J・K・ローリング
ハリー・ポッターと謎のプリンス(下)
目 次
第16章 冷え冷えとしたクリスマス A Very Frosty Christmas
第17章 ナメクジのろのろの記憶 A Sluggish memory
第18章 たまげた誕生日 Birthday Surprises
第19章 しもべ妖精の尾行 Elf Tails
第20章 ヴォルデモート卿の頼み Lord Voldemort's Request
第21章 不可知の部屋 The Unknowable Room
第22章 埋葬のあと After the Burial
第23章 ホークラックス Horcruxes
第24章 セクタムセンプラ Sectumsempra
第25章 盗聴された予見者 The Seer Overheard
第26章 洞窟 The Cave
第27章 稲妻に撃たれた塔 The Lightning-Struck Tower
第28章 プリンスの逃亡 Flight of the Prince
第29章 不死鳥の嘆き The Phoenix Lament
第30章 白い墓 The White Tomb
第16章 冷え冷えとしたクリスマス
A Very Frosty Christmas
「それじゃ、スネイプは援助を申し出ていたのか?スネイプが、本当に、あいつに援助を申し出ていたのか?」
「もう一回おんなじことを聞いたら――」ハリーが言った。
「この芽キャベツを突っ込むぞ。君の――」
「確かめてるだけだよ!」ロンが言った。
二人はウィーズリーおばさんの手伝いで「隠れ穴」の台所の流しの前に立ち、山積みになった芽キャベツの外皮を剥いていた。
目の前の窓の外には雪が舞っている。
「ああ、スネイプはあいつに換助を申し出ていた!」ハリーが言った。
「マルフォイの母親に、あいつを護ると約束したって、『破れぬ約束』とか何とかだって、そう言ってた」
「『破れぬ誓い』?」ロンがドキッとした顔をした。
「まさか、ありえないよ……確かか?」
「ああ、確かだ」ハリーが答えた。
「なんで?その誓いって何だ?」
「えー、『破れぬ誓い』は、破れない……」
「あいにくと、それくらいのことは僕にだってわかるさ。それじゃ、破ったらどうなるんだ?」
「死ぬ」ロンの答えは単純だった。
「僕が五つぐらいのとき、フレッドとジョージが、僕にその誓いをさせようとしたんだ。僕、ほとんど誓いかけてさ、フレッドと手を握り合ったりとかしてたんだよ。そしたらパパがそれを見つけて、めっちゃ怒った」
ロンは、昔を思い出すような遠い目つきをした。
「パパがママみたいに怒るのを見たのは、そのとき一回こっきりだ。フレッドなんか、ケツの左半分がそれ以来なんとなく調子が出ないって言ってる」
「そうか、まあ、フレッドの左っケツは置いといて――」
「何かおっしゃいましたかね?」
フレッドの声がして、双子が台所に入ってきた。
「あぁぁー、ジョージ、見ろよ。こいつらナイフなんぞ使ってるぜ。哀れじゃないか」
「あと二カ月ちょっとで、僕は十七歳だ」ロンが不機嫌に言った。
「そしたら、こんなの、魔法でできるんだ!」
「しかしながら、それまでは――」
ジョージが台所の椅子に座り、テーブルに足を載せながら言った。
「俺たちはこうして高みの見物。君たちが正しいナイフの――ウォットット」
「おまえたちのせいだぞ!」
ロンは血の出た親指を就めながら怒った。
「いまに見てろ。十七歳になったら――」
「きっと、これまでその影すらなかった魔法の技で、俺たちをクラクラさせてくださるだろうよ」
フレッドが欠伸した。
「ところで、ロナルドよ。これまで影すらなかった技と言えば」ジョージが言った。
「ジニーから聞いたが、何事だい?君と若いレディで、名前は――情報に間違いがなければ――ラベンダー・ブラウンとか?」
ロンは微かにピンクに染まったが、芽キャベツに視線を戻したときの顔はまんざらでもなさそうだった。
「関係ないだろ」
「これはスマートな反撃で」フレッドが言った。
「そのスマートさをどう解釈すべきか、途方に暮れるよ。いや、なに、我々が知りたかったのは……どうしてそんなことが起こったんだ?」
「どういう意味だ?」
「その女性は、事故か何かにあったのか?」
「えっ?」
「あー、いかにしてそれほどの脳障害を受けたのか?あ、気をつけろ!」
ウィーズリーおばさんがちょうど台所に入ってきて、ロンが芽キャベツ用のナイフをフレッドに投げつけるところを目撃した。
フレッドは面倒くさそうに杖を振って、それを紙飛行機に変えた。
「ロン!」おばさんがカンカンになった。
「ナイフを投げつけるところなんか、二度と見せないでちょうだい!」
「わかったよ」ロンが言った。
「見つからないようにするさ」
芽キャベツの山のほうに向き直りながら、ロンがちょろりとつけ足した。
「フレッド、ジョージ。リーマスが今晩やってくるの。それで、二人には悪いんだけどね、ビルをあなたたちの部屋に押し込まないと」
「かまわないよ」ジョージが言った。
「それで、チャーリーは帰ってこないから、ハリーとロンが屋根裏部屋。それから、フラーとジニーが一緒の部屋になれば――」
「――そいつぁ、ジニーにとっちゃ、いいクリスマスだぞ――」フレッドが呟いた。
「――それでみんなくつろげるでしょう。まあ、とにかく全員寝るところだけはあるわ」
ウィーズリーおばさんが少し煩わしげに言った。
「じゃあ、パーシーが仏頂面をぶら下げてこないことだけは、確実なんだね?」
フレッドが聞いた。
ウィーズリーおばさんは、答える前に背を向けた。
「ええ、あの子は、きっと忙しいのよ。魔法省で」
「さもなきゃ、世界一の間抜けだ」ウィーズリーおばさんが台所を出ていくときに、フレッドが言った。
「そのどっちかさ。さあ、それじゃ、ジョージ、出かけるとするか」
「二人とも、何するつもりなんだ?」ロンが聞いた。
「芽キャベツ、手伝ってくれないのか?ちょっと杖を使ってくれたら、僕たちも自由になれるぞ!」
「いや、そのようなことは、できませんね」フレッドがまじめな口調で言った。
「魔法を使わずに芽キャベツの剥き方を学習することは、人格形成に役に立つ。マグルやスクイブの苦労を理解できるようになる――」
「――それに、ロン、助けてほしいときには――」
ジョージが紙飛行機をロンに投げ返しながら言い足した。
「ナイフを投げつけたりはしないものだ。後学のために言っておきますがね。俺たちは村に行く。雑貨屋にかわいい娘が働いていて、俺のトランプ手品がすんばらしいと思っているわけだ……まるで魔法みたいだとね……」
「クソ、あいつら」
フレッドとジョージが雪深い中庭を横切って出ていくのを見ながら、ロンが険悪な声で言った。
「あの二人なら十秒もかからないんだぜ。そしたら僕たちも出かけられるのに」
「僕は行けない」ハリーが言った。
「ここにいる間は出歩かないって、ダンブルドアに約束したんだ」
「ああ、そう」ロンが言った。
芽キャベツを二・三個剥いてから、またロンが言った。
「君が聞いたスネイプとマルフォイの言い争いのこと、ダンブルドアに言うつもりか?」
「ウン」ハリーが答えた。
「やめさせることができる人なら、誰にだって言うし、ダンブルドアはその筆頭だからね。君のパパにも、もう一度話をするかもしれない」
「だけど、マルフォイが実際何をやっているのかってことを、聞かなかったのは残念だ」
「開けたはずがないんだ。そうだろ?そこが肝心なんだ。マルフォイはスネイプに話すのを拒んでいたんだから」
二人はしばらく黙り込んだが、やがてロンが言った。
「みんなが何て言うか、もち、君にはわかってるよな?パパもダンブルドアもみんなも?スネイプは、実はマルフォイを助けるつもりがない。ただ、マルフォイの企みを聞き出そうとしただけだって」
「スネイプの言い方を聞いてないからだ」ハリーがピシャリと言った。
「どんな役者だって、たとえスネイプでも、演技でああはできない」
「ああ……一応言ってみただけさ」ロンが言った。
ハリーは顔をしかめてロンを見た。
「だけど、君は、僕が正しいと思ってるだろ?」
「ああ、そうだとも!」ロンが慌てて言った。
「そう思う、ほんと!だけど、みんなは、スネイプが騎士団の団員だって、そう信じてるだろ?」
ハリーは答えなかった。
ハリーの新しい証拠に対して、まっ先にそういう反論が出てきそうだと、ハリーもとうに考えていた。
こんどはハーマイオニーの声が聞こえてきた。
「ハリー、当然、スネイプは、援助を申し出るふりをしたんだわ。何を企んでいるのかマルフォイにしゃべらせようという計略よ……」
しかし、この声はハリーの想像にすぎなかった。
ハーマイオニーには、立ち聞きの内容を教える機会がなかったのだから。
ハリーがスラグホーンのパーティに戻ったときには、ハーマイオニーはとっくにそこから消えていたということを、怒ったマクラーゲンから聞かされた。
談話室にハリーが帰ったときには、ハーマイオニーはもう寮の寝室に戻ってしまっていた。
翌日の朝早くロンと二人で「隠れ穴」に出発するときも、ハーマイオニーに「メリー・クリスマス」と声をかけ、休暇から戻ったら、重要なニュースがあると告げるのがやっとだった。
それでさえ、ハーマイオニーに聞こえていたかどうか、定かにはわからなかった。
ちょうどそのときハリーの後ろで、ロンとラベンダーが、完全に無言のさよならを交わしていたからだ。
それでも、ハーマイオニーでさえ否定できないことが一つある。
マルフォイは絶対に何か企んでいる。そしてスネイプはそれを知っている。
だから、ロンにはもう何度も言った台詞だが、ハリーは、「僕の言ったとおりだろ」と当然言えると思った。
ハリーが、魔法省で長時間仕事をしていたウィーズリーおじさんと話をする機会もないまま、クリスマス・イブがやって来た。
ジニーが豪勢に飾り立てて、紙鎖が爆発したような賑やかな居間に、ウィーズリー一家と来客たちが座っていた。
フレッド、ジョージ、ハリー、ロンの四人だけが、クリスマスツリーのてっぺんに飾られた天使の正体を知っていた。
実は、クリスマス・ディナー用のにんじんを引き抜いていたフレッドの踵に噛みついた、庭小人なのだ。
失神呪文をかけられて金色に塗られた上、ミニチュアのチュチュに押し込まれ、背中に小さな羽根を接着されて上から全員を睨みつけていたが、ジャガイモのようなでかい禿げ頭にかなり毛深い足の姿は、ハリーがこれまで見た中でもっとも醜い天使だった。
大きな木製のラジオから、クリスマス番組で歌う、ウィーズリーおばさんご晶層の歌手、セレスティナ・ワーペックのわななくような歌声が流れていた。
全員がそれを聞いているはずだったが、フラーはセレスティナの歌が退屈だと思ったらしく、隅のほうで大声で話していた。ウィーズリーおばさんは、苦々しい顔で何度も杖をボリュームのつまみに向け、セレスティナの歌声はそのたびに大きくなった。
「大鍋は灼熱の恋に溢れ」のかなり賑やかなジャズの音に隠れて、フレッドとジョージは、ジニーと爆発スナップのゲームを始めた。
ロンは何かヒントになるようなものはないかと、ビルとフラーにちらちら目を走らせていた。
一方、以前より痩せてみすばらしいなりのリーマス・ルーピンは、暖炉のそばに座って、セレスティナの声など聞こえないかのように、じっと炎を見つめていた。
♪ああ、わたしの大網を混ぜてちょうだい
ちゃんと混ぜてちょうだいね
煮えたぎる愛は強烈よ
今夜はあなたを熱くするわ
「十八歳のときに、私たちこの曲で踊ったの!」
編み物で目を拭いながら、ウィーズリーおばさんが言った。
「あなた、憶えてらっしやる?」
「ムフニャ?」
みかんの皮を剥きながら、コックリコックリしていたおじさんが言った。
「ああ、そうだね……すばらしい曲だ……」
おじさんは気を取り直して背筋を伸ばし、隣に座っていたハリーに顔を向けた。
「すまんね」おじさんは、ラジオのほうをぐいと首で指しながら言った。
セレスティナの歌が大コーラスになっていた。
「もうすぐ終わるから」
「大丈夫ですよ」ハリーはニヤッとした。
「魔法省では忙しかったんですか?」
「実に」おじさんが言った。
「実績が上がっているなら忙しくてもかまわんのだがね。この二、三カ月の間に逮捕が三件だが、本物の『死喰い人』が一件でもあったかどうか疑わしい――ハリー、これは他言無用だよ」
おじさんは急に目が覚めたように、急いでつけ加えた。
「まだ、スタン・シャンパイクを拘束してるんじゃないでしょうね?」ハリーが尋ねた。
「残念ながら」おじさんが言った。
「ダンブルドアがスタンのことで、スクリムジョールに直接抗議しようとしたのは知っているんだが……まあ、実際にスタンの面接をした者は全員、スタンが『死喰い人』なら、このみかんだってそうだという意見で一致する……しかし、トップの連中は、何か進展があると見せかけたい。『三件逮捕』と言えば『三件誤逮捕して釈放』より聞こえがいい……くどいようだが、これもまた極秘でね……」
「何にも言いません」ハリーが言った。
しばらくの間、ハリーは考えを整理しながら、どうやって切り出したものかと迷っていた。
セレスティナ・ワーペックが「あなたの魔力がわたしのハートを盗んだ」というバラードを歌い出した。
「ウィーズリーおじさん、学校に出発するとき駅で僕がお話ししたこと、憶えていらっしゃいますね?」
「ハリー、調べてみたよ」おじさんが即座に答えた。
「私が出向いて、マルフォイ宅を捜索した。何も出てこなかった。壊れた物もまともな物含めて、場違いな物は何もなかった
「ええ、知っています。『日刊予言者』で、おじさんが捜索したことを読みました……でも、こんどはちょっと違うんです……そう、別のことです……」
そしてハリーは、立ち聞きしたマルフォイとスネイプの会話の内容を、おじさんにすべて話した。
話しながら、ルーピンが少しこちらを向いて、一言も漏らさずに開いているのに気づいた。
話し終わったとき、沈黙が訪れた。
セレスティナの囁くような歌声だけが聞こえた。
♪ああ、かわいそうなわたしのハート どこへ行ったの?
魔法にかかって わたしを離れたの……
「こうは思わないかね、ハリー」おじさんが言った。
「スネイプはただ、そういうふりを――」
「援助を申し出るふりをして、マルフォイの企みを聞き出そうとした?」ハリーは早口に言った。
「ええ、そうおっしゃるだろうと思いました。でも、僕たちにはどっちだか判断できないでしょう?」
「私たちは判断する必要がないんだ」
ルーピンが意外なことを言った。
ルーピンは、こんどは暖炉に背を向けて、おじさんを挟んでハリーと向かい合っていた。
「それはダンブルドアの役目だ。ダンブルドアがセブルスを信用している。それだけで我々にとっては十分なのだ」
「でも」
ハリーが言った。
「たとえば――たとえばだけど、スネイプのことでダンブルドアが間違っていたら――」「みんなそう言った。何度もね。結局、ダンブルドアの判断を信じるかどうかだ。私は信じる。だから私はセブルスを信じる」
「でも、ダンブルドアだって、間違いはある」ハリーが言い募った。
「ダンブルドア自身がそう言った。それに、ルーピンは――」
ハリーはまっすぐにルーピンの目を見つめた。
「――ほんとのこと言って、スネイプが好きなの?」
「セブルスが好きなわけでも嫌いなわけでもない」ルーピンが言った。
「いや、ハリー、これは本当のことだよ」
ハリーが疑わしげな顔をしたので、ルーピンが言葉をつけ加えた。
「ジェームズ、シリウス、セブルスの問に、あれだけいろいろなことがあった以上、おそらく決して親友にはなれないだろう。あまりに苦々しさが残る。しかし、ホグワーツで教えた一年間のことを、私は忘れていない。セブルスは毎月、トリカブト系の脱狼薬を煎じてくれた。完壁に。おかげで私は、満月のときのいつもの苦しみを味わわずにすんだ」
「だけどあいつ、ルーピンが狼人間だって『偶然』漏らして、ルーピンが学校を去らなければならないようにしたんだ!」ハリーは憤慨して言った。
ルーピンは肩をすくめた。
「どうせ漏れることだった。セブルスが私の職を欲っしていたことは確かだが、薬に細工すれば、私にもっとひどいダメージを与えることもできた。スネイプは私を健全に保ってくれた。それには感謝すべきだ」
「きっと、ダンブルドアの眼が光っているところで薬に細工するなんて、できやしなかったんだ!」ハリーが言った。
「君はあくまでもセブルスを憎みたいんだね、ハリー」ルーピンは微かに笑みを漏らした。
「私には理解できる。父親がジェームズで、名付け親がシリウスなのだから、君は古い偏見を受け継いでいるわけだ。もちろん君は、アーサーや私に話したことを、ダンブルドアに話せばいい。ただ、ダンブルドアが君と同じ意見を持つと期待はしないことだね。それに、君の話を聞いてダンブルドアが驚くだろうという期待も持たないことだ。セブルスはダンブルドアの命を受けて、ドラコに質問したのかもしれない」
♪……あなたが裂いた わたしのハートを
返して、返して、わたしのハートを!
セレスティナは甲高い音を長々と引き伸ばして歌い終え、ラジオから割れるような拍手が聞こえてきた。
ウィーズリーおばさんも夢中で拍手した。
「終わりましたか?」フラーが大きな声で言った。
「ああ、よかった。なんていどい――!」
「それじゃ、寝酒に一杯飲もうか?」ウィーズリーおじさんが声を張り上げてそう言いながら、勢いよく立ち上がった。
「エッグ!ッグがほしい入り」
「最近は何をしてるの?」
おじさんが急いでエッグ!ッグを取りにいき、みんなが伸びをしておしゃべりを始めたので、ハリーはルーピンに聞いた。
「ああ、地下に潜っている」ルーピンが言った。
「ほとんど文字どおりね。だから、ハリー、手紙が書けなかったんだ。君に手紙を出すこと自体、正体をばらすことになる」
「どういうこと?」
「仲間と一緒に棲んでいる。同類とね」ルーピンが言った。
ハリーがわからないような顔をしたので、ルーピンが「狼人間とだ」とつけ加えた。
「ほとんど全員がヴォルデモート側でね。ダンブルドアがスパイを必要としていたし、わたしは……お誂え向きだった」
声に少し皮肉な響きがあった。
自分でもそれに気づいたのか、ルーピンはやや温かく微笑みながら言葉を続けた。
「不平を言っているわけではないんだよ。必要な仕事だし、私ほどその仕事にふさわしい者はいないだろう?ただ、連中の信用を得るのは難しい。私が魔法使いのただ中で生きようとしてきたことは、まあ、隠しようもない。ところが連中は通常の社会を避け、周辺で生きてきた。盗んだり――ときには殺したり――食っていくためにね」
「どうして連中はヴォルデモートが好きなの?」
「あの人の支配なら、自分たちは、もっとましな生活ができると考えている」
ルーピンが言った。
「グレイバックがいるかぎり、論駁するのは難しい」
「グレイバックって、誰?」
「聞いたことがないのか?」
ルーピンは、発作的に膝の上で拳を握りしめた。
「フェンリール・グレイバックは、現在生きている狼人間の中で、おそらくもっとも残忍なやつだ。できるだけ多くの人間を咬み、汚染することを自分の使命だと考えている。魔法使いを打ち負かすのに十分な数の狼人間を作り出したいというわけだ。ヴォルデモートは、自分に仕えれば代わりに獲物を与えると約束した。グレイバックは子ども専門でね……若いうちに咬め、とやつは言う。そして親から引き離して育て、普通の魔法使いを憎むように育て上げる。ヴォルデモートは、息子や娘たちをグレイバックに襲わせるぞ、と言って魔法使いたちを脅した。そういう脅しは通常効き目があるものだ」
ルーピンは、一瞬、間を置いて言葉を続けた。
「私を咬んだのはグレイバックだ」
「えっ?」ハリーは驚いた。
「それ――それじゃ、ルーピンが子どもだったときなの?」
「そうだ。父がグレイバックを怒らせてね。私を襲った狼人間が誰なのか、私は長いこと知らなかった。変身するのがどんな気持なのかがわかってからは、きっと自分を御しきれなかったのだろうと、その狼人間を哀れにさえ思ったものだ。しかし、グレイバックは違う。満月のの夜、やつは確実に襲えるようにと、獲物の近くに身を置く。すべて計画的なのだ。そして、ヴォルデモートが狼人間を操るのに使っているのが、この男なのだ。虚勢を張ってもしかたがないから言うが、グレイバックが、狼人間は人の血を流す権利があり、普通のやつらに復讐しなければならないと力説する前で、私流の理性的な議論など大して力がないんだ」
「でも、ルーピンは普通の魔法使いだ!」ハリーは激しい口調で言った。
「ただ、ちょっと――問題を抱えているだけだ」
ルーピンが突然笑い出した。
「君のおかげで、ずいぶんとジェームズのことを思い出すよ。周りに誰かがいると、ジェームズは、私が『ふわふわした小さな問題』を抱えていると言ったものだ。私が行儀の悪い兎でも飼っているのだろうと思った人が大勢いたよ」
ルーピンは、ありがとうと言って、ウィーズリーおじさんからエッグ!ッグのグラスを受け取り、少し元気が出たように見えた。
一方ハリーは、急に興奮を感じた。
父親のことが話題に出たとたん、以前からルーピンに聞きたいことがあったのを思い出したのだ。
「『半純血のプリンス』って呼ばれていた人のこと、聞いたことがある?」
「『半純血の』何だって?」
「『プリンス』だよ」
思い当たったような様子はないかと、ルーピンをじっと見つめながら、ハリーが言った。
「魔法界に王子はいない」ルーピンが微笑みながら言った。
「そういう肩書きをつけようと思っているのかい?『選ばれし者』で十分だと思ったが?」
「僕とは何の関係もないよ!」ハリーは憤慨した。
「『半純血のプリンス』というのは、ホグワーツにいたことのある誰かで、その人の古い魔法薬の教科書を、僕が持っているんだ。それにびっしり呪文が書き込んであって、その人が自分で発明した呪文なんだ。呪文の一つが『レビコーパス、身体浮上』――」
「ああ、その呪文は私の学生時代に大流行だった」ルーピンが思い出に耽るように言った。
「五年生のとき、二、三カ月の間、ちょっと動くとたちまち裸から吊り下げられてしまうような時期があった」
「父さんがそれを使った」ハリーが言った。
「『憂いの篩』で、父さんが、スネイプにその呪文を使うのを見たよ」
ハリーは、大して意味のない、さりげない言葉に聞こえるよう気楽に言おうとしたが、そういう効果が出たかどうか自信がなかった。
ルーピンは、すべてお見通しのような微笑み方をした。
「そうだね」ルーピンが言った。
「しかし、君の父さんだけじゃない。いま言ったように、大流行していた……呪文にも流行り廃りがあるものだ……」
「でも、その呪文は、ルーピンの学生時代に発明されたものみたいなんだけど」ハリーが食い下がった。
「そうとはかぎらない」ルーピンが言った。
「呪文もほかのものと同じで、流行がある」
ルーピンはハリーの顔をじっと見てから、静かに言った。
「ハリー、ジェームズは純血だったよ。それに、君に請け合うが、私たちに『プリンス』と呼ばせたことはない」ハリーは遠回しな言い方をやめた。
「それじゃ、シリウスはどう?もしかしてルーピンじゃない?」
「絶対に違う」
「そう」ハリーは暖炉の火を見つめた。
「もしかしたらって思ったんだ――あのね、魔法薬のクラスで、僕、ずいぶん助けられたんだ。そのプリンスに」
「ハリー、どのくらい古い本なんだね?」
「さあ、調べたことがない」
「うん、そのプリンスがいつごろホグワーツにいたのか、それでヒントがつかめるかもしれないよ」
ルーピンが言った。
それからしばらくして、フラーがセレスティナの「大鍋は灼熱の恋に溢れ」の歌い方をまねしはじめた。
それが合図になり、全員がウィーズリーおばさんの表情をちらりと見たとたん、もう寝る時間が来たと悟った。
ハリーとロンは、いちばん上にある屋根裏部屋のロンの寝室まで上っていった。
そこには、ハリーのために簡易ベッドが準備されていた。
ロンはほとんどすぐ眠り込んだが、ハリーは、ベッドに入る前にトランクの中を探って「上級魔法薬」の本を引っぱり出した。
あっちこっちページをめくって、ハリーは結局、最初のページにある発行日を見つけた。
五十年ほど前だ。
ハリーの父親もその友達も、五十年前にはホグワーツにいなかった。
ハリーはがっかりして、本をトランクに投げ返し、ランプを消して横になった。
狼人間、スネイプ、スタン・シャンパイク、「半純血のプリンス」などのことを考えながら、やっと眠りに落ちたものの、夢にうなされた。
這いずり回る黒い影、咬まれた子どもの泣き声……。
「あいつ、何を考えてるんだか……」
ハリーはビクッと目を覚ました。
ベッドの端に膨れた靴下が置いてあるのが見えた。
メガネをかけて振り向くと、小さな窓はほとんど一面、雪で覆われ、窓の前のベッドには上半身を直角に起こしたロンがいた。
太い金銀のような物を、まじまじと眺めている。
「それ、何だい?」ハリーが開いた。
「ラベンダーから」ロンはむかついたように言った。
「こんな物、僕が使うと、あいつ本気でそう……」
目を凝らしてよく見たとたん、ハリーは大声で笑い出した。
鎖から大きな金文字がぶら下がっている。
(私の)……(愛しい)……(人)
「いいねえ」ハリーが言った。
「粋だよ。絶対首にかけるべきだ。フレッドとジョージの前で」
「あいつらに言ったら――」
ロンはペンダントを枕の下に突っ込み、見えないようにした。
「僕――僕――僕は――」
「言葉がつっかえる?」ハリーはニヤニヤした。
「バカなこと言うなよ。僕が言いつけると思うか?」
「だけどさ、僕がこんなものがほしいなんて、なんでそんなこと考えつくんだ?」
ロンはショック顔で、独り言のように疑問をぶつけた。
「よく思い出してみろよ」ハリーが言った。
「うっかりそんなことを言わなかったか?『私の愛しいひと』っていう文字を首からぶら下げて人前に出たい、なんてさ」
「んー……僕たちあんまり話をしないんだ」ロンが言った。
「だいたいが……」
「イチャイチャしてる」ハリーが引き取って言った。
「ああ、まあね」そう答えてから、ロンはちょっと迷いながら言った。
「ハーマイオニーは、ほんとにマクラーゲンとつき合ってるのか?」
「さあね」ハリーが言った。
「スラグホーンのパーティで二人一緒だったけど、そんなに上手くいかなかったと思うな」
ロンは少し元気になって、靴下の奥のほうを探った。
ハリーのもらった物は、大きな金のスニッチが前に編み込んである、
ウィーズリーおばさんの手編みセーター、双子からウィーズリー・ウィザード・ウィーズの商品が入った大きな箱、それに、ちょっと湿っぽくてかび臭い包みのラベルには、「ご主人様へクリーチャーより」と書いてある。
ハリーは目を見張った。
「これ、開けても大丈夫かな?」ハリーが聞いた。
「危険な物じゃないだろ。郵便はまだ全部、魔法省が調べてるから」
そう答えながら、ロンは怪しいぞという目で包みを見ていた。
「僕、クリーチャーに何かやるなんて、考えつかなかった!普通、屋激しもべ妖精にクリスマス・プレゼントするものなのか?」ハリーは包みを慎重に突つきながら聞いた。
「ハーマイオニーならね」ロンが言った。
「だけど、まず見てみろよ。反省はそれからだ」
次の瞬間、ハリーは叫び声を上げて簡易ベッドから飛び降りた。
包みの中には、岨虫がごっそり入っていた。
「いいねえ」ロンは大声で笑った。
「思いやりがあるよ」
「ペンダントよりはましだろ」ハリーの一言で、ロンはたちまち興ざめした。
クリスマス・ランチの席に着いた全員が――フラーとおばさん以外は――新しいセーターを着ていた(ウィーズリーおばさんは、どうやら、フラーのために一着ムダにする気はなかったらしい)。
おばさんは、小さな星のように輝くダイヤがちりばめられた、濃紺の真新しい三角帽子をかぶり、見事な金のネックレスを着けていた。
「フレッドとジョージがくれたの!きれいでしょう?」
「ああ、ママ、俺たちますますママに感謝してるんだ。なんせ、自分たちでソックスを洗わなくちゃなんねえもんな」
ジョージが、気楽に手を振りながら言った。
「リーマス、パースニップはどうだい?」
「ハリー、髪の毛に岨虫がついてるわよ」
ジニーが愉快そうにそう言いながら、テーブルの向こうから身を乗り出して岨虫を取った。
ハリーは首に鳥肌が立つのを感じたが、それは阻虫とは何の関係もなかった。
「ああ、いどいわ」フラーは気取って小さく肩をすぼめながら言った。
「ほんとにひどいよね?」ロンが言った。
「フラー、ソースはいかが?」
フラーの皿にソースをかけてやろうと意気込みすぎて、ロンはソース入れを叩き飛ばしてしまった。
ビルが杖を振ると、ソースは宙に浮き上がり、おとなしくソース入れに戻った。
「あなたはあのトンクスと同じでーす」
ビルにお礼のキスをしたあと、フラーがロンに言った。
「あのいと、いつもぶつかって――」
「あのかわいいトンクスを、今日招待したのだけどー」
ウィーズリーおばさんは、やけに力を入れてにんじんをテーブルに置きながら、フラーを睨みつけた。
「でも来ないのよ。リーマス、最近あの娘と話をした?」
「いや、私は誰ともあまり接触していない」ルーピンが答えた。
「しかし、トンクスは一緒に過ごす家族がいるのじゃないか?」
「フムムム」おばさんが言った。
「そうかもしれないわ。でも、私は、あの娘が一人でクリスマスを過ごすつもりだという気がしてましたけどね」
おばさんは、トンクスでなく、フラーが嫁に来るのはルーピンのせいだとでも言うように、ちょっと怒った目つきでルーピンを見た。
しかし、テーブルの向こうで、フラーが自分のフォークでビルに七面鳥肉を食べさせているのをちらりと見たハリーは、おばさんがとっくに勝ち目のなくなった戦いを挑んでいると思った。
同時に、トンクスに関して開きたいことがあったのを、ハリーは思い出した。
守護霊のことは何でも知っているルーピンこそ、聞くには持ってこいじゃないか。「トンクスの守護霊の形が変化したんだ」ハリーがルーピンに話しかけた。
「少なくとも、スネイプがそう言ってたよ。そんなことが起こるとは知らなかったな。守護霊は、どうして変わるの?」
ルーピンは七面鳥をゆっくりと噛んで飲み込んでから、考え込むように話した。
「ときにはだがね……強い衝撃とか……精神的な動揺とか……」
「大きかった。脚が四本あった」
ハリーは急にあることを思いついて愕然とし、声を落として言った。
「あれっ……もしかしてあれは――?」
「アーサー!」
ウィーズリーおばさんが突然声を上げた。
椅子から立ち上がり、胸に手を当てて、台所の窓から外を見つめている。
「あなた――パーシーだわ!」
「なんだって?」
ウィーズリーおじさんが振り返った。
全員が急いで窓に目を向け、ジニーはよく見ようと立ち上がった。
たしかに、そこにパーシー・ウィーズリーの姿があった。
雪の積もった中庭を、角縁メガネを陽の光でキラキラさせながら、大股でやって来る。
しかし、一人ではなかった。
「アーサー、大臣と一緒だわ!」
そのとおりだった。
ハリーが「日刊予言者新聞」で見た顔が、少し足を引きずりながら、パーシーのあとを歩いてくる。
白髪交じりのたてがみのような髪にも、黒いマントにも雪があちこちについている。
誰も口をきかず、おじさんとおばさんが雷に撃たれたように顔を見合わせたとたん、裏口の戸が開き、パーシーがそこに立っていた。
沈黙に痛みが走った。
そして、パーシーが硬い声で挨拶した。
「お母さん、メリー・クリスマス」
「ああ、パーシー!」ウィーズリーおばさんはパーシーの腕の中に飛び込んだ。
ルーファス・スクリムジョールは、ステッキにすがって戸口に佇み、微笑みながらこの心温まる情景を眺めていた。
「突然お邪魔しまして、申しわけありません」
ウィーズリーおばさんが目をこすりながらニッコリと振り返ったとき、大臣が言った。
「パーシーと二人で近くまで参りましてね――ええ、仕事ですよ――すると、パーシーが、どうしても立ち寄って、みんなに会いたいと言い出しましてね」
しかし、パーシーは、家族のほかの者に挨拶したい様子など微塵も見せなかった。
背中に定規を当てたように突っ立ったまま、気詰まりな様子で、みんなの頭の上のほうを見つめていた。
ウィーズリーおじさん、フレッド、ジョージの三人は、硬い表情でパーシーを眺めていた。
「どうぞ、大臣、中へお入りになって、お座りください!」
ウィーズリーおばさんは帽子を直しながら、そわそわした。
「どうぞ、召し上がってくださいな。八面鳥とか、プディンゴとか……えーと――」
「いや、いや、モリーさん」スクリムジョールが言った。
ここに来る前に、パーシーからおばさんの名前を聞き出していたのだろうと、ハリーは推測した。
「お邪魔したくありませんのでね。パーシーが、みなさんにどうしても会いたいと騒がなければ、来ることはなかったのですが……」
「ああ、パース!」ウィーズリーおばさんは涙声になり、背伸びしてパーシーにキスした。
「……ほんの五分ほどお寄りしただけです。みなさんがパーシーと積もる話をなさっている間に、私は庭を散歩していますよ。いや、いや、本当にお邪魔したくありません!さて、どなたかこのきれいな庭を案内してくださいませんかね……ああ、そちらのお若い方は食事を終えられたようで、ご一緒に散歩はいかがですか?」
食卓の周りの雰岡気が、見る見る変わった。
全員の眼が、スクリムジョールからハリーへと移った。
スクリムジョールがハリーの名前を知らないふりをしても、誰も信じなかったし、ハリーが大臣の散歩のお供に選ばれたのも、ジニーやフラー、ジョージの皿も空っぽだったことを考えると不自然だった。
「ええ、いいですよ」沈黙のまっただ中で、ハリーが言った。
ハリーは騙されてはいなかった。
スクリムジョールが、たまたま近くまで来たとか、パーシーが家族に会いたがったとか、いろいろ言っても、二人がやって来た本当の理由はこれに違いない。
スクリムジョールは、ハリーと差しで話したかったのだ。
「大丈夫」
椅子から腰を半分浮かしていたルーピンのそばを通りながら、ハリーが言った。
「大丈夫」
ウィーズリーおじさんが何か言いかけたので、ハリーはまた言った。
「結構!」
スクリムジョールは身を引いてハリーを先に通し、裏口の戸から外に山した。
「庭を一回りして、それからパーシーと私はお暇します。どうぞみなさん、続けてください!」
ハリーは中庭を横切り、雪に覆われた草ボウボウのウィーズリー家の庭に向かった。
スクリリムジョールは足を少し引きずりながら並んで歩いた。
この人が、闇祓い局の局長だったことを、ハリーは知っていた。
頑健で歴戦の傷痕があるように見え、山高帽を持った肥満体のファッジとは違っていた。
「きれいだ」
庭の垣根のところで立ち止まり、雪に覆われた芝生や、何だかわからない草木を見渡しながら、スクリムジョールが言った。
「きれいだ」ハリーは何も言わなかった。
スクリムジョールが自分を見ているのはわかっていた。
「ずいぶん前から君に会いたかった」しばらくしてスクリムジョールが言った。
「そのことを知っていたかね?」
「いいえ」ハリーは本当のことを言った。
「実はそうなのだよ。ずいぶん前から。しかし、ダンブルドアが君をしっかり保護していてね」スクリムジョールが言った。
「当然だ。もちろん、当然だ。君はこれまでいろいろな目に遭ってきたし……とくに魔法省での出来事のあとだ……」
スクリムジョールはハリーが何か言うのを待っていたが、ハリーがその期待に応えなかったので、話を続けた。
「大臣職に就いて以来ずっと、君と話をする機会を望んでいたのだが、ダンブルドアが、いま言ったように、事情はよくわかるのだがそれを妨げていた」
ハリーはそれでも何も言わず、待っていた。
「噂が飛び交っている!」スクリムジョールが言った。
「まあ、当然、こういう話には尾ひれがつくものだということは君も私も知っている……予言の囁きだとか……君が『選ばれし者』だとか……」
話が核心に近づいてきた、とハリーは思った。スクリムジョールがここに来た理由だ。
「……ダンブルドアはこういうことについて、君と話し合ったのだろうね?」
嘘をつくべきかどうか、ハリーは慎重に考えた。
花壇のあちこちに残っている庭小人の小さな足跡や、踏みつけられた庭の一角に目をやった。
クリスマスツリーのてっぺんでチュチュを着ている庭小人を、フレッドが捕まえた場所だ。
しばらくして、ハリーは本当のことを言おうと決めた……またはその一部を。
「ええ、話し合いました」
「そうか、そうか……」
そう言いながら、スクリムジョールが探るように目を細めてハリーを見ているのを、ハリーは目の端で捕らえた。
そこでハリーは、凍った石楠花の下から頭を突き出した庭小人に興味を持ったふりをした。
「それで、ハリー、ダンブルドアは君に何を話したのかね?」
「すみませんが、それは二人だけの話です」ハリーが言った。
ハリーはできるだけ心地よい声で話そうとしたし、スクリムジョールも軽い、親しげな調子でこう言った。
「ああ、もちろんだ。秘密なら、君に明かしてほしいとは思わない……いや、いや……それに、いずれにしても、君が『選ばれし者』であろうとなかろうと、大した問題ではないだろう?」
ハリーは答える前に、一瞬考え込まなければならなかった。
「大臣、おっしゃっていることがよくわかりません」
「まあ、もちろん、君にとっては、大した問題だろうがね」
スクリムジョールが笑いながら言った。
「しかし魔法界全体にとっては……すべて認識の問題だろう?重要なのは、人々が何を信じるかだ」
ハリーは無言だった。
話がどこに向かっているか、ハリーはうっすらと先が見えたような気がした。
しかし、スクリムジョールがそこにたどり着くのを助けるつもりはなかった。
石楠花の下の庭小人が、ミミズを探して根元を掘りはじめた。
ハリーはそこから目を離さなかった。
「人々は、まあ、君が本当に『選ばれし者』だと信じている」
スクリムジョールが言った。
「君がまさに英雄だと思っている――それは、もちろん、ハリー、そのとおりだ。選ばれていようがいなかろうが!『名前を言ってはいけないあの人』と、いったい君は何度対決しただろう?まあ、とにかく――」スクリムジョールは返事を待たずに先に進めた。
「要するに、ハリー、君は多くの人にとって、希望の象徴なのだ。『名前を言ってはいけないあの人』を破滅させることができるかもしれない誰かが、そう運命づけられているかもしれない誰かがいるということが――まあ、当然だが、人々を元気づける。そして、君がいったんそのことに気づけば、魔法省と協力して、人々の気持ちを高揚させることが、君の、そう、ほとんど義務だと考えるようになるだろうと、私はそう思わざるをえない」
庭小人がミミズを一匹、なんとか捕まえたところだった。
凍った土からミミズを抜き出そうと、こんどは力一杯引っぱっていた。
ハリーがあんまり長い時間黙っているので、スクリムジョールはハリーから庭小人に視線を移しながら言った。
「ちんちくりんな生き物だね?ところで、ハリー、どうかね?」
「何がお望みなのか、僕にはよくわかりません」ハリーが考えながら言った。
「『魔法省と協力』……どういう意味ですか?」
「ああ、いや、大したことではない。約束する」スクリムジョールが言った。
「たとえば、ときどき魔法省に出入りする姿を見せてくれれば、それがちゃんとした印象を与えてくれる。それにもちろん、魔法省にいる間は、私の後任として『闇祓い局』の局長になったガウェイン・ロバーズと十分話をする機会があるだろう。ドローレス・アンブリッジが、君が闇祓いになりたいという志を抱いていると話してくれた。そう、それは簡単に何とかできるだろう……」
ハリーは、腸の奥から沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。
すると、ドローレス・アンブリッジは、まだ魔法省にいるってことなのか?
「それじゃ、要するに」
ハリーは、いくつかはっきりさせたい点があるだけだという言い方をした。
「僕が魔法省のために仕事をしている、という印象を与えたいわけですね?」
「ハリー、君がより深く関与していると思うことで、みんなの気持ちが高揚する」
スクリムジョールは、ハリーの飲み込みのよさにほっとしたような口調だった。
「『選ばれし者』、というわけだ……人々に希望を与え、何か興奮するようなことが起こっていると感じさせる、それだけなんだよ」
「でも、もし僕が魔法省にしょっちゅう出入りしていたら――」
ハリーは親しげな声を保とうと努力しながら言った。
「魔法省のやろうとしていることを、僕が認めているかのように見えませんか?」
「まあ」スクリムジョールがちょっと顔をしかめた。
「まあ、そうだ。それも一つには我々の望むことで――」
「うまくいくとは思えませんね」
ハリーは愛想よく言った。
「というのも、魔法省がやっていることで、僕の気に入らないことがいくつかあります。たとえばスタン・シャンパイクを監獄に入れるとか」
スクリムジョールは一瞬、何も言わなかったが、表情がさっと硬くなった。
「君に理解してもらおうとは思わない」
スクリムジョールの声は、ハリーほど上手く怒りを隠しきれていなかった。
「いまは危険なときだ。何らかの措置を取る必要がある。君はまだ十六歳で――」
「ダンブルドアは十六歳よりずっと歳を取っていますが、スタンをアズカバンに送るべきではないと考えています」ハリーが言った。
「あなたはスタンを犠牲者に仕立て上げ、僕をマスコットに祭り上げようとしている」
二人は長いこと火花を散らして見つめ合った。
やがてスクリムジョールが、温かさの仮面をかなぐり捨てて言った。
「そうか。君はむしろ――君の英雄ダンブルドアと同じに――魔法省から分離するほうを選ぶわけだな?」
「僕は利用されたくない」ハリーが言った。
「魔法省に利用されるのは、君の義務だという者もいるだろう!」
「ああ、監獄にぶち込む前に、本当に死喰い人なのかどうかを調べるのが、あなたの義務だという人もいるかもしれない」
ハリーはしだいに怒りが募ってきた。
「あなたは、パーティ・クラウチと同じことをやっている。あなたたちは、いつもやり方を間違える。そういう人種なんだ。違いますか?目と鼻の先で人が殺されていても、ファッジみたいにすべてがうまくいっているふりをするかと思えば、こんどはあなたみたいに、お門違いの人間を牢に放り込んで、『選ばれし者』が自分のために働いているように見せかけようとする!」
「それでは、君は『選ばれし者』ではないのか?」
「どっちにしろ大した問題ではないと、あなた自身が言ったでしょう?」
ハリーは皮肉に笑った。
「どっちにしろ、あなたにとっては問題じゃないんだ」
「失言だった」スクリムジョールが急いで言った。
「まずい言い方だった」
「いいえ、正直な言い方でした」ハリーが言った。
「あなたが僕に言ったことで、それだけが正直な言葉だった。僕が死のうが生きようが、あなたは気にしない。ただ、あなたは、ヴォルデモートとの戦いに勝っている、という印象をみんなに与えるために、僕が手伝うかどうかだけを気にしている。大臣、僕は忘れちゃいない……」
ハリーは右手の拳を挙げた。
そこに、冷たい手の甲に白々と光る傷痕は、ドローレス・アンブリッジが無理やりハリーに、ハリー自身の肉に刻ませた文字だった。
――僕は、嘘をついてはいけない――
「ヴォルデモートの復活を、僕がみんなに教えようとしていたときに、あなたたちが僕を護りに駆けつけてくれたという記憶はありません。魔法省は去年、こんなに熱心に僕にすり寄ってこなかった」
二人は黙って立ち尽くしていた。
足下の地面と同じくらい冷たい沈黙だった。
庭小人はようやっとミミズを引っぱり出し、石楠花の茂みのいちばん下の枝に寄りかかり、うれしそうにしゃぶり出した。
「ダンブルドアは何を企んでいる?」
スクリムジョールがぶっきらぼうに言った。
「ホグワーツを留守にして、どこに出かけているのだ?」
「知りません」ハリーが言った。
「知っていても私には言わないだろうな」スクリムジョールが言った。
「違うかね?」
「ええ、言わないでしょうね」ハリーが言った。
「さて、それなら、ほかの手立てで探ってみるしかないということだ」
「やってみたらいいでしょう」ハリーは冷淡に言った。
「ただ、あなたはファッジより賢そうだから、ファッジの過ちから学んだはずでしょう。ファッジはホグワーツに干渉しようとした。お気づきでしょうが、ファッジはもう大臣じゃない。でもダンブルドアはまだ校長のままです。ダンブルドアには手出しをしないほうがいいですよ」
長い沈黙が流れた。
「なるほど、ダンブルドアが君を上手く仕込んだということが、はっきりわかった」
細線メガネの奥で、スクリムジョールの目は冷たく険悪だった。
「骨の髄までダンブルドアに忠実だな、ポッター、え?」
「ええ、そのとおりです」ハリーが言った。
「はっきりしてよかった」
そしてハリーは魔法大臣に背を向け、家に向かって大股に歩き出した。
第17章 ナメクジのろのろの記憶
A Sluggish memory
年が明けて数日が経ったある日の午後、ハリー、ロン、ジニーはホグワーツに帰るために台所の暖炉の前に並んでいた。
魔法省が今回だけ、生徒を安全、迅速に学校に帰すための煙突、飛行ネットワークを開通させていた。
ウィーズリーおじさん、フレッド、ジョージ、ビル、フラーはそれぞれ仕事があったので、ウィーズリーおばさんだけがさよならを言うために立ち合った。
別れの時間が来ると、おばさんが泣き出した。
もっとも近ごろは涙もろくなっていて、クリスマスの日にパーシーが、すりつぶしたパースニップをメガネに投げつけられて(フレッド、ジョージ、ジニーがそれぞれに自分たちの手柄だと主張していたが)、鼻息も荒く家から出ていって以来、おばさんはたびたび泣いていた。
「泣かないで、ママ」
肩にもたれてすすり泣く母親の背中を、ジニーは優しく叩いた。
「大丈夫だから……」
「そうだよ。僕たちのことは心配しないで」
頬に母親の涙ながらのキスを受け入れながら、ロンが言った。
「それに、パーシーのことも。あいつはほんとにバカヤロだ。いなくたっていいだろ?」
ウィーズリーおばさんは、ハリーを両腕に掻き抱きながら、ますます激しくすすり泣いた。
「気をつけるって、約束してちょうだい……危ないことをしないって……」
「おばさん、僕、いつだってそうしてるよ」ハリーが言った。
「静かな生活が好きだもの。おばさん、僕のことわかってるでしょう?」
おばさんは涙に濡れた顔でクスクス笑い、ハリーから離れた。
「それじゃ、みんな、いい子にするのよ……」
ハリーはエメラルド色の炎に入り、「ホグワーツ!」と叫んだ。
ウィーズリー家の台所と、おばさんの涙顔が最後にちらりと見え、やがて炎がハリーを包んだ。
急回転しながら、ほかの魔法使いの家の部屋がぼやけて垣間見えたが、しっかり見る間もなくたちまち視界から消えていった。
やがて回転の速度が落ちて、最後はマクゴナガル先生の部屋の暖炉でピッタリ停止した。
ハリーが火格子から這い出したとき、先生はちょっと仕事から目を上げただけだった。
「こんばんは、ポッター。カーペットにあまり灰を落とさないようにしなさい」
「はい、先生」
ハリーがメガネをかけ直し、髪を撫でつけていると、ロンのくるくる回る姿が見えた。
ジニーも到着し、三人並んでぞろぞろとマクゴナガル先生の事務所を出て、グリフィンドール塔に向かった。
廊下を歩きながら、ハリーが窓から外を覗くと、「隠れ穴」の庭より深い雪に覆われた校庭の向こうに、太陽がすでに沈みかけていた。
ハグリッドが小屋の前でバックピークに餌をやっている姿が、遠くに見えた。
「ボーブル玉飾り」
「太った婦人」にたどり着き、ロンが自信たっぷり合言葉を唱えた。
婦人はいつもより顔色が優れず、ロンの大声でピタッとした。
「いいえ」婦人が言った。
「『いいえ』って、どういうこと?」
「新しい合言葉があります。それに、お願いだから、叫ばないで」
「だって、ずっといなかったのに、知るわけが――?」
「ハリー、ジニー!」
ハーマイオニーが急いでやってくるところだった。
頬をピンク色にして、オーバー、帽子、手袋に身を固めていた。
「二時間ぐらい前に帰ってきたの。いま訪ねてきたところよ。ハグリッドとバック――ウィザウィングズを」
ハーマイオニーは息を弾ませながら言った。
「楽しいクリスマスだった?」
「ああ」ロンが即座に答えた。
「いろいろあったぜ。ルーファス・スクリム――」
「ハリー、あなたに渡すものがあるわ」
ハーマイオニーはロンには目もくれず、聞こえた素振りも見せなかった。
「あ、ちょっと待って――合言葉ね。せっせい」
「そのとおり」
「太った婦人」は弱々しい声でそう言うと、抜け穴の扉をパッと開けた。
「何かあったのかな?」ハリーが聞いた。
「どうやらクリスマスに不節制をしたみたいね」
ハーマイオニーは、先に立って混み合った談話室に入りながら、呆れ顔で目をグリグリさせた。
「お友達のバイオレットと二人で、呪文学の教室のそばの『酔っ払い修道士たち』の絵にあるワインを、クリスマスの問に全部飲んじゃったの。それはそうと……」
ハーマイオニーはちょっとポケットを探って、羊皮紙の巻紙を取り出した。
ダンブルドアの字が書いてある。
「よかった」ハリーはすぐに巻紙を開いた。
ダンブルドアの次の授業の予定が、翌日の夜だと書いてあった。
「ダンブルドアに話すことが山ほどあるんだ――それに、君にも。腰掛けようか――」
「ウォン・ウォン!」と甲高く叫ぶ声がして、ラベンダー・ブラウンがどこからともなく矢のように飛んできたかと思うと、ロンの腕に飛び込んだ。
見ていた何人かの生徒が冷やかし笑いをした。
ハーマイオニーはコロコロ笑い、「あそこにテーブルがあるわ……ジニー、来る?」と言った。
「ううん。ディーンと会う約束をしたから」ジニーが言った。
しかしハリーはふと、ジニーの声があまり乗り気ではないのに気づいた。
ロンとラベンダーが、レスリング試合よろしく立ったままロックをかけ合っているのをあとに残し、ハリーは空いているテーブルにハーマイオニーを連れていった。
「それで、君のクリスマスはどうだったの?」
「まあまあよ」ハーマイオニーは肩をすくめた。
「何も特別なことはなかったわ。ウォン・ウォンのところはどうだったの?」
「いますぐ話すけど」ハリーが言った。
「あのさ、ハーマイオニー、だめかな――?」
「だめ」
ハーマイオニーがにべもなく言った。
「言うだけムダよ」
「もしかしてと思ったんだ。だって、クリスマスの間に――」
「五百年物のワインを一樽飲み干したのは『太った婦人』よ、ハリー。私じゃないわ。それで、私に話したい重要なニュースがあるって、何だったの?」
ハーマイオニーのこの剣幕では、いまは議論できそうもないと、ハリーはロンの話題を諦めて、立ち聞きしたマルフォイとスネイプの会話を話して聞かせた。
話し終わったとき、ハーマイオニーはちょっと考えていたが、やがて口を開いた。
「こうは考えられない――?」
「――スネイプがマルフォイに援助を申し出るふりをして、マルフォイのやろうとしていることをしゃべらせようという計略?」
「まあ、そうね」ハーマイオニーが言った。
「ロンのパパも、ルーピンもそう考えている」ハリーがしぶしぶ認めた。
「でも、マルフォイが何か企んでることが、これではっきり証明された。これは否定できない」
「できないわね」ハーマイオニーがゆっくり答えた。
「それに、やつはヴォルデモートの命令で動いてる。僕が言ったとおりだ!」
「んーん……二人のうちどちらかが、ヴォルデモートの名前を口にした?」
ハリーは思い出そうとして顔をしかめた。
「わからない……スネイプは『君の主君』とはっきり言ったし、ほかに誰がいる?」
「わからないわ」ハーマイオニーが唇を噛んだ。
「マルフォイの父親はどうかしら?」
ハーマイオニーは、何か考え込むように、部屋の向こうをじっと見つめた。
ラベンダーがロンをくすぐっているのにも気づかない様子だ。
「ルーピンは元気?」
「あんまり」
ハリーは、ルーピンが狼人間の中での任務に就いていることや、どんな難しい問題に直面しているかを話して聞かせた。
「フェンリール・グレイバックって、問いたことある?」
「ええ、あるわ!」
ハーマイオニーほぎくりとしたように言った。
「それに、あなたも聞いたはずよ、ハリー!」
「いつ?魔法史で?君、知ってるじゃないか、僕がちゃんと聞いてないって……」
「ううん、魔法史じゃないの――マルフォイがその名前でボージンを脅してたわ!」
ハーマイオニーが言った。
「『夜の闇横丁』で。憶えてない?グレイバックは昔から自分の家族と親しいし、ボージンがちゃんと取り組んでいるかどうかを、グレイバックが確かめるだろうって!」
ハリーは唖然としてハーマイオニーを見た。
「忘れてたよ!だけど、これで、マルフォイが死喰い人だってことが証明された。そうじゃなかったら、グレイバックと接触したり、命令したりできないだろ?」
「その疑いは濃いわね」ハーマイオニーは息をひそめて言った。
「ただし……」
「いい加減にしろよ」ハリーはイライラしながら言った。
「こんどは言い逃れできないぞ!
「うーん……嘘の脅しだった可能性があるわ」
「君って、すごいよ、まったく」ハリーは頭を振った。
「誰が正しいかは、そのうちわかるさ……ハーマイオニー、君も前言撤回ってことになるよ。魔法省みたいに。あっ、そうだ。僕、ルーファス・スクリムジョールとも言い争いした……」
それからあとは、魔法大臣をけなし合うことで、二人は仲良く過ごした。
ハーマイオニーもロンと同じで、昨年ハリーにあれだけの仕打ちをしておきながら、魔法省がこんどはハリーに助けを求めるとは、まったくいい神経してる、という意見だった。
ハーマイオニーと穏やかに過ごすのはとても気分が良かった。
次の朝、六年生にとっては、ちょっと驚くうれしいニュースで新学期が始まった。 掲示板に、夜の間に大きな告知が貼り出されていた。
「姿現わし」練習コース
十七歳になった者、または八月三十一日までに十七歳になる者は、魔法省の「姿現わし」の講師による十二週間の「姿現わし」コースを受講する育格がある。
参加希望者は、下に氏名を書き込むこと。
コース費用 十二ガリオン
ハリーとロンは、
掲示板の前で押し合いへし合いしながら名前を書き込んでいる群れに加わった。
ロンが羽根ペンを取り出して、ハーマイオニーのすぐあとに名前を書き入れようとしていたとき、ラベンダーが背後に忍び寄り、両手でロンに目隠しして、歌うように言った。
「だ〜れだ?ウォン・ウォン?」
ハリーが振り返ると、ハーマイオニーがつんけんと立ち去っていくところだった。
ハリーは、ロンやラベンダーと一緒にいる気はさらさらなかったので、ハーマイオニーのあとを追った。
ところが驚いたことに、ロンは肖像画の穴のすぐ外で、二人に追いついた。
耳がまっ赤で、不機嫌な顔をしていた。
ハーマイオニーは一言も言わず、足を速めてネビルと並んで歩いた。
「それじゃ――『姿現わし』は――」
ロンの口調は、たったいま起こったことを口にするなと、ハリーにはっきり釘を刺していた。
「きっと楽ナンだぜ、な?」
「どうかな」ハリーが言った。
「自分でやれば少しましなのかも知れないけど、ダンブルドアが付き添って連れていってくれたときは、あんまり楽しいとは思わなかった」
「君がもう経験者だってこと、忘れてた……一回目のテストでパスしなきゃな」ロンが心配そうに言った。
「フレッドとジョージは一回でパスだった」
「でも、チャーリーは失敗したろう?」
「ああ、だけど、チャーリーは僕よりでかい」
ロンは両腕を広げて、ゴリラのような格好をした。
「だから、フレッドもジョージもあんまりしつこくからかわなかった……少なくとも面と向かっては……」
「本番のテストはいつ?」
「十七歳になった直後。僕はもうすぐ。三月!」
「そうか。だけど、ここではどうせ『姿現わし』できないはずだ。城の中では……」
「それは関係ないだろ?やりたいときにいつでも『姿現わし』できるんだって、みんなに知れることが大事さ」
「姿現わし」への期待で興奮していたのは、ロンだけではなかった。
その日は一日中、「姿現わし」の練習の話でもちきりだった。
意のままに消えたり現れたりできる能力は、とても重要視されていた。
「僕たちもできるようになったら、かっこいいなあ。こんなふうに!」
シェーマスが指をパチンと鳴らして「姿くらまし」の格好をした。
「従兄のファーガスのやつ、僕をイライラさせるためにこれをやるんだ。いまに見てろ。やり返してやるから……あいつには、もう一瞬たりとも平和なときはない……」
幸福な想像で我を忘れ、シェーマスは杖の振り方に少し熟を入れすぎた。
その日の呪文学は、晴らかな水の噴水を創り出すのが課題だったが、シェーマスは散水ホースのように水を噴き出させ、天井に損ね返った水がフリットウィック先生を弾き飛ばしてしまい、先生はうつ伏せにベタッと倒れた。
フリットウィック先生は濡れた服を杖で乾かし、シェーマスに「僕は魔法使いです。棒振り回す猿ではありません」と何度も書く、書き取り罰則を与えた。
ややばつが悪そうなシェーマスに向かって、ロンが言った。
「ハリーはもう『姿現わし』したことがあるんだ。ダン――エーツと――誰かと一緒だったけどね。『付き添い姿現わし』ってやつさ」
「ヒョー!」シェーマスは驚いたように声を漏らした。
シェーマス、ディーン、ネビルの三人がハリーに顔を近づけ、「姿現わし」はどんな感じだったかを聞こうとした。
それからあとのハリーは、「姿現わし」の感覚を話してくれとせがむ六年生たちに、一日中取り囲まれてしまった。
どんなに気持ちが悪かったかを話してやっても、みんな怯むどころかかえってすごいと感激したらしく、八時十分前になっても、ハリーはまだ細かい質問に答えている状態だった。
ハリーはしかたなく、図書室に本を返さなければならないと嘘をつき、ダンブルドアの授業に間に合うようにその場を逃れた。
ダンブルドアの校長室にはランプが灯り、歴代校長の肖像画は額の中で軽いいびきをかいていた。
今回も「憂いの篩」が机の上で待っていた。
ダンブルドアはその両端に手をかけていたが、右手は相変わらず焼け焦げたように累かった。
まったく癒えた様子がない。
いったいどうしてそんなに異常な傷を負ったのだろうと、ハリーはこれで百回ぐらい同じことを考えたが、質問はしなかった。
ダンブルドアがそのうちハリーに話すと約束したのだし、いずれにせよ別に話したい問題があった。
しかし、ハリーがスネイプとマルフォイのことを一言も言わないうちに、ダンブルドアが口を開いた。
「クリスマスに、魔法大臣と会ったそうじゃの?」
「はい」ハリーが答えた。
「大臣は僕のことが不満でした」
「そうじゃろう」ダンブルドアがため息をついた。
「わしのことも不満なのじゃ。しかし、ハリー、我々は苦悩の底に沈むことなく、抗い続けねはならぬのう」
ハリーはニヤッと笑った。
「大臣は、僕が魔法界に対して、魔法省はとてもよくやっていると言ってほしかったんです」
ダンブルドアは微笑んだ。
「もともと、それはファッジの考えじゃったのう。大臣職にあった最後のころじゃが、大臣の地位にしがみつこうと必死だったファッジは、きみとの会合を求めた。きみがファッジを支援することを望んでのことじゃ――」
「去年あんな仕打ちをしたファッジが?」ハリーが憤慨した。
「アンブリッジのことがあったのに?」
「わしはコーネリウスに、その可能性はないと言ったのじゃ。しかし、ファッジが大臣職を離れても、その考えは生きていたわけじゃ。スクリムジョールは、大臣に任命されてから数時間も経たないうちにわしに会い、きみと会う手はずを整えるよう強く要求した――」
「それで、先生は大臣と議論したんだ!」ハリーは思わず口走った。
「『日刊予言者新聞』にそう書いてありました」
「『日刊予言者』も、たしかに、ときには真実を報道することがある」ダンブルドアが言った。
「まぐれだとしてもじや。いかにも、議論したのはそのことじゃ。なるほど、どうやらルーファスは、ついにきみを追い詰める手段を見つけたらしいのう」
「大臣は僕のことを非難しました。『骨の髄までダンブルドアに忠実だ』って」
「無礼千万じゃ」
「僕はそのとおりだって言ってやりました!」
ダンブルドアは何か言いかけて、口をつぐんだ。
ハリーの背後で、不死鳥のフォークスが低く鳴き、優しい調べを奏でた。
ダンブルドアのキラキラしたブルーの瞳が、ふと涙に曇るのを見たような気がして、ハリーはどうしていいのかわからなくなり、慌てて膝に目を落とした。 しかし、ダンブルドアが再び口を開いたとき、その声はしっかりしていた。
「よう言うてくれた、ハリー」
「スクリムジョールは、先生がホグワーツにいらっしゃらないとき、どこに出かけているのかを知りたがっていました」ハリーは自分の膝をじっと見つめたまま言った。
「そうじゃ、ルーファスはそのことになるとお節介でのう」
ダンブルドアの声がこんどは愉快そうだったので、ハリーはもう顔を上げても大丈夫だと思った。
「わしを尾行しようとまでした。まったく笑止なことじゃ。ドーリッシュに尾行させてのう。心ないことよ。わしはすでに一度ドーリッシュに呪いをかけておるのに、まことに遺憾ながら、二度もかけることになってしもうた」
「それじゃ、先生がどこに出かけられるのか、あの人たちはまだ知らないんですね?」
自分にとっても興味あることだったので、もっと知りたくて、ハリーが質問した。
しかし、ダンブルドアは半月メガネの上から微笑んだだけだった。
「あの者たちは知らぬ。それに、きみが知るにもまだ時が熟しておらぬ。さて、先に進めようかの。ほかに何もなければ――?」
「先生、実は」ハリーが切り出した。
「マルフォイとスネイプのことで」
「スネイプ先生じゃ、ハリー」
「はい、先生。スラグホーン先生のパーティで、僕、二人の会話を聞いてしまって……あの、実は僕、二人のあとを追けたんです……」
ダンブルドアは、ハリーの話を無表情で聞いていた。
話し終わったときもしばらく無言だったが、やがてダンブルドアが言った。
「ハリー、話してくれたことは感謝する。しかし、そのことは放念するがよい。大したことではない」
「大したことではない?」ハリーは信じられなくて、聞き返した。
「先生、おわかりになったのでしょうか――?」
「いかにも、ハリー、わしは幸いにして優秀なる頭脳に恵まれておるので、きみが言ったことはすべて理解した」
ダンブルドアは少しきつい口調で言った。
「きみ以上によく理解した可能性があると考えてみてもよかろう。もう一度言うが、きみがわしに打ち明けてくれたことはうれしい。ただ、重ねて言うが、その中にわしの心を乱すようなことは、何一つない」
ハリーはじりじりしながら黙りこくって、ダンブルドアを睨んでいた。
いったいどうなっているんだ?マルフォイの企みを聞き出せと、ダンブルドアがスネイプに命じた、ということなのだろうか?それなら、ハリーが話したことは全部、すでにスネイプから聞いているのだろうか?それとも、いま聞いたことを内心では心配しているのに、そうでないふりをしているのだろうか?
「それでは、先生」
ハリーは、礼儀正しく、冷静な声を出そうとした。
「先生はいまでも絶対に信用して――」
「その問いには、寛容にもすでに答えておる」ダンブルドアが言った。
しかしその声には、もはやあまり寛容さがなかった。
「わしの答えは変わらぬ」
「変えるべきではなかろう」皮肉な声がした。
フィニアス・ナイジェラスがどうやら狸寝入りをしていたらしい。ダンブルドアは無視した。
「それではハリー、いよいよ先に進めなければなるまい。今夜はもっと重要な話がある」
ハリーは反抗的になって座り続けた。
話題を変えるのを拒否したらどうなるだろう?マルフォイを責める議論をあくまでも続けようとしたらどうだろう?ハリーの心を読んだかのように、ダンブルドアが頭を振った。
「ああ、ハリー、こういうことはよくあるものじゃ。仲のよい友人の間でさえ!両者ともに、相手の言い分より自分の言うべきことのほうが、ずっと重要だという思い込みじゃ!」
「先生の言い分が重要じゃないなんて、僕、考えていません」ハリーは頑なに言った。
「左様、きみの言うとおり、わしのは重要なことなのじゃから」ダンブルドアはきびきびと言った。
「今夜はさらに二つの記憶を見せることにしよう。どちらも非常に苦労して手に入れたものじゃが、二つ目のは、わしが集めた中でもいちばん重要なものじゃ」
ハリーは何も言わなかった。
自分の打ち明け話が受けた仕打ちに、まだ腹が立っていた。
しかし、それ以上議論しても、どうにかなるとは思えなかった。
「されば」ダンブルドアが襟とした声で言った。
「今夜の授業では、トム・リドルの物語を続ける。前回は、トム・リドルがホグワーツで過ごす日々の入口のところで途切れておった。憶えておろうが、自分が魔法使いだと聞かされたトムは興奮した。ダイアゴン横丁にわしが付き添うことをトムは拒否し、そしてわしは、入学後は盗みを続けてはならぬと警告した」
「さて、新学期が始まり、トム・リドルがやって来た。古着を着た、おとなしい少年は、ほかの新入生とともに組分けの列に盛んだ。組分け帽子は、リドルの頭に触れるや否や、スリザリンに入れた」
話し続けながら、ダンブルドアは黒くなった手で頭上の棚を指差した。
そこには、古色蒼然とした組分け帽子が、じっと動かずに納まっていた。
「その寮の、かの有名な創始者が蛇と会話ができたということを、リドルがどの時点で知ったのかはわからぬ――おそらくは最初の晩じゃろう。それを知ることで、リドルは興奮し、いやが上にも自惚れが強くなった」
「しかしながら、談話室では蛇語を振りかざし、スリザリン生を脅したり感心させたりしていたにせよ、教職員はそのようなことにはまったく気づかなんだ。傍目には、リドルは何らの倣慢さも攻撃性も見せなんだ。稀有な才能と優れた容貌の孤児として、リドルはほとんど入学のその時点から、自然に教職員の注目と同情を集めた。リドルは、礼儀正しく物静かで、知識に飢えた生徒のように見えた。ほとんど誰もが、リドルには非常によい印象を持っておった」
「孤児院で先生がリドルに会ったときの様子を、ほかの先生方に話して聞かせなかったのですか?」ハリーが聞いた。
「話しておらぬ。リドルは後悔する素振りをまったく見せはせなんだが、以前の態度を反省し、新しくやり直す決心をしている可能性はあったわけじゃ。わしは、リドルに機会を与えるほうを選んだのじゃ」
ハリーが口を開きかけると、ダンブルドアは言葉を切り、問いかけるようにハリーを見た。
ここでもまた、ダンブルドアは、不利な証拠がどれほどあろうと、信頼に値しない者を信頼している。
ダンブルドアはそういう人だ!しかしハリーは、ふとあることを思い出した……。
「でも先生は、完全にリドルを信用してはいなかったのですね?あいつが僕にそう言いました……あの日記帳から出てきたリドルが、『ダンブルドアだけは、ほかの先生方と違って、僕に気を許してはいないようだった』って」
「リドルが信用できると、手放しでそう考えたわけではない、とだけ言うておこう」ダンブルドアが言った。「すでに言うたように、わしはあの者をしっかり見張ろうと決めておった。そしてその決意どおりにしたのじゃ。最初のころは、観察してもそれほど多くのことがわかったわけではない。リドルはわしを非常に警戒しておった。自分が何者なのかを知って興奮し、わしに少し多くを語りすぎたと思ったに違いない。リドルは慎重になり、あれほど多くを暴露することは二度となかったが、興奮のあまりいったん口を滑らせたことや、ミセス・コールがわしに打ち明けてくれたことを、リドルが撤回するわけにはいかなんだ。しかし、リドルは、わしの同僚の多くを惹きつけはしたものの、決してわしまで魅了しようとはしないという、思慮分別を持ち合わせておった」
「高学年になると、リドルは献身的な友人を取り巻きにしはじめた。ほかに言いようがないので、友人と呼ぶが、すでにわしが言うたように、リドルがその者たちの誰に対しても、何らの友情も感じていなかったことは疑いもない。この集団は、ホグワーツ内で、一種の暗い魅力を持っておった。雑多な寄せ集めで、保護を求める弱い者、栄光のおこぼれに与りたい野心家、自分たちより洗練された残酷さを見せてくれるリーダーに惹かれた乱暴者等々。つまり、『死喰い人』の走りのような者たちじゃった。事実、その何人かは、ホグワーツを卒業したあと、最初の『死喰い人』となった」
「リドルに厳重に管理され、その者たちの悪行は、おおっぴらに明るみに出ることはなかった。しかし、その七年の間に、ホグワーツで多くの不快な事件が起こったことはわかっておる。事件とその者たちとの関係が、満足に立証されたことは一度もない。もっとも深刻な事件は、言うまでもなく『秘密の部屋』が開かれたことで、その結果女子学生が一人死んだ。きみも知ってのとおり、ハグリッドが濡れ衣を着せられた」
「ホグワーツでのリドルに関する記憶じゃが、多くを集めることはできなんだ」
ダンブルドアは「憂いの篩」に萎えた手を置きながら言った。
「その当時のリドルを知る者で、リドルの話をしようとする者はほとんどおらぬ。怖気づいておるのじゃ。わしが知りえた事柄は、リドルがホグワーツを去ってから集めたものじゃ。なんとか口を割らせることができそうな、数少ない何人かを見つけ出したり、古い記録を捜し求めたり、マグルや魔法使いの証人に質問したりして、だいぶ骨を折って知りえたことじゃ」
「わしが説得して話させた者たちは、リドルが両親のことにこだわっていたと語った。もちろん、これは理解できることじゃ。孤児院で育った者が、そこに来ることになった経緯を知りたがったのは当然じゃ。トム・リドル・シニアの痕跡はないかと、トロフィー室に置かれた盾や、学校の古い監督生の記録、魔法史の本まで探したらしいが、徒労に終わった。父親がホグワーツに一度も足を踏み入れてはいない事実を、リドルはついに受け入れざるをえなくなった。わしの考えでは、リドルはその時点で自分の名前を永久に捨て、ヴォルデモート郷と名乗り、それまで軽蔑していた母親の家族を調べはじめたのであろう――憶えておろうが、人間の恥ずべき弱みである『死』に屈した女が魔女であるはずがないと、リドルがそう考えていた女性のことじゃ」
「リドルには、『マールヴォロ』という名前しかヒントはなかった。孤児院の関係者から、母方の父親の名前だと聞かされていた名じゃ。魔法族の家系に関する古い本をつぶさに調べ、ついにリドルは、スリザリンの末裔が生き残っていることを突き止めた。十六歳の夏のことじゃ。リドルは毎年夏に戻っていた孤児院を抜け出し、ゴーント家の親戚を探しに出かけた。そして、さあ、ハリー、立つのじゃ……」
ダンブルドアも立ち上がった。その手に再び、渦巻く乳白色の記憶が詰まった小さなクリスタルの瓶があるのが見えた。
「この記憶を採集できたのは、まさに幸運じゃった」
そう言いながら、ダンブルドアは煌く物質を「憂いの篩」に注ぎ込んだ。
「この記憶を体験すれば、そのことがわかるはずじゃ。参ろうかの?」
ハリーは石の水盆の前に進み出て、従順に身を屈め、記憶の表面に顔を埋めた。
いつものように、無の中を落ちていくような感覚を覚え、それからほとんどまっ暗闇の中で、汚い石の床に着地した。
しばらくして、自分がどこにいるのかやっとわかったときには、ダンブルドアもすでにハリーの脇に着地していた。
ゴーントの家は、いまや形容しがたいほどに汚れ、いままでに見たどんな家より汚らしかった。
天井には蜘妹の巣がはびこり、床はべっとりと汚れ、テーブルには、カビだらけの腐った食べ物が、汚れのこびりついた深鍋の山の間に転がっている。
灯りといえば溶けた蝋燭がただ一本、男の足元に置かれていた。
男は髪も髭も伸び放題で、ハリーには男の目も口も見えなかった。
暖炉のそばの肘掛椅子でぐったりしているその男は、死んでいるのではないかと、ハリーは一瞬そう思った。
しかし、そのとき、ドアを叩く大きな音がして、男はびくりと目を覚まし、右手に杖を掲げ、左手には小刀を握った。
ドアがギーツと開いた。
戸口に古くさいランプを手に立っている青年が誰か、ハリーは一目でわかった。
背が高く、蒼白い顔に黒い髪の、ハンサムな青年――十代のヴォルデモートだ。
ヴォルデモートの眼がゆっくりとあばら家を見回し、肘掛椅子の男を見つけた。
ほんの一・二秒、二人は見つめ合った。
それから、男がよろめきながら立ち上がった。
その足元から空っぽの瓶が何本も、カタカタと音を立てて床を転がった。
「貴様!」男が喚いた。
「貴様!」
男は杖と小刀を大上段に振りかぶり、酔った足をもつれさせながらリドルに突進した。
「やめろ」
リドルは蛇語で話した。
男は横滑りしてテーブルにぶつかり、カビだらけの深鍋がいくつか床に落ちた。
男はリドルを見つめた。
互いに探り合いながら、長い沈黙が流れた。
やがて男が沈黙を破った。
「話せるのか?」
「ああ、話せる」リドルが言った。
リドルは部屋に入り、背後でドアがバタンと閉まった。
ヴォルデモートが微塵も恐怖を見せないことに、ハリーは、敵ながらあっぱれと内心舌を巻いた。
ヴォルデモートの顔に浮かんでいたのは、嫌悪と、そしておそらく失望だけだった。
「マールヴォロはどこだ?」リドルが聞いた。
「死んだ」男が答えた。
「何年も前に死んだんだろうが?」リドルが顔をしかめた。
「それじゃ、おまえは誰だ?」
「俺はモーフィンだ、そうじゃねえのか?」
「マールヴォロの息子か?」
「そーだともよ。それで……」
モーフィンは汚れた顔から髪を押しのけ、リドルをよく見ようとした。
その右手に、マールヴォロの黒い石の指輪をはめているのを、ハリーは見た。
「おめえがあのマグルかと思った」
モーフィンが呟くように言った。
「おめぇはあのマグルにそーくりだ」
「どの、マグルだ?」リドルが鋭く聞いた。
「俺の妹が惚れたマグルよ。向こうのでっかい屋敷に住んでるマグルよ」
モーフィンはそう言うなり、突然リドルの前に唾を吐いた。
「おめえはあいつにそっくりだ。リドルに。しかし、あいつはもう、もっと年を取ったはずだろーが?おめえよりもっと年取ってらぁな。考えてみりゃ……」
モーフィンは意識が薄れかけ、テーブルの縁をつかんでもたれかかったままよろめいた。
「あいつは戻ってきた、ウン」モーフィンは呆けたように言った。
ヴォルデモートは、取るべき手段を見極めるかのように、モーフィンをじっと見ていた。
そしてモーフィンにわずかに近寄り、聞き返した。
「リドルが戻ってきた?」
「ふん、あいつは妹を捨てた。モーフィンはまた唾を吐いた。いい気味だ。腐れ野郎と結婚しやがったからよ!」
モーフィンはまた唾を吐いた。
「盗みやがったんだ。いいか、逃げやがる前に!ロケットはどこにやった?え?スリザリンのロケットはどこだ?」
ヴォルデモートは答えなかった。
モーフィンは自分で自分の怒りを煽り立てていた。小刀を振り回し、モーフィンが叫んだ。
「泥を塗りやがった。そーだとも、あのアマ!そんで、おめえは誰だ?ここに来てそんなこと聞きやがるのは誰だ?おしめえだ、そーだ……おしめえだ……」
モーフィンは少しよろめきながら顔を逸らした。
ヴォルデモートが一歩近づいた。
そのとたん、あたりが不自然に暗くなった。
ヴォルデモートのランプが消え、モーフィンの蝋燭も、何もかもが消えた……。
ダンブルドアの指がハリーの服をしっかりつかみ、二人は上昇して現在に戻った。
ダンブルドアの部屋の柔らかな金色の灯りが、まっ暗闇を見たあとのハリーの目に眩しかった。
「これだけですか?」ハリーはすぐさま聞いた。
「どうして暗くなったんですか?何が起こったんですか?」
「モーフィンが、そのあとのことは何も憶えていないからじゃ」
ダンブルドアが、ハリーに椅子を示しながら言った。
「次の朝、モーフィンが目を覚ましたときには、たった一人で床に横たわっていた。マールヴォロの指輪が消えておった」
「一方、リトル・ハングルトンの村では、メイドが悲鳴を上げて通りを駆け回り、館の居間に三人の死体が横たわっていると叫んでいた。トム・リドル・シニア、その母親と父親の三人だった」
「マグルの警察は当惑した。わしが知るかぎりでは、今日に至るまで、リドル一家の死因は判明しておらぬ。『アバダ・ケダブラ』の呪いは、通常、何の損傷も残さぬからじゃ……例外はわしの目の前に座っておる」
ダンブルドアは、ハリーの傷痕を見て頷きながら言った。
「しかし、魔法省は、これが魔法使いによる殺人だとすぐに見破った。さらに、リドルの館と反対側の谷向こうに、マグル嫌いの前科者が住んでおり、その男は、殺された三人のうちの一人を襲った廉で、すでに一度投獄されたことがあるとわかっていた」
「そこで、魔法省はモーフィンを訪ねた。取調べの必要も、『真実薬』や『開心術』を使う必要もなかった。即座に自白したのじゃ。殺人者自身しか知りえぬ細部の供述をしてのう。モーフィンは、マグルを殺したことを自慢し、長年にわたってその機会を待っておったと言ったそうじゃ。モーフィンが差し出した杖が、リドル一家の殺害に使われたことは、すぐに証明された。そしてモーフィンは、抗いもせずにアズカバンに引かれていった。父親の指輪がなくなっていたことだけを気にしておった。逮捕した者たちに向かって、『指輪をなくしたから、親父に殺される』と、何度も繰り返して言ったそうじゃ。『指輪をなくしたから、親父に殺される』と。そして、どうやら死ぬまで、それ以外の言葉は口にせなんだようじゃ。モーフィンはマールヴォロの最後の世襲財産をなくしたことを嘆きながら、アズカバンで人生を終え、牢獄で息絶えた他の哀れな魂とともに、監獄の脇に葬られておるのじゃ」
「それじゃ、ヴォルデモートが、モーフィンの杖を盗んで使ったのですね?」
ハリーは姿勢を正して言った。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。
「それを示す記憶はない。しかし、何が起こったかについては、かなり確信を持って言えるじゃろう。ヴォルデモートは伯父に失神の呪文をかけて杖を奪い、谷を越えて『向こうのでっかい屋敷』に行ったのであろう。そこで魔女の母親を捨てたマグルの男を殺し、ついでにマグルである自分の祖父母をも殺した。自分にふさわしくないリドルの家系の最後の人々を、このようにして抹殺すると同時に、自分を望むことがなかった父親に復讐した。それからゴーントのあばら家に戻り、複雑な魔法で伯父に偽の記憶を植えつけた後、気を失っているモーフィンのそばに杖を返し、伯父がはめていた古い指輪をポケットに入れてその場を去った」
「モーフィンは自分がやったのではないと、一度も気づかなかったのですか?」
「一度も」ダンブルドアが言った。
「いまわしが言うたように、自慢げに詳しい自白をしたのじゃ」
「でも、いま見た本当の記憶は、ずっと持ち続けていた!」
「そうじゃ。 しかし、その記憶をうまく取り出すには、相当な『開心術』の技を使用せねばならなかったのじゃ」ダンブルドアが言った。
「それに、すでに犯行を自供しているのに、モーフィンの心をそれ以上探りたいなどと思う者がおるじゃろうか?しかし、わしは、モーフィンが死ぬ何週間か前に、あの者に面会することができた。わしはそのころ、ヴォルデモートに関して、できるだけ多くの過去を見つけ出そうとしておった。この記憶を引き出すのは容易ではなかった。記憶を見たとき、わしはそれを理由にモーフィンをアズカバンから釈放するように働きかけた。しかし、魔法省が決定を下す前に、モーフィンは死んでしもうたのじゃ」
「でも、すべてはヴォルデモートがモーフィンに仕掛けたことだと、魔法省はどうして気づかなかったんですか?」ハリーは憤慨して聞いた。
「ヴォルデモートはそのとき未成年だった。魔法省は、未成年が魔法を使うと探知できるはずだ!」
「そのとおりじゃよ――魔法は探知できる。しかし、実行犯が誰かはわからぬ。浮遊術のことで、きみが魔法省に責められたのを憶えておろうが、あれは実は――」
「ドビーだ」ハリーが唸った。
あの不当さには、いまだに腹が立った。
「それじゃ、未成年でも、大人の魔法使いがいる家で魔法を使ったら、魔法省にはわからないのですか?」
「たしかに魔法省は、誰が魔法を行使したかを知ることができぬ」
ハリーの大憤慨した顔を見て微笑みながら、ダンブルドアが言った。
「魔法省としては、魔法使いの家庭内では、親が子どもを従わせるのに任せるわけじゃ」
「そんなの、いい加減だ」ハリーが噛みついた。
「こんなことが起こったのに!モーフィンにこんなことが起こったのに!」
「わしもそう思う」ダンブルドアが言った。
「モーフィンがどのような者であれ、あのような死に方をしたのは酷じゃった。犯しもせぬ殺人の責めを負うとは。しかし、もう時間も遅い。別れる前に、もう一つの記憶を見てほしい……」
ダンブルドアはポケットからもう一本クリスタルの薬瓶を取り出した。
ハリーは、これこそダンブルドアが収集した中でいちばん重要な記憶だと言ったことを思い出し、すぐに口をつぐんだ。
こんどの中身は、まるで少し凝結しているかのように、なかなか「憂いの篩」に入っていかなかった。
記憶も腐ることがあるのだろうか?
