジルが殺されたと考えたことがある?」
ヘンリ卿は欠伸《あくび》をした。「バジルは人気男で、いつもウォーターベリ製〔もともとアメリカのコネチカット州中部の都会、時計の産地の名であるがまた安価な懐中時計をも意味する〕の懐中時計を持ってたっけ。なぜあの男が殺されなくちゃならないのか? 敵をもつほど賢くもなかった。もちろん、絵にかけては天才だった。だが、ヴェラスケス〔スペインの画家〕ほどの絵がかけても、この上ない退屈な男もあるわけだからね。バジルの奴、実際退屈だった。あの男がたった一度だけ僕を面白がらせたことがある。それはほかでもないが、ずっと前、あの男が君をひどく崇拝していて、君があの男の芸術のもっとも有力なモティーフだと言ったときのことさ」
「僕はずいぶんバジルが好きだった」とドリアンは、声に悲哀の調子をこめて言った。「でも、殺されたという噂《うわさ》はないの?」
「そりゃ、新聞によってはね。僕にはとてもありそうに思えないことだ。パリにはずいぶんひどいところもあることは僕も知ってるんだが、バジルに限ってそんなところへ行くような男じゃない。あの男は好奇心を持たない男だった。それが一番の欠点だった」
「ハリー、僕がバジルを殺したと言ったら、あなたはなんと言うだろうか?」と年下の男が言った。そう言ってから、じっと相手を見つめた。
「そりゃね君、君にふさわしくない役柄を気取ってると言おうかな。あらゆる罪悪は俗っぽいものだ、ちょうど俗っぽさがすべて罪悪だと同じわけでね。殺人を犯すなんて、ドリアン、君の柄じゃない。こんなことを言って君の自負心を傷つけたらすまないと思うんだが、こいつはほんとうなんだから。罪悪は下層階級のものだ。僕はそんな連中を少しも悪く言わない。彼らと罪悪の関係は、芸術と僕たちの関係みたいなものだろうさ。ただ異常な感覚を経験する一方法というもんだよ」
「感覚を経験する一方法? じゃ君は、一度殺人を犯した人間がまた同じ罪を犯すことができると考える? そんなことは言わないでほしい」
「そりゃね、どんなことだって、何度もやっていれば快楽になるもんだよ」とヘンリ卿は笑いながら言った。「それが人生の最も重要な秘訣《ひけつ》の一つなんだ。だが殺人だけはいつにしても間違いだと思うね。食後の話のたねにならぬようなことはするもんじゃない。だが、可哀《かわい》そうなバジルのことは、これくらいにしておこう。あの男が君の言うようなほんとにロマンティックな最後をとげたと信じたいんだが、それができない。おおかた乗合馬車からセーヌ河へでも転落して、車掌が噂《うわさ》をもみ消したくらいのところだろう。そうだ、あの男の最後はまずそんなものと思うね。今頃、奴《やっこ》さん、重い|はしけ《ヽヽヽ》の浮かぶくすんだ緑色の水の中で仰向けになって、長い藻《も》が髪の毛にまつわりついたまま死んでることだろう。これから先、もっといい作品をどんどん描きそうにもなかったようだね。ここ十年のとこ、あいつの絵はだいぶ落ちていたからな」
ドリアンは溜息を吐き、ヘンリ卿は部屋を向こうへ歩いていって、珍しいジャワ鸚鵡《おうむ》の頭をなではじめた、灰色の大型のもので、とさかと尾が桃色で、竹のとまり木にとまっている。ヘンリ卿のとがった指さきが触れると、鸚鵡は黒い、ガラスのような眼の白い皺《しわ》のよった薄いまぶたを閉じて、こっくりこっくりおじぎをはじめた。
「そうだ」とうしろをふり向いてハンカチをポケットから取り出しながら彼は続けた。「あいつの絵はまったくおちていた。何かが抜けたみたいだった。理想を失ったんだ。どうして君たちは別れてしまったんだ? おそらくあいつが君を退屈させたんだろう。もしそうなら、あいつは決して君を容赦《ようしゃ》しなかったろう。退屈な人間のいつもの癖だからね。時に、あいつの描いたすばらしい君の肖像画はどうなったの? 完成以来、いっこうにお目にかからんじゃないか。そうそう、ずっと前、君があの絵をセルビイへ送ったところ、途中でどこかへ置き忘れたとか、盗まれたとか、君が言ってたっけ。戻ってこなかった? 惜しいことだ! 実に傑作だったからね。僕が買いたいと言ったっけ。今あれが僕の手にあったらなあ。あの絵はバジルの最盛期のものだった。あれ以来、あいつの作品は、代表的英国画家といわれる奴《やつ》おきまりの、例のへたくそな画法とすぐれた意図の妙なまざり合いになってしまったんだ。捜索公告を出した? 当然すべきだな」
「忘れてしまった」ドリアンが言った。「たぶんしたことはしたと思う。でも、ほんとうにあの絵を好きにはなれなかった。モデルになったのが残念なくらいだ。あの絵の思い出は嫌《いや》だ。なぜあの絵のことを言うの? あの絵は、ハムレットか何かの劇中の奇妙な文句をいつも思い起こさせたものだった――どんな文句になってたっけ――
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悲哀《かなしみ》を描きしにも似て
心情《こころ》なき顔
〔『ハムレット』第四幕第七場〕
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そう、あの絵はまずこんなところだった」
ヘンリ卿は笑った。「もしも人が人生を芸術的に扱うなら、その人間の頭脳が心情《こころ》なんだ」と肘掛椅子に身を沈めつつ彼が答えた。
ドリアンは頭をふって、ピアノをやわらかく鳴らした。「悲哀《かなしみ》を描きしにも似て」と彼は繰り返した。「心情《こころ》なき顔」
年上の男はそり身になって、半眼を開いて彼を見た。「時にドリアン」少し間を置いて彼は言った。「『なんの益するところあらん。よし全世界を得るとも』――なんと言ったっけ――『自己の魂を失わば』だね」
音楽が乱れ、ドリアン・グレイははっとして友をみつめた。
