J・K・ローリング
ハリー・ポッターと死の秘宝(暫定訳)
この本の献辞は、七人に捧げられる。
ニールへ、ジェシカへ、デイヴィッドへ、ケンジーへ、ダイへ、アンへ。
そして、ハリーに最後までついてきてくれた、あなたへ。
ああ、苦痛が民のなかに広がった。
きしるような死のさけびと、血管を打つ一撃、
誰にも止められないひどい流血、悲しみ、
誰も耐えられない呪い。
しかし、救いは外からではなく家の中から来る。
他からではなく、自分たちの血みどろの争いの中から来る。
我々は、あなた方、地下の闇の神々に歌いかける。
さあ聞いてくれ、あなた方よ、地下にある、この上なく幸福な力よ――
呼び声に答えて、助けを送れ。
子どもたちに幸いを、子どもたちに勝利を、今こそ。
アイスキュロス『神に捧げる葡萄酒をもつ者たち』
死者は、友が海を渡っていくように、この世界を渡っていくにすぎない。
彼らは、たがいに静かに生きている。
彼らは、ぜったいに、どこにでも存在していて、愛し、生きている。
この神のグラスの中で、彼らは向きあうが、そのつきあいは自由で純粋だ。
これは、友にとって慰めとなる。彼らが死んだと言われようとも、その友情とつきあいは、最上の意味で、ずっと存在しつづける、つまり不死だからだ。
ウィリアム・ペン『もっと孤独の果実を』
目 次
第1章 闇の帝王の台頭 The DarkLord Ascending
第2章 追悼文 In Memoriam
第3章 ダーズリー家の旅立ち The Dursleys Departing
第4章 7人のポッター The Seven Potters
第5章 落ちた戦士 Fallen Warrior
第6章 パジャマを着たグールお化け The Ghoulin Pyjamas
第7章 アルバス・ダンブルドアの遺言 The Will of Albus Dumbledore
第8章 結婚式 The Wedding
第9章 隠れ家 A Place to Hide
第10章 クリーチャーの物語 Kreacher's Tale
第11章 袖の下 The Bribe
第12章 魔法は力なり Magic is Might
第13章 マグル生まれ登録委員会 The Muggle-Born Registration Commission
第14章 盗人 The Thief
第15章 ゴブリンの報復 The Goblin's Revenge
第16章 ゴドリック盆地 Godric's Hollow
第17章 バチルダの秘密 Bathilda's Secret
第18章 アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り The Life and Lies of Albus Dumbledore
第19章 銀の雌鹿 The Silver Doe
第20章 ゼノフィリウス・ラブグッド Xenophilius Lovegood
第21章 三兄弟の物語 The Tale of the Three Brothers
第22章 死の秘宝 The Deathly Hallows
第23章 マルフォイの屋敷 Malfoy Manor
第24章 杖職人 The Wandmaker
第25章 シェル・コテージ Shell Cottage
第26章 グリンゴッツ Gringotts
第27章 最後の隠し場所 The Final Hiding Place
第28章 鏡のかたわれ The Missing Mirror
第29章 消えたダイアデム The Lost Diadem
第30章 セブルス・スネイプの失脚 The Sacking of SeverusSnape
第31章 ホグワーツの戦い The Battle of Hogwarts
第32章 ニワトコの杖 The Elder Wand
第33章 プリンスの物語 The Prince's Tale
第34章 ふたたび森へ The Forest Again
第35章 キングズ・クロス駅 King's Cross
第36章 計画の欠点 The Flaw in the Plan
エピローグ 十九年後 Nineteen Years Later
第1章 闇の帝王の台頭
The DarkLord Ascending
月明かりの降り注ぐ狭い小道に、どこからともなく二人の男が突然現れた。その距離は数ヤードしかない。少しの間身じろぎもせずに、敵同士のように互いの胸へと杖を突き付けあっていたが、相手が誰であるのか分かると、すぐに外套の下へと杖をしまい、連れ立って早足で歩き始めた。
「何か進展は?」
二人のうちの背の高いほうの男が尋ねた。
「いい話がある」セブルス・スネイプは返答した。
小道の左側は荒野に面しており、茨が這うように生い茂っていた。右側はきちんと手入れされた生垣だった。その男の長い外套が歩くたびに足元で翻った。
「遅かったかもな」ヤックスリーは言った。彼の冴えない容貌は枝振りをのばした木の下を通り過ぎるたびに見え隠れした。
「思ったよりてこずった。けれどあのお方は満足なさるだろう。お前は上手くやれると確信しているようだが?」
スネイプは首を縦に振ったが、詳しい言及を避けた。彼らは右に曲がり、小道から広い道路へと出た。背の高い垣根も同じ方向に折れ曲がっており、門の先まで伸びていた。彼らのうちのどちらも足並みは乱さなかった。二人とも無言である種の敬礼のように左腕を上げた。すると門柱の黒い金属が煙であるかのように、二人はそのまま通り過ぎた。いちいの生垣は足音を消した。かさかさという音がどこか右のほうから聴こえてきた。ヤックスリーは再び杖を取り出してスネイプの頭ごしに突き付けたが、その音の正体は生垣の上を歩いている偉そうな白い孔雀以外の何者でもなかった。
「ルシウスはいつも豪勢だからな。孔雀とは……」
ヤックスリーは鼻を鳴らして、彼の杖を外套の下へ収めた。
まっすぐな道路の果てに見事な邸宅が立ちはだかっていた。光が階下の窓ガラスからダイヤモンドのように漏れている。生垣の向こう、薄暗い庭のどこかでは、噴水の音が聴こえていた。スネイプとヤックスリーが正面玄関へ足を速めると、彼らの足元で砂利が音を鳴らした。だれも扉を開いていないことは明らかだったが、まるで彼らの到着に答えて正面玄関の扉が開けられたようだった。
玄関ホールは広く、薄暗く照らされており、立派な絨毯で石の床のほとんどが豪奢に彩られていた。壁にかかっている青白い顔の肖像画の視線が大股で通り過ぎるスネイプとヤックスリーに向けられた。二人の男は隣の部屋へ通じる重厚な木の扉の前で立ち止まった。心の鼓動が鳴るわずかの間、逡巡した後に、スネイプは青銅の取っ手を回した。
客間の飾り立てた長テーブルには、沢山の人が黙って座っていた。部屋の家具は不自然に壁際に積み上げられていた。金めっきされた鏡が置かれている見事な大理石製の暖炉の下で燃え盛っており、辺りを照らし出している。スイプとヤックスリーは目が慣れるまで数瞬を要した。暗闇に適応すると、彼らの目は頭上の奇妙な光景に惹き付けられた。
まるで見えないロープで逆さ吊りになっているかのように、テーブルの上を意識を失った人間の身体が回転していた。そして、鏡や磨き上げられたテーブルの表面にその姿を映しだしていた。けれどもその真下に座っている青白い顔をした若い男を除いて、その場にいる誰もがこの不思議な情景に目を止めてはいなかった。彼は落ち着きなく、数分ごとに上をちらちらと眺めずにはいられないようだった。
「ヤックスリー。スネイプ」
高くてはっきりとした声が長テーブルの奥から聴こえてきた。
「危うく遅刻するところだったな」
その声の主は暖炉のすぐ前に陣取っていたので、新たな訪問者二人は、初め、彼の輪郭を判別することは難しかった。しかし彼らが近付くと、陰鬱で、髪のない顔がはっきりと見えてきた。鼻腔は裂け、赤く光る瞳の瞳孔は縦に長く、蛇を連想させた。青ざめているその顔は、まるで真珠のような輝きを放っていた。
「セブルスはここに」
ヴォルデモートは彼のすぐ右側の席を示した。「ヤックスリーはドロホフの隣だ」
二人の男は割り当てられた席に座った。テーブルの周りの視線はスネイプを追い、ヴォルデモートは彼が最初に語りかけた。
「それで?」
「閣下、不死鳥の騎士団はハリー・ポッターを次の土曜の夕方に今の住居から移動させるようです」
テーブルに座っている人々の関心は否が応にも高まった。あるものは身体を強張らせて、またあるものは気をもんだように、スネイプとヴォルデモートを凝視していた。
「土曜の……夕方か」ヴォルデモートは繰り返した。
彼の赤い瞳はスネイプの黒い眼をしっかりと見据えていた。見ているものが恐怖のあまり目を逸らしてしまうほどの、辛辣で残忍な視線で。
しかしながら、スネイプは落ち着いた様子でヴォルデモートの顔を見返した。数瞬の後にヴォルデモートは唇のない口元を歪め、笑みに似た表情を形作った。
「よろしい。実によろしい。この情報はどこから――」
「私たちが議論する情報源は、」スネイプは言いかけた。
「閣下」
ヤックスリーは目を伏せて長いテーブルを見ながらも、ヴォルデモートとスネイプが座っているほうへと身を乗り出した。全ての顔が彼に注目した。
「閣下。私は違うと聞きましたが――」
ヤックスリーは待ったが、ヴォルデモートは沈黙したままだったのでそのまま言葉を続けた、
「闇祓いのドーリッシュは、彼が十七の誕生日を迎える前日の三十日まで動かないと漏らしました」
スネイプは笑った。
「私の情報源は偽情報をばら撒く計画があると教えてくれた。そうに違いない。錯乱の呪文をかけられている。初めてではないだろう――彼は影響を受けやすい人間だ」
「信用してください、閣下。ドーリッシュの言うことは信憑性があると思います」
「もし彼が錯乱しているなら、自分の言うことは正しいと思うに決まっている」スネイプは言った。「ヤックスリー。闇祓い局はハリー・ポッターの保護にこれ以上の役割を果たさないことを保証しよう。騎士団は我々が魔法省に潜入したものと信じている」
「なあ、たまには騎士団もいいことするじゃないか?」
ヤックスリーのすぐ側でうずくまるようにして座っている男が言った。その男はぜえぜえと笑い声を立て、それはテーブル中のそこかしこに広がった。
ヴォルデモートは笑わなかった。彼の視線は頭上でゆっくりと回っている体に向けられていて、考えにふけっているようだった。
「閣下」ヤックスリーが続けた。「ドーリッシュは全ての闇祓いを動員してその子供を移動させるだろうと――」
ヴォルデモートは大きな白い手でヤックスリーを制した。すると彼はすぐに黙り込み、ヴォルデモートがスネイプのほうに向き直るのを苛々と眺めた。
「次はどこにあの子供を隠すつもりだ?」
「騎士団のうちの一人の家に」スネイプが言った。「情報源によると、その場所は騎士団や魔法省が出来うるかぎりの保護魔法をかけているでしょう。私が思うに、彼を連れ出すチャンスはあまりありません。閣下。もちろん、次の土曜日までに魔法省が壊滅すれば話は別ですが。そうなれば、保護魔法を破り、彼を探し出す機会も我々に巡ってくるでしょう」
「どうだ、ヤックスリー」
ヴォルデモートがテーブルの向こうに呼びかけた。炎が赤い目の中で怪しく煌いている。
「次の土曜日までに魔法省は落ちるか?」もう一度すべての頭が振り送った。ヤックスリーは姿勢を正した。
「閣下、この件に関しては良い知らせがあります。私は、たいへんな苦労と多大な努力の結果、ピアス・シックネスに支配呪文をかけることに成功しました」
ヤックスリーの周囲に座っている多くの人が感銘を受けて彼を見つめ、隣の細面の歪んだ顔をしているドロホフが彼の背中をぽんと叩いた。
「これが始まりだ」ヴォルデモートは言った。
「だが、シックネスはただ一人の男にすぎない。私が動く前にスクリムジョールを我々の手の者で包囲する必要がある。一度でもしくじれば、大臣の命を奪う目論見はすべて水の泡だ」
「おっしゃる通りです、閣下……けれども、魔法法令執行局長として、シックネスは、大臣以外の魔法省の内部に精通しています。このような上級職を支配下に置くことで、他の人間を操れるようになり、スクリムジョールを倒すことが出来るようになると思うのです」
「シックネスが我々の味方につく限りは、残りのものたちを転向させるまで気づかれないだろう」ヴォルデモートが言った。「いずれにしても、次の土曜の前までに魔法省が私のものになることはないだろう。もし移送先であの子供に手を出すことが出来ないのであれば、移動中にしなければならない」
「我々は有利な立場にあります、閣下」褒め言葉欲しさのあまり、ヤックスリーが喋り始めた。
「我々には魔法運送局に入り込んだ同胞が何人かいます。もしポッターが姿あらわしか、煙突ネットワークを使うならば、我々は直ちに把握することが出来ます」
「彼はどっちも使わないな」スネイプは言った。
「騎士団は魔法省に監視や規制をされている移動手段の利用を控えている。なぜなら、魔法省と関係のあるものを全く信用していないからな」
「ますます結構なことだ」ヴォルデモートが言った。
「あの子供は公然と移動しなくてはならないだろう。捕らえるのはたやすい」
再びヴォルデモートはゆっくりと頭上で回転する身体を見つめた。
「私自ら行く。ハリー・ポッターに関して、これまで何度も間違いを繰り返してきた。幾つかは私自身の誤りだった。ポッターが生きているのは、あいつが勝ったからではなく、私がしくじったからだ」
テーブルを囲む人々は心配そうにヴォルデモートを見た。皆それぞれ、ハリー・ポッターが生きていることで咎を受けるのではないかと怖れて表情を強張らせていた。しかしヴォルデモートは、頭上の意識を失った身体を気にかけながら、彼らのうちの誰かというよりは、自分自身のことを言っているようだった。
「私も迂闊だった。だから、完璧だった計画が、不幸にも頓挫してしまったのだ。しかし、今は違う。以前は分からなかったが、今は分かる。ハリー・ポッターを殺すのは私でなくてはならないし、私になるだろう」
ヴォルデモートの言葉に応えるかのように、突然人の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。苦しみや痛みの叫び声が長く続いた。テーブルについていた人の多くは、足下から発せられたらしいその叫び声に驚き、下の方を見た。
「ワームテール」
回転する身体から目を逸らさずに、ヴォルデモートが静かに名を呼んだ。
「我々の捕虜を静かにさせておけとお前に言わなかったか?」
「はい、かっ、閣下。」
テーブルの中ほどに居る小さな男が息を呑んだ。彼は縮こまって座っていたので、傍目にはそこに誰も座っていないかのようだった。そしてただちに、椅子から立ち上がり、走り出した。不思議な銀色の光芒以外には何も残らなかった。
「さっき言ったように、」
ヴォルデモートは信奉者たちの緊張した顔を見て続けた。「私は今では良く理解している。私はポッターを殺しに行く前にお前たちの一人に杖を借りなければならない」
周りの者たちは動揺した。ヴォルデモートは彼らの誰かから武器を借りようと言っているのだ。
「志願者なしか?」ヴォルデモートが言った。
「ならば……ルシウス、お前はこれ以上、杖を必要としないだろう」
ルシウス・マルフォイは顔を上げた。炎に照らされた彼の肌は、黄色い蝋人形のようだった。その目は深く窪み、隈ができていた。そして、その声はひどくしわがれていた。
「閣下?」
「お前の杖だ、ルシウス。お前の杖が必要なのだ」
「私は、」マルフォイは彼の妻を横目でちらっと見た。真っ直ぐ前を見つめる彼女の姿は、昔のままの青白さで、長いブロンドの髪は背中に垂れ下がっていた。テーブルの下で、彼女の細い指がマルフォイの手首を掴んだ。そこで彼は、ローブの下から杖を引き抜いて差し出した。ヴォルデモートは彼の赤い目の前にそれをかざし、しげしげと眺めた。
「何で作った?」
「ニレです、閣下。」マルフォイが囁く。
「中には何を?」
「ドラゴン、ドラゴンの心腱です。」
「それはいいな」
ヴォルデモートは自分の杖を引っぱり出して比べた。ルシウス・マルフォイは、代わりにヴォルデモートの杖を貰えると思っていたのか、ほんの一瞬だけ体を動かしかけた。ヴォルデモートはこの動きを見逃さなかった。赤い目を意地悪く光らせた。
「私の杖をあげようか、ルシウス? 私の杖を?」
一部の者たちから冷たい笑い声が聞こえた。
「私はお前に選択の自由を与えたのだ、ルシウス、これで十分では無いかね? しかしお前の一族は、最近の出来事をあまり歓迎していないようだ。何故私がお前の家にいることが不愉快なんだね、ルシウス?」
「そんなことは――そんなことはありません、閣下っ!」
「嘘だな、ルシウス」
そのシューという低い音は、ヴォルデモートが無慈悲な口を閉じた後でさえも、部屋の中に響き渡った。その音は次第に大きくなり、幾人かの魔法使いは、思わず身震いしそうになるのをかろうじて堪えた。何か大きなものが床を滑るようにしてテーブルの下を横切っている。
巨大な蛇がヴォルデモートの椅子にゆっくりと這い上がってきた。それは延々と上り続け、その肩に乗った。その首は男の大腿部くらいに太く、その目は縦長の瞳をしており、まばたき一つしなかった。彼はルシウス・マルフォイを見つめながら、長くて細い指で所在無さげにこの生き物を撫で回した。
「どうしてマルフォイ家のものは自分たちの家にいるのに、こんなに不幸せそうに見えるのだろうな。私が戻ったからか? 私が昔の力を取り戻したからか? 長い間私の復活を待ち望んできたと公言していたのは嘘だったのか?」
「もちろんです、閣下」とルシウス・マルフォイ。彼は震える手で上唇を拭った。
「私たちも長い間待ち望んできました――今でもそう思っています」
マルフォイの左側に座っている妻は、ヴォルデモートと蛇から目を背けるようにしてぎこちなく頷いた。息子のドラコは右側に座っていて、天井の死んだような身体を見上げている。ちらっとヴォルデモートを見てすぐ視線を元に戻した。目が合うのが不安だったのだ。
「閣下」テーブルの中くらいに座っている黒髪の女が、感情で押し殺した声をあげた。
「閣下を我ら一族の家にお迎えすることは光栄であり、これ以上喜ばしいことはありません」
二人は、見た目も態度も全く違っていた。彼女は黒髪で、まぶたが厚かった。ナルシッサは硬直して座っていた。ベラトリックスはヴォルデモートに向かって体を乗り出し、打ち解けようとアピールした。
「これ以上喜ばしいことはない」ヴォルデモートは繰り返すと、ベラトリックスに向かって少し頭を傾けた。
「これは、ベラトリックス、お前の申し出に対してだ」
彼女は顔を赤くした。目は喜びの涙で満ち溢れていた。
「閣下、私は真実を述べただけに過ぎませんっ!」
「これ以上の喜ばしいことはない、ね……お前たちの一族で起きた愉快な出来事と比較してもだ。今週だったか?」
彼女は困惑して口を半開きにしながらヴォルデモートを見つめた。
「おっしゃっている意味が良く分かりません、閣下。」
「お前の姪のことだ、ベラトリックス。そしてお前たち、ルシウスとナルシッサの姪のことだ。彼女は狼人間のリーマス・ルーピンと結婚したそうじゃないか。さぞかし誇らしいことだろう!」
テーブルからあざけるような笑い声が沸きあがった。多くの者ははしゃぎながら互いを見合った。何人かはこぶしでテーブルを叩いた。巨大な蛇はこの騒ぎが面白くなかったようで、口を大きく上げ、シューシューと怒ったような音を出した。しかし、デスイーターたちはベラトリックスとマルフォイ一族を嘲弄するのに夢中で、この音が耳に入らなかった。つい先ほどまでは喜びで紅潮していたベラトリックスの顔は、今では屈辱で赤い斑点が浮き上がった。
「彼女は一族の姪などではありません、閣下」彼女は騒ぎにかき消されないように叫んだ。
「私たち、ナルシッサと私は、彼女が穢れた血の一族と結婚して以来一度も会っていません。彼女も、彼女が結婚したけだものも、私たちとは何の関係もないのです」
「ドラコはどうだ?」とヴォルデモートは尋ねた。その声は静かだったが、 野次やあざけりの言葉にかき消されることなくはっきりと伝わった。
「子供たちのお守りでもするか?」
さらにどっと沸いた。ドラコ・マルフォイは恐怖に慄きながら、自分の膝を見つめている父親を見上げた。そして、母親と目が合った。彼女は微かに首を振ってから、再びその無表情な視線を反対側の壁に戻した。
「もういい」ヴォルデモートは怒っている蛇を撫でながら言った。
「十分だ」
その瞬間、笑い声がさっと退いた。
「長年の間に、我々の古い血族が少し悪疫に冒されている。」
ベラトリックスは息を潜め、哀願するような眼差しで彼を見つめた。
「お前たちは自分で余分なものを切り取らなければならない。そうしないと、健全な状態を保てないだろう? 他の者たちの健康を脅かすようであれば、切り取ってしまえ」
「分かりました、閣下」ベラトリックスが囁いた。彼女の目には感謝の涙が溢れていた。
「今度機会があれば必ず成し遂げてみせます!」
「お前は成し遂げてくれるだろう」ヴォルデモートは言った。
「お前の一族も、この世界もな……どこかが腐ってしまったら、我々に蔓延する前に切り取らなければならない。そして、純血の一族だけの世界にするのだ」
ヴォルデモートはルシウス・マルフォイの杖を持ち上げると、テーブルの上でゆっくりと回転している身体に差し向け、軽く振った。すると、呻き声をあげながら生気を取り戻し、見えない紐から抜け出そうともがき始めた。
「我々の客人が誰だか分かるか、セブルス?」ヴォルデモートが尋ねた。
スネイプは逆さまに吊り下げられた顔を見やった。全てのデスイーターが捕虜を見つめた。まるで、覗き見してもよいと許可されたかのようだ。回転するにつれ、彼女の顔が暖炉の方角を向いた。恐怖で張り裂けるような声があがった。
「セブルス! 助けて!」
「ああ、そうだな」彼女が回転してまた反対側に顔を向けるのを見ながらスネイプが言った。
「お前はどうだ、ドラコ?」杖を持っていない方の手で蛇を撫でながら、ヴォルデモートが尋ねた。ドラコはいきなり首を振りはじめた。彼女が正気に戻ったいま、彼はもはや見つめることが出来なくなってしまったのだ。
「でもお前は、この女の授業を受けていないだろう」とヴォルデモート。
「まだ知らないものもいるな。今宵はチャリティー・バーベイジ先生が我々に参加してくれている。彼女は最近まで、ホグワーツ魔法魔術学校の授業を受け持っていた」
テーブルの周りから同意を示す小さな声が聞こえた。彼女は大柄で、まんまるに太っていた。
「そうだわ……バーベイジ先生は魔法使いの子供たちにマグルのことを教えていた……彼らが我々とどのくらい違わないのか」
デスイーターの一人が床につばを吐き捨てた。チャリティー・バーベイジはぐるりと回り、再びスネイプに顔を向けた。
「セブルス……お願い……助けて……」
「黙れ」
ヴォルデモートが再びマルフォイの杖をさっと引くと、チャリティーは口の中に詰め物をされたかのように静かになった。
「魔法使いの子供たちをこのような腐った思想で汚染するのは我が意でない。先週バーベイジ先生は、日刊予言者新聞で、穢れた血の奴らを熱心に擁護していた。泥棒連中の技や知識を受け入れなければならないと語ったのだ。純血の一族が少なくなっていることは、バーベイジ先生によると、もっとも好ましい状況だそうだ。彼女は我々全てをマグルの仲間にしようとしている。でなければ、狼人間の仲間か……」
今度は誰も笑わなかった。ヴォルデモートは怒っていることは、その声からして明白だった。三度、チャリティー・バーベイジは回転してスネイプの方を向いた。彼女の目から涙が溢れ出し、髪の毛を濡らした。スネイプは平然として、彼女がゆっくり彼から遠ざかって回転していく様を見た。
「アバダ・ケダブラ」
緑色の閃光が部屋の隅々を照らした。チャリティーは大きな音を立てて落下し、テーブルは震えて亀裂が入った。何人かのデスイーターたちは椅子から飛び上がった。ドラコは床に落ちた。
「ナギニ、食事の時間だ」ヴォルデモートが優しく語りかけた。
大きな蛇が身体を揺らして、彼の肩から光沢のある木の上に滑り降ちた。
第2章 追悼文
In Memoriam
ハリーは血を流していた。左手で右の手をしっかりと握りしめ、悪態をつきながら寝室のドアを肩で押し開けた。がちゃんと陶磁器が割れる音がした。寝室の外に置いてあった、冷たいお茶の入ったティーカップを踏みつけてしまったのだ。
「何だよ……?」
彼は辺りを見回した。プリベット通り四番地の二階の踊り場には誰もいなかった。このお茶はダドリーが一生懸命考えて思いついた罠なのだろう。血を流している方の手を高く上げながら、ハリーは反対の手でカップの破片を拾い集めて、寝室の中にあるもう既にぎっしり詰まったゴミ箱に投げ入れた。そして重い足取りでバスルームを横切り、指に蛇口の水をかけた。魔法を使えるようになるまであと四日間もあることを考えると、信じられないほどに、馬鹿馬鹿しく、的はずれで、苛々してきた。しかし彼は、指のぎざぎざの傷がどうしようもないことを認めていた。なぜなら、これまで怪我の治し方を習ったことがなかったからだ。自分が受けている魔法教育には深刻な欠陥がある。これは何とかしないといけない。どうしたら良いかハーマイオニーに聞かなければと、心の片隅に書き止めると、大量のトイレットペーパーでお茶を拭き取ろうとした。それから寝室に戻るとドアをバタンと閉めた。
この午前中いっぱい、ハリーは、学校用トランクの中身を空っぽにしていた。六年前のあの日にこのトランクを詰めて以来、初めてのことだ。これまではトランクの上部の四分の三から不要品を抜き取り、最新の物に入れ替えるか、差し替えるかしただけだった。だから、底のほうにはほとんど残り粕が溜まっていた。古い羽ペン、干からびた昆虫の眼、サイズの合わない片方だけの靴下。ほんの少し前、ハリーがこの残骸に片手を突っ込んだときに、突き刺すような痛みを感じたのだった。引き抜くと、右手の薬指がら大量の血が流れていたのだ。
今の彼は少しだけ慎重に作業を進めていた。トランクの横に膝をつき、底の辺りを手探りして、古いバッジを取り出した。弱々しく光を反射するそれには、次の文字が書かれていた。
「セドリック・ディゴリーを応援しよう! ポッターはクソだ!」
ひび割れ擦り切れたスニーコスコープ、内側に「R.A.B.」と書かれた金のロケットなどを次々と取り出した後で、ようやく、彼の手を傷つけた鋭利な物が出てきた。一目で何であるか分かった。それは五センチほどの魔法がかけられた鏡の破片で、今は亡き名付け親のシリウスから貰ったものだった。ハリーは鏡の破片を横に置き、シリウスからのプレゼントがまだ他にも残ってないか再びトランクを注意深く調べたが、粉々になった鏡の破片がトランクの一番底で輝いているのを見つけただけだった。
ハリーは、背中を伸ばして座り、指を切った尖った破片を注意深く見た。そこには自分自身の輝く緑色の目が、自分を見返している他、何も見えなかった。
そこで彼は、読まずにベッドの上に放り投げたままの、今朝の日刊予言者新聞の上に破片を置いた。そして、割れた鏡を見つけたことで湧き上がってきた、心を突き刺すように痛む後悔と願望のつらい記憶が急激にあふれ出たので、八つ当たりをするかのようにトランクの中を片付け始めた。トランクの中を空にして、要らないものを捨て、残りを整理するのに、更に一時間かかった。制服とクィディッチ用のローブ、大鍋、羊皮紙、羽ペン、そして教科書のほとんどが、山積みのまま残された。おばさんとおじさんはどうするだろう? 夜中に焼き捨てる? 多分。だってあの人たちは、恐ろしい犯罪の証拠か何かと同じだって思っているんだから。マグルの服、透明マント、魔法薬製造キット、何冊かの教科書、ハグリッドがくれた写真のアルバム、手紙の束、それに杖は、古いリュックサックに詰め直してあった。前のポケットには、忍びの地図と、内側にR.A.B.と書かれたロケットを入れた。ロケットをこのような上等の場所に入れたのは、価値があったからではない。常識的な観点から見ると、ぜんぜん価値はない。手に入れるために払った犠牲が大きかったからだ。
このようにして相当な大きさの新聞の束が机の上に残された。その横には、雪のように白いフクロウのヘドウィグがいた。ハリーがこの夏プリベット通りで過ごさなくてはならなかった日の分、たまった新聞だった。
彼は床から立ち上がって伸びをすると、机に向かって動き出した。新聞をぱらぱらとめくって一束づつがらくたの山に放り投げている間、ヘドウィグは身じろぎ一つしなかった。眠っているか、あるいは寝ているふりをしていた。ハリーがたまにしか籠の外に出してくれないので、怒っていたのだ。新聞の束が残り少なくなるにつれ、ハリーは手を緩めて速度を落とし、彼がこの夏プリベット通りに戻った直後のある記事を探し始めた。ホグワーツでマグル学の先生をしていたチャリティー・バーベイジの辞任に関する記事が一面に記載されていたのを覚えていた。ようやく見つけた。十ページをめくり、椅子に深く座ると、探していた記事をもう一度読み始めた。
アルバス・ダンブルドアとの思い出
エルフィアス・ドージによる
私がアルバス・ダンブルドアと出会ったのは十一歳の時、ホグワーツに着いた最初の日だった。我々がお互いに興味を引かれたのは、疑いもなく、二人とものけ者であると感じていたからだ。私は学校に着く直前にドラゴン痘に罹り、隔離から戻ってきた頃には緑色のあばた顔になり、誰も近寄ろうとはしなかった。一方アルバスは、要らぬ悪評を背負ってやってきた。一年ほど前、彼の父親パーシバルが若い三人のマグルを襲って有罪になったことは、誰もが知っていた。アルバスは父親(最後はアズカバンで亡くなった)が犯した罪のことを決して否定しようとはしなかった。それどころか、勇気をふり絞って訊ねると、父親が確かに有罪であることを私に教えてくれた。しかしそれ以上は、多くの者が話させようと試みたのだが、この悲しい出来事について話すことを拒んでいた。実際、彼の父の行為を賞賛し、彼自身もマグル嫌いではないかと推測する者もいた。とんでもない間違いだった。誰もが知っていることだが、アルバスが反マグル的な態度を示したことはただの一度も無い。実際の話、マグルの権利を守ろうとする彼の態度は、それから後に何人もの敵を作り出した。
何ヶ月かすると、アルバス自身の評判が、彼の父の評判を覆い隠し始めた。最初の学年の終わりには、彼はマグル嫌いの息子としてではなく、学校始まって以来の秀才として知られるようになった。彼の友になるという特権を受けた者は、その模範的行動から多くを学んだ。彼の援助は言うまでも無い。彼はいつでも人を助けてくれた。後に彼は、この頃から人に教えることが楽しかったと私に打ち明けてくれた。
彼は学校が用意したすべての賞を勝ち取っただけではなく、当時最も有名な魔法使いたちと定期的に文通を始めるようになった。その中には、有名な錬金術師ニコラス・フラメル、著名な歴史家バチルダ・バグショット、魔術理論家のアダルバート・ワブリングが含まれていた。幾つかの論文は、「変化の術」、「魔法術の課題」、「実用薬草学」のような雑誌に寄稿された。ダンブルドアの将来は華々しいものだった。唯一の疑問は、いつ彼が魔法大臣になるかということだった。後々、彼がその職を受けようとしていると、しばしば予想されたが、彼は魔法省の役人になる気持ちなどこれっぽっちも持ち合わせていなかった。三年後、アルバスの弟アベルフォースが学校にやってきた。彼らはぜんぜん似ていなかった。アベルフォースは本が嫌いで、問題を解決するときは、議論ではなく決闘することを好んだ。しかし、彼らの仲が悪かったと言うのは間違いだ。二人は性格が違っている彼らなりのやり方で、折り合いよくやっていた。アベルフォースの立場からすると、アルバスのように優秀な兄の影で生きるのは難しかったに違いない。絶えず自分よりもっと輝いている彼のそばにいることは、彼の友人に特有の災難だったが、弟にとっても全く楽しめるものではなかっただろう。ホグワーツを去る時、アルバスと私はその当時の伝統だった世界旅行に一緒に出かけて、お互いの道を歩き始める前に、外国の魔法使いを訪問して彼らの様子を見ようと計画していた。しかし、悲劇が起きた。出発の前日に、彼の母ケンドラが亡くなった。彼は一家の長男で、唯一の稼ぎ手として遺された。ケンドラに弔意を示すため、私はしばらく出発を延期した後、たった一人で旅に出かけた。弟と妹を抱え、ほとんどお金も残されていなかったアルバスが、私と一緒に旅行できるはずがなかったからだ。
旅行の期間中、しばらく我々は疎遠になった。私はアルバスに旅の驚異の数々を手紙に書いた。エジプトで体験した錬金術や、ギリシャでキメラから間一髪のところで逃げたこと、今考えると無神経だった。彼からの手紙には、日々の生活のことはほとんど書かれていなかった。多分、彼くらい優秀な魔法使いとしては苛々するくらい退屈だったのだろう。私は自分の体験をとても楽しんでいたのだが、一年に及ぶ旅の終わりにまたぞっとする話を聞いた。新たな悲劇がダンブルドア家を襲ったのだった。妹アリアナの死だ。
アリアナは昔から病弱だったが、母の死に続く悲劇は、二人の兄弟に大きな影響を与えた。アルバスと親しい者たち――幸運なことにその中には私も含まれている――全ては、アリアナの死と、アルバスの自責の念が(もちろん、彼に罪はないのだが)、彼の心に永久に傷跡を残したという意見で一致している。
私が家に帰ると、年齢を重ねた人間が経験するような苦痛を味わった若い男がいた。アルバスは以前よりも控えめになり、陽気なところがほとんどなくなっていた。更に悪いことに、アリアナを失うことによって、アルバスとアベルフォースが仲たがいをするようになってしまった(後に仲直りをして、親密とまではいかなくても、心を通い合わせるようにはなった)。彼はその後、両親やアリアナのことをほとんど話さないようになった。そして彼の友人たちも、このことを話題にしないようになった。
その後の勝利の数々は、他の人たちが話している通りだ。ダンブルドアは、魔法界の知識に対して数え切れないほどの貢献をしてきた。例えば、ドラゴンの血の十二の使用法の発見は、これからの世代にも役立つだろう。また、一九四五年に行われたダンブルドアとグリンデルワルドの決闘は凄かった。これを目撃したものは、二人の傑出した魔法使いによる決闘を、恐怖と畏敬の念で書き記した。ダンブルドアの勝利と、これが魔法界に与えた影響は、国際秘密法規の制定や「名前を出してはいけない例のあの人」の凋落と同様、魔法の歴史における転換点となった。
アルバス・ダンブルドアは決して尊大な態度を取らなかった。彼は誰に対しても、明らかにちっぽけで浅はかな相手でも、その人なりの価値を見出していた。私は思うのだが、彼は若い頃に悲劇を味わったからこそ、偉大な人間性を手に入れたのではないか。言葉では言い表せないくらい、彼との友情が懐かしい。しかし、私の個人的な喪失感など、魔法界が失ったものと比べたら何でもない。彼がホグワーツ歴代校長の中でもっとも刺激的でもっとも愛された人物であることは、疑いようがない。彼は自分の歩んだ人生と同じように死んでいった。すなわち、最後の瞬間まで、正義のために活動していた。私が最初に出会った日にドラゴン痘に罹った小さな少年に手を差し伸べてくれたように。
ハリーは記事を読み終えた後も、死亡記事に添えられた写真に見入っていた。ダンブルドアは馴染みのある微笑を浮かべていた。けれども、半月形メガネ越しに自分のことを見定められると、新聞だと分かっていても、X線写真のようにハリーを見通すような印象があった。ハリーの悲しさには、屈辱感が混じっていた。
彼はダンブルドアのことをとても良く知っていると思っていた。しかし、この記事を読むと、ほとんど知らなかったことを痛感せずにはいられなかった。ダンブルドアに少年時代があったなんて、想像したことすらなかった。生まれながらに、ハリーが知っている銀髪で誇らしげな姿だった気がした。十代のダンブルドアを考えるなど、奇妙なだけだった。それはまるで、馬鹿なハーマイオニーや、愛想の良い尻尾爆発スクリュートを想像するようなものだ。
ハリーは、ダンブルドアに昔のことを聞くなんて思いもつかなかった。たぶん、不謹慎で無礼だと感じていたのだろう。けれども、とにかくダンブルドアが伝説のグリンデルワルドとの決闘に参加したことは一般常識になっているし、ハリーはそのことや、他の有名な業績について、話を聞こうとしたことはなかった。そう、二人がいつも話していたのはハリーのことだった。ハリーの過去、ハリーの未来、ハリーの計画……そして今、彼の未来が危険で予測もつかない状況になっているにも関わらず、ハリーはダンブルドアについて話を聞くかけがえのない機会を永遠に失ったことを悔やんだ。
かつて校長先生に対して訊ねた唯一の個人的質問は、正直に答えてもらえなかったのではないかとハリーは訝っていた。
「先生は鏡の中に何を見たのですか?」
「私か? 厚手の毛糸の靴下を持っている姿を見たよ」
しばらく考えた後、ハリーは死亡記事を日刊予言者新聞から切り抜くと、きちんと折り畳んで、「闇魔術に対する実践的防御の魔法と、その使い方」の第一巻に挟んだ。そして、残りの新聞をがらくたの山に重ねると、部屋の中に顔を向けた。部屋はすっきりと片付いていた。最後に残ったのはベッドの上にある今日の日刊予言者新聞で、その上には割れた鏡の破片が乗せてあった。ハリーは部屋を横切り、鏡の破片を取り避けて新聞を開いた。今朝早くふくろうが丸めた新聞を配達してきたときに、彼はさっと見出しに目を通し、ヴォルデモートに関する記事がないことを見て取ると、脇に放り投げてしまったのだった。きっと魔法省が日刊予言者新聞にヴォルデモートの記事を載せないように圧力をかけているに違いない、とハリーは確信していた。 今になって、ハリーは見過ごした記事があったことに気がついた。第一面の下半分に、ダンブルドアが、急いでいるように大股で歩いている写真が載っており、その上に小さめの見出しがあった。
ダンブルドア―――真実が明らかに?
来週、当代随一の偉大な魔法使いと思われていた魔法使いの衝撃の事実が明らかになる。穏やかな銀色の顎ひげの賢人というよく知られたイメージを剥ぎ取って、リータ・スキーターが荒れた少年時代、手に負えない青年時代、生涯に渡る確執、そしてダンブルドアが墓場まで持っていった秘密を暴き出す。なぜ魔法大臣になると予想されながら、ただの校長でいることに甘んじていたのか? 不死鳥の騎士団と呼ばれる秘密結社の目的は何か? いかにしてその最期を迎えたのか?
リータ・スキーターが新刊「アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り」の中で、この答えと更なる疑問を徹底的に解き明かす。一三ページにベティー・ブライスワイトによる独占インタビューあり。
ハリーは破るように新聞をめくって、一三ページを見つけた。記事のトップには、別の意味で馴染みがある顔の写真が掲載されていた。宝石で飾られた眼鏡、念入りにカールされた金髪、勝ち誇ったような微笑の中でむき出しになった歯、クネクネした指。胸くそが悪くなるような写真を何とか無視して、ハリーは記事を読み進めた。
リータ・スキーターは攻撃的な記事を書くことで有名だが、彼女自身は暖かくて物腰が柔らかい印象だ。彼女は居心地がいい家に私を招き入れると、すぐにキッチンに招きいれ、紅茶と一切れのパウンドケーキでもてなしてくれた。そして言うまでもなく、大きな樽にいっぱい詰められた最新のゴシップも。
「ええ、もちろんダンブルドアは伝記作家の夢よ」とスキーター。
「あんなに長くて充実した人生。あたくしが最初の本を書くことになるでしょう。これからたくさんの本が出るでしょうけど」
スキーターは確かに決断が早かった。彼女の九百ページにも渡る著作は、ダンブルドアの六月の謎の死から、たった四週間で完成した。どうしてこれほど早く本を書くことができたのか。その秘訣を彼女に訊ねた。
「そうねえ、あたくしくらい長くジャーナリストをやっていると、締め切りに間に合うように仕事をすることは第二の天性よ。あたくしはね、魔法界が彼の話を読みたがっていることを知っていたわ。その欲求を叶える最初の人間になりたかったの」
私は、ウィゼンガモットの特別顧問であり、アルバス・ダンブルドアの長年の友人であったエルフィアス・ドージが、最近「リータ・スキーターの本は蛙チョコのカードほどの真実も含まれていない」と公表したことを引き合いに出した。
スキーターは頭をのけぞらせて笑い出した。
「親愛なる老いぼれドージィ! 何年か前に魚人の権利について彼にインタビューしたことを思い出しますわ。彼に祝福あれっ! 完全に耄碌していたの。まるで、ウィンダミア湖の底に座ってあたくしにマスを監視しなさいって言ってるみたいだった」
けれども、エルフィアス・ドージが指摘した不正確さがあちらこちらで話題になっていることに間違いはない。スキーターは本気で、ダンブルドアのように長くて偉大な人生を送った人間を描き出すのに四週間あれば十分だと思っているのだろうか?
「あなたねえ」スキーターは愛情をこめて指の関節で私を軽く叩いた。
「ずっしり重いガレオン金貨の袋と、『いや』という言葉を聞くのを拒んで承諾させるまでがんばることと、すてきに賢い自動速記ペンがあれば、いろんな情報が集まるのよ。まあとにかく、みんなダンブルドアの噂を撒き散らかそうとしますしねえ。誰もが彼のことを素晴らしいって思っている訳でもないでしょ? だって彼は、たくさんの人を踏みにじってきたんですもの。でも年寄り詐欺師のドッジはうまく逃れて生きてきたわ。あたくしが持ってるのはねえ、ジャーナリストなら自分の杖と交換してでも欲しがるくらいのすごい情報源よ。その人は、これまで公に発言したことはないけれど、若い頃、荒れていて不安定だった時期にダンブルドアと親しかったの」
スキーターの伝記の前評判は、ダンブルドアが潔癖な人生を送ったと信じている者たちには、ショックだったに違いない。彼女が見つけた中でもっとも衝撃的な事実は何かと訊ねると、
「止めてよベティ、本が出版される前に一番いいところを全部話すわけないでしょ!」とスキーターは笑いながら言った。
「でもねえ、約束してあげるわ。ダンブルドアが彼の髭と同じくらい潔白だって思っている人たちは、びっくりして目を覚ますことになるの。例えばねえ、こんな話があるの。彼が「例のあの人」に対して激しい敵愾心を持っていたことを知っている人たちは夢にも思いつかなかったでしょうけど、彼は若い頃「闇魔法」に手を出したのよ! それにねえ、後年、寛容であれと言い続けた魔法使いだったくせに、若い頃は、全く広い心の持ち主ではなかったの! 若い頃はとっても心が狭かったのよ! ええ、アルバス・ダンブルドアの過去はすっごく怪しいの。家族だっていかがわしくってねえ、だから彼は一生懸命それをもみ消そうとしていたの」
私はスキーターが口にしたのはダンブルドアの弟アベルフォースのことかと訊ねた。彼は間違ったことに魔法を使ったのでちょっとしたスキャンダルになり、十五年前にウィゼンガモットから有罪判決を受けている。
「いえいえ、アベルフォースは山積みされた糞の一部に過ぎないの」とスキーターは笑った。
「違うのよ。あたくしが話してたのはねえ、ヤギをいじめるのが好きな弟さんよりも、マグルを半身不随にしたようなお父さんよりも、ずっと悪いことなの」
「とにかく、ダンブルドアは彼らを隠しておくことができなかったでしょ? 二人ともウィゼンガモットが有罪にしたんですもの。違うの。あたくしが興味を持ったのはお母さんと妹さんのことよ。ぞっとするようなエピソードを見つけてきたわ」
「でもね、さっきも言ったけど、詳しく知りたければ本の九章から十二章を読むのを待たなくては駄目よ。あたくしがいま言えるのは、ダンブルドアがどうして鼻を折ったか誰にも語らなかったことを、なぜだか理解できるようになるってことくらいかしら」
家族のことはともかくとしても、スキーターはたくさんの魔法を発明したダンブルドアの優秀さまで否定しようとしているのだろうか?
「彼は賢かったわ」スキーターはしぶしぶ認めた。
「でもねえ、彼の業績とされているものが本当に彼のものだったかというと、疑問が残るわねえ。あたしくは十六章に書きましたけど、アイボール・ディロンズビーはドラゴンの血を利用する八つの方法を発見していたそうよ。ダンブルドアは彼の論文を「借りた」そうだわねえ。」
でも、ダンブルドアの業績の中で幾つかの重要なものは、否定のしようがない。グリンデルワルドを打ち負かした有名な決闘はどうなのだろう?
「おやおや、嬉しいわ、グリンデルワルドのことを聞いてくれて」スキーターはからかうような笑みを浮かべた。
「ダンブルドアの壮大な勝利を信じているような無邪気な人たちに言うけれど、爆弾――それともクソ爆弾かも――が落ちるから、しっかりと心の準備をしておいてね。実際、すっごくひどい話なの。あたくしが言えるのはねえ、伝説になるような激しい決闘ではなかったってことかしら。あたくしの本を読んでくれたら、グリンデルワルドは杖の端に白いハンカチーフを掲げて降参しながら静かに歩いてきたんだって結論に納得してくれると思うわよ!」
スキーターはこれ以上本の衝撃的な内容を明らかにしてくれなかった。そこで、すべての読者が待ち望んでいるテーマ、恋愛関係に話を移した。
「もちろん」スキーターは元気よく頷いた。
「あたくしは丸まる一つの章をポッターとダンブルドアの関係に当てたの。これは不健全というか、邪悪とさえいえるものだったわ。何度も言いますけど、すべてのいきさつを知りたければ、あたくしの本を買ってくださいね。とくかく、ダンブルドアが最初からポッターに異常な興味を持っていたのは疑いの無いことだわ。それがあの子の望んでいたことかどうかは分からないけれど……ええ、どうなのでしょうね。ポッターが情緒不安定な青春時代を過ごしていることは公然の秘密ですけれど」
私はスキーターに、いまでもハリー・ポッターと連絡を取り合っているかどうか聞いてみた。なんせ彼女は、去年ポッターに独占インタビューして「例のあの人」の帰還を聞きだしたことで有名なのだ。
「もちろんよ。あたくしたちはずっと親しくしているわ」とスキーターは言う。
「可哀想なポッターには、親友がほとんどいないのよ。そして、あの子があたくしと出会ったのは、あの子の人生でもっとも困難な時期、三大魔法学校対抗試合だったの。生きている人間で真のハリー・ポッターを知っていると言えるのは、あたくしだけだと思いますわよ」
ここで我々は、いまだにさまざまな噂が飛び回っているあのダンブルドアの最後の瞬間に辿りついた。スキーターは、ダンブルドアが亡くなったその時その場所にポッターが一緒に居たと信じているのだろうか?
「そうねえ、あまり喋りすぎるのも良くないわ。みんな本に書いてあるもの。でもね、ホグワーツ城の中には、ダンブルドアが落ちた、飛び降りた、もしくは突き落とされた数分後に、ポッターがその場から逃げていくのを見たって人がいるのよ。ポッターは後になってセブルス・スネイプに対して不利な証拠を見つけてきたけど、彼がスネイプを怨んでいたことは誰でも知ってるでしょ? すべて表面に見えているとおりなのかしら? あたくしの本を読んだら、魔法界はどんな判断を下すでしょうね」
この挑発的な言葉を最後に、私はお暇することにした。スキーターがベストセラー作家になることは疑いの余地が無い。その一方でダンブルドアの取り巻き連中は、暴きだされる真実に身震いすることだろう。
ハリーは最後まで読み終えた後も、ページの下の空白部分をぼうっと見つめていた。反感と激しい怒りが吐き気のようにこみ上げてきた。彼は新聞を丸め捨てた。壁に向かって力いっぱい投げつけると、ゴミ箱からあふれ出しているがらくたの上に落ちた。
彼は部屋の中をやみくもに歩き始めた。空の引き出しを開けたり、本の山から一冊を抜き取って同じ山にある別の本と入れ替えたり、とにかく自分で何をしているか分からなかった。頭の中では、リータの記事にあったフレーズがでたらめに響きわたっていた。
丸まる一つの章をポッターとダンブルドアの関係に当てたの……これは不健全というか、邪悪とさえいえるものだったわ……あたくしが持ってるのはねえ、彼は若い頃「闇魔法」に手を出したのよ……ジャーナリストなら自分の杖と交換してでも欲しがるくらいのすごい情報源よ……
「嘘だ!」ハリーは叫んだ。
芝刈り機を再び動かそうとしていた隣人が手を止めて、ハリーの部屋の窓を不安そうに見上げた。ハリーはどしんとベッドに座ると、割れた鏡の破片が飛び散った。彼は破片を拾うと、ダンブルドアのことや、彼を中傷するリータ・スキーターの嘘のことを一心不乱に考えながら、指先でそれを弄んだ。
鮮やかな青の光がきらめいた。ハリーは凍りついた。さっき切ったばかりの指にまた破片の尖った縁を当ててしまった。見たと思ったのは幻覚だった。肩越しにちらりと見返したけれど、壁紙の色はペチュニアおばさんが選んだげんなりするようなピンク色だ。鏡に青い色を反射するようなものは何もない。彼はもう一度鏡の破片を覗き込んだ。でもそこに見えたのは、自分自身を見つめる明るい緑色の目だけだった。
見たと思い込んだだけだ。そうに違いない。亡くなった校長先生のことを考えていたから、先生の青い目が見えた気がしたんだ。一つだけ確かなことは、アルバス・ダンブルドアの青い目がハリーを刺すように見つめることはもう二度とないということだった。
第3章 ダーズリー家の旅立ち
The Dursleys Departing
玄関のドアがばたんと開く音が階段の上まで響きわたるやいなや、怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、お前っ!」
十六年間もこう呼ばれ慣れていたので、おじさんが誰を呼んでいるのかすぐに分かった。でも彼は、すぐには返事をしなかった。彼はまだ鏡の破片を見つめていた。その中に、ほんの一瞬ダンブルドアの目をみたような気がしたのだ。
「小僧っ!」というおじさんの怒鳴り声が聞こえてきて、ようやく彼はゆっくりと立ち上がってベッドルームのドアへと足を運んだ。そして、立ちどまって、割れた鏡の破片もリュックの中に加えた。その中は、彼が持っていこうと思っている物で一杯だった。
「どれだけ時間をかけてるんだ!」ハリーが階段の上に姿を現すと、バーノン・ダーズリーがわめいた。
「下りてこい、話がある!」
ハリーはジーンズのポケットに深く両手を突っ込んだまま、だらだらと階段を降りた。居間には、ダーズリー家の三人が揃っていた。皆旅行に出る格好をしていた。バーノンおじさんは芥子色のジップアップジャケット、ペチュニアおばさんはサーモンピンクの小綺麗なコート、そして大柄で金髪、筋肉質なハリーの従兄弟ダドリーは革のジャケットだ。
「何?」ハリーが訊ねた。
「座れ!」とバーノンおじさん。ハリーは眉を上げた。
「お願いだから!」バーノンおじさんが、杖が喉元に突きつけられるかのように、わずかにたじろいで、つけ加えた。
ハリーは座った。彼はこれからどうなるか分かっていた。おじさんはうろうろと歩き出し、ペチュニアおばさんとダドリーは心配そうに後を追った。大きな赤紫がかった顔をしわくちゃにしながら、バーノンおじさんはハリーの前に立ち止まって喋り始めた。
「気が変わった」
「そいつは驚きだね」とハリーは言った。
「そういう話しかたはお止めなさい」ペチュニアおばさんがかん高い声で話し始めたが、バーノンおじさんは手を振って黙らせた。
「ぜんぶでまかせなんだろう」バーノンおじさんが豚のように小さな目でハリーを睨みつけながら言った。
「何も信じないことに決めた。わしらは出かけない。どこにも行かんぞ」
ハリーはおじさんを見上げた。苛々するけれど、ちょっと面白かったりもする。この一か月間、バーノン・ダーズリーは二十四時間ごとに気が変わっていた。車に荷物を積み込んだり、降ろしたり、また積み直したり、そんなことの繰り返しだった。中でも傑作だったのは、この前荷物を積みおろしたときに、ダドリーがスーツケースにダンベルを追加したことに気付かず、バーノンおじさんが車のトランクに入れようと持ち上げようとしたところ、思わず足元に落としてしまい、あまりの痛さに罵るような叫び声をあげたことだ。
「お前の話によれば」バーノン・ダーズリーは再び居間を行ったり来たりしはじめながら言った。
「わしら、ペチュニアとダドリー、そしてわしが、ほら、危険な目に会うかもしれない、何とかから……」
「『僕の同類』からだね」とハリー。
「でもな、わしには信じられん」バーノンおじさんは、またハリーの前に来ると止まって、繰り返して言った。
「わしはな、夜中にじっと考えたんだ。それで分かったんだ。お前はこの家を騙し盗ろうとしてるんだろう」
「家? どの家のこと?」とハリーは鸚鵡返しに言った。
「この家だ!」こめかみをピクピクさせながらバーノンおじさんがわめいた。
「わしらの家のことだ! この辺りの地価は暴騰してるんだ! お前はわしらを追い出して、いんちきして土地の権利書をお前の名前に書き換えて、そして――」
「頭がおかしくなったの?」ハリーが厳しい口調で問い質した。
「この家を騙し盗ろうとしてるって? 顔も悪いけど頭も悪いんじゃない?」
「よくもそんなことを!」ペチュニアおばさんがキーキー喚いたが、こんどもまた、バーノンおじさんが手を振って黙らせた。ルックスのことを小馬鹿にされることなど、彼に迫ってる真の危険と比べたらどうということもない、といった感じだった。
「忘れてるかもしれないけど」と、ハリーが言った。「僕はもう家を持ってる。名づけ親が遺してくれた。だから、どうして僕が、この家を欲しがらなきゃならないんだ? これまでの幸せな思い出のため?」
沈黙が流れた。これでおじさんがしっかり納得したと思った。
「お前の主張では」バーノンおじさんが言葉を続けた。
「あの何とか卿が」
「ヴォルデモート」苛苛してハリーは割り込む。
「もう何百回も話したよ。僕が言い張ってるんじゃない、事実なんだ。去年ダンブルドアがあんたに言ったし、キングズリーだって、ウィーズリーさんだって――」
バーノン・ダーズリーは怒って肩を丸めた。夏休みが始まったばかりの頃に大人の魔法使い二人が突然訪問してきたあの出来事は、とても嫌な記憶として残っているはずだ。キングズリー・シャックルボルトとアーサー・ウィーズリーは、ダーズリー家に忌まわしい衝撃をもたらしたのだ。ハリーは思った。ウィーズリー氏は以前居間の半分をめちゃめちゃに破壊した前科があるのだから、バーノンおじさんが歓迎するわけがない。
「キングズリーとウィーズリーさんもしっかり説明したように」ハリーは情け容赦なく言った。
「僕が十七になったら、僕を守っている魔法が破れるんだ。そうなると、あんたたちの身も危うくなる。騎士団は言ってたよ、ヴォルデモートはあんたたちのことも狙うって。僕の居場所を聞き出すために拷問するか、それとも、ぼくをおびきだすために人質に取るかのどちらかの理由で」
バーノンおじさんとハリーの目が合った。ハリーは、おじさんが自分と同じことを考えていると確信していた。歩き出したバーノンおじさんに向かって、ハリーは念を押した。
「あんたたちは隠れなきゃいけない。騎士団が助けてくれる。最高の隠れ家を見つけてくれる」
バーノンおじさんは何も言わずにうろうろと歩き続けている。外を見ると、セイヨウイボタの生垣の上に太陽が頭をのぞかせている。隣人は芝刈り機を止めたようだった
「魔法省ってのがあるそうじゃないか」バーノン・ダーズリーがぶっきらぼうに口を開いた。
「そうだよ」とハリーが少し驚いて言った。
「そしたら、なんでそいつらがわしらを守らないんだ? わしらは無辜の被害者だし、問題があったとしたらお前を養ったことだけだ。政府に保護してもらう資格があるはずだと思うが!」
ハリーは笑い声を抑えられなかった。軽蔑し信用していない魔法社会の中でさえ官庁に期待するなんて、とてもおじさんらしかった。
「ウィーズリーさんとキングズリーが言ったことを聞いたでしょ? やつらは魔法省に手先を忍ばせてるんだって」
バーノンおじさんは暖炉のところまで大股でして歩き、また戻ってきた。深呼吸して立派な黒髭を揺るがせると、その顔はまた集中赤紫色になった。
「分かった」彼はハリーの前で立ち止まった。
「分かった。もしものことがあったら困るからな、保護してもらおうじゃないか。なんでキングズリーのやつを使えないのが、まだ分からんが」
ハリーは、なんとか目をぐるっと回さないようにしようと思ったが難しかった。この質問も、もう六回も話題になっていたのだ。
「前にも言ったように」ハリーは歯をくいしばりながら言った。「キングズリーはマグ……つまり、首相を守っているんだ」
「確かに、彼は最高だ!」バーノンおじさんは何も映っていないTVを指差しながら言った。
ダーズリー家はTVのニュースで、病院を訪問しているマグルの首相の後ろを目立たないように歩いているキングズリーの姿を見たことがあった。彼は普通の服を着ているし、人を安心させる深い声をしているし、だからダーズリー家は、キングズリーは他の魔法使いとは明らかに違うと思っていた。もっとも彼が耳飾りをつけている姿を見たことがないのは確かだが。
「とにかく、彼は忙しいんだ。でも、ヘスチア・ジョーンズやディダラス・ディグルだったらすぐにでも来てくれるし、」
「まずはそいつらの履歴書を見せてくれ、それからだ……」
ハリーの堪忍袋の尾が切れた。立ち上がって、おじさんに詰めより、今度は自分がテレビを指さした。
「今起きてるこの事件は偶然じゃない。この墜落も、この爆発も、この脱線も、こないだニュースを見てから起きたことは全部そうだ。あちこちで人が行方不明になったり死んだりしてるのも、みんなあいつ、ヴォルデモートのせいなんだ。何度も言ったじゃないか。あいつはマグルを殺すのが楽しいんだ。霧だってそうだ。あれはディメンターがおこしてるんだ。何のことか思い出せなかったら、あんたの息子に聞いてみたらいい!」
ダドリーははっとして両手で口を覆った。両親とハリーが彼を見た。ゆっくりと手を下ろすと、ダドリーは訊ねた。
「あれがもっと……他にもいるのか?」
「他にも?」ハリーは笑った。
「あんたを襲った二人の他にも、ってこと? もちろんさ、何百だっている。今頃は何千かも知れない、やつらは恐怖と絶望が好きだから」
「分かった、分かった」バーノン・ダーズリーが空威張りをあげた。
「お前の言うとおりだ」
「そうだと良いんだけど。」とハリー。
「だってぼくが十七歳になったら、デスイーターも、ディメンターも、たぶんインフェリも、インフェリっていうのは闇の魔法使いが操っている死体のことだけど、こいつら全部がやってきてお前たちを襲うんだ。そうなったら、自分たちに助けが必要だって嫌でも認めるようになる」
一瞬の沈黙。その昔にハグリッドが玄関の木製ドアをガンガンと叩いた音が蘇ってきた。ペチュニアおばさんはバーノンおじさんを見た。ダドリーはハリーを見つめた。ついにバーノンおじさんがぎごちなく口を開いた。
「でも、わしの仕事はどうなる? ダドリーの学校はどうするんだ? お前ら怠け者の魔法使い連中には知ったこっちゃないのかもしれんが」
「まだ分からないの?」とハリーは叫んだ。
「あんたたちを死ぬまで拷問するんだ! 僕の両親がそうされたように!」
「パパ」ダドリーが大きな声で話し始めた。
「パパ、僕は騎士団と一緒に行くよ」
「ダドリー」ハリーが言った。「生まれて初めてまともなことを言ったよ」
彼は言い争いに勝ったことを悟った。ダドリーが怖がって騎士団の助けを求めるのなら、おじさんおばさんも一緒に行くはずだ。彼らがダドリー坊やと別れるはずがない。ハリーは暖炉の上の旅行用時計をちらっと見た。
「あと五分くらいでここに来るよ」彼は言ったが、ダーズリー家の誰も返事をしなかったので、部屋の外に出た。これからやってくるダーズリー家、おばさんと、おじさんと、そして従兄弟との別れ(おそらく永遠の)は、もっと喜んだっておかしくない出来事だ。けれども、ある種の気まずい雰囲気がただよっていた。十六年間も、毛嫌いしあった挙句、お互いに何と言ったらいいのだろう?
寝室に戻り、ハリーはリュックサックを所在なげにいじくり回した。そして、ヘドウィグに向かって籠のすきまからフクロウ用の木の実を二つ差し込んだ。鈍い音をたてて底に落ちたけれど、ヘドウィグは知らんぷりを決め込んでいた。
「すぐに出かけるよ。すぐにだ」ハリーは彼女に話しかけた。「そしたらまた外に出してあげるよ」
玄関のベルが鳴った。ハリーは一瞬躊躇ってから、部屋を出て階段を下り始めた。ヘスチアとディダラスだけでダーズリー家とやり合うのは大変だ。
「ハリー・ポッター!」キーキー声が響いた。ハリーがドアを開けると、薄紫色の帽子をかぶった小さな男が深く頭を下げた。
「お会いできて光栄です!」
「ありがとう、ディダラス」と言いながら、ハリーは困惑したように黒髪のヘスチアに向かって微笑んだ。
「引き受けてくれてありがとう。彼らは向こうにいるよ、僕のおばさん、おじさんと従兄弟だけど……」
「御機嫌よう、ハリー・ポッターの親戚の皆々様!」とにこやかに挨拶しながら、ディダラスが部屋の中に入っていった。こう話しかけられても、ダーズリー家はまったくうれしそうに見えなかった。ハリーは、また気が変わるのではないかと半ば予想していた。魔女と魔法使いの姿を見て、ダドリーは母親の近くに身を縮めた。
「荷物の準備は整ったようでございますね。結構! ハリーが言ったとおり、簡単な計画でございます」こう言うと、ディダラスはウェストコートから巨大な懐中時計を取り出して時間を確かめた。
「我々は、ハリーより先に出発します。お宅で魔法を使うのは危険なためです。ハリーはまだ未成年なので、もし、この家で魔法を使うと、魔法省に彼を検挙する理由を与えることになりますから、我々は車で行きます。そう、十マイルかそこら、そこで、あなたがたのために選んだ安全な場所まで姿くらましをします。あなたは、車の運転ができますでしょうか? 私が運転いたしましょうか?」
彼は礼儀正しくバーノンおじさんに尋ねた。
「何を知ってるかだと? もちろんわし運転の仕方をよおく知っているとも!」バーノンおじさんがつばを撒き散らかす。
「器用でございますね、たいへん器用だ。私個人は、そういう押しボタンとかレバーとかまったく煙に巻かれてしまうのですよ」とディダラス。彼は彼なりにバーノン・ダーズリーに対してお世辞を言ってるのだけれども、ディ
ダラスが喋れば喋るほど、彼に対するダーズリーの信頼感は明らかに失われていった。
「運転も出来んのか」ぶつぶつと呟きながら怒りで口髭を震わせたが、幸いなことにディダラスもヘスチアも彼の言葉が聞こえなかったようだった。
「ハリー、君は」ディダラスが続けた。「護衛が来るまで、ここで待つんだ。計画に少し変更があって――」
「どういうこと?」ハリーがすぐに言った。
「マッド・アイが来てくれて一緒に『姿あらわし』で連れて行ってくれるんじゃなかったの?」
「できなくなったの」とヘスチアが簡潔に言った。「マッド・アイが説明するわ」
ダーズリー家は、まったく分からないという表情でこれらの会話を聞いていたが、「急げ!」という大きな金切り声が聞こえたので飛びあがった。ハリーは部屋中を見回した後、ようやくこの叫び声がディダラスの懐中時計によるものだと分かった。
「まったくそのとおり。私たちにはのんびりしている時間はないのです」
ディダラスは時計を見て頷くと、ウェストコートに押し込んだ。
「私たちはこれから君の家族をこの家から姿くらましをする時間を決めてある、ハリー。そうして家族全員が安全な場所めざして出発した瞬間に呪文が破れるんだ」彼はダーズリー家に顔を向けた。「ええと、みなさん、荷物は準備万端ですか?」
誰も何も答えなかった。バーノンおじさんはぞっとしたような顔つきで、ディダラスのウェストコートのポケットの膨らみを見つめていた。
「私たち、玄関で待っていた方がいいんじゃない、ディダルス」とヘスチアがささやいた。彼女が、ハリーとダーズリー家が、愛情あふれる、きっと涙ながらの別れを交わす間、部屋に残っているのは気が利かないと感じておるのは明らかだった。
「その必要はないよ」ハリーがぼそっと呟く。バーノンおじさんは、大きな声で「ええと、これで別れだ、じゃあ、お前」と言って、それ以上の不必要な説明をしなかった。
彼はハリーと握手をしようと右手を上げたけれど、どうしても向き合うことが出来なかったようで、途中でこぶしを握りしめ、メトロノームのように腕を前後に揺らし始めた。
「ダドリーちゃん、大丈夫?」とペチュニアおばさんが尋ねた。ハリーまともに顔を合わせられないため、ハンドバックの留め金を騒々しく開けたり締めたりしていた。
ダドリーは答えずに、口を少しぽかんと開けてそこに立っていた。ちょっとグロウプに似ているとハリーは思った。
「じゃあ、行こうか」とバーノンおじさんが言った。彼が居間を出ようとしたとき、ダドリーがもぐもぐつぶやいた。「分からないよ」
「ポプキンちゃん、どうしたの?」とペチュニアおばさんが尋ねた。
ダドリーは大きなハムのような手をハリーに向けて言った。
「どうしてハリーも一緒じゃないの」
バーノンおじさんとペチュニアおばさんは固まった。ダドリーが突然バレリーナになりたいなんて言い出したら、きっと同じように固まったことだろう。
「何?」バーノンおじさんの大きな声。
「どうしてあいつが一緒に来ないんだよ」とダドリーが繰り返す。
「それはな、あいつが来たくないって言い張るからだ」バーノンおじさんは振り返り、ハリーを睨みつけながら言った。
「そうだろ!」
「これっぽちも」とハリーが言った。
「ほら。もう行くぞ!」バーノンおじさんがダドリーをせかす。
彼は部屋からさっさと出て行ったが、ダドリーは動かなかった。ペチュニアおばさんは数歩よろよろと歩いてから足を止めた。
「どうした!」バーノンおじさんが戸口にまた現れて、吼える。。
ダドリーは、言葉にするには難しすぎる内容を言い現そうとしているようにみえた。数分間、自分の中で苦闘したあげく、彼は言った。
「だけど、あいつはどこに行くの?」
ペチュニアおばさんとバーノンおじさんは顔を見合わせた。ダドリーが魔法使いを恐れているのは明らかだった。ヘスチア・ジョーンズが沈黙を破った。
「でも……もちろんあなたは知ってるわよね?」彼女は当惑しているようだった。
「もちろんさ」とバーノン・ダーズリー。
「お前らの仲間の連中といっしょに? ほらダドリー、行くぞ! あいつの言うことを聞いただろ? わしらは時間が無いんだ」
バーノン・ダーズリーは再び歩き始め、家を出ようとしたけれど、ダドリーは動かなかった。
「私たちの仲間の連中といっしょに行く?」
ヘスチアの言葉には激しい怒りが込められていた。前にもこんなことがあった。あの有名なハリー・ポッターが親戚から冷たくあしらわれていることを知ると、魔法使いや魔女たちはいつでもびっくりするのだ。
「いいんだ」ハリーは彼女に請けあった。「正直言って、どうでもいいから」
「どうでもいい、ですって?」ヘスチアの声は不吉な調子でかん高くなった。
「この人たちはあなたがどんなに苦労しているか気が付いていないの? どんな危険が迫っているか、ヴォルデモートと戦う上でどんなに重要な役割を果たしているか、何にも知らないの?」
「うーん、知らないと思う。あいつらはぼくのことを場所の無駄使いだって思っているんだ。まあでも、もう慣れちゃっているから、」
「僕はお前を場所の無駄使いなんて思っちゃいない」
信じられない言葉がダドリーの口から聞こえてきた。これが本当に彼の従兄弟のセリフなんだろうか? ハリーはしばらくダドリーのことを見つめた。しゃべったのは確かに自分のいとこだということを受け入れずにはいられなかった。一つには、ダドリーが真っ赤になったからだ。ハリーは、困惑し、飛び上がるほどに驚いた。
「ええと……あの……ありがと、ダドリー」
ダドリーは再び自分の気持ちと葛藤してから、口ごもるように言った。
「僕の命を救ってくれた」
「『魂』の方が正確かな。ディメンターは人の魂を奪うんだ。」
ハリーは不思議そうに従兄弟を見た。この夏彼らは、文字どおり一度も顔を合わせたことがなかった。ハリーはほんの少しの間しかプリベット通りに戻らなかったし、その間はずっと部屋にこもっていたからだ。いま分かった。今朝踏みつけてしまった冷たい紅茶の入ったティーカップは、ダドリーのいたずらでは無かったのだ。ハリーはかなり心を動かされたが、同時に、これだけ喋るのに頑張りすぎてダドリーはきっと疲れ果てているだろうな、とも思った。さらに一度か二度、口を開いたあと、ダドリーは静かになった。顔は真っ赤なままだ。
突然ペチュニアおばさんが泣き出し、ダドリーに駆け寄って抱きしめた。その様子を、ヘスチア・ジョーンズが満足げに眺めていたが、ペチュニアおばさんが、前方に走っていってハリーでなくダドリーを抱きしめたので、その表情は激怒に変わった。
「ダドリーちゃんは優しいのねえ。」彼女は巨大な胸板の中ですすり泣いた。
「と、と、とてもいい子なのねえ……か、か、感謝してあげるなんて」
「でも彼は感謝の言葉を一言も口にしてないわ。」とヘスチアが憤然と声を張り上げた。
「彼はハリーを場所の無駄使いとは思わないって言っただけでしょ!」
「まあそうだけど、ダドリーにしてみれば『大好き』と同じくらいの意味なんだ」とハリーが、苛立ちと笑いたい気持ちとに引きさかれながら言った。その間、ペチュニアおばさんは、ずっとダドリーを抱きしめていた。彼が、ハリーをたった今、燃えさかるビルから助け出したとでも言うように。
「行くのか行かないのか?」とバーノンおじさんが、また居間の戸口にあらわれて、怒鳴った。「我々は、時間に余裕のない予定をこなすのだと思っていたが!」
「そう、その通り、時間がありません」
ディダラス・ディグルはハリーたちのやり取りに困惑していたが、ようやく我に返ったようだった。
「ハリー、私たちは急がなければ」
彼は近寄よると、両手でハリーの手をぎゅっと掴んだ。
「幸運を祈る。また会える日を楽しみにしている。魔法界の未来は君の双肩にかかっているのだから」
「うん、そうだね。ありがとう」ハリーが言った。
「さようなら、ハリー」ヘスチアも彼の手をしっかりと握りしめた。
「私たちの思いはあなたと一緒にあるわ。」
「上手くいくといいんだけどね」ハリーはペチュニアおばさんとダドリーをちらと見やりながら言った。
「ああ、きっと最後には、親友同士になっていると思うよ」
陽気に言ってから、軽く帽子を振り、ディグルは部屋を出て行った。そしてヘスチアが続いた。
ダドリーはそっと母親を引き離すと、ハリーに向かって歩き始めた。ハリーは魔法で追い払おうとする衝動を抑えた。するとダドリーは、大きなピンク色の手を差し出した。
「ダドリー、どうしたんだよ!」ハリーが言った。ペチュニアおばさんは新たにすすり泣きを始めた。
「ディメンターに君に違った性格を吹きこんだの?」
「さあね」ダドリーが呟く。「さよなら、ハリー」
「うん……」ハリーはダドリーの握手を受ける。「そうだよ。元気でね、ビッグ・ディー」
ダドリーの顔がかすかにほころんだ。二人はドタドタと部屋を出て行った。ハリーはダドリーの大きな足音が砂利道を進むのを聞いていた。最後に、車のドアがバタンと閉まる音を聞いた。ペチュニアおばさんはハンカチーフに顔を埋めていたのだけど、物音を聞いてはっと辺りを見回した。彼女はハリーと二人きりになるとは思ってもいなかったようだ。涙でぐしょぐしょになったハンカチーフをさっとポケットにしまうと、「さよなら」とだけ言い残して、振り返りもせずに部屋を出て行こうとした。
「さようなら。」とハリーが言った。
彼女は立ちどまって振り返った。少しの間、ハリーは、たいそうおかしなことだが、彼女が何かを言いたがっているような気がした。彼女は、奇妙な、びくびくしているような視線を投げて、今にも話しだしそうに見えた。けれどそれから頭をぐいっと小さくふって、夫と息子の後を追って、早足で部屋を出ていった。
第4章 7人のポッター
The Seven Potters
ハリーは階段を駆け上がって部屋に戻った。窓から外を見ると、ダーズリー家の車がちょうど外の道路に出て行くところだった。ディダラスのとんがり帽子が後部座席、ペチュニアおばさんとダドリーの間に見えた。車はプリベット通りの端を右に曲がり、一瞬ウィンドーに夕日を照らしたかと思ったら、遠くに去って行った。
ハリーは、ヘドウィグのケージ、ファイアーボルト、そしてリュックサックを掴んだ。不自然なくらいに片付いている部屋に最後の一瞥を与えると、ガタガタしながら階段を下りた。そして、ケージとほうきとリュックサックを階段のすぐ下に置いた。夕陽はすぐに消え去り、廊下は夕方の暗闇で覆われた。ついにこの家を出て行く瞬間が近付いたと思うと、不思議な感じがしてきた。その昔、ダーズリー家が遊びに出かけ、ハリーが一人で残されたことがあった。その時は、一人でいられるのがとてもあり難かった。冷蔵庫の中のご馳走を盗み見したり、ダドリーのパソコンで遊んだり、好きなTVを見たり。あの頃のことを思い出すと、何だか心が虚ろになってくる。まるで、いなくなった弟のことを思い出しているかのようだ。
「あの場所を最後に見てみない?」まだ拗ねて翼の下に頭を埋めているヘドウィグに向かって話しかけた。
「もうここには戻って来れないんだ。楽しかった時のことを思い出さない? 例えばさ、ドアマットを見てごらん。ダドリーをディメンターから助けてあげた後、ダドリーが吐いて……で、あいつ、そのことを感謝してるんだ。信じられるかい? そして去年、ダンブルドアが玄関から入って来て……」
彼は一瞬言葉を失った。ヘドウィグは、話を続ける手助けはしてくれず、相かわらず頭を羽の下に埋めていた。ハリーは玄関に背を向けた。
「そしてこの下さ、ヘドウィグ」ハリーは階段の下にある部屋のドアを開けた。
「こんな所に寝てたんだ! あの頃まだお前はいなかったよなあ。うわあ、こんなに狭かったんだ……忘れてたよ」
ハリーは積み重ねられた靴やカサを見回しながら、毎朝目を覚まして階段の裏側にいる蜘蛛の巣を眺めていたことを思い出していた。あの頃、彼はまだ自分自身が誰であるかを知らず、両親がどうして死んだのか、何で身の回りで変なことが起こるのか、ぜんぜん理解していなかった。でも、大きくなってからも忘れられない夢が幾つかある。緑色の閃光がきらめく夢、バーノンおじさんの運転する車が空飛ぶオートバイと衝突しそうになる夢……
突然、耳をつんざくような轟音が近くで響いた。ハリーははっとして立ち上がり、低いドア枠に頭をぶつけてしまった。バーノンおじさんのような悪態をつくと、彼はふらふらしながらキッチンに戻り、頭を抱えながら窓から裏庭を見た。暗闇が波打ち、空気が震えた。周りの風景に溶け込む目くらましの魔法が解けると、一人また一人と人影が現れた。幅を取っているのはハグリットで、ヘルメットとゴーグルをしており、黒いサイドカーが付いている巨大なオートバイにまたがっていた。彼の周りの人間はほうきから下りた。黒い羽の生えた馬、スケルタルでやってきた者も二人いた。裏口を開けるやいなや、ハリーは彼らの中に突進して行った。たくさんの歓声があがった。ハーマイオニーはハリーを抱きしめ、ロンは背中を叩いた。
「よおハリー、準備はええが?」とハグリッド。
「もちろん!」とハリー。
そして、全員を見回しながら言った。
「こんなにたくさんで来るとは思わなかったよ。」
「計画が変わったんだ」マッド・アイがうなった。彼はまん丸に膨らんだ巨大な袋を二つぶら下げていた。例の魔法の目は、夜の空や家や庭の間をぐるぐると回っていた。
「人目につかないところに行って、すべて話そう」
ハリーは皆をつれて台所に戻った。そして、笑ったりしゃべったりしながら、椅子や、ペチュニアおばさんがぴかぴかに磨いた流し台に座ったり、シミひとつない電化製品にもたれたりした。ロンは、背が高くひょろひょろで、ハーマイオニーは、もしゃもしゃの毛を後ろで一つにまとめて長い三つあみにしていて、フレッドとジョージは、まったく同じ顔でにやにや笑い、ビルは、長髪で、ひどく傷だらけの顔をしていて、ウィーズリー氏は、はげ頭で優しそうな顔で、眼鏡を少しゆがんでかけていて、マッド・アイは、いくさに疲れ片足で、輝く青の魔法の目が眼窩(がんか)の中ですばやく動き、トンクスは、短い髪をお気に入りの鮮やかなピンク色にしていて、ルーピンは、前より白髪も、しわも増え、フラーは、長い、輝く銀色の髪で、ほっそりとして美しく、キングズリーは、はげ頭で、黒く、肩幅が広く、ハグリッドは、もじゃもじゃの髪とあごひげで、天井に頭を打たないように背中を丸めて立っていて、マンダンガス・フレッチャーは、沈んだハウンド犬のような垂れた目と、もつれた髪で小柄できたなく後ろめたい顔つきをしていた。ハリーは、この光景を見て、心臓が大きくなって輝くような気がした。信じられないほど、ここにいるみんなが好きだった。ハリーが、こないだ会ったとき、首を絞めようとしたマンダンガスでさえ。
「キングズリー、マグルの首相の面倒をみなくていいの?」部屋の向こう側に呼びかけた。
「彼は一晩くらい、私がいなくてもやっていけるさ」とキングズリーが言った。「君の方が大事だ」
「ハリー、当ててみて」と、洗濯機の上にちょこんと腰をかけていたトンクスが言った。そして左手を彼に向かってくねらせた。そこには指輪がきらめいていた。
「あなたたち結婚したの?」ハリーは叫び声を上げて、彼女からルーピンへと目をやった。
「あなたが式に出られなくて残念だったわ。とてもひっそりだったから」
「それは、すごい、おめで――」
「もういい、もういい、楽しい打ち明け話はおあずけだ!」
ルーピンが、どよめきを上まわる声でどなったので、場が静まった。ムーディは、袋を足下にどさっと置き、ハリーの方を向いた。
「ディダルスがきっと話していると思うが、我々は、プランAをあきらめた。ピアス・シックネスが寝がえったからな。そいつは大きな問題だ。この家を暖炉移動ネットワークに接続してに接続したり、ここにポートキーを置いたり、ここに姿あらわししたり、ここから姿くらまししたら罪になって投獄されると決めたのだ。全ては「例のあの人」が君に手を伸ばすのを妨げるためという、君の保護の名目で行われた。君の母上の呪文で、すでに保護されているのが分かっているのだから、まったくの的はずれだ。真の狙いは、君がここから安全に出ることを止めることだ」
「それだけじゃない。君は未成年だから、つまり、まだ『跡』が残っている」
「それは――」
「跡だ、跡!」とマッド・アイが、苛々して言った。「十七才未満の魔法行為を見つけだす呪文、魔法省が未成年の魔法を見つけだす方法だ! もし、君か、君のまわりの人間が、君をここから出す呪文をかけたら、シックネスにはそれが分かることになっている。そしてデス・イーターにも分かるわけだ。
「だが、跡がなくなるのを待ってはいられない。君が十七才になったとたん、母上が与えた防御をすべて失う。手短に言えば、ピアス・シックネスは、君を巧みに適切に追いつめたと考えているのだ」
ハリーは、見知らぬシックネスに同意するしかなかった。
「で、今からどうするつもりなの?」
「残された移動手段を使うしかない。魔法をかける必要がなく使えるから、跡がつかない手段のみ、すなわち、箒、セストラル、ハグリッドのオートバイだ」
ハリーは、この計画の欠陥が分かった。しかし、マッド・アイが、それを言うだろうと思って、何も言わずにいた。
「さて、母上の呪文は、二つの状況でのみ破れる。君が成人するか、または――」ムーディは汚れのない台所を手で指ししめした。「君がもはやこの場所を家と呼ばないときだ。今夜、二度といっしょに住むことはないと完全に了解して、君と、君のおじおばは、別々の道を行こうとしている、そうだな?」
ハリーは頷いた。
「そこで今回、君が二度と戻ることがなく、ここを去るならば、君が、ここの敷地を出た瞬間、呪文は解ける。我々は、早めに魔法を破ることを選んだ。なぜなら、君が十七になったとたん、「例のあの人」が捕まえにやってくるという、別の可能性もあるからだ」
「一つ、我々に有利な点は、例のあの人は、今夜、君を移動させることを知らないことだ。魔法省に、偽の情報を流したのだ。彼らは三十日まで、出発しないと思っている。しかし、相手は、例のあの人だ。奴が、日にちをまちがえていると、単純に信じこんではいけない。念のため、ここらあたり一帯の空をデス・イーター数人に見まわらせているにちがいない。そこで、我々は、十二軒の家に、できる限りの防御策を講じた。それらは皆、君をかくまう場所のように見える。騎士団に何らかのつながりがある家ばかりなのだ。キングズリーの家、モリーのミュリエルおばの家、だいたい分かったかな」
「ええ」とハリーは言ったが、完全に本心からではなかった。その計画に大きな欠陥があると分かっていたからだ。
「君は、トンクスの両親の家に行くことになっている。一旦、我々がかけた防御の呪文の境界内に君が入れば、ポートキーを使って『隠れ家』へ行くことができる。質問はあるか?」
「あの――あるよ」とハリーが言った。「その十二軒の安全な家のうち、僕がどこをめざすか、最初は分からなくても、すぐに見つかったりするんじゃない、もし――」彼は、さっと頭数を数えた。「僕達十四人が、トンクスの両親の家へ飛んだら?」
「ああ」とムーディが言った。肝心な点を言うのを忘れていた。我々十四人が、トンクスの両親の家に飛ぶわけではない。今夜は、七人のハリー・ポッターが空を飛ぶのだ。それぞれに連れがいる。それぞれの一組が、それぞれ別の家をめざすのだ」
マントの内側から、ムーディが泥のようなものが入った小さなガラス瓶を取りだした。それ以上聞かなくても、ハリーは、その計画の残りの部分がすぐに分かった。
「だめだ!」彼は大声で言った。その声は台所中に鳴りひびいた。
「とんでもない!」
「私は、あなたが、そういう風に受けとるだろうって、みんなに言ったわ」とハーマイオニーが、ちらっと自己満足の感じをただよわせて言った。
「もし僕が、六人の命を危険にさらすつもりだと思うのなら――」
「――それは、僕たちみんな初めての経験だね」と、ロンが言った。
「これは違うよ。僕に変装するなんて――」
「俺たちゃ誰も好きでやるんじゃないさ、ハリー」フレッドが真顔で言った。
「想像してみなよ、もし、何かあったら、永久に汚いちっぽけなちりあくたになっちまう」
ハリーは、笑わなかった。
「もし僕が協力しなかったら、君たち、できないよ。僕の髪の毛がいるんだろ」
「うーん、それで計画はおじゃんだ」とジョージが言った。「君が協力してくれなかったら、君の髪の毛を手に入れるチャンスがないのは当たり前さ」
「ああ、俺たち十三人に対して、魔法を使うのを許されてないやつが一人。上手くいく可能性はないな」とフレッドが言った。
「こっけいだ」とハリーが言った。「実に面白いよ」
「もし力づくでも、ということならば、やらざるを得ぬ」とムーディが唸るように言った。ハリーをにらみつけるときに、その魔法の目が眼窩の中で少し震えていた。「ここにいるすべてが大人だ、ポッター、そして皆が危険を覚悟している」
マンダンガスは、肩をすくめてしかめ面をした。魔法の目が、横に飛びだし、ムーディの顔の横から、彼をにらみつけた。
「これ以上、言いあいは聞きたくない。時間が無駄に過ぎている。君の髪の毛を数本欲しいのだ、さあ」
「間違ってるよ、こんなことしなくたって、」
「こんなことしなくたって?」とムーディが噛み付いた。「例のあの人が世に出て、魔法省の半数が味方していてもか? ポッター、もし、我々が幸運なら、やつは偽の餌を飲みこみ、三十日に君を待ちぶせして襲う計画を立てているだろう。だが、デス・イーターの一人や二人に見はらせておかないはずがない。私なら、見はりを立てるだろう。やつらは、君の母上の呪文が効いているあいだは、君や、この家を襲うことはできないかもしれないが、呪文は、まさに破れようとしているし、そうなれば、やつらは、ここのだいたいの位置が分かる。我々が成功する唯一の可能性は、おとりを使うことだ。例のあの人でさえ、自分を七分割はできまい」
ハリーは、ハーマイオニーと目が合って、すぐにそらせた。
「だから、ポッター、ー髪の毛を数本、さあ」
ハリーは、ロンをちらっと見た。ロンは、早くやれよ、というようにしかめっ面をした。
「さあ!」とムーディがどなった。
全員の目がハリーに注がれた。ハリーは頭の上に手をやって、一束の毛を引きぬいた。
「よかろう」とムーディが言って、脚を引きずりながら出てきて、魔法薬のガラス瓶の栓を抜いた。「直接ここに、さあ」
ハリーは髪の毛を、泥の色の液体の中に落とした。薬の表面に、髪の毛が触れたとたん、魔法薬は泡立ち、それから煙が出た。それからすぐに澄んだ輝く金色に変わった。
「まあ、あなたのはクラッブやゴイルのよりずっとおいしそうね、ハリー」とハーマイオニーが言った。それから、ロンが眉を上げたのに気がついて、少し赤面して言った。「あ、ほら、――ゴイルの魔法薬は鼻クソみたいだったってこと」
「よし、それでは偽のポッターたちはここに一列に並んでくれ」とムーディが言った。
ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージ、フラーが、ペチュニアおばさんのぴかぴかの流しの前に一列に並んだ。
「一人足りないぞ」と、ルーピンが言った。
「ここだ」とハグリッドがぶっきらぼうに言いながら、マンダンガスの襟首をつかんで持ち上げ、フラーの横に落とした。フラーは、ひどく鼻にしわを寄せ、代わりにフレッドとジョージの間に入った。
「言っただろ。俺は、前は護衛の役だった」とマンダンガスが言った。
「黙れ」とムーディがうなった。「先に言っておいたように、お前、意気地なしの虫けらめ、我々が出くわす、どんなデス・イーターもポッターを捕まえようとするが、殺しはせぬ。ダンブルドアは、例のあの人はポッターを直々に破滅させようと望んでいるといつも言っていた。デス・イーターが自分を殺すのではないかと最も心配せねばならんのは、護衛の方だ」
マンダンガスは、特に安心したようには見えなかったが、ムーディはもうマントの内側から卵くらいの大きさのガラスのコップを六個取りだし、配ってから、めいめいにポリジュース薬を、少しずつ注いだ。
「せーのっ」
ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージ、フラー、それにマンダンガスが飲んだ。魔法薬が、のどに当たったとき、全員があえぎ、しかめ面をした。まもなく顔が、ぶくぶくふくれ、熱い蝋のように、ゆがみはじめた。ハーマイオニーとマンダンガスは上の方にシューッと伸びた。ロンとフレッドとジョージは縮んで、髪の毛の色が暗くなり、ハーマイオニーとフラーの髪は頭蓋骨の中に縮んだようにみえた。
ムーディは、まったく無関心で、持ってきた大きな袋のひもをほどいていた。彼が、また立ち上がったとき、目の前には、あえぎ、息を切らした六人のハリー・ポッターがいた。
フレッドとジョージは、互いの方を向いて、いっしょに言った。「わーっ、俺たち、そっくり!」
「どうかな、でも、俺の方がハンサムだと思うな」とフレッドが、やかんに映った自分の姿をよく見ながら言った。、
「ふん!」とフラーが、電子レンジの扉に映った自分の姿を見ながら言った「ビル、あたしを見ないで――おっそろしく不細工だから」
「着ている服が、ぶかぶかな者は、小さいのを持ってきた」と、ムーディが言いながら、一つめの袋を指した。「そして、反対に小さすぎる者も同様だ。眼鏡を忘れるな。袋の横のポケットに六個入っている。着がえたら、もう一方の袋に荷物がある」
本物のハリーは、これは、今までに経験したうちで最高に奇妙なことだと思ったし、突拍子もない光景も見た。六人の彼の分身が、袋の中をごそごそ探って服を出し眼鏡をかけ、自分が着ていたものをしまったのだ。みんなは着替える際、彼らは平気で裸になっていた。借り物の体だから気にならないのだ。ハリーは、もう少し配慮してくれればいいのにと思った。
「このタトゥー、ジニーはやっぱり嘘ついてたな」と、ロンが自分の裸の胸を見おろしながら言った。
「ハリー、あなたの視力ってものすごく悪いのね」と、ハーマイオニーが、眼鏡をかけたときに言った。
服を着てしまうと、偽のハリーたちは、二番目の袋からリュックと、ぬいぐるみのふくろうが入った籠を手に持った。
とうとう、着替えて眼鏡をかけ荷物をしょった七人のハリーたちが、こちらを向くと、「よし」とムーディが言った。「組み分けは、次のようだ。マンダンガスは、私と箒で行く――」
「なんで、俺があんたと行くんだい?」と裏口のドアの近くにいるハリーが、ぶつくさ言った。
「お前は、監視を要するやつだからだ」とムーディが、がみがみ言った。そして確かに、彼が話しつづけたときも、その魔法の目はマンダンガスから、逸れることはなかった。「アーサーとフレッド――」
「俺はジョージ」とムーディが指した双子の片割れが言った。「僕らが、ハリーになっても見分けがつかないの?」
「すまん、ジョージ――」
「かついだだけだよ、俺ほんとはフレッド――」
「いい加減にしろっ!」とムーディが歯をむいてどなった。「双子のもう一方は――ジョージでもフレッドでもいいが、リーマスと組め。ドラクール嬢は――」
「フラーは、僕がセストラルで連れていくよ」とビルが言った。「彼女は、箒が好きじゃないからね」
フラーは、すっと歩いていってビルのそばに立ち、うるんだ頼りきった目つきで彼を見た。ハリーは、そんな表情が二度と自分の顔に浮かんでほしくないと望んだ。
「グレンジャー嬢は、キングズリーと、やはりセストラルで」
ハーマイオニーは、キングズリーのほほえみに、ほほえみ返しながら、ほっとしたように見えた。ハリーは知っていたが、ハーマイオニーも箒には自信がなかったのだ。
「残ったのは私とあなただけね、ロン」トンクスは明るく言うと、ロンに向かって手を振った。
ロンは、ハーマイオニーほど安心してはいないようだった。
「で、お前さんは俺と行く、分かったか?」とハグリッドが、少し心配そうに言った。「俺たちはオートバイで行く。箒やセストラルにゃ、俺が重すぎるだろ。俺とだと、場所がないから、サイドカーに乗ってくれ」
「そいつは、いい」とハリーが言ったが、ロンと同じくあまり信用していないようだった。
「我々の考えでは、デス・イーターは、君が箒で行くと思っている」とムーディが言った。彼は、ハリーがどんなふうに思っているかが分かったようだった。「スネイプには、デス・イーターに、今まで言わなかった君についてのことを話す時間がたっぷりあった。だから、もし、我々が、デス・イーターに出くわせば、やつらは、たくさんのポッターの中から、ぜったいに、いごこちよく箒に乗っているポッターを選ぶだろう。それなら都合がよい」ムーディは続けながら、偽のポッターたちの服が入った袋の口をしばり、ドアの方に先に立って歩いていった。「出発するまでに、三分間置こう。もしデス・イーターが偵察に来ているなら、裏口の鍵をかけても無駄だ……さあ、行こう……」
ハリーは、急いで玄関の間に行ってリュックとファイアーボルトとヘドウィグの籠を取りにいってから、暗い裏庭で他の人たちに追いついた。みんなの片側で、箒が手の中で、ぴょんと飛びはねた。ハーマイオニーはもうキングズリーに助けてもらって、黒く大きなセストラルの背に乗っていた。フラーは、ビルの助けで、もう一頭に乗っていた。ハグリッドは、ゴーグルをかけ、オートバイのそばに立って待っていた。
「これなの? これがシリウスのオートバイなの?」
「まさに、それだよ」とハグリッドが言いながら、ハリーに、にっこり笑いかけた。「で、お前さんが、こないだ、これに乗ったときは、ハリー、片手で抱けたのにな!」
ハリーは、サイドカーに乗りこんだとき、少し恥ずかしいと思わずにはいられなかった。他の人たちより、一メートルばかり低い位置だったのだ。ロンは、遊園地の電気自動車に乗っているようなハリーを見て、にやにや笑った。ハリーは、リュックと箒を足下に押し込み、ヘドウィグの籠を股の間に詰めこんだが、とても、いごこちが悪かった。
「アーサーが、ちいっと、いじくり回したんだ」とハグリッドが言ったが、ハリーの居心地の悪さには、ぜんぜん気づいていなかった。ハグリッドが、オートバイにまたがると、それは、かすかに軋んで、五、六センチ、地面にめりこんだ。「ハンドルにいくつか仕掛けがある。その一つは、俺の思いつきだよ」
彼は、太い指で、速度計の近くの紫色の押しボタンを指さした。
「どうか気をつけて、ハグリッド」とウィーズリー氏が言った。彼は、箒を持って、そばに立っていた。「それが当を得たものかどうか、私はいまだに確信が持てないし、ぜったいに緊急の場合にしか使わないでくれ」
「ようし、それでは」とムーディが言った。「皆、位置について。全員が、ちょうど同じときに出発したい。さもなくば、敵の注意を脇へ逸らす目的自体が、意味を失ってしまう」
全員が箒にまたがった。
「しっかり、つかまって、ロン」とトンクスが言った。そして、ハリーは、ロンが、申しわけなさそうに、こっそりルーピンを見ながら、トンクスの腰に両腕を回すのを見た。ハグリッドが、オートバイを蹴ってエンジンをかけた。それは、ドラゴンのようにうなり、サイドカーが振動しはじめた。
「諸君、幸運を祈る」と、ムーディが叫んだ。「一時間後に、『隠れ家』で会おう。三つ数える。一……二……三」
オートバイから、大きなうなり声があがり、サイドカーが急にひどく傾くのを、ハリーは感じた。彼は、ぐんぐん空中に上った。少し涙が出てきて、髪が後ろになびいた。彼のまわりで、箒たちが同時に舞いあがった。セストラルの長く黒い尾が、ぱしっと一振りして行ってしまった。ハリーの両脚は、ヘドウィグの籠とリュックに押されて、痛くて感覚がなくなりかけていた。あまりに、いごこちが悪かったので、彼はプリベット通り四番地を最後にちらっと見るのを忘れるところだった。サイドカーごしにのぞいたときには、もう、どの家か見分けがつかなかった。そして、どんどん高く空中に上っていった。
突然、どこからともなく、何もないところからあらわれた敵に囲まれた。騎士団の一行が、気づかず空中に舞いあがったとき、少なくとも三十人のフード姿が、空中に浮き、巨大な円をつくって、まわりを取り囲んだ。
叫び声と、あらゆる方向から緑色の一斉砲火が上がった。ハグリッドは叫び声をあげ、オートバイが走った。どちらの方向に走っているのか、ハリーにはさっぱり分からなかった。上に街灯があって、まわりどこからも叫び声が聞こえた。ハリーは必死でサイドカーにしがみついた。ヘドウィグの籠、ファイアーボルト、リュックが、膝の下から滑りおちた。
「だめ――ヘドウィグ!」
箒が、くるくる回って地上に落ちていったが、なんとかリュックのひもと、ヘドウィグの籠のてっぺんをつかんだとき、またオートバイが正しい方角へ舞いあがった。ほっとしたのもつかの間、また緑色の光の一斉砲火。フクロウが、かんだかい声で鳴いて、籠の底に落ちた。
「だ、だめ――!」
オートバイがスピードを上げて突進した。ハグリッドが、デス・イーターたちのつくる輪を突破すると、フードのデス・イーターが散らばっていくのを、ハリーは、ちらっと見た。
「ヘドウィグ――ヘドウィグ――」
しかし、フクロウは、籠の底に、おもちゃのように身動きせず哀れに横たわっていた。ハリーは、それを受けいれることができなかった。そして、他の人たちに対する心配が最高潮に達した。彼は、後ろをちらっとふりかえって、ひとかたまりの人間が動き、緑色の閃光がぱっと上がり、箒に乗った二組が空に舞いあがるのを見たが、それが、誰なのかは分からなかった。
「ハグリッド、戻らなくちゃ、戻らなくちゃ!」ハリーは、雷のようにとどろくエンジンの音より大きな声で怒鳴り、杖を引きだし、ヘドウィグの籠を床の上に押しこんだ。彼はまだ、ふくろうの死を受け入れることができないのだ。
「ハグリッド、方向転換して!」
「俺の仕事は、お前さんを無事に連れてくことだ、ハリー!」と、ハグリッドがどなり、絞り弁を開いた。
「止まって、止まってよ!」ハリーが叫んだ。しかし、彼が、また、振り返ると、緑色の閃光が二本、左耳のそばを飛んでいった。四人のデス・イーターが、輪から離れ、追いかけてきて、ハグリッドの広い背中にねらいを定めていた。ハグリッドは、急に向きを変えたが、デス・イーターはついてきた。呪文が、もっと飛んできたので、ハリーは、避けてサイドカーに身をかがめた。体をもぞもぞ動かしながら、彼は「ストゥーピファイ<失神せよ>」と叫んだ。赤い閃光が、彼の杖の先から飛びだした。追ってくる四人のデス・イーターたちが、それをよけるために、ぱっと両脇にどいた。
「ちょっと待て、ハリー、あれを使うからな」ハグリッドは咆哮を上げると、その太い指で燃料ゲージの上にある緑のボタンを叩いた。壁が、黒くて硬い壁が、排気マフラーから飛び出した。ハリーは首を伸ばして、それが空中に広がるのを見た。三人のデス・イーターが、ぐいっと急に向きを変え、それを避けた。しかし、四人目はそれほど運がよくなかった。彼は視界から見えなくなり、壁の後ろから、大きな岩のように落ちていったが、その箒は粉々に壊れていた。その後を追ってきたうちの一人が、速度を落とし、彼を助けた。しかし、ハグリッドがハンドルを傾けてスピードを上げた時、彼らと空中の壁は、暗闇にまぎれて見えなくなった。
残りの二人のデス・イーターの杖から、殺人の呪文が放たれ、ハリーのそばを飛びすぎていった。彼らは、ハグリッドをねらっていた。ハリーは、気絶させる呪文を、もっと繰りだして相対した。赤と緑の光が空中で衝突して、様々な色の火花がシャワーのように降り、ハリーは、やみくもに花火の事を思い、下のマグルたちは、何がおこっているのかさっぱり分からないだろうなと思った。
「さあ、またやるぞ、ハリー、つかまれ!」とハグリッドが、どなった。そして二番目の押しボタンをぐいと突いた。今度は、大きな網が、オートバイの排気口から吹きでた。しかし、デス・イーターは、それに備えていた。それを避けるために、ぐいと向きを変えただけでなく、意識を失った友を助けるためにスピードを落とした仲間が追いついてきた。彼は急に暗闇からあらわれ、今や三人がオートバイを追ってきて、呪文を放った。
「これで、うまくいくぞ、ハリー、しっかりつかまってろ!」とハグリッドがどなった。ハリーは、彼が、手のひらで、速度計の横の紫の押しボタンを叩き付けるように押すのを見た。
間違いなくドラゴンと分かる大きな吠えるような声をあげて、白熱と青のドラゴンの火が、排出口から吹きだした。オートバイは、金属をねじるような音を立て、弾丸のように突進した。ハリーは、デス・イーターが、致死の炎にあとを追われるのを避け、急に向きを変えて見えなくなったのが分かった。同時に、サイドカーが不気味にぐらつき、オートバイ本体との接続部分が加速の力で裂けてしまった。
「だいじょぶだ、ハリー!」とハグリッドがどなったが、スピードを上げるので、背中をうつぶせに倒していた。誰も先にいなかった。サイドカーは、オートバイ本体のつくる空気の流れの圧力で、激しくゆがみはじめた。
「俺が、やる、ハリー、心配すんな!」ハグリッドが叫んで、上着のポケットからピンクの花柄の傘を引っぱりだした。
「ハグリッド、だめ、僕にやらせて!」
「レパロ<直れ>!」
耳をつんざくようなドンという音がして、サイドカーが本体から完全に離れた。ハリーの乗ったサイドカーは、オートバイが飛ぶ勢いを受けて前方に飛びだし、それから落ちはじめた。
やけっぱちで、ハリーは杖をサイドカーに向け叫んだ、「ウィンガーディアム・レビオーサ<浮け>!」
サイドカーはコルクのように浮かんだ、方向は定まらないが、少なくとも浮いていた。しかし、ほんの一瞬ほっとしたのもつかの間、呪文が、ハリーの横を矢のように通りすぎていった。三人のデス・イーターが迫ってきた。
「今行くぞ、ハリー!」ハグリッドが暗闇の向こうから叫んだ。しかし、ハリーは、サイドカーがまた落ちはじめたのを感じた。できるだけ低く身をかがめて、ハリーは近づいてくるうち真ん中の姿に杖を向けて叫んだ。「インペディメンタ<動きを止めよ>!」
その呪文は、真ん中のデス・イーターの胸に当たった。一瞬、その男は、見えない障壁にぶつかったように、空中にぶざまに大の字に手足を伸ばした。仲間の一人が、それに衝突しそうになった。
そのとき、サイドカーが本格的に落ちはじめた。残ったデス・イーターがハリーのとても近くに呪文を放ったので、車の縁の下に首をすくめなくてはならず、シートのへりで、したたかに打って歯が折れた。
「今行くぞ、ハリー、今行くぞ!」
巨大な手が、ハリーのローブの後ろをつかみ、急落するサイドカーから持ち上げた。ハリーが、リュックも引っぱり上げて、オートバイのシートの上にやっと座ると、ハグリッドと背中合わせになっていた。二人が、残りのデス・イーターから離れて上方に舞いあがったとき、ハリーは血をペッと吐き出し、落ちていくサイドカーに向かって杖を向けて叫んだ。「コンフリンゴ<潰せ>!」
それが爆発したとき、彼は、ヘドウィグのために恐ろしく胸がつぶれるような悲しみを味わった。その近くにいたデス・イーターは箒から吹きとばされ、見えなくなった。仲間が引きかえして姿を消した。
「ハリー、すまん、すまん」ハグリッドがうめいた。「俺が、直そうとしちゃいかんかった――お前さんが座るとこがない」
「そんなこといいから、飛んで!」ハリーが叫びかえした。二人のデス・イーターが暗闇から現れ近づいてきた。呪文が、また空間を超えていくつも飛んできたとき、ハグリッドは、ぐいと向きを変え、ジグザグに進んだ。ハリーが、とても危なっかしく座っているので、またドラゴンの火を吹く押しボタンを、ハグリッドが思いきって使えないのが、ハリーには分かっていた。ハリーは追跡者に向かって、気絶させる呪文を次から次へと発したが、かすった。彼は、別の防ぐ呪文を放った。一番近くのデス・イーターが、避けようとしてぐいと曲り、フードが外れた。彼が次の麻痺魔法を放つと、スタンリー・シャンパイクの黒い顔が赤い閃光に浮かび上がった。スタンだ。
「エクスペリアームス<武器よ去れ>!」ハリーが叫んだ。
「それだ、それだ、それが本物だ!」
フードのデス・イーターの声が、オートバイのエンジン音のとどろきをこえて、ハリーに聞こえた。次の瞬間、二人のデス・イーターは引きかえして姿が見えなくなった。
「ハリー、どうしたんだ」とハグリッドが怒鳴った。「やつらはどこへ行ったんだ?」
「知らないよ!」
けれど、ハリーは恐れていた。フードのデス・イーターは「それが本物だ!」と叫んだ。どうして分かったのだろう? 彼は、危険を感じて何もないように見えるまわりの暗闇を眺めまわした。彼らはどこだ?
それから、シートの上でもぞもぞと向きを変え、前を向いて、ハグリッドの上着の後ろをつかんだ。
「ハグリッド、ドラゴンの火を、もう一回吹かせて、ここから逃げよう!」
「しっかりつかまれ、行くぞ、ハリー!」
耳をつんざく、かんだかい吠えるような声がまたあがり、青と白の炎が排気口から吹きだした。ハリーは、ほんの少しの自分の居場所から後ろに滑りおちていった。ハグリッドが、やっとハンドルを握るくらい後ろにのけぞって何とかハリーを助けた。
「やつらを、振り切ったんじゃないか、ハリー、やったぞ!」とハグリッドが叫んだ。
けれどハリーには、その確信が持てなかった。追っ手が来るはずだと左右を見まわしながら、恐怖に包まれていた……なぜ彼らは退却したんだろう……それだ、それが本物だ……彼らは、ハリーがスタンの武器を取りさろうとしたすぐ後で、確かにそう言った……
「もうそこだ、ハリー、もうすぐ、やり遂げるぞ!」とハグリッドが叫んだ。
ハリーは、オートバイが少し高度を下げるのを感じた。地上の明かりはまだ遠くの星のように遠かった。
そのとき額の傷が、炎が焼けつくように痛んだ。デス・イーターがオートバイの両側にあらわれた。死の呪文が、ハリーから数ミリ逸れて、後ろへ飛んでいった。
そして、ハリーは、ヴォルデモートを見た。彼は、箒もセストラルもないのに風に乗る煙のように飛んでいた。蛇を思わせる顔が暗闇から輝き、白い指が、また杖を上げた。
ハグリッドが恐怖の叫び声をあげ、オートバイの向きを変えて、垂直に突っこんでいった。ハリーは、死にものぐるいで、掴まりながら、渦巻く夜の中に、めくらめっぽうに気絶させる呪文を放った。体が自分の横を通っていったのを見て、呪文の一つが当たったのが分かった。けれどそのとき、ドンという音が聞こえエンジンから火花が散った。オートバイは完全に制御を失ってきりもみ状態で墜落していった。
緑色の閃光が、再び二人のそばを通りすぎた。ハリーには、どちらが空でどちらが地なのかさっぱり分からなかった。傷跡はまだ焼けつくように痛んだ。いまにも死ぬのだと思った。箒に乗ったフードの人影がすぐ側にあり、その腕を持ち上げた。
「だめだ!」
憤激の叫びをあげて、ハグリッドが、デス・イーターめがけてオートバイから飛びだした。ぞっとしたことには、ハグリッドとデス・イーターの両方が、一本の箒では重すぎて支えきれず、落ちていって見えなくなった、ー
急落するオートバイを、やっとのことで膝で挟みながら、ハリーはヴォルデモートが叫ぶのを聞いた。「私の獲物だ!」
もう終わりだ。ハリーは、ヴォルデモートがどこにいるのか見ることも聞くこともできなかった。別のデス・イーターがさっとよけて飛んでいくのがちらっと見えた。そして声が聞こえた。「アバダ・」
ハリーの傷跡の痛みが増して、目を開けていられなかった。杖が勝手に動いた。ハリーは、杖が大きな磁石のように、自分の手を引きだすのを感じ、杖の先から黄金色の火がほとばしり出るのを、半ば閉じたまぶたのすきまから見た。そしてパチッという音と、憤怒の叫び声を聞いた。残りのデス・イーターがわめき、ヴォルデモートが叫んだ。「だめだ!」どういうわけかハリーは鼻から数センチの所に、ドラゴンの火を吹く押しボタンがあるのに気がついた。彼は、それを杖を持っていない手でぶんなぐったので、オートバイは、炎をもっと空中に吹きだしながら、地面に向って真っさかさまに落ちていった。
「ハグリッド!」ハリーが、必死でバイクをつかみながら、呼んだ。「ハグリッド、アクシオ<来い>、ハグリッド!」
オートバイは、地面に吸いよせられるようにスピードをあげた。顔が、ハンドルと同じくらいまで下がっていて、遠くの明かりがぐんぐん近づいてくる他、何も見えなかった。もうすぐ地面に激突する。できることは何もない。後ろでは、また叫び声が上がった。
「お前の杖だ、セルウィン、杖をよこせ!」
目で見なくても、そこにヴォルデモートが居るのが分かった。横を向くと、赤い目が睨んでいた。ハリーは、これが人生最後の光景になるのだと感じた。ヴォルデモートが呪文をかけようと手を上げ、突然ヴォルデモートが消え去った。ハリーが見下ろすと、ハグリッドが大の字になって地面に横たわっていた。彼は必死になってハンドルを持ち上げ、衝突を回避すると、手探りでブレーキをかけた。しかし、耳をつんざく轟音と共に地面に衝突し、泥沼の中に投げ出された。
第5章 落ちた戦士
Fallen Warrior
「ハグリッド?」
ハリーは金属や革の残骸から起き上がろうともがいた。立ち上がろうとすればするほど、彼の手は泥水の中に沈みこんだ。彼はヴォルデモートがいなくなった理由をぜんぜん理解できなくて、いまにでも戻ってくるのだろうと思っていた。あごから、そして額から、生温かいものが流れ落ちた。沼地を這い進み、よろめきながら、かつてハグリッドであった巨大な物体に近付いていった。
「ハグリッド? ハグリッド、何か言ってよ!」
けれども、巨大なかたまりは身動きしなかった。
「そこにいるのは誰だ? ポッターか? 君はハリー・ポッターか?」
ハリーは、その男の声が誰か分からなかった。それから女が叫んだ。「墜落したのよ、テッド! 庭に墜落したんだわ!」
ハリーは、頭がふらふらした。
「ハグリッド」馬鹿みたいに繰り返すうちにがくっと膝の力が抜けた。
次に気がついたとき、ハリーはクッションのようなものを下にして横になっていた。肋骨と右腕が焼けるように痛んだ。なくなった歯は、また生えていた。額の傷はまだずきずきと痛んだ。
「ハグリッド?」
目を開けると、ランプの灯った見慣れない居間に横になっているのが分かった。リュックが少し離れた足下に置いてあったが、濡れて泥だらけだった。金髪で太鼓腹の男が、ハリーを心配そうに眺めていた。
「ハグリッドは大丈夫だよ、君」と男が言った。「今は、妻がみている。具合はどうかね? 他にどこか折れていないか? あばら骨と歯と腕は治したが。ところで、私はテッドだ、テッド・トンクス、ドーラの父親だよ」
ハリーは、とてもすばやく起きあがった。光がちらつき、気分が悪く、眩暈がした。
「ヴォルデモート、」
「心配するな」とテッド・トンクスが片手をハリーの肩にあて、クッションの上に押し戻して横にならせた。「君は、ひどく墜落した。いったい何があったのかね? オートバイがどこか故障したのか? アーサー・ウィーズリーがまたやりすぎたのか? 彼と、その珍発明が?」
「いいえ」とハリーが言った。傷跡は、傷口が開いたようにずきずきと脈打っていた。「デス・イーターが山のように――追われて――」
「デス・イーターだって?」とテッドが鋭く言った。
「どういう意味だ? デス・イーターだと? 君が今夜移動するのを、彼らは知らないと思っていたが」
「知っていました」ハリーが言った。
テッドは、天井ごしに空が見えるとでもいうように天井を見あげた。
「うーむ、それでは、うちの防御の呪文が効いているのは分かっているだろう? やつらは、どの方角からでも百メートル以内には近づくことができないのだ」
これで、なぜヴォルデモートが消えたかハリーに分かった。その地点で、オートバイが、騎士団の呪文の境界内に入ったのだ。彼は、その呪文の効目がありつづけるように願うだけだった。彼は、今こうして話しているあいだ、ヴォルデモートが百メートル近く上空で、大きな透明な泡のような防御の境を突きやぶる方法はないかと探しているのを想像した。
ハリーはソファから、さっと両足を下ろした。この目でハグリッドをぜひとも見ないことには、ハグリッドが生きているのが信じられなかった。けれど、彼が立ちあがろうとしたときに、扉が開いて、ハグリッドが窮屈そうに入ってきた。その顔は泥と血にまみれ、少し足をひきずっていたが、奇跡的に生きていた。
「ハリー!」
ハグリッドは、優美なテーブル二つと、ハランの鉢植えを突きとばして、戸口からハリーの所まで二足でやってきて、ハリーをぎゅっと抱きしめたので、治してもらったばかりの肋骨がまた折れそうだった。
「すごいぞ、ハリー、どうやってあそこから逃げだしたんだ? 二人とも、おだぶつだと思ったよ」
「うん、僕もさ。信じられない、」
ハリーは言葉を切った。ハグリッドの後ろから部屋に入ってきた女に、ちょうど気がついたのだ。
「お前!」彼は叫んだ。そして片手をポケットに突っこんだが、空だった。
「君の杖はここだよ」とテッドが、その杖で、ハリーの腕を軽くたたいた。「君のすぐそばに落ちていた。私が拾っておいた。で、君が怒鳴りつけたのは、私の妻だ」
「ああ、僕は――。ごめんなさい」
彼女が、部屋の中に入ってくると、トンクス夫人は、姉のベラトリックスに、それほど似ていなかなった。明るく、柔らかな茶色の髪で、目はもっと大きくて優しそうだった。それでもやはり、ハリーが怒鳴った後、少し傲慢な感じにみえた。
「うちの娘はどうなったの?」彼女が尋ねた。「ハグリッドが、あなたは待ちぶせされたと言った。ニンファドーラはどこ?」
「知りません」とハリーが言った。「他の人たちがどうなったか、僕たちは知らないんです」
彼女とテッドは目を見交わした。彼らの表情を見ると、恐れと罪の意識がハリーをさいなんだ。もし、誰か他の人が亡くなったら、それは自分の責任だ、みんな自分の責任だ。計画に同意し、髪の毛を提供したのだから……
「ポートキー!」彼は突然思い出した。「僕たちは、みんな『隠れ家』に戻ることになっている。そしたら分かるよ、ここに知らせることができるし、トンクスが自分で知らせるかもしれないけど、もし彼女が」
「ドーラは大丈夫だよ、ドゥロメダ」とテッドが言った。「彼女は有能だ。闇祓いたちと危ない場面をたくさんくぐり抜けてきた。ポートキーは、こっちだ」彼は、ハリーにつけ加えて言った。「君が、それを使うなら、三分以内に出発することになっている」
「ええ、そうしたいです」とハリーが言って、リュックをつかみ、さっと肩にかけた。「僕は、」
彼はトンクス夫人を見た。自分のために、恐ろしい状態に追いこまれていることを、そして、それに対し、とてもとても責任を感じていることを謝りたかった。けれど、何を言っても、うわべだけで偽善的に聞こえるような気がした。
「僕、トンクスに、ドーラに、知らせるように言います、彼女が……手当てしてくださってありがとうございました。いろいろありがとうございました。僕……」
彼は、部屋を出るとほっとした。そして、テッド・トンクスの後について、少し廊下を歩いて、寝室に入った。ハグリッドが後からやってきた。扉の上の横木に頭をぶつけないよう頭を低く下げていた。
「さあ、君。それがポートキーだ」
トンクス氏は、背が銀の小さなヘアブラシを指した。それは、化粧テーブルの上に置いてあった。
「ありがとう」とハリーが言った。そして指を伸ばしてそれに触り、出発の準備をした。
「ちょっと待て」とハグリッドが言いながら、あたりを見まわした。「ハリー、ヘドウィグはどこだい?」
「あの子は……あの子は呪文にやられた」とハリーが言った。
それを現実だと悟ることは、恐ろしい衝撃だった。涙が溢れ出るので、恥ずかしかった。あのふくろうは、ずっと心を慰めてくれる仲間だった。ダーズリー家に戻らなくてはならないときはいつも魔法世界との、とても大きな絆だった。
ハグリッドは大きな手を伸ばし、痛ましげにハリーの肩を軽くたたいた。
「気にするな」としわがれた声で言った。「気にするな。彼女は勇敢に命をまっとう……」
「ハグリッド!」とテッド・トンクスが警告するように言った。ヘアブラシが、鮮やかな青色に光り始めた。ハグリッドは、人差し指をそれに置くのに、ちょうど間に合った。
おへその後ろがぐいっと引っぱられ、目に見えない鉤とひもで前の方に引かれるような感じがして、ハリーは何もない空間に引きずり込まれた。制御不能にぐるぐる回転し、指はポートキーにくっついていた。彼とハグリッドは、トンクス氏から離れて吹きとばされたようだった。数秒後、ハリーの足は硬い地面に叩き付けられ、両手と膝を『隠れ家』の裏庭についていた。叫び声が聞こえた。もう輝いていないヘアブラシを脇に放って、ハリーは、少しよろめいて立ちあがった。ウィーズリー夫人とジニーが、裏口のそばの階段を駆け下りてくるのが見えた。ハグリッドも着地のときに倒れこんでいたが、どうにかよろよろと立ち上がった。
「ハリー? 本物のハリーなの? 何があったの? 他の人たちはどこ?」とウィーズリー夫人が叫んだ。
「どういう意味? 誰も戻ってきてないの?」ハリーが喘ぐように言った。
その答えは、ウィーズリー夫人の青ざめた顔を見れば一目で分かった。
「デス・イーターが待ちぶせしていた」ハリーは彼女に言った。「出発したとたんに囲まれたんだ……今日だってばれてたんだよ……他の人たちがどうなったか僕は知らない。四人に追われた。逃げるのが精一杯だった。それからヴォルデモートが追いついてきて消えた……」
彼は自分の声が言い訳がましく聞こえることに気が付いていた。ロンたちに何が起こったか知らないことをウィーズリー夫人に分かってもらおうと、無意識のうちに弁解しているのだ。
「あなたが無事でよかったわ」彼女が言って、両腕で抱いてくれたが、ハリーは、そうしてもらう資格は自分にはないと思った。
「ブランデーはないかい、モリー?」とハグリッドが少し震えながら尋ねた。「薬のためだけど?」
彼女は、それを魔法で出すことができたはずだが、そうしないで、曲がりくねった家の方に急いで戻っていった。彼女が顔を見られたくないのが、ハリーには分かった。彼がジニーの方を向くと、彼の情報を知りたいという無言の願いに、すぐに答えた。
「ロンとトンクスが最初に戻ってくるはずだったけど、ポートキーに間にあわなかった。ポートキーだけが戻ってきたの」彼女は、近くの地面に転がっているさびた油缶を指しながら言った。「それから、あれは」と古い運動靴を指さした。「パパとフレッドので、二番目のはずだったの。あなたとハグリッドは三番目で」彼女は腕時計を見た。「もしうまくいけばジョージとルーピンが一分以内に戻ってくるはずなんだけど」
ウィーズリー夫人がブランデーの瓶を持って戻ってきた。それをハグリッドに渡すと、彼はコルクの栓を抜いて一気に飲んだ。
「ママ!」とジニーが、一メートルほど離れた地点を指して叫んだ。
暗闇の中に青い光が現れた。それはどんどん大きく輝きを増し、ルーピンとジョージが現れ、ぐるぐる回転し、それから倒れた。ハリーは、何かまずいことがあったとすぐ分かった。ルーピンがジョージを支えていた。ジョージは意識がなく、顔は血まみれだった。
ハリーは前に飛びだし、ジョージの足をつかんだ。そしてルーピンといっしょに、ジョージを家の中の台所をとおって居間に運び、ソファに寝かせた。ランプの明かりがジョージの頭を照らしたとき、ジニーが喘ぎ、ハリーの胃がぐいっとねじれるような気がした。ジョージの耳が片方なかった。頭と首の横は、ぎょっとするほど真っ赤な血でびしょ濡れだった。
ウィーズリー夫人が息子にかがみこむとすぐに、ルーピンがハリーの二の腕をつかんで手荒く引っぱっていき台所に戻った。そこではハグリッドがまだ裏口から入ろうと苦労していた。
「おい!」とハグリッドが憤然と言った。「放せ! ハリーを放せ!」ルーピンは、それを無視した。
「ホグワーツでハリー・ポッターが初めて私の部屋に来たとき、部屋の隅にいたのはどんな生き物だったか?」彼は、ハリーを少しゆすりながら言った。
「答えろ!」
「グ……グリンデロウが水槽にいたでしょ?」
ルーピンがハリーを放すと、ハリーはよろめいて台所の食器棚にぶつかった。
「こりゃ、何のまねだ?」とハグリッドが吼えた。
「すまない、ハリー、だが、確かめる必要があったのだ」とルーピンが、素っ気なく言った。「我々は裏切られた。ヴォルデモートは、君が今夜移動することを知っていた。彼に出発日を話すことができた人間というのは、計画に直接かかわっていた者ばかりだ。君が内通者かもしれないのだ」
「じゃあ、なんで俺を調べないんだ?」とハグリッドが、まだ扉を潜ろうと悪戦苦闘して、喘ぎながら言った。
「君は、半分巨人だ」とルーピンがハグリッドを見あげて言った。ポリジュース薬は、人間用にだけ作られている」
「騎士団の誰だって、僕たちが今夜動くとヴォルデモートに言ったはずがないよ」とハリーが言った。そんなことを考えるのは恐ろしいことだった。彼は、騎士団の誰にせよ、そんなことをしたなどと信じられなかった。「ヴォルデモートは、最後に僕に追いついただけだ。彼は、最初は、どれが僕か分からなかった。もし計画を知っていたら、ハグリッドといっしょに行くのが僕だと最初から分かっていたんじゃないかな」
「ヴォルデモートがに追いつかれただと?」ルーピンが厳しく言った。「何があったのだ? どうやって逃げだしたのだ?」
ハリーは、追ってきたデス・イーターが、彼を本物のハリーだと見分けて、追跡を止め、ヴォルデモートを呼びだしたに違いないこと、それで彼とハグリッドがトンクスの両親の家という避難所に着く少し前に、ヴォルデモートがあらわれたことを、簡潔に説明した。
「君を見分けたって? しかしどうやって? 君は何をした?」
「僕……」ハリーは思いだそうとした。道中全てが、パニックと混乱の連続だった。
「僕は、スタン・シャンパイクを見た……ナイトバスの車掌だった奴知ってる? で、僕は、かわりに彼の武器を取りさろうとした――そのう、彼は自分が何やってるんだか分かってないんだよね? きっと支配の呪文をかけられていたんだ!」
ルーピンは、仰天したようだった。
「ハリー、武装解除なんて魔法は忘れちまえ! 奴らはお前を殺しに来てるんだぞ! 相手を殺すことが出来ないのならせめて気絶させろ!」
「僕たちは、何百メートルも上空にいたんだ!! スタンは、どうかしていたし、もし彼を気絶させたら落っこちて死んだだろう。アバダ・ケダブラと同じくらい確実に死んでしまうんだ! 武器を取りさる呪文、エクスペリアームスのおかげで、二年前も、僕はヴォルデモートから助かったんだ」
ハリーは開き直った。ルーピンを見ていると、ハッフルパフのザカリアス・スミスが冷笑していたのを思いだした。彼はダンブルドア軍団の魔法の練習で、武器を取りさる呪文を教えようとしたら、嘲ったのだ。
「そうだ、ハリー」とルーピンが、自分を抑えようと苦労しながら言った。「そしてたくさんのデス・イーターが、その出来事を目撃した! 許してくれ。だが、死が目の前に迫っている状況で、あんな呪文を使うのは、極めて尋常じゃない。今夜、その状況を目撃したにせよ、話を聞いたにせよ、それを知っているデス・イーターの目の前で、それを再現するのは自殺行為に近い!」
「じゃあ、僕がスタン・シャンパイクを殺すべきだったって言うの?」とハリーが怒って言った。
「もちろん、そうではない」とルーピンが言った。「だが、デス・イーターは――率直に言って、たいていの人たちは、だが――君が反撃するのが当然だと思っただろう! エクスペリアームスは確かに役にたつ呪文だ、ハリー。だが、デス・イーターは、それを、君の署名のような、君独自の行動だと思うだろうな。だから、もうあんなことはするな!」
ハリーは自分の馬鹿さ加減に気付かされたが、まだ完全には納得していなかった。
「僕は、僕の行く道に居合わせたというだけで、その人を吹きとばしたくはない」とハリーが言った。「それは、ヴォルデモートのやり方だ」
ルーピンは言い返さなかった。やっとのことで、ぎゅうぎゅうと戸口から入ることに成功したハグリッドが、よろよろと歩いてきて椅子に座ったが椅子は崩れおちた。その悪態と謝罪が入り交じった言葉を無視して、ハリーはルーピンにまた話しかけた。
「ジョージは大丈夫?」
ルーピンのハリーに対する不満の気持ちは、その質問で流れさったようだった。
「そう思う。でも、耳を再生できる見込みはないな。闇の呪文をかけられたときは駄目なんだよ」
外から、取っ組み合うような物音が聞こえた。ルーピンが裏口の扉の方に、すっとんでいった。ハリーはハグリッドの脚を飛びこえ、裏庭に駆け出した。
裏庭に、二人の人影があらわれた。ハリーがその方に走っていくと、元の姿に戻っていくハーマイオニーとキングズリーがいて、二人は曲がった洋服ハンガーを一つ持っていた。ハーマイオニーは、ハリーの腕の中に飛びこんだ。しかし、キングズリーは誰を見ても全くうれしそうな様子を見せなかった。ハーマイオニーの肩越しに、ハリーは、彼が杖を上げてルーピンの胸に向けるのを見た。
「アルバス・ダンブルドアが、我々二人に語った最後の言葉は何か?」
「『ハリーが、我々の残された希望だ。彼を信じるように』」とルーピンが落ちついて言った。
キングズリーが杖をハリーに向けた。しかしルーピンが言った。「本物だ。もう確認した!」
「分かった、分かったよ!」キングズリーがマントの下に杖をしまった。
「でも、誰かが裏切ったんだぞ! 奴らは知ってた、今夜だと知ってたんだ!」
「そのようだ」とルーピンが答える。「だが、七人のハリーがいるということは知らなかったらしい」
「不幸中の幸いだな!」とキングズリーが歯を剥いた。「他にだれが戻った?」
「ハリー、ハグリッド、ジョージと私だけだ」
ハーマイオニーは、小さな呻き声を上げたが、手で抑えた。
「君たちに何が起きた?」ルーピンがキングズリーに尋ねた。
「五人に追われた。二人傷つけた、一人殺したかもしれん」キングズリーがすらすらと言った。「それから、例のあの人の姿も見た。奴は途中で追跡に加わったが、まもなく姿を消した。リーマス、奴は――」
「飛べる」と、ハリーが補足した。「僕も彼を見た。ハグリッドと僕を追ってきたんだ」
「だから、いなくなったのか。君を追うためか!」とキングズリーが言った。
「ハリーが、スタン・シャンパイクに少しばかり優しくしすぎたんだよ」とルーピンが言った。
「スタン?」ハーマイオニーが繰り返した。「でも、彼はアズカバンにいると思ったけど?」
キングズリーが陰気な笑いを上げた。
「ハーマイオニー、大量脱走があったのは明らかなのだが、魔法省がもみ消したのだ。私が呪文を放ったとき、彼のフードがはずれた。彼も内部にいるようだ。だが、君たちに何が起きたのだ、リーマス? ジョージはどこだ?」
「彼は耳をなくした」とルーピンが言った。
「なくしたって何を」とハーマイオニーが上ずった声で繰り返した。
「スネイプの仕業だ」とルーピン。
「スネイプ?」ハリーが叫んだ。「まさか――」
「やつは、追跡の間にフードをなくしていた。切り裂く呪文、セクトゥムセンプラは、いつもやつの得意技だった。同じくらいの報復をしたと言えたらいいのだが、ジョージが怪我をして、大量の出血をした後は、彼を箒の上に落ちないよう支えるので精一杯だった」
四人は空を見あげてじっと黙りこんだ。何も動くものはなかった。星々は無常にも瞬くこともなく、空飛ぶ友の姿で隠されることもなく、静かに光っていた。ロンは、どこに? フレッドとウィーズリー氏はどこに? ビル、フラー、トンクス、マッド・アイと、マンダンガスはどこに?
「ハリー、手を貸してくれ!」とハグリッドが、戸口からしゃがれた声で呼びかけた。また詰まって出られなくなってしまったのだ。ハリーは、何かすることがあるのがうれしくて、彼を引っぱりだした。それから誰もいない台所を通って居間に戻った。そこには、ウィーズリー夫人とジニーが、まだジョージの手当をしていた。ウィーズリー夫人は、彼の出血は止めていた。ランプの明かりの元で、ジョージの耳があったところに、きれいになった傷口の穴が空いているのを、ハリーは見た。
「彼はどう?」
ウィーズリー夫人が、振り向いて言った。「耳を、もう一度再生させることはできないわ。闇魔術によって取りさられた場合は、できないの。でも、もっと悪いことになっていたかもしれないのに……彼は生きているわ」
「うん」とハリーが言った。「ありがたい」
「他に誰か裏庭に来た?」ジニーが尋ねた。
「ハーマイオニーとキングズリー」とハリーが言った。
「ああ、よかった」ジニーがささやいた。二人は見つめあった。ハリーは、彼女を抱きしめたかった。ウィーズリー夫人がいようが、構わないとさえ思った。しかし、彼が心の衝動のままに動こうとしたとき、台所からドスンとぶつかるような大きな音がした。
「私は、自分の証を立てる、キングズリー、ただし息子の顔を見てからだ。さあ、下がらないと、君のためにならんぞ!」
ハリーは、ウィーズリー氏が、こんなふうに怒鳴るのを、今まで聞いたことがなかった。ウィーズリー氏が居間に飛びこんできた。その、はげかかった頭が汗で光り、眼鏡がかしいでいた。フレッドがすぐ後に続いた。二人とも青ざめていたが、怪我はしていなかった。
「アーサー!」とウィーズリー夫人がすすり泣いた。「ああ、ありがたいこと!」
「具合はどうだ?」
ウィーズリー氏は、ジョージの脇に膝をついた。ハリーが、知りあっていらい初めて、フレッドは、何を言ったらいいのか分からないようにみえた。彼は、ソファの後ろから、目の前のものが信じられないように、双子の片割れの傷口をぽかんとして見ていた。
フレッドと、父の到着の物音で目覚めたのか、ジョージが身動きした。
「気分はどう、ジョージ?」とウィーズリー夫人が、囁いた。
ジョージが、指で、自分の頭の横を手探りした。
「聖者みたいだ」彼は呟くように言った。
「彼、どうなったんだい?」フレッドがぞっとしたように、しゃがれ声で言った。
「頭もいかれちまったのかな?」
「聖者みたい」とジョージが繰り返した。目を開け、双子の片割れを見つめた。「ほら……俺は、holy(聖者)になった。だから、holey(穴がある)。フレッド、分かる?」
ウィーズリー夫人は、前よりいっそう、すすり泣いた。フレッドの青白い顔に赤みがさしてきた。
「痛いね」彼はジョージに言った。「痛々しいよ! 耳に関係あるユーモア、その広大な世界のwhole(全て)が、お前の目の前に広がってる。それをgo for holey(見逃す)なんてな?」
「ああ、いいね」とジョージが言って、涙を流している母に、にやっと笑いかけた。「これからは、とにかく俺たちの区別がつくようになったね、ママ」
そして辺りを見回した。
「やあハリー、ハリーだよな?」
「そうだよ」とハリーが言いながら、ソファの近くに寄った。
「うーん、少なくとも僕たち、君をちゃんと戻らせたよ」とジョージが言った。「どうして、ロンとビルは、僕の病気の枕元に集まってこないのさ?」
「まだ、戻ってこないのよ、ジョージ」とウィーズリー夫人が言った。ジョージの笑いが消えた。ハリーは、ジニーをちらっと見て、いっしょに外へ出てほしいと身ぶりで知らせた。二人が台所をとおって歩いていくとき、彼女が声を低めて言った。「ロンとトンクスは、もう戻ってるはずの時間だわ。そんなに長い道じゃないはずよ。ミュリエルおばさんの家は、ここからそんなに遠くないもの」
ハリーは何も言わなかった。『隠れ家』に着いて以来、不安や恐れを寄せつけないようにしてきたが、今、それは彼を包み、皮膚の上を這い上がって、胸に突きささり、のどを詰まらせるように思われた。裏口の階段を下りて、暗い裏庭に行くとき、ジニーが彼の手を取った。
キングズリーが大股で行ったり来たりして、向きを変えるたびごとに、空を見上げていた。ハリーは、バーノンおじさんが、居間を行ったり来たりしていたのを百万年前の事のように思いだした。ハグリッド、ハーマイオニー、ルーピンは肩を寄せあって、黙って空を見あげていた。ハリーとジニーが、その黙っている見張りに加わっても、誰も二人をふりかえらなかった。
数分が、数年にも思われるほど長く感じられた。風が茂みや木を揺らして微かな音を立てると、誰かが戻ってきたのかと思い、みんな飛び上がって振り向いた。騎士団の仲間が無傷で葉っぱの上を飛び越えてきたのかも……
その時、ほうきの音がしたと思うと、地面に向かって猛スピードで突進してきた。
「来たわ!」とハーマイオニーが叫んだ。
トンクスは横滑りしながら着陸し、あちこちに泥と小石を撒き散らした。
「リーマス!」トンクスが、箒からよろめくように下りて、ルーピンの腕の中に飛びこみながら叫んだ。彼の顔は、白く強張って、口をきくことができないようだった。ロンは、ぼうっとしてハリーとハーマイオニーの方に歩いてきた。
「君たち、大丈夫なんだ」と彼がぶつぶつ呟いた。ハーマイオニーが飛びついてしっかり抱きしめた。
「私……私、もしかしたらって……」
「僕、大丈夫」とロンが言いながら、彼女の背中を軽く叩いた。「僕、だいじょぶ」
「ロンは、すごかったわ」とトンクスが、ルーピンから離れながら、心から言った。「すばらしかった。デス・イーターの頭に呪文を命中させて、一人気絶させたの。飛んでる箒から動いている標的をねらうなんて――」
「ほんとに?」とハーマイオニーが、両腕をまだロンの首に回しながら言った。
「いっつも、びっくりした口調なんだから」とロンが、少しむっつりして身をほどいた。「僕たちが最後?」
「ううん」とジニーが言った。「まだビルと、フラーと、マッド・アイと、マンダンガスを待ってる。ママとパパに、あなたが無事だって言ってくるわ、ロン――」
彼女は家の中に走って戻った。
「で、どうして遅くなった? 何があった?」ルーピンが、ほとんど怒ったような口調でトンクスに言った。
「ベラトリックス」とトンクスが言った。「彼女は、ハリーをねらうみたいに、私を狙うの、リーマス、必死になって私を殺そうとした。彼女を捕まえたらよかったのにと思う。私、ベラトリックスに借りがある。でも、ロドルファスの方は、ぜったいに怪我させた……それから、ロンのミュリエルおばさんの家に行って、ポートキーには間にあわなかったので、彼女が騒いで――」
ルーピンの顎で筋肉が動いた。歯をくいしばっているように見えた。彼は頷いたが何も言うことができないようだった。
「で、あなたたちには何があったの?」トンクスが、ハリー、ハーマイオニー、キングズリーの方を向いて尋ねた。
彼らは、自分たちの道中の話をした。けれどそのあいだずっと、ビルとフラーとマッド・アイとマンダンガスが、まだ戻らないことが、霜のように彼らの上をおおい、その肌を刺す冷たさが、どんどんひどくなって無視できなくなっていた。
「私は、首相官邸に戻らなくてはならない。一時間前には戻っていることになっていたんだ」とキングズリーが、最後に空をさっと見あげた挙句、とうとう言った。「彼らが戻ったら知らせてくれ」
ルーピンが頷いた。キングズリーは他の人たちに手を振って、暗闇の中を門の方へ歩いていった。ハリーが、ほんのかすかなぽんという音を聞いた途端、キングズリーが『隠れ家』の境界のすぐ外側で姿くらましをした。
ウィーズリー夫妻が裏口の階段を急いで下りてきた。ジニーがその後に続いていた。両親ともロンを抱きしめてから、ルーピンとトンクスの方を向いた。
「ありがとう」とウィーズリー夫人が言った。「息子たちを守ってくれて」
「とんでもない、モリー」とトンクスがすぐ言った。
「ジョージはどう?」とルーピンが尋ねた。
「どうかしたの?」とロンが、かん高い声で言った。
「なくしたのよ――」
しかし、ウィーズリー夫人の言葉の終わりは、周りの叫び声で聞こえなくなった。セストラルが、ふわりと空中に姿をあらわし、すぐそばに下りたったのだ。ビルとフラーがその背中から滑りおりた。風に吹かれて乱れた様子だったが、怪我はしていなかった。
「ビル! ありがたいこと、ありがたいこと――」
ウィーズリー夫人が前方に駆けだした。けれど、ビルは母に、おざなりに両腕を回しただけだった。そして、父をまっすぐに見ながら言った。「マッド・アイが死んだ」
誰も言葉を発しなかった。誰も身動き一つしなかった。ハリーは心の内側で何かが崩れ落ちるのを感じた。地面に落ちて、永遠にどこかへ行ってしまった。
「僕たちは、見たんだ」とビルが言った。フラーが頷いた。その頬には涙の跡が、台所の窓からもれる明かりに照らされて光っていた。「僕たちが、デス・イーターの包囲網を破ったすぐ後のことだった。マッド・アイとダングは、僕たちの近くにいた。彼らも北を目指していたんだ。ヴォルデモートが\――あいつは飛べるんだが――まっすぐ彼らを追っていった。ダングがパニック状態になった。彼が叫ぶのが聞こえた。マッド・アイが止めようとしたが、彼は姿くらましをした。ヴォルデモートは、マッド・アイの顔に面と向って呪文を放った。彼は箒からのけぞるように落ちていった――僕たちにはどうしようもなかった、どうしようも。六人に追われていたんだ――」
ビルの声が途切れた。
「もちろん、君たちにはどうしようもなかったよ」と、ルーピンが言った。
皆が、見つめあった。ハリーは、しっかり理解できていなかった。マッド・アイが死んだ。ありえない……マッド・アイが、あんなに、タフで勇敢で、困難を切り抜ける熟達者が……
とうとう、誰も何も言わないけれど、裏庭で待っていても仕方がないということが皆に分かりはじめた。それで皆、黙ってウィーズリー夫妻の後について『隠れ家』の居間に戻った。そこでは、フレッドとジョージが、いっしょに笑っていた。
皆が入っていくと、「どうかしたの?」とフレッドが、皆の顔を見まわしながら言った。「何があったの? 誰かが――?」
「マッド・アイが」とウィーズリー氏が言った。「死んだ」
双子の笑い顔が、ショックを受けてしかめ面に変わった。誰も何をすべきか分からないようだった。トンクスがハンカチで顔をおおって静かに泣きだした。彼女が、マッド・アイと親しかったのを、ハリーは知っていた。魔法省で、彼女はマッド・アイのお気にいりで、守ってもらっていたのだ。ハグリッドは、部屋の中で、、いちばん空間がある隅の床に座って、テーブル掛けぐらい大きなハンカチで、目を叩いて涙を抑えていた。
ビルが食器棚の方に歩いていってファイア・ウィスキーの瓶とグラスを取り出した。
「さあ」彼が言って、杖を一振りすると、ウィスキーがなみなみと入った十二個のグラスが部屋の中をふわりと飛んで、それぞれの手に渡った。それから、十三個目を掲げた。「マッド・アイに」
「マッド・アイに」全員が言って飲んだ。
「マッド・アイに」と、ハグリッドが少し遅れてしゃくりあげながら、こだまのように言った。
ファイア・ウィスキーは、ハリーの喉を焼くようだった。それは、何も感じることができず、非現実世界にいるような気分を追いちらして気分を燃えたたせ、勇気のようなものをかきたてた。
「では、マンダンガスは消えたのか?」と、グラスを一息に飲み干して、ルーピンが言った。
たちまち雰囲気が一変した。皆が緊張しルーピンをじっと見ていた。彼に話を続けてほしいのと、それを聞くことが怖いのと両方の気持ちでいるようだと、ハリーは思った。
「あなたが何を考えているか分かっている」とビルが言った。「僕も、戻ってくる途中で、それを考えていた。なぜって、やつらは僕たちを待ち伏せしていたように見えたじゃないか? だが、マンダンガスが裏切ったはずがない。やつらは七人のハリーがいるのを知らなかったから、僕たちが現れた瞬間、とまどっていた。それに、忘れているかもしれないが、ちょっとしたごまかしをしようと言い出したのはマンダンガスなんだ。なぜ、彼はその肝心な部分を敵に言わなかったんだ? ダングは、混乱していたと思う。その訳は単純なことだ。彼は最初から来たくなかった。だが、マッド・アイが来させ、例のあの人がまっすぐに彼らの方に行った。そりゃ、誰でもパニクるさ」
「例のあの人は、マッド・アイが予想した、その通りに行動したわ」とトンクスが鼻をすすりながら言った。「マッド・アイは、例のあの人は、本物のハリーは、とてもタフで熟練した闇祓いたちと一緒にいると思ってると、言ってた。彼は、マッド・アイを最初に追いかけ、マンダンガスが正体を現した後は、キングズリーにねらいを変えた……」
「ええ、それは、その通りよ」とフラーが噛み付くように言った。「でも、それでは、アリーを今夜移動させるのを、どうして彼らが知ったかを、説明してはいないでしょ? 誰か、うっかり屋がいたんだわ。誰かが、日にちを外部の者にもらしたんだわ。それが、彼らが日にちは知ってたけど、計画全部を知らなかったことの、唯一の説明よ」
彼女は、全員を睨みつけるように見まわした。涙の跡がまだ美しい顔に残っていた。無言で、反論できるものならしてみるがいいと挑んでいた。誰も反論しなかった。沈黙を破る唯一の物音はハグリッドがハンカチで抑えながらしゃくりあげる音だった。ハリーは、ハグリッドをちらっと見た。彼は、自分の命を危険にさらして、ハリーの命を救ってくれたばかりだ――ハリーが、愛しく思い信頼するハグリッド。昔騙されて、ドラゴンの卵と交換に、ヴォルデモートに決定的な情報を与えたことがある……
「違う」ハリーが大声で言ったので、皆が驚いて彼を見た。ファイア・ウィスキーが、その声を増幅して大きくしたようだった。「つまり……もし誰かがうっかりして」ハリーは続けた。「何かを漏らしたとしても、そうするつもりでやったんじゃないと思う。それは、その人の罪じゃない」彼はまた、いつも話すより少し大きな声でくりかえした。「僕たち、信じあわなくては。僕は、あなた方みんなを信じてる。この部屋の誰かが、僕をヴォルデモートに売ろうとしたなんて絶対に思わない」
その言葉の後に、また沈黙が続いた。皆がハリーを見ていた。ハリーは、また少し熱くなった。何かするためにファイア・ウィスキーをもう少し飲んだ。飲みながら、マッド・アイのことを思った。マッド・アイは、いつもダンブルドアが快く人を信用するのを酷評していた。
「よくぞ言った、ハリー」と思いがけなくフレッドが言った。
「ああ、そうだそうだ(Year, 'ear, 'ear = Yeah, hear, hear)」とジョージが、フレッドをちらりと見ながら言ったが、唇の端はひきつっていた。
ルーピンは奇妙な表情を浮かべて、ハリーを見た。それは哀れみに近かった。
「僕が、馬鹿だと思う?」とハリーが強い調子で尋ねた。
「いや、君はジェームズに似てると思う」とルーピンが言った。「彼は、友を信じないことは不名誉の極致だと見なしていたものだ」
ハリーには、ルーピンの言いたいことが分かった。そうやって、父ジェームズは友人ピーター・ペティグリューに裏切られた、と言いたいのだ。ハリーは無分別にも怒りたくなった。そして言いかえしたかったが、ルーピンは、脇を向いてサイドテーブルにグラスを置いて、ビルに言った。「やらねばならぬ仕事がある。キングズリーに頼んでもいいが――」
「いや」とビルがすぐに言った。「僕がやる。僕が、一緒に行く」
「どこに行くの?」とトンクスとフラーが一緒に言った。
「マッド・アイの遺体だ」とルーピンが言った。「取り戻さなくては」
「それって……」とウィーズリー夫人が懇願するような目付きでビルを見た。
「後にできないかって?」とビルが言った。「デスイーターたちに先を越されたいの」
誰も口をきかなかった。ルーピンとビルは別れを告げて出ていった。
ハリー以外の人間は皆、椅子にどさっと座りこんだ。ハリーは立ったままだった。死が、突然完璧にやってきたので、彼らの側に、死というものが存在しているかのようだった。
「僕も行かなくちゃ」とハリーが言った。
十組のひどく驚いた目が彼を見た。
「とんでもない、ハリー」とウィーズリー夫人が言った。「なんてこと言うの?」
「ここには、いられない」
彼は額をこすった。傷跡がまたちくちく痛んだ。ここ一年以上、こんなに痛んだことはなかった。
「僕がここにいると、みんな危険だ。僕は、そんなこと望ま――」
「ばかなこと言わないで!」とウィーズリー夫人が言った。「今夜の目的は、あなたをここへ無事に連れてくることだったのよ。ありがたいことに、それはうまくいったわ。それにフラーが、フランスでなく、ここで結婚式をあげてもいいと言ってくれたから、私たちみんながここにいて、あなたの面倒をみられるように手配したの――」
彼女は分かっていない。ハリーの気分はよくなるどころか、もっと落ちこんだ。
「もし、ヴォルデモートが、僕がここにいることを見つけ出したら――」
「でも、なぜ見つけ出せるの?」とウィーズリー夫人が尋ねた。
「あなたが、いるかもしれない場所は今、十二か所あるのよ、ハリー」とウィーズリー夫人が言った。「その中のどの避難所に、あなたがいるのかを、彼が見つけ出す手段はないわ」
「僕が心配してるのは、自分のことじゃない!」とハリーが言った。
「それは分かってるわ」とウィーズリー夫人が静かに言った。「でも、もしあなたが出ていってしまったら、今夜の私たちの努力は無駄になるのよ」
「お前さんは、どこにも行っちゃいかん」とハグリッドがどなった。「なんてこったい、ハリー、みんなしてやっとのことで、お前さんをここに連れてきたのにかい?」
「ああ、俺の怪我した耳はどうなるんだい?」とジョージが、クッションから身をおこして言った。
「分かってるよ、それは――」
「マッド・アイは、多分――」
「分かってるってば!」ハリーはどなった。
彼は、包囲され、恐喝されているような気がした。彼らが、自分のためにしてくれたことを、ハリーが分かっていないと思っているのか、まさにそのため、これ以上、彼らが自分の代わりに被害にあう前に、彼が今ここを出ていきたいと思っているのが分からないのか? 長く、ぎこちない沈黙のときが流れた。その間、彼の傷跡はちくちくずきずき痛みつづけた。とうとうウィーズリー夫人が口を開いた。
「ヘドウィグはどこなの、ハリー?」彼女はなだめるように言った。
「ピグウィジョンのところに連れてってあげるわ。きっとお腹が空いてるでしょ?」
内臓が絞めつけられた。彼女に、真実を告げることができなかった。答えるのを避けて、ファイア・ウィスキーの残りを飲みほした。
「気持ちが静まるまで待ちな、お前さん、また、やったんだからな、ハリー」とハグリッドが言った。「やつから逃げだすことをさ。やつを、目の前から、戦って追っぱらったんだ!」
「僕がやったんじゃない」とハリーがきっぱりと言った。「僕の杖だ。杖がひとりでに動いたんだ」
数分後、ハーマイオニーが、優しく言った。「でもそんなこと不可能よ、ハリー。そうするつもりがないのに魔法をかけてしまったって意味でしょ。あなた、本能的に行動したのよ」
「違う」とハリーが言った。「オートバイが落ちていった。ヴォルデモートがどこにいるのか、僕は知らなかった。なのに僕の杖が回転して、彼を見つけだし、呪文を放った。それに、その呪文が何かさえ、僕は分からなかった。僕は、金色の炎を出したことないんだ」
「しばしば」とウィーズリー氏が言った。プレッシャーを感じる状況で、夢にも見たことがない魔法をやってしまうことがあるものだ。幼い子に、しばしば見られる。まだ訓練を受けない前に――」
「そんなんじゃなかった」と、ハリーが歯を食いしばって言った。傷跡は、焼けるように痛んだ。彼は、怒り、欲求不満を感じていた。みんなが、彼がヴォルデモートに匹敵する力を持っていると想像していると考えると、とてもいやだった。
誰も何も言わなかった。ハリーは、皆が、自分の言うことを信じていないのが分かっていた。自分で考えてみても、杖がひとりでに魔法を行うなんて、これまで聞いたことがなかった。
傷跡が焼けつくように痛んだ。呻き声を出さないようにするのが精一杯だった。新鮮な空気を吸いにいくなどとつぶやいて、彼はグラスを置いて部屋を出た。
暗い裏庭を横切っていくと、大きな骸骨のようなセストラルが頭をあげて巨大なコウモリのような翼をさらさら言わせ、それからまた草を食べはじめた。ハリーは、庭の入口のところで立ちどまり、伸びすぎた植物を見つめ、ずきずきする額をこすり、ダンブルドアのことを考えた。
ダンブルドアなら、自分の言うことを信じてくれたに違いない。ダンブルドアなら、どのようにして、なぜハリーの杖がひとりでに動いたのか分かっただろう。ダンブルドアはいつも答えることができたからだ。彼は、杖について知っていて、ハリーの杖とヴォルデモートの杖とのあいだに存在する不思議なつながりについて説明してくれた……でもダンブルドアは、マッド・アイのように、シリウスのように、両親のように、かわいそうなふくろうのように、みんな逝ってしまった。ハリーは二度と彼らと話すことができない。ファイア・ウィスキーとは関係なく、喉に焼けつくものを感じた……
そのとき、いきなり傷口の痛みが頂点に達した。こめかみを掴んで目を閉じると、頭の中からかん高い声が聞こえてきた。
「お前は、別の杖を使えば、問題は解決すると言った!」
そして、忽然と心の中に幻が浮かんだ。やせ衰えた老人が、床のぼろ切れの上に倒れて、叫び声を上げていた。恐ろしい、ずっと長く続く叫び声、絶えられない苦悶の叫び声だった……
「違います! 違う! お願い、お願いですから……」
「お前は、このヴォルデモート卿に嘘をついたな、オリバンダー!」
「いいえ……いいえ、誓って……」
「お前は、ポッターを助け、私から逃れる手助けをしようとした!」
「誓って、そんなことは……別の杖なら、大丈夫なはずでした……」「それなら、何が起きたのか説明せよ。ルシウスの杖は、破壊されたぞ!」
「分からない……つながりが……存在するのは、ただ……あなた方二人の杖のあいだだけで……」
「嘘つきめ!」
「どうか……頼むから……」
ハリーは白い手が杖を構えるのを見た。そして、ヴォルデモートの凶暴な怒りを感じると、弱弱しい老人が身もだえしながら床に倒れた。
「ハリー?」
幻影は、始まったのと同じように、さっと終わった。ハリーは暗闇の中に震えながら立ち、庭の入り口の戸をつかんでいた。心臓は高鳴り、傷跡はまだひりひりと痛んだ。数分たってやっと、彼は、ロンとハーマイオニーが、側にいるのに気がついた。
「ねえ、家にいなきゃだめだよ、相棒」とロンが言いながら、ハリーの背中をドンとたたいた。
「大丈夫?」ハーマイオニーが、近くに来て、顔をのぞきこみながら尋ねた。「ひどい顔してるわ!」
「うーん」とハリーが震えながら言った。「きっとオリバンダーよりは、ましだと思うよ……」
彼が、見たことを語りおわったとき、ロンはぞっとしたようだったが、ハーマイオニーは完全に恐がっていた。
「でも、それ、止まったはずだったのに! あなたの傷跡が――もう、そんなふうにならないはずだったのに! その繋がりを復活させちゃいけない――ダンブルドアは、閉心術を学ぶように望んでいたわ!」
ハリーが答えないので、彼女は彼の腕を掴んだ。
「ハリー、彼は魔法省と、新聞社と、魔法界の半分を乗っとってる! あなたの頭の中にまで、入らせちゃだめ!」
第6章 パジャマを着たグールお化け
The Ghoulin Pyjamas
マッド・アイを失った悲しみが、その後の日々も『隠れ家』を覆っていた。ハリーは、彼が、ニュースを知らせに出入りする他の騎士団のメンバーと同じように、重い足取りで裏の扉を通って入ってくるのを待ちつづけていた。彼は、罪の意識と悲しみを忘れ去るには、何か行動を起こすしかないと感じていた。なるべく早く出発して、ホークラックスを破壊するという彼の使命を果たさなくてはならない。
「うーん、君は何もできないよ――そのことに関しちゃ」
ロンは「ホークラックス」と口だけを動かした。「十七歳になるまでね。君はまだ魔法を使うと『跡』が残るから。それに、ここにいたって計画を立てるくらいのことは出来るだろ?」と、彼は声を落としてささやいた。「君はもう、『例のあの人』の居場所に心当たりでもあるのか?」
「いや」ハリーは認めた。
「ハーマイオニーが何か調べてるみたいだ」とロンが言った。「君がここに来る日のために備えてるって言ってたから」
彼らは、朝食を食べていた。ウィーズリー氏とビルは仕事に出かけたところだった。ウィーズリー夫人は、ハーマイオニーとジニーを起こしに上に行っていたし、フラーはお風呂に入りに、漂うように出て行った後だった。
「『跡』は三十一日になくなる」とハリーが言った。「てことは、あと四日ここにいればいいんだ。そしたら僕は」
「五日だよ」とロンがきっぱりと訂正した。「僕たち、結婚式にでなくちゃいけない。もし、欠席なんかすれば彼らに殺される」
ハリーは「彼ら」というのがフラーとウィーズリー夫人であるのを理解した。
「一日延びるだけさ」何か言いたげなハリーの顔を見て、ロンが付け加えた。
「『あの人たち』は事の重大さが分かってないんじゃない?」
「分かるわけないだろ」とロンが言った。「彼らには、手がかりがないんだから。そのことだけどさ、君に言っときたいことがあるんだ」
ロンは、玄関に続く扉をちらっと見て、ウィーズリー夫人がまだ戻ってこないのを確かめ、それからハリーの方にぐっと体を寄せた。
「ママは、ハーマイオニーと僕から探りだそうとしてる。僕たちが何をやろうとしてるのかをさ。次は、君から聞き出そうとするだろうな。だから心の準備をしておくんだ。パパとルーピンの二人も同じように聞いたけれど、ダンブルドアが僕たち二人の他には誰にも話すなって言ってたって話したら、諦めたよ。でも、ママは違う。頑固なんだ」
ロンの予想は、数時間後に実現した。お昼ご飯の少し前、ウィーズリー夫人が、他の人たちからハリーを離して、片方しかない男物の靴下を、ハリーのリュックから出てきたものかと思うので、見てほしいと頼んだ。彼を小さな洗い場に追いつめるとすぐ、彼女は始めた。
「ロンとハーマイオニーは、あなた方三人まとめてホグワーツを止めると思ってるみたい」と、軽いくだけた口調で言いはじめた。
「ああ」とハリーが言った。「そのう、うん、そうだけど」
隅の手まわし脱水機がひとりでにまわって、ウィーズリー氏のベストらしきものを絞った。
「なぜ学校教育を受けるのを放棄するのかしら?」とウィーズリー夫人が言った。
「あのう、ダンブルドアが僕に言い遺したので……やるべきことを」とハリーがもごもごと言った。
「ロンとハーマイオニーはそのことを知ってて、一緒に行くと言ってくれたんです」
「どんな『こと』?」
「すみません、けど……」
「あのね、率直に言って、アーサーと私は知る権利があると思うの、それにグレンジャー夫妻だって同意見だと思うわ!」とウィーズリー夫人が言った。ハリーは「心配そうな親」の攻撃を恐れていた。彼は、無理に彼女の目をまっすぐに見るようにした。見ていると、ジニーの茶色の目と全く同じ色あいをしていることに気がついた。かといって、どうしようもなかった。
「ダンブルドアは、他の誰にも知られたくなかったんです、おばさん。ごめんなさい。ロンとハーマイオニーは行かなくてもいいんだけれど、それは彼らが決めることで――」
「あなただって行かなくてもいいと思うわ!」彼女が、がみがみと言った。もう、取り繕うのを完全に止めていた。
「あなた、やっと成人するところよ。あなたたちみんな! 全くナンセンスだわ。ダンブルドアが何かやらなければならなかったら、騎士団に命令すればいいのよ! ハリー、あなたは彼を誤解してるんだわ。多分彼は『やらなければならないこと』をあなたに話して、それを『あなたがやらなければならないこと』のように理解したんじゃないの?」
「僕は、彼の言葉を、まちがって理解してない」とハリーは、きっぱりと言った。「僕に課せられたことなんだ」
彼は、彼のだと思われていた靴下の片方を彼女に返した。それには金色のパピルスの模様が入っていた。
「それに、これは僕のじゃないよ。僕はパドルメア・ユナイテッドのファンじゃないから」
「ああ、もちろん違うわね」とウィーズリー夫人が、びっくりするほど急にくだけた口調に戻って言った。「分かってたはずなのに。ええと、ハリー、まだあなたが、ここにいる間にビルとフラーの結婚式の準備を手伝ってくれない? まだたくさんやることがあって」
「うん……もちろんお手伝いします」と、ハリーは、突然話題が変わったので、狼狽しながら言った。
「いい子ね」彼女は答えた。そして、洗い場を出ていくとき微笑んだ。
そのときから、ウィーズリー夫人は、ハリーとロンとハーマイオニーを、結婚式の準備で忙しくさせつづけたので、彼らはほとんど考える暇がなかった。この仕打ちに対する最も親切な説明は、彼らの思いを、マッド・アイのことや、こないだの道中の恐怖から逸らしておきたいというものだった。けれど、ナイフやフォークやスプーン磨き、記念品やリボンや花の色合わせ、庭から小人を追い出すこと、それにウィーズリー夫人が、とてもたくさんのカナッペを作るのを手伝うことを休みなしに二日間やらされたあげく、ハリーは、彼女に別の魂胆があるのではないかと疑いはじめた。彼女に割り当てられた仕事は全部、ハリーとロンとハーマイオニーを互いに離しておくようだった。ヴォルデモートがオリバンダーを拷問していることを話した最初の夜以来、二人と話す機会がなかった。
三日目の夜、夕食の準備を一緒にしながら、ジニーは小さな声でハリーに話しかけた。「ママは、もし、あなたたち三人を一緒にして計画を立てるのを止めさせれば、あなたたちの出発を遅らせることができるとでも思ってるみたい」
「そしたら、どうなると思ってるんだろう?」ハリーが呟くように言った。「彼女がヴォロヴァン(肉、魚、キノコをソースであえてパイに詰めたフランス料理)を作って、僕たちをここに引き留めているあいだに、他の誰かがヴォルデモートを殺すだろうって?」
ハリーは何も考えずに言葉を発した。そしてジニーの顔が真っ白になったことに気がついた。
「じゃ、それって、ほんとのこと?」彼女が言った。「それが、あなたがやろうとしていることなの?」
「僕は――違う。冗談だよ」とハリーは曖昧に言った。
二人は見つめあった。ジニーの表情の中にはショックよりも深い感情があった。突然ハリーは、ホグワーツの校庭の人目につかない隅で、こっそり二人で会って以来、初めて彼女と二人きりになったのだと気づいた。そして彼女も、それを思いだしているに違いないと思った。扉が開いたので、二人とも飛びあがった。ウィーズリー氏、キングズリー、ビルが入ってきた。しばしば騎士団のメンバーが夕食をともにしたのだ。『隠れ家』が、今ではグリモールド・プレイス十二番地のかわりに本部になっているからだった。ウィーズリー氏の説明によると、グリモールド・プレイスの秘密保持者であったダンブルドアの死後、ダンブルドアがグリモールド・プレイスの位置を打ち明けた人たちが順番に秘密保持者になっていた。
「そして、我々は二十人ほどいるから、忠誠の呪文の力は非常に弱くなっている。デス・イーターにとって、誰かから秘密を得るのに、二十倍もチャンスがあるからだ。あの家の秘密が、それほど長く持ちこたえられると期待してはいけない」
「でも、今までにスネイプがデス・イーターに住所を話しているのは確かなんじゃないの?」とハリーが尋ねた。
「いや、スネイプが再びグリモールド・プレイスに現れた場合に備えて、マッド・アイが、あそこに彼に対しての呪文を仕掛けていた。その効果が発揮されて、スネイプを追い出し、もし彼があの場所の位置を話そうとしても、舌が縺れて話せなくなるように期待しよう。だが、確信は持てない。あそこの防御が非常に危うくなった今、本部として使い続けるのはきちがい沙汰だ」
その夜、台所はとても混んでいたので、ナイフとフォークを使うのもままならなかった。ハリーは押されて、ジニーの側にいるのに気がついた。ハリーは、ついさっきジニーとの間に起きた出来事のことを思い出すと、もう少し離れて座りたかった。彼女の腕にさっと触れてしまうのを避けるのに、とても気を遣ったので、ほとんど鶏肉を切ることができなかった。
「マッド・アイのことで何か見つかった?」ハリーがビルに尋ねた。
「何も」とビルが答えた。
ビルとルーピンが遺体を回収できなかったので、ムーディの葬儀は出せなかった。暗かったのと、戦いの混乱とから、彼がどこに落ちたのか見つけるのは難しかったのだ。
「日刊予言者新聞には、彼の死とか遺体発見とかについて一言ものっていなかった」とビルが続けた。「でも、それはたいした意味はない。最近、新聞は、多くのことを伏せているから」
「それに、僕がデス・イーターから逃れるために使った未成年者魔法使用についての公聴会は、まだ開かれないの?」ハリーはテーブルごしにウィーズリー氏に呼びかけた。彼は首を横にふった。「それは、僕がそうするしか仕方がなかった、と彼らに分かったのか、ヴォルデモートが僕を襲ったと世間に公表してほしくないのか、どっち?」
「後者の理由だと思うよ。スクリムジョールは、『例のあの人』が、それほど強力だということも、アズカバンで集団脱走があったことも、認めたくないのだ」
「うん、どうして大衆に真実を話さなくてはならないのか、つまり話す必要はないってこと?」とハリーが言った。ナイフをぎゅっとにぎりしめたので、右手の甲のかすかな傷跡が浮かびあがった。
『私は嘘を言ってはいけない』
「魔法省で、立ち向かおうとしている人は、誰かいないの?」とロンが怒って言った。
「もちろんいるさ、ロン、だがみんなひどく恐がっている」ウィーズリー氏が答えた。「次に姿を消すのは自分か、次に襲われるのは自分の子供かと、恐がっているのだ! 嫌な噂が流れている。私も、ホグワーツのマグル学の先生が辞職したという話を信じていない一人だ。彼女は、ここ数週間姿を見せていない。その間、スクリムジョールは、ずっと自室にこもりっきりだ。計画を立てていることを望むがね」
ウィーズリー夫人が、空になったお皿を魔法で脇に寄せ、リンゴのタルトを出すあいだ皆黙った。
デザートが行きわたると、「あなたがどんなふうに、変装するか決めなくちゃいけないわ、アリー」と、フラーが言った。ハリーがまごついているので、「結婚式でね」とつけ加えた。「もちろん、招待客の誰もデス・イーターではないわ。でもシャンパンを飲んだら、うっかり口を滑らさないという保証はないから」
この言葉から、彼女はまだハグリッドを疑っているのだと、ハリーは推測した。
「ええ、大事な点ね」とウィーズリー夫人がテーブルの上座から言った。彼女は、そこに座って、眼鏡を鼻の先にちょこんと乗せて、とても長い羊皮紙に走りがきした巨大な仕事のリストを細かく調べていた。「さて、ロン、部屋はきれいに片づけた?」
「どうして?」とロンが叫んでスプーンをテーブルに叩きつけて、母をにらみつけた。「どうして、僕の部屋を片づけなきゃいけないの? ハリーと僕は、今のままでいいよ!」
「数日後に、ここで、あなたのお兄さんの結婚式があるのよ、坊や」
「で、二人は僕の部屋で結婚するの?」とロンが怒りくるって言った。「とんでもない! そんなら、マーリンの名にかけて絶対に……」
「母親に向かって、そんな口をきくんじゃない」とウィーズリー氏が断固とした口調で言った。「言われた通りにしなさい」
ロンは両親をにらみつけ、それからスプーンを取りあげ、リンゴのタルトの残りを猛烈な勢いで数口でたいらげた。
「手伝うよ、ぐちゃぐちゃの一部は僕のだから」ハリーがロンに言ったが、ウィーズリー夫人が割って入った。
「いいえ、ハリー、あなたは、アーサーがヒヨコに肥やしをやるのを手伝ってほしいわ。それからハーマイオニー、デラクール家のためにベッドのシーツを取り替えてくれたら、とてもありがたいんだけれど。ほら、明日の朝、十一時にお着きになるから」
しかし、ヒヨコの世話は、ほとんどすることがないのが分かった。
「モリーには、そのう、言わなくてもいいが、」ウィーズリー氏が、鶏小屋の入り口をふさぎながら、ハリーに言った。「そのう、テッド・トンクスがシリウスのオートバイの残骸を送ってきたので、でな、ここに隠してある、つまり、保管してあるんだ。こいつはすごいよ。エクゾースト・ガスキン、この名前でいいんだと思うけど(注:本当はエクゾースト・ガスケット)、最高のバッテリー、それに私はこいつでブレーキの仕組みを勉強しようと思っている。モリーがいないとき、つまり、私の自由時間に、すべての部品を組み立て直したいんだ」
彼らが家に戻ってくると、ウィーズリー夫人はどこにもいなかったので、ハリーはこっそりとロンの屋根裏部屋に上がっていった。
ハリーが部屋に入ったとき「やってる、やってるってば! 何だ、君か」とロンが、ほっとしたように言った。ロンはベッドの上にひっくりかえっていた。そこだけ、ものをどけたばかりなのが、すぐ分かった。部屋は、いつものように、ぐちゃぐちゃだった。ただ一つ違うのは、遠くの隅にハーマイオニーが座っていて、本を分けて二つの大きな山に積んでいることだった。その足下に、ふわふわした毛のショウガ色のネコ、クルックシャンクスがいた。その本の中には、ハリーのもあるのが分かった。
「あら、ハリー」と彼女が言った。ハリーは折りたたみ式ベッドに座った。
「どうやって抜けだしたの?」
「ああ、ロンのママが、昨日ジニーと私にシーツを替えるように頼んだのを忘れてたのよ」とハーマイオニーが言った。そして「数占いと文法」を一つの山に、「闇魔術の勃興と凋落」を、もう一つの山に放りなげた。
「マッド・アイのことを話してたとこだよ」ロンがハリーに言った。彼は生きのびたかもしれないと思うんだけど」
「でも、彼が死の呪いにやられるのを、ビルが見たよ」とハリーが言った。
「うん、だけどビルだって攻撃されてたから、」とロンが言った。「どうして、絶対見たと言えるんだい?」
「もし、死の呪いが、はずれたとしても、マッド・アイは三百メートルくらい落ちたのよ」とハーマイオニーが言った。今度は、「イギリスとアイルランドのクィディッチ・チーム」を手に乗せて重さを量っていた。
「盾の呪文を使ったかも――」
「フラーが、彼の杖は吹きとばされたって言ってた」とハリーが言った。
「うーん、分かったよ、君たちが、彼を死んだことにしたいんなら」とロンが機嫌悪く言いながら、枕をぼこぼこたたいて、寝心地がいい形にした。
「もちろん、私たちが、彼を死んだことにしたいわけじゃないわ!」とハーマイオニーがショックを受けたように言った。「彼が亡くなったなんて恐ろしいことよ! でも、私たち現実を見つめなくちゃ!」
初めて、ハリーは、マッド・アイの遺体を想像した。ダンブルドアの遺体のように壊れ、それでもなお眼窩の中で片方の目がぐるぐる回っているところだ。彼は、笑いたいという奇怪な欲望と嫌悪感が入り混じって、胸を一刺しにした。
デス・イーターが、きっと後から片づけたから、誰も彼を見つけられないんだ」とロンが賢明な意見を述べた。
「うん」とハリーが言った。「一本の骨に変えられ、ハグリッドの前庭に埋められたバーティ・クラウチのように。彼らは、きっと変身させて、埋めたんだ――」
「止めて!」とハーマイオニーがかんだかい声を上げた。ハリーが、びっくりして、そちらを見ると、彼女が「呪文者の字音表」の本ごしに、わっと泣きだしたのが分かった。
「ああ、そんな」とハリーが言って、古い折りたたみ式ベッドから、なんとか立ちあがろうとした。「ハーマイオニー、君をうろたえさせるつもりじゃなかった――」
けれど、さびたベッドのバネが大きな音できしんで、ロンがベッドから飛びだして、先に着いた。彼女の背中に片手を回して、ジーンズのポケットを手探りし、前にオーブンを拭くのに使った、胸が悪くなるような汚いハンカチを引っぱりだして、急いで杖を出して、ぼろ布を指し、「テルゲイオ! <綺麗になれ>」と言った。
杖は、油の大部分を吸いだした。少し得意そうに、ロンは、わずかに湯気が立つハンカチをハーマイオニーに差しだした。
「まあ……ありがと、ロン……ごめんなさい……」彼女は鼻をかんで、しゃくりあげた。「ほんとひど、ひどいわよね? こ、こないだダンブルドア先生が……あ、あたしはぜ、ぜったいにマッド・アイは死なないと思ってたわ。だって彼はあんなにタフだったもの!」
「うん、分かる」とロンが、肩に回した腕に力をこめて言った。「でも、彼がここにいたら、なんて言うか分かる?」
「不、不断の警戒」と、ハーマイオニーが涙を拭きながら言った。
「その通り」とロンが言いながら、頷いた。「彼に起こったことから学べって、言うだろう。僕たちが学んだのは、臆病で、取るに足りないやつ、チビのマンダンガスを信用するなってことさ」
ハーマイオニーは弱々しく笑って、前かがみになり、また本を二冊取りあげた。すぐ後でロンが、彼女の肩に回していた腕をさっと引っこめた。彼女は、「怪物について書かれた、怪物のような本」をロンの足下に取りおとした。本は、締めてあったベルトがはずれて自由になり、ロンのかかとに凶暴にぱくっとかみついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」ハーマイオニーが叫んだ。ハリーがロンの脚から本をもぎ取り、閉じて、またベルトで締めた。
「いったい、この本で何やってるの?」ロンが、片足をひきずってベッドに戻りながら尋ねた。
「持ってく本を決めようとしてるの」とハーマイオニーが言った。「私たちが、ホークラックスを探しにいくとき」
「ああ、なるほど」とロンが額を片手でポンとたたいて言った。「僕たちが、移動図書館の中で、ヴォルデモートを追跡するのを忘れてた」
「ははーん」ハーマイオニーが『スペルマンの音節文字表』を見下ろしながら言った。「どうかしら……ルーン文字の翻訳は、いるかな? いる可能性はある……念のため、持っていった方がいいと思うわ」
彼女は、字音表を大きい方の本の山に落とし、「ホグワーツの歴史」を取りげた。
「聞いて」とハリーが言った。
彼は、背筋を伸ばして座った。ロンとハーマイオニーは、あきらめと挑戦的態度が混じった同じような表情で、彼を見た。
「君たちが、ダンブルドアの葬儀の後で、僕と一緒に行きたいといったことは分かってる」ハリーが言いはじめた。
「ほら、始まった」ロンが、目をぐるりと回しながら、ハーマイオニーに言った。
「そう言うだろうと思っていたとおりだわ」彼女はため息をついて、本の山に向きなおった。「『ホグワーツの歴史』は持っていこうと思うわ。学校へ戻らないとしても、これを持っていかなかったら、落ち着かないと――」
「聞いて!」とハリーがまた言った。
「いいえ、ハリー、あなたが聞いて」とハーマイオニーが言った。「私たち、あなたといっしょに行くわ。それは何か月も前に決まったこと、何年も前ね、ほんとは」
「でも……」
「黙れよ」ロンが彼に忠告した。
「――君たち、ほんとに、このこと、ちゃんと考えたの?」ハリーが、辛抱強く言いつづけた。
「あのね」とハーマイオニーが言いながら、「トロールとの旅」を不要の本の山の上に、猛々しい表情で、叩きつけた。「私は、何日もかかって荷造りをしてきたの。ほんの少し時間があれば、いつでも出発できるわ。その中には、一応知らせてあげるけど、かなり難しい魔法も含まれているのよ。マッド・アイのポリジュース薬の在庫全部を、ロンのママの鼻先から掠め取ってきたし」
「私は両親の記憶も修正して、ウェンデルとモニカ・ウィルキンスという名前で、生涯の望みがオーストラリアに移住することだというふうにしたの。今、二人はそこにいる。ヴォルデモートが居所を突き止めて私のことで尋問しようとしたって、そう簡単にはいかないわ――それから、あなたについてもね。残念だけど、私、あなたのことをたくさん親に喋っちゃったから」
「もし私がホークラックス探しで生き延びれば、ママとパパを見つけだして魔法を解く。もし、帰ってこれなかったら……いい魔法をたくさん掛けておいたから、健康で安全に過ごすと思うわ。ウェンデルとモニカ・ウィルキンスは、ほら、子供がいるって知らないのよ」
ハーマイオニーの目には、また涙が溢れた。ロンがまたベッドから起きだして、もう一度彼女の肩に腕を回し、ハリーの気のきかなさをとがめるように、顔をしかめて彼を見た。ハリーは何も言うことを思いつかなかった。特に、ロンが他の人に気の利かせ方を教えるなんて、極めて普通でないことだ。
「僕は……ハーマイオニー、ごめん……僕はちっとも……」
「もし、あなたといっしょに行ったら何がおこる可能性があるか、ロンと私が完璧によく知ってるってことが、分からないの?あのね、私たちは知ってるわ。ロン、あなたがしたことを、ハリーに見せて」
「いやぁ、だってあいつはご飯を食べたばかりだぜ?」とロンが言った。
「さあ、ハリーに知らせなきゃならないの!」
「ああ、分かった。ハリー、来いよ」
二度目に、ロンはハーマイオニーの肩から腕を引っこめ、扉の方に歩いていった。
「さあ」
「どうして?」ハリーは聞きながら、ロンの後について部屋を出て、小さな踊り場に来た。
「ディセンド<下りろ>」ロンが呟くように言って、杖を低い天井に向けた。彼らの頭の真上で、くぐり戸が開いて、はしご段が足下まで滑りおりてきた。吸いこむのと、うめくのと半々の恐ろしい物音が四角い穴から聞えてきた。排水口を開けたような不快な臭いもただよってきた。
「あれは、君のグールだろ?」とハリーが尋ねた。時たま、夜の静寂をかき乱すその生き物に、実際に会ったことはなかった。
「うん、そう」とロンが言いながらはしご段を上った。「ちょっと見にこいよ」
ハリーは、ロンの後について短い数段を上り、ちっぽけな屋根裏に入った。頭と肩の六十センチばかり前に生き物が丸くなっているのが目に入った。それは、口を大きく開けて、薄暗がりの中でぐっすり寝込んでいた。
「でも、それ……それって……グールって、普通パジャマを着るの?」
「いや」とロンが言った。「いや、ふつうは赤毛じゃないし、そんなたくさんの吹きでものもないよ」
ハリーは、ほんの少し目を逸らしながら、それを観察した。それは、形と大きさは人間くらいだった。そして、暗がりに慣れてきたハリーの目に、はっきりとロンの古いパジャマと分かるものを着ていた。グールは、ふつうはぬるぬるで、はげたものだと思っていたが、これは明らかに毛がふさふさしていて、痛そうな紫の水泡が一面にできていた。
「それ、僕だよ、分かる?」とロンが言った。
「いいや」とハリーが言った。「分からない」
「部屋に戻って説明する。臭くてたまんない」とロンが言った。彼らが、はしご段を下りると、ロンがそれを天井に戻し、まだ本を、より分けているハーマイオニーのところに来た。
「僕たちが出発したら、グールが下りてきて僕の部屋に住むんだ」とロンが言った。「あいつは、ほんとにそれを待ち望んでいると思う。うーん、説明するの、むずかしいけど、あいつができるのは、呻くことと、よだれをたらすことなんだけど、そのことを話題にすると、たくさん頷くんだ。どっちみち、あいつは、スパテルグロイト病(黒斑病)に罹った僕なんだよ。いいだろ?」
ハリーは、さっぱり分からないままのようだった。
「いいってば!」とロンが、ハリーが、その計画のすばらしさがつかみ切れないのに、明らかにじりじりして言った。「ほら、僕たち三人ともがホグワーツに来なかったら、みんな、ハーマイオニーと僕が、きっと君と一緒に行ったと思うだろ? てことは、デス・イーターが、まっすぐに僕たちの家族のとこに来るってことだ。君の居場所を知ってるかもしれないと思ってさ」
「でも、私は、ママとパパといっしょに逃げだしたように見えるといいんだけど。マグル出身者がたくさん、しばらく隠れようかと話してるし」とハーマイオニーが言った。
「僕の家族全部を隠すわけにはいかない。それじゃ、あまりに怪しいし、みんな仕事をやめるわけにはいかないからね」とロンが言った。だから、僕がスパテルグロイト病で重体だから学校に来れないって話をでっちあげることにしたんだ。もし、誰かが偵察に来たら、ママかパパが、ベッドに寝てる吹きでものだらけのグールを見せればいい。スパテルグロイト病は、ほんとに伝染するから、あいつに近寄りたがらないよ。あいつが何も言えなくても問題じゃない。菌が喉中に広がったら、しゃべれないからね」
「君のママとパパはこの計画に加わってるの?」とハリーが尋ねた。
「パパは、そうだよ。フレッドとジョージが、グールを変身させるのを手伝ってくれた。ママは……うーん、どんな風か見ただろ? 僕たちが居なくなるまで、賛成はしないと思うよ」
部屋の中に沈黙が流れた。時折、相変わらずハーマイオニーが本をあっちの山かこっちの山に投げるときにどさっという音がするだけだった。ロンは座って彼女を見ていた。ハリーは何も言えずに、二人を交互に見ていた。彼らが、家族を守るために取った手段が、他のどんなことよりも、彼らがほんとうに、自分といっしょに行くつもりなのだ、そしてそれがどんなに危険なことか分かっているのだ、ということを彼に悟らせた。それがどんなにありがたいことか、彼らに言いたかったが、そんなに重大な気持ちをあらわす言葉が見つからなかった。
沈黙を通して、ウィーズリー夫人が、下の三階から叫ぶ声が、くぐもって聞こえた。
「ジニーが、きっとけちなナプキン・リングの、ほんのちょっぴりの埃を拭きわすれたんだよ」とロンが言った。「デラクール家が、どうして結婚式の二日前に来るのか分かんない」
「フラーの妹が、花嫁のつきそいで、リハーサルのために、ここにいなくちゃならないけど、小さすぎて一人では来れないから」と、ハーマイオニーが言いながら、「女幽霊バンシーとの、ひととき」をどうしようかと決めかねて、じっと見た。
「うーん、お客は、ママのストレスを減らす役には立たないよ」とロンが言った。
「私たちが、ほんとうに決めなくちゃいけないのは」とハーマイオニーが言って、「防御的魔法理論」を、二度と見ないでゴミ箱に入れ、「ヨーロッパの魔法教育の評価」を拾いあげた。「ここを出発してどこに行くかってこと。あなたが、最初にゴドリック盆地に行きたいと言ったのは知ってるわ、ハリー。その理由も分かってる、でも……あのね……ホークラックスを優先事項にすべきじゃない?」
「もし、ホークラックスがどこにあるか知っていれば、君に賛成だ」とハリーが言った。彼は、ハーマイオニーが、ほんとうにゴドリック盆地に戻りたいという理由を理解しているとは思わなかった。両親の墓は、その魅力の一部にすぎなかった。その場所に、彼への答えがあると、説明はつかないが、強く感じていた。多分それは、ただ彼がヴォルデモートの殺人の呪文から生き延びた場所だからというだけかもしれない。ヴォルデモートから生き延びるという妙技をもう一度繰り返さなくてはいけないという困難な事態に直面して、彼は、かつて、それが起こった場所に引きつけられていた。それを理解したかった。
「ヴォルデモートがゴドリック盆地を見はっている可能性があると思わない?」ハーマイオニーが尋ねた。「あなたが、どこでも好きなところに行けるようになったら、そこに行って、両親のお墓参りをするのを期待しているかもしれないじゃない?」
これは、ハリーに思いつかなかった。彼が、反論しようと苦闘していると、明らかに自分だけの考えを追っていたロンが、口を開いた。
「この、R.A.B.って人」彼は言った。「ほら、本物のロケットを盗んだ人だけど?」
ハーマイオニーが頷いた。
「彼は、メモの中で、それを破壊するつもりだって書いてただろ?」
ハリーは、リュックを引っぱりよせ、偽のホークラックスを引きだした。その中には、まだ、R.A.B.のメモが折り畳んで入っていた。
「『私は、本物のホークラックスを盗んで、できるだけ早く破壊するつもりだ』」ハリーは声を出して読んだ。
「ええと、もし彼が破壊してたらどう?」とロンが言った。
「彼女かも」とハーマイオニーが口をはさんだ。
「どっちにしても」とロンが言った。「そしたら、僕たちのが一個減るよ!」
「ええ、でも私たちは、やっぱり本物のロケットの跡をたどらなくちゃいけないでしょ?」とハーマイオニーが言った。「それが、破壊されたかどうか知るためにね」
「で、もし手に入ったら、どうやってホークラックスを破壊するの?」とロンが尋ねた。
「あのね」とハーマイオニーが言った。「私、それを調べていたのよ」
「どうやって?」とハリーが尋ねた。「図書室にホークラックスのことを書いた本はなかったと思うけど?」
「なかったわ」とハーマイオニーが言った。その顔がピンク色に染まった。「ダンブルドアが全部移動させたの。でも彼は……彼は本を破棄はしなかった」
ロンが、目を見開き、背中をぴんと伸ばして座った。
「マーリンのパンツにかけて、いったいぜんたいどうやってホークラックスの本を手に入れたのさ?」
「それは……盗まれてはいないわ!」とハーマイオニーが、やけっぱちになったようにハリーからロンを見た。「たとえダンブルドアが図書室の棚から取ったって、それはまだ図書室の本だから。どっちみち、彼が本当に、そういう本に誰かが手を伸ばしてほしくないと思ったのなら、もっと難しくしたはずよ……」
「核心をついてる!」とロンが言った。
「あのう……簡単だったわ」とハーマイオニーが小さな声で言った。「呼び出しの呪文をかけただけなの。ほら……アクシオ。そしたら……ダンブルドアの書斎の窓から女子寮まで、まっすぐに飛んできたの」
「でも、いつの間に?」
ハリーが尋ねたが、賞賛と信じられない思いが、混じった気持ちでハーマイオニーを見ていた。
「すぐ後、彼の……ダンブルドアの……お葬式の」とハーマイオニーが、もっと小さな声で言った。「私たちが、学校をやめてホークラックスを探しにいくって言ったすぐ後。私が、自分のものを取りに階段を上がったとき……それについて、知れば知るほどいいんじゃないかって……で、私は、一人だったから……やってみたの……そしたら、うまくいって、本が、まっすぐに開いた窓から飛びこんできた。で、私、――それを荷物に詰めたの」
彼女は、喉をごくりとならし、懇願するように言った。「ダンブルドアはきっと怒らないと思う。私たちは、ホークラックスをつくるためにその情報を使うわけじゃないもの、そうでしょ?」
「僕たちが不平を言うの聞いた? 言ってないよ」とロンが言った。「とにかく、本はどこだい?」
ハーマイオニーは少しのあいだ、本の山をかきまわして探していたが、その中から、色あせた黒皮で束ねられた大きな本を引っぱりだした。彼女は、少し吐き気を催したような顔をして、それが最近死んだものであるかのように恐る恐る手に取った。
「これは、ホークラックスの作り方が、はっきり書いてある本。『最も暗い闇魔術の秘密』……これは恐ろしい本よ。ほんとにぞっとする、邪悪な魔法でいっぱい。ダンブルドアは、いつこれを図書室からどけたのかしら……もし、彼が校長になるまで、そうしなかったのなら、ぜったいにヴォルデモートは、ここから必要なやり方をすべて得たのだと思うわ」
「なぜ、それなら彼はスラグホーンにホークラックスの作り方を聞かなくちゃならなかったんだろ。もし、もうその本を読んでいたのなら?」とロンが尋ねた。
「彼は、ただ魂を七つに分割したら、どんなことになるか知りたくて、スラグホーンに近づいただけだよ」とハリーが言った。「ダンブルドアは、リドルがスラグホーンに質問したときには、もうホークラックスの作り方を知っていたと確信していた。君の言うとおりだと思うよ、ハーマイオニー、それで、たやすく情報を得ることができたんだ」
「で、その本を読めば読むほど」とハーマイオニーが言った。「もっと恐ろしくなってきて、彼が、ほんとうに六つもつくったなんて信じられなくなってきた。魂を裂くと、残りの魂がどんなに不安定になるか、本の中で警告してるの。それも、ホークラックスをたった一つ作っただけでよ!」
ハリーは、ダンブルドアが言ったことを思いだした。ヴォルデモートは、「ふつうの邪悪さ」を超えて行動していると。
「一つに戻すやり方はないのかい?」ロンが尋ねた。
「あるわ」とハーマイオニーが虚ろな微笑みを浮べた。「でもそれはひどく苦痛を伴うの」
「なぜ? どうやるの?」とハリーが尋ねた。
「激しい後悔」とハーマイオニーが言った。「自分がしたことを心から感じなくてはならないの。補足説明があるわ。その苦痛で、その人は破滅するらしい。ヴォルデモートが、なんとかして、そうしようとするとは思えないでしょ?」
「そうだね」とロンが、ハリーが答える前に言った。「で、その本の中に、ホークラックスの破壊の仕方が書いてあるの?」
「ええ」とハーマイオニーが、朽ちた内蔵を調べているかのように、もろいページをめくった。「なぜなら、本の中で、ホークラックスにいかに強力な魔法をかけなくてはならないかを、闇の魔法使いに警告しているからよ。私が、ずっと読んだ限りでは、ハリーがリドルの日記にしたことは、ホークラックスを破壊する数少ない、ほんとうに簡単な方法の一つだったわ」
「何、バジリスクの牙で刺すこと?」とハリーが尋ねた。
「ああ、そりゃいい、それなら、すごくたくさんバジリスクの牙の在庫があるよ」とロンが言った。あれ、どうするのかなと思っていたんだ」
「バジリスクの牙でなくてもいいのよ」とハーマイオニーが辛抱強く言った。ホークラックスが修復不可能なほど、強い破壊力を持つものでなくてはだめなの。バジリスクの毒に対しては、たった一つしか効く薬がない。信じられないくらい、めったに手に入らないけど――」
「……フェニックスの涙」とハリーが頷きながら言った。
「そのとおり」とハーマイオニーが言った。「私たちの問題はね、バジリスクの毒ほど破壊力のあるものはめったにないってこと。それに、持ち運ぶのが、とても危険だしね。でも、それが、私たちが解決しなくちゃならない問題よ。だって、ホークラックスは裂こうとしても、強くたたいても、押しつぶそうとしても、だめなんだから。魔力で修復できないほど損傷させなくちゃ」
「でも、もし、魂が入ってる物を破壊したとしたって」とロンが言った。「中の魂が、出ていって、他のものの中に住みつくってことはないのか?」
「ホークラックスというのは、人間とは全く反対のものだから」
ハリーとロンが、さっぱり分からないという様子なのを見て、ハーマイオニーが急いで続けた。「ほら、もし私がたった今、剣を取り上げて、ロン、あなためがけて走っていって、それで、あなたを突きとおしたとしても、私は、あなたの魂を傷つけることは全くできないわ」
「そりゃ、ほんとに心が安まるだろうよ」とロンが言った。
ハリーが笑った。
「ほんとにね! でも、私が言いたいのは、体に何が起ころうと、魂は、損なわれず生きのびるってこと」とハーマイオニーが言った。「でも、それがホークラックスだと反対になるの。中にある魂のかけらは、生きのびるために、入れ物、つまり魔法のかかった体、が頼り。入れ物なしには、存在できないのよ」
「あの日記は、僕が刺したとき、死んだみたいだった」とハリーが、刺されたページからインクが血のように吹き出ていたのと、ヴォルデモートの魂のかけらが叫びながら消えていったのを思い出しながら言った。
「だから、日記がきちんと破壊されれば、その中に捕らわれていた魂のかけらは、もう存在しないの。あなたがやる前に、ジニーは日記を厄介払いしようとして、トイレに流したけど、言うまでもなく元通りだったわ」
「ちょっと待って」とロンが顔をしかめながら言った。「日記の中の魂のかけらはジニーを乗っとっただろ? だったら、どうして、そんなふうになったのさ?」
「魔法の入れ物が、まだ無傷なら、その中の魂のかけらは、その物体に、とても近づきすぎた人がいると、その人の中に、出たり入ったりできる。その物体を長く所有するってことじゃないの。手で触ることとは関係ないから」彼女は、ロンが口を開く前に、つけ加えた。「感情的に近いってことよ。ジニーは、あの日記に、彼女の心を注ぎこんで、とても傷つきやすくなっていた。ホークラックスを、好きになりすぎたり、頼りすぎたりすると、困ったことになるわ」
「ダンブルドアは、どうやって、あの指輪を破壊したんだろう?」とハリーが言った。「僕は、どうして聞かなかったんだろ? 僕は、ほんとに……」
彼の声は、だんだん小さくなった。彼は、ダンブルドアに聞くべきだったことをすべて考えていた。校長先生が亡くなってから、とても多くの機会を無駄にしてきたものだと考えていた。ダンブルドアが生きていれば、もっと多くを見つけだしていただろう……全てを見つけだしていただろう……
部屋の扉が、勢いよく開いて、その衝撃で壁がゆれた。ハーマイオニーは叫び声を上げて、「最も暗い闇魔術の秘密」を取りおとした。クルックシャンクスはベッドの下にさっと飛びこんで、いやそうにシューシューうなった。ロンはベッドから飛びおりて捨ててあった蛙チョコの包み紙に滑って、頭を反対側の壁にぶつけた。ハリーは本能的に、杖めがけて突進してから、見上げると、ウィーズリー夫人に気がついた。髪は乱れ、顔は怒り狂って、歪んでいた。
「おくつろぎの、小さな集まりをお邪魔して、まことに申しわけないんだけれど、」彼女は、震え声で言った。「あなたたちみんな休憩しなくてはね……でも私の部屋に結婚式の贈り物が山積みになっていて、分けなくてはいけないの。あなたたち、手伝ってくれるはずだと思っていたんだけど」
「あ、はい」とハーマイオニーが言って、恐がっているようにぴょんと立ちあがった拍子に、本を四方に飛びちらせた。「私たち……私たち、ごめんなさい……」
悩み苦しんでいる目つきで、ハリーとロンを見て、ハーマイオニーは、ウィーズリー夫人の後について、急いで部屋を出ていった。
「屋敷しもべになったみたいだな」とロンが小声でぶつぶつ言った。そしてまだ、ぶつけた頭をこすりながら、彼とハリーも後に続いた。「仕事に満足してないとこが、屋敷しもべと違うけど。結婚式が、早く終るほど、僕は幸せになるよ」
「うん」とハリーが言った。そしたら、僕たち、ホークラックスを見つける他、何も仕事がなくなる……休みの日みたいだね?」
ロンは、笑いだした。けれど、ウィーズリー夫人の部屋で結婚式の贈り物の巨大な山が待ちかまえているのを見ると、いきなり笑うのをやめた。
次の日、十一時に、デラクール一家が到着した。ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニーは、このときまでに、デラクール一家に対し、とても憤慨していた。それで、ロンが左右同じ柄の靴下を履きにドンドンと上に戻ったり、ハリーが髪をなでつけようとしながら、二人とも機嫌が悪かった。彼ら全員、身だしなみを整えると、そろって日の差す裏庭に出ていって訪問客を待った。
ハリーは、ここが、こんなにきちんとしたのを見たことがなかった。いつも、裏口の扉の階段に散らばっている錆びた大鍋や、古い長靴はなくなって、代わりに、新しい、ひらひら動くフラタビー・ブッシュの大きな植木鉢が二つ、扉の両側に置いてあって、そよ風もないのに、葉がゆったりとそよぎ、魅力的なさざ波のような効果を上げていた。ひよこは閉めだされていた。裏庭は、きれいに掃除してあって、近くの庭は、刈りこまれ、全体的に整っていた。もっとも、ハリーは、伸びすぎた状態が好きだったので、いつもそこにくっついてはね回るノームの姿がなくて、庭が寂しそうに見えた。ハリーは、『隠れ家』に、騎士団と魔法省によって、どのくらい多くの防御策が講じられているのか分からなかった。彼に分かるのは、ここに、直接、魔法で旅してくるのは不可能だということだけだった。そこで、ウィーズリー氏は、デラクール一家を迎えに近くの丘の頂上に行った。そこに、彼らはポートキーで着くことになっていたのだ。彼らが近づいてきた最初の物音は、異常にかん高い笑い声で、それが、ウィーズリー氏のだということが分かった。彼は、少しして門の所に現れたが、荷物を持ち、木の葉の緑色の長いローブを着た美しい金髪の女性を案内してきた。フラーの母に違いなかった。
「ママン!」とフラーが叫んで、前に飛び出し、彼女を抱きしめた。「パパ!」
デラクール氏は、妻と似ても似つかず全く魅力的ではなかった。妻より頭一つ低く、とても太っていて、先の尖った小さな黒いあごひげがあった。でも性格は良さそうだった。彼は、高いかかとの靴で、ウィーズリー夫人の方に、はねるようにやってきて、両方の頬に、それぞれキスをしたので、彼女はどぎまぎした(注釈:両頬にキスするのはパリの習慣)。
「たいそうお世話になりまして」彼は、深みのある声で言った。「とてもお忙しかったと、フラーから聞きました」
「まあ、とんでもない、とんでもない!」ウィーズリー夫人が、鳥がさえずるような声で言った。「全然、大変じゃありませんよ!」
ロンは、新しいフラタビー・ブッシュの鉢の陰からのぞいているノームめがけてけりを入れて、何か言いたいのを我慢した。
「親愛なるご婦人よ!」と、デラクール氏が、まだ、そのぽっちゃりした両手でウィーズリー夫人の手を握りながら、にっこり笑いかけた。「私たち二家族が、もうすぐいっしょになるのを、大変光栄に思っております! 妻の、アポリーヌをご紹介します」
デラクール夫人が、滑るように近づいてきて身をかがめて、やはりウィーズリー夫人にキスをした。
「アンシャンテ(初めまして)」彼女は言った。「ご主人が、とてもおもしろいお話をしてくださいましたわ!」
ウィーズリー氏が、気が触れたような笑い声をあげたが、ウィーズリー夫人が、ちらっと見たので、すぐに静かになり、病気の親友のお見舞いに行ったときのような表情をうかべた。
「それに、うちの妹ガブリエルには、もうお会いになりましたね!」とデラクール氏が言った。ガブリエルはフラーの小型版だった。十一才で、腰まで届く純粋な銀色の髪だった。彼女は、まばゆいばかりの微笑をうかべてウィーズリー夫人を抱きしめ、ハリーを、目をぱちぱちっとさせながら熱をこめて見つめた。ジニーが、大きな咳払いをした。
「あの、どうかお入り下さい!」とウィーズリー夫人が明るく言って、「いいえ、どうか!」と「どうぞお先に!」と「いいえ、ちっとも」を何度も言いながらデラクール一家を家の中に招き入れた。
デラクール一家が、手助けをしてくれる、愛想のいいお客だと言うことが、すぐに皆に分かった。彼らは、何でも喜び、結婚式の準備をお手伝いしましょうと熱心に言った。デラクール氏は、席順の案から、花嫁のつきそいの靴まで、すべてについて「シャルマン!(魅力的だ)」と言った。デラクール夫人は、家事の魔法にとても堪能で、オーブンをま叩くまにすっかりきれいにした。ガブリエルは、姉の後をついて回って、できるだけ手伝おうとし、早口のフランス語でぺらぺらとまくしたてた。
否定的側面としては、『隠れ家』は、こんなにたくさんの人を泊めるようにできていないことだった。ウィーズリー夫妻は、居間で寝ることになった。デラクール夫妻の抗議を大声で説き伏せ、寝室を提供したのだ。ガブリエルは、フラーと一緒に、パーシーの元寝室で寝て、ビルは、花婿つきそい人のチャーリーがルーマニアから着きしだい、部屋を共有することになっていた。ハリー、ロン、ハーマイオニーが、いっしょに計画を練る機会は、事実上存在せず、彼らは、やけになって、混みあった家から逃げだすためだけに、鶏にえさをやろうと申しでた。
「でも、ママは、まだ僕たちだけにさせようとしないんだ!」とロンががみがみと言った。裏庭で相談しようと企てたのが、ウィーズリー夫人が腕に大きな洗濯籠をかかえて現れたので、二度も失敗したのだ。
「あら、よかった、鶏にえさをやってくれたのね」彼女は、近づきながら呼びかけた。「明日、みんなが来る前に、鶏をまた閉めだした方がいいわ……結婚式の天幕を張るから」彼女は、立ち止まって鶏小屋に寄りかかりながら説明した。疲れはてているように見えた。「ミラマントの魔法の大天幕……とてもいいの。ビルが業者を連れてくるから……天幕を張る間、中にいた方がいいわ、ハリー。家の敷地のまわりに防御策の呪文がかかっている中で、結婚式をするのは、はっきり言って、とてもやっかいなことなの」
「ごめんなさい」とハリーが申しわけなさそうに言った。
「まあ、ばかなこと言わないでちょうだい!」とウィーズリー夫人が、すぐに言った。「そう言うつもりじゃ――そうね、あなたの安全の方がもっともっと重要よ!  実はね、お誕生日をどうやって祝ってほしいか聞きたいと思っていたの、ハリー。ついに、十七才ですもの、大切な日だわ……」
「騒いでほしくないな」とハリーが、すばやく言った。誕生日が、皆に余分なストレスの種になるのが目に見えた。「ほんとに、おばさん、ふつうの晩ご飯でいいから……結婚式の前の日だし……」
「あら、そうね、あなたが、それでいいんなら。リーマスとトンクスを招こうかしら?ハグリッドはどう?」
「それは、すごい」とハリーが言った。「でも、余分な仕事が増えないようにして」
「ちっとも、ちっとも……大変じゃないわ……」
彼女は、ハリーを長く探るような目つきで見た。それから少し悲しそうに微笑み、体を起こして歩いていってしまった。ハリーは、彼女が、物干し綱のそばで杖をふるのを見ていた。濡れた洗濯物が、空中に浮きあがって、ひとりでに綱にぶらさがった。そして突然、彼の存在がどれほどウィーズリー夫人に迷惑をかけているかと思うと、良心の呵責に苛まれた。
第7章 アルバス・ダンブルドアの遺言
The Will of Albus Dumbledore
夜明けの冷たい青い光の中、彼は山道に沿って歩いていた。はるか下には、霧に包まれている小さな町の影が見えた。探している男は、あそこにいるだろうか? その男がどうしても必要なので、他のことを何も考えられない。その男が、答えを知っているのだ。彼の問題に対する答えを……
「おい、起きろよ」
ハリーは目を開いた。昨日と同じように、ロンのすすけた屋根裏部屋の折りたたみ式寝台に寝ていた。太陽は、まだ昇らず、部屋はまだ薄暗かった。ピグウィジョンは、小さな羽根の下に頭を入れて眠っていた。ハリーの額の傷跡がちくちく痛んだ。
「寝言をぶつぶつ言ってたよ」
「僕が?」
「うん、『グレゴロビッチ』って。君、『グレゴロビッチ』って言いつづけてた」
ハリーは眼鏡をかけていなかった。ロンの顔が少しかすんで見えた。
「グレゴロビッチって誰だ?」
「知るわけないだろ? 君が、そう言ってたんだよ」
ハリーは、額をこすりながら考えた。ぼんやり、その名前を前に聞いたことがあるような気がしたが、どこだったか思いだせなかった。
「ヴォルデモートが、その人を探してるんだと思う」
「気の毒なやつ」と、ロンが熱をこめて言った。
ハリーは、ベッドの上に起きあがった。まだ傷跡をこすっていたが、すっかり目が覚めていた。夢の中で見たことを、正確に思いだそうとしたが、ずっと続く山並みと、深い谷に抱かれた小さな村の輪郭しか思いだせなかった。
「彼は、外国に行ってるんだと思う」
「誰のこと? グレゴロビッチが?」
「ヴォルデモート。彼は、どこか外国に行って、グレゴロビッチを探してるんだと思う。イギリスの風景じゃないみたいだった」
「また、彼の心の中を覗いてたのか?」
ロンが、心配しているような口調で言った。
「頼むから、ハーマイオニーには言わないでくれ」とハリーが言った。「僕が夢の中で何か見ないように、どんなに彼女が望んだって……」
彼は、小さなピグウィジョンの籠を見あげて、考えた……どうして『グレゴロビッチ』の名を聞いたことがあるんだろう?