「この記憶は長くはかからない」薬瓶がやっと空になったとき、ダンブルドアが言った。
「あっという間に戻ってくることになろう。もう一度、『憂いの篩』へ、いざ……」
そして再びハリーは、銀色の表面から下へと落ちていき、一人の男のまん前に着地した。
誰なのかはすぐにわかった。
ずっと若いホラス・スラグホーンだった。
禿げたスラグホーンに慣れきっていたハリーは、艶のある豊かな麦わら色の髪に面食らった。
頭に藁葺屋根をかけたようだった。
ただ、てっぺにはすでに、ガリオン金貨大の禿が光っていた。
口髭はいまほど巨大ではなく、赤毛交じりのブロンドだった。
ハリーの知っているスラグホーンほど丸々していなかったが、豪華な刺繍入りのチョッキについている金ボタンは、相当の膨張力に耐えていた。
短い足を分厚いビロードのクッションに載せ、スラグホーンは心地よさそうな肘掛椅子に、とっぷりとくつろいで腰掛けていた。
片手に小さなワイングラスをつかみ、もう一方の手で、砂糖漬けパイナップルの箱を探っている。
ダンブルドアがハリーの横に姿を現したとき、ハリーはあたりを見回し、そこが学校のスラグホーンの部屋だとわかった。
男の子が六人ほど、スラグホーンの周りに座っている。
スラグホーンの椅子より固い椅子か低い椅子に腰掛け、全員が十五、六歳だった。
ハリーはすぐにリドルを見つけた。
いちばんハンサムで、いちばんくつろいだ様子だった。
右手を何気なく椅子の肘掛けに置いていたが、ハリーは、その手にマールヴォロの金と黒の指輪がはめられているのを見て、ぎくりとした。もう父親を殺したあとだ。
「先生、メリィソート先生が退職なさるというのは本当ですか?」リドルが聞いた。
「トム、トム、たとえ知っていても、君には教えられないね」
スラグホーンは砂糖だらけの指をリドルに向けて、叱るように振ったが、ウィンクしたことでその効果は多少薄れていた。
「まったく、君って子は、どこで情報を仕入れてくるのか、知りたいものだ。教師の半数より情報通だね、君は」リドルは微笑した。
ほかの少年たちは笑って、リドルを賞賛の眼差しで見た。
「知るべきではないことを知るという、君の謎のような能力、大事な人間をうれしがらせる心遣い――ところで、パイナップルをありがとう。君の考えどおり、これはわたしの好物で――」
何人かの男の子がクスクス笑い、そのときとても奇妙なことが起こった。
部屋全体が突然濃い白い霧で覆われたのだ。
ハリーは、そばに立っているダンブルドアの顔しか見えなくなった。
そして、スラグホーンの声が、霧の中から不自然な大きさで響いてきた。
「――君は悪の道にはまるだろう、いいかね、わたしの言葉を憶えておきなさい」
霧は出てきたときと同じように急に晴れた。
しかし、誰もそのことに触れなかったし、何か不自然なことが起きたような顔さえしていなかった。
ハリーは狐につままれたように、周りを見回した。
スラグホーンの机の上で小さな金色の置き時計が、十一時を打った。
「なんとまあ、もうそんな時間か?」スラグホーンが言った。
「みんな、もう、戻ったほうがいい。そうしないと、みんな困ったことになるからね。レストレンジ、明日までにレポートを書いてこないと、罰則だぞ。エイブリー、君もだ」
男の子たちがゾロゾロ出ていく問、スラグホーンは肘掛椅子から重い腰を上げ、空になったグラスを机のほうに持っていった。
しかし、リドルはあとに残っていた。
リドルが最後までスラグホーンの部屋にいられるように、わざとぐずぐずしているのが、ハリーにはわかった。
「トム、早くせんか」
振り返って、リドルがまだそこに立っているのを見たスラグホーンが言った。
「時間外にベッドを抜け出しているところを捕まりたくはないだろう。君は監督生なのだし……」
「先生、お伺いしたいことがあるんです」
「それじゃ、遠慮なく聞きなさい、トム、遠慮なく」
「先生、ご存知でしょうか……ホークラックスのことですが?」
するとまた、同じ現象が起きた。
濃い霧が部屋を包み、ハリーにはスラグホーンもリドルもまったく見えなくなった。ダンブルドアだけがゆったりと、そばで微笑んでいた。そして、前と同じように、スラグホーンの声がまた響き渡った。
「ホークラックスのことは何も知らんし、知っていても君に教えたりはせん!さあ、すぐにここを出ていくんだ。そんな話は二度と聞きたくない!」
「さあ、これでおしまいじゃ」ハリーの横でダンブルドアが穏やかに言った。
「帰る時間じゃ」
そしてハリーの足は床を離れ、数秒後にダンブルドアの机の前の敷物に着地した。
「あれだけしかないんですか?」ハリーはきょとんとして聞いた。
ダンブルドアは、これこそいちばん重要な記憶だと言った。
しかし、何がそんなに意味深長なのかわからなかった。
たしかに、霧のことや、誰もそれに気づいていないようだったのは奇妙だ。
しかしそれ以外は何ら特別な出来事はないように見えた。
リドルが質問したが、それに答えてもらえなかったというだけだ。
「気がついたかもしれぬが――」
ダンブルドアは机に戻って腰を下ろした。
「あの記憶には手が加えられておる」
「手が加えられた?」ハリーも腰掛けながら、聞き返した。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。
「スラグホーン先生は、自分自身の記憶に干渉した」
「でも、どうしてそんなことを?」
「自分の記憶を恥じたからじゃろう」ダンブルドアが言った。
「自分をよりよく見せようとして、わしに見られたくない部分を消し去り、記憶を修正しようとしたのじゃ。
それが、きみも気づいたように、非常に粗雑なやり方でなされておる。そのほうがよい。なぜなら、本当の記憶が、改竄されたものの下にまだ存在していることを示しているからじゃ」
「そこで、ハリー、わしは初めてきみに宿題を出す。スラグホーン先生を説得して、本当の記憶を明かさせるのがきみの役目じゃ。その記憶こそ、我々にとって、もっとも重要な記憶であることは疑いもない」
ハリーは目を見張ってダンブルドアを見た。
「でも、先生」
できるかぎり尊敬を込めた声で、ハリーは言った。
「僕なんか必要ないと思います――先生が『開心術』をお使いになれるでしょうし……『真実薬』だって……」
「スラグホーン先生は、非常に優秀な魔法使いであり、そのどちらも予想しておられるじゃろう。哀れなモーフィン・ゴーントなどより、ずっと『閉心術』に長けておられる。わしがこの記憶まがいのものを無理やり提供させて以来、スラグホーン先生が常に『真実薬』の解毒剤を持ち歩いておられたとしても無理からぬこと」
「いや、スラグホーン先生から力づくで真実を引き出そうとするのは、愚かしいことであり、百害あって一利なしじゃ。スラグホーン先生にはホグワーツを去ってほしくないでのう。しかし、スラグホーン先生といえども、我々と同様に弱みがある。先生の鎧を突き破ることのできる者はきみじゃと、わしは信じておる。ハリー、真実の記憶を我々が手に入れるということが、実に重要なのじゃ……どのくらい大切かは、その記憶を見たときにのみわかろうというものじゃ。がんばることじゃな……では、おやすみ」
突然帰れと言われて、ハリーはちょっと驚いたが、すぐに立ち上がった。
「先生、おやすみなさい」
校長室の戸を閉めながら、ハリーは、フィニアス・ナイジェラスだとわかる声を、はっきり聞いた。
「ダンブルドア、あの子が、君よりうまくやれるという理由がわからんね」
「フィニアス、わしも、きみにわかるとは思わぬ」
ダンブルドアが答え、フォークスがまた、低く歌うように鳴いた。
第18章 たまげた誕生日
Birthday Surprises
次の日、ハリーはロンとハーマイオニーに、ただし二人別々に、ダンブルドアの宿題を打ち明けた。
ハーマイオニーが相変わらず、軽蔑の眼差しを投げる瞬間以外は、ロンと一緒にいることを拒んでいたからだ。
ロンは、ハリーならスラグホーンのことは楽勝だと考えていた。
「あいつは君に惚れ込んでる」
朝食の席で、フォークに刺した玉子焼きの大きな塊を気楽に振りながら、ロンが言った。
「君が頼めばどんなことだって断りやしないだろ?お気に入りの魔法薬の王子様だもの。今日の午後の授業のあとにちょっと残って、聞いてみろよ」
しかし、ハーマイオニーの意見はもっと悲観的だった。
「ダンブルドアが聞き出せなかったのなら、スラグホーンはあくまで真相を隠すつもりに違いないわ」
休み時間中、人気のない雪の中庭での立ち話で、ハーマイオニーが低い声で言った。
「ホークラックス……ホークラックス……聞いたこともないわ……」
「君が?」
ハリーは落胆した。
ホークラックスがどういう物か、ハーマイオニーなら手がかりを教えてくれるかもしれないと期待していたのだ。
「相当高度な、闇の魔術に違いないわ。そうじゃなきゃ、ヴォルデモートが知りたがるはずないでしょう?ハリー、その情報は、一筋縄じゃ聞き出せないと思うわよ。スラグホーンには十分慎重に持ちかけないといけないわ。ちゃんと戦術を考えて……」
「ロンは、今日の午後の授業のあと、ちょっと残ればいいっていう考えだけど……」
「あら、まあ、もしウォン・ウォンがそう考えるんだったら、そうしたはうがいいでしょ」ハーマイオニーはたちまちメラメラと燃え上がった。
「なにしろ、ウォン・ウォンの判断は一度だって間違ったことがありませんからね!
「ハーマイオニー、いい加減に――」
「お断りよ!」
いきり立ったハーマイオニーは、踝まで雪に埋まったハリーをひとり残し、荒々しく立ち去った。
しかし、実際ハーマイオニーの言う通りだとハリーには解っていた。
修正してまで見せたくない記憶をそう簡単に言ってくれるわけはないのだ。
近ごろの魔法薬のクラスは、ハリー、ロン、ハーマイオニーが同じ作業テーブルを使うというだけで居心地悪かった。
今日のハーマイオニーは、自分の大鍋をテーブルの向こう端のアニーの近くまで移動し、ハリーとロンの両方を無視していた。
「君は何をやらかしたんだ?」
ハーマイオニーのつんとした横顔を見ながら、ロンがボソボソとハリーに聞いた。
ハリーが答える前に、スラグホーンが教室の前方から静粛にと呼びかけた。
「静かに、みんな静かにして!さあ、急がないと、今日はやることがたくさんある!『ゴルパロットの第三の法則』――誰か言える者は――?ああ、ミス・グレンジャーだね、勿論」
ハーマイオニーは猛烈なスピードで暗諭した。
「『ゴルパロットの第三の法則』とは混合毒薬の解毒剤の成分は毒薬の各成分に対する解毒剤の成分の総和より大きい」
「そのとおり!」スラグホーンがニッコリした。
「グリフィンドールに十点!さて、『ゴルパロットの第三の法則』が真であるなら……」
ハリーは、「ゴルパロットの第三の法則」が真であるというスラグホーンの言葉を鵜呑みにすることにした。
なにしろチンプンカンプンだったからだ。
スラグホーンの次の説明も、ハーマイオニー以外は誰もついていけないようだった。
「……ということは、勿論、『スカーピンの暴露呪文』により魔法毒薬の成分を正確に同定できたと仮定すると、我々の主要な目的は、これらの全部の成分それ自体の解毒剤をそれぞれ選び出すという比較的単純なものではなく、追加の成分を見つけ出すことであり、その成分は、ほとんど錬金術とも言える工程により、これらのばらばらな成分を変容せしめ――」
ハリーの横で、ロンは口を半分開け、真新しい自分の「上級魔法薬」の教科書にぼんやり落書きをしていた。授業がさっぱりわからない場合に、ハーマイオニーの助けを求めるということが、いまはもうできないのに、ロンはしょっちゅうそれを忘れていた。
「……であるからして」スラグホーンの説明が終わった。
「前に出てきて、私の机からそれぞれ薬瓶を一本ずつ取っていきなさい。授業が終わるまでに、その瓶に入っている毒薬に対する解毒剤を調合すること。がんばりなさい。保護手袋を忘れないように!」
ハーマイオニーが、席を立ってスラグホーンの机まで半分の距離を歩いたころ、ほかの生徒はやっと、行動を開始しなければならないことに気がついた。
ハリー、ロン、アーニーがテーブルに戻ったときには、ハーマイオニーはすでに薬瓶の中身を自分の大鍋に注ぎ入れ、鍋の下に火を点けていた。
「今回はプリンスがあんまりお役に立たなくて、残念ね、ハリー」体を起こしながら、ハーマイオニーが朗らかに言った。
「こんどは、この原理を理解しないといけないもの。近道もカンニングもなし!」
ハリーはイライラしながら、スラグホーンの机から持ってきた瓶のコルク栓を抜き、けばけばしいピンク色の毒薬を犬鍋に空けて、下で火を焚いた。次は何をするやら、ハリーにはさっぱりわからなかった。ロンをちらりと見ると、ハリーがやったことを逐一まねしたあげく、ボケーッと突っ立っているだけだった。
「ほんとにプリンスのヒントはないのか?」ロンが、ハリーにブツブツ言った。
ハリーは頼みの綱の「上級魔法薬」を引っぱり出し、解毒剤の章を開いた。
そこには、ハーマイオニーが暗諭した言葉と一言一句違わない、「ゴルパロットの第三の法則」が載っていた。
しかし、それがどういう意味なのか、プリンスの手書きによる明快な書き込みは一つもない。
プリンスは、ハーマイオニーと同じように、苦もなくこの法則が理解できたらしい。
「ゼロ」ハリーが暗い声で言った。
ハーマイオニーがこんどは、犬飼の上で熱心に杖を振っていた。
残念なことに、ハーマイオニーの使っている呪文をまねすることはできなかった。
ハーマイオニーはもう無言呪文に熟達し、一言も発する必要がなかったからだ。
しかし、アーニー・マクミランは、自分の大鍋に向かって「スペシアリス・レペリオ<化けの皮、剥がれよ>」と小声で唱えていた。
それがいかにも迫力があったので、ハリーもロンもアーニーのまねをすることにした。
五分も経たないうちに、クラス一番の魔法薬作りの評判がガラガラと崩れる音が、ハリーの耳元で聞こえた。
スラグホーンは地下牢教室を一回りしながら、期待を込めてハリーの大鍋を覗き込み、いつものように歓声を上げようとした。
ところが、腐った卵の臭いに閉口して、咳き込みながら慌てて首を引っ込めた。
ハーマイオニーの得意げな顔といったらなかった。
魔法薬の授業で毎回負けていたのが、嫌でたまらなかったのだ。いまやハーマイオニーは、摩訶不思議にも分離した毒薬の成分を、クリスタルの薬瓶十本に小分けして、静かに注ぎ込んでいた。
癪な光景から目を逸らしたい一心で、ハリーはプリンスの本を覗き込み、躍起になって数ページめくった。
すると、あるではないか。解毒剤を列挙した長いリストを横切って、走り書きがあった。
べゾアール石を喉から押し込むだけ
ハリーはしばらくその文字を見つめていた。
ずいぶん前に、ベゾアール石のことを聞いたことがあるのでは?スネイプが、最初の魔法薬の授業で口にしたのでは?
「ベゾアール石は山羊の胃から取り出す石で、たいていの毒に対する解毒剤となる」
ゴルパロットの問題に対する答えではなかったし、スネイプがまだ魔法薬の先生だったら、ハリーは絶対そんなことはしなかっただろうが、ここいちばんの瀬戸際だ。
ハリーは急いで材料棚に近づき、ユニコーンの角や絡み合った干薬草を押しのけて棚の中を引っ掻き回し、いちばん奥にある小さな紙の箱を見つけた。
箱の上に「ベゾアール」と書き殴ってあった。
ハリーが箱を開けるとほとんど同時に、スラグホーンが、「みんな、あと二分だ!」と声をかけた。
箱の中には半ダースほどの萎びた茶色い物が入っていて、石というよく干乾びた腎臓のようだった。
ハリーはその一つをつかみ、箱を棚に戻して鍋のところまで急いで戻った。
「時間だ……やめ!」スラグホーンが楽しげに呼ばわった。
「さーて、成果を見せてもらおうか!プレーズ……何を見せてくれるかな?」
スラグホーンはゆっくりと教室を回り、さまざまな解毒剤を調べて歩いた。課題を完成させた生徒は誰もいなかった。
ただ、ハーマイオニーは、スラグホーンがやって来るまでに、あと数種類の成分を瓶に押し込もうとしていた。
ロンは完全に諦めて、自分の大鍋から立ち昇る腐った臭いを吸い込まないようにしているだけだった。
ハリーは少し汗ばんだ手に、ベゾアール石を握りしめてじっと待った。
スラグホーンは、最後にハリーたちのテーブルに来た。
アーニーの解毒剤をフンフンと嗅ぎぎ、顔をしかめてロンのほうに移動した。
ロンの大鍋にも長居はせず、吐き気を催したようにすばやく後退った。
「さあ君の番だ、ハリー」スラグホーンが言った。
「何を見せてくれるね?」
ハリーは手を差し出した。
手のひらにベゾアール石が載っていた。
スラグホーンは、まるまる十秒もそれを見つめていた。
怒鳴りつけられるかもしれないと、ハリーは一瞬そう思った。
ところがスラグホーンは、のけ反って大笑いした。
「まったく、いい度胸だ!」
スラグホーンは、ベゾアール石を高く掲げてクラス中に見えるようにしながら太い声を響かせた。
「ああ、母親と同じだ……いや、君に落第点をつけることはできない……ベゾアール右はたしかに、ここにある魔法薬すべての解毒剤として効く!」
ハーマイオニーは、汗まみれで鼻に煤をくっつけて、憤懣やる方ない顔をしていた。
五十二種類もの成分に、ハーマイオニーの髪の毛一塊まで入って半分出来上がった解毒剤が、スラグホーンの背後でゆっくり泡立っていたが、スラグホーンはハリーしか眼中になかった。
「それで、あなたは自分ひとりでベゾアール石を考えついたのね、ハリー、そうなのね?」
ハーマイオニーが歯乳りしながら聞いた。
「それこそ、真の魔法薬作りに必要な個性的創造力というものだ!」
ハリーが何も答えないうちに、スラグホーンがうれしそうに言った。
「母親もそうだった。魔法薬作りを直感的に把掘する生徒だった。間違いなくこれは、リリーから受け継いだものだ……そう、ハリー、そのとおり、ベゾアール石があれば、もちろんそれで事がすむ……ただし、すべてに効くわけではないし、かなり手に入りにくい物だから、解毒剤の調合の仕方は、知っておく価値がある……」
教室中でただ一人、ハーマイオニーより怒っているように見えたのはマルフォイだった。
ロープに猫の反吐のようなものが垂れこぼれているマルフォイを見て、ハリーは溜飲が下がった。
ハリーがまったく作業せずにクラスで一番になったことに、二人のどちらも、怒りをぶちまける間もなく、終業ベルが鳴った。
「荷物をまとめて!」スラグホーンが言った。
「それと、生意気千万に対して、グリフィンドールにもう十点!」スラグホーンはクスクス笑いながら、地下牢教室の前にある自分の机によたよたと戻った。
ハリーは、カバンを片付けるのにしては長すぎる時間をかけ、ぐずぐずとあとに残っていた。
ロンもハーマイオニーも、がんばれと声をかけもせずに教室を出ていった。
二人ともかなりイライラしているようだった。
最後に、ハリーとスラグホーンだけが教室に残った。
「ほらほら、ハリー、次の授業に遅れるよ」
スラグホーンが、ドラゴン革のブリーフケースの金の留め金をバナンと締めながら、愛想よく言った。
「先生」
否応なしに記憶の場面でのヴォルデモートのことを思い出しながら、ハリーが切り出した。
「お伺いしたいことがあるんです」
「それじゃ、遠慮なく聞きなさい、ハリー、遠慮なく」
「先生、ご存知でしょうか……ホークラックスのことですが?」
スラグホーンが凍りついた。丸顔が見る見る陥没していくようだった。
スラグホーンは唇を舐め、かすれ声で言った。
「何と言ったのかね?」
「先生、ホークラックスのことを、何かご存知でしょうかと伺いました。あの――」
「ダンブルドアの差し金だな」スラグホーンが呟いた。
スラグホーンの声ががらりと変わった。
もはや愛想のよさは吹っ飛び、衝撃で怯えた声だった。
震える指で胸ポケットから、ようやくハンカチを引っぱり出し、額の汗を拭った。
「ダンブルドアが君にあれを見せたのだろう――あの記憶を」スラグホーンが言った。
「え?そうなんだろう?」
「はい」ハリーは、嘘をつかないほうがいいと即座に判断した。
「そうだろう。勿論」
スラグホーンは蒼白な顔をまだハンカチで拭いながら、低い声で言った。
「勿論……まあ、あの記憶を見たのなら、ハリー、私がいっさい何も知らないことはわかっているだろう――いっさい何も――」
スラグホーンは同じ言葉を繰り返し強調した。
「ホークラックスのことなど」
スラグホーンは、ドラゴン革のブリーフケースを引っつかみ、ハンカチをボケッーに押し込み直し、地下牢教室のドアに向かってとっとと歩き出した。
「先生」ハリーは必死になった。
「僕はただ、あの記憶に少し足りないところがあるのではと――」
「そうかね?」スラグホーンが言った。
「それなら、君が間違っとるんだろう?問達っとる!」
最後の言葉は怒鳴り声だった。
ハリーにそれ以上一言も言わせず、スラグホーンは地下牢教室のドアをバタンと閉めて出ていった。
ロンもハーマイオニーも、ハリーの話す惨憺たる結果に、さっぱり同情してくれなかった。
ハーマイオニーは、きちんと作業もしないで勝利を得たハリーのやり方に、まだ煮えくり返っていた。
ロンは、ハリーが自分にもこっそりベゾアール石を渡してくれなかったことを恨んでいた。
「二人そろって同じことをしたら、間抜けじゃないか!」ハリーは苛立った。
「いいか。僕は、ヴォルデモートのことを聞き出せるように、あいつを懐柔する必要があったんだ。おい、しゃんとしろよ!」
ロンがその名を開いたとたんビクリとしたので、ハリーはますますイライラした。
失敗はするし、ロンとハーマイオニーの態度も態度だし、ハリーはむかっ腹を立てながら、それから数日、スラグホーンに次はどういう手を打つべきかを考え込んだ。
そして、当分の間、スラグホーンに、ハリーがホークラックスのことなど忘れ果てたと思い込ませることにした。
再攻撃を仕掛ける前に、スラグホーンがもう安泰だと思い込むようになだめるのが、最上の策に違いない。
ハリーが二度とスラグホーンに質問しなかったので、魔法柴の先生は、いつものようにハリーをかわいがる態度に戻り、その間題は忘れたかのようだった。
スラグホーンが次に小パーティを開くときには、たとえクィディッチの練習予定を変えてでも逃すまいと決心し、ハリーは招待されるのを待った。残念ながら、招待状は来なかった。
ハリーは、ハーマイオニーやジニーにも確かめたが、どちらも招待状を受け取っていなかったし、二人の知るかぎり、ほかに誰も受け取った者はいなかった。
スラグホーンは見かけより忘れっぽくないのかもしれないし、再び質問する機会を絶対に与えまいとしているのではないか、とハリーは考えざるをえなかった。
一方、ホグワーツ図書室は、ハーマイオニーの記憶にあるかぎり初めて、答えを出してくれなかった。
それがあまりにもショックで、ハーマイオニーは、ハリーがベゾアール石でズルをしたと苛立っていたことさえ忘れてしまった。
「ホークラックスが何をする物か、ひとっつも説明が見当たらないの!」
ハーマイオニーがハリーに言った。
「ただの一つもよ!禁書の棚も全部見たし、身の毛もよだつ魔法薬の煎じ方が書いてある、ゾッとする本も見たわ――何にもないのよ!見つけたのはこれだけ。『最も邪悪なる魔術』の序文よ――読むわね――『ホークラックス、魔法の中で最も邪悪なる発明なり。我らはそを語りもせず、説きもせぬ』……それなら、どうしてわざわざ書くの?」
ハーマイオニーはもどかしそうに言いながら、古色蒼然とした本を乱暴に閉じた。
本が幽霊の出てきそうな泣き声を上げた。
「お黙り」
ハーマイオニーはピシャリと言って、本を元のカバンに詰め込んだ。
二月になり、学校の周りの雪が溶け出して、冷たく陰気でじめじめした季節になった。どんよりした灰紫の雲が城の上に低く垂れ込め、間断なく降る冷たい雨で、芝生は滑りやすく泥んこだった。
その結果、六年生の「姿現わし」第一回練習は、校庭でなく大広間で行われることになった。
通常の授業とかち合わないように、練習時間は土曜日の朝に予定された。
ハリーとハーマイオニーが大広間に来てみると(ロンはラベンダーと一緒に来ていた)、長テーブルがなくなっていた。高窓に雨が激しく打ちつけ、魔法のかかった大井は暗い渦を巻いていた。
生徒たちは、各寮の寮監であるマクゴナガル、スネイプ、フリットウィック、スプラウトの諸先生方と、魔法省から派遣された「姿現わし」の指導官と思われる、小柄な魔法使いの前に集まった。
指導官は、奇妙に色味のない随毛に霞のような髪で、一陣の風にも吹き飛ばされてしまいそうな実在感のない雰囲気だった。
しょっちゅう消えたり現れたりしていたから、何かしらん実体がなくなってしまったのだろうか、こういう儚げな体型が、姿を消したい人には理想的なのだろうか、とハリーは考えた。
「みなさん、おはよう」
生徒が全員集まり、寮監が静粛にと呼びかけたあと、魔法省の指導官が挨拶した。
「私はウィルキー・トワイクロスです。これから十二週間、魔法省『姿現わし』指導官を務めます。その期間中、みなさんが『姿現わし』の試験に受かるように訓練するつもりです――」
「マルフォイ、静かにお聞きなさい!」マクゴナガル先生が叱りつけた。
みんながマルフォイを振り返った。
マルフォイは鈍いピンク色に頬を染め、怒り狂った顔で、それまでヒソヒソ声で口論していたらしいクラップから離れた。
ハリーは急いでスネイプを盗み見た。
スネイプも苛立っていたが、ハリーの見るところ、マルフォイの行儀の悪さのせいというより、ほかの寮の寮監であるマクゴナガルに叱責されたせいではないかと思った。
「――それまでには、みなさんの多くが、試験を受けることができる年齢になっているでしょう」
トワイクロスは何事もなかったかのように話し続けた。
「知ってのとおり、ホグワーツ内では通常『姿現わし』も『姿くらまし』もできません。校長先生が、みなさんの練習のために、この大広間にかぎって、一時間だけ呪縛を解きました。念を押しますが、この大広間の外では『姿現わし』はできませんし、試したりするのも賢明とは言えません」
「それではみなさん、前の人との間を一・五メートル空けて、位置に着いてください」
互いに離れたりぶつかったり、百分の空間から出ろと要求したりで、かなり押し合いへし合いがあった。
寮監が生徒の間を回って、位置につかせたり、言い争いをやめさせたりした。
「ハリー、どこにいくの?」ハーマイオニーが見咎めた。
ハリーは、それには答えず、混雑の中をすばやく縫って歩いていった。
全員がいちばん前に出たがっているレイブンクロー生を位置に着かせようと、キーキー声を出しているフリットウィック先生のそばを通り過ぎ、ハッフルパフ生を追い立てて並ばせているスプラウト先生を通り越し、アーニー・マクミランを避けて、最後に群れのいちばん後ろ、マルフォイの真後ろに首尾よく場所を占めた。
マルフォイは部屋中の騒ぎに乗じて、反抗的な顔をして一・五メートル離れたところに立っているクラップと、口論を続けていた。
「いいか、あとどのくらいかかるかわからないんだ!」すぐ後ろにハリーがいることには気づかず、マルフォイが投げつけるように言った。
「考えていたより長くかかっている」クラップが口を開きかけたが、マルフォイはクラップの言おうとしていることを読んだようだった。
「いいか、僕が何をしていようと、クラップ、おまえには関係ない。おまえもゴイルも、言われたとおりにして、見張りだけやっていろ!」
「友達に見張りを頼むときは、僕なら自分の目的を話すけどな」
ハリーは、マルフォイだけに聞こえる程度の声で言った。
マルフォイは、さっと杖に手をかけながら、くるりと後ろ向きになったが、ちょうどそのとき、寮監の四人が「静かに!」と大声を出し、部屋中が再び静かになった。
マルフォイはゆっくりと正面に向き直った。
「どうも」トワイクロスが言った。
「さて、それでは……」
指導官が杖を振ると、たちまち生徒全員の前に、古くさい木の輪っかが現れた。
「『姿現わし』で覚えておかなければならない大切なこと、は三つの『D』です!」
トワイクロスが言った。
「『集中』、『真剣』、『慎重』!」
「第一のステップ。どこへ行きたいか、しっかり思い定めること」トワイクロスが言った。
「今回は、輪っかの中です。では『どこへ』に集中してください」
みんなが周りをちらちら盗み見て、ほかの人も輪っかの中を見つめているかどうかをチェックし、それから急いで言われたとおりにした。
ハリーは、輪っかが丸く取り囲んでいる埃っぽい床を見つめて、ほかのことは何も考えまいとしたが、無理だった。
マルフォイがいったい何のために見張りを立てる必要があるのかを考えてしまうからだ。
「第二のステップ」トワイクロスが言った。
「『どうしても』という気持ちを、目的の空間に集中させる!どうしてもそこに行きたいという決意が、体の隅々にまで溢れるようにする!」
ハリーはこっそりあたりを見回した。
ちょっと離れた左のほうで、アーニー・マクミランが自分の輪っかに意識を集中しようとするあまり、顔が紅潮していた。
クアッフル大の卵を産み落とそうと力んでいるかのようだった。
ハリーは笑いを噛み殺し、慌てて自分の輪っかに視線を戻した。
「第三のステップ」トワイクロスが声を取り上げた。
「そして、私が号令をかけたそのときに……その場で回転する。
無の中に入り込む感覚で、『どういう意図で』行くかを慎重に考えながら動く!いち、に、さんの号令に合わせて、では…-いち――」
ハリーはあたりを見回した。
そんなに急に「姿現わし」をしろと言われてもと、驚愕した顔が多かった。
「――に――」
ハリーはもう一度輪っかに意識を集中しようとした。
三つの「D」が何だったか、とっくに忘れていた。
「――さん!」
ハリーはその場で回転したが、バランスを失って転びそうになった。
ハリーだけではなかった。
大広間はたちまち集団よろけ状態になっていた。
ネビルは完全に仰向けに引っくり返っていた。
し方アーニー・マクミランは、爪先で回転し、踊るように輪の中に飛び込んで、一瞬ぞくぞくしているようだったが、すぐに、自分を見て大笑いしているディーン・トーマスに気づいた。
「かまわん、かまわん」
トワイクロスはそれ以上のことを期待していなかったようだった。
「輪っかを直して、元の位置に戻って……」二回目も一回目よりましとは言えず、三回目も相変わらずダメだった。
四回目になってやっと一騒動起こった。
恐ろしい苦痛の悲鳴が上がり、みんながゾッとして声のほうを見ると、ハッフルパフのスーザン・ボーンズが、一・五メートル離れた出発地点に左足を残したまま、輪の中でグラグラ揺れていた。
寮監たちがスーザンを包囲し、パンパンいう音と紫の煙が上がり、それが消えたあとには、左足と再び合体したスーザンが、怯えきった顔で泣きじゃくっていた。
「『ばらけ』とは、体のあちこちが分離することで」
ウィルキー・トワイクロスが平気な顔で言った。
「心が十分に『どうしても』と決意していないときに起こります。継続的に『どこへ』に集中しなければなりません。そして、慌てず、しかし慎重に『どういう意図で』を忘れずに動こと……そうすれば」
トワイクロスは前に進み出て両腕を伸ばし、その場で優雅に回転してローブの渦の中に消えたかと思うと、大広間の後ろに再び姿を現した。
「三つの『D』を忘れないように」トワイクロスが言った。
「ではもう一度……いち――に――さん――」
しかし、一時間経っても、スーザンの「ばらけ」以上におもしろい事件はなかった。
トワイクロスは別に落胆した様子もない。
首のところでマントの紐を結びながら、ただこう言った。
「では、みなさん、次の土曜日に。忘れないでくださいよ、『集中』、『真剣』、『慎重』!」
そう言うなりトワイクロスが杖を一振りすると、輪っかが全部消えた。トワイクロスはマクゴナガル先生に付き添われて大広間を出ていった。
生徒たちは玄関ホールへと移動し、たちまちおしゃべりが始まった。
「どうだった?」ロンが急いでハリーのほうへやって来て聞いた。
「最後にやったとき、なんだか感じたみたいな気がするな――両足がジンジンするみたいな」
「スニーカーが小さすぎるんじゃないの、ウォン・ウォン」
背後で声がして、ハーマイオニーが冷ややかな笑いを浮かべながら、つんけんと二人を追い越していった。
「僕は何にも感じなかった」ハリーは茶々が入らなかったかのように言った。
「だけど、いまはそんなことどうでもいい――」
「どういうことだ?どうでもいいって……『姿現わし』を覚えたくないのか?」
ロンが信じられないという顔をした。
「ほんとにどうでもいいんだ。僕は飛ぶほうが好きだ」
ハリーは振り返ってマルフォイがどこにいるかを確かめ、玄関ホールに出てから足を早めた。
「頼む、急いでくれ。僕、やりたいことがあるんだ……」
何だかわからないまま、ロンはハリーのあとから、グリフィンドール塔に向かって走った。
途中、ビープズに足止めを食った。
ビープズが五階のドアを塞いで、自分のズボンに火をつけないと開けてやらないと、通せん坊していたのだ。
しかし二人は、後戻りして、確実な近道の一つを使った。
五分もしないうちに、二人は肖像画の穴をくぐつていた。
「さあ、何するつもりか、教えてくれるか?」ロンが少し息を切らしながら聞いた。
「上で」
ハリーは談話室を横切り、先に立って男子寮へのドアを通りながら言った。
ハリーの予想どおり、寝室には誰もいなかった。
ハリーはトランクを開けて、引っ掻き回した。
ロンはイライラしながらそれを見ていた。
「ハリー……」
「マルフォイがクラップとゴイルを見張りに使ってる。クラップとさっき口論していた。僕は知りたいんだ……あった」
見つけたのは、四角に畳んだ羊皮紙で、見かけは白紙だ。
ハリーはそれを広げて、杖の先でコツコツ叩いた。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり……少なくともマルフォイは企んでる」
羊皮紙に「忍びの地図」がたちどころに現れた。
城の各階の詳細な図面が描かれ、城の住人の名前がついた小さな黒い点が、図面の周りを動き回っていた。
「マルフォイを探すのを手伝って」ハリーが急き込んで言った。
ベッドに地図を広げ、ハリーはロンと二人で覗き込んで探した。
「そこだ!」一・二分でロンが見つけた。
「スリザリンの談話室にいる。ほら……パーキンソン、ザビニ、クラップ、ゴイルと一緒だ……」
ハリーはがっかりして地図を見下ろしたが、すぐに立ち直った。
「よし、これからはマルフォイから目を離さないぞ」
ハリーは決然として言った。
「あいつがクラップとゴイルを見張りに立てて、どこかをうろついているのを見かけたら『透明マント』をかぶって、あいつが何しているかを突き止めに――」
ネビルが入ってきたので、ハリーは口をつぐんだ。
ネビルは焼け焦げの臭いをプンプンさせながら、トランクを引っ掻き回して着替えのズボンを探しはじめた。
マルフォイの尻尾を押さえようと決意したにもかかわらず、何のチャンスもつかめないまま一、二週間が過ぎた。
できるだけ頻繁に地図を見ていたし、ときには授業の合間に行きたくもないトイレに行ってまで調べたが、マルフォイが怪しげな場所にいるのを一度も見かけなかった。
もっとも、クラップやゴイルが、いつもより頻繁に二人きりで城の中を歩き回ったり―ときには人気のない廊下にじっとしていたりするのを見つけたものの、そういうときに、マルフォイは二人の近くにいないばかりか、地図のどこにいるのやら、まったく見つからなかった。
これは不思議千万だった。
マルフォイが実は学校の外に出ているという可能性をちらりと考えてもみたが、厳戒体制の敷かれた城で、そんなことができるとは考えられなかった。
地図上の何百という小さな黒い点に紛れて、マルフォイを見失ったのだろうと考えるしかなかった。
これまではいつもくっついていたマルフォイ、クラップ、ゴイルが、ばらばらな行動を取っている様子なのは、それぞれが成長したからだろう――ロンとハーマイオニーがそのいい例だと思うと、ハリーは悲しい気持ちになった。
二月が三月に近づいたが、天気は相変わらずだった。
しかも、雨だけでなく風までも強くなった。
談話室の掲示板に、次のホグズミード行きは取り消しという掲示が出たときには、全員が憤慨した。
ロンはカンカンだった。
「僕の誕生日だぞ!」ロンが言った。
「楽しみにしてたのに!」
「だけど、そんなに驚くようなことでもないだろう?」ハリーが言った。
「ケイティのことがあったあとだし」
ケイティはまだ「聖マンゴ病院」から戻っていなかった。
その上、「日刊予言者」には行方不明者の記事がさらに増え、その中にはホグワーツの生徒の親戚も何人かいた。
「だけど、ほかに期待できるものって言えば、バカバカしい『姿現わし』しかないんだぜ!」ロンがぶつくさ言った。
「すごい誕生日祝いだよ…?」
三回目の練習が終わっても、「姿現わし」は相変わらず難しく、何人かが「ばらけ」おおせただけだった。
焦燥感が高まると、ウィルキー・トワイクロスと口癖の「3S」に対する多少の反感が出てきて、トワイクロスの「3S」に刺激された綽名がたくさんついた。
ドンクサ、ドアホなどはまだましなほうだった。
三月一日の朝、ハリーもロンも、シェーマスとディーンがドタバタと朝食に下りていく音で起こされた。
「誕生日おめでとう、ロン」ハリーが言った。
「プレゼントだ」
ハリーがロンのベッドに放り投げた包みは、すでに小高く積み上げられていたプレゼントの山に加わった。
夜のうちに屋敷しもべ妖精が届けたのだろうと、ハリーは思った。
「あんがと」
ロンが眠そうに言った。
ロンが包み紙を破り取っている間にハリーはベッドから起き出しトランクを開けて、隠しておいた「忍びの地図」を探った。
毎回使ったあとは、そこに隠しておいたのだ。
トランクの中身を半分ほど引っくり返し、丸めたソックスの下に隠れていた地図をやっと見つけた。
ソックスの中には、幸運をもたらす魔法薬、フェリックス・フェリシスの瓶がいまもしまってある。
「よし」
ハリーはひとり言を言いながら地図をベッドに持ち帰り、ちょうどそのとき、ハリーのベッドの足側を通り過ぎていたネビルに聞こえないように、杖でそっと叩きながら呪文を呟いた。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり」
「ハリー、いいぞ!」
ロンは、ハリーが贈った真新しいクィディッチ・キーパーのグローブを振りながら、興奮していた。
「そりゃよかった」
ハリーは、マルフォイを探してスリザリン寮を克明に見ていたので、上の空の返事をした。
「おい……やつはベッドにいないみたいだぞ……」
ロンはプレゼントの包みを開けるのに夢中で、答えなかった。
ときどきうれしそうな声を上げていた。
「今年はまったく大収穫だ!」
ロンは、高そうな金時計を掲げながら大声で言った。
時計は縁に奇妙な記号がついていで、針の代わりに小さな星が動いていた。
「ほら、パパとママからの贈り物を見たか?おっどろきー、来年もう一回成人になろうかな……」
「すごいな」
ハリーはいっそう丹念に地図を調べながら、ロンの時計をちらりと見て気のない相槌を打った。
マルフォイほどこなんだ?大広間のスリザリンのテーブルで朝食を食べている様子もない……研究室に座っているスネイプの近くにも見当たらない……どのトイレにも、医務室にもいない……。
「一つ食うか?」
大鍋チョコレートの箱を差し出しながら、ロンがモグモグ言った。
「いいや」ハリーは目を上げた。
「マルフォイがまた消えた!」
「そんなはずない」
ロンはベッドを滑り降りて服を着ながら、二つ目の大鍋チョコを口に押し込んでいた。
「さあ、急がないと、空っ腹で『姿現わし』する羽目になるぞ……もっとも、そのほうが簡単かも……」
ロンは、大鍋チョコレートの箱を思案顔で見たが、肩をすくめて三個目を食べた。
ハリーは、杖で地図を叩き、まだ完了していなかったのに「いたずら完了」と唱えた。
それから服を着ながら、必死で考えた。
マルフォイがときどき姿を消すことには、必ず何か説明がつくはずだ。
しかし、ハリーにはさっぱり思いつかない。
いちばんいいのはマルフォイのあとを追けることだが、「透明マント」があるにせよ、これは現実的な案ではない。
授業はあるし、クィディッチの練習やら宿題やら「姿現わし」の練習まである。
一日中学校内でマルフォイを追け回していたら、どうしたってハリーの欠席が問題視されてしまう。
「行こうか?」ハリーがロンに声をかけた。
寮のドアまで半分ほど歩いたところで、ハリーは、ロンがまだ動いていないのに気づいた。
ベッドの柱に寄り掛かり、奇妙にぼけっとした表情で、雨の打ちつける窓を眺めていた。
「ロン?朝食だ」
「腹へってない」ハリーは目を丸くした。
「たったいま、君、言ったじゃ――?」。
「ああ、わかった。一緒に行くよ」ロンはため息をついた。
「だけど、食べたくない」
ハリーは何事かと、ロンをよくよく観察した。
たったいま、大鍋チョコレートの箱を半分も食べちゃったもんな?」
「そのせいじゃない」ロンはまたため息をついた。
「君には……君には理解できっこない」
「わかったよ」
さっぱりわからなかったが、ハリーは、ロンに背を向けて寮のドアを開けた。
「ハリー!」出し抜けにロンが呼んだ。
「何だい?」
「ハリー、僕、我慢できない!」
「何を?」
ハリーはこんどこそ何かおかしいと思った。
ロンは、かなり蒼い顔をして、いまにも吐きそうだった。
「どうしてもあの女のことを考えてしまうんだ!」ロンが、かすれ声で言った。
ハリーは唖然としてロンを見つめた。
こんなことになろうとは思わなかったし、そんな言葉は聞きたくなかったような気がする。
ロンとはたしかに友達だが、ロンがラベンダーを「ラブ・ラブ」と呼びはじめるようなら、ハリーとしても断固とした態度を取らねばならない。
「それがどうして、朝食を食べないことにつながるんだ?」
事のなりゆきに、なんとか常識の感覚を持ち込まねばと、ハリーが聞いた。
「あの女は、僕の存在に気づいていないと思う」
ロンは絶望的な仕種をした。
「あの女は、君の存在にははっきり気づいているよ」
ハリーは戸惑った。
「しょっちゅう君にイチャついてるじゃないか?」
ロンは目をパチクリさせた。
「誰のこと言ってるんだ?」
「君こそ誰の話だ?」ハリーが聞き返した。
この会話はまったく辻複が合っていないという気持が、だんだん強くなっていた。
「ロミルダ・ペイン」
ロンは優しく言った。
そのとたん、ロンの顔が、混じりけのない太陽光線を受けたように、パッと輝いたように見えた。
二人はまるまる一分間見つめ合った。そしてハリーが口を開いた。
「冗談だろう?冗談言うな」
「僕……ハリー、僕、あの女を愛していると思う」ロンが首を絞められたような声を出した。
「オッケー」
ハリーは、ロンのぼんやりした目と蒼白い顔をよく見ようと、ロンに近づいた。
「オッケー……もう一度真顔で言ってみろよ」
「愛してる」ロンは息を弾ませながら言った。
「あの女の髪を見たか?まっ黒でつやつやして、絹のように滑らかで……それにあの目はどうだ?ぱっちりした黒い目は?そしてあの女の――」
「いい加減にしろ」ハリーはイライラした。
「冗談はもうおしまいだ。いいか?もうやめろ」
ハリーは背を向けて立ち去りかけたが、ドアに向かって三歩と行かないうちに、右耳にガツンと一発食らった。
ハリーがよろけながら振り返ると、ロンが拳を構えていた。
顔が怒りで歪み、またしてもパンチを食らわそうとしていた。
ハリーは本能的に動いた。
ポケットから杖を取り出し、何も意識せずに、思いついた呪文をとな唱えた。
「レビコーパス!」
ロンは悲鳴を上げ、またしても踝からひねり上げられて逆さまにぶら下がり、ローブがダラリと垂れた。
「何の恨みがあるんだ?」ハリーが怒鳴った。
「君はあの女を侮辱した!ハリー!冗談だなんて言った!」
ロンが叫んだ。
血が一度に頭に下がって、顔色が徐々に紫色になっていた。
「まともじゃない!」ハリーが言った。
「いったい何に取り憑かれた――?」
そのときふと、ロンのベッドで開けっぱなしになっている箱が目についた。
事の真相が、暴走するトロール並みの勢いで閃いた。
「その大鍋チョコレートを、どこで手に入れた?」
「僕の誕生プレゼントだ!」ロンは体を自由にしようともがいて、空中で大きく回転しながら叫んだ。
「君にも一つやるって言ったじゃないか?」
「さっき床から拾った。そうだろう?」
「僕のベッドから落ちたんだ。わかったら下ろせ!」
「君のベッドから落ちたんじゃない。このマヌケ、まだわからないのか?それは僕のだ。地図を探してたとき、僕がトランクから放り出したんだ。クリスマスの前にロミルダが僕にくれた大鍋チョコレート。全部惚れ薬が仕込んであったんだ!」
しかし、これだけ言っても、ロンには一言しか頭に残らなかったようだ。
「ロミルダ?」ロンが繰り返した。
「ロミルダって言ったか?ハリー――あの女を知っているのか?紹介してくれないか?」ハリーは、こんどは期待ではち切れそうになった宙吊りのロンの顔をまじまじと見て、笑い出したいのをぐっとこらえた。
頭の一部では――特にズキズキする右耳のあたりが――ロンを下ろしてやり、ロンが突進していくのを薬の効き目が切れるまで見物してみたいと思った……しかし、何と言っても、二人は友達じゃないか。
攻撃したときのロンは、自分が何をしているのかわからなかったのだ。
ロンがロミルダ・ペインに永遠の愛を告白するようなまねをさせたりしたら、自分はもう一度パンチを食らうに値すると、ハリーは思った。
「ああ、紹介してやるよ」
ハリーは忙しく考えをめぐらせながら言った。
「それじゃ、いま、下ろしてやるからな。いいか?」
ハリーは、ロンが床にわざと激突するように下ろした(なにしろハリーの耳は、相当痛んでいた)。
しかし、ロンは何でもなさそうに、ニコニコして弾むように立ち上がった。
「ロミルダは、スラグホーンの部屋にいるはずだ」
ハリーは先に立ってドアに向かいながら、自信たっぷりに言った。
「どうしてそこにいるんだい?」ロンは急いで追いつきながら、心配そうに聞いた。
「ああ、魔法薬の特別授業を受けている」ハリーはいい加減にでっち上げて答えた。
「一緒に受けられないかどうか、頼んでみようかな?」ロンが意気込んで言った。
「いい考えだ」ハリーが言った。
肖像画の穴の横で、ラベンダーが待っていた。
ハリーの予想しなかった、複雑な展開だ。
「遅いわ、ウォン・ウォン!」ラベンダーが唇を尖らせた。
「お誕生日にあげようと思って――」「ほっといてくれ」ロンがイライラと言った。
「ハリーが僕を、ロミルダ・ペインに紹介してくれるんだ」
それ以上一言も言わず、ロンは肖像画の穴に突進して出ていった。
ハリーは、ラベンダーにすまなそうな顔を見せたつもりだったが、「太った婦人」が二人の背後でピシャリと閉じる直前、ラベンダーがますますむくれ顔になっていたことから考えると、ただ単に愉快そうな表情になっていたのかもしれない。
スラグホーンが朝食に出ているのではないかと、ハリーはちょっと心配だったが、ドアを一回叩いただけで、緑のビロードの部屋着に、お揃いのナイトキャップをかぶったスラグホーンが、かなり眠そうな目をして現れた。
「ハリー」スラグホーンがブツプツ言った。
「訪問には早すぎるね……土曜日はだいたい遅くまで寝ているんだが……」
「先生、お邪魔して本当にすみません」
ハリーはなるべく小さな声で言った。
ロンは爪先立ちになって、スラグホーンの頭越しに部屋を覗こうとしていた。
「でも、友達のロンが、間違って惚れ薬を飲んでしまったんです。先生、解毒剤を調合してくださいますよね?マダム・ポンフリーのところに連れていこうと思ったんですが、ウィズリー・ウィザード・ウィーズからは何も買ってはいけないことになっているから、あのー都合の悪い質問なんかされると……
「君なら、ハリー、君ほどの魔法薬作りの名手なら、治療薬を調合できたのじゃないかね?」
「えーと」
ロンが無理やり部屋に入ろうとして、こんどはハリーの脇腹を小突いているので、ハリーは気が散った。
「あの、先生、僕は惚れ薬の解毒剤を作ったことがありませんし、ちゃんと出来上がるまでに、ロンが何か大変なことをしでかしたりすると――」
うまい具合に、ちょうどそのときロンが叩いた。
「あの女がいないよ、ハリー――この人が隠してるのか?」
「その薬は使用期限内のものだったかね?」
スラグホーンは、こんどは専門家の目でロンを見ていた。
「いやなに、長く置けば置くほど強力になる可能性があるのでね」
「それでよくわかりました」
スラグホーンを叩きのめしかねないロンと、いまや本気で格闘しながら、ハリーが喘ぎ喘ぎ
「先生、今日はこいつの誕生日なんです」ハリーが懇願した。
「ああ、よろしい。それでは入りなさい。さあ」スラグホーンが和らいだ。
「わたしのカバンに必要な物がある。難しい解毒剤ではない……」
ロンは猛烈な勢いで、暖房の効きすぎた、ごてごてしたスラグホーンの部屋に飛び込んだが、房飾りつきの足置き台につまずいて転びかけ、ハリーの首根っこにつかまってやっと立ち直った。
「あの女は見てなかっただろうな?」とロンが呟いた。
「あの女は、まだ来ていないよ」
スラグホーンが魔法薬キットを開けて、小さなクリスタルの瓶に、あれこれ少しずつ摘まんでは加えるのを見ながら、ハリーが言った。
「よかった」ロンが熱っぽく言った。
「僕、どう見える?」
「とても男前だ」
スラグホーンが、透明な液体の入ったグラスをロンに渡しながら、よどみなく言った。
「さあ、これを全部飲みなさい。神経強壮剤だ。彼女が来たとき、それ、君が落ち着いていられるようにね」
「すごい」ロンは張り切って、解毒剤をズルズルと派手な音を立てながら飲み干した。
ハリーもスラグホーンもロンを見つめた。
しばらくの問、ロンは二人にニッコリ笑いかけていたが、やがてニッコリはゆっくりと引っ込み、消え去って、極端な恐怖の表情と入れ替わった。
「どうやら、元に戻った?」ハリーはニヤッと笑った。
スラグホーンはクスクス笑っていた。
「先生、ありがとうございました」
「いやなに、かまわん、かまわん」
打ちのめされたような顔で、そばの肘掛椅子に倒れ込むロンを見ながら、スラグホーンが言った。
「気つけ薬が必要らしいな」スラグホーンが、こんどは飲み物でびっしりのテーブルに急ぎながら言った。
「バタービールがあるし、ワインもある。オーク樽熟成の蜂蜜酒は最後の一本だ……ウーム……ダンブルドアにクリスマスに贈るつもりだったが……まあ、それは……」
スラグホーンは肩をすくめた。
「……もらっていなければ、別に残念とは思わないだろう!いま開けて、ミスター・ウィーズリーの誕生祝いといくかね?失恋の痛手を追い払うには、上等の酒に勝るものなし……」
スラグホーンはまたうれしそうに笑い、ハリーも一緒に笑った。
真実の記憶を引き出そうとして大失敗したあのとき以来、スラグホーンとほとんど二人だけになったのは、初めてだった。
スラグホーンの上機嫌を続けさせることができれば、もしかして……オーク樽熟成の蜂蜜酒をたっぷり飲み交わしたあとで、もしかしたら……。
「そーら」
スラグホーンがハリーとロンにそれぞれグラスを渡し、それから自分のグラスを挙げて言った。
「さあ、誕生日おめでとう、ラルフ――」
「――ロンです――」ハリーが囁いた。
しかしロンは、乾杯の音頭が耳に入らなかったらしく、とっくに蜂蜜酒を口に放り込み、ゴクリと飲んでしまった。
ほんの一瞬だった。心臓が一鼓動する間もなかった。
ハリーは何かとんでもないことが起きたのに気づいた。
スラグホーンは、どうやら気づいていない。
「――いついつまでも健やかで――」
「ロン!」
ロンは、グラスをポトリと落とした。椅子から立ち上がりかけたとたん、グシャリと崩れ、手足が激しく疫撃しはじめた。
口から抱を吸き、両眼が飛び出している。
「先生!」ハリーが大声を上げた。
「何とかしてください!」
しかし、スラグホーンは、衝撃で唖然とするばかりだった。
ロンはピクビク疫撃し、息を詰まらせた。
皮膚が紫色になってきた。
「いったい――しかし――」スラグホーンはしどろもどろだった。
ハリーは低いテーブルを飛び越して、開けっぱなしになっていたスラグホーンの魔法薬キットに飛びつき、瓶や袋を引っぱり出した。
その間も、ゼイゼイというロンの恐ろしい断末魔の息遣いが聞こえていた。
やっと見つけた――魔法薬の授業でスラグホーンがハリーから受け取った、萎びた肝臓のような石だ。
ハリーはロンのそばに飛んで戻り、顎をこじ開け、ベゾアール石を口に押し込んだ。
ロンは大きく身震いしてゼーッと息を吐き、ぐったりと静かになった。
第19章 しもべ妖精の尾行
Elf Tails
「それじゃ結局、ロンにとってはいい誕生日じゃなかったわけか?」フレッドが言った。
日はすっかり暮れていた。
窓にはカーテンが引かれ、静かな病棟にランプが灯っている。
病床に横たわっているのはロン一人だけだった。
ハリー、ハーマイオニー、ジニーは、ロンの周りに座っていた。
三人とも両開きの扉の外で一日中待ち続け、誰かが出入りするたびに中を覗こうとしたが、八時になってやっとマダム・ポンフリーが中に入れてくれた。
フレッドとジョージは、それから十分ほどしてやって来た。
「俺たちの想像したプレゼント贈呈の様子はこうじゃなかったな」
ジョージが、贈り物の大きな包みをロンのベッド脇の整理棚の上に置き、ジニーの隣に座りながら真顔で言った。
「そうだな。俺たちの想像した場面では、こいつは意識があった」フレッドが言った。
「俺たちはホグズミードで、こいつをびっくりさせてやろうと待ち構えてた――」ジョージが言った。
「ホグズミードにいたの?」ジニーが顔を上げた。
「ゾンコの店を買収しようと考えてたんだ」フレッドが暗い顔をした。
「ホグズミード支店というわけだ。しかし、君たちが週末に、うちの商品を買いにくるための外出を許されないとなりゃ、俺たちゃいい面の皮だ……まあ、いまはそんなこと気にするな」
フレッドはハリーの横の椅子を引いて、ロンの蒼い顔を見た。
「ハリー、いったい何が起こったんだ?」ハリーは、ダンブルドアや、マクゴナガル、マダム・ポンフリーやハーマイオニー、ジニーに、もう百回も話したのではないかと思う話を繰り返した。
「……・それで、僕がベゾアール石をロンの喉に押し込んだら、ロンの息が少し楽になって、スラグホーンが助けを求めに走ったんだ。マクゴナガルとマダム・ポンフリーが駆けつけて、ロンをここに連れてきた。二人ともロンは大丈夫だろうって言ってた。マダム・ポンフリーは、一週間ぐらいここに入院しなきゃいけないって……悲嘆草のエキスを飲み続けて……」
「まったく、君がベゾアール石を思いついてくれたのは、ラッキーだったなあ」ジョージが低い声で言った。
「その場にベゾアール石があってラッキーだったよ」
ハリーは、あの小さな石がなかったらいったいどうなっていたかと考えるたびに、背筋が寒くなった。
ハーマイオニーが、ほとんど聞こえないほど微かに鼻をすすった。
ハーマイオニーは一日中、いつになく黙り込んでいた。
病棟の外に立っていたハリーのところへ、ハーマイオニーはまっ青な顔で駆けつけた。
何が起こったのかを聞き出したあとは、ハリーとジニーが、ロンはなぜ毒を盛られたのかと憑かれたように議論しているのにもほとんど加わらず、ただ二人のそばに突っ立って、やっと面会の許可が出るまで、歯を食いしばり顔を引きつらせていた。
「親父とおふくろは知ってるのか?」フレッドがジニーに聞いた。
「もうお見舞いに来たわ。一時間前に着いたの――いま、ダンブルドアの校長室にいるけど、まもなく戻ってくる――」
みんなしばらく黙り込み、ロンがうわ言を言うのを見つめていた。
「それじゃ、毒はその飲み物に入ってたのか?」フレッドがそっと聞いた。
「そう」ハリーが即座に答えた。
そのことで頭が一杯だったので、その問題をまた検討する機会ができたことを喜んだ。
「スラグホーンが注いで――」
「君に気づかれずに、スラグホーンが、ロンのグラスにこっそり何か入れることはできたか?」
「たぶん」ハリーが言った。
「だけど、スラグホーンがなんでロンに毒を盛りたがる?」
「さあね」フレッドが顔をしかめた。
「グラスを間違えたってことは考えられないか?君に渡すつもりで?」
「スラグホーンがどうしてハリーに毒を盛りたがるの?」ジニーが聞いた。
「さあ」フレッドが言った。
「だけど、ハリーに毒を盛りたいやつは、ごまんといるんじゃないか?『選ばれし者』云々だろ?」
「じゃ、スラグホーンが『死喰い人』だってこと?」ジニーが言った。
「何だってありうるよ」フレッドが沈んだ声で言った。
「『服従の呪文』にかかっていたかもしれないし」ジョージが言った。
「スラグホーンが無実だってこともありうるわ」ジニーが言った。
「毒は瓶の中に入っていたかもしれないし、それなら、スラグホーン自身を狙っていた可能性もある」
「スラグホーンを、誰が殺したがる?」
「ダンブルドアは、ヴォルデモートがスラグホーンを味方につけたがっていたと考えている」
ハリーが言った。
「スラグホーンは、ホグワーツに来る前、一年も隠れていた。それに……」
ハリーは、ダンブルドアがスラグホーンからまだ引き出せない記憶のことを考えた。 「それに、もしかしたらヴォルデモートは、スラグホーンを片付けたがっているのかもしれないし、スラグホーンがダンブルドアにとって価値があると考えているのかもしれない」
「だけど、スラグホーンは、その瓶をクリスマスにダンブルドアに贈ろうと計画してたって言ったわよね」ジニーが、ハリーにそのことを思い出させた。
「だから、毒を盛ったやつが、ダンブルドアを狙っていたという可能性も同じぐらいあるわ」
「それなら、毒を盛ったのは、スラグホーンをよく知らない人だわ」
何時問も黙っていたハーマイオニーが、初めて口をきいたが、鼻風邪を引いたような声だった。
「知っている人だったら、そんなにおいしい物は、自分でとっておく可能性が高いことがわかるはずだもの」
「アーマイニー」誰も予想していなかったのに、ロンがシワガレ声を出した。
みんなが心配そうにロンを見つめて息をひそめたが、ロンは、意味不明の言葉をしばらくブツブツ言ったきり、単純にいびきをかき始めた。
病棟のドアが急に開き、みんなが飛び上がった。ハグリッドが大股で近づいてきた。
髪は雨粒だらけで、石弓を手に熊皮のオーバーをはためかせ、床にイルカぐらいある大きい泥だらけの足跡をつけながらやってくる。
「一日中禁じられた森にいた!」ハグリッドが息を切らしながら言った。
「アラゴグの容態が悪くなって、俺はあいつに本を読んでやっとった――たったいま夕食に来たとこなんだが、そしたらスプラウト先生からロンのことを聞いた!様子はどうだ?」
「そんなに悪くないよ」ハリーが言った。
「ロンは大丈夫だって言われた」
「お見舞いは一度に六人までです!」マダム・ポンフリーが事務所から急いで出てきた。
「ハグリッドで六人だけど」ジョージが指摘した。
「あ……そう……」
マダム・ポンフリーは、ハグリッドの巨大さのせいで数人分と数えていたらしい。
自分の勘違いをごまかすのに、マダム・ポンフリーは、せかせかと、ハグリッドの足跡の泥を杖で掃除しにいった。
「信じられねえ」
ロンをじっと見下ろして、でっかいぼさぼさ頭を振りながら、ハグリッドがかすれた声で言った。
「まったく信じられねえ……ロンの寝顔を見てみろ……ロンを傷つけようなんてやつは、いるはずがねえだろうが?あ?」
「いまそれを話していたところだ」ハリーが言った。
「わからないんだよ」
「グリフィンドールのクィディッチ・チームに恨みを持つやつがいるんじゃねえのか?」
ハグリッドが心配そうに言った。
「最初はケイティ、こんどはロンだ……」
「クィディッチ・チームを、殺っちまおうなんてやつはいないだろう」ジョージが言った。
「ウッドなら別だ。やれるもんならスリザリンのやつらを殺っちまったかもな」
フレッドが納得のいく意見を述べた。
「そうね、クィディッチだとは思わないけど、事件の間に何らかの関連性があると恩うわ」
ハーマイオニーが静かに言った。
「どうしてそうなる?」フレッドが聞いた。
「そう、一つには、両方とも致命的な事件のはずだったのに、そうはならなかった。もっとも、単に幸運だったにすぎないけど。もう一つには、毒もネックレスも、殺す予定の人物までたどり着かなかった。もちろん……」
ハーマイオニーは、考え込みながら言葉を続けた。
「そのことで、事件の陰にいるのが、ある意味ではより危険人物だということになるわ。
だって、目的の犠牲者にたどり着く前に、どんなにたくさんの人を殺すことになっても、犯人は気にしないみたいですもの」
この不吉な意見にまだ誰も反応しないうちに、再びドアが開いて、ウィーズリー夫妻が急ぎ足で病棟に入ってきた。
さっき来たときには、ロンが完全に回復すると知って安心すると、すぐにいなくなったのだが、こんどはウィーズリーおばさんが、ハリーを捕まえてしっかり抱きしめた。
「ダンブルドアが話してくれたわ。あなたがベゾアール石でロンを救ったって」おばさんはすすり泣いた。
「ああ、ハリー。何てお礼を言ったらいいの?あなたはジニーを救ってくれたし、アーサーも……こんどはロンまでも……」
「そんなに……僕、別に……」ハリーはどぎまぎして呟くように言った。
「考えてみると、家族の半分が君のおかげで命拾いした」おじさんが声を詰まらせた。
「そうだ、ハリー、これだけは言える。ロンが、ホグワーツ特急で君と同じコンパートメントに座ろうと決めた日こそ、ウィーズリー一家にとって幸運な日だった」
ハリーは何と答えていいやら思いつかなかった。
マダム・ポンフリーが、ロンのベッドの周りには最大六人だけだと、再度注意しに戻ってきたときは、かえってほっとした。
ハリーとハーマイオニーがすぐに立ち上がり、ハグリッドも二人と一緒に出ることに決め、ロンの家族だけをあとに残した。
「ひでえ話だ」
三人で大理石の階段に向かって廊下を歩きながらハグリッドが顎翼に顔を埋めるようにして唸った。
「安全対策を新しくしたっちゅうても、子どもたちはひどい目に遭ってるし……ダンブルドアは心配で病気になりそうだ……あんまりおっしゃらねえが、俺にはわかる……」
「ハグリッド、ダンブルドアに何かお考えはないのかしら?」
ハーマイオニーがすがる思いで聞いた。
「何百っちゅうお考えがあるに違えねえ。あんなに頭のええ方だ」
ハグリッドが揺るがぬ自信を込めて言った。
「そんでも、ネックレスを贈ったやつは誰で、あの蜂蜜酒に毒を入れたのは誰だっちゅうことがおわかりになんねえ。わかってたら、やつらはもう揃まっとるはずだろうが?俺が心配しとるのはな」
ハグリッドは、声を落としてちらりと後ろを振り返った(ハリーは、ビープズがいないかどうか、念のため天井もチェックした)。
「子どもたちが襲われてるとなれば、ホグワーツがいつまで続けられるかっちゅうことだ。またしても『秘密の部屋』の繰り返しだろうが?パニック状態になる。親たちが学校から子どもを連れ帰る。そうなりゃ、ほれ、次は学校の理事会だ……」
長い髪の女性のゴースーがのんびりと漂っていったので、ハグリッドはいったん言葉を切ってから、またかすれ声で囁きはじめた。
「……理事会じゃあ、学校を永久閉鎖する話をするに決まっちょる」
「まさか?」ハーマイオニーが心配そうに言った。
「あいつらの見方で物を見にゃあ」ハグリッドが重苦しく言った。
「そりゃぁ、ホグワーツに子どもを預けるっちゅうのは、いつでもちいとは危険を伴う。そうだろうが?何百人っちゅう未成年の魔法使いが一緒にいりやあ、事故もあるっちゅうもんだ。だけんど、殺人未遂っちゅうのは、話が違う。そんで、ダンブルドアが立腹なさるのも無理はねえ。あのスネ――」
ハグリッドは、はたと足を止めた。
モジャモジャの黒馨から上のほうしか見えない顔に、いつもの「しまった」という表情が浮かんだ。
「えっ?」ハリーがすばやく突っ込んだ。
「ダンブルドアがスネイプに腹を立てたって?」
「俺はそんなこと言っとらん」
そう言ったものの、ハグリッドの慌てふためいた顔のほうがよっぽど雄弁だった。
「こんな時間か。もう真夜中だ。俺は――」
「ハグリッド、ダンブルドアはどうしてスネイプを怒ったの?」ハリーは大声を出した。
「シーッ!」
ハグリッドは緊張しているようでもあり、怒っているようでもあった。
「そういうことを大声で言うもンでねえ、ハリー。俺をクビにしてぇのか?そりゃあ、そんなことはどうでもええんだろう。もう俺の『飼育学』の授業を取ってねえんだしー」
「そんなことを言って、僕に遠慮させようとしたってムダだ!」ハリーが語調を強めた。
「スネイプは何をしたんだ?」
「知らねえんだ、ハリー。俺は何にも聞くべきじゃあなかった!俺は――まあ、いつだったか、夜に俺が森から出てきたら、二人で話しとるのが聞こえた――まあ、議論しちょった。俺のほうに気を引きたくはなかったんで、こそっと歩いて、何も聞かんようにしたんだ。だけんど、あれは――まあ、議論が熱くなっとって、聞こえねえようにするのは難しかったんでな」
「それで?」ハリーが促した。
ハグリッドは巨大な足をもじもじさせていた。
「まあ――俺が聞こえっちまったのは、スネイプが言ってたことで、ダンブルドアは何でもかんでも当然のように考えとるが、自分は――スネイプのことだがな――もうそういうこたぁやりたくねえと――」
「何をだって?」
「ハリー、俺は知らねえ。スネイプはちいと働かされすぎちょると感じてるみてえだった。それだけだ――とにかく、ダンブルドアはスネイプにはっきり言いなすった。スネイプがやるって承知したんだから、それ以上何も言うなってな。ずいぶんときつく言いなすった。それからダンブルドアは、スネイプが自分の寮のスリザリンを調査するっちゅうことについて、何か言いなすった。まあ、そいつは何も変なこっちゃねえ!」
ハリーとハーマイオニーが意味ありげに目配せし合ったので、ハグリッドが慌ててつけ加えた。
「寮監は全員、ネックレス事件を調査しろって言われちょるし――」
「ああ、だけど、ダンブルドアはほかの寮監と口論はしてないだろう?」ハリーが言った。
「ええか」
ハグリッドは、気まずそうに石弓を両手でねじった。
ボキッと大きな音がして、石弓が二つに折れた。
「スネイプのことっちゅうと、ハリー、おまえさんがどうなるか知っちょる。だから、いまのことを、変に勘ぐってほしくねえんだ」
「気をつけて」ハーマイオニーが早口で言った。
振り返ったとたん、背後の壁に映ったアーガス・フィルチの影が、だんだん大きくなってくるのが見えた。
そして、背中を丸め、顎を震わせながら、本人が角を曲がって現れた。
「オホッ!」フィルチがゼイゼイ声で言った。
「こんな時間にベッドを抜け出しとるな。つまり、罰則だ!」
「そうじゃねえぞ、フィルチ」ハグリッドが短く答えた。
「二人とも俺と一緒だろうが?