「ハリー、なぜそんなことを訊くの?」
「そりゃねえ、君」とヘンリ卿は驚いて眉《まゆ》をつり上げながら言った。「君だったら答えてくれるだろうと思ったからきいたまでのことさ。この前の日曜日、ハイド・パークを抜けていくと、例のマーブルアーチのすぐ近くに、見すぼらしい連中が集まって、下品な街頭説教師の話をきいていたんだ。通りすがりに、その男が今の質問を聴衆に向かってどなっているのが聞こえた。なかなか劇的な印象を受けたわけだ。ロンドンにはああいった種類の奇妙な効果がふんだんにある。雨の日曜日、防水外套《マッキントッシュ》を着たぶざまなクリスチャン、雨漏《あまも》りのする傘の下で輪になって並ぶ病人のように蒼白《あおじろ》い顔、それと甲高《かんだか》いヒステリックな声で空に投げ出されるすばらしい文句――これはこれなりで実際いいものだ。まったく一つの暗示というものだ。僕はその予言者に、芸術には魂があるが人間にはないと言ってやろうと考えた。だが、奴《やっこ》さん、わかってはくれなかったろうさ」
「ハリー、やめて。魂は恐ろしい実在だ。売りも買いも、安く交換に出すこともできる。毒されることも完全なものになることもできる。僕たちはめいめい魂の持ち主だ。僕にはよくわかっている」
「ドリアン、ほんとにそう思う?」
「そうだとも」
「ああ! じゃ、それは幻想にすぎない。人間が絶対確信してることでほんとだというものは絶対にないんだ。それこそ、「信仰」の宿命的なところであり、「ロマンス」の教訓なんだ。君、そのまじめくさった様子は! そんなに真剣になるなよ。僕にしても、君にしても、現代の迷信となんの関係があるのか、何もないはずだ。僕たちは魂に対する信仰を棄ててしまってるんだ。何か弾いてきかせてくれないか。ドリアン、夜曲を弾いてほしい、そして弾きながら、低い声で教えてくれ、君がどうして青春を保持して来たかを。何か秘訣《ひけつ》があるに相違ない。僕は君より十年しか年上でないのに。皺《しわ》がよって衰えて黄色くなっている。ドリアン、君は実にすばらしい。今夜ほど君が魅力的に見えたためしはない。はじめて君に会った日のことを思い出すね。君はどちらかといえば厚かましくて同時にとても内気で、まったく普通と変わっていた。君もむろん変わったが、風貌《ふうぼう》はもとのままだ。君が秘訣を教えてくれたらと思う。青春をとり戻すためなら、どんなことだってする。ただし運動と早起きと品行方正だけはごめんだがね。青春! これにしくものは無しだ。若い人の無知を云々《うんぬん》することは馬鹿げている。僕がいささかでも敬意を払ってきく意見というものは若い人の意見だ。若い人は僕より前進しているように見える。人生が一番新しい驚異を彼らに見せてくれたのだ。老人連はどうかと言えば、僕はいつも彼らに反対する。それも主義の上からの話なんだ。昨日起こったことについて老人の意見をたずねると、連中はもったいぶって一八二〇年頃通用した意見を持ち出すんだ――人々が幅の広い襟飾《えりかざ》りをつけ、なんでも信じ、なんにも知らなかった頃のね。今きみが弾いてる曲はなんて美しいんだ! ショパンはその曲をマジョルカでかいたんじゃなかったかしら、別荘の辺りに海が泣き、潮のしぶきが窓ガラスに打ちつけている時に。その曲は実にロマンティックだ。模倣的でない一つの芸術がまだ残されているというのは、なんというありがたいことだろう! やめないでくれ。今夜は音楽がききたい。なんだか君が若いアポロで僕が君にききとれているマーシアス〔ギリシア神話で笛吹き競争の時、アポロに負けた森の神〕みたいな気がしてくる。ドリアン、僕だって君の知らない僕ひとりの悲しみもある。老年の悲劇は年老いたということでなく、若いということなんだ。時折り、僕は自分の誠実さにあきれることがある。ああ、ドリアン、君はなんとしあわせだろう! なんたるいみじき生活を君は送ってきたことか! 君はあらゆるものを深く飲んだのだ。葡萄の実をかみつぶしたのだ。君にわからないように隠しておかれたものは何一つない。しかも、すべてのものが君には昔の調べにほかならなかった。君を傷つけたものは何一つない。君は依然として昔のままだ」
「ハリー、昔のままじゃない」
「いや、昔のままだ。これから君の余生はどんなものになるのかな。自制などで台無しにすることはないさ。現在君は完全の典型だ。わざわざ不完全にするんじゃない。今のままで君は一点非の打ちどころ無しだ。首を振るには及ばない、自分でもわかってるくせに。それに、ドリアン、自己を欺いてはいけない。人生という奴《やつ》は、意志だの意図などに支配されるものじゃない。人生は神経と繊維と徐々にきずき上げられた細胞の問題なのだ、その細胞の中に思想が身をひそませ、情熱が夢をはらむというわけだ。君は自分では安全だと考え、自分を強いと思っているかもしれない。ところが、部屋だの朝の空だのの偶然の色調、昔君が愛したことがあり、ゆかしき思い出のまつわる特殊な匂い、忘れていてまた偶然出くわした詩の一行、今はもう弾かなくなった曲のひとふし――いいか、こういったものに、ドリアン、僕たちの人生がかかってるんだぜ。ブラウニングがどこかでそんなことについて書いている。だが、僕たち自身の感覚がそれらのものをわざわざ想像の中にあらわしてくれるんだ。ふいと突然、白いリラの花の香がかすめると、僕の一生の中で最も奇妙な一か月をもう一度思い出の中で繰り返す折りもある。ドリアン、君と境遇をとりかえられたらいいのに。世間では僕ら二人をやかましくとがめだてしたが、いつも君だけは崇拝してきた。これからも崇拝していくだろう。君は、現代が探し求めていて、すでに発見したことを恐れているものの典型なんだ。君が何もしなかったこと、彫刻一つつくらず、絵一枚描かず、君以外に何も作らなかったことがとても嬉《うれ》しいんだ。人生すなわち君の芸術だった。君は君自身を編曲したのさ。君の一日一日が十四行詩《ソネット》なんだ」