「僕、思うんだけど」彼は、ゆっくりと言った。「クィディッチに関係あるんじゃないかな。何かつながりが、でも――それがなんだか思いだせない」
「クィディッチ?」とロンが言った。「きっと、ゴルゴビッチのことを考えていたんじゃないか?」
「誰?」
「チェイサーのドラゴミル・ゴルゴビッチ。二年前に、すごい大金でチャドリー・キャノンズに移籍した。今シーズンのクァッフル得点の記録保持者だよ」
「違う」とハリーが言った。「絶対に、ゴルゴビッチのことなんか考えてない」
「僕だって考えてないよ」とロンが言った。「ええと、とにかく、誕生日おめでとう」
「わあ――そのとおりだ、忘れてた! 僕、十七歳だ!」
彼は、折りたたみ式寝台の横に置いてあった杖を掴むと、眼鏡が置いてある散らかった机に向けて、「アクシオ<来い>、眼鏡!」と言った。それは、ほんの一フィートしか離れていなかったけれど、それが自分に向かって飛んでくるのを見ると大いに満足した。眼鏡が彼の目に激突するまでは。
「うまい」とロンが鼻をならした。
ハリーは、『跡』がなくなったのを喜びながら、ロンの持ち物を部屋じゅう飛びまわらせたので、ピグウィジョンが目を覚まし、興奮して籠の中をぱたぱた飛びまわった。ハリーは、スニーカーの紐を魔法で結ぶのもやってみた、(できた結び目を手でほどくのに数分かかった)。それから、まったくの遊びで、ロンのチャドリー・キャノンズのオレンジ色のローブを鮮やかな青に変えた。
「僕ならズボンの前のファスナーは手でやるよ」ロンが、にやにやしながらハリーに忠告したので、ハリーは慌てて自分のファスナーを調べた。「これ、プレゼントだよ。ここであけて。ママに見つからないように」
「本?」とハリーが、長方形の包みを手にして言った。「今までと、ちょっとかけ離れてない?」
「普通の本じゃないぜ」と、ロンが言った。「希少価値がある。『魔女を魅惑する絶対に確実な十二の方法』。女の子について知っておかなくちゃならないことが全部書いてある。もし、去年これを持ってたら、どうやってラベンダーを追っ払ったらいいかちゃんと分かったのに、……それと、うまくいく方法もね。いや、フレッドとジョージが一冊くれたので、すごく勉強になった。君だってびっくりするよ。杖で何とかするんじゃ、全然ないんだ」
彼らが、台所に行くと、テーブルの上にプレゼントが山積みになっていた。ビルとデラクール氏は朝食を終えたところで、ウィーズリー夫人がフライパンを手に、お喋りしていた。
「アーサーが、あなたに、十七歳のお誕生日おめでとうって言ってたわ、ハリー」とウィーズリー夫人が、にっこり笑いかけながら言った。「今朝、早くに仕事に行かなくてはならなかったの。でも夕食には戻ってくるわ。いちばん上のが、私たちからのプレゼントよ」
ハリーは座って、指された四角い箱を手にとって開けた。中には、去年、ウィーズリー夫妻が、十七歳の誕生日にロンにあげたのと、とてもよく似た腕時計が入っていた。それは金でできていて、針の代わりに、星々が文字盤の上を回っていた。
「魔法使いが成人したら、腕時計をあげるのが伝統なのよ」とウィーズリー夫人が、コンロの端から、心配そうにハリーを見ながら言った。「残念ながら、それは、ロンのと違って新品じゃないの。実は、私の弟のファビアンのものだったのだけれど、彼は、自分の持ち物に恐ろしく無頓着でね、後ろが少しへこんでるのよ、でも……」
彼女の話は途中で途切れた。ハリーが立ち上がって、彼女を抱きしめたからだった。彼は、その中に、言葉にできないたくさんの思いを込めようとし、きっと彼女も、それを理解したのだろう。ハリーが離れたとき、彼の頬を、彼女がぎこちなく軽く叩いたからだ。それから、彼女は、少しばかりいい加減に杖を振ったので、ベーコンの半分がフライパンから飛びだして床に落ちた。
「お誕生日おめでとう、ハリー!」とハーマイオニーが言いながら、台所に駆けこんできて、自分のプレゼントを山の上に加えた。「たいしたものじゃないの。でも気にいってくれるといいけど。あなたは、何をあげたの?」彼女は、ロンに向かってつけ加えた。彼は聞こえないふりをした。
「さあ、ハーマイオニーのを開けなよ!」とロンが言った。
彼女のプレゼントは、新しいスニーコスコープだった。他のプレゼントは、ビルとフラーからの魔法のカミソリ(「ああ、そう、これは、他のどれよりなめらかに剃れるよ」デラクール氏がうけあった。「ただ、どうしたいかをはっきりと言わなくてはだめだ……でないと、思ったより短くなりすぎるかもしれないよ……」)、デラクール家からのチョコレート、フレッドとジョージからのウィーズリーズ・ウィザード・ウィージズの新製品の巨大な箱だった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーはテーブルにぐずぐず長居はしなかった。デラクール夫人、フラー、ガブリエルが来たので台所が混みあって、いごこちが悪くなったからだ。
「あなたのために、これ荷物に詰めてあげる」ハーマイオニーが元気よく言って、三人が上に戻るとき、ハリーの腕からプレゼントを取りあげた。「もうほとんど詰めおわったわ。あなたたちのパンツが洗濯しおわるのを待ってるだけよ、ロン――」
ロンのおしゃべりが二階の扉が開いたのでさえぎられた。
「ハリー、ちょっとここへ来てくれない?」
それはジニーだった。ロンがいきなり止まったが、ハーマイオニーが肘をつかんで、引きずって階段を上っていった。緊張しながら、ハリーはジニーについて部屋に入った。
これまで、ジニーの部屋に入ったことはなかった。小さいけれど明るい部屋だった。魔法界のバンド、ウィアード・シスターズの大きなポスターが一方の壁に、全魔女クィディッチ・チーム、ホリヘッド・ハーピーズのキャプテン、グウェノグ・ジョーンズの写真が反対側の壁に貼ってあった。開いた窓に向かって机が置いてあった。窓から果樹園が見渡せた。そこで、彼とジニーが、ロンとハーマイオニーと二対二のクィディッチをしたことがあるが、今は、大きくて、真珠のように白い大天幕が覆っていて、そのてっぺんの金色の旗はジニーの窓と同じくらいの高さだった。
ジニーは、ハリーの顔を見上げて、大きく息を吸ってから言った。「十七歳のお誕生日おめでとう」
「うん……ありがと」
彼女は、しっかりと彼を見つめていた。けれど彼は、見返すのが難しいと分かった。輝く光を見つめるようなものだったからだ。
「いい眺めだね」とハリーは、窓のほうを向いて弱々しく言った。
彼女は、それを無視したが、彼は責めることはできなかった。
「プレゼントが思いつかなかったの」彼女は言った。
「何もくれなくていいよ」
彼女は、これにも注意を払わなかった。
「何が役にたつか分からなくて。みんな大きすぎるし。だって持っていけないでしょ」 彼はちらっと彼女を見たが泣いてはいなかった。それは、ジニーのたくさんあるすばらしい点の一つだった。彼女はめったに泣かなかった。六人の兄がいるから強くなったのだろうと、ハリーは時々考えたものだ。
ジニーは一歩近づいた。
「だから、だから思ったの。私を思い出してくれるものを贈ろうって。だって、向こうでヴィーラ(魅惑の妖精)と出会うかも知れないでしょ?」
「正直なところ、この状況じゃデートする機会はないと思うよ」
「雲の中には、ぜったい光がさすわ。私はそれを探す」彼女は、ささやいて、ハリーに初めてするようにキスした。それは、ファイア・ウィスキーよりもっといい、すべてを忘れさせてくれる、この上なく幸福なものだった。彼女、ジニーだけが、この世で唯一の現実のものだった。ハリーは片手を彼女の背中にまわし、片手をいい匂いがする長い髪に置いた、その感触ときたら……
扉が、バンと開いたので、二人は、さっと離れた。
「ああ」とロンが鋭く言った。「ごめん」
「ロン!」ハーマイオニーが、少し息を切らせて、すぐ後ろにいた。緊張した雰囲気の沈黙が流れた。それから、ジニーが単調な小さな声で「あの、とにかくお誕生日おめでとう、ハリー」と言った。
ロンの耳は真っ赤で、ハーマイオニーは心配そうな顔だった。ハリーは、彼らの目の前で扉をバタンと閉めたかった。けれど、扉が開いたときに冷たいすきま風が入りこんで、輝かしい一時が石鹸の泡のようにパチンと消えてしまったような気がした。ジニーとつきあうのをやめて彼女と離れていなくてはいけない理由のすべてが、ロンといっしょにこっそり部屋の中に入りこんできて、すべてを忘れていられた幸せなひとときは終わってしまった。
ハリーはジニーを見て、何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。けれど、彼女は背中を向けた。今回ばかりは、我慢できずに泣きだすかもしれないとハリーは思った。ロンの前で、彼女を慰めることはできなかった。
「後でね」ハリーは言って、他の二人の後について部屋を出た。
ロンは、さっさと下りていき、まだ混みあっている台所をぬけて、裏庭に行った。ハリーは、ずっとその後を追っていった。ハーマイオニーは、二人の後をびくびくした顔で小走りについていった。
刈ったばかりの芝の誰もいない場所に来るとすぐに、ロンがハリーの方に向きなおった。
「君は、彼女をふったのに、今、何やってたんだ? 彼女のまわりをうろうろして」
「僕は、彼女のまわりをうろうろなんかしてない」とハリーが言った。そのときハーマイオニーが二人に追いついた。
「ロン……」
けれど、ロンは手で彼女を黙らせた。
「君にふられたとき、彼女は、ほんとに傷ついたんだ」
「僕もそうだ。なぜ、僕が別れようと言ったか分かってるだろ。好きでそうしたわけじゃない」
「ああ、でも、君は今キスしてた。そしたら、あの子は、また期待して……」
「彼女は馬鹿じゃない。そんなことにはならないと分かってる。僕たちが……最後に結婚するなんてことは……彼女は期待なんてしてない」
ハリーがそう言ったとき、心の中に、白いドレスを着たジニーが、背の高い、顔のない見知らぬ不愉快な男と結婚する鮮やかなイメージが浮かんだ。そのイメージが、らせん状に急降下するような気がする一瞬、ハリーを打ちのめした。彼女の未来は自由で、それを妨げるものは何もない。それに引きかえ、彼の……彼には、前途にヴォルデモートしか見えなかった。
「君が彼女に付きまとうのなら……」
「二度とそんなことはない」とハリーが荒々しく言った。雲ひとつない日だったが、太陽が沈んでしまったような気がした。「分かった?」
ロンは、半ば腹を立て、半ばおどおどしているように見えた。少しのあいだ、足の上で重心を前後に移してからだをゆすっていたが、それから言った。「そんならいい、そのう……うん」
ジニーはその日の後、ハリーと一対一で会おうとはしなかったし、自分の部屋で礼儀正しい会話以上のことがあったという目付きも、そぶりも見せなかった。それでもやはり、チャーリーの帰宅は、ハリーにとって楽しみだった。ウィーズリー夫人が、チャーリーを椅子に座らせ、杖を脅すようにふりあげて、きちんと髪を切らなくてはだめよと告げるのを見物するのは、いい気晴らしになった。
ハリーの誕生日祝いの夕食のために、『隠れ家』の台所は、チャーリー、ルーピン、トンクス、ハグリッドが来る前に、これ以上のばしたら壊れてしまうところまで引きのばされ、テーブルがいくつか、庭の端から端まで置かれた。フレッドとジョージが、たくさんの紫の提灯に魔法をかけたので、大きな「17」の数字を派手に飾った提灯が客たちの頭の上の空中に浮かんでいた。ウィーズリー夫人の手当てのおかげで、ジョージの傷は、きちんと清潔になっていたが、双子の、耳に関するたくさんのジョークにもかかわらず、ハリーは、ジョージの頭の片側の暗い穴に慣れることができなかった。
ハーマイオニーが、紫と金色の吹きながしを杖の先から吹きださせると、それはひとりでに木々や茂みのからみついて、ひだ飾りになった。
最後のすばやい杖の一振りで、ハーマイオニーが野生リンゴの木の葉を金色に変えたとき「うまい」とロンが言った。
「君って、ほんとにそういうこと、うまいね」
「ありがとう、ロン!」とハーマイオニーが、喜んでいるのと少しまごついているのと両方のように言った。ハリーは、横を向いて一人笑いをした。『魔女を魅惑する絶対に確実な十二の方法』の本を見る暇があったら、お世辞に関する章があったな、と考えるとおかしくなったのだ。ジニーと目が合ったので、にやっと笑いかけたが、ロンとの約束を思い出して、急いでデラクール氏と話しはじめた。
「どいて、どいて!」とウィーズリー夫人が歌うように言いながら、庭の門を通ってやってきた。その前には、巨大なビーチボールくらいのスニッチが浮かんでいた。数秒後、これは誕生日ケーキなのだと、ハリーに分かった。それを、ウィーズリー夫人は、でこぼこな地面をころがす危険よりは、杖で浮かせる方を選んだのだ。ケーキがついにテーブルの真ん中に着地したとき、ハリーが言った。「これはすごい、おばさん」
「あら、何でもないわ」彼女は愛情こめて言った。その肩の向こうで、ロンが、ハリーに向かって親指を上げて、声に出さずに唇を動かしていった。「いいぞ」
七時までに、客がすべて到着し、小道の端で待っていたフレッドとジョージが家の中に招きいれた。ハグリッドは、お招きを受けて光栄な気持ちをあらわすため、一張羅の、恐るべき毛むくじゃらの茶色のスーツを着ていた。ルーピンは、ハリーと握手したときほほえんだけれど、幸せそうに見えないなとハリーは思った。ほんとうに変だ。横のトンクスは、ただもうきらきらと輝いて嬉しそううなのに。
「お誕生日おめでとう、ハリー」彼女は言って、ハリーを固く抱きしめた。
「十七か!」とハグリッドが、フレッドからバケツくらい大きなグラスを受けとりながら言った。「初めて会ってから六年たったな、ハリー、覚えとるか?」
「ぼんやりとね」とハリーが言って、にやっと笑いかけた。「玄関のドアを、叩き壊して、ダドリーに豚の尻尾をつけて、僕が魔法使いだって言わなかったっけ?」
「詳しいこたぁ、忘れた」ハグリッドが、満足げに笑った。「元気か、ロン、ハーマイオニー?」
「元気よ」とハーマイオニーが言った。「ハグリッドは?」
「ああ、悪かない。忙しいよ。ユニコーンに赤んぼが数頭生まれた。学校に戻ったら見せてやるよ――」ハグリッドがポケットをごそごそ探っているあいだ、ハリーはロンとハーマイオニーの視線を避けた。「さあ、ハリー――お前さんにやるものを思いつかなくてな、だが、これを思いだしたんだ」彼は、小さくて、少し毛がふさふさした、首にかけるような長いひもがついた、ひもで締める小袋を引っぱりだした。「ロバの皮だ。入れたもん、何でも隠して、もちぬししか取りだせない。めったにないもんだ、これはね」
「ハグリッド、ありがと!」
「いやいや」とハグリッドが、大型ゴミ箱の蓋くらい大きな手をふって言った。「で、チャーリーがいるじゃないか! いっつも、彼が気にいってたよ、ー、おおい! チャーリー!」
チャーリーが近づいてきた。走りながらも、ようしゃなく短く切られたばかりの髪に、少ししょげて手を当てていた。彼は、ロンより背が低いが、がっちりした体格で、筋骨たくましい腕にはやけどや、ひっかき傷がたくさんあった。
「やあ、ハグリッド、どうだい?」
「ずっと、手紙を書こうかと思っていたんだがな。ノーバートはどうだい?」
「ノーバート?」チャーリーが笑った。「ノルウェイ産リッジバック? 僕らは、今じゃノーバータと呼んでるよ」
「なんと――ノーバートは女の子だったのか?」
「ああ、そうだよ」とチャーリーが言った。
「どうして分かるの?」とハーマイオニーが尋ねた。
「そっちの方が、もっとずっと意地悪なんだよ」とチャーリーが言った。それから、振り向いて、低い声で言った。「パパが早く帰るといいのに。ママが、いらいらしてる」
彼らは、そろってウィーズリー夫人の方を見た。彼女は、デラクール夫人に話しかけようとしながら、ひっきりなしに門の方を見ていた。
「アーサーぬきで始めた方がよさそうね」彼女は、少ししてから、庭全体に呼びかけた。「遅れてくるに違いないから――あら!」
皆に、一筋の光が、飛んできてテーブルの上にやって来るのが見えた。その光は、輝く銀のイタチに姿を変え、後足で立ってウィーズリー氏の声で話した。
「魔法大臣が、私と一緒に行く」
パトローナスは空中に溶け、フラーの家族は、それが消えた場所を驚いてのぞきこんだ。
「僕たちは、ここにいない方がいい」とルーピンがすぐに言った。「ハリー――すまない――今度、説明するよ――」
彼は、トンクスの手首をつかんで引っぱっていった。彼らは柵のところに着くと、それを上って見えなくなった。ウィーズリー夫人は、狼狽しているようだった。
「大臣が――でもなぜ?――分からないわ――」
けれど、その問題を話しあう暇はなかった。一秒後、ウィーズリー氏が、ルーファス・スクリムジョールといっしょに、どこからともなく門のところにあらわれた。スクリムジョールは白髪交じりのたてがみのような毛で、すぐそれと分かった。
二人の新たな訪問者は、裏庭から入ってきて、庭を通って提灯のともったテーブルの方に来た。そこでは全員が黙って座って、二人が近づいてくるのを見ていた。スクリムジョールが、提灯の光の照らす範囲に入ってきたとき、ハリーは、こないだ会ったときより、もっと年を取ったようにみえると思った。やせこけて厳格な感じだった。
「邪魔をして、すまない」とスクリムジョールが、片足を引きずりながらテーブルのところまでやってきて止まったときに言った。「とりわけ、招待されていないパーティに押しかけたからな」
彼は、少しのあいだ、巨大なスニッチ型のケーキを見ていた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」とハリーが言った。
「君と個人的に話したい」スクリムジョールが続けた。「ロナルド・ウィーズリー君と、ハーマイオニー・グレンジャー嬢とも同様にだ」
「僕たち?」とロンが、びっくりしたように言った。「どうして僕たち?」
「どこか個別に会えるところで話そう」と、スクリムジョールが言った。「そういう場所があるかね?」とウィーズリー氏に強い口調で聞いた。
「はい、あります」とウィーズリー氏が心配そうに言った。「あのう、居間ですが。そこをお使いになっては?」
「案内してくれ」スクリムジョールがロンに言った。君がいっしょに来る必要はない、アーサー」
ハリーは、自分とロンとハーマイオニーが、立ちあがったとき、ウィーズリー氏が心配そうに、ウィーズリー夫人と目を見交わすのを見た。三人が黙って家の方に戻っていくとき、ハリーは、他の二人も自分と同じことを考えているのが分かった。つまり、スクリムジョールは、どうにかして、三人がホグワーツを止めようと計画しているのを知ったに違いない。
スクリムジョールは、散らかった台所をぬけ、『隠れ家』の居間に入るまで何も言わなかった。庭は、柔らかな金色の夕暮れの光でいっぱいだったが、ここは、もう暗かった。ハリーが、部屋に入って石油ランプに軽く杖をふると、古ぼけているが、いごこちのよい部屋が照らしだされた。スクリムジョールは、ウィーズリー氏がいつも座るたわんだ肘掛け椅子に座った。ハリー、ロン、ハーマイオニーはソファに詰めあって座った。皆が座ると、スクリムジョールが口を開いた。
「君たち三人に聞きたいことがある。ひとりずつ聞くのが、いちばんいいと思う。君たち二人は」彼は、ハリーとハーマイオニーを指した。「上で待っていてくれ。ロナルドから始めよう」
「僕たちは、どこにも行かない」とハリーが言った。ハーマイオニーは勢いよく頷いた。「僕たち、一緒に話すか、誰とも話さないか、どちらかだ」
スクリムジョールは、ハリーを値踏みするように冷たく見た。ハリーは、大臣が、この早い段階から敵意をあらわにする価値があるかどうか、考えているような印象を受けた。
「よろしい、それでは、いっしょに」彼は、肩をすくめて言った。それから咳払いをした。「私がここに来たのは、君たちも知っておろうが、アルバス・ダンブルドアの遺書のためだ」
ハリー、ロン、ハーマイオニーは顔を見合わせた。
「驚いておるようだな! それでは、君たちは、ダンブルドアが君たちに何か遺したことを知らなかったのか?」
「ぼ――僕たちみんなに?」とロンが言った。「僕とハーマイオニーにも?」
「そうだ、君たち皆――」
けれど、ハリーが遮った。
「ダンブルドアが亡くなったのは一ヶ月以上前なのに、僕たちに遺されたものを渡すのにこんなに時間がかかったのは、なぜ?」
「それは、分かりきったことじゃないの?」とハ−マイオニーが、スクリムジョールが答えるより早く言った。「私たちに遺されたものが何であれ、調べたかったのよ。そんなことする権利ないのに!」彼女が少し震える声で言った。
「私には、あらゆる権利がある」とスクリムジョールが否定するように言った。「『正当と認められる押収物』に関する法令で、魔法省が、遺書に書かれた内容物を押収する権利が認められている――」
「その法律は、闇魔術の品が伝わるのを防ぐために作られたもので、」とハーマイオニーが言った。「魔法省は、没収する前に、亡くなった人の所有物が違法であるという強力な証拠がなくてはならないのよ! ダンブルドアが、私たちに何か闇の呪文がかかったものを遺そうとしたと考えたとおっしゃるの?」
「君は、魔法法に関する仕事に就こうと思っているのかね、グレンジャー嬢?」とスクリムジョールが尋ねた。
「いいえ、違う」とハーマイオニーが言いかえした。「私は、社会に役だつことをしたいと思っているわ!」
ロンが笑った。スクリムジョールがちらっと彼を見たが、ハリーが口を開いたので、また目を逸らした。
「で、どうして今になって、僕たちにそれを渡そうと決めたの? それを持ってる言いわけが思いつけなくなったとか?」
「いいえ、三十一日たったからよ」とハーマイオニーが、すぐに言った。「それが危険だと証明できなければ、それ以上長く保管できないの。そうでしょ?」
「君は、ダンブルドアと親しかったと言えるかね、ロナルド?」とスクリムジョールが、ハーマイオニーを無視して答えた。ロンは、はっと驚いたようだった」。
「僕? いや――いや、そんなに……いつもハリーだったから……」
ロンは、ハリーとハーマイオニーの方を向いて見た。すると、ハーマイオニーの「今すぐ、喋るのを止めて!」という目つきに気がついた。しかし、もう、まずいことを言ってしまったのだ。スクリムジョールはまさに予想どおり、かつ望んだとおりの答えを聞いた、という顔をしていた。そして、ハヤブサがえじきの鳥に襲いかかるように、ロンの答えに襲いかかった。
「もし、君がダンブルドアとそれほど親しくなかったのなら、彼が遺書の中で君を思い出したという事実を、どう説明するかね? 彼は、ほとんど個人的遺贈をしていない。彼の財産の大部分は、個人的蔵書、魔法の器具とその他の個人的資産は、ホグワーツに寄贈された。君は、なぜ選びだされたと思うかね?」
「僕は……分からない」とロンが言った。「僕は……親しくないと言ったけど……つまり、彼は僕を気にいってたのかなと……」
「あなたは、とっても控えめね、ロン」とハーマイオニーが言った。「ダンブルドアは、とってもあなたが好きだったのよ」
これは、事実をぎりぎりまで誇張した表現だった。ハリーが知るかぎり、ロンとダンブルドアが二人だけで、いたことはないし、直接の接触はごくわずかしかなかった。けれど、スクリムジョールは聞いていないようだった。手をマントの内側に入れ、ハグリッドがハリーにくれたのより、もっと大きなひもつき小袋を取りだした。そこから、羊皮紙の巻物を出して、広げ、声を出して読みはじめた。
「『アルバス・パーシバル・ウィルフリック・ブライアン・ダンブルドアの最後の遺言書』……ああ、ここだ……『ロナルド・ビリウス・ウィーズリーへ、火消しライターを遺す。使うたびに私を思いだしてくれることを望んで』」
スクリムジョールは、袋から、ハリーが以前見たことがある物を取りだした。それは、タバコの火をつける銀のライターのように見えたが、カチッと押すだけで、まわりすべての光を吸いこんで、また元に戻す力があった。スクリムジョールは、身をのりだして火消しライターをロンに渡した。ロンは、びっくり仰天したように、それを受けとり、手の中でひっくりかえしていた。
「それは、価値ある品だ」と、スクリムジョールがロンを見ながら言った。「ただ一つしかない品とさえ言ってもいい。ダンブルドア自身が考案したものなのは確かだ。なぜ、そんなに貴重な品を君に遺したのだろうか?」
ロンは、まごついたように首を横にふった。
「ダンブルドアは、何千人もの生徒を教えたに違いない」スクリムジョールは追求しつづけた。だが、彼が遺書の中で思い出したのは、君たち三人だけだ。なぜだ? 彼は、君が、火消しライターを何のために使うと思ったのだろうか、ウィーズリー君?」
「火を消すんだと思う」とロンがもごもごと言った。「他に、何ができる?」
スクリムジョールは、何も提案しないようだった。少しの間、ロンを横目で見た後、ダンブルドアの遺書に戻った。
、「『ハーマイオニー・ジーン・グレンジャー嬢へ、「吟遊詩人ビードルの物語の本」を遺す。読んで楽しむと同時に、ためになることを望んで』」
スクリムジョールは、今度は袋から小さな本を取りだした。綴じ目が汚れ、ところどころ破れていて、上の部屋にある「最も暗い闇魔術の秘密」と同じくらい古い本のようだった。ハーマイオニーは何も言わず、スクリムジョールから受けとった。ハリーは、その本の題名がルーン文字で書いてあるのが分かったが、その読み方を学んだことはなかった。彼が見ていると、涙が一滴、浮きだし模様になった文字の上に落ちて、はねた。
「なぜダンブルドアが、その本を君に遺したと思うかね、グレンジャーさん?」とスクリムジョールが尋ねた。
「彼は……彼は、私が、本が好きなのを知ってたから」とハーマイオニーが、くぐもった声でいいながら、袖で涙を拭いた。
「だが、なぜ、特にその本を?」
「分からない。きっと私が楽しむと思ったんでしょう」
「君は、暗号とか、秘密の知らせを伝える方法について、ダンブルドアと話しあったことがあるかね?」
「いいえ、ないわ」とハーマイオニーが、まだ袖で涙を拭きながら言った。「で、もし魔法省が、三十一日かかっても、この本の中に隠された暗号を見つけられなかったのなら、私に、見つけることはできないと思うわ」
彼女は、すすり泣きを押しころした。彼らは、とてもぎゅうぎゅうに詰めあって座っていたので、ロンは腕を伸ばして、ハーマイオニーの肩にまわすことができなかった。スクリムジョールは、遺書に戻った。
「『ハリー・ジェイムズ・ポッターへ、』彼が読んだ。ハリーのおなかは、急激な興奮できゅっと引きしまった。「『ホグワーツでの最初のクィディッチの試合で取ったスニッチを遺す。忍耐と技術に対する賞賛の記念として』」
スクリムジョールが小さな、クルミほどの金色のボールを引きだすと、銀色の羽が弱々しく羽ばたき、ハリーは、とてもがっかりした。
「なぜダンブルドアは、君にこのスニッチを遺したと思うかね?」とスクリムジョールが尋ねた。
「全然分からない」とハリーが言った。「あなたが今読み上げたような理由で、多分……僕に、忍耐と何とかがあれば……できることを思いださせるため……」
「では、君はこれが象徴的な形見にすぎぬと思うのかね?」
「そう思うけど」とハリーが言った。「でなけりゃ、どんな?」
「私が質問しているのだ」とスクリムジョールが言って、自分の椅子を、少し彼らのソファに近づけた。外も暗くなってきていた。窓の向こうの大天幕が垣根の上に幽霊のように白くそびえていた。
「君の誕生日ケーキもスニッチの形だったな」スクリムジョールがハリーに言った。「なぜだ?」
ハーマイオニーが、あざけるように笑った。
「まあ、それは、きっとハリーが、すごいシーカーだからじゃないのね。それじゃ、あまりに見え見えだもの」彼女が言った。「きっと砂糖衣にダンブルドアの秘密のメッセージが隠されてるのよ!」
「砂糖衣の下に、何か隠されているとは思っていない」とスクリムジョールが言った。「だが、スニッチは、小さな物を隠すのにとても都合がよい場所だ。なぜ私が、そう思うのか分かるかね?」
ハリーは肩をすくめた。しかし、ハーマイオニーが答えた。質問されると、がまんできず思わず正しく答えてしまうことが、彼女の中に深く根づいた習慣なのだと、ハリーは思った。
「スニッチは、皮膚の記憶を覚えているから」彼女は言った。
「何だって?」とハリーとロンが同時に言った。二人ともハーマイオニーのクィディッチの知識は、ごくわずかだと思っていたのに。
「そのとおり」とスクリムジョールが言った。「スニッチというものは、解きはなたれるまで、じかに触られていない。作り手でさえ手袋をはめているので触っていない。それは魔法がかかっているので、取った者に異論が出た場合、それに手を置いた最初の人間を見分けることができるのだ。このスニッチは」彼は、小さな金色のボールを持ちあげた。「君の感触を覚えているだろう、ポッター。他の欠点が何であれ、桁外れの魔法の技を持っていたダンブルドアは、このスニッチに君に対してしか開かない魔法をかけたのかもしれないと、私は思ったのだ」
ハリーの心臓の鼓動が早くなった。スクリムジョールの言うことが正しいに違いないと思った。どうやったら、大臣の目の前で、スニッチにじかに触らないようにできるだろうか?
「君は何も言わないな」とスクリムジョールが言った。「スニッチの中に何が入っているのか、もう知っているのではないか?」
「いいえ」とハリーが言ったが、まだ、どうやったら、スニッチにほんとうに触らないのに、触ったように見せかけることができるだろうかと考えていた。もし『開心術』を、ほんとうに知っていて、ハーマイオニーの心が読めさえしたらいいのだが。実際、彼の横で、彼女の頭脳がブンブン音をたてて回っているのが聞こえるような気がした。
「受けとれ」とスクリムジョールが静かに言った。
ハリーは、大臣の黄色い目を見て、従うしかないと分かった。手をのばすとスクリムジョールが、また身をのりだして、スニッチを、ゆっくりと慎重に、ハリーの手のひらに置いた。
何も起こらなかった。ハリーの指がスニッチのまわりに近づくと、小さな羽が羽ばたいて、静かになった。スクリムジョール、ロン、ハーマイオニーは、まだ、それが何かの方法で変身するのを期待しているかのように、なかばハリーの手の中に隠れたボールを熱心に見つづけていた。
「劇的だった」とハリーが冷淡に言った。ロンとハーマイオニーが笑った。
「それでは、これで終わり?」とハーマイオニーがソファから、よいしょと立ちあがりながら尋ねた。
「まだだ」とスクリムジョールが、機嫌が悪くなったように言った。「ダンブルドアから君に二つめの遺贈があった、ポッター」
「何?」とハリーが尋ねたが、興奮の火が、また燃えはじめた。
スクリムジョールは、今度はわざわざ遺書を読みあげなかった。
「ゴドリック・グリフィンドールの剣だ」彼が言った。
ハーマイオニーとロンの二人とも身をこわばらせた。ハリーは、ルビーで覆われた柄がないかと見まわしたが、スクリムジョールは、剣を革袋から引きださなかった。どっちみちその袋は剣を入れるには小さすぎたが。
「で、それはどこに?」ハリーは疑いぶかそうに尋ねた。
「不幸にして」とスクリムジョールが言った。「あの剣は、ダンブルドアの一存で遺贈することはできない。ゴドリック・グリフィンドールの剣は、重要な歴史的工芸品であり、そういうものとして、あれを所有するのは――」
「あれを所有するのは、ハリーよ!」とハーマイオニーが怒って言った。「あの剣は、彼を選んだ。彼が、あれを見つけたのよ。あれは、組み分け帽子の中から彼のところにやってきたわ――」
「信頼できる歴史的原典によれば、あの剣は、真のグリフィンドール生に値する者なら誰でも、その前にあらわれる可能性がある」とスクリムジョールが言った。「ということは、ダンブルドアがどう決めようが、あれは、ポッター君だけの私有物にはならないのだ」スクリムジョールは、頬の、いい加減なひげ剃り跡をひっかきながら、じっとハリーの様子をうかがった。「君はなぜだと思うかね――?」
「ダンブルドアが、僕に剣をくれようとした理由?」とハリーが、かんしゃくをおこさないように努力しながら言った。「僕の部屋の壁に飾ったら、すてきに見えると思ったからじゃないかな」
「これは冗談ではないのだ、ポッター!」とスクリムジョールが、がみがみ言った。「ゴドリック・グリフィンドールの剣だけが、スリザリンの後継者を、うち負かすことができると、ダンブルドアが信じたからか? 彼が、君にあの剣を与えたいと望んだのは、ポッター、君が、『名前を言ってはいけないあの人』をうち負かすよう運命づけられた者だと、ダンブルドアが、他の多数の者たちと同じように、信じたからか?」
「おもしろい仮説だ」とハリーが言った。「誰か今までに、ヴォルデモートに剣を突きさそうとしたことがあったっけ? 魔法省が、火消しライターを分解したり、アズカバンの脱獄をもみ消したりして時間を浪費するよりか、それ、やらせてみたらいいかも。じゃ、スニッチを壊して開けようとするのが、あなたが事務室に閉じこもってやっていたことなの、大臣? たくさんの人が死んでいる。僕も、その一人になるところだった。ヴォルデモートは、僕を三つの県をこえて追いかけてきた。彼はマッド・アイ・ムーディを殺した。でも魔法省からは、それについて何のコメントもない。あったっけ? それなのに、あなたは、まだ僕たちが協力するのを期待しているなんて!」
「言いすぎだ!」とスクリムジョールが叫んで立ちあがった。ハリーも飛びあがるようにして立った。スクリムジョールは片足を引きずりながらハリーに近づき、杖の先で強くハリーの胸をぐいと突いた
。ハリーのTシャツにタバコの火でつけたような焼けこげた穴があいた。
「おい!」とロンが言いながら、さっと立ち上がって自分の杖を上げたが、ハリーが言った。「やめろ! 彼に、僕たちを捕まえる口実を与えたいのか?」
「君たちが今、学校にいないのを思いだしたか?」とスクリムジョールが、荒く息をしながらハリーの顔を見つめて言った。「私は、無礼と反抗を許すダンブルドアではないことを思いだしたか? その傷跡を王冠のように身にまとうがいい、ポッター、だが、私に仕事の指図をするのは、十七才の小僧のやることではないぞ! 少し礼儀をわきまえたほうが良さそうだな!」
「あなたこそ礼儀をわきまえたらどうだ」とハリーが言った。
床が震えた。走ってくる足音がした。それから、居間の扉がさっと開いてウィーズリー夫妻が走りこんできた。
「私たち――私たちは、何か聞こえたような気がして――」とウィーズリー氏が言いはじめが、ハリーと大臣が、ほぼ鼻をつき合わせて向きあっている光景を見て、とても驚いたようだった。
「大きな声が聞こえたような気がしたから」とウィーズリー夫人が、あえぎながら言った。
スクリムジョールは、ハリーから数歩下がって、ハリーのTシャツにあけた穴をちらっと見たが、かんしゃくをおこしたのを後悔しているようだった。
「な――何でもない」彼は、うなるように言った。「君の……態度は残念だ」彼は言って、もう一度真正面からハリーを見つめた。「君は、君が望む――ダンブルドアが望むことを、魔法省が望んでいないと思っているようだが、我々は、いっしょに活動するべきだ」
「あなたのやり方が気にいらないんだ、大臣」とハリーが言った。「覚えてるでしょ?」
二度目に彼は右の握りこぶしを上げて、スクリムジョールに手の甲に、まだ白く光る「私は嘘を言ってはいけない」と、つづった傷跡を見せた。スクリムジョールの表情がかたくなになった。彼は、それ以上何も言わず、向きを変えて片足を引きずりながら部屋を出ていった。ウィーズリー夫人が、急いでその後を追いかけた。ハリーには、彼女の足音が裏口の扉のところで止まるのが聞こえた。一分ほどして彼女が大声で言った。「行ってしまったわ!」
「彼は、何をしてほしかったのかい?」ウィーズリー氏が、ハリー、ロン、ハーマイオニーを見ながら尋ねた。そのときウィーズリー夫人が急いで戻ってきた。
「ダンブルドアが僕たちに遺したものを渡しに」とハリーが言った。「魔法省は、遺書にあった品物を放出したところなんだ」
外の庭で、誕生日の食事会のテーブルごしに、スクリムジョールが彼らに渡した三つの品物が手から手へ手渡された。誰もが、火消しライターや「吟遊詩人ビードルの物語」に歓声を上げ、スクリムジョールが剣を渡すのを拒んだのを嘆いた。けれど、なぜダンブルドアがハリーに古ぼけたスニッチを遺したのかの理由を思いついてくれる人は、誰もいなかった。ウィーズリー氏が、火消しライターを三度目か四度目かに調べたとき、ウィーズリー夫人がためらいがちにハリーに言った。「ね、ハリー、みんなとてもお腹がすいてるの。あなたがいないのに始めたくはなかったから……お食事にしましょうか?」
みんな、かなり焦って食べ、声をそろえて「誕生日おめでとう」と急いで言って、ケーキをがつがつ食べて、パーティはお開きになった。ハグリッドは、翌日の結婚式にも招かれていたが、のばしすぎた『隠れ家』で寝るには巨大すぎたので、隣の野原で自分用のテントを立てにいった。
ウィーズリー夫人が庭をいつもの状態に戻すのを手伝っているときに、「上に来て」ハリーがハーマイオニーにささやいた。「みんなが寝た後で」
上の屋根裏部屋で、ロンは火消しライターを調べ、ハリーは、ハグリッドがくれたロバの皮の袋に、黄金ではないが、彼がとても貴重に思っているものを、いっぱい詰めたが、その中には、明らかに価値がないものもあった。盗人たちの地図、シリウスの魔法の鏡の破片、それにR.A.B.のロケットだ。彼は、ひもをぎゅっと引っぱり、首にかけた。それから古いスニッチを持って座り、その羽が弱々しく羽ばたくのを見ていた。やっとハーマイオニーが扉を軽くたたいて、忍び足で入ってきた。
「ムフリアト<聞こえないように>」彼女が、階段の方に杖をふって、囁いた。
「君は、その呪文使うの賛成しなかったんじゃないか?」とロンが言った。
「時代が変わったの」とハーマイオニーが言った。「さあ、火消しライターを、やって見せて」
、ロンはすぐに期待にこたえて、それを自分の前に高くかかげて、カチッと押した。部屋のただ一つのランプがすぐに消えた。
「それは」とハーマイオニーが暗闇の中で囁いた。「ペルー産の瞬間暗闇粉で、できることよ」
小さなカチッという音がして、ランプが発する光の玉が天井に飛び、すぐにまた彼らを照らした。
「でも、これ、かっこいいよ」とロンが少し守りの体制に入って言った。「それに、聞いた話からすると、ダンブルドアが自分で発明したらしいし!」
「分かってる。でも、彼は、私たちが明かりを消すのを手伝うために、遺書の中であなたを選びだしたわけじゃないと思うの!」
「彼は、魔法省が、遺書を押収して、僕たちに遺した物をみんな調べると予想していたと思う?」とハリーが尋ねた。
「ぜったいに予想してたと思うわ」とハーマイオニーが言った。「だから彼は、なぜこういう物を私たちに遺したか、遺書の中で言うことができなかったのよ。でも、それにしても、まだ分からない……」
「……なぜ彼が生きているあいだに、ヒントを与えることができなかったのか?」とロンが尋ねた。
「うーん、そのとおりよ」とハーマイオニーが、「吟遊詩人ビードルの物語」をぱらぱらとめくりながら言った。「もし、こういう物が、魔法省の鼻先をかすめて伝えられるほど重要なら、私たちに、その理由を知らせてくれてもよかったのに……彼が、その理由はすぐ分かると考えたのでなければね」
「それなら、彼は間違ったふうに考えたんじゃないか?」とロンが言った。「僕は、いつも彼はおかしいと言ってただろ。すごく頭が切れたりなんかするけど、おかしなところがあるよ。ハリーに古ぼけたスニッチを遺すなんて……一体何のため?」
「さっぱり分からない」とハーマイオニーが言った。「スクリムジョールが、それを、あなたに持たせたときね、ハリー、私、ぜったいに何かがおこると思っていたのよ!」
「うん、ええと」とハリーが言った。スニッチを指のあいだに、はさんで持ちあげていると、脈が速くなってきた。「僕は、スクリムジョールの前では、そんなに一生懸命やらなかったんじゃないかな?」
「どういうこと?」とハーマイオニーが言った。
「僕が、いちばん最初のクィディッチの試合で取ったスニッチだろ?」とハリーが言った。「覚えてない?」
ハーマイオニーは、わけが分からないだけのようだった。けれどロンは、はっと息をのんだ。半狂乱でハリーからスニッチへと指さすのをくりかえしていたが、やっと声が出せるようになって言った。
「それ、君が、もう少しで飲み込みそうになったやつだ!」
「その通り」とハリーが言った。心臓がどきどきしていたが、スニッチを口に押しつけた。
それは開かなかった。欲求不満と、苦い失望感が、体の中にわき上がってきた。そして金色の球を持った手を下ろした。けれどそのときハーマイオニーが叫び声をあげた。
「書いてある! そこに何か書いてあるわ、早く、見て!」
ハリーは、驚きと興奮とでスニッチを取りおとしそうになった。ハーマイオニーの言うとおりだった。ハリーがダンブルドアの筆跡だと認めた、細い斜めの書体で、いくつかの言葉が、数秒前には何もなかった、なめらかな金色の表面に彫られていた。
「われは、終わりに開く」
それを読んだか読まないかのうちに、言葉は、また消えた。
「『われは、終わりに開く』……これ、どういう意味?」
ハーマイオニーとロンは、まごついたように首を横にふった。
「われは終わりに開く……終わりに……われは終わりに開く……」
けれど、彼らが、その言葉を何度くりかえしても、どんなに違った抑揚をつけて言ってみても、それ以上の意味を絞りだすことはできなかった。
彼らが、とうとうスニッチの銘から意味を見ぬこうとする企てをあきらめたとき、「それに剣だ」とロンが最後に言った。「どうして、彼はハリーに剣を持たせたかったんだろ?」
「それに、どうして彼は、僕にただ言うだけのことができなかったんだろう?」ハリーが静かに言った。「あの剣は、あそこにあった。去年、僕たちが話しているあいだ中ずっと、彼の部屋の壁にかかっていたんだ! もし、僕に持たせたかったのなら、なぜそのときにくれなかったんだろう?」
彼は、答えられるはずの質問を前にして試験に臨んでいるような気がした。頭の働きはゆっくりで鈍かった。去年、ダンブルドアとの長い話しあいの中で、見おとしていることが何かあるのだろうか? 遺された物全部が意味することが分かって当然なのだろうか? ダンブルドアは、ハリーが分かると期待していたのだろうか?
「それにね、この本について言えば」とハーマイオニーが言った。「『吟遊詩人ビードルの物語』……私、そんなの聞いたこともないわ!」
「『吟遊詩人ビードルの物語』を聞いたことがないんだって?」とロンが信じられないように言った。「冗談だろ?」
「いいえ、聞いたことないわ!」とハーマイオニーが、驚いて言った。「それじゃ、あなた知ってるの?」
「ええと、もちろん知ってるさ!」
ハリーは、自分の考えから注意をそらされて見あげた。ハーマイオニーが読んだことのない本を、ロンが読んでいたという状況は、先例がないものだった。けれど、ロンは、二人が驚いているので、まごついているようだった。
「ねえ、やめてよ! 昔の子供の物語は、みんなビードルのじゃないか? 『幸運の泉』……『魔法使いと飛びはねる壺』……『ウサギのバビティ・ラビティとおしゃべりな切り株』……」
「もう一回、言って」とハーマイオニーが、くすくす笑いながら言った。「最後のは何だっけ?」
「いい加減にしろよ!」と、ロンが信じられないように、ハリーからハーマイオニーへと顔を移した。「バビティ・ラビティくらい聞いたことあるに決まってるだろ」
「ロンったら、ハリーと私が、マグルの中で育ったこと、あなた、よーく知ってるでしょ!」とハーマイオニーが言った。「私たちは小さい頃、そんなお話、聞いたことがないの。私たちが聞いたのは、『白雪姫と七人のこびと』とか『灰かぶり姫<シンデレラ>』とか……」
「なんだい、それ、病気の名前?」とロンが尋ねた。
「それじゃ、これって子供向けのお話なの?」とハーマイオニーが尋ねて、またルーン文字の上にかがみこんだ。
「うん」と、ロンが自信なさそうに言った。「つまり、君が聞いたとおりだよ。ほら、こういう昔話はみんなビードルから来てるんだ。最初の版ではどんなだか知らないけど」
「でも、なぜダンブルドアは、私がこれを読むべきだと思ったのかしら?」
何か下で軋む音がした。
「多分チャーリーだよ。ママが寝たから、こっそり髪をまた生やそうとしてるんだ」とロンが心配そうに言った。
「ともかく、私たち寝なくちゃ」とハーマイオニーがささやいた。「明日、寝すごすわけにはいかないから」
「そうだね」と、ロンが同意した。「花婿の母による残虐な三重殺人なんてことになったら、結婚式をだいなしにするからね。明かりを消すよ」
そして、ハーマイオニーが部屋を出るともう一度、火消しライターをカチッと押した。
第8章 結婚式
The Wedding
翌日、午後三時に、ハリー、ロン、フレッド、ジョージは、果樹園の大きな白い大天幕の外に立って、結婚式の招待客の到着を待っていた。ハリーは、ポリジュース薬をたっぷり飲んで、今は、田舎のオタリー・セント・キャチポール村に住む赤毛のマグルの少年とうり二つだった。その村から、フレッドとジョージが、召還の呪文を使って、髪の毛を盗んだのだ。ハリーを「いとこのバーニー」と紹介し、とてもたくさんのウィーズリーの親戚に紛れてごまかしてもらうのを当てにする計画だった。
四人とも、客が正しい席に座るよう案内するために、座席表を握っていた。たくさんの白いローブのウェイターが、金色の上着のバンドとともに一時間前に到着し、今のところは、少し離れた木の下に座っていて、そこから立ちのぼるパイプの煙の青いもやが、ハリーに見えた。
ハリーの後ろに、大天幕の入り口があって、そこから、長い紫の絨毯の両側に、華奢な金色の椅子が何列も何列も置かれているのが見えた。天幕の支柱には、白と金の花が巻きつけてあった。フレッドとジョージが、金色の風船の巨大な束を、ビルとフラーがまもなく夫婦になるちょうどその場所の上に結びつけた。外では、チョウやミツバチが、芝生と生け垣の上をゆったりと飛びまわっていた。ハリーは、いごこちが悪かった。彼が変装している、その少年は、彼より少し太っていたので、夏の日が照りつける中で、ローブが暑くて窮屈だった。
「俺が結婚するときは」とフレッドが、ローブの襟を引っぱりながら言った。「こういうくだらないことで煩わされたかないね。みんな好きなものを着たらいい。式が終るまで、ママには、体を縛る呪文を完璧にかけといてさ」
「考えてみれば、彼女は、今朝はそんなに悪かなかったよ」とジョージが言った。「パーシーが、ここにいないので、ちょっと泣いてたけど、誰が、彼になんか来てほしいと思う? うわぁ、用意して――さあ、来たぞ、ほら」
鮮やかな色の人影が一人ずつ、裏庭の遠くの境のところに、どこからともなくあらわれた。数分後、それは人々の行列となり、庭から大天幕の方にぞろぞろと近づいてきた。異国風の花や、魔法のかかった鳥が魔女の帽子の上をひらひら舞い、魔法使いのネクタイの多くに、貴重な宝石がきらめいていた。人々が天幕に近づいてくると、興奮したおしゃべりのざわめきが、どんどん大きくなってきて、ミツバチの音をかき消した。
「すてきだ、ヴィーラのいとこたちを見かけたような気がする」とジョージが、もっとよく見ようと首をのばしながら言った。「彼女たちは、イギリスの習慣が分かるように助けがいるだろうな、俺が面倒みるよ……」
「そんなに焦るなって、穴開き聖人さん」とフレッドが言いながら、だっと走り出して、行列の先頭のガーガーしゃべる中年の魔女の一団をやりすごし、かわいいフランス人の女の子の二人連れにひどいフランス語で「Permetiez moi to assister vous(さあ、僕ガ、ゴ案内シマスヨ)」と言った。彼女たちは、くすく笑いながら、中に案内された。ジョージはとり残されて中年の魔女たちの相手をするはめになり、ロンはウィーズリー氏の魔法省の昔の同僚パーキンスを席に連れていき、ハリーは、かなり耳が遠い夫婦の受けもちになった。
ハリーが大天幕から、また出てきたとき「こんちは」と聞きなれた声がして、トンクスとルーピンが列の前にいた。彼女は、この日のために金髪に変わっていた。「アーサーが、あなたは巻き毛だって言ったの。昨夜はごめんね」彼女は、ささやき声でつけ加えた。ハリーは二人を通路の方に案内した。「魔法省は今とても人狼をきらっているの。だから私たちがいても、ちっともあなたのためにならないと思って」
「いいんだよ、分かってる」とハリーは、トンクスによりもルーピンに言った。ルーピンはさっとほほえんだ。しかし二人が向きを変えると、ルーピンの顔には、しわがよって、みじめな表情があらわれた。ハリーには、なぜか分からなかったが、その問題を考える暇はなかった。ハグリッドが、かなり広い場所をぶっ壊して混乱させていたのだ。彼は、フレッドの指示を聞きまちがえて、後列に特別に用意された魔法で大きく丈夫にされた椅子でなく、普通の椅子五個分に座ったので、その椅子が、金色のマッチ棒の山のようになっていた。
ウィーズリー氏が、壊れたところを直し、ハグリッドが聞こえる範囲の誰にでも大声であやまっているあいだに、ハリーは急いで入り口に戻った。すると、ロンが、とても風変わりな様子の魔法使の相手をしているところだった。ほんの少しやぶにらみで、肩までの長さの綿菓子のような白髪で、房かざりが鼻のところまで垂れさがったツバのない帽子をかぶり、見つめると目が痛くなって涙が出そうな鮮やかな玉子の黄身の色のローブを着ていた。三角形の目のような形の奇妙な印が、首にかけた金の鎖に下がって輝いていた。
「ゼノフィリウス・ラブグッド」彼は言いながら、ハリーに手を差しだした。「娘と私は、丘の向こうに住んでいます。ウィーズリー家が、お招きくださって、ご親切に。だが、あなたは、娘のルナをご存知だと思うが?」彼は、ロンに向ってつけ加えた。
「ええ」とロンが答えた。「彼女は、いっしょにいないの?」
「彼女は、ここの魅力的な小さな庭で、ノームに挨拶して、ぐずぐずしてますよ。彼らが横行するのは、なんとすばらしいことでしょう! 賢い小さなノームから、いかに多くを学べるかに気づく魔法使いは、ほとんどいない――いや、彼らに正しい名前を与えれば、ゲルヌムブリ・ガルデンシだが」
「うちのは、すてきな、罵り言葉を、たくさん知ってるけど」とロンが言った。「でも、それはフレッドとジョージが教えたんだと思うな」
ハリーが、一団の魔法使いを大天幕に案内したとき、ルナが走ってやって来た。
「こんにちは、ハリー!」彼女は言った。
「あのう……僕はバーニーだよ」とハリーが、まごつきながら言った。
「あら、名前も変えたの?」彼女は、元気よく言った。
「どうして、ばれたの?」
「ああ、あなたの表情で」彼女は言った。
ルナは、父と同じく、鮮やかな黄色のローブを着ていた。それに合わせて、大きなヒマワリを髪に飾っていた。その鮮やかさに慣れてしまえば、全体の印象は、とても明るく楽しげな雰囲気だった。少なくとも、ラディッシュが耳からぶら下がってはいなかった。
ゼノフィリウスは、知人と熱心に話しこんでいたので、ルナとハリーが話しているのに気がつかなかった。それから相手の魔法使いに別れをつげて、娘のところに戻ってくると、彼女が指を立てて言った。「パパ、見て……ノームが、ほんとに私にかみついたの!」
「なんとすばらしい! ノームの唾液は、とても有益なんだ!」とラブグッド氏は言って、ルナの伸ばした指をつかみ、血が流れる、かまれた跡を調べた。「ルナ、いい子だ。もし、今日、急に何かの才能があらわれでるのを感じたら、思いがけなくオペラを歌いたくなるとか、魚人の言葉で演説したくなるとか、したら抑えてはいけないよ! ゲルヌムブリから才能をたまわったのだから!」
ロンが、彼らのそばを通りすぎて反対の方に行きながら、大きく鼻をならした。
ハリーが親子を席に案内したとき、「ロンは、笑えばいいわ」とルナが晴れやかに言った。「でも、父は、ゲルヌムブリの魔法について、たくさん研究してるのよ」
「そうなの?」とハリーは言った。ルナや、その父親の変わった見方について異議を唱えるのはやめようと、もうずっと前から決めていた。「でも、かまれた跡に、ほんとに何もつけなくていいの?」
「あら、大丈夫よ」とルナが言って、夢見るような表情で指をなめながら、ハリーを上から下までじろじろ見た。「あなた、かっこよく見えるわ。私、たいていの人はきっとドレス・ローブを着てくるとパパに言ったの。でもパパは、結婚式には、幸運を招くため、お日様の色を着るべきだと信じてるの」
彼女が、父を追って、ふわふわと行ってしまうと、ロンが、かなり年配の魔女に腕をつかまれながら、また現れた。カギ形の鼻、縁が赤い目、羽のついたピンクの帽子をかぶった姿は、機嫌の悪いフラミンゴのようだった。
「……それに、あんたの髪は長すぎるよ、ロナルド、一瞬、ジネブラかと思った。マーリンのあごひげにかけて、いったい全体、ゼノフィリウス・ラブグッドは何を着ているんだね? オムレツみたいに見えるよ。で、あんたは誰だい?」彼女は、ハリーにどなった。
「ああ、ミュリエルおばさん、いとこのバーニーだよ」
「また新手のウィーズリーかい? ノームの血が入ってるようにみえるよ。ハリー・ポッターはいないのかい? 会うのを楽しみにして来たのに。あんたの友だちだと思ったが、ロナルド、それとも、ほら話を自慢していただけかい?」
「いや……あいつはちょっと都合が悪くって……」
「ふーむ、言いわけをこさえたのかい? それじゃ、新聞の写真で見るほど、まぬけじゃないね。私は、花嫁に、私のティアラの一番いいつけ方を教えてきたところさ」彼女は、ハリーに怒鳴った。「ゴブリン製だよ、ほら、何世紀も代々、うちの家に伝わってきたのさ。花嫁は、美人だが――フランス人じゃね。さて、さて、私に、よい席を見つけておくれ、ロナルド、私は、百七才で、長く立っていられないんだから」
ロンが、通りすぎるとき、ハリーに意味ありげな目つきをしてみせ、その後しばらく出てこなかった。次に彼らが入り口で会ったとき、ハリーはもう十二人以上の人を席に案内したあとだった。大天幕は、もうほとんど満員だった。そして初めて、外に並ぶ列がなくなった。
「悪夢だよ、ミュリエルは」と、ロンがおでこの汗を袖で拭きながら言った。「彼女は毎年クリスマスに来たもんだった、ありがたいことに、フレッドとジョージが、ごちそうのテーブルの、彼女の椅子の下にクソ爆弾を仕掛けたので気を悪くしてね。パパは、彼女が双子を遺言書からはずすだろうと、いつも言ってる、でも、彼らには知ったこっちゃないさ。だって二人とも、うちの一族の中でいちばんお金を稼いでいるんだからさ……うわーっ」彼は、つけ加えて、せわしなく目をぱちぱちさせた。ハーマイオニーが、急ぎ足で近づいてきたのだ。「とてもすてきだよ!」
「常に、驚きの口調で」とハーマイオニーが、微笑みを浮かべて言った。軽やかな薄紫のドレスを着て、それに合わせたかかとの高い靴をはいていて、髪は滑らかでつやつやしていた。「あなたの偉大なミュリエルおばさんは、同意見じゃないわよ。彼女がフラーにティアラを渡してるとき、ちょうど上で会ったの。彼女は言ったわ。『あらまあ、これがマグル出の子かい?』それから『姿勢は悪いし、骨ばった足首だ』って」
「自分だけだと思うなよ。彼女は、誰にでも無礼なんだ」とロンが言った。
「ミュリエルのこと話してた?」とジョージが尋ねた。フレッドと、いっしょに大天幕から、また出てきたところだった。「うん、彼女は、僕の耳が不つりあいだって言ったところだよ。うるさいガミガミばばあ。ビリウスおじさんがまだ生きてたら、よかったのになあ。彼は、結婚式というと、笑いの種を提供してくれたよ」
「死を予告するグリムを見て、二十四時間後に亡くなった人?」とハーマイオニーが尋ねた。
「うーん、そう、彼は最期の方は、ちょっと変だった」とジョージがしぶしぶ認めた。
「でも、彼がいかれちまう前は、パーティの花形だったよ」とフレッドが言った。「ファイア・ウィスキーを一瓶ぐいっと飲みほして、ダンス場に走っていって、ローブを持ち上げて、花束を引っぱりだして――」
「まあ、彼は、ほんとうに人気者だったようね」とハーマイオニーが言い、ハリーは笑いころげていた。
「彼は、どういうわけか結婚しなかったんだ」とロンが言った。
「びっくりしたわ」とハーマイオニーが言った。
彼らは、みんな笑っていたので、遅れてきた人が、招待状をロンに差しだすまで、誰も気づかなかった。それは、大きな曲った鼻と、濃くて黒い眉の黒っぽい髪の若い男だったが、ハーマイオニーに目をとめて言った。「君、すばらしい」
「ビクター!」彼女は、かん高い声で叫んで、小さなビーズ飾りのバッグを落とした。それは、その大きさにまったく不釣合いな、大きなドスンという音をたてた。彼女は、顔を赤らめて急いでバッグを拾いあげると言った。「知らなかったわ、あなたが……まあ……会えてうれしいわ……元気?」
ロンの耳が、また真っ赤になった。クラムの招待状を、そこに書いてある言葉が信じられないように、ちらっと見てから、少し大きすぎる声で言った。「どうして、ここに来たんだい?」
「フラーに招待された」とクラムが眉をあげながら言った。
ハリーは、クラムに対してまったく恨みはなかったので、握手した。それから、ロンの近くから離すのが賢明だとさっして、クラムを席に案内しようと申しでた。
二人が、もう混みあっている天幕に入ったとき「君の友だちは、僕に会ってうれしくなさそうだ」とクラムが言った。「それとも、彼は君の親戚かい?」彼は、ハリーの赤い巻き毛をちらっと見て、つけ加えた。
「いとこ」ハリーはもごもごと言ったが、クラムはまともに聞いていなかった。クラムがあらわれると、特にヴィーラの従兄妹たちのあいだに、ざわめきがおきた。彼は、結局のところ、有名なクィディッチの選手なのだ。人々が、まだ首をのばして彼をよく見ようとしているときに、ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージが通路を急いでやって来た。
「席に着く時間」フレッドがハリーに言った。「さもないと、花婿に轢かれちまう」
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、フレッドとジョージの後ろの二列目に座った。ハーマイオニーの顔は、まだピンクがかっていて、ロンの耳は、まだ真っ赤だった。少しして、彼がハリーにぶつぶつ言った。「あいつが、ばかみたいな小さなあごひげ生やしてたの見たか?」
ハリーは、曖昧なうなり声をあげた。ピンと張りつめて期待するような空気が暖かい天幕のなかに満ちた。全体のざわめき声が、ときおり興奮した笑い声でかき消された。ウィーズリー夫妻が通路を進んできた。ほほえみながら親戚に手をふっていた。ウィーズリー夫人は、新しいすみれ色のローブを着て、それに似合う帽子をかぶっていた。
その少し後、ビルとチャーリーが大天幕の前方に立った。二人ともドレス・ローブを着て、ボタン穴に大きな白バラをさしていた。フレッドが、ヒューッと口笛を吹き、ヴィーラのいとこたちが、どっと笑った。それから、金色の風船のように見えるものから音楽が大きく聞え、一同は静かになった。
「おぉぉぉっ!」とハーマイオニーが、座ったまま、振り返って入り口を見て声をあげた。
集まった魔女や魔法使いが、いっせいに大きな溜め息をついた。デラクール氏とフラーが通路を歩いてきたのだ。フラーは滑るように、デラクール氏は、はねるように。そしてにっこり笑っていた。フラーは、飾り気のない白いドレスを着ていたが、強い銀色の輝きを発しているようだった。いつも、彼女の輝きに比べると誰でもかすんでしまうのだが、今日は、彼女の輝きが当たった人すべてが、美しくなるようだった。ジニーとガブリエルが、二人とも金色のドレスを着て、いつもよりかわいく見え、フラーが、ビルの所に行くと、彼は、フェンリル・グレイバックに会わなかったかのように見えた。
「皆様」と、少し歌っているような声がした。ハリーは、ダンブルドアの葬儀にいたと同じふさふさした髪の小柄な魔法使いが、ビルとフラーの前に立っているのを見て少しショックを受けた。「今日、ここに集い、二つの貞節な魂が結ばれるのを、祝いましょう……」
「ええ、私のティアラのおかげで、すべてが立派に見えること」とミュリエルおばさんが、かなりよく通るささやき声で言った。「だが、ジネブラのドレスは、胸元があきすぎているね」
ジニーがちらっとふりむいて、ハリーに、にやっと笑いかけてウィンクした。それから、すばやく前に向きなおった。ハリーの心は、天幕から遠くさまよいだし、校庭の誰もいないところでジニーと二人だけで過ごした午後の日へ戻っていった。それは、ずっと昔の出来事のような気がした。いつも、ほんとうであるには、すてきすぎると思い、額に稲妻形の傷跡がない、ふつうの人生から輝かしい時間を盗みとっているような気がしたものだ……
「なんじ、ウィリアム・アーサーは、フラー・イザベルを……?」
前列で、ウィーズリー夫人とデラクール夫人がレースの端に顔を当てて静かにすすり泣いていた。天幕の後ろから、トランペットのような音が聞えて、皆に、ハグリッドがテーブル掛けくらいの大きさのハンカチを取りだしていたのが分かった。ハーマイオニーがハリーの方を向いてにっこり笑いかけた。その目も涙で、いっぱいだった。
「……それでは、私は、あなた方が死ぬまで結ばれることを宣言します」
ふさふさ髪の魔法使いが、杖をビルとフラーの頭上、高く上げると、銀の星が、からませた二人の指のまわりに、らせん状に降りそそいだ。フレッドとジョージの先導で拍手喝采がひとしきりおこると、頭上の風船が割れた。極楽鳥や、小さい金の鐘が、それぞれの風船から飛びだして浮かび、喝采に歌と鐘の音を添えた。
「皆様」と、ふさふさ髪の魔法使いが呼びかけた。「ご起立下さい!」
全員が立ちあがった。ミュリエルおばさんは、聞こえよがしにぶつぶつ言った。彼が杖をふると、皆が座っていた椅子が、優美に空中に上がり、天幕のキャンバス地の壁が消えて、皆は、金の柱に支えられた天蓋の下に立っていた。日がさす果樹園と、そのまわりの田園風景のすばらしい眺めが広がっていた。次に、天蓋の真ん中から溶けた金が流れて広がり、輝くダンス場になった。空中に止まっていた椅子は集まって、白い布がかかった小さいテーブルになり、優美に地上に戻ってきて、ダンス場のまわりにおさまった。そして金色の上着のバンドが、演奏台の方にぞろぞろと進んできた。
ウェイターがあらゆる方にあらわれたとき「順調だ」とロンが満足げに言った。彼らは、パンプキン・ジュースやバター・ビールやファイア・ウィスキーをのせた銀のお盆を持っていたり、タルトやサンドイッチの山を、よろめきながら運んでいたりした。
「お祝いを言いにいかなくちゃ!」とハーマイオニーが言って、つま先立ちで、ビルとフラーが祝い客の中に消えてしまった場所を見ようとした。
「後で、時間あるよ」とロンが肩をすくめて、通りすぎるお盆から、バタービールを三本ひったくり、一本をハリーに渡した。「ハーマイオニー、ちょっと待って、座る場所取ろう……そこじゃない! ミュリエルの近くはだめ、ー」
ロンが先に立って、右左を見ながら、誰もいないダンス場を横切っていった。ハリーは、ロンがクラムのいない場所を探しているに違いないと思った。天幕の反対側につくまでには、大部分のテーブルが取られていた。空席がたくさんあるテーブルにはルナが一人で座っていた。
「いっしょに座っていいかな?」とロンが尋ねた。
「ええ、どうぞ」彼女はうれしそうに言った。「パパは、ビルとフラーにプレゼントをあげにいったとこなの」
「何それ? ガーディの根を一生分とか?」とロンが尋ねた。
ハーマイオニーが、テーブルの下で彼の足をけろうとしたが、代わりにハリーをけってしまった。ハリーは、痛くて涙目になったので、しばらく会話についていけなかった。
バンドが演奏を始めた。ビルとフラーが、ダンス場で最初に踊りはじめ、大喝采を浴びた。しばらくしてウィーズリー氏がデラクール夫人をダンスに誘い、ウィーズリー夫人とフラーの父親が続いた。
「この歌、好きよ」と、ルナがワルツのような曲に合わせて体をゆすりながら言った。そして数秒後、立ちあがるとダンス場の方に滑るように行ってしまい、そこで、一人きりで目を閉じ、腕をふりながら回っていた。
「彼女って、すごくない?」とロンが、誉めるように言った。「いつも注目に値するよ」
けれど、彼の笑いは、すぐ消えた。ビクター・クラムが、ひょいとやって来て、ルナがいなくて空いた席に座ったのだ。ハーマイオニーは、楽しげにそわそわしているようだった。けれど、今回クラムは彼女を誉めにやってきたのではなかった。しかめっ面をして、彼は言った。「あの黄色いのを着た男は誰だ?」
「あれは、ゼノフィリウス・ラブグッド。僕たちの友だちの父親」とロンが言った。クラムが怒っているのは明らかなのに、ロンのけんか腰の口調で、二人いっしょにゼノフィリウスのことを笑いあうつもりがないのが分かった。そして、唐突にハーマイオニーに向ってつけ加えた。「踊ろう」
彼女は、あっけにとられると同時に喜んだように立ちあがった。二人は、いっしょに、ダンス場の増えていく群衆の中に姿を消した。
「ああ、彼らは、つきあっているのか?」とクラムが、少しのあいだ気を逸らされて尋ねた。
「ええと――そんなような」とハリーが言った。
「君は誰だ?」クラムが尋ねた。
「バーニー・ウィーズリー」
彼らは握手した。
「君ね、バーニー――君は、このラブグッドという男、よく知っているか?」
「いや、今日初めて会った。なぜ?」
クラムは、飲み物ごしに、ダンス場の反対側で数人の魔法使いとしゃべっているゼノフィリウスをにらみつけた。
「なぜなら」とクラムが言った。「もし、彼がフラーの客でなかったら、僕は、今この場で決闘を申しこむ。なぜなら、胸に、あの汚らわしい印をつけているからだ」
「印?」とハリーも、ゼノフィリウスの方を見ながら言った。奇妙な三角の目が、その胸に光っていた。「なぜ? あれの何が悪いのかい?」
「グリンデルワルド……あれは、グリンデルワルドの印だ」
「グリンデルワルド……ダンブルドアが、うち負かした闇の魔法使い?」
「そのとおり」
クラムのあごの筋肉が、歯を噛み締めているように動いていたが、それから言った。「グリンデルワルドは、たくさんの人を殺した。僕の祖父もその一人だ。もちろん、彼は、この国ではそれほど力がなかった。ダンブルドアを恐れているからだと言われていた――そして、彼がどんなふうにやられたかを見ると、それは正しかった。でも、あれは――」彼は、ゼノフィリウスを指さした。「あれは、彼の印だ。僕は、すぐに分かった。グリンデルワルドは、生徒だった頃にダームストラング校の壁に、あの印を彫りこんでいた。何人かの愚かものが、ぎょっとさせようとか自分を偉く見せようとか思って、あの印を真似して本や服につけていた。――グリンデルワルドに家族を奪われた僕たちが、思い知らせてやったので、やめたが」
クラムは、脅すようにげんこつをポキポキ鳴らしながら、ゼノフィリウスをにらみつけていた。ハリーは、まごついていた。ルナの父親が、闇魔術の支持者だったなど、とてもありそうにないことだったし、天幕の中で三角形のルーン文字のような印の意味が分かった人は、他に誰もいないようだった。
「君は――そのう――ぜったい確かだと思うのかい、あれがグリンデルワルドのだって?」
「僕は、まちがえない」とクラムが冷たく言った。「僕は、学校にいた数年間、あの印のそばを通りすぎていたんだ。よく知っている」
「あのう、ひょっとしたら」とハリーが言った。「ゼノフィリウスは、あの印の意味をちゃんと分かっていないんじゃないかな。ラブグッド家はとても……風変わりなんだ。彼は、あの印をどこかで見つけて、しわしわ角のスノーカックだか何かの断面だと思ったのかもしれない」
「何の断面だって?」
「そのう、それが何だか知らないけど、あの人たちは休みの日にそれを探しにいくらしいんだ……」
ハリーは、ルナと父親のことを説明するのは、うまくいかないと思った。
「あれが、彼の娘だ」と言って、ルナを指さした。彼女は、ブヨを追いはらおうとするように、頭の回りに腕をふりまわしながら、まだ一人で踊っていた。
「なぜ、彼女は、あんなことをしている?」とクラムが尋ねた。
「きっと、ラックスパートを追い払おうとしてるんだ」と、その徴候が分かったハリーが言った。
クラムは、ハリーが、からかっているのかどうか分からないようだった。彼は、ローブの中から杖を引きだし、おどすように太ももの上に軽く当てた。杖の先から火花が飛びちった。
「グレゴロビッチ!」とハリーが大声で言ったので、クラムがびっくりした。しかしハリーはとても興奮していたので気がつかなかった。クラムの杖を見たとたん、記憶が甦ったのだ。三校対抗魔法試合の前に、オリバンダーがそれを手に取り、注意深く調べていた。
「彼がどうした?」とクラムが疑わしげに聞いた。
「彼は、杖職人だ!」
「知っている」とクラムが言った。
「彼は、君の杖をつくったんだ! だから、僕は思い浮べたんだ――クィディッチのことを……」
クラムは釈然としていないようだった。
「グレゴロビッチが、僕の杖をつくったと、どうして知っている?」
「僕……僕、どこかで読んだ、と思う」とハリーが言った。「あの、――サポーターの雑誌で」彼は、大胆にでっちあげた。クラムは、少し気をよくしたようだった。
「サポーターと杖のことを話しあった覚えはない」彼は言った。
「それで……そのう……最近、グレゴロビッチはどこにいるのかい?」
彼は、まごついたようだった。
「数年前に引退した。僕は、グレゴロビッチの杖を買った最後の顧客の一人だ。彼の杖は最高だ――もちろん、君たちイギリス人は、オリバンダーから、たくさん買っていることは知っているが」
ハリーは答えないで、クラムのように踊る人たちを眺めているふりをして、一生懸命考えていた。じゃ、ヴォルデモートは、ほめたたえられた杖職人を捜していたのだ。そして、ハリーは、その理由をあれこれ考える必要はなかった。ヴォルデモートが、空を渡って追跡してきたあの夜、ハリーの杖がしたことのためだ。ヒイラギとフェニックスの羽の杖が、借りた杖を、うち負かしたからだ。それは、オリバンダーが、予想もしくは理解することができないことだった。グレゴロビッチの方が、もっとよく知っているのだろうか? 彼は、ほんとうにオリバンダーよりも腕がよいのだろうか? オリバンダーが知らない杖の秘密を知っているのだろうか?
「あの女の子は、とてもきれいだ」とクラムが言ったので、ハリーは自分のまわりに引きもどされた。クラムは、ルナといっしょになったジニーを指さしていた。「彼女も君の親戚か?」
「うん」とハリーが、急に苛々して言った。「彼女は、つきあってる男がいる。嫉妬深いタイプで、大柄なやつだ。怒らせない方がいい」
クラムが唸った。
彼は、グラスを飲みほして立ち上がりながら言った。「きれいな女の子がみんな取られてしまうなら、国際的クィディッチ選手であったって、いったい何の意味があるというんだ?」
そして、彼は大股で歩いていった。後に残されたハリーは、通りすぎるウェイターからサンドイッチを取り、混雑したダンス場の縁をぐるっと回っていった。ロンを見つけて、グレゴロビッチについて話したかったが、ダンス場の真ん中でハーマイオニーと踊っていた。ハリーは、金の柱にもたれて、フレッドとジョージの友だちの、リー・ジョーダンと踊っているジニーを見ながら、ロンとした約束を恨めしく思わないようにしようと努めた。
彼は、これまで結婚式に出たことはなかった。それで、魔法界のお祝いが、マグルのとどんなふうに違うのか判断できなかった。けれど、マグルの式には、ウェディング・ケーキのてっぺんに模型のフェニックスが、のっていてケーキを切ると飛んでいくとか、シャンパンの瓶が、客たちの中を何も支えがなくて浮かんでいるようなことは、ぜったいにないだろうと思った。夕暮れが迫り、ガが天蓋の下を飛びまわり、浮かんでいる金の提灯に明かりが、ともり、お祭り騒ぎは、いよいよ歯止めがきかなくなってきた。フレッドとジョージが、フラーのいとこの二人連れと、暗闇に姿を消してから長いこと、たっていた。チャーリーと、ハグリッドと、紫のフェルト帽をかぶったずんぐりした魔法使いは、隅で「英雄オード」の歌を歌っていた。
ハリーが自分の息子かもしれないと思っている、ロンの酔っぱらったおじさんから逃げるために、人混みの中をうろつきながら、ハリーは、年とった魔法使いがテーブルのところに一人で座っているのを見つけた。白髪が顔の回りに雲のようにとりまいていて、全体が古いタンポポの綿毛のように見え、その上に、赤いフェルトの縁なし帽をのせていた。ハリーは、その人に、ぼんやりと見覚えがあったので、脳みそをしぼって考え、突然、これは、エルフィアス・ドージだと分かった。フェニックス騎士団のメンバーであり、ダンブルドアの追悼文を書いた人だ。
ハリーは、近づいていった。
「座っていいですか?」
「もちろん、もちろん」とドージが、かなり高くて、ぜえぜえ言う声で言った。
ハリーは、前屈みになった。
「ドージさん、僕はハリー・ポッターです」
ドージは、はっと息をのんだ。
「君か! アーサーが、君が変装して出席していると言っておったが……とてもうれしいよ、とても光栄なことだ!」
心配しながらも喜びに震えて、ドージは、グラスにシャンパンを注いでハリーに渡した。
「君に手紙を書こうかと思っていた」彼は、ささやいた。「ダンブルドアの後……ショックで……君のために、きっと……」
ドージの小さな目に突然、涙があふれた。
「日刊予言者新聞に書かれた追悼記事を読みました」とハリーが言った。「あなたが、ダンブルドア先生と、あんなに親しかったとは思いませんでした」
「他の誰よりも」とドージが、ナプキンで目を叩いて涙を拭きながら言った。「私が、彼を、いちばん古くから知っているのは確かだ。アベルフォースを勘定に入れなければの話だが――それに、どういうわけか、アベルフォースは勘定に入れられないようだ」
「日刊予言者新聞といえば……ご覧になりましたか、ドージさん?」
「ああ、どうかエルフィアスと呼んでくれ、君」
「エルフィアス、ダンブルドアについてのリータ・スキーターのインタビューをご覧になりましたか?」
ドージの顔に、怒りの色が広がった。
「ああ、ハリー、見たよ。あの女、というよりハゲワシと言った方が適切だが、話をしろと、非常にうるさくせがんだ。言うも恥ずかしいが、私は、かなり無礼にふるまい、うるさいしわくちゃばばあと呼んだ。その結果、君が見ただろうが、私が、ぼけたという中傷になった」
「あのう、あのインタビューの中で」とハリーが続けた。「リータ・スキーターは、ダンブルドア先生が、若い頃に闇魔術に関わったと暗示しています」
「あれの一言も信じるでない!」とドージが即座に言った。「一言もだ、ハリー! 何物にも、君のアルバス・ダンブルドアの記憶を汚されてはならぬ!」
ハリーは、ドージの熱をこめた、苦しんでいる顔を見つめ、安心したのではなく、欲求不満に感じた。ドージは、ほんとうに、ハリーが……そんなに簡単に、あの記事を単純に信じないようにできると思っているのだろうか? ハリーが、すべてを正しく知る必要があるのが、ドージは分からないのだろうか?
ドージは、ハリーが納得できないのを推測したのか、心配そうに急いで続けた。「ハリー、リータ・スキーターは、恐ろしい――」
けれど、メンドリのようなかんだかい声にさえぎられた。
「リータ・スキーター? ああ、私は大好きだよ、いつも読んでいる!」
ハリーとドージが見あげると、ミュリエルおばさんが、そこに立っていた。帽子の羽飾りが踊るようにゆれ、シャンパンのグラスを手にしていた。「彼女は、ダンブルドアについて本を書いたよ、ほら!」
「やあ、ミュリエル」とドージが言った。「そうだ、その話をしておったところだ――」
「ほらほら、あんたの椅子をおくれ。私は百七才なんだからね!」
別の赤毛のウィーズリーのいとこが、驚いて椅子から飛びあがった。ミュリエルおばさんは、驚くべき力で、その椅子をぐいと回し、ドージとハリーの間にストンと腰を下ろした。
「また会ったね、バリーだか、名前は何でもいいが」彼女は、ハリーに言った。「さてと、リータ・スキーターについて何を言ってたんだい、エルフィアス? 彼女が、ダンブルドアの伝記を書いたのは知ってるだろう? 読むのが待ちきれないよ。フロリッシュ・アンド・ブロッツ書店に注文するのを忘れないようにしなけりゃ!」
ドージは、これに対し、堅苦しく重々しい様子をしたが、ミュリエルおばさんはグラスを飲みほし、骨ばった指をならして、通りかかったウェイターを呼びとめ、お代りを頼んだ。そして、またシャンパンをぐいっと一飲みすると、げっぷをして言った。「ぬいぐるみの蛙の一組みたいに、呆然とするんじゃないよ! アルバスが、たいそうご立派になる前には、とてもおかしな噂があったのさ!」
「よく知らずに、あら探しをする」とドージが、またラディッシュのように赤くなって言った。
「あんたは、そう言うだろうよ、エルフィアス」とミュリエルおばさんが、メンドリのような、かんだかい声で言った。「あの追悼記事の中で、どんなにしどろもどろだったことか!」
「あんたが、そう思うのは残念だ」とドージが、さらに冷たく言った。「私は、心をこめて書いたと断言する」
「ああ、あんたがダンブルドアを崇拝していたことは皆が知ってる。彼がスクイブの妹を捨てたと分かっても、あんたは、きっと彼が聖人だったと考えるだろうと、私は思うよ!」
「ミュリエル!」とドージが叫んだ。冷えたシャンパンと関係ないうすら寒さが、ハリーの胸の中に忍びこんできた。
「どういう意味?」彼はミュリエルに尋ねた。「彼の妹がスクイブだと誰が言ったの? 彼女は病気なんだと思ってたけど?」
「それじゃ、あんたの考えは、まちがってるよ、バリー!」とミュリエルおばさんが、自分が言ったことに反響があったのを喜びながら言った。「ともかく、どうやって、そのことについて事実が分かると言うんだい? あんたが考えられないくらい何年も何年も前におこったことだ。ほんとうのところ、その当時、生きていた私らは、実際、何が起きたのかを、ぜんぜん知らない。だから、スキーターが何を暴いたのか知りたくてたまらないんだよ! ダンブルドアは、妹のことを長いこと隠していたんだ!」
「事実ではない!」と、ドージが、息をぜいぜいさせて言った。「まったくもって、事実ではない!」
「先生は、僕に、妹がスクイブだなんて言わなかった」とハリーが、思わず言ったが、おなかの中は、まだ冷たかった。
「いったい全体、何だって、あんたに言わなくちゃならないんだい?」と、ミュリエルが、かん高い声で叫び、ハリーをもっとよく見ようとして、椅子の中でからだをゆらした。
「アルバスが、アリアナのことを言わなかったわけは」とエルフィアスが、感情がこみあげたため堅苦しい声で言いはじめた。「私には、とてもよく分かる。彼は、彼女の死に、打ちひしがれていたのだ――」
「いったいなぜ、誰も彼女に会ったことがなかったんだい、エルフィアス?」と、ミュリエルが、ガーガー鳴くような声で言った。「なぜ我々の半分が、彼女のお棺を家から運びだし葬式をするまで、彼女がいたことさえ、知らなかったんだい? アリアナが、地下室に閉じこめられていたあいだ、聖人のようなアルバスは、どこにいた? ずっと離れたホグワーツで光り輝いていて、実家で何がおきているか気にもとめなかったんだ!」
「『地下室に閉じこめられていた』って、どういう意味?」と、ハリーが尋ねた。「何があったの?」
ドージは、うちひしがれた様子だった。ミュリエルおばさんは、またメンドリのような声でクックッと笑って、ハリーに答えた。
「ダンブルドアの母親は、恐ろしい女だった。ただもう恐ろしい。マグルの出でね。そうでないふりをしていたと聞いたが――」
「彼女は、ぜったいにそのようなふりなどしなかった! ケンドラは、すばらしい人だった」とドージが、みじめな様子でささやいた。けれど、ミュリエルおばさんは、それを無視した。
「高慢ちきで、いばりちらしていた、スクイブを生んだことを恥かしく思うような――」
「アリアナは、スクイブではなかった!」とドージが、息をぜいぜいさせて言った。
「あんたは、そう言うがね、エルフィアス、それじゃ、なぜ彼女がホグワーツに入らなかったのか説明しておくれ!」と、ミュリエルおばさんが言った。彼女は、ハリーの方に向きなおった。「私たちが若い頃はね、スクイブは、秘密にすることがよくあったんだよ。家の中に少女を閉じこめて、彼女が、いないふりをする、ー」
「言っとくが、そんなことは、おこらなかった!」とドージが言ったが、ミュリエルおばさんは、まだハリーに向って、どんどん言いつづけた。「スクイブは、マグルの学校に追いはらわれて、そこになじむようにさせるのが、ふつうだった……その方が、魔法界に居場所を見つけようとするより、ずっと思いやりがあった。魔法界では、ぜったいに二流にしかなれなかったからね。だが、当然ケンドラ・ダンブルドアは、娘をマグルの学校にやるなんて夢にも思わなかった――」
「アリアナは虚弱だった!」とドージが絶望的な様子で言った。「彼女は病弱すぎて、許されなかった――」
「家を出るのを許されなかった?」とミュリエルが、メンドリの鳴くような声で言った。「それなのに、彼女は、聖マンゴ病院に通わなかったし、家に、癒師が呼びつけられたこともない!」
「ほんとに、ミュリエル、いったいどうしてそんなことが――」
「教えてあげるけどね、エルフィアス、私のいとこのランスロットは、あの頃、聖マンゴで癒師だった。それで、彼が、家族の内輪だけの話として、アリアナは、一度も病院に来たことがないと言った。きわめて疑わしい、とランスロットは考えていたよ!」
ドージは、今にもどっと泣きだしそうにみえた。ミュリエルおばさんは、とても楽しんでいるようで、指をならしてシャンパンのお代りを頼んだ。ハリーは、ショックを受けながら、ダーズリー家が、彼が魔法使いだというだけで、閉じこめ隠したことを考えた。ダンブルドアの妹は、彼と反対の理由で、同じ目にあったのだろうか? 魔法が使えないため閉じこめられたのだろうか? ダンブルドアは、ほんとうに彼女をそのままに放っておいて、自分が優秀で才能があることを証明するためにホグワーツに行ったのだろうか?
「さて、もしケンドラが先に死ななかったら」ミュリエルが、また話しはじめた。「アリアナを殺したのは、彼女だと言っただろうがね――」
「何と言うことを、ミュリエル」とドージが、うめいた。「母親が自分の娘を殺すと言うのか? 何を言っているのか考えてみなさい!」
「もし、問題になっている母親が、娘を何年も何年も閉じこめておいたのなら、そう言えるじゃないか?」とミュリエルおばさんが、肩をすくめた。「だが、私が言ったように、それは事実に合わない。ケンドラは、アリアナより先に死んだのだから――そのことを、誰も確かだとは――」
「ああ、アリアナが、母親を殺したのは疑いない」とドージが、嘲ったところを見せようと、思いきって言ってみた。「どうだ?」
「ああ、アリアナが自由になりたくて捨てばちになって、もみあっているうちにケンドラを殺したかもしれない」とミュリエルおばさんが、考えこみながら言った。「好きなだけ、首を横にふって否定しつづければいいさ、エルフィアス! あんたは、アリアナの葬儀に参列したんだろ?」
「そうだ」とドージが唇をふるわせて言った。「あれほど、絶望的に悲しい状況を見たことがない。アルバスは、心が張りさけるほど、うちひしがれていた、ー」
「張りさけるというか壊れたのは、心ばかりじゃない。葬儀の途中で、アベルフォースが、アルバスの鼻を壊したというか折ったのじゃないかい?」
もし、ドージが、これより前にショックを受けたように見えたとしても、今に比べたら何でもないほどだった。ミュリエルが、彼を剣で突きさしたかのようだった。彼女は、メンドリのような声で大きくカッカッと笑って、シャンパンを、またぐいぐい飲んだので、あごにしたたり落ちた。
「どうして、それを――」とドージが、しゃがれ声で言った。
「私の母は、バチルダ・バグショットと友だちだった」と、ミュリエルおばさんは、うれしそうに言った。「バチルダが、母に、ことのてんまつを話すあいだ、私は扉のところで聞いていたんだよ。お棺の横で大げんか! バチルダの話では、アベルフォースは、アリアナが死んだのは、みんなアルバスのせいだとどなって、顔をぶん殴ったそうだ。それをアルバスは避けもしなかったそうだ。それ自体、奇妙なことだ。アルバスは、両手を後ろ手に縛られていたって、決闘でアベルフォースをやっつけることができたのに」
ミュリエルは、またシャンパンをぐいぐい飲んだ。昔の醜聞をくりかえすことは、ドージにショックを与えたのと同じくらい、彼女を元気づけたようだった。ハリーは、どう考えていいか、何を信じたらいいか分からなかった。真実を知りたかった。けれど、ドージは、そこに座って、アリアナは病気だったと弱々しく哀れっぽく言うだけだった。ハリーは、もし、そんな残酷なことが家の中で、おこっているのに、ダンブルドアが放っておいたなどとは、ほとんど信じることができなかった。それでも、その話に妙なところがあるのは疑いなかった。
「それに、別のことを教えるよ」ミュリエルが、グラスを置いて、少ししゃっくりをしながら言った。「バチルダが、リータ・スキーターに秘密をぶちまけたと思うんだ。ダンブルドアと親しい重要な情報源についての、スキーターのインタビューのほのめかし――他に誰も知らないけど、彼女は、アリアナ事件のあいだ、ずっと近くにいたから、その情報源にぴったり合う!」
「バチルダは、リータ・スキーターと話したことはない!」とドージがささやくように言った。
「バチルダ・バグショット?」ハリーが言った。「『魔法歴史』を書いた人?」
その名前は、ハリーの教科書の一冊の表紙に印刷されていた。熱心に読んだとは言えないことは認めるが。
「そうだ」とドージが、おぼれかけている人が救命帯をつかもうとしているように、ハリーの質問に飛びついて言った。「とても才能のある魔法歴史学者であり、アルバスの旧友だ」
「最近は、完全に耄碌したと聞いたがね」とミュリエルおばさんが、楽しそうに言った。
「もしそうなら、それに付け込むとは、スキーターは、なおさら卑劣なやつだ」とドージが言った。「そして、バチルダの発言に対し、まったく信用がおけなくなる!」
「ああ、記憶を呼びおこす方法はあるし、リータ・スキーターは、そういうのをよく知っているに違いない」とミュリエルおばさんが言った。「だが、たとえバチルダが完全にいかれていても、古い写真や、ひょっとしたら手紙だって持っているに違いない。彼女は、ダンブルドア家と、とても長いつきあいなんだから……まあ、ゴドリック盆地へ、はるばる行った価値はあると思っているよ」
ハリーは、バタービールを一口飲んでいたが、むせてしまった。ハリーが、涙を流してミュリエルおばさんを見ながら咳きこんでいるあいだ、ドージが背中をたたいてくれた。声が出せるようになるやいなや、彼は尋ねた。「バチルダ・バグショットは、ゴドリック盆地に住んでるの?」
「ああ、そう。彼女は、ずっとあそこに住んでいるよ! パーシバルが投獄されて、ダンブルドア家は、あそこに引っこした。それでお隣さんになったのさ」
「ダンブルドア家は、ゴドリック盆地に住んでたの?」
「そうだよ、バリー、今そう言っただろ?」とミュリエルおばさんが気短に言った。 ハリーは、体の内部が流れだして空っぽになったように感じた。今までの六年間で一度も、ダンブルドアはハリーに、二人ともゴドリック盆地に住んだことがあり、そこで愛する者を失ったという話をしたことがなかった。なぜだろう? リリーとジェイムズは、ダンブルドアの母親と妹の近くに埋葬されたのだろうか? ダンブルドアは、母と妹のお墓参りをするときに、リリーとジェイムズのお墓参りもしに立ちよったのだろうか? そのことを、彼は一度もハリーに話したことがなかった……わざわざ、言おうともしなかった……
それが、どうしてそんなに重要なのか、ハリーは、自分自身にさえ説明できなかった。けれど、ハリーは、ダンブルドアが、この場所とこの経験の共通の思い出を持っていたことを言わなかったのは、嘘と同等だと感じた。彼は、前方を見つめていたが、まわりで何が起きているかほとんど気がつかなかったし、ハーマイオニーが人混みからあらわれて、彼のそばの椅子に近づいてきたのにも、気がつかなかった。
「もう、これ以上は踊れない」彼女は、息をきらせながら言って、靴を片方脱ぎ、足の裏をこすった。「ロンは、バター・ビールを探しにいったわ。ちょっと変なんだけど、ビクターが、ルナのお父さんの前から怒っていってしまうのを見たの。言い争ってたみたいだった――」彼女は、声を落として、彼を見つめた。「ハリー、大丈夫?」
ハリーは、どこから話してよいか分からなかった。けれどそれは問題にはならなかった。ちょうどそのとき、大きな銀色のものが、天蓋を通って、下のダンス場に落ちてきた。そしてヤマネコが、優美に輝きながら、びっくり仰天している踊り手たちの真ん中に軽やかに着地した。近くで踊っていた人たちは、首をそちらに向け、ダンスの途中で、こっけいにもその場で固まっていた。そのとき、パトローナスの口が大きく開き、キングズリー・シャックルボルトの大きく深くゆっくりした声で話した。
「魔法省が、敵の手に落ちた。スクリムジョールは死んだ。敵がやってくる」
第9章 隠れ家
A Place to Hide
すべてが、スローモーションのようだった。ハリーとハーマイオニーは飛び上がるように立って、杖を出した。多くの人々は、何かおかしなことが起きたということしか分かっていないようで、まだ銀のネコが消えてしまった場所を見つめていた。沈黙が、パトローナスが着地した場所から外側に冷たいさざ波のように広がっていった。それから誰かが叫び声をあげた。
ハリーとハーマイオニーはパニック状態の群衆の中に突っこんでいった。客たちは、あらゆる方向に駆けだしていき、その多くは、姿くらましをした。『隠れ家』のまわりの防御の魔法が壊されていた。
「ロン!」ハーマイオニーが叫んだ。「ロン! どこにいるの?」
二人が、ダンス場を突っきっていくと、マントと覆面の姿が群衆の中にあらわれるのが、ハリーに見えた。それから、ルーピンとトンクスが杖を上げ、いっしょに「プロテゴ!<防御せよ>」と叫ぶのが聞こえた。叫び声が、四方八方にこだましていた、−
「ロン! ロン!」ハーマイオニーが半分すすり泣きながら呼んだ。彼女とハリーは、怯えた人々に何度もぶつかった。ハリーが、離ればなれにならないようにするために、彼女の手をつかんたとき、一筋の光が、頭上をぴゅっと飛んだ。それが、防御の呪文なのか、彼が知らないもっと邪悪なものなのか分からなかった。
ロンがいた。ロンが、ハーマイオニーの空いた手をつかむと、彼女がその場で回りだすのを、ハリーは感じた。
その場の光景と物音が消えさり、暗闇が圧迫してきた。時間と空間のあいだに締めつけられ、感じることができるのは、ハーマイオニーの手だけだった。『隠れ家』から遠く離れ、下りてくるデス・イーターから遠く離れ、きっとヴォルデモート自身からも遠く離れて……
「僕たち、どこにいるの?」と、ロンの声がした。
ハリーは、目を開いた。つかの間、結局、彼らは結婚式の場を離れなかったのかと思った。まだ、人の群れに囲まれているような気がしたからだ。
「トットナム・コート通り」と、ハーマイオニーが息をきらせながら言った。「歩いて、とにかく歩いて。どっか着がえられる場所を見つけなくちゃ」
ハリーは、彼女の望みどおりにした。彼らは、暗い大通りを半分歩き、半分走っていった。そこは、深夜、浮かれ騒ぐ人々が群がり、閉じた店が軒を連ね、頭上には星がまたたいていた。二階建てバスが、ゴロゴロ音をたてて走り、彼らが通りすぎると、パブへ行く陽気な人々が、はやしたてるような目つきで見た。ハリーとロンは、まだドレス・ローブを着ていたのだ。
若い女が、ロンを見て騒々しく笑いころげたとき、「ハーマイオニー、僕たち、何も着がえを持ってないよ」とロンが言った。
「どうして、僕はちゃんと透明マントを持ってこなかったんだろう?」と、ハリーが、内心自分の馬鹿さ加減に毒づきながら言った。「去年は、ずっと持ち歩いてたのに――」
「大丈夫。私がマント持ってきたし、着がえも持ってきたから」とハーマイオニーが言った。「とにかく普通に歩いてくれれば――ここでいいわ」
彼女は、二人を横道に連れこみ、陰になった路地の人目につかないところに連れっていった。
「君、マントも着がえも持ってきたと言ったけど……」とハリーが、ハーマイオニーに向って顔をしかめながら言った。彼女は、ビーズ飾りの小さなバッグしか持っていなかったが、その中をごそごそ探していた。
「ええ、あったわ」とハーマイオニーが言った。そしてハリーとロンがまったく驚いたことには、その中からジーパンとトレーナーとえび茶の靴下と、最後に銀色の透明マントを引っぱりだした。
「全くもう、どうやって――?」
「物をこっそり収納する呪文」とハーマイオニーが言った。「コツがいるけど、私、うまくやったと思うわ。とにかく、ここに必要な物をみんな入れなくちゃならなかったの」彼女は、華奢に見えるバッグを少しふった。すると、積み荷の中で、沢山の重い物体が転がるような音がした。「なんてことなの。あれは本よ」彼女は中をのぞきこみながら言った。「私、本はテーマ別に詰めたんだけど……まあ……ハリー、透明マントをかぶった方がいいわ。ロン、早く着がえて……」
「いつ、こういうことやったの?」ハリーが聞いた。ロンはローブを脱いでいた。
「何日もかかって、ぜったい必要なものを荷造りしてるって、『隠れ家』で言ったでしょ。ほら、急いで逃げださなくちゃいけない場合に備えてね。今朝、あなたのリュックを詰めたの、ハリー、あなたが着がえた後で、ここに入れたわ……私、いやな予感がして……」
「君ってすごいよ、ほんとに」とロンが、言いながら、丸めたローブを手渡した。
「ありがとう」とハーマイオニーが、ローブをバッグに詰めこみながら、かろうじてほほえみを浮かべた。「ねえ、ハリー、マントを着て!」
ハリーは、透明マントを肩の上にはおり、頭の上からひっかぶった。すると姿が見えなくなった。彼は、何がおこったのかやっと正しく認識しはじめたところだった。
「他の人たち――結婚式にいたみんなは――」
「今、それを心配することはできないわ」とハーマイオニーがささやいた。「彼らが追っているのは、あなたなの、ハリー。私たちが戻れば、もっとみんなは危険になるのよ」
「そのとおりだ」とロンが言った。ハリーが言いかえそうとするのが、顔を見なくても分かっているようだった。「騎士団の大部分があそこにいた。彼らが、面倒みてくれるよ」
ハリーは頷いたが、二人から、ハリーが見えないのを思いだして「うん」と声に出して言った。けれど、ジニーのことを思いだすと、恐怖が、胃の中で胃酸のように、ふつふつとわきあがってきた。
「さあ、私たち、進みつづけなくちゃいけないわ」とハーマイオニーが言った。
彼らは横道まで戻り、また大通りに出た。道路の反対側では、男たちのグループが歌いながら歩道をジグザグに進んでいった。
「単なる好奇心だけど、なんでトットナム・コート通りなの?」ロンがハーマイオニーに尋ねた。
「ぜんぜん分からない。頭にぽんと浮かんだの。でもマグルの世界の方が安全だと思うわ。私たちが、いると予想されないだろうから」
「そうだね」とロンが、見まわしながら言った。「でもさ、ちょっと――露出しすぎだと思わないか?」
「他にどこがあるのよ?」とハーマイオニーが尋ねたが、通りの反対側の男たちが、ひゅーっと口笛を吹きながら見つめるので、身をすくめていた。「『漏れ鍋亭』に部屋を予約するわけにはいかないでしょ? それにグリモールド・プレイスは、もしスネイプがいたら、だめだし……私の両親の家へ行ってみようかと思うの。彼らが、様子を見に来る可能性はあるけど……ああ、戸閉めになっているといいんだけど!」
「ねえ、そこのねえちゃん?」反対側の歩道の男たちのうちで、いちばん酔っぱらったのが叫んだ。「一杯どう? 赤毛の野郎は振ってさ、一緒に飲もうよ!」
ロンが口を開いて、道路の向こう側にどなりかえそうとしたので、「どっかに座りましょう」ハーマイオニーが急いで言った。「ほら、ここがいいわ!」
そこは、小さくてうらぶれたオールナイトのカフェだった。安物の合成樹脂塗料を塗ったテーブルの上すべてに、うすく油の膜がおおっていた。だが、少なくとも空いていた。ハリーが最初に仕切り席に滑りこみ、ロンがその隣で、ハーマイオニーの反対側に座った。彼女は、入り口に背を向けていたが、それが気にいらないようで、肩ごしにしょっちゅう、ふりかえるので、けいれんの発作をおこしているように見えた。ハリーは、少なくとも歩いていれば、ゴールをめざしているような幻想を抱くことができたので、静止しているのが嫌だった。マントの下で、ポリジュース薬の最後の名残が消えていき、両手が、普段の長さと形に戻るのを感じることができたので、ポケットから眼鏡を引っぱりだして、またかけた。少ししてロンが言った。「ねえ、ここって『漏れ鍋亭』から、そう遠くないよ。あれは、チャリング・クロスだから――」
「ロン、だめよ!」とハーマイオニーが、すぐに言った。
「泊まるんじゃなくて、その後どうなってるか知るためだよ!」
「どうなってるか分かってるでしょ! ヴォルデモートが、魔法省を乗っとったのよ。他に何を知る必要があるの?」
「いいよ、いいよ、ちょっと思っただけさ!」
彼らは、また怒った気分のまま黙りこんだ。ウェイトレスが、ガムを噛みながら足をひきずってやる気なさそうにやってきたので、ハーマイオニーが、カプチーノを二つ注文した。ハリーは姿が見えなかったので、もう一つ注文するのは変だった。無骨な労働者の二人連れが、カフェに入ってきて、隣の仕切り席に窮屈そうにからだを押しこめて座った。ハーマイオニーは、声を落として、ささやき声でしゃべった。
「私たち、姿くらましをするのにいい静かな場所を見つけて、郊外をめざしましょう。着いてしまえば、騎士団に知らせることができるわ」
「それじゃ、君、あのパトローナスにしゃべらせることってできるの?」とロンが尋ねた。
「練習したから、できると思うわ」とハーマイオニーが言った。
「うーん、そうして、騎士団のみんなをトラブルに巻きこまなければね。いや、まだ彼らが逮捕されていなければの話だけど。うへーっ、まずっ」とロンが、くすんだ色に泡だったコーヒーを一口飲んで言った。ウェイトレスが聞いていて、ロンを不機嫌そうにちらっと見て、新しく来た客の注文を取りに、足をひきずるように歩いてきた。二人の労働者のうち、金髪で巨大な体格の大柄な方が、彼女を手で追いはらうしぐさをしたのを、たまたまハリーは見た。彼女は、侮辱されたようににらみつけた。
「じゃ、行こう。この泥水もう飲みたくないよ」とロンが言った。「ハーマイオニー、これ払うマグルの金、持ってるの?」
「ええ、私、『隠れ家』に行く前に、住宅金融組合の貯金を全部おろしてきたの。小銭はバッグの底だと思うわ」とハーマイオニーが、ため息をつきながら、ビーズのバッグに手をのばした。
二人の労働者が、まったく同一の動きをしたので、ハリーは無意識に同じ動きをして、三人そろって、杖を引きだした。ロンは、何がおきたか悟るのに数秒遅れたが、ハーマイオニーを横の長いすに押しやり、前方に突っこんだ。デス・イーターたちの呪文の威力で傾いた仕切り壁が粉々になった。そこは、すぐ前までロンの頭があったところだった。そのときハリーが、姿が見えないまま「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」と叫んだ。
大きな金髪のデス・イーターの顔の真正面を、赤い閃光が直撃した。彼は意識を失って横にバタンと倒れた。彼の連れは誰が呪文を放ったのか分からずに、ロンめがけて呪文を放った。輝く黒い綱が、杖の先から出てきて、ロンを頭から足の先まで縛りあげた。ウェイトレスは叫び声をあげ、出入り口のドアの方に走り去った。ロンを縛りあげた、歪んだ顔のデス・イーター目がけて、ハリーが、また気絶させる呪文を放った。が、はずれて、窓に当たって、はねかえり、ウェイトレスに当たって、彼女はドアの前にくずおれるようにして倒れた。
「エクスプルソ!<爆破せよ>」とデス・イーターが怒鳴った。立っていたハリーの前のテーブルが吹きとび、爆破の力でハリーは壁に叩きつけられ、マントが滑りおち、杖が手から離れた。
「ペトリフィクス・トタルス!<石化せよ>」と見えないところからハーマイオニーが甲高い声で叫んだ。デス・イーターは像のように前のめりになって、陶器やテーブルやコーヒーカップの残骸の上に、バリバリと音を立てて倒れた。ハーマイオニーが長椅子の下から、はい出して、体中ふるえながら髪から灰皿のガラスのかけらを払い落とした。
「ディ、……ディフィンド<切り開け>」彼女は、杖をロンに向けて言ったが、彼のジーンズのひざを切って、大きな切り傷をつくってしまったので、ロンが苦痛のわめき声を上げた。「まあ、ごめんなさい、ロン、私、手がふるえてるのよ! ディフィンド!」
綱が切れて落ちた。ロンは立ちあがり、感覚を取りもどそうと腕をふった。ハリーが杖を取りあげ、残骸に上った。そこに大きな金髪のデス・イーターが長いすの上に無様に手足をのばしていた。
「こいつが、誰か分かってもよかったんだ。ダンブルドアが亡くなった晩、あそこにいたんだから」とハリーが言った。それから、足元の黒っぽい髪のデス・イーターの方を向いた。男の目は、ハリー、ロン、ハーマイオニーの間をせわしなく動いていた。
「そいつはドロホフだ」とロンが言った。「前に見た指名手配のポスターにあった。大きい方は、ソーフィン・ロールだと思う」
「名前なんてどうでもいいの!」とハーマイオニーが少しヒステリーっぽく言った。「どうやって私たちを見つけたのかしら? 私たち、これからどうする?」
彼女の動揺ぶりを見て、かえってハリーは頭がさえてきたようだった。
「ドアに鍵かけて」と彼女に言った。「それからロン、電気消して」
ハリーは、硬直したドロホフを見おろしながら、すばやく考えた。そのあいだに、鍵がカチリとかかる音が聞え、ロンが火消しライターを使って、カフェを真っ暗闇にした。さっきハーマイオニーをはやし立てた男たちが、別の女の子に向って叫んでいるのが遠くに聞こえた。
「こいつらを、どうする?」ロンが、暗闇の向こうからハリーにささやいた。それから、もっと小さな声でつけ加えた。「殺す? こいつら、僕たちを殺すよ。今、成功しそうだったし」
ハーマイオニーは身震いして、一歩後ろに下がった。ハリーは首を横にふった。
「こいつらの記憶を消さなくちゃならないだけだ」とハリーが言った。「その方がいいだろ。そうすれば僕たちの手がかりが、なくなる。もし、こいつらを殺せば、僕たちがここにいたのが丸わかりだ」
「君がボスだ」とロンが心からほっとしたように言った。「でも、僕たち記憶を消す呪文をかけたことないよ」
「私もない」とハーマイオニーが言った。「でも理論は分かるわ」
彼女は、気を落ちつかせるように深く息をすった。それから杖をドロホフの額に当てて言った。「オブリビエイト!<忘れろ>」
たちまちドロホフの目は焦点を失い、ぼんやりした。
「すばらしい!」とハリーが言いながら、彼女の背中を叩いた。「もう一方のやつとウェイトレスも頼む。ロンと僕は片づけるから」
「片づける?」とロンが、半ば破壊されたカフェを見まわしながら言った。「どうして?」
「彼らが目覚めたとき爆破されたようにみえる場所にいたら、何がおきたか怪しむじゃないか?」
「ああ、そうだね、うん……」
ロンは、しばらくごそごそしてから、やっとポケットから杖を引きだした。
「どうりで、杖を出せないわけだよ、ハーマイオニー。僕の古い方のジーンズを詰めただろ、きっちきちだよ」
「あら、ごめんなさい」とハーマイオニーが怒り気味の声で言った。それからウェイトレスを窓から見えないところまで引きずっていきながら、「そんなら、ロンは別の場所に杖をしまえばいいじゃない」と、ぶつぶつつぶやいているのが、ハリーに聞こえた。
カフェが元通りになると、彼らはデス・イーターたちを最初座っていた仕切り席に運んでいき、二人を向かいあわせにして支えあわせた。
「でも、どうやって私たちを見つけたのかしら?」ハーマイオニーが尋ねて、身動きできない男から、もう一人へと目をやった。「私たちの居場所がどうして分かったのかしら?」
彼女は、ハリーの方に向きなおった。
「あなたの――あなたの魔法にまだ『跡』が残ってるってことはないわよね、ハリー?」
「そんなはずはないよ」とロンが言った。「『跡』は十七才になると消える。それが魔法法だ。大人には、跡は、つかない」
「あなたが知るかぎりではね」とハーマイオニーが言った。「でもデス・イーターが十七才にも『跡』をつける方法を見つけだしたら?」
「けど、ハリーは、この二十四時間、デス・イーターの近くには、いなかった。誰にも『跡』をつけなおすことなんてできやしなかったよ」
ハーマイオニーは返事をしなかった。ハリーは自分が汚染しているような気がした。ほんとうに『跡』がついていて見つけられたのだろうか?
「もし『跡』が残るなら、僕は魔法が使えないし、僕の近くにいる君たちも魔法を使えば、居場所がばれてしまうから……」彼が言いはじめた。
「私たちは離れてはいけないわ!」とハーマイオニーが断固とした口調で言った。
「安全な隠れ場所がいる」とロンが言った。「ずうっと考えてみなくちゃ」
「グリモールド・プレイスだ」とハリーが言った。
他の二人は、ぽかんと口を開けた。
「ばかなこと言わないで、ハリー。あそこはスネイプが入れるのよ!」とハーマイオニーが言いかえそうとしたが、
「ロンのパパが、あそこにはスネイプ避けの呪文がかけてあるって言ってたし――もしそれが効かなくても」とハリーがかまわず言いつづけた。「だから何だっていうのさ?誓って言うけど、僕はスネイプに会えればちょうどいい!」「でも――」
「ハーマイオニー、他にどこかあるか? あそこが、いちばんマシだよ。スネイプが、あそこで出くわすただ一人のデス・イーターだ。もし、僕に『跡』が残っているとしたら、他にどこへ行こうと、デス・イーターが山のように押しよせてくるんだよ」
彼女は、できれば他に行きたいという顔つきだったが、反論できなかった。彼女がカフェのドアの鍵を開け、ロンが、火消しライターをカチッと言わせてカフェにまた明かりをつけた。それから、ハリーが三つ数えると、彼らは三人の犠牲者に反対呪文をかけ、ウェイトレスとデス・イーターが眠そうに身動きする前に、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、その場で回転して、もう一度、身を押しつける暗闇の中に消えた。
数秒後、ありがたいことにハリーの肺が広がったので、彼は目を開けた。彼らは、今、見慣れた小さくてみすぼらしい広場の真ん中に立っていた。荒れはてた背の高い家々が四方から彼らを見おろしていた。秘密保持者のダンブルドアに十二番地の存在を聞いていたので、彼らには、その家が見えた。彼らは、跡をつけられたり、見張られたりしていないか、数メートルごとに確かめながら、その家に急いだ。石段を駆けあがり、ハリーが杖で玄関の扉を一度たたいた。金属のカチャカチャいう音と、鎖のガチャンガチャンという一連の音が聞え、扉がギイッときしんで大きく開くと、彼らは、中へ突進した。
ハリーが扉を閉めると、旧式ながス燈が、ぱっとともり、玄関の廊下に、ちらちらする光を投げかけた。そこはハリーの記憶どおりだった。気味が悪く、クモの巣だらけで、壁の屋敷しもべの頭の輪郭が、階段に奇妙な形の影を投げかけていた。長くて黒っぽい色のカーテンが、シリウスの母の肖像画を隠していた。唯一、違っていたのはトロルの足の傘立てで、それはトンクスが、また、けっとばしたかのように、ころがって横になっていた。
「誰かがここに来たんだわ」ハーマイオニーが、それを指差して、ささやき声で言った。
「騎士団がここを出るとき、けっとばしたのかもしれないよ」ロンが小声でささやきかえした。
「で、スネイプよけの呪文はどこにあるんだ?」ハリーが尋ねた。
「あいつが、あらわれたときだけ働くのかも?」とロンが言ってみた。
けれど彼らは、家の中のもっと奥に入るのが怖くて、まだ扉近くの玄関マットの上に、固まったままだった。
「うーん、永久にここにいるわけにもいかないし」とハリーが言って、一歩踏みだした。
「セブルス・スネイプか?」
マッド・アイ・ムーディの声が、暗闇からささやいたので、三人とも、怖くて飛びのいた。「僕たちはスネイプじゃない!」とハリーが、かすれた声で言った。すると冷たい空気のようなものがヒューッと吹きつけて、舌が丸まり、それ以上、口がきけなくなった。けれど、口の中がどんなか感じる前に、また舌がほどけた。
他の二人も同じ不愉快な感じを味わったようだった。ロンは吐きそうな音をたてていた。ハーマイオニーは、どもっていた。「それは、き、きっと、し、舌縛りの呪文、マッド・アイがスネイプにかけたのよ!」
ハリーは恐る恐る、また一歩踏みだした。廊下の突きあたりの陰で、何かがさっと動き、三人が口を開く前に、絨毯から、背が高く、埃の色の、恐ろしい姿が立ちあがった。ハーマイオニーが、悲鳴をあげ、カーテンがさっと開いてブラック夫人も叫び声をあげた。灰色の姿は、どんどん速く彼らの方に滑るようにやってきた。腰まである髪とあごひげを後ろになびかせ、顔は落ちくぼみ、肉はなく、眼窩には目玉がなかった。恐ろしく面変わりしていて、恐ろしいけれども、見慣れたその姿が、衰弱した腕を、ハリーに向けた。
「違う!」ハリーが叫んで杖を上げたが、呪文の言葉は口から出てこなかった
「違う! 僕たちじゃない。僕たちが、あなたを殺したんじゃない――」
「殺し」という言葉を聞くと、その姿は爆発し、大きな埃の雲になった。ハリーは、咳きこみ、涙目になりながら見まわした。ハーマイオニーが腕で頭をおおって、扉のそばの床にうずくまっていて、ロンは、頭から足の先まで震えながら、彼女の肩を不器用に軽く叩きながら言っていた。「だ、だいじょぶ……い、いっちまった……」
埃が、ハリーのまわりに霞のように舞いあがり、青いガスのランプを包んだ。ブラック夫人は叫びつづけていた。
「穢れた血、汚らわしい、わが父祖の家の、不名誉な汚れ、恥ずべき汚れ、ー」
「黙れ!」ハリーがどなって、杖を彼女に向けた。ドンという音と、赤い火花が飛びだして、またカーテンがさっと閉じ、彼女を黙らせた。
「あれ……あれは……」ハーマイオニーが泣き声で言った。ロンが、彼女が立ちあがるのを助けた。
「ああ」とハリーが言った。「でも、あれは、ほんとの彼じゃない、そうだろ? スネイプをおどかそうとしただけだよ」
それは、うまくいっただろうか、とハリーは思った。それとも、スネイプは、あの恐ろしい姿を、本物のダンブルドアを殺したように無造作にぶっ飛ばしただろうか? 神経がまだうずきながら、 ハリーは、廊下をまた二歩、踏みだした。なかば、また新しい恐ろしいものが姿をあらわすのを予想していたが、ネズミが一匹、壁の幅木をかすめるように走っていった他は何も動くものはなかった。
「これ以上、進む前に、調べた方がいいと思うわ」とハーマイオニーがささやいた。そして杖を上げて言った。「ホメヌン・レベリオ<人よ出でよ>」
何も起こらなかった。
「ええと、君、大きなショックを受けたばかりだからね」とロンが優しく言った。「今ので、どうなるはずだったのさ?」
「私が、思ったとおりになったわ!」とハーマイオニーが、少し機嫌を悪くしたように言った。「今のは、人間の存在があらわれる呪文よ。だから誰も私たちを待っていないってこと!」
「それと、さっきの埃君をね」とロンが、死体の姿が立ちあがった所の絨毯のシミをちらっと見ながら言った。
「上に行きましょう」とハーマイオニーが、同じところを怖そうに見ながら言った。そしてギシギシきしむ階段を先に立って上り、二階の客間に着いた。
ハーマイオニーが、杖を、ふって古いガスのランプに火をつけ、すきま風の入る部屋で少し身震いして、両腕でしっかり身を包みながら、ソファにちょこんと腰掛けた。ロンが、部屋を横ぎって窓のところに行き、重いビロードのカーテンをほんの少し動かした。
「外には誰も見えないよ」彼が報告した。「で、ハリーにまだ『跡』があると、君が考えるなら、彼らは、ここまでつけてきたはずだ。家の中には、彼らは入れないのは分かってるけど――どうした、ハリー?」
ハリーが苦痛の叫び声をあげた。額の傷跡が、また焼けつくように痛みはじめ、水面に光が輝くように、心の中に何かがきらめいた。彼は、大きな影を見、自分の感情ではない激しい怒りが、電気ショックのように短く凶暴に、体に打ちこまれるのを感じた。
「何が見えた?」ロンが、ハリーに詰めよって尋ねた。「あいつ、僕んちにいた?」
「いや、怒りを感じただけ――彼はほんとうに怒ってた――」
「でも、それが『隠れ家』で、ってこともありうるよ」とロンが大声で言った。「他には? 何か見えないか? あいつ誰かに呪文をかけた?」
「いや、怒りを感じただけ――詳しくは分からない――」
ハリーは逆上するほど悩み混乱していた。ハーマイオニーは、怖がっているような声でこう言っただけで助けにはならなかった。「また、傷跡なの? でも、どうなってるの? あの繋がりは閉じたと思っていたのに!」
「閉じてたよ、しばらくのあいだはね」とハリーがつぶやくような声で言った。傷跡が、まだ痛んだので、集中するのがむずかしかった。「僕は――、僕は思うんだけど、彼が自制心を失うたびに、また繋がりが開きはじめたらしい。前にもそんなふうだったから――」
「でも、それなら、あなた、心閉ざしをしなくちゃだめよ!」とハーマイオニーが、甲高い声で言った。「ハリー、ダンブルドアは、あなたが、その繋がりを使うのを望まなかったと思うわ。彼は、それを封じこめることを望んだ。だから、あなたに、閉心術を使わせたかったんでしょ! そうでないと、ヴォルデモートが、あなたの心に、にせの映像を仕組んで見せることができる。覚えているでしょ――」
「ああ、どうも。よく覚えているよ」とハリーが歯をくいしばりながら言った。かつてヴォルデモートが、彼らのあいだの、この繋がりを使って、彼を罠におびき寄せ、その結果、シリウスの死を招いたことを、ハーマイオニーに言ってもらう必要はなかった。今、感じて見たことを、二人に言わなければよかったと後悔した。ヴォルデモートの脅威が、増してきて、部屋の窓に押しつけてくるような気がした。傷跡の痛みが、さらに増してきて、ハリーは、こみあげる吐き気をこらえているように、それと戦っていた。
彼は、ロンとハーマイオニーに背中を向け、壁のブラック家の家系図の古い壁掛けを熱心に見ているふりをした。そのとき、ハーマイオニーが悲鳴をあげた。ハリーが、また杖を出して、ぐるっと向きをかえると、銀のパトローナスが、客間の窓から舞いおりてきて、彼らの前の床に着地するのが見えた。それは、固まってイタチの姿になり、ロンの父親の声でしゃべった。
「家族は無事、返信するな、我々は監視されている」
パトローナスは、溶けてなくなった。ロンは、泣き声とも呻き声ともつかない声を上げ、ソファにドスンと腰を落とした。ハーマイオニーが寄りそって、彼の腕をつかんだ。
「みんな無事。みんな無事よ!」彼女がささやいた。ロンは、半分笑いながら彼女を抱きしめた。
「ハリー」彼は、ハーマイオニーの肩ごしに呼びかけた。「僕――」
「何でもないよ」とハリーは言ったが、頭の中の痛みで、吐き気をもよおしていた。「君の家族だもん。君が心配するのは当然だ。僕だって同じ気持ちだよ」彼はジニーのことを想った。「ほんとに同じ気持ちだよ」
傷跡の痛みがピークに達して、『隠れ家』の庭でのように焼けつくようにずきずき痛んだ。ハーマイオニーの言葉が、かすかに聞こえた。「私、一人でいたくない。今夜、私が持ってきた寝袋で、ここで、いっしょに寝てもいい?」
ロンが、いいよと言うのが、ハリーに聞こえた。これ以上、痛みに耐えられなかった。痛みを我慢せずに、身をまかせなくてはならない。
「トイレ」ハリーは呟くように言って、走りださない程度に、できるだけ速く部屋を出た。
そして、震える手で、扉をバタンと閉めて、かんぬきをかけるまでをなんとかやってのけ、ずきんずきんと痛む頭を両手で掴んで床に倒れた。すると、爆発するような激しい苦痛が襲い、自分の感情でない激怒が、自分の魂いっぱいになるのを感じた。それから、暖炉の火だけで照らされた長い部屋が見えた。床の上に大柄な金髪のデス・イーターが、叫びながら身もだえし、その上に、もっとほっそりした姿が立って、杖を突きだしていた。そしてハリーが、高い冷たい無慈悲な声で話した。
「もっとやるか、ロール。さもなくば、終わらせて、お前をナギニに食わせるか? このヴォルデモート卿は、今回は許す確信は持てないぞ……お前は、わざわざ、私を呼びつけたあげく、またハリー・ポッターに逃げられたと言うのか? ドラコよ、ロールに、もう一度、我々の不興の味を思いしらせるのだ……やれ、さもなくば、今度はお前が、私の怒りを買うことになるぞ!」
丸太が、火の中に落ちた。炎が燃えあがった。その光に、恐がっている、あごのとがった白い顔が照らされた――ハリーは、深い水底から出てきたような気がして、深く息を吸い、目を開いた。
彼は、黒く冷たい大理石の床に、手足を伸ばして大の字に倒れていた。すぐ鼻先に、大きな風呂桶を支えている銀色の蛇たちの尾の一つがあった。やつれて、恐怖にすくみあがったマルフォイの顔が、目の奥に焼きついていた。ハリーは、今見たもののせいで、それにドラコがヴォルデモートに強いられていることのせいで吐き気をもよおしていた。
扉を鋭くコツコツと叩く音がして、ハーマイオニーの声が響いたので、ハリーは飛びあがった。
「ハリー、歯ブラシいる? 持ってきたけど」
「うん、どうもありがと」彼は言って、できるだけ、ふつうの声を出そうとがんばりながら立ちあがって、彼女を中に入れた。
第10章 クリーチャーの物語
Kreacher's Tale
翌朝早く、ハリーは客間の床に寝袋にくるまって目が覚めた。重いカーテンのすきまから空が見えた。それは、水で薄めたインクのような冷たく澄んだ青色だった。夜と明け方のあいだの時間で、静まりかえっていた。聞こえるのは、ロンとハーマイオニーのゆっくりした深い息づかいだけだった。ハリーは、横の床の上の黒っぽい姿を見やった。ロンが急に女性への親切心をおこして、ハーマイオニーがソファからクッションを取ってきて使うべきだと言い張ったので、彼女の輪郭は、ロンより高いところに見えた。彼女の腕が床の上にのびて曲っていて、その指が、ロンの指から数センチしか離れていないところにあった。二人が、手を握りながら寝入ったのかもしれないと、ハリーは思った。そう考えると、奇妙に寂しい気がした。
それから、陰になっている天井とクモの巣のはったシャンデリアを見あげた。結婚式の招待客を案内しようと、日の光をあびて大天幕の入り口に立っていたときから、二十四時間もたっていないのに、一生分も昔のように思われた。これからどうなるのだろう? 彼は、床に横になったまま、ホークラックスのこと、ダンブルドアが託した怖じ気づくような使命のことを考えた……ダンブルドア……
ダンブルドアが亡くなって以来、悲しみに捕らわれていたが、今は違ったふうに感じられた。結婚式でミュリエルから聞いた非難が頭の中に、病的なもののように居すわって、理想化していた魔法使いの記憶を汚しているようだった。ダンブルドアが、あんなことを放置しておいたなどということが、あるのだろうか? 彼は、自分に影響しないかぎりは、他の者が無視され悪口をいわれても眺めて満足していたダドリーと同じだったのだろうか? 閉じこめられ隠されていた妹に、背を向けつづけていたのだろうか?
ハリーは、ゴドリック盆地のことと、ダンブルドアが一度も話題にしなかったお墓のことを考えた。また、ダンブルドアの遺書により、説明されずに遺された謎の品々について考えた。憤りが暗闇の中でふくれあがってきた。なぜダンブルドアは話してくれなかったのか? なぜ説明してくれなかったのか? いったいダンブルドアは、ほんとうにハリーのことを愛してくれたのだろうか? それとも、ハリーは、磨かれ研がれる道具にすぎず、信用し秘密をうち明ける存在ではなかったのだろうか?
ハリーは、辛い考えしか、いっしょにいるものがない状態で横になっているのに耐えられなくなった。気を紛らすため、どうしても何かしたくて、寝袋からそっと出て杖をつかみ部屋から忍びでた。そして踊り場で「ルーモス<光よ>」とささやき、杖の光をたよりに階段を上りはじめた。
三階は、この間彼とロンが寝室にしていた部屋だった。ハリーは、そこをちらっとのぞいた。衣装ダンスの扉が開いたままで、ベッドカバーは、はぎ取られていた。彼は下のひっくり返ったトロルの足を思いだした。騎士団が去った後、誰かが家中を捜索したのだ。スネイプだろうか? それとも、きっと、シリウスの亡くなる前も後も、ここからたくさんの物をこっそり盗みだしていたマンダンガスだろうか? ハリーの視線は、肖像画の上をさまよった。その中には、時々シリウスの曾曾祖父のフィニアス・ナイジェルス・ブラックがいた。しかし今は誰もいず、濁った色の背景が延々と続いているだけだった。フィニアス・ナイジェルスは、ホグワーツの校長室で夜を過ごしたらしかった。ハリーは、階段を上りつづけ、最上階に着いた。そこには、二つの扉があるだけだった。目の前の名札には、「シリウス」とあった。ハリーは、これまで名づけ親の寝室に入ったことがなかった。扉を開け、杖を高く上げて、できるだけ広く部屋の中を照らした。
その部屋は、広々としていて、かつては立派だったに違いない。彫刻された木の板がついた大きなベッドがあり、窓はビロードの長いカーテンで隠されていた。厚く埃が積もったシャンデリアには、まだローソクの使い残りが、さしてあり、ロウが霜のように垂れたまま固まっていた。細かい埃が薄い膜のように壁の絵やベッドの板をおおっていた。シャンデリアから大きな木製の衣装ダンスの上に渡って、クモが巣を張っていた。ハリーが、部屋の中に入っていくと、邪魔されたネズミが走りまわる音が聞こえた。
十代のシリウスは、壁にとてもたくさんのポスターや写真をべたべたと貼っていたので、壁の銀色がかった灰色の絹の部分が見えないほどだった。ハリーが想像するには、シリウスの両親は、それらを壁にくっつけている「永久添付の呪文」を取り去ることができなかったのに違いない。なぜなら、両親は、長男の装飾の趣味を、ぜったいに気に入らなかっただろうと思われたからだ。シリウスは、見たところ、わざわざ両親を苛立たせるように、やっていた。他のスリザリンの家族全部との違いを強調するために、赤色と金色が色あせたグリフィンドールの大きな旗が何枚もあった。マグルのオートバイの写真がたくさんあった。それから(ハリーは、シリウスの大胆さを誉めずにはいられなかったが)、ビキニ姿のマグルの女の子のポスターも何枚もあった。写真の中で静止していたのでマグルのだと分かったが、色あせたほほえみと虚ろな視線が、写真の中で固定していた。それは、壁に貼ってあるただ一枚の魔法界の写真と対照的だった。それは、カメラに向って笑っている、腕を組んだ四人のホグワーツ生の写真だった。
ハリーは、父を見つけて、飛びあがるほど嬉しかった。くしゃくしゃの黒髪は、ハリーのと同じように後頭部に突ったっていて、父も眼鏡をかけていた。その横にはシリウスがいた。無頓着な様子でハンサムで、少しばかり尊大な顔つきは、ハリーが知っている生前の姿より、はるかに若くて幸せそうだった。シリウスの右には、頭一つ小さいペティグリューが立っていた。小太りでうるんだ目をして、ジェイムズとシリウスという皆の憧れのいたずら者と、一緒になり、最高にかっこいい仲間に入れてもらった喜びに輝いていた。ジェイムズの左にはルーピンがいた。その頃でさえ、少しみすぼらしい様子だったが、やはり、好かれて仲間に入れてもらって驚きながら喜んでいるという同じ雰囲気を、漂わせていた……いや、それは、ハリーが、当時の事情を知っているから、そういうふうに見てしまうだけなのだろうか? 彼は、その写真を壁から、はがそうとした。結局のところ、それは今は彼の物なのだ――シリウスが、彼にすべてを遺したのだから――けれど、それは少しも動かなかった。シリウスは、両親が、自分の部屋を模様替えするのを、どうあっても阻止しようとしていた。
ハリーは床を見まわした。外では空が少し明るくなってきていたので、一筋の光がさしこんで、紙や本や小さな物が、絨毯の上に散らばっているのが見えた。明らかに、シリウスの部屋も捜索されていた。だが、中にあるものは、すべてでないにしても、大半は、価値がないもののようだった。数冊の本は、乱暴にふられて、表紙と中身がはずれていて、雑多なページが床に散らばっていた。
ハリーは、しゃがんで数枚の紙を拾いあげて、調べた。一枚は、バチルダ・バグショット著「魔法の歴史」の旧い版の、もう一枚は、オートバイ整備の手引き書の一部だと分かった。三枚目は、手書きでくしゃくしゃに丸まっていたので、広げてみた。
「親愛なパッドフット
ハリーのお誕生日プレゼント、ほんとうにありがとう! 彼、とっても気に入ってるわ。一才なのに、もうおもちゃの箒で飛び回って、すごく自己満足してるみたい。写真を同封するから見てちょうだい。ほら、あれって床から六十センチしか浮かないでしょ。なのに、も少しでネコを殺しそうになったし、クリスマスにペチュニアが贈ってくれた趣味の悪い花瓶を粉々にしたの(それに文句はないけどね)。もちろん、ジェイムズは、すごくおもしろがって、ハリーがクィディッチの名選手になると言うの。でも、ハリーが箒に乗りたがったときは、部屋の飾りをみんなしまい込んで、彼から目を離さないようにしなくちゃいけないわ。
お誕生日のお茶会は、私たちとバチルダおばあちゃんだけでとても静かだったわ。彼女は、いつも私たちに優しくしてくれて、ハリーにめろめろなの。あなたが来れなくて、すごく残念だったけど、騎士団が優先だし、どっちみち、ハリーは、まだちっちゃくて、自分のお誕生日だって分かっていないしね! ジェイムズは、ここに閉じこめられて少し欲求不満気味。顔には出さないようにしてるけど、私には分かるわ――それに、ダンブルドアが、まだ透明マントを返してくれないので、ちょっと気晴らしに遠出もできないのよ。もし、あなたが来てくれたら、そりゃあ彼が喜ぶでしょうよ。先週末、ワーミーが来たわ。落ち込んでたみたいだったけど、マキノン家の知らせを聞いたからだと思う。私だって聞いたとき一晩泣いたもの。
バチルダは、たいてい毎日寄るの。魅力的なおばあちゃんで、ダンブルドアについて、びっくりするような話をしてくれたわ。彼が聞いたら、きっと喜ばないと思うけどね! 私は、どの程度、信じていいのか分からない。だって、そんなこと信じられないもの、ダンブルドアが」
ハリーは手足の感覚がなくなったような気がした。その奇跡のようなすばらしい紙を、力の入らない指で持ったまま、体の中に、静かな爆発のようなものがおきて、喜びと悲しみを体中の血管に同じ分量でどくどくと送りこんでいた。彼は、ベッドの方によろめいていって座りこんだ。
そして手紙を読みかえした。が、最初に読んだ以上の意味は、読みとれなかったので、筆跡そのものを眺めることにした。母は、「g」の書き方が、ハリーと同じようだった。手紙中、その文字を探しまわって、その一つ一つが、ベールの向こうから、かいま見える親しい小さなゆれる合図のように思われた。その文字は、リリー・ポッターが生きていた、ほんとうに生きていたという信じられないほど貴重な宝、証拠だった。その温かい手が、かつてこの羊皮紙の上を動き、インクでこれらの文字、これらの単語をつづり、彼女の息子、ハリーについて書いたのだ。
目に涙があふれるのを、いらいらと払いのけながら、今度は意味に集中しながら、その手紙をまた読んだ。半分覚えている声を聞いているような気がした。
ネコを飼っていたんだ……きっと、それも殺されたんだろう、両親と同じくゴドリック盆地で……それとも、誰も餌をくれる者がいないので逃げたのかもしれない……シリウスが最初の箒をくれたんだ……両親は、バチルダ・バグショットと知りあいだった。それはダンブルドアが紹介したんだろうか?「ダンブルドアが、まだ透明マントを返してくれない」……どこか変だ……
ハリーは小休止して、母の言葉をよく考えた。なぜダンブルドアは、ジェイムズの透明マントを借りたんだろう? ハリーは、何年も前に校長先生が言った言葉をはっきりと覚えていた。「私は、姿が見えなくなるマントは必要ない」。才能がない騎士団のメンバーが、マントの助けが必要で、ダンブルドアが仲介したのかもしれない。ハリーは、先を読み進んだ……
「ワーミーが来た」……裏切り者のペティグリューが、「落ち込んでいた」ようだったのか? ジェイムズとリリーが生きているのを見る最後だと気づいていたのか?
それから、最後にまたバチルダだ。彼女が、ダンブルドアについて信じられない話をした。「そんなこと信じられないもの、ダンブルドアが」
ダンブルドアが、何をしたんだ? でもダンブルドアに関して信じられないことは、いくらでもあった。例えば、変身の試験で最低点を取ったとか、アベルフォースのようにヤギに呪文をかけたとか……
ハリーは立ち上がって、床を見渡した。手紙の残りが、このどこかにあるはずだ。彼は、床の紙をつかみ、熱心に調べた。最初の捜索者のことは、ほとんど考えなかった。引き出しをあけ、本をふってみて、椅子の上に立って、衣装ダンスのてっぺんを手で探り、ベッドや肘掛け椅子の下をはいずり回った。
床にうつぶせになって、とうとう、小型衣装ダンスの下に破れた紙切れのようなものを見つけた。それを引きだしてみると、リリーが手紙に書いていた写真の大部分だった。黒い髪の幼児が、小さな箒に乗って、きゃっきゃっと笑いながら、写真から出て見えなくなったり、また入ってきたりしていた。ジェイムズのと思われる両脚が、その後を追いかけていた。ハリーは、その写真をリリーの手紙といっしょにポケットにしまいこみ、手紙の二枚目を捜しつづけた。
けれど、それから十五分間探したあげく、母の手紙の残りの部分は、なくなってしまったと結論するしかなくなった。それが書かれてから過ぎ去った十六年間の間に、なくなってしまっただけだろうか、それとも、部屋を捜索した何者かに持ち去られたのだろうか? ハリーは、また一枚目を読んだ。今度は、二枚目の手紙に価値があるかもしれないという手がかりがないかと探しながら読んだ。おもちゃの箒は、デス・イーターが興味があるとは考えないだろう……そこに書かれたうちで、ただ一つ有益かもしれないと思われるのは、ダンブルドアについて書かれていたかもしれない情報だった。「そんなこと信じられないもの、ダンブルドアが」何をしたんだろう?
「ハリー? ハリー! ハリー!」
「ここにいるよ!」彼は叫んだ。「どうしたんだ?」
扉の外で、バタバタと足音がして、ハーマイオニーが飛びこんできた。
「私たち目が覚めたら、あなたがどこにいるか分からなかったじゃないの!」彼女は、息をきらして言った。それから首だけ後ろに向けて叫んだ。「ロン! 彼を見つけたわ!」
ロンの心配そうな声が、数階下の遠くから響いた。
「よかった! 彼に、ばかやろって言っといて!」
「ハリー、お願い、黙っていなくならないで。ぞっとしちゃったわ! ともかく、どうしてここに上がってきたの?」彼女は、探されて荒らされた部屋を見まわした。「何やってたの?」
「僕が見つけたものを、見てよ」
彼は、母の手紙を差しだした。ハーマイオニーが、それを取って、読むあいだ、ハリーはじっと彼女を見つめていた。彼女は、終わりまで読むと、彼を見あげた。
「まあ、ハリー……」
「それに、これもあった」
彼は、破れた写真を手渡した。ハーマイオニーは、おもちゃの箒に乗った幼児が、写真から出て見えなくなったり、また入ってきたりするのを見て、ほほえんだ。
「手紙の残りを探していたんだけど」とハリーが言った。「ここには、ないんだ」
ハーマイオニーは、あたりを見まわした。
「あなたが、部屋中くちゃくちゃに散らかしたの、それとも、あなたが来たとき少しは散らかってたの?」
「僕より前に、誰かが探してた」とハリーが言った。
「そうだと思ったわ。ここに上がってくる途中のぞいた部屋全部、散らかっていたもの。何を探していたんだと思う?」
「騎士団に関する情報さ、もし探したのがスネイプならね」
「でも、彼は必要な情報を、もう全部手に入れてたと思わない? だって彼は騎士団のメンバーだったんだから」
「ええと、それなら」とハリーが、自説を話しあいたくて言った。「ダンブルドアに関する情報ってのはどう? 例えば、この手紙の二枚目だ。僕のママが言ってるバチルダって知ってるよね。どんな人か知ってるだろ?」
「どんな人?」
「バチルダ・バグショットだよ。書いた本は――」
「『魔法歴史』」とハーマイオニーが興味を惹かれたように言った。「じゃ、あなたのご両親は、彼女と知りあいだったわけ? 彼女は、すばらしい魔法歴史家よ」
「で、彼女は、まだ生きてるんだ」とハリーが言った。「ゴドリック盆地に住んでる。ロンのミュリエルおばさんが、結婚式のとき話してた。彼女は、ダンブルドアの家族とも知りあいだった。彼女と話すの、すごく面白そうだと思わないか?」
ハーマイオニーは微笑んだが、あなたの気持ち分かるわ、という気持ちが少々見えすぎだったので、ハリーは少し気に入らなかった。彼は、手紙と写真を取りかえし、彼女を見て、本心がばれなくてすむように、首にかけた袋にしまいこんだ。
「あなたが、どうしても彼女に会って、ご両親やダンブルドアについて話したいって気持ちは分かるわ」とハーマイオニーが言った。「でも、それは、ほんとは私たちがホークラックスを探す手助けにはならないでしょ?」ハリーは答えなかった。彼女は急いで続けた。「ハリー、あなたが、ほんとうにゴドリック盆地に行きたいのは分かるわ。でも私、怖いの……昨日、あのデス・イーターが、どんなに簡単に私たちを見つけたかを考えると怖いの。今まで以上に、あなたのご両親が埋葬されている場所は避けるべきだとしか思われないのよ。彼らは、ぜったいにあなたが、あそこを訪れると予想してるわ」
「そんなことじゃないんだよ」ハリーは言ったが、まだ彼女を見ないようにしていた。「結婚式で、ミュリエルが、ダンブルドアについて、たわ言を言ったんだ。僕は、真実を知りたい……」
彼は、ハーマイオニーにミュリエルから聞いたことをすべて話した。話しおえたとき、ハーマイオニーが言った。「もちろん、あなたが、それで気が動転したのは分かるわ、ハリー――」
「――僕は、気が動転してるわけじゃない」彼は嘘をついた。「ただ、それが真実かどうか知りたいだけだ……」
「ハリー、ミュリエルみたいな悪意あるばあさんや、リータ・スキーターから真実が分かると、ほんとうに思ってるの? よくまあ、あんな人たちの言うことが信じられるわね。あなたダンブルドアを知ってるでしょ!」
「知ってると思っていたけど」彼は、つぶやくように言った。
「それに、リータが、あなたについて書いた中に、どのくらい真実があったか、よく分かってるでしょ! ドージの言うとおりよ。よくまあ、あなたの中のダンブルドアの思い出を、あんな人たちに汚させるままにできるわね」
彼は、心に感じる憤りを悟られないようにするため横を向いた。また、これだ。何を信じるかを選ぶのだ。僕は真実を知りたいだけなのに。なぜ、皆、僕が真実を知るべきではないと固く決意しているのだろうか?