「それがどうしたんでござんすか?」フィルチが癇に障る言い方をした。
「俺が先生だってこった!このこそこそスクイブめ!」
ハグリッドがたちまち気炎を上げた。
フィルチが怒りで膨れ上がったとき、シャーッシャーッと嫌な昔が聞こえた。
いつの間にかミセス・ノリスが現れて、フィルチの痩せこけた踝に身体を巻きつけるように、しなしなと歩いていた。
「早く行け」ハグリッドが奥歯の奥から言った。
言われるまでもなかった。ハリーもハーマイオニーも、急いでその場を離れた。
ハグリッドとフィルチの怒鳴り合いが、走る二人の背後で響いていた。
グリフィンドール塔に近い曲がり角で、ビープズとすれ違ったが、ビープズはうれしそうに高笑いし、叫びながら、怒鳴り合いの聞こえてくるほうに急いでいた。
けんかはビープズに任せよう!
全部二倍にしてやろう!、
うとうとしていた「太った婦人」は、起こされて不機嫌だったが、グズグズ言いながらも開いて二人を通してくれた。
ありがたいことに、談話室は静かで誰もいなかった。
ロンのことはまだ誰も知らないらしい。
一日中うんざりするほど質問されていたハリーは、ほっとした。
ハーマイオニーがおやすみと挨拶して女子寮に戻ったが、ハリーはあとに残って暖炉脇に腰掛け、消えかけている残り火を見下ろしていた。
それじゃ、ダンブルドアはスネイプと口論したのか。
僕にはああ言ったのに、スネイプを完全に信用していると主張したのに、ダンブルドアはスネイプに対して腹を立てたんだ……スネイプがスリザリン生を十分に調べなかったと考えたからだろうか……それとも、たった一人、マルフォイを十分調べなかったからなのか?
ダンブルドアが、ハリーの疑惑は取るに足らないというふりをしたのは、ハリーが自分でこの件を解決しようなどと、愚かなことをしてほしくないと考えたからなのだろうか?それはありうることだ。
もしかしたら、ダンブルドアの授業や、スラグホーンの記憶を聞き出すこと以外は、ほかにいっさい気を取られてほしくなかったのかもしれない。
たぶんダンブルドアは、教員に対する自分の疑念を、十六歳の者に打ち明けるのは正しいことではないと考えたのだろう……。
「ここにいたのか、ポッター!」
ハリーは度肝を抜かれて飛び上がり、杖を構えた。
談話室には絶対に誰もいないと思い込んでいたので、離れた椅子から突然ヌーッと立ち上がった影には不意を食らわされた。
よく見ると、コーマック・マクラーゲンだった。
「君が帰ってくるのを待っていた」
マクラーゲンは、ハリーの抜いた杖を無視して言った。
「眠り込んじまったらしい。いいか、ウィーズリーが病棟に運び込まれるのを見ていたんだ。来週の試合ができる状態ではないようだ」
しばらくしてやっと、ハリーは、マクラーゲンが何の話をしているかがわかった。
「ああ……そう……クィディッチか」
ハリーはジーンズのベルトに杖を戻し、片手で物憂げに髪を掻いた。
「うん……だめかもしれないな」
「そうか、それなら、僕がキーパーつてことになるな?」マクラーゲンが言った。
「ああ」ハリーが言った。
「うん、そうだろうな……」
ハリーは反論を思いつかなかった。
何と言っても、マクラーゲンが、選抜では二位だったのだ。
「よーし」マクラーゲンが満足げに言った。
「それで、練習はいつだ?」
「え?ああ……明日の夕方だ」
「よし。いいか、ポッター、その前に話がある。戦略について考えがある。君の役に立つと恩うんだ」
「わかった」ハリーは気のない返事をした。
「まあ、それなら、明日聞くよ。いまはかなり疲れてるんだ……またな」
ロンが毒を盛られたというニュースは、次の日たちまち広まったが、ケイティの事件ほどの騒ぎにはならなかった。
ロンはそのとき魔法薬の先生の部屋にいたのだから、単なる事故だったのだろうと考えられたこともあり、すぐに解毒剤を与えられたため大事には至らなかったというせいもある。
事実、グリフィンドール生全体の関心は、むしろ差し迫ったクィディッチのハッフルパフ戦のほうに大きく傾いていた。
ハッフルパフのチェイサー、ザカリアス・スミスが、シーズン開幕の対スリザリン戦であんな解説をしたからには、今回は十分にとっちめられるところを見たいと願ったからだ。
しかし、ハリーのほうは、いままでこんなにクィディッチから気持が離れたことはなかった。
急速にドラコ・マルフォイに執着するようになっていた。
相変わらず、機会さえあれば「忍びの地図」を調べていたし、マルフォイの立ち寄った場所にわざわざ行ってみることもあったが、マルフォイがふだんと違うことをしている様子はなかった。
しかし、不可解にも地図から消えてしまうことがときどきあった……。
ハリーには、この間題を深く考えている時間がなかった。
クィディッチの練習、宿題、それにこんどは、あらゆるところでコーマック・マクラーゲンとラベンダー・ブラウンにつきまとわれていた。
二人のうちどっちがより煩わしいのか、優劣をつけがたいほどだった。
マクラーゲンは、ロンより自分のほうがキーパーのレギュラーとしてふさわしいし、自分のプレイぶりを定期的に目にするようになったハリーも、きっとそう考えるようになるに違いないと、ひっきりなしに仄めかし続けた。
そのうえ、マクラーゲンはチームのほかのメンバーを批評したがり、ハリーに練習方法を細かく提示した。
ハリーは一度ならず、どっちがキャプテンかを言い聞かせなければならなかった。
一方ラベンダーは、しょっちゅうハリーににじり寄って、ロンのことを話した。
ハリーは、マクラーゲンからクィディッチの説教を聞かされるよりもげんなりした。
はじめのうちラベンダーは、ロンの入院を誰も自分に教えようとしなかったことで苛立っていた――「だって、ロンのガールフレンドはわたしよ!」ところが、不運なことに、ラベンダーは、ハリーが教えるのを忘れていたのは許すことに決め、こんどはロンの愛情について、ハリーに細々としゃべりたがった。
ハリーにとっては、喜んで願い下げにしたい、何とも不快な経験だった。
「ねえ、そういうことはロンに話せばいいじゃないか!」
ことさら長いラベンダーの質問攻めに辟易したあとで、ハリーが言った。
ラベンダーの話は、自分の新しいローブについてロンがどう言ったか逐一聞かせるところから、ロンが自分との関係を「本気」だと考えているかとハリーに意見を求めるところまで、ありとあらゆるものを含んでいた。
「ええ、まあね。だけどわたしがお見舞いにいくとロンはいつも寝てるんですもの!」
ラベンダーはじりじりしながら言った。
「寝てる?」ハリーは驚いた。
ハリーが病棟に行ったときはいつでも、ロンはしっかり目を覚ましていて、ダンブルドアとスネイプの口論に強い興味を示したし、マクラーゲンをこき下ろすのに熱心だった。
「ハーマイオニー・グレンジャーは、いまでもロンをお見舞いしてるの?」
ラベンダーが急に詰問した。
「ああ、そうだと思うよ。だって、二人は友達だろう?」ハリーは気まずい思いで答えた。
「友達が聞いて呆れるわ」ラベンダーが嘲るように言った。
「ロンがわたしとつき合い出してからは、何週間も口をきかなかったくせに!でも、その埋め合わせをしようとしているんだと思うわ。ロンがいまはすごくおもしろいから……」
「毒を盛られたことが、おもしろいって言うのかい?」ハリーが聞いた。
「とにかく――ごめん、僕、行かなきゃ――マクラーゲンがクィディッチの話をしに来る」
ハリーは急いでそう言うと、壁のふりをしているドアに横っ飛びに飛び込み、魔法薬の教室への近道を疾走した。
ありがたいことに、ラベンダーもマクラーゲンも、そこまではついて来られなかった。
ハッフルパフとのクィディッチの試合の朝、ハリーは競技場に行く前に、病棟に立ち寄った。
ロンは相当動揺していた。
マダム・ポンフリーは、ロンが興奮しすぎるからと、試合を見にいかせてくれないのだ。
「それで、マクラーゲンの仕上がり具合はどうだ?」ロンは心配そうに開いた。
同じことをもう二回も聞いたのを、まったく忘れている。
「もう言っただろう」ハリーが辛抱強く答えた。
「あいつがワールドカップ級だったとしても、僕はあいつを残すつもりはない。選手全員にどうしろこうしろと指図するし、どのポジションも自分のほうがうまいと思っているんだ。あいつをきれいさっぱり切るのが待ち遠しいよ。切るって言えば――」
ハリーは、ファイアボルトをつかんで立ち上がりながら言った。
「ラベンダーが見舞いにくるたびに、寝たふりをするのはやめてくれないか?あいつは僕までイライラさせるんだ」
「ああ」ロンはばつの悪そうな顔をした。
「うん、いいよ」
「もう、あいつとつき合いたくないなら、そう言ってやれよ」ハリーが言った。
「うん……まあ……そう簡単にはいかないだろ?」ロンはふと口をつぐんだ。
「ハーマイオニーは試合前に顔を見せるかな?」ロンが何気なさそうに聞いた。
「いいや、もうジニーと一緒に競技場に行った」
「ふーん」ロンはなんだか落ち込んだようだった。
「そうか、うん、がんばれよ。こてんぱんにしてやれ、マクラー――じゃなかった、スミスなんか」
「がんばるよ」ハリーは箒を肩に担いだ。
「試合のあとでな」
ハリーは人気のない廊下を急いだ。
全校生が外に出てしまい、競技場に向かっている途中か、もう座席に座っているかだった。
ハリーは急ぎながら窓の外を見て、風の強さを計ろうとした。
そのとき、行く手で音がしたので目を向けると、マルフォイがやってくるではないか。
すねて仏頂面の女の子を二人連れている。
ハリーを見つけると、マルフォイは、はたと立ち止まったが、おもしろくもなさそうに短く笑うと、そのまま歩き続けた。
「どこに行くんだ?」ハリーが詰問した。
「ああ、教えて差し上げますとも、ポッター。どこへ行こうと大きなお世話、じゃないからねえ」マルフォイがせせら笑った。
「急いだほうがいいんじゃないか。『選ばれしキャプテン』をみんなが待っているからな『得点した男の子』――みんながこのごろは何て呼んでいるのか知らないがね」
女の子の一人が、取ってつけたようなクスクス笑いをした。
ハリーがその子をじっと見ると、女の子は顔を赤らめた。
マルフォイはハリーを押しのけるようにして通り過ぎた。
笑った女の子とその友達も、そのあとをトコトコついて行き、三人とも角を曲がって見えなくなった。
ハリーはその場に根が生えたように佇み、三人の姿を見送った。何たることだ。
試合までギリギリの時間しかないというそんなときに、マルフォイが空っぽの学校をこそこそ歩き回っている。
マルフォイの企みを暴くには、またとない最高の機会なのに。
刻々と沈黙の時が過ぎる間、ハリーはマルフォイの消えたあたりを見つめて、凍りついたように立ち尽くしていた。
「どこに行ってたの?」ハリーが更衣室に飛び込むと、ジニーが問い詰めた。
選手はもう全員着替えをすませて待機していた。
ビーターのクートとピークスは、ピリピリしながら梶棒で自分たちの脚を叩いていた。
「マルフォイに出会った」
ハリーは真紅のユニフォームを頭からかぶりながら、そっとジニーに言った。
「それで?」
「それで、みんながここにいるのに、やつがガールフレンドを二人連れて、城にいるのはなぜなのか、知りたかった……」
「いまのいま、それが大事なことなの?」
「さあね、それがわかれば苦労はないだろう?」
ハリーはファイアボルトを引っつかみ、メガネをしっかりかけ直した。
「さあ、行こう!」
あとは何も言わず、耳を聾する歓声と罵声に迎えられて、ハリーは堂々と競技場に進み出た。
風はほとんどない。雲は途切れ途切れで、ときどき眩しい陽光が輝いた。
「難しい天気だぞ!」
マクラーゲンがチームに向かって鼓舞するように言った。
「クート、ピークス、太陽を背にして飛べ。敵に姿が見られないようにな!」
「マクラーゲン、キャプテンは僕だ。選手に指示するのはやめろ」ハリーが憤慨した。
「ゴールポストのところに行ってろ!」
マクラーゲンが肩をそびやかして行ってしまったあとで、ハリーはクートとピークスに向き直った。
「必ず太陽を背にして飛べよ」ハリーはしかたなしに二人にそう言った。
ハリーはハッフルパフのキャプテンと握手をすませ、マダム・フーチのホイッスルで地面を蹴り、空に舞い上がった。ほかの選手たちよりずっと高く、スニッチを探して競技場の周囲を猛スピードで飛んだ。
早くスニッチをつかめば、城に戻って「忍びの地図」を持ち出し、マルフォイが何をしているかを見つけ出す可能性があるかもしれない……。
「そして、クアッフルを手にしているのは、ハッフルパフのスミスです」
地上から、夢見心地の声が流れてきた。
「スミスは、もちろん、前回の解説者でした。そして、ジニー・ウィーズリーがスミスに向かって飛んでいきましたね。たぶん意図的だったと恩うわ――そんなふうに見えたもン。スミスはグリフィンドールに、とっても失礼でした。対戦しているいまになって、それを後悔していることでしょう――あら、見て、スミスがクアッフルを落としました。ジニーが奪いました。あたし、ジニーが好きよ。とても素敵だもン……」
ハリーは目を見開いて解説者の演壇を見た。
まさか、まともな神経の持ち主なら、ルーナ・ラブグッドを解説者に立てたりはしないだろう?しかし、こんな高いところからでも、紛れもなく、あの濁り色のブロンドの長い髪、バタービールのコルクのネックレス……ルーナの横で、この人選はまずかったと思っているかのように、当惑気味の顔をしているのは、マクゴナガル先生だ。
「……でも、こんどは大きなハッフルパフ選手が、ジニーからクアッフルを取りました。何ていう名前だったかなあ、たしかビブルみたいなううん、バギンズかな――」
「キャッドワラダーです!」
ルーナの脇から、マクゴナガル先生が大声で言った。観衆は大笑いだ。
ハリーは目を凝らしてスニッチを探したが、影も形もない。
しばらくして、キャッドワラダーが得点した。
マクラーゲンは、ジニーがクアッフルを奪われたことを大声で批判していて、自分の右耳のそばを大きな赤い球がかすめて飛んでいくのに気づかなかったのだ。
「マクラーゲン、自分のやるべきことに集中しろ。ほかの選手にかまうな!」
ハリーはくるりとキーパーのほうに向き直って怒鳴った。
「君こそいい模範を示せ!」マクラーゲンがまっ赤になって怒鳴り返した。
「さて、こんどはハリー・ポッターがキーパーと口論しています」
下で観戦しているハッフルパフ生やスリザリン生が、歓声を上げたり野次ったりする中、ルーナがのどかに言った。
「それはハリー・ポッターがスニッチを見つける役には立たないと思うけど、でもきっと、賢い策略なのかもね……」
ハリーはカンカンになって悪態をつきながらへ向きを変えてまた競技場を回りはじめ、羽の生えた金色の球の姿を求めて空に目を走らせた。
ジニーとデメルザが、それぞれ一回ゴールを決め、下にいる赤と金色のサポーターが歓声を上げる機会を作った。
それからキャッドワラダーがまた点を入れ、スコアは対になったが、ルーナはそれに気づかないようだった。
点数なんていう俗なことにはまったく関心がない様子で、観衆の注意を形のおもしろい雲に向けたり、ザカリアス・スミスがクアッフルをそれまで一分以上持っていられなかったのは、「負け犬病」とかいう病気を患っている可能性があるという方向に持っていった。
「七〇対四〇、ハッフルパフのリード」マクゴナガル先生が、ルーナのメガフォンに向かって大声を出した。「もうそんなに?」ルーナが漠然と言った。
「あら、見て!グリフィンドールのキーパーが、ビーターの梶棒を一本つかんでいます」
ハリーは空中でくるりと向きを変えた。
たしかに、マクラーゲンが、どんな理由かはマクラーゲンのみぞ知るだが、ピークスの梶棒を取り上げ、突っ込んでくるキャッドワラダーに、どうやってプラッジャーを打ち込むかをやって見せているらしい。
「梶棒を適してゴールポストに戻れ!」
ハリーがマクラーゲンに向かって突進しながら吠えるのと、マクラーゲンがブラッジャーに獰猛な一撃を加えるのとが同時だった。
バカ当たりの一撃だった。
目が眩み、激烈な痛み……閃光……遠くで悲鳴が聞こえる……長いトンネルを落ちていく感じ……。
気がついたときには、ハリーはすばらしく暖かい快適なベッドに横たわり、薄暗い天井に金色の光の輪を描いているランプを見上げていた。
ハリーはぎこちなく頭を持ち上げた。
左側に、見慣れた赤毛のそばかす顔があった。
「立ち寄ってくれて、ありがと」ロンがニヤニヤした。
ハリーは目を瞬いて周りを見回した。
紛れもない。
ハリーは病棟にいた。
外はまっ赤な縞模様の藍色の空だ。
試合は何時間も前に終わったに違いない……マルフォイを追い詰める望みも同じくついえた。
頭が変に重たかった。
手で触ると、包帯で固くターバン巻きされていた。
「どうなったんだ?」
「頭蓋骨骨折です」
マダム・ポンフリーが慌てて出てきて、
ハリーを枕に押し戻しながら言った。
「心配いりません。わたしがすぐに治しました。でも一晩ここに泊めます。数時間は無理しちゃいけません」
「一晩ここに泊まっていたくありません」
体を起こし、掛け布団を跳ねのけて、ハリーがいきり立った。
「マクラーゲンを見つけ出して殺してやる」
「残念ながら、それは『無理する』の分類に入ります」
マダム・ポンフリーがハリーをしっかりとベッドに押し戻し、脅すように杖を上げた。
「私が退院させるまで、ポッター、あなたはここに泊まるのです。さもないと校長先生を呼びますよ」
マダム・ポンフリーは忙しなく事務所に戻っていき、ハリーは憤慨して枕に沈み込んだ。
「何点差で負けたか知ってるか?」ハリーは歯軋りしながらロンに聞いた。
「ああ、まあね」ロンが申しわけなさそうに言った。
「最終スコアは三二〇対六〇だった」
「すごいじゃないか」ハリーはカンカンになった。
「まったくすごい!マクラーゲンのやつ、捕まえたらただじゃ――」「捕まえないほうがいいぜ。あいつはトロール大だ」ロンがまっとうなことを言った。
「僕個人としては、プリンスの爪伸ばし呪いをかけてやる価値、大いにありだな。どっちにしろ、君が退院する前に、ほかの選手があいつを片付けちまってるかもしれない。みんなおもしろくないからな……」
ロンの声はうれしさを隠し損ねていた。
マクラーゲンがとんでもないへマをやったことでロンが間違いなくワクワクしているのが、ハリーにはわかった。
ハリーは天井の灯りの輪を見つめながら横たわっていた。
治療を受けたばかりの頭蓋骨は、たしかに痔きはしなかったが、グルグル巻きの包帯の下で少し過敏になっていた。
「ここから試合の解説が聞こえたんだ」ロンが言った。
声が笑いで震えていた。
「これからはずっとルーナに解説してほしいよ……『負け犬病』か……」
ハリーは腹が立って、こんな状況にユーモアを感じるどころではなかった。
しばらくすると、ロンの吹き出し笑いも収まった。
「君が意識を失ってるときに、ジニーが見舞いにきたよ」
しばらく黙ったあとで、ロンが言った。
ハリーの妄想が「無理する」域にまで膨れ上がった。
たちまち、ぐったりした自分の体に取りすがって、ジニーがよよと泣く姿を想像した。
ハリーに対する深い愛情を告白し、ロンが二人を祝福する……。
「君が試合ぎりぎりに到着したって言ってた。どうしたんだ?ここを出たときは十分時間があったのに」
「ああ……」心象風景がパチンと内部崩壊した。
「うん……それは、マルフォイが、嫌々一緒にいるみたいな女の子を二人連れて、こそこそ動き回ってるのを見たからなんだ。ほかの生徒がクィディッチ競技場に行ってるのに、わざわざあいつが行かなかったのは、これで二度目だ。この前の試合にも行かなかった。覚えてるか?」ハリーはため息をついた。
「試合がこんな惨敗なら、あいつを追跡していればよかったって、いまではそう思ってるよ」
「バカ言うな」ロンが厳しい声を出した。
「マルフォイを追けるためにクィディッチ試合を抜けるなんて、できるはずないじゃないか。君はキャプテンだ!」
「マルフォイが何を企んでるのか知りたいんだ」ハリーが言った。
「それに、僕の勝手な想像だなんて言うな。マルフォイとスネイプの会話を聞いてしまった以上……」
「君の勝手な想像だなんて言ったことないぞ」
こんどはロンが片肘をついて体を起こし、ハリーを睨んだ。
「だけど、この城で何か企むことができるのは、一時に一人だけだなんてルールはない!君はちょっとマルフォイにこだわりすぎだぞ。ハリー、あいつを追るのにクィディッチの試合を放棄するなんて考えるのは……」
「あいつの現場を押さえたいんだ!」ハリーがじれったそうに言った。
「だって、地図から消えてるとき、あいつはどこに行ってるんだ?」
「さあな……ホグズミードか?」ロンが欠伸交じりに言った。
「あいつが、秘密の通路を通っていくところなんか、一度も地図で見たことがない。それに、そういう通路は、どうせいま、みんな見張られてるだろう?」
「さあ、そんなら、わかんないな」ロンが言った。
二人とも黙り込んだ。
ハリーは天井のランプの灯りを見つめながら、じっと考えた……。
ルーファス・スクリムジョールほどの権力があれば、マルフォイに尾行をつけられるだろうが、残念ながら、ハリーが意のままにできる「闇祓い」が大勢いる局などない。
DAを使って何か作り上げようかとちらりと考えたが、結局DAのメンバーの大部分は、やはり時間割がぎっしり詰まっているので、誰かが授業を休まなければならないという問題が出てる……。
ロンのベッドから、グーグーと低いいびきが聞こえてきた。
しばらくして、マダム・ポンフリーが、こんどは分厚い部屋着を着て事務所から出てきた。
狸寝入りするのがいちばん簡単だったので、ハリーはごろりと横を向き、マダム・ポンフリーの杖でカーテンが全部閉まっていく音を聞いていた。
ランプが暗くなり、マダム・ポンフリーは事務所に戻っていった。
その背後でドアがカチリと閉まる音が聞こえ、マダム・ポンフリーが自分のベッドに向かっているのがわかった。
クィディッチの怪我で入院したのはこれで三度目だと、暗闇の中でハリーは考えに耽った。
前回は、吸魂鬼が競技場に現れたせいで、箒から落ちたし、その前は、どうしようもない無能なロックハート先生のおかげで片腕の骨が全部なくなった……あのときがいちばん痛かった……一晩で片腕全部の骨を再生する苦しみを、ハリーは思い出した。
あの不快感をいちだんと悪化させたのは、夜中に予期せぬ訪問者がやってきたことで――。
ハリーはガバッと起き上がった。
心臓がドキドキして、ターバン巻き包帯が横っちょにずれていた。
ついに解決法を見つけたのだ。
マルフォイを尾行する方法が、あった――。
どうして忘れていたのだろう?どうしてもっと早く思いつかなかったのだろう?
しかし、どうやったら呼び出せるのか?どうやるんだったっけ?ハリーは低い声で、遠慮がちに、暗闇に向かって話しかけた。
「クリーチャー?」
バチンと大きな音がして、静かな部屋が、ガサゴソ動き回る音とキーキー声で一杯になった。
ロンがギャッと叫んで目を覚ました。
「なんだぁ――?」
ハリーは急いで事務所に杖を向け、「マフリアート!<耳塞ぎ>」と唱えて、マダム・ポンフリーが飛んでこないようにした。
それから、何事が起こっているかをよく見ようと、急いでベッドの足側のほうに移動した。
「屋激しもべ妖精」が二人、病室のまん中の床を転げ回っていた。
一人は縮んだ栗色のセーターを着て、毛糸の帽子を数個かぶっている。
もう一人は汚らしいポロを腰布のように巻きつけている。
そこへもう一度大きな音がして、ポルターガイストのビープズが、取っ組み合っているしもべ妖精の頭上に現れた。
「ポッティ!俺が見物してたんだぞ!」
けんかを指差しながら、ビープズが怒ったように言った。
それからクアックアッと高笑いした。
「そら、チビちゃんたちが言い合って、噛みつき合って、ボッコボコ――」
「クリーチャーはドビーの前でハリー・ポッターを侮辱しないのです。絶対にしないのです。さもないと、ドビーは、クリーチャーめの口を封じてやるのです!」
ドビーがキーキー声で叫んだ。
「――蹴っとばしーの、ひっかきーの!」
ビープズが、こんどはチョーク弾丸を投げつけて、しもべ妖精を扇動していた。
「――つねりあいーの、突つきーの!」
「クリーチャーは、自分のご主人様のことを何とでも言うのです。ああ、そうです。なんというご主人様だろう。汚らわしい『穢れた血』の仲間だ。ああ、クリーチャーの哀れな女主人様は、何とおっしゃるだろう――?」
クリーチャーの女主人様が何とおっしゃったやら、正確には聞けずじまいだった。
なにしろ、そのとたんに、ドビーがゴツゴツした小さな拳骨をクリーチャーの口に深々とお見舞いし、歯を半分もぶっ飛ばしてしまったのだ。
ハリーもロンも、ベッドから飛び出し、二人のしもべ妖精を引き離した。
しかし二人とも、ビープズに煽られて、互いに蹴ったりパンチを噛まそうとしたりし続けていた。
ビープズは、襲いかかるようにランプの周りを飛び回りながら、ギャーギャー喚き立てた。
「鼻に指を突っ込め、鼻血出させろ、耳を引っばれー」
ハリーはビープズに杖を向けて唱えた。
「ラングロック!<舌縛り>」
ビープズは喉を押さえ、息を詰まらせて、部屋からスーッと消えていった。
指で卑毅な仕種をしたものの、口蓋に舌が貼りついていて、何も言えなくなっていた。
「いいぞ」
ドビーを高く持ち上げて、ジタバタする手足がクリーチャーに届かないようにしながら、ロンが感心したように言った。
「そいつもプリンスの呪いなんだろう?」
「うん」ハリーは、クリーチャーの萎びた腕をハーフネルソンに締め上げながら言った。
「よし――二人ともけんかすることを禁じる!さあ、クリーチャー、おまえはドビーと戦うことを禁じられている。ドビー、君には命令が出せないって、わかっているけど――」
「ドビーは自由な屋敷しもべ妖精なのです。だから誰でも自分の好きな人に従うことができます。そしてドビーは、ハリー・ポッターがやってほしいということなら何でもやるのです!」
ドビーの萎びた小さな顔を伝う涙が、いまやセーターに滴っていた。
「オッケー、それなら」
ハリーとロンがしもべ妖精を放すと、二人とも床に落ちたが、けんかを続けはしなかった。
「ご主人様はお呼びになりましたか?」
クリーチャーはシワガレ声でそう言うと、ハリーが痛い思いをして死ねばいいとあからさまに願う目つきをしながらも、深々とお辞儀をした。
「ああ、呼んだ」
ハリーは「マフリアート」の呪文がまだ効いているかどうかを確かめようと、マダム・ポンフリーの事務所のドアにちらりと目を走らせながら言った。
騒ぎが聞こえた形跡はまったくなかった。
「おまえに仕事をしてもらう」
「クリーチャーはご主人様がお望みなら何でもいたします」
クリーチャーは、節くれ立った足の指に唇がほとんど触れるぐらい深々とお辞儀をした。
「クリーチャーは選択できないからです。しかしクリーチャーはこんなご主人を持って恥ずかしい。そうですとも――」
「ドビーがやります。ハリー・ポッター!」ドビーがキーキー言った。
テニスボールほどある目玉はまだ涙に濡れていた。
「ドビーは、ハリー・ポッターのお手伝いするのが光栄なのです」
「考えてみると、二人いたほうがいいだろう」ハリーが言った。
「オッケー、それじゃ……二人とも、ドラコ・マルフォイを尾行してほしい」
ロンが驚いたような、呆れたような顔をするのを無視して、ハリーは言葉を続けた。
「あいつがどこに行って、誰に会って、何をしているのかを知りたいんだ。あいつを二十四時間尾行してほしい」
「はい。ハリー・ポッター!」ドビーが興奮に大きな目を輝かせて、即座に返事した。
「そして、ドビーが失敗したら、ドビーは、いちばん高い塔から身を投げます。ハリー・ポッター!」
「そんな必要はないよ」ハリーが慌てて言った。
「ご主人様は、クリーチャーに、マルフォイ家のいちばんお若い方を追ろとおっしゃるのですか?」クリーチャーがシワガレ声で言った。
「ご主人様がスパイしろとおっしゃるのは、クリーチャーの昔の女主人様の姪御様の、純血のご子息ですか?」
「そいつのことだよ」
ハリーは、予想される大きな危険を、いますぐに封じておこうと決意した。
「それに、クリーチャー、おまえがやろうとしていることを、あいつに知らせたり、示したりすることを禁じる。あいつと話すことも、手紙を書くことも、それから……それからどんな方法でも、あいつと接触することを禁じる。わかったか?」
与えられたばかりの命令の抜け穴を探そうと、クリーチャーがもがいているのが、ハリーには見えるような気がした。ハリーは待った。
ややあって、ハリーにとっては大満足だったが、クリーチャーが再び深くお辞儀し、恨みを込めて苦々しくこう言った。
「ご主人様はあらゆることをお考えです。そしてクリーチャーはご主人様に従わねばなりません。たとえクリーチャーがあのマルフォイ家の坊ちゃまの召使いになるほうがずっといいと思ってもです。ああ、そうですとも……」
「それじゃ、決まった」ハリーが言った。
「定期的に報告してくれ。ただし、現れるときは、僕の周りに誰もいないのを確かめること。ロンとハーマイオニーはかまわない。それから、おまえたちがやっていることを、誰にも言うな。二枚のイボ取りバンソウコウみたいに、マルフォイにピッタリ張りついているんだぞ」
第20章 ヴォルデモート卿の頼み
Lord Voldemort's Request
ハリーとロンは月曜の朝いちばんに退院した。
マダム・ポンフリーの介護で完全に健康を取り戻し、強打されたり毒を盛られたりした見返りを、いまこそ味わうことができた。
最大の収穫は、ハーマイオニーがロンと仲直りしたことだった。
朝食の席まで二人に付き添いながら、ハーマイオニーは、ジニーが、ディーンと口論したというニュースをもたらした。ハリーの胸でうとうとしていた生き物が、急に頭をもたげ、何か期待するようにあたりをクンクン喚ぎ出した。
「何を口論したの?」
角を曲がって八階の廊下に山ながら、ハリーはできるだけ何気ない聞き方をした。
廊下には、チュチュを着たトロールのタペストリーを、しげしげ見ている小さな女の子以外には誰もいなかった。
六年生が近づいてくるのを見て、女の子は怯えたような顔をして、持っていた重そうな真鍮の秤を落とした。
「大丈夫よ!」ハーマイオニーは優しく声をかけ、急いで女の子に近づいた。
「さあ……」ハーマイオニーは壊れた秤を杖で叩き、「レバロ!直せ!」と唱えた。
女の子は礼も言わず、その場に根が生えたように突っ立って、三人がそこを通り過ぎ、姿が見えなくなるまで見ていた。
ロンが女の子を振り返った。
「連中、だんだん小粒になってきてるぜ、間違いない」ロンが言った。
「女の子のことは気にするな」ハリーは少し焦った。
「ハーマイオニー、ジニーとディーンは、なんでけんかしたんだ?」
「ああ、マクラーゲンがあなたにブラッジャーを叩きつけたことを、ディーンが笑ったの」ハーマイオニーが言った。
「そりゃ、おかしかったろうな」ロンがもっともなことを言った。
「全然おかしくなかったわ!」ハーマイオニーが熱くなった。
「恐ろしかったわ。クートとピークスがハリーを捕まえてくれなかったら、大怪我になっていたかもしれないのよ!」
「うん、まあ、ジニーとディーンがそんなことで別れる必要はなかったのに」
ハリーは相変わらず何気なく聞こえるように努力した。
「それとも、まだ一緒なのかな?」
「ええ、一緒よ――でもどうして気になるの?」ハーマイオニーが鋭い目でハリーを見た。
「僕のクィディッチ・チームが、まためちゃくちゃになるのが嫌なだけだ!」
慌ててそう答えたが、ハーマイオニーはまだ疑わしげな目をしていた。
背後で「ハリー!」と呼ぶ声がしたときには、ハーマイオニーに背を向ける口実ができて、ハリーは内心ほっとした。
「ああ、やあ、ルーナ」
「病棟にあんたを探しにいったんだけど」ルーナがカバンをゴソゴソやりながら言った。
「もう退院したって言われたんだ……」
ルーナは、エシャロットみたいな物一本と、斑入りの大きな毒茸一本、それに相当量の猫のトイレ砂のようなものを、ロンの両手に押しっけて、やっと、かなり汚れた羊皮紙の巻紙を引っぱり出し、ハリーの手に渡した。
「……これをあんたに渡すように言われてたんだ」
小さな羊皮紙の巻紙だった。
ハリーはすぐに、それがダンブルドアからの授業の知らせだとわかった。
「今夜だ」ハリーは羊皮紙を広げるや否や、ロンとハーマイオニーに告げた。
「この間の試合の解説、よかったぜ!」
ルーナがエシャロットと毒茸と猫のトイレ砂を回収しているときに、ロンが言った。
ルーナはあいまいに微笑んだ。
「からかってるんだ。違う?」ルーナが言った。
「みんな、あたしがひどかったって言うもン」
「違うよ、僕、ほんとにそう思う!」ロンが真顔で言った。
「あんなに解説を楽しんだことないぜ!ところで、これ、何だ?」
ロンは、エシャロットのような物を目の高さに持ち上げて聞いた。
「ああ、それ、ガーディルート」
猫のトイレ砂と毒茸をカバンに押し込みながら、ルーナが答えた。
「ほしかったら、あげるよ。あたし、もっと持ってるもン。ガルビング・プリンピーを撃退するのにすごく効果があるんだ」そしてルーナは行ってしまった。
あとに残ったロンは、ガーディルートをつかんだまま、おもしろそうにケタケタ笑っていた。
「あのさ、だんだん好きになってきたよ、ルーナが」
大広間に向かってまた歩き出しながら、ロンが言った。
「あいつが正気じゃないってことはわかってるけど、そいつはいい意味で――」
ロンが突然口をつぐんだ。
険悪な雰囲気のラベンダー・ブラウンが、大理石の階段下に立っていた。
「やあ」ロンは、落ち着かない様子で声をかけた。
「行こう」ハリーはそっとハーマイオニーに声をかけ、急いでその場を離れたが、ラベンダーの声を聞かないわけにはいかなかった。
「今日が退院だって、どうして教えてくれなかったの?それに、どうしてあの女が一緒なの?」
三十分後に朝食に現れたロンは、むっつりして苛立っていた。
ラベンダーと並んで腰掛けてはいたものの、ハリーはその間ずっと、二人が言葉を交わすところを見なかった。
ハーマイオニーは、そんなことにいっさい気づかないように振舞っていたが、一、二度、不可解なひとり笑みが顔を過ったのにハリーは気づいた。
その日は一日中、ハーマイオニーは上機嫌で、夕方談話室にいるとき、ハリーの薬草学のレポートを見るという(ということは、仕上げるということなのだが)頼みに応じてくれた。
そんなことをすれば、ハリーがロンに丸写しさせることを知っていたハーマイオニーは、これまで、そんな依頼は絶対にお断りだったのだ。
「ありがとう、ハーマイオニー」
ハリーは、ハーマイオニーの背中をそっと撫でながら腕時計を見た。もう八時近くだった。
「あのね、僕急がないと、ダンブルドアとの約束に遅れちゃう……」
ハーマイオニーは答えずに、ハリーの文章の弱いところを、大儀そうに削除していた。
ハリーはひとりでニヤニヤ笑いながら、急いで肖像画の穴を通り、校長室に向かった。
ガーゴイルは、「タフィーエクレア」の合言葉で飛びのき、ハリーが動く螺旋階段を二段跳びに駆け上がってドアを叩いたときに、中の時計がちょうど八時を打った。
「お入り」
ダンブルドアの声がした。
ハリーがドアに手をかけて押し開けようとすると、ドアが内側からぐいと引っぱられた。
そこに、トレローニー先生が立っていた。
「ははーん!」
拡大鏡のようなメガネの中から、目を瞬かせてハリーを見つめ、トレローニー先生は芝居がかった仕種でハリーを指差した。
「あたくしが邪険に放り出されるのは、このせいでしたのね、ダンブルドア!」
「これこれ、シビル」ダンブルドアの声が微かに苛立っていた。
「あなたを邪険に放り出すなどありえんことじゃ。しかし、ハリーとはたしかに約束があるし、これ以上何も話すことはないと思うが――」
「結構ですわ」トレローニー先生は、深く傷ついたような声で言った。
「あたくしの地位を不当に奪った、あの馬を追放なきらないのでしたら、いたしかたございませんわ……あたくしの能力をもっと評価してくれる学校を探すべきなのかもしれません……」
トレローニー先生は、ハリーを押しのけて螺旋階段に消えた。
階段半ばでつまずく音が聞こえ、ハリーは、ダラリと垂れたショールのどれかを踏んづけたのだろうと思った。
「ハリー、ドアを閉めて、座るがよい」ダンブルドアはかなり疲れた声で言った。
ハリーは言われたとおりにした。ダンブルドアの机の前にあるいつもの椅子に座りながら、二人の間に「憂いの篩」がまた置かれ、渦巻く記憶がぎっしり詰まったクリスタルの小瓶が二本、並んでいることに気がついた。
「それじゃ、トレローニー先生は、フィレンツェが教えることをまだ嫌がっているのですか?」ハリーが聞いた。
「そうじゃ」ダンブルドアが言った。
「わし自身が占いを学んだことがないものじゃから、『占い学』はわしの予見を超えて厄介なことになっておる。フィレンツェに森に帰れとは言えぬ。追放の身じゃからのう。さりとてシビル・トレローニーに去れとも言えぬ。ここだけの話じゃが、シビルが城の外に出ればどんな危険な目に遭うか、シビルにはまったくわかっておらぬ。シビル自身は知らぬことじゃが――それに、知らせるのは賢明ではないと思うが――きみとヴォルデモートに関する予言をしたのは、それ、シビル・トレローニーなのじゃから」
ダンブルドアは深いため息をついてから、こう言った。
「教職員の問題については、心配するでない。我々にはもっと大切な話がある。まず、前回じの授業の終わりにきみに出した課題は処理できたかね?」
「あっ」ハリーは突然思い出した。
「姿現わし」の練習やらクィディッチやら、ロンが毒を盛られたり自分の頭蓋骨が割られたりした上、ドラコ・マルフォイの企みを暴きたい一心で、ハリーは、スラグホーン先生から記憶を引き出すようにとダンブルドアに言われていたことを、ほとんど忘れていた……。
「あの、先生、スラグホーン先生に魔法薬の授業のあとでそのことを聞きました。でも、あの、教えてくれませんでした」
しばらく沈黙が流れた。
「左様か」やっとダンブルドアが口を開いた。
半月メガネの上からじっと覗かれ、ハリーは、まるでレントゲンで透視されているような、いつもの感覚に襲われた。
「それできみは、このことに最善を尽くしたと、そう思っておるかね?きみの少なからざる創意工夫の能力を余すところなく駆使したのかね?その記憶を取り出すという探求のために、最後の一滴まで知恵を絞り切ったのかね?」
「あの……」ハリーは何と受け答えすべきか、言葉に詰まった。
記憶を取り出そうとしたのはたった一回だったというのでは、お粗末で、急に恥ずかしく思えた。
「あの……ロンが間違って惚れ薬を飲んでしまった日に、僕、ロンをスラグホーン先生のところに連れていきました。先生をいい気分にさせれば、もしかして、と思ったんです――」
「それで、それはうまくいったのかね?」ダンブルドアが聞いた。
「あの、いいえ、先生。ロンが毒を飲んでしまったものですから――」
「――それで、当然、きみは記憶を引き出すことなど忘れ果ててしまった。親友が危険なうちは、わしもそれ以外のことを期待せんじゃろう。しかし、ミスター・ウィーズリーが完全に回復するとはっきりした時点で、わしの出した課題に戻ってもよかったのではないかな。あの記憶がどんなに大事なものかということを、わしはきみにはっきり伝えたと思う。そればかりか、それがもっとも肝心な記憶であり、それがなければこの授業の時間はムダじゃときみにわからせようと、わしは最大限努力したつもりじゃ」
申しわけなさが、チクチクと熱く、ハリーの頭のてっぺんから体中に広がった。
ダンブルドアは声を荒らげなかった。怒っているようにも聞こえなかった。
しかし、怒鳴ってもらったほうがむしろ楽だった。
ダンブルドアのひんやりとした失望が、何よりも辛かった。
「先生」何とかしなければという気持ちで、ハリーが言った。
「気にしていなかったわけではあくません。ただ、ほかの――ほかのことが……」
「ほかのことが気になっていた」ダンブルドアがハリーの言葉を引き取った。
「なるほど」
二人の問に、また沈黙が流れた。
ダンブルドアとの間でハリーが経験した中でも、いちばん気まずい沈黙だった。
沈黙がいつまでも続くような気がした。
ダンブルドアの頭の上に掛かっているアーマンド・ディペットの肖像画から聞こえる軽い寝息が、ときどき沈黙を破るだけだった。
ハリーは自分が奇妙に小さくなったような気がした。
この部屋に入って以来、体が少し縮んだような感覚だった。
もうそれ以上は耐えられなくなり、ハリーが言った。
「ダンブルドア先生、申しわけありませんでした。もっと努力すべきでした……本当に大切なことでなければ、先生は僕に頼まなかっただろうと、気づくべきでした」
「わかってくれてありがとう、ハリー」ダンブルドアが静かに言った。
「それでは、これ以後、きみがこの課題を最優先にすると思ってよいかな?あの記憶を手に入れなければ、次からは授業をする意味がなくなるじゃろう」
「僕、そのようにします。あの記憶を手に入れます」ハリーが真剣に言った。
「それでは、いまは、もうこのことを話題にすまい」
ダンブルドアはより和らいだ口調で言った。
「そして、前回の話の続きを進めることにしよう。どのあたりじゃったか、憶えておるかの?」
「はい、先生」ハリーが即座に答えた。
「ヴォルデモートが父親と祖父母を殺し、それを伯父のモーフィンの仕業に見せかけました。それからホグワーツに戻り、質問を……スラグホーン先生にホークラックスについて質問をしました」
ハリーは恥じ入って口ごもった。
「よろしい」ダンブルドアが言った。
「さて、憶えておると思うが、一連の授業の冒頭に、我々は推測や憶測の域に入り込むことになるじゃろうと言うたの?」
「はい、先生」
「これまでは、きみも同意見じゃと思うが、ヴォルデモートが十七歳になるまでのことに関して、わしの推量の根拠となるかなり確かな事実を、きみに示してきたの?」ハリーは領いた。
「しかし、これからは、ハリー」ダンブルドアが言った。
「これから先、事はだんだん不確かで、不可思議になっていく。リドルの少年時代に関する証拠を集めるのも困難じゃったが、成人したヴォルデモートに関する記憶を語ってくれる者を見つけるのは、ほとんど不可能じゃった。事実、リドルがホグワーツを去ってからの生き方を完全に語れるのは、本人を除けば、一人として生存していないのではないかと思う。しかし、最後に二つ残っておる記憶を、これからきみとともに見よう」
ダンブルドアは、「憂いの篩」の横で、微かに光っている二本のクリスタルの小瓶を指した。
「見たあとで、わしの引き出した結論が、ありうることかどうか、きみの意見を聞かせてもらえればありがたい」
ダンブルドアが自分の意見をこれほど高く評価しているのだと思うと、ホークラックスの記憶を引き出す課題をやり損ねたことを、ハリーはますます深く恥じ入った。
ダンブルドアが最初の一本を取り上げて、光にかざして調べているとき、ハリーは申しわけなさに座ったままもじもじしていた。
「他人の記憶に潜り込むことに飽きてはおらんじゃろうな。これからの二つは、興味ある記憶なのでのう」ダンブルドアが言った。
「最初のものは、ホキーという名の非常に年老いた屋敷しもべ妖精から取ったものじゃ。ホキーが目撃したものを見る前に、ヴォルデモート卿がどのようにしてホグワーツを去ったかを手短に語らねばなるまい」
「あの者は七年生になった。成績は、きみも予想したじゃろうが、受けた試験はすべて一番じゃった。あの者の周囲では、級友たちが、ホグワーツ卒業後にどんな仕事に就くかを決めているところじゃった。トム・リドルに関しては、ほとんどすべての者が、輝かしい何かを期待しておった。監督生で代表監督生、学校に対する特別功労賞の経歴じゃからのう。スラグホーン先生を含めて何人かの先生方が、魔法省に入省するように勧め、面接を設定しようと申し出たり、有力な人脈を紹介しようとしたりしたのじゃ。あの者はそれを全部断った。教職員が気づいたときには、あの者はボージン・アンド・バークスで働いておった」
「ボージン・アンド・バークス?」ハリーは度肝を抜かれて聞き返した。
「ボージン・アンド・バークスじゃ」ダンブルドアが静かに繰り返した。
「ホキーの記憶に入ってみれば、あの者にとって、その場所はどのような魅力があったのかがわかるはずじゃ。しかしながら、この仕事がヴォルデモートにとっての第一の選択肢ではなかった。そのときにそれを知っていた者はほとんどいなかった――その当時の校長が打ち明けた数少ない者の一人がわしなのじゃが――ヴォルデモートは、まずディペット校長に近づき、ホグワーツの教師として残れないかと聞いたのじゃ」
「ここに残りたい?どうしてでしょう?」ハリーはますます驚いて聞いた。
「理由はいくつかあったじゃろうが、ヴォルデモートはディペット校長に何一つ打ち明けはせなんだ」ダンブルドアが言った。
「第一に、非常に大切なことじゃが、ヴォルデモートはどんな人間にも感じていなかった親しみを、この学校には感じておったのじゃろうと、わしはそう考えておる。あの者がいちばん幸せじゃったのはホグワーツにおるときで、そこがくつろげる最初の、そして唯一の場所だったのじゃ」
それを聞いてハリーは、少し当惑した。
ハリーもホグワーツに対して、まったく同じ思いを抱いていたからだ。
「第二に、この城は古代魔法の牙城じゃ。ヴォルデモートは、ここを通過していった大多数の生徒たちより、ずっと多くの秘密をつかんでいたに違いない。しかし、まだ開かれていない神秘や、利用されておらぬ魔法の宝庫があると感じておったのじゃろう」
「そして第三に、教師になれば、若い魔法使いたちに大きな権力と影響力を行使できたはずじゃ。おそらく、いちばん親しかったスラグホーン先生から、そうした考えを得たのじゃろう。教師がどんなに影響力のある役目を果たせるかを、スラグホーン先生が示したわけじゃな。ヴォルデモートがずっと一生ホグワーツで過ごす計画だったとは、わしは微塵も考えてはおらぬ。しかし、人材を集め、自分の軍隊を組織する場所として、ここが役に立つと考えたのじゃろう」
「でも、先生、その仕事が得られなかったのですね?」
「そうじゃ。ディペット先生は、十八歳では若すぎるとヴォルデモートに告げ、数年後にまだ教えたいと願うなら、再応募してはどうかと勧めたのじゃ」
「先生は、そのことをどう思われましたか?」ハリーは遠慮がちに聞いた。
「非常に懸念した」ダンブルドアが言った。
「わしは前以て、アーマンドに、採用せぬようにと進言しておった。いまきみに教えたような理由を言わずにじゃ。ディペット校長はヴォルデモートを大変気に入っておったし、あの者の誠意を信じておったからのう――しかしわしは、ヴォルデモート卿がこの学校に戻ることを、特に権力を持つ職に就くことを欲っしなかったのじゃ」
「どの職を望んだのですか、先生?教えたがったのは、どの学科ですか?」ハリーはなぜか、ダンブルドアが答える前に、答えがわかっていたような気がした。
「『闇の魔術に対する防衛術』じゃ。その当時は、ガラテア・メリィソートという名の老教授が教えておった。ほとんど半世紀、ホグワーツに在職した先生じゃ」
「そこで、ヴォルデモートはボージン・アンド・バークスへと去り、あの者を称賛しておった教師たちは、口を揃えて、あんな優秀な魔法使いが店員とはもったいないと言ったものじゃ。しかし、ヴォルデモートは単なる使用人にとどまりはしなかった。丁寧な物腰の上にハンサムで賢いヴォルデモートは、まもなくボージン・アンド・バークスのような店にしかない、特別な仕事を任されるようになった。あの店は、きみも知ってのとおり、強い魔力のある珍しい品物を扱っておる。ヴォルデモートは、そうした宝物を手放して店で売るように説得する役目を任され、持ち主のところに送り込まれた。そして、ヴォルデモートは、聞き及ぶところによると、その仕事に稀有な才能を発揮した」
「よくわかります」ハリーは黙っていられなくなって口を挟んだ。
「ふむ、そうじゃろう」ダンブルドアが微笑んだ。
「さて、ホキーの話を聞くときが来た。この屋激しもべ妖精が仕えていたのは、年老いた大金持ちの魔女で、名前をヘプジバ・スミスと言う」
ダンブルドアが杖で瓶を軽く叩くと、コルク栓が飛んだ。
ダンブルドアは渦巻く記憶を「憂いの篩」に注ぎ込み終えると、「ハリー、先にお入り」と言った。
ハリーは立ち上がり、また今回も、石の水盆の中で漣を立てている銀色の物質に屈み込み、顔がその表面に触れた。
暗い無の空間を転げ落ち、ハリーが着地した先は、でっぷり太った老婦人が座っている居間だった。
ごてごてした赤毛の鬘を着け、けばけばしいピンクのローブを体の周りに波打たせ、デコレーション・ケーキが溶けかかったような姿だった。
婦人は宝石で飾られた小さな鏡を覗き込み、もともとまっ赤な頬に、巨大なパフで頬紅をはたき込んでいた。
足元では、ハリーがこれまで見た中でもいちばん年寄りで、いちばん小さなしもべ妖精の老女が、ぶくぶくした婦人の足を、きつそうなサテンのスリッパに押し込み、紐を結んでいた。
「ホキー、早くおし!」へプジバが傲然と言った。
「あの人は四時に来るって言ったわ。あと一・二分しかないじゃない。あの人は一度も遅れたことがないんだから!」
婦人は化粧パフをしまい込み、 しもべ妖精が立ち上がった。
しもべ妖精の背丈はヘプジバの椅子の座面にも届かず、身にまとった張りのあるリネンのキッチン・タオルがトーガ風に垂れ下がっているのと同様、カサカサの紙のような皮膚が垂れ下がっていた。
「あたくしの顔、どうかしら?」
へプジバが首を回して、鏡に映る顔をあちこちの角度から眺めながら聞いた。
「おきれいですわ。マダム」ホキーがキーキー声で言った。
この質問が出たときには、あからさまな嘘をつかねばならないと、ホキーの契約書に書いてあるのだろうと、ハリーは想像せざるをえなかった。
なにしろ、へプジバ・スミスは、ハリーの見るところ、おきれいからはほど遠かった。
玄関のベルがチリンチリンとなり、女主人も、しもべ妖精も飛び上がった。
「早く、早く。あの方がいらしたわ、ホキー!」
へプジバが叫び、しもべ妖精が慌てて部屋から出ていった。
いろいろな物が所狭しと置かれた部屋は、誰でも最低十回ぐらい何かにつまずかないと通れそうにもなかった。漆細工の小箱が詰まったキャビネット、金文字の型押し本がずらりと並んだ本箱、玉やら天体球儀やらの載った棚、真鍮の容器に入った鉢植えの花々などなど、まさに、魔法骨董店と温室を掛け合わせたような部屋だった。しもべ妖精は、はどなく背の高い若者を案内して戻ってきた。
ハリーは、それがヴォルデモートだと、何の苦もなくわかった。飾り気のない黒いスーツ姿で、学校時代より髪が少し長く、頓がこけていたが、そうしたものがすべて似合っている。
いままでよりずっとハンサムに見えた。
ヴォルデモートは、これまで何度も訪れたことがある雰囲気で、ゴタゴタした部屋を通り抜け、へプジバのぶくッとした小さな手を取り、深々とお辞儀をしてその手に軽く口づけした。
「お花をどうぞ」
ヴォルデモートはそっと言いながら、どこからともなく薔薇の花束を取り出した。
「いけない子ね、そんなことしちゃだめよ!」
へプジバ老婦人が甲高い声を出した。しかし、ハリーは、いちばん近いテーブルに、空の花瓶がちゃんと準備されているのに気づいた。
「トムったら、年寄りを甘やかすんだから……さ、座って、座ってちょうだい……ホキーはどこかしら……えーと……」
しもべ妖精が、小さなケーキを載せた盆を持って部屋に駆け戻り、女主人のそばにそれを置いた。
「どうぞ、トム、召し上がって」へプジバが言った。
「あたくしのケーキがお好きなのはわかってますわよ。ねえ、お元気?顔色がよくないわ。お店でこき使われているのね。あたくし、もう百回ぐらいそう言ってるのに……」
ヴォルデモートが機械的に微笑み、ヘプジバは間の抜けた顔でニッと微笑んだ。
「今日はどういう口実でいらっしゃったのかしら?」
へプジバが随毛をパチパチさせながら開いた。
「店主のバークが、ゴブリンが鍛えた甲冑の買い値を上げたいと申しております」ヴォルデモートが言った。
「五百ガリオンです。これは普通ならつけない、よい値だと申して――」
「あら、まあ、そうお急ぎにならないで。それじゃ、まるであたくしの小道具だけのためにいらしたと思ってしまいますことよ!」
「そうした物のために、ここに来るように命じられております」
ヴォルデモートが静かに言った。
「マダム、わたくしは単なる使用人の身です。命じられたとおりにしなければなりません。店主のバークから、お何いしてくるようにと命じられまして――」
「まあ、バークさんなんか、プフー!」へプジバは小さな手を振りながら言った。
「あなたにお見せする物がありますのよ。バークさんには見せたことがない物なの!トム、秘密を守ってくださる?バークさんには、あたくしが持っているなんて言わないって約束してくださる?あなたに見せたとわかったら、あの人、あたくしを一時も安らがせてくれませんわ。でもあたくしは売りません。バークには売らないし、誰にも売りませんわ!でも、トム、あなたには、その物の歴史的価値がおわかりになるわ。ガリオン金貨が何枚になるかの価値じゃなくってね……」
「ミス・ヘプジバが見せてくださる物でしたら、何でも喜んで拝見いたします」
ヴォルデモートが静かに言った。
ヘプジバは、また少女のようにクスクス笑った。
「ホキーに持ってこさせてありますのよ……ホキー、どこなの?リドルさんにわが家の最高の秘宝をお見せしたいのよ……ついでだから、二つとも持っていらっしゃい‥?」
「マダム、お持ちしました」
しもべ妖精のキーキー声でハリーが見ると、二つ重ねにした革製の箱が動いていた。
小さなしもべ妖精が頭に載せて運んでいることはわかってはいたが、まるでひとりでに動いているかのように、テーブルやクッション、足載せ台の間を縫って部屋の向こうからやってくるのが見えた。
「さあ」しもべ妖精から箱を受け取り、膝の上に載せて上の箱を開ける準備をしながら、ヘプジバがうれしそうに言った。
「きっと気に入ると思うわ、トム……ああ、あなたにこれを見せていることを親族が知ったら……あの人たち、喉から手が出るほどこれがほしいんだから!」
へプジバが蓋を開けた。
ハリーはよく見ようとして少し身を乗り出した。
入念に細工された二つの取っ手がついた、小さな金のカップが見えた。
「何だかおわかりになるかしら、トム?手に取ってよく見てごらんなさい!」
へプジバが囁くように言った。
ヴォルデモートはすらりとした指を伸ばし、絹の中にすっぽりと納まっているカップを、取っ手の片方を握って取り出した。
ハリーは、ヴォルデモートの暗い目がちらりと赤く光るのを見たような気がした。
舌紙めずりするようなヴォルデモートの表情は、奇妙なことに、へプジバの顔にも見られた。
ただし、その小さな目は、ヴォルデモートのハンサムな顔に釘づけになっていた。
「穴熊」ヴォルデモートがカップの刻印を調べながら呟いた。
「すると、これは……?」
「ヘルガ・ハッフルパフの物よ。よくご存知のようにね。なんて賢い子!」
プジバはコルセットの軋む大きな音とともに、前屈みになり、ヴォルデモートの窪んだ頬を本当につねった。
「あたくしが、ずっと離れた子孫だって言わなかった?これは先祖代々受け継がれてきた物なの。きれいでしょう?それに、どんなにいろいろな力が秘められていることか。でも、あたくしは完全に試してみたことがないの。ただ、こうして大事に、安全にしまっておくだけ……」
へプジバはヴォルデモートの長い指からカップをはずし、そっと箱に戻した。
丁寧に元の場所に収めるのに気を取られて、へプジバは、カップが取り上げられたときにヴォルデモートの顔を過った影に気づかなかった。
「さて、それじゃあ」へプジバがうれしそうに言った。
「ホキーはどこ?ああ、そこにいたのね――これを片付けなさい、ホキー――」
しもべ妖精は従順に箱入りのカップを受け取り、へプジバは膝に載っているもっと平たい箱に取りかかった。「トム、あなたには、こちらがもっと気に入ると思うわ」へプジバが囁いた。
「少し屈んでね、さあ、よく見えるように……もちろん、バークは、あたくしがこれを持っていることを知っていますよ。あの人から買ったのですからね。あたくしが死んだら、きっと買い戻したがるでしょうね……」
へプジバは精緻な金銀線細工の留め金をはずし、パチンと箱を開けた。
滑らかな真紅のビロードの上に載っていたのは、どっしりした金のロケットだった。
ヴォルデモートは、こんどは促されるのも待たずに手を伸ばし、ロケットを明かりにかざしてじっと見つめた。
「スリザリンの印」ヴォルデモートが小声で言った。
曲がりくねった飾り文字の「S」に光が踊り、煌めかせていた。
「そのとおりよ!」へプジバが大喜びで言った。
ヴォルデモートが、魅入られたようにじっと自分のロケットを見つめている姿が、うれしかったらしい。
「身包み剥がされるほど高かったわ。でも、見逃すことはできなかったわね。こんなに貴重な物を。どうしても、あたくしのコレクションに加えたかったのよ。バークはどうやら、みすぼらしい身なりの女から買ったらしいわ。その女は、これを盗んだらしいけれど、本当の価値をまったく知らなかったようね――」
こんどは間違いない。この言葉を聞いた瞬間、ヴォルデモートの目がまっ赤に光った。
ロケットの鎖にかかった手が、血の気の失せるほどギュッと握りしめられるのを、ハリーは見た。
「――バークはその女に、きっと雀の涙ほどしか払わなかったことでしょうよ。でも、しょうがないわね……きれいでしょう?それに、これにも、どんなに多くの力が秘められていることでしょう。でも、あたくしは、大事に、安全にしまっておくだけ……」
へプジバがロケットに手を伸ばして取り戻そうとした。
ハリーは一瞬、ヴォルデモートが手放さないのではないかと思ったが、ロケットはその指の間を滑り、真紅のビロードのクッションへと戻された。
「そういうわけよ、トム。楽しんだでしょうね!」へプジバが、トムの顔を真正面から見た。
そしてハリーは、へプジバの問の抜けた笑顔が、このとき初めて崩れるのを見た。
「トム、大丈夫なの?」
「ええ」ヴォルデモートが静かに言った。「ええ、万全です……」
「あたくしは――でも、きっと光の悪戯ね――」
へプジバが落ち着かない様子で言った。
へプジバもヴォルデモートの目にチラチラと赤い光が走るのを見たのだと、ハリーは思った。
「ホキー、ほら、二つとも持っていって、また鍵をかけておきなさい……いつもの呪文をかけて……」
「ハリー、帰る時間じゃ」
ダンブルドアが小声で言った。
小さなしもべ妖精が箱を持ってひょこひょこ歩きはじめると同時に、ダンブルドアは再びハリーの腕をつかんだ。
二人は連れ立って無意識の中を上昇し、ダンブルドアの校長室に戻った。
「へプジバ・スミスは、あの短い場面の二日後に死んだ」
ダンブルドアが席に戻り、ハリーにも座るように促しながら言った。
「屋敷しもべ妖精のホキーが、誤って女主人の夜食のココアに毒を入れた廉で、魔法省から有罪判決を受けたのじゃ」
「絶対違う!」ハリーが憤慨した。
「我々は同意見のようじゃな」ダンブルドアが言った。
「紛れもなく、こんどの死とリドル一家の死亡との間には、多くの類似点がある。どちらの場合も、誰かほかの者が責めを負うた。死に至らしめたというはっきりした記憶を持つ誰かがじゃ――」
「ホキーが自白を?」
「ホキーは女主人のココアに何か入れたことを憶えておった。それが砂糖ではなく、ほとんど知られていない猛毒だったとわかったのじゃ」ダンブルドアが言った。
「ホキーにはそのつもりがなかったが、歳を取って混乱したのだという結論になった――」
「ヴォルデモートがホキーの記憶を修正したんだ。モーフィンにしたことと同じだ!」
「いかにも。わしも同じ結論じゃ」ダンブルドアが言った。
「さらに、モーフィンのときと同じく、魔法省は初めからホキーを疑ってかかっておった――」
「――ホキーが屋敷しもべ妖精だから」ハリーが言った。
ハリーはこのときほどハーマイオニーが設立した「しもべ妖精福祉振興協会」に共鳴したことはなかった。
「そのとおりじゃ」ダンブルドアが言った。
「ホキーは老いぼれていたし、飲み物に細工をしたことを認めたのじゃから、魔法省には、それ以上調べようとする者は誰もおらなんだ。モーフィンの場合と同様、わしがホキーを見つけ出してこの記憶を取り出したときには、もうホキーの命は尽きようとしておった――しかし言うまでもなく、ホキーの記憶は、ヴォルデモートが、カップとロケットの存在を知っておったということを証明するにすぎぬ」
「ホキーが有罪になったころに、へプジバの親族たちが、もっとも大切な秘蔵の品が二つなくなっていることに気づいた。それを確認するまでに、しばらく時間がかかった。なにしろ、ヘプジバは蒐集品を油断なく保管しており、隠し場所が多かったからじゃ。しかし、カップとロケットの紛失が、親族にとって疑いの余地のないものとなったときには、すでに、ボージン・アンド・バークスの店員で、へプジバを頻繁に訪ねては見事に虜にしていた青年は、店を辞めて姿を消してしまっておった。店の上司たちは、青年がどこに行ってしまったのかさっぱりわからず、その失踪には誰よりも驚いていた。そして、そのときを最後に、トム・リドルは長い間、誰の目にも耳にも触れることがなかったのじゃ」
「さて」ダンブルドアが言った。
「ここで、ハリー、我々がいま見た物語に関して、いくつかきみの注意を喚起しておきたいので、一息入れてみようかのう。ヴォルデモートはまたしても殺人を犯した。リドル一家を殺して以来、初めてだったかどうかはわからぬが、そうだったのじゃろう。今回は、きみも見たとおり、復讐のためではなく、ほしい物を手に入れるためじゃった。熱を上げたあの哀れな老女に見せられたすばらしい二つの記念品を、ヴォルデモートはほしがった。かつて孤児院でほかの子どもたちから奪ったように、伯父のモーフィンの指輪を盗んだように、こんどはへプジバのカップとロケットを奪って逃げたのじゃ」
「でも」ハリーが顔をしかめた。
「まともじやない……そんな物のためにあらゆる危険を冒して、仕事も投げ打つなんて……」
「きみにとっては、たぶんまともではなかろうが、ヴォルデモートにとっては違うのじゃ」ダンブルドアが言った。
「こうした品々が、ヴォルデモートにとってどういう意味があったのか、ハリー、きみにも追い追いわかってくるはずじゃ。ただし、当然じゃが、あの者が、ロケットはいずれにせよ正当に自分の物だと考えたであろうことは想像に難くない」
「ロケットはそうかもしれません」ハリーが言った。
「でも、どうしてカップまで奪うのでしょう?」
「カップは、ホグワーツのもう一人の創始者に連なる物じゃ」ダンブルドアが言った。
「あの者はまだこの学校に強く惹かれており、ホグワーツの歴史がたっぷり渉み込んだ品物は抗しがたかったのじゃろう。ほかにも理由はある。おそらく……。時が来たら、きみに具体的に説明することができることじゃろう」
「さて次は、わしが所有しておる記憶としては、きみに見せる最後のものじゃ。少なくとも、スラグホーン先生の記憶をきみが首尾よく回収するまではじゃが。この記憶は、ホキーの記憶から十年隔たっておる。その十年の間、ヴォルデモート卿が何をしていたのかは、想像するしかない……」
ダンブルドアが最後の記憶を「憂いの篩」に空け、ハリーが再び立ち上がった。
「誰の記憶ですか?」ハリーが聞いた。
「わしのじゃ」ダンブルドアが答えた。
そして、ハリーは、ダンブルドアのあとからゆらゆら揺れる銀色の物質をくぐって、いま出発したばかりの同じ校長室に降り立った。
フォークスが止まり木で幸福そうにまどろみ、そして机の向こう側に、なんとダンブルドアがいた。
ハリーの横に立っているいまのダンブルドアとほとんど変わらなかったが、両手はそろって傷もなく、顔は、もしかしたら皺がやや少ないかもしれない。
現在の校長室との違いは、過去のその日に雪が降っていたことだ。
外は暗く、青みがかった雪片が窓を過って舞い、外の窓枠に積もっていた。
若いダンブルドアは、何かを待っている様子だった。
予想どおり、二人がこの場面に到着して間もなく、ドアを叩く音がした。
「お入り」とダンブルドアが言った。
ハリーはアッと声を上げそうになり、慌てて押し殺した。
ヴォルデモートが部屋に入ってきた。
二年ほど前ハリーが目撃した、石の大鍋から蘇ったヴォルデモートの顔ではなかった。
それほど蛇に似てはいなかったし、両眼もまだ赤くはない。
まだ仮面をかぶったような顔になってはいない。
しかし、あのハンサムなトム・リドルではなくなっていた。
火傷を負って顔立ちがはっきりしなくなったような顔で、奇妙に変形した蝋細工のようだった。
白目はすでに、永久に血走っているようだったが、瞳孔はまだ、ハリーの見た現在のヴォルデモートの瞳のように細く縦に切れ込んだような形にはなっていなかった。
ヴォルデモートは黒い長いマントをまとい、その顔は、両肩に光る雪と同じように蒼白かった。
机の向こうのダンブルドアは、まったく驚いた様子がない。
訪問は前以て約束してあったに違いない。
「こんばんは、トム」ダンブルドアがくつろいだ様子で言った。
「掛けるがよい」
「ありがとうございます」
ヴォルデモートはダンブルドアが示した椅子に腰掛けた――椅子の形からして、現在のハリーが、たったいまそこから立ち上がったばかりの椅子だった。
「あなたが校長になったと聞きました」ヴォルデモートの声は以前より少し高く、冷たかった。
「すばらしい人選です」
「きみが賛成してくれてうれしい」ダンブルドアが微笑んだ。
「何か飲み物はどうかね?」
「いただきます」ヴォルデモートが言った。
「遠くから参りましたので」
ダンブルドアは立ち上がって、現在は「憂いの篩」が入れてある棚のところへ行った。
そこには瓶がたくさん並んでいた。
ヴォルデモートにワインの入ったゴブレットを渡し、自分にも一杯注いでから、ダンブルドアは机の向こうに戻った。
「それで、トム……どんな用件でお訪ねくださったのかな?」ヴォルデモートはすぐには答えず、ただワインを一口飲んだ。
「わたくしはもう『トム』と呼ばれていません」ヴォルデモートが言った。
「このごろわたくしの名は――」
「きみが何と呼ばれているかは知っておる」ダンブルドアが愛想よく微笑みながら言った。
「しかし、わしにとっては、きみはずっとトム・リドルなのじゃ。イライラするかもしれぬが、これは年寄りの教師にありがちな癖でのう。生徒たちの若いころのことを完全に忘れることができんのじゃ」
ダンブルドアはヴォルデモートに乾杯するかのようにグラスを掲げた。
ヴォルデモートは相変わらず無表情だ。
しかし、ハリーにはその部屋の空気が微妙に変わるのを感じた。
ヴォルデモート自身が選んだ名前を使うのを拒んだということは、ヴォルデモートがこの会合の主導権を握るのを許さないということであり、ヴォルデモートもそう受け取ったのがハリーにはわかったのだ。
「あなたがこれほど長くここにとどまっていることに、驚いています」
短い沈黙の後、ヴォルデモートが言った。
「あなたほどの魔法使いが、なぜ学校を去りたいと思われなかったのか、いつも不思議に思っていました」
「左様」ダンブルドアはまだ微笑んでいた。
「わしのような魔法使いにとっていちばん大切なことは、昔からの技を伝え、若い才能を磨く手助けをすることなのじゃ。わしの記憶が正しければ、きみもかつて教えることに惹かれたことがあったのう」
「いまでもそうです」ヴォルデモートが言った。
「ただ、なぜあなたはどの方が、と疑問に思っただけです――魔法省からしばしば助言を求められ、魔法大臣になるようにと、たしか二度も請われたあなたが――」
「実は最終的に三度じゃ」ダンブルドアが言った。
「しかしわしは、一生の仕事として、魔法省には一度も惹かれたことはない。またしても、きみとわしとの共通点じゃのう」
ヴォルデモートは微笑みもせず首を傾げて、またワインを一口飲んだ。
いまや二人の間に張り詰めている沈黙を、ダンブルドアは自分からは破らず、楽しげに期待するかのような表情で、ヴォルデモートが口を開くのを待ち続けていた。
「わたくしは戻ってきました」しばらくしてヴォルデモートが言った。
「ディペット校長が期待していたよりも遅れたかもしれませんが……しかし、戻ってきたことには変わりありません。ディペット校長がかつて、わたくしが若すぎるからとお断りになったことを再び要請するために戻りました。この城に戻って教えさせていただきたいと、あなたにお願いするためにやってきたのです。ここを去って以来、わたくしが多くのことを見聞し、成し遂げたことを、あなたはご存知だと思います。わたくしは、生徒たちに、ほかの魔法使いからは得られないことを示し、教えることができるでしょう」
ダンブルドアは、手にしたゴブレットの上から、しばらくヴォルデモートを観察していたが、やがて口を開いた。
「いかにもわしは、きみがここを去って以来、多くのことを見聞し、成し遂げてきたことを知っておる」ダンブルドアが静かに言った。
「きみの所行は、トム、風の便りできみの母校にまで届いておる。わしはその半分も信じたくない気持じゃ」
ヴォルデモートは相変わらずうかがい知れない表情で、こう言った。
「偉大さは妬みを招き、妬みは恨みを、恨みは嘘を招く。ダンブルドア、このことは当然ご存知でしょう」
「自分がやってきたことを、きみは『偉大さ』と呼ぶ。そうかね?」
ダンブルドアは微妙な言い方をした。
「もちろんです」
ヴォルデモートの目が赤く燃えるように見えた。
「わたくしは実験した。魔法の境界線を広げてきた。おそらく、これまでになかったほど――」
「ある種の魔法と言うべきじゃろう」ダンブルドアが静かに訂正した。
「ある種の、ということじゃ。ほかのことに関して、きみは……失礼ながら……嘆かわしいまでに無知じゃ」
ヴォルデモートが初めて笑みを浮かべた。
引きつったような薄ら笑いは、怒りの表情よりもっと人を脅かす、邪悪な笑みだった。
「古くさい議論だ」ヴォルデモートが低い声で言った。
「しかし、ダンブルドア、わたくしが見てきた世の中では、私が得意とするような魔法より愛の方が強い、それがあなたの有名な説でしたね。でも私が見てきた限り、この世の中にその説を裏付けるようなものはありませんでした」
「きみはおそらく、間違ったところを見てきたのであろう」ダンブルドアが言った。
「それならば、わたくしが新たに研究を始める場として、ここ、ホグワーツほど適切な場所があるでしょうか?」ヴォルデモートが言った。
「戻ることをお許し願えませんか?わたくしの知識を、あなたの生徒たちに与えさせてくださいませんか?わたくし自身とわたくしの才能を、あなたの手に委ねます。あなたの指揮に従います」
ダンブルドアが眉を吊り上げた。
「すると、きみが指揮する者たちはどうなるのかね?自ら名乗って――という噂ではあるが――『死喰い人』と称する者たちはどうなるのかね?」
ヴォルデモートには、ダンブルドアがこの呼称を知っていることが予想外だったのだと、ハリーにはわかった。
ヴォルデモートの目がまた赤く光り、細く切れ込んだような鼻の穴が広がるのを、ハリーは見た。
「わたくしの友達は――」
しばらくの沈黙のあと、ヴォルデモートが言った。
「わたくしがいなくとも、きっとやっていけます」
「その者たちを、友達と考えておるのは喜ばしい」
ダンブルドアが言った。
「むしろ、召使いの地位ではないかという印象を持っておったのじゃが」
「間違っています」ヴォルデモートが言った。
「さすれば、今夜ホッグズ・ヘッドを訪れても、そういう集団はおらんのじゃろうな――ノット、ロジエール、マルシベール、ドロホフ――きみの帰りを待っていたりはせぬじゃろうな?まさに献身的な友達じゃ。雪の夜を、きみとともにこれほどの長旅をするとは。きみが教職を得ようとする試みに成功するようにと願うためだけにのう」
一緒に旅してきた者たちのことをダンブルドアが詳しく把握しているのが、ヴォルデモートにとって、なおさらありがたくないということは、目に見えて明らかだった。
しかし、ヴォルデモートは、たちまち気を取り直した。
「あいかわらず何もかもお見通しですね、ダンブルドア」
「いや、いや、あそこのバーテンと親しいだけじゃ」ダンブルドアが気楽に言った。
「さて、トム……」
ダンブルドアは空のグラスを置き、椅子に座り直して、両手の指先を組み合わせる独特の仕種をした。
「……率直に話そうぞ。互いにわかっていることじゃが、望んでもおらぬ仕事を求めるために、腹心の部下を引き連れて、きみが今夜ここを訪れたのは、なぜなのじゃ?」
ヴォルデモートは冷ややかに、驚いた顔をした。
「わたくしが望まない仕事?とんでもない、ダンブルドア。わたしは強く望んでいます」
「ああ、きみはホグワーツに戻りたいと思っておるのじゃ。しかし、十八歳のときもいまも、きみは教えたいなどとは思っておらぬ。トム、何が狙いじゃ?一度ぐらい、正直に願い出てはどうじゃ?」
ヴォルデモートが鼻先で笑った。