ドリアンはピアノから立ち上がり、手で髪をなで上げた。「そうだ、人生は絶美だった」と彼はつぶやいた。「でも、ハリー、僕は同じ人生を繰り返すつもりはない。だから、君はこんな途方もないことを言わないでほしい。あなたが僕のこと、何から何まで御存じというわけではない。もしも、何から何まで知っていたら、あなただって僕から離れていくでしょう。あなたは笑っている。笑わないでください」
「ドリアン、なぜ弾くのをやめた? もう一度席にもどって夜曲《ノクターン》をきかせてくれないか。夕空にかかるあの蜜《みつ》色の大きな月を見てごらん。月は君が魅惑してくれるのを待っている。そして、もしも君が弾くなら、月はもっと地上に近寄ってくるだろう。嫌《いや》? じゃクラブへ行こう。実に楽しい晩だった。だから有終の美をおさめなくちゃいけない。ホワイト・クラブには君と知り合いになりたがっている男がいる――ボーンマスの長男の若いプール卿だ。プールはもう君のネクタイを真似ていて、君に紹介して欲しいと言ってる。実に愉快な奴《やつ》でね。ちょっと君を思わせるところがある」
「そんなことがなかったらと願うね」とドリアンは眼に淋《さび》しげな色をうかべて言った。「だがハリー、僕は今夜疲れてる。クラブへは行きません。もうかれこれ十一時だ、それに、早寝したい」
「じゃ行かないで。今夜くらい君の演奏がよかったためしはないね。君のタッチにはすばらしいところがあった。今までよりずっとずっと表情に富んでいた」
「僕が善良になろうとしているからだ」と彼は微笑しながら答えた。「もうすでに少し変わっている」
「ドリアン、僕に対して君は変わるわけにはいかない」とヘンリ卿は言った。「君と僕はいつも友だちだろうから」
「でも、あなたはいつかある書物で僕を毒しましたね。あれだけは許せない。ハリー、あの書物は誰にも貸さないと約束して欲しい。あれは有毒な本だ」
「ねえ君、実際もうお説教をはじめてる。君はじきに、改宗者、信仰復興運動者づらをして、自分では飽き飽きしてしまった罪悪を犯さないよう説きまわることだろう。君はそんなことをするには、あまり魅力的すぎる。その上、そんなことは無駄なはなしさ。君と僕は現在あるがままのお互いであり、将来もそうだろう。書物に毒されるなんて、そんなことはない。芸術は行動に対してなんの影響も与えない。芸術は行動欲を滅ぼすものだ。芸術はみごとにも不毛のもの。世間のいわゆる不倫の書なるものは、世間自体の恥辱を示す書物を言うのだ。ただそれだけさ。だが、文学論は止そう。明日来てくれ。僕は十一時に乗馬に出る。一緒に出ればいい。そのあとでブランサム夫人のところへ昼食に連れていこう。彼女も魅力的な婦人で、彼女が買いたいと思う綴織《つづれおり》のことで君に相談したいそうだ。ぜひ来るがいい。それとも、可愛《かわい》い公爵夫人のところで昼食をするか? 彼女はこの頃君に少しも会わないといっている。ひょっとすると、グラディスが嫌《いや》になったの? おおかたそんなことになるだろうと僕は思ってた。彼女の気の利《き》いた弁舌は神経にさわるからな。ええと、十一時にはここへくるがいい」
「ハリー、ほんとに来なくちゃならない?」
「そうだとも。ハイド・パークは今実に美しい。君に会った年以来、こんなにリラの花が美しかったことはないと思うね」
「よろしい、十一時に来ます」とドリアンは言った。「ハリー! お休み」彼が扉のところに来たとき、何かもっと言いたげに、ちょっとためらったが、溜息を吐いて出ていった。
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第二十章
気持ちのよい晩だった。あまり暖かいので、彼は外套を腕にかけ、絹のスカーフを首にまきもしなかった。巻煙草をふかしながら、ぶらぶら家路をたどっていると、夜会服を着た二人の若者が通りすがった。その中の一人が相手に向かって「あれがドリアン・グレイだ」とささやく声が耳に入った。指さされたり、じろじろ見られたり、噂《うわさ》のたねになったりすると、ずいぶん嬉《うれ》しかった昔の自分が思い出された。今では自分の名前を聞くさえ飽き飽きしている。最近あれほど足しげく訪れた小さな村の魅力の半ばは、誰も自分の何ものたるかを知らない点にあった。彼が誘惑して彼を愛するようにしむけた例の田舎娘にもよく自分は貧乏だと言いきかせたが、彼女はそれを信じたのである。一度は自分は悪人だとも言ったが、彼女は笑って、悪人はいつも大変な老人で醜いものだと答えた。あの子のなんという笑いかた!――まるで|つぐみ《ヽヽヽ》がさえずるみたいだ。木綿の服をまとい大きな帽子をかぶった彼女の美しかったこと! 何一つ知らなくても、彼の失ったあらゆるものを持っていた。
家に帰りつくと、召使がまだ起きて待っていてくれた。召使を寝にいかせてから、書斎のソーファにどっかりと身を投げ、ヘンリ卿の言ったいろいろのことを思い返し始めた。
人が変わりっこないというのはほんとだろうか? 彼は、自分の少年時代――ヘンリ卿がかつて呼んだ白薔薇の少年時代――の汚れを知らぬ純潔さにはげしいあこがれを感じた。自らの名を汚し、頽廃《たいはい》でもってわが心を充たし、わが空想に恐怖を与えたこと、他人によからぬ影響力を及ぼし、しかもそれがむやみに嬉《うれ》しかったこと、さらに、彼自身の生活と交わったあらゆる生活の持ち主のうちで、彼が恥辱の境涯に陥れたのは世界の最も美しい、最も春秋に富める者たちだったことなど、彼にはわかっていた。だが、それはすべて取り返しのつかぬものなのだろうか? 自分にはもはやなんの希望もないのだろうか?