「台所に下りない?」少しして、ハーマイオニーが誘った。「何か朝ご飯を探すとか?」
彼は、しぶしぶだったが同意して、彼女の後について踊り場に出ようとして、その前にある二番目の扉のところを通りすぎた。扉に、さっきは暗闇で気付かなかったが、小さな看板があって、その下の塗装部分に深くひっかいた跡があった。そこで、階段の一番上の段に立ち止まってそれを読んだ。それは、丁寧に手書きされた、もったいぶった小さな看板で、パーシー・ウィーズリーが寝室の扉に掛けそうなたぐいのものだった。
「レギュラス・アークトゥルス・ブラックの
許可なしで
立ち入りは禁止      」
ハリーは、じわじわと興奮を感じたが、すぐにはその理由が分からなかった。彼は、看板をもう一度読んだ。ハーマイオニーは、もう次の階段を下りかけていた。
「ハーマイオニー」彼は言ったが、自分の声がとても落ちついているのに、われながら驚いた。「もう一辺ここまで、上がってきてよ」
「どうしたの?」
「R.A.B.を見つけたと思うんだ」
はっと息をのむ音がして、すぐにハーマイオニーが、また階段を駆けあってきた。
「あなたのママの手紙に? 私は気づかなかったけど――」
ハリーは首を横にふって、レギュラスの看板を指した。彼女は、それを読んで、あまりに強くハリーの腕をつかんだので、彼はたじろいだ。
「シリウスの弟?」彼女はささやいた。
「彼はデス・イーターだった」とハリーが言った。「シリウスが彼のことを話してくれた。とても若い頃にデス・イーターになって、それから怖じ気づいて抜けようとした――それで殺されたって」
「それでつじつまが合うわ!」とハーマイオニーが、あえぐように言った。「彼がデス・イーターならヴォルデモートに近づいただろうし、それから、幻滅したのなら、ヴォルデモートを倒そうとしたかもしれない!」
彼女は、ハリーの腕を放して、階段の手すりから身をのりだして叫んだ。「ロン! ロン! 上がってきて、早く!」
一分後、ロンが息をきらせてあらわれた。手には杖を握っていた。
「どうしたんだい? もしまたクモの大集団なら、先に朝ご飯を食べたいんだけど、ー」
彼は、顔をしかめて、ハーマイオニーが黙って指さすレギュラスの扉の看板を見た。
「何? それ、レギュラスの弟じゃないか? レギュラス・アークトゥルス……レギュラス……R.A.B.だ! ロケット――、まさか――?」
「見つけだそう」とハリーが言った。扉を押したが、鍵がかかっていた。ハーマイオニーが杖を取っ手に向けて「アロホモラ」と言った。カチリと音がして、扉がさっと開いた。
三人は、一緒に中に入って見まわした。レギュラスの寝室は、シリウスのよりほんの少し狭かったが、やはり昔は豪華だったのだろうと思わせた。シリウスが、他の家族との違いを目立たせようとしていたのに対し、レギュラスは、その逆を強調しようとしていた。緑と銀色のスリザリンの色が、いたるところにあって、ベッドや壁や窓から垂れていた。ブラック家の紋章と、家訓「常に純血」が、ベッドの上に入念に描かれていた。その下には、黄色く変色した新聞の切り抜きが山と積まれて、クズの寄せ集めになっていた。ハーマイオニーは部屋を横切っていって、それを調べた。
「みんなヴォルデモートに関する記事よ」彼女が言った。「レギュラスは、デス・イーターになる数年前からファンだったみたい……」
彼女が切り抜きを読もうと座ったとき、ベッドカバーから埃の塊が舞いあがった。そのあいだ、ハリーは別の写真に気がついた。ホグワーツ・クィディッチ・チームが写真の枠の中から、笑いながら手をふっていた。近づいてみると、彼らの胸に、スリザリンの蛇の紋章があった。レギュラスは、前列の真ん中に座っている少年だと、すぐに分かった。兄と同じ黒っぽい髪で少し尊大な表情をしていたが、わずかに小柄で、シリウスのようにハンサムではなかった。
「彼はシーカーだったんだ」とハリーが言った。
「え?」とハーマイオニーが、ぼんやりと言った。彼女は、まだヴォルデモート関係の新聞の切り抜きに没頭していた。
「彼は、前列の真ん中に座ってる。それはシーカーの席だ……いや何でもない」とハリーが、誰も聞いていないのに気づいて言った。ロンは四つんばいになって、衣装ダンスの下を探していた。ハリーは、隠し物がありそうな場所を探して部屋を見まわして、机に近づいた。けれど、また誰かが探した跡があった。引き出しの中身が、最近ひっくり返されていたのだ。埃が舞いあがったが、何も価値がありそうな物はなかった。古い羽ペン、昔の教科書には乱雑に触った跡があり、最近割れたインク瓶のねばねばした残留物が引きだしの中身をおおっていた。
「もっと簡単な方法があるわ」とハーマイオニーが言った。ハリーはインクのついた指をジーンズで拭いていた。彼女は杖を上げ、「アクシオ、ロケット!」と言った。
何も起こらなかった。ロンは、色あせたカーテンのひだの間を探していたが、がっかりしたようだった。
「じゃ、そういうこと? あれは、ここにないのか?」
「いえ、まだここにあるかもしれない。でも、それなら魔法避けがしてあるわ」とハーマイオニーが言った。「ほら、魔法で呼びよせられるのを防ぐ呪文よ」
「ヴォルデモートが、洞窟で石の鉢にかけたようなやつだ」とハリーが、偽のロケットを呼びよせることができなかったのを思いだして言った。
「それなら、どうしたら見つかるんだ?」とロンが言った。
「手で探すのよ」とハーマイオニーが言った。
「そりゃ、いい考えだ」とロンが、目をぐるっと回しながら言って、またカーテンを調べるのにとりかかった。
彼らは、一時間以上、部屋の中を徹底的に捜索したが、結局、ロケットはないと結論すすしかなかった。
太陽がもう高く上っていて、陰気な踊り場の窓からさしこむ光でさえ、まぶしかった。
「でも、この家のどこか他の場所にあるかもしれないわ」とハーマイオニーが、気を取りなおしたような調子で言った。彼らは下に戻ってきた。ハリーとロンが、がっかりしているので、彼女は、なおさら、やる気になっているようだった。「彼が、あれをなんとかして破壊したにせよ、そうでないにせよ、ヴォルデモートから隠しつづけたかったはずよね? 私たちが、こないだここにいたとき、片づけなくちゃならなかった、あのたくさんのひどい物を覚えてる? 誰にでも締め釘を撃ってくる掛け時計とか、ロンを絞め殺そうとした古いローブとか。レギュラスは、ロケットの隠し場所を守るためにああいう物を置いたのかもしれないわ。私たちには、分かっていなかったにしても、あの……あの……」
ハリーとロンは、彼女を見た。彼女は、忘却の呪文をかけられたばかりで口がきけないような表情で、片足で立っていた。視線も焦点が定まっていなかった。
「……あの時はね」彼女は、囁き声で言いおわった。
「どうかしたの?」とロンが尋ねた。
「ロケットがあった」
「ええっ?」とハリーとロンが同時に言った。
「客間の飾り棚の中。あれ、誰も開けられなかった。で、私たち……私たち……」
ハリーは、レンガが胸からおなかに滑りおちるような気がした。思いだした。あれを、みんなで順に回して、こじあけようとしたとき、手で触りさえした。あれは、ゴミ袋に放りこまれた。イボ作り粉入り嗅ぎタバコ入れや、眠くなるオルゴールと一緒に……
「クリーチャーが、どっさり盗んで取りもどした」とハリーが言った。それが、彼らに遺された唯一のチャンス、唯一の細い望みの綱だった。彼は、だめだと分かるまで、それにしがみつくことにした。「あいつは、台所の自分の押しいれに全部隠してる。行こう」
彼は、階段を一段とばしで駆けおり、他の二人もその後をドタドタとついていった。あまりに大きな音をたてたので、玄関の廊下を通るとき、シリウスの母の肖像画をおこしてしまった。
「汚れ! 穢れた血! かす!」彼らが地下の台所に駆けおりていく後ろから、彼女が叫んだ。彼らは、扉をバタンと閉めた。
ハリーは部屋の端まで走っていき、クリーチャーの押し入れの扉の前で横滑りして止まり、扉をねじるように開けた。汚い巣だった。以前屋敷しもべが寝ていた古い毛布があった。しかし、それは、もうクリーチャーが持ちだした、こまごまとした装飾品で輝いてはいなかった。そこにあったのは、「生まれながらの気高さ:魔法界の家系図」の古い本だけだった。目の前の光景を信じたくなくて、ハリーは毛布をつかんでふった。死んだネズミが落ち、陰気に床を転がっていった。ロンはうめき声を上げ、台所の椅子にどさっと座り、ハーマイオニーは目を閉じた。
「まだ終わりじゃない」とハリーが言った。そして声を張りあげ、「クリーチャー!」と呼んだ。
ポンという大きな音がして、ハリーがあんなに相続するのがいやだった屋敷しもべがどこからともなく、冷たく空の暖炉の前にあらわれた。小さくて、人の半分の大きさしかなく、青白い肌がしわになって垂れさがり、白い髪がコウモリのような耳からたっぷり生えていた。最初に会ったときの汚いぼろ布を、まだ身にまとっていたが、ハリーに向けたあざけりの表情は、ハリーが主人になっても、着るものと同じく、その態度を変えるつもりがないことをあらわしていた。
「ご主人様」とクリーチャーが食用ガエルのような声で言って、低くお辞儀をしながら、自分の膝に向ってぶつぶつとつぶやいた。「奥様のお屋敷に、血の裏切り者のウィーズリーと穢れた血と一緒にお戻りに――」
「誰に対しても『血の裏切り者』とか『穢れた血』と言うのを禁じる」とハリーが怒って言った。もしクリーチャーが、シリウスを裏切ってヴォルデモートに彼の情報を流したのでなくても、ハリーは、豚のような鼻と血走った目のクリーチャーを、まったく愛すべきところのないものだと思ったことだろう。
「聞きたいことがある」とハリーが言った。屋敷しもべを見おろしながら、ハリーの心臓はとても速く脈打っていた。「質問に誠実に答えるよう命じる。分かったか?」
「かしこまりました」とクリーチャーが、また低くお辞儀をしながら言った。ハリーは、彼の口が音を出さずに動くのを見た。言うのを禁じられた侮辱の言葉を、声を出さずに唇で形作ったのは間違いない。
「二年前」とハリーが言った。心臓は、あばら骨の下でハンマーで打ちつけるように、ドクンドクンと打っていた。「上の客間に、大きな金のロケットがあった。僕たちはあれを捨てた。お前が、盗んで取りかえしたか?」
一瞬の沈黙があった。その間、クリーチャーはまっすぐに身を起こして、ハリーの顔を真正面に見つめた。それから「はい」と言った。
「それは、どこにある?」とハリーは喜びにあふれて尋ねた。ロンとハーマイオニーも嬉しそうだった。
クリーチャーは目を閉じた。今から言う言葉に対する彼らの反応を見るのが耐えられないかのようだった。
「行ってしまいました」
「行ってしまった?」とハリーが、くりかえした。高揚した気分が、からだから流れ出していた。「行ってしまったとは、どういう意味だ?」
屋敷しもべは身震いして、からだを大きくゆすった。
「クリーチャー」とハリーが激しい口調で言った。「説明しろ――」
「マンダンガス・フレッチャー」と屋敷しもべが目を固く閉じたまま、しゃがれ声で言った。「マンダンガス・フレッチャーがみんな盗みました。ベラ様とシシー様の写真、奥様の手袋、勲一等マーリン勲章、家紋入りゴブレット、それから――」
クリーチャーは、空気をごくりと飲みこんだ。落ちくぼんだ胸がせわしなく上下し、それから、ぱっと目を開けると、血も凍るような叫び声をあげた。
「――それからロケット、レギュラス坊ちゃまのロケット、クリーチャー悪かった、クリーチャー言い付けどおりにしなかった!」
ハリーは本能的に行動して、クリーチャーが、火床の中に刺してある火かき棒に向って突進したとき、屋敷しもべに飛びかかって、ばったり倒した。ハーマイオニーの悲鳴が、クリーチャーのそれと混じった。けれどその両方より大きな声で、ハリーがどなった。「クリーチャー、じっとしていろ!」
ハリーは、屋敷しもべが身を強張らせたのを感じたので、押さえつけるのをやめた。クリーチャーは、冷たい石の床にぺたんと倒れていたが、くぼんだ目から涙がどっと吹き出した。
「ハリー、彼をおこして!」ハーマイオニーが囁き声で言った。
「で、火かき棒で自分を打たせるのか?」とハリーが、屋敷しもべのそばにひざまずいて、不満げに鼻をならした。「そうは、しないほうがいいと思うよ。よし、クリーチャー、僕は真実が知りたいんだ。マンダンガス・フレッチャーが、ロケットを盗んだと、どうして分かった?」
「クリーチャー見た!」と屋敷しもべがあえぐように言った。溢れ出た涙が、豚のような鼻を覆い、灰色がかった歯がのぞく口の中に流れこんだ。あいつがクリーチャーの押しいれから、クリーチャーの宝物をいっぱい抱えて出てくるのを見た。クリーチャー、こそ泥に、やめろと言った。でもマンダンガス・フレッチャーは笑って、に、逃げた……」
「お前は、ロケットを『レギュラス坊ちゃまの、』と言った」とハリーが言った。「なぜだ? あれはどこから来た? レギュラスは、あれにどんな関係がある?」クリーチャー、起きあがって、あのロケットについて知っていることと、レギュラスがどんな関係があるのかを、すべて話してくれ!」
屋敷しもべは起きあがり、両膝のあいだに涙で濡れた顔を埋め、ボールのように丸くなって前後にからだをゆすりはじめた。話しはじめたとき、声はくぐもっていたが、静かで、音が響く台所では、とてもはっきりと聞こえた。
「シリウス坊ちゃまは逃げだした。ちょうどいい、厄介払いだった。彼は悪い子で、手に負えない言葉かりやって、奥様をひどく悲しませた。でもレギュラス坊ちゃまは、ちゃんとプライドを持っていて、ブラック家の名にふさわしいふるまいと、純血の価値を知っていた。闇の帝王が、魔法使いを隠れた場所から引きだして、マグルやマグル出身者を支配するようになると、坊ちゃまは、ずっと前から話していた……それで、レギュラス坊ちゃまは、十六才になると闇の帝王の仲間になった。それが、とても誇らしく、とても誇らしく、とても幸せで……
「レギュラス坊ちゃまが、そうなって一年たったとき、クリーチャーに会いに台所に下りてきた。レギュラス坊ちゃまは、いつでもクリーチャーがお気に入りだった。で、レギュラス坊ちゃまは言った……言った……」
年老いた屋敷しもべは、もっと速くからだをゆすりはじめた。
「……闇の帝王が、屋敷しもべがいると」
「ヴォルデモートが、屋敷しもべがいるって?」ハリーは、くりかえして、ロンとハーマイオニーを見たが、二人とも同じように、わけが分からないようだった。
「ああ、そう」とクリーチャーがうめき声をあげた。「で、レギュラス坊ちゃまは、クリーチャーを使うように申しでた。名誉なことだ、とレギュラス坊ちゃまは言った。坊ちゃまにも、クリーチャーにも名誉なことだ。クリーチャーは、闇の帝王の命じることを何でもしなくてはならない……それから、家に、か、帰ってこいと」
クリーチャーは、もっと速くからだをゆらした。息づかいはすすり泣きになっていた。
「それで、クリーチャーは闇の帝王のところに行った。闇の帝王はクリーチャーに何をするつもりか言わないで、海のそばの洞穴に、クリーチャーを連れて行った。洞穴の奥には、大きな洞窟があった。洞窟の中には大きな黒い湖があった……」
ハリーのうなじの毛が逆立った。クリーチャーのしゃがれ声が暗い水を渡ってくるように聞こえた。ハリーには、何がおこったのか、その場にいたかのように鮮明に目の前に情景が見えた。
「……ボートがあった……」
もちろん、ボートがあった。ハリーは、そのボートを知っていた。緑色で小さくて影のようで、魔法使い一人と、犠牲者一人を乗せて、湖の真ん中の島まで運ぶように魔法がかけられていた。では、そういうふうにして、ヴォルデモートは、ホークラックスを囲む防御方法をテストしたのだ。使い捨ての生き物である屋敷しもべを借りて……」
「島には、毒薬が入った、は、鉢があった。や、闇の帝王はクリーチャーにそれを飲めと言った……」
屋敷しもべは頭から足まで、がたがた震えていた。
「クリーチャーは飲んだ。飲むと、恐ろしいことがおきた……クリーチャーのおなかの中が焼けるようだった……クリーチャーは、レギュラス坊ちゃまや、ブラック奥様、助けてと叫んだ。でも闇の帝王は笑うだけだった……クリーチャーに毒薬を全部飲めと言った……それから、闇の帝王は空になった鉢にロケットを入れた……それから、毒薬をいっぱい入れた。
「それから、闇の帝王はボートで行ってしまった。クリーチャーを島に残したままで……」
ハリーは、何が起きたか目の前に見えるような気がした。ヴォルデモートの蛇のような白い顔が暗闇に消えていき、その赤い両目が、うち負かされた屋敷しもべを無慈悲に見すえている情景だった。毒薬を飲んだ犠牲者は、死にそうな喉の乾きに耐えきれずに数分後に死ぬ運命にあるのだ……だが、その先を、ハリーは想像できなかった。どうやってクリーチャーが脱出したのか分からなかった。
「クリーチャー、どうしても水が飲みたかった。水辺まで、這っていって、暗い湖の水を飲んだ……そしたら、手が、死人の手が水の中から出てきてクリーチャーを水の中に引っぱった……」
「どうやって逃げ出したんだ?」ハリーは、思わずささやき声で尋ねた。
クリーチャーは醜い顔をあげて、大きな血走った目でハリーを見た。
「レギュラス坊ちゃまが、クリーチャー帰ってこいと言った」彼は言った。
「分かってる。でも、どうやってインフェリから逃げだしたんだ?」
クリーチャーには意味が分からないようだった。
「レギュラス坊ちゃまが、クリーチャー帰ってこいと言った」彼はくりかえした。
「分かってる、でも――」
「あのさ、分かりきったことじゃないか、ハリー?」とロンが言った。「姿くらまししたんだよ!」
「でも……姿あらわしでは、あの洞穴を出入りできなかったんだよ」とハリーが言った。「でなけりゃ、ダンブルドアが――」
「屋敷しもべの魔法は、魔法使いの魔法と違うんじゃないかな?」とロンが言った。「つまり、僕たちはホグワーツを姿あらわしで出入りできないけど、屋敷しもべはできるってことさ」
ハリーが、言われたことの意味を理解するまで沈黙があった。ヴォルデモートが、そんな間違いを犯すことがあるだろうか? しかし、ハリーがそう考えたちょうどそのとき、ハーマイオニーが、氷のような冷たい声で言った。
「もちろん、ヴォルデモートは、屋敷しもべについて、まったく好意を持っていなかったでしょうよ。純血の者たちが動物のように扱ったのと同じようにね……屋敷しもべが、自分が知らない魔法を知ってるかもしれないなんて考えもしなかったに違いないわ」
「屋敷しもべに、いちばん大事なのは、ご主人の命令に従うこと」とクリーチャーが単調な調子で唱えるように言った。「クリーチャーは帰ってこいと言われた、だからクリーチャー家に帰った……」
「ええと、それなら、あなたは命じられたとおりにしたのよね?」とハーマイオニーが優しく言った。「ぜんぜん言いつけにそむいてないわ!」
クリーチャーは首を横にふって、なおも速くからだをゆすった。
「で、帰ってからどうなったんだ?」ハリーが尋ねた。「おこったことを話したら、レギュラスは何と言った?」
「レギュラス坊ちゃまは、とても悩んだ、とても悩んだ」とクリーチャーが、しゃがれ声で言った。「レギュラス坊ちゃまは、クリーチャーに隠れていろ、家から出るなと言った。それから……しばらく、たってから……ある晩、レギュラス坊ちゃまがクリーチャーの押し入れに来た。レギュラス坊ちゃまは、いつものようじゃなくて、様子が変だった。すごく心をかき乱されていたのがクリーチャーには分かった……で、クリーチャーに洞穴へ連れていってくれと頼んだ。クリーチャーが闇の帝王と行った洞穴へ……」
それで、二人は出発した。ハリーの目の前に、二人の姿がありありと浮かんだ。おびえた年寄りの屋敷しもべと、シリウスにとてもよく似た、黒っぽい髪の痩せたシーカー……クリーチャーは、地下の洞窟へ通じる隠された入り口を知っていた、小さなボートを水面に呼びだす方法を知っていた、今度、毒薬のある島へいっしょに行くのは愛するレギュラスだった……
「で、彼は君に毒薬を飲ませたのか?」とハリーが、むかむかした気分で言った。
けれど、クリーチャーは首を横にふって泣きだした。ハーマイオニーが、次に言われることが分かったかのように、思わず両手で口を押さえた。
「レ、レギュラス坊ちゃまは、闇の帝王が持っていたようなロケットを、ポケットから取りだした」とクリーチャーが言った。その豚のような鼻の両側に涙がどっと流れおちた。「坊ちゃまは、クリーチャーに、それを持っていて、鉢が空になったら、ロケットを取り替えろと言った……」クリーチャーのすすり泣きは、今では、やすりをかけるような大きな音になっていた。ハリーは、彼が言うことを聞きとるために、とても集中しなくてはならなかった。
「それから、坊ちゃまは……クリーチャーに一人で……行けと……それから、クリーチャーに……家に帰れと言った……それから、坊ちゃまがやったことを、奥様に言うな……最初のロケットを……破壊しろと……それから、坊ちゃまは飲んだ……毒薬を全部……それからクリーチャーは、ロケットを取りかえた、そして見ていた……レギュラス坊ちゃまが……水の中に引きずりこまれて……それで……」
「まあ、クリーチャー!」ハーマイオニーが泣きながら、呻くように言った。彼女は、屋敷しもべのそばにひざまずいて、彼を抱きしめようとした。すぐに彼は立ちあがって、明らかに嫌悪感を抱いているように身を縮めて、彼女から離れた。
「穢れた血が、クリーチャーに触った。クリーチャー許さないぞ。奥様が何と言うだろう?」
「彼女を『穢れた血』と呼ぶなといっただろ!」とハリーが、がみがみと怒鳴った。しかし、屋敷しもべは、もう自分を罰していた。床に倒れて、おでこを床に打ちつけていたのだ。
「彼を止めて、彼を止めて!」ハーマイオニーが叫んだ。「ねえ、彼らが、どんなふうに命令に従わなくちゃならないか分かって、気分が悪くなるでしょ?」
「クリーチャー――やめろ、やめろ!」とハリーが叫んだ。
屋敷しもべは、息をきらせ震えながら床に倒れていた。緑のねばねばした汁が鼻のまわりにてかてかと光り、青白い額の上の自分でなぐった打ち傷が腫れていた。目はふくらみ血走り涙があふれていた。ハリーは、これほど哀れを誘うものを見たことがなかった。
「それじゃ、君はロケットを家へ持ち帰ったんだ」彼は、どうしても、話を最初から最後まで知ろうと決心していたので情け容赦なく言った。「で、破壊しようとしたのか?」
「クリーチャーは、あれに傷一つつけられなかった」と屋敷しもべがうめいた。「クリーチャー、全部やってみた。知ってること全部。でもだめだった、何も効かなかった……とてもたくさんの強力な呪文が、外側にかかっていた。クリーチャーは、あれを破壊するには、絶対にロケットを開けなくてはならないと思った、でも、どうしても開かなかった……クリーチャーは自分を罰した、もう一回やってみた、自分を罰した、もう一回やってみた。クリーチャー、言いつけどおりにできなかった。クリーチャー、ロケットを破壊できなかった! 奥様は、レギュラス坊ちゃまが姿を消したので、悲しみで気がちがったようになった。クリーチャーは、奥様に何がおきたか言うことができなかった。だめだった、レギュラス坊ちゃまが、ほ、洞穴であったことを、か、家族の誰にも話すのを、き、禁じたから……」
クリーチャーはとてもひどくすすり泣きを始めたので、もうそれ以上、筋のとおった話は聞けなかった。クリーチャーを見つめるハーマイオニーの目から頬に涙が流れ落ちていたが、彼女は、二度と彼に触れようとはしなかった。クリーチャーが、まったく好きではないロンでさえ、気の毒そうな顔つきをしていた。ハリーは、そのすぐ後ろで座ったまま、頭を振って、はっきりさせようとした。
「君の言ってることが分からないんだが、クリーチャー」彼は、とうとう言った。「ヴォルデモートは君を殺そうとした。レギュラスはヴォルデモートを倒そうとして死んだ。なのに、君は、喜んでシリウスを裏切ってヴォルデモートに情報を流したのか? 君は、喜んでナルシッサとベラトリックスのところへ行って、ヴォルデモートに情報を流した……」
「ハリー、クリーチャーは、そんなふうに考えないわ」とハーマイオニーが、手の甲で目の涙をふきながら言った。「彼は奴隷よ。屋敷しもべは、ひどく、残酷にさえ扱われても、それに慣れているのよ。ヴォルデモートがクリーチャーにしたことは、ふつうのやり方からそれほどかけ離れてはいなかった。魔法使いの戦いが、クリーチャーみたいな屋敷しもべに、どんな意味があるというの? 彼は優しくしてくれた人たちに忠実なのよ。ブラック夫人は、そうだったでしょうし、レギュラスは、まちがいなく優しかった。だから、彼は喜んで彼らに仕えて、彼らの信条をオウムのようにくりかえすのよ。あなたが言いたいことは分かるわ」ハリーが言いかえそうとしたので、彼女は続けた。「レギュラスは心を変えたって言いたいのね……でも、彼はそれをクリーチャーに説明したようには思えないでしょ? その理由は分かると思う。クリーチャーとレギュラスの家族は、古くからの純血の家系を守っている方が安全だったのよ。レギュラスは、彼ら全部を裏切ろうとしたんだわ」
「シリウスは――」
「シリウスは、クリーチャーにとって恐ろしかったのよ、ハリー。真実だと分かっていても、そんなふうに見ても仕方ないわ。シリウスがここに来て住むまで、クリーチャーは長い間ずっと一人ぼっちだったのよ。きっと、ほんの少しの愛情にも飢えていたでしょう。『シシー嬢ちゃま』や『ベラ嬢ちゃま』は、彼がいるところでは完璧にすばらしい存在だったに違いない。だから、彼らに忠義を尽くして、知りたいことは何でも教えてあげたのよ。私、魔法使いが屋敷しもべをひどく扱ってきたことに対して、報いを受けるってずっと言ってきたでしょ。だから、ヴォルデモートは報いを受けたわけだし……シリウスも、そうよ」
ハリーは、言い返せなかった。床の上ですすり泣くクリーチャーを見ているうちに、シリウスの死後ほんの数時間後に、ダンブルドアが、「私は、シリウスが、クリーチャーのことを人間と同様の鋭敏な感情を持つ存在だと考えたことはなかったと思う……」と言ったことを思いだした。
「クリーチャー」と、ハリーは少し経ってから言った。「起き上がる力があったら、そのう……起き上がって座ってくれないか」
数分後、クリーチャーは、しゃくり上げながら静かになった。それから、また身をおこして座った姿勢になって、小さい子供のように、げんこつで目をこすっていた。
「クリーチャー、君に頼みたいことがある」とハリーが言いながら、助けを求めるように、ハーマイオニーをちらっと見た。彼は、丁寧な言葉で命令したかった。けれど、同時にそれが命令でないというふりをするこはできず、やはり命令だった。しかし、彼の口調の変化は、ハーマイオニーの気に入ったようだった。彼女は、励ますようにほほえんだ。
「クリーチャー、どうか、マンダンガス・フレッチャーを見つけにいってほしい。ロケットが――レギュラス坊ちゃまのロケットがどこにあるか、どうしても知りたい。とても重要なことなんだ。僕たちは、レギュラス坊ちゃまが始めた仕事をやり遂げたい。僕たちは――そのう――彼の死が無駄ではなかったと証明したいんだ」
クリーチャーは、こぶしをだらんと下げて、ハリーを見あげた。
「マンダンガス・フレッチャーを見つけに?」彼は、しゃがれ声で言った。
「で、ここ、グリモールド・プレイスに連れてくるんだ」とハリーが言った。「僕たちのために、やってくれるかい?」
クリーチャーが頷いて立ち上がったとき、ハリーは、突然すばらしいことを思いついた。そこでハグリッドの袋を引っぱりだして、偽のホークラックスを取りだした。レギュラスがヴォルデモートへの書き置きを入れた代わりのロケットだ。
「クリーチャー、そのう、これを持っていてほしい」彼は言いながら、ロケットを屋敷しもべの手の中に押しこんだ。「これは、レギュラスの物だった。きっと彼は、これを感謝の印として君に持ってほしいと願っていたと――」
「ねえ、ショックで殺しちゃいそうだよ」とロンが言った。屋敷しもべはロケットを一目見るなり、ショックとみじめさの叫び声をあげ、また床に身を投げだしたのだ。
クリーチャーを落ちつかせるのに三十分近くかかった。ブラック家伝来の家宝を見せられ、自分の物にしてよいと言われた驚きに打ちのめされて、ひざがぐらぐらして、ちゃんと立つことができなかった。クリーチャーが、とうとう数歩よろよろと歩けるようになると、彼らはみんなで、クリーチャーの押しいれまでつきそっていき、彼がロケットを汚い毛布の中に安全にくるみこむのを見守った。そして、三人は、彼が外出しているあいだ、それを守ることを最優先にするからと保証した。クリーチャーは、それからハリーとロンにそれぞれ低くお辞儀をして、ハーマイオニーの方向に、精一杯の挨拶をしようとするように、おかしな小さな痙攣のような身ぶりをしさえした。それから、いつもの大きなポンという音とともに、姿くらましをした。
第11章 袖の下
The Bribe
もしクリーチャーが、インフェリがいっぱいの湖から逃げだすことができたのなら、マンダンガスを捕まえることなど数時間もかからずにできるはずだと、ハリーは楽観視していたので、午前中、今来るか今来るかと期待して、家の中をうろつきまわっていた。けれど、クリーチャーは午前中、いや午後になっても戻ってこなかった。夕暮れになると、ハリーはがっかりして、心配しはじめた。夕食は、主にカビの生えたパンだった。ハーマイオニーが、それに変身の魔法を、いろいろにかけようとしたのだが、うまくいかなかった。クリーチャーは、次の日も、その次の日も戻ってこなかった。けれど、マントを着た男が二人、十二番地の外の広場にあらわれ、夜までそこに居すわって、見えない家の方角をじっと見ていた。
「ぜったいにデス・イーターだよ」とロンが言った。彼とハリーとハーマイオニーは客間の窓からのぞいていた。「あいつら、僕たちがここにいるの、知ってると思う?」
「知らないと思うわ」とハーマイオニーが言ったが、恐がっているようだった。「だって、知ってたら、スネイプに、私たちの後を追わせて、家に入るようにさせるんじゃない?」
「スネイプはここに来たことがあって、ムーディの呪文で舌を縛られてしゃべれなくなったと思う?」とロンが聞いた。
「ええ」とハーマイオニーが言った。「そうでなかったら、スネイプは、ここへの入り方を、あの連中に話せたはずでしょ? 彼らは、私たちが現れないか見はってるだけだと思うわ。結局のところ、彼らは、ハリーがこの家の持ち主だということは知ってるから」
「いったい、どうして――?」とハリーが言いはじめた。
「魔法界の遺書は、魔法省で調べられるの、忘れた? 彼らは、シリウスがここをあなたに遺したことを知ることができるわ」
外のデス・イーターの存在は、十二番地の家の中の不吉な雰囲気を増した。彼らは、ウィーズリー氏のパトローナス以外には、グリモールド・プレイスの外の誰からも便りを聞いていなかった。緊張が、言葉にあらわれるようになってきた。ロンが、絶え間なく、苛々しながら、ポケットに入れた火消しライターで、しょっちゅう遊ぶのが習慣になっていた。これは特にハーマイオニーを激怒させた。彼女はクリーチャーを待つあいだ、「吟遊詩人ビードルの物語」を学びながら過ごしていたので、明かりが、しょっちゅうぱっと消えたりついたりするのが気に入らなかったのだ。
クリーチャーが行ってから三晩め、客間の明かりが全部また吸い取られて消えたとき、「やめてよ!」と彼女が叫んだ。
「ごめん、ごめん!」とロンが言って、火消しライターをカチッと言わせて、また明かりをつけた。「無意識にやってたんだよ!」
「あのね、熱中できる、もっと有意義なこと見つけてくれない?」
「何さ、子供の本を読むみたいなこと?」
「ダンブルドアが、この本を私に遺してくれたのよ、ロン――」
「――で、彼は僕に火消しライターを遺してくれた、きっと僕が使うようにね!」
ハリーは、ささいなことで二人が言い争うのに耐えられなくて、気づかれないようにそっと部屋をぬけだし階段を下りて台所に向った。そこにクリーチャーが、また姿をあらわす可能性がもっとも高いと思ったので、しょっちゅう行っていた。ところが、玄関に続く階段の途中で、扉を叩く音に続いて金属がガチャガチャいう音と、鎖が滑る音が聞こえた。
体中の神経が、ぴんと、はりつめた。ハリーは、杖を出して、首をはねられた屋敷しもべの頭の陰の中へ進んでいって待った。扉が開いた。外の街灯に照らされた広場がちらっと見えた。それからマントを着た人影が、斜めに廊下に入りこんで、後ろ手に扉を閉めた。侵入者が一歩前進すると、ムーディの声が尋ねた。「セブルス・スネイプか?」それから埃の人の姿が廊下の端から立ちあがって、死んだ手をあげながら突進した。
「あなたを殺したのは私ではない、アラスター」と静かな声がした。
呪文は破れた。埃の人の姿は、また爆発した。その後に濃い灰色の雲がまきおこったので、新来者が誰か見分けることができなかった。
ハリーは、埃の雲の中に杖を向けた。
「動くな!」
だが、ブラック夫人の肖像画を忘れていた。彼の叫び声で、画を隠していたカーテンがさっと開き、彼女は金切り声をあげはじめた。「穢れた血、汚らわしい者、わが家を汚す――」
ロンとハーマイオニーが、ハリーの後からドタドタと階段を下りてきて、ハリーのように、見知らぬ男に杖を向けていた。男は、下の廊下で両腕をあげていた。
「無駄な攻撃をするな、私だ、リーマスだ!」
「まあ、うれしいこと」とハーマイオニーが弱々しく言いながら、代りに杖をブラック夫人に向けた。ドンという音がして、またカーテンがさっと閉まり、また静かになった。ロンも、杖を下げた。けれど、ハリーは杖を向けたままだった。
「証明しろ!」彼は叫び返した。
ルーピンは、降伏を示すため、まだ手を高く上げたまま、明かりが照らす中に進みでた。
「私は、リーマス・ジョン・ルーピン、人狼、ムーニーと呼ばれることもあるる。忍びの地図の四人の制作者のうちの一人で、トンクスという愛称のニンファドーラと結婚した。そして君にパトローナスのつくり方を教えた。ハリー、君のは、雄鹿だ」
「ああ、いいよ」とハリーが、杖を下げた。「でも、僕は調べなくちゃならなかった、そうでしょ?」
「『闇の魔術に対する防衛術』を担当した教師としていえば、君が調べたのはまったく正しいと思う。ロンとハーマイオニー、君たちは、そんなに早く防御を解いてはいけないな」
彼らは、階段を下りて、ルーピンのところに行った。厚手の黒い旅行用マントを着て、疲れきっているように見えたが、彼らに会ってうれしそうだった。
「では、セブルスが来た徴候はないのか?」彼は尋ねた。
「ないよ」とハリーが言った。「どうなってるの? みんな大丈夫?」
「ああ」とルーピンが言った。「だが、我々は皆、見はられている。外の広場に、デス・イーターが二人いる――」
「――知ってるよ――」
「――彼らに、ぜったいに見つからないように、玄関の扉のすぐそばの、いちばん上の階段にきっちり姿あらわしをしなくてはならなかった。彼らは、君たちがこの中にいると分かるはずはないし、外に二人以上いないことは確かだ。彼らは、君に何らかの関係がある場所はすべて見張っている、ハリー。地下に行こう。たくさん話があるし、君たちが『隠れ家』を去ってから、何があったのか知りたい」
彼らは、台所に下りていった。ハーマイオニーが火床に杖を向けた。たちまち炎が燃えあがって、殺風景な石壁をいごこちよく見せ、長い木のテーブルを照らしだした。彼らは座った。ルーピンが、旅行用マントの中からバター・ビールを数本取りだした。
「私は、三日前にここに来たが、跡をつけてくるデス・イーターをふりきらなくてはならなかった」とルーピンが言った。「で、君たちは結婚式の後、真っ直ぐここに来たのかい?」
「違う」とハリーが言った。「トテナム・コート通りのカフェでデス・イーター二人に出くわした後、すぐだよ」
ルーピンは、バター・ビールのほとんどを前にこぼしてしまった。
「何だって?」
彼らは、起こったことを説明した。話しおえたとき、ルーピンは、恐怖で仰天したようだった。
「だが、どうやって彼らは、そんなに早く君たちを見つけ出したんだ? 姿あらわしする者を追跡するのは不可能だ。姿を消すときに、そいつを、つかんでいないかぎりはね!」
「それに、ちょうどそのとき、彼らがトットナム・コート通りをぶらついていたとも思えないよね?」とハリーが言った。
「私たち、疑問に思っていたんだけど」とハーマイオニーが、ためらいがちに言った。「ハリーには、まだ『跡』が残っているのかしら?」
「そんなことはありえない」とルーピンが言った。ロンは得意そうにみえ、ハリーは、どっと安心した。「他のことはどうあれ、もしハリーに『跡』が残っていれば、彼らには、ハリーがここにいることが確実に分かっているはずだろ? だが、彼らがどうやってトットナム・コート通りまで追うことができたのか分からない。それは気がかりだ、とても気がかりだ」
ルーピンは、とても心配しているようだった。けれど、ハリーの方では、その問題は後回しでよかった。
「僕たちがいなくなってから何がおきたか話してよ。ロンのパパが、家族は無事だと知らせてくれてから何も聞いてないんだ」
「そうだな、キングズリーが、我々を救ってくれた」とルーピンが言った。「彼の警告のおかげで、やつらが来る前に、結婚式の招待客のほとんどが姿くらましすることができた」
「来たのは、デス・イーター、それとも魔法省の人たち?」とハーマイオニーがさえぎった。
「両方が混ざっていた。だが、意図と目的すべてに関して、両方はいまや同じものだ」とルーピンが言った。「十二人ほどいた。だが、彼らは、君が、あそこにいたとは知らなかったんだ、ハリー。アーサーが噂を聞いたんだが、彼らは、スクリムジョールを殺す前に、君の所在を聞きだそうと拷問しようとしたらしい。もし、それがほんとうなら、彼は君の居所を明かさなかったんだ」
ハリーは、ロンとハーマイオニーを見た。二人の表情には、彼が感じているのと同じ衝撃と感謝が入りまじっていた。ハリーは、決してスクリムジョールに好感をもったことはなかった。けれど、ルーピンの話がほんとうなら、彼は最期にあたってハリーを守ろうとしたのだ。
「デス・イーターは『隠れ家』を天井裏から地下室まで探した」ルーピンが続けた。「彼らは、グールを見つけた。だが、あまり近寄りたがらなかった――それから、残っていた我々を何時間も尋問した。彼らは、君について情報を得ようとしたんだ、ハリー。だが、もちろん、騎士団の者以外は、君があの場にいたことを知らなかった」
「彼らが結婚式をぶちこわしたと同時に、もっと多くのデス・イーターが国中の騎士団関係者の家すべてに押し入ってきた。亡くなった人はいない」彼は、質問が出るのを予想して、急いで、そうつけ加えた。「だが、彼らは乱暴だった。ディダラス・ディグルの家を焼き払ったが、君が知っているように、彼は家にいなかった。それから、トンクスの家族に拷問の呪文を使った。やはり君が、あの家に行った後、どこに行ったか見つけだそうとしたのだ。彼らは大丈夫だ、震えあがっていたのは明らかだが、その他は支障ない」
「デス・イーターは、あの防御の呪文を全部うち破ったの?」ハリーが、トンクスの両親の家の庭に墜落した晩、防御策がどんなに効果があったかを思いだしながら尋ねた。
「君が理解しなくてはならないのはね、ハリー、デス・イーターは、今はもう魔法省の全勢力を味方につけているということだ」とルーピンが言った。「彼らは、誰がやったか知られたり、逮捕されたりする恐れなく、残酷な呪文をかける力を持っている。彼らは、やろうと思えば、我々がかけた防御の呪文すべてを突きやぶることができる。そしていったん家の中に入りこめば、彼らはなぜ来たかの理由を包み隠すことは、まったくしない」
「それじゃ、彼らは、人々を拷問して、ハリーの居所を聞きだすのに、わざわざ理由をでっちあげるわけ?」とハーマイオニーが。尖った声で尋ねた。
「そうだな」とルーピンが言った。彼はためらっていたが、折りたたんだ日刊予言者新聞を取りだした。
「さあ」彼は言いながら、テーブルごしに、それをハリーに押してよこした。「どっちみち遅かれ早かれ、君に分かるだろう。それが、彼らが君を追う言いわけだ」
ハリーが、折りたたんだ新聞を開くと自分の巨大な写真が一面いっぱいに、のっていた。彼はその上の見出しを読んだ。
「指名手配:アルバス・ダンブルドアの死に関する重要参考人」
ロンとハーマイオニーは激怒して叫び声をあげたが、ハリーは何も言わずに新聞を押しやった。もうそれ以上読みたくなかった。そこに書かれていることは分かっていた。ダンブルドアが亡くなったとき、塔の上にいた者以外は誰も、ほんとうは誰が彼を殺したのか知らない。そして、リータ・スキーターが、もう魔法界に語ったとおり、ハリーは、ダンブルドアが墜落してすぐ、そこから走っていくのを見られている。
「遺憾なことだ、ハリー」ルーピンが言った。
「じゃ、デス・イーターが日刊予言者新聞も乗っとったの?」とハーマイオニーが激怒して言った。
ルーピンは頷いた。
「でも、みんな、何が起きているか分かっているはずでしょ?」
「魔法省は、さっと乗っとられ、事実上、静かなままだ」とルーピンが言った。「スクリムジョール殺害の公式発表は、彼が辞職し、パイアス・シックネスに入れかわったというものだ。彼は支配の呪文をかけられている」
「なぜヴォルデモート自身が、魔法大臣だと宣言しないのかな?」とロンが尋ねた。
ルーピンが笑った。
「そうする必要がないのさ、ロン。事実上、彼が大臣だ。だが、なぜ彼が魔法省の机の前に座っている必要がある? 彼の傀儡のパイアス・シックネスが日常業務をこなしてくれるから、ヴォルデモートは自由に魔法省の外に力をのばすことができるのさ」
「もちろん、多くの人が、何が起こったのかを推測している。この数日間、魔法省の政策に劇的変換があり、その背後にヴォルデモートがいるに違いないと、多くの人が噂している。だが、重要なのはそこだ。噂しているだけ。誰を信用していいか分からないので、あえて本心をうち明けようとはしないのだ。みな、意見を声を出して言うのを恐がっている。疑惑がほんとうになり、家族がねらわれるのを恐れているのだ。そう、ヴォルデモートは、とてもうまく事を運んでいる。自分の姿を公にすると、おおっぴらな反乱がおきるかもしれない。隠れたままでいれば、混乱や不確かさや恐れを引き起こせる」
「で、その魔法省の政策の劇的変換の中に」とハリーが言った。「ヴォルデモートの代りに僕に敵対しろと、魔法界に警告するのも含まれてるわけ?」
「それは、確かに含まれている」とルーピンが言った。「それも、絶妙なやり方でだ。ダンブルドア亡き今、君――生き残った男の子――こそが、ヴォルデモートに対する抵抗運動のシンボルであり、再結集の核心であるのは確かだ。だが、君が、かつての英雄の死に関与したとほのめかすことで、ヴォルデモートは君の首に懸賞金をつけることができるだけでなく、君を弁護しようとする多くの人の間に疑いと恐れを植えつけたのだ。
「一方、魔法省は、反マグル出身者の方向に動きはじめた」
ルーピンは、日刊予言者新聞を指した。
「二ページを見てごらん」
ハーマイオニーが、ページをめくって、「最も暗い闇魔術の秘密」を扱うときと同じような嫌悪の表情を浮かべた。
「『マグル出身者登録簿』」彼女は声を出して読んだ。「『魔法省は、いわゆる「マグル出身者」の調査に着手した。彼らが、どの程度、魔法界の秘密を所有するに至ったかをつかんでおく方がよいためだ。
「『神秘部が行った最近の調査で、魔法というものは、魔法使いが生まれたときに個人的に伝えられることしかできないということが明らかになった。それ故、魔法界の祖先を持つと証明できない、いわゆるマグル出身者は、魔法の力を、盗み、あるいは力づくで得たと考えられる。
「『魔法省は、断固として、これらの魔法の力の強奪者を根絶することとし、この目的のために、いわゆるマグル出身者すべてが、新しく任命されたマグル出身者登録委員会との会見に出頭するよう案内状を発行した』」
「みんなが、そんなことさせるはずないよ」とロンが言った。
「それが、そうなっているんだよ、ロン」とルーピンが言った。「マグル出身者は、我々が話している間にも、駆り集められている」
「でも、どうやって、彼らが魔法を『盗んだ』なんて考えられるのさ?」とロンが言った。「狂ってるよ。もし魔法を盗めるんなら、スクイブなんているはずないじゃないか?」
「分かってる」とルーピンが言った。「だが、少なくとも一人、魔法界に近親者がいると証明できなければ、魔法の力を不正に所有しているとみなされ、罰を受けなくてはならないのだ」
ロンは、ハーマイオニーをちらっと見て、それから言った。「例えば、マグル出身者を、純血と混血が家族の一員ですと誓ったらどう? ハーマイオニーは僕のいとこだって、誰にでも言うよ――」
ハーマイオニーはロンの手を両手で包んでぎゅっと握りしめた。
「ありがとう、ロン、でも、あなたを巻きこむわけにはいかない――」
「君には選択の余地はないんだよ」とロンが荒々しく言いながら、手を握りかえした。「家の家系図を教えるから、それに添って質問に答えりゃいいさ」
ハーマイオニーが弱々しく笑った。
「ロン、私たちが、国いちばんのお尋ね者、ハリー・ポッターといっしょに逃げている以上、そんなこと、問題じゃないと思うわ。もし私が学校に戻れば、話は違うでしょうけどね。ヴォルデモートは、ホグワーツをどうしようとしてるの?」彼女はルーピンに尋ねた。
「すべての若い魔女と魔法使いにとって、学校に通うことは強制的だ」彼は答えた。「昨日、そう発表された。これは変化だ。これまでは、強制的ではなかったからだ。もちろん、イギリスのほとんどすべての魔女と魔法使いはホグワーツで教育を受けてきた。だが、子供の両親に、もし望むなら家で教えたり、海外に留学させる権利があった。このようにして、ヴォルデモートは、全魔法界の人々を、若いうちから、目の届くところに置くつもりなのだろう。それに、これはまたマグル出身者を排除する別のやり方でもある。なぜなら、生徒は、入学を許可される前に、家系状況証を得なくてはならないからだ――つまり、魔法使いの子孫だと魔法省に証明したという意味だ」
ハリーは、吐き気がするほど怒っていた。今この瞬間、新しく買った呪文の教科書の山を、興奮して熱心に見ている十一才の子の中で、ホグワーツに行けないし、家族にも二度と会えないかもしれないと知らないでいる子たちがいるのだ。
「それは……それは……」彼は、自分の考えがいかに恐ろしいかを、ぴったり表現できる言葉を探そうと苦闘しながら、つぶやくように言った。しかしルーピンが、すばやく言った。「分かるよ」
ルーピンは躊躇っていた。
「君が、はっきり答えられなくても、君の立場は理解しているつもりだが、ハリー、騎士団では、ダンブルドアが、君にある任務を託したという印象をもっているのだが」
「そうだよ」ハリーは答えた。「ロンとハーマイオニーも入ってる。だから僕といっしょに来たんだ」
「その任務が何か、私に、うち明けてくれないか?」
ハリーは、量は多いが白髪交じりの髪で、まだそれほどの年ではないのに、しわの多い顔を見つめて、別の答えができたらいいのにと思った。
、「言えない、リーマス、ごめんなさい。もしダンブルドアが、あなたに言わなかったのなら、僕が言うことはできないと思う」
「君が、そう言うだろうと思っていたよ」とルーピンが、がっかりしたように言った。「だが、私はまだ君の何か役にたつかもしれない。君は、私が何者であるか知っているし、私ができることも知っている。君たちに同行して防御することができる。君たちが何をたくらんでいるのか、正確に教えてくれなくてもいい」
ハリーはためらった。とても心をそそられる申し出だった。だが、もし四六時中いっしょにいたら、どうやって彼らの任務をルーピンに隠しておけるのか、想像がつかなかった。
けれど、ハーマイオニーがまごついたように言った。
「でも、トンクスはどうなの?」彼女は尋ねた。
「彼女がどうかした?」とルーピンが言った。
「あのう」とハーマイオニーが、顔をしかめて言った。「あなたは結婚してるわ! あなたが私たちといっしょに行ってしまったら、彼女はどう思うでしょう?」
「トンクスは、まったく安全だ」とルーピンが言った。「両親の家に行くだろうから」
ルーピンの口調には、どこか変なところがあった。冷たいと言ってもいいくらいだった。トンクスが、両親の家にずっと隠れていると考えるのも何かおかしかった。結局のところ、彼女も騎士団の一員なんだし、ハリーが知るかぎりでは、活動のいちばん中心にいたいと言いそうだった。
「リーマス」とハーマイオニーが、ためらいがちに言った。「うまく行ってるの……ほら……あなたと――」
「うまく行ってるよ、どうも」とルーピンが鋭く言った。
ハーマイオニーの頬がピンク色に染まった。また、少し間があった。ぎこちなく、きまりの悪い間だった。それからルーピンが、何か不愉快なことを、無理に認めようとするような雰囲気で言った。「トンクスに赤ちゃんができた」
「まあ、なんてすてき!」とハーマイオニーが、かんだかい声で言った。
「すごい!」とロンが熱をこめて言った。
「おめでとう」とハリーが言った。
ルーピンは、無理してほほえもうとしたが、しかめっ面に近かった。それから言った。「それで……私の申し出を受けてくれるかな? 三人が四人になってもいいかい? ダンブルドアが不賛成だとは思わない。結局のところ彼は、私を君の『闇の魔術に対する防衛術』の教師に指名したんだからね。それに、君たちは、我々の多くが出くわしたことも、想像したこともないような魔術に、必ず相対することになると思うのだ」
ロンとハーマイオニーの二人とも、ハリーを見た。
「ちょっと――ちょっと、はっきりさせたいんだけど」彼は言った。「あなたは、トンクスを両親の家に残して、僕たちといっしょに行くつもりなの?」
「彼女は、向こうでまったく安全だ。両親が面倒を見てくれるし」とルーピンが、ほとんど冷淡ともいえる決定的な調子で言った。「ハリー、ジェイムズは、きっと私が君といっしょに行くのを望むよ」
「あのう」とハリーがゆっくりと言った。「僕は、そうは思わない。ほんとうのところ僕の父は、なぜあなたが自分の子供といっしょにいないつもりなのか知りたいと思うな」
ルーピンの顔がさっと青ざめた。台所の温度が十度も下がったのかもしれない。ロンは、台所中を記憶せよと命じられたかのように、部屋中をじっと見まわしていた。一方ハーマイオニーの目は、ハリーからルーピンへと移ってっていた。
「君は分かっていない」とルーピンが、やっと言った。
「では、説明して」とハリーが言った。
ルーピンはごくりと喉をならした。
「私は――私は、トンクスと結婚するという重大なあやまちを犯した。私は、自分の良識に反することをしてしまって、ずっと後悔しつづけている」
「なるほど」とハリーが言った。「じゃ、あなたは、彼女と子供を捨てて、僕たちといっしょに逃げるつもりなんだね?」
ルーピンは、さっと立ちあがったので、椅子が後ろにひっくりかえった。そして彼らをとても荒々しくにらみつけたので、ハリーは、初めて、その人間の顔の上に、オオカミの影を見た。
「私が、妻と、まだ生まれてこない子供に、しでかしたことが分からないのか?私は、彼女と結婚すべきではなかった。私は彼女を、社会ののけ者にしてしまった!」
ルーピンは、さっきひっくりかえした椅子を脇に、けっとばした。
「君たちは、私が騎士団にいるか、ホグワーツでダンブルドアの保護の下にある姿しか見たことがない! 魔法界の大多数が、私のような生き物をどんな目で見るか知らないんだ! 皆、私の災難を知ると、ほどんど話しかけもしない! 私がしでかしたことが分からないのか? 彼女の家族でさえ、我々の結婚を、ひどく、いやがっている。一人娘に、人狼と結婚してほしいと望む親がいるものか? それに、私の子――子供は――」
ルーピンは、実際、自分の髪の毛を一つかみ、つかんでいた。まったく精神錯乱しているようにみえた。
「私の種族は、普通、子供は生まないのだ! 子供は、ぜったいに私のようになるだろう――そうと知っていながら、わざと自分の体の状態を無垢な子供に伝える危険を冒したら、どうして自分が許せるだろうか? それに、もし何か奇跡がおこって、子供が私に似ていないとしても、いつも恥ずべき父親がいない方が百倍も幸せだろう!」
「リーマス!」とハーマイオニーが、目に涙を浮かべてささやいた。「そんなこと、言わないで――あなたを恥ずかしく思う子はいないわ」
「そんなこと分からないよ、ハーマイオニー」とハリーが言った。「僕は、すごく彼が恥ずかしいよ」
ハリーは、自分の感じる激しい怒りが、どこから来ているのか分からなかった。けれど、その怒りが、足の先まで彼を駆りたてていた。ルーピンは、ハリーにひっぱたかれたかのように、彼を見た。
「もし、新しい政治体制が、マグル出身者が悪いと言うのなら」ハリーが言った。「父親が騎士団にいた半・人狼は、どうなるだろう? 僕の父は、僕の母と僕を守ろうとして死んだ。それなのに、僕の父が、あなたに子供を見捨てて、僕たちといっしょに冒険にでかけろと言うと思うの?」
「よくも……よくも言ったな」とルーピンが言った。「これは、危険や個人的な名誉を求める話ではない……よくも、そんな個人的なことと関係づけようとして……」
「あなたは、少しばかり向こうみずな気分になっているんじゃないかな」ハリーが言った。「シリウスの代りになりたいと思っているんじゃ――」
「ハリー、やめて!」ハーマイオニーが懇願したが、彼は、ルーピンの蒼白の顔をにらみつけながら続けた。
「僕は、こんなことをぜったいに信じなかっただろう」ハリーが言った。「僕にディメンターとの戦い方を教えてくれた人が――臆病者だったなんて」
ルーピンが、あまりに、すばやく杖を出したので、ハリーは自分の杖にやっと手が届いたところだった。大きなドンという音がして、ハリーは、ぶん殴られたかのように後ろに吹っとんだ。台所の壁にぶつかって、ずりずりと床に滑りおちていくとき、ルーピンのマントの先が扉のあたりに消えるのが、ちらっと見えた。
「リーマス、リーマス、戻ってきて!」ハーマイオニーが叫んだ。が、ルーピンは返事をしなかった。次の瞬間、玄関の扉がバタンと閉まるのが聞こえた。
「ハリー!」とハーマイオニーが嘆いた。「よくもやったわね?」
「簡単だったよ」とハリーが言った。彼は立ちあがった。頭が壁にぶつかったところに、こぶがふくらむのを感じた。まだ怒りくるっていたので震えていた。
「そんなふうに僕を見るなよ!」彼は、ハーマイオニーに、かみつくように言った。
「彼女にけんかをふっかけるなよ!」とロンが、歯をむいてどなった。
「だめ――だめ――私たち、けんかしちゃだめ!」とハーマイオニーが、二人のあいだに割って入った。
「君、ルーピンにあんなこと言うべきじゃなかったよ」ロンがハリーに言った。
「当然の報いだ」とハリーが言った。切れ切れの画像が心の中をさっとよぎった。シリウスがベールの向こうに倒れるところ、ダンブルドアが、傷つき、空中に宙づりになっているところ、緑の閃光と、助けをこう母の声……
「両親は」とハリーが言った。「子供から離れてはいけないんだ、もし、ー、もし、どうしても、そうしなくちゃならないのでなければ」
「ハリー――」とハーマイオニーが言いながら、なぐさめるように手をさしだした。けれど彼は、それをふりはらって、ハーマイオニーが魔法で出した火を見つめながら歩いていった。彼は、かつてルーピンに、ジェイムズは、いいやつだと保証してほしくて、あの暖炉から話しかけたことがあった。そのとき、ルーピンは、彼をなぐさめてくれた。今、ルーピンの苦痛を受けた白い顔が、目の前に浮かんでいるように思われた。後悔の念が、うねるように押しよせて気分が悪かった。ロンもハーマイオニーも口をきかなかったが、ハリーは二人が、背中の後ろで見つめあって、無言で会話していると確かに感じた。
彼が、向きなおると、二人があわてて目を逸らすのを見つけた。
「彼を、臆病者と呼んではいけなかった」
「そうだよ」とロンが、すぐに言った。
「けど、彼はそんなふうに行動した」
「それでも、やっぱり……」とハーマイオニーが言った。
「分かってる」とハリーが言った。「けど、あれで彼がトンクスの元に帰れば、その価値があったと思わないか?」
声から哀願する調子を取りのぞくことはできなかった。ハーマイオニーは同情的に見えた。ロンは、よく分からないようだった。ハリーは、うつむいて足下を見つめて、父のことを考えた。彼がルーピンに言ったことを、ジェイムズは支持してくれただろうか、それとも息子の旧友に対するふるまいに腹をたてただろうか?
静かな台所は、先ほどの光景の衝撃と、ロンとハーマイオニーの無言の非難でぶんぶんとざわめいているようだった。ルーピンが持ってきた日刊予言者新聞がまだテーブルの上に置いてあって、その一面からハリー自身の顔が天井を見あげていた。彼は、テーブルの方に歩いていって、椅子に座り、適当に新聞を立てて開いて読むふりをした。心が、まだルーピンとの出会いのことでいっぱいだったので、言葉の意味が頭に入ってこなかった。日刊予言者新聞の向こう側で、ロンとハーマイオニーが、無言の会話をまた始めたに違いないと思った。彼は大きな音をたててページをめくった。するとダンブルドアの名前が飛びこんできた。一家族が写っている写真の意味を理解するまでに、少し時間がかかったが、写真の下に説明があった。「ダンブルドア一家:左から右へ、アルバス、生まれたばかりのアリアナを抱くパーシバル、ケンドラとアベルフォース」
注意をひかれて、ハリーは写真をもっとよく見た。ダンブルドアの父、パーシバルは顔だちのいい男で、この色あせた古い写真の中でさえ、目がきらめいているようだった。赤ん坊のアリアナは、パンの一塊より少し長いくらいで、顔だちは、はっきり分からなかった。母、ケンドラは彫刻したような彫りの深い顔だちで、漆黒の髪を後頭部で一束にまとめて結っていた。ハイネックの絹の長いドレスを着ているにもかかわらず、その黒っぽい目や、高いほお骨や、鼻筋のとおった鼻をよく見ると、ハリーはネイティブ・アメリカンを思いだした。アルバスとアベルフォースは、二人ともよく合ったレースの襟の上着と、肩まであるおそろいの髪型だった。アルバスは、いくらか年上に見えたが、その他は、二人の男の子はとてもよく似ていた。まだアルバスの鼻の形が変わる前で、眼鏡をかけはじめる前だったからだ。
一家は、とても幸せそうで、ふつうに見え、写真の中から晴れ晴れと笑っていた。赤ん坊のアリアナがショールの中から手をふっているのがぼんやりと見えた。ハリーは写真の上を見て、見出しを読んだ。
「近刊アルバス・ダンブルドアの伝記からの独占的抜粋、リータ・スキーター著」
これ以上、気分が悪くなりようがないと思いながら、ハリーは読みはじめた。
「誇り高く、傲慢なケンドラ・ダンブルドアは、夫パーシバルが逮捕され、アズカバンに投獄されたのが広く知れわたった後、モールド・オン・ザ・ウォールドに住みつづけることに耐えられなかった。そこで一家は住みなれた地を出てゴドリック盆地に引っこすことにした。そこは、後にハリー・ポッターが、例のあの人から不思議にも逃げおおせた場として有名になった村だ。
モールド・オン・ザ・ウォールドと同じくゴドリック盆地も多くの魔法使いの家系にとって故郷である。しかしケンドラには、誰も知りあいがなかったので、これまで住んでいた村で直面した夫の犯罪への興味から逃れることができたことだろう。彼女は、新しい魔法社会の隣人の親しげな誘いを何度もすげなく拒絶して、家族が誰ともつきあわず放っておかれるようにした。
「お手製の大鍋ケーキを持って引っこしの歓迎の挨拶に行ったら、目の前で扉をバタンと閉められたんだよ」とバチルダ・バグショットが語った。「一家が引っこしてきた最初の一年は、二人の男の子しか見かけなかったね。引っこしてきた冬、私が月光の中でプランゲンティンを摘んでいるときに、ケンドラがアリアナを連れて裏庭に出てくるのを見なかったら、娘がいるなんて知らなかっただろうよ。手をしっかり握って芝生のまわりをぐるっと一周させ、それから家の中に連れて戻った。どういう意味なのか分からなかったね」
ゴドリック盆地への引っこしは、アリアナを永久に隠す最高によい機会だと、ケンドラは考えたようだ。それを、おそらく何年ものあいだ考えてきたに違いない。その時期を選んだことが重要だ。アリアナが姿を消したのは、七才になる前だった。七才というのは、もし持っていれば、魔法の力が現れる年だと、たいていの専門家が述べている。現在、生き残っているうちで、アリアナが魔法の力をほんの少しでもあらわして見せたのを覚えている人はいない。だから、ケンドラが、スクイブを産んでしまったという不名誉をこうむるよりは、娘の存在を隠す決意をしたのは明らかだと思われる。アリアナを知っている友人や隣人から引っこして離れれば、もちろん彼女を閉じこめておくのが容易になるだろう。今後、アリアナの存在を知るのは、秘密を守ると信頼がおけるごくわずかな人々だろう。その中には二人の兄も含まれる。二人は、気まずい質問を、母親が教えこんだ答えで、うまく逸らした。曰く「妹は、ひ弱なので学校には行けない」
「次週:ホグワーツでのアルバス・ダンブルドア――賞賛と見せかけ」
ハリーは、間違っていた。読み終わったら、実際もっと気分が悪くなった。彼は、見たところ幸せな家族の写真をもう一度眺めた。これは真実だろうか? どうしたら、真実が見つけだせるだろうか? たとえバチルダが、話ができる状態ではないとしても、ゴドリック盆地に行きたかった。彼とダンブルドアがともに愛する者を失った場所を訪れたかった。ロンとハーマイオニーの意見を聞こうとして、目の前に立てている新聞を少しずつ下げていったとき、耳をつんざくポンという音が、台所中に響きわたった。
この三日間で初めて、ハリーはクリーチャーのことをすっかり忘れていて、すぐ思いついたのは、ルーピンがぱっと戻ってきたのかということだった。椅子のすぐ横に、どこからともなくあらわれた、もつれあった手足の固まりが、一瞬、何だか分からなかった。ハリーが急いで立ちあがったとき、クリーチャーが身をふりほどいて、低くお辞儀をし、しゃがれ声で言った。「クリーチャー、マンダンガス・フレッチャーを連れて戻ってきた、ご主人様」
マンダンガスは急いで立ちあがり杖を出した。だが、ハーマイオニーの方が早かった。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」
マンダンガスの杖が空中に浮かびあがり、ハーマイオニーが、それを捕らえた。怒りで目をぎらぎらさせて、マンダンガスは階段めがけて突っこんだ。ロンがラグビーのタックルで捕まえたので、マンダンガスは、鈍いゴツンという音を立てて石の床にぶつかった。
「何だ?」彼は、ロンが捕まえているのから自由になろうと身をよじりながら、どなった。「俺が、何したってんだ。くそいまいましい屋敷しもべなんざ、よこしやがって、何ふざけてんだ、俺が何した、離せ、離せって、でなきゃ――」
「君は、脅しをかけられる状況にはないと思うよ」とハリーが言った。彼は新聞を脇に放りなげ、大またの数歩で台所を横切って、マンダンガスのそばにひざをついた。彼はもがくのをやめ、恐がっているようだった。ロンが、息をきらせながら立ちあがって、ハリーが、ゆっくりとマンダンガスの鼻に杖を向けるのを見守っていた。マンダンガスは、いやな汗とタバコのにおいがした。髪はもつれ、ローブは汚れていた。
「クリーチャー、泥棒を連れてくるのが遅くなって、あやまります、ご主人様」と屋敷しもべがしゃがれ声で言った。「フレッチャーは逃げ方を知っている。たくさん隠れ穴や、仲間がいる。でもクリーチャー、最後には泥棒を追いつめた」
「ほんとうに、よくやってくれた、クリーチャー」とハリーが言った。屋敷しもべは低くお辞儀をした。
「よし、君にいくつか質問がある」ハリーがマンダンガスに言った。マンダンガスは、すぐに大声で言った。「俺はパニクったんだ、いいか? ぜんぜん行きたかなかった、怒りゃしなかった、だが、あんたのために死ぬ気はさらさらなかった、なのに、いまいましい『例のあの人』が、俺めがけて飛んできやがった、あの場じゃ誰だってトンずらしたくならあ、やりたくないと、ずっと言ってたんだ――」
「参考までに言ってあげるけど、残りの誰も、姿くらまししなかったのよ」とハーマイオニーが言った。
「うーん、そんなら、お前らは、いまいましい英雄の群れなんだろ? だが俺は死ぬ覚悟ができてたなんてふりはしなかった――」
「僕たちは、君がなぜマッド・アイの元から逃げだしたかに興味があるわけじゃない」とハリーが言った。そして、マンダンガスのふくれた血走った目に、杖をもう少し近づけた。「君が、あてにならない人間のクズだということは、もう分かっている」
「うーん、じゃ、いったい全体何だって屋敷しもべに捕まえられなきゃならねえんだ? でなきゃ、またゴブレットのことか? 一つも残っちゃいねえよ、でなきゃ、あんたの物だったが――」
「ゴブレットのことでもない、君が、かっかとしてきたようだが」とハリーが言った。「黙って聞け」
何かやる仕事があるのはすてきだった。誰かにほんの少しの真実を話せと要求できる仕事があるのはすてきだった。ハリーの杖は、マンダンガスの鼻柱にとても近づいていたので、マンダンガスは、杖を見ようとして、両目が寄っていた。
「君が、この家の貴重品をすっかり持ち去ったとき」ハリーが言いはじめた。けれどマンダンガスが、また遮った。
「シリウスは、あんなガラクタにぜんぜん興味なかったぜ、ー」
パタパタと走る足音が聞え、磨きたてた銅が輝き、ガチャンと鳴る音が響きわたり、苦悶の叫び声があがった。クリーチャーがマンダンガスめがけて走ってきて、シチュー用の鍋で頭をぶったたいたのだ。
「やめさせろ、やめさせろ、閉じこめとけ!」とマンダンガスが叫んだが、またクリーチャーが、底の厚い鍋をふりあげたので、身をすくめた。
「クリーチャー、やめろ!」とハリーが叫んだ。
クリーチャーの細い腕は、重い鍋をふりあげたままなので震えていた。
「できましたら、もう一回だけ、ハリー様、幸運を祈って?」
ロンが笑いだした。
「気を失ったら困るんだよ。だが、説得しなけりゃならないときは、君に、その栄誉を与えよう」とハリーが言った。
「ありがとうございます、ご主人様」とクリーチャーがお辞儀をして言った。そして、少し退却したが、大きな薄青い目は、まだ憎しみをこめてマンダンガスをじっと見つめていた。
「君がこの家から、見つけられる貴重品をすべて奪い去ったとき」ハリーが、また言いはじめた。「君は、台所の押しいれからどっさり取っていったが、その中にロケットがあった」ハリーは、突然、口の中がからからになった。ロンとハーマイオニーの緊張と興奮も感じとれた。「あれを、どうした?」
「何で?」とマンダンガスが尋ねた。「あれ、貴重なのか?」
「あなた、まだ持ってるの!」とハーマイオニーが叫んだ。
「いや、持ってない」とロンが鋭く見ぬいて言った。「もっと金が引きだせるかどうか考えてるんだよ」
「もっと?」とマンダンガスが言った。「そいつぁ難しかねえだろうよ……ただで、くれちまったんだからな。仕方なかったんだ」
「どういうことだ?」
「俺がダイアゴン横町で売ってたらよ、あいつが来て、魔法の工芸品を売る許可証を持ってるか聞いた。おせっかいのクソババアめ。罰金だといいやがった。けどよ、あのロケットを気に入って、自分のもんにするかわり、その場は見逃す、運がいいと思えだと」
「その女は誰だ?」とハリーが尋ねた。
「知らね、魔法省のババアだろ」
マンダンガスは、額にしわを寄せて少し考えていた。
「小さい女だ。頭にリボンをつけてた」
彼は、顔をしかめていたが、それから、つけ加えた。「ヒキガエルに似てた」
ハリーは杖を取りおとした。それはマンダンガスの鼻に当たり、眉毛に赤い火花を放ったので、眉毛に火がついた。
「アグアメンティ!<水よ出ろ>」とハーマイオニーが叫んだ。彼女の杖から水が吹きだし、火花のパチパチいう音を飲みこみ、マンダンガスの息を詰まらせた。
ハリーは顔をあげて、ロンとハーマイオニーの顔に、自分が感じているのと同じショックを受けた表情が浮かんでいるのを見た。右手の甲の古傷が、またひりひり痛むような気がした。
第12章 魔法は力なり
Magic is Might
八月が過ぎていった。グリモールド・プレイスの真ん中の広場の手入れされていない雑草が、太陽の光でしなびて、もろく茶色になっていた。十二番地の住人も、家自体も、まわりの家々の誰からも決して見られることはなかった。グリモールド・プレイスに住むマグルたちは、ずっと長い間、十一番地が十三番地の隣に来るという、おもしろい間違いを受けいれていた。
それでも広場には、最近番地のずれに興味をそそられたらしい人々が少しずつ訪れていた。ほとんどの日、グリモールド・プレイスに、他に目的もないらしく見える一人二人の人がやってきて、十一番地と十三番地に面した柵にもたれて、二軒の間の継ぎ目をじっと見ていた。じっと佇む人たちは、二日続けて同じではなかったが、そろって、ふつうの服装は、きらっているようだった。そばを通りすぎるロンドンっ子のほとんどは、奇抜な服装に慣れていたので、彼らにほとんど注意を向けなかった。たまに、こんなに暑いのに、なぜあんなに長いマントを着ているのだろうと、ふりかえって見る人があったが。
見物人たちは、その寝ずの番から、満足な結果が得られないようだった。ときたま、その一人が、とうとう興味あるものを見つけたとでもいうように興奮して、前方に飛びだしたが、また、がっかりして戻っていった。
九月の最初の日、広場には、いつもよりたくさんの人がいた。長いマント姿の男が六人、いつものように十一番地と十三番地の間を、黙って油断ないようすで見はっていた。しかし彼らが待ちうけているものは、依然としてとらえどころのないようだった。夕方になると、この季節初めて、いきなり突風が吹き、冷たい雨が降ってきた。こういった説明しがたいある瞬間に、彼らは、たまたま興味あるものを見たようだった。ゆがんだ顔の男が指さし、すぐ近くにいた仲間、ずんぐりした青白い男が前方に飛びだした。しかし一瞬の後、彼らは、前と同じ不活発な状態に戻って緊張を解いた。欲求不満でがっかりしているようだった。
一方、十二番地の家の中では、ハリーが玄関の中に入ったところだった。彼は、ちょうど玄関の外すぐの、いちばん上の階段に姿あらわししたところで、バランスをくずしかけて、一瞬あらわになった肘をデス・イーターに見られたかもしれないと思った。玄関の扉を注意深く閉めると、透明マントを脱ぎ、腕にかけて陰気な廊下を急いで歩いて、地下に続く扉の方に向ったが、盗んできた日刊予言者新聞を握っていた。
いつもの「セブルス・スネイプか?」という低い囁き声が彼を迎えた。冷たい風が吹きつけ、一瞬舌がこわばった。
「僕は、あなたを殺さなかった」彼は言った。舌がほぐれると、埃の呪文の姿が爆発するあいだ息を止め、台所へ続く階段を半分くらい下りて、ブラック夫人に聞かれないところまで来て、埃の雲が晴れると呼びかけた。「ニュースがあるよ。君たち、気に入らないだろうけど」
台所は、見ちがえるようだった。表面すべてがぴかぴかだった。銅の壺や鍋は、こすって磨かれてバラ色に光り、木のテーブルの表面もつやつやだった。もう夕食のために並べてあるゴブレットと皿が、陽気に燃える炎の光を受けて輝いていた。火には大鍋がかかって、とろとろ煮えていた。けれど、部屋の中で、いちばん劇的に変わったのは、ハリーの方に小走りにやって来た屋敷しもべだった。雪のように白いタオルをまとい、耳の毛は、綿毛のように清潔でふわふわしていて、レギュラスのロケットが、その薄い胸にはずんでいた。
「靴をお脱ぎください、ハリー様、それから食事の前に手を洗って」とクリーチャーが、しゃがれ声で言って、透明マントをつかみ、前かがみになって壁の釘にかけた。その横には、たくさんの古風なローブがかかっていたが、皆、洗濯したてだった。
「どうしたんだい?」ロンが心配そうに尋ねた。彼とハーマイオニーは、長いテーブルの端に散らばった、なぐり書きしたメモと手書きの地図の束をじっくり見ていたが、今はハリーが彼らの方に歩いてくるのを見ていた。それから、ハリーは散らばった羊皮紙の上に新聞を放りだした。
かぎ鼻で黒髪の、見慣れた顔の男の大きな写真が、彼らを下からにらんでいた。その上の見出しには「セブルス・スネイプ、ホグワーツの校長として承認される」
「だめ!」とロンとハーマイオニーが大声で言った。
ハーマイオニーの方が早かった。新聞をひったくると、付随した記事を声を出して読み始めた。
「『セブルス・スネイプは、長くホグワーツ魔法学校で魔法薬を教えてきたが、由緒ある同校におけるとても重要な方針転換の中で、本日、校長に指名された。前マグル学教師の辞任に続き、アレクト・カロウがその職に就き、兄のアミカスが『闇の魔術に対する防衛術』の教師となる」
「『私は、最もすぐれた魔法の伝統と価値を維持する機会に恵まれたことを歓迎する――』人殺しをしたり、人の耳を切るみたいなことね! スネイプが、校長! ダンブルドアの部屋にスネイプ――マーリンのパンツにかけて、とんでもない!」彼女が、かん高い声で言ったので、ハリーとロンが二人とも飛びあがった。彼女は、テーブルのところから、急にぴょんと立ちあがって、「すぐ戻るから!」と叫んで部屋から突進するように出ていった。
「『マーリンのパンツ』?」ロンが、おもしろがっているような顔でくりかえした。「彼女、気が動転してるな」彼は、新聞を引きよせて、スネイプに関する記事を丹念に読み始めた。
「他の先生が、我慢できるはずがないさ。マクゴナガルと、フリットウィックと、スプラウトは、みんな真実を知ってる。ダンブルドアがどうやって死んだかを知ってる。スネイプを校長に受けいれるはずがないよ。で、このカロウたちって誰だい?」
「デス・イーター」とハリーが言った。「中に彼らの写真がある。スネイプがダンブルドアを殺したとき、塔の上にいた。だからみんな、お友だちってわけさ。それに」とハリーが、椅子を引きよせながら苦々しげに続けた。「他の先生たちに、学校に残る以外の選択の余地があるとは思えない。もし魔法省とヴォルデモートが、スネイプの後ろ盾なら、学校に残って教えるか、それともアズカバンで数年過ごすか――それだって運がいい方だと思うけど、どちらか選ぶしかないだろう。先生たちは、学校に残って生徒たちを守ろうとすると思うよ」
クリーチャーが、両手に大きな蓋つきの鉢をかかえて、テーブルのところにせかせかとやってきて、口笛を吹きながら清潔な鉢にスープをお玉で注いだ。
「ありがと、クリーチャー」とハリーが言って、スネイプの顔を見なくてすむように、新聞をぱっとめくった。「まあ、少なくともスネイプが今どこにいるかは分かったわけだ」
彼は、スプーンでスープを口に運びはじめた。クリーチャーの料理の腕は、レギュラスのロケットをあげてからというもの劇的に進歩した。今日のフランス風オニオンスープは、ハリーが今まで食べた中で、これまでにないくらいおいしかった。
「この家をまだ、デス・イーターがどっさり見はってるよ」彼は食べながらロンに言った。「いつもより多い。僕たちが、学校用トランクを下げて、そろって出ていってホグワーツ急行に乗るのを期待してるみたいだ」
ロンが時計をちらっと見た。
「それを一日中、考えていたんだ。ホグワーツ急行は六時間近く前に出たはずだ。あれに乗っていないなんて変な気がしないか?」
ハリーは、かつてロンといっしょに空から追いかけたときに見たように、真っ赤な蒸気機関車が草原や丘の間をゆれながら走っていく情景が、心の中に、はっきりと見えるような気がした。さざ波を立てながら行く真っ赤なイモムシだ。この時間、ジニーとネビルとルナが、きっといっしょに座っているだろうと思った。そして、彼とロンとハーマイオニーが、どこにいるだろうと話しあっているかもしれない。それとも、スネイプの新体制をどうしたら密かにだいなしにしてやれるかと討議しているかもしれない。
「僕が、ちょうど帰ってきたところを、彼らに見られたかも」ハリーが言った。「階段の上に、着地するのがへただったし、マントがめくれたんだ」
「僕なんて、いつもそうだよ。ああ、彼女が来た」ロンが、つけ加えて、座ったまま首を回して、ハーマイオニーが、また台所に入ってくるのを見ていた。「で、マーリンの、いちばんブカブカのパンツにかけて、いったい何だい?」
「これを思いだしたのよ」ハーマイオニーが息をきらせながら言った。
彼女は、大きな額縁の画を運んできた。それを床に置いて、台所の戸棚から小さなビーズのバッグを取ってきて、バッグを開けて、その中に画を無理に入れようとしはじめた。すると、その画が、小さなバッグに入れるには明らかに大きすぎるという事実にもかかわらず、数秒たたないうちに、画は、他のたくさんの物と同じく、バッグの広々とした深みに消えた。
「フィニアス・ナイジェルス」ハーマイオニーが説明した。そしてバッグを台所のテーブルに置くと、いつものようにガチャンガチャンというとどろきが響きわたった。
「何のこと?」とロンが言った。だがハリーには分かった。フィニアス・ナイジェルス・ブラックの肖像は、グリモールド・プレイスの肖像画と、ホグワーツの校長室にかけてある、それとの間を自由に行き来できた。校長室である塔の上の丸い部屋には、今、スネイプが座っているのは疑いない。ダンブルドアが集めた繊細な銀の魔法の器具や、石のペンシーブや、組み分け帽子や、どこかに移動させられていなければグリフィンドールの剣を独り占めして勝ちほこっていることだろう。
「スネイプは、フィニアス・ナイジェルスを寄こして、この家の中を探させることができるわ」ハーマイオニーが、また座ってロンに説明した。「でも、今そうさせてごらんなさい、フィニアスには、私のバッグの内側しか見えないわ」
「よく考えたね!」とロンが感心したように言った。
「ありがとう」とハーマイオニーがほほえんで、スープを引きよせた。「で、ハリー、今日は他に何があったの?」
「何も」とハリーが言った。「七時間、魔法省の入り口を見はってた。彼女は見かけなかった。でも、君のパパは見たよ、ロン。元気そうだった」
ロンは、この知らせに、うなずいて感謝を示した。ウィーズリー氏は、いつも他の魔法省の同僚に囲まれているので、彼が魔法省に出入りするときに連絡を取ろうとするのは、あまりに危険すぎるということで三人は一致していた。けれど、たとえ、彼が緊張し心配そうだとしても、その姿をちらっと見ると、ほっとさせられた。
「パパは、いつも言ってた。たいていの魔法省の人は暖炉ネットワークを使って通勤するって」ロンが言った。「だから、僕たち、アンブリッジを見かけなかったんだ。彼女は歩かない。自分を超重要人物だと思っているから」
「で、あのおかしな年取った魔女と濃紺のローブの小柄な魔法使いは?」ハーマイオニーが尋ねた。
「ああ、そうだ、魔法整備のやつね」とロンが言った。
「彼が、魔法整備の仕事をしてるって、どうして分かったの?」ハーマイオニーが、飲みかけたスープのスプーンを空中で止めて尋ねた。
「パパが言ってた。魔法整備の人はみんな濃紺のローブを着てるって」
「でも、あなた今まで、そんなこと言わなかったわ!」
ハーマイオニーは、スプーンを落として、ハリーが台所に入ってきたとき、彼女とロンが調べていたメモと地図の束を引きよせた。
「ここには、濃紺のローブのことは何もないわ、何も!」彼女は言いながら、大あわてでメモを次々にめくった。
「あのう、それ、ほんとに問題?」
「ロン、全部が問題なの! もし私たちが、魔法省に入りこんで、正体をばらさないようにするなら、彼らは、ぜったいに侵入者に対する見はりを置いているんだから些細なことがすべて問題になるのよ! 私たち、何度も何度も魔法省を偵察してきたけど、つまり、それを何のために、やってきたのよ。もしあなたが私たちに言うのをめんどくさがらなかったら――」
「まいったな、ハーマイオニー、小さなことを忘れてたんだよ――」
「あなた、分かってるでしょ。今、世界中で、私たちにとって魔法省ほど危険な場所はないって――」
「明日、やるべきだと思うんだ」とハリーが言った。
ハーマイオニーは、あごを、がっくりと下げて押しだまった。ロンは、スープに少しむせた。
「明日?」とハーマイオニーが、くりかえした。「冗談でしょ、ハリー」
「本気だよ」とハリーが言った。「僕たち、たとえもう一ヶ月、魔法省のあたりをこそこそうろつき回ったとしても、今より大して準備できないと思うんだ。日を延ばせば延ばすほど、ロケットは遠くに行ってしまいそうだ。アンブリッジが、もう、あれを捨てちまった可能性もかなりある。あれは開かないんだから」
「もし」とロンが言った。「彼女が、あれを開ける方法を見つけだして、あれに、もう取りつかれてなければね」
「そうだとしても、大して変りはないよ。彼女は、元々あんなに邪悪だったんだから」とハリーが肩をすくめた。
ハーマイオニーは唇をかみしめて、考えこんでいた。
「僕たちは、重要なことはすべて知ってる」ハリーが、ハーマイオニーに向って続けた。「魔法省が、姿あらわしで出入りすることを禁じていることも知ってる。とても上級の魔法省の職員だけしか、自宅と魔法省を暖炉ネットワークでつなげないのを知ってる。なぜならロンが『話すことを許されない者』たち二人が、そのことで不平を言っているのを聞いたからだ。それに、アンブリッジの部屋がどこか、だいたい分かってる。なぜなら、あごひげのやつが連れに言ってるのを、君が聞いたから――」
「『私は一階に上がる。ドロレスに呼ばれているから』」ハーマイオニーが、すぐに復唱した。
「その通り」とハリーが言った。「それに、君が、あのおかしなコインというか、代用コインというか何でもいいが、の使い方に慣れているのを知ってる。なぜなら、あの魔女が友だちから借りるのを、僕が見たから――」
「でも、私たち、それを持っていないのよ!」
「もし計画通りに行けば、手に入るさ」ハリーが冷製に続けた。
「分からない、ハリー、分からないわ……うまく行かないかもしれない種がどっさりあるわ。かなりの部分、偶然の幸運に頼らないと……」
「それは、後、三ヶ月間準備しても同じだよ」とハリーが言った。「行動するときだ」
彼は、ロンとハーマイオニーの顔つきから、二人が恐がっているのが分かった。彼自身、特に自信満々というわけではなかったが、計画を実行に移す時期が来たと確信していた。
彼らは、これまでの四週間、順番に透明マントをまとって、魔法省への公式出入り口をこっそり見張っていた。それは、ウィーズリー氏のおかげで、ロンが子供の頃から知っていた。彼らは、入っていく途中の魔法省の職員の跡をつけて、会話を盗み聞きし、注意深く観察して、誰が、毎日同じ時刻に一人であらわれると思われているか、探った。時折、誰かの書類鞄から日刊予言者新聞をこっそり盗みだせる機会もあった。ゆっくりと、彼らは、見取り図や覚え書きを作っていき、それが今ハーマイオニーの前に積まれていた。
「いいよ」とロンがゆっくりと言った。「もし、明日やるとしたら……僕とハリーだけにした方がいいと思うんだ」
「まあ、またそれを言いださないで!」とハーマイオニーがため息をついて言った。「このことは決着したと思ってたけど」
マントに隠れて、入り口をうろつくのはいい。けど、これはぜんぜん違う、ハーマイオニー」ロンが、十日前の日付の日刊予言者新聞に指をぐいと突きさした。「君は、尋問に出頭しないマグル出身者のリストに載ってるんだよ!」
「で、あなたは、『隠れ家』で、スパテルグロイト病で死にかけてることになってるのよ! もし、誰か行くべきでないのなら、それはハリーよ。彼の首には、一万ガレオン金貨の賞金がかかっているんだから――」
「いいよ、僕はここに残る」とハリーが言った。「もし君がヴォルデモートを倒したら知らせてくれる?」
ロンとハーマイオニーが笑った。ハリーの額の傷跡に痛みが走った。彼の手が、さっと上がって傷跡を触った。ハーマイオニーの目が細くなるのが見えたので、目から髪の毛を、ふりはらう動きでごまかそうとした。
「ええと、僕たち三人とも行くのなら、別々に姿くらまししないとだめだ。」ロンがしゃべっていた。「もう三人いっしょにはマントに入れないからね」
ハリーの傷跡の痛みは、ますますひどくなってきた。彼は立ちあがった。すぐにクリーチャーが急いでやって来た。
「ご主人様は、スープを全部飲んでいない。ご主人様は、辛口のシチューの方がお好みですか、それともご主人様が大好きな糖蜜タルトの方に?」
「ありがと、クリーチャー、でも、僕すぐ戻るから――あの――トイレ」
ハーマイオニーが疑わしげに見つめているのに気がついて、ハリーは急いで階段を上がって玄関の廊下に行き、それから二階の踊り場に上がった。そして、浴室に飛びこみ、またかんぬきをかけ、痛さにうなりながら、蛇が口を開けた形の蛇口のついた黒い洗面器の上に前かがみになって、目を閉じた……
彼は、たそがれどきの通りを、滑るように進んでいた。両側の建物は、高い木造の三角の切り妻屋根がついていて、ショウガパンの家のように見えた。
彼は、その一軒に近づいた。すると扉に対し、彼自身の指が長い手の白さが見えた。彼はノックした。興奮が高まるのを感じた……
扉が開いた。女が笑いながら、そこに立っていた。彼女がハリーの顔を見ると、笑いが消えた。ユーモアは去り、恐怖が取って代わった……
「グレゴロビッチか?」と高く冷たい声が言った。
彼女は、首を横にふった。彼女は扉を閉めようとした。白い手が、それをしっかりと握り、彼を閉めださせないようにした……
「グレゴロビッチに会いたい」
「Er wohnt nicht mehr!(カレハ、モウ、ココニ、スンデイナイ!)」彼女は、首を横にふりながらドイツ語で叫んだ。「彼、ここに、住まない! 彼、ここに、住まない! 私、彼、知らない!」
扉を閉めようとするのをあきらめて、彼女は、暗い玄関を後ずさりはじめた。ハリーは、彼女の方へ滑りながら追っていった。彼の長い指の手は、杖を引きだした。
「彼はどこだ?」
「Das weiβ ich night!(ワタシハ、シラナイ!)。彼、行った! 私、知らない、私、知らない!」
彼は杖をあげた。彼女は叫び声をあげた。二人の子供が、玄関に走りこんできた。彼女は両腕で子供たちを守ろうとした。緑の閃光が光った――
「ハリー! ハリー!」
彼は目を開いた。床に倒れこんでいた。ハーマイオニーが、また扉をドンドンたたいていた。
「ハリー、開けて!」
彼は叫び声を上げていたのだ。それは分かっていた。彼は、おきあがって、扉のかんぬきをあけた。すぐにハーマイオニーが中によろけこんできた。それからバランスを取りもどして、疑わしげにあたりを見まわした。ロンが、彼女のすぐ後ろにいて、心配そうに冷たい浴室の隅に杖を向けていた。
「何してたの?」とハーマイオニーが厳しく聞いた。
「何してたと思う?」とハリーが、弱々しく空いばりしようとしながら尋ねた。
「君、大きな声で叫んでたんだよ!」とロンが言った。
「ああ、そう……寝ぼけてたんだな、でなきゃ――」
「ハリー、私たちの知性を侮辱しないでちょうだい」とハーマイオニーが、深く息を吸いながら言った。「下で、傷跡が痛くなったのは知ってるわ。紙のように真っ白になったもの」
ハリーは、浴槽の縁に腰掛けた。
「よし、僕は今ヴォルデモートが、女の人を殺したのを見たんだ。今頃までには、彼女の家族全部を殺しているだろう。その必要もないのに。また、セドリックの時のくり返しだ。ただ、そこに居合わせたというだけで……」
「ハリー、あなた二度とそういうことしちゃ、いけないことになっているのよ!」ハーマイオニーが叫んだ。その声が浴室中に響きわたった。「ダンブルドアは、あなたに閉心術を使ってほしかった! そのつながりが危険だと考えた、ー、ヴォルデモートが、それを利用できるからよ、ハリー! 彼が殺したり拷問したりするのを見て何のいいことがあるの、何の助けになるの?」
「彼がやっていることを、僕が分かるという意味があるさ」とハリーが言った。
「じゃ、あなたは、彼の思いを閉めだそうと努力することさえしないの?」
「ハーマイオニー、僕にはできない。僕が閉心術で、てんでだめだったのは知ってるだろ。僕には、そのコツが分からないんだ」
「本気でやろうとしなかったくせに!」彼女が怒って言った。「私には分からない、ハリー――あなた、この特殊なつながりというか、関係というか、何でもいいけど、好きなの?」
彼女は、ハリーが立ちあがって、彼女を見た目つきにたじろいだ。
「好き?」彼は静かに言った。「君は、好きなの?」
「私――いいえ――ごめんなさい、ハリー、そんなつもりじゃ、ー」
「僕は憎んでる、彼が、僕の中に侵入できるという事実を、最も危険な状態の彼を見なくてはならないという事実を憎んでる。けど、僕は、それを利用するつもりだ」
「ダンブルドアが――」
「ダンブルドアは、忘れろ。これは、僕の選択だ。他の誰のでもない。なぜ彼がグレゴロビッチの跡を追っているのか知りたいんだ」
「誰のこと?」
「外国の杖職人だ」とハリーが言った。「クラムの杖をつくった。クラムは、彼をすばらしいと評価してる」
「けど、君の話だと」とロンが言った。「ヴォルデモートはオリバンダーをどこかに監禁した。もし、もう杖職人を手に入れたなら、何のためにもう一人いるのさ?」
「クラムと同じ意見で、グレゴロビッチの方が優秀だと思ったのかもしれないし……でなけりゃ、グレゴロビッチなら、彼が僕を追ってきたときに僕の杖がしたことを説明できると思ったのかもしれない。オリバンダーは、そのわけを知らなかったのだから」
ハリーは、ひびが入って汚い鏡をちらっと見た。ロンとハーマイオニーが背後で、信用できないという目つきを交わしあっているのが見えた。
「ハリー、あなたは、杖がやったと言いつづけてるわ、」とハーマイオニーが言った。「でも、それをしたのは、あなたよ! なぜ、断固として自分の力に責任を持たないことに決めてるの?」
「なぜって、あれは僕じゃないと分かっているからだ! ヴォルデモートでもないんだ、ハーマイオニー! 僕たち二人が、実際に何が起きたか知ってるんだ!」
彼らは睨み合った。ハリーは、ハーマイオニーを納得させられず、また、彼女がハリーの杖に関する仮説と、彼がヴォルデモートの心をのぞき放題にしているという事実の両方に、反対する論争をふっかけてくるのが分かっていた。ほっとしたことに、ロンが取りなした。
「やめなよ」彼が、彼女に忠告した。「彼が決めることだよ。それに、もし明日、魔法省に行くんなら、計画をもう一回確認しといた方がいいんじゃないか?」
他の二人から明らかに分かるほど、いやいやながら、ハーマイオニーは議論を棚上げにした。けれど、ぜったいに機会があれば即、言い出すだろうと、ハリーは思った。そのあいだに、彼らは、地下の台所に戻った。クリーチャーが、みんなにシチューと糖蜜タルトを出してくれた。
その晩、彼らは遅くまで寝なかった。何時間もかかって何度も計画を確認して、互いに一言一句違えず暗唱できるまでにしたからだ。ハリーは、今はシリウスの部屋で寝ていたが、ベッドに横になって、父とシリウスとルーピンとペティグリューの古い写真を、杖の光でなぞっていた。そして十分間、計画をぶつぶつ復唱していた。しかし、彼が杖の光を消したとき、彼が考えたのは、ポリジュース薬や、反吐トローチや、魔法整備の濃紺のローブのことではなかった。彼は杖の作り手、グレゴロヴィッチのことを考えていた。どれくらいの間、ヴォルデモートの執拗な追跡から逃れられるのだろうか。
夜明けはあまりにも早くやってきた。
「ひどい顔だね」というのが、ロンが、ハリーを起こしに部屋へ入ってきて言った朝の挨拶だった。
「あんまり寝てないから」とハリーがあくびをしながら言った。
二人が台所に下りていくと、ハーマイオニーがいた。彼女は、クリーチャーにコーヒーと焼きたてのロールパンを出してもらっていたが、不自然に躁状態の表情を浮かべていたので、ハリーは試験前の復習のときを連想した。
「ローブ」彼女は小声で言って、二人に神経質そうにうなずいて、来たのを認め、ビーズのバッグの中をごそごそし続けた。「ポリジュース薬……透明マント……おとり起爆剤……もしものときに備えて、それぞれ二つ持ってね……反吐トローチ、鼻血ヌガー、のびる耳……」
彼らは、朝食をかきこんでから上に行った。クリーチャーが、お辞儀をして見送りながら、帰ったら、ステーキとキドニーパイをつくるからと約束した。
「彼に幸いあれ」とロンが好意をこめて言った。「少し前まで、彼の首をちょんぎって、壁に突きさしてやろうと、しょっちゅう空想してたんだけどね」
彼らは、非常に注意しながら、玄関の外の一番上の階段まで行った。腫れた目のデス・イーターが二人、霧の広場の向こうから、この家をじっと見ていた。ハーマイオニーが最初にロンと姿くらましして、それからハリーのところに戻ってきた。
いつものように暗闇と、窒息しそうな短いひとときの後、ハリーは、狭い路地にいるのに気がついた。そこが、彼らの計画の第一段階が実行される予定の場所だった。そこは、大きなゴミ箱が二つある他、まだ人の気配がなかった。いつも少なくとも八時にならないと魔法省の職員がここにあらわれないのだ。
「ちょうどいいわ」とハーマイオニーが、腕時計を見ながら言った。「彼女は五分くらいしたら、ここにあらわれるはず。私が、彼女を気絶させたら――」
「ハーマイオニー、僕たち分かってるって」とロンが厳しく言った。「で、僕たちは、彼女がここに着く前に、扉を開けとくことになってたと思ったけど?」
ハーマイオニーが、かんだかい声で言った。
「私、忘れるところだった! 後ろに下がって――」
彼女は、横にある南京錠がかかった落書きだらけの防火扉に杖を向けた。扉はすさまじい音をたててバンと開いた。その奥には暗い階段があって、誰もいない劇場に通じていることが、彼らが何度も注意深く偵察したため分かっていた。ハーマイオニーが扉を自分の方に引きよせて、まだ閉じているようにみせかけた。
「さあ」彼女が、路地の二人の方に向きなおって言った。「またマントを着て――」
「そして、待つ」ロンが言いおえた。そして、セキセイインコに水浴びさせてやるように、ハーマイオニーの頭の上にマントを、さっと投げかけ、ハリーに向って目をくるっと回した。
一分ほど経つと、小さなポンという音がして、ふわふわした灰色の髪の小柄な魔法省の魔女が、彼らのすぐそばに姿あらわしして、急に明るいところに来たので、まぶしそうに少しまばたきをしていた。太陽が、ちょうど雲の後ろから出てきたところだった。だが、彼女が不意の暖かさを楽しむ隙がないうちに、ハーマイオニーの無言の気絶の呪文が胸に当たり、よろけて倒れた。
「お見事、ハーマイオニー」とロンが言いながら、劇場の扉の横のゴミ箱の後ろからあらわれた。ハリーは透明マントを脱いだ。彼らはいっしょに、小柄な魔女を舞台裏に通じる暗い通路に運んだ。ハーマイオニーは、魔女から数本の髪の毛を切り、ビーズのバッグから取りだした濁ったポリジュース薬の瓶に加えた。ロンが、小柄な魔女のハンドバッグを引っかきまわした。
「彼女は、マファルダ・ホプカーク」と、彼らの犠牲者が、魔法不正使用局の助手だと証明する小さな名札を読みながら言った。「これ、持ってた方がいいよ、ハーマイオニー、それに、代用コインがあったよ」
ロンは、魔女の財布から小さな金貨を数枚ぬきだして、ハーマイオニーに手渡した。全部にM.O.M.の文字が打ち出してあった。
ハーマイオニーは、心地よい薄紫色に変ったポリジュース薬を飲んだ。すると数秒後に、マファルダ・ホプカークの生き写しが立っていた。彼女が、マファルダの眼鏡をはずしてかけると、ハリーが腕時計を見た。
「僕たち、遅れてる。ミスター魔法整備が、今にもやって来るぞ」
彼らは、本物のマファルダを隠す扉を急いで閉めた。ハリーとロンは透明マントを被ったが、ハーマイオニーは、人目につくところにいて待っていた。数秒後、またポンという音がして、フェレットに似た小柄な魔法使いが、彼らの前に現れた。
「やあ、おはよう、マファルダ」
「おはよう」とハーマイオニーが震え声で言った。「今日は、いかが?」
「実はね、あまり、よくないんだ」と小柄な魔法使いが答えたが、完全にまいっているようだった。
ハーマイオニーと魔法使いが本通りに向って歩いていくと、ハリーとロンがそっとその後に続いた。
「お加減が悪くてお気の毒様」とハーマイオニーが言った。小柄な魔法使いが、自分の悩みを事細かに話しだそうとしたが、彼女は断固として話の主導権をにぎろうとしていた。本通りに着く前に、彼を引き止めることが何よりも重要な点だった。「さあ、甘いものをどうぞ」
「え? いや結構――」
「どうしても召し上がって!」とハーマイオニーが、彼の顔の前でトローチの袋をふりながら攻撃的に言った。びっくりしたような顔つきで、小柄な魔法使いは、一つ取った。 直ちに効果があらわれた。トローチが舌に触れた瞬間、小柄な魔法使いは、とてもひどくもどしはじめたので、ハーマイオニーが、頭のてっぺんから毛をひとつかみ引きぬいたのにも気づかないほどだった。
「あら、まあ!」彼が路地にもどしまくっているときに、彼女が言った。「今日は休んだ方がいいわよ!」
「いや――いや!」彼は息が詰まり、吐き気に襲われながら、前に進もうとしたが、真っ直ぐ歩くこともできなかった。「私は――絶対今日は――行かなければ――」
「馬鹿言わないで!」とハーマイオニーが驚いて言った。「そんな体じゃ仕事は出来ないわ。聖マンゴ病院に行って、治してもらうべきだと思うわ!」
魔法使いは、崩れるように倒れ、力を込めて四つ足で体を支え、それでもまだ本通りの方に、はって行こうとしていた。
「そんな状態では働けないわ!」とハーマイオニーが叫んだ。
やっと彼は、彼女の言うことが正しいと受けいれたようだった。うんざりしているハーマイオニーの手を借りて、手探りで立ちあがった姿勢になると、その場で回転して姿を消した。その後には、いなくなるときロンが手からひったくった鞄と、空中に浮かんでいる吐いたものの塊だけしか残っていなかった。
「うーっ」とハーマイオニーが、ローブの端を持ちあげて、吐いたところを避けながら言った。「彼も気絶させた方が、はるかに散らからなくてすんだのに」
「ああ」とロンが、魔法使いの鞄を持って、マントの下からあらわれて言った。「けど、やっぱり意識のない人が、あちこちにころがっていたら、余計、注意をひいたんじゃないかと思うよ。でも、彼、仕事熱心だよね? じゃ、髪の毛と薬をよこしてよ」
二分経たないうちに、ロンが他の二人の前に立った。体調の悪い魔法使いと同じく小柄でフェレットに似ていて、鞄にたたんで入れてあった濃紺のローブを着ていた。
「今日、あんなに行きたがってたのに、彼がこれを着ていなかったの、変じゃない? とにかく、僕は、裏の名札によるとレグ・カタモールだ」
「さあ、ここで待ってて」ハーマイオニーがハリーに言った。彼はまだ透明マントの下にいた。「あなた用の髪の毛を手に入れてくるから」
ハリーは、十分間、待たなくてはならなかったが、吐いたものが散らばる路地の、気絶させたマファルダを隠した扉の横に、一人きりでこっそり隠れていると、それは、はるかに長い時間に感じられた。やっとロンとハーマイオニーがあらわれた。
「誰の髪の毛か分からないの」ハーマイオニーが言って、ハリーに縮れた黒髪を数本渡した。「でも、彼、ひどい鼻血で家に帰ったの! ほら、彼は、かなり背が高かったから、もっと大きなローブがいるわ……」
彼女は、クリーチャーが洗濯してくれた古いローブを一式取り出した。ハリーは、薬を飲んで、姿を変えるために引っこんだ。
苦しい変身が終わってみると、彼は百八十センチ以上の長身で、筋肉隆々の腕から察して、力強い体格だった。あごひげも生やしていた。透明マントと眼鏡を、新しいマントの奥にしまうと、他の二人といっしょになった。
「すげぇ、怖いよ」とロンが、ハリーを見あげて言った。ハリーは、他の二人より、はるかに背が高かった。
「マファルダの代用コインを一つ持ってて」ハーマイオニーがハリーに言った。「さあ、行きましょう。もうすぐ九時だわ」
彼らはそろって路地から出た。人通りの多い歩道を五十メートルも行かないうちに、先の尖った黒い柵に沿って二つの階段があった。一つには「男性」、もう一つには「女性」と札が貼ってあった。
「それじゃ、すぐ後でね」とハーマイオニーが心配そうに言った。そして、よろめきながら歩いて女性用の階段を下りていった。ハリーとロンは、たくさんの妙な服装の男たちと一緒になって、ありふれた地下にある陰気な黒白のタイルの公衆トイレのようにみえるところに向って階段を下りていった。
「おはよう、レグ!」濃紺のローブを着た魔法使いが呼びかけた。彼は、扉の細い穴に金の代用コインを差しこんで、個室に入ろうとしていた。「尻の痛みも尻上がり、か? 我々皆を、こんなふうに来させるなんて! お偉方は、誰があらわれると思ってるんだ、ハリー・ポッターか?」
魔法使いは、自分の冗談に大笑いした。ロンは無理しておもしろがって、「ああ」と言った。「馬鹿馬鹿しいな」
それから、ロンとハリーは隣りあった個室に入った。
ハリーの左右からは、水を流す音が聞こえた。彼は、しゃがんで個室の壁の下のすきまからのぞきこんだ。ちょうど、隣でブーツを履いた両足が便器に上がるのが見えた。左を見ると、ロンが目をぱちぱちさせるのが見えた。
「自分を、水洗で、流さなくちゃいけないのかな?」ロンがささやいた。
「そうらしいね」ハリーがささやきかえした。彼の声は深く重々しく聞こえた。
二人とも立ち上がった。非常に馬鹿げていると思いながら、ハリーは便器にはい上った。
すぐに正しいことをしたのだと分かった。水の中に立っているように見えたけれども、靴、足、ローブは乾いたままだった。彼は手をのばして鎖を引いた。次の瞬間、短い急流にビューンと流されて、暖炉から魔法省に、あらわれて出た。
彼はぎこちなく立ちあがった。自分が慣れている体より、ずっと大きくて動きにくかったのだ。中央の大広間は、ハリーが覚えているよりも暗かった。このあいだは、真ん中に金の噴水があって、磨かれた木の床や壁に、きらめく光の点をあたりに投げかけていたが、今は、黒い石の巨大な像が、その場を支配していた。それは、かなり恐ろしかった。この巨大な魔女と魔法使いの彫刻が、飾りたてた模様が彫られた台座に座って、魔法省の職員が、下の暖炉からよろけ出てくるのを見おろしていた。像の台座に、縦三十センチくらいの大きさの文字で、次の言葉が彫られていた:「魔法は力なり」
ハリーは、足の後ろをひどく打たれた。後から、魔法使いが暖炉から飛びだしてきたのだ。
「そこをどけ、見えないのか――ああ、すまん、ランコーンか!」
見るからに怖そうに、その禿げた魔法使いは急いで去っていった。ハリーが扮している男、ランコーンは恐れられているようだった。
「ちょっと!」と声がした。ふりかえると、小柄でか細い魔女と、魔法整備のフェレットに似た魔法使いが彫像の横から手招きしていた。ハリーは急いで彼らのところへ行った。
「それじゃ、あなたたち、うまく入れたのね?」ハーマイオニーがハリーにささやいた。
「いや、彼はまだトイレに詰まってるみたいに、行き詰まってたじゃないか」とロンが言った。
「まあ、おもしろいこと……あれ、恐いわね?」彼女が、像を見あげているハリーに言った。「あの像が何の上に座ってるか見た?」
ハリーは、もっと近よって見て、飾りたてた模様が彫られた台座だと思ったものは、実は彫られた人間の山だった。男、女、子供の何百も何百もの裸の体が、どれも、愚かな醜い顔つきで、ねじれ押されながらいっしょになって、立派なローブをまとった魔法使いの重さを支えていた。
「マグルよ」とハーマイオニーがささやいた。「彼らが当然いるべき場所にいるってわけ。さあ、行きましょう」
彼らは、大広間の端にある金の門の方に進んでいく魔女と魔法使いの流れに加わって、できるだけ、めだたないようにそっとあたりを見まわした。けれど、ドローレス・アンブリッジとすぐ分かる独特の姿は見あたらなかった。彼らは、門を通りぬけ、もっと小さな広間に入った。そこでは、二十の金の格子の前に、それぞれ列ができていた。その格子のそれぞれがエレベーターなのだ。彼らが、いちばん近い列に並ぼうとしたとき、声がした。「カタモール!」
彼らは、ふりかえった。ダンブルドアの最期の場に居合わせたデス・イーターの一人が、彼らの方に歩いてきたので、ハリーは、おなかがひっくりかえるような気がした。彼らの横の魔法省の職員は黙りこんで、うつむいた。職員たちの間に、恐れが、さざ波のように広がるのが感じられた。その男は、たくさんの金の糸で縁どられた堂々としたローブをさっとなびかせていたが、それが少し獣じみた顔と、なにか不つりあいだった。エレベーターの近くの群衆の一人が、おべっかを使うように呼びかけた。「おはよう、ヤックスリー!」ヤックスリーは無視した。
「俺の部屋を直すため、魔法整備から誰かよこすように要求していた、カタモール。まだ雨が降っているんだ」
ロンは、他の誰かが口をはさんでくれないかと期待するように、あたりを見まわしたが、誰も何も言わなかった。
「雨降り……あなたの部屋で? それは――それは、まずいですよね?」
ロンは、臆病そうに笑った。ヤックスリーが目を見張った。
「お前は、それを愉快だと思うのか、カタモール?」
二人の魔女が、エレベーターを待つ列から、いきなり離れて急いで立ち去った。
「いえ」とロンが言った。「とんでもない――」
「おれは、今、お前の妻を尋問しに下へ行くところだと分かっているのか、カタモール? 彼女が待っているあいだ、お前が下で手を握っていてやらないので、実はとても驚いた。もう彼女に見切りをつけたのか? その方が賢いぞ。今度は、気をつけて純血と結婚しろ」
ハーマイオニーが恐怖のキーキー声を小さくもらした。ヤックスリーが彼女を見た。彼女は、弱々しく咳をして向こうを向いた。
「ぼ、僕は――」ロンがどもった。
「だが、もし俺の妻が、穢れた血だと告発されたとしても、」とヤックスリーが言った。「俺が結婚する女が、そんな汚らわしい者だと、間違えられることはありえんがな――魔法法執行部長は、やるべき仕事があり、俺は、仕事を最優先事項にする、カタモール。俺の言うことが分かったか?」
「はい」とロンが囁き声で言った。
「では、仕事にかかれ、カタモール。で、もし一時間以内に、俺の部屋が完全に乾かなかったら、お前の妻の家系状況証は、今よりもっと疑わしいものになるぞ」
彼らの前の金の格子がガタガタと開いた。ハリーは、今のカタモールに対する扱いを当然、誉めるべきだと思われているらしく、ヤックスリーは、彼に頷き、不愉快に笑いかけて、別のエレベーターの方に去っていった。ハリー、ロン、ハーマイオニーは自分の前のエレベーターに乗った。けれど、彼らが伝染病でもあるかのように誰も後に続かなかった。格子がガランガランと閉まり、エレベーターが上がりはじめた。
「僕は何をすることになってるんだろ?」すぐにロンが、うちのめされたように他の二人に聞いた。「もし僕が行かなかったら、僕の妻は――カタモールの妻はってことだけど――」
「僕たち、いっしょに行くよ、いっしょにいるべきだ――」とハリーが言いはじめた。しかしロンが激しく首を横にふった。
「そんなの狂ってる。時間があまりないんだ。君たち二人はアンブリッジを見つけろよ。僕はヤックスリーの部屋に直しにいくよ――けど、雨が降るのを、どうやって止められるんだろ?」
「『終わる呪文』をやってみて」とハーマイオニーが、すぐに言った。「もし、まじないや呪文なら、それで止まるはず。もし、だめなら、気候の呪文がどこかおかしくなってるはず。それは、直すのが難しいわ。それなら、当座の手段として、彼の持ち物を濡らさないために『通さない呪文』をやってみて、ー」
「もう一回言ってよ、ゆっくりね――」とロンが、やけっぱちになってポケットの中を、羽ペンを探しながら言った。しかし、その瞬間、エレベーターがゆれて止まり、見えないところから女性の声がした。「四階、魔法生物規制管理部。獣、存在、精霊課。ゴブリン関係局、ペスト注意報事務所があります」そして、格子がまた横に開いた。魔法使い二人が乗り、薄紫色の紙飛行機が、いくつか飛びこんで、エレベーターの天井のランプのまわりをひらひら飛びまわった。
「おはよう、アルバート」と、もじゃもじゃのほおひげの男が、ハリーに笑いかけ、エレベーターがまたきしみながら上昇するとき、ロンとハーマイオニーを眺めまわした。ハーマイオニーは、必死になってロンに、いろいろなやり方をささやいていた。魔法使いは、ハリーの方に寄ってきて、横目で見ながら小声で言った。「ダーク・クレスウェルか? ゴブリン関係局から? うまいぞ、アルバート。俺は、あいつの仕事を取ってやる自信があるぞ」
彼はウィンクした。ハリーは、微笑み返しながら、微笑むだけの反応で十分だといいがと望んでいた。エレベーターが止まった。格子がまた開いた。
「二階、魔法法執行部。魔法不正使用局。闇祓い局本部。魔法裁判所管理業務があります」と見えない声がした。
ハリーは、ハーマイオニーがロンを小さく押すのを見た。ロンは急いでエレベーターを下りた。他の魔法使いも続いて下りたので、ハリーとハーマイオニーが残された。金の扉が閉まるやいなや、ハーマイオニーが、とても早口で言った。「ほんとうはね、ハリー、私、ロンの後を追いかけた方がいいと思うの。彼、何をするか分かってないと思うし、もし彼が捕まったら、全部が――」
「一階、魔法大臣と参謀室です」
金の格子が、また横にすべるように開いた。ハーマイオニーが、はっと息をのんだ。四人の人たちが目の前に立っていて、そのうち二人は熱心に話しこんでいた。それは黒と金の豪華なローブを着た長髪の魔法使いと、ずんぐりしたヒキガエルのような魔女だった。彼女は、短い髪にビロードのリボンを結び、胸に紙ばさみをかかえていた。
第13章 マグル生まれ登録委員会
The Muggle-Born Registration Commission
「あら、マファルダ!」とアンブリッジが、ハーマイオニーを見ながら言った。「トラバースに、ここへ来るように言われたの?」
「え――、ええ」とハーマイオニーがキーキー声で言った。
「いいわ、あなたなら、完璧にうまくやれるわ」アンブリッジが黒と金のローブの魔法使いに話しかけた。「それで、あの問題は解決よ、大臣。マファルダが議事録をとるために寄こされたから、すぐに始められるわ」彼女は、紙ばさみを確認した。「今日は十人。その一人は、魔法省職員の妻よ! ったくもう……ここ、魔法省の中心部でさえ!」彼女は、大臣といっしょにアンブリッジの話を聞いていた二人の魔法使いといっしょに、エレベーターのハーマイオニーの隣に乗りこんだ。「下に直行するわ、マファルダ。あなたが必要なものはすべて法廷室にあるでしょう。おはよう、アルバート、あなた、下りないの?」
「もちろん下ります」とハリーがランコーンの深い声で言った。
ハリーはエレベーターから下りた。金の格子が後ろでガランと閉まった。ちらっとふりかえると、背の高い魔法使いたちに、はさまれ、肩のところにアンブリッジのビロードの髪飾りのリボンがきているハーマイオニーの不安そうな顔が、下がっていって見えなくなった。
「なぜ、ここまで上がってきたのかね、ランコーン?」と新しい魔法大臣が尋ねた。その長い黒髪とあごひげには、銀筋が混じり、額が広くて突きでているので、輝く目が陰になっていたので、ハリーは、岩の下からのぞいたカニを連想した。
「急ぎの用があって」ハリーは、ほんの一瞬ためらった。「アーサー・ウィーズリーに。彼は一階にいると聞いたので」
「ああ」とパイアス・シックネスが言った。「彼は、『不快な者』と連絡をとって捕まったのかね?」
「いえ」とハリーが言ったが、喉がからからだった。「いえ、そんなことではありません」
「まあ、時間の問題だな」とシックネスが、厚い絨毯をしいた廊下を、向こうへ歩いていきながら言った。「言わせてもらえば、血の裏切り者は、穢れた血と同じくらい悪いよ。じゃ失礼、ランコーン」
「失礼します、大臣」
ハリーは、シックネスが厚い絨毯を敷いた廊下を向こうへ歩いていくのを見つめていた。大臣が見えなくなるとすぐに、重くて黒いローブの中から透明マントを引っぱりだして、頭からかぶり、廊下を反対の方に歩きだしたが、ランコーンはとても背が高かったので、大きな足が隠れるように、身をかがめなくてはならなかった。
恐怖がおなかの中の穴で脈打っているようだった。ハリーは、それぞれに部屋の主の名前と職種を書いた小さな飾り板が貼ってある磨かれた木の扉を、次々に通りすぎていったが、魔法省の力、複雑さ、侵入する難しさが、のしかかってきて、ここ四週間かかってロンとハーマイオニーとともに仕組んできた計画が、ばかばかしく子供っぽいものに思われた。彼らは、見つからずに魔法省の中に入ることに、全勢力を傾けてきたが、もし、三人が離れるはめになったらどうしようということは、少しも考えなかった。ところが今、ハーマイオニーは、法廷の議事録をとるため、確実に何時間も身動きがとれず、ロンは、ぜったいに彼の力では難しいと思われる魔法と格闘していて、その結果に一人の女性が自由の身になるかどうかがかかっている。そして、ハリーは、探している張本人が、エレベーターで下に行ってしまったのが、完全によく分かっていながら最上階をうろつき回っている。
彼は、歩くのをやめて、壁にもたれかかり、どうするか決めようとした。沈黙が、のしかかってきた。ここでは、ざわめきや話し声や、すばやい足音が全く聞えず、紫の絨毯をしいた廊下は「ムフリアト<消音>」の呪文がかけられているかのように静まりかえっていた。
「彼女の部屋が、この近くにあるはずだ」ハリーは考えた。
彼女が、自分の宝石を仕事部屋に置いておくなんて、とてもありそうにないことだったが、一方、それを探して確かめないのも、ばかげていた。そこで、彼はまた廊下を歩きはじめたが、たった一人にしかすれ違わなかった。それは、顔をしかめた魔法使いで、目の前に浮かんでいる羽ペンに指示をつぶやくように言うと、ペンが、たなびく羊皮紙に走り書きをしていた。
扉の名前に注意しながら、ハリーは角を曲った。新しい廊下を、とちゅうまで行くと、開けた場所に出てきた。そこでは一ダースの魔女や魔法使いが、何列もならんだ小さな机の前に座っていた。その机は、学校のに似ていないこともなかったが、はるかに磨きこまれ、落書きなどなかった。とても興味をそそる光景だったので、ハリーは立ち止まって眺めた。彼らは、いっせいに同じ動きで、杖をふったり回したりした。すると四角な色紙が、小さなピンク色の凧のようにあらゆる方向に飛んでいた。数秒後、ハリーは、その手続きには周期があり、色紙は、同じ動きで動いていることが分かった。また数秒後、彼が見ているものは、パンフレットの製造で、四角い紙が一枚ずつのページで、それが、魔法で集められ、たたまれ、製本され、それぞれの魔女や魔法使いの横にきちんと積み重なって落ちていくのだと分かった。
ハリーは、彼らが、とても集中して仕事をしていたので、絨毯で音を小さくされた足音には気づかないだろうと思って、こっそり近よった。そして若い魔女の横の山から、できあがったパンフレットを一部ぬきとって、透明マントの下で読んだ。そのピンク色の表紙には、金色の字で美しく題名が書かれていた。
「穢れた血と、彼らが平和な純血社会に引きおこす危険」
題名の下には、赤いバラの絵があった。その花びらの真ん中に、まぬけな作り笑いを浮かべた顔があり、牙のあるしかめ面の緑の雑草に首を絞められそうになっていた。パンフレットの上には作者の名はなかったが、ハリーが読んでいると、また右手の甲の傷跡が、ひりひり痛むような気がした。そのとき、横の若い魔女が、まだ杖をふったり回したりしながら「ババアが一日中、穢れた血を尋問するのかどうか、誰か知ってる?」と言ったので、彼の予想が正しいと証明された。
「気をつけて」と彼女の横の魔法使いが、不安そうに見まわしながら言ったが、彼のページの一枚が横に舞って床に落ちた。
「えっ、彼女は、今では魔法の目と同じように、魔法の耳も持っているの?」
魔女は、パンフレット制作者がいる広い場所に面している、磨かれたマホガニーの扉をちらっと見た。ハリーも見た。すると激しい怒りが、体の中に蛇が頭をもたげるように巻きおこった。マグルの玄関ののぞき穴があるところに、明るい青の虹彩がある大きな丸い目が、木の中に、はめこまれていた。アラスター・ムーディを知っていた者なら誰でも、とてもひどく見慣れた目だった。
ほんの一瞬、ハリーは自分がどこにいるか、何をしているのかを忘れた。自分の姿が見えないことさえ忘れた。まっすぐに扉の方に歩いていって、目をじっくり見た。それは動いていないで、やみくもに上の方を向いて凍りついたようにじっとしていた。その下の名札には、こう書かれていた。
「ドローレス・アンブリッジ:魔法省上級事務次官」
その下には、もっとぴかぴかの真新しい名札があって、こう書かれていた。
「マグル生まれ登録委員会:委員長」
ハリーは、一ダースのパンフレット制作者の方をふりむいた。彼らは仕事に集中していたけれど、もし目の前で、誰もいない部屋の扉が開いたら、気づかないはずはないと思われた。そこで、内ポケットから、小さな揺れる足と、ゴムの球に角がある胴体を持つ奇妙な物体を取りだした。そして、マントの中でしゃがんで、その「おとり起爆器」を床に置いた。
それは、すぐに、彼の前の魔女や魔法使いの脚のあいだに、ちょこちょこと走り去った。ハリーは扉の取っ手に手をかけて待っていた、ほんの少したつと、隅から、大きなドンという音がして、刺激臭のある黒い煙がたくさんもくもくと湧いて出てきた。前列の若い魔女が悲鳴を上げた。彼女と同僚が飛びあがって騒動の原因はどこかと見まわしたので、ピンクのページがいたるところに飛びちった。ハリーは扉の取っ手を回し、アンブリッジの部屋に入りこみ、扉を後ろ手に閉めた。
彼は、時をさかのぼったような気がした。その部屋は、ホグワーツのアンブリッジの部屋と全く同じだった。優美なひだのある掛け布や、小さなレースの敷き物や、ドライフラワーが、空いたところすべてにかかっていた。壁には、昔と同じ飾り皿が飾ってあって、それぞれの皿の中に、鮮やかな色のリボンをつけた子ネコがいて、吐き気をもよおすようなかわいらしさで、はね回ったりじゃれたりしていた。机には、ひだ飾りのついた花柄の布がかかっていた。マッド・アイの目の後ろに、望遠鏡の付属物がついていて、アンブリッジが扉のこちら側から、職員を監視できるようになっていた。ハリーが、それごしに見ると、職員たちがまだ、「おとり起爆器」のまわりに集まっているのが分かった。彼は、望遠鏡を扉からもぎ取り、後ろの穴をむき出しにして、魔法の眼球をそこから引っぱりだしてポケットに入れた。それからまた部屋の中に向きなおり、杖をあげて小声で言った。「アクシオ<来たれ> ロケット」
何もおこらなかったが、元々ハリーは期待していなかった。アンブリッジは、防御の呪文やまじないについてすべて知っているに違いない。そこで急いで、机の後ろに行き、引き出しを開けはじめた。羽ペンと、ノートと、魔法セロテープがあった。魔法がかかった紙ばさみが、引きだしから蛇のようにとぐろを巻いて出てきて、ひっぱたかれて引っこんだ。ごてごてした小さなレースの箱は、予備の髪飾りのリボンや留め具でいっぱいだった。けれどロケットはなかった。
机の後ろに書類整理棚があった。ハリーは、それを捜しはじめた。ホグワーツのフィルチの書類整理棚のように、ファイルでいっぱいで、それぞれに名前が貼ってあった。いちばん下の引きだしを調べているときに、捜し物から気を散らされるものがあった。ウィーズリー氏のファイルだった。
彼は、それを引きだして開けてみた。
アーサー・ウィーズリー
家系状況:純血、しかし許しがたい親マグルの傾向。フェニックス騎士団のメンバーとして知られる。
家族:妻(純血)、七人の子供、下二人がホグワーツに在学。
注:下の息子は現在在宅、重病、魔法省検査官が確認済み。警備状況:追跡中。すべての動きが監視されている。
「第一級要注意人物」が接触する可能性が非常に高い。
(彼は、以前ウィーズリー家に滞在していた)
「第一級要注意人物」ハリーは小声で呟き、ウィーズリー氏のフォルダを戻して、引きだしを閉めた。彼は、それが誰か分かっていた。確かに自分だと確信していた。そして体をおこして、他に隠し場所はないかと、部屋の中を見まわした。壁に、自分自身のポスターがあって、「第一級要注意人物」の言葉が、胸のところに派手に書かれていた。隅に子ネコの絵がある小さなピンクのメモが貼ってあった。ハリーが行って、それを読むと、アンブリッジが「罰すべき」と書いていた。
彼は、もっと腹をたてながら、ドライフラワーの花瓶や籠の底を手で探りつづけたが、ロケットが見つからなくても驚くことはなかった。最後に一度、部屋の中をざっと見まわすと、心臓がドクンと、はねるように打った。机の横の本棚にもたせかけた小さな長方形の鏡から、ダンブルドアが彼を見つめていた。
ハリーは、一走りで部屋を横切り、それをさっと取った。けれど、それに触った瞬間、それが鏡ではないのが分かった。ダンブルドアが、つやつやした本の表紙から、物思いに沈んだようにほほえみかけていた。帽子の上に、緑色の、くるっと巻いたような書体で「アルバス・ダンブルドアの人生と嘘」と書かれていて、胸のところに少し小さく「ベストセラー本『アーマンド・ディペット:賢人か痴人か?』の著者、リータ・スキーター著」と書かれていたが両方とも、すぐには気づかなかった。
ハリーは、本を、いいかげんにめくった。するとページ一面に十代の少年二人の写真があった。二人とも、互いの肩に腕を回して大笑いしていた。ダンブルドアは、この頃は、髪をひじまでのばし、ロンをとてもいらつかせたクラムのあごひげを思いださせる、ほんの小さなあごひげを生やしていた。ダンブルドアの横で、声を出さずに大笑いしている少年は、肩までのびた金髪の巻き毛で、陽気で荒っぽい雰囲気があった。ハリーは、これが若い頃のドージかしらと思った。けれど、写真に添えられた短い説明文を読まないうちに、部屋の扉が開いた。
もしシックネスが、入ってくるときに肩ごしに、ふりかえっていなかったら、ハリーは透明マントをひっかぶる隙がなかっただろう。実は、シックネスが、ちらりと何か動くのを見たかもしれないと、ハリーは思った。なぜなら、ほんの一時、彼は、じっと立ったまま、ハリーが、ちょうど消えた場所を興味ありげに見つめていたからだ。だが、おそらく、ハリーが急いで本棚に戻しておいた本の表紙の中で、鼻をかいているダンブルドアを見ただけだと決めたのだろう。やっと、シックネスは机のところに歩いてきて、インク瓶に立てて準備してある羽ペンに、杖を向けた。するとペンが飛びだして、アンブリッジ宛のメモを走り書きしはじめた。ハリーは、とてもゆっくり、ほとんど息を詰めるようにして部屋から出て、広けた場所に戻ってきた。
パンフレット制作者たちは、まだ「おとり起爆器」の残骸のまわりに集まっていた。それは、まだ煙を出しては、弱々しくホーと鳴りつづけていた。ハリーが急いで離れて廊下の方に来たとき、若い魔女が言った。「実験呪文の部屋から、迷いこんだのに違いないわ。彼ら、とっても不注意なんだから。あの毒のあるアヒルを覚えてる?」
大急ぎで、エレベーターに向って戻りながら、ハリーは自分の考えを頭の中で復唱した。ロケットは、ここ魔法省にはありそうもない。それに、その所在を、人がいっぱいいる法廷に座っているアンブリッジに魔法をかけて聞きだせる見込みもない。当面の優先事項は、ばれないうちに、魔法省を立ち去ることだ。別の日に、やり直さなくてはならない。最初にやるべきなのは、ロンを見つけることだ。そうすれば、二人して、法廷室からハーマイオニーを連れだす方法を練りあげることができるだろう。
エレベーターが来たとき、誰も乗っていなかった。ハリーは飛びのって、エレベーターが下がりはじめたときに透明マントを脱いだ。それがガタガタと二階で止まったとき、彼が、とてもほっとしたことには、ずぶ濡れで、おびえた目のロンが乗りこんできた。
「お、おはよう」彼は、どもりながらハリーに言った。エレベーターが、また動きはじめた。
「ロン、僕だよ、ハリーだ!」
「ハリー! うわーっ、君がどんなふうだか忘れてた――どうしてハーマイオニーはいっしょじゃないの?」
「彼女は、アンブリッジと一緒に法廷室に下りていかなくちゃならなかったんだ。断れなかったし、それに――」
しかし、ハリーが言いおわる前に、エレベーターが、また止まった。扉が開いて、ウィーズリー氏が、年取った魔女と話しながら乗りこんできた。彼女の金髪はとても高く逆立っていて、アリ塚に似ていた。
「……君の言っていることは、とてもよく分かるよ、ワカンダ。だが残念ながら仲間にはなれない――」
ウィーズリー氏は、ハリーに気がついて話をやめた。ウィーズリー氏に、こんなに嫌悪感をこめて、睨みつけられるのはとても妙な感じだった。エレベーターの扉が閉まり、四人は、またゴトゴトと下に向った。
「やあ、レグ」とウィーズリー氏が、ロンのローブからポタポタと周期的にしずくが垂れている音は、どこからかと見まわして言った。「奥さんが、尋問される日じゃないのかい? そのう――どうしたんだ? なぜそんなに濡れているのかい?」
「ヤックスリーの部屋に雨が降っていて、」とロンが、ウィーズリー氏の肩に向かって言った。もし、直接、目を合わせたら、父に見破られるかもしれないと、きっとロンが恐れているのだと、ハリーは思った。「僕には止められなくて、それで、連れてこいと言われたんだ、バーニー――ピルスワース、という名前だと思うけど、ー」
「ああ、最近は、多くの部屋で雨が降っている」とウィーズリー氏が言った。「メテオロジンクス・レカント(雨を止める呪文)をやってみたかい? ブレッチリーのところでは、効いたよ」
「メテオロジンクス・レカント?」とロンがささやき声で言った。「いや、やってない。ありがと、パ――じゃなくて、ありがと、アーサー」
エレベーターの扉が開いた。アリ塚の髪型の年老いた魔女が下り、ロンが彼女を追いこして先に行き、見えなくなった。ハリーは、その後を追おうとしたが、大またで乗りこんできたパーシー・ウィーズリーに前をふさがれてしまった。彼は書類に鼻を埋めて熱心に読みふけっていた。扉が、またガランと閉まって初めて、パーシーは、父といっしょにエレベーターに乗っているのに気づいた。ちらっと見あげて、ウィーズリー氏を見ると、ラディッシュのように真っ赤になって、次に扉が開いた瞬間、エレベーターを下りていった。もう一度、ハリーは下りようとしたが、今度は、ウィーズリー氏の腕で行く手をふさがれた。
「ちょっといいか、ランコーン」
エレベーターの扉が閉まり、またガランガランと下の階へ向った。ウィーズリー氏が言った。「君が、ダーク・クレスウェルについての情報を提出したと聞いた」
ハリーは、ウィーズリー氏の怒りがパーシーと接触したため、さらに大きくなったと感じたが、この場をうまく乗りきるには、間抜けなふりをするしかないと決めた。
「え?」彼は言った。
「とぼけるな、ランコーン」とウィーズリー氏が激しく言った。「君は、家系図を偽った魔法使いを追っていただろう?」
「僕――もし僕が、やったとしたらどうした?」とハリーが言った。
「なら、ダーク・クレスウェルは、君の十倍も立派な魔法使いだ」とウィーズリー氏が静かに言った。エレベーターはどんどん下がっていった。「もし、彼がアズカバンを切りぬけて出てきたら、君は、彼の妻、子供たち、友人はいうまでもなく、彼本人に対し、きちんと応じなくてはならん――」
「アーサー」ハリーが遮った。「君は、追跡されているのを知っているか?」
「それは脅しか、ランコーン?」とウィーズリー氏が大声で言った。
「いや」とハリーが言った。「事実だ! 君のすべての動きが監視されている――」
エレベーターの扉が開いた。彼らは、大広間に着いた。ウィーズリー氏は、ハリーを容赦のない目付きで見て、さっとエレベーターから下りていった。ハリーは震えながら立ったままでいた。ランコーンでない他の人間に扮すればよかったのに、と思った……エレベーターの扉がガランと閉まった。
ハリーは透明マントを引きだして、またかぶった。ロンが、雨が降る部屋を直しているあいだに、自分一人でハーマイオニーを救いだすつもりだった。扉が開いたとき、上の、木の羽目板や絨毯をしいた廊下とは、まったく違う、たいまつがともった石の通路に踏みだした。エレベーターが、またガラガラと上がっていってしまうと、彼は遠くに、謎部への入り口の印である黒い扉の方を見て、少し身震いした。
ハリーは、歩き出した。目的地は、あの黒い扉ではなく、左手の方にあると覚えている通路だった。そこから階段を下りると、法廷室に通じているのだ。こっそり階段を下りていきながら、いくつもの可能性を考えた。まだ「おとり起爆器」を二つ持っていたが、単純に、法廷室の扉をノックして、ランコーンとして入って、マファルダに急ぎの用があると言った方がいいだろうか? もちろん、そううまくやってのけられるに足るほど、ランコーンが重要人物かどうか、彼は知らなかった。それに、もし、やり遂げたとしても、ハーマイオニーが戻ってこないと、彼らが魔法省から逃げだす前に捜索が始まるきっかけになるかもしれない……
彼は、深く考えこんでいたので、霧の中に下りていくように、まわりに忍びよってくる不自然なうすら寒さに、すぐには気をとめなかったが、階段を下りるごとに、どんどん寒くなってきた。その寒さは、喉に直接下りてきて、肺をひき裂くようだった。それから、憂鬱と絶望がこっそり忍びよってきて、心の中にあふれ、どんどん広がるのが感じられた……
「ディメンターだ」彼は思った。
そして、階段を下りきって、右を向くと、恐るべき光景が見えた。法廷室の外の暗い通路に、完全に顔を隠した背の高い、黒いフード姿があふれていたのだ。その場では、その耳ざわりな呼吸音だけしか聞えなかった。尋問のため連れてこられたマグル出身者は恐怖にすくんで、堅い木の長椅子に固まって震えていた。大部分の者はディメンターのどん欲な口から、本能的に身を守ろうとするかのように手で顔をおおっていた。家族に、つきそわれている者もいたし、一人の者もいた。ディメンターは、彼らの前を滑るように行ったり来たりしていた。そして寒さと絶望とその場の憂鬱さが、ハリーの上に闇の呪文のように広がった……
「戦うんだ!」彼は、自分に言いきかせた。けれど、ここでパトローナスを出せば、すぐさま自分の正体を明かしてしまうことになるのが分かっていた。そこで、できるだけ静かに前方に進んだ。一足ごとに、無気力さが脳まで忍びよってくるような気がしたが、自分を必要としているハーマイオニーとロンのことを、がんばって考えた。高くそびえる黒い姿のそばを通るのは、恐ろしかった。フードの奥の目のない顔が、通ったときに、こちらを向いた。彼らが、彼の存在を感じたのは確かだと思った。多分、まだいくらか希望と元気さを持っている人間の存在を……
そのとき、凍るような沈黙の中、いきなり、衝撃的に、廊下の左側の地下室の扉がぱっと開き、叫び声が外まで聞えてきた。
「いえ、いえ、私は、混血、混血だ、そう言ってるでしょう! 父は魔法使いだった、そうだ、調べてくれ、アルキー・アルダートン、彼は有名な箒のデザイナーだった、調べてくれ、そう言ってるでしょう――手を離せ――手を離せ――」
「これが、最後通告よ」とアンブリッジのもの柔らかな声がした。その声は魔法で大きくされていたので、男の絶望的な叫び声を圧して、はっきりと聞こえた。「暴れるなら、ディメンターのキスを受けさせます」
男の叫び声はおさまったが、涙を出さないすすり泣きの声が廊下に響いた。
「彼を連れていきなさい」とアンブリッジが言った。
法廷室の戸口に、二体のディメンターがあらわれた。その朽ちた、かさぶただらけの手が、気絶しかかっている魔法使いの二の腕をつかんだ。彼らは、男を連れて廊下を滑るように去っていき、その後ろに引きずっていた暗闇が彼を飲みこんで、姿が見えなくなった。
「次、――メアリ・カタモール」とアンブリッジが呼んだ。
小柄な女が、頭から足まで震えながら立ちあがった。黒っぽい髪を後ろになでつけて一つにまとめ、長い簡素なローブを着ていたが、顔には、まったく血の気がなかった。ディメンターのそばを通るとき身震いするのを、ハリーは見た。
彼は、彼女が、一人で地下室に入っていく光景が、たまらなくいやだったので、何の計画もなく本能的に行動した。扉が、さっと閉まりかけたとき、その後について法廷室に忍びこんだのだ。
それは、昔、彼が魔法の不正使用で尋問されたのと同じ部屋ではなかった。天井はとても高いけれど、ここの方が、もっと小さかった。深い井戸の底に閉じこめられた感じで、閉所恐怖症になりそうだった。
ここには、もっと多くのディメンターがいて、部屋全体に氷のような霊気を投げかけていた。彼らは、高いところにある壇から一番遠い隅に、顔のない番人のように立っていた。その壇の手すりの後ろに、アンブリッジが座っていて、横にヤックスリーがいた。反対側の横に、カタモール夫人と同じくらい真っ青な顔のハーマイオニーがいた。壇の足下に、輝く銀の長い毛並みのネコが、行ったり来たり、行ったり来たりうろついていた。ハリーは、それは、ディメンターが発する絶望から、検察官を守るために、いるのだと悟った。絶望は、原告の検察官ではなく、被告のためのものなのだ。
「座りなさい」とアンブリッジが、絹のようなもの柔らかな声で言った。カタモール夫人は、高いところにある壇の下の床の真ん中に置かれたただ一つの椅子に、よろよろと腰掛けた。座った瞬間、鎖が椅子の腕からカチャンと飛びだして、彼女を縛りつけた。
「あなたは、メアリ・エリザベス・カタモールね?」とアンブリッジが尋ねた。
カタモール夫人は、震えがちに一度頷いた。
「魔法整備局のレジナルド・カタモールと結婚していますか?」
カタモール夫人の目に、涙が、いっぱいあふれた。
「彼がどこにいるのか分かりません、ここに会いにきてくれるはずなのに!」 アンブリッジは、彼女の言葉を無視した。
「メイジー、エリー、アルフレッド・カタモールの母ですか?」
カタモール夫人は、もっと激しくすすり泣いた。
「子供たちは恐がっています。私が家に帰れないかもしれないと思って――」
「やめろ」とヤックスリーがつばを吐くように言った。「穢れた血のガキに同情心はおきないぜ」
カタモール夫人のすすり泣きで、ハリーの足音が隠された。彼は注意深く高い壇に上る階段の方に進んでいたが、パトローナスのネコが巡回している場所を通りすぎた瞬間、温度が変って暖かく快適になるのが感じられた。そのパトローナスは鮮やかに輝いていたが、きっとアンブリッジのものだと、ハリーは思った。ここ、部下の中で、彼女が起草するのを手助けした、よこしまな法律を施行しているので、彼女はとても幸せだったからだ。彼は、ゆっくりと、とても注意深くじりじりと、アンブリッジ、ヤックスリー、ハーマイオニーの後ろの壇の方に進んでいって、ハーマイオニーの後ろに座った。彼女がびっくりして、飛びあがらないかと不安だった。ムフリアトの呪文を、アンブリッジとヤックスリーにかけようかと思ったが、小声で呪文をつぶやいても、ハーマイオニーはびっくりするかもしれない。そのときアンブリッジがカタモール夫人に向って声を高めたので、ハリーは、その機会をとらえた。
「君の後ろにいるよ」彼はハーマイオニーの耳にささやいた。
予想どおり、彼女はひどく飛びあがったので、尋問を記録するために使っているインク瓶をもう少しでひっくりかえしそうになった。けれど、アンブリッジとヤックスリーの両方ともカタモール夫人に集中していたので、気づかれなかった。
「あなたが本日、魔法省に着いたとき、杖が取りあげられました、カタモール夫人」アンブリッジが言っていた。「八・七五インチ、桜の木、ユニコーンの芯。この説明が分かりますか?」
カタモール夫人はうなずいて、袖で、涙を拭いた。
「その杖を、どこの魔女か魔法使いから取ったのか、話していただける?」
「私が――取った?」とカタモール夫人はすすり泣いた。「私は――誰からも取りません。私は、か、買いました、十一才の時に。そ、それ――それが、私を選んだのです」
彼女は、もっと激しく泣きだした。
アンブリッジが、優しく少女のように笑ったので、殴り飛ばしたい衝動に駆られた。彼女は、自分の犠牲者が、もっとよく見えるように、手すりごしに身を乗りだした。すると、何か金色の物も飛びだして、空間にぶら下がった。あのロケットだ。
ハーマイオニーが、それを見た。彼女は小さく叫び声をあげた。けれど、アンブリッジとヤックスリーは、まだ彼らのえじきに集中していたので、他の何も耳に入らなかった。
「いいえ」とアンブリッジが言った。「いいえ、私はそうは思わないわ、カタモール夫人。杖は、魔女か魔法使いだけを選ぶのよ。あなたに送られた質問用紙に対するあなたの答えがここにあるわ――マファルダ、それを、こちらに寄こして」
アンブリッジが小さな手を差しだした。その瞬間、彼女が、あまりにヒキガエルそっくりだったので、ずんぐりした指のあいだに水かきが見えないことに、ハリーはとても驚いた。ハーマイオニーの手が、動揺して震えた。彼女は、横の椅子の上に、なんとか倒れないように積んである書類の山を手探りして、やっと、カタモール夫人の名前がある羊皮紙の塊を引きだした。
「それ――それ、すてきね、ドローレス」彼女は言いながら、アンブリッジのブラウスの波打つひだの中で輝くペンダントを指さした。
「何?」とアンブリッジが鋭く言って、見下ろした。「ああ、――家に代々伝わってきた宝よ」彼女は言いながら、大きな胸の上に収まった、ロケットを軽くたたいた。『S』は、セルウィンの頭文字よ……私は、セルウィン家の血を引いているの……実際のところ、私が血を引いていない純血家系は、ほとんどないわ……お気の毒ね、」彼女は、もう少し大きな声で続けて、カタモール夫人の質問用紙をパチッとはじいた。「同じ事があなたには言えなくて。両親の仕事は、八百屋ですって」
ヤックスリーが冷やかすように笑った。下では、ふわふわした毛の銀のネコが行ったり来たり巡回していて、ディメンターが、隅で立って待っていた。
アンブリッジの嘘で、ハリーは頭に血が上り、用心深さを忘れた。ケチな罪人から賄賂として取ったロケットを、彼女自身の純血の信用を高めるものとして使っているという嘘だった。彼は、杖を上げ、透明マントで隠す手間さえかけずに、言った。「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」
赤い閃光が上がった。アンブリッジは崩れるように倒れ、額を手すりの端で打った。カタモール夫人の書類がひざから滑りおちた。下の方では、うろついていた銀のネコが消えた。氷のように冷たい空気が、迫りくる風のように、彼らにうちつけた。ヤックスリーは、まごついて騒動の原因を探してあたりを見まわした。そして、ハリーの体が見えない手と杖だけが、自分を指すのを見て、杖を出そうとしたが、遅すぎた。
「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」
ヤックスリーは床に滑りおちて、体を丸めて横たわった。
「ハリー!」
「ハーマイオニー、僕がここに座って、あの盗っ人女を見逃すと思ってたのな彼女に嘘をつかせとくと思うんなら――」
「ハリー、カタモール夫人!」
ハリーは、透明マントを脱ぎすてて、さっとふり向いた。下の方で、ディメンターが動きだし、椅子に鎖で縛られた女性の方に滑りよっていった。パトローナスが消えたせいか、主人が、もう支配力を失ったと感じたせいか、彼らは、もう抑制しているのをやめたようだった。カタモール夫人は、恐怖からすさまじい叫び声をあげた。不快なかさぶただらけの手が、彼女のあごをつかんで、無理に顔を向けさせたのだ。
「エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ出よ>」
銀色の雄鹿が、ハリーの杖の先からさっと躍りでて、ディメンターに向って飛んでいくと、彼らは後退して、また暗い影の中に溶けていった。雄鹿が部屋の中を駆けまわると、その光がネコの防御よりも、もっと力強く暖かく、地下室中に満ちあふれた。
「ホークラックスを取って」ハリーがハーマイオニーに言った。
彼は、階段を駆けおり、透明マントを鞄につめこんで、カタモール夫人に近づいた。
「あなたが?」彼女は、彼の顔を見つめて、ささやくように言った。「でも、ー、でもレグが、あなたは、私の名を尋問するよう提出した一人だと言ったわ!」
「僕が?」ハリーはつぶやくように言って、彼女の両腕を縛っている鎖を引きよせた。「ええと、気を変えたんだよ。『ディフィンド!<切断せよ>』」何もおこらなかった。「ハーマイオニー、どうやったら、この鎖をはずせる?」
「待って! 私、ここでやることが――」
「ハーマイオニー、僕たちディメンターに囲まれているんだよ!」
「分かってる、ハリー、でも、彼女が目覚めて、ロケットがなくなっていたら――私、この複製品を作らなくちゃ……ジェミニオ<複写せよ>! ほら……これで彼女をだませるわ……」
ハーマイオニーは階段を走って下りてきた。
「ええと……レラシオ<火花よ出よ>!」
鎖はカチャンと音をたてて、椅子の腕の中に引っこんだ。カタモール夫人は、あいかわらず恐がっているようだった。
「私には分からないわ」彼女は、囁くように言った。
「僕たちといっしょに、ここを出てもらう」とハリーが言って、彼女を立たせた。「家に帰って、子供たちを連れて、家を出ろ。もし行くところがあれば、国を出ろ。変装して逃げろ。どんなふうか分かっただろ。公正な審理なんてもの、ここじゃ受けられないんだ」
「ハリー」とハーマイオニーが言った。「扉の外には、ディメンターがいっぱいなのに、どうやってここから出るの?」
「パトローナス」とハリーが自分の杖で、自分のパトローナスを指した。雄鹿は、まだ明るく輝きながら、速度を緩め、扉の方に向って歩いていった。「集められるだけたくさんのパトローナスで。君のも出してくれ、ハーマイオニー」
「エクスペク――エクスペクト・パトローナム」とハーマイオニーが言った。何もおきなかった。
「彼女が苦労した、たった一つの呪文なんだよ」ハリーが、完全にわけが分からないようすのカタモール夫人に言った。「ちょっと運が悪いな、ほんとに……さあ、ハーマイオニー……」
「エクスペクト・パトローナム!」
銀のカワウソが、ハーマイオニーの杖の先から飛びだして、優美に空中を泳ぎまわって、牡鹿と一緒になった。
「さあ行こう」とハリーが言って、ハーマイオニーとカタモール夫人を扉の方に連れていった。パトローナスが扉から滑りでると、外で待っていた人々から、衝撃の叫びがあがった。ハリーは、あたりを見まわした。ディメンターは、銀の生き物たちに追いちらされて、彼らの両側に引きさがり、暗闇の中に溶けこんでいた。
「君たちは全員、帰宅し、家族といっしょに隠れているように決められた」ハリーが、待っていたマグル出身者に言った。彼らは、パトローナスの光に目がくらんで、まだ少し縮こまっていた。「できれば海外へ行け。魔法省から、とても遠く離れていろ。それが――ええと――新しい公式見解だ。さあ、パトローナスについて行きさえすれば、大広間から、外に出られるだろう」
彼らは、なんとか邪魔されずに石の階段を上がった。けれど、エレベーターに近づくとハリーは不安を感じはじめた。もし、ハリーとハーマイオニーが、大広間に、銀の雄鹿とカワウソがまわりを舞っている中を、半分は告発されたマグル出身者を含む二十人ほどの人々と一緒にあらわれたら、引きたくもない注意を引いてしまうだろうと感じずにはいられなかったのだ。彼が、このありがたくない結論に達したとき、エレベーターが、彼らの前でガランと止まった。
「レグ!」とカタモール夫人が金切り声で叫んで、ロンの両腕の中に身を投げかけた。「ランコーンが出してくれたの。アンブリッジとヤックスリーを襲って、私たちみんなに国を出ろと言ったの。私たち、そうした方がいいと思うわ、レグ、ほんとうに! 急いで帰って子供たちを連れてなぜ、そんなに濡れてるの?」
「水」とロンがつぶやいて、身をふりほどいた。「ハリー、魔法省に侵入者が入ったのが、ばれた。アンブリッジの部屋の扉の穴が、どうとかって。後、五分しかないと思う。もし――」
ハーマイオニーが恐怖に襲われた顔を、ハリーに向けたとき、彼女のパトローナスが、ポンという音とともに消えた。
「ハリー、もし私たち閉じこめられたら――!」
「すばやく動けば、大丈夫だ」とハリーが言った。そして、後ろの押しだまった一団に向って言った。彼らは皆、口をぽかんと開けて、彼を見ていた。
「杖を持っている人は?」
およそ半分が手をあげた。
「よし、杖を持たない人は、誰か持っている人といっしょにいるように。急がなくてはならないんだ――止められないうちに。さあ行こう」
彼は、なんとか詰め合って二つのエレベーターに乗りこんだ。金の格子が閉まって、エレベーターが上りはじめるとき、ハリーのパトローナスが、その前で見はりに立っていた。
「八階」と、魔女の事務的な声が言った。「大広間です」
ハリーは、すぐに彼らが、困ったことになったと分かった。大広間は、暖炉から暖炉へと動く人でいっぱいで、彼らが立ち入りできないようにしていたのだ。
「ハリー!」とハーマイオニーがキーキー声で言った。「どうするつもり、ー?」
「止まれ!」ハリーがとどろくような声で言った。ランコーンの力強い声が大広間中に響きわたった。暖炉を封鎖していた魔法使いたちは、凍りついた。「僕の後に続け」彼は、おびえたマグル出身者の一団にささやいた。彼らは、ロンとハーマイオニーに連れられて、寄りあつまって進みでた。
「何事だ、アルバート?」と、先ほど、暖炉から出てきたハリーの後を追ってきた、禿頭の魔法使いが、心配そうに言った。
「この連中は、出口を閉じる前に、外に出なくてはならん」とハリーが、集められるだけの威厳をこめた声で言った。
彼の前の魔法使いの一団は顔を見あわせた。
「我々は、出口をすべて閉じて、誰も出すなと命じられた、ー」
「俺に、楯つく気か?」ハリーが、怒鳴り散らした。「お前の家族の家系図を調べられたいのか、俺が、ダーク・クレスウェルのをやったように?」
「すまん!」とは禿頭の魔法使いが、喘ぐように言って退いた。「何も言うつもりじゃなかった、アルバート。だが、思ったのは……彼らは尋問に呼ばれていたんだし……」
「彼らは純血だ」とハリーが言った。彼の深い声は、大広間中に堂々と響きわたった。「お前たちの多くの者より、純血だ、おそらくはな。さあ行け」と、とどろくような声でマグル出身者に言った。彼らは小走りに暖炉の方に進みでて、二人ずつ姿を消しはじめた。魔法省の魔法使いは、ある者はまごつき、ある者はおびえ、憤慨しているようだったが、ためらいながら退いた。そのとき――
「メアリ!」
カタモール夫人がちらっと後ろを見た。もう吐いてはいないが青ざめ血の気がない本物のレグ・カタモールが、ちょうどエレベーターから下りたところだった。
「レ、レグ?」
彼女は、夫からロンへと順に見た。ロンは、大きな声で悪態をついていた。
はげ頭の魔法使いが、ぽかんと口を開けて、一方のレグ・カタモールから、もう一方へと、こっけいなほど見まわした。
「おい、ー、どうなっているんだ? これは何だ?」
「出口を閉じろ! 閉じろ!」
ヤックスリーが、別のエレベーターからさっと飛びだしてきて、暖炉の横の一団の方に走っていったが、カタモール夫人以外のマグル出身者は、もう姿を消したところだった。禿頭の魔法使いが杖を上げたとき、ハリーは巨大なこぶしで、彼をなぐって、空中に吹っ飛ばした。
「彼は、マグル出身者の逃亡を助けた、ヤックスリー!」ハリーが怒鳴った。
禿頭の魔法使いの同僚が、わめき声を上げた。それに紛れて、ロンは、カタモール夫人の腕をつかんで、まだ開いている暖炉に引っぱり、姿くらましをした。混乱しながら、ヤックスリーは、ハリーから殴られた魔法使いへと目をやった。その間に本物のレグ・カタモールが叫んだ。「私の妻! 妻と一緒にいたのは誰だ? どうなっているんだ?」
ハリーは、ヤックスリーが、振り向くのを見た。その獣のような顔に、真実が、ひらめき始めたのが分かった。
「さあ行こう!」ハリーはハーマイオニーに向って叫んで、その手をつかみ、いっしょに暖炉に飛びこんだ。そのときヤックスリーの放った呪文が、ハリーの頭上を飛んでいった。彼らは、数秒ぐるっと回って、便器から、個室へ、さっと飛びだした。ハリーが扉をさっと開けると、ロンが洗面台の横にいて、まだカタモール夫人ともみあっていた。
「レグ、私ほんとうに分からないのよ――」
「手を放せ、僕は、あなたの夫じゃない、あなたは家に帰らなくちゃ!」
後ろの個室で物音がした。ハリーが、ふりむくと、ヤックスリーがちょうどあらわれたところだった。
「行こう!」ハリーが叫んだ。彼はハーマイオニーの手とロンの腕をつかみ、その場で回った。
彼らは、ひもで締めつけられるように感じるとともに暗闇に飲みこまれた。けれど、どこか変だった……ハーマイオニーの手が、彼がにぎっている手から抜けていくようだった……
彼は、窒息しかかっているのかもしれないと思った。息もできないし、見ることもできなかった。世界中でただ一つ、確かなものは、ロンの腕と、ハーマイオニーの指だが、それが、ゆっくりと抜けていきかけている……
そのとき、彼は、蛇の戸叩きがついたグリモールド・プレイス十二番地の扉を見た。しかし、彼が息を吸う前に、叫び声と紫の火花があがった。ハーマイオニーの手が、突然、万力のようなすごい力で彼の手を握り、また、すべてが暗くなった。
第14章 盗人
The Thief
ハリーが目を開くと、金と緑の光に目がくらんだ。何が起きたのか、さっぱり分からなかった。分かっていたのは、葉っぱと小枝のようなものの上に寝ていることだけだった。ぺちゃんこになってしまったような気がする肺に空気を入れようと苦闘しながら、まばたきすると、派手にまぶしい光は、はるか高いところにある葉っぱの天蓋を通して差してくる日の光だということが分かった。そのとき、何かが顔の近くで、ぴくぴく動いた。四つんばいになって、小さなどう猛な生き物に顔を合わせようとしたら、それはロンの足だった。あたりを見まわすと、彼らとハーマイオニーは、森の地面に横になっていた。他に誰もいないようだった。
ハリーは、最初、禁じられた森かと思った。彼らがホグワーツの敷地内にあらわれるなんて、どんなにばかげて危険なことか分かっているにもかかわらず、一瞬、森の木々のあいだをこっそり忍んでいってハグリッドの小屋に行こうと考えて、心が躍った。けれども、少しして、ロンが低いうめき声をあげたので、ハリーは、彼の方に、はっていった。ここが禁じられた森でないのは分かっていた。木がもっと若かったし、木と木のあいだが広く空いていて、地面がきれいだった。
彼は、ハーマイオニーが、ロンの頭のところに、やっぱり四つんばいでいるのに出あったが、ロンを見たとたん、他の心配事はすべて心から飛び去った。ロンの体の左側が血まみれで、葉っぱが散った地面から浮き出た顔は、灰色がかった白だった。ポリジュース薬の効果がなくなりかけていたので、見たところ半分カタモールで、半分彼自身だった。その顔に残っていたわずかな血の気がなくなる一方、髪はどんどん赤くなっていった。
「彼、どうしたの?」
「スプリンチしたの」とハーマイオニーが言った。彼女の指は、もう、ロンの血がいちばんたくさん出ていて黒ずんでいる袖のところで忙しく動いていた。
彼女がロンのシャツを破ったとき、ハリーは見ていてぞっとした。いつもスプリンチのことを何か滑稽なものに思っていたが、これは…… ハーマイオニーが、ロンの上腕をむき出しにしたとき、ハリーのおなかが、不愉快にむずむずした。そこは大きな肉の塊が、ナイフで削られたようにきれいに失われていた。
「ハリー、早く、私のバッグの中に『薬草ディタニーのエキス』とラベルが貼ってある小瓶があるの――」
「バッグ――分かった」
ハリーは、急いでハーマイオニーが着地した場所に行って、小さなビーズのバッグをつかんで、手を中に突っこんだ。すぐに、次から次へといろいろな物が、手に触れた。皮の本の背表紙、毛糸のセーターの袖、靴のかかと、ー
「早く!」
彼は、地面から杖をひっつかんだ。そして、魔法のバッグの深みに向けて指した。
「アクシオ<来い> 薬草ディタニー!」
茶色の小瓶が、バッグから飛びあがってきた。彼は、それをつかむと急いでハーマイオニーとロンのところに戻った。ロンの目は、半分閉じて、まぶたの間に、白目が細い線になって見えるだけだった。
「彼、気を失ったの」とハーマイオニーが言ったが、彼女もまた青ざめていた。もうマファルダには見えなかったが、髪の毛は、まだ、ところどころ灰色だった。「瓶の蓋、開けて、ハリー。私、手が震えてて」
ハリーは、小瓶の蓋をねじり開けた。ハーマイオニーは、それを取り、薬を三滴、血が流れる傷口に垂らした。すると緑っぽい煙が噴きあがり、煙がなくなってみると、血が止まっていた。傷口は、もう数日経ったようにみえ、新しい皮膚が、今し方、むき出しの肉だったところの上に広がっていた。
「うわー」とハリーが言った。
「これが、やっても安全だと思う全部よ」とハーマイオニーが震えながら言った。「完全に治す呪文もあるけど、私が、うまくやれなくて、もっとひどくしてしまうかもしれないから、やる勇気はないわ……彼は、もうとてもたくさん出血したし……」
「彼は、どうやって怪我したのかい? つまり」ハリーは、頭をふって、はっきりさせて、たった今いったい何がおこったのか理解しようとした。「なぜ僕たちここにいるのかい? 僕たち、グリモールド・プレイスに戻ろうとしていたと思ったんだけど?」
ハーマイオニーは深く息を吸ったが、泣きそうだった。
「ハリー、私たち、あそこに戻れないと思うわ」
「それ、どういう――?」
「私たちが、姿くらまししたとき、ヤックスリーが、私につかまったの。私、ふりはらうことができなかった、彼が強すぎて、で、グリモールド・プレイスに着いたとき、彼はまだ私に掴まっていた、それから――あのう、彼は扉を見て、私たちが、そこで止まると思ったんだと思う。つかむ手をゆるめたの。それで、私、やっとのことで彼をふりはらって、代わりにここへ来たの!」
「でも、それなら彼はどこ? ちょっと待てよ……彼がグリモールド・プレイスにいるっていうんじゃないよな? 彼は、あそこに入れないはずだろ?」
彼女が首をふったとき、目に、まだ流れていない涙がきらめいていた。
「ハリー、入れると思うわ。私――私、急変の呪文で、彼に手を放させようとしたんだけど、もう、忠誠の呪文の防御区域に、彼を連れこんでしまっていたの。ダンブルドアが亡くなってから、私たちが秘密保持者だから、私、彼に、場所の所在の秘密を教えてしまったわけでしょ?」
違うと言いはる余地はなかった。ハリーは、彼女の言うことが確かに正しいと思った。それは深刻な痛手だった。もしヤックスリーが、あの家の中に入ることができれば、他のデス・イーターを姿あらわしで呼びよせることができるので、彼らが戻る道はない。あの家は陰気で重苦しいけれど、彼らの安全な隠れ家だった。クリーチャーが、前よりはるかに幸せに、親しげになってからは、なおさら一種のわが家のようなものだった。屋敷しもべが忙しくステーキとキドニーパイの準備をしているところを想像して、食べ物とは関係のないことで、ハリーは後悔の刺すような痛みを心に感じた。ハリーとロンとハーマイオニーが決して食べることはないのに。
「ハリー、ごめんなさい、ほんとにごめんなさい!」
「ばかなこと言うなよ。君のせいじゃなかった! もし、そういうこと言うのなら、僕のせいだ……」
ハリーはポケットに手を入れて、マッド・アイの目を取りだした。ハーマイオニーは、ぞっとしたように後ずさりした。
「アンブリッジが、職員を監視するために、これを部屋の扉にさしこんでた。僕は、そのままにしておけなかった……だから、侵入者があったと、ばれたんだ」
ハーマイオニーが答えようとする前に、ロンが呻いて目を開いた。彼の顔はまだ土気色で、汗が光っていた。
「気分はどう?」ハーマイオニーがささやいた。
「ひでぇ」とロンがしゃがれ声で言った。そして負傷した腕に触ってたじろいだ。「僕たち、どこにいるんだ?」
「クィディッチ・ワールド・カップが開催された森」とハーマイオニーが言った。「私、どこか囲まれていて、覆いがある場所を探したの、で、ここが、ー」
「……最初に思いついた場所」ハリーが、誰もいないように見える林間の空き地を見まわしながら、彼女の代りに話を終えた。彼は、この間、ハーマイオニーが思いついた最初の場所に姿あらわししたときに、起こったことを、つい思いだしてしまった。あのときは数分以内にデス・イーターに見つけられてしまったのだ。もし開心術のせいだったとしたら? 今、このときもハーマイオニーが連れてきたこの場所が、ヴォルデモートか彼の手下に、ばれたのだろうか?
「僕たち、移動した方がいいと思うか?」ロンがハリーに尋ねた。ハリーは、ロンの顔を見て、同じ事を考えているのが分かった。
「分からない」
ロンはまだ青ざめて、汗をじっとりかいているようだった。起きあがろうとするそぶりはまったく見せなかった。起きあがる力がないほど弱っているようだった。彼を移動しようとするのは大変で、できそうもなかった。
「とりあえず、ここにいよう」ハリーが言った。
ほっとしたように、ハーマイオニーがぴょんと立ち上がった。
「どこ行くんだい?」ロンが尋ねた。
「もし、ここにいるなら、このまわりに防御の魔法をかけなくちゃ」彼女は答えて、杖を上げ、ハリーとロンのまわりを大きな円を描いて歩きながら、呪文の言葉をつぶやきはじめた。ハリーは、まわりの空気が少し乱れるのが分かった。ハーマイオニーが、彼らのいる場所のまわりに熱のもやを投げかけているようだった。
「サルビオ・ヘクシア<まじないを遠ざけろ>……プロテイゴ・トタルム<すべて守れ>……レペロ・マグルタム<マグルを遠ざけろ>……ムフリアト<話を聞かれないようにせよ>……テントを出してもいいわ、ハリー……」
「テント?」
「バッグの中!」
「……の中、分かった」とハリーが言った。
彼は、今度は、わざわざ手探りなどしないで、召還の呪文を使った。テントは、キャンバス地、綱、柱のでこぼこの固まりとなって出てきた。ハリーは、それが何だか分かった。理由の一つはネコの臭いがしたことだった。それは、クィディッチ・ワールド・カップの晩に寝たテントだった。
「これは魔法省のパーキンスってやつのものだと思っていたけど?」彼は、テントのくいを、固まりをほどいて取りだそうとしながら言った。
「彼は返してほしいと言わなかったみたい。腰痛がとてもひどいらしくで」とハーマイオニーが、杖で、八の字形に複雑に動かしながら言った。「だから、ロンのパパが、私に貸してくれたの。エレクト<立て>!」彼女は、不格好なキャンバス地に杖を向けて、つけ加えた。それは、流れるような動きで空中に起きあがり、ハリーの前の地面に完全に組みあがった形で落ちついた。びっくりした彼の手から、テントのくいが舞いあがって、最後に支え綱の端にドサッと着地した。
「カヴェ・イニミクム<敵を警戒せよ>」ハーマイオニーは、杖を空の方に振りまわして、終わった。
「それが、私ができる精一杯よ。最悪、敵が来るのは分かるわ。敵を寄せつけないと保証できないけど、ヴォル――」
「その名前を言うな!」ロンがきつい声で、さえぎった。
ハリーとハーマイオニーは顔を見あわせた。
「ごめん」ロンが言って、少しうめき声をあげながら体を起こして、二人を見た。「けど、それって――縁起の悪いものか何かみたいな気がするんだ。例のあの人って、呼ぶことにしてくれないかな?」
「ダンブルドアは、名前を恐れなかった――」とハリーが言いはじめた。
「君が気づいてないかもしれないから言うけど――君ねえ、例のあの人を名前で呼んで、ダンブルドアは最後あんまり、いい事なかったぜ」ロンが鋭い口調で言いかえした。「ただ――ただ、例のあの人に少し敬意を示してくれない?」
「敬意?」ハリーがくりかえしたが、ハーマイオニーが警告するような視線を投げた。ロンがこんな弱った状態のときに、論争してはいけないという意味なのは明らかだった。
ハリーとハーマイオニーは、ロンをテントの入り口まで、なかば運び、なかば引きずっていった。内部は、ハリーが覚えているのと全く同じで、浴室と小さな台所を完備した小さなアパートだった。彼は古い肘掛け椅子を押しのけて、作りつけの寝棚の低い方の寝床に、ロンを気をつけて下ろした。たった、ここまで来るだけでも、ロンは、ますます青ざめ、彼らが、マットレスの上に寝かせると、また目を閉じて、しばらく何も言わなかった。
「お茶を入れるわ」とハーマイオニーが息をきらせて言いながら、バッグの底から、やかんとカップを取りだし、台所に向った。
ハリーは、温かいお茶を、マッド・アイが亡くなった晩のファイア・ウィスキーと同じようにありがたく飲んだ。胸に、はためいていた恐れの少しを焼きはらうような気がした。一、二分後、ロンが沈黙を破った。
「カタモール夫妻、どうなったと思う?」
「運がよければ、逃げたでしょうよ」とハーマイオニーが、熱いお茶のカップをしっかりつかんで心を和ませながら言った。「カタモール氏が冷静で分別を失わなければ、奥さんを、いっしょの姿あらわしで移動させ、今頃は、子供たちを連れて国外へ脱出しているでしょう。ハリーが彼女に、そうしなさいと言ったのよ」
「うわー、彼らが逃げたんならいいなあ」とロンが言って、枕の上に頭を戻して横になった。お茶が、彼によい影響を与えたようで、顔に少し血の気が戻ってきた。「でも、僕が彼だったとき、みんなが僕に話しかけた感じからして、レグ・カタモールは、そんなに頭が回るような印象じゃなかったよ。頼むから、うまく逃げれたらいいなあ……もし僕たちのせいで、彼らがアズカバンに行く羽目になったら……」
ハリーはハーマイオニーの方を見た。そして、彼が尋ねようとした質問、カタモール夫人に杖がないと、夫といっしょの姿あらわしができなくなるのかどうかは、口に出せずに終わった。ハーマイオニーは、ロンがカタモール夫妻の運命についてやきもきするのを見つめていたが、彼女の表情がたいそう優しかったので、ハリーは、もし質問したら、彼女がロンにキスしている最中にびっくりさせるのと同じような気がしたからだ。
「で、君、あれ手に入れた?」ハリーは彼女に尋ねたが、彼の存在を思い出してもらおうという気も少しあった。
「手に入れた……何を?」彼女は、はっとしたように言った。
「僕たち、何のために、あれだけのことをやったのさ? ロケットだよ! ロケットはどこ?」
「あれを手に入れた?」ロンが叫んで、枕の上に、もう少し身を起こした。「誰も何も言わなかったよ! なんだよ、言ってくれりゃよかったのに!」
「あのう、私たち、デス・イーターから死にものぐるいで逃げていたでしょ?」とハーマイオニーが言った。「ほら」
そして、彼女はローブのポケットからロケットを引っぱりだして、ロンに渡した。
それは、ニワトリの卵くらいの大きさだった。たくさんの小さな緑の石をはめ込んだ「S」の字が、テントのキャンバス地の屋根を通して広がる輝く日光の元で、鈍くきらめいていた。
「クリーチャーが持った後、誰かが破壊しようとした機会はなかったのかな?」とロンが期待をこめて尋ねた。「つまり、これ、またホークラックスなのは確かなのかい?」
「そうだと思うわ」とハーマイオニーが言って、それをロンから取りかえし、じっくりとながめた。「もし、魔法を使って破壊されたら、何か傷が残るでしょう」
彼女は、それをハリーに渡した。彼は、それを手の中でひっくりかえした。それは完璧に汚れなく見えた。そして、ずたずたに切られた日記の残骸と、それからダンブルドアが破壊したとき、ホークラックスの指輪の石に裂け目ができたのを、思いだした。
「僕は、クリーチャーが正しいと思う」とハリーが言った。「これを破壊する前に、何とかしてこれを開けなくてはならないと思う」
ハリーは話しながら、突然、何を手にしているか、それと小さな金の扉の奥に何が生きているかを、頭を打たれたかのように悟った。これを見つけようと、あんなに努力した後なのに、これを遠くに放りなげたいという荒々しい衝動を感じた。けれど、また自分を抑えて、ロケットを指でこじ開けようとしてみて、それから、ハーマイオニーがレギュラスの寝室の扉を開けた呪文を試してみたが、どちらも効かなかった。彼は、ロケットをロンとハーマイオニーに返した。二人とも全力を尽くしたが彼と同じように、開けることができなかった。
「でも、君、感じる?」ロンが、それをこぶしで固く握りしめて、抑えた声で言った。
「どういう意味?」
「ロンは、ホークラックスをハリーに渡した。ほんの少したって、ハリーはロンの言いたいことが分かったような気がした。彼が感じているのは、血管の中で脈打つ自分の血だろうか、それともロケットの中で、小さな金属の心臓のように鼓動する何かだろうか?
「これを、どうするつもり?」ハーマイオニーが尋ねた。
「どうやって破壊するか考えつくまで、安全に保管しておく」ハリーが答えた。そして、しぶしぶ、その鎖を自分の首にかけて、ローブの中に垂らして見えないようにした。それは、彼の胸の上、ハグリッドがくれた袋の横に納まった。
「テントの外では、用心のため順番に持った方がいいと思うよ」彼はハーマイオニーにつけ加え、立ちあがって、のびをした。「それといっしょに、食べ物のことを考える必要があるな。君は寝てろ」彼は鋭くつけ加えた。ロンが起きあがろうとして真っ青になったのだ。
ハーマイオニーがハリーの誕生日にくれたスニーコスコープを注意深く机の上に置いて、ハリーとハーマイオニーは、その日の残り、交代に見はりをしながら過ごした。けれど、侵入探知鏡は、その日の間中、置いた地点でじっと静かなままだった。そして、ハーマイオニーが、まわりにかけた防御の魔法とマグル避けの呪文のおかげか、それとも人がこのあたりまで踏みこんでくることが、めったにないせいか、森の、彼らがいる場所は、時折、小鳥やリスがあらわれる他は、ずっと誰も来なかった。夕方になっても同じだった。ハリーは、杖に火をともして、十時にハーマイオニーと見はりを交代し、人の気配のない風景を見わたした。すると、彼らの防御された場所から見える木々に囲まれた狭い星空の上を空高くコウモリが飛んでいくのに気づいた。
彼は空腹で、少しめまいがした。ハーマイオニーは、その夜、グリモールド・プレイスに帰ると思っていたので、魔法のバッグの中に食べ物は何も詰めていなかった。それで、彼女が近くの木々の間で摘んできた野生のキノコをキャンプ用鍋で煮たものの他、何も食べるものがなかった。二口ほど食べた後、ロンは吐き気をもよおしたような顔で自分に配られた分を押しやった。ハリーは、ただハーマイオニーの気持ちを傷つけないために我慢して食べた。
木々がさらさらこすれあう奇妙な音や、小枝がポキポキいうような音で、周囲の静寂が、破られた。ハリーは、その音は、人というより動物が立てているのだろうと思ったが、杖をしっかりにぎって、いざというときに備えた。おなかの中は、にちゃにちゃしたキノコをたくさん食べすぎたせいで気持ちが悪かったが、不安できりきり痛んだ。もし敵がホークラックスをこっそり取りかえしに来たのなら、見つけて大得意に感じているだろうと思われた。けれど、なぜか、そうではなかった。杖の光をほんの小さくともしただけの暗闇を見つめて座っているあいだに感じたのは、ただ、次に何がおこるだろうかという不安だけだった。何週間、何ヶ月、それどころか何年ものあいだ、このときに向って自分がばく進してきたのに、いきなり止まって、道をはずれたような気がした。
外のどこかには、まだ他のホークラックスがある。けれど彼には、それらがどこにあるのかさっぱり見当がつかなかった。それらが、どんな姿をしているのかさえ知らなかった。一方で、見つけた、たった一つのホークラックスをどうやって破壊すればいいか分からず途方にくれている。それは、今、彼の胸の上に直に収まっていた。不思議なことに、それは、彼の体の熱を奪わず、皮膚の上にとても冷たいまま収まっていたので、冷たい水から出てきたばかりのように思われた。時々、ハリーは、自分の鼓動の横で、それとは、ずれた小さな心臓の鼓動が打つのを感じた。いや想像しただけかもしれないが。
暗闇に座っていると、何ともいえない虫の知らせが忍びよってきた。それに抵抗しようとしても、情けようしゃなくやってきた。「片方は生きのびるが、両方生きびることはできない」今、彼の後ろのテントの中で、そっと話をしているロンとハーマイオニーは望めば関わりあいになるのを避けることができる。だが彼はできなかった。恐れと極度の疲労を克服しようとして、そこに座っていると、胸の上のホークラックスが彼に残された時間を刻んでいるように、ハリーには思われた……「ばかな考えだ」と自分に言いきかせた。「そんなふうに考えるな……」
傷跡がまたちくちく痛みはじめた。こういう考えが浮かんだため、痛みはじめたのではないかと不安になったので、自分の考えを別の方向へ向けようとした。そこで、かわいそうなクリーチャーのことを考えた。ハリーたちが帰ってくると期待していたのに、代りにヤックスリーが来てしまった。屋敷しもべは黙っているだろうか、それともデス・イーターに知っていることをすべて話すだろうか? クリーチャーが、この一か月、彼に対する気持ちが変化し、忠実になったと信じたかった。けれど、何がおきるか分かったものじゃない。デス・イーターが屋敷しもべを拷問したらどうだ? むかつくような画像が、ハリーの頭の中に群がってきたので、それもまた押しだそうとした。クリーチャーのために彼ができることは何もないからだ。彼とハーマイオニーは、魔法省の人間がいっしょに来たら困るので、もうクリーチャーを呼びよせないことに決めていた。屋敷しもべの姿あらわしに、ヤックスリーがハーマイオニーの袖につかまってグリモールド・プレイスに来てしまったのと同じ弱点がないとは、言い切れなかった。
ハリーの傷跡は、今や焼けつくようにずきずき痛みはじめた。知らないことがとてもたくさんあると思った。彼らが、これまで遭遇したり、想像したこともない魔法に出あうと言った点で、ルーピンは正しかった。なぜダンブルドアは、もっと説明してくれなかったんだろう? 彼はまだ何年もの間、ひょっとしたら友人のニコラス・フラメルのように何世紀ものあいだ生きるつもりだから、まだ時間がある、と思っていたのだろうか? もし、そう思ったなら、彼は、まちがっていた……スネイプが注意していた……スネイプ、眠れる蛇、あいつが塔の上で襲いかかった……
そしてダンブルドアは落ちた……落ちた……「それを寄こせ、グレゴロビッチ」
ハリーの声は、高く澄んで冷たかった。長い指の白い手で杖を持って、前方を指していた。彼が杖を向けている男は、綱で縛られてもいないのに、逆さに宙づりにされていた。男は、手足を体に巻きつけて、綱が目に見えないのに不気味に縛られて、そこにゆれていた。ハリーの顔と同じ高さにある、おびえた顔は、頭にどっと下がった血で、赤みがかっていた。真っ白な髪と、たっぷりしたふさふさしたあごひげで、縛りあげられたサンタクロースのように見えた。
「私は持っていない、もう持っていない! それは、何年も前に盗まれた!」
「ヴォルデモート卿に嘘をつくな! グレゴロビッチよ。彼は知っているぞ……彼は、常に知っているぞ」
吊るされた男の瞳孔が拡大し、どんどん大きくふくらんで、その黒さがハリーを飲みこんでしまうように思われた、ー
それから、ハリーは、ずんぐりした小柄なグレゴロビッチが、手提げランプを掲げて進む後について、暗い廊下を急いでいた。グレゴロビッチは廊下の端の部屋に飛びこんだ。手提げランプに照らされたのは、仕事部屋のようだった。ランプのゆらめく光に、かんなくずや金が照らされて光っていた。窓の出棚に、金髪の若者が、巨大な鳥のようにひょいと腰掛けていた。ほんの一瞬、ランプの光が彼を照らした。ハリーは、その顔だちのいい顔に喜びの表情が浮かんでいるのを見た。それから、その侵入者は、気絶させる呪文を放って、喜びの笑い声をあげながら、窓から後ろ向きに飛びおりた。
そしてハリーはこの広いトンネルのような瞳孔から、さっと戻ってきた。グレゴロビッチの顔は恐怖に襲われていた。
「あの泥棒は誰だ、グレゴロビッチ?」と高く冷たい声が言った。
「知らない、若者が――会ったこともない――いや――どうか――お願いですから!」
叫び声が長く続き、それから緑の閃光が奔り……
「ハリー!」
彼は、あえぎながら目を開いた。額は、ずきずき痛んでいた。テントにもたれて意識を失い、キャンバス地に沿って滑って、腹ばいになって地面に倒れていた。ハーマイオニーを見あげると、そのもじゃもじゃの髪で、彼らの頭上高くの暗い枝々のすきまに見える小さな空の切れ端が隠れた。
「夢」彼は言って、すばやく座りなおり、ハーマイオニーがにらみつけるのに、無邪気な表情で向おうとした。「居眠りしちまったらしい、ごめん」
「傷跡のせいだって分かってるわよ! 顔見れば分かるわ! あなたは覗き込んでいたんでしょ、ヴォル――」
「彼の名前を言うな!」テントの奥から、ロンの怒った声が聞えてきた。
「いいわ」とハーマイオニーが言いかえした。「それじゃ、例のあの人のの心をね!」
「そうしようと思ったわけじゃなかったんだ!」ハリーが言った。「夢だったんだ! 夢に見るものを制御できるか、ハーマイオニー?」
「あなたが閉心術を使えるよう、きちんと学んでいれば――」
けれど、ハリーは、ひどく叱られるのに興味はなかった。それより、今見たものについて話しあいたかった。
「彼は、グレゴロビッチを見つけた、ハーマイオニー。それで殺したと思う、けど、殺す前にグレゴロビッチの心を読んだ、で僕が見たのは――」
「あなたが寝こんでしまうほど疲れているんなら、見はりを交代した方がいいと思うわ」とハーマイオニーが冷たく言った。
「決まった時間まで、見張りできるさ!」
「いいえ、あなた、疲れきっているようだわ。行って横になってちょうだい」
彼女は、断固とした様子で、テントの出入り口にうずくまった。
ハリーは、腹をたてながらも、けんかをするのは避けたいので、身をかがめてテントの中に入った。
まだ青白いロンの顔が、下の寝棚から突きだしていた。ハリーは、その上の寝棚によじのぼって、暗いキャンバス地の天井を見あげた。少したってから、入り口にうずくまっているハーマイオニーに聞えないような、とても低い声で、ロンが口を開いた。
「例のあの人、何してた?」
ハリーは、細かいところをすべて思いだそうとして、目を細めた。それから暗闇に向ってささやいた。
「彼はグレゴロビッチを見つけた。縛りあげて拷問した。
「グレゴロビッチは、縛られてたら、どうやって新しい杖を作れるんだ?」
「分かんない……変だよね?」
ハリーは目を閉じて、見て聞いたことすべてを考えた。考えれば考えるほど、意味が分からなくなってきた……ヴォルデモートは、ハリーの杖のことも、同じ芯のことも、グレゴロビッチに、ハリーの杖をうち負かす、もっと強力な新しい杖を作れということも、何も言わなかった……
「彼は、グレゴロビッチから何か欲しがっていた」まだ目をしっかり閉じたまま、ハリーが言った。「それを、寄こせと言った。けど、グレゴロビッチは、それは盗まれたと言った……それから……それから」
彼は、どんなふうに、ヴォルデモートとしての彼が、グレゴロビッチの目から、記憶の中に突進したような気がしたかを思いだした……
「彼はグレゴロビッチの心を読んだ。で、僕は、この若いやつが窓敷居のところに、ひょいと腰掛けているのを見た。それから彼は、グレゴロビッチに呪文を放って、飛びおりて見えなくなった。彼が、それを盗んだ。何にせよ例のあの人が追っている物を盗んだ。で、僕……僕、どこかで彼を見たことがある……」
ハリーは、笑っている若者の顔をもう一度見たいと願った。グレゴロビッチによれば、盗みは何年も前に起きたことだ。なぜ、あの若者の顔に見覚えがあるんだろう?
まわりの森の物音は、テントの中では弱まって聞こえた。ハリーに聞こえるのは、ロンの息づかいだけだった。少したって、ロンがささやいた。「泥棒が何を持っているか見えなかったか?」
「いいや……小さい物に違いない」
「ハリー?」
ロンの寝棚の木の薄板が、彼が寝床の中で身動きして位置を変えたときに、きしんだ。
「ハリー、例のあの人がホークラックスにする物を追っているとは思わないか?」
「分からない」とハリーは、ゆっくりと言った。「かもね。けど、もう一つ、作るのは危険じゃないか? ハーマイオニーが、彼の魂はもう限界まで来てるって言わなかったかい?」
「うん、けど彼はそのことを知らないかもしれない」
「うん……かもね」とハリーが言った。
彼は、ヴォルデモートが、同じ芯の問題をめぐる方法を探していると確信していた。年取った杖職人から、解決策を得たと確信していた……それなのに、杖職人を殺した。見たところ、杖に関する知識については一つも質問しなかった。
ヴォルデモートは、何を見つけようとしていたんだろう? 魔法省と魔法世界が、彼に服従しているのに、なぜ、遠く離れたところで、グレゴロビッチが昔持っていて、見知らぬ泥棒に盗まれた物の追跡に集中しているのだろうか?