「あなたがわたしに仕事をくださるつもりがないなら――」
「もちろん、そのつもりはない」ダンブルドアが言った。
「それに、わしが受け入れるという期待をきみが持ったとは、まったく考えられぬ。にもかかわらず、きみはやってきて、頼んだ。何か目的があるに違いない」
ヴォルデモートが立ち上がった。
ますますトム・リドルの面影が消え、顔の隅々まで怒りでふく膨れ上がっていた。
「それが最後の言葉なのか?」
「そうじゃ」ダンブルドアも立ち上がった。
「では、互いに何も言うことはない」
「いかにも、何もない」ダンブルドアの顔に、大きな悲しみが広がった。
「きみの洋箪笥を燃やして怖がらせたり、きみが犯した罪を償わせたりできた時代は、とうの昔になってしもうた。しかし、トム、わしはできることならそうしてやりたい……できることなら……」
一瞬、ハリーは、叫んでも意味がないのに、危ないと叫びそうになった。
ヴォルデモートの手が、ポケットの杖に向かってたしかにピクリと動いたと思ったのだ。
しかし、一瞬が過ぎ、ヴォルデモートは背を向けた。
ドアが閉まり、ヴォルデモートは行ってしまった。
ハリーはダンブルドアの手が再び自分の腕をつかむのを感じ、次の瞬間、二人はほとんど同じ位置に立っていた。
しかし窓枠に積もっていた雪はなく、ダンブルドアの右手は、死んだような黒い手に戻っていた。
「なぜでしょう?」ハリーは、ダンブルドアの顔を見上げてすぐさま聞いた。
「ヴォルデモートはなぜ戻ってきたのですか?先生は結局、理由がおわかりになったのですか?」
「わしなりの考えはある」ダンブルドアが言った。
「しかし、わしの考えにすぎぬ」
「どんなお考えなのですか、先生?」
「きみがスラグホーン先生の記憶を回収したら、ハリー、そのときには話して聞かせよう」ダンブルドアが言った。
「ジグソーパズルのその最後の一片を、きみが手に入れたとき、すべてが明らかになることを願っておる……わしにとっても、きみにとってもじゃ」
ハリーは、知りたくてたまらない気持ちが消えず、ダンブルドアが出口まで歩いていって、ハリーのためにドアを開けてくれたときも、すぐには動かなかった。
「先生、ヴォルデモートはあのときも、『闇の魔術に対する防衛術』を教えたがっていたのですか?何も言わなかったので……」
「おお、間違いなく『闇の魔術に対する防衛術』の職を欲っしておった」ダンブルドアが言った。
「あの短い会合の後日談が、それを示しておる。よいかな、ヴォルデモート卿がその職に就くことをわしが拒んで以来、この学校には、一年を超えてその職にとどまった教師は一人もおらぬ」
第21章 不可知の部屋
The Unknowable Room
次の週、どうやったらスラグホーンを説得して本当の記憶を手に入れられるかと、ハリーは知恵を絞った。
しかし何の閃きもなく、このごろ途方に暮れたときについやってしまうことを、繰り返すばかりだった。
それは、魔法薬の教科書を隅々まで調べることだ。
これまでもたびたびそういうことがあったので、プリンスが何か役立つことを余白に書き込んでいるかもしれないと期待したのだ。
「そこからは何も出てこないわよ」
日曜の夜も更けたころ、ハーマイオニーがきっぱりと言った。
「文句を言うなよ、ハーマイオニー」ハリーが言った。
「プリンスがいなかったら、ロンはこんなふうに座っていられなかっただろう」
「いられたわよ。あなたが一年生のときにスネイプの授業をよく聞いてさえいたらね」ハーマイオニーが簡単に却下した。ハリーは知らんぷりをした。
「敵に対して」という言葉に興味をそそられて、その上の余白に殴り書きしてある呪文(セクタムセンプラ!)が目に入ったところだった。
ハリーは使ってみたくてうずうずしていたが、ハーマイオニーの前ではやめたはうがいいと思った。
その代わり、そっとそのページの端を折り曲げた。
三人は談話室の暖炉脇に座っていた。
ほかにまだ起きているのは、同学年の六年生たちだけだった。
夕食から戻ったときに、掲示板に、「姿現わし」試験の日付けが張り出されていたので、六年生たちがちょっとした興奮状態に陥った。
四月二十一日が試験の最初の日だが、その日までに十七歳になる生徒は、追加練習の申し込みができる。
練習は(厳しい監視の下で)ホグズミードで行われる、という掲示だった。
ロンは掲示を見てパニック状態になった。
まだ「姿現わし」をこなしていなかったので、テストの準備が間に合わないのではないかと恐れたのだ。
ハーマイオニーは、すでに二度「姿現わし」に成功していたので、少しは自信があった。
ハリーはと言えば、あと四カ月経たないと十七歳にならないので、準備ができていようといなかろうと、テストを受けることはできなかった。
「だけど、君は少なくとも『姿現わし』できるじゃないか!」
ロンは切羽詰まった声で言った。
「君、七月には何の問題もないよ」
「一回できただけだ」ハリーが訂正した。
前回の練習でやっと、 姿をくらましたあと、輪っかの中に再出現できたのだ。
「姿現わし」が心配だと、さんざんしゃべって時間をムダにしてしまったロンは、こんどは途方もなく難しいスネイプの宿題と格闘していた。
ハリーもハーマイオニーもそのレポートはもう仕上げていた。
吸魂鬼と取り組む最善の方法に関して、ハリーはスネイプと意見が合わなかったので、どうせ低い点しかもらえないと十分予想できた。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
むしろスラグホーンの記憶が、いまのハリーには最重要課題だった。
「言っておきますけど、ハリー、このことに関しては、バカバカしいプリンスは助けてくれないわよ!」
ハーマイオニーは一段と声高に言った。
「無理やりこちらの思いどおりにさせる方法は、一つしかないわ。『服従の呪文』だけど、それは違法だし――」
「ああ、わかってるよ。ありがと」
ハリーは本から目を離さずに言った。
「だから、何か別の方法を探してるんじゃないか。ダンブルドアは、『真実薬』も役に立たないって言ったんだ。でも、何かほかの薬とか、呪文とか……」
「あなた、やり方を間違えてるわ」ハーマイオニーが言った。
「あなただけが記憶を手に入れられるって、ダンブルドアがそう言ったのよ。ほかの人ができなくとも、あなたならスラグホーンを説得できるという意味に違いないわ。スラグホーンにこっそり薬を飲ませるなんていう問題じゃない。それなら誰だってできるもの――」
「『こうせん的』って、どう書くの?」
ロンが羊皮紙を睨んで、羽根ペンを強く振りながら聞いた。
「向かう戦じゃないみたいだし」
「違うわね」
ハーマイオニーがロンの宿題を引き寄せながら言った。
「それに『ト占』は『木占』じゃないわよ。いったいどんな羽根ペンを使っているの?」
「フレッドとジョージの『綴り修正付き』のやつさ……だけど、呪文が切れかかってるみたいだ……」
「ええ、きっとそうよ」
ハーマイオニーが、ロンのエッセイの題を指差しながら言った。
「だって、宿題は『吸魂鬼』について書くことで、『球根木』じゃないもの。それに、あなたが名前を『ローニル・ワズリブ』に変えたなんて、記憶にないけど」
「ええっ!」ロンはまっ青になって羊皮紙を見つめた。
「まさか、もう一回全部書き直しかよ!」
「大丈夫よ。直せるわ」ハーマイオニーが宿題を手元に引き寄せて、杖を取り出した。
「愛してるよ、ハーマイオニー」
ロンは疲れたように目をこすりながら、椅子にドサリと座り込んだ。
ハーマイオニーはほんのり頬を染めたが、「そんなこと、ラベンダーに聞かれないほうがいいわよ」と言っただけだった。
「聞かせないよ」ロンが、自分の両手に向かって言った。
「それとも、聞かせようかな……そしたらあいつが捨ててくれるかも……」
「おしまいにしたいんだったら、君が捨てればいいじゃないか?」ハリーが言った。
「君は誰かを振ったことがないんだろう?」ロンが言った。
「君とチョウはただ――」
「何となく別れた、うん」ハリーが言った。
「僕とラベンダーも、そうなってくれればいいのに」
ロンが、ハーマイオニーを見ながら憂鬱そうに言った。
ハーマイオニーは黙々と、杖の先で綴りの間違いを一つずつ軽く叩き、羊皮紙上で自動修正させていた。
「だけど、おしまいにしたいって仄めかせば仄めかすほど、あいつはしがみついて来るんだ。巨大イカとつき合ってるみたいだよ」
「できたわ」二十分ぐらいしてから、ハーマイオニーが宿題をロンに返した。
「感謝感激」ロンが言った。
「結論を書くから、君の羽根ペン貸してくれる?」
ハリーは、プリンスの書き込みに、何も役に立つものが見つからなかったので、あたりを見回した。
談話室に残っているのは、もう三人だけになっていた。
シェーマスが、スネイプと宿題を呪いながら寝室に上がっていったばかりだった。
暖炉の火が爆ぜる音と、ロンがハーマイオニーの羽根ペンを使って「吸魂鬼」の最後の一節を書くカリカリという音しか聞こえなかった。
ハリーがプリンスの教科書を閉じ、欠伸をしたそのとき――。
バチン
ハーマイオニーが小さな悲鳴を上げ、ロンはレポート一杯にインクをこぼした。
「クリーチャー!」ハリーが言った。
屋激しもべ妖精は深々とお辞儀をして、節くれだった自分の足の親指に向かって話しかけた。
「ご主人様は、マルフォイ坊ちゃんが何をしているか、定期的な報告をお望みでしたから、クリーチャーはこうして――」
バチン
ドビーがクリーチャーの横に現れた。
帽子代わりのティーポット・カバーが、横っちょにずれている。
「ドビーも手伝っていました、ハリー・ポッター!」
ドビーはクリーチャーを恨みがましい目で見ながら、キーキー声で言った。
「そしてクリーチャーはドビーに、いつハリー・ポッターに会いにいくかを教えるべきでした。二人で一緒に報告するためです!」
「何事なの?」
突然の出現に、ハーマイオニーはまだ衝撃から立ち直れない顔だった。
「ハリー、いったい何が起こっているの?」
ハリーはどう答えようかと迷った。
ハーマイオニーには、クリーチャーとドビーにマルフォイを尾行させたことを話していなかった。
屋激しもべ妖精のことになると、ハーマイオニーはいつも非常に敏感になるからだ。
「その……二人は僕のためにマルフォイを追けていたんだ」ハリーが言った。
「昼も夜もです」クリーチャーがシワガレ声で言った。
「ドビーは一週間、寝ていません、ハリー・ポッター!」
ドビーはフラフラッとしながら、誇らしげに言った。
ハーマイオニーが憤慨した顔になった。
「ドビー、寝てないんですって?でも、ハリー、あなた、まさか眠るななんて――」
「もちろん、そんなこと言ってないよ」ハリーが慌てて言った。
「ドビー、寝ていいんだ、わかった?でも、どっちかが何か見つけたのかい?」
ハーマイオニーがまた邪魔をしないうちにと、ハリーは急いで聞いた。
「マルフォイ様は純血にふさわしい高貴な動きをいたします」
クリーチャーが即座に答えた。
「その顔貌はわたしの女主人様の美しい顔立ちを思い起こさせ、その立ち居振舞いはまるで――」
「ドラコ・マルフォイは悪い子です!」ドビーが怒ってキーキー言った。
「悪い子で、そして――そして!」
ドビーは、ティーポット・カバーのてっぺんの房飾りから靴下の爪先までブルブル震え、暖炉めがけて飛び込みそうな勢いで駆け出した。
ハリーはこういうこともありうると予想していたので、腰のあたりをつかまえてすばやくドビーを押さえた。
ドビーは数秒問もがいていたが、やがてダラリとなった。
「ありがとうございます。ハリー・ポッター」ドビーが息を切らしながら言った。
「ドビーはまだ、昔のご主人のことを悪く言えないのです……」
ハリーがドビーを放すと、ドビーはティーポット・カバーをかぶり直し、クリーチャーに向かって挑むように言った。
「でも、クリーチャーは、ドラコ・マルフォイが、しもべ妖精にとってよいご主人ではないと知るべきです!」
「そうだ。君がマルフォイを愛しているなんて聞く必要はない」ハリーがクリーチャーに言った。
「早回しにして、マルフォイが実際どこに出かけているのかを聞こう」
クリーチャーは憤慨した顔で、また深々とお辞儀をしてから言った。
「マルフォイ様は大広間で食事をなさり、地下室にある寮で眠られ、授業はさまざまなとこ――」
「ドビー、君が話してくれ」ハリーはクリーチャーを遮って言った。
「マルフォイは、どこか、行くべきではないところに行かなかったか?」
「ハリー・ポッター様」
ドビーは、テニスボールのような大きい眼を暖炉の灯りに燈めかせながら、キーキー言った。
「マルフォイは、ドビーが見つけられる範囲では、何の規則も破っておりません。でも、やっぱり、探られないようにとても気を使っています。いろいろな生徒と一緒に、しょっちゅう八階に行きます。その生徒たちに見張らせて、自分は――」
「『必要の部屋』だ!」
ハリーは「上級魔法薬」の教科書で自分の額をバンと叩いた。
ハーマイオニーとロンが、目を丸くしてハリーを見た。
「そこに姿をくらましていたんだ!そこでやっているんだ……何かをやってる!きっと!それで、地図から消えてしまったんだ!そう言えば、地図で『必要の部屋』を見たことがない」
「忍びの者たちは、そんな部屋があることを知らなかったのかもな」ロンが言った。
「それが『必要の部屋』の魔法の一つなんだと思うわ」ハーマイオニーが言った。
「地図上に表示されないようにする必要があれば、部屋がそうするのよ」「ドビー、うまく部屋に入って、マルフォイが何をしているか覗けたかい?」
ハリーが急き込んで聞いた。
「いいえ、ハリー・ポッター。それは不可能です」ドビーが言った。
「そんなことはない」ハリーが即座に言った。
「マルフォイは、先学期、僕たちの本部に入ってきた。だから僕も入り込んで、あいつのことを探れる。大丈夫だ」
「だけど、ハリー、それはできないと恩うわ」ハーマイオニーが考えながら言った。
「マルフォイは、私たちがあの部屋をどう使っていたかをちゃんと知っていた。
そうでしょう?だって、あのバカなマリエッタがベラベラしゃべったから。マルフォイには、あの部屋が『DA』の本部になる必要があったから、部屋はその必要に応えたのよ。でも、あなたは、マルフォイが部屋に入っているときに、あの部屋が何の部屋になっているのかを知らない。だからあなたは、どういう部屋になれって願うことができないわ」
「なんとかなるさ」ハリーが事もなげに言った。
「ドビー、君はすばらしい仕事をしてくれたよ」
ロンは、ドビーが消えたあたりを見つめて言った。
「あの『姿現わし』試験はいただきなんだけど」
ハリーはその晩よく眠れなかった。
目が冴えたまま何時間も過ぎたような気がした。
マルフォイは、「必要の部屋」をどんな用途に使っているのだろう。
明日そこに入ったら、何を目にするだろう?ハーマイオニーが何と言おうと、マルフォイがDAの本部を見ることができたのなら、ハリーにも部屋の中が見られるはずだ。マルフォイの……いったい何だろう?会合の場?隠れ家?納戸?作業場?ハリーは必死で考えた。
やっと眠り込んでからも、途切れ途切れの夢で眠りが妨げられた。
マルフォイがスラグホーンになり、スラグホーンがスネイプに変わり……。
次の朝、朝食の間中へハリーは大きな期待で胸を高鳴らせていた。
「闇の魔術に対する防衛術」の授業の前に自由時間がある。
その時間を使い、何とか「必要の部屋」に入ろうと決心していた。
ハーマイオニーは、ハリーが「部屋」に侵入する計画を小声で言っても、ことさらに無関心の態度を示した。
ハリーを助けるつもりになれば、ハーマイオニーはとても役に立つのにと考えると、ハリーはイライラした。
「いいかい」
ハリーは身を乗り出して、郵便ふくろうが配達したばかりの「日刊予言者新聞」を押さえ、ハーマイオニーが広げた新聞の陰に隠れてしまうのを防ぎながら、小声で言った。
「僕はスラグホーンのことを忘れちゃいない。だけど、どうやったら記憶を引き出せるか、まったく見当がつかないんだ。頭に何か閃くまで、マルフォイが何をやってるか探し出したっていいだろう?」
「もう言ったはずよ。あなたはスラグホーンを説得する必要があるの」ハーマイオニーが言った。
「小細工するとか、呪文をかけるとかの問題じゃないわ。そんなことだったら、ダンブルドアがあっという間にできたはずですもの。『必要の部屋』の前でちょっかいを出している暇があったら――」
ハーマイオニーは、ハリーの手から「日刊予言者」をぐいと引っぱり、広げて一面に目をやりながら言った。
「スラグホーンを探し出して、あの人の善良なところに訴えてみることね」
「誰か知ってる人は?」ハーマイオニーが見出しを読み出したので、ロンが聞いた。
「いるわ!」ハーマイオニーの声に、朝食を食べていたハリーもロンも咽せ込んだ。
「でも大丈夫。死んじゃいないわ――マンダンガス。捕まってアズカバンに送られたわ。『亡者』のふりをして押し込み強盗しようとしたことに関係しているらしいわね……オクタビウス・ペッパーとかいう人が姿を消したし……まあ、なんてひどい話。九歳の男の子が、祖父母を殺そうとして捕まったわ。『服従の呪文』をかけられていたんじゃないかって……」
三人は黙り込んで朝食を終えた。
ハーマイオニーはすぐに「古代ルーン文字」の授業に向かい、ロンは、スネイプの「吸魂鬼」のレポートの結論を仕上げに、談話室に戻った。
ハリーは八階の廊下に向かい、「バカのバーナバス」がトロールにバレエを教えているタペストリーの反対側にある、長い石壁を目指した。
人影のない通路に出るとすぐ、ハリーは「透明マント」をかぶったが、何も気にする必要はなかった。
目的地に着いたときにも、誰もいなかった。
「部屋」に入るのには、マルフォイが中にいるときがいいのか、いないときのほうがいいのか、ハリーには判断がつかなかった。
いずれにせよ初回の試みには、十一歳の女の子に化けたクラップやゴイルがいないほうが、事は簡単に運ぶだろう。
ハリーは目を閉じて、「必要の部屋」の扉が隠されている壁に近づいた。
先学年に習熟していたので、やり方はわかっていた。
全神経を集中して、ハリーは考えた。
「僕はマルフォイがここで何をしているか見る必要がある……僕はマルフォイがここで何をしているか見る必要がある……僕はマルフォイがここで何をしているか見る必要がある……」
ハリーは扉の前を、三度通り過ぎた。
そして、興奮に胸を高鳴らせながら壁に向かって立ち、目を開けた――見えたのは、相変わらず何の変哲もない、長い石壁だった。
ハリーは壁に近づき、ためしに押してみた。
石壁は固く頑固に突っ張ったままだった。
「オッケー」ハリーは声に出して言った。
「オッケー……念じたことが違ってたんだ……」ハリーはしばらく考えてから、また開始した。
目をつむり、できるだけ神経を集中した。
「僕はマルフォイが何度もこっそりやってくる場所を見る必要がある……僕はマルフォイが何度もこっそりやってくる場所を見る必要がある……」
三回通り過ぎて、こんどこそと目を開けた。
扉はなかった。
「おい、いい加減にしろ」ハリーは壁に向かってイライラと言った。
「はっきり指示したのに……ようし……」ハリーは数分間必死に考えてから、また歩き出した。
「君がドラコ・マルフォイのためになる場所になってほしい……」
往復をやり終えても、ハリーはすぐには目を開かなかった。
扉がボンと現れる音が聞こえはしないかと、ハリーは耳を澄ました。
しかし、何も聞こえない。
どこか遠くのほうで、鳥の鳴き声が聞こえるばかりだった。
ハリーは目を開けた。
またしても扉はなかった。
ハリーは、悪態をついた。
すると誰かが悲鳴を上げた。振り返ると、一年生の群れが、大騒ぎで角を曲がって逃げていくところだった。
ひどく口汚いゴーストに出くわしてしまったと思い込んだらしい。
ハリーは一時間のうちに考えられるかぎり、「僕はドラコ・マルフォイが部屋の中でやっていることを見る必要がある」の言い方を変えてやってみたが、最後には、ハーマイオニーの言うことが正しいかもしれないと、渋々認めざるをえなくなった。
「部屋」は頑としてハリーのために開いてはくれなかった。
ハリーは「透明マント」を脱いでカバンにしまい、挫折感でイライラしながら、「闇の魔術に対する防衛術」の授業に向かった。
「また遅刻だぞ、ポッター」
ハリーが、蝋燭の灯りに照らされた教室に、急いで入っていくと、スネイプが冷たく言った。
「グリフィンドール、十点減点」
ハリーはロンの隣の席にドサリと座りながら、スネイプを睨みつけた。
クラスの半分はまだ立ったままで、学用品を揃えていた。
ハリーがみんなより特に遅れたとは言えないはずだ。
「授業を始める前に、『吸魂鬼』のレポートを出したまえ」
スネイプがぞんざいに杖を振ると、二十五本の羊皮紙の巻紙が宙に舞い上がり、スネイプの机の上に整然と積み上がった。
「『服従の呪文』への抵抗に関するレポートのくだらなさに、我輩は耐え忍ばねばならなかったが、今回のレポートはそれよりはましなものであることを、諸君のために望みたいものだ。さて、教科書を開いて、ページは――ミスター・フィネガン、何だ?」
「先生」シェーマスが言った。
「質問があるのですが、『亡者』と『ゴースト』はどうやって見分けられますか?実は『日刊予言者』に、『亡者』のことが出ていたものですから――」
「出ていない」スネイプがうんざりした声で言った。
「でも、先生、僕、聞きました。みんなが話しているのを――」
「ミスター・フィネガン、問題の記事を自分で読めば、『亡者』と呼ばれたものが、実はマンダンガス・フレッチャーという名の、小汚いこそ泥にすぎなかったことがわかるはずだ」
「スネイプとマンダンガスは味方同士じゃなかったのか?」
ハリーは、ロンとハーマイオニーに小声で言った。
「マンダンガスが逮捕されても平気なのか――?」
「しかし、ポッターはこの件について、ひとくさり言うことがありそうだ」
スネイプは突然教室の後ろを指差し、暗い目でハタとハリーを見据えた。
「ポッターに聞いてみることにしよう。『亡者』と『ゴースト』をどのようにして見分けるか」
クラス中がハリーを振り返った。
ハリーは、スラグホーンを訪れた夜にダンブルドアが教えてくれたことを、慌てて思い出そうとした。
「えーと――あの――ゴーストは透明で――」ハリーが言った。
「ほう、大変よろしい」答えを遮ったスネイプの口元がめくれ上がっていた。
「なるほど、ポッター、ほぼ六年に及ぶ魔法教育はムダではなかったということがよくわかる。ゴーストは透明で」
パンジー・パーキンソンが、甲高いクスクス笑いを漏らした。
ほかにも何人かがニヤニヤ笑っていた。
ハリーは腸が煮えくり返っていたが、深く息を吸って、静かに続けた。
「ええ、ゴーストは透明です。でも『亡者』は死体です。そうでしょう?ですから、実体があり――」
「五歳の子どもでもその程度は教えてくれるだろう」スネイプが鼻先で笑った。
「『亡者』は、闇の魔法使いの呪文により動きを取り戻した屍だ。生きてはいない。その魔法使いの命ずる仕事をするため、傀儡のごとくに使われるだけだ。ゴーストは、そろそろ諸君も気づいたと思うが、この世を離れた魂が地上に残した痕跡だ……それに、もちろん、ポッターが賢くも教えてくれたように、透明だ」
「でも、ハリーが言ったことは、どっちなのかを見分けるのには、いちばん役に立つ!」ロンが言った。
「暗い路地でそいつらと出くわしたら、固いかどうかちょっと見てみるだろう?質問なんかしないと思うけど。『すみませんが、あなたは魂の痕跡ですか?』なんてさ」
笑いが漣のように広がったが、スネイプが生徒をひと睨みするとたちまち消えた。
「グリフィンドール、もう十点減点。ロナルド・ウィーズリー、おまえのように室内で1センチほどの空間移動もできないような能無しからは、それ以上高度な答えは期待できんだろうな」
「だめ!」憤慨して口を開きかけたハリーの腕をつかみ、ハーマイオニーが小声で言った。
「何にもならないわ。また罰則を受けるだけよ。ほっときなさい!」
「さて、教科書の二百十三ページを開くのだ」
スネイプが、得意げな薄ら笑いを浮かべながら言った。
「『磔の呪文』の最初の二つの段落を試みたまえ……」
ロンは、そのあとずっと沈んでいた。
終業ベルが鳴ると、ラベンダーがロンとハリーを追いかけてきて(ラベンダーが近づくと、ハーマイオニーの姿が不思議にも溶けるように見えなくなった)、スネイプがロンの「姿現わし」を嘲ったことを、カンカンになって罵った。
しかし、ロンはかえって苛立った様子で、ハリーと二人でわざと男子トイレに立ち寄って、ラベンダーを振り切ってしまった。
「だけど、スネイプの言うとおりだ。そうだろう?」
ひびの入った鏡を一・二分見つめたあと、ロンが言った。
「僕なんて、試験を受ける価値があるかどうかわかんないよ。『姿現わし』のコツがどうしてもつかめないんだ」
「取りあえず、ホグズミードでの追加訓練を受けて、どこまでやれるようになるか見てみたらどうだ」ハリーが理性的に言った。
「バカバカしい輪っかに入る練習よりおもしろいことは確かだ。それで、もしもまだ――つまり――自分の思うようにはできなかったら、試験を延ばせばいい。僕と一緒に、夏に――マートル、ここは男子トイレだぞ!」
女の子のゴーストが、二人の背後の小部屋の便器から出てきて宙に浮き、白く曇った分厚い丸いメガネの奥から、じっと二人を見つめていた。
「あら」マートルが不機嫌に言った。
「あんたたちだったの」
「誰を待ってたんだ?」ロンが、鏡に映るマートルを見ながら言った。
「別に」マートルは、物憂げに顎のこキビをつぶした。
「あの人、またわたしに会いにここに来るって言ったの。でも、あなただって、またわたしに会いに立ち寄るって言ったけどね……」
マートルはハリーを非難がましい目で見た。
「……それなのに、あなたは何ヶ月も何ヶ月も姿を見せなかったわ。男の子にはあまり期待しちゃだめだって、わたし、わかったの」
「君は女子トイレに住んでいるものと思ってたけど?」
ハリーはここ数年、その場所を慎重に遠ざけていた。
「そうよ」
マートルは、すねたように小さく肩をすくめた。
「だけど、ほかの場所を訪問できないってことじゃないわ。あなたに会いに、一度お風呂場に行ったこと、憶えてる?」
「はっきりとね」ハリーが言った。
「だけど、あの人はわたしのことが好きだと思ったんだけど……」マートルが悲しげに言った。
「二人がいなくなったら、もしかしてあの人が戻ってくるかもしれない……わたしたちって、共通点がたくさんあるもの……あの人はきっとそれを感じたと恩うわ……」
マートルは、もしかしたら、という目つきで入口を見た。
「共通点が多いっていうことは――」ロンが、おもしろくなってきたという口ぶりで言った。
「そいつもS字パイプに住んでるのかい?」
「違うわ」
マートルの挑戦的な声が、トイレの古いタイルに反響した。
「つまり、その人は繊細なの。みんながあの人のこともいじめる。孤独で、誰も話す相手がいないのよ。それに自分の感情を表すことを恐れないで、泣くの!」
「ここで泣いてる男がいるのか?」ハリーが興味津々で聞いた。
「まだ小さい男の子かい?」
「気にしないで!」
マートルは、いまやニタニタ笑っているロンを、小さな濡れた目で見据えながら言った。
「誰にも言わないって、わたし、約束したんだから。あの人の秘密は言わない。死んでも――」
「――墓場まで持っていく、じゃないよな?」ロンがフンと鼻を鳴らした。
「下水まで持っていく、かもな……」
怒ったマートルは、吠えるように叫んで便器に飛び込み、溢れた水が床を濡らした。
マートルをからかうことで、ロンは気を取り直したようだった。
「君の言うとおりだ」
ロンは、カバンを肩に放り上げながら言った。
「ホグズミードで追加練習をしてから、試験を受けるかどうか決めるよ」
そしてそして次の週末、ロンはハーマイオニーや二週間後の試験までに十七歳になる他の六年生達の仲間に加わった。
村に出かける準備をしているみんなを、ハリーは妬ましい思いで眺めていた。
村までの遠足ができなくなったことを、ハリーは寂しく思っていたし、その日は特によく晴れた春の日で、しかもこんな快晴はここしばらくなかったからだ。
しかし、ハリーはこの時間を使って、「必要の部屋」への突撃に再挑戦しようと決めていた。
「それよりもね」
玄関ホールでハリーがロンとハーマイオニーにその計画を打ち明けると、ハーマイオニーが言った。
「まっすぐスラグホーンの部屋に行って、記憶を引き出す努力をするはうがいいわ」
「努力してるよ!」
ハリーは不機嫌になった。間違いなく努力はしていた。ここ一週間、魔法薬の授業のたびに、ハリーはあとに残ってスラグホーンを追い詰めようとした。
しかし魔法薬の先生は、いつもすばやく地下牢教室からいなくなり、捕まえることができなかった。
ハリーは、二度も先生の部屋に行ってドアを叩いたが、返事はなかった。
しかし、二度目のときは、たしかに、占い蓄音機の音を慌てて消す気配がした。
「ハーマイオニー、あの人は、僕と話したがらないんだよ!スラグホーンが一人のときを僕が狙っていると知ってて、そうさせまいとしてるんだ!」
「まあね、でも、がんばり続けるしかないでしょう?」
管理人のフィルチの前には短い列ができていて、フィルチはいつもの「詮索センサー」で突ついていた。
列が二、三歩前に進んだので、ハリーは管理人に聞かれてはまずいと思い、答えなかった。
ロンとハーマイオニーを、がんばれと見送ったあと、ハーマイオニーが何と言おうと、二時間は「必要の部屋」に専念しようと決意して、ハリーは大理石の階段を戻った。
玄関ホールから見えない場所まで来ると、ハリーは「忍びの地図」と「透明マント」をカバンから取り出した。
身を隠してから、ハリーは地図を叩いて「われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり」と唱え、地図を細かく見回した。
日曜の朝だったので、ほとんどの生徒は各寮の談話室にいた。
グリフィンドール生とレイブンクロー生はそれぞれの塔に、スリザリン生は地下牢で、ハッフルパフ生は厨房近くの地下の部屋だった。
図書室や廊下を一人でブラブラ歩いている生徒が、あちらこちらに見えた……何人かは校庭だ……そして、見よ、八階の廊下に、グレゴリー・ゴイルがたった一人でいる。
「必要の部屋」の印は何もないが、ハリーは気にならなかった。
ゴイルが外で看視に立っているなら、地図が認識しようとしまいと、「部屋」は開いている。
ハリーは階段を全速力で駆け上がり、八階の廊下に出る曲がり角近くでやっと速度を落とした。
そこからはゆっくりと忍び足で、小さな女の子に近づいた。
二週間前、ハーマイオニーが親切に助けてやった、重そうな真鍮の秤をしっかり抱えたあの女の子だ。
ハリーは女の子の真後ろに近づいてから、低く身を屈めて囁き声で言った。
「やあ……君、とってもかわいいじゃないか?」
度肝を抜かれたゴイルは、甲高い叫び声を上げ、秤を放り投げて駆け出した。
秤が落ちて廊下に反響する音が消えたときには、ゴイルの姿はとっくに見えなくなっていた。
ハリーは笑いながら、のっぺりした石壁を凝視した。
その陰にいまドラコ・マルフォイが、都合の悪い誰かが外にいることを知って、姿を現すこともできず、凍りついたように立っているに違いない。
まだ試していない言葉の組み合わせを考えながら、ハリーは主導権を握った心地よさを味わっていた。
しかし、この高揚した状態は、長くは続かなかった。
マルフォイが何をしているかを見るという必要を、あらゆる言い方で試してみたにもかかわらず、三十分経っても壁は頑としてドアを現してくれなかった。
ハリーはどうしようもないほど苛立った。
マルフォイは、すぐそこにいるかもしれないのだ。
それなのに、そこでマルフォイが何をしているのか、いまだに爪の先ほどの証拠もない。
堪忍袋の緒がぷっつり切れ、ハリーは壁に突進して蹴りつけた。
「アイタッ!」
足の親指が折れたかと思った。
ハリーは足をつかんで片足でピョンピョン跳ね、「透明マント」が滑り落ちた。
「ハリー?」
ハリーは片足のまま振り返り、引っくり返った。
そこには、何と驚いたことに、トンクスがいた。
この廊下をしょっちゅうぶらついているかのように、ハリーに近づいてくる。
「こんなところで、何してるの?」
ハリーは慌てて立ち上がりながら聞いた。
トンクスはどうして、自分が床に転がっているときばかり現れるんだろう「ダンブルドアに会いにきたの」トンクスが言った。
ハリーは、トンクスがひどい様子をしていると思った。
前よりやつれて、くすんだ茶色の髪はダラリと伸びきっていた。
「校長室はここじゃないよ」ハリーが言った。
「城の反対側で、ガーゴイルの裏の――」
「知ってる」トンクスが言った。
「そこにはいない。どうやらまた出かけている」
「また?」ハリーは痛めた足をそっと床に下ろした。
「ねえ――トンクスは、ダンブルドアがどこに出かけるのか、知らないだろうね?」
「知らない」トンクスが言った。
「何の用でダンブルドアに会いにきたの?」
「別に特別なことじゃないんだけど」
トンクスは、どうやら無意識にローブの袖を何度も摘まみながら、言った。
「ただ、何が起こっているか、ダンブルドアなら知っているんじゃないかと思って……噂を聞いたんだ……人が傷ついている……」
「うん、知ってる。新聞にいろいろ出ているし」ハリーが言った。
「小さい子が人を殺そうとしたとか――」
「『日刊予言者』は、ニュースが遅いことが多いんだ」トンクスが言った。ハリーの言うことは聞いていないように見えた。
「騎士団の誰かから、最近手紙が来てないでしょうね?」
「騎士団にはもう、手紙をくれる人は誰もいない」ハリーが言った。
「シリウスはもう――」ハリーは、トンクスの目が涙で一杯なのを見た。
「ごめん」ハリーは当惑して呟いた。
「あの……僕もあの人がいなくて寂しいんだ……」
「えっ?」トンクスは、ハリーの言ったことが聞こえなかったかのように、きょとんとした。
「じゃあ……またね、ハリー……」
トンクスは唐突に蝿を返し、廊下を戻っていった。
残されたハリーは目を丸くして見送った。
一・二分が経ち、ハリーは「透明マント」をかぶり直して、再び「必要の部屋」に入ろうと取り組みはじめたが、もう気が抜けてしまっていた。
胃袋も空っぽだったし、考えてみれば、ロンとハーマイオニーがまもなく昼食に戻ってくる。
ハリーはついに諦め、廊下をマルフォイに明け渡した。
おそらくマルフォイは、不安であと数時間はここから出られないだろう。
いい気味だ。
ロンとハーマイオニーは大広間にいた。
早い昼食を、もう半分すませていた。
「できたよ――まあ、ちょっとね!」
ロンはハリーの姿を見つけると、興奮して言った。
「マダム・パディフットの喫茶店の外に『姿現わし』するはずだったんだけど、ちょっと行きすぎて、スクリベンシャフト羽根ペン専門店の近くに出ちゃってさ。でも、とにかく動いた!」
「やったね」ハリーが言った。
「君はどうだったハーマイオニー?」
「ああ、完壁さ。当然」
ハーマイオニーより先に、ロンが言った。
「完壁な3Sだ。『真剣』、『心配』、『信仰』、だったかな、まあどうでもいいや――そのあと、みんなで『三本の箒』にちょっと飲みにいったんだけど、トワイクロスが、ハーマイオニーを褒めるの褒めないのって――そのうちきっと結婚の申し込みを――」
「それで、あなたはどうだったの?」
ハーマイオニーはロンを無視して開いた。
「ずっと『必要の部屋』に関わりきりだったの?」
「そっ」ハリーが言った。
「それで、誰に出会ったと思う?トンクスさ!」
「トンクス?」ロンとハーマイオニーがびっくりして同時に聞き返した。
「ああ。ダンブルドアに会いにきたって言ってた……」
「僕が思うには――」ハリーが、トンクスとの会話のことを話し終わると、ロンが言った。
「トンクスはちょっと変だよ。魔法省での出来事のあと、意気地がない」
「ちょっとおかしいわね」ハーマイオニーは、何か思うところがあるのか、とても心配そうだった。
「トンクスは学校を護っているはずなのに、どうして急に任務を放棄して、ダンブルドアに会いにきたのかしら?しかも留守なのに」
「こういうことじゃないかな」
ハリーは遠慮がちに言った。
こんなことを自分が言うのはそぐわないような気がした。
むしろハーマイオニーの領域だ。
「トンクスは、もしかしたら……ほら……シリウスを愛してた?」
ハーマイオニーは、目を見張った。
「いったいどうしてそう思うの?」
「さあね」ハリーは肩をすくめた。
「だけど、僕がシリウスの名前を言ったら、ほとんど泣きそうだった……それに、トンクスのいまの守護霊は、大きな動物なんだ……もしかしたら、守護霊が変わったんじゃないかな……ほら……シリウスに」
「一理あるわ」ハーマイオニーが考えながら言った。
「でも、突然、城に飛び込んできた理由がまだわからないわ。もし本当にダンブルドアに会いにきたのだとしたら……」
「結局、僕の言ったことに戻るわけだろ?」
ロンが、こんどはマッシュポテトを掻っ込みながら言った。
「トンクスはちょっとおかしくなった。意気地がない。女ってやつは――」
ロンは賢しげにハリーに向かって言った。
「あいつらは簡単に動揺する」
「だけど――」
ハーマイオニーが、突然現実に戻ったように言った。
「女なら、誰かさんの鬼婆とか癒師の冗談や、ミンビュラス・ミンブルトニアの冗談で、マダム・ロスメルタが笑ってくれなかったからといって、三十分もすねたりしないでしょうね」ロンが顔をしかめた。
第22章 埋葬のあと
After the Burial
城の尖塔の上に、青空が切れ切れに覗きはじめた。
しかし、こうした夏の訪れの印も、ハリーの心を高揚させてはくれなかった。
マルフォイの企てを見つけ出す試みも、スラグホーンと会話する努力も挫折し、何十年も隠し続けてきたらしい記憶をスラグホーンから引き出す糸口は、見つかっていなかった。
「もう、これっきり言わないけど、マルフォイのことは忘れなさい」ハーマイオニーがきっぱりと言った。
昼食の後、三人は中庭の陽だまりに座っていた。
ハーマイオニーもロンも、魔法省のパンフレット、「『姿現わし』のよくある間違いと対処法」を握りしめていた。
二人とも、その日の午後に試験を受けることになっていたからだ。
しかし、パンフレットなどは、概して神経をなだめてくれるものではない。
女の子が一人、曲がり角から現れたのを見て、ロンはぎくりとしてハーマイオニーの陰に隠れた。
「ラベンダーじゃないわよ」ハーマイオニーがうんざりしたように言った。
「あ、よかった」ロンがホッとしたように言った。
「ハリー・ポッター?」女の子が聞いた。
「これを渡すように言われたの」
「ありがとう……」
小さな羊皮紙の巻紙を受け取りながら、ハリーは気特が落ち込んだ。
女の子が声の届かないところまで行くのを待って、ハリーが言った。
「僕が記憶を手に入れるまではもう授業をしないって、ダンブルドアはそう言ったんだ!」
「あなたがどうしているか、様子を見たいんじゃないかしら?」
ハリーが羊皮紙を広げる問、ハーマイオニーが意見を述べた。
しかし、羊皮紙には、ダンブルドアの細長い斜め文字ではなく、ぐちゃぐちゃした文字がのたくっていた。
何箇所も、インクが滲んで大きな染みになっているので、とても読みにくい。
ハリー、ロン、ハーマイオニー
ハリー、ロン、おまえさんたちはアラゴグに会ったな。
だからあいつがどんなに特別なやつだったかわかるだろう。
ハーマイオニー 、おまえさんもきっと、あいつが好きになっただろうに。
今日、あとで、おまえさんたちが埋葬にちょっくら来てくれたら、俺は、うんとうれしい。
夕闇が迫るころに埋めてやろうと思う。
あいつの好きな暗闇だったしな。
そんなに遅くに出てこれねぇってことは知っちょる。だが、おまえさんたちは
「マント」が使える。無理は喜わねえガ、俺ひとりじゃ耐えきれねえ。
ハクリッド
「これ、読んでよ」
ハリーはハーマイオニーに手紙を渡した。
「まあ、どうしましょう」
ハーマイオニーは急いで読んで、ロンに渡した。
ロンは読みながら、だんだん「マジかよ」という顔になった。
「まともじやない!」
ロンが憤慨した。
「仲間の連中に、僕とハリーを食えって言ったやつだぜ!勝手に食えって、そう言ったんだぜ!それなのにハグリッドは、こんどは僕たちが出かけていって、おっそろしい毛むくじゃら死体に涙を流せっていうのか!」
「それだけじゃないわ」ハーマイオニーが言った。
「夜に城を抜け出せって頼んでるのよ。安全対策が百万倍も強化されているし、私たちがつかまったら大問題になるのを知ってるはずなのに」
「前にも夜に訪ねていったことがあるよ」ハリーが言った。
「ええ、でも、こういうことのためだった?」ハーマイオニーが言った。
「私たち、ハグリッドを助けるために危険を冒してきたわ。でもどうせ――アラゴグはもう死んでるのよ。これがアラゴグを助けるためだったら――」
「――ますます行きたくないね」ロンがきっぱりと言った。
「ハーマイオニー、君はあいつに会ってない。いいかい、死んだことで、やつはずっとましになったはずだ」
ハリーは手紙を取り戻して、羊皮紙一杯に飛び散っているインクの染みを見つめた。
羊皮紙に大粒の涙がポタポタこぼれたに違いない……。
「ハリー、まさか、行くつもりじゃないでしょうね」ハーマイオニーが言った。
「そのために罰則を受けるのはまったく意味がないわ」ハリーはため息をついた。
「うん、わかってる」ハリーが言った。
「ハグリッドは、僕たち抜きで埋葬しなければならないだろうな」
「ええ、そうよ」ハーマイオニーがほっとしたように言った。
「ねえ、魔法薬の授業は今日、ほとんどガラガラよ。私たちが全部試験に出てしまうから……そのときに、スラグホーンを少し懐柔してごらんなさい!」
「五十七回目に、やっと幸運ありっていうわけ?」ハリーが苦々しげに言った。
「幸運――」
ロンが突然口走った。
「ハリー、それだ――幸運になれ!」
「何のことだい?」
「『幸運の液体』を使え!」
「ロン、それって――それよ!」ハーマイオニーが、はっとしたように言った。
「もちろんそうだわ!どうして思いつかなかったのかしら?」
ハリーは目を見張って二人を見た。
「フェリックス・フェリシス?どうかな……僕、取っておいたんだけど……」
「何のために?」
ロンが信じられないという顔で問い詰めた。
「ハリー、スラグホーンの記憶ほど大切なものがほかにある?」
ハーマイオニーが問い質した。ハリーは答えなかった。
このところしばらく、金色の小瓶が、ハリーの空想の片隅に浮かぶようになっていた。
漠然とした形のない計画だったが、ジニーがディーンと別れ、ロンはジニーの新しいボーイフレンドを見てなぜか喜ぶ、というような筋書きが、頭の奥のほうで沸々と熟成されていた。
夢の中や、眠りと目覚めとの間の、ぼんやりした時間にだけしか意識していなかったのだが……。
「ハリー、ちゃんと闘いてるの?」ハーマイオニーが聞いた。
「えっ――?ああ、もちろん」ハリーは我に返った。
「うん……オッケー。今日の午後にスラグホーンを捕まえられなかったら、フエリックスを少し飲んで、もう一度夕方にやってみる」
「じゃ、決まったわね」
ハーマイオニーはきびきび言いながら、立ち上がって爪先で優雅にくるりと回った。
「『集中』……『真剣』……『慎重』……」ハーマイオニーがブツブツ言った。
「おい、やめてくれ」ロンが哀願した。
「僕、それでなくても、もう気分が悪いんだから……あ、隠して!」
「ラベンダーじゃないわよ!」ハーマイオニーがイライラしながら言った。
中庭に女の子が二人現れたとたん、ロンはたちまちハーマイオニーの陰に飛び込んでいた。
「よーし」
ロンはハーマイオニーの肩越しに覗いて確かめた。
「おかしいな、あいつら、なんだか沈んでるぜ、なあ?」
「モンゴメリー姉妹よ。沈んでるはずだわ。弟に何が起こったか、聞いていないの?」ハーマイオニーが言った。
「正直言って、誰の親戚に何があったなんて、僕もうわかんなくなってるんだ」ロンが言った。
「あのね、弟が狼人間に襲われたの。噂では、母親が死喰い人に手を貸すことを拒んだそうよ。とにかく、その子はまだ五歳で、聖マンゴで死んだの。助けられなかったのね」
「死んだ?」ハリーがショックを受けて聞き返した。
「だけど、狼人間はまさか、殺しはしないだろう?狼人間にしてしまうだけじゃないのか?」
「ときには殺す」ロンがいつになく暗い表情でいった。
「狼人間が興奮すると、そういうことが起こるって聞いた」
「その狼人間、何ていう名前だった?」ハリーが急き込んで聞いた。
「どうやら、フェンリール・グレイバックだったという噂よ」ハーマイオニーが言った。
「そうだと思った――子どもを襲うのが好きな狂ったやつだ。ルーピンがそいつのことを話してくれた!」ハリーが怒った。
ハーマイオニーは暗い顔でハリーを見た。
「ハリー、あの記憶を引き出さないといけないわ」ハーマイオニーが言った。
「すべては、ヴォルデモートを阻止することにかかっているのよ。恐ろしいことがいろいろ起こっているのは、結局みんなヴォルデモートに帰結するんだわ……」
頭上で城の鐘が鳴り、ハーマイオニーとロンが、引きつった顔で弾かれたように立ち上がった。
「きっと大丈夫だよ」
「姿現わし」試験を受ける生徒たちと合流するために、玄関ホールに向かう二人に、ハリーは声をかけた。
「がんばれよ」
「あなたもね!」
ハーマイオニーは意味ありげな目でハリーを見ながら、地下牢に向かうハリーに声をかけた。
午後の魔法薬の授業には、三人の生徒しかいなかった。
ハリー、アーニー、ドラコ・マルフォイだった。
「みんな『姿現わし』するにはまだ若すぎるのかね?
スラグホーンが愛想よく言った。
「まだ十七歳にならないのか?」三人とも領いた。
「そうか、そうか」スラグホーンが愉快そうに言った。
「これだけしかいないのだから、何か楽しいことをしよう。何でもいいから、おもしろいものを煎じてみてくれ」
「いいですね、先生」アーニーが両手をこすり合わせながら、へつらうように言った。
一方マルフォイは、にこりともしなかった。
「『おもしろいもの』って、どういう意味ですか?」マルフォイがイライラしながら言った。
「ああ、わたしを驚かせてくれ」スラグホーンが気軽に言った。
マルフォイはむっつりと「上級魔法薬」の教科書を開いた。
この授業がムダだと思っていることは明らかだ。
ハリーは教科書の陰から、上目遣いでマルフォイを見ながら、この時間を「必要の部屋」で過ごせないことを悔しがっているに違いないと思った。
ハリーの思いすごしかもしれないが、マルフォイもトンクスと同じように、やつれたのではないだろうか?マルフォイの顔色が悪いのは確かだ。
相変わらず青黒い隈がある。
このごろ、ほとんど陽に当たっていないからなのかもしれない。
しかし、その顔には、取り澄ました倣慢さも、興奮も優越感も見られない。
ホグワーツ特急で、ヴォルデモートに与えられた任務をおおっぴらに自慢していたときの、あの威張りくさった態度は微塵もない……結論は一つしかない、とハリーは考えた。
どんな任務かは知らないが、その任務がうまくいっていないのだ。
そう思うと元気が出て、ハリーは「上級魔法薬」の教科書を拾い読みした。
すると、教科書をさんざん書き替えた、プリンス版の「陶酔感を誘う霊薬」が目に止まった。
スラグホーンの課題にぴったりなばかりか、もしかすると(そう考えたとたん、ハリーは心が躍った)、その薬を一口飲むようにハリーがうまく説得できればの話だが、スラグホーンがご機嫌な状態になり、あの記憶をハリーに渡してもよいと思うかもしれない……。
「さーて、これはまた何ともすばらしい」
一時間半後に、スラグホーンがハリーの大鍋を覗き、太陽のように輝かしい黄金色の薬を見下ろして、手を叩いた。
「陶酔薬、そうだね?それにこの香りは何だ?ウムムム……ハッカの葉を入れたね?正統派ではないが、ハリー、何たる閃きだ。もちろん、ハッカは、たまに起こる副作用を相殺する働きがある。唄を歌いまくったり、やたらと人の鼻を摘まんだりする副作用だがね?いったいどこからそんなことを思いつくのやら、さっぱりわからんね……もしや――」
ハリーはプリンスの教科書を、足でカバンの奥に押し込んだ。
「――母親の遺伝子が、君に現れたのだろう!」
「あ…-ええ、たぶん」ハリーはほっとした。
アーニーは、かなり不機嫌だった。こんどこそハリーよりうまくやろうとして、無謀にも独自の魔法薬を創作しようとしたのだが、薬はチーズのように固まり、鍋底で紫のダンゴ状になっていた。
マルフォイはふて腐れた顔で、もう荷物を片付けはじめていた。
スラグホーンは、マルフォイの「しゃっくり咳薬」を「まあまあ」と評価しただけだった。
終業ベルが鳴り、アーニーもマルフォイもすぐに出ていった。
「先生」
ハリーが切り出したが、スラグホーンはすぐに振り返って教室をざっと眺めた。
自分とハリー以外に誰もいないと見て取ると、スラグホーンは大急ぎで立ち去ろうとした。
「先生――先生、試してみませんか?僕の――」
ハリーは必死になって呼びかけた。しかし、スラグホーンは行ってしまった。
がっかりして、ハリーは鍋を空けて荷物をまとめ、足取りも重く地下牢教室を出て、談話室まで戻った。
ロンとハーマイオニーは、午後の遅い時間に帰ってきた。 「ハリー!」
ハーマイオニーが肖像画の穴を抜けながら呼びかけた。
「ハリー、合格したわ!」
「よかったね!」ハリーが言った。
「ロンは?」
「ロンは――ロンはおしいとこで落ちたわ」
ハーマイオニーが小声で言った。
陰気くさい顔のロンが、がっくり肩を落として穴から出てきたところだった。
「ほんとに運が悪かったわ。些細なことなのに。試験官が、ロンの片方の眉が半分だけ置き去りになっていることに気づいちゃったの……スラグホーンはどうだった?」
「アウトさ」ハリーがそう答えたとき、ロンがやって来た。
「運が悪かったな、おい。だけど、次は合格だよ。一緒に受験できる」
「ああ、そうだな」ロンが不機嫌に言った。
「だけど、眉半分だぜ!目くじら立てるほどのことか?」
「そうよね」ハーマイオニーが慰めるように言った。
「ほんとに厳しすぎるわ……」
夕食の時間のほとんどを、三人は「姿現わし」の試験官を、こてんぱんにこき下ろすことに費やした。
談話室に戻りはじめるころまでには、ロンはわずかに元気を取り戻し、こんどは三人で、まだ解決していないスラグホーンの記憶の問題について話しはじめた。
「それじゃ、ハリー――フェリックス・フェリシスを使うのか、使わないのか?」
ロンが迫った。
「うん、使ったほうがよさそうだ」ハリーが言った。
「全部使う必要はないと思う。十二時間分はいらない。一晩中はかからない……一口だけ飲むよ。二、三時間で大丈夫だろう」
「飲むと最高の気分だぞ」ロンが思い出すように言った。
「失敗なんてありえないみたいな」
「何を言ってるの?」ハーマイオニーが笑いながら言った。
「あなたは飲んだことがないのよ!」
「ああ、だけど、飲んだと思ったんだ。そうだろ?」
ロンは、言わなくともわかるだろうと言わんばかりだった。
「効果はおんなじさ……」
スラグホーンがいましがた大広間に入ったのを見届けた三人は、スラグホーンが食事に十分時間をかけることを知っていたので、しばらく談話室で時間をつぶした。
スラグホーンが自分の部屋に戻るまで待って、ハリーが出かけていくという計画だった。
禁じられた森の梢まで太陽が沈んだとき、三人はいよいよだと判断した。
ネビル、ディーン、シェーマスが、全員談話室にいることを慎重に確かめてから、三人はこっそり男子寮に上がった。
ハリーは、トランクの底から丸めたソックスを取り出し、微かに輝く小瓶を引っぱり出した。
「じゃ、いくよ」ハリーは小瓶を傾け、慎重に量の見当をつけて一口飲んだ。
「どんな気分?」ハーマイオニーが小声で聞いた。
ハリーはしばらく答えなかった。
やがて、無限大の可能性が広がるようなうきうきした気分が、ゆっくりと、しかし確実に体中に染み渡った。
何でもできそうな気がした。
どんなことだって……そして、突然、スラグホーンから記憶を取り出すことが可能に思えた。
そればかりか、たやすいことだと……。
ハリーはニッコリと立ち上がった。自信満々だった。
「最高だ」ハリーが言った。
「ほんとに最高だ。よーし……これからハグリッドのところに行く」
「えーっ?」ロンとハーマイオニーが、とんでもないという顔で同時に言った。
「違うわ、ハリー――あなたはスラグホーンのところに行かなきゃならないのよ。憶えてる?」ハーマイオニーが言った。
「いや」ハリーが自信たっぷりに言った。
「ハグリッドのところに行く。ハグリッドのところに行くといいことが起こるって気がする」
「巨大蜘妹を埋めにいくのが、いいことだって気がするのか?」ロンが唖然として言った。
「そうさ」
ハリーは「透明マント」をカバンから取り出した。
「今晩、そこに行くべきだという予感だ。わかるだろう?」
「全然」
ロンもハーマイオニーも、仰天していた。
「これ、フェリックス・フェリシスよね?」
ハーマイオニーは心配そうに、小瓶を灯りにかざして見た。
「ほかに小瓶は持ってないでしょうね。たとえば――えーと――」
「『的外れ薬』?」
ハリーが「マント」を肩に引っかけるのを見ながら、ロンが意見を述べた。
ハリーが声を上げて笑い、ロンもハーマイオニーもますます仰大した。
「心配ないよ」ハリーが言った。
「自分が何をやってるのか、僕にはちゃんとわかってる……少なくとも……」
ハリーは自信たっぷりドアに向って歩き出した。
「フェリックスには、ちゃんとわかっているんだ」
ハリーは透明マントを頭からかぶり、階段を下りはじめた。
ロンとハーマイオニーは急いであとに続いた。
階段を降りきったところで、ハリーは開いていたドアをすっと通り抜けた。
「そんなところで、その人と何をしてたの?」
ロンとハーマイオニーが男子寮から一緒に現れたところを、ラベンダー・ブラウンがハリーの体を通過して目撃し、金切り声を上げた。
ロンがしどろもどろするのを背後に聞きながら、ハリーは矢のように談話室を横切り、その場から遠ざかった。
肖像両の穴を通過するのは、簡単だった。
ハリーが穴に近づくのと、ジニーとディーンが出るのとが同時で、ハリーは二人の間をすり抜けることができたが、誤ってジニーに触れてしまった。
「押さないでちょうだい。ディーン」ジニーがイライラしながら言った。
「あなたって、いつもそうするんだから。私、一人でちゃんと通れるわ……」肖像画はハリーの背後でバタンと閉まったが、その前に、ディーンが怒って言い返す声が聞こえた……ハリーの高揚感はますます高まった。
ハリーは城の中を堂々と歩いた。忍び歩きの必要はなかった。
途中、誰にも会わなかったが、別に変だとも思わなかった。
今夜のハリーは、ホグワーツでいちばん幸運な人間なのだ。
ハグリッドのところに行くのが正しいと感じたのはなぜなのか、ハリーはまったくわからなかった。
薬は、一度に散歩先までしか、照らしてくれないようだった。
最終目的地は見えなかったし、スラグホーンがどこで登場するのかわからなかったが、しかしこれが記憶を獲得する正しい道だということはわかっていた。
玄関ホールに着くと、フィルチが正面の扉に鍵をかけ忘れていることがわかった。
ハリーはニッコリ笑って勢いよく扉を開き、しばらくの間、新鮮な空気と草の匂いを吸い込み、それから黄昏の中へと歩き出した。
階段を降りきったところで、ハリーは急に、ハグリッドの小屋まで、野菜畑を通っていくとどんなに心地よいだろうと思いついた。
厳密には寄り道になるのだが、ハリーにとっては、この気まぐれを行動に移さなければならないことがはっきりしていた。
そこですぐさま野菜畑に足を向けた。
うれしいことに、そして別に不思議だとは思わなかったが、そこでスラグホーン先生がスプラウト先生と話しているのに出くわした。
ハリーは、ゆったりとした安らぎを感じながら、低い石垣の陰に隠れて、二人の会話を開いた。
「……ポモーナ、お手間を取らせてすまなかった」
スラグホーンが礼儀正しく挨拶していた。
「権威者のほとんどが、夕暮れ時に摘むのがいちばん効果があるという意見ですのでね」
「ええ、そのとおりです」スプラウト先生が暖かく言った。
「それで十分ですか?」
「十分、十分」
ハリーが見ると、スラグホーンはたっぷり葉の茂った植物を腕一杯に抱えていた。
「三年生の全員に数枚ずつ行き渡るでしょうし、煮込みすぎた子のために少し余分もある……さあ、それではおやすみなさい。本当にありがとう!」
スプラウト先生はだんだん暗くなる道を、温室のほうに向かい、スラグホーンは透明なハリーが立っている場所に近づいてきた。
ハリーは突然姿を現したくなり、「マント」を派手に打ち振って脱ぎ捨てた。
「先生、こんばんは」
「こりゃあびっくり、ハリー、腰を抜かすところだったぞ」
スラグホーンはバッタリ立ち止まり、警戒するような顔で言った。
「どうやって城を抜け出したんだね?」
「フィルチが扉に鍵をかけ忘れたに違いありません」
ハリーは朗らかに答え、スラグホーンがしかめっ面をするのを見てうれしくなった。
「このことは報告しておかねは。まったく、あいつは、適切な保安対策より、ゴミのことを気にしている……ところで、ハリー、どうしてこんなところにいるんだね?」
「ええ、先生、ハグリッドのことなんです」
ハリーには、いまは本当のことを言うべきときだとわかっていた。
「ハグリッドはとても動揺しています……でも、先生、誰にも言わないでくださいますか?ハグリッドが困ったことになるのは嫌ですから……」
スラグホーンは明らかに好奇心を刺激されたようだった。
「さあ、約束はできかねる」スラグホーンはぶっきらぼうに言った。
「しかし、ダンブルドアがハグリッドを徹底的に信用していることは知っている。だから、ハグリッドがそれほど恐ろしいことをしでかすはずはないと思うが……」
「ええ、巨大蜘味のことなんです。ハグリッドが何年も飼っていたんです……禁じられた森に棲んでいて……話ができたりする蜘味でした――」
「森には、毒蜘味のアクロマンチュラがいるという噂は、聞いたことがある」
黒々と茂る木々のかなたに目をやりながら、スラグホーンがひっそりと言った。
「それでは、本当だったのかね?」
「はい」ハリーが答えた。
「でも、この蜘妹はアラゴグといって、ハグリッドが初めて飼った蜘味です。昨夜死にました。ハグリッドは打ちのめされています。アラゴグを埋葬するときに誰かそばにいてほしいと言うので、僕が行くって言いました」
「優しいことだ、優しいことだ」
遠くに見えるハグリッドの小屋の灯りを、大きな垂れ目で見つめながら、スラグホーンが上の空で言った。
「しかし、アクロマンチュラの毒は非常に貴重だ……その獣が死んだばかりなら、まだ乾ききってはおるまい……勿論、ハグリッドが動揺しているなら、心ないことは何もしたくない……しかし、多少なりと手に入れる方法があれば……つまり、アクロマンチエラが生きているうちに毒を取るのは、ほとんど不可能だ……」
スラグホーンは、ハリーにというより、いまや自分に向かって話しているようだった。
「……採集しないのはいかにももったいない……半リットルで百ガリオンになるかもしれない……正直言って、私の給料は高くない……」ハリーはもう、何をすべきかがはっきりわかった。
「えーと」
ハリーは、いかにも躊躇しているように言った。
「えーと、もし先生がいらっしゃりたいのでしたら、ハグリッドはたぶん、とても喜ぶと思います……アラゴグのために、ほら、よりよい野辺送りができますから……」
「いや、勿論だ」
スラグホーンの目が、いまや情熱的に輝いていた。
「いいかね、ハリー、あっちで君と落ち合おう。わたしは飲み物を一、二本持って……哀れな獣に乾杯するとしよう――まあ――獣の健康を祝してというわけにはいかんが――とにかく、埋葬がすんだら、格式ある葬儀をしてやろう。それに、ネクタイを変えてこなくては。このネクタイは葬式には少し派手だ……」
スラグホーンはバタバタと城に戻り、ハリーは大満悦でハグリッドの小屋へと急いだ。
「来てくれたんか」
戸を開け、ハリーが「透明マント」から姿を硯したのを見て、ハグリッドはシワガレ声で言った。
「うん――ロンとハーマイオニーは来られなかったけど」ハリーが言った。
「とっても申しわけないって言ってた」
「そんな――そんなことはええ……そんでも、ハリー、おまえさんが来てくれて、あいつは感激してるだろうよ……」
ハグリッドは大きく泣きじゃくった。
靴墨に浸したボロ布で作ったような喪章をつけ、目をまっ赤に泣き腫らしている。
ハリーは慰めるようにハグリッドの肘をボンボン叩いた。
ハリーが楽に届くのは、せいぜいその高さ止まりだった。
「どこに埋めるの?」ハリーが聞いた。
「禁じられた森?」
「とんでもねえ」
ハグリッドがシャツの裾で流れ落ちる涙を拭った。
「アラゴグが死んじまったんで、ほかの蜘妹のやつらは、俺を巣のそばに一歩も近づかせねえ。連中が俺を食わんかったんは、どうやら、アラゴグが命令してたかららしい!ハリー、信じられっか?」
正直な答えは、「信じられる」だった。
ハリーとロンが、アクロマンチュラと顔つき合わせた場面を、ハリーは痛いはどよく憶えている。
アラゴグがいるからハグリッドを食わなかったのだと、連中がはっきり言った。
「森ン中で、俺が行けねえところなんか、いままではなかった!」
ハグリッドは頭を振り振り言った。
「アラゴグの骸をここまで持ってくるんは、並たいてぇじゃあなかったぞ。まったく連中は死んだもんを食っちまうからな……だけんど、俺は、こいつにいい埋葬をしてやりたかった……ちゃんとした葬式をな……」
ハグリッドはまた激しくすすり上げはじめた。
ハリーはハグリッドの肘をまたボンボン叩きながら(薬がそうするのが正しいと知らせているような気がしたので)、こう言った。
「ハグリッド、ここに来る途中で、スラグホーン先生に会ったんだ」
「問題になったんか?」
ハグリッドは驚いて顔を上げた。
「夜は城を出ちゃなんねえ。わかってるんだ。俺が悪い――」
「違うよ。僕がしようとしていることを、先生に話したら、先生もアラゴグに最後の敬意を表しにきたいって言うんだ」ハリーが言った。
「もっとふさわしい服に着替えるのに、城に戻ったんだ、と思うよ……それに、飲み物を何本か持ってくるって。アラゴグの想い出に乾杯するために……」
「そう言ったんか?」
ハグリッドは驚いたような、感激したような顔をした。
「そりゃ――そりゃ親切だ。そりゃあ。それに、おまえさんを突き出さんかったこともな。俺はこれまであんまり、ホラス・スラグホーンと付き合いがあったわけじゃねえが……だけんど、アラゴグのやつを見送りにきてくれるっちゅうのか?え?フム……きっと気に入るだろうよ……アラゴグのやつが」
ハリーは内心、スラグホーンに食える肉がたっぷりあるところが、いちばんアラゴグは気に入っただろうと思ったが、黙ってハグリッドの小屋の裏側の窓に近寄った。
そこから、かなり恐ろしい光景が見えた。
巨大な蜘株の死体が引っくり返って、もつれて丸まった足をさらしていた。
「ハグリッド、ここに埋めるの?庭に?」
「かぼちゃ畑の、ちょっと向こうがええと思ってな」ハグリッドが声を詰まらせた。
「もう掘ってあるんだ――ほれ――墓穴をな。何かええことを言ってやりてえと思ってなあ――ほれ、楽しかった思い出とか――」
ハグリッドの声がわなわなと震えて涙声になった。
戸を叩く音がして、ハグリッドは、でっかい水玉模様のハンカチで鼻をチンとかみながら、戸を開けにいった。
スラグホーンが急いで敷居をまたいで入ってきた。
腕に瓶を何本か抱え、厳粛な黒いネクタイを締めている。
「ハグリッド」スラグホーンが深い沈んだ声で言った。
「まことにご愁傷さまで」
「ご丁寧なこって」ハグリッドが言った。
「感謝します。それに、ハリーを罰則にしなかったことも、ありがでえ……」
「そんなことは考えもしなかっただろう」スラグホーンが言った。
「悲しい夜だ。悲しい夜だ……哀れな仏は、どこにいるのかね?」
「こっちだ」
ハグリッドは声を震わせた。
「そんじゃ――そんじゃ、始めるかね?」
三人は裏庭に出た。
木の間から垣間見える月が、淡い光を放ち、ハグリッドの小屋から漏れる灯りと交じり合って、アラゴグの亡骸を照らした。
掘ったばかりの土が三メートルもの高さに盛り上げられ、その脇の巨大な穴の縁に、骸が横たわっている。
「壮大なものだ」
スラグホーンが、蜘株の頭部に近づいた。
乳白色の目が八個、虚ろに空を見上げ、二本の巨大な曲がった鋏が、動きもせず、月明かりに輝いていた。
スラグホーンが、巨大な毛むくじゃらの頭部を調べるような様子で鋏の上に屈み込んだとき、ハリーは瓶が触れ合う音を開いたような気がした。
「こいつらがどんなに美しいか、誰でもわかるっちゅうわけじゃねえ」
目尻の皺から涙を溢れさせながら、ハグリッドがスラグホーンの背中に向かって言った。
「ホラス、あんたがアラゴグみてえな生き物に興味があるとは、知らんかった」
「興味がある?ハグリッドや、わたしは連中を崇めているのだよ」
スラグホーンが死体から離れた。
ハリーは、瓶がキラリと光ってスラグホーンのマントの下に消えるのを見た。
しかし、また目を拭っていたハグリッドは、何も気づいていない。
「さて……埋葬を始めるとするかね?」
ハグリッドは頷いて、進み出た。
巨大蜘妹を両腕に抱え、大きな唸り声とともに、ハグリッドは亡骸を暗い穴に転がした。
死骸はかなり恐ろしげなバリパリッという音を立てて、穴の底に落ちた。
ハグリッドがまた泣きはじめた。
「勿論、彼をもっともよく知る君には、幸いことだろう」
スラグホーンは、ハリー同様、ハグリッドの肘の高さまでしか届かなかったが、やはりボンボンと叩いた。
「お別れの言葉を述べてもいいかな?」墓穴の縁に進み出たスラグホーンの口元が、満足げに綻んでいた。
上質のアラゴグの毒をたっぷり採集したに違いない、とハリーは思った。
スラグホーンはゆっくりと、厳かな声で唱えた。
「さらば、アラゴグよ。蜘株の王者よ。汝との長き固き友情を、なれを知る者すべて忘れまじ!なれが亡骸は朽ち果てんとも、汝が魂は、懐かしき森の棲家の、蜘味の巣に覆われし静けき場所にとどまらん。汝が子孫の多目の眷属が永久に栄え、汝が友どちとせし人々が、汝を失いし悲しみに慰めを見出さんことを」
「なんと……なんと……美しい!」
ハグリッドは吼えるような声を上げ、堆肥の山に突っ伏して、ますます激しくオンオン泣いた。
「さあ、さあ」
スラグホーンが杖を振ると、高々と盛り上げられた土が飛び上がり、ドスンと鈍い昔を立てて蜘味の死骸の上に落ち、滑らかな塚になった。
「中に入って一杯飲もう。ハリー、ハグリッドの向こう側に回って……そうそう……さあ、ハグリッド、立って……よしよし……」
二人はハグリッドを、テーブルのそばの椅子に座らせた。
埋葬の問、バスケットにこそこそ隠れていたファングが、そっと近づいてきて、いつものように、重たい頭をハリーの膝に載せた。
スラグホーンは持ってきたワインを一本開けた。
「すべて毒味をすませてある」
最初の一本のほとんどを、ハグリッドのバケツ並みのマグに注ぎ、それをハグリッドに渡しながら、スラグホーンがハリーに請け合った。
「君の気の毒な友達のルパートにあんなことがあったあと、屋激しもべ妖精に、全部のボトルを毒味させた」
ハリーの心にハーマイオニーの表情が浮かんだ。
屋敷しもべ妖精へのこの虐待を聞いたら、いったいどんな顔をするか。
ハリーはハーマイオニーには絶対に言うまいと決めた。
「ハリーにも一杯……」
スラグホーンが、二本目を二つのマグに分けて注ぎながら言った。
「……私にも一杯。さて」
スラグホーンがマグを高く掲げた。
「アラゴグに」
「アラゴグに」ハリーとハグリッドが唱和した。
スラグホーンもハグリッドも深酒をしたが、ハリーは、フェリックス・フェリシスのおかげで行き先が照らし出されていたので、自分は飲んではいけないことがわかっていた。
ハリーは飲むまねだけで、テーブルにマグを戻した。
「俺は、なあ、あいつを卵から孵したんだ」ハグリッドがむっつりと言った。
「孵ったときにゃあ、ちっちゃな、かわいいやつだった。ペキニーズの犬ぐれえの」
「かわいいな」スラグホーンが言った。
「学校の納戸に隠しておいたもんだ。あるときまではな…-あー……」ハグリッドの顔が曇った。ハリーはわけを知っていた。
トム・リドルが、「秘密の部屋」を開いた罪をハグリッドに着せ、退学になるように仕組んだのだ。
しかし、スラグホーンは聞いていないようだった。
天井を見上げていた。そこには真飴の鍋がいくつかぶら下がっていたいたが、同時に綿糸のような輝く白い長い毛が、糸束になって下がっていた。
「ハグリッド、あれはまさか、ユニコーンの毛じゃなかろうね?」
「ああ、そうだ」ハグリッドが無頓着に言った。
「尻尾の毛が、ほれ、森の木の枝なんぞに引っかかって抜けたもんだ‥‥」
「しかし、君、あれがどんなに高価な物か知っているかね?」
「俺は、怪我した動物に、包帯を縛ったりするのに使っちょる」
ハグリッドは肩をすくめて言った。
「うんと役に立つぞ……なにせ頑丈だ」
スラグホーンは、もう一杯グイッと飲んだ。その目が、こんどは注意深く小屋を見回していた。
ほかのお宝を探しているのだと、ハリーにはわかった。
オーク樽で熟成した蜂蜜酒だとか、砂糖漬けパイナップル、ゆったりしたベルベットの上着などが、たんまり手に入る宝だ。 つnスラグホーンは、ハグリッドのマグに注ぎ足し、自分のにも注いで、最近森に棲む動物についてや、ハグリッドがどんなふうに面倒を看ているのかなどを質問した。
酒とスラグホーンのおだて用の興味に乗せられたせいで、ハグリッドは気が大きくなり、涙を拭うのはやめて、うれしそうに、ボウトラックル飼育を長々と説明しはじめた。
フェリックス・フェリシスが、ここでハリーを軽く小突いた。
ハリーは、スラグホーンが持ってきた酒が急激に少なくなっているのに気づいた。
ハリーはまだ、沈黙したまま「補充呪文」をかけることができなかったが、しかし今夜は、できないかもしれないなどと考えること自体が、笑止千万だった。ハリーは、人でほくそ笑みながら、ハグリッドにもスラグホーンにも気づかれず(二人はいまや、ドラゴンの卵の非合法取引についての逸話を交換していた)、テーブルの下から空になりかけた瓶に杖を向けた。
たちまち酒が補充されはじめた。
一時間ほど経つと、ハグリッドとスラグホーンは、乾杯の大飽振舞いを始めた。
ホグワーツ乾杯、ダンブルドア乾杯、しもべ妖精醸造のワイン乾杯―― 。
「ハリー・ポッターに乾杯!」
バケツ大のマグで十四杯目のワインを飲み干し、飲みこぼしを顎から滴らせながら、ハグリッドが破鐘のような声で言った。
「そーだ」
スラグホーンは少し呂律が回らなくなっていた。
「バリー・オッター、『選ばれし生き残った男の者』――いや――とか何とかに」
ブツブツ言いながら、スラグホーンもマグを飲み干した。
それから間もなく、ハグリッドはまた涙もろくなり、ユニコーンの尻尾を全部ごっそりスラグホーンに押しっけた。
スラグホーンはそれをポケットに入れながら叫んだ。
「友情に乾杯!気前のよさに乾杯!一本十ガリオンに乾杯!」
それからは、ハグリッドとスラグホーンは並んで腰掛け、互いの体に腕を回して、オドと呼ばれた魔法使いの死を語る、ゆっくりした悲しい曲をしばらく歌っていた。
「あぁぁぁー、いいやつぁ早死する」
ハグリッドは、テーブルの上にダラリと首うなだれながら、酔眼で呟いた。
一方スラグホーンは、声を震わせて歌のリフレインを繰り返していた。
「俺の親父はまーあだ逝く歳じゃぁなかったし……おまえさんの父さん母さんもだぁ、ハリー……」
大粒の涙が、またしてもハグリッドの目尻の敏から渉み出した。
ハグリッドは、ハリーの腕を撮って振りながら言った。
「……あの年頃の魔女と魔法使いン中じゃあ、俺の知っちょるかぎりいっち番だ……ひどいもんだ……ひどいもんだ……」スラグホーンは悲しげに歌った。
♪かくしてみんなは英雄の、オドを家へと運び込む
その家はオドがその昔、青年の日を過ごした場
オドの帽子は裏返り、オドの杖までまっぷたつ
悲しい汚名の英雄の、オドはその家に葬らる
「……ひどいもんだ」
ハグリッドが低く叩き、ぼうぼうの頭がゴロリと横に傾いで、両腕にもたれたとたん、大鼾をかいて眠り込んだ。
「すまん」スラグホーンがしゃっくりしながら言った。
「どうしても調子っぱずれになる」
「ハグリッドは、先生の歌のことを言ったのじゃありません」ハリーが静かに言った。
「僕の両親が死んだことを言っていたんです」お「ああ」スラグホーンが、大きなゲップを押さえ込みながら言った。
「ああ、なんと。いや、あれは――あれは本当にひどいことだった。ひどい……ひどい……」
スラグホーンは言葉に窮した様子で、その場しのぎに二人のマグに酒を注いだ。
「たぶん――たぶん君は、覚えてないのだろう?ハリー?」
スラグホーンが気まずそうに聞いた。