ああ! あの肖像画が彼の生活の重荷をになうように、自分が永遠の青春の汚れなき輝きを保持できるように祈ったのは、なんという不遜《ふそん》と情熱の恐るべき瞬間だったろう! 彼のいっさいの失敗はそれにもとづくものだ。彼の生活の一つ一つの罪が、その確実|迅速《じんそく》な罰をもたらしてくれたほうがずっとよかったのだ。罰には浄化作用がある。「われらの罪をゆるしたまえ」ではなく、「われらの不正ゆえにわれらを打ちたまえ」というのが、いと正しき神に対する人の子の祈りであるべきだ。
今からするとずいぶん昔のことになるが、ヘンリ卿がくれた珍しい彫刻のある鏡はテーブルの上にあり、鏡の周囲には手足の白いキューピッドが昔に変わらぬ笑いを見せている。始めて例の運命的な絵の変化に気がついたあの恐ろしい夜のように、鏡をとりあげて狂おしい涙にくもる眼でその磨き上げられた表面を眺《なが》めた。かつて、彼を熱愛した人が熱狂的な手紙をよこして、その終わりに次のような盲目的心酔をあらわす言葉を書いたことがあった。すなわち「あなたが象牙と黄金からできていらっしゃいますから、世界が一変してしまいました。あなたの唇の曲線が歴史を書き変えるのです」と。その文句が再び記憶によみがえってきて、彼はひとりでいくどとなくそれを繰り返した。すると、自己の美しさがいとわしくなってきて、鏡を床に投げ打ち、踵《かかと》でふみつけ銀色の破片に砕きなした。おれを破滅させたのはおれの美しさ、おれが祈り求めた美しさと若さなのだ。この二つのものがなかったならば、おれの人生も汚れを知らずにすんだことだろう。おれの美は仮面にすぎず、おれの若さはただの|まがいもの《ヽヽヽヽヽ》にすぎなかったのだ。若さとはせいぜい何か? 未熟な青二才の時期、浅薄な気分と病的な思念の時期ではないか。なぜおれは青春の仕着せを身につけたのか? 青春がおれを台無しにしたのだ。
過去のことは考えないほうがいい。何物をもってしても過去を変えることはできない。考えなければならないのは、自分自身のこと、自分自身の将来のことだ。ジェイムズ・ヴェインはセルビイの教会の無名墓地に葬られている。アラン・キャンブルはある晩、彼の実験室でピストル自殺をとげたが無理強いに知らされた秘密をばらしはしなかった。それほど大したものではなかったが、バジル・ホールワード失踪に伴う騒ぎも、間もなく消え去るであろう。すでに下火になりかかっている。もうこれで俺も絶対安全の身だ。いや実際、自分の心に最も重圧を加えているのは、バジル・ホールワードの死ではない。自分を悩ましているのは、自分自身の魂の生ける死なのだ。バジルは俺の生涯をそこなうような肖像画をかいたのだ。それはどうしても許せない。すべてことの張本人は肖像画なんだ。バジルはとても我慢できないようなことを言ったのに、こちらはじっとこらえていたのだ。わが手にかけて殺したのは、ほんの一瞬の気狂い沙汰《ざた》だ。アラン・キャンブルにしたところで彼の自殺は彼の勝手だ。自らえらんだ行為だ。自分にはなんのかかわりもありはしない。
新生! これこそ自分の欲するものだ。それこそ自分の待ちもうけているものだ。たしかに自分はすでにその第一歩を踏み出したのだ。とにもかくにも一人の無垢《むく》なる生命を救ったのだ。二度と無垢なるものを誘惑しようなどすまい。善良になるのだ。
ヘティ・マートンのことを考えると、彼は、錠をおろした部屋のあの肖像画が変わったかしらといぶかりはじめた。たしかに今までほどひどいものではなくなっているだろう。ひょっとして、もしも自分の生活が純潔なものになるなら、あの顔から邪悪な激情のしるしをすべて追い払うことができよう。おそらくはすでに邪悪のしるしは消えているだろう。行ってみてやろう。
彼はテーブルからランプをとって、二階へと忍び足で上がっていった。扉の閂《かんぬき》をはずしたとき、喜びの微笑が彼の不思議に若い顔をかすめ、口の辺りにしばしたゆとうた。そうだ、善良になろう、そうしたら、人眼につかぬように隠しておいたあのいまわしいものは、もはや恐怖のたねとなることはないであろう。重荷がすでに取り除かれたような思いがする。
彼はそっと中に入り、例のごとく扉に錠をおろし、肖像画から紫の掛布をはずした。苦痛と憤怒の叫びが発せられた。変化は何一つみとめられず、ただ見えるものは、眼に浮かぶ狡猾《こうかつ》な色と口に宿る偽善者のゆがんだ皺《しわ》だ。絵は依然としていとわしく――まさかありうるとして、以前よりもいっそういとわしく、手をまだらに染める真紅の血痕はいっそうあざやかさを増し、流されたばかりの血にいっそう髣髴《ほうふつ》たるものがあった。そこで彼はがたがた身震いした。彼に一つの善行を行わせたものは、単なる虚栄心だったのか? それとも、ヘンリ卿が嘲《あざけ》るような笑いを見せながら指摘した如《ごと》く、新しい感覚を求める欲望だったろうか? それともまた、実際の自分以上に立派な行為を時にやらせるようにしむける強いあの芝居気だったろうか? それとも、この三つをあわせた理由によるのか。そして、あの赤い血痕が前より大きさを増したのはなぜだろう? それは恐ろしい病気のように、皺《しわ》のよった指にまでも這《は》いひろがっているように見える。絵にかかれた両足にも血がついている、まるで絵が血をしたたらせているみたいに――さらにナイフを握らなかったほうの手にさえ血がついているではないか。自白? 自白しろという意味だろうか? 身柄を引き渡して死刑を受けろというのであろうか? 彼は声をたてて笑った。こんな考えは実に馬鹿げている。その上、たとえ自白してみたところで、誰が信じてくれるだろうか? 殺された男の痕跡《こんせき》はどこにも見当たらない。持物|いっさい《ヽヽヽヽ》がいんめつされたのだ。階下にあったものはみんな自分で焼いてしまったのだ。彼は気が狂ったとしか世間ではいわないだろう。もしもあまりしつこく言い張ったら、監禁されてしまうだろう……やはり、自白し、公然の恥辱をうけ、公然の償いをするのが自分の義務なのだ。天に対するばかりでなく、他に対してもおのが罪を告げよと人間に命ずる神がある。どんなことをしたところで、自己自身の罪を告げるまでは、身の清められることはないであろう。おのが罪? 彼は肩をすぼめた。バジル・ホールワードの死は、別に大したことにも思われなかった。彼はヘティ・マートンのことを考えていた。なぜなら、彼がのぞきこんでいるのは、不正な鏡、彼の魂の鏡だったから。虚栄心? 好奇心? 偽善? 彼の自己放棄には、それ以上のものは何もなかったのだろうか? それ以上のものがあったはずだ。少なくとも自分にはそう思われる。だが、いったい誰にそれがわかるというのだ……いや、それ以上のものは何もなかったのだ。虚栄心ゆえに彼女を見のがしてやったのだ。偽善のあまり善良の仮面をかぶっていたのだ。好奇心のために自己否定を試みたのだ。今になってそれがわかったのだ。