ハリーは、まだ金髪の若者の顔を思いだすことができた。陽気で、手に負えない顔だった。計略を巧みにやってのけて意気揚々とした、フレッドとジョージのような雰囲気があった。彼は、窓敷居から鳥のように飛びあがった。ハリーは、彼の顔をどこかで見たことがあった。が、どこでなのか分からなかった……
グレゴロビッチの死で、今度、危険に瀕しているのは、その陽気な顔つきの泥棒だった。ハリーは、彼のことを考え続けていたが、下の寝棚から、ロンのいびきがゴーゴーと聞えはじめ、彼も、もう一度ゆっくりと眠りに落ちていった。
第15章 ゴブリンの報復
The Goblin's Revenge
翌朝早く、他の二人がまだ目覚めないうちに、ハリーはテントを出て、まわりの森の中で見つけられるかぎり最も古く、ふしこぶだらけだが、弾力があり回復が早そうな木を探した。その木陰に、マッド・アイ・ムーディの目を埋め、木の幹に、杖で小さな十字架を彫って、その場所の目印にした。たいしたことではなかったが、マッド・アイが、ドローレス・アンブリッジの扉に突っこまれているより、こちらを好むと、ハリーは感じた。それから、テントに戻って、二人が起きて、次にどうするか話しあうのを待った。
ハリーとハーマイオニーは、どこにせよあまり長くいすぎない方がいいと思い、ロンも、次は、ベーコン・サンドイッチが近くにある場所に移動することという条件つきで、同意した。そこで、ハーマイオニーは、その場所のまわりにかけた魔法を取り去り、ハリーとロンは、彼らがキャンプしたことが分かる印や痕跡を完全に消した。それから、市の立つ小さな町の郊外に、姿くらましした。
彼らが、小さな雑木林に隠れたところにテントを張り、まわりに新しく防御の魔法をかけてしまうと、ハリーは、食料を探しに、透明マントをかぶって、思いきって出ていった。けれど、それは計画どおりにいかなかった。。町へ、入るか入らないかのときに、不自然なうすら寒さを感じ、霧が下りてきて、急に空が暗くなったので、彼は、その場に立ったまま凍りついてしまった。
ハリーが、テントに、息をきらせて、手ぶらで戻り、口で「ディメンター」という一言を形づくったとき、「でも君は、すごいパトローナスを出せるじゃないか!」とロンが抗議した。
「僕は……出せなかった」彼は、痛む脇腹を押さえながら、あえいでいた。「来なかった……」
二人が、びっくり仰天しがっかりしているのを見ると、ハリーは恥ずかしく思った。ディメンターが遠くの霧の中から滑りだしてくるのを見て、体をしびれされるような寒さが肺を詰まらせ、遠くの叫び声が耳の中に響きわたるのを悟ったのに、自分を守ることができなかったのは、悪夢のような経験だった。その思いはハリーの意志の力をすべて奪い去ったので、目のないディメンターがマグルの間を滑るように動きまわらせたままにして、その場から追いたてられるように逃げだしてしまった。マグルには、ディメンターの姿は見えないかもしれないが、それが行くところに投げかける絶望は、確かに感じとっただろう。
「じゃ、まだ何も食べ物ないんだ」
「黙って、ロン」とハーマイオニーが、鋭い口調で言った。「ハリー、どうしたの? なぜパトローナスが出せないと思うの? 昨日は、完璧にできたのよ!」
「分からない」
彼は、前よりもっと恥ずかしく思いながら、パーキンスの古い肘掛け椅子の一つに沈みこむように座った。体の中で、どこかがおかしくなってしまったような不安を感じた。昨日が、ずっと昔のようだった。今日、彼は、また十三才に戻ってしまったのかもしれない。ホグワーツ急行で崩れるように倒れた、あの頃に。
ロンが、椅子の脚をけった。
「何だよ?」彼は、ハーマイオニーに怒鳴るように言った。「僕は、腹ぺこなんだ! 僕が半分死にそうなくらい血を流してから食べた物といったら、毒キノコ二つだぜ!」
「そんなら、君がディメンターと戦って、がんばって何とかすればいいだろ」とハリーが傷ついて言った。
「そうしたいよ、けど僕は腕を怪我してるんだ、気がつかなきゃ言うけど!」
「都合がいいね」
「それ、どういうつもりだ、ー?」
「もちろんだわ!」とハーマイオニーが叫んで、手で額をぴしゃりとたたいたので、二人はびっくりして黙った。「ハリー、ロケットをちょうだい! さあ」彼女は、いらいらしながら言って、ハリーが動こうとしないと、彼に向って指をカチッと言わせた。「ホークラックスよ、ハリー。あなた、まだ、それをかけてるわ!」
彼女が手をさしだしたので、ハリーは金の鎖を首からはずした。それが、ハリーの皮膚から離れた瞬間、自由になった感じと、奇妙に軽くなった感じがした。それまで冷たい汗でじっとり濡れていたのにも、胃に、ずっしり重いおもりが乗っているような気がしていたのにも、気づいていなかったが、その両方の感じが、なくなった。
「よくなった?」とハーマイオニーが尋ねた。
「うん、ずうっとよくなったよ!」
「ハリー」彼女は、彼の前にしゃがんで、重病人をお見舞いに行ったときを思わせるような声を使って言った。「あなた、取りつかれているような感じ、しない?」
「何? いや!」彼は、守りの体制に入ったように言った。「僕は、それを首にかけている間にしたことを全部覚えてる。もし取りつかれてたら、覚えていないはずだろ? ジニーが言ってたけど、何も覚えていないときが、たまに、あったって」
「ふーむ」とハーマイオニーが言いながら、重いロケットを見おろした。「そうね、きっと私たち、これ首にかけない方がいいわ。テントの中に置いておきましょう」
「ホークラックスを、そこらに置いとくわけにはいかないよ」ハリーが断固とした口調で言った。「もし、なくしたら、もし、盗まれたら――」
「ああ、分かった、分かった」とハーマイオニーが言って、自分の首にかけ、外からは見えないように押しこんでシャツの前に垂らした。「でも、誰も長く持ちすぎないように順番にかけましょう」
「よし」とロンが気短な口調で言った。で、それが片づいたから、食べる物、持ってきてくれない?」
「いいわ、でも、食べ物見つけるのに、どこか他のところに行くわよ」とハーマイオニーが、ハリーの方をほんの少しちらっと見て言った。「ディメンターが襲いかかると分かっている場所にいても、しかたないから」
結局、彼らは、その晩、人里離れた農家が所有する遠くの牧草地に落ちつき、その農家で、なんとかパンと卵を手に入れた。
「これ盗みじゃないわよね?」とハーマイオニーが心配そうに言った。彼らは、トーストにスクランブルエッグをのせて、がつがつ食べていた。「ニワトリ小屋の下に、お金、置いといたから?」
ロンが、目をくるっと回して、ほっぺたをふくらませて言った。「アー、ー、マイ、ー、ニー、あんまい、いんぱい、ううあ。いあっくす!(ハーマイオニー、あんまり心配するな。リラックス)」
実際のところ、気持ちよくたっぷり食べると、リラックスするのが、はるかに簡単だった。その夜、ディメンターについての言い争いは、笑いのうちに忘れられ、ハリーは、ほがらかに、希望にあふれているようにさえ感じながら、三人のうちで最初の見張りについた。
これは、彼らが、満腹だと機嫌がよく、空腹だとささいなことで言いあらそって気がめいる、という事実を知った最初の機会だった。ハリーは、これに少しも驚かなかった。なぜなら彼は、長いあいだ、ダーズリー家で餓死寸前で耐えてきたからだ。ハーマイオニーは、野イチゴか、古くなったビスケットより他に食べあさる物がなくて何とか切りぬけた晩が数回あったが、かなりよく耐えた。いつもより少し気が短くなり、黙っていると気むずかしくなったくらいだった。けれど、ロンは、母かホグワーツの屋敷しもべのおかげで、いつも一日三度のおいしい食事に慣れていたので、空腹になると理性を失い、かんしゃく持ちになった。食べ物がないときがいつも、ロンがホークラックスをかける番に一致して、彼は徹底的に不愉快なやつになった。
「で、次はどこだ?」と彼は、繰り返して言いつづけた。自分ではどこも思いつかないようで、ハリーとハーマイオニーが計画を考えだすことを期待し、そのあいだ、座って貧しい食糧事情のことを考えこんでいた。それに応じて、ハリーとハーマイオニーは、どこで他のホークラックスを見つけられるか、どうやって持っているホークラックスを破壊するかを決めようと話しあったが、新しい情報がないので、会話は次第にくりかえしになっていき、何時間も成果のあがらない無駄な時間が過ぎた。
ダンブルドアが、ハリーに、ヴォルデモートはホークラックスを彼にとって重要な場所に隠したと信じていると言ったので、彼らは、ヴォルデモートが住むか、訪れたことのあると知っている場所を、一種の退屈な決まり文句のように復唱しつづけた。彼が、生まれ育った孤児院、教育を受けたホグワーツ、卒業して勤めたボーギン・アンド・バークス店、それから追放され亡命生活を送ったアルバニア。それらを土台として、彼らは考えていった。
「うん、アルバニアへ行こうよ。国中探すのに、午後いっぱい、かからないだろうよ」とロンが、皮肉っぽく言った。
「あそこには何もあるはずないわ。彼は亡命する前に、もう五個のホークラックスを作っていたし、ダンブルドアが、六個目は蛇だと確信していたから」とハーマイオニーが言った。「私たち、蛇がアルバニアにいないのは知ってるわ。いつもヴォル――」
「そう言うのをやめてって頼まなかったか?」
「いいわ! 蛇は、いつも『例のあの人』といっしょにいる……ご満足?」
「別に」
「彼が、ボーギン・アンド・バークス店に隠しているとは思わないよ」とハリーが言った。今までに何度も主張してきたことだが、気まずい沈黙を破るためだけに、また言った。「ボーギンとバークスは、闇の品物の専門家だ。すぐにホークラックスが何だか分かっただろう」
ロンは、目立つあくびをした。彼に、何かぶつけてやりたいという強い衝動を抑えて、ハリーは、がんばって地道に話を進めた。「僕はまだ、彼がホグワーツに何か隠したかもしれないと思っている」
ハーマイオニーがため息をついた。
「でも、それならダンブルドアが見つけたはずでしょ、ハリー?」
ハリーは、この仮説を支持するために持ちだしつづけている主張をくりかえした。
「ダンブルドアは、ホグワーツの秘密を全部知っているわけではないと、僕の前で言った。言っとくけど、もし、ヴォル――」
「おい!」
「それじゃ、『例のあの人』!」ハリーが、苛々を我慢できずに叫んだ。「もし、『例のあの人』にとって、本当に大切な場所が一つあったとしたら、それはホグワーツだ!」
「いい加減にしろ!」とロンが嘲った。「学校?」
「ああ、学校だ! そこは、彼の初めての家庭だった、彼が特別な存在でいられる場所だった、そこは彼にとってすべてだった、卒業した後でも――」
「僕たちが話してるの、『例のあの人』だよ、いいか? 君のことじゃないだろ?」とロンが聞いた。彼は、首のまわりのホークラックスの鎖を引っぱっていた。その鎖をつかんで、彼の首を絞めたいという欲望が、ハリーに浮かんだ。
「あなたは『例のあの人』が、卒業後、ダンブルドアに先生の職を得たいと頼んだ、と言ったわ」とハーマイオニーが言った。
「そのとおり」とハリーが言った。
「で、彼は、ホークラックスにするために何か、多分、他の創立者の品物を見つけようとするために戻ってきただけだと、ダンブルドアは考えたんでしょ?」
「うん」とハリーが言った。
「でも、彼は、先生の職につけなかったんでしょ?」とハーマイオニーが言った。「だから、彼は、あそこで創立者の品物を見つけて、それを学校に隠す機会はなかったのよ!」
「ああ、それなら」とハリーが言い負かされて、言った。「ホグワーツは忘れてくれ」
他に手がかりがないまま、彼らはロンドンに戻ってきて、透明マントに隠れて、ヴォルデモートが育った孤児院を探した。ハーマイオニーが図書館に忍びこみ、その記録から、そこは何年も前に取り壊されたことを発見した。彼らは、その土地を訪れ、オフィス用高層ビルが建っているのを見つけた。
「土台を掘ってみるとか?」ハーマイオニーが、気乗り薄のようすで提案した。
「彼は、ここにホークラックスを隠さなかっただろう」ハリーが言った。彼は最初から分かっていた。孤児院はヴォルデモートがぜったいに脱出しようと決心した場所だった。彼は決して魂の一部をそこには隠さなかっただろう。ヴォルデモートは隠し場所に重々しさか神秘性を求めたと、ダンブルドアがハリーに教えてくれた。ロンドンの陰気でうす暗い一角は、ホグワーツや、魔法省や、金色の扉と大理石の床の魔法銀行、グリンゴッツから想像できるのと、はるかにかけ離れていた。
新しい思いつきがなくても、彼らは田舎を移動しつづけ、安全のため、毎晩違った場所にテントを張った。毎朝、彼らがいたという手がかりをすべて取りのぞいたことを確かめ、それからまた孤立した人里離れた場所を見つけに出発し、姿あらわしで、森の中、崖の陰になった裂け目、スコットランドの紫の荒れ野ムーア、ハリエニシダにおおわれた山の斜面、また一度は風の当たらない小石だらけの洞穴へと旅をした。パス・ザ・パーセル(注:ロシアン・ルーレット風のプレゼント交換ゲーム)をスローモーションでプレイしているように、だいたい十二時間ごとに、彼らはホークラックスを順に渡した。そのゲームでは、彼らは音楽が止まるのを恐れていた。なぜなら荷物を受け取った報酬は、十二時間のあいだ、恐れと心配が増すことだったからだ。
ハリーの傷跡は、時々ちくちく痛んでいた。それが、ホークラックスをかけているとき、最もよくあるのに、ハリーは気づいた。時々、彼は、痛さに反応してしまうのを押さえられなかった。
ハリーがたじろぐのに気づくといつも「何? 何を見た?」とロンが詰問した。
「顔」とハリーが、いつも小声でつぶやいた。「同じ顔。グレゴロビッチから杖を盗んだ泥棒」
するとロンは、まったく失望を隠そうと努力しないで顔を背けた。ハリーは、ロンが家族か、残りのフェニックス騎士団のニュースを聞きたいと思っているのが分かっていた。でも結局のところ、彼、ハリーはテレビのアンテナではないのだ。彼に見えるのは、ヴォルデモートが、そのとき考えているものだけで、好きなようにチャンネルを合わせて見たいものを見ることはできないのた。明らかにヴォルデモートは、陽気な顔の若者のことを絶え間なく考えているに違いないと、ハリーは思った。その若者の名前や所在について、ヴォルデモートも彼と同じように知らないようだった。ハリーは、傷跡が焼けつくように痛みつづけ、陽気な金髪の若者が、じらすように記憶の中にすっと浮かぶときに、苦痛や不快さの徴候を我慢することを身につけた。他の二人は、泥棒のことを言うと、いらだちしか示さなかったからだ。彼らは、必死になってホークラックスの手がかりを求めているときなのだから、二人の態度を完全に責めることはできなかった。
数日間だったのが、数週間に伸びると、ハリーは、ロンとハーマイオニーが、彼のいないところで彼について話しているのではないかと疑うようになった。彼がテントに入っていくと、二人がいきなり話をやめることが、数度あった。また、二人が少し離れたところに一緒にいて頭をよせて早口で話しているところに、偶然行き会わせたことが、二度あった。二度とも、彼が近づいていくのに気がつくと、二人とも黙りこんで、急いで、たきぎ集めや水くみに忙しいように見せかけた。
ハリーは、今のような未来がなく、とりとめがないように感じられる旅に、彼らが同行するつもりだったのかどうか疑問に思わずにはいられなかった。彼が、ある秘密の計画を持っていて、追々それを教えてもらえると思っていたかもしれない。ロンは、自分の不機嫌を全く隠そうとしなかったし、ハリーは、ハーマイオニーも、彼の指導力のなさに幻滅しはじめているのではないかと不安になりはじめた。死にものぐるいで、ホークラックスのありかを、もっと考えようとした。けれど、ずっと頭に浮かんでいる場所は、ホグワーツなのに、他の二人のどちらも全くそう思っていなさそうなので、そこへ行こうと言うのはやめた。
田舎を移動している間に、秋がずっと過ぎていった。彼らは、落ち葉が地面をおおった上にテントを張った。自然の霧が、ディメンターが投げかける霧に加わった。風と雨で、旅がいっそう困難になった。ハーマイオニーが、食用キノコを見つけるのがうまくなったといっても、引きつづく孤立感、他の人に会わないことや、外でヴォルデモートに対する戦いが、どうなっているのか全く分からないことの埋めあわせにはならなかった。
「僕の母は」と、ある晩、ウェールズの川岸のテントの中で、ロンが言った。「何もないところから、おいしい食べ物を作れるんだ」
彼は、皿の上の焦げた灰色の魚の固まりを、むっとしてつついていた。ハリーが、無意識にロンの首をちらっと見ると、予想通り、そこにホークラックスの金の鎖が光っていた。彼は、ロンに罵り言葉を浴びせたい衝動を、かろうじてぐっとこらえた。ロケットを外す時になれば、彼の態度も、ほんのわずか改善するのが分かっていたからだ。
「お母さんは、何もないところから食べ物を生みだすことはできないわ」とハーマイオニーが言った。「誰だってできない。食べ物は、ガンプの基本的変身法則における五つの主要な例外の第一の――」
「ああ、英語しゃべってくれないか?」ロンが、歯のあいだから魚の骨を押しだしながら言った。
「何もないところから、おいしい食べ物を作るのは不可能なの! 食べ物がどこにあるか知ってれば、呼びよせることはできる、変形することもできる、量を増やすこともできる、もし、いくらかでもあれば――」
「――あのね、わざわざ、これ増やさなくていいからね。これ、むかつく」とロンが言った。
「ハリーが魚を釣って、私は、できるだけのことはしたわ! 私、気がついたんだけど、私がいつも食べ物を料理して片づける役なのよね。私が女だから、でしょ!」
「違う。君がいちばん魔法がうまいからだよ!」とロンが、どなりかえした。
ハーマイオニーが飛びあがったので、焼いた川カマスがブリキの皿から床に滑りおちた。
「あなたが、明日は料理するのよ、ロン。あなたが、材料を探して、魔法かけて何か食べられる物にするのよ。私は、ここに座って、ふくれっ面をして文句を言うわ。そしたら、あなた分かるでしょうよ、どんなにあなたが――」
「黙って!」とハリーが言って、さっと立ちあがり両手をあげた。「黙って、すぐに!」
ハーマイオニーは憤慨したようだった。
「よくも彼の味方ができるわね、彼は、ほとんど料理なんてしたことが、ー」
「ハーマイオニー、静かにして、誰かの声が聞こえる!」
彼は、両手をあげて、二人にしゃべらないよう警告したまま、一生懸命聞き耳をたてた。すると、テントの横の暗い川が勢いよく流れる音の上に、また声が聞こえた。彼は、ふりむいて侵入探知鏡を見たが、動いていなかった。
「君、話し声を聞えなくするムフリアトの呪文をかけたよね?」彼は、ハーマイオニーにささやいた。
「全部やったわ」彼女が、ささやきかえした。「ムフリアト、マグル避け、幻惑の呪文、全部よ。外にいるのが誰だろうと、私たちの声が聞こえたり、テントが見えたりすることはないはずよ」
重くひきずり、こする音に、石や枝を下ろす音が加わり、数人の人たちが、木々におおわれた険しい坂をはうように下りてくるのが、彼らに分かった。その坂を下りると、テントが張ってある狭い土手だ。彼らは、杖を出して待っていた。まわりに張りめぐらした魔法は、ほとんど真っ暗闇の中では、マグルや普通の魔女や魔法使いに気づかれないよう守るのに、十分効果があるはずだった。もし、近づいてくるのが、デス・イーターなら、そのときは、彼らの防御が闇魔術に対して有効か、初めて試されることになる。
一団の男たちが土手に近づいてきたとき、声は大きくなってきたが、何を言っているのか分からなかった。ハリーは、声の主たちが六メートルも離れていないところにいるだろうと思ったが、滝のように流れる川の音で確かなところは分からなかった。
ハーマイオニーはビーズのバッグをさっと取って中を引っかき回しはじめた。少しして、のびる耳を三つ引きだして、ハリーとロンに一つずつ投げた。彼らは急いで肉色の糸の端を耳に突っこみ、もう一方の端をテントの入り口から外に出した。
数秒以内に、ハリーに、疲れた男の声が聞こえた。
「ここには鮭がいるはずだが、季節が早すぎるかな? アクシオ、鮭!」
水の跳ねる音が数回はっきり聞え、それから、魚が皮膚に当たってぴしゃぴしゃ跳ねる音がした。何者かが、感謝するようにぶつぶつつぶやいた。ハリーは、のびる耳を、自分の耳のもっと奥に押しこんだ。川のせせらぎを越えて、他の声も聞き分けられたが、彼らは英語をしゃべっていないか、または、彼が聞いたことのない言語を使っていた。それは、荒っぽくて、流れるような美しさはなく、ガラガラいう、耳ざわりな喉声のつながりだった。その言葉をしゃべる者が二人いるらしく、その片方は、もう片方より少し低く、ゆっくりしゃべった。
キャンバス地の外側で、たき火が燃えあがった。テント地と骨組みのあいだを大きな影が通りすぎた。鮭を焼くおいしそうな匂いが、彼らの方に、じらすように漂ってきた。それから皿の上でナイフやフォークがカチャカチャいう音がして、最初の男が、またしゃべった。
「さあ、グリプフック、ゴルナク」
「ゴブリン!」ハーマイオニーが、ハリーに声を出さずに口を動かして教えた。彼は頷いた。
「ありがとう」ゴブリンがそろって英語で言った。
「じゃあ、あなたたち三人は逃亡中なのか、どのくらい前から?」と新しい、柔らかく心地よい声がした。ハリーに、ぼんやりと聞き覚えがある声だった。彼は、太鼓腹で、快活な顔の男を思い描いた。
「六週間……七……忘れた」と疲れた男が言った。「最初の数日間に、グリプフックに出くわした。ほどなくゴルナクと協力することにした。仲間がいた方がいいからな」沈黙があった。その間、ナイフが皿をこすり、ブリキのカップが持ちあがり、また地面に置かれた。「なぜ、家を出ることになったんだ、テッド?」と男が続けた。
「やつらが、私のところに来るのが分かったからさ」と柔らかい声のテッドが答えた。ハリーは突然、それが誰か分かった。トンクスのお父さんだ。「デス・イーターが先週、あの地域に来たと聞いたので、私は、逃げた方がいいと思ったのさ。マグル出身者として登録するつもりはなかったから。だから時間の問題だと思っていたし、結局は逃げなくてはならんと分かっていたんだ。妻は、大丈夫のはずだ、彼女は純血だからな。それから、ここでディーンに会った、ええと、数日前だな、君?」
「うん」と別の声がした。ハリーとロンとハーマイオニーは、黙って、しかし興奮にわれを忘れて顔を見あわせた。確かにグリフィンドールの同級生、ディーン・トーマスの声だと分かったのだ。
「マグル出身なのか?」と最初の男が尋ねた。
「確かじゃないけどね」とディーンが言った。「僕が小さい頃、父さんは母さんを捨てたから。けれど、彼が魔法使いだという証拠がないんだ」
しばらくの間、食べる音しか聞えなかった。それからテッドがまた口を開いた。
「ダーク、これだけは言いたいけど、君とあった時はほんとに驚いたよ。もちろん嬉しかったけど、それ以上に驚いた。捕まったって聞いたけど
「捕まった」とダークが言った。「アズカバンへ行く途中、逃げだしたんだ。ドーリッシュを気絶させて、杖を盗んだ。君が思うより簡単だった。そのとき、彼は、あまり調子がよくなかった。混乱の呪文をかけられていたのかもしれん。もし、そうなら、それをやった魔女か魔法使いと握手したいよ。おそらく私の命を救ってくれたことになるからね」
また沈黙があった。火がパチパチ燃え、川が勢いよく流れていた。それからテッドが言った。「で、君たち二人は、どこに行こうとしているのかい? 私は、そのう、ゴブリンは、概して『例のあの人』を支持するという印象を持っていたのだが」
「誤解している」と高い方の声のゴブリンが言った。「俺たちは、どちら側でもない。これは魔法使い同士の戦争だ」
「それでは、なぜ隠れようとしているのかね?」
「用心して、隠れた方がいいと思ったのだ」と低い方の声のゴブリンが言った。「俺が無礼な要求だとみなしたことを拒絶したので、俺の命が危ないと思ったのだ」
「何を要求されたのかね?」とテッドが尋ねた。
「我が種族の尊厳にふさわしからぬ義務」とゴブリンが答えた。そう言った時、その声は、前より荒っぽくなり、人間らしさが少なくなった。「俺は、屋敷しもべではない」
「君はどうだ、グリプフック?」
「似たような理由だ」と高い方の声のゴブリンが言った。「グリンゴッツは、もはや、我が種族だけが管理しているわけではない。俺は魔法使いの主人は認めない」
彼は、ゴブリン語で小声で何かつけ加え、ゴルナクが笑った。
「どんなジョーク?」とディーンが尋ねた。
「彼が言ったのは、」とダークが答えた。「同様に、魔法使いが認めないことだってある、ということだ」
短い沈黙があった。
「意味が分からない」とディーンが言った。
「俺は出てくる前に、小さな仕返しをしてきた」とグリプフックが英語で言った。
「君はいい人だ――ゴブリン、と言うべきだな」とテッドが急いで言いなおした。「古い厳重警備の地下金庫に、デス・イーターを閉じこめたんじゃないだろうね?」
「もし、そうなら、剣は脱出の役にたたんだろうよ」とグリプフックが答えた。ゴルナクが、また笑い、ダークさえも声を出さず、くっくっと笑った。
「ディーンと私は、ここでも、まだ何か聞き逃しているな」とテッドが言った。
「セブルス・スネイプもそうだ、彼は知らないが」とグリプフックが言い、二人のゴブリンは意地悪そうに大笑いした。
テントの中で、ハリーは興奮して呼吸が浅くなっていた。彼とハーマイオニーは顔を見あわせ、できるだけ集中して聞き入った。
「君は、聞いたことないかい、テッド?」とダークが尋ねた。「ホグワーツのスネイプの部屋からグリフィンドールの剣を盗もうとした子供たちのことを?」
ハリーが根が生えたようにその場に突っ立っている間に、電流が、体を突きぬけ、すべての神経に触ったようだった。
「一言も聞いたことがない」とテッドが言った。「日刊予言者新聞には、載らなかっただろう?」
「ほとんどね」とダークが満足げに笑った。「ここにいるグリプフックが話してくれた。彼は銀行にいるビル・ウィーズリーから聞いた。剣を盗もうとした子供の一人は、ビルの妹だそうだ」
ハリーは、ハーマイオニーとロンの方をちらっと見た。二人とも、伸び耳を命綱のように固く握りしめていた。
「彼女と友だち数人が、スネイプの部屋に入りこみ、彼が剣を保管しておいたらしいガラスケースのガラスを粉々にして開けた。こっそり持ちだして階段を下りようとしたところを、スネイプが捕まえた」
「ああ、こりゃ驚いた」とテッドが言った。「彼らは、その剣で例のあの人を倒せるとでも考えたんだろうか? それともスネイプを?」
「うーむ、彼らが、それで何をしようと思ったにせよ、スネイプは、剣がそこにあっては安全ではないと思ったのだ」とダークが言った。「数日後、思うに、例のあの人から了解を得たのだろうが、部屋に置く代りに、ロンドンに送ってグリンゴッツに保管させたのだ」
ゴブリンたちは、また笑いはじめた。
「私は、まだそのジョークが分からんのだが」とテッドが言った。
「それは偽物なんだ」とグリプフックが耳ざわりなザラザラ声で言った。
「グリフィンドールの剣が!」
「ああ、そうだ。そいつは模造品だ――すばらしい模造品だ――だが、そいつは魔法使いがつくったものだ。本物は、何世紀も昔、ゴブリンが鍛えたものだ。だから、ゴブリン製の武器だけが持つ特質が備わっている。本物のグリフィンドールの剣がどこにあろうと、グリンゴッツ銀行の地下金庫ではない」
「なるほど」とテッドが言った。「それで、君たちは、それをわざわざデス・イーターに知らせようとはせんのだな?」
「こんなつまらんことで悩んでもらっても悪いからな」とグリプフックが、一人で満足しているように言った。そこで、今度は、テッドとディーンもゴルナクとダークといっしょに笑った。
テントの中で、ハリーは目を閉じた。どうしても知りたい質問を、誰かにしたかった。一分が十分にも感じられた後、ありがたいことにディーンが、彼が聞きたい質問をしてくれた。ディーンは(ハリーが動揺したことに)ジニーの元の彼氏でもあった。
「ジニーと他の子はどうなったんだい? それを盗もうとした連中は?」
「ああ、彼らは罰せられた、ひどくね」とグリプフックが関心なさそうに言った。
「だが、彼らは大丈夫なんだろ?」とテッドが、すばやく尋ねた。「つまり、ウィーズリー家の子供たちはもう十分酷い目にあってるだろ?」
「俺が知るかぎり、子供たちは重傷を負ってはいない」とグリプフックが言った。
「彼らは運がよかった」とテッドが言った。「スネイプの経歴からすると、彼らが生きていたというだけで喜ばなくてはならんようだからな」
「君は、例の話を信じているのか、テッド?」とダークが尋ねた。「スネイプがダンブルドアを殺したと信じているのか?」
「もちろんだよ」とテッドが言った。「君は、そこに座ってポッターがそれに関係があると思っていると言うんじゃないだろうな?」
「最近は、何を信じたらいいか知るのが難しい」とダークが小声でぶつぶつと言った。
「僕は、ハリー・ポッターを知ってる」とディーンが言った。「彼は本物だと思う……選ばれし者……とか好きに呼んでくれて構わないけど」
「ああ、彼が、そうだと信じようとする連中は大勢いるよ、君」とダークが言った。「私もその一人だ。だが彼はどこにいる? まわりの状況を見て、さっさと逃げだした。もし彼が、何か、我々の知らないことを知っているか、彼が、何か特別な者に選ばれているのなら、隠れていないで、今、抵抗勢力を集めて、戦いに出てくるはずだ。それに知ってのとおり、日刊予言者新聞が彼に反対するかなりしっかりした主張をした――」
「日刊予言者新聞?」とテッドが、あざ笑うように言った。「君が、まだあのクソ新聞を読んでいるのなら、騙されていてもしかたがない、ダーク。事実を知りたければ、クィブラー紙を読んでみろ」
急に、喉をつまらせ、ゲーゲー言いながら、トントン叩く音がした。音から察して、ダークが魚の骨を飲みこんだらしい。やっとのことで、彼は興奮して早口でしゃべり立てた。「クィブラー紙? あのゼノ・ラブグッドのいかれた紙クズか?」
「最近は、そういかれてもおらんよ」とテッドが言った。「君は、あれを見なくちゃいかん。ゼノは、日刊予言者新聞が無視することをみんな載せている。最新版にはしわしわ角のスノーカックのことなんか一言も書かれておらんぞ。まあ、いつまで罰せられずにやれるのかは注意しろ。私には分からん。だが、ゼノは毎号の扉で、『例のあの人』に反対する魔法使いはすべて、ハリー・ポッターを助けることを最優先事項にしなくてはならないと言っている」
「地表から消えてしまった若者を助けるのは難しいな」とダークが言った。
「ねえ、彼がまだ捕まっていないという事実が、確かな一つの成果た」とテッドが言った。「私は、喜んで彼から情報をもらうよ。彼を自由な身にしておくのが、我々が、やろうとしていることじゃないか?」
「ああ、うーむ、それは一理あるな」とダークが重々しく言った。「全魔法省と、密告者すべてが彼を捜していることからして、今頃までには、彼が捕まるだろうと予想していた。聞けよ、もう彼を捕らえて殺したが、公表していないと、誰が言える?」
「ああ、それを言うな、ダーク」とテッドが呟くように言った。
長い間、ナイフとフォークを使う音しか聞えてこなかった。彼らが、また話しだしたときは、土手で寝るか、木々に覆われた坂まで戻るか協議していた。木々があった方が、なおさら、隠れるのに都合がよいと決めて、彼らは火を消し、斜面をよじ登っていくにつれ、声が聞えなくなっていった。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、伸び耳をたぐり寄せた。ハリーは盗聴している時間が長くなるほど、黙っていなくてはいけないのが、どんどん耐えられなくなっていたのに、いざ、しゃべってもいいとなると、「ジニー……剣……」としか言えなかった。
「分かってるわ!」とハーマイオニーが言った。
彼女は小さなビーズのバッグところに突進して、今度は、腕をバッグの中に入れ、脇の下まで深く突っこんで、「さあ……あったわ……」と、歯をくいしばりながら言った。そして、バッグの底にあるらしい何かを引っぱりあげると、ゆっくりと、飾りたてた額縁の端が見えてきた。ハリーが急いで手伝いに行った。二人が、フィニアス・ナイジェルスの空っぽの肖像画を、ハーマイオニーのバッグから持ちあげると、彼女は、それに杖を向けて、いつでも呪文を放てるようにした。
「もし、剣がダンブルドアの部屋にあるあいだに、誰かが本物を偽物と取り替えたとしたら、」彼らがその画をテントの側面に立てかけると、彼女は、息をきらせていった。「フィニアス・ナイジェルスが見ていたはずよ。彼の画はガラスケースのすぐそばに掛かっているもの!」
「彼が寝ていなかったらね」とハリーが、まだ息を殺して見ながら言った。ハーマイオニーは空っぽの画布の前にひざまずき、杖を、その真ん中に当てて、咳払いをして、言った。「あのう……フィニアス? フィニアス・ナイジェルス?」
何も起きなかった。
「フィニアス・ナイジェルス?」とハーマイオニーが、また言った。「ブラック先生? お話があるのですが、 どうか」
「『どうか』は、いつでも有益だ」と冷たい皮肉な声がして、フィニアス・ナイジェルスが自分の肖像画の中に、すーっと滑りこんできた。すぐにハーマイオニーが叫んだ。「オブスキュオ<不鮮明にせよ>!」
黒い目隠しがフィニアス・ナイジェルスの賢そうな黒っぽい目の上にあらわれたので、彼は額縁にぶつかり、痛くて悲鳴をあげた。
「何……よくも……何のために?」
「大変、申し訳ありません、ブラック先生」とハーマイオニーが言った。「でも、これは必要な予防策なんです!」
「この汚らわしい物をすぐに取り去れ! すぐに取り去れ!、と言っただろう! 君は偉大な美術品を台なしにしておる! 私は、どこにいるのだ? どうなっている?」
「僕たちが、どこにいるかは気にしないように」とハリーが言ったので、フィニアス・ナイジェルスは凍りついて、描かれた目隠しを、はがそうとするのをあきらめた。
「ひょっとしたら、逃げるのがうまいポッター君の声かね?」
「おそらく」とハリーが、フィニアス・ナイジェルスの興味を引くと思って言った。「あなたに質問がいくつかある……グリフィンドールの剣について」
「ああ」とフィニアス・ナイジェルスが言って、ハリーの姿を何とかして見ようと、頭をあちこちに向けた。「そうだ。あのばかな娘は非常に無分別な行動をした――」
「妹のことをつべこべ言うな!」とロンが荒々しく言った。フィニアス・ナイジェルスは、さげすむように眉をあげた。
「他に誰がいるのか?」彼が尋ねながら、頭を端から端へと動かした。「君の口調は不愉快だ! あの娘と友人たちは、向こうみずの極みだ。校長先生から盗みを働こうとするなど!」
「盗みじゃない」とハリーが言った。「あの剣は、スネイプのものじゃない」
「スネイプ先生の学校が所有する物だ」とフィニアス・ナイジェルスが言った。「いったいウィーズリー家の娘が、あの剣にどんな権利を主張できるというのかね? 罰を受けて当然だ。まぬけなロングボトムと変人ラブグッドも同様だ!」
「ネビルは間抜けじゃないし、ルナは変人じゃないわ!」とハーマイオニーが言った。
「私は、どこにいるのだ?」とフィニアス・ナイジェルスが繰り返して、また目隠しを外そうと、もがきはじめた。「私を、どこに連れてきたのだ? なぜ私を先祖の家から取りはずしたのか?」
「そんなことはどうでもいい! スネイプは、ジニー、ネビル、ルナにどんな罰を与えたんだ?」とハリーが切迫した調子で尋ねた。
「スネイプ先生は、彼らを禁じられた森へやって、うすのろハグリッドの仕事を手伝わせた」
「ハグリッドは、うすのろじゃないわ!」とハーマイオニーが、かん高い声で叫んだ。
「で、スネイプは、それを罰だと思ったんだ」とハリーが言った。「で、ジニー、ネビル、ルナは、きっとハグリッドと楽しんできただろう。禁じられた森……彼らは、禁じられた森より、ずっと悪いことに出あってきたよ、こりゃ、たいしたもんだ!」
彼は、ほっとした。少なくとも拷問の呪文のような、おぞましいことを想像していたのだ。
「私たちが、ほんとうに知りたいのは、ブラック先生、いったい他の誰かが、そのう、あの剣を取ったかどうかってことなんです。もしかして、汚れを落とすために取っていったとか――何かで?」
フィニアス・ナイジェルスは、また目隠しを取ろうともがくのをやめて、忍び笑いをした。
「マグル出身者よ」彼は言った。「ゴブリン製の武器は、汚れを落とす必要がないのだ、無知な娘よ。ゴブリンの銀は、日常の汚れは寄せつけない。それ自身を強めるものしか吸収しないのだ」
「ハーマイオニーを無知と呼ぶな」とハリーが言った。
「反論されるのには、うんざりしてきた」とフィニアス・ナイジェルスが言った。「そろそろ校長室に戻る時間なのだが?」
まだ目隠しのまま、彼は額縁の横を手探りして、この画から出て、ホグワーツの画の中に戻る道を探そうとしていた。ハリーは、突然思いついた。
「ダンブルドア! ここへダンブルドアを連れてきてくれないか?」
「何だって?」とフィニアス・ナイジェルスが尋ねた。
「ダンブルドア先生の肖像画――彼を、この画の中に連れてきてくれませんか?」
フィニアス・ナイジェルスは、ハリーの声のする方に顔を向けた。
「間違いなく、物を知らんのはマグル出身者だけではないな、ポッター。ホグワーツの肖像画は、連絡を取りあうことができるかもしれん。だが、自分の肖像画が掛かっているところならどこにでも行くことができるが、それ以外は、城の外へ出ることはできぬのだ。ダンブルドアは私といっしょに、ここに来ることはできぬ。それに、君たちから受けた扱いのせいで、私は二度と来ないと請けあうよ!」
ハリーは少しがっかりしながら、フィニアスが額縁から出ようと何度もやってみるのを見つめていた。
「ブラック先生」とハーマイオニーが言った。「最近、剣がガラスケースから取りだされたのはいつか、どうか、教えていただけませんか? ジニーが取る前に、ってことですけど?」
フィニアスは、いらいらしながら鼻をならした。
「最近グリフィンドールの剣がガラスケースから取りだされるのを見たのは、ダンブルドア先生が、指輪を開けて壊すのに使ったときだよ」
ハーマイオニーが、ハリーの方を、さっとふりむいた。どちらも、フィニアスの前では、あえて何も言わなかった。彼は、やっとのことで出口を探しあてた。
「では、おやすみ」彼は、少し怒ったように言って、また画から見えないところに行きはじめた。その帽子の縁だけしか見えなくなったとき、ハリーが急に叫んだ。
「待って! それを見たのを、スネイプに言った?」
フィニアス・ナイジェルスは、目隠しをした頭を、また画の中に突っこんだ。
「スネイプ先生は、アルバス・ダンブルドアのたくさんの風変わりな行いよりも、もっと重要なことが心にかかっている。さらば、ポッター!」
彼はこう言って、完全に姿を消した。後には暗い背景の他、何も残っていなかった。
「ハリー!」ハーマイオニーが叫んだ。
「分かってる!」ハリーが叫んだ。自分を押さえられずに、空中にパンチをくらわせていた。彼が、大胆に望む以上のことが分かったのだ。彼は、一キロ以上も走れるように感じながら、テントの中を大またで行ったり来たりした。もう空腹も感じなかった。ハーマイオニーは、フィニアス・ナイジェルスの肖像画をビーズのバッグに押しこんでいたが、バッグの留め金を締めると横に投げだし、喜びに輝いた顔をハリーに向けた。
「あの剣が、ホークラックスを破壊できるのよ! ゴブリン製の刃は、それ自身を強める物しか吸収しない――ハリー、あの剣には、バジリスクの毒が染み込んでいるわ!」
「なのに、ダンブルドアは、それを僕にくれなかった。彼が、まだ必要だったからだ。彼は、ロケットに使いたかったんだ――」
「――そして、彼は、もし遺書に書いておいても、あなたの手には渡らないと悟ったに違いないわ――」
「――だから、模造品を作った――」
「――そして、ガラスケースに偽物を入れた――」
「――で、本物を持ち去った――どこに?」
彼らは、見つめあった。答えが彼らのあいだの空気中に、近くに、からかうように見えないまま、ぶらさがっているような気がした。なぜダンブルドアは、話してくれなかったんだろう? それとも実際は、彼は言ったのだが、当時は、ハリーがそれを悟らなかったのだろうか?
「考えて!」とハーマイオニーがささやいた。「考えて! 彼は、どこに置いといたのかしら?」
「ホグワーツじゃないな」と、ハリーが、また歩きはじめながら言った。
「ホグズミードのどこか?」とハーマイオニーが言ってみた。
「叫ぶ小屋?」とハリーが言った。「誰も、あそこには行かないよ」
「でも、スネイプは、入り方を知ってるから、ちょっと危ないんじゃない?」
「ダンブルドアは、スネイプを信用してた」ハリーが彼女に思いださせた。
「剣を取り替えたことを言うほどには、信用してなかったんじゃない?」とハーマイオニーが言った。
「うん、君の言うとおりだ!」とハリーが言った。そして、ダンブルドアがスネイプを信用することを、どんなに微かであっても差し控えた点があったと思うと、もっと元気になった。「そうすると、剣を、ホグズミードから、かなり離れたところに隠したのかな? どこだと思う、ロン? ロン?」
ハリーは、ふりかえって見た。一瞬、ロンがテントを出て行ったのかと思って狼狽したが、ロンが下の寝棚の影の中に寝ころんで、じっと動かないでいるのが分かった。
「ああ、僕のこと思いだしたのか?」彼は言った。
「何だって?」
ロンは、上の寝棚の底面を見あげて、鼻をならした。
「君たち二人、頑張ってやってる。僕が入ると、君たちの楽しみをだめにするからさ」
まごつきながら、ハリーはハーマイオニーに助けを求めた。けれど彼女は、同じように途方にくれているらしく、首を横にふった。
「何が問題なのさ?」とハリーが尋ねた。
「問題? 何も問題ないよ」とロンが、あいかわらずハリーを見ようとはしないで言った。「ともかく、君の方にはないよ」
頭上のキャンバス地の上に数回ポトンと音がした。雨が降りはじめた。
「あのう、君の方には、明らかに問題ありだよ」とハリーが言った。「言っちまえよ」
ロンは、寝床から長い足をさっと、ふりおろして、座った姿勢になったが、彼らしくなく意地悪に見えた。
「分かった、言ってやるよ。僕たちが見つけなきゃならない碌でもない物が、他にあったからって、僕がテントの中をはね回るとは期待しないでくれ。君が知らないもののリストにつけ加えるだけでいいだろ」
「僕が知らない?」とハリーがくりかえした。「僕が知らない?」
ポトン、ポトン、ポトン。雨が段々ひどくなってきて、彼らのまわりの落ち葉が散った上や、暗闇の中をサラサラ流れる川の中に、パラパラと降った。恐れが、ハリーの喜びを消した。ロンは、彼が、そうかもしれないと疑い、考えるのを恐れていることを、ずばり言っていた。
「ここでは、僕がこれまで過ごしてきたようじゃなかった」とロンが言った。「あのさ、腕はずたずたになって、何にも食べる物なくて、毎晩、ケツの穴まで凍りそうに寒くて。僕が期待したのはただ、あのさ、数週間、走りまわって、何かやり遂げるってことだったんだ」
「ロン」ハーマイオニーが言ったが、とても静かな声だったので、ロンは、雨がテントにバラバラと打ちつける激しい音に隠れて聞えなかったふりをした、
「君が、何に加わったのか分かってると思ってた」とハリーが言った。
「うん、僕もそう思ってた」
「なら、どのあたりが、君の期待に添えないのか?」とハリーが尋ねた。怒りの気持ちが、彼の弁護団に加わった。「五つ星の一流ホテルに泊まると思っていたのか? 一日おきにホークラックスが見つかると思っていたのか? クリスマスにはママのところに帰れると思っていたのか?」
「僕たちは、君が何をするつもりなのか分かってると思ってたのさ!」とロンが、立ちあがって叫んだ。彼の言葉は、ナイフのように痛烈に、ハリーに突きささった。ダンブルドアが、君に何をするか話したと、僕たちは思ってた。本物の計画があると思ってた!」
「ロン!」とハーマイオニーが、今度は、テントの上に激しい音でとどろく雨の音より大きく、はっきりと聞こえる声で言ったが、また彼は無視した。
「うーん、君をがっかりさせて申しわけない」とハリーが言った。その声はとても冷静だったけれど、うわべだけで説得力がないように感じた。「僕は、君たちに、はじめから全部うち明けてきた。ダンブルドアが僕に言ったことを、全部、話してきた。で、君が気がつかないかもしれないから言うけど、ホークラックスを一つ見つけた――」
「うん、で、残りを見つけようとするのは、それを厄介払いするのと同じだ――言い換えたら、ぜんぜん近づいてないってこと!」
「ロケットを、はずしなさい、ロン!」ハーマイオニーが、いつになく高い声で言った。「どうか、はずしてちょうだい。もし一日中それをかけてなかったら、そんなふうに話さなかったはずよ」
「いや、話しただろうよ」とハリーが言った。ロンのための言いわけは、してほしくなかった。「君たち二人が、僕のいないところでこそこそ言ってたのに気がついていなかったと思うのか? 君たちが、そういうことを考えてたと、僕が推測しなかったと思うのか?」
「ハリー、私たちは、そんな――」
「嘘つくな!」ロンが彼女を責めた。「君も言ったじゃないか、がっかりしたって言った。彼が、もうちょっと先に進んでるかと思ったって――」
「そんなふうには言わなかったわ――ハリー、言わなかった!」彼女は叫んだ。
雨が激しい音でテントに打ちつけた。ハーマイオニーの顔に涙が流れた。数分前の興奮は、燃えあがって消える、つかの間の命の花火のように、何もなかったように消え失せ、すべてが暗く濡れて冷たかった。グリフィンドールの剣は、どこか知らないところに隠されていた。彼らは、テントの中にいる三人の十代の若者にすぎず、唯一成しとげたことと言えば、まだ死なずに生きていることだった。
「じゃ、なぜ、まだ君はここにいるんだ?」ハリーがロンに尋ねた。
「当ててみな」とロンが言った。
「なら、帰れよ」とハリーが言った。
「ああ、多分ね!」とロンがどなって、ハリーの方に数歩、つめよった。ハリーは引きさがらなかった。「僕の妹について言われたことを聞かなかったのか? 君は、ネズミの屁ほども気に留めなかったじゃないか、ただの禁じられた森だな、ハリー、『僕はもっと悪いことに出あった』ポッターは、ここじゃ、彼女に何が起ころうと気にしないんだ、あのね、僕は気にするよ、そうさ、巨大グモや、いかれたものが――」
「僕は、こう言っただけだよ――彼女は、他の子たちといっしょにいる、彼らは、ハグリッドといっしょにいるって――」
「うん、分かってる、君は気にしないんだ! それに僕の残りの家族はどうなんだ、『ウィーズリー家は、もうこれ以上子供が怪我する必要はない』、聞いたか?」
「うん、僕は――」
「けど、それがどういう意味かなんてことで悩まないんだろ?」
「ロン!」とハーマイオニーが、二人の間に割りこんできて言った。「それは、何か新しいこと、私たちが知らないことがおこったという意味じゃないと思うわ。考えてみて、ビルは、もう傷跡が残っているし、今までには沢山の人が、ジョージが片耳なくしたのを見たに違いないし、あなたは、スパテルグロイト病で死にそうだと思われてるし、彼が意味したのは、きっと、それだけだと思うわ――」
「ああ、君は、きっと、それだけだと思うのか? よし、それじゃ、ええと僕も悩まないことにするよ。君たち二人は、いいよ、両親が、安全に離れたとこに、いてさ――」
「僕の両親は、死んだ!」ハリーが怒鳴った。
「僕の両親も、そうなるかもしれない!」とロンが怒鳴った。
「それなら、行け!」ハリーがどなった。「家族の元に戻れ! スパテルグロイト病が治ったふりをすれば、ママがたっぷり食べさせてくれて、ー」
ロンが、さっと動いた。ハリーもそれに反応して動いた。けれど両方の杖が、その所有者のポケットから離れる前に、ハーマイオニーが自分の杖を上げた。
「プロテゴ!<防御せよ>」彼女が叫んだ。すると彼女とハリーを一方の側に、ロンを反対側にして、その間に見えない盾が広がった。その呪文の力で、それぞれが数歩後退させられた。ハリーとロンは、初めて顔を合わせたが、透明な壁の両側から互いににらみ合っていた。ハリーは、ロンへの憎しみが心に食いこんでくるのを感じた。二人の間で何かが壊れた。
「ホークラックスを置いていけ」ハリーが言った。
ロンは、首から鎖をもぎ取るようにはずし、近くの椅子にロケットを投げた。そしてハーマイオニーの方を向いた。
「君はどうするんだ?」
「どういう意味?」
「残るか、それとも?」
「私……」彼女は、悲痛な顔つきだった。「ええ――ええ、私は残るわ、ロン、私たち、ハリーと一緒に行くって言ったわ、彼を助けるって――」
「分かった。君は彼を選ぶんだな」
「ロン、だめ――お願い――戻って、戻ってよ!」
彼女は、自分がかけた盾の呪文に邪魔された。それを取りのぞいたとき、彼はもう夜の中に飛びだしていた。ハリーは、動かず黙って立って、彼女が泣きながら、木々のあいだをロンの名を呼ぶのを聞いていた。
数分後、彼女は戻ってきたが、びしょ濡れになった髪が、顔に貼りついていた。
「彼、い、行っちゃった! 姿くらましで!」
彼女は、椅子の上に身を投げだし、丸くなって泣きはじめた。
ハリーは、ぼうっとしていた。かがんでホークラックスを拾いあげ、自分の首にかけた。それから、ロンの寝棚から毛布を引きずってきて、ハーマイオニーにかけた。それから、自分の寝床に上がって、暗いキャンバス地の天井を見あげて、雨が激しく打ちつける音を聞いていた。
第16章 ゴドリック盆地
Godric's Hollow
翌朝ハリーが目覚めたとき、昨夜何があったか思い出すまで少し時間がかかった。それから、あれが夢で、ロンは出ていってしまわず、まだここにいたのならいいのに、と子供っぽく願った。けれど、枕の上で頭を向けると、ロンの寝棚に誰もいないのが見えた。それが死体のように見えて目を引いた。彼は、ロンの寝床から目をそむけながら、自分の寝床から飛びおりた。ハーマイオニーは、もう台所で忙しくしていたが、ハリーが側を通ると、おはようと言わずに急いで顔をそむけた。
「彼は行ってしまった」ハリーは自分に言い聞かせた。「彼は行ってしまった」顔を洗い着替えるあいだ、くりかえすとそのショックが和らぐかのように、そう考えつづけずにはいられなかった。「彼は行ってしまって、戻ってこない」それが純然たる真実だと、ハリーには分かっていた。なぜなら、防御の魔法をかけると、いったんこの場所を離れたら、ロンが彼らを、また見つけるのは不可能になるからだ。
彼とハーマイオニーは黙って朝ご飯を食べた。ハーマイオニーの目は、寝ていないように、はれて赤かった。それから彼らは荷造りをしたが、ハーマイオニーはぐずぐずしていた。ハリーは、なぜ彼女が川岸にいる時間を引き伸ばしているのか分かっていた。彼女が熱心に見上げたことが数回あったが、きっと、ひどい雨の中に、足音が聞こえたと思いこんだのだろうと、彼は思った。けれど、木立のあいだに赤毛の人影はあらわれなかった。ハリーが彼女のまねをして見まわすたびに、(彼自身も、どうしても少し期待してしまったのだ)、雨に打たれた森しか見えないので、また小さな激しい怒りの包みが、体の中で爆発した。「僕たちは、君が何をするつもりなのか分かってると思ってたのさ!」と言うロンの声が聞こえた。それで、ハリーは、お腹の奥の穴に固いこぶを感じたまま、また荷造りを始めた。
横の泥の川は急速に水かさを増していたので、まもなく土手の上にあふれてくるだろう。彼らは、普通キャンプ地を離れるよりも、一時間以上ぐずぐずしていた。最後に、ビーズのバッグを三度詰めなおした後で、ハーマイオニーは、これ以上ぐずぐずする言い訳を何も思いつけないようだった。彼女とハリーは手を握って、姿くらましし、風の吹きつける、ヒースにおおわれた丘の中腹にあらわれた。
着いたとたん、ハーマイオニーはハリーの手を離し、歩き去って、大きな岩に座り、膝に顔を埋めて、体を小刻みにふるわせていた。すすり泣いているのが、ハリーに分かった。彼女を見つめていて、なぐさめに行くべきかと思ったけれど、どういうわけか、その場に根が生えたように立ちつくしたまま動くことができなかった。体の中で、すべてが冷たく固くなっていた。また、ロンの顔に浮かんだ軽蔑した表情が思いうかんだ。ハリーはヒースの中を歩いていって、取り乱したハーマイオニーを中心にして、大きな円を描いて歩きながら、彼女がいつも防御を確実にするためにやっている呪文をかけた。
それから数日間、彼らは全くロンのことを話題にしなかった。ハリーは、彼の名前を二度と口にするものかと心に決めていたし、ハーマイオニーは、その問題を追及しても仕方がないと分かっているようだった。けれど、夜、ハリーが寝ていると彼女が思って、泣いているのが、彼に聞こえることがあった。一方、ハリーは忍びの地図を持ちだして、杖の光で調べはじめ、ロンと名札がついた点が、ホグワーツの廊下にあらわれ、純血の身分に守られて、快適な城に戻ったと、はっきり示される瞬間を待っていた。けれど、ロンは地図上にあらわれなかった。しばらくすると、ハリーは、女子寮にジニーの名前を見つけるためだけに、地図を取りだしている自分に気がついた。あまりに熱心に見つめるので、彼女の眠りを妨げないだろうか、彼女のことを思ってている気持ちが通じるだろうかと考え、彼女が何事もなく暮らしていることを望んだ。彼らは、昼間は、グリフィンドールの剣がありそうな場所を特定することに没頭していた。けれど、ダンブルドアが隠したかもしれない場所について話しあえば話しあうほど、彼らの推測は、気違いじみて信じがたいものになっていった。ダンブルドアが何かを隠しそうな場所のことを言ったかどうか、ハリーが脳みそをふりしぼっても思いだせなかった。彼がロンに対し怒っているのか、ダンブルドアに対し怒っているのか分からないときが、ときたま、あった。「僕たちは、君が何をするつもりなのか分かってると思ってたのさ!……ダンブルドアが、君に何をするか話したと、僕たちは思ってた……本物の計画があると思ってた!」
ロンが正しい、ということを、ハリーは、自分に対して隠すことはできなかった。ダンブルドアは実質的には何も残さなかった。彼らは、ホークラックスを一つ発見した。けれど、それを破壊する手段がない。他のホークラックスは、依然として到達できないままだ。絶望感に飲みこまれそうな危険を感じた。今、この、あてもない無意味な旅に同行するという友人の申し出を受けるときに、どの程度知っていたかを思い出してたじろいでいた。彼は、何も知らなかった。何も思いつかなかった。そして、ハーマイオニーもまた、もうたくさん、出ていくわ、と言いだしそうなそぶりをしないかと、絶えず、ひどく警戒していた。
彼らは、多くの日の夕方、ほとんど黙ったまま過ごした。ハーマイオニーは、しょっちゅうフィニアス・ナイジェルスの肖像画を取りだして、椅子に立てかけるようになった。彼が、ロンがいなくなって残った大きな穴を一部でも埋めるとでもいうようだった。二度と訪れないと前に断言したにもかかわらず、フィニアス・ナイジェルスは、ハリーが何をたくらんでいるか探りだせる機会に抵抗できないようで、数日おきに、目隠しをしてあらわれるのに同意した。ハリーは、彼に会ってうれしい気持ちにさえなった。嫌味で、しょっちゅう、嘲る性格とはいえ、いっしょにいることができたからだ。フィニアス・ナイジェルスは、情報をあまり伝えてはくれなかったが、彼らは、ホグワーツのニュースならどんなことでも楽しんだ。フィニアスは、自分が校長であったとき以来であるスリザリンの校長であるスネイプにたいへん敬意を払っていた。それで、彼らは、スネイプに関して、批判したり不適切な質問をしないように、注意しなくてはならなかった。さもないとフィニアス・ナイジェルスは、すぐに画から去ってしまったからだ。
けれど、彼が漏らした情報の断片によると、スネイプは筋金入りの生徒の中心軍団が、絶えず些細な反乱を起こすのに直面しているようだった。ジニーは、ホグズミードへの外出を禁止された。スネイプは、アンブリッジの昔の条項を復活させ、三人以上の生徒の集会や、無許可のサークルを禁止した。
これらのことから、ハリーは、ジニーが、おそらくネビルとルナもいっしょに、「ダンブルドア軍団」を続けようと全力をつくしているのだろうという結論に達した。この乏しいニュースから、ハリーは、ものすごくジニーに会いたくなって胃が痛くなった。けれど、同時にロンと、ダンブルドアと、ホグワーツ自体のことも思いだされた。ホグワーツのことは、昔の彼女とほとんど同じくらい懐かしくてたまらなかった。実際、フィニアス・ナイジェルスがスネイプの厳重な取り締まりのことを話したとき、ハリーは、狂気のようなほんの一瞬、ただもう学校に戻って、スネイプ体制をゆるがす活動に参加するところを想像した。たっぷり食べ、柔らかなベッドに寝て、他の人たちの管理下にあるのが、今この瞬間、最もすばらしい見通しに思われた。けれど、そのとき、彼は「第一級要注意人物」であり、首に一万ガレオン金貨の懸賞金がかかっていて、今頃ホグワーツへ足を踏み入れるのは、魔法省へ足を踏み入れるのと同じくらい危険だということを思いだした。実は、フィニアス・ナイジェルスが、ハリーとハーマイオニーがどこにいるか聞きだそうとしたことが、不注意にも、その事実を強調することになった。彼が、そうするたびにハーマイオニーは、彼をバッグの中に突っこんだ。するとフィニアス・ナイジェルスは、このぶっきらぼうな別れの後は、いつも決まって数日間、姿を現すのを拒否した。
天候は、どんどん寒くなっていった。かれらは、一か所に長くはいないようにしていた。そこで、地面の固い霜が最大の心配のイングランド南部に留まるよりは、国中を南から北へと、行ったり来たりし続けた。山の斜面に立ち向かったときは、みぞれがテントに激しく打ちつけ、広大な平らな沼地では、テントが冷たい水で水浸しになり、スコットランドの入り江では、夜の間に、雪でテントが半分埋った。
彼らは、いくつかの家の居間の窓の中に、クリスマスツリーがあるのを見つけていた。夕方になる前に、ハリーは、残されたうち、ただ一つ探検していない町だと思われるところを、また提案してみようかどうしようかと思いめぐらしていた。彼らは、いつになくおいしい食事を終えたところだった。ハーマイオニーが、透明マントをかぶって、スーパーに行ってきたのだ。(出るときに、開いたレジに誠実に代金を入れてきた)。ハリーは、ミートソースのスパゲティと缶詰の梨でおなかがいっぱいになったところでは、いつもより、女を説得しやすいかもしれないと思った。それに、先見の明で、ホークラックスをかけるのを数時間、休もうと提案していて、それは、彼の寝棚の端に下がっていた。
「ハーマイオニー?」
「えっ?」彼女は、たわんだ肘掛け椅子の一つに体を丸めて座って「吟遊詩人ビードルの物語」を手にしていた。彼女が、その本からどの程度多くのことを得られたのか、彼には想像がつかなかった。その本は、あまり長くはない。けれど、彼女が、まだ、その中から何かを解読しようとしているのは明らかだった。「スペルマンの音節文字表」が椅子の腕に置いてあったからだ。
ハリーは咳払いをした。数年前に、ダーズリー家に外出許可証のサインをもらえなかったのに、マクゴナガル先生に、ホグズミードに行っていいかどうか尋ねたときと、全く同じような気持ちだった。
「ハーマイオニー、僕、考えてたんだけど――」
「ハリー、ちょっと手伝ってくれない?」
彼女は、彼の言ったことを聞いていないようだった。身を乗りだして、「吟遊詩人ビードルの物語」をさしだした。
「その印を見て」彼女は言いながら、ページの上を指した。ハリーが物語の題名だと思ったものの上に(ルーン文字は読めないので、確かなことは言えないが)、三角形の目のように見え、その瞳に垂直な線が通っている絵があった。
「古代ルーン文字は分からないよ、ハーマイオニー」
「分かってる、けど、それはルーンじゃないし、呪文の字音表にもないの。私、ずっと、それは目だと思ってた、けど、そうじゃないと思うわ! インクで描きこまれてるの、誰かが、ここに描いたのよ、最初から本に、あったわけじゃないわ。考えて、それ、前に見たことない?」
「いや……いや、待てよ」ハリーは、もっとよく見た。「ルナの父さんが、首に巻いてたのと同じ印じゃないか?」
「私もそう思ってたの」
「なら、グリンデルワルドの印だ」
彼女は、口を開けて彼を見た。
「何ですって?」
「クラムが話してくれたんだけど……」
彼は結婚式のとき、ビクター・クラムに聞いた話を、もう一度話した。ハーマイオニーは、驚いたようだった。
「グリンデルワルドの印?」
彼女はハリーを見て、その気味の悪い印を見て、また彼に目を戻した。「グリンデルワルドが印を持っていたなんて聞いたことがないわ。彼について読んだ中では、そんなこと書いてなかったもの」
「うーん、僕が言ったように、クラムは、その印がダームストラング校の壁に彫られていたんだと教えてくれた。グリンデルワルドがつけたんだって」
彼女は、また古い肘掛け椅子にドシンと座って、顔をしかめた。
「なんか変だわ。これが闇の魔術を示す記号だったら、なんで子供向けの本の中にあるのよ」
「うん、すごく変だ」とハリーが言った。「それに、スクリムジョールが、それを見て、何だか分かったはずだろ。彼は魔法大臣だから、闇の品物の専門家に違いない」
「そうね……彼は、私のように、目だと思ったのかもしれない。他のお話はみんな題名の上に小さな絵がついてるの」
彼女は口をきかないで、その不思議な印をじっくり見ていた。ハリーは、また言いはじめた。
「ハーマイオニー?」
「えっ?」
「考えてたんだけど、僕は……僕はゴドリック盆地に行きたい」
彼女は、見あげたが、焦点が合っていなかったので、まだ本の謎めいた印について考えているのだろうと、彼は思った。
「ええ」彼女は言った。「ええ、私も、それを考えていたの。あそこへ行かなくてはいけないと思うわ」
「僕の言うこと、ちゃんと聞いた?」彼は尋ねた。
「もちろんよ。あなたはゴドリック盆地に行きたくて、私はそれに同意した。それに、もう他にどこもいくとこ思いつかないしね。危険でしょうけど、考えれば考えるほど、あそこにありそうな気がするのよ」
「あのう――何が、あそこに?」とハリーが尋ねた。
ここで、彼女は、彼が分からないのに、まごついたようだった。
「あのね、剣よ、ハリー! ダンブルドアは、あなたがあそこに戻りたがっていると分かってたに違いないわ。それに、ゴドリック盆地はゴドリック・グリフィンドールの生誕地だし、―」
「ほんとに? グリフィンドールは、ゴドリック盆地の出身なのか?」
「ハリー、あなた『魔法歴史』を開いたことないの?」
「ええと」彼は言いながら、何ヶ月ぶりかに微笑んだ。笑い慣れないので顔の筋肉が奇妙につっぱった感じがした。「開いたかもしれない、ほら、買ったときにさ……一度っきり……」
「あのね、あの村は、彼にちなんで名づけられているの。あなた、その繋がりを見つけだしたのかと思ったのよ」彼女は、最近の彼女よりも、はるかに昔の彼女のように話していた。ハリーは、彼女が図書室に行ってくるわと告げそうな気が、半分くらいした。「『魔法歴史』には、あの村のことが少しだけのってるの、待って……」
彼女は、ビーズのバッグを開けて、しばらくごそごそやっていたが、最後に、バチルダ・バグショット著「魔法歴史」の古い教科書を引きだし、それを、ささっとめくって目当てのページを見つけた。
「『一六八九年における国際秘密法の調印により、魔法使いは永久に隠れることになった。彼らが、地域社会に、自分たちの小さい社会を形成するのは、おそらく自然なことだっただろう。多くの小さな村や寒村が、いくらかの魔法家族を惹きつけた。彼らは、団結して支えあい、守りあった。コーンウォールのティンワース、ヨークシャーのアパー・フラグリー、イングランド南海岸のオタリー・セント・キャチポールは、魔法家族の集団の有名な故郷である。彼らは、広い心でマグルのそばに住んだり、ときにはマグルに混乱の呪文をかけて住んだりした。これらの半魔法居住区の中で最も名高いのは、おそらく、西部の村、ゴドリック盆地であろう。そこは、偉大な魔法使い、ゴドリック・グリフィンドールが生まれた場所であり、魔法鍛冶屋のボーマン・ライトが、最初の金のスニッチを鍛えたところでもある。墓地は、旧家の魔法家族の名でいっぱいである。そのため、何世紀ものあいだ、小さな教会に幽霊が出没する話がつきまとってきたのは無理もない』
「あなたと、ご両親のことは書いてないわ」ハーマイオニーが、言いながら、本を閉じた。「バグショット先生は、十九世紀末より後のことは何も書いてないからよ。でも、いいこと? ゴドリック盆地、ゴドリック・グリフィンドール、グリフィンドールの剣。あなたが、その繋がりを見つけだすのを、ダンブルドアは期待したと思わない?」
「ああ、うん……」
ハリーは、ゴドリック盆地に行こうと提案したとき、剣のことは全く考えていなかったとは認めたくなかった。彼にとって、その村の魅力は、両親のお墓や、危うく生きのびた家があり、バチルダ・バグショットがいることだった。
「ミュリエルが言ったこと覚えてるか?」彼は、結局、尋ねた。
「誰?」
「知ってるだろ」彼は躊躇った。ロンの名前を言いたくなかった。「ジニーの大おばさん。結婚式でさ。君が骨ばった足首だって言った人」
「ああ」とハーマイオニーが言った。
それは、難しい一瞬だった。彼女が、ずっと沖合でロンの名前を感じているのが、ハリーは分かった。それで急いで続けた。「彼女は、バチルダ・バグショットが、まだゴドリック盆地に住んでると言ったんだ」
「バチルダ・バグショット」とハーマイオニーがつぶやきながら、「魔法歴史」の表紙に浮きあがったバチルダの名前を人差し指でなぞった。「ええと、私、思うんだけど――」
彼女が、たいそう劇的に、はっと息をのんだので、ハリーは、おなかの中が、ひっくり返るような気がして杖を引きだし、誰かの手がテントの入り口に垂れさがった布を押しあげてくると、なかば予想して、入り口の方を見まわした。けれど、何事もなかった。
「何だよ?」彼は、なかば怒り、なかば安心しながら言った。「どうしたんだ? 君がデス・イーターがテントの入り口のファスナーを開けるのを見たのかと思ったんだ、少なくとも――」
「ハリー、もし、バチルダが剣を持っていたらどうかしら? ダンブルドアが、彼女を信用して預けたとしたら?」
ハリーは、その可能性を考えた。バチルダは、今では、恐ろしく高齢だろうし、ミュリエルの話では、彼女は「耄碌」している。ダンブルドアが、グリフィンドールの剣を、彼女に託して隠した可能性があるだろうか? もし、そうだとすると、ダンブルドアは、一か八かやってみる大きな賭を残したような気がした。ダンブルドアは、バチルダと親しくしていたことは言うまでもなく、剣を偽物と取り替えたことも明かさなかったからだ。けれど、今は、ハーマイオニーが、驚くほど積極的に、ハリーが心に抱いてきたいちばんの望みに賛成してくれたのだから、彼女の仮説に疑問を投げかけるときではなかった。
「うん、そうかもしれない! じゃ、ゴドリック盆地へ行こうか?」
「ええ、でも注意深く考えてみなくちゃならないわ、ハリー」彼女は、ちゃんと座りなおしていた。そして、もう一度、やるべき計画ができたので、ハリーと同じように彼女の気分も明るくなったのが、彼に分かった。「最初に、透明マントの下で、いっしょに姿くらましする練習をしなちゃならないわ。それに、幻惑の呪文も実用的かもね。もし、とことんやる気なら、ポリジュース薬を全部使う? それなら、私たち、誰かの髪の毛がいるわ。ほんとうは、そうした方がいいと思うの、ハリー、変装すればするほど、安全だから……」
ハリーは、彼女がしゃべるままにしておいた。話が途切れるたびに、頷いたり同意したりした。けれど、彼の心は、会話から遠くに飛んでいた。グリンゴッツの剣が偽物だと知って以来、はじめて興奮していた。
彼は、故郷に帰ろうとしている。家族といっしょに過ごした場所に帰ろうとしているのだ。ヴォルデモートが、いさえしなければ、彼が育ち、学校の休暇ごとに過ごしたはずの場所が、ゴドリック盆地だった。友だちを家に招くこともできたはずだ……弟や妹もいたかもしれない……十七才の誕生日のケーキを焼いてくれたのは、彼の母だったかもしれない。彼から奪われた場所を、これから見ようとすると分かった今ほど、彼が失った人生が現実味をおびて感じられたことはなかった。その夜、ハーマイオニーが寝にいった後、ハリーは、彼女のビーズのバッグから静かに自分のリュックを引きだし、その中から、ハグリッドが、ずっと前にくれた写真のアルバムを出して、何か月ぶりかに、微笑み、手を降っている両親の古い写真を丹念にながめた。今となっては、両親の思い出は、それしかなかった。
次の日、ハリーは喜んでゴドリック盆地に出発しようと思ったが、ハーマイオニーの考えは違っていた。ハリーが、両親が亡くなった場所に戻ってくるのを、ヴォルデモートが予想していると、彼女は確信していたので、断固として、できるだけの変装して防御した後で、出発すべきだと主張した。そこで、ハーマイオニーが出発に同意したのは、丸一週間後、クリスマスの買い物をしている無邪気なマグルから、こっそり髪の毛を手に入れ、透明マントをかぶったまま、いっしょに姿あらわしと姿くらましの練習をした後だった。
彼らは、暗闇に紛れて、村へ姿あらわしすることになっていたので、やっとポリジュース薬を飲んだのは、午後遅くだった。ハリーは禿げ頭の中年のマグルの男に、ハーマイオニーは、その小柄な、ネズミっぽい妻に変身した。持ち物すべてを入れたビーズのバッグは(ホークラックスだけは、ハリーが首にかけていたが)、ハーマイオニーのボタン留めのコートの内ポケットにしまい込んであった。ハリーは、二人の上に透明マントをかけた。それから、二人は回転して、また窒息しそうな暗闇の中に入った。
喉で心臓が脈打っていた。ハリーは目を開いた。彼らは手を繋いで、雪が積もった小道に立っていた。その上の暗い青空には、最初の星たちが弱々しくまたたいていた。田舎家が、狭い道の両側に立っていた。窓に、クリスマス飾りがきらめいていた。少し先には、金色の街灯が光っていて、村の中心がそちらだと示していた。
「一面の雪!」ハーマイオニーが、マントの下でささやいた。「なぜ雪のことを考えなかったのかしら? これだけ用心したのに、足跡が残ってしまう! 足跡を消さなくちゃ……先に行って、私がやるわ……」
パントマイムの馬みたいに魔法で足跡を消して、姿を隠して村に入るのは、ハリーの望んだところではなかった。
「マントを脱ごうよ」とハリーが言った。彼女が恐がっているようなので、「ねえ、僕たちは変装してるし、まわりには誰もいないんだからさ」
彼は、上着の下にマントを突っこみ、邪魔されることなく進んでいった。氷のような空気が顔を刺す中、家々をたくさん通りすぎた。そのどこかに、かつてジェイムズとリリーが住んだのかもしれなかったし、バチルダが今住んでいるかもしれなかった。ハリーは玄関の扉や、雪の積もった屋根や、前庭のどれかに見覚えはないかと見つめた。だが、この地を永久に去ったとき、一才を過ぎたばかりの幼さだったのだから、心の奥底では、そんなことは不可能だと分かっていた。忠誠の呪文をかけていた人たちが死んだとき、どうなるのか分かっていなかったので、いったい、彼が住んでいた家を見ることができるかどうかでさえ定かではなかった。それから、彼らが歩いている小道が左に曲り、村の中心の小さな広場が、目の前にあった。
そこは、色つき電球がまわりに張りめぐらされ、真ん中に、戦争記念碑のようなものがあったが、その一部は、風に吹かれているクリスマスツリーに隠れていた。店屋が数軒、郵便局、酒場と小さな教会があり、そのステンドグラスの窓が広場の向こうに、宝石のように輝いていた。
ここでは、雪がぎっしり固まっていた。人々が一日中、歩いて踏み固めるので、固くて滑りやすかった。村人が、彼らの前を行き来していて、その姿が、少しのあいだ街灯に照らしだされた。酒場の扉が開いたり閉じたりすると、ひとしきり笑い声と、ポップミュージックが聞えてきた。それから、小さな教会の中で、クリスマスの賛美歌が始まった。
「ハリー、今日ってクリスマスイブよ!」とハーマイオニーが言った。
「そう?」
彼は日にちの感覚をなくしていた。何週間も新聞を見ていなかった。
「きっと、そうよ」とハーマイオニーが、教会をじっと見ながら言った。「彼らは……彼らは、あそこにいるのよね? あなたのママとパパが? あの後ろに墓地が見えるわ」
ハリーは、興奮をこえて、ぞくぞく身震いした。それは恐れに近かった。こんなに近づいた今となってみると、結局、見たいのかどうか分からなくなってきた。おそらくハーマイオニーは、彼の気持ちを察したのだろう。初めて彼の手を取って、先に立ち、彼を引っぱっていった。けれど、広場を半分行ったところで、彼女は、ぴたっと立ち止まった。
「ハリー、見て!」
彼女は戦争記念碑を指さした。彼らが通りすぎると、それは変形して、名前を書いたオベリスクの柱ではなく、三人の人の像になった。くしゃくしゃの髪に眼鏡をかけた男の人と、長い髪で優しいかわいい顔の女の人と、母の腕に抱かれた男の赤ちゃんだった。雪が、ふわふわした白い帽子のように、三人の頭の上に降りつもっていた。
ハリーは近よって、両親の顔をじっと見あげた。像があるなんて想像したこともなかった……自分の姿が、石になっているなんて、なんて不思議なんだろう、おでこに傷跡がない幸せな赤ちゃんだ……
心ゆくまで見終わったとき、「行こう」とハリーが言った。彼らは、また教会の方に向きを変えた。道路を渡ったとき、彼は、ちらっと、ふりかえってみた。像はまた戦争祈念碑に戻っていた。
教会に近づくと、賛美歌を歌う声が大きくなってきた。それは、ハリーの喉を締めつけた。ホグワーツをとても強く思いおこさせたのだ、甲冑の中から賛美歌を無礼な歌に変えてどなるピーブスを、大広間の十二本のクリスマスツリーを、クラッカーに入っていた婦人用帽子をかぶったダンブルドアを、手編みのセーターを着たロンを……
墓地への入り口には、木戸があった。ハーマイオニーが、それをできるだけそっと押し、二人は、体を斜めにしてやっと通りぬけた。教会の扉に続く滑りやすい通路の両側には、雪が深く積もったままになっていた。彼らは通路をそれて、雪の中に分け入った。教会の建物のまわりを歩き回ると、後に深い溝が刻まれて残った。建物は輝くステンドグラスの窓の下に、しっかり影を落としていた。
教会の後ろには、雪が積もった墓石が何列も、うす青の雪のおおいから突きだしていた。その雪のおおいは、ステンドグラスの反射光が雪に当たったところはどこでも、目がくらむような赤、金、緑の光でまだら模様になっていた。上着のポケットの中の杖をしっかり握りしめたまま、ハリーは、いちばん近い墓に向っていった。
「これ見ろよ、アボットだ、ハンナの音信不通の親戚かもしれない!」
「もっと小さな声で話して」ハーマイオニーが頼んだ。
彼らは、墓地の中をどんどん奥まで苦労して歩いていき、後ろに暗い足跡を刻んでいった。そして、かがんで古い墓石に書かれたことをのぞき込んだ。ときどき、まわりの暗がりを目を細めて見て、他に誰もいないことを、きちんと確認した。
「ハリー、ここ!」
ハーマイオニーは、二列向こうの墓石のところにいた。彼は、そこまで雪をかき分けて戻らなくてはならなかった。心臓は、胸の中で激しくドンドンと打っていた。
「それは――?」
「違う、でも見て!」
彼女は、暗い石を指さした。ハリーが身をかがめて見ると、凍りついた苔がところどころに生えた花崗岩の上に、「ケンドラ・ダンブルドア」、その少し下に誕生と没年月日、「そして、娘アリアナ」とあった。引用句もあった。
「なんじの財宝<たから>のある所にはなんじの心もあるべし」
(注:新約聖書 マタイ六章二十一節/ルカ十二章三十四節)
では、リータ・スキーターとミュリエルの言ったことの一部は正しかったわけだ。ダンブルドア一家は、実際にここに住み、ここで亡くなった人たちもいたのだ。
その墓を見るのは、それについて話を聞くより、なお悪かった。ハリーは、彼とダンブルドアの二人ともが、この墓地に深く根を張っていたのを、ダンブルドアは彼に話すべきだったと思わずにはいられなかった。それなのに、ダンブルドアは、その繋がりを彼に話そうとはしなかった。二人一緒に、この地を訪れることもできたのだ。一瞬、ハリーはダンブルドアと、ここへ来るのを想像した。それは、すごい絆だ。どんなに彼にとって大切なことだったことか。けれど、ダンブルドアにとって、家族が同じ墓地に隣りあって眠っているということは、多分、ハリーにして欲しかった仕事とは見当違いで、重要でない一致点だったのだろう。
ハーマイオニーは、ハリーを見ていた。彼は、自分の顔が影になって隠れているのでよかったと思った。彼は、墓石の言葉を読み返した。「なんじの財宝<たから>のある所にはなんじの心もあるべし」それがどういう意味なのか分からなかった。ダンブルドアが、この言葉を選んだのは確かだ。母亡き後は、家族の長男だったのだから。
「彼ほんとうに何も言わなかったの……?」ハーマイオニーが言いはじめた。
「うん」とハリーは、そっけなく言った。それから「他も見ようよ」と向きを変えたが、その石を見なければよかったと思った。興奮した恐れの気持ちに、憤りの気持ちが混じってほしくなかった。
「ここよ!」とハーマイオニーが、少しして暗がりから叫んだ。「ああ、違った、ごめん! ポッターかと思った」
彼女は、崩れおちた、苔むした石をこすって、少し顔をしかめながら見おろしていた。
「ハリー、ちょっと戻ってきて」
彼は、また横道に逸れたくはなかったので、しぶしぶ、彼女の方に雪をかき分けていった。
「何さ?」
「これ見て!」
その墓は、極端に古く、風雨にさらされていたので、ハリーは、その名前をほとんど読むことができなかった。ハーマイオニーは、その下の記号を指さした。
「ハリー、あの本にあった印よ!」
彼は、彼女が示した場所をのぞきこんだ。石がとてもすり減っていたので、そこに何が彫られているのか、ほとんど分からなかった。けれど、確かに三角形の目のように見え、その下にほとんど判読しがたい名前があった。
「うん……かもね……」
ハーマイオニーは、杖に火をともし、墓石の名前を指して照らした。
「イグ……イグノトゥスだと思うわ……」
「僕は、両親の墓を探すからね、いいかい?」ハリーは、ほんの少しトゲをこめて彼女に言った。そして、彼女が古い墓にかがみこんでいる間に、また出発した。
ときどき、アボットのようにホグワーツで知った名字があった。同じ魔法家族が数代にわたって、一つの墓になっていることもあった。その家系が断絶したのか、現在の子孫がゴドリック盆地を引っ越したのかが、日付からハリーに分かった。彼は墓地の中を、どんどん奥へ進んでいった。新しい墓石のところに着くたびに、不安と期待で少しよろめいた。
突然、暗闇と沈黙が、もっと深まったようだった。ハリーは、あたりを見まわし、ディメンターのことを思いだして少し心配になった。それから、賛美歌が終わって、教会に来た人たちが広場の方に戻っていくにつれ、そのしゃべり声やざわめきがだんだん聞えなくなったのだと分かった。教会の中の人が、明かりを消したところだった。
そのとき、ハーマイオニーの声が、三度目に暗がりから聞こえた。数メートル離れたところから鋭くはっきりと聞こえた。
「ハリー、ここよ……ここ」
彼女の声の調子から、今度は両親のことだと分かった。彼女の方に向いながら、何か思いものが胸に押しつけられるのを感じた。ダンブルドアが亡くなった直後と同じ感覚、心臓と肺に実際にずっしりと重くのしかかってくる悲しみだ。
墓石は、ケンドラとアリアナのところから、たった二列、後ろだった。ちょうどダンブルドアの墓のような白の大理石でできていて、暗闇で輝いているように、読みやすかった。ハリーは、それに彫られた言葉を読みとるためにひざまずいたり、とても近くに寄ったりする必要もなかった。
「ジェイムズ・ポッター、一九六〇年三月二七日生、一九八一年十月三一日没」
「リリー・ポッター、一九六〇年一月三十日生、一九八一年十月三一日没」
「最終<いやはて>の敵なる死もまた亡ぼされん」
(注:新約聖書 コリント前書十五章二十六節)
ハリーは、その言葉を、意味を取るのにたった一度の機会しかないとでもいうように、ゆっくり読んだ。それから、その最後の部分を声を出して読んだ。
「『最終<いやはて>の敵なる死もまた亡ぼされん」』……」恐ろしい考えが浮かんて動揺した。「それってデス・イーターの考えじゃないか? なぜ、そこに書いてあるんだろう?」
「それは、デス・イーターのようなやり方で、死をうち負かすという意味じゃないわ」ハーマイオニーが優しい声で言った。「その意味は……分かるでしょ……死を越えて生きるということよ。死んだ後も、生き続ける」
でも、両親は生きていない、とハリーは思った。彼らは死んでしまった。空虚な言葉は、両親の朽ちた遺体が、無関心に何も知らずに、雪と石の下に横たわっているという事実を偽り隠せはしない。とても熱い涙が、止めることができずに流れてきて、顔の上で瞬時に凍りついた。でも涙を拭ったり、泣かないふりをしたところでどうなると言うんだ? 彼は、涙が流れるに任せた。唇を固く結び、厚い雪を見おろしていた。その雪が隠している場所には、かつてリリーとジェイムズの亡骸が横たわり、今はきっと骨か塵になっているだろう。そして一人息子が生きてこんなに近くに立っていて、彼らの犠牲のおかげで、彼の心臓は、まだ生き生きとドクドク脈打っているが、この瞬間、彼らと一緒に雪の下で眠りたいと、半ば望んでいるのを知りもしないし、気にも留めないのだ。
ハーマイオニーが、また彼の手を取って、固く握りしめた。彼は、彼女の顔を見ることができなかったが、ぎゅっと握りかえした。夜の大気をぐっと深く吸いこんで、自分を落ちつかせ、制御しようとした。何か両親にあげるものを持ってくればよかったと思った。そんなこと考えもしなかったのだ。墓地の植物は皆、葉が落ちて凍りついていた。けれど、ハーマイオニーが杖を上げて、空中で円を描くように動かした。すると、満開のクリスマスローズの花輪が目の前にあらわれた。ハリーはそれを取って両親の墓に供えた。
立ち上がるとすぐ、彼は、ここから出たくなった。もうそれ以上、そこに立っているのに耐えられないと思った。彼は、ハーマイオニーの肩に腕を回し、彼女は、自分の腕を彼の腰に回した。そして、黙って向きを変え、雪の中を歩いていき、ダンブルドアの母と妹の墓を通りすぎ、暗い教会と、見えない木戸の方に戻っていった。
第17章 バチルダの秘密
Bathilda's Secret
「ハリー、止まって」
「どうかした?」
彼らは、知らないアボット家の墓のところまで来たところだった。
「あそこに誰かいる。誰か私たちを見てる。ぜったいよ。あそこ、茂みの向こう」
彼らは、互いに身を離さないままで、とても静かに立って、墓地の見通しにくい黒い境界を見つめていた。ハリーには何も見えなかった。
「確か?」
「何か動くのが見えたの、誓ってもいいわ……」
彼女は、彼から腕を放して、杖を使えるようにした。
「僕たち、マグルみたいに見えるんだよ」ハリーが指摘した。
「あなたの両親のお墓に花を供えてきたマグル! ハリー、ぜったいに、あそこに誰かいるわ!」
ハリーは「魔法歴史」のことを考えた。墓地は、幽霊が出てきそうだった。もしかして? けれど、そのとき、ハーマイオニーが指さした茂みの中に、雪が舞って小さな渦巻きができるのが見えた。幽霊は雪を動かせない。
「ネコだよ」とハリーが、一、二秒後に言った。「でなきゃ鳥。もしデス・イーターなら、僕たち、もう死んでるさ。けど、ここから出よう、で、マントをかぶろう」
彼らは墓地から出るとき、何度もふりかえって見た。ハリーは、ハーマイオニーを安心させるために装ったほど楽観的ではなかったので、木戸と滑りやすい通路のところまで来たときにはうれしかった。彼らは、また透明マントをかぶった。酒場は前よりもっと混んでいた。中から大勢が、クリスマスの賛美歌を歌っているのが聞こえた。さっき教会の方に近づいていくときに聞こえた歌だった。一瞬ハリーは、その中に避難しようと言おうかと考えた。けれど、何も言わないうちに、ハーマイオニーが小声で「この道を行きましょう」と言った。そして、彼を引っぱって、暗い通りの方に行った。それは、彼らが入ってきたのと反対の方角で、村から出る道だった。、ハリーには、田舎家の家並みが途切れる地点が分かった。そこでは小道がまた広々とした草地の中に曲っていった。彼らは、カーテンごしに、いろいろな色の電球が輝き、クリスマスツリーの輪郭が暗く浮かぶ窓々のそばを通りすぎながら、できるだけ早く歩いた。
「どうやって、バチルダの家を見つける?」とハーマイオニーが、少し震えて、ちらっと後ろをふりかえりながら尋ねた。「ハリー? どう思う? ハリー?」
彼女は、彼の腕を引っぱったが、彼は気に留めなかった。彼は、この家並みの一番端に立っている黒っぽい固まりの方を見ていた。次の瞬間、彼は早足になって、ハーマイオニーを引きずっていった。彼女は、氷で少し滑った。
「ハリーったら――」
「見ろ……見ろよ、ハーマイオニー……」
「私には……まあ!」
彼には見えた。忠誠の呪文は、ジェイムズとリリーといっしょに死んだに違いない。生け垣は、十六年間に伸び放題になっていた。十六年前、ハグリッドが、がれきの中からハリーを連れだしたが、そのがれきが腰まで伸びた草の間に散らばっていた。家の大半は、黒っぽいツタと雪におおわれていたけれど、まだ建っていた。だが上の階の右側は吹き飛ばされていた。そこが、呪文が逆噴射したところに違いないと、ハリーは思った。彼とハーマイオニーは、門のところに立って、かつては両側の家々と同じような家だったものの残骸を見つめていた。
「なぜ、誰も建て直さなかったのかしら?」とハーマイオニーがささやいた。
「建て直せなかったんじゃない?」ハリーが答えた。「闇魔術から受けた怪我みたいなもので、壊れたところを修理できないのかも」
彼はマントの下から手を出して、雪が積もり、ひどく錆びた門を、しっかり握った。開けたいと思ったのではなく、ただ家のどこかをつかみたかったのだ。
「家の中に入らないでしょ? 危険かも、もしかしたら――まあ、ハリー、見て!」
彼が門を触ったためだろう。看板が、彼らの前に地面からイバラや雑草の絡み合いながら、風変わりな成長の早い花のように立ちあがった。木の板の上に金色の文字で、こう書かれていた。
「一九八一年十月三十一日の夜、この場所で、
リリーとジェイムズ・ポッターが命を落とした。
彼らの息子ハリーは、ただ一人の魔法使いとして生きのこった、
殺人光線を受けたのに。
この家は、マグルには見えぬが、残された。
崩壊した状態のまま。それはポッター一家への追悼の碑として、
また暴力を思いださせるものとして。
そのため一家は引き裂かれたのだ」
そして、このきちんと書かれた文字の周囲一面に「生き延びた少年」ゆかりの場所を見に来た魔女や魔法使いが落書きしていた。永久に消えないインクで名前だけ書いただけの者もいれば、木の板にイニシャルを彫りつけた者もいた。更にメッセージを残した者もいた。魔法の落書きだけあって、十六年の歳月を経ても、最近書かれたばかりのように、鮮やかに輝いていた。皆、同じようなことを言っていた。
「幸運を祈る、ハリー、君がどこに行こうと」
「君に、これを読んでほしい、ハリー、私たちは皆、君を応援するよ!」
「ハリー・ポッター万歳!」
「看板の上に書いちゃいけなかったのに!」とハーマイオニーが憤慨して言った。
けれど、ハリーは、彼女ににっこり笑いかけた。
「すてきだ。書いてくれてうれしいよ。僕は……」
彼は、急に話を止めた。たくさんショールなどを巻いた人影が、小道を、彼らの方に向ってよたよた歩いてきて、その輪郭が、遠くの広場の明るい光を背景に浮かびあがった。ハリーは、判別するのは難しいが、その姿は女だと思った。彼女は、ゆっくり歩いてきた。雪道で滑るのを恐がっているのかもしれない。背中を丸くし、ずんぐりしていて、足をひきずるように歩いていて、どの点からも、彼女が極めて高齢だという感じがした。ハリーとハーマイオニーは、彼女が近づいてくるのを黙って見つめていた。ハリーは、彼女が、通りすぎる家の一軒の方に向きを変えるのを見ようと待っていた。けれど、彼は、本能的に、彼女がそうしないだろうと分かっていた。とうとう彼女は、二人から数メートル離れたところで止まり、ただ凍った道の真ん中に立って、彼らに顔を向けた。
ハリーは、ハーマイオニーに腕をつねってもらわなくても分かっていた。この女がマグルである可能性はほとんどなかった。彼女は、もし魔女でなかったら全く見えるはずのない家を見つめて立っていた。けれど、魔女だとしても、こんな寒い夜に、廃墟を見るためだけに出てくるのは、奇妙なふるまいだった。一方、ふつうの魔法のすべての規則によっても、ハーマイオニーと彼が見えるはずはない。にもかかわらず、ハリーは、彼女が、彼らがそこにいるのを、また彼らが誰かということも知っているというとても不思議な感情を抱いた。この不安な結論に達したとき、彼女が手袋をはめた手をあげて手招きした。
ハーマイオニーは、マントの下で、彼にもっと近づき、腕を、彼の腕に押しつけてきた。
「どうして、彼女に分かるの?」
彼は首を横にふった。女はもっと激しく手招きした。ハリーは、その呼びかけに応じない言い訳をたくさん考えだすことができた。けれど、他に誰もいない通りに、互いに向きあって立っているあいだに、彼女が誰かという疑いが刻一刻と強まっていった。彼女が、この長い月日、彼らをずっと待っていたという可能性があるだろうか? ダンブルドアが、彼女に待つように言って、ハリーが、最後には来るだろうと待っていたという可能性が? 墓地で影の中で動いていたのが彼女で、彼らを、この場所まで追ってきたということは、ありそうもないだろうか? 彼らの存在を感じとる能力でさえ、彼が出くわしたことのない何かダンブルドアっぽい力を連想させた。とうとう、ハリーが口をきいたので、ハーマイオニーは、はっと息をのみ、飛びあがった。
「あなたは、バチルダ?」
スカーフを巻いた人影は頷いて、また手招きした。
マントの下で、ハリーとハーマイオニーは顔を見あわせた。ハリーは眉をあげ、ハーマイオニーは小さく不安そうに頷いた。
彼らは、女の方に歩いていった。すると女はすぐに向きを変え、彼らが来た道を、よたよたと戻っていった。そして数軒の家を通りすぎて、門のところで曲った。彼らは、さっき立ち去ったばかりの庭とほとんど同じくらい伸び放題の庭の中の玄関に通じる道を、彼女について行った。彼女は、玄関のところで少しのあいだ、鍵を探し回った。それから鍵を開けて 一歩引いて、彼らを入らせた。
彼女は、ひどく臭かった。というか、臭かったのは家かもしれない。彼女のそばを通って家の中に入るとき、ハリーは鼻にしわを寄せ、マントを脱いだ。彼女のそばに来てみると、彼女が、どんなに小柄か分かった。年のせいで、腰が曲って、ほとんど彼の胸までしかなかった。彼女は、彼らの後ろで扉を閉めた。彼女のこぶしは、はがれた塗料にぶつかって、青くまだらになった。それから、ふりむいて、ハリーの顔を見つめた。彼女の目は、白内障で濁り、皮膚が薄く幾重にもしわになった中に落ちくぼんでいた。そして、顔全体のあちこちに、切れた血管と、茶褐色のシミがあった。いったい、彼女は、自分のことを分かっているのだろうかと、彼は思った。たとえ、分かったとしても、彼女に見えるのは、彼が盗んできた髪の持ち主の、禿げ頭のマグルだ。
彼女が、虫に食われた黒いショールをほどいて、頭皮がはっきり見えるほど乏しい白髪の頭をさらしたとき、老齢と、埃と、洗ってない衣服と、古くなった食物の臭気が、いっそう強くなった。
「バチルダ?」ハリーは繰り返した。
彼女は、また頷いた。彼は、皮膚についているロケットに気づいた。その中の、ときどき、コツコツ言ったりドンドン言ったりするものが、目覚めた。彼は、それが、冷たい金を通して脈打っているのを感じた。それを破壊しようとするものが近づいているのを、それは知っているのか、感じることができるのか?
バチルダは、彼らのそばを足を引きずって通った。ハーマイオニーのことは見えないかのように、押しのけ、居間と思われる部屋に姿を消した。
「ハリー、これ、確かかどうか分からないわ」ハーマイオニーがささやいた。
「彼女の小ささを見なよ。いざとなったら、僕たちの方が彼女より力は上だ」とハリーが言った。「ねえ、言っておけばよかったけどさ、彼女は、まともじゃないんだよ。ミュリエルが、彼女を『耄碌』してるって言ってた」
「おいで!」とバチルダが隣の部屋から呼んだ。
ハーマイオニーは飛びあがって、ハリーの腕をつかんだ。
「大丈夫さ」とハリーは安心させるように言って、先に立って居間に入っていった。
バチルダは、部屋中よちよち歩き回って、ロウソクを灯していたが、まだとても暗かったし、たいへん汚いのは言うまでもなかった。厚い埃が、足の下で、さくさく音を立て、ハリーの鼻は、じめじめしたカビで汚れた臭いの下に、何かもっと悪い、肉が腐ったような臭いをかぎ当てた。誰かバチルダの家に入って、ちゃんとやっているかどうか調べに来たのは最近いつだろうか、とハリーは思った。彼女は、魔法が使えることも忘れてしまったようだった。ロウソクを、不器用に手でともしていたからだ。袖口のレースが垂れていて、今にも火がつきそうで危なかった。
「僕にやらせて」とハリーが申しでて、彼女からマッチを取った。彼が、ロウソクの燃え残りに火を灯し終わるのを、彼女は、立って見つめていた。ロウソクの受け皿は部屋中にあり、本を積んだ上に危なっかしく乗っていたり、ひびが入って、カビが生えたカップがいっぱいのサイドテーブルの上にあったりした。ハリーがロウソクを見つけた最後の場所は、丈の低いタンスの上で、たくさんの写真立てが置いてあった。火がついて炎が踊り出し、それらの汚れたガラスと銀の枠の上でゆらめいた。写真の中で、小さく動いているものが見えた。バチルダが、暖炉に火をつけようと、丸太を手探りしているときに、ハリーが小声で「テルゲオ<拭き取れ>」と言った。埃が写真から消えて、ハリーはすぐに、一番大きく飾り立てた写真立ての六枚がなくなっていることに気づいた。彼は、バチルダか、他の誰かか、誰が写真を取ったんだろうと思った。そのとき、集められた写真の後ろにある一枚が目を引いた。彼はそれを、ひったくるように取った。
それは、金髪の陽気な顔の泥棒、グレゴロビッチの窓敷居に、ひょいと腰掛けていた若者で、銀の枠からハリーに向って、くつろいで笑っていた。そして、ハリーは即座に、この若者の顔を、前にどこで見たかを思い出した。「アルバス・ダンブルドアの生涯と偽」の中で、十代のダンブルドアと腕を組んでいたのだ。なくなった写真は全部そこに行ったに違いない。つまり、リータの本だ。
「バグショット――夫人、さん?」彼は言ったが、その声は少し震えていた。「これは誰ですか?」
バチルダは部屋の真ん中に立って、ハーマイオニーが、彼女の代りに暖炉に火をつけるのを見ていた。
「バグショットさん?」ハリーは、くりかえして、写真を手にして進み出た。暖炉で、ぱっと火が燃えあがった。バチルダは、彼の声の方を見あげた。ホークラックスが、胸の上でさらに早く脈打った。
「この人は誰ですか?」ハリーは彼女に尋ねて、写真を差し出した。
彼女は、それをまじめにじっと見て、それからハリーを見あげた。
「これが、誰だか分かりますか?」彼は、いつもより、ゆっくり大きな声で、くりかえした。「この男は? 彼を知ってる? 名前は?」
バチルダは、よく分からないようだった。ハリーは、ひどく欲求不満に感じた。リータ・スキーターはどうやって、彼女の記憶を明るみに出したのだろう?
「この男は誰?」彼は大声でくりかえした。
「ハリー、何やってるの?」とハーマイオニーが尋ねた。
「この写真、ハーマイオニー、泥棒、グレゴロビッチから盗んだ泥棒だ! お願い!」彼はバチルダに言った。「これは誰?」
けれど、彼女は、彼を見つめるだけだった。
「なぜ、私たちにいっしょに来るように言ったの、バチルダ――夫人、さん?」とハーマイオニーが、声を高めて尋ねた。「私たちに話したいことがあるの?」
バチルダは、ハーマイオニーの言葉が聞こえたようすは全く見せずに、足を引きずりながら数歩ハリーに近づいた。そして、首を少しぐいと動かして玄関の方を振り向いて見た。
「僕たちに帰ってほしいのか?」彼が尋ねた。
彼女は、その仕草をくりかえした。今度は、最初に彼を、それから彼女自身を、それから天井を指した。
「ああ、分かった……ハーマイオニー、彼女は、僕に二階に上がってほしいんだと思うよ」
「いいわ」とハーマイオニーが言った。「行きましょう」
だが、ハーマイオニーが動くと、バチルダが、驚くほど激しく首を横にふった。そしてもう一度、最初に彼を、それから彼女自身を指した。
「彼女は、僕だけにいっしょに行ってほしいんだ」
「どうして?」とハーマイオニーが尋ねたが、その声は、ロウソクの灯った部屋に鋭く、はっきり響いた。老女は、その大きな物音に、小さく首を横にふった。
「きっとダンブルドアが、剣を僕に、僕だけに渡すように、彼女に言ったとか?」
「あなたが誰かを、彼女が知ってると、ほんとに思ってるの?」
「うん」とハリーが、彼の目にしっかり据えられた白く濁った目を見おろしながら言った。「そう思う」
「うーん、それならいいわ、でも早くしてね、ハリー」
「案内して」ハリーがバチルダに言った。
彼女は、その言葉が分かったように、彼の近くに足を引きずりながら歩いてきて、扉の方に向った。ハリーは、ちらっと振り向いて、ハーマイオニーに安心させるように笑いかけたが、気がついたかどうかは分からなかった。彼女はロウソクに照らされた不潔さの真ん中で、両腕で自分の身を抱きしめて、本棚の方を見ながら立っていたからだ。ハリーは、部屋から出るとき、ハーマイオニーにもバチルダにも気づかれないうちに、見知らぬ泥棒の銀枠の写真立てを上着の中に滑りこませた。
階段は、せまくて急だった。ハリーは、彼女が、今にもぐらついて後ろ向きに、彼の上に落ちかかってきそうだったので、そうならないように、太ったバチルダのお尻に両手を当てたい誘惑にかられそうだった。彼女は、少しぜいぜい息をしながら、ゆっくりと、上の踊り場まで上り、すぐ右に曲がって、天井が低い寝室に、彼を連れていった。
そこは、真っ暗闇で、ひどくいやな臭いがした。ハリーは、バチルダが扉を閉める前に、ベッドの下から室内用便器が突きだしているのを、ちょうど見たが、それさえも、暗闇に飲みこまれていた。
「ルーモス<光よ>」とハリーが言うと杖が点火した。彼は、はっと驚いた。バチルダが、この数秒間の暗闇の間に、すぐ近くまで来ていたのだ。彼女が動く音も聞こえなかったのに。
「お前は、ポッターか?」彼女はささやいた。
「そうだ」
彼女は、ゆっくり、おごそかな様子で、頷いた。ハリーは、ホークラックスが、速く、自分の心臓より速く脈打つのを感じた。それは、不快な、心をかき乱される感覚だった。
「僕にくれるものが、あるのか?」ハリーは尋ねたが、彼女は、点火した杖の先に気を取られていた。
「僕にくれるものが、あるのか?」彼は繰り返した。
そのとき、彼女が目を閉じた。すると、幾つかのことが同時におきた。ハリーの傷跡が、ひどくチクチク痛みはじめた。ホークラックスがぴくぴく動いたので、ハリーのセーターの全面が、ほんとうに動いた。暗く悪臭のする部屋が一瞬、溶けた。彼は、喜びで胸が高鳴るのを感じ、高く冷たい声で言った。「やつを捕まえろ!」
ハリーは、立っている場所で、ゆれた。暗く、ひどい臭いの部屋が、また戻ってまわりに近づいてくるようだった。彼は、今、何がおきたのか分からなかった。
「僕にくれるものが、あるのか?」彼は、もっと大きな声で、三度目に尋ねた。
「向こうに」彼女が、部屋の隅を指しながら、ささやいた。ハリーが杖を上げると、カーテンを閉じた窓の下の散らかった化粧テーブルの輪郭が見えた。
今度は、彼女は、彼を先に立って案内しなかった。ハリーは、彼女から目を離したくはなかったので、杖を上げて、彼女と、整えていないベッドのあいだを体を斜めにして通っていった。
「それは何だ?」彼は、化粧テーブルのところに着いたときに尋ねた。そこには、汚れた洗濯物のように見え、そんな臭いがするものが山と積まれていた。
「そこに」彼女は、形のないかたまりを指して言った。
そして、彼が、剣の柄やルビーはないかと、もつれ合ったごった返しを、くまなく見ようと、目を離した瞬間、彼女は、薄気味悪い動きをした。彼は、それを目の端で、ちらっと見た。狼狽してふりむくと、恐れで体が麻痺したように動けなくなった。老齢の体が崩れるように倒れ、彼女の首があったところから、大きな蛇が、はい出してきたのだ。
彼が杖を上げたとき、蛇が攻撃してきた。前腕に噛みつこうとする勢いで、杖がくるくる回って天井に飛ばされてしまった。杖の光が、見ているとめまいがしそうに部屋中をふらふら飛び回って消えた。それから、尾からの強力な一撃が、ハリーの腹に当たって息が詰まった。そして化粧テーブルの上の汚れた衣服の山の中に仰向けに倒れた。
彼は、横にころがって、なんとか尾の一撃を免れた。それは、彼が一秒前にいた机の上を強烈に打ちつけた。彼が床にころがりおちたとき、ガラスの破片が、その上に雨のように降りそそいできた。下から、ハーマイオニーが「ハリー?」と呼ぶのが聞こえた。
彼は、まだ息が詰まって、肺に空気が入れられなかったので、呼びかえす力がなかった。そのとき、重く滑らかな固まりが、彼を床に叩きつけた。そして、体の上にずるずるとはい上ってくるのを感じた。力強く、たくましいものが、ー
「よせ!」彼は、動けないよう床に押しつけられて、あえぎながら言った。
「やるぞ」その声がささやいた。「やるぞ……お前を捕まえる……捕まえる……」
「アクシオ<来たれ>……アクシオ、杖……」
しかし、何も起きなかった。彼は、両手で蛇を追いはらおうとしなくてはならなかった。蛇は、彼の銅に巻きつき、肺の空気を絞りださせ、ホークラックスを胸に押しつけさせた。ホークラックスは、狂わんばかりに脈打つ自分の心臓から数センチ離れたところで、生き生きと鼓動する氷の輪だった。彼の頭に冷たく白い光が満ちあふれ、すべての思考を消し去った。消えていく自分の息、遠くの足音、すべてが行ってしまう……
金属の心臓が、彼の胸の外側で、激しく脈打っていた。彼は、飛んでいた。勝利の喜びを心に抱いて飛んでいた、箒もセストラルも必要なかった……
彼は、酸っぱい臭いがする暗闇の中で、いきなり目覚めた。ナギニが、彼を解放していた。そこで、なんとか起きあがり、踊り場からの光で、攻撃する蛇の輪郭を見た。ハーマイオニーが悲鳴を上げて横に飛びのいた。彼女が放った呪文が逸れて、カーテンを閉じた窓に当たり、窓が粉々に壊れた。ハリーが、また壊れたガラスが降ってくるのを避けようと首をすくめたとき、凍るような大気が部屋いっぱいに入りこんだ。そして、何かに足を滑らせた、鉛筆のような何か――彼の杖だ――
彼は、かがんで、それをさっと取った。けれど、今や部屋中、蛇が占領していて、尾で打ちまくっていた。ハーマイオニーの姿が見えなかったので、一瞬ハリーは最悪を考えた。が、そのとき、大きなドンという物音と赤い閃光が上がり、蛇が、ぐるぐるにとぐろを巻いて空中に浮かびあがった。蛇が浮かぶ途中に、ハリーは、顔をひどくぴしゃりと打たれた。ハリーは杖を上げたが、そのとき傷跡が、ここ何年なかったほど、ひどく強く焼けるように痛くなった。
「あいつが来る! ハーマイオニー、あいつが来るぞ!」
ハリーが叫んだとき、蛇が、激しくシューシュー言いながら落ちた。すべてが混乱した。蛇は壁から棚を叩き落として粉々にし、割れた陶器がいたるところに飛びちった。ハリーは、ベッドに飛びあがり、ハーマイオニーだと思った黒っぽい姿を掴んだ。
彼女は、ベッドの向こうから引っぱられて痛くて悲鳴をあげた。蛇が鎌首をもたげたが、ハリーは、蛇よりももっと悪いものが来て、多分、もう門のところにいるのが分かっていた。傷跡の痛みで、頭が割れて開きそうな気がした、ー
彼が、ハーマイオニーを引きずって、走りながら飛んだとき、蛇が突きを入れてきた。それが攻撃したとき、彼女が「コンフリンゴ!<爆破せよ>」と叫んだ。するとその呪文が部屋の中を飛んて、衣装ダンスの鏡を爆破させ、破片が床から床へ、跳ねて飛びながら、彼らの方に戻ってきた。ハリーは、その熱で、頭の後ろが焼けるのではないかと思った。ハーマイオニーを引っぱってベッドから壊れた化粧テーブルの上に飛んだとき、ガラスの破片でほおを切った。それから、壊れた窓から、無の中へ飛びだした。彼らが空中で身をよじらせたとき、彼女の悲鳴が夜の中に響きわたった……
そのとき、傷跡がぱっと開き、彼はヴォルデモートだった。そして彼は汚い寝室を横切って走っていた。その長い、白い手が窓敷居をつかんでいた。そのとき、禿げ頭の男と、小柄な女が、身をよじって消えた。彼は、憤怒の叫びをあげたが、その叫びは、娘の叫び声と混ざり、クリスマスに鳴っている教会の鐘の音より大きな音で、暗い庭に響いていった……
そして、彼の叫び声は、ハリーの叫び声だった。彼の痛みは、ハリーの痛みだった……こういうことが、ここで起こる可能性はあった、過去にも起こったのだから……ここ、すなわち、あの家が見えるところで。あの家で、かつて死ぬというのがどういうことか、もう少しで分かりそうになった……死ぬ……たいそうひどい苦痛だった……肉体から、ひき裂かれて……しかし、肉体がないのなら、どうしてこんなに、頭が、ひどく痛むのだろう、もし死んだのなら、どうして、こんなに耐えがたく感じることがあるのだろう、苦痛は死とともに、止まないのか、なくならないのか……
【その夜は、雨が降り、風が吹いていた。子供が二人、カボチャの扮装をして、広場をよたよた歩いてきた。店のショーウィンドウは紙のクモや、マグルの仮想世界のうわべだけの安っぽい装飾でおおわれていた。そういう世界の存在を、彼らは信じていないくせに……彼は、滑るように進んでいた。こういう場合には、いつも、自分の中に決意と力と正当性の感覚があるのが分かっている……怒りではない……それは、もっと弱い魂が感じるものだ……そうではなく、勝利感、そうだ……それを待ち望んでいたのだ……
「すてきな衣装だね、おじさん!」
小さな男の子が、彼のマントのフードの下が見えるほど近づいてくると、笑いがゆらぎ、そのペイントした顔が、恐れで曇るのを、彼は見た。それから、その子は向きを変えて逃げだした……彼はローブの下で、杖の取っ手をいじっていた……たった一つの動きで、あの子供は母親のところに着けないだろう……だが、必要ない、全く必要ない……
そして、次のもっと暗い通りを、彼は進んだ。とうとう目的地が見えてきた。忠誠の呪文は破れた。彼らは、まだそれを知らないが……彼は、歩道を滑っていく枯葉よりも音をたてなかった。そのとき彼は、黒っぽい生け垣と同じくらいに身をかがめて、のぞき込んだ……
カーテンは引かれていなかった。彼らが小さな居間にいるのがとてもはっきりと見えた。背の高い黒髪の眼鏡をかけた男が、杖からいろいろな色の煙を吹きださせて、青いパジャマを着た黒髪の小さな男の子を喜ばせていた。その子は笑いながら、煙を捕まえようと、小さなこぶしで握ろうとした……
扉が開いて、その子の母親が入ってきて、何かしゃべったが彼には聞きとれなかった。長い暗赤色の髪が、彼女の顔のまわりに垂れていた。父親が、息子をさっと抱きあげて、母親に渡した。そして、杖をソファに投げだし、のびをして、あくびをした……
彼が、門を押したとき、少しきしんだ。しかし、ジェイムズ・ポッターには聞こえなかった。彼の白い手が、マントの下の杖を引きだし、それで扉を指した。扉はさっと開いた。
彼が、戸口の敷居をまたいだとき、ジェイムズが、玄関に全力で走りこんできた。簡単だ、簡単すぎる、相手は杖を取りあげてもいない……
「リリー、ハリーを連れて逃げろ! 彼だ! 行け! 走れ! 僕が彼を寄せつけないようにするから――」
彼を寄せつけない、杖を持たずに!……彼は笑って、呪文を放った……
「アバダ・ケダブラ!」
緑の閃光が、狭い玄関に満ち、壁に押しつけてあった乳母車を照らし、手すりを稲妻のように輝かし、ジェイムズ・ポッターは、糸が切れた操り人形のように倒れた……
二階から彼女が悲鳴をあげるのが、彼に聞こえた。彼女は、閉じこめられているが、分別があるかぎり、少なくとも、恐れるものはない……彼は階段を上りながら、彼女が自分のまわりをバリケードで囲おうとしている音を聞いて、かすかにおもしろがった……彼女は杖を持たないも同然なのだ……彼らは、何と愚かなのか、何と信用しやすいのか。自分たちの身の安全を友人にゆだねるとは。そのような防御の手段は、いつ何どき見捨てられるかもしれないのに……
彼は、扉を押しあけた。杖をゆったり一振りして、扉の反対側に急いで積み上げた椅子や箱を脇に放りなげた……そこに彼女が、子供を抱いて立っていた。彼を見ると、彼女は、子供を後ろのベビーベッドに下ろし、両手を広げた。それが、助けになるかのように、子供を見えなくすることで、代りに彼女が選ばれるのを望むかのように……
「ハリーは駄目、ハリーは駄目、どうか、ハリーは、止めて!」
「そこをどけ、ばかな娘だ……さあ、そこをどけ……」
「ハリーは駄目、どうか、止めてください、私に、代わりに私を殺せばいい……」
「これが最後の警告だ……」
「ハリーは駄目! どうか……お願い……見逃してください……ハリーは止めて! ハリーは止めて! どうか……私、何だってしますから……」
「そこをどけ、娘よ。そこをどくのだ」
力ずくでベビーベッドから押しのけることだってできた。しかし、彼らを全員殺す方が、間違いないと思った……
緑の閃光が、部屋に満ち、彼女は夫と同じように倒れた。子供は、今度まったく泣かなかった。立つことができ、ベビーベッドの手すりをつかんで、楽しそうに興味津々で侵入者の顔を見上げた。マントに隠れて、もっときれいな光を出してくれたのはパパで、ママは、すぐに笑いながら、さっとあらわれるとでも思っているのかもしれなかった――
彼は、子供の顔に、とても注意深く杖を向けた。説明し難いほどに危険な存在が破壊される瞬間を、彼はその目で見届けたかった。子供は泣きはじめた。彼がジェイムズでないのが分かったのだ。子供が泣くのは嫌いだった。孤児院で、小さな餓鬼がひいひい泣くのにまったく我慢できなかったものだ――
「アバダ・ケダブラ!」
すると、彼は壊れた。彼は無だった。苦痛と恐れ以外、何もなかった。身を隠さなくてはならない。ここ、子供が閉じこめられて叫び声をあげている崩れた家のがれきの中ではなく、ずっと遠くへ……ずっと遠くへ……】
「嫌だ」彼は呻いた。
【蛇が汚く散らかった床の上をサラサラと動いた、彼は、あの子を殺したのに、彼が、あの子だ……】
「違う……」
【そして今、彼は、バチルダの家の壊れた窓のところに立って、最大の失敗の記憶に浸っていた。その足下に、大きな蛇が、壊れた陶器やガラスの上をずるずると滑っていた……彼は、見おろして、何かを見た……信じられない何かを……】
「だめ……」
「ハリー、大丈夫、あなたは大丈夫よ!」
【彼は屈んで、粉々になった写真立てを拾いあげた。そこに、あいつがいた、見知らぬ泥棒、彼が探している泥棒が……】
「だめ……それ、僕が落としたんだ……僕が落としたんだ……」
「ハリー、大丈夫、起きて、起きて!」
彼は、ハリーだ……ハリーだ、ヴォルデモートではない……さらさら言っているのは蛇ではない……
彼は、目を開いた。
「ハリー」ハーマイオニーがささやいた。「あなた、大――大丈夫?」
「うん」彼は嘘をついた。
彼はテントの中にいた。低い寝棚に、たくさん毛布をかけて寝ていた。静けさと、キャンバス地の天井から来る冷たく単調な光の感じから、夜明け近いという気がした。彼は汗びっしょりだった。シーツと毛布の中でもそれを感じた。
「僕たち、逃げてきたんだ」
「そうよ」とハーマイオニーが言った。「あなたを寝棚に寝かすのに、持ちあげられなかったから、空中に浮かせる呪文を使わなくちゃならなかったわ。あなたは、ずっと――そのう――いつもみたいじゃなくて……」
彼女の茶色の目の下には、紫色のくまができていて、手にスポンジを持っているのに、ハリーは気がついた。彼の顔を拭いていてくれたのだ。
「あなた、具合が悪かったの」彼女が言いおえた。「すごくひどかった」
「僕たちが、逃げてからどのくらいたった?」
「何時間も前。もうすぐ朝よ」
「で、僕は、ずっと……何、意識がなかった?」
「そう言うわけでもなくて」とハーマイオニーが落ちつかなげに言った。「叫んだり、呻いたり、それから……いろいろ」彼女はつけ加えたが、その口調が、ハリーを不安にさせた。彼は、何をしたんだろう? ヴォルデモートのように呪文を叫んだのか、ベビーベッドの赤ん坊のように泣いたのか?
「あなたから、ホークラックスを取りはずせなくて」ハーマイオニーが言った。彼は、彼女が話題を変えたがっているのが分かった。「あれ、くっついて、あなたの胸に、くっついていたの。跡が残ってるわ。ごめんなさい、私、あれを取りはずすために、切る呪文を使わなくちゃならなかったの」それから、あなた、蛇に噛まれてた。でも傷口をきれいにして、薬草ディタニーをつけたから……」
彼は、着ていた汗まみれのTシャツを、何とか脱いで、自分の胸を見おろした。心臓の上に、真っ赤な楕円形があった。ロケットでやけどしたところだ。また、前腕に、穴になった治りかけた跡があった。
「ホークラックスは、どこにやった?」
「バッグの中。しばらく離しておいた方がいいと思って」
彼は、また、寝床に横になって、彼女のやつれた青白い顔をのぞきこんだ。
「ゴドリック盆地に行くべきじゃなかった。僕のせいだ、みんな僕のせいだ、ハーマイオニー、ごめん」
「あなたのせいじゃないわ。私も行きたかったんだもの。ダンブルドアが、ほんとに、あそこに、あなた宛に剣を置いたかもしれないと思ったんだから」
「ああ、うーん……それは、僕たち、間違ってたね?」
「何があったの、ハリー? 彼女が、あなたを二階に連れていったとき、何があったの? 蛇がどこかに隠れてたの? それが出てきて、彼女を殺して、あなたを襲ったの?」
「違う」彼が言った。「彼女が蛇だった……というより、蛇が彼女だったんだ……最初からずっと」
「な、何ですって?」
彼は目を閉じた。まだ、バチルダの家の臭いを思い出すことができた。その臭いが、おこった出来事すべてを生々しく思いださせた。
「バチルダは、しばらく前に死んだに違いない。蛇は……彼女の中にいた。『例のあの人』が、そこに蛇を入れて、ゴドリック盆地で待っていたんだ。君の言うとおりだった。彼は、僕が戻ってくるのを知っていた」
「蛇が、彼女の中にいたんですって?」
彼は、また目を開けた。ハーマイオニーは、むかむかして吐きそうな顔をしていた。
「ルーピンが、僕たちが想像もしない魔法があると言った」ハリーは言った。「彼女は、君の前では話したがらなかった。あれはパーセルタング(蛇の言葉)だったから、みんなパーセルタングだったからだ。 なのに僕は気づかなかった、けど、もちろん、僕には彼女の言うことが分かった。僕たちが二階の部屋に入ると、蛇は、例のあの人に知らせを送った。僕は、それを頭の中で聞いた。彼が興奮するのを感じた。彼は、僕を、そこに捕まえておけと言った……で、それから……」
彼は、蛇がバチルダの首から出てくるのを思いだした。ハーマイオニーは、細かいところを知る必要はない。
「……彼女は変わった、蛇に変わって、襲ってきた」
彼は、腕の、穴が開いた跡を見下ろした。
「僕を殺す気はなかった。例のあの人が来るまで、僕を、あそこに置いときたかっただけだ」
もし何とかして蛇を殺すことさえできれば、その価値はあった、昨日行った価値はあったのに……心を悩ませながら、彼は起きあがって、おおいをはねのけた。
「ハリー、だめ、ぜったいに休まなくちゃいけないわ!」
「君こそ眠らなくちゃいけない。怒るなよ、けど、ひどい顔してる。僕は元気だ。しばらく見張りを替るよ。僕の杖はどこだ?」
彼女は、答えずに、ただ彼の顔を見ていた。
「僕の杖はどこだ、ハーマイオニー?」
彼女は、目に涙を浮かべて、唇をかみしめていた。
「ハリー……」
「僕の杖はどこだ?」
彼女は、ベッドの側に来て、それを、さしだした。
ヒイラギとフェニックスの杖は、ほとんど二つに切れかかっていた。フェニックスの羽の、か細い一本の糸だけで、両方がつながっていた。木は、完全に裂けていた。ハリーは、それが瀕死の重傷を負った生き物であるかのように、両手に取った。まともに考えることができなかった。すべてが、パニックと恐れで、ぼやけていた。それから、それをハーマイオニーに、さしだした。
「直して、お願い」
「ハリー、できないと思うわ、こんなふうに壊れてしまっては――」
「お願い、ハーマイオニー、やってみて!」
「レ、レパロ<修理せよ>」
ぶら下がって垂れていた半分が、ひとりでにくっついた。ハリーが、それを持った。
「ルーモス!<光よ>」
杖は弱々しく火花を出し、それから消えた。ハリーは、それでハーマイオニーを指した。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」
ハーマイオニーの杖が、少し、ぐいっと動いたが、手からは離れなかった。不十分な魔法の試みは、ハリーの杖には荷が重かったのだろう。それはまた二つに裂けてしまった。彼は、恐怖のあまり仰天して、それを見つめていたが、目の前のものが、現実だと受け入れることができなかった……あんなに何度も生きのびてきた杖が……
「ハリー」ハーマイオニーが、囁いたが、とても小さな声だったので、彼には、ほとんど聞こえないくらいだった。「ほんとに、ほんとに、ごめんなさい。私のせいだと思うの。私たちが逃げだそうとするとき、ほら、蛇が向ってきたから、私、爆破する呪文を放ったでしょ。それが、いろんなところに当たって、はねかえって、それが、きっと――きっと当たって――」
「偶然の事故だよ」とハリーが機械的に言った。虚ろで、呆然としていた。「それ、ー、それを直す方法を探そう」
「ハリー、直せないと思うわ」とハーマイオニーが、涙をぽろぽろ流しながら言った。「覚えてる……覚えてる、ロンを? 彼が、車をぶつけて、杖を壊したときを? 元通りにはならなかったわ、彼は新しいのを買わなくちゃならなかった」
ハリーは、オリバンダーのことを考えたが、ヴォルデモートに誘拐され、人質になっている。グレゴロビッチは死んでしまった。どうしたら新しい杖が手に入るだろう?
「ええと」彼は、事務的な声を作って言った。「ええと、それじゃ、今だけ、ちょっと君のを借りるよ。見張りする間」
彼女の顔中、涙で濡れていた。ハーマイオニーは、自分の杖を手渡した。彼は、彼女が寝床のそばに腰掛けている場を立ち去った。ただもう、彼女のそばから離れたいと願うだけだった。
第18章 アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り
The Life and Lies of Albus Dumbledore
日が上った。澄んだ無色の広大な空が、彼にも、彼の苦しみにも無関心に、頭上に広がっていた。ハリーは、テントの入り口に座って、澄んだ大気を深く吸いこんだ。ただ生きて、太陽が、きらきら輝く雪が積もる丘の斜面の向こうから上るのを見ることが、この世で最高の宝だったはずだが、それをありがたいと思えなかった。杖を失くすという災難が心に打ちつけられたのだ。向こうの雪で覆われた谷の方を見ると、遠くの教会の鐘が、日光に輝く静寂の中に鳴っていた。彼は、無意識のうちに、肉体的な苦痛に抵抗しようとでもするように、腕に指をくいこませていた。これまで数え切れないほど何度も、自分の血を流してきた。右腕の骨を全部なくしたことも一度ある。この旅でも、もう胸と前腕の傷跡が、手と額の傷跡に加わった。けれど、このときほど、致命的に無力で、傷つきやすく、むき出しだと感じたことはなかった。自分の魔法の力の最高の部分が引きちぎられたようだった。もし、こういうことのどれかを言ったら、ハーマイオニーは、「杖の力は、魔法使いの力次第よ」と言っただろう。けれど、彼女は、まちがっていた。彼の場合は、そうではなかった。彼女は、杖が羅針盤の針のようにぐるぐる回転して、敵に対し金色の炎を放ったような経験がない。彼は、双子の芯の保護の力を失った。そして、それを失った今こそ、どんなにそれを当てにしていたかを悟った。
彼は、ポケットから壊れた杖を引きだして、見ないようにしながら、首にかけたハグリッドの袋に押しこんだ。袋は、もう、壊れて役にたたないものでいっぱいで、一つを選んで取りだせないほどだった。手が、ロバの皮を通して、古いスニッチにかすった。一瞬、彼は、それを引っぱりだして、投げすてたい衝動にかられた。不可解で助けにならず、役にたたない、ダンブルドアが遺した他のものすべてと同じだ――
そして、ダンブルドアに対する激しい怒りが、急に起こって、彼の中を溶岩のように焦がし、他の感情をすべてぬぐい去った。ハリーとハーマイオニーは、全くの絶望感から、ゴドリック盆地に答えがあると信じるようになって、そこに行くことが、ダンブルドアが彼らのために仕組まれた秘密の一部だと確信した。けれど、地図もないし、計画もなかった。ダンブルドアは、彼らに、暗闇で手探りさせ、手助けもなく彼らだけで、今まで知らない夢にも見たことがない恐怖と格闘する状態に放りこんだ。何も説明されず、何も気前よく与えられなかった。剣もなく、今やハリーには杖もなかった。それに、彼は、泥棒の写真を落とした。だから、きっとヴォルデモートが、泥棒が誰かを見つけ出すのはたやすいだろう……今は、ヴォルデモートが、すべての情報を持っている……
「ハリー?」
ハーマイオニーは、彼が、彼女の杖で、呪文をかけるのではないかと恐れているようだった。彼女の顔には、涙の筋があった。彼女は、彼のそばにしゃがんだ。お茶のカップが彼女の手で震えていて、腕の下に、何かかさばったものを抱えていた。
「ありがと」彼は言って、カップを取った。
「話してもいいかしら?」
「いいよ」彼は、彼女の気持ちを傷つけたくなかったので、そう言った。
「ハリー、あなた、写真の男が誰か、知りたがってるでしょ。あのね……私、本を持ってるの」
彼女は、おずおずと、彼の膝の上に置いた。「アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り」の初版本だった。
「どこで――どうやって――?」
「バチルダの部屋にあったの、ちょうど、そこに置いてあった……このメモが、その上の方から突きだしていたの」
ハーマイオニーは、先の尖った、どぎつい緑色で、二、三行書かれたものを。声を出して読んだ。
「『親愛なバチィ、助力に感謝するわ。本を送るから、気に入ってくれるように。あなたは、すべて語ってくれたわ、覚えていないかもしれないけれどね。リータ』これは、本物のバチルダが生きている間に届いたと思うわ。でも、多分、彼女は本を読める状態ではなかったんじゃないかしら?」
「そうだね、きっと、そうだ」
ハリーは、ダンブルドアの顔を見おろし、凶暴な喜びが湧いてくるのを感じた。ダンブルドアが彼に知ってほしいかどうかにかかわらず、ダンブルドアが彼に話す必要がないと思ったことすべてを、今、知ろうとしているのだ。
「あなた、まだ私のこと、すごく怒ってるんでしょ?」とハーマイオニーが言った。見上げると、彼女の目から、新たな涙が流れだしたのに気がついたので、彼は、自分の怒りが顔に表れていたのに違いないと思った。
「いや」彼は静かに言った。「いや、ハーマイオニー、あれは、偶然の事故だったんだ。君は、僕たち二人を、あそこから生きて戻そうとしてくれた。君は、すごかったよ。君が助けにきてくれなかったら、僕は死んでいただろう」
彼は、弱々しいが笑い返そうとして、それから本に注意を向けた。背表紙が固かった。明らかに一度も開かれたことがなかった。ページをぱらぱらとめくって、写真を探すと、ほとんどすぐに探していたものに行き当たった。若きダンブルドアと、ハンサムな友だちが、ずっと昔に忘れられたジョークに大笑いしている写真だ。ハリーは、添えられた説明文に視線を向けた。
「アルバス・ダンブルドア、母の死後まもなく、友人のゲラート・グリンデルワルドとともに」
ハリーは最後の言葉をかなり長いこと、ぽかんとして見つめていた。グリンデルワルド。友人のグリンデルワルド。彼は、横目にハーマイオニーを見た。彼女は、まだ、自分の目が信じられないかのように、その名前をじっと見つめていた。ゆっくりと、彼女はハリーを見あげた。
「グリンデルワルド?」
残りの写真は無視して、ハリーは、その致命的な名前がまた出てこないかと、そのあたりのページを探した。まもなく、見つけたので、むさぼるように読んだが、途方にくれた。すべての意味を理解するには、もっとずっと前から読む必要があった。結局、「より大きな公益」という題の章の最初に行きついて、彼とハーマイオニーは一緒に読みはじめた。
【さて、十八才の誕生日が近づいたとき、ダンブルドアは輝かしい栄光のうちにホグワーツを卒業した――首席、監督生、特別優れた呪文をかける者に贈られるバーナバス・フィンクリー賞受賞、魔法裁判所のイギリス青年代表、カイロにおける国際錬金術会議への革新的な貢献により金メダル受賞。次に、ダンブルドアは、学生時代に拾った、まぬけだが献身的な仲間、エルフィアス・「言いなり」ドージと世界巡遊旅行をしようと思った。
二人の若者は、翌朝ギリシャに出発するためロンドンの漏れ鍋亭に泊まった。そこに、ダンブルドアの母の死を告げるフクロウ便が届いた。「言いなり」ドージは、この本のためのインタビューを断ったが、次に起こったことについて、お涙頂戴の自分の脚色版を、公表した。彼は、ケンドラの死を悲劇的な打撃と、またダンブルドアが旅行を取りやめる決心をしたことを高貴な自己犠牲の行為だと表現した。
ダンブルドアがゴドリック盆地にすぐに戻ったのは確かだ。年下の弟と妹を「気遣う」ためだと思われた。だが、実際には、どの程度、気遣ったのだろうか?
「彼は、いかれてたよ、あのアベルフォースはね」と、当時、家族がゴドリック盆地の村はずれに住んでいたイニド・スミークが言う。「やりたい放題だった。そりゃ、両親が亡くなってたから気の毒だとは思ったが、ヤギの糞を頭に投げられた。アルバスは気にしていなかった。とにかく二人がいっしょにいるところを見たことがなかったよ」
では、乱暴者の弟を宥めているのでなかったら、アルバスは何をしていたのだろうか? その答えは、妹を引き続き確実に監禁しておくことであったようだ。というのは、最初の看守である母の死後も、アリアナ・ダンブルドアの哀れな境遇に何の変化もなかったからだ。彼女の存在そのものが、引き続き、ごく少数の部外者にしか知られていなかった。それは、「言いなり」ドージのように、彼女が「虚弱だ」という作り話を信じこむと期待できる者たちだった。
このように簡単に信じこんだ家族の友だちの一人が、名高い魔法歴史家のバチルダ・バグショットだ。彼女は、長年ゴドリック盆地に住んでいた。もちろん、ケンドラは、引っ越してきたとき最初に挨拶に来たバチルダを、すげなく拒絶した。しかし、数年後、著述家は、「今日の変身術」に載った「種を越えた変身術」の論文に感心して、ホグワーツのアルバスにフクロウ便を送った。そしてこの初めての連絡から、一家全員と知りあうことになった。ケンドラが亡くなったとき、バチルダはゴドリック盆地でただ一人、ダンブルドアの母と近所づきあいをする間柄だった。
不幸なことに、バチルダが、その人生のもっと早い時期に示した輝きは、曇ってしまった。「空の鍋が火にかけられていた」とアイボル・ディロンズビーが言ったとおり、またイニド・スミークの少し前の言葉「彼女は木の実のように気が変だ」もある。しかし、私は試みて検証するという報告のテクニックを組みあわせることにより、恥ずべき忌まわしい話の全貌に十分な量のしっかりした事実の固まりを引きだし、つなぎ合わせた。
魔法界の他の人々のように、バチルダも、ケンドラの早すぎる死の原因は、「呪文の逆噴射」のせいだとしている。後年、アルバスとアベルフォースがくりかえした話だ。バチルダは、またアリアナについても家族の説明を口まねし、彼女が「繊細」で「虚弱」だと言った。しかし、ある一つの問題については、私が自白剤を苦労して手に入れたかいがあった。というのは、バチルダが、彼女だけが、アルバス・ダンブルドアの生涯、うまく隠しおおせた秘密の全貌を知っているのだ。今やその秘密が初めて暴かれ、ダンブルドアの崇拝者たちが信じる彼のすべて、すなわち闇の魔法を憎んでいたと思われること、マグル虐待への反感、家族への献身へさえにも、異議が唱えられるのだ。
ダンブルドアが、親を亡くし、家族の長としてゴドリック盆地に帰ったその夏、バチルダ・バグショットは、兄弟の孫息子のゲラート・グリンデルワルドを受け入れることにした。
グリンデルワルドの名前は、当然のことながら有名である。空前の危険な闇の魔法使いのリストに上がっていて、一世代後、例のあの人が現れて、彼の王冠を奪ったからこそ、トップの座から滑りおちたのだ。しかし、グリンデルワルドは、その恐怖の政治的軍事的活動をイギリスには広げなかったので、彼が権力を握った詳細は、この国では広く知られてはいない。
グリンデルワルドは、当時でさえ、不幸にも闇魔術に寛容であったダームストラング校で教育を受けたが、ダンブルドアと同様、早くから極めて優秀であった。しかし、その能力を賞を獲得するために注ぐのではなく、ゲラート・グリンデルワルドは、他の方面に全力を向けた。十六才のとき、ダームストラング校でさえ、もうゲラート・グリンデルワルドの、よこしまな実験に見て見ぬふりができなくなり、彼は退学処分になった。
従来、グリンデルワルドの次の行動として知られているのは、「数ヶ月間、旅行した」ということである。実は、グリンデルワルドは、ゴドリック盆地の大叔母を尋ねることを選び、そこで、これを聞く多くの者にとってひどく衝撃的であろうが、他ならぬアルバス・ダンブルドアと親しく、つきあいはじめたということが明らかになったのだ。
「彼は、私には愛嬌がある子に見えたよ」とバチルダは、べちゃべちゃ、しゃべった。「彼が、その後どんなふうになろうとね。もちろん、私は、同じ年の友だちがいなくて寂しがっていた気の毒なアルバスに紹介したよ。あの子たちは、すぐに気が合った」
確かにそうだった。バチルダが保存しておいた手紙を見せてくれた。アルバス・ダンブルドアが、深夜、ゲラート・グリンデルワルドに送った手紙た。
「ああ、一日中議論して過ごした後でさえもね――二人とも、あんなに才気あふれた若者で、大鍋でことこと煮ているように仲がよかったよ――ときどき、アルバスの手紙を運んできたフクロウが、ゲラートの部屋の窓をコツコツ叩くのが聞こえたものさ! 考えが浮かぶと、すぐにゲラートに知らせたかったんだね!」
それは、どんな考えだったのか。アルバス・ダンブルドアの熱烈な支持者は、それを見てとても衝撃を受けるだろうが、ここに、のせるのが、彼らのヒーローが十七才のときに、新しい親友に伝えた考えである。(手紙の原本の写しは四六三ページを参照のこと)
「ゲラートへ、
『マグル自身の利益のために』魔法使いが支配するのだという君の話の要点は、決定的に重要な部分だと思う。
そうだ、僕たちは力を与えられている。そうだ、その力が、僕たちに支配する権利を与える。だが、それはまた、被支配者への責任も与える。僕たちは、その点も強調しなくてはならない。それが、僕たちが建てる理論の土台石になるのだ。僕たちは必ず抵抗されるだろうが、抵抗されるところでは、これを、相手の議論を言い負かす理論すべての基礎にするべきだ。僕たちは、「より大きな益のために」支配権を握るのだ。すると、そこからは、抵抗運動に出会ったとき、必要最低限の力だけを使えばよく、それ以上の力は必要ないということになる。(ここが、ダームストラングでの君の間違いだったんだ! けど、僕は文句は言わない、君が退学処分にならなかったら、僕たちは、出会うことがなかったんだからね)
アルバス」
多くの崇拝者たちは、ひどく驚き、ぞっとするだろうが、この手紙は、アルバス・ダンブルドアが、かつて国際秘密法を廃止し、魔法使いによるマグルの支配を夢見た証拠である。いつもダンブルドアをマグル出身者の最高の擁護者と表現していた者たちにとって、何という打撃だろう! この呪わしい新証拠に照らしてみると、マグルの権利を推進するという演説が、何と空虚に響くことか! 母の死を悲しみ、妹を気遣わなくてはならないときに、権力を得ようと画策するのに忙しいとは、アルバス・ダンブルドアは何と卑劣に思われることだろう!
断固として、ダンブルドアを、崩れかけている台座に据えておこうと決心している者たちは、彼は、結局は、その計画を実行に移すことはしなかった、心を入れ替えたに違いない、判断力を取り戻したのだ、とぐずぐず言うに違いない。しかし、真実は、まったくもって、もっと衝撃的のようだ。
新しい強い友情から、やっと二ヶ月経った頃、ダンブルドアとグリンデルワルドは別れ、伝説的な決闘で出会うまで二度と会うことはなかった。(決闘についての詳細は、二十二章参照)。この唐突な別れの原因は何か? ダンブルドアが判断力を取り戻したのか? グリンデルワルドに対し、もう君の計画には荷担したくないと言ったのか?
残念ながら、そうではない。
「それは、かわいそうなアリアナが死にそうになったときだったと思うよ」とバチルダが言う。「恐ろしいショックだった。それが起こったとき、ゲラートは、あの家にいたんだが、ひどくうろたえてこの家に戻ってきて、次の日、帰国したいと言った。恐ろしく動揺していてね。で、ポートキーを準備したんだが、それが、あの子に会った最後だった」
「アルバスは、アリアナの死で逆上した。あの兄弟にとって、たいそう恐ろしいことだった。互いの他は、家族が誰もいなくなっちまったんだからね。普段より、かっとしやすくなるのも無理はない。アベルフォースは、アルバスを責めた、ねえ、ああいう恐ろしい状況では、誰でもそうなるさ。だが、アベルフォースは、いつでも気が狂ったような話し方をした、かわいそうな子だよ。それにしても、葬儀の席でアルバスの鼻を壊したのは、穏当なふるまいとは言えなかった。妹の遺体を前に、あんなふうに兄弟が争っているのを見たら、母親のケンドラは、ひどく嘆いたことだろうよ。ゲラートが、葬儀まで残れなくて残念だった……少なくとも、アルバスの心の慰めにはなっただろうからね……」
棺のそばでの騒々しい喧嘩は、アリアナ・ダンブルドアの葬儀に参列したごくわずかの人にしか知られていないが、いくつかの疑問を呼び起こす。正確には、なぜアベルフォース・ダンブルドアは、妹の死に関してアルバスを責めたのだろうか? それは、「いかれた」バチィが取り繕うように、単なる悲しみの発露なのだろうか? それとも、彼の激怒には、もっと確固たる理由があるのか? グリンデルワルドは、同級生を襲って瀕死の重傷を負わせたためダームストラング校を退学処分になり、その少女の死後、数時間のうちに国外脱出した。また、アルバスは(恥のためか、恐れのためか?)魔法世界の嘆願により、決闘せざるを得なくなるまでは、決して、彼に会っていない。
ダンブルドアもグリンデルワルドも、後年、この短い少年時代の交友について言及していないようだ。しかし、ダンブルドアが、ゲラート・グリンデルワルドを攻撃するのを、五年間、争乱と事故と失踪が続いた後まで遅らせたのは疑いない。ダンブルドアを躊躇わせた原因は、かの男に対する好意がずっと残っていたせいか、それとも、かつては親友だったと暴露されるのを恐れたのか? ダンブルドアは、かつて、あんなに会うのを喜んでいた男を、嫌々、捕らえに行っただけなのだろうか?
そして、謎のアリアナは、どのように死んだのだろうか? 彼女は、何か闇の儀式の不慮の犠牲者なのか? 二人の若者が、栄光と支配の企てのために練習しているところに、行ってはいけない場面に出くわしてしまったのか? アリアナ・ダンブルドアが、「より大きな公益」のために死んだ最初の人間だということがあり得るのだろうか?】
その章は、そこで終わっていた。ハリーは見上げた。ハーマイオニーは、彼より早くページの最後まで読みおわっていた。彼女は、本をハリーの手から引きよせたが、彼の表情を見て少し驚いたようで、何か好ましくないものを隠すように、本を見ないで閉じた。
「ハリー――」
けれど、彼は首を横にふった。内なる確信が、彼の中で大きな音を立てて壊れた。ロンが去ったときに感じたのと、ちょうど同じだった。彼は、ダンブルドアを信用していた。善良と知恵の化身だと信じていたのに、すべては灰となって崩れてしまった。これ以上、何を失うのだろうか? ロン、ダンブルドア、フェニックスの杖……
「ハリー」彼女には、彼の考えが聞こえたようだった。「聞いてちょうだい。それ――それ、読むの、あまり、よくないわ――」
「ああ、その通りさ……」
「でも、忘れないで、ハリー、これ、リータ・スキーターが、えがいてるのよ」
「君だって、グリンデルワルドへの手紙、読んだろ?」
「ええ、わ、私……読んだわ」彼女は、冷たい両手でお茶のカップをゆすりながら、狼狽したようにためらっていた。「あれは、ちょっと最悪のとこだと思うわ。バチルダは、みんな単なる話だけだと思っていたみたいだけど、『より大きな公益のために』は、グリンデルワルドの標語になって、彼が後年おこなった残虐行為すべてを正当化したの。で、……その手紙からすると……彼に、その着想を与えたのは、ダンブルドアだったみたいね。『より大きな公益のために』は、ヌアメンガルドの入り口の上に彫ってあったと言われてるわ」
「ヌアメンガルドって何?」
「グリンデルワルドが、敵対者を収容するため建てた監獄よ。ダンブルドアに捕らえられた後、彼自身、最後はそこに入ることになった。ともかく――彼が権力を握るのを、ダンブルドアの着想が、手助けしたなんて、恐ろしい考えだわ。でも、一方で、リータでさえ、彼らがほんとに若い頃の夏、ほんの数ヶ月間以上、つきあっていたと言い張ることはできないし、それに――」
「君は、そう言うだろうと思ったよ」とハリーが言った。彼は、自分の怒りを、彼女にぶちまけたくはなかったが、声を平静に保つのは難しかった。「君が、『彼らがほんとに若い頃』と言うと思ったよ。彼らは、今の僕たちと同じ年なんだよ。で、僕たちは、ここで闇の魔法と戦うために命を賭けているのに、彼は、あそこで、新しくできた親友と、マグルを支配する計画の秘密会議をやっていたんだ」
彼の癇癪は、それ以上、押さえられなかったので、その少しでも振り落とそうとして、立ちあがって歩きまわった。
「私はダンブルドアが描いたことを弁護するつもりはないわ」とハーマイオニーが言った。「『支配する権利』のたわごとは全部ね。あれは『魔法は力なり』と同じことよ。けど、ハリー、彼のお母さんが亡くなったところで、家の中に一人でいなくちゃならなくて――」
「一人で? 彼は、一人じゃなかったよ! 弟と妹がいっしょにいた、彼が閉じこめていたスクイブの妹が――」
「私は、それは信じないわ」とハーマイオニーが言った。彼女も立ち上がった。「あの少女が、どこが悪かったとしても、スクイブだったとは思わない。私たちが知ってるダンブルドアは、そんなこと決して、決して、許さなかったでしょうよ――」
「僕たちが知ってると思っていたダンブルドアは、マグルを力で征服しようとは考えなかった!」ハリーは叫んだ。彼の声が、誰もいない丘の頂上にこだまして、ブラックバードが数羽、空中に飛びたって、鳴きながら、真珠色の空に急上昇していった。
「彼は変わったのよ、ハリー、彼は変わったの! とても簡単な事だわ! 十七才のときには、そういうことを信じていたかもしれないけど、彼のその後の人生は、すべて闇の魔法と戦うことに捧げられた! ダンブルドアこそ、グリンデルワルドを止め、いつもマグルの保護を支持し、最初から『例のあの人』と戦い、打ち倒そうとして亡くなった人よ!」
リータの本が、彼らの間の地面の上にあったので、ダンブルドアの顔が、二人に向って憂鬱そうに微笑んでいた。
「ハリー、ごめんなさい。でも、あなたが、そんなに怒る本当の理由は、彼が、自分であなたに、こういうことを何も話してくれなかったからじゃないかと思うの」
「そうかもね!」ハリーはどなって、両手をさっと頭の上に振りあげたが、怒りを抑えようとするのか、幻滅した気持ちの重みから、自分を守ろうとするのか、自分でも分からなかった。「彼が、僕に求めたことを見なよ、ハーマイオニー! 命を賭けろ、ハリー! そして、また! そして、また! 私が、すべてを説明すると期待するな、ただ盲目的に私を信用しろ、私が、何をやっているか分かっているのだと信用しろ、たとえ私が君を信用していなくても、君は私を信用しろ! すべての真実は明かされない! 決して!」
彼の声は緊張してうわずり、二人は、白い広大な空間の中で見つめあっていた。ハリーは、彼らが、広い空の下で、虫けらのように無意味な存在だと感じた。
「彼は、あなたを愛していたわ」ハーマイオニーが囁いた。「彼が、あなたを愛していたのを、私、知ってる」
ハリーは腕を下ろした。
「彼が誰を愛していたのか、僕は知らない、ハーマイオニー。けど、それは、ぜったいに僕じゃない。これは、愛じゃない、彼が、僕を放りこんだ窮地はね。彼は、自分の考えを、僕に、打ち明けるよりもっと、あの、くそいまいましい見解について、ゲラート・グリンデルワルドに、打ち明けたんだ」
ハリーは、雪の上に落としていたハーマイオニーの杖を取りあげて、テントの入り口に座りなおした。
「お茶をありがと。時間まで、見張りをやるよ。君は、暖かい中に戻って」
彼女は躊躇ったが、一人にしてほしいという意味だと悟り、本を取り上げ、彼のそばを通ってテントの中に入った。が、通りしなに、彼の頭に、手で軽く、さっと触れた。彼女が触れたとき、彼は目を閉じ、彼女が言ったこと、つまりダンブルドアが、ほんとうに愛していてくれたということが、ほんとうだといいなと望んでいる自分を憎んだ。
第19章 銀の雌鹿
The Silver Doe
真夜中、ハーマイオニーが見はりを交代したときには、雪が降っていた。ハリーの夢は、混乱し不安なものだった。夢の中で、ナギニが、いろいろな物から縫うように出たり入ったりした。最初は、巨大な割れた指輪から、それからクリスマスローズの花輪からだった。うろたえて何度も目覚めた。誰かが遠くで彼を呼んでいるに違いないと思ったが、テントのまわりで風がはためいているのを足音か声だと想像したのだろう。
ついに、彼は、暗がりで起きだして、ハーマイオニーといっしょになった。彼女は、テントの入り口で体を丸めて、杖の明かりで「魔法歴史」を読んでいた。雪はまだ、ひどく降っていた。早めに荷造りして移動しようという彼の提案を、彼女は、ほっとしたように受けいれた。
「もう少し、隠れられるところに行きましょう」と彼女は言って、身震いしながらパジャマの上にトレーナーを着た。「ずっと人が外を歩いているような気がしてたの。一、二度、人影を見たような気もしたし」
ハリーは、セーターを着るのを途中で止めて、机の上の、じっとして動かない侵入探知鏡をちらっと見た。
「きっと想像だと思うわ」とハーマイオニーが心配そうに言った。「暗闇の雪って、幻覚があらわれやすいから……でも、念のため、透明マントの中で、姿くらましした方がよくない?」
三十分後、テントを荷造りして、ハリーはホークラックスをかけ、ハーマイオニーはビーズのバッグをつかみ、二人は姿くらましをして、いつものように締めつけられた感じの中に飲みこまれた。ハリーの足は、地面の雪がついたまま地表を離れ、落ち葉におおわれた凍りついた地面の上に、ドシンと着地した。
「どこに来たんだ?」彼は、生き生きとした木々の集まりを見まわしながら、尋ねた。ハーマイオニーは、ビーズのバッグを開けて、テントの支柱を引きだしていた。
「ディーンの森」彼女は言った。「パパとママといっしょにキャンプしに来たことがあるの」
ここも、まわりの木々に雪が積もっていて、ひどく寒かったが、少なくとも風は、さえぎられた。彼らは、その日の大部分をテントの中で、便利な明るい青の炎のまわりで暖まりながら丸くなって過ごした。その炎は、ハーマイオニーの名人芸で、すくい取って、広口瓶に入れて運ぶことができた。ハリーは、短期間だが、たいそうひどい病気にかかっていたのから回復したように感じた。ハーマイオニーが、彼の身を気遣う様子からも、いっそうそういう気がした。その日の午後、新たに雪がひらひらと舞いおちてきたので、彼らの隠された空間へさえ、粉雪が新しく降りつもった。二晩、ほとんど寝ていないので、ハリーの感覚は、いつもよりもっと敏感になっていた。ゴドリック盆地からの脱出は、ほんとうに危機一髪のところだったので、ヴォルデモートが、何か以前よりも近づいていて、脅かしているように思われた。また暗くなってきたとき、ハリーは、見はりをするというハーマイオニーの申し出を断って、彼女に寝るように言った。
ハリーは、テントの入り口まで、古いクッションを移動してきて、座った。持っているセーターを全部着たが、それでもぞくぞくするほど寒かった。時間が経つにつれ、暗闇が深くなって、ほとんど見通しがきかなくなった。彼は、ジニーの点をしばらく見ていようと思って、盗人たちの地図を取りだしかけたが、今はクリスマス休暇なので、彼女は『隠れ家』に帰っているだろうと思いだした。森の広大な空間の中では、ほんの些細な動きでも拡大されるような気がした。ハリーは、森には生き物が、いっぱいいるに違いないと思ったが、彼らが、じっと静かにしていてくれるように願った。そうすれば、彼らの罪のない小走りやうろつく音と、他の邪悪な動きを表す物音とを区別することができるからだ。彼は、何年も前の、枯れ葉の上をかするマントの音を思いだし、すぐに、今また、その音を聞いたような気がして、心の中で震えた。彼らの防御の魔法は、ここ何週間も、効果があった。なぜ、今、破れることがあるだろう? けれど、今夜は何かが違うという感じを、ふりはらうことができなかった。
彼は数度、びくっと背筋をのばした。テントの側面に、ぎこちない角度ではまりこんで、ぐっすり眠りこんでいたので、首が痛かった。夜が更けて、ビロードのような黒さに深まっていたので、姿くらましと姿あらわしのあいだに宙づりになっているような不安定な気がした。顔の前に手をあげて、指が見えるかどうかためそうと思ったときに、それが、おこった。
輝く銀の光が、彼の右前方に現れ、木々のあいだを動いていった。その源が何であれ、音もなく動いていた。光は、真っ直ぐ彼の方に向って、ただよってくるようだった。
彼は、ぱっと立ちあがった。声は喉元で凍りついていたが、ハーマイオニーの杖を上げた。光がまぶしくて目がくらむので、目を細めて、そちらを見た。その前の木々は、影になって真っ黒だった。なおも、それは近づいてくる……
そのとき、光の源が、オークの木の後ろから躍りでた。それは、月光のように輝き、目がくらむような銀白色の雌鹿だった。なおも音をたてずに、静かに地面の上を進んできたが、細かい粉雪の上に、ひづめの跡は残らなかった。彼女は、長い睫毛の大きな目をして、美しい頭を高くそらせて、彼の方に歩いてきた。
ハリーは、その生き物をじっと見つめたが、彼女を見知らぬのではなく、説明のつかない親しさを感じたので、驚きの思いでいっぱいになった。彼女が来るのを、ずっと待っていて、会う約束がしてあったが、このときまで、それを忘れていたような気がした。ほんの少し前に感じた、ハーマイオニーを大声で呼ぼうという強い衝動は、消え失せた。そのシカが、彼のために、彼だけのために来たということが、命を賭けてもいいくらい、はっきり分かったからだった。
彼らは、かなり長い間見つめあった。それから、彼女は向きを変えて、歩きだした。
「だめ」彼は言ったが、声を使っていなかったので、かすれていた。「戻ってきて!」
彼女は、木々のあいだを、ゆっくりと歩きつづけた。まもなく彼女の輝きが、木々の太く黒い幹に縦縞模様にさえぎられた。ほんの震えるような一秒間、彼はためらった。注意しろ、と頭の中でつぶやきが聞こえた。計略、おとり、わなかもしれない。けれど、本能が、圧倒的な強さの本能が、これは闇の魔法ではないと告げていた。彼は、その跡を追った。
雪が、足の下でサクサクと音をたてた。けれど、雌鹿は、木々のあいだを通っていきながら、何の物音もたてなかった。彼女は、光以外の何者でもなかったからだ。森の中、どんどん深く、彼女は、彼を連れていった。ハリーは急いで歩いた。彼女が止まったら、ちゃんと近くに行かせてくれると思ったからだ。そしたら、彼女は、口をきいて、その声が、彼が知る必要があることを教えてくれるだろう。
とうとう、彼女は止まった。そして、もう一度、美しい頭を彼の方に向けた。彼は、走り出した。質問が頭の中で燃えあがるようだった。けれど、それを尋ねようと、口を開いたとき、彼女は消えてしまった。
暗闇が、彼女を完全に飲みこんだけれど、その光沢のある姿は、まだ彼の網膜に焼きついていた。それは、彼の視力をぼやけさせ、まぶたを下げたとき輝いて、方向感覚を失わせた。恐れが、やってきた。彼女の存在が安全を意味していたのだ。
「ルーモス!<光よ>」彼は囁いた。杖の先に火がついた。
雌鹿の面影は、まばたきするたびに消えていった。彼は、そこに立って、森の音や、遠くの小枝にひびが入る音や、雪の柔らかなサラサラいう音をじっと聞いていた。襲われるのだろうか? 彼女は、敵が待ちぶせしているところに誘いこんだのだろうか? 杖の光が届かないところに、誰かが立って、じっと彼を見守っているのは、想像だろうか?
彼は、杖をもっと高く上げた。誰も襲ってこなかった。木のあいだから、緑の閃光がほとばしることもなかった。それなら、なぜ彼女は、この場所まで、彼を連れてきたのだろうか?