「はい――だって、僕はまだ一歳でしたから」
ハリーは、ハグリッドの鼾で揺らめいている、蝋燭の炎を見つめながら言った。
「でも、何が起こったのか、あとになってずいぶん詳しくわかりました。父が先に死んだんです。ご存知でしたか?」
「い――いや、それは」スラグホーンが消え入るような声で言った。
「そうなんです……ヴォルデモートが父を殺し、その亡骸を跨いで母に迫ったんです」ハリーが言った。
スラグホーンは大きく身震いしたが、目を逸らせることができない様子で、怯えた目でハリーの顔を見つめ続けた。
「あいつは母に退けと言いました」
ハリーは、容赦なく話し続けた。
「ヴォルデモートは僕に、母は死ぬ必要がなかったと言いました。あいつは僕だけが目当てだった。母は逃げることができたんです」
「おお、なんと」スラグホーンがひっそりと言った。
「逃げられたのに……死ぬ必要は……なんと酷い……」
「そうでしょう?」
ハリーはほとんど囁くように言った。
「でも母は動かなかった。父はもう死んでしまったけれど、母は僕までも死なせたくなかった。母はヴォルデモートに哀願しました……でも、あいつはただ高笑いを……」
「もういい!」
突然スラグホーンが、震える手で遮った。
「もう十分だ。ハリー、もう……わたしは老人だ……聞く必要はない……聞きたくない……」
「忘れていた」ハリーは、フェリックス・フェリシスが示すままにでまかせを言った。
「先生は、母が好きだったのですね?」
「好きだった?」
スラグホーンの目に、再び涙が溢れた。
「あの子に会った者は、誰だって好きにならずにはいられない……あれほど勇敢で……あれほどユーモアがあって……何という恐ろしいことだ……」
「それなのに、先生は、その息子を助けようとしない」ハリーが言った。
「母は僕に命をくれました。それなのに、先生は記憶をくれようとしない」
ハグリッドの轟々たる鼾が小屋を満たした。
ハリーは涙を溜めたスラグホーンの目をしっかり見つめた。
魔法薬の教授は、目を逸らすことができないようだった。
「そんなことを言わんでくれ」スラグホーンが微かな声で言った。
「君にやるかやらないかの問題ではない……君を助けるためなら、勿論……しかし、何の役にも立たない……」
「役に立ちます」ハリーははっきりと言った。
「ダンブルドアには情報が必要です。僕には情報が必要です」
何を言っても安全だと、ハリーにはわかっていた。
朝になれば、スラグホーンは何も覚えていないと、フエリックスが教えてくれていた。
スラグホーンの目をまっすぐに見つめながら、ハリーは少し身を乗り出した。
「僕は『選ばれし者』だ。やつを殺さなければならない。あの記憶が必要なんだ」
スラグホーンはサッと蒼ざめた。
テカテカした額に、汗が光っていた。
「君はやはり、『選ばれし者』なのか?」
「もちろんそうです」ハリーは静かに言った。
「しかし、そうすると……君は……君は大変なことを頼んでいる……わたしに頼んでいるのは、実は、君が『あの人』を破滅させるのを援助しろと――」
「リリー・エバンスを殺した魔法使いを、退治したくないんですか?」
「ハリー、ハリー、勿論そうしたい。しかし――」
「恐いんですね?僕を助けたとあいつに知られてしまうことが」
スラグホーンは無言だった。恐れ慄いているようだった。
「先生、僕の母のように、勇気を出して……」
スラグホーンはむっちりした片手を上げ、指を震わせながら口を覆った。
一瞬、育ちすぎた赤ん坊のように見えた。
「自慢できることではない……」
指の間から、スラグホーンが囁いた。
「恥ずかしい――あの記隆の顕わすことが――あの日に、わたしはとんでもない惨事を引き起こしてしまったのではないかと思う……」
「僕にその記憶を渡せば、先生のやったことはすべて帳消しになります」ハリーが言った。
「そうするのは、とても勇敢で気高いことです」
ハグリッドは眠ったままでピクリと動いたが、また鼾をかき続けた。
スラグホーンとハリーは、蝋燭のなびく炎を挟んで見つめ合った。
長い、長い沈黙が流れた。
フェリックス・フェリシスが、ハリーに、そのまま黙って待てと教えていた。
やがてスラグホーンは、ゆっくりとポケットに手を入れ、杖を取り出した。
もう一方の手をマントに突っ込み、小さな空き瓶を取り出した。
ハリーの目を見つめたまま、スラグホーンは杖の先でこめかみに触れ、杖を引いた。
記憶の長い銀色の糸が、杖先について出てきた。
記憶は、長々と伸び、最後に切れて、銀色に輝きながら杖の先で揺れた。
スラグホーンがそれを瓶に入れると、糸は螺旋状に巻き、やがて広がってガスのように渦巻いた。
震える手でコルク栓を閉め、スラグホーンはテーブル越しに瓶をハリーに渡した。
「ありがとう、先生」
「君はいい子だ」
スラグホーンの膨れた頬を涙が伝い、セイウチ髭に落ちた。
「それに、君の眼は母親の眼だ……それを見ても、わたしのことをあまり悪く思わんでくれ……」
そして、両腕に頭をもたせて深いため息をつき、スラグホーンもまた眠り込んだ。
第23章 ホークラックス
Horcruxes
こっそりと城に戻る途中、ハリーはフェリックス・フェリシスの幸運の効き目がだんだん切れていくのを感じた。
正面の扉こそまだ鍵がかかっていなかったものの、四階でビープズに出くわし、いつもの近道の一つに横っ飛びに飛び込んで、辛うじて見つからずにすんだ。
さらに時間が経って、「太った婦人」の肖像画の前で「透明マント」を脱いだときに、「婦人」が最悪のムードだったのも、別に変だとは思わなかった。
「いま何時だと思ってるの?」
「ごめんなさい――大事な用で出かけなければならなかったので――」
「あのね、合言葉は真夜中に変わったの。だから、あなたは廊下で寝なければならないことになるわね?」
「まさか!」ハリーが言った。
「どうして真夜中に変わらなきゃいけないんだ?」
「そうなっているのよ」
「太った婦人」が言った。
「腹が立つなら校長先生に抗議しなさい。安全対策を厳しくしたのはあの方ですからね」
「そりゃいいや」
硬そうな床を見回しながら、ハリーが苦々しげに言った。
「まったくすごいや。ああ、ダンブルドアが学校にいるなら、抗議しにいくよ。だって、僕の用事はダンブルドアが――」
「いらっしゃいますぞ」
背後で声がした。
「ダンブルドア校長は、一時間前に学校に戻られました」
「ほとんど首無しニック」が、いつものように襲襟の上で首をグラグラさせながら、するするとハリーに近づいてきた。
「校長が到着するのを見ていた、『血みどろ男爵』から聞きました」ニックが言った。
「男爵が言うには、校長は、もちろん少しお疲れのご様子ですが、お元気だそうです」「どこにいるの?」ハリーは心が躍った。
「ああ、天文台の塔でうめいたり、鎧をガチャつかせたりしていますよ。男爵の趣味でして――」
「『血みどろ男爵』じゃなくて、ダンブルドア!」
「ああ――校長室です」ニックが言った。
「男爵の言い方から察しますに、お就寝みになる前に何か用事がおありのようで――」
「うん、そうなんだ」
あの記憶を手に入れたことを、ダンブルドアに報告できると思うと、ハリーの胸は興奮で熱くなった。
くるりと向きを変え、「太った婦人」の声が追いかけてくるのを無視して、ハリーはまた駆け出した。
「戻ってらっしゃい!ええ、わたしが嘘をついたの!起こされてイライラしたからよ!合言葉は変わってないわ。『サナダムシ』よ!」
しかし、ハリーはもう、廊下を疾走していた。
数分後には、ダンブルドアのガーゴイルに向かって「タフィーエクレア」と合言葉を言い、ガーゴイルは飛びのいて、ハリーを螺旋階段に通していた。
「お入り」ハリーのノックにダンブルドアが答えた。
疲れきった声だった。ハリーは扉を押して入った。
ダンブルドアの校長室はいつもどおりだったが、窓の外はまっ暗な空に星が散っていた。
「なんと、ハリー」ダンブルドアは驚いたように言った。
「こんなに夜更けにわしを訪ねてきてくれるとは、いったいどんなわけがあるのじゃ?」「先生――手に入れました。スラグホーンの記憶を、手に入れました」
ハリーはガラスの小瓶を取り出して、ダンブルドアに見せた。
ダンブルドアは一瞬、不意を衝かれた様子だったが、やがてニッコリと顔をほころばせた。
「ハリー、すばらしい知らせじゃ!ようやった!きみならできると思うておった」
時間が遅いことなど、すっかり忘れてしまったように、ダンブルドアは急いで机の向こうから出てきて、傷ついていないほうの手でスラグホーンの記憶の瓶を受け取り、「憂いの篩」がしまってある棚にツカツカと歩み寄った。
「いまこそ」
ダンブルドアは石の水盆を机に置き、瓶の中身をそこに注ぎながら言った。
「ついにいまこそ、見ることができる。ハリー、急ぐのじゃ……」
ハリーは素直に「憂いの篩」を覗き込み、床から足が離れるのを感じた……今回もまたハリーは、暗闇の中を落ちていき、何年も前のホラス・スラグホーンの部屋に降り立った。
いまよりずっと若いホラス・スラグホーンがいる。艶のある豊かな麦藁色の髪に、赤毛交じりのブロンドの口髭のスラグホーンは、前の記憶と同じように、心地よさそうな肘掛椅子に腰掛け、ビロードのクッションに足を載せ、片手に小さなワイングラスをつかみ、もう一方の手で、砂糖漬けパイナップルの箱を探っていた。
十代の男の子が六人ほど、スラグホーンの周りに座り、そのまん中にトム・リドルがいる。
その指に、マールヴオロの金と黒の指輪が光っていた。
ダンブルドアがハリーの横に姿を現したとき、リドルが聞いた。
「先生、メリィソート先生が退職なさるというのは本当ですか?」
「トム、トム、たとえ知っていても、君には教えられないね」
スラグホーンは指をリドルに向けて、叱るように振ったが、同時にウィンクした。
「まったく、君って子は、どこで情報を仕入れてくるのか、知りたいものだ。教師の半数より情報通だね、君は」
リドルは微笑した。
ほかの少年たちは笑って、リドルを賞賛の眼差しで見た。
「知るべきではないことを知るという、君の謎のような能力、大事な人間をうれしがらせる心遣い――ところで、パイナップルをありがとう。君の考えどおり、これはわたしの好物で――」何人かの男の子が、またクスクス笑った。
「――君は、これから二十年のうちに魔法大臣になれると、わたしは確信しているよ。引き続きパイナップルを送ってくれたら十五年だ。魔法省にはすはらしいコネがある」
ほかの男の子はまた笑ったが、トム・リドルは微笑んだだけだった。
リドルがそのグループで最年長ではないのに、全員がリドルをリーダーとみなしているらしいことに、ハリーは気がついた。
「先生、僕に政治が向いているかどうかわかりません」笑い声が収まったところで、リドルが言った。
「一つには、僕の生い立ちがふさわしいものではありません」
リドルの周りにいた男の子が二人、顔を見合わせてニヤリと笑った。
仲間だけに通じる冗談を楽しんでいるのだと、ハリーにはわかった。
自分たちの大将が、有名な先祖の子孫だと知っているか、またはそうだろうと考えているに違いない。
「バカな」スラグホーンがきびきびと言った。
「君ほどの能力だ。由緒正しい魔法使いの家系であることは火を見るよりも明らかだ。いや、トム、君は出世する。生徒に関して、私が間違ったためしはない」
スラグホーンの背後で、机の上の小さな金色の置き時計が、十一時を打った。
スラグホーンが振り返った。
「なんとまあ、もうそんな時間か?みんな、もう戻ったほうがいい。そうしないと、みんな困ったことになるからね。レストレンジ、明日までにレポートを書いてこないと、罰則だぞ。エイブリー、君もだ」
男の子たちがぞろぞろ出て行く間、スラグホーンは肘掛椅子から重い腰を上げ、空になったグラスを机のほうに持っていった。
背後の気配でスラグホーンが振り返ると、リドルがまだそこに立っていた。
「トム、早くせんか。時間外にベッドを抜け出しているところを捕まりたくはないだろう。君は監督生なのだし……」
「先生、お伺いしたいことがあるんです」
「それじゃ、遠慮なく聞きなさい、トム、遠慮なく」
「先生、ご存知でしょうか……ホークラックスのことですが?」
スラグホーンはリドルをじっと見つめた。
ずんぐりした指が、ワイングラスの足を無意識にな撫でている。
「『闇の魔術に対する防衛術』の課題かね?」
学校の課題ではないことを、スラグホーンは百も承知だと、ハリーは思った。
「いいえ、先生、そういうことでは」リドルが答えた。
「本を読んでいて見つけた言葉ですが、完全にはわかりませんでした」
「ふむ……まあ……トム、ホグワーツでホークラックスの詳細を書いた本を見つけるのは骨だろう。闇も闇、まっ暗闇の術だ」スラグホーンが言った。
「でも、先生はすべてご存知なのでしょう?つまり、先生ほどの魔法使いなら――すみません。つまり、先生が教えてくだきらないなら、当然――誰かが教えてくれるとしたなら、先生しかないと思ったのです――ですから、とにかく何ってみようと――」
うまい、とハリーは思った。
遠慮がちに、何気ない調子で慎重におだて上げる。
どれ一つとしてやりすぎてはいない。
気が進まない相手をうまく乗せて情報を聞き出すことにかけては、ハリー自身が嫌というほど経験していたので、名人芸だと認めることができた。
リドルはその情報がほしくてたまらないのだとわかった。
おそらく、このときのために何週間も準備していたのだろう。
「さてと」
スラグホーンはリドルの顔を見ずに、砂糖漬けパイナップルの箱の上のリボンをいじりながら言った。
「まあ、勿論、ざっとしたことを君に話しても別にかまわないだろう。その言葉を理解するためだけになら。ホークラックスとは、人がその魂の一部を隠すために用いられる物を指す言葉で、分霊箱とも呼ばれる」
「でも、先生、どうやってやるのか、僕にはよくわかりません」リドルが言った。
慎重に声を抑えてはいたが、ハリーはリドルが興奮しているのを感じることができた。
「それはだね、魂を分断するわけだ」スラグホーンが言った。
「そして、その部分を体の外にある物に隠す。すると、体が攻撃されたり破滅したりしても、死ぬことはない。なぜなら、魂の一部は滅びずに地上に残るからだ。しかし、勿論、そういう形での存在は……」
スラグホーンは激しく顔をしかめた。
ハリー自身も、思わずほぼ二年前に聞いた言葉を思い出していた。
「私は肉体から引き裂かれ、霊魂にも満たない、ゴーストの端くれにも劣るものになった……しかし、私はまだ生きていた」
「……トム、それを望む者は滅多におるまい。滅多に。死のほうが望ましいだろう」
しかし、リドルはいまや欲望をむき出しにしていた。
渇望を隠しきれず、貪欲な表情になっていた。
「どうやって魂を分断するのですか?」
「それは」
スラグホーンが当惑しながら言った。
「魂は完全な一体であるはずだということを理解しなければならない。分断するのは暴力行為であり、自然に逆らう」
「でも、どうやるのですか?」
「邪悪な行為――悪の極みの行為による。殺人を犯すことによってだ。殺人は魂を引き裂く。分霊箱を作ろうと意図する魔法使いは、破壊を自らのために利用する。引き裂かれた部分を物に閉じ込める――」
「閉じ込める?でも、どうやって――?」
「呪文がある。聞かないでくれ。わたしは知らない!」
スラグホーンは年老いた象がうるさい蚊を追い払うように頭を振った。
「わたしがやったことがあるように見えるかね――わたしが殺人者に見えるかね?」
「いいえ、先生、もちろん、違います」リドルが急いで言った。
「すみません……お気を悪くさせるつもりは……」
「いや、いや、気を悪くしてはいない」スラグホーンがぶっきらぼうに言った。
「こういうことにちょっと興味を持つのは自然なことだ……ある程度の才能を持った魔法便いは、常にその類の魔法に惹かれてきた……」
「そうですね、先生」リドルが言った。
「でも、僕がわからないのは――ほんの好奇心ですが――あの、一個だけの分霊箱で役に立つのでしょうか?魂は一回しか分断できないのでしょうか?もっとたくさん分断するほうがより確かで、より強力になれるのではないでしょうか?つまり、たとえば、七という数は、いちばん強い魔法数字ではないですか?七個の場合は――」
「とんでもない、トム!」スラグホーンが甲高く叫んだ。
「七個!一人を殺すと考えるだけでも十分に悪いことじゃないかね?それに、いずれにしても……魂を二つに分断するだけでも十分に悪い……七つに引き裂くなど……」
スラグホーンは、こんどは困り果てた顔で、それまで一度もはっきりとリドルを見たことがないかのような目で、じっとリドルを見つめていた。
そもそもこんな話を始めたこと自体を後悔しているのだと、ハリーには察しがついた。
「勿論」スラグホーンが呟いた。
「すべて仮定の上での話だ。我々が話していることは。そうだね?すべて学問的な……?」
「ええ、もちろんです。先生」リドルがすぐに答えた。
「しかし、いずれにしても、トム……黙っていてくれ。わたしが話したことは――つまり、我々が話したことは、という意味だが。我々が分霊箱のことを気軽に話したことが知れると、世間体が悪い。ホグワーツでは、つまり、この話題は禁じられている……ダンブルドアは特にこのことについて厳しい……」
「一言も言いません。先生」
そう言うと、リドルは出ていった。
しかしその前に、ハリーはちらりとその顔を見た。
自分が魔法使いだと初めて知ったときに見せたと同じ、あのむき出しの幸福感に満ちた顔だった。
幸福感が端正な面立ちを引き立たせるのではなく、なぜか非人問的な顔にしていた……。
「ハリー、ありがとう」ダンブルドアが静かに言った。「戻ろうぞ……」
ハリーが校長室の床に着地したとき、ダンブルドアはすでに机の向こう側に座っていた。
ハリーも腰掛けて、ダンブルドアの言葉を待った。
「わしはずいぶん長い間、この証拠を求めておった」
しばらくしてダンブルドアが話しはじめた。
「わしが考えていた理論を裏づける証拠じゃ。これで、わしの理論が正しいということと同時に、道程がまだ遠いことがわかる……」
ハリーは突然、壁の歴代校長の肖像画がすべて目を覚まして、二人の会話に聞き入っていることに気がついた。
でっぷり太った赤鼻の魔法使いは、古いラッパ形補聴器まで取り出していた。
「さて、ハリー」ダンブルドアが言った。
「きみは、いましがた我々が耳にしたことの重大さに気づいておることじゃろう。いまのきみとほんの数カ月と違わぬ同い年で、トム・リドルは、自らを不滅にする方策を探し出すのに全力を傾けておった」
「先生はそれが成功したとお考えですか?」ハリーが開いた。
「あいつは分霊箱を作ったのですか?僕を襲ったときに死ななかったのは、そのせいなのですか?どこかに分霊箱を一つ隠していたのですか?魂の一部は安全だったのですか?」
「一部……もしくはそれ以上」ダンブルドアが言った。
「ヴォルデモートの言葉を聞いたじゃろうが、ホラスから特に聞き出したがっていたのは、複数の分霊箱を作った魔法使いはどうなるかに関する意見じゃった。是が非でも死を回避せんと、何度も殺人を犯すことをも辞さない魔法使いが、繰り返し引き裂いた魂を、数多くの分霊箱に別々に収めて隠した場合、その魔法使いがどうなるかについての意見じゃ。どの本からもそのような情報は得られなかったじゃろう。わしの知るかぎり――ヴォルデモートの知るかぎりでもあろうと確信しておるが――魂を二つに引き裂く以上のことをした魔法使いは、いまだかつておらぬ」
ダンブルドアは一瞬言葉を切り、考えを整理していたが、やがて口を開いた。
「四年前、わしは、ヴォルデモートが魂を分断した確かな証拠と考えられる物を受け取った」
「どこでですか?」ハリーが聞いた。
「どうやってですか?」
「きみがわしに手渡したのじゃ、ハリー」ダンブルドアが言った。
「日記、リドルの日記じゃ。『秘密の部屋』を、いかにして再び開くかを指示した日記じゃ」
「よくわかりません、先生」ハリーが言った。
「されば、日記から現れたリドルをわしは見ておらぬが、きみが説明してくれた現象は、わしが一度も目撃したことのないものじゃった。単なる記憶が行動を起こし、自分で考えるとは?単なる記憶が、手中にした少女の命を搾り取るであろうか?ありえぬ。あの本の中には、何かもっと邪悪なものが棲みついておったのじゃ……魂の欠けらが。わしはほぼ確信した。日記は分霊箱じゃった。しかし、これで一つの答えを得たものの、より多くの疑問が起こった。わしがもっとも関心を持ち、また驚愕したのは、あの日記が護りの道具としてだけではなく、武器として意図されていたことじゃった」
「まだよくわかりません、先生」ハリーが言った。
「左様。あれは分霊箱として然るべき機能を果たした――換言すれば、その中に隠された魂の欠けらは安全に保管され、間違いなく、その所有者が死ぬことを回避する役目を果たした。しかし、リドルが実は、あの日記が読まれることを望んでいたのは、疑いの余地がない。スリザリンの怪物が再び解き放たれるよう、自分の魂の欠けらが、誰かの中に棲みつくか取り憑くかすることを望んでおったのじゃ」
「ええ、せっかく苦労して作ったものを、ムダにはしたくなかったのでしょう」ハリーが言った。
「自分がスリザリンの継承者だということを、みんなに知ってほしかったんだ。あの時代にはそういう評価が得られなかったから」
「まさにそのとおりじゃ」ダンブルドアが頷いた。
「しかし、ハリー、気づかぬか?日記を未来のホグワーツの生徒の手に渡したり、こっそり忍び込ませたりすることを、ヴォルデモートが意図していたとすれば、その中に隠した大切な自分の魂の欠けらに関して、あまりに投げ遣りではないか。分霊箱の所以は、スラグホーン先生の説明にもあったように、自分の一部を安全に隠しておくことであり、誰かの行く手に投げ出して、破壊されてしまう危険を冒したりせぬものじゃ――事実そうなってしもうた。あの魂の欠けらは失われた。きみがそうしたのじゃ」
「ヴォルデモートがあの分霊箱を軽率に考えていたということが、わしにとってはもっとも不気味なのじゃ。つまり、それは、ヴォルデモートがすでに、さらに複数の分霊箱を作った――または作ろうとしていた――ということを示唆しておる。つまり最初の分霊箱の喪失が、それほど致命的にならぬようにしたのじゃ。
信じたくはないが、それ以外には説明がつかぬ」
「それから二年後、きみは、ヴォルデモートが肉体を取り戻した夜のことを、わしに語ってくれた。死喰い人たちに、ヴォルデモートは、まことに示唆に富む、驚くべきことを言うておる。『誰よりも深く不死の道へと入り込んでいたこの私が』とな。ヴォルデモートがそう言うたと、きみが話してくれた。『誰よりも深く』と。そして、死喰い人には理解できなんじゃったろうが、わしはその意味がわかった。ヴォルデモートは分霊箱のことを言うておったのじゃ。複数の分霊箱じゃよ、ハリー。ほかの魔法使いにそのような前例はないじゃろう。しかし、辻稜が合う。ヴォルデモート卿は、年月が軽つにつれ、ますます人間離れした姿になっていった。わしが思うに、そうした変身の道を説明できるのは、唯一、あの者がその魂を、我々が通常の悪と呼ぶものを超えた領域にまで切り刻んでいたということじゃ……」
「それじゃ、あいつは、ほかの人間を殺すことで、自分が殺されるのを不可能にしたのですか?」ハリーが聞いた。
「それほど不滅になりたかったのなら、どうして自分で『賢者の石』を創るか、盗むかしなかったのでしょう?」
「いや、そうしようとしたことはわかっておる。五年前のことじゃ」ダンブルドアが言った。
「しかし、ヴォルデモート卿にとって、『賢者の右』は分霊箱ほど魅力がなかったのではないかと、わしは考えておる。それにはいくつか理由がある」
「『命の霊薬』はたしかに生命を延長するものではあるが、不滅の命を保つには、定期的に、永遠に飲み続けなければならない。さすれば、ヴォルデモートは、その霊薬に全面的に依存することになり、霊薬が切れたり不純なものになったりするか、または『石』が盗まれた場合は、ヴォルデモートはほかの者同様、死ぬことになるであろう。ヴォルデモートは、憶えておろうが、自分ひとりで事を為したがる。依存するということは、たとえそれが霊薬への依存であろうとも、我慢ならなかったのであろうと思う。もちろん、きみを襲った後に、あのように恐ろしい半生命の状態に貶められ、そこから抜け出すためであれば霊薬を飲もうと思ったのであろう。しかし、それは肉体を取り戻すためにのみじゃ。それ以後は、引き続き分霊箱を信頼しようとしていたと、わしは確信しておる。それ以外には何も必要ではなかった。ただ人間としての形を取り戻すことさえできれば。あの者はすでに不滅だったのじゃから……もしくは、ほかの誰も到達できないほどに、不滅に近かったのじゃから」
「しかし、ハリーよ、きみが首尾よく手に入れてくれた、この肝心な記憶という情報が武器になり、我々はいまこそ、ヴォルデモート卿を破滅させるための秘密に、これまでの誰よりも近づいておる。ハリー、あの者の言葉を聞いたじゃろう。『もっとたくさん分断するほうがより確かで、より強力になれるのではないでしょうか……七という数は、いちばん強い魔法数字ではないですか?』七という数は、いちばん強い魔法数字ではないですか。左様。七分断された魂という考えが、ヴォルデモート卿を強く惹きつけたであろうと思うのじゃ」
「七個の分霊箱を作ったのですか?」
ハリーは恐ろしさに身震いし、壁の肖像画の何枚かも、同じように衝撃と怒りの声を上げた。
「でも、その七個は、世界中のどこにだってありうる――隠して――埋めたり、見えなくしたり――」
「問題の大きさに気づいてくれたのはうれしい」ダンブルドアが冷静に言った。
「しかし、まず、ハリー、七個の分霊箱ではない。
六個じゃ。七個目の魂は、どのように損傷されていようとも、蘇った身体の中に宿っておる。長年の逃亡中、幽霊のような存在で生きていた部分じゃ。それなしでは、あの者に自己というものはまったくない。その七番目の魂こそ、ヴォルデモートを殺そうとする者が最後に攻撃しなければならない部分じゃ――ヴォルデモートの身体の中に棲む魂の欠けらじゃ」
「でも、それじゃ、六個の分霊箱は」ハリーは絶望気味に言った。
「いったいどこを探せばよいのですか?」
「忘れておるようじゃの……きみはすでにそのうちの一個を破壊した。そしてわしももう一個を破壊した」
「先生が?」ハリーは急き込んだ。
「いかにも」
ダンブルドアはそう言うと、黒く焼け焦げたような手を挙げた。
「指輪じゃよ、ハリー。マールヴォロの指輪じゃ。それにも恐ろしい呪いがかけられておった。わしの並外れた術と――謙譲という美徳に欠ける言い方を許しておくれ――さらに、著しく傷ついてホグワーツに戻ったときのスネイプ先生のすばやい処置がなければ、わしは生きてこの話をすることができなかったことじゃろう。しかし、片手が萎えようとも、ヴォルデモートの七分の一の魂と引き換えなら、理不尽ではないじゃろう。指輪はもはや分霊箱ではない」
「でも、どうやって見つけたのですか?」
「そうじゃのう。もうきみにもわかったじゃろうが、わしは長年、ヴォルデモートの過去をできるだけ詳らかにすることを責務としてきた。ヴォルデモートがかつて知っておった場所を訪ねて、わしはあちこちを旅した。たまたま廃屋になったゴーントの家に、指輪が隠してあったのを見つけたのじゃ。その中に魂の一部を首尾よく封じ込めたあとは、ヴォルデモートはもう指輪をはめたくなかったのじゃな。先祖がかつて住んでいた小屋に指輪を隠し、幾重にも強力な魔術を施して指輪を護った――もちろん、モーフィンはすでにアズカバンに連れ去られておった――いつの日か、わしがわざわざその廃屋を訪ねるだろうとは、またわしが魔法による秘匿の跡に目を光らせるだろうとは、夢にも思わなかったことじゃろう」
「しかし、心から祝うわけにはいかぬ。きみは日記を、わしは指輪を破壊したが、魂の七分断説が正しいとすれば、あと四個の分霊箱が残っておる」
「それはどんな形でもありうるのですね?」ハリーが言った。
「古い缶詰とか、えーと、空の薬瓶とか……?」
「きみが考えているのは、ハリー、移動キーじゃ。それはあたりまえの物で、簡単に見落とされそうな物でなければならない。しかし、ヴォルデモート卿が、自分の大切な魂を護るのに、ブリキ缶や古い薬瓶を使うと思うかね?わしがこれまできみに見せたことを忘れているようじゃ。ヴォルデモート卿は勝利のトロフィーを集めたがったし、強力な魔法の歴史を持った物を好んだ。自尊心、自分の優位性に対する信仰、魔法史に驚くべき一角を占めようとする決意。こうしたことから考えると、ヴォルデモートは分霊箱をある程度慎重に選び、名誉にふさわしい品々を好んで選んだと思われる」
「日記はそれほど特別ではありませんでした」
「日記は、きみ自身が言うたように、ヴォルデモートがスリザリンの後継者であるという証となるものじゃった。ヴォルデモートはそのことを、この上なく大切だと考えたに違いない」
「それじゃ、ほかの分霊箱は?」ハリーが聞いた。
「先生、どういう品か、ご存知なのですか?」
「推量するしかない」ダンブルドアが言った。
「いまも言うたような理由から、ヴォルデモート卿は、品物自体が何らかの意味で偉大なものを好んだであろうと思う。そこでわしは、ヴォルデモートの過去を隈なく探り、あの者の周囲で何か品物が紛失した形跡を見つけようとした」
「ロケットだ!」ハリーが大声を出した。
「ハッフルパフのカップ!」
「そうじゃ」ダンブルドアが微笑んだ。
「賭けてもよいが――もう一方の手を賭けるわけにはいかぬのう――指の一、二本ぐらいなら賭けてもよいが、その二つの品が三番目と四番目の分霊箱になった。
残る二個は、全部で六個を創ったと仮定しての話じゃが、もっと難しい。
しかし、当たるも八卦で言うならば、ハッフルパフとスリザリンの品を確保したあと、ヴォルデモートは、グリフィンドールとレイブンクローの所持品を探しはじめたであろう。四人の創始者の四つの品々は、ヴォルデモートの頭の中で、強い引力になっていたに違いあるまい。果たしてレイブンクローの品を何か見つけたかどうか、わしは答えを持たぬが、 しかし、グリフィンドール縁の品として知られる唯一の物は、いまだに無事じゃ」
ダンブルドアは黒焦げの指で背後の壁を指した。
そこには、ルビーをちりばめた剣が、ガラスケースに収まっていた。
「先生、ヴォルデモートは、本当はそれが目当てで、ホグワーツに戻ってきたかったのでしょうか?」ハリーが言った。
「創始者の一人の品を何か見つけようとして?」
「わしもまさにそう思う」ダンブルドアが言った。
「しかし、残念ながら、そこから先はあまり説明できぬ。なぜなら、ヴォルデモートは学校の中を探索する機会もなく――とわしは信じておるのじゃが――門前払いされてしもうたのじゃから。ヴォルデモートは、四人の創始者の品々を集めるという野望を満たすことができなかった、と結論せざるをえんじゃろう。間違いなく二つは手に入れた三つ見つけたかも知れぬ――いまはせいぜいそこまでしか考えられぬ」
「レイブンクローかグリフィンドールの品のどちらかを手に入れたとしでも、まだ六番目の分霊箱が残っています」
ハリーは指を折って数えながら言った。
「それとも、二つの品を両方とも手に入れたのでしょうか?」
「そうは思わぬ」ダンブルドアが言った。
「六番目が何か、わしにはわかるような気がする。わしが、蛇のナギニの行動にしばらく興味を持っていたと打ち明けたら、きみはどう思うかね?」
「あの蛇ですか?」ハリーはギクッとした。
「動物を分霊箱に使えるのですか?」
「いや、賢明とは言えぬ」ダンブルドアが言った。
「それ自身が考えたり動いたりできるものに、魂の一部を預けるのは、当然危険を伴う。しかし、わしの計算が正しければ、ヴォルデモートがきみを殺そうとして、ご両親の家に侵入したとき、六個の分霊箱という目標には、まだ少なくとも一個欠けておった」
「ヴォルデモートは、特に重大な者の死の時まで、分霊箱を作る過程を延期していたようじゃ。きみの場合は、紛れもなくそうした死の一つじゃったろう。ヴォルデモートは、きみを殺せば、予言が示した危機を打ち砕くことになると信じていた。自分を無敵の存在にできると信じていた。きみを殺して最後の分霊箱を作ろうと考えていたと、わしは確信を持っておる」
「知ってのとおり、あの者はしくじった。しかし、何年かの後、ヴォルデモートはナギ二を使って年老いたマグルの男を殺し、たぶんそのときに、ナギ二を最後の分霊箱にすることを思いついたのじゃろう。ナギニはスリザリンとのつながりを際立たせるし、ヴォルデモート卿の神秘的な雰囲気を高める。ヴォルデモートが好きになれる何かがあるとするならば、おそらくそれはナギ二じゃと思う。たしかにナギニをそばに置きたがっておるし、いくら蛇語使いじゃと言うても異常なほど、ナギ二を強く操っているようじゃ」
「すると」ハリーが言った。
「日記もなくなったし、指輪もなくなった。カップ、ロケット、それと蛇はまだ残っている。 そして先生は、かつてレイプンクローかグリフィンドールのものだった品か何かが、分霊箱になっているかもしれないとお考えなのですね?」
「見事に簡潔で正確な要約じゃ。そのとおり」ダンブルドアは一礼しながら言った。
「それで……先生はまだ、そうした物を探していらっしゃるのですね?学校を留守になさったとき、そういう場所を訪ねていらっしゃったのですか?」
「そうじゃ」ダンブルドアが答えた。
「長いこと探しておった。たぶん……わしの考えでは……ほどなくもう一つ発見できるかもしれぬ。それらしい印がある」
「発見なさったら」ハリーが急いで言った。
「僕も一緒に行って、それを破壊する手伝いができませんか?」
ダンブルドアは一瞬、ハリーをじっと見つめ、やがて口を開いた。
「いいじゃろう」
「いいんですか?」ハリーは、まさかの答えに衝撃を受けた。
「いかにも」ダンブルドアはわずかに微笑んでいた。
「きみはその権利を勝ち取ったと思う」
ハリーは胸が高鳴った。
初めて警告や庇護の言葉を聞かされなかったのがうれしかった。
周囲の歴代校長たちは、ダンブルドアの決断に、あまり感心しないようだった。
ハリーには何人かが首を横に振っているのが見えたし、フィニアス・ナイジェラスはフンと鼻を鳴らした。
「先生、ヴォルデモートは、分霊箱が壊されたとき、それがわかるのですか?感じるのですか?」ハリーは肖像画の反応を無視して尋ねた。
「非常に興味ある質問じゃよ、ハリー。答えは否じゃろう。ヴォルデモートはいまや、どっぷりと悪に染まっておるし、さらに自分自身の肝心な部分である分霊が、ずいぶん長いこと本体から切り離されておるので、我々が感じるようには感じない。たぶん、自分が死ぬ時点で、あの者は失った物に気づくのであろう……たとえば、ルシウス・マルフォイの口から真実を吐かせるまで、あの者は日記が破壊されてしまったことに気づかなんだ。日記がズタズタになり、そのすべての力を失ったと知ったとき、ヴォルデモートの怒りたるや、見るも恐ろしいほどじゃったと聞き及ぶ」
「でも、ルシウス・マルフォイがホグワーツに日記を忍び込ませたのは、あいつがそう指示したからでしょう?」
「いかにも。何年も前のことじゃが、あの者が複数の分霊箱を作れるという確信があったときにじゃ。しかしながら、ヴォルデモートの命令を待つ手はずじゃったルシウスは、その命令を受けることはなかった。日記をルシウスに預けてから間もなく、ヴォルデモートが消えたからじゃ。あの者は、ルシウスが分霊箱をただ大切に護るじゃろうと思い、まさか、それ以外のことをするとは思わなかったに違いない。しかし、ヴォルデモートは、ルシウスの恐怖心を過大に考えておった。何年も姿を消したままの、死んだと思われるご主人様に対して、ルシウスが持つ恐怖心のことじゃ。もちろん、ルシウスは日記の本性を知らなんだ。あの日記には巧みな魔法がかけてあるので、『秘密の部屋』をもう一度開かせる物になるだろうと、ヴォルデモートがルシウスに話しておいたのじゃろうと思う。ご主人様の魂の一部が託されている物だと知っていたなら、ルシウスは間違いなくあの日記を、もっと恭しく扱ったことじゃろう――しかし、そうはせずに、ルシウスは、昔の計画を自分自身の目的のために勝手に実行してしまった。アーサー・ウィーズリーの娘のもとに日記を忍び込ませることで、アーサーの信用を傷つけ、わしをホグワーツから追放させ、同時に自分にとって非常に不利になる物証を片付けるという、 一石三鳥を狙ったのじゃ。ああ、哀れなルシウスよ……一つには、自らの利益のために分霊箱を捨ててしもうたという事実、また一つには昨年の魔法省での大失態で、ヴォルデモートの逆鱗に触れてしもうた。現在はアズカバンに収監されているから安全じゃと、本人が内心喜んでいるとしても無理からぬことじゃ」
ハリーはしばらく考え込み、やがて質問した。
「すると、分霊箱を全部破壊すれば、ヴォルデモートを殺すことが可能なのですか?」
「そうじゃろうと思う」ダンブルドアが言った。
「分霊箱がなければ、ヴォルデモートは切り刻まれて減損した魂を持つ、滅すべき運命の存在じゃ。しかし、忘れるでない。あの者の魂は、修復不能なまでに損傷されておるかもしれぬが、頭脳と魔力は無傷じゃ。ヴォルデモートのような魔法使いを殺すには、たとえ『分霊箱』がなくなっても、非凡な技と力を要するじゃろう」
「でも、僕は非凡な技も力も持っていません」ハリーは思わず口走った。
「いや、持っておる」ダンブルドアがきっぱりと言った。
「きみはヴォルデモートが持ったことがない力を持っておる。きみの力は――」
「わかっています!」ハリーはイライラしながら言った。
「僕は愛することができます!」
そのあとにもう一言「それがどうした!」と言いたいのを、ハリーはやっとの思いで呑み込んだ。
「そうじゃよ、ハリー、きみは愛することができる」
ダンブルドアは、ハリーがいま呑み込んだ言葉をはっきりと知っているかのような表情で言った。
「これまできみの身に起こったさまざまな出来事を考えてみれば、それは偉大なすばらしいものなのじゃ。ハリー、自分がどんなに非凡な人間であるかを理解するには、きみはまだ若すぎる」
「それじゃ、予言で、僕が『闇の帝王の知らぬ力』を持つと言っていたのは、ただ単なる――愛?」ハリーは少し失望した。
「そうじゃ――単なる愛じゃ」ダンブルドアが言った。
「しかし、ハリー、忘れるでないぞ。予言が予言として意味を持つのは、ヴォルデモートがそのようにしたからなのじゃということを。先学年の終わりにきみに話したが、ヴォルデモートは、自分にとっていちばん危険になりうる人物として、きみを選んだ――そうすることで、あの者はきみを、自分にとってもっとも危険な人物にしたのじゃ」
「でも、結局はおんなじことになる――」
「いや、同じにはならぬ!」
こんどはダンブルドアがイライラした口調になった。
黒く萎びた手でハリーを指しながら、ダンブルドアが言った。
「きみは予言に重きを置きすぎておる」
「でも」ハリーは急き込んだ。
「でも先生は、予言の意味を――」
「ヴォルデモートがまったく予言を開かなかったとしたら、予言は実現したじゃろうか?予言に意味があったじゃろうか?もちろん、ない!『予言の間』のすべての予言が現実のものとなったと思うかね?」
「でも」ハリーは当惑した。
「でも先生は先学年におっしゃいました。二人のうちどちらかが、もう一人を殺さなければならないと――」
「ハリー、ハリー、それはヴォルデモートが重大な間違いを犯し、トレローニー先生の言葉に応じて行動したからじゃ!ヴォルデモートがきみの父君を殺さなかったら、きみの心に燃えるような復讐の願いを掻き立てたじゃろうか?もちろん否じゃ!ヴォルデモートしが、きみを守ろうとした母君を死に追いやらなかったら、あの者が侵入できぬほどの強い魔法の護りを、きみに与えることになったじゃろうか?もちろん否じゃよ、ハリー!わからぬか?すべての暴君たる者がそうであるように、ヴォルデモート自身が、最大の敵を創り出したのじゃ!暴君たる者が、自ら虐げている民をどんなに恐れているか、わかるかね?暴君は、多くの虐げられた者の中から、ある日必ず誰かが立ち上がり、反撃することを認識しておるのじゃ。ヴォルデモートとて例外ではない!誰かが自分に歯向かうのを、常に警戒しておる。予言を聞いたヴォルデモートは、すぐさま行動した。その結果、自分を破滅させる可能性のもっとも高い人物を自ら選んだばかりでなく、その者に無類の破壊的な武器まで手渡したのじゃ」
「でも――」
「きみがこのことを理解するのが肝心なのじゃ!」
ダンブルドアは立ち上がって、輝くローブを翻しながら、部屋の中を大股で歩き回っていた。
こんなに激しく論じるダンブルドアを、ハリーは初めて見た。
「きみを殺そうとしたことで、ヴォルデモート自身が、非凡なる人物を選び出した。その人物はわしの目の前におる。そしてその人物に、任務のための道具まで与えた!きみがヴォルデモートの考えや野心を覗き見ることができ、あの者が命令する際に使う、蛇の言葉を理解することさえできるようにしたのは、ヴォルデモートの失敗じゃった。しかも、ハリー、ヴォルデモートの世界を洞察できるという、きみの特権にもかかわらず――ついでながら、そのような才能を得るためなら、死喰い人は殺人も厭わぬことじゃろう――きみは一度たりとも闇の魔術に誘惑されたことがない。決して、一瞬たりとも、ヴォルデモートの従者になりたいという願望を、露ほども見せたことがない!」
「当然です!」ハリーは憤った。
「あいつは僕の父さんと母さんを殺した!」
「つまり、きみは、愛する力によって護られておるのじゃ!」まダンブルドアが声を取り上げた。
「ヴォルデモートが持つ類の力の誘惑に抗する唯一の護りじゃ!あらゆる誘惑に耐えなければならなかったにもかかわらず、あらゆる苦しみにもかかわらず、きみの心は純粋なままじゃ。十一歳のとき、きみの心の望みを映す鏡を見つめていたときと変わらぬ純粋さじゃ。あの鏡が示しておったのは、不滅の命でも富でもなく、ヴォルデモート卿を倒す方法のみじゃ。ハリー、あの鏡に、きみが見たと同じものを見る魔法使いがいかに少ないか、わかっておるか?ヴォルデモートはあのときに、自分が対峙しているものが何なのかを知るべきじゃった。しかし、あの者は気づかなんだ!」
「しかし、あの者は、いまではそれを知っておる。きみは自らを損なうことなしに、ヴォルデモート卿の心に舞い込むことができた。一方、あの者は、きみに取り憑こうとすれば、死ぬほどの苦しみに耐えなければならないということに、魔法省で気づいたのじゃ。なぜそうなるのか、ハリー、あの者にはわかっておらぬと思う。あの者は、自らの魂を分断することを急ぐあまり、汚れのない、全き魂の比類なき力を理解する間がなかったのじゃ」
「でも、先生」
ハリーは反論がましく聞こえないよう、健気に努力しながら言った。
「結局は、すべて同じことなのではないですか?僕はあいつを殺さなければならない。さもないと――」
「なければならない?」ダンブルドアが言った。
「もちろん、きみはそうしなければならない!しかし、予言のせいではない!きみが、きみ自身が、そうしなければ休まることがないからじゃ!わしも、きみもそれを知っておる!頼む、しばしの間でよいから、あの予言を聞かなかったと思ってほしい!さあ、ヴォルデモートについて、きみはどう感じるかな?考えるのじゃ!」
ハリーは、目の前を大股で往ったり来たりしているダンブルドアを見つめながら、考えた。
母親のこと、父親のこと、そしてシリウスのことを思った。
セドリック・ディゴリーのことを思った。
ヴォルデモート卿の仕業であることがわかっている、あらゆる恐ろしい行為のことを思った。
胸の中にメラメラと炎が燃え上がり、喉元を焦がすような気がした。
「あいつを破滅させたい」ハリーは静かに言った。
「そして、僕が、そうしてやりたい」
「もちろんきみがそうしたいのじゃ!」ダンブルドアが叫んだ。
「よいか。予言はきみが何かをしなければならないという意味ではない!しかし、予言は、ヴォルデモート卿に、きみを『自分に比肩する者として印す』ように仕向けた。つまり、きみがどういう道を選ぼうと自由じゃ。予言に背を向けるのも自由なのじゃ!しかしヴォルデモートは、いまでも予言を重要視しておる。きみを追い続けるじゃろう……さすれば、確実に、まさに……」
「一方が、他方の手にかかって死ぬ」ハリーが言った。
「そうです」
ハリーはやっと、ダンブルドアが自分に言わんとしていたことがわかった。
死に直面する戦いの場に引きずり込まれるか、頭を高く上げてその場に歩み入るかの違いなのだ、とハリーは思った。
その二つの道の問には、選択の余地はほとんどないという人も、たぶんいるだろう。
しかし、ダンブルドアは知っている――僕も知っている。
そう思うと、誇らしさが一気に込み上げてきた。
そして、僕の両親も知っていた――その二つの間は、天と地ほどに違うのだということを。
第24章 セクタムセンプラ
Sectumsempra
夜更けの授業で疲れきっていたが、ハリーはうれしかった。
翌朝の「呪文学」のクラスで、ハリーは、ロンとハーマイオニーに一部始終を話して聞かせた(その前に近くの生徒たちにマフリアート「耳塞ぎ」呪文をかけておいた)。
どんなふうにしてスラグホーンを乗せ、記憶を引き出したかを聞いて、二人とも感心したので、ハリーは満足だった。
ヴォルデモートの分霊箱のことや、ダンブルドアが、次の一個を発見したらハリーを連れていくと約束した話をすると、二人は感服して畏れ入った。
「ウワー」
ハリーがやっとすべてを話し終えると、ロンが声を漏らした。
ロンは自分が何をやっているのかまったく意識せず、なんとなく天井に向けて杖を振っていた。
「ウワー、君、本当にダンブルドアと一緒に行くんだ……そして破壊する……ウワー」
「ロン、あなた、雪を降らせてるわよ」
ハーマイオニーがロンの手首をつかみ、杖を天井から逸らしながら、やさしく言った。
たしかに、大きな雪片が舞い落ちはじめていた。
目をまっ赤にしたラベンダー・ブラウンが、隣のテーブルからハーマイオニーを睨みつけているのに、ハリーは気がついた。
ハーマイオニーもすぐにロンの腕を放した。
「ああ、ほんとだ」
ロンは驚いたような驚かないような顔で、自分の肩を見下ろした。
「ごめん……みんなひどい頭垢症になったみたいだな……」
ロンは偽の雪をハーマイオニーの肩からちょっと払った。
ラベンダーが泣き出した。ロンは大いに申しわけなさそうな顔になり、ラベンダーに背を向けた。
「僕たち、別れたんだ」
ロンは、ほとんど口を動かさずにハリーに言った。
「昨日の夜。ラベンダーは、僕がハーマイオニーと一緒に寮から出てくるのを見たんだ。当然、君の姿は見えなかった。だから、ラベンダーは、二人きりだったと思い込んだよ」
「ああ」ハリーが言った。
「まあね!だめになったって、いいんだろ?」
「うん」ロンが認めた。
「あいつが喚いてた間は、相当参ったけど、少なくとも僕のほうからおしまいにせずにすんだ」
「弱虫」そう言いながら、ハーマイオニーはおもしろがっているようだった。
「まあ、ロマンスにとってはいろいろと受難の夜だったみたいね。ジニーとディーンも別れたわよ、ハリー」
ハリーは、ハーマイオニーがハリーにそう言いながら、わけ知り顔の目つきをしたような気がした。
しかしまさか、ハリーの胸の中が、急にコンガを踊り出したことまでは気づくはずがない。
できるかぎり無表情で、できるだけ何気ない声で、ハリーは聞いた。
「どうして?」
「ええ、なんだかとってもバカバカしいこと……ジニーが言うには、肖像画の穴を通るとき、まるでジニーがひとりで登れないみたいに、ディーンがいつも助けようとしたとか……でも、あの二人はずっと前から危うかったのよ」
ハリーは、教室の反対側にいるディーンをちらりと見た。たしかに落ち込んでいる。
「そうなると、もちろん、あなたにとってはちょっとしたジレンマね?」ハーマイオニーが言った。
「どういうこと?」ハリーが慌てて聞いた。
「クィディッチのチームのことよ」ハーマイオニーが言った。
「ジニーとディーンが口をきかなくなると…?」
「あ――ああ、うん」ハリーが言った。
「フリットウィックだ」ロンが警報を出した。
呪文学のちっちゃい先生が、三人のほうにひょこひょこやって来た。
酢をワインに変えおおせていたのは、ハーマイオニーだけで、そのフラスコは真紅の液体で満たされていたが、ハリーとロンのフラスコの中身は濁った茶色だった。
「さあ、さあ、そこの二人」
フリットウィック先生が咎めるようにキーキー言った。
「おしゃべりを減らして、行動を増やす……先生にやって見せてごらん……」
二人は一緒に杖を上げ、念力を集中させてフラスコに杖を向けた。
ハリーの酢は氷に変わり、ロンのフラスコは爆発した。
「はい……宿題ね……」
机の下から再び姿を現し、帽子のてっぺんからガラスの破片を取り除きながら、フリットウィック先生が言った。
「練習しなさい」
呪文学のあとは、めずらしく三人揃っての自由時間だったので、一緒に談話室に戻った。
ロンは、ラベンダーとの仲が終わったことで俄然、気楽になったようだったし、ハーマイオニーもなんだか機嫌がよかった。
ただ、どうしてニヤニヤしているのかと開くと、ハーマイオニーは、「いい天気ね」と言っただけだった。
二人とも、ハリーの頭の中で激しい戦いが繰り広げられていることに、気づかないようだった。
あの女はロンの妹だ。
でもディーンを振った!
それでもロンの妹だ。
僕はロンの親友だ!
だからますます悪い。
最初にロンに話せば
ロンは僕をぶん瞭るぞ。
僕が気にしないといったら
ロンは僕の親友だぞ!
ハリーは、肖像画の穴を乗り越えて陽当たりのよい談話室に入っていたことに、自分ではほとんど気づかなかったし、七年生が小さな群れを作っていることも、ハーマイオニーの声を聞くまでは何となく意識しただけだった。
「ケイティ!帰ってきたのね!大丈夫?」
ハリーは目を見張った。間違いなくケイティ・ベルだった。
完全に健康を取り戻した様子のケイティを、友達が歓声を上げて取り囲んでいた。
「すっかり元気よ!」ケイティがうれしそうに言った。
「月曜日に『聖マンゴ』から退院したんだけど、二、三日、パパやママと家で一緒に過ごして、今朝、戻ってきたの。ちょうどいま、リーアンが、マクラーゲンのことや、この間の試合のことを話してくれていたところよ。ハリー……」
「うん」ハリーが言った。
「まあ、君が戻ったし、ロンも好調だし、レイブンクローを打倒するチャンスは十分だ。つまり、まだ優勝杯を狙える。ところで、ケイティ……」
ハリーは、早速ケイティに聞かないではいられなかった。
知りたさのあまり、ジニーのことさえ一時頭から吹っ飛んでいた。
ケイティの友達が、どうやら変身術の授業に遅れそうになっているらしく、出かける準備をしていたが、ハリーは声を落として聞いた。
「……あのネックレス……誰が君に渡したのか、いま思い出せるかい?」
「ううん」ケイティは残念そうに首を振った。
「みんなに聞かれたんだけど、全然憶えていないの。最後に『三本の箒』の女子トイレに入ったことまでしか」
「それじゃ、間違いなくトイレに入ったのね?」ハーマイオニーが聞いた。
「うーん、ドアを押し開けたところまでは覚えがあるわ」ケイティが言った。
「だから、私に『服従の呪文』をかけた誰かは、ドアのすぐ後ろに立っていたんだと思う。
そのあとは、二週間前に『聖マンゴ』で目を覚ますまで、記憶がまっ白。さあ、もう行かなくちゃ。帰ってきた最初の日だからって、『反復書き取り』罰を免除してくれるようなマクゴナガルじゃないしね……」
ケイティはカバンと教科書類をつかみ、急いで友達のあとを追った。
残されたハリー、ロン、ハーマイオニーは、窓際のテーブルに席を取り、ケイティがいま言ったことを考えた。
「ということは、ケイティにネックレスを渡したのは、女の子、または女性だったことになるわね」ハーマイオニーが言った。
「女子トイレにいたのなら」
「それとも、女の子か女性に見える誰かだ」ハリーが言った。
「忘れないでくれよ。ホグワーツには大鍋一杯のポリジュース薬があるってこと。少し盗まれたこともわかってるんだ……」
ハリーは、クラップとゴイルが何人もの女の子の姿に変身して、踊り跳ねながら行進していく姿を、頭の中で思い浮かべていた。
「もう一回フェリックスを飲もうかと思う」ハリーが言った。
「そして、もう一度『必要の部屋』に挑戦してみる」
「それは、まったくのムダ遣いよ」
ハーマイオニーが、いまカバンから取り出したばかりの「スペルマンのすっきり音節」をテーブルに置きながら、にべもなく言った。
「幸運には幸運の限界があるわ、ハリー。スラグホーンの場合は状況が違うの。あなたには初めからスラグホーンを説得する能力があったのよ。あなたは、状況をちょっとつねってやる必要があっただけ。でも、強力な魔法を破るには、幸運だけでは足りない。あの薬の残りをムダにしないで!ダンブルドアがあなたを一緒に連れていくときに、あらゆる幸運が必要になるわ……」
ハーマイオニーは声を落とし、囁き声で言った。
「もっと煎じればどうだ?」
ロンはハーマイオニーを無視して、ハリーに言った。
「たくさん溜めておけたらいいだろうな……あの教科書を見てみろよ……」
ハリーは「上級魔法薬」の本をカバンから引っぱり出し、フェリックス・フェリシスを探した。
「驚いたなあ。マジで複雑だ」材料のリストに目を走らせながら、ハリーが言った。
「それに、六カ月かかる……煮込まないといけない……」
「いっつもこれだもんな」ロンが言った。
ハリーが本を元に戻そうとしたそのとき、ページの端が折れているのに気づいた。
そこを開けると、ハリーが数週間前に印をつけた、セクタムセンプラの呪文が見えた。
「敵に対して」
と見出しがついている。
ハーマイオニーがそばにいるときに試すのは気が引けて、何をする呪文なのか、まだわかっていなかった。
しかし、この次にマクラーゲンの背後に忍び寄ったときに、試してみようと考えていた。
ケイティ・ベルが帰ってきてうれしくなかったのは、ディーン・トーマスだけだった。
チェイサーとしてケイティの代わりを務める必要がなくなるからだ。
ハリーがそう告げたとき、ディーンはさばさばと打撃を受け止め、ただうめいて肩をすくめただけだった。
しかし、ハリーがそばを離れたとき、ディーンとシェーマスが、背後で反抗的にブックサ呟いている気配が、はっきり感じ取れた。
それから二週間は、ハリーがキャプテンになって以来最高の練習が続いた。
チーム全員が、マクラーゲンがいなくなったことを喜び、ケイティがやっと戻ってきたことがうれしくて、抜群の飛びっぶりだった。
ジニーは、ディーンと別れたことをちっとも気にかけていない様子で、それどころか、ジニーこそチームを楽しませる中心人物だった。
クアップルがロンに向かって猛進してきたとき、ロンがゴールポストの前で不安そうにぴょこぴょこする様子をまねしたり、ハリーがノックアウトされて気絶する直前にマクラーゲンに向かって大声で命令するところをまねたり、ジニーはしょっちゅう全員を楽しませた。
ハリーもみんなと一緒に笑いながら、無邪気な理由でジニーを見ていられるのがうれしかった。
しかし、まともにスニッチを探していなかったせいで、練習中にまたもや数回ブラッジャーを食らって怪我をした。
頭の中の戦いは相変わらず壮絶だった。
ジニーかロンか?「ラベンダー後」のロンは、ハリーがジニーを誘っても、あまり気にしないのではないかと、ときにはそう思ったが、そのたびに、ジニーがディーンにキスしているところを目撃した、ロンの表情を思い出した。
ハリーがジニーの手を握っただけで、ロンはきっと、卑しい裏切りだと考えるだろう……。
それでもハリーは、ジニーに話しかけたかったし、一緒に笑いたかったし、練習のあとで一緒に歩いて戻りたかった。どんなに良心が疼こうと、気がつくと、どうやったらジニーと二人きりになれるかを考えていた。
スラグホーンがまた小宴会を催してくれれば理想的だったろう。
ロンがそばにいないだろうから――しかし、残念なことに、スラグホーンはパーティを諦めてしまった様子だった。
一度か二度、ハリーはハーマイオニーに助けてもらおうかと思ったが、わかっていたわよ、という顔をされるのは我慢できなかった。
ハリーが、ジニーを見つめたり、ジニーの冗談で笑っていたりするのを、ハーマイオニーが見つけてそういう表情をするのを、ハリーはときどき見たような気がした。さらに問題を複雑にしたのは、自分が申し込まなければ、たちまち誰かがジニーを誘うに違いないという心配が、ハリーを悩ませたことだった。
ハリーもロンも、人気がありすぎるのはジニー本人のためによくないという認識では、少なくとも一致していた。
結局のところ、もう一度フェリックス・フェリシスを飲みたいという誘惑が日増しに強くなっていた。
なにしろこの件は、ハーマイオニーに言わせれば、確実に「状況をちょっとつねる」に当たるのではないだろうか?芳しい五月の日々がいつのまにか過ぎていくのに、ハリーがジニーを目にするときには、なぜかロンが必ずハリーのすぐそばにいた。
ハリーは一滴の幸運を切望していた。
ロンが、親友と妹が互いに好きになるのはこの上ない幸せなことだと気がついてほしい。
そして、少しまとまった時間、ジニーと二人きりにしてくれるような幸運がほしい。
しかし、シーズン最後のクィディッチの試合が近づいていたため、ロンは四六時中ハリーと戦術を話したがり、それ以外はほとんど何も考えていなかったので、どちらのチャンスも巡ってきそうになかった。
ロンだけが何も特別なわけではなかった。
学校中で、グリフィンドール対レイブンクローの試合への関心が、極限まで高まっていた。
この試合が、まだ混戦状態の優勝杯の行方を決定するはずだからだ。
グリフィンドールがレイブンクローに三〇〇点差で勝てば(相当難しいが、ハリーには自分のチームの飛びっぶりが、これまでで最高だとわかっていた)、それでグリフィンドールが優勝する。
三〇〇点を下回る得点差で勝った場合は、レイブンクローに次いで二位になる。
一〇〇点差で負ければ、ハッフルパフより下位の三位になり、一〇〇点を越える得点差で負ければ四位だ。
そうなれば、この二世紀来、初めてグリフィンドールを最下位に落としたキャプテンがハリーだと、みんなが、一生涯思い出させてくれることだろう。
雌雄を決するこの試合への序盤戦は、お定まりの行事だった。
対抗する寮の生徒たちが、相手のチームを廊下で脅そうとしたり、選手が通り過ぎるときには、それぞれの選手を嫌味ったらしく声高にはやし立てたりした。
選手のほうは、肩で風を切って歩き、注目されることを楽しむか、授業の合間にトイレに駆け込んでゲーゲー吐くかのどちらかだった。 なぜかハリーの頭の中では、試合の行方と、ジニーに対する自分の計画の成否とが密接に関連していた。
三〇〇点より多い得点差で勝てば、陶酔状態と試合後の素敵な大騒ぎのパーティが、フェリックス・フェリシスを思い切り飲んだと同じ効果をもたらすような気がして、しかたがなかった。
いろいろと考えごとの多い中で、ハリーはもう一つの野心も捨てていなかった。
マルフォイが「必要の部屋」で何をしているかを知ることだ。
ハリーは相変わらず「忍びの地図」を調べていたし、マルフォイがしばしば地図から消えてしまうのは、「必要の部屋」で相当の時間を過ごしているからだろうと推量していた。
首尾よくその部屋に入り込むという望みは失いかけていたものの、部屋の近くにいるときは、ハリーは必ず試してみた。
しかし、どんなに言葉を変えて自分の必要を唱えてみても、壁は頑として扉を現さなかった。
レイブンクロー戦の数日前、ハリーは一人で談話室を出て、夕食に向かっていた。
ロンは、またしてもゲーゲーやるのに、近くのトイレに駆け込み、ハーマイオニーは、前回の「数占い」の授業で提出したレポートに間違いが一つあったかもしれないと、ベクトル先生に会いに飛んでいった。
ハリーはつい習慣で、いつものように回り道して八階の廊下に向かいながら、「忍びの地図」をチェックした。
ざっと見ても、どこにもマルフォイの姿が見つからなかったので、また「必要の部屋」の中に違いないと思ったが、そのときふと、マルフォイと記された小さな点が、下の階の男子トイレに佇んでいるのが見えた。
一緒にいるのは、クラップでもゴイルでもない。
なんと「嘆きのマートル」だった。
あまりにありえない組み合わせだったので、ハリーは地図から目を離せず、鎧に正面衝突してしまった。
大きな衝突音で我に返ったハリーは、フィルチが現れないうちにと急いでその場を離れ、大理石の階段を駆け下りて、下の階の廊下を走った。
トイレの外でドアに耳を押しっけたが、何も聞こえない。
ハリーはそーっとドアを開けた。
ドラコ・マルフォイがドアに背を向けて立っていた。
両手で洗面台の両端を握り、プラチナ・ブロンドの頭を垂れている。
「やめて」
感傷的な「嘆きのマートル」の声が、小部屋の一つから聞こえてきた。
「やめてちょうだい……困ってることを話してよ……私が助けてあげる……」
「誰にも助けられない」
マルフォイが言った。体中を震わせていた。
「僕にはできない……できない……うまくいかない……それに、すぐにやらないと……あの人は僕を殺すって言うんだ……」
そのときハリーは気がついた。
あまりの衝撃で、ハリーはその場に根が生えてしまったような気がした。
マルフォイが泣いている――本当に泣いている――涙が蒼白い頬を伝って、垢じみた洗面台に流れ落ちていた。
マルフォイは喘ぎ、ぐっと涙をこらえて身震いし、顔を上げてひび割れた鏡を覗いた。
そして、肩越しにハリーが自分を見つめているのに気づいた。
マルフォイはくるりと振り返り、杖を取り出した。
ハリーも反射的に杖を引き出した。
マルフォイの呪いはわずかにハリーを逸れ、そばにあった壁のランプを粉々にした。
ハリーは脇に飛びのき、「レヒコーパス!<浮上せよ>」と心で唱えて杖を振った。
しかしマルフォイは、その呪いを阻止し、次の呪いをかけようと杖を上げた。
「だめ!だめよ!やめて!」
「嘆きのマートル」が甲高い声を上げ、その声がタイル張りのトイレに大きく反響した。
「やめて!やめて!」
バーンと大きな音とともに、ハリーの後ろのゴミ箱が爆発した。
ハリーは「足縛りの呪い」をかけたが、マルフォイの耳の後ろの壁で静ね返り、「嘆きのマートル」の下の水槽タンクを破壊した。マートルが大きな悲鳴を上げた。
水が一面に溢れ出し、ハリーが滑った。
マルフォイは顔を歪めて叫んだ。
「クルー――」
「セクタムセンプラ!」床に倒れながらも、ハリーは夢中で杖を振り大声で唱えた。
マルフォイの顔や胸から、まるで見えない刀で切られたように血が噴き出した。
マルフォイはよろよろと後退りして、水浸しの床にバシャツと倒れ、右手がだらりと垂れて杖が落ちた。
「そんな――」ハリーは息を呑んだ。
滑ったりよろめいたりしながら、ハリーはやっと立ち上がってマルフォイの脇に飛んだ。
マルフォイの顔はもう血でまっ赤に光り、蒼白な両手が血染めの胸を掻きむしっていた。
「そんな――僕はそんな――」ハリーは自分が何を言っているのかわからなかった。
自分自身の血の海で、激しく震えているマルフォイの脇に、ハリーはがっくり両膝をついた。
「嘆きのマートル」が、耳を劈く叫び声を上げた。
「人殺し!トイレで人殺し!人殺し!」
ハリーの背後のドアがバタンと開いた。
目を上げたハリーはぞっとした。スネイプが憤怒の形相で飛び込んできていた。
ハリーを荒々しく押しのけ、スネイプはひざまずいてマルフォイ上に屈み込み、杖を取り出して、ハリーの呪いでできた深い傷を杖でなぞりながら、呪文を唱えた。
まるで歌うような呪文だった。
出血が緩やかになったようだった。
スネイプは、マルフォイの顔から残りの血を拭い、呪文を繰り返した。
こんどは傷口が塞がっていくようだった。
ハリーは自分のしたことに愕然として、自分も血と水とでぐしょ濡れなことにはほとんど気づかず、見つめ続けていた。
頭上で「嘆きのマートル」が、すすり上げ、むせび泣き続けていた。
スネイプは三度目の反対呪文を唱え終わると、マルフォイを半分抱え上げて立たせた。
「医務室に行く必要がある。多少傷痕を残すこともあるが、すぐにハナハッカを飲めばそれも避けられるだろう……来い……」
スネイプはマルフォイを支えて、トイレのドアまで歩き、振り返って、冷たい怒りの声で言った。
「そして、ポッター……ここで我輩を待つのだ」
逆らおうなどとはこれっぼちも考えなかった。
ハリーは震えながらゆっくり立ち上がり、濡れた床を見下ろした。
床一面に、真紅の花が咲いたように、血痕が浮いていた。
「嘆きのマートル」は、相変わらず泣き喚いたりすすり上げたりして、だんだんそれを楽しんでいるのが明らかだったが、黙れという気力さえなかった。
十分後にスネイプが戻ってきた。
トイレに入ってくるなり、スネイプはドアを閉めた。
「去れ」
スネイプの一声で、マートルはすぐに便器の中にスイーッと戻っていった。
あとには痛いほどの静けさが残った。
「そんなつもりはありませんでした」ハリーがすぐさま言った。
冷たい水浸しの床に、ハリーの声が反響した。
「あの呪文がどういうものなのか、知りませんでした」
しかし、スネイプは無視した。
「我輩は、君を見くびっていたようだな、ポッター」スネイプが低い声で言った。
「君があのような闇の魔術を知っていようとは、誰が考えようか?あの呪文は誰に習ったのだ?」
「僕――どこかで読んだんです」
「どこで?」
「あれは――図書室の本です」
ハリーは破れかぶれにでっち上げた。
「思い出せません。何という本――」
「嘘をつくな」
スネイプが言った。
ハリーは喉がカラカラになった。
スネイプが何をしようとしているかわかってはいたが、ハリーはこれまで一度もそれを防げなかった……。
トイレが目の前で揺らめいてきたようだった。
すべての考えを締め出そうと努力したが、もがけばもがくほど、プリンスの「上級魔法薬」の教科書が頭に浮かび、ぽんやり漂った……。
そして次の瞬間、ハリーは壊れてびしょ濡れになったトイレで、再びスネイプを見つめていた。
勝ち目はないと思いながらも、見られたくないものをスネイプが見なかったことを願いつつ、ハリーはスネイプの暗い目を見つめた。しかし――。
「学用品のカバンを持ってこい」スネイプが静かに言った。
「それと、教科書を全部だ。全部だぞ。ここに、我輩のところへ持ってくるのだ。いますぐ!」
議論の余地はなかった。
ハリーはすぐに踵を返し、トイレからバシャバシャと出ていった。
廊下まで出るやいなや、ハリーはグリフィンドール塔に向かって駆け出した。
ほとんどの生徒が反対方向に歩いていて、ぐっしょり濡れた血だらけのハリーを唖然として見つめたが、すれ違いざまに投げかけられる質問にもいっさい答えずに、ハリーは走った。
ハリーは衝撃を受けていた。
愛するペットが突然凶暴になったような気持ちだった。
あんな呪文を教科書に書き込むなんて、いったいプリンスは何を考えていたんだ?スネイプがそれを見たら、いったいどうなるんだろう?スラグホーンに言いつけるだろうか――ハリーは胃がよじれる思いだった――ハリーが今学期中、魔法薬であんなによい成績だったのはなぜかを、スラグホーンにばらすだろうか?ハリーにこれほど多くのことを教えてくれた教科書を、スネイプは取り上げるのか破壊してしまうのか……指南役でもあり、友達でもあったあの教科書を?そんなことがあってはならない……そんなことはとても……。
「どこに行って――?なんでそんなにぐしょ濡れ――?それ、血じゃないのか?」
ロンが階段の一番上に立って、当惑顔でハリーの姿を見ていた。
「君の教科書が必要だ」ハリーが息を弾ませながら言った。
「君の魔法薬の本。早く……僕に渡して……」
「でも、『プリンス』はどうするんだ?」
「あとで説明するから!」
ロンは自分のカバンから「上級魔法薬」の本を引っぱり出して、ハリーに渡した。
ハリーはロンを置き去りにして走り出し、談話室に戻った。
そこでカバンを引っつかみ、夕食をすませた何人かの生徒が驚いて眺めているのを無視して、再び肖像画の穴に飛び込み、八階の廊下を矢のように走った。
踊るトロールのタペストリーの脇で急停止し、ハリーは両目をつむって歩きはじめた。
僕の本を隠す場所が必要だ……僕の本を隠す場所が必要だ……僕の本を隠す場所が必要だ……。
何もない壁の前を、ハリーは三回往復した。
目を開けると、ついにそこに扉が現れていた。
「必要の部屋」の扉だ。
ハリーはぐいと開けて中に飛び込み、扉をバタンと閉めた。
ハリーは息を呑んだ。
急いでいる上に、無我夢中だったし、トイレで恐怖が待ち受けているにもかかわらず、ハリーは目の前の光景に威圧された。
そこは、大聖堂ほどもある広い部屋だった。
高窓から幾筋もの光が射し込み、そびえ立つ壁でできている都市のような空間を照らしていた。
ホグワーツの住人が何世代にもわたって隠してきた物が、壁のように積み上げられてできた都市だ。
壊れた家具が積まれ、グラグラしながら立っているその山の間が、通路や隘路になっている。
家具類は、たぶんしくじった魔法の証拠を隠すためにしまい込んだか、城自慢の屋激しもべ妖精たちが隠したかったのだろう。何千冊、何万冊という本もあった。
明らかに禁書か、書き込みがしてあるか、盗品だろう。
羽の生えたパチンコ、噛みつきフリスビーなどは、まだ少し生気が残っている物もあり、山のような禁じられた品々の上を、何となくふわふわ漂っている。
固まった薬の入った欠けた瓶やら、帽子、宝石、マントなど。
さらに、ドラゴンの卵の殻のようなもの。
コルク栓がしてある瓶の中身はまだ禍々しく光っている。
錆びた剣が何振りかと、重い血染めの斧が一本。
ハリーは、隠された宝物に囲まれている幾筋もの陸路の一つに、急いで入り込んだ。
巨大なトロールの剥製を通り過ぎたところで右に曲がり、少し走って、壊れた「姿をくらますキャビネット棚」のところを左折した。
去年モンタギューが押し込められて姿を消したキャビネット棚だ。
最後にハリーは、酸をかけられたらしく、表面がボコボコになった大きな戸棚の前で立ち止まった。
キーキー軋む戸の一つを開けると、そこはすでに、鑑に入った何かが隠してあった。
とっくに死んでいたが、骨は五本足だった。
ハリーは樫の陰にプリンスの教科書を隠し、きっちり戸を閉めた。
雑然とした廃物の山を眺めて、ハリーはしばらくそこに倖んだ。
心臓が激しく鼓動していた。
……こんなガラクタの中で、この場所をまた見つけることができるだろうか?ハリーは、近くの木箱の上に置いてあった、年老いた醜い魔法戦士の欠けた胸像を取り上げて、本を隠した戸棚の上に置き、その頭に埃だらけの古い亀と黒ずんだティアラを載せて、さらに目立つようにした。
それから、できるだけ急いでガラクタの陸路を駆け戻り、廊下に出て扉を閉めた。
扉はたちまち元の石壁に戻った。
ハリーは、下の階のトイレに全速力で戻った。
走りながら、ロンの「上級魔法薬」の教科書を自分のカバンに押し込んだ。
一分後、ハリーはスネイプの面前に戻っていた。
スネイプは一言も言わずにハリーのカバンに手を差し出した。
ハリーは息を弾ませ、胸に焼けるような痛みを感じながらカバンを手渡して、待った。
スネイプはハリーの本を一冊ずつ引き出して調べた。
最後に残った魔法薬の教科書を、スネイプは入念に調べてから口をきいた。
「ポッター、これは君の『上級魔法薬』の教科書か?」「はい」ハリーはまだ息を弾ませていた。
「たしかにそうか?ポッター?」
「はい」ハリーは少し食ってかかるように言った。
「君がフローリシュ・アンド・プロッツ書店から買った『上級魔法薬』の教科書か?」
「はい」ハリーはきっぱりと言った。
「それなれば、何故」スネイプが言った。
「表紙の裏に、『ローニル・ワズリブ』と書いてあるのだ?」
ハリーの心臓が、 一拍すっ飛ばした。
「それは僕の綽名です」
「君の碑名」スネイプが繰り返した。
「ええ……友達が僕をそう呼びます」
「綽名がどういうものかは、知っている」
スネイプが言った。
冷たい暗い目が、またしてもハリーの目をグリグリ抉った。
ハリーはスネイプの目を見ないようにした。
心を閉じるんだ……心を閉じるんだ……しかしハリーは、そのやり方をきちんと習得していなかった……。
「ポッター、我輩が何を考えているかわかるか?」スネイプはきわめて低い声で言った。
「我輩は君が嘘つきのペテン師だと思う。そして、今学期一杯、土曜日に罰則を受けるに値すると考える。ポッター、君はどう思うかね?」
「僕――僕はそうは思いません。先生」ハリーはまだスネイプの目を見ないようにしていた。
「ふむ。罰則を受けたあとで君がどう思うか見てみよう」スネイプが言った。
「土曜の朝、十時だ。ポッター。我輩の研究室で」
「でも、先生……」ハリーは絶望的になって顔を上げた。
「クィディッチが……最後の試合が――」
「十時だ」
スネイプは黄色い歯を見せてニヤリと笑いながら、囁き声で言った。
「哀れなグリフィンドールよ……今年は気の毒に、四位だろうな……」