だがこの殺人行為――これが一生ついて回るだろうか? いつも過去の重荷に苦しめられなくてはならぬのか? 実際に白状すべきだろうか? とんでもない。不利な証拠がたった一つある。絵そのもの――それが証拠だ。いっそ破壊してしまおう。なぜこんなものをこんなに長く大切にしまっておいたんだろう? もとはこれがしだいに姿を変え、年老いていくのを見守るのが楽しかったものだ。最近はこんな楽しみは味わったことがない。そればかりか、これのおかげで夜もろくに眠れなかったほどだ。家をあけて出ている間、他人の眼にのぞかれはしないかと、びくびくものだった。それが自分の情熱に憂鬱《ゆううつ》の影をささせたのだ。その絵を思い出すだけで、喜悦の瞬間がそこなわれた。そうだ。それはまさに良心だった。これをこわしてしまうんだ。
彼は辺りを見まわした。すると、バジル・ホールワードを刺したナイフが眼についた。血の痕を何一つ留めなくなるまで、いくどとなく磨《みが》いたのだ。くもりもなくぎらぎらと光る。これが画家を刺し殺したように、画家の作品とそれが意味するすべてを殺すのだ。これが過去を刺し殺すのだ。そして過去が滅びたとき、自分は自由な身になれるだろう。ナイフがこの恐るべき魂の生命を絶つだろう。そして、そのいまわしい警告がなくなれば平静になれるのだ。彼は兇器をわしづかみにしてその絵をぐさりと刺した。
叫び声が聞こえたと思うと、つづいてどさりという音。苦悶の悲鳴があまりすごかったので、仰天した召使どもは眼を覚まして、部屋から忍び足で出てきた。下の広場《スクエア》を通りかかった二人の紳士は立ち止まって宏壮な邸宅を見上げた。彼らはさらに歩を進めたが、巡査に行き会うと彼をつれて戻ってきた。巡査がベルを数回鳴らしたが、応答はなかった。ただ一番高い窓の一つにあかりがついているだけで、邸はまっ暗だった。しばらくして巡査はそこを離れて、隣の柱廊玄関《ポーティコー》に立ってじっと見守った。
「おまわりさん、あれは誰の邸ですか?」と二人の紳士の年長のほうが訊《たず》ねた。
「ドリアン・グレイ氏の邸です」と巡査は答えた。
彼らは立ち去るにのぞんで互いに顔を見合わせて、薄笑いした。その中の一人はヘンリ・アッシュトン卿の叔父だった。
邸内の召使たちの部屋では、寝巻姿の召使たちがお互いに低い声で話し合っていた。老リーフ夫人は泣いて手をもみしぼっていた。フランシスは死人のように蒼《あお》ざめていた。
十五分ばかりたつと、フランシスは馭者と従僕の一人を伴って、忍び足で階上へと上がっていった。ノックしたがなんの返事もない。大声で呼んでみたが、ひっそりと静まり返っている。扉を無理にこじ開けようとしたが、とうとうだめだったので、屋根に登ってバルコニーに跳び降りた。窓はすぐ開いた――閂《かんぬき》が古ぼけていたのである。
入ってみると、壁に主人のみごとな肖像画がかかっていた、召使たちが最後に眼にした主人そのままに、驚嘆すべき若さと美しさをたたえて。床の上には、夜会服を着てナイフを心臓につき刺したままで死者が一人横たわっていた。その男は衰えやつれ、皺《しわ》だらけで、いとわしい顔付きをしていた。指輪を調べてみてはじめて、それが何者であるかがわかったのである。(完)
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解説
人と文学
〔生い立ち〕オスカー・ワイルドは、考古学や文学に興味を持っている、有名な眼科耳科の医者を父とし、弁護士の娘で数か国語に通じた多才な婦人を母として、一八五四年アイルランドの首都ダブリンに生まれた。同市のトリニティ・カレッジおよびオックスフォードのモードリン・カレッジに学んだが、すでにダブリン時代において、古典語に対する著しい興味と才能も手伝って、ジョン・ペントランド・マハフィー教授指導のもと、ヘレニズムへの関心を深める機会を得た。オックスフォードに学ぶようになってからは、ウォルター・ペイター(一八三九〜九四)の審美論とジョン・ラスキン(一八一九〜一九〇〇)の芸術論に大いに影響され、これが彼の文学的生涯に最も大きな関係をもつこととなる。彼がオックスフォードにおいて一八七八年度のニューディゲイト賞を勝ち得たのは、一八七五年に単独で北部イタリアへ、一八七七年にはマハフィー教授と共にイタリア、ギリシアに遊び、古代の栄光に対して痛く興味と感銘を刺激された|たまもの《ヽヽヽヽ》としての「ラヴェンナ」という詩によってであった。
一八七六年父の死を見るのであるが、その後は母と共にロンドンに住み、ここに彼の伝説的ともいうべきはなやかな社交界生活がはじまる。父からの遺産は蕩尽され、やむなくペンによって生計を立てる必要に迫られた。まことに風変わりな服装――いわゆる審美的コスチューム――すなわち、半ズボンに絹のストッキング、異様なネクタイと帽子、綿ビロード製の上衣のボタン穴にはさらに異様な花をあしらうといういでたちで、当時のロンドン子をあっと言わせたのも、詩の売れ行きを刺激するべく、人気取りをねらった彼一流の演出だったのである。ギルバートとサリヴァンがその喜歌劇「ペイシャンス」において、ワイルドを恰好《かっこう》な劇画化の対象にして大成功をおさめたのは著名な事実である。一八八一年「詩集」が出版され、さらにこの年の十二月、例の喜歌劇の前宣伝のためもあってアメリカにわたり、巡回講演に熱を入れたのであった。かの地における題目は、「審美哲学」が中心となった。一八八三年には講演料をもとにパリにおもむき当時のフランス文壇の動向を眼の辺りに体験した。その後彼の劇としての処女作「ヴェラ」(一八八一)上演のため再度ニューヨークに渡ったが完敗を喫し散ざんな目にあい、あとはアメリカ印象談や室内装飾美学等に関する巡回講演に国内を歩きまわってやっと生活を支えた。