何かが、杖の光の中で輝いたので、彼は、あたりを見まわしたが、そこには、小さな凍った池があるだけだった。杖をもっと高く上げて、それをよく見ようとしたとき、その池のひび割れた、黒い表面が輝いた。
彼は、かなり警戒しながら、進みでて、見おろした。氷に、杖の光とともに彼の姿がゆがんで映っていた。けれど、その厚い、ぼやけた灰色の亀の甲羅のような氷の下の深いところに、他の何かが、きらめいていた。大きな銀の十字架が……
心臓が、口元まで飛びあがるような気がした。水際に膝をついて、池の底を、できるだけ明るく照らせるように杖を傾けた。深赤色のきらめき……それは、柄にルビーが輝いている剣だ……グリフィンドールの剣が、森の池の底に置かれていた。
彼は、ほとんど息を詰めて、それをじっと見おろしていた。どうして、こんなことが可能なのだろう? どうして、それは、彼らがキャンプしている場所から、こんなに近くの森の池の中に置かれることになったのだろう? 何かまだ知られていない魔法が、ハーマイオニーをこの地に引きよせたのだろうか、それとも、雌鹿は、パトローナスだと思われたが、池の一種の守護者なのだろうか? それとも、彼らが、ここに着いた後、まさしく彼らが、ここにいるから、剣が池に入れられたのだろうか? その場合、それをハリーに渡したかった人物はどこにいるのだろうか? 彼は、また、まわりの木々や、やぶのあいだに杖を向けて、人の輪郭や、目の輝きを探した。けれど、誰も見つけられなかった。とはいえ、凍った池の底に横たわった剣に注意を向けたとき、うきうきした気分に、少し恐れが加わってきた。
彼は、銀色の姿に杖を向けて、「アクシオ<来たれ> 剣」と小声で言った。
それは、身動きしなかったが、それで手に入ると期待してはいなかった。もし、そんなに簡単だったら、剣は、凍った池の底ではなく、地面の上に置いてあって、すぐ手に取れただろう。彼は、凍った池のまわりを回りながら、こないだ、剣が、ひとりでに彼の手元に来たときのことを、一生懸命考えた。あのとき、彼は、恐ろしく危ない状況で、助けを求めていた。
「助けて」彼は呟いたが、剣は無頓着に動かずに池の底に留まっていた。
どういう意味だろう、とハリーは、(また歩きながら)自分に尋ねた。こないだ彼が剣を手に入れたとき、ダンブルドアが言ったことは?「真のグリフィンドール生だけが、それを、組み分け帽子から取りだすことができた」それに、グリフィンドール生と定義する資質は、何だろう? ハリーの頭の中の小さな声が彼に答えた。「勇気、大胆、騎士道精神で、グリフィンドール生は際だっている」
ハリーは、歩くのをやめて長い溜め息をついた。吐く息が白い煙となって凍った大気の中、すばやく四方に散った。何をやらなくてはならないか分かっていた。自分自身に正直に言えば、剣が氷の中にあるのを見つけた瞬間から、こういうことになるだろうと分かっていた。
彼は、また、まわりの木々を見まわして、誰も襲ってくる者はないと確信した。彼が森の中を歩いているときに襲う機会はあったし、池をのぞいているあいだにも機会はたくさんあったはずだ。行動に移すのをここまで遅らせた唯一の理由は、目の前にあるのが、とてもやる気をくじく状況だからだ。
ハリーは、かじかんだ指で、たくさん重ね着した服を脱ぎはじめた。「騎士道精神」が考慮されるということになると、ハーマイオニーの助けを呼ばないことが、ぜったいに騎士道に含まれると、しょげながら考えた。
彼が、服を脱いでいるとき、どこかでフクロウが鳴いたので、ヘドウィグのことを思って、心が痛んだ。がたがた震え、歯がひどくカタカタ鳴ったが、それでも、脱ぎつづけ、最後に、雪の中に下着姿で、はだしで立った。彼は、杖と、母の手紙と、シリウスの鏡の破片と、古いスニッチの入った袋を、衣類の上に置き、それからハーマイオニーの杖を氷に向けた。
「ディフィンド<開け>」
氷は、静寂の中で、弾丸のような音を立てて割れた。池の表面が割れ、黒っぽい氷の固まりが、さざ波が立つ水の中で揺れていた。ハリーが判断するかぎりでは、池は、それほど深くはなかったが、剣を取り戻すためには、完全に潜らなくてはならないようだった。目の前の難題を見つめていても、たやすくなるわけでも、水が温まるわけでもなかった。彼は、水際まで行って、まだ灯がともっているハーマイオニーの杖を地面に置いた。それから、どのくらい冷たくなるだろうかとか、すぐにどのくらいひどくぶるぶる震え出すだろうかとかを想像しないようにしながら、飛びこんだ。
体中の毛穴が、抵抗して悲鳴をあげるような気がした。凍った水に肩まで沈んだとき、肺の中の空気がすべて固く凍りついたようだった。ほとんど息ができなかった。とてもひどく震えたので、水が、揺れて水際に打ちよせ、しびれた足に刃を突きつけられたように感じた。彼は、ただ一度しか潜りたくなかった。
ハリーは、喘いだり、震えたりしながら完全に潜る瞬間を、一秒、また一秒と先に延していた。けれど、とうとう、やらなくてはならないと自分に言いきかせ、勇気を振り絞って潜った。
冷たさが、火のように襲いかかってきて激しい苦痛を与えた。暗い水をかき分けて底まで行き、手を伸ばして、剣を手探りする間、頭脳自体が凍ったような気がした。指が、剣の柄のあたりに近づいたので、引っぱり上げた。
そのとき、何かが、首のまわりに固く締まった。潜ったときは、何もかすめなかったが、海草かと思って、空いた手をあげて、首からはずそうとした。それは海草ではなかった。ホークラックスの鎖がぴんと張って、彼ののど笛を、じわじわと締めつけていた。
ハリーは、激しく蹴って、水面に浮かびあがろうとしたが、池の岩だらけの方に進んでいくだけだった。もがき、息を詰まらせながら、首を締めつける鎖を手探りしたが、凍りついた指では、鎖をはずすことができなかった。頭の中に光がちらちらしはじめた。彼は、溺れかかっていた。何も残っていない、できることは何もない、胸のまわりに回される腕は、きっと死の……
息苦しく、吐き気をもよおし、ずぶ濡れで、経験したことがないほど寒く感じながら、彼は、雪の上にうつぶせになって戻っていた。どこか近くで、別の人間が、あえぎ、咳きこみ、よろめいていた。ハーマイオニーが、また来てくれた、蛇に襲われたときのように……けれど、彼女のような音ではなかった。低い声の咳と、足音の重さからして、彼女ではない……
ハリーは、頭をあげて救い主が誰か見る力がなかった。彼にできたのは、震える手を喉まであげて、ロケットが深く皮膚に食いこんだところを触ることだけだった。それは、なくなっていた。誰かが、鎖を切ってくれた。そのとき、息をきらせた声が、頭の上から話しかけた。
「君――頭――おかしいんじゃないか?」
その声を聞いたショックで、ハリーは、起きあがる力が湧いて、激しく震えながら、よろめきながら立ちあがろうとした。彼の前には、ロンが立っていた。服を着たままだが、皮膚までびしょ濡れで、髪の毛が顔に貼りつき、片手にグリフィンドールの剣を持ち、もう一方には、鎖の切れたホークラックスをぶら下げていた。
「いったい、何だって」とロンが喘ぎながら言って、ホークラックスを持ちあげた。それは、短くなった鎖で、へたな催眠術の真似のように、前後にゆれていた。「飛びこむ前に、こいつを、はずさなかったわけ?」
ハリーは答えられなかった。銀の雌鹿は何でもなかった。ロンの再登場に比べたら何でもなかった。信じられなかった。寒さに震えながら、水際の衣類の山のところにいって、着始めた。頭から、セーターを次から次へとかぶって着ながら、彼はロンを見つめていた。目を離すと、すぐに消えてしまうような気がした。けれど、彼は本物のはずだ。たった今、池に飛びこんで、ハリーの命を救ってくれたのだから。
「あれは、き、君だったのか?」ハリーは、とうとう言ったが、歯がカタカタ鳴っていて、窒息しかかったため、いつもより弱々しい声だった。
「ええと、そうさ」とロンが、少しばかり、まごついたように言った。
「き――君が、雌鹿を放ったのか?」
「何だって? 違う、もちろん違うさ! 僕は、君がやったんだと思ったよ!」
「僕のパトローナスは、雄鹿だよ」
「ああ、そうだ。違うと思った。枝角がなかったんだ」
ハリーは、ハグリッドの袋を、また首にかけて、最後のセーターを着て、かがんでハーマイオニーの杖を拾いあげ、またロンに向きあった。
「どうやって、ここに来たのか?」
ロンが、この点に、まったく触れてほしくないか、少なくとも、もっと後にしてほしいと思っているのが明らかだった。
「あのう、僕は――ねえ――僕は戻ってきた。もし――」彼は咳払いをした。「ねえ、まだ、僕が必要だろ」
少し間があった。ロンがいなくなったという問題が、二人のあいだに壁のように立ちはだかっているようだった。けれど、彼はここにいた。彼は戻ってきた。たった今、ハリーの命を救ってくれた。
ロンは、自分の手を見下ろして、自分が持っている物を見て、一瞬、驚いたようだった。「ああ、そうだ。僕が取ってきたんだ」彼は、言う必要がないのに言いながら、ハリーがよく見られるように、剣を持ちあげた。「だから、飛びこんだんだね、そうだろ?」
「うん」とハリーが言った。「でも分からない。どうやって、ここに来たんだ? どうやって、僕たちを見つけたんだ?」
「長い話さ」とロンが言った。「何時間も君たちを捜した。大きな森だろ? だから、木の下で寝て、朝まで待とうと思ったら、鹿がやって来て、君が追ってくるのが見えたのさ」
「他の誰にも会わなかったか?」
「うん」とロンが言った。「僕は――」
けれど、彼は躊躇って、数メートル先の、木が二本近くに生えているところをちらっと見た。
「――向こうで、何か動くのが、確かに見えた。けど、そのとき、僕は池の方に走ってたんだ。君が池に入って、出てこなかったからね。だから、そっちへ回り道をするのをやめたんだ――おい!」
ハリーは、もうロンが指し示した場所に急いでいた。オークの木が二本、寄りそって生えていた。幹のあいだに、目の高さに、ほんの数センチの隙間があった。見られずに、のぞくのに理想的な場所だった。けれど、根の周りの地面には雪がないので、ハリーには、足跡は見つからなかった。彼は、ロンが立って待っているところまで、歩いて戻った。ロンはまだ剣とホークラックスを持っていた。
「何かあったかい?」ロンが尋ねた。
「いや」とハリーが言った。
「で、どうやって剣が池に入ったのさ?」
「パトローナスを放った人物が、あそこに置いたに違いない」
彼らは二人して、華麗な銀の剣を見た。ルビーの柄は、ハーマイオニーの杖の光の中で少しきらめいていた。
「これ、本物だと思うか?」とロンが尋ねた。
「本物かどうか知る方法が、一つあるだろ?」とハリーが言った。
ホークラックスは、まだロンの手からぶら下がって、ゆれていた。ロケットは、かすかにピクピク動いていた。その中の物が、また動揺しているのが、ハリーには分かった。それは、剣の存在を感じ、彼に剣を持たせるよりは、彼を殺そうとした。長く議論している場合ではない。今こそ、ロケットを永久に破壊するときだ。ハリーは、ハーマイオニーの杖を高く上げて、あたりを見まわして、ふさわしい場所を見つけた。楓の木の陰にある平たい岩だ。
「あそこに行こう」彼は言って、先に立っていき、岩の表面から雪を払いのけ、ホークラックスを渡すようにと、手をさしだした。けれど、ロンが剣をさしだすと、ハリーは首を横にふった。
「いや、君がやるんだ」
「僕?」とロンが、ぎょっとしたように言った、「どうして?」
「君が、池から剣を取ったからさ。君が、やることになってると思うんだ」
彼は、親切だとか、寛容だとかいうつもりはなかった。雌鹿が優しいのを知っていると同じくらい確かに、ロンこそ剣を振るうべき人間だと分かっていた。ダンブルドアは、少なくとも、ハリーにある種の魔法、ある行為の予測できない力について教えてくれた。
「僕が、ロケットを開けようとするから」とハリーが言った。「君が、それを突き刺すんだ。ぐずぐずしないで、すぐに、いいか? 中に何があろうと、戦いをしかけてくるはずだからね。日記のリドルのかけらは、僕を殺そうとした」
「どうやって開けるつもりなんだ?」とロンが尋ねたが、恐がっているようだった。
「開くように頼んでみる、パーセルタング<蛇の言葉>で」とハリーが言った。その答えがとても早く唇に上ったので、彼は、心の深くで、ずっと分かっていたのだと思った。多分、こないだのナギニとの出会いで、それを悟ったのだろう。ハリーは、輝く緑色の石をはめ込んで蛇のように曲がりくねって形づくった「S」を見つめた。それは、冷たい岩の上に丸くなった非常に小さい蛇のように見えた。
「だめ!」とロンが言った。「だめ、開けるな! マジで!」
「なぜだ!」とハリーが尋ねた。「それを、厄介払いしよう。ずうっと、ー」
「僕、できない、ハリー、マジで――君、やれよ――」
「けど、なぜ?」
「それ、僕に悪く働くんだ!」とロンが、岩の上のロケットから後ずさりしながら言った。「僕には、それ、扱えない! 僕が、どんなだったか言い訳はしないよ、ハリー、けど、それは、君やハーマイオニーに影響したより、僕にはもっと悪く働くんだ。それは、僕に、ばかなことを考えさせる、どっちみち僕が考えたことだけど、でも、全部をもっと悪くした、うまく言えないけど、それから、それをはずしたら、また頭がまともになった、それなのに、そのクソったれにまた近づかなくちゃならない――僕にはできないよ、ハリー!」
彼は、後ずさりして、剣をだらんと脇に引きずったまま、首を横にふった。
「君ならできるさ」とハリーが言った。「できるってば! 君は、さっき剣を取ってきたじゃないか。その剣を使いこなせるのは、ぜったいに君だと決ってると、僕は思う。頼む、それを壊すだけでいいんだ、ロン」
自分の名前を呼ばれたのが、刺激剤のように作用した。ロンは、ごくりと喉をならし、それから、長い鼻で、まだ激しく息をしながら、岩の方に戻ってきた。
「いつ、やるか言ってくれ」彼は、しゃがれ声で言った。
「三つ数えたら」とハリーは言って、またロケットに目を戻して見おろし、目を細めて、蛇を思いうかべながら「S」の字に注意を集中した。そのあいだ、ロケットの中身は、閉じこめられたゴキブリのようにカタカタ音をたてていた。ハリーの首のまわりの切り傷が、まだずきずき痛んでいなかったら、それに哀れみをかけるのは簡単かもしれない。
「一……二……三……開け」
最後の言葉は、シューシューいううなり声のように聞え、小さなカチリという音がしてロケットの金の扉が両側にさっと開いた。
両方のガラスの窓の後ろに、生きた目がまたたいていた。それは、瞳孔が縦に入った赤い目に変わる前の、暗い色で形のよいトム・リドルの目だった。
「突き刺せ」とハリーが、ロケットをしっかり岩の上に押さえながら言った。
ロンは、震える両手で、剣をふりあげた。剣の先が、狂ったようにぐるぐる回る目の上に垂れさがった。ハリーはロケットをしっかりつかんで、空っぽの窓から血が噴きだすのを想像して、身構えた。
そのとき、ホークラックスの外側から声がシューシューと聞えてきた。
「私は、お前の心を読んだ。それは私の思うがままだ」
「そいつを聞くな!」とハリーが厳しく言った。「突き刺せ!」
「私は、お前の夢を知った、ロナルド・ウィーズリーよ。お前の恐れも知った。お前の望みは、すべて実現可能だ、だが、お前の恐れも、すべて実現可能だ……」
「突き刺せ!」とハリーが叫んだ。その声が、まわりの木々のあいだに、こだました。剣の先が震えた。ロンはリドルの目を見おろしていた。
「つねに最低限にしか愛されない、母親は娘を切望していた…… 最低限にしか愛されない、今、娘は、お前の友人を選んだ…… 二番目、つねに、永久に影の存在……」「ロン、さあ突き刺せ!」ハリーが大声で叫んだ。ロケットが、押さえつけている手の中で震えているのが感じられ、ハリーは次に何がおこるかと恐れた。ロンは、もっと高く剣を振り上げた。そのとき、リドルの目が真っ赤に輝いた。
ロケットの二つの窓から、それぞれの目から、二つの怪奇な泡のように、気味悪くゆがんだハリーとハーマイオニーの頭が、現れて出た。
ロンは、ひどく動揺して叫び声をあげて後ずさった。それは、ロケットからあらわれつづけた。最初は胸、それから腰、それから脚、そしてロケットの中に、一つの根から出た二本の木のように、二人並んで立ち、ロンと本物のハリーの上にのしかかって、ゆれた。ロケットが突然、白熱して燃えたったので、本物のハリーは、指を引っ込めた。
そして「ロン!」と叫んだが、今や、リドルのハリーが、ヴォルデモートの声で話しかけていて、ロンは、催眠術をかけられたように、その顔を見つめていた。
「なぜ、戻ってきたのだ? 僕たちは、お前がいない方がよかった、お前がいないほうが楽しかった、お前がいなくなって喜んでいた……僕たちは、お前の愚かさを、臆病さを、思い込みを、笑っていたのだ――」
「思いこみ!」とリドルのハーマイオニーが、繰り返した。それは、本物のハーマイオニーより、美しいが恐ろしく、ロンの前で、揺れながらきゃっきゃっと笑った。ロンは、恐れながらも釘づけになっていて、剣は無意味に脇に下がっていた。「誰が、お前を見るの? いったい誰が、ハリー・ポッターの横のお前を見るの? お前は、『選ばれし者』に比べて、いったい何をやったというの? 『生きのびた少年』に比べて、お前は何様だというの?」
「ロン、突き刺せ、突き刺せったら!」ハリーが叫んだ。が、ロンは動かなかった。その目は大きく見開かれて、リドルのハリーとリドルのハーマイオニーが、その中に映っていた。彼らの髪は炎のように渦まき、目は赤く輝き、声は高まって邪悪な二重唱になった。
「お前の母親が告白したが」とリドルのハリーがあざ笑った。そのあいだ、リドルのハーマイオニーが冷やかした。「息子として僕の方がいいそうだ、喜んで取りかえたいそうだ……」
「彼を選ばない者はいない、どこの娘が、お前を選ぶというの? お前は無価値よ、彼に比べたら無価値」とリドルのハーマイオニーが歌うようにつぶやいて、蛇のように体を伸ばして、リドルのハリーにからみついて、固く抱きしめ、唇を合わせた。
彼らの前の、地面の上で、ロンの顔は苦悩に満ちていた。彼は、震える腕で剣を高く振り上げた。
「やれ、ロン!」ハリーが叫んだ。
ロンが、自分の方を見たとき、ハリーは、その目に赤い痕跡があるのに気がついた。
「ロン――?」
剣が、きらっと光り、突っこんできた。ハリーは、よけて身を横に投げだした。金属のガチャンという音と、叫び声が長く聞え、やがて消えた。ハリーは、雪の中で滑りながら、ぐるっと回った。身を守ろうと杖を上げていたが、戦う相手は何もなかった。
自分とハーマイオニーの怪物版は、なくなっていた。そこにいたのは、だらんと剣を手に下げて立って、平らな岩の上の粉々になったロケットの残骸を見おろしているロンだけだった。
ハリーは、ゆっくりと、彼の方に歩いて戻っていったが、何と言っていいのか、何をしたらいいのか分からなかった。ロンは激しく呼吸していた。その目は、まったく赤くはなくて、普通の青だった。そして濡れていた。
ハリーは、見なかったふりをして身をかがめて、壊れたホークラックスを拾いあげた。ロンは、ロケットの両方の窓のガラスを突きさしていた。リドルの目はなくなっていた。汚れた絹の内張が微かに煙をあげていた。ホークラックスの中に生きていたものは、消えていた。ロンを苦しめたのが、その最後の行為だった。
ロンが剣を落としたので、ガチャンと音がした。彼は、座りこんで頭を腕の中にうずめた。震えていたが、寒いのではないのが、ハリーに分かった。ハリーは、ロケットをポケットに押しこんで、ロンの横にひざまずき、慎重に、肩に手を置いた。ロンが、その手を払いのけなかったのを、いい徴候だと思った。
「君が、行った後」ハリーは低い声で言ったが、ロンの顔が隠れているのがありがたいと思った。「彼女は、一週間泣いていた。僕に見られたくなかっただけで、きっと、もっと長かったと思う。僕たち二人、口をきかない夜がどっさりあった。君がいなくなってから……」
ハリーは、話を続けられなかった。ロンが、またここにいる今となって初めて、ロンの不在が、どんなに大きな痛手だったかを、ハリーは身にしみて悟った。
「彼女は、兄妹みたいなものだ」彼は続けた。「僕は、彼女を、兄妹みたいに愛してる。彼女も僕のことは、同じように感じてると思う。ずっと、そんなふうだった。君は分かってると思ってた」
ロンは返事をしなかった。が、ハリーから顔をそむけて、袖で騒々しく鼻をかんだ。ハリーは、また立ちあがって、ロンの巨大なリュックがある場所に歩いていった。それは、何メートルも離れたところで、そこに、ハリーがおぼれそうなのを助けようとして池に向って走っていくときに、ロンがリュックを放りだしたのだ。ハリーは、それを背中にかつぐと、ロンのところに戻った。ロンは、ハリーが近づいていくと、はうように立ちあがった。目は充血していたが、他は落ちついていた。
「ごめん」彼は不明瞭な声で言った。「出てってごめん。分かってる、自分が――」
彼は、暗闇を見まわした。十分に悪い言葉が、暗闇から襲いかかって、主張するとでも期待しているようだった。
「君は、今夜、償いをしたようなもんだ」とハリーが言った。「剣を手に入れ、ホークラックスをやっつけ、僕の命を救った」
「そう言われると、ほんとの僕よりずっとかっこいいみたいに聞こえる」ロンがもごもごと言った。
「この手のことは、いつだってほんとよりかっこよく聞こえるものさ」とハリーが言った。「それを、何年も前から言ってきただろ」
彼らは、同時に歩みよって抱きあった。ハリーは、ロンのまだびしょ濡れの上着の背をつかんだ。
「それじゃ、今度は」とハリーが、二人がぱっと離れたときに言った。「しなくちゃならないのは、テントを見つけることだけだ」
けれど、それは難しくなかった。雌鹿とともに暗い森の中を歩くのは、とても長く思われたけれど、ロンが横にいる帰り道は、驚くほど短く思われた。ハリーは、ハーマイオニーを起こすのが待ちきれなかった。そして、彼が先に、ロンが少し遅れてテントに入るときに、興奮はさらに高まった。
池と森の後では、そこはすばらしく暖かかった。唯一の明かりのブルーベルのような炎が、まだ床の上の器の中でゆらめいていた。ハーマイオニーは、毛布の中で丸くなってぐっすりと寝込んでいて、ハリーが数回名前を呼ぶまで動かなかった。
「ハーマイオニー!」
彼女は、身動きして、さっと起きあがり、顔から髪の毛を払いのけた。
「どうかしたの? ハリー? 大丈夫?」
「大丈夫だ、すべて順調。順調以上。素敵だ。誰かさんが来たよ」
「どういうこと? 誰――?」
彼女は、ロンを見た。彼は、剣を下げて、すり切れた絨毯の上にポタポタしずくを垂らしていた。ハリーは、影になった隅に引っこみ、ロンのリュックを下ろして、背景のキャンバス地に溶けこもうとした。
ハーマイオニーは、寝棚から滑りおりて、ロンの青白い顔をじっと見つめながら夢遊病者のように彼の方に進んできた。彼女は、彼の真ん前で止まった。口をかすかに開けて、目を見開いていた。ロンは、弱々しいが期待しているような微笑を浮かべて、両腕を差し出しかけた。
ハーマイオニーは、突進して手の届くかぎりすべての場所をぶん殴り始めた。
「痛っ……うっ……止めて! いったい……? ハーマイオニー……うわあ!」
「この……本当に……馬鹿な……ロナルド……ウィーズリー!」
彼女は、言葉の切れ目ごとに、ぶんなぐった。ハーマイオニーが進んでくるので、ロンは、頭を手で覆いながら後ずさった。
「何週間も……何週間も……経ってから……ここに……こそこそと……戻って……くるなんて……あっ、私の杖はどこ?」
彼女は、ハリーの手から杖をもぎ取ろうとするように、こちらを見た。ハリーは本能的に行動した。
「プロテゴ!<防御せよ>」
目に見えない盾が、ロンとハーマイオニーのあいだに吹き出すようにあらわれた。その勢いで、彼女は後ずさって床に座りこんだが、口から髪の毛をはき出して、またぴょんと立ちあがった。
「ハーマイオニー!」とハリーが言った。「落ちつけ――」
「落ちつく気はないわ!」彼女は、甲高い声で叫んだ。彼女がこんなふうに自制心をなくすのを見たのは初めてだった。全く頭がおかしくなったようにみえた。
「私の杖を返して! 返しなさい!」
「ハーマイオニー、頼むから――」
「私に指図しないで、ハリー・ポッター!」彼女は叫んだ。「よく言うわね! さあ返して! それに、あなた!」
彼女は、恐ろしいほどの勢いで責めたてながら、ロンを指差した。それは闇の呪文のようだったので、ロンが数歩後ずさったのを、ハリーは責められなかった。
「私、あなたの後を追いかけたのよ! 名前を呼んだのよ! 戻ってきてって頼んだのよ!」
「知ってる」ロンが言った。「ハーマイオニー、悪かった、ほんとに――」
「まあ、悪かったと思ってるの!」
彼女は笑ったが、制御不能な、甲高い笑いだった。ロンは助けを求めてハリーを見たが、ハリーは、どうしようもないよとしかめっ面をしてみせただけだった。
「あなたったら、何週間もたってから戻ってくるなんて――何週間もよ――なのに、ただ悪かったといえばすむと思ってるの?」
「だって、他に何と言えばいいのさ?」ロンが怒鳴った。ハリーは、ロンに反駁する力が出てきたのを喜んだ。
「あら、そんなこと知らないわ!」とハーマイオニーが、嫌味たっぷりに叫んだ。「脳みそを絞って考えなさいよ、ロン、そんなの、数秒しかかからないわよ――」
「ハーマイオニー」とハリーが、それは言いすぎだと思ってさえぎった。「彼は、さっき助けてくれたんだよ、僕の――」
「どうでもいいわ!」彼女は、甲高い声を上げた。「彼が何をしようが、どうでもいいわ! 何週間も何週間も前に、あなたが知らないあいだに、私たち死んでたかもしれないのよ――」
「君たちが死んでないのは分かってたさ!」とロンが大声で怒鳴ったので、初めて彼女の声を上回った。そして、彼は、二人を隔てる盾にできるだけ近づいた。「ハリーのことは、日刊予言者新聞に全部のってる、ラジオでも全部話題にしてる、どこでも君のことを探してる、噂や、いかれた話がどっさり、もし君たちが死んだら、すぐに分かっただろう、君は知らないんだ、どんなふうになってるか――」
「あなたにとっては、どんなふうだったのよ?」
彼女の声は、たいそう、かんだかくなっていたので、この調子でいくとコウモリしか聞き取れなくなりそうだった。けれど、怒りのあまり、口がきけない状態に達していたので、ロンが、その隙に、話しだした。
「僕は、姿くらましした瞬間に戻ろうと思ったんだけど、人さらいの群れのど真ん中に飛びこんじまってさ、ハーマイオニー、身動きがとれなかったんだよ!」
「何の群れだって?」とハリーが尋ねた。ハーマイオニーは、椅子に身を投げだして、手足を、それぞれしっかりと組んで座って 数年間は、ほどくつもりがないようにみえた。
「人さらい」とロンが言った。「やつらは、どこにでもいて、マグル出身者や血の裏切り者をかり集めて、金貨を稼ごうとしてる。捕まえたものには誰でも、魔法省から賞金が出るんだ。僕は一人だったし、まだ学校に通う年に見えたから、やつらはすごく喜んだ。僕を隠れてるマグル出身者だと思ってさ。僕は、魔法省にしょっぴかれないように、早口でしゃべりまくらなくちゃならなかった」
「やつらに何て言ったんだ?」
「僕は、スタン・シャンパイクだと言ったのさ。最初に思いついたから」
「やつらは、信じたのか?」
「あんまり頭が回る連中じゃなかった。その一人は、ぜったいにトロルの血が入ってた、あの臭いったら……」
ロンは、ハーマイオニーをちらっと見た。明らかに、このほんの小さな冗談で、彼女の気持ちが和らがないかと期待していたが、彼女の表情は、固く組んだ手足の上で、石のように無表情なままだった。
「とにかく、やつらは、僕がスタンかどうかってことでけんかし始めた。正直なところ、それはちょっと哀れっぽかった。けど、やつらは、まだ五人だし、僕は一人で、杖も取り上げられていた。それから、二人が、なぐりあいを始めたんで、他のやつらが気を取られてるすきに、僕を捕まえていたやつの腹に、なんとか一発かませて、やつの杖を奪って、僕の杖を持っているやつに武器を取る呪文をかけて、姿くらまししたんだ。あんまり、うまくいかなかった。またスプリンチしたよ――」ロンは右手を差し出して、二本の指の爪がないのを見せた。ハーマイオニーは、冷たい表情で眉をあげた。「――で、君たちがいたとこから何キロも離れた場所に出てきた。僕たちがいた川岸のとこに戻ったときには、……君たちは行っちまった後だった」
「あらまあ、何ておもしろいお話なんでしょ」ハーマイオニーが、人を傷つけたいときに使う尊大な声で言った。「とっても恐かったことでしょうよ。そのあいだに、私たちは、ゴドリック盆地に行って、そこで何が起こったか考えてみましょうよ、ハリー。ああ、そうよ、例のあの人の蛇があらわれて、私たち二人をもう少しで殺すところで、それから、例のあの人本人が到着して、きわどいところで、私たちを取り逃がしたのよ」
「何だって?」ロンが、ぽかんと口を開けて、彼女からハリーへと目をやった。が、ハーマイオニーは、それを無視した。
「手の指の爪をなくしたんですって、想像してみて、ハリー! 私たちの大変な経験が遠くに行っちゃうと思わない?」
「ハーマイオニー」とハリーが静かに言った。「ロンは、さっき僕の命を救ってくれたんだ」
彼女は、その言葉を聞いたようには見えなかった。
「でも、一つ私が知りたいのは」彼女が、ロンの頭上三十センチの地点をじっと見つめながら言った。「いったい、今夜、どうやって私たちの居場所を見つけたの? 重要なことよ。それが分かれば、これから、招かれざる客が尋ねてくることはないと確信できるから」
ロンは、彼女をにらみつけた。それからジーンズのポケットから小さな銀の物体を引っぱり出した。
「これ」
ロンが見せたものを見るために、彼女は、彼を見なくてはならなかった。
「火消しライター?」彼女は尋ねたが、あまりに驚いたので、冷たく、とげとげしく見せるのを忘れてしまった。
「それ、ただ火を付けたり消したりするだけじゃないんだ」とロンが言った。「それが、どういう仕組みかとか、なぜ、あのとき、そうなって、それまでは、ならなかったのかは分からない。僕は、テントを出てからずっと戻りたいと思っていたんだからね。とにかく、クリスマスの朝すごく早くに僕はラジオを聴いていた。そしたら、聞こえた……君の声が聞こえたんだ」
彼は、ハーマイオニーを見た。
「ラジオから私の声が聞こえたの?」彼女は信じられないように尋ねた。
「違う、ポケットから君の声が聞こえたんだ。君の声が」彼は、また火消しライターを持ち上げた。「ここから出てきた」
「で、いったい、私は正確には何て言ったの?」とハーマイオニーが尋ねた。その口調は、疑いと好奇心のあいだだった。
「僕の名前。『ロン』って。それから、君が言ったのは……何か杖のこと……」
ハーマイオニーが、燃えさかる火のように真っ赤になった。ハリーは思いだした。それは、ロンがいなくなって以来、その名が、二人のどちらかから大声で言われた最初のときだった。ハリーの杖を直す話をしているときに、ハーマイオニーが、口にしたのだ。
「だから、僕は、それを取りだした」ロンが、火消しライターを見ながら続けた。「けど、それは、見たところ変わったとこも何もなかったけど、僕は、ぜったいに君の声が聞こえたと思った。で、それをカチッと押した。そしたら、部屋の明かりが消えたけど、窓のすぐ外に別の明かりが現れた」
ロンは、空いてる方の手をあげて自分の前を指した。その目は、ハリーにもハーマイオニーにも見えない何かに注がれていた。
「それは、光の玉だった。脈打ってるようで青っぽくて、ポートキーのまわりの光みたい、分かるか?」
「ああ」とハリーとハーマイオニーが無意識的にいっしょに言った。
「これだ、と僕には分かった」とロンが言った。「僕は、持ち物を引っ掴んで、詰めこんで、リュックを背おって庭に出た。
「小さな光の玉は、そこにふわふわ浮かんで、僕を待ってた、で、僕が出ていくと、それは、ちょっと、ぴょこぴょこゆれた。それから小屋の後ろまで、その後をついていくと、そしたら……それが、僕の中に入った」
「もう一回言ってくれないか?」とハリーが、きっと、聞き違えたのだと思って言った。
「それは、僕の方に浮かぶみたいに、やってきた」とロンが、空いている人差し指で、その動きを示しながら言った。「ちょうど僕の胸の方に、で、それから――真っ直ぐ胸の中に入って、ここにいた」彼は、心臓の近くを触った。「僕は、それを感じた。熱かった。それが、僕の中に入ると、何をしたらいいか分かった。それが、僕が行かなくちゃならないところに連れて行ってくれるのが分かった。だから、姿くらましして、丘の斜面に来た。一面、雪だった……」
「僕たち、そこにいたよ」とハリーが言った。「そこで二晩過ごした。二番目の夜、暗闇の中で誰かが動きまわって、呼んでいるのが聞こえるような気がしたんだ!」
「ああ、ええと、それ僕だったかも」とロンが言った。「とにかく、君たちの防御の呪文は効いてるよ。僕には君たちが見えなかったし、声も聞こえなかったからね。けど、君たちは、ぜったい近くにいると思ってたから、最後に、寝袋に入って、君たちの一人が姿を現すのを待っていた。君たちが、テントをたたむときには、姿を現すはずだと思っていたんだ」
「実際は、そうじゃなかったわ」とハーマイオニーが言った。「私たち、特別用心して、透明マントの下で、姿くらまししたの。それに、ほんとに早く出発したし。ハリーが言ったように、誰かが、うろついてる音が聞こえたから」
「ええと、僕は一日中、丘にいた」とロンが言った。「君たちが姿を現すのを願い続けていた。けど、暗くなりはじめたので、見失ったに違いないと思った。で、また火消しライターをカチッと押した。青い光が出てきて、僕の中に入った。で、僕は姿くらましをして、ここに、この森に来た。まだ、君たちを見つけられなかった。だから最後には、君たちのどっちかが姿をあらわすだろうと願うしかなかった――そしたら、ハリーが見えた。ええと、もちろん、雌鹿を最初に見たんだけど」
「何を見たんですって?」とハーマイオニーが鋭い口調で尋ねた。
彼らは、起こったことを説明した。そして、銀の雌鹿と池の中の剣の話が、明かされると、ハーマイオニーは顔をしかめて、二人の顔を順にながめた。あまりに集中していたので、手足を固く組むのを忘れてしまったほどだった。
「でも、それってパトローナスに違いないわ!」彼女は言った。「誰が、それを放ったのか見えなかった? 誰か見なかった? それが、剣のところに連れていったなんて! 信じられない! それからどうなったの?」
ロンが、どんなふうにハリーが池に飛び込むのを見ていて、水中から上がってくるのを待っていたか、どんなふうに何か変だと悟って、飛びこんでハリーを助け、それから戻って剣を取ってきたか、を説明した。それからロケットを開けるところまで行ったとき、口ごもったので、ハリーが口を出した。
「――で、ロンが、剣で突きさしたんだ」
「それで……それで、それは、なくなったの? それだけ?」彼女はささやいた。
「ええと、それは――それは叫び声をあげた」とハリーが、半分、ロンをちらっと見ながら言った。「これだ」
彼は、ロケットを彼女の膝に投げた。彼女は恐る恐る、それを取りあげ、その突きさされた窓を調べた。
ハリーは、やっと安全だと判断して、ハーマイオニーの杖を一ふりして盾の呪文をはずし、それから、ロンの方を向いた。
「さっき、予備の杖を持って、人さらいから逃げだしたって言わなかったか?」
「何?」とロンが言った。ハーマイオニーがロケットを調べるのを見つめていたのだ。「あ――ああ、うん」
そして、リュックを引きよせ、留め金をはずし、ポケットから短くて黒っぽい杖を引きだした。「これだよ。予備があったら、いつだって便利だと思ってさ」
「そのとおりだ」とハリーが言いながら、手を出した。「僕の、壊れたんだ」
「嘘だろ?」ロンが言ったが、同時に、ハーマイオニーが立ちあがったので、また心配そうな顔つきになった。
ハーマイオニーは、うち負かされたホークラックスをビーズのバッグに入れた。それから、ベッドに戻って、何も言わずに寝る体制に入った。
ロンは、ハリーに新しい杖を渡した。
「あれで最高だったと思うよ」とハリーが小声で言った。
「うん」とロンが言った。「もっと悪かったかも。彼女が僕に放った鳥の群れ、覚えてるか?」
「私はまだ水に流したわけじゃないからね」と、毛布の下からハーマイオニーのくぐもった声がした。けれど、ハリーは、ロンがリュックからマルーン色のパジャマを引っぱり出しながら、かすかに笑うのを見た。
第20章 ゼノフィリウス・ラブグッド
Xenophilius Lovegood
ハーマイオニーの怒りが夜の間に消えるとは、ハリーは期待していなかった。それで、翌朝、彼女が、おもに軽蔑的な目つきと辛辣な沈黙で、自分の気持ちを伝えても驚きはしなかった。ロンは、彼女がいるときは、ずっと、激しく後悔している気持ちを見せるために、いつもと違って陰気なようすでいた。そこで、三人そろっていると、ハリーは、参列者がほとんどいない葬式で、自分だけ悲しんでいないような気になるのだった。けれど、ハリーと二人だけのわずかな時間(水くみとか、キノコの下生えを探すとか)には、ロンは不謹慎にも、上機嫌だった。
「誰かが、僕たちを助けてくれたんだ」彼は言いつづけた。「誰かが、あの雌鹿を送ってくれた。誰か味方がいるんだ。ホークラックスも一個やっつけたじゃないか!」
彼らは、ロケットを破壊できたのに勇気づけられて、他のホークラックスのありそうな場所について話しあいを始めた。それについては、これまで、さんざん話しあったけれど、ハリーは楽観的になっていたので、最初の成功に続いて、うまくいくに違いないと思った。ハーマイオニーが不機嫌でも、ハリーの元気な気持ちは落ちこまなかった。運命の急上昇や、謎めいた雌鹿の出現や、グリフィンドールの剣の発見や、なによりもロンが戻ったことで、とてもうれしかったので、まじめくさった顔をするのが、とても難しかった。
午後遅く、彼とロンは、不機嫌なハーマイオニーのところから、また逃げだして、葉が落ちた茂みから、あるはずのないブラックベリーを探すという名目で、いままでのできごとのやりとりを続けた。ハリーは、やっと、ハーマイオニーとのさまざまな放浪の旅から、ゴドリック盆地での出来事まで、すべてを物語った。ロンは、数週間離れていたあいだに仕入れた、もっと広い魔法界について発見した知識を知らせていた。
「……で、君たちは、どうやってタブーのことを知ったんだ?」彼は、マグル出身者が魔法省から逃れようとするために、いろいろ企てるが望みはないことを説明した後、ハリーに尋ねた。
「何のこと?」
「君とハーマイオニーが、『例のあの人』の名前を言うのを、止めたことさ!」
「ああ、それ、僕たちが、名前を言わない悪い習慣に慣れちゃっただけだ」とハリーが言った。「けど、彼の名前を呼んでも不都合はないと思ってる、ヴォ――」
「止めろ!」とロンが大声でどなったので、ハリーは茂みに飛びこみ、ハーマイオニーが(テントの入り口で本に鼻を埋めるようにして読んでいたが)、彼らをにらみつけた。「ごめん」とロンが言って、ハリーを野イチゴの茂みから引きもどした。「けど、名前には呪文がかかってるんだよ、ハリー、そうやって彼らは、人々の跡をつけるんだ! 彼の名前を使うと防御の魔法が解ける。すると、魔法の一種の動揺がおきる――そうやって、彼らはトットナム・コート通りで、僕らを見つけたんだ!」
「僕たちが、彼の名前を使ったからかい?」
「その通りさ! 彼らが、うまくやったと認めなくちゃ。そうすればつじつまが合うさ。昔、彼を名前で呼ぶのは、彼に真剣に立ち向かおうとする人たちだけだった、ダンブルドアのようにね。ダンブルドアは、そうする勇気があった。今じゃ、彼らは、それをタブーにしたから、それを言った者は誰でも跡をつけられることになるんだ――騎士団のメンバーを見つける早くて簡単な方法だろ! 彼らは、もう少しでキングズリーも捕まえるところだったんだ――」
「冗談だろ?」
「ほんとだよ。デス・イーターの群れが、彼を追いつめたけど、戦って逃げだした、とビルが言ってた。彼は、僕たちと同じく逃亡中だ」ロンは、杖の先で頬をひっかきながら考えこんでいた。「キングズリーが、あの雌鹿をよこしたと思わないか?」
「彼のパトローナスはヤマネコだ。結婚式で見た。忘れた?」
「ああ、そうだ……」
彼らは、テントとハーマイオニーから離れて、生け垣からもっと遠くに入っていった。
「ハリー……あれ、ダンブルドアだったと思わないか?」
「ダンブルドアが何だ?」
ロンは少しまごついたようだったが、低い声で言った。「ダンブルドア……雌鹿? つまり」ロンは、目の隅でハリーを見ながら言った。「彼が、最後に本物の剣を持ってたんだろ?」
ハリーは、ロンを笑わなかった。その質問の裏にある切望する気持ちが、あまりにもよく分かったからだった。ダンブルドアが、どうにかして彼らの元に戻ってきて、彼らを見守っていたという考えは、言葉に尽くせないほど慰めとなっただろう。でもハリーは、首を横にふった。
「ダンブルドアは死んだ」彼は言った。「僕は、その現場を見た。遺体も見た。彼は、完全にいなくなってしまった。どっちみち、彼のパトローナスは不死鳥だ、雌鹿じゃない」
「けど、パトローナスは、変わることがあるだろ?」とロンが言った。「トンクスのが変わっただろ?」
「うん、けど、もしダンブルドアが生きていたら、なぜ姿を見せないんだ? なぜ、自分で剣を手渡さないんだ?」
「知らないね」とロンが言った。「生きているあいだに君に渡さなかったのと同じ理由じゃ? 君に古いスニッチと、ハーマイオニーに子供の本を遺したのと同じ理由じゃ?」
「どっちが何だよ?」とハリーは尋ねた。どうしても答えを知りたくて、ふりむいてロンの顔を真正面から見つめた。
「分かんね」とロンが言った。「ときどき、彼は、冗談をやってるんだか――それとも、よけいややこしくしたがってるのかって、いらついてるときに思ったよ。けど、もうそうは考えてない。彼は、僕に火消しライターをくれたとき、何をやってるのか、ちゃんと知ってただろ? 彼は――そのう」ロンの耳は真っ赤になり、急に足下の草の茂みを熱心に見つめ、それをつま先で突いた。「彼は、僕が君を見捨てると分かっていたに違いないんだ」
「いや」とハリーが訂正した。「彼は、君が、ずっと戻ってきたがってたと分かっていたに違いないよ」
ロンは、ありがたいという顔をしたが、まだ落ちつかないようだった。ハリーは、話題を変えようという気もあって尋ねた。「ダンブルドアといえば、スキーターが書いたこと、聞いたかい?」
「うん」とロンがすぐに言った。「すごく話題になってる。もちろん、状況が違ってたら、ダンブルドアがグリンデルワルドの友だちだったなんて、すごい大ニュースだろうけど、今じゃ、ダンブルドアを嫌いな人たちの笑いの種で、彼をいい人だと考えていた人たちには痛烈な一撃程度だな。そんなにすごいことだとは思わないけど。彼は、すごく若かったんだし――」
「僕たちと同じ年だ」とハリーが、ハーマイオニーに言い返したのと同じように言った。その顔に浮かんだ表情を見て、ロンはその問題を追及するのをやめた。
茂みの中の凍った蜘蛛の巣の真ん中に、大きなクモがいた。ハリーは、昨夜、ロンがくれた杖でねらいをつけた。その杖は、その後、ハーマイオニーが調べさせてくれと頼み、ブラックソーンだと分かった。
「エンゴルジオ<ふくらめ>」
クモは、少し震え、蜘蛛の巣の上で少し、はねた。ハリーは、もう一度やった。今度は、蜘蛛は、ほんの少し大きくなった。
「やめろ」とロンが鋭く言った。「ダンブルドアが若かったと言って悪かったよ、それでいいか?」
ハリーは、ロンが蜘蛛を大嫌いなのを忘れていた。
「ごめん――レデュシオ<縮め>」
クモは縮まなかった。ハリーはブラックソーンの杖を見おろした。今までに、それでやってみた小さな呪文はすべて、自分のフェニックスの杖でやったより、威力がないようだった。新しい杖は、自分の手に他人の手を縫いつけられたように見慣れず、まったく親しみが持てない気がした。
「練習すればいいのよ」とハーマイオニーが、後ろから音もなく近づいてきて、ハリーが蜘蛛を大きくしたり小さくしたりしようとするのを、心配そうに立って見ていて、言った。「問題は、自信を持つことだけよ、ハリー」
彼には、彼女が、まだ杖を壊したことに責任を感じていたので、その杖で大丈夫だと思いたがっているのが分かっていた。それで、浮かびあがった反論を、唇を噛み締めて我慢した。それは、杖に違いがないのなら、君が、このブラックソーンの杖を使えばいい、僕が君のを使うから、というものだった。けれど、彼は、三人がまた友だちになりたいと強く願っていたので、そうだね、と言った。でも、ロンが、ハーマイオニーに躊躇いがちにほほえむと、彼女はさっさと歩み去って、また本の陰に姿を隠してしまった。
暗くなった頃、三人ともテントに戻り、ハリーが最初の見はりについた。入り口に座って、ブラックソーンの杖で、足下の小石を空中に浮かせようとしたが、彼の魔法は前よりうまくいかず、威力がないようだった。ハーマイオニーは寝棚に横になって本を読んでいた。ロンは、何度も臆病そうに彼女の方を見あげたあげく、リュックから小さな木のラジオを取りだしてチャンネルを合わせはじめた。
「一つ番組があるんだ」彼は低い声でハリーに言った。「そこで実情を伝えてくれるニュースをやる。他はみんな、例のあの人側で、魔法省の筋に従ってる、けど、こいつは……聞こえるまで待てよ、すごいんだから。ただ毎晩は放送できない、襲われるといけないからしょっちゅう場所を変えなくちゃならないんだ、それと、それを聞くのにパスワードがいる……困ったことに、こないだのを忘れちまったんで……」
彼は、ラジオの上を杖でコツコツ叩きながら、小さな声で、でたらめな言葉をつぶやいていたが、ハーマイオニーの怒りが爆発しないかと、しょっちゅうそっと彼女を見ていた。けれど、彼女が彼に注意をはらわないようすからみると、彼女にとっては、彼はいないも同然のようだった。十分間ほど、彼はコツコツ叩き、ぶつぶつ、つぶやきつづけ、ハーマイオニーは本のページをめくり、ハリーはブラックソーンの杖で練習しつづけていた。
とうとうハーマイオニーが寝棚から下りてきた。ロンは、すぐに叩くのをやめた。
「もし、うるさかったら、やめるから!」彼は、びくびくしながらハーマイオニーに言った。
ハーマイオニーは、ロンには返事をお与えにならず、ハリーに近づいた。
「話があるの」彼女は言った。
ハリーは、まだ彼女が握っている本を見た。それは、「アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り」だった。
「何?」彼は恐る恐る聞いた。それには、彼自身の章があるのが、心をよぎった。彼とダンブルドアとの関係の、リータの解釈を聞く力があるかどうか分からなかった。けれど、ハーマイオニーの答えは、まったく予想外のものだった。
「ゼノフィリウス・ラブグッドに会いに行きたいの」
彼は、彼女を見つめた。
「もう一回言ってくれないか?」
「ゼノフィリウス・ラブグッド。ルナのお父さん。私、彼のところに行って話をしたいのよ!」
「あのう……何で?」
彼女は、気を引き締めるように深く息をすってから言った。「あの印よ。『吟遊詩人ビードルの物語』にあった印。見て!」
彼女は、見るのが気が進まないハリーに「アルバス・ダンブルドアの生涯と偽り」の本を突き出した。彼は、ダンブルドアがグリンデルワルドに出した手紙の原本の写真を見た。それは、ダンブルドアの見慣れた細い流れるような筆跡で書かれていた。彼は、ダンブルドアがほんとうにこれを書いたのであって、リータの創作ではないのだという絶対的な証拠を見るのが、いやだった。
「署名よ」とハーマイオニーが言った。「署名を見て、ハリー!」
彼は言うとおりにした。一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが、明かりをともした杖でよく見ると、ダンブルドアが、アルバスのAを「吟遊詩人ビードルの物語」に描かれたのと同じ三角形の印の小さい形に置きかえているのが分かった。
「あのう、君は何を――?」ロンがためらいがちに言ったが、ハーマイオニーは、一にらみで黙らせ、ハリーの方を向いた。
「それ、いろんなところに出てくるでしょ?」彼女が言った。「ビクターが、それはグリンデルワルドの印だと言ったのは分かってる。でも、ゴドリック盆地の古いお墓にもあったのは確かよ。その日付は、グリンデルワルドが生まれるずっと昔だったわ! それに、今度はこれよ! そうね、ダンブルドアやグリンデルワルドに、それがどういう意味か尋ねるわけにはいかないわ――グリンデルワルドがまだ生きているのかどうかさえ分からない――でも、ラブグッド氏に尋ねることができるわ。彼は結婚式で、この印を身につけていた。これは重要よ、ハリー!」
ハリーは、すぐには返事をしなかった。彼女の真剣な熱心な顔を見つめ、それから外のまわりの暗闇を見やりながら、考えた。長い沈黙の後、彼は言った。「ハーマイオニー、ゴドリック盆地の二の舞は必要ない。僕たちは、あそこへ行くことを話しあった挙句――」
「でも、この印は、いろんなところにあらわれているのよ、ハリー! ダンブルドアは、私に『吟遊詩人ビードルの物語』を遺した。この印について探りだす必要がないとどうして分かるの?」
「また、これだ!」ハリーは少し頭にきていた。「僕たちは、ダンブルドアが秘密の印と手がかりを遺してくれたと、思い込もうとしつづけているんだ――」
「火消しライターは、結局すごく役にたったよ」ロンが高い声で言った。「ハーマイオニーが正しいと思う。ラブグッドに会いにいくべきだと思う」
ハリーは彼を不機嫌そうにちらっと見た。ロンがハーマイオニーを支持するのは、三角形のルーン文字の意味を知りたいという望みとは、ほとんど関係がないに決っていると分かっていたからだ。
「ゴドリック盆地みたいにはならないさ」ロンがつけ加えた。「ラブグッドは君の味方だ、ハリー。『クィブラー』誌はずっと君を支持してる。みんなに君を助けるべきだと言いつづけてる!」
「これはぜったい重要よ!」とハーマイオニーが熱心に言った。
「でも、もしそうなら、ダンブルドアが死ぬ前に、僕に言ったと思わないか?」
「きっと……きっと、あなたが自分で探しだす必要があることなんじゃない?」とハーマイオニーが、藁にもすがるといった弱々しい調子で言った。
「うん」とロンが取り入るように言った。「それは、ありだな」
「そんなことないわ」とハーマイオニーが、噛み付くように言った。「でも、私、ラブグッド氏と話すべきだと思うの。ダンブルドアと、グリンデルワルドと、ゴドリック盆地をつなぐ印? ハリー、それについて知るべきだと思うわ!」
「投票で決めよう」とロンが言った。「ラブグッドに会いにいくのに賛成の人――」
彼の手が、ハーマイオニーのより早く空中にさっと上がった。彼女は、手を上げるとき、疑わしげに唇をふるわせた。
「投票で負けだ、ハリー、残念」とロンが、ハリーの背中を叩きながら言った。
「いいよ」とハリーが、なかば、面白がり、なかば、苛々しながら言った。「ただ、ラブグッドに会ったら、他のホークラックスを探しにいこう、いいか? どにかく、ラブグッド家は、どこに住んでるのかな? 誰か知ってるか?」
「ああ、僕んちから遠くないところだ」とロンが言った。「はっきりとは知らないけど、ママとパパが、彼らのことを言うときは、いつも丘の方を指さしてた。見つけるのは難しくないだろうさ」
ハーマイオニーが寝棚に戻ったとき、ハリーは声を低めて言った。
「君が賛成したのは、彼女に、また気に入られたいと思っただけだろ」
「戦と恋は、何をやろうと勝者が正しいんだよ」とロンが陽気に言った。「で、この場合は、ちょっと両方あるしね。元気出せよ、クリスマス休暇だ、ルナが家にいるよ!」
翌朝、彼らは姿くらましして、そよ風の吹く丘の斜面に着いたが、そこから、オタリー・セント・キャチポール村が、すばらしくよく見渡せた。彼らがいる高くて見るのに有利な地点からだと、村は、雲の切れ目から地上に降りそそぐ日光の巨大な斜めの筋の中で、おもちゃの家々が集まっているように見えた。彼らは、手で目の上にひさしを作って、一、二分間、『隠れ家』の方を見たが、奇妙にゆがんだ小さな家をマグルの目から隠す高い生け垣と果樹園の木々しか見分けられなかった。
「こんな近くにいて、家に行かないなんて、妙な感じだよ」とロンが言った。
「あら、家族に会ってきたばかりじゃないみたいね。クリスマスに家にいたんでしょ」とハーマイオニーが冷たく言った。
「僕は、『隠れ家』にはいかなかったよ!」とロンが、彼女を疑うように笑った。「僕が家に戻って、君たちを見捨ててきたとぶちまけるとでも思ったのか? ああ、フレッドとジョージは、よく思わないだろうよ。それにジニーも。彼女は、ほんとうによく分かっていたからね」
「でも、それなら、どこにいたのよ?」とハーマイオニーが驚いて尋ねた。
「ビルとフラーの新居だよ。貝殻荘さ。ビルは、いつも僕に優しかった。彼、ー、彼も僕がやったことを聞いたときは、あんまり感心しなかったようだけど、僕がほんとに後悔しているのが分かったから、そのことを、しつこく言いはしなかった。他の家族は誰も、僕がそこにいたのを知らない。ビルはママに、二人だけで過ごしたいからクリスマスには帰らないと言ったんだ。ほら、結婚して初めての休暇だろ。フラーは気にしてなかったと思うよ。彼女が、ママのお気に入りのセレスティナ・ウォーベックの歌を大嫌いだったこと、覚えてるだろ」
ロンは、『隠れ家』に背を向けた。
「ここから行ってみよう」彼は言って、先に立って、丘の頂上に続く道を歩きはじめた。
彼らは、数時間歩いた。ハリーは、ハーマイオニーがしつこく言うので、透明マントに隠れていた。すると低い丘の連なりがあらわれた。一軒の田舎家以外には人が住んでいないようだったが、その家にも人影がなかった。
「ここが、彼らの家で、クリスマス休暇に出かけちゃったんだと思う?」とハーマイオニーが言いながら、窓敷居にゼラニウムが飾ってある、きちんとした小さな台所の窓から中をのぞきこんだ。ロンが鼻をならした。
「ねえ、もし窓からのぞいたら、そこがラブグッド家かどうか分かるような気がするんだ。次の丘に行ってみようよ」
そこで彼らは、数キロメートル北に、姿くらましをした。
風が、彼らの髪や服に激しく打ちつけていた。「ははあ!」とロンが叫んで、彼らがあらわれた丘のてっぺんの方を指さした。そこには、とても奇妙な家が空に垂直にそびえていた。大きな黒い円柱がついている家で、その後ろに、幽霊のような白い月が午後の空にかかっていた。「あれがルナの家だよ。他の誰が、あんなとこに住むと思うか? 巨大なルークみたいだ!」
「鳥みたいには見えないわ」とハーマイオニーが顔をしかめて、その塔を見ながら言った。
「鳥のルーク(ミヤマガラス)じゃなくて、チェスのルークのことを言ってんだよ」とロンが言った。「君の言葉では、城だ」
ロンの脚が一番長かったので、最初に丘のてっぺんに着いた。ハリーとハーマイオニーが、息をきらせ、痛む脇腹を押さえながら追いついたとき、ロンは、歯をむき出してにやにやと笑っていた。
「彼らの家だ」とロンが言った。「見ろよ」
三つの手書きの表札が、打ちくだかれた門に留めてあった。最初のは「クィブラー誌、編集長、X・ラブグッド」、次のは「自分のヤドリギを摘みなさい」、三つ目は「操縦可能なプラムから離れていなさい」と書いてあった。
門を開けると、キーッときしんだ。玄関に続くジグザグの道は、様々な妙な植物がはびこっていた。その中に、ルナがときどきイヤリングにしていたオレンジ色のラディッシュのような実がいっぱいなった茂みがあった。ハリーは、スナーガルフが分かったので、近よらないようにした。古い野生リンゴの木が二本、風のため曲って、葉が落ちていたが、それでも小さな赤い実がたわわに実り、白いビーズのような実がなったヤドリギの薮を王冠のように頂いて、玄関の扉の両側に番兵のように立っていた。少し平らな、タカのような頭のフクロウが、枝から彼らをのぞきこんだ。
「透明マントを脱いだ方がいいわ、ハリー」とハーマイオニーが言った。「ラブグッド氏が手助けしたいのは、あなたであって、私たちじゃないから」
ハリーは言われたとおりにしてマントを脱ぎ、彼女に渡してビーズのバッグに入れてもらった。それから彼女は、厚く黒い扉を三度たたいた。そこには、鉄の飾りビョウと、ワシの形のノッカーがついていた。
十秒もしないうちに、扉がさっと開いて、ゼノフィリウス・ラブグッドが立っていた。はだしで、汚れた寝間着のようなものを着ていた。長くて白い綿菓子のような髪の毛は、汚れてくしゃくしゃだった。それに比べると、ビルとフラーの結婚式でのゼノフィリウスは、はるかにこざっぱりとしていた。
「何だ? 何事だ? 君たちは誰だ? 何が望みだ?」彼は、かんだかい不平たらたらの声で叫び、最初にハーマイオニーを、次にロンを見たが、最後にハリーを見ると、口が、こっけいなほど完璧な「O」の形に開いた。
「こんにちは、ラブグッドさん」とハリーが手をさしだしながら言った。「僕はハリー、ハリー・ポッターです」
ゼノフィリウスは、ハリーの手を取らなかったが、片目は内側の鼻の方に向かず、真っ直ぐにハリーの額の傷跡の方を見た。
「僕たち、お邪魔してもいいですか?」とハリーが尋ねた。「お尋ねしたいことがあるんです」
「そ……それは賢明なこととは思われんが」とゼノフィリウスが、囁くように言った。そして、ごくりと喉をならし、庭の方をすばやく見た。「かなりショックだ……これは、まあ……私は……私は、残念ながら、できないと思うが、ー」
「長くはかかりませんから」とハリーは言ったが、このちっとも暖かくない歓迎に、少しばかり、がっかりしていた。
「私は――ああ、よろしい。入りなさい、早く、早く!」
彼らが、家に入りきらないうちに、ゼノフィリウスが扉をバタンと閉めた。彼らは、ハリーがこれまでみたこともないほど奇妙な台所に立っていた。その部屋は、まん丸だったので、巨大な胡椒壺の中にいるような気がした。すべてのものが壁に添うように曲っていた。料理用こんろ、流し、食器戸棚。そして、そのすべてにあざやかな三原色で花や虫や鳥が描いてあった。ハリーは、ルナの流儀が分かったように思った。この閉ざされた空間で、その効果はいささか圧倒的だった。
床の真ん中に、上の階に続く鉄の細工のラセン階段があった。頭上から、大きなガチャンガチャンドンドンいう音が聞こえた。ハリーは、ルナが何をしているんだろうと思った。
「上がった方がいい」とゼノフィリウスが、あいかわらず、ひどく、居心地悪そうに言い、先に立って階段を上った。
上の部屋は、居間と仕事部屋がつながっているようだったが、それ自体、台所よりもっと散らかっていた。ここは、もっと小さくて、まん丸だけれど、どこか、あの忘れられない状況での「必要に応じて出てくる部屋」に似ていた。あのときは、何世紀ものあいだに隠された物が積みあがって巨大な迷路に変化していた。この部屋も、あらゆるところに本や書類が山のように積みかさなっていた。ハリーには何か分からないが繊細に作られた生き物の模型が、天井からぶら下がっていて、羽ばたいたり、あごをかみ合わせたりしていた。
ルナは、いなかった。とても騒々しい音を出しているのは、魔法で回転する歯車と車輪でおおわれた木の物体だった。それは、仕事台と古い棚の奇怪な子孫のように見えたが、少しして、「クィブラー」誌が激しく飛びだしてくることから、旧式な印刷機だろうと、ハリーは推測した。
「失礼」とゼノフィリウスは言って、機械の方に行き、膨大な数の本や書類の下から汚いテーブル掛けをつかんだので、本がみな床に転がりおちたが、その布を印刷機の上にかけると、大きなドンガチャンという音がいくらか静まった。それから、ハリーの方を向いた。
「君は、なぜ、ここに来たのか?」
けれど、ハリーが答える前に、ハーマイオニーが、動揺して小さく叫んだ。
「ラブグッドさん、あれは何ですか?」
彼女は、巨大な灰色の、らせん状の角を指さした。それは、、壁に、はめ込まれて、一メートルばかり部屋の中に突きだしていたが、ユニコーンの角に似ていないこともなかった。
「あれは、しわしわ角のスノーカックの角だ」とゼノフィリウスが言った。
「いいえ、違うわ!」とハーマイオニーが言った。
「ハーマイオニー」ハリーが困って小声で言った。「今は、そういうときじゃ、ー」
「でも、ハリー、あれは、エルンペントの角よ! 輸入できるB級の材料で、家の中に置いとくなんて、極めて危険な物よ!」
「エルンペントの角だってどうして分かるのさ?」とロンが尋ねながら、できるだけ急いで角から離れたので、部屋の中に余分なガタガタいう物音が加わった。
「『空想上の獣と、それらが見つかる場所』に説明してあるわ! ラブグッドさん、すぐに、あれを捨てなくてはいけません。ほんの少し触っただけで爆発するのをご存知ないのですか?」
「しわしわ角のスノーカックだが、」とゼノフィリウスは、ラバのように強情な表情を浮かべて、とてもはっきりと言った。「内気で、非常に不思議な生き物だ。その角は――」
「ラブグッドさん、つけ根のまわりに溝を掘ったような模様があるので見分けがつきます。あれはエルンペントの角で、信じられないほど危険なものです――どこで手に入れられたのか知りませんが――」
「買ったのだ」とゼノフィリウスが独断的に言った。「二週間前、若くて陽気な魔法使いからな。彼は、立派なスノーカックに私が興味があるのを知っていた。私のルナをクリスマスにびっくりさせようと思ったのだ。さて」彼は、ハリーの方を向いた。「いったい君はなぜここに来たのかね、ポッター君?」
「助けが欲しいのです」とハリーは、ハーマイオニーがまた口を開く前に言った。
「ああ」とゼノフィリウスが言った。「助けか。ふむ」彼の、よい目がまたハリーの傷跡の方に動いた。彼は、恐れると同時に魅惑されているようだった。「よろしい……問題は……ハリー・ポッターを助けるというのは……かなり危険だと……」
「あなたは、ハリーを助けるのが、第一の努めだとみんなに言いつづけてるんじゃないのか?」とロンが言った。「あなたの、あの雑誌でさ?」
ゼノフィリウスは、後ろの、隠された印刷機をちらっと、ふりかえって見た。それはまだテーブル掛けの下で、ドンドンガチャンガチャンと音をたてていた。
「ええと――そうだ、私は、その見解を表明してきた。しかしながら――」
「――それは、他のみんなに、そうしろってことで、あなた個人としては違うってこと?」とロンが言った。
ゼノフィリウスは答えなかった。彼は喉をごくりとならしつづけて、三人をさっと見渡した。彼が苦しい内心の葛藤に耐えているような印象を、ハリーは受けた。
「ルナはどこ?」とハーマイオニーが尋ねた。「彼女の意見を聞いてみましょう」
ゼノフィリウスは、はっと息をのんで、心を鬼にしようと決心したように見えた。そして、とうとう口を開いたが、震える声で、印刷機の騒音の中で、聞き取るのが難しかった。「ルナは、下の小川に淡水性プリンピーを釣りにいっている。彼女は……彼女は、君たちに会いたいだろう。私が、彼女を呼びにいって、それから――そう、よろしい。君たちを手助けしよう」
彼は、らせん階段を下りて姿を消した。玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。彼らは、顔を見あわせた。
「臆病な、いやなじじい」とロンが言った。「ルナは、彼の十倍も勇気があるよ」
「もしデス・イーターが僕がここにいるのを見つけだしたら、彼らがどうなるかを、きっと心配しているんだろう」とハリーが言った。
「あのう、私はロンに賛成よ」とハーマイオニーが言った。「ひどい偽善者、他のみんなにあなたを助けるように言っておいて、自分は、虫が這うように逃げだそうとするなんて。それと、お願いだから、角から離れて」
ハリーは、部屋の遠くの端にある窓のところに歩いていった。小川が見えた。細く輝くリボンが、はるか下の方の丘のふもとに、のびていた。彼らは、とても高いところにいた。彼が、もう丘の連なりの向こうに見えない『隠れ家』の方を見つめていると、鳥が窓の向こうに飛んでいった。ジニーが、向こうの方のどこかにいる。二人は、ビルとフラーの結婚式以来、今日ほど近くにいたことはなかった。けれど、ジニーは、ハリーが今、自分の方を見ていて、彼女のことを思っているなどとは夢にも思わないだろう。彼は、そのことを喜ぶべきだと思った。彼が接触しようとする人は誰でも危険な立場に置かれるのだ。ゼノフィリウスの態度が、それを証明している。
彼は、窓から部屋の方を向いた。すると、中が乱雑な曲った食器棚の上に立っている別の奇妙な物体に気がついた。それは、美しいが厳格な顔つきの魔女の胸像で、とても奇怪な頭飾りをつけていた。金のラッパ形補聴器に似た二つの物体が、両脇から曲って突きだしていて、一対の輝く青い翼が革ひもに突きささしてあって、それが、頭の上から垂れていた。一方、オレンジ色のラディッシュが一個、額のまわりの二本目のひもに突きさしてあった。
「これ見ろよ」とハリーが言った。
「魅力的だ」とロンが言った。「それを結婚式に、かぶってこなかったのが驚きだ」
玄関の扉が閉まるのが聞え、まもなくゼノフィリウスが、らせん階段を上って部屋に戻ってきた。細い足にゴム長靴をはき、ひどい組みあわせの紅茶のカップと、湯気の立つポットをのせたお盆を持っていた。
「ああ、私のお気に入りの発明品を見つけたね」彼は言いながら、お盆をハーマイオニーの腕に押しつけ、胸像のそばのハリーのところに来た。「美しいロウィーナ・レイブンクローの頭にぴったり合うように型どった。『計りきれない知性は、人間の最大の宝』だ!」
彼は、ラッパ形補聴器のような物体を指さした。
「これは、ラックスパート吸いあげ管だ――考え事をしている人のすぐ近くから、気を散らす原因をすべて取りのぞくのだ。これは」と彼は小さな翼を指さした。「ビリウィグのプロペラだ。心の体制を高める働きを引きおこす。最後に」彼はオレンジ色のラディッシュを指さした。「操縦可能なプラムだ。とてつもないことを受け入れる能力を高める」
ゼノフィリウスは、お茶のお盆の方に戻った。それは、ハーマイオニーが慎重にバランスを取って、散らかったサイドテーブルの一つに置いてあった。
「ガーディの根の煎じ茶を、さしあげようか?」とゼノフィリウスが言った。「自家製だよ」ビートの根のような濃い紫色の、その飲み物を注ぎながら、彼がつけ加えた。「ルナは、ボトム橋の向こうにいる。君たちが来たのを知って、とても喜んだ。まもなく戻るだろう。我々全員のスープを作るに足りるほどのプリンピーを、ほとんど釣りあげていた。座ってくれ、砂糖はご自由に。
「さて」と彼は、肘掛け椅子の上の倒れそうに積みあがった書類をどけて座り、長靴をはいた脚を組んだ。「何を手助けしたらいいのかな、ポッター君?」
「あのう」とハリーが、ハーマイオニーをちらっと見ながら言った。彼女は励ますように頷いた。「ビルとフラーの結婚式で、あなたが、首から下げていた印についてなんです、ラブグッドさん。あれの意味を教えてほしいのですが」
ゼノフィリウスは、眉を上げた。
「君は、『死の秘宝』の印のことを言っているのかな?」
第21章 三兄弟の物語
The Tale of the Three Brothers
ハリーは、ロンとハーマイオニーの方を見た。二人とも同じようにゼノフィリウスが言った意味が分からないようだった。
「死の秘宝?」
「そのとおり」とゼノフィリウスが言った。「君たちは、聞いたことがないのかね? 驚きはしないよ。 ごく、ごく、わずかな魔法使いしか信じてはいないからな。君の兄さんの結婚式にいた石頭の若者を見よ」彼は、ロンに頷いた。「あの若者は、有名な闇の魔法使いの印を見せびらかしていると言って、攻撃してきた! なんたる無知。秘宝には、闇の部分は何もない――少なくとも、元々の意味では、何もない。秘宝探求の旅に手助けをしてくれるかと期待して、他の信奉者に知らせようとして、印を使うだけだ」
彼は、ガーディの根の煎じ茶に角砂糖を数個入れてかき混ぜ、少し飲んだ。
「すみませんが」とハリーが言った。「まだ、よく分からない」
そして礼儀正しくカップから一口すすったが、吐き気をもよおしそうになった。その液体は、鼻くそ味の百味ビーンズをジュースにしたような、まったくむかむかする味だった。
「ええと、ほら、信奉者たちは、死の秘宝を探しているのだよ」とゼノフィリウスが、ガーディの根の煎じ茶を舌鼓を打って味わいながら言った。
「でも、『死の秘宝』って何ですか?」とハーマイオニーが尋ねた。
ゼノフィリウスは、空のカップを脇へ置いた。
「君たちは、『三人兄弟のお話』はよく知っていると思うが?」
ハリーは「いいえ」と言ったが、ロンとハーマイオニーは、そろって「はい」と言った。
ゼノフィリウスは、重々しく頷いた。
「これは、これは、ポッター君、すべては、『三人兄弟のお話』から始まるのだよ……どこかに本があったが……」
彼は、ぼんやりと部屋の中を見まわし、羊皮紙と本の山を見たが、ハーマイオニーが言った。「私、本を持っています、ラブグッドさん。ここにあります」
そして、小さなビーズのバッグから「吟遊詩人ビードルの物語」を取りだした。
「原本かね?」とゼノフィリウスが鋭く尋ねた。そして彼女が頷くと、彼は言った。「ええと、それでは、声を出して読んでくれないか? 我々皆がしっかり理解するのに、いちばんいい方法だ」
「あのう……はい」とハーマイオニーが、あがっているように言って、本を開いた。調査中の印がページの一番上にあるのが、ハリーに見えた。彼女は小さな咳払いをして読み始めた。
「『むかしあるところに三人の兄弟がおりました。三人は、たそがれどきに、まがりくねった、さびしい道を歩いておりました――』
「夜中に、いつもママが話してくれたよ」とロンが言った。そして、のびをして、両腕を頭の後ろに置いて聞いていた。ハーマイオニーは、苛立ったように、ちらっと彼を見た。
「ごめん、真夜中だったら、もう少し薄気味悪いと思ったのさ!」とロンが言った。
「うん、現実の生活では、もう少し怖さが必要だからね」とハリーが自分を押さえられずに言ってしまった。ゼノフィリウスは、たいして注意を払っていたようには見えず、窓の外の空を眺めていた。「続けて、ハーマイオニー」
「『そのうちに、三人は川のところにやってきました。歩いてわたるには深すぎて、泳いでわたるにはあぶない川でした。しかし、三人は、魔法をつかうことができたので、杖をふっただけで、あぶない川に橋があらわれました。三人が、とちゅうまで橋をわたったときに、フードをかぶったものが道をふさぎました。
「『そして、死が、三人に、はなしかけました――』」
「ちょっと、ごめん」とハリーが言葉をはさんだ。「でも、死が話しかけたのかい?」
「おとぎ話よ、ハリー!」
「そうだ、ごめん、続けて」
「『死が、三人に、はなしかけました。旅人は、いつもは川でおぼれたので、死は、三人のあたらしいえじきに逃げられて怒っていたのです。けれど、死は、ずるがしこかったので、三人兄弟の魔法を、いわうふりをしました。三人が、うまく死をよけることができたので、ひとりずつに、ほうびをあげようといいました』
「『上のむすこは、戦うのがすきだったので、この世にあるどの杖よりも強い杖がほしいといいました。もちぬしが、いつも決闘で勝つ杖、死に勝った魔法つかいにふさわしい杖を! そこで死は、川岸のニワトコの木のところにいって、たれている枝で杖をつくって、上のむすこにあげました。
「『二ばんめのむすこは、傲慢だったので、死に、もっとくやしい思いをさせたいとおもいました。そこで、人を死からよびもどす力がほしいといいました。死は、川岸で石をひろって、その石は、死んだ人をよびもどす力があるといって、二ばんめのむすこにあげました。
「『それから、死は、三ばんめの末むすこに、なにがほしいかとききました。末むすこは、兄弟のなかでいちばん、ひかえめで、かしこかったので、死を信じませんでした。そこで、死に、そこから先にいくときに、死に、あとをつけられないためのものが、ほしいといいました。すると死は、しぶしぶ、じぶんの透明マントをわたしました』」
「死が、透明マントを持っていたのか?」ハリーがまた言葉を挟んだ。
「こっそり人々に近づけるようにね」とロンが言った。「死も、ときどきは人々を追っかけるのに飽き飽きするよ、手をひらひらさせて、悲鳴をあげてさ……ごめん、ハーマイオニー」
「『それから、死は、わきによけて、三人兄弟を先にいかせました。三人は歩きながら、今のぼうけんについて、かたりあい、死のおくりものを、よろこびあいました。
「『やがて、兄弟は、わかれて、それぞれべつの道をいきました。
「『上のむすこは、一週間いじょう、旅をして、とおくの村につきました。そして、魔法つかいをみつけて、けんかをしました。ニワトコの杖をもっているので、そのあとの決闘に負けることはありませんでした。死んだ敵を、ゆかの上に、そのままにして、上のむすこは、宿屋にいきました。そこで、死からうばった強い杖のことと、そのおかげでぜったいに負けないことを、おおきな声でじまんしました。
「『その夜、上のむすこがブドウ酒によってベッドに、よこになっているとき、べつの魔法つかいが、こっそり近づきました。そのどろぼうは、杖をぬすみ、おまけに上のむすこの、のどを切りました。
「『そうして、死が、上のむすこを手にいれました。
「『いっぽう、二ばんめのむすこは、ふるさとにもどって、ひとりでくらしました。そこで、死んだ人をよびもどす石を出して、手のなかで三回まわしました。おどろいたことに、むかし結婚したかったのに若いうちに死んでしまった娘のすがたが、すぐにあらわれたので、二ばんめのむすこはよろこびました。
「『けれど、娘は、二ばんめのむすことは、ベールでへだてられているようで、つめたく、かなしそうでした。娘は、この世にもどってきたものの、ほんとうに、この世のものではないので苦しんでいました。とうとう二ばんめのむすこは、けっしてかなわない望みで気がおかしくなってしまい、ほんとうに娘といっしょになれるように自殺しました。
「『そうして、死が、二ばんめのむすこを手にいれました。
「『けれど、死は、ながいあいだ、末むすこをさがしましたが、けっして見つけることができませんでした。末むすこは、とても年をとってから、ついに透明マントをぬいで、そのむすこにあげました。そして、末むすこは、死を、むかしの友だちのようにむかえて、よろこんでいっしょに行きました。そうして、死と対等になって、この世にわかれをつげたのです』」
ハーマイオニーは、本を閉じた。彼女が読むのをやめたと、ゼノフィリウスが悟るのに、少し間があった。それから、彼は、窓の外を見るのをやめて、言った。「ええと、そういうわけだ」
「どういうことですか?」とハーマイオニーが、まごついたように言った。
「それが、死の秘宝だよ」とゼノフィリウスが言った。
そして、肘のところにある、物がいっぱいのったテーブルから羽ペンを取りあげ、本のあいだから羊皮紙の端を引きちぎった。
「ニワトコ、つまりニワトコの杖」と言って、羊皮紙に一本の縦線をひいた。「復活の石」と言って、線の上に円を加えて描いた。「透明マント」と言いおえて、線と円を三角形で囲んで、ハーマイオニーをあれほど惹きつけた印を作った。「合わせて」と彼は言った。「死の秘宝だ」
「でも、お話には、死の秘宝という言葉は出てきません」とハーマイオニーが言った。
「そりゃ、もちろん」とゼノフィリウスが腹立たしいほど独りよがりに言った。「それは、子供向けの話だから、教えるというより、おもしろく語られているのだ。しかし、我々、こういうことを理解している者たちは、昔の物語に、もし、三つそろえば、もちぬしが死の支配者になれる三つの物、つまり秘宝が出てくるのを知っているのだ」
ゼノフィリウスが、窓の外をちらっと見たので、少し間があった。もう太陽が、空の低いところにあった。
「ルナが、もうすぐプリンピーをたくさん取ってくるはずだ」彼は静かに言った。
「あなたが、『死の支配者』と言ったとき――」とロンが言った。
「支配者、」とゼノフィリウスが、軽く手をふった。「征服者、勝利者。何でも好きな言葉で」
「でも、そしたら……つまり……」とハーマイオニーが、ゆっくりと言った。ハリーには、彼女が、疑わしさを少しでも声に出さないようにしているのが分かった。「あなたは、そういう物――その秘宝が――ほんとうに存在すると、信じているのですか?」
ゼノフィリウスは、また眉をあげた。
「ああ、もちろん」
「でも」とハーマイオニーが言った。ハリーは、彼女の自制心がパチッと砕ける音が聞こえるような気がした。「ラブグッドさん、いったい、どうしてそんなことを信じられるのですか?」
「ルナが、君について話してくれたが」とゼノフィリウスが言った。「私が思うに、君は、愚かではないが、ひどく視野が限られている、視野が狭い、偏見がある」
「あの帽子をかぶってみたらいいかも、ハーマイオニー」とロンが言って、ばかばかしい頭飾りの方に頷いてみせた。その声は、笑わないように努力するあまり震えていた。
「ラブグッドさん」ハーマイオニーが、また言いはじめた。「私たちみんな透明マントのような物があることは知ってます。めったにないけど存在してるわ。でも――」
「ああ、だが、三つ目の秘宝は、本物の透明マントなのだよ、グレンジャーさん! 私が言いたいのは、それは、幻惑の呪文を吹きこまれたり、目がくらむ呪文をかけられたり、デミガイズの髪の毛で織られたマントではないということだ。そういうものは、初めのうちは、人を隠すが、年月が経つと効果が薄れ、不透明になる。今、話題にしているのは、着た人をほんとうに完全に見えなくするマントで、永久に長持ちし、どんな呪文が放たれようと関係なく、永続的に完璧に隠すのだよ。そのようなマントを何枚見たことがあるというのかね、グレンジャーさん?」
ハーマイオニーは答えようと口を開いたが、また閉じた。前よりもっと混乱したようだった。彼女とハリーとロンは、顔を見あわせたので、ハリーは、三人とも同じ事を考えているのが分かった。実は、ちょうどゼノフィリウスが描写したのと同じマントが、まさに今この部屋にあるのだ。
「そのとおり」とゼノフィリウスが、筋の通った議論で、彼らみんなを言い負かしたかのように言った。「君たちの誰も、そのような物は見たことがない。その持ち主は、計り知れないほど金持ちだろうよ」
彼は、また窓の外をちらっと見た。空は、ほんのかすかなピンク色の痕跡に染まっていた。
「分かりました」とハーマイオニーが、うろたえながら言った。「マントが存在するとして……石はどうですか、ラブグッドさん? 復活の石と呼んでいらした物は?」
「それが何かね?」
「あのう、どうして、それが実在すると言えますか?」
「ないと証明してみなさい」とゼノフィリウスが言った。
ハーマイオニーは憤慨したようだった。
「でも、そんなの――ごめんなさい、でも、そんなの全くばかげてるわ! どうやって存在しないことを証明できると言うの? 私が――世界中の小石を全部手に入れて、テストしろとでも言うの? つまり、あなたが、ある物が存在しないと、誰も証明していないというだけで、それが実在すると信じるのなら、どんな物でも実在すると主張できるわ!」
「そうだ、そのとおり」とゼノフィリウスが言った。「君が、少し心を開くのを見てうれしいよ」
「それで、ニワトコの杖は」とハリーが、ハーマイオニーが言いかえさないうちに急いで言った。「それも存在すると思いますか?」
「ああ、そうだな、その件では、証拠がいくらでもあるよ」とゼノフィリウスが言った。「ニワトコの杖は、それが手から手へと伝えられていく仕組みからして、もっとも跡をたどりやすい秘宝だ」
「どんな仕組み?」とハリーが尋ねた。
「杖の持ち主は、もし真の持ち主であるなら、前の持ち主から奪えるはずだということだ」とゼノフィリウスが言った。「邪悪なエメリックを殺したあと、杖が、ひどいエグバートの手に渡ったのは、きっと聞いたことがあるだろう? ゴデロットが、息子のヘレウォードに杖を取られた後、自分の地下のワイン蔵でどんなふうに死んだかも? 恐ろしいロクシアスが、バーナバス・デベリルを殺した後、杖を取ったことも? ニワトコの杖の血なまぐさい痕跡は、魔法歴史のあちこちに散らばっている。
ハリーは、ハーマイオニーをちらっと見た。彼女は、ゼノフィリウスをしかめっ面で見ていたが、反論はしなかった。
「じゃ、ニワトコの杖は、今どこにあると思う?」とロンが尋ねた。
「ああ、残念だが誰が知ろう?」とゼノフィリウスが、窓から外を見ながら言った。「ニワトコの杖が、どこに隠されているか誰が知ろう? 跡は、アルカスとリビウスのところで止まっている。そのどちらが、ほんとうにロクシアスを、うち負かし、どちらが杖を取ったのか誰が知ろう? 歴史は、残念ながら、答えてはくれない」
沈黙があった。ついにハーマイオニーが堅苦しく尋ねた。「ラブグッドさん、ペベレル家は、死の秘宝に何か関係がありますか?」
ゼノフィリウスは、あっけにとられたようだった。ハリーの記憶の中で何かがさっと動いたが、突き止めることはできなかった。ペベレル……その名前を前に聞いたことがあった……
「だが、君は私を惑わせていたな!」とゼノフィリウスが、椅子の中で背筋を伸ばして座りなおし、ハーマイオニーに目をむいた。「君は、秘宝のことは何も知らないと思っていたが! 我々、秘宝探索者の多くは、ペベレル家が、すべての鍵を握っていると信じている――秘宝に関わる――すべての!」
「ペベレル家って、誰?」とロンが尋ねた。
「ゴドリック盆地のお墓に、その印の下にあった名前よ」とハーマイオニーが、まだゼノフィリウスを見ながら言った。
「イグノトゥス。ペベレル」
「その通り!」とゼノフィリウスが人差し指を学者ぶって上げながら言った。「イグノトゥス・ペベレルの墓の死の秘宝の印が、決定的な証拠だ!」
「何の?」とロンが尋ねた。
「だから、物語の三人兄弟が実在の、アンティオク、カドムス、イグノトゥスのペベレル三兄弟だったということの証拠だ! 彼らが、秘宝の最初のもちぬしだったということの証拠だ!」
彼は、また窓の方をちらっと見て、お盆を持って立ちあがり、らせん階段に向った。
「夕食までいるだろうね?」彼が、また階段を下りて姿が見えなくなったときに、呼びかけた。「皆が、いつも、うちの淡水性プリンピーのスープの調理法を聞くんだよ」
「きっと、聖マンゴ病院の毒薬部に見せるためじゃないか?」とロンが小声で言った。
ゼノフィリウスが、下の台所で動きまわる音が聞こえるまで待ってから、ハリーが口を開いた。
そして「どう思う?」とハーマイオニーに尋ねた。
「まあ、ハリー」彼女は、うんざりしたように言った。「まったく、くだらないほら話の山よ。あの印が、ほんとうに意味してるのは、そんなことであるはずないわ。さっきのは、彼の変な解釈に決ってる。なんて時間の無駄だったんでしょ」
「まさに、僕たちに、しわしわ角のスノーカックの話を持ちこんだ男だって気がするよ」とロンが言った。
「君も信じてないんだろ?」ハリーが聞いた。
「うん、あれは、子供たちに教訓を教えようとする話の一つってだけだろ? 『やっかい事を探しに出かけるな、戦う機会を作るな、放っときゃいい物をわざわざ突っつき回すな! ただ頭を下げて、自分の仕事さえやってりゃ大丈夫』とかさ。考えてみると」ロンがつけ加えた。「多分あの話は、なぜニワトコの杖が不運だと言われるかの説明だよ」
「何、言ってるんだい?」
「迷信の一つだろ? 『五月生まれの魔法使いは、マグルと結婚する』『たそがれの呪文は、真夜中に解ける』『ニワトコの杖は成功しない』聞いたことあるだろ。ママは、いっぱい知ってるよ」
「ハリーと私は、マグルの中で育ったのよ」ハーマイオニーが思いださせた。「私たちは、違う迷信を教わったの」台所から、つんとする臭いが、ただよってきたので、彼女は、深いため息をついた。彼女がゼノフィリウスに対し激怒していて、一ついいことは、ロンに対してむっとしているのを忘れているらしいことだった。「あなたの言うとおりだと思うわ」彼女はロンに言った。「単なる教訓話よ。どの贈り物が一番いいか、どれを選んだらいいか、すぐ分かるわ――」
三人が同時に言った。ハーマイオニーが「マント」と言い、ロンが「杖」と言い、ハリーが「石」と言った。
彼らは、なかば驚き、なかば、おもしろがって、顔を見あわせた。
「君は、マントと言いそうだったよ」ロンがハーマイオニーに言った。「けど、杖を使えば、姿が見えなくなる必要ないさ。負けない杖だよ、ハーマイオニー、さあ!」
「もう透明マントは持ってるよ」とハリーが言った。
「で、気がついてないかもしれないけど、それは、すごく役にたってるわ!」とハーマイオニーが言った。「それに比べて、杖は、ぜったい、災難の種よ――」
「杖のことを喚いたり、」とロンが主張した。「踊りまくって、頭の上で杖をふって『僕は負けない杖を持ってる、お前がタフだと思うなら戦いに来い』って歌ったりすれば、もめごとがおこるさ。でも黙ってるかぎりは――」
「そうね、でも、黙っていられる?」とハーマイオニーが疑わしそうに言った。「ほら、彼が言ったうち、ただ一つの真実は、何百年も前から、特別に強力な杖の物語があったってことよ」
「あったのか?」とハリーが尋ねた。
ハーマイオニーは、ひどく怒ったようにみえた。その表情が、懐かしいほど見慣れたものだったので、ハリーとロンは顔を見あわせてにやっと笑った。
「死の棒、運命の杖、何世紀も前から、違った名前で、顔を出すわ。たいてい、それを自慢する闇の魔法使いの持ち物としてね。ビンス先生が、何人かについて、おっしゃっていたわ、でも――まあ、くだらない言葉っかりよ。杖っていうのは、それを使う魔法使いの力に応じた力を出すのよ。他の人の杖より、自分の杖の方が、大きくて、性能がいいと自慢したいだけの魔法使いもいるのよ」
「でも、どうして分かる?」とハリーが言った。「そういう杖――死の棒とか、運命の杖とかが――何世紀ものあいだ、違った名前で姿を現していた同じ杖でないってことがさ?」
「何さ。そういうのが、みんな、ほんとは死が創った『ニワトコの杖』だって言うのか?」とロンが言った。
ハリーは笑った。心に浮かんだ奇妙な考えは、結局馬鹿げていた。ヴォルデモートが空をこえて追いかけてきたあの晩、自分の杖がどんなことをしようとも、あの杖はヒイラギでニワトコではなかったし、オリバンダーが創ったものだ、と自分に言いきかせた。それにもし、うち負かされない杖ならば、どうして壊れるものか?
「じゃ、君はなぜ石を選ぶんだ?」ロンが尋ねた。
「ええと、もし呼びもどせるなら、シリウスや……マッド・アイや……ダンブルドアや……両親を……」
ロンもハーマイオニーも笑わなかった。
「でも『吟遊詩人ビードルの物語』では、この世に戻ってきたくなかったんだろ?」とハリーが、聞いたばかりのお話のことを考えながら言った。「死んだ人を生き返らせる石の話は、たくさんは、ないと思うけど?」とハーマイオニーに尋ねた。
「ないわ」彼女が悲しそうに答えた。「ラブグッド氏以外の誰も、そんなことが可能だと冗談を信じる人はいないと思うわ。ビードルは、きっと賢者の石から考えついたんだと思う。ほら、不死にする石の代りに、死者を生きかえらせる石をね。
台所からの臭いが強くなってきた。ズボン下を燃やしているような臭いだった。ハリーは、ゼノフィリウスが何を料理しようと、彼が気を悪くしない程度に、食べられるかと心配になった。
「でも、マントはどうだい?」とロンが、ゆっくりと言った。「彼の言うとおりだと思わないか? ハリーのマントが、すごく性能がいいのに慣れちまってて、落ちついて考えたことなかったけど、ハリーのマントみたいなの、聞いたことないよ。あれは、ぜったい確かだ。あれ、かぶってたら、ぜったい見つからない――」
「もちろんよ――あれ、かぶってたら姿が見えないんだから ロン!」
「けど、彼が、他のマントについて言ったことは――そういうのだって、ありふれたものじゃないけど――ほら、真実だ! 今まで、考えたこともなかったけど、使い古すと魔力がすり減ったり、呪文をかけられると裂けて穴があいたりするのは、聞いたことがある。ハリーのは、ハリーのパパが持ってたんだから、新品じゃないだろ、けど……完璧だ!」
「そうね、そのとおりよ、でもロン、石は……」
彼らが、小声で言いあっているあいだ、ハリーは、半分だけ聞きながら部屋の中を歩きまわっていた。らせん階段のところまで来て、ぼんやりと上の階に目をやると、頭がおかしくなったような気がした。上の部屋の天井から、自分の顔が見おろしていたのだ。
一瞬、まごついた後、それは鏡ではなく画だと分かった。そして好奇心から、階段を上りはじめた。
「ハリー、何してるの? 彼がいないときに、覗いて回るものじゃないわ!」
けれど、ハリーは、もう上の階に着いていた。
ルナが、自分の部屋の天井に、五つの顔を、きれいに描いて飾っていたのだ。ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビルだった。それらは、ホグワーツの肖像画のように動いてはいなかったが、それでもある種の魔法がかかっていた。それらは息をしているようだった。画のまわりにうねるきれいな金の鎖のようなものが、顔と顔をつないでいた。が、一、二分、じっと見た挙句、鎖は、実際は一つの単語が金色のインクで千回もくり返されているのが、ハリーに分かった。友だち……友だち……友だち……
ハリーは、ルナへの愛情がどっと湧きでるのを感じた。そして部屋を見まわした。ベッドの横に、大きな写真があった。小さい頃のルナと、とてもよく似た女性の写真だった。二人は抱きあっていた。ルナは、写真の中では、ハリーが見てきたよりも、髪がきちんと整っていた。写真にはほこりが積もっていた。ハリーは、少しおかしいと思いながら、まわりを、よく見まわした。
何か変だった。うす青の絨毯にも厚く埃が積もっていた。衣装ダンスには衣類がなく、その扉は開いたままだった。ベッドは、何週間も寝てないように、冷たく、よそよそしい雰囲気だった。近くの窓に、蜘蛛の糸が一本、真っ赤な夕焼けの空を横切って、伸びていた。
「どうかしたの?」ハリーが下りてきたとき、ハーマイオニーが尋ねた。けれど、返事をする前に、ゼノフィリウスが、お椀をのせたお盆を手にして、台所から階段のいちばん上の段に着いたところだった。
「ラブグッドさん」とハリーが言った。「ルナはどこ?」
「何だって?」
「ルナはどこ?」
ゼノフィリウスは、いちばん上の段で止まった。
「私……私が、さっき言ったように、ボトム橋に下りていって、プリンピーを釣っている」
「じゃ、なぜお盆にお椀が四つしかないのか?」
ゼノフィリウスは話そうとしたが、声が出てこなかった。聞こえるのはただ、印刷機のシュッシュッという音と、ゼノフィリウスの手が震えるので、お盆がかすかにカタカタいう音だけだった。
「ルナは何週間も、ここにはいないと思う」とハリーが言った。「服はないし、ベッドに寝た跡がない。彼女はどこ? それになぜ窓の外ばかり見ているのか?」
ゼノフィリウスはお盆を落とした。お椀が、はね落ちて砕けた。ハリー、ロン、ハーマイオニーは杖を引きだした。ゼノフィリウスは凍りついた。その手がポケットに入りかけた。そのとき、印刷機が、大きなドンという音をたてて、テーブル掛けの下から、クィブラー誌がたくさん床に流れだしてきた。やっと印刷機が静かになった。
ハーマイオニーが、杖はラブグッド氏に向けたまま、かがんで雑誌を一冊拾いあげた。
「ハリー、これ見て」
彼は、散らかった物のあいだを通って、できるだけ急いで、彼女のところに歩いていった。クィブラー誌の表紙には、「最重要指名手配人物」の言葉で飾られた自分の顔が、のっていて、懸賞金の見出しがついていた。
「それじゃ、クィブラー誌は、見解を変えたのか?」ハリーが冷たく尋ねたが、心の中では、すばやく考えをめぐらせていた。「庭に出たとき、やっていたのは、ラブグッドさん、魔法省にフクロウ便を送ることか?」
ゼノフィリウスは、唇を舐めた。
「彼らは、私のルナを連れていった」彼はささやいた。「私が、書いていた記事のためだ。彼らは、私のルナを連れていった。娘が、どこにいるのか、何をされたのか分からない。だが、彼らは、娘を返してくれるだろう、もし私が――もし私が――」
「ハリーを手渡せば?」ハーマイオニーが、代りに言い終えた。
「駄目だ」とロンがきっぱりと言った。「そこをどけ、僕たちは出てく」
ゼノフィリウスは、死人のように青ざめ、百才も年を取ったようにみえたが、唇を引き結び、いやな横目で見ていた。
「彼らは、今にもやってくる。ルナを助けなければならん。ルナを失うことはできん。出ていくな」
彼は、階段の前で両手を広げた。ハリーの目の前に、急に、母がベビーベッドの前で同じことをしている場面が浮かんだ。
「あなたを傷つけたくはない」ハリーが言った。「どいてくれ、ラブグッドさん」
「ハリー!」ハーマイオニーが叫んだ。
箒に乗った姿が、窓を通りすぎた。三人が眼を離したすきに、ゼノフィリウスが杖を引きだした。ハリーは、危ないところで、自分たちの過ちに気づいて、横に身を投げだし、ロンとハーマイオニーを、呪文が当たらないところに突きとばした。ゼノフィリウスの気絶させる呪文が部屋を横切って飛んで、エルンペントの角に当たった。
ものすごい爆発が起こった。その音で部屋が割れそうだった。木と紙とがらくたの破片が、あらゆる方向に飛び散り、厚く白い埃の雲で向こうが見えなかった。ハリーは空中を飛んで、床にドシンと落ちた。破片が降りそそぐので、腕で頭をおおっていて見ることができなかった。ハーマイオニーの悲鳴、ロンの叫び声、それから不快な金属のドンドンいう音が一続き聞こえたので、ゼノフィリウスが、足下をすくわれて吹きとばされ、らせん階段を逆さに落ちていくのだと分かった。
破片に半分埋まりながら、ハリーは起き上がろうとした。埃のために、ほとんど息もできず見ることもできなかった。階段の半分は落ちて、ルナのベッドの端が、その穴からぶら下がっていた。ロウィーナ・レイブンクローの胸像が顔を半分失って、そばに横たわっていた。破れた羊皮紙の破片が空中に舞い、印刷機の大半が倒れて、台所に下りる階段の上をふさいでいた。そのとき、白い姿がそばに来て、二つめの像のように埃をかぶったハーマイオニーが指を唇に押しつけて「静かに」と合図した。
下の扉がガタンと開いた。
「急ぐ必要はないと、言わなかったか、トラバース?」と、がさつな声がした。「この変人が、いつものようにうわごとを言っているだけだと言わなかったか?」
ドンという音がして、ゼノフィリウスが痛そうな叫び声をあげた。
「いや……いや……二階に……ポッターが!」
「先週、言ったぞ、ラブグッド、我々は、はっきりした情報がなければ来ないとな! 先週のことを覚えているか? お前の娘と、ばかげた、いまいましい頭飾りを交換しようとしたことを? その前の週は――」またドンという音と、悲鳴が聞こえた。「――お前は、証拠をさしだせば、我々が娘を返すと思ったんだったな――しわしわ『ドン』――角の――『ドン』――スノーカックが、いたという?」
「いや――いや――頼むから!」とゼノフィリウスがすすり泣いた。「ほんとうにポッターだ! ほんとうに!」
「で、今度は、我々を吹きとばそうとするためだけに、呼びつけたわけだ!」とデス・イーターがどなった。そして、ドンという音が連発され、あいだにゼノフィリウスの苦悶の悲鳴が入った。
「ここは、崩れ落ちてきそうだぜ、セルウィン」と二人目の冷たい声がして、ずたずたになった階段の上に響いてきた。「階段は、完全にふさがれているな。どかしてみるか? 上が、崩れ落ちるかもしれんが」
「嘘つきのクソったれ」とセルウィンという名の魔法使いが叫んだ。「一生のうち、ポッターを見たことなどないんだろう? 我々を殺そうとして、おびきよせたのだろう? そうすれば、娘を取りもどせると思ったのだろう?」
「誓って……誓って……ポッターが二階にいる!」
「ホメヌン・レベリオ<人よ出でよ>」と階段の下で声がした。
ハリーは、ハーマイオニーが息をのむのが分かった。何かが自分の上を低くさっと襲ってきて、その影の中に、自分の体を浸そうとするような奇妙な感じがした。
「確かに、上に誰かいるぞ、セルウィン」と二人目の男が鋭く言った。
「ポッターだ、言っただろう、ポッターだ!」とゼノフィリウスがすすり泣いた。「どうか……どうか……ルナを返して、ただルナを返してくれれば……」
「娘は返してやるぞ、ラブグッド」とセルウィンが言った。「階段を上がって、ハリー・ポッターを連れてくればな。だが、もし、これが計略だったら、もし罠だったら、もし共犯者が上で待ちぶせしていたら、お前が埋めるように、娘の体の一部を取っておいてやろう」
ゼノフィリウスは、恐れと絶望の叫び声をあげ、ちょこちょこ走ったり、こすったりする音がした。ゼノフィリウスが階段のがらくたの破片を通りぬけようとしているのだ。
「さあ」とハリーがささやいた。「ここから逃げなくては」
そして、ゼノフィリウスが下でたてている物音に紛れて、破片の下からはい出した。ロンが一番深く埋っていた。ハリーとハーマイオニーは、できるだけ静かに、ロンのまわりのがらくたの破片の上によじ登って、脚から、重い衣装ダンスを取りのけようとした。ゼノフィリウスのドンドン言ったり、こすったりする音がだんだん近づいてくるあいだに、ハーマイオニーは、浮かせる呪文を使って何とかロンを自由にした。
「いいわ」とハーマイオニーが、ささやいた。階段の上をふさいでいる壊れた印刷機が揺れはじめた。ゼノフィリウスは、もう一メートルくらいしか離れていなかった。彼女は、まだ埃をかぶって真っ白だった。「私を信用してくれる、ハリー?」
ハリーは頷いた。
「それじゃ」ハーマイオニーがささやいた。「透明マントをちょうだい。ロン、あなたが着るのよ」
「僕? だって、ハリーが――」
「お願い、ロンってば! ハリー、私の手をしっかり握って。ロン、私の肩をつかんで」
ハリーが左手をさしだした。ロンは、マントの下に姿を消した。階段をふさぐ印刷機が激しくゆれはじめた。ゼノフィリウスが、浮かせる呪文を使って、どけようとしていたのだ。ハリーは、ハーマイオニーが何を待っているのか分からなかった。
「しっかり握って」彼女がささやいた。「しっかり握って……もうすぐ……」
ゼノフィリウスの紙のように白い顔が、食器棚の上にあらわれた。
「オブリビエイト!<忘れろ>」とハーマイオニーが、最初に、彼の顔に杖を向けて叫んだ。次に、自分たちのいる床に向けて叫んだ。「デプリーモ!<穴を開けよ>」
彼女が、居間の床に穴をあけたので、彼らは、丸い岩のように落ちた。ハリーは、まだ彼女の手を必死に握っていた。下から叫び声が上がり、二人の男が、壊れた天井から、膨大な量のガラクタや壊れた家具が、あたり一面に降りそそぐのから、避けようとしているのがちらっと見えた。ハーマイオニーが空中で身をよじらせた。家が崩れ落ちる音がとどろいて、ハリーの耳の中で鳴っているとき、彼女が、また暗闇の中に引っぱりこんだ。
第22章 死の秘宝
The Deathly Hallows
ハリーは、息をきらせて草の上に倒れたが、すぐに、なんとか起きあがった。彼らは、たそがれどきに野原の端に着地したようだった。ハーマイオニーは、もう彼らのまわりに円を描いて歩きながら杖をふっていた。
「プロテゴ・トタルム<すべて守れ>……サルビオ・ヘクシア<まじないを遠ざけろ>……」
「あの裏切り者のじじいめ!」ロンが、あえぎながら透明マントの下からあらわれて、マントをハリーに放りなげた。「ハーマイオニー、君って天才、ほんとに天才、あそこから逃げだせたなんて信じられないよ!」
「カヴェ・イニミクム<敵を警戒せよ>……あれが、エルンペントの角だって、私、言ったでしょ? 彼に言ったでしょ? あの家は、吹きとばされてしまったじゃないの!」
「当然の報いさ」とロンが、ジーンズの破れたところと脚の切り傷のようすを見ながら言った。「やつらは、彼をどうすると思うかい?」
「ああ、殺さないでほしいわ!」とハーマイオニーが呻いた。「だから、逃げる前に、デス・イーターにハリーの姿をちらっと見せたかったの。ゼノフィリウスが嘘を言ってなかったと分かるようにね!」
「でも、どうして僕を隠したのさ?」とロンが尋ねた。
「あなたは、スパテルグロイト病で寝込んでいることになってるのよ、ロン! ルナのお父さんがハリーを支持したから、彼らはルナを誘拐したのよ! もし、あなたがハリーといっしょにいると知ったら、あなたの家族はどうなると思う?」
「けど、君のママとパパは、どうなんだい?」
「オーストラリアにいるわ」とハーマイオニーが言った。「何も知らないから大丈夫なはず」
「君って天才」ロンが、恐れいったように、また言った。
「うん、そのとおりだ」とハリーが熱心に同意した。「君がいなかったら、どうしていいか分からない」
彼女は、にっこり笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「ルナは、どうなってるのかしら?」
「うーん、やつらが真実を言ってるなら、まだ生きてるはずだけど――」とロンが言いかけた。
「そんなこと言わないで、言わないで!」とハーマイオニーが悲鳴をあげた。「生きてるに決ってるわ、ぜったいに!」
「そんなら、アズカバンにいるだろうよ」とロンが言った。「でも、あそこに耐えて生きのびれるかどうか……たくさんの人が、できなくて……」
「彼女は大丈夫」とハリーが言った。その反対を考えるのには耐えられなかった。「彼女はタフだよ、ルナはね、君が思うより、ずっとタフだ。きっと、いっしょに収容されてる人たちに、ラックスパートやナージルを教えてるさ」
「あなたの言うとおりだといいと思うわ」とハーマイオニーが、片手を目の上に当てて言った。「ゼノフィリウスに申し訳なくて。もし――」
「――もし、僕たちをデス・イーターに売ろうとしなけりゃね、そうだ」とロンが言った。
彼らはテントをたてて、その中に入った。ロンがお茶を入れた。危機一髪で逃げだした後では、その肌寒くて、かび臭いなじみの場所が、わが家のように、安全で見慣れた親しい場所に思われた。
「ああ、どうして、あそこに行ったのかしら?」と、数分黙った後で、ハーマイオニーがうめいた。「ハリー、あなたの言うとおりだった。ゴドリック盆地の繰り返しだった。まったくの時間の無駄だったわ! 死の秘宝……なんてくだらない……でも実際問題」彼女は急に思いついたように言った。「あれ、みんな彼がでっちあげたのかもしれないと思わない? きっと、彼は、死の秘宝なんて信じていないのよ。デス・イーターが来るまで、私たちに話をつづけようとしただけだわ!」
「僕は、そうは思わないな」とロンが言った。「人さらいに捕まったときに分かったんだけど、緊張する場面では、君が思うより、何か考えだすのがすごく難しいんだ。僕は、まったく新しい人物をでっちあげるより、少しは知ってるスタンのふりをする方が、はるかに簡単だった。ラブグッドじいさんには、僕たちを家にいさせようとするプレッシャーが、ものすごくあった。彼は、僕たちに話しつづけようとして真実を語ったと思う。ていうか、彼が真実だと考えていることをね」
「うーん、それは、問題じゃないと思うわ」とハーマイオニーが溜め息をついた。「たとえ彼が正直だったとしても、これまで、あんな、無意味な話をどっさり聞いたことないもの」
「でも、ちょっと待てよ」とロンが言った。「秘密の部屋は、伝説だと思われてたんだろ?」
「でも、死の秘宝なんて存在するはずないわ!」
「君は、そう言いつづけてるけどさ、その一つは存在してるんだ」とロンが言った。「ハリーの透明マントが――」
「『三人兄弟のお話』は、ただのお話よ」とハーマイオニーが断固とした調子で言った。「人が、どんなに死を恐れるかというお話よ。もし、生き延びるのが透明マントに隠れればいいというくらい簡単なら、私たちは、必要なものをすべて、もう手に入れてることになるわけよ!」
「どうかな。うち負かされない杖があったら、僕は欲しいな」とハリーが、大嫌いなブラックソーンの杖を指で回しながら言った。
「そんなものは、ないのよ、ハリー!」
「たくさん杖があるって、君、言ったじゃないか――死の棒と、何と呼ばれててもいいけど――」
「いいわ、もしあなたが、ニワトコの杖が実在すると信じたいとしても、復活の石はどうなのよ?」彼女の口調は皮肉に満ちていて、指で疑問符を描いていた。「どんな魔法でも死者をよみがえらせることはできない、そういうことよ!」
「僕の杖が、例のあの人の杖とくっついたとき、ママとパパがあらわれた……それにセドリックも……」
「でも、彼らは、ほんとうに死からよみがえったわけではないでしょ?」とハーマイオニーが言った。「そういうたぐいの――弱い模造品は、誰かをほんとうに生きかえらせるのとは違うわ」
「でも、彼女、つまり、お話の娘は、ほんとうに生き返ったわけじゃないだろ? あの話が言ってるのは、いったん人が死んだら、死者の世界に属するってことさ。けど、二番目の息子は、それでも彼女に会いたくて、彼女と話をしたかったんだろ? それに、少しのあいだ、彼女と一緒に暮らすことだって、できたんだし……」
ハリーは、ハーマイオニーの顔に、気遣う表情と、簡単には説明できない何かがあらわれているのを見てとった。それから、彼女が、ロンをちらっと見たとき、それが恐れであるのが分かった。彼が、生者と死者をいっしょにして話すことを、彼女は恐れたのだ。
「で、ゴドリック盆地に埋葬されてたペベレルのやつだけどさ」ハリーは、しっかり正常であると示そうとして、急いで言った。「それじゃ、彼のことは何も分からないのか?」
「ええ、分からないわ」彼女は、話題が変わって、ほっとしたように答えた。「彼のお墓で、あの印を見つけてから、もし、彼が有名な人か、重要なことをやった人なら、きっと、本に載っていると思ったから調べてみたの。やっと『ペベレル』の名前を、ただ一つ見つけたのは、クリーチャーから借りた『自然の崇高さ:魔法界の家系図』よ」ロンが、眉を上げたので、彼女は説明した。「それは、男系で途絶えた純血の家系を一覧表にしてある本なの。ペベレル家は、いちばん初期に途絶えた家系の一つらしいわ」
「『男系で途絶えた』?」とロンが、くりかえした。
「つまり、名字がなくなったってことよ」とハーマイオニーが言った。「ペベレル家の場合は、何世紀も前にね。でも、別の名字で呼ばれてるだけで、まだ子孫はいるはずよ」
そのとき、ペベレルの名の音の響きに、うごめいていた記憶が輝く一片となって、ハリーによみがえった。魔法省の役人の顔の前で不格好な指輪をふりまわしている汚い老人。ハリーは大声で叫んだ。「マルボロ・ゴーント!」
「何て言った?」とロンとハーマイオニーが、いっしょに言った。
「マルボロ・ゴーント! 『例のあの人』のおじいさん! ペンシーブの中にいた! ダンブルドアと! マルボロ・ゴーントが、ペベレル家の子孫だと言ったんだ!」
ロンとハーマイオニーは、面食らったようだった。
「指輪、ホークラックスになった指輪、マルボロ・ゴーントが、それにはペベレルの紋章がついてるって言ってた! 僕は、彼が、それを魔法省から来たやつの顔の前で、その鼻の中に突っこみそうな勢いで、ふっているのを見たんだ!」
「ペベレルの紋章?」ハーマイオニーが鋭く言った。「どんなふうだったか分かる?」
「実は分からない」とハリーが思いだそうとしながら言った。「僕が知るかぎり、多分数本のひっかき傷くらいしかなくて、飾りたてたものは何もなかった。僕が、ほんとうに近くで見たのは、指輪が裂けて開いた後だから」
ハリーは、ハーマイオニーの目が急に大きく見開かれたので、彼女が理解したのが分かった。ロンは、びっくりしたように、二人の顔を順番に見ていた。
「うへー……また、この印だと思うのかい? 秘宝の印?」
「そうだよ」とハリーが興奮して言った。「マルボロ・ゴーントは、豚みたいに暮らしてた無知な老人だった。気にしていたのは家柄のことだけだった。もし、あの指輪が何世紀ものあいだ、伝えられてきたのなら、それがほんとうは何を意味するのか知らなかったかもしれない。あの家には本はなかったし、彼は、ぜったいに子供におとぎ話を読んでやるようなタイプじゃなかった。彼に関するかぎり、純血ということは、事実上、高貴だという意味だったのだから、指輪の石のひっかき傷は紋章だと考えたかっただろう」
「ええ……その考えは、とてもおもしろいわ」とハーマイオニーが慎重に言った。「でもハリー、もし、あなたの思っていることが、あなたがこう思っているだろうってあたしが考えていることと同じだとしたら――」
「あのさ、そうだよ、そうだってば」とハリーが、慎重にするのをやめて言った。「あれは石だっただろ?」そして支持してもらいたくて、ロンを見た。「もし、あれが復活の石だったら?」
ロンの口が、大きく開いた。「うわーっ……けどダンブルドアが壊してもまだ効果があるのかな?」
「効果? 効果? ロン、そんな効果はないわ! 復活の石なんてものはないのよ!」ハーマイオニーが、ひどく怒ったようにさっと立ちあがった。「ハリー、あなたは、すべてを秘宝の話に当てはめようとしてる――」
「すべてを当てはめる?」彼は、くりかえした。「ハーマイオニー、自然に当てはまるんだよ! 死の秘宝の印があの石にあったのを、僕は見た! ゴーントは、ペベレル家の子孫だと言った!」
「一分前、あなたは、石の上に印があったのを、ちゃんと見なかったと言ったわ!」
「指輪は今どこにあると思う?」ロンがハリーに尋ねた。「ダンブルドアは、指輪を壊して開けた後、どうしたんだろ?」
けれど、ハリーの想像力は、もっと先に、突っ走っていた。ロンとハーマイオニーの考えるはるか先を……
「三つの物、つまり秘宝が、もし合わされば、持ち主が、死を支配することができる……支配……征服……勝利……最終<いやはて>の敵なる死もまた亡ぼされん……」
そして、彼自身が秘宝の持ち主になってヴォルデモートに対するのを想像した。そうすれば、ホークラックスなど敵ではない……「片方が生きのび、両方が生きることはできない」……これが、答えなのか? 秘宝対ホークラックス? 結局、勝利者になることが保証される方法があるのか? もし、死の秘宝の持ち主になれば、助かるのだろうか?
「ハリー?」
けれど、彼は、ハーマイオニーの声がほとんど耳に入らず、透明マントを引っぱりだし、指の間に滑らせた。その布は水のようにしなやかで空気のように軽かった。ほとんど七年間の魔法世界での暮らしの中で、これに匹敵するものを見たことがなかった。そのマントはゼノフィリウスが描写したとおりだった。「着た人をほんとうに完全に見えなくするマントで、永久に長持ちし、どんな呪文が放たれようと関係なく、永続的に完璧に隠す……」
そのとき、彼は思い出して、はっと息を呑んだ――
「両親が死んだ晩に、ダンブルドアが、僕のマントを持っていた!」
彼の声は震え、顔が赤くなるのが分かったが、気にしなかった。「ダンブルドアがマントを借りたと、ママがシリウスにあてた手紙に書いてた! だからだ! 彼は、これが三番目の秘宝だと思ったから調べたかったんだ! イグノトゥス・ペベレルはゴドリック盆地に埋葬されてる……」ハリーは闇雲にテントの中を歩きまわった。大きな新しい真実が、目の前にぐっと広がった。「彼は、僕の先祖だ! 僕は、末の息子の子孫だ! そうすればつじつまが合う!」
彼は秘宝の存在を信じることで、確かに武装されているような気がした。それを持っていると考えるだけで、守られるように感じて、うれしくて、他の二人の方をふりかえった。
「ハリー」とハーマイオニーがまた言いはじめたが、彼は、指がひどく震えていたので、なかなか首から袋をはずせなかった。
そして「読んで」と母の手紙を彼女の手に押しつけながら言った。「読んでってば! ダンブルドアがマントを持っていたんだよ、ハーマイオニー! 調べるのでなけりゃ、なぜそれを借りた? 彼は、強力な幻惑の呪文を完璧にできてマントがなくても姿を消すことができたから、マントは必要なかったんだ!」
何かが床に落ちて、輝きながら転がって椅子の下に入った。手紙を出すときに、スニッチが、いっしょに出てしまったのだ。ハリーは、屈んでそれを拾った。そのとき、すばらしい発見が、泉のように新しく沸き出て、閃いたので、体の中から衝撃と驚きが吹きあげて、それが叫び声になった。
「指輪は、この中だ! 彼は、僕に指輪を遺した――それはスニッチの中だ!」
「君――君、そう思うの?」
彼は、なぜロンがあっけに取られたようなのか、理解できなかった。ハリーにとっては、とてもはっきりと、すぐ分かることだった。すべてが当てはまる、すべてが……彼のマントが三番目の秘宝だ、そしてスニッチの開け方が分れば、二番目の秘宝も手に入る。そしたら、必要なのは、最初の秘宝、ニワトコの杖を見つけることだけだ、そしたら――
けれど、それは、照明に照らされた舞台にカーテンが下りるようなものだった。彼の興奮、希望、幸福感すべては、一撃で消えさり、暗闇にたった一人で立っていた。輝かしい呪文は破れた。
「それを、彼は追っている」
声の調子が変わったので、ロンとハーマイオニーは、もっと恐がったようだった。
「『例のあの人』は、ニワトコの杖を追っている」
ハリーは、二人の緊張して信じられないといった顔付きに、背を向けた。それが真相だと分かった。それでつじつまが合う。ヴォルデモートは、新しい杖を探しもとめているのではない。古い杖を、実際のところ、とても古い杖を探しもとめているのだ。彼は、ロンとハーマイオニーのことは忘れて、テントの入り口まで歩いていって、外の夜を見ながら考えこんだ……
ヴォルデモートは、マグルの孤児院で育った。ハリーが、その話を聞いたことなかったのと同じように、子供の頃、誰も「三人兄弟のおはなし」を読んでくれなかったはずだ。死の秘宝の存在を信じている魔法使いは、ほとんどいない。ヴォルデモートが、それを知っている可能性があるだろうか?
ハリーは暗闇を見つめた……もしヴォルデモートが死の秘宝について知っていたら、きっと、それを探し、それを所有するために何でもしたのではないか? 持ち主が死を支配できる三つの物を? もし死の秘宝について知っていたら、そもそもホークラックスなど必要なかったかもしれない。秘宝である指輪を取って、ホークラックスに変えたという単純な事実が、彼が、この最後にして最大の魔法界の秘密を知らなかったことを示しているのではないか?
つまり、ヴォルデモートは、ニワトコの杖を探してはいるが、その真の力を悟っていない、つまり三つの物の一つであることを悟っていないということになる……というのは、杖は、隠すことができない秘宝で、その存在がよく知られていたからだ……「ニワトコの杖の血なまぐさい痕跡は、魔法歴史のあちこちに散らばっている」……
ハリーは曇り空を見つめていた。白い月のおもてを、煙のような灰色と銀色の曲った形の雲が横切っていった。彼は、自分の発見に驚いて、めまいがした。
それから、テントの中を向くと、ロンとハーマイオニーが、部屋を出たときとまったく同じ場所に立っているのを見て驚いた。ハーマイオニーは、まだリリーの手紙を持っていて、ロンはそのそばで少し心配そうな顔をしていた。この数分間に、どんなに、いろいろ分かったか、二人は理解していないのか?
「そういうわけさ」ハリーが言った。自分が、すばらしい発見をして、それを確信できて、心おどる気持ちでいるのを、彼らにも感じてもらいたいと思っていた。「これですべて説明がつく。死の秘宝は実在する。僕は一つ持っている――多分、二つ――」
彼はスニッチを持ちあげた。
「ー、そして例のあの人が、三つ目を追っている。けど、彼は秘宝だとは悟っていない……強力な杖だと思っているだけだ――」
「ハリー」とハーマイオニーが、彼の方に歩いてきてリリーの手紙を返した。「ごめんなさい、でもあなたは、間違ってる。すべて、間違ってると思うの」
「でも分からないか? ぴったり当てはまる――」
「いいえ、違うわ」彼女は言った。「違うわ、ハリー、あなたは夢中になりすぎてるだけよ。お願い」彼女は、彼が話そうとしたときに言った。「お願いだから、これだけ答えて。もし死の秘宝が実在して、ダンブルドアが、それを知っていて、その持ち主が死を支配できることを知っていたのなら――ハリー、なぜ彼は、あなたに話さなかったの? なぜ?」
ハリーは、答えを用意していた。
「君が言ったじゃないか、ハーマイオニー! 自分で見つけださなくちゃいけないと! 探索の旅だと!」
「でも、それは、ただあなたをラブグッド家に行かせるように説得したいから、そう言っただけよ!」ハーマイオニーがひどく怒って叫んだ。「ほんとに、そう信じていたわけじゃないわ!」
ハリーは気に止めなかった。
「ダンブルドアは、僕に、いつも自分で見つけ出すようにさせた。僕の力を使い、危険を冒すようにさせた。彼が、しそうなことだと思うんだ」
「ハリー、これはゲームじゃない、練習じゃないのよ! これは現実、そしてダンブルドアは、とてもはっきり指示を残した。ホークラックスを見つけて破壊せよという指示よ! あの印は、何も意味しないわ、死の秘宝は忘れて。横道にそれる余裕はないわ――」
ハリーは、ほとんど聞かずに、ずっとスニッチを手の中でひっくりかえしていた。それが割れて開き、復活の石が出てきて、ハーマイオニーに、自分が正しくて、死の秘宝は実在するという証拠にるのを、半分期待していた。
彼女はロンに訴えた。
「あなたは、それが実在するって思わないでしょ?」
ハリーが顔をあげた。ロンはためらった。
「分からない……つまり……ちょっと当てはまるとこもある」とロンが決まり悪そうに言った。「けど、全体を見通すと……」彼は深く息を吸った。「ホークラックスを破壊すべきだと思う、ハリー。ダンブルドアが、そうしろと言ったことだ。多分……多分、秘宝のことは忘れた方がいいかも」
「ありがと、ロン」とハーマイオニーが言った。「私が最初の見張りをするわ」
そして彼女は、ハリーの前を通りすぎて、テントの入り口に座った。もうこれで話は終わりと、はっきりと行動で示していた。
けれど、その夜ハリーは、ほとんど寝つかれなかった。死の秘宝の考えに、とりつかれて、考えが心の中に渦巻いて興奮して休まらなかった。杖、石、マント、もし全部持っていさえしたら……
「われは、終わりに開く」……でも、終わりって何だろう? なぜ今開けられないのだろう? もし石を持っていさえしたら、こういう質問をダンブルドアに直接聞けるのに……そしてハリーは、暗闇の中で、スニッチに、言葉を呟いた。パーセルタングさえも試してみた。けれど、黄金の球は開かなかった……
そして、杖、ニワトコの杖は、それはどこに隠されているのだろうか? ヴォルデモートは今どこを探しているのだろうか? ハリーは、傷口が焼けるように痛んで、ヴォルデモートの心を見せてくれるのを望んだ。なぜなら、いまだかつて初めて、彼とヴォルデモートは、ともに、同じものを求めているのだから……ハーマイオニーが、その考えを嫌うのは、もちろんだ……けれど、彼女は、秘宝の存在を信じていない……ゼノフィリウスは、ある意味では正しかった……「ひどく視野が限られている、狭い、偏見がある」。実は、彼女は、死の秘宝の考えを恐れているのだ、特に復活の石を……そしてハリーは、またスニッチに口を押しつけ、キスして、飲みこみかけた、けれど冷たい金属は屈しなかった……
ルナのことを思いだしたのは、明け方に近かった。彼女は、アズカバンの独房で、ディメンターに囲まれている。彼は、急に自分が恥ずかしくなった。秘宝のことに没頭していたので、彼女のことをすっかり忘れていた。もし彼女を助けだすことさえできれば。だが、とてもたくさんのディメンターがいては事実上、攻められない。そのことを考えてみると、まだブラックソーンの杖でパトローナスを出したことがない……朝になったら、練習しなくては……
もっと、いい杖を手に入れることさえできれば……
そして、また、うち負かされない、無敵の「ニワトコの杖」、「死の棒」が欲しいという思いが溢れた……
翌朝、彼らは、テントを畳んで、降りだした気がめいる雨の中を移動した。どしゃ降りの雨は、その夜テントを張った沿岸地方まで追ってきて、丸一週間、降りつづき、びしょ濡れの風景を見ていると、ハリーはわびしくて、ゆううつな気分になった。死の秘宝のことしか考えられなかった。体の中に炎がともって、それは、ハーマイオニーが全く信用しなくても、ロンが疑いつづけても、消えることがなかった。だが、秘宝を求める気持ちが、体の中で燃えあがるように激しくなればなるほど、楽しくなくなってきた。そしてロンとハーマイオニーを責めた。彼らが断固として冷淡なままなのは、絶えまなく降り続く雨と同じくらいひどくハリーの気をくじいた。けれど、それでも彼の確信はゆるがず、自分が、ぜったいに正しいと思っていた。自分が秘宝の存在を信じ、夢中になっていて、それを切望する気持ちが、たいそう強くなっていたので、ホークラックスに執着している他の二人から孤立したように感じていた。
ある夜、ハリーが無頓着に、その言葉を使ったとき、彼がホークラックスを探そうという興味をなくしていると叱った後で、ハーマイオニーが「執着ですって?」と低くて激しい声で言った。「執着しているのは私たちじゃないわ、ハリー! 私たちは、ダンブルドアが、私たちにしてほしいと望んだことを、しようとしてるのよ!」
けれど、ハリーは、直接でない批判は受けつけなかった。ダンブルドアは、秘宝の印を解読する仕事をハーマイオニーに遺した。一方、復活の石を、金のスニッチに隠して遺したと、ハリーは確信していた。「片方が生きのび、両方が生きることはできない」……「死を支配」……なぜロンとハーマイオニーは分からないんだろう?
「『最終<いやはて>の敵なる死もまた亡ぼされん』」ハリーが冷静に引用した。
「私たちが、戦うことになってるのは、例のあの人だと思っていたけど?」ハーマイオニーが言い返したので、ハリーは彼女に見切りをつけた。
他の二人が議論しつづけている銀の雌鹿の謎でさえ、今のハリーには、それほど重要でなく、ぼんやり興味のある二次的な問題になっていた。その他に、彼に感心のあるのは、二人には隠していたが、傷口がまた痛みはじめることだけだった。彼は、機会があれば、一人になりたがったが、見えるものには失望した。彼とヴォルデモートが共有する幻影は、質が変わったようだった。ぼやけていて、焦点を合わせようとしているかのようにしょっちゅう変わった。骸骨のように見えるが、はっきりしない物体と、実体より影の方が多い山のようなものが分かっただけだった。ハリーは、現実のように鮮明な、これまでの画像に慣れていたので、その変化に、うろたえ、彼とヴォルデモートの関係がだめになったのではないかと心配した。その関係を、恐れると同時に、ハーマイオニーに何と言おうが、重んじてもいたのだ。そして、この満足できない、ぼやけた幻影になった原因のいくらかは、彼の杖が壊れたことに関係があるのではないかと思っていた。前のようにヴォルデモートの心をのぞけないのは、ブラックソーンの杖のせいだとでもいうように。
数週間が徐々に過ぎたとき、ハリーが、いくら自分の世界に夢中になっていても、ロンが仕切っている感じなのに気づかずにはいられなかった。ロンは、他の二人を見捨てて出ていった償いをしようと決心しているのかもしれないし、。多分、ハリーがぼんやりとした状態に堕落してしまったので、ロンの眠っていたリーダーシップを取る素質が電気ショックを受けたように目覚めたのかもしれない。今では、ロンが、他の二人に行動しようとせきたて元気づけていた。
「三つ、ホークラックスが残ってる」彼は言いつづけた。「行動の計画を立てるべきだ。さあやろう! まだ見てない場所はどこだ? もう一回、復習してみよう。孤児院だろ……」
ロンとハーマイオニーは、ダイアゴン横町、ホグワーツ、リドルの家、ボーギン・アンド・バークス店、アルバニア、かつてトム・リドルが住んだか、働いたか、訪れたか、殺人を犯しに入ったかした場所すべてについて、もう一度、話し合い、ハリーは、ハーマイオニーに、うるさく言われないためにだけ、加わった。彼は、実は黙って一人で座って、ヴォルデモートの考えを読んで、ニワトコの杖に関してもっと探りだすことができれば満足だった。けれどロンは、いっそうありそうもない場所を旅して回るように主張していが、それはただ、彼らを動き回らせたいだけではないかと、ハリーは気がついた。
「ひょっとしたら、」とロンは、また言った。「アパー・フラグリーは魔法使いの村だから、彼が住みたかったかもしれないよ。探しにいってみよう」
こんなにしょっちゅう魔法使いが住んでいる場所を訪れると、ときどき人さらいを見かけた。
「中には、デス・イーターみたいに悪いやつらもいるさ」とロンが言った。「僕をつかまえた連中は、たいしたことなかったけどね。けど、中には、ほんとに危険なやつらもいるって、ビルは思ってる。『ポッター番』で言ってた、ー」
「何でって?」とハリーが言った。
「『ポッター番』そういう名前だって言わなかったっけ? 僕がずっと、ラジオで探そうとしてる番組だよ、今の正しい状況を流す、たった一つの番組さ! 『ポッター番』以外は、ほとんど全部、例のあの人系の番組だ。それを、ほんとは君たちに聞いてほしいんだ、けど、チャンネルを合わせるのにコツがいって……」
ロンは、毎晩、杖でラジオをいろいろなリズムで叩き、そのあいだ、ダイヤルがぐるぐる回っていた。ときたま、ドラゴン痘の手当の仕方のアドバイスの切れ端が聞え、一度は、「熱く強い愛でいっぱいの大鍋」の歌の数節が聞こえた。ロンは、ラジオを叩きながら、正しいパスワードを見つけようとして、小声で、でたらめな言葉をずっと、つぶやきつづけていた。
「パスワードは、ふつうは、騎士団に関することなんだ」彼は言った。「ビルは、当てるのがほんとに巧くてね。いつかは、僕だって当てられるはずなんだけど……」
けれど、ロンにやっと幸運が訪れたのは、三月になってからだった。ハリーは、見はりの番で、テントの入り口に座って、肌寒い地面に、何とか育っている葡萄色のヒヤシンスの茂みをぼんやり見ていた。そのときロンがテントの中から興奮した声で叫んだ。
「やった、やった! パスワードは『アルバス』だ! 入ってこいよ、ハリー!」 ハリーが、何日も死の秘宝についてじっと考えつづけていたところから、目が覚めたように他のことに興味を引かれて、急いでテントの中に入ると、ロンとハーマイオニーが、小さいラジオの横の床にひざをついていた。ハーマイオニーは、何かしていたいので、グリフィンドールの剣を磨いていたが、口を開けて座って、小さなスピーカーを見つめていた。そこから、とても聞き慣れた声が聞えていた。
「……放送が、一時的にできなくて、お詫びします。あの魅力的なデス・イーターたちが、我々がいた地域を一軒一軒回ってきたためです」
「でも、これってリー・ジョーダンよ!」とハーマイオニーが言った。
「そうさ!」とロンがにっこり笑った。「かっこいいだろ、ね?」
「……今は、安全な地域を見つけました」リーが言っていた。「そして、うれしいことに、今夜は、いつもの出席者が二人、ここに来てくれました。こんばんは!」
「やあ」
「こんばんは、リバー」
「『リバー』ってのが、リーだ」ロンが説明した。「彼らは、暗号名を使ってる、でも、誰かすぐ分かるよ――」
「シーッ!」とハーマイオニーが言った。
「でも、ロイヤルとロムルスの話を聞く前に、」リーが続けた。「魔法ラジオ・ネットワークと日刊予言者新聞では、取りあげるほど重要ではないと考えられている、何人かの死について報告します。大変残念なことですが、お聞きのみなさんに、テッド・トンクスとダーク・クレスウェルが殺されたことをお伝えします」
ハリーは、お腹の中に吐き気がこみあげた。彼とロンとハーマイオニーは、恐ろしさに顔を見あわせた。
「ゴルナクという名のゴブリンも殺されました。マグル出身者のディーン・トーマスと二人目のゴブリンは、トンクス、クレスウェル、ゴルナクといっしょに旅していたと思われますが、逃げ延びたかもしれません。もしディーンが聞いていたら、または、もし彼の所在を知っている方がいたら、両親と妹が知らせを待ち望んでいます。
「一方、ガドリーでは、マグルの五人家族が死んでいるのが発見されました。マグル当局は、ガス漏れによる死だとしていますが、フェニックス騎士団のメンバーの情報では、殺人の呪文によるものでした――必要ならば、もっと証拠がありますが、新しい体制下では、マグル殺しは、気晴らしのスポーツにすぎなくなっているようです。
「最後に、残念なことですが、お聞きのみなさんに、バチルダ・バグショットの遺体がゴドリック盆地で発見されたことをお伝えします。彼女は数ヶ月前に亡くなっていたという証拠があがっています。フェニックス騎士団の情報によると、遺体には、まちがいなく闇魔術によって与えられた損傷の印があったそうです。
「お聞きのみなさん、ここで、テッド・トンクス、ダーク・クレスウェル、バチルダ・バグショット、ゴルナク、そして言うまでもなくデス・イーターによって殺された無名のマグルのためにも、一分間の黙祷を捧げたいと思います」
沈黙になった。ハリー、ロン、ハーマイオニーは口をきかなかった。ハリーの半分は、もっと聞きたくてたまらないが、半分は、次に、どんな知らせが来るのかと恐れていた。外の世界としっかりつながったのは、ほんとうに久しぶりだった。
「ありがとう」とリーの声がした。「では、いつもの出席者、ロイヤルに、新しい魔法界の秩序が、マグル社会にどう影響しているかの最新情報を聞きます」
「どうも、リバー」と、誰か聞きまちがえようのない深く、ゆったりとした、安心させる声がした。
「キングスリーだ!」ロンが叫んだ。
「分かってるわ!」とハーマイオニーが、ロンを黙らせた。
「マグルは、死傷者が非常に多く出続けているのに、原因を知らないままでいます」とキングスリーが言った。「しかしながら、しばしば、マグルは、それを知らないのですが、魔法使いや魔女が、マグルの友人や隣人を命を賭けて守ろうとする実に感動的な話をあちこちで聞きます。私は、お聞きのみなさんに、彼らを見習っていただきたいと訴えます。たとえば、あなたの近所のマグルの居住地区に防御の呪文をかけるなどです。もし、このような簡単な策がとられれば、たくさんの命が救われるはずです」
「そして、ロイヤル、この危険な時代には、『魔法使い第一』であるべきだと答える聞き手には、何と言いますか?」とリーが尋ねた。
「私が言いたいのは、『魔法使い第一』から『純血第一』へ、それから『デス・イーター』への距離は、とても短いということです」とキングスリーが答えた。「我々は皆、人間ではないですか? すべての人間の命は等しく価値があり、救う価値があるのです」
「すばらしい言葉です、ロイヤル。もし、この窮地から脱出できたとしら、魔法大臣として、あなたに投票しますよ」とリーが言った。「さて、今度はロムルス、人気の呼び物コーナー『ポッターの仲間たち』です」
「どうも、リバー」と別の聞きなれた声がした。ロンが話そうとしたが、ハーマイオニーが小声で先んじて言った。
「ルーピンだって分かってるわ!」
「ロムルス、あなたは、この番組に出演するとき、いつも言っているように、ハリー・ポッターはまだ生きていると、まだ思っていますか?」
「はい」とルーピンが、断固とした口調で言った。「もし彼が死ねば、新体制に抵抗する者たちにとって致命的な打撃になるので、ぜったいにデス・イーターが、できるだけ広く知らせてまわるだろうと信じて疑いません。『生き延びた少年』は、ずっと、我々が戦っているもの、すなわち、正義の勝利、無垢の力、抵抗しつづけることの必要性という、すべての象徴なのです」
感謝と恥ずかしさの混じった感情が、ハリーの中に湧き上がった。それでは、こないだ会ったときに、ひどいことを言ってしまったのに、ルーピンは彼を許してくれたのだろうか?
「もし、ハリーが聞いていると分かったら、彼に対して何と言いますか、ロムルス?」
「精神的には、みんな彼と一緒にいる、といいたい」とルーピンが言った。それから少し口ごもった。「それから、彼の直感に従えと言いたい。それは、善きもので、ほとんど、いつも正しいから」
ハリーが、ハーマイオニーを見ると、その目に涙が溢れていた。
「ほとんど、いつも正しい」彼女は、繰り返した。
「あれ、僕言わなかったっけ?」とロンがびっくりして言った。「ビルが言ってたけど、ルーピンは、またトンクスと暮らしてるんだって! 彼女は、ずいぶんお腹が大きくなってきたらしいよ」
「……そして、いつものように、ハリー・ポッターに忠誠を誓っているために、苦しみを受けている彼の友人の最新情報は?」リーが言っていた。
「ええと、いつも聞いているみなさんはお分かりだろうが、ハリー・ポッターを支持すると公言していた人たちの何人かが、投獄されています。その中には、クィブラー誌のかつての編集長、ゼノフィリウス・ラブグッドも――」とルーピンが言った。
「少なくとも、彼はまだ生きてるんだ!」とロンがつぶやいた。
「つい数時間前に聞いたところでは、ルビウス・ハグリッドが――」三人とも、はっと息を呑んだので、その残りを聞きのがすところだった。「ー、ホグワーツ校の有名な森番ですが、ホグワーツの敷地内で捕まるところを、危うく逃げだしたそうです。自宅で『ハリー・ポッターを支持しよう』という集まりを主催したという噂です。しかし、ハグリッドは、捕まってはおらず、我々は、逃走中だと信じています」
「逃げるときに、身長が五メートルの異父弟がいたら、助けになるでしょうか?」とリーが尋ねた。
「それは迫力が増すかもしれないな」とルーピンが重々しく言った。「ここ『ポッター番』で、ハグリッドを賞賛するあいだに、つけ加えさせてもらいたいが、どんなに献身的なハリー・ポッターの支持者であっても、ハグリッドの先例には習わないように強く忠告します。『ハリー・ポッターを支持しよう』という集まりは、現在の風潮では無分別なことです」
「その通りですね、ロムルス」とリーが言った。「それでは、みなさん、『ポッター番』を聞き続けることで、稲妻の傷跡がある男への忠誠を示しつづけようと提案します! さて、ハリー・ポッターと同じくらい、巧みに逃げている魔法使いに関するニュースに移ります。彼のことは、デス・イーターのボスと呼びたい。ここに、彼について広まっている異常な噂のいくつかについて、見解を聞きます。新しい記者、ローデントを紹介します」
「ローデント?」とまた別の聞きなれた声がした。ハリーとロンとハーマイオニーが、いっしょに叫んだ。「フレッド!」
「違う――ジョージ?」
「フレッドだ、と思うな」とロンが、身をかがめて、もっと近よりながら、双子のどちらにせよ、喋った時に言った。「僕は、ネズミの『ローデント』じゃない、とんでもない、僕は、フェンシングの刃の『レピア』になりたいと言っただろ!」
「ああ、いいよ、それじゃ、『レピア』、デス・イーターのボスについて聞いているさまざまな話について、君の見解を聞かせてくれますか?」
「いいですよ、リバー」とフレッドが言った。「お聞きのみなさんは、知ってるとおり、庭の池の底か、そんなようなところに避難していないかぎり、例のあの人が陰にいつづけているという戦略は、すてきな小さなパニックの風潮を生みだしています。いいですか、もし彼を見たという申したてが、すべて真実なら、十九人もの、例のあの人が、一か所を駆けまわっていることになるんですよ」
「それは、もちろん、彼にふさわしい」とキングズリーが言った。「謎めいた雰囲気は、実際に姿を現すより、もっと恐怖を生み出すものです」
「そのとおり」とフレッドが言った。「だから、みなさん、少し、落ちつくように努力しましょう。想像で余計なものを創りださなくても、現実の事態は、じゅうぶん悪いのです。たとえば、『例のあの人』が、ちらっと一目、見ただけで殺せるという新しい考え方がありますが、それは、バジリスクです、みなさん。簡単なテストがあります。あなたを睨み付けているものに脚があるか調べてください。脚があれば、たとえ本物の『例のあの人』であるとしても、目を覗き込んでも安全です。そんなことは、ぜったいにありそうにないですけどね」
久しぶりに、ハリーは声をだして笑った。緊張の重みが去っていくのが感じられた。
「それから、彼が海外で目撃されつづけているという噂は?」とリーが尋ねた。
「ええと、彼がやっている大変な仕事の後なら、誰でもちょっと休みを取りたいんじゃないですか?」とフレッドが言った。「大事なのは、みなさん、彼が国外に行ったと考えて、安全だと考えてしまうのは謝りだということです。彼は国外に行ったかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、偽の排泄物に立ちむかっているセブルス・スネイプよりは、彼の方が、その気になれば早く動けるという事実だけは残っています。だから、もし何か危険を冒そうとしていても、彼が遠くに行っていると当てにしないように。僕自身が、こんなことを言うとは思いませんでしたが、安全第一です!」
「ためになる言葉を、どうもありがとう、レピア」と、リーが言った。「お聞きのみなさん、これで今日の『ポッター番』は終わりです。私たちは、いつまた放送できるか分かりませんが、ぜったいにまた放送します。ダイヤルを回しつづけてください。次のパスワードは『マッド・アイ』です。安全で、忠誠を誓って。おやすみなさい」
ラジオのダイヤルがくるくる回って、ラジオが切れた。ハリー、ロン、ハーマイオニーは、聞きなれた、親しい声を聞いて、とてつもなく元気づけられて、まだ笑っていた。ハリーは、三人だけでいるのに慣れてしまったので、他の人たちもヴォルデモートに抵抗しているのだということをほとんど忘れていたので、永い眠りから目覚めたような気がした。
「よかっただろ?」ロンが、うれしそうに言った。
「すてきだ」とハリーが言った。
「彼ら、とっても勇気があるわ」とハーマイオニーが、賞賛するように溜め息をついた。「もし、見つかったら……」
「ええと、彼らは、場所を変えつづけているんだろ?」とロンが言った。「僕たちみたいにさ」
「けど、フレッドが言ったこと、聞いたか?」とハリーが興奮して尋ねた。放送が終ったので、彼の考えは、また、ひどく執着している問題に戻っていた。「彼は海外にいる! 彼は、まだ杖を探しているんだ。僕、分かった!」
「ハリー――」
「ねえ、ハーマイオニー、どうして、認めようとしないのさ? ヴォル――」
「ハリー、だめ!」「――デモートが、ニワトコの杖の跡を追ってるってことを!」
「その名前は、タブーだ!」ロンが、さっと立ちあがって叫んだ。そのとき、テントの外で、大きなピシッという音がした。「言っただろ、ハリー、言っただろ、もう、それ言ったらだめなんだ――僕たちのまわりの防御策をやり直さなくては――急げ――そうやって、彼らは見つけるんだ――」
けれど、ロンは、話すのをやめた。ハリーは、なぜか分かった。テーブルの上のスニーコスコープが、ぱっと明るくなって、コマのように回りはじめたのだ。外から声が、どんどん近づいてくるのが聞こえた。荒々しくて興奮した声だった。ロンが火消しライターを取りだし、カチッと押した。ランプが消えた。
「両手をあげて外に出ろ!」と暗闇から耳ざわりな声が聞こえた。「そこにいるのは分かっている! 六本の杖が、お前たちをねらっている。誰に呪文が当たろうと、俺たちは気にしないぞ!」
第23章 マルフォイの屋敷
Malfoy Manor
ハリーは、他の二人の方を見たが、暗がりで輪郭だけしか見えなかった。ハーマイオニーが、杖を、外にではなく、ハリーの顔に向けるのが見えた。大きなドンという音がして、白い光がほとばしり、彼は、何も見えず、苦痛でくずれるようにかがみこんだ。押さえた手の下で、重いサッカーボールを巻いたように急速に顔がふくらんでいくのが分かった。
「立て、害虫」
見知らぬ手が、荒っぽくハリーを地面から立たせた。彼が押しとどめる前に、誰かが、ポケットを探り、ブラックソーンの杖を持ち去った。顔が痛くてたまらないので、おさえたが、それは、激しいアレルギー反応が出たように、指の下で、固く盛りあがり、腫れて、誰だか分からないほどになった。目は、ひっこんで細い裂けめのようになり、そのすきまから、やっと見ることができた。眼鏡は、テントから追いたてられたときに落ちた。四、五人の人影が、ロンとハーマイオニーも外に出そうとして、もみあっているのが、ぼんやり見えた。
「彼女から――手を――離せ!」ロンが叫んで、皮膚を打つげんこつの音にまちがいない音がした。ロンが苦痛のうめき声をあげ、ハーマイオニーが悲鳴をあげた。「止めて! 彼を離して! 離して!」
「あんたのカレシが、リストにのってりゃ、今よりもっとひどいことになるぜ」と恐ろしく聞きなれた耳ざわりな声がした。「うまそうな娘だ……すごいご馳走だ……柔らかい皮膚を楽しめるぞ……」
ハリーは、それが誰か分かって、おなかの中がひっくりかえるような気がした。フェンリル・グレイバック、雇われて、暴行をはたらくかわりに、デス・イーターのローブを着ることを許された人狼だった。
「テントを探せ!」と別の声がした。
ハリーはうつぶせに、地面に投げだされた。ドサッという音がして、ロンが隣に放りだされたのが分かった。男たちが、探しながらテントの中の椅子をひっくりかえす足音と、ドシンガチャンという音がした。
「さあ、誰を捕まえたか見てやろう」と、ほくほくしているグレイバックの声が、頭の上から聞こえた。杖の光の光線が、ハリーの顔を照らし、グレイバックが笑った。
「こいつの顔を洗い流すのにバタービールがいるな。どうしたんだ、ぶさいく野郎?」
ハリーは、すぐには答えなかった。
「俺は聞いてるんだぞ」とグレイバックが、くりかえし、ハリーは、横隔膜に一撃を受け、苦痛で体を二つ折りにした。「どうしたんだ?」
「刺された」ハリーが呟くように言った。「刺された」
「ああ、そうだろうな」と二番目の声がした。
「名字は?」とグレイバックが、かみつくように言った。
「ダドリー」とハリーが言った。
「名前は?」
「僕――バーノン。バーノン・ダドリー」
「リストを調べろ、スカビオー」とグレイバックが言った。そして、次に、彼が横に移動して、ロンを見おろすのが、ハリーに分かった。「で、お前は、赤毛?」
「スタン・シャンパイク」とロンが言った。
「クソったれ」とスカビオーと呼ばれた男が言った。「俺たちは、スタン・シャンパイクを知っている。やつは、少しは働いてるぞ」
またドサッという音がした。
「僕、バーディ」とロンが言った。ハリーは、彼の口が血だらけだろうと思った。「バーディ・ウィドリー」
「ウィーズリーの一人か?」とグレイバックが言った。「じゃ、お前は、穢れた血でなくても、血の裏切り者に関係があるんだな。最後に、可愛いお友だちよ……」その味わうような言い方に、ハリーは、ぞっとした。
「ちょっと待て、グレイバック」と他が、はやしたてるより大きな声で、スカビオーが言った。
「ああ、まだ、一噛みするつもりはない。彼女が、バーニーよりは名前をもうちっと早く思いだすか見ようじゃないか。あんたは誰だ、嬢ちゃん?」
「ペネロピ・クリアウォーター」とハーマイオニーが言った。彼女は、恐がっているようだったが、しっかりしていた。
「家系状況は?」
「混血」とハーマイオニーが言った。
「調べるのは簡単だ」とスカビオーが言った。「だが、こいつらみんな、まだホグワーツの年に見えるな――」
「僕だぢ、そづぎょうじだ」とロンが言った。
「卒業したのか、赤いの?」とスカビオーが言った。「で、キャンプに行こうと決めたのか? で、冗談で闇の帝王の名を使ったのか?」
「冗談だだい(冗談ジャナイ)」とロンが言った。「ぐーでん」
「偶然?」さらにあざけりの笑いがあがった。
「誰が、闇の帝王の名を使うのが好きか知ってるか、ウィーズリー?」とグレイバックが唸るように言った。「不死鳥の騎士団だ。お前に何か意味があるか?」
「だい(ナイ)」
「あのな、やつらは、闇の帝王を、きちんと敬わないから、名前がタブーになってるんだ。そうやって、何人かの騎士団のメンバーが跡をつけられた。今に分かるさ。こいつらを、他の捕虜といっしょに、縛りあげろ!」
誰かが、ハリーの髪の毛をぐいと引っぱって、少し引きずっていって、押して座らせ、それから他の人たちと背中合わせに縛りあげた。ハリーは、ふくれあがった目で、ほとんど何も見えなかったので、相変わらず半分、盲目状態だった。やっと、彼らを縛りあげた男が向こうへ行ったので、ハリーは、他の捕虜たちにささやいた。
「誰か、まだ杖を持ってるか?」
「持ってない」とロンとハーマイオニーが両側から言った。
「みんな僕のせいだ。僕が名前を言った。悪かった――」
「ハリー?」
新しいが、なじみの声が、ハリーの真後ろ、ハーマイオニーの左にしばられている人物から聞こえた。
「ディーン?」
「君か! もし、あいつらが、誰を捕まえたか分かったら――! あいつらは、人さらいだ。脱走者を探して、売って金貨にするんだ――」
「一晩にしちゃ、悪くない稼ぎだぜ」靴底に大きなビョウクギを打った長靴の音を響かせながら、ハリーのそばに歩いてきたグレイバックが言った。テントの中では、さらに者が倒れたり壊れたりする音がした。「穢れた血と、逃亡したゴブリンと、三人の脱走者。もう、やつらの名を調べたか、スカビオー?」彼は叫んだ。
「ああ、ここには、バーノン・ダドリーという名はないぞ、グレイバック」
「おもしろい」と グレイバックが言った。「そりゃ、おもしろい」
彼は、ハリーの横にしゃがんだ。ハリーは、ふくれたまぶたのあいだに残ったわずかなすきまから、もつれた灰色の髪の毛と、ほおひげに覆われた顔と、その中の、口の端のすり傷と、先が尖った茶色の歯を見た。グレイバックは、ダンブルドアが亡くなった夜、塔の上でしたのと同じ埃と汗と血の臭いがした。
「それじゃ、お前は指名手配ではないのか、バーノン? それとも別の名でリストに上がってるのか? ホグワーツではどの寮にいた?」
「スリザリン」とハリーが機械的に答えた。
「捕虜はみな、そう言えば我々が喜ぶと思っているのが、おもしろいな」とスカビオーが陰から出てきて、あざけった。「だが、誰も談話室がどこか答えられなかったぜ」
「地下室だ」とハリーは、はっきりと答えた。「壁を通って入る。骸骨や何かでいっぱいだ。湖の下にあるから、明かりはみんな緑色だ」
少し間があった。
「これは、これは、ほんとうに、スリザリン生を捕まえたようだな」とスカビオーが言った。「お前のために、いいことだ、バーノン。穢れた血のスリザリンは多くはいないからな。父親は誰だ?」
「魔法省で働いてる」ハリーは嘘をついた。ほんの少し調べれば、全部の話が嘘だとばれるのは知っていたが、一方、顔が普通の状態に戻れば、どっちみちゲームは終わるのだから、それまでの時間しかないのだ。「魔法事故、災害部だ」
「知ってるか、グレイバック」とスカビオーが言った。「あそこには、ダドリーってやつがいるぞ」
ハリーは、息が止まりそうだった。幸運、危機一髪、ここから逃げだせるだろうか?
「それは、それは」とグレイバックが言ったが、その冷淡な声の中に、ほんの少し慄きが混じっていたので、ほんとうに魔法省の官僚の息子を襲って、縛り上げたのかと悩んでいるのが分かった。ハリーの心臓が、肋骨を縛っている縄に対してドクンドクンと打った。グレイバックに、それが見えても驚かないくらいだった。「もし、お前が真実を言ってるのなら、ぶさいく野郎、魔法省へ行くのを何も恐がることはない。お前を連れてきてくれたというので、お前の父親が、褒美をくれるだろうよ」
「でも」とハリーが言った。口は骨までからからに乾いていた。「ただ解放してくれれば――」
「おい!」とテントの中から叫び声があがった。「これを見ろ、グレイバック!」
黒っぽい姿が、ばたばたと走ってきた。彼らの杖の光の中に、銀が輝くのを、ハリーは見た。グリフィンドールの剣が見つかったのだ。
「とーてーも、いいぞ」とグレイバックが、それを仲間の手から受けとり、価値ある品だと分かったように言った。「ああ、まったくもって実にいい。ゴブリン製のようだ。こんなものをどこで手に入れた?」
「父のものだ!」ハリーは嘘をついた。柄のすぐ下に彫ってある名前が、暗すぎてグレイバックには読めないといいのにと、見こみがないことを希望していた。「たきぎを切るのに借りたんだ――」
「ちょい待ち、グレイバック! こいつを見ろ、日刊予言者新聞だ!」
スカビオーが言ったとき、ふくれあがった額の上でぴんとのびていたハリーの傷跡が、とてもひどく焼けつくように痛んだ。そして、まわりの光景より、もっとはっきりと、真っ黒で人を寄せつけないで、そびえたつ建物、恐ろしい要塞が見えた。ヴォルデモートの心が、また急にカミソリの刃のように、はっきりと見えた。彼は、冷静に、幸福感にあふれ目的を持って、巨大な建物の方にすべるように進んでいた……
<もうすぐだ……もうすぐだ……>
ハリーは非常に努力して意志の力で、ヴォルデモートの心に対して自分の心を閉ざし、ロン、ハーマイオニー、ディーン、グリプフックとともに暗闇の中で縛られて座っている場所に心を引きもどして、グレイバックとスカビオーの言うことを聞いた。
「『アーマイオニー・グレンジャー』」スカビオーが言っていた。「『穢れた血、アリー・ポッターといっしょに逃亡中として知られる』」
沈黙のなかで、ハリーの傷跡が焼けるように痛んだが、ヴォルデモートの心の中に滑りこまず現実に留まっているように必死の努力をした。グレイバックが、ハーマイオニーの前にしゃがんだとき長靴がきしむ音が聞こえた。
「知ってるか、嬢ちゃん? この写真は、あんたそっくりだな」
「違う! 私じゃない!」
ハーマイオニーの、かんだかい恐怖の叫び声は、そうだと告白するのと同じだった。
「『……ハリー・ポッターと一緒に逃亡中として知られる』とグレイバックが静かに繰り返した。
その場が静まりかえった。ハリーは、傷跡が、ひどく痛んだが、全力をふりしぼって、ヴォルデモートの心に引きこまれないように苦闘していた。自分の正常心を保っているのが、これほど重要だったことはない。
「うん、これで事態が変わるだろうか?」とグレイバックが小声で言った。
誰もしゃべらなかった。ハリーは、人さらいの一味が凍りついたように見ているのを感じ、自分の腕に押しつけられたハーマイオニーの腕が震えているのが分かった。グレイバックは立ちあがり、ハリーの方に数歩近づいてきて、しゃがみ、形のゆがんだ顔をじっと見つめた。
「額には何がある、バーノン?」彼はそっと尋ねた。汚い指が、ピンと張った傷跡を押したとき、その息がハリーの鼻孔に詰まるような気がした。
「触るな!」ハリーが、その苦痛で吐き気がするような気がして抑えられずに叫んだ。
「お前は、眼鏡をかけていたはずだが、ポッター?」グレイバックが小声で言った。
「俺が眼鏡を見つけた!」後ろに、ひそんでいた人さらいの一人が叫んだ。「テントの中にあったぞ、グレイバック、待て――」
数秒後、ハリーの眼鏡が、顔に押しつけられた。人さらいたちは、近くに寄ってきて、のぞきこんだ。
「そうだ!」とグレイバックが、しゃがれた声で叫んだ。「ポッターを捕まえたぞ!」
彼らは、自分たちがやったことに呆然として、皆、数歩後ずさりした。ハリーは、まだ自分の割れそうな頭の中で、現在に留まっていようと苦闘していたので、何も言うことが思いつかなかった。いろいろな幻影の断片が、心の表面に、さっと急にあらわれては通りすぎた――
<……彼は、黒い要塞の高い壁のまわりを滑るように進んだ――>
違う、彼はハリーだ。縛り上げられ、杖もなく、重大な危機に直面している――
<……ずっと上を見あげると、いちばん高い塔の、てっぺんの窓が――>
彼はハリーだ、人さらいが低い声で、彼をどうするか相談している、ー
<……飛ぶべきときだ――>
「……魔法省へ?」
「魔法省などクソくらえだ」とグレイバックがうなるように言った。「やつらが手柄を取っちまい、俺たちにゃ勝ち目がねえ。じかに『例のあの人』んとこに連れていくんだ」
「彼を呼びつけるというのか? ここに?」とスカビオーが、畏れいって恐がったように言った。
「いや」とグレイバックが、がみがみと言った。「俺は持ってねえ、――彼はマルフォイの家を本部にしてるそうだ。そこに連れていこう」
ハリーは、なぜグレイバックがヴォルデモートを呼びだせないのか分かったような気がした。人狼は、デス・イーターが利用したいときには、デス・イーターのローブを着ることを許されているが、闇の印の焼き印は、ヴォルデモートの内輪の仲間しか持っていない。つまり、グレイバックは、この最高の名誉は与えられていないのだ。
ハリーの傷跡が、また焼けるように痛んだ――
<……そして彼は、夜の中に飛びあがり、塔の、いちばん上の窓に、まっすぐに飛んでいった――>
「……やつだというのは完全に確かか? もし違ったら、グレイバックよ、俺たちは殺されるぞ」
「ここの責任者は誰だ?」とグレイバックが、さっきのきまりの悪い瞬間をカバーしようとして、どなった。「俺が、ポッターだと言っただろ、それに、やつの杖もだ、即金で二十万ガレオン金貨だ! だが、お前らの誰でも、いっしょに来る根性がないなら、俺がひとりじめだ。それに運がよけりゃ、俺は娘も食える!」
<……窓は、黒い岩のほんの小さなすきまでしかなかった。人がはいれるほど大きくなかった……そこから、ちょうど骸骨のような姿が見えた。毛布をかぶって丸くなっていた……死んでいるのか眠っているのか……?>
「分かった!」とスカビオーが言った。「分かった、入るぞ! で、残りのやつはどうする、グレイバック、どうしようか?」
「連中も連れていきゃいいだろ。穢れた血が二人、これで別に十ガレオンだ。剣もよこせ。もしルビーなら、また、すぐ金が手に入る」
捕虜たちは、引きずりおこされた。ハーマイオニーが、恐がってせわしなく息をしているのが、ハリーに聞こえた。
「ぐっと掴め、しっかりな。俺が、ポッターを連れてく!」とグレイバックが言って、ハリーは、長く黄色の爪が、自分の頭皮をひっかき、髪の毛が一握りつかまれたのが分かった。「三、数えてからだ! 一、二、三」
彼らは、捕虜をいっしょに連れて、姿くらましをした。ハリーはグレイバックの手から離れようともがいたが、だめだった。ロンとハーマイオニーが両側にしっかり押しつけられていて、その一団から身を離すことができなかった。姿くらましで体から息が絞り出されると、傷跡が、さらにひどく痛んだ――
<……彼が、なんとかして壁のすきまから、蛇のように入りこんで、独房のような部屋に、蒸気のように軽く着地したとき、>
田舎道に着地したとき、捕虜たちは、よろめいた。ハリーの目は、まだふくらんでいたので慣れるのに少しかかった。すると、長い馬車道のような道の手前に、錬鉄の門があった。彼は、ほんの少しばかり安心した。最悪はまだだ。ヴォルデモートは、ここにはいない。ハリーは、幻影を見ないように苦闘しながらも、ヴォルデモートが、見知らぬ要塞のような場所の、塔のてっぺんにいるのを知っていた。ヴォルデモートが、ここに来るのにどのくらい長くかかるのだろう、もし彼が、ハリーがここにいることを知ってしまったら、話は別だが……
人さらいの一人が、門のところに行って、ゆすった。
「どうやって入るんだ? 鍵がかかってるぞ、グレイバック、無理だ――うへぇ!」
彼は、恐がって、さっと手を引っこめた。鉄がゆがんで、ひとりでにねじ曲がり、抽象的なうずまき模様から、恐ろしい顔に変り、ガランと鳴りひびく声で言ったのだ。「目的を述べよ!」
「ポッターを捕まえた!」グレイバックが勝ちほこって叫んだ。「我々は、ハリー・ポッターを捕まえた!」
門がさっと開いた。
「さあ行くぞ!」とグレイバックが手下に言った。捕虜は、追いたてられて、門を通り、高い生け垣のあいだの馬車道を通っていったので、足音が聞えなくなった。ハリーは、幽霊のような白い姿が、頭の上にいるのを見たが、それは白い孔雀だった。彼は、つまずいたが、グレイバックに引きおこされ、他の四人の捕虜と背中合わせに縛られて、歩道をよろめきながら歩いた。ふくらんだ目を閉じて、一瞬、傷跡の痛みに、うちのめされるにまかせた。ヴォルデモートが何をしているのか、ハリーが捕まったことをもう知っているのか、知りたかったのだ――
<……やせ衰えた姿が、薄い毛布の下で身動きし、彼の方に転がってきた。頭蓋骨のような顔の中で、目が開いた……弱々しい男が身を起こした。落ちくぼんだ大きな目が、彼に、ヴォルデモートに、じっと注がれていた。それから男はほほえんだ。その口には、ほとんどの歯がなかった……
「それで、お前は来たのだな。来ると思っていた……いつか。だが、お前の旅は、無駄だった。私は、それを持っていない」>
「嘘だ!」
ヴォルデモートの怒りが、ハリーの体の中で、激しく脈を打ち、傷跡が痛みで爆発しそうな気がした。ハリーは、なんとか心を自分の体の方にねじ向け、捕虜が押されながら砂利道を歩いていく現実に留まっていようと苦闘していた。
彼ら全員の上に、光が降りそそいだ。
「何事?」と女性の冷たい声がした。
「『名前を言ってはいけないあの人』に会いにきたんで!」とグレイバックが耳ざわりな声で言った。
「お前は誰?」
「知っているでしょうが!」人狼が恨めしげに言った。「フェンリル・グレイバック! ハリー・ポッターを捕まえたんだ!」
グレイバックはハリーをつかんで引っぱって、明かりに顔を向けさせたので、いっしょに繋がれている他の捕虜も引っぱられて動いた。
「顔がふくれてるのは分かってるが、奥様、だが、やつだ!」とスカビオーが高い声で言った。「もう少し近くで見たら、傷跡が分かる。そんで、こっちの娘が見えるか? やつと逃げまわっていた穢れた血だ、奥様。やつに間違いねえ。杖もある! こいつでさ、奥様――」
ハリーは、ナルシッサ・マルフォイが、ふくれた顔を綿密に調べるように見ているのが分かった。スカビオーが、ブラックソーンの杖を、差しだした。彼女は眉をあげた。
「彼らを連れて入りなさい」彼女は言った。
ハリーと捕虜たちは、広い石段を小突かれ、けられながら上がり、肖像画が並んだ玄関の広間に入った。
「ついてきなさい」とナルシッサが言って、先にたって広間を歩いていった。「息子のドラコが、イースターの休暇で帰省している。もしハリー・ポッターなら、分かるでしょう」
客間は、外の暗闇の後では、目がくらむようだった。目がほとんど閉じていても、ハリーは、部屋が広いのが分かった。クリスタル・ガラスのシャンデリアが天井から下がり、暗紫色の壁には、もっとたくさん肖像画がかかっていた。捕虜たちが、人さらいに押されて部屋に入ったとき、豪華な大理石の暖炉の前の椅子から、二人が立ちあがった。
「何事か?」
ルシウス・マルフォイの、とても耳なれた物憂げな声がハリーの耳に聞えてきた。ハリーは、ひどくおびえていた。逃げ道はなかった。傷跡はまだ焼けつくように痛んでいが、恐怖心がつのってくるので、ヴォルデモートの心を閉めだすことは簡単だった。
「ポッターを捕らえたと申しています」とナルシッサの冷たい声がした。「ドラコ、いらっしゃい」
ハリーは、ドラコを、思いきってまっすぐに見ることはできずに斜めから見た。自分より少し背の高い人影が、肘掛け椅子から立ちあがった。その顔は、白っぽい金髪の下で青白く尖ってぼやけて見えた。
グレイバックが、また捕虜たちを無理やり回して、ハリーがシャンデリアの真下に来るようにした。
「それで、どうだ?」と人狼が、耳ざわりな声で言った。
ハリーは、暖炉の上の、凝ったうずまき模様で飾られた金色の枠の大きな鏡に向きあって、目のすきまから、グリモールド・プレイスを出てから初めて自分の姿を見た。
顔は、てらてらと光ってピンク色で巨大にふくらんでいた。ハーマイオニーの呪文で、顔の造作がすべてゆがんでいた。黒髪は肩までのび、あごのまわりには黒っぽい影があった。そこに立っているのが自分だと分かっていなかったら、自分の眼鏡をかけているのは、いったい誰かと思ったことだろう。だが、声で、ぜったいにばれてしまうので話さないことに決めた。それでも、ドラコが近づいてきたときに、目を合わせるのは避けた。
「どうだ、ドラコ?」とルシウス・マルフォイが熱心に聞いた。「これか? これが、ハリー・ポッターか?」
「僕――僕、確かとは言えない」とドラコが、グレイバックから離れるようにしながら言った。ハリーが彼を見るのを恐れているのと同じように、彼もハリーを見るのを恐れているようにみえた。
「だが、よく見なさい、見るんだ! もっと近よって!」
ハリーは、ルシウス・マルフォイがこんなに興奮した声を聞いたことがなかった。
「ドラコ、もし、我々が闇の帝王にポッターを手渡したということになれば、すべてが許され――」
「さて、ほんとに、奴を捕まえたのが誰かを忘れないよう願いたいな、マルフォイ氏よ」とグレイバックが脅すように言った。
「もちろん、もちろんだ!」とルシウスが、苛々して言った。そして自分で、ハリーに近づいたので、ふくらんだ目からでも、いつもの物憂い青白い顔の、細部まではっきりと見えた。ハリーは、ふくれたお面をかぶっているので、おりの格子のあいだから覗いているような気がした。
「彼に何をしたのか?」ルシウスがグレイバックに尋ねた。「なぜ、こんなざまになったのか?」
「我々じゃない」
「虫刺されの呪文のように見えるが」とルシウスが言った。
その灰色の目が、ハリーの額を探るように見た。
「あそこに何かある」ルシウスが、ささやいた。「傷跡かもしれん、ぴんと張っているが……ドラコ、ここに来なさい、しっかり見るのだ! どう思う?」
ハリーは、ドラコの顔が近づいてきて、父親のすぐ横にくるのを見た。二人は驚くほどよく似ていたが、父親が興奮で、われを忘れているようなのにひきかえ、ドラコの表情は、まったく気乗り薄で、恐怖さえ浮かべている点が違っていた。
「分からない」と彼は言って、母親がじっと見ている暖炉の横に歩いていった。
「もっと確信が持ててからの方がいいわ、ルシウス」ナルシッサが冷たくはっきりした声で夫に呼びかけた。「これがポッターだと完全に確信してから、闇の帝王を呼びましょう……これが、彼のものだそうよ」彼女は、ブラックソーンの杖をよく見ていた。「でも、これは、オリバンダーの説明に似ていないわ……もし、まちがえたら、もし、ダークロードを呼んでも、無駄足だったら……ローリーとドロホフがどんな目にあったか覚えているでしょ?」
「そんなら、穢れた血はどうだ?」とグレイバックが、唸るように言った。人さらいが、また捕虜たちをぐるっと回したので、ハリーは足をすくわれて倒れそうになった。それで今度は、光がハーマイオニーに当たった。
「待って」とナルシッサが鋭く言った。「ええ――ええ、彼女は、ポッターといっしょにマダム・マルキンの店にいたわ! 日刊予言者新聞で、写真を見たわ! 見て、ドラコ、グレンジャーの娘じゃないこと?」
「僕……多分……そう」
「だが、それなら、そっちはウィーズリーの息子だ!」とルシウスが叫んで、縛られた捕虜のまわりを歩いていって、ロンに向かいあった。「彼らだ、ポッターの友人だ――コ、見なさい。アーサー・ウィーズリーの息子じゃないか。名前は何だったか――
「うん」とドラコが、背中を捕虜たちに向けて、また言った。「そうかもしれない」
ハリーの後ろで、客間の扉が開いた。女性の声がしゃべりかけたが、その声はハリーの恐怖を、さらにいっそう高めた。
「何事? 何があったのだ、シシイ?」
ベラトリックス・レストレンジがゆっくりと捕虜たちのまわりを回って歩いた。そして、ハリーの右で止まって、重くまぶたが垂れさがった目で、ハーマイオニーを見つめた。
「でも確かに」彼女は静かに言った。「これが、穢れた血の娘? これがグレンジャー?」
「そうだ、そうだ、グレンジャーだ」とルシウスが叫んだ。「その横にいるのが、ポッターだと思う! ポッターと友人だ、やっと捕まえたぞ!」
「ポッター?」ベラトリックスが金切り声で叫んで、ハリーをもっとよく見ようとして後ずさった。「確かなのか? まあ、それならすぐに闇の帝王なくては!」
彼女は、左手の袖をまくりあげた。闇の印が、その腕に焼きつけられていて、彼女が、今まさにそれに触れて、愛するご主人を呼びだそうとしているのが、ハリーに分かった――
「私が、彼を呼びだそうとしていたところだ!」とルシウスが言った。そして、実際に、自分の手でベラトリックスの手首をつかんで、彼女が闇の印に触れるのを妨げようとした。「私が、彼を呼びだす、ベラ。ポッターは私の家に連れてこられた。だから私の権威下にある――
「お前の権威!」彼女は、あざ笑って、彼が握る手を、ふりはなそうとした。「お前は、自分の杖を失ったときに権威も失った、ルシウスよ! よくも言ったな! 私から、手をどけなさい!」
「これは君には何の関係もない、君が、この子を捕まえたわけではない――
「失礼ですが、マルフォイ氏よ」とグレイバックがさえぎった。「ポッターを捕まえたのは、我々だから、金貨をいただけるのは、我々だ――
「金貨!」とベラトリックスが、まだ義弟につかまれた腕を離そうとし、反対の自由な方の手で杖を探りながら笑った。
「金貨なら取るがいい、汚らわしいハイエナめ。私が金貨など欲しいものか? 私が望むのは、名誉のみ、あのお方の――
彼女は、もがくのをやめた。その黒っぽい目が、ハリーには見えない何かに、ひたと注がれた。ルシウスは、彼女が諦めただと思って喜び、彼女の手をさっと放して自分の袖をまくりあげた――
「止せ!」とベラトリックスが金切り声で叫んだ。「触るな、もし今闇の帝王が来られたのなら、我々はみな破滅だ!」
ルシウスが、人差し指を、闇の印の上にさまよわせたまま、その場に凍りついた。ベラトリックスが、ハリーの限られた視界の外へ歩き去ったので、姿が見えなくなった。
「それは何だ?」ハリーに、彼女の声が聞こえた。
「剣」と見えないところで人さらいがぶつぶつと言った。
「私によこせ」
「あんたのじゃないんで、奥様、俺のだ、俺が見つけたんだ」
ドンという音と、赤い閃光があがった。人さらいが一人、気絶する呪文をかけられたのが、ハリーに分かった。仲間から怒りの叫びがあがり、スカビオーが杖を向けた。
「何の遊びのつもりかい、え?」
「ストゥーピファイ<気絶せよ>」彼女が叫んだ。「ストゥーピファイ!」
彼女一人に対し、人さらいが四人もいたにしても、彼らは、彼女の敵ではなかった。彼女は、すばらしい技を持ち、良心を持たない魔女だと、ハリーは知っていた。彼らは、グレイバック以外、立っていた場所に倒れた。グレイバックは、腕をのばして、ひざまずいた姿勢を取らされていた。ハリーは目の端で、ベラトリックスが、人狼にもたれかかるのを見た。彼女は、青ざめた顔で、手にグリフィンドールの剣をしっかり握っていた。
「どこで、この剣を手に入れた?」彼女はグレイバックにささやいた。そして、彼が抵抗できないでいるうちに、彼が握っている杖を引きぬいた。
「よくもやったな」彼は、歯をむいて唸ったが、彼女を見上げる姿勢を取らされているなかで、口だけしか動かせずに、尖った歯をむきだした。「放せ!」
「どこで、この剣を見つけた?」彼女は、剣を彼の顔の前でふりまわしながら、くりかえした。「これは、スネイプが、グリンゴッツの私の金庫に入れるようにと送ってよこしたのだ!」
「あいつらのテントにあった」とグレイバックが耳ざわりな声で言った。「放せと言っただろ!」
彼女が杖をふると、人狼は、さっと立ちあがったが、彼女に近づかないように用心しているように、肘掛け椅子の後ろにこそこそと引っこんで、汚い曲った爪で、椅子の背をつかんだ。
「ドラコ、このクズを外に運べ」とベラトリックスが、意識を失った男たちを指して言った。「もし、彼らを片づける根性がないのなら、私がやるから中庭に置いておけ」
「よくも、ドラコにそんな口のきき方を――」とナルシッサが、きびしく言ったが、ベラトリックスが叫んだ。「黙れ! 状況は、お前が想像できるよりずっと深刻なのだ、シシイ! 重大な問題を抱えているのだから!」
ベラトリックスは、少し息をきらせて立ち、剣を見ろして、その柄を調べていた。それから、ふりむいて黙っている捕虜たちを見た。
「もし、これがほんとうにポッターなら、傷付けてはならない」彼女は、他人にというより、自分自身につぶやいた。「闇の帝王は、ご自分で始末するのを望んでいるから……だが、もしあのお方がこのことを知ったら……私は……私は、知らなくてはならぬ……」
彼女は、また妹の方を向いた。
「捕虜は、地下室に入れておけ。私がどうするか決めるまで!」
「ここは私の家よ、ベラ、あなたが命令することはできないわ、私の家で――」
「言われたとおりにしなさい! 私たちがどんな危険の中にいるか、お前は想像もつかないのだ!」とベラトリックスが、恐れるあまり気がおかしくなっているように、かんだかい声で叫んだ。その杖の先から、火が細く流れでて絨毯を焦がし、穴をあけた。
ナルシッサは一瞬ためらったが、人狼に向って言った。
「捕虜たちを、すべて地下室につれていきなさい、グレイバック」
「お待ち」とベラトリックスが鋭く言った。「すべて――穢れた血以外はすべて」
グレイバックが嬉しそうに唸った。
「よせ!」ロンが叫んだ。「僕が代わりになる、僕が!」
ベラトリックスは、彼の顔を打ち、その音が部屋中に響きわたった。
「もし彼女が尋問中に死んだら、次はお前だ」彼女は言った。「血の裏切り者は、私の基準では、穢れた血の次に悪い。地下へ連れていけ、グレイバック。しっかり閉じこめるのだ。だが、それ以上のことはするな――まだ」
彼女は、グレイバックの杖を投げかえした。それからローブの奥から銀の短剣を取りだし、他の捕虜といっしょに縛られていたハーマイオニーを切り離し、髪を引っぱって部屋の真ん中に連れていった。グレイバックが、残りの捕虜を別の扉から押しだして、暗い廊下に連れていった。彼は、杖を前に高く上げ、見えないが抵抗できない力を放出していた。
「彼女が、娘を片づけたら、俺に一噛みさせてくれると思うか?」グレイバックが、彼らを廊下を追いたてていきながら、鼻歌でも歌うように言った。
「まあ、一噛みや二噛みはできるだろうな、赤毛よ?」
ハリーはロンがガタガタ震えているのを肌で感じた。彼らは、追いたてられて、階段を下りたが、まだ背中合わせに縛られていたので、ずっと、足を滑らせて首の骨を折る危険にさらされていた。階段を下りると頑丈な扉があった。グレイバックは杖で叩いて錠を開け、彼らを、じめじめした、かび臭い部屋の中に追いたて、完全な暗闇の中に置き去りにした。地下室の扉がバタンと閉まる音が響いてなかなか消えないうちに、彼らの真上から、恐ろしい悲鳴が長く続いた。
「ハーマイオニー!」ロンが大声で叫んで、彼らをいっしょに縛っている縄から身をほどこうと身もだえしたので、ハリーもよろめいた。「ハーマイオニー!」
「静かにしろ!」ハリーが言った。「黙れ、ロン、方策を考えださなけりゃ、ー」
「ハーマイオニー! ハーマイオニー!」
「計画を立てなくちゃ、叫ぶのは止せ――この縄をほどかなくちゃ――」
「ハリー?」と暗闇から囁き声がした。「ロン? あなたたちなの?」
ロンが叫ぶのをやめた。彼らの近くで動く音がした。それから、影が近づいてくるのが、ハリーに分かった。
「ハリー? ロン?」
「ルナ?」
「そうよ、私よ! あらまあ、あなたたちが捕まってほしくなかったのに!」
「ルナ、この縄をほどくの手伝ってくれる?」とハリーが言った。
「ええ、できると思うわ……何か壊すときに使う古釘があるから……ちょっと待ってね……」
頭の上で、ハーマイオニーが、また悲鳴をあげた。そしてベラトリックスも、金切り声で叫ぶのが聞こえたが、何と言っているのか分からなかった。ロンがまた「ハーマイオニー! ハーマイオニー!」と叫んだからだ。
「オリバンダーさん?」ルナが言っているのが、ハリーに聞こえた。「オリバンダーさん、釘あるかしら? 少し動いてくれたら……水差しの横だと思うんだけど……」
彼女は、まもなく戻ってきた。
「じっとしていてね」彼女が言った。
彼女が、結び目をほどこうとして縄の丈夫な繊維を釘で突いているのが、ハリーに分かった。上からは、ベラトリックスの声が聞えてきた。
「もう一度聞く! お前たちは、どこであの剣を手に入れた? どこで?」
「たまたま見つけた――見つけた――どうか!」ハーマイオニーが、また悲鳴をあげた。ロンが、前よりひどく身をよじったので、錆びた釘が、ハリーの手首の上にすべった。
「ロン、どうかじっとしてて!」ルナがささやいた。「私、やってることが見えないのよ――」
「僕のポケット!」とロンが言った。「僕のポケットに、火消しライターがある、あれに光がいっぱいある!」
数秒後、カチッと言う音がして、火消しライターがテントのランプから吸いとった冷たい光の球が、たくさん部屋の中に飛びだした。それぞれの球が、いっしょにはならず、ちいさな太陽のように、地下の部屋を照らした。目ばかり、めだつ白い顔のルナと、杖職人のオリバンダーが動かず、隅の床に丸くなっているのが、ハリーに見えた。首を回して見ると、いっしょに捕虜になった人たちが見えた。ディーンと、ゴブリンのグリプフックだが、彼は、人間といっしょに縄でしばられて立っていたが、ほとんど意識がないようだった。「まあ、この方が、とてもやりやすいわ。ありがと、ロン」とルナが言って、また縄を叩き切り始めた。「こんにちは、ディーン!」
上からベラトリックスの声が聞こえた。
「お前は嘘をついている、穢れた血よ、私には分かっている! お前は、グリンゴッツの私の金庫に忍びこんだのだ! 真実を言え! 真実を言え!」
また恐ろしい悲鳴――
「ハーマイオニー!」
「他に何を取った? 何を手に入れた? 真実を言え、さもなくば、必ず、このナイフを突きさすぞ!」
「ほら!」
ハリーは縄が落ちたのが分かったので、手首をこすりながら、振り向いた。ロンが、落とし戸を探して地下室の中を走り回り、低い天井を見あげていた。ディーンは顔が傷だらけで血まみれだったが、ルナに「ありがと」と言って、震えながら立っていた。グリプフックは、意識がもうろうとして混乱しているように地下室の床にしゃがみこんだ。その黒ずんだ顔には、みみずばれがたくさんあった。
ロンは、今度は、杖なしで姿くらまししようとしていた。
「出口はないわ、ロン」と、むだな努力をしているロンを見ていたルナが言った。「この地下室は、完全に逃げ道がないの。最初は、私も、やってみた。オリバンダーさんは長いあいだ、ここにいて、あらゆることをやってみたの」
ハーマイオニーが、また悲鳴をあげた。その声は、肉体的苦痛として、ハリーの体に突きとおった。彼もまた傷跡が激しく痛むのを、ほとんど気にとめず、むやみやたらに地下室を走り回り、壁を手探りしはじめたが、心の中では、むだだと分かっていた。
「他に何を取った、何を? 答えよ! クルシオ!」
ハーマイオニーの悲鳴が、上の壁から響いてきた。ロンは、壁をこぶしでドンドン叩きながら、半分すすり泣いていた。ハリーは、まったくもう絶望的な気持ちで、首からハグリッドの袋をつかんではずして中を探った。ダンブルドアのスニッチを取りだして、何か分からないことを期待して、振ってみた――だが何もおきなかった。半分に折れたフェニックスの羽を、振ってみた。だが杖は働かなかった。鏡の破片が床に輝きながら落ちた。そこに、鮮やかな青の光が見えた。
ダンブルドアの目が鏡から彼を見つめていた。
「助けて!」ハリーは、気が狂いそうな絶望感の中で叫んだ。「マルフォイ家の地下室にいる、助けて!」
目は、まばたきをして消えた。
ハリーは、それが、ほんとうにあったのかさえ確信が持てなかった。鏡の破片をあっちこっちと傾けてみたが、地下牢の壁と天井以外には何も映っていなかった。上では、ハーマイオニーが、さらにひどく悲鳴をあげ、隣では、ロンが大声で叫んでいた。「ハーマイオニー! ハーマイオニー!」
「どうやって、私の金庫に入ったのだ?」ベラトリックスの叫び声が聞えてきた。「地下室の、汚らわしい小さいゴブリンが手助けしたのか?」
「彼には、今夜、会ったばかりよ!」ハーマイオニーがすすり泣いた。「あなたの金庫になど入ったことはない……それは、本物の剣じゃない! 偽物、ただの偽物!」
「偽物?」とベラトリックスが、甲高い声で叫んだ。「ああ、もっともらしい話だな!」
「だが、それがほんとかどうか簡単に分かるぞ!」とルシウスの声がした。「ドラコ、あのゴブリンを連れてこい。彼なら、剣が本物かどうか、我々に言える!」
ハリーは、地下室の中をグリプフックが床に体を丸めているところに急いで走っていった。
「グリプフック」彼は、ゴブリンの尖った耳にささやいた。「彼らに、あの剣は偽物だと言ってくれ。あれが本物だと彼らに知られてはならないんだ、グリプフック、頼む――」
誰かが地下室の階段を急いで下りてくるのが聞こえた。次の瞬間、扉の向こうから、ドラコの震える声がした。
「後ろに下がれ。後ろの壁に沿って並べ。何もするな、さもないと殺す!」
彼らは命じられたとおりにした。扉の鍵がはずれたとき、ロンが火消しライターをカチッと押したので、光がポケットにさっと吸いこまれ、地下室が暗闇に戻った。扉がさっと開いて、マルフォイが青白いが決然とした顔つきで、杖を前に上げて入ってきた。そして小柄なゴブリンの腕をつかみ、グリプフックを引きずって、また後ずさりして出ていった。扉がバタンと閉まると同時に、大きなポンという音が、地下室の中に響いた。
ロンが火消しライターをカチッと押した。ポケットから光の球が三つ、空中に戻って、屋敷しもべのドビーが、ちょうど、彼らの真ん中に姿あらわししたところを照らしだした。
「ドー!」
ハリーがロンの腕を叩いて、叫ぶのをやめさせた。ロンは自分の失敗に気づいて、ぞっとした顔をした。頭上の天井で、ドラコが、グリプフックをベラトリックスの元へ連れていく床を横切る足音が聞こえた。
ドビーの巨大なテニスボール形の目が見開かれ、足から耳の先まで震えていた。昔の主人の家に戻って恐怖ですくんでいるのが明らかだった。
「ハリー・ポッター」彼は、ほんの少し震えたキーキー声で言った。「ドビー、助けにきた」
「でも、どうやって――?」
ハーマイオニーが、また拷問を受けた恐ろしい叫び声で、ハリーの声がかき消された。彼は、いちばん肝心な点に切り込んだ。
「この地下室から姿くらましできるかい?」彼はドビーに尋ねた。ドビーが頷いたとき、耳がパタパタゆれた。
「人間を連れていけるかい?」
ドビーは、また頷いた。
「よし。ドビー、君に、ルナ、ディーン、オリバンダー氏を連れていってもらいたい。場所は――場所は――」
「ビルとフラーの家」とロンが言った。「ティンワースの郊外の貝殻荘!」
屋敷しもべは三度目に頷いた。
「それから、戻ってきてほしい」とハリーが言った。「できるか、ドビー?」
「もちろん、ハリー・ポッター」と小さな屋敷しもべがささやいた。そして、ほとんど意識がないようなオリバンダー氏のところに急いでいって、一方の手で杖職人の片手を取り、もう一方の手をルナとディーンに、さしだした。けれど二人とも動かなかった。
「ハリー、あなたを手伝いたいわ!」ルナがささやいた。
「君を置いていくわけにはいかない」とディーンが言った。
「行け、二人とも! ビルとフラーの家で会おう」
ハリーが、そう言ったとき、傷跡がさらに焼けつくように痛んだ。そして数秒間、目の前の杖職人ではなく、別の男を見おろしていた。その男は同じように年老いて、やせ衰えているが、軽蔑するように笑っていた。
<「それなら、私を殺せ、ヴォルデモートよ、私は、喜んで死を迎えいれるぞ! だが私が死んでも、お前の探し求める物は手に入らぬ……お前が理解していないことが、非常にたくさんあるのだ……>
ハリーは、ヴォルデモートが激怒するのを感じたが、ハーマイオニーが、また悲鳴をあげたので、それを心から閉め出し、地下室と、自分自身の現実の恐怖に戻った。
「行って!」ハリーは、ルナとディーンに懇願するように言った。「行って! 僕たちは後から行くから、さあ行け!」
二人は、エルフの伸ばした指をつかんだ。また大きなポンという音がして、ドビー、ルナ、ディーン、オリバンダーが姿を消した。
「あれは何だ?」とルシウス・マルフォイが頭の上で叫んだ。「聞こえたか? 地下室の音は何だ?」
ハリーとロンは顔を見あわせた。
「ドラコ――いやワームテイルを呼べ! 調べにいかせろ!」
頭上で足音が行きかい、また静かになった。客間の人たちが、地下室でもっと音がしないかと耳を澄ませているのが、ハリーに分かった。
「ワームテイルを取り押さえよう」彼は、ロンに囁いた。それ以外に選ぶ道はなかった。誰かが部屋に入って三人の捕虜がいないのが分かった瞬間、負けだ。「明かりはつけておこう」ハリーがつけ加えた。誰かが扉の外の階段を下りてくる音が聞こえたとき、二人は扉の両側の壁に、それぞれ引きさがった。
「後ろに下がれ」とワームテイルの声がした。「扉から離れろ、入るぞ」
扉がさっと開いた。ほんの一瞬、ワームテイルは誰もいないようにみえる地下室を見つめていた。部屋は、空中に浮いている、とても小さな三つの太陽の光で照らされていた。そのとき、ハリーとロンが、飛びかかった。ロンが、ワームテイルの杖を持った腕をつかみ、上を向かせた。ハリーが、彼の口に手を当てて声を抑えた。静かに、彼らは揉み合った。ワームテイルの杖が火花を発し、銀色の手がハリーの喉にかかった。
「何だ、ワームテイル?」と、上からルシウス・マルフォイが呼ぶ声がした。
「何でもない!」ロンが、どうにかワームテイルのぜいぜい声を、まねして叫びかえした。「大丈夫だ!」
ハリーは、ほとんど息ができなかった。
「僕を殺すつもりか?」ハリーは、金属の指を引き剥がそうとして息を詰まらせた。「お前の命を救ってやったのにか? お前は僕に借りがある、ワームテイル!」
銀色の指の力がゆるんだ。ハリーが思ってもみない反応だった。驚きながら身をふりほどき、ワームテイルの口を手で押さえつづけた。ねずみのような男を見つめると、小さな潤った目が恐怖と驚愕のあまり大きく見開かれていた。彼もハリーと同様に気が動転していたのだ。銀色の手が裏切ってしまったことを、ハリーに情けをかけてしまったことを。そして、図らずも見せてしまった弱気を償うかのように、さらに激しく抵抗した。
「これは貰っておくぞ」ロンが囁くと、ワームテイルの手から杖をもぎ取った。
杖もなく、希望もなくなって、ワームテイルの瞳孔は、恐れで広がった。その視線が、ハリーの顔から、他の物へと移っていった。自分自身の銀色の指が、情け容赦なく、自分の喉の方に動いていたのだ。
「止せ――」
ハリーは、反射的にその手を引き離そうとしたが、どうしようもなかった。ヴォルデモートが、もっとも臆病な召使いに与えた道具が、武器を取られ、役にたたない持ち主へと向かってきた。ペティグリューは、躊躇いの気持ち、一瞬の哀れみの情への報いを受け、彼らの目の前で、首を絞められていた。
「止せ!」
ロンもワームテイルを放し、ハリーと一緒に、ワームテイルの首を絞める金属の指を引きはなそうとしたが、できなかった。ペティグリューは青黒くなった。
「レラシオ!<放せ>」とロンが、銀の手に、杖を向けて言ったが、何も起きなかった。ペティグリューが膝をつくと同時に、頭上からハーマイオニーが恐ろしい悲鳴をあげた。紫色の顔のワームテイルの目がぐるっと上を向き、最後にびくっと痙攣して、動かなくなった。
ハリーとロンは顔を見あわせた。それから、ワームテイルの遺体を床においたままにして、階段を駆けあがり、客間に通じる暗い廊下に戻った。そして用心深く忍び足で進んで、客間の扉のところに着いた。それは少し開いていて、ベラトリックスが、指の長い手にグリフィンドールの剣を持っているグリップフックを見おろしているのが、はっきりと見えた。ハーマイオニーがベラトリックスの足下に横たわっていたが、ほとんど身動きしていなかった。
「どうだ?」ベラトリックスがグリプフックに尋ねた。「これは本物の剣か?」
ハリーは、息を止めて、傷跡がずきずきするのを我慢しながら待っていた。
「いや」とグリプフックが言った。「偽物だ」
「確かか?」とベラトリックスが、息をきらせて言った。「ほんとうに確かか?」
「そうだ」とゴブリンが言った。
彼女がほっとした表情を浮かべた。緊張が解けた。
「よろしい」彼女が言いながら、杖を何気なくふって、ゴブリンの顔に、また深い切り傷を負わせたので、彼は叫び声をあげて彼女の足下に倒れた。彼女は、それを足で横にけった。「では」彼女が、勝ち誇った声で言った。「闇の帝王を呼ぼう!」
そして、袖を押しあげ、人差し指で闇の印に触れた。
すぐに、ハリーの傷跡が、また割れて開きそうに感じられ、まわりの現実の光景が消えた。彼がヴォルデモートだった。そして目の前の骸骨のような魔法使いは、歯がないまま、蔑むように笑っていた。彼は、呼びだしを感じて激怒していた――警告しておいたはずだ、ポッター以外のことでは呼びだすなといっておいたはずだ。もし、間違っていたりしたら……
<「それなら、私を殺せ!」>と老人が言った。<お前は勝ちはしない、勝つことはできぬ! あの杖は、決して決してお前のものにはならぬ――」>
そしてヴォルデモートの憤激が砕けた。緑の閃光が吹きだして独房に満ち、か弱い年老いた体が、固いベッドから持ちあがり、命を失って落ちた。ヴォルデモートは、窓のところに戻ったが、激しい怒りを制御できないほどだった……もし呼び戻すほどの理由がなかったら、彼らは報いを受けるぞ……
「それで、思うに」とベラトリックスの声がした。「穢れた血を始末できるぞ。グレイバック、欲しければ、彼女を持っていけ」
「止せ――――――!」
ロンが、客間の中に飛びこんだ。ベラトリックスが、ぎょっとして、ふりむき、代りにロンに杖を向けた。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」彼は、ベラトリックスにワームテイルの杖を向けて叫んだ。すると彼女の杖が、空中にさっと舞いあがり、それを、ロンの後から部屋に飛びこんだハリーがつかんだ。ルシウス、ナルシッサ、ドラコ、グレイバックが、ふりむいた。ハリーが「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」と叫ぶと、ルシウス・マルフォイが、暖炉の前の床にくずれるように倒れた。ドラコ、ナルシッサ、グレイバックの杖から閃光が飛びかった。ハリーは床に身を投げだし、ソファの後ろに転がって避けた。
「やめろ、さもないと彼女が死ぬぞ!」
ハリーが、息をきらせながら、ソファの端からのぞいた。ベラトリックスが、意識を失っているらしいハーマイオニーをかかえ、銀の短剣を、喉に突きつけていた。
「杖を捨てろ」彼女がささやくように言った。「捨てろ、さもないと、彼女の血が、どんなに穢れているか、実際に見ることになるぞ!」
ロンが、ワームテイルの杖をにぎって、硬直して立っていた。ハリーは、まだベラトリックスの杖を持ったまま立ちあがった。
「杖を捨てろと言ったはずだ!」彼女が、刃をハーマイオニーの喉に押しつけて、金切り声で叫んだ。血のしずくが出るのが、ハリーに見えた。
「分かった!」彼が叫んで、ベラトリックスの杖を、足下の床に落とした。ロンもワームテイルの杖を同じようにした。二人とも両手を肩まであげた。
「よし!」彼女が残忍な目つきで見た。「ドラコ、杖を拾え! ダークロードが、もうすぐ来る、ハリー・ポッター! お前の死が近いぞ!」
ハリーは、それを知っていた。その痛みで、傷跡がはじけそうだった。ヴォルデモートが、遠いところから、暗く荒れた海を越え、空を飛んでくるのが分かった。まもなく姿あらわしできるところまで近づくだろう。ハリーには逃げ道がなかった。
「さて」とベラトリックスが、もの柔らかに言った。そのときドラコが杖を持って急いで戻った。「シシイ、グレイバックが、穢れた血の娘さんにかかり切っているあいだに、このちびのヒーローたちを、もう一度、縛りあげなくてはならないな。グレイバック、今晩の働きぶりから、闇の帝王は、お前に娘を与えるのを嫌がらないだろうよ」
最後の言葉で、天井からギシギシこするような奇妙な物音がしてきた。全員が見あげると、クリスタルのシャンデリアが震えだしたところだった。それから、ギーッときしむ音と、不吉なチリンチリンという音がして、それが落ちはじめた。ベラトリックスは、ちょうど真下にいたので、ハーマイオニーを落とし、悲鳴をあげて横に飛びのいた。シャンデリアは、床に墜落し、ガラスや鎖が爆発して、ハーマイオニーと、まだグリフィンドールの剣を握っているゴブリンの上に落ちかかった。ガラスの輝く破片が、あらゆる方向に飛びちった。ドラコは、体を折り曲げて、両手で血まみれの顔を覆っていた。
ロンが走っていって、残骸からハーマイオニーを引っぱりだしにいったとき、ハリーは、いちかばちかやってみようとして、肘掛け椅子の上に飛びのり、ドラコがにぎっている三本の杖をもぎ取り、それをすべてグレイバックに向けて叫んだ。「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」。人狼は、三重の呪文に足から持ちあがり、天井まで飛びあがって、それから床に叩きつけられた。
ナルシッサが、ドラコにそれ以上危害が加わらないよう脇に引っぱっていった。ベラトリックスが、さっと立ちあがり、銀の短剣を振りまわすと、髪が顔のまわりに乱れとんだ。しかし、ナルシッサは杖を戸口に向けた。
「ドビー!」彼女が悲鳴をあげ、ベラトリックでさえ凍りついた。「お前! お前が、シャンデリアを落としたのか――?」
小さな屋敷しもべが小走りに部屋に駆けこんできた。そして、震える指で、昔の女主人を指さした。
「ハリー・ポッターを傷つけるな!」彼はキーキー声で言った。
「あいつを殺せ、シシー!」とベラトリックスが金切り声で叫んだが、また大きなポンという音がして、ナルシッサの杖も、空中に舞いあがり部屋の反対側に落ちた。
「汚いチビのサルめ!」とベラトリックスが大声で怒鳴った。「よくも、魔女の杖を取りあげたな、よくも主人に刃むかったな!」
「ドビーに、主人はいない!」とエルフがキーキー声で言った。「ドビーは自由な屋敷しもべ。ドビーは、ハリー・ポッターと友だちを助けにきた!」
ハリーは、傷跡が痛んで気がとおくなりそうだった。ヴォルデモートが来るまで、後ほんの少ししか時間がないのが、ぼんやりと分かった。
「ロン、取れ――行こう!」彼はどなって、杖の一本を投げた。それから、かがんで、シャンデリアの下からグリプフックを引っぱりだした。そして、まだ剣をつかんでうなっているゴブリンを担ぎあげ、ドビーの手をにぎって、その場で回って姿くらましをした。
ハリーが、回りながら暗闇の中に入るとき、最後にちらっと見たものは、客間と、ナルシッサとドラコの青白い、凍りついたような姿と、赤い筋にみえるロンの髪と、ベラトリックスの短剣が、部屋を渡ってハリーが消えた場所に飛んできたときの、飛んでいく銀色がぼやけたものだった――
ビルとフラーの家……貝殻荘……、ビルとフラーの家……
彼は、知らないところに向かっていた。できることは、目的地の名前を繰り返し、それで目的地に着くのに十分だと望むだけしかなかった。額の傷の痛みが、体を突きとおし、ゴブリンの重さがのしかかっていた。グリフィンドールの剣の刃が、背中に当たるのが分かった。ドビーの手が、彼の手の中でぐいと動いた。エルフが主導権をにぎって、正しい方向に引っぱろうとしているのかと、ハリーは思い、そうしてくれたらという気持ちを示そうとして指をぎゅっと握った……
そのとき、固い地面にぶつかり、塩っぽい空気の匂いがした。ハリーは、ひざついて、ドビーの手を放し、体を低くして、グリプフックをそっと地面に下ろそうとした。
「大丈夫?」ゴブリンが身動きしたときに、ハリーが言ったが、グリプフックは、ぐずぐず不平を言っただけだった。
ハリーは、目を細めて暗闇をとおして見ようとした。広い星空の下、少し離れたところに田舎家があるように見え、その家の外で何か動いたのが見えたような気がした。
「ドビー、これが貝殻荘かい?」彼はささやいて、もし、必要なら戦う準備をしようと、マルフォイ家から持ってきた二本の杖をつかんだ。「正しい場所に来たのかい、ドビー?」
ハリーは、あたりを見まわした。小さな屋敷しもべは、すぐ側に立っていた。
「ドビー!」
屋敷しもべは、ほんの少しゆれた。輝く大きな目に、星の光が映っていた。彼と、ハリーはいっしょに、エルフの上下する胸から突きだしている短剣の銀の柄を見おろした。
「ドビー――駄目だ――助けて!」ハリーは、家に向かって、こちらの方にやって来る人たちに向って大声で怒鳴った。「助けて!」
ハリーは、こちらに来る人たちが魔法使いだろうとマグルだろうと、友だろうと敵だろうと、気にしなかった。ただ、ドビーの胸に黒っぽいしみが広がっていることと、ドビーが哀願するような表情で、ハリーに細い腕をのばしてきたことだけを気にかけていた。ハリーは、ドビーを支えて、涼しい草原の横道に寝かせた。
「ドビー、駄目だ、死ぬな、死ぬな――」
エルフの目が、ハリーを認めた。唇が、言葉を形作ろうと努力して震えた。
「ハリー……ポッター……」
それから少し震えて、エルフは動かなくなった。その目は、もう見ることのできない星の光をちりばめた大きなガラスのような球でしかなかった。
第24章 杖職人
The Wandmaker
ハリーは、かつての悪夢の中に呑み込まれてしまったかのように、ほんの一瞬、再びホグワーツのいちばん高い塔のふもとで、ダンブルドアの遺体のそばにひざまずいていた。しかし現実には、ベラトリックスの銀の短剣に刺された小さな遺体が、草の上に丸くなっているのを見つめていた。エルフが、もう呼びもどせないところに行ってしまったのだと分かっているにもかかわらず、ハリーの声は、まだ「ドビー……ドビー……」と言っていた。
彼は、一、二分後して、ようやく目的の場所に辿り着いたのだと悟った。屋敷しもべの体にかがみこんでいるあいだに、ビルとフラー、ディーンとルナがまわりにやって来たからだ。
「ハーマイオニー?」ハリーは急に言った。「彼女はどこ?」
「ロンが、中に連れて入った」とビルが言った。「大丈夫だ」
ハリーは、またドビーを見下ろした。手をのばして、エルフの体から鋭い刃を引きぬいた。それから、自分の上着を脱いで、毛布のようにドビーをくるんだ。
海が、どこか近くで岩に激しく打ちつけていた。彼は、その音を聞いていた。そのあいだ、他の人たちは、彼がまったく興味のない事について話しあったり、決めたりしていた。ディーンが怪我をしたゴブリンを家の中に運び、急いで、フラーがつきそっていった。今度はビルが、屋敷しもべの埋葬について意見を言っていた。ハリーは、ほんとうは何を言われているのか分かっていないのに同意しながら、小さな遺体を見おろしていた。すると傷跡が、ずきずき焼けつくように痛み、心の片隅で、長い望遠鏡を、間違った方から覗いているかように、ヴォルデモートがマルフォイ家に残してきた人たちを罰している光景が見えた。その激怒は恐ろしいほどだったが、それでもドビーに対する悲しみの方が大きかったので、ハリーの元に達したときには、激怒の度合いがおさえられて、広大な静かな大洋を越えてきた遠くの嵐のようになっていた。
「きちんとやりたい」というのが、ハリーが完全に意識して喋った最初の言葉だった。「魔法を使わないで。鋤ある?」
そして、その後まもなく、彼は一人で、ビルが示した庭の端の茂みのあいだの場所に、お墓を掘りはじめた。一種の激しい怒りに動かされて掘りつづけ、労力を使う仕事に喜びを感じ、魔法を使わないことに誇りを感じた。汗の一滴一滴、まめの一つ一つが、命を救ってくれた屋敷しもべへの贈りもののような気がした。傷跡は焼けつくように痛んでいたが、その痛みを思うままにおさえることができた。痛みは感じたが、そこから離れていた。彼は、ついに制御することを習得し、ヴォルデモートから自分の心を閉ざすことを習得したのだ。それこそまさに、ダンブルドアが、スネイプから学んでほしいと望んだことだった。ハリーが、シリウスを失った悲しみに圧倒されているあいだ、ヴォルデモートがハリーに取りつくことができなかったときとちょうど同じように、彼がドビーの死を悼んでいるあいだは、ヴォルデモートの心が、ハリーの中に突き通ってくることはできなかった。悲しみが、ヴォルデモートを追い払ったようだった……もちろん、ダンブルドアは、それは愛だと言ったことだろうけれど……
ハリーは、固く冷たい土を、どんどん深く掘っていった。傷跡の痛みを否定し、汗に悲しみを組みこんでいた。自分の息遣いと荒れくるう海の音の外には何もない暗闇の中で、マルフォイ家での出来事が思いだされ、聞いたことが呼びおこされ、暗闇の中で、分かってきたことがあった。
腕をふる規則正しいリズムと、考えが調子を合わせた。秘宝……ホークラックス……秘宝……ホークラックス……けれど、もう気味の悪いほど度を越した切望感にさいなまれることはなかった。喪失感と恐れが、それを消し去った。ぴしゃりと平手打ちされて目が覚めたようなような気がした。
ハリーは、どんどん深く墓穴の中に沈んでいった。彼には分かっていた、ヴォルデモートが今夜どこにいっていたか、ヌアメンガルドのてっぺんの独房で誰を、なぜ殺したかを……
それから、ワームテイルのことを考えた。一つの小さな無意識の哀れみの感情のために死んだ……ダンブルドアは、それを予見していた……彼は、それ以上どのくらいのことを知っていたのだろうか?