スネイプはそれ以上一言も言わずに、トイレを出ていった。
残されたハリーは、ロンでさえいままでに感じたことがないに違いないほどの、ひどい吐き気を催しながら、割れた鏡を見つめていた。
「『だから注意したのに』、なんて言わないわ」
一時間後、談話室でハーマイオニーが言った。
「ほっとけよ、ハーマイオニー」ロンは怒っていた。
ハリーは、結局夕食に行かなかった。まったく食欲がなかった。
ついいましがた、ロン、ハーマイオニー、ジニーに、何が起こったかを話して聞かせたところだったが、話す必要はなかったようだ。
ニュースはすでにあっという間に広まっていた。
どうやら「嘆きのマートル」が、勝手に役目を引き受けて、城中のトイレにポコポコ現れてその話をしたらしい。
パンジー・パーキンソンはとっくに医務室に行ってマルフォイを見舞い、時を移さず津々浦々を回って、ハリーをこき下ろしていた。
そしてスネイプは、先生方に何が起こったかを仔細に報告していた。
ハリーはすでに談話室から呼び出され、マクゴナガル先生と差し向かいで、非常に不愉快な十五分間を耐え忍んだ。
マクゴナガル先生は、ハリーが退学にならなかったのは幸運だと言い、今学期中すべての土曜日に罰則というスネイプの処罰を、全面的に支持した。
「あのプリンスという人物はどこか怪しいって、言ったはずよ」ハーマイオニーは、どうしてもそう言わずにはいられない様子だった。
「私の言うとおりだったでしょ?」
「いいや、そうは思わない」ハリーは頑固に言い張った。
ハーマイオニーに説教されなくとも、ハリーはもう十分に幸い思いを味わっていた。
土曜日の試合でプレイできない、と告げたときのグリフィンドール・チームの表情が、最悪の罰だった。
いまこそジニーが自分を見つめているのを感じたのに、目を合わせられなかった。ジニーの目に失望と怒りを見たくなかった。
ハリーはたったいま、土曜日にはジニーがシーカーになり、ジニーの代わりにディーンがチェイサーを務めるようにと言ったばかりだった。
試合に勝てば、もしかして試合後の陶酔感で、ジニーとディーンが縒りを戻すかもしれない……その思いが、氷のナイフのようにハリーを刺した。
「ハリー」ハーマイオニーが言い返した。
「どうしてまだあの本の肩を持つの?あんな呪文が――」
「あの本のことを、くだくだ言うのはやめてくれ!」ハリーが噛みついた。
「プリンスはあれを書き写しただけなんだ!誰かに使えって勧めていたのとは違う!そりゃ、断言はできないけど、プリンスは、自分に対して使われたやつを書き留めていただけかもしれないんだ!」
「信じられない」ハーマイオニーが言った。
「あなたが事実上弁護してることって――」
「自分のしたことを弁護しちゃいない!」ハリーは急いで言った。
「しなければよかったと思ってる。何も十数回分の罰則を食らったからって、それだけで言ってるわけじゃない。たとえマルフォイにだって、僕はあんな呪文は使わなかっただろう。だけどプリンスを責めることはできない。『これを使え、すごくいいから』なんて書いてなかったんだから――プリンスは自分のために書き留めておいただけなんだ。誰かのためにじゃない……」
「ということは」ハーマイオニーが言った。
「戻るつもり――?」
「そして本を取り戻す?ああ、そのつもりだ」ハリーは力んだ。
「いいかい、プリンスなしでは、僕はフェリックス・フェリシスを勝ち取れなかっただろう。ロンが毒を飲んだとき、どうやって助けるかもわからなかったはずだ。それに、絶対――」
「――魔法薬に優れているという、身に余る評判も取れなかった」
ハーマイオニーが意地悪く言った。
「ハーマイオニー、やめなさいよ!」ジニーが言った。
ハリーは驚きと感謝のあまり、つい目を上げた。
「話を聞いたら、マルフォイが『許されざる呪文』を使おうとしていたみたいじゃない。ハリーが、いい切り札を隠していたことを喜ぶべきよ!」
「ええ、ハリーが呪いを受けなかったのは、もちろんうれしいわ!」
ハーマイオニーは明らかに傷ついたようだった。
「でも、ジニー、セクタムセンプラの呪文がいい切り札だとは言えないわよ。結局ハリーはこんな目に遭ったじゃない!せっかくの試合に勝てるチャンスが、おかげでどうなったかを考えたらー私なら――」
「あら、いまさらクィディッチのことがわかるみたいな言い方をしないで」
ジニーがピシャリと言った。
「自分が面子を失うだけよ」ハリーもロンも目を見張った。
ハーマイオニーとジニーは、これまでずっと、とても馬が合っていたのに、いまや二人とも腕組みし、互いにそっぽを向いて睨んでいる。
ロンはそわそわとハリーを見て、それから適当な本をさっとつかんでその陰に顔を隠した。
その夜は、それから誰も互いに口をきかなかった。
にもかかわらず、ハリーは、そんな気分になる資格はないと思いながらも、急に信じられないほど陽気になっていた。
ウキウキ気分は長くは続かなかった。
次の日、スリザリンの嘲りに耐えなければならなかったし、そればかりか仲間のグリフィンドール生の怒りも大変だった。
なにしろ、寮のキャプテンともあろう者が、シーズン最後の試合への、出場を禁じられるようなことをしでかしたというのが、どうにも気に入らなかったのだ。
ハーマイオニーには強気で言い張ったものの、土曜日の朝が来てみると、ハリーは、ロンやジニーやほかの選手たちと一緒にクィディッチ競技場に行けるなら、世界中のフェリックス・フェリシスを、熨斗をつけて差し出してもいいほどの気持になっていた。
みんながロゼットや帽子を身につけ、旗やスカーフを振りながら、太陽の下に出ていくというのに、自分だけが大勢の流れに背を向け、石の階段を地下牢教室に下りていくのは耐えがたかった。
遠くの群衆の声が、やがてまったく聞こえなくなり、一言の解説も、歓声も、うめき声も聞こえないだろうと、思い知らされるのは辛かった。
「ああ、ポッター」
ハリーが扉をノックして入っていくと、スネイプが言った。
不愉快な思い出の詰まったなじみ深い研究室は、スネイプが上の階で教えるようになっても、明け渡されていなかった。いつものように薄暗く、以前と同じように、さまざまな色の魔法薬の瓶が壁一杯に並び、中にはどろりとした死骸が浮遊していた。
明らかにハリーのために用意されているテーブルには、不吉にも蜘妹の巣だらけの箱が積み上げられ、退屈で骨が折れて、しかも無意味な作業だというオーラが漂っていた。
「フィルチさんが、この古い書類の整理をする者を捜していた」
スネイプが猫なで声で言った。
「ご同類のホグワーツの悪童どもと、その悪行に関する記録だ。インクが薄くなっていたり、カードが鼠の害を被っている場合、犯罪と刑罰を新たに書き写していただこう。さらに、アルファベット順に並べて、元の箱に収めるのだ。魔法は便うな」
「わかりました。先生」
ハリーは先生という言葉に、できるかぎりの軽蔑を込めて言った。
「最初に取りかかるのは」
スネイプは、悪意たっぷりの笑みを唇に浮かべていた。
「千十二番から千五十六番までの箱がよろしかろう。
いくつかおなじみの名前が見つかるだろうから、仕事がさらにおもしろくなるはずだ。それ……」
スネイプは、いちばん上にある箱の一つから、仰々しく一枚のカードを取り出して読み上げた。
「ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラック。バートラム・オープリーに対し、不法な呪いをかけた廉で捕まる。オープリーの頭は適常の二倍。二倍の罰則」スネイプがニヤリと笑った。
「死んでも偉業の記録を残す……そう考えると、大いに慰めになるだろうねえ」
ハリーの鳩尾に、いつもの煮えくり返るような感覚が走った。
喉まで出かかった応酬の言葉を噛み殺し、ハリーは箱の山の前に腰掛け、箱を一つ手元に引き寄せた。
予想したとおり、無益でつまらない作業だった。
ときどき(明らかにスネイプの狙いどおり、父親やシリウスの名前を見つけて、胃が揺さぶられる思いがした。たいてい二人でつるんで、些細な悪戯をしていた。ときどきリーマス・ルーピンやピーター・ペティグリューの名前も一緒に出てきた。どんな悪さでどんな罰を受けたかを写し取りながら、始まったばかりの試合はどうなっているのだろうと、ハリーは外のことを考えた……ジニーがシーカーとして、チョウと対決している……。チクタクと時を刻んでいる壁の大時計に、ハリーは何度も目をやった。その時計は、普通の倍も時間をかけて動いているのではないかと思った。もしや、スネイプが魔法で遅くしたのでは?まだ三十分しかたってないなんてありえない……まだ一時間……まだ一時間半……。時計が十二時半を示したとき、ハリーの腹時計がグウグウ言い出した。作業の指示を出してから一度も口をきかなかったスネイプが、一時十分過ぎになってやっと顔を上げた。
「もうよかろう」スネイプが冷たく言った。
「どこまでやったか印をつけるのだ。次の土曜日、十時から先を続ける」
「はい、先生」
ハリーは、端を折ったカードを適当に箱に突っ込み、スネイプの気が変わらないうちに急いで部屋を出た。
石段を駆け上がりながら、ハリーは競技場からの物音に耳を澄ませたが、まったく静かだった……もう、終わってしまったんだ……。
混み合った大広間の外で、ハリーは少し迷ったが、やがて大理石の階段を駆け上がった。
グリフィンドールが勝っても負けても、選手が祝ったり相憐れんだりするのは、通常、寮の談話室だ。
「何事やある?クイッド アジス?」
中で何が起こっているかと考えながら、ハリーは恐る恐る「太った婦人」に呼びかけた。
「見ればわかるわ」と答えた婦人の表情からは、何も読み取れなかった。婦人がパッと扉を開けた。
肖像画の裏の穴から、祝いの大歓声が爆発した。
ハリーの姿を見つけて叫び声を上げるみんなの顔を、ハリーはポカンと大口を開けて見つめた。
何本もの手が、ハリーを談話室に引き込んだ。
「勝ったぞ!」
ロンが目の前に躍り出て、銀色の優勝杯を振りながら叫んだ。
「勝ったんだ!四五〇対一四〇!勝ったぞ!」
ハリーはあたりを見回した。
ジニーが駆け寄ってきた。
決然とした、燃えるような表情で、ジニーはハリーに抱きついた。
ハリーは、何も考えず、何も構えず、五十人もの目が注がれているのも気にせず、ジニーにキスした。
どのくらい経ったのだろう……三十分だったかもしれない……太陽の輝く数日間だったかもしれない――二人は離れた。
部屋中がしんとなっていた。
それから何人かが冷やかしの口笛を、吹き、あちこちでくすぐったそうな笑い声が湧き起こった。
ジニーの頭越しに見ると、ディーン・トーマスが手にしたグラスを握りつぶし、ロミルダ・ペインは何かを投げつけたそうな顔をしているのが見えた。
ハーマイオニーはニッコリしていた。
しかし、ハリーはロンを目で探した。
やっと見つけたロンは、優勝杯を握ったまま、頭を棍棒で殴られたときにふさわしい表情をしていた。
一瞬、二人は顔を見合わせた。
それからロンが、首を小さくクイッと傾けた。ハリーにはその意味がわかった。
「まあな――しかたないだろ」
ハリーの胸の中の生き物が、勝利に吠えた。ハリーは、ジニーを見下ろしてニッコリ笑い、何も言わずに、肖像画の穴から出ようと合図した。校庭をいつまでも歩きたかった。
その間に――時間があればだが――試合の様子を話し合えるかもしれない。
第25章 盗聴された予見者
The Seer Overheard
ハリーがジニー・ウィーズリーとつき合っている。
そのことは大勢の、特に女の子の関心の的になっているようだった。
しかし、それからの数週間、ハリーは噂話など、まったく気にならないほど幸せだった。
ずいぶん長い間、こんなに幸福な気持ちになったことがなかったし、幸せなことで人の口に上るのは、闇の魔術の恐ろしい場面に巻き込まれて噂になるばかりだったハリーにとって、すばらしい変化だった。
「ほかにもっと噂話のネタはあるでしょうに」
談話室の床に座り、ハリーの脚に寄り掛かって「日刊予言者新聞」を読んでいたジニーが言った。
「この一週間で三件も吸魂鬼襲撃事件があったっていうのに、ロミルダ・ペインが私に聞くことといったら、ハリーの胸にヒッポグリフの大きな刺青があるというのは本当か、だって」
ロンとハーマイオニーが大笑いするのを、ハリーは無視した。
「何て答えたんだい?」
「ハンガリー・ホーンテールだって言ってやったわ」
のんびりと新聞のページをめくりながら、ジニーが答えた。
「ずっとマッチョっぼいじゃない」
「ありがと」ハリーはニヤッと笑った。
「それで、ロンには何の刺青があるって言ったんだい?」
「ピグミーパフ。でも、どこにあるかは言わなかったわ」
ハーマイオニーは笑い転げ、ロンはしかめっ面で睨んだ。
「気をつけろ」
ロンがハリーとジニーを指差して、警告するように言った。
「許可を与えることは与えたけど、撤回しないとは言ってないぞ――」
「『許可』?」ジニーがフンと言った。
「いつからわたしのすることに、許可を与えるようになったの?どっちにしろ、マイケルやディーンなんかよりハリーだったらいいのにって言ったのは、あなた自身ですからね」
「ああ、そのほうがいいさ」ロンがしぶしぶ認めた。
「君たちが公衆の面前でイチャイナャしないかぎり」
「偽善者もいいとこだわ!ラベンダーとあなたのことは、どうなの?あっちこっちで二匹のうなぎみたいにジタバタのたうってたのは、どなた?」ジニーが食ってかかった。
六月に入ると、ロンの我慢の限界を試す必要もなくなっていた。
ハリーとジニーが、二人一緒に過ごす時間がどんどん少なくなっていたのだ。
O・W・L試験が近づいて、ジニーは夜遅くまで勉強しなければならなかった。
そんなある夜、ジニーが図書室にこもり、ハリーは談話室の窓際に腰掛けて、薬草学の宿題を仕上げていた。
しかし、それはうわべだけで、実は昼休みにジニーと湖のそばで過ごした、この上なく幸せな時間を追想していたのだ。
そのとき、ハーマイオニーが、何か含むところがあるような顔で、ハリーとロンの間に座った。
「ハリー、お話があるの」
「何だい?」
ハリーは、嫌な予感がしながら聞き返した。
つい昨日も、ハーマイオニーは、ジニーは試験のために猛勉強をしなければならないのだから、邪魔をしてはいけないと、ハリーに説教したばかりだった。
「いわゆる『半純血のプリンス』のこと」
「またか」ハリーがうめいた。
「頼むからやめてくれないか?」
ハリーは、教科書を取りに「必要の部屋」に戻る勇気がなかった。
その結果、魔法薬の成績が被害を受けた(ただし、スラグホーンは、お気に入りのジニーがハリーの相手だったので、恋の病のせいだと茶化してすませた)。
それでもハリーは、スネイプがプリンスの本を没収する望みをまだ捨ててはいないと確信していたので、スネイプの目が光っているうちは、本をそのままにしておこうと決めていた。
「やめないわ」ハーマイオニーがきっぱりと言った。
「あなたが私の言うことをちゃんと聞くまではね。闇の呪文を発明する趣味があるのは、どういう人なのか、私、少し探ってみたの」
「彼は、趣味でやったんじゃない――」
「彼、彼って――どうして男性なの?」
「前にも、同じやり取りをしたはずだ」ハリーが苛立った。
「プリンスだよ、ハーマイオニー、プリンス!」
「いいわ!」
ハーマイオニーの頬がパッと赤く燃え上がった。
ハーマイオニーはポケットからとびきり古い新聞の切り抜きを引っぱり出して、ハリーの目の前の机にバンと叩きつけた。
「見て!この写真を見るのよ!」
ハリーはポロポロの紙切れを拾い上げ、セピア色に変色した動く写真を見つめた。
ロンも体を曲げて覗き込んだ。
十五歳ぐらいの、痩せた少女の写真だった。
かわいいとは言えない。
太く濃い眉に、蒼白い面長な顔は、イライラしているようにも、すねているようにも見えた。
写真の下にはこう書いてある。
「アイリーン・プリンス。ホグワーツ・ゴブストーン・チームのキャプテン」
「それで?」
写真に関係する短い記事にざっと目を通しながらへハリーが言った。
学校対抗試合の、かなりつまらない記事だった。
「この人の名前はアイリーン・プリンスよ。ハリー、プリンス」
三人は顔を見合わせ、ハリーはハーマイオニーの言おうとしていることに気づいた。
ハリーは笑い出した。
「ありえないよ」
「何が?」
「この女の子が『半純血の……』?いい加減にしろよ」
「え?どうして?ハリー、魔法界には本当の王子なんていないのよ!綽名か、勝手にその肩書きを名乗っているか、または実名かもしれないわ。そうでしょう?いいから、よく聞いて!もしこの女の子の父親が『プリンス』という姓で、母親がマグルなら、それで『半純血のプリンス』になるわ!」
「ああ、独創的だよ、ハーマイオニー……」
「でも、そうなるわ!この人はたぶん、自分が半分プリンスであることを誇りにしていたのよ!」
「いいかい、ハーマイオニー。女の子じゃないって、僕にはわかるんだ。とにかくわかるんだよ」
「本当は、女の子がそんなに賢いはずはないって、そう思ってるんだわ」ハーマイオニーが怒ったように言った。
「五年も君のそばにいた僕が、女の子が賢くないなんて思うはずないだろ?」ハリーは少し傷ついて反論した。
「書き方だよ。プリンスが男だってことが、とにかくわかるんだ。僕にはわかるんだよ。この女の子は何の関係もない。どっから引っぱり出してきたんだ?」
「図書室よ」ハーマイオニーは予想どおりの答えを言った。
「古い『予言者新聞』が全部取ってあるの。さあ、私、できればアイリーン・プリンスのことをもっと調べるつもりよ」
「どうぞご勝手に」ハリーがイライラと言った。
「そうするわ」ハーマイオニーが言った。
「それに、最初に調べるのは――」
ハーマイオニーは肖像画の穴まで行き、ハリーに向かって語気鋭く言った。
「昔の魔法薬の表彰の記録よ」
出ていくハーマイオニーを、ハリーはしばらく睨んでいたが、暗くなりかけた空を眺めながらまた想いに耽った。
「ハーマイオニーは、魔法薬で、君が自分よりできるっていうのが、どうしても我慢ならないだけさ」
ロンは「薬草ときのこ千種」をまた読みはじめながら言った。
「あの本を取り戻したいって考える僕が、どうかしてると思うか?」
「思わないさ」ロンが力強く言った。
「天才だよ。あのプリンスは。とにかく……ベゾアール石のヒントがなかったら……」
ロンは自分の喉を掻き切る動作をした。
「生きてこんな話をすることができなかっただろ?そりゃ、君がマルフォイに使った呪文がすごいなんては言わないけど――」
「僕だって」ハリーは即座に言った。
「だけど、マルフォイはちゃんと治ったじゃないか?たちまち回復だ」
「うん」ハリーが言った。
たしかにそのとおりだったが、やはり良心が痛んだ。
「スネイプのおかげでね……」
「君、また次の土曜日にスネイプの罰則か?」ロンが聞いた。
「うん。そのあとの土曜日も、またそのあとの土曜日もだ」ハリーはため息をついた。
「それに、今学期中に全部の箱をやり終えないと、来学年も続けるなんて臭わせはじめてる」
ただでさえジニーと過ごす時間が少ないのに、その上罰則で時間を取られるのが、特にうんざりだった。
最近ハリーは、スネイプが実は承知の上でそうしているのではないかと、しばしば疑うようになっていた。
というのも、スネイプが、せっかくの好い天気なのに、いろいろな楽しみを失うとは、などと独り言のようにチクチク呟きながら、毎回だんだんハリーの拘束時間を長くしていたからだ。
苦い思いを噛みしめていたハリーは、ジミー・ピークスが急にそばに現れたのでビクッとした。
ジミーは羊皮紙の巻紙を差し出していた。
「ありがとう、ジミー……あっ、ダンブルドアからだ!」
ハリーは巻紙を開いて目を走らせながら、興奮して言った。
「できるだけ早く、校長室に来てほしいって!」
ハリーは、ロンと顔を見合わせた。
「おっどろき?」ロンが囁くように言った。
「もしかして……見つけたのかな……?」
「すぐ行ったほうがいいよね?」
ハリーは勢いよく立ち上がった。
ハリーはすぐに談話室を出て、八階の廊下をできるだけ急いだ。
途中ビープズ以外には誰とも会わなかった。
ビープズは決まり事のように、チョークの欠けらをハリーに投げつけ、ハリーの防衛呪文をかわして、高笑いしながらハリーと反対方向に飛び去った。
ビープズが消え去ったあとの廊下は、閑散としていた。
夜間外出禁止時間まであと十五分しかなかったので、大多数の生徒はもう談話室に戻っていた。
そのとき、悲鳴と衝撃音が聞こえ、ハリーは足を止めて、耳を澄ませた。
「なんて――失礼な――あなた――あああああーっ!」
音は近くの廊下から聞こえてくる。
ハリーは杖を構えて音に向かって駆け出し、飛ぶように角を曲がった。
トレローニー先生が、床に大の字に倒れていた。
何枚も重なったショールの一枚が顔を覆い、そばにはシェリー酒の瓶が数本転がっていた。
一本は割れている。
「先生――」
ハリーは急いで駆け寄り、トレローニー先生を助け起こした。
ピカピカのビーズ飾りが何本か、メガネに絡まっている。
トレローニー先生は大きくしゃっくりしながら、髪を撫でつけ、てハリーの腕にすがって立ち上がった。
「先生、どうなきったのですか?」
「よくぞ聞いてくださったわ!」
先生が甲高い声で言った。
「あたくし、考えごとをしながら歩き回っておりましたの。あたくしがたまたま垣間見た、いくつかの闇の前兆についてとか……」
しかし、ハリーはまともに聞いてはいなかった。
いま立っている場所がどこなのかに気がついたからだ。
右には踊るトロールのタペストリー、左一面は頑丈な石壁だ。
その裏に隠れているのは――。
「先生、『必要の部屋』に入ろうとしていたのですか?」
「……あたくしに啓示された予兆についてとか――えっ?」
先生は急にそわそわしはじめた。
「『必要の部屋』です」ハリーが繰り返した。
「そこに入ろうとなさっていたのですか?」
「あたくし――あら――生徒が知っているとは、あたくし存じませんでしたわ!」
「全員ではありません」ハリーが言った。
「でも、何があったのですか?悲鳴を上げましたね……怪我でもしたように聞こえましたけど……」
「あたくし、あの」
トレローニー先生は、身を護るかのようにショールを体に巻きつけ、拡大された巨大な目でハリーをじっと見下ろした。
「あたくし――あ――ちょっとした物を――あー――個人的な物をこの部屋に置いておこうと……」
それから先生は、「ひどい言いがかりですわ」のようなことを呟いた。
「そうですか」
ハリーは、シェリー酒の瓶をちらりと見下ろしながら言った。
「でも、中に入って隠すことができなかったのですね?」
変だ、とハリーは思った。
「部屋」は、プリンスの本を隠したいと思ったとき、とうとうハリーのために開いてくれた。
「ええ、ちゃんと入りましたことよ」
トレローニー先生は壁を睨みつけながら言った。
「でも、そこには先客がいましたの」
「誰かが中に――?誰が?」ハリーが詰問した。
「そこには誰がいたんです?」
「さっぱりわかりませんわ」
ハリーの緊迫した声に少したじろぎながら、トレローニー先生が言った。
「『部屋』に入ったら、声が聞こえましたの。あたくし長年隠し――いえ、『部屋』を使ってきましたけれど――こんなことは初めて」
「声?何を言っていたんです?」
「何かを言っていたのかどうか、わかりませんわ」
トレローニー先生が言った。
「ただ……歓声を上げていました」
「歓声を?」
「大喜びで」先生が嶺いた。
ハリーは先生をじっと見た。
「男でしたか?女でしたか?」
「想像ざますけど、男でしょう」トレローニー先生が言った。
「それで、喜んでいたのですか?」
「大喜びでしたわ」
トレローニー先生は尊大に鼻を鳴らしながら言った。
「何かお祝いしているみたいに?」
「間違いなくそうですわ」
「それから――?」
「それから、あたくし、呼びかけましたの。『そこにいるのは誰?』と」
「聞かなければ、誰がいるのかわからなかったんですか?」ハリーは少しじりじりしながら聞いた。
「『内なる眼』は――」
トレローニー先生は、ショールや何本ものキラキラするビーズ飾りを整えながら、威厳を込めて言った。
「歓声などの俗な世界より、ずっと超越した事柄を見つめておりましたの」
「そうですか」ハリーは早口で言った。
トレローニー先生の「内なる眼」については、すでに嫌というほど聞かされていた。
「それで、その声は、そこに誰がいるかを答えたのですか?」
「いいえ、答えませんでした。『部屋』がまっ晴になって、次に気がついたときには、頭から先に放り出されておりましたの」
「それで、そういうことが起こるだろうというのは、見通せなかったというわけですか?」ハリーはそう聞かずにはいられなかった。
「いいえ。言いましたでございましょう。まっ暗――」
トレローニー先生は急に言葉を切り、何が言いたいのかと疑うようにハリーを睨んだ。
「ダンブルドア先生にお話ししたほうがいいと思います」
ハリーが言った。
「ダンブルドア先生は知るべきなんです。マルフォイがお祝いしていたこと――いえ、誰かが先生を『部屋』から放り出したことをです」
驚いたことに、トレローニー先生はハリーの意見を聞くと、気位高く背筋を伸ばした。
「校長先生は、あたくしにあまり来てほしくないとほのめかしましたわ」トレローニー先生は冷たく言った。
「あたくしがそばにいることの価値を評価なさらない方に、無理にご一緒願うようなあたくしではございませんわ。ダンブルドアが、トランプ占いの警告を無視なさるおつもりなのでしたら――」
先生の骨ばった手が、突然ハリーの手首をつかんだ。
「何度も何度も、どんな並べ方をしても――」
そして先生は、ショールの下から仰々しくトランプを一枚取り出した。
「――稲妻に撃たれた塔」先生が囁いた。
「災難。大惨事。刻々と近づいてくる……」
「そうですか」ハリーはさっきと同じ答え方をした。
「えーと……それでもダンブルドアに、その声のことを話すべきだと思います。それに、まっ晴になって『部屋』から放り出されたことなんかも……」
「そう思いますこと?」
トレローニー先生はしばらく考慮しているようだったが、ハリーには、先生がちょっとした冒険話を聞かせたがっていることが読み取れた。
「僕は、いま校長先生に会いにいくところです」ハリーが言った。
「校長先生と約束があるんです。一緒に行きましょう」
「あら、まあ、それでしたら」
トレローニー先生は、微笑んだ。
それから屈み込んでシェリー酒の瓶を拾い集め、近くの壁のニッチに置いてあった青と白の大きな花瓶に、無造作に投げ捨てた。
「ハリー、あなたがクラスにいないと、寂しいですわ」
一緒に歩きながら、トレローニー先生が感傷的に言った。
「あなたは大した『予見者』ではありませんでしたが……でも、すばらしい『対象者』でしたわ……」
ハリーは何も言わなかった。
トレローニー先生の、絶え間ない宿命予言の「対象者」にされるのには辟易していた。
「残念ながら――」先生はしゃべり続けた。
「あの駄馬は――ごめんあそばせ。あのケンタウルスは――トランプ占いを何も知りませんのよ。あたくし、質問しましたの――予見者同士としてざますけど――災難が近づいているという遠くの振動を、あなたも感じませんか?と。ところが、あのケンタウルスは、あたくしのことを、ほとんど滑稽だと思ったらしいんですの。そうです、滑稽だと!」
トレローニー先生の声がヒステリー気味に高くなり、瓶はもう捨ててきたはずなのに、ハリーは、シェリー酒のきつい匂いを喚ぎ取った。
「たぶんあの馬は、あたくしが曾曾祖母の才能を受け継いでいない、などと誰かが言うのを開いたのですわ。そういう噂は、嫉妬深い人たちが、もう何年も前から言いふらしてきたことです。あたくしがそういう人たちに何と言ってやるか、ハリー、おわかり?あたくしの才能はダンブルドアに十分証明ずみです。そうでなかったら、ダンブルドアはこの偉大な学校で、あたくしに教えさせたかしら?この長年の間、あたくしをこんなに信用なきったかしら?」
ハリーは、ゴニョゴニョと開き取れない言葉を呟いた。
「最初のダンブルドアの面接のことは、よく憶えていましてよ」トレローニー先生は、かすれ声で話し続けた。
「ダンブルドアは、もちろん、とても感心しましたわ……。あたくしは、ホッグズ・ヘッドに泊まっておりました。ところで、あそこはお勧めしませんわ――あなた、ベッドにはダニですのよ――でも、予算が少なかったの。ダンブルドアは、あたくしの部屋までわざわざお訪ねくださったわ。あたくしに質問なさった……白状いたしますとね、はじめのうちはダンブルドアが『占い学』をお気に召さないようだと思いましたわ……そして、あたくし、なんだかちょっと変な気分になりましてね。その日はあまり食べていませんでしたの……でも、それから……」
ハリーは、いま初めてまともに傾聴していた。そのとき何が起こったかを知っていたからだ。
トレローニー先生は、ハリーとヴォルデモートに関する予言をし、それがハリーの全人生を変えてしまったのだ。
「……でも、そのとき、セブルス・スネイプが、無礼にも邪魔をしたのです!」
「えっ?」
「そうです。扉の外で騒ぎがあって、ドアがパッと開いて、そこにかなり粗野なバーテンが、スネイプと一緒に立っていたのです。スネイプは間違えて階段を上がってきたとか、戯言を並べ立てていましたわ。でも、あたくしはむしろ、ダンブルドアとあたくしの面接を盗み聞きしているところを捕まったのだろうと思いましたわ――だって、スネイプは、あの時、職を求めていましたもの。間違いなく、面接のコツを探り出そうとしたのですわ!そう、そのあとで、おわかりでございましょ、ダンブルドアはあたくしを採用なさることにずっと乗り気になったようでしたわ。ですから、ハリー、あたくしとしては、ダンブルドアには、気取らず才能をひけらかさないあたくしと、鍵穴から盗み聞きするような、押しつけがましい図々しい若い男との、明らかな相違がおわかりになったのだと、そう考えざるをえませんわ――あら、ハリー?」
トレローニー先生は、ハリーが脇にいないことにやっと気づいて、振り返った。
ハリーは足を止め、二人の間が三メートルも開いていた。
「ハリー?」トレローニー先生は、訝しげにもう一度呼びかけた。
おそらく、ハリーの顔が蒼白だったのだろう。
先生はギョッとしで、心配そうな顔になった。
ハリーは身動きもせずに突っ立っていた。
衝撃が波のように打ち寄せては砕けた。
次々と押し寄せる波が、長年自分には秘密にされてきたこの情報以外のすべてのものを、意識から掻き消していた……。
予言を盗み聞きしたのはスネイプだった。
スネイプが、その予言をヴォルデモートに知らせた。
スネイプとピーター・ペティグリューとがグルになって、ヴォルデモートがリリーとジェームズ、そしてその息子を追跡するように仕向けたのだ……。
ハリーには、もはや、ほかの事はどうでもよくなっていた。
「ハリー?」トレローニー先生がもう一皮声をかけた。
「ハリー――一緒に校長先生にお目にかかりにいくのじゃなかったかしら?」
「ここにいてください」ハリーは麻痺した唇の間から言葉を搾り出した。
「でも、あなた……あたくしは、『部屋』で襲われたことを校長先生に申し上げるつもりで……」
「ここにいてください!」ハリーが怒ったように繰り返した。
ハリーがトレローニー先生の前を駆け抜け、ダンブルドアの部屋に通じる廊下に向かって角を曲がっていくのを、トレローニー先生は唖然として見ていた。
廊下にはガーゴイルが見張りに立っていた。
ハリーはガーゴイルに向かって合言葉を怒鳴り、動く螺旋階段を、一度に三段ずつ駆け上がった。
ダンブルドアの部屋の扉を軽くノックするのではなく、ガンガン叩いた。
すると静かな声が答えた。
「お入り」
しかし、ハリーは、すでに部屋に飛び込んでいた。
不死鳥のフォークスが振り返った。
フォークスの輝く黒い目が、窓の外に沈む夕日の金色を映して光っていた。
ダンブルドアは、旅行用の長い黒いマントを両腕にかけ、窓から校庭を眺めて立っていた。
「さて、ハリー、きみを一緒に連れていくと約束したのう」
ほんの一瞬、ハリーは何を言われているのかわからなかった。
トレローニーとの会話が、ほかのことをいっさい頭から追い出してしまい、脳みその動きがとても鈍いような気がした。
「一緒に……先生と……?」
「もちろん、もしきみがそうしたければじゃが」
「もし僕が……」
そして、ハリーは、もともとどうしてダンブルドアの校長室に急いでいたかを思い出した。
「見つけたのですか?分霊箱を見つけたのですか?」
「そうじゃろうと思う」
怒りと恨みの心が、衝撃と興奮の気持ちと戦った。
しばらくの間、ハリーは口がきけなかった。
「恐れを感じるのは当然じゃ」ダンブルドアが言った。
「恐くありません!」ハリーは即座に答えた。本当のことだった。
恐怖という感情だけはまったく感じていなかった。
「どの分霊箱ですか?どこにあるのですか?」
「どの分霊箱かは定かではない――ただし、蛇だけは除外できるじゃろう――ここから何キロも離れた海岸の洞窟に隠されているらしい。その洞窟がどこにあるかを、わしは長い間探しておった。トム・リドルが、かつて年に一度の孤児院の遠足で、二人の子どもを脅した洞窟じゃ。憶えておるかの?」
「はい」ハリーが答えた。
「どんなふうに護られているのですか?」
「わからぬ。こうではないかと思うことはあるが、まったく間違うておるかもしれぬ」
*二ダンブルドアは躊躇したが、やがてこう言った。
「ハリー、わしはきみに一緒に来てよいと言うた。そして、約束は守る。しかし、きみに警告しないのは大きな間違いじゃろう。今回はきわめて危険じゃ」
「僕、行きます」
ハリーはダンブルドアの言葉が終わらないうちに答えていた。
スネイプへの怒りが沸騰し、何か命がけの危険なことをしたいという願いが、この数分で十倍に膨れ上がっていた。
それがハリーの顔に顕われたらしい。
ダンブルドアは窓際を離れ、銀色の眉根に微かに皺を寄せて、ハリーをさらにしっかりと見つめた。
「何があったのじゃ?」
「何にもありません」ハリーは即座に嘘をついた。
「なぜ気が動転しておるのじゃ?」
「動転していません」
「ハリー、きみはよい閉心術者とは――」
その言葉が、ハリーの怒りに点火した。
「スネイプ!」
ハリーは大声を出した。
フォークスが二人の背後で、小さくギャッと鳴いた。
「何かありましたとも!スネイプです!あいつが、ヴォルデモートに予言を教えたんだ。あいつだったんだ。扉の外で聞いていたのは、あいつだった。トレローニーが教えてくれた!」
ダンブルドアは表情を変えなかった。
しかし、沈む太陽に赤く吸えるその顔の下で、ダンブルドアがすっと血の気を失ったと、ハリーは思った。
しばらくの間、ダンブルドアは無言だった。
「いつ、それを知ったのじゃ?」しばらくして、ダンブルドアが聞いた。
「たったいまです!」ハリーが言った。
叫びたいのを抑えるのがやっとだった。
しかし、突然、もう我慢できななった。
「それなのに、先生はあいつにここで教えさせた。そしてあいつは、ヴォルデモートに僕の父と母を追うように言った!」
まるで戦いの最中のように、ハリーは息を荒らげていた。
眉根一つ動かさないダンブルドアに背を向け、ハリーは部屋を往ったり来たりしながら拳をさすり、あたりの物を殴り倒したい衝動を、必死で抑えた。
ダンブルドアに向かって怒りをぶっつけ、怒鳴り散らしたかった。
しかし同時に、ダンブルドアと一緒に分霊箱を破壊しにいきたかった。
ダンブルドアに向かって、スネイプを信用するなんて、バカな老人のすることだと言ってやりたかった。
しかし、一方で自分が怒りを抑制しなければ、ダンブルドアが一緒に連れていってくれないことも恐れた…… 。
「ハリー」ダンブルドアが静かに言った。
「わしの言うことをよく聞きなさい」
動き回るのをやめるのも、叫びたいのをこらえると同じぐらい難しかった。
ハリーは唇を噛んで立ち止まり、皺の刻まれたダンブルドアの顔を見た。
「スネイプ先生はひどい間違――」
「間違いを犯したなんて、言わないでください。先生、あいつは扉のところで盗聴してたんだ!」
「最後まで言わせておくれ」
ダンブルドアは、ハリーが素っ気なく頷くまで待った。
「スネイプ先生はひどい間違いを犯した。トレローニー先生の予言の前半を聞いたあの夜、スネイプ先生はまだヴォルデモート卿の配下だった。当然、ご主人様に、自分が開いたことを急いで伝えた。それが、ご主人様に深く関わる事柄だったからじゃ。しかし、スネイプ先生は知らなかった――知る由もなかったのじゃ――ヴォルデモートがその後、どこの男の子を獲物にするのかも知らず、ヴォルデモートの残忍な追求の末に殺される両親が、スネイプ先生の知っている人々だとは、知らなかったのじゃ。それがきみの父君、母君だとは――」
ハリーは、虚ろな笑い声を上げた。
「あいつは僕の父さんもシリウスも、同じように憎んでいた!先生、気がつかないんですか?スネイプが憎んだ人間は、なぜか死んでしまう」
「ヴォルデモート卿が予言をどう解釈したのかに気づいたとき、スネイプ先生がどんなに深い自責の念に駆られたか、きみには想像もつかないじゃろう。人生最大の後悔だったじゃろうと、わしはそう信じておる。それ故に、スネイプ先生は戻ってきた――」
「でも、先生、あいつこそ、とても優れた閉心術者じゃないんですか?」
平静に話そうと努力することで、ハリーの声は震えていた。
「それに、ヴォルデモートは、いまでも、スネイプが自分の味方だと信じているのではないんですか?先生……スネイプがこっちの味方だと、なぜ確信していらっしゃるのですか?」
ダンブルドアは、一瞬沈黙した。
何事かに関して、意思を固めようとしているかのようだった。
しばらくしてダンブルドアは口を開いた。
「わしは確信しておる。セブルス・スネイプを完全に信用しておる」
ハリーは自分を落ち着かせようと、しばらく探呼吸した。しかし、ムダだった。
「でも、僕は違います!」
ハリーはまた大声を出していた。
「あいつは、いまのいま、ドラコ・マルフォイと一緒に何か企んでる。先生の目と鼻の先で。それでも先生はまだ――」
「ハリー、このことはもう話し合ったじゃろう」
ダンブルドアは再び厳しい口調に戻った。
「わしの見解はもうきみに話した」
「先生は今夜、学校を離れる。それなのに、先生はきっと、考えたこともないんでしょうね、スネイプとマルフォイが何かするかもしれないなんて――」
「何をするというのじゃ?」ダンブルドアは眉を吊り上げた。
「具体的に、二人が何をすると疑っておるのじゃ?」
「僕は……あいつらは何か企んでるんだ!」
そう言いながら、ハリーは拳を固めていた。
「トレローニー先生がいま『必要の部屋』に入って、シェリー酒の瓶を隠そうとしていたんです。そしたら、マルフォイが何かを祝って喜んでいる声を聞いたんです!あの部屋で、マルフォイは何か危険な物を修理しようとしていた。きっと、とうとう修理が終わったんです。それなのに、先生は、学校を出ていこうとしている。何にもせず――」
「もうよい」
ダンブルドアの声はとても静かだったが、ハリーはすぐに黙った。
ついに見えない線を踏みこ越えてしまったと気づいたのだ。
「今学年になって、わしの留守中に、学校を無防備の状態で放置したことが、一度たりともあると思うか?否じゃ。今夜、わしがここを離れるときには、再び追加的な保護策が施されるであろう。ハリー、わしが生徒たちの安全を真剣に考えていないなどと、仮初にも言うではないぞ」
「そんなつもりでは――」
ハリーは少し恥じ入って、口ごもったが、ダンブルドアがその言葉を遮った。
「このことは、これ以上話したくはない」
ハリーは、返す言葉を呑み込んだ。
言いすぎて、ダンブルドアと一緒に行く機会をだめにしてしまったのではないかと恐れたが、ダンブルドアは言葉を続けた。
「今夜は、わしと一緒に行きたいか?」
「はい」ハリーは即座に答えた。
「よろしい。それでは、よく聞くのじゃ」
ダンブルドアは背筋を正し、威厳に満ちた姿で言った。
「連れていくには、一つ条件がある。わしが与える命令には、すぐに従うことじゃ。しかも質問することなしにじゃ」
「もちろんです」
「ハリー、よく理解するのじゃ。わしは、どんな命令にも従うように言うておる。たとえば、『逃げよ』、『隠れよ』、『戻れ』などの命令もじゃ。約束できるか?」
「僕――はい、もちろんです」
「わしが隠れるように言うたら、そうするか?」
「はい」
「わしが逃げよと言うたら、従うか?」
「はい」
「わしを置き去りにせよ、自らを助けよと言うたら、言われたとおりにするか?」
「僕――」
「ハリー?」二人は一瞬見つめ合った。
「はい、先生」
「よろしい。それでは、戻って『透明マント』を取ってくるのじゃ。五分後に正面玄関で落ち合うこととする」
ダンブルドアは後ろを向き、まっ赤に染まった窓から外を見た。
太陽がいまやルビーのように赤々と、地平線に沈もうとしていた。
ハリーは急いで校長室を出て、螺旋階段を下りた。
不思議にも、急に頭が冴え冴えとしてきた。
何をなすべきかがわかっていた。
ハリーが談話室に戻ったとき、ロンとハーマイオニーは一緒に座っていた。
「ダンブルドアは何のご用だったの?」
ハーマイオニーが間髪を入れずに聞いた。
「ハリー、あなた、大丈夫?」ハーマイオニーは心配そうに聞いた。
冴えた頭で、そういえば何故ハーマイオニーは僕の精神状態を正確に把握できるのだろうと訝しく思った。
「大丈夫だ」
ハリーは足早に二人のそばを通り過ぎながら、短く答えた。
階段を駆け上がり、寝室に入り、トランクを勢いよく開けて「忍びの地図」と丸めたソックスを一足引っぱり出した。
それから、また急いで階段を下りて談話室に戻り、呆然と座ったままのロンとハーマイオニーのところまで駆け戻って急停止した。
「時間がないんだ」
ハリーは息を弾ませて言った。
「ダンブルドアは、僕が『透明マント』を取りに戻ったと思ってる。いいかい……」
ハリーは、どこへ何のために行くのかを、二人にかい摘んで話した。
ハーマイオニーが恐怖に息を呑んでも、ロンが急いで質問しても、ハリーは話を中断しなかった。
細かいことはあとで二人で考えることができるだろう。
「……だから、どういうことかわかるだろう?」ハリーは、最後までまくし立てた。
「ダンブルドアは今夜ここにいない。だからマルフォイは、何を企んでいるにせよ、邪魔が入らないいいチャンスなんだ。いいから、聞いてくれ!」
ロンとハーマイオニーが口を挟みたくてたまらなそうにしたので、ハリーは噛みつくように言った。
「『必要の部屋』で歓声を上げていたのはマルフォイだってことが、僕にはわかっているんだ。さあ――」
ハリーは「忍びの地図」をハーマイオニーの手に押しっけた。
「マルフォイを見張らないといけない。それにスネイプも見張らないといけない。ほかに誰でもいいから、 DAのメンバーを掻き集められるだけ集めてくれ。ハーマイオニー、ガリオン金貨の連絡網はまだ使えるね?ダンブルドアは学校に追加的な保護策を施したっていうけど、スネイプが絡んでいるのなら、ダンブルドアの保護措置のことも、回避の方法も知られている――だけど、スネイプは、君たちが監視しているとは思わないだろう?」
「ハリー――」ハーマイオニーは恐怖に目を見開いて、何か言いかけた。
「議論している時間がない」ハリーは素っ気なく言った。
「これも持っていて――」ハリーは、ロンの両手にソックスを押しっけた。
「ありがと」ロンが言った。
「あー――どうしてソックスが必要なんだ?」
「その中に包まっている物が必要なんだ。フェリックス・フェリシスだ。君たちとジニーとで飲んでくれ。ジニーに、僕からのさよならを伝えてくれ。もう行かなきゃ。ダンブルドアが待ってる――」
「だめよ!」
ロンが、畏敬の念に打たれたような顔で、靴下の中から小さな金色の薬が入った瓶を取り出したとき、ハーマイオニーが言った。
「私たちはいらない。あなたが飲んで。これから何があるかわからないでしょう?」
「僕は大丈夫だ。ダンブルドアと一緒だから」ハリーが言った。
「僕は、きみたちが無事だと思っていたいんだ……そんな顔しないで、ハーマイオニー。あとでまた会おう……」
ハーマイオニーなら何とかしてくれる……ハーマイオニーなら何とか……。
そして、ハリーはその場を離れて肖像画の穴をくぐり、正面玄関へと急いだ。
ダンブルドアは玄関の樫の扉の脇で待っていた。
ハリーが息せき切って、脇腹を押さえながら、石段の最上段に滑り込むと、ダンブルドアが振り向いた。
「『マント』を着てくれるかの」ダンブルドアはそう言うと、ハリーがマントをかぶるのを待った。
「よろしい。では参ろうか」
ダンブルドアはすぐさま石段を下りはじめた。
夏の夕凪に、ダンブルドアの旅行マントはちらりとも動かなかった。
ハリーは「透明マント」に隠れ、並んで急ぎながらまだ息を弾ませ、かなり汗をかいていた。
「でも、先生、先生が出ていくところを見たら、みんなはどう思うでしょう?」
ハリーは、マルフォイとスネイプのことを考えながら聞いた。
「わしが、ホグズミードに一杯飲みに行ったと思うじゃろう」
ダンブルドアは気軽に言った。
「ときどきわしは、ロスメルタの得意客になるし、さもなければホッグズ・ヘッドに行くのじゃ……もしくは、そのように見えるのじゃ。本当の目的地を隠すには、それがいちばんの方法なのじゃよ」
黄昏の薄明かりの中を、二人は馬車道を歩いた。
草いきれ、湖の水の匂い、ハグリッドの小屋からの薪の煙の匂いがあたりを満たしていた。
これから危険な、恐ろしいものに向かっていくことなど、信じられなかった。
「先生」馬車道が尽きるところに校門が見えてきたとき、ハリーがそっと聞いた。
「『姿現わし』するのですか?」
「そうじゃ」ダンブルドアが言った。
「きみはもう、できるのじゃったな?」
「ええ」ハリーが言った。
「でも、まだ免許状をもらっていません」
正直に話すのがいちばんいいと思った。
目的地から二百キロも離れたところに現れて、すべてが台無しになったら「心配ない」ダンブルドアが言った。「わしがまた介助しょうぞ」
校門を出ると、二人は人気のない夕暮れの道を、ホグズミードに向かった。
道々、夕闇が急速に濃くなり、ハイストリート通りに着いたときには、とっぷりと暮れていた。
店の二階の窓々から、チラチラと灯りが見える。
「三本の箒」に近づいたとき、騒々しい喚き声が聞こえてきた。
「――出ておいき!」
マダム・ロスメルタが、むさくるしい魔法使いを押し出しながら叫んだ。
「あら、アルバス、こんばんは……遅いおでかけね……」
「こんばんは、ロスメルタ、ご機嫌よう……すまぬが、ホッグズ・ヘッドに行くところじゃ……悪く思わんでくだされ。今夜は少し静かなところに行きたい気分でのう……」
ほどなく二人は、横道に入った。
風もないのに、ホッグズ・ヘッドの看板がキーキーと小さく軋んでいた。
「三本の箒」と対照的に、このパブはまったく空っぽのようだった。
「中に入る必要はなかろう」ダンブルドアは、あたりを見回して呟いた。
「我々が消えるのを、誰にも目撃されないかぎり……さあ、ハリー、片手をわしの腕に置くがよい。強く握る必要はないぞ。きみを導くだけじゃからのう。三つ数えて――いち……に……さん……」
ハリーは回転した。
たちまち、太いゴム管の中に押し込められているような、嫌な感覚に襲われた。息ができない。
体中のありとあらゆる部分が、我慢できないほどに圧縮され、そして、窒息すると思ったその瞬間、見えないバンドがはちきれたようだった。
ハリーは冷たい暗闇の中に立ち、胸一杯に新鮮な潮風を吸い込んでいた。
第26章 洞窟
The Cave
潮の香と、打ち寄せる波の音がした。
月光に照らされた海と、星を散りばめた空を眺めるハリーの髪を、肌寒い風が軽く乱した。
ハリーは、海から高く突き出た、黒々とした岩の上に立っていた。
眼下に、海が泡立ち渦巻いている。
振り返ると、見上げるような崖が、のっぺりした岩肌を見せて累々とそそり立っていた。
ハリーとダンブルドアが立っている岩と同じような大岩が、いくつか、どこか昔に崖が割れて離れてしまったかのような姿で立っている。
荒涼たる光景だった。
海にも岩にも、厳しさを和らげる草も木も、砂地さえもない。
「どう思うかの?」ダンブルドアが聞いた。
ピクニックをするのによい場所かどうか、ハリーの意見を聞いたのかもしれない。
「孤児院の子どもたちを、ここに連れてきたのですか?」
遠足に来るにはこれほど不適切な場所はないだろうと思いながら、ハリーが聞いた。
「正確にはここではない」ダンブルドアが言った。
「後ろの崖沿いに半分ほど行ったところに、村らしきものがある。孤児たちは海岸の空気を吸い、海の波を見るためにそこに連れていかれたのじゃろう。この場所そのものを訪れたのは、トム・リドルと幼い犠牲者たちだけじゃったろう。並はずれた登山家でもなければ、マグルはこの岩にたどり着くことはできぬし、船も崖には近づけぬ。この周りの海は危険すぎるのでな。リドルは崖を下りてきたのじゃろう。魔法が、ロープより役に立ったことじゃろうな。そして、小さな子どもを二人連れてきた。おそらく脅す楽しみのためじゃ。連れてくるだけで、目的は十分果たされたと思うが、どうじゃな?」
ハリーはもう一度崖を見上げ、鳥肌が立つのを覚えた。
「しかし、リドルの最終目的地は――我々の目的地でもあるが――もう少し先じゃ。おいで」
ダンブルドアは、ハリーを岩の先端に招き寄せた。
そこからギザギザの窪みが足場になって、崖により近い、いくつかの大岩のほうへと下降していた。
半分海に沈んでいる、いくつかの大岩までの危なっかしい岩場を、片手が萎えているせいもあって、ダンブルドアはゆっくり下りていった。
下のほうの岩は、海水で滑りやすくなっていた。
ハリーは、冷たい披飛沫が顔を打つのを感じた。
「ルーモス!<光よ>」
崖にいちばん近い大岩に近づき、ダンブルドアが唱えた。
金色の光が、ダンブルドアが身を屈めているところから数十センチ下の暗い海面に反射し、何千という光の玉が燈めいた。
ダンブルドアの横の黒い岩壁も照らし出された。
「見えるかの?」
ダンブルドアが杖を少し高く掲げて、静かに言った。
崖の割れ目に、黒い水が渦を巻いて流れ込んでいるのが見えた。
「多少濡れてもかまわぬか?」
「はい」ハリーが答えた。
「それでは『透明マント』を脱ぐがよい――いまは必要がない――ではひと泳ぎしようぞ」
ダンブルドアは、突然若者のような敏捷さで大岩から滑り降りて海に入り、崖の割れ目を目指し、灯りの点いた杖を口にくわえて完壁な平泳ぎで泳ぎはじめた。
ハリーは「透明マント」を脱ぎ、ポケットに入れてあとを追った。
海は氷のように冷たかった。
水を吸い込んだ服が体に巻きつき、ハリーは重みで沈みがちだった。
大きく呼吸すると、潮の香と海草の匂いがつんと鼻をついた。
崖の奥へと入り込んでいく杖灯りが、チラチラとだんだん小さくなっていくのを追って、ハリーは抜き手を切った。
割れ目のすぐ奥は、暗いトンネルになっていたが、満潮時には水没するところだろうと察しがついた。
両壁の間隔は一メートルほどしかなく、ヌメヌメした岩肌が、ダンブルドアの杖灯りに照らされるたびに、濡れたタールのように光った。
少し入り込むとトンネルは左に折れ、崖のずっと奥まで伸びているのがハリーの目に人った。
ハリーはダンブルドアの後ろを泳ぎ続けた。かじかんだ指先が、濡れた粗い岩肌をこすった。
やがて、先のほうで、ダンブルドアが水から上がるのが見えた。
銀色の髪と黒いローブが微かに光っている。
ハリーがそこにたどり着くと、大きな洞穴に続く階段が見えた。
ぐっしょり濡れた服から水を滴らせながら、ハリーは階段を這い登り、ガチガチ震えながら、凍りつくような冷たい静寂の中に出た。
ダンブルドアは洞穴のまん中に立っていた。
その場でゆっくり回りながら、杖を高く掲げて壁や天井を調べている。
「左様。ここがその場所じゃ」ダンブルドアが言った。
「どうしてわかるのですか?」ハリーは囁き声で開いた。
「魔法を使った形跡がある」ダンブルドアはそれだけしか言わなかった。
体の震えが、骨も凍るような寒さのせいなのか、その魔法を認識したからなのか、ハリーにはわからなかった。
ダンブルドアが、ハリーには見えない何かに神経を集中しているのは明らかだった。
ハリーは、その場を回り続けているダンブルドアを見つめていた。
「ここは、人口の小部屋にすぎない」しばらくしてダンブルドアが言った。
「内奥に入り込む必要がある……これからは、自然の作り出す障害ではなく、ヴォルデモート卿の罠が行く手を阻む……」
ダンブルドアは洞穴の壁に近づき、ハリーには理解できない不思議な言葉を唱えながら、黒ずんだ指先で撫でた。
ダンブルドアは、洞穴を二度巡り、ゴツゴツした岩のできるだけ広い範囲に触れた。
ときどき歩を止めては、その場所で指を前後に走らせていたが、ついにある場所で岩壁にピッタリ手のひらを押しっけ、ダンブルドアは立ち止まった。
「ここじゃ」ダンブルドアが言った。
「ここを通り抜ける。入口が隠されておる」
どうしてわかるのかと、ハリーは質問しなかった。
こんなふうにただ見たり触ったりするだけで、物事を解決する魔法使いを見たことがなかったが、派手な音や煙は経験の豊かさを示すものではなく、むしろ無能力の印だということを、ハリーはとっくに学び取っていた。
ダンブルドアは壁から離れ、杖を岩壁に向けた。
アーチ型の輪郭線が現れ、隙間の向こう側に強烈な光があるかのように、一瞬カッと白く輝いた。
「先生、やりましたね!」
歯をガチガチ言わせながら、ハリーが言った。
しかし、その言葉が終わらないうちに、輪郭線は消え、何の変哲もない元の固い岩に戻った。
ダンブルドアが振り返った。
「ハリー、すまなかった。忘れておった」ダンブルドアがハリーに杖を向けると、燃え盛る焚き火の前で干したように、たちまち服が暖かくなり乾いていた。
「ありがとうございます」ハリーは礼を言ったが、ダンブルドアはすでに、固い岩壁に再び注意を向けていた。
もはや魔法は使わず、ダンブルドアはただ佇んで、じっと壁を見つめていた。
まるでそこに、とても興味深いことが書かれているかのようだった。
ハリーは身動きもせず黙っていた。
ダンブルドアの集中を妨げたくなかった。
すると、かっきり二分後に、ダンブルドアが静かに言った。
「ああ、まさかそんなこととは。なんと幼稚な」
「先生、何ですか?」
「わしの考えでは」
ダンブルドアは傷ついていないほうの手をローブに入れて、銀の小刀を取り出した。
ハリーが魔法薬の材料を刻むのに使うナイフのようなものだった。
「通行料を払わねばならぬらしい」
「通行料?」ハリーが聞き返した。
「扉に、何かやらないといけないんですか?」
「そうじゃ」ダンブルドアが言った。
「血じゃ。わしがそれほど間違うておらぬなら」
「幼稚だと言ったじゃろう」
ダンブルドアは軽蔑したようでもあり、ヴォルデモートがダンブルドアの期待する水準に達しなかったことに、むしろ失望したような言い方だった。
「きみにも推測できたことと思うが、進入する敵は、自らその力を弱めなければならないという考えじゃ。
またしてもヴォルデモート郷は、肉体的損傷よりも、はるかに恐ろしいものがあることを、把振し損ねておる」
「ええ、でも、避けられるのでしたら……」
痛みなら十分に経験ずみのハリーは、わざわざこれ以上痛い思いをしたいとは思わなかった。
「しかし、ときには避けられぬこともある……」
ダンブルドアはローブの袖を振ってたくし上げ、傷ついたほうの手の前腕を出した。
「先生!」
ダンブルドアが小刀を振り上げたので、ハリーは慌てて飛び出して止めようとした。
「僕がやります。僕なら――」ハリーは何と言ってよいかわからなかった――若いから?元気だから?しかし、ダンブルドアは微笑んだだけだった。
銀色の光が走り、まっ赤な色がほとばしった。
岩の表面に黒く光る血が点々と飛び散った。
「ハリー、気持ちはうれしいが――」
ダンブルドアは、自分で腕につけた深い傷を、杖先でなぞりながら言った。
スネイプがマルフォイの傷を治したと同じように、ダンブルドアの傷はたちまち癒えた。
「しかしきみの血は、わしのよりも貴重じゃ。ああ、これで首尾よくいったようじゃな」
岩肌に、銀色に燃えるアーチ型の輪郭が再び現れた。
こんどは消えなかった。
輪郭の中の、血痕のついた岩がさっと消え、そこから先はまっ暗闇のように見えた。
「あとからおいで」ダンブルドアがアーチ型の人口を通った。
ハリーはそのすぐあとについて歩きながら、急いで自分の杖に灯りを点した。
目の前に、この世のものとも思えない光景が現れた。
二人は巨大な黒い湖の辺に立っていた。
向こう岸が見えない、広い湖だった。
洞穴は天井も見えないほど高い。
遠く湖のまん中と思しきあたりに、緑色に霞んだ光が見える。
光は、漣ひとつない湖に反射していた。
ビロードのような暗闇を破るものは、緑がかった光と二つの杖灯りだけだった。
しかし、杖灯りは、ハリーが思ったほど遠くまでは届かなかった。
この暗闇は、なぜか普通の闇よりも濃かった。
「歩こうかのう」
ダンブルドアが静かに言った。
「水に足を入れぬように気をつけるのじゃ。わしのそばを離れるでないぞ」
ダンブルドアは、湖の縁を歩きはじめた。ハリーは、ぴったりとそのあとについて歩いた。
湖を囲んでいる狭い岩縁を踏む二人の足音が、ピタピタと反響した。
二人は延々と歩いたが、光景には何の変化もなかった。
二人の横にはゴツゴツした岩壁があり、反対側には鏡のように滑らかな潮が、果てしなく黒々と広がっていた。
そのまん中に、神秘的な緑色の光がある。
この場所、そしてこの静けさは、ハリーにとって重苦しく、言い知れぬ不安を掻き立てた。
「先生?」とうとうハリーが口をきいた。
「分霊箱はここにあるのでしょうか?」
「ああ、いかにも」ダンブルドアが答えた。
「あることは確かじゃ。問題は、どうすればそれにたどりつけるのか?」
「もしかしたら……『呼び寄せ呪文』を使ってみてはどうでしょう?」
愚かな提案だとは思った。
しかし、できるだけ早くこの場所から出たいという思いが、自分でも認めたくないほどに強かった。
「たしかに、使ってみることはできる」ダンブルドアが急に立ち止まったので、ハリーはぶつかりそうになった。
「きみがやってみてはどうかな?」
「僕が?あ……はい……」
こんなことになるとは思わなかったが、ハリーは咳払いをして、杖を掲げ、大声で叫んだ。
「アクシオ、ホークラックス!<分霊福よ、来い>」
爆発音のような音とともに、何か大きくて青白いものが、五、六メーール先の暗い水の中から噴き出した。
ハリーが見定める間もなく、それは恐ろしい水音を上げ、鏡のような湖面に大きな波紋を残して再び水中に消えた。
ハリーは驚いて飛び退り、岩壁にぶつかった。
動悸が止まらないまま、ハリーはダンブルドアのほうを見た。
「何だったのですか?」
「たぶん、分霊箱を取ろうとする者を待ち構えていた、何かじゃな」
ハリーは振り返って湖を見た。
湖面は再び鏡のように黒く輝いていた。
波紋は不自然なほど早く消えていたが、ハリーの心臓は、まだ波立っていた。
「先生は、あんなことが起こると予想していらっしゃったのですか?」
「分霊箱にあからさまに手出しをしようとすれば、何かが起こるとは考えておった。ハリー、非常によい考えじゃった。我々が向かうべき相手を知るには、もっとも単純な方法じゃ」
「でも、あれは何だったのか、わかりません」
ハリーは不気味に静まり返った湖面を見ながら言った。
「あれら、と言うべきじゃろう」ダンブルドアが言った。
「あれ一つだけ、ということはなかろう。もう少し歩いてみようかの?」
「先生?」
「何じゃね?ハリー?」
「湖の中に人らないといけないのでしょうか?」
「中に?非常に不運な場合のみじゃな」
「分霊箱は、湖の底にはないのでしょうか?」
「いやいや……分霊箱はまん中にあるはずじゃ」
ダンブルドアは湖の中心にある、緑色の霞んだ光を指した。
「それじゃ、手に入れるには、湖を渡らなければならないのですか?」
「そうじゃろうな」
ハリーは黙っていた。
頭の中でありとあらゆる怪物が渦巻いていた。
水中の怪物、大海蛇、魔物、水魔、妖怪……。
「おう」
ダンブルドアがまた急に立ち止まった。
こんどこそ、ハリーはぶつかってしまった。
一瞬、ハリーは暗い水際に倒れかけたが、ダンブルドアが傷ついていないほうの手で、ハリーの腕をしっかりとつかみ、引き戻した。
「ハリー、まことにすまなんだ。前以て注意するべきじゃったのう。壁側に寄っておくれ。然るべき場所を見つけたと思うのでな」
ハリーはダンブルドアが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
ハリーの見るかぎり、この場所は、ほかの暗い岸辺とまったく同じように見えた。
しかし、ダンブルドアは、何か特別なものを見つけたようだった。
こんどは岩肌に手を這わせるのではなく、何か見えない物を探してつかもうとするように、ダンブルドアは空中を手探りした。
「ほほう」数秒後、ダンブルドアがうれしそうに声を上げた。
ハリーには見えなかったが、空中で何かをつかんでいる。
ダンブルドアは水辺に近づいた。
ダンブルドアの留め金つきの靴の先が岩のいちばん端にかかるのを、ハリーはハラハラしながら見つめていた。
空中でしっかり手を握りながら、ダンブルドアはもう片方の手で杖を上げ、握り拳を杖先で軽く叩いた。
とたんに、赤みを帯びた緑色の太い鎖がどこからともなく現れた。
鎖は湖の深みからダンブルドアの拳へと伸び、ダンブルドアが鎖を叩くと、握り拳を通って蛇のように滑り出した。
ガチャガチャという音を岩壁にうるさく反響させながら、鎖はひとりでに岩の上にとぐろを巻き、黒い水の深みから何かを引っぱり出した。
ハリーは息を呑んだ。
小舟の舶先が水面を割って幽霊のごとく現れ、鎖と同じ緑色の光を発しながら漣も立てずに漂って、ハリーとダンブルドアのいる岸辺に近づいてきた。
「あんな物がそこにあるって、どうしておわかりになったのですか?」
ハリーは驚愕して聞いた。
「魔法は常に跡を残すものじゃ」小舟が軽い音を立てて岸辺にぶつかったとき、ダンブルドアが言った。
「ときには非常に顕著な跡をな。トム・リドルを教えたわしじゃ。あの者のやり方はわかっておる」
「この……この小舟は安全ですか?」
「ああ、そのはずじゃ。ヴォルデモートは、自分自身が分霊箱に近づいたり、またはそれを取り除いたりしたい場合には、湖の中に自ら配置したものの怒りを買うことなしに、この湖を渡る必要があったのじゃ」
「それじゃ、ヴォルデモートの舟で渡れば、水の中にいる何かは僕たちに手を出さないのですね?」
「どこかの時点で、我々がヴォルデモート卿ではないことに気づくであろうのう。そのことは覚悟せねばなるまい。しかしこれまでは首尾よくいった。連中は我々が小舟を浮上させるのを許した」
「でも、どうして許したんでしょう?」
岸辺が見えないほど遠くまで進んだとたん、黒い水の中から何本もの触手が伸びてくる光景を、ハリーは頭から振り払うことができなかった。
「よほど偉大な魔法使いでなければ、小舟を見つけることはできぬと、ヴォルデモートには相当な自信があったのじゃろう」ダンブルドアが言った。
「あの者の考えでは、自分以外の者が舟を発見する可能性は、ほとんどありえなかった。
しかも、あの者しか突破できない別の障害物も、この先に仕掛けてあるじゃろうから、確率のきわめて低い危険性なら許容してもよかったのじゃろう。その考えが正しかったかどうか、いまにわかる」ハリーは小舟を見下ろした。
本当に小さな舟だった。
「二人用に作られているようには見えません。二人とも乗れるでしょうか?一緒だと重すぎはしませんか?」
ダンブルドアはクスクス笑った。
「ヴォルデモートは重さではなく、自分の湖を渡る魔法力の強さを気にしたことじゃろう。わしはむしろ、この小舟には、一度に一人の魔法使いしか乗れないように、呪文がかけられているのではないかと思う」
「そうすると――?」
「ハリー、きみは数に入らぬじゃろう。未成年で資格がない。ヴォルデモートは、まさか十六歳の若者がここにやってくるとは、思いもつかなかったことじゃろう。わしの力と比べれば、きみの力が考慮されることはありえぬ」
ダンブルドアの言葉は、ハリーの士気を高めるものではなかった。
ダンブルドアにもたぶんそれがわかったのか、言葉をつけ加えた。
「ヴォルデモートの過ちじゃ、ハリー、ヴォルデモートの過ちじゃよ……歳をとった者は愚かで忘れっぽくなり、若者を侮ってしまうことがあるものじゃ……さて、こんどは先に行くがよい。水に触れぬよう注意するのじゃ」
ダンブルドアが一歩下がり、ハリーは慎重に舟に乗った。
ダンブルドアも乗り込み、鎖を舟の中に巻き取った。
二人で乗ると窮屈だった。
ハリーはゆったり座ることができず、膝を小舟の縁から突き出すようにうずくまった。
小舟はすぐに動き出した。
舳先が水を割る、衣擦れのような音以外は、何も聞こえない。
小舟は、ひとりでにまん中の光のほうに、見えない綱で引かれるように進んだ。
間もなく、洞窟の壁が見えなくなった。
波はないものの、二人は海原に出たかのようだった。
下を見ると、ハリーの杖灯りが水面に反射して、舟が通るときに黒い水が金色に燥めくのが見えた。
小舟は鏡のような湖面に深い波紋を刻み、暗い鏡に溝を掘った……。
そのときハリーの目に飛び込んできたのは、湖面のすぐ下を漂っている、大理石のように白いものだった。
「先生!」
ハリーの驚愕した声が、静まり返った水面に大きく響いた。
「何じゃ?」
「水の中に手が見えたような気がします――人の手が!」
「左様、見えたことじゃろう」ダンブルドアが落ち着いて言った。
消えた手を捜して湖面に目を凝らしながら、ハリーはいまにも吐きそうになった。
「それじゃ、水から飛び上がったあれは――?」
ダンブルドアの答えを待つまでもなかった。
杖灯りが別の湖面を照らし出したとき、水面のすぐ下に、こんどは仰向けの男の死体が横たわっているのが見えたのだ。
見開いた両眼は蜘妹の巣で覆われたように曇り、髪や衣服が身体の周りに煙のように渦巻いている。
「死体がある!」ハリーの声は、上ずって、自分の声のようではなかった。
「そうじゃ」
ダンブルドアは平静だった。
「しかし、いまはそのことを心配する必要はない」
「いまは?」
やっとのことで水面から目を逸らし、ダンブルドアを見つめながらハリーが聞き返した。
「死体が下のほうで、ただ静かに漂っているうちは大丈夫じゃ」ダンブルドアが言った。
「ハリー、屍を恐れることはない。暗闇を恐れる必要がないのと同じことじゃ。もちろんその両方を密かに恐れておるヴォルデモート卿は、意見を異にするがのう。しかし、あの者は、またしても自らの無知を暴露した。我々が、死や暗闇に対して恐れを抱くのは、それらを知らぬからじゃ。それ以外の何ものでもない」
ハリーは無言だった。
反論したいとは思わなかったが、周りに死体が浮かび、自分の下を漂っていると思うとゾッとしたし、それよりも何よりも、死体が危険ではないとは思えなかった。
「でも一つ飛び上がりました」
ハリーは、ダンブルドアと同じように平静な声で言おうと努力した。
「分霊箱を呼び寄せようとしたとき、湖から死体が飛び上がりました」
「そうじゃ」ダンブルドアが言った。
「我々が分霊箱を手に入れたときには、死体は静かではなくなるじゃろう。しかし、冷たく暗いところに棲む生き物の多くがそうなのじゃが、死体は光と暖かさを恐れる。じゃから、必要となれば、我々はそうしたものを味方にするのじゃ。ハリー、火じゃよ」
ハリーが戸惑った顔をしていたので、ダンブルドアは、最後の言葉を微笑みながら言った。
「あ……はい……」
慌てて返事し、ハリーは、小舟が否応なく近づいていく先に目を向けた。
緑がかった輝きが見える。
恐くないふりは、もうできなかった。
広大な黒い湖は死体で溢れている……トレローニー先生に出会ったのも、ロンとハーマイオニーにフェリックス・フェリシスを渡したのも、何時間も前だったような気がする……突然、二人に、もっときちんと別れを告げればよかったと思った……それに、ジニーには会いもしなかった……。
「もうすぐじゃ」ダンブルドアが楽しげに言った。
たしかに、緑がかった光は、いよいよ大きくなったように見えた。
そして数分後、小舟は何かに軽くぶつかって止まった。
初めはよく見えなかったが、ハリーが杖灯りを掲げて見ると、湖の中央にある、滑らかな岩でできた小島に着いていた。
「水に触れぬよう、気をつけるのじゃ」
ハリーが小舟から降りるとき、ダンブルドアが再び注意した。
小島はせいぜいダンブルドアの校長室ほどの大きさで、平らな黒い石の上に立っているのは、あの緑がかった光の源だけだった。
近くで見るとずっと明るく見えた。
ハリーは目を細めて光を見た。
最初はランプのような物かと思ったが、よく見ると、光はむしろ「憂いの篩」のような石の水盆から発していた。
水盆は台座の上に置かれている。
ダンブルドアが台座に近づき、ハリーもあとに続いた。
二人は並んで中を覗き込んだ。
水盆は、燐光を発するエメラルド色の液体で満たされていた。
「何でしょう?」ハリーが小声で聞いた。
「よくわからぬ」ダンブルドアが言った。
「ただし、血や死体よりも、もっと懸念すべき物じゃ」
ダンブルドアは怪我したほうの手のローブの袖をたくし上げ、液体の表面に焼け焦げた指先のを伸ばした。
「先生、やめて!触らないで――!」
「触れることはできぬ」
ダンブルドアは微笑んだ。
「ごらん。これ以上は近づくことができぬ。やってみるがよい」
ハリーは目を見張り、水盆に手を入れて液体に触れようとしたが、液面から二、三センチのところで見えない障壁に阻まれた。
どんなに強く押しても、指に触れるのは硬くてびくともしない空気のようなものだけだった。
「ハリー、離れていなさい」ダンブルドアが言った。
ダンブルドアは杖をかざし、液体の上で複雑に動かしながら、無言で呪文を唱えた。
何事も起こらない。
ただ、液体が少し明るく光ったような気がしただけだった。
ダンブルドアが術をかけている間、ハリーは黙っていたが、しばらくしてダンブルドアが杖を引いたとき、もう話しかけても大丈夫だと思った。
「先生、分霊箱はここにあるのでしょうか?」
「ああ、ある」
ダンブルドアは、さらに目を凝らして水盆を覗いた。
ハリーには、線色の液体の表面に、ダンブルドアの顔が逆さまに映るのが見えた。
「しかし、どうやって手に入れるか?この液体は手では突き通せぬ。『消失呪文』も効かぬし、分けることも、すくうことも、吸い上げることもできぬ。さらに、『変身呪文』やその他の呪文でも、いっさいこの液体の正体を変えることができぬ」
ダンブルドアは、ほとんど無意識に再び杖を上げて空中でひとひねりし、どこからともなく現れたクリスタルのゴブレットをつかんだ。
「結論は唯一つ、この液体は飲み干すようになっておる」
「ええっ?」ハリーが口走った。
「ダメです!」
「左様、そのようじゃ。飲み干すことによってのみ、水盆の底にある物を見ることができるのじゃ」
「でも、もしIもし劇薬だったら?」
「いや、そのような効果を持つ物ではなかろう」ダンブルドアは気軽に言った。
「ヴォルデモート卿は、この島にたどり着くほどの者を、殺したくはないじゃろう」ハリーは信じられない思いだった。
またしても、誰に対しても善良さを認めようとする、ダンブルドアの異常な信念なのだろうか?
「先生」
ハリーは理性的に聞こえるように努力した。
「先生、相手はヴォルデモートなのですよ――」
「言葉が足りなかったようじゃ、ハリー。こう言うべきじゃった。ヴォルデモートは、この島にたどり着くほどの者を、すぐさま殺したいとは思わぬじゃろう」
ダンブルドアが言い直した。
「ヴォルデモートは、その者が、いかにしてここまで防衛線を突破しおおせたかがわかるまでは、生かしておきたいじゃろうし、もっとも重要なことじゃが、その者がなぜ、かくも熱心に水盆を空にしたがっているのかを知りたいことじゃろう。忘れてならぬのは、ヴォルデモート卿が、分霊箱のことは自分しか知らぬと信じておることじゃ」
ハリーはまた何か言おうとしたが、こんどはダンブルドアが静かにするようにと手で制し、明らかに考えをめぐらしている様子で、少し顔をしかめながらエメラルドの液体を見た。
「間違いない」
ダンブルドアがやっと口をきいた。
「この薬は、わしが分霊箱を奪うのを阻止する働きをするに違いない。わしを麻痺させるか、なぜここにいるのかを忘れさせるか、気を逸らさざるをえないほどの苦しみを与えるか、もしくはそのほかのやり方で、わしの能力を奪うじゃろう。そうである以上、ハリー、きみの役目は、わしに飲み続けさせることじゃ。わしの口が抗い、きみが無理に薬を流し込まなければならなくなってもじゃ。わかったかな?」
水盆を挟んで、二人は見つめ合った。
不可思議な緑の光を受けて、二人の顔は蒼白かった。
ハリーは無言だった。
一緒に連れてこられたのは、このためだったのだろうか――ダンブルドアに耐え難い苦痛を与えるかもしれない薬を、無理やり飲ませるためだったのだろうか?