一八八四年コンスタンス・ロイドと結婚し、彼の創作活動もようやく活気を帯びるに至った。詩における彼の新傾向を示す「娼婦の家」(一八八四)「スフィンクス」(一八九四)等もこの頃の所産であり、二つの童話集「幸福の王子その他」(一八八八)「ざくろの家」(一八九一)があらわれ、評論集「意向論」、小説「ドリアン・グレイの肖像」等いずれも一八九一年の出版である。また劇作においても、特に喜劇にその才能を発揮し、「ウインダミア卿夫人の扇」(一八九二)「重んぜられぬ女」(一八九三)「理想の夫」(一八九五)「まじめが肝要」(一八九五)等のいわゆる軽喜劇で大変な成功をおさめた。我が国では例の異国的夢幻的な「サロメ」が最も有名であるが、これは一八九三年最初フランス語で書かれ、一九九四年英訳が出るという風変わりないきさつを持っている。
かくてこれらの劇の大当たりは彼に莫大な収入をもたらしたが、一八九一年彼の生活圏内に登場したアルフレッド・ダグラスは、彼の生涯の悪友として甚大な影響を与えることとなった。彼との交友は、ワイルドの私生活を荒廃へと導き、放蕩退廃への傾斜を急速にはやめた。一八九五年ダグラスの父クィーンズベリ侯爵に対する名誉|毀損《きそん》の訴訟は逆に彼自身の生活の内幕暴露という結果をひきおこし、sodomy(男色)のかどで当局側から告訴され、二年間の獄窓生活をもたらすこととなる。課せられた重労働を縫って書きつづられた「ディー・プロファンディス」(「深淵より」)(一八九七)には、彼の人生観、芸術観、宗教観等が披瀝《ひれき》されている。一八九七年出獄後は、セバスチャン・メルマスという変名のもとに、フランスの田舎に移り住んだ。一八九八年に出た「レディング監獄の唄」によって、事実上彼の創作活動は終わる。同じ年妻コンスタンスは世を去り、次々と重なった人生の苦悩と失意という余りに大きな試練に、彼の創作力と作家的意欲は完全に奪われたのである。またいっぽうダグラスとの交友も完全に断ち切ることもできぬまま、一九〇〇年パリで死去し、その地に埋葬された。
〔作品の特質〕ワイルドの文学作品全体を通じての最も著しい特徴はいまさら言うまでもなく、その「唯美主義」、いわゆる「芸術至上主義」である。その動機はともかくとして、彼が自己の生活面にまで「審美的衣装」なるものを身にまとい、ロンドンの社交界をあっと言わせたことはすでに述べたところであり、また伝記的にも余りに有名な事実であるが、その作品すなわち、論文、小説、詩それに一部の劇を通じてこの唯美主義的傾向は著しく濃厚である。
この立場を最も強く打ち出した論説集として「意向論」(Intentions)(一八九一)がある。彼の主張するところは、芸術は芸術自身のためにこそ存在しており、人生とは完全に独立したものなのである。なるほど芸術は人生を素材として取り上げるものの、あくまでそれは手段にしかすぎず、この醜悪な人生を美化し、芸術化するものである。したがって人生、現実から脱却できない芸術は堕落の芸術である。彼にとっては「人生は現実主義よりも早く進むが、浪漫主義は常に人生の前方にある」のであって、彼に言わせれば、芸術は人生を模倣するものでなく、むしろ人生が芸術を模倣するものであった。ここにも彼一流の逆説論法が見られるのである。
作品解説
〔成立と構成〕アンドレ・ジイドが伝えるエピソードによると、ワイルドは友人から君に小説はとても書けないだろうと言われて、数日間でこの作品を書いたということになっている。この作品はワイルドの唯一の小説で、もともと一八九〇年の「リピンコット紙」に掲載されたもの。それに六章を加えて単行本の体裁にふさわしくしたのである。巻頭につけられた「序」はこの小説が巻きおこした非難の声に答えるために書き加えられたもので、ここにも彼独特の逆説に支えられた、一種の「唯美主義宣言」の色彩を濃厚にたたえている文章を見ることができる。また別の言葉で言えば、「意向論」において提言したところのものの要約とも言えるのである。その「序」中で任意の部分を拾ってみる。例えば「美しきものが唯美としてのみ意味のある人々は選ばれたる人々である」とか、「道徳的または不道徳的な書物というごときものはない。書物はうまく書かれているか、まずく書かれているかである。それだけのことである」とか、「すべての芸術はまったく無用なものである」という「序」の結びの言葉に至るまでワイルド臭の強く漂っている文章の連続である。構成の上で若干の不統一があるとされているのも、雑誌に掲載されたものに、あとから数章を加えたことにも起因していると思われる。
この作品の一つの特徴をなす点としては、前面に浮彫りされる主人公はあくまで、若き美貌の貴公子ドリアン・グレイであるが、その影にいつもつきまとって、主人公を思うままにあやつる力は、快楽主義《ヒードニズム》の熱烈な信奉者ヘンリ・ウォットン卿(すなわち作者ワイルドの分身)だということである。友人である画家バジル・ホールワードに肖像画をかいてもらうまで、自己の美貌にさえ全然気づかなかった純真|無垢《むく》の青年が、ウォットン卿の教えのままに快楽主義の手ほどきを受け、しだいにその深みにおちいり、不倫と非道を重ねて行くうちに、その肖像画が一歩一歩着実に老衰と醜悪さを加えて行くに反し、主人公は肖像画に描かれた若さのまま美しさを保ちつづけるという構想のもとに、物語は要所要所にワイルド好みの|ぜいたく《ヽヽヽヽ》な場面や社交界的雰囲気のあふれた会話、好事家的趣味を濃厚にあしらった作品で、肖像画によって自己の青春美に目覚めた青年が、その肖像画ゆえに身を破滅に追いやる径路がこの小説の骨子である。バルザックの「あら皮」(一八三一)、あるいはユイスマンスの「さかさま」(一八八四)、あるいはスティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」(一八八六)がこの小説の根底に有力な潜在的素材として横たわっていると種々説かれているが、リチャード・オールディントンは、この小説中、主人公ドリアンがヘンリ・ウォットン卿から借りて読み日夜そのとりことなってしまう小説がたとえユイスマンスの「さかさま」であろうと、スティーヴンスンの色彩のほうがより濃厚であると論じている。さらにオールディントンは、ワイルドがベンジャミン・ディズレーリーの処女作の小説「ヴィヴィアン・グレイ」(一八二七)に多くの暗示を得たのではないかと言っている。才人ワイルドのことであるから、どれか一つの作品というような単一の源泉によらず、上記のいろいろの作品に多かれ少なかれまた意識的無意識的に負うていると見るべきであろう。