ハリーは、時間の感覚がなくなっていた。ロンとディーンが来たとき、暗闇が、数段明るくなっているのに、やっと気づいた。
「ハーマイオニーはどう?」
「よくなってる」とロンが言った。「フラーが看病してる」
どうして、杖で簡単に完璧な墓をつくらないのかと尋ねられた場合に言いかえす言葉をハリーは用意していたが、その必要はなかった。二人は、それぞれ鋤を手にして、彼が掘った穴に飛びこんだ。彼らは黙って、いっしょに掘りつづけ、穴は十分深くなった。
ハリーは、屋敷しもべを自分の上着でもっとしっかり包んだ。ロンが、墓の縁に座って靴と靴下を脱ぎ、屋敷しもべの裸足の足の上に置いた。ディーンが魔法で毛糸の帽子をつくり、それをハリーが注意深くドビーの頭にかぶせて、コウモリのような耳を包んだ。
「目を閉じなくては」
暗闇の中、他の人たちが近づいてくるのに、ハリーは気づかなかった。ビルは旅行用マントを着ていた。フラーは大きな白いエプロンをかけていたが、そのポケットから骨生え薬のような瓶が突きでていた。ハーマイオニーは、借り物のガウンに身を包み、青ざめて足下がふらついていたが、近づいてくると、ロンが片手を回して支えた。ルナは、フラーのコートを着て体を丸めていたが、しゃがんで、指で優しく屋敷しもべのまぶたをなぜて、ガラスのような目の上にかぶせた。
「さあ」彼女は、そっと言った。「これで、彼は眠れるわ」
ハリーは、屋敷しもべをお墓の中に横たえて、小さな手足を、休息しているかのように置いた。それから、外に這うようにして出て、最後に、小さな遺体を見つめた。ハリーは、ダンブルドアの葬儀の、何列も何列も続く金色の椅子、前列の魔法大臣、業績の朗読、荘重な大理石の墓石を思いだして、取り乱さないようにしようと努力した。ドビーは、あれと同じくらい盛大な葬儀を行うに値すると、ハリーは思った。それなのに、ここ、茂みのあいだの粗雑に掘った穴の中に、エルフは横たわっている。
「私たち、何か言わなくちゃならないと思うわ」とルナが、高い声で言った。「私が最初に言いましょうか?」
全員が見守る中で、彼女は、お墓の底の死んだエルフに向って言った。
「私を、地下室から救いだしてくれて、どうもありがとう、ドビー。あんなに善くて勇敢だったあなたが死ぬなんてとても不当なことよ。あなたが、私たちのためにしてくれたこと、いつまでも忘れないわ。あなたが、今は安らかでありますように」
彼女は、ふりかえって、期待するようにロンを見た。彼は咳払いをして、不明瞭な声で言った。「ああ……ありがと、ドビー」
「ありがと」ディーンも小声で言った。
ハリーは、喉をごくりとさせた。
「さよなら、ドビー」彼は、やっとのことで、それだけしか言えなかったが、ルナが、代りに全部言ってくれていた。ビルが杖を上げた。お墓の横の土の山が空中に浮かびあがって、きっちりとその上に落ちて、小さな赤っぽい盛り土になった。
「僕、もう少しここにいてもいいかな?」ハリーは他の人たちに頼んだ。
彼らは、ハリーに聞き取れない言葉をつぶやき、背中をやさしくたたいた。それから、ハリーだけをエルフのそばに残して、ゆっくりと家の方に戻っていった。
ハリーは辺りを見まわした。海に洗われてなめらかになった大きな白い石がたくさん花壇の仕切りになっていた。彼は、いちばん大きそうな石から一つ拾いあげ、ドビーの頭が横たわっている場所の上に、枕のように置いた。それから、杖を出そうとポケットを探った。
二本の杖があった。彼は、忘れていた。いきさつをすっかり忘れていた。誰の杖が、ここにあるのか思いだせなかったが、誰かの手からもぎ取ったような気がした。それから、短い方の杖が手になじむような気がしたので、そちらを選び、それを岩に向けた。
ゆっくりと、彼が呟く指示のとおりに、岩の表面に深い切れ目ができた。ハーマイオニーならもっときちんと、そして、きっと、もっと素早くできるのは分かっていたが、お墓を掘った地点に印をつけておきたかった。ハリーが、また立ち上がると、石にはこう書かれていた:
「ここに、自由な屋敷しもべ、ドビー眠る」
彼は自分の手仕事をもう少し見おろしていた。それから歩き去った。傷跡は、まだ少しちくちく痛み、心の中は、お墓を掘りながら思いついたことでいっぱいだった。それは、暗闇で形をとった思いつき、魅惑的であると同時に恐ろしい思いつきだった。
ハリーが小さな玄関に入っていくと、他の人たちはみな居間に座って、しゃべっているビルに注意を向けていた。部屋は、明るい色で、きれいだった。暖炉では、流木の小さな火が明るく燃えていた。ハリーは、絨毯の上に泥を落としたくなかったので、戸口に立って聞いていた。
「……幸い、ジニーは休暇だ。もしホグワーツにいたら、迎えにいく前に、彼らに連れ去られていたかもしれない。それで今、彼女も安全なのが分かっている」
ビルは見まわして、ハリーが、そこに立っているのに気がついた。
「家族みんなを『隠れ家』から連れだして――」彼は説明した。
「ミュリエルの家に移動させた。デス・イーターは、もうロンが君といっしょにいることを知っている。彼らが家族をねらうのは、間違いない――あやまることはないよ」ハリーの表情を見て、彼はつけ加えた。「ずっと時間の問題と、パパは、ここ何ヶ月も言い続けていた。僕たちは、最大の血の裏切り者だから」
「彼らは、どうやって守られているの?」とハリーが尋ねた。
『忠誠の呪文だ。パパが秘密保持者。この家にもかけてある。僕がここの秘密保持者だ。僕たちは誰も仕事に行くことはできないが、今では仕事が、一番重要な仕事というわけじゃないからね。オリバンダーとグリプフックがよくなったら、やはりミュリエルの家に移そうと思っている。ここには、あまり部屋がないが、あそこにはどっさりあるからね。フラーが骨生え薬を与えたから、グリプフックの足は回復しつつある。一時間かそこらしたら、移動させられるだろう――」
「いや」ハリーが言ったので、ビルがひどく驚いた。「彼ら二人ともここにいてもらいたい。話がある。とても重要なことだ」
ハリーは、自分の声に、相手を従わせる権威に確信、ドビーのお墓を掘っているときに到来した強い決意が満ち溢れているのが分かった。その場の人たちの顔が皆、まごついたように彼の方を向いた。
「僕、手を洗ってくる」ハリーは、まだ泥とトビーの血にまみれた手を見おろして、ビルに言った。「それからすぐ彼らに会いたい」
彼は、小さな台所に入って、海を見晴らす窓の下にある洗面器のところに行った。手を洗っていると、水平線に、貝殻のようなピンク色と、かすかな金色の夜明けの光が押しよせてきた。彼は、また暗い庭で、思いついた一連の考えを追っていた……
ドビーは、誰が彼を地下室に送ったのかを、もう話してくれることもできないが、ハリーは、自分が見たことを理解していた。心の中を突き通すような青い目が鏡の破片から覗いていて、それから助けが現れたのだから。
「ホグワーツにおいて助けを求める者たちには、必ずや助けが与えられるだろう」
ハリーは手を拭いた。窓の外の美しい光景にも、居間で他の人たちが話す小さな声にも無感覚だった。彼は、海を見て、今までで一番、この夜明けに近づいた、この夜明けの中心に近づいたと感じた。
傷跡は、まだちくちく痛んでいたので、ヴォルデモートも、そこにいるのが分かった。ハリーは理解していたが、それでも理解していなかった。彼の本能は、あることをささやき、頭脳は、別のことをささやいた。ハリーの頭の中のダンブルドアは微笑んで、両手の指の先を祈るように合わせて押しながら、その上からハリーをながめていた。
<あなたは、ロンに火消しライターを与えた。彼の性格が分かっていたから……彼に、戻る方法を与えた……
それに、あなたは、ワームテイルのことも理解していた……その、どこかに、ほんの少しの後悔があることを分かっていた……
もし、あなたが、その二人のことを知っていたのなら……僕については何を知っていたのか、ダンブルドア?
僕は、探し求めることはできず、そのうち自然に分かるのを待つ運命なのか? あなたは、僕が、どんなに一生懸命、探し求めようとしたのか知っているのか? そういう運命だから、あなたは、こんなに難しくしたのか? うまくいくまでに時間がかかるのか?>
ハリーは、全く身動きしないで立っていた。眩しい太陽の輝かしい金色の縁が、水平線上に上ってくるところを見つめて、目が霞んでいた。それから、洗ってきれいになった手を見おろし、手を拭いたタオルをまだ持っていたので一瞬驚き、それを置いて、玄関の間に戻った。そうしたとき、傷跡が怒ったように脈打って、水面を渡っていくトンボと、とてもよく知っている建物の輪郭の映像が、さっと心をかすめた。
ビルとフラーが階段の上り口に立っていた。
「僕は、どうしてもグリプフックとオリバンダーと話したい」ハリーが言った。
「だめよ」とフラーが言った。「あなた、待たなくてはだめ、アリー。二人とも、具合が悪くて疲れてる――」
「ごめんなさい」とハリーが熱意なく言った。「でも待てない。どうしても彼らと今すぐ話したい。個人的に――別々に。急用なんだ」
「ハリー、いったいどういうことなんだ?」とビルが尋ねた。「君は、ここに死んだ屋敷しもべと、半分意識のないゴブリンと、拷問されたようなハーマイオニーを、いきなり連れてあらわれた。ロンは、何も話そうとしないし――」
「僕たちがやっていることを話すことはできない」とハリーが、きっぱりと言った。「あなたは、騎士団の人だ、ビル、ダンブルドアが僕たちに任務を残したのを知っている。僕たちは、他の誰にも話してはいけないことになっているんだ」
フラーが苛々したような音をたてたが、、ビルは彼女を見ないで、ハリーを見つめていた。その深い傷跡だらけの顔の表情は分からなかったが、とうとうビルが言った。「分かった。最初に誰と話したい?」
ハリーは躊躇った。どうして決定をぐずぐずしているのか分かっていた。残された時間はほとんどない。今こそ決めるときだ、ホークラックスか、秘宝か?
「グリプフック」ハリーは言った。「最初にグリプフックと話したい」
彼は全力疾走して、巨大な障害物を飛びこえた後のように、心臓の脈拍が速くなっていた。
「それじゃ、上だ」と、ビルが言って、先に立って歩きだした。
ハリーは後について数歩歩いてから、止まって、ふりかえった。
「君たち二人も来てほしい!」と、居間の戸口に半分身をひそめて隠れていたロンとハーマイオニーに呼びかけた。
二人は、妙に安心したように明るいところに出てきた。
「具合はどう?」ハリーはハーマイオニーに尋ねた。「君はすごいよ――あんなに痛めつけられている中で、剣が、偽物だという話を思いついたんだから、ー」
ハーマイオニーは弱々しくほほえみ、ロンが片手でぎゅっと、その肩を抱いた。
「今から何をするんだ、ハリー?」ロンが尋ねた。
「今に分かるさ、さあ行こう」
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、ビルの後に続いて急な階段を上って、小さな踊り場に着いた。そこに三つ扉があった。
「ここに入って」と ビルが言って、彼とフラーの部屋の扉を開けた。そこからも、日の光の中で金色のまだらになっている海が見渡せた。ハリーは窓のところに行き、この壮大な風景に背中を向けて、腕組みをして待ったが、傷跡がちくちく痛んだ。ハーマイオニーが鏡台の椅子に座り、ロンが、その肘掛に座った。
ビルが、小柄なゴブリンを連れてまた現れ、注意深くベッドに据えた。グリプフックは、小声でぶつぶつと感謝を述べ、ビルは、彼らを残して扉を閉めて出ていった。
「ベッドから起きてもらって、すまない」とハリーが言った。「脚は、どう?」
「痛い」とゴブリンが言った。「だが治りつつある」
彼は、まだグリフィンドールの剣を掴んでいたが、なかば好戦的で、なかば好奇心をそそられたような奇妙な表情をうかべていた。ハリーは、ゴブリンの血色の悪い顔と、長く細い指と、黒い目に気がついた。フラーが、靴を脱がせてあったが、長い足は汚く、屋敷しもべよりは大きかったが、たいして違わなかった。ドーム形の頭は、人間のより大きかった。
「あなたは覚えていないかもしれないが――」ハリーが言いはじめた。
「――あんたが初めてグリンゴッツに来たときに、あんたの金庫に案内したゴブリンだということをか?」とグリプフックが言った。「覚えている、ハリー・ポッター。ゴブリンの間でも、あんたはとても有名だ」
ハリーとゴブリンは、互いの力量を推しはかるように、互いに見合った。ハリーの傷跡が、まだちくちく痛んだ。グリプフックとの会見をさっと終えたかったが、同時にまずい出方をするのを恐れてもいた。どう切りだしたら一番うまく自分の要求したいことに近づけるかを決めかねているあいだに、ゴブリンが沈黙を破った。
「あんたは、エルフを埋葬した」彼は、思いがけなく恨みがあるような口調で言った。「隣の寝室の窓から見ていた」
「そうだ」とハリーが言った。
グリプフックは、黒い目の端から斜めに、彼を見ていた。
「あんたは、おかしな魔法使いだな、ハリー・ポッター」
「どんなところが?」とハリーは、気づかず傷跡をこすりながら言った。
「墓を掘っていた」
「それで?」
グリプフックは答えなかった。ハリーは、マグルのように行動したので軽蔑されるのかと思ったが、グリプフックが、ドビーのお墓に賛成しようが反対しようが、そんなことはどうでもよかった。彼は攻めるために勇気を奮いたたせた。
「グリプフック、頼みがある――」
「あんたは、ゴブリンも救った」
「何だ?」
「あんたは、俺をここに連れてきた。俺を救った」
「ええと、あなたは助かったことを後悔する必要もないと思うけど?」とハリーが少し苛々して言った。
「ない、ハリー・ポッター」とグリプフックが言い、一本の指であごの細く黒いあごひげをひねった。「ともかく、あんたは奇妙な魔法使いだ」
「そう」とハリーが言った。「ええと、僕は少し助けが欲しい、グリプフック、あなたなら、それができる」
ゴブリンは、励ますような様子は見せず、ハリーのようなものを見たことがないとでもいうように、彼を顔をしかめて見つめ続けていた。
「僕は、グリンゴッツの金庫に押し入らなければならない」
ハリーは、そんなに露骨に言うつもりはなかったが、その言葉が、稲妻形の傷跡から痛みが放たれるように、押しだされてしまった。そして、またホグワーツの輪郭が見えたが、しっかりと心を閉じた。最初に、グリプフックとうまくやらなくてはならない。ロンとハーマイオニーは、ハリーが気がおかしくなったとでもいうように見つめていた。
「ハリー――」とハーマイオニーが言ったが、グリプフックにさえぎられた。
「グリンゴッツの金庫に押し入る?」ゴブリンは、ベッドの上で、少しびくっとして位置を変えた。「不可能だ」
「いや、そんなことはない」ロンが言いかえした。「前にあった」
「うん」とハリーが言った。「僕が、最初にあなたに会ったのと同じ日だ、グリプフック。七年前の僕の誕生日だ」
「今、話に出ている金庫は、当時、空だったから」とゴブリンが、噛み付くように言ったので、彼はグリンゴッツを去っても、そこの守りが破られたといわれると感情を害するのだと、ハリーは分かった。「あそこは、最小限にしか守られていなかった」
「ええと、僕たちが押し入ろうとする金庫は空っぽじゃなくて、とても強力に守られていると思う」とハリーが言った。「レストレンジ家の金庫なんだ」
彼は、ロンとハーマイオニーが、びっくりして顔を見合わせるのを見た。が、グリプフックが答えを出した後で、説明する時間はたっぷりあるだろう。
「成功の見込みはない」グリプフックが、きっぱりと言った。「全然ない。『もし、床の下をほじくり回しても、宝は決してお前のものにならぬ』」
「『泥棒よ、警告したぞ、注意しろ――』うん、知ってる、覚えてる」とハリーが言った。「でも、僕が、その宝を得ようとするのではない、個人的利益を得るつもりはない。信じてくれるか?」
ゴブリンは、斜めからハリーを見た。額の稲妻形の傷跡がちくちく痛んだが、苦痛にせよ誘惑にせよ認めるのを拒んで、無視した。
「もし、個人的利益を求めないと信じられる魔法使いがいるとすれば、」とグリプフックが、とうとう言った。「それは、あんただ、ハリー・ポッター。ゴブリンと屋敷しもべは守られることにも、敬意を表されることにも慣れていない。それを、あんたは今夜見せた。杖持つ者は、やらないことだ」
「杖持つ者」その言い方が、彼の耳に奇妙に聞えて、ハリーが、くりかえした。、傷跡がちくちく痛んだ。ヴォルデモートのことを思うと、ハリーの思いが北に向いて、隣の部屋のオリバンダーに質問したくてたまらなくなった。
「杖を持つ権利は」とゴブリンが静かに言った。「魔法使いとゴブリンのあいだで、長く争われてきた」
「あのう、ゴブリンは、杖がなくても魔法がつかえる」とロンが言った。
「それは取るに足りないことだ! 魔法使いは、魔法界の他の者と杖の伝承の秘密を分かちあうことを拒んできた、我々の力を広げる可能性を否定しているのだ!」
「あのう、ゴブリンだって、その魔法を分かちあうことを拒んでるよ」とロンが言った。「あんたたちは、剣や鎧のつくり方を教えようとしない。ゴブリンは、金属の細工の仕方を知ってるが、魔法使いがぜったい知らないやり方だ――」
「そんなことは問題じゃない」とハリーが、グリプフックの顔に血が上ってきたのに気づいて言った。「これは、『魔法使い』対『ゴブリンや他の魔法生物』についての問題じゃないんだ――」
グリプフックが、嫌な笑い方をした。
「だが、そうなのだ。まさしく、そういうことなのだ! 闇の帝王が、かつてなく強大になった今、あんたの種族は、もっと強固に、われらの上に立つようになった! グリンゴッツは魔法使いの規則に従い、屋敷しもべは殺されている。それに対し、杖持つ者の中で誰が抗議しているか?」
「私たちよ!」とハーマイオニーが、目を輝かせ、背筋を伸ばして立ちあがって言った。「私たちが抗議するわ! それに、私は、ゴブリンや屋敷しもべとまったく同じように追われているのよ、グリプフック! 私は、穢れた血なんだから!」
「自分で言うなよ……」ロンが呟くように言った。
「なぜいけないの?」とハーマイオニーが言った。「私は、穢れた血よ。それを誇りに思うわ! 新しい体制ではあたしの方があなたよりも高い身分なのよ、グリプフック! マルフォイ家の話に戻れば、彼らが拷問するのに選んだのは私!」
彼女は、話しながらガウンの首元を横に広げ、ベラトリックスがつけた喉元の真っ赤な細い切り傷を見せた。
「ドビーを自由の身にしたのは、ハリーだってことを知ってた?」彼女は尋ねた。「私たちが、何年ものあいだ、屋敷しもべを自由の身にしようと望んでいたこと、知ってた?」(ロンは、ハーマイオニーの椅子の肘掛の上で、居心地悪そうにもぞもぞした)「私たちは、あなたと同じくらい、例のあの人が、うち負かされるのを望んでいるのよ!」
ゴブリンは、ハリーを見たのと同じように興味ありげにハーマイオニーを見つめた。「レストレンジ家の金庫で何を探すつもりか?」彼はいきなり尋ねた。「あの中にある剣は、偽物だ。これが本物だ」彼は、三人を順番に見た。「あそこで、嘘をつくように頼んだのだから、あんたも、それを知っていると思う」
「だが、あの金庫にあるのは、偽者の剣だけじゃないだろ?」とハリーが尋ねた。「きっと他の物も見たことがあるだろ?」
ハリーの心臓は、今までになく激しく鼓動していた。傷跡が脈打つのを無視しようと、二倍の努力をしていた。
ゴブリンは、あごひげを指でねじった。
「グリンゴッツの秘密を話すことは、我々の規則に反する。我々は、とてつもない宝を守っており、我々の管理下にあるものに対する責任がある。それらの宝は、我々が細工したものであることが、多いのだが」
ゴブリンは、剣を撫でた。黒い目がハリー、ハーマイオニー、ロンへとさまよい、また戻った。
「若すぎる」彼はついに言った。「とても多くの人数と戦うにはな」
「助けてくれるか?」とハリーが言った。「ゴブリンの助けなしに、あそこに押し入るのが成功する望みはない。あなたが、ただ一つのチャンスだ」
「俺は……考えてみよう」と腹立たしくも、グリプフックが言った。
「でも――」ロンが怒って言いかけた。ハーマイオニーが脇腹をこづいた。
「ありがとう」とハリーが言った。
ゴブリンは、了解の印に、大きなドーム形の頭を下げ、それから短い脚を曲げた。
「思うに」と彼は言って、ビルとフラーのベッドの上にこれ見よがしに、ゆったりと座った。「骨生え薬の働きが終わったようだ。やっと眠れるだろう。失礼……」
「ああ、もちろん」とハリーが言った。が、部屋を出る前に、身を乗りだして、ゴブリンの横からグリフィンドールの剣を取った。グリプフックは抗議しなかったが、ハリーが扉を閉めたとき、その目に敵意が感じられた。
「チビのまぬけ」とロンがささやいた。「僕たちを、じらして楽しんでる」
「ハリー」とハーマイオニーがささやいて、二人を扉から、まだ暗い踊り場の真ん中に引っ張っていった。「あなたが言ってると私が思ってることを、あなたは言ってるの? つまりレストレンジ家の金庫にホークラックスがあると言ってるの?」
「そうだ」とハリーが言った。「あそこに僕たちが入ったと思ったとき、ベラトリックスはひどく怯えて、度を失っていた。なぜだ? 彼女は、僕たちが何を見たと思ったのだ? 他に何を、僕たちが取ったと思ったのだ? 例のあの人が知るのを、彼女が恐れていた何かだ」
「でも、例のあの人がいた場所や、重要なことをやった場所は探したと思ってたけど?」とロンが、まごついたように言った。「いったい彼はレストレンジ家の金庫に入ったっけ?」
「彼が、グリンゴッツの中に入ったかどうかは知らない」とハリーが言った。「彼が若いときは、誰も何も遺してくれなかったから、あそこに金貨を持っていなかった。でも、最初にダイアゴン横町に行ったときに、あそこを外から見たかもしれない」
ハリーの傷跡が、ずきずき痛んだが、無視した。オリバンダーと話す前に、ロンとハーマイオニーにグリンゴッツについて分かってほしかった。
「彼は、グリンゴッツの金庫の鍵を持つことを、魔法社会に属するほんとうの象徴だとみなしていた。その鍵を持っている全ての人間を、羨ましく感じていた思う。それに、彼が、ベラトリックスとその夫を信用していたのを忘れないでくれ。彼が挫折する前に、彼らはもっとも忠実な召使いだったし、彼が姿を消してからも探しつづけた。彼が戻ってきた夜、そう言ったのを聞いた」
ハリーは傷跡をこすった。
「でも彼が、ベラトリックスに、あれがホークラックスだと言ったとは思わない。彼は、ルシウス・マルフォイにも日記の真実を話さなかった。きっと貴重な所有物だと話し、彼女の金庫に置くように頼んだんだと思う。あそこは、何か隠そうとしたら、世界中でいちばん安全な場所だと、ハグリッドが言ってた……ホグワーツ以外ではね」
ハリーが話しおえたとき、ロンが頭を横に振った。
「君は、心底あいつのことが分かってるんだな」
「ちょっとだけね」とハリーが言った。「ちょっとだけ……僕は、ダンブルドアのことも同じくらい分かってたらいいのになあ。けど、今に分かるさ。さあ、ー、今度はオリバンダーだ」
ロンとハーマイオニーは、まごついたが感心したようだった。そしてハリーの後について小さな踊り場を通って、ビルとフラーの部屋の反対側の扉をたたいた。「お入り!」という弱々しい声がした。
杖職人は、二つのベッドのうち、窓から離れた方に横になっていた。彼は、一年以上、地下牢に閉じ込められて、ハリーが知るかぎり少なくとも一度は拷問を受けていた。やせ衰えて、顔の骨が、血色の悪い皮膚に鋭く浮きだしていて、落ちくぼんだ眼窩の中で、大きな銀色の目が巨大に見えた。毛布の上に出ている手は骸骨のものと言えるほどだった。ハリーは空いた方のベッドに座り、その横にロンとハーマイオニーが座った。部屋は、崖の上の庭と、新しく掘られたお墓に面していたので、ここからは、上る朝日は見えなかった。
「オリバンダーさん、おじゃましてすみません」ハリーが言った。
「親愛な君よ」オリバンダーの声は弱々しかった。「君は、我々を救ってくれた。私は、あそこで死ぬと思っていた。お礼の言いようがない……いくら言っても……足りない」
「救うことができてよかったです」
ハリーの傷跡がずきずき痛んだ。ヴォルデモートの勝利を出し抜くにせよ、さもなければ、彼を挫折させるにせよ、ほどんど時間が残っていないことが分かっていた、というか、時間がないのを確信していた。彼は、一瞬パニックを起こしそうだった……けれど、最初にグリプフックと話すことを選んだときに、もう進む道を決定していた。冷静ではないのに、そのふりをして、首にかけた袋を探り、二つに壊れた杖を出した。
「オリバンダーさん、助けてほしいんです」
「何なりと。何なりと」と杖職人が弱々しく言った。
「これを直すことができますか? 可能ですか?」
オリバンダーが震える手をさしだしたので、ハリーは、その手のひらに、ほとんど二本に折れかけた杖をのせた。
「ヒイラギとフェニックスの羽」とオリバンダーが震える声で言った。「十一インチ。よい杖で、しなやかだ」
「はい」とハリーが言った。「できますか?」
「いや」とオリバンダーがささやいた。「すまない、とてもすまない、だが、ここまでひどい損傷をこうむった杖は、私が知るかぎり、どのような方法においても直すことはできぬ」
ハリーは、覚悟はしていたが、それでも、そう、はっきり聞くのは打撃だった。彼は杖を取って、首にかけた袋にしまった。オリバンダーは折れた杖がなくなった場所を見つめていた。そして、ハリーがマルフォイ家から持ってきた二本の杖をポケットから取りだすまで、目をそらさなかった。
「これが誰のか分かりますか?」ハリーが尋ねた。
杖職人は、最初の杖を取りあげ、衰えた目に近づけ、ふしこぶだらけの指のあいだで転がし、ほんの少し曲げた。
「クルミとドラゴンの心臓の筋」彼は言った。「一二・七五インチ、硬い。これはベラトリックス・レストレンジのものだった」
「で、こっちは?」
オリバンダーは同じように調べた。
「サンザシとユニコーンの毛。きっかり十インチ。かなり弾力がある。これはドラコ・マルフォイの杖だった」
「だった?」とハリーが、繰り返した。「今でも彼の物じゃないんですか?」
「おそらく、そうではない。もし君が取ったのなら――」
「――僕が取りました――」
「――それでは、それは君の物だろう。もちろん、場合によるが。たいがいは、杖自身が決める。だが、一般的には、杖が勝ち取られたときは、杖が忠誠を捧げる相手は変わる」
部屋の中は、静かだった。遠くの波の音だけが聞こえた。
「杖に感情があるような話し方ですね」とハリーが言った。「杖が、自分で考えることができるみたいな」
「杖が、魔法使いを選ぶのだよ」とオリバンダーが言った。「そのように大事なことは、我々、杖の伝承と知恵を学んだ者には、ずっと昔から明らかなことだ」
「でも、杖に選ばれなくても、それでも、その杖を使うことはできますか?」とハリーが尋ねた。
「ああ、できるとも、もし魔法使いであれば、ほとんど、どんな道具を使っても魔法を行うことができる。しかし、最高の結果は、常に、魔法使いと杖が最も強く惹きつけあうところに生まれる。これらの関係は複雑で、最初に魅力を感じ、相互に経験を重ねていくのだ。杖が魔法使いから学び、魔法使いは杖から学ぶのだ」
海は、悲しみに沈んだ音で、どどーっと寄せたり引いたりしていた。
「僕は、力づくで、この杖をドラコ・マルフォイから取ったけど」とハリーが言った。「これを安全に使うことができますか?」
「できると思う。複雑な法律が、杖の所有権を決めているが、征服された杖は、ふつう、新しい持ち主に屈するものだ」
「じゃ、僕は、これを使うべきかな?」とロンが言って、ポケットからワームテイルの杖を引きだして、オリバンダーに渡した。
「クリとドラゴンの心臓の筋。九・七五インチ、もろい。私は、誘拐されてまもなく、これを、ピーター・ペティグリューのために無理に作らされた。そうだ、もし君がこれを勝ちとったのなら、この杖は、他の杖より君の命令の方に喜んで従い、よい結果を生みそうだ」
「それは、すべての杖に当てはまるのですか?」とハリーが尋ねた。
「そう思う」とオリバンダーが、突き出た目をハリーに据えて答えた。「君は、深い質問をするな、ポッター君。杖の伝承は、魔法の中で複雑で謎に満ちた分野なのだ」
「では、杖のほんとうの所有権を得るためには、前の持ち主を殺す必要はないのですか?」とハリーが尋ねた。
オリバンダーがごくりと喉を鳴らした。
「必要? いや、殺すことが必要だとは言わない方がよい」
「でも伝説があります」とハリーが言ったが、心臓の鼓動が速くなり、傷跡の痛みがもっとひどくなった。きっとヴォルデモートが、自分の考えを行動に移そうとしているのだろう。「一本の杖――というか複数の杖についての伝説があります――それは殺人によって、人の手から手へ渡ってきました」
オリバンダーの顔が真っ青になった。雪のように白い枕に対し、彼の肌色は薄灰色で、大きくて血走った目が、恐れのために、もっと大きくなったようだった。
「ただ一本の杖だと、思う」彼は囁いた。
「で、例のあの人が、それに興味を持っているんですね?」とハリーが尋ねた。
「私は――どうやって?」とオリバンダーが、しわがれ声で言って、助けを求めて哀願するようにロンとハーマイオニーを見た。「どうやって、君はそれを知ったのかね?」
「彼は、あなたに、僕と彼の杖の関係を打ち破る方法を尋ねました」とハリーが言った。
オリバンダーは、ぞっとしたようだった。
「彼は、私を拷問した、それを分かってほしい! 拷問の呪文だ、私は――私は知っていること、推測したことを話すしかなかったのだ!」
「分かります」とハリーが言った。「あなたは、同じものからできた双子の芯について話しましたね? 他の魔法使いの杖を借りさえすればいいと?」
オリバンダーは、ハリーがとても多くのことを知っているのを、ひどく恐がると同時に、釘付けになっているように、ゆっくり頷いた。
「でも、それはうまくいかなかった」ハリーは続けた。「僕の杖が借りた杖をうち負かしたからだ。それがどうしてか分かりますか?」
オリバンダーは、先ほど頷いたのと同じようにゆっくり首を横にふった。
「私は……これまで、そのようなことを聞いたことがない。君の杖は、あの晩、非常に独特なことをやった。双子の核の関係は、信じがたいほど珍しいものだ。だが、なぜ君の杖が、借りた杖に勝ったのか、私には分からぬ……」
「僕たちは、他の杖のことを話していました。殺人によって、持ち主が変ってきた杖のことです。例のあの人が、僕の杖が不思議なことをしたと悟ったとき、彼は、戻ってきて、他の杖について、あなたに尋ねたのですね?」
「どうやって、それを知ったのかね?」
ハリーは答えなかった。
「そうだ、彼は尋ねた」とオリバンダーがささやいた。「彼は、私が、死の棒、運命の杖、またニワトコの杖と様々な名で知られる杖について話すことができるすべてを知りたがった」
ハリーは、横目でちらっとハーマイオニーを見た。彼女は、ひどく驚いているようだった。
「ダークロードは」とオリバンダーが、抑えた恐がった口調で言った。「ずっと私が、彼のためにつくった杖で満足していた、ー、イチイとフェニックスの羽、34センチ、ー、彼が、双子の核の関係を発見する前まではだ。今、彼は別の杖を探しもとめている。もっと強力で、君の杖を打ち負かすただ一つの方法として」
「けど、彼は、まだ知らないとしても、もうすぐ分かるだろう。僕の杖が、直しようがないほど壊れたことを」とハリーが静かに言った。
「そんなことないわ!」とハーマイオニーがぞっとしたように言った。「彼が、そんなこと知るはずない、ハリー、どうやって、そんなことができるのー?」
「直前呪文だ」とハリーが言った。「君の杖とブラックソーンの杖を、マルフォイ家に置いてきた、ハーマイオニー。彼らが、ちゃんと調べれば、あの杖が、最近、放った呪文を再現できるから、君の杖が僕のを壊したことが分かるだろう。君が直そうとして失敗したことも分かるだろう。それで、僕が、それ以来ブラックソーンの杖を使っていたことが分かるだろう」
会ってから、少し彼女の顔色がよくなっていたのが、また悪くなってしまった。ロンが、ハリーを責めるような目つきで見ながら言った。「そのことは、今は心配しないでおこうよ、ー」
けれど、オリバンダー氏が口をはさんだ。
「ダークロードは、もはや君を破滅させるためだけにニワトコの杖を探しもとめているのではない、ポッター君。彼は、それを所有しようと強く決心している。なぜなら、それで、ほんとうに不死身になれると信じているからだ」
「そうなのですか?」
「ニワトコの杖のもちぬしは、つねに襲われる危険がある」とオリバンダーが言った。「だが、ダークロードが死の棒を持つと考えると、……手強いものになると認めなくてはなるまい」
ハリーは、最初に会ったとき、どんなに自分が自信がなかったか、どんなにオリバンダーが好きになったかを急に思いだした。ヴォルデモートに監禁され拷問された今でさえ、ダークロードが、この杖を持つという考えは、オリバンダーに嫌悪感をおこさせると同時に、彼を魅惑するようだった。
「それでは、あなたは、ー、あなたは、ほんとうに、この杖が存在すると考えているのですか、オリバンダーさん?」とハーマイオニーが尋ねた。
「ああ、そうだ」とオリバンダーが言った。「そうだ、その杖の行き先を歴史上からたどるのは、完全に可能なことだ。もちろん、それが、一時的に、失われたか隠されたかした短い期間はあるし、長い時期もあるが、いつもまた、あらわれてきた。それには杖の伝承を学んだ者なら見分けられる決った特徴的な性格があるのだ。私を含め杖職人が学ぶことを務めとしてきた文字に残された記録があり、それには本物だという印がついている。あいまいなものもあるが」
「では、あなたは、ー、あなたは、それが、おとぎ話や神話かもしれないとは思わないのですか?」ハーマイオニーが、そう期待して尋ねた。
「思わない」とオリバンダーが言った。「それが、殺人により伝わることが必要であったかどうかは、私には分からない。その歴史は血なまぐさいが、そのわけは、その杖が、自分の物にしたいと強く思わせる魅力があるので、魔法使いの情熱をあおってきただけかもしれない。ふさわしくない者が手にすれば、計り知れないほど強力で、危険であるが、我々、杖の力を学ぶ者にとって、とても魅力がある物だ」
「オリバンダーさん」とハリーが言った。「あなたは、例のあの人に、グレゴロビッチが、ニワトコの杖を持っていると言いましたね、そうでしょ?」
オリバンダーは、真っ青な顔が、もしあり得るなら、もっと真っ青になり、息を大きく吸いこんだとき幽霊のように見えた。
「だが、どうやって、ー、どうやって、それを、ー?」
「僕が、どうやって知ったかは気にしないでください」とハリーが言ったが、傷跡が焼けつくように痛んだので一瞬目を閉じた。ほんの数秒間、はるか北の方なので、まだ暗いホグズミードの本通りの幻影を見た。「あなたは、例のあの人に、グレゴロビッチが、あの杖を持っていると言いましたね?」
「そうい噂だった」とオリバンダーがささやくように言った。「君が生まれるずっと昔の噂だ! きっとグレゴロビッチ自身が言いはじめたのだと思う。それが、商売にどんなに役だつか分かるだろう? ニワトコの杖の品質を研究し、複製品をつくれるということが!」
「はい、それは分かります」とハリーが言って立ち上がった。「オリバンダーさん、最後の質問です。その後、少し休んで下さい。死の秘宝のことを、どうお考えですか?」
「何だって?」と杖職人が、まったく訳が分からないように尋ねた。
「死の秘宝です」
「残念ながら、君が何を言っているのか分からない。まだ何か杖に関わることかね?」
ハリーは、落ちくぼんだ顔をじっと見て、オリバンダーが嘘を言っているのではないと信じた。彼は、秘宝については知らないのだ。
「ありがとう」とハリーが言った。「どうもありがとう。さあ、少し休んでください」
オリバンダーはうちひしがれたようだった。
「彼は、私を拷問した!」とあえぐように言った。「拷問の呪文だ……想像できんだろうが……」
「できます」とハリーが言った。「ほんとうに想像できます。どうか休んでください。いろいろ話してくれてありがとう」
ハリーは、ロンとハーマイオニーの先にたって階段を下りた。台所のテーブルのところにお茶のカップを前に、ビル、フラー、ルナ、ディーンが座っているのが、ちらっと見えた。ハリーが戸口に来ると、皆が見たが、彼は頷いただけで、そのまま庭に出た。ロンとハーマイオニーも続いた。前方に、その下にドビーが眠る赤っぽい盛り土が見え、ハリーはそこに向かっていた。頭の痛みが、ますます強烈になっていて、強制的にあらわれようとする幻影を閉ざすために、とても努力しなくてはならなかった。もう少ししか抵抗できないのが分かっていて、自分の仮説が正しいと知るために、まもなく抵抗をやめて幻影を見るつもりだった。だが、ロンとハーマイオニーに説明するため、もう少しの短い間我慢しなくてはならない。
「グレゴロビッチが、ずっと昔、ニワトコの杖を持っていた」彼は言った。「例のあの人が、彼を見つけだそうとしているのを、僕は知った。グレゴロビッチの跡を辿って見つけだしたとき、彼は、もうそれを持っていなかった。グリンデルワルドが盗んだのだ。それをグレゴロビッチが持っていると、グリンデルワルドがどうやって知ったかは、分からない――でも、グレゴロビッチが、愚かにも自分で噂を広めたのなら、知ることは難しくなかったはずだ」
ヴォルデモートが、ホグワーツの門のところにいた。彼がそこに立っているのが、ハリーに見え、夜明け前、ランプが上下しながら門にどんどん近づいてくるのも見えた。
「で、グリンデルワルドはニワトコの杖を使って強力になった。そして彼の絶頂期に、ダンブルドアが、彼を止められるのは自分しかいないと悟り、グリンデルワルドと決闘して、打ち負かし、ニワトコの杖を取った。
「ダンブルドアがニワトコの杖を取った?」とロンが言った。「けど、それなら――それは、今どこにあるんだ?」
「ホグワーツに」とハリーが、二人と一緒に崖の上の庭に留まっていようと苦闘しながら言った。
「けど、そんなら、行こうよ!」とロンがあせって言った。「ハリー、彼より先に、取りに行こうよ!」
「それでは遅すぎる」とハリーが我慢できずに、抵抗の助けにしようと頭を押さえながら言った。「彼は、それがどこにあるか知っていて、もうそこにいるんだ」
「ハリー!」ロンが怒って言った。「どのくらい前から、このこと知ってたんだ――なぜ、僕たち時間をむだにしていたんだ? なぜ最初にグリプフックと話したんだ? 行けたのに――今からでもまだ行けるよ――」
「いや」とハリーが言って、草の上に膝をついた。「ハーマイオニーが正しい。ダンブルドアが、それを望まなかった。彼は、僕に、その杖を持ってほしくなかった。彼は、ホークラックスを取りにいくことを望んだんだ」
「うち負かされない杖だよ、ハリー!」とロンがうめいた。
「僕は、そうすることにはなっていない……ホークラックスを手に入れることになっているんだ……」
まわりは涼しくて暗かった。太陽が地平線の上にやっと見えたところだった。彼は、スネイプのそばで、湖に向う地面を滑るように進んでいた。
「少し後で、城で落ち合おう」彼は、高く冷たい声で言った。「今は、私を一人にしろ」
スネイプは、お辞儀をして、黒いマントを後ろにはためかせて道を戻っていった。ハリーは、ゆっくりと歩きながら、スネイプの姿が見えなくなるのを待っていた。彼がどこに行くのか見ることは、スネイプの、いや実際、他の誰のためにもならない。しかし、城の窓には明かりがないので、身を隠すことができる……そしてすぐに、自分の目からでさえも見えなくなる幻惑の呪文を、自分にかけた。
そして湖に沿って歩きつづけ、愛する城の輪郭をじっと見た。それは彼の最初の王国、彼の生まれながらに持っていた権利……
ここだ。湖の横で暗い水を反射している白い大理石の墓が、懐かしい景色を意味もなく汚していた。彼は、また抑制された陶酔感が押しよせるのを感じた。破壊するという目的へのうきうきした感じだった。彼は、古いイチイの杖を、また上げた。この杖が最後に行う偉大な行為に、なんとふさわしいことだろう。
墓石が上から下まで二つに裂けた。包み隠されている姿は、生きているときと同じく長身で細かった。彼は杖をまた上げた。
包んでいたものが開いた。その顔は半透明で青白く落ちくぼんでいたが、ほとんど完全に元の姿を保っていた。曲がった鼻の上の眼鏡は取りはずされていた。彼は、喜ばしい嘲りの気持ちを感じた。ダンブルドアの手が胸の上に重ねてあった。そこに、それが、あった。手の下に握られて、彼とともに埋葬されていた。
あの老いぼれた愚か者は、大理石や死が、この杖を守るとでも思ったのか? この闇の帝王が、墓を暴くのを恐れるとでも思ったのか? 蜘蛛のような手がさっと下りて、ダンブルドアがしっかりと掴んでいた杖を引っ張って奪い取った。彼がその杖を取ったとき、その先から多量の火花が、最後の持ち主の遺体の上に迸った。新しい主人に仕える準備が整ったのだ。
第25章 シェル・コテージ
Shell Cottage
ビルとフラーの家は、海を見晴らす崖の上に一軒だけ建っていた。家の壁には貝殻が埋めこまれ、しっくいが塗ってあった。それは人里離れた美しい場所だった。ハリーが小さな家の中に入っても、庭にいても、絶えず、眠っている大きな生き物の息づかいのような潮の満ち引きの音が聞こえた。彼は、それからの数日間、混みあった家を避ける言い訳をこしらえては、崖の上から見える開けた空と、広々とした何もない海をながめて、冷たい潮っぽい風が顔に当たるのを好んでいた。
ハリーは、杖のことでヴォルデモートと競争しないと決めたものの、それが悪かったかもしれないと、まだ恐れていた。これまで、「行動しない」という道を選んだことがなかったからだ。いっしょにいるとロンが、つい口にしてしまう疑いの気持ちが、ハリーの心の中にもいっぱいだった。
「ダンブルドアが、杖を手に入れるのに間にあうように、あの印のことを見つけだすことを望んでいたとしたら、どうだい?」「あの印を見つけだすことが、君が秘宝を手に入れる『資格がある』という意味だとしたら、どうだい?」「ハリー、もしあれがほんとにニワトコの杖なら、いったいぜんたい僕たちは、どうやって例のあの人をやっつけることができるんだい?」
ハリーは答えられなかった。ときどき、ヴォルデモートが墓を暴くのを阻止しなかったのは、まったくの気ちがい沙汰だったのかもしれないと迷う瞬間があった。なぜ、それに反対したのか、満足がいくように説明できなかった。その結論に達した内心の議論の過程をもう一度、思い返そうとするたびに、ますます説得力がなくなってくるように思われた。
奇妙なことには、ハーマイオニーの支持が、ロンの疑いと同じように、彼をまごつかせるのだった。ニワトコの杖が実在するということを受けいれなくてはならなくなった今、彼女は、それは邪悪な物体であって、ヴォルデモートが、それを手に入れた方法ときたら、ぞっとして考えられないわと言いつづけた。
「あなたに、そんなことができたはずないわ、ハリー」彼女は何度も言った。「ダンブルドアのお墓を荒らすなんて、とんでもない」
けれど、ハリーは、ダンブルドアの遺体よりも、生前のダンブルドアの意図を理解しそこなったかもしれないと思う方が、恐ろしかった。まだ、暗闇で手探りしているような気がして、進む道を選んではみたが、目印を読み損なったかもしれない、もう一方の道を取るべきではなかったかと考えて、ふりかえりつづけていた。時折、ダンブルドアに対する怒り、亡くなる前に説明してくれなかったという怒りが、また上から、家の下の崖に打ちつける波のように強烈にぶつかってきた。
「でも、彼は亡くなったのかい?」とロンが、そこについて三日目に言った。ハリーが、家の庭と崖との境の塀の上から向こうを見つめていると、ロンとハーマイオニーが、彼を見つけたのだ。彼らの議論に加わる気がまったくなかったので、二人がこなければよかったと思った。
「そうだよ、ロン、頼むから、また、蒸しかえさないでくれ!」
「事実を見ろよ、ハーマイオニー」とロンが、水平線を見つめつづけるハリーを越えて話しかけた。「銀の雌鹿。剣。ハリーが鏡の中に見た目――」
「ハリーは、目は想像かもしれないと認めてるわ! そうでしょ、ハリー?」
「かもしれない」とハリーが、彼女を見ずに言った。
「でも、想像したとは思ってないんだろ?」とロンが尋ねた。
「うん、思ってない」とハリーが言った。
「そら見ろ!」とロンが、ハーマイオニーが続けられないように、すばやく言った。「もし、ダンブルドアでなかったら、僕たちが地下牢にいるのがどうやってドビーに分かったか説明しろよ、ハーマイオニー?」
「できないわ――でも、ダンブルドアがホグワーツのお墓に眠っているとしたら、どうやってドビーをよこすことができたの?」
「分からない、彼の幽霊かもしれない!」
「ダンブルドアは、幽霊になって戻ってきはしない」とハリーが言った。ダンブルドアについて確信を持って言えることは、ほんの少ししかなかったけれど、それは、よく分かっていた。「彼は、行ってしまっただろう」
「『行ってしまった』って、どういう意味だよ?」とロンが尋ねたが、ハリーが何も言わないうちに、後ろから「アリー」と声がした。
フラーが、長い銀色の髪をそよ風になびかせて家から出てきた。
「アリー、グリプフックが話したいそうよ。一番小さい寝室にいます。他の人に聞かれたくないからって」
ゴブリンが、彼女に伝言の走り使いをさせたので、彼女が頭に来ているのは明らかだった。家に戻っていくとき、苛々しているようだった。
グリプフックは、フラーが言ったとおり、家の三つの寝室のうち、ハーマイオニーとルナが夜寝ている、いちばん小さな部屋で待っていた。閉じられた赤いコットンのカーテンが明るい曇り空を遮っていたので、部屋の中が燃えるような色に染め上がり、明るく軽やかな雰囲気のコテージの中で異彩を放っていた。
「結論を出した、ハリー・ポッター」とゴブリンが、低い椅子に足を組んで座り、ひょろ長い指で腕を叩きながら言った。「グリンゴッツのゴブリンは、根本の裏切りとみなすだろうが、俺は、あんたを助けることに決めた――」
「『それはすごい!」とハリーが言いながら、安堵の気持ちがわき上がってくるのを感じた。「グリプフック、ありがとう、僕たち、ほんとうに――」
「――見返りに」とゴブリンが断固とした調子で言った。「報酬として」
ハリーは、少しあっけに取られて、躊躇った。
「いくら欲しいのか? 金貨は持ってるけど」
「金貨ではない」とグリプフックが言った。「金貨は持っている」
その白い部分がない黒い目が、ぎらぎらと輝いた。
「俺は剣が欲しい。ゴドリック・グリフィンドールの剣が」
ハリーの舞い上がった気持ちが、急落した。
「それはだめだ」彼は言った。「すまない」
「それは、」とゴブリンが、そっと言った。「問題だな」
「何か他の物をあげる」とロンが熱心に言った。「レストレンジ家には、きっとどっさりあるさ。僕たちが金庫に入ったら、好きなものを取ればいい」
彼は、まずいことを言った。グリプフックが怒りでぱっと顔を赤くした。
「俺は、泥棒ではない! 俺に権利のない宝を手に入れることはしない!」
「剣は僕たちのものだ――」
「違う」とゴブリンが言った。
「僕たちは、グリフィンドール生だ。で、それは、ゴドリック・グリフィンドールの――」
「で、グリフィンドールのものであった前は、誰のものだったか?」とゴブリンが、背筋をのばして座り直し、強い口調で聞いた。
「誰のものでもないよ」とロンが言った。「それは彼のために作られたんだろ?」
「違う!」とゴブリンが、長い指をロンに突きつけ、怒りでけんか腰になって叫んだ。「また魔法使いの傲慢だ! その剣は、ラグヌク一世のものだったが、ゴドリック・グリフィンドールに取られたのだ! それは失われた宝、ゴブリン製の傑作だ! それは、ゴブリンのものだ! その剣が俺を雇う代金だ、取るか止すかだ!」
グリプフックは、彼らを睨み付けた。ハリーは他の二人をちらっと見て、それから言った。「もし良ければ、僕たちは、これについて話しあわなくてはならない、グリプフック。数分間、待ってくれるか?」
ゴブリンは不機嫌そうに頷いた。
下の、誰もいない居間で、ハリーは暖炉に向って歩きながら、額にしわをよせ、どうすべきか考えていた。その後ろでロンが言った。「彼は冗談を言ってるんだ。剣を渡すわけにはいかないよ」
「ほんとうか?」ハリーは、ハーマイオニーに尋ねた。「剣は、グリフィンドールが盗んだのか?」
「分からないの」彼女は絶望的な調子で言った。「魔法使いの歴史は、魔法使いが、他の魔法種族にしたことを書いてないことがよくあるから。でも、私が知ってるかぎりでは、グリフィンドールが剣を盗んだという記述はないわ」
「ゴブリンの作り話の一つだろ」とロンが言った。「魔法使いが、どうやって、いつも彼らの優位に立とうとしたかという話さ。彼が、僕たちの杖を一本よこせと言わなかったから運がよかったと思うべきだな」
「ゴブリンが、魔法使いを憎む正当な理由があるのよ、ロン」とハーマイオニーが言った。「彼らは、過去には残虐に扱われていたんだから」
「でも、ゴブリンは、実際、ふわふわした子ウサギちゃんじゃないだろ?」とロンが言った。「彼らは、魔法使いをどっさり殺した。戦い方が汚いし」
「でも、どっちの種族が不正で凶暴かと、グリプフックと言い争っても、彼が私たちを助ける気になるわけじゃないでしょ?」
その問題をめぐって、三人が方策を考えようとして、少し間があった。ハリーは、窓からドビーのお墓を見た。ルナが、墓石のそばのジャムの瓶にシー・ラベンダーの花を生けていた。
「よし」とロンが言ったので、ハリーが、ふりかえって、彼の方を見た。「これはどうだい? グリプフックに、僕たちは金庫の中に入るまで剣が必要だから、その後、渡すと言うんだ。あそこに、偽物があるんだろ? 取り替えて、偽物を渡すんだ」
「ロン、彼は、私たちより、本物と偽物の違いをよく知ってるのよ!」とハーマイオニーが言った。「マルフォイ家で、剣が取り替えられたのが分かったのは、彼だけよ!」
「ああ、けど、彼が気がつく前に逃げだせるかも――」
彼は、ハーマイオニーの目付きで、怖気づいた。
「それは」彼女は静かに言った。「卑劣なことよ。助けを求めて、それから裏切るの? それなのに、あなたは、なぜゴブリンが魔法使いを嫌うか分からないの、ロン?」
ロンの耳が赤くなった。
「分かった、分かった! 僕が考えついたのは、それだけさ。だったら、君の解決法はどうなんだ?」
「他の物を、あげなくちゃだめよ。同じくらいの価値があるものをね」
「すばらしい。他のゴブリン製の剣を取ってくるから、贈り物用に包装してよ」
また、三人は沈黙した。ハリーは、ゴブリンが、きっと剣以外の何も、たとえ同じくらい価値ある物でも受けとらないだろうと思っていた。けれど、剣は、彼らにとってホークラックスに対する、欠くことのできない武器だ。
彼は、少しのあいだ、目を閉じて海の轟きを聞いていた。グリフィンドールが剣を盗んだかもしれないという考えは不愉快だった。ずっとグリフィンドール生であることを誇りにしてきたのだ。グリフィンドールはマグル出身者の擁護者で、純血を愛するスリザリンと相反した魔法使いだった……
「きっと彼は嘘をついてるんだ」ハリーが、また目を開けて言った。「グリプフックのことだ。きっとグリフィンドールは剣を取らなかった。ゴブリン版の歴史が正しいと、どうして分かる?」
「それで何か変わるの?」とハーマイオニーが尋ねた。
「僕が、どう感じるかが変わるのさ」とハリーが言った。
そして、深く息をすった。
「僕たちが金庫に入るのを手伝った後で、剣を取っていいと、彼に話そう――だが、正確にいつ、取っていいかは、言わないように気をつけよう」
ロンの顔に、ゆっくりと笑いが広がった。けれど、ハーマイオニーは、ひどく驚いたようだった。
「ハリー、私たち、できないわ、ー」
「彼は、剣を取っていい」ハリーが続けた。「僕たちが、全部のホークラックスに、剣を使った後でだ。そのとき、必ず彼が剣を手に入れることができるようにする。約束する」
「でも、それ何年もかかるかもしれないわ!」とハーマイオニーが言った。
「分かってる、けど彼は、それが今は必要ない。僕は嘘はつかない……ほんとうだ」
ハリーは、挑戦的な気持ちと恥ずかしさが入り交じったまま、彼女と目を合わせた。そしてヌアメンガルドの門の上に彫ってあった「より大きな公益のために」という言葉を思いだしたが、その考えを押しやった。その他に、どんな道が選べるというのか?
「私、気に入らないわ」とハーマイオニーが言った。
「僕だって、それほど気に入ってるわけじゃない」とハリーが認めた。
「あのう、僕は天才的だと思うな」とロンが、また立ちあがって言った。「彼に話しにいこう」
ハリーは、いちばん小さな寝室に戻って申し出たが、剣を渡す時期については、はっきりした期日を言わないように注意した。彼が話しているあいだ、ハーマイオニーは、しかめ面をして床を見ていた。ハリーは、彼女を見て、秘密が漏れるのではないかと、いらいらした。けれど、グリプフックは、ハリー以外の誰にも目を向けなかった。
「あんたの申し出に同意する、ハリー・ポッター。俺が手助けすれば、グリフィンドールの剣をくれるのだな?」
「そうだ」とハリーが言った。
「では、握手だ」とゴブリンが、手をさしだして言った。
ハリーは、その手をとって握手したが、ゴブリンが、ハリーの目の中に何か疑いの念を感じたか心配していた。それからグリプフックは、ハリーの手を放し、両手をぴしゃりと打ちあわせて言った。「では、始めよう!」
もう一度、魔法省に押し入る計画をたてるようなものだった。彼らは、そのいちばん小さな寝室で計画を練ることに決めた。そこは、グリプフック好みの、いくぶん暗く保たれた部屋だった。
「俺は、レストレンジ家の金庫は一度しか行ったことがない」グリプフックが彼らに語った。「偽の剣を置いてくるように命じられたときだ。そこは、もっとも古い部屋の一つで、いちばん奥底に家宝をしまっているのは、とても古い魔法使いの家柄だ。そこは、最も広く、最上の警備で守られている……」
彼らは食器棚のような部屋に、一度に何時間も閉じこもっていた。ゆっくりとした日々が過ぎ、何週間も過ぎた。次から次へと、越えなくてはならない問題があった。特に、ポリジュース薬が、ほんの少ししか残っていないのが問題だった。
「後、私たちのうち、たった一人分しか残ってないわ」とハーマイオニーが、泥のような魔法薬をランプの明かりに傾けながら言った。
「それで十分だ」とハリーが、グリプフックの手書きの、いちばん奥底の通路の地図を注意深く見ながら言った。
貝殻荘の他の住人は、ハリー、ロン、ハーマイオニーが、ほとんど食事時にしかあらわれないので、何か企てていると気がついていた。誰も尋ねなかったが、ハリーは、しばしばビルがテーブルで、考えこんだ心配そうな目つきで三人を見るのに気がついた。
ハリーは、いっしょに過ごす時間が長くなればなるほど、ゴブリンのことが好きになれなくなった。グリプフックは、思いのほか暴力を好み、劣った生き物が苦痛を受ける話に笑い、レストレンジ家の金庫に着くまでに、他の魔法使いを傷つける可能性があるのを喜んだ。ハリーは、きっと他の二人も同じようにゴブリンを嫌っていると思ったが、グリプフックが必要だったので、そのことは話さなかった。
グリプフックは、しぶしぶ他の人たちといっしょに食事をした。脚が治ってからも、まだ弱っているオリバンダーと同じように食事をお盆で部屋に運ぶように要求しつづけたが、ビルが、(フラーがぶち切れた後)、二階に上がって、もう、そうしつづけるわけにはいかないと言った。その後、グリプフックは、ぎゅうぎゅうのテーブルに加わったが、皆と同じものを食べるのを拒み、代りに、かたまりの生の肉と、根と、様々なキノコを出せと言いはった。
ハリーは責任を感じた。結局のところ、ゴブリンに質問できるように、むりやり貝殻荘に居残るようにさせたのは、自分なのだ。また、ウィーズリー家全員が、身を隠すばめになり、ビル、フレッド、ジョージ、ウィーズリー氏が、もう仕事に行けないのも自分のせいなのだ。
四月の荒れくるった天気の、ある晩、彼は、夕食の準備を手伝いながら、「ごめんなさい」とフラーに言った。「こんなふうに、あなたに面倒かけるつもりじゃなかったんだけど」
彼女は、グリプフックとビルのために、数本のナイフに、牛肉をこま切れにさせているところだった。ビルは、グレイバックに襲われてからというもの、血のしたたる肉が好きになっていた。ナイフが、彼女の後ろで、こま切れにする作業をしているあいだ、苛々した表情が少し和らいだ。
「アリー、あなたは、私の妹の命を救ってくれたのよ。私、忘れないわ」
これは、厳密に言えば正しくなかったが、ハリーは、ガブリエルが、ほんとうに危険だったわけではないということを、彼女に思いださせるのは止めることにした。
「ともかく」フラーが話しながら、コンロの上のソースが入った鍋に杖を向けると、鍋はすぐ、ぐつぐつ煮えはじめた。「オリバンダーさんは、今夜ミュリエルの家に行くから、そうしたら少し楽になるわ。ゴブリンが、」彼女は、彼のことを言うとき少ししかめっ面をした。「一階に下りれば、あなたと、ロンと、ディーンがあの部屋を使えるわ」
「僕たちは、居間で寝るの気にしないよ」とハリーが言った。グリプフックがソファで寝るのを惨めだと思うのが分かっていたが、彼が機嫌よくいるのが、計画にとって重要なことだった。「僕たちのことは心配しないで」そして、彼女が抗議しようとしたとき、彼は言った。「僕たちも、じきにあなたの世話にならなくなるから。僕とロンとハーマイオニーだけど。そんなに長く、ここにいないつもりだから」
「でも、それってどういう意味?」彼女は、顔をしかめてハリーを見た。杖を向けたキャセロールの料理は宙に浮いたままだった。「もちろん、あなたたちは、ここを出てはだめ。ここなら安全よ!」
彼女が、そう言ったとき、ウィーズリー夫人に似ていた。そのとき裏の扉が開いたので、ハリーは喜んだ。外の雨で髪がびしょ濡れのルナとディーンが、腕いっぱい流木を抱えて入ってきた。
「……それに、とっても小さな耳」ルナがしゃべっていた。「ちょっと、カバの耳みたいな、ってパパが言うの、紫色で毛が生えててね。彼らを呼びたときは、ハミングしなくちゃいけないわ。あまり速くないワルツが好きなの……」
ディーンが、居心地悪そうに、ハリーに肩をすくめて、そばを通りすぎて、ルナの後から、食堂と居間がつながった部屋に入っていった。そこでは、ロンとハーマイオニーがテーブルに夕食の支度をしていた。ハリーは、フラーの質問から逃げだす、ちょうどいい機会だと思って、カボチャジュースの入った水差を二つ取って、彼らの後を追った。
「……それと、もし私の家に来ることがあったら、その角を見せてあげるわ。パパが、そのこと手紙に書いてきたんだけど、私は、デス・イーターにホグワーツ急行から連れてかれて、クリスマス休暇に帰ってないから、まだ見たことないの」ルナは、ディーンに言って、二人は暖炉の火に薪を継ぎたした。
「ルナ、言ったでしょ」ハーマイオニーが向こうから呼びかけた。「あの角は爆発したわ。あれは、しわしわ角のスノーカックの角じゃなくて、エルンペントの角なの――」
「いいえ、あれは、ぜったいにスノーカックの角だったって」とルナが穏やかに言った。「パパが言ったわ。今までには、きっと元通りになってるわ。ほら、ひとりでに元どおりになるんだから」
ハーマイオニーは首を横にふって、フォークを並べつづけた。ビルがオリバンダー氏を連れて階段を下りてきた。杖職人は、まだとても弱々しく、ビルの腕にすがりついていた。ビルは、彼を支え、大きな旅行カバンをさげていた。
「あなたがいなくなったら寂しいわ、オリバンダーさん」とルナが老人に近づいて言った。
「私もだよ」とオリバンダー氏が、彼女の肩を叩きながら言った。「あの恐ろしい場所で、君は私にとって計りしれないほどの慰めだったよ」
「さようなら、オリバンダーさん」とフラーが言って、両頬にキスをした。「ビルのミュリエルおばさんに、荷物を届けていただけないかしら? 彼女にティアラを返してないのよ」
「喜んで」とオリバンダー氏が、小さくお辞儀をして言った。「あなたの親切なもてなしに対して私ができるほんのささやかなお返しだよ」
フラーがすり切れたビロードの箱を取りだして、開けて、杖職人に見せた。ティアラが、低く釣りさがったランプの光に照らされて、きらきら輝いていた。
「月長石とダイアモンド」と、ハリーが気づかないうちにこっそり部屋に入りこんでいたグリプフックが言った。「ゴブリンが作った、と思う」
「そして魔法使いが支払った」とビルが静かに言った。ゴブリンは、彼に、こっそり挑むような視線を投げた。
強い風が家の窓に吹きつけている夜の中を、ビルとオリバンダーが出かけた。残りはテーブルのまわりにぎゅうぎゅう詰めに座り、ひじをつきあわせ、ほとんど身動きできなかったが、食事を始めた。彼らの横の火格子の中で、暖炉の火がぱちぱち燃え、はぜた。フラーが、食べ物をつついているだけなのに、ハリーは気がついた。彼女は、数分おきに窓の外に目をやっていたが、彼らが最初の一皿を食べおわらないうちに、ビルが戻ってきた。その長い髪が風でもつれていた。
「すべて順調だ」とビルがフラーに言った。「オリバンダーは落ちついたよ。ママとパパがよろしくって。ジニーが愛してるって。フレッドとジョージはミュリエルをかんかんに怒らせてる。二人は、まだ奥の部屋でフクロウ便の通信販売をやってるんだ。でも、彼女はティアラが戻って喜んでいたよ。僕たちが盗んだと思っていたそうだ」
「まあ、あなたのおばさんって魅力的ね」と、フラーが機嫌を悪くして言った。そして杖をふって汚れた皿を空中に浮きあがらせ積み重ねて、それを捕らえて部屋から出ていった。
「パパがティアラを作ったのよ」とルナがかん高い声で言った。「ええと、というより冠だけど」
ロンはハリーの視線を捕らえてにやっと笑った。ロンが、ゼノフィリウスのところへ行ったときに見たこっけいな頭飾りを思いだしているのが、ハリーに分かった。
「ええ、パパは、レイブンクローの、どこかにいっちゃった冠を再現しようとしてるわ。もう、何でできてるかの主な材料は分かったって。ビリーウィグの羽をつけ足せば、見違えるようになるって――」
玄関の扉をドンドンと叩く音がしたので、皆がそちらを向いた。フラーが台所から、恐そうに走ってきた。ビルが飛びあがって杖を扉に向け、ハリー、ロン、ハーマイオニーも同じようにした。グリプフックは、黙ってテーブルの下にすべりこんで姿を隠した。
「誰だ?」ビルが呼びかけた。
「私だ、リーマス・ジョン・ルーピンだ!」と吹きすさぶ風より大きな声が呼びかけた。ハリーは、恐怖で身震いをした。何が起きたのだろう?「私は、人狼、ニンファドーラ・トンクスと結婚し、貝殻荘の秘密保持者の君が、この住所を教え、緊急の際には来るよう招いてくれた!」
「ルーピン!」とビルがつぶやき、扉のところに走っていって、さっと開けた。
ルーピンが敷居に倒れ込んだ。青白い顔をして、旅行用マントに身を包み、白髪まじりの毛が風になびいていた。それから身を起こして、部屋の中を見まわし、誰がいるかを確かめてから、大胡で叫んだ。「男の子だ! テッドと名づけた、ドーラのお父さんの名を取って!」
ハーマイオニーが、かん高い声で叫んだ。
「え、――? トンクス――トンクスが赤ちゃんを産んだの?」
「そうだ、そうだ、赤ん坊が産まれたんだよ!」とルーピンが叫んだ。テーブルのまわりの皆が喜びの叫び声をあげ、ほっとしたようにため息をついた。ハーマイオニーとフラーが二人で「おめでとう!」と、かんだかい叫び声をあげた。ロンが「すげえ、赤ちゃん!」と、今までそんなことを聞いたことがないかのように言った。
「そうだ――そうだ――男の子だ」とルーピンが、幸福で、ぼうっとしているように、また言った。そして、テーブルのまわりを回って歩いていって、グリモールド・プレイスの地下室での場面は、なかったかのように、ハリーを抱いた。
そして、「名付け親になってくれないか?」と、ハリーを離したときに言った。
「ぼ、僕が?」と彼が、どもりながら言った。
「君だよ、もちろん、ドーラも大賛成だ、こんなにふさわしい人は他に――」
「僕――うん――すごいや――」
ハリーは、圧倒され、びっくり仰天し、喜んでいた。ビルが、急いで葡萄酒を持っていて、フラーが飲んでいくようにルーピンを説きふせた。
「長居はできない、戻らなくては」とルーピンが、まわりのみんなににっこりと笑いかけながら言ったが、ハリーが知っているこれまでよりも、何才も若返ったように見えた。「ありがとう、ありがとう、ビル」
ビルが、全員のグラスを満たした。皆が立って、グラスをあげて乾杯した。
「テディ・リーマス・ルーピンに」とルーピンが言った。「大魔法使いの卵に!」
「誰に似てるの?」とフラーが尋ねた。
「僕は、ドーラに似てると思うけど、彼女は、僕似だと思ってる。髪は全然違うけどね。産まれたときは黒かったけど、一時間後には赤毛になった。きっと僕が戻る頃には金髪になってるさ。アンドロメダが言うには、トンクスの髪の毛も、産まれた日に色が変りはじめたそうだ」彼はグラスを飲み干した。ビルが、またグラスに注ぐと「ああ、それじゃ、もう一杯だけ頂こう」と、にっこり笑って言った。
風が小さな家に激しく吹きつけ、暖炉の火が、ぱちぱちと燃えあがった。まもなくビルは、葡萄酒をもう一本開けた。ルーピンの知らせは、みんなに心配事を忘れさせ、閉じこめられた状況から、しばらくのあいだ、解放されたかのような気にさせた。新しい命の誕生の知らせは、心おどるものだった。ゴブリンだけが、この突然のお祝い気分に影響を受けないようで、少したつと、一人じめいる寝室にこっそり引っこんだ。ハリーは、それに気づいたのは自分だけだと思っていたが、ゴブリンが階段を上っていくのを、ビルの視線が追っているのを見た。
「いや……いや……ほんとうに戻らなくては」と、とうとうルーピンが言って、葡萄酒のお代りを遠慮して立ちあがり、旅行用マントをはおった。「さよなら、さよなら――数日以内に、写真を持ってくるようにするよ――君たちに会ったと知ったら、皆、とても喜ぶだろう――」
そしてマントをしっかり着こみ、別れの挨拶をして、女性陣の肩を抱き、男性陣と握手をして、まだにっこり笑いながら風の吹きすさぶ夜の中に出ていった。
「名付け親、ハリー!」とビルが言った。皆、台所に戻ってきて、テーブルの片づけを手伝っていた。「ほんとうに名誉なことだよ! おめでとう!」
ハリーが、運んでいた空のグラスを置いたとき、ビルが後ろの扉を閉めて、他の人たちが、ルーピンがいなくなったのに、まだ、お祝いを続けて、にぎやかにしゃべっている声を聞えなくした。
「実はね、ハリー、内々に話がしたいんだ。こんなに混み合った家で、その機会をとらえるのは難しいからね」
ビルは、躊躇っていた。
「ハリー、君は、グリプフックと何か企んでいる」
それは、質問ではなく、結論だった。ハリーは、わざわざ否定もしなかった。ただ、ビルを見つめて、待ちうけていた。
「僕は、ゴブリンの性質を知っている」とビルが言った。「ホグワーツ卒業以来、グリンゴッツで働いているからね。魔法使いとゴブリンの間に友情が存在するかぎりは、僕には、ゴブリンの友人がいる――というか、少なくとも、僕は、ゴブリンをよく知っているし、好きだ」ビルは、また、ためらった。「ハリー、君は、グリプフックから何を得たいのか、そして返礼として何を約束したのか?」
「それは言えない」とハリーが言った。「ごめん、ビル」
後ろで、台所の扉が開いた。フラーが、空のグラスを取りにこようとした。
「待ってて」ビルが彼女に言った。「少しだけ」
彼女は引っこみ、ビルがまた扉を閉めた。
「それなら、これを言わなくてはならない」ビルが続けた。「もし、グリプフックと取引をするはめに陥ったとして、それも特に宝物が関わる取引だとしたら、特別に警戒しなくてはならない。ゴブリンの所有、支払い、返済の概念は、人間の、それと同じではないからね」
ハリーは、体内で小さな蛇がもぞもぞするように、不快感が、かすかにうごめくような感じがした。
「それ、どういう意味?」ハリーは尋ねた。
「我々は、違った種族について話しているんだ」とビルが言った。「魔法使いとゴブリンの商取引は、長年、緊張をはらんできた――だが、それは皆、『魔法歴史』で知っていることだろう。両者に、悪い点があった。僕は、魔法使いが無実だったと主張するつもりはない。だが、ゴブリンの中には、魔法使いはゴブリンの所有権をまったく尊重しないから金と宝物については信用できない、と考える者がいる。グリンゴッツのゴブリンは最も、その傾向が強い」
「僕は尊重するよ――」ハリーが言いはじめたが、ビルが首を横に振った。
「君は分かってないんだ、ハリー、ゴブリンと、一緒に暮らしてみないと、誰も分からないだろう。ゴブリンにとっては、どんな品物であっても、正当で真の持ち主は、作り手であって、買い手ではない。ゴブリンの目から見れば、ゴブリン製の品物はすべて、合法的に彼らの物なのだ」
「でも、もし、それを買えば――」
「――すると、彼らは、支払った者に貸しだされたと思うのだ。けれど、彼らには、ゴブリン製の品物が魔法使いの手から手へ渡るという考えが、理解できない。ティアラが、目の前で渡されたときのグリプフックの目つきを見ただろう。彼は不満そうだった。あの種族で最も過激な者が考えるように、彼は、最初の買い手が死ねば、その品物は、ゴブリンの手に戻されるべきだと考えているのだと思う。彼らは、ゴブリン製の品物を、新たな支払いがないまま、魔法使いの手から手へ伝えていく我々の習慣を、盗みにすぎないとみなしているんだ」
ハリーは不吉な予感がしてきた。ビルは、見せかけている以上のことを推測しているのかもしれないと思った。
「僕が言えるのはこれだけだ」とビルが、居間に戻ろうとして扉に手をかけながら言った。「ゴブリンと約束するときは、よくよく注意しろ、ハリー。ゴブリンとの約束を破るより、グリンゴッツに押し入る方が、まだ危険じゃないだろうよ」
「分かった」とハリーが言った。ビルが扉を開けた。「うん、ありがと。ぜったい忘れないようにするよ」
ハリーがビルの後から、他の人たちのところに戻ったとき、疑いなく、さっき飲んだ葡萄酒で酔ったせいで、皮肉な考えが浮かんだ。つまり、シリウス・ブラックがハリーにとって向こうみずな名づけ親だったように、ハリーもテディー・ルーピンにとって、同じ道を進みはじめたらしいということだ。
第26章 グリンゴッツ
Gringotts
計画はできた。準備も完了した。いちばん小さな寝室で、一本の長い硬い黒髪(ハーマイオニーが、マルフォイ家で着ていたセーターから採ったもの)が、暖炉の飾り台の上のガラスの小瓶の中に丸めて入っていた。
「それで、君は、彼女の本物の杖を使うんだ」と、ハリーが、クルミの杖の方に頭をふって合図して言った。「そうすれば、すごく信用させることができると思うよ」
ハーマイオニーは、その杖が刺すか、噛み付きでもするかのように恐そうに持った。
「これ、大っきらい」彼女は、低い声で言った。「ほんとに大っきらい。すごく、間違ってる感じがするの。私がやっても、ちゃんと魔法がかからないと思うわ……これって、少し彼女みたいだもの」
ハリーが、ブラックソーンの杖が気にいらなかったとき、ハーマイオニーが、自分の杖のように魔法がかからないとのは思い過ごしであって、練習すればいいだけよと主張して、簡単に片づけたことを、彼は思いださずにはいられなかった。けれど、そのときの彼女のアドバイスを、今そのまま返すのは止めることにした。グリンゴッツ襲撃計画前夜に、彼女を敵に回すのは、うまくないと感じたからだ。
「でも、きっと、彼女になりきるには役にたつよ」とロンが言った。「その杖が、どんなことやったか考えてみろよ!」
「でも、そこが私の言いたいところなのよ!」とハーマイオニーが言った。「これは、ネビルのママとパパを拷問した杖、それに他にも、どのくらいたくさんの人に、そうやったか誰が分かるの? これは、シリウスを殺した杖よ!」
ハリーは、それは考えたことがなかったが、その杖を見おろしていると、ポキンと折ってやりたい、そして、横の壁に立てかけてあるグリフィンドールの剣で切りきざんでやりたいという凶暴な思いがわき上がってきた。
「私の杖が、欲しいわ」ハーマイオニーが、みじめそうに言った。「オリバンダー氏が、私にも作ってくれるといいんだけど」
オリバンダー氏が、その朝、ルナに新しい杖を送ってきたので、彼女は、今、裏の芝生に出て、午後遅い日差しの中で、その能力を試しているところだった。ディーンは、人さらいに杖を奪われていたので、むっつりと、それを見つめていた。
ハリーは、かつてはドラコ・マルフォイのものだった杖を見おろした。それが、少なくともハーマイオニーの杖でやるより、うまく魔法がかかるので、驚き喜んでいた。オリバンダーが彼らに語った杖のひそかな働きについて思いだしながら、ハーマイオニーの問題点が何か分かったような気がした。彼女は、ベラトリックスと対決して奪ったわけではないので、そのクルミの杖の忠誠を勝ち得ていないのだ。
寝室の扉が開き、グリプフックが入ってきた。ハリーは、本能的に剣の柄に手をのばして引きよせたが、ゴブリンが、それに気づいたと分かったので、すぐ自分のやったことを後悔した。そこで、今の難しい一瞬を、うまく言い逃れようと言葉を探しながら言った。「用意するものの最終チェックをしたところだ、グリプフック。ビルとフラーに、明日、出かけるけど、起きて見送らなくていいと言っておいた」
彼らは、その点を強硬に主張しなくてはならなかった。ハーマイオニーが出発前にベラトリックスに変身しておかなくてはならないからだ。彼らが何を企んでいるか、ビルとフラーが知ったり怪しんだりすることが少なければ少ないほど、よいのだ。彼らは、戻ってこないだろうということも説明しておいた。人さらいに捕まった晩、パーキンの古いテントをなくしていたので、ビルが別のを貸してくれたが、それは、もうビーズのバッグに詰めてあった。ハリーは聞いて感心したのだが、ハーマイオニーは、靴下に押しこむという簡単な方法で、ビーズのバッグを人さらいから守ったのだ。
ハリーは、ビル、フラー、ルナ、ディーンと別れるのは寂しかったし、この数週間楽しんだ、いごこちのいい家から離れるのも、もちろん寂しかったけれど、貝殻荘に閉じこめられていることから逃れるのを心待ちにしていた。話を聞かれていないかと確かめることや、小さく暗い寝室に閉じこめられることに、うんざりしていた。何よりも、グリプフックを厄介払いしたかった。だが、グリフィンドールの剣を渡さずに、正確に、いつ、どのようにしてゴブリンと別れられるかは、ハリーに答えが出せない質問だった。どうやって、そうするか決めるのは不可能だった。ゴブリンが、五分間以上、ハリー、ロン、ハーマイオニーだけにしておくことは、めったになかったからだ。ゴブリンの長い指が、扉の縁に見えると、ロンが「彼なら、僕の母親に、僕たち三人だけにしない方法を教えてやれるな」と、うなるように言った。ハリーは、ビルの警告が心にあるので、グリプフックが不正をされないように見張っているのじゃないかと疑わずにはいられなかった。ハーマイオニーが計画的な裏切りに心の底から反対したので、ハリーは、どうしたら一番うまくやれるか、彼女の知恵を当てにするのをあきらめた。めったにないが、グリプフックがいないわずかな合間を盗んで、ロンは「ええと、僕たち、さっとやらなきゃならないよな」ということより他、思いつけなかった。
ハリーは、その夜寝つけなかった。早くから目を覚まして横になったまま、魔法省に潜入する前の晩に感じたことを思いかえすと、必ずやるぞという決意と興奮さえも感じたのを思いだした。だが、今は、不安にゆさぶられ、疑いの念にしつこく悩まされ、完全に失敗するのではないかという恐れをふりはらうことができなかった。彼らの計画はよくできていて、グリプフックは何に直面するか知っているし、出あうと予想される困難な状況すべてに、しっかり準備してあると、自分に言い聞かせつづけたが、それでも不安だった。一、二度、ロンが身動きしたので、ロンも目覚めているにちがいないと思ったが、ディーンもいっしょの部屋に寝ていたので、口をきかなかった。
六時になって、ほっとした。二人は、寝袋からそっと出て、薄暗がりの中で着がえて、そっと庭に出た。そこで、ハーマイオニーとグリプフックに会うことになっていた。明け方は肌寒かったが、五月なので、風はほとんどなかった。ハリーは、星が、まだ暗い空に青白くまたたいているのを見あげ、海が、崖に打ちよせたり引いたりする音を聞いていたが、その音が、もう聞けないのが寂しくなっていた。
小さな緑色の若芽が、ドビーのお墓の赤土を押して出ていた。一年たてば、塚は花でおおわれるだろう。エルフの名を書いた白い石は、もう風雨にさらされたようすになっていた。ハリーは、今になって、ドビーを埋葬するのに、これ以上美しい場所はなかっただろうと悟った。だが、ドビーを後に残していくと思うと悲しくて胸が痛んだ。お墓を見おろしながら、ドビーがどうやって、彼らを助けにいく場所が分かったのだろうかと、また考えた。ぼんやりしながら、まだ首から下げている小袋の方に、指が動いていったが、その中に、ぎざぎざの鏡の破片があるのが触って分かった。そこに、確かにダンブルドアの目を見たのだ。そのとき、扉が開く音がしたので、ふりかえった。
ベラトリックス・レストレンジが、グリプフックを従えて芝生を横切って、彼らの方に歩いてきた。彼女は歩きながら、小さなビーズのバッグを、グリモールド・プレイスから持ってきた別のローブの内ポケットに押しこんだ。ハリーは、それが、ほんとうはハーマイオニーだということを完全によく知っていたのにもかかわらず、憎悪で身震いするのを押さえることができなかった。彼女は、彼より背が高かった。長い黒髪が背中に波うって垂れ、腫れぼったいまぶたの目が、尊大に彼を見た。けれど、彼女が口を開くと、ベラトリックスの低い声を通してハーマイオニーの声が聞こえた。
「彼女って、ひどくむかつく味、ガーディの根よりまずいわ! いいわ、ロン、ここへ来て、そうすれば、あなたに……」
「分かった、けど、僕、あごひげが長すぎるのが好きじゃないっていうのを忘れるなよ――」
「まあ、頼むから、これはハンサムに見えるかどうかって話じゃないのよ――」
「そんなことじゃない、邪魔になるんだ! けど、僕の鼻、も少し短かったらよかったのに。君が、こないだやったみたいに、やってみて」
ハーマイオニーはため息をついて仕事にかかった。小声でつぶやきながら、ロンの見かけのいろいろなところを変えていった。彼は、まったく架空の人物になることになっていて、ベラトリックスのふりまく悪意のある独特の雰囲気が、彼を守ってくれるのを頼みにしていた。一方、ハリーとグリプフックは透明マントに隠れることになっていた。
「さあ」とハーマイオニーが言った。「ロンは、どんなふうに見えるかしら、ハリー?」
変装していても、ロンだと見分けることは可能だった。だが、それは、自分が彼をとてもよく知っているからだろうと、ハリーは思った。ロンの髪は、濃茶色で長くて波打ち、あごひげと口ひげを生やしていて、そばかすはなく、鼻は短く幅広で、眉が太かった。
「うーん、僕の好みじゃないけど、いいね」とハリーが言った。「それじゃ、行こうか?」
三人とも貝殻荘をふりかえった。それは、色あせていく星の下に、暗く静かにたたずんでいた。それから、皆は、敷地の境の塀を越えたところまで歩きだした。そこで、忠誠の呪文の効力が切れ、姿くらましできるのだ。門を出ると、グリプフックが口をきいた。
「俺は、背中に乗らなくてはならんと思うが、ハリー・ポッター?」
ハリーが身をかがめたので、ゴブリンが背中にはい上り、ハリーの喉の前で、両手をつないだ。ゴブリンは重くはなかったが、ハリーはゴブリンの感触と、驚くべき強さでしがみつく力が大嫌いだった。ハーマイオニーが、ビーズのバッグから透明マントを出して、さっと二人にかぶせた。
「完璧」と彼女が、かがんでハリーの足が出ないか調べながら言った。「何にも見えないわ。行きましょう」
ハリーは、グリプフックを肩に乗せて、漏れ鍋亭に全力を集中しながら、その場で回った。それは、ダイアゴン横町への入り口の宿屋だった。彼らが、圧縮するような暗闇の中を動いていくと、ゴブリンがいっそう強くしがみついてきた。数秒後、ハリーの足が歩道に着地し、目を開けると、チャリング・クロス通りにいた。マグルたちが、早朝のさえない表情を浮かべて、小さな宿屋の入り口には、まったく気づかず足早に通りすぎていた。
漏れ鍋亭の酒場は、ほとんど誰もいなかった。宿屋の主人のトムは、背中が曲って歯がなかったが、酒場のカウンターの奥でコップを磨いていた。部屋の隅でぼそぼそと話していた魔法使い数人が、ハーマイオニーをちらっと見ると、影の中にひっこんだ。
「レストレンジ夫人」とトムがつぶやき、ハーマイオニーが通りすぎるとき、卑屈に頭を下げた。
「おはよう」とハーマイオニーが言った。ハリーが、まだマントの下でグリプフックをおんぶしたまま、こっそり、ふりかえると、トムがびっくりしているのが見えた。
「礼儀正しすぎる」ハリーが、宿屋を通りぬけて小さな裏庭に出たとき、ハーマイオニーの耳にささやいた。「君は、みんなをクズみたいに扱わなくちゃだめだ!」
「分かったってば!」
ハーマイオニーはベラトリックスの杖を出して、目の前の、何も変わったところのない壁の煉瓦を軽くたたいた。たちまち、煉瓦がぐるっと回りはじめて、その真ん中に穴があらわれ、それがどんどん広がって、ついにはアーチ形の門になり、その向こうに丸石を敷いた狭い通りがのびていた。それがダイアゴン横町だった。
そこは静かだった。まだ店が開く時間ではなく、買い物客も、ほとんどいなかった。丸石を敷いた、くねくね曲った通りは、今では、何年も前に、ハリーがホグワーツの入学前に訪れた活気がある場所とは、すっかり様変わりしていた。前より、もっと多くの店が閉店して板を打ちつけてあった。このあいだ訪れたときに比べ、闇魔術専用の新しい施設がいくつか、できていた。たくさんの窓に、でかでかと貼ってあるポスターから、自分自身の顔が、ハリーを睨み付けていて、それには、いつも「第一級要注意人物」の言葉が付けられていた。
ぼろを着た、たくさんの人たちが、戸口に丸くなって座っていて、まばらな通行人に向って呻き声をあげ、金貨をねだり、自分たちは、ほんとうは魔法使いだと訴えるのが、ハリーに聞こえた。一人の男は、目に血まみれの包帯をしていた。
ハリーたちが通りを歩きだすと、乞食たちがハーマイオニーをちらっと見て、彼女の前で溶け去ってしまうように、顔深くフードをかぶり、できるだけ速く逃げだした。ハーマイオニーが興味ありげに、彼らの方を見ていると、血まみれの包帯をした男が、よろめきながら道をふさいだ。
「俺の子供たちは!」彼は、彼女を指してどなった。その声はひび割れ、かんだかく、気が狂っているように聞こえた。「子供たちは、どこだ? あいつは、子供たちに何をした? お前は知ってるだろう! 知ってるだろう!」
「私――私、ほんとうに――」とハーマイオニーがどもりながら言った。
男は、彼女めがけて突進し、喉に手をのばそうとした。そのとき、ドンという音がして、赤い閃光が吹きだし、彼は、意識を失って地面にあおむけに投げだされた。ロンが、杖を持つ手を、まだ伸ばしたまま、そこに立っていたが、あごひげの後ろにショックを受けた表情が見えた。通りの両側の窓から、いくつもの顔がのぞき、一方、裕福そうに見える通行人の小さな集団は、ローブをしっかり体に巻きつけ、急に早足になって、その場から焦って立ち去ろうとしていた。
自分たちが、ダイアゴン横町に来たのが、とても人目を引くことになってしまったので、一瞬、ハリーは、今は立ち去って、別の計画を考えた方がいいのではないだろうかと思った。けれど、彼らが動いたり互いに相談したりしないうちに、後ろで叫び声が聞こえた。
「おやおや、レストレンジ夫人!」
ハリーが、さっとふりむくと、グリプフックが、ハリーの首を、ぎゅっとつかんだ。ふさふさの灰色の髪の毛で、長く尖った鼻の、背が高くやせた魔法使いが、大またで近づいてきた。
「トラバースだ」とゴブリンがハリーの耳にシュッという、あせった声で言ったが、そのとき、彼はトラバースが誰なのか分からなかった。ハーマイオニーは、最高に背伸びをしてできるだけのあざけりをこめて言った。「お前は何が欲しいのか?」
トラバースは、明らかに侮辱されたという顔で立ちどまった。
「彼も、デス・イーターだ!」とグリプフックが小声で言った。ハリーは、横の方に歩いていって、ハーマイオニーの耳にその情報をくりかえした。
「挨拶しようと思っただけだが」とトラバースが冷たく言った。「俺がいて、歓迎されないのなら……」
ハリーは、やっと彼の声が分かった。トラバースは、ゼノフィリウスの家に呼びだされたデス・イーターの一人だった。
「いえ、いえ、そんなことは決して、トラバース」とハーマイオニーが、間違いを取りつくろいたいと思って急いで言った。「元気か?」
「いやあ、正直に言えば、あんたが出歩いているので驚いている、ベラトリックス」
「そう? なぜだ?」とハーマイオニーが尋ねた。
「そのう」トラバースは咳払いをした。「マルフォイの邸宅の住人は、監禁されていると聞いたのだが、例の……ええと……逃亡の後で」
ハリーは、ハーマイオニーに頭を高くあげていてほしいと望んだ。もし、それがほんとうで、ベラトリックスが公衆の中に出ないことになっているのなら――
「闇の帝王は、過去に最も忠実に仕えた者たちを許してくださる」とハーマイオニーが、ベラトリックスの、もっとも軽蔑的な調子を、すばらしく巧みに真似して言った。「彼にとって、あなたの信用度は、私ほど高くないのだろう、トラバース」
デス・イーターは、むっとしたようだったが、疑いの気持ちは減ったようだった。そして、ロンが気絶させたばかりの男を見下ろした。
「これは、なぜ、あんたを怒らせたのだ?」
「それは問題ではない、二度と、そういうことはしないだろう」とハーマイオニーが冷たく言った。
「『杖を持たぬ者』には、面倒をおこす者もいる」とトラバースが言った。「やつらが、物乞いをするだけならば文句は言わん。だが、その一人が、先週、実際に魔法省で、自分の一件を申したてたのだ。『私は魔女です、私は魔女です、証拠立てさせてください!』」彼は、金切り声の声色をつかって言った。「まさか、俺が、彼女に、俺の杖を渡すとでも思ったのか――だが誰の杖を」とトラバースが興味ありげに言った。「あんたは、今、使っているのか、ベラトリックス? 私が聞いたところでは、あんたの杖は――」
「私の杖は、ここにある」とハーマイオニーが冷たく言って、ベラトリックスの杖を高く上げた。「あなたが、どんな噂を聞いたのか知らないが、トラバース、残念なことに、まちがった情報のようだな」
トラバースは、少しあっけにとられたようだった。そして、代りにロンの方を向いた。
「あんたの友人は誰だ? 私には分からんが」
「ドラゴミル・デスパードだ」とハーマイオニーが言った。架空の外国人というのが、ロンが、変装するのに最も安全だと決めてあったのだ。「彼は、英語はほとんど喋れないが、闇の帝王の目的には共感している。トランシルバニアから、われらの新しい体制を見にきたのだ」
「ほんとうか? よろしく、ドラゴミル」
「ヨーシク」とロンが、片手をさしだして言った。
トラバースは、自分を汚すのを恐れてでもいるように、指を二本のばして、ロンの手を取ってふった。
「それで、なぜあんたと、あんたの――そのう――好意的な友人は、こんなに朝早くダイアゴン横町に来たのか?」とトラバースが尋ねた。
「グリンゴッツに行く用がある」とハーマイオニーが言った。
「ああ、私と同じだ」とトラバースが言った。「金貨、汚れた金貨! 我々は、それがなくては暮らせない。だが、打ち明けて言えば、指の長い友人とつき合わねばならないのを遺憾に思う」
ハリーは、首の回りに巻きついたグリプフックの手の力が一瞬強まるのを感じた。
「では、いっしょに」とトラバースが言って、ハーマイオニーを手招きした。
ハーマイオニーは、選択の余地もなく、彼の横に一歩踏みだして、曲がりくねった丸石を敷きつめた通りを進んでいった。その先には、雪のように白いグリンゴッツ銀行が、他の小さな店々の上にそびえ立っていた。ロンが、その二人の横にそっと並び、ハリーとグリプフックが続いた。
デス・イーターに見張られているのは、最も望ましくない事態だった。また最悪なのは、トラバースが、ベラトリックスに見える者の横に歩いていると、ハリーが、ハーマイオニーやロンと連絡する手段がないことだった。あまりにも早く、彼らは、大きな青銅の扉に続く大理石の階段の下に着いてしまった。グリプフックが、前もって警告していたように、これまでは、お仕着せを着たゴブリンが、入り口を守っていたが、今は、長く細い金の棒を持った二人の魔法使いに代わっていた。
「ああ、正直さを調べる道具か」とトラバースが芝居がかったため息をついた。「とても粗野だが――有効だ!」
そして、階段を上がっていき、左右の魔法使いに頷いた。彼らは、金色の棒を持ちあげ、トラバースの体のまわりを上下させた。その道具は、隠す呪文や、隠された魔法の物体を探知するものだということを、ハリーは知っていた。数秒しか時間がないと分かっていたので、ドラコの杖を順に両方の魔法使いに向けて、「コンファンド<混乱せよ>」と、二度、小声で言った。二人の守衛は、呪文が当たったとき小さな叫び声を上げたが、トラバースは、青銅の扉の奥の広間を見ていたので気づかなかった。
階段を上るとき、ハーマイオニーの長い黒髪が、後ろに波うった。
「少しお待ちを、奥様」と守衛が、道具を上げながら言った。
「だが、もうやったではないか!」とハーマイオニーが、ベラトリックスの命令口調の尊大な声で言った。トラバースは、振り返って眉を上げた。守衛は混乱して、細い金色の道具を見おろし、それから仲間を見た。仲間は、少しぼうっとした声で言った。「ああ、もう調べたぞ、マリウス」
ハーマイオニーが、ロンを従えてさっと前方に進み、ハリーとグリプフックが姿が見えずに、その後を小走りに続いた。ハリーが、敷居を渡ってふりかえると、魔法使いが二人とも頭をかいていた。
内側の扉の前に、二人のゴブリンが立っていた。その扉は、銀でできていて、もし盗みをはたらけば、恐ろしい報いを受けるという警告の詩が載せてあった。ハリーが、それを見あげると、突然、ナイフのように鋭く記憶がよみがえってきた。十一才になった日に、ちょうどこの場所に立っていたのだ。人生で最高にすばらしい誕生日だった。ハグリッドが隣に立って、こう言った。「俺が言ったように、こっから盗もうとするなんざ、気が狂ってるよ」あの日、グリンゴッツを驚異の場所だと思った。自分が持っているとは知らなかった金や宝の、魔法の保管場所だと思った。そして、盗みに戻ってこようなどとは一瞬だって思わなかった……だが、数秒後、彼らは、銀行の巨大な大理石の広間に立っていた。
長いカウンターは、高い腰掛けに座ったゴブリンが任務について、その日最初の客の相手をしていた。ハーマイオニー、ロン、トラバースは、片眼鏡で厚い金貨を調べている年老いたゴブリンのところに向った。ハーマイオニーは、広間の特徴をロンに説明するという口実で、トラバースに先に行かせた。
そのゴブリンは、持っていたコインを横に放って誰にともなく「レプリコンの、贋金だ」と言った。それから、トラバースに挨拶した。トラバースは、小さな金色の鍵を渡し、それは調べられて返された。
ハーマイオニーが進みでた。
「レストレンジ夫人!」とゴブリンが、明らかに驚いたように言った。「これはこれは! どんな――どんなご用件でしょうか、今日は?」
「私の金庫に入りたい」とハーマイオニーが言った。
年老いたゴブリンは少ししりごみしたようだった。ハリーはまわりを見まわした。トラバースがためらいながら見つめていただけでなく、他のゴブリンも数人、仕事から目をあげて、ハーマイオニーをじっと見ていた。
「身分証明を……お持ちで?」とゴブリンが尋ねた。
「身分証明だと? 私――私は、これまで身分証明を求められたことなどない!」とハーマイオニーが言った。
「気づかれた!」とグリプフックがハリーの耳にささやいた。「偽者があらわれると警告を受けていたにちがいない!」
「あなたの杖で結構です、奥様」とゴブリンが言った。そして、少し震える手をさしだした。ハリーは、突風に襲われるように急に、グリンゴッツのゴブリンは、ベラトリックスの杖が盗まれたことを知っているのだと悟った。
「さあ、行動だ、行動だ」とグリプフックがハリーの耳にささやいた。「支配の呪文を!」
ハリーはマントの下でサンザシの杖を上げ、年老いたゴブリンに向けて、生まれて初めてささやいた。「インペリオ!<従え>」
奇妙な感覚が、ハリーの腕を滑り降りた。暖かくひりひりするような感覚が心から流れおちて、杖と、今、放たれた呪文とにつながったようだった。ゴブリンはベラトリックスの杖を取り、念入りに調べて言った。「ああ、あなたは、新しい杖を作らせたのですね、レストレンジ夫人!」
「なんと?」とハーマイオニーが言った。「いや、いや、それは私のだ――」
「新しい杖だと?」とトラバースが言って、またカウンターに近づいてきた。まわりのゴブリンたちは皆、まだじっと見ていた。「だが、どうやって、そんなことができたのか、どこの杖職人を使ったのか?」
ハリーは考えずに行動した。杖をトラバースに向け、もう一度「インペリオ!<従え>」と小声で言った。
「ああ、そうか、分かった」とトラバースが、ベラトリックスの杖を見おろして言った。「ああ、とても見事だ。性能はいいかな? 杖は、少し訓練しないといけないと、俺はいつも思っているが、どうかね?」
ハーマイオニーは、まったく何が何だか分からないようだったが、何も意見を述べずに、この奇怪な出来事の展開を受けいれたので、ハリーは心からほっした。
カウンターの向こうの年老いたゴブリンが、手を叩くと、それより若いゴブリンが近づいてきた。
「クランカーが入用だ」と、近づいてきたゴブリンに言うと、彼は、さっと走り去って、まもなく、ジャラジャラ鳴る金属がいっぱい入った音がする皮の袋を持って戻ってきて、年老いたゴブリンに手渡した。「よし、よし! それでは、私の後についてきてください、レストレンジ夫人」と年老いたゴブリンが言って、腰掛けから飛びおりて、見えなくなった。「あなたの金庫にご案内しましょう」
そして、カウンターの端に出てきて、うれしそうにゆっくり走ってきたが、革袋の中身がジャラジャラ鳴りつづけていた。トラバースは、口をぽかんと大きく開けたまま、静かにじっと立っていた。ロンが、この奇妙な状況に気がついて、トラバースは混乱しているのだろうと思った。
「待て――ボグロド!」
別のゴブリンが、そう言って、カウンターを回って小走りにやってきた。
「我々は、指示を受けています」彼は、ハーマイオニーにお辞儀をしながら言った。「失礼しますが、奥様、レストレンジ家の金庫については特別の命令があります」
彼は、急いでボグロドの耳にささやいたが、支配の呪文をかけられたゴブリンは、彼を追いはらった。
「その指示のことは知っている。レストレンジ夫人は、金庫に行くのを望んでいる……とても古い家柄だ……古い顧客だ……こちらです、どうぞ……」
そして、彼は、まだジャラジャラ音を立てながら、広間から外に通じている、たくさんの扉の一つの方に急いでいった。ハリーが、ふりかえってトラバースを見ると、異常に虚ろな表情で、さっきの場所に立ちつくしたままだった。そこでハリーは心を決め、杖をさっとふって、トラバースをいっしょに来るようにさせたので、一行が扉のところに来たとき、彼が従順に後をついて、たいまつの炎に照らされた荒削りの石の通路に入ってきた。
「厄介なことになった。彼らは疑ってる」とハリーが、後ろで扉がバタンと閉まるとすぐ言いながら、透明マントを脱いだ。グリプフックが肩から飛びおりた。トラバースもボグロドも、目の前にハリー・ポッターがいきなり現れても少しも驚かなかった。「支配の呪文をかけた」とハリーがつけ加えた。トラバースとボグロドが、ぽかんとして、そこに立ったままでいるのが、どういうわけか分からないという、ハーマイオニーとロンの疑問に答えたのだ。「効果があるように強力にかけたかどうかは分からない、分からないんだ……」
別の記憶が、さっとハリーの心をかすめた。初めて「禁じられた呪文」をかけようとしたときに、本物のベラトリックス・レストレンジが、彼に向かって金切り声で叫んだ記憶だ。「相手を苦しめようとする意志が必要だ、ポッター」
「僕たち、どうするんだ?」とロンが尋ねた。「逃げだせるうちに、逃げだすのか?」
「できればね」とハーマイオニーが言って、広間に通じる扉の方をふりかえった。その向こうで何がおきているのかは分からなかった。
「ここまで来てしまったんだから、先へ進もう」とハリーが言った。
「よし!」とグリプフックが言った。「では、運搬車を操るのにボグロドが必要だ。俺は、もうその権限を持っていないからな。だが、その魔法使いが乗る余地はないぞ」
ハリーは、杖をトラバースに向けた。
「インペリオ<従え>!」
魔法使いは、向きを変えて、暗い道をきびきびと歩き出した。
「彼に何をさせるの?」
「隠れさせる」とハリーが言って、杖をボグロドに向けた。すると彼は口笛を吹いて運搬車を呼んだ。それは、暗闇から、彼らの方に、道を転がるようにやってきた。全員が乗りこんだとき、後ろの広間で、叫び声がするのが確かに聞こえた気がした。ボグロドとグリプフックが前に、ハリー、ロン、ハーマイオニーがぎゅうぎゅう詰めに、後ろに乗りこんだ。
運搬車は、ガタンと動いて走りだし、スピードを上げ、壁の割れ目に、もぞもぞと身を隠そうとしているトラバースを通りすぎ、迷路のような道を、向きを変え、曲がっていき、絶えず下っていた。ハリーには、道をガタガタ走る車の音より他、何も聞こえなかった。鍾乳石のあいだを、急にそれて、地中さらに深く進んでいくと、髪が後ろになびいた。彼は、ふりかえりつづけていた。彼らは、指紋をいっぱい残してきたかもしれない。考えれば考えるほど、ハーマイオニーをベラトリックスに変装させ、ベラトリックスの杖を持たせたのは、愚かなことだったと思われた。デス・イーターは、誰が杖を盗んだか知っているというのに――
彼らは、これまで、グリンゴッツの中で、ハリーが入りこんだことがないほど深いところまで来ていた。高速で急なカーブを曲ると、数秒後、前方に見えたのは、道の上に、激しい音をたてて流れ落ちる滝だった。彼は、グリプフックが「だめだ!」と叫ぶのを聞いた。けれど、まにあわなかった。彼らはビューンと、その下に入っていった。水が、目と口にいっぱいに入り、見ることも息をすることもできなかった。それから、車が、ひどく急に傾いて、はじかれたように止まり、全員が外に投げだされた。車が通路の壁にぶつかってこなごなに壊れる音と、ハーマイオニーが何か金切り声で叫ぶのが聞こえた。それから、彼は、重さがないように地面の方にずるずると滑りおちていき、岩だらけの通路の床に着地したが、痛くはなかった。
「し――衝撃を和らげる呪文よ」ハーマイオニーが早口で言った。そのとき、ロンが彼女を引きおこして立たせた。けれど、ハリーがぞっとしたことには、彼女は、もうベラトリックスではなく、大きすぎるローブを着て、ずぶ濡れだが、完璧に彼女本来の姿で、そこに立っていた。ロンは、また赤毛に戻って、あごひげがなかった。彼らは、顔を見あわせ、自分の顔を触って、それを知った。
「『泥棒の墜落』だ!」とグリプフックが、やっと立ち上がりながら言って、道の上の大水をふりかえって見た。それが、ただの水ではなかったのだと、ハリーに今になって分かった。「あれは、すべての魔法を、魔法で隠されているものをすべてを洗い流すのだ! 彼らは、グリンゴッツに、偽者がいるのを知っている、彼らは、我々に対し、防御策を講じたのだ!」
ハリーは、ハーマイオニーが、まだビーズのバッグを持っているか調べているのを見て、急いで上着の奥に手を突っこんで、まだ透明マントをなくしていないかどうか確かめた。それから、ふりかえると、ボグロドが、まごついて頭を横にふっているのが見えた。『泥棒の墜落』で、支配の呪文が取れてしまったのだろう。
「彼が必要だ」とグリプフックが言った。「グリンゴッツのゴブリンがいなければ、金庫に入ることはできない。それにクランカーも要る!」
「インペリオ<従え>!」ハリーがまた言った。その声が石の通路に響き、彼はまた活気ある支配の感覚が、頭から杖へ流れこむのを感じた。ボグロドは、もう一度、ハリーの意志に従い、困惑した表情が、礼儀正しい無関心の表情に変った。そのときロンが急いで行って金属の道具が入った革袋を拾いあげた。
「ハリー、人が来るのが聞こえるわ!」とハーマイオニーが言って、ベラトリックスの杖を滝に向けて「プロテゴ!<防御せよ>」と叫んだ。盾の呪文が通路にそびえ立って、魔法の水の流れをせき止めるのが見えた。
「いい考えだ」とハリーが言った。「案内してくれ、グリプフック!」
「どうやって、出るつもりなのかい?」ロンが尋ねた。彼らは、暗闇の中をゴブリンの後について、急いで歩いていた。ボグロドは、年老いた犬のようにあえぎながら後をついてきた。
「出なくちゃならないときに、心配しよう」とハリーが言いいながら、耳をすませて聞こうとしていた。近くで、何かがガチャンガチャンと音をたてて、動きまわっているのが聞こえた。「グリプフック、後どのくらいか?」
「もう少しだ、ハリー・ポッター、もう少し……」
そして、彼らが角を曲ると、ハリーが心の準備をしていたものが見えた。それでもなお、いきなり全員が止まった。
巨大なドラゴンが、目の前の地面に繋がれていて、その向こうの最も深いところにある、いくつかの金庫へ近づけないようにしていた。そのウロコは、地下に長く閉じこめられているため、青白く、はげやすくなっていた。その目は白っぽいピンク色で、両方の後足には、重い足輪が、はまっていて、そこから鎖が出ていて、岩の床に深く埋めこまれた巨大なクギにつながっていた。その巨大な逆立った翼は体にそって畳まれていたが、もし広げれば、部屋いっぱいになりそうだった。ドラゴンが、醜い頭を、彼らの方に向けて吠えたので岩が震え、口を開いて炎をはき出したので、彼らは通路に走って戻るはめになった。
「あれは、半ば目が見えないが、」とグリプフックが、あえぎながら言った。「その分、よけいに獰猛だ。しかし、あれを抑える方法がある。あれは、クランカーが来たらどうなるかを覚えたのだ。それを寄こせ」
ロンが革袋をグリプフックに渡すと、ゴブリンは、たくさんの小さな金属の道具を取りだし、それをふると、ごく小さな金槌が金床を打つような、大きな音が鳴りひびいた。グリプフックが、それを彼らに配った。ボグロドは、おとなしく自分の分を受けとった。
「どうするか分かるだろう」グリプフックが、ハリー、ロン、ハーマイオニーに言った。「あれは、この音を聞くと苦痛を受けると思って退却する。そうしたらボグロドが、金庫の扉に手のひらを押しつけなくてはならない」
彼らは、また、クランカーをふりながら、角を曲って前進した。その音が石の壁に、こだまして、とても増幅されて響きわたったので、ハリーの頭骸骨の中が、騒音でゆれるようだった。ドラゴンがまた荒々しい叫び声をあげて、退却した。ハリーは、それが震えているのが分かった。そして、近づくと、その顔に、ひどく切りつけられた傷跡がたくさん見えたので、クランカーの音を聞くと、激しい剣の恐怖が来ると教えこまれたのだろうと思った。
「手を扉に押しつけさせろ!」グリプフックがハリーをせかしたので、ハリーはまた杖をボグロドに向けた。年老いたゴブリンは、従順に、手のひらを木の扉に押しつけた。すると金庫の扉が溶け去って、洞穴のような空間があらわれた。そこは、床から天井まで、金貨や金杯や、銀の甲冑や、見知らぬ生き物の皮があり、その中には、長いトゲがあったり、垂れた翼がついているものもあった。それから宝石で飾った瓶に入った薬、まだ王冠をかぶっている骸骨もあった。
「急いで探せ!」とハリーが言った。全員が金庫の中に走りこんだ。
彼は、ロンとハーマイオニーに、ハッフルパフのカップがどんなふうか説明してあったが、もし、この金庫に置いてあるのが、別の知らないホークラックスだとしたら、それが、どんな形なのか分からなかった。けれど、彼が、全体をほとんど見まわさないうちに、後ろからくぐもった物音がして、扉がまたあらわれ、彼らを金庫の中に閉じこめたので、彼らは、真っ暗闇の中に放りだされた。
ロンが驚いて叫んだが、「問題ない、ボグロドが出してくれるだろう!」とグリプフックが言った。「杖に光をともしてくれないか? 急げ、ほんの少ししか時間がないぞ!」
「ルーモス!」
ハリーが杖に光をともして、金庫を照らしたので、その光が、かがやく宝石の上に落ちた。偽のグリフィンドールの剣が、高い棚の上の、ごちゃ混ぜになった鎖のあいだに置いてあるのが見えた。ロンとハーマイオニーも、杖の光をともして、彼らのまわりの品物の山を調べた。
「ハリー、これかも、ー? ああーっ!」
ハーマイオニーが苦痛の叫び声をあげた。ハリーが彼女に杖を向けると、ちょうど、宝石の飾りのついたカップが、彼女が握っているところから転がりおちるのが見えた。けれど、それが落ちると分裂して、いくつものカップがあらわれて、一秒後には、大きなガチャガチャいう音がして、同じカップが、床一面あらゆる方向に転がっていっぱいになった。その中から、元のカップを見つけだすのは不可能だった。
「やけどしたわ!」とハーマイオニーがうめいて、火ぶくれのできた指をなめた。
「触ると複製品を作りだす呪文と、やけどをさせる呪文を、つけ加えてかけたのだ!」とグリプフックが言った。「すべてが、触るとやけどし、どんどん増える。だが複製品に価値はない――そして、もしこの宝を触りつづけるなら、結局は、増えすぎた金の重みで押しつぶされて死ぬことになるだろう!」
「分かった、何にも触るな!」とハリーが絶望的に言った。けれど、彼がそう言ったときでさえ、ロンがたまたま落ちているカップを足で蹴ったので、それが二十以上に爆発的に増え、ロンの靴が、熱い金属と接触して一部燃えてしまったので、彼は、その場でぴょんぴょん飛んでいた。
「じっとして立ってて、動かないで!」とハーマイオニーが、ロンをぐっとつかもうとした。
「見まわすだけだ!」とハリーが言った。「忘れるな、カップは小さくて金で、上にアナグマが彫ってあって、取っ手が二つ――でなけりゃ、どこかにレイブンクローの印がないか見ろ、鷲だ――」
彼らは、杖を部屋の隅や狭い割れ目すべてに向けながら、その場で慎重に回ったが、何かに、さっと触れないようにするのは不可能だった。ハリーは、偽のガレオン金貨を滝のように降らせ、それは床の上のカップといっしょになった。もう、彼らが足をつける場所がほとんどなかった。増えつづける金が、その熱で輝いていたので、金庫は溶鉱炉のようだった。ハリーの杖の光が、天井まである棚の上にのっている盾やゴブリン製の冑を照らし、どんどん高いところまで照らしていった。そして突然、それを見つけて、彼の心臓が弾み、手が震えた。
「あそこだ、あの上の方!」
ロンとハーマイオニーも杖をそれに向けたので、小さな金のカップが、三方からのスポットライトの中で輝いた。それは、昔ヘルガ・ハッフルパフが所有していて、ヘプツィバ・スミスの手に渡り、トム・リドルが盗んだものだ。
「けど、一体全体、どうやって、何にも触らずに、あそこまで上がろうってんだ?」とロンが尋ねた。
「アクシオ・カップ!<カップよ来たれ>」とハーマイオニーが叫んだが、絶望的になっていたので、計画をたてる段階でグリプフックが言ったことを、明らかに忘れていた。
「むだ、むだ!」とゴブリンが、かみつくように言った。
「なら、どうするんだ?」とハリーが言って、ゴブリンを睨み付けた。「剣が欲しいんなら、グリプフック、もっと助けてくれないと――待てよ! 剣でなら、触ってもいいのか? ハーマイオニー、剣をここへ!」
ハーマイオニーが、ローブの中を探ってビーズのバッグを引っぱりだし、数秒間、中をかきまわして、輝く剣を取りだした。ハリーは、そのルビーを飾った柄をつかんで、刃の先で、近くの銀の大型酒瓶に触れた。それは増えなかった。
「もし、剣の先を、取っ手に突っこむことができれば――でも、どうやってあそこまで上がろう?」
カップが置いてある棚は、誰にも、一番背が高いロンでさえ、手が届かなかった。魔法がかかった宝が発する熱が、うねるように上ってきた。ハリーが、カップに届く方法を必死に考えていると、顔と背中に汗が流れおちた。そのとき金庫の扉の向こう側で、ドラゴンが吠える声が聞え、ガチャガチャ言う音が、どんどん大きくなってきた。
彼らは、ほんとうに閉じこめられていた。扉を通って出る以外に道はなかったが、扉の向こう側には、ゴブリンの大群が押しよせているようだった。ハリーがロンとハーマイオニーを見ると、二人とも恐がっているような顔をしていた。
ガチャガチャいう音が大きくなってきたとき、「ハーマイオニー」とハリーが言った。「僕は、あそこに届かなくちゃならない、何とかして、やってのけなくちゃならないんだ――」
彼女は杖を上げ、ハリーに向けてささやいた。「レビコルプス」
空中に、踵を上に吊りさげられて、鎧兜にぶつかったので、白熱した人体の形の複製品が、どっとあらわれて窮屈な場所にあふれた。ロン、ハーマイオニーと二人のゴブリンは、苦痛の叫びをあげて、飛ばされてぶつかり、横の他の物体に当たると、その物体がまた増えはじめた。彼らが、どんどん増える灼熱の宝に、なかば埋りながら、もがき叫ぶあいだに、ハリーは、剣をハッフルパフのカップの取っ手に突っこみ、刃に引っかけた。
「インパービアス!<通すな>」とハーマイオニーが、自分とロンとゴブリンを、熱い金属から守ろうとして、かんだかい声で叫んだ。
そのとき、さらに最悪の悲鳴がしたので、ハリーは下を見た。ロンとハーマイオニーが腰まで宝に埋りながら、ボグロドが、波のようにうねる宝の下に滑りこまないようにと苦闘していた。しかし、グリプフックは、数本の長い指の先が数本見えるだけで、沈んでしまって姿が見えなかった。
ハリーが、グリプフックの指をつかんで引っぱると、火ぶくれのできたゴブリンが、わめきながら徐々にあらわれた。
「リベラコルプス!」とハリーが叫び、彼とグリプフックは、増えつづける宝の上にドスンと着地し、剣がハリーの手から飛びだした。
「取って!」ハリーが、熱い金属が当たって皮膚が痛むのと戦いながら叫んだ。グリプフックが、増えつづける多量の灼熱の物体をぜったいに避けようとして、また肩の上によじのぼった。「剣はどこだ? その先にカップがついてる!」
扉の向こう側のガチャガチャ言う音が、耳をつんざくようになってきた――もう、間に合わない――
「あそこだ!」
それを見つけたのはグリプフックで、突進したのもグリプフックだった。その瞬間、ハリーは、グリプフックが、ハリーたちが約束を守るとはまったく期待していなかったのが分かった。彼は、やけどするように熱い金のうねる海に落ちないように、片手で、しっかりハリーの髪を一つかみつかんだまま、ハリーの手の届かないところに高く剣の柄を、ふりあげた。
小さな金のカップが、取っ手に剣の刃が突きささったまま、空中高く、ふりあげられた。まだゴブリンが肩にまたがっていたが、ハリーは飛びあがって、カップを取った。それで皮膚をやけどしたが、放さなかった。数え切れないほどのハッフルパフのカップが、こぶしからぱっと飛びだして降りそそいだが、それでも放さなかった。そのとき、金庫の入り口が、また開いたので、金と銀が火のような大なだれとなって、ハリーとロンとハーマイオニーを乗せたまま、抑えようもなく部屋の外に流れだした。
ハリーは、体中のやけどの痛みにはほとんど気づかず、まだ増えつづける宝の流れに乗ったまま、カップをポケットに突っこみ、剣を取りかえそうと手をのばしたが、グリプフックはいなくなっていた。彼は、ハリーの肩から滑りおりることができた瞬間、取りかこむゴブリンたちの中に避難するように飛びこんで、剣をふりまわして「泥棒! 泥棒! 助けを! 泥棒!」と叫び、前進してくる群衆の中に姿を消した。彼らはすべて短剣を持っていたが、異議なく、グリプフックを受け入れた。
ハリーは、熱い金属の中で滑りながらも立とうとしてもがいたが、ただ一つの逃げだす道が、目の前に、のびているが見えた。
「ストゥーピファイ!<気絶せよ>」彼は大声で叫んだ。ロンとハーマイオニーも加わった。赤い閃光がゴブリンの集団の中に飛びこみ、何人かがよろけて倒れたが、他の者は前進してきた。そして、数人の魔法使いの守衛が角を曲って走ってくるのが、ハリーに見えた。
つながれたドラゴンが叫び声をあげ、炎が、ゴブリンの上にほとばしった。魔法使いは、腰をかがめて、来た道を戻って逃げだしていった。そのとき、ハリーに、すばらしい霊感というか狂気がひらめいた。そこで、その獣を床にしばりつけている鎖の丈夫な足輪に杖を向けて、叫んだ。「レラシオ!<解き放て>」
大きなドンという音がして足輪が壊れて開いた。
「こっちへ!」ハリーが叫んで、前進するゴブリンに、まだ気絶させる呪文を放ちながら、盲目のドラゴンに向って全力で走った。
「ハリー――ハリー――何やってるの?」とハーマイオニーが叫んだ。
「立て、上れ、さあ――」
ドラゴンは自由の身になったことを悟っていなかった。ハリーの足が、その後足の曲ったところを見つけだし、彼は、その背中によじのぼった。ウロコが鋼のように硬かった。ドラゴンは、ハリーが乗ったのに気づいてもいないようだった。彼は、片手をのばした。ハーマイオニーが上った。ロンが、二人の後ろによじ登った。一秒後、ドラゴンは、繋がれていないのに気づいた。
そして叫び声をあげて、後足で立った。ハリーは膝をぐっとふんばって、できるだけしっかりと、ぎざぎざの鱗をつかんだ。そのとき、ドラゴンが翼を開いて、悲鳴をあげるゴブリンたちをボーリングのように脇になぎ倒して、空中に舞いあがった。そして、それが、開けた通路に向って突っこんだとき、ハリー、ロン、ハーマイオニーは、その背中にへばりついたが、天井をかすった。追ってくるゴブリンが短剣を強く放ったが、ドラゴンの脇腹に当たって逸れた。
「外には出られないわ、大きすぎるもの!」ハーマイオニーが、かんだかい声で叫んだ。けれどドラゴンは口を開け、また炎を吹きだし、トンネルを吹きとばしたので、床と天井が割れて、崩れおちた。ドラゴンは、すごい力で、かぎ爪で道を掘りすすんでいった。ハリーは、熱と埃のため、目を固く閉じていた。岩の崩れる音とドラゴンの吠え声で、耳が聞こえなくなりながら、いつ振り落とされるかもしれないと思いながら、ただその背中にしがみついていた。そのとき、ハーマイオニーが、「デフォディオ!<掘れ>」と叫ぶのが聞こえた。
彼女は、ドラゴンが通路を広げるのを助けていたのだ。ドラゴンは、悲鳴をあげたり、ガチャガチャ音をたてているゴブリンから離れ、新鮮な空気を求めて、上の方に行こうともがいて天井を掘っていた。ハリーとロンも彼女と同じことをして、掘る呪文を使って、天井を吹きとばした。彼らは、地下の湖を通った。うなりながら地をはっていく獣は、先に自由と空間があることを感じたようだった。彼らの後ろの通路は、クギのように尖ったドラゴンの尾が何度も打ちつけたので、岩や、巨大な砕かれた石灰岩のかたまりでふさがれ、ゴブリンのガチャガチャ鳴る音は、だんだんくぐもって聞えにくくなった。一方、目の前は、ドラゴンの火で、行く手が開かれていた――
そして、彼らの呪文と、ドラゴンの野蛮な強さが合わさって、通路を吹きとばしながら進んで、ついに大理石の広間に出た。ゴブリンと魔法使いは、叫び声をあげながら、隠れ場所を探して走りまわった。やっとドラゴンは翼を広げられる空間に出て、入り口から入りこむ冷たい外気に、角のある頭を向けて匂いをかいで飛びたった。そして、金属の扉を力づくで押しあけたので、扉が曲って、ちょうつがいからぶら下がったままにして、ドラゴンは、ハリー、ロン、ハーマイオニーを、まだ背中にくっつけたまま、ダイアゴン横町によろめきでて、空に向かって飛びあがった。
第27章 最後の隠し場所
The Final Hiding Place
舵をとる手段はなかった。ドラゴンは、どこへ向っているのか見えなかったし、もし、鋭く曲がるか、空中で回転するかしたら、広い背中の上にしがみついているのは不可能だと、ハリーには分かっていた。にもかかわらず、それが、どんどん高く上って、ロンドンの街が灰色と緑色の地図のように下に広がってくると、ハリーの心は、不可能だと思ったのに脱出できたという圧倒的な感謝の念でいっぱいになった。そして、獣の首に低くかがんで、金属のようなウロコにしっかりとつかまった。涼しいそよ風が吹いて、やけどをして火ぶくれができた皮膚が楽になった。ドラゴンの翼が、風車の羽のように大気を打った。後ろでは、ロンが、喜んでいるのか恐がっているのか分からないが、ずっと声をかぎりに悪態をつき、ハーマイオニーはすすり泣いているようだった。
五分くらいたつと、ドラゴンが、彼らを振り落とすかもしれないという差し迫った恐れが、ハリーの心から、いくらか消えた。というのは、それは、地下の牢獄からできるだけ遠くまで行こうという他は、何も考えていないように思われたからだ。けれど、いつどうやって、彼らが下りるかということは、とても恐ろしい問題として残っていた。ドラゴンが着地せずに、どのくらい長く飛ぶことができるのか分からなかったし、この、ほとんど視力のない特別なドラゴンが、下りるのに適した場所を見つけることができるのかも分からなかった。ハリーは絶えずあたりを見まわしながら、傷跡がちくちく痛むような気がしていた……
彼らがレストレンジ家の金庫に押し入ったと、ヴォルデモートが知るまでに、どのくらい時間があるだろうか? グリンゴッツのゴブリンは、どのくらい早くベラトリックスに知らせるのだろうか? 何が取られたか、どのくらい早く悟るだろうか? そして、金のカップがなくなったことに、いつ気付くだろうか? 彼らが、ホークラックスを探していることを、ヴォルデモートは、ついに知るだろう……
ドラゴンは、もっと冷たく新鮮な空気を切望しているらしく、着実に上昇しつづけて、肌寒い小さな雲のあいだを飛んでいた。首都を出入りする自動車が、もう小さな色つきの点々になっていて、ハリーには見分けられなかった。彼らは、緑と茶の畑に区切られた田舎の上や、つやがあったり、なかったりするリボンの帯のように風景の中を曲がりくねる川や道路の上を、飛びつづけた。
「こいつ、何探してるんだと思う?」ロンが叫んだ。彼らはどんどん北へ飛んでいた。
「さっぱり分からない」ハリーがどなり返した。両手は寒さでかじかんでいたが、あえて握りなおそうとはしなかった。 そして、もし下に沿岸の帆が見えたら、もしドラゴンが大洋をめざしていたらどうしようかと、しばらくの間、思いめぐらしていた。死ぬほど空腹で喉がかわいているのは、いうまでもないが、寒さで感覚がなかった。この獣が、最後に食べたのはいつだろうと、彼は思った。長く飛ぶ前に、きっと食べものが要るのじゃないだろうか? そして、そのとき、食用になる人間が三人背中に乗っていることを悟ったら、どうだろう?
太陽が、藍色に変った空の中を、どんどん低く滑りおちていったが、ドラゴンは、まだ飛んでいた。下の、市や町は過ぎ去って見えなくなり、ドラゴンの巨大な影が、大きな黒雲のように地上をおおっていた。ハリーは、その背につかまっていようとする努力で、体中すべてが痛んだ。
「僕の想像かな、それとも」とロンが、かなり長く黙っていた後で叫んだ。「ほんとに下降してるのかな?」
ハリーが見おろすと、深緑の山々と湖が、夕陽の中で赤銅色に見えた。ドラゴンの脇腹から目を細めて見ると、その風景が、どんどん大きく細かいところまで見えてきた。太陽の光が反射することから、それが、新鮮な水のありかを見ぬいたのだろうかと、ハリーは思った。
ドラゴンは、大きな螺旋形を描きながら、小さな湖の上を砥石で研ぐように、どんどん高度を下げて飛んでいった。
「低いとこまで行ったら、飛びこめって言うから!」ハリーが、振り向いて他の二人に呼びかけた。「僕たちが乗ってるとドラゴンが気づかないうちに、まっすぐ水に飛びこめ!」
二人は同意した。ハーマイオニーは少し気を失いかけていた。そのとき、ドラゴンの広く黄色い下腹が水面にかすって、さざ波が立ったのが、ハリーに見えた。
「さあ!」
そして、彼は、ドラゴンの脇腹から滑って、足から湖の水面に向って、まっすぐに落ちた。予想したよりしぶきが大きかった。ひどく水にぶつかり、凍るような緑のアシでいっぱいの世界に石のように突っこんだ。そして水をけりながら水面に向い、喘ぎながら顔を出すと、ロンとハーマイオニーが落ちた場所から巨大なさざ波が輪になって出てくるのが見えた。ドラゴンは、何も気づかないように、もう十五メートルも先に行って、さっと水面に急降下して、傷ついた鼻から水をすくいあげていた。ロンとハーマイオニーが、湖の深みから水を跳ね飛ばして、喘ぎながら顔を出したとき、ドラゴンは、翼を激しく打って、また飛んで、やっと遠くの土手に着地した。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは、反対側の岸をめざして泳ぎはじめた。湖は深くはなさそうだった。まもなく、泳ぐより、アシと泥の中をかきわけて進むことが問題になってきた。そしてやっとのことで、びしょ濡れで、あえぎながら、疲れ果て、滑りやすい草の上にドスンと倒れこんだ。
ハーマイオニーは、崩れるように倒れこみ、震えながら咳きこんでいた。ハリーは、そのまま横になって眠れるものなら、うれしかったが、よろめきながら立ちあがって、杖を引きだし、まわりに、いつもの防御の呪文をかけはじめた。
呪文をかけおえると、他の二人と一緒になった。金庫を逃げだしてから、彼らをちゃんと見るのは初めてだった。二人とも、顔と腕中に痛そうな赤いやけどができていて、着ているものも、ところどころ焼けこげていた。彼らは、痛さに一瞬びくっとしながら、たくさんの傷にディタニー液を塗った。ハーマイオニーは、ハリーに瓶を手渡してから、貝殻荘から持ってきたパンプキン・ジュースの瓶を三本と、清潔な乾いたローブを三枚、取りだした。三人は着替えて、ジュースをぐいっと飲んだ。
「ええと、プラス面としては」とロンが、座って、手の皮膚が生えてくるのを見守りながら、やっと言った。「ホークラックスを手に入れた。マイナス面としては――」
「――剣がない」とハリーが、ジーンズの焼けこげた穴から、その下の痛そうなやけどに、ディタニー液を垂らしながら、歯をくいしばって言った。
「剣がない」とロンが、くりかえした。「あの裏切り者のチビのスト破りめ……」
ハリーは、目の前の草の上に置いてある脱いだばかりの濡れた上着のポケットからホークラックスを引っぱりだした。彼らが瓶のジュースをごくごく飲んでいるとき、それは輝いて、目を惹いた。
「少なくとも、今度は首にかけるわけにはいかないね。首にかけたら、ちょっと変だよ」とロンが、手の甲で口をぬぐって言った。
ハーマイオニーは、湖の遠くの岸を見ていた。そこではドラゴンがまだ水を飲んでいた。
「あれ、どうなると思う?」彼女は尋ねた。「大丈夫かしら?」
「君、ハグリッドみたいだ」とロンが言った。「ドラゴンだよ、ハーマイオニー、自分の面倒くらい見れるさ。心配しなくちゃならないのは僕たちの方だ」
「どういう意味?」
「ええと、君に、ばらしていいかどうか分からないけど、」とロンが言った。「僕たちが、グリンゴッツに押し入ったこと、気付かれたかも知れない、と思うんだ」
三人とも笑いだして、笑いはじめると止まらなかった。ハリーは脇腹が痛くなり、空腹で頭がふらふらした。けれど赤くなっていく空の下、草の上に寝ころんで、喉がひりひりするまで笑った。
「でも、これからどうする?」とハーマイオニーが、最後に、喉をひくひくさせながら、まじめになろうとして言った。「彼は悟るでしょう? 例のあの人は、私たちがホークラックスのことを知っていることを悟るでしょうよ!」
「恐がって、彼に言えないかもしれないけどな?」とロンが希望的観測で言った。「もみ消すかも――」
空と湖の水の匂いとロンの声が、かき消すようになくなった。剣の一撃のような痛みが、ハリーの頭を切りさいた。彼は、ぼんやりとした灯りの部屋にいた。魔法使いが半円になって、彼を取りまき、足下の床には、小柄な姿が震えてひざまずいていた。
「なんと言ったのだ?」彼の声は、高く冷たかったが、激怒と恐れが体の中で燃えていた。恐れていた一つのこと――だが、ありえない、どういう意味だ……
ゴブリンは震えていて、高いところにある赤い目と、目を合わせることができなかった。
「もう一度言え!」とヴォルデモートが呟くように言った。「もう一度言え!」
「か、閣下」とゴブリンが、黒い目を恐怖で見開いて、どもりながら言った。「か、閣下……我々は、か、彼らを、と、止めようとしたが……に、にせ者が、閣下……押し、押し入って……レストレンジ家のき、金庫に……」
「偽者だと? どんな偽者だ? グリンゴッツは、偽者を暴く方法があると思っていたが? それは誰だ?」
「それは……それは……ポ、ポッターのこ、小僧と、ふ、二人の共犯……」
「で、やつらは取ったのか?」彼は、声を高めて言ったが、ひどい恐怖心にとらわれていた。「言え! やつらは何を取ったのか?」
「ち、小さな金のカ、カップを……一つ、か、閣下……」
激怒と否定の叫び声が発せられたが、それは他人の声であるかのように聞こえた。
彼は発狂したように荒れ狂った。ほんとうであるはずがない、不可能だ、誰も知らなかったのに。あの少年が、私の秘密を発見するなどということが、どうして可能だろうか?
ニワトコの杖が空を切りさき、緑の閃光が部屋中に放たれた。ひざまずいたゴブリンは死んで転がった。見ていた魔法使いは、恐れて、彼の前から逃げだした。ベラトリックスとルシウス・マルフォイは、他の者をさしおいて、先を争って扉の方に向かった。何度も何度も、彼の杖が向けられ、残った者は殺された。この知らせを持ってきたため、金のカップのことを聞いたために、すべての者が殺された――
彼は、死者の中に一人残って、突進するように行ったり来たりしていた。幻影が、彼の前を通りすぎた。彼の宝、予防手段、不死への頼みの綱の幻影だ――日記は破壊され、カップは盗まれた。もし、もし、あの少年が、他の物についても知っていたら、どうする? 彼が知っている可能性があるだろうか、彼は、もう行動をおこして、他の物の跡を追ったのだろうか? ダンブルドアが、この根本にいるのだろうか? ダンブルドアは、いつも私を疑っていた。ダンブルドアは、私の命令で死んだ。ダンブルドアの杖を、私が今持っている。だが、ダンブルドアは、死という不名誉な状態から、あの少年を通して手をのばしてくる、あの少年――
だが、もしあの少年が、ホークラックスのどれかを破壊すれば、このヴォルデモート卿は、きっと分かるはず、感じるはずではないか? 最も偉大な魔法使いであり、最も強力であり、ダンブルドアや、他の数多くの価値なく名もない者たちを殺してきた私だ。もし、ヴォルデモート卿が、つまり最も重要であり貴重な存在である私自身が、襲われ切断されたとしたら、どうして、私に分からないはずがあろうか?
日記が破壊されたとき、感じなかったのは事実だ、だが、それは、感じる体がなく、幽霊より小さい存在であったためだと思っていた……いや、確かに残りは無事だ……他のホークラックスは無傷に違いない……
だが、私は知らなくてはならない、確かめなくてはならない……彼は、部屋の中を行ったり来たりした。通りながらゴブリンの死体を脇に蹴飛ばし、怒りが沸騰する頭の中で、いくつかの画面が、ぼやけて見え、燃えていった。湖、掘ったて小屋、そしてホグワーツ――
今では、わずかな冷静さが彼の激怒を鎮めでいた。指輪をゴーントの掘ったて小屋に隠したことを、あの少年が、どうやって知ることができようか? 私が、ゴーント家に関わりがあることなど誰も知らない、私はその関係を隠してきた、あの殺人を調べて、私につながることは、絶対になかった。きっと指輪は大丈夫だ。
それに、あの少年にせよ、誰にせよ、どうやって、あの洞穴のことを知ることができようか、または、あの防御策を破ることができようか? ロケットが盗まれると考えるのも、ばかばかしい……
学校については、ホグワーツのどこにホークラックスを隠したか、私だけが知っている。私だけが、あそこの最も深い秘密を探りだしたからだ……
それに、まだナギニがいる、あれを近くに置いておかなくてはならない、もう仕事を命じて送りだすことはせず、私の保護下に置かなくては……
だが、大丈夫だと確信するために、しっかり確信するために、それぞれの隠し場所に戻って、それぞれのホークラックスの防御を二倍にしなくてはならない……これは、ニワトコの杖を探索したと同じように、一人でやらねばならない仕事だ……
最初に、どこを訪れようか、どこが最も危険だろうか? 昔の不安が、心の中にちらちら見えた。ダンブルドアは私のミドル・ネームを知っていた……ダンブルドアはゴーント家と、つながりを持ったかもしれない……あの見すてられた家は、おそらく、隠し場所としては、少しも安全でない。最初に行くのは、あそこだ……
湖が、不可能なのは確かだ……だが、ダンブルドアが、孤児院を通じて、私の過去の悪事を知っていた可能性もほんのわずかだが、あるだろうか。
そして、ホグワーツ……だが、あそこのホークラックスが無事なのは分かっている、ポッターが探知されずにホグズミードに入るのは不可能だし、学校は言うまでもない。だが、用心のため、あの少年が城に入ろうとするかもしれないと、スネイプに警告しておいた方がいいだろう……なぜ、あの少年が城に戻ろうとするかを、スネイプに言うのは、もちろん、ばかげたことだ。ベラトリックスとマルフォイを信用したのは、重大な過ちだった。彼らが、あまりに愚かで不注意だったので、彼らを信用するのがいかに無分別なことか証明されたではないか?
それでは、最初に、ゴーントの掘ったて小屋に行こう。そしてナギニは連れていこう。もう、あの蛇と離れはしないぞ……そして、彼は大またで歩いて、部屋から出て、広間を通り、噴水のある暗い庭に出ていった。そして蛇語で、蛇を呼ぶと、それは、はいでてきて、長い影のように彼といっしょになった……
ハリーの目がぱっと開き、彼は現実にぐいと引きもどされた。沈みゆく夕日の中、湖の土手に横になっていて、ロンとハーマイオニーが見おろしていた。彼らの心配そうな表情と、ドクンドクンと脈打ちつづける傷跡から察して、彼が突然ヴォルデモートの心に飛んでいってしまったのは、気づかれずにはすまなかったようだった。彼は、震えながら、立ちあがろうともがき、まだ皮膚まで濡れているのに、ぼんやり驚いていた。すると、カップが、罪がなさそうに、目の前の草の上にころがっていて、沈みゆく太陽の金色の光が、湖の深い青の上に放たれていた。
「彼は知ってる」ヴォルデモートの高い叫び声の後では、自分自身の声が奇妙で低く聞こえた。「彼は知っていて、他のが、ある場所を調べにいこうとしてる。そして、最後のは、」ハリーは、もう立ちあがっていた。「ホグワーツにある。僕は分かった。分かったんだ」
「何だって?」
ロンが、口をぽかんと開けて彼を見た。ハーマイオニーは、心配そうに、ひざをついて起きあがった。
「けど、何を見たの? どうやって分かったの?」
「彼が、カップのことを見つけだしたのが分かった、僕――僕は、彼の頭の中にいた。彼は――」ハリーは、殺人の光景を思いだした。「彼は、ひどく怒ってたけど、恐れてもいた。彼は、僕たちが、どうやって知ったか分かっていなかった。それで今、彼は、他のが大丈夫かどうか調べにいこうとしてる。最初は指輪だ。彼は、ホグワーツが、いちばん安全だと思ってる。スネイプがいるし、僕が知られずに入るのが、とても難しいからだ。彼は、あそこを最後に調べると思う、けど数時間後には、あそこに行くだろう――」
「ホグワーツのどこに、ホークラックスがあるか見たか?」とロンも、急いで立ちあがろうとしながら言った。
「いや、彼は、スネイプに警告することに集中してたので、それがどこにあるか、きちんと考えていなかった――」
「待って、待ってったら!」とハーマイオニーが叫んだ。そのとき、ロンはホークラックスを取りあげ、ハリーは、また透明マントを取りだしていた。「まだ行くわけにはいかないわ。計画を立ててないもの。やらなくちゃいけないのは――」
「やらなくちゃいけないのは、行くことだ」とハリーが断固とした口調で言った。彼は眠りたかったし、新しいテントに入るのが楽しみだった。でも、今それは不可能だった。「彼が、指輪とロケットがなくなったと悟ったら、何をするか想像できるか? もしホグワーツのホークラックスも安全じゃないと考えて、場所を移したらどうする?」
「でも、どうやって入りこむの?」
「ホグズミードに行く」とハリーが言った。「で、学校のまわりの防御策がどんなか見てから、何か考えよう。マントの中に入れ、ハーマイオニー、今度は、一緒にいたいから」
「でも、足が、はみ出るわよ――」
「暗くなってきたから、誰も、僕たちの足に気がつきゃしないさ」
「巨大な翼のはばたきが、暗い水面に響いた。ドラゴンが、たっぷり水を飲んで、大空に飛びたった。彼らは、準備を中断して、それがどんどん高く上っていって、もう急速に暗くなった空に黒く見え、近くの山を越えて姿を消すのを、じっと見つめていた。それから、ハーマイオニーが前に進んできて、二人のあいだに立った。ハリーが、マントをできるだけ下に引っぱった。そして、彼らは、いっしょにその場で回って、体を締めつける暗闇に入っていった。
第28章 鏡のかたわれ
The Missing Mirror
ハリーの足が道に触った。心が疼くように懐かしいホグズミードの本通りが見えた。暗い店の表、村の向こうの暗い山々の輪郭、ホグワーツに続いている道の曲線、三本の箒亭の窓からは光がこぼれていた。ハリーは、心がぐらっとよろめき、ほとんど一年前、瀕死の状態に弱ったダンブルドアを支えて、ここに着地したことを、鋭く正確に思いだした。そこまでで着地後、一秒以内だったが――それから、ロンとハーマイオニーと、握っていた手をゆるめた、ちょうどそのとき、次のことが起こった。
カップを盗まれたと悟ったときのヴォルデモートの声のような叫び声が大気をつんざいた。それは、ハリーの神経のすみずみまでを引きさくような気がしたが、すぐ、自分たちが到着したのがその原因だと分かった。マントの中で他の二人を見たちょうどそのとき、三本の箒亭の扉がさっと開いて、マントを着てフードをかぶったデス・イーターが一ダース、杖を上げて通りに飛びだしてきた。
ハリーは、ロンの手首を掴んで杖を上げたが、気絶させるには多すぎる相手だったし、呪文をかけようとしただけで、居所がばれそうだった。デス・イーターの一人が杖を振ると叫び声は止まったが、まだ遠くの山々にこだましていた。
「アクシオ・マント!<マントよ来たれ>」とデス・イーターの一人が叫んだ。
ハリーは透明マントの裾をつかんだが、召還の呪文は効かず、マントは飛び去る気配がなかった。
「では、被り物の下に隠れているのではないのか、ポッター?」召還の呪文をかけようとしたデス・イーターが叫び、次に仲間に叫んだ。「散らばれ。奴はここにいる」
六人のデス・イーターが、こちらに向って走ってきた。ハリー、ロン、ハーマイオニーは、できるだけ速く近くの横道に引っこんだので、すんでのところでデス・イーターに捕まらなかった。ハリーたちは、走りまわる足音を聞きながら、暗闇の中で待っていた。デス・イーターが彼らを探そうとして、通りに沿って杖の光を浴びせた。
「このまま行きましょ!」ハーマイオニーがささやいた。「今、姿くらましするのよ!」
「すごくいい考えだ」とロンが言った。けれど、ハリーが返事をする前に、デス・イーターが叫んだ。「お前が、ここにいるのは分かっているぞ、ポッター! 逃げ道はない! 我々が見つけてやる!」
「彼らは、僕たちが来るのに備えていたんだ」とハリーがささやいた。「僕たちが来たのを知らせるように、あの叫び声の呪文を仕掛けてあった。僕たちを、ここに留めて、閉じこめるため、何かしてあると思う――」
「ディメンターはどうだ?」別のデス・イーターが呼びかけた。「ディメンターを自由にしろ、やつを、すぐに見つけだすだろう!」
「闇の帝王は、彼以外の手によってポッターが死ぬのは望まない――」
「――が、ディメンターは、殺しはしない! 闇の帝王はポッターの魂でなく、命が欲しいのだ。最初に、ディメンターにキスされていれば、殺すのが簡単になるだろうよ」
同意のざわめきが上がった。ハリーの心が恐怖でいっぱいになった。ディメンターを追い払うためには、パトローナスを出さなくてはならない。そうすれば、たちどころに居場所が分かってしまう。
「姿くらましをしましょう、ハリー!」ハーマイオニーがささやいた。
ちょうど彼女がそう言ったとき、通りに不自然な寒さが忍びよってくるのを、ハリーは感じた。まわりの明かりが、真上の星に吸いあげられ、星が見えなくなった。真っ暗闇の中で、彼はハーマイオニーが手を取るのが分かった。彼らは、いっしょにその場で回った。
彼らが動くのに必要な空気が固まってしまったように、姿くらましをすることはできなかった。デス・イーターは巧みに呪文をかけていた。寒さが、ハリーの皮膚の深くにどんどん食いこんできた。彼とロンとハーマイオニーは、手探りで壁を伝い、音をたてないように気をつけながら横道の奥の方に進んでいった。そのとき、角を曲ると、ディメンターが音もなく滑るようにやってきた。十かそれ以上もいたが、黒いマントとかさぶたのある朽ちた手で、周囲よりもっと濃い暗闇をつくっているので、その姿が目に見えた。彼らは、近くに恐怖の感情があるのが分かるのだろうか? ハリーはそうだと確信した。彼らは、今はもっと速く向ってくるようだった。空中の絶望を味わいながら、ハリーが憎悪する、引きずるようなガラガラいう息をさせて、忍びよってきた――
ハリーは杖を上げた。後に何が起ころうとも、ディメンターにキスされることはできない、そのつもりはない。彼は、ロンとハーマイオニーのことを考えながら、ささやいた。「エクスペクト・パトローナム!」
銀の雄鹿が、杖からさっと飛びだして突進した。ディメンターは追い散らされたが、どこか見えないところから勝ちほこった叫び声があがった。
「やつだ、向こうだ、向こうだ、パトローナスを見たぞ、雄鹿だった!」
ディメンターは退却し、星がまた現れた。デス・イーターの足音が大きくなってきた。けれど、ハリーが狼狽して、どうしたらいいか決めないうちに、近くで差し錠がこすれる音がして、狭い通りの左手の扉が開き、荒々しい声が言った。「ポッター、中へ、速く!」
ハリーはためらわずに従い、三人とも開いた戸口に駆けこんだ。
「二階へ。マントをかぶったままで、静かにしていろ!」と背の高い人影が小声で言って、彼らを通し、自分は通りに出て、後ろ手にバタンと扉を閉めた。
ハリーは、どこにいるのかさっぱり分からなかったが、一本しかない蝋燭の火がちらちらする中で、汚い、おがくずがまき散らされた、ホグズ・ヘッドの酒場なのが分かった。彼らは、カウンターの後ろに走っていき、二つめの戸口を通ると、その先に、ぐらぐらする木の階段があったので、できるだけ速く上った。階段を上ったところは居間で、すり切れた絨毯と、小さな暖炉があり、その上には、一枚だけ、金髪の少女の大きな油絵が掛かっていた。彼女は、虚ろな優しさといった表情で、部屋を見おろしていた。
下の通りから叫び声が聞こえてきた。彼らは、まだ透明マントを着たまま、汚い窓に忍びよって見おろした。ハリーに、ホグズヘッドの酒場の主人だと分かった彼らの救い主が、フードをかぶっていない唯一の人だった。
「それがどうした?」酒場の主人はフードを被った人にどなった。「それがどうした? お前らが、ディメンターを俺の通りによこしたら、俺は、パトローナスで追いはらうぞ! あいつらを俺の近くにうろつかせることはしない、そう言ったはずだ。俺の近くにうろつかせることはしない!」
「あれは、お前のパトローナスではなかった!」とデス・イーターが言った。「あれは雄鹿だった。ポッターのだ!」
「雄鹿だと!」と酒場の主人がどなって、杖を引きだした。「雄鹿! ばかもん――エクスペクト・パトローナム!」
大きくて角のあるものが、杖の先から飛びだした。それは頭を低くして、本通りに向って突進し、見えなくなった。
「あれは、俺が見たものじゃない――」とデス・イーターが言ったが、さっきより確信が持てないようだった。
「夜間外出禁止令が破られた。お前も音を聞いただろう」仲間の一人が、酒場の主人に言った。「何者かが、規則を破って通りに出たのだ――」
「もし、俺が猫を出したけりゃ、外に出るさ。お前らの禁止令などクソくらえだ!」
「お前が、『ギャーギャーわめく呪文』を発動させたのか?」
「俺がやったらどうだってんだ? アズカバンへ、しょっぴくか? うちの戸口から、鼻を突きだしたから、俺を殺すのか? そんなら、やるがいい。やりたけりゃな! だが、お前らのために言っとくが、ケチな闇の印を上げて、彼を呼びつけない方がいいぜ。あの人は、俺と、年寄り猫のために呼びつけられたかないだろう?」
「俺たちのことは心配するな」とデス・イーターの一人が言った。「自分の心配をしろ、夜間外出禁止令を破るとは!」
「で、俺の酒場が店じまいしたとき、お前らは、薬や毒薬をどこへ密売したんだ? お前らのケチな副業はどうなると思うか?」
「脅迫するのか?」
「俺は黙っている。お前らが、ここに来た理由がそれならな」
「俺は、まだ雄鹿のパトローナスを見たと思っているぞ!」と最初のデス・イーターが叫んだ。
「雄鹿だと?」と酒場の主人がどなった。「ヤギだ、ばかもん!」
「分かった、俺たちの間違いだ」と二番目のデス・イーターが言った。「今度、夜間外出禁止令を破ったら、容赦せんぞ!」
デス・イーターは本通りの方に戻っていった。ハーマイオニーがほっとしてうめき声を上げ、マントの下から、もぞもぞとはい出して、脚がぐらぐらする椅子に座った。ハリーはカーテンをしっかり閉め、自分とロンからマントを取った。下にいる酒場の主人が酒場の差し錠をかけて、階段を上ってくる音が聞こえた。ハリーの注意が、暖炉の上の、ある物に引きつけられた。それは、少女の肖像画の真下に、もたせかけてある小さな長方形の鏡だった。
酒場の主人が部屋に入ってきた。
「大ばか者めが」彼は、一人ずつ顔を見ながら、ぶっきらぼうに言った。「ここに来るとは、何を考えとるんだ?」
「ありがとう」とハリーが言った。「お礼を言っても、言いつくせない。僕たちの命を救ってくれて」
酒場の主人は、ぶつぶつ唸った。ハリーは近づいて、顔を見あげ、長いごわごわの灰色の髪とあごひげの奥をのぞきこもうとした。彼は眼鏡をかけていたが、その汚れたレンズの向こうの目は、突きとおすような鮮やかな青だった。
「鏡の中に見えたのは、あなたの目だった」
部屋の中に、沈黙が満ちた。ハリーと酒場の主人は見つめ合った。
「あなたがドビーをよこしてくれたんだ」
酒場の主人は頷いて、屋敷しもべはいないかと見まわした。
「彼は、君たちといっしょだと思っていた。どこに置いてきたのか?」
「彼は死にました」とハリーが言った。「ベラトリックス・レストレンジが殺した」
酒場の主人の表情は変わらなかった。しばらくして、彼は言った。「それは悲しいな。俺は、あの屋敷しもべが好きだった」
彼は後ろを向いて、杖で突いてランプを灯し、誰の顔も見なかった。
「あなたは、アベルフォースだ」とハリーが、男の背中に言った。
男は、肯定も否定もしないで、身をかがめて暖炉に火をつけようとした。
「どうやって、これを手に入れたんですか?」ハリーは尋ねながら、シリウスの鏡の方に近づいた。それは、ほとんど二年前に、ハリーが割った鏡の片割れだった。
「ダングから買った、一年ほど前に」とアベルフォースが言った。「アルバスから、どういうものか聞いていた。君を捜そうとしてきた」
ロンが、はっと息を飲んだ。
「銀の雌鹿だ!」と興奮して言った。「あれも、あなた?」
「何のことを言っているのか?」とアベルフォースが言った。
「誰かが、僕たちに、雌鹿のパトローナスを寄こしたんだ!」
「その程度の頭じゃ、デス・イーターになれるぞ。俺のパトローナスはヤギだと証明してみせなかったか?」
「ああ」とロンが言った。「うん……あのう、僕、腹ぺこなんで!」彼は、おなかが大きな音でゴロゴロ鳴ったので、弁解するようにつけ加えた。
「食べ物はある」とアベルフォースが言って、部屋からそっと出ていき、少しして、大きなパンと、チーズと、ミード酒の入った銅の水さしを持ってきた。そしてそれを、暖炉の前の小さなテーブルに並べた。彼らは、がつがつと食べたり飲んだりした。しばらくの間、火のぱちぱち燃える音、コップがカチャンという音、もぐもぐ食べる音しか聞えなかった。
「よし、それじゃ」とアベルフォースが言った。お腹いっぱい食べおわり、ハリーとロンは椅子の上で、うとうとして前屈みになっていた。「君たちを、ここから出す最良の方法を考えなくてはならん。夜はだめだ。暗闇の中で、誰かが外で動いたら、どうなるか聞いただろう。『ギャーギャーわめく呪文』が発動して、ドキシーの卵をねらうボートラックルのように、やつらは君たちに気づくだろう。俺は、二度めは、雄鹿をヤギだと言いくるめることはできん。明け方まで待て、外出禁止令が解けたら、また透明マントをかぶって歩いて出発するんだ。ホグズミードから、まっすぐ出て、山の中に行けは、姿くらましできる。ハグリッドに会うかもしれん。逮捕されそうになってから、グロウプといっしょにあそこの洞穴に隠れているからな」
「僕たちは、行かない」とハリーが言った。「ホグワーツに戻らなきゃならない」
「ばかなことを言うな」とアベルフォースが言った。
「そうしなけりゃならないんだ」とハリーが言った。
「君がしなけりゃならないことは、」とアベルフォースが前にのりだして言った。「ここからできるだけ遠くに行くことだ」
「あなたは分かっていない。あまり時間がないんだ。僕たちは、城の中に入らなけりゃならない。ダンブルドアが――つまりあなたの兄さんが――僕たちに望んで――」
暖炉の火で、一瞬、アベルフォースの汚い眼鏡のレンズがくすんで、真っ白に輝いた。ハリーは、巨大蜘蛛のアラゴグの盲目の目を思いだした。
「俺の兄、アルバスは、たくさんのことを望んだ」とアベルフォースが言った。「そして、兄が、壮大な計画を実行するあいだ、いつも、まわりの人間が傷ついてきた。君は、学校から離れろ、ポッター、できれば国外に逃げろ。兄と、その賢い計略は忘れろ。兄は、その計略の何にも傷つけられないところへ行ってしまった。君も、兄に何も負い目を感じる必要はない」
「あなたは分かっていない」とハリーがまた言った。
「ああ、そうかな?」とアベルフォースが静かに言った。「君は、俺が自分の兄を理解していなかったと思うのか? 君は、俺より、アルバスのことをよく知っていたと思うのか?」
「そういう意味じゃなくて、」とハリーが言ったが、極度の疲労と、食べすぎとミード酒の飲みすぎで、頭の働きが鈍かった。「それは……彼が、僕に仕事を残したんだ」
「今でもか?」アベルフォースが言った。「いい仕事、だといいが? 楽しいか? たやすいか? 未成年の魔法使いの子供が、背伸びしすぎず、できるような類のことか?」
ロンが、怖い笑いを浮かべ、ハーマイオニーは緊張しているようだった。
「僕――それは簡単じゃない、全然」とハリーが言った。「でも、僕、やらなくちゃ――」
「『やらなくちゃ』だと? なぜ『やらなくちゃ』ならん? 兄は死んだ、そうだろ?」とアベルフォースが、荒々しく言った。「放っとけ、兄の後を追う前に! 自分を大事にしろ!」
「できない」
「なぜだ?」
「僕は――」ハリーは困惑していた。説明できなかったので、代りに、攻撃体勢を取った。「でも、あなたも戦ってる、あなたは騎士団のメンバーだ――」
「だった」とアベルフォースが言った。「不死鳥の騎士団は、やられた。例のあの人の勝ちだ、終わりだ。そうでないふりをしているやつは、自分をごまかしているんだ。君がここにいるのは決して安全じゃない、ポッター、彼は、あまりにひどく君を捕まえたがっている。だから海外へ行って、隠れて身を守れ。この二人を連れていけば一番いい」そして、親指をぐいとロンとハーマイオニーに向けた。「この二人も、長くいるほど、危険になるだろう。君といっしょに活動していることを、誰もが知っているからな」
「僕は行けない」とハリーが言った。「仕事がある」
「他の誰かに、渡せ!」
「できない。僕がやることになってる、ダンブルドアが、説明してくれた、みんな――」
「ああ、兄が、今でもか? で、兄はすべて話したのか、君に正直だったか?」
ハリーは、心の底から「はい」と言いたかった。けれど、どういうわけか、その簡単な言葉が、唇に上ってこなかった。アベルフォースは、ハリーの思っていることが分かったようだった。
「俺は、兄を知っていた、ポッター。兄は子供の頃に、秘密にすることを覚えた。秘密と嘘。それで、我々は育った、そしてアルバスは……秘密にかけては、天性の素質があった」
老人の目が、暖炉の上の少女の画の方へ向いた。それは、ハリーがしっかり見まわすと、部屋でただ一枚の画だった。アルバス・ダンブルドアの写真も、他の誰の写真もなかった。
「ダンブルドアさん?」とハーマイオニーがおずおずと言った。「それは、妹さん? アリアナですか?」
「そうだ」とアベルフォースが、ぶっきらぼうに言った。「リータ・スキーターを読んだかね、娘さん?」
暖炉のバラ色の光の中でさえ、ハーマイオニーが真っ赤になったのが、はっきり分かった。
「エルフィアス・ドージが、彼女のことを言ったんです」とハリーが、ハーマイオニーを助けようとして言った。
「あの間抜けな年寄りめ」とアベルフォースが、ぶつぶつ言いながら、またミード酒をぐいっと飲んだ。「あいつは、兄のすべての開口部から太陽が輝いていると思っていた。まあ、その表情からすると、君たち三人も含め、たくさんの人たちがそう思っていた」
ハリーは、静かにしていた。何か月ものあいだ、ダンブルドアが、謎めいたことを言っていたことについて疑う気持ちやあてにならないという気持ちを抱いたことを表明したくはなかった。彼は、ドビーのお墓を掘っているあいだに、選択をして、アルバス・ダンブルドアに示された曲がりくねった危険な道をたどっていこう、知りたかったすべてを話してもらえなかったことを受けいれ、ただ単純に信頼しようと決心していた。もう二度と疑いたいとは思わなかった。目的から逸らすようなことは何も聞きたくなかった。それで、じっと見つめるアベルフォースと目を合わせた。それは、兄の目に驚くほどよく似ていた。輝く青い目は、凝視する物体をエックス線のように見通すような、兄の目と同じ印象を与えた。ハリーが何を考えているか、アベルフォースは知っていて、軽蔑していると思った。
「ダンブルドア先生は、ハリーを愛していました、とても」とハーマイオニーが低い声で言った。
「そうだったのか?」とアベルフォースが言った。「おかしなことだが、兄が、とても愛した人が、どれほど多く、そのまま放っておいたよりも、悪い状態に陥ったことか」
「どういう意味ですか?」とハーマイオニーが、かたずをのんで尋ねた。
「気にするな」とアベルフォースが言った。
「でも、それは、口に出すには、とても重大なことだわ!」とハーマイオニーが言った。「あなたは――あなたは、妹さんのことを話しているのですか?」
アベルフォースが、彼女を睨み付けた。言わずにおいた言葉を、口の中で噛み締めているかのように、その唇が動いた。それから一気に喋り出した。
「妹が六才のとき、三人のマグルの少年に襲われた。彼らは、こっそり裏庭の垣根からのぞいて、妹が魔法をつかっているのを見た。妹は小さかったので、力を抑えることができなかった。その年では、どんな魔女や魔法使いでもできないだろう。彼らは、それを見て恐がったのだと思う。垣根をかきわけて入りこみ、妹が、その種明かしをすることができないと、逆上して、そのチビの奇形がやることを止めさせようとした」
ハーマイオニーの目が、暖炉の火の明かりの中で大きく見開かれた。ロンは、少し気分が悪くなったようだった。アベルフォースが立ちあがった。ダンブルドアのように背が高く、怒りと、激しい苦痛で恐ろしく見えた。
「彼らのしたことで、妹はおかしくなった。二度と正常に戻らなかった。魔法を使おうとしなかったが、魔法から抜けだすこともできなかった。その力は内側に向き、妹の気を狂わせた。その力を自分で抑えられないときは外に爆発し、ときどき、妹は様子が変になり、危険になった。だが、たいていは、優しく、恐がりで、他に危害は加えなかった。
「父は、それをやったやつらを追いかけて」とアベルフォースが言った。「襲った。そのために、アズカバンへ閉じこめられた。父は、なぜ、そうしたか理由を言わなかった。もしアリアナがどうなったかを魔法省が知ったら、永久に聖マンゴ病院に閉じこめられただろう。妹のように不安定で、魔法の力を自分で抑えられなくなると、ときどき外に爆発するような存在は、国際秘密法を脅かす深刻な存在だとみなされただろうから。
「我々は、妹を安全に秘密にしておかなくてはならなかった。引っ越しして、妹は病気だという噂を広めた。母が妹の面倒をみて、落ちつかせ、楽しくさせておこうとした。
「俺は、妹のお気に入りだった」彼は言ったが、そう言ったとき、アベルフォースのしわと、もつれたあごひげを通して、小汚い学校の生徒が顔を出したようだった。「アルバスは、そうじゃなかった。家にいるときは、いつも二階の自分の寝室にいて、本を読み、賞の数を数え、『当時の最も著名な魔法界の有名人たち』と文通を続けていた。アベルフォースは、せせら笑った。「兄は、妹にわずらわされたくなかった。妹は、俺のことが一番好きだった。母といて食べようとしないときに、俺なら食べさせることができた。妹が、ひどく荒れくるったとき、俺なら落ちつかせることができた。妹がおとなしいときは、ヤギに餌をやるのを手伝ってくれた。
「それから、妹が十四になったとき……ほら、俺はその場にいなかったんだ」とアベルフォースが言った。「もし俺がいれば、妹を落ちつかせることができただろう。妹は、またひどく荒れ狂ったが、母は、もう昔のように若くなかった。で……あれは事故だった。アリアナは、自分を抑えることができなかった。だが母は死んだ」
ハリーは、恐ろしさと、哀れみと嫌悪が混じった気持ちがした。もうこれ以上聞きたくなかったが、アベルフォースは話しつづけた。ハリーは、彼が、このことを前に語ったのはどのくらい昔だろうか、それとも、そもそも、このことを人に語ったことがあるのだろうか、と思った。
「それで、アルバスがチビのドージと世界旅行をする計画がつぶれた。二人は、母の葬儀に帰ってきた。それから、ドージは一人で出発し、アルバスは、家族の長としておさまった。ほう!」
アベルフォースは、暖炉の火につばを吐いた。
「俺が、妹の面倒をみる、と兄に言った。学校なんて気にしなかった。家にいて、そうしようと思った。兄は、学校を卒業しろと言った。で、兄が母の代りになった。優秀なお方には、少し期待はずれだっただろうよ。半分正気でない妹の面倒をみて、一日おきに妹が家を吹き飛ばすのを止めても、賞はもらえないからな。だが、数週間は、よくやった……あいつが来るまでは」
今や、明らかに危険な表情が、アベルフォースの顔にゆっくりとあらわれた。
「グリンデルワルドだ。とうとう兄は、対等に話せる相手ができた。自分と同じくらい優秀で、才能がある奴だ。そこで、アリアナの面倒をみることは二の次になり、新しい魔法界の秩序を打ちたてるため、秘宝を探すため、他にも彼らが興味があることは何のためでも、あらゆる計画を練っていた。魔法使いすべてのための壮大な計画。アルバスが『より大きな公益』のために働いているときに、もし少女が一人無視されたとしても、何の問題があろうか、?
「だが、数週間後、俺はもううんざりだと思った、俺はね。もうすぐホグワーツに戻るときだった。だから、彼らに言った、彼ら二人にね、面と向かって、今、君に対しているように」そして、アベルフォースはハリーを見下ろした。やせて、怒って、年上の兄に相対している十代の少年を、想像するのはたやすかった。「俺は兄に言った。計画は、今あきらめた方がいい。兄さんの計画で、兄さんが、支持者を駆りたてようとして、巧みな演説をするために、どこに行くことになっていようとも、妹を移動させることはできない、そんな状態じゃない。いっしょに連れていくことはできないとね。あいつは、それが気に入らなかった」とアベルフォースが言った。その目が、眼鏡のレンズの上に暖炉の火の光が当たり、しばらくのあいだ、また白く輝いて見えなくなって、ふさがれた。「グリンデルワルドは、それがまったく気に入らなかった。彼は怒った。俺が、彼と優秀な兄の邪魔をしようとするとは、なんと馬鹿な子だと言った……彼らが世界を変えて、魔法使いを隠れ場所から出して、マグルに自分たちの居場所を教えてやれば、かわいそうな妹が、もう隠れなくてよくなるのが分からないのか?