「憶えておるじゃろうな」ダンブルドアが言った。
「きみを一緒に連れてくる条件を」
ハリーはダンブルドアの目を見つめながら、躊躇した。
ダンブルドアの青い目が水盤の光を映して緑色になっていた。
「でも、もし――?」
「誓ったはずじゃな?わしの命令には従うと」
「はい、でも――」
「警告したはずじゃな?危険が伴うかもしれぬと」
「はい」ハリーが言った。「でも――」
「さあ、それなら」
ダンブルドアはそう言うと、再び袖をたくし上げ、空のゴブレットを掲げた。
「わしの命令じゃ」
「僕が代わりに飲んではいけませんか?」ハリーは絶望的な思いで聞いた。
「いや、わしのほうが年寄りで、より賢く、ずっと価値がない」ダンブルドアが言った。
「一度だけ聞く。わしが飲み続けるよう、きみが全力を尽くすと誓えるか?」
「どうしても――?」
「誓えるか?」
「でも――」
「誓うのじゃ、ハリー」
「僕は――はい、でも――」
ハリーがそれ以上抗議できずにいるうちに、ダンブルドアはクリスタルのゴプレットを下ろし、薬の中に入れた。
一瞬、ハリーは、ゴプレットが薬に触れることができないようにと願った。
しかし、ほかの物とは違って、ゴブレットは液体の中に沈み込んだ。
縁までなみなみと液体を満たし、ダンブルドアはそれを口元に近づけた。
「きみの健康を願って、ハリー」
そして、ダンブルドアはゴブレットを飲み干した。
ハリーは指先の感覚がなくなるほどギュッと水盆の縁を握りしめ、恐々見守った。
「先生?」
ダンブルドアが空のゴブレットを口から離したとき、ハリーが呼びかけた。
気が気ではなかった。
「大丈夫ですか?」
ダンブルドアは目を閉じて首を振った。ハリーは苦しいのではないだろうかと心配だった。
ダンブルドアは目を閉じたまま水盆にゴブレットを突っ込み、また飲んだ。
ダンブルドアは無言で、三度ゴブレットを満たして飲み干した。
四杯目の途中で、ダンブルドアはよろめき、前屈みに倒れて水盆に寄り掛かった。
目は閉じたままで、息遣いが荒かった。
「ダンブルドア先生?」
ハリーの声が緊張した。
「僕の声が聞こえますか?」
ダンブルドアは答えなかった。
深い眠りの中で、恐ろしい夢を見ているかのように、顔が痙攣していた。
ゴブレットを握った手が緩み、薬がこぼれそうになっている。
ハリーは手を伸ばしてクリスタルのゴブレットをつかみ、しっかりと支えた。
「先生、聞こえますか?」
ハリーは大声で繰り返した。声が洞窟にこだました。
ダンブルドアは喘ぎ、ダンブルドアの声とは思えない声を発した。
ダンブルドアが恐怖に駆られた声を出すのを、ハリーはいままで聞いたことがなかったのだ。
「やりたくない……わしにそんなことを……」
ダンブルドアの顔は蒼白だった。
よく見知っているはずのその顔と曲がった鼻、半月メガネをハリーはじっと見つめたが、どうしてよいのかわからなかった。
「……嫌じゃ……やめたい……」ダンブルドアがうめいた。
「先生……やめることはできません、先生」ハリーが言った。
「飲み続けなければならないんです。そうでしょう?先生が僕に、飲み続けなければならないっておっしゃいました。さあ……」
自分自身を憎み、自分のやっていることを嫌悪しながら、ハリーはゴブレットを無理やりダンブルドアの口元に戻し、傾け、中に残っている薬を飲み干させた。
「だめじゃ……」
ハリーがダンブルドアに代わってゴブレットを水盆に入れ、薬で満たしているとき、ダンブルドアがうめくように言った。
「嫌じゃ……いやなのじゃ……行かせてくれ……」
「先生、大丈夫ですから」
ハリーの手が震えていた。
「大丈夫です。僕がついています――」
「やめさせてくれ。やめさせてくれ」ダンブルドアがうめいた。
「ええ……さあ、これでやめさせられます」
ハリーは嘘をついて、ゴブレットの液体をダンブルドアの開いている口に流し込んだ。
ダンブルドアが叫んだ。
その声はまっ黒な死の湖面を渡り、茫洋とした洞穴に響き渡った。
「だめじゃ、だめ、だめ……だめじゃ……わしにはできん……できん。させないでくれ。やりたくない……」
「大丈夫です。先生。大丈夫ですから!」
ハリーは大声で言った。
手が激しく震え、六杯目の薬をまともにすくうことができないほどだった。
水盆はいまや半分空になっていた。
「何にも起こっていません。先生は無事です。夢を見ているんです。絶対に現実のことではありませんから――さあ、これを飲んで。飲んで……」
するとダンブルドアは、ハリーが差し出しているのが解毒剤であるかのように、従順に飲んだ。
しかし、ゴブレットを飲み干したとたん、がっくりと膝をつき、激しく震え出した。
「わしのせいじゃ。わしのせいじゃ」ダンブルドアはすすり泣いた。
「やめさせてくれ。わしが悪かったのじゃ。ああ、どうかやめさせてくれ。わしはもう二度と、決して……」
「先生、これでやめさせられます」ハリーが言った。
七杯目の薬をダンブルドアの口に流し込みながら、ハリーは涙声になっていた。
ダンブルドアは、目に見えない拷問者に囲まれているかのように、身を縮めはじめ、うめきながら手を振り回して、薬を満たしたゴブレットを、ハリーの震える手から払い落としそうになった。
「あの者たちを傷つけないでくれ、頼む。お願いだ。わしが悪かった。代わりにわしを傷つけてくれ……」
「さあ、これを飲んで。飲んで。大丈夫ですから」
ハリーが必死でそう言うと、ダンブルドアは目を固く閉じたままで、全身震えてはいたが、再び従順に口を開いた。
こんどは、ダンブルドアは前のめりに倒れ、ハリーが九杯目を満たしているとき、拳で地面を叩きながら悲鳴を上げた。
「頼む。お願いだ。お願いだ。だめだ……それはだめだ。それはだめだ。わしが何でもするから……」
「先生、いいから飲んで。飲んで……」
ダンブルドアは、渇きで死にかけている子どものように飲んだ。
しかし、飲み終わるとまたしても、内臓に火がついたような叫び声を上げた。
「もうそれ以上は、お願いだ、もうそれ以上は……」ハリーは十杯目の薬をすくい上げた。
ゴブレットが水盆の底をこするのを感じた。
「もうすぐです。先生。これを飲んで。飲んでください……」
ハリーはダンブルドアの肩を支えた。
そしてダンブルドアはまたしてもゴブレットを飲み干した。
ハリーはまた立ち上がり、ゴブレットを満たした。
ダンブルドアは、これまで以上に激しい苦痛の声を上げはじめた。
「わしは死にたい!やめさせてくれ!やめさせてくれ!死にたい!」
「飲んでください。先生、これを飲んでください……」ダンブルドアが飲んだ。
そして飲み干すやいなや、叫んだ。
「殺してくれ!」
「これで――これでそうなります!」
ハリーは泣き喚きながら言った。
「飲むんです……終わりますから……全部終わりますから!」ダンブルドアはゴプレットをぐいと傾け、最後の一滴まで飲み干した。
そして、ガラガラと大きく最後の息を吐き、転がってうつ伏せになった。
「先生!」
立ち上がってもう一度薬を満たそうとしていたハリーは、ゴブレットを水盆に落とし、叫びながらダンブルドアの脇に膝をつき、力一杯抱きかかえて仰向けにした。
ダンブルドアのメガネがはずれ、口はぽっかり開き、目は閉じられていた。
「先生」ハリーはダンブルドアを揺すった。
「しっかりして。死んじゃだめです。先生は毒薬じゃないって言った。目を覚ましてください。目を覚まして――リナベイト!<蘇生せよ>」
ハリーは杖をダンブルドアの胸に向けて叫んだ。
赤い光が走ったが、何の変化もなかった。
「リナベイト!<蘇生せよ>先生――お願いです――」
ダンブルドアの瞼が微かに動いた。
ハリーは心が躍った。
「先生、大丈夫――?」
「水」ダンブルドアがかすれ声で言った。
「水――」ハリーは喘いだ。
「――はい――」
ハリーは弾かれたように立ち上がり、水盆に落としたゴブレットをつかんだ。
その下に丸まっている金色のロケットに、ハリーはほとんど気づかなかった。
「アグアメンテイ!<水よ>」ハリーは杖でゴブレットを突付きながら叫んだ。
晴らかな水がゴブレットを満たした。
ハリーはダンブルドアの脇にひざまずいて、頭を起こし、唇にゴブレットを近づけた――ところが、空っぽだった。
ダンブルドアはうめき声を上げ、喘ぎ出した。
「でも、さっきは――待ってください――アグアメンティ!<水よ>」ハリーは再び唱えた。
もう一度、澄んだ水が、一瞬ゴブレットの中でキラキラ光った。
しかし、ダンブルドアの唇に近づけると、再び水は消えてしまった。
「先生、僕、がんばってます。がんばってるんです!」
ハリーは絶望的な声を上げた。
しかし聞こえているとは思えなかった。
ダンブルドアは転がって横になり、ゼーゼーと苦しそうに末期の息を吐いていた。
「アグアメンティ!――アグアメンテイ!」
ゴブレットはまた満ちて、また空になった。
ダンブルドアはいまや虫の息だった。
頭の中はパニック状態で目まぐるしく動いていたが、ハリーには直感的に、水を得る最後の手段がわかっていた。
ヴォルデモートがそのように仕組んでいたはずだ……。
ハリーは、身を投げ出すようにして岩の端からゴブレットを湖に突っ込み、冷たい水を一杯に満たした。
水は消えなかった。
「先生――さあ!」
叫びながらダンブルドアに飛びつき、ハリーは不器用にゴブレットを傾けて、ダンブルドアの顔に水をかけた。やっとの思いで、ハリーができたのはそれだけだった。
ゴブレットを持っていないほうの腕にひやりとするものを感じたのは、水の冷たさが残っていたわけではなかった。
ヌメヌメした白い手がハリーの手首をつかみ、その手の先にある何者かが、岩の上のハリーをゆっくりと引きずり戻していた。
湖面はもはや滑らかな鏡のようではなく、激しく揺れ動いていた。
ハリーの目が届くかぎり、暗い水から白い頭や手が突き出ている。
男、女、子ども。
落ち窪んだ見えない目が岩場に向かって近づいてくる。
黒い水から立ち上がった、死人の軍団だ。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
濡れてすべすべした小島の岩にしがみつこうともがきながら、ハリーは腕をつかんでいる「亡者」に杖を向けて叫んだ。
亡者の手が離れ、のけ反って、水飛沫を上げながら倒れた。
ハリーは足をもつれさせながら立ち上がった。
しかし、亡者はウジャウジャと、つるつるした岩に骨ばった手をかけて這い上がってきた。
虚ろな濁った目をハリーに向け、水浸しのポロを引きずりながら、落ち窪んだ顔に不気味な薄笑いを浮かべている。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
後退りしながら杖を大きく振り下ろし、ハリーが再び叫んだ。
七、八体の亡者がくずおれた。
しかし、あとからあとから、ハリーめがけてやってくる。
「インペディメンタ!<妨害せよ>インカーセラス!<縛れ>」
何体かが倒れた。一、二体が縄で縛られた。
しかし、次々と岩場に登ってくる亡者は、倒れた死体を無造作に踏みつけ、乗り越えてやってくる。
杖で空を切りながら、ハリーは叫び続けた。
「セクタムセンプラ!<切り裂け>セクタムセンプラ!」
水浸しのポロと、氷のような肌がざっくりと切り裂かれはしたが、
亡者は流すべき血を持たなかった。
何も感じない様子で、萎びた手をハリーに向けて伸ばしながら歩き続けた。
さらに後退りしたとき、ハリーは背後からいくつもの腕で締めつけられるのを感じた。
死のように冷たく、痩せこけた薄っぺらな腕が、ハリーを吊るし上げ、ゆっくりと、そして確実に水辺に引きずり込んでいった。
逃れる道はない、とハリーは覚悟した。
自分は溺れ、引き裂かれたヴォルデモートの魂のひと欠けらを護衛する、死人の一人になるのか……。
そのとき、暗闇の中から火が燃え上がった。
紅と金色の炎の輪が岩場を取り囲み、ハリーをあれほどがっしりとつかんでいた亡者どもは、転び、怯んだ。
火をかいくぐって、湖に戻ることさえできなかった。
亡者はハリーを放した。
地べたに落ちたハリーは岩で滑って転び、両腕をすりむいたが、何とか立ち上がり、杖を構えてあたりに目を凝らした。
ダンブルドアが再び立ち上がっていた。
顔色こそ包囲している亡者と同じく蒼白かったが、背の高いその姿はすっくと抜きん出ていた。
瞳に炎を躍らせ、杖を松明のように掲げている。
杖先から噴出する炎が、巨大な投げ縄のように周囲のすべてを熱く取り囲んでいた。
亡者は、炎の包囲から逃れようとぶつかり合い、やみくもに逃げ惑っていた……。
ダンブルドアは水盆の底からロケットをすくい上げ、ローブの中にしまい込み、無言のままハリーを自分のそばに招き寄せた。
炎に撹乱された亡者どもは、獲物が去っていくのに気づかない。
ダンブルドアはハリーを小舟へと誘い、炎の輪も二人を取り巻いて水辺へと移動した。
うろたえた亡者どもは水際までついてきて、そこから暗い水の中へと我先に滑り落ちていった。
体中震えながらも、ハリーは一瞬、ダンブルドアが自力で小舟に乗れないのではないかと思った。
乗り込もうとして、ダンブルドアはわずかによろめいた。
持てる力のすべてを、二人を囲む炎の輪の護りを維持するために注ぎ込んでいるように見えた。
ハリーはダンブルドアを支え、小舟に来るのを助けた。二人が再びしっかり乗り込むと、小舟は小島を離れ、炎の輪に囲まれたまま黒い湖を戻りはじめた。
下のほうにうようよしている亡者どもは、どうやら二度と浮上できないらしい。
「先生」ハリーは喘ぎながら言った。
「先生、僕、忘れていました――炎のことを――亡者に襲われて、僕、パニックしてしまって――」
「当然のことじゃ」
ダンブルドアが呟くように言った。
その声があまりに弱々しいのに、ハリーは驚いた。
軽い衝撃とともに、小舟は岸に着いた。
ハリーは飛び降り、急いでダンブルドアを介助した。
岸に降立ったとたん、ダンブルドアの杖を掲げた手が下がり、炎の輪が消えた。
しかし、亡者は二度と水から現れはしなかった。
小舟は再び水中に沈んだ。
鎖もガチャガチャ音を立てながら湖の中に滑り込んでいった。
ダンブルドアは大きなため息をつき、洞窟の壁に寄り掛かった。
「わしは弱った……」ダンブルドアが言った。
「大丈夫です、先生」
ハリーが即座に言った。
まっ蒼で疲労困億しているダンブルドアが心配だった。
「大丈夫です。僕が先生を連れて帰ります――先生、僕に寄り掛かってください――」
そしてハリーは、ダンブルドアの傷ついていないほうの腕を肩に回し、その重みをほとんど全部背負って湖の縁を歩き、元来た場所へと校長先生を導いた。
「防御は……最終的には……巧みなものじゃった」ダンブルドアが弱々しく言った。
「一人ではできなかったであろう……きみはよくやった。ハリー、非常によくやった……」
「いまはしゃべらないでください」
ダンブルドアの言葉があまりに不明瞭で、足取りがあまりに弱々しいのが、ハリーには心配でならなかった。
「お疲れになりますから……もうすぐここを出られます……」
「入口のアーチはまた閉じられているじゃろう……わしの小刀を……」
「その必要はありません。僕が岩で傷を負いましたから」ハリーがしっかりと言った。
「どこなのかだけ教えてください……」
「ここじゃ……」
ハリーはすりむいた腕を、岩にこすりつけた。
血の貢ぎ物を受け取ったアーチの岩は、たちまち再び開いた。
二人は外側の洞窟を横切り、ハリーはダンブルドアを支え、崖の割れ目を満たしている氷のような海水に入った。
「先生、大丈夫ですよ」
ハリーは何度も声をかけた。弱々しい声も心配だったが、それよりダンブルドアが無言のままでいるほうがもっと心配だった。
「もうすぐです……僕が一緒に『姿現わし』します……心配しないでください……」
「わしは心配しておらぬ、ハリー」
凍るような海中だったが、ダンブルドアの声がわずかに力強くなった。
「きみと一緒じゃからのう」
第27章 稲妻に撃たれた塔
The Lightning-Struck Tower
星空の下に戻ると、ハリーはダンブルドアをいちばん近くの大岩の上に引っぱり上げ、抱きかかえて立たせた。
ぐしょ濡れで震えながら、ダンブルドアの重みを支え、ハリーはこんなに集中したことはないと思われるほど真剣に、目的地を念じた。
ホグズミードだ。目を閉じ、ダンブルドアの腕をしっかり握り、ハリーは押しっぶされるような恐ろしい感覚の中に踏み入った。
目を開ける前から、ハリーは成功したと思った。
潮の香も潮風も消えていた。
ダンブルドアと二人、ハリーはホグズミードのハイストリート通りのまん中に、水を滴らせ、震えながら立っていた。
一瞬、店の周辺から、またしても亡者たちが忍び寄ってくるような恐ろしい幻覚を見たが、瞬きしてみると、何も蠢いてはいなかった。
すべてが静まり返り、わずかな街灯と何軒かの二階の窓の明かりのほかは、まっ暗だった。
「やりました、先生!」
ハリーは囁くのがやっとだった。急に鳩尾に刺し込むような痛みを覚えた。
「やりました!分霊箱を手に入れました!」
ダンブルドアがぐらりとハリーに倒れ掛かった。
一瞬、自分の未熟な「姿現わし」のせいで、ダンブルドアがバランスを崩したのではないかと思ったが、次の瞬間、遠い街灯の明かりに照らされたダンブルドアの顔が、いっそう蒼白く衰弱しているのが見えた。
「先生、大丈夫ですか?」
「最高とは言えんのう」ダンブルドアの声は弱々しかったが、唇の端がヒクヒク動いた。
「あの薬は……健康ドリンクではなかったのう……」そして、ダンブルドアは地面にくずおれた。
ハリーは戦慄した。
「先生――大丈夫です。きっとよくなります。心配せずに――」
ハリーは助けを求めようと必死の思いで周りを見回したが、人影はない。
ハリーは、ダンブルドアをなんとかして早く医務室に連れていかなければならない、ということしか思いつかなかった。
「先生を学校に連れて帰らなければなりません……マダム・ポンフリーが……」
「いや」ダンブルドアが言った。
「必要なのは……スネイプ先生じゃ……しかし、どうやら……いまのわしは遠くまでは歩けぬ……」
「わかりました……先生、いいですか……僕がどこかの家のドアを叩いて、先生が休めるところを見つけます――それから走っていって、連れてきます。マダム……」
「セブルスじゃ」ダンブルドアがはっきりと言った。
「セブルスが必要じゃ……」
「わかりました。それじゃスネイプを――でも、しばらく先生を一人にしないと――」しかし、ハリーが行動を起こさないうちに、誰かの走る足音が聞こえた。
ハリーは心が躍った。誰かが、見つけてくれた。
助けが必要なことに気づいてくれた――見回すと、マダム・ロスメルタが暗い通りを小走りに駆けてくるのが見えた。踵の高いふわふわした室内履きを履き、ドラゴンの刺繍をした絹の部屋着を着ている。
「寝室のカーテンを閉めようとしていたら、あなたが『姿現わし』するのが見えたの!よかった、よかったわ。どうしたらいいのかわからなくて――まあ、アルバスに何かあったの?」
マダム・ロスメルタは息を切らしながら立ち止まり、目を見開いてダンブルドアを見下ろした。
「怪我をしてるんです」ハリーが言った。
「マダム・ロスメルタ、僕が学校に行って助けを呼んでくるまで、先生を『三本の箒』で休ませてくれますか?」
「一人で学校に行くなんてできないわ!わからないの――?見なかったの――?」
「一緒に先生を支えてくだされば」ハリーは、ロスメルタの言ったことを開いていなかった。
「中まで運べると思います――」
「何があったのじゃ?」ダンブルドアが聞いた。
「ロスメルタ、何かあったのか?」
「や――『闇の印』よ、アルバス」
そして、マダム・ロスメルタはホグワーツの方角の空を指差した。
その言葉で背筋がゾッと寒くなり、ハリーは振り返って空を見た。
学校の上空に、たしかにあの印があった。
蛇の舌を出した緑色の髑髏が、ギラギラ輝いている。
死喰い人が侵入したあとに残す印だ……誰かを殺したときに残す印だ……。
「いつ現れたのじゃ?」
ダンブルドアが聞いた。
立ち上がろうとするダンブルドアの手が、ハリーの肩に痛いほど食い込んだ。
「数分前に違いないわ。猫を外に出したときにはありませんでしたもの。でも二階に上がったときに――」「すぐに城に戻らねばならぬ」ダンブルドアが言った。
少しよろめきはしたが、しっかり事態を掌握していた。
「ロスメルタ、輸送手段が必要じゃ――箒が――」
「バーのカウンターの裏に、二、三本ありますわ」ロスメルタは怯えていた。
「行って取ってきましょうか?」
「いや、ハリーに任せられる」
ハリーは、すぐさま杖を上げた。
「アクシオ!ロスメルタの箒よ、来い!」
たちまち大きな昔がして、パブの人口の扉がパッと開き、箒が二本、勢いよく表に飛び出した。
箒は抜きつ抜かれつハリーの脇まで飛んできて、微かに振動しながら、腰の高さでピタリと止まった。
「ロスメルタ、魔法省への連絡を頼んだぞ」
ダンブルドアは自分に近いほうの等に跨りながら言った。
「ホグワーツの内部の者は、まだ異変に気づいておらぬやもしれぬ……ハリー、『透明マント』を着るのじゃ」ハリーはポケットからマントを取り出してかぶってから、箒に跨った。
ハリーとダンブルドアが地面を蹴って空に舞い上がったときには、マダム・ロスメルタは、すでにハイヒールでよろけながらパブに向かって小走りに駆け出していた。
城を目指して速度を上げながら、ハリーは、ダンブルドアが落ちるようなことがあればすぐさま支えられるようにと、ちらちら横を見た。
しかし、「闇の印」はダンブルドアにとって、刺激剤のような効果をもたらしたらしい。
印を見据えて、長い銀色の髪と翼とを夜空になびかせながら、ダンブルドアは箒に低く屈み込でいた。
ハリーも前方の髑髏を見据えた。
恐怖が泡立つ毒のように肺を締めつけ、ほかのいっさいの苦痛を念頭から追い出してしまった……。
二人は、どのくらいの時間、留守にしていたのだろう。
ロンやハーマイオニー、ジニーの幸運は、もう効き目が切れたのだろうか?学校の上空にあの印が上がったのは、三人のうちの誰かに何かあったからなのだろうか、それともネビルかルーナか?DAのメンバーの誰かではないだろうか?そしてもしそうなら……廊下をパトロールしろと言ったのは自分だ。
ベッドにいれば安全なのに、ベッドを離れるように頼んだのは自分だ……またしても僕のせいで、友人が死んだのだろうか?
出発のときに歩いた、曲がりくねった暗い道の上空を飛びながら、耳元で鳴る夜風のヒューヒューという音の合間に、ハリーは、ダンブルドアがまたしても不可解な言葉を唱えるのを聞いた。
校庭に入る境界線を飛び越えた瞬間、等が振動するのを感じた理由が、ハリーにはわかった。
ダンブルドアは、自分が城にかけた呪文を解除し、二人が高速で突破できるようにしていたのだ。
「闇の印」は、城でいちばん高い天文台の塔の真上で光っていた。
そこで殺人があったのだろうか?
ダンブルドアは、塔の屋上の、銃眼つきの防壁をすでに飛び越え、箒から降りるところだった。
ハリーもすぐあとからそのそばに降り、あたりを見回した。
防壁の内側には人影がなかった。
城の内部に続く螺旋階段の扉は閉まったままだ。
争いの跡も、死闘が繰り広げられた形跡もなく、死体すらない。
「どういうことでしょう?」
ハリーは、頭上に不気味に光る蛇舌の髑髏を見上げながら、ダンブルドアに問いかけた。
「あれは本当の印でしょうか?誰かが本当に――先生?」
印が放つ微かな緑の光で、黒ずんだ手で胸を押さえているダンブルドアが見えた。
「セブルスを起こしてくるのじゃ」ダンブルドアは微かな声で、 しかしはっきりと言った。
「何があったかを話し、わしのところへ連れてくるのじゃ。ほかには何もするでないぞ。ほかの誰にも話をせず、『透明マント』を脱がぬよう。わしはここで待っておる」
「でも――」
「わしに従うと誓ったはずじゃ、ハリー――行くのじゃ!」
ハリーは螺旋階段の扉へと急いだ。
しかし扉の鉄の輪に手が触れたとたん、扉の内側から誰かが走ってくる足音が聞こえた。
振り返ると、ダンブルドアは退却せよと身振りで示していた。
ハリーは杖を構えながら後退りした。
扉が勢いよく開き、誰かが飛び出して叫んだ。
「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」
ハリーはたちまち体が硬直して動かなくなり、まるで不安定な銅像のように倒れて、塔の防壁に支えられるのを感じた。
動くことも口をきくこともできない。
どうしてこんなことになったのか、ハリーにはわからなかった
エクスペリアームスは「凍結呪文」とは違うのに――。
そのとき、闇の印の明かりで、ダンブルドアの杖が弧を描いて防壁の端を越えて飛んでいくのが見え、事態が呑み込めた……ダンブルドアが無言でハリーを動けなくしたのだ。
その術をかける一瞬のせいで、ダンブルドアは自分を護るチャンスを失ったのだ。
血の気の失せた顔で、防壁を背にして立ちながらも、ダンブルドアには恐怖や苦悩の影すらない。
自分の武器を奪った相手に目をやり、ただ一言こう言った。
「こんばんは、ドラコ」
マルフォイが進み出た。
すばやくあたりに目を配り、ダンブルドアと二人きりかどうかを確かめた。
二本目の等に目が走った。
「ほかに誰かいるのか?」
「わしのほうこそ聞きたい。きみ一人の行動かね?」
闇の印の緑の光で、マルフォイの薄い色の目がダンブルドアに視線を戻すのが見えた。
「違う」マルフォイが言った。
「援軍がある。今夜この学校には『死喰い人』がいるんだ」
「ほう、ほう」
ダンブルドアはまるで、マルフォイががんばって仕上げた宿題を見ているような言い方をした。
「なかなかのものじゃ。きみが連中を導き入れる方法を見つけたのかね?」
「そうだ」マルフォイは息を切らしていた。
「校長の目と鼻の先なのに、気がつかなかったろう!」
「よい思いつきじゃ」ダンブルドアが言った。
「しかし……失礼ながら……その連中はいまどこにいるのかね?きみの援軍とやらは、いないようだが」「そっちの護衛に出くわしたんだ。下で戦ってる。追っつけ来るだろう……僕は先に来たんだ。僕には――僕にはやるべきことがある」
「おう、それなら、疾くそれに取りかからねばなるまいのう」ダンブルドアが優しく言った。
沈黙が流れた。
ハリーは自分の体に閉じ込められ、身動きもできず、姿を隠したまま二人を見つめ、遠くに死喰い人の戦いの音が聞こえはしないかと、耳を研ぎ澄ましていた。
ハリーの目の前で、ドラコ・マルフォイはアルバス・ダンブルドアをただ見つめていた。
ダンブルドアは、なんと、微笑んだ。
「ドラコ、ドラコ、きみには人は殺せぬ」
「わかるもんか!」ドラコが切り返した。
その言い方がいかにも子どもっぽいと自分でも気づいたらしく、ハリーはドラコが顔を赤らめるのを、緑の明かりの下で見た。
「僕に何ができるかなど、校長にわかるものか」マルフォイは前より力強く言った。
「これまで僕がしてきたことだって知らないだろう!」「いや、いや、知っておる」ダンブルドアが穏やかに言った。
「君はケイティ・ベルとロナルド・ウィーズリーを危うく殺すところじゃった。この一年間、きみはわしを殺そうとして、だんだん自暴自棄になっていた。失礼じゃが、ドラコ、全部中途半端な試みじゃったのう……あまりに生半可なので、正直言うてきみが本気なのかどうか、わしは疑うた……」
「本気だった!」マルフォイが激しい口調で言った。
「この一年、僕はずっと準備してきた。そして今夜――」
城のずっと下のほうから、押し殺したような叫び声がハリーの耳に入ってきた。
マルフォイは、ぎくりと体を強張らせて後ろを振り返った。
「誰かが善戦しているようじゃの」
ダンブルドアは茶飲み話でもしているようだった。
「しかし、きみが言いかけておったのは……おう、そうじゃ、『死喰い人』を、この学校に首尾よく案内してきたということじゃのう。それは、さすがにわしも不可能じゃと思うておったのじゃが……どうやったのかね?」しかしマルフォイは答えなかった。
下のほうで何事か起こっているのに耳を澄ませたまま、ほとんどハリーと同じぐらい体を硬直させていた。
「きみ一人で、やるべきことをやらねばならぬかもしれんのう」ダンブルドアが促した。
「わしの護衛が、きみの援軍を挫いてしまったとしたらどうなるかの?たぶん気づいておろうが、今夜ここには、『不死鳥の騎士団』の者たちも来ておる。それに、いずれにせよ、きみには援護など必要ない……わしはいま、杖を持たぬ……自衛できんのじゃ」
マルフォイは、ダンブルドアを見つめただけだった。
「なるほど」
マルフォイが、しゃべりもせず動きもしないので、ダンブルドアが優しく言った。
「みんなが来るまで、怖くて行動できないのじゃな」
「怖くない!」
マルフォイが唸った。
しかし、まだまったくダンブルドアを傷つける様子がない。
「そっちこそ怖いはずだ!」
「なぜかね?ドラコ、きみがわしを殺すとは思わぬ。無垢な者にとって、人を殺すことは、思いのほか難しいものじゃ……それでは、きみの友達が来るまで、聞かせておくれ……どうやって連中を潜入させたのじゃね?準備が整うまで、ずいぶんと時間がかかったようじゃが」
マルフォイは、叫び出したい衝動か、突き上げる吐き気と戦っているかのようだった。
ダンブルドアの心臓にピタリと杖を向けて睨みつけながら、マルフォイはゴクリと唾を飲み、数回深呼吸した。
それからこらえきれなくなったように口を開いた。
「壊れて、何年も使われていなかった『姿をくらますキャビネット棚』を直さなければならなかったんだ。去年、モンタギューがその中で行方不明になったキャビネットだ」
「ああぁぁー」
ダンブルドアのため息は、うめきのようでもあった。
ダンブルドアはしばらく目を閉じた。
「賢いことじゃ……たしか、対になっておったのう?」
「もう片方は、ボージン・アンド・バークスの店だ」マルフォイが言った。
「二つの間に通路のようなものができるんだ。モンタギューが、ホグワーツにあったキャビネット棚に押し込まれたとき、どっちつかずに引っ掛かっていたけど、ときどき学校で起こっていることが聞こえたし、ときどき店の出来事も聞こえたと話してくれた。まるで棚が二箇所の間を往ったり来たりしているみたいに。しかし自分の声は誰にも届かなかったって……結局あいつは、試験にはパスしていなかったけど、無理やり『姿現わし』したんだ。おかげで死にかけた。みんなは、おもしろいでっち上げ話だと思っていたけど、僕だけはその意味がわかった――ボージンでさえ知らなかった――壊れたキャビネット棚を修理すれば、それを通ってホグワーツに入る方法があるだろうと気づいたのは、この僕だ」
「見事じゃ」ダンブルドアが呟いた。
「それで、『死喰い人』たちは、きみの応援に、ボージン・アンド・バークスからホグワーツに入り込むことができたのじゃな……賢い計画じゃ、実に賢い……それに、きみも言うたように、わしの目と鼻の先じゃ……」
「そうだ」
マルフォイは、ダンブルドアに褒められたことで、皮肉にも勇気と慰めを得たようだった。
「そうなんだ!」
「しかし、ときには――」ダンブルドアが言葉を続けた。
「キャビネット棚を修理できないのではないかと思ったこともあったのじゃろうな?そこで、粗雑で軽率な方法を使おうとしたのう。どう考えてもほかの者の手に渡ってしまうのに、呪われたネックレスをわしに送ってみたり……わしが飲む可能性はほとんどないのに、蜂蜜酒に毒を入れてみたり……」
「そうだ。だけど、それでも誰が仕組んだのか、わからなかったろう?」
マルフォイがせせら笑った。
ダンブルドアの体が、防壁にもたれたままわずかにずり落ちた。
足の力が弱ってきたに違いない。
ハリーは自分を縛っている呪文に抗って、声もなく空しくもがいた。
「実はわかっておった」ダンブルドアが言った。
「きみに間違いないと思っておった」
「じゃ、なぜ止めなかった?」マルフォイが詰め寄った。
「そうしようとしたのじゃよ、ドラコ。スネイプ先生が、わしの命を受けて、きみを見張っておった――」
「あいつは校長の命令で動いていたんじゃない。僕の母上に約束して――」
「もちろん、ドラコ、スネイプ先生は、きみにはそう言うじゃろう。しかし――」
「あいつは二重スパイだ。あんたも老いぼれたものだ。あいつは校長のために働いていたんじゃない。あんたがそう思い込んでいただけだ!」
「その点は、意見が違うと認め合わねばならんのう、ドラコ。わしは、スネイプ先生を信じておるのじゃ――」
「それじゃ、あんたには事態がわかってないってことだ!」マルフォイがせせら笑った。
「あいつは僕を助けたいとさんざん持ちかけてきた――全部自分の手柄にしたかったんだ――一枚加わりたかったんだ――『何をしておるのかね?君がネックレスを仕掛けたのか?あれは愚かしいことだ。全部台無しにしてしまったかもしれん――』だけど僕は、『必要の部屋』で何をしているのか、あいつに教えなかった。明日、あいつが目を覚ましたときには全部終わっていて、もうあいつは、闇の帝王のお気に入りじゃなくなるんだ。僕に比べればあいつは何者でもなくなる。ゼロだ!」
「満足じゃろうな」ダンブルドアが穏やかに言った。
「誰でも、一所懸命やったことを褒めてほしいものじゃ、もちろんのう……しかし、それにしてもきみには共犯者がいたはずじゃ……ホグズミードの誰かが。ケイティにこっそりあれを手渡す――あっ――あぁぁー……」
ダンブルドアは再び目を閉じてこくりと強いた。
まるでそのまま眠り込むかのようだった。
「……もちろん……ロスメルタじゃ。いつから『服従の呪文』にかかっておるのじゃ?」
「やっとわかったようだな」マルフォイが嘲った。
遠くのほうから、また叫び声が聞こえた。
こんどはもっと大きい声だった。
マルフォイもビクッとしてまた振り返ったが、すぐダンブルドアに視線を戻した。
ダンブルドアは言葉を続けた。
「それでは、哀れなロスメルタが、店のトイレで待ち伏せして、一人でトイレにやって来たホグワーツの学生の誰かにネックレスを渡すよう、命令されたというわけじゃな?それに毒入り蜂蜜酒……ふむ、当然ロスメルタなら、わしへのクリスマスプレゼントだと信じて、スラグホーンにボトルを送る前に、きみに代わって毒を盛ることもできた……実に鮮やかじゃ……実に……哀れむべきフィルチさんは、ロスメルタのボトルを調べようなどとは思うまい……どうやってロスメルタと連絡を取っていたか、話してくれるかの?学校に出入りする通信手段は、すべて監祝されていたはずじゃが」
「コインに呪文をかけた」
杖を持った手がひどく震えていたが、マルフォイは、話し続けずにはいられないかのようにしゃべった。
「僕が一枚、あっちがもう一枚だ。それで僕が命令を送ることができた――」
「『ダンブルドア軍団』というグループが先学期に使った、秘儀の伝達手段と同じものではないかな?」
ダンブルドアが聞いた。気軽な会話をしているような声だったが、ハリーは、ダンブルドアがそう言いながらまた二、三センチずり落ちるのに気がついた。
「ああ、あいつらからヒントを得たんだ」マルフォイは歪んだ笑いを浮かべた。
「蜂蜜酒に毒を入れるヒントも、『穢れた血』のグレンジャーからもらった。図書室であいつが、フィルチは毒物を見つけられないと話しているのを聞いたんだ」
「わしの前で、そのような侮蔑的な言葉は使わないではしいものじゃ」
ダンブルドアが言った。
マルフォイが残忍な笑い声を上げた。
「いまにも僕に殺されるというのに、この僕が、『穢れた血』と言うのが気になるのか?」
「気になるのじゃよ」ダンブルドアが言った。
まっすぐ立ち続けようと踏んぼって、ダンブルドアの両足が床を上滑りするのを、ハリーは見た。
「しかし、いまにもわしを殺すということについては、ドラコよ、すでに数分という長い時間が経ったし、ここには二人しかおらぬ。わしはいま丸腰で、きみが夢にも思わなかったほど無防備じゃ。にもかかわらず、きみはまだ行動を起こさぬ……」
ひどく苦い物を口にしたかのように、マルフォイの口が思わず歪んだ。
「さて、今夜のことじゃが」ダンブルドアが続けた。
「どのように事が起こったのか、わしには少しわからぬところがある……きみはわしが学校を出たことを知っていたのかね?いや、なるほど」ダンブルドアは、自分で自分の質問に答えた。
「ロスメルタが、わしが出かけるところを見て、きみの考えたすばらしいコインを使って、きみに知らせたのじゃ。そうに違いない……」
「そのとおりだ」マルフォイが言った。
「だけど、ロスメルタは校長が一杯飲みに出かけただけで、すぐ戻ってくると言った……」
「なるほど、たしかにわしは飲み物を飲んだのう……そして、戻ってきた……辛うじてじゃが」
ダンブルドアが呟くように言った。
「それできみは、わしを罠にかけようとしたわけじゃの?」
「僕たちは、『闇の印』を塔の上に出して、誰が殺されたのかを調べに、校長が急いでここに戻るようにしようと決めたんだ」マルフォイが言った。
「そして、うまくいった!」
「ふむ……そうかもしれぬし、そうでないかもしれぬ……」ダンブルドアが言った。
「それでは、殺された者はおらぬと考えていいのじゃな?」
「誰かが死んだ」マルフォイの声が、一オクターブ高くなったように思われた。
「そっちの誰かだ……誰かわからなかった。暗くて……僕が死体を跨いだ……僕は校長が戻ったときに、ここで待ち構えているはずだった。ただ、『不死鳥』のやつらが邪魔して……」
「左様。そういう癖があるでのう」ダンブルドアが言った。
下から聞こえる騒ぎや叫び声が、いちだんと大きくなった。
こんどは、ダンブルドア、マルフォィ、ハリーのいる屋上に直接つながっている、螺旋階段で戦っているような音だった。
ハリーの心臓は、透明の胸の中で誰にも聞こえはしなかったが、雷のように轟いた……誰かが死んだ……マルフォイが死体を跨いだ……誰だったんだ?
「いずれにせよ時間がない」ダンブルドアが言った。
「きみの選択肢を話し合おうぞ、ドラコ」
「僕の選択肢!」マルフォイが大声で言った。
「僕は杖を持ってここに立っている――校長を殺そうとしている――」
「ドラコよ、もう虚仮脅しはおしまいにしようぞ。わしを殺すつもりなら、最初にわしを『武装解除』したときにそうしていたじゃろう。方法論をあれこれと楽しくおしゃべりして、つい時間を費やすことはなかったじゃろう」
「僕には選択肢なんかない!」
マルフォイが言った。
そして突然、ダンブルドアと同じぐらい蒼白になった。
「僕はやらなければならないんだ!あの人が僕を殺す!僕の家族を皆殺しにする!」
「きみの難しい立場はよくわかる」ダンブルドアが言った。
「わしがいままできみに対抗しなかった理由が、それ以外にあると思うかね?わしがきみを疑っていると、ヴォルデモート卿に気づかれてしまえば、きみは殺されてしまうと、わしにはわかっていたのじゃ」
マルフォイはその名を開いただけで怯んだ。
「きみに与えられた任務のことは知っておったが、それについてきみと話をすることができなんだ。あの者がきみに対して『開心術』を使うかもしれぬからのう」
ダンブルドアが語り続けた。
「しかしいまやっと、お互いに率直な話ができる……何も被害はなかった。きみは誰をも傷つけてはいない。もっとも予期せぬ犠牲者たちが死ななかったのは、きみにとって非常に幸運なことではあったのじゃが……ドラコ、わしが助けてしんぜよう」
「できっこない」マルフォイの杖を持った手が激しく震えていた。
「誰にもできない。あの人が僕にやれと命じた。やらなければ殺される。僕にはほかに道がない」
「ドラコ、我々の側に来るのじゃ。我々は、きみの想像もつかぬほど完壁に、きみを匿うことができるのじゃ。その上、わしが今夜『騎士団』の者を母上のもとに遣わして、母上をも匿うことができる。父上のほうは、いまのところアズカバンにいて安全じゃ……時がくれば、父上も我々が保護しよう……正しいほうにつくのじゃ、ドラコ……きみは殺人者ではない……」
マルフォイはダンブルドアをじっと見つめた。
「だけど、僕はここまでやり遂げたじゃないか」ドラコがゆっくりと言った。
「僕が途中で死ぬだろうと、みんながそう思っていた。だけど、僕はここにいる……そして校長は僕の手中にある……杖を持っているのは僕だ……あんたは僕のお情けで……」
「いや、ドラコ」
ダンブルドアが静かに言った。
「いま大切なのは、きみの情けではなく、わしの情けなのじゃ」
マルフォイは無言だった。口を開け、杖を持つ手がまだ震えていた。
ハリーには、心なしかマルフォイの杖がわずかに下がったように見えた――。
しかし、突然、階段を踏み鳴らして駆け上がってくる音がして、次の瞬間、マルフォイは、屋上に躍り出た黒いロープの四人に押しのけられた。
身動きできず、瞬きできない目を見開いて、恐怖に駆られながら、ハリーは四人の侵入者を見つめた。
階下の戦いは、死喰い人が勝利したらしい。
ずんぐりした男が、奇妙に引きつった薄ら笑いを浮かべながら、グググッと笑った。
「ダンブルドアを追い詰めたぞ!」
男は、妹かと思われるずんぐりした小柄な女のほうを振り向きながら言った。
女は勢い込んでニヤニヤ笑っていた。
「ダンブルドアには杖がない。一人だ!よくやった、ドラコ、よくやった!」
「こんばんは、アミカス」
ダンブルドアはまるで茶会に客を迎えるかのように、落ち着いて言った。
「それにアレクトもお連れくださったようじゃな……ようおいでくだされた……」女は怒ったように、小さく忍び笑いをした。
「死の床で、冗談を言えば助かると思っているのか?」女が嘲った。
「冗談とな?いや、いや、礼儀というものじゃ」ダンブルドアが答えた。
「殺れ」
ハリーのいちばん近くに立っていた、もつれた灰色の髪の、大柄で手足の長い男が言った。
動物のような口髭が生えている。
死喰い人の黒いローブがきつすぎて着心地が悪そうだった。
ハリーが聞いたこともない種類の、神経を逆撫でするような吠え声だ。
泥と汗、それに間違いなく血の臭いが混じった強烈な悪臭がハリーの鼻を突いた。
汚らしい両手に長い黄ばんだ爪が伸びている。
「フェンリールじゃな?」ダンブルドアが聞いた。
「そのとおりだ」男がシワガレ声で言った。
「会えてうれしいか、ダンブルドア?」
「いや、そうは言えぬのう……」
フェンリール・グレイバックは、尖った歯を見せてニヤリと笑った。
血をタラタラと顎に滴らせ、グレイバックはゆっくりといやらしく唇を紙めた。
「しかしダンブルドア、俺が子ども好きだということを知っているだろうな」
「いまでは満月を待たずに襲っているということかな?異常なことじゃ……毎月一度では満足できぬほど、人肉が好きになったのか?」
「そのとおりだ」グレイバックが言った。
「驚いたかね、え?ダンブルドア?怖いかね?」
「はてさて、多少嫌悪感を覚えるのを隠すことはできまいのう」ダンブルドアが言った。
「それに、たしかに驚いたのう。このドラコが、友人の住むこの学校に、よりによってきみのような者を招待するとは……」
「僕じゃない」
マルフォイが消え入るように言った。
グレイバックから目を背け、ちらりとでも見たくないという様子だった。
「こいつが来るとは知らなかったんだ――」
「ダンブルドア、俺はホグワーツへの旅行を逃すようなことはしない」グレイバックがシワガレ声で言った。
「食い破る喉が待っているというのに……うまいぞ、うまいぞ……」グレイバックは、ダンブルドアに向かってニタニタ笑いながら、黄色い爪で前歯の間をほじった。
「おまえをデザートにいただこうか。ダンブルドア」
「だめだ」四人目の死喰い人が鋭く言った。
厚ぼったい野蛮な顔をした男だ。
「我々は命令を受けている。ドラコがやらねばならない。さあ、ドラコ、急げ」
マルフォイはいっそう気が挫け、怯えた目でダンブルドアの顔を見つめていた。
ダンブルドアはますます蒼ざめ、防壁に寄り掛かった体がさらにずり落ちたせいで、いつもより低い位置に顔があった。
「俺に言わせりや、こいつはどうせもう長い命じゃない!」
歪んだ顔の男が言うと、妹がグググッと笑って相槌を打った。
「なんてざまだ――いったいどうしたんだね、ダンピー?」
「ああ、アミカス、抵抗力が弱り、反射神経が鈍くなってのう」ダンブルドアが言った。
「要するに、歳じゃよ……そのうち、おそらく、きみも歳を取る……きみが幸運ならばじゃが……」
「何が言いたいんだ?え?何が言いたいんだ?」男は急に乱暴になった。
「相変わらずだな、え?ダンピー。口ばかりで何もしない。なんにも。闇の帝王が、なぜわざわざおまえを殺そうとするのか、わからん!さあ、ドラコ、やれ!」
しかしそのとき、またしても下から、気ぜわしく動く音、大声で叫ぶ声が聞こえた。
「連中が階段を封鎖した――レダクト!<粉々>」ハリーは心が躍った。
この四人が相手を全滅させたわけじゃない。
戦いを抜け出して塔の屋上に来ただけだ。
そしてどうやら、背後に障壁を作ってきたらしい――。
「さあ、ドラコ、早く!」野蛮な顔の男が、怒ったように言った。
しかし、マルフォイの手はどうしようもなく震え、狙いさえ定められなかった。
「俺がやる」
グレイバックが両手を突き出し、牙をむいて唸りながら、ダンブルドアに向かっていった。
「だめだと言ったはずだ!」
野蛮な顔の男が叫んだ。閃光が走り、狼男が吹き飛ばされた。
グレイバックは防壁に衝突し、憤怒の形相でよろめいた。
ハリーの胸は激しく動悸し、ダンブルドアの呪文に閉じ込められてそこにいる自分の気配を、そばの誰かが聞きつけないはずはないと思われた――動けさえしたら、「透明マント」の下から呪いをかけられるのに――。
「ドラコ、殺るんだよ。さもなきゃ、お退き。代わりに誰かが――」
女が甲高い声で言った。
ちょうどそのとき、屋上への扉が再びパッと開き、スネイプが杖を引っ提げて現れた。
暗い目がすばやくあたりを見回し、防壁に力なく寄り掛かっているダンブルドアから、怒り狂った狼男を含む四人の死喰い人、そしてマルフォイへと、スネイプの目が走った。
「スネイプ、困ったことになった」
ずんぐりしたアミカスが、目と杖でダンブルドアをしっかりと捕らえたまま言った。
「この坊主にはできそうもない」
そのとき、誰かほかの声が、スネイプの名をひっそりと呼んだ。
「セブルス……」
その声は、今夜のさまざまな出来事の中でも、いちばんハリーを怯えさせた。
初めて、ダンブルドアが懇願している。
スネイプは無言で進み出て、荒々しくマルフォイを押しのけた。
三人の死喰い人は一言も言わずに後ろに下がった。
狼男でさえ怯えたように見えた。
スネイプは一瞬、ダンブルドアを見つめた。
その非情な顔の皺に、嫌悪と憎しみが刻まれていた。
「セブルス……頼む……」
スネイプは杖を上げ、まっすぐにダンブルドアを狙った。
「アバダ ケダブラ!」
緑の閃光がスネイプの杖先から迸り、狙い違わずダンブルドアの胸に当たった。
ハリーの恐怖の叫びは、声にならなかった。
沈黙し、動くこともできず、ハリーはダンブルドアが空中に吹き飛ばされるのを見ているはかなかった。
ほんのわずかの間、ダンブルドアは光る髑髏の下に浮いているように見えた。
それから、仰向けにゆっくりと、大きな軟らかい人形のように、ダンブルドアは屋上の防壁の向こう側に落ちて、姿が見えなくなった。
第28章 プリンスの逃亡
Flight of the Prince
ハリーは自分も空を飛んでいるような気がした。
本当のことじゃない……本当のことであるはずがない……。
「ここから出るのだ。早く」スネイプが言った。
スネイプはマルフォイの襟首をつかみ、まっ先に扉から押し出した。
グレイバックと、ずんぐりした兄妹がそのあとに続いた。
二人とも興奮に息を弾ませていた。
三人がいなくなったとき、ハリーはもう体が動かせることに気づいた。
麻痺したまま防壁に寄り掛かっているのは、魔法のせいではなく、恐怖とショックのせいだった。
残忍な顔の死喰い人が、最後に塔の屋上から扉の向こうに消えようとした瞬間、ハリーは「透明マント」をかなぐり捨てた。
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
四人目の死喰い人は蝋人形のように硬直し、背中を硬いもので打たれたかのように、ばったりと倒れた。
その体が倒れるか倒れないうちに、ハリーはもう、その死喰い人を乗り越え、暗い階段を駆け下りていた。
恐怖がハリーの心臓を引き裂いた……ダンブルドアのところへ行かなければならない……、スネイプを捕らえなければならない……二つのことがなぜか関連していた……二人を一緒にすれば、起こってしまった出来事を覆せるかもしれない……ダンブルドアが死ぬはずはない……。
ハリーは螺旋階段の最後の十段を一飛びに飛び降り、杖を構えてその場に立ち止まった。
薄暗い廊下はもうもうと埃が立っていた。
天井の半分は落ち、ハリーの目の前で戦いが繰り広げられていた。
しかし、誰が誰と戦っているのかを見極めようとしたそのとき、あの憎むべき声が叫んだ。
「終わった。行くぞ!」
スネイプの姿が廊下の向こう端から、角を曲がって消えようとしていた。
スネイプとマルフォイは、無傷のままで戦いからの活路を見出したらしい。
ハリーがそのあとを追いかけて突進したとき、誰かが乱闘から離れてハリーに飛びかかった。
狼男のグレイバックだった。
ハリーが杖を掲げる間もなく、グレイバックがのしかかってきた。
ハリーは仰向けに倒れた。
汚らしいもつれた髪がハリーの顔にかかり、汗と血の悪臭が鼻と喉を詰まらせ、血に飢えた熱い息がハリーの喉元に――
「ペトリフィカス・トタルス!<石になれ>」
ハリーは、グレイバックが自分の体の上に倒れ込むのを感じた。
満身の力でハリーは狼男を押しのけ、床に転がした。
そのとき緑の閃光がハリーめがけて飛んできた。
ハリーはそれをかわして、乱闘の中に頭から突っ込んでいった。
床に転がっていた何かグニャリとした滑りやすいものに、ハリーは足を取られて倒れた。
二つの死体が血の海にうつ伏せになっている。
しかし、調べている暇はない。
こんどは目の前で炎のように舞っている赤毛が目に入った。
ジニーが、ずんぐりした死喰い人のアミカスとの戦いに巻き込まれている。
アミカスが次々と投げつける呪誼を、ジニーがかわしていた。
アミカスはグッグッと笑いながら、スポーツでも楽しむようにからかっていた。
「クルーシオ!<苦しめ>いつまでも踊っちゃいられないよ、お嬢ちゃん――」
「インペディメンタ一<妨害せよ>」ハリーが叫んだ。
呪いはアミカスの胸に当たった。
キーッと豚のような悲鳴を上げて吹っ飛んだアミカスは、反対側の壁に激突して壁伝いにズルズルとずり落ち、ロン、マクゴナガル先生、ルーピンの背後に姿を消した。
三人も、それぞれ死喰い人との一騎打ちの最中だ。
その向こうで、トンクスが巨大なブロンドの魔法使いと戦っているのが見えた。
その男の、所かまわず飛ばす呪文が、周りの壁に撥ね返って石を砕き、近くの窓を粉々にしている――。
「ハリー、どこから出てきたの?」
ジニーが叫んだが、それに答えている間はなかった。
ハリーは頭を低くし、先を急いで走った。
頭上で何かが炸裂するのを、ハリーは危うくかわしたが、壊れた壁があたり一面に降り注いだ。
スネイプを逃がすわけにはいかない。
スネイプに追いつかなければならない――。
「これでもか!」マクゴナガル先生が叫んだ。
ハリーがちらと目をやると、死喰い人のアレクトが両腕で頭を覆いながら、廊下を走り去るところだった。
兄の死喰い人がそのすぐあとを走っている。
ハリーは二人を追いかけようとした。
ところが、何かにつまずき、次の瞬間、ハリーは誰かの足の上に倒れていた。
見回すと、ネビルの丸顔が、蒼白になって床に執りついているのが目に入った。
「ネビル、大丈――?」
「だいじょぶ」ネビルは、腹を押さえながら呟くように言った。
「ハリー……スネイプとマルフォイが……走っていった……」
「わかってる。任せておけ!」
ハリーは、倒れた姿勢のままで、いちばん派手に暴れまわっている巨大なブロンドの死喰い人めがけて呪祖をかけた。
呪いが顔に命中して、男は苦痛の吠え声を上げ、よろめきながらるりと向きを変えて、兄妹のあとからドタバタと逃げ出した。
ハリーは急いで立ち上がり、背後の乱闘の音を無視して廊下を疾走した。
戻れと叫ぶ声にも耳をかさず、床に倒れたまま生死もわからない人々の無言の呼びかけにも応えず……。
曲がり角でスニーカーが血で滑り、ハリーは横滑りした。
スネイプはとっくの昔にここを曲がった――すでに「必要の部屋」のキャビネット棚に入ってしまったということもありうるだろうか?それとも「騎士団」が棚を確保する措置を取って、死喰い人の退路を断っただろうか?聞こえる音といえば、曲がり角から先の、人気のない廊下を走る自分の足音と、ドキドキという心臓の鼓動だけだった。
そのとき、血染めの足跡を見つけた。少なくとも逃走中の死喰い人の一人は、正面玄関に向かったのだ――「必要の部屋」は本当に閉鎖されたのかもしれない――。
次の角をまた横滑りしながら曲がったとき、呪いがハリーの傍らをかすめて飛んできた。
鎧の陰に飛び込むと、鎧が爆発した。
兄妹の死喰い人が、行く手の大理石の階段を駆け下りていくのが見え、ハリーは二人を狙って呪いをかけたが、踊り場に掛かった絵に描かれている、鬘をつけた魔女の何人かに当たっただけだった。
肖像画の主たちは、悲鳴を上げて隣の絵に逃げ込んだ。
壊れた鎧を乗り越えて飛び出したとき、ハリーはまたしても叫び声や悲鳴を聞いた。
城の中のほかの人々が目を覚ましたらしい……。
兄妹に追いつきたい、スネイプとマルフォイを追い詰めたいと、ハリーは近道の一つへと急いだ。
スネイプたちは間違いなくもう、校庭に出てしまったはずだ。
隠れた階段のまん中あたりにある、消える一段を忘れずに飛び越し、ハリーは階段のいちばん下にあるタペストリーをくぐって外の廊下に飛び出した。
そこには、戸惑い顔のハッフルパフ生が大勢、パジャマ姿で立っていた。
「ハリー、音が聞こえたんだ。誰かが『闇の印』のことを言ってた」
アーニー・マクミランが話しかけてきた。
「どいてくれ!」
ハリーは叫びながら男の子を二人突き飛ばして、大理石の階段の踊り場に向かって疾走し、そこからまた階段を駆け下りた。
樫の正面扉は吹き飛ばされて開いていた。
敷石には血痕が見える。
怯えた生徒たちが数人、壁を背に身を寄せ合って立ち、その中の一人、二人は両腕で顔を覆って、屈み込んだままだった。
巨大なグリフィンドールの砂時計が呪いで打ち砕かれ、中のルビーがゴロゴロと大きな音を立てながら、敷石の上を転がっている……。
ハリーは、玄関ホールを飛ぶように横切り、暗い校庭に出た。
三つの影が芝生を横切って校門に向かうのを、ハリーはようやっと見分けることができた。
校門から出れば、「姿くらましができる――影から判断して、巨大なブロンドの死喰い人と、それより少し先に、スネイプとマルフォイだ……。
三人を追って矢のように走るハリーの肺を、冷たい夜気が切り裂いた。
遠くでパッと閃いた光が、ハリーの追う姿の輪郭を一際浮かび上がらせた。
何の光か、ハリーにはわからなかったが、かまわず走り続けた。
まだ呪いで狙いを定める距離にまで近づいていない。
もう一度閃光が走り、叫び声と光の応酬――そしてハリーは事態を呑み込んだ。
ハグリッドが小屋から現れ、死喰い人たちの逃亡を阻止しようとしていたのだ。
息をするたびに胸が裂け、鳩尾は燃えるように熱かったが、ハリーはますます速く走った。
頭の中で勝手に声がした……ハグリッドまでも……ハグリッドだけはどうか……。
何かが背後からハリーの腰を強打した。
ハリーは前のめりに倒れ、顔を打って鼻血が流れ出た。
杖を構えて転がりながら、相手が誰なのかはもうわかっていた。
ハリーが近道を使っていったん追い越した兄妹が、後ろから追ってきたのだ……。
「インペディメンタ!<妨害せよ>」
もう一度転がり、暗い地面に伏せながら、ハリーは叫んだ。
呪文が奇跡的に一人に命中し、相手がよろめいて倒れ、もう一人をつまずかせた。
ハリーは急いで立ち上がり、駆け出した。
スネイプを追って……。
雲の切れ目から突然現れた三日月に照らされ、こんどはハグリッドの巨大な輪郭が見えた。
ブロンドの死喰い人が、森番めがけて矢継ぎ早に呪いをかけていたが、ハグリッドの並はずれた力と、巨人の母親から受け継いだ堅固な皮膚とが、ハグリッドを護っているようだった。
しかし、スネイプとマルフォイは、まだ走り続けていた。
もうすぐ校門の外に出てしまう。
そして「姿くらまし」ができる―― 。
ハリーは、ハグリッドとその対戦相手の脇を猛烈な勢いで駆け抜け、スネイプの背中を狙って叫んだ。
「ステュービファイ!<麻痺せよ>」
赤い閃光はスネイプの頭上を通り過ぎた。スネイプが叫んだ。
「ドラコ、走るんだ!」
そしてスネイプが振り向いた。
二十メートルの間を挟み、スネイプとハリーは睨み合い、同時に杖を構えた。
「クルーシ――」
しかしスネイプは呪いをかわし、ハリーは、呪詛を言い終えないうちに仰向けに吹き飛ばされた。
一回転して立ち上がったそのとき、巨大な死喰い人が背後で叫んだ。
「インセンディオ!<燃えよ>」
バーンという爆発音がハリーの耳に聞こえ、あたり一面にオレンジ色の光が踊った。
ハグリッドの小屋が燃えていた。
「ファングが中にいるんだぞ。この悪党め――!」ハグリッドが大声で叫んだ。
「クルーシ――」
踊る炎に照らされた目の前の姿に向かって、ハリーは再び叫んだ。
しかしスネイプは、またしても呪文を阻止した。
薄ら笑いを浮かべているのが見えた。
「ポッター、おまえには『許されざる呪文』はできん!」
炎が燃え上がる音、ハグリッドの叫ぶ声、閉じ込められたファングがキャンキャンと激しく吠える声を背後に、スネイプが叫んだ。
「おまえにはそんな度胸はない。というより能力が――」
「インカーセ――」
ハリーは、吠えるように唱えた。
しかしスネイプは、煩わしげに、わずかに腕を動かしただけで、呪文を軽くいなした。
「戦え!」ハリーが叫んだ。
「戦え、臆病者――」
「臆病者?ポッター、我輩をそう呼んだか?」スネイプが叫んだ。
「おまえの父親は、四対一でなければ、決して我輩を攻撃しなかったものだ。そういう父親を、いったいどう呼ぶのかね?」
「ステュービ――」
「また防がれたな。ポッター、おまえが口を閉じ、心を閉じることを学ばぬうちは、何度やっても同じことだ」
スネイプはまたしても呪文を逸らせながら、冷笑した。
「さあ、行くぞ!」
スネイプはハリーの背後にいる巨大な死喰い人に向かって叫んだ。
「もう行く時間だ。魔法省が現れぬうちに――」
「インペディ――」
しかし、呪文を唱え終わらないうちに、死ぬほどの痛みがハリーを襲った。
ハリーはがっくりと芝生に膝をついた。
誰かが叫んでいる。
僕はこの苦しみできっと死ぬ。
スネイプが僕を、死ぬまで、そうでなければ気が狂うまで拷問するつもりなんだ。
「やめろ!」
スネイプの吸えるような声がして、痛みは、始まったときと同じように突然消えた。
ハリーは杖を握りしめ、喘ぎながら、暗い芝生に丸くなって倒れていた。
どこか上のほうでスネイプが叫んでいた。
「命令を忘れたのか?ポッターは、闇の帝王のものだ――手出しをするな!行け!行くんだ!」
兄妹と巨大な死喰い人が、その言葉に従って校門めがけて走り出し、地面が振動するのをハリーは顔の下に感じた。
怒りのあまり、ハリーは言葉にならない言葉を喚いた。
その瞬間、ハリーは、自分が生きようが死のうがどうでもよかった。
やっとの思いで立ち上がり、よろめきながら、ハリーはひたすらスネイプに近づいていった。
いまやヴォルデモートと同じぐらい激しく憎むその男に――。
「セクタム――」
スネイプは軽く杖を振り、またしても呪いをかわした。
しかし、いまやほんの二、三メートルの距離まで近づいていたハリーは、ついにスネイプの顔をはっきりと見た。
赤々と燃える炎が照らし出したその顔には、もはや冷笑も噸笑もなく、怒りだけが見えた。
あらんかぎりの力で、ハリーは念力を集中させた。
「レピ――」
「やめろ、ポッター!」スネイプが叫んだ。
バーンと大きな音がして、ハリーはのけ反って吹っ飛び、またしても地面に叩きつけられた。
こんどは杖が手を離れて飛んでいった。
スネイプが近づいてきて、ダンブルドアと同じように杖もなく丸腰で横たわっているハリーを見下ろした。
ハグリッドの叫び声とファングの吠え声が聞こえた。
燃え上がる小屋の明かりに照らされた、蒼白いスネイプの顔は、ダンブルドアに呪いをかける直前と同じく、憎しみに満ち満ちていた。
「我輩の呪文を本人に対してかけるとは、ポッター、どういう神経だ?そういう呪文の数々を考え出したのは、この我輩だ――我輩こそ『半純血のプリンス』だ!我輩の発明したものを、汚わしいおまえの父親と同じに、この我輩に向けようというのか?そんなことはさせん……許さん!」
ハリーは自分の杖に飛びついたが、スネイプの発した呪いで、杖は数メートル吹っ飛んで、暗闇の中に見えなくなった。
「それなら殺せ!」
ハリーが喘ぎながら言った。
恐れはまったくなく、スネイプへの怒りと侮蔑しか感じなかった。
「先生を殺したように、僕も殺せ、この臆病――」
「我輩を――」
スネイプが叫んだ。
その顔が突然、異常で非人問的な形相になった。
あたかも、背後で燃える小屋に閉じ込められて、キャンキャン吸えている犬とおなじ苦しみを味わっているような顔だった。
「――臆病者と呼ぶな!」スネイプが空を切った。
ハリーは顔面を自熟した鞭のようなもので打たれるように感じ、仰向けに地面に叩きつけられた。
目の前にチカチカ星が飛び、一瞬、体中から息が抜けていくような気がした。
そのとき、上のほうで羽音がした。
何か巨大なものが星空を預った。
バックビークがスネイプに襲いかかっていた。
剃刀のように鋭い爪に飛びかかられ、スネイプはのけ反ってよろめいた。
いましがた地面に叩きつけられたときの衝撃でクラクラしながら、ハリーが上半身を起こしたとき、スネイプが必死で走っていくのを見た。
バックピークが、巨大な翼を羽ばたかせて甲高い鳴き声を上げながら、そのあとを追っていた。
ハリーがこれまでに聞いたことがないようなバックピークの鳴き声だった――。
ハリーはやっとのことで立ち上がり、フラフラしながら杖を探した。
追跡を続けたいとは思ったが、指で芝生を探り小枝を投げ捨てながら、ハリーにはもう遅すぎるとわかっていた。
思ったとおり、杖を見つけ出して振り返ったときには、ヒッポグリフが校門の上で輪を描いて飛んでいる姿が見えただけだった。
スネイプはすでに境界線のすぐ外で「姿くらまし」しおおせていた。
「ハグリッド」
まだぼーっとした頭で、ハリーはあたりを見回しながら呟いた。
「ハグリッド?」
もつれる足で燃える小屋のほうに歩いていくと、背中にファングを背負った巨大な姿が、炎の中からヌッと現れた。
安堵の声を上げながら、ハリーはがっくりと膝を折った。
手足はガクガク震え、体中が痛んで、荒い息をするたびに痛みが走った。
「大丈夫か、ハリー?だいじょぶか?何かしゃべってくれ、ハリー……」
ハグリッドのでかい髭面が、星空を希い隠して、ハリーの顔の上で揺れていた。
木材と犬の毛の焼け焦げた臭いがした。
ハリーは手を伸ばし、そばで震えているファングの生きた温かみを感じて安心した。
「僕は大丈夫だ」ハリーが喘いだ。
「ハグリッドは?」
「ああ、俺はもちろんだ……あんなこっちゃ、やられはしねえ」
ハグリッドは、ハリーの肢の下に手を入れて、ぐいと持ち上げた。
ハリーの足が一瞬、地面を離れるほどの怪力で抱き上げてから、ハグリッドはハリーをまたまっすぐに立たせてくれた。
ハグリッドの片目の下に深い切り傷があり、それがどんどん腫れ上がって血が滴っているのが見えた。
「小屋の火を消そう」ハリーが言った。
「呪文は、アグアメンティ<水よ>……」
「そんなようなもんだったな」ハグリッドがもそもそ言った。
そして煉っているピンクの花柄の傘を構えて唱えた。
「アクアメンテイ!<水よ>!」ほとばしつえうでなまり傘の先から水が迸り出た。
ハリーも杖を上げたが、腕は鉛のように垂かった。
ハリーも「アグアメンテイ」と唱えた。
ハリーとハグリッドは一緒に小屋に放水し、やっと火を消した。
「大したこたあねえ」
数分後、焼け落ちて煙を上げている小屋を眺めながら、ハグリッドが楽観的に言った。
「この程度ならダンブルドアが直せる……」
その名を聞いたとたん、ハリーは胸に焼けるような痛みを感じた。
沈黙と静寂の中で、恐怖が込み上げてきた。
「ハグリッド……」
「ボウトラックルを二匹、脚を縛っちょるときに、連中がやってくるのが聞こえたんだ」
ハグリッドは焼け落ちた小屋を眺めながら、悲しそうに言った。
「あいつら、焼けて小枝と一緒くたになっちまったに違えねえ。かわいそうになあ……」
「ハグリッド……」
「しかし、ハリー、何があったんだ?俺は、死喰い人が城から走り出してくるのを見ただけだ。だけんど、いってぇスネイプは、あいつらと一緒に何をしてたんだ?スネイプはどこに行っちまった――?連中を追っかけていったのか?」
「スネイプは……」ハリーは咳払いした。
パニックと煙で、喉がカラカラだった。
「ハグリッド、スネイプが殺した……」
「殺した?」
ハグリッドが大声を出して、ハリーを覗き込んだ。
「スネイプが殺した?ハリー、おまえさん、何を言っちょる?」
「ダンブルドアを」ハリーが言った。
「スネイプが殺した……ダンブルドアを」
ハグリッドはただハリーを見ていた。
わずかに見えている顔の部分が、呑み込めずにポカンとしていた。
「ハリー、ダンブルドアがどうしたと?」
「死んだんだ。スネイプが殺した……」
「何を言っちょる」ハグリッドが声を荒らげた。
「スネイプがダンブルドアを殺した――バカな、ハリー。なんでそんなことを言うんだ?」
「この目で見た」
「まさか」
「ハグリッド、僕、見たんだ」
ハグリッドが首を振った。信じていない。
可愛そうにという表情だった。
ハリーは頭を打って混乱しちょる、もしかしたら呪文の影響が残っているのかもしれねえ……ハグリッドがそう考えているのが、ハリーにはわかった。
「つまり、こういうこった。ダンブルドアがスネイプに、死喰い人と一緒に行けと命じなさったに違えねえ」
ハグリッドが自信たっぷりに言った。
「スネイプがバレねえようにしねえといかんからな。さあ、学校まで送っていこう。ハリー、おいで……」
ハリーは反論も説明もしなかった。
まだ、どうしようもなく震えていた。ハグリッドにはすぐわかるだろう。
あまりにもすぐに……。
城に向かって歩いていくと、いまはもう多くの窓に灯りが点いているのが見えた。
ハリーには城内の様子がはっきり想像できた。
部屋から部屋へと人が行き交い、話をしているだろう。
死喰い人が侵入した、闇の印がホグワーツの上に輝いている、誰かが殺されたに違いない……。
行く手に正面玄関の樫の扉が開かれ、馬車道と芝生に灯りが溢れ出していた。
ゆっくり、恐る恐る、ガウン姿の人々が階段を下りてきて、夜の闇へと逃亡した死喰い人がまだそのへんにいるのではないかと、恐々あたりを見回していた。
しかしハリーの目は、いちばん高い塔の下の地面に釘づけになっていた。
その芝生に横たわっている、黒く丸まった姿が見えるような気がしたが、現実には遠すぎて、見えるはずがなかった。
ダンブルドアの亡骸が横たわっているはずの場所を、ハリーが声もなく見つめているその間にも、人々はそのほうに向かって動いていた。
「みんな、何を見ちょるんだ?」ぴったりあとについているファングを従えて、城の玄関に近づいたハグリッドが言った。
「芝生に横たわっているのは、ありゃ、なんだ?」
ハグリッドは鋭くそう言うなり、こんどは人だかりがしている天文台の塔の下に向かって歩き出した。
「ハリー、見えるか?塔の真下だが?闇の印の下だ……まさか……誰か、上から放り投げられたんじゃあ――?」
ハグリッドが黙り込んだ。
口に出す事さえ恐ろしい考えだったに違いない。並んで歩きながら、ハリーはこの半時間の間に受けたさまざまな呪いで、顔や両脚が痛むのを感じていた。
しかし、そばにいる別の人間が痛みを感じているような、奇妙に他人事のような感覚だった。
現実の、そして逃れようもない感覚は、胸を強く締めつけている苦しさだ……。
ハリーとハグリッドは、夢遊病者のように、何か呟いている人群れの中を通っていちばん前まで進んだ。
そこにぽっかりと空いた空間を、学生や先生たちが呆然として取り巻いていた。
ハグリッドの苦痛と衝撃にうめく声が聞こえた。
しかし、ハリーは立ち止まらなかった。
ゆっくりとダンブルドアが横たわっているそばまで進み、そこにうずくまった。
ダンブルドアにかけられた「金縛りの術」が解けたときから、ハリーはもう望みがないことを知っていた。
術者が死んだからこそ、術が解けたに違いない。
しかし、こうして骨が折れ、大の字に横たわるその姿を目にする、心の準備はまだできていなかった。
これまでも、そしてこれから先も、ハリーにとってもっとも偉大な魔法使いの姿が、そこにあった。
ダンブルドアは目を閉じていた。
手足が不自然な方向に向いていることを除けば、眠っているかのようだった。
ハリーは手を伸ばし、半月メガネを曲がった鼻にかけ直し、口から流れ出た一筋の血を自分の袖で拭った。
それからハリーは、年齢を刻んだその聡明な顔をじっと見下ろし、途方もない、理解を超えた真実を呑み込もうと努力した。
ダンブルドアはもう二度と再びハリーに語りかけることはなく、二度と再びハリーを助けることもできないのだという真実を……。
背後の人垣がざわめいた。
長い時間が経ったような気がしたが、ふと、ハリーは自分が何か固いものの上にひざまずいていることに気づいて、見下ろした。
もう何時間も前に、ダンブルドアと二人でやっと手に入れたロケットが、ダンブルドアのポケットから落ちていた。
おそらく地面に落ちた衝撃で、ロケットの蓋が開いていた。
いまのハリーには、もうこれ以上何の衝撃も、恐怖や悲しみも感じることはできなかったが、ロケットを拾い上げたとき、何かがおかしいと気づいた……。
ハリーは、手の中でロケットを裏返した。
「憂いの篩」で見たロケットほど大きくないし、何の刻印もない。
スリザリンの印とされるS字の飾り文字もどこにもない。
しかも、中には何もなく、肖像画が入っているはずの場所に、羊皮紙の切れ端が折りたたんで押し込んであるだけだった。
自分が何をしているか考えもせず、ハリーは無意識に羊皮紙を取り出して開き、背後に灯っているたくさんの杖明りに照らしてそれを読んだ。
闇の帝王へ
あなたがこれを読むころには、私はとうに死んでいるでしょう。
しかし、私があなたの秘密を発見したことを知ってほしいのです。
本当の分霊箱は私が盗みました。
できるだけ早く破壊するつもりです。
死に直面する私が望むのは、あなたが手ごわい相手に見えたそのときに、
もう一度死ぬべき存在となることです。
R・A・B
この書付けが何を意味するのか、ハリーにはわからなかったし、どうでもよかった。
ただ一つのことだけが重要だった。
これは分霊箱ではなかった。
ダンブルドアはムダにあの恐ろしい毒を飲み、自らを弱めたのだ。
ハリーは羊皮紙を手の中で握りつぶした。
ハリーの後ろでファングがワオーンと遠吠えし、ハリーの目は、涙で焼けるように熱くなった。
第29章 不死鳥の嘆き
The Phoenix Lament
「行こう、ハリー……」
「いやだ」
「ずっとここにいるわけにはいかねえ。ハリー……さあ、行こう……」
「いやだ」
ハリーはダンブルドアのそばを離れたくなかった。
どこにも行きたくなかった。ハリーの肩でハグリッドの手が震えていた。
そのとき別の声が言った。
「ハリー、行きましょう」
もっと小さくて、もっと暖かい手が、ハリーの手を包み、引き上げた。
ハリーはほとんど何も考えずに、引かれるままにその手に従った。
人混みの中を、無意識に歩きながら、漂ってくる花のような香りで、自分の手を引いて城に向かっているのがジニーだと、ハリーは初めて気がついた。
言葉にならない声々がハリーの心を打ちのめし、すすり泣きや泣き叫ぶ声が夜を突き刺した。
ジニーとハリーはただ歩き続け、玄関ホールに入る階段を上った。
ハリーの目の端に、人々の顔がぽんやりと見えた。
ハリーを見つめ、囁き、訝っている。二人が大理石の階段に向かうと、床に転がっているグリフィンドールのルビーが、滴った血のように光った。
「医務室に行くのよ」ジニーが言った。
「怪我はしてない」ハリーが言った。
「マクゴナガルの命令よ」ジニーが言った。
「みんなもそこにいるわ。ロンもハーマイオニーも、ルーピンも、みんな――」
恐怖が再びハリーの胸を掻き乱した。
置き去りにしてきた、ぐったりと動かない何人かのことを忘れていた。
「ジニー、ほかに誰が死んだの?」
「心配しないで。わたしたちは大丈夫」
「でも、『闇の印』が――マルフォイが誰かの死体を跨いだと言った――」
「ビルを跨いだのよ。だけど、大丈夫。生きてるわ」
しかし、ジニーの声のどこかに、ハリーは不吉なものを感じ取った。
「ほんとに?」
「もちろん本当よ……ビルは、ちょっと――ちょっと面倒なことになっただけ。グレイバックに襲われたの。マダム・ポンフリーは、ビルがいままでと同じ顔じゃなくなるだろうって……」ジニーの声が少し震えた。
「どんな後遺症があるか、はっきりとはわからないの――つまり、グレイバックは狼人間だし、でも、襲ったときは変身していなかったから」
「でも、ほかのみんなは……ほかにも死体が転がっていた……」
「ネビルが入院しているけど、マダム・ポンフリーは、完全に回復するだろうって。それからフリットウィック先生がノックアウトされたけど、でも大丈夫。ちょっとクラクラしているだけ。レイブンクロー生の様子を見にいくつて、言い張っていたわ。それに、『死喰い人』が一人死んだけど、大きなブロンドのやつが、あたりかまわず発射していた『死の呪文』に当たったの――ハリー、あなたのフェリックス薬を飲んでいなかったら、わたしたち全員死んでいたと思うわ。でも、全部すれすれに逸れていったみたい――」
病棟に着いて扉を押し開くと、ネビルが扉近くのベッドに横になっているのが目に入った。
眠っているのだろう。
ロン、ハーマイオニー、ルーナ、トンクス、ルーピンが、病棟のいちばん奥にあるもう一つのベッドを囲んでいた。
扉が開く音で、みんないっせいに顔を上げた。
ハーマイオニーが駆け寄って、ハリーを抱きしめた。
温かかった。やはりハーマイオニーに託して良かった。きっと最良の選択をしてくれたに違いない。
ルーピンも心配そうな顔で近寄ってきた。
「ハリー、大丈夫か?」
「僕は大丈夫……ビルはどうですか?」
誰も答えなかった。
ハーマイオニーの背中越しにベッドを見ると、ビルが寝ているはずの枕の上に、見知らぬ顔があった。
ひどく切り裂かれて不気味な顔だった。
マダム・ポンフリーが、きつい臭いのする緑色の軟膏を傷口に塗りつけていた。
マルフォイのセクタムセンプラの傷を、スネイプが杖でやすやすと治したことを、ハリーは思い出した。
「呪文か何かで、傷を治せないんですか?」ハリーが校医に開いた。
「この傷にはどんな呪文も効きません」マダム・ポンフリーが言った。