〔文学史的価値〕この作品は、当時の英国民に「不倫の書」という印象をもって迎えられ「英語で書かれた最初のフランス小説」などと評せられ、ある特殊な雰囲気を漂わせて来たにせよ、十九世紀のいわゆる世紀末文学の一つのピークを示すものと言えよう。もちろん、偏狭な道徳論からのみこの書を排撃することも、また一方|ひいき《ヽヽヽ》の引倒し式に、いわゆる芸術至上主義的な立場から、有難《ありがた》涙にくれることも、冷静な作品鑑賞の態度からはおよそ縁遠いものである。むしろ、当時「不倫の書」と白眼視されたこの作品も、その「序」においてワイルドが全力をあげて道徳からの絶縁を強くはげしく主張しているにもかかわらず、いや応なしに「モラル」を自らにじみ出させている結果となっている。ヘスキス・ピアソンも当時の一般的感情としては、この書を「不倫の書」として感じたが、「今日では極度に道徳的な書物だと考える」と言っている。ここにも時代的感覚の今昔を感じないではいられない。
作品鑑賞
〔文体〕この作品の文体は美しくてまことに凝ったものと言えるであろう。アーサー・シモンズの言葉を借りれば、この作品は朗誦してはじめてその美しさが味われるのである。もちろんワイルド好みの文体で、自然描写などには詩的月並みに堕しているところもあるにはあるが、効果や雰囲気をかもし出すことに成功しているところも決して少なくない。もっとも、今日のごとく、ドライで即物的描写法に慣れている読者から見れば、少しソフト・フォーカスになりすぎいささか甘すぎる点もなくはないであろうが。例えば第一章の冒頭のバジル・ホールワードの画室の描写、七章でドリアンが女優シビル・ヴェインの演技に失望して、深夜のロンドンの巷をさまよい、ついにコヴェント・ガーデン辺りで夜の白々明けに遭遇し、不眠と懊悩の一夜のあとに見るすがすがしい市場の情景、第十四章でドリアンが画家を殺害した翌日、死体処理に協力を友人キャンブルに依頼する書面を持たせて召使を送り出したあとに読むゴーティエの豪華版詩集中のフランス語の詩を交えてのヴェネチアの描写等は特に印象的である。第十三章で画家が自身描くところの肖像画が退廃と汚濁に衰えていく有様を眼の辺り眺める描写、第十四章で画家の死体処理についてキャンブルとかわす脅迫的な交渉の顛末《てんまつ》、第十六章でドリアンがロンドンの港近くの阿片窟へ馬車を走らせるくだりの描写などはいずれもなかなか迫力に富んでいて読む者の心を強くひきつける。もっとも、魔窟の描写は詩的なぼかしにかかった映画の場面を思わせるものがあって、醜悪さの写実的描写においては物足りない感じがする。
〔手法と作者の意図〕この作品でヘンリ・ウォットン卿が述べる快楽礼賛の説は、ほかでもなく作者ワイルドがウォットン卿のマスクを借りて発言していることもちろんで、たいてい演説口調の長談義が多いが、一面ワイルドの苦心を払ったあと歴然たる名文をなしているところもあってなかなか読ませる。ウォットン卿の調子にしだいに魅せられて行くドリアンも、ついにはウォットン卿そこのけの長談義をやるところも出て来る始末で、こうなるとウォットン卿がしゃべっているのか、ドリアンがしゃべっているのかわからなくなって来る。つまりドリアンのマスクを借用してワイルドがしゃべっているのである。
リチャード・オールディントンは第十七、八章がこの小説中最も weak な場面だと言っているが、これら二章をはじめ、随所に見られる社交的会話のやりとりのウイットの小気味よさは、小説の進行を多少とも阻害するきらいはあっても、例の喜劇において彼の見せた当意即妙の会話の醍醐味をここにも再現した観があって人を退屈させない。第十一章に克明に出て来る世界中の民族の楽器や織物の蒐集、あらゆる香料や宝石に関する百科全書的もしくは好事家的知識はどのような書物によってその資料を得たにせよ、作者の快楽主義的好奇心と熱意がうかがわれて、この小説の「モザイックの傑作」としての特徴を十分に発揮しているものと言える。
最後につけ加えて置きたいことは、作者ワイルドがまっこうから唯美主義を振りかざし、芸術と倫理の絶縁を叫んでも、主人公ドリアンは、自己の快楽追求の結果を、自己の肖像の変貌においていや応なしに眼の辺りに見せつけられ、反省と悔恨に追い立てられ、最小限の善意の行為に救いを求めるのであるが、ついに快楽追求の結果は自殺となってあらわれる。芸術の道徳性を絶対否定したワイルドの作品も、作者自身の想像力から産みおとされて客観的存在権を得るや否や、作者ではどうにもならない独自の生命を持ちはじめ、ワイルドが否定してやまない倫理性を、好むと好まざるとにかかわらず持って来るようになる。ここにこそ象徴の厳粛さというものが秘められている。あまりにも皮肉たっぷりに、小説の主人公ドリアンの末路は、実在人物としてのワイルドの運命をいみじくも象徴しているかに見えるのである、たとえ償《つぐな》いの形式はドリアンとワイルドにおいて異なるとはいえ、これが快楽主義の包蔵する必然的な自己矛盾の径路である。
代表作品解題
彼の作品は大別して評論、劇作、小説(童話を含めて)、詩の四分野と見ることができる。
〔詩〕