「言い争いになった……俺は杖を引きだし、あいつも自分の杖を出した、で、兄の親友に拷問の呪文をかけられた――アルバスは、あいつを止めようとした、それから三人が決闘になった、閃光とドンという音が、妹に作用した。妹は、それに耐えられなかった――
致命的な傷を負ったように、アベルフォースの顔から血の気がひいた。
「――妹は助けたかったのだと、思う。だが、何をやっているのか、実は分かっていなかった。誰がやったのか、俺には分からないが、俺たちの誰かがやったのかもしれない――で妹は死んだ」
彼の声は、最後の言葉で途切れ、近くの椅子に座りこんだ。ハーマイオニーの顔は涙に濡れ、ロンは、アベルフォースと同じくらい青白かった。ハリーは、反感以外の何も感じなかった。聞かなければよかったと思った。心から、それを洗い流したいと思った。
「とても……とてもお気の毒なことです」ハーマイオニーが、囁いた。
「行ってしまった」とアベルフォースが、しゃがれ声で言った。「行ってしまった、永久に」
彼は、袖で鼻を拭き、咳払いをした。
「もちろん、グリンデルワルドは逃げだした。自分の国で、ちっとばかり前科があったんで、アリアナも、それに加えたくはなかったんだ。で、アルバスは自由になった、だろ? 妹の重荷から自由になり、自由になって、偉大な魔法使いに――」
「彼は、決して自由になってなどいなかった」とハリーが言った。
「何だって?」アベルフォースが言った。
「決して」とハリーが言った。「あなたの兄さんが亡くなった夜、彼は、心が正常でなくなるような毒薬を飲んだ。彼は叫びはじめて、そこにいない誰かに嘆願していた。『彼らを傷つけないでくれ、どうか……代わりに私を傷つけてくれ』」
ロンとハーマイオニーは、ハリーを見つめていた。彼が、湖の島でおきたことの細かいところを話したことはなかった。彼とダンブルドアがホグワーツに戻った後、起こった出来事は、完璧に繰り返されたのだが。
「彼は、あなたとグリンデルワルドといた、あそこに戻ったんだと思う。そうだと思う」とハリーは、ダンブルドアが泣き声で嘆願するのを思いだしながら、言った。「彼は、グリンデルワルドが、あなたとアリアナを傷つけるのを見ていると思っていたんだ……それは、彼にとって拷問だった。もし、あなたが、あのときの彼を見たら、彼が自由になったとは言わなかったはずだ」
アベルフォースは、我を忘れて、自分の節くれだった、血管の浮きでた両手をじっと見つめているようだった。長い間たってから、彼は言った。「君は、どうして確信できるのだ、ポッター、兄が、君よりも、『より大きな公益』の方に興味を抱いていなかったと? 君が、俺の妹のように、見捨ててもいいものではないと思っていたと、どうして確信できるのだ?」
氷の破片が、ハリーの心を貫くような気がした。
「私はそうは思わない。ダンブルドアは、ハリーを愛していたわ」とハーマイオニーが言った。
「それなら、なぜ彼に隠れるように言わなかったのだ?」とアベルフォースが言いかえした。「なぜ言わなかったのだ、気をつけろ、生き延びる方法はこれだと?」
「なぜなら」とハリーが、ハーマイオニーが答える前に言った。「時には、自分の身の安全以上のことを考えなくてはならないからだ! ときには、より大きな公益のことを考えなくてはならないからだ! これが戦争だ!」
「君は、十七才の少年だ!」
「僕は成人した。たとえ、あなたが諦めても、僕は戦いつづける!」
「俺が諦めたと、誰が言った!」
「『不死鳥の騎士団は、やられた』」ハリーがくり返した。「『例のあの人の勝ちだ、終わりだ。そうでないふりをしているやつは、自分をごまかしているんだ』」「それが、気に入ったとは言わないが、真実だ!」
「いや、そうじゃない」とハリーが言った。「あなたの兄さんは、例のあの人をやっつける方法を知っていて、それを僕に伝えた。僕は、成功するまで進みつづける――でなければ、死ぬまで。これが、どんなふうに終わるか僕が知らないとは思わないでほしい。僕は、何年も前から知っているのだから」
ハリーは、アベルフォースが、あざけるか言い争うかするのを待ったが、彼は、どちらもしないで顔をしかめていただけだった。
「僕たちは、ホグワーツに入らなくてはならない」ハリーが、また言った。「もし、あなたが助けてくれないなら、夜明けまで待って、あなたを平和な状態に残して、僕たちで道を探す。もし、助けてくれるなら――あのう、今が、教えてくれるのに、ちょうどいいときじゃないかと」
アベルフォースは、椅子の中でじっとしたまま、驚くほど兄にそっくりな目でハリーを見つめていた。とうとう、彼は咳払いをして、立ちあがり、小さなテーブルのまわりを歩いて、アリアナの肖像画に近づいた。
「お前は、どうするか分かっているな」彼は言った。
彼女は微笑み、ふりむいて、ふつう肖像画の人たちがするように、額縁の両側から出ていくのではなく、彼女の後ろに描かれている長いトンネルのようなものに沿って歩いていった。彼らは、彼女の細い姿が、だんだん小さくなって、ついに暗闇に飲みこまれるのを見守っていた。
「あのう――それで?」とロンが言いはじめた。
「今となっては、ただ一つの道しかない」とアベルフォースが言った。「昔の秘密の通路はすべて両側からふさがれている。境の塀にはすべて、ディメンターがいる。俺の情報源の話では、学校内は規則的に見回りされている。あそこが、これほど厳重に守られたことはない。いったん校内に入ったとして、どうやって何ができるというのだ。スネイプが管理し、カロウたちがその補佐だ……うーむ、それが、君の前途だ、そうだな? 君は死ぬ覚悟があると言ったな」
「でも何が……?」とハーマイオニーが顔をしかめて、アリアナの肖像画を見つめた。
描かれたトンネルの向こうの端に、また小さな白い点があらわれて、アリアナが、彼らの方に戻ってきて、近づくにつれ、どんどん大きくなってきた。だが、今度は、彼女といっしょに他の誰かがいた。その人は、彼女より背が高く、脚をひきずっていて、興奮しているようだった。ハリーが前に見たより、髪がのびて、顔に、長くて深い切り傷がいくつかあり、服は裂けて破れていた。二人の姿は、どんどん大きくなって、ついに二人の頭と肩で肖像画がいっぱいになった。それから、画全体が、小さな扉のように前方にさっと動き、本物のトンネルへの入り口があらわれた。そして、そこから、髪がのびすぎ、顔には切り傷、ローブが裂けている本物のネビル・ロングボトムが、這い出してきた。そして、喜びの叫び声を上げながら、暖炉の上から飛びおりて叫んだ。「君が来ると、僕には分かっていた! 分かっていたよ、ハリー!」
第29章 消えたダイアデム
The Lost Diadem
「ネビル――いったい――どうやって――?」
けれど、ネビルはロンとハーマイオニーを見つけ、喜びの叫び声をあげて、二人も抱きしめた。ハリーが、ネビルを長く見れば見るほど、その様子がひどいのが分かった。片方の目のまわりは黄色と紫色にふくれて、顔には、丸ノミで傷つけれた跡があり、全体的なだらしない雰囲気から、荒れた暮らしをしているのが想像された。けれど打ち傷だらけの顔は、喜びに輝き、ハーマイオニーを放すと、また言った。「君たちが来ると分かっていたよ! シェーマスに、時間の問題だと言いつづけてたんだ!」
「ネビル、どうしたんだ?」
「何? これか?」ネビルは、頭の一ふりで、自分の傷を片づけた。「何でもないよ。シェーマスの方がもっとひどい。今に分かるさ。それじゃ、行くんだろ? ああ」彼はアベルフォースの方を向いた。「アブ、もっとたくさんの人が、この道に来るかもしれない」
「もっとたくさん?」とアベルフォースが、険悪な声で言った。「もっとたくさんとは、どういう意味だ、ロングボトム? 村中に夜間外出禁止令が出て『ギャーギャーわめく呪文』がかかっているんだぞ」
「分かってる、だから、彼らは、直接、この酒場へ姿あらわししてくるよ」とネビルが言った。「彼らが、ここへ着いたら、通路へ送りこんでくれる? どうもありがと」
ネビルは、ハーマイオニーに手をさしだして、暖炉の上に上ってトンネルに入るのを手伝った。ロンが後に、それからネビルが続いた。ハリーは、アベルフォースに話しかけた。
「お礼の言いようがありません。二度も、僕たちの命を助けてくれて」
「それじゃ、気を付けな」とアベルフォースが、ぶっきらぼうに言った。「三度目は、助けられんからな」
ハリーは暖炉の上によじ登り、アリアナの肖像画の後ろの穴に入った。その反対側に滑らかな石段があった。その通路は、何年も前に造られたようだった。真鍮のランプが壁から下がり、土の床は、すり減って滑らかだった。彼らが歩くと、影が、壁の上に扇形に波うって映った。
彼らが出発したとき、「これは、どのくらい前からあるんだろう?」とロンが尋ねた。「秘密の地図になかっただろ、ハリー? 学校を出入りするには、七つの通路しかないと思ってたんだけど?」
「今年度が始まる前に、それは全部塞がれた」とネビルが言った。「もう、そのどれからも出入りできる見こみはない。入り口に呪文がかかっていて、デス・イーターとディメンターが出口に待ってるからね」彼は、にっこり笑って後ろむきに歩きはじめ、ハリーたちの話を熱心に聞いていた。「そんなの気にするなって……ほんとうかい? 君たちがグリンゴッツに押し入ったのは? ドラゴンに乗って逃げたんだって? どこででも、誰もが話してるよ。テリー・ブートが、そのことを夕ご飯のとき大広間で叫んだので、カロウにぶちのめされたよ!」
「うん、ほんとうだ」とハリーが言った。
ネビルが大喜びで笑った。
「ドラゴンをどうしたんだい?」
「荒れ野に放してやった」とロンが言った。「ハーマイオニーは、ペットとして飼うのに賛成だったけど――」
「大げさに言わないで、ロン」
「でも、君は何をしてたんだ? ただ逃げていただけだという噂だった、ハリー、でも僕は、そうは思わない。君は何か企んでるんだと思う」
「その通りだ」とハリーが言った。「でもホグワーツについて話してくれ、ネビル。僕たち、何も聞いてないんだ」
「それは……ええと、もうホグワーツみたいじゃないんだ」とネビルが言ったが、話しているうちに、微笑みが顔から消えていった。「カロウたちのこと、聞いたことあるかい?」
「ここで教えてるデス・イーター二人?」
「教える以上のことをやるんだ」とネビルが言った。「彼らは、規律全部を仕切ってる。罰が好きなんだ、カロウたちはね」
「アンブリッジみたいに?」
「いやあ、比べたら、彼女がおとなしく見えるよ。もし僕たちが悪いことをしたら、他の先生たちは、カロウたちに任せることになってる。けど、先生たちは、避けられるときは、そうしない。先生たちも、僕たちと同じくらい、彼らを嫌ってるのが分かる。
「アミカスってやつは、前に闇の魔術に対する防衛術だったものを教えてるんだけど、ただね、今じゃ、闇の魔法そのものなんだ。僕たちは、居残りの罰をくらった生徒に、拷問の呪文をかけることになってるんだよ――」
「何だって?」
ハリー、ロン、ハーマイオニーの声がそろって、通路に響きわたった。
「うん」とネビルが言った。「そういうわけで、これをくらったんだ」彼は、頬の特別深い切り傷を指さした。「僕は、そうするのを拒否したからね。けど、それに熱中してる生徒もいる。クラッブとゴイルなんて大好きだ。彼らが、これまで何かで一番になったの初めてだと思うよ。
「アレクトは、アミカスの妹だけど、マグル学を教えてる。それは全員必修だ。マグルが、いかに動物のようで愚かで汚いか、いかに邪悪なことをして魔法使いを隠れさせるような状態に追いやったか、いかにして自然な秩序が再構築されようとしているかを、彼女が説明するのを、僕たちは、みんな聞かなくちゃならない。僕が、これをくらったわけは」彼は、顔の別の切り傷を指さした。「彼女と兄に、どのくらいマグルの血を手に入れたが聞いたんだ」
「すごいや、ネビル」とロンが言った。「生意気な口をきくのに、ふさわしい場所と時があるんだな」
「君は、彼女の話を聞いてなかった」とネビルが言った。「君だって、それに耐えられなかったと思うよ。つまり、人々が敢然と立ちむかうときに、そういうのは役に立つ。みんなに希望を与える。君が、昔、そうやったときに、僕は、それに気づいたんだ、ハリー」
「けど、彼らは、君をナイフ研ぎに使った」とロンが、少しひるみながら言った。彼らがランプのところを通ったとき、ネビルの傷が、もっと大きく際だって見えたのだ。
ネビルは肩を竦めた。
「そんなの問題じゃない。彼らは、純血をそんなにたくさん流したくはないから、僕たちがしゃべりすぎると、少し拷問するけど、ほんとに殺しはしないさ」
ハリーは、ネビルが彼らに言ったことや、それを言ったときの感情を出さない口調より、もっと悪い状態はないだろうと思った。
「ほんとうに危険な立場なのは、学校の外の友だちや身内が、厄介ごとをおこしている生徒だ。彼らは人質に取られる。ゼノ・ラブグッド老は、クィブラー誌でちょっと言いすぎたんで、ルナは、クリスマス休暇で帰省する列車の中で連れ去られた」
「ネビル、彼女は大丈夫だ。会ったから――」
「うん、知ってる、彼女が何とか知らせをよこしてくれた」
ネビルは、ポケットから金貨を取りだした。それが、「ダンブルドアの軍隊」が互いに知らせを送るのに使った、にせ物のガレオン金貨だと、ハリーはすぐ分かった。
「これは、すごかったよ」とネビルが、ハーマイオニーににっこり笑いかけた。「カロウたちは、どうやって僕たちが連絡をとってるのか見破れなかった。彼らは怒りくるった。僕たちは、夜こっそり抜けだして壁に落書きしたものだよ。『ダンブルドアの軍隊、まだ募集中』みたいなことをね。スネイプは、ひどく嫌ってたけど」
「『したものだ』って?」と、過去形に気づいたハリーが言った。
「うーん、時がたつにつれて、だんだん難しくなってきてね」とネビルが言った。「クリスマスにルナがいなくなって、イースターの後、ジニーが戻ってこなかった。僕たち三人が、リーダーみたいなものだったんだ。僕が、その多くの黒幕だったのを、カロウたちは知ってるようだ。で、彼らは僕に手をのばしはじめた。それから、マイケル・コーナーが、鎖でつながれた一年生を解放しにいって、捕まって、とてもひどく拷問された。それで、みんな、すっかり恐がってしまった」
「まさか」とロンがつぶやくように言った。通路は、上り坂になりはじめた。
「ああ、うーん、マイケルのようにやってくれと、みんなに頼むわけにはいかなかったんで、そういう人目をひくことをやるのは止めにした。でも、ちょうど二週間前までは、こっそりやって、まだ戦ってきた。そのとき、僕を止めるには、たった一つの方法しかないと、彼らが決めたんだと思う、で、彼らは、ばあちゃんを襲いにいった」
「彼らは、何だって?」とハリー、ロン、ハーマイオニーが、いっしょに言った。
「うん」とネビルが、少し息をきらせながら言った。通路が、とても急な上り坂になっていたのだ。「あのね、彼らが考えることが分かるだろ。親や身内をおとなしくさせるために子供を誘拐するのは、とても効果があった。あべこべに、僕は、彼らがそうするのは時間の問題だと思ってた。問題はね」ネビルが彼らに顔を向けた。ハリーがびっくりしたことには、彼はにやにや笑っていた。「彼らには、ばあちゃんは、ちっとばかり手強かったんだ。一人暮らしの小柄な老魔女。特に力のあるやつをやる必要はないと考えたに違いない。とにかく」ネビルが笑った。「ドーリッシュは、まだ聖マンゴ病院にいるし、ばあちゃんは逃走中だ。僕に手紙を送ってくれた」ネビルは、ローブの胸ポケットをたたいた。「お前を誇りに思う、お前は両親の息子だ、がんばれって書いてあった」
「かっこいい」とロンが言った。
「うん」とネビルがうれしそうに言った。「一つだけ問題は、彼らが僕に言うことを聞かせられないと悟って、結局ホグワーツは僕がいなくてもやっていけると決めることだ。僕を殺そうとするか、アズカバンに送ろうとするか、どっちにしても、僕が、姿を消したほうがいい時期だと思ってたんだ」
「でも」とロンが、まったく混乱したように言った。「僕たちは――僕たちは、まっすぐホグワーツに戻ろうとしてるんじゃないのか?」
「もちろん」とネビルが言った。「今に分かるよ。さあ着いた」
角を曲ると、その先で通路が終わっていて、また短い階段があって、アリアナの肖像画の後ろに隠されているのと同じような扉に続いていた。ネビルが、それを押しあけて、上ってくぐった。ハリーが後に続くと、ネビルが見えない人々に呼びかけるのが聞こえた。「誰が来たか見なよ! 僕が言っただろ?」
ハリーが、通路の向こうの部屋の中にあらわれると、金切り声や叫び声が上がった。
「ハリー!」
「ポッターだ、ポッターだ!」
「ロン!」
「ハーマイオニー!」
色とりどりの壁掛けや、ランプや、たくさんの顔が入りまじって、ハリーに見えた。次の瞬間、彼と、ロン、ハーマイオニーは、二十人以上と思われる人たちに取りかこまれ、抱きしめられ、背中をたたかれ、髪をくしゃくしゃにされ、握手をされた。まるでクィティッチの決勝戦に勝ったかのようだった。
「よし、よし、静まれ!」ネビルが呼びかけ、みんなが引きさがったので、ハリーは、まわりの状況を理解することができた。
その部屋がどこか全然分からなかった。とても大きくて、どちらかというと特別ぜいたくな樹の上の家か、巨大な船室の内部のようだった。
いろいろな色のハンモックが天井や、張りだし席から並べて吊るされていて、そのまわりを黒っぽい板で窓のない壁が取りまいていて、壁には鮮やかな壁掛けがたくさんかかっていた。赤色の地に飾られた金色のグリフィンドールのライオン、黄色の地におかれたハッフルパフの黒いアナグマ、青地の上のレイブンクローのブロンズ色のワシが、ハリーに見えた。スリザリンの銀色と緑色だけがなかった。いっぱい詰まった本箱があり、ホウキが二、三本壁に立てかけてあり、隅には大きな木の箱に入ったラジオがあった。
「ここは、どこ?」
「『必要に応じて出てくる部屋』だよ、もちろん!」とネビルが言った。並はずれてすごいだろ? 僕は、カロウたちに追いかけてられていて、隠れ場所を探すには、ただ一つのチャンスしかないと分かってた。ここが、なんとか扉を通って、僕が見つけたところなんだ! ええと、僕が着いたときは、このとおりじゃなかった。もっと小さくて、ハンモックが一つと、グリフィンドールの壁掛けだけしかなかった。けど、どんどんDAのメンバーが到着したら、どんどん広がったんだ」
「カロウたちは入れないのか?」とハリーが、扉はどこかと見まわしながら言った。
「入れないよ」とシェーマス・フィネガンが言ったが、口をきくまで、ハリーには誰か分からなかった。顔が、傷だらけでふくらんでいたからだ。「ここは、すてきな隠れ場所だ。誰か一人がいるかぎり、扉が開かないから、彼らは近づけない。ネビルが、この部屋を手に入れたんだから、みんな彼のおかげさ。望むことを正確に願わなくちゃいけない――『カロウの支持者は誰も入れないように願います』みたいにね――そしたら、そのとおりになるんだ! 通風口を閉じておくことだけ忘れなきゃいい! ネビルはすごいやつだよ!」
「そりゃ、言いすぎだ、ほんとにね」とネビルが控えめに言った。「僕は、一日半くらい、ここにいて、どんどんお腹がすいてきたんで、何か食べものがほしいと願った。そしたらホグズ・ヘッドへの通路が開いたんだ。僕は、そこを通っていって、アベルフォースに会った。彼が、僕たちに食べ物を調達してくれるんだ。どういうわけか、それは部屋がしてくれないことの一つだから」
「うん、ええと、食べ物は、ガンプの基本的変身法則における五つの主要な例外の一つなんだ」とロンが言ったので、みんなが驚いた。
「それで、僕たちは、ここに二週間くらい隠れている」とシェーマスが言った。「ハンモックが必要になるたびに、出てくる。とてもいい浴室までポンと出てきたんだ、女の子が来はじめて――」
「――すごく洗いたいと願ったらね、そうよ」とラベンダー・ブラウンが補足したが、そのときまで、彼女がいることにハリーは気づかなかった。彼が、きちんと見まわしてみると、見慣れた顔が、たくさんあった。双子のパティル姉妹が、二人ともいた。テリー・ブート、アーニー・マクミラン、アントニー・ゴールドスタイン、マイケル・コーナーがいた。
「でも、君たちが何を企んでるのか話してくれ」とアーニーが言った。「すごくたくさん噂があった。『ポッター番』で君たちの動きを追っていようとしていたんだ」彼はラジオを指した。「グリンゴッツに押し入ったりは、しなかったんだろ?」
「したんだよ!」とネビルが言った。「ドラゴンのも、ほんとうだ!」
拍手したり、叫び声をあげる者もいた。ロンがお辞儀をした。
「君たちは何の跡を追っているんだい?」とシェーマスが熱心に聞いた。
三人の誰かが、その質問を受けながす前に、ハリーは、稲妻形の傷跡が、焼けつくようにひどく痛むのを感じた。急いで、みんなの興味深げな、うれしそうな顔に背中を向けると、「必要に応じて出てくる部屋」が消えた。彼は、石造りの小屋の廃墟に立っていた。足元の腐った床板が、はがされ、中から金の箱が掘りだされて、穴の横に、蓋が開いて、空っぽで置かれていた。ヴォルデモートの憤怒の叫びが、頭の中に響いていた。
ハリーは、とても努力をして、ヴォルデモートの心から離れて、戻って「必要に応じて出てくる部屋」の中によろめきながら立っていた。顔から汗が吹きだし、ロンに支えあげられた。
「大丈夫かい、ハリー?」ネビルが言っていた。「座りたい? 疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫」とハリーが言った。ロンとハーマイオニーを見て、無言で、ヴォルデモートがホークラックスの一つがないのを発見したところだと伝えようとした。時はどんどん過ぎ去っていた。もし、ヴォルデモートが次にホグワーツを訪れることを選べば、自分たちはチャンスを失ってしまう。
「進みつづけなくちゃならない」彼は言った。二人の表情から、二人が理解したことが分かった。
「それで、これから何をするのかい、ハリー?」とシェーマスが尋ねた。「どんな計画?」
「計画?」とハリーが、くりかえしたが、ヴォルデモートの激怒に、また屈しないために、ありったけの意志の力を使っていた。傷跡はまだ焼けるように痛んだ。「ええと、僕たちは、――ロンとハーマイオニーと僕は――やらなくちゃならないことがある、で、それから、僕たちは、ここを出ていく」
もう誰も笑わなかったし、叫び声もあげなかった。ネビルが混乱したように言った。
「『出ていく』ってどういう意味かい?」
「僕たちは、ここに、ずっといるために戻ってきたんじゃない」とハリーが傷跡をこすって、痛みを和らげようとしながら言った。「やらなくちゃならない重要なことがあるんだ――」
「それは何だ?」
「僕――僕は言えない」
今度は、不満のつぶやきが、さざ波のようにおこった。ネビルは眉をしかめた。
「なぜ、僕たちに言えないんだ? それは、例のあの人と戦うことに関係あるんだろ?」
「ええと、そうだ――」
「それなら、僕たちが手伝うよ」
ダンブルドアの軍隊の他のメンバーも頷いた。ある者は熱心に、ある者は厳粛に。数人が――すぐに行動に移ろうという意志をあらわして椅子から立ちあがった。
「君たちは分かってない」ハリーはこの言葉を数時間前に、とてもたくさん言ったような気がした。
「僕たちは――僕たちは言えない。僕たちは、やらなきゃいけない――僕たちだけで」
「なぜ?」とネビルが尋ねた。
「なぜって……」ハリーは、見つかっていないホークラックスを捜しはじめたい、少なくとも、どこから捜したらいいか、ロンとハーマイオニーと三人だけで話しあいたいと、いらいらしていたので考えをまとめることができなかった。傷跡が、まだ焼けつくように痛んだ。「ダンブルドアが僕たち三人に仕事を遺した」ハリーは注意しながら言った。「それは、話してはいけないことになっている――つまり、彼は、僕たち、僕たち三人だけで、それをするのを望んだんだ」
「僕たちは、彼の軍隊だ」とネビルが言った。「ダンブルドアの軍隊だ。僕たちは、みんないっしょにやってきた。僕たちは、やりつづけてる。君たち三人が、自分たちの仕事でいない間も――」
「これは、ピクニックじゃないんだよ」とロンが言った。
「そんなこと言ってないよ。けど、なぜ僕たちを信用できないのか分からない。この部屋の全員が戦って、カロウたちに捕まえられかけて、ここに追われてきた。ここにいる全員が、ダンブルドアに忠実だということを証明したんだ――つまり君に忠実だということを」
「あのね」ハリーが言いはじめた。、何を言うつもりか分からないままだったが、それはどうでもよかった。そのとき、ちょうど彼の後ろでトンネルに続く扉が開いた。
「知らせ、受けとったよ、ネビル! こんにちは、三人組。君たち、ここにいると思ったよ!」
それは、ルナとディーンだった。シェーマスが喜んで大きな叫び声をあげ、親友に走りよって抱きしめた。
「あら、みんな!」とルナがうれしそうに言った。「まあ、戻ってきて、とってもうれしいわ!」
「ルナ」とハリーが気を逸らされて言った。「君、ここで何をするのかい? どうやって――」
「僕が、彼女を呼び寄せたんだ」と、ネビルが、にせのガレオン金貨を持ちあげて言った。「もし君が現れたら知らせるって、ルナとジニーに約束したんだ。僕たちはみんな、君が戻ってくれば、それは革命を意味すると考えてきた。スネイプとカロウたちを打倒できるとね」
「もちろん、そういう意味よ」とルナが陽気に言った。「そうでしょ、ハリー? 戦って、彼らをホグワーツから追いだすの?」
「聞いてくれ」ハリーが、だんだんパニック状態になりながら言った。「ごめん、僕たちが戻ってきたのは、そういうわけじゃない。僕たちは、やらなくちゃならないことがあって、それから――」
「君たちは、僕たちを、このごたごたの中に放っとくのかい?」とマイケル・コーナーが強い口調で言った。
「違う!」とロンが言った。「僕たちがやってることは、結局はみんなのためになるんだ。すべて例のあの人をやっかい払いすることに関係してるんだから――」
「だったら、手伝わせろ!」とネビルが怒って言った。「僕たちだって、加わりたい!」
後ろで、また物音がしたので、ハリーは、振り向いたが、心が落ちこむような気がした。ジニーが、壁の穴を通ってのぼってくるところだった。そのすぐ後にフレッド、ジョージ、リー・ジョーダンが続いた。ジニーは、ハリーに輝くようにほほえみかけた。どんなに彼女が美しいか、ハリーは忘れていた、というか完全に気づいたことがなかったのだ。けれど、彼女に会って、こんなに嬉しくないことはなかった。
「アベルフォースが、ちょっと怒りっぽくなってる」とフレッドが、挨拶の叫び声に手をあげて答えながら言った。「切符を欲しがってるよ。そうすれば、あの酒場が、鉄道の駅になるからな」
ハリーの口があんぐり開いた。リー・ジョーダンのすぐ後から、元カノのチョウ・チャンがやってきて、ほほえみかけた。
「知らせを受けとったわ」彼女は言いながら、昔のガレオン金貨を、さしあげた。そして歩いていって、マイケル・コーナーの横に座った。
「で、どんな計画だ、ハリー?」とジョージが言った。
「ないよ」とハリーが、突然みんなが現れたので、まだ、まごついて、すべてを把握できないで言った。その一方、傷跡はまだ、とてもひどく痛みつづけていた。
「やりながら、でっちあげてくっわけ? 僕のお気に入りのやり方だ」とフレッドが言った。
「君は、こんなこと、やめなくちゃだめだ!」ハリーがネビルに言った。「何のために彼らをみんな呼び戻したんだ? 正気じゃないよ――」
「僕たちは戦うんだろ?」とディーンが、にせのガレオン金貨を取りだしながら言った。「ハリーが戻った、戦うぞ!という知らせだった。 でも、僕は杖が要るんだけどな、ー」
「杖がないのか?」とシェーマスが言いはじめた。
ロンが、突然ハリーの方を向いた。
「どうして彼らは手伝えないんだ?」
「何だって?」
「彼らは手伝えるよ」ロンは、二人のあいだに立っていたハーマイオニーの他には誰にも聞えないように声を低くして言った。「僕たちは、あれがどこにあるか分からない。すばやく見つけなくちゃならない。彼らに、あれがホークラックスだと言う必要はないんだ」
ハリーは、ロンからハーマイオニーへと順に見た。彼女は小声で言った。「ロンの言うとおりだと思うわ。私たち、何を探したらいいかすら分からないもの。彼らの助けが要るわ」そしてハリーが、どうかなという顔をしているのを見て言った。「何もかも一人でやる必要はないわ、ハリー」
ハリーはすばやく考えた。傷跡が、まだちくちく痛んで、頭が割れそうだった。ダンブルドアが、ホークラックスについては、ロンとハーマイオニー以外の誰にも言うなと警告していた。「秘密と嘘、それで、我々は育った、そしてアルバスは……秘密にかけては、天性の素質があった……」僕は、ダンブルドアに変ったのか、秘密を胸にしまいこんで、信じることを恐れるなんて? でもダンブルドアは、スネイプを信用した。そして、どうなった? いちばん高い塔のてっぺんで殺された……
「分かった」彼は、そっと二人に言った。「よし」そして、部屋全体に呼びかけた。すべての物音が、やんだ。フレッドとジョージは近くの者たちにジョークを連発していたが、さっと黙った。全員が、油断なく興奮していた。
「僕たちが、見つけなくてはならないものがある」ハリーが言った。「それは――それは、例のあの人を倒すのに必要なものだ。それは、ここホグワーツにあるが、どこにあるのか分からない。レイブンクローの持ち物だったかもしれない。誰か、そんな品物のことを聞いたことがない? 例えば、彼女の印の鷲がついた品物を見つけたことはない?」
ハリーは、期待をこめてレイブンクローの小さな集団、パドマ、マイケル、テリー、チョウを見た。けれど、答えたのは、ジニーの椅子のひじかけに座っているルナだった。
「ええと、失われたダイアデムがあるわ。そのこと話したでしょ、覚えてる、ハリー? パパが複製品を作ろうとしてるレイブンクローの失われたダイアデムのことよ?」
「うん、でも、失われたダイアデムは」とマイケル・コーナーが、目をぐるっと回して言った。「失われたんだよ、ルナ。そこが大事な点かな」
「いつ頃、失われたんだ?」とハリーが尋ねた。
「何百年も前だと聞いたわ」とチョウが言ったので、ハリーの心が沈んだ。「フリットウィック先生の話では、ダイアデムは、レイブンクロー自身といっしょに消えたそうよ。人々が探したけど」彼女は、レイブンクローの仲間に訴えかけた。「誰もその跡をたどれなかったのよね?」
彼らは、みんなうなずいて同意した。
「ごめん、ダイアデムってどんなもの?」とロンが尋ねた。
「王冠みたいなもの」とテリー・ブートが言った。「レイブンクローのは、魔法の特性を持っていて、かぶった人の知恵を増やしたそうだ」
「そうよ、パパのラックスパートは吸いあげるの――」
けれどハリーはルナの話を遮った。
「で、君たちの誰も、そんなようなものを見たことがないのかい?」
彼らは、またうなずいて同意した。ハリーは、ロンとハーマイオニーを見た。自分の失望が、二人の顔に同じように表れているのが分かった。これほど長いあいだ、失われていて明らかに跡が辿れない品物では、城にあるホークラックスの候補としては有望ではなかった……けれど、彼が新しい質問を組み立てる前に、チョウがまた言った。
「もし、ダイアデムがどんなものか見たかったら、私たちの談話室に行って見せてあげるけど、ハリー? レイブンクローの像が、かぶっているから」
ハリーの傷跡がまた焼けつくように痛んだ。一瞬、彼の前で「必要に応じて出てくる部屋」がゆれて、代わりに、彼の下に黒っぽい大地が舞っているのが見え、巨大な蛇が肩に巻きついているのが分かった。ヴォルデモート卿がまた空を飛んでいたが、地下の湖へか、この城へか、どちらへ向かうのかは分からなかった。どちらにせよ、ほとんど時間は残っていなかった。
「彼は移動している」ハリーは、そっとロンとハーマイオニーに言って、チョウをちらっと見て、それからまた二人を見た。「ねえ、これはたいした手がかりではないと思うけど、その像を、見にいってこようと思う。少なくともダイアデムが、どんなものか分かるから。ここで待ってて――ほら――もう一方を――保管しておいて」
チョウが立ちあがったが、ジニーが、かなり激しい調子で言った。「いいえ、ルナがハリーを連れてくわ、いいでしょ、ルナ?」
「まあ、いいわ、喜んで」とルナが嬉しそうに言った。チョウは、がっかりしたように、また座った。
「どうやって外に出るんだ?」ハリーがネビルに聞いた。
「こっちだよ」彼は、ハリーとルナを隅に連れて行った。そこには小さな食器棚の扉が開いていて、その奥が急な階段になっていた。
「それは毎日、違うところに出るから、ぜったい見つからないんだ」彼は言った。「ただ一つ困ったことは、出たら最後どこに着くのかはっきり分からないことさ。気をつけろ、ハリー、彼らが、夜はいつも見回りしてるから」
「大丈夫」とハリーが言った。「また後で」
彼とルナは、階段を急いで上った。それは長くて、たいまつに照らされていて、思いがけないところで何度も曲った。とうとう、彼らは固い壁のようにみえる場所に着いた。
「この下に入って」ハリーはルナに言って、透明マントを引きだし、二人の上にさっとかけた。それから壁を少し押した。
ハリーが触ると、壁は溶け去り、彼らは外に滑るように出た。ちらっと後ろを見ると、壁は、もう、ふさがっていて、彼らは暗い廊下に立っていた。ハリーは、ルナを暗い影の中に引っぱりこみ、首のまわりの袋を手探りして、盗人たちの地図を取りだした。それを、鼻にくっつけるほど近づけて、探し、やっと彼とルナの点を見つけた。
「僕たちは、六階にいる」彼はささやいて、廊下の向こうをフィルチが去っていくのをじっと見ていた。「さあ、こっちだ」
彼らは、そっと進んだ。
ハリーは、これまで何度も夜の城をうろつき回った。けれど、心臓が、こんなに速く打ったことはなく、目的地に行くのに、こんなに安全な道を通ろうとしたこともなかった。月の光に照らされた四角い床を通り、甲冑姿のそばを通ると、彼らがそっと歩く足音に、かぶとがきしんだ。それから、二人は、何が潜んでいるか分からない角をいくつも曲り、明かりをつけられるところでは、盗人たちの地図を調べながら歩いていった。二度、幽霊に注意を引かれないように立ちどまって、彼らを先に行かせた。いつ障害物に出くわすかもしれないと思っていたが、最悪の恐れは、ピーブスだった。それで、ポルターガイストが近づいてくる最初の隠しきれないサインを聞きとろうとして、一足ごとに耳をそばだてていた。
「こっちよ、ハリー」とルナがささやき、袖をぐいと引いて、ラセン階段の方に引っぱっていった。
彼らは、狭い階段を円形に上り続けて目がくらむようだった。ハリーは、こんなに高く上ったことがなかった。やっと扉のところに着くと、取っ手も鍵穴もなかった。古びた木が平らに広がっている以外何もなく、ワシの形のブロンズの戸叩きがついていた。
ルナが青白い手をのばすと、それは、腕や体から離れて空中に気味悪く浮かんでいるように見えた。彼女は一度ノックした。静かな中で、その音が大砲の音のように聞こえた。すぐにワシのくちばしが開いたが、鳥の鳴声の代りに、柔らかな音楽的な声がした。「フェニックスか炎か、どちらが先に来たか?」
「うーん……どう思う、ハリー?」とルナが、考えこみながら言った。
「何? これ、ただのパスワードじゃないのか?」
「あら、ちがうわ、質問に答えなくちゃいけないのよ」とルナが言った。
「もし、まちがったら?」
「ええと、誰か正しい答えを言う人が来るまで待たなくちゃ」とルナが言った。「そうやって学ぶのよ、分かった?」
「うん……困ったことには、僕たち、誰かを待ってる余裕はないんだ、ルナ」
「ええ、あなたの言う意味、分かるわ」とルナが真面目に言った。「ええと、それじゃ、答えは、円には始まりがない、だと思うわ」
「よく考えました」と声が言い、扉がさっと開いた。
誰もいないレイブンクローの談話室は、広い円形の部屋で、ハリーが行ったことがあるホグワーツのどこの部屋より風とおしがよかった。優美な弓形の窓が、壁のところどころに開いていて、青とブロンズ色の絹のカーテンが下がっていた。昼間、レイブンクロー生は、まわりを取りまく山々の、すばらしい眺めを見ることができるだろう。天井はドーム形で、星が描かれていて、黒っぽい青色の絨毯に、よく合っていた。テーブルと椅子と本箱があり、扉の反対側のすきまに、白い大理石の背の高い像が立っていた。
ハリーは、ルナの家で見た胸像から、それがロウィーナ・レイブンクローだと分かった。その像のそばには扉があって、上の寮へ続いているのだろうと思われた。彼は、大理石の女性のところに歩いていった。彼女は、美しいが、少し怖さを感じさせる顔に、半分からかうようなほほえみを浮かべて彼を見おろしているようだった。繊細にみえる頭飾りが、その頭の上の大理石に再現されていた。それは、フラーが結婚式にかぶっていたティアラに似ていないこともなかったが、その上には、小さな字で、言葉が刻んであった。ハリーは、マントから出て、レイブンクローの台座の上にのぼり、それを読んだ。
「『測りきれない知性は、人間の最大の宝』」
「それは、あんたを文なしで愚かにするよ」とメンドリが鳴くような声がした。
ハリーは、さっとふりむき、台座から滑りおりて、床に着地した。アレクト・カロウの前かがみの姿が、彼の前に立っていた。そして、ハリーが杖を上げたちょうどそのとき、彼女が、短くて太い人差し指を、前腕の、骸骨と蛇の焼き印に押しつけた。
第30章 セブルス・スネイプの失脚
The Sacking of SeverusSnape
彼女の指が闇の印に触れた瞬間、ハリーの傷跡がものすごく痛んだ。星の見える部屋が目の前から消え、彼は、崖の下の岩が露出したところに立っていた。そのまわりに海の波が打ちよせ、心に勝利感を感じた。「彼らが少年を捕まえた」 大きなドンという音がしたので、ハリーは立っている場所に戻ってきた。まごついて杖を上げたが、目の前の魔女は、もう前のめりに倒れていた。倒れるときに、とてもひどく床にぶつかったので、本箱のガラスがチリチリ鳴った。
「私、DAの練習のほか、誰も気絶させたことなかったの」とルナが、すこしばかり興味ありげに言った。「思ってたより、騒々しいのね」
確かに天井が、ゆれはじめていた。小走りの足音が、寮に通じる扉の後ろからどんどん大きく響いてきた。ルナの呪文が、上で寝ていたレイブンクロー生の目を覚ましたのだ。
「ルナ、どこだ? 僕、マントの下に隠れなくちゃ!」
ルナの足音がどこからともなく近づいてきた。ハリーが急いでそばにより、彼女がマントを二人の上に覆ったとき、扉が開き、レイブンクロー生が、パジャマ姿で、どっと談話室になだれこんできた。そこにアレクトが意識を失って倒れているのを見ると、驚きの喘ぎと叫び声がおきた。彼らは、ゆっくりぞろぞろと彼女のまわりに集まってきた。どう猛な獣が、いつ目覚めて、彼らを襲うかもしれなかった。そのとき勇敢な一年生が一人、勢いよく走りよって、彼女の背中を大きく踏んづけた。
「彼女は死んだかもしれないよ!」彼は喜んで叫んだ。
「まあ、見て」とルナがうれしそうにささやいた。レイブンクロー生がアレクトのまわりに押しよせていた。「みんな喜んでるわ!」
「うん……すごい……」
ハリーは目を閉じた。傷口がずきずき痛んだとき、またヴォルデモートの心の中に潜入しようと決めた……彼はトンネルの中を移動して、最初の洞穴に入った……学校に来る前に、ロケットを確かめることにした……だが、そんなに長くはかからないだろう……
談話室の扉を叩く音がしたので、レイブンクロー生すべてが凍りついた。扉の向こうに、戸叩きが発する柔らかな音楽的な声が、ハリーに聞こえた。「消えた品物はどこに行く?」
「知るもんか、黙れ!」と粗野な声がした。カロウの兄、アミカスの声だと、ハリーには分かった。「アレクト? アレクト? いるのか? やつを捕まえたのか? 扉を開けろ!」
レイブンクロー生は恐そうに、ささやき合っていた。それからいきなり誰かが扉に銃を撃ちこんだかのように、続けざまに、大きくドンドン叩く音がした。
「アレクト! もし彼が来て、ポッターを捕まえてなかったら――マルフォイたちと同じようになりたいのか? 答えろ!」アミカスは大声でどなりながら、全力で扉をゆすった。それでもまだ、扉は開かなかった。レイブンクロー生はみんな後ずさりし、とても恐がった者たちは寝室へ戻る階段をすばやく上りはじめた。デス・イーターが他に何かする前に、扉をぶっとばしてアミカスを気絶させるべきではないかと、ハリーが考えていたちょうどそのとき、二番目に懐かしい声が、扉の向こうで響いた。
「何をしてらっしゃるのですか、カロウ先生?」
「中へ入ろうと――してるんだ――このクソいまいましい――扉から!」アミカスが叫んだ。「フリットウィックを連れてこい! やつに開けさせろ、さあ!」
「でも、あなたの妹が中にいるのでは?」とマクゴナガル先生が尋ねた。「フリットウィック先生が、夕方早くに、あなたの急な要求で、彼女を中に入れたのではないですか? 彼女が、扉を開けられるのでは? そうすれば、城の半分を起こすことはないでしょうに」
「妹の返事がないんだ、この古ボウキめ! お前が開けろ! クソ! さあ、やれ!」
「分かりました、お望みならば」とマクゴナガル先生が、恐ろしく冷たい声で言った。戸叩きを上品にノックする音がして、音楽的な声がまた尋ねた。「消えた品物はどこに行く?」
「無の存在の中に、言わば、すべてに」とマクゴナガル先生が答えた。
「巧みな言いまわしです」とワシの戸叩きが答え、扉がさっと開いた。
アミカスが戸口から、杖を振りまわしながら突進してきたので、その場に残っていた数人のレイブンクロー生が階段を全力で駆けあがった。アミカスは、妹と同じように背を丸めて、青白くたるんだ顔に小さな目をしていたが、すぐに、床に動かずにのびているアレクトに気がついて、怒りと恐れが混ざった叫びを上げた。
「何をした、ガキめらが?」彼は金切り声で叫んだ。誰がやったか言うまで、拷問の呪文をかけてやる――闇の帝王が何と言うだろう?」彼は高い声で言って、妹の上にかがむように立ち、こぶしで額をぴしゃっと打った。「やつを捕まえてないのに、妹が殺された!」
「気絶させられただけです」と、かがんでアレクトの様子を調べていたマクゴナガル先生が、いらいらしながら言った。「彼女は、完璧に元気になります」
「いや、そうじゃない!」とアミカスがどなった。「闇の帝王に捕まった後はな! 妹は、彼を呼び寄せた。闇の印が焼けつくのを感じたんだ。彼は、我々がポッターを捕まえたと思うだろう!」
「『ポッターを捕まえた』?」とマクゴナガル先生が鋭く尋ねた。「どういう意味ですか、『ポッターを捕まえた』とは?」
「彼は、ポッターがレイブンクローの塔に忍びこもうとするかもしれない。もし捕まえたら、呼びよせろと命じたのだ」
「なぜハリー・ポッターがレイブンクローの塔に入ろうとするのですか? ポッターは私の寮の生徒です!」
信じられないという気持ちと怒りの下に、少し誇らしげな調子が、彼女の声に感じられて、ハリーの心に、ミネルバ・マクゴナガルに対する愛情がどっと沸き上がった。
「やつが、ここに来るかもしれねえと聞いたんだ!」とカロウが言った。「わけなんか知るもんか」
マクゴナガル先生は立ち上がり、ビーズのような目で部屋の中を見まわした。その視線が二度、ハリーとルナが立っている、まさにその場所を通った。
「ガキのせいにしよう」と、アミカスが言った。その豚のような顔が急にずるそうになった。「ああ、そうしよう。アレクトが、ガキめらに待ちぶせされて襲われたと言うんだ。上のガキめらにな」彼は、寮の方、星の天井を見あげた。「で、やつらが、妹に闇の印を押させた。だから間違った知らせが行ったんだと言うぞ……彼が、ガキめらを罰すりゃいい。二人かそこら、増えようが減ろうが何の違いもない」
「ただ、真実と嘘、勇気と意気地なしの違いです」とマクゴナガル先生が、真っ青になって言った。「手短に言うと、あなたと妹が正しく理解できない違いです。けれど、一つだけはっきりさせて下さい。あなたの数多くの不適切な行為をホグワーツの生徒のせいにはさせません。私が許しません」
「何だと?」
アミカスが前方に進んで、マクゴナガル先生に攻撃するように近づいて、顔を先生の顔に十センチそこそこのところまで近づけた。彼女は、引きさがろうとしないで、彼を、トイレの便座に吐き気をもよおすものがくっついているのを見つけたように、見おろした。
「あんたが許すという問題じゃないぞ、ミネルバ・マクゴナガル! あんたの時代は終わった。今、ここを管理しているのは俺たちだ。あんたは俺たちを助けないと痛い目にあうぞ」そして、彼は彼女の顔につばを吐いた。
ハリーは、マントを自分で脱いで、杖を上げて言った。「そんなことは、させないぞ」
アミカスが、さっとふりむいたとき、ハリーが叫んだ。「クルーシオ!」
デス・イーターの、足が浮きあがった。そして、おぼれている人のように空中で身をよじらせ、苦痛にのたうちまわり、吠えるようにわめいた。それから本箱の前にひどくぶつかり、ガラスが粉々に砕ける音がして、彼は意識をなくして床に崩れおちた。
「ベラトリックスが言った意味が分かったよ」とハリーが言った。頭で血管がドクドク脈打っていた。「相手を苦しめようと、ほんとうに思わなくちゃいけないんだ」
「ポッター」とマクゴナガル先生が、胸をつかみながらささやいた。「ポッター、あなた、ここに! なぜ――? どうやって――?」彼女は、何とか気をしっかりさせた。「ポッター、ばかなことをしました!」
「先生に、つばを吐いたから」とハリーが言った。
「ポッター、私は――それは、とても――とても勇敢なことです――でも分からないのですか――?」
「分かってます」ハリーが彼女に請けあったが、彼女が狼狽しているのを見て、どういうわけか落ちついてきた。「マクゴナガル先生、ヴォルデモートが来ます」
「まあ、もう、その名前を言ってもいいの?」とルナが興味深げに尋ねながら、透明マントを脱いだ。二人目の無法者があらわれたので、マクゴナガル先生は圧倒されたように、後ろによろめいて、古いタータンチェックのガウンの首元をつかんで近くの椅子に座りこんだ。
「彼をなんて呼ぼうと、違いはないと思うよ」ハリーがルナに言った。「彼は、もう僕がここにいるのを知ってるんだから」
ハリーの頭の遠くの部分で、そこは激しく痛む傷跡につながっている部分だが、ヴォルデモートが、影のような緑色の小舟で暗い湖をすばやく渡っているのが見えた……もう少しで石の鉢がある島に着くところだった……
「あなたは逃げなくてはいけません」とマクゴナガル先生がささやいた。「さあ、ポッター、できるだけ早く!」
「できません」とハリーが言った。「やらなくてはならないことがあるんだ、先生、レイブンクローのダイアデムがどこにあるか知ってますか?」
「レ、レイブンクローのダイアデム? もちろん、知りません――失われて何百年にもなるのでは?」彼女は少し背をのばして座りなおした。「ポッター、あなたがこの城に入りこむなんて、狂気の沙汰です、まったくの狂気――」
「しなくちゃならなかったんだ」とハリーが言った。「先生、僕が見つけなくちゃならないものが、ここに隠されてて、それはダイアデムかもしれない――、フリットウィック先生と話すことさえできたら――」
ガラスがチリンチリンとゆれて、身うごきする音がした。アミカスが意識を取りもどした。ハリーとルナが動く前に、マクゴナガル先生が立ちあがり、意識が朦朧としたデス・イーターに杖を向けて、言った。「インペリオ!」
アミカスが立ちあがり、歩いていって妹の上にかがんで彼女の杖を取りあげ、マクゴナガル先生のところに従順に足をひきずって歩いてきて、自分の杖といっしょに手渡し、それからアレクトのそばの床に横になった。マクゴナガル先生が、また杖をふると、どこからともなく輝く銀色のロープがあらわれ、カロウたちのまわりに巻きついて、二人いっしょにしっかり縛りあげた。
「ポッター」とマクゴナガル先生がふりかえって、カロウたちの苦境に対しては見事な無関心さで、またハリーに顔を向けた。「もし名前を言ってはいけないあの人が、ほんとうに、あなたがここにいることを知っているのなら、―」
彼女がそう言ったとき、肉体的苦痛のような憤怒が、ハリーの中で燃えあがり、傷跡に火がついたようだった。彼は、一瞬、石の鉢を見おろしていた。その毒薬は透明になっていて、その表面の下には、金のロケットが安全に置かれてはいなかった――
「ポッター、大丈夫ですか?」と声がした。ハリーが、われに返ると、ルナの肩をしっかりつかんで、体をささえていた。
「時間が尽きかけている、ヴォルデモートが近づいている、先生、僕はダンブルドアの命令で動いている、僕が見つけると、彼が望んだ物を、見つけなくちゃならないんだ! でも、城を探す間、生徒を外に出さなくちゃならない――ヴォルデモートが欲しがっているのは僕だけど、彼は、殺す数がもう少し増えようが気にしないから。今となっては――」今となっては、彼は、僕がホークラックスを襲っているのを知っているから、とハリーは頭の中で、文章を完結させた。
「ダンブルドアの命令で動いているのですって?」彼女は、驚きながらも分かりはじめたといったようにくり返し、それから、ぴんと背筋をのばした。
「あなたが、その――その品物を探すあいだ、名前を言ってはいけないあの人から学校を守ります」
「できますか?」
「そう思います」とマクゴナガル先生は、さりげなく言った。「私たち教師は、魔法がとても得意です。私たちが、全力を注げば、しばらくのあいだ、彼を寄せつけないでおくことができるでしょう。もちろん、スネイプ先生は何とかしなくてはなりませんが――」
「僕にさせて――」
「――そして、もしホグワーツが、闇の帝王が近くにいて立てこもりの状態に突入しようとするなら、多くの罪のない人たちを、できるだけ遠ざけておくことが、実際、賢明なことでしょう。暖炉ネットワークは監視され、敷地内の姿あらわしは不可能では――」
「道はあります」とハリーがすばやく言って、ホグズ・ヘッドへの通路を説明した。
「ポッター、何百人もの生徒について話しているのですよ」
「分かってます、先生、でももしヴォルデモートとデス・イーターが学校の敷地に注意を集中したら、ホグズ・ヘッドから姿くらましする者には興味を持たないんじゃないかな」
「それは一理ありますね」彼女は同意した。そして杖をカロウたちに向けると、銀色の網が、ロープで縛られた体にかかって、ひとりでに巻きつき、体を空中に持ちあげたので、彼らは、青と金色の天井の下で、二つの大きな醜い海洋生物のようにぶらさがっていた。「さあ。他の寮の長の先生方に警告しなくてはなりません。またマントをかぶりなさい」
彼女は、扉の方にさっさと歩いていって、そこで杖を上げた。目の回りに眼鏡の模様がある銀の猫が三匹、その先から飛びだした。パトローナスたちは、しなやかに先に立ち、らせん階段を、銀色の光でいっぱいにした。マクゴナガル先生、ハリー、ルナが急いでその後を下りていった。
彼らは、廊下を走っていった。パトローナスは一匹ずつ別れていった。マクゴナガル先生のタータンチェックのガウンが床に触れてさらさら音をたて、ハリーとルナは、マントに隠れてその後を走った。
彼らが、もう二階下りると、別の静かな足音が加わった。ハリーは傷跡がまだちくちく痛んでいたが、その足音を最初に聞きつけた。盗人たちの地図を出そうと首にかけた袋を手探りしたが、それを出す前に、マクゴナガルも誰かが加わったのに気がついたようだった。そして急に立ち止まり、決闘するように杖を上げて、言った。「誰です?」
「私だ」と低い声がした。
甲冑姿の後ろからセブルス・スネイプが出てきた。
その姿を見ると、憎しみが、ハリーの中で沸きたった。スネイプの罪があまりに大きかったので、容姿の細かいところは、すっかり忘れていた。細い顔のまわりに、べとついた黒髪が、カーテンのように垂れ、黒い目が死の冷たい表情をうかべているのを忘れていた。彼は寝間着でなく、いつもの黒いマントを着ていて、同じく杖を上げて戦う用意をしていた。
「カロウたちは、どこだ?」と静かに尋ねた。
「どこでも、あなたが、彼らにいるよう命じた場所にいる、と思います、セブルス」とマクゴナガル先生が言った。
スネイプがもっと近づいてきた。その目が、マクゴナガル先生のまわりの空間をすばやく見まわした。ハリーがそこにいるのを知っているかのようだった。ハリーも、攻撃する用意をして杖を上げた。
「私の受けた印象では」とスネイプが言った。「アレクトが侵入者を捕らえたようだが」
「そう?」とマクゴナガル先生が言った。「なぜそういう印象を持ったのです?」
スネイプが、闇の印の焼き印が押されている左腕をかすかに曲げる動きをした。
「ああ、当然」とマクゴナガル先生が言った。「あなた方、デス・イーターには、あなた方だけの秘密の通信手段があったのを忘れていました」
スネイプは、その言葉が聞こえないふりをしたが、その目は、まだ彼女のまわりの空間をさぐるように動いていた。そして、自分がしていることにほとんど気づいていないように、だんだん近づいてきた。
「今夜、階段を見まわるのが、あなたの当番とは知らなかった、ミネルバ」
「異議がおあり?」
「こんな夜更けに、なぜあなたが起きだしたのか不思議なのだが?」
「騒ぐ音が聞こえたと思ったので」とマクゴナガル先生が言った。
「ほんとうに? すべて平穏のようだが」
スネイプは、彼女の目をのぞきこんだ。
「ハリー・ポッターに会ったのか、ミネルバ? もし会ったのなら、私は要求しなくてはならない――」
マクゴナガル先生は、ハリーが信じられないほどすばやく動いた。彼女の杖は空中を切りさき、ほんの一瞬、ハリーはスネイプが意識を失ってくずれるように倒れたと思った。けれど、スネイプが、すばやく盾の呪文を放ったので、マクゴナガルはバランスを失って倒れた。彼女が壁のたいまつに向って杖をふりまわすと、それが腕木から飛びだした。ハリーは、スネイプに呪文をかけようとしていたところだったが、ルナを引っぱって、落ちてくる炎をさけなくてはならなかった。炎は、火の輪になって、廊下いっぱいになり、スネイプめがけて投げ縄のように飛んでいった。
それから、それはもう火ではなく大きな黒蛇になり、それをマクゴナガルが爆破したので煙になったが、すぐに固まって、形を変えて、短剣の群れとなってスネイプを追いかけた。彼は、それを目の前の甲冑姿を倒すことだけで防いだので、よろいの胸に短剣が一つ又一つと突きささる音が、ガランガランと響きわたった――
「ミネルバ!」とキーキー声がした。飛んでくる呪文からルナをかばいながら、ハリーがふりむくと、フリットウィック先生とスプラウト先生が、寝間着姿で、彼らの方に全速力で廊下を走ってくるのが見えた。いちばん後から太ったスラグホーン先生が、あえぎながらやってきた。
「止めろ!」とフリットウィックが、杖を上げてキーキー声で叫んだ。「もうホグワーツで人殺しはさせない!」
フリットウィックの呪文が、スネイプが隠れている甲冑姿に当たると、ガタンという音がして、それが動きだした。スネイプは、甲冑姿の締めつける腕から身をふりほどいて、攻撃者に向って、それを投げかえした。ハリーとルナは、それを避けるため、脇に飛びこまなくてはならなかったが、それは、壁に当たって砕けて飛びちった。ハリーがまた見あげると、スネイプは全力で逃げようとしていた。マクゴナガル、フリットウィック、スプラウトが皆、轟音をたてながら、その後を追いかけた。スネイプは教室の扉を開けて突進し、ほんの少しすると、マクゴナガルが叫ぶのが、ハリーに聞こえた。「臆病者! 臆病者!」
「どうなったの、どうなったの?」とルナが尋ねた。
ハリーは、彼女を引っぱって立たせ、二人は、透明マントを後ろになびかせて廊下を走っていき、がらんとした教室に教室に入った。そこには、マクゴナガル、フリットウィック、スプラウト先生が、壊れた窓のところに立っていた。
ハリーとルナが教室に駆けこんだとき、「彼は飛びおりました」とマクゴナガル先生が、言った。
「死んだってこと?」ハリーが突然あらわれたので、フリットウィックとスプラウトがショックを受けて叫んでいるのを無視して、彼は窓のところに走りよった。
「いえ、死んではいません」とマクゴナガル先生が苦々しげに言った。「ダンブルドアとは違い、彼はまだ杖を持っていたし……主人から、いくらか技を習っていたようだし」
ハリーは、恐怖がうずくのを感じながら、巨大なコウモリのような姿が、遠くに暗闇の中を防御壁に向って飛んでいくのを、見た。
後ろに重い足音とひどく息をきらせる音が聞えて、スラグホンがやっと追いついた。
「ハリー!」彼は、鮮やかな緑色の絹のパジャマの下の巨大な胸をさすりながら、あえいだ。「君……なんという驚きだ……ミネルバ、説明してくれ……セブルスが……どうした?」
「校長先生は、短い休暇を取りました」とマクゴナガル先生が、窓の、スネイプ形に空いた穴を指しながら言った。
「先生!」ハリーが、両手を額にあてて叫んだ。下にインフェリでいっぱいの湖が滑っていくのが見え、影のような緑色の小舟が地下の岸に、どんとぶつかるのを感じた。ヴォルデモートが、人を殺そうと思いながら、小舟から岸に飛びうつった。
「先生、学校をバリケードで囲まなくちゃ、彼が、もう来る!」
「よろしい。名前を言ってはいけないあの人が来ます」彼女が、他の先生に言った。スプラウトとフリットウィックがあえいだ。スラグホーンは低いうめき声をあげた。「ポッターは、ダンブルドアの命令で、城で、しなくてはならない仕事があります。ポッターが、すべきことをしている間、私たちは、できるかぎりの当を得た防御策をすべて講じなくてはなりません」
「もちろん、我々が何をしても例のあの人をいつまでも防ぐことはできないのはお分かりかな?」とフリットウィックがキーキー声で言った。
「でも、彼を遅らせることはできるわ」とスプラウト先生が言った。
「ありがとう、ポモナ」とマクゴナガル先生が言った。二人の魔女の間に不屈の理解のまなざしが交わされた。「この場所の周りに基本的な防御策を講じ、それから生徒を大広間に集めるよう提案します。ほとんどの生徒は避難しなくてはなりません。年長で戦いたいと思う生徒は、その機会を与えてもよいと思います」
「賛成」とスプラウト先生が、もう、急いで扉の方に向かいながら言った。「二十分後、私の寮の生徒といっしょに大広間で会いましょう」
そして、彼女は走って出ていったが、呟き声が聞えてきた。「触手のあるテンタクラ、悪魔のワナ。それからスナーガルフのさや……ええ、デス・イーターが、それと戦うところを見たいわ」
「私は、ここから行動できる」とフリットウィックが言った。そして、彼は小柄で、ほとんど窓の外をのぞくことはできなかったが、壊れた窓から杖を向けて、非常に複雑な呪文を小声で唱えはじめた。彼が、風の力を校庭に解きはなったような不可思議な流れるような音が、ハリーに聞こえた。
「先生」ハリーが小柄な呪文の先生に近づいていって言った。「先生、邪魔してすみませんが、重要なことです。レイブンクローのダイアデムがどこにあるか思いつきませんか?」
「……プロテゴ・ホリビリス<恐ろしいものから防御せよ>――レイブンクローのダイアデム?」フリットウィックがキーキー声で言った。「ちょっとした余分な知恵は、不都合ではないが、ポッター、私は、それがこの状況に役にたつとは思えないが!」
「僕が言ったのはただ――それがどこにあるか知ってますか? 見たことがありますか?」
「見たことがあるかって? 生きている者の記憶のなかでは、誰も見たものはいない! ずっと昔に失われたんだよ、君!」
ハリーは、がっかりするのと、あせりくるうのと両方で絶望的な気持ちになった。それなら、ホークラックスは何だろう?
「あなたとレイブンクロー生に大広間で会いましょう、フィリウス!」とマクゴナガル先生が言って、ハリーとルナについてくるように手招きした。
彼らが扉のところに着いたとき、スラグホーンが低いとどろくような声で言った。
「ちょっと一言」彼は息をきらせ、青ざめて汗をかいていて、セイウチのようなひげが震えていた。「なんという騒動だ! これが賢いことなのか、私はまったく分からないよ、ミネルバ。彼は、ぜったいに入りこむ方法を見つけるぞ、ねえ、彼が入るのを邪魔しようとする者は誰でも重大な危機にさらされる、―」
「あなたとスリザリン生も、二十分後に大広間に来てください」とマクゴナガル先生が言った。「もし、あなたが生徒とともに去ろうとするなら、止めはしません。けれど、もし、あなたがたのうちで、私たちの抵抗を妨害しようとしたり、城内で私たちに戦いを挑もうとするのなら、そのときは、ホラス、どちらかが死ぬまで決闘です」
「ミネルバ!」彼はぞっとしたように言った。
「スリザリン寮が、どちらに忠誠を尽くすか決断するときが来たのです」とマクゴナガル先生が、さえぎって言った。「あなたの生徒を起こしにいきなさい、ホラス」
ハリーは、スラグホーンが早口でしゃべるのを見てはいないで、ルナといっしょにマクゴナガル先生の後を追いかけた。先生は、廊下の真ん中に立って、杖を上げていた。
「ピエルトトゥム――まあ、フィルチ、頼むから、今はだめ」
年老いた管理人がちょうど足を引きずって歩きながら姿をあらわして、どなっていた。「生徒はベッドから起きろ! 廊下に出ろ!」
「生徒は、もう、そうしていると思いますよ、おしゃべりなトンマ!」ととマクゴナガルが叫んだ。「さあ、何か役にたつことをしに行きなさい! ピーブスを見つけなさい!」
「ピ、ピーブス?」とフィルチが、そんな名前は聞いたこともないように、どもりながら言った。
「そう、ピーブスよ、ばかもの、ピーブスです! 二十五年間、彼に文句を言っていたではないですか? すぐに彼を捕まえにいきなさい!」
フィルチは、明らかにマクゴナガル先生の気が変になってしまったと思ったようだったが、背中を丸め、小声で不平を言いながら、足をひきずって去っていった。
「さあ、ピエルトトゥム・ロコモーター!」とマクゴナガル先生が叫んだ。すると、廊下中の像や甲冑姿が台座から飛びおりた。上や下の床からガシャンという音が響いてきたので、城中の同じ仲間が、同じことをしたのだろうと、ハリーは思った。
「ホグワーツに危険が迫っています!」とマクゴナガル先生が叫んだ。「学校の境界を守る任務について、私たちを守りなさい、学校への義務を果たしなさい!」
動く像の大群が、ガチャンガチャンと音をたて叫び声をあげながら、ハリーのそばを疾走して通りすぎた。人間より小さい者も大きい者もいた。動物もいた。甲冑姿はガチャンガチャンと音をたてながら、大クギがたくさん刺さった球に鎖がついたものをふりまわしていた。
「さあ、ポッター」とマクゴナガルが言った。「あなたとラブグッドさんは、友だちのところに戻って、皆を大広間に連れてきなさい、私が他のグリフィンドール生を起こします」
彼らは、次の階段の上で別れた。ハリーとルナは、「必要に応じて出てくる部屋」の隠れた入り口の方へ走って戻った。走っていくときに、たくさんの生徒たちに会った。たいていはパジャマの上に旅行用マントを着て、先生や監督生に連れられて大広間へ向っていた。
「ポッターだ!」
「ハリー・ポッター!」
「彼だ、ぜったいに、彼を見たんだ!」
けれどハリーは、ふりかえらなかった。やっと「必要に応じて出てくる部屋」の入り口に着くと、魔法のかかった壁の方にもたれた。壁が彼らを認めて開くと、二人は急な階段を大急ぎで下りた。
「何だ――?」
部屋が見えてくると、ハリーは、びっくり仰天して数段、滑りおりた。部屋はぎゅうぎゅう詰めで、さっきよりも、はるかに多くの人たちがいた。キングズリーとルーピンが、ハリーを見あげていた。オリバー・ウッド、ケイティー・ベル、アンジェリーナ・ジョンソンとアリシア・スピネット、ビルとフラー、ウィーズリー夫妻がいた。
「ハリー、どうしたんだ?」とルーピンが、階段の下でハリーに会うと言った。
「ヴォルデモートが、やって来る。学校をバリケードで囲もうとしている。スネイプは逃げた――ここで何をしてるの? どうして分かったの?」
「僕たちが、ダンブルドア軍団の他のメンバーに知らせを送ったんだ」フレッドが説明した。「誰だって、楽しみを逃したくはないからね、ハリー、で、DAが不死鳥の騎士団に知らせて、雪だるま式に増えたのさ」
「最初は何だい、ハリー?」とジョージが言った。「どうなってるのさ?」
「年少の生徒たちを避難させようとしている。全員、大広間に集合して、編成されることになっている」ハリーが言った。「僕たちは、戦うんだ」
大きな叫び声があがり、階段の下に向って皆が押しよせてきた。皆が、ハリーを通りすぎて走っていくので、彼は壁に押しつけられた。フェニックス騎士団、ダンブルドア軍団、ハリーの昔のクィディッチ・チーム、皆が杖を出し、城の中心をめざしていった。
「さあ行こう、ルナ」ディーンが、通りすぎるときに、空いた手を出して呼びかけた。彼女はその手を取って、彼の後について階段を上っていった。
部屋の群衆は少なくなっていった。下の「必要に応じて出てくる部屋」には、ほんの一固まりの人たちが残っていて、ハリーはそれに加わった。ウィーズリー夫人がジニーともみあっていた。そのまわりに、ルーピン、フレッド、ジョージ、ビルとフラーがいた。
「あなたは、未成年よ!」ウィーズリー夫人が娘に向って叫んだときに、ハリーが近づいた。「許しません! 男の子たちは、いいわ。でもあなた、あなたは家に帰らなくてはだめ!」
「いやよ!」
母親がつかんでいるところから腕を引きはなすとき、ジニーの髪がふわりと舞った。
「私は、ダンブルドア軍団に入ってるの――」
「――十代の遊び仲間よ!」
「十代の遊び仲間が、彼と戦おうとしてるんだ。他の誰も、その勇気がなかったのに!」とフレッドが言った。
「彼女は十六よ!」ウィーズリー夫人が叫んだ。「未成年だわ! あんたたち二人、何を考えてたのよ、彼女をいっしょに連れてこうとするなんて――」
「フレッドとジョージは、少し恥ずかしそうな顔をした。
「ママの言うとおりだ、ジニー」とビルが優しく言った。「君はだめだ。未成年者はみんな行かなくちゃならない。それは正しいことだ」
「家に帰るなんてできない!」ジニーが叫んだ。怒りの涙が、目に光っていた。「家族全員がここにいるのに、家で一人で待ってて、何も分からないなんて耐えられないし――」
ジニーの目が初めてハリーの目と合った。そして懇願するように見たが、彼が首を横にふったので、彼女は苦々しげに横を向いた。
「いいわ」ジニーは、ホグズ・ヘッドに戻るトンネルの入り口を見つめながら言った。「じゃ、さよならを言うわ、それから――」
もがくような物音がして、ドシンという大きな音がした。誰かがトンネルから、よじ上って、少しバランスをくずして落ちてきた。その男は、近くの椅子で体勢をたてなおして、斜めになった角の縁の眼鏡ごしに見まわしながら言った。「遅すぎたかな? もう始まったかい? 今知ったところなんだ、それで、僕、僕――」
パーシーが早口に言って黙りこんだ。家族のほとんど全員がいる中に飛びこむとは予想していかったのが、明らかだった。皆、びっくり仰天して、長いあいだ、何も言わなかった。それからフラーがルーピンの方を向いて、緊張状態を破ろうという見え見えの企てをしようと思いきって言った。「それで――小さなテディは元気なの?」
ルーピンは、驚いたように目をぱちぱちさせた。ウィーズリー家の沈黙は氷のように固まっているようだった。
「僕は――ああ――彼は元気だよ!」ルーピンが大きな声で言った。「うん、トンクスが、いっしょにいる、―、彼女の母親の家にね」
パーシーと、他のウィーズリーの家族は、まだ凍りついたように、にらみ合っていた。
「ほら、写真があるよ!」ルーピンが大声で言って、上着の奥から写真を取りだして、フラーとハリーに見せた。その中では、鮮やかな青緑のトルコ石の色の髪が一房生えた小さな赤ちゃんが、カメラに向って太ったこぶしをふっていた。
「僕は、愚か者だった!」パーシーが怒鳴った。とても大きな声だったので、ルーピンがもう少しで写真を取り落としそうになった。「僕は、ばかだった、僕は、気取ったまぬけだった、僕は――そのう――」
「魔法省大好きな、家族をないがしろにする、権力に飢えた、あほうだ」とフレッドが言った。
パーシーは、ぐっとつまった。
「そうだ、僕は、そうだった!」
「うーん、それはとても公正な見方だ」とフレッドが言って、パーシーに手をさしだした。
ウィーズリー夫人がわっと泣きだした。そして、前方に走りだして、フレッドを押しのけて、パーシーを窒息しそうにきつく抱きしめた。彼は、母の背中を軽く叩きながら、父を見た。
「ごめんなさい、パパ」パーシーが言った。
ウィーズリー氏は、すばやく目をぱちぱちさせた。それから、彼も走りよって、息子を抱きしめた。
「なぜ、正気に戻ったんだい、パース?」とジョージが尋ねた。
「少し前から、だんだんと分かってきた」とパーシーが旅行用マントの縁で、眼鏡の下の目をふきながら言った。「でも、抜けだす方法を見つけ出さなくちゃならなかったけど、それは魔法省では簡単じゃない。いつも裏切り者は投獄されているからね。なんとかしてアベルフォースと連絡を取ったら、十分前に、ホグワーツが臨戦態勢に入ったと、こっそり知らせてくれた。で、来たんだ」
「じゃあ、こういうときに、われらが監督生に指揮を取ってもらうのを、すごく当てにしてるよ」とジョージが言って、パーシーのとても尊大な様子をうまく真似した。「さあ、上に行って戦おう、そうすれば、よきデス・イーターがすべて捕らえられるであろう」
「じゃ、君は今、僕の義理の姉なんだね?」とパーシーが言ってフラーと握手した。二人は、ビル、フレッド、ジョージといっしょに本箱の方に急いでいた。
「ジニー!」とウィーズリー夫人ががみがみ言った。
ジニーは、家族の和解の陰に隠れてこっそり上に行こうとしていた。
「モリー、こうしたらどうだ、」とルーピンが言った。「ジニーは、ここにいたらどうかな、そうすれば、少なくとも現場にいることができるし、状況も知ることができる、だが戦いの場にはいないわけだが?」
「私は――」
「それは、いい考えだ」とウィーズリー氏が断固とした口調で言った。「ジニー、お前はこの部屋にいるんだ、分かったね?」
ジニーは、この考えがあまり気に入ったようではなかったが、父がいつになく厳しい目で見つめるので、頷いた。「ウィーズリー夫妻も階段の方に向った。
「ロンはどこだ?」とハリーが尋ねた。「ハーマイオニーはどこだ?」
「もう大広間に上がっていったに違いない」とウィーズリー氏が、肩越しにふりかえって言った。
「僕のそばを通りすぎなかったけど」とハリーが言った。
「あの二人は、トイレが何とか言ってたわ」とジニーが言った。「あなたが出ていって、少ししたときに」
「トイレ?」
ハリーは、部屋を横切って、「必要に応じて出てくる部屋」の開いた扉の方に行って、その向こうのトイレを調べたが、そこには誰もいなかった。
「彼らが言ったの確かかい、トイ――?」
しかし、そのとき傷跡が焼けつくように痛み、「必要に応じて出てくる部屋」が消えた。彼は、両側の柱の上に羽の生えたブタがのっている高い鉄の門から、光りかがやく城に続く校庭をのぞいていて、ナギニが、その肩から、ゆったり垂れていた。そして、今から殺人を犯すぞという目的の下、冷たい残酷な思いにとらわれていた。
第31章 ホグワーツの戦い
The Battle of Hogwarts
大広間の魔法がかけられた天井は、暗くて星が瞬いていた。その下に、四つの長いテーブルが並び、旅行用マントや、ガウンをはおった乱れた格好の生徒たちが座っていた。あちこちに、学校の幽霊たちの真珠のように白い姿が輝いていた。生きた者も死んだ者も、すべての目が、大広間の上座の一段高いところから話しているマクゴナガル先生を見つめていた。その後ろには、残りの先生が立っていて、その中には、パロミノ種のセントールのフィレンツェや、戦うためにやって来たフェニックス騎士団のメンバーもいた。
「……避難の監督は、フィルチ氏とマダム・ポンフリーです。監督生は、私が命じたら、いつものように寮生をまとめて、避難する地点まで先導しなさい」
生徒の多くは、恐怖で竦んでいるようだった。けれど、ハリーが壁に沿っていって、ロンとハーマイオニーを探してグリフィンドールのテーブルを見まわしたとき、ハッフルパフのテーブルの、アーニー・マクミランが立ちあがって言った。「もし、残って戦いたいときはどうするんですか?」
少数が、わあっと賛成した。
「もし成人していれば、残ってもよろしい」とマクゴナガル先生が言った。
「持ち物はどうするんですか?」と、レイブンクローのテーブルの女の子が叫んだ。「トランクとか、ふくろうとか?」
「持ち物を、まとめる時間はありません」とマクゴナガル先生が言った。「重要なことは、あなた方が、ここから無事に出ることです」
「スネイプ先生はどこですか?」スリザリンのテーブルから、女の子が叫んだ。
「彼は、俗な言い方をすれば、ずらかったのです」マクゴナガル先生が答えたので、グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローのテーブルから、大きな歓声が巻きおこった。
ハリーは、ロンとハーマイオニーを探しながらグリフィンドールのテーブルに沿って、大広間を移動していった。彼が通っていくと、いくつもの顔が、こちらを向き、通ったあとに、大きな囁き声が聞こえた。
「すでに、城の周囲に防御策を講じましたが、」マクゴナガル先生が話していた。「補強しなければ、それほど長くは持ちこたえられません。ですから、すばやく冷静に動くこと、監督生に従うこと、をみなさんにお願いします――」
しかし、彼女の最後の言葉は、大広間に響きわたる別の声にかき消された。それは、高く冷たく通る声で、どこから聞えてくるのか分からなかった。壁から発せられているようで、以前、呼び起こされた怪物のように、何百年も、そこに眠っていたのかもしれないと思われた。
「お前たちが戦おうとしているのは分かっている」生徒の間に悲鳴があがった。互いに抱きつき、どこから聞えてくるのかと見まわしている者もいた。「お前たちの努力は無駄だ。戦って私を止めることはできない。お前たちを殺したくはない。俺はホグワーツの先生方には、大いなる敬意を払っている。魔法界の血を流したくはない」
大広間には沈黙が満ちていた。部屋の中に収まるには大きすぎて、鼓膜を圧迫するような沈黙だった。
「ハリー・ポッターをよこせ」とヴォルデモートの声がした。「そうすれば、誰も傷つけない。ハリー・ポッターをよこせ、そうすれば、学校はそのままにして去る。ハリー・ポッターをよこせ、そうすれば、ほうびをやろう。
「真夜中まで時間をやろう」
また全員が、沈黙に飲みこまれるように静まりかえった。すべての頭がふりむき、その場のすべての目が、ハリーを見つけ、視線という何千もの見えない光線で、彼を、その場に凍りつかせるようだった。そのとき、スリザリンのテーブルから誰か立ちあがった。ハリーにはパンジー・パーキンソンだと分かった。彼女は、震える腕をあげて叫んだ。「でも、彼はそこにいる! ポッターはそこにいる! 誰か捕まえて!」
ハリーが、何も言わないうちに、大きな動きがおきた。彼の前のグリフィンドール生が立ちあがり、ハリーにではなくスリザリン生に立ちむかったのだ。それからハフルパフ生が立ち、ほとんど同時にレイブンクロー生が立った。彼らすべてが、ハリーに背中を向け、彼らすべてが、ハリーでなくパンジーの方を向いた。彼らのマントの下や袖の下や、あらゆるところから杖があらわれるのを見て、ハリーは畏敬の念にうたれ圧倒される思いがした。
「ありがとう、パーキンソンさん」とマクゴナガル先生が、きびきびした口調で言った。「あなたは最初にフィルチ氏といっしょに出ていきなさい。同じ寮の生徒も、いっしょに行ってよろしい」
長椅子が引かれる音と、それからスリザリン生が大広間の反対側からぞろぞろ立ち去る音が、ハリーに聞こえた。
「レイブンクロー生、続きなさい!」とマクゴナガル先生が叫んだ。
ゆっくりと四つのテーブルが空になっていった。スリザリンのテーブルには、まったく誰もいなかった。年長のレイブンクロー生の多数は、仲間が列をなして出ていった後も座ったままでいた。もっと多くのハフルパフ生が残り、グリフィンドール生は半分が残っていたので、マクゴナガル先生が壇を下りて、未成年者は出ていくようにとせかさなくてはならなくなった。
「絶対にだめです、クリービー、行きなさい! あなたも、ピークス!」
ハリーは、そろってグリフィンドールのテーブルに座っているウィーズリー一家の方に急いで近づいた。
「ロンとハーマイオニーはどこ?」
「見つからなかったのかい――?」とウィーズリー氏が心配そうに言った。 けれど、途中で話しをやめた。キングズリーが壇の前方に進みでて、残った者に話しはじめたからだ。
「真夜中まで、三十分しかない、だからすばやく行動する必要がある! 戦う計画は、ホグワーツの先生方と、不死鳥の騎士団の間でできている。フリットウィック、スプラウト、マクゴナガルの先生方が、それぞれ三つの高い塔に戦闘者の集団を率いていく――レイブンクローの塔、天文塔、そしてグリフィンドールの塔だ――そこからは、よく見渡せるから、呪文をかけるには、すばらしい場所だ。一方、リーマスと」と、ルーピンを指し、「アーサーと」とグリフィンドールのテーブルのところに座っているウィーズリー氏の方を指し、「そして私は、校庭に集団を率いていく。誰か、学校へ入る通路の防備にあたる者が必要だが――」
「――僕たちにぴったりの仕事みたいだ」とフレッドが、自分とジョージを指して叫んだ。キングズリーは同意して頷いた。
「よし! リーダーは、ここに上れ、隊のグループ分けだ!」
「ポッター」とマクゴナガル先生が、急いで近づいてきた。生徒たちは、壇に押しよせ、前に出ようと押し合って指示を受けていた。「あなたは、何か探すはずではないですか?」
「えっ? ああ」とハリーが言った。「ああ、そうだ!」
彼は、ほとんどホークラックスのことを忘れていた。彼が、それを探すために戦いが起こされようとしているのを、ほとんど忘れていた。ロンとハーマイオニーが理由なく、いなくなったので、一瞬、他のすべての考えが心の中から追いはらわれていた。
「それでは、行きなさい、ポッター、行きなさい!」
「ああ――はい――」
ハリーは、大広間から玄関の間に走り出たとき、ずっと見られているのに気づいていた。玄関は、まだ避難する生徒で混みあっていた。彼らといっしょに、大理石の階段を追われるように上がっていったが、階段を上りきると、ハリーは誰もいない廊下の方に急いでいった。考えると、恐怖とろうばいの気持ちが雲のようにおおってきたので、冷静になろうと努めて、ホークラックスを見つけることに集中しようとした。けれど、頭の中で、考えようとしてみても、コップの中に捕らわれたスズメバチのように、気ちがいじみて実りのないブンブンいう音がするばかりだった。ロンとハーマイオニーが手伝ってくれないと、考えを整理することができなかった。彼はスピードを落とし、誰もいない廊下の途中で急に止まった。そこで、いなくなった像の台座に座り、首にかけた袋から、盗人たちの地図を取りだした。ロンとハーマイオニーの名前はどこにも見あたらなかったが、点の密な集団が、「必要に応じて出てくる部屋」の方に向っていた。そこに入ってしまえば、地図にあらわれないかもしれない、とハリーは思った。そこで地図をしまって両手を顔に押しつけ、目を閉じて集中しようとした……
<ヴォルデモートは、僕がレイブンクローの塔に行くだろうと予想していた>
そうだ。それは、確かな事実だ。そこがスタートだ。ヴォルデモートは、アレクト・カロウをレイブンクローの談話室に配置した。それには、たった一つの説明しかない。つまりホークラックスが、その寮に関係があることを、ハリーがもう知っているのではないかと、ヴォルデモートが危ぶんだのだ。
けれど、レイブンクローというと誰もが思いだしそうな唯一の品物は、失われたダイアデムだ…… ホークラックスが、そのダイアデムだということが、ありうるだろうか? スリザリン生のヴォルデモートが、何代にもわたってレイブンクロー生の手を逃れてきたダイアデムを見つけることができたのだろうか? そのダイアデムをどこかで見たことがあるか、誰が話してくれるだろう? 生きている者の記憶のなかでは、誰もそれを見ていないのに?
<生きている者の記憶のなかでは>……
指の奥で、ハリーの目がまたぱっと開いた。最後にただ一つ残された希望を追って、台座から飛びおりて、来た道を全力で戻った。大理石の階段に戻ると、何百人もの生徒が「必要に応じて出てくる部屋」に向って行進していく音がどんどん大きくなってきた。監督生たちが、自分の寮の生徒を見失わないようにと指示の言葉を叫んでいた。みんな押しあいへしあいしていた。ザカライア・スミスが一年生を列の先頭に来るように、転がすようにせき立てていた。年少の生徒は泣きだし、年長の生徒は友だちやきょうだいを探して必死に叫んでいた……
ハリーは、下の玄関をただよっていく真珠のように白い姿を見つけて、まわりの騒音のなかで聞こえるように、できるだけ大声でどなった。
「ニック! ニックったら! 話があるんだ!」
そして、生徒たちの波をかき分けて階段を下りて、やっと下に着くと、そこにグリフィンドールの塔の幽霊、ほとんど首なしニックが、立って待っていた。
「ハリー! 君!」
ニックは、両手でハリーの手をにぎろうとした。ハリーは、手が氷水に突っこまれたような気がした。
「ニック、助けてほしい。レイブンクローの塔の幽霊は誰だ?」
ほとんど首なしニックは驚いて少し気を悪くしたようだった。
「灰色の婦人だ、もちろん。だが、君が、幽霊に奉仕してもらいたいなら――?」
「彼女でなくちゃだめなんだ――彼女がどこにいるか分かるか?」
「待てよ……」
ニックが、群れをなして移動する生徒の上からのぞきこもうとして、あちこち向いたとき、その首が、ひだえりの上で少しふらついた。
「彼女だ、向こうにいる、ハリー、長い髪の若い女性だ」
ニックの透きとおった指がさす方を見ると、背の高い幽霊が見えた。彼女は、ハリーが自分を見ているのに気づくと眉をあげて、固い壁を通りぬけて、ただよって行ってしまった。
ハリーは後を追いかけた。彼女が消えた廊下の扉を通っていくと、通路の突きあたりに姿が見えたが、また、すうっと離れた方に滑るように行ってしまった。
「ねえ、待て――戻れ!」
彼女は、しぶしぶ同意して、床から十数センチ浮いて止まっていた。ハリーは、彼女が美しいと思った。髪が腰まで長く、床まで届くマントを着ていて、尊大で、同時に誇り高かった。近づいてみると、廊下で数回すれちがったことがある幽霊だと分かったが、話したことはなかった。
「あなたが、灰色の婦人?」
「彼女は頷いたが、口をきかなかった。
「レイブンクローの塔の幽霊?」
「そのとおり」
彼女の口調は好意的ではなかった。
「どうか、手助けしてほしい。失われたダイアデムについて、どんなことでも知りたいんだ。話してくれないか」
彼女の唇の端が上がって、冷たい微笑みが浮かんだ。
「残念だけど」彼女は言いながら向きを変えて立ちさろうとした。「手助けはできないわ」
「待て!」
ハリーは、叫ぶつもりはなかったが、怒りと狼狽の気持ちが、脅すように押しよせてきた。彼女が、前で、ただよっているあいだに、ハリーは腕時計をちらっと見た。真夜中の十五分前だった。
「緊急の用なんだ」彼は、荒々しく言った。「もし、そのダイアデムがホグワーツにあるなら、僕は急いで見つけなくちゃならない」
「あなたが、ダイアデムを探そうとした最初の生徒というわけじゃないのよ」彼女は尊大に言った。「何代も前から生徒たちが、それがどこにあるか教えてほしいと私にうるさくせがんだわ――」
「これは、いい成績を取ろうというんじゃないんだ!」ハリーが、彼女にどなった。「ヴォルデモートについてのことだ――ヴォルデモートをうち負かすことと関係がある――それとも君は、それに興味がないのか?」
彼女は、顔を赤らめることはできなかったが、透明な頬がくすんできた。そして彼女が答えたとき、その声はたかぶっていた。「もちろん、私は――いったい何てこと言うのよ――?」
「ええと、じゃ、僕を助けて!」
彼女は落ちつきがなくなってきた。
「それは――それは――私の母のダイアデムの問題じゃなくて――」彼女はどもりながら言った。
「君のお母さんの?」
「彼女は、自分に腹をたてたようだった。
「私が生きていたとき」彼女は、堅苦しく言った。「私は、ヘレナ・レイブンクローだったの」
「君は、彼女の娘だったのか? でもそれなら、ダイアデムがどうなったか知っているはずだ!」
「あのダイアデムは、知恵を授けるけれど、」彼女は、明らかに冷静になろうと努力しながら言った。「あなたが、あの魔法使いをうち負かすチャンスを大いに増やすとは思えないわ――卿と自称する――」
「僕は、あれを頭に載せるつもりはないと、さっき言っただろ!」ハリーが荒々しく言った。「説明する時間はない――でも、もし、君がホグワーツが好きで、もしヴォルデモートがやっつけられるのを見たいなら、あのダイアデムについて知ってることを何でも言ってくれ!」
彼女は、とても静かに空中に浮いたまま彼を見下ろしていた。絶望感が、ハリーを飲みこんだ。もちろん、フリットウィックかダンブルドアが同じ質問をしたにちがいないのだから、彼女が何か知っていたら、彼らに言ったはずだ。ハリーは首を横にふって、向きを変えようとした。そのとき、彼女が低い声で言った。
「私が、母からダイアデムを盗んだの」
「君が――君がやったのか?」
「私が、ダイアデムを盗んだの」とヘレナ・レイブンクローが、囁き声でくりかえした。「私は、母よりもっと賢く、もっと重要な人になろうとした。私は、あれを持って逃げたわ」
ハリーは、自分がどうやって彼女の信頼を勝ちえたのか分からなかったが、尋ねようとはせず、ただ熱心に聞いていた。彼女は話しつづけた。「母は、ダイアデムが失われたと決して認めないで、ずっと持っているふりをしていたそうよ。母は、それが失われたことと、私の恐るべき裏切りを、ホグワーツの他の創立者たちにさえ隠したの。
「それから、母は病気になった――命にかかわる病気にね。私の不実にもかかわらず、母は、どうしても、もう一度、私に会いたがった。それで、ずっと長いあいだ、私を愛していた男をやって私を捜させた。私は、彼の求愛を拒絶していたのだけれど。彼が休みなく私を捜すだろうと、母には分かっていたの」
ハリーは待った。彼女は、深く息をすって、頭をぐいと後ろにそらした。「彼は、私が隠れていた森まで跡をたどってきた。私が、彼といっしょに戻るのを拒絶したとき、彼は凶暴になった。男爵は、いつも短気な男だったわ。私の拒絶に怒りくるい、私の自由をねたんで、彼は私を刺したの」
「あの男爵? 君が言うのは――?」
「血みどろ男爵、そうよ」と灰色の婦人が言った。そして来ていたマントを横にはねあげて、白い胸の黒っぽい一刺しの傷を見せた。「彼は、自分のしたことを見て後悔の念にうちのめされた。そして私の命を奪った武器を取って、自殺するのに使った。それから何百年たっても、彼は、悔いあらたるの行動として鎖を身につけているのよ……やって当然のことだけれど」彼女は、苦々しくつけくわえた。
「それで……それで、ダイアデムは?」
「男爵が、森の中を私の方にむかって恐る恐る歩いてくる音が聞こえたときに、私が隠したところに、そのままになっていた。中が空洞の木に隠されて、そのまま」
「中が空洞の木?」とハリーが、くりかえした。「どんな木? どこにある?」
「アルバニアの森。はるかに遠くて母の手が届かないと、私が思った寂しい場所」
「アルバニア」とハリーが繰り返した。混乱の中から、判断力が奇跡的にあらわれてきた。そして、なぜ彼女がダンブルドアやフリットウィックに言わなかったことを、ハリーに言ったかが分かった。「君は、もうこの話を誰かにしたんだね? 他の生徒に?」
彼女は、目を閉じて頷いた。
「私……ぜんぜん分からなかった……彼は……上手に煽てたの。私の気持ちを……理解して……同情するみたいに……」
そうだ、とハリーは思った。トム・リドルは確かにヘレナ・レイブンクローの欲望を理解しただろう。彼女には所有する権利が、ほとんどない伝説上のすばらしい品物を、所有したいという欲望を。
「ええと、リドルが何か上手に聞きだそうとしたのは、君が初めてじゃないよ」ハリーは小声でつぶやいた。「その気になれば、彼は魅力的になれたんだ……」
そうやって、ヴォルデモートは、灰色の婦人をうまく言いくるめて、失われたダイアデムのありかを聞きだした。そして、はるばる遠方の森まで行って、ダイアデムを隠し場所から手にいれた。きっと、ホグワーツを卒業してすぐのことで、ボーギン・アンド・バークス店で働きはじめる前だろう。
だから、ずっと後にヴォルデモートが十年もの長いあいだ、邪魔されずにひそんでいる場所が必要になったとき、人里離れたアルバニアの森が、すばらしい避難場所に思われたのではないだろうか?
けれど、ダイアデムが、いったん彼の貴重なホークラックスになった後は、いやしい森に置きっぱなしにはされなかった……ダイアデムは、ひそかにほんとうの家に戻ってきた。ヴォルデモートが持ってきて置いたにちがいない。
「――先生の職を求めにきた夜にだ!」とハリーが、考えを纏めて言った。
「何て言ったの?」
「彼はダイアデムを城の中に隠した、ダンブルドアに、先生になりたいと頼んだ夜にだ!」とハリーが言った。それを大きな声で言うと、その全部が理にかなっているように思われた。「彼は、ダンブルドアの部屋に上がっていく途中か、そこから下りる途中に、ダイアデムを隠したにちがいない! それでも、まだ先生の職を求める価値があった――そうすれば、グリフィンドールの剣を盗む機会もあったかもしれないからね――ありがとう、ありがと!」
ハリーが去ったとき、彼女は、さっぱりわけが分からないように、そこに浮かんでいた。彼は角を曲がって玄関の間に戻ってくると腕時計を見た。真夜中まで、後、五分だった。最後のホークラックスが何かは分かったけれど、それが、どこにあるかを見つけだすことは、まだぜんぜんできていなかった……
何世代もの生徒が、ダイアデムを見つけられなかった、ということは、レイブンクローの塔にはないということだ――だが、そこにないとすれば、どこだろう? トム・リドルは、ホグワーツ城の中の、どこに、永久に秘密にしておけると信じた隠し場所を発見したのだろう?
ハリーが必死に考えながら角を曲り、次の廊下を、ほんの数歩あるいたとき、左の窓が耳をつんざくような音で粉々に壊れた。彼が、横にとびのくと、巨大な体が、窓から飛びこんできて、反対側の壁にぶつかった。そこから、大きくて毛皮でおおわれたものが、くんくん鳴きながら離れて、ハリーに飛びついた。
「ハグリッド!」ハリーが大声で叫んで、イノシシ狩りの猟犬がじゃれつくのから身を振りほどこうとしたとき、あごひげのある巨大な姿が、なんとか立ちあがった。「どしたの――?」
「ハリー、ここにいたか! ここにいたか!」
ハグリッドが、かがんでハリーを、せかせかと、あばら骨が砕けそうに抱きしめ、それから、砕けた窓の方に走って戻った。
「いい子だ、グローピー!」と窓の穴から大声でどなった。「ちょっと後でな、いい子にしてろよ!」
ハグリッドの向こう、外の暗い夜の中に、光が遠くに迸るのが、ハリーに見え、気味の悪い鋭い悲鳴が聞こえた。腕時計を見おろすと真夜中だった。戦いが始まったのだ。
「こりゃあ、ハリー」とハグリッドがあえぎながら言った。「いよいよか、えっ? 戦うのか?」
「ハグリッド、どこから来たの?」
「山の洞穴で、例のあの人の声が聞こえたのさ」とハグリッドが、厳しい口調で言った。「声は伝わるだろ? 『真夜中になったら、ポッターをよこせ』とな。お前さんが、ここにいるのが分かった、何がおきるか分かったんだ。下りろ、ファング。だから、いっしょに戦いにきた、おれとグローピーとファングだ。森の近くの境をぶっ壊して、グローピーが俺たちを、つまりファングと俺をかついできた。城のところで下ろせといったら、窓から突っこんだんだ、やれやれ。そうしてくれと言ったつもりはなかったんだが――ロンとハーマイオニーはどこだ?」
「それは」とハリーが言った。「ほんとに、いい質問だよ。さあ行こう」
彼らはいっしょに廊下を走った。そのそばをファングがよたよたと走った。ハリーに、まわりの廊下で動く音が聞こえた。走りまわる足音、叫び声。窓から暗い校庭に、もっと閃光が見えた。
「どこに行くんだ?」ハグリッドが、ハリーの後を床板をゆらしてドタドタ走りながら、息をきらせて言った。
「はっきりとは分からない」とハリーが言って、また、いいかげんに角を曲った。「でも、ロンとハーマイオニーが、どっかこの辺にいるはずなんだ」
戦いの最初の死傷者が、その先の通路に投げだされていた。いつもは職員室の入り口を守っている二つの石の怪物像が、壊れた窓から飛んできた呪文にあたって、ばらばらに砕けていて、その残骸が弱々しく床の上で身動きしていた。ハリーが、その体から離れた頭の一つを飛びこえたとき、それがかすかに呻いた。「私に構うな……横になって砕けるから……」
その醜い石の顔を見て、ハリーは、突然、ゼノフィリウスの家にあった、あの気ちがいじみた頭飾りをかぶっていたロウィーナ・レイブンクローの大理石の胸像を――それから、レイブンクローの塔の、白い巻き毛に石のダイアデムをかぶっていた像を思い出した……
通路の端まで来たとき、三番目の石の彫像の記憶がよみがえってきた。醜い老魔法使い、その頭にハリー自身が、かつらと壊れた古いティアラをかぶせた。衝撃が、ファイア・ウィスキーの熱のように体をつらぬいたので、ハリーはよろけそうになった。
とうとう、ホークラックスが、どこで待っているか分かったのだ……
トム・リドルは、自分以外の誰も信用せず、自分一人で仕切っていたが、とてもうぬぼれていたので、自分が、自分だけが、ホグワーツ城の深遠な秘密の数々に通じたと思いこんでいたのだろう。もちろん、ダンブルドアやフリットウィックや模範生たちは、あの特殊な場所に足を踏みいれたことはなかった。けれど彼、ハリーは学校時代にふつうでないことをやってきた――これこそ、彼とヴォルデモートが知っていて、ダンブルドアがけっして知らなかった秘密だ――
ハリーは、スプラウト先生がネビルと他の六人を従えてドタドタとやってきたので、はっとわれに返った。彼らは、耳あてをして、大きなサヤがついた植物のようにみえるものを運んでいた。
「マンドレイクだ!」ネビルが、走りながら肩ごしにふり返って、ハリーに叫んだ。「壁ごしに、投げてやるんだ――彼らは気に入らないだろうよ!」
ハリーは、今からどこへ行くべきか分かって、走りだした。ハグリッドとファングが走って後に続いた。彼らは、肖像画を次々に通りすぎた。描かれた人物たちが、いっしょに並んで競走した。ひだえりをつけたり、銃を持ったり、よろいやマントを着たりした魔法使いや魔女が、互いの画の中にぎゅうぎゅう詰めになって、城の他のところのニュースを叫んでいた。彼らが廊下の端まで来たとき、城全体がゆれた。そして、巨大なつぼが爆発の力で台座から吹きとばされたとき、先生方や騎士団の魔法の力よりもっと邪悪な魔力に、城が掴まれたことを、ハリーは悟った。
「大丈夫だ、ファング――大丈夫!」ハグリッドが叫んだが、陶器の破片が爆弾のように空中を飛んでくると、大きな猟犬は逃げだした。ハグリッドは、ハリーを一人のこして、恐がった犬の後をドタドタと追っていってしまった。ハリーは杖を上げて、ゆれる通路を徐々に進んでいった。まっすぐな廊下の間を、画に描かれた小柄な騎士、カドガン卿が、画から画へと、よろいをガチャガチャ言わせ激励の言葉を叫びながら、ハリーの横を走っていき、太った小さなポニーが、その後からゆるいかけ足でやってきた。
「ほら吹きにごろつき、犬畜生に悪漢、やつらを追いだせ、ハリー・ポッター、追っぱらえ!」
ハリーが角を曲って突進すると、フレッドと、リー・ジョーダンやハナ・アボットを含む小人数の生徒がいて、秘密の抜け道を隠している像がいなくなった後の台座の横に立っていた。彼らは杖を出して、隠された穴の奥に音がしないかと耳をすませていた。
城が、またゆれたとき、「戦いに、いい夜だ!」とフレッドが叫んだ。ハリーは、元気づけられるのと、恐怖を同じくらい感じながら、そばを全力で走り。また次の廊下を走った。いたるところにフクロウがいた。ミセス・ノリスが、シューッと怒って前足でたたこうとした。フクロウたちを正しい場所に戻そうとしたのはまちがいない……
「ポッター!」
アベルフォース・ダンブルドアが、杖をあげ、行く手の廊下をふさいで立っていた。
「子供らが何百人も、俺の酒場をどやどやと通りぬけたぞ、ポッター!」
「うん、避難したんだ」ハリーが言った。「ヴォルデモートが――」
「――攻撃している、お前を手渡さなかったからな」とアベルフォースが言った。「おれは耳が遠くない。ホグズミード中が、彼の声を聞いたぞ。お前らの誰も、スリザリン生を何人か人質に取ることは考えなかったのか? お前らが安全に避難させた中にはデス・イーターの子もいる。彼らを、ここに置いといた方が、ちっと賢かったんじゃないか?」
「それでも、ヴォルデモートを止めることはできないよ」とハリーが言った。「それに、あなたの兄さんは、ぜったいそんなことさせなかっただろう」
アベルフォースは、ぶつぶつ言いながら、反対の方へ駆けていった。
「あなたの兄さんは、ぜったいそんなことさせなかっただろう」……うーん、それは真実だ。ハリーは、また走りながら考えた。あんなに長いあいだスネイプを守ったダンブルドアが、生徒を人質に取るわけがない……
それから、彼は最後の角を曲って横すべりした。そこにロンとハーマイオニーがいたので、ほっとしたのと怒り狂うのとが混じった気持ちになった。二人とも両手いっぱいに曲った汚い黄色の物体をかかえていて、ロンはわきの下に箒をはさんでいた。
「いったいぜんたい、どこに行ってたんだ?」ハリーが叫んだ。
「秘密の部屋」とロンが言った。
「部屋――何だって?」とハリーが言いながら、二人の前で急に止まってよろけた。
「ロンの、みんなロンの思いつきだったの!」とハーマイオニーが息をきらして言った。「ほんとうにすばらしいでしょ? あなたが出てってから、私たちあそこにいて、ロンに言ったの、別のが見つからないとしても、今あるのを破壊したらどうかしらってね。まだカップを破壊してなかったでしょ! そしたら、ロンが思いついたの! バジリスクを!」
「いったい――?」
「ホークラックスを破壊するものだよ」とロンが簡潔に言った。
ハリーの目が、ロンとハーマイオニーの腕にかかえられた物体に向いた。そして、それが死んだバジリスクから取ってきた大きな曲った牙だと、やっと分かった。
「でも、どうやってあの部屋に入ったんだ?」と、牙からロンへと視線を移しながら尋ねた。「パーセルタング(蛇の言語)を話さなくちゃならないのに!」
「彼が話したの!」とハーマイオニーがささやいた。「やって見せて、ロン!」
ロンは恐ろしそうな、息がつまったようなシューシューいう音を出した。
「君がロケットを開けるときに、そう言ったんだよ」とハリーに弁解するように言った。「正しく言うのに、何回かやってみなくちゃならなかったけどさ、でも」と控えめに肩をすくめた。「最後には、入れたんだ」
「彼は、みごとだったわ!」とハーマイオニーが言った。「みごとだったわ!」
「それで……」ハリーは、話についていこうと努力しながら言った。「それで……」
「それで、僕たちは、もう一つホークラックスを破壊したんだ」とロンが言って、上着の下から、ハッフルパフのカップの壊れた残骸を取りだした。「ハーマイオニーが突き刺した。彼女がやるべきだと思ったんだ。いまだに喜んではいないけど」
「天才的だ!」とハリーが叫んだ。
「何てことないさ」とロンが言ったが、自分に満足して喜んでいるようだった。「で、君の方はどうだい?」
ロンがそう言ったとき、頭上で爆発がおこった。三人が見あげると、天井から埃がふってきて遠くで叫び声が聞こえた。
「ダイアデムがどんなものか分かった、どこにあるかも分かった」とハリーが、早口でしゃべった。「彼は、僕が古い魔法薬の教科書を隠したのとちょうど同じ場所に、それを隠した。そこは、何百年ものあいだ、みんながいろいろ隠してきた場所だ。彼は、その場所を見つけたのは、自分だけだと思ってたんだ。さあ行こう」
壁が、またゆれたとき、ハリーは二人を連れて、隠された入り口に戻り、階段を下りて、「必要に応じて出てくる部屋」に入った。そこには、女性が三人だけいた。ジニー、トンクス、それに虫食いの穴がある帽子をかぶった老魔女だった。ネビルの祖母だとすぐ分かった。
「ああ、ポッター」彼女は、待っていたかのように、きびきびと言った。「どうなっているのか話しておくれ」
「みんな大丈夫?」とジニーとトンクスがいっしょに言った。
「僕たちが知るかぎりでは大丈夫」とハリーが言った。「ホグズヘッドへ行く通路には、まだ誰かいる?」
部屋は、中に人がいるあいだは、変化できないのを、ハリーは知っていた。
「私が、最後だったよ」とロングボトム夫人が言った。「私が、塞いでおいた。アベルフォースが酒場にいないのに、開けたままにしとくのは愚かなことだと思ったからね。私の孫に会ったかい?」
「彼は、戦ってます」とハリーが言った。
「当然」と老婦人が誇らしげに言った。「失礼するよ、孫を手伝いにいかなくては」
そして驚くべき速さで石段の方に小走りでいった。
ハリーはトンクスを見た。
「あなたは、お母さんちにテディといっしょにいると思ってたけど?」
「どうなってるか知らないでいるなんて耐えられない――」トンクスは、悲痛な表情をしていた。「母が、あの子の面倒をみてくれてるわ――リーマスに会った?」
「彼は、校庭で戦う集団を率いることになってた――」
何も言わずに、トンクスは駆け出していった。
「ジニー」とハリーが言った。「すまないけど、君にも出てもらわなくちゃならない。ほんの少しのあいだだけ。その後、戻ってきて入れるから」
ジニーは避難所を出るのを、ただもう喜んでいるようだった。
「その後、戻ってきて入れるから!」ハリーは、彼女がトンクスを追って階段をかけあがったとき、後ろから叫んだ。「戻ってこなくちゃだめだよ!」
「ちょっと待った!」とロンが鋭く言った。「誰か忘れてるぞ!」
「誰?」とハーマイオニーが尋ねた。
「屋敷しもべだよ、みんな下の台所にいるだろ?」
「彼らにも戦わせろっていう意味か?」とハリーが尋ねた。
「違う」とロンが真剣に言った。「彼らに、出ていけって言わなくちゃならないという意味だ。もうドビーみたいになってほしくないだろ? 僕たちのために死んでくれとは言えないよ――」
バジリスクの牙が、ハーマイオニーの腕から滝のように落ちて、ガラガラという音がした。彼女は、ロンに走りよって、両腕をその首に回し、ま正面からキスをした。ロンは、持っていた牙と箒を投げだして、熱烈に答えたので、ハーマイオニーを床から持ち上げてしまった。
「そんな場合かよ?」ハリーが弱々しく尋ねた。が、何も変わらず、ロンとハーマイオニーがもっとしっかりと抱きあって、その場でゆれているので、ハリーは声を大きくした。「おい! 戦争の最中なんだぞ!」
ロンとハーマイオニーは、ぱっと離れたが、まだ互いの体に腕を回していた。
「分かってるよ」とロンが言ったが、クィディッチでブラッジャーが後頭部にあたったような顔をしていた。「だから、今か、永久にないか、だろ?」
「それはいいけど、ホークラックスはどうなんだ?」ハリーが叫んだ。「ダイアデムを手にいれるまで、ちょっと――ちょっと、自制してくれないかな?」
「ああ――そうだ――ごめん――」とロンが言った。彼とハーマイオニーは、二人とも頬をピンクに染めて牙を拾いはじめた。三人が上の廊下に戻ってくると、「必要に応じて出てくる部屋」にいた数分の間に、城の状況が、ひどく悪化したのが、はっきり分かった。壁と天井が、もっとひどくゆれて、埃が空中いっぱいに舞っていた。近くの窓からハリーが見ると、緑と赤の閃光が、城にとても近いところを飛びかっていたので、デス・イーターが、中に入ろうと、すぐ近くにいるのが分かった。ハリーが見おろすと、巨人のグロウプが、不機嫌そうに大声でほえながら、屋根からもぎ取った石の怪物像のようにみえるものをふって、ふらふらと歩いていった。
「彼が、数人踏んづけてくれるのを期待しよう!」とロンが言った。そのとき、また悲鳴が、近くで響きわたった。
「仲間の一人でなければいいけど!」と声がした。ハリーがふりむくと、ジニーとトンクスが二人とも、隣のガラスが数枚なくなっている壊れた窓から、杖を外に向けていた。ハリーが見ているあいだにも、ジニーが下の戦ってい集団に向けて、うまくねらいを定めて呪文を放った。
「いい子だ!」と埃を突っきって、彼らの方に走ってきた人影が叫んだ。ハリーが見るとまたアベルフォースだった。灰色の髪を後ろになびかせて、数人の生徒を率いていくところだった。「やつらは、北の胸壁を破ろうとしているようだ、自分たちの巨人を連れてきたぞ!」
「リーマスを見た?」トンクスが、彼の後ろから呼びかけた。
「ドロホフと決闘していた」とアベルフォースが叫んだ。「それ以来、見ていない!」
「トンクス」とジニーが言った。「トンクス、彼は、きっと大丈夫よ――」
けれどトンクスは、アベルフォースの後を追って、埃の中に突っ込んで走っていった。
ジニーが、どうしようもないという様子で、ハリー、ロン、ハーマイオニーの方をふりむいた。
「彼らは大丈夫だよ」とハリーは言ったが、それが虚しい言葉だと分かっていた。「ジニー、僕たちはすぐ戻る。危ないところを避けていろ、無事でいろ、―、さあ行こう!」とロンとハーマイオニーに言った。彼らは走って、壁がずっと続いているところまで戻った。その向こうで、「必要に応じて出てくる部屋」が次の参加者の命令に答えようと待っていた。
「僕は、すべてのものが隠されている場所が必要です」ハリーは、頭の中で熱心に願った。すると彼らが三度目に走って通りすぎたとき、扉があらわれた。彼らが、その戸口から入って後ろで扉を閉めた瞬間、戦いの熱気が止んだ。そこは静まりかえっていた。彼らは、都市の大聖堂くらいの大きさの場所にいた。そびえたつ壁は、何千年ものあいだ、もういなくなってしまった生徒たちが隠してきた品物が積みかさなってできていた。
「彼は、誰かが入るかもしれないと、全然思わなかったのか?」とロンが言った。その声が静寂の中に響いた。
「彼は、自分一人だと思ってたんだ」とハリーが言った。「残念ながら、僕の時代に、僕が、物を隠さなくちゃならなかった……こっちだ」と、つけ加えた。「ここを行ったところだと思う……」
ハリーは、はく製のトロルと、ドラコが去年修理して、あんな破滅をまねく結果となった消える飾り戸棚を通りすぎた。それから、ためらいながらガラクタの通路をあちこち見まわした。次にどちらに行くのか忘れてしまった……
「アクシオ・ダイアデム<ダイアデムよ来たれ>」とハーマイオニーが必死になって叫んだが、何も、こちらの方に空中を飛んでこなかった。グリンゴッツの金庫でと同じように、この部屋は、そう簡単には隠された品物を渡しはしないようだった。
「別れよう」ハリーが、二人に言った。「かつらとティアラをかぶった老人の石の胸像を探せ! 食器棚の上にある。ぜったいに、どこかこの近くだ……」
彼らは、隣りあった通路を別れて走っていった。ハリーに、二人の足音が、塔のように積みあがったものの中に響きわたるのが聞こえた。ガラクタ、瓶、帽子、木枠、椅子、本、武器、箒、コウモリ……
「どこかこの近く」ハリーは、ひとりごとを言った。「どこか……どこか……」
迷路を、どんどん奥深く入って、以前この部屋に来たときに見たことがある品物を探していった。自分の息づかいが大きく聞こえた。そのとき、自分自身の魂が震えるような気がした。すぐ先に、それがあったのだ。古い魔法薬の教科書を隠した気泡ができた古い食器棚。その上に、あばた面の石の魔法使いが、汚い古いかつらと、時代がかった色があせたティアラをかぶっていた。
ハリーは、まだ三メートルも離れていたのだが、もう手を伸ばしていた。そのとき、後ろから声がした。「動くな、ポッター!」
ハリーは、滑りながら止まって、振り向いた。クラッブとゴイルが並んで、杖をハリーに向けて、後ろに立っていた。二人のあざ笑う顔の小さなすきまから、ドラコ・マルフォイが見えた。
「お前が持っているのは、僕の杖だ、ポッター」とマルフォイが、クラッブとゴイルのあいだから、自分の杖を向けながら言った。
「もう、そうじゃない」とハリーが、あえぎながら言って、サンザシの杖を握りしめた。「勝った者が持ち主だ、マルフォイ。だれが、お前に杖を貸してくれたんだ?」
「母だ」とドラコが言った。
その状況には、面白いところは何もなかったけれど、ハリーは笑った。もうロンとハーマイオニーの声は聞えなかった。ダイアデムを探して、声が届かないほど遠くに走っていってしまったようだった。
「で、いったいどうして、お前たち三人はヴォルデモートといっしょにいないんだ?」とハリーが尋ねた。
「ほうびがもらえることになってる」とクラッブが言った。その声は、ずうたいが大きい人間にしては驚くほど静かだった。ハリーは、彼がしゃべるのを、これまでほとんど聞いたことがなかった。クラッブは、大きなお菓子の袋をもらえることになっている小さな子供のように笑っていた。「僕たちは、ぐずぐずしていた、ポッター。行かないことに決めた。お前を彼に引き渡すことに決めた」
「いい計画だ」とハリーが、ばかにして、褒めながら言った。こんなに近くで、マルフォイ、クラッブ、ゴイルに邪魔されることになるなんて信じられなかった。そしてホークラックスが胸像の上に、斜めになってのっている場所の方に、後ろ向きに、ゆっくり少しずつ進みはじめた。もし戦いになる前に、それを掴むことさえできれば……
「それで、どうやってここに来たんだ?」ハリーは、彼らの気をそらそうとして尋ねた。
「僕は、去年、物が隠されている部屋で、事実上暮らしていた」とマルフォイが、不安定な声で言った。「僕は入り方を知っている」
「僕たち、外の廊下に隠れてた」とゴイルが、ぶつぶつと小声で言った。「今ではカメオン(カメレオン)呪文ができるからな! そしたら」彼は、まぬけな笑いを顔いっぱいに浮かべた。「お前が、僕たちのまん前にあらわれて、ダイダム探してる言った! ダイダムたあ何だ?」
「ハリー?」ロンの声が、突然ハリーの右手の壁の反対側から響いた。「誰かと話してるのか?」
ムチがしなうような、すばやい動きで、クラッブが、杖を、高さ十五メートルに積みあがった古い家具、壊れたトランク、古本、ローブ、何だか分からないガラクタの山に向けて叫んだ。「ディセンド!<下りろ>」
がらくたの壁がゆらぎはじめ、それからロンが立っている隣の通路に崩れおちた。
「ロン!」ハリーが大声で叫んだ。そのとき、どこか見えないところからハーマイオニーが悲鳴をあげた。不安定になった壁の向こう側の床に、数えきれない品物が崩れおちる音が、ハリーに聞こえた。そこで杖を壁に向けて叫んだ。「フィニト!<終れ>」すると、壁はしっかりした。
「止めろ!」とマルフォイが、呪文をくりかえそうとしたクラッブの腕を押さえながら叫んだ。「もし、部屋を破壊したら、このダイアデムとかいう物を埋めてしまうかもしれない!」
「それがどうした?」とクラッブが、自由の身になろうと腕を引っぱりながら言った。「闇の帝王が欲しいのはポッターだ、ダイアデムとかいうものは、どうでもいい!」
「ポッターは、それを取りにここへ来た」とマルフォイが、仲間のもの分かりの悪さに、苛々しているのを隠そうとしたが、うまく隠せないで言った。「つまり、こういうことにちがいない――」
「『こういうことにちがいない』だと?」クラッブがマルフォイの方をふりむいて、残忍さを隠そうともしないで言った。「お前が思うことを、誰が気にするものか? もう、お前の命令には従わないぞ、ドラコ。お前も、お前の父親も、もう終わりだ」
「ハリー?」と、ロンが、ガラクタの壁の向こう側からまた叫んだ。「どうしたんだ?」
「ハリー?」とクラッブが、まねをした。「どうしたんだ――だめだ、ポッター! クルシオ!」
ハリーは、ティアラの方に突進した。クラッブの呪文は、はずれて、石の胸像にあたった。それは空中に飛びあがり、ダイアデムは上の方に舞いあがり、それから、胸像が、崩れおちたがらくたの山の中に見えなくなった。
「やめろ!」マルフォイがクラブに叫んだ。その声が巨大な部屋中に響いた。「闇の帝王は、彼を生きたまま欲しがっている――」
「それが何だ? 僕は、あいつを殺しはしない、そうだろ?」とクラブが叫んで、マルフォイの制止しようという腕を払いのけた。「だが、できるものならやってやる。どっちみち、闇の帝王は、あいつに死んでほしいんだろ、どんな違いが――?」
赤い閃光が、ハリーのすぐそばをかすめて飛んでいった。ハーマイオニーが、角を曲がってハリーの後ろに走ってきて、クラブの頭めがけて気絶させる呪文を放ったのだ。だが、マルフォイが、彼を引っぱったので、あたらなかった。
「穢れた血のやつだ! アバダ・ケダブラ!」
ハーマイオニーが横に飛び込むのが見えた。クラッブが殺人の呪文を放ったことに、ハリーは、激怒して他のことをすべて忘れてしまい、気絶させる呪文を、クラブに放った。クラブは、横にそれたがよろめいて、マルフォイの杖を、その手から、はたき落とした。杖は、ころがって壊れた家具と箱の山の下に見えなくなった。
「彼を殺すな! 殺すなってば!」マルフォイが、二人そろってハリーをねらっているクラッブとゴイルに叫んだ。二人がほんの一瞬ためらったので、ハリーには十分だった。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」
ゴイルの杖が手から飛びあがって、横の品物が積みあがった土塁の中に見えなくなった。ゴイルは愚かなことに、杖を取りもどそうと、その場に飛びこんだ。ハーマイオニーが気絶させる呪文をまた放ったが、マルフォイは、それが届く範囲から飛びのいた。ロンが突然、通路の端からあらわれて、完璧な、体縛りの呪文をクラッブに放ったが、きわどいところで当たらなかった。
クラッブが、ぐるっと回って、また叫んだ。「アバダ・ケダブラ!」ロンが、その緑色の閃光を避けようと、飛びのいて見えなくなった。杖のないマルフォイが三本足の衣装ダンスの後ろに身をひそめていたとき、ハーマイオニーが、彼らの方に突進してきて、そのとちゅうで放った気絶させる呪文が、ゴイルにあたった。
「あれは、ここの、どこかにある!」ハリーが、古いティアラが落ちたガラクタの山を指さして、彼女に叫んだ。「探してて。そのあいだに助けてくるから、ロ――」
「ハリー!」彼女が、甲高い声で叫んだ。
後ろで、吠えるような、吹きあがるような物音がしたので、はっとしてハリーがふりむくと、ロンとクラッブの両方が、こちらに向って、通路を必死に走ってくるのが見えた。
「熱いのが好きか、クズ?」と走りながらクラッブが怒鳴った。
しかし、クラッブは、自分がしでかしたことを、まったく抑えられないようだった。異常に大きな炎が彼らを追ってきた。炎は、両側のがらくたの土塁をなめ尽くし、がらくたは、炎が触れるとすすになって崩れ去った。
「アグアメンティ!<水よ出ろ>」ハリーが大声で怒鳴ったが、杖の先から舞いあがった水流は、空中で蒸発した。
「走れ!」
マルフォイが、気絶したゴイルをつかんで、引っぱった。クラブが、恐がっているように全員を追い越した。ハリー、ロン、ハーマイオニーは、その後を走った。火が、彼らを追ってきた。ふつうの火ではなかった。クラブは、ハリーがまったく知らない呪文を使ったのだ。彼らが角を曲がったとき、炎は、生きていて、感覚を持ち、殺そうとする意志があるかのように、彼らを追ってきた。今や、炎は変化して、火でできた獣たちの巨大な一かたまりになっていた。炎でできた蛇、キメラ、ドラゴンが、起きあがり、沈み、また起きあがった。それらが食べようとする何百年にもわたる残骸が空中に放りだされて、牙のある口に入り、かぎ爪のある足で高く放りあげられた後、大火に飲みこまれた。
マルフォイ、クラッブ、ゴイルは、姿が見えなくなった。ハリー、ロン。ハーマイオニーは、じっと立ちどまった。火の獣たちが、まわりを取りまき、かぎ爪と角、むち打つようにしなう尾が、どんどん近づいてきた。熱が、壁のようにしっかり取りまいていた。
「どうしたらいいの?」ハーマイオニーが、耳をつんざく炎の吠え声より大きな叫び声をあげた。「どうしたら?」
「ほら!」
ハリーが、手近ながらくたの山から、重そうな箒を二本つかんで、一本をロンに放りなげた。ロンは、ハーマイオニーを引っぱって後ろに乗せた。ハリーは、二本目の箒にさっとまたがって、床を強く蹴った。彼らは空中に舞いあがった。炎の肉食鳥の尖ったくちばしが、もう少しで、彼らにかみつくところだった。煙と熱が耐えられないほどになってきた。下では、呪われた火が、何世代もの追われた生徒たちが、こっそり持ちこんだ品物や、多数の禁止された実験の後ろめたい結果や、この部屋に避難を求めた数えきれない魂の秘密を、飲みこんでいた。マルフォイ、クラッブ、ゴイルの姿は、どこにも見えなかった。彼らの姿を探そうとして、ハリーは、うろつき回る炎の怪物たちの上に舞いおり、できるだけ低いところを飛んだ。けれど、火しかなかった。死ぬのに、何という恐ろしい方法……自分は、ぜったいにこんなのは嫌だった……
「ハリー、出よう、出ようったら!」とロンが叫んだ。だが、黒い煙ごしに、扉がどちらにあるのか見えなかった。
そのとき、恐ろしい混乱、ごうごうと燃えさかる炎の中、ハリーは、細い哀れっぽい人間の悲鳴を聞いた。
「それは――あまりに――危険だ!」ロンが叫んだが、ハリーは空中で回って向きを変えた。眼鏡で、ほんの少し煙を防ぐことができた。そして下の大火災による旋風をかき分け、生命の印、まだ木のように黒焦げでない手足や顔を探した……
そして、ハリーは彼らを見た。マルフォイが、腕を意識のないゴイルに回していた。その二人は、黒焦げになった机が、いまにも崩れそうに積みかさなった上に腰をかけていた。ハリーは、急降下した。マルフォイは、彼が来るのに気づいて片手をあげた。けれど、ハリーがつかんだとき、それでは役にたたないと分かった。ゴイルが重すぎ、マルフォイの手は汗まみれで、たちまちハリーの手から滑ってしまったのだ――
「もし僕たちが、彼らのせいで死ぬことになるなら、僕は、君を殺す、ハリー!」とロンの声が轟いた。そして大きな炎のキメラが彼らに向ってきたとき、ロンとハーマイオニーは、ゴイルを箒の上に引っぱりあげて、もう一度空中に回転しながら飛びあがった。マルフォイはハリーの後ろによじのぼった。
「扉、扉の方へ、扉だ!」マルフォイが、ハリーの耳に絶叫し、ハリーは、速度をあげて、ロンとハーマイオニーとゴイルの後を追った。吹きあがる黒煙の中、ほとんど息もできなかった。彼らのまわりでは、すべてを飲みこむ炎に、まだ焼かれていない最後の品物がいくつか、空中に舞いあがっていた。呪文をかけられた火の生き物たちが、お祝いに高く放りあげているようだった。カップや盾や輝く首飾り、そして古い色あせたティアラ――
「何をする、何をする気だ? 扉はあっちだ!」とマルフォイが絶叫したが、ハリーはぐいっと向きを変えて、急降下した。ダイアデムは、スローモーションで落ちていくように見えた。大きく口を開けた蛇のおなかの中に向って落ちていきながら、くるくる回り、きらきら輝いていた。そのとき、ハリーは、それを取った。手首にかけた――
蛇が飛びかかってきたので、ハリーはまた向きを変えて、舞い上がり、扉が開いたままになっていてくれと祈る方向に、まっすぐ向った。ロンとハーマイオニーとゴイルの姿は見えなかった。マルフォイは絶叫し、ハリーが傷つくほど固くしがみついていた。そのとき、煙の向こうに、壁に長方形の空間があるのが見えたので、箒をそちらに向けた。少したつと、新鮮な空気が肺の中いっぱいに入り、彼らは廊下の反対側の壁に衝突した。
マルフォイは、箒から落ちて、うつぶせに倒れ、息を切らせ咳きこみ吐こうとしていた。ハリーは、床をころがって身をおこした。「必要に応じて出てくる部屋」に入る扉は消えていて、ロンとハーマイオニーが床に座って、息を切らせていた。そのそばにはゴイルがいたが、まだ意識を失っていた。
「ク、クラッブ」とマルフォイが、口がきけるようになるとすぐ言ったが、言葉がつまった。「ク、クラッブ……」
「死んだよ」とロンが厳しい口調で言った。
あえいだり咳きこんだりするほか、誰も何も言わなかった。そのとき、巨大な音がドンドンとして、城がゆれた。透明な姿の騎馬の一団が、血に飢えた叫びをあげる頭を腕にかかえて早足で通りすぎた。頭のない騎兵たちが通りすぎたとき、ハリーはよろめきながら立ちあがって見まわした。退却する幽霊の叫びよりもっと多くの叫びが聞こえた。恐れとろうばいが、心の中に燃えあがった。
「ジニーはどこだ?」ハリーは鋭く言った。「ここにいたんだ。『必要に応じて出てくる部屋』に戻ることになっていたから」
「あのさ、あの火事の後でも、まだ部屋が変化すると思うか?」とロンが、やはり立ちあがって胸をさすりながら左右を見まわして、尋ねた。「別れて探そうか?」
「だめよ」とハーマイオニーも立ちあがりながら言った。
マルフォイとゴイルは、どうしようもなく廊下に倒れたままだった。どちらも杖を持っていなかった。「いっしょに、いましょ。行きましょうってことよ、―、ハリー、腕にかけてるの何?」
「えっ? ああ、そうだ――」
ハリーは、ダイアデムを手首からはずして持ちあげた。まだ熱く、すすで黒くなっていたが、よく見ると、そこに彫られた小さな字を見分けることができた。「計りしれない知恵は、人類のもっとも偉大な宝」
黒っぽくどろっとした血のようなものが、ダイアデムから漏れだしているようだった。急に、それが荒々しく震えて、それからハリーの手の中で、ばらばらに壊れた。そのとき、とてもかすかな苦痛の叫び声が、とても遠くから聞こえたような気がした。その声は、校庭や城からではなく、今、指の中でばらばらになったものから響いてきた。
「あれは、きっと悪魔の火だったのよ!」とハーマイオニーが、壊れた破片を見ながら涙声で言った。
「何のこと?」
「悪魔の火――呪文をかけられた火――ホークラックスを破壊するものの一つ。でも私はぜったいにぜったいに、それを使おうとは思わなかった。とても危険だもの。どうしてクラブは知っていたのかしら、やり方を?」
「カロウたちに習ったにちがいない」とハリーが厳しく言った。
「火の止め方を教えたときに、ちゃんと聞いていなかったのは残念だな、まったく」とロンが言った。その髪の毛は、ハーマイオニーのと同じように焼けこげていて、顔は黒くなっていた。「もし彼が僕たちみんなを殺そうとしなかったら、彼が死んでとても残念だと思うんだけど」
「でも、分かるでしょ?」とハーマイオニーがささやいた。「ということは、蛇さえ捕まえれば――」
けれど彼女は話を途中でやめた。わめき声や叫び声、それに、まちがいなく決闘している音が、廊下中に聞えてきた。ハリーは見まわして、心臓が止まるような気がした。デス・イーターがホグワーツに侵入してきたのだ。フレッドとパーシーが後ずさりにやってくるのが見えてきた。二人とも覆面をし、フードをかぶった男たちと戦っていた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは助けようと前方にかけだした。閃光があらゆる方向に飛び、パーシーと戦っていた男は、すばやく後ずさりした。そのときフードが取れたので、高い額と流れるような髪が見えた――
「こんにちは、大臣!」とパーシーが大声で叫んで、シックネスにめがけて、巧みに呪文を放ったので、彼は杖を落とし、自分の前をひどく不快なようすで手探りしていた。「僕、辞職すると言いましたっけ?」
「君、ジョーク言ってるよ、パース!」とフレッドが叫んだ。そのとき、彼が戦っていたデス・イーターが、別々の三方向から来た呪文の重みに崩れるように倒れた。シックニースは地面に倒れたが、体中に小さなトゲができて、ウニの一種に変ってしまったように見えた。フレッドはパーシーを、うれしそうに見た。
「ほんとにジョークを言ってるよ、パース……この前、君がジョークを言うのを聞いたのは――」 周りが爆発した。そのとき彼らはいっしょに固まっていた。ハリー、ロン、ハーマイオニー、フレッドとパーシー、足下にデス・イーターが二人いたが、一人は気絶させられ、もう一人は変身させられていた。ほんの一瞬、危険が一時に押しせまり、世界が粉々に砕けた。ハリーは空中を飛んでいた。ただ一つの武器である細い木の棒をしっかりにぎって、頭を腕でおおうことしかできなかった。仲間が、何が起きたのか分からずに叫んだり、わめいたりする声が聞こえた――
それから、世界が、苦痛と半暗闇に変った。ハリーは、ひどい攻撃を受けた廊下の残骸に半分埋っていた。冷たい空気が流れこんできので、城の片側が吹きとばされたのだと分かり、頬に熱くねばつくものを感じて、多量に出血したのが分かった。そのとき、体の中をぐっと引っぱるような恐ろしい叫び声が聞こえた。それは、炎でも呪文でも起こせないような種類の激しい苦悶をあらわしていた。彼はぐらつきながら立ちあがったが、その日に感じたことがないほど恐怖を感じていた、いや、おそらくこれまでの人生で感じたことがないほどの恐怖を……
ハーマイオニーも残骸の中で立ちあがろうともがいていた。壁が吹きとばされた場所に、三人の赤毛の男が集まっていた。ハリーはハーマイオニーの手をつかみ、石と木の上をよろめき、つまずきながら進んだ。
「いやだ――いやだ――いやだ!」誰かが叫んでいた。「いやだ!――フレッド! いやだ!」
パーシーが弟の体をゆすった。ロンが、そばにひざまずいていた。フレッドの目は開いていたが何も見ていなかった。最後の笑いの影が、まだ口元に刻まれていた。
第32章 ニワトコの杖
The Elder Wand
世界の終わりだ。なのに、なぜ戦いが止み、城が恐怖に静まりかえり、すべての戦闘員が武器を置かないのだろうか? ハリーの心は、ずんずん落ちつづけ、制御不能にぐるぐる回り、不可能なことを理解することができなかった。なぜなら、フレッド・ウィーズリーが死ぬはずがないからだ。彼が感じている証拠すべては、偽りにちがいない――
そのとき、人の体が、吹き飛ばされてできた穴から校内に落ちてきて、暗闇から呪文が彼らめがけて飛んできて、頭の後ろの壁にあたった。
「うずくまれ!」ハリーが叫んだ。夜の中を、呪文がもっとたくさん飛んできた。ハリーとロンは二人でハーマイオニーをつかみ、床にふせさせた。けれどパーシーはフレッドの上におおいかぶさって、これ以上傷つかないように守っていた。ハリーが、「パーシー、行こう、移動しなくちゃ!」と叫んだが、彼は首を横にふった。
「パーシー!」ロンが兄の肩を掴んで引っぱるとき、すすで汚れたロンの顔に涙の跡が縞になっているのが、ハリーに見えた。けれどパーシーは動こうとしなかった。「パーシー、もう彼のためにできることは何もないんだ! 僕たちがしなくちゃならないのは――」
ハーマイオニーが悲鳴をあげた。ハリーが振り向くと、なぜかと尋ねる必要なく分かった。小型車くらいの巨大なクモが壁の巨大な穴から、のぼって入ってこようとしていた。アラゴグの子孫の一頭が戦いに加わったのだ。
ロンとハリーは、一緒に叫んだ。二人の呪文があたって、怪物は後ろに吹きとばされ、足を激しくぐいと動かして暗闇に消えていった。
「あれが友だちを連れてきたぞ!」ハリーが、呪文が吹きとばした壁の穴から城の端を見ながら他の人に呼びかけた。巨大な蜘蛛がもっとたくさん城の外壁をのぼっていた。デス・イーターが禁じられた森に入りこんで解放されたのだ。ハリーは、気絶させる呪文を蜘蛛たちの上に放った。それは先頭の怪物にあたり、後に続く仲間にぶつかったので、城の外壁を転がりおちて見えなくなった。そのとき、もっとたくさんの呪文が、ハリーの頭上に飛んできた。とても近かったので、その風圧で髪の毛がゆれた。
「行こう、さあ!」
ハーマイオニーを、ロンといっしょに自分の前に押しだしながら、ハリーは、かがんでフレッドを脇の下に抱えあげようとした。パーシーは、ハリーが何をしようとしているか悟って、体にしがみつくのをやめて手伝った。彼らはいっしょに、校庭から彼らめがけて飛んでくる呪文を低くかがんで避けながら、フレッドを呪文が来ないところまでひきずった。
そして「ここに」とハリーが言って、前によろいかぶとが立っていた隅に横たえた。ハリーは、必要以外は、ほんの少しでもフレッドの顔を見るのに耐えられなかったが、彼を見つからないようにしっかり隠してから、ロンとハーマイオニーの後を追った。マルフォイとゴイルはいなくなっていた。廊下は、埃や、落ちてくる石材や、ずっと前に窓から落ちたガラスでいっぱいだった。向こうの端で、たくさんの人々が行ったり来たりしているのが見えたが、友人か敵か分からなかった。角を曲ると、パーシーが雄牛のような叫び声をあげた。「ルックウッド!」そして、数人の生徒を追いかけている背の高い男の方に向って全力で走っていった。
「ハリー、こっち!」ハーマイオニーが、かんだかい声で叫んだ。
彼女はロンを壁掛けの後ろに引っぱりこんでいた。二人はもみ合っているようだった。ほんの一瞬、二人がまた抱きあっているのかと、ハリーは気ちがいじみた考えをいだいた。それから、ハーマイオニーがロンを止めようとしているのが分かった。ロンはパーシーの後を追って走りだそうとしていたのだ。
「聞いて、ロン――聞いてってば、ロン!」
「僕は手伝いたい――デス・イーターを殺したい――」
ロンの顔は、埃と煙で汚れていたが、苦痛に歪んでいた。そして、激しい怒りと悲しみで震えていた。
「ロン、私たちだけが、これを終わらすことができるのよ! お願い――ロン――蛇がいるわ、私たち、蛇を殺さなくちゃ!」とハーマイオニーが言った。
けれど、ハリーは、ロンがどんなふうに感じているか分かっていた。別のホークラックスを追っても、復讐心は満足させられない。ハリー自身も戦いたかった。フレッドを殺したやつらを追いかけたかった。それに、他のウィーズリー家を見つけたかった。何よりも、確かめたかった。ジニーの無事を、しっかり確かめたかった――でも、心に、その思いを抱くことを自分に許すことはできなかった――
「私たちは、戦うわ!」ハーマイオニーが言った。「戦わなくてはならない、蛇を手にいれるために! でも、今は忘れてはだめ、私たちが、や、やらなくてはならないことを! 私たちだけが、これを終わらせることができるのよ!」
彼女も泣いていた。話しながら、破れて焦げた袖で、顔をふいた。けれど、とても深く息を吐いて、自分を落ちつかせ、まだしっかりロンを捕まえたまま、ハリーの方を向いた。
「ヴォルデモートがどこにいるか見つけて。彼が蛇をいっしょに連れているのだから、そうでしょ? やってちょうだい、ハリー――彼の心をのぞいてみて!」
なぜ、それが、とても簡単なのだろう? 傷跡が何時間も前から焼けつくように痛んでいて、ヴォルデモートの考えを、ハリーに見せたくてしかたがなかったせいだろうか? 彼は、彼女の命令に従って目を閉じた。たちまち、悲鳴やドンという音や、戦いの耳ざわりな音がすべてかき消えて、遠くなった。まるで、戦いから遠く遠く離れたところに立っているようだった……
彼は、誰もいないが、不思議に見なれた部屋のまんなかに立っていた。その部屋は、壁紙がはがれ、窓は、一つを除いて、すべて板がうちつけてあった。城の激しい攻撃の音は、くぐもって遠かった。ただ一つふさがれていない窓から、遠くの閃光が、城があるところに見えた。しかし部屋の中は暗く、ランプが一つあるだけだった。
彼は、指の間で、杖を転がし、それを見ながら、城の「部屋」のことを考えていた。彼だけが見つけた内緒の「部屋」。「秘密の部屋」のようなものだ。見つけ出すには、賢く、ずるく、詮索好きでなくてはならない……あの少年が、ダイアデムを見つけだすはずがないと、彼は自信を持っていた……だがダンブルドアのあやつり人形は、彼が思っていたよりも、はるかに深く知ってしまった……はるかに深く……
「閣下」と、必死のかすれ声がした。彼はふりむいた。ルシウス・マルフォイが、いちばん暗い隅に座っていた。ぼろを着て、あの少年がこのあいだ逃走した後で受けた罰の傷跡がまだ残っていて、片目は、閉じたままでふくらんでいた。「閣下……どうか……息子が……」
「もし、お前の息子が死んでも、ルシウス、私のせいではないぞ。彼は、他のスリザリン生のように、私のところに加わろうとしてやっては来なかった。おそらくハリー・ポッターを友として助けようと決めたのではないか?」
「いえ――決してそのようなことは」とマルフォイが小声で言った。
「お前は、そうでないと期待するにちがいないが」
「あのう――ポッターが、あなたの手ではなく、他の者の手によって殺されるかもしれないとは心配されないのですか、閣下?」とマルフォイが震え声で尋ねた。「あのう……失礼をお許しのほど……この戦いを中止して、城に入り、あなたご、ご自身で、彼を探した方が確かなのではないでしょうか?」
「本心を偽るな、ルシウス。お前は、戦いが止んで、息子がどうなったか見つけだすことを望んでいるのだ。私は、ポッターを探す必要はない。夜が果てる前に、ポッターが私を捜しに来るだろう」
ヴォルデモートは、もう一度指のあいだの杖に視線を落とした。杖のことで悩んでいた……ヴォルデモートが悩むことは、やり直さなくてはならない……
「スネイプを連れてこい」
「スネイプですか?」
「スネイプだ。今。彼が必要だ。これが――お前に要求する――奉仕だ。行け」
ルシウスは、恐れながら、薄暗がりの中で少しよろけて部屋を出ていった。ヴォルデモートは、そこに立ったままで、杖を指のあいだでくるくる回しながら、それを見つめていた。
「それが、ただ一つの方法だ、ナギニ」彼はささやいた。そして見まわすと、大きな太い蛇が、専用につくられた魔法で保護された場所の中で、空中に浮いたまま優美に巻きついていた。それは、輝く檻と水槽の間のようなもので、星のように輝く透明な球だった。
ハリーは、はっとしてわれに返り、目を開いた。同時に、戦いの悲鳴や叫び声、砕ける音やドンとぶつかる音が響いた。
「彼は、『叫ぶ小屋』にいる。蛇がいっしょにいる。それは、何か魔法で守られている。ルシウス・マルフォイにスネイプを呼びにやらせたところだ」
「ヴォルデモートは、『叫ぶ小屋』に座ってるの?」とハーマイオニーが憤慨して言った。「彼は――彼は戦ってさえいないの?」
「彼は戦う必要がないと思ってる」とハリーが言った。「彼は、僕が彼のところに行くと思ってるんだ」
「でも、なぜ?」
「彼は、僕がホークラックスを追っていることを知ってる――彼は、ナギニを、そば近くに置いてる――僕がそれの近くに行くには、当然、彼のところに行かなくてはならない――」
「そうだ」とロンが肩をいからせて言った。「だから、君は行ったらだめだ。それを彼は望んで、期待してる。君はここにいてハーマイオニーを守ってろ。僕が取りにいって――」
ハリーが、ロンの言葉を遮った。
「君たち二人が、ここにいろ。僕が透明マントを着て、できるだけ早く戻ってくるから――」
「だめよ」とハーマイオニーが言った。「この方が、はるかに理にかなってるわ、つまり私がマントを着て――」
「そんなこと、考えるだけでもだめだ」とロンが、がみがみと言った。
「ロン、私の方が得意だから――」ハーマイオニーが、それ以上言う前に、彼らが立っている階段の上の壁掛けが、引きさかれて開いた。
「ポッター!」
覆面をしたデス・イーターが二人、そこに立っていた。しかし、その杖がちゃんと上がるより先に、ハーマイオニーが叫んだ。「グリッソ!<滑れ>」
彼らの足元の階段が、滑り台のように平らになり、彼女とハリーとロンは、スピードを抑えられないくらい、とても速く、すごい勢いで滑りおりた。デス・イーターの気絶させる呪文が、頭のはるか上を飛び去った。そして、階段のいちばん下を隠している壁掛けを突きぬけて突進し、反対側の壁にぶつかった。
「デュロ!<拘束せよ>」とハーマイオニーが、杖を壁掛けに向けて叫んだ。すると壁掛けが石に変り、彼らを追ってきたデス・イーターがそれにぶつかって、胸が悪くなるような砕ける音が二つした。
「下がれ!」とロンが叫んだ。彼とハリーとハーマイオニーは扉に張りついた。全力で走るマクゴナガル先生に率いられた机の群れが疾走してきたのだ。彼女は、ハリーたちに気づかないようだった。髪がたれて、頬には深い切り傷があった。彼女が角を曲って「突撃!」と叫ぶ声が聞こえた。
「ハリー、透明マントを着なさい」とハーマイオニーが言った。「私たちのことは気にしないで――」
けれど、ハリーは三人の上にマントをかけた。彼らは、もう大きかったけれど、空中につまった埃や、倒れた石や、呪文の光の中では、姿が見えないのに足だけ出ているのに、誰も気づかないだろうと思った。
彼らが、次の階段をかけおりると、その廊下は、戦っている人たちでいっぱいだった。デス・イーターで覆面をしたのも、していないのも両方、生徒や先生と戦っていた。そのあいだ、両側の肖像画の中は、忠告や激励の言葉を叫ぶ人々で混みあっていた。ディーンは戦って杖を勝ちえていた。今、ドロホフに相対していたからだ。パーバッティはトラバースと戦っていた。ハリー、ロン、ハーマイオニーは、すぐに杖を上げて、攻撃する用意をした。けれど、戦う人たちは、ジグザグに進んだり突進したりしていたので、呪文を放てば味方を傷つける恐れが大いにあった。彼らが、攻撃する機会を探して、身がまえていたときちょうど、大きな「ウィ――――――!」っという音がしたので、ハリーが見あげると、ピーブスが彼らの上をブーンと飛びながら、デス・イーターの上にスナーガルフのサヤを落としていた。すると急に大きなアオムシのようにのたくる緑色の根に、頭ごと飲みこまれた。
「ギャー!」
こぶし大の根が透明マントの上からロンの頭に落ちた。ロンが、ふりおとそうとしたとき、そのぬるぬるした緑の根が、あり得ないことだが空中に浮かんでいた。
「そこに、姿が見えないが誰かいるぞ!」と覆面のデス・イーターが指さしながら叫んだ。
相手のデス・イーターが一瞬気をそらされたのを、ディーンが最大限に利用して、気絶させる呪文で倒した。ドロホフが報復しようとしたが、パーバッティが、彼に、体を縛り上げる呪文を放った。
「行こう!」ハリーが叫んで、彼とロンとハーマイオニーは、透明マントを、しっかり体に巻きつけて、頭を下げて、戦っている人たちの中を突進し、スナーガルフの汁で少し滑りながらも、大理石の階段をめざした。それを下りると玄関の広間だ。
「僕はドラコ・マルフォイだ、僕はドラコだ、君の味方だ!」
ドラコが上の踊り場で、覆面のデス・イーターに泣きついていた。ハリーは、通りすぎるときに、そのデス・イーターを気絶させた。マルフォイが、にっこり笑いながら、誰が救ってくれたのかと見まわした。ロンは、マントの下から、マルフォイをなぐりつけた。マルフォイは、口から血を流して、わけがわからないように、デス・イーターの上に仰向けに倒れた。
「今夜、お前の命を救ったのは二度目だ、偽善者の裏切り者め!」ロンが叫んだ。
階段でも、広間でも、もっとたくさん戦っていた。ハリーが見るところすべてにデス・イーターがいた。ヤックスリーが玄関近くでフリットウィックと戦っていた。覆面のデス・イーターが、すぐそばでキングズリーと戦っていた。生徒たちが、いたるところを走っていた。傷ついた友を運んだり引きずったりしているものもいた。ハリーは、覆面のデス・イーターに向って、気絶させる呪文を放ったが、当たらず、もう少しでネビルに当たるところだった。彼はどこからともなくあらわれて、腕いっぱいにかかえた毒液を出す触手のあるテンタクラをふりまわしていた。それは、近くのデス・イーターを喜んで囲み、巻きつきはじめた。
ハリー、ロン、ハーマイオニーは大理石の階段をかけおりた。左の方でガラスが砕けた。寮のポイントを記録する砂時計が砕けて、エメラルドがあたり一面にこぼれ落ちたので、皆は走りながら滑ったりよろけたりした。ハリーたちが、一階に着いたとき、上のバルコニーから、二人の体が落ちてきて、ハリーが動物だと思った灰色にかすんだものが、玄関から四つ足で走りでてきて、落ちた体の一つに歯を突きたてようとした。
「だめ!」とハーマイオニーが悲鳴をあげた。そして、その杖から耳をつんざくような破裂音がして、フェンリル・グレイバックは、かすかに身動きするラベンダー・ブラウンの体から離れ、あおむけに投げだされた。そして大理石の階段の手すりにあたり、立ちあがろうとして、もがいていたが、そのとき、輝く白い閃光が光り、ガチャンと砕ける音がして、水晶球が、その頭の上に落ちてきたので、崩れるように倒れて動かなくなった。
「もっとあるわよ!」とトレローニー先生が、手すりごしに、かん高い声で叫んだ。「欲しい人には、誰にでももっと! さあ――」
そして、バッグから巨大な水晶玉を取りだして持ちあげ、テニスのサーブのような身ぶりで、空中で杖をふると、球がビューンと広間をこえて窓を突きやぶって飛んでいった。同時に、玄関の重い木の扉がさっと開いて、巨大グモがどんどん玄関に入りこんできた。
恐怖の悲鳴が大気をつんざいた。戦っていた人たちは、デス・イーターもホグワーツ側も同様に逃げだした。赤や緑の閃光が、近づいてくる怪物たちの真ん中に放たれた。怪物たちは、震えて後足で立ち、もっと凶暴になった。
「どうやって、外に出る?」とロンが、悲鳴より大きな声で叫んだ。けれど、ハリーとハーマイオニーのどちらかが答える前に、彼らは脇に押しのけられた。ハグリッドが、花柄のピンクの傘をふりまわしながら、とどろくような音をさせて階段をかけおりてきた。
「彼らを傷つけるな、傷つけるな!」ハグリッドが叫んだ。
「ハグリッド、だめ!」
ハリーは、他のすべてのことを忘れてしまった。透明マントの下から飛びだし、玄関中を照らす呪文を避けるため、体を低くかがめて走りだした。
「ハグリッド、戻って!」
けれど、ハグリッドのところまでの半分も行かないうちに、それが起きた。つまり、ハグリッドが蜘蛛の中に消えたのだ。蜘蛛たちは、ぞっとする群がるような動きで、大きな小走りをしながら、呪文の猛攻撃の中、退却しはじめた。ハグリッドは、その中に埋っていた。
「ハグリッド!」
誰かが自分の名前を呼ぶのが、ハリーに聞こえたが、友だろうと敵だろうと、どうでもよかった。彼は前の石段をかけおり、暗い校庭に出た。クモたちは、えじきを連れて群がって去っていった。ハグリッドの姿はまったく見えなかった。
「ハグリッド!」
ハリーは、蜘蛛たちが群がる真ん中に、巨大な腕が手をふるのが見えるような気がした。けれど、その後を追いかけようとしたとき、暗闇から、ふりおろされた途方もなく大きな足に、行く手を邪魔された。その足が地面に着いたとき、ハリーが立っている地面が震えた。ハリーが見あげると、巨人が目の前に立っていた。身長が六メートルあり、頭は、影に隠れていて、城の扉から来る光に照らされた木のような毛むくじゃらの向こうずねだけしか見えなかった。それは、野獣のように荒々しい流れるような動きを一つして、巨大なこぶしで上の窓を打った。ガラスが雨のように、ふり注いだので、ハリーは戸口の陰に戻らなくてはならなかった。
「まあ――!」とハーマイオニーが、ロンといっしょにハリーに追いついて、かんだかい声で叫んだ。見あげると、巨人が上の窓から人々をつかみだそうとしていた。
「止めろ!」ロンが叫んで、杖を上げようとしたハーマイオニーの手をつかんだ。「あいつを気絶させたら、城の半分を押しつぶしちまう、ー」
「ハガー?」
グロウプが城の角を曲って体をゆらしながらやってきた。今このときになって、グロウプが、実はふつうより小柄な巨人だということが、ハリーに分かった。巨大な怪物は、上の階の人々を押しつぶそうとしていたが、見まわして吠えるような声を上げた。自分より小さな同族にドシンドシンと近づいていくと、石段が震え、グロウプのゆがんだ口が大きく開いて、黄色いレンガ半分くらいある歯が見えた。それから、両方が、ライオンのような獰猛さで突進した。
「走れ!」ハリーが大声で叫んだ。巨人がとっくみあうとき、ぞっとするわめき声と殴る音が夜の中に満ちた。彼は、ハーマイオニーの手をつかんで階段を校庭までかけおりた。ロンが後に続いた。ハリーは、ハグリッドを見つけて救いだす希望を捨てていなかった。とても速く走って森まで半分くらい来たところで、また少し立ち止まった。
まわりの空気が凍りついていた。ハリーの息が止まって、胸で固まっているようだった。おぼろげな姿が暗闇から出てきた。黒さが凝縮している渦巻く姿が、城に向って大波のように動いてきた。顔はフードでおおわれ、息がガラガラ音をたてた……
ロンとハーマイオニーが、ハリーのそばに近づいてきたとき、後ろの戦いの音が急に聞こえなくなって静まった。ディメンターだけが運んでくる沈黙が、夜の中に厚くたれこめていたからだ……
「さあ、ハリー!」とハーマイオニーの声がとても遠く離れたところからした。「パトローナスよ、ハリー、さあ!」
ハリーは杖を上げた。けれど心の中に鈍い絶望感が広がっていった。フレッドが逝ってしまった。ハグリッドも死にかけているか、もう死んでしまったかもしれない。まだ知らないどれほど多くの人が、死んでしまったのだろう。自分の魂が体から半分、抜け出てしまったような気がした……
「ハリー、さあ!」とハーマイオニーが叫んだ。
百ものディメンターが、彼らの方に滑るように前進してきた。ごちそうが約束されているように、ハリーの絶望を吸いこんで、どんどん近づいてきた……
ロンの銀のテリアが空中にさっと出て、弱々しくちらちらして消えるのが、見えた。ハーマイオニーのカワウソが空中で身をよじって色褪せていくのも見えた。自分の杖が手の中で震えていて、ハリーは、近づいてくる忘却、その後、必ずやってくる無と、何も感じなくてすむことを歓迎したいほどだった……
そのとき、銀の野ウサギと、イノシシと、キツネが、ハリー、ロン、ハーマイオニーの頭の上を通って舞いあがった。動物たちが近づいていくとディメンターは後ずさった。暗闇から、別の三人が追いついて、ハリーたちのそばに立ち、杖を持つ手をのばして、パトローナスを放ちつづけた。ルナと、アーニーと、シェーマスだった。
「それでいいわ」とルナが元気づけるように言った。彼らが「必要に応じて出てくる部屋」に戻って、DAで呪文の練習をしているだけのような調子だった。「それでいいわ、ハリー……さあ、何か楽しいことを考えて……」
「何か楽しいこと?」ハリーは言ったが、その声がかすれた。
「私たちみんな、まだここにいるのよ」彼女が囁いた。「私たちは、まだ戦ってる。さあ、今よ……」
銀の火花が上がり、それから光がゆれた。それから今までにないほどの非常な努力のあげく、ハリーの杖の先から雄鹿が飛びだした。それが前に駆けていったので、ディメンターは本気で逃げだし、たちまち夜は、また穏やかになった。しかし、まわりの戦いの音が、大きく聞こえた。
「感謝しきれないよ」とロンが震えながら言って、ルナ、アーニー、シェーマスの方を向いた。「君たちが救ってくれた――」
吠えるような声がして、地面がひどく揺れて、別の巨人が、森の方の暗闇から、人より大きなこん棒をふりまわしながら、体をゆらせてやって来た。
「走れ!」ハリーがまた叫んだが、他の者たちは、言ってもらう必要なく、みんな散り散りに逃げだして、なんとか間にあった。次の瞬間、その巨大な足が、ちょうど彼らが立っていた場所を踏んだのだ。ハリーが見まわすと、ロンとハーマイオニーは後についてきたが、他の三人は戦いの方に戻って姿が見えなくなっていた。
「あいつの手の届く範囲から逃げよう!」とロンが叫んだ。そのとき巨人がまたこん棒をふりまわし、吠え声が、引きつづいて赤や緑の閃光が輝く校庭を通って、夜の中に響きわたっていった。
「暴れ柳だ」とハリーが言った。「行こう!」
彼は、やっとのことでいろいろな考えをすべて心の中に閉じこめ、今は、のぞきこめない小さな場所に押しこめた。その考え、つまりフレッドとハグリッドや、城の内外に散らばっている愛する人々すべてに対する恐れは、後まわしにしなくてはいけない。今は走らなくてはならない、蛇とヴォルデモートのところにたどり着かなくてはならないからだ。なぜなら、ハーマイオニーが言ったように、それが、戦いを終わらせるただ一つの方法なのだから――
ハリーは全力で走った。死それ自体をはるかに引きはなすことができると半ば信じて、まわりの暗闇を飛びかう閃光も、海のように波がぶつかる湖の音も、禁じられた森がきしむ音も無視していた。その夜は風もないのに、地面自体が、反乱に立ちあがったかのようだった。彼は、これまで走ったことがないほど速く走っって、その大きな木を最初に見つけた。その柳は、ムチのように枝をふりまわして、根元の秘密を隠していた。
ハリーは、ハーハーあえぎながらスピードをゆるめ、柳の打ちつける枝のまわりに沿って、暗闇越しに、太い幹をのぞき込んで、その木をしびれさせる古い木の皮のただ一つのこぶを探そうとした。ロンとハーマイオニーが追いついた。ハーマイオニーは、とても息をきらせていたので、しゃべることができなかった。
「どうやって――どうやって入る?」とロンが喘ぎながら言った。「見えるよ――その場所はね、――もし、ここに――またクルックシャンクスがいれば、ー」
「クルックシャンクス?」とハーマイオニーが、胸をつかんで体を二つ折りにしてぜーぜー言った。「あなた、魔法使いなの? 違う?」
「ああ――そうだ――うん――」
ロンはあたりを見まわした。それから地面の小枝に杖を向けて言った。「ウィンガーディアム・レビオーサ!<浮きあがれ>」小枝は、風に吹かれたように、地面から浮きあがって回りながら空中を飛んでいって、柳の不気味にゆれる枝を通りぬけ、ブーンと、まっすぐに幹に向った。それが根元近くの場所を突くと、たちまち木が身をよじらすのをやめ静かになった。
「完璧!」とハーマイオニーが喘ぎながら言った。
「待て!」
戦いの音がすさまじく響く中、ほんの一瞬ハリーはためらった。ヴォルデモートは、彼に、これをさせたがっている、彼が来るのを望んでいる……ハリーは、ロンとハーマイオニーを罠の中に連れていこうとしているのだろうか?
しかしそのとき真実が彼にしのびよるような気がした。残酷で明らかな真実だ。先にある唯一の方法は蛇を殺すことだ、蛇はヴォルデモートといっしょにいる、そしてヴォルデモートは、この地下道の端にいる……
「ハリー、行くよ、入ろう!」とロンが言って、彼を前に押しだ。
ハリーは、木の根元に隠された土の通路にもぐりこんだ。それは、前に彼らが入ったときより、もっと狭く窮屈になっていた。地下道の天井は低かった。ほとんど四年前は、体を低くかがめて通らなくてはならなかったが、今は、はって進むしかなかった。ハリーが最初に進んだ。いつなんどき障害物に出あうかもしれないので杖に明かりをともしていたが、何も来なかった。彼らは黙って進んだ。ハリーは、握りしめた杖の先にゆらめく光をじっと見つめていた。
やっと、地下道が上り坂になりはじめ、先に銀色の光があるのが、ハリーに見えた。ハーマイオニーが、かかとを引っぱった。
「透明マント!」彼女がささやいた。「透明マントを着て!」
後ろを手探りすると、彼女が、ハリーの何も持っていない方の手に、なめらかな布の固まりを押しつけた。苦労して、それをかぶり、「ノックス」と小声で言って、杖の明かりを消した。そして、できるだけ音を立てずに四つんばいで進みつづけた。いつなんどき発見されて、冷たい声が聞え、緑の閃光を見るかと、五感すべてが、とぎすまされていた。
そのとき、まっすぐ前方の部屋から声が聞こえた。ただ、地下道の端の入り口が、古い木枠のようなものでふさがれているため、少しくぐもっていた。ハリーは、息をつめるようにしながら、開いた場所に少しずつ近づいて、木枠と壁の間のわずかな隙間からのぞいた。
向こう側の部屋は、薄暗かったが、ナギニが、空中に支えなしで浮かぶ魔法の星のように光る球の中で、水中の海蛇のようにぐるぐる回ったり、とぐろを巻いたりしているのが、見えた。それからテーブルの端と、長い指の白い手が杖をもてあそんでいるのが見えた。そのときスネイプが口を開いたので、ハリーの心がよろめくような気がした。スネイプは、彼が隠れてうずくまっているところからほんの少ししか離れていなかった。
「……閣下、彼らの抵抗は弱まっています」
「――それは、お前の力がなくても、そうなっている」とヴォルデモートが、高く、はっきりした声で言った。「お前は、熟練した魔法使いだが、スネイプよ、今となっては、お前がいなくても、たいして違いはないと思うぞ。我々は、もうすぐ到達する……もうすぐ」
「あの少年を見つけさせてください。ポッターを、あなたのところに連れてこさせてください。私なら、彼を見つけることができます、閣下。どうか」
スネイプが歩いて、すきまのところを通りすぎたので、ハリーは少し引きさがって、ナギニをじっと見つめ、それを取りまく保護の魔法を突きやぶる呪文があるだろうかと考えていたが、何も思いつかなかった。一度、やってみて失敗すれば、自分がいることがばれてしまう……
ヴォルデモートが立ちあがった。ハリーは、彼を見ることができた。赤い目と、平たく蛇のような顔、薄暗がりの中でわずかに輝いている彼の青白さを見ることができた。
「問題があるのだ、セブルス」とヴォルデモートが、そっと言った。
「閣下に?」とスネイプが言った。
ヴォルデモートは、ニワトコの杖を上げて、指揮者の指揮棒のように、繊細で精密に持った。
「なぜ、これは私のために働かないのだ、セブルス?」
沈黙の中で、蛇が、とぐろを巻いたり、ほどいたりしながら、かすかにシューシュー言うのを聞いたような気がした。それとも、それは、ヴォルデモートのシューシュー言うため息が空中にただよっているのだろうか?