「知っている呪文は全部試してみましたが、狼人間の噛み傷には治療法がありません」
「だけど、満月のときに噛まれたわけじゃない」
ロンが、見つめる念力でなんとか治そうとしているかのように、兄の顔をじっと見ながら言った。
「グレイバックは変身してなかった。だから、ビルは絶対には――本物の――?」
ロンが戸惑いがちにルーピンを見た。
「ああ、ビルは本物の狼人間にはならないと思うよ」ルーピンが言った。
「しかし、まったく汚染されないということではない。呪いのかかった傷なんだ。完全には治らないだろう。そして――そしてビルはこれから、何らかの、狼的な特徴を持つことになるだろう」
「でも、ダンブルドアなら、何かうまいやり方を知ってるかもしれない」ロンが言った。
「ダンブルドアはどこだい?ビルはダンブルドアの命令で、あの狂ったやつらと戦ったんだ。ダンブルドアはビルに借りがある。ビルをこんな状態で放ってほおけないはずだI
「ロン――ダンブルドアは死んだわ」ジニーが言った。
「まさか!」
ハリーが否定してくれることを望むかのように、ルーピンの目がジニーからハリーへと激しく移動した。
しかしハリーが否定しないことがわかると、ビルのベッド脇の椅子にがっくりと座り込み、両手で顔を覆った。
ハリーはルーピンが取り乱すのを初めて見た。
見てはいけない個人の傷を見てしまったような気がして、ハリーはルーピンから目を逸らし、ロンを見た。
黙ってロンと目を見交わすことで、ハリーは、ジニーの言葉のとおりだと伝えた。
「どんなふうにお亡くなりになったの?」トンクスが小声で聞いた。
「どうしてそうなったの?」
「スネイプが殺した」ハリーが言った。
「僕はその場にいた。僕は見たんだ。僕たちは、『闇の印』が上がっていたので、天文台の塔に戻った……ダンブルドアは病気で、弱っていた。でも、階段を駆け上がってくる足音を聞いたとき、ダンブルドアはそれが罠だとわかったんだと思う。ダンブルドアは僕を金縛りにしたんだ。僕は何にもできなかった。『透明マント』をかぶっていたんだ――そしたらマルフォイが扉から現れて、ダンブルドアを『武装解除』した――」
ハーマイオニーが両手で口を覆った。
ロンはうめき、ルーナの唇が震えた。
「――次々に『死喰い人』がやって来た――そして、スネイプが――それで、スネイプがやった。『アバダ ケダブラ』を」ハリーはそれ以上続けられなかった。
マダム・ポンフリーがワッと泣き出した。
誰も校医のポンフリーに気を取られなかったが、ジニーだけがそっと言った。
「シーッ!黙って聞いて!」
マダム・ポンフリーは嶋咽を呑み込み、指を口に押し当ててこらえながら、目を見開いた。
暗闇のどこかで、不死鳥が鳴いていた。
ハリーが初めて聞く、恐ろしいまでに美しい、打ちひしがれた嘆きの歌だった。
そしてハリーは、以前に不死鳥の歌を聞いて感じたと同じように、その調べを自分の外にではなく、内側に感じた。
ハリー自身の嘆きが不思議にも歌になり、校庭を横切り、城の窓を貫いて響き渡っていた。
全員がその場に仔んで、歌に聞き入った。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
ハリーにはわからなかった。
自分たちの追悼の心を映した歌を聞くことで、痛みが少し和らいでいくのはなぜなのかもわからなかった。
しかし、病棟の扉が再び開いたときには、ずいぶん長い時間が経ったような気がした。
マクゴナガル先生が入ってきた。
みんなと同じように、マクゴナガル先生にも戦いの痕が残り、顔がすりむけ、ローブは破れていた。
「モリーとアーサーがここへ来ます」
その声で音楽の魔力が破られた。
全員が夢から醒めたように、再びビルを振り返ったり、目をこすったり、首を振ったりした。
「ハリー、何が起こったのですか?ハグリッドが言うには、あなたが、ちょうど――ちょうどそのことが起こったとき、ダンブルドア校長と一緒だったということですが。ハグリッドの話では、スネイプ先生が何かに関わって――」
「スネイプが、ダンブルドアを殺しました」ハリーが言った。
一瞬ハリーを見つめたあと、マクゴナガル先生の体がグラリと揺れた。
すでに立ち直っていたマダム・ポンフリーが走り出て、どこからともなく椅子を取り出し、マクゴナガルの体の下に押し込んだ。
「スネイプ」
椅子に腰を落としながら、マクゴナガル先生が弱々しく繰り返した。
「私たち全員が怪しんでいました……しかし、ダンブルドアは信じていた……いつも……スネイプが……信じられません……」
「スネイプは熟達した閉心術士だ」
ルーピンが似つかわしくない乱暴な声で言った。
「そのことはずっとわかっていた」
「しかしダンブルドアは、スネイプは誓ってわたしたちの味方だと言ったわ!」
トンクスが小声で言った。
「わたしたちの知らないスネイプの何かを、ダンブルドアは知っているに違いないって、わたしはいつもそう思っていた……」
「スネイプを信用するに足る鉄壁の理由があると、ダンブルドアは常々そう仄めかしていました」
マクゴナガルは、タータンの縁取りのハンカチを目頭に当て、溢れる涙を押えながら呟いた。
「もちろん……スネイプは、過去が過去ですから……当然みんなが疑いました……しかしダンブルドアが私にはっきりと、スネイプの悔恨は絶対に本物だとおっしゃいました……スネイプを疑う言葉は、一言も聞こうとなさらなかった!」
「ダンブルドアを信用させるのに、スネイプが何を話したのか、知りたいものだわ」トンクスが言った。
「僕は知ってる」ハリーが言った。
全員が振り返ってハリーを見つめた。
「スネイプがヴォルデモートに流した情報のおかげで、ヴォルデモートは僕の父さんと母さんを追い詰めたんだ。そしてスネイプはダンブルドアに、自分は何をしたのかわかっていなかった、自分がやったことを心から後悔している、二人が死んだことを申しわけなく思っているって、そう言ったんだ」
「それで、ダンブルドアはそれを信じたのか?」ルーピンが信じられないという声で言った。
「ダンブルドアは、スネイプがジェームズの死をすまなく思っていると言うのを信じた?スネイプはジェームズを憎んでいたのに……」
「それにスネイプは、僕の母さんのことも、これっぽっちも価値があるなんて思っちゃいなかった」ハリーが言った。
だって、母さんはマグル生まれだ……『穢れた血』って、スネイプは母さんのことをそう呼んだ……」
ハリーがどうしてそんなことを知っているのか、誰も尋ねなかった。
全員が恐ろしい衝撃を受け、すでに起きてしまった途方もない現実を消化しきれずに、呆然としているようだった。
「全部私の責任です」
突然マクゴナガル先生が言った。濡れたハンカチを両手でねじりながら、マクゴナガル先生は混乱した表情だった。
「私が悪いのです。今夜、フィリウスにスネイプを迎えにいかせました。応援に来てくれるようにと、私がスネイプを迎えにいかせたのです!危険な事態を知らせなければ、スネイプが『死喰い人』に加勢することもなかったでしょうに。フィリウスの知らせを受けるまでは、スネイプは、『死喰い人』があの場所に来ているとは知らなかったと思います。そういう予定だとは知らなかったと思います」
「あなたの責任ではない、ミネルバ」ルーピンがきっぱりと言った。
「我々全員が、もっと援軍がほしかった。スネイプが駆けつけてくると思って、みんな喜んだ」
「それじゃ、戦いの場に着いたとき、スネイプは『死喰い人』の味方についたんですか?」
ハリーは、スネイプの二枚舌も破廉恥な行為も、残らず詳しく知りたかった。
スネイプを憎み、復讐を誓う理由をもっと集めたいと熱くなった。
「何が起こったのか、私にははっきりわかりません」マクゴナガル先生は、気持が乱れているようだった。
「わからないことだらけです……ダンブルドアは、数時間学校を離れるから念のため廊下の巡回をするようにとおっしゃいました……リーマス、ビル、ニンファドーラを呼ぶようにと……そしてみんなで巡回しました。まったく静かなものでした。校外に通じる秘密の抜け道は、全部警備されていましたし、誰も空から侵入できないこともわかっていました。城に入るすべての入口には強力な魔法がかけられていました。いったい『死喰い人』がどうやって侵入したのか、私にはいまだにわかりません……」
「僕は知っています」
ハリーが言った。
そして「姿をくらますキャビネット棚」が対になっていること、魔法の通路が二つの棚を結ぶことを簡単に説明した。
「それで連中は、『必要の部屋』から入り込んだんです」
そんなつもりはなかったのに、ハリーは、ロンとハーマイオニーをちらりと見た。
二人とも打ちのめされたような顔だった。
「ハリー、僕、しくじった」ロンが沈んだ声で言った。
「僕たち、君に言われたとおりにしたんだ。『忍びの地図』を調べたら、マルフォイが地図で見つからなかったから、『必要の部屋』に違いないと思って、僕とジニーとネビルが見張りにいったんだ……だけど、マルフォイに出し抜かれた」
「見張りを始めてから一時間ぐらいで、マルフォイがそこから出てきたの」ジニーが言った。
「一人で、あの気持ちの悪い萎びた手を持って――」
「あの『輝きの手』だ」ロンが言った。
「ほら、持っている者だけに明かりが見えるってやつだ。憶えてるか?」
「とにかく」ジニーが続けた。
「マルフォイは、『死喰い人』を外に出しても安全かどうかを偵察に出てきたに違いないわ。
だって、わたしたちを見たとたん、何かを空中に投げて、そしたらあたりがまっ暗になって――」
「――ペルー製の『インスタント煙幕』だ」ロンが苦々しく言った。
「フレッドとジョージの。相手を見て物を売れって、あいつらに一言、言ってやらなきゃ」
「わたしたち、何もかも全部やってみたわ――ルーモス、インセンディオ」ジニーが言った。
「何をやっても暗闇を破れなかった。廊下から手探りで抜け出すことしかできなかったわ。その間に、誰かが急いでそばを通り過ぎる音がした。当然マルフォイは、あの『手』のおかげで見えたから、連中を誘導してたんだわ。でもわたしたちは、仲間に当たるかもしれないと思うと、呪文も何も使えやしなかった。明るい廊下に出たときには、連中はもういなかった」
「幸いなことに」ルーピンがシワガレ声で言った。
「ロン、ジニー、ネビルは、それからすぐあとに我々と出会って、何があったかを話してくれた。数分後に我々は、天文台の塔に向かっていた『死喰い人』を見つけた。マルフォイは、ほかにも見張りの者がいるとは、まったく予想していなかったらしい。いずれにせよ『インスタント煙幕』は尽きていたらしい。戦いが始まり、連中は散らばって、我々が追った。ギボンが一人抜け出して、塔に上がる階段に向かった――」
「『闇の印』を打ち上げるため?」ハリーが聞いた。
「ギボンが打ち上げたに違いない。そうだ。連中は『必要の部屋』を出る前に、示し合わせたに違いない」ルーピンが言った。
「しかしギボンは、そのままとどまって、 一人でダンブルドアを待ち受ける気にはならなかったのだろう。階下に駆け戻って、また戦いに加わったのだから。そして、私をわずかに逸れた『死の呪い』に当たった」
「それじゃ、ロンは、ジニーとネビルと一緒に『必要の部屋』を見張っていた」ハリーはハーマイオニーのほうを向いた。
「君は――?」
「スネイプの部屋の前、そうよ」
ハーマイオニーは目に涙を光らせながら、小声で言った。
「ルーナと一緒に。ずいぶん長いことそこにいたんだけど、何も起こらなかった……上のほうで何が起こっているのかわからなかったの。ロンが『忍びの地図』を持っていたし……フリットウィック先生が地下牢に走ってきたのは、もう真夜中近くだった。『死喰い人』が城の中にいるって、叫んでいたわ。私とルーナがそこにいることには、全然気がつかなかったのじゃないかと思う。まっすぐにスネイプの部屋に飛び込んで、スネイプに自分と一緒に来て加勢してくれと言っているのが聞こえたわ。それからドサッという大きな音がして、スネイプが部屋から飛び出してきたの。そして私たちのことを見て――そして――」
「どうしたんだ?」ハリーは先を促した。
「私、バカだったわ、ハリー!」
ハーマイオニーが上ずった声で噺くように言った。
「スネイプは、フリットウィック先生が気絶したから、私たちで面倒を看なさいって言った。そして自分は――自分は『死喰い人』との戦いの加勢に行くからって――」
ハーマイオニーは恥じて顔を覆い、指の間から話し続けたので声がくぐもっていた。
「私たち、フリットウィック先生を助けようとして、スネイプの部屋に入ったの。そしたら、先生が気を失って床に倒れていて……ああ、いまならはっきりわかるわ。スネイプがフリットウィックに『失神呪文』をかけたのよ。でも気がつかなかった。ハリー、私たち、気がつかなかったの。スネイプを、みすみす行かせてしまった!」
「君の責任じゃない」ルーピンがきっぱりと言った。
「ハーマイオニー、スネイプの言うことに従わなかったら、邪魔をしたりしたら、あいつはおそらく君もルーナも殺していただろう」
「それで、スネイプは上階に来た」ハリーは頭の中で、スネイプの動きを追っていた。
スネイプはいつものように黒いローブをなびかせ、大理有の階段を駆け上がりながらマントの下から杖を取り出す。
「そして、みんなが戦っている場所を見つけた……」
「わたしたちは苦戦していて、形勢不利だった」トンクスが低い声で言った。
「ギボンは死んだけれど、ほかの『死喰い人』は、死ぬまで戦う覚悟のようだった。ネビルが傷つき、ビルはグレイバックに噛みつかれた……まっ暗だった……呪いがそこら中に飛び交って……マルフォイが姿を消した。すり抜けて塔への階段を上ったに違いない……ほかの『死喰い人』も、マルフォイのあとから次々階段を駆け上がった。そのうちの一人が何らかの呪文を使って、上ったあとの階段に障壁を作った……ネビルが突進して、空中に放り投げられた――」
「僕たち、誰も突破できなかった」ロンが言った。
「それに、あのでっかい『死喰い人』のやつが、相変わらず、あたりかまわず呪詛を飛ばしていて、それがあちこちの壁に損ね返ってきたけど、きわどいところで僕たちには当たらなかった……」
「そしたらそこにスネイプがいた」トンクスが言った。
「そして、すぐいなくなった――」
「スネイプがこっちに向かってくるところを見たわ。でも、そのすぐあとに、大男の『死喰い人』の呪詛が飛んできて、危うくわたしに当たるところだった。それでわたし、ヒョイとかわしたとたんに、何もかも見失ってしまったの」ジニーが言った。
「私は、あいつが、呪いの障壁などないかのように、まっすぐ突っ込んでいくのを見た」ルーピンが言った。
「私もそのあとに続こうとしたのだが、ネビルと同じように撥ね返されてしまった……」
「スネイプは、私たちの知らない呪文を知っていたに違いありません」
マクゴナガルが呟くように言った。
「なにしろ――スネイプは『闇の魔術に対する防衛術』の先生なのですから……私は、スネイプが、塔に逃げ込んだ『死喰い人』を追いかけるのに急いでいるのだと思っていたのです……」
「追いかけてはいました」ハリーは激怒していた。
「でも阻止するためでなく、加勢するためです……それに、その障壁を通り抜けるには、きっと『闇の印』を持っていないといけないに違いない――それで、スネイプが下に戻ってきたときは、何があったんですか?」
「ああ、大男の『死喰い人』の呪詛で、天井の半分が落下してきたところだった。おかげで階段の障壁の呪いも破れた」ルーピンが言った。
「我々全員が駆け出した――とにかく、まだ立てる者はそうした――するとスネイプと少年が、埃の中から姿を現した!当然、我々は二人を攻撃しなかった――」
「二人を通してしまったんだ」トンクスが虚ろな声で言った。
「『死喰い人』に追われているのだと思って――そして、気がついたら、ほかの『死喰い人』とグレイバックが戻ってきていて、また戦いが始まった――スネイプが何か叫ぶのを聞いたように思ったけど、何と言っているのかわからなかった――」
「あいつは、『終わった』って叫んだ」ハリーが言った。
「やろうとしていたことを、やり遂げたんだ」
全員が黙り込んだ。フォークスの嘆きが、暗い校庭の上にまだ響き渡っていた。
夜の空気を震わせるその音楽を聞きながら、ハリーの頭に、望みもしない、考えたくもない思いが忍び込んできた……ダンブルドアの亡骸は、もう塔の下から運び出されたのだろうか?それからどうなるのだろう?どこに葬られるのだろう?ハリーはボケットの中で拳をギュッと握りしめた。
右手の指の関節に、偽の分霊箱のひんやりとした小さい塊を感じた。
病棟の扉が勢いよく開き、みんなを飛び上がらせた。
ウィーズリー夫妻が急ぎ足で入ってきた。
そのすぐ後ろに、美しい顔を恐怖に強張らせたフラーの姿があった。
「モリー――アーサー――」
マクゴナガル先生が飛び上がって、急いで二人を迎えた。
「お気の毒です――」
「ビル」めちゃめちゃになったビルの顔を見るなり、ウィーズリー夫人はマクゴナガル先生のそばを走り過ぎ、小声で呼びかけた。
「ああ、ビル!」
ルーピンとトンクスが急いで立ち上がり、身を引いて、ウィーズリー夫妻がベッドに近寄れるようにした。
ウィーズリー夫人は、息子に覆いかぶさり、血だらけの額に口づけした。
「息子はグレイバックに襲われたとおっしゃいましたかね?」
ウィーズリー氏が、気がかりでたまらないようにマクゴナガル先生に聞いた。
「しかし、変身してはいなかったのですね?すると、どういうことなのでしょう?ビルはどうなりますか?」
「まだわからないのです」マクゴナガル先生は、助けを求めるようにルーピンを見た。
「アーサー、おそらく、何らかの汚染はあるだろう」ルーピンが言った。
「珍しいケースだ。おそらく例がない……ビルが目を覚ましたとき、どういう行動に出るかはわからない……」
ウィーズリー夫人は、マダム・ポンフリーから嫌な臭いの軟膏を受け取り、ビルの傷に塗りこ込みはじめた。
「そして、ダンブルドアは……」ウィーズリー氏が言った。
「ミネルバ、本当かね……ダンブルドアは本当に……?」
マクゴナガル先生が頷いたとき、ハリーは、ジニーが自分のそばに来たのを感じて、ジニーを見た。
ジニーは少し目を細めて、フラーを凝視していた。
フラーは凍りついたような表情でビルを見下ろしていた。
「ダンブルドアが逝ってしまった」
ウィーズリー氏が呟くように言った。
しかし、ウィーズリー夫人の目は、長男だけを見ていた。
すすり泣きはじめたウィーズリー夫人の涙が、ズタズタになったビルの顔にポトポト落ちた。
「もちろん、どんな顔になったってかまわないわ……そんなことは……どうでもいいことだわ……でもこの子はとってもかわいい、ちっ――ちっちゃな男の子だった……いつでもとってもハンサムだった……それに、もうすぐ結――結婚するはずだったのに!」
「それ、どーいう意味でーすか?」突然フラーが大きな声を出した。
「どーいう意味でーすか?このいとが結婚するあーずだった?」
ウィーズリー夫人が、驚いたように涙に濡れた顔を上げた。
「でも――ただ――」
「ビルがもう、わたしと結婚したくなーいと思うのでーすか?」フラーが問い詰めた。
「こんな噛み傷のせーいで、このいとがもう、わたしを愛さなーいと思いまーすか?」
「いいえ、そういうことではなくて――」
「だって、このいとは、わたしを愛しまーす!」
フラーはすっと背筋を伸ばし、長い豊かなブロンドの髪をサッと後ろに払った。
「狼人間なんかが、ビルに、わたしを愛することをやめさせられませーん!」
「まあ、ええ、きっとそうでしょう」ウィーズリー夫人が言った。
「でも、もしかしたら――もうこんな――この子がこんな――」
「わたしが、このいとと結婚したくなーいだろうと思ったのでーすか?それとも、もしかして、そうなって欲しいと思いまーしたか?」フラーは鼻の穴を膨らませた。
「このいとがどんな顔でも、わたしが気にしまーすか?わたしだけで十分ふーたくぶん美しいと思いまーす!傷痕は、わたしのアズバンドが勇敢だという印でーす!それに、それはわたしがやりまーす!」
フラーは激しい口調でそう言うなり、軟膏を奪ってウィーズリー夫人を押しのけた。
ウィーズリー夫人は、夫に倒れ掛かり、フラーがビルの傷を拭うのを、なんとも奇妙な表情で見つめていた。
誰も何も言わなかった。
ハリーは身動きすることさえ遠慮した。
みんなと同じように、ハリーもドカーンと爆発が来る時を待っていた。
「大叔母のミュリエルが――」
長い沈黙のあと、ウィーズリー夫人が口を開いた。
「とても美しいティアラを持っているわ――ゴブリン製のよ――あなたの結婚式に貸していただけるように、大叔母を説得できると恩うわ。大叔母はビルが大好きなの。それにあのティアラは、あなたの髪にとても似合うと思いますよ」
「ありがとう」フラーが硬い口調で言った。
「それは、きーっと、美しいでしょう」
そして――ハリーには、どうしてそうなったのかよくわからなかったが――二人の女性は抱き合って泣き出した。
何がなんだかまったくわからず、いったい世の中はどうなっているんだろうと訝りながら、ハリーは振り返った。
ロンもハリーと同じ気持らしく、ポカンとしていたし、ジニーとハーマイオニーは、呆気に取られて顔を見合わせていた。
「わかったでしょう!」
張り詰めた声がした。
トンクスがルーピンを睨んでいた。
「フラーはそれでもビルと結婚したいのよ。噛まれたというのに!そんなことはどうでもいいのよ!」
「次元が違う」
ルーピンはほとんど唇を動かさず、突然表情が強張っていた。
「ビルは完全な狼人間にはならない。事情がまったく――」
「でも、わたしも気にしないわ。気にしないわ!」
トンクスは、ルーピンのローブの胸元をつかんで揺すぶった。
「百万回も、あなたにそう言ったのに……」
トンクスの守護霊やくすんだ茶色の髪の意味、誰かがグレイバックに襲われたという噂を聞きつけてダンブルドアに会いに駆けつけた理由、ハリーには突然、そのすべてがはっきりわかった。
トンクスが愛したのは、シリウスではなかったのだ……。
「私も、君に百万回も言った」
ルーピンはトンクスの目を避けて、床を見つめながら言った。
「私は君にとって、歳を取りすぎているし、貧乏すぎる……危険すぎる……」
「リーマス、あなたのそういう考え方はばかげているって、私は最初からそう言ってますよ」
ウィーズリー夫人が、抱き合ったフラーの背中を軽く叩きながら、フラーの肩越しに言った。
「ばかげてはいない」ルーピンがしっかりした口調で言った。
「トンクスには、誰か若くて健全な人がふさわしい」
「でも、トンクスは君がいいんだ」ウィーズリー氏が、小さく微笑みながら言った。
「それに、結局のところ、リーマス、若くて健全な男が、ずっとそのままだとはかざらんよ」
ウィーズリー氏は、二人の間に横たわっている息子のほうを悲しそうに見た。
「いまは……そんなことを話す時じゃない」
ルーピンは、落ち着かない様子で周りを見回し、みんなの目を避けながら言った。
「ダンブルドアが死んだんだ……」
「世の中に、少し愛が増えたと知ったら、ダンブルドアは誰よりもお喜びになったでしょう」
マクゴナガル先生が素っ気なく言った。
そのとき扉が再び開いて、ハグリッドが入ってきた。髭や髪に埋もれてわずかしか見えない顔が、泣き腫らしてぐしょ濡れだった。巨大な水玉模様のハンカチを握りしめ、ハグリッドは全身を震わせて泣いていた。
「す……すませました、先生」ハグリッドは声を詰まらせた。
「俺が、は――運びました。スプラウト先生は子どもたちをベッドに戻しました。フリットウィック先生は横になっちょりますが、すーぐよくなるっちゅうとります。スラグホーン先生は、魔法省に連絡したと言っちょります」
「ありがとう、ハグリッド」
マクゴナガル先生はすぐさま立ち上がり、ビルの周りにいる全員を見た。
「私は、魔法省が到着したときに、お迎えしなければなりません。ハグリッド、寮監の先生方に――スリザリンはスラグホーンが代表すればよいでしょう――直ちに私の事務所に集まるようにと知らせてください。あなたも来てください」
ハグリッドが頷いて向きを変え、重い足取りで部屋を出ていった。そのときマクゴナガル先生がハリーを見下ろして言った。
「寮監たちに会う前に、ハリー、あなたとちょっとお話があります。一緒に来てください……」
ハリーは立ち上がって、ロン、ハーマイオニー、ジニーに「あとでね」と呟くように声をかけ、マクゴナガル先生に従って病棟を出た。
外の廊下は人気もなく、聞こえる音と言えば、遠くの不死鳥の歌声だけだった。
しばらくしてハリーは、マクゴナガル先生の事務所ではなく、ダンブルドアの校長室に向かっていることに気がついた。
一瞬、間を置いて、ハリーはやっと気づいた。
そうだ、マクゴナガル先生は副校長だった……当然いまは、校長になったのだ……
ガーゴイルの護る部屋は、いまやマクゴナガル先生の部屋だった……。
二人は黙って動く螺旋階段を上り、円形の校長室に入った。
校長室は変わってしまったかもしれないと、ハリーは漠然と考えていた。
もしかしたら黒い幕で覆われているかもしれないし、ダンブルドアの亡骸が横たわっているかもしれない。
しかし、その部屋は、ほんの数時間前、ハリーとダンブルドアが出発したときとほとんど変わっていないように見えた。
銀の小道具類は、華奢な脚のテーブルの上でくるくる回り、ポッポッと煙を上げていたし、グリフィンドールの剣は、ガラスのケースの中で月光を受けて輝き、組分け帽子は机の後ろの棚に載っていた。
しかし、フォークスの止まり木は空っぽだった。
不死鳥は校庭に向かって嘆きの唄を歌い続けていた。
そして、ホグワーツの歴代の校長の肖像画に、新しい一枚が加わっていた――ダンブルドアが机を見下ろす金の額縁の中でまどろんでいる。
半月メガネを曲がった鼻に載せ、穏やかで和やかな表情だ。
その肖像画を一瞥した後、マクゴナガル先生は自分に活を入れるかのような、見慣れない動作をした。
それから机の向こう側に移動し、ハリーと向き合った。
くっきりと皺が刻まれた、張り詰めた顔だった。
「ハリー」先生が口を開いた。
「ダンブルドア先生と一緒に学校を離れて、今夜何をしていたのかを知りたいものです」
「お話しできません、先生」
ハリーが言った。聞かれることを予想し、答えを準備していた。
ここで、この部屋で、ダンブルドアは、ロンとハーマイオニー以外には、授業の内容を打ち明けるなとハリーに言ったのだ。
「ハリー、重要なことかもしれませんよ」マクゴナガル先生が言った。
「そうです」ハリーが答えた。
「とても重要です。でも、ダンブルドア先生は誰にも話すなとおっしゃいました」
マクゴナガル先生は、ハリーを睨みつけた。
「ポッター」呼び方が変わったことにハリーは気がついた。
「ダンブルドア校長がお亡くなりになったことで、事情が少し変わったことはわかるはずだと思いますが――」
「そうは思いません」ハリーは肩をすくめた。
「ダンブルドア先生は、自分が死んだら命令に従うのをやめろとはおっしゃいませんでした」
「しかし――」
「でも、魔法省が到着する前に、 一つだけお知らせしておいたほうがよいと思います。マダム・ロスメルタが『服従の呪文』をかけられています。マルフォイや『死喰い人』の手助けをしていました。だからネックレスや蜂蜜酒が――」
「ロスメルタ?」
マクゴナガル先生は信じられないという顔だった。
しかしそれ以上何も言わないうちに、扉をノックする音がして、スプラウト、フリットウィック、スラグホーン先生が、ゾロゾロと入ってきた。
そのあとから、ハグリッドが巨体を悲しみに震わせ、涙をぼろぼろ流しながら入ってきた。
「スネイプ!」
いちばんショックを受けた様子のスラグホーンが、青い額に汗を渉ませ、吐き捨てるように言った。
「スネイプ!わたしの教え子だ!あいつのことは知っているつもりだった!」
しかし、誰もそれに反応しないうちに、壁の高いところから、鋭い声がした。
短い黒い前髪を垂らした土気色の顔の魔法使いが、空の額縁に戻ってきたところだった。
「ミネルバ、魔法大臣は間もなく到着するだろう。大臣は魔法省から、いましがた『姿くらまし』した」
「ありがとう、エバラード」
マクゴナガル先生は礼を述べ、急いで寮監の先生方のほうを向いた。
「大臣が着く前に、ホグワーツがどうなるかをお話ししておきたいのです」
マクゴナガル先生が早口に言った。
「私個人としては、来年度も学校を続けるべきかどうか、確信がありません。一人の教師の手にかかって校長が亡くなったのは、ホグワーツの歴史にとって、とんでもない汚点です。恐ろしいことです」
「ダンブルドアは間違いなく、学校の存続をお望みだったろうと思います」スプラウト先生が言った。
「たった一人でも学びたい生徒がいれば、学校はその生徒のために存続すべきでしょう」
「しかし、こういうことのあとで、一人でも生徒が来るだろうか?」
スラグホーンが、シルクのハンカチを額の汗に押し当てながら言った。
「親が子どもを家に置いておきたいと望むだろうし、そういう親を責めることはできない。個人的には、ホグワーツがほかと比べてより危険だとは思わんが、母親たちもそのように考えるとは期待できないでしょう。家族をそばにおきたいと願うでしょうな。自然なことだ」
「私も同感です」マクゴナガル先生が言った。
「それに、いずれにしても、ダンブルドアがホグワーツ閉校という状況を一度も考えたことがないというのは、正しくありません。『秘密の部屋』が再び開かれたとき、ダンブルドアは学校閉鎖を考えられました――それに、私にとっては、ダンブルドアが殺されたことのほうが、スリザリンの怪物が城の内奥に隠れ棲んでいることよりも、穏やかならざることです……」
「理事たちと相談しなくてはなりませんな」フリットウィック先生が小さなキーキー声で言った。
額に大きな青症ができていたが、スネイプの部屋で倒れたときの傷は、それ以外にないようだった。
「定められた手続きに従わねばなりません。拙速に決定すべきことではありません」
「ハグリッド、何も言わないですね」マクゴナガル先生が言った。
「あなたはどう思いますか。ホグワーツは存続すべきですか?」
先生方のやり取りを、大きな水玉模様のハンカチを当てて泣きながら、黙って聞いていたハグリッドが、まっ赤に泣き腫らした目を上げて、シワガレ声で言った。
「俺にはわかんねえです、先生……寮監と校長が決めるこってす……」
「ダンブルドア校長は、いつもあなたの意見を尊重しました」
マクゴナガル先生が優しく言った。
「私もそうです」
「そりゃ、俺はとどまります」
ハグリッドが言った。
大粒の涙が目の端からポロポロこぼれ続け、モジャモジャ髭に滴り落ちていた。
「俺の家です。十三歳のときから俺の家だったです。俺に教えてほしいっちゅう子どもがいれば、俺は教える。だけんど……俺にはわからねえです……ダンブルドアのいねえホグワーツなんて……」
ハグリッドはゴクリと唾を飲み込み、またハンカチで顔を隠した。
みんなが黙り込んだ。
「わかりました」
マクゴナガル先生は窓から校庭をちらりと眺め、大臣がもうやってくるかどうかを確かめた。
「では、私はフィリウスと同意見です。理事会にかけるのが正当であり、そこで最終的な結論が出るでしょう」
「さて、学生を家に帰す件ですが……一刻も早いほうがよいという意見があります。必要とあらば、明日にもホグワーツ特急を手配できます――」
「ダンブルドアの葬儀はどうするんですか?」ハリーはついに口を出した。
「そうですね……」
マクゴナガル先生の声が震え、きびきびした調子が少し翳った。
「私――私は、ダンブルドアが、このホグワーツに眠ることを望んでおられたのを知っています――」
「それなら、そうなりますね?」ハリーが激しく言った。
「魔法省がそれを適切だと考えるならです」マクゴナガル先生が言った。
「これまで、ほかのどの校長もそのようには――」
「ダンブルドアほどこの学校にお尽くしなきった校長は、ほかに誰もいねえ」
ハグリッドがうめくように言った。
「ホグワーツこそ、ダンブルドアの最後の安息の地になるべきです」フリットウィック先生が言った。
「そのとおり」スプラウト先生が言った。
「それなら」ハリーが言った。
「葬儀が終わるまでは、生徒を家に帰すべきではあくません。みんなもきっと――」
最後の言葉が喉に引っかかった。
しかし、スプラウト先生が引き取って続けた。
「お別れを言いたいでしょう」
「よくぞ言った」フリットウィック先生がキーキー言った。
「よくぞ言ってくれた!生徒たちは敬意を表すべきだ。それがふさわしい。家に帰す列車は、そのあとで手配できる」
「賛成」スプラウト先生が大声で言った。
「わたしも……まあ、そうですな……」
スラグホーンがかなり動揺した声で言った。
ハグリッドは、押し殺したすすり泣きのような声で賛成した。
「大臣が来ます」
校庭を見つめながら、突然マクゴナガル先生が言った。
「大臣は……どうやら代表団を引き連れています……」
「先生、もう行ってもいいですか?」ハリーがすぐさま聞いた。
今夜はルーファス・スクリムジョールに会いたくもないし、質問されるのも嫌だった。
「よろしい」マクゴナガル先生が言った。
「それに、お急ぎなさい」
マクゴナガル先生はつかつかと扉まで歩いていって、ハリーのために扉を開けた。
ハリーは急いで螺旋階段を下り、人気のない廊下に出た。
天文台の塔の上に、『透明マント』を置きっぱなしにしていたが、何の問題もなかった。
ハリーが通り過ぎるのを見ている人は、誰もいない。
フィルチも、ミセス・ノリスも、ビープズさえもいなかった。
グリフィンドールに向かう通路に出るまで、ハリーは誰にも出会わなかった。
「本当なの?」
ハリーが近づくと、「太った婦人」が小声で聞いた。
「ほんとうにそうなの?ダンブルドアが――死んだって?」
「本当だ」ハリーが言った。
「太った婦人」は声を上げて泣き、合言葉を待たずに人口を開けてハリーを通した。
ハリーが思ったとおり、談話室は人で一杯だった。ハリーが肖像画の穴を登って入っていくと、部屋中がしんとなった。
近くに座っているグループの中に、ディーンとシェーマスがいるのが見えた。
寝室には誰もいないか、またはそれに近い状態に違いない。
ハリーは誰とも口をきかず、誰とも目を合わさずにまっすぐ談話室を横切って、男子寮へのドアを通り寝室に行った。
期待どおり、ロンがハリーを待っていた。
服を着たままでベッドに腰掛けていた。
ハリーも自分の四本柱のベッドに掛け、しばらくは、ただ互いに見つめ合うだけだった。
「学校の閉鎖のことを話しているんだ」ハリーが言った。
「ルーピンがそうだろうって言ってた」ロンが言った。
しばらく沈黙が続いた。
「それで?」
家具が聞き耳を立てているとでも思ったのか、ロンが声をひそめて聞いた。
「見つけたのか。……手に入れたのか?あれを――分霊箱を?」
ハリーは首を横に握った。
黒い湖で起こったすべてのことが、いまでは昔の悪夢のように思われた。
本当に起こったことだろうか?ほんの数時間前に?
「手に入れなかった?」ロンはがっくりしたように言った。
「そこにはなかったのか?」
「いや」ハリーが言った。
「誰かに盗られたあとで、代わりに偽物が置いてあった」
「もう盗られてた?」
ハリーは、黙って偽物のロケッーをポケットから取り出し、開いてロンに渡した。
詳しい話はあとでいい……今夜はどうでもいいことだ……最後の結末以外は。
意味のない冒険の未、ダンブルドアの生命が果てたこと以外は……。
「R・A・B」ロンが呟いた。「でも、誰なんだ?」
「さあ」ハリーは服を着たままベッドに横になり、ぼんやりと上を見つめた。R・A・Bには、何の興味も感じなかった。
何に対しても、二度と再び興味など感じることはないのかもしれない。
横たわっていると、突然、校庭が静かなのに気がついた。
フォークスが歌うのをやめていた。
なぜそう思ったのかはわからなかったが、ハリーは不死鳥が去ってしまったことを悟った。
永久にホグワーツから去ってしまったのだ。
ダンブルドアが学校を去り、この世を去ったと同じように……ハリーから去ってしまったと同じように。
第30章 白い墓
The White Tomb
授業はすべて中止され、試験は延期された。
何人かの生徒たちが、それから二日のうちに急いで両親にホグワーツから連れ去られた――双子のパチル姉妹は、ダンブルドアが亡くなった次の日の朝食の前にいなくなったし、ザカリアス・スミスは、気位の高そうな父親に護衛されて城から連れ出された。
一方シェーマス・フィネガンは、母親と一緒に帰ることを真っ向から拒否した。
二人は玄関ホールで怒鳴り合ったが、結局、母親が折れて、シェーマスは葬儀が終わるまで学校に残ることになった。
ダンブルドアに最後のお別れを告げようと、魔法使いや魔女たちがホグズミード村に押し寄せたため、母親がホグズミードに宿を取るのに苦労したと、シェーマスはハリーとロンに話した。
葬儀の前日の午後遅く、家一軒ほどもある大きなパステル・ブルーの馬車が、十二頭の巨大なパロミノの天馬に牽かれて空から舞い降り、禁じられた森の端に着陸して、それを初めて目にした低学年の生徒たちが、ちょっとした興奮状態になった。小麦色の肌に黒髪の、巨大な女性が馬車から降り立ち、待ち受けていたハグリッドの腕の中に飛び込んだのを、ハリーは窓から見た。
一方、魔法大臣率いる魔法省の役人たちは、城の中に泊った。
ハリーは、その誰とも顔を合わせないように細心の注意を払っていた。
遅かれ早かれ、ダンブルドアが最後にホグワーツから外出したときの話をしろと、また言われるに違いないからだ。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、そしてジニーは、ずっと一緒に過ごした。
四人の気持ちとは裏腹の、好い天気だった。
ダンブルドアが生きていたなら、ジニーの試験も終わり、宿題の重荷からも解放されたこの学期末の時間をどんなに違う気持ちで過ごせたことか……。
ハリーにはどうしても言わなければならないこと、そうするのが正しいとわかっていることがあったが、容易には切り出せず、先延ばしにしていた。
自分にとっていちばんの心の安らぎになっているものを失うのは、あまりにも辛かったからだ。
四人は一日に二度、病棟に見舞いにいった。
ネビルは退院したが、ビルはまだマダム・ポンフリーの手当てを受けていた。
傷痕は相変わらずひどかった。
実のところ、はっきりとマッド・アイ・ムーディに似た顔になっていたが、幸い両眼と両脚はついていた。
しかし、人格は前と変わりないようだった。
一つだけ変わったと思われるのは、ステーキのレアを好むようになったことだ。
「……それで、このいとがわたしと結婚するのは、とーてもラッキーなことでーすね」
フラーは、ビルの枕を直しながらうれしそうに言った。
「なぜなら、イギリース人、お肉を焼きすーぎます。私、いくつもそう言ってましたね」
「ビルが間違いなくあの女と結婚するんだってこと、受け入れるしかないみたいね」
その夜、四人でグリフィンドールの談話室の窓際に座り、開け放した窓から夕暮れの校庭を見下ろしながら、ジニーがため息をついた。
「そんなに悪い人じゃないよ」ハリーが言った。
「ブスだけどね」ジニーが眉を吊り上げたので、ハリーが慌ててつけ加えると、ジニーはしかたなしにクスクス笑った。
「そうね、ママが我慢できるなら、わたしもできると恩うわ」
「ほかに誰か知ってる人が死んだかい?」
「夕刊予言者新聞」に目を通していたハーマイオニーに、ロンが聞いた。
ハーマイオニーは、無理に力んだようなロンの声の調子にたじろいだ。
「いいえ」新聞を畳みながら、ハーマイオニーが咎めるように言った。
「スネイプを追っているけど、まだ何の手がかりも……」
「そりゃ、ないだろう」この話題が出るたびに、ハリーは腹を立てていた。
「ヴォルデモートを見つけるまでは、スネイプも見つからないさ。それに魔法省の連中はいままで一度だって見つけたためしがないじゃないか……」
「もう寝るわ」ジニーが欠伸しながら言った。
「わたし、あまりよく寝てないの……あれ以来……少し眠らなくちゃ」
ジニーはハリーにキスして(ロンはあてつけがましくそっぽを向いた)、
あとの二人におやすみと手を振り、女子寮に帰っていった。
寮のドアが閉まったとたん、ハーマイオニーが、いかにもハーマイオニーらしい表情で、ハリーのほうに身を乗り出した。
「ハリー、私、発見したことがあるの。今朝、図書室で……」
「R・A・B?」ハリーが椅子に座り直した。
これまでのハリーなら、興奮したり好奇心に駆られたり、謎の奥底が知りたくて、もどかしい思いをしたものだったが、もはやそのようには感じられなくなっていた。
まず本物の分霊箱に関する真実を知るのが任務だ、ということだけはわかっていた。
それができたとき初めて、目の前に伸びる曲折した暗い道を、少しは先に進むことができるだろう。
ハリーが、ダンブルドアと一緒に歩き出した道程だ。
その旅をひとりで続けなければならないのだということを、ハリーはいま、思い知っていた。
あと四個もの分霊箱が、どこかにある。
その一つひとつを探し出して消滅させなければ、ヴォルデモート自身を殺す可能性さえない。
ハリーは、分霊箱の名前を列挙することで、それを手の届くところに持ってくることができるかのように、何度も復唱していた。
ロケット……カップ……蛇……グリフィンドールかレイブンクロー縁の品――ロケット……カップ……蛇……グリフィンドールかレイブンクロー縁の品――。
このマントラのような呪文は、ハリーが眠り込むときに、頭の中で脈打ちはじめるらしい。
カップやロケットや謎の品々がびっしりと夢に現れ、 しかもどうしても近づけない。
ダンブルドアが縄梯子を出して助けようとするが、ハリーが梯子を登りはじめたとたんに梯子は何匹もの蛇に変わってしまう……。
ダンブルドアが亡くなった次の朝、ハリーは、ロケットの中のメモをハーマイオニーに見せていた。
ハーマイオニーも、そのときは、これまで読んだ本に川てきた、あまり有名でない魔法使いの中に、その頭文字に当てはまる人物を思いつかなかった。
しかしそれ以来、ハーマイオニーは、何も宿題がない生徒にしてはやや必要以上に足しげく、図書室に通っていたのだ。
「違うの」ハーマイオニーは悲しそうに答えた。
「努力してるのよ、ハリー。でも、何にも見つからない……同じ頭文字で、そこそこ名前の知られている魔法使いは二人いるわ――ロザリンド・アンチゴーネ・バングズ……ルパート・『斧振り男』(アクスバンガー)・ブルックスタントン……でも、この二人はまったく当てはまらないみたい。あのメモから考えると、分霊箱を盗んだ人物は、ヴォルデモートを知っていたらしいけど、バングズも『斧振り男』も、ヴォルデモートとはまったく関係がないの……そうじゃなくて、実は、あのね……スネイプのことなの」
ハーマイオニーは、その名前を口にすることさえ過敏になっているようだった。
「あいつがどうしたって?」ハリーはまた椅子に沈み込んで、重苦しく開いた。
「ええ、ただね、『半純血のプリンス』について、ある意味では私が正しかったの」
ハーマイオニーは遠慮がちに言った。
「ハーマイオニー、蒸し返す必要があるのかい?僕がいま、どんな思いをしているかわかってるのか?」
「ううん――違うわ――ハリー、そういう意味じゃないの!」
あたりを見回して、誰にも聞かれていないかどうかを確かめながら、ハーマイオニーが慌てて言った。
「あの本が、一度はアイリーン・プリンスの本だったっていう私の考えが、正しかったっていうだけ。あのね……アイリーンはスネイプの母親だったの!」
「あんまり美人じゃないと思ってたよ」ロンが言ったが、ハーマイオニーは無視した。
「ほかの古い『予言者新聞』を調べていたら、アイリーン・プリンスがトピアス・スネイプっていう人と結婚したという、小さなお知らせが載っていたの。
それからしばらくして、またお知らせ広告があって、アイリーンが出産したって――」
「――殺人者をだろ」ハリーが吐き捨てるように言った。
「ええ……そうね」ハーマイオニーが言った。
「だから……私がある意味では正しかったわけ。スネイプは『半分プリンス』であることを誇りにしていたに違いないわ。わかる?『予言者新聞』によれば、トピアス・スネイプはマグルだったわ」
「ああ、それでぴったり当てはまる」ハリーが言った。
「スネイプは、ルシウス・マルフォイとか、ああいう連中に認められようとして、純血の血筋だけを誇張したんだろう……ヴォルデモートと同じだ。純血の母親、マグルの父親……純血の血統が半分しかないのを恥じて、『闇の魔術』を使って自分を恐れさせようとしたり、自分で仰々しい新しい名前をつけたり――ヴォルデモート『卿』――半純血の『プリンス』――ダンブルドアはどうしてそれに気づかなかったんだろう――?」
ハリーは言葉を途切らせ、窓の外に目をやった。
ダンブルドアがスネイプに対して、許しがたいほどの信頼を置いていたということが、どうしても頭から振り払えない……しかし、ハリー自身が同じような思い込みをしていたことを、ハーマイオニーがいま、期せずして思い出させてくれた……走り書きの呪文がだんだん悪意のこもったものになってきていたのに、ハリーは、あんなに自分を助けてくれた、あれほど賢い男の子が悪人のはずはないと、頑なにそう考えていた。
自分を助けてくれたり……いまになってみれば、それは耐え難い思いだった。
「あの本を使っていたのに、スネイプがどうして君を突き出さなかったのか、わかんないなあ」ロンが言った。
「君がどこからいろいろ引っぱり出してくるのか、わかってたはずなのに」
「あいつはわかってたさ」ハリーは苦い思いで言った。
「僕がセクタムセンプラを使ったとき、あいつにはわかっていたんだ。『開心術』を使う必要なんかなかった……それより前から知っていたかもしれない。スラグホーンが、魔法薬学で僕がどんなに優秀かを吹聴していたから……自分の使った古い教科書を、棚の奥に置きっぱなしになんか、しておくべきじゃなかったんだ。そうだろう?」
「だけど、どうして君を突き出さなかったんだろう?」
「あの本との関係を、知られたくなかったんじゃないかしら」ハーマイオニーが言った。
「ダンブルドアがそれを知ったら、不快に思われたでしょうから。それに、スネイプが自分の物じゃないってしらを切っても、スラグホーンはすぐに筆跡を見破ったでしょうね。とにかく、あの本は、スネイプの昔の教室に置き去りになっていたものだし、ダンブルドアは、スネイプの母親が『プリンス』という名前だったことを知っていたはずよ」
「あの本を、ダンブルドアに見せるべきだった」ハリーが言った。
「ヴォルデモートは、学生のときでさえ邪悪だったと、ダンブルドアがずっと僕に教えてくれていたのに。そして僕は、スネイプも同じだったという証拠を手にしていたのに――」
「『邪悪』という言葉は強すぎるわ」ハーマイオニーが静かに言った。
「あの本が危険だって、さんざん言ったのは君だぜ!」
「私が言いたいのはね、ハリー、あなたが自分を貴めすぎているということなの。『プリンス』がひねくれたユーモアのセンスの持ち主だとは思ったけど、殺人者になりうるなんて、まったく思わなかったわ……」
「誰も想像できなかったよ。スネイプが、ほら……あんなことをさ」ロンが言った。
それぞれの思いに沈みながら、三人とも黙り込んだ。
しかしハリーは、二人とも白分と同じことを考えているのを知っていた。
明日の朝、ダンブルドアの亡骸が葬られるのだということを。
ハリーは、葬儀というものに参列したことがなかった。
シリウスが死んだときは、埋葬する亡骸がなかった。
何が行われるのか予想できず、ハリーは何を目にするのか、どういう気持になるのかが、少し心配だった。
葬儀が終われば、ダンブルドアの死が自分にとって、もっと現実的なものになるのだろうか。
ときどき、その恐ろしい事実が自分を押しっぶしそうになるときはあった。
しかし、ハリーの心には、何も感じられない空白の時間が広がっていて、城の中で誰もそれ以外の話はしていないにもかかわらず、その空白の時間の中では、ダンブルドアがいなくなったことがいまだに信じられなかった。
たしかに、シリウスのときとは違い、何か抜け穴はないか、なんとかダンブルドアが戻ってくる道はないかと、必死で探したりはしなかった……ハリーは、ポケットの中の偽の分霊箱の、冷たい鎖をまさぐった。
お守りとしてではなく、それがどれほどの代償を払ったものなのか、これから何をなすべきなのかを思い出させてくれるものとして、ハリーはどこに行くにもこれを持ち歩いていた。
次の日、ハリーは荷造りのため早く起きた。
ホグワーツ特急は、葬儀の一時間後に出発することになっていた。
一階に下りていくと、大広間は沈痛な雰囲気に包まれていた。
全員が式服を着て、誰もが食欲を失っているようだった。
マクゴナガル先生は、教職員テーブルの中央にある王座のような椅子を、空席のままにしていた。
ハグリッドの椅子も空席だった。
たぶん、朝食など見る気もしないのだろうと、ハリーは思った。
しかしスネイプの席には、ルーファス・スクリムジョールが無造作に座っていた。
その黄ばんだ眼が大広間を見渡したとき、ハリーは視線を合わせないようにした。
スクリムジョールが自分を探している気がして、落ち着かなかった。
スクリムジョールの随行者の中に、赤毛で角縁メガネのパーシー・ウィーズリーがいるのを、ハリーは見つけた。
ロンは、パーシーに気づいた様子を見せなかったが、やたらと憎しみを込めて鰊の燻製を突き刺した。
スリザリンのテーブルでは、クラップとゴイルがひそひそ話をしていた。
図体の大きな二人なのに、その間で威張り散らしている背の高い蒼白い顔のマルフォイがいないと、奇妙にしょんぼりしているように見えた。
ハリーは、マルフォイのことをあまり考えていなかった。
もっぱら、スネイプだけを憎悪していた。
しかし、塔の屋上でマルフォイの声が恐怖に震えたことも、ほかの死喰い人がやってくる前に杖を下ろしたことも忘れてはいなかった。
ハリーには、マルフォイが、ダンブルドアを殺しただろうとは思えなかった。
マルフォイが、闇の魔術の虜になったことは嫌悪していたが、いまではそれだけでなく、ほんのわずかに哀れみが混じっていた。
マルフォイは、いまどこにいるのだろう。
ヴォルデモートは、マルフォイも両親をも殺すと脅して、マルフォイに何をさせようとしているのだろう?考えに耽っていたハリーは、ジニーに脇腹を小突かれて、我に返った。
マクゴナガル先生が立ち上がっていた。
大広間の悲しみに沈んだざわめきが、たちまちやんだ。
「まもなく時間です」マクゴナガル先生が言った。
「それぞれの寮監に従って、校庭に出てください。グリフィンドール生は、私についておいでなさい」
全員がほとんど無言で、各寮のベンチから立ち上がり、ゾロゾロと行列して歩き出した。
スリザリンの列の先頭に立つスラグホーンを、ハリーがちらりと見ると、銀色の刺繍を施した、豪華なエメラルド色の長いローブをまとっていた。
ハッフルパフの寮監であるスプラウト先生がこんなにこざっぱりしているのを、ハリーは見たことがなかった。
帽子には唯の一つも継ぎがない。
玄関ホールに出ると、マダム・ピンスが、膝まで届く分厚い黒ベールをかぶって、フィルチの脇に立っていた。
フィルチのほうは、樟脳の匂いがプンプンする、古くさい黒の背広にネクタイ姿だった。
正面扉から石段に踏み出したとき、ハリーは全員が湖に向かっているのがわかった。
太陽が、暖かくハリーの顔を撫でた。
マクゴナガル先生のあとから黙々と歩き、何百という椅子が何列も何列も並んでいる場所に着いた。
中央に一本の通路が走り、正面に大理石の台が設えられて、椅子は全部その台に向かって置かれている。
あくまでも美しい夏の日だった。
椅子の半分ほどがすでに埋まり、質素な身なりから格式ある服装まで、老若男女、ありとあらゆる種類の追悼者が着席していた。
ほとんどが見知らぬ参列者たちだったが、わずかに「不死鳥の騎士団」のメンバーを含む、何人かは見分けられた。
キングズリー・シャックルボルト、マッド・アイ・ムーディ、不思議なことに髪が再びショッキング・ピンクになったトンクスは、リーマス・ルーピンと手をつないでいる。
ウィーズリー夫妻、フラーに支えられたビル、その後ろには、黒いドラゴン革の上着を着たフレッドとジョージがいた。
さらに、一人で二人半分の椅子を占領しているマダム・マクシーム、「漏れ鍋」の店主のトム、ハリーの近所に住んでいるスクイブのアラベラ・フィッグ、「妖女シスターズ」グループの毛深いベース奏者、「夜の騎士バス」の運転手のアーニー・プラング、「ダイアゴン横丁」で洋装店を営むマダム・マルキン。
ハリーが、顔だけは知っている人たちも参列している。
ホッグズ・ヘッドのバーテン、ホグワーツ特急で車内販売のカートを押している魔女などだ。
城のゴーストたちも、眩しい太陽光の中ではほとんど見えなかったが、動いたときだけ、煌めく空気の中で、儚げに光るつかみ所のない姿が見えた。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニーの四人は、列のいちばん奥で、湖の際の席に並んで座った。
参列者が互いに囁き合う声が、芝生を渡るそよ風のような音を立てていたが、鳥の声のほうがずっとはっきりと聞こえた。
参列者はどんどん増え続けた。
ネビルがルーナに支えられて席に着くのを見て、ハリーは二人に対する熱い思いが一度に込み上げてきた。
ダンブルドアが亡くなったあの夜、 DAのメンバーの中で、ハーマイオニーの呼びかけに応えたのは、この二人だけだった。
ハリーは、それがなぜなのかを知っていた。
DAがなくなったことを、いちばん寂しく思っていたのがこの二人だ……たぶん、再開されることを願って、しょっちゅうコインを見ていたのだろう……。
コーネリウス・ファッジが、惨めな表情で四人のそばを通り過ぎ、いつものようにライムグリーンの山高帽をくるくる回しながら、列の前方に歩いていった。
ハリーは、リーク・スキーターにも気づいたが、鈎爪をまっ赤に塗った手に、メモ帳をがっちりつかんでいるのには向かっ腹が立った。
さらに、ドローレス・アンブリッジを見つけて、腸が煮えくり返る思いがした。
ガマガエル顔に見え透いた悲しみを浮かべて、黒いビロードのリボンを灰色の髪のカールのてっぺんに結んでいる。
ケンタウルスのフィレンツェが、衛兵のように湖の辺に立っている姿を目にしたアンブリッジは、ギクリとして、そこからずっと離れた席までおたおたと走っていった。
最後に先生方が着席した。
最前列のスクリムジョールが、マクゴナガル先生の隣で厳粛な、威厳たっぷりの顔をしているのが見えた。
ハリーは、スクリムジョールにしても、そのほかのお偉方にしても、ダンブルドアが死んだことを本当に悲しんでいるのだろうかと疑った。そのとき、音楽が聞こえてきた。
不思議な、この世のものとも思えない音楽だ。
ハリーは魔法省に対する嫌悪感も忘れて、どこから聞こえてくるのかとあたりを見回した。
ハリーだけではなく、ドキリと驚いたような大勢の顔が、音の源を探してあちこちを見ていた。
「あそこだわ」ジニーがハリーの耳に囁いた。
陽の光を受けて緑色に輝く、澄んだ湖面の数センチ下に、ハリーはその姿を見た。
とつぜん「亡者」を思い出してゾッとしたが、それは「水中人」たちが合唱する姿だった。
青白い顔を水中に揺らめかせ、紫がかった髪をその周りにゆらゆらと広げて、ハリーの理解できない不思議な言葉で歌っていた。
首筋がザワザワするような音楽だったが、不愉快な音ではなかった。
別れと悲嘆の気持ちを雄弁に伝える歌だった。
歌う水中人の荒々しい顔を見下ろしながら、ハリーは、少なくとも水中人はダンブルドアの死を悲しんでいる、という気がした。
そのとき、ジニーがまたハリーを小突き、振り返らせた。
椅子の間に設けられた一筋の通路を、ハグリッドがゆっくりと歩いてくるところだった。
顔中を涙で光らせ、ハグリッドは声を出さずに泣いていた。
その両腕に抱かれ、金色の星をちりばめた紫のビロードに包まれているのが、それとわかるダンブルドアの亡骸だ。
喉元に熱いものが込み上げてきた。
不思議な音楽に加えて、ダンブルドアの亡骸がこれほど身近にあるという思いが、一瞬、その日の暖かさをすべて奪い去ってしまったような気がした。
ロンは衝撃を受けたように蒼白な顔だった。
ジニーとハーマイオニーの膝に、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
正面で何が行われているのか、四人にはよく見えなかったが、ハグリッドが亡骸を台の上にそっと載せたようだった。
それからハグリッドは、トランペットを吹くような大きな音を立てて鼻をかみながら通路を引き返し、咎めるような目をハグリッドに向けた何人かの中に、ドローレス・アンブリッジがいるのをハリーは見た……ダンブルドアならちっとも気にしなかったに違いないと、ハリーにはわかっていた。
ハグリッドがそばを通ったとき、ハリーは親しみを込めて合図を送ってみたが、ハグリッドの泣き腫らした眼では、自分の行き先が見えていることさえ不思議だった。
ハグリッドが向かっていく先の後列の席をちらりと見たハリーは、ハグリッドが何に導かれているのかがわかった。
そこに、ちょっとしたテントほどの大きさの上着とズボンとを身に着けた、巨人のグロウプがいた。
醜い大岩のような頭を下げ、おとなしく、ほとんど普通の人間のように座っている。
ハグリッドが異父弟のグロウプの隣に座ると、グロウプはハグリッドの頭をボンボンと叩いたが、その強さにハグリッドの座った椅子の脚が地中にめり込んだ。
ハリーはほんの一瞬、愉快になり、笑い出したくなった。
しかしそのとき音楽がやみ、ハリーはまた正面に向き直った。
黒いローブの喪服を着た、髪の毛がふさふさした小さな魔法使いが立ち上がり、ダンブルドアの亡骸の前に進み出た。
何を言っているのか、ハリーには聞き取れなかった。
途切れ途切れの言葉が、何百という頭の上を通過して後列の席に流れてきた。
「高貴な魂」……「知的な貢献」……「偉大な精神」……あまり意味のない言葉だった。
ハリーの知っているダンブルドアとは、ほとんど無縁の言葉だった。
ダンブルドアが一言一言をどう考えていたかを、ハリーはとつぜん突然思い出した。
「そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい」
またしても込み上げてくる笑いを、ハリーはこらえなければならなかった……こんなときだというのに、僕はいったいどうしたんだろう?
ハリーの左のほうで軽い水音がして、水中人が水面に姿を現し、聞き入っているのが見えた。
二年前、ダンブルドアが水辺に屈み込み、マーミッシユ語で水中人の女長と話をしていたことを、ハリーは思い出した。
いまハリーが座っている場所の、すぐ近くだった。
ダンブルドアは、どこでマーミッシュ語を習ったのだろう。
ついにダンブルドアに聞かずじまいになってしまったことが、あまりにも多い。
ハリーが話さずじまいになってしまったことが、あまりにも多い……。
そのとたん、まったく突然に、恐ろしい真実が、これまでになく完壁に、否定しようもなハリーを打ちのめした。
ダンブルドアは死んだ。逝ってしまった……冷たいロケットを、ハリーは痛いほど強く握りしめた。
それでも熱い涙がこぼれ落ちるのを止めることはできなかった。
ハリーは、ハーマイオニーやほかのみんなから顔を背けて湖を見つめ、「禁じられた森」に目をやった。喪服の小柄な魔法使いが、単調な言葉を繰り返している……木々の間に何かが動いた。ケンタウルスたちもまた、最後の別れを惜しみに出てきたのだ。ケンタウルスたちが人目に触れるところには姿を現さず、弓を脇に抱え、半ば森影に隠れてじっと立ち尽くしたまま参列者を見つめているのが見えた。
最初に「禁じられた森」に入り込んだときの悪夢のような経験を、ハリーは思い出した。
あの当時の仮の姿のヴォルデモートと初めて遭遇したこと、ヴォルデモートとの対決のこと、そして、そのあと間もなく、勝ち目のない戦いについて、ダンブルドアと話し合ったことを思い出した。
ダンブルドアは言った。
何度も何度も戦って、戦い続けることが大切だと。
そうすることで初めて、たとえ完全に根絶できなくとも、悪を食い止めることが可能なのだと……。
熱い太陽の下に座りながら、ハリーははっきりと気づいた。
ハリーを愛した人々が、一人、また一人とハリーの前で敵に立ちはだかり、あくまでもハリーを護ろうとしたのだ。
父さん、母さん、名付け親、そしてついにダンブルドアまでも。
しかし、いまやそれは終わった。
自分とヴォルデモートの間に、もう他の誰をも立たせるわけにはいかない。
両親の腕に護られ、自分を傷つけるものは何もないなどという幻想を、ハリーは未来永劫捨て去らなければならない。
一歳のときにすでに捨てるべきだった。
もはやハリーはこの悪夢から醒めることはないし、本当は安全なのだ、すべては思い込みにすぎないのだと闇の中で囁く、慰めの声もない。
最後の、そしてもっとも偉大な庇護者が死んでしまった。
そしてハリーは、これまでより、もっとひとりぼっちだった。
喪服の小柄な魔法使いが、やっと話すのをやめて席に戻った。
ほかの誰かが立ち上がるのを、ハリーは待った。
おそらく魔法大臣の弔辞などが続くのだろうと思った。
しかし、誰も動かなかった。
やがて何人かが悲鳴を上げた。
ダンブルドアの亡骸とそれを載せた台の周りに、眩い白い炎が燃え上がった。
炎はだんだん高く上がり、亡骸が朧にしか見えなくなった。
白い煙が渦を巻いて立ち昇り、不思議な形を描いた。
ほんの一瞬、青空に楽しげに舞う不死鳥の姿を見たような気がして、ハリーは心臓が止まる思いがした。
しかし次の瞬間、炎は消え、そのあとには、ダンブルドアの亡骸と、亡骸を載せた台とを葬った、白い大理石の墓が残されていた。
天から雨のように矢が降り注ぎ、再び衝撃の悲鳴が上がった。
しかし矢は参列者から遥かに離れたところに落ちた。
それがケンタウルスの死者への表敬の礼なのだと、ハリーにはわかった。
ケンタウルスは参列者に尻尾を向け、涼しい木々の中へと戻っていった。
同じく水中人も、緑色の湖の中へとゆっくり沈んでいき、姿が見えなくなった。
ハリーは、ジニー、ロン、ハーマイオニーを見た。
ロンは太陽が眩しいかのように顔をくしゃくしゃにしかめていた。
ハーマイオニーの顔は涙で光っていたが、ジニーはもう泣いてはいなかった。
ハリーの視線を、ジニーは燃えるような強い眼差しで受け止めた。
ハリーが出場しなかったクィディッチ優勝戦で勝ったあと、ハリーに抱きついたときにジニーが見せた、あの眼差しだった。
その瞬間ハリーは、二人が完全に理解し合ったことを知った。
ハリーがいま何をしようとしているかを告げでも、ジニーは「気をつけて」とか「そんなことをしないで」とは言わず、ハリーの決意を受け入れるだろう。
なぜなら、ジニーがハリーに期待していたのは、それ以外の何物でもないからだ。
ダンブルドアが亡くなって以来ずっと、言わなければならないとわかっていたことをついに言おうと、ハリーは自分を奮い立たせた。
「ジニー、話があるんだ……」
ハリーはごく静かな声で言った。
周囲のざわめきがだんだん大きくなり、参列客が立ち上がりはじめていた。
「君とはもう、つき合うことができない。もう会わないようにしないといけない。一緒にはいられないんだ」
「何かばかげた気高い理由のせいね。そうでしょう?」
ジニーは奇妙に歪んだ笑顔で言った。
「君と一緒だったこの数週間は、まるで……まるで誰かほかの人の人生を生きていたような気がする」ハリーが言った。
「でも僕はもう……僕たちはもう……僕にはいま、ひとりでやらなければならないことがあるんだ」ジニーは泣かなかった。
ただハリーを見つめていた。
「ヴォルデモートは、敵の親しい人たちを利用する。すでに君を囮にしたことがある。しかもそのときは、僕の親友の妹というだけで。僕たちの関係がこのまま続けば、君がどんなに危険な目に遭うか、考えてみてくれ。あいつは嗅ぎつけるだろう。あいつにはわかってしまうだろう。あいつは君を使って僕を挫こうとするだろう」
「わたしが気にしないって言ったら?」ジニーが、激しい口調で言った。
「僕が気にする」ハリーが言った。
「これが君の葬儀だったら、僕がどんな思いをするか……それが僕のせいだったら……」
ジニーは目を逸らし、湖を見た。
「わたし、あなたのことを完全に諦めたことはなかった」ジニーが言った。
「完全にはね。想い続けていたわ……ハーマイオニーが、わたしはわたしの人生を生きてみなさいって言ってくれたの。誰かほかの人とつき合って、あなたのそばにいるとき、もう少し気楽にしていたらどうかって。だって、あなたが同じ部屋にいるだけで、わたしが口もきけなかったことを、憶えてるでしょう?だからハーマイオニーは、わたしがもう少し、わたしらしくしていたら、あなたが少しは気づいてくれるかもしれないって、そう考えたの」
「貿い人だよ、ハーマイオニーは」ハリーは微笑もうと努力しながら言った。
「もっと早く君に申し込んでいればよかった。そうすれば長い間……何ヶ月も……もしかしたら何年も……」
「でもあなたは、魔法界を救うことで大忙しだった」ジニーは半分笑いながら言った。
「そうね……わたし、驚いたわけじゃないの。結局はこうなると、わたしにはわかっていた。あなたは、ヴォルデモートを追っていなければ満足できないだろうって、わたしにはわかっていた。たぶん、わたしはそんなあなたが大好きなのよ」
ハリーは、こうした言葉を聞くのが耐え難いほど辛かった。
このままジニーのそばに座っていたら、自分の決心が鈍らない自信はなかった。
ロンを見ると、高い鼻の先から涙を滴らせながら、自分の肩に顔を埋めてすすり泣くハーマイオニーを抱き、その髪を撫でていた。
ハリーは、惨めさを体中に滲ませて立ち上がり、ジニーとダンブルドアの墓に背を向けて、湖に沿って歩き出した。
黙って座っているより、動いているほうが耐えやすいような気がした。
同じように、すぐにでも分霊箱を追跡し、ヴォルデモートを殺すほうが、それを待っていることより耐えやすい…… 。
「ハリー!」
振り返ると、ルーファス・スクリムジョールだった。
ステッキにすがって足を引きずりながら、岸辺の道を大急ぎでハリーに近づいてくるところだった。
「君と一言話がしたかった……少し一緒に歩いてもいいかね?」
「ええ」ハリーは気のない返事をして、また歩き出した。
「ハリー、今回のことは、恐ろしい悲劇だった」
スクリムジョールが静かに言った。
「知らせを受けて、私がどんなに愕然としたか、言葉には表せない。ダンブルドアは偉大な魔法使いだった。君も知っているように、私たちには意見の相違もあったが、 しかし、私はどよく知る者はほかに――」
「何の用ですか?」ハリーはぶっきらぼうに開いた。
スクリムジョールはむっとした様子だったが、前のときと同じように、すぐに表情を取り繕い、悲しげな物わかりのよい顔になった。
「君は、当然だが、ひどいショックを受けている」スクリムジョールが言った。
「君がダンブルドアと非常に親しかったことは知っている。おそらく君は、ダンブルドアのいちばんのお気に入りだったろう。二人の間の絆は――」
「何の用ですか?」ハリーは、立ち止まって繰り返した。
スクリムジョールも立ち止まってステッキに寄り掛かり、こんどは抜け目のない表情でハリーをじっと見た。
「ダンブルドアが死んだ夜のことだが、君と一緒に学校を抜け出したと言う者がいてね」
「誰が言ったのですか?」ハリーが言った。
「ダンブルドアが死んだ後、塔の屋上で何者かが、死喰い人の一人に『失神呪文』をかけた。それに、その場に箒が二本あった。ハリー、魔法省はその二つを足すことぐらいできる」
「それはよかった」ハリーが言った。
「でも、僕がダンブルドアとどこに行こうと、二人が何をしようと、僕にしか関わりのないことです。ダンブルドアはほかの誰にも知られたくなかった」
「それほどまでの忠誠心は、もちろん称賛すべきだ」
スクリムジョールは、イライラを抑えるのが難しくなってきているようだった。
「しかし、ハリー、ダンブルドアはいなくなった。もういないのだ」
「ここに、誰一人としてダンブルドアに忠実な者がいなくなったとき、ダンブルドアは初めてこの学校から本当にいなくなるんです」
ハリーは思わず微笑んでいた。
「君、君……ダンブルドアといえども、まさか蘇ることは――」
「できるなんて言ってません。あなたにはわからないでしょう。でも、僕には何もお話しすることはありません」
スクリムジョールは躊躇していたが、やがて、気遣いのこもった調子を装って言った。
「魔法省としては、いいかね、ハリー、君にあらゆる保護を提供できるのだよ。私の『闇祓い』を二人、喜んで君のために配備しょう――」ハリーは笑った。
「ヴォルデモートは、自分自身で僕を手にかけたいんだ。『闇祓い』がいたって、それが変わるわけじゃない。ですから、お申し出はありがたいですが、お断りします」
「では」スクリムジョールは、いまや冷たい声になっていた。
「クリスマスに、私が君に要請したことは――」
「何の要請ですか?ああ、そうか……あなたがどんなにすばらしい仕事をしているかを、僕が世の中に知らせる。そうすれば――」
「――みんなの気特が高揚する!」
スクリムジョールが噛みつくように言った。
ハリーはしばらく、スクリムジョールをじっと観察した。
「スタン・シャンパイクを、もう解放しましたか?」
スクリムジョールの顔色が険悪な紫色に変わり、嫌でもバーノン叔父さんを彷彿とさせた。
「なるほど。君は――」
「骨の髄までダンブルドアに忠実」ハリーが言った。
「そのとおりです」
スクリムジョールは、 しばらくハリーを睨みつけていたが、やがて踵を返し、足を引きずりながら、それ以上一言も言わずに去っていった。
パーシーと魔法省の一団が、席に座ったまますすり泣いているハグリッドとグロウプを、不安げにちらちら見ながら、大臣を待っているのが見えた。
ロンとハーマイオニーが急いでハリーのほうにやってくる途中、スクリムジョールとすれ違った。
ハリーはみんなに背を向け、二人が追いつきやすいようにゆっくり歩き出した。
ブナの木の下で、二人が追いついた。
何事もなかった日々には、その木陰に座って三人で楽しく過ごしたものだった。
「スクリムジョールは、何が望みだったの?」
ハーマイオニーが小声で開いた。
突然心が満たされるような気がした。
「クリスマスのときと同じことさ」ハリーは肩をすくめた。
「ダンブルドアの内部情報を教えて、魔法省のために新しいアイドルになれってさ」
ロンは、一瞬自分と戦っているようだったが、やがてハーマイオニーに向かって大声で言った。
「いいか、僕は戻って、パーシーをぶん殴る!」
「だめ」ハーマイオニーは、ロンの腕をつかんできっぱりと言った。
「僕の気持ちがすっきりする!」ハリーは笑った。
ハーマイオニーもちょっと微笑んだが、城を見上げながらその笑顔が曇った。
「もうここには戻ってこないなんて、耐えられないわ」ハーマイオニーがそっと言った。
「ホグワーツが閉鎖されるなんて、どうして?」
「そうならないかもしれない」ロンが言った。
「家にいるよりここのほうが危険だなんて言えないだろう?どこだっていまは同じさ。僕はむしろ、ホグワーツのほうが安全だって言うな。この中のほうが、護衛している魔法使いがたくさんいる。ハリー、どう思う?」
「学校が再開されても、僕は戻らない」ハリーが言った。
ロンはポカンとしてハリーを見つめた。
ハーマイオニーが悲しそうに言った。
「そう言うと思ったわ。でも、それじゃあなたは、どうするつもりなの?」
やはりハーマイオニーには解っていたようだった。
今までもこれからもハーマイオニー以上に僕が解る人はいないだろう。
「僕はもう一度ダーズリーのところに帰る。それがダンブルドアの望みだったから」
ハリーが言った。
「でも、短い期間だけだ。それから僕は永久にあそこを出る」
「でも、学校に戻ってこないなら、どこに行くの?」
「ゴドリックの谷に、戻ってみようと思っている」ハリーが呟くように言った。
ダンブルドアが死んだ夜から、ハリーはずっとそのことを考えていた。
「僕にとって、あそこがすべての出発点だ。あそこに行く必要があるという気がするんだ。そうすれば、両親の墓に詣でることができる。そうしたいんだ」
「それからどうするんだ?」ロンが聞いた。
「それから、残りの分霊箱を探し出さなければならないんだ」
ハリーは、向こう岸の湖に映っている、ダンブルドアの白い墓に眼を向けた。
「僕がそうすることを、ダンブルドアは望んでいた。だからダンブルドアは、僕に分霊箱のすべてを教えてくれたんだ。ダンブルドアが正しければ――僕はそうだと信じているけど――あと四個の分霊箱がどこかにある。探し出して破壊しなければならないんだ。それから七個目を追わなければならない。まだヴォルデモートの身体の中にある魂だ。そして、あいつを殺すのは僕なんだ。もしその途上でセブルス・スネイプに出会ったら」ハリーは言葉を続けた。
「僕にとってはありがたいことで、あいつにとっては、ありがたくないことになる」
長い沈黙が続いた。
参列者はもうほとんどいなくなって、取り残された何人かが、ハグリッドに寄り添って抱きかかえている小山のようなグロウプから、できるだけ遠ざかっていた。
ハグリッドの吼えるような哀切の声はまだやまず、湖面に響き渡っていた。
「僕たち、行くよ、ハリー」ロンが言った。
「え?」
「君の叔父さんと叔母さんの家に」ロンが言った。
「それから君と一緒に行く。どこにでも行く」
「だめだ――」
ハリーが即座に言った。そんなことは期待していなかった。
この危険極まりない旅に、自分はひとりで出かけるのだということを、二人に理解してもらいたかったのだ。
「あなたは、前に一度こう言ったわ」
ハーマイオニーが静かに言った。
「私たちがそうしたいなら、引き返す時間はあるって。その時問はもう十分にあったわ、違う?」
「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」ロンが言った。
「だけど、おい、何をするより前に、僕のパパとママのところに戻ってこないといけないぜ。ゴドリックの谷より前に」
「どうして?」
「ビルとフラーの結婚式だ。忘れたのか?」
ハリーは驚いてロンの顔を見た。
結婚式のようなあたりまえのことがまだ存在しているなんて、信じられなかった。
しかしすばらしいことだった。
「ああ、そりゃあへ僕たち、見逃せないな」しばらくしてハリーが言った。
ハリーは、我知らず偽の分霊箱を掘りしめていた。
いろいろなことがあるけれど、目の前に暗く曲折した道が伸びてはいるけれど、一カ月後か、一年後か、十年後か、やがてはヴォルデモートとの最後の対決の日が来ると、わかってはいるけれど、ロンやハーマイオニーと一緒に過ごせる、最後の平和な輝かしい一日がまだ残されていると思うと、ハリーは心が浮き立つのを感じた。