年代順というよりも彼の詩として重要性の高いものから考えると、なんといっても「レディング監獄の唄」(一八九八)であろう。これはもちろん一八八五〜七年にいたる獄窓生活の体験をもとにつくられたものである。愛すればこそ不貞の妻を殺害した一近衛兵の入獄とその末路を描くもので、ワイルドの詩の中では最長編である。従来の彼の詩とその文体《スタイル》において面目を異にし、現実的かつ厳粛な調子を帯びているのも、監獄生活という特異な体験が大きく作用しているものと思われる。さらにワイルドは自らの苦しい体験から当時の英国における監獄制度の冷血苛酷さを訴えている点も併せ注目すべきである。「娼婦の家」(一八八四)は短いものであるが、人間の本能や欲情を象徴的に表現した作品として面白い。奇怪な姿をした異形のもの、骸骨《がいこつ》等を縦横に駆使して成功をおさめている。これは中世以来ヨーロッパ全体にわたって文学、絵画にその寓意的なテーマを提供したいわゆる「死の舞踏」を基調にしていることは明瞭である。従ってこの詩は発想の面白さで成功していると言える。娼家の夜と朝を対照的に描いているのも面白い。次に「スフィンクス」(一八九四)。もちろんこの詩のタイトルは、古代エジプトにその起源をもつ神話上著名な怪物の名から由来している。この詩においてもまた、ワイルドは人間の動物的本能をこの怪物によって象徴している。「娼婦の家」よりも長篇であるが、詩的価値においては「娼婦の家」に一歩をゆずるものであろう。特徴としては鉱物、特に彼の好みの宝石に関する豊富な言及が見られることである。
〔評論〕
前述のごとく、「意向論」(一八九一)が代表的著作である。「虚言の退廃」「ペン・鉛筆と毒薬」「芸術家としての批評家」「仮面の真理」の四篇から成り、いずれも彼の唯美主義の立場を示す論説であるが、芸術論、文学論として特に重要なのは第一と第三の二篇である。この二篇はどちらも対話体を使って書かれている。これ等と「ドリアン・グレイの肖像」の巻頭につけられた「序」を読めば、ワイルドの「芸術のための芸術」の態度を明瞭にキャッチすることができよう。たとえば次の言葉も彼の立場を理解する一助ともなろう。「我々が自己の完全を実現し、現実生活のむさくるしい危険から身を守ることができるのは、ただひとえに芸術によるしかない」とか、「芸術はそれ自身をしか表現しない」といった工合である。
また彼の散文作品の最後のものである「ディー・プロファンディス」(省略本一九〇五、完本一九四九)に一言ふれる必要がある。日本では「獄中記」という名で翻訳されていることからも判明するように、この書は獄中でワイルドがアルフレッド・ダグラス宛に書いた手紙の形をとった一種の「弁明」であるがまた一面彼の告白の記録ともいえるものである。ワイルドが獄窓につながれる身となって体験した生活を通じて知った人生の悲哀について、キリスト受難の意義、文芸に対する自己の立場を論じた精神的絶叫と称していいであろう。
〔小説類と童話〕
もちろん長篇としては「ドリアン・グレイの肖像」であるが、短篇も若干残されている。それらは大体ウィットの横溢した皮肉なものが多い、このほか童話集二巻がある。すなわち「幸福な王子その他」(一八八八)と「石榴《ざくろ》の家」(一八九一)で、「幸福な王子」「ナイチンゲールとばら」等は前者に、「若き王」「星の子供」等は後者に収められている。童話という文学形式が純粋の美の世界を追究するのに好都合な手段であることを考えると、ワイルドが童話に筆を染めたのもさほど不自然ではない。もっとも第二巻の童話においては話もずっと長く、またおとな臭さが感ぜられぬでもない。
〔劇〕
劇作家としての彼は、深刻な悲劇にはとうてい向かず、「ウインダミア卿夫人の扇」(一八九二)「理想の夫」(一八九五)等四篇のどれをとってみても共通して喜劇で、それらを支えているものは、社交界というはなやかな照明に浮彫りされる、軽妙さ、風刺、ユーモアに満ち満ちた会話、逆説の応酬である。ウイットこそこれ等の喜劇の生命をなすものと言うべく、作者ワイルドが会心の笑みをもらしているのが観客の笑いさざめきとともに眼に見えるようである。当時ロンドンの芝居ファンの間に莫大な人気を博したのも、さもありなんとうなずけるのである。さらに「サロメ」(一八九三)は日本においては彼の劇作品のうち最もよく知られたロマンティックな怪奇美を売り物にした夢幻劇である。サロメは新約聖書マタイ伝第十四章に言及があるが、サロメの舞いの美しさに、ヘロデ王がそののぞみのものをとらせるという言葉通りに血のしたたるパプテスマのヨハネの首を盆に載せて賜るというすじは余りに陰惨であるが、それをワイルドは独特の雰囲気のうちに彼一流の唯美的効果を打出し、世紀末文学の代表的なものとなっている。
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あとがき
今回ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」が旺文社文庫の一冊として加えられ、上梓のはこびとなったことについては、私事にわたることをあえて許していただけるならば、訳者にはある感慨がつきまとっているのである。訳者が山口大学に奉職中のことであるが、恩師石田憲次先生のあたたかい御尽力と当時山口大学にお勤めであられた堀信一教授(特にワイルドの右作品中にあらわれるフランス語に関してであるが)の御懇切な御指導のもとに、「ドリアン・グレイの肖像」の訳業を終えて、東京のある出版社に送ったのは、昭和二十四年の夏のことであった。ところが不幸にもその出版社は業務不如意となったために右訳稿は原稿のまま陽の目を見ることなく、訳者が山口大学を辞して京都学芸大学(現在の京都教育大学)に奉職後、訳者の手元に返送され、以後十数年間原稿のまま筐底に蔵せられていたのである。訳者がその後ノートルダム女子大学に移ってから、はからずも同大学石田幸太郎教授の御尽力により、旺文社文庫の一冊に加えていただく光栄に浴したのであった。訳者は旧稿中気の付く限りの点に関し、手を入れて今回上梓の日を迎えることとなり、訳者の幸これにすぐるものはない。なお使用したテキストはThe Picture of Dorian Gray By Oscar Wilde. New York : Illustrated Editions Company. 1931. である。[#改ページ] (訳者)
〔訳者紹介〕渡辺純(わたなべ・じゅん)
ノートルダム女子大学教授兼京都大学教養部講師。大正一九一三年岐阜県美濃加茂市に生まれ京都大英文科卒、専攻は十九世紀英文学。岩波文庫、ヘンリ・ジェイムズの「デイジー・ミラー」川田周雄、渡辺純共訳。キーツ研究論文十数篇あり。