「か、閣下?」とスネイプが、まごついて言った。「私には分かりません。あなたは――あなたは、その杖で並はずれた魔法をなさいました」
「いや」とヴォルデモートが言った。「私は、いつもの魔法をやったのだ。私は並外れている、だがこの杖は……違う。これで実現するはずの驚異的な力を示してはくれない。この杖と、ずっと昔オリバンダーから手に入れた杖とのあいだに違いがまったく感じられないのだ」
ヴォルデモートの口調は、物思いにふけっているようで、冷静だったが、ハリーの傷跡がずきずき痛み脈打ちはじめた。額の痛みが増してきたので、ヴォルデモートの中で、抑制されてはいるが激しい怒りが増してきたのが、ハリーに感じられた。
「違いが、まったくない」とヴォルデモートが、また言った。
スネイプは、口を開かなかった。ハリーには、その顔が見えなかったが、スネイプが危険を察して、主人を納得させるために適切な言葉を探そうとしているのだろうかと、思った。
ヴォルデモートが部屋の中を歩きはじめた。そして、前と同じゆったりとした声で話しながら歩きまわる数秒間、ハリーには、その姿が見えなくなった。その間、痛みと激しい怒りが、ハリーの中で増してきた。
「私は、長い間熱心に考えた、セブルス……なぜ、お前を戦いから呼びもどしたか分かるか?」
一瞬、ハリーにスネイプの横顔が見えた。その目は、魔法の檻の中でとぐろを巻く蛇をじっと見ていた。
「いいえ、閣下、でも、お願いですから、どうか私を帰してください。ポッターを探させてください」
「お前はルシウスのような、もの言いをする。お前たちの両方とも、私ほどポッターを理解していない。彼は見つける必要はない。ポッターは私のところに来る。私には、彼の弱さが分かる。彼の大きな弱点がな。彼は、自分のせいだと分かっていて、まわりで他人がやられるのを見ているのが耐えられないのだ。どんなことをしても止めようとするだろう。彼は来る」
「しかし、閣下、彼は、あなたご自身でなく、他人の手で偶然に殺されるかもしれません――」
「デス・イーターへの私の指示は、完璧に、はっきりしたものだ。ポッターを捕らえろ。友人は殺せ――多ければ多いほどよい――だが彼を殺すな」
「だが、私が話したいのは、お前のことだ、セブルス、ハリー・ポッターのことではない。お前は、私にとって、とても役だった。とても役だった」
「閣下は、私が、閣下に仕えることだけを求めているのをご存知です。だが、ー、あの少年を捜しにいかせてください、閣下。彼を、あなたのところに連れてこさせてください。私にはできます――」
「私は、だめだと言ったはずだ!」とヴォルデモートが言った。そして振り向いたとき、目の中の赤い閃光が、ハリーにちらっと見え、マントがすれる音が、蛇が滑るように進む音のようだった。そして、傷跡が焼けつくように痛むので、ヴォルデモートがいらいらしているのが、分かった。「私の目下の関心事は、最後に、あの少年に会ったときに、何が起こるかということだ!」
「閣下、それには、確かに疑問の余地はないのでは――?」
「――だが、疑問の余地があるのだ、セブルス。あるのだ」
ヴォルデモートが立ちどまった。そして、ニワトコの杖を、白い指のあいだで滑らせながら、スネイプを見つめたとき、その姿が、もう一度、ハリーにはっきりと見えた。
「なぜ、私が使った両方の杖が、ハリー・ポッターを狙ったとき失敗したのか?」
「私は――私は答えられません、閣下」
「答えられないか?」
激怒の一刺しが、ハリーの頭に、大クギが刺さるように感じられた。自分のこぶしを口にあてて、痛くて叫びそうなのを抑えた。目を閉じると、突然、彼がヴォルデモートになって、スネイプの青白い顔を見おろしていた。
「私のイチイの杖は、私が求めたすべてを行った、セブルス、ハリー・ポッターを殺す以外はな。それは二度失敗した。オリバンダーが、拷問の末、同じものからできた双子の芯のせいだから、他人の杖を使えと言った。私はそうしたが、ルシウスの杖は、ポッターの杖に出会ったら、粉々に砕けた」
「私――私には説明できません、閣下」
スネイプは、もうヴォルデモートを見ていなかった。その黒っぽい目は、まだ保護の球の中でとぐろを巻く蛇をじっと見ていた。
「私は、三本目の杖を探し求めた、セブルス。ニワトコの杖、運命の杖、死の棒といわれるものだ。私は、それを前の持ち主から奪った。アルバス・ダンブルドアの墓から奪った」
今、スネイプはヴォルデモートを見た。スネイプの顔はデスマスクのようだった。大理石の白さで、動かなかったので、彼が口をきいたときは、虚ろな目の奥に誰かが住んでいるのを見たときのようにひどく驚かされた。
「閣下――少年を捜しにいかせてください――」
「この長い夜中ずっと、勝利を得る間際というときに、私はここに座って、」とヴォルデモートが言った。その声は、囁き声よりたいして大きくなかった。「考えていた、考えていた、なぜニワトコの杖が、あるべき姿を示さないのか、正当な持ち主のために行うと伝説にいわれることを行わないのかとな……そして、その答えが分かった」
スネイプは口を開かなかった。
「たぶん、お前はもう分かっているのだろう? 結局のところ、お前は、賢い男だ、セブルス。忠実な、よい召使いだった、今からおこることを遺憾に思う」
「閣下――」
「ニワトコの杖が、私のために正当に働かないのは、セブルス、私が、正当な持ち主ではないからだ。ニワトコの杖は、先の持ち主を殺した魔法使いのものになる。お前が、アルバス・ダンブルドアを殺した。お前が生きている間は、セブルス、ニワトコの杖は、真に私のものにはならぬのだ」
「閣下!」スネイプが抗議して杖を上げた。
「他に道はありえない」とヴォルデモートが言った。「私が、杖を征服せねばならぬ、セブルス。杖を征服すれば、やっとポッターを征服できる」
そしてヴォルデモートは、ニワトコの杖で空中を強く打った。それは、スネイプには何もしなかったので、スネイプはほんの一瞬、死刑執行をまぬがれたと思ったようだった。しかしそのとき、ヴォルデモートの意図が明らかになった。蛇の檻が、空中を転がってきて、スネイプが叫ぶよりほか、何もできないうちに、それが頭と肩を包みこみ、ヴォルデモートがパーセルタングで言った。
「殺せ」
恐ろしい悲鳴が上がった。ハリーが見ている前で、蛇の牙がスネイプの首に突き刺さったとき、その顔にほんの少し残っていた血色がなくなって白くなり、黒い目が見開かれた。そして魔法の檻を自力で押すことができず、膝から崩れおち、床に倒れた。
「遺憾に思う」とヴォルデモートが冷たく言った。
そして、振り返った。その顔には悲しみも後悔もなかった。この小屋を出て、今や意のままになる杖を持って指揮をとるときだ。蛇を入れた星のように光る檻に、杖を向けると、それはスネイプから離れて、上の方にただよっていった。スネイプは、床の上に斜めに倒れていて、首の傷から血が吹きでていた。ヴォルデモートは、振り向きもせずに部屋をさっと出て行った。大きな蛇が、巨大な保護する球に入って、その後を浮かんでいった。
ハリーは、地下道の自分の心に戻って目を開いた。叫び声をあげないように、げんこつを噛み締めていたので、血が流れていた。今は、木枠と壁のあいだのわずかなすきまから、床の上で震えている黒い長靴の足を見つめていた。
「ハリー!」後ろのハーマイオニーが小声で言ったが、ハリーは、もう視界をじゃましている木枠に杖を向けていた。それは、数センチ空中に浮いて、静かに横に動いていった。そして、できるだけ静かに部屋の中に入って立ちあがった。
ハリーは、なぜ、そうするのか分からなかった、なぜ死にかけている男に近づくのかが分からなかった。スネイプの白い顔と、血まみれの首の傷の血を止めようとする指を見るとき、何を感じるのか分からなかった。だが、透明マントを脱いで、憎んでいた男を見下ろした。その男の見開かれた目がハリーを見つけて、話そうとした。ハリーは、屈みこんだ。スネイプが、ハリーのローブをつかみ、引きよせた。喉から、激しいきしるような流れるような音が発せられた。
「これを……取れ……これを……取るんだ」
血より他の何が、スネイプから漏れてきた。銀色に輝く青色の気体でも液体でもないものだった。それが、口から耳から目から吹きだした。ハリーは、それが何か分かったが、どうしていいのか分からなかった――
どこからともなく魔法で出した瓶を、ハーマイオニーが、ハリーの震える手にさっと渡した。ハリーは、杖で銀色の物質を持ちあげて瓶に入れた。瓶が縁までいっぱいになると、スネイプは、流れる血が一滴も残っていないかのようにみえ、ハリーのローブをつかんでいた手をゆるめた。
「私……を……見てくれ……」スネイプがささやいた。
緑色の目が、黒い目を見つめた。しかし、ほどなく黒い目の奥で何かが消えたようだった。その目は虚ろで空っぽなまま動かなくなった。ハリーを掴んでいた手がどさっと床に落ち、スネイプは二度と動かなかった。
第33章 プリンスの物語
The Prince's Tale
ハリーは、スネイプのそばにひざまずいたまま、ただ見つめていた。すると突然、高く冷たい声が、とても近くで話しかけたので、彼は、ヴォルデモートが、また部屋に入ってきたのかと思って、瓶を手にしっかりにぎったまま、ぎょっとして飛びあがった。
ヴォルデモートの声は、壁や床から響いていたので、彼が、ホグワーツと周辺すべてに話しかけていて、彼がそばに立って、首の後ろにその息がかかり、死が一吹きするように、その声がホグズミードの住人と城内でまだ戦っている人たちに、はっきり聞えているのだと、ハリーは悟った。
「お前たちは戦った」と高く冷たい声が言った。「雄々しく戦った。ヴォルデモート卿は、いかに勇敢さに価値があるかを知っている。
「しかし、お前たちは、数多くの喪失に耐えている。もし私に抵抗しつづけるなら、お前たちすべてが、一人また一人と死んでいく。私は、そうなることを望まぬ。魔法界の流される血の一滴一滴が、損失であり無駄だ」
「ヴォルデモートは情け深い。私の軍隊に、ただちに退却を命じる」
「一時間、与える。死者を丁重に安置し、けが人の手当をしろ」
「私は今、ハリー・ポッターよ、お前に直接話しかける。お前は、私に立ち向かう代わりに、お前のために友人たちを死なせるままにさせた。私は、禁じられた森で一時間待とう。もし、一時間後に私のところに来て、自分自身を私に引き渡さなかったら、戦いがまた始まる。今度は、私自身が、争いに加わるぞ、ハリー・ポッター。そして、お前を探しだし、お前をかくまおうとした男も女も子供も最後の一人まで罰してやる。一時間だ」
ロンとハーマイオニーは、ハリーを見ながら、半狂乱で首を横に振っていた。
「あいつの言うことを聞くな」とロンが言った。
「大丈夫よ」とハーマイオニーが激しく言った。「さあ――城に戻りましょう。もし彼が森に行ったなら、新しい計画を考えなくては――」
彼女は、スネイプをちらっと見てから、急いで地下道の入り口に戻った。ロンが、その後に続いた。ハリーは、透明マントを丸めて、スネイプを見下ろした。彼が殺されたやり方と、殺された理由に衝撃を受けたほかは、どう感じていいのか分からなかった……
彼らは、地下道を這って戻った。誰も口をきかなかった。ハリーは、ロンとハーマイオニーも、自分のように、まだ頭の中で鳴りひびくヴォルデモートの声が聞こえるのだろうかと思った。
「お前は、私に立ち向かう代りに、お前のために友人たちを死なせるままにさせた。私は、禁じられた森で一時間待とう……一時間だ」……
城の前の芝生に、小さな固まりが放りだされているように見えた。あと一時間かそこらで夜明けだったが、まだ真っ暗闇だった。三人とも石段の方に急いだ。小さなボートくらいの木靴が片方、彼らの前に捨てられていた。その他に、グロウプや他の巨人の形跡はなかった。
城は、異常に静まりかえっていた。もう閃光はなく、爆発音も悲鳴も叫び声もなかった。誰もいない玄関の敷石が血で汚れていた。エメラルドが、大理石のかけらや裂けた木片とともに、まだ床一面に散らばっていて、手すりの一部が吹きとばされていた。
「みんなはどこ?」とハーマイオニーがささやいた。
ロンが先に立って大広間に入っていった。ハリーは戸口で立ちどまった。
寮のテーブルはなくなっていて、部屋中、人で混みあっていた。生きのこった者たちがそれぞれ集まって、腕を互いの首にまわして立っていた。けが人は壇の上で、マダム・ポンフリーと、手伝う人たちに手当されていた。フィレンツェが、けが人の中にいた。脇腹から血を流し、立つことができず震えていた。
死者が、大広間の真ん中に並んで横たえられていた。ハリーは、フレッドを見ることができなかった。家族が取りかこんでいたからだ。ジョージが頭のところにひざまずいていた。ウィーズリー夫人がフレッドの胸におおいかぶさって身を震わせていた。ウィーズリー氏が、頬に涙を滝のように流しながら、息子の髪をなでていた。
ロンとハーマイオニーは、ハリーに、言葉をかけずに歩いていった。ハーマイオニーがジニーに近づいて抱きしめるのを、ハリーは見た。ジニーの顔は腫れあがってシミができていた。ロンは、ビル、フラー、パーシーといっしょになった。パーシーが、ロンの肩に腕を回した。ジニーとハーマイオニーが残りの家族のところに近づいていったとき、フレッドの隣に横たわっている姿がはっきりとハリーに見えた。リーマスとトンクスだった。青ざめて静かでおだやかな顔つきで、暗い魔法の天井の下で眠っているように見えた。
大広間が、風に吹かれて小さく縮んでしまったようだった。ハリーは戸口から後ろによろめいた。息を吸うことができなかった。他の誰が自分のために死んだのか、見るのに耐えられなかった。ウィーズリー家に加わって、彼らの目を見るのに耐えられなかった。もし最初の段階で、ヴォルデモートにこの身を引き渡していれば、フレッドは死なずにすんだかもしれないというのに……
ハリーは、振り向いて、大理石の階段を上った。ルーピン、トンクス……感じたくないとしきりに願った……自分の心臓、内臓、体の中で悲鳴をあげるすべてを引きはなしたかった……
幽霊でさえ、大広間の悲しみの集まりに加わっているかのように、城内はまったく空だった。ハリーは、スネイプの最期の考えが入ったガラス瓶をにぎって、止まらずに走りつづけ、校長室を守っている石の怪物像のところに着くまで、スピードを落とさなかった。
「パスワードは?」
「ダンブルドア!」とハリーは、彼にどうしても会いたいと思っていたので、考えもしないで言った。驚いたことに、怪物像は、横に滑っていき、後ろのらせん階段があらわれた。
けれど、ハリーが円形の校長室に飛びこむと、部屋が変っているのが分かった。壁の回りに掛けられた肖像画が、ぜんぶ空で、残っていて、彼を見ている校長先生は一人もいなかった。全員が、ことのなりゆきをはっきり見ようとして、城に並んでいる画を通って急いで行ってしまったようだった。
ハリーは、校長先生の椅子のすぐ後ろにかかっている誰もいないダンブルドアの額縁を絶望的な気持ちでながめ、それから、それに背を向けた。石のペンシーブが、いつも置いてあった飾り棚の中にあったので、それを持ちあげて、机の上に置き、まわりにルーン文字の模様がついた広い鉢にスネイプの記憶を注いだ。誰かの頭の中に逃避するのは、すばらしくほっとする気持ちがした……スネイプが遺したものでさえ、自分自身の考えより悪いはずがない。記憶は、銀白色と、ふしぎな感じに渦まいた。彼は、やけで無謀になっていて、これが自分を責めさいなむ悲しみを和らげるとでもいうように、躊躇いなく飛びこんだ。
彼は、日光が降り注ぐ中に、まっ逆さまに落ち、足が、暖かい地面に着いた。まっすぐ立ち上がったとき、ほとんど人のいない小さな公園にいるのが分かった。遠くの空を背景にして、巨大な煙突が一本そびえ立っていた。少女が二人、前へ後ろへとブランコをこいでいた。骨と皮にやせこけた少年が、茂みの後ろから、それを見ていた。黒い髪は伸びすぎ、服がまったくちぐはぐだったので、かえって、わざとそうしているように見えた。それは、短すぎるジーンズと、着古した、大人用らしく長すぎるコートと、子供用のスモックのような妙ちきりんなシャツだった。
ハリーは、その少年に近よった。スネイプは、まだ九才か十才くらいで、血色が悪く、小柄で、ひょろひょろだった。二人の少女のうち、姉よりどんどん高くブランコをこぐ妹を見つめているとき、そのやせた顔に、激しいあこがれの気持ちが、はっきりとあらわれていた。
「リリー、そんなことしちゃだめ!」と姉が金切り声で言った。
けれど、妹は、弓形を描いた一番高いところまでブランコをこいで、空中に飛びあがり、文字どおり飛んで、笑いころげながら、空に向って飛びだした。そして、公園のアスファルトに崩れおちる代りに、空中ブランコの乗り手のように舞いあがって、とても長いあいだ浮かんでいて、遠くにふわりと着地した。
「ママが、だめって言ったでしょ!」
ペチュニアは、サンダルのかかとを引きずって、ギーッときしむ音をたてて自分のブランコを止め、それから飛びおりて、両手を腰にあてた。
「ママが、それは禁止だって言ったでしょ、リリー!」
「でも、あたし、へっちゃらよ」とリリーが、まだくすくす笑いながら言った。「チュニー、見て。あたしができること見てて」
ペチュニアは見まわした。公園は、姉妹と、彼らは知らなかったけれど、スネイプのほかには誰もいなかった。リリーは、スネイプが隠れている茂みから、しおれた花をつんだ。ペチュニアは前の方に進んできたが、好奇心と不賛成とのあいだで気持ちが引きさかれているのが、見るからに分かった。リリーは、ペチュニアがよく見えるところまで近づいてくるまで待って、それから手のひらを差しだした。花が、そこにあったが、奇怪な、縁のたくさんある牡蠣のように花びらを開いたり閉じたりしていた。
「止めなさい!」ペチュニアが、甲高い声で叫んだ。
「傷つけやしないわ」とリリーが言ったが、花をにぎって地面に投げた。
「正しいことじゃないわ」とペチュニアが言った。が、その目は、花が地面にふわりと飛んでいって、そこに残っているのを見ていた。そして「どうやって、そんなことできるの?」と……はっきりと、あこがれの気持ちが出ている声で、つけ加えた。
「分かりきったことじゃないか?」スネイプが、もう我慢しきれなくなって、茂みの陰から飛びだした。ペチュニアが悲鳴をあげて、ブランコの方にあとずさりしたが、リリーは、はっきりと驚いてはいたが、その場から動かなかった。スネイプは、姿を見せたのを後悔しているらしく、リリーを見たとき、血色の悪い頬に鈍い赤みがのぼってきた。
「何が分かりきったことなの?」とリリーが尋ねた。
スネイプは、不安になって興奮しているようだった。ブランコの横でうろついている遠くのペチュニアをちらっと見てから、声を低めて言った。「君が何者か知ってる」
「どういう意味?」
「君は……君は魔女だ」とスネイプがささやいた。
リリーは侮辱されたような顔をした。
「そんなこと言うのは失礼よ!」
そして、つんと顔を上げてふりかえり、姉の方に向ってさっさと歩いていった。
「違う!」とスネイプが言ったが、今では、顔が、かなり紅潮していた。ハリーは、なぜ彼が、そのばかばかしいほど長いコートを脱がないのだろうかと思った。きっと下に着ているスモックを見せたくないのだろう。彼は、長いコートをバタバタとなびかせながら、二人の少女を追いかけた。大人になってからと同じく、こっけいなほどコウモリに似ていた。
姉妹は、二人とも、ブランコの支柱に、しがみついていれば安全だとでもいうように、それをつかんで、スネイプを品定めしていたが、感心しないという点で一致していた。
「君はね」とスネイプが、リリーに言った。「君は魔女だ。しばらく君を見てたんだ。けど、それに何も悪いことはない。僕のママがそうだし、僕は魔法使いだ」
ペチュニアの笑いは冷たい水のようだった。
そして「魔法使い!」と、かんだかい声で言ったが、彼が不意に現れたショックから立ちなおって、元気を取りもどしていた。「私、あんたが誰か知ってるわ。スネイプって子よ! 川のそばのスピナーズ・エンドに住んでる」と、リリーに言った。その口調から、その住所を低く見ていることが明らかだった。「なぜ、私たちをこそこそ見てたのよ?」
「こそこそ見てなんかいない」とスネイプが、熱心だが、きまり悪そうに言った。輝く日光の下で、髪の毛が汚かった。「とにかく、君を見てはいなかった」と、悪意をこめて言った。「君はマグルだもん」
ペチュニアが、その言葉の意味が分からなかったのは確かだったが、どんな口調で言われたかは、はっきり分かった。
「リリー、さあ、帰るわよ!」と、かんだかい声で言った。リリーは、すぐに姉に従ったが、帰るときにスネイプをにらみつけていた。彼は、姉妹が公園の門をさっさと出ていくとき、それを立って見つめていた。そして、ただ一人彼を見つめて残っているハリーには、スネイプがひどくがっかりしたのが分かった。スネイプが、この瞬間を長いあいだ計画していたが、大失敗に終ったのが分かった……
その場面が溶けさり、ハリーが、それと気づかないうちに、新しく変った。今度は、小さな木立の中だった。木々の幹の向こうに、日に照らされた川が輝いているのが見えた。木々が投げかける影が集まって、涼しく緑色の木陰になっていた。二人の子供が、向きあって、地面に足を組んで座っていた。スネイプはコートを脱いでいた。薄暗がりの中では、彼の妙ちきりんなスモックもそれほど変に見えなかった。
「……で、もし学校の外で魔法を使ったら、魔法省に罰せられるかもしれない。手紙が来るんだ」
「でも、私、学校の外で魔法を使っちゃったわ!」
「僕たちは、大丈夫だよ。まだ杖を持ってないからね。まだ子供で、ついやっちゃったときは見のがしてくれる。でも十一才になって、」スネイプはもったいぶって頷いた。「教育が始まったら、そしたら気をつけなくちゃ」
少し、沈黙があった。リリーが、落ちている小枝を拾って空中でくるくる回した。そこから火花がたなびいているのを、想像しているのが、ハリーに分かった。それから、小枝を落として、少年の方にぐっと前かがみになって、言った。「それ、ほんとなの? 冗談じゃないの? ペチュニアは、あなたが嘘ついてるって言うの。ペチュニアはホグワーツなんてないって言うの。それ、ほんとのことなの?」
「僕たちには、ほんとのことだよ」とスネイプが言った。「彼女にはそうじゃない。でも、僕たちには手紙が来るよ、君と僕には」
「ほんとに?」とリリーがささやいた。
「ぜったい来る」とスネイプが言った。その髪の切り方は不揃いで服も変だったけれど、彼は、自分の運命に対してあふれんばかりの自信に満ちて、奇妙なほど堂々とした姿で、彼女の前に手足をのばしていた。
「ほんとにふくろうが運んでくるの?」リリーがささやいた。
「ふつうはね」とスネイプが言った。「けど、君はマグル生まれだから、学校の誰かが、君の両親に説明しに来なくちゃならないかもしれないな」
「マグル生まれだと、違いがあるの?」
スネイプは、ためらった。緑っぽい薄暗がりの中で熱意に満ちた黒い目が、暗赤色の髪の青白い顔を見まわした。
「いや」と言った。「何も違わないさ」
「よかった」と、明らかに、それを気にしていたリリーが、緊張がゆるんだように言った。
「君は、いっぱい魔法ができる」とスネイプが言った。「僕、見たもん。君を見てるあいだずっと……」
その声は、しだいに消えていった。彼女は聞いていないで、葉がいっぱいの地面で、のびをして、頭の上の葉っぱの天井を見あげていた。スネイプは、公園で見つめていたように、激しいあこがれをこめて彼女を見つめた。
「おうちでは、どうなの?」リリーが尋ねた。
彼の目と目のあいだに小さなしわがあらわれた。
そして「いいよ」と言った。
「パパとママは、もうけんかしてないの?」
「ううん、してる」とスネイプが言った。そして片手にいっぱい葉を拾って、引きちぎりはじめたが、明らかに、自分が何をやっているのか気づいていなかった。「けど、もうすぐ僕は行っちゃうから」
「パパは魔法が好きじゃないの?」
「パパは、どんなこともたいして好きじゃないんだ」とスネイプが言った。
「セブルス?」
「彼女が、名前を呼んだとき、スネイプの口がカーブを描いて、小さな微笑になった。
「うん?」
「ディメンターのこと、もう一回話して」
「何のために、知りたいのさ?」
「もし私が学校の外で魔法を使ったら――」
「そんなことで、ディメンターを寄こしゃしないよ! ディメンターは、ほんとうに悪いことをした人たちのためのものだよ。彼らは、魔法使いの牢獄、アズカバンを守ってるんだ。君が、アズカバンに行くはめになることはないよ、君はとっても――」
スネイプはまた赤くなって、また葉を切りさいた。そのとき、ハリーの後ろで、小さなカサカサという物音がしたので、ふりかえった。ペチュニアが木の後ろに隠れていたが、足を滑らせたのだ。
「チュニー!」とリリーが、驚いたがうれしそうな声で言った。スネイプは、飛びあがって立った。
「こそこそ見てたのは、今度はどっちだ?」彼はどなった。「何がしたいんだ?」
ペチュニアは、見つけられたのでびっくりして息がつまっていた。何か傷つけることを言ってやろうと、必死に考えているのが、ハリーに分かった。
「とにかく、あんたが着てるものは何なのよ?」とスネイプの胸元を指さして言った。「ママのブラウス?」
ポキンという音がして、ペチュニアの頭の上の枝が落ちてきた。リリーが悲鳴をあげた。枝は、ペチュニアの肩にあたり、彼女は、わっと泣きだして、後ろの方によろめいた。
「チュニー!」
けれど、ペチュニアは走っていってしまった。リリーが、さっとスネイプの方を向いた。
「あなたがやったの?」
「違う」彼は、けんかごしだが同時に恐がっているようにみえた。
「あなたがやった!」リリーは、彼から離れて後ずさった。「あなたがやった! あなたが彼女を傷つけたのよ!」
「違う――違う、やらなかった!」
けれど、その嘘では、リリーは納得しなかった。そして、激しい怒りをこめてにらみつけてから、小さな木立から、姉を追って走っていってしまった。スネイプは、みじめでまごついているようだった……
場面が変った。ハリーがあたりを見まわすと、九と四分の三のプラットホームにいた。スネイプが、少し背中を丸めて横に立っていた。その隣に、血色が悪く不機嫌そうな顔で、彼にそっくりの女性がいた。スネイプは、少し離れたところの四人家族を見つめていた。二人の少女が両親から少し離れて立っていた。リリーは、姉に懇願しているようだった。ハリーは、聞こうとして近づいた。
「……ごめんね、チュニー、ごめんね! 聞いてちょうだい――」そして姉の手を取って、しっかりにぎった。ペチュニアが引き離そうとしても、だめだった。「もし私が、あそこに着いたら――だめ、聞いて、チュニー! もし私が、あそこに着いたら、ダンブルドア先生のところに言って、気持ちを変えてくれるように頼んでみるわ!」
「私は――行きたくなんか、ないわ!」とペチュニアが言って、妹がにぎる手から、自分の手を引っぱった。「私が、そのばかばかしい城かなんかに行って、勉強して、なりたいとでも思ってるの――その――その」
ペチュニアの薄青い目が、プラットホームをさまよって、飼い主の腕の中でニャーニャー鳴くネコや、籠の中で羽ばたき、互いにホーホーと鳴きかわすフクロウや、生徒たちを見まわした。彼らは、もう黒くて長いローブを着ている者もいたが、赤い列車にトランクを積みこんだり、夏休み後に会ってうれしそうに叫んであいさつしたりしていた。
「――私が、なりたいとでも思ってるの、その――その奇形に?」
ペチュニアが、手を引きぬくのに成功したとき、リリーの目に涙があふれた。
「私は、奇形じゃない」とリリーが言った。「そんなひどいこと言うなんて」
「それが、あんたが行くところよ」とペチュニアが、いい気味だというように言った。「奇形のための特殊学校。あんたと、あのスネイプと……気がおかしいんだ、あんたたち二人とも。あんたたちが、正常な人たちから離れるのはいいことよ。私たちの安全のためにね」リリーは、両親の方を見た。彼らは、うっとりして、心から楽しそうにプラットホームを見まわしていた。それから、姉の方に向きなおった。その声は低く激しかった。
「あなたが、校長先生に手紙を書いて、入学させてほしいと熱心に頼んだときは、そんな奇形の学校だと思っていなかったでしょ」
ペチュニアは真っ赤になった。
「熱心に頼む? 私、熱心に頼むなんてしなかったわ」
「先生の返事を見たわ。とても優しかった」
「まさか読んだはずはないわ――」とペチュニアが囁いた。「あれは、私のないしょの――いったいどうやって――?」
リリーが近くの、スネイプが立っている方をちらっと見たので、ばれてしまった。ペチュニアが息をのんだ。
「あの子が見つけたんだ! あんたとあの子が、私の部屋に忍びこんだんだ!」
「いいえ――忍びこんだんじゃないわ――」今度は、リリーが守勢に立っていた。「セブルスが封筒を見たのよ。で、彼はマグルがホグワーツに連絡できるなんて信じられなかったわけ、それだけよ! 彼が言うには、魔法使いが郵便局で、身分を隠して働いてるにちがいないって。それで注意して――」
「魔法使いがいろんなとこに鼻を突っこんでいるのは確かね!」とペチュニアが、さっき赤くなっていたと同じくらい、今度は青くなって言った。「奇形!」と吐き捨てるように妹に言って、両親が立っているところに飛ぶように走っていってしまった……
場面が、また溶けさった。スネイプが、田園地帯をガタンゴトン音をたてて走るホグワーツ急行の通路を急いでいた。彼は、もう制服のローブに着がえていたが、ひどいマグルの服を脱いだのは初めてにちがいない。そして、やっと個室の前で止まった。その中には、騒々しい少年たちがしゃべっていたが、リリーが、窓際の隅に背中を丸めて座って、窓ガラスに顔を押しつけていた。
スネイプが、個室の引き戸を開けて、リリーの向かい側に座った。彼女は、彼をちらっと見て、また窓の外に目を戻したが、泣いていた。
「あなたと話したくない」彼女は、締めつけられたような声で言った。
「どうして?」
「チュニーが、私を、に、憎んでいるの。私たちが、ダンブルドアから来た手紙を見たからって」
「それがどうした?」
彼女は、大嫌いという目つきで、彼を見た。
「彼女は、私の姉さんなのよ!」
「彼女は、ただの――」スネイプは、すばやく自分を抑えた。リリーは、気づかれないように涙をふくのに忙しかったので、彼の言葉を聞いていなかった。
「でも、僕たちは、行くんだ!」彼は、うきうきした気分を抑えられない声で言った。「これだよ! 僕たちはホグワーツに行くんだ!」
彼女は、涙をぬぐいながら頷いたが、思わず半分ほほえんでいた。
「君、スリザリンに入ったらいいよ」とスネイプが、少し明るくなったリリーを元気づけるように言った。
「スリザリン?」
個室にいた少年の一人が、この時点まで、まったくリリーにもスネイプにも興味を示さなかったが、その言葉に振り向いた。そして、ハリーは、今まで窓際の二人に完全に集中していたが、それが父だと分かった。ほっそりとして、スネイプのように黒髪だったが、よく世話をされて、きっとかわいがられて育ったのだろうという説明できない雰囲気があった。それは、スネイプには明らかに欠けていたものだった。
「誰が、スリザリンに入りたいんだ? 僕は出るよ、そうだろ?」ジェイムズが、向かい側の席に、だらりともたれていた少年に尋ねた。ハリーは、それがシリウスだと悟って、どきどきした。シリウスは、にこりともしなかった。
「僕の一族は、ずっとスリザリンなんだ」と言った。
「あれーっ」とジェイムズが言った。「君は大丈夫だと思ったんだけど!」
シリウスが、にやっと笑った。
「たぶん、僕は伝統を破るんだろうよ。もし選べるんなら、君はどこをめざすんだ?」
ジェイムズが、目に見えない剣をかかげた。
「『グリフィンドール、そこは、勇敢な心を持つものが住むところ!』僕のパパのようにね」
スネイプが、けなすような小さな音を立てた。ジェイムズが、そちらを向いた。
「それに問題があるか?」
「ない」とスネイプが言ったが、かすかに冷笑を浮かべていたので、違った思いを表していた。「もし君が、頭脳派より肉体派なら――」
「君が行きたいところは、見たところどっちでもないね?」とシリウスがさえぎった。
ジェイムズが大笑いした。リリーが、少し赤くなって背筋をのばして座りなおし、ジェイムズからシリウスへと、嫌そうに見た。
「さあ、セブルス、別の個室を探しましょ」
「おおおおおお……」
ジェイムズとシリウスが、彼女の高飛車な声をまねした。ジェイムズは、スネイプが通るとき、つまずかせようとした。
「じゃあな、めそめそスニベルス!」と、個室の引き戸がバタンと閉まったとき聞えてきた……
そして場面はまた溶けさった……
ハリーはスネイプのすぐ後ろに立っていた。彼らはロウソクのともった中、熱心に見つめる顔が並ぶ寮のテーブルに向きあっていた。そのとき、マクゴナガル先生が言った。「エバンス、リリー!」
ハリーは、母が震える足で進みでて、ぐらぐらする椅子に座るのを見ていた。マクゴナガル先生が、組み分け帽子を彼女の頭にのせた。暗赤色の髪に触れると、ほとんどすぐに、帽子が叫んだ。「グリフィンドール!」
ハリーは、スネイプが小さなうめき声をあげるのを聞いた。リリーは帽子を脱いで、マクゴナガル先生に返して、喝采するグリフィンドール生の方に急いでいった。けれど、行きながら、スネイプをちらっと見て、悲しげな小さなほほえみを浮かべた。シリウスがつめて、彼女の座る場所を空けるのを、ハリーは見た。彼女は、一目見て、列車の中の子だと分かると、両腕を組み断固として彼に背を向けた。
名前の読み上げが続いた。ハリーは、ルーピン、ペティグリュー、そして自分の父が、グリフィンドールのテーブルで、リリーとシリウスといっしょになるのを見た。組み分けされていない生徒が十二人だけになったときに、やっとマクゴナガル先生がスネイプを呼んだ。
ハリーは、彼といっしょに腰掛けまで歩いていって、彼が帽子を頭にのせるのを見ていた。「スリザリン!」と組み分け帽子が叫んだ。
そしてセブルス・スネイプは、リリーから離れて大広間の反対側に歩いていった。そこでは、スリザリン生が喝采してむかえ、胸に監督生のバッジをつけたルシウス・マルフォイが、スネイプが隣に座ると、その肩を叩いた……
そして場面が変った……
リリーとスネイプが城の中庭を、明らかに口論しながら歩いていた。ハリーは、彼らに追いついてこっそり話を聞こうと急いで行った。ハリーが追いつくと、二人は、ずいぶん背がのびていた。組み分けから数年がたったようだった。
「……僕たちは、友だちだったと思っていたんだけど?」スネイプが言った。「親友だったと?」
「今でもそうよ、セブ、でも、私、あなたがいっしょにいる何人かが好きじゃないの! 悪いけど私、エイバリーとマルキバーが大っ嫌い! マルキバー! いったい彼のどこがいいの、セブ? ぞっとするわ! こないだ彼がメアリ・マクドナルドに何をしようとしたか知ってる?」
リリーは柱のところに行って、それにもたれて、やせた血色の悪い顔を見あげた。
「あれは何でもないさ」とスネイプが言った。「冗談だよ、それだけ――」
「あれは闇の魔法だったわ、もしあなたが、あれをおもしろいと思うんなら、ー」
「ポッターと、その仲間がしでかしていることはどうなんだ?」とスネイプが強い口調で尋ねたが、そう言ったとき、恨みを留めておけないように、顔に血が上った。
「ポッターが何に関わりがあるの?」とリリーが言った。
「あいつらは夜にこっそり出ていく。あのルーピンには、どっか変なところがある。彼は、どこに行ってるんだ?」
「彼は病気なの」とリリーが言った。「病気だって聞いたわ――」
「毎月、満月のときにか?」とスネイプが言った。
「あなたの仮説は知ってるわ」とリリーが言ったが、その口調は冷たかった。「とにかく、なぜ、あなたは、そんなに彼らに執着するの? なぜ、彼らが夜にやってることが気になるの?」
「僕はただ、君に見せたいだけさ。みんなが思ってるほど、あいつらがすばらしくないってことをね」
彼が強く見つめるので、彼女はぱっと赤くなった。
「でも、彼らは闇の魔法は使わないわ」彼女は、声を落とした。「それに、あなたはほんとうに恩知らずよ。こないだの夜に起こったこと、聞いたわ。あなたが、暴れ柳のそばの地下道にこっそり行って、ジェイムズ・ポッターが、あなたを助けたんでしょ、何か知らないけど、あそこの何かから――」
スネイプの顔全体がゆがみ、彼は早口でまくしたてた。「救った? 救った? 君は、あいつがヒーロー役を演じたと思ってるのか? あいつは、自分と自分の友だちの首も救ったんだ! 君が、これから、してはだめなことは――僕が、君に、させないことは――」
「私に指図するつもり?」
リリーの輝く緑色の目が細くなった。スネイプはすぐに前言を撤回した。
「そういう意味じゃないよ――君が笑いものになるのを見たくないだけさ――あいつは君が好きだ、ジェイムズ・ポッターは君が好きなんだ!」その言葉は、彼の意志に反して、むしり取られて出てきたようだった。「でも、あいつは、違うんだ……みんな思ってるけど……すごいクィディッチのヒーローだって――」スネイプの話は、敵意と嫌悪感で、つじつまがあわなくなっていき、リリーの眉が、額の方にどんどん上がっていった。
「ジェイムズ・ポッターが、いばりくさったつまらないやつだってことは知ってるわ」彼女が、スネイプの話を遮った。「そんなこと、あなたに教えてもらう必要はないわ。でもマルキバーとエイバリーのユーモア感覚は、邪悪なだけ。邪悪よ、セブ。どうして、彼らと友だちでいられるのか分からないわ」
スネイプは、リリーがマルキバーとエイバリーを酷評するのを聞いていなかったのではないかと、ハリーは思った。彼女が、ジェイムズ・ポッターを侮辱したとたん、スネイプの体全体の緊張がゆるんだのだ。二人が歩いていったとき、スネイプの足取りは、さっより、弾んでいた……
そして場面が溶け去った……
ハリーは、またスネイプが闇の魔術に対する防衛術のOWL試験を受けた後、大広間を出ていくのを見ていた。城からぶらぶら歩いていって、うっかりジェイムズ、シリウス、ルーピン、ペティグリューがいっしょに座っているブナの木の下の場所近くにさまよいこむのを見ていた。けれど、今度は、ハリーは少し離れていた。ジェイムズがスネイプを空中に釣りあげて、嘲った後、何が起きたか知っているからだ。起こったこと言われたことを知っていたし、もう一度聞いても少しもうれしくなかったからだ。ハリーが見ていると、リリーが一団に加わって、スネイプをかばった。スネイプが、屈辱感と激怒から、彼女に向かって、許されない言葉「穢れた血」とどなったのが遠くに聞こえた。
場面が変わった……
「ごめん」
「興味ないわ」
「ごめん!」
「声を小さくして」
夜だった。リリーはガウンを着て、両腕を組んで、グリフィンドールの塔の入り口の太った婦人の肖像画の前にいた。
「メアリが、あなたがここで寝ると脅すと言ったから、私、出てきただけよ」
「そう言った。そうしようと思ってた。君を、穢れた血と呼ぶつもりはぜんぜんなかった、あれはただ――」
「口が滑った?」リリーの声には、哀れみのかけらもなかった。「もう遅すぎる。私、何年も何年も、あなたの弁護をしてきた。いったいなぜ私があなたとしゃべるのかさえ、友だちの誰も理解できないでいるわ。あなたと、その大事な小さなデス・イーターのお友だち――ほら、あなたは、それを否定することさえしない! あなたが、目指しているのはそれだということを、否定することさえしない! あなたは、例のあの人の仲間になるのが待ちきれないんでしょう?」
スネイプは、口を開いたが、しゃべらずにまた閉じた。
「私は、もう取り繕うことはできないわ。あなたは、あなたの道を選んだ、私は、私の道を選んだのよ」
「違う――聞いて、僕は、そんなつもりじゃなかった――」
「――私を、穢れた血と呼ぶつもりじゃなかったってこと? でもあなたは、私と同じ生まれの人をすべて、穢れた血と呼んでるわ、セブルス。なぜ、私だけ違うの?」
彼は、まさに話しだそうとしてもがいていたが、彼女は、軽蔑のまなざしを投げて、振り向いて、肖像画の穴を上って戻っていってしまった……
廊下が溶け去ったが、場面が変わるのに少し長くかかった。ハリーは、まわりの形や色が変る中を飛んでいくような気がした。そして最後に、まわりがまた固定され、彼は、暗闇の中でもの寂しく冷たい丘の上に立っていた。葉が落ちた数本の木の枝を通って、風がひゅうひゅう音を立てていた。おとなのスネイプが、あえぎながら、その場で回って姿あらわししたところだった。杖をしっかり握りしめ、何か、もしくは誰かを待っていた……彼の恐れが、ハリー自身は傷つくはずがないと分かっていたのだが、伝わってきた。そこでハリーは肩ごしにふりむいて、スネイプが待っているのは何だろうと思った――
そのとき、目がくらむギザギザの白い光が空中を通ってさっと飛んできた。ハリーは、稲妻だと思ったが、スネイプは、がっくりひざをついた。杖が、その手から飛びだした。
「殺さないでくれ!」
「それは、私の意図ではない」
ダンブルドアが姿あらわししてきた物音は、すべて枝を通る風の音に消されていた。彼は、ロープをはためかせてスネイプの前に立っていた。ダンブルドアの顔は、杖から放たれた光で下から照らされていた。
「それで、スネイプ? ヴォルデモート卿は、私にどんな伝言があるのだ?」
「いえ――伝言はない――私は、ここに自分自身の意志で来ました!」
スネイプは、両手を固く握りしめていた。黒髪が、顔のまわりに散っていて、少し気が変に見えた。
「私は――警告しに来ました――いえ、頼みがあって――どうか――」
ダンブルドアが、杖を軽く振った。葉と枝は、まだ夜の大気の中を飛んでいたが、彼とスネイプが向かいあっている場所に沈黙が落ちた。
「デス・イーターが、私に、どんな頼みがあるというのだ?」
「あの……あの予言……予言の言葉……トレローニー……」
「ああ、そうだ」とダンブルドアが言った。「君は、どのくらいヴォルデモート卿に伝えたのだ?」
「すべて――私が聞いたことすべてを!」とスネイプが言った。「だから、そういうわけで――彼はそれがリリー・エバンスのことだと思ったのです!」
「あの予言は、女性のことは言ってはおらぬ」とダンブルドアが言った。「七月の末に生まれる男の子のことを言っている――」
「私が言う意味がお分かりのはずだ! 彼は、それが、彼女の息子だと思って、彼女を捜しだして――一家ぜんぶを殺すつもりなのです――」
「もし、君にとって彼女がそんなに大切なら」とダンブルドアが言った。「きっとヴォルデモート卿は、彼女の命は助けてくれるのではないか? 息子の命と引き換えに、母親の命を助けてくれるように頼まなかったのか?」
「私は――私は頼みました――」
「君は、私をむかつかせる」とダンブルドアが言った。ハリーは、それほどひどく軽蔑の気持ちがあらわれた彼の声を聞いたことがなかった。スネイプは少し縮んだようにみえた。「それでは君は、夫と子供の死は気にしないのか? 君の望みがかなえば、彼らが死んでもいいわけか?」
スネイプは何も言わずに、ただダンブルドアを見上げていた。
「彼らをみんな隠してください、それなら」スネイプはしゃがれ声で言った。「彼女を、彼らを――安全にかくまってください。お願いします」
「それで、見返りに何をくれるか、セブルス?」
「み、見返りに?」スネイプは、ぽかんとダンブルドアを見つめた。ハリーは、きっと彼が抗議するだろうと思った。しかし、長いことたってから、彼は言った。「何なりと」
丘の上は、しだいに薄れていった。そしてハリーはダンブルドアの校長室に立っていた。何かが傷ついた獣のような恐ろしい音をたてていた。スネイプが椅子の中でうなだれていた。ダンブルドアが、厳しい顔つきでその前に立っていた。少しして、スネイプが顔を上げた。スネイプは、丘の上にいたときから、ひどく悩み苦しんで百年も生きてきた男のように見えた。
「私は思っていたのに……あなたが……彼女を……安全な場所においてくれると……」
「彼女とジェイムズは、間違った人物を信頼したのだ」とダンブルドアが言った。「むしろ君と同じだな、セブルス。ヴォルデモートが、彼女の命は助けてくれると期待していたのではないか?
スネイプは浅く呼吸をしていた。
「彼女の息子は生き延びた」とダンブルドアが言った。
スネイプが、いらいらさせるハエを追いはらうように、頭を小さくぐいと動かした。
「彼女の息子は生きている。その子は、彼女の目をしている、まったく彼女の目と同じだ。君は、きっとリリー・エバンスの目の形と色を覚えているだろう?」
「いやだ!」とスネイプが大声でどなった。「行ってしまった……死んでしまった……」
「それは、激しい後悔か、セブルス?」
「私は……私は、死んでしまいたい……」
「それが、誰かにどんな役にたつのだ?」とダンブルドアが冷たく言った。「もし君がリリー・エバンスを愛していたのなら、もし、ほんとうに愛していたのなら、それなら、君の進むべき道は、はっきりしている」
スネイプは、苦痛のもやを通して見つめているようだった。それでダンブルドアの言葉が届くのに、長い時間がかかるようだった。
「どういう――どういう意味ですか?」
「君は、彼女がどのように、なぜ死んだのか知っているだろう。それが、無駄ではなかったと実証するのだ。私がリリーの息子を守るのを手伝ってくれ」
「彼は守る必要はない。闇の帝王は滅びた――」
「闇の帝王はよみがえるだろう。そのときハリー・ポッターは恐ろしい危険にさらされる」
長い間があった。スネイプは、ゆっくりと自制心を取りもどし、呼吸をしはじめた。とうとう彼は言った。「結構です。結構です。でも、ぜったいに、ー、ぜったいに言わないでほしい、ダンブルドア! これは私たち二人のあいだだけにしてほしい! 誓ってください! 私は耐えられない……特にポッターの息子なんて……あなたの約束の言葉が欲しい!」
「私が、セブルス、君の最良の部分をけっして明かさないという約束の言葉か?」ダンブルドアは、ため息をついて、スネイプの激しい苦痛に満ちた顔を見おろした。「もし君がどうしてもと言うのなら……」
校長室は溶け去ったが、すぐに、また校長室になった。スネイプが、ダンブルドアの前を行ったり来たりしていた。
「――平凡で、父親のように傲慢で、確信犯の規則破り、自分を有名に見せて喜び、目立ちたがりやで、無礼で――」
「君は、見ようと期待しているものを見ているのだ、セブルス」とダンブルドアが、「今日の変身術」の本から目も上げずに言った。「他の先生の報告では、あの少年は、控えめで、好感が持て、かなり素質があるそうだ。私個人は、人を惹きつける子だと思うが」
ダンブルドアはページをめくり、顔を上げずに言った。「クィレルから目を離すな」
いろいろな色がぐるぐる回って、今度はすべてが暗くなった。スネイプとダンブルドアが、玄関で少し離れて立っていた。クリスマスのダンスパーティーで最後までうろついていた者たちが、そばを通って寝室に戻っていった。
「それで?」とダンブルドアが小声で言った。
「カルカロフの闇の印も黒くなっている。彼はうろたえている。報復を恐れているのです。闇の帝王が倒れた後、彼がどれほど魔法省に貢献したかご存知でしょう」スネイプは、ダンブルドアの曲った鼻の横顔を、横目で見た。「カルカロフは、もし闇の印が燃えたつように赤くなったら、逃げだすつもりです」
「そうか?」とダンブルドアが、そっと言った。そのときフラー・デラクールとロジャー・デイビスが笑いながら校庭から入ってきた。「それで、君は、彼の仲間に加わりたいと思うのか?」
「いえ」とスネイプが言った。その黒い目は、フラーとロジャーの去っていく姿を追っていた。「私は、そんな臆病者ではない」
「そうだな」とダンブルドアが同意した。「君は、イゴル・カルカロフよりも、はるかに勇敢な男だ。私は、ときには、組分けを早くやりすると思うことがあるのだよ……」
ダンブルドアは歩いて去っていった。うちひしがれたようなスネイプをその場に残したままで……
ハリーは、また校長室に立っていた。夜だった。ダンブルドアが机の向こうの王座のような椅子に沈みこんでいたが、明らかに半分意識を失っているようで、脇にだらりとたれた右手は、黒く焼けただれていた。スネイプが、その手首に杖を向けて呪文をつぶやき、一方、左手で、どろりとした金色の薬がいっぱいのゴブレットを傾けて、ダンブルドアののどに流しこんでいた。少しして、ダンブルドアのまぶたが、またたいて開いた。
「なぜ」とスネイプが前置きなしに言った。「なぜ、あの指輪をはめたのですか? 呪文がかかるのに。それを、よくお分かりだったはずなのに。そもそも、なぜ触ったのですか?」
マルボロ・ゴーントの指輪がダンブルドアの前の机に置かれていた。それは裂けていて、グリフィンドールの剣が、そばにあった。
ダンブルドアは顔をしかめた。
「私は……愚か者だった。ひどく誘惑されてしまった……」
「何に誘惑されたのですか?」
ダンブルドアは答えなかった。
「ここに何とか戻ってこられたのは奇跡だ!」スネイプが、ひどく怒っているように言った。「あの指輪は、並はずれた魔力の呪いをかける。今の状態に抑えておくのが精一杯です。さしあたって、その呪いを片手に閉じこめたが、ー」
ダンブルドアは、黒ずんで使いものにならない手をあげて、興味深い骨董品を見せられた人のような表情で、じっくりと見た。
「とてもよくやってくれた、セブルス。私は、あとどのくらい生きられるかな?」
ダンブルドアは、天気予報を尋ねているような軽い会話の口調で言った。スネイプは、ためらったが、それから言った。「分かりません。一年ほどかと。それほどの呪いを永久に止めることはできない。徐々に体中に広がるでしょう。時間が経つほど強まる種類の呪いだから」
ダンブルドアは微笑んだ。後、一年も生きられないという知らせは、ほとんど、もしくは、まったく関心がない問題のようだった。
「君がいてくれて、私は幸運だ。きわだって幸運だ、セブルス」
「もう少し早く呼んでくだされば、もっと手を尽くすことができ、もっと時間をさしあげられたのに!」とスネイプが、ひどく怒って言い、壊れた指輪と剣を見おろした。「指輪を壊せば、呪いも壊れると思ったのですか?」
「そんなようなことを……私は精神錯乱していたのだ、まちがいない……」とダンブルドアが言った。そして努力して、椅子の中で、まっすぐに座りなおした。「うーむ、実際のところ、これで、ものごとが、はるかにすっきりした」
スネイプは、まったくわけがわからないようにみえた。ダンブルドアが、ほほえんだ。
「ヴォルデモートが、私の回りにめぐらせた計画のことを言っているのだ。かわいそうなマルフォイ少年に、私を殺させようという計画だ」
スネイプは、ハリーが、しょっちゅう座ったダンブルドアの机と向かいあった椅子に座った。スネイプが、ダンブルドアの呪いをかけられた手について、もっと話したいと思っているのが、ハリーにはよく分かった。しかし、ダンブルドアは、その話題を続けるのを、丁寧に遮った。顔をしかめながら、スネイプが言った。「闇の帝王は、ドラコが成功するとは期待していない。これは、ルシウスの最近の失敗に対する罰というだけです。息子が失敗し代償を払うのを見ているという、ドラコの両親への、ゆるやかな拷問だ」
「手短にいうと、あの少年は、私と同じように、死刑の宣告を受けたのだ」とダンブルドアが言った。「さて、ドラコが失敗したら、その任務を引きつぐのは当然、君だと思われるが?」
短い沈黙があった。
「それが、闇の帝王の計画だと思います」
「ヴォルデモート卿は、近い将来、ホグワーツにスパイを必要としなくなるときが来ると予想しているのか?」
「彼は、まもなく学校を支配できると思っています、はい」
「それで、もし学校が、彼の手に落ちれば」とダンブルドアが、雑談でもしているような口調で言った。「ホグワーツの生徒を守るのに全力をつくすと約束してくれるな?」
スネイプは、堅苦しく頷いた。
「よろしい。それでは、君の最優先事項は、ドラコが何を企てているのか探りだすことだ。恐がっている十代の少年というのは、彼自身にとってだけでなく他の者たちにとっても危険な存在だ。彼に手助けと手引きをしようともちかけるのだ。彼は君が好きだから、受けるはずだ――」
「――彼の父親が信頼を失ってからは、そうではありません。ドラコは、私を責めている。私が、ルシウスの地位を奪ったと思っているので」
「そうであるにしても、やってみるのだ。あの少年がどんな計略を思いつこうと、私自身より、偶然巻きこまれる犠牲者のほうが、はるかに心配だ。もちろん、最終的には、彼をヴォルデモート卿の激怒から救おうとすれば、方法は一つしかない」
スネイプは眉を上げ、嘲るような口調で尋ねた。「彼にあなたを殺させるつもりなのですか?」
「とんでもない。君が、私を殺すのだ」
長い沈黙があった。その中に奇妙なカチッという物音が聞こえた。フェニックスのフォークスが、餌のイカの骨をかじる音だった。
「私が、今、そうすることをお望みですか?」とスネイプが、皮肉をこめた重い口調で尋ねた。「それとも、墓碑銘をつくるのに少し時間がいりますか?」
「いや、まだだ」とダンブルドアが、微笑みながら言った。「おそらく、そのうちに、それにふさわしいときがやってくるだろう。今夜、おこったことからして」と、しなびた手を示した。「一年以内なのは、確かだ」
「もし、死ぬのを気になさらないのなら」と、スネイプが荒々しく言った。「なぜドラコにさせないのですか?」
「あの少年の魂は、まだそれほど損なわれてはおらぬ」とダンブルドアが言った。「私のせいで、あの魂が裂かれるのは望まない」
「では、私の魂は、ダンブルドア? 私のはどうなんです?」
「老人を苦痛と屈辱から逃れさせるのを助けることが、君の魂を損なうかどうかは、君だけが知っている」とダンブルドアが言った。「私のために、どうかお願いだ、セブルス。私に、死が訪れることは、クィディッチのチーム、チャドリー・キャノンズが今年度リーグの最下位で終わることと同じように確実なことなのだ。告白するが、私は、すばやく苦痛なく退場する方がよい。たとえば、グレイバックがからんで、長びき面倒なことになるよりは――ヴォルデモートは、彼を雇ったと聞いたが? または、食べる前にえじきをもてあそぶベラトリックスがからむよりは」
ダンブルドアの口調は軽かったが、その青い目が、しばしばハリーを突き刺すように見たように、スネイプを突き刺すように見た。まるで彼らが話しあっている魂が目に見えるかのようだった。とうとうスネイプが、また短く頷いた。
ダンブルドアは満足したようだった。
「ありがとう、セブルス……」
校長室が消えた。スネイプとダンブルドアが、たそがれどき誰もいない城の校庭をゆっくり歩いていた。
「いく晩も、ポッターと閉じこもって何をなさっているのですか?」スネイプがいきなり尋ねた。
ダンブルドアは疲れているようにみえた。
「なぜだ? 彼にまた居残りの罰を与えようとしているのではないだろうな、セブルス? あの少年は、まもなく自由なときより、居残りの罰を受けている時間の方が長くなるだろうよ」
「彼は、父親にそっくりだ――」
「見かけは、おそらくそうだろう。だが、心の奥底の性格は、ずっと母親似だ。私がハリーと過ごしてきたのは、手遅れにならないうちに、話しあうべきことと、与えるべき情報があったからだ」
「情報」とスネイプがくり返した。「あなたは、彼を信頼している……私を信頼してはいない」
「これは信頼の問題ではない。我々二人が知っているように、私には、あまり時間が残されていない。あの少年が、やるべきことをやるのにじゅうぶんな情報を与えるのが、肝心なのだ」
「で、なぜ私は、同じ情報を得ることができないのですか?」
「私は、すべての秘密を一つの籠に入れたくはないのだ。特にとても多くの時間、ヴォルデモート卿の腕にかけられている籠にはな」
「あなたの命令で、そうしているのだ!」
「そして、君はきわめてよくやっている。君が、つねに危険な立場に身をおいていることを、私が過小評価していると思わないでくれ、セブルス。ヴォルデモートに価値ある情報のようにみえるものを与えつつ、最も重要な点を知らせずにおくことは、君以外の誰にも任せられない仕事だ」
「だが、あなたは、閉心術もできず、魔法の力は二流で、闇の帝王の心に直結するつながりを持っている少年の方を、もっと信頼している!」
「ヴォルデモートは、あのつながりを恐れている」とダンブルドアが言った。「少し前に、彼は、ほんとうにハリーの心を共有すると、どういうことになるかを悟る小さな経験をした。それは、これまで彼が経験したことがない苦痛だった。彼は二度とハリーの心を乗っとろうとはしないだろうと、私は確信している。あのようなやり方ではな」
「おっしゃる意味が分かりません」
「ヴォルデモート卿の魂は、損なわれてはいるが、ハリーのような魂と直接つながりを持つのには耐えられないのだ。凍った鋼に舌をのせるように、炎に皮膚をさらすように――」
「魂? 私たちは心の話をしているのに!」
「ハリーとヴォルデモート卿の場合は、心の問題といえば魂の問題になるのだよ」
ダンブルドアは、あたりを見回して誰もいないのを確かめた。彼らは、今、禁じられた森の近くにいたが、近くには誰もいないようだった。
「君が、私を殺した後で、セブルス――」
「あなたは、すべてを話そうとしないくせに、私がささやかな奉仕をするのを望んでいるんだ!」とスネイプが怒鳴った。そのやせた顔に、ほんものの怒りが燃えあがっていた。「あなたは、たいへんなことをやるのを当然のことだと思っている、ダンブルドア! 私が、気を変えたとしたらどうです!」
「君は約束したのだ、セブルス。ところで、君が私のためにする奉仕といえば、若いスリザリンの友人から目を離さないでいたはずだが?」
スネイプは怒って反抗的なようすだった。ダンブルドアがため息をついた。
「今夜、私の部屋に来てくれ、セブルス、十一時だ。そうすれば、君を信頼していることを示そう……」
彼らは、ダンブルドアの部屋に戻った。窓の外は暗く、フォークスは静かにしていた。スネイプは、じっと黙って座っていて、ダンブルドアが、そのまわりを話しながら歩いていた。
「ハリーは、最後の瞬間に知ることが必要になるまで、知ってはならない。さもなければ、どうして、しなくてはならないことをする強さを持つことができようか?」
「だが、彼は何をしなくてはならないのですか?」
「それは、ハリーと私の間のことだ。さて、よく聞くのだ、セブルス。私の死後、あるときが来るだろう――言い返すな、話を遮るな! ヴォルデモート卿が、蛇が殺されないかと心配するときが来るだろう」
「ナギニが?」スネイプは驚いたようだった。
「そのとおり。もしヴォルデモート卿が、用を命じて蛇を送りだすのをやめ、魔法で保護をして自分の側に置くようになったら、そのときは、ハリーに話しても大丈夫だと思う」
「彼に何を話すのですか?」
ダンブルドアは、深く息をすって目を閉じた。
「彼に言うのだ。ヴォルデモート卿が、彼を殺そうとした晩、リリーが自分の命を盾として二人のあいだに投げ出したので、殺人の呪文がヴォルデモート卿に、はね返った。そしてヴォルデモートの魂から、魂のかけらが吹きとばされて、その崩れかけた建物でただ一つ生きていたものに閉じこもった。つまりヴォルデモート卿の魂の一部が、ハリーの中で生きている。そのため、彼は蛇と話す力を持ち、彼自身は分からないが、ヴォルデモート卿と心がつながっている。そして魂のかけらが、ヴォルデモートに気づかれずに、ハリーの魂にくっつき守られているあいだは、ヴォルデモート卿は死ぬことができないということをな」
ハリーは、長いトンネルの端から二人の男を見ているような気がした。彼らは、とても遠く離れていて、声が妙にひびいて耳に聞こえた。
「では、あの少年は……あの少年は、死ななくてはならないのですか?」とスネイプがたいそう冷静に尋ねた。
「そして、ヴォルデモート卿自身が、それをせねばならぬ、セブルス。それが重要な点だ」
また長い沈黙があった。それからスネイプが言った。「私は……この長い年月ずっと……私たちが、彼を、彼女のために守っていると思っていた、リリーのために」
「我々が、彼を守ってきたのは、教え、奮いたたせ、自分の力を使わせることがもっとも重要だったからだ」とダンブルドアが、まだ固く目を閉じたまま言った。「そのあいだに、彼らの繋がりは、寄生するものが成長するように、どんどん強くなってきた。ときには彼が、自分で気がつくのではないかと思うこともあった。もし、私が知っているとおりの彼ならば、だんどりをして、自分の死に向かって出発することだろう。それが真にヴォルデモートの最後を意味するのだ」
ダンブルドアが目を開いた。スネイプはぞっとしたような顔をしていた。
「あなたは、その時がくれば殺させるように、彼を生かしておいたのですか?」
「ショックを受けるでない、セブルス。君は、どれほどの数の男や女が死ぬのを見てきたんだ?」
「最近は、私が助けることができなかった人たちだけです」とスネイプが言った。そして立ちあがった。「あなたは、私を利用した」
「どういう意味かね?」
「私は、あなたのためにスパイをし、あなたのために嘘をつき、あなたのために、わが身を命の危険にさらしてきた。すべては、リリー・ポッターの息子を安全に守るためだと思っていた。今、あなたは、食用に殺すブタを育てるように、彼を育ててきたと言う――」
「だが、それは胸を打たれる話だな、セブルス」とダンブルドアがまじめに言った。「予想に反して、あの少年を好きになってきたのかな?」
「彼を?」とスネイプが叫んだ。「エクスペクト・パトローナム!」
その杖の先から、銀の雌鹿が飛びだした。それは校長室の床に着地して、さっと飛んで、窓から外に舞い上がっていった。ダンブルドアは、それが飛んでいくのを見つめていた。そして銀の輝きがあせると、目に涙を溢れさせたスネイプの方に向きなおった。
「こんなに長いときがたったのに?」
「ずっと変わらず」とスネイプが言った。
場面が変わった。ハリーは、スネイプが机の後ろのダンブルドアの肖像画と話しているのを見た。
「ハリーが、おばとおじの家を出発する正確な日にちを、ヴォルデモートに伝えるのだ」とダンブルドアが言った。「ヴォルデモートは、君がとてもよく事情につうじていると思っているのだから、そうしないと疑いをまねく。だが、おとりのアイディアを植えつけてくれ。それが、ハリーの安全を保証するにちがいないと思うからだ。マンダンガス・フレッチャーに混乱させる呪文をかけろ。それに、セブルス、もし追跡の役をしなくてはならなくなったら、君の役割を、もっともらしく演じるように気をつけろ……君が、できるだけ長くヴォルデモート卿に気に入られているのを当てにしている。さもないとホグワーツは、カロウたちのなすがままになってしまうからな……」
今度は、スネイプは、見知らぬ居酒屋でマンダンガスと頭をつき合わせていた。マンダンガスの顔は、妙にぼんやりとしていて、スネイプは集中するあまり顔をしかめていた。
「不死鳥の騎士団に提案しろ」スネイプが小声で言った。「おとりを使えと。ポリジュース薬。見分けがつかないポッターたちだ。それが、うまくいくためのただ一つのやり方だ。私がこれを提案したことは忘れろ。君自身が考えたふりをしろ。分かったか?」
「分かった」とマンダンガスが、焦点が定まらない目で、呟いた……
今度は、ハリーは、晴れた暗い夜、箒にのったスネイプの横を飛んでいた。フード姿のデス・イーターといっしょだった。その先には、ルーピンと、ほんとうはジョージのハリーがいた……デス・イーターがスネイプの先に行って杖をあげ、まっすぐルーピンの背中に向けた――
「セクトゥムセンプラ!」とスネイプが叫んだ。
しかし、デス・イーターの杖を持った腕をねらったその呪文は、はずれて、代りにジョージに当たってしまった――
次に、スネイプは、シリウスの昔の寝室にひざまずいていた。リリーが書いた古い手紙を読んでいるとき、曲った鼻の先から涙がしたたりおちていた。二枚目のページには、少ししか書かれていなかった。
「ゲラート・グリンデルワルドと友だちだったなんて。個人的には、彼女の頭がおかしくなったんだと思うわ!
いっぱい愛をこめて、リリー」
スネイプは、リリーのサインと「愛をこめて」があるページを取って、ローブの中にしまいこんだ。それから、同時に手に持っていた写真を二つに裂いて、リリーが笑っている部分を取って、ジェイムズとハリーが写っている部分は、戸棚の下の床に戻した……
今度は、スネイプは、また校長室に立っていた。そのとき、フィニアス・ナイジェルスが急いで自分の肖像画の中に飛びこんできた。
「校長! 彼らは、ディーンの森でキャンプをしているぞ! あの穢れた血が――」
「その言葉を使うな!」
「――それなら、グレンジャーの娘が、バッグを開けたときに、そう言ったのを聞いた!」
「結構。たいへん結構!」と校長先生の椅子の後ろのダンブルドアの肖像画が叫んだ。「さあ、セブルス、剣だ! 窮地から勇気がないと手に入らないという状況にすることを忘れるな――それから、君が与えたことを、彼が知ってはならないということもな! もしヴォルデモートが、ハリーの心を読んで、君が彼のために動いているのが分かれば――」
「分かっています」とスネイプが短く言った。そしてダンブルドアの肖像画に近づき、その端を引いた。すると画が前方に飛びだし、その後ろに隠れていた穴があらわれ、そこからスネイプがグリフィンドールの剣を取りだした。
「それで、なぜポッターにこの剣を渡すことがそんなに重要なのか、まだ教えてくださらないのですか?」と彼が、ローブの上から旅行用マントをはおりながら言った。
「ああ、言わないつもりだ」とダンブルドアの肖像画が言った。「彼は、それで何をすべきか分かるだろう。それからセブルス、よくよく気をつけてくれ。彼らは、ジョージ・ウィーズリーの不慮のできごと以来、君があらわれるのは、ありがたがらないだろうから――」
スネイプは、扉の方を向いた。
「ご心配なく、ダンブルドア」と冷たく言った。「計画を立ててあります……」
スネイプは部屋を出ていった。ハリーは、ペンシーブから立ちあがった。そしてほんの少しして、まったく同じ部屋の絨毯を敷いた床の上に横たわっていた。スネイプが、扉を閉めたばかりのように思われた。
第34章 ふたたび森へ
The Forest Again
ついに真実が分かった。ハリーは、うつぶせになって校長室の汚い絨毯に顔を押しつけていた。そこは、以前、勝つための秘密を学んだと思った場所だったが、自分が生き延びる運命ではなかったということが、とうとう分かった。彼の仕事は、死が両腕を広げて迎えるところに、冷静に歩いていくことだった。その道に沿って、彼は、ヴォルデモートの残された命のつながりを始末することになっていたのだ。そうして、最後に、わが身を守るため杖をあげずに、ヴォルデモートの行く手にわが身を投げだせば、すっきりと片づき、ゴドリック盆地でなしとげられるはずだった仕事が終るだろう。どちらも生きることはなく、どちらも生き延びることはできないのだ。
胸の中で心臓が激しく打っていた。死を恐れている中で、彼を生かしておこうとして、心臓が、よけいに激しく雄々しく打ちつづけるとは、なんとふしぎなんだろう。けれど、それは止まらなくてはならない。それも、まもなくのことだ。心臓の鼓動を数えることができた。立ちあがって、最後に城をとおって歩いていき、校庭に出て、森の中に入っていくのに、どのくらいの時間がかかるのだろうか?
床に倒れて、体の中で葬式のドラムが打ちならされているあいだに、恐怖が押しよせてきた。死ぬのは痛いだろうか? これまでずっと、死は、迫ってくるから逃げだすものとしか考えてこなかったので、死そのものについて考えたことがなかった。死への恐れよりも、生きようとする意志の方が、いつもとても強かった。しかし、今度は、逃れよう、ヴォルデモートから逃げようという気は決して起きなかった。それから逃げるときは終わった、と分かっていた。残されているのは、それ自体だけ、つまり死ぬことだけだった。
もし、最後にプリベット通り四番地を出た夏の夜、気高い不死鳥の羽の杖が救ってくれたときに、死んでいさえいれば! もし、ヘドウィグのように、何が起きたのか分からないくらい、とてもすばやく死ぬことができていたら! それとも、愛する誰かのために杖の前に身を投げだすことができたなら……今では、両親の死さえ、羨ましかった。自分の破滅に向って、血の凍るような気持ちで歩くのは、別の種類の勇気を必要とするだろう。指がかすかに震えたので、誰も見ていなかったけれど止めようと努力した。壁の肖像画は、すべて空だった。
ゆっくり、とてもゆっくり、彼は、身を起こして座った。すると、いっそう生きているという感じがした。今までになく、自分の体が生きているということに気がついた。なぜ、自分の存在が、頭脳も神経も、鼓動を打つ心臓も、なんという奇跡だろうと、ありがたく思わなかったのだろうか? すべてが、いなくなってしまうのだ……いや、少なくとも彼が、そこからいなくなってしまうのだ。呼吸がゆっくり、深くなってきた。口と、喉が、からからに渇き、目も同じだった。
ダンブルドアの裏切りは、ほとんど何でもなかった。もちろん、いつでも、もっと大きな計画があったのだ。ハリーが、あまりに愚かで、それが分からなかっただけだ。今、それが分かった。ダンブルドアが、自分に生きることを望んでいるというのだという前提を、ハリーは疑ってみたこともなかった。ホークラックスをすべて取りのぞくのに、どのくらい長くかかるかということによって、命の長さがずっと決まっていたのだと、今、分かった。ダンブルドアは、ホークラックスを破壊する仕事をハリーに託した。それに従って、ハリーは、ヴォルデモートだけでなく、自分自身を、命につないでいる絆を切り離し続けていたのだ! なんと巧みで、なんと的確に、他の命を無駄にすることなく、その任務を一人の少年に与えたことか。その少年は、すでに殺されるために選び出されていて、その死が、不幸なできごとではなく、ヴォルデモートへの一撃になるのだ。
それに、ダンブルドアは、ハリーが逃げださずに、たとえそれが自分自身の終わりであっても、終わりに向って進んでいくと分かっていた。だから、わざわざ、知らせたのではないか? ハリーが、それを自分の力で止められると悟った今、自分のために他の誰も死なせはしないと、ダンブルドアは、ヴォルデモートと同じように、分かっていた。フレッド、ルーピン、トンクスが大広間に死んで横たわっている姿が、ハリーの心の目の前に押し入ってきた。一瞬、息をすることもできなかった。死は、せっかちだった……
しかし、ダンブルドアは、ハリーを過大評価していた。ハリーは失敗した。蛇が生きのこっているからだ。たとえ、ハリーが殺されても、ヴォルデモートを地上につないでいるホークラックスが一つ残っている。それが、誰か他の人にとって、もっと簡単な仕事だというのは事実だ。誰が、それをやるだろうか……もちろん、ロンとハーマイオニーなら、やるべきことを知っている……だから、ダンブルドアは、他の二人に打ちあけろと言ったのだろう……もし、ハリーが、少し早く自分のほんとうの運命に従ってしまったとしても、彼らが続けられるように……
冷たい窓にうちつける雨のように、こういう考えが、自分が死ななくてはならないという明白な真実の硬い表面に打ちつけた。「僕は死ななくてはならない」終えなくてはならない。
ロンとハーマイオニーは、ずっと離れたところ、はるか遠い国にいるようだった。ずっと前に彼らと別れたような気がした。別れの言葉も説明もしない。ハリーは、そう決めていた。これは、彼らが一緒に行けない旅だし、彼らが、ハリーを止めようとしても貴重な時間がむだになるだけだ。ハリーは、十七才の誕生日にもらった使い古されたべこべこの金時計を見おろした。彼が降伏するまでに、ヴォルデモートが割りあてた時間の半分近くが過ぎた。
彼は、立ち上がった。心臓は、気が狂いそうな鳥のように、肋骨に激しく打ちつけていた。それは、きっと残された時間がほとんどないと知っているのだ。きっと、最後のときまでに、一生分、鼓動しておこうと決心しているのだ。彼は、ふりかえらずに、校長室の扉を閉めた。
城には、誰もいなかった。ひとりで歩いていくと、幽霊が歩いているような感じがして、もう死んでしまったような気がした。肖像画の人たちは、まだ額縁の中に、姿が見えなかった。あらゆるところが、ぶきみに静まりかえっていた。残っている命あるものは、すべて死者と弔い人で混みあっている大広間に集まっているようだった。ハリーは、透明マントをかぶって、階を下りていき、やっと、玄関に通じる大理石の階段を下りていた。彼の中のほんの少しの部分は、触られ、見られ、止められるのを期待していたのかもしれない。けれど、透明マントは、これまでと同じように、完全に姿をかくしたので、彼は、かんたんに玄関の扉のところに着いた。
そのとき、ネビルが、彼にぶつかりそうになった。ネビルは、二人で校庭の遺体を運んでいるところだった。ハリーが見おろすと、また胃に鈍い衝撃を感じた。コリン・クリービーは未成年だが、ちょうどマルフォイ、クラブ、ゴイルがしたように、こっそり城に戻ってきたにちがいない。彼は、死んでも、とても小さかった。
「ねえ、僕は、一人で運べるよ、ネビル」とオリバー・ウッドが言って、消防士がするように、コリンを肩にかつぎあげ、大広間に運んでいった。
、ネビルは、少しのあいだ、扉のわくにもたれて手の甲で額の汗をふいていたが、老人のようにみえた。それから、また遺体を運びいれるために、暗闇の中、石段を下りていった。
ハリーは、ちらっと大広間の入り口をふりかえった。人々が、動きまわり、たがいに慰めあい、飲んだり、死者の側にひざまずいたりしていた。けれど、愛する人たちの姿は誰も見えなかった。ハーマイオニーも、ロンも、ジニーも、他のウィーズリー家の人たちも、ルナも見えなかった。ハリーは、愛する人たちを最後にほんの一目見るために残された時間を与えられたように感じていた。けれど、そうしたら、自分には見るのを止める強い力があっただろうか? 誰も見られなくて、よかったのだ。
ハリーは、石段を下りて暗闇に出ていった。もうすぐ早朝の四時だった。校庭の死の静けさが息をつめて、ハリーがしなくてはならないことをすることができるかどうか見守っているように思われた。
ハリーは、遺体を探してかがんでいるネビルの方に歩いていった。
「ネビル」
「うわっ、ハリー、びっくりして心臓が止まりそうだったよ!」
ハリーは、透明マントをぬいだ。その考えは、どこからともなく思いついたが、ぜったいに確実にしたいという望みから生まれた。
「ひとりでどこに行くんだい?」ネビルが疑わしそうに聞いた。
「みんな計画の一部なんだ」とハリーが言った。「僕が、しなくちゃならないことがある。聞いてくれ――ネビル――」
「ハリー!」ネビルが急に恐そうな顔をした。「ハリー、君、自分の身を差しだそうと思ってるんじゃないだろうな?」
「違うよ」ハリーは、すらすらと嘘をついた。「とんでもない……これは、他のことだ。僕は少しのあいだ、姿を消すかもしれないけど。君、ヴォルデモートの蛇を知ってるか、ネビル? 彼は、巨大な蛇を飼ってる……ナギニという名前だ……」
「聞いたことがあるよ、ああ……それが、どうしたの?」
「それを殺さなくちゃならない。ロンとハーマイオニーは知ってる。けど、もし彼らが――」
その可能性の恐ろしさに、ハリーは一瞬、息が詰まりそうになって、話しつづけられなくなったが、なんとか気を持ちなおした。これは、一番だいじな点だ。ダンブルドアのようにならなくてはならない。冷静な頭で、代替要員、計画をやりとげる他の人を確保しておかなくてはならない。ダンブルドアは、自分が死んでも、まだ三人がホークラックスのことを知っていると分かっていた。今、ネビルが、ハリーに代わってくれる。秘密を知るものが、まだ三人いるわけだ。
「もし、彼らが――忙しくて――それで、君に機会があったら――」
「蛇を殺す?」
「蛇を殺す」ハリーが、くりかえした。
「分かった、ハリー。君は大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。ありがと、ネビル」
しかし、ハリーが動きだそうとすると、ネビルが手首をつかんだ。
「僕たちは、みんな戦いつづけるつもりだよ、ハリー。分かってる?」
「ああ、僕は――」
窒息しそうな気がして、言葉の最後が消えてしまい、ハリーは続けられなかった。ネビルは、それを変だとは思わないようだった。そしてハリーの肩を叩き、身を離して、遺体を探しにいってしまった。
ハリーは、また透明マントをさっとかぶって歩きつづけた。遠くないところで、誰か他の人が、地面にうつぶせになった人の上にかがみこんでいた。三十センチしか離れていないところまで近づいたとき、それがジニーだということに気がついた。
ハリーは立ちどまった。ジニーは、母親をささやき声で呼んでいる少女の上にかがみこんでいた。
「大丈夫よ」とジニーが言っていた。「大丈夫。あなたを城の中に連れてってあげる」
「でも、私、おうちに帰りたい」と少女がささやくように言った。「もう戦いたくないの!」
「分かるわ」とジニーが言ったが、その声がとぎれた。「そのうち、よくなるから」
冷たさが波のように、ハリーの皮膚の上でゆれていた。夜に向って叫びたかった。そこにいることをジニーに知ってほしかった。そして、どこに行こうとしているか知ってほしかった。止めてほしかった。引きずりもどしてほしかった。わが家に送りかえしてほしかった……
けれど、彼は、わが家にいた。ホグワーツが、彼にとって最初で最良の家だった。彼とヴォルデモートとスネイプ、その見すてられた少年たちは、みんな、ここを、わが家だと思ったのだ……
ジニーは、けがをした少女のそばにひざまずいて、手を取っていた。非常な努力をして、ハリーは歩きだした。そばを通りすぎたとき、ジニーがふりむいたので、誰かが近くを通ったのを感じたのかと、ハリーは思った。けれど、彼女に話しかけなかったし、振り返らなかった。
ハグリッドの小屋が、暗闇からぼんやりとあらわれた。明かりもなく、ファングが扉のところで動きまわる音や、歓迎して吠える声もしなかった。ハグリッドのところを尋ねたことすべてが思いだされた。火の上にかかった銅のやかん、ロックケーキと巨大な幼虫、彼の大きなあごひげのある顔、ロンがナメクジを吐きだし、ハグリッドがノーバートを助けるのを、ハーマイオニーが手つだった……
ハリーは、歩き続け、森のはずれに着いて立ちどまった。
ディメンターの群れが木々のあいだをすべるようにやってきた。そのうすら寒さが感じられたが、その中を安全に通りぬけられるかどうか分からなかった。パトローナスを出す力は残っていなかった。もう自分の震えを止めることができなかった。結局、死ぬのは、それほどたやすくはなかった。彼が息をすうたびに、草の匂い、顔に感じる涼しい大気が、とても貴重だった。人々が、何年も何年ものあいだ、むだにしてきた時間があって、とても多くの時間が引きのばされてきたのだと考えた。彼は、一秒一秒にしがみついた。同時に、もうこれ以上前に進めないと思った。けれども進まなくてはならないのは分かっていた。長い試合が終った。スニッチが取られた。空中から下りてくるときだ……
スニッチだ。ハリーは、弱々しい指で、少しのあいだ、首にかけた袋の中をさぐって、それを引きだした。
「われは、終わりに開く」
せわしなく激しく息をしながら、ハリーはそれを見おろした。できるだけゆっくり動くための時間が欲しい今こそ、理解の力が、スピードをあげて、近道をしてきたかのように、とても早くやってきた。これが、終わりだ。これが、そのときだ。
彼は金色の金属を口に押しつけ、ささやいた。「僕は、死のうとしている」
金属の殻が、割れて開いた。彼は、震える手をさげ、マントの中でドラコの杖をあげて、小声で言った。「ルーモス<光よ>」
ぎざぎざの裂けめが中央に奔っている黒い石が、二つに割れたスニッチの中に入っていた。復活の石には、ニワトコの杖をあらわす垂直の線の筋があった。透明マントと石をあらわす三角形と丸も、まだ、それと見わけられた。
そして、考えなくても、彼らを呼び戻すことが問題ではないと、ハリーに分かった。だって彼らのところに行こうとしているのだから。ハリーが、彼らを連れていきたいのではなく、彼らが、ハリーを連れにくるのだ。
ハリーは、目を閉じて、手の上で石を三回まわした。
何が起きたか分かった。まわりで、かすかな動きの音が聞こえたので、森の中の、学校と外との境の印の木の枝がちらばった地面を、はかない姿が、足を動かして進んでくるのが分かったのだ。そこで目を開けて見まわした。
彼らは、幽霊でもなく、ほんとうの肉体でもなかった。ずっと昔、日記からぬけだしたリドルに、もっとも似ていた。あのリドルは、記憶が、ほとんど固体になったもので、生きている体より、実体はないが、幽霊よりは、はるかに存在感があった。彼らは、ハリーの方に進んできた。どの顔にも、同じ愛情にあふれたほほえみが浮かんでいた。
ジェイムズは、ハリーとちょうど同じ身長だった。死んだときと同じ服装で、髪の毛がくしゃくしゃで、眼鏡が、ウィーズリー氏のと同じように少しかたむいていた。
シリウスは、背が高くハンサムで、生前、ハリーが知っていたよりはるかに若かった。両手をポケットに入れ、にやっと笑いながら、大またでゆったりと気楽に歩く姿が優雅だった。
ルーピンも、若くて、それほどみすぼらしくはなかった。髪の色がもっと黒っぽく、ふさふさしていた。青春時代にしょっちゅううろつきまわった見なれた場所にもどってうれしそうだった。
リリーが、いちばん、大きくにっこりと笑いかけていた。ハリーに近づいてくると、長い髪を後ろにはねあげ、ハリーとそっくりな緑色の目で、いくら見ても見足りないとでもいうように、むさぼるように彼の顔をながめまわした。
「とても勇敢だったわね」
ハリーは、口がきけなかった。彼女を見るのがとてもうれしかった。立ったまま永久に彼女を見ていたいと思い、それでじゅうぶん満ちたりるという気がした。
「君は、もうすぐ、そこに着く」とジェイムズが言った。「とても近くだ。僕たちは……君をとても誇らしく思っているよ」
「痛い?」
子供っぽい質問が、止められないで、ハリーの口からこぼれ落ちてしまった。
「死ぬことか? ちっとも」とシリウスが言った。「眠りにおちるより、すばやくて、かんたんさ」
「それに、彼は、早くやりたがっている。終わらせたがっているから」とルーピンが言った。
「あなたに、死んでほしくなかった」ハリーが言った。その言葉は、思わず飛びだした。「あなたがたの誰にも。ごめんなさい――」
彼は、他の誰よりもルーピンにむかって呼びかけ、懇願するように言った。「――赤ちゃんが生まれたばかりなのに……リーマス、ごめんなさい――」
「僕も、残念だよ」とルーピンが言った。「息子が、どんな子に育つか見ることができなくて残念だ……だが、彼は、なぜ僕が死んだか知るだろう。そして、彼が理解してくれることを望むよ。彼が、もっとしあわせに生きられる世界を、私が、つくろうとしたことをね」
森の中心から発したようなひんやりとした風がふいてきて、ハリーの額の髪をもちあげた。彼らが、行けとは言わない、それは自分で決めなくてはならないことだと、ハリーに分かった。
「いっしょにいてくれる?」
「いちばん最後まで」とジェイムズが言った。
「彼らには、あなたたちが見えないの?」とハリーが尋ねた。
「僕たちは、君の一部分なんだ」とシリウスが言った。「他の誰にも見えないさ」
ハリーは、母を見た。
「僕のすぐ側にいて」と、そっと言った。
そして、彼は歩きだした。ディメンターの寒さにも、負けることはなかった。彼は、連れといっしょに、その中を通っていった。彼らは、パトローナスの役割をした。彼らは一緒に、古い木々が密集して生えていて、枝がからまりあい、根が地面でふしこぶだらけにねじまがっているところを歩いていった。ハリーは、暗闇の中で、透明マントをしっかり体にまきつけ、森の奥深くにどんどん進んでいった。ヴォルデモートが、どこにいるのか正確には分からなかったが、見つけられると確信していた。彼のそばには、ほとんど物音をたてずに、ジェイムズ、シリウス、ルーピン、リリーが歩いていた。彼らがいてくれることで、勇気が出て、一歩ずつ、前に進むことができた。
ハリーの体と心が、妙に離ればなれになっているような気がした。意識的に歩けと命じないのに、手足が動いていた。まるで、彼は、もうすぐ去ろうとしている体の運転手ではなく、乗客であるかのようだった。ハリーにとって、森の中で、そばを歩く死者たちの方が、城に残る生者たちより、はるかに実在するものだった。人生の終わりにむかって、ヴォルデモートにむかって、つまずいたりすべったりしながら歩いていく今、ロン、ハーマイオニー、ジニー、その他の人たちはみな幽霊のように感じられた……
ドシンという音とささやき声がした。他の生きているものが、近くで身動きした。ハリーは、透明マントを着たまま立ちどまり、こっそり見まわて、耳をすませた。母と父、ルーピンとシリウスも立ち止まった。
「誰かいるぞ」すぐそばで、がさつなささやき声がした。「やつは、透明マントを持っている。ひょっとして――?」
二人の人影が、近くの木の後ろからあらわれた。彼らの杖が輝いていたので、ヤックスリーとドロホフが暗闇をのぞきこみ、まっすぐハリーと母と父とルーピンとシリウスが立っている場所を見ているのが、ハリーに分かった。彼らには何も見えていないようだった。
「ぜったいに何か聞こえた」とヤックスリーが言った。「動物、だと思うか?」
「あの頭のいかれたハグリッドが、ここにはどっさり飼っているからな」とドロホフが肩ごしにふりかえりながら言った。
ヤックスリーが腕時計を見おろした。
「もうすぐ時間切れだ。ポッターは言われたとおりにしなかった。やつは来ない」
「だが、彼は、ぜったいにポッターが来ると思っているんだ! 機嫌が悪いだろうよ」
「戻ったほうがいい」とヤックスリーが言った。「これから計画がどうなるか聞こう」
彼とドロホフは、向きをかえて、森の奥へ歩きだした。ハリーは、行きたいところに、正しく連れていってくれると分かっていたので、その後をついていった。横を見ると、母が微笑みかけ、父が勇気づけるように頷いた。
ほんの数分歩いていくと、前方に光が見え、ヤックスリーとドロホフが、木々のない広い空き地に踏みだした。そこは、怪物アラゴグが昔すんでいた場所だと、ハリーに分かった。巨大な巣の残りが、まだそこにあったが、アラゴグが産んだ子孫の群れは、デス・イーターに追いはらわれて、そのせいで、戦いにくわわることになったのだ。
空き地のまんなかで、たき火が燃えていた。その、ちらちらま叩く光が、まったく沈黙して、油断なく見張るデス・イーターの一団を照らしていた。まだ覆面やフード姿の者たちもいたし、顔を見せている者たちもいた。二人の巨人が一団の端に座っていて、その場に巨大な影を投げていた。彼らは、岩を荒くけずったような残忍な顔をしていた。人狼のフェンリルが、こそこそ隠れて長いつめをかんでいるのや、金髪のロールが血の出た唇をたたいているのが見えた。ルシウス・マルフォイが、うち負かされて恐がっていて、それからナルシッサの目がおちくぼんで、ひたすら心配そうなのも見えた。
すべての目がヴォルデモートをじっと見つめていた。彼は、頭をたれて立っていた。体の前に、白い手でニワトコの杖をにぎっていた。祈っているのかもしれないし、さもなければ、黙って心の中で数えているのかもしれなかった。ハリーは、その場の端にじっと立っていたが、子供が、かくれんぼをするときに数えるのを、ばかばかしくも想像していた。ヴォルデモートの頭の後ろに、巨大な後光のようにみえる輝く魔法の檻の中で、巨大な蛇のナギニが、まだ、回ったりとぐろを巻いたりしながら浮かんでいた。
ドロホフとヤックスリーが一座にくわわると、ヴォルデモートが顔をあげた。
「やつの形跡はありません、閣下」とドロホフが言った。
ヴォルデモートの表情は変らなかった。赤い目が、たき火の光で燃えたったようだった。そして、ゆっくりとニワトコの杖を指のあいだから引きぬいた。
「閣下――」
ベラトリックスが口を開いた。彼女は、ヴォルデモートのいちばん近くに座っていたが、髪も服装も乱れていた。顔は少し血が流れていたが、他は無傷だった。
ヴォルデモートが手をあげて黙らせたので、彼女は、それ以上言わないで、彼を崇拝するようにうっとりと見つめていた。
「彼は来ると思っていた」とヴォルデモートが、飛びはねる炎を見ながら、高く、はっきりした声で言った。「来ると期待していた」
誰も口をきかなかった。彼らは、ハリーと同じくらい恐がっているようにみえた。ハリーの心臓は、今から投げすてようとしている体から逃げだそうと決心したかのように、肋骨に激しく打ちつけていた。透明マントをぬいだとき、両手に汗をかいていた。それから、マントを、杖とともにローブの中に押しこんだ。戦いたいという気をおこしたくはなかった。
「私は、どうやら……間違っていた」とヴォルデモートが言った。
「そうではない」
ハリーは、恐がっているように思われたくはなかったので、集められるだけの力をふりしぼって、できるだけ大きな声で、そう言った。復活の石が、感覚のない指の間からすべりおちた。そして両親とシリウスとルーピンが消えるのを、目の端で見ながら、たき火に照らされたところに進みでた。その瞬間、ヴォルデモート以外の誰も重要ではないと感じた。ただ二人だけだった。
その幻覚は、あらわれるとすぐに消えさった。巨人がほえ、デス・イーターがいっせいに立ちあがった。たくさんの叫び声、喘ぎ、笑いまでおこった。ヴォルデモートは凍りついたように、その場に立っていたが、赤い目がハリーを見つけると、ハリーが彼の方に進んでいくのをじっと見つめていた。二人のあいだには、火だけしかなかった。
そのとき、叫び声があがった。
「ハリー、よせ!」
ハリーがふりかえると、ハグリッドが近くの木に固くしばりあげられていた。そして必死にもがくので、その巨大な体が、頭上の枝をみしみしとゆすった。
「よせ! よせ! ハリー、何てことを――?」
「黙れ!」とロールが叫んで、杖を一振りすると、ハグリッドは静かになった。
ベラトリックスは、さっと立ちあがると、胸を波打たせて大きく呼吸しながらヴォルデモートからハリーへと熱心に見つめた。動いているものは、炎と、ヴォルデモートの頭の後ろの輝く檻の中でとぐろを巻いたりほどいたりしている蛇だけだった。
ハリーは、閉まっておいた杖が胸に当たる感じがしたが、引きだそうとはしなかった。蛇が、とてもしっかり保護されているので、もし、杖をなんとかナギニに向けたとしても、先に五十もの呪文にうたれるのが分かっていたからだ。まだ、ヴォルデモートとハリーは、たがいに見合っていた。それから、ヴォルデモートは少し首を傾げて、前に立っている少年について考えた。唇のない口の形がまがって、とても陰気な笑いがうかんだ。
「ハリー・ポッター」彼は、とても静かに言った。その声は、パチパチはぜる火の一部のようだった。「生き延びた少年」
デス・イーターの誰も動かなかった。彼らは待っていた。すべてのものが待っていた。ハグリッドがもがいていた。ベラトリックスは息をきらせていた。ハリーは、なぜか分からないがジニーのことを考えた。それから彼女の怒りくるった表情と、唇の感触を――
ヴォルデモートが、これから自分がやったら、どうなるのかと、好奇心にあふれた子供のように少し首をかしげたまま、杖を上げた。ハリーは、赤い目を見かえして、今すぐ、やってほしいと願っていた。まだ自分が立っていられるうちに、自制心をうしなう前に、恐れをさらけだす前に――
口が動くのと、緑色の閃光が見えた。そしてすべてが、なくなった。
第35章 キングズ・クロス駅
King's Cross
彼は、うつぶせになって、沈黙を聞いていた。まったく一人きりだった。誰も見ていなかった。他に誰もいなかった。そこにいるが、自分自身なのか定かではなかった。
長い時間がたったか、それともまったく時間がたっていないのかもしれないが、自分は存在しているにちがいない、肉体から離れた思考以上のものであるにちがいないと、はっと思いついた。なぜなら、彼は横たわっていたからだ。確かに、何かのうえに横たわっていた。何かに触れている感じがしたからだ。ということは、彼が触れているものも存在していることになる。
この結論にたっすると間もなく、ハリーは、自分が裸なのに気がついた。まったく一人きりなのを確信していたので、それは気にならなかった。けれど、それは少し好奇心をそそった。彼は、触れるのは感じられるが、見ることができるかなと考えた。開いてみると、目があるのが分かった。
彼は、明るいもやの中に横たわっていた。けれど、今までに知っているもやのようではなく、まわりが、雲のような気体で隠されてはいなかった。というより、雲のような気体が、まだ、まわりを取りかこむほどの形になっていなかった。彼が横たわっている床は白っぽくて、暖かくも冷たくもなく、ただそこにあって、上に乗ることができる平らで何もないものだった。
彼は、身を起こして座った。体に傷はないようだった。顔に触った。もう眼鏡はかけていなかった。
そのとき、彼をとりまく形のない無をとおして物音が聞えてきた。何かが、ひらひら動き、かよわく、もがきながら、そっと小さく打ちつける音だった。それは、あわれっぽい物音をたてていたが、ほんの少し嫌な感じがした。ひそかな恥ずべきものを立ちぎきしているような、いごこちの悪さを感じた。
彼は、はじめて着るものが欲しいと思った。
頭の中に、その願いが浮かぶとすぐに、少し離れたところにローブがあらわれたので、それを取って着た。それは、やわらかく清潔であたたかかった。彼が望んだ瞬間、そんなふうにあらわれるとは、とんでもなくふしぎなことだった……
彼は立ちあがって、あたりを見まわした。大きな「必要に応じて出てくる部屋」のようなところにいるのだろうか? 長く見れば見るほど、見えてきた。大きなドーム型のガラスの天井が、頭の上の高いところで、日光に輝いていた。きっと、ここは宮殿だ。まわりは、しんと静まりかえっていた。例外は、もやの中の、どこか近いところから聞こえる妙なドンドンめそめそという物音だけ……
ハリーはその場でゆっくりと回った。すると目の前でまわりが創りだされていくようだった。広くひらけた場所で、明るく清潔で、ホグワーツの大広間より、はるかに大きな広間。そこにはドーム型のガラス天井がついていて、まったく誰もいなかった。彼が、そこにいるただ一人の人間だった。例外は、ー
彼は後ずさりして、物音をたてているものを見つけた。それは、小さな裸の子供の姿で、床に丸くなっていた。その皮膚は赤くすりむけて、ざらざらで、皮をはがれているように見え、それが置かれた椅子の下で、誰にも望まれず、見えないところに押しこめられて、息をしようともがきながら、震えて横たわっていた。
彼は、それが恐かった。小さく、かよわく、傷ついてはいたが、それに近づきたくなかった。にもかかわらず、いつでも、さっと飛びのいて戻る準備をしながら、ゆっくりと少しずつ近づいていった。まもなく、それに触ることができるくらい近づいたが、そうする気にはなれなかった。自分が臆病者のような気がした。それをなぐさめるべきだ。けれど、それは彼を拒絶した。
「助けることはできぬ」
彼が、さっと振り向くと、アルバス・ダンブルドアが、濃紺のローブをはためかせ、背すじをのばして、かろやかに、彼の方に歩いてきた。
「ハリー」と彼は、両手を大きく広げたが、両手とも、傷ついていず、完全で白かった。「君は、すばらしい少年だ。勇敢な勇敢な男だ。話をしよう」
ハリーは、ぼうぜんとしながら、後についていった。ダンブルドアは、皮をはがれた子供がめそめそ泣いているところから、さっさと離れて歩いていき、椅子が二つあるところにハリーを連れていった。その椅子は、ハリーはさっきは気づかなかったが、少し離れたところの高く輝く天井の下においてあった。ダンブルドアが、その一つに座り、ハリーは、もう一方に倒れこんで、昔の校長先生の顔を見つめた。ダンブルドアの長い銀髪とあごひげ、半月型の眼鏡の奥の突き通すような青い目、まがった鼻、すべて、ハリーが覚えているとおりだった。でも……
「でも、先生は亡くなった」とハリーが言った。
「ああ、そうだ」とダンブルドアが、事務的な口調で言った。
「それなら……僕も死んだの?」
「おお」とダンブルドアが、さらににっこりと笑いながら言った。「それが問題だ、な? 私は、包括的に考えれば、そうではないと思うのだよ」
彼らは見つめあった。老人は、まだにっこり笑っていた。
「死んでいない?」とハリーが繰り返した。
「死んでいない」とダンブルドアが言った。
「でも……」ハリーは、思わず稲妻形の傷跡の方に手をあげたが、それは、なくなっているようだった。「でも、僕は死んだはずだ――防御しなかったもの! 彼に、僕を殺させようとしたんだ!」
「それが」とダンブルドアが言った。「すべてを変えたのだろうと、私は思う」
幸福感が、ダンブルドアから光のように、火のように放出されているようだった。ハリーは、そんなに完全に、そんなに、はっきりと満足しきっている人を見たことがなかった。
「説明して」とハリーが言った。
「だが、君はもう知っている」とダンブルドアが言った。そして親指どうしをくっつけてひねり回していた。
「僕は、彼に僕を殺させた」とハリーが言った。「でしょう?」
「そうだ」とダンブルドアがうなずきながら言った。「続けて!」
「だから、僕の中にあった彼の魂の一部が……」
ダンブルドアは、なおも熱烈にうなずいて、励ますようににっこり笑いながら、ハリーに続けるようにせかした。
「……それが、なくなったの?」
「ああ、そうだ!」とダンブルドアが言った。「そうだ、彼は、それを破壊した。君の魂は完全で、まったく君自身のものだよ、ハリー」
「でも、それなら……」
ハリーは、肩ごしにふりかえって、小さくて損なわれた生き物が椅子の下で震えている方を見た。
「あれは何ですか、先生?」
「我々のどちらの助けも及ばぬものだ」とダンブルドアが言った。
「でも、ヴォルデモートが殺人の呪文を使ったのなら」ハリーが、また言いはじめた。「そして、今度は誰も僕のために死ななかったのなら――僕は、どうやって生きることができるの?」
「君には分かっていると思う」とダンブルドアが言った。「思い返してごらん。彼が、無知とどん欲と残忍さの中で、やったことを思いだしてごらん」
ハリーは考えながら、まわりをずうっと見わたしていった。もし、彼らが座っているのが、ほんとうに宮殿なら、妙な宮殿だった。椅子が少しずつ列に並んでいて、あちこちに手すりがあった。それでもなお、彼とダンブルドアと椅子の下の発育不全の子供だけが、そこに存在するものだった。そのとき、努力しなくても、答えがたやすく唇にのぼってきた。
「彼は、僕の血を取った」とハリーが言った。
「そのとおり!」とダンブルドアが言った。「彼は、君の血を取り、それで肉体を再生したのだ! 君の血が、彼の血管に流れている、ハリー、君たちの両方に、リリーの防御が入った! 彼は、彼が生きているあいだ、君を命に繋いでいるのだ!」
「僕は生きている……彼が生きている間? でも僕が思ったのは……僕が思ったのは、その反対だった! 僕たちの両方が死ななくてはならないと思ったのですよね? それとも、同じことなの?」
ハリーは、後ろで、苦悶する生き物が、めそめそドンドンとたてる音に気をちらされて、もう一度振り返って、それを見た。
「僕たちが何もできないのは確かなの?」
「助けるためにできることは何もない」
「それなら、説明して……もっと」とハリーが言った。ダンブルドアは微笑んだ。
「君は七つめのホークラックスだった、ハリー、彼が作るつもりではなかったホークラックスだ。彼は、自分の魂をたいそう不安定なものに変えたので、君の両親を殺し、子供を殺そうとするという言語道断な邪悪な行いをしたとき、魂が割れてしまったのだ。しかし、その部屋から逃げだしたものは、彼が思っていたものよりも、もっと小さかった。彼は、自分の体以上のものを、あの部屋に残した。彼は、自分の一部を、犠牲者と狙った君の中に閉じこめてしまった。君は生き延びた。
「そして、彼の知識は、痛ましくも不完全なままだった、ハリー! 自分が価値を見いださなかったものを ヴォルデモートは、わざわざ理解しようとはしなかった。屋敷しもべや子供の話、愛や忠節や無垢について、ヴォルデモートは何も知らず、理解していなかった。何も。それらすべてが、それ自身をこえる力、どんな魔法も及ばない力を持っていることは、彼が決してつかむことができなかった真実だ。
「彼は、自分を強めると信じて、君の血を取った。彼は、体の中に、君の母上が君のために死んだときに、君にかけた魔法の、ほんのわずかの部分を、取りこんだ。彼の体が、彼女の犠牲を生かすし、その魔法が生きているあいだは、君も生きるし、ヴォルデモートの自身に対する最後の希望も生きるのだ」
ダンブルドアは、ハリーに微笑みかけた。ハリーは彼を見つめていた。
「先生は、それを知っていたの? 知っていたの――ずっと前から?」
「推測はしていた。だが、私の推測は、いつも当たるのだよ」どダンブルドアが嬉しそうに言った。そして、二人は黙って座っていた。ずいぶんと長く感じられた。一方、彼らの後ろの生き物は、ずっと、めそめそ泣いて震えていた。
「聞きたいことが、もっとあります」とハリーが言った。「もっと。なぜ僕の杖は、彼が借りた杖を破ったのですか?」
「それについては、確かなことは言えぬ」
「それじゃ、推測して」とハリーが言ったので、ダンブルドアが笑った。
「君が理解しなくてはならないのは、ハリー、君とヴォルデモート卿は、ともに今のところ知られていないし試されてもいない魔法の領域に踏みこんだということだ。だが、これが、そのとき、おこったと、私が考えることだ。だがそれは先例がないことで、いまだかつてどんな杖職人もヴォルデモートにたいし予想も説明もできなかったことだと思う。
「今では、君に分かるように、そのつもりはなかったが、ヴォルデモート卿は、人間の姿を取りもどしたとき、君との絆を二倍にした。彼の魂の一部は、いぜんとして君の魂にくっついていたし、自身を強めようと思って、君の母上の犠牲の一部を体内に取りこんだ。もし彼が、その犠牲の精密で恐ろしい力を理解していさえすれば、おそらく彼は君の血にあえて触れようともしなかっただろう……だが、そのとき、もし理解できたなら、彼はヴォルデモート卿になったはずもなく、そもそも殺人などおかさなかったにちがいない。
「この二重の繋がりに保証され、これまで歴史上で一緒になった、どんな二人の魔法使いよりも、確実にしっかりと運命を結びあわされて、ヴォルデモートは、君の杖と同じものからできた芯を持つ杖で、君を襲おうと出発した。そこで、君も知るように、とても不思議なことがおきた。君の杖が、彼の杖の双子だと知らなかったヴォルデモート卿が予想もしなかったように、二つの芯が反応した。
「あの夜、彼は、君よりもっと恐かったのだ、ハリー。君は、死の可能性を受けいれ、よろこんで応じさえした。それは、ヴォルデモート卿が、ぜったいにできなかったことだ。君の勇気が勝ち、君の杖が彼の杖にうち勝った。そして、そうする中で、杖のあいだで何かがおきた。杖のもちぬしの関係を反映する何かがおきた。
「あの夜、君の杖が、ヴォルデモートの杖の力と性質をいくらか吸収したのだと、私は信じている。それは、いわば、ヴォルデモート自身を少し含んでいる。だから、彼が君を追ってきたとき、君の杖が彼を見分けた。同族であり、致命的な敵である男を見分け、彼自身の魔法を、彼に向けて逆噴出したのだ。それは、ルシウスの杖が、かつて行ったどれよりも、はるかに強力な魔法だった。君の杖は、君の大きな勇気と、ヴォルデモート自身の致命的な技との力を持っていた。ルシウス・マルフォイの貧弱な棒が立ちむかえるわけがない」
「でも、もし僕の杖がそんなに強力だったら、いったいなぜハーマイオニーが壊すことができたの?」とハリーが尋ねた。
「君の杖のおどろくべき効果は、ヴォルデモートに対してのみ向けられるのだ。彼は、魔法のもっとも奥深い法則をたいそう愚かにも、不法にいじった。彼に向けてのみ、君の杖は異常に強力だった。そうでなければ、他の杖と何ら変るところは……良い杖だと、私は確信しておるが」ダンブルドアは、やさしく言いおえた。
ハリーは長いこと考えにふけっていた。それとも、数秒間だったかもしれない。ここでは、時間のようなものを確信するのがとても難しかった。
「彼は、あなたの杖で僕を殺した」
「彼は、私の杖で君を殺しそこなった」ダンブルドアが、ハリーの言葉を訂正した。「君は死んでいないということに、我々二人は同意できると思う――だが、もちろん」彼は、無礼になるのを恐れるかのようにつけ加えた。「君の苦難を軽視するものではない。それは、とても厳しいものだった」
「さしあたっては、とてもいい気分だけど」とハリーが言いながら、汚れのない、きれいな手を見おろした。「僕たちは、正確にはどこにいるの?」
「うーむ、私が君に尋ねようと思っていたところだ」とダンブルドアが、あたりを見まわしながら言った。「我々は、どこにいると思うかね?」
ダンブルドアが尋ねるまで、ハリーには分からなかった。しかし、今、答える用意ができているのに気がついた。
「まるで」彼はゆっくりと言った。「キングズ・クロス駅のように見える。もっと清潔で、空っぽで、僕が見るかぎり、列車はいないけど」
「キングズ・クロス駅!」ダンブルドアは、ひどく面白がって笑っていた。「おやまあ、なんと、ほんとうかね?」
「あのう、先生は、僕たちがどこにいると思うの?」とハリーが、少し守りの姿勢で言った。
「私には分からないよ。これは、いわば、君が主役なのだから」
ハリーは、それがどういう意味なのか分からなかった。ダンブルドアには、むかつく。ハリーは彼を睨み付けた。そのとき、彼らが今どこにいるかということよりも、もっともっとさし迫った問題を思いだした。
「死の秘宝」と彼は言って、ダンブルドアの顔から笑みが消えたのを見て喜んだ。
「ああ、そうだ」と彼が、少し困っているように言った。
「それで?」
ハリーがダンブルドアに会ってからはじめて、老人のように見えず、はるかに若くみえた。つかの間、悪いことをしてつかまった小さな男の子のようにみえた。
「私を許してくれるだろうか?」彼は言った。「君を信用しなかったことで、私を許してくれるだろうか? 君に話さなかったことで? ハリー、私は、ただ私が失敗したように君も失敗するのではないかと恐れたのだ。君が、私の過ちをくりかえすのではないかと恐れたのだ。君が許してくれることを切に願う、ハリー。しばらく前から、君の方が私より優れた人間だということが分かってきたが」
「何の話をしているの?」とハリーが、ダンブルドアの口調と、その目に突然うかんだ涙とにびっくり仰天して言った。
「秘宝、秘宝」とダンブルドアがつぶやいた。「必死に望む人間にとっての夢だ!」
「でも、それは実在する!」
「実在するが危険だ。愚か者を誘惑する」とダンブルドアが言った。「私は、そういう愚か者だった。だが、君は知っているのだろう? もはや、君に隠すことは何もない。君は知っている」
「僕が何を知ってるの?」
ダンブルドアが、体全体をハリーの方に向けて、顔を見つめた。その鮮やかな青い目に涙が、まだ光っていた。
「死の支配者だよ、ハリー、死の支配者だ! 最終的に、私はヴォルデモートより、勝っていたのだろうか?」
「もちろん、そうです」とハリーが言った。「もちろん――いったいどうしてそんなことを尋ねるの? 先生は、もし避けることができるのなら、ぜったいに人殺しなんてしなかった!」
「まさにそのとおり」とダンブルドアが言ったが、大丈夫だと安心させてほしい子供のように見えた。「だが、私もまた死をうち負かす方法を探しもとめていたのだよ、ハリー」
「彼がやったような方法じゃない」とハリーが言った。ダンブルドアに対し、あれほど怒っていた後で、ここ、高い丸天井の下に座り、自分自身を責めるダンブルドアを弁護しているとは、なんと奇妙なことだろう。「秘宝であって、ホークラックスではない」
「秘宝」とダンブルドアがつぶやいた。「であってホークラックスではない。そのとおり」
少し間があった。彼らの後ろの生き物はめそめそ泣いていたが、ハリーはもう振り返らなかった。
「グリンデルワルドも、それを探していたんでしょ?」と尋ねた。
ダンブルドアはつかの間、目を閉じて頷いた。
「それが、何よりも我々二人を惹きつけたものだった」と彼は静かに言った。「同じ妄想に取り憑かれた二人の賢く傲慢な少年たち。彼がゴドリック盆地に来たがったのは、きっと君も推測しているだろうが、イグノトゥス・ペベレルの墓があるからだった。彼は、三番目の息子が死んだ場所を調べたかったのだ」
「じゃ、あれはほんとうなのですか?」とハリーが尋ねた。「あれぜんぶ? ペベレル兄弟が――」
「――物語の三人兄弟だったのだ」とダンブルドアがうなずきながら言った。「ああ、そうだ。私はそう思う。さびしい道で『死』に出会ったのかどうかは……私が思うに、もっとありそうなことは、ペベレル兄弟は、ただ才能があり、危険な魔法使いで、そのような力のある物体を創りだすのに成功したのだ。それらが、『死』自身が持つ『秘宝』だったという物語は、私には、このような創造にまつわり生みだされた伝説の類ではないかと思われる。
「透明マントは、君が今はもう知っているように、父から息子へ、母から娘へと、時代をこえて受けつがれ、イグノトゥスと同じくゴドリック盆地の村でうまれたイグノトゥスの最後の生存する子孫に伝えられた」
ダンブルドアは、ハリーにほほえみかけた。
「僕?」
「君だ。君のご両親が亡くなった夜、なぜ私が透明マントを所有していたか、君は推測しているだろうと思う。ジェイムズが、それを、ほんの数日前に見せてくれた。それで、彼の学生時代の悪事がばれなかった理由の大半の説明がついたよ! 私は、見ているものがほとんど信じられなかった。それを借りて、調べてみたいと頼んだ。私は、秘宝をぜんぶ集めるという夢を、ずっと前に諦めていた。だが、抵抗できなかった。もっとよくよく見たいと思わずにはいられなかった……それは、私が見たことがないような透明マントだった。非常に古くあらゆる点で完璧だ……そして君の父上が亡くなった。とうとう私は二つの秘宝を手にいれた。私一人のものとして!」
ダンブルドアの口調は、耐え難いほど厳しいものだった。
「でも、透明マントは生き延びる役にはたたないと思うけど」ハリーが、すばやく言った。「ヴォルデモートには、僕のママとパパの居場所が分かった。透明マントは、呪文を避ける役にはたたなかった」
「そのとおり」とダンブルドアがため息をついた。「その通り」
ハリーは待った。けれどダンブルドアは口をきかなかった。それでハリーは、話すように促した。
「それじゃ、先生は透明マントを見るまで、秘宝を探すのをあきらめていたの?」
「ああ、そうだ」とダンブルドアが弱々しく言った。ハリーと目をあわせようと努力しているようにみえた。「君は、何が起こったか知っているだろう。君は知っている。私が自分自身を軽蔑する以上に、君が私を軽蔑することはできないが」
「でも、僕は先生を軽蔑しないけど――」
「それなら軽蔑すべきだ」とダンブルドアが言った。それから深く息をすった。「君は、私の妹の健康状態が悪かったという秘密を、あのマグルたちが何をしたか、妹がどうなったかを知っているだろう。私の気の毒な父が、報復しようとして、その代償を払い、アズカバンで死んだことを知っているだろう。私の母が、自分の人生をアリアナの世話をすることに捧げたのを知っているだろう。
「私は、それをひどく嫌がっていたのだ、ハリー」
ダンブルドアは、今ではハリーの頭ごしに遠くの方を見ているようだったが、率直に、冷たく語っていた。
「私は、才能にめぐまれていた。きわめて優秀だった。そこから逃れたかった。輝きたかった。栄光を求めていた。
「誤解しないでほしい」彼は言ったが、苦痛の表情が、その顔にさっとあらわれ、また年老いてみえた。「私は、家族を愛していた。両親を愛していた。弟と妹を愛していた。だが私は、自分本位でわがままだった。ハリー、君はおどろくほど無欲な人間だが、そういう君には想像できないほど、私は、自分本位だった。
「母が亡くなると、傷ついた妹と強情な弟の面倒をみる責任が、私に圧しかかってきたので、私は、怒り恨みながら故郷の村に帰った。捕らわれ、衰弱してしまうと、私は思ったのだ! それから、もちろん、彼がやってきた……」
ダンブルドアは、またハリーの目をまっすぐに見た。
「グリンデルワルドだ。彼の考えが、どんなに私をとらえ興奮させたか、ハリー、君には想像もつかないだろう。マグルを従属状態においやる。我々魔法使いの勝利。グリンデルワルドと私は、革命の輝かしい若きリーダーだ。
「ああ、少しは良心が咎めた。空しい言葉で良心をなだめた。それはすべて、より大きな善のためだ、損害があっても、魔法使いに百倍もの利益となって報いられるとな。私は、心の奥底で、ゲラート・グリンデルワルドが何者であるか、分かっていたのだろうか? 分かっていたと思う。しかし、私は、目を閉じて気づかないふりをした。もし私たちがたてている計画が達成されれば、私のすべての夢が実現するだろう。
「そして、我々の陰謀の核心にあったのが、死の秘宝だ! それが、どれほど彼を惹きつけたことか、我々二人を惹きつけたことか! うち負かされない杖は、我々を権力に導く武器だ! 復活の石――私は知らない振りをしたが、彼にとっては、インフェリの軍隊を意味した! 告白すれば、私にとっては、両親の復活と、家の責任すべてを肩から下ろせることを意味した。
「そして透明マント……どういうわけか、我々は、透明マントのことは、それほど話し合わなかったのだよ、ハリー。二人とも、マントがなくてもじゅうぶんに自分の身を隠すことができたからだ。もちろん、マントの真の魔法は、その、もちぬしばかりでなく他の人も同じように隠して守るために使えるということだ。私は、もしマントを見つけたら、アリアナを隠すのに役にたつかもしれないと思った。しかし、マントに対する我々の興味は、おもに、それで三つの秘宝が完成するというところにあった。というのは伝説では、三つすべてそろえた者が、真に死の支配者になるといわれていて、我々にとって、それは無敵だということを意味したからだ。
「無敵な死の支配者、グリンデルワルドとダンブルドア! 狂気と、残忍な夢と、そして私にのこされた、たった二人の家族の世話を放棄した二ヶ月間だった。
「それから……君は、何が起きたか知っているだろう。粗野で文字が書けないが、限りなく賞賛に値する私の弟の形をとって、現実が戻ってきた。彼が、私にどなる真実を聞きたくなかった。虚弱で不安定な妹を引きつれて、秘宝を探しに出発することはできないということを、聞きたくなかった。
「言い争いは戦いになった。グリンデルワルドが自制心を失った。彼の中に潜んでいると、私がつねに感じていたが、気づかないふりをしていたものが、恐ろしい存在となって飛びだした。そしてアリアナは……母が、あれほど気をつけて世話をしてきたのに……死んで床に横たわっていた」
ダンブルドアは小さい喘ぎ声をあげて、本格的に泣きだした。ハリーは、手をのばして、彼に触れることができたのでうれしかった。そして、彼の腕をしっかりつかんだ。ダンブルドアは、だんだんと落ちついてきた。
「それで、グリンデルワルドは逃げだした。私以外の誰もが、予想できたことだった。権力をつかむ計画と、マグルを痛めつける陰謀と、死の秘宝への夢、すなわち私が、彼を励まし手助けした夢とを持って、彼は姿を消した。彼は逃げた。一方、私は残って、妹を埋葬し、罪の意識と、恐ろしい悲しみという、私の恥ずべき行いの代償を心にかかえて生きるようになった。
「年月がたった。彼にまつわる噂が聞えてきた。彼が、はかりしれない力を持つ杖を手にいれたというのだ。一方、私は、魔法大臣の職につかないかという申し出を、一度ならず七度も受けていた。とうぜん、私は断った。権力を持つと、自分が信用できなくなるということを学んでいたからだ」
「でも、先生は、ファッジやスクリムジョールより優れてる、ずっと優れているのに!」とハリーが大声で言った。
「そうかな?」とダンブルドアが重々しく尋ねた。「それほど確信は持てないのだよ。とても若い頃に、権力が私の弱点であり、私は権力に誘惑されるということを証明済みだからな。奇妙なことだが、ハリー、おそらく権力にもっともふさわしい者は、けっして権力を求めなかった者だ。君のように、リーダーの地位を押しつけられて、リーダーになり、必要にせまられてその地位についてから、それに向いているのに気づいて自分で驚くのだ。
「私は、ホグワーツにいた方が安全だった。よい教師であったと思うし――」
「先生は最高だった――」
「君はとても優しいな、ハリー。だが、私が、若い魔法使いを指導するのに忙しくしている間に、グリンデルワルドは軍隊を作り上げていた。彼は私を恐れていたそうだ。おそらく、そうだろう、だが、私の方がもっと彼を恐れていた。
「いや、死を恐れていたのではない」とダンブルドアが、ハリーの、もの問いたげな視線に答えて言った。「彼が、私に対し魔法の力でできることを恐れていたのではない。魔法の力は互角なのが分かっていた。おそらく、私の方が、ほんの少し技では勝っていたかと思う。私が恐れたのは、真実があきらかになることだ。あの最後の恐ろしい戦いで、我々のどちらが実際に、妹を死なせた呪文を放ったのか分からなかった。君は、私を臆病だというかもしれない。君がそういうのは正しい。ハリー、私は、何よりも、妹に死をもたらしたのが私だったと知ることを恐れていたのだ。単に私の傲慢さと愚かさからではなく、実際に、私が、彼女の命の火を消した一撃を放ったのではないかと恐れていたのだ。
「私は、彼がそれを知っていたと思う。私が何を恐れているか知っていたと思う。私は、彼に会うのをぐずぐずと引きのばしていた。だが、とうとう、会うのを拒むのは、あまりに恥ずべきことになってきた。人々が死んでいて、彼を止めることはできないようだった。そこで私は、私にできることをしなくてはならなかった」
「うーむ、次に、どうなったかは君も知っているだろう。私は決闘に勝った。私は杖を勝ち得た」
また沈黙のときが流れた。いったいアリアナに死をもたらしたのは誰かを、ダンブルドアが発見したのかどうか、ハリーは尋ねなかった。知りたくもなかったし、ダンブルドアにそれを語ってほしくもなかった。ダンブルドアが『みぞの鏡』を見たときに何を見たか、とうとう分かった。そして、なぜダンブルドアが、鏡がハリーを惹きつけてやまない気持ちを、あれほど理解してくれたのかが、分かった。
彼らは、長いあいだ黙って座っていた。後ろで生き物がめそめそ泣く声は、もうハリーにとって、ほとんど気にならなくなっていた。
とうとうハリーが言った。「グリンデルワルドは、ヴォルデモートが杖の後を追うのを止めさせようとした。彼は嘘をついた。ほら、彼はその杖を持ったことがない振りをした」
ダンブルドアは、うなずいて、手のひらを見おろした。涙がまだ曲がった鼻の上に光っていた。
「後年、彼は、ヌアメンガルドの独房で、悔恨の情をみせていたそうだ。それがほんとうだと望む。自分がしたことに対し、恐怖と恥の気持ちを抱いたと思いたい。おそらく、そのヴォルデモートに対する嘘は、彼が償いをしたいと思ってしたことだろう……ヴォルデモートが秘宝を手にいれないために……」
「……でなければ、先生のお墓を暴かれないために……?」とハリーが思いついて言った。ダンブルドアは、目を軽く叩いて涙をおさえていた。
また少したってから、ハリーが言った。「先生は、復活の石を使おうとした」
ダンブルドアは、頷いた。
「私が、こんなに長く経ってから、あれを見つけたとき、ゴーント一家の見捨てられた家に埋まっていたのだが、私が、いちばんほしかった秘宝で――ただし若いころは、まったく違った理由でほしかったものだが――私は、正気を失ってしまったのだよ、ハリー。それが、ホークラックスになっていて、その指輪から、ぜったいに呪いがかかるということを、まったく忘れていた。私は、それを取りあげて嵌めた。アリアナと、母と、父とにもうすぐ会える、そうしたら、とてもすまなかったとあやまろうと、一瞬、想像した……
「私は、こんなに愚か者だったのだよ、ハリー。こんなに長い年月がたっても、私は何も学んではいなかった。私は、死の秘宝を三つそろえて持つのにふさわしくなかった。それをくりかえし証明してきたのだが、これが最後の証拠だった」
「なぜ?」とハリーが言った。「自然なことだよ! 先生は、もう一度彼らに会いたかった。それのどこがいけないの?」
「おそらく、百万人に一人しか秘宝を揃えて持つ資格はないのだ、ハリー。私は、三つのうちで、いちばん劣ったもの、いちばん並外れていないものを持つくらいがふさわしかったのだ。私は、ニワトコの杖を持つのにふさわしかった。それを自慢しなかったし、それで殺すこともしなかった。私は、それを馴らして使うことを許された。なぜなら、自分の利益のためでなく、他人を救うために、それを取ったからだ。
「だが透明マントを、私は、空しい好奇心から取った。だから、それは、真の持ち主である君のために働いたように、私のためには働かなかった。復活の石を、君が自己犠牲をするのを助けてもらうために使ったようにではなく、私は、安らかに眠る者たちを引きずりだそうとして使おうとした。君こそ、秘宝を所有するのにふさわしい人間だ」
ダンブルドアは、ハリーの手を軽く叩いた。ハリーは、老人を見あげて、思わず、微笑んでしまった。もうダンブルドアに対して腹を立てていることなどできなかった。
「先生は、なぜ、あんなに難しくしたの?」
ダンブルドアの微笑みが揺らいだ。
「残念ながら、私は、グレンジャー嬢が、君の気持ちをおさえてくれるのを当てにしていたのだよ、ハリー。君の熱しやすい頭が、君の善良な心を支配してしまわないかと恐れたのだ。もし、この誘惑的な品物についての事実を、直接明かしてしまったら、君は、私がしたように、誤ったときに、誤った理由で秘宝を探しもとめにいくのではないかと恐れたのだ。もし、君がそれに手を伸ばすなら、安全に所有してもらいたかった。君が、死の真の支配者だ。なぜなら、真の支配者は、死から逃げだすことを、求めないからだ。彼は、死ななくてはならないことを受け入れ、生者の世界には、死ぬよりも、はるかにもっと悪いことがあるのを理解している」
「で、ヴォルデモートは、秘宝のことをぜんぜん知らなかったの?」
「そうだと思う。なぜなら、彼が、ホークラックスに変えたとき、復活の石が何か分からなかったからだ。だが、たとえ彼が、それについて知っていたとしても、ハリー、最初の品物、すなわち杖以外には興味をもたなかったのではないかと思う。透明マントは必要ないと思っただろう。それに、石についていえば、彼が死者から誰を呼び戻したいと思ったことだろうか? 彼は死者を恐れていた。愛したことがないからだ」
「でも、先生は、彼が杖の後を追いかけると予想したの?」
「リトル・ハングルトン村の墓地で、君の杖がヴォルデモートの杖をうち負かして以来、彼は、きっと、そうするだろうと思っていた。最初、彼は君がより勝る技で彼を負かしたのではないかと恐れた。しかし、彼は、オリバンダーを誘拐して、双子の芯の存在を発見した。彼は、それですべて説明がつくと考えた。だが、借りものの杖は君の杖に対し、同じようにうまくいかなかった! そこで、ヴォルデモートは、君の杖をそれほど強くするとは、君に、どんな資質があるのだろうか、また彼が持っていない、どんな才能を、君が持っているのだろうかと自問するかわりに、当然のことながら、どんな杖もうち負かすといわれる他の杖を探しに出発したのだ。彼にとって、ニワトコの杖にたいする執着は、君に対する執着と同じくらい強いものとなった。 ニワトコの杖が、最後の弱さをとりのぞき、ほんとうに無敵にすると、彼は信じたのだ。かわいそうなセブルス……」
「もし、先生が、ご自分の死の計画をスネイプにさせるつもりだったのなら、ニワトコの杖を、最後はスネイプに持たせようとしたの?」
「そうしたかったことは認める」とダンブルドアが言った。「だが、私が思ったようにはいかなかった、そうだろう?」
「そう」とハリーが言った。「それは、あんまりうまくいかなかった」
彼らの後ろの生き物が、ぐいっと動いて呻いた。ハリーとダンブルドアは、これまでにないほど長い間、話すことなく座っていた。その長い時間に、次に起こるだろうと予想されることが、少しずつ、静かに降ってくる雪のように、ハリーに理解されてきた。
「僕は戻らなくちゃいけないんだね?」
「それは、君次第だ」
「選べるの?」
「ああ、そうだよ」ダンブルドアが、彼に微笑みかけた。「我々は、キングズ・クロス駅にいると、君は言っただろう? もし、戻らないことに決めたなら、君は……いわば……列車に乗ることができる」
「で、どこに行くの?」
「ずっと」とダンブルドアが簡潔に言った。
また沈黙。
「ヴォルデモートが、ニワトコの杖を取った」
「そうだ。ヴォルデモートがニワトコの杖を持っている」
「それでも、先生は、僕に戻ってほしい?」
「私が思うに」とダンブルドアが言った。「もし戻ることを選べば、彼が永久に滅びる可能性がある。必ずそうなるとは言えない。だが、私には分かるのは、ハリー、ここへ戻ることが、君にとっては彼ほど恐ろしくはないということだ」
ハリーは、また、遠くの椅子の下の陰で、皮が剥かれたように見えるものが、震えて息を詰まらせているのを、ちらっと見た。
「死者に、憐れみをかけるでない、ハリー。生者を憐れむのだ。そして何よりも、愛なしに生きるものを憐れむのだ。君が戻ることで、損なわれる魂が減り、引き裂かれる家族が減るのを確実にするかもしれない。もし、それが、君にとって価値ある目標だと思えるなら、ひとまず別れよう」
ハリーは、頷いて、ため息をついた。この場所を去ることは、森の中へ歩いていったときほど辛くはないだろうが、ここは、温かく明るく平和だった。それに、苦痛と恐れと、もっと多くの喪失のなかに戻っていこうとしているのが分かっていた。彼は立ち上がった。ダンブルドアも立ち上がった。彼らは、長いあいだ、たがいの顔をじっと見つめた。
「最後に、一つ教えて」とハリーが言った。「これは現実? それとも、僕の頭の中でおこったこと?」
ダンブルドアは、彼に、にっこりと笑いかけた。また、もやが下りてきて、その姿が見えなくなっても、その声は大きく強くハリーの耳に聞こえた。
「もちろん、これは、君の頭の中で起こっていることだよ、ハリー。だが、一体全体、だからといって、現実でないという意味にはならないだろう?」
第36章 計画の欠点
The Flaw in the Plan
ハリーは、また地面の上にうつぶせになって倒れていた。森の匂いが鼻孔いっぱいに広がり、頬の下に、冷たく硬い地面と眼鏡のちょうつがいが当たるのが感じられた。倒れたときに、眼鏡が横に飛んでぶつかって、こめかみにくいこんでいた。体全体が痛くて、殺人の閃光が当たったところが甲鉄で打たれた傷のように痛んだ。だが身動きせず、倒れた場所に、左の腕をぎこちない角度に曲げ、口を開けたまま、そのままじっとしていた。彼が死んで、勝利と喜びの喝采がおきると予想していた。けれど、そのかわりに急ぎの足音、ささやき声、心配そうな呟きが、あたりに満ちていた。
「閣下……閣下……」
それは、ベラトリックスの声だった。彼女は、まるで恋人に対するように話しかけていた。ハリーは、目を開ける勇気はなかったが、自分の苦境がどんな状態か探りだそうと、他の感覚を働かせていた。胸と地面のあいだに押しつけるものを感じたので、杖が、まだローブの中にあるのが分かった。おなかのあたりに、少しだけ、やわらかい感じがするので、透明マントが、知られずにつめこまれて、まだそこにあるのが分かった。
「閣下……」
「来なくてよい」とヴォルデモートの声がした。
もっと足音が聞こえ、数人が、同じ場所から後ずさっていった。何が、なぜ、おこっているのか、どうしても見たくて、ハリーは、ほんの一ミリ、目を開けた。
ヴォルデモートが立ち上がったようだった。何人ものデス・イーターが、急いで彼から離れて、空き地にいる、まわりの群衆のなかに戻っていった。ベラトリックスだけが残ってヴォルデモートのそばにひざまずいていた。
ハリーは、また目を閉じて、見たものについて考えた。デス・イーターが、ヴォルデモートのまわりに集まっていた。ヴォルデモートは地面に倒れていたらしい。彼が、ハリーに殺人の呪文を放ったとき、何かが起きた。ヴォルデモートも崩れるように倒れたのだろうか? そうらしかった。二人とも、つかの間、意識を失って倒れていて、二人とも、今、戻ってきた……
「閣下、私に――」
「手助けはいらぬ」とヴォルデモートが冷たく言った。ハリーは見ることができなかったが、ベラトリックが、手を差し伸べたところを思い描いた。「少年は……死んだか?」
空き地は、完全に静まりかえっていた。誰もハリーに近づかなかったが、彼ら全員が、ハリーをじっと見つめているのが感じられ、その視線が、もっと彼を地面に押しつけるような気がした。彼は、指一本でも、まぶたでも、ぴくっと動かないかと恐れていた。
「お前が」とヴォルデモートが言って、ドンという音と痛そうな小さな叫び声があがった。「彼を調べろ。死んだかどうか言え」
ハリーには、誰が調べるために、寄越されるのか分からなかった。ただ、そこに横たわって、調べられるのを待っていたが、心臓は、裏切るようにドンドンと激しく打っていた。けれど同時に、ヴォルデモートが彼に近づくのをためらっていることと、ヴォルデモートの計画どおりにうまくいかなかったのではないかと思っていることに気がついて、少しほっとした。
予想したより柔らかな手が、ハリーの顔に触れ、まぶたを上げ、シャツの中に入って胸を触り、心臓の動きを調べた。女性の、せわしない息づかいが聞え、その長い髪が、彼の顔をくすぐった。彼女が、肋骨に打ちつける規則正しい命の鼓動を感じたのが、ハリーに分かった。
「ドラコは生きている? 城の中にいるの?」
その囁き声は、ようやく聞きとれた。彼女の唇が、ハリーの耳のすぐ近くにあり、頭をとても低くかがめていたので、その長い髪が、見物人から、彼の顔を隠していた。
「うん」彼は、囁きかえした。
彼女のつめが、彼の胸をぐっと突いたので、胸の上の手に力が入って、ぐっと縮まったのが分かった。それから、その手が引っこんだ。彼女は、身を起こした。
「彼は死んだわ!」ナルシッサ・マルフォイが、見物人に呼びかけた。
すると、彼らは大声を上げ、勝利の叫び声を上げ、足を踏みならした。お祝いに赤と銀色の光が空中に打ちあげられるのが、閉じたまぶたをとおして、ハリーに見えた。
ハリーは、まだ、地面の上で死んだふりをしていたが、事情が分かってきた。ホグワーツに入ることを許され、息子を探すための唯一の方法は、征服した軍隊の一人として入ることだと、ナルシッサには分かっていたのだ。彼女は、もうヴォルデモートが勝つかどうかは、どうでもよかった。
「見たか?」とヴォルデモートが大騒ぎよりも大きく、甲高い声で叫んだ。「ハリー・ポッターは、私の手で死んだ。もはや生きている誰にも、私を脅かすことはできない! よく見ろ! クルーシオ!」
ハリーは、それを予想していた。自分の体が、痛めつけられずに森の地面に横たわったままではいられないだろう、ヴォルデモートの勝利を証明するため、辱めを受けなくてはならないだろうと分かっていた。彼は、空中に持ちあげられた。死んだようにぐにゃりしたままでいようと固く決心して意識ぜんぶを集中していた。けれど、予想した苦痛はやってこなかった。彼は、一度、二度、三度、空中に放り上げられた。眼鏡が飛び去って、ローブの下から、少しだけ杖がすべり出た。それでも、彼は、ずっと死んだようにだらんとしていた。最後に、地面に落ちると、空き地には、嘲りと、甲高い笑いが響きわたった。
「今こそ」とヴォルデモートが言った。「我々は城へ行き、彼らのヒーローがどうなったかを見せよう。彼を誰に引きずっていかせよう? いや――待て――」
新たにどっと笑いがおこって、少したつと、ハリーは、自分の下の地面がゆれるのを感じた。
「お前が、彼を運んでいけ」ヴォルデモートが言った。「お前の腕の中なら、彼は居心地よく、外からよく見えるだろう? お前の小さな友を運びあげろ、ハグリッド。それから眼鏡は――眼鏡をかけろ――彼だと、よく分かるようにな」
誰かが、ハリーの眼鏡を、わざと力をこめて顔に押しつけた。けれど、彼を空中に運びあげた巨大な手は、とてもやさしかった。ハグリッドの腕が激しいすすり泣きのために震えるのが、ハリーに伝わってきた。ハグリッドが、彼を抱きかかえると、とても大きな涙のしずくが、はねかかってきた。けれど、ハリーは、まだ、すべてが失われたわけではないと、身ぶりや言葉で、ハグリッドに、それとなく知らせる勇気はなかった。
「歩け」とヴォルデモートが言ったので、ハグリッドは、密集した木々のあいだを分けいって、つまずきながら、森の方に戻っていった。木の枝が、ハリーの髪やローブに引っかかったが、口をだらりと開け、目を閉じて、じっと動かずにいた。デス・イーターたちが、そのまわりに群がり、ハグリッドは目がみえなくなるほどすすり泣いていて、誰も、ハリー・ポッターの剥き出しになった首で、脈打っているかどうか調べる者はいなかった……
巨人が二人、デス・イーターの後から、木々を押して倒しながら歩いていた。彼らが通ると、木々がきしんで倒れる音が、ハリーに聞こえた。彼らが、ひどく騒々しい音をたてたので、鳥が、かんだかい声で鳴きながら空中に飛びたち、デス・イーターの嘲りの声さえもかき消した。勝ちほこった行進は、開けたところに向って進んだ。しばらくすると、ハリーは、閉じたまぶたをとおして、暗闇があかるくなってきたので、木々がまばらになりはじめたことが分かった。
「ベイン!」
思いがけず、ハグリッドが大声を出したので、ハリーは、あやうく目を開きそうになった。「今じゃ、しあわせか、あんたら戦いもせんと。あんたら、ぶつぶつ言うだけの、おくびょうもんの群れか? あんたら、うれしいか、ハリー・ポッターが――、し――死んで……?」
ハグリッドは、それ以上続けられずに、新たな涙にかきくれた。ハリーは、どのくらいたくさんの生き物が、彼らの行進を見ているのだろうかと思ったが、思いきって、目を開けることはしなかった。デス・イーターの何人かが、通りすぎるときに、生き物たちに侮辱の言葉を投げつけた。少しすると、空気がさわやかになったので、森のはずれまで来たのが分かった。
「止まれ」
ハリーは、ハグリッドが少しよろめいたので、ヴォルデモートの命令に従うように強制されたにちがいないと思った。彼らが立っているところを、うすら寒さが取りかこみ、外部の森を巡回するディメンターのガラガラいう息づかいが聞こえた。ディメンターは、今ではハリーに影響をあたえなかった。自分が生きのびたという事実が、体内で燃えさかり、彼らをよせつけない護符の役目をしていた。父の雄鹿が、心の中で守護者になっているかのようだった。
誰かが、近くを通りすぎたが、それがヴォルデモート自身だと分かった。すぐ後で、彼が口を開いたからだった。その声は、地面をとおして広く伝わるように魔法で大きくされていたので、ハリーの耳にぶつかるように聞こえた。
「ハリー・ポッターは死んだ。お前たちが、彼のために命を投げだしているというのに、自分は助かろうとして逃げるときに殺された。お前たちのヒーローが死んだ証拠として、彼の死体を運んでいく。
「我々が勝った。お前たちは、戦った者の半数を失った。デス・イーターが、お前たちより数でまさっているし、生きのびた少年は死んだ。もはや、戦いはあってはならない。抵抗しつづける者は、男、女、子供、誰でも殺される。その家族も同様だ。さあ、城から出てこい、私にひざまずけ、そうすれば許してやる。両親と子供、兄弟や姉妹が生きのび、許される。お前たちは、綿ソに協力し、ともに新しい世界をつくろうではないか」
校庭も、城の中も沈黙していた。ヴォルデモートが、とても近くにいたので、ハリーは思いきって、また目を開けることができなかった。
「来い」とヴォルデモートが言って、前に進み、ハグリッドが後についていかされる音が、ハリーに聞こえた。ハリーは、ほんの一瞬、目を開けて、ヴォルデモートが肩に大きな蛇のナギニを巻きつけて、彼らの前を大またに歩いていくのを見た。蛇はもう魔法の折に入ってはいなかった。けれど、ゆっくり明るくなっていく中で、両側を歩いていくデス・イーターたちに気づかれずに、ハリーがローブの下から杖を引きだせる可能性はなかった……
、「ハリー」とハグリッドがすすり泣いた。「ああ、ハリー……ハリー……」
ハリーは、また、かたく目を閉じた。彼らが城にむかっているのが分かっていたので、デス・イーターの楽しげな声と、そのドスンドスンという足音の他に、中にいる人たちの生きている印を聞きとろうと耳をすませていた。
「止まれ」
デス・イーターが立ちどまって、学校の開いた玄関の扉にむかって横に広がって並ぶのが、ハリーに分かった。閉じたまぶたをとおしてさえ、玄関から明かりを意味する赤っぽい輝きが見えた。彼は待っていた。いまにも、彼が守って死のうとした人たちが、ハグリッドの腕の中で死んだと思われて横たわっている彼を見にくるだろう。
「いや!」
マクゴナガル先生が、そんな声を出すなど夢にも予想できかったので、なおいっそう、その叫び声がおそろしく聞こえた。近くで、女が笑うのが聞こえた。ベラトリックスが、マクゴナガルの絶望に大喜びしていたのだ。ハリーが、ほんの一瞬、またうす目を開けると、開かれた戸口に人々がいっぱいいるのが見えた。戦いで生きのこった人たちが、征服者に顔をあわせ、自分の目でハリーの死を確かめようとして、玄関の前の石段のところに出てきた。ヴォルデモートが、自分の少し前に立って、白い指の一本でナギニの頭をなでているいるのが、ハリーに見えた。ハリーは、また目を閉じた。
「いやだ!」
「いや!」
「ハリー! ハリー!」
ロン、ハーマイオニー、ジニーの声は、マクゴナガルの声よりも悪かった。ハリーは、ただただ叫びかえしたいと思ったが、我慢して黙って横たわっていた。そして、彼らの叫びが引き金になったように、生きのこった人たちの集団が、デス・イーターに悪口をあびせたり、金切り声で叫んだりしはじめた。そのとき――
「静かにしろ!」とヴォルデモートが叫び、ドンという音と閃光があがったので、彼らは黙らされた。「もう終わった! 彼をおろせ、ハグリッド、私の足下にだ。そこが、彼にふさわしい場所だ!」
ハリーは、草地のうえに下ろされるのが分かった。
「見たか?」とヴォルデモートが言った。ハリーは、自分が横たわっている場所のすぐそばを、彼が行ったり来たりしているのが分かった。「ハリー・ポッターは死んだ! それを今、理解したか、まどわされていた者たちよ! 彼は、自分のために他人に犠牲になってもらうよう、他人に頼っていた少年にすぎなかったのだ!」
「彼は、あんたをうち負かしたんだ!」とロンが叫んだ。すると魔法が解けた。ホグワーツを守る者たちは、また叫んだり、金切り声をあげたりしはじめたが、すぐに、もう一度もっと強力なドカンという音がして、その声をかき消した。
「彼は、校庭からこそこそと逃げだしてきたところを殺された」とヴォルデモートが言った。その声には、嘘を楽しんでいる響きがあった。「自分の身が助かろうとして殺されたのだ――」
しかし、ヴォルデモートは、とちゅうで止めた。もみあう音と叫び声、それからまたドンという音と閃光と、痛そうな呻き声が、ハリーに聞こえた。彼は、ほんの少しだけ目を開けた。誰かが、集団から離れて、ヴォルデモートめがけて突進したのだ。ハリーは、その人影が地面に倒れるのを見た。ヴォルデモートは、武器を取り上げ、挑戦者の杖を脇に放りなげて笑った。
「で、これは誰だ?」と、蛇がシューシューいうような声で、そっと言った。「誰が、戦いに負けたのに戦いつづけようとする者がどうなるかの実例を、進んで示してくれたのか?」
ベラトリックスがうれしそうに笑った。
「ネビル・ロングボトムです、閣下! カロウたちを、ひどく悩ませた少年です! あの闇祓いたちの息子です、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、覚えているぞ」とヴォルデモートがネビルを見おろしながら言った。ネビルは立ちあがろうともがいて、生きのこった者とデス・イーターのあいだに、武器もなく、守られもせず立っていた。「だが、お前は純血だろう、勇敢な子よ?」ヴォルデモートが、武器を持たない手をこぶしににぎって、面と向っているネビルに尋ねた。
「もし僕が、そうなら、それがどうした?」とネビルが大声で言った。
「お前は気骨があるし、勇敢なところを見せてくれた。また高貴な家系の出だ。お前は、とても貴重なデス・イーターになるだろう。我々は、お前のような者が必要なのだ、ネビル・ロングボトムよ」
「地獄が凍りつきでもしない限り、あなたの仲間にはならない」とネビルが言った。それから「ダンブルドア軍団も!」と叫んだ。人々の間から、それに答える歓声が巻きおこり、ヴォルデモートの静まらせる呪文でもおさえきれないようだった。
「結構なことだ」とヴォルデモートが言ったが、その声のやさしさに、もっとも強力な呪いよりも危険がふくまれているのを、ハリーは聞きとった。「もし、それがお前の選択なら、ロングボトム、最初の計画に戻るとしよう。お前の頭の上に」彼は静かに言った。「乗るように」
ハリーは、まだ、ほんの少ししか目を開けていないので、まつげごしに、ヴォルデモートが杖をふるのが見えた。まもなく、城の壊れた窓の一つから、ぶかっこうな鳥のようなものが、薄明かりの中を飛んできて、ヴォルデモートの手に着地した。彼は、その古くさい品物の、とがった先を持ってふった。それは、だらんとして、空っぽで、ぼろぼろの組み分け帽子だった。
「ホグワーツでは、もはや組み分けはない」とヴォルデモートが言った。「もはや、たくさんの寮は、ない。わが高貴な先祖、サラザール・スリザリンの紋章、盾、色で、十分ではないか、ネビル・ロングボトムよ?」
そして杖をネビルに向け、動きを止めて静かにさせた。それからネビルの頭に帽子をむりやりかぶせたので、目の下まで隠れてしまった。城の前で見ている人たちから、動きがおこったが、デス・イーターがいっせいに杖を上げたので、ホグワーツの戦士たちは窮地に追い込まれた。
「ここにいるネビルは、愚かにも私に逆らい続ける者は誰でも、どうなるかを今から実演してくれる」とヴォルデモートが言って、すばやく杖を一振りすると、組み分け帽子が炎につつまれた。
夜闇を引き裂くような悲鳴が響き、ネビルは、その場に根が生えたように動くことができずに、燃え上がった。ハリーは、我慢できなかった。行動しなくては――
そのとき、多くのことが同時におこった。
遠くの、森と学校の境から大きな騒ぎの音が聞こえた。何百人もの人たちが、見えないところの壁に押しよせ、ときの声をあげながら城に向って突進してくるような音だった。同時に、グロウプが城の横をまわって、のしのしとやって来て、「ハガー!」と叫んだ。その叫びに、ヴォルデモートの巨人たちが吠えるような声で答え、雄ゾウのように、グロウプめがけて走っていたので、地面がゆれた。それから、ひづめの音と、弓がブーンとしなう音がした。それから急に矢が、デス・イーターの中に落ちてきたので、彼らは驚いて叫びながら、列を乱してばらばらになった。ハリーは、ローブの中から透明マントを引きだしてかぶり、さっと立ちあがった。ネビルも動いていた。
ハリーのすばやい流れるような杖の一振りで、ネビルは金縛りの呪文から解き放たれ、炎をあげる帽子が、その頭から落ちた。そして、ネビルは、帽子の奥から、輝くルビーの柄がついた銀色の剣を引っ張り出した――
銀の刃が打ちつける音は、近づいてくる群衆の叫び声や、巨人たちが激突する音や、セントールの疾走する音で、聞こえなかったが、それでも、全ての注目を集めたようだった。ネビルは、一撃で、大きな蛇の頭を切り落とした。それは、回りながら空中高くにあがり、玄関からあふれでる光を受けて輝いた。ヴォルデモートの口が開き、激怒の悲鳴があがったが、誰にも聞こえなかった。その足下に、蛇の体がドサッと落ちた――
ヴォルデモートが杖を上げないうちに、ハリーは透明マントにかくれて、ネビルとヴォルデモートのあいだに盾の呪文をかけた。それから、悲鳴と、叫び声と、戦う巨人が足を踏みならす、とどろくような音を越えて何よりも大きくハグリッドの絶叫が響きわたった。「ハリー!」ハグリッドがさけんだ。「ハリー――ハリーはどこだ?」
大混乱になった。突進するセントールがデス・イーターを追いはらい、皆、巨人に踏みつけられないように逃げていた。そして、どこからともなく援軍が、轟くようにどんどん近づいてきた。大きな翼のある生き物がヴォルデモートの巨人の頭の上を飛びまわるのが、ハリーに見えた。セストラルとヒッポグリフのバックビークが巨人の目をひっかき、そのあいだに、グロウプがげんこつでぶんなぐった。そして、魔法使いは、ホグワーツを守る人たちもデス・イーターも同様に、城の中に戻る羽目になった。ハリーは、目につくかぎりのデス・イーターに呪文を放ったので、彼らは、誰が、それを放ったのか分からないまま崩れるように倒れ込んだ。その体が、退却してくる群衆に踏みつけられた。
ハリーは、まだ透明マントに隠れたまま、戦いながら玄関に進んでいった。ヴォルデモートを探していると、ヴォルデモートは部屋の向こうにいて、呪文を杖から放ちながら後ずさりして大広間に入り、なおも左右に呪文を飛ばしながら手下に指示を叫んでいた。ハリーは、さらに盾の呪文を放ったので、そのお蔭でシェーマス・フィネガンとハンナ・アボットが、ヴォルデモートの餌食にならずにすんだ。二人は、ハリーのそばを通りすぎて大広間に駆けこみ、中で激しくおこなわれている戦いに加わった。
そして、もっともっと多くの人々が、玄関の石段をのぼって突進してきた。ハリーは、チャーリー・ウィーズリーが、まだ鮮やかな緑色のパジャマを着ているホラス・スラグホーンに追いつくのを見た。彼らは、城に残って戦っているホグワーツの生徒すべての家族と友人に、ホグズミードの店や宿屋の主人たちも加わった一団を率いてきたようだった。セントールのベイン、ロナン、マゴリアンが、ひづめの音を響かせて、大広間に飛びこんできた。そのときハリーの後ろの、台所に通じる扉の蝶番が、ぶちこわされた。
ホグワーツの屋敷しもべが、肉用ナイフや肉切り包丁をふりまわしながら、どっと玄関になだれこんできた。先頭に立っているのはクリーチャーだった。胸元でレギュラス・ブラックのロケットが踊っていた。そのウシガエルのような声が、この騒音の中でさえも聞こえてきた。「戦え! 戦え! 屋敷しもべの守り手のご主人様のために! 勇敢なレギュラスの名にかけて、闇の帝王と戦え! 戦え!」
彼らは、敵意に満ち溢れた顔で、デス・イーターの足首や向こうずねを突きさした。いたるところで、デス・イーターが、大勢の重さの下に折りかさなったり、呪文にやられたり、傷から矢を引きぬいていたり、屋敷しもべに足をさされたり、さもなければ、ただ逃げだそうとしたが、近づいてくる大群に飲みこまれたりしているのを、ハリーは見た。
しかし、まだ終わらなかった。ハリーは、戦っている人たちのあいだを急いで走り、逃れようともがく捕らわれ人のそばを通りすぎて、大広間に向った。
ヴォルデモートが戦いの中心にいた。届く範囲のものすべてを攻撃し、うち負かしていた。ハリーは、彼をよくねらえる位置には立てなかったが、姿を隠したままで、やっと近づいていった。歩ける者すべてが、なんとかして中に入ろうとしていたので、大広間は、どんどん混みあってきた。
ハリーは、ヤックスリーが、ジョージとリー・ジョーダンに床にバタンと倒されるのを見た。ドロホフが、フリットウィックの手によって悲鳴をあげて倒れるのを見た。ウォルデン・マクニールがハグリッドに、部屋の向こうに投げとばされ、反対側の石の壁に当たって、意識を失って床に滑り落ちるのを見た。ロンとネビルが、フェンリル・グレイバックを倒すのを見た。アベルフォースが、ルクウッドを気絶させ、アーサーとパーシーが、シックネスを倒し、ルシウスとナルシッサ・マルフォイが群衆のなかに走りこんできて、戦おうとさえせずに、息子の名を叫んでいるのを見た。
ヴォルデモートは、マクゴナガル、スラグホーン、キングズリーといっぺんに戦っていた。彼らが、呪文を避けて、さっと動いたり首をすくめたりしているあいだ、彼は冷たい憎しみをうかべていた。彼をやっつけることはできなかった――
ベラトリックスもまだ戦っていた。ヴォルデモートから五十メートルほど離れたところで、主人と同じく、一度にハーマイオニーとジニーとルナの三人を相手にしていた。三人とも全力を尽くして激しく戦っていたが互角だった。そして、殺人の呪文が、ジニーのすぐ近くに放たれ、彼女があわや死ぬところだったので、ハリーの注意がそちらに逸れた。
彼は、方向転換してヴォルデモートでなく、ベラトリックスめがけて走っていったが、数歩もいかないうちに横に突きとばされた。
「私の娘に手を出すな、このあばずれ!」
ウィーズリー夫人が、走りながら、腕を自由に動かせるようにマントを投げすてた。ベラトリックスが、その場でさっとふりむいたが、新しい挑戦者を見ると大笑いした。
「そこをどきなさい!」とウィーズリー夫人が三人の女の子に叫び、杖を強く一ふりして戦いはじめた。モリー・ウィーズリーの杖が、空中を切り裂き、くるくる回り、ベラトリックス・レストレンジの笑いが弱まって、唸り声になるのを、ハリーは、恐怖と得意な気持ちとで見まもっていた。両方の杖から閃光が飛びかった。魔女の足下の床が、熱くなって、ひび割れた。二人とも決死の戦いをしていた。
数人の生徒が手助けしようと前方に走りよっていくと、「だめ!」とウィーズリー夫人が叫んだ。「下がって! 下がって! 彼女は、私が、しとめるわ!」
何百人もの人々が、壁に列をなして、ヴォルデモート対三人、ベラトリックス対モリーという二つの戦いを見つめていた。そして、ハリーは、姿を隠して立ったまま、敵を攻撃したいし、味方も守りたいという両方の思いに引きさかれていた。また罪がない人に呪文が当たらないという確信ももてなかった。
「私が、お前を殺したら、子供たちはどうなると思う?」とベラトリックスが、モリーの呪文が、周りに飛ぶのを、飛んで避けながら、主人と同じくらい怒りくるって、あざけるように言った。「ママが死んだら、子供たちはフレディーと同じかな?」
「あんたを――二度と――うちの――子供たちに――触らせないわ!」とウィーズリー夫人が金切り声で叫んだ。
ベラトリックスが笑った。いとこのシリウスが、ベールの向こうに倒れる前にしたのと同じ快活な笑いだった。ハリーは突然、次に何が起きるかが、実際におきる前に分かった。
ベラトリックスが伸ばした腕の下に、モリーの呪文が飛びこみ、垂直にベラトリックスの胸をうち、真っ直ぐ心臓に当たった。
ベラトリックスの満足げな笑いが凍りつき、目が突き出たようにみえた。何がおきたのかを悟った瞬間、よろめき倒れた。見物人が歓声をあげ、ヴォルデモートが悲鳴をあげた。
ハリーは、まわりがスローモーションになったような感じがした。マクゴナガル、キングズリー、スラグホーンが後ろに飛ばされ、空中で手足を激しく動かしながら身悶えしているのが見えた。最後の最良の腹心が倒れたので、ヴォルデモートの激怒が爆弾のように破裂したのだ。ヴォルデモートは杖をあげ、まっすぐにモリー・ウィーズリーに向けた。
「プロテゴ!<防御せよ>」とハリーが叫び、盾の呪文が大広間の真ん中にひろがった。ヴォルデモートが誰がやったのかと、振り返ったとき、ハリーは、とうとう透明マントをぬいた。
「ハリー!」「生きていたのか!」という両側のショックと歓声と叫び声は、すぐに静まった。ヴォルデモートとハリーが向かいあったとき、群衆は恐怖におそわれ、いきなり完全に沈黙して、同時に、二人を取り巻き始めた。
「僕は、誰にも助けてほしくない」ハリーが大声で言った。完全に静まりかえった中で、その声がトランペットの合図のように伝わった。「こういうふうになるべきだ。僕が相手であるべきだ」
ヴォルデモートがシューッと蛇のような声で言った。
「ポッターは、そういうつもりではない」彼は赤い目を見開いて言った。「それは、彼のやり方ではないだろう? 今日は、守ってもらう盾に、誰を使うつもりだ、ポッターよ?」
「誰にも」とハリーが簡潔に言った。「もうホークラックスは、ない。お前と僕だけしかいない。両方が生きることはできずに、片方が生き残る。僕たちの一人が永久に去るのだ……」
「我々の一人だと?」とヴォルデモートがあざけった。その全身が緊張し、赤い目がにらんでいた。まさに攻撃しようとする蛇だ。「生き残るのが、お前だと思っているのか、偶然、生き残り、ダンブルドアが操っていたから、生き延びた少年のお前だと?」
「僕の母が、僕を助けるために死んだのを、偶然だというのか?」とハリーが言った。彼らは、二人とも、まだ互いに同じ距離をたもち、完璧な円をえがきながら横歩きをしていた。ハリーにとっては、ヴォルデモートの顔しか存在していなかった。「僕が墓地で戦おうと決めたのも偶然なのか? 今夜、僕が自分の身を防がなかったのに、まだ生きていて、また戦いに戻ってきたのも偶然だというのか?」
「偶然だ!」とヴォルデモートが叫んだが、それでも攻撃してこようとはしなかった。見物人は、石になったように、じっと動かなかった。大広間にいる何百人もの人たちのうち、彼ら二人だけしか呼吸をしていないかのようだった。「偶然と、運と、お前が、もっと強い者たちの陰にかくれて、泣き言をいって、うずくまり、その者たちを、私に殺させたという事実のためだ!」
「今夜は、もう他の誰も殺させない」とハリーが言った。二人とも互いの目を、緑の目が赤い目を、睨みつけながら、円を描いて歩いていた。「もう二度と、お前が他の誰も殺すことはできない。分からないのか? 僕は、他の人たちが傷つけられるのを止めるために死ぬ覚悟ができている――」
「だが、お前は、そうしなかった!」
「――僕は、そうするつもりだった。そして、そういうふうになった。僕は、母がしてくれたことをした。だから、みんな守られていたんだ。お前がかけた呪文のどれも、効果がなかったことが分からなかったのか? お前は、みんなを痛めつけることはできない。みんなに触ることができない。自分の過ちから学んでいない、リドル君、そうだろう?」
「よくも言ったな――」
「ああ、言うよ」とハリーが言った。「僕は、お前が知らないことを知っているんだ、トム・リドル君。お前が知らない重大なことをたくさん知っている。また大きな過ちをする前に、少し聞きたいか?」
ヴォルデモートは口をきかないで、円を描いて歩いていた。ハリーは、自分がヴォルデモートを一時的に魅惑して、窮地に追いこんでいるのだと分かった。ハリーが実際に究極の秘密を知っているのかもしれないという、ほんのかすかな可能性のために、行動できずにいるのだ……
「また、愛の話か?」とヴォルデモートが言った。その蛇のような顔は、嘲りの表情をうかべていた。「ダンブルドア好みの解決だ、愛とはな。彼は、それが、死にうち勝つと主張した。だが、愛は、彼が、塔から墜落して、古ぼけた蝋人形のように壊れるのを止めなかったではないか? 『愛』、それは、私が、お前の穢れた血である母親をゴキブリのように踏みつけて取り除くのを止めなかった、ポッターよ――それに、今度は誰も、走りでてきて私の呪文を受けるほど、お前を愛してはいないようだ。それでは、今度は、私が攻撃したときに何が、お前を死ぬのを止めるのだ?」
「ただ一つ」とハリーが言った。彼らは、まだ、互いの中に捕らわれ、ただ最後の秘密によってのみ、互いに離れたまま回りつづけていた。
「もし、今度お前を助けるのが愛でなかったら」とヴォルデモートが言った。「お前は、私が持っていない魔法の力、さもなくば、私のよりも強力な武器を持っていると信じなくてはならないだろうな?」
「僕は、両方信じている」とハリーが言った。すると、その蛇のような顔に衝撃の表情がうかぶのを見た。しかし、それはすぐに、なくなった。ヴォルデモートは笑いはじめたが、その声は、彼の悲鳴より恐ろしかった。ユーモアがなく狂気の笑いで、それが、静まりかえった大広間に響きわたった。
「お前が、私より魔法を知っていると思っているのか?」と言った。「私より、ダンブルドア自身が夢にみたこともない魔法をやりとげたこのヴォルデモート卿より?」
「ああ、ダンブルドアは、それを夢にみていたよ」とハリーが言った。「でも彼は、お前以上にそれを知っていた。お前がやったことを、やらないほどには、よく知っていたんだ」
「それはつまり彼が弱かったということだ!」とヴォルデモートが叫んだ。「弱すぎて実行する勇気がなかった。弱すぎて、彼のものになったかもしれないものを手にとらなかった。それは私のものになるのだ!」
「違う! 彼は、お前よりも賢かった」とハリーが言った。「お前より、すぐれた魔法使いであり、すぐれた人だった」
「私が、アルバス・ダンブルドアの死を成し遂げたのだ!」
「お前が、そう思い込んでいるだけだ」とハリーが言った。「でも、それは間違っている」
はじめて見物人が身動きをした。壁のまわりの何百人という人たちが、一斉に息をしたようだった。
「ダンブルドアは死んだ!」ヴォルデモートが、その言葉をハリーに投げつけるように言った。まるで、その言葉が自分に耐えがたい苦痛をあたえるかのようだった。「彼の体は、校庭の大理石の墓の中で朽ち果てている。私はそれを見た。ポッター、彼は戻らないぞ!」
「ああ、ダンブルドアは亡くなった」とハリーが冷静に言った。「だが、お前が、彼を殺させたのではない。彼は自分で死に方を選んだのだ。亡くなる何ヶ月も前に、そのやり方を選んで、お前が自分の召使いだと思っていた男とともに、すべて計画しておいたのだ」
「それは、なんとも子供じみた夢だな?」とヴォルデモートが言ったが、それでもまだ攻撃しようとはせず、その赤い目がハリーの目をじっと見つめたまま揺らがなかった。
「セブルス・スネイプは、お前の召使いではなかった」とハリーが言った。「スネイプはダンブルドアに仕えていた。お前がぼくの母を追いはじめたときからずっとダンブルドアに仕えていた。だが、お前はまったくそれに気づかなかった。お前が理解できないことのためにな。お前は、スネイプがパトローナスを出したのを見たことがないだろう、リドル君?」
ヴォルデモートは答えなかった。彼らは離れながら、たがいに噛みつこうとしているオオカミのようにぐるぐるまわっていた。
「スネイプのパトローナスは雌鹿だった」とハリーが言った。「僕の母のものと同じだ。なぜなら、スネイプは、二人が子供だった頃から、ずっと死ぬまで、僕の母を愛していたからだ。お前は理解してもよかったはずだ」ハリーは、ヴォルデモートの鼻孔が膨らむのを見ながら言った。「スネイプは、僕の母の命乞いをしただろう?」
「彼は、彼女を自分のものにしたかった、それだけだ」とヴォルデモートが、せせら笑った。「だが、彼女が死んだとき、他にもっと純血で、もっと彼にふさわしい女がいるということに、彼は同意した――」
「もちろん、お前には、そう言っただろう」とハリーが言った。「だが、お前が彼女を脅したときから、スネイプはダンブルドアのスパイになった。それ以来ずっと、お前に敵対して働いてきた! スネイプが殺したとき、ダンブルドアは、もう死にかけていたんだ!」
「それは、問題ではない!」とヴォルデモートが、甲高い声で叫んだ。ひとことひとことを熱心に注意深くいい、その後、気ちがいじみた笑い声をあげた。「スネイプが、私の召使いであろうがダンブルドアのであろうが問題ではないし、私の行く手に、どんなささいな障害物をおこうと問題ではない。私は、スネイプが大いなる愛を捧げてきたとかいうお前の母親を踏みつぶした! ああ、だが、それですべてつじつまが合うぞ、ポッター、それも、お前が理解できないようにな!」
「ダンブルドアは、ニワトコの杖を、私から離そうとしたのだ! 彼は、スネイプが、あの杖の真の持ち主になるようにしたのだ! だが、私が、お前より先に、あそこに行ったぞ、小僧――私が、お前が手を伸ばすより先に、あの杖を手にいれた。お前より先に、私が真実を理解したのだ。私は、三時間前、セブルス・スネイプを殺した。だから、ニワトコの杖、死の棒、運命の杖は真に私のものだ! ダンブルドアの最後の計画は、うまく行かなかっただろう、ハリー・ポッター!」
「ああ、そうだ」とハリーが言った。「お前の言うとおりだ。だが、僕を殺そうとする前に、お前がしたことを考えてみるようにと忠告するよ……考えて、少しは悔恨の情を抱くようにね、リドル君……」
「なんだと?」
ハリーが、今までに暴露したことや、嘲ったことほど、すべてのうちで、これほどヴォルデモートに衝撃をあたえたことはなかった。彼の瞳が、細い裂けめのように狭まり、目のまわりの皮膚が白くなるのが、ハリーに見えた。
「それが、お前の最後のチャンスだ」とハリーが言った。「お前に残された全てだ……悔恨の情を抱かなかったら、お前がどうなるかを、僕は見た……人として……悔恨の情を……抱いてほしい……」
「よくも言ったな――?」とヴォルデモートが、また言った。
「ああ、言うよ」とハリーが言った。「なぜなら、ダンブルドアの最後の計画は、僕にとって裏目に出たわけでは、まったくない。お前にとって裏目にでたんだ、リドル」
ヴォルデモートの手は、ニワトコの杖をもって震えていた。ハリーは、ドラコの杖を、とても固く握っていた。それは、数秒間のことだった。
「その杖は、まだ、お前のために、ちゃんと働かない。なぜなら、お前は間違った人間を殺したからだ。セブルス・スネイプはニワトコの杖の真のもちぬしではなかった。彼は、けっしてダンブルドアをうち負かしはしなかった」
「彼が殺した――」
「聞いていなかったのか? スネイプは、決してダンブルドアをうち負かしはしなかった! ダンブルドアの死は、二人のあいだで計画されていたんだ! ダンブルドアは、うち負かされずに死のうとした。杖の最後の真の持ち主であろうとした! もし、すべてが計画通りにいけば、杖の力は、彼とともに死んだだろう。なぜなら、杖は、彼から勝って奪われることがなかったからだ!」
「だが、それなら、ポッター、ダンブルドアは事実上、杖を私にくれたも同様だ!」ヴォルデモートの声は悪意ある喜びでゆれた。「私は最後の持ち主の墓から盗んだ! 最後の持ち主の意志に反して持ち去ったのだ! 杖の力は私のものだ!」
「まだ分かっていないな、リドル? 杖を所有するだけでは、十分ではないのだ! それを持ち、使うだけでは、ほんとうに、お前のものにはならない。オリバンダーの言葉を聞かなかったのか? 杖が魔法使いを選ぶのだ……ニワトコの杖は、ダンブルドアが亡くなる前に、新しい持ち主を見つけていた。その者が、その杖に手も触れなかったにもかかわらずだ。新しい持ち主は、ダンブルドアの意志に反して杖を取り去った。自分が何をしたのかも、世界中でもっとも危険な杖が自分に忠誠を誓ったことも、決して正確に理解していなかったけれど……」
ヴォルデモートの胸がせわしなく上下していた。ハリーは、自分の顔に向けられた杖のなかに呪文の呪いが溜まってくるのを感じ、今にも呪文が飛んできそうな気がした。
「つまり、ニワトコの杖の真の持ち主は、ドラコ・マルフォイだったんだ」
ヴォルデモートの顔が、一瞬衝撃で呆然としたが、それは消え去った。
「だが、それのどこが問題だ?」彼が、そっと言った。「たとえ、お前の言うとおりだとしても、ポッター、お前と私には何の違いもない。お前は、もう不死鳥の杖を持っていない。つまり、我々は技だけで決闘できるわけだ……私は、お前を殺したあとで、ドラコ・マルフォイに、取り掛かればよい……」
「だが、お前は遅すぎた」とハリーが言った。「お前はチャンスを逃した。僕が先に着いた。僕は数週間前にドラコをうち負かした。この杖は、彼から取ったんだ」
ハリーが、サンザシの杖をぐいっと動かすと、大広間の全員の目が、それに注がれるのが分かった。
「だから、結局こういうことになるんじゃないか?」とハリーが囁いた。「お前の手のなかの杖が、前の持ち主が武器を取られたのを知っているかどうかということに? なぜなら、もし、その杖が知っているなら……僕が、ニワトコの杖の真の持ち主だということになる」
赤い金色の輝きが、突然、頭上の魔法の空に燃え上がった。目もくらむような太陽の輝きの端が、すぐ側の窓の敷居の上にあらわれたのだ。その光が、同時に二人の顔にあたったので、ヴォルデモートの顔が急に燃えるように、ぼやけた。ハリーは、甲高い声が叫ぶのを聞くと同時に、自分も天にうまくいくことを祈りながら、ドラコの杖を向けて叫んだ。
「アバダ・ケダブラ!」
「エクスペリアームス!」
大砲が発射されたようなドンという音がして、二人が歩いていた円のど真ん中に、二人のあいだに発射された金色の炎があがって、そこに呪文が衝突したのが分かった。ハリーは、ヴォルデモートの緑の閃光が自分の呪文と出あうのを見た。それからニワトコの杖が、高く飛んで、のぼった太陽の光の陰になって、ナギニの頭のように、くるくるまわりながら魔法の天井をこえて、空中を、その杖が殺すはずがない真の持ち主の方に向かってきた。杖は、やっと真の持ち主の手にわたろうとしているのだ。そしてハリーは、シーカーの正確な技で、空いた方の手で、その杖をつかんだ。そのとき、ヴォルデモートが仰向けに倒れた。腕を広げ、赤い目の上の方で細い瞳が回っていた。トム・リドルは床に当たり、普通の人間と同じ最期を迎えた。体が弱々しく縮こまり、白い手は空をつかみ、蛇のような顔は、虚ろで何も分かっていなかった。ヴォルデモートは死んだ。自分の呪文が、跳ね返ってきて、それに殺されたのだ。ハリーは、手に二つの杖を持って立ち、敵の屍を見下ろしていた。
身震いするほどの、ほんの一時、一瞬のショックで、まわりの動きが止まった。それからハリーのまわりで大騒ぎが巻き起こった。見物人の悲鳴や歓声やどよめきが空中を引き裂いた。荒々しい新しい太陽が、窓から目がくらむように差し込んできた。そのとき人々が、ハリーの方にどっと押しよせてきた。最初に来たのがロンとハーマイオニーで、その二人の腕が、ハリーに巻きつき、わけの分からない叫び声で耳が聞こえなくなった。それから、ジニー、ネビル、ルナが来た。それからウィーズリー家とハグリッド、それからキングズリーとマクゴナガルとフリットウィックとスプラウトが来た。それからハリーは誰の叫び声も一言も聞こえなかったし、誰が手を握ったり、引っ張ったり、体のどこかを抱きしめようとしているのかも分からなかった。何百人もが押しよせてきて、誰もが「生き延びた少年」に触ろうとしていた。とうとう終わった証として――
太陽は着実にホグワーツの上にのぼっていた。大広間は、生命と光とで輝いていた。ハリーは、歓喜と悲嘆、悲しみとお祝いの混じった流出に欠くことのできない一部だった。みな、ハリーに、リーダーでありシンボルとして、また救い手であり導き手として、そこに、いてもらいたがった。彼が眠っていないこと、ほんの数人の仲間とだけいっしょにいたいと切望していることは、誰も思いつかないようだった。彼は、肉親を奪われた人たちに話しかけ、手を握り、涙を見て、お礼を言われ、あらゆる方角から入ってくる知らせに耳を傾けなくてはならなかった。午前のときが経つにつれ、国中の支配の呪文をかけられていたものは正気をとりもどし、デス・イーターは逃げるか、または捕らえられ、アズカバンの無実のものたちは直ちに釈放され、キングズリー・シャックルボルトが一時的に魔法大臣に指名された……というような知らせだった。
ヴォルデモートは大広間から離れた部屋に運ばれた。フレッド、ルーピン、トンクス、コリン・クリービー、その他、彼と戦って死んだ五十名と離しておくためだった。マクゴナガルが寮のテーブルを並べなおしたが、もう誰も寮に別れて座らなかった。先生と生徒、幽霊と親、セントールと屋敷しもべ、誰もが混じって座っていた。フィレンツェは回復して隅に横たわり、グロウプが壊れた窓からのぞきこみ、その笑っている口の中に、人々が食べ物を投げこんでいた。少したって、ハリーは精も根も尽き果てていたが、気がつくとルナの横に座っていた。
「もし私があなたなら、少し平和な静けさが欲しいわ」ルナが言った。
「すごく欲しいよ」ハリーが答えた。
「私がみんなの気を逸らしてあげる」ルナが言った。「透明マントを使いなさいよ」
そして、彼が何も言わないうちに、ルナが叫んだ。「うわーっ、見て、ブリバリングのすごいやつがいるわ!」そして窓の外を指さしたので、それを聞いたものはみな、振り向いた。そこでハリーは、透明マントをかぶって立ちあがった。
今、ハリーは邪魔されずに大広間をとおって歩くことができた。テーブル二つ向こうに、ジニーを見つけた。彼女は頭を母の肩にのせて座っていた。彼女とは後から話すことができるだろう。何時間でも何日でも、きっと何年でも話すことができるだろう。ネビルがいた。グリフィンドールの剣を皿の横において食事をしていたが、熱狂的なファンの集団にかこまれていた。ハリーはテーブルのあいだの通路を歩いていった。すると、三人のマルフォイ一家を見つけた。そこにいていいのかどうか分からないというように身を寄せあっていたが、誰も彼らに気を止めなかった。いたるところで、家族が再会していた。そして、やっと、一緒にいたいと切望していた二人がいた。
「僕だよ」ハリーは、二人のあいだに身をかがめて小声で言った。「いっしょに来てくれないか?」
二人は、すぐに立ちあがった。そして、彼とロンとハーマイオニーはいっしょに大広間を出た。大理石の階段の大きな部分がなくなっていた。手すりの一部もなくなっていて、のぼる段ごとに破片と血痕が見られた。
どこか遠くで、ピーブスが廊下をブーンと飛びながら、自作の勝利の歌を歌うのが聞こえてきた。
「やったぜ、勝ったぜ、ポッターがいちばん、
ヴォルディは死んじまった、騒ごうぜ!」
「全体の状況の範囲と悲劇の感じをうまく伝えてるよな?」とロンが言いながら、扉を押してハリーとハーマイオニーをとおした。
しあわせが来るだろう、とハリーは思った。けれど、その思いは、今はまだ極度の疲労で弱められていた。また、フレッド、ルーピン、トンクスを失った痛みが、数歩歩くたびに、肉体的な傷のように突きさすのが感じられた。心の大部分では、とてつもなく安堵し、眠りたいと思っていた。けれど、まずロンとハーマイオニーに説明する義務があった。二人は、あんなに長い間、いっしょについてきてくれたのだから、真実を知る資格があった。ハリーは骨折りながら、ペンシーブで見たこと、森の中で起こったことを語った。そして二人が、衝撃と驚きを言い表さないうちに、誰も目的地だとは言わなかったけれど、彼らが、目指して歩いてきた場所に着いた。
彼が、最後に見たとき、校長室の入り口を守る怪物像は横に倒されていたが、それは、少し殴られたように傾いて立っていた。ハリーは、それがパスワードを聞きわけられるかどうか怪しいと思った。
「入ってもいいかい?」と怪物像に尋ねた。
「ご自由に」と像が埋めいた。
彼らは、像によじのぼって、石の螺旋階段にのった。それは、エスカレーターのようにゆっくり上っていった。ハリーは、てっぺんの扉を押しあけた。そして机の上に、さっき置いた石のペンシーブがあるのをちらっと見た。そのとき、耳をつんざくような騒音があがったので、ハリーは叫び声をあげた。呪文かもしれない、デス・イーターが戻ってきたのかもしれない、ヴォルデモートが復活したのかもしれないと、考えたのだ――
しかしそれは拍手喝采だった。壁中の、ホグワーツの校長先生すべてが立ち上がって大喝采していた。彼らは帽子をふったり、なかには、かつらをふったり、額縁ごしに固く手をにぎりあったり、描かれた椅子の上で飛びはねたりしていた。ディリス・ダーウェントは派手にすすり泣いていた。デクスタ・フォーテスキューは旧式なラッパ型補聴器をふっていた。フィニアス・ナイジェルスが、高いアシ笛のような声で呼びかけた。「スリザリン寮が、一役かったのを覚えておくように! 我々の貢献を忘れるでないぞ!」
けれどハリーは、校長の椅子の、すぐ後ろの、いちばん大きな肖像画の中で立っている姿だけを見つめていた。涙が、半月型の眼鏡の後ろから長い銀髪のあごひげの中に流れおちていた。そして彼の表情にあらわれている誇りと感謝が、不死鳥の歌と同じように、ハリーの心を慰めた。
とうとう、ハリーは両手を上げた。肖像画たちは丁重に静まり、にっこり笑ったり涙をふいたりしながら、彼が話すのを熱心に待っていた。けれど、彼は、ダンブルドアに、直接、とても注意深く言葉を選んで、話しかけた。極度に疲れ、目がかすんでいたけれど、最後の努力をして、ひとつ最後のアドバイスを求めなくてはならなかった。
「スニッチに隠されていたものは」彼は言いはじめた。「森の中に落としました。どこにあるか正確には分からないけど、また探しにいくつもりはありません。いいですか?」
「いいとも」とダンブルドアが言った。いっぽう仲間の画たちは何のことか分からず、興味ありげだった。「賢く、勇気ある決断だ。だが、君ならそうするだろうと思っていた。それが、どこに落ちたか、誰か他に知っているかな?」
「誰も知りません」とハリーが言った。ダンブルドアは満足そうに頷いた。
「でも、イグノトゥスの贈り物は持っていようと思います」とハリーが言うと、ダンブルドアは、にっこり笑った。
「もちろん、ハリー、あれは永久に君のものだ。君が、譲るまではな!」
「それから、これがあります」
ハリーはニワトコの杖をかかげた。ロンとハーマイオニーはうやうやしくそれを見た。たとえ、頭が混乱し睡眠不足の状態であってさえも、ハリーは、彼らのそういう態度を見るのが嫌だった。
「僕は、これが欲しくない」とハリーが言った。
「何だって?」とロンが大声で言った。「頭おかしいんじゃないか?」
「これが強力なのは分かってる」とハリーが、うんざりしたように言った。「けど、僕は自分の杖の方がよかった。だから……」
ハリーは、首のまわりにかけた袋の中をごそごそ探って、二つに折れてフェニックスの羽のいちばん細い筋だけでつながっているヒイラギの杖を取りだした。それは、前にハーマイオニーが、ひどく壊れすぎて直せないと言った。彼に分かっているのは、もしニワトコの杖で直せなければ、ぜったいに直せないということだけだった。
ハリーは、壊れた杖を校長の机に置き、ニワトコの杖の先端で触れて、「レパロ」と言った。
杖が、くっつくとき、赤い火花がその先から飛んだ。ハリーは、成功したのが分かった。そして、ヒイラギとフェニックスの杖を取りあげた。すると指に突然あたたかさを感じた。まるで杖と手が再会を喜びあっているようだった。
「僕は、ニワトコの杖を戻します」ハリーは、ひじょうな愛情と賞賛の気持ちをこめて、ハリーを見守っているダンブルドアに言った。「元あった場所に戻します。それは、そこにあればいい。もし僕がイグノトゥスのように自然に死んだら、その力は壊れるでしょうね? その前の持ち主は、けっしてうち負かされることはないでしょう。それが、その杖の終わりです」
ダンブルドアが、頷いた。二人は、微笑みあった。
「ほんとにいいのか?」ロンが言った。彼が、ニワトコの杖を見たとき、その声にほんの少し憧れの気持ちがあらわれていた。
「ハリーが正しいと思うわ」とハーマイオニーが静かに言った。
「その杖は、その価値よりも、もっと災難の種だ」とハリーが言った。「それに、すごく正直に言うけど」彼は肖像画に背を向けた。今はもう、グリフィンドールの塔で四本柱のベッドが待っていることしか頭になかった。そしてクリーチャーが、そこまでサンドイッチを運んできてくれるだろうかと考えていた。「僕は、もう、一生分の災難を経験したよ」
エピローグ 十九年後
Nineteen Years Later
その年の秋は突然やってきた。
九月一日の朝はりんごのように爽やかで、ある小人数の家族が騒がしい道路を横切って、埃まみれの大きな駅に到着したとき、排気ガスの煙と歩行者の息は冷気の中の蜘蛛の巣のように煌めいた。その一家の両親が押している手押し車の積み上げられたてっぺんで、二つの大きなケージが悪態を吐いた。その中ではふくろうが憤然と喚いていた。赤毛の少女は兄弟の後ろについて、怖れるように父親の腕を掴んでいた。
「長くはない。それに君も行くんだよ」ハリーは彼女に言った。
「二年後でしょう」リリーは鼻をすすった。
「私は今行きたいの!」
一家が九番と十番のプラットホームの間の柵に向かってふらふらと歩いていったので、通勤者たちは奇異の目でふくろうを見つめた。アルバスの声が辺りの喧騒にも関わらずハリーのほうに響いてきた。彼の息子たちは車の中で始めた議論を再開していたのだった。
「ぼくは嫌だ! スリザリンにはならない!」
「ジェームス、止めなさい!」ジニーが言った。
「俺はアルバスがそうなるんじゃないかって言っただけだ」
ジェームスは言って、弟ににやりと笑いかけた。
「別に悪いことじゃないだろ。スリザリンになるかもしれない」
しかし母親の眼差しに捕らえられたジェームスは黙りこくった。五人のポッター一家は柵に辿り着いた。振り向きざまに弟に向けて少し生意気そうな表情を見せると、ジェームスは彼の母親から手押し車を取って走り始めた。しばらくした後、彼の姿は消え去った。
「手紙、くれるんだよね」
兄がいなくなったわずかな隙を逃すまいと、アルバスはすぐに両親に尋ねた。
「毎日よ、あなたがそうしてほしいならだけれど」ジニーが言った。
「毎日じゃなくてもいいよ」アルバスは慌てて口にした。「ジェームスがね、ほとんどの生徒が家から手紙を貰うのは一ヶ月に一回ぐらいだって言った」
「去年、私達は週に三回も手紙を書いてたわよ」ジニーが言った。
「それに君はジェームスがホグワーツについて話すことを一から十まで信じたくはないだろう」ハリーが口を挟んだ。「冗談が好きなのさ。君の兄貴はね」
彼らは一列に並ぶと、速度を上げて二つ目の手押し車を押し進めた。柵にぶつかったときに、アルバスはひるんだが、衝撃は来なかった。その代わりに一家は九と四分の三番線に現れた。その光景は真っ赤なホグワーツ急行からどんどん流れていく厚い白い蒸気によって覆い隠された。はっきりとしない人影が霧の中を通り抜けていき、ジェームスは既にその奥へと姿を消していた。
「彼らはどこ?」プラットホームの下側に進んでいたとき、通り過ぎるぼやけた人影をじっと見つめながら、アルバスは不安気に尋ねた。
「見つけられるわ」ジニーは根気強く言った。
けれども蒸気は濃く、誰の顔であっても判別するのは難しかった。
ハリーは、不自然なまでにうるさい声の持ち主――やかましく箒の柄規則について議論するパーシーのことだ――の前にこんにちはと立ち止まって挨拶せずともいい口実が出来て、かなりうれしかった。
「彼らじゃないかと思うわ、アル」ジニーは突然言った。
四人のグループが霧の中から現れて、一番最後の荷物の側に並んで立っていた。ハリー、ジニー、リリー、アルバスがまさしく思い描いたように、彼らの顔が目に入った。
「こんにちは」と、アルバスは心の底から安堵しているような声音で言った。
既に真新しいホグワーツ・ローブを身に纏ったローズは彼を見返した。
「問題なく駐車できた?」ロンはハリーに尋ねた。「いや、僕はそう思ってるんだけど。ハーマイオニーは、僕がマグル運転免許試験に合格できるとは思ってなかったんだけどね? 彼女は僕が試験官を呪うだろうって」
「いや、そうじゃないわ」ハーマイオニーは言った。「私はあなたを完璧に信じてたわよ」
「実は僕、試験官にやっちゃったんだ」ロンはハリーに囁くと、彼らはアルバスのトランクとフクロウを列車に一緒に持ち上げた。「サイドミラーを見るのを忘れてただけさ――で、それをごまかそうと超感覚魔法を使った」
プラットホームに戻ると、彼らはリリーとローズの弟のヒューゴを見つけた。二人は彼らが最終的にホグワーツに行ったときに、どの寮に組み分けされるかということについて激しい討論を繰り広げていた。
「君たちがもしもグリフィンドールじゃなかったら、僕らは君たちを勘当するね」ロンが言った。「圧力をかけるわけじゃないけど」
「ロン!」
リリーとヒューゴは笑った。けれども、アルバスとローズは真剣な表情をした。
「彼はそういうつもりじゃないんだ」とハリーとジニーがフォローしたが、ロンはもはやそのことに注意を払ってはいなかった。ハリーの視線を受け止めると、彼はおよそ五〇ヤード離れた地点を、ひそかに顎で指し示した。
蒸気はちょっと薄くなっていた。そして、晴れつつある霧のお蔭で、三人の人間が立っているのが見えた。
「あいつらを見ろよ」
妻や息子と一緒に、詰襟の黒いコートを着たドラコ・マルフォイがそこに立っていた。彼の前髪はいくらか後退していたが、それが彼の尖った顎を強調していた。アルバスがハリーに似ているのと同じくらい、その少年はドラコに酷似していた。ドラコは彼を見ていた、ハリー、ロン、ハーマイオニー、そしてジニーに視線を向けると、そっけなくうなずいて、再び顔を背けた。
「そう、あれはちっちゃい毒蠍<スコーピオ>さ」と、ロンは囁くように言った。「ロージー、あらゆるテストでやつを絶対に負かすんだ。君が母親の頭脳を受け継いだことを神に感謝するよ」
「ロン、頼むから」ハーマイオニーは言った。その声音は半分は厳しさを帯びていたが、残りの半分は嬉しそうだった。
「入学する前からお互いに反目させあってどうするの!」
「君が正しいな。すまなかった」とロンは謝ったが、取り繕うことはできずに、こう付け加えた。「ロージー、もっとも、彼に好意的になり過ぎないように! 純血種と結婚するなら、ウィーズリー爺さんは君を決して許さないだろうね」
「やあ!」
ジェームスが再び姿を現した。彼はいかにもニュースではちきれんばかり、という顔をして、自分からトランク、ふくろう、手押し車を取った。
「テディがそこに戻ってきてる」振り向いて蒸気の大波のようにうねる雲の方を指差すと、息をはずませながらジェームスは言った。「見たんだよ! それに何をしてたと思う? ヴィクトワールといちゃついてた!」
彼は大人たちを見上げた。ジェームスの表情は明らかに反応の薄さにがっかりしていた。
「俺たちのテディだ! テディ・ルーピンだよ! それが従兄妹のヴィクトワールと! で、俺は何をやってるのかって、テディに問い詰めたさ――」
「邪魔したのね?」ジニーが言った。「ロンにそっくりなんだから――」
「――彼女、休みには会いに来るんだって! それから俺にどっか行けって言ったんだ。奴はいちゃついてたんだ!」
皆が本当に分かっているのかどうかを心配するようにジェームスは言い足した。
「わあ、二人が結婚すれば素敵ね!」うっとりしてリリーは囁いた。「そうなったら、テディは本当に家族の一員よ!」
「もう一週間に四回も夕食に来ているからなあ」ハリーに言った。「僕たちの家に引っこしてくるように誘ってみたらどうかな。それで十分じゃないか?」
「そうだな!」ジェームスは熱狂的に言った。「俺はアルと一緒でも構わないな。テディは俺の部屋を使えばいい!」
「だめだ」ハリーはしっかりと言った。
「君とアルは一緒の部屋を使うのは、僕が家を壊したいと望むときだけだ」
彼はかつてフェービアン・プルウェットのものであったぼろぼろの古い腕時計を見た。
「もうすぐ十一時だ。 列車に乗ったほうがいい」
「ネビルに私達の愛を伝えることを忘れないで!」ジニーがジェームスを抱きしめながら言った。
「母さん! 俺には先生を愛を伝えるなんて無理だ!」
「でもあなたはネビルを知ってるでしょう」
ジェームスはぐるぐると目を回した。
「学校の外ではね。でも彼は学校ではロングボトム教授じゃないか? 俺は彼が嫌いじゃないが、薬草学に愛を伝えるなんてできそうもない」
母親の馬鹿馬鹿しい発言に頭がくらくらしたジェームズは、アルバスに蹴りを喰らわせて八つ当たりした。
「じゃ、また後でな、アル。セストラルには気を付けろよ」
「目に見えないんじゃなかったの? 見えないって言ったじゃないか!」
ジェームスはただ笑うと、母親のキスを受け入れて、父親と軽く抱き合った。それから急速に蒸気を充填する機関車に飛び乗った。彼らはジェームスが手を振った後、友人を探そうと廊下の彼方へ全速力で走るのを見た。
「セストラルについては心配する必要はないよ」と、ハリーはアルバスに言った。
「彼らは大人しい生き物さ。怖がることは何もないんだ。とにかく君は馬車で学校に上陸することはないよ、ボートに乗って行くだろう」
ジニーはアルバスにさよならのキスをした。
「クリスマスに会いましょう」
「じゃあね、アル」ハリーは言って、彼の息子を抱きしめた。「ハグリッドが次の金曜にお茶に誘ったのを忘れないで。ピーブズにちょっかいを出さないように。勉強する前から誰かと喧嘩しちゃだめだ。ああそれと、ジェームスを苛立たせないようにね」
「もしぼくがスリザリンだったらどうしよう?」
その呟きは彼の父にだけ向けられたものではなかった。ハリーは、アルバスが出発の直前だからこそ、その恐怖がどれくらいひどく、心からのものであるかを仕方なく明らかにしたことを知っていた。ハリーがかがみ込むと、頭のわずか上にアルバスの顔があった。ハリーの三人の子供のうち、唯一アルバスは(ハリーの母親の)リリーの目を受け継いでいた。
「アルバス・セブルス、」ハリーは静かに――しかしジニーだけには聞こえるように言った。彼女は気を利かせて、今や列車に乗り込んだローズに手を振っているそぶりを見せていた。「君はホグワーツの二人の校長先生の名前を受け継いでいる――一人はスリザリン出身で、僕が知っている限りではたぶんもっとも勇敢な人物だった」
「けどぼくが言いたいのは――」
「――それにスリザリンは優秀な生徒を獲得するだろう? そんなのは些細なことだよ、アル。けれども君にとってそれが切実な問題だというのなら、君にスリザリンの適性があっても、グリフィンドールになれるだろう。組み分け帽子は君の選択を尊重するからね」
「本当に?」
「僕のときはそうだった」ハリーは言った。
彼はそのことを今まで子供に言ったことがなかったので、その言ったとき、アルバスが驚愕の表情を浮べるのを見た。けれども真っ赤な列車のドアがぴしゃりと閉まって行き、ぎりぎりまでお別れのキスをしようと前のほうに集まっている親たちのぼやけた輪郭が見えた。アルバスは列車に飛び乗り、ジニーがその後ろで扉を閉めた。学生たちは窓の近くに群がっていた。列車と駅の両方で、顔という顔がハリーのほうを向いていた。
「どうしてみんな見てるの?」
アルバスは彼とローズを押しのけて首を伸ばそうとする他の学生たちを眺めた。
「心配いらないよ」ロンが言った。「僕を見てるのさ。あまりに有名だからね」
アルバス、ローズ、ヒューゴ、それにリリーが笑った。列車はそこで出発し、ハリーは興奮に顔を輝かせた息子の細い顔を見ながら、その側を歩いた。 ハリーは彼の息子の姿が見えなくなるまで、微笑んで手を振り続けた。それは今生の別れにも似ていた。
蒸気の最後の痕跡は、秋の空気の中で消えていった。列車は角を曲がった。 ハリーの手はまだ見送った体勢のまま、上げられていた。
「彼は大丈夫よ」と、ジニーは呟いた。
ハリーは彼女を見ると、ぼんやりと手を下ろし、稲妻の形をした額の切り傷の跡に触れた。
「分かってるよ」
傷跡は十九年間ハリーに苦痛を与えていなかった。すべてが上手くいっていた。
終